怪談の科学 幽霊はなぜ現れる
中村希明 著
目次
まえがき
第一章 あなたにも幽霊は現れる
【生理的幻覚1】
1 幽霊は新しい乗物がお好き
2 一人ぼっちの心理
【孤立性幻覚と感覚遮断性幻覚】
3 幻想の世界
【民話・文学にみる感覚遮断性幻覚】
第二章 極限状況が生む幻覚
【生理的幻覚2】
1 飢え
2 集団と個人
3 寒冷地獄と焦熱地獄
第三章 幽霊はなぜ丑満刻に出るか
【境界領域における幻覚】
1 睡眠と幻覚
2 薬物と幻覚
3 異境の地と精神変調
【旅の恐怖】
第四章 精神変調時の幻覚
【心因反応と幻聴】
1 幻聴と錯視
2 ハムレットの幻覚
第五章 怪談の論理
1 人はなぜ怪談を好むか
【恐怖の論理】
2 人はなぜ幻覚を見るか
【幻覚の論理】
3 幽霊お国柄
【怪談の比較文化論】
あとがき
怪談の科学 幽霊はなぜ現れる
まえがき
さきごろ私は子供を連れて、健在でいる両親が自分のために買っておいた、八王子の分譲墓地に出かけた。墓参というより、四〇年近く身内の不幸がないので、墓の掃除に行ったのである。
子供たちはそのへんをはね回っていたが、私が線香もあげないでいるのを悪いと思ったのか、一〇歳になる長女が、どこからか燃え残りの線香を拾ってきて、お墓に供えようとした。私は思わず、血相を変えてどなりつけていた。長女はしかられた理由がわからず、けげんな顔で私を見つめていた。
この小さな事件は私を、子供のころによく読んだハーンの世界――死者の持物をとったものは、そのたたりを受ける――にひきもどしたのである。私は、線香をもとにもどし、その墓の主に丁寧《ていねい》にわびてくるように命じたが、その後しばらくの間、長女の身になにか変事が起こりはしないかと不安であった。それほど私の心の中には、死者に対する原始的な畏《おそ》れがしみついていたのである。
私の子供時代は、墓地とは死者の世界であり、畏れがそこを支配していた。
いい大人《おとな》にとってさえ、深夜の墓地にいくことは夏の夜の格好な胆《きも》試しであったし、お盆興行のドル箱であった怪談ものの毒々しい泥絵具のポスターの恐ろしかったこと。いまにも、土をかきわけてニューッと白い腕が突き出てきそうな土まんじゅう、真新しい卒塔婆《そとば》、まわりには赤や青の陰火が飛びかい、柳の木の下には、髪をおどろにたらした青白い幽霊の恨めしげな目。そんな街角のポスターをうっかり見てしまった夜などは、恐ろしさのあまり便所にもいけず、なかにはひきつけを起こすものまで出たのが戦前の子供の世界であった。
そんな陰気な墓地から、戦後の公園墓地は、墓参を郊外へのピクニックに変えてしまった。子供にとっては、母の実家の墓も鎌倉の公園墓地にあるので、墓参といえば、家族連れで郊外に出かけ、広い芝生の上ではね回れるという認識しかない。到底、父親の畏怖《いふ》などは理解できぬものであろう。
広々とした明るい公園墓地には、昔風の幽霊など住みつけなくなったのであろうか。最近のめまぐるしい環境の変化に伴って、怪談の方も変化してくる。ひところお茶の間の話題になったクロワゼットの透視とか、ユリ・ゲラーのスプーン曲げの超能力、オカルトブームなどは、さしずめ、テレビ時代における怪談の現代版なのであろう。
しかし、月旅行でさえ可能となった科学万能の現代に、古めかしい黒魔術に関する本が売れているのをみると、幽魂などに対する畏《おそ》れや好奇心は、中世とさして変わりがないのかもしれない。
著名な科学者の中に、意外に不可思議な現象を信じる人が多いという。たとえば、人間の肉体を一個の物質として冷静な目で眺めているはずの医師の会誌である『医事新報』を見ても、「実話怪談」「幽霊に足があり足がなし」「火の玉を見た話」「神かくし」などの体験記がのっているのである。
幽霊とはこの世に存在するものなのであろうか。怪談とは科学的に説明可能な現象なのであろうか?
私は、以下に古今東西の有名な怪談噺《ばなし》や体験談などをとりあげて、その多くが、精神医学の立場から科学的に説明可能な現象であることを明らかにしていきたいと思う。
この原稿を書きながら、私の脳裡には、これらの有名な怪談噺の主人公たちにオーバーラップして、私の三〇年近い臨床経験のなかで、とりわけ印象深かった患者さんたちの顔が、走馬灯のように浮かんでは消えた。精神科医の思考というものは、患者さんから逆に教えられたものが多い。フロイトもユングも、彼らの仮説を患者の分析材料から得ている。私はできるだけ各章ごとに、こうして思い浮かんだケースの要約を入れることにした。発病ぎりぎりの瀬戸際に追いつめられて精神科医の前に現れる患者さんの生活史は、下手《へた》な小説などの到底およばぬ、一編の人生ドラマである。
『四谷怪談』のお岩や伊右衛門も、そしてハムレットもみな、私の診察室を訪れた人の中に存在しているのである。
第一章 あなたにも幽霊は現れる
【生理的幻覚1】
1 幽霊は新しい乗物がお好き
車に出る幽霊
世の中には多くの怪談や怪奇譚が流布しているが、これらのほとんどは、幻覚や錯覚現象として、心理学や精神医学の立場から科学的に説明することができる。たとえば、『四谷怪談』のお岩の幽霊は、おのが悪行《あくぎよう》に良心をさいなまれて精神異常をきたした、伊右衛門の幻覚あるいは錯覚ということになる。しかし、精神的に正常な人でも、ある条件におかれると、幻覚を生じることがある。私はこれを、生理的幻覚――正常者の幻覚――と呼ぶことにする。あなたの前にだって、幽霊は現れるのである。
数年前の新聞に「若い女性のユウレイが――小田原市|栢山《かやま》地区で大さわぎ――」という記事がのっていた。短いので原文のまま引用してみる。
ことの起こりは、さる三月下旬の深夜、栢山の県道|怒田《ぬた》―開成《かいせい》―小田原線を走っていた箱根登山ハイヤーの運転手Yさん(三六)が、中丸バス停の急カーブにある松の木の下から、突然、若い女性がヌーッと出て来るのを見たことから。以来、決まって午前零時半―同一時の間に、善栄寺か、松の木周辺に、この女性のユウレイが出没、Yさんのほか、七人の運転手仲間が、これを見たといい、騒ぎが大きくなった。
あっという間に、うわさが広がり、同地区をハイヤーが通過する時は、みんな無線で連絡をとりながら、こわごわ走るというありさま。
しかも、目撃者の話によると、このユウレイは、神出鬼没で、ヘイの上からスーッと出て来たり、善栄寺前では、足だけ≠ェ道路を横切ったことも。薄気味悪いことは確かだが、目撃者の多くは「赤いミニスカートに、ブラウス姿のかわいらしい女の人だった」という。
そうこうしているうちに、先月初めには「子連れの髪の長い女性のユウレイも出た」といううわさまで出始め、尾ひれがついて、うわさは大きくなる一方。
そこで、同地区を担当している小田原署富水派出所のお巡りさんも、先月初旬に、Yさんらとともに現場調査に乗り出したが、肝心のユウレイが出ず、正体はつかめなかった。
どうしたことか、以来、ユウレイの姿を見た者はないが、「また出るのでは……」と、ビクつく人もおり、ユウレイ騒ぎが続いている。 (『読売新聞』昭和五二年六月四日付朝刊)
これに類する怪談は、戦前の円タク時代から各地に流布《るふ》している。深夜、一人で運転しているときに若い女が飛び出したので、急ブレーキをかけ、冷汗をかいて外へ出てみると、女はふっといなくなっていたとか、乗せたはずのない女が後部座席にいつの間にか座っていたとか、あるいは、乗せた女がいつの間にかいなくなっていた、というたぐいの話である。
これらの怪談が古くからあることは、最後のパターンが、落語の『青山の墓地まで』というかなり有名な出し物にまでなっていることからも明らかである。
この手の幽霊は案外ハイカラで、新しい乗物を好むようである。市電が走り始めたころの新聞に、いつの間にか終電車に乗りこんでいた女の幽霊を降ろした、という怪談が早速にのっているし、最近では、ジャンボ・ジェット機の操縦席にも出現するようである。
なぜ、幽霊は近代的な乗物を好むのであろうか。ここで、一つの「実話怪談」をもとに、この疑問を解く鍵を探ってみよう。
実話怪談――
ある婦人科医の不幸な体験――
昭和×年五月、早朝の微風はあくまで清々《すがすが》しく、新緑の野山はいよいよ青く、私は浮き浮きして車を走らせていた……。
という書きだしで始まるこの一文(『医事新報』二四七〇号「実話怪談―濃霧―」)は、かつて大学の助教授をつとめたことのある婦人科の開業医(仮にK氏としよう)が、実際に実害までこうむった生々しい幻覚体験記録として、貴重なものである。
K氏の乗っていたダッジは、ほとんど新品同様で、それもわずか一〇〇万円で買った出物である。ペーパードライバーであったK氏は、教習所で再教育を受け、早朝から車の手入れ、ならし運転、夜は車庫をのぞかないと眠れないという、マイカー族ならだれもが経験する状態が三ヵ月も続いていた。そして、事件の起こったころには、車はまったくK氏の足としてなじんでいたのである。
今朝も、先日退院した患者から、ついでの折でいいから一度往診してほしいと昨日頼まれたので、慣らし運転がてら行ってみることにした。
ごたごたした街中の道はやがてバイパスに連なり、まるで有料道路の様に野原の中を真っ直ぐにつきぬけていた。今日は不思議と車も少なく、途中、軽ライトバンに一台会ったきりで、此の世は全く私のためにある様な朝であった。途中の小さな村を過ぎた頃、急に霧が立ちこめ出し、すぐひどい霧の中に入ってしまった。こんな濃い霧は私の記憶には全くなく、一〇メートル位しか視界がなかった。私は速度を落してしばらく走っていたが、やがてその霧も晴れ、再びもとの清々しい朝に返っていた。そこは目的のA村のすぐそばであった。(中略)
朝の軽い運動が、体の調子をよくするのか、この頃は患者さばきもうまく行く様になって、今日も午前中の患者をすいすいとさばいて行った。半分程患者を処置し終った時、看護婦がけげんな顔をして一枚の名刺を持って来た。何だろうと手に取ってみると、刑事何々と書いてある。患者のことについて何かを聞きに来たのだろうと思ったが、当科は婦人科のことでもあるので直接応接室の方に通ってもらった。患者の切れ目をみて急いで応接室に行ってみると、二人の警察官は丁寧《ていねい》な挨拶の後、
警「先生は今朝ほど、これこれの道を自動車で走らなかったでしょうか」
私「ああ、行きましたよ」
警「それなら先生はひき逃げを認めるわけですね」
私「何ですって、私がいつひき逃げしました。馬鹿々々しい。私は途中で人一人にも会いませんよ」
警「でも先生の車が人をひき倒すのを田圃《たんぼ》にいて見たという人があるのですが」
私「それは何処《どこ》ですか」
警「A村の手前です」
私「A村の手前、ああ思い出しました。私がA村の手前に行った時は非常に濃い霧でよく注意して運転しましたから、そんなことの無かったことを自信をもって言えます。第一あんな濃い霧の中で田圃からでは何も見えるはずがありませんから、私でなく霧の前、或は後に走った他の車であることはそれだけでも証明出来ます。私でないことが御分かりになったのですから、お引取り下さい。失礼ですが御見掛けの通り患者が混んでいてあまり待たせられませんから」
警「先生はそうまで申されますか。それなら車を一応見せてもらってよろしいでしょうか」
私「どうぞどうぞ、鍵はこれです。看護婦に案内させますから私でないことを十分認めて帰って下さい。では」
私は馬鹿々々しい話に時間を取ったことを多少腹立たしく思いながら、急いで診察室に取ってかえし、再び診療を開始した。
「先生一寸、警察の方がガレージまで来て下さいと呼びに来てますが」
「この忙しいのに、全くうるさいな」と処置の仕掛けたのをやめて、患者に「ちょっと」と了解を求めた。急いでガレージに行ってみた。「どうせガレージが開かないか何かだろう。付けてやった看護婦にしてもらえばいいのに」とブツブツ言いながら行ってみると、車は早や外に出してあって、車の右前の部分を調べたり、写真を撮ったりしていた。付けてやった看護婦まで一心に覗《のぞ》き込んでいた。
警「やっぱり先生です。署まで御同行願います。車は預らせていただきます」
私「そんな馬鹿な」
警「御自分でここを確かめなさい。血痕、そして凹み。こんなに凹んでいて、知らないなんて、警察を馬鹿にしなさんな」
私は一瞬棒立ちになった。血痕、凹みは何も覗き込まなくてもよく見えた。しかし今の今までそんなことのあったことは全然知らなかった。悪夢だ。白昼《はくちゆう》の悪夢だ。こんな馬鹿なことがあっていいものだろうか。手の先、足の先から力の失われて行くのをはっきりと感じた。
警察の調べ室に入った時もまだ何が何だか分からなかった。ありのままを何度も言ったが、頭から誰も信じなかった。故意にウソを言っているときめてかかっていた。
今朝、霧のあったことを村人にきいてもらう様に頼んだ。A村の入口付近で朝早くより田の草取りをしていた二、三人の百姓さんが来たが、「霧なんて、そんなものは全くありませんでした。第一この辺はうすくかかる霧の日があっても、濃い霧なんて昔から一日もありません。今朝はそのうすい霧さえも一回もありません。いい天気でした」と口をそろえた様に言い、さげすみの眼をなげかけて去って行った。
私は留置場に入れられたが、それでも全く何が何だか分からなかった。自分に全く身に覚えが無くても、人一人が自分の自動車にひかれ死んだのだから、十分なことはしなければと分かっていても、他のことはどうしてよいか全く分からなかった。
結局、K氏はひき逃げを認めることになるのだが、友人たちの努力で体刑だけはまぬかれ、遺族との話し合いも、全条件をのんで解決した。K氏はただちに免許証を返上し、いまは忌まわしい思い出となった車を、安く売ってしまう。
それから何ヵ月かたってK氏は、あんないい車を七〇万円で手放した自分をふりかえって、手に入れたときの一〇〇万円に不審をいだく。そこでK氏は、車の前の所有者を探し出し、このダッジを手放した理由を照会する。
返事は全く驚くべき事実として返って来た。即ち千葉県の前所有者も或る春の朝、日光街道に於いて急に深い霧におそわれ、その間にひき逃げ殺人を起こしていた。そして体刑を受け車を手放したことが書いてあった。二人は更にその先を追究することにした。その先はアメリカ北部の人の持物であったことがわかった。二人はこの不思議な体験談を書き、これが全く訳の分からない事件なので、何か参考になる様なことがあったら教えてくれる様に頼んだ。
アメリカからの返事は更に驚くべき内容であった。この人の場合は全くの新車で、非常に調子のいい車であった。
或る新緑五月の朝、アメリカ北部の森林高速道路を深い霧をつき切って一二〇キロ位の高速で走っていた時(この辺は特に霧が深いので有名な地方であるが、そしてこの道路は絶対にといっていいほど人が歩いていないので、こんな高速でも安心していつもトバしているのだが)、その日に限って突然路上に人がとび出して来た。彼はハッとした瞬間、ブレーキも何もする間もなくそのままひき殺してしまった。この時もブレーキを踏んでいないことに重点がおかれ、重い罪がかけられた由が書いてあった。
二人は、これらの三つの事件の事実をことこまかく書いて千葉と、この大阪の警察に提出したが、事件が一応すんだあとだったので、何も取りあげることもなく、無視されてしまった。それでも二人は、初めに死んだアメリカ人の怨霊《おんりよう》の恐ろしい執念に身ぶるいすると共に、この不思議な事件に対する或る種の心の安らぎを見出した。
今日もあのダッジは執念を乗せて、五月の朝の獲物を狙って走りつづけていることであろう。
手記はここで終わっている。刑事・民事すべて解決した後の手記であるから、自己弁護の必要はなく、すべて氏の体験どおりの事実であったと思われる。それだけに、心にない供述をしなければならなかった無念さが文中ににじみ出ており、それが車の前歴についての探索の執念となり、医師会誌に一文ものされたものであろう。
それならば、この開業医の体験した濃霧とは、車に三代にわたってとりついた、アメリカ人の怨霊なのであろうか。
また、小田原のタクシーの運転手の見た女の幽霊とは、何者であろうか。
近代文明の粋を集めた自動車に限って幽霊が出現するのは、なぜであろうか。
結論からさきにいえば、小田原のタクシー運転手が見た幽霊も、開業医の不幸な体験も、すべて高速道路催眠現象(ハイウェイ・ヒプノーシス)の典型にすぎないのである。
高速道路催眠現象――
ジェット機にも幽霊は出る
一九五〇年代の後半から、ここで事故が起こることなど到底考えられないような広々としたまっすぐなハイウェイで、かえって事故が多発するという現象が注目されだした。
ハーバード大学のマックファランドという産業衛生学の研究者が、広大なアメリカ大陸のハイウェイを昼夜運転している長距離トラックの運転手五〇名を調査したところ、そのうちの実に三〇名もが幻覚を体験している、という事実がわかったのである。
ハンドル操作のまったくいらない、だだっ広いハイウェイを運転していると、その単調さ、刺激の少なさから、ドライバーは眠気《ねむけ》を催してくる。それをおさえて運転を続けていると、しだいに注意力が低下し、方向や時間の感覚が失われて夢の中にいるような感じになり、頭の中にはしきりに空想がわきあがり、それが現実のイメージとなってあざやかに見えてくる、といった特異な精神状態におちいる。
幻覚は、この時期に起こるのである。
小田原のタクシーの運転手たちが見た幽霊は、ちょうど疲労がピークに達し、道路がすいて気がゆるんでくる午前零時半から一時の時間帯に、しかも空車で運転しているときに現れていること、また無線で連絡をとりながら走るようになってからは、幽霊はぴたりと出なくなっていることなどから、これが注意力(ビジランス)の低下による高速道路催眠現象であることは明らかである。
この幻覚期がさらに進むと、ドライバーはついに睡魔に負けて眠りこみ、大事故を起こす。
単調なフリッカーの往復運動を見つめさせることは、催眠の導入法の一つに利用されているほどであるが、この眠りこむまでの意識状態は催眠状態とよく似ている。催眠をかけられる被験者は、しだいにまぶたが重くなり、意識できる範囲が狭くなってきて、まるで夢の中を歩くように術者の暗示する幻覚を見、あやつり人形のように命じられるままに行動し、術者の一喝《いつかつ》によって急激に覚醒《かくせい》し、施術《しじゆつ》中の自分の行動――とくに催眠の深い幻覚期における行動――についてはまったく記憶がない。
また、催眠の導入期からしだいに催眠が深くなっていく過程を、「先生の命令に従っているうちに周りがだんだん霞《かす》んできて、まるで霧の中に閉じこめられたような感じでした」と述べるものが多い。
つまり高速道路催眠現象とは、車という狭い空間に一人閉じこめられて行動が制限される環境で、ゆけどもゆけども変化のないハイウェイの景色が目の前に展開する、という視覚刺激の単調さが長時間くりかえされるような環境で起こるのである。人間の大脳は慣性化(ハビチュエイション)つまり「慣れ」を起こして、入力する感覚刺激量の低下を招き、大脳を覚醒《かくせい》状態に保っておくことがしだいに困難になってくる。こうして、注意力は低下し、意識できる範囲は狭《せば》まり、意識の性質が変質してきて、一種の催眠状態におちいるのである。
ここで、さきの産婦人科医の手記を読みかえしていただきたい。
K氏は早朝に、愛車をかって往診に出た。事故はまさに、ごたごたした街中を出て、まるで有料道路のように野原をまっすぐにつき抜けたバイパスで起こるのである。途中は対向車一台だけというすいた道で、この世はまるで私のためにあるような朝であった、と感じる。これは、すでに軽い意識のせばまりと変容が始まっていることを示す記述である。
その後、意識水準の低下はしだいに進み、「途中の小さな村を過ぎた頃、急に霧が立ちこめ出し、すぐひどい霧の中に入ってしまった。こんな深い霧は私の記憶に全くなく、一〇メートル位しか視界がなかった」という催眠状態におちいってしまった。K氏は「速度を落してしばらく走っていたが」なぜか、「やがてその霧も晴れ、再びもとの清々《すがすが》しい朝に返っていた」のである。
氏の当時の意識状態は、意識の範囲が狭《せば》まり、意識水準の低下が極度に進み、まさに眠りに入る寸前の状態にあったのであり、それが「再びもとの清々しい朝に返った」のは、当然、この間になんらかの感覚刺激が加わったので意識がしだいに回復した、と考えなければならない。
つまり霧が晴れたのは、この間にK氏の運転するダッジが道路の中央にいた農婦をはね、その衝撃によって、氏の意識がしだいにはっきりしたのにほかならない。
さらに不幸であったのは、氏の意識水準の低下が著しかったのと、愛車が重量の重い外車であったため、衝突のショックが比較的軽くて、その場で氏を完全に目ざめさせるだけの刺激量にはならなかったことである。氏は何事が起こったのかを充分に認識できないままに車を走らせて、ひき逃げの罪に問われたのである。
K氏が、多忙で睡眠時間のきわめて不規則な婦人科の開業医であったこと、時刻が、まだ体が充分に睡眠のリズムから覚醒《かくせい》のリズムに切りかわっていない早朝――あまりに早い時刻に目ざめると、また二度寝入りを起こしやすい条件にある。まして春眠あかつきを覚えずの五月ころは、一番眠りこみやすい季節――であったことが、比較的短時間の運転で容易に高速道路催眠現象を起こした原因である。
またK氏は、このダッジの前の所有者が同様の人身事故を起こしたことを、ひき殺されたアメリカ人の怨霊《おんりよう》に結びつけている。しかし私の推測では、多分そのダッジはオートマチックで、シートも体が埋まるほど深々と柔らかで、人間工学的にあまりにリラックスさせすぎるような設計になっていたのであろう。フロントグラスの周辺が青くコーティングされて、まるで飛行機の操縦席に座っているような地上からの隔絶感《かくぜつかん》を与えるそのころの高級車を、私は記憶している。このような構造上の安楽設計がかえって仇《あだ》となって、つぎつぎに高速道路催眠現象による事故をひき起こしたものと考えられる。
また、このころの日本においては、外車を自分で運転するような階層は、経済的に恵まれているかわりに、つい体を酷使して過労になりがちな人が多かったことも、もう一つの原因である。千葉の前所有者もこの例外ではないであろう。
高速道路催眠現象に似た現象は、ジェット機のパイロットにもみられる。
ハーバード大学のベネットによると、緊張の強い離陸が終わり、上昇して高空の単独水平飛行をしばらく続けているうちに、操縦者は急に頭が混乱し、自分が周囲とまったく接触を失ったという孤立感にとらわれ、ゆううつな気分になったり、夢の中にいるような気分になったり、操縦室が急に大きくなったり小さくなったりするという知覚の異常や、方向感覚の喪失《そうしつ》が起こる。
この現象はブレーク・オフ現象とも呼ばれているが、同じアメリカのクラークの調査によると、パイロット一三七名中の四八名がこの現象を経験しており、そのうちの一八名が不快をともなう体験であったという。この現象は個人差が強く、パイロットの性格と関係があるといわれている。グァム島から生還した横井庄一さんのように、孤独に強い性格の人には現れないのである。
この二つの現象はいずれも、一人で狭い空間に閉じこめられ、機械操作などの作業から解放され、単調な感覚刺激がくりかえされるという状況に人間がおかれたときに起こる現象であり、幻覚は、孤立と感覚刺激の低下という二つの条件下で起こるのである。
近代医学の進歩も、このような環境のいくつかをつくりだしている。
病院の幽霊――鉄の肺の幻覚――
小児麻痺にかかり、長い間、鉄の肺に入れられてじっと天井ばかりながめていなければならない患者に、夜間、幻覚が起こることはかなり以前から知られていた。
幻覚の内容は、患者の悲惨な現実を否定し、自分の欲求を充足させるような、幻覚というより空想的幻想と呼ぶべき性質をもっている。最近の大病院は、手術後の集中管理室(インテンシブ・ケヤ・ユニット、略してI・C・U)、重症心臓疾患管理室(カーデアック・ケヤ・ユニット、略してC・C・U)と呼ばれる特殊な病室をもっている。患者は心電図などのモニターをつけて個室に隔離《かくり》され、看護婦は、離れたナース・ステーションから、テレビカメラに映る患者の状態と、モニターを通じて刻々とポリグラフに送られてくる心電図、呼吸曲線、脈波などの生体情報とによって、きわめて合理的かつ能率的に患者を管理するシステムである。緑が沈静色であるという心理学の学説にもとづいて、部屋全体を緑一色で統一している病院もある。
私は最近、このようなI・C・Uに、直腸がんの手術後入室させられたある精神科の教授の体験談を聞く機会があった。
それによると、緑一色の天井にパッと真紅の大輪のばらの花が咲きでるという運動性の幻視と、遠く離れたナース・ステーションにいる看護婦が、ひそひそ声で、「あのクランケはほんとうはがんなのよね。手遅れでもう長いことはないと受持の先生がいっていたわ」と話しているのがはっきり聞こえた、というのであった。
もちろんその教授は、これが、周囲からまったく感覚を遮断《しやだん》された環境におかれたために起こる幻覚、つまり感覚遮断性幻覚であることは百も承知であり、看護婦室の声が洩れ聞こえてくるなど物理的にもありえなくて、幻聴にすぎないことをはっきり自覚していたのであるが、とにかくそう聞こえてきたのである。自分でも、手術の予後に対する不安が、看護婦のささやきとなって聞こえたのであろうと述べておられた。
このように、幻覚を起こす人の、大病にかかっているという精神的不安、肉体的な衰弱状態、麻酔剤の残りの影響なども無視できない。
しかし、幻覚を起こす最大のファクターが感覚遮断的な環境であることは、ハーバード大学精神科のソロモンが、健康な人を実験的に鉄の肺に入れてみて、同様な幻覚を起こしてくるのを証明したことからも、明らかである。
2 一人ぼっちの心理
【孤立性幻覚と感覚遮断性幻覚】
大西洋一人旅
これにたいして、感覚遮断的な条件が少なく、孤立状況という条件だけが強調されても、やはり幻覚は起こるのである。これは孤立性幻覚と呼ばれ、極地や、海洋や、砂漠などの単独探検の手記などにしばしばみることができる。
女の身ながら北極点に実に一六日間も一人で滞在したクリスチーネ・リッター夫人は、夜になると、だれもいないはずの雪の上に怪物が現れたり、だれかがスキーをこいでいる音をはっきり聞いたりした。また、極天の神秘的な月の光に自分自身が溶けていくような、あるいは月の光に自分が食べられるような、一種の離人《りじん》体験が起こったという。
リンデマンが、単身ヨットで大西洋を横断したときの体験も有名である。
リンデマンは、壮行の一年前から周到な準備と自己鍛練を行った。航海第三週目に、いかりやボートの櫂《かい》受けから「馬は帰り道を知っている。君は静かに眠っていていい」という声が聞こえたり、人間の形が見えたかと思うと馬に変わる、といった幻覚が現れたりした。当時、リンデマンは睡眠不足が続き、ろくに食事もとっていなかったので、すぐに食事をし、充分に睡眠をとったところ、幻覚は消えたという。
海洋は決して単調ではなく、毎日めまぐるしく変貌《へんぼう》し、それに対応するために、リンデマンは食事も睡眠もとれぬくらい忙しかったので、これらの幻覚が、単調な感覚刺激による狭い意味での感覚遮断性幻覚でないことは明らかである。
その後、彼が嵐と闘っているときに、イギリスの汽船が彼のヨットを発見し、救助しようとしたが、彼は拒否した。このときに、汽船のブリッジに望遠鏡をもった人がいて、「リンデマンさん、あなたは決して頑固な人ではないでしょう」と呼びかけたという。しかし後で考えると、船橋に望遠鏡をもった人が見えたのは事実であるが、その船にドイツ語の話せる人は一人も乗っていなかった。 (島崎敏樹・中根晃『異常心理学講座』(10)みすず書房―から要約)
この幻聴は、さきの精神科の教授の聞いた看護婦のひそひそ声と同じ性質の、自分を弁護するリンデマンの内心の声であったのであろう。
このように孤立性幻覚においても、睡眠不足、飢え、極度の疲労などの肉体的条件や遭難の不安などによって、いろいろな変化がみられる。また幻覚の性質も、はっきりした真性幻覚でなくて、自分の欲求を代行してくれるような内容のイリュージョン(幻想)に近いものが多いといわれている。
洗脳と企業内教育
以上に述べてきたような幻覚は、いずれも広義の感覚遮断性幻覚にまとめられるが、マギル大学のヘロンらは、人工的に人間の感覚を遮断《しやだん》するような実験室に被験者を入室させて幻覚を起こさせる、「幻覚実験」を行った。
しかし、このヘロンらの「幻覚実験」のヒントになったのは、なんと朝鮮戦争で中国の捕虜となって帰国した米国軍人の、あまりにも見事な洗脳効果であった。コーネル・メディカルセンターのヒンケルらはこれらの軍人に面接して、彼らがどうしてかくも短期間に、見事に「洗脳」されることになったかを詳しく調査した。
それによると、捕虜たちは収容所にばらばらにされ、なるべく個室にして完全な隔離状態にされる。やむなく数人を一緒にする場合は、所属部隊も出身地もばらばらで、共通性の少ないものを選んで組にする。そのうえで、捕虜のなかに、中国のスパイがまぎれこませてあるといううわさを流して捕虜どうしを疑心暗鬼にさせ、精神的な孤立感をたかめる。また、収容所は狭く、寒く、夜も明々《あかあか》と照明をつけ、わざと深夜に尋問《じんもん》を行ったりして、疲労、精神的苦痛、睡眠不足を与えるようにする。さらに食事もまずく、量も減らして飢餓状態にしておくなど、ありとあらゆる方法でストレスをたかめ、精神的な孤立を強める。
このような状態に長くおかれると、意志強固な軍人であっても、たとえ相手が敵側の尋問者でも、なんでもよいから人間関係をもちたいという欲求が強くなってきて、尋問者に対してきわめて従順な態度を示し、暗示にかかりやすくなり、自分自身の判断力や弁別《べんべつ》力が低下して、相手の意のままに操《あやつ》られるロボットのようになってしまうのである。
ヒンケルは、「洗脳」が起こる原因の中で一番大きいのは、仲間も信じられないという精神的孤立感であるとしている。容疑者が独房に閉じこめられ、夜昼となくかわるがわるに尋問されてくたくたになったころ、取調べ官のさしだす煙草などについほろりとなって自白する、という警察の古来の「おとし」方などは、洗脳と多分に類似性のみられるやり方である。
またこの方式は、ブレーン・ストーミングとか感受性訓練(センシティビティ・トレーニング、略してS・T)などと呼ばれて、企業内の教育にもさかんに利用されている。
ふだんは多忙な企業の中堅スタッフが、週末などを利用して郊外のホテルにかんづめにされる。そこで、まったく面識のない他企業のスタッフと顔をつきあわせて、生き甲斐《がい》だとか人間関係だとかの浮世離れしたテーマを与えられ、精神的に裸になって昼夜にわたり集中討議をさせられるのである。
こういう状況におかれると、人間の、日ごろ鎧《よろい》の下に隠している思いがけない側面、生地《きじ》が一挙にさらけ出され、それらがうまく統合・再構成された場合は、まるで人が変わったような充実感を味わい、リフレッシュされて、翌日からの企業戦線に復帰していくことができるのである。しかしS・Tは作用が強烈なので、逆効果になる場合もある。自我の統合力が弱く、その人なりの自我防衛のメカニズムによってかろうじて社会に適応していたような人が、集団のなかでその防衛を突き破られ、しかも、トレーナーの適宜な処置がとられなかった場合は、パニックにおちいって、S・T後の精神障害を起こす例が決して少なくないからである。
ある精神病院の会誌に、「S・T後遺症を克服して」という題の退院患者の感想文がのっていた。内容は、S・T中に患者の病的な攻撃性が解放されて収拾《しゆうしゆう》がつかなくなり、トレーナーもコントロールできない躁《そう》状態となって、やむなくその精神病院に入院させられ、退院後も、まだ軽い躁状態が続いていることを思わせる文であった。この患者は病的に攻撃性の強い性格で、それが防衛されて、かろうじて社会に適応していたのである。この患者は、S・Tを受けなければ、発病することもなかったかもしれない。このように、自我の自律性の弱い人にはS・Tは有害なので、対象は慎重に選ぶ必要がある。
S・Tは、対象の選択、トレーナーの熟練度によって、毒にも薬にもなる両刃《もろは》の剣である。
この点、その内容が実務的なものに限られ、人間の深層心理に触れることのない新人研修などは、こういった危険性は少ない。このような特訓が効果を発揮する理由は、山のホテルなどに、一定期間世俗から隔離された状態で集中的な教育を受けることにある、とされている。
全世界をあっといわせたキャンプ・デービッドの成果(アメリカを仲介としたエジプトとイスラエルの和解工作)は、このS・T効果を狙ったカーター大統領の一世一代の賭《か》けであり、寸秒刻みの三首脳を、数日にわたってかんづめにするスケジュール調整に成功したときにすでに、勝負に勝っていたともいえるのである。
考えてみると、日本の代表的な精神療法の一つである「森田療法」も、神経症患者が一ヵ月間個室に入院し、もっぱら内省を続けさせられるという、一種の「洗脳」療法といえるであろう。
幻覚実験――暗黒プールの孤独
以上のような洗脳効果にヒントを得て、カナダのマギル大学のヘロンらは、人間の感覚をできるだけ遮断するような実験室に被験者を入室させて、人工的に幻覚を生じさせることに成功した。
彼は、ボランティアの大学生たちを完全防音の個室のベッドに横たわらせ、さらに明暗だけはわかるが、物のはっきりした輪郭《りんかく》はわからない半透明の眼鏡をかけさせた。そして、排尿などの用のあるときだけその部屋から出してもらえるが、できるだけ長時間実験室にいさせる、という実験を行った。ヘロンらは、のちには感覚遮断を完全に近づけるために、被験者をなまぬるい真っ暗なプールに入れて浮かしておく、という徹底した方法をとっている。
こういう状態に人間が長時間おかれると、まず注意を集中することが困難になり、ついで、まとまった系統的な思考ができなくなり、被験者の頭の中は、次から次へと浮かぶ断片的な思考のおもむくままに流され、ついにはなにも考えられなくなる。この時期に、特有の知覚障害、認識障害が起こり、被験者は、自分が目ざめているのか眠っているのかもわからなくなり、不安になって感情的にも不安定となる。
幻覚はこの時期に起こってくるが、被験者は、これが幻覚であることを自覚しているものがほとんどで、この点でイメージに近い性質をもっている。幻覚は幻視がほとんどで、生き生きとして鮮明で、前方に出現し、自分の意志で消したりするなど、それをコントロールすることはできない。幻視は、早い人で隔離《かくり》されてから二〇分後、遅い人で七〇時間後に生じているが、時間の経過につれて、光点や幾何学的な模様などの単純なものから、しだいに複雑な情景のようなものに変わってくる。この幻視は運動性の要素のあることが多く、壁が道を横切ったり倒れかかったりするなど、不快感を伴うものもある。知覚障害としては、実験室の壁が出たり引っこんだり、彎曲《わんきよく》したり、ふくれあがったりし、色の強度も変化するという。
興味があるのは、このときに空間|見当識《けんとうしき》の障害(方向感覚の狂い)が起こることで、排尿のために実験室から出された大学生たちは、自分では便所の方向がわからず、しばらく廊下をうろうろしたあげく、教室助手に手を引いてもらってやっと便所にたどりつく始末であったという。
これで、熟練した山のリーダーが初歩的な判断ミスを容易に犯し、常識では考えられないような場所に迷いこんで、ついに全員が遭難死するに至る理由がよく理解されることであろう。
見渡すかぎり白一色の吹雪の中に長時間さらされているうちに、感覚遮断現象を起こして、まず判断力が低下し、ついで方向感覚の狂いが起こる。山のベテランが自分の庭のように地理を知った場所で堂々めぐりをし、山小屋にいま一歩のところで遭難死するのである。
3 幻想の世界
【民話・文学にみる感覚遮断性幻覚】
化かされ話
昔のように人家も少なく、人間が狐《きつね》や狸《たぬき》と仲よく共存していたころには、いたるところで狐や狸に化かされた話を聞くことができた。また逆に人間の方が狐に一杯くわせた話も、『王子《おうじ》の狐』として落語に出てくる。
これらの化かされ話のストーリーはしごく単純で、「隣村の祝言《しゆうげん》によばれて帰りが夜になり、道に迷った。幸い提灯《ちようちん》をもった人がきたので、後についていったらいつの間にかいなくなった。翌朝、正気にかえってみると、一晩中田んぼの中をころび歩いたものとみえて、泥だらけになり、おまけにお土産《みやげ》をすっかりとられていた」とか、「隣の娘がきて風呂に入れとすすめるので、いい気持でつかっていたらそこは肥《こえ》だめであった」とか、「まんじゅうと思って馬糞《ばふん》をくわされた」とか、「代金にもらった小判が木《こ》の葉になった」とかの、たわいもない話が多い。
最初の話などは、酩酊《めいてい》と暗夜の感覚遮断性幻覚できれいに説明できる話である。ゆけどもゆけども人家一つない荒野や森の中を歩いていくうちに、とくに日でも暮れてくると、まったくの感覚遮断的環境となり、方向感覚がおかしくなって、思わぬ方向に出たり、同じ場所を堂々めぐりしたりする。
また暗夜、前方に道などあろうはずのない山に、たくさんの提灯の灯《ひ》がのぼっていく、などという幻覚が現れる。この幻覚は「狐の松明《たいまつ》」と呼ばれて、各地の民話に残っている。
婚礼の振舞酒《ふるまいざけ》にほろ酔いきげんのじいさまは、提灯ももたずに出かけたので、暗夜の村はずれで自分を案内してくれる提灯の幻覚を見、しだいに催眠状態が深くなり、目の前が暗くなって寝こんでしまう。翌朝目がさめてから、泥田の中を堂々めぐりしていたことに気づくのである。お土産《みやげ》などは途中であちらこちらに振り捨てたのであるが、それがいつも狐《きつね》がとったことにされてしまうのである。
この手の話は現代でも、案外身近なところに存在している。
終戦直後、疎開《そかい》で郷里に帰って村医をしていた私の父が、深夜、遠くの集落に往診にでかけ、夜が白むころに帰ってきたことがある。父は、心配のあまり寝ないで待っていた母にこう語った。
その集落を出てしばらく自転車をこいでいるうちに、うしろの荷台になにか獣のようなものが飛び乗ったような気がした。とたんに目の前が真っ暗になり、なにがなんだかわからなくなった。こいつは狸《たぬき》のやつが、荷台の土産《みやげ》のまんじゅうを狙ったのだなと思い、夢中で風呂敷包みをうしろに放り投げると、自転車をおりてそのままじっとしていることにした。かなりの時間がたって、やっと目の前がはっきりしてきたので、再び自転車に乗ってもどってきた、というのであった。
父が往診に行った集落は、福岡と熊本の県境で、分水嶺《ぶんすいれい》をなす小栗峠《おぐりとうげ》の近くにあり、つぎの集落まで二〇分近く、ペダルを一度も踏まなくてよいような、なだらかな下り坂が続いている。途中はまったく人家がなく、道の両側からはうっそうとした樹木の枝がさし出て自然のトンネルをつくり、まるで森の中を通っているような道である。多忙な村医のつねとして睡眠不足の続いていた父は、帰途、往診の緊張感から解放されて気がゆるみ、まるで深い森の中のような夜道を自転車にまかせて下っているうちに、感覚遮断現象による催眠状態におちいったのであろう。しかし、すぐに自転車をおりてじっとしていたこと、また、車などめったに通ることのなかったころであったので、事故に至らなかったのは幸いであった。
私自身も、子供連れで青梅《おうめ》にドライブにでかけ、遊びすぎて帰りが夜になり、道に迷って、小一時間も同じところをぐるぐる堂々めぐりしてしまったことがある。
青梅のような平坦地では、どこも同じような道ばかりで変化がないうえ、夜になるとさらになんの目印もなくなり、道を聞こうにも家が閉まっているので同じ間違いをくりかえし、何度も同じ四つ角に出てきてしまうのであった。時間に遅れて焦っていたこと、疲労のピークにあったこと、空腹であったことなどの条件が重なって、このように方向を見失ってしまったものであろう。
このような「化かされ話」にエロチックな要素の加わったものが、つぎに述べる怪奇|譚《たん》にほかならない。
浅茅ヶ宿
『雨月《うげつ》物語』の白眉《はくび》である「浅茅《あさじ》ヶ宿」は、清《しん》朝の白話小説からの翻案《ほんあん》で、『剪灯《せんとう》新話』の愛郷伝《あいきようでん》あたりが種本であるとされているのだが、上田秋成は、本居宣長と論争したくらい国学に造詣《ぞうけい》が深かったので、案外、『今昔物語』などからヒントを得たのかもしれない。
しかし、類似した話は中国では古くから多く、六朝の『捜神記《そうしんき》』、『捜神後記』、『異苑《いえん》』、『録異伝《ろくいでん》』、唐代の『酉陽雑俎《ゆうようざつそ》』、宋代の『稽神録《けいしんろく》』などにいくらでもみることができる。これらの説話の原典とみられる六朝《りくちよう》時代の話が、駒田信二氏の現代語訳で『中国怪奇全集』(角川書店・のち講談社文庫、講談社電子文庫に収録)に出ているが、それはだいたいこんな内容である。
〈一夜の契《ちぎ》り〉
江蘇《こうそ》の曲阿《きよくあ》の住人、秦樹《しんじゆ》という書生が都へいった帰り、家まであと数里というところで日が暮れ、道に迷ってしまった。
困り果てて、どこかに宿はないものかとあたりを見回していると、はるか向こうに人家の灯らしいものがみえる。その方向を頼りに、やっと山道をたどりついてみると、山の麓《ふもと》に一間きりの小さな家があった。
中から若い女が出てきて、一人暮らしであるからと断るのを、頼みこんでやっと一夜の宿を貸してもらった。やがて食事が給され、初め警戒気味であった女も、秦樹が若い書生なので、だんだんにうちとけてきた。それになにしろ狭い部屋なので、自然に手が触れ、足が触れて、二人はついに同衾《どうきん》する成りゆきとなった。
翌朝、秦樹が女の手をとって「必ず迎えにくるから」というと、女はなぜか涙ぐんで、これきりで逢《あ》えないような気がしますというのであった。秦樹は不思議に思いながら、しばらくいってふと後ろをふりかえってみると、昨夜泊ったはずの家はなく、そこには大きな墓があるばかりであった。 (『異苑』)
この話がこれら一連の怪奇|譚《たん》の原型をなすものと考えられる。『捜神後記』の「二つの塚」、唐代の『酉陽雑俎』の中の「夫人の墓」、宋代の『稽神録』の中の「二つの餅《もち》」などもこの話とほぼ同様の筋立《すじだて》であって、それぞれ、女の家と思ったのが、ひきかえしてみると二つの塚であったり、大きな屋敷に泊まったつもりが、主が死に絶えた廃屋であったり、朱門白壁の楼台とみえたのが大きな塚であった、などのバリエーションがあるにすぎない。
これに比べて、『捜神記』にある「金の枕《まくら》」「赤い上着」、呉王夫差《ごおうふさ》の娘にまつわる『録異伝』の「墓の中の契《ちぎ》り」の三話はいずれも、死霊との交わりが三日三晩と長いこと、形見にもらった死霊からの贈物のために主人公に盗掘《とうくつ》の疑いがかけられること、という二つの共通点がある。「金の枕《まくら》」というのは、つぎのような内容である。(駒田信二『中国怪奇全集』「金の枕」から要約)
〈金の枕〉
隴西《ろうせい》の辛道度《しんどうど》という若者が遊学の旅に出たが、路用に窮して空腹をかかえながら、やっと雍州《ようしゆう》の町はずれまでたどりついた。
見るとそこに大きな邸宅があるので、一夜の宿を乞うと、そこは秦女《しんじよ》さまのお屋敷ということであった。立派な食事が給され、やがて若く美しい女主人が現れた。
女は自分は秦の王女で曹《そう》の国に嫁いできたが、まだ式もあげないうちに夫と別れ、いらい独身でいる、と身上話をし、二人は契《ちぎ》りを交わすことになった。
夢のような三日三晩がすぎて、四日目の朝、女は「名残は尽きないが、三晩をすぎると禍《わざわい》が起こるので、お別れしなければなりません」といって、涙ながらに形見として金の枕をくれた。
辛道度が門を出てから後ろをふりかえると、屋敷は消えうせて、あたりには草が生い茂り、大きな墓があるばかりであった。
町についてから、辛道度はその枕を売り払ったが、それがたまたま秦《しん》の王妃の目にとまり、彼は盗掘の疑いで取り調べられることになった。辛道度が必死で事情を説明するのを、王妃は涙を浮かべながら聞いていたが、ついに、半信半疑で雍州郊外の娘の墓をあばいてみた。
金の枕以外の副葬品はみなそろっており、娘の体を調べると、情交のあとが残っていた。王妃は初めて辛道度を信用し、彼を女婿として〓馬都尉《ふばとい》という官に任じ、金帛《きんぱく》車馬を贈って帰郷させた。
以来、副馬《そえうま》という意味であった「〓馬《ふば》」が、女婿という意味で世間に用いられるようになったという。 (『捜神記』)
越《えつ》王勾践《こうせん》との角逐《かくちく》で有名な呉王|夫差《ふさ》の娘、玉《ぎよく》にまつわる「墓の中の契《ちぎ》り」という話も、死霊と三日三晩すごしたこと、疑い深く残忍な性格であった夫差が、盗掘を怪談仕立てでごまかそうとしているのだとして、主人公の逮捕《たいほ》を命じたことまで、この話とそっくり同じである。三日三晩という数にはおそらく、それが生者が死霊と交渉をもつ限度とするような、当時の迷信がからんでいるものと思われる。
さて、これらの怪奇|譚《たん》に共通するパターンはなんであろうか。
一人旅の青年が道に迷い、行きくれる。どこかに今宵の宿はないものかと心細くなっているときに、偶然、人家らしい明かりが見える。やっとそこまでたどりつき、一夜の宿を乞う。やがて食事が給され、その家の美しい女主人が夜とぎをしてくれる。一夜明けて気がついてみると、屋敷と思ったのは、意外や陵《りよう》、墓、塚、廃屋などであって、さては昨夜の主は、この墓の亡霊であったのかと気がつくというパターンである。
これを精神医学的に解釈すると……。
長時間、人家一つない茫漠《ぼうばく》たる荒野を一人旅している男が、日も暮れかかり、疲労、空腹からどこかに宿はないかとしだいに不安な精神状態におかれているうちに、感覚遮断性幻覚を起こしてきて催眠状態におちいる。塚や墓や廃屋などを人家と錯覚し、やっとたどりついたと安堵《あんど》して、実際はすぐ寝こんでしまう。そこで最初の原始的欲求である食欲を満たす夢をみてから、深い睡眠におちいり、疲労もとれて、やがて明け方の睡眠の浅くなるレム期に陰茎の勃起《ぼつき》が起こる(第三章参照)ので、その刺激によって生々しい性夢をみ、はっと目がさめる。さめてみると、昨夜の宿と思ったのは墓、塚であって、さては昨夜の女主人はこの墓の主であったか……、という怪談に仕上がるのである。
さらに六朝時代に、亡霊から高価な贈物を贈られる「金の枕」に類似した話が多いのは、貴人のための大きな陵墓が築かれていたこの時代には、墓泥棒が横行していたことが背景としてあったのであろう。
「金の枕」の話は、明らかに盗掘と屍姦《しかん》が行われていたことを物語るものである。主人公は盗掘の罪に問われ、苦しまぎれに怪奇譚を創作したとも考えられるが、皮肉なことに、彼かまたは一足さきの盗掘者によって屍姦が行われていたことが真実の証しとなって、罪を免れることができたのである。
おもしろいのは、娘の墓を暴かれ、屍姦《しかん》までこうむった秦の王妃の、いかにも大陸的な腹の大きさである。その話を信じたふりをして、どこの馬の骨ともわからぬその男を、死せる王女の女婿として「〓馬《ふば》都尉《とい》」という怪しげな官位につけ、故郷に送りかえしてやったことである。彼は自分の異例の出世を説明する必要から、折にふれては自分の創作した怪奇|譚《たん》を盛んに周囲に吹聴《ふいちよう》したので、それが民話となって後世に残ったものであろう。娘のこうむった盗掘、屍姦という惨めな現実をロマンチックな怪奇譚にすりかえたのは、王妃の、王家の体面を考えた計算もあったろうし、若くして男も知らずに死んでいった不憫《ふびん》な娘に対する、女親らしい親心もはたらいていたものと思われる。
以上のように、比較的条件の単純な荒野における感覚遮断現象に比べて、山や海における遭難などでは、このほかに空腹、極度の疲労、寒さ、睡眠不足などの生理的条件に、遭難したことの不安、集団的感動などの精神的条件が加わって、さらに多彩な色どりがつけ加えられる。このような例を、伝説、民話、あるいは実際の遭難記などにみることができるのである。
神隠し
神隠しとは、まれには大人のときもあるが、主として子供が、まるで天狗《てんぐ》にでもさらわれたかのように突然|失踪《しつそう》する場合と、ある時間の記憶|喪失《そうしつ》を伴ってひょっこり本人が現れる場合の二つを指すものである。
前者は、目印一つない広大な荒野や原生林で感覚遮断現象を起こして、思わぬ場所に迷いこんだもので、こうなると、たとえ大人であっても発見が困難になる。これは数年前、富士の原生林に迷いこんだ外人宣教師夫妻が、二ヵ月にわたる大がかりな捜索活動によっても発見されず、最近になって、偶然に登山者によって遺体で発見された事件からも明らかである。
以前テレビで有名になった、クロワゼットの透視力によって近くの池の底から発見された少女の場合――捜索範囲で残っていたのは池だけであったから、池に沈んでいる可能性はまことに大きかったが――、そのまま発見されなければ、当然神隠しにあったと思われたに違いない。
さきに引用したように、『医事新報』にも「神かくし」という題の寄稿がある。
内容は、医師である寄稿者の当時六四歳になる叔父が、秋、茸《きのこ》とりにでかけたまま行方不明になったという事件のてんまつを、追悼《ついとう》をこめて語ったものである。現場は国定公園|栗駒山《くりこまやま》山麓釜内峠の鬼首《おにこうべ》温泉に向かう林道との交差点付近。午前中、叔父は仲間と三人で茸《きのこ》とりをして、いったん昼食をとり、その後再び茸とりにでかけたまま消息を絶った。そのとき叔父は、まだ時間があるからとただ一人、茸を入れる前掛けをし、塩|鮭《さけ》と漬物を入れたビニール袋を手にして、山に入っていったという。
早速、地元消防団員ら三〇〇人が夜を徹して四日間捜索したが、遺留品以外は発見されなかった。そのときの状況を、原文(沼倉実『医事新報』二五四八号「神かくし」)から引用してみよう。
そして道端に五〇米位の間をおいて、持っていった塩鮭、及び漬物がビニール袋に入ったまま落ちており、それを底辺とした三角形の頂点の所、即ち二、三百米奥の熊笹の中に、茸を入れる前掛が落ちていたのであった。一体何のために、どうしておとしたのであろうか。まして茸をとるために入山したはずなのに、前掛をおとしていることに或る疑惑が浮かぶのである。(中略)
熊におそわれ、持参した塩鮭や漬物、又前掛をなげ捨てて山中をにげまわり、暮れ易い晩秋の山の熊笹の中に、空腹と疲労でたおれたか、或いは足を踏みすべらせて、千古未踏の千仭の谷底に落下して死亡しているか、いずれかであると思わざるを得ない。それが現代に於ける常識であろう。
或る人はいう。あの山は魔の山で、あの山に入った人は神かくしに遭うといい伝えられている。そして五年も十年も発見されないのだと。また神様はいう。狐につかれて洞穴に居り、狐に養われて生きていると……。また或る人は、近所の人でこの山で札束を拾ったといって、手に一杯の木の葉をもって家に帰り、人々にお金をあげるといって、木の葉を一枚ずつ配っていた事実があるから、叔父さんも狐にだまされているのだという。そんな馬鹿なと思うが、やはり私も幼時、同じような話を聞いた記憶があるので、全面的に否定することも出来ない。
寄稿者は医師であるから、疲労と空腹でゆき倒れになって発見されないのか、谷底へ落ちたかのどちらかであろうと科学的な判断を下しているが、肉親の情としては、「神隠し」を否定できぬ心境におられるようである。
事実は、だいたい氏の推測どおりであると思われるが、問題は、あちこちにビニール袋、塩鮭、茸《きのこ》入れの前掛けまで捨ててあるという、遭難者の不可解な行動である。仮に、寄稿者の推測のように熊に追われていたとしても、どうして前掛けをはずすという手間をとってから逃げなければならなかったのであろうか。
しかし、法医学で山の遭難者を検死する場合、これとよく似た状況が見られるという。真冬であるのに、あちらに靴がそろえて脱いであり、こちらには衣服がきちんとたたんでおかれ、遭難者は途中一枚ずつ衣服を脱ぎ捨てて、ついには全裸死体で発見されるということがまれでないという。私が学生時代に聞いた講義では、疲労、空腹、寒さなどの諸条件により、遭難者はすでに精神に異常を来しているので、真冬に服を脱ぎ捨てるなどの不可解な行動をとるのだ、という説明であった。
この不幸な遭難者は、当時六四歳で、「小柄で若々しく、非常に元気な人で、剣客であり、剣道は達人であった」ということである。遭難は一〇月二三日の日中であるから、もちろん凍死寸前の寒さによって精神異常を来したとは考えられない。そこで、遭難者はなにか他の原因で急に意識障害を起こしたものと考えると、傍線したような不可解な行動も説明できる。この場合、もっとも考えやすい原因として、いくら若々しくて元気であったとしても、六四歳という年齢であるから、軽い卒中発作による意識障害を起こしたと考えるのが妥当《だとう》ではあるまいか。
最近では卒中発作のなかにも、運動麻痺などを起こさずに、一過性の意識障害だけを来《きた》す軽いものがあることがわかり、脳血管の一部がけいれんを起こして縮み、一時的に血液を通さなくなったことによると考えられることから、一過性脳虚血発作(トランジェント・イシェミック・アタック、略称T・I・A)と呼ばれている。
私が最近経験した中に、こんな症例がある。六七歳の婦人で、前夜はなんの異常もなく就寝し、朝七時にいつものようにトイレに行く足音を家人が聞いている。八時になっても食事にこないので、部屋に行ってみると、患者はふとんの上に座ってきょときょとあたりを見回しており、びっくりした家人が名前を呼んでも返事がないので、救急車で緊急入院となった。
しかし、運動麻痺などの神経学的な異常は認められず、入院二時間後の内科医の問診では、いまが昭和八年であると答え、ここが病院であることはどうやらわかるらしいが、適切な返事がなかなか出ないという状態であった。四時間後に私が呼ばれて診察したところ、日時、場所ともよどみなく答え、ただ健忘失語がわずかにみられる程度に回復していて、立ち会った初診医を驚かせた。その後に行ったアイソトープを利用した検査(脳スキャン)、脳血管撮影でも異常がみられず、やはりT・I・Aであろうという結論になった。
この症例は、わずか四、五時間の意識障害のみを示したT・I・Aであり、幸いにも居間で発作を起こして家人に発見されたため、無事であった。
しかし同じような発作が、だれもいない山中で起こった場合はどうなるであろうか。「神かくし」の遭難者は、昼食後山に入って間もなく、軽いT・I・Aを起こして、もうろう状態となり、混濁した意識下でビニール袋や前掛けを捨てるという不可解な行動をとり、夢中で山中をさまよった結果、疲労と空腹でゆき倒れた。意識障害があるので、ハンドマイクで呼びかける肉親の声にも応答できず、ついに発見されなかったのではなかろうか。このような原生林で、遭難者からの応答がなければ、すぐ近くを通っても発見することは困難である。
さて、神隠しの第二型とは、ある時間の意識障害があった後に本人がひょっこり現れる場合で、天狗にさらわれた子供として昔話に出てくるようなものである。これには、「天狗にさらわれた少年のこと」という題でよい例が出ているので、そのあらましを紹介したい。
六代将軍|家宣《いえのぶ》の正徳年間の話。江戸神田の小間物屋の一四、五歳になる小僧が、正月一五日の夕刻に手拭を下げて近くの銭湯に出かけたが、しばらくすると、なんとその小僧が股引《ももひき》草鞋《わらじ》の旅姿で藁苞《わらづと》を杖に下げて、ぼんやり裏口に立っているではないか。
店の主人は落着いた人だったので、驚きを隠して、まず草鞋をぬいで家に上がるようにいうと、小僧は足を洗い、台所から出してきた盆の上に藁苞の中から取り出したところ(野生の山芋)をのせて、これは郷里からの土産ですと差しだした。
「それではお前は今朝どこからきたのか」と主人が調子を合わせてきくと、小僧は、
「秩父の山を今朝出ました。長い間留守をして御迷惑をかけました」という。ますます不思議に思った主人が、おまえはいったいいつ、この店を出たか聞くと、小僧は昨年の一二月一三日のすす払いの晩に店を出て、昨日まで秩父の山にいたこと、山では毎日客があって、客に給仕をしていたが、昨日のこと、明日は江戸に帰してやろうといわれたこと、土産にところを持っていけといわれたので、これを掘って持ってきたこと、を答えたという。
もちろんこの小僧はすす払いの晩店を出たことはなく、ふだんのようにはたらき、ついさっき風呂にいくまで、ちゃんと店にいたのである。そうすると銭湯にいったのは、いったい小僧の身代わりの別人だったのだろうか。 (澁澤龍彦『東西不思議物語』―毎日新聞社―から要約)
この話を締めくくる疑問は、たいへん素朴なものであるだけに、精神医学的にも興味のある材料を提供しているといえる。
もっとも納得しやすい考え方は、銭湯へ出かけた小僧と、天狗にさらわれて秩父の山へいってきた小僧とは同一人物である、とする見方である。同一人物が、一定時間の間に二つの人格に分かれ、実際は同一の場所にいながら、あたかも別の場所にいるかのような体験を味わった、というのが、精神医学的にみた真相なのではなかろうか。
その小僧はすす払いの日から一月一五日までの間、店で一見なんの変わりもなく仕事をしていながら、小僧の意識の中では、郷里の秩父ではたらいているという幻想の世界にいたのである。「客が多く給仕に忙しかった」という小僧の陳述は、疑いもなくそこが店にほかならないことを示すものである。千客万来の江戸の大店《おおだな》で、番頭の命ずるがままに、はいはい、と自動的に動いている小僧の曇った意識の中では、そう認識されても不思議のないことである。
この小僧のように、相当長い期間、周りの人からは一見正常人と変わりがないようにみえながら、本人は無我夢中で、後でその期間の記憶がないという不思議な病気がちゃんと存在する。この病気は、本人の意識混濁が浅く、周囲の人にそつなく応対するなど一見分別のあるような行動をとるので、「分別あるもうろう状態」と呼ばれているものである。一番有名な例は、ロンドンの英国商人で、夢中でインド航路の客船に乗りこみ、ボンベイで上陸して初めて、自分はいったいなんのためにインドにきたのか、と正気にかえったというものである。この商人は、長い航海中船室で乗客と談笑し、その応接態度はまったく普通であったという。
この例はまだ脳波検査などのできない時代のことであるから、精神的ショックによる(心因性の)ものであるのか、てんかん性のものであるのかわからない。私の大学病院時代に、まる三日間、無目的、無意識の旅行をしたために外来につれてこられた青年を診察したことがあるが、これは脳波検査によって、明らかにてんかん性の異常が発見された。
もうろう状態とは、意識が曇り、意識できる範囲が狭くなって、まるで夢の中を歩いているような状態なのであるが、狭い範囲内では一見合目的なまとまった行動をとるので、しばしばその状態での責任能力について、精神鑑定上の問題となることがある。しかし一般には意識|混濁《こんだく》が強く、期間が短いものが多く、この例のように混濁が浅く、期間の長いものはきわめて珍しい。
もうろう状態には、さきの側頭葉《そくとうよう》てんかんによるものと、本人がなにか強い精神的ショックを受けた場合のような、心因性《しんいんせい》のものとの二つがある。
あるとき私のところに、地方の高校を卒業して、人形劇団に所属している女の子が連れてこられた。急に打合せをすっぽかすし、なんとなくようすがおかしいという。入院させて、最近の本人の行動を一番よく知っている彼女の友人の話と本人の追想とを照合すると、公演が一区切りついた日から、六日間の記憶の空白期間がある。週末にいくことになっていた親戚《しんせき》の家には行っていないし、打合せにも出てこないので、心配したその友人が、数回本人のアパートに連絡にいったが、外から鍵がかかっていた。六日目に、たまたま近所の銭湯から出てくる本人に出会って、声をかけたところ、われにかえったものである。
彼女は末っ子で、心配する親の反対を強引におしきって家出同様に上京し、劇団員の道へ進んだ。しばらくは張りきってやっていたのだが、だんだん仕事上のゆきづまりを感じ、グループからも浮き上がるようになった。しかし、いまさら親もとに帰るわけにもいかず、こういう気持が内攻して、心因性もうろう状態を起こしたものであった。もちろん脳波に異常はないので、てんかん性のものでないことは確実である。
天狗にさらわれた小僧の場合も、まだ一四歳の思春期で、親もとに帰りたい気持がふだんから内攻していたのに違いない。しかし暮れには帰れないことになり、すす払いによっていっきに爆発し、体は店の仕事をしていながら、小僧の意識の中では、郷里の秩父ではたらいているかのように錯覚していたものであろう。使い走りの小僧だから、いいつけられるままに「はい、はい」と動いていればよいので、その意識障害にも気づかれなかったものであろう。この小僧の場合は、『イブの三つの顔』で知られるような、心因性の多重人格であったと考えてもよい。
多重人格も心因性もうろう状態も、精神医学的にはヒステリーという同じメカニズムで起こるものである。『イブの三つの顔』とは、ある美貌の主婦が突然、まったく正反対の人格に変身してしまい、本人はそれに気がつかない、という精神分析例をもとにした小説で、その翻案《ほんあん》のテレビドラマを三田佳子が好演していたから、記憶しておられるかたもあるであろう。良心があまりにきびしすぎて、自己の強い欲求との間の板ばさみになり、限界に達すると、自我が分解して、あたかも二つの人格が一人の体に住んでいる「ジキル」と「ハイド」のようになるのである。
この小僧は、親もとに帰りたい気持が内攻したが、店の許しも得ずに帰宅するとしかられるので、せめて郷里のどこかではたらいていると空想することで、自分の良心との折合いをつけたものであろう。この空想が強くなってくると、別の人格にすり替わって、ときどき店を抜け出しては、近所の人のこない神社などに寝ころんで、白昼夢にひたっていたのではあるまいか。郷里の屋敷ではたらいている人格になりきっていても、そろそろ江戸へ帰らなければならない時期だ、という良心の命令ははたらくので、どこかで旅装束を買い求めたり、ところを用意したりして、神社に隠していたと考えられる。二つの人格の間が乖離《かいり》して、おたがいに連絡がなく、まるで手品のようにすり替わってしまうのが、多重人格の特徴である。
この話は江戸時代の実話で、忠実に記述され、加工変形されていないから、二〇〇年たった今日でも、このように分析に耐えることができるのである。
記憶の座
澁澤龍彦氏は、さきにあげた『東西不思議物語』の中で、「どうやら時間は伸縮自在で、カンヅメのように圧縮することもできれば、複雑に折り畳むこともできるらしいのだ」、「天狗や神かくしの世界も、瞬間のなかに折り畳まれ、圧縮された広大な世界なのかもしれない」と述べているが、まさに時間をかんづめのように圧縮し、過去の体験のすべてをわずか百数十立方センチメートルの容積のなかに詰めこんだ、小さくして広大な場所が人間の脳の中に存在するのである。
私たちの精神の座である大脳皮質は、なんと一四〇億の神経細胞から組み立てられているから、最新の大型コンピューターを何百台もつなぎ合わせたくらいの神経回路を、わずか一四〇〇グラムのなかに収めた精巧なものなのである。人間が一つの体験を記銘する(印象を刻みこみ、おぼえる)ということは、一つ一つの体験ごとに、無数の神経回路の一部に活動電流が流れて、一つの閉鎖回路をつくる過程であるといわれている。
さて、このようにして無数に蓄えられた過去の体験は、どのようにして取り出されるのであろうか。
カナダの脳外科医ペンフィールドは、局所麻酔で開頭手術を行い、大脳のあちこちを電気刺激してその機能を調べ、有名な大脳の機能地図を作りあげた。その際、側頭葉の刺激によって過去の記憶が再現されることを発見したのである。ある患者は側頭葉の電気刺激で、「ホワイトクリスマスだ、オーケストラも聞こえる」といい、別の箇所では前に聞いたことのあるラジオ放送が聞こえ、再び初めの場所を刺激するとホワイトクリスマスが聞こえたという。
ペンフィールドはこれに力を得て、多くの患者の側頭葉のあちこちを電気刺激して詳しく調べてみた。その結果、街で見たネオンサインがまざまざとよみがえるなどの視覚の記憶の再生、体験の実在感がなくなる〈離人《りじん》感〉、いま初めて見るものが過去にたしかに見たように感じる〈仮性の既視《きし》〉、反対に何度も見たはずのものが初めて見るように思える〈仮性の未視《みし》〉などの、記憶に関係する実に多彩な体験が再生することが解明された。
これらの体験は、いままでてんかんの前兆(アウラ)として知られていた症状で、前兆は、側頭葉に電気的興奮が最初に起こる精神発作と考えられているから、これによって、複雑多彩な発作が実は側頭葉てんかんにほかならないことが証明されたのである。このころはまだ、側頭葉てんかんに有効な薬が開発されていなかったため、てんかん性焦点のある側頭葉の一部を切除する手術が行われている時代であった。これらの経験から、側頭葉とその下の海馬《かいば》、さらに脳の深部にある乳頭体《にゆうとうたい》、および脳幹を結ぶ回路が記憶の統合に重要な役割をになっており、その一部のどこかが破壊されると、重い健忘症を起こしてくることがわかってきた。
ドストエフスキーは、自身でもてんかん発作のあった作家であるが、『白痴』の主人公ムイシュキン公爵の口をかりて、そのエクスタシーに満ちた前兆が見事に記述されている。
解剖学的にみると、側頭葉のすぐ下を、海馬回、帯状回《たいじようかい》がぐるりととり囲んでいて、大脳|辺縁系《へんえんけい》を形成している。第五章でも詳しく説明するが、この大脳辺縁系は、本能的欲求に関係する情動が形成される座であるから、側頭葉発作では放電がすぐ下の大脳辺縁系に波及《はきゆう》して、強い怒りとか不安とか、あるいは反対のエクスタシーなどの激しい情動を同時に伴うことになるのである。
側頭葉てんかんで一番多い発作は自動症といって、患者は突然、今までの行動を中断して、空《くう》を見つめ、口をくちゃくちゃさせたり、衣服をまさぐるような意味のない行動をとった後に、はっと我にかえるといった発作である。発作の持続は数十秒から数分のものが多いが、まれには長いものがあって、その間かなりまとまった行動をとることがある。夢遊病といわれていたものも、実は睡眠によって誘発された自動症ではないかと考えられている。
しかし実際の側頭葉てんかんでは、自動症と精神発作が入り交じった夢幻様の体験が多いことから、この発作を初めて報告したジャクソンは、夢幻様状態と命名している。笠松章氏によれば、つぎのように説明されている。
周囲の現象が、それ自体として一応知覚されながら、夢のように誇張され、変容されて、意識にのぼる。色やにおいなどをおびた光景的幻覚があらわれ、その内容が過去の経験に関連をもつものであったりする。たとえば、物がおおきく(巨視)、または小さく(小視)みえたり、音がおおきくきこえたりする。あるいは、過去の体験と類似した情景があらわれたりする。さらに既視体験、未視体験、離人症体験などが、発作中の患者によって体験されることもある。 (笠松章『臨床精神医学』中外医学社)
学会における最近のてんかん発作の分類は、細かくなりすぎてわかりにくいきらいがあるので、この記述などは、一般の人が、てんかんの夢幻様状態とはだいたいどんなものであるかを理解するのに便利であろう。
桃源郷物語――
デイドリームの世界――
さて、くどくどと側頭葉てんかんの話をしてきたのは、平田|篤胤《あつたね》を驚喜させたという薩摩《さつま》の山番の体験談やH・G・ウェルズの『幻影の扉』という不思議な物語が、この夢幻様体験と関係があるのではないかと考えるからである。
さきにあげた『東西不思議物語』の中に、「女神のいる仙境のこと」という話がある。これは、幽界のできごとに異常な興味をもっていた国学者平田篤胤が、薩摩藩のある人にとくに頼んで記録してもらった『霧島山幽郷|真語《しんご》』によるもので、薩摩国日置郡伊作田村の善五郎という山番の体験談の聞き書きであるという。そのあらましは、つぎのようなものである。
善五郎は一五歳のときから霧島山系の一つ、明礬《みようばん》山の山番をしていて、里におりてくるのは盆と正月だけという人里離れた生活を送っていたが、ある晩、明け方近く、自分の名を呼ぶ声がする。戸を開けて外へ出てみると五〇歳前後の男が立っていて、自分は山の女神の使者であるが、これからおまえをその屋敷に案内するという。善五郎が寝ぼけまなこをこすりながらついていくと、間もなく大きな屋敷についた。
女神の屋敷は限りなく広く、清らかな明かりに満ちていた。
庭も広く、たくさんの果樹が植えてあり、馬や鶏や犬などの動物が飼われている。五色のあや衣を着、髪を長くたらした侍女たちが何人もいて、妙《たえ》なる琴の調べがする。女神は裾《すそ》の長い美しい衣装を身にまとい、その顔は天女のような美しさであった。
これが縁となって、善五郎はその後いく度も女神の屋敷に通うようになる。どうやら女神と共寝したらしいが、女神は、善五郎が里の女とたわむれたことを知っても、べつに嫉妬する素振りもみせない。
女神の屋敷にいけるのは、いつも夜寝ついてからで、善五郎は、人っ子一人いない夜の山道をふらふらと夢中で通うのであるが、昼間いくらその屋敷のありかを探しても、ついに発見できなかった。しかしたしかに昨夜その屋敷にいた証拠には、朝起きてみると、昨夜土産にもらった薬草の束が、枕もとにちゃんとおいてある。
そんな不思議な関係が八年も続いたが、ついに別れのときがきた。それは、女神が「これからも関係を続けるのであれば、いっさいの里の縁を切って誠をみせよ」といったからである。
善五郎は、親子の縁まで切って仙境の住人になるだけのふんぎりがつかなかったので、ついに里の住人に帰った。 (澁澤龍彦『東西不思議物語』―毎日新聞社―から要約)
洋の東西を異にはしているが、SFものの先駆者であるH・G・ウェルズも、この話とよく似た『幻影の扉』という短編を書いている。
それは、四〇歳代で次期閣僚の声も聞こえようかという、エリート政治家の回想形式で語られる、不思議な魅力をたたえた物語である。
彼は二歳のときに母をなくし、弁護士をしている多忙な父は、彼の養育を乳母にまかせきりという孤独な子供であった。五歳のころのある日、家を抜け出して街をさまよい歩き、ゆきずりに、「白い塀に緑色の扉」のついた屋敷になぜか心をひかれる。彼はその扉を開けて庭園に入ったが、それはまさに魔法の国であった。その庭園は広く美しく、光り輝いていて、ボールに戯《たわむ》れていた二頭の豹が彼を出迎えにやってくる。
僕の背後《うしろ》で扉《ドア》がばたんと閉った途端に、僕はとちの木の落葉が散乱している道路も、そこを通っていた辻馬車や荷車も忘れてしまった。家庭でのきびしい規律や服従へと僕をつれもどそうとする引力のような力も忘れてしまった。また、あらゆる躊躇《ちゆうちよ》や恐怖、或いは分別も忘れてしまった。言いかえれば、この世界の日常的現実をすべて忘れてしまったのだ。一瞬にして僕は、別世界に住む、非常に幸福な、奇跡的なほど幸福な子供になってしまったのだ。そこはこの世とは違った世界だった。陽《ひ》の光はより暖かく、柔らかく、あらゆるものに浸透していた。また、かすかだが清らかな喜びがあたりにただよっていた。青々とした空には太陽《ひ》の光をうけた雲が切れぎれに浮かんでいた。そして、目の前には、僕を招《まね》くかのように広い道が遠くまで続き、その両側には、野生の花が乱れ咲く、雑草一本生えていない花壇がならんでいた。おまけに、あの二頭の豹もそこにいた。僕は少しもこわがらずに豹の柔らかい毛をなでたり、丸い耳や、耳の下の敏感なあたりを愛撫して彼らと戯れた。彼らは僕を家へ迎えいれているような感じだった。実際、僕の心の中では、家へ帰って来たという感じが非常に強かった。だから、ほどなく背の高い、美しい少女が道に現われて、微笑を浮かべながら、僕を迎えに近づき、「いかが?」と言いながら、僕をだきあげてキッスをし、またおろしてから手を取って歩きだした時、僕は少しも驚かなかった。ただ、どういうわけか奇妙にも今まで見のがしてきた幸福な生活を思い出すような気がして、この喜びに満ちた今の状態こそが本当の生活なのだという感じがしていた。(中略)
この涼しい並木道を、その少女は僕の手を引いて歩いて行った。そして、僕の方を見おろしながら、やさしい、心地よい声でいろいろのことを尋《たず》ねた――そう、僕の方を見おろした時の彼女の顔が美しく、やさしかったこと、また顔の線がきれいで、あごの形も美しかったことを今でもおぼえているよ。そしてまた、いろいろと楽しいことを話してくれたが、あとになってみるとそれがなんだったかは思い出せなかった……。やがて、赤茶色の、とても綺麗な頭巾猿が木からおりてきて、僕達に近づき、僕のわきを走り出したが、眼ははしばみ色でやさしそうだった。はじめは、僕の方を見上げて、歯を出して笑っていたが、まもなく僕の肩に飛び乗ってしまった。こんな風にして、僕達二人はとても楽しく歩いて行った。(中略)
……それから、屋根の付いた大きな柱廊を通り抜けて、ひろびろとした涼しそうな宮殿にやって来た。そこには、心地よい噴水や、美しいものが、言いかえれば、僕たちが心から欲しいと思うようなものがたくさんあった……。(中略)
……僕はそこで遊び友達を見つけた。僕は孤独な子供だったので、これはとてもうれしいことだった。花にかこまれた日時計のある、草の生えた中庭で僕たちは楽しいゲームに耽《ふけ》った。そして遊びながら愛し合ったのだ……。 (『世界文学全集』(84) 瀬尾裕訳 講談社)
……彼は夢のような楽しい時間をすごし、我にかえると、あたりはすっかり薄暗くなり、大勢の人が彼を取り囲んで、心配そうに見ていた。彼は迷子扱いされて家へ送られた。
彼はそれから、この不思議な庭園ですごした甘いやるせない思い出が忘れられず、もう一度あそこへいってみようと方々を探したが、あの屋敷はどうしても見つからなかった。
この扉は、それから幾度か、思いがけないときに彼の前に姿を現した。一度は、八、九歳のころ、学校へ急ぐ途中、道に迷って、以前に一度見たことのあるようなあの通りに出たとき。もう一度は、オックスフォード大学の奨学生資格試験のために、馬車を急がせているとき。
しかし、彼は現実の用のために、幼児期の記憶を確かめる機会を見送ったのだった。
彼は出世した今となって、しきりにあの庭園が恋しくなった。最近になってまた、あの扉が彼の前に姿を現すようになったのだった……。
この話をウェルズにしたすぐ後に、彼は深夜、工事現場の板囲いにつけられたペンキ塗りの扉の中に入りこみ、そこに掘られていた深いたて穴に落ちて、事故死をとげる。
この英国紳士の不思議な体験は、著者によって簡略にまとめられた主人公の不幸な幼児期体験にもとづく、現実から空想の世界への逃避――白昼夢――であると解釈するのが妥当《だとう》であろう。しかし、単なる白昼夢というより、体験のあまりの鮮明さ、内容の豊富さと具体性、ならびにエクスタシーに裏打ちされていることから、これを、心因性にひき起こされた夢幻様状態と考えることもできる。
純朴《じゆんぼく》な山番の少年が語る女神の屋敷の情景と、文豪の筆によって描写される、さながらシュールリアリズムの幻想画を連続で見せられるような「白い塀《へい》つきの緑の扉」の邸内とでは、内容の表現に差のあるのはいたしかたないが、この二つの話には明らかに共通するものがある。
多くの動物や果樹、花の芳香に満ちた広く明るい邸、美しい女主人などの光彩に満ちた光景がつぎつぎと鮮明に出現し、すべてがこの世のものとも思えぬ美しさ、清らかさに包まれ、その夢幻様体験は、エクスタシーとやるせない過去の甘美な記憶とに関連して現れるのである。そしてその体験は、成人になると現れなくなる――。ウェルズの小説の主人公の場合、仮性の既視体験を伴った二度目の八歳のときまでが、本物の夢幻様体験であった。成人してからのそれは、どこにでもある白い塀と緑色の扉の偶然の瞥見《べつけん》にすぎなかったことは、四〇歳すぎてやっと確かめることのできた幻の扉が、やりかけた工事場のペンキ塗りの扉にすぎず、主人公の死を招くという惨《みじ》めな現実が証明している。
少年期から前思春期にかけては、空想力がもっとも豊富な時期で、感受性の強い少年が長時間空想の世界にひたっていると、後では現実との見境いがつかなくなることがよくある。
私はかつて、ある旅館の末っ子で、学校にいかなくなった中学生を自宅に往診したことがある。彼はSFに熱中し、建て増し旅館の継ぎ目にある、複雑な形になった窓のない勉強部屋に閉じこもったきり、出てこないのであった。私は薄暗い彼の部屋に案内されてびっくりした。部屋中、ロケットや人工衛星のプラモデルがところ狭しとぶら下がり、ベニヤの壁一面に、プラネットブルーのラッカーで水星や土星や銀河が描かれていた。そのすみに小さな扉があって、隣室に通じているらしかった。
私は重苦しい部屋の空気を入れかえようと、その扉の取手に手をかけて引っ張った。驚いたことにその扉は、取手だけが本物のだまし絵であったのである。よく見るとその扉の横に、欧文でファンタム・ゾーンと小さく書いてあった。彼はこの扉の前に座って目を閉じると、いつでも自由に、彼のSFの世界に出入りすることができたのである。
善五郎の体験は、このような白昼夢に、一部入眠によって誘発されたてんかん性夢幻状態が入り交じったものではないかと思われる。善五郎のように、子供のときから人里離れた山小屋で一人で山番をしていると、社会的接触の不足を補うために、空想が盛んになって、始終、白昼夢にひたって暮らすようになる。また、対人的接触にとぼしい施設の子供などでは、善五郎がかよった女神のような、「|空想上の友人《イマジナリー・コンパニオン》」をつくりあげるという。
これらは前思春期までの児童にみられる現象であるが、年長の善五郎の場合、江戸時代の片《かた》田舎《いなか》の少年であり、極端に社会的な接触を絶たれている特殊な場合なので、白昼夢が青年期まで持続して、このような、夢と空想の入り交じった夢物語をつくりあげたものであろう。また、てんかんの精神発作の場合、同一内容の、感覚性記憶再現性の幻覚をくりかえすといわれているので、つごうよく夢の続きを見ることができたことの説明になるのかもしれない。
とにかく善五郎は、夢遊病のような精神運動発作をもっていたと思われる。入眠によって側頭葉に興奮が起こり、善五郎は人一人いない山中をふらふらとさまよい、自分の頭の中で起こった夢幻様体験に従って、お茶を飲んだり、寝ころんだり、お土産《みやげ》の薬草を採取したりしていたのであろう。
しかし、善五郎の体験が白昼夢を主とするものとすると、初めて起こったのが一五歳で八年続いているから、最後は二三歳になる。
私は、善五郎が女神の屋敷に通わなくなった理由を、女神から「里の縁を絶ってからいらっしゃい」といわれたからだといいわけしているところが、おもしろいと思う。推測では、善五郎の夢幻様体験が実際に消失したのは、もう何年か前であったろうと考えているからである。というのは、精神科の臨床において、医師が患者の症状に非常な興味を示すと、患者はほんとうはその症状が消失しているのに、ごまかしきれる間は、まだ症状が続いているかのように振舞うことがあるからである。
映画『理由なき反抗』の原作者で、精神分析医でもあったリンドナーが、精神分析の症例をもとに書いた『心の秘密』という短編に、つぎのような体験を記している。自分がオルマ星人であるという妄想《もうそう》をもつ青年科学者は、意気込んでこれから治療を始めようとするリンドナーに向かって、「実はもうずっと前から、自分で妄想であることに気づいていました。しかし先生があまりに自分の話をおもしろがっておられるので、先生を失望させないように、つくり話をしていたのです」と告白して、リンドナーを愕然《がくぜん》とさせる。
善五郎も、脳の中枢神経機能が完全に成熟、安定する二〇歳ごろまでに、すでにこの夢幻の世界に入っていくことはできなくなっていたのではなかろうか。しかし、自分の話がすっかり近所で評判になってしまったので引っこみがつかなくなり、しばらくは過去の体験に創作をつけ加えて話していたが、そのうちに話の種も尽き、新しい話を考えだすのがしだいにわずらわしくなったので、もっともらしい縁切り話でピリオドを打ったものであろう。縁切り話があまりにできすぎていることに、善五郎の作為を感じるのである。この話は、善五郎の体験談の忠実な聞き書きであるから、このように、善五郎の体験の性質や虚偽の部分を推測することができるのは当然である。
しかし、純然たるフィクションであるウェルズの『幻影の扉』がなぜ、精神医学的にみていささかの矛盾もない真実性をそなえているのであろうか。
ウェルズは『タイムマシン』の作者として知られるように、こうした時間・空間の認識障害には異常な興味を持っており、また、この甘美な夢のような幼児期の体験には、おそらく彼自身の記憶体験が生かされていたものと思われる。このように、精神医学からみても矛盾のない心理的真実性をそなえているのも、名作たる一つの条件ではあるまいか。
第二章 極限状況が生む幻覚
【生理的幻覚2】
1 飢 え
チャップリンの名演
飢えという条件で起こる幻覚をみごとに描いてみせたのは、チャップリンの『黄金狂時代』の一シーンである。
吹雪でアラスカの山小屋に閉じこめられ、空腹に苦しむチャップリンは、自分をおいしそうな七面鳥に見えてくる幻覚に襲われた相棒の猟銃から、何度も逃げ回らなければならない。またこの映画には、革靴を煮てたべるシーンがあるが、これは決して喜劇のうえだけの誇張ではない。ここは毎度ながら、チャップリンの考証の正確なことに舌を巻く思いのさせられる場面である。チャップリンの名場面には、このほかにも飢えの演技がよく出てくるが、これは、彼が孤児の時代に、実際に飢えた体験の裏打ちがあるからであろう。
味覚の変化――
養老の滝の不思議――
山の遭難記をみると、飢餓によって味覚の変化が起こりうることが記されている。「生米《なまごめ》はまずく、草履《ぞうり》が実に美味であった」という体験が実際にあるのである。その一例を、芳野満彦氏の遭難のもよう(春日俊吉『山の遭難譜』―二見書房―から要約)にみてみよう。
昭和二四年一二月一九日、芳野氏は、登山仲間のY氏と八ヶ岳縦走を試みた。
入山二日目から天候は急変したが、二人は強引に進み、三日目に主峰|赤岳《あかだけ》の石室に着く。さらに、吹雪をついて権現岳《ごんげんだけ》への縦走路に向かったが、地形がわからなくなり、赤岳石室にひきかえすことになった。このころからY氏の体力消耗がひどくなり、道に迷ったこともあって、雪中ビバークを余儀なくされる。
そして五日目、Y氏は、「さて、電気コンロをつけてくれないか」、「苦しいよ、背中を」の一声を残して、ついに絶命した。
六日目の朝、芳野氏に、死んだY氏が自分に語りかける幻覚が現れる。Y氏の遺体を処理した後、これからなにをしたものか、さっぱり考えがまとまらないまま、芳野氏は、吹雪の中をあてもなく歩き続ける。途中、道端の銅像を、自分に話しかける人間と錯覚したりする。
やっとルートを発見して石室にたどりついたのは、入山七日目。疲労と空腹は、その極に達していた。
二六日、はじめ曇り、風やや強し。終日の石室ずまいだが、まず朝は飯盒《はんごう》の雪が昨夜のうちに解けていて、黄金の水をひとのみするようにうまかった。石室内の水たまりをすくってやたらと飲む。米はまだすこしあるのだが、米を包んだ袋の紐がどうやっても解けぬ。玉ねぎを食べてみたけれど、ニンニクの腐った匂いがして、とても飲みくだせない。五日間の空腹だ。ミカンの皮を食べてみたが、紙でも食うようでぜんぜんあじがない。一つ奇妙なのは草履《ぞうり》であった。草履のワラをほぐして食う。これはミカンの皮よりも、玉ねぎよりも数等うえのご馳走であった。あっても食べられぬ米の袋を枕にして、八日目の夜を眠る。
二七日、眼がさめる。何者かしきりと、頭の上でガリガリやっている。夢にしても音がたしかである。起きてみて驚いた。枕にして眠った米の袋がやぶけて、米があたりに散らばっているではないか! ネズミであった。おお、こんな石室内でも、ネズミはちゃんと生存するのである。自分のほかに生き物がいるという考えは救い≠ナあった。彼女が、うまくくい破ってくれた生米をかじってみる。すこしもおいしくない。草履のほうがはるかに美味なようである。 (春日俊吉『山の遭難譜』二見書房)
芳野氏は入山一〇日目に、石室に救助にきた人に助けられたが、凍傷のため右足指を切断しなければならなかった。
しかし、丸一〇日間ろくな食糧もなく、一人で生きぬいた旺盛《おうせい》な生命力はちょっと類例がない。それだけに、幻覚、錯覚、判断力低下、方向感覚の喪失《そうしつ》、袋のひもすら解けないという一貫した行動のとれない状態、つまり失行《しつこう》状態などが記録され、また、五日間の空腹による味覚の変化もありありと記録されている。
これを読めば、チャップリンの靴をたべるシーンが、決して絵空ごとでないことが納得されるであろう。
ところで、全国各地に伝わる養老の滝の伝説は、どう説明されるであろうか。さきに芳野氏が、飯盒にとけた雪水が、まるで黄金の水をひと飲みするようにうまかった、と述べているくだりを思いだしていただきたい。
ふだん、自分の食糧をさいてまで父親の酒代にあて、慢性の飢えの状態にあった木樵《きこり》が、道に迷い、空腹でふらふらになって滝つぼにたどりついた。ごくりと飲みほした滝の水が、まるで美酒のようにうまく感じられた飢えによる味覚の変化が、現在の物価からみて途方もなく高価であった清酒を父に飲ませてやりたい、という願望と結びついて、養老の滝の孝行|譚《たん》になったものであろう。
水を、米や酒や金に代えて長者になったという民話は、貧しい庶民の単純な願望の反映として、各地に無数に存在する。水が酒に変わる滝を発見して長者となった「だんぶり長者」の話、『今昔物語』にある「酒仙郷譚」などは、この養老の滝の伝説と同様の民話であろう。
このほかに、慢性の飢えによる精神機能の低下を示す民話として、天明の飢饉《ききん》にまつわるつぎのような東北地方の哀話が残っている。
短絡《たんらく》反応――
ある女乞食の場合――
いまでこそ米が余って困る世の中になったが、生産性も低く、完全な地方分権によって、流通が妨げられていた江戸時代では、ちょっとした飢饉でも餓死者を出した。
なかでも、天候不順が数年にわたって続いた天明の飢饉の惨状はすさまじく、今日にいたるまで、それにまつわる伝説を各地に残している。
つぎにあげる「女|乞食《こじき》」という悲話も、その一つである。
天明年間は飢饉がつづき、空腹をかかえたものが南部|遠野《とおの》城下に流れてきた。その中に三つ四つの子供を連れた女乞食がいた。子供は、なにか食べたい、食べたい、と泣きじゃくった。女乞食はやさしい声で叱った。誰でも腹がへっているのだよ。泣くな、泣くな。
子供はあきらめて黙った。
それからしばらくして、突然、女乞食は子供を抱えると、早瀬川岸に走っていって、石で子供の頭をなぐりつづけた。子供の頭はザクロのように割れて死んだ。女乞食は死骸を川の中へ棄てた。女乞食は川で顔を洗うと、何事もなかったように立ち去っていった。この様子は多くのものたちが見ていたが、あまりに不意のことなので、誰も手出しはできなかったというのだ。
女乞食はまるで別人のように微笑を浮かべて美しい女になっていたそうである。
その後、殺された子供は河童《かつぱ》に化身して、川原で遊んでいたともいう。 (山田野理夫『東北怪談の旅』自由国民社)
私はこの話を読んで、前にこれとまったく同じような記事を読んだことのあるのを思い出した。それは日本民族の体験した最大の悲劇の一つである、沖縄における集団自決の目撃者の手記であった。残念ながら、その手記を探しだすことはできなかったが、それはほぼこういった内容であった。
「そのとき、父親はもう気が狂っていたのでしょう。川原の大きな石をふりかざすと、五つ六つになるわが子の頭をなぐりつけ、ザクロのように割れた頭を、まだ必死になぐり続けているのでした」
石でわが子をなぐり殺すというあまりにも原始的なやり方に強いショックを受けたため、私の脳裏には、そのくだりだけがとくに印象に残っていたのである。その父親は、服毒とか、刃物とか、そのころ軍から自決用に渡されていたという手榴弾《しゆりゆうだん》とかの、もっと楽に死ねる方法を選ぶ余裕がないほど、追いつめられていたのであろうか。
それとも、人間は極限状況におかれると、共通の原始的な行動をとるのであろうか。
「女乞食」の話は、明らかに天明の飢饉《ききん》における遠野《とおの》の里人の目撃談であり、それがとりわけ悲惨なシーンであったので、民話として語りつがれたものである。河童に化身してうんぬんは、事実の悲惨さの救いとして、後からつけ加えられたものであり、事実|譚《たん》から民話への素朴な加工の原型をみることができる。
腹をすかせて泣くがんぜない子の泣き声は、その飢えを満たしてやれぬ母親にとって、身を切られるよりつらい。その女乞食は、飢えに泣くわが子をこのまま苦しませるより、いっそひと思いに殺して楽にしてやろうとの親心から、この惨劇を演じたのであろうか。
いや、それでは、やさしくなだめすかしてやっと泣きやんだのに、突如として子供を石でなぐり殺し、まるでぼろ切れでも捨てるように死骸を川に流し、平然と去ってゆく突発的な矛盾した行動、その別人のように美しい顔に浮かぶ謎の微笑を、どう説明すればよいのであろうか。
精神医学的に説明すれば、やさしい声でなだめすかしたまでが、女乞食の母親としての親心のはたらいた限界点であって、それ以降は、長期の飢えによる極限状況に耐えかねて、プッツリと糸が切れたように女乞食の精神機能は低下して、「泣いてうるさい」→「うるさいから殺す」という短絡行為にでたにすぎないのである。子殺しの後に浮かぶ恍惚《こうこつ》とした微笑は、もはや足手まといがなくなって、これからは自分も少しは楽ができるという、満足の笑みなのである。
このように、個体保存の本能がついに母性愛にうちかって、わが子を見殺しにするという悲劇は、ソ連軍戦車の急追によってソ満国境を逃げまどった邦人の引揚げに際しても、いくつも起こっている。
こうした極限状況におかれた場合の人間の反応は、時代、民族を超えて不変なものであろう。先年、バングラデシュで起きた大飢饉においても、同じような悲劇がいくつかくりかえされたに違いない。
2 集団と個人
白虎隊の悲劇
飯盛山《いいもりやま》を訪れる人の涙をさそう白虎隊の悲劇は、どうして起きたのであろうか。
彼らはあのとき、はたして集団自決する必要があったのであろうか。
彼らは、前夜から降り続く冷たい秋雨《あきさめ》にぬれながらの徹夜の強行軍で、疲労しきっていた。早朝の遭遇《そうぐう》戦で、仲間の半数を失うという敗戦を喫して逃げまどい、本隊との連絡もとれずに状況判断を誤る。鶴ヶ城の後方に上がった煙を落城と錯覚して意気|沮喪《そそう》し、一番手傷の重い仲間の一人の割腹に引きずられて、全員が集団自決をとげたのである。
生死をかけた長時間の死闘では、体力・気力ともに消耗して、判断が悲観的に傾きやすい。とくに自隊が本隊から切り離されて孤立した場合には、確固たる信念をもったリーダーがいない限り、短絡的に死を選びやすいのである。長時間の絶望的な戦闘においては、重囲をくぐって脱出するより、死を選ぶほうがはるかにたやすいことなのである。
白虎隊にはっきりしたリーダーがいなかったこと、彼らが心理的に集団感染を起こしやすい思春期の少年たちばかりで構成されていたことが、「ああ、お城が燃えている」と口走った一人のことばに、だれも疑問をさしはさむことなく、悲劇の道に突き進むことにつながったのである。
このような極限状況における集団の行動が、リーダーの気力によって大きく左右されることは、かつて邦画界の話題をさらった『八甲田山』のなかでも描かれている。
神田大尉が「ああ、天は我を亡ぼした。この上はみんないっしょに死のう」と叫んだとたんに、みなが将棋倒しのようにバタバタ倒れるシーンが印象的であった。生還した徳島隊で、豪雪の中を雪洞に仮泊しながら、「天は自ら救《たす》くるものを救くというぞ、みなそろって生還しようではないか」と部下をはげました徳島大尉とは、あまりにも対照的である。生還と遭難とを分けたのは、リーダーの気力の差だったのである。
湊川の戦いにおける楠|正成《まさしげ》主従の集団自決も、決して退路を十重二十重《とえはたえ》に囲まれての自決ではない。彼らの自決した場所は、会戦の数日後に、偶然のことから発見されている。
正成は湊川《みなとがわ》の出兵には終始反対で、勅命《ちよくめい》によってやむなく戦線におもむいた。彼の献策《けんさく》は愚かな朝臣によって退けられ、首将の新田義貞《につたよしさだ》とは作戦の食い違いがあり、彼は初めから討死するつもりで、絶望的な戦場に出征したのである。そうでなかったならば、乱戦にまぎれて落ちのび、再起をはかることぐらい、ゲリラ戦にたけた彼らにとっては、そう困難なことではなかったはずである。
このように、極限状況が長く続くと、集団の精神機能は低下し、判断が悪くなり、被害的、抑うつ的となって、容易に短絡的な自殺行動に走りがちなことは、九州の奥地に伝わる、紅葉の赤を追手の旗と錯覚して集団自決した、という平家の落人《おちゆうど》の哀話にもみることができる。もっとも、源氏は白旗であるから、筋の通らぬ伝説ではあるのだが。
走水《はしりみず》の海にみずから生贄《いけにえ》となって身を投げた弟橘媛《おとたちばなひめ》の伝説は、どう解釈されるであろうか。
天災を神の祟《たた》りと解釈し、犠牲をささげることで荒ぶる神をなだめるのは、古代人に共通した儀礼であるが、嵐に翻弄《ほんろう》され、みなが疲労|困憊《こんぱい》、絶望の極に達して、いっそひと思いに海に身を投げた方が楽だ、と感じているような極限状態においては、だれかがその行為を代行してくれることによって、集団は再び正常な精神機能をとりもどし、破局をまぬかれるのである。
このように、スケープゴート、生贄《いけにえ》をたてることによって集団の危険を救うのは、無意識のうちに行われてきた人類の知恵であって、これを意識的に利用したのが、ナチのユダヤ人狩りにほかならないのである。
船幽霊と幽霊船
ワキヅレ「いかに武蔵《むさし》殿。この御船にはあやかしが憑《つ》いて候う」
ワキ「あら不思議や海上を見れば、西国にて亡びし平家の一門、各〓浮かみ出でたるぞや。かかる時節を窺《うかが》いて、恨みをなすも理《ことわり》なり」
地「主上を始め奉り一門の月卿雲霞《げつけいうんか》の如く、波に浮かみて見えたるぞや」
後ジテ「そもそもこれは、桓武《かんむ》天皇九代の後胤《こういん》、平の知盛《とももり》、幽霊なり」
シテ「あら珍しやいかに義経。思いもよらぬ浦波の」
地「声をしるべに出船《いでふね》の。声をしるべに出船の」
シテ「知盛が沈みしその有様に」
地「又義経をも海に沈めんと、夕波に浮かめる長刀《なぎなた》取り直し、巴波《ともえ》の紋あたりを払い、潮を蹴立て悪風を吹きかけ、眼もくらみ、心も乱れて、前後を忘ずるばかりなり」
(謡曲『船弁慶』第二段)
船幽霊と呼ばれているものは、ここにあげたように、嵐で難破寸前の状況のときに現れるもののようである。
波静かな暗夜に現れる幽霊船は、ほかに船も出ていないのに、前方に突然現れる。衝突を避けようと旋回してもまた前方に出てくる。こちらが停船して相手の船をじっとみつめると、すうっと消えてしまう。幽霊船は風にさからって走り、灯《ひ》はついているが、その灯は海面にうつらぬことから、それと知れるという。船幽霊には、こちらが気を抜いていると水死した亡者どもが現れて、船の底を抜き、ひしゃくで海水を注ぎ入れて船を沈めてしまうのもいるので、亡者にひしゃくを貸せといわれたときには、ひしゃくの底を抜いて貸さねばならぬ、という伝説がくっついている。
しかし主な現象が、波静かな暗夜の航海の際に、じっと前方を監視している水先案内の水夫の見る感覚遮断性幻覚にすぎぬことは、初めの例にでてくるタクシーの運転手の見た女の幽霊や、化かされ話の「狐《きつね》の松明《たいまつ》」などとまったく同じ性質の幻覚であることから、読者には容易に御理解いただけることと思う。
ワグナーの有名な歌劇『さまよえるオランダ人』に出てくる、真紅の帆をあげ、風にさからって飛ぶように進んでくる幽霊船の伝説も、かつて大航海時代の覇者《はしや》であったオランダ船の水夫の見た、感覚遮断性幻覚にほかならない。これに反して、謡曲『船弁慶』に出てくる、西国《さいごく》落ちの義経の一行が大物ヶ浦で嵐にあい、波頭に現れる平家の怨霊《おんりよう》に悩まされる場面は、難破という極限状態のもとで現れた、集団幻覚で説明されるものなのである。
義経主従は、鎌倉の異母兄、頼朝からの追手におびえる船出であった。船出して間もなく嵐にあい、難破寸前となって、一同は死の恐怖にさらされる。船は木《こ》の葉のように大波にもてあそばれ、必死で浸水をかき出さねばならず、眠ることはおろか、瞬時も休むことも、食事をとることもできない。一行が疲労|困憊《こんぱい》の極に達していたときに、一人が波頭に平家の怨霊が現れたと叫び、たちまちそれが一同に感染したのである。
つまり不眠、空腹、極度の疲労、死の恐怖などの、肉体的、精神的に幻覚の生じやすい共通の条件下で起こった、集団幻覚なのである。この時代の主従は、生きるも死ぬも一緒の、運命共同体ともいうべき強い連帯感で結ばれている集団であること、わずか前に壇の浦で平家一門を殲滅《せんめつ》したという、共通体験をもっていることが、共通の幻覚を起こしやすくしたもう一つの原因である。
また、弟橘媛の伝説にみられるように、上代の日本人は、嵐をなにかの祟《たた》りと考えたものであり、義経一行が逃避行のしょっぱなに災難にみまわれたことを、平家の祟りと結びつけて考えたことは、容易に理解できる心情である。
陸地の幻影
しかし、悪条件が重なると、真昼の鏡のような海でも、集団幻覚が起こるのである。
コロンブスが新大陸を発見してから二五年後、この新大陸の最南端を発見、さらに太平洋を横断して、世界一周の偉業をなしとげたマゼラン隊の船員たちの苦難は、想像を絶するものがあった。彼らが大西洋を横断し、手探りで地理のまったくわからぬ新大陸を南下し、やっとマゼラン海峡を発見したときは、わずか一〇〇トン足らずの木造船の帆はぼろぼろになり、食糧も尽きかけていた。一年半にわたる長旅で疲労しきっている全員の反対を押しきって、西欧人のなんぴともかつて越えたことのない未知の大洋を目指して、マゼラン自身によって皮肉にも「希望の岬《みさき》」と名づけられた岬から、彼は絶望的な航海に乗りだしたのである。
コロンブスの偉業は偉大ではあるが、航海の日数は三〇余日であり、食糧も水も充分で、いつでも引きかえせるだけの余裕のあった点で、マゼラン隊の自殺的な航海とは比較にならない。
希望の岬をたってからすでに一〇〇日余、おだやかな太平洋をただよいながら、状況は悪化の一途をたどっていた。すでに食糧は尽き、船員は争って鼠《ねずみ》をとらえてたべるというありさま。飲料水もすえて悪臭を発し、栄養失調のため一九人が死亡した。残る全員も半病人で、まるで病院船のようであったという。
これはすでに航海というより、遭難というべき状況であった。
全員は水平線のかなたに、食糧と水を供給してくれる陸地の影が現れないかと、目をさらのようにしていた。ボートで海洋を漂流する難破船の乗組員たちは、しばしば水平線上に浮かぶ雲を、陸地の影や、救助船の煙突の煙と錯覚するという。
ツワイクの名筆によると、
……こうなっては、もう人間が船を進めているのではなく、船が人間を乗せて、走っているだけの話。勇ましく礼砲を轟かせて「希望の岬」をのり出した艦隊も、とうとう水にただよう病院になってしまったのである。
いっさいは食物がなくなったせいだった。食料品の倉庫はもうとっくの昔に底をついている。
(中略)
全部で三月と二〇日のあいだ、このただよう病院ははてしない大洋をさまよったのである。もはや進んでいるというよりは、のめりのめり這《は》い出していたというべきであったろう。病人も半病人も、とりつかれたように陸地にあこがれた。だが、もう船ばたに立って、じっと一ヵ所を見つめるだけの元気もなく、甲板のすみっこに横たわって、ぼんやりと目をつぶったまま、陸地の夢を見、幻を追うだけだった。見はりに立った者もつかれきって、ちかちかする目に最後の力をこめながら、陸地の影を追い求めた。ちょうど死にかかった野良犬が、食物をさがして、はいずり廻るように、三隻の船はやせさらばえて、うみのにおいをぷんぷんさせながら、陸地の幻を追っていた。
こういう時に、ぽっかりと黒い影が浮かび上がったらどうだろう。うえきった人たちの空想は、どんな岩山でもたちまちのうちに椰子《やし》の葉がそよぎ、泉のせせらぎが聞えるオアシスにしてしまったことだろう。
ある朝のこと、ついに見張台からけたたましい叫び声が上がった。陸地が見えたというのである。長い長い航海の後に、やっと陸地が見えたというのである。だれもかれも自分の耳を疑ぐった。うめき声が上がり、頬にかすかな血の色がさしてくる。みんな杖にすがり、はいずるようにして甲板に集まった。干竿に吊るされた洗たく物みたいに、ぐったりしていた病人までが、船ばたにはいずって来る。三〇〇の目が粟粒ほどの黒い影にすいよせられた。島だ、まぎれもない島だ! 大急ぎでボートを降した。早くも椰子の実に舌鼓を打ち、泉の水をごくごくと飲んでいるような気がしてくる。大地をしっかりとふみしめたような感じが、湧きあがってくる。だが、なんという罪な人さわがせであろう。だんだん漕ぎよってみると、この島は涼しい木蔭どころか、草一本はえていない無人島だった。いや、島というよりは、海の中につき出た岩のかたまりだった。せっかくつらい役目を買って出たのに、まんまといっぱいくわされた水夫たちは、腹立ちまぎれにこの島を「不幸の島」と名づけた。
こんなことをなんべんとなくくり返しながら、三隻の船は広い広い太平洋を、あてどなくさまよい続けたのである。 (ツワイク『マジェラン航海記』川崎芳隆訳 河出書房)
ツワイクがこの『マジェラン航海記』を書く動機となったのは、彼が宿願の南米航路の豪華船上にあったとき、七日目に彼を襲った、いいようのない焦燥《しようそう》感からであったという。
ゆけどもゆけども広がる青い空と青い大海原、船中行事の愚かしい単調さ、同じ人間の同じ顔、なにより耐えられない平穏無事な生活。もっとさきへ、もっとさきへ! もっと早く! もっと早く! 彼は、この美しい、この快い、この楽しい快速船に激しい敵意さえ感じた、と記しているという。
ツワイクは、たった七日の船旅すら我慢できぬおのれを恥じ、この何十倍もの苦難の航路の日々に耐えたマゼランの伝記を読むことで、立ち直ったという。後年、彼がこの『マジェラン航海記』を書いた動機はそれだけではあるまいが、少なくとも船旅の耐えがたい単調さが直接の動機となっただけに、この部分は感情移入が充分になされて、もっとも感動的な章である。
海は毎日変化する。船も人間生活に必要な広さをもっている。さらに豪華船には、乗客を退屈させないためのプール、テニスコート、バーと、なんでもそろっている。このような充分すぎる条件をもってしても、ツワイクは耐えがたい焦燥《しようそう》感にとらわれたのである。
なぜか。
それは、一見充分すぎるような条件をそなえた豪華船であっても、それにいったん乗りこんでしまえば、航海の終わるまでそこから抜け出すことのできぬ、巨大な鉄の檻《おり》だからである。
戦前、洋行帰りの有為な青年が、波静かなインド洋に飛びこんで謎の自殺をとげる事件が、まま報じられた。夢のように美しい深夜のインド洋には、美声で舟人を誘惑し、死にいざなう海の魔女サイレンのように、人を誘いこむ魔力があるのではないかといわれたが、ツワイクの経験したような耐えがたい焦燥感にかられて、発作的に海に飛びこむケースもあったのではなかろうか。
人間は、広さの大小にかかわらず、拘禁《こうきん》的な環境におかれると精神の変調を来す。また、リンデマンの体験のように、海は一見変化があるようでも、単調な変化が毎日くりかえされると、感覚遮断効果となって幻覚が生じやすくなる。
マゼラン隊の船員には、これにさらに飢えというマイナスの条件が加わってくる。
食糧が手に入らなくなると、人間は皮下脂肪をエネルギーにかえて生きのびるが、このとき、基礎代謝もふだんの一七五〇カロリーから一二〇〇カロリーに下がるという。これをもとに試算すると、六七日が、食糧が切れてから生存できる限界である。マゼラン隊の船員たちは希望の岬をたつときにすでに低栄養状態にあり、一ヵ月後にはまったく食糧が切れているから、この限界線のすれすれのところにいたわけで、もう一週間フィリピンに漂着するのが遅れていたら、おそらく全員が餓死していたであろう。
「ギネス・ブック」によると、人間は水さえあれば食事なしでも一ヵ月は生きられるが、その水がなければせいぜい一週間で、一九七七年のルーマニア大地震で建物の下敷きになった一九歳の青年の一〇日半が最長記録とされていた。
食も水もないのを「絶対飢餓」、水だけあるのを「完全飢餓」というが、最近になって両者の最長記録が次々と書き替えられた。
飢餓の連続記録としてはイギリスのある刑務所でハンガーストライキが七五日間続いた記録があるが、「米糞上人」の説話のように完全飢餓であった証明はない。
この点、富士山麓小山町須走の無人の山小屋に迷い込んだ四九歳の男性が雪だけ食べて四〇日目の昭和六一年四月二九日に救出されたのは完全飢餓の最長記録といえよう。この間五三キロあった体重が一二キロと約四分の一減少しただけで、三週間後には完全に回復して退院している。
水すらない絶対飢餓の事例としては、昭和五四年四月一日からオーストリアのブレゲンツ市警の地下の留置場に入れ忘れられた一八歳の青年が、この間自分の小便までのみ、ジーパンの皮のラベルを食べて一八日後に救出されている。七八キロあった体重は五四キロに、つまり前の体重の約三割が減少している。さらに本年になってヨットが難破し救命ボートで大西洋を漂流中の三四歳のフランス人の男性が、五七日目に救助されている。水代りに髭剃《ひげそ》り用ローションまで飲みつくす極限状況で六二歳のパートナーは漂流五〇日目に死亡している。七三キロあった彼の体重は救出時半分以下の三五キロにまで減少しているので、これが人間生存の限界であろう。
断食の際の幻覚としては、釈迦の降魔の幻覚が有名であるが、凡人では食物の幻覚をみることが多いという。
オーストリアの青年の前には好物のベーコンエッグや、なみなみと水の入ったコップの並んだテーブルの幻覚が現れ、とろうとして蹴つまずくとたちまち消失した。また、イースターのとき家族でウサギの丸焼をかこんでいる幻覚、モモやナシ、ブドウを盛った果物籠が現れ、そのたびに唾液も出ないほどふくれ上がった口の中はカミソリで切られるように痛み、腹が鳴って激痛が走るという生理的反応をともなった。
富士の山小屋の事例では、しきりに食物の夢、とくに好物のソバが目の前にちらついて離れなかったと述べている。
マゼラン隊の船員の見た陸地の幻覚は、すなわち食糧、飲料水そのものであろう。また、いつも揺れる乗物に乗っていると、がっしりと揺るがぬ大地を、しっかりと踏みしめたくなる。さらに船員たちにとって、上陸することは、狭い船から解放されて、自由にどこへでもいき、長い船旅で抑圧されていた欲望、――酒、女を満足させることを含んでいる。
しかしマゼラン自身の見た島影だけは、船員たちの生理的欲求、低次元の欲望の充足とは違って、人類のだれもがなしとげることのできなかった西回りの航路で、世界一周の目的地である香料の島「緑の島」にたどりつくという、魔神的偉業をなしとげたあかしであったのである。
部下の船員たちの見たおいしそうな椰子《やし》の茂る島影とは違い、マゼランの目に映ったのは、おのが身を灼《や》き、ついにおのが身を滅ぼした魔神的なおのが願望の幻影であったのである。
山の遭難――
幻覚は伝染する――
同じような集団幻覚は、また、山の遭難に際してもみられる。
最近は、登山用具、技術の進歩によって、世界に未登頂の山はほとんどなくなったが、アルプスのマッターホルンはかつては長い間人間の登頂を拒み続け、ふもとの人々からは、頂上に悪魔のすむ魔の山と畏《おそ》れられていた。
ウィンパー隊は、期せずして初登頂を競うことになったイタリア隊にせりかって、難行の末についに、マッターホルンの頂上に立つことができた。
悲劇はその帰途に起こった。一行の一人が足を滑らせて、数人がそれに巻きこまれた。上の者たちは懸命に足を踏ん張って持場を確保し、転落を食い止めようとしたが、無情にもザイルが途中から切れて、隊員の半数をたちまちに失ったのである。勝利の栄光から奈落の底に突き落とされて茫然《ぼうぜん》としている一行のうちのだれかが、あれを見よと空を指さした。虚空には大きなアーチがかかり、その中に二つの大きな十字架が、雲の上にはっきり見えたのである。
これもまた、心身ともに疲労のピークにあった帰途、輝かしい勝利の栄光から一転して仲間の半数を失うというショック、魔の山に対する潜在的な畏怖《いふ》などが重なり、隊員の一人の幻覚が引き金となって、集団幻覚を起こしたのである。
はっきり見えた人もあったろうし、またあとで心理的加工が行われて、見えたような気がするという程度の人もあったであろう。この場合、自分一人だけが見えなかったというのは、仲間に対する情が薄いと思われはしないかという心理がはたらくので、いいにくいことである。
この幻覚の感染については、精神病理学の権威で、当時南山大学の教授であった荻野恒一氏によって、昭和三七年の西穂高における南山大学パーティー遭難のもようが、精神病理学的に詳細に報告されているので、その要点だけをまとめてみよう。
南山大学山岳部の冬山合宿は、昭和三六年末から綿密な計画のもとに進められていたが、折悪《おりあ》しく、年末から正月の四日まで続いた悪天候に悩まされた。
五日になって、やっと快晴になったので、部員四人は奥穂高を目指したが、途中でまたも天候が急変したために、ベースキャンプIIにもどった。
七日に再び天候が回復したので、このベースキャンプIIを撤収して、ベースキャンプIまでもどる途中で、部員の一人のK君が雪庇《せつぴ》とともに転落してしまった。応援にかけつけた一人を加えて残った四人は、八日一日中、K君救出のため懸命にかけずり回ったが成功せず、あきらめていったん中崎山荘に引き揚げることになった。しかし、一同が疲労の極に達していたため、ラッセルしてあればわずか二時間半の行程のところを、積雪二メートルの新雪に悩まされたこともあって、なんと二泊三日を要し、危うく二重遭難をひき起こすところであった。
このときリーダーのW君を除く残りの三名に幻覚が現れ、相互に影響しあったという。
幻覚の一番ひどかったのはH君で、暗くなり始めたことから、山笹《やまざさ》が死体に見え、ついで樹木の間に棺桶《かんおけ》が立てかけてあるのが見え、さらに山の中腹にたくさんの家が見えてきた。橋のところにくると、先頭をいくリーダーのW君がリフトに乗っていくように見え、そのリフトのさきに旅館が見えたという。N君はこのH君に影響を受け、H君が棺桶が見えるといったときまでは、まだ批判することができたが、いろんな家が見えるとH君がいいだすころは、N君にもお菓子の家が見え、自分でも「家が逃げるから見張ってくれ」と叫んでしまう。またH君にリフトが見えるといわれると、ほんとうに見えてきたという。O君は、H君が死体置場が見えるといいだしたところまでは批判することができた。しかしそのうちに、O君自身、橋が曲がって見え、さらにその橋の向こうにありもしない丘が見えだし、ビバークの穴を掘っているときには、店屋の看板をかかげた家が見えてきた。おかしいと思ってよくみると、その家は消えたので、自分はとても疲れているんだなと思って、そのまま眠ったという。 (荻野恒一『文明と狂気』―講談社―から要約)
しかし、リーダーのW君は終始冷静で、みなの幻覚に批判を保ち、O君まで家が動くといいだした時点で、みな極度に疲労していると判断してビバークを決定するなど、適切な処置をとっている。
その後昭和三八年、薬師岳において、部員一三人全員が信じられないような異常なコースをとってつぎつぎに遭難死する、といういわゆる愛知大学山岳部大量遭難事件が起こったが、これなどはおそらく、リーダー自身が幻覚を起こしたか、あるいは他人の幻覚に巻きこまれて判断を誤ったための大量遭難と考えられる。
3 寒冷地獄と焦熱地獄
雪女の幻想
しかし、凍死のもっとも純粋で美しい幻覚は、ハーンの「雪女」の幻覚であろう。
私は長い間、この妖《あや》しくも美しい物語の舞台を、てっきり雪深い山陰地方の木樵《きこり》小屋のように錯覚していた。この本を書くにあたって『怪談』を読み直してみて、それが、私が一〇年もの間住んでいた調布で採録された話であることを、うかつにも初めて知ったのである。
誤解の原因は、冬でも比較的暖かな多摩河原の印象と、吹雪・凍死というイメージが、どうも結びつきにくいためであったろう。しかし暖冬が続いている昭和後半とは違って、元禄の赤穂浪士の討入りの日の大雪の記録もあるように、物語の設定されている江戸時代の多摩地方の冬はそうとうに寒く、ときには凍死者も出るような吹雪の日もあったことであろう。
さらに、巳之吉《みのきち》らの遭難した船頭小屋の貧弱な構造を知って、私は、多摩河原でも凍死する可能性のあることを充分に納得する機会をもった。というのは、この物語の舞台となった船頭小屋の実物を、今日でも幸いこの目で見ることができるからである。
小田急線の向ヶ丘遊園の近くに、民家園という川崎市営の公園がある。飛騨の合掌造《がつしようづく》りとか、東北の農家など、各地のさまざまな旧家を解体してきて、生田緑地の地形に巧みにアレンジして再現したもので、子供たちの社会科の絶好な教材として、見学者が多い。そのコースの終わりの方に、まるでおまけのように、多摩川岸の菅《すげ》というところにあったという船頭小屋が、そっと置かれている。
写真でわかるように、それは小屋というより、雨戸と障子《しようじ》とを裏表にして、その横を戸板でとめただけの、貧弱で狭い代物である。ハーンの描写とは違って、小屋の中には小さないろりがきってある。いろりというより、船頭たちのきせるたばこの火種入れ、といった方がより正確であろうか。
菅とは川崎市側の渡し場であるから、対岸に住む巳之吉らが、もどり船がなくて遭難した船頭小屋も同じようなものと考えてよいだろう。
ハーンはこの船頭小屋を実際に見る機会がなかったから、物語では、小屋はもう少し広く書かれ、まるで山小屋のような印象を与える。しかしこの小屋を見ると、巳之吉と、凍死した茂作《もさく》じいは、まるで抱き合うようにして寝るほかはない狭さである。薄っぺらな雨戸、破れ障子、がたがたの羽目板の囲いでは、保温作用はまったく期待できそうもなく、これでは、吹雪の中に吹きさらしでいるのと変わりがない。
吹雪に慣れた雪国の人であったら、多摩川の土手に雪洞でも掘って、凍死を免れたことであろうが、雪に慣れぬ武州人の巳之吉たちは、名ばかりの小屋にまどわされて、吹きさらし同然の船頭小屋で仮眠したため、体力の弱い茂作老人はついに凍死してしまったのである。
雪女の幻影は、凍死寸前の耐えがたい睡魔に襲われた巳之吉が寝入りばなに見る妖《あや》しい幻覚であり、マッチ売りの少女の幻覚と同じ性質のものである。よく睡魔に負けて眠りこむと、そのまま凍死するようにいわれているが、芳野満彦氏の手記のように、眠りこんでも助かるものがまれならずあり、そのときの生体側の状態、環境条件の微妙な差などによって、再び帰らぬ永遠の眠りと生とに分かれるのである。
雪女と並んで、凍死の際の幻覚を扱ったもう一つの名作は、いうまでもなくアンデルセンの童話『マッチ売りの少女』であろう。
北欧の冬の寒空に、凍死寸前の哀れな少女は、つかの間の暖をとろうとすった淡いマッチの炎の中に、まず石炭で真っ赤に熱せられたぴかぴかのストーブの幻影を見、ついでおいしそうなクリスマスの七面鳥の幻影が現れ、最後に自分を可愛がってくれた祖母の幻影を見る。
この幻覚の現れる順序というものは、まったく個体の欲求の心理学の原則に従っていて、精神医学的に間然《かんぜん》するところなく、いつも感心しているところである。雪女の物語は、ハーンが当時の西多摩郡で採録したものであるから、江戸時代の遭難の実話がもとになっている。多摩河原で凍死する可能性については私が実証した。このようにフィクションであっても、古今の名作といわれるものは、精神医学的な解析に充分耐えるものであり、前にも述べたように、このこともまた、名作たる一つの条件であろう。
さて、日本に古くからある異類妻《いるいづま》の民話からの再話小説である「雪女」が、なぜかくも私の心をひくのであろうか。私はこの「雪女」の中に、幼少時に離別した母親に対する、ハーンの思慕の影をみるのである。
英国海軍の軍医であったハーンの父親は、当時、英国と植民地的関係にあったギリシアのイオニア島で、ハーンの母親と熱烈な恋愛におちいり、怒った母方の兄弟に襲われて重傷を負うといった周囲の猛反対を押し切って結婚し、新妻を故郷のダブリンに連れて帰った。
しかし妻が姑《しゆうと》と不和になると、ハーンの父親は弊履《へいり》のように妻を捨て、富裕なある未亡人と再婚してしまうのである。ハーンはこの無責任な父親から、大伯母にあずけられて養育されることになる。
ハーンの幼《おさな》心の中には、別れた母親への思慕と同情、母と自分を捨てた父親への恨みが培われていったことであろう。ハーンは大伯母の破産後、アメリカに渡り、新聞記者としてシンシナティ時代を送るが、そこで黒人との混血の女性と恋愛問題を起こし、現在では想像もつかぬほど人種間の差別のひどかった周囲の非難にいたたまれず、ニューオーリンズに去るのである。
あこがれの東洋にきてから、日本人のしかも離婚歴のある女性と結婚したのも、ハーンのエディプス・コンプレックス(男の子が無意識に、同性の父を憎み、母の愛を求める心理)の行動面への現れと考えられる。
雪女は初め、明らかに母親ぐらいの年上の女性として、巳之吉《みのきち》の前に現れる。私のことは決しておまえの母親に話してはならぬというくだりは、ハーンが幼少時に見聞きした嫁姑の葛藤《かつとう》を反映した部分として、おもしろい。そしてメルヘンの世界で、あざやかに生娘《きむすめ》にすり替わって、巳之吉の前に姿を現すのである。思わず誓いを破った巳之吉を責める雪女のこわさ――ハーンの物語に登場する女性は、優しさの裏にどこかこわさを秘めているが――には、明らかに、無情にも自分たちを捨てた父親に対する、ハーン母子の怒りがこめられている。
西多摩郡のありふれた異類妻の民話を、世界的な文芸作品にまでたかめたものは、短い行間に秘められた、ハーンのエディプス・コンプレックスの昇華によるものなのである。
オアシスの幻影
一度踏みこんだら生きてはもどれぬ、という不毛の大砂漠は、幾多の伝説を生んだ。タクラマカンの大砂漠の中には、流砂《りゆうさ》に埋没した大都市があり、金銀の財宝が隠されているが、それを持ち出そうとした隊商は、砂漠の妖霊によって永久に流砂に閉じこめられて、生きてはもどれぬといういい伝えを、一九世紀の探検家スウェン・ヘディンが訪れたころの地元民たちは、本気で信じていたようである。
また、黄金の都チンブクツを目指して、サハラ砂漠を越えられずに倒れた、一九世紀のアフリカ探検家たちの話も有名である。砂漠の旅行者たちは、自分の名を呼ぶ声を聞くが、その声を追って進むと道に迷い、ついに渇《かわ》きに死ぬとか、行く手に満々たる水をたたえたオアシスが見えるので追いかけると、ふっと消えてどこまでも追いつけず、体力尽きて死亡する、などというものが多い。
広大なロブ・ノールの砂漠について、マルコ・ポーロもつぎのように記しているという。
しかしながらこの砂漠に関して、きわめて不思議なことがある。
それは旅行者が夜旅行し、仲間と離れ、あるいは眠り、あるいはこれと類似の状態となった後、ふたたび仲間を見つけようと試みるときには、悪霊の話し声が聞え、それを仲間の声と思いこんでしまう。ときに悪霊は名前を呼ぶので、つい迷わされてしまい、ふたたび仲間の一行を見出すことが出来なくなる。こうして幾多の人が命を落している。 (『現代世界ノンフィクション全集』(1)「中央アジア探検記」岩村忍訳 筑摩書房)
このマルコ・ポーロの記述は、夜間の、どこを見ても同じような砂丘ばかりという地形からくる、感覚遮断、方向感覚障害で説明できる。
しかし砂漠の幻覚には、日中の熱砂で摂氏五〇度近く気温が上がり、夜は氷点近くまで下がるという極限的な環境による脳温の上昇に、脱水、飢えによる精神症状などが複雑に入り交じっている。
一般に、脳温が摂氏三四度以下になると凍死寸前の幻覚が起こり、反対に四〇度以上になっても幻覚が起こってくる。抗生物質などなかったころに子供時代をすごした年代の人には、熱にうかされて、「どこか花の咲き乱れた野原で遊んでいると、川の向こう岸でみなが自分を呼んでいる。川を渡りかけると、必死で呼びもどす母の声が聞こえて、気がついた。頭の上には心配そうな母の顔があり、まる三日間も意識不明の重体であったと聞かされた」などという体験の持ち主は珍しくない。これらの幻覚は、脳温の上昇にもとづく熱性せんもうと呼ばれるものであり、高熱消耗性疾患の代表であった腸チフスは、とくに熱性せんもうを来《きた》しやすいことで有名であった。
探検家ヘディンは、案内人の不手際から水を切らし、道に迷って九死に一生を得、助かったときには、一〇分間で三リットルの水を飲み干すという記録をつくったが、つぎの手記は、不充分ながらまだ飲料水のあるときであるから、幻覚の主因は、彼自身の測定で摂氏四六度に達したという砂漠の猛暑による脳温の上昇にある、と考えてよいであろう。
正午に至って私は疲労と渇きでほとんど気を失わんばかりになった。太陽はあたかも熔鉱炉のごとく頭上に輝いていた。強い光線は真正面に照りつけ、文字どおり私は一歩も前進することはできなくなった。私の道づれになってきた一匹の蛾《が》は勢よく私の周囲をめぐり、あたかも私を醒《さ》めしめ、「もうほんの少しばかりだ」とささやき、「さあ次の砂丘の頂上まで」といっているようであった。それは「もう千歩、それだけコータン河《ダリヤ》により近く――ロブ・ノールに注ぐ新鮮な水の溢《あふ》れる場所により近く――そして生命と青春の唄を歌いながら踊っているあの流れ、生命の泉の流れにより近く――なるのだ」とささやいているように聞こえるのであった。私は敢然《かんぜん》千歩を進み砂丘の頂上に背を下に倒れ、私の白い帽子を枕に仰向けに寝ころんだ。真上の灼熱《しやくねつ》の太陽、急げ、西へ、西へ、地平線の彼方へ没せよ。そして彼方の氷にとざされた父なる山の氷雪を溶かせ、しかしてその鋼《はがね》のごとき青い氷河から流れ出でその山腹を泡を立てて流れくだる冷たい水晶のごとき水の一杯を我にあたえよ。
私は一三キロを歩いたのであった。休息はまったく快かった。私は一種の知覚麻痺状態に陥りわれわれの地位の深刻さを忘却してしまった。私はあたかも冷やかなエメラルド色の草の上に横になり、上には葉の繁った銀色の白楊樹が拡がり、そよかな微風がそのゆらぐ青葉の間をささやいて通っているかのように夢みていたのである。私は夢幻のうちに、白楊樹の根元を洗う湖水のさざなみが憂愁《メランコリツク》な音調を響かせているのを聞いた。鳥は樹の梢で歌を――私にはわからない神秘な意味を持つ歌を――さえずっていた。美しき夢よ。私は喜んでこの幻影の中に私の魂を溶けこませることを続けたかった。しかし悲しいかな、葬列の鈴の空虚《うつろ》な響きが私の魂をこの忌《い》まわしい砂漠の陰惨な現実に呼びかえしたのであった。起きあがったが頭は鉛のごとく重い。眼は永遠に黄色の砂に反射する光線で眩《めまい》するばかりであった。 (『現代世界ノンフィクション全集』(1)「中央アジア探検記」岩村忍訳 筑摩書房)
長時間の炎天下の行軍、マラソンなどでは熱射病を起こす。頭痛、めまい、無欲状態などの程度の軽い熱疲労から、さらに進むと発汗は突然止まり、脈搏は初め強く、後弱くなり、嘔吐《おうと》が起こり、体温は極度に上昇し、ついには昏睡におちいって死亡する。
ヘディンの幻覚は、明らかに熱射病による夢幻状態である。すなわち、真上から頭部を照らす真昼の太陽の直射、下から熱砂のもたらす輻射《ふくしや》熱とによって、ヘディンの脳温は上昇し、まとわりつく蛾《が》の羽音が、自分にささやきかける声に聞こえるという機能的幻聴が起こり、まるでフライパンの上にいるような砂丘に倒れながら、氷河を溶かして流れる川辺の森蔭に憩《いこ》っているような、妖《あや》しい夢幻状態におちいっていたのである。
これから五日後、まったく水も食糧も尽き、砂漠の船と呼ばれるラクダすらみな倒れてしまう。ついに体力の弱い老人の従者は、朝から精神錯乱を起こし、つねに水を求めてうわごとをいい、あげくに一人で笑ったり、しゃべったり、手で砂をすくい上げては指の間からこぼしたりした、とヘディンは記録している。哀れな老人は、オアシスにたどりついて、水を手ですくい上げている幻覚にとらわれていたのであろう。
これからさらに五日、ヘディンは乾燥して枯木のようになった手、羊皮紙《ようひし》のようにかさかさな皮膚、口中ひび割れて舌には深いしわができるという極度の脱水状態にありながら、ついに生命の水を発見し、一〇分間に三リットルの水を飲み干したという。いかなるときにも冷静なヘディンは、驚くべきことに、水を飲む前に、まず自分の脈をはかり、四九あったと記録している。
急性脱水の症状としては、皮膚粘膜の極度の乾燥に加え、血液の濃縮によって循環血液量が減少して、脈は速く浅くなり、神経系は変調を来して末期には錯乱状態になる。体力の弱い老人の呈したせんもうは、おそらく脱水による症状であろう。また、この時期になお、脈は平常よりも遅かったヘディンの強靭《きようじん》な体力には、驚かざるをえない。
地平線のかなたに現れて、ゆけどもゆけどもたどりつけぬオアシスの幻影は、熱せられた空気の屈折による、砂漠の蜃気楼《しんきろう》であると説明されてきたが、ヘディンの精密な記録を読むと、これが脳温の上昇、脱水、飢えなどの極限状況におかれた人間の、水に対する灼《や》けるような渇仰《かつごう》による幻覚でもあることが、よくわかるであろう。
第三章 幽霊はなぜ丑満刻に出るか
【境界領域における幻覚】
1 睡眠と幻覚
ある調査によると、イギリス人ほど幽霊好きな国民はないという。
一八九四年に、イギリスでは調査委員会までできて、幽霊に関するアンケート調査が行われ、一万七二〇〇人がこれに回答を寄せている。
幽霊に会ったことがあると回答した二二七二人中の、一六五二人の体験が信頼できるものと認定された。このうち、幽霊を目で見たもの(幻視)一一二〇、耳で聞いたもの(幻聴)三八八、幽霊につねられたり、撫《な》でられたり、髪の毛を引っ張られたりしたもの(幻触)一四四であったというから、圧倒的に幻視体験が多いことがわかる。
さらに、幽霊が好んで出現する場所、時間については、夜ベッドに入っているときに現れたものが四二三例、昼間起きているときに、家の中で現れたものが四三八例、戸外で現れたものが二〇一例であったという。
私はこれを読んで、覚醒《かくせい》時に室内で現れたものが存外に多いのが意外であったが、これは、当時明るい照明もなく、建物も採光の悪い古いれんが造りの家であったことを、考慮に入れる必要があるのではあるまいか。昼なおほの暗い古いれんが造りの建物には、不思議な反響現象があり、遠く離れた部屋の物音が、とんでもないところではっきり聞こえたりすることがある。
ポーの傑作の一つである『アッシャー家の崩壊』で、主人公を悩ます不気味な物音は、当時のこの古い家屋の構造を抜きにしては考えられないことである。
これらを考慮に入れると、幽霊が好んで現れるのは、夜ベッドで――つまり入眠直前が多いことがわかる。
巷《ちまた》の、開《あ》かずの間に泊まると必ずうなされる、幽霊が出るなどという怪談の多くは、この入眠時幻覚なのである。寝こみに恐ろしい化物に襲われた、毛むくじゃらの獣に食われそうになった、あるいはナイフが天井から胸の上に突きささってくるので、払いのけようともがくが、体が金縛りになったように動かず、夢中でもがいているうちに、冷汗をびっしょりかいて目がさめた、というような体験がもっとも多い。
土佐の化物に「山地々《やまじじ》」なるものがあり、人の寝こみを襲って人の呼吸を吸う。吸われた人は死ぬが、吸われるところをだれかに見られた人は反対に長生きするとあって、大きな猪《いのしし》のような獣が、寝ている人の胸の上にのしかかっている絵まである。これこそ、入眠時幻覚が妖怪にされたものにほかならない。
食人鬼
この入眠時幻覚を扱って、文芸上優れた作品は、ハーンの「食人鬼」であろう。「食人鬼」は『雨月物語』の「青頭巾《あおずきん》」の再話小説であるとされているが、上田秋成の原作にある、男色の対象であった愛童の屍肉《しにく》をむさぼり食らうというわずらわしい説明が省略されていて、かえって効果をたかめている。
夢窓《むそう》という大徳の僧は、化物が出るからとしきりにとめる村人をふりきって、ただ一人死人のお通夜をすることになった。
やがて、一同が家を出ていったので、夢窓はただひとり、亡骸《なきがら》のおいてある部屋へいってみた。遺骸のまえには、どこでも見かけるような供物がそなえてある。そして、小さな灯明が燃えている。夢窓は経を誦《ず》して、引導《いんどう》の偈《げ》を了《りよう》した。それをすましてから、黙想にはいった。三昧《さんまい》に入りながら、黙然として幾時かそのままじっと坐っていた。人の出払ってしまった村のなかは、物音ひとつしない。すると、夜の静寂がもっとも深くなったころである。いきなり、大きな、形のはっきりせぬ、朦朧《もうろう》としたものが、音もたてずに家のなかへすっとはいってきた。と思ったその刹那《せつな》、夢窓は、きゅうに五体が金縛りにあったようになって、口がきけなくなってしまった。見ているうちに、その大きな、おぼろげなものが、死骸をもろ手にかかえ上げたと思うと、たちまちそれにかぶりついて、猫が鼠《ねずみ》を食らうよりも早く、がりがりと音をたてて、むさぼり食らいだした。まず死骸の頭からはじめて、髪の毛から、骨から、経帷子《きようかたびら》まで食らうのである。さて、死骸を食らいつくしてしまうと、怪しいものは、こんどは供物《くもつ》の方に向きなおって、それも食らいつくした。それから、はいってきたときと同じように、音もたてずに、いずくへともなく立ち去っていった。 (ハーン『怪談』平井呈一訳 岩波文庫)
すなわち、夢窓が三昧《さんまい》に入り夜もふけたころ、あやしい影を見るが、五体が金縛りにあったように声も出ないというところが、まさに入眠時幻覚の特徴をよくあらわしているのである。
夢窓の、頭はさめているのに体が動かぬという現象は、脳幹網様体《のうかんもうようたい》の機能や、ポリグラフ(同時記録器)による睡眠の研究が進むまでは、脳睡眠と体睡眠のずれとして説明されていた。脳幹網様体とは、マグンによって初めてその機能が解明された、脳幹に位置する神経系である。人間が目覚めて清明な意識状態を保っていられるのは、この脳幹網様体|上行《じようこう》システムのはたらきによるのである。
図(電子文庫版では略した)のように、視覚、聴覚などの判別性感覚神経路を上行する信号(破線)が、直接大脳皮質を刺激して大脳全体を覚醒状態に保つのでなく、脳幹網様体から大脳皮質全体に投射している別の上行システム(汎性《はんせい》投射系)が、大脳皮質活動の全体に活力を与え、意識の水準をさめた状態に保たせるという仕組みになっているのである。
したがって、この網様体の活動が弱まってくると、意識水準が下がって睡眠に移行し、網様体の活動が停止すると昏睡《こんすい》におちいる。交通事故などによる植物人間の中には、この網様体の損傷によると考えられるケースも含まれている。網様体にはこの上行システムのほかに、筋肉の緊張力を維持する下行《かこう》システムがあり、この下行システムの機能が損なわれると、動物は筋肉の緊張を失って、腰が抜けたように動けなくなる。
おもしろいことには、この脳幹網様体の故障と考えられている、ナルコレプシーという不思議な病気が存在するのである。患者は昼間たえず襲ってくる眠気に悩まされ、電車の吊皮にぶら下がったまま寝こんでしまうものまであり、周囲からは怠け者と誤解されている場合が多い。
私の患者さんは税務署員であったが、抵抗しがたい眠気のために、上司の前であろうが、必死で弁明に努める納税者の前であろうが、つい居眠りをしてしまい、どんなに説明しても相手に理解してもらえず、四〇歳もすぎているのに役職につけなかった。また彼には、新宿駅のホームで旧友に再会して、懐かしいという感情がこみ上げた途端に、腰が抜けてクタクタとホームに座りこんでしまうという発作があったが、ナルコレプシーのもう一つの症状に、情動性筋張力失調発作(カタプレキシー)といって、このように笑ったり、びっくりするなどの感情の変動が起こった途端に、急に腰が抜けたように座りこんでしまう発作があるのである。これは筋肉の緊張力に関係のある脳幹網様体下行システムの障害によるもので、前述の抵抗しがたい眠気は、もちろん上行システムの障害によるものである。
このほかナルコレプシーの患者は、夜間における睡眠が損なわれ、入眠時幻覚を伴うことが多く、その入眠時幻覚は真性幻覚に近く、内容も、不安、恐怖に満ちたものが多いといわれる。
ある別の患者さんは、一三年前の恐怖の金縛り体験を昨夜のことのように生々しく述べた。
夏カゼをひいたので縁側近くに床をとってうとうとしたときであった。皓皓《こうこう》たる月夜であったのに突然あたりが暗くなってきた。おかしいなと思っていると妙に生暖かい風が吹いてきて、天井のらん間のあたりに郷里にいるはずの母親の首が現れた。その首が生臭い風とともに自分に向ってくる。避けようとするが体は鉛のように重くビクとも動かせない。首はつい鼻先まで迫ってきて、母の鼻息までかかってくる。「盆には帰っておいで」と母親の首が言った。
金縛りがとけた途端にまた満月の光がもどってきた。
恐怖の幻覚は大体同じパターンで、ナルコレプシーが治るまでの八年間続いた。
床につくとあたりが突然暗くなり、生暖かい風が吹き、夏でもゾッと肌寒くなる。そして何者かが廊下から障子や戸をあけて入ってくる物音がして自分の枕もとに座るが顔はわからない。戸や障子は実際には開かないのだが、確かにギーッと戸のあく音、障子のサーッとあく音、トントンと廊下を歩く足音がするのである。その間は金縛りにあったように体がまったく動かないというものである。
ここで前章とも関係があるので、睡眠に関する研究の最近の知見を、ざっと説明しておこう。
脳波は睡眠の深さによって微妙に変化し、深睡眠期には徐波《じよは》が多いが、明け方になると、脳波はまるで覚醒時のような波型を示すのに、当人はぐっすり熟睡している時期のあることが早くから知られていて、ブレイクはこれを零期《ゼロき》と命名したが、当時はあまり学問的に注意をひかなかった。
その後、脳波と同時に、心電図、筋電図、呼吸曲線、皮膚電気反射(G・S・R)、血圧、眼球運動などを連続記録するポリグラフの技術が発達し、これによって睡眠のリズムを分析する終夜睡眠の研究が盛んになると、この零期に重大な意義のあることが明らかになってきた。
睡眠研究の権威であるクライトマン教授の、大学院の学生であったアセリンスキーは、赤ん坊のまばたきの回数と睡眠深度との関連を調べているうちに、まぶたが盛んに動くときは体も盛んに動き、まぶたが動かないときは体も動かないことに気づいた。これに興味を抱いた彼は、成人ではどうであろうかと、眼球運動記録装置を工夫して睡眠深度との関連を追求し、ついにブレイクの零期に限って、両眼が対称的な急激な運動をすることを発見した。
この急激な眼球運動(Rapid Eye Movement)の頭文字をとったREM(レム)期が、零期、賦活《ふかつ》睡眠期、逆説睡眠期など、さまざまに呼ばれたこの特殊な睡眠期の正式な名称となり、以後、睡眠はレム期とノン・レム期の二つに分けて論じられるようになった。
レム期が注目を集めた理由は、レム期には筋緊張が落ち、心臓の鼓動がたかまり、呼吸曲線が乱れるなどの、複雑な自律神経系の変化が起こり、脳と体の睡眠の乖離《かいり》した時期であることと、この期に被験者を起こしてみると、夢を見ているものが多いことが知られてきたからである。アセリンスキーの発見は、いわば夢の研究に生理学的な手がかりを与えたことになり、夢のポリグラフが盛んに研究された。
このころ、眼球が水平運動している被験者を起こして質問したら、ちょうど卓球の試合の夢を見ているところであり、上下運動を起こしているものに質問したら、はしごをよく見ながら昇っていくところであると答えたなどという、まるで落語のような話が、学会で真剣に討議された時期もあった。
しかしその後、ノン・レム期にもかなりのパーセンテージで夢のあることもわかってきた。
またフィッシャーは、陰茎勃起《いんけいぼつき》がこのレム期と一致して起こることを証明した。俗にモルゲン・エレクチオンと呼ばれているこの現象は、それまでは、満タンになった膀胱《ぼうこう》からの刺激によって起こるものだと考えられていたが、フィッシャーのポリグラフを用いた研究によると、睡眠中の陰茎の勃起は、膀胱内圧の変化とはまったく無関係であり、レム期と完全に一致して起こる。つまり心電図や呼吸曲線の変化とまったく同じ性質の、自律神経系の変化の一つにすぎないことが証明されたのである。
第一章の「浅茅ヶ宿」で、旅人が明け方に生々しい性夢を見て目ざめるのは、このような理由によるものであることが、おわかりになったであろう。明け方の睡眠にはレム期が多くなり、陰茎の勃起を伴うので、陰茎の充血による内臓感覚の刺激が大脳に反映して、生々しい性夢を見、脳睡眠のもっとも浅くなったレム期を通過して目ざめるのである。
図(電子文庫版では略した)はナルコレプシーの患者さんと正常人との終夜睡眠を、睡眠深度のヒストグラムによって比較したものである。正常人の睡眠では、いったん深度四の深睡眠に達してからしかレム期が現れないのに、ナルコレプシーの睡眠では入眠直後にレム期が出現している。レム期には既にみたように筋肉の緊張が極端に下がるので金縛りが起こるのである。
このように入眠直後に現れる特殊なレム期をスリープ・オンセット・レム(S・O・REM)と呼ぶが、正常人でも条件によってはナルコレプシーの入眠時幻覚のようなS・O・REMを起こすことがある。
俗に「腹時計」という言葉があるが、最近の研究によると、視床下部の松果体《しようかたい》周辺の「体中時計」によって、大略二四時間前後のサーカディアン・リズムをつくることがわかってきた。したがって真っ暗なトンネル中で生活してもこの体中時計によってきまった時間に眠気がきて朝方にはちゃんと覚醒するが、あまり長期間になると外の時間とのズレを生じる。つまり睡眠は、この体中時計の内部リズム(サーカディアン・リズム)と、昼夜の明暗がつくる外部リズムとの調整によって正確に維持されているのである。
ところが最近ではジェット機による時差や、夜勤者の増加によって、外部リズムと体中リズムの不一致による不眠が増加している。正常睡眠ではレム期は、いったん深度四の谷に達する九〇分以後にしか出現せず、しかも朝方になるとその持続時間が長くなるように体中時計でセットされている。したがって夜勤者が、通常でもレムの出現しやすい朝方に就寝するといきなりレムが現れやすくなる。
また寝苦しい夏の季節は不眠がつづいて睡眠リズムが乱れ、そこに旅行による過労や、入眠時間のズレ、食当りやカゼによる身体的不調に、入眠前の不安・緊張が加われば、正常人でも夢窓国師の見たような怪夢、金縛り体験、つまりS・O・REMが現れるのである。読者はこれで、怪談が夏に多い理由の一端を理解されたことであろう。
昭和五四年にNHKが聴取者から怪談の自験例を募集し、著者が解説を担当する機会をもったが、およそ三分の一が金縛り体験であった。巷間の怪談|噺《ばなし》の中には「開かずの間」に代表される金縛り体験が実に多いのである。これらは旅先の過労、就寝時間のズレ、「開かずの間」に就寝する予期不安によってS・O・REMを起こしたものと説明できる。しかし科学的に説明できぬ事例もまた存在するのである。
心霊現象の研究家でもあった明治大学の小熊虎之助心理学教授は乃木将軍が一九〇九年六月二四日に学習院で行った講話記録から次のような事例をあげている。
明治二、三年の乃木将軍がまだ二十数歳のときのことであった。金沢に出張したときに宿に当てられたのが当時としては珍しい木造三階建の荻原という素封家《そほうか》の邸であった。見晴らしがよかろうと老女中に三階に床をとるように命じたのになぜか二階にしかとらぬ。ある晩強く命じたのでしぶしぶ三階に床をとったが、寝ついたと思うと何者かが部屋に入ってくる。女の声がして蚊帳の上から顔をよせて将軍の耳のあたりに近づけようとするので、はね起きてみると誰もいない。また寝つこうとすると同じことが起こり、一晩中安眠できなかった。次の晩も同じことで例の女がでてきた。その次の晩は何も言わないのに女中が三階ではお休みになれないようですから二階にとりましたと見透《す》かしたように言った。ずっと後になって例の三階の間が、先代のころ不義を働いた妾《めかけ》を柱にくくりつけて飢干《ひぼ》しにして殺した部屋であることを知ったという。
乃木将軍の体験は先に述べたナルコレプシーの入眠時幻覚の事例とよく似ている。
しかし、乃木将軍は事前に荻原家にまつわるこの話をまったく知らなかったので、度胸試しに「開かずの間」に泊るときのような予期不安はなかったのである。また旅先の睡眠の乱れからS・O・REMを起こしたものと解釈しようとしても、二階ではなんでもないものが、なぜ三階だけで二晩続けてS・O・REMを起こしたかが説明できないのである。
小熊教授はこの話を古い記憶によるものであるし、他人の記録ではあるが「かなり信憑《しんぴよう》すべき事例」としているのである。
もっとも、怪談のなかに科学的に説明できない部分が多少でも残った方が、かえって読者もほっとされるのではあるまいか。
話はだいぶそれたが、ナルコレプシーに伴うような、真性幻覚に近い入眠時幻覚が、正常人においても条件によっては起こることがよく理解されたことであろう。
身体的な過労、病気などの異和感などに、入眠時の精神的不安、緊張などの心理的なファクターが加わってくると、不安、恐怖に満ちた入眠時幻覚が出現するのである。夢窓国師の見た怪夢も、このような入眠時幻覚にほかならない。
ブルートゥス、おまえもか!
昔から、幽霊が現れるのは草木も眠る丑満刻《うしみつどき》と相場が決まっていて、幻覚を生じるのは、夜もふけて、夢かうつつの間をまどろんでいるときが多い。セロ弾きゴーシュがいろんな動物の幻視を見るのも未明であるし、ブルートゥスがフィリッポイの決戦前夜に悪霊を見たのも、深夜まどろんでいるときである。
『プルターク英雄伝』の性格描写によれば、ブルートゥスほど理性的で意志が強く、調和がとれていて、精神障害をもっとも起こしにくいような人格はないと思われる。
しかし、それほどの人物であっても、父殺しに似たシーザーの暗殺計画――シーザーの方ではブルートゥスを自分の子だと信じていた節がある――に引き入れられてからは、夜になると別人のように乱れて、はた目にもなにか深刻な悩みのあることがうかがい知れるようになり、彼の妻は、ついに自らの腕を傷つけて、夫と一心同体である証《あかし》として計画を聞きだし、ブルートゥスも、妻を同志の一人に加えたという。「ブルートゥス、おまえもか」の名文句で知られるシーザーの虐殺、「アントニーの演説」によるローマ市民の逆転、ローマ脱出後の各地での連戦、とくにエピダムノスへの遠征では、過労と寒気から病気にかかったと記されている。
あいつぐ裏切り、同志との死別、そして会戦の直前には盟友カッシウスとも仲たがいして、ブルートゥスはなにもかも一人でやらなければならない状況に追いこまれていた。幻覚は、こういう極限状況が最高に達したフィリッポイの会戦の前夜に現われたのである。
さて全軍がアジアからヨーロッパに渡ろうとしていた時、ブルートゥスに重大な前兆が現われたと云われている。この人は元来|目敏《めざと》いたちで、しかも練習と節制から睡眠も短い時間に限り、昼間は横になることがなく、夜も皆が休んで仕事もなく話相手もない時間だけを睡眠に宛《あ》てていた。ところでこの頃は戦争が始まっていて、全局に関する要務を握っていたし、将来に対する配慮に煩《わずら》わされていたので、夕方食事の後少しまどろむと、あとはもう急ぎの用に夜の時間を使わなければならなかった。しかしそれらの事務を纏《まと》めて処理することができれば、夜番の第三刻まで本を読むと、その頃百人隊長やトリブーヌスミーリトゥムがブルートゥスのところに来ることになっていた。さて、軍隊をアジアからヨーロッパに渡そうとしていた時に、夜はずっと更《ふ》けていてテントには灯が弱く輝き宿営全体は沈黙していた。ブルートゥスは何か思いを廻《めぐ》らして考え込んでいたが、誰かが入って来る音を聞いたような気がした。そこで入口の方に眼を遣ると、人並外れて大きな体をした恐ろしい異様な姿が、黙って自分の傍に立っているのを見た。勇気を出して『どなたです。人ですか、神ですか。何の用があって来たのです』と訊くと、幻影が答えて『あなたの悪霊だ。フィリッポイで会いましょう』と云った。そこでブルートゥスも平然として『会いましょう』と云った。 (『プルターク英雄伝』河野与一訳 岩波文庫)
この幻影について、召使いは姿も見ていないし、音も聞いていない。精神医学的にみて、ブルートゥスのように精神の変調を起こしにくい人でも、いろんな悪条件が重なると、一過性の幻覚を生じるのである。
このブルートゥスの幻覚においては、あいつぐ精神的緊張、慢性の飢餓状態、過労、罪悪感などにより、極度の疲労の状態にあったことが、幻覚を生じた下地になっているが、もっとも大きな原因になったのは、極度の睡眠不足であると考えられる。ブルートゥスは、訓練によって短時間で深い睡眠をとることができたらしいが、シーザー暗殺から数ヵ月、その短い睡眠時間すらさいて要務にあてなければならなかった。つまり彼は当時、極度の睡眠不足におちいっていたのである。
精神科の臨床で、明らかに睡眠不足が原因で発病したと思われる症例に出くわすことがある。私のところに、住込みの新聞配達の青年が連れてこられたことがある。よく聞いてみると、朝四時からの仕事なので、他の仲間は昼寝の時間を充分とって睡眠不足を補っているのに、彼は若さにまかせて遊び歩き、そんな生活が六ヵ月も続いて、ついに発病したのであった。
実験精神病理学というのは、実験的に精神病様状態をつくりだして研究を行う領域であるが、この一つに、人間を長時間眠らせない断眠実験がある。睡眠は人間の生存に必須であって、食事はしばらく与えなくても生きられるが、もしも睡眠を奪うと、人間は間もなく死んでしまう、と最近まで信じられていた。そうすぐに死ぬものではないことは、やがて明らかになったが、この誤解のもととなったのは、多分つぎの実験なのであろう。
一八九四年に、マナセイヌが子犬を四〜六日間眠らせないようにしたところ、著しく体温が下がり死亡したという。その後の成犬、ウサギ、ネズミを使った追試では、必ずしも死亡しないことが認められている。
人間を使った実験も、同じ一九世紀の終わりに、パトリックとギルバートが行っている。三名を九〇時間眠らせないでおいたところ、感覚、反応速度、運動速度、記憶力などが落ちてくるが、一二時間の睡眠でもとに回復した。この実験中、一名に幻視が起こったという。
断眠時間の最長記録は、デメントが一七歳の少年に行った二六四時間で、こんなに長時間の断眠を行っても、人間は死亡しないことが証明されたわけである。もっとも大規模な断眠実験としては、第二次大戦中、アメリカにおいて、数百人の兵士を使ったものがあり、断眠二、三日目から、いらいらしたり、記憶が悪くなるなど、精神機能の低下がみられるものが多く、なかには、ひどい錯覚や、幻覚を生じたものも出たという。しかし幻覚は一時的であり、実験終了後充分に睡眠をとらせてからは、なんの異常も認められないものがほとんどであったが、このうちの二名だけが、数年にわたって精神異常を残したといわれている。
ウェストは、完全断眠が一〇〇〜一二〇時間行われた場合、断眠性精神異常症は必ず起こるというが、この場合の精神病様状態は、断眠実験中だけなのであって、被験者は、実験終了後こんこんと深い睡眠に入り、覚醒後は完全に回復するものがほとんどである。しかし前述の大規模な実験では、後遺症を残したものもあるので、おそらく被験者の素質に関係する部分もあるのであろう。
このように、正常者でも長時間眠らせないでおくと、大部分の人に一過性の幻覚を生じさせることができるのである。
ブルートゥスの幻視は、いろんな悪条件が積み重なった状況で起こった幻覚であるが、その主役を演じているのは、おそらく長期にわたる極端な睡眠不足であると考えられる。ブルートゥスは、シーザー虐殺後、一種の断眠実験を知らずして行っていたのである。
2 薬物と幻覚
アルコールと幻覚
ポーが大鴉《おおがらす》の幻影を見たのも、まどろんでいるときである。
嘗《かつ》てもの寂しい真夜中に、人の忘れた古い科学を書きしるした、
数々の珍しい書物の上に眼を通し、心も弱く疲れはてて――
思わずうとうととまどろみかけたその時に、ふと、こつこつと叩く音、
誰やらがそっとノックする音のよう、私の部屋の戸をひびかせて。
『ああ客か、』私は呟《つぶや》いた、『私の部屋の戸を叩くのは――
ただそれだけのこと、ほかにはない。』 (中略)
そして真紅のカーテンのそこはかとない悲しい絹ずれの音が、
私をおののかせた――一度も感じたことのない幻の恐怖で私を充たした。
それ故に、烈しい心臓の鼓動をしずめようと、今や私は繰返した。
『私の部屋の戸を開かせたいと訪れた、どこぞの客ででもあるのだろう――
私の部屋の戸を開かせたいと、夜遅く訪れた、客ででもあるのだろう。――
まさにそうだ、ほかにはない。』
やがておののく魂も次第に元気を取り戻し、ためらうこともなくなって、
『そこの人よ、』私は言った、『どこのかたか、取り敢えずお詫びを言おう。
どうやら私はまどろんでいた、あなたはそっとノックをした、
ごくかすかにやって来て、ごくかすかに私の部屋の戸を叩いた、
そのために私の耳には入らなかった。』――こう言って私は広く戸を開いた。――
そこにあるのは闇ばかり、ほかにはない。 (中略)
部屋の中に私は戻り、魂は身の裡《うち》に焔となって燃えさかった、
すると再び私は聞いた、前よりもやや高らかにこつこつと叩く音。
『確かに、』私は言った、『確かにこの物音は格子窓からひびく音、
ともあれ何であるかをこの眼に見て、この不思議を明かしてみよう――
せめて、ひと時私の心を休めさせて、この不思議を明かしてみよう。――
恐らくは風、ほかにはない!』
ここに私は鎧戸《よろいど》を明け放った、その時早く羽ばたく羽音、
踊り出たのは、古えの聖《ひじり》の御世のいかめしい一羽の鴉。
お辞儀の一つするではなし、一瞬も飛びやめず、とどまらずに、
王侯貴女の物腰して、私の部屋の戸の上におり立った――
私の部屋の戸の上の、パラスの像へとおり立った――
悠然《ゆうぜん》と座を占めて、動きもしない。
その時|黒檀《こくたん》のこの鳥は、重々しくいかめしげな表情を
その顔に浮べて、私の沈んだ気分を微笑へといざなった。
『お前のとさかは剃《そ》ったように短いが、』私は言った、『お前は臆病者の、薄気味悪い、夜の岸からさ迷い出た古えの鴉ではない――
語れ、夜の領する冥府《めいふ》の岸にお前の王侯の名を何と言うのか!』
鴉は答えた、『最早ない。』
(『ポオ全集』(3)福永武彦・入沢康夫訳 東京創元新社)
ポーは入眠寸前に物音を聞き、戸を開けるがなにもなく、二度目に鎧戸《よろいど》を開けたとき、大鴉《おおがらす》の幻視が現れるのである。
正常人においても、入眠寸前に聴覚が過敏になる時期がある。前にも述べたように、ブルートゥスもだれかがテントに入ってきたような物音を聞き、ついで悪霊を見るのである。私も、ベッドについてまどろみかけてから、家の外でなにか物音がしたような気がして、戸締りを確認しに行くことがある。
ポーの大鴉の幻視が、詩作上の想像なのか、ほんとうに幻視体験があったのかはむずかしいところではあるが、私はやはり、アルコール症による幻視があったと考えるのである。
ポーのアルコール嗜癖《しへき》は有名な事実であり、ついには四〇歳でアルコール禁断症状の一つ、振戦譫妄《しんせんせんもう》を起こして死亡したことを、ポーの病蹟学《びようせきがく》の権威である野村章恒氏が証明している。
この振戦譫妄という病気は、大酒家が病気にかかったりして急に酒を断ったときなどに起こる。その晩から一睡もできなくなり、脂汗が出、手や体のふるえが始まり、断酒三日から四日後には、なにもいない壁や天井に小さな虫や蛇や小人などが見えてきたり、自分を呼ぶ声が聞こえたり、天上の音楽のような妙なる調べが聞こえるなど、夢の中にいるような幻覚体験が起こる。患者はそれに左右されて落着かなくなるが、この状態は丸三日間くらいですっかりとれ、患者が深い眠りに落ちて目ざめると、まるで生まれ変わったようにさっぱりするという、アルコール禁断症候群で一番代表的なものなのである。
アルコール精神病などまったく自分と関係ない、と思っている人が多いと思うが、だれでも、毎日四合以上の酒を一〇年間飲んでいると、中枢神経の変調を来し、酒が切れると手がふるえ、眠れなくなり、ついにある晩突然、恐ろしい幻覚が現れてくるのである。健康な成人男子の一日のアルコール処理能力は、清酒に換算して約四・七合となるが、毎日飲んでいると処理能力が下がるので、三合くらいが安全な限界量である。健康を害すると、さらに処理能力が下がるので、肝炎や胃切除を受けてから、急に早く酔いが回るようになり、アルコール中毒が進行して、外来に回されてくる人が多い。
私が最近経験した三九歳の工員は、一五歳から飲酒を始め、三交代勤務のために、よく眠るためと称して、一日七、八合も飲むようになった。五年前から肝障害、高血圧で数回入院したが、それでも酒をやめなかった。三年前から、酒が切れると手がふるえるようになり、最近では食欲不振、嘔吐《おうと》、めまいなどがあり、外来検査では肝機能も悪いので総合病院の内科に入院した。
その晩から頭がボーッとした感じで、一睡もできなかったが、二日目に点滴注射を受けている最中に、点滴スピードを調整する透明なビニールの点滴セットの中に、魚が泳いでいるといいだした。三日目の早朝、トイレから自分の部屋に帰ったところ、白い着物を着た人が出てきて「おやすみなさい」と声をかけたので怖くなり、看護婦室に飛んできて、「病院で死んだ亡者がテレビに映るのでしょう。これを人に話すとみなが怖がるから絶対にしゃべりませんから」と声をひそめて真剣な表情で話す。看護婦になだめられて部屋に帰ったが、ストレッチャーのふとんが急にフワフワと持ち上がったように見えたので、また看護婦室にきて、「こんなお化けの出る部屋にはいられないから、いますぐ部屋を替えてくれ」と強要する。鎮静剤の注射を受けてベッドにもどされたが、「同室の人が青い煙を口から吐く」「頭の上の壁に穴があいていて、小さな虫がぞろぞろ出てくる」、隣の患者のふとんをめくり「この中にイヤリングをつけた女がもう一人寝ているはずだ」と騒ぐ。
後で聞いてみると、この日が幻覚の一番活発な時期で、その晩ベッドに横になっていると、窓の方から友人の声で「バスに乗って誘いにきたから、早く降りてこい」「飲みに行こう」から、「おまえがどうしてもこないのなら、おまえの女房を連れていく」「おまえの背中に、焼いた鉄板を背負わせてやる」と脅《おど》す内容に変わり、その友人の姿も見えた。このときギターとハープのさびしい音楽が聞こえてきた。四日目の晩は幻覚も減ったが、なお、虚空《こくう》に向かって話しかけたり、返事したりして、廊下をうろうろ歩き回っていた。五日目になって、二〇時間ほど死んだように熟睡し、おこりが落ちたようにさっぱりした。
この患者のように、大酒家で酒のきれたことのなかった人が、虫垂炎などで外科に入院し、入院三日目から振戦譫妄を起こして、精神科医が呼ばれる、といったことは以前はよくあったものである。
振戦譫妄は、先に述べた症例のように、小動物幻視が主であるが、幻視がほとんどなくて、祭りの笛の音やドラムの音が耳もとでうるさく聞こえたり、自分を脅かす声に追っかけられて、夢中でビルの窓から飛び降りて骨折し、外科に入院するという、幻聴を主体としたアルコール幻覚症もあって、幻聴が長く続く例では、いつも分裂症との鑑別が問題になる。
幻覚症の幻聴は、悪口であるとか、殺してやるとかの脅迫的な、不安を与えるような内容が多く、同時に、周りをすっかり囲まれるなどの被害感を伴うことが多い。
しかしこの幻覚症は、振戦譫妄に比べると非常に少なく、アルコール離脱症候群(俗にいう禁断症状)といえば、ほとんどが振戦譫妄と考えてよい。
したがって、小説や映画などでときどきこれにお目にかかることがある。
ディケンズの小説の映画化で、名優チャールス・ロートンのふんする大酒飲みの靴屋の因業《いんごう》おやじが、酒が切れたとたんに、「ちゅっ、ちゅっ」という小さな鼠《ねずみ》の幻視が現れてびっくりするシーンを好演していたのが印象に残っているが、このほかにもレイ・ミランドが、西部劇で同様なシーンを演じている。
ポーが「大鴉」を書いたのは三六歳のときであり、そのときにすでに幻視があったかどうかは、たしかに疑問のあるところである。というのは、後に分裂病になったモーパッサンが、発病のかなり前に分裂病体験をよく表した『ホルラ』を書き、また芥川竜之介も、『河童』で精神病者の世界を描いているように、作家の繊細な神経には、真の発病に先行して、その作品の上にまず兆候が現れることが、よくあるからである。
しかしながら私は、以下に説明するような理由から、このころのポーにはすでに、軽い幻覚があったと考えている。
アルコールの禁断現象については、近年研究が進んできて、これまでアルコール精神病として大まかに扱われていた現象が、詳しく分析されるようになった。ビクターという学者は長年の臨床経験にもとづき、志願者を使って、大量飲酒後中止させ、続いて起こってくる禁断現象を時間の経過を追って詳細に観察する、という実験を行った。
それによると禁断現象は、断酒後七、八時間から一二時間にかけて現れる一過性の幻聴や幻視の時期と、断酒三日後から始まって二、三日間続く振戦譫妄状態の二つにはっきり分類されることが証明された。ビクターは、この断酒直後に出現する一過性の幻覚を、小離脱症候群としてはっきり振戦譫妄と区別したのである。
アルコール症の治療の場合、振戦譫妄を初めて起こしてきた患者の病歴をよく調べていくと、その数年前からすでに、深酒して酒が切れたときに、なにかぼんやりした形のはっきりしないものが眼前に見えてくるとか、なにかへんな音が聞こえていたが、患者はそれを耳鳴りと思っていた、などと述べるものが多い。
すなわち、このような要素的な一過性の幻視、幻聴の小離脱症候群は、振戦譫妄に先行して数年前から現れてくることが多いのである。
私の経験した四六歳の工員は、一〇年来毎日四合以上の酒を飲む大酒家であったが、最近深夜勤あけの帰りの電車のなかで(彼は深夜勤につく直前に最後のポケットびんをひっかけるので、ちょうどそれは八時間後になる)小さな雁《かり》のような逆三角形の暗点が、ちょうどコウモリが驚いて飛び立ったように無数に出てくる。取ろうと思って思わず手を出すが取れない。また耳の中に虫がいるように、ひっきりなしに耳鳴りがする。それに、自動販売機でコップ酒を買うときの「ガチャン」という音や、街角のパチンコ屋から響いてくる「ジャラ、ジャラ」という音が何十倍にも増幅されて、まるでぐさりと自分の胸に突き刺さり、ジーンと体中を電気が走ったように感じる、などの聴覚過敏症を訴えていた。この患者は過去に入院歴があるが、そのときも今回の受診のときも不眠はないので、小離脱症候群であると診断されるが、このまま飲酒を続ければ、二、三年後には、典型的な振戦譫妄を起こしてくることは、間違いのないところであろう。
この症例の症状などは、ポーの「大鴉《おおがらす》」の詩の情景に実にぴったりするように思われる。
ポーの「大鴉」は一説によると、初めはオウムになっていたとのことである。また後に、ポー自身が『構成の原理』のなかで、この「大鴉」の創作過程についてもっともらしい説明を試みてはいるが、ポーが、パラスの胸像にとまった大鴉が実にはっきり口をきくのに驚くくだりなどは、アルコール症で床柱が急に人の顔に変わって話しかけてくるなどの幻覚がよく見られることなどから、ポーの詩作上の創作であるより、実際の体験であったと考えた方がより自然のような気がする。
ポーは四〇歳のときに、はっきりした振戦譫妄を起こして死亡している――輸液の技術や興奮を静めるよい鎮静剤がまだ開発されていなかった時代には、振戦譫妄で死亡する率が高かった。ポーは怪しげな酒場で飲みつぶれ、手当が遅れたために死亡した――。この「大鴉」の詩を書いた三六歳のころは、最愛の少女妻バージニアの病状が悪化し、ついにその翌年には、フォーダム・コテイジで猫を抱いて暖をとるという窮状で死亡しているから、愛妻家のポーは、さぞいたたまれぬ思いであったろう。これらの心労のために、ポーの酒量は一段と進んでいる時期であるから、深酒して酒の切れた時に、大鴉のようなぼんやりした要素性の幻視が実際に起こっていた可能性はかなり高い、と私は考えるのである。
この一過性の幻視に、最愛のバージニアと死別するのではないかというおびえが加わって、この「大鴉」の詩が生まれたのではあるまいか。
ポーと並ぶ怪奇作家ホフマンも大酒家であったが、わが国でも、辻潤、葛西善蔵、田中英光など、アルコール中毒であったと思われる作家も少なくない。
ユージン・オニールもアルコール中毒であったという。私は、終戦後間もないラジオ時代に、放送劇で彼のドラマを聞いたことがある。
ジャングルの中を、後ろからいつまでも執拗《しつよう》に追いかけてくる土人の不気味なドラムの音が、すばらしい効果をあげていたが、いま考えてみると、あれはユージン・オニールがアルコール幻覚症にかかっていたからこそ書けた迫力ではなかったか、と思えるのである。
芸術家と「ドラッグ」
唐代の酒豪詩人李白のように、人類の歴史とともにあるアルコールと文人との関係は、切っても切れないものがある。阿片や大麻《たいま》の害がまだよくわからず、取締法などもなかった一九世紀においては、文化人の間に、阿片や大麻による幻想を、創作活動に利用することが流行した時期があった。
『阿片常用者の告白』を書いたデ・クインシーとボードレールが、麻薬文学の双璧とされているが、ポーやホフマンも、阿片をウイスキーに溶かして飲用し、わき起こる幻想をもとに怪奇小説を書いたともいわれている。
神秘的な幻想詩『クビライ汗』を書いたコールリッジは、夢の中でその構想を得たとされているが、実際は阿片中毒による幻覚ではなかったか、とエリスが指摘している。
また、ベルリオーズに使用経験があったかどうかは明らかでないにしても、『幻想交響曲』が、失恋して多量の阿片を飲んだ青年作曲家が致死量に達せず奇怪な夢を見る、という形式をとっているのは有名な話である。
このように一九世紀の文人の間に流行した阿片も、阿片戦争によって入手が困難になると、これにかわって大麻が登場し、フランスのロマン派詩人の間で「ハシーシ愛好クラブ」が生まれることになる。中でも怪奇作家ゴーチエは、友人の精神科医にすすめられて実験台となり、大麻服用後の奇怪な体験を詳しく書いている。
その部屋に入ると、会員たちはたいていきていた。博士は大きなテーブルのかたわらに立っていたが、みんなが着席すると、たくさんある小皿にスプーンでもって、緑色をしたジャムみたいなものを、すこしずつ同じ分量入れていった。大きな容器に入っていたジャムはおおかたなくなったが、『では、おあがりなさい』と博士は目をかがやかしていった。『そのうち天国にいかれるようになりますよ』
小皿といっしょにあった小さなスプーンで、緑色のジャムをなめるようにして口にいれると、ついで砂糖なしのコーヒーが出た。それからがディナー・コースなのである。食品類がどれもこれも風変りなのも、凝った趣味だが、肉類などを平らげてコースが終りにちかづいたころだった。目のまえの人たちが、どうやら効いてきたらしい顔つきをしている。わたしも口にしたものの味が急に変化しているのに気がついた。水が極上ワインのようだし、肉をたべるとイチゴみたいになり、イチゴのほうは肉になってしまうのだ。魚だかカツレツだか、もうわからない。
そのときの隣席の仲間を見ると、その目のひとみはフクロウのように大きくなり、鼻が長くのびていて、口は鐘のようにひろがっている。ほかの人たちはどうだろう。ふしぎな色合の顔になっている。そのなかの一人が急に大声を出して笑いはじめた。と思うと椅子にのけぞった一人が、ダラリと両手をたらしたままうつろな目をしている。わたしは両ひじをテーブルにのせて顔を両手ではさみながら一生懸命に観察した。
ところが急にローソクの火が消えかかったように理性がなくなってしまい、そう思うとまたパッとなるのだ。と同時に手足が猛烈に熱くなり、頭のほうは岩にくだけて泡を飛ばす波の満ち引きのように、なんだか白いものが押しよせ、かぶさりふらふらとなりだす。だれかが叫んだようだ。『音楽が始っている。あっちの部屋へいこうじゃないか』と。そういえば美しいハーモニーが向うのほうから聞えてくる。
広くて豪華な居間。牧歌的な絵が金ぶちの壁面に描いてある。大きなマントルピース。そのまえにある大きなひじかけいすに、からだを沈めたときだが、それまでいた人たちが急に消えてしまった。
居間は静まりかえっていて、なんだかボヤけたようなランプの光が、数個所でチカチカしていたが、それが急にまっ赤な閃光となって目がしらを打ち、つぎの瞬間、からだ全体が赤い光で包まれている。ついで居間が広くなりだし、調度類や装飾がまえよりもっと美しくなった。
それは、あまりにも現実ばなれがしていたが、だれもいないのに、絹ずれの音や、靴のかかとが触れ合う音や、ささやく声や、低い笑声などが、かすかに聞えてくるのだ。
そのとき変てこな男がやってきた。ワシっ鼻で緑色の目。大きなハンカチで、その目をふいている。たかいカラーのためにアゴの両側が突っぱり、フロックコートを着た腹が出っぱっているが、両脚は細い。まるで草の根のようだが、その二本の根がからみ合っては、ほどけ、踊っているようだった。そして『きょうかぎりで笑いながら死ぬことになったんですよ』というと、泣きだしたのである。すると『笑うんだよ……笑うんだよ』というコーラスが聞えてきて、それまで消えていた大勢の人たちの姿が現れ、わたしからすこし離れたところで、グルリと輪をつくりながら陽気に踊りはじめるのだった。
そのうち一人の男がピアノを強い調子でたたきだすと、その音は、わたしの体内から赤と青の閃光となって、ピリッとしびれさせながら放出されていく。その瞬間ごとの気持はなんともいえない。まさに幸福感だ。もう自分という肉体を感じさせないし、死んで天国へいったようにフワフワと浮遊しているのだった。すると、そのとき壁の絵に目が向った。牧神がニンフを追いかけている絵だったが、わたしはニンフの方になっている。そして山羊の脚をした怪物に追いかけられているのがこわくなって、川岸のアシの茂みのなかに逃げ隠れるのだった。
それから、また逃げていく。危険が切迫しているようだ。勇気を出さなければいけない。けれど脚が石のようになってしまった。見ると、そこは階段の降り口で、はるか下のほうまで階段がつづいている。それでも勇気を出して降りはじめた。すると突然、つめたい風が吹きつけてきたので見あげると、夜空に星が輝いている。いつのまにかホテルの中庭に出ているのだった。 (「知識人と麻薬と」植草甚一抄訳『科学朝日』一九七〇年七月号)
原文は、この五倍くらいもあり、詳細をきわめるという。
ごく少量を服用しただけで活発な幻覚を生じる化学物質があって、幻覚剤と呼ばれている。
精神医学には、人工的に精神病様状態をつくりだして研究する分野があり、実験精神病理学という。最近再び急増して新聞紙上をにぎわしている覚醒《かくせい》剤は、終戦直後に最初の流行があり、症状が分裂病に似ていることから、恰好の精神病のモデルとして研究された。
LSDは、この覚醒アミンについでよいモデル精神病を提供する薬剤として利用されたのである。つまり当時盛んに開発されていた精神病治療剤が動物実験で、このLSDに対してどのように反応するかということが、有効性の一つの目標にされたのである。また自閉の殻《から》を破る手段として、自閉症の患者に投与されたり、LSDを服用すると自由連想が活発になることから、精神療法を促進させる精神伸展剤として盛んに使用された時代があった。しかし思ったような治療効果が上がらないばかりか、しだいに副作用が明らかになって下火になった。
LSDによる体験は詳細に研究されているが、大麻やメスカリンとよく似ている。まず、見ているものがよその世界のように現実感がなくなり、色彩知覚の異常が出現し、ついで生き生きとした光景的幻視が、時間体験、空間体験の異常とともに出現し、自分の足が途方もなく膨張するなどの体感異常も現れる。
また、ゴーチエの体験のように、初めはエクスタシーにあふれた恍惚《こうこつ》体験つまりグッド・トリップであるのに、後にはバッド・トリップと呼ばれるような恐怖感を体験することが多く、中には恐慌《きようこう》状態となって、精神病院に収容されるものもある。
このように、LSDの副作用が明らかになったのは、一九六〇年代前半に、テモシー・リアリーがハーバード大学の学生に使用したのをきっかけに、折からのベトナム反戦の気運に乗って、あっという間に幻覚剤嗜癖が全米の青年に蔓延《まんえん》し、ヒッピーとともに、麻薬文化ともいえるいわゆるドラッグ・カルチャーを生みだしたからである。
その結果、幻覚作用のもっとも強力なLSDは、使用を中止しても幻覚が起こってパニックを起こしたり、長く使用しているうちに特有の人格低下状態(アシッド・ヘッド)となって精神病院に収容されるものが続出したりして、ついにその使用が禁止されるようになった。
わが国では、LSDや大麻などの強力幻覚剤は使用が禁止されているので、その副作用を実際に経験することなくすんだのは、幸いである。しかし、フーテン族とともに全国の青少年に蔓延《まんえん》したシンナーも、作用の弱い幻覚剤で、吸飲によって、酩酊《めいてい》感とともにいろいろな想像幻視や錯聴《さくちよう》などが起こってくる。
私はかつて、脳波学会のシンナーのシンポジウムの臨床面を担当した。上の表はそのときの調査結果である。シンナー吸入によって、生き生きとした色彩幻視や、「前のビルを倒してやろうと思うと、ほんとうに倒れてくる」などの空想幻視が起こり、「自分に超能力がついた」「自分の頭は電子頭脳で電波を発信している。だから他人の行動を支配できる」などという万能感と結びついているものが多かった。いずれも、進級が遅れたり、学校を中退した高校生であるが、幻覚は、彼らの劣等感を償《つぐな》うような内容であった。
プシロシビンやメスカリンもLSDとほぼ同様な幻覚作用を示すが、これらの幻覚剤も、そもそもは経験的に知った民族によって、古代から宗教的儀式に使用されていたものである。大麻は三〇〇年前からイスラム教で使用されていたし、メキシコ・インディアンが宗教儀式に用いていた毒きのこから抽出されたのが、プシロシビンとプシロシンであり、ペヨーテというサボテンの先端を干したものの有効成分は、メスカリンにほかならないことが明らかになった。
しかし、人類の存在とともにあったといわれるアルコールくらい、広く用いられた幻覚剤はないであろう。いかなる原始部族も、彼ら独自のアルコール飲料をもっているといわれている。
そもそもアルコールもまた、部族の神聖な「祭り」の日だけに、神と一体になるための媒体として、飲用の許される宗教儀式の薬品であったのである。したがって、初めは「祭り」をつかさどる皇族だけが飲用していたものが、しだいに使用範囲も広がり、また「はれ」(祭りの聖なる日)と「け」(ふつうの日)の区別もなくなるにつれ、奈良朝時代には、ついに庶民の日常の飲料となってしまった。
戦後の薬物嗜癖《やくぶつしへき》の主剤は、作用のおだやかなアルコールから、強力な幻覚作用をもつサイケデリック・ドラッグに移行してきている。
現代の青少年たちはなぜ、幻覚の世界に逃げこみたがるのであろうか。
人間は社会生活を維持するために、本能や欲望を、規律や戒律、道徳などによって抑制することを学ばなければならない。しかし、あまりに規律でがんじがらめにされると、人間の精神は窒息しそうになり、どこかで本能の爆発する場を求める。
「祭り」はこの本能の発散の場であり、万葉の歌にあるように、むかしの祭りは、人妻も生娘《きむすめ》も祭りに集まった男たちとその場限りの性の供宴の許された公認の場であった。つまり「祭り」とは、神の名によって、一年に一回だけ本能の解放を許される日であったのである。
しかしながら、現代においては「祭り」は形骸化し、管理社会にがんじがらめになった青少年たちは、幻覚剤という手軽な手段によって、自らの「祭り」に入りこむのである。
規律が厳しくなればなるほど、人はなにかの力を借りて幻想の世界に逃避することは、貧困に打ちひしがれ、息づまるようなキリスト教の戒律に縛られた中世のヨーロッパにおいて、魔女たちの夜宴の果たした役割を考えてみてもわかることである。
サバトの夜宴
ハルツの険阻《けんそ》な山中、ファウストとメフィストが暗い山路を登ってくる。
メフィスト「箒《ほうき》の柄が欲しくなりませんかい。あっしも逞《たくま》しい牡山羊にでものりたくなった。こう暗くちゃ危くて仕方がない。そうだ、あそこの鬼火に案内させるとしましょう」
ファウスト、メフィスト、鬼火交互に歌う。
「夢とうつつの 魔の境に
われらいりぬと 思わるる
よく導きて 誉れとなせ
われら進みて ほどもなく
広き荒野に 着かむため」
(「バルプルギスの夜」から)
『ファウスト』に出てくる「バルプルギスの夜」も、フランスでは「サバトの夜宴」と呼ばれる。
ベルリオーズの『幻想交響曲』の圧巻は、最終楽章の「サバトの夜の夢」にあることに異論のある人は少ないであろう。
曲は、夜宴に集う妖婆、悪霊どもの不気味なつぶやき、きしるようなうめき声などのざわめきに始まる。やがて一同の歓声に迎えられて登場するおしのびの貴婦人。卑猥《ひわい》な悪魔のロンド、これに対抗して教会の鐘の音に合わせて「怒りの日」のパロディが鳴りひびく。そして夜宴は最高潮に達し、全管絃の咆哮《ほうこう》のうちに、一気に終曲に突入する。
このように、キリスト教|圏《けん》の芸術作品の題材に多くとりあげられる悪魔の夜宴とは、いったいどのようなものであったのだろうか。
ジャン・パルー(ジャン・パルー『妖術』久野昭訳 白水社)によると、夜宴とは、妖術使いが開催する悪魔的ミサのことで、だいたいつぎのようなものであったらしい。
夜宴は、ヘカテ(ギリシア神話の夜の女神)の支配する月の水曜と金曜の夜を選んで開かれる。その夜がくると、女妖術使いたちはいそいそとほうきをとりだしてきて、炉の前で裸になり、全身に香油を塗りたくる。それから苦心して調合したベラドンナを含む媚薬《びやく》を飲み、ほうきの柄にまたがる。ほうきは彼女らを乗せて魔女の出入口である茅葺《かやぶき》小屋の煙突から大空高く舞い上がり、夜宴の会場を目指して飛んでいく。
夜宴は、禁断の魔の山、異教の廃墟《はいきよ》などで行われる。追放されたはずのサテュロスやフォーヌやパンが、小悪魔や精霊に姿を変え、悪魔が夜宴を司会する。暗い会場には、いろいろな人が出席しているらしいが、ふだんは顔も拝めぬ領主や仮面をつけた貴婦人も参加していて、しゃくにさわることには、悪魔たちも、こうした特権階級にはやたらとおべっかを使うのである。
いつの間にか中央に祭壇ができ上がっている。悪魔が祭壇に上がってミサを逆さまにとなえる。儀式は教会と反対のやり方で行われる。一同は悪魔に誓いをたて、日ごろ心に思っている邪心を洗いざらいぶちまける。ありがたいことには、悪魔の司祭は一番悪い人間に褒美《ほうび》を与え、よい人間には罰を与えるのである。
なんだかわからぬ獣の肉や奇妙な料理が出るが、どれも悪魔を払うとされる塩味がついていない。それからみなが立ち上がり、悪魔の輪舞が始まる。踊っているうちに身体がからみ合う。身持が悪いなどといったなまやさしいものでなく、日ごろ抑圧されていた淫乱《いんらん》がいっせいに吹き出し、みなは獣のようにもつれ合う。
やがて鶏鳴《けいめい》が高らかに朝を告げると、夜宴はぱっと消え失せる。哀れな魔女たちは、すごすごとほうきをかまどにしまいこみ、寒さにふるえながら、すり切れた毛布にくるまって、堅いベッドに横になるのである。
女妖術使いたちが苦心して調合するベラドンナは、現在でも消化器系の鎮痛剤として使用されている薬品で、主成分はアトロピンとヒヨスチアミンと呼ばれる物質である。アトロピンは、大量に使用すれば意識混濁による幻覚を起こし、古代エジプト人は催眠剤として使用したという。
薬はなんでも試してみるローティーンの間で、ひところ紅茶に目薬をたらして飲む「目薬遊び」が流行したことがあるが、これは、目薬の主成分であるアトロピンの幻覚作用を悪用したものである。
さて夜宴とは、このように中世のキリスト教の戒律にがんじがらめに縛られ、毎日のつらい労働と貧困とに打ちひしがれている農家の寡婦《かふ》たちが、ベラドンナの助けをかりてかいまみる、日ごろの抑圧された性欲(リビドー)の解放の幻想なのである。
しかし、ベラドンナでは幻覚を得る量の調合がむずかしいので、全身に香油を塗りたくり、ほうきの柄にまたがって――いかにもオナニーの姿勢を思わせる――、夜宴の幻想にひたるための、一連の儀式を行うのである。
この飛翔夢《ひしようむ》というのは、精神分析の方で性夢の代表的なものとされているが、唐代の『広異記』にも、主人の留守中に、奥方と女中が竹ぼうきにまたがって数百里離れた深山の頂に飛び、黒鳥の変化《へんげ》と交わってくるという話がのっているので、人間の性《さが》というものは、洋の東西を問わぬものらしい。
さて、芸術上や幻想上でなく、この誘惑的な夜宴を現実に行った記録もまた多いのである。森の中でひそやかに行われる黒ミサは、現職の神父の司祭によって、教会のミサとまったく逆の順序で卑猥《ひわい》に行われる。祭壇には、悪魔への犠牲として貴婦人の白い裸身が供えられ、興奮した司祭が、衆目のもとでこれを犯すこともあるという。ロマノフ王朝の末期、皇后をはじめ宮廷の貴婦人たちを巻きこんだ怪僧ラスプーチンの森の夜宴が、歴史上もっとも有名であるが、シャロン・テート事件のマンソンもまた、これに匹敵する現代の黒ミサの司祭であろう。
このように夜宴が、キリスト教|圏《けん》において中世から現代までくりかえされるのは、それが禁欲的なキリスト教の戒律に屈服する以前の、ゴール人の奔放《ほんぽう》な生活への回帰にほかならないからである。狩猟民族であった彼らの祖先は、夜になるとその日の獲物をもちよって、黒々としたぶなや樫《かし》の大木のもとの焚火《たきび》に輪につどい、野葡萄《のぶどう》の酒に酔いしれて、大らかな性の享楽の宴をくりひろげていたのである。
キリスト教の圧制のもとで、彼らの神々はすべて、邪神として追放された。森の夜宴のときにのみ、サチュロスもバッカスもパンもニンフも姿を現して、彼らとともに本能の解放を楽しむのである。
現代におけるドラッグ・カルチャーのメカニズムも、これとまったく変わらない。
ただ夜宴に参加するための媒体が、中世の女妖術使いたちが苦心して調合した、効果の不確かなベラドンナや香油やほうきではなく、現代では、マリファナやシンナーのように、いとも手軽に手に入るので、確実に、だれでもどこでも夢幻状態に入ることができるのである。だから、金のある若者は、過保護な親が買い与えた勉強用マンションに仲間を集めてマリファナたばこを吸い、金のないものは、一本五〇円の接着剤を使って、廃屋の中で不純交遊にふけり、苛酷《かこく》な受験戦争から幻覚の世界に一時逃避することになるのである。
いや、社会的地位のある富裕な大人《おとな》たちも、高い治療代金を払って、郊外の貸切り豪華ホテルでこの夜宴に参加することは、最近のセックス・カウンセリングを標榜《ひようぼう》する怪しげな一部のグループ療法屋への諷刺《ふうし》として、アラン・ドロンが映画の中で演じてみせた。ここでは、精神療法の名のもとに、精神科医が悪魔の夜宴を司祭するのである。
ウィリアム・ウィルスン――
自己像幻視――
そも良心とは?
わが行手に立ち阻む
恐ろしの影
良心とは?
(『ウィリアム・ウィルスン』巻頭文から)
二重身(ドッペル・ゲンガー)とは、まるで鏡に映したように、もう一人の自分の姿が、ありありと眼前にみえる現象である。
この現象は古くから知られていて、わが国では、「影の病」として死の前兆とされているが、六朝時代の『捜神後記《そうしんこうき》』に、寝室にさきに寝ている自分の姿を見た男が、間もなく死ぬ話が出ているので、わが国のものも、案外この辺に由来するものではないかと思われる。
西欧では、すでにアリストテレスがこの現象を記載しているというが、ゲーテが恋人フリーデリーケに別れを告げた帰り道で、向こうから同じように馬に乗って近づいてくる自分の姿を見た、という体験が有名である。
文芸作品上に出てくるものとしては、ミュッセ、シャミッソー、ゴーチエ、モーパッサン、ドストエフスキー、ホフマン、ワイルドなどがあげられる。しかし、もっとも有名なのは、ポーの自叙伝的小説といわれる『ウィリアム・ウィルスン』であろう。
分身は、主人公が背徳行為をなさんとするときにいつも現れて邪魔をする。怒った主人公が、ついにその分身を刺し殺した瞬間、自分も死ぬという不気味な物語で、『影を殺した男』として映画化されている。
精神医学においては、二重身は自己像幻視とほぼ同義語として扱われており、『ジキル博士とハイド氏』や『イブの三つの顔』のような多重人格とは区別される。いずれにせよまれな現象であり、私は幸運にも一例の経験があるが、生涯でこの症例に遭遇できる臨床医はきわめて少ない。
しかし、作品上に二重身が出てくるのと、実際にその作家に二重身の体験があるのとは別であって、作品上からそれを断定するのは、なかなか困難なことである。自己像幻視は、分裂病の自我障害でもみられるし、躁うつ病の離人症がひどくなっても起こってくる。
分裂病性のものとして、モーパッサンの『オルラ』、芥川竜之介の『二つの手紙』があり、躁うつ性のものとして、『詩と真実』に出てくるさきのゲーテの体験、鏡花の『星あかり』がある。また、大脳皮質の身体感覚の中枢の刺激によって起こるてんかん性のものとして、ドストエフスキーの『二重人格』がある。ホフマンやワイルドのものは、ヒステリー性格と、アルコール、阿片などによる相乗作用で説明できるのかもしれない。
芥川竜之介は、二重身になみなみならぬ関心があり、ある席で、自分にも二重身の体験があると表明しているが疑問視されており、鏡花には実際の体験があったに違いないと強調する人もいるが、鏡花は名にし負う翻案《ほんあん》の名人であるから、ほんとうのところは本人にしかわからない。
俗に天才と狂人は紙一重というが、このようにある作家の作品と、その狂気との係わり合いを論じる学問があって、病蹟学(パトグラフィー)と呼ばれている。
病蹟学の始祖は、ゲーテに約七年の周期で創作活動の高揚期のあることを立証したメビウスである。その後、天才と変質との関係を論じたランゲ・アイヒバウムを経て、クレッチマーが『天才の心理学』で、天才を分裂気質、循環気質、てんかん気質の各グループに分類してみせてから、ようやく病蹟学が一般に身近なものになってきた。わが国においては、むしろ戦後に発展してきた分野で、一九六〇年代からは、多くの著作が発表されるようになった。病蹟学とは、作品にひそむ狂気を、精神病の兆候として冷たく暴き出すものではなくて、あくまで作品の深い理解、感情移入を行う一つの手段として、精神医学の知識を駆使するものである。いわば文学鑑賞の一つの方法といえる。私がハーンやポーをとりあげるのも、自分がひかれる理由を分析したかったからである。
さて、ポーに実際に二重身の体験があったかどうかというと、私はなかったのではないかと思っている。それでは、ウィルスンの前に現れた分身の正体はなんであったろうか。
それを解明するためには、ポーの生い立ちにまで立ち入らなければならない。
ポーは旅役者の両親の間に生まれ、三歳のときに、生母は貧窮《ひんきゆう》の極、旅さきで肺炎にかかって病死した。実父はその以前に蒸発していた。
哀れな孤児は、幸いにも裕福な商人ジョン・アランに養子として引きとられた。ポーは、養母フランシスに溺愛《できあい》されて育ち、養父がロンドンに支店を出したときに伴われて渡英し、ロンドン郊外の由緒あるマノア・ハウス・スクールで教育を受けた。この学校のことは、小説の中でも生き生きと書かれている。
養父ジョン・アランも、初めのうちは利発なポーを自分の跡継ぎとして期待していたらしい。しかし、長じてバージニア大学の寄宿舎に入ったころから、ポーの放蕩《ほうとう》と飲酒と文学への傾斜が、しだいに父子の間に暗い影を落としていくのである。カードと飲酒に明け暮れた背徳の日々の現実は、小説中のあざやかなカードさばきのようにはいかなかったとみえる。ギャンブルで多額の借金をつくったポーは、ついに家出して志願兵となった。
ポーはウェストポイントに入学して養父の勘気《かんき》を解こうと計画したが、このころから文学への傾斜が強くなり、ポーとの間をとりもっていた養母の死を境に、むかし気質《かたぎ》の養父との断絶は決定的なものとなった。
後にポーが、危篤《きとく》状態の養父を見舞ったところ、激怒した養父はベッドから起き上がり、杖を振り上げてポーを追い払うというありさまで、ポーがひそかに期待していた養父の遺言状には、ポーへの配分は一銭も記されていなかったのである。
ポーがあれほど養父の遺産に執着したのは、当時、経済的に困窮《こんきゆう》していたこともあったろうが、遺産相続によって、自分への愛情を確認したかったからでもあろう。ポーは、その恋愛遍歴でも明らかなように、愛情要求の強い人がらであった。ポーは再三にわたって養父の期待を裏切りながら、心の底では、養父がほんとうは自分を許してくれているのではないか、という甘えをもっていたのである。しかし根っからの商人であった養父は、ポーが自分の期待にこたえている間は援助したが、途中からはまったく見切りをつけていたのである。しょせんは血のつながらない悲しさであろうか。
見も知らぬ他人に引きとられてなに不自由なく養育され、最高教育まで受けさせてもらった孤児が、養父に抱く感情はなんであろうか。
それは決定的な恩である。
ポーは、養父の期待にそって、実業家への道を歩むべく努力した形跡がみられる。しかし、大学入学のころから、一度は青年をとらえる放蕩と、それで命を落とすことになったアルコール嗜癖が始まった。耽溺《たんでき》からさめたポーを苦しめるのは、養父の期待にこたえることのできぬ自責の念であった。いったんは、ウェストポイントに入学することで、養父の希望との妥協《だきよう》点を見出そうとするポーは、このころからしだいに、自分に流れる芸術家の血に目覚めてくるのである。ポーの必死の説得にもかかわらず、養父は文士など堅気の職業とは認めぬタイプであった。ポーは文学への道を歩みながら、心の底では、たえず養父の期待に背《そむ》いた呵責《かしやく》にさいなまれていたのである。
孤児にとって、養父に報いるただ一つの方法は、養父の期待するような子供になることであろう。ポーがその道から外れそうになり、ついに養父の許さぬ文学への道に進む決心を固めたとき、その良心の呵責は、われわれの想像の及ばぬものがあったであろう。
つまり、背徳のウィルスンのまえに現れたのは、いみじくもポー自身が『ウィリアム・ウィルスン』の巻頭に記したように、おのが良心の影であったのである。
私が、『ウィリアム・ウィルスン』でいつも思い出す症例がある。
一年近くカウンセリングを続けているが、精神病の疑いもでてきたので、一度チェックしてほしいと臨床心理の教授から紹介されてきた学生があった。会ってみると、ときどき急に話が途切れたり、離人症に特有な、魚の目のようにうつろな目つきをしているので、しばらく診断的面接を続けることにした。
数回の面接後、彼は重大な症状を告白した。小学六年のときから、彼は自分を後ろからじっと監視している目を意識し始めたというのである。この「後ろから」というのが曲者《くせもの》で、後ろからつけてくる、後ろから見張られているという訴えは、経験的に分裂病性のことが多いからである。
詳しく聞いてみると、その背後の目を初めて意識したのは、つぎのような状況のときであった。
そのとき彼は、深夜一人で二階の勉強部屋の机に向かっていた。彼の家のまえにはちょっとした林があり、周りの家の電灯もみな消えているので、眼前の窓外には黒々とした夜の闇が静かに広がり、勉強机についている彼の姿は、巨大な鏡となった窓ガラスにありありと映し出されていた。彼はそのとき急に、自分を後ろからじっとのぞきこんでいる目を意識したのである。
つまり彼は、正確には、正面のガラスに映った自己像の後ろに広がる暗闇にひそむ、何者かの目におびえたのである。この彼の体験などは、自己像幻視ときわめて近い性質のものと考えられる。
生活史を探っていくと、気の弱い彼の父親は、彼が小学四年のときから中学三年になるまでの間、原因不明の蒸発をし、その間、母親はたいへんな苦労をした。長男であった彼は、幼いながら、これからは自分が父親代わりをしなければならないと一大決心をし、精一杯努力して、決して後悔しないような毎日を送ろうと、自分のモットーを下敷にまで記して、猛勉強していた。
その「後ろから彼を見つめる目」は、中学進学で彼の緊張が最高潮に達した、六年生の二学期に現れたのであった。
「ウィリアム・ウィルスンだ」と私は思わずつぶやいた。彼は意味がわからないので、けげんそうに私の顔を見つめていた。
彼の前方に広がる暗闇から、窓ガラスに映った彼をじっと監視していたのは、幼い彼の自我が耐えるにはあまりに肥大しすぎた、彼の良心(スーパー・エゴ)にほかならなかったのである。
ゲーテの二重身もやはり、良心との葛藤《かつとう》によるものと考えられる。ゲーテは当時、法律の修業を続けるために、恋人をあきらめきれるかどうかで悩んでいた。フリーデリーケに別れを告げた帰途に現れる、消沈した八年後の自分の姿は、良心がゲーテに、裏切って恋人を捨てたおのが行く末を映しだしてみせたものにほかならない。
この、恋人を捨てたという心の痛みは、長くゲーテの胸に残り、くりかえしてその後の作品にモチーフとして現れ、ついに『ファウスト』のマルガレーテとなって結実する。
3 異境の地と精神変調
【旅の恐怖】
昔の旅は命がけ
正常な人でも、見知らぬ土地へ一人旅に出ると、被害感を起こしやすいものである。数ある怪談のなかでも、泊めた旅人を殺しては金品を奪い取っていた、という『安達ヶ原の鬼女』の物語には、妙に現実感があって恐ろしいものである。
私の少年時代は戦時中で、宿泊も不自由であった。一人で、えたいの知れぬ宿屋に泊まらねばならないこともあり、夜中に怪しげな物音でもすると、寝静まってから包丁《ほうちよう》をとぐ山姥《やまうば》の話が思い出されて、眠れぬ一夜を明かしたこともある。そんなわけで、この手の話は幼心にしみついている。
謡曲『黒塚』に出てくる鬼女は、残る色香もなまめかしい美女で、旅人の方も東光坊ら三人連れであるが、姫の薬にと生肝《いきぎも》をとっているうちに、食人の味をしめたという老女岩手のように、たいていは薄気味悪い老婆《ろうば》が、一人旅の旅人を殺す話になっている。江戸浅草の『姥《うば》ヶ池』伝説では、旅人に石まくらをさせて頭を割って殺す話であり、また、娘を夜伽《よとぎ》に出して、気のゆるんだところを惨殺するという母子のコンビもある。か弱い女手で屈強の男を殺さねばならないのだから、このような工夫もいることだろう。美女をおとりにおびき寄せた主従を、仕掛け天井と毒酒でみな殺しにする話が『宇治拾遺物語』に出ているが、これなども、おそらく平安時代の実話なのであろう。東北の民話では、小僧をたべそこなう山姥または山姥と牛方《うしかた》(牛を使う人)のはなしになっている。
とにかく、鬼も住まわぬ山奥の一軒家に女が一人で住んでいること自体が、魔性の者を思わせて気味の悪い話であるが、宿の女主人が老婆でなく、若い女である方が、かえって凄《すご》みがある。
落語『鰍沢《かじかざわ》』に出てくるお熊は、おいらんあがりのあだっぽい美女で、それが絶命した亭主の鉄砲を片手に、血相を変え、しびれ薬でまだ充分に体のきかぬ旅人を追いつめるすごさは、黒塚の鬼女とは違った迫力がある。
人も少なく、治安の悪かった昔は、人が人に会うことは恐怖の体験であり、旅に出ることはどんな危難にあうかもしれない意味があった。とくに、人っ子一人いない山中の一軒家では、泊まる方も、宿を貸す方も命がけであった。旅行者の方が殺されることもあったろうし、反対にうっかり悪人に一夜の宿を貸したために、貞操《ていそう》はおろか、一家惨殺のうきめにあった話も少なくない。
各国の民話に、旅人が宿の主人から危害を加えられる話が多く残っているのは、一つには治安の悪かったそのころの事実|譚《たん》を反映したものなのであろう。
お隣の中国をみても、夜中ひそかに、いろりの灰の上に種をまき、収穫した一夜そばの餅《もち》を旅人にたべさせてロバに変える、唐代の「板橋《はんきよう》店の三娘子《さんじようし》」の話や、旅人に毒酒を盛って金品を奪い、肉は切り刻んで肉まんじゅうにして店で売る、という悪虐《あくぎやく》な居酒屋の亭主の話が、ほんの添えものとして『水滸伝《すいこでん》』に出てくる。おそらくそんな話などは、麻のごとく乱れたという北宋末期においては、日常|茶飯事《さはんじ》であったのであろう。
しかし、それが旅人の被害妄想にすぎなかったことがわかるものもある。夜中に宿のものがひそひそ声で「ころしにすべえか、たたきにすべえか」と物騒なことを相談しあっているのを小耳にはさみ、一睡もせずにおびえていたのが、朝になって、そばの料理法のことだったとわかり、笑い話になっている。
海外旅行と精神変調
恐れを知らぬ旅なれた戦後の若者は別として、現在でも、中年以上の人が海外旅行にでも出かけるとなると、たいへんな神経を使うものである。金銭を細かく分けたり、胴巻きにしたり、手荷物の心配をしたり、行き先が間違っていないかと幾度も確かめたりして、くたくたに疲れてしまう。
正常な人でもそうであるから、われわれの治療経験でも、旅行が明らかに発病の引き金となった、と考えられる症例が案外に多い。
このあいだも、記憶喪失症となってヨーロッパから送還されてきた若い女性の記事が新聞に載っていた。私が大学病院に勤務していたときに受け持ったある商社の中東の駐在員は、灼熱《しやくねつ》の砂漠の町に単身で二年間もがんばって、やっと帰国の途についたときに、それまでの緊張が一時にゆるんだのか、飛行機のなかで「某国のエージェントが自分を狙っている」という被害妄想にとらわれて騒ぎだし、帰国して入院したが、数ヵ月たっても被害感がなかなかとれなかった。
この患者の部下夫妻が、偶然私の知人で、前任者たちがみな心身症になったという社内情報を知らせてくれ、自分もいつ順番が回ってくるかと戦々恐々ですよ、といっていた。二年後に、その夫妻が現地に赴任《ふにん》した。彼は無事に帰国することができたが、夫人の方は無実の盗難事件に巻きこまれ、ずさんな現地警察に逮捕されそうになり、危うく帰国した。「なにしろ手切りの刑があるところでしょう。怖かったわよ」と、会う人ごとにその冒険談を語っていた彼女であったが、内心はすごいショックだったらしく、帰国後しばらくしてから精神変調を来して入院し、治らないままに亡くなった。外国に任地をもつ大企業の宮仕えの厳しさには、まことに同情を禁じえない。
また、旅先で発病し、自分で頭をくりくり坊主にして入院させられた、若い自衛隊幹部夫人がいた。患者は、夫の任地|大湊《おおみなと》に面会に行ったのであるが、上野駅で列車に乗りこむころから、なんとなく周りのようすがおかしく感じられ、黒眼鏡の男がつけてきて同じ車輌に乗りこみ、駅ごとに乗りこんでくる仲間たちと、しきりに合図しているように思えた。すっかり包囲されたと思った患者は、隙をみて停車中の列車から脱兎《だつと》のごとく飛びだして駅の便所にかけこみ、中から鍵をかけた。そして貞操を守るために男装しようと、もっていた小さなはさみで髪を切って坊主頭になり、駅員に保護されたものである。
山姥《やまうば》の恐怖
とにかく、見知らぬ土地で親しげに寄ってくるものがいれば、一応、ごまの蠅《はえ》と疑って、そっと胴巻きの財布《さいふ》を確かめる、というのが戦前の教育を受けた平均的日本人の常識であるから、被害感の強い人が、旅先で妄想反応を起こしてくるのに、なんの不思議もない。
とくに、見知らぬ宿に一人で泊まり、これから眠ろうという瞬間に緊張は頂点に達するのである。おのれを狙う敵の、かすかな物音にも反応して飛び起きたという昔の武芸者とは違って、凡人はいったん寝こんだが最後、なにも自分を守るすべをもたぬからである。こういう不安緊張が最大に達した入眠寸前に、ふと耳もとに響いてくるのが、ギィー、ギィーと包丁をとぐ音であったり、ひそひそとなにやら相談しているらしい人声であったりする。
このときの不安な気分は、精神病患者の、いまにもなにか悪いことが起こりそうな気がするという妄想気分にきわめて近いといえる。
栗《くり》食いたさにひかれて、和尚《おしよう》の忠告も聞かずに山姥《やまうば》の家に出かけた小僧に、「さては、やはり和尚のいった山姥ではないか」という疑念がわき起こると、無心の雨だれまでが、
「こんぞ、あぶねな、テンテンテン、
こんぞ、あぶねな、テンテンテン」
と聞こえてくるのである。
不安にかられた小僧が、そっと障子の破れ目からのぞくと、寝化粧におはぐろをつけ直している老婆の顔が、ほの暗い行灯《あんどん》の灯影《ほかげ》にはえて、だんだんと不気味に見えてきて、ついに口が耳もとまで裂けた山姥の顔に変わり――多分、恐怖にかられた小僧の、情動による錯覚であろう――、無我夢中で逃げだすのである。
ギィー、ギィーと夜中に包丁をといでいるのも、ほんとうは早い朝だちの旅人のために、前夜から朝餉《あさげ》の準備をしていたのかもしれない。追っかけてくるのも、誤解を解くためや、宿賃の精算、忘れ物などの理由からであろう。
とにかくいったん恐怖にかられた人間には、そんな理性のはたらく余地はなく、ただ一目散に逃げだして、後に悪夢のような怪談|噺《ばなし》を残すことになる。
つまり、『安達ヶ原の鬼女』に代表されるような怪談の半分は事実|譚《たん》であり、半分は旅人の被害妄想と入眠時幻覚の産物なのであろう。
第四章 精神変調時の幻覚
【心因反応と幻聴】
1 幻聴と錯視
「耳なし芳一《ほういち》」
幻聴に訴える幽霊の中で有名なのは、『番町|皿屋敷《さらやしき》』の皿を数えるお菊の声と『牡丹灯籠《ぼたんどうろう》』の、遠くからカラン、コロンと近づいてくるお露の駒下駄《こまげた》の音、それにハーンの「耳なし芳一」の話であろう。
芳一は盲目の琵琶法師《びわほうし》であるから、聴覚は異常に敏感で、それだけに、自分を呼ぶいかつい武者の胴間声《どうまごえ》、鎧《よろい》の草ずりの音、女官《によかん》一同のすすり泣きなどが効果的に使われているし、また、手をとって邸内を案内してくれる女官の、練絹《ねりぎぬ》のような手ざわりなどが、細やかに描写されていて、リアリティーをたかめている。これはハーンが、英国の神学生時代に、遊戯中誤って左眼を失明し、残る右眼も視力が充分でなく、次男巌氏によると「父はほとんど半盲に近かった」ことと無関係ではないであろう。
「耳なし芳一」の話は、ハーンの『怪談』中の白眉《はくび》であるが、原典ははっきりしないという。
池田弥三郎氏によれば、ほとんど同じプロットの「耳切団一」という話が、徳島に伝わっているということであるが、経文《きようもん》を書き残したところをもぎとられるという重要な部分は、『曾呂利《そろり》物語』の「越後座頭耳きれ雲一の自伝」や、庄内の民話「即身仏」などにみられるから、私はもともとは、越後を中心に裏日本に分布した瞽女《ごぜ》の系列に属する話ではなかったかと考えている。
しかし、ハーンが舞台を直接に平家滅亡の地、壇《だん》の浦にもってきたことは、物語に迫真の臨場感を加えるたいへんな効果をもたらした。
名作の分析ほど野暮《やぼ》なものはないが、あえてこの物語を精神科医として解釈してみると、芳一は芸人にありがちな強い自負心と、身体障害者のもつ劣等感、不遇感があり、それを償《つぐな》うための誇大な空想癖のある、感情的に不安定なタイプで、日ごろから一度は高貴な方の御前で演奏してみせると法螺《ほら》をふいては、周囲の嘲笑《ちようしよう》をかっていたのであろう。このような不適応型の人は、間欠的な精神変調を来しやすいので、物語は、その精神変調時に、芳一の日ごろの空想が現実のもののように体験されたもの、と考えるとよく説明がつくように思われる。
『牡丹灯籠』の新三郎にしても、訪れてくる女の正体が死霊であることを知らされてからのおびえが、彼を物音に敏感にさせ、遠くから響いてくる優雅な駒下駄の音が、ぞっとするような効果をあげるのである。
騒音に満ちた現代とは違って、物語の設定されている江戸時代は、物音の少ない静寂な世界であった。夜のとばりが下りれば、そこはもう、死霊、生き霊が往来し、魑魅魍魎《ちみもうりよう》が横行する世界であった。だからこそ、カラン、コロンというかすかな駒下駄の音が効果をあげうるのである。
また落語の『野ざらし』のように、夕寺の鐘の音が陰にこもってものすごく響くだけで、妄想気分がかもしだされるからこそ、こういう怪談が成立するのである。
お菊のうらみ
「いちまーい、にまーい」と古井戸から聞こえる、か細いすすり泣くような皿《さら》を数えるお菊の声は、播磨《はりま》を始め屋敷中の人々をふるえあがらせる。
お菊はもっぱら幻聴に訴えて、手討ちにした播磨にも、その姿は見せないのである。
いくら使用人の命の安かった江戸時代のこととはいえ、お家重代の皿を一枚こわしただけで手討ちになるのは、理由不足である。当然、岡本|綺堂《きどう》の戯曲のように、お菊は播磨と肉体関係があり、播磨の伯母《おば》のすすめる縁談に不安を感じて、播磨の愛情をテストするためにわざと皿をこわす。播磨は自分の愛情が疑われたことに立腹して、お菊を手討ちにする、という新解釈が生まれるのである。
綺堂のこの仮定が正しかったとしても、お菊を殺した播磨の真意はそのとおりであろうか。階級制度のきびしかった江戸時代に、れっきとした直参《じきさん》旗本の当主が召使いを奥方にするなど、到底考えられないことであり、播磨はそろそろお菊をもてあまし、小石川の伯母のすすめる縁組みに心が動いていたのであろう。だからこそ、お菊は不安になって皿をこわしたのであり、播磨はそれを、お菊を始末する絶好の口実に利用したのである。
そのやましさがあるので、手討ちのあとで、「ああ、播磨一世一代の恋も終わった」と大見得をきってはみても、死体を投げこんだ古井戸からの幻聴に悩まされて、錯乱《さくらん》状態におちいらなければならぬのである。播磨にほんとうの愛情があれば、自分の愛情をテストしなければならぬところまで追いこまれた哀れなお菊の心根をくんで、許せるはずである。
幻聴が、加害者である播磨以外の使用人たちにも聞こえたのはなぜか。当時の古い武家屋敷では、ちょっと風でも吹けば、不気味な物音などいつでも聞こえるものであり、播磨が錯乱するにつれて、惨劇の目撃者である使用人たちにも、幻覚が集団感染していったものと考えられる。
また、封建時代における武家屋敷の女中というものは、ハーレムの女のような存在であった。生殺与奪《せいさつよだつ》の権をもった主人の性欲の対象とされれば、これからのがれることはまず不可能で、どうしてもなびかぬため、つるし責めを受け、それでもいうことをきかないので、ついに裏の竹林でつるし斬りにされたそのころの実話などがごろごろしている。
飯田豊太郎氏の『怪談千一夜』の中に、「橋の上」という話が載《の》っている。
用人の父が病死して、身寄りがなく引きとられた娘に、屋敷の主人が懸想《けそう》して日夜いい寄り、せっぱつまった娘は、日限をきっていいのがれる。ついにその日がきて、娘は外出を願い出る。猜疑心《さいぎしん》の強い主人が後をつけていくと、娘の姿は父親が急死した吾妻《あずま》橋の上で、ふわふわと橋板に吸いこまれたように消えてしまう、という怪談である。身寄りのない身空で、生殺与奪の権を握っている屋敷の主人に狙われれば、この娘のように、四次元の世界にでも消えるほかはないであろう。
『番町皿屋敷』の原話とされるものには諸説があるが、無実の罪でなぶり殺しにされた女中の怨霊《おんりよう》が主家を断絶させた、という備後《びんご》の『尾道の竹』の話もその一つであるという。また鏡花の小品にでてくる、竹藪《たけやぶ》で虫責めにされたうえ、天井につり下げられて斬り殺された妾《めかけ》の亡霊が出る、金沢の武家屋敷の話なども、同じ系列の怪談である。
つまりお菊の幽霊は、封建時代における、こうした各地の屋敷勤めの女中たちの恨みを代表するものなのである。だからこそ、このお菊の物語は、当時の人々の同情と共感を呼び、広く後世に語りつがれたのであろう。
ところが今日では、『四谷怪談』は毎年のように上演されるのに、『番町皿屋敷』のお菊の方は、戦前のような人気は失ったようである。私の少年時代までは、つるべで井戸から水をくんでいたし、ちょっとしたお屋敷には女中さんが何人もいた。軍人が妾《めかけ》を軍刀で斬り殺した、などという話がまことしやかに語られたりして、『番町皿屋敷』は、比較的身近な話として聞くことができた。
しかし、女中さんがヘルパーさんと呼ばれて、宝石のような存在となった昭和元禄においては、お菊のような使用人の哀話《あいわ》など、もっとも共感を呼びにくいものになったせいもあるだろう。
とはいえ、私が綺堂の解釈に疑義をいだいたのは、綺堂の戯曲を読んだ中学生のときからである。つまり、子供心にもどこか引っかかる不自然なものを感じたので、長い間頭の中に残っていたのである。
名作というものは、精神科医が読んでも、主人公の心理描写など実に感心するようなものが多いから、『四谷怪談』が残り『番町皿屋敷』の方がさびれたのは、鶴屋南北と綺堂との脚本のでき、不できによる部分も大きいのではあるまいか。
『四谷怪談』の迫真性
数ある怪談|噺《ばなし》のなかで、日本の代表的な幽霊はといえば、まず『四谷怪談』のお岩にとどめをさすであろう。
四世鶴屋南北の芝居の筋の方が、すっかり有名になっているが、実説では、お岩は婿《むこ》養子の伊《い》右衛《え》門《もん》にだまされて、一六年間旗本屋敷に奉公に出たが、いつのまにか伊右衛門の上役、伊藤喜兵衛の娘、実名お琴《こと》が妻の座におさまっているのを知り、四谷外堀に身投げしたというだけの事件であるという。
しかし芝居の方が、筋立てに迫真性があって、精神科医がみてもよくできている。とくに第二幕の終わり、伊右衛門が邪魔なお岩を始末して、晴れてお梅との祝言《しゆうげん》をあげ、さてこれから新枕《にいまくら》という場面で、いつしかお梅の顔、声色《こわいろ》がお岩に変わり、ぞっとした伊右衛門が抜き討ちに首を打ち落とすと、お梅の首であったという場面には、生々しい現実感があって、もっとも恐ろしい場面である。
伊右 扨《さて》、是《これ》からが新《にい》まくら。娘の手入《てい》らず。ドリヤ、水上《みずあげ》にかゝらふか。
トすごき合方《あひかた》に成《なり》、時の金。上《かみ》の方《かた》、屏風へかゝり。
お梅どの、さぞまちどふに〇。
ト屏風|引明《ひきあけ》、床《とこ》の上に、お梅、うつむいて入《いる》。伊右衛門、近よつて、
是《これ》、花嫁御《はなよめご》。うつむいて斗《ばか》りゐる事は無い。はづかしく共顔を上《あげ》、日比《ひごろ》の恋のかなふた今宵《こよひ》。そんならめでたくこちの人、わが妻《つま》〔夫〕かいのとわろ〔笑〕ふてい〔言〕やれな。
ト寄りそふ。
いわ アイ〇、こちの人、わが妻かいの。
ト顔を上《あげ》、くだんの守りを差出し、おいわのかほにて、伊右衛門を恨めしげに、きつとみつめて、けらとわろふ。伊右衛門はぞつとせし思入《おもひいれ》にて、傍成《そばなる》、刀引取《かたなひきとり》、ぬき打《うち》に、ぽんと首うつ。此首、前のゑんへ落《おち》ると、お梅の本《ほん》くび出て、うすどろ。鼠出てむらがる。伊右衛門、くびをよくみて、
伊右 やゝ、やつぱりお梅だ。こりや、はやまつて。
(阿部正路『日本の幽霊たち』日貿出版社)
この迫真性があるということは、心理学的に重要であって、われわれが名作を読む場合には、作中の人物がまるでそこに実在するように、あざやかな印象をもって伝わってくる。つまり、作中の人物に実際に会ったのと同じ効果、いや、それよりもさらにあざやかな印象が得られる。名作を再読すると、初回よりかえって感動が深まるといったように、再現性がある。また、あの人はカルメンみたいな女だといえば、だれもが共通のイメージを思い浮かべることができるように、普遍性がある。
つまり、名作中の人物は、実際にその人に対面しているような心理学的現実性をもっているのであり、ことばをかえると、実際に知覚するのと同じようなあざやかな像を、われわれの心の中に描きだすものであるということができよう。
われわれの精神生活の、これ以上さかのぼれない根元的な現象は、主体が客体に向きあっていること、および自己が対象に向かっていることを知っていることである。これを対象意識と自己意識というが、対象意識には二つの場合がある。
すなわち、対象が実物として――ヤスパースのことばを借りると「感じてわかるようにいまあり、生き生きと飛びこんでくる感じで、客体がそこにあるのだという性質で」――存在する知覚と、対象が心の中に描いた像として――実物はいまないものだが、それを熟知し、意志によって思いうかべることができる輪郭という性質で――存在する表象《ひようしよう》との二つである。
読者は、これまでに私が、実際に起こった幻覚もフィクション上の幻覚も同列に論じていることに、疑念をもっておられたのではなかろうか。
精神病理学はこのように、実際に存在する対象によって起こる知覚も、実際には存在しないのにあたかも存在しているように感じる幻覚も、われわれが名作を読んで心の中に描きだす表象も、人の心の中に起こるあらゆるできごと(心理学的現象)のすべてを取り扱う学問なのである。
しかし、この知覚、幻覚、表象《ひようしよう》の三者が、いつもこのようにはっきり区別されるとは限らないのである。『ハムレット』でも触れるが、真性幻覚と表象との中間的性質をもつ仮性幻覚が存在するし、感覚遮断実験によって起こる幻覚もまた、真性幻覚よりも、心の中に描きだされたイリュージョン(幻想)、表象に近い性質をもつといわれている。
われわれが、名作に扱われている名場面を読んで、まざまざと思い浮かべるのはもちろん表象であるが、生き生きとした心理的現実性をそなえたような表象になると、これはすでに知覚との中間的性格をもっているのであって、仮性幻覚や感覚遮断性幻覚と類似した現象と考えることもできる。
つまり、『四谷怪談』に関していえば、この鶴屋南北の名場面の方が、精神医学的にみて実話よりはるかに事実らしい、心理学的現実性をもっているといえるのである。四世鶴屋南北に、このような現代精神医学の知識があったはずはないのに、伊右衛門の幻視を、真性幻視でなく錯視にした勘《かん》の正しさには驚くほかはない。
精神変調を来すのに三つの場合がある。一つは、アルコールなどの薬物や高熱による代謝性毒素など、外部からの原因にもとづく外因性精神病、一つは、精神病になりやすい体質などの生体側の原因による内因性精神病(分裂病や躁うつ病が代表)、そしてもう一つは、なにか大きな精神的ショックによって発病したような心因性精神病、の三つである。その病像にはそれぞれ特徴があって、外因性精神病では、前にも示したように活発な幻視がみられるのに、分裂病や心因反応では幻聴が多く、幻視が現れることはまれであるからである。
最近の新聞に、バラバラ事件の殺人犯人が、罪業感《ざいごうかん》にせめられ、被害者が毎晩夢|枕《まくら》に立つので熟睡できず、酒びたりになってやっと二、三時間仮眠する状態であった、という記事が載っていた。治安のよい現代においては、伊右衛門のような連続殺人犯の呈する精神異常については、拘置《こうち》中の殺人犯がうなされて自白した、というたぐいの新聞報道で、わずかに知ることができるにすぎない。
犯人は、その罪業感の強さによってさまざまな精神変調を来しているのであろうが、夢枕に立つというのは、被害者が夢に現れた場合と、それが入眠時幻覚と結合して現れた場合とをいうので、目ざめて意識のはっきりしているときに、はっきりした真性幻視が現れることはきわめてまれである。
伊右衛門の錯乱は、このバラバラ事件の犯人などとだいたい同じような精神状態と考えられるから、このお梅の誤殺を錯視によるものにした南北の判断は、精神医学的に正当性がある。
前にも触れたが、名作が精神医学的法則に合致することには、感心させられる。いささかでも心理学的に矛盾があるようであれば、読者に深い感銘を与え、古今の名作として、後世に語り伝えられるはずがないからである。
怪談|噺《ばなし》の名人とうたわれた円朝もまた、『真景|累ヶ淵《かさねがふち》』における殺しの場面を、酩酊《めいてい》と錯視によるものにしている。一つは、深見新左衛門が借金の催促に責められるあまりに殺した按摩《あんま》の宗悦《そうえつ》の幽霊と誤認して、奥方を斬り殺す場面である。
新左衛門が宗悦を殺害してから、奥方が原因不明の病気にとりつかれて苦しむので、通りがかりの按摩を呼んでくる。按摩は、にわか盲で鍼《はり》はできないという。そこで、かわりに新左衛門が自分の肩をもませることになる。
奥方「ああ痛、ああ痛」
新「そうどうもヒイヒイ言っては困りますね、おまえ我慢ができませんか、武士の家に生まれた者にも似合わぬ、痛い痛いといって我慢ができませんか、ウンウンそうもだえてはかえって病いに負けるから我慢していなさい、ああ痛、これこれ按摩待て、少し待て、ああ痛い、なるほどこいつはどうもひどい下手だな、てまえは。ええ、骨の上などをもむやつがあるものか、少しは考えてやれ、ひどく痛いわ、ああ痛い、たまらなく痛かった」
按摩「へえ、お痛みでござりますか、痛いとおっしゃるがまだなかなかこんなことではございませんからな」
新「なにを、こんなことでないとは、これより痛くってはたまらん。筋骨に響くほど痛かった」
按摩「どうしてあなた、まだ手の先でもむのでございますから、痛いといってもたかが知れておりますが、あなたのお脇差《わきざし》でこの左肩から乳のところまでこう切り下げられましたときの苦しみはこんなことではありませんからな」
新「え、なに」
と振り返ってみると、先年手討ちにした盲人宗悦が、骨と皮ばかりにやせた手を膝にして、恨めしそうに見えぬ目をまだらにひらいて、こう乗り出したときには、深見新左衛門は酒の酔《え》いもさめ、ぞっと総毛だって、怖い紛《まぎ》れにそばにあった一刀をとって、
新「おのれまいったか」
と力に任《まか》して切りつけると、
按摩「あっ」
というその声に驚きまして、門番の勘蔵が駆け出して来てみると、宗悦と思いのほか奥方の肩先深く切りつけましたから、奥方は七転八倒の苦しみ、
新「あ、あの按摩は」
と見るともう按摩の影はありません。
新「宗悦め執《しゆう》ねくもこれへ化けてまいったなと思って、思わず知らず切りましたが、奥方だったか」
奥方「ああたれを恨みましょう。わたくしは宗悦に殺されるだろうと思っておりましたが、あなた御酒《ごしゆ》をおやめなさいませんとついには家が潰《つぶ》れます」
と一、二度空をつかんで苦しみましたが、奥方はそのまま息は絶えました……。 (『三遊亭円朝全集』「真景累ヶ淵」角川書店)
もう一つは、新吉が、お久との道行きの途中、捨てた豊志賀《とよしが》の顔と見誤って、鎌でお久を惨殺する場面である。
新吉は、腫物《はれもの》でお化けのような顔になり、若い内弟子お久へのしっとで狂い死にした豊志賀の恨みをよそに、お久と手に手をとって、たんぼの土手道にさしかかる。おりしも夕立ちであたりは真っ暗。土手の上から滑ってころんだお久は、ちょうどそこにあった草刈鎌で、ひざを深く切ってしまう。
久「どうも痛くってたまらないこと」
新「痛いたって真っ暗でちっともわからない、まあお待ち、この手ぬぐいで縛ってあげるから、また一つこう縛るから」
久「ああ大きに痛みも去ったようでございますよ」
新「我慢しておいでよ、わたしがおぶいたいが、包みをしょってるからおぶうことができないが、わたしの肩へしっかりつかまっておいでな」
と、びっこ引きながら、
久「あいありがとう、新吉さん、わたしはまあほんとうに願いが届いて、おまえさんと二人でこうやってこんな田舎へ逃げてきましたが、これから世帯を持って夫婦仲よく暮らせれば、これほどうれしいことはないけれども、おまえさんは男ぶりはよし、浮気者ということも知っているから、ひょっとしてほかの女と浮気をして、おまえさんがわたしに愛想が尽きて見捨てられたらそのときはどうしようと思うと、今から苦労でなりませんわ」
新「なんだね、見捨てるの見捨てないのと、ゆうべはじめて松戸へ泊まったばかりで、見捨てるもなにもないじゃあないか、おかしく疑《うたぐ》るね」
久「いいえあなたは見捨てるよ、見捨てるような人だもの」
新「なんでそんな、おまえの伯父さんを頼ってやっかいになろうというのだから、けっして見捨てる気づかいはないわね、見捨てればこっちが困るからね」
久「うまく言って。見捨てるよ」
新「なぜそう思うんだね」
久「なぜだって、新吉さん、わたしはこんな顔になったよ」
新「ええ」
と新吉が見ると、お久のきれいな顔の、目の下にぽつりと一つの腫物《しゆもつ》ができたかと思うと、たちまちはれあがってまるで死んだ豊志賀のとおりの顔になり、膝に手をついているところが、鼻をつままれるも知れない真の闇に、顔ばかりありありと見えたとき は、新吉は怖い三昧《ざんまい》、一生懸命むちゃくちゃ に鎌でぶちましたが、はずみとはいいながら、逃げにかかりましたお久の喉笛《のどぶえ》へかかりましたから、
久「あっ」
と前へのめるとたんに、研ぎすました鎌で喉笛を切られたことでございますから、お久は前へのめって、草をつかんで七転八倒《しつてんばつとう》の苦しみ、
久「ううん、恨めしい」
という一声で息は絶えました。 (『三遊亭円朝全集』「真景累ヶ淵」角川書店)
勉強家の円朝の念頭にはもちろん、下敷としてさきに述べた『四谷怪談』の場面があったことでもあろうが、彼自身、実際にどう語ればより迫真性がでるかと日夜|腐心《ふしん》の末に、このように場面を設定したものであろう。
サディスティックに悪虐の限りをつくす伊右衛門にも、やはり良心の呵責《かしやく》はあり、罪業感からのがれるための深酒、泥酔《でいすい》による誤殺、それを忘れるための深酒と、しだいに精神は荒廃していくのである。精神医学的にみると、罪業感から心因反応を起こし、それに泥酔による錯覚が加わって、つぎつぎに殺人を犯したものと解釈できるのである。
このような心因性の精神異常においては、『番町皿屋敷』のように幻聴が主であって、本物の幻視が出現するのはまれである。幻視のように見えても、これまであげた三場面のように、実は錯視にすぎないのである。
また伊右衛門や新左衛門の場合は、泥酔による錯覚のほかに、アルコール禁断現象の一つである一過性の幻視が混じっている可能性もある。円朝が、いまわのきわの奥方に、新左衛門に対して「あなた御酒をおやめなさいませんとついには家が潰れます」といわせているのは、新左衛門のアルコール中毒が、そうとうに進行していることを示すせりふである。
この一過性幻視の時期に、人の顔が見える症例が実際にあるのである。私の経験したある男性の症例では、鴨居《かもい》のところにぞっとするように怖い女の顔が浮かび、彼の方を見てニタリと笑ったという。
彼は、そのときの恐怖感があまりに強かったので、抗酒剤をもらわなくとも、二度と酒は口にしません、と青い顔をして真剣に告げるのであった。その女の顔は知った人でもなく、女に恨まれるような過去もないということであった。
お岩の顔
さて、お岩も、豊志賀も、あとで触れる皮膚梅毒で顔がくずれて男に殺される女も、化けて出る直接の動機は、女の命である顔を傷つけられて男に捨てられた恨みなのである。顔さえもとのようであれば、薄情な男にそれほどまでに執着する道理はないのである。
お岩にしても、もともと器量のよい顔ではないが、夫と隣家の喜兵衛が共謀して、血の道の薬とあざむいて毒薬を飲まされ、二目とみられぬ醜怪《しゆうかい》な顔にされたから、化けて出るのである。
あるときは暴力をふるい、あるときは神経的にいらいらとサディスティックにお岩を責《せ》めぬく伊右衛門であるが、お岩の顔さえ傷つけるようなことをしなければ、お岩も化けて出ることはなかったと思われる。
つまり、他の恨みはさておき、女の命である顔をめちゃめちゃにされた恨みが直接の動機になって、化けて出るのである。
女性の、顔に対する特別な執念をつくづく感じさせる経験を、私は身近なところでもった。それは、妻が腎盂《じんう》炎にかかり、三週間ほど入院したときのことであった。
その病棟は各科の混成病棟であったので、同室に、上顎洞《じようがくどう》ガンの再手術のために入院している三〇代の主婦がいた。病院では特別な友情が芽ばえるものらしく、同じ年ごろの子供のいることもあって、妻は自分が退院してからも、外来受診のついでに病室を見舞ったり、向こうから電話がかかってきたり、交渉があるようであった。妻の話によると、一年前に上顎洞ガンのごく初期だといわれて手術を受けたが、経過が思わしくなく、いまなら間にあうからと、主治医から再手術をすすめられているのだが、本人に決心がつかず、一日のばしに再手術をのばしているのだった。
その本人から電話があって、医師としての意見を求められたので、私はつい、「子供もいることだし、すぐ手術を受けるべきだ。命あっての物種でしょう」とはっきりいってしまった。後でその夫から、本人にはまだはっきりガンであることをいってなかったので、ショックを受けたようだ、と多少恨みがましい電話がかかってきた。夫も主治医から、早急に再手術を受けるよう本人を説得するようにいわれているのであった。
しかし彼女は、顔を切らずにすむという誘惑に負けて、貴重な六ヵ月間を丸山ワクチンの注射を続けることで費やし、ついに手遅れとなって、間もなく亡くなってしまった。
考えてみると、彼女も外から見えない子宮ガンであったら、ためらわずに再手術を受けたであろう。また乳ガンで乳房《ちぶさ》を切りとるとか、たとえ片足を切断しなければならなかったとしても、彼女はちゅうちょすることなく手術を受けたことであろう。しかし、場所が顔であったばっかりに、女の命である顔を失う決心は、幼いわが子のことを考えてもなお、まだ三〇代の彼女にはつかなかったのである。
私はこの身近な体験から、しみじみ、女の顔に対する執念を感じさせられると同時に、お岩が化けて出てきたほんとうの理由が初めてわかったような気がしたのである。子供時代、危険な遊びをしている従姉に、伯母が「そんなことをしてお岩さんみたいな顔になったらどうするの」としかっていた。女の子にとっては、なにより効果のあるおどしであった。
お岩の恨みは、本質的には男に愛してもらえぬ醜女《しこめ》の恨みであろう。
お岩は貞淑な心優しい女性である。しかし伊右衛門は、お岩の器量が悪いというだけの理由で、彼女が尽くせば尽くすほど邪険《じやけん》にする。もともと容貌《ようぼう》は、本人にはなんの責任もない生まれつきのものである。しかし世間の男は、心根が優しいからというだけでは愛してくれない。ちょっと鼻が高いとか、目が可愛いとかのつまらぬ理由で、一方はおおぜいの男にとり囲まれてちやほやされ、片や声もかけてもらえないどころか、慕《した》い寄っていくと、身ぶるいして足蹴《あしげ》にでもされかねない。世の中にこんな理不尽なことがあるであろうか。男ならば、発奮し、出世して相手を見かえすことができる。しかし受身の立場の女性の場合は、自尊心を回復しようがない。財産家の家つき娘であれば、財産があるだけに素直に相手の愛情が信じられない。
私は結婚間際になり、不安が強くなって発病した女性患者を受けもったことがある。錯乱した彼女は、婚約者が自分を愛しているのではなく、財産めあてなのだと口走っていた。彼女は、魅力的だとは決していいがたい容貌であった。彼女には、根深い醜貌《しゆうぼう》コンプレックスが眠っていたのであろう。
お岩の恨みは、こんな女性の気持を代弁するものであるから、女性が忍従を強いられることのない現代でもアピールするのであろう。
考えられない状況設定
お岩やお菊のような幽霊は、良心の呵責《かしやく》から精神異常を来した主人公の体験する幻覚であるから、本人だけに見えて、健康な周囲の人には見えないのが原則である。ところが円朝の怪談|噺《ばなし》には、これと反対に、本人には見えなくて、周囲の人に見える幽霊が出てくる。
駆け落ちの道中で、皮膚梅毒で醜《みにく》い顔になった女を惨殺し、なにくわぬ顔で道中を続ける男が、泊まる宿ごとに旅籠《はたご》の者に二人分の仕度をされる、という怪談|噺《ばなし》である。
これはつまり、他人には見えて、本人には見えぬ幽霊で、精神医学的にはありえぬ現象であり、遊びとしての怪談噺に属するので怖さが薄い。しいて解釈すると、女殺しにおびえる主人公が、宿の者の手違いで二人分の仕度がされたのにショックを受け、つぎの宿から、いつも二人分の仕度がされているような錯覚をいだく、といったことであろうか。
しかし、円朝の十八番の怪談噺『牡丹灯籠《ぼたんどうろう》』が、明朝の『剪灯新話《せんとうしんわ》』からの翻案であるように、この噺《はなし》もまた、清朝末年に出版された『勧戒録選《かんかいろくせん》』が粉本《ふんぽん》なのである。この噺のもとになったと思われるものが、昔の中国の官吏登用《かんりとよう》試験の一つ、郷試《きようし》におけるエピソードとして紹介されている。
ある年の南京の郷試に田舎から出てきた挙子《きよし》が旅館にとまろうとして宿賃を主人とかけあった。挙子はひとりだというが、主人はおふたりですという。
「それ、あなたのうしろに奥さんがいられるではないですか」
といわれてふりかえったが、だれもいない。
「そのお顔色のわるい女子さんは奥さんと違いますか」
といわれて、急に挙子はまっ青になってうろたえだした。
「今度の試験はどうも縁起《えんぎ》がわるい。もうやめだ」
と言い終わると一目散に逃げだした。あとに残された女子は旅館の主人に向かい、
「あなたは何という情ない人だ。やっとのことで仇《かたき》を見つけて無念をはらそうと思ったのに、あなたが余計なことをいったばかりに、いってしまったではないか」
と食ってかかるので主人は困って、
「いましがた立ち去ったばかりですから、早くおいかけてつかまえればいいでしょう。私は何も知りませんので」
「あなたは知りませんか。死人が仇討ちするのは貢院《こういん》の中でだけできることなのです。やっとのことで機会をみつけたのに、あなたのお蔭でめちゃくちゃになった。おのれ、どうしてくれよう。この上はあなたを代わりに道連れにするからそう思え」
と飛びかかってくるので主人はびっくりして、
「まあ待って下さい。いかにも悪かった、ご勘弁のほどを。しかしまたの機会ということもありますから、まあそれまでお待ち下さい。冥途《めいど》へお帰りの旅費はいくらでも差し上げますから」
というと女子は少し機嫌をなおし、それなら今晩、紙銭《しせん》をやいてお経をあげるようにと条件をつけ、約束がすむとにたりと笑ってそのまま見えなくなったという。 (宮崎市定『科挙』中公新書)
中国にはこのほかにも、他人には見えて肉親にはその姿の見えぬ幽霊|噺《ばなし》がある。埋葬《まいそう》した母親と思われる幽霊の、墓地から家までの馬車代をたびたび請求されるので、改葬したら異変が起こらなくなった、という話が唐代の『続玄怪録《ぞくげんかいろく》』に載っているから、なんの関係もない他人だけに見えて、当事者には見えないという幽霊噺は、中国では珍しくないのかもしれない。
2 ハムレットの幻覚
幽霊と妖怪
城壁に沿った空地。城壁の戸が開き、亡霊に続いてハムレットが現れる。
ハムレット「どこまでいくのだ。さあ口をきけ」
亡霊「いまより語る事の顛末《てんまつ》、心して聞け。
聞けば復讐の義務から逃れられぬであろう」
ハムレット「う、思ったとおりか!
やはり、あの叔父《おじ》が!」
(『ハムレット』第一幕 第五場)
ハムレットの幻覚については、精神医学でもいろいろ説の分かれるところである。
私があえて「亡霊」ということばを使ったのは、ハムレットの幻覚は幽霊なのか、妖怪なのか、という疑問がでているからである。
柳田国男は、幽霊と妖怪の差について、はっきりと区別している。
それによると、第一に、妖怪は出現場所がほぼ決まっているが、幽霊は相手によって、どこへでも出向く。第二に、妖怪は相手を選ばないが、幽霊は特定の相手にとりつく。第三に、妖怪の出現する時刻は薄暮《はくぼ》や未明、幽霊は丑満刻《うしみつどき》が多い。
この時刻についての定義には異論があり、両方とも丑満刻に出現すると考える人が多いから、柳田国男の分類も要約すると、池田弥三郎氏のように「人を目指して出現する幽霊と、ある限られた特定の場所に出る妖怪」との違いということになる。つまり幽霊は人につき、妖怪は場所につくのである。
これを精神医学の方から説明すると、幽霊とは、罪業感にさいなまれて精神異常を呈《てい》している人の見る幻覚であるから、特定の人にだけ見え、どんな場所にでも出現するのである。これに反して妖怪とは、特定の場所にきた人はだれかれの区別なく経験する怪奇現象である。つまり、そこにくれば幻覚を起こしやすいような不気味な場所があって、そこで不特定多数の人が体験する生理的幻覚なのである。
泊まると必ずうなされる「開かずの間」などは、入眠時幻覚で説明することができるし、妖怪のすむ荒れ寺、古家などは、感覚遮断性幻覚を生じやすい条件をそなえた場所ということができる。
貢院と『ハムレット』の亡霊
さきにも引用したが、郷試《きようし》の行われる試験場の貢院《こういん》というところも、お化けが出やすい場所であるという。
……ある挙子は試験場で急に発狂して、しきりに「許してくれ、許してくれ」とさわぎ出した。答案の上を見ると文字は一つも書いてなくて、女の靴の絵が画いてあった。かつてこの挙子が貞操をおかしたために自殺した若い下女の亡霊が現われて、彼を苦しめ発狂させたのであった。
これに似た話は数多く語られている。そしてお化けの出るのは、主として郷試の場合にかぎられているのも不思議である。郷試は貢院という、うす気味悪い場所で挙行されるのであるが、おそらく、挙子の入場後、ひとたび大門の扉がしめられると、試験終了までは絶対に二度とは開かれず、完全に内外が遮断されてその内部は全く外界から孤立してしまうからであろう。貢院内はいわば娑婆《しやば》の世界をはなれて地方官の統治権も警察権も及ばぬ別世界である。そしてこの中だけが仇討ちが許される場所なので、そこをねらって幽霊やお化けが出没すると考えられたのである。 (宮崎市定『科挙』中公新書)
いまも昔も受験地獄には変わりがないが、この郷試というのは、独房に三日二晩もの間かんづめにされて、畢生《ひつせい》の知恵を絞って答案作成にかからなければならない、という猛烈なマラソン試験で、心身ともに消耗して、精神異常を呈してもいっこうに不思議ではない。「そしてお化けの出るのは、主として郷試の場合にかぎられているのも不思議である」という疑問は、精神医学の立場からすれば、しごくありうることとして説明できる。
三日二晩にわたる精神的ストレス、睡眠不足、空腹などという生理的な悪条件もさることながら、郷試における幻覚発生の最大のファクターとなっているのは、なんといっても試験場である貢院の構造にあると考えられる。
貢院は、ちょうど人一人入れる大きさの独房のような部屋が、蜂の巣のように何千何万と集まっている建物で、独房には戸もなく、家具もなく、ただ三方をれんがで仕切られた空間にすぎない。このような部屋が、一見迷路のような小路でつながれている。三年に一度の試験にだけ使用される建物なので、ふだんは手入れが悪いため荒れ放題といったところである。「もしひとりで夜中にこんなところへ迷いこんだら、どんなに気味が悪いことだろう。きっと鬼哭啾々《きこくしゆうしゆう》、といった感じにちがいない」という状況である。 (宮崎市定『科挙』―中公新書―から要約)
まったく、感覚遮断の実験室にぴったりの条件をそなえた構造ではないか。
こんな部屋に三日二晩も隔離《かくり》され、ほの暗いろうそくの火を頼りに、徹夜で自分の一生の運命を左右する答案を作成しなければならないとしたら、自分の来《こ》し方行《ゆ》く末が走馬灯のように受験生の頭の中を去来し、もし過去に悪行をおかしたおぼえがあれば、幻覚を生じてきてもなんの不思議もない。『科挙』の著者は奇《く》しくも、貢院には「お化け」が出ると書いておられるが、貢院で起こる幻覚は、比較的多数の人に起こりやすいことでは妖怪的であり、過去に罪業のある人に起こることでは幽霊的で、ちょうど中間的存在である。
つまり、幻覚を生じやすい構造をそなえた場所におかれても、幻覚はだれにでも生じるわけではなく、日ごろから精神的な問題をかかえた人だけに生じることが多いのである。
ハムレットの見た父王の亡霊は、深夜古城の胸壁《きようへき》の闇に現れる。ハムレットではなくて、まず見張番が見つけ、鶏鳴《けいめい》とともにかき消えるところなどは、まったく妖怪的であるといえる。しかしハムレットだけに語りかけたことでは幽霊的であって、ちょうど貢院に出るお化けと性質が似ている。
ふだんだれも行かない古城の胸壁のあたりなどは、昼でも薄暗く不気味であって、深夜の見張番などに感覚遮断性幻覚を生じさせるのに絶好の条件をそなえている。迷信深い中世において、国王の急死は兵士たちを動揺させ、いろいろなうわさが飛びかっていたであろう。ホレイショーたちの見た亡霊は、それらが下地となって起こった、感覚遮断性幻覚の集団感染である。
ハムレットの心理解剖
しかし、ハムレットが聞いた父王の声は、ハムレットの胸に巣くっていた日ごろの疑惑が、父王の声となって聞こえてきたものにすぎない。感じやすい思春期の青年が、敬愛する父王の急死、続く母親の再婚についてどんな感情をいだくであろうか。
男の子が母親に対していだく愛着を、フロイトがエディプス・コンプレックスと名づけたことは、いまでは中学生でも知っていよう。命名者のフロイト自身がひどいエディプス・コンプレックスの持主で、少年時代は、猥雑《わいざつ》な異父兄フィリップが、自分の母親を妊娠させるのではないかという恐怖にとりつかれ、フィリップに母親を妊娠させないでくれと懸命に頼んだ、とフロムは皮肉っぽい調子でフロイトの評伝にしるしている。
父親を殺してとってかわりたいという願望が、エディプス・コンプレックスのもとの意味であるが、実際に自分の父親が死亡して、他の男がとってかわった場合、どんな心理学的なメカニズムがその少年に起こるであろうか。
もっとも多いのは、継父《けいふ》に対する反抗であろう。
太閤秀吉も、日吉丸といった幼少時代に実父が死亡して、継父|竹阿弥《ちくあみ》を迎えた。日吉丸は、奉公に出された先々で不始末をしでかし、ついに村にいられなくなったが、これなどは明らかに、母の再婚に対する抵抗と解釈される。後年、抜群の適応性を示した秀吉らしい、外向性の反応のしかたである。これに対して、内向性で分裂気質の代表とされるハムレットの場合は、自分のコンプレックスが他人に投影して、叔父が父を殺して母を奪ったという妄想をもつにいたったことは、むしろ当然のことと考えられる。
ハムレットのような大きな長男のある姥桜《うばざくら》の母親に、兄を殺してまでもと思わせる色香《いろか》など、到底あるとは思えない。むしろ、すっかり悪玉にされている叔父は、嫂《あによめ》を押しつけられて、内心すこぶる迷惑だったのかもしれない。一国の王が急死して、王子がまだ若いとなれば、弟が王妃と再婚して、暫定的《ざんていてき》に国政をみるのは自然の成りゆきで、叔父も自分に実子のないことでもあり、当然ハムレットに王位を譲るつもりであったろう。
物語がしだいに悲劇に発展していく原因は、すべて、義父になった叔父に対するハムレットの異常な憎悪にあるのである。このような病的な憎しみは、内心の不安が土台になっていることが多い。また不安が強い場合の人の反応をみると、分裂気質の人は他罰的傾向をとることが多いといわれる。つまり、ハムレットの叔父に対する異常な憎悪が、ハムレット自身の不安をよび起こし、その不安が投影して被害意識が強くなり、ついに叔父を刺し殺したのである。だからこそ、ハムレットはいまわのきわに、ホレイショーに、おのが行動の弁明をしつこく頼まなければならなかったのである。
ハムレットの幻覚は有名であるから、よく精神科の講義でも引用される。
ハムレットの幻覚は、真性幻覚というより、自分の考えていたことが声になって聞こえてきたという、むしろ表象に近い性質であることから、かつて精神病理学においては、偽《ぎ》幻覚の代表とされた。
この偽幻覚の定義はむずかしいが、要するに、知覚と性質の似た真性幻覚に対し、偽幻覚は知覚と表象の中間的性質をもつもので、分裂病者の「心の内の声」などがその代表的な例とされる。
ハムレットの聞いた父王の亡霊の声には、この偽幻覚の特徴がよく現れている。ホレイショーたちの亡霊騒ぎに触発されて、ハムレットの日ごろのコンプレックスが父王の声となって、ハムレットの耳だけに聞こえてきたものにほかならないのである。
ハムレット・コンプレックス
役者にとって舞台でハムレットを演じることは一生の夢だという。なぜハムレットばかりがこうももてるのであろうか。
ハムレットの矛盾した性格のゆえに、失敗作と断じたエリオットを始め、ゲーテ、コールリッジと『ハムレット』を論じた人の数は尽きない。漱石が『虞美人草』の中で、作中人物にハムレット型とドンキホーテ型の二分類を提起させてから、原作を読んだことのない人までが、ハムレットタイプといえば、優柔不断で自己矛盾の多い内向的性格を思い浮かべるようになった。ハムレットは不確実性の時代に生きる現代人にも、ぴったりな性格なのである。
ハムレットの原話はデンマーク国民史の史実にもとづくといわれ、また北海を囲む北欧の民族詩や民間伝承に、そもそも由来するものであるという。
スイスの精神医学者ユングは、『ハムレット』がアピールする理由を、「われらが王家」のできごとであるとすることによって、民衆が自身の体験として受けとりやすくさせる、シェークスピアのうまい手法のためであると論評している。ユングの意見は、デンマーク国民や、共通の民間伝承を共有する文化圏ではあてはまることであろう。しかし、民族も文化圏もまったく異なる国においても、『ハムレット』がもてはやされるのはなぜであろうか。
先年、夫の長期の出稼《でかせ》ぎで、孤閨《こけい》を守れぬ母親が、自分を批判する娘を絞め殺す事件が報道されたことがあった。このように一匹の雌と化した母親からは、親としての保護を期待できぬどころか、子供にとってむしろ危険な存在となってしまう。このことは、エレクトラ・コンプレックス(女の子の父を慕い母を憎む心理)の語源となったギリシア悲劇のアガメムノン王伝説を始め、大男と再婚した母親が息子たちを殺そうとするバルカンの民話、『魔法の鶏《にわとり》の心臓』というペルシアの民話などのテーマになっていることからも明らかである。古事記にも、父を殺して母を奪った天皇に復讐《ふくしゆう》した、幼い目弱王《まよわのみこ》の話がでている。また、精神療法の実際の事例にも、ハムレットに似た妄想がみられることがあり、宮城音弥氏は、これをハムレット・コンプレックスと呼んでいる。
筆者の外来にも中学三年になるリトル・ハムレットが両親に連れられてやってきた。今春からしきりに家のしきいをまたいだり出たりする奇妙な強迫行動があるという。同族会社の当主であった実父は本人が二歳のとき交通事故で死亡し、次男の叔父が嫂《あによめ》と再婚して本人を養育してきた。物心のつかぬ頃だったので本人は実父と思いこんでいると両親は主張する。しかし二歳違いの異父弟が生まれたとき喘息《ぜんそく》発作を起こしているので、後に本人に聞くと、小学校入学時に近くの主婦に本当のことを知らされたという。彼の奇妙な強迫行動の意味は、弟が格上の中学に合格した現在、自分が社長の後継者としてこの家に留まるべきか否かを無意識に両親に問う象徴的な行動だったのである。児童期であるので強迫行動の型で発現したが、もう少し年長であれば、叔父に対する被害妄想に発展してもおかしくない事例である。
このように、昔から異人種、異文化圏に同様な物語があるということは、これが人類に起こりやすい、共通の根元的な悲劇だからではあるまいか。
シェークスピアの四大悲劇のなかで、妻殺しの『オセロ』、親殺しに似た『マクベス』、そして血肉を分けた父娘の悲劇の『リヤ王』にしても、『ハムレット』の悲劇性にはかなわない。
それは、『ハムレット』の悲劇の本質が、父の仇《あだ》にむくいる復讐劇ではなくて、人間の根元的な関係である母子間の悲劇、つまり母親に裏切られた子供の悲劇にあるからである。
第五章 怪談の論理
1 人はなぜ怪談を好むか
【恐怖の論理】
人類の原体験――逃走譚《とうそうたん》は世界共通――
子供はあとでトイレにゆけなくなることを知りながら、怪談|噺《ばなし》を大人《おとな》にせがむ。単純に考えると、それは怪談によって恐怖を味わうことができるからであろう。
しかし恐怖というものは、はたして好んで味わうほど愉快な感情なのであろうか。人は快適な感情のみを追求する、というのがフロイトの第一公式――快楽追求の原則である。そうすると、単なる精神分析の手法では、ゆきづまってしまう。
心理学において、俗に喜怒哀楽と呼ばれるような高等な感情に対して、恐怖はもっとも未分化で原始的な感情――情動として分類されている。この情動によって起こる行動が、情動行動である。つまり強い恐怖にかられて、やみくもに逃げだしてしまうような行動をいうのである。たとえば、映画館で火災が起こったような場合、人はわれさきに狭い出口に殺到して圧死したりするが、このようにパニックにおちいると、人間も、西部劇でおなじみの牛の暴走となんら変わりのない行動をとるのである。
憤怒《ふんぬ》――攻撃、恐怖――逃走の情動行動は、いずれも動物が生命の危険にさらされた場合にとる緊急反応であり、むやみに発動されて無用な損害をこうむらないように、高等な生物ほど、充分に発達した大脳の新皮質によって、上位から強いブレーキがかけられている。しかし不安が段階的に強まって、恐怖に達すると、もはや新皮質の理性のブレーキはきかなくなって、人間は逃げだすのである。
山姥《やまうば》の家に出かけた小僧に、もしや山姥ではないかという不安がきざしてくると、老婆の口が耳もとまでさけてくるという情動による錯覚が起こり、恐怖におちいった小僧が、やみくもに逃げだす過程は、このように説明されるのである。
しかしここに、わざわざ山姥と小僧の話をもちだしてきたのには理由がある。それはこの話の中に、人がなぜ怪談を好むかという謎を解く鍵が潜んでいるからである。
世界各国の神話や民話には、怪談が数多く含まれているが、不思議にこの山姥と小僧のような逃走譚が多く、しかも驚くほど細部まで似ている。グリム童話の『ヘンゼルとグレーテル』は、お菓子の家におびき寄せられてたべられそうになる逃走譚であるが、古事記のいざなぎの尊《みこと》のように、追いかけられて後ろに投げたものが障害物になって、危うく逃げのびる形式をとるものに限っても、各国の民話に同型のものがあり、しかも細部まで形式的といえるほど似ているのである。
いざなぎの尊は、黄泉《よみ》の女神《めがみ》どもに追いつかれそうになり、後ろに鬘《かずら》を投げるとそれが野|葡萄《ぶどう》になり、つぎに櫛《くし》を投げると筍《たけのこ》となって、女神どもがそれをくらい尽くすうちにのがれ去る。
ロシアの山姥《やまうば》ババ・ヤガーの家から逃げだした継娘《ままむすめ》は、タオルを後ろに投げると川になり、櫛を投げると森になる。
インディオの民話で、森の吸血鬼ユルパチに追われた末娘は、三度持ち物を投げ、それが山や川、やぶとなってのがれ去るのである。最近注目されているアフリカの民話にも、同様な逃走譚をいくつかみることができるが、いずれも、逃走者の身につけたものが障害物になって逃走を助ける、という共通性がある。
思うに、追いつかれそうになり、夢中で物を後ろに放り投げるというのは、このような緊急事態におかれた人間が、無意識のうちにとる共通の反射的行動なのであろう。持ち物を捨てることで身軽になれるし、追跡者がそれに注意を奪われている間、逃走の時間かせぎをする、という合目的性をもっている。それに、投げたものが障害物になってほしいという素朴な願望とも結びついて、類似したストーリーを形成したものであろう。
このように、世界各国の神話、民話にディテールまでよく似た逃走|譚《たん》が数多く存在することは、単にストーリーの伝播《でんぱ》だけでは説明できず、これはやはり、人類に共通の原体験に根ざすものと考えなければならない。
さて、人がなぜ怪談を好むかを解明しようとして、われわれは人類の原体験という、さらに深い無意識の層に到達した。
ユングは自分の臨床経験から、患者の無意識の層には、フロイトの手法では説明できぬ部分のあることを感じていたが、長く入院しているある分裂病患者の思考が、神話に出てくる話とそっくりであることから、時代、人種を超えた普遍性に注目した。ユングは、フロイトが解明した個人的無意識のもっと底に、人類に共通の、深い無意識の層が横たわっていることを想定し、これを普遍的無意識と名づけたのである。
ユングのこの手法は、初めて神話学に心理学的接近を可能にしたものとして有名であるが、精神医学の方で注目されているのは、これが動物心理学との接点をなしているからである。われわれ人間の行動は、動物の行動から還元的に説明できる部分の多いことから、サルの行動科学がジャーナリズムにとりあげられているが、よく、人間の蛇に対する恐怖は、サル時代からの恐怖の原体験である、という説明にまゆにつばする人も多いことであろう。
さて人間や動物に、このような恐怖の原体験が実際に存在するのであろうか。
長い間、樹上生活を営むサル族にとって、樹に登って眠っているところを襲う蛇は、最大の天敵であった。「裸のサル」である人類が初めて蛇を退治するには、鉄器の使用までの数百万年の歴史が必要とされたのである。生得性《せいとくせい》恐怖というのは、その種のすべてに共通で、時代、年齢をこえた先天的な恐怖のことであるが、人間にも、暗闇や、蛇や、未知の人間に対する生得的恐怖が存在するという学者がいる。動物の生得的恐怖の存在については実証されていて、グレイは、チンパンジーに生得的な蛇恐怖のあることを証明し、サルの生得性恐怖については、マークスやサケットの実験があり、サケットはこれを、生得的解発機構――個体維持・種族維持に意味のある刺激だけに選択的に反応する機構――と結びつけて説明している。
神話というものは、その民族の先史時代からの記憶痕跡の集積と考えることができる。神武《じんむ》東征の物語は、大和民族が九州からしだいに東の方に発展していったことを、マクロ的に示すものであろうが、古事記に、ヤマタノオロチを始めとして、やたらに蛇の話がでてくることや、各国の神話に同様のドラゴン退治の話がみられるのは、それが、長い間人類の最大の天敵であった蛇に対する、恐怖の記憶痕跡であることの証明である、と考えねばならない。
恐怖をつかさどる脳のメカニズム
さて、ここで視点を変えて、恐怖の「体の仕組み」について考えてみよう。
生存競争の激しい自然界において、動物はまず、自分に危害を加える敵がいないかどうか、よく周囲を確かめてから初めて食事をとり、眠る。このときは、副交感神経系のはたらきがよくなり、血圧は下がり、脈搏はゆるくなり、筋肉の緊張は低下し、内臓の血流は盛んになって消化を助け、反対に脳の血流は低下して中枢神経は鎮静し、動物は眠気をもよおして熟睡する。しかし周りのようすがおかしく、いつ敵に襲われるかわからない状況では、動物は不安となり、落ち着かず、いつでも逃走できるような準備状態を整えている。
キャノンは、動物が敵に襲われて、戦うか逃げるかの緊急の判断を迫られるとき、血中に、副腎髄質ホルモンであるアドレナリンが大量に放出されて、血圧は上がり、脈搏は速く、皮膚は湿って鳥肌が立ち、筋肉の緊張がたかまって、いつでもファイト・アンド・フライト――戦うか、逃げるかの状態をとることができる交感神経高進反応が起こることを明らかにした。
セリエは、動物がストレスにさらされた場合、脳下垂体から副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)の放出が増して、副腎皮質ホルモン(コルチゾン)が血中に増加するという、下垂体――副腎皮質系反応が起こることを発見した。これが有名なセリエのストレス学説である。このとき血中に増加したアドレナリンが、脳下垂体のACTHを増加させることが明らかにされている。
おもしろいことに、これを与えることによって自由に動物に恐怖を起こさせることのできる、恐怖物質というものが存在していて、それにこのACTHが関係している、という学説があるのである。
スタンフォード大学のレビンらは、ネズミの脳下垂体を切除すると、ネズミは恐怖を起こさなくなり、反対に、ACTHを多量に投与すると恐怖を起こして、ふだん恐れない暗闇すら恐れるようになったという。
またベーラー大学のアンガーらは、スコトフォビンという恐怖物質を抽出したと発表したが、このスコトフォビンは、ACTHとよく似た化学物質であるという。
そもそも不安という気分は、動物が危険な状況におかれた場合、いつでも緊急反応がとれるように、自分を交感神経緊張状態においておくための重要な信号なのであって、この不安という気分の、中枢神経における座は、間脳の視床下部にあるとされている。間脳の視床下部と、大脳辺縁系との間には、密接なせんい連絡があって、この回路が、不安についで起こる、憤怒――攻撃、恐怖――逃走の二つの緊急反応の選択のスイッチになっている。
脳に電極を埋めこんだ動物実験によると、ネコの視床下部の中央下部を電気で刺激すると、ネコは憤怒――攻撃の反応を起こし、視床下部の前部を刺激すると、恐怖――逃走の反応を起こすというように、視床下部に埋めこんだ電極からの電気刺激によって、憤怒や恐怖の情動を自由に起こすことができるのである。
つまり、恐怖という情動の座は、間脳の視床下部という中枢神経の低いレベルにあって、このレベルにおける動物の行動は、攻撃と逃走という二者択一の狭い範囲に限られており、しかも強い情動と密接に結びつけられている。
感情的行動と理性的抑制――
旧皮質と新皮質――
しかし、この情動行動はあくまでも動物の緊急反応であるから、むやみに発動されて無用な損害をこうむらないように、高等な生物ほど、よく発達した大脳の新皮質によって、この旧皮質系の情動反応に、上位から強いブレーキをかけている。
たとえば、魚をとる場合を考えてみると、あらかじめ魚の逃げそうなところに網をかまえて、反対側からおどすと、脊椎動物の系列でもっとも大脳皮質の発達していない魚は、反射的に起こる逃避反応を充分に抑制することができないので、やすやすとみずから網にかかってしまう。大脳皮質がよく発達している高等動物ほど、衝動的な逃避反応をいったん抑制して、状況判断にもとづく適確な行動をとり、捕獲をまぬかれるのである。
図(電子文庫版では略した)は、脊椎動物の系列における脳発達の進化を示すものである。大脳の新皮質は、爬虫類《はちゆうるい》で初めて現れており、また高等動物になるにしたがって、大脳の新皮質が占める面積の割合は広くなるのに、情動をつかさどる旧皮質の大きさの割合は、あまり変わりのないことがわかるであろう。このよく発達した新皮質の機能は、ひとことでいえば、旧皮質系行動への抑制であって、恐怖などの情動にもとづく衝動行動を抑制するために、いかに大きな大脳の面積が必要とされるかが明らかである。
動物の摂食《せつしよく》行動は、主として本能の座である旧皮質系にもとづく欲求行動であるが、これをいったん抑制させる「おあずけ」は、犬では二〇秒が限度であるという。新皮質の発達したチンパンジーでは、五分間も可能であるが、新皮質の発達が犬より悪いネズミやウサギでは、まったく「おあずけ」ができない。この待つという機能は、動物にとって重要な意味があり、新皮質のなかでもっとも発生の新しい前頭葉がこれをつかさどっていると考えられているが、人間がまず最初に習得するのが、危険な行動の抑制であり、ゴリラの子供に対する教育は禁止だけであるという。つまり、新皮質が一番発達した人類が地球の征服者になりえたのは、その強力な抑制力によって、複雑な適応行動がとりえたからである。
人間社会においても、理性より感情に支配されやすい旧皮質人間が不適応を起こしやすいことは、動物界と変わりがないし、現在理性的である人も、初めからそうであったのではない。
一人の人間の成長発達は、生物の進化の過程をそっくりくりかえす、という法則がある。
たとえば、胎生四週目までの人間の胎児には、鰓弓《さいきゆう》(えらに相当する原始部位)と尾があって、まるで魚のような形をしているし、胎生三、四ヵ月までは、全身がふさふさした毛におおわれて、ネズミの胎児に似ているのである。つまり人間は、胎児として子宮にいる間に、魚やネズミから人間までの、脊椎動物の進化の過程を再現するのである。また生まれてからも、すぐ理性のある人間になるのではない。一人前の文明人になるのには、長い教育期間が必要なのである。
子供や未開人の心理は、文明社会の大人《おとな》の心理より、むしろサルやチンパンジーの動物心理に近い。子供や未開人やサルは、恐怖心と好奇心が強く、見なれぬ未知なものを見ると、飛びのいて恐れる。しかし、どうやら危険のないことがわかると、たちまち好奇心を起こして近づき、触れたり動かしたりして、危険なものでないことを確かめる。これを探索行動というが、遊びの精神の強い子供やチンパンジーは、遊びによって、あらかじめ危険なものと危険でないものを区別しておくのである。
これは、恐怖に慣れるための一種の訓練であるが、グレイによると、人間は「突然で新奇で強烈な」刺激に対して、生得的恐怖をもっているというが、これら広範囲にわたる幼児の恐怖は、年齢とともに着実に減っていく。たとえば、新しい状況や大きな音に対する恐怖は、三、四歳で著しく減り、六歳になると、ほとんど現れなくなるという。
文明社会の成人が、めったなことでは恐怖を感じないのは、子供のときからのこうした学習によって、それが危険でないことをよく知っているからである。これに反して、未開人や子供は、未知なものが多いから恐怖の対象も多い。しかし、恐怖にとらわれてばかりいては生活できないから、この旺盛《おうせい》な好奇心による探索行動によって、恐怖を克服するのである。
俗に怖いもの見たさ、ということわざがあるのは、このへんのことをいっているのであり、子供が怪談を好むのは、こういう心理のメカニズムによるものなのである。
しかし、大脳皮質が充分に発達した現代社会の成人でも、不安が段階的に増幅されてある限界量をこえ、ついに恐怖の段階にまで達してしまうと、もはや状況判断による新皮質の理性のブレーキはきかなくなって、人間は、旧皮質系の情動行動の支配するままに、やみくもの逃走反応を起こしてしまうのである。
図は、時実利彦氏の大脳辺縁系の模式図を参考にして作った、中枢神経系の階層的構造と行動の階層構造との関連図である。神経系のもっとも低位の刺激―反応型は、脊椎レベルにおける、ハンマーでひざをたたくと足が上がる反射であるが、この脊髄反射を脳幹の神経核が上位から支配し、その脳幹の神経核を大脳辺縁系が、またその大脳辺縁系を新皮質がというように、階層的に神経支配が行われている。毒物などの原因によって神経系が冒される場合、もっとも抵抗力が弱いのはより高次な新皮質であるから、新皮質が冒された場合は大脳辺縁系が新皮質にかわり、辺縁系がやられると脳幹の神経核がこれにかわる、というように、つぎつぎにその下位の神経機能がその生体を支配することになる。これをジャクソンの法則というが、この具体的な例としては、飲酒した場合を考えてみるとわかりやすい。
新皮質はアルコールに弱い
アルコールは、医学的にはもっとも作用の弱い麻酔剤なのであるが、そうとう多量に飲んでも血液|脳関門《のうかんもん》という関所にはばまれて、血中に入ったアルコールは、わずかしか脳に達しないという仕組みになっている。だから、アルコールの血中濃度が上昇するにつれて、もっとも高等な新皮質の機能がまず冒され、ついで大脳辺縁系に及び、生命維持に必要な呼吸中枢などのある延髄には、なかなか作用が及ばない。こういった、高次なものから低次なものへの、きれいな階層的な欠落がみられるのである。
表は、アルコールの血中濃度と、酩酊《めいてい》度との関連を示したものである。
第一期は、そろそろアルコールによって理性が麻痺しかけながら、かろうじて新皮質の機能が保たれている状態である。
第二期では、理性は完全に麻痺して、大胆になり、日ごろは口に出せないような言動に出る。つまりこの時期は、人間が大脳辺縁系に支配されて、欲求行動に出る時期である。
第三期は、人が怒りや恐怖という激しい情動にもとづいて、衝動的攻撃ややみくもの遁走《とんそう》といった、情動行動に支配される時期である。この情動行動はきわめて危険であって、一般の人が経験することはまれであるが、酒乱のひどい人のことを思い浮かべれば、やや御理解がいただけるのではなかろうか。
酒乱のひどい人は、つぎの日には乱暴したことをまったくおぼえていない、といいはることがよくある。これは、まったくのうそをいっているわけではなくて、とぎれとぎれに記憶のある複雑酩酊《めいてい》と、ある期間の記憶がまったくない病的酩酊との二つの場合があって、興奮のひどいこの時期に殺人や放火などの犯罪をおかして、精神鑑定になるような例も多いのである。
以前、一流大学卒のエンジニアが、泥酔して日ごろから仲のよくなかった同僚を殺した事件があった。彼は、その犯行についてまったく記憶がないと主張するので、その精神鑑定を、私の恩師、三浦岱栄教授が担当することになった。こういう場合、犯行時とできるだけ近い条件にして観察する、再現実験が行われる。彼は病棟の広間で、事件の時の飲酒量に相当する清酒を、教授と鑑定助手のさし向かいで少しずつ飲むことになった。
しらふの彼は、一流大学卒のエリートらしく、馬鹿|丁寧《ていねい》なくらいにいんぎんな紳士で、盛んに恐縮しながら盃《さかずき》を重ねていた。
四合を少しすぎたころであろうか、目がすわってきて、一オクターブほど声が大きくなったかなと思ったとたんに、彼はすっくと立ちあがり、ウォーと獣のように咆哮《ほうこう》すると、形相ものすごくいきなり教授につかみかかった。まさにハイド氏が出現したのである。「これはいかん」と教授はいうと、脱兎のごとく広間を飛び出した。取り残された助手の悲鳴で、大勢がかけつけ、暴れ狂う彼をやっとのことでとりおさえた。
このように、強い情動に伴う情動行動というものは、人間がまったくの猛獣レベルに低下した恐ろしいものである。
これと同じような状態が、麻酔、頭部外傷、インシュリン・ショック療法などにおける意識障害のある時期にみられるのである。
インシュリン・ショック療法とは、向精神剤が登場するまで精神科で盛んに行われた、インシュリンの注射によって、低血糖による無酸素症を起こさせるショック療法なのであるが、脳は無酸素状態に一番弱いので、時間の経過につれて、まず新皮質から旧皮質、脳幹機能へと、上位から下位への見事な神経機能の欠落が起こるのである。三〇年前に向精神剤が開発されるまでは、このインシュリン・ショック療法のほかにも、頭に一〇〇ボルトの電気をかける電気ショック療法や、前頭葉の繊維連絡だけを切断するロボトミーなどの、恐怖のショック療法が行われていた。
これらの、生体に強烈なゆさぶりをかけるショック療法の治療理念は、いずれも、いったん人間を生まれながらの幼児期に退行させてから再教育していく、という退行――再生の論理にもとづくものであった。しかしその根底には、精神病は不治であるから死んでもともと、という考えがまったくなかったとはいいきれないであろう。
太古、怪談は教育であった
最近は、ちょっとした古代史ブームである。邪馬台国の遺跡ではないかと調査された「トンカラリン」の不思議な石洞くぐりも、天照大神《あまてらすおおみかみ》の「岩戸《いわと》隠れ」と同じく、衰えた呪力《じゆりよく》をいったん死ぬことで再生する、「再生|呪礼《じゆれい》」ではないかと説明されている。そうすると、ショック療法時代においては、奇しくも精神科医が司祭となって、「再生呪礼」を行っていたことになる。
この近代的再生呪礼である、インシュリン・ショック療法でみられるもっとも低い退行状態は、昏睡《こんすい》前期にみられる、痛覚刺激に対して無意識に身をひく逃避《とうひ》反応である。この逃避反応こそ、アメーバーの偽足《ぎそく》反応からアルフレート・キューンのいう、ゾウリムシの恐怖反応までの、あらゆる生物にそなわった、系統発生的にもっとも古い原始反応なのである。たとえば、一度回転ドアでひどいめにあった犬は、一生回転ドアを避けるばかりか、回転ドアのあった場所にも近づかなくなるという。
K・ローレンツによれば、このような外傷体験によってもたらされる忌避《きひ》反応は、あらゆる種にまず獲得される学習体験であって、その恐怖の記憶は、一生ぬぐい去ることができないといわれる。
敵に襲われたトカゲは尻尾を残し、天敵、タコを見せられたカニはひもでつながれた足を残して一目散に逃げるが、この恐怖――逃走のパターンこそ、あらゆる生物に共通の外傷性記憶痕跡であって、その種代々に受け継がれて、恐怖の原体験を形成するのである。
思うに、人類の記憶の初めにもっとも強烈に焼きつけられたものは、自分が殺されてたべられてしまう、という恐怖の体験であったろう。大林太良教授は『神話学入門』のなかで各民族に類似した神話が多い理由について伝播説《でんぱせつ》をとっておられるが、筆者に言わせると少なくとも各国の神話、民話に数多くみられる、驚くほど共通した逃走|譚《たん》は、この人類に根源的な恐怖体験を反映したものである。おそらくその初めは、避けるべき危険を教える教育として物語られたものが宗教的儀礼やタブーなどがそれに結びついて、いまのような型の逃走譚となったのだろう。
しかし人類が強大になって、外敵が征伐《せいばつ》され尽くした現在、現実的危険を教えた逃走譚は本来の意義を失って、それがもっともエキサイティングであるという娯楽性だけから、語り継がれるようになった。
けれどもわれわれが怪談を好む心の奥底を探ってみると、そこにはこのような、先史時代からの人類の記憶痕跡が眠っているのである。
2 人はなぜ幻覚を見るのか
【幻覚の論理】
精神医学というのは実に幅の広い学問で、人の体の仕組みを取り扱う生理学から、心のはたらきを研究する心理学、さらに社会学の領域にまでまたがっているのである。
これまでの話は、どうしても生理学的なものが中心になってしまった感があるので、「幽霊が幻覚であるのはわかりきったことだ。これまでの話は、どんな場合に幻覚が起こるかを羅列しただけで、論理の展開や一貫した思想性がないではないか」という不満をもたれる方もあるのではなかろうか。そこでつぎに、幻覚の論理について考えてみたい。
生理的欲求
厳密に条件を均一にした幻覚実験においても、実験室に入れられた人すべてが幻覚を起こすとは限らない。幻覚の内容も、被験者のパーソナリティーと結びついているという。
幻覚を起こす心の仕組みの奥底に隠されたものは、いったいなんだろうか。これまであげた事例をもとに、まとめてみたいと思う。
もっとも単純な論理は、個体の欲求の充足としての幻覚である。
マッチ売りの少女が、淡いマッチの炎の中に最初に見たものは、暖かそうなストーブであり、ついでおいしそうな七面鳥の料理であり、最後に見たものは、自分をかわいがってくれた祖母の幻影であった。
つまり幻覚は、欲求のうちでもっとも切実なものから現れるのである。北欧の寒空の中で、凍死寸前の少女にとってなにより切実なものは、冷えきった体を暖めることであり、少女はつかの間のマッチの炎の中に、石炭で赤々と熱せられたストーブの幻影を見て、第一の欲求は仮に充足される。ついで現れるのが、七面鳥の料理、つまり飢えの欲求に対応する幻覚である。
この二つは、心理学においては、個体の生命保持に必要な基本的欲求であることから、生理的欲求、または一次的欲求と呼ばれているものである。
この一次的欲求が充足され、生命の危険がなくなったときに初めて、社会的欲求、つまり二次的欲求が現れるのである。すなわち、だれかに愛されたい、受け入れてもらいたい、認めてもらいたい、という心理的欲求である。
哀れな少女は、アル中の父親に虐待《ぎやくたい》され、その防波堤であった母親を失ったばかりであった。その母親も、粗暴な夫に悩まされ、家計に追われて、充分に少女をいたわる精神的余裕を失っていたのであろう。少女の生命の尽きんとするときに想い浮かべるのが、母親ではなく祖母であった悲しさが、よけいに読む者の涙を誘うのである。
マッチ売りの少女と同じく、生命の危険にさらされた探検家たちの幻覚は、ストレートに生理的欲求に結びついているものが多い。
シルクロードの砂漠から生還したとき、一〇分間に三リットルの水を飲み干したというスウェン・ヘディンが灼熱《しやくねつ》の砂漠に見たものは、満々と水をたたえたオアシスの幻影であった。雪山に凍死した登山家がいまわのきわに見たものは、電気コンロの幻影であった。百日余を食糧もなく、緑の島を求めてあてどなく太平洋を漂流したマゼランの見たものは、強烈に渇仰《かつごう》していた陸地の幻影であった。薩摩の山奥に、一年もの間を一人ですごさねばならぬ山番の少年の孤独をいやしてくれたのは、夜ごとの夢に訪れた女神の屋敷であった。
人は欲望に渇《かわ》きに渇くとき、その欲するものを、幻覚によってわずかに満たすのである。
退行の論理――
ドラッグ・カルチャー――
テモシー・リアリーによって用いられたLSDが、大学のキャンパスからあっという間に全米に流行したのは、なぜであろうか。
ベトナム戦争による背徳と絶望の泥沼の現実から逃避するために、全米のジーンズたちは、LSDやマリファナたばこによるつかの間のトリップに、文字どおりトリップしたのである。わが国でも、苛酷《かこく》な受験戦争からドロップアウトした少年少女たちは、一本五〇円の接着剤による想像幻視によってスーパーマン的万能感を味わって、傷つけられた自尊心をいやすのである。
貧困《ひんこん》とキリスト教の戒律にがんじがらめにされた中世の農家の寡婦《かふ》が、ベラドンナの助けをかりて夢みるサバトの夜宴の幻覚は、疑いもなく、日ごろ抑圧された性欲の解放であった。
清朝末期に流行した阿片も、誇り高き漢民族に、征服王朝の圧制の現実を忘れさせるためのものであった。
精神分析学派によれば、アルコール中毒の心理も、母乳がわりにボトルをくわえるのであって、乳児期への退行現象といえるという。
現代のように、管理社会化が進み、競争が激しくなり、人間疎外の環境が進むとき、人は手軽にもたらされるドラッグの幻覚に一時退行して、魂の渇きを満たそうとする。
このように、人はおのれの欲求が挫折《ざせつ》するとき、いったん幻覚の世界に退行して、自尊心を防衛しようとするのである。
幻覚の論理の第二は、すなわち退行の論理なのである。
良心との葛藤《かつとう》
精神病者の幻覚も、このような病的防衛のメカニズムによって説明できるものが多い。
それなら、伊右衛門の見たお岩の顔は、播磨《はりま》を悩ますお菊の声は、また『怪談|累《かさね》ヶ淵《ふち》』の数々の幻覚は、この退行の論理で説明できるであろうか。
彼らは罪業感にさいなまれて、心因反応を起こしていた。彼らにとりついた幻覚は、自身の良心との葛藤による産物なのである。
邪恋《じやれん》に狂って邪魔なお岩をいびり殺した伊右衛門は、いざ新枕《にいまくら》という瞬間に、お岩の顔と錯視して花嫁の首を斬り落とす。悪行《あくぎよう》の限りを尽くす伊右衛門にも、やはり良心のとがめはあり、ことの成就の瞬間に、良心の映しだすおのが悪行の幻影を見るのである。
酒とカードに放蕩無頼を重ねるウィリアム・ウィルソンの前に現れていさめるおのが分身は、いみじくもポーが巻頭にしるしたように、自身の良心の影であった。養父アランの期待に背き、背徳の日々を送るポーの心を苦しめたものは、養育の恩にむくいることのできぬ、文学への傾倒であった。
すなわち幻覚の論理の第三は、良心との葛藤である。
終極にあるのはコンプレックス
それなら、ポーの見た大鴉《おおがらす》の幻影はなんで説明されるのであろうか。
アルコール禁断時の幻覚においても、幻覚の内容は、決して患者の内面と無関係ではありえないのである。
ポーの大鴉の幻影は、最愛の少女妻バージニアにしのび寄る死の影へのおびえであると同時に、幼くして母を同じ業病《ごうびよう》で失ったポーの、マザー・コンプレックスと深く結びついているのである。ハーンがメルヘンにたくした雪女の幻想もまた、幼くして生別した母への思慕の影であった。
ブルートゥスがフィリッポイの会戦の前夜に見た凶霊《きようれい》は、断眠性幻覚ですべて説明できるものであろうか。
いや、大規模な断眠実験においては、まったく幻覚の生じない者すらいるのである。ブルートゥスの幻覚は、まぎれもなく彼の心の奥底にあった父殺しコンプレックスによるものであった。ブルートゥスは、シーザーが自分の父であるかもしれない可能性を、心のどこかで認めていたのである。
ハムレットが古城の胸壁《きようへき》で聞いた父王の声はなんであったろうか。それは、疑いもなくエディプス・コンプレックスの投影であった。
苛酷《かこく》な行《ぎよう》に生命の危険を感じて、思わずスジャータの捧げる乳糜《にゆうび》を飲み干した釈迦《しやか》に、悪魔はまずこうささやきかける。「汝《なんじ》の顔色は悪い。このままでは事ならざるうちに死に果てるであろう」
悟《さとり》のため王位も妻子も捨てた釈迦の鉄の心をおびやかすのは、やはり死の不安であり、ついで釈迦の心に眠る煩悩《ぼんのう》が映しだされて、万華《まんげ》鏡のような菩提《ぼだい》樹の下の降魔《ごうま》の幻覚となるのである。
すなわち、幻覚の論理の最後にあるものは、極限状態におかれて露呈した、その人のコンプレックスの影である。人の精神構造は、日ごろ複雑に具《よろ》われて、外からうかがい知ることを許さない。しかし、心身ともに極限状況におかれて、その防衛はゆるみ、われわれは幻覚というマジックミラーをとおして、その人の心の奥底をのぞき見ることができる。
幻覚はまさに、極限状況における、環境とその人のパーソナリティーとの全反応なのである。
3 幽霊お国柄
【怪談の比較文化論】
ここで怪談の比較文化論を試みよう。最近はオカルト文学ブームであるが、西洋のいろいろな怪奇小説、怪談の主人公たちは、
一、バルカン半島の伝説をもとにした吸血鬼ドラキュラ、女吸血鬼カーミラの系列。
二、ジキルとハイド、フランケンシュタインなどの狼男の系列。
三、悪魔そのものの化身か、それに仕える魔法使い、魔女の系列。
四、それが近代的な姿をとった、神に背く研究をしたため破滅したファウスト博士伝説にもとづく系列。
などが主流であって、日本の幽霊のように、人に殺された怨霊《おんりよう》などは主流とはなりにくい。つまり西洋の幽霊は、ありがたい神の教えに背くけしからぬものどもたちで、愛欲のもつれが原因の亡霊などは、恥ずかしくてまともには登場できないのである。
キリスト教のような超絶一神教の支配する西欧社会においては、かつての異教の神々や、それら邪神に仕えるものはみな悪魔にされて、激しく弾劾《だんがい》されるという歴史によって、西洋の幽霊は、これらキリスト教に対する異端者が主流を占めるようになったのである。この点が、お岩やお菊のような、個人の怨霊《おんりよう》が主流となっている日本の幽霊界の事情と大いに相違するところである。
つぎに西洋の幽霊は、案外にファッションに敏感で、中世の魔法使いが、時代が下るにつれてしだいに、錬金術師、霊媒者などから悪魔的な科学者に衣《ころも》がえして現れる。また、心霊実験とまぎらわしいような、ポルター・ガイストというモダンな幽霊も現れるのである。このポルター・ガイストというのは、ドイツ語で「騒々しい幽霊」という意味で、姿を見せずに、テーブルなどをガタガタ動かしたり、食器をひっくりかえしたり、空中に持ち上げて落としたりして暴れる幽霊のことである。
ポルター・ガイストの古い記録としては、一六四九年、イギリスのウッドストック地方に宿泊した二人の役人を悩ました幽霊があり、深夜、椅子、テーブルをひっくりかえし、皿を割り、ベッドのシーツをはぎとり、はては煙突かられんがを投げつけたという。
最近のものとしては、一九五八年ロングアイランドのある警備員の留守宅で、ルシル夫人、一三歳になる娘、それに一二歳の息子の三人が、いろいろな液体の入ったびんがガタガタとそろって踊りだし、ついには、たんす、ステレオ、百科事典までが空中に飛び上がって踊り狂うのを見た、という報告がある。このポルター・ガイスト騒動の中心には、思春期の少女が存在している場合が多いようである。
私ははじめ、西洋では愛欲のもつれで殺された女の怨霊などは少ないのではないか、と考えていたのであるが、よく調べてみると、こういう幽霊もいないわけではない。
英国エセックス州のボーリイ牧師館には、修道僧との邪恋から、生きながら壁に埋められたマリーという尼僧の幽霊が、首のない馬に引かれた馬車に乗って現れるという話や、妊娠して結婚を迫って男に殺されたソフィ・メイスンの幽霊の出る南フランスの別荘の話や、先妻の生霊が後妻の腕をなえさせたという南イングランド地方の実話にもとづいたハー ディの短編などがある。しかしこれらの怨霊《おんりよう》にしても、 お岩やお菊などの日本の幽霊とは、つぎの点ではっきり違っているのである。
西洋の幽霊は日本の幽霊とは違って、妖怪的な要素が強く、
一、ある特定の場所――たいていは犯行の現場のことが多い――にしか出現せず、
二、だれにでもその姿を見せ、
三、日本の幽霊のように直接犯人に復讐《ふくしゆう》するのではなく、犯行場面の再現をしてみせて、世人にここで犯行の行われたことを公示する、
という間接的な方法をとるのである。
つまり西洋の幽霊は、人につく犬型の日本の幽霊と違って、場所につく猫型なのである。場所につくといえば、幽霊の本場の英国では、有名な幽霊屋敷がいくつもあって、ロンドン近郊にあるこれらの幽霊屋敷を回る観光ツアーが組まれ、そのガイドブックまで出版されているという。
なかでも、漱石の小品にもなり、歴史上数多くの政治犯の首切りが行われたことで有名なロンドン塔には、にっこりわらって刑吏の大斧《おおおの》の下に細いうなじをさしのべたという、アン・ブリンの幽霊が出るといわれている。
いろいろな伝説に色どられたヨーロッパの古城は、幽霊のよきすみかであって、ゴチック小説の元祖である『オトラント城』はそもそもイタリアの古城であるし、スペインのギズモンド城には、放蕩無類な夫に殺された一族の美女イネスの亡霊が現れて、殺害場面の再現をするという。
しかしこれらの幽霊は、日本の幽霊のように、良心の呵責《かしやく》に苦しむ犯人だけに見えるのではなく、なんの関係もないだれもが、その姿を見ることができるのである。
さらに極端な場合では、南フランスの別荘で殺されたソフィ・メイスンの幽霊のように、周りの人には姿が見えるのに、四〇年ぶりに帰ってきた肝腎の犯人は、それに気がつかないという例があるのである。またその復讐の方法も、先に述べたように間接的である。
西洋の幽霊がこのような間接的復讐を行うのは、いったいなぜなのであろうか。
悪いことをした場合、日本人はまず世間体を気にするのに、西欧人はおのれの良心との対決を問題にするといわれている。このことに関連して、『菊と刀』の著者であるベネディクトは、日本や中国は「恥」の文化圏であるのに対して、キリスト教圏である西欧は「罪」の文化圏であると指摘している。これは脱宗教色の強い日本や中国の社会に比べて、西欧社会では、まだまだキリスト教の影響が強く残っていることを示している。
そうすると、世間の評判よりも自分の良心との問題を重んじる西欧社会において、幽霊が、犯人の良心よりも、もっぱら世間の評判の方にアタックをかけるというのは、一見矛盾しているように思える。キリスト教においては、最後の審判というものが必ず行われるので、幽霊の方も犯罪の行われたことを公示さえしておけば、犯人は必ず神が罰してくれるという安心感があるからであろうか。しかし仏教においても、地獄極楽の教えは存在しているのである。
ほんとうの理由は直接幽霊にきいてみるしかないが、西欧社会において、世間体より神との対決を重んじるというのは、あくまでもたてまえであって、本音は、西欧社会の方が、日本などより数等も世間体を重んじることにあるのではないか、と思うのである。
日本の社会においては、失われた社会的信用を容易にとりもどせる場合も多く、何回も偽装倒産した会社が結構繁盛していることもあるが、西欧社会においては、いったん信用を失ったら最後、終生世間に相手にされぬ厳しさがあるという。
なにしろ犯人は、殺人という大罪を犯して、平気な顔をして社会生活を営んでいる人間である。こんな人間の良心を責めてみるより、当人の一番の泣きどころである世間体をせめる方が、効果の上がる道理ではあるまいか。
西洋の幽霊は、頭がいいのかもしれない。
日本の幽霊
日本の幽霊の特徴とはなんであろうか。
日本を代表する幽霊といえば、だれもが『四谷怪談』のお岩を思い浮かべるであろう。お岩の幽霊には日本の幽霊の特徴がすべてそなわっているので、毎夏のように上演されるのである。
日本の幽霊についてはいろいろ論じられているが、その特徴を一つだけあげるとすれば、それはなみ外れて執念深いことである。
「斬ればまた出るお岩の幽霊」といわれるように、お岩の幽霊はしつこく伊右衛門につきまとい、お梅や嘉兵衛にのり移り、長兵衛をくびり殺し、伊右衛門の母ののど笛にくいついて殺すが、直接には伊右衛門を殺さず、錯乱《さくらん》に追いこむ。伊右衛門が人手にかかっても怨念《おんねん》は消えず、いまでも、『四谷怪談』の上演にあたっては、お岩|稲荷《いなり》におまいりしてお祓《はら》いをしないと、祟《たた》りがあるといわれている。
実に、なみたいていの執念ではない。
しかしこの執念深さは、お岩のパーソナリティーと関連したものではなく、日本の幽霊の特徴にすぎないのである。
秋成の『吉備津《きびつ》の釜』の磯良《いそら》は、信じた夫が裏切って女と駆け落ちしてから、病に伏して死んでしまうが、死の直前に磯良の生き霊は、京に逃げたお袖《そで》にとりついて、殺してしまう。夫は、その墓参の帰りにおびき寄せられて、磯良の死霊に会う。青くなった夫は陰陽師《おんみようじ》に相談する。磯良の恨みは、お袖を殺しても尽きていないから、これから四二日間|謹慎《きんしん》して注意を守れば助かるかもしれぬと、陰陽師は体中に呪文を書き、お札をくれた。磯良の死霊はお札に妨《さまた》げられて家に入ることができず、怒り狂って四一日間空しく家の周りをかけめぐっていたが、ついに最後の晩に、隣人の声色《こわいろ》を使って夫を外へおびき出し、とり殺してしまう。
その殺し方も、絶叫に驚いて隣人がかけつけてみると、壁におびただしい血が流れ、屋根には男のもとどりがひっかかっている、という凄絶さである。
実に、お岩に勝るともおとらぬ執念深さである。
これに比べると、外国の幽霊は案外にあっさりしている。
シーザーの幽霊は、明日フィリッポイで会いましょうとアポイントメントをとると姿を消すし、ハムレットの父王の霊も、ハムレットを呼び出して復讐を頼むと、二度と姿を現さない。
また、まえにも述べたように、西洋の幽霊は現れる場所がだいたい決まっている点で妖怪的で、自分が殺された場所に現れて、他人にその犯行を再現してみせるだけであり、日本の幽霊のように、下手人のいくところにつきまとって、直接に復讐することはないようである。
お隣の中国でも怨霊は少ないのであるが、郷試の試験場でとり殺しそこねた下女の幽霊のように、ヒステリックになって、かわりに、邪魔をした宿の主人をとり殺してやると八つあたりするが、老獪《ろうかい》な宿の主人になだめられ、紙銭《しせん》をやき、お経をあげてもらうと、機嫌を直して、にっこり笑って姿を消すのである。とても、日本の幽霊の根性には及びもつかない。
お岩や磯良の執念深さはどこからきているのであろうか。日本人は外国人に比べて、特別に執念深いのであろうか。
いや、日常における日本人の反応をみていると、日本人ほど淡白な人種はないようである。アメリカなら、すぐリンチにでもなりかねない犯罪者が、しばらくすると変に同情されたり、外国では、戦後四〇年たってもナチ狩りが行われているのに、一〇年もたたずに戦犯が首相になる国である。うっかり昔の恨みをもちだそうものなら、いつまでもさっぱりしないあきらめの悪いやつだ、腹が小さい、そんなものは水に流せ、と悪口をいわれる。
西洋人は、肉食人種だから愛憎が濃いとして、同じ東洋人ならどうであろうか。
中国に、「〓袍恋々《ていほうれんれん》」という題で『十八史略』に載《の》っているこんな話がある。
戦国時代も末期に近いころ、魏《ぎ》人の范睡《はんすい》は、その才をねたまれて殺されかけ、のがれて秦《しん》に仕え、ついに宰相《さいしよう》にまでなった。
さて、そんなこととは知らず、かつて自分をおとしいれた上司が、国使として秦に嘆願にきた。
范睡はわざと敗衣《はいい》をまとってこっそり会いにいった。上司は、死んだと思った范睡が生きているのにびっくりしたが、まず食事をとらせ、こんなに貧乏しているのかと、厚い絹の綿入れをくれた。范睡はお礼に、宰相のお屋敷まで御案内しましょうと、自ら御者をつとめて自分の屋敷に入った。上司は、いつまでも待たされるので不審に思って門番に聞くと、あれが宰相さまであるという。かつての上司はまっさおになって、庭に土下座して陳謝した。范睡は、おまえが殺されないでいるのは、さっき綿入れをくれた昔なじみの気持が、おまえに残っているのがわかったからであるといい、大いに御馳走をした。
しかし、恨みは恨みであると、同席した諸王の使者の前で、上司に秣《まぐさ》を馬のように口をつけてくわせ、すぐに魏王の首を持ってくるように命じたという。
この作者は范睡の行動を、「一飯の徳も必ず償《つぐな》い、睚眥《がいさい》の怨《うら》み(ちょっとした怨み)にも必ず報《ほう》ずる人柄であった」、と賞揚も非難もしていないが、日本であったら、こんなやり方は決して良くはいわれないであろう。
私は范睡の、恩は恩、恨みは恨み、とドライに割りきったやり方がおもしろいと思うが、日本人であれば、綿入れを贈られたところあたりで、実はこうだと打ち明けて、二人は手をとりあって泣く、という美談になってしまうのではあるまいか。そうでないと、あいつはなんと執念深い、胆《きも》の小さいやつだとさげすまれることになる。
江戸の仇《かたき》を長崎で、という諺《ことわざ》は、恨みをあまりに長い間もち続けることは悪徳とされることを意味している。つまり日本人ほど恨みに対して淡白な国民はないのである。これは、日本のように狭くて逃げ場のない国土で仲良く共存するための、生活の知恵からきているものであろう。
この淡白な国民性に比べて、メイド・イン・ジャパンの幽霊の執念深さは、どうしたことであろうか。
私にいわせると、日本の幽霊の執念深さは、現世の淡白さと裏表の関係にあるのである。ちょうど、西洋の幽霊が他人に犯行を告知するだけで、直接に本人に手を出さないのと同じ理屈なのである。
食物と女の恨みは恐ろしいというが、深い恨みというものは、そうあっさり水に流せるものではない。それを周囲では、まあまあと寄ってたかって水に流せとすすめ、おせっかいにも、手打ち式までさせられるのである。そして、何事もなかったかのように付き合わなければ、なんと執念深いやつかと不評をかうのである。
日本人の間では、忍従こそが最大の美徳なのである。これでは、生前の恨みが積もり積もって、せめて世間の思惑《おもわく》を気にせずにすむ幽霊の身分になったいまは、何十倍もの利子をつけてくやしさをはらそうと思うのは、無理のない心理である。
お岩の恨みは幾重にも屈折している。
いびる伊右衛門も異常であるが、お岩も、マゾではないかと思われるほど人間離れした忍従で、それに耐えるのである。それは、田宮家の跡継ぎ娘であるための「家」に対する忍従であり、産んだ男の子のための「母」としての忍従なのである。幾重にもがんじがらめに縛られた浮世のしがらみに、凄絶《せいぜつ》なほど耐えに耐えて憤死する。
このような日本の幽霊の特徴が完成したのは、どうやら江戸時代のようである。
額に三角|巾《きん》をつけ、だらりと下げた両手をひざに、足はないというスタンダードが確立したのは、十返舎一九の活躍した享保《きようほ》年間であるという。
上代《じようだい》の日本の幽霊は大らかであった。
平安時代の女の嫉妬《しつと》は生き霊となって恋がたきにとりつくが、自分の素姓を見破られると、恥じ入ってすごすごと消えてしまう。渡辺綱《わたなべのつな》のところに二度現れた羅生門《らしようもん》の鬼にしても、斬り落とされた片腕がなくては不自由であるからとりもどしにきたまでで、首尾よくとりかえしたら、二度と現れていない。
もっとも、幽霊の伝統はちゃんと受け継がれるようで、謡曲《ようきよく》『黒塚の鬼女』は明らかに、いざなぎの尊の閨《ねや》のぞきの形式をふまえているし、蛇山の庵室《あんしつ》の場で、伊右衛門がお岩の幽霊から受けとった赤子が石地蔵に変わるところは、古くからの民俗にある「うぶめ(産女)」の伝統をふまえた場面である。
こうしてみると、われわれが現在思い浮かべられるような日本の幽霊の特徴は、江戸時代に確立したことが明らかである。
私は、日本民族が三〇〇年もの長い間、鎖国政策によって時勢から孤立していた、いわば「民族的自閉症(オーティズム)」ともいうべき江戸時代が、あまり好きではない。活動的で、のびやかで、華やいだ安土・桃山時代に比べて、なんといじけて姑息《こそく》で卑屈なことであろう。中国の歴史をみても、乱世といわれる春秋戦国時代に活躍した人々の、なんとのびのびしていることか。また平安末期の庶民生活をうかがえる『今昔物語』の、あの人間臭さはどうだろう。
私は、乱世でこそ、民衆は自由に自分の人間性を発揮できると考えるので、ヒューマニズムにあふれた乱世の民族的エネルギーが大好きである。
しかしながら、今日の日本人の国民性というものがはっきり形成されたのも、残念ながらこの江戸時代なのである。いま、日本人の国民性を論じた本が一つのブームとなっているが、どの本を読んでみても、この点ではほぼ一致している。
祖父江孝男氏は、われわれの県民性といわれるものが、江戸時代の藩制の名残であることを指摘しておられるが、明治維新以来すでに一〇〇年以上を経過し、終戦による革命を経ても、なお日本人の心には、江戸三〇〇年の統治時代の影が消しきれずに残っているのである。
江戸時代は、幕府の、ただひたすらに徳川家の利益のみをはかる政策によって、国民はひたすらに抑圧された生活を強《し》いられた。
士農工商のがっちりした身分制のもとに、庶民は、いつ無礼討ちで首をはねられても、文句がいえなかった。こういう庶民の恨みがお菊の話となり、無礼討ちにしようとした侍をバッタバッタと斬り倒す『玉屋』の落語となる。しかし、士農工商のトップにある武士とて、宮仕えの悲しさで、いつ切腹させられるかもわからない。『葉隠《はがくれ》』にみる「武士道とは死ぬことと見つけたり」、のなんといじましいことか。
こういう世の中は、一番身分の高い大名にとっても、決して精神衛生上よいものではない。幕府の徹底した外様《とざま》いじめのために、たびたび賦役《ふえき》をいいつけられ、つい費用をけちったばっかりに、お目付役にいびられて刃傷沙汰《にんじようざた》を起こし、ついに身は切腹、お家は断絶となる。禄を失った浪人たちは江戸の町にあふれて、傘はりの仕事などで糊口《ここう》をしのいだり、口入れ屋に身売りするものまででる。
江戸小|咄《ばなし》の浪人者のジャンルは、こうした時代のブラックユーモアである。
伊右衛門の人間離れしたお岩いじめも、こうした食いつめ浪人者の鬱屈《うつくつ》があって、はじめて理解できるのである。
ここで庶民は、長いものには巻かれろ、無理が通れば道理がひっこむと、理不尽なことにじっと忍従する習慣を身につけた。また、いつ笠の台が飛ぶかもわからぬ世の中に、宵《よい》ごしの金はもたないと、現実の生活を享楽するこつも身につけた。元禄の奢侈《しやし》は、頭を抑えつけられた商人階級の、物質的な方面におけるせめてもの憂さ晴らしであった。こんなときに、体制に正面から挑戦したものが現れる。『忠臣蔵』に民衆が熱狂したのは当然である。
『忠臣蔵』を陽とすれば、陰の極《きわみ》が『四谷怪談』である。
理不尽に、現世で正面から抵抗した四十七士に対し、お岩は女なるがゆえに、亡霊となってからでなければ、恨みを晴らすことが許されない。
おもしろいことに、『四谷怪談』は、初め『忠臣蔵』の一|挿話《そうわ》としてつくられたものであるという。『忠臣蔵』は「たてまえ」で生きねばならぬ、男の理念の芝居であるのに対して、『四谷怪談』は「本音」で生きる、女の生々しい情念の芝居である。
時代、道徳の変遷《へんせん》とともに、忠君愛国の鑑《かがみ》とされた『忠臣蔵』がさびれても、人間性の本質に忠実なお岩の恨みが、広く日本人の共感を呼ぶのは当然である。
ローマ武人の心情をもっともよく表したのは、あくまで理性的なブルートゥスの幻視の場であった。
その時代の国民精神をもっとも正直に表したのが幽霊文学である。いわば幽霊文学こそ、その時代の国民性の粋である。この意味で、『四谷怪談』のお岩は、日本人の心情にもっとも忠実な幽霊なのである。
アルコール血中濃度と酩酊度
血中濃度(%) 症 状
1期 0.05〜0.10 ほろ酔い,抑制除去,不安・緊張の減少,陽気,顔面紅潮,反応時間遅延
2期 0.10〜0.15 多弁,感覚軽度鈍麻,手指のふるえ,大胆,感情不安定
3期 0.15〜0.25 衝動性,眠気,平衡感覚麻痺(千鳥足など),感情鈍麻,複視,言語不明瞭,理解・判断力障害
4期 0.25〜0.35 運動機能麻痺(歩行不能など),顔面蒼白,悪心・嘔吐,昏睡
5期 0.35〜0.50 昏睡,感覚麻痺,呼吸麻痺,死
あとがき
八年前初版を出したとき三大新聞をはじめ月刊誌・週刊誌から著者インタビューを受けるなどびっくりするような反響があった。
そのお蔭で夏になるとNHKや民放に怪談解説者として出演させていただき、週刊誌で神隠しの絵ときをさせられたり、怪奇書の解説を担当させていただいたのは著者冥利の楽しい想い出である。
しかし書店にコーナーを持つシリーズ版でなかったので、なかなか本が手に入らぬとの苦情をいただいたのは残念であった。
このたび講談社科学図書出版部長の末武親一郎氏より旧版をブルーバックスに編入したいとの望外のお申し出をいただいたので、その後の事例や新知見を加えて多少の手直しをしてみたが、旧版の骨格はそのまま残しておいた。
その理由は、改めて読み直してみても、一〇年近くたっているのに怪談をとりまく情況は一向に変わっていない、いな怪談の今日性はいやましているという実感からである。
旧版のまとめとして現代の怪談はあまりにも進みすぎた科学へのアンチテーゼとして存在することを指摘しておいたが、いまや臓器移植や試験官ベービィは現実のものとなった。またオカルト映画が大流行し、現実に悪魔ばらいの鋏《はさみ》で夫を切り刻んだ妻や、妊婦の腹をさくオカルト犯罪が多発している。雑誌の広告にはESPをうたったえせ医療研究所や、パフォーマンス的密教教団がブチ抜きの広告を出し、キャンパスでは催眠商法まがいの新興宗教が純真な若人を狙っている。
まるで悪疫におびえ現世利得の密教にすがった平安人の不安をそのまま移したような最近の世相である。
しかしこれらの社会病理現象は精神医学的に説明できるのである。
また、この本によってなぜ人の心には怪談を求める深層心理が存在するかを知り、怪談の起るメカニズムを理解すれば、無用の不安の解消に役立つかも知れない。
しかし、怪談は本来難しく考えるものではなく、楽しむものなのである。
この本はどこから読んでも、肩のこらぬエッセーを読むように一応の読み切りに趣向してあるので、納涼のつれづれにでも御笑読いただくのが著者の本当の望みなのである。
昭和六三年夏 中村希明
●中村希明(なかむら・まれあき)
一九三二年、福岡県生まれ。慶應義塾大学大学院医学研究科修了。専攻は精神医学。医学博士。国立久里浜病院に勤務した後、川崎市立精神保健センター所長、川崎市立井田病院精神科部長、明治大学講師を歴任して、現在、エルステ社会精神医学研究所所長。著書に『怪談の科学』(本書)『犯罪の心理学』『酒飲みの心理学』『薬物依存』『現代の犯罪心理』(以上、講談社ブルーバックス)の他、『アルコール症治療読本』(星和書店)などがある。
*
本書は、一九八八年七月、講談社ブルーバックスB‐736として刊行されました。
怪談《かいだん》の科学《かがく》 幽霊《ゆうれい》はなぜ現《あらわ》れる