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中村うさぎ
屁タレどもよ!
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はじめに「私は、悪口が好きだ!」[#「「私は、悪口が好きだ!」」はゴシック体]
「人の悪口を言っちゃいけません」と、子どもの頃から、親に教師に諭されてきた。が、他人の悪口は、気持ちいい。いけないコトとは思いつつ、天下に胸を張って「こいつが嫌いだぁ───っ!」と、思いっきり叫んでみたい。その結果、「そーゆーおまえこそ、大嫌いだぁ───っ!!!」という三倍返しの悪口が跳ね返ってきたとしても、だ。
そう。我々は、「陰口」「悪口」が大好きな生き物である。他人を悪しざまにコキおろしている時、我々はしばし自分の短所や弱点を棚上げし、あたかも自分が「全面的に正しい人」のような錯覚を起こして、そんな自分に陶酔する。なかには「自己陶酔」が高じて、「世間を代表して、私が言ってさしあげますわっ!」みたいなスタンスで他者の悪口を偉そうに言い散らかす人もいたりして(←あ、デヴィ夫人?)、それはそれで困ったコトだが、まぁ、本人の気持ちよさは大変よくわかるのだ。人として。
そんなワケで、この中村も、普段から「情け容赦のない悪口女」として、薄暗いホモバーの片隅などで他人の悪口言いまくってたのだが、とうとうホモバーの片隅では我慢できず、天下の『夕刊フジ』で、言いたい放題エッセイを連載させていただくコトになったのだった。いやぁ、気持ちよかったね。悪口のドス黒い快感を、たっぷりと味わわせていただきました。『夕刊フジ』さん、ありがとう。さすがに「飯星景子」の回はボツくらったけど、そのボツ原稿も単行本では水子のように蘇ったし……って、水子って蘇るモノなの?(←校閲にツッコまれる前に、自分でツッコんどきます)
そうそう。水子といえば(←どんなネタフリよっ!?)、じつはこの本自体が、危うく水子になるところだったのでした。
そもそもこの本は、このようなインターネット販売形式ではなく、某出版社からフツーに刊行される予定だったのであります。ところが! 見本も刷り上がり、五日後に発売、という土壇場になって、突然、出版社から「やっぱ、この本、出せません」と断られてしまったのであった!
がぁ─────ん!!!!
いやぁ、中村、驚きました。こんな素晴らしいイベント(なのか?)、初めてよ。理由? 理由はね、「悪口が過激すぎる」……なんじゃ、そりゃっ!? 過激だからこそ、悪口でしょ。ぬるま湯みたいな悪口って、どーよ? ま、詳しく言えば、その出版社にとって「大切なお取引先」の悪口が、ここに書かれていたワケね。その人の機嫌を損ねたくないから、「もうちょっと、お手柔らかに」てなコトを言われたのだが、私は断ったよ。だってさ、そーゆーコトは、発売五日前に言うべきコトか?
それに、私はその人のプライベートな事柄を俎上に載せているワケじゃない。その人の「作品」を批判しているのだ。作家にとって、作品は商品だ。世に出した以上、批判も甘んじて受けねばならない。わしらは、そーゆー職業でしょう。それにいちいち激怒して、書いた本人に文句言ってくるならともかく、本を出した出版社に「おたくとはもう付き合いませんわ、きぃ──っ!」てなコトを言う作家がいたら、そいつには作家を職業とする資格がない。才能はあっても、資格はないのだ。これ、大事なコトですよ。さらに、作家の気持ちを先回りして「あ、この本、きっとマズいな。怒らしちゃうな」なんて自粛する出版社よ、キミたちも間違ってる。我々の仕事は何ですか? もしかして、出版社よ、あんたらの仕事は作家サマ相手の「接客業」なのか? 喝───っ!!!
この一連の騒動で、私が得た結論は、
「いちばん屁タレなのは、出版社だった!」
これである。屁タレも屁タレ、大屁タレだ。この文章を読んで、「中村とは今後いっさい、仕事せん」と決めた出版社がいたとしても、私は構わない。喧嘩、上等。かかってきなさい。私はヤンキーか。
そう。この本は「悪口」の本であるが、だからこそ他人のプライベートな悪行を暴露したり、根拠もなく中傷したり、といった内容にならないよう、私自身も気をつけたのだ。というのも、中村には中村の「悪口道」ってのがあってだね、とにかく、「卑怯な悪口を言っちゃいかん!」と、こう思う次第なのである。
もちろん、そもそも悪口言うコト自体がヒキョー者、という説もあろう。が、だからこそ、悪口言う者は堂々と黒帯締めて、「かかってらっしゃい! あたしゃ逃げも隠れもしないよ。良識ある正義漢を気取りもしなきゃ、世間の怒れるサイレント・マジョリティ代表みたいな顔もしねーさ。これは、あたしの個人的意見だ。間違ってたら、素直に土下座してやらぁ。さぁ、来い! いつでも来い!」てな、孤立無援の戦闘態勢で言わなきゃいかんと思うのよ。
ま、ともかく、あたしゃ言いたいコト言えて、大変満足。読者の皆さんがこれを読んで、どう思われるかは、わからない。べつに「そーだそーだ、中村の言うとおり!」ってな熱いエールを期待してるワケではないので、どうか、お気遣いなく。反論や反撃も、心おきなくお寄せくださいませ。
では、さっそく、はじまり、はじまり……。
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目 次
はじめに 「私は、悪口が好きだ!」
デヴィ夫人 芸能界「治外法権」女の高笑い
高見恭子 教えてください、そんなに自分を愛せる理由
中村江里子 過剰な「謙虚」は、ほとんど「尊大」そのものである
小柳ルミ子 女の世渡りは、しょせんソロバンずくでんな
今井美樹 あんた、こんな時まで「爽やか」なのか!
小渕優子 マスコミは、美談仕立てのイジメがお好き
ビビアン・スー 「片言」じゃなきゃ、タダの人(チューヤンもなっ)
村上里佳子 タメ口《ぐち》で提案しちゃうよ、女の生き方!
泉ピン子 ピン子よ、銃を取れ!
鈴木あみ あの目は、どこを見てるんだろう……
水前寺清子 二十世紀の名台詞「あんたの好きな、ニースかい?」
内田春菊 文壇のデヴィ夫人か? ついに夫の包茎まで暴露!
花田夫妻 妻はキツネ目、夫はバカ犬
女盛りゲザデレタ あんたら、復活しなくていいからさ
君島十和子 金ピカのバブル仮面はヒビ割れて……
林葉直子 この人は、棋界の「東電OL」なのだ
山本譲司元議員 凡庸なスキャンダルを光らせたハゲネタ
奈美悦子 乳首は小さくなったけど、態度はだんだんデカくなる!
倉木麻衣 バカな親父も使いよう、なのか?
水沢アキ 被害者ヅラすりゃ、勝ちなのか?
川崎カイヤ 今、もっとも許せん反則女
近藤サト プライドとは、「気取る」コトではありません
南美希子 もはや貫禄すら感じさせる、威風堂々の勘違い
高塚光 他人の家族愛なんか、どうしてあんたが語るのか
久本雅美 才能あるブスよ、TVの手垢にまみれるな!
清水由貴子 まだ芸能人だったコト自体が驚きでした
北川悦吏子 天衣無縫か厚顔無恥か、ナルシシズムの大洪水
松田聖子 もはやオヤジ。だけどそのまま突っ走れ!
堀ちえみ てゆーか、じつはこの回、「ちせ」批判
橋田壽賀子 そこのけ、そこのけ、権力が通る!
田村亮子 「カワイイ」という言葉の意味を問う女
花田ファミリー ある「家族神話」の崩壊とその後
三田佳子 佳子よ、怒れ! 保釈金払って、何が悪い!
小池オリコン社長 今回は「悪口」ではなく「追悼」です
山田まりや 篠原ともえとは共演しないほうがいい
由美かおる いや、だから、「妖精」は勘弁してください
和田アキ子 他人を批判するなら、徒党を組むな!
CM子役 悪いのはキミたちじゃない、わかっちゃいるけど……
飯星景子 信教自由(建前)論者の「踏み絵」女
広末涼子 優等生には優等生の道がある
叶姉妹 平成のウラウラ女は今日も行く!
華原朋美 女たちの「欲望」を演じるダッチワイフ
おわりに 「嫌いと言いつつ、ありがとう!」
文庫版あとがき
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デヴィ夫人[#「デヴィ夫人」はゴシック体]
芸能界「治外法権」女の高笑い[#「芸能界「治外法権」女の高笑い」はゴシック体]
「人のふり見て、なんとやら」という言葉があるが、他人様の活躍ぶり(いろんな意味でな)を見るたびに、自省どころか嫉妬と羨望とヒガミの塊になって、「ああ、ちくしょー。この女のコレが欲しい──っ!」と身悶《みもだ》えする世にも卑屈な女・中村うさぎ。そんな私は、今、この人から目が離せなくて困っているのである。
彼女の名前は、デヴィ夫人。その毒舌で芸能界を震撼させてる、地雷のような恐るべき淑女(なのか?)……たとえば先日、某プロデューサーと大喧嘩してた彼女は、勢いあまってか、「あんなホモを隠してるようなウジウジした方」などという爆弾発言をかまし、小心者の中村は思わず座椅子から腰を浮かしかけたのであった。
マ、マダム、いくらお怒りとはいえ、そこまでおっしゃる必要は……。
喧嘩の相手が本当にホモを隠してるとしたら、それは本人にそれなりの事情があってのコト。日本は、同性愛者がおおっぴらにカミングアウトできるほど、ものわかりのいい国じゃないのである。本人が隠したくなくても、親兄弟の気持ちを慮《おもんぱか》って、あえて黙ってる人だっているワケだ。なのに、あなたときたら、堂々と公共の場でそんなコト……ああ、こんな暴挙が許されていいのっ!? それって、言葉の「ホモ狩り」では!?
だが、どうやら許されたようである。なぜ? たぶん、それは彼女が偉い人だから。
なにしろ彼女は、偉大なるスカルノ元大統領夫人にして、パリの社交界の花形。平民の個人的事情など屁《へ》とも思わない上流階級のお方なのだ。それを思うと、例の発言も、上流階級の方ならではの素晴らしい無頓着《むとんじやく》さ。マリー・アントワネット妃の「パンがなければケーキをお食べ」発言に匹敵する、華麗なる傍若無人ぶりではないか。
ああ、諸君、私はデヴィ夫人が羨《うらや》ましい。「スカルノ元大統領夫人」という肩書のおかげで言いたい放題の、そのお立場にあやかりたい。日本の総理大臣夫人が芸能人の悪口なんぞ言った日にゃ、たちまち国会で大騒ぎになろうというのに、スカルノは外国人だから治外法権なのか。だけどモナコ公妃となったグレイス・ケリーは、アメリカに帰って芸能人の悪口なんか言わなかったぞ。ましてや他人のホモ癖なんか暴露しなかったぞ。それとも、グレイス・ケリーは、デヴィ夫人より小物だったのかっ!?(←だとしたら、すごい……)
謎が謎を呼ぶ、デヴィ夫人の地位。そのご高著《こうちよ》には、故田宮二郎氏の暴露ネタまであり、しかもその数ページ後には桜庭あつこに苦言を呈して曰《いわ》く、「有名になりたくても、相手の立場を考えて相手に不利な事は自分の胸だけに留めてあげる」……「これが人間としての道理」だそうで。
では、田宮二郎氏のご遺族の立場はっ!? 某音楽プロデューサーのご家族の立場はぁ───っ!?(←絶叫)
誰か、中村の疑問に答えてくださーい!
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 私はよほどデヴィ夫人が気になるようで、この後の原稿でも何回か(小柳ルミ子の章、田村亮子の章など)、デヴィ夫人についてチクチクと書いているのであった。「ホントは好きなのか、中村っ!?」と、自分に詰め寄りたくなるくらいだ。それにしても、スカルノ元大統領夫人って肩書、そんなに大層なモノなのか? ジョン・レノン夫人のオノ・ヨーコのほうが、私らの世代は、「なんか高そう!」な気がしちゃうんですが……。
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高見恭子[#「高見恭子」はゴシック体]
教えてください、そんなに自分を愛せる理由[#「教えてください、そんなに自分を愛せる理由」はゴシック体]
さて諸君、今回は、高見恭子について考えてみようではないか。
高見恭子とは何者かとゆーと、故・高見順(作家)のご令嬢にして、プロレスラー馳浩(現・国会議員)の奥様。TVのワイドショーなどにコメンテイターとしてレギュラー出演する一方で、小説やエッセイ、翻訳など著書多数の作家でもあるという、八面六臂《はちめんろつぴ》の活躍ぶりを示す才女なのである。
どうだ、素晴らしいではないか。この華麗なる肩書の数々……肩書マニア(そーゆー人、いますね。名刺にビッシリと肩書を羅列するタイプ)にとっては、まさに羨望の思いを禁じ得ない存在であろう。
しかしまぁ、世の中にはヘソ曲がりなヤツもいて、たとえば知り合いの女性編集者なんかは、「この『作家』って肩書がムカつきますよねっ! おまえが何書いたんだ、って感じぃ〜?」などと彼女をバッシングするのであるが、その点に関しては、私についても同じ感想(「何が作家だよ。てめーはただのムダ遣い女だろっ!」など)をお持ちの方も多数いらっしゃるだろうから、私はあえて不問に付したいと思う。
ただ、「作家・高見恭子」という肩書を見ると、「作家・中谷彰宏」を連想するのは、何かの偶然だろうか。いや、偶然ではなかろうな。たぶん、このふたりの肩書における「作家」とゆーのは、同じ意味合いなのだと思う。特に代表作もなく、文筆業だけで食ってる様子もないが、とりあえず本は出してるし、本人も作家と言ってるコトだし、雑誌にもよく登場して顔も売れてるし、それでいいではないか……という感じの「作家」。ある意味、凡百《ぼんびやく》の作家たちとは一線を画す特別な「VIP作家」なのだよ、このふたりは。
ああ、それにしても、羨ましい限りだ、高見恭子。有名作家のお嬢様で政治家夫人でさぁ、そのうえ本人も才能あふれる作家さんなんだもの。私にも、そのまばゆい肩書のひとつくらい、分けて欲しいってもんだわ、ホホホホッ……などと、私のようなヒガミ性の女は、嫉妬のあまり、ついつい嫌味な口調になってしまうくらいである。
で、この肩書を持つ本人がどえらいブスだったりすると、私も少しは心穏やかでいられようってもんなのだが、TVや雑誌でニッコリと微笑《ほほえ》む彼女は若々しくてキュートな美人。ワイドショーでオヤジふたりに挟まれて、毒にも薬にもならん発言をしては、目をクルクルッとまぁるく見開いて上目遣いにエヘヘと笑う姿なんか、んもう、そこらへんのオヤジがイチコロで転がるかわいらしさなのだ。
当然、同性の私としては、こんな女をTVで見て、いい気持ちになるワケがない。「いい年こいて、かわい子ぶってんじゃねーよ!」などと、心ないツッコミを入れてしまいそうになるのであるが、この世の中、オヤジに気に入られたほうが勝ちなのは周知の事実。彼女はそこらへんをちゃんと知ってて、日夜、「オヤジ転がしスマイル」を鏡で練習しているに違いないのである。いや、もう練習せずとも、オヤジを前にすると条件反射的にあの媚び媚びスマイルが浮かぶのかもしれない。だとしたら、これはまた素晴らしい熟練のオヤジ転がし達人だ。うーむ、羨ましい……心の底から羨ましいぞ、高見恭子!
そんな彼女が最近は、カルチャー講座「自分を愛せる13の方法」(←PHPかっ!?)で講師をつとめているらしい。そーかそーか、君は自分を愛してるんだろうなぁ。わかるよ、疑いもなくナルシシズム全開だもんな、君は。
ところで、その講座、中谷彰宏も講師陣に入っていそうで、ちょっと気になる中村である。
自分を愛せる13の方法……う〜〜っ、高見と中谷に、みっちり教えてもらいてぇ〜!!
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] この「悪口」が掲載された直後、私は某パーティで、高見恭子をナマで見かけてしまった。さっそく猫のように背中の毛を逆立て、戦闘モードに入った中村であったが、もちろん何事も起こりませんでしたわ。きっと向こうは、私の名前も顔も知らないのでしょう。でも、そこに気づいた途端、ちょっとホッとしてしまった私は、やっぱりヒキョー者なのでした。なんか、そんな自分に腹立つわっ!
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中村江里子[#「中村江里子」はゴシック体]
過剰な「謙虚」は、ほとんど「尊大」そのものである[#「過剰な「謙虚」は、ほとんど「尊大」そのものである」はゴシック体]
中村江里子は嫌われ者である。特に、女に嫌われる。それはいったい、何故であろうか。
私は常々、「何故、みんな、中村江里子が嫌いなのか」を不思議に思っていた。そこで今回、改めて過去のバッシング記事などを取り寄せ、彼女について考えてみたのである。
まず、中村江里子といえば、「ブランド物好き」であろう。エルメスのバッグをふたつ(バーキンとボリード)持ち歩いているなどと雑誌は書き立てているが、しかし、そんなの彼女の勝手だろ。そんなに好きなら、三つも四つも持ち歩くがよかろう。私は止めない。
また、「マスコミの心ないバッシングに疲れた」とか言って局アナ引退しておきながら、六カ月後にはちゃっかり芸能界復帰していたコトも世間の神経を逆撫《さかな》でしたようだが、これまた彼女の勝手である。「言行不一致」なんて鬼の首取ったみたいに書かれてるけどさ、私なんか「言行不一致」はしょっちゅうだぜぇ。「必ず今日中に上げます」とか言っといてズルズルとシメキリを延ばすのは日常茶飯事、「もう買い物しません」「もう前借りしません」などという誓いを、これまで何百回破ってきたことだろう。だいたいさぁ、みんな、そんなに言行一致してんのぉ〜? いいじゃんかよ、放っといてやれよ。
どうも、世間が彼女に対してムカついてる「ツボ」みたいなものが、私にはわからんのだ。全身ブランド物の芸能人なんかゴマンといるし、芸能人の引退宣言撤回なんてキャンディーズにしろ都はるみにしろ、芸能界の常識じゃないか……と、ここまで考えたところで、私はハッと気づいたね。
そーか! みんな、中村江里子を芸能人と認めてないんだ! 私はてっきり芸能人だと思ってたけど、世間は「ちょっと、あんた! 何、舞い上がってんだよ。あたしたちゃ、局アナごときを芸能人とは認めてないんだよ!」と言いたいのかもしれない。
しかし、諸君。ここで私は、あえて中村江里子の美質を説きたいと思う。彼女は舞い上がっているどころか、どうやら、とても謙虚な人なのである。雑誌のインタビューで、彼女は自分をバッシングするマスコミに対して、このように言っている。
「私のような小さな人間のことを取り上げて何になるのだろうと、当惑するばかりでした」
どーだね、この謙虚さ! 頭が下がるぜ、江里子!
私に言わせれば「ブランド好き」の人間なんて、そもそも見栄っ張りで目立ちたがりで、謙虚さのカケラもない人間なのである。「私のような小さな人間」なんて、あたしゃ自分を思ったコトないね……あ、ごめん、一度だけあったわ。税務署の調査が入った時、「私のような小さな人間の、ささやかな税金逃れなんかに目クジラ立てて、いったい何になるのでしょう」と思ったっけ。どうやらブランド女ってのは、チヤホヤされてる時は天井知らずに舞い上がるクセに、他人から思わぬツッコミ入れられるといきなり自己卑下しちゃうらしい。浅はかだなぁ……いや、江里子のコトじゃなく私のコトですよ。あくまでも。
そう、江里子の謙虚さは私と違って心からの謙虚さに違いない。同じインタビューで、女性の視聴者が江里子の服を見て「あの服が欲しい」とお店で探したというエピソードを披露しているが、その時も彼女はきっと「私のような小さな人間の服など探して、いったい何になるでしょう」と謙虚に頬《ほお》を染めたに違いない。インタビュー記事からは自慢してるようにも汲《く》み取れるが、それはこちらの思い過ごしだ。江里子はそんな人じゃないわ!
どんなに有名人扱いされても、ブランド物で身を固めても、カンヌ映画祭やパリコレで晴れ舞台を踏もうと、いつでも江里子の自己認識は「私のような小さな人間」(ホントかよ)……うーむ、羨ましい。彼女の過剰なほどの謙虚さに、中村はマジであやかりたいのぉ〜!
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] ホントは謙虚じゃないクセに、謙虚なフリするのは「欺瞞《ぎまん》」である。でも、中村江里子はきっと、心から謙虚な女に違いない。「私なんてちっぽけな人間なのに、どうして皆、イジメるのっ!?」と、日夜クヨクヨしてるのだ。そんな江里子に、フランス人の彼が「キミはステキだよ。もっと自信を持つんだ」なーんて囁いて、パリコレの舞台を踏ませたり、ゴージャスなドレスを着せてパーティに連れてったりする……どーだね、諸君、まるで昔の少女漫画みたいなエピソードではないか。いやぁ、羨ましいのか何なのか、よくわからん!
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小柳ルミ子[#「小柳ルミ子」はゴシック体]
女の世渡りは、しょせんソロバンずくでんな[#「女の世渡りは、しょせんソロバンずくでんな」はゴシック体]
この連載のおかげで女性週刊誌を熱心にチェックするようになった私であるが、最近のネタでもっともおもしろかったのは「デヴィ夫人、パーティ会場で男性記者と掴み合いの喧嘩をした挙句、相手のカツラを吹っ飛ばす」事件であった。やるなぁ、デヴィ夫人。目が離せないぜ、デヴィ夫人!
でも、彼女のコトは第一回目で取り上げちゃったから、今回は残念ながらパスしよう。ただ、あまりにも出色《しゆつしよく》のネタだったので、思わずマクラに使わせていただいた次第である。それにしても例のホモ発言といい今回のカツラといい、相変わらず絶妙のタイミングで他人の恥部を暴く女だ。見習わなくては……。
さて、デヴィ夫人に未練を残しつつ、今回はこのネタでいこう。『女性自身』に報じられた「小柳ルミ子・うつみ宮土理、壮絶ケンカついに勃発!」(←見出し引用)である。
小柳ルミ子といえば、例の離婚記者会見で「慰謝料払うか、バックダンサーで出直すか」の二者択一を夫に迫り、世間の大顰蹙《だいひんしゆく》を買った女。この時に彼女の唯一の理解者&応援者を演じたのが親友(苦笑)のうつみ宮土理だったはずだが、ふたりの友情コンビ番組『うつみ&ルミ子の思い出ボロボロ』が文字どおりボロボロの視聴率で打ち切りとなるや、互いに「あの人のおかげで私のイメージはボロボロよ! コンビを組んで損したわ!」と罵《ののし》り合い、今ではふたりの友情も見る影もなくボロボロ……という、出来の悪いコントみたいな顛末《てんまつ》であるらしい。いいねぇ、ミもフタもない女の喧嘩。さすが芸能人、友情よりバトルのほうが世間を喜ばせるコト、ちゃーんと心得てらっしゃるわい。
それにしても小柳ルミ子、離婚に続いて今回の喧嘩で、彼女の「ミもフタもなさ」にますます磨きがかかったようだ。なにしろ、例の「離婚条件」があまりにも露骨とゆーか、「私があんたをここまで育ててあげたのよ!」というルミ子の本音があからさまに炸裂していたところに、世間の非難が集まったワケである。それに加えて今回の「あの人(←宮土理のコトなり)と組んで損したわ!」発言では、「ルミ子! あんたって、愛も友情も損得で考える女なのっ!?」と思われても仕方あるまい。
そーなのだ。ルミ子は、損得の女なのだ。だが、私は彼女を批判できない。なぜなら、私も損得の女であるからだ。清く正しく禁欲的に生きてる世間の人々は知らないだろうが、「ひとたび離婚だの喧嘩だのになると卑しい損得勘定に走ってしまう」という一部の愚かな人間心理を、私は我がコトとして知っている。
なんたって、この私は離婚の際、元夫に向かって「あんたのしてるロレックスの時計、私のカードで買ったのよ! 返してちょーだいっ!」などと暴言吐いた女である。時計を買った時(すなわちラブラブだった頃)には、恩に着せる気持ちなどさらさらなかった。それどころか、「いーわよ、私が買ってあげるわ」などと調子に乗って自らカードを切ったに違いないのだ。なのに時を経て、相手が「愛する夫」から「憎きカタキ」となるにつれて、醜い損得勘定で相手をなじるようになる。
わかるよ、ルミ子! 人間とは、そーゆーもんだよなぁ。
私とキミの違いは、ただひとつ。私は有名人ではないので、離婚に際して記者会見も開かず、したがって「ロレックス返せ」発言も一部の友人に顰蹙買っただけですんだという、その一点だけだ。
小柳ルミ子よ、こうなったらもう、キレイゴト並べてイメージアップなど図らぬがよいぞ。そのまま「ミもフタもない女」キャラで突っ走れ! そのほうが、おもしれーや!
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 離婚で完全に「女を下げた」感のある、小柳ルミ子。しかし、そもそも大澄賢也と結婚して、ふたりで踊りながら料理作ってた(番組名忘れたが、そんなシーンを見たコトある)時点で、ツッコミどころ満載とゆーか、隙だらけとゆーか、世間から「ちょっと、あんたね……」と、白い目で見られていたのだ。それを思うと、ルミ子の人生、『わたしの城下町』以降、下がりっぱなし? でも、下がっていくのと反比例して、どんどん吊り上がってく、その目尻の秘密は……?
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今井美樹[#「今井美樹」はゴシック体]
あんた、こんな時まで「爽やか」なのか![#「あんた、こんな時まで「爽やか」なのか!」はゴシック体]
今井美樹は、爽やかだ。笑顔も爽やか、歌も爽やか。ドラマに出れば、「恋に仕事に全力投球」の知的で爽やかなキャリアウーマン役。ファッションだって、洗いざらしの真っ白なシャツは眩《まぶ》しいばかりの爽やかさ。これ以上、爽やかにしろといっても無理なくらい、究極の爽やかさである。
だがまぁ、今井美樹は芸能人だ。いくら爽やかだって、それはあくまでも営業用のキャラ。本物の今井美樹自身は、全然、爽やかじゃないに違いない……と、私はかねてより睨《にら》んでいたのであった。
が、諸君。私の読みは、間違っていたのである。今井美樹は、心の底から「爽やか」な人間だったのだ! ガァ──ン!!!(って、べつにショック受けるほどのコトじゃないけどさ)
一九九九年六月、今井美樹は五年越しの不倫の果てに、ミュージシャンの布袋寅泰とめでたくゴールインを果たした。いや、こーゆーのを「めでたく」と形容していいのかどうかは、わからない。なにしろこれは略奪愛であり、今井本人にとってはめでたくても、布袋の妻であった山下久美子にとっては、めでたくも何ともないからである。もちろん、今井だって子どもじゃないんだから、そこらへんの世間の目は、よく承知していたであろう。
しかるに、だ。世間に向かって発表した今井の入籍宣言であるが、これが……なんとゆーか、むちゃくちゃ爽やかなモノだったのであった。曰く、
「私たち布袋寅泰と今井美樹は、1999年6月6日、今後の人生を共にすべく決意のもとに入籍いたしました。
二人で新たな道を歩み始めると同時に、
『これからもよろしく!』
と笑顔でお願い申し上げる次第であります」
どーだぁ──っ! この一点の曇りもない爽やかさ!「これからもよろしく!」だよ、「笑顔でお願い」だよ! いやぁ、爽やか爽やか、爽やか万太郎(←なんのこっちゃ)!
ここには、不倫のうしろめたさ、略奪のきまり悪さ、山下久美子への申し訳なさなど、このテの問題にまつわる暗さがいっさいない。今井のファッションと同様、眩しいばかりの真っ白な爽やかさだ。
でも……と、オバチャンである私は、ふと思う。
いいのか、こんなに爽やかで?
しかしまぁ、それは、四十三年の人生で一度も「爽やか」と言われたコトのない私の、醜いヒガミなのであろう。爽やかであるコトは、決して悪いコトではないはずだ。少なくともそれは長所に数えられるべき資質であり、間違っても短所などになりようのないモノではないか。爽やかな人間に好感を持つ者は多いが、嫌悪感など持つ者はきわめて少ない。
したがって、泥沼の不倫の痕跡を跡形もなく拭《ぬぐ》い去ったこの今井の「爽やか入籍宣言」は、褒められこそすれ(さすが今井美樹! 爽やかだわぁ)、貶《けな》されるべきモノではなかろう。そーだ、妙な胡散臭《うさんくさ》さを感じる私が間違っているのだ。今井美樹は演技ではなく、全身全霊で爽やかな女。それのどこが悪いの? 爽やかって、いいコトじゃーん!
諸君、私は、今井美樹の無神経なほどの爽やかさに憧れる。誰かを明らかに踏み台にしておきながら、こんなに爽やかでいられる今井を、尊敬せずにはいられない。人間、爽やかに生きるが勝ちだ。願わくは、山下久美子も爽やかに悲しんでて欲しいぞ!
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 中村うさぎには、「不倫」とか「略奪婚」とかに対して、ちょっと厳しい傾向があるかもしれない。それはたぶん、自分も「不倫」をしたコトがあるからだ。そして、そんな自分が大嫌いだったからだ。自分のしているコトが誰かを苦しめている……その認識を、「不倫」女は忘れてはいけないと思う。それを忘れたら、ただの鬼畜だ。私も苦しんだのよっ、と、「不倫」女は言うだろう。気持ちは、わかるよ。だけど、あなたの苦しみは、他人を苦しめるコトの正当化にはならない。そこのところ、勘違いしちゃいけないよ。
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小渕優子[#「小渕優子」はゴシック体]
マスコミは、美談仕立てのイジメがお好き[#「マスコミは、美談仕立てのイジメがお好き」はゴシック体]
最近、中村が気になって仕方のない女……それは、小渕優子嬢である。ご存じ、亡き小渕首相の次女にして、父の遺志を継いで政界に進出したスーパーお嬢様。
いや、誤解のないように言っておくが、私は彼女を嫌ってるワケではない。嫌ってるくらいなら、ある意味、まだマシだ。嫌われるほどアクが強いってコトは(小沢一郎みたいにな)、政治家としてのキャラが立ってるってコトじゃないのか。なのに、小渕優子……彼女に関しては、なんとゆーか、「あんた、誰?」ってな感じなんだよ、正直言ってさぁ。
「父(の遺体)が家に戻ってきて、顔を見た時に、後を継いでやっていこうと決めました」
これが、小渕優子、政界デビューの言い分である。そしてまたマスコミが、これをこぞって「美談」扱いして報じたもんだから、んもう、中村、憤懣《ふんまん》やるかたなし、なんである。
お父様思いはけっこうだが、家族愛で政治ができるのか、優子! もしかして、誰かに無理やり言わされてんのかっ!? だとしたら、そんなヤツらにノセられるな、優子! 君の人生は、君のものだ。お父様のものでも、後援会のものでもないんだぞ!
それにしても……と、中村の怒りは、マスコミへと矛先を転じる。小渕優子ネタを「美談」として報じる君たちを、私は許せない。たとえば、優子嬢は以前TBSのADを務めていたそうだが、その当時のエピソード(関係者談)を、某誌はこう紹介していた。
「雑用も汚れ仕事も、嫌な顔ひとつせず、彼女は明るくこなしていました」
アタリマエだろっ! TV局のADが、雑用嫌がってて、どーするっ! そんなアタリマエのコトを美談扱いするなよ! おまえら、絶対、おかしいぞっ!
私は何も、「小渕優子をバッシングせよ」と言ってるワケではないのである。ただ、こないだまで「冷めたピザ」などと揶揄《やゆ》してた小渕元総理を、亡くなった途端に「いい人だったぁ〜」などと持ち上げる胡散臭さもさることながら、その娘の政界進出を手放しで褒め称《たた》える美談報道にいたっては、「てめーら、本気で嘘くせぇ〜っ!」と叫ばずにはいられないのだ。どーせ、何かあったら、手のひら返してバッシングしまくる魂胆だろ。いーかげん、そーゆーヤリ口、やめてくんない?
『一杯のかけそば』の人(名前忘れたけど)にしろ、野村沙知代にしろ、一度はマスコミにチヤホヤされて雲の上まで持ち上げられ、その後、一気に悪口雑言タコ殴りに遭った人々を、私は決して忘れない。もちろん、調子に乗った本人たちも悪かろう。だが、彼らを調子に乗せたのは、いったい誰だ? そしてその後、彼らを身の置きどころもないほど追い詰めたのは、いったい誰なんだよ? これって、ものすごく陰険なイジメじゃないの?
小渕優子さん、今回ばかりは、私もあなたに「あやかりたい」とは思えない。だって、あなたは、なんだかすごく気の毒な立場なんだもん。あなたのお父様への想いを、私はもちろん非難なんてしないし、否定してるワケでもない。ただ、あなたのその想いを利用して、有象無象《うぞうむぞう》の不届き者たちが暗躍しているのを、私はとてもせつなく思うのだ。いつか、あなたが身も心も踏みにじられる時、そーゆーヤツらは決してあなたを守ってはくれないよ。あなたは自分で自分を守るしかない。はたして、あなたはそれに耐えられるだろーか。
しかしなぁ、「美談」と「同情」と「血縁」で票を集めようなんて、国民もナメられたもんだよ。だから、いつまでたってもボンクラな二世が幅をきかすんだ、政界ってヤツぁ。
とか言いつつも、今回もまた棄権してしまう中村は、ホントにサイテーな国民なのであった。ごめん。だって、誰に入れていいのか、さっぱりわかんないんだもん。こんなヤツに説教されたくねーよな、優子さんも。ま、せいぜい、オヤジどもには気をつけてくれよ。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] この当時、まだ世間は、「小渕優子の出馬」を美談として扱っていた。が、それからすぐにバッシングが起き、選挙の時には「何も政治がわかってない」「頑張ります、しか言わない」などと、思ったとおりの批判が続出したのである。そして、小渕優子が当選した今、世間は彼女のコトなど忘れてしまったかのようだ。国会で何をしてるのか、あるいは、何もしてないのか、そーゆー話はいっさい聞こえてこない。これでいいのか?
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ビビアン・スー[#「ビビアン・スー」はゴシック体]
「片言」じゃなきゃ、タダの人(チューヤンもなっ)[#「「片言」じゃなきゃ、タダの人(チューヤンもなっ)」はゴシック体]
ビビアン・スーを見ると、私くらいの年齢(ちなみに私は四十三歳だが)の人は、思わずアイドル時代のアグネス・チャンを連想するのではなかろーか。
ビビアンは台湾出身、アグネスは香港出身。国は違えど、ともに中国系のアイドルであるこのふたりには、ある特筆すべき(ってゆーか、私が勝手に特筆したがってるだけなんだが)共通点がある。それはすなわち、「ロリコン趣味」。
年齢不詳の、あどけない童顔。ファッションも、ラブリー系。そして極めつきは、舌っ足らずな片言の日本語……そう、この「片言」こそが最大のポイントにして、彼女たち外国人タレントだけに許される秘密兵器なんである!
本人は一生懸命に(そう、いつも一生懸命なんだね、キミたちは)喋ってるのに、どこかたどたどしく、しかも時折、思わず吹き出してしまうような「ヘンな日本語」を使ったりする、その微笑ましさ。それは、言葉を覚えたての幼児の片言に、周囲の大人たちがついつい目を細めてしまうのと同じ現象である。『笑っていいとも!』の観客たちが「ビビアン、かわいいー!!」と叫ぶ時、観客たちはビビアン・スーを幼児扱いしてるのだ。
「あーん、ビビアンったらマジに喋ってるのに、日本語ヘンだよ。かわいー!」
これである。そしてさらに特筆すべきは、そこで「かわいー!」と叫ぶ観客の大部分が、ビビアン・スーと同性の女の子たちであるとゆー事実だ。
百万円賭けてもいいが、彼女たちは、自分たちの友人がこのような見え見えの幼児性を発揮したら、絶対に許さないであろう。いや、もちろん、いい年した日本人が片言喋ったら、「かわいー!」以前に「頭悪そー!」であるのは間違いないが、しかし片言とまではいかずとも、異性の前で幼児性を発揮して媚びを売る女の子は珍しくないし(それは古くは「カマトト」、ちょっと前までは「ブリッコ」と呼ばれた)、そーゆータイプは同性からもっとも嫌われるはずなのである。
しかるに、外国人タレントは外国人であるがゆえに、思いっきり媚び媚びの幼児性(喋り方のみならず、髪型や服装までな)を発揮してもなおかつ、同性から「かわいー!」と言ってもらえるのであった。ああ、諸君、これを羨ましいと言わずして、何と言おーかっ!?
女として生きてきた四十三年間に、中村は何度、「同性の目を気にせずに、思いっきり媚び媚びしてみた──い!」と願ったコトだろう。
万年少女みたいな服と髪型でさ、目をパチパチさせながら「あたし、いっつも一生懸命ダヨー!」と口を尖《とが》らせる……そんなかわいい女、一度でいいからやってみたかったわっ! なのに、同性からの冷たい視線と、「おまえは、そんなキャラかよ」という自分自身からのツッコミを恐れるあまり、小心者の私はついつい過剰にフテブテしい女を演じてきてしまった。
ちくしょー、私が外国人だったら! それも巨大で老け顔の欧米人とかじゃなく、小柄で童顔でラブリーなアジア系外国人だったら! んもう、全身全霊で片言喋っちゃうもんねっ! ついでにキョトンと小首を傾《かし》げたり、恥ずかしそうに微笑んだり(これはビビアンではなくアグネス技だが)、必殺ロリコン攻撃三連発で異性からも同性からも「かわいー!」コールを浴びてやる────っ!!!
ビビアンのライバル千秋は、番組内でしばしば「ビビアン、ホントはフツーに喋れるくせにっ」とツッコミを入れてるようだが、この千秋がまた年齢不詳のロリキャラ(言動はほとんど小学生)であるがゆえ、よけいにビビアンの外国人特権が羨ましいのであろう。千秋よ、悔しかったら、おまえも片言喋るがよい。ますます頭悪く見えるだけだと思うがな。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 最近、ビビアン・スーよりも「片言」で得してるのは、チューヤンだ。千秋、悔しいか? 千秋といえば、ずっと前、ココリコの遠藤とのツーショットを写真週刊誌に撮られてたけど、遠藤とはまだ続いてるんだろーか? というのも、私はあの時、「千秋もセックスするんだなぁ」と、ついつい想像してしまい、そのあまりのおぞましさに倒れそーになったからだ。セックスしてるビビアン・スーは想像できるけど、セックスしてる千秋は想像できん。なぜだろう?
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村上里佳子[#「村上里佳子」はゴシック体]
タメ口《ぐち》で提案しちゃうよ、女の生き方![#「タメ口で提案しちゃうよ、女の生き方!」はゴシック体]
村上里佳子は、二十代から三十代の女性の憧れである。十三歳でモデル・デビューし、女優やタレントとして幅広く活躍。旦那様は人気俳優の渡部篤郎で、かわいいふたりの子どもにも恵まれ、夫婦でCM出演もしちゃって、もう幸せいっぱいの理想の家族だ。
それだけでも羨ましいのに、子育ての経験を生かして子ども服ブランドも手がけたりする、多才な里佳子。結婚やら出産やらが仕事の足枷《あしかせ》になるどころか、逆にますます彼女の可能性の幅を広げてるって感じで、なんちゅーか、もう、輝きまくり充実しまくりの人生を歩んでいる(ように見える)のである。自分に限界を感じてる二十〜三十代の女は、こりゃあクラッときますわな。あたしも里佳子みたいになりたーい、と思うだろ。
そんなワケで、若い女性のカリスマ的存在である里佳子は、しばしば「私の生き方」について雑誌のインタビューで語っている。そして、そんな時の彼女は、いつも飾り気のない言葉で、同時代の女性たちと等身大の自分を語るのだ。それがますます、女性たちの共感を呼び……って、ちょっと待てよ? ホントに里佳子って、私たちと等身大なのか?
よくよく考えてみれば、十三歳でモデル・デビューするような女を「凡人」とは呼べまい。むしろ、特別の容姿に恵まれた「選ばれた女」である。夫の渡部篤郎だって、フツーの女が結婚できるよーな相手じゃなかろう。なのに、女性たちはどうして、こんな「雲の上の女」に「等身大の自分」を投影し、共感できるのだろーか?
その秘密は、里佳子の言葉遣いなのであった。TVの中でもインタビュー記事の中でも、里佳子は基本的に「タメ口の女」である。特に多いのは、「○○しようよ!」という呼びかけの言葉……これ、じつは里佳子の秘密兵器ではないかと私は思う。
たとえば、『Como』という雑誌のインタビューでのひと言。
「(生活の中の小さな幸せについて語った後)……気をつけていないと見逃してしまうよ。何かを気にしながら、生活していこうよ」
里佳子、読者にタメ口で呼びかけております! 読者の主婦たち、思わず頷《うなず》きます。そうだね、里佳子! あたしたちも、感性を鈍らせないで、何かを気にしながら生活していくよっ!
さらに、『あなたが選ぶ生き方』という雑誌では、
「自分が何をしたいか、自分らしくいるためにはどうしたらいいか……(中略)……一歩踏み出す勇気を持とうよ」
ああ、またもや呼びかけております! 読者にエールを送っております! 読者のOLたちは、希望に満ちた顔を見合わせます。ねぇ、あたしたちも、一歩踏み出す勇気を持とうよ! 里佳子、勇気をありがとう! あたしたちも里佳子みたいにステキになるよ!
なれるワケ、ねーだろっ……と、ここで心ないツッコミを入れてしまうのは、人生にやる気を失い、後ろ向きに生きてるダサいオバチャン(←私です)だけであろう。
しかし、キミたちに言っておくぞ、若い衆。誰もが里佳子になれると思ったら、おまえさんたち、人生誤るよ。だって、悪いけどキミたちには、美貌も才能もないのだから。
もちろん、前向きに生きるコトは悪いコトじゃない。だが、特別な人間になりたいあまり、海外留学だのオーディションだの自己啓発だの、果ては新興宗教やオカルトまで、とにかく勘違い人生を暴走する気の毒な凡人たちを、私はたくさん見てきている(自分も含めてな)。「特別になりたい」病は、現代人の業病《ごうびよう》なのだ。
里佳子よ、あんたはステキな女だ。それは認めるから、これ以上、病人たちに殺生な呼びかけをして刺激しないでおくれ。私があんたに求めるのは、それだけです、はい。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] べつに私は、村上里佳子、嫌いじゃない(好きでもないけど)。ただ、あの「自信満々」な感じとか、「子ども、いいよぉ!」みたいな発言とかに、日夜、神経を逆撫でされてる女は多いと思う。なんつーの? たとえば叶姉妹みたいに急所をグサッと刺される感じじゃなくて、ちっちゃい擦《す》り傷をそぉーっとそぉーっと逆撫でされる感じの不愉快さね。カサブタを薄ーく剥《む》かれてるような。ま、ほっときゃ治るから、誰もあえて不快を表明しないだけ。そんな感じだ。
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泉ピン子[#「泉ピン子」はゴシック体]
ピン子よ、銃を取れ![#「ピン子よ、銃を取れ!」はゴシック体]
六月二十二日木曜日、いつものように女性週刊誌をチェックしていた私の目は、次の見出しに釘付けになった。
「ピン子(52)、シャネルも買えない差し押さえ!」(by『週刊女性』)
おおおっ、泉ピン子、ついに自己破産かっ!? まったく、バカな女だよ。似合いもしないのに見栄張って、シャネルだのグッチだのブランド物ばっか買い漁《あさ》ってさぁ、挙句に自己破産してりゃ世話ねーや。ハッハッハ!
と、このように、世間の良識ある人々と一緒になってピン子を嘲笑《あざわら》いそうになった私であったが、そうは問屋が卸さなかった。なぜなら、奇《く》しくも同時期に発売されていた『女性セブン』誌に、次のような見出しを発見したからである。
「原稿料の前借りも断られ! ブランド女王中村うさぎ(43)、ああ自己破産!?」……って、これ、私のコトじゃん! ガァ────ン!!!
いやはや、まいった。まいりました。そーだよ、私は泉ピン子を嗤《わら》える立場の人間じゃなかった。ピン子と一緒に、世間から嗤われる立場の人間だったのだ。危うく、自分のポジションを見誤るところだったぜ。ありがとう、『女性セブン』(苦笑)。
ま、そんなワケで、泉ピン子に対しては、そこはかとなく親近感を抱いてしまう中村である。
似合いもしないブランド物でせっせと着飾る悲しい習性、挙句に出版社やら事務所やらから借金を重ねる浅はかさ。『週刊女性』の記事によると、ピン子は事務所に四億円もの買い物代を立て替えさせたうえ、独立によってその借金を踏み倒そうとしたそうな。そのうえ、舞台のギャラ一千万円を、事務所の取り分である二十%のマージンも支払おうとせずに全額着服したという……うーむ、なんて強欲で悪辣《あくらつ》な女なんだ! でも、わかる! わかるよ、ピン子! 誰だって、他人にビタ一文、払いたくねーよなぁ!
かく言う私も、さすがに出版社からの借金踏み倒したコトはないものの(てゆーか、踏み倒されるほどお人よしじゃありませんよ、出版社サマは)、その代わりと言っちゃあナンだが都民税と健康保険料は目いっぱい滞納しまくり、ついさっきも区役所納税課からこってり油を絞られたばかりなのである。だって、都民税なんざぁ、一円だって払いたくねーもんな。石原慎太郎が、あたしに何してくれるっちゅーのよ?
そう。我々は、意地汚くあくどい女なのである。しょせん、育ちの悪い成り上がりなのよ。だからこそ、シャネルのスーツなんぞで着飾って、内面の醜さをカムフラージュしてるワケよ。「ボロは着てても心は錦」と歌ったのは水前寺清子だが、私とピン子は「シャネル着てても心はボロ雑巾」。こんな女に誰がした……ええ、自分ですとも(キッパリ)!
それにしても『女性セブン』といい『週刊女性』といい、その記事の口調から察するに、どうも私とピン子の転落をウズウズしながら待ち望んでいるようである。
そーか、そんなに我々が足滑らすところを見たいのか。世が世なら、自らの手で我々をギロチン台に送りたいところなのであろう。まったく、民衆の身の程知らずの嫉妬には困ったモノですわ。ねぇ、ピン子姫?
でもまぁ、民衆の期待に応えるのが、私たちの務め。こうなったら、バンジージャンプ並みの華麗なる転落ぶりを見せてさしあげなくては。そうね、いっそのこと、一緒に銀行強盗でもやりませんこと? ストッキング被《かぶ》ったピン子の顔も、ぜひ見てみたいし……うん、こりゃ絶対ウケるね。橋田ドラマで地味な主婦役やってる場合じゃないよ、あんた。
「ピン子よ、銃を取れ」……これが、今回の私のメッセージである。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 泉ピン子に関しては、「シャネルを出入り禁止になった」などという噂がまことしやかに流れているが、いくらシャネルでも、何の罪もない女を「出入り禁止」にゃしないだろう。もちろん、ピン子がシャネルの支払い踏み倒してたり、店内で暴れたりしたんなら、話は別だが。しかし、そんな噂が流れるのは、世間がいかに「ピン子のシャネル買いは分不相応だ」と思っているかの証明であろう。ブスの成り上がり者がシャネル買っちゃいかんのか。ほっといて欲しいぜ。なぁ、ピン子?
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鈴木あみ[#「鈴木あみ」はゴシック体]
あの目は、どこを見てるんだろう……[#「あの目は、どこを見てるんだろう……」はゴシック体]
今回は、いきなり結論から発表したいと思う。
「鈴木あみの目は、人間の目ではない」
これである。
私が「鈴木あみ」を認識したのは、例のヤラセ臭プンプンのオーディション番組『ASAYAN』で発掘された彼女が小室プロデュースで次々にヒット曲を出し、CMなんかにもバンバン出始めた頃であった。そしてその頃から、私は鈴木あみに対して、何か割り切れない感情を抱いていたのである。
CMの中の彼女が、トレードマークの笑みを満面に浮かべ、キョロキョロッとまん丸い目で上目遣いにこちらを覗《のぞ》き込む。一瞬、「うーん、かわいい!」と唸《うな》ってしまう。が、次の瞬間、「いや……かわいい……のか?」と、不安になってくる。そりゃもう文句なしに愛らしい笑顔なのだが、どことなく人を不安にさせる笑顔なのである。
それはたとえば、さとう珠緒などをTVで見た時に感じる「フン! 確かにかわいい顔してるのは認めるけどさぁ、媚び媚びしてて不愉快なんだよっ!」といった、わかりやすい不快感ではない。このテの不快感に関しては、以前に取り上げた「高見恭子」「ビビアン・スー」、そして取り上げてないけど「さとう珠緒」あたりが、私の中では「不愉快三羽ガラス」であり、鈴木あみはそこには入らないのである。彼女に対する感情は、「不愉快」とは異質のものだ。むしろ「不気味」とか「恐怖」に近いモノがある。でも、それは何故なのか? 鈴木あみのどこが、私を不安にさせるのであろうか?
この問題をつらつらと考えた結果、辿り着いたのが冒頭の結論であった。もう一度、繰り返そう。
「鈴木あみの目は、人間の目ではない」
そうなのだ。彼女の丸い黒目がちの瞳は、人間というより、ヌイグルミである。テディベアの、あの黒くてツヤツヤした丸いボタンの目なのである。顔を寄せると無邪気にこちらを見返し、思わずギュッと抱き締めたくなる愛らしさ。でも、その瞳には、何も映ってない。意思もなく感情もなく、ただ一方的に人間の「かわいがりたい欲望」を吸収するだけの無機質な瞳。
私の不安の原因は、ここにあるのだった。ヌイグルミは、かわいい。でも、ヌイグルミの目をした人間は、なんだか怖い。髪の毛の伸びるお菊人形みたいだ。おまえら、人間のフリするな! ああ、近寄らないで! 歩いて来ないで! ひぃ─────!!!
と、このように、鈴木あみは私を恐れおののかせるのである。
そもそも小室哲哉プロデュースのアイドルは、どことなく人間っぽくないタイプが多い。安室奈美恵はキューピー人形だし、華原朋美は着せ替えリカちゃんだ。特に朋美の場合、今じゃオモチャ箱の隅で埃《ほこり》をかぶってるリカちゃんみたいに、いい感じでうらぶれてるしな。文字どおり、哲哉にオモチャにされて壊れちゃったワケだよ。もはや目も虚《うつ》ろでさ。
しかし、キューピー奈美恵もリカちゃん朋美も、テディベアあみの不気味さにはかなわない。何か邪悪な黒魔術で魂持っちゃったようなオカルトな目をしてるのは、あみだけだ。
最近は浜崎あゆみや宇多田ヒカル人気に押されて、ちょっぴりオモチャ箱の隅に追いやられつつある鈴木あみ。彼女が起死回生を図るなら、オカルト女優になるしかないと私は思う。黒いボタンの目で覗き込みつつ、笑顔で迫ってくるアミーゴ。逃げても逃げても、笑顔で迫ってくるアミーゴ……貞子より怖いぞ、きっと。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] この後、鈴木あみは、両親と事務所との対立によって芸能界から姿を消した(二〇〇一年四月現在)。こないだ、写真週刊誌に、「自宅の庭で洗濯物を干す鈴木あみ」の写真が載ってたが、やっぱり「あの目」で洗濯物を干してんだろーか? なんか、怖いの、鈴木あみの目って。顔の中にポッカリと開いたブラックホールみたいだ。吸い込まれてしまいそう……悪い意味で。
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水前寺清子[#「水前寺清子」はゴシック体]
二十世紀の名台詞「あんたの好きな、ニースかい?」[#「二十世紀の名台詞「あんたの好きな、ニースかい?」」はゴシック体]
こらぁ、水前寺!!!
と、のっけから怒ってて恐縮だが、それにしても水前寺清子、あまりと言えばあんまりではないか。何って、ほら、こないだの弔辞ですよ。青江三奈の告別式のさ。
それは、青江三奈の訃報を知った翌日のコトであった。何気なくTVをつけたら、ちょうど青江三奈の告別式のシーンで、水前寺清子が遺影に向かって弔辞を述べている真っ最中だったのである。
そーか、青江三奈、亡くなったんだなぁ……などと寝ボケた頭で思いつつ、ボンヤリと画面を眺めていると、水前寺清子はコブシを回す時のように歯を食いしばって悲しみを堪《こら》えつつ、しみじみと故人に向かって語りかけているではないか。
「……あんた(←青江三奈のことである、念のため)、なんだか遠い所に旅に出るんだってねぇ。あんたの好きな、ニースかい? たまには、長い旅もいいやね……(ここでグッとタメて)……行ってらっしゃい!(深々と一礼)」
うひゃあ─────っ!!!!
たちまち目の醒めた想いで、中村は悲鳴をあげた。なんかもう、寝起きにいきなり冷水を浴びせられたような衝撃で、アッとゆー間に全身に鳥肌が立ったね。
サムいぞ、クサいぞ、水前寺! いったい何の芝居だ、これはっ!? 何が「あんたの好きな、ニースかい?」だ! てやんでぇ! 青江三奈が行ったのはなぁ、「ニース」じゃなくて「あの世」だよっ!
いや、もちろん水前寺清子だってバカじゃないワケだから、青江三奈がニースではなく冥土《めいど》に旅立ったコトくらい、百も承知であろう。それを承知で、あえて「ニースに行ったのかい?」なんてぇロマンチック(プッ!)な言い回しをしてみたんだろーが、ロマンチックすぎちゃって、聞いてるこっちが首筋|痒《かゆ》くなっちまったぜ。
そもそも私は、あの「遺影への語りかけ」ってのが嫌いである。芸能人の告別式なんか見てると、よくやってるようだけど、一般人の告別式でもあーゆーコトやるんだろうか? 少なくとも、うちの爺ちゃんの時には、そんなのなかったぞ。もしかしたら、あまりに恥ずかしい行為なので、誰もやりたがらなかったのかもしれないが……。
しかし、芸能人の場合、なんか妙に張り切ってやってる場合が多いよな。遺影に向かって、涙を溜め、声を震わせて、語りかける。真剣な表情だが、本人、かなり陶酔してる。芝居のクライマックスで大見得切ってる、あの感じだ。「さぁ、どうだ! 感動しろ!」と観客に強要してる、あのイヤ〜な感じだ。ヘタな役者ほど演技は過剰になり、観客に感動をゴリ押しして、不愉快にさせるのである。
水前寺清子は、まさにそれだった。ホントにホントに、不愉快だった。
結婚式なら、まだ許そう。だが、これは告別式なのである。人がひとり死んでしまった、その悲しくも厳粛な事実を噛《か》みしめる場なのである。自己陶酔した挙句、ノボセあがった台詞《せりふ》を吐くのは、いかがなものか。勘違いすんなよ、ここは舞台じゃないんだ。「あんたの好きな、ニースかい?」……くはぁ、痒いわ! 出直せいっ!
先日、大臣就任の認証式に扇千景が勘違いなドレスを着て登場したとかで、雑誌やTVがしきりにバッシングしていた。だが、私に言わせてもらえば、千景のドレスなんかより、水前寺の勘違いのほうがずっと問題である。他人の葬式で、ウットリすんな。いいな?
中村の葬式で誰かがあんな台詞吐きやがったら、棺桶から飛び出して殴ってやるっ!
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 芸能人は、いつもTVカメラを意識してる。そして、自分が映っているとなれば、たとえ他人の葬式でも張り切ってしまう。この感動、お茶の間に届けとばかり、コブシを回す。中村は、その「自意識」に耐えられない。羞恥心とは何か、などというコトさえ考えてしまう。諸君、我々は「恥の文化」の国民ではなかったのか。TVカメラに向かってVサインする若者にも、同様の「いたたまれなさ」を感じてしまう。TVが我々から奪ったモノは、「羞恥心」なのだろーか?
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内田春菊[#「内田春菊」はゴシック体]
文壇のデヴィ夫人か? ついに夫の包茎まで暴露![#「文壇のデヴィ夫人か? ついに夫の包茎まで暴露!」はゴシック体]
この人のコトを取り上げていいのかどうか、じつは今でも迷っている。仮にも、同業者である。中村うさぎにだって、遠慮はあるのだ。しかし……やっぱりね、言わせてもらいます。こりゃないよ、内田春菊さん。
というのも、諸君。とある雑誌にだね、内田春菊が『犬の方が嫉妬深い』というタイトルの小説を連載しているワケだよ。手っ取り早く説明すると、この小説は、彼女が三人の子どもを抱えて夫のもとを飛び出した顛末を赤裸々に描いた、いわゆる「私小説」ってヤツである。ま、それは、結構。己のプライバシーをあからさまに描くのは、なにも柳美里の専売特許じゃないからね。
だが、いくら私小説ったって、これはいかがなモノであろうか。もう全編、夫の悪口。毎月毎月、夫の悪口。これでもかこれでもか、と、夫の悪口だ。よほど夫が憎いんだろうが、小説で人の悪口書いちゃいかんって決まりもないが、それにしてもさぁ……節度ってもんがあるじゃないか。
たとえば八月号では、春菊さん、思いっきり暴露してます。夫が「包茎」であったコト。うひゃあ〜〜、恥ずかしい! 世間に皮剥け、じゃなかった、顔向けできんぞ、春菊の夫! 今後、「私は春菊の包茎夫です」という看板掲げて生きていかねばならんぞぉ〜っ!
ま、それだけでも、読者は「うへっ! ここまで言うか!」ってな感じであるのに、春菊さんは容赦しません。さらに追い討ちかけますわい。なんと、包茎夫のアソコのさらなる秘密とは……ああ、私の口からは、とても言えない。以下、引用。
〈確かめようとして驚いた。包皮の中に、べったりと垢《あか》が張り付いていたのだ。こんなものを私に入れた!? あまりのことに吐き気を催したが、なんとか顔に出さないようにし、その代わり洗面器に水を入れて太田の前に置いた。(中略)太田のその部分から、厚さが一ミリ以上にもなっている垢をせっせと洗い落としてやっていた、十七年前の私。〉
いやぁ〜(苦笑)、いくら文学にルールはないといっても、これは……こんな文章を不特定多数の目に曝《さら》された夫の立場は───っ!? 包茎で垢まみれでチンコが臭いと、全国的に暴露された夫の人生は───っ!? ああ、私なら切腹するかも……!!!
小説で自分の私生活を暴露するコト自体は、まったく問題ないと私は思う。だが、あくまでそれは、自分の人生を赤裸々に綴《つづ》りながら、自分自身と向き合う作業であるはずだ。そう、我々が向き合うべきは自分の中の汚泥《おでい》であり、他人の恥部ではない。まるで己の不倫を正当化するかのように、他人の悪口ばかりを書き連ねた作品を、「小説」と呼んでいいのだろうか?
しかも、その悪口に人間の「業」とか「サガ」とか、そーゆーモノが含まれているならまだしも、人間性とはまったく関係ない「包茎チンカス」問題まで……てなワケで、私は、冒頭部分の慨嘆にいたるのである。
こりゃないよ、内田春菊さん。これは「小説」じゃないよ。芸能人の暴露本と変わらないよ、この内容。私はこれを読むたび、松野行秀と沢田亜矢子を思い出しちまう。離婚裁判に、ふたりのセックスシーンのビデオを持ち込んだといわれる、あの厚顔無恥な行為を。
それにしても諸君。物書きを妻や夫に持つというのは、なんと恐ろしいコトであろうか。あなたには反論する術《すべ》もメディアもないのに、相手は思いっきり書きまくってくれるのだ。こんなコトされるくらいなら、いっそズブリと刺してくれ、と、春菊の包茎夫は思っているに違いない。
ペンは剣よりも強し……そーか、こーゆー意味だったのか(違うだろっ)!
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 中村がこの原稿を書いた後もしばらく、内田春菊のこの「話題沸騰連載小説」(←中村ひとりが沸騰してたのだが)は続いていた。春菊さんは相変わらず飛ばしまくりで、元夫のホーケイ問題だけでは飽き足らず、編集者からレイプされた事件まで暴露していた。凄い! この世に、芥川賞候補にまでなった作家をレイプしちゃう編集者が存在するとは、知らなかった! しかも、エレベーターの中でチンポ出して、「舐《な》めてよ」なんて言う編集者! 中村は作家ヒエラルキーの底辺にいる女だが、そんな無礼な編集者に遭ったコトは一度もない。私は内田春菊じゃなくてホントによかったと、心の底から思う今日この頃である。
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花田夫妻[#「花田夫妻」はゴシック体]
妻はキツネ目、夫はバカ犬[#「妻はキツネ目、夫はバカ犬」はゴシック体]
さーて、憲子さんである。おかみさんである。今や渦中の人である。ここんとこ、ワイドショーはずっと、憲子さんの不倫問題と小柳ルミ子の宝石盗難問題で大盛り上がりだ。あまりにも騒ぐので、最初は興味なかった中村も、次第に「感想」らしきモノを持つにいたった次第である。ま、基本的にはどーでもいいんだけどさ、他人の家のゴタゴタなんて。
ハッキリ言って中村は、憲子夫人がホントに浮気してたのか、はたまた友人を家に泊めただけなのか、そのコト自体には全然関心がない。中村だって三年前に結婚するまでは、独り暮らしの身でありながら、男友だちを家に泊めるコトなど日常茶飯事であった。そのほとんどがホモだったとはいえ、事情を知らない他人から妙な疑惑を持たれても仕方ない状況であるし、べつに申し開きしようとも思わない。
だから、もしかしたら憲子夫人もそんな感覚だったのではなかろうか、と、ふと思ったりもするのである。いや、M医師がホモだって言ってるワケじゃありませんよ。ただ身近に男がゴロゴロいて(なにしろ相撲部屋だしな)、そいつらと色恋抜きで付き合ってると、ついつい感覚が麻痺しちゃうんだよ。自分が女だってコト、忘れちゃうんだよな。
そんなワケで、憲子夫人がホントに不倫したのかどうかは果てしない霧の中であり、しかも私にはどーでもいいコトだ。それより、私が気になるのは、二子山親方なのである。
前々から思ってたんだけど、この人の顔、犬に似てるよね。「どこがどう犬なのか」と尋ねられると、うまく答えられないんだが……とにかく、いつ見ても「犬」だ。それも、図体ばかり大きくて、頭の悪い秋田犬。
まぁ、人の顔をアレコレ言っちゃいかんとは思うが、しかし親方は決して不細工ではない。相撲取りの中では、ハンサムな部類であろう。ハンサムだけど、「バカ犬」顔なのだ。これは持って生まれた顔の美醜の問題とは違って、本人に多少の責任があるのではないか。同じ犬でも、努力次第で、「賢い犬」顔にもなれたはずではないか。齢《よわい》五十にして「バカ犬」顔なのは、彼が相撲以外のコトに何も磨きをかけなかったせいではないか……。
そして、そんな私の疑惑を裏づけるかのように、『女性セブン』誌に、次のようなエピソードが載っていた。二子山部屋関係者のひとりが、証言して曰く、
「最初の報道が出た際に、親方は電話でおかみさんを本場所中に何やってんだ、いい加減にしろ、このバカが≠ニ怒鳴りつけたんです」
この話がどこまでホントなのかは、わからない。なにしろ匿名の人物の証言だから、その信憑性《しんぴようせい》は疑ってしかるべきであろう。だが、これを読んだ瞬間、中村は思ったよ。
バカはおまえだ、二子山!
人前で、自分の女房や子どもを「バカ」などと罵る男は、サイテーである。たまにいるよな、人ごみの中で、女房に「何をしてるんだ、バカ!」なんて大声で怒鳴ってるオヤジ。この場を借りて、そーゆーオヤジに言っておく。バカは、おまえだ。自分の家族に向かって愛情のカケラもない面罵《めんば》の言葉を平然と吐く男は、自分がバカでエバりんぼうでサイテーなんだぞ! 覚えとけ! バカってゆうヤツがバカなんだからな(←小学生か)!
最近の犯罪を見るたびに、「家族の絆《きずな》」とか「友だちの絆」とかについて、こんな私でも考えてしまう。人との絆を知らないからこそ、自分と同じ人間をイジメたり殺したりするコトに無神経になっちゃうんだよ。「絆」とは、愛と信頼と思いやりであろう。人前で「バカ!」などと罵るような鈍感な男を相手に、誰が「家族の絆」なんぞ結べようか。
二子山親方……日本一の、バカ犬亭主。憲子、さっさと離婚しちまいなっ!
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 結局、離婚はしたんでしょーか? 別居だけ? しかしまぁ、この時点ではまだ花田憲子に同情的であった中村だが、今は冷ややかな気分である。てゆーか、どうでもいいっス。しょせん、他人の家のゴタゴタやないの。それより「お兄ちゃん」が、こないだ、結婚式みたいな白いネクタイでTV出てたコトのほうが気になる私……スタイリストは、誰っ!?
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女盛りゲザデレタ[#「女盛りゲザデレタ」はゴシック体]
あんたら、復活しなくていいからさ[#「あんたら、復活しなくていいからさ」はゴシック体]
唐突であるが、中村は「熟女」という言葉が大嫌いである。なんか腐りかけの果物みたいでさ、今にも異臭が漂ってきそうじゃないか……なーんてコトを言うと、必ず、「あら、果物だって、腐りかけが一番おいしいのよぉ〜」などと甘えた声で反論してくるブヨブヨの中年女がいるもので、私のイメージの中では、それが現在の「林寛子」なのである。
林寛子……ご存じですね、諸君? 往年のアイドルにして、現在は黒澤久雄夫人。とっくに芸能界から消えたと思ってたら、また最近、TVで見かけるようになった。アイドル時代からムチムチしてたが、今ではブクブクに肥《ふと》って「姫だるま」のごとき風貌である。
このように見る影もなく容色の衰えた元アイドルってのは、もう、見てるこっちが辛くなる。なのに林寛子は、なんと同じような境遇の熟女たちと組んで、「女盛りゲザデレタ」なるグループを結成し、あまつさえCDデビューまでしてしまったのであった。そのメンバーってのが、大場久美子、沢田亜矢子、あべ静江……ううっ、痛い! 痛すぎるぞ、この顔ぶれ!
何が「女盛り」だ! 盛りなんかとっくに過ぎてんだよ、てめーら! 自分が死んだコトに気づいてないと地縛霊になるって、つのだじろうがワイドショーの怪談特集で言ってたけど、おまえらは芸能界の地縛霊じゃ! 悪霊退散───っ!!!
と、このように、「女盛りゲザデレタ」を見ると思わず興奮してしまう中村なのである。ホント、つのだじろうに頼んで、ひとりひとりにお札を貼って封印して欲しいくらいだ。ちなみに「ゲザデレタ」という言葉は、ドイツ語で「使者」という意味なのだそうだが、もしかして「死者」の間違いではなかろーか。それとも、「地獄の使者」なのかっ!?
まぁ、それでも、この四人のなかで、中村がもっとも我慢できるのは、沢田亜矢子である。というのも、この人は例の離婚騒動でボロを出しつくしちまった感があるので、今さら何をやっても驚きゃしねぇのだ。大場久美子は、不快というより、単に「痛々しい」。あのコメットさんが老けちゃって、筋張っちゃって、まぁ……と、目頭の熱くなる想いである。芸能界復帰するより、場末のスナックでひっそりと働いてて欲しい人材だ。そして、あべ静江。この人は、芸能界復帰に当たって思いきりダイエットしたようだが、去年、ナインティナインの番組に林寛子と一緒に出てた時には、寛子に負けないデブっぷりだった。そしてまた、寛子と同様、はしゃぎまくっていた。ナインティナインのツッコミにもズケズケと言い返し、ガハガハと大口開けて笑い、TVを見てるこっちが圧迫感を覚えるほどの、ものすげぇ貫禄を発揮していたのであった。
普通だったら、図々しくて醜いオバチャンになった元アイドルなんて、誰も見たいと思わない。ところが、世の中は「熟女」ブーム(そろそろ終わってるとは思うが)というワケで、この元アイドルたち(特に林寛子な)は、そこで思いっきり勘違いをしたのである。つまり、自らの「オバチャン」性を商品化できると考えたのだ。
しかし、いくら熟女ブームでも、オバチャンなら誰でもいいってワケじゃなかろう。求められるのは、「説得力のあるトーク」。それなりにおもしろいコトや鋭いコトを言える知性、知性の代わりとなるキャリアや肩書が必要なのだ。あのデヴィ夫人だって、スカルノ元大統領夫人という肩書があってのキャラである。しかるに、知性も肩書もなく、ただ漫然とオバチャンになった君たち(特に林寛子)に、熟女タレントとしての未来はない。ただの勘違いオバチャンなんだよ。みっともないから、もうやめな。
それにしても、林寛子、さすがである。二流のアイドルだけあって、芸能界をナメきっとるわい。誰か、この女にガツンと言ってやれ、ガツンと!
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] この人たちについても、もはや言うべきコトは何もない。つのだじろうにお札を貼られたのか、ホントに消滅しちゃったみたいだし。成仏したのかな、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
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君島十和子[#「君島十和子」はゴシック体]
金ピカのバブル仮面はヒビ割れて……[#「金ピカのバブル仮面はヒビ割れて……」はゴシック体]
とにかく、君島十和子は必死なのである。あまりに必死で、見ていられないのである。見ていられないけど、ちょっと「いい気味」なのである。困ったなぁ……(苦笑)。
さて、君島十和子というのは、以前、吉川十和子という名で女優をしていた女である。中村はあまりTVドラマを見ないので、この「吉川十和子」が何に出ていてどんな女優だったのか、じつはまったく記憶にない。だが、彼女は当時、ブランド物好きでも有名であり、フェラガモの靴を何十足も持ってるとかで、しばしば女性誌(特に『25ans』という名の、なんかえらく上流気取りの雑誌)に登場していた。中村が覚えているのは、そっちの十和子……すなわち、「女優」よりも「ブランド好きの女」としての十和子なのであった。
そんな十和子が数年前に結婚した相手は、君島明……ファッション界の重鎮(なのかどーか、よく知らんが)君島一郎の御曹司である。その結婚のニュースを聞いた時、「ほほぉ、さすがブランド好き女。結婚相手もブランド物なのね」と、感心したものだ。
ところが、結婚する直前に、君島明に隠し子がいるという事実が判明し、ちょっとした話題になった。しかしまぁ、十和子はそれでも結婚したのである。そして結婚したと思ったら、今度は夫の父である君島一郎が死去。途端に、君島明と腹違いの兄との間で、遺産をめぐる骨肉の争いが展開され、もう連日、「ワイドショー大喜び」的騒動が繰り広げられたのであった。で、このような醜い争いの結果、君島明は「君島インターナショナル」という会社を遺産として継承するのであるが、経営不振で店は次々に潰《つぶ》れている模様。写真週刊誌の記事によると、ついに本社ビルも手放すとかで、十和子にとっては「踏んだり蹴ったり」「泣きっ面に蜂」の結婚となってしまった。
そんな状況であるから、十和子もボケッと手をこまねいてはいられない。会社を立て直し、夫の危機を救うため、かねてより懇意の『25ans』(ちなみにこの雑誌は、あの叶姉妹をスーパー読者と称して世に出した張本人である)に「美の達人」として頻繁に登場するようになり、近頃は対談連載などお持ちになって活躍されているご様子なのである。
ま、ご活躍は結構なんですがね、この対談の内容ってのが問題さ。いちおう最新の美容情報を紹介する、という体裁を取りながら、じつは十和子を持ち上げるコトだけを趣旨とした、なんかもうすげぇ陳腐な対談なのだ。なにしろ第二回のタイトルが「女は視線で磨かれる」……そりゃ、そーだろ。んなこたぁ、今さら十和子に講釈されなくったって、昔から皆、知ってらぁ。そのうえ、対談の中には、こんな会話もさりげなく織り込まれる。
黒崎(対談相手・ネイルアーティストらしい)でもね、私の周りの子は皆、十和子さんは今のほうがもっとキレイになったって言ってますよ。
君島 ふふ、私もお友だちにときどき言われるの(笑)。女優をやっていたころのほうが、お金も時間もかけられたはずなんだけれど。
黒崎 やっぱり内面の変化とか生活の充実感とかが関係あるのかしら。
だってよ、プッ(笑)。そーか、そんなに生活充実してんのか、十和子。夫の隠し子騒動も、骨肉の争いも、倒産の危機も、すべて「美の肥やし」と言いたいワケか……ああ、いかにも『25ans』的マダームな、あなた! インチキ臭いって意味ですよ、もちろん。
白鳥は優雅に見えて、水中では激しく水を掻いてるそーな。でも十和子の場合、ジタバタと足掻《あが》いて水飛沫《みずしぶき》をそこらじゅうに飛び散らしつつ、なおも「私は優雅」と無理やり言い張っているのである。言い張るのは勝手だが、説得力なさすぎ。まるで裸の王様だ。
美とは、自己欺瞞から生まれるモノなのか? 違うだろ。化粧落として出直せ、十和子!
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 今さら、十和子を、どう扱えというのだ……と、『25ans』の読者も、戸惑っているのではあるまいか。「さすが、十和子さん!」「ステキ、十和子さん!」と、対談相手が連発すればするほど、なんか皮肉みたいに聞こえるし。最新美容はいいから、借金返せ、十和子! まぁ、借金返しの一端として、こーゆー仕事してんだろうけどさ、まだ「カリスマのつもり」な十和子様には、読者、困っちゃう。
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林葉直子[#「林葉直子」はゴシック体]
この人は、棋界の「東電OL」なのだ[#「この人は、棋界の「東電OL」なのだ」はゴシック体]
今回は、林葉直子の苦悩について考えたい。彼女は人生に何を求め、どこに行こうとしているのか……他人事ながら、大変気になる状況なのである。
私が「林葉直子」という女を初めて認識したのは、例の「不倫騒動」がキッカケであった。ワイドショーや週刊誌などの報道によると、彼女は若く美しい「女流棋士」であり、同時に「ジュニア小説家」としても活躍しているじつに多才な人だったのだが、いきなり失踪したりして世間を騒がせたうえ、不倫相手の中原誠永世十段の留守電メッセージなんぞを公表してもっと世間を騒がせ、一躍、「スキャンダラスな女」として注目を集めたのだった。そして、その騒動が一段落したかと思ったら、お次は「ヘアヌード写真集」を出版してマスコミに話題を提供し、それからまたちょっと静かになったと思いきや、今度は『週刊宝石』誌上にて「肉感的人生相談」などという新機軸を打ち出してくれたのである。そのタイトルは「ビショ濡れクリニック」……って、ちょっと待て、直子。ナース井手か、おまえはっ!
このような女を、世間の人々は、このように評価するであろう。
「結局、アレでしょ? 常に世間の注目を浴び、話題にならなきゃ気がすまない、自己顕示欲の塊みたいな女なのよね。いるいる、こーゆー女。自分のスキャンダルを売り物にしてさ、話題がなくなったら脱いでみたり、エッチ路線で歓心買おうとしたり、もう典型的なバカ女ってヤツ〜?」
ま、この評価は、正しい。彼女のやってるコトは、ある種の典型である。ホントにバカだよ、直子。おとなしく将棋指してろよ、てめーはよぉ。
けどなぁ……と、ここで中村は、林葉直子の苦悩に想いを馳せるのである。彼女のバカさってのは、ホントに他人事なんだろーか? これが何の才能もない、本来なら世間から一顧だにされないよーな「芸なし能なし目立ちたがりタレント志望の女」なら、まだわかる。が、彼女は、いやしくも棋士としてその名を知られた存在であり、またジュニア小説家としても成功した、けっこう、「才色兼備」な女ではないか。一芸どころか、二芸にも三芸(美貌も芸のひとつと数えるならば)にも秀《ひい》でた存在であり、べつにシモネタなんか売り物にしなくても、それなりの自己顕示の手段を持った女ではないか。なのに〜、な〜ぜ〜、歯を食〜いし〜ばり〜〜(←ここ、『若者たち』のメロディで)、君は自分を曝すのか、そんな〜に〜して〜まで〜〜?
そこで中村が思い出すのは、あの「東電OL」なのであった。天下の東電で総合職という輝かしいキャリアを積みながら、夜な夜な路上で売春し、果てはボロアパートの一室で殺された謎の女……彼女は、自分の人生に何を求め、どこに行こうとしていたのか。他人から見て輝かしいと思える知性も才能も将来性も、君を満足させなかったのか。君はいったい何者になりたかったのか。そんな〜に〜して〜まで〜〜???
そう、コレなのであるよ、諸君。我々は、他人からの評判に安住できず、いつもいつも「もっと違う自分」になりたがってる愚か者なのだ。それは必ずしも「功名心」ではない。むしろそれとは対極にある、一種の「破滅願望」なのだ。手持ちのカードがどんなによくても、それを放棄してまでまったく違う手を作りたがり、結局は泥沼の敗北を喫する無謀なバカな女たち。それが林葉直子であり、東電OLであり、中村うさぎなのだよ、諸君。
身の程を知れ、と、世間は言う。
だが、自分の正しい「身の程」を知ってる人間が、この世にどれほどいようか。直子の悪アガキを、中村は歯を食いしばって見守る所存である。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 私は、世間が批判するほど、林葉直子が嫌いじゃない。本文でも述べたとおり、彼女の「露悪趣味」には、東電OLや中村うさぎに一脈通じるモノがあると思うのだ。それは、現代の女たちが皆、いちように抱えている「私の居場所がない」症候群だ。他人から見ると、それなりに仕事も順調で、ちゃんと居場所があるように見えるんだけれども、本人たちは、その「居場所」に安住できない。で、ジタバタした挙句に、とんでもない方向へと突っ走ってしまう……我々は、同じ穴のムジナなのだ。頑張れ、直子!
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山本譲司元議員[#「山本譲司元議員」はゴシック体]
凡庸なスキャンダルを光らせたハゲネタ[#「凡庸なスキャンダルを光らせたハゲネタ」はゴシック体]
またひとり、バカな政治家が捕まった。民主党の山本譲司という代議士である。じつは中村は、この男の名前を週刊誌で読んだ時、てっきり歌手の山本譲二かと思い込んでしまい、「あらまぁ、あの演歌歌手ったら、知らない間に政治家になってたのかぁ〜」などとマヌケな感慨に耽《ふけ》ったうえ、「みちのく〜ひとり旅〜〜」と、ひと節、唸ってしまったのであった。でも、よくよく読んだら、別人でやんの。
ま、それはともかく、だ。この代議士のジョージ君は、いったい何をやらかしたのか。『週刊文春』と『FOCUS』の記事によると、どうやら彼は、秘書の給料を横領して私腹を肥やしていたらしいのである。ふーん……。
まぁ、確かに褒められた行為ではないが、金に汚い代議士がいかにもやりそうなコトであり、それ自体は特に私の興味を惹《ひ》くような事件ではない。『文春』も『FOCUS』も、いちおう表向きには「代議士がこんなコトをして!」などと義憤に燃えたフリをしているのであるが、その関心は明らかに別の部分にあるのであった。
というのも、このジョージ君、秘書からピンハネした金で自分のカツラ(二百万円)を買っていたのである。つまり、ハゲだったんですねぇ、彼は。
がぁ──────ん!!!!(笑)
そう、この「カツラ」の件こそが、このセコい横領事件の白眉《はくび》ともいえる部分であり、この部分があってこそ『文春』も『FOCUS』も事件を取り上げる気になったに違いないのである! 絶対、そーだよ。だって、記事読んでると、その「カツラ」エピソードの部分にだけ、ありありと記者の熱意がこもってるんだもん。ま、気持ちはわかるよ。かく言う私も、この「カツラ」の件がなかったら、こんな事件、記憶にも残らないと思うしな。
それにしても……代議士の職を失ってまで、カツラが欲しかったのか、ジョージ君! それほどまでに君は、ハゲを気にしていたのか!
『FOCUS』の記事によると、このジョージ君、爽やかな好青年ぶりで地元の人気を集めていたのだが、ここ最近、めっきり髪が薄くなったそうなのだ。で、ある時、後援会の会合で、ひとりの主婦が聞こえよがしにこう言ったんだそうな。
「写真はハンサムなのに、本人見たらけっこう髪が薄いのねぇ」
うーむっ、心ない言葉である! 諸君、私はこのエピソードを読んだ時、心からジョージ君に同情したよ。もしも私が、サイン会なり講演会なりの際に、誰かから「中村うさぎって、けっこうブスだよなぁ」など聞こえよがしに言われたら、きっと後ろから飛び蹴りくらわしてやるね。自分がブスだってコトは承知しているつもりでも、他人からわざわざ指摘されたくねぇっつーの! しかも、この「聞こえよがし」ってのが、腹立つじゃんか! 卑怯者《ひきようもの》──っ! 言いたいコトがあれば、面と向かって言うがよい───っ!!! そしたら、面と向かって殴ってやるわいっ!!!
まったく、世の中には、無神経な女がいるもんだ。だからって、秘書の給料ピンハネしてカツラ買う男も、どうかと思うがな。そーゆーコトするから、笑われんだよ、おまえ。人から笑われたくない一心でカツラを買い、ますます人から笑われる結果になるなんて、ジョージ君もつくづく因果な男である。だけど、そもそも「カツラ」って、そーゆー宿命を背負ったアイテムなんだよなぁ……。
これが「美容整形」なら、呆れられはしても笑われるコトはあるまい。カツラだからこそ、嘲笑されるのだ。堂々とハゲてるほうがマシってコトか。男はつらいね、なのである。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] ハゲは、かわいそうだ。ブスよりデブより、かわいそうだ。ブスが整形したり、デブがダイエットして痩せても、世間は笑わない。なのに、ハゲが植毛したりカツラかぶったりすると、世間は指差して嘲笑する。じゃあ、隠さずに堂々とハゲてろと言うのか? でも、老人性ハゲならともかく、若ハゲの場合、隠さなくても笑われるのだ。どうせぇっちゅーねんっ!?
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奈美悦子[#「奈美悦子」はゴシック体]
乳首は小さくなったけど、態度はだんだんデカくなる![#「乳首は小さくなったけど、態度はだんだんデカくなる!」はゴシック体]
前に言ったかもしれないが、中村は、いわゆる「熟女タレント」たちに対して、あまり好意的な感情を抱いてない。自分のコトを棚に上げ、いけしゃあしゃあと他人に説教する厚顔無恥なオバチャンたちをTVでチヤホヤする必要があるのかっ……と、このように思うワケである。で、こないだも「勘違いすんなよ、林寛子!」と、このコーナーで申し上げた次第だが、その直後、林寛子ってば写真週刊誌に不倫疑惑を報じられ、記者会見で泣きながら「あたしは芸能界なんて未練ないもの! 別の世界でも食べていけるわ!」と叫んだそうで、それがホントならさっさと引退しな、寛子っ……ってなモンである。
辛口トークとやらを売りにする熟女タレントよ。林寛子は、明日の君自身である。野村沙知代から始まって、このテの熟女タレントの辿る末路には、これである種の「王道」ともいうべき道が決定した。最初は「熟女、熟女」と煽《あお》りたて、思いっきり自分を棚に上げた毒舌トークを黙認しといて、本人がいい気になったところで一気にスキャンダル暴露で叩き落とす……これである。
デヴィ夫人もこの王道を歩んだが、この女はスカルノ元大統領夫人という治外法権を発動して、いまだ強引に居座っている。しかし、大統領夫人ではない(あ、でも、いちおー黒澤天皇の息子夫人だったな)林寛子が消えるのは時間の問題であろう。熟女タレントの皆さんは、「明日は我が身」と気を引き締めていただきたいものだ。
そんなワケで、中村が「明日の林寛子」として注目しているのが奈美悦子である。最近はワイドショーなどにもレギュラー出演し、熟女タレントとして台頭してきた感のある奈美悦子だが、この女の芸能界復帰のキッカケが世にもマヌケな「乳首を返して!」事件であったコトを考えると、中村でなくても、「てめーは他人に説教してる暇があったら、自分の乳首でも心配してなっ!」と言いたくなるではないか。
いや、誤解のないように言っておくが、何も私は「乳首のない女に発言権はない」などと言ってるワケではないのである。ただ、「整形手術で乳首を小さくしようとしたら、小さくなりすぎちゃって整形外科医を訴えました」という、あの信じられないほどバカバカしい事件で芸能界に返り咲いた奈美悦子を、私はとてもじゃないがマトモな女として見るコトができんのだ。どんなに真面目な顔で正論を述べようが、あの「乳首伝説」が人々の記憶に残ってる限り、説得力あらしまへんわ。
そのうえ、女性週刊誌に必ず掲載されてるダイエット商品の広告にも奈美悦子は出ていて、「このダイエットはオススメ!」などとハシャいでるんだが、またそれを見るたびに中村は「あんた、ダイエットはいいけど、乳首は?」と老婆心ながらツッコミを入れたくなるのである。ちなみにこのテのダイエット広告には、奈美悦子の他に、天地真理、東てる美といった熟女タレントが常連として出てるんだけどさ、この三人を見るたびに、「痩せたーい!」などと思うどころか、そこはかとなく虚ろな気分になるのは何故っ!? 悪いけど、この広告にどれほどの効果があるのか、疑問だね。だって、「奈美悦子」に「天地真理」に「東てる美」だよ? ハッキリ言って、「落ちぶれ三羽ガラス」ではっ!?
ま、ともかく、諸君。一度落ちぶれた芸能人が返り咲くのは、確かに難しい。彼女たちにとって、「熟女ブーム」ほどおいしいモノはないだろう。しかし、「広き門は、滅びにいたる」という聖句があるように、安易な道には必ず落とし穴があるのだ。野村沙知代、林寛子が歩んだ王道こそ、そのいい例である。熟女の皆様、お気をつけあそばせい!
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] それにしても、この人はなぜ、今さら整形してまで乳首を縮小しようとしたんだろーか? もしかして、ヘアヌード写真集のため? だとしたら、この人に、由美かおるのコトをあれこれ言う権利はない、と、思うのだが……。ま、それはともかく、女優の方々が年とともに芸域を広げていくのに比べて、元アイドルのオバチャンタレントたちの芸の無さはどうだろう? 女の「天国と地獄」を見ているよーだわ。もちろん地獄はあんたよ、奈美悦子!
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倉木麻衣[#「倉木麻衣」はゴシック体]
バカな親父も使いよう、なのか?[#「バカな親父も使いよう、なのか?」はゴシック体]
私はオバサンであるうえに、音楽にまったく興味がないため、倉木麻衣がどんな歌を歌っているのかさえ、まったく知らない。ただ、ダウンタウンの浜ちゃんに「宇多田ヒカルのパクリ」と言われて抗議した事件だけは知っていて、彼女には悪いがそれ以来、倉木麻衣の名前を聞くと、「ああ、パクリの人……」と思ってしまうのである。
そんな彼女が、今度は父親絡みで、また週刊誌の誌面を飾っている。どうやら、ずっと昔に女と借金作って(どっちかにしろよ、せめて)家を捨てた父親が、今頃になって娘の成功を知り、「麻衣の父親でーす」などと、あちこちで言いまくっているようなのだ。
ま、いかにもありそうな話って感じだが、よくよく考えると、どことなく時代錯誤っぽいスキャンダルではあるよな。日本がまだ貧乏だった時代には、このテの話はよくあるパターンだったに違いない。落ちぶれたダメ親父が娘の成功に擦り寄ってくる構図……その何とも言えない貧乏臭さが、なんか昔の演歌歌手のスキャンダルみたいで、そこはかとなく郷愁さえ感じるよ。ああ、時代の先端を行く歌姫・麻衣ちゃんに、こんな古臭い親父は似合わんぜ。ライバルのヒカルのパパは金髪だってのに、某週刊誌に載った麻衣の親父は時代劇のヅラなんか被ってるしぃ〜(←麻衣パパってば、売れない俳優だったらしい)。とにかくもう、ダサさ炸裂の親父なんだよ。一見の価値あり。
しかし、諸君。ミレニアムだIT革命だなんて言っても、日本人ってのは、やっぱり古い演歌調の体質を引きずっている民族なのであった。その証拠に週刊誌は、倉木麻衣に対して、ものすごくマジに同情しているのである。特に倉木麻衣がこのヤサグレ親父の登場に困惑し、自らのHPに書き込んだ文章に、記者たちはジィ〜〜ンときちゃったらしい。そこで、件《くだん》の文章をちょいと抜粋してみると、
「私自身、父に対しては何処《どこ》でどうして生活しているかも解りませんでしたし、幼い頃から母親や家族が苦しみ悲しんでいる所を見て来ました」「父と母は離婚しました。母は家族を守るためにそうせざるを得ない状態でした」「私は倉木麻衣の父としてよりも、いち高校生の父親として見守ってほしかったというのが正直な気持ちです」「私にとって心の支えは、ファンの皆さんであり歌うことです!! 皆、今、それぞれ自分の悩み、苦しみもあると思うけど、将来の夢や希望をもって頑張って行きたいし、頑張ろう!!」
うーん……文章ヘタだね、麻衣ちゃん。数々のヒットソングの詞を自分で手がけたそのセンスと才能は、どこに行ったのかね?
ま、文章の巧拙は、この際、どうでもいいのである。とにかく、この拙《つたな》くも切々と訴える文章にグッときちゃったマスコミは、以前のパクリ騒動の時の底意地悪い視線はどこへやら、すっかり「頑張れ、麻衣ちゃん!」な気分になっているのだ。『FRIDAY』なんか、「それにしても、急遽《きゆうきよ》、こんなコメントを出さなくてはいけなくなった17歳・高校3年生の心中は察して余りある。かくなる上は、彼女にはメッセージのように〈将来の夢や希望をもって〉これからも歌い続けてほしいもの」だって。う〜〜むっ……(苦笑)。
ま、意図的ではないにしろ、このバカ親父の演歌的カラ騒ぎのおかげで、パクリ事件でちょっと失墜しかけた倉木麻衣のイメージは、結果的に見事に修復されたようである。そこが、私に言わせりゃ、なんだか座りの悪い感じなんだよ。いたいけな女子高校生にオジサンが呆気《あつけ》なく手玉に取られる様子を、思いっきり目《ま》の当たりにしたよーな気がする。
オジサンは騙《だま》せても、オバサンは騙されんぜっ、と、週刊誌の麻衣ちゃんの写真に向かって吠える、中村うさぎ四十三歳の秋なのであった。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 倉木麻衣の父親は、久々の「おいしいキャラ」だった。ブヨブヨした顔に涙を溜めて「麻衣ちゃんに会いたい!」なんて叫んでた姿は、さすが田舎役者って感じで、中村、お茶の間で拍手喝采しましたわ! それにしても、麻衣ちゃんったら、どうして文章、あんなにヘタなの? 作詞する人って、たとえネットの文章でも、それなりに言葉に気を遣うと思うの。「頑張って行きたいし、頑張ろう」って、何なのよ。文章になってないざましょ! こんなコト言ったら訴えられるかもしんないけど、ホントに麻衣ちゃん、自分で詞書いてる? あら、ごめんなさい。おばさんってば、疑り深くって……。
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水沢アキ[#「水沢アキ」はゴシック体]
被害者ヅラすりゃ、勝ちなのか?[#「被害者ヅラすりゃ、勝ちなのか?」はゴシック体]
さて、前々回も申し上げたとおり、熟女タレントには、ひとつの王道がある。すなわち、「熟女タレントとして芸能界に登場(あるいは復帰)→辛口トークという名のもとにTVで神をも畏《おそ》れぬ言いたい放題→本人が舞い上がってる間に、世間では密かに小憎らしく思う気持ちが蓄積→スキャンダル暴露で一挙に転落、そら見たことかのバッシングの嵐」……と、まぁ、このように、波瀾万丈でありながら、あくまでワンパターンな道筋である。
で、目下、この「熟女の王道」を忠実になぞってるのが林寛子なのであるが、ここにきて、またまた熟女バッシングの「お約束」とも言うべき人物が現れた。
なんと、水沢アキである。とっくに芸能界から消えたと思ってたら、折からの熟女ブームに便乗せんとて精力的にワイドショーなどに出演し始めた「往年のアイドル」系タレントのひとりであるが、つい先日、どっかの企画会社か何かの詐欺スキャンダルで名前があがり、ちょっとイメージダウンになった矢先のコトであった。
このスキャンダルによって、水沢アキは、熟女タレントとしてひと花咲かせる前にあえなく消え失せるであろう……と、私などはてっきり思い込んでいたのだが、彼女はしたたかにも思いがけない反撃に出たのである。某番組で、渦中の林寛子に対し、「私、あの人にイジメられました!」と激白したのだ。
彼女の言い分によると、どこかのパーティで林寛子に出会ったところ、寛子から「あなたは男運がないから幸せになれないわね。私をご覧なさい、玉の輿《こし》よ、オホホホッ」と言われ、悔しくて家で泣いてしまったそうである。
なんてイヤな女だろう、と、私は瞬時に思ったね。いや、林寛子のコトではない。水沢アキのコトである。だいたいさぁ、「男運|云々《うんぬん》」なんて台詞、泣くほどのコトかぁ? 若い頃ならともかく、いい年こいたら、女はそれくらいの言葉で泣くほど傷つきゃしない。何も男運だけが人生じゃないと、悟っているからだ。私は「水沢アキ、ホントはおまえ、泣いてないだろ!」と踏んでいるのだが、もしもホントに泣いたんだとしたら、それはそれで単なるバカ女であろう。私に言わせりゃ、水沢アキのこの「イジメられました」宣言は、明らかに「戦略」である。被害者を演じるコトで、先の「詐欺スキャンダル」で汚れたイメージを返上し、なおかつ旬の人物である林寛子バッシングに加担することで世間の注目を集めようとしているのだ。以前、世間がサッチー・バッシングで沸いていた頃、このテの「バッシング便乗タレント」は、渡部絵美やら十勝花子など、これこそ石の下のダンゴ虫のようにワラワラと出現したものだ。水沢アキは、その「お約束」の役割を、自ら進んで買って出たワケである。ねぇ、イヤな女だと思いませんか? もう何年も昔の話、今さら「待ってました」とばかりに持ち出すなよ。おまえは、そんなに注目浴びたいのかっ!?
それってぇのも、前回「倉木麻衣」の項で言ったように「被害者を演じると、世間はいきなり優しくなる」という方式が、臆面もなくまかり通っているからである。「被害者=弱者」であり、「弱者を鞭打ってはいけない」という理屈に異を唱えるのは難しいが、今の世の中、そんなに簡単に「被害者」と「加害者」を分別できるモノなのか? このような単純な二元論……「被害者は健気ないい子だから頑張れ!」「加害者は悪いヤツだから制裁を受けろ!」という思考の道筋をこそ、我々はあえて問題にすべきであろう。
誰かを悪者に仕立てて、自分は被害者ヅラするコトで芸能界に生き残ろうとする人間を、世間が許しても私は許さん(←何様だろ)。水沢アキだけじゃない、カイヤ、おまえもだっ!
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] ずーっとずーっと昔の話だが、「投資ジャーナル事件」ってのが起きた時、容疑者の中江滋樹という麻原彰晃似のオッサンが俄《にわか》に脚光を浴び、ついでにその愛人として「倉田まりこ」(←往年のアイドル)」の名前があがったのを聞いて、中村は「なるほど! 落ちぶれたアイドルってのは、こーゆー手段で生きてるのかっ!」と、感心したものである。てなワケで、水沢アキ。TVに出てなかった間、何をやってたのかは知らないが、じゅーぶんに胡散臭い顔つきだ。目の光り方が尋常じゃない。まさに、虎視耽々。怖い女である。
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川崎カイヤ[#「川崎カイヤ」はゴシック体]
今、もっとも許せん反則女[#「今、もっとも許せん反則女」はゴシック体]
前回、水沢アキを取り上げた稿にて、イタチの最後っ屁のごとく「カイヤ、おまえもだっ!」などと捨て台詞を吐いた私であるが、「何のコトかわからん」と首を傾げた読者もいらっしゃるかと反省し、今回はカイヤについてみっちりと考察してみたいと思う。ところで「カイヤ」というのは、川崎麻世夫人の名前である。念のため。
さて、川崎麻世という「往年のアイドル」が、アメリカ人の奥さんを連れて日本の芸能界に返り咲いたのが、詳しく覚えてないけど確か数年前のコト。その金髪のアメリカ妻は、「夫を尻に敷く怖〜い奥さん」というイメージでバラエティ番組などに出演し、歯に衣《きぬ》着せぬトークで急速に人気を集めたのであった。おかげで、思いっきり落ち目だった夫の川崎麻世にもスポットが当たり、「恐妻家」というコミカルな役どころで、一時期、バラエティ番組を賑わせていたものである。ま、夫婦して、互いのキャラを利用してお仕事してたワケですな。それはよかろう。新手の夫婦漫才みたいなモノだしな。
ところが……!
このところ、どうも風向きが変わってきた様子なのである。夫・麻世の浮気が週刊誌で報道されたのをキッカケに、詰めかけた取材陣の前で、カイヤはこれまでの「猛妻」キャラとは打って変わった反応を示したのだ。なんと、カメラの前で涙ぐみ、「夫の浮気に傷つく殊勝な妻」の一面を見せたのである。
「あれ?」と思ったのは、私だけではあるまい。これまでのカイヤのキャラは、浮気した夫に猛然と詰め寄り、首根っこひっつかまえて怒鳴りつけるような女ではなかったか。そもそもカイヤが注目されたのは、数年前の麻世の浮気釈明会見の折、怖〜い顔で夫を睨んでいたその形相が凄まじく、世間の話題になったからである。以来、麻世とカイヤは、「怖い妻に脅えつつ、女遊びする夫」と「女癖の悪い夫に睨みをきかす妻」というキャラで、夫婦タレントとしての新境地(ってゆーのか、これ?)を拓《ひら》いたのではないか。
ああ、それなのに、それなのに……手のひらを返したように突然、「伏し目がちに涙ぐむ殊勝な妻」を演じたカイヤの真意はっ!?
そう。その真意は、続く報道で、いやがうえにも明らかになった。「カイヤは本当は怖い女なんかじゃない。夫に尽くす健気な妻なんです」という友人(←誰だ、おまえ?)の証言を機に、「麻世は暴力夫」「殴られ、歯型がつくまで噛まれ、それでも子どもたちのために耐えるかわいそうなカイヤ」「そしてまた、夫の新たな浮気の相手が発覚」……などなど、それこそ怒濤《どとう》の勢いで麻世の悪行とカイヤの苦悩が暴かれ、あれよあれよという間に世間はすっかり「カイヤ、かわいそー!」ってなムード一色になってしまったのだ。
諸君、これをどう思うかね? 私に言わせりゃ、「カイヤ、反則!」である。さんざん「怖い妻」のキャラで売っといて、いきなり「ホントの私は違うの!」は、あるまい。一度、キャラを立ててタレント活動した以上、「ホントの私」なんて、どーでもいいのだ。自分で作ったイメージには、最後まで責任持てよ! それがプロだろっ!
だが、中村うさぎの叫びも虚しく、もはや、「かわいそうなカイヤ」を批判する者は誰ひとりいない。ほらね、またもや例のアレだよ。「芸能界、被害者ぶったヤツの勝ち」方式なんだ。私の知っている限り、この件でカイヤを批判したのはただひとり……「おすぎとピーコ」のおすぎである。さすが、おすぎだ。私は彼を尊敬するね。
カイヤや水沢アキといった何の芸もないタレントの、陳腐な同情票作戦が通用するようなら、日本は終わりだ。そうなったら、私とオカマがこの国を乗っ取るわよ! いいわねっ!?
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 差別発言の謗《そし》りを受けようと、一部の外国人タレントに言わせていただく。あんたら、日本人、ナメてる! ま、ナメられるほうが悪いんだと言われたら、こちらも反論できませんがね。いーかげん女性週刊誌も、カイヤのロング・インタビューなんぞ載せるの、やめなっ! 被害者ぶりを誇示したほうが、もちろん世間ウケもいいし、離婚裁判の時にも有利なんだろうけど、そーゆー計算高さが鼻につくのよ。んもう、プンプン(怒)!
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近藤サト[#「近藤サト」はゴシック体]
プライドとは、「気取る」コトではありません[#「プライドとは、「気取る」コトではありません」はゴシック体]
近藤サトが離婚後三カ月で恋人発覚だそうで、女性週刊誌はこぞって、鬼の首取ったような得意顔。べつに、いいじゃんか。離婚した女は、しばらく喪にでも服してろとゆーのか? 結婚中ならともかく、もうフリーなんだから許してやれよ。
と、まぁ、その件自体に関してはサトの肩持つ私であるが、それにしても、芸能人ってのはアホじゃなかろうか。なぜ、車の中でキスなぞするのであろーか?
じゃ、おまえは車の中でキスしたコトないのか、と問われれば、まぁ、若い頃には、ぐふふ(照)、そーゆーコトもありましたがね。しかし、私は芸能人ではなく、一般人であった。私のキスシーンを目撃したところで、誰も喜びゃしなかったし、写真撮るヤツもいなかった。しかるに、サト、あんたは芸能人だ。誰に見られるかもわからないのに、車の中でキスなんかするとは、ウカツだ、ウカツすぎようぞ。
それでもまぁ、下平さやかみたいに、車中キスシーンを週刊誌に撮られ、「ええ、付き合っておりますよ。悪うござんすか」と開き直るなら、その姿勢や潔し、頑張れ、と言いたくなるのであるが、サトときたらワケわからん。なんでも彼女のコメントは、
「ウ〜〜ン……キスしたというのは、話がおもしろい、信頼できる、頭がいいという延長というか」(『女性自身』より)
って、なんじゃ、そりゃ───っ!!!
話がおもしろきゃ、誰にでもキスするのか、おまえはっ!? そんじゃ、おもしろい噺《はなし》を聞くたびに、高座に駆け上がって落語家に熱い口づけをするのかよっ? んでもって、頭のいいヤツにもキスするってぇのなら、こないだノーベル賞取った教授の元に駆けつけ、すぐさま首っ玉を掻き抱いてディープキスをかますがよいわ! 頭いいぞぉ、あのオッサン!
な、そーゆーコトじゃないだろ、サトよ。「話がおもしろいから、信頼できるから、頭いいから」なんてな理由で、人は車中でキスなどしないモノだよ。んなこたぁ、日本じゅうの常識だ。人が誰かにキスするとしたら、それは両者の間に、並み以上の好意が存在するからだろ。べつに好意が存在しても、いいじゃないか。相手は独身(彼女いたらしいが)、あんたも独身。好きになって、何が悪いんだ。そこで世間体を気にしてか、意味不明のコメントでごまかそうとするのは、もしかして「プライド」ってヤツの問題なのか? わたくし、そんな軽薄な女じゃありませんわ、というプライドか。
しかし、サトよ。そーゆーのは、「プライド」とは言いません。ホントのプライドってのは、自分自身から決して目を逸《そ》らさず、バカなところも弱いところも、ダメダメまるでダメ子なところもすべて認めて、「そうです、私はこんな女です。だけど、こんな私の人生を、あたしゃしっかり引き受けてみせるわよっ!」と、仁王立ちで世間に宣言する姿勢だ。あんたの人生を、あんたが責任取って生きていく覚悟があれば、小姑みたいな週刊誌に何を言われようが構うものか。どうせヤツらは、責任取っちゃくんねぇんだぜ? 毅然としろよ。「そんなコトできません、私はあくまで『いい子』でいたいの」、と言うのなら、車の中でキスなんかすんじゃねぇ! 大人なんだから、少し我慢しろよっ!
私は、世間が言うほど、サトを「知的な女」だとは思わない。きっとドロドログチュグチュした「愚かな女の部分」を抱えている人なのだろう。だけど、それでこそ人間じゃんか。あたしゃ、軽蔑しませんよ。軽蔑するとしたら、あの中途半端なイイワケのほうだ。
媚びずに毅然と生きる姿勢を持ってこそ、すべての女子アナは「お人形さん」から脱却できるのではないか。今の女子アナに必要なのはそれなんだっ、と、私は思う次第である。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 一分の隙もない「いい子ちゃん」を演じる能力がないのなら、もはや開き直ってしまったほうが、本人にとっても周りにとっても楽なのである。中途半端は、一番、いけない。中村江里子が、いい例だ。どーせ隙だらけなんだから、「そーよ、私はブランド好きで派手好きで自己顕示欲の塊よっ! ヤッホー!」とか叫んじまったら、もう誰もツッコまなくなるのにね。そう、女子アナに足りないのは、「ヤッホー!」なのだ。ホントかよ。
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南美希子[#「南美希子」はゴシック体]
もはや貫禄すら感じさせる、威風堂々の勘違い[#「もはや貫禄すら感じさせる、威風堂々の勘違い」はゴシック体]
雑誌などで「近頃の女子アナ、ちょっと勘違いしてんじゃねーの?」的な記事を読むと、たいてい「元祖・勘違い女子アナ」として「中村江里子」の名が上がっているのだが、私はその意見に強く異を唱える者である。いや、べつに「中村江里子」を擁護するつもりではない。ただ、「元祖というなら、あんたたち、重要な人物をひとり忘れちゃいませんかね?」と、僭越《せんえつ》ながら申し上げたい次第なのである。
その重要人物とは、何を隠そう、「南美希子」だ。私は彼女を「古今東西女子アナ勘違い番付」の大横綱と考えている。根拠は何かって? そりゃあ、あーた、彼女のエッセイを読めば明白である。じつは私は、この稿を書くために彼女のエッセイを二冊続けて読むという荒行《あらぎよう》を自分に課し、ために現在は瀕死の床についているくらいだ。それくらい、彼女のエッセイは、私から「生きる力」を奪ったのであった。
これほどまでに殺人的なエッセイとは、いったい、どんなモノであろうか? では、ご一緒に読んでみましょう。まずは『お嫁に行くまでの「女磨き」』、冒頭の一節。
「ぼくが傍にいることで、君は誰よりもキレイな花を咲かせて欲しい。
そんな君を見つめるぼくも、とびきりのいい男であり続けたいから……
スウィート=ルームのテラス・チェア。
海の向こうに、宝石を散りばめたように広がる夜景を前に、シャンパン・グラスを傾けながら、彼が、言いました」
うっひゃあ─────っ!!! 痒っ、痒痒っ!!!
いやもう、しょっぱなからコレである。中村はこの冒頭の五行を読んだ途端、慌てて本の表紙を確かめた。もしかしたら、こいつは「中谷彰宏」の本であったかと、不安にかられたからである。しかし、これは間違いなく「南美希子」の本なのであった。
この本は、嫁入り前の若い娘たちに、「いかに、いい恋をして女を磨くか」を「いい女代表・南美希子」が教えるエッセイ。南美希子の恋愛哲学がぎっしりと詰まり、ついでに読者の息まで詰まらせるという、素晴らしく濃い内容である。たとえば、
「どうやら私との出遭いは、あなたにとってアフェアー(情事)ではなくて、アクシデント(事故)だったみたいね、悪いけど、さようなら
この純文学がかったクサーイ別れの台詞。実を言うと、私が10代のころ、何回めかのデートで男のコに見切りをつけるとき、結構使っていたコトバなのです」
ぬはあっ……(絶句)!
いや、それにしても凄い。十代で、この台詞ですか。確かに「クサーイ」台詞なのは認めますが、「純文学がかった」ってぇのは、どうでしょう。「純文学」というより、「B級ドラマ」のセンスに近い台詞だと思います。頼むから、現実生活でこーゆーコト言うの、やめてください。中村は平静でいられません。
それにしても南センセイは、自分をどんな女だとイメージして、このようなコトを書いているのであろうか。と、いぶかりつつ読み進むと、数行後にその答が書かれていた。
「まぁ、ずうずうしく言うと、岡村タカコ的ナイーブさを持った松田聖子的悪女だったってところかしら」
そうかしら。ちょっと図々し過ぎないかしら。読者が引いてないかしら。
諸君、このあふれんばかりの無自覚なナルシシズムにさらされて、中村は青息吐息である。二冊目の本については、もう何も言うまい。美希子、あんたはやっぱり大横綱やぁ〜っ!
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 南美希子の勘違い路線を引き継ぐ女子アナを、中村は、ついに発見した。もちろん、中村江里子ではない。永井美奈子だ。見ましたか、あの結婚披露宴の立て看板!? 遠い目をする美奈子のアップ、波乗りする新郎、抱き合う二人……あたしゃ、B級恋愛映画の看板かと思ったぜ! 美奈子は河野景子と同期だそうだが、きっと羨ましかったんだろーな、あのTV生中継の結婚式が。注目を浴びたかったのね、美奈子。気持ちはわかるけど、あんた、空回り……。
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高塚光[#「高塚光」はゴシック体]
他人の家族愛なんか、どうしてあんたが語るのか[#「他人の家族愛なんか、どうしてあんたが語るのか」はゴシック体]
このコラムでは女しか取り上げない……そんな心の誓いを破って(破るくらいなら誓うなよ、と、自分でも思うが)、以前、思わず二子山親方と山本《カツラ》譲司氏について書いてしまった私である。
そしてまた、私は今回、三度《みたび》心の誓いを破って、ここにひとりの男を取り上げたいと思う。そいつは、癒しの超能力者・高塚光である。
高塚光は数年前、不思議な癒しの力を持つ超能力者として、一躍、マスコミの脚光を浴びた。浴びたけれども、いつの間にか名前を聞かなくなり、我々は彼の存在を忘れかけていたのである。いや、他の人は知らないが、少なくとも私は忘れていた。そして最近、まったく予想外の形で、私は再び彼の姿をTVや雑誌で見ることになったのだった。
それは、「三田佳子の次男が覚醒剤で再逮捕」の見出しが、ワイドショーや女性週刊誌にデカデカと躍った時のこと。忘れかけていた「あの人」がTV画面に現れ、「僕は、彼(←三田佳子の次男)の家庭教師をしていたことがあります。彼は、お母さんの愛情に飢えていたんです……」などと、切々と語り始めたではないか!
中村、驚きました。超能力者が家庭教師をしてた(何を教えてたんだ? 次男の頭に手ぇ翳《かざ》してたのか?)という、なんか滑稽なエピソードにも驚いたが、そのような人間が「三田佳子の愛が足りーん」などという陳腐なコメントを堂々と口にしてる事実にも驚いた。が、高塚光、TVだけでは飽き足らず、女性週刊誌の独占インタビューにも応えて、三田佳子のお家事情をあれこれとくっちゃべっているのであった。
どーにかせーよ、この勘違い野郎!
タレントや有名人のスキャンダルが取り上げられるたび、匿名の「関係者」やら「知人」「友人」やらが「そうそう、じつは私は知ってるんだけど、あの人ってさぁ」などと雑誌などで嬉々としてコメントする現象を、中村はかねがね不愉快に思っていた。誰だか知らんが、ホントに「関係者」だったり「友人」だったりするんなら、そんな時こそ口を閉ざして何も語らぬコトこそ仁義であろう。
高塚光、おまえもそうだ。元家庭教師として心を痛めているのなら、そして短期間でも三田家と親交があった人間として彼らを心配しているのなら、なおさら口を噤《つぐ》むべきではないか。何が「愛情が足りん」だ。多発する少年犯罪、母親の子殺しなど、親子の在り方がこれほど重大に問われている時代、「何が愛情なのか」「どうすれば親子は正常に機能するのか」という問題に、親も子も途方にくれ悲鳴をあげてる状態ではないか。「愛が足りん」なんて、人のコト、簡単に言える時代じゃないんだよ!
癒しの超能力者だか何だか知らんが、おまえはタダのお調子者だ! 他人の家庭のスキャンダルに便乗してて、得々と「愛」を語ってんじゃねーや、喝──っ!!!
そーいえば私の友人は、高塚光と合コンしたコトがあるそーな。案の定、彼は女の子たちに片っ端から手翳しヒーリングしてくれたそうである。愛と癒しの大安売りですな。
「で、どうだった? ヒーリングの効果は?」
「わかんない。あたし、そーゆーの信じないから。ただの余興でしょ?」
友人は軽く笑って、そう言い放ったのだった。なんだ、余興か。余興の癒し師・高塚光。でも、余興で「愛」を語るな。そんなんだから、皆、「愛」を見失うんだ。ああ、寒い。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] んもう、こーゆー男は大嫌い! お調子者め! 何が「癒し」だ! あんた、三田家の傷口に塩を塗ってんじゃんかよっ! 本当に他人を癒したいと思う徳の高い人間なら、こーゆー時には黙って陰で支えてあげるモノじゃないの? このテの男が「癒し」なんて言葉を使うのは、ハッキリ言って犯罪に近いね。もしかして、家庭教師をクビになって逆恨みしてるんじゃ……なーんて、邪推したくなるほどだ。うーむ、許せん!
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久本雅美[#「久本雅美」はゴシック体]
才能あるブスよ、TVの手垢にまみれるな![#「才能あるブスよ、TVの手垢にまみれるな!」はゴシック体]
ネタミ、ヒガミ、ソネミの三位一体《さんみいつたい》女である中村は、美人のインテリ系タレントには強い反発を覚えるクセに、ブスのお笑い系タレントには心の底から寛容になれるという、ひじょーにわかりやすい心情の持ち主である。好きだぜ、ブス! 山田花子なんか最高だよ! あの垢抜けないイナカ娘顔が、荒《すさ》んだ私の心を癒してくれるの。ゴーゴー、不細工! レッツゴー、不細工! 山田花子に栄光あれ!
てなワケで、不細工系タレントにこれほど肩入れする中村ではあるが、やはり限度というモノもあり、これら不細工があまりにも調子に乗ってると、一転して「ちょっと、あんた! ブスだからって、いや、ブスだからこそ、やっちゃいけねぇコトってのがあるんだよっ!」と、ヤキのひとつも入れたくなってしまうのであった。
てゆーのも、久本雅美。
中村の気のせいかもしれないが、最近TVで見かける久本は、常に涙ぐんでいる。たとえば番組名は忘れたが、一台のバスに乗って男女が旅をし、恋したり失恋したりするドキュメンタリー(ってゆーのか?)番組があってさ、これがもうホントにどうしようもなくわざとらしい全身痒くなるよーな内容なのであるが、コメンテイターの久本、彼らの惚れた腫れたドラマにいちいちいたく感動し、常に涙ぐんでいるワケなのだ。
ちなみにこの番組のコメンテイターは三人いて、久本雅美、加藤晴彦、今田耕司という顔ぶれ。で、このうち久本と加藤は「泣き」担当で、今田は「ツッコミ」担当(←彼の醒めたツッコミは、私にとって、この番組の唯一の救いである)、という役割配分になってるらしい。まぁ、タレントである以上、与えられた役割を忠実にこなすのは義務であろうから、ひたすら「泣き」に徹する久本と加藤は、単に台本どおりのアクションをしているに過ぎず、そこを咎《とが》められるのは本意ではない、のかもしれない。
が、しかし。台本どおりの役割だからこそ、それを不自然にならないように、できれば視聴者を「泣き」に引きずり込むほどの演技力なりキャラの必然性なりが必要とされるのではないか。その点、久本は、見事に失敗している。同じ役割の加藤晴彦がさほどあざとく見えないのに、久本ばかりが泣けば泣くほど浮いてしまうのである。
これは、何故か。べつに加藤晴彦が演技派だというワケではない。こいつは多分に、キャラの問題であろう。加藤が泣いても許されるのは、彼がクイズ番組などで遺憾なく発揮しているところの「単細胞キャラ」であるからだ。要するに、単純。ちょっとバカ。だから、このようなわざとらしい恋愛ドラマにも、すーぐ泣いちゃうんだね、晴彦くん、てな感じで、我々はペットのバカ犬を愛《め》でる視線で、加藤晴彦の「泣き」を観賞する。
だが、久本の場合は違う。彼女に「かわいい単純バカ」路線は許されない。なぜなら久本は元来ツッコミ系キャラであり、したがって番組中の今田の位置こそ久本にふさわしい位置なのであって、加藤の隣で泣いてる場合ではないからだ。
しかも、久本は「ブスキャラ」ではないか。「ブスキャラ」ってのはね、存在自体が世の中に対する反逆なのよ。美人ばかりチヤホヤする世間の足元をヒョイとすくってみせるトリックスター、いわば一服の「毒」なのだ。そのトリックスターが、こんな陳腐な恋愛ドラマに涙しちゃいかんだろ。ブスはあくまでも「毒」をもって、その世間並みの安っぽい感動をからかう立場でなくちゃーいかんのだ、と私は思う。
毒を失って「いい人」に成り下がったブスにタレントとしての価値はない。久本、「みのもんた」にでもなるつもりか。才能あるブスキャラだと思うからこそ、彼女の「いい人」路線に苦情を申し上げたい、中村である。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] せっかく、おもしろいのになー。毒があって、露悪で、ホントはTV向きじゃない芸人さんなのに、どんどんTVの手垢にまみれて俗っぽくなっていくのが、中村は悲しい。タモリも、たけしも、そうだった。ま、たけしは、「映画」という毒のハケ口を見つけたみたいだけど。TVは、芸人の「毒」を抜いていく。「公共性を持つ」というコトは、そーゆーコトなのかもしれない。
[#改ページ]
清水由貴子[#「清水由貴子」はゴシック体]
まだ芸能人だったコト自体が驚きでした[#「まだ芸能人だったコト自体が驚きでした」はゴシック体]
午後一時半頃、のそのそとベッドから起き出して、「うう〜」と唸りつつリビングに行くと、夫が座椅子に座って昼ドラを見ている。フジテレビの『幸福の明日』とかいう連続ドラマで、年の頃四十歳前後のポッチャリと肥った女優が小学生くらいの子役を抱きしめて涙ぐんでいたり、夫役の男優に食ってかかったりしているのであった。
で、私は、その女優の決して美人とは言えない凡庸な顔立ちをしばし漫然と眺め、「しかしまぁ、こんなに華のない女優っつーか、どこにでもいそうな平凡なオバチャンを、よくも主役に抜擢《ばつてき》したもんだ。いくらフツーの主婦役ったって、ドラマなんだからも少し綺麗どころを……いや、美人じゃなくてもいいから、せめて市原悦子みたいに存在感のある女優を起用するとかさぁ」などと夫相手に苦情を申し立てていたのであるが、ある日、そのドラマのクレジットを見てビックリ仰天してしまったのである。
そのパッとしない凡庸なオバチャン女優は、なんと、往年のアイドル・清水由貴子なのであった。がぁ──────ん!!!!
「ちょっと、これ、清水由貴子なのぉ〜? うっそー!」
思わず叫ぶと、夫は訝《いぶか》しげな顔で、
「清水由貴子って、誰?」
「昔のアイドルだよ」
「ええっ、アイドル────ッ!?」
今度は夫が仰天して、TV画面に映る小肥り中年女優をまじまじと見つめ、
「嘘でしょ」
「ホントだって」
「アイドルって顔じゃないよ」
「まぁ、年取ったから……」
と、フォローしながらも私は、見る影もなく肥った清水由貴子の顔を、暗澹《あんたん》たる気持ちで眺めたのであった。花の色は移りにけりないたづらに……って、まぁ、清水由貴子はアイドル時代からいわゆる美人ではなく、むしろ、もさっとした田舎臭い少女ではあったがな。それにしても、負けず劣らず田舎臭いズングリムックリアイドルだった榊原郁恵が、現在ではそれなりにこざっぱりと洗練された様子になってるってぇのに、清水由貴子よ、おまえのその落魄《らくはく》ぶりはどうしたのだ。林寛子より無惨だぞ。しかも、これで現役芸能人とは……むふぅ〜、オーラなさすぎ。いや肥りすぎ。
しかしまぁ、中年になって肥満し容色が衰えるのは、人間として自然の成り行きなのである。芸能人とて人の子、肥りもしよう、シワも増えよう。それがいかんと言うなら、松田聖子のごとく引きつったお肌で、サイボーグアイドルしてろっちゅーのか。それもまた、妖怪じみて不気味ではないか。てゆーか、そもそもからしてB級アイドルであった清水由貴子が、そこまで自分の容姿に金かける意味ってあんのか。ねーよな。絶対ねぇ。
と、このように自問自答した挙句、「清水由貴子は、そのままでよし」という結論に達した中村なのであった。ただし、曲がりなりにも芸能人やってる以上、このままフツーのオバサン然としてるワケにはいくまい。これでは、いくらなんでも、芸能人としての存在意義がなさすぎる。しかるに、この肥満、この容色の衰えを武器に、サイボーグ聖子に対するアンチテーゼ的存在として活躍していただきたいと願う私である。芸能人よ、人間として自然に還れ……芸能人ルネッサンス運動の幕開けだ。闘え、由貴子! 人類のために!
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] このドラマが好評だったのか、清水由貴子はその後、TVのワイドショーにコメンテイターとして出演していた(今も出演中かも)。ところで、この「ワイドショーのコメンテイター」という仕事だが、安いよねぇ……いや、ギャラじゃなくて、なんか、イメージが。ワイドショーに出て安くならないのは、オカマだけだと思う。それは、オカマが、「TVでも、ちゃんと毒を吐ける」貴重な存在だから。オカマの毒は、全国公認なのよ。羨ましいわ。マジで。
[#改ページ]
北川悦吏子[#「北川悦吏子」はゴシック体]
天衣無縫か厚顔無恥か、ナルシシズムの大洪水[#「天衣無縫か厚顔無恥か、ナルシシズムの大洪水」はゴシック体]
こないだ、このコラムで「南美希子」について書いたところ、とある編集者から「南美希子についての批判は初めて読みました。思ってても誰も書きませんよね」と言われ、ちょっと考え込んだ私である。というのも、「高見恭子」について書いた時にも同様の反応を得たからで、これはもしかして中村、何かのタブーに触れてしまったのではなかろうか?
つまり、「高見恭子と南美希子には触れちゃいかん」とか、あるいは「同業者(いちおう、両者ともエッセイストを名乗ってるワケだし)を批判してはいかん」とかいう暗黙の掟《おきて》が出版界にはあって、無知な私は知らずに地雷踏んじゃったのではなかろうか?
あちゃあ……と、思わないでもないが、ま、いいか。高見恭子と南美希子から出版界追放されたって、べつに私は構わんよ。
てなワケで、懲りもせず、同業者(なのかな、今回は?)を取り上げてしまう中村である。その人の名は、北川悦吏子……ご存じ、売れっ子シナリオライターだ。ちなみに私は、彼女が脚本を書いたTVドラマを一度も見たコトがない。いや、彼女の作品に限らず、もともと私はTVドラマを見ない女なのである。なぜかってぇと、あまりにも頭悪くて、翌週まで話を覚えていられないからやね。どうだ、アホだろう。えっへん。
ま、それはともかく、そんな私が北川悦吏子を知ったのは、彼女のエッセイを読んだためである。『毎日がテレビの日』というタイトルで、彼女のシナリオライターとしての日常を綴ったモノなのだが、これがまた……なんちゅーの? 我田引水? 自画自賛?
いや、これはあくまで私の好みの問題なのであるが、たとえば「私の仕事って、ホント大変! もうこんなに苦労しちゃってんだからぁ!」みたいな話が、一度ならともかく何度も何度も繰り返されたりすると、読んでる私はだんだんムカムカと腹が立ってきて、「大変なのは、おまえの仕事だけじゃないわいっ!」と、本を投げつけたくなってくるのであるが、皆さんは、いかがであろうか?
思うに、こーゆー傾向って、物書きとかクリエイター(←ヘッ)みたいな職業の人に多いような気がする。どう言えばいいのかな、「私はそんじょそこらの人とは違う、クリエイティブな仕事をしてるもんで、ものすごーく身を削って書いてるのよ。大変なのよ」といった自負が、行間からミシミシと滲《にじ》み出てきてて、それが私はイヤなんだ、どうにも。
そりゃあ、私だって、シャネルのスーツを着て小指立てて紅茶飲みながらアンニュイに原稿書いてるワケじゃないからして、物書きの皆さんの大変さはわかる。わかるけれども、それが銀行員の大変さや主婦の大変さと較べて特別かってゆーと、そうでもないと思うのだ。そして、多くの銀行員や主婦には雑誌などで「大変だ、大変だ」などと訴えるチャンスもなく、そんな無言の人々の大変さが世間にはいっぱい埋もれているのでありましょう。であるから、物書きふぜいが得意げに「私の仕事って大変なのぉ」なんて言うのは、ちょっと恥ずかしいとゆーか、いい気になるなよってな感じがするんである。
わしらの仕事は、しょせん、世の中から消えてなくなっても誰も困らない程度のモノじゃござんせんか。銀行員や主婦がいなくなったら困る人はいっぱいいるけど、シナリオライターや小説家なんて、べつにねぇ。しかも、それにしてはいいギャラ取ってると思うし、やっぱりあんまり得意になるような職業じゃないよ。
あと、ご自分でおっしゃってますが、本屋に行って自分の顔を店員さんにじっと見せる(←もちろん著者だと気づいて欲しいワケです)そうですね。そーゆー物書きって、どうなんでしょうか。恥ずかしいコトだと思いますよ、北川さん。まぁ、私が本屋の店員なら、気づいても一生知らんフリをするでしょう。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 無自覚に流出するナルシシズムほど、他人を困惑させるモノはない。南美希子、しかり。永井美奈子、しかり。そして、この北川悦吏子もまた、その類だ。エッセイ一冊が丸ごと、「あたしって、凄いのーっ!」「あたしって、売れっ子なのーっ!「あたしって……あたしって……」の、素晴らし過ぎる「あたし」の洪水。読者は溺れる、ブクブクと。そーいえば、この人も、出産エッセイ書いてたな。南美希子も書いてたけど。どーして皆、子ども産んだらエッセイ書くの? そーゆー意味では、林真理子って偉いと思う。
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松田聖子[#「松田聖子」はゴシック体]
もはやオヤジ。だけどそのまま突っ走れ![#「もはやオヤジ。だけどそのまま突っ走れ!」はゴシック体]
前々から訊いてみたかったのだが、世間は「松田聖子」を好きなのか嫌いなのか、どっちなのだろーか?
というのも、先日の離婚会見。凄かったですねぇ、マスコミが。聖子が「主人には主人の夢があって……」などと言うや、どっかのレポーター(男)が、「それなら、夫の夢に協力するのも、妻の務めじゃないですかぁ!」なーんて得意げに噛みついてたけど、アホでしょ、あんた。聖子は、生活費稼ぐ担当なんだよ。「妻」とはいえ、むしろ経済的役割においては従来の「夫」の立場なんだよ。たとえばあんたはさぁ、自分の妻がアメリカに留学したいと言い出したら、自分の仕事を放り出して一緒にアメリカに行くのかね? 行かねーだろ。まったく、何が「妻の務め」だ。バカも休み休み言うがよいぞ!
と、まぁ、このように、聖子自身よりもレポーターのバカっぷりが鼻につく記者会見ではあったが、それにしても松田聖子、新しい恋の相手が原田真二ってのも(ホントの話なら)、なんかトホホ感が漂うよなぁ。郷ひろみ→神田正輝→ホスト顔の歯医者(波多野さんだっけ?)→原田真二と、恋の相手が確実に安くなってる気がするのは私だけだろーか。だってさぁ、原田真二だよ、原田真二。「俺をアーチストと呼んでくれ」男だよ。覚えてる?
そうなのだ。このたびの騒動で、いくつかのワイドショーが「原田真二」なる男を紹介するのを見ていたが、どこも「以前『てぃ〜んずぶる〜す』や『キャンディ』といったヒット曲を飛ばしたシンガーソングライター」などと通り一遍の紹介をするだけで、誰ひとり例の「発言」には触れてなかったのが、中村にとっては何より心外であったのだ。ヒット曲なんか、べつにどうでもいいんだよ。すげぇ名曲ってほどでもなかったしさ。それより我々の記憶に残ってるのは、彼の尊大なる「アーチスト」宣言ではなかったのかっ!?
当時、いくつかのヒットを飛ばした後で、彼はマスコミに向かって言い放った。
「俺を歌手と呼ばないでくれ。俺はアーチストなんだ!」
その発言を伝え聞いた時、中村は「プッ」と笑ってしまった。アーチストだって。プッ。そーゆーコトは、自分から宣言するもんじゃありませんよ、ボクちゃん。
思えば、原田真二のこの尊大な発言は、後の田原俊彦の「俺ってビッグ」発言に相当するモノであった。原田真二は、田原俊彦の先達《せんだつ》であったのだ。
そして、田原俊彦も原田真二も、その自意識過剰なセリフとともに芸能界から姿を消したのである。まぁ、原田真二はもしかしたらアメリカにでも武者修行に行ってたのかもしれんが(あっ、吉田栄作っ!?)、それでもホントにビッグなアーチストなら、その後、何らかの形で頭角を現していたはずである。でも、何の音沙汰もなく歳月は過ぎ、再び名前を聞いたのは松田聖子の不倫相手という位置づけ……どうよ、これって? 安い男だと思いませんか?
そこで私がしみじみと思うのは、松田聖子は男に何を求めているのか、という問題なのである。一流アイドルから二流俳優へ、二流俳優から一般人(でも、いちおー歯医者)へ、そして歯医者の次は世間から忘れ去られた自称アーチスト……どんどん安くなっていく男の価値は、逆に聖子の自信の増大ぶりを反映してるのではないか。聖子にとって男はもはや、尊敬と憧憬《どうけい》の目で見上げる存在ではなく、自分の人気と財力で引き上げてあげる存在なのではなかろーか。つまり、アレです。松田聖子は確実に、小柳ルミ子化しているのであります。彼女は今は女ではなく、オヤジなんですよ、精神的に。
ま、自分より高い男に恋しているうちは、女もハンパ者ってコトでしょう。オヤジになってこそ、天下の聖子だ。私は聖子の味方である。原田真二は嫌いだけどな。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] デビューしたね、SAYAKA。どーして、名前がローマ字なんだろう? アメリカ育ちのバイリンギャル(死語ね)だから? ま、SAYAKAはべつにいいんだけど、聖子は相変わらず、日本じゅうの女とオカマの「気になる女ベストワン」なのである。「女子アナ」について「開き直らないからダメなのよ!」的なコトを言った私だが、ホント、聖子の「開き直り」ぶりには頭が下がる。女は、こうでなくちゃね! 中森明菜も、青汁のCM出てる場合じゃないわよっ!
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堀ちえみ[#「堀ちえみ」はゴシック体]
てゆーか、じつはこの回、「ちせ」批判[#「てゆーか、じつはこの回、「ちせ」批判」はゴシック体]
皆さんは「萌《もえ》」というモノをご存じだろーか? 今、男の子たちの間で流行している女の子のタイプを、オタク業界で「萌」と呼ぶんだそーな。
「今の漫画はもう、『萌』が出てこないと売れないんですよ」
長い付き合いの漫画家さんがこうコボすのを聞いて、キョトンとしてしまった私である。
「モエって、何? 山口もえ?」
「違いますよ。なんてゆーのかな、つまり少女から大人への狭間キャラとゆーか……」
「ロリコン?」
「ま、それに近いんですが、ちょっとニュアンスが違うんだな。つまりね、子犬みたいな女の子なんですよ」
「子犬みたいな……そーか、毛深いんだなっ!?」
「んな、アホな」
私のギャグは不発であった。が、まぁ、それはどーでもよろしい。問題は、世の中の若者たちが通称「萌」にハマっていて、その「萌」ってぇのは「少女っぽい繊細さと傷つきやすさを持ち、なおかつひたむきで、男の後ろから子犬のようについてくるタイプ」を指すらしい、というコトなのである。
くはぁっ、なんじゃ、そりゃ!? 私のもっとも苦手なタイプの女だぁ〜〜!!!
ちなみに私の愛読している『ビッグコミックスピリッツ』という漫画誌に『最終兵器彼女』という「元ネタ『エヴァンゲリオン』か?」な漫画が連載されていて、その漫画のヒロインである「ちせ」とかゆー女が私はもう嫌いで嫌いで虫酸《むしず》が走りそーなんだが(なら、読むなよ)、この「ちせ」ってぇのが典型的な「萌」であるらしい。傷つきやすくて脆《もろ》いガラスの感受性を内に秘めつつ、いつもひたむきで座敷犬のようにチンコロチンコロと一生懸命に駆けてくる健気な「ちせ」ちゃん……。一生懸命なのにドジをやって「あせあせっ」(←うぎゃあ〜〜っ!!!)などと焦る姿もかわいらしく、傷ついても無理して微笑む笑顔がまた痛々しく、男なら思わずギュッと抱き締めて守ってあげたくなるキャラである。
「最近は女の子が強いからさぁ、守ってやりたくなるような女の子なんて現実にいなくなっちゃったじゃん? それで、漫画のキャラに、そーゆーの求めるんだよねぇ」
同席の編集者がもっともらしく頷くのを見て、中村はゴジラのよーに火を噴いた。
「何が『守ってあげたくなる女の子がいない』だぁ───っ!!! 女ひとり守る体力も精神力も財力もない男が、手前勝手な夢押し付けんじゃねーやっ!!!」
まったくねぇ、男ってのはどうしてこう、自分に都合のいい女ばかし追い求めるのかねぇ。たまには、我が身を振り返れっつーの。
そんなワケで、もちろん芸能界にも「萌」がウヨウヨいるものの(ビビアン・スーとかな)、なんといっても元祖「萌」なのは、あの『スチュワーデス物語』でドジでマヌケなカメと呼ばれた往年の堀ちえみであろう。最近、泥沼の離婚を経て芸能界復帰した彼女だが、「夫の暴力に苦しんで……」などと傷ついた被害者ぶりを売りとしつつ、「一生懸命に頑張ってる母親の姿を子どもたちに見せたくて」なんてヒタムキな部分もアピールしちゃったりなんかして、相変わらず「萌」ぶり健在だ。けど、いかんせん、もうオバチャンなのがちょっと悲しいよな。「傷つきやすさ」や「ドジだけどひたむき」が売りになるのは、少女の時期だけ。いい年して「少女」やってると、単に頭悪そうに見えるだけだから気をつけたほうがいいと思いまーす! 以上、中村の「老婆心」からの提言である。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] タイトルでも述べたように、ホントは「堀ちえみ」なんか、どーでもいいのである。あくまでも問題は、『最終兵器彼女』の「ちせ」よっ! あんた、裕木奈江(どこ行ったの?)みたいっ! 男に言わせりゃ、「こーゆー女が、俺たちを癒してくれるんだよー」てなモンだろーが、あんたたち、他人に癒してもらうほどマジに戦ってんのかよっ!? 戦う気概もない去勢犬男と、そんな男に媚びる座敷犬女……日本の未来はヘナチョコじゃい!
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橋田壽賀子[#「橋田壽賀子」はゴシック体]
そこのけ、そこのけ、権力が通る![#「そこのけ、そこのけ、権力が通る!」はゴシック体]
『笑っていいとも!』という番組は、いったいいつ終わるんだろう……などと思いつつ、ほかに見るべき番組もないので、今日も漫然と『笑っていいとも!』を見てしまった私である。で、毎週何曜日だったか忘れたが、橋田壽賀子がレギュラーで出る日があって、このおもしろくも何ともないオバチャンが妙にハシャいでるのを見るたびに、中村はイヤ〜な気分になるのであった。
ねぇ、誰か教えて! 橋田壽賀子はなぜ、あの番組に出てるのっ!?
橋田壽賀子といえば、もちろん、売れっ子脚本家。『渡る世間は鬼ばかり』(←見たコトないけど)というドラマで高視聴率を稼ぎ、泉ピン子を筆頭にレギュラー出演者たちを束ねて「橋田ファミリー」なる一派を形成し、TV界に隠然たる勢力を持つオバチャンであるコトは周知のとおりである。いや、「隠然たる」という表現は間違いだな。壽賀子、目立ちまくりだもん。
以前、安田成美が橋田ドラマのヒロインを降板した時に、壽賀子が「飼い犬に手を噛まれた」という素晴らしいコメントを発表して「橋田壽賀子、安田成美を犬呼ばわり!」などと女性週刊誌にツッコまれていた事件も、私の記憶には新しい。まぁ、このコメントを聞いただけでも、このオバチャンがどんなにTV界でチヤホヤされて思い上がっているか、よぉーくわかろうというものだ。TV界も出版界も似たようなもんだと思うが、結局、数字を稼げる作家は「先生、先生」と周囲におだてられ、次第に己を見失っていくんであろう。ま、それを非難するつもりはない。ただ、それはあくまでも業界内とゆーか裏の世界での現象であって、表にそーゆーのが出ちゃうのは如何《いかが》なものか。そう、『笑っていいとも!』の橋田壽賀子が不快なのは、その権力の構図がTV画面に満ち満ちていて、見てるこっちをウンザリさせるからなのだ。
ハッキリ言って、『笑っていいとも!』の壽賀子は全然おもしろくない。言ってるコトは常に的外れだし、人が喋ってるのに横からゴチャゴチャ言ってリズムを乱すし、思わず「ババア、黙ってろ!」とTVに向かって怒鳴りたくなるほどだ。なるほど、素人の的外れなコメントを「天然ボケ」として楽しむ風潮はあろう、ゴチャゴチャと横槍を入れてテンポを乱すのも壽賀子だけでなくタモリや太田(爆笑問題)がよくやるコトではあろう。が、「天然ボケ」は周囲のツッコミがあって初めて成立するモノだし、横槍だってそれなりに芸になってればこそ笑いを誘発するのである(タモリは時々不発だが)。
しかるに壽賀子の場合、その的外れな発言に周囲はいちおうツッコむんだけど、気を遣ってるのありありで、極楽とんぼも柴田理恵も、「やだなぁ、先生」みたいな超お手柔らかツッコミで誤魔化《ごまか》してしまうゆえ、こっちは笑うに笑えない。誰かがハリセンで壽賀子の頭をバシッと殴りでもすりゃあ大いに爽快だろうに、そんなこたぁ絶対誰もやらないのだ。だって、「先生」だもん。偉いんだもん。遠慮しぃしぃ、顔色見ぃ見ぃ、ツッコむのが関の山。しかも、まったくおもしろくもないギャグにもアハハハと笑ってやるもんだから、壽賀子ったら勘違いして、もう大変さ。ますます調子に乗って、いつまでも喋ってらぁね。
権力をカサに着たオバチャンがハシャいでるのも不愉快だが、そのオバチャンにビクビクと気を遣ってる芸能人たちを見るのもまた不愉快で、結果、この番組は二重の苦痛を私に与えるのである。柴田理恵なんか、「もしかして橋田ドラマに出たいんじゃ……」などと思わず邪推したくなるほどだ。ま、邪推であるコトを祈っているが。柴田理恵はいい人だって、知ってる人は皆、言うもんなぁ。「いい人」と「媚びない人」とは、また別問題ですけどね(苦笑)。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] もちろん中村もオバチャンなのだが、「こんなオバチャンだけにはなりたくない」というサンプルを提示せよと言われたら、迷わず「橋田壽賀子」である。ま、ある意味、この女もオヤジだよな。ゴルフ場とかで「社長、ナイスショット! さっすが、社長!」なーんて言われて、ガハガハ高笑いしてるオヤジ。要するに、田舎のオヤジさ。そんなゴルフ場の光景を、TVでタレ流すから、不愉快なのよ。『笑っていいとも!』って番組は、タモリと壽賀子をチヤホヤするための番組にしか見えないんだけど、皆、不愉快じゃないの?
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田村亮子[#「田村亮子」はゴシック体]
「カワイイ」という言葉の意味を問う女[#「「カワイイ」という言葉の意味を問う女」はゴシック体]
諸君、私は今、週刊『SPA!』の新年合併特大号を傍《かたわ》らに置いて、この原稿を書いている。というのも、この雑誌の「女が認めたカワイイ女ランキング」なるアンケート結果を見て、新年早々、目の玉がガビィ───ンと飛び出してしまったからなのである。
だってさぁ、「カワイイ女ランキング」の四位が田村亮子だよ、田村亮子! ヤワラちゃんだよ。そりゃ、金メダル取ったのは偉いさ。国民的ヒロインだってのも、認める。しかしなぁ、しかしっ……いくらなんでも、「カワイイ」ってのは言い過ぎだろ。おい、みんな、冷静に考えろよ。田村亮子って、「カワイイ女」なのかぁ?
私の個人的意見を言わせてもらえば、田村亮子ってのは、いわゆる「カワイイ女」とは対極に位置するキャラクターである。「カワイイ」という言葉の定義にもよると思うが、少なくとも田村亮子にレースやフリルは似合わない。おそらく、田村亮子にもっとも似合うファッションは、国会議員のオバさん(注:扇千景を除く)が着ている野暮ったいテーラードスーツであろう。世の中には「ファッショナブルな服を着てはいけない人種」ってのがいて、田村亮子はそのひとりなのだ。
誤解なきように言っておくが、べつに田村亮子を不細工だとかスタイル悪いなどと誹謗中傷(←なのか?)してるワケでは決してない。ただ、全体的な雰囲気が「オバサン臭い」と言っておるのだ。一緒か? いや、違う。断じて違うね。「ブス」と「オバサン」は、似て非なるモノなのだ。
たとえば「カワイイ」という形容詞を例に考えた場合、「ブス」が「カワイイ」と言われる可能性はあっても(例:山田花子のブスだけど愛嬌のあるキャラクターとかな)、「オバサン」は「カワイイ」という概念から遠く遠く十億光年くらい離れているのである。デヴィ夫人が正月番組でピンクの振袖着てTVに出てたが、日本全国で彼女を「カワイイ」と思った者など皆無であったろう。私なんぞは、正月早々、見てはいけないモノを見てしまったような気がして、ギョッとしてチャンネル替えたくらいだ。
であるからして、若いのに「天然オバサンオーラ」を発散している田村亮子は、決して「カワイイ女」ではない。カワイイ女には恋も似合うが、田村亮子の恋の噂を聞いた時、なんだかちょっと辟易《へきえき》してしまったのは、私だけではなかろう。いや、ヤワラちゃんが恋しちゃいかんとは言わん。そうは言わんが、しかし、できれば人目につかない場所でこっそりやっていただきたい、という気はする。もしもヤワラちゃんが何か勘違いでもして、公衆の面前で恋人と潤んだ目で見つめ合ったり熱烈なキスを交わしたりしようものなら、私はそれを平常心では見ていられない。横山弁護士(←あ、懐かしい!)のごとく「やめてぇ〜っ!」などと叫んで、TV画面に殴りかかってしまいそうである。
おそらく私は、田村亮子を「女」として認識したくないのであろう。性別はむろん女であるに違いないが、「田村亮子は女である」という事実に、それ以上の意味を持たせたくないのだ。なぜなら、田村亮子は「女」を超えた「オバチャン」だから。誰だって野村沙知代や土井たか子が女であるコトには疑いを持つまいが、彼女らの性生活など想像したくもなかろう。オバサンは、必要以上に女であってはならんのだ。たまに、そこんとこを全然わかってないオバサンがいて、見当違いな色気を見せようとするから、私なんぞは大いに困惑してしまうのである。デヴィ夫人のヌード写真を見た時にゃ、国辱だとさえ思ったよ。お願い、インドネシアに帰ってぇ〜〜っ!
しかし、そんな田村亮子を「カワイイ女」と認定する女たちが、この世にはたくさんいるらしい。恐ろしいコトである。二十一世紀の日本は、どーなってしまうのだろーか(暗澹)。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 女性週刊誌って、不思議だ。同じ金メダリストでも、高橋尚子がヘアスタイルをソバージュにしたりブランド物を着たりしただけで「間違い女!」とバッシングするクセに、田村亮子が変なピアノの発表会みたいなドレスで出現しても、ノーチェック。つまり、スポーツ選手はダサいくらいが好印象、ってなコトらしい。でも、「似合ってない」という点では、ヤワラちゃんの一本勝ちでしたけど。
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花田ファミリー[#「花田ファミリー」はゴシック体]
ある「家族神話」の崩壊とその後[#「ある「家族神話」の崩壊とその後」はゴシック体]
二〇〇〇年末、このコーナーの担当編集者が「中村さん、ぜひ、花田ファミリーについて書いてくださいよっ!」と、なぜか鼻の穴膨らませて、私に三冊の単行本を差し出した。そんな事情で私は、正月休みをすべて費やして花田憲子の『凜として…。』、花田勝の『独白』、花田景子の『ピンチも料理で救われます。』という三冊のエッセイ本を読破するハメになり、おかげで今じゃちょっとした「花田ファミリー博士」である。諸君、花田家のコトなら何でも訊いてくれたまえ、ガッハッハ! んもう、貴乃花の晩メシの献立まで知ってるぞ、あたしゃ。ファンでも何でもないのにな。うーむ、なんと役に立たない知識だ、我ながら。
しかし、せっかく鼻の穴膨らませた担当編集者には申し訳ないのだが、この三冊の本を読み終えた今も、私は特に花田家への反発や憤懣《ふんまん》を感じるものではない。それよりも、私がこれらの本を通して強く感じたのは、「日本の家族神話崩壊」という問題なのであった。
花田家というのは、古き日本の家族形態をそのまま実践している、現代ではちょっと特異な一家である。花田憲子、花田勝の自伝エッセイを読むと、ふたりの息子(若乃花と貴乃花)は幼い頃から大変に父親を尊敬していたようで、「父親不在」といわれる現代日本の家族のなかでは珍しく、父権の強い一家であったと思われる。「強くて厳しい父」「しっかり者の母」「親孝行で仲の良い息子たち」……まるで昔の道徳の教科書に登場しそうな、ある意味、理想の家族なのだ。
だが、そのような出来すぎの家族を見ると、「そんなキレイゴトの家族なんか、この世に存在するかよ、インチキくせぇ! ホントのとこはどうなんだ、ああん?」などと思うのが、私を含めた低俗なる民衆の心理であろう。現に、マスコミは躍起となって花田ファミリーの化けの皮を剥《は》がさんとし、さまざまなバッシングで責めたてたのであるが、そんな彼らをもっとも喜ばせたのが、例の「貴乃花絶縁宣言」騒動であった。仲良しで親孝行な兄弟(ケッ、と、ここで人は思う)、一分の隙もなく結束していた花田ファミリー(ケッケッ、と、ここで人は再び思う)に、初めて生じた亀裂……「やったぁ!」とマスコミは小躍りし、「それ見ろ!」と民衆は溜飲《りゆういん》を下げたのである。
世の中に、キレイゴトの家族なんか、存在しない。皆、体裁繕ってカッコつけてるだけで、ホントはドロドロしたモノが渦巻いてるはずなんだ。花田家だって例外じゃないさ……と、これが民衆の信念であり、貴乃花の絶縁宣言は、その民衆のドス黒い期待に応えてくれたワケだ。
しかし、と、私はここで思う。ともすれば切れそうになりがちな目に見えない家族の絆を、騙し騙し、そして体裁繕ってつなぎ留めようと四苦八苦しているのは、どこの家族とて同じではないか。その痛みと哀しみを身をもって知りながら、我々はなぜ、花田家の崩壊を望むのか。同じ家族として、見て見ぬフリはできないのか。なぜ、彼らの小さな綻《ほころ》びに手を突っ込んで、傷口を広げるような真似をしたがるのか。
むろん、これは嫉妬である。あまりにも強固な家族神話を持つ花田家を、我々は引きずり降ろし辱《はずかし》めるコトで、我々自身の抱える家族コンプレックスを解消せんと欲したのである。それが、我々の歪《ゆが》んだ「平等意識」なのだ。こうして花田家は、民衆のお望みどおり、今や崩壊の危機に瀕している。どうだ諸君、満足か。私はちっとも満足ではない。自分の手で燃やしてしまった金閣寺を見るような、何か砂を噛むがごとき虚しささえ感じるぞ。
花田家の崩壊とともに、日本は最後の家族神話を喪失した。二十一世紀は、家族を葬《ほうむ》った者たちの醜いエゴイズムの時代となるだろう。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] こないだ、お兄ちゃんが白いネクタイで……って、これはもう言ったか。しつこいぞ、中村。ところで、おかみさんの不倫相手として騒がれたM医師ってのは、ありゃ、史上サイテーの男だったよね。週刊誌で花田憲子を「ババア」呼ばわりしたと思ったら、次の瞬間には「僕は芸能人じゃないんだ。放っといてくれ!」みたいな発言しちゃってさ。そんじゃ、雑誌の取材も断れよ。自分に都合のいいコトだけコメントして、後は一般人のフリするなんて卑怯だぞ! 花田家と知り合いになれて、舞い上がってたのはおまえだろっ!
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三田佳子[#「三田佳子」はゴシック体]
佳子よ、怒れ! 保釈金払って、何が悪い![#「佳子よ、怒れ! 保釈金払って、何が悪い!」はゴシック体]
このところ芸能スキャンダルの常連といった感のある三田佳子であるが、つい先日も、朝のワイドショーで集中砲火を浴びていた。覚醒剤使用容疑で勾留中の次男を、保釈金五百万円を払って家に連れ戻した、というのである。
ワイドショーのレポーターやコメンテイターは憤激した口調で「反省の色がない」「金で解決しようとしている」「五百万円もの大金をポンと払う金銭感覚の麻痺ぶり」などと非難していたが、しかし、その怒りの内容がよくわからない。中村に言わせていただければ、「見苦しい」のは三田佳子ではなく、これら世論を代表しているつもりの人々なのだ。
最初に、彼らに問いたい。君たちはいったい、何に対して怒っているのだ。その怒りの本質は何なのか。
まず、「金で解決しようとしている」という非難であるが、これは現に「保釈金制度」というモノが存在しているのであるから、三田佳子が倫理にもとる行為をしたとは思えない。彼女はべつに、警察に賄賂を渡したワケでも何でもないんだぞ。しかも、保釈したからといって無罪放免になるワケではないのだから、「金で解決した」コトにはならない。何も「解決」してないんだよ、実際には。それでも「金を払って勾留中の容疑者を保釈する」コトがどうしても許せないのなら、三田佳子を非難するより「保釈金制度」そのものを槍玉に挙げるべきではないか。
第二に、「五百万円もの大金をポンと払う金銭感覚」に対する非難だ。じつはこの部分こそ、レポーターの熱がもっともこもった箇所なのである。
「五百万円を、あら安いわね、といった感じで、三田さんはポンと出したそうなんですっ!」
「金銭感覚が庶民と違いますよね。まったく麻痺してますよっ!」
と、このように彼らは憤激するのであるが、しかし、「金銭感覚が庶民と違う」のは当然であろうよ。なぜなら、三田佳子は庶民じゃないからだ。貧乏人の五百万円と金持ちの五百万円は、同じ五百万円でも、本人にとっての価値が違う……これはどう考えてもアタリマエの現象であり、「だから金持ちは間違っちょる!」という理屈は残念ながら成り立たない。だって日本は、社会主義国でも共産主義国でもなく、資本主義国じゃないか。そして資本主義というのは必然的に自由競争の世界であるから、「己の才覚で成り上がり金持ちになる」コトを奨励こそすれ、非難するモノではないのである。
皆さんが怒る気持ちは、こーゆーコトだ。「人間は平等である」はずなのに、現実では明らかに「金持ちがいい思いをしている」ワケであり、「それじゃ、平等じゃないじゃん!」っちゅうコトでしょうが。確かに人間は平等だし、たとえば教育を受ける権利とかそーゆーモノは「平等」であるべきだが、しかし、資産の多寡やそれに付随する金銭感覚まで「平等」である必要はなかろう。そこまで「平等であるべき」なら、資本主義そのものが瓦解《がかい》するではないか。
要するに、諸君の憤慨は、ヤッカミなのだ。持てる者に対する嫉妬なのだ。まぁ、嫉妬するなとは言わない。ただ、嫉妬を正義感にスリ替えて、臆面もなく三田佳子に正義の鉄槌《てつつい》を下してるつもりのワイドショーに、私は虫酸の走るような不愉快さを感じるのである。
TVの「正義感」は、いともたやすく民衆に伝染する。単なるヤッカミを正義感だと思い込み、低劣な怒りをタレ流して民衆を煽るような「不正義」を、君たちは無自覚でやっているのだ。
この件で三田佳子の金銭感覚を非難したタレントや文化人は、すべて己を恥じるべし!
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 唐十郎、年取ったなぁ……というのが、この「三田佳子事件」における、もうひとつの私の感想である。十代の頃の中村は、唐十郎の戯曲をすべて読んだほどの「唐ファン」だった。また、それからずっと後の『佐川くんからの手紙』にも、衝撃を受けた。彼はあの衝撃のカニバリズム事件さえ、己の世界に取り込み、現実とはまったく違う「唐ファンタジー」を世に提示したのである。その彼が、単なる「正義の味方」となり「世論の代表者」となって、三田佳子の次男に檄《げき》を飛ばしている。こんなんでいいのか。唐十郎、老いたり!
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小池オリコン社長[#「小池オリコン社長」はゴシック体]
今回は「悪口」ではなく「追悼」です[#「今回は「悪口」ではなく「追悼」です」はゴシック体]
「オリコンの小池社長が亡くなったねぇ」
つい先日、私の長年の担当編集者で今は「うさぎ事務所」の仕事もお願いしているT氏が、打ち合わせの途中、しみじみとした口調で呟いた。
「そういえば去年、小池社長から事務所にお歳暮が来てたっけ。思えばあれが最後の……」
「えっ! お歳暮来てたのっ!?」
その言葉を聞くなり、犬のようにピンと耳を立てた中村であった。以前はお歳暮だのお中元だのといった習慣を軽蔑していた私だが、昨年の暮れから、そんな自分を大きく悔い改めたのである。というのも、競馬でなけなしの金をすべて失って米も買えぬほどの貧窮にさらされた年末、某出版社からお歳暮にもらったハムでどうにか正月まで食いつないで、お歳暮のありがたさを身にしみて知ったのだ。以来、「お歳暮」という言葉を聞いただけで意地汚く目を輝かせてしまう哀しい習性が身についてしまった私は、小池社長への追悼の気持ちもどこへやら、いきなり身を乗り出してT氏に尋ねたのだった。
「お歳暮、何だった? 食べ物?」
「何だと思う?」
T氏はもったいぶってニヤリと笑うと、
「俺もね、何だろうって思ったんだよ。きれいに包装された細長い箱でさ、大きさは……そうだな、長さ八十センチ、幅三十センチ、厚さは三センチか四センチくらいか。で、表面にワレモノって書いてあんだよ」
「ワレモノ……」
ワレモノというからには、食べ物ではないらしい。しつこいようだが去年の暮れから「お歳暮には食えるモノが一番」と考えるようになった私であるから、これはいささか期待外れだった。が、一方、ワレモノという言葉には何やら貴重品とか高価な物とかいったイメージもあり、そこに気づいた私はたちまち別の期待に胸を躍らせたのである。
「ワレモノかぁ。じゃあ、ガラスとか陶器とか工芸品とか、そーゆーモノだね?」
「そう思うだろ? でもさ、持ってみると、すげぇ軽いんだよねー」
「細長くて、すごく軽くて、だけどワレモノ……ねぇねぇ、何なのよ、それ?」
「あのね」と、T氏は再び笑い、
「昆布」
「昆布───っ!?」
いやぁ、これには、かなり意表を突かれたね。昆布……確かに、細長くて軽い。そして、まぁ、割ろうと思えば割れるモノではある。手でボキボキとな。しかし、それを「ワレモノ」といっていいのか。グリコのポッキーはワレモノか。薄焼き煎餅《せんべい》はワレモノか。いや、それはともかく、期待どおりの食べ物であったコトを今は喜ぶべきだが、でも、昆布……。
「なんか、すげぇ高級そうな昆布だったよ。『元祖・黄金みさき』って名前の日高昆布でさ」
「日高昆布かぁ。そりゃ、高級品だね。しかも、黄金だしね。うん、美味《おい》しそうじゃん!」
「まぁ、俺には今ひとつ、味の違いはわからなかったけどね」
「ふーん……って、ちょっと待ちな! あんた、食ったの!? それ、私へのお歳暮じゃ……」
「だって、あんた、昆布もらってどーすんの? 昆布でダシ取るような女じゃなし」
そーゆー問題じゃ、ねーだろっ! なんか知らんが、むちゃくちゃ損した気分の私である。天国の小池さん、あなたの昆布を私は味わえませんでした。どうか、T氏に天罰を!
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 小池社長とは、生前、一度だけお会いした。小池社長のラジオ番組に、中村はゲストとして招かれたのだ。ただそれだけの縁なのに、律儀にお歳暮を贈ってくれた小池社長。いい人だなぁ……って、昆布で餌付けされたか、中村!? ま、この回は、「悪口」ばかりのダークな連載中、一服の清涼剤のように爽やかな「毒なし」コラムであった。でも、中村から毒を抜いたら、何が残るの? 昆布?
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山田まりや[#「山田まりや」はゴシック体]
篠原ともえとは共演しないほうがいい[#「篠原ともえとは共演しないほうがいい」はゴシック体]
山田まりやが、私に対して、大変ご立腹とのコトである。というのも私が、著書の中で彼女の名前を「山田まりあ」と書いてしまったためであり、人の名前を間違えるというのは非常に失礼なコトであるからして、これは確かに私が悪かろう。どうも、すみませんでした。ちなみに山田まりやはこの時、「親にもらった大切な名前を間違えられた!」などと悲憤|慷慨《こうがい》したと伝え聞くが、「親にもらった名前」をそんなに大切にするのなら、ぜひ「親にもらった身体」のほうも大切にしていただきたいと、老婆心ながら思う私であります。
さて。このように謝罪しておいて言うのもナンであるが、私は山田まりやが嫌いである。さきほど問題になった著書の中でも、私はそのコトをはっきりと公言している。山田まりやとしては、悪口を言われたうえに名前まで間違えられて、ダブルで不愉快だったというワケなのだろう。しかし、名前の件はともかく、悪口に関しては、中村、謝る気は毛頭ない。謝るくらいなら、最初から書かんわい!
私が山田まりやを嫌う最大の理由は、「私がTV出演した際に、山田まりやに不愉快な思いをさせられた」というモノであるが、このような私憤を抜きにしても、やはり山田まりや、タレントとして好感度が高いとはお世辞にも言えまい。顔も整っているしスタイルもよさげなのに、そこはかとなく漂うあの「下品さ」は、いったい何なのだろう。バラエティ番組などに出てる彼女を見てると、とにかくギャーギャーとうるさい存在ではあるが、「うるさい=下品」という図式は、必ずしも成立しない。
たとえば、篠原ともえ。この女もギャーギャーとうるさいコトには変わりないが、なぜか「下品」ではないのである。篠原ともえというのは不思議なタレントで、あのようなアッパラパーな(ファッションも言動もすべて一貫して見事なるアッパラパーだよな)キャラを演じているクセに、どういうワケか「意外にも知的」な感じを受けてしまう。「ホントは頭のいい子なんだろうな」などと、こちらが深読みしてしまうキャラなのだ。山田まりやには、それがない。深読みしたくてもできない底の浅さ、すなわち「こいつ、ホントにバカなんだろーな」としか視聴者に思わせられないところが、まりやの悲劇なのである。
しかるに、ともえとまりやの違いはどこにあるのかとゆーと、まずは「言葉遣い」。篠原ともえは、言いたい放題やりたい放題の傍若無人ぶりを発揮しているように見えて、絶対に「敬語」を崩さない。対するまりやは、誰に対しても「タメ口」だ。これでは、頭も育ちも悪い子だと思われたって仕方ありませんね。
それから、与えられた役割に対する「自意識」の問題。同じように「傍若無人キャラ」を求められた場合、篠原ともえは意識的に自分の役割を捉《とら》え、ちゃんと笑いのツボなども考えたうえ、自ら「ツッコミを入れられる」方向へ持っていこうとしている。が、山田まりやの場合、そこまでの分析能力も演技力もなく、ただただ「わたしは何を言ってもいいキャラなんでしょ」などと勘違いしているとしか思えない。「バカ」とか「傍若無人」というマイナスなキャラは、共演者にツッコミを入れられて初めて成立するのであって、野放しのバカや礼儀知らずは視聴者に不快感しか与えないのである。このあたりを、篠原ともえはわかっているが、山田まりやはわかってない。ここが、「下品」に堕《お》ちるかどうかの分かれ目なのだ。
諸君、私はここまで書いて、つくづく山田まりやが気の毒になってきた。このままでは、しょせん芸能界の外宇宙の闇へと消えていく運命だよ。
今からでも遅くない。「山田まりあ」に改名して、出直しなさい……って、また怒られるかな(笑)。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ]「山田まりやを悪く言っちゃ気の毒よ。あの子は頭のいい子だし、あのキャラもきっと、スタッフに言われて演じてるだけで、あの子の本意じゃないと思うの」というお諫《いさ》めを、二人ほどの知人からいただいた。が、悪いけど、山田まりやがホントはどんなヤツかなんて、私には関係ない。そんなコト言ったら、デヴィ夫人だって、「ホントはいい人」なのかもしんないし。ホントのキャラなんて、タレントには関係ないんだよ。TVに映るキャラに、タレントは責任取るべきだ。プロなんだからなっ! そーだろ、まりや?
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由美かおる[#「由美かおる」はゴシック体]
いや、だから、「妖精」は勘弁してください[#「いや、だから、「妖精」は勘弁してください」はゴシック体]
由美かおる、五十歳。十五歳でデビューしてから三十五年間、ほとんど変わってない若々しいピチピチボディが自慢である。そして中村うさぎ、四十三歳。顎《あご》やら腹やら二の腕やらに、もはや取り返しのつかないほどダボダボとついた贅肉《ぜいにく》が悩みの種である。同じ女でありながら、これほど差がついていいモノであろーか。
諸君、私は由美かおるが羨ましい。心の底から、羨ましい。もしも私が由美かおるだったら……と、私は遠い目をして夢想する。私が彼女だったら、ボディラインを大胆に強調するドルチェ&ガッバーナなどのブランドを颯爽《さつそう》と着こなし、叶美香にも負けないヘソ出し乳スケ半ケツ姿で、鼻息荒く街を闊歩《かつぽ》してしまうであろう。だって、自慢のボディですもの。ひとりでも多くの女たちに見せびらかしたいわっ!
が、しかし……!
たとえ自慢のボディでも、五十歳にもなってヌード写真集を出すかといえば、これはまた別の問題である。確かに身体には自信があるからして、裸になるコトには抵抗がなかろう。けれども、美しいボディったって、しょせん「五十歳にしては美しい」程度のものなのであって、世間様に「見て見て、私の裸を見て!」とアピールするには、ちょっとトウが立ち過ぎているのではないか……などと、いくら私が由美かおるでも、ついつい弱気になってしまいそうだ。もちろん、そんなコトを言うと、「いやいや、世間では熟女ヌードが大流行ですよ。サッチーだってデヴィ夫人だって、ヌード写真を公表してるじゃありませんか!」などと反論する人もいようが、それはサッチーやデヴィ夫人と同じくらい厚顔無恥になれと言われてるも同然であるから、こちらから願い下げである。
とはいえ……と、ここでまた私は、寛大にも、由美かおるの立場に身を置いて考えるのだ。まぁ、由美かおるには由美かおるの事情があろう。恥をしのんでヌード写真集を出す必要が、もしかしたら、あったのかもしれない。もしも私が由美かおるだったとしても、やはり、その事情に負けてしまったかもしれないのである。だから、百歩譲って(かなり好意的な譲歩であるが)、ヌード写真集を出しちゃったとしましょうや。だけどね、これだけは言っておく。たとえそんなコトになっても、あたしゃ、その本に『生まれたままの妖精』なんてタイトル、死んでもつけませんね。
そう。五十歳でヌード写真集を出すコトには目を瞑《つぶ》れても、中村うさぎ、そのタイトルにはさすがに目を瞑れなかった。「妖精」だって……そりゃないぜ、セニョリータ(byケーシー高峰)。いくら若々しいボディでも、「妖精」という呼称は、ちとお戯《たわむ》れが過ぎるのではなかろーか。五十歳の妖精……それって、もはや妖怪だと思う、ハッキリ言って。
諸君、私は「若づくり」を非難するモノではない。自信があるのなら、いくつになっても、ミニスカートやヘソ出しルックで若い気分を満喫するがよい。が、それはあくまでも外面的なモノであって、内面まで「若づくり」しちゃうのは問題であろう。自らを「妖精」になぞらえるような臆面もないナルシシズムは、若い頃なら許されようが、成熟した人間がやったら赤恥だ。大人になるというコトは、ともすれば暴走しがちなナルシシズムを律するだけの羞恥心《しゆうちしん》を持つというコトではないのかね。
女性誌のインタビューに答えて、由美かおるは次のように言っている。
「今、五十歳ですけど、自分ではやっと二十五歳って気持ちなんです。身体も、心も二十五歳。これからが青春」。いやぁ、さすが妖精。人間より寿命が長いだけあって、五十歳でようやく青春なのか。由美かおるは、きっと百六十歳くらいまで生きるつもりなのであろう。こりゃ、黄門様もビックリなのである(苦笑)。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ]「五十歳にもなって妖精はなかろう」、というのが中村の言い分だったのだが、聞くところによると奈美悦子も、まったく同じツッコミをTVで入れてたそうである。でもさ、奈美悦子には言われたくないよなぁ、由美かおる?「妖精VS乳首、世紀の対決」って感じ? どっちにも軍配上げる気にならんわいっ! ま、中村もヤッカミ半分なのは認めるが、奈美悦子が言うと「ヤッカミ100%」だもんな。同じ「西野バレエ団」だし。金井克子は、今、何してんのかしら?
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和田アキ子[#「和田アキ子」はゴシック体]
他人を批判するなら、徒党を組むな![#「他人を批判するなら、徒党を組むな!」はゴシック体]
この人はいったい、何の根拠があって、こんなに大きな顔をしてるんだろう……と、ふと疑問を感じ始めると止まらなくなる。そんな「裸の王様」的タレントが多いのも、芸能界という場所の特徴であろう。このような人々を、私は「芸能界七不思議タレント」と心の中で呼んでいて、たとえばその筆頭が、この人である。
和田アキ子。
芸能界の御意見番なんて言われちゃいるが、他人に御意見するほど、おまえは偉いのかっ……などというツッコミをアッコに思わず入れてしまいたくなるのは、私だけではあるまい。が、しかし。このようなコトを言うと、「そんじゃ、こうして『夕刊フジ』に他人の悪口書いてるおまえは何様だ、中村うさぎ!」という内なる声も聞こえてきちゃうので、我ながら困ったコトになるのであった。
そう。他人の悪口や批判を公然と言い放ち、それによって自分が偉くなったような気になってる人間ってのは、何も和田アキ子だけではない。なかには、それを職業としている人々すら、この世には存在するのである。しかも、一部のゴシップ雑誌記者などはそれを匿名でやらかすのであるから、世間に堂々と顔をさらして他人をバッシングする和田アキ子などは、そんなヤツらに較べりゃ百倍も上等な人間であろう。したがって、まぁ、和田アキ子が他人に御意見する権利や資格を有するのか、という問題については、ここでは不問に付そうと思う。少なくとも、同じ穴のムジナである私に、その点で彼女を非難する資格はない。
ただ、このように「他人の批判をする」コトを看板とするキャラクターは、決して徒党を組むものではない、と、私は思っているのである。他人の批判をする以上、必ずその行為は自分に跳ね返ってくるのだから(そーゆーおまえはどうなんだよっ、という形でね)、その跳ね返り批判は甘んじて受けるべきであるし、そういう意味では「批判者」は常に孤高の存在であるべきだ。誰に何を言われようが、業界の嫌われ者になろうが、人間関係が崩れようが、それでも私は他人の悪口を言い続けるわっ……と、このような、ある種ドン・キホーテ的な開き直りと覚悟が、批判者には必要なのではないか。たったひとり、黒帯締めて、「さぁ、かかってこいや! 偽善的な友情とか仲間内のぬるま湯みたいな褒め合いなんて、いらねー! 俺は戦い続けてみせるぜぇ!」という気迫を見せてこそ、批判者の舌鋒は冴えわたるものではないのか。
和田アキ子に決定的に欠如しているのは、じつは、この姿勢なのである。彼女が自分の庇護を求めて群がる腰巾着たちを集めてファミリーを成しているのは、一目瞭然だ。これを「親分肌」と呼ぶ人もいるが、私には、味方が欲しいだけの弱虫にしか見えない。言いたい放題言ってるようで、親分、ひとりじゃ何にも言えないんですね。そんなの、親分じゃないやい! 徒党を組むイジメっ子だろ、おまえは! いたいた、小学校に、そーゆーヤツ! 気に入らない相手と喧嘩する前に、必ず味方をたくさん集めておくよーなヤツ。
中学、高校、大学と上に進むにしたがって、このテの「お山のバカ大将」タイプが影をひそめていくのは、学生たちがそれなりに大人になり、このような「親分気取りの弱い者イジメ」を愚か者と判定するだけの分別を持つからだ、と、私は思っていた。が、どうやらそれは、間違いであったらしい。大学生よりも大人であるはずの社会人が、こうして恥ずかしげもなく、徒党を組んでイジメっ子やってんだもんな。小林幸子の衣装を云々する前に、あんたも歌手なんだから、おとなしく歌だけ歌ってな、てなモンである。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ]「親分肌」という言葉が、嫌いである。「俺(または私)って、親分肌なんだよねぇ」なんて、自分で言っちゃいけないと思う。それはしばしば、「独善」というコトでもあるのだから。日本全国の「親分肌」諸君、キミたちは自分が「独善的」であるコトを、きちんと認識しておくべきである。もちろん、私も含めて。というのも、この中村も、ちょくちょく「親分肌」したくなっちゃうからだ。だって、親分って気持ちいいじゃん? だけど親分は、単なる寂しがり屋の見栄っ張りだ。そこは忘れちゃいかんと自分を戒める中村である。
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CM子役[#「CM子役」はゴシック体]
悪いのはキミたちじゃない、わかっちゃいるけど……[#「悪いのはキミたちじゃない、わかっちゃいるけど……」はゴシック体]
「とりあえず動物か子ども出しときゃ、好印象」てな俗説(ま、一理あんだけどな。じつは私も猫好きだしよ)を本気で実践してるのかどーかは知らないが、CM界では確かに、かわいい動物やいたいけな子どもが大活躍である。
しかし、なかには狙い過ぎの失敗作とでもいうのか、好印象どころか身の毛もよだつほどの嫌悪感を与えるような作品もあって、その筆頭が、私に言わせると「松本引越センター」のCMだ。
幼稚園ぐらいのかわいらしい顔をした女の子が、電話の受話器に向かって、「キリンさんが、好きです。でも、象さんのほうが、もっともーっと(←目を見張って)大好きでぇす!」などと語りかける、他愛もないCMなんだが、これがもう、あざとさ全開とゆーか、子役の大仰な演技に加えて制作者の「どーだどーだ、かわいいだろっ」と言わんばかりの押しつけがましい自己満足が画面から爆発的に押し寄せてくるもんで、見てるこっちは激しく羞恥心を刺激され、「うぎゃ───っ!」と叫んで髪の毛掻きむしりたくなるのである。いや、もしかしたら、このCMにこれほど過剰な反応を示すのは、日本全国で私ひとりなのかもしれないが……。
で、もうひとつ、私が許せない子役のCM。これが、「モンカフェ」。
東ちづるが友人宅に遊びに行くと、そこの娘と思われる幼稚園くらいの少女が、モンカフェで淹《い》れたコーヒーを出してくれる。東ちづるが感激して、「わたしも○ちゃん(←名前忘れた)みたいな子が欲しいなぁ」なんて言うと、その子がすかさず、「その前に、相手でしょ!」とツッコみ、東と友人はワッと笑うのである。なるほど……ところで、これ、おもしろいの?
ハッキリ言って、ギャグとしても、たいしたレベルの作品じゃないと思う。大人顔負けの幼児に鋭いツッコミ入れられてギャフン、ってなシチュエーションなら、どっかの入浴剤のCM(幼稚園児と先生の女の戦い、みたいなヤツ)のほうが毒があっておもしろいし、まだ素直に笑う気にもなる。が、この「モンカフェ」CMに関しては、笑うどころか、「こーゆーガキが実際にいたら、あたしゃ速攻で踏み潰してやるねっ!」などと、何か凶暴な殺意のようなモノさえ覚えてしまう中村なのであった。
もちろん、この嫌悪感の背景に、私個人の「子ども嫌い」があるコトは、認めよう。そう、私は子どもが嫌いである。特に生意気なクソガキは大嫌いだ。しかしまぁ、それなら子どもの出るCMはすべて嫌いかとゆーと、必ずしもそうではなくて、たとえば前述の入浴剤のCMとか「息子は一億円持っている」のCMに出てくる男の子のほとんどホラーな高笑いなんかは、けっこう好きだったりするのである。
結局、「松本引越センター」と「モンカフェ」に感じる私の嫌悪感の源は、そこに「子役の媚び」を感じてしまうからであろう。男に媚びる女は、同性から嫌われる。上司に媚びるヤツは、同僚から嫌われる。我々は「媚び」というモノを、もっとも恥ずべき行為と考えているのだ。だから、ついつい媚びたくなる自分を懸命に抑制して生きてるってのにさ、この臆面もなく媚びてるガキどもときたら、キィ───ッ……と、まぁ、私の嫌悪感は、このような心情から来るモノと解釈できるのである。要するに、嫉妬か。しかし、幼稚園くらいの年齢の子役に嫉妬してマジギレする、四十三歳の私って……(赤面)。
むろん、子役に罪はない。あの恥ずべきCMは、すべて制作者のセンスの悪さの問題だ。幼い頃から、こんな悪趣味な大人の手で「媚び」を仕込まれる子役たちを、私は憐れまずにはいられない。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] まぁ、こーゆーのにツッコんでも、仕方ないよね。どうせ、子役の命は短いんだし。子役といえば、斎藤こずえ。『鳩子の海』。太るのは子役の宿命(なのか?)とはいえ、あそこまで……でも、元気そうで安心したわ。って、親戚なのか、あたしはっ!? ところで安達祐実は、いつから子役じゃなくなるんだろう? もう子役の年ではないのに、まだ、見てくれが「子ども」なので、中村、ハラハラしてます。彼女を見るたび、山岸凉子の『汐の声』という怖〜い漫画を思い出す。その内容は、怖くて(別の意味で)、ここでは言えません。
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飯星景子[#「飯星景子」はゴシック体]
信教自由(建前)論者の「踏み絵」女[#「信教自由(建前)論者の「踏み絵」女」はゴシック体]
日本は、信教自由の国である。他人様がどんな神様を信仰しようと、己に迷惑がかからない限り、これを非難したり排除しようとする権利は誰にもない。と、このように私は小学校で習ったし、そーゆーもんだと思っていた。そして、「戒律の厳しいイスラム教国の人から見たら、この信教自由の日本はさぞかし羨ましかろう」などと考えたりもしたものだ。
が、大人になった今、日本という国が信教において必ずしも自由な楽園ではないコトを、よぉーく知っている。この国は、イスラム教国のようにひとつの宗教を強要しない代わりに、いかなる宗教にも批判的なのであった。特に「新興宗教」に対してはアレルギーといっていいほどの不信感を持ち、そのテの宗教を信じる人々に容赦なく侮蔑嘲笑批判を浴びせる。すなわち日本の「信教自由」は建前で、じつは「信教不自由」国なのである。
なーんてコトを何故持ち出すかといえば、朝のワイドショーにコメンテイターとして出演する「飯星景子」に対して、かく言う私自身がめちゃくちゃイジワルな視線を送っているからに他ならん。彼女がTV画面に映り、芸能人のスキャンダルやら犯罪のニュースなどに関する意見を述べるたび、私の心の中には次のような言葉が浮かぶのである。
「おまえに言われたくねーんだよ、統一教会上がりが!」
いや、本当に申し訳ない。飯星景子に対しても、世間の統一教会信者および脱退者に対しても、これは「差別発言」の謗りを受けて当然の言葉である。日本は信教自由の国であるからして、飯星景子をはじめ、すべての宗教関係者(元関係者も含めて)を他人の中村がどうこう言う筋合いなどないのだ。んなこたぁ、わかっちょる。わかっちょるんだが、彼女を見るたびに胸の内に湧き上がる不快感はいかんともしがたく、その不快感の根を探ってみれば、そこに私の「宗教アレルギー」が発見されるのであった。
世間の皆さんは、「飯星景子」に対して、どのような感想をお持ちだろうか。有名作家を父に持ち、自身も才能あるタレント(だっけ?)として活躍し、何不自由なく暮らしていたかに見えた妙齢の美女。その彼女が突如「統一教会」の信者となり、父の飯干晃一氏は手を尽くして娘を教会から脱退させた挙句、その心労がたたったのかどうかは知らぬが、数年後に帰らぬ人となってしまった。そして当の娘は晴れて、ワイドショーのコメンテイターとしてTV界にも復帰を果たし、今は世の中のよもやまニュースに堂々と意見を述べてる立場である。これって、どうよ? 何か釈然としないモノを、諸君は感じないか。え、感じない? あ、そう。がぁ──ん(笑)!!!
そう、私の中に根強く残る不快感とは、彼女に「禊《みそぎ》」を求める気持ちなのである。君はくだらない(←失礼!)新興宗教にハマったバカ女(←ううーむ、さらに失礼!)で、お父上に多大な迷惑をかけた。なのに、大きな顔してTVに出てんじゃない、と、まぁ、こう言いたいワケだ、極論すれば。しかし、よくよく考えてみりゃあ、べつに飯星景子が犯罪をおかしたワケでもなし、いったい何の「禊」なんだ? 新興宗教にハマっちゃ、いかんのか? 現実に犯罪をおかしちゃったオウムはともかく、統一教会やエホバの証人なんて団体を誰がどれほど信じようと、中村、おまえの知ったコトなのか? そもそも娘を統一教会から引き離そうとした飯干氏の行為だって、世間では美談っぽく語られているけど(本人、死んでるし)、娘の信教の自由を踏みにじるファシスト的行為ではなかったのか?
このように自分に問いかけてみると、私は返す言葉を失ってしまう。そして、「飯星景子」の存在を自分の中で持て余した挙句、面倒なので黙認しようという結果に達してしまう次第なのである。皆さんは、「飯星景子」問題をどう思われるか。ぜひ、お訊きしたい中村だ。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] つい悪口(それも『夕刊フジ』が掲載を断るほど危険な)を書いてしまったが、この人とは、一度、話をしてみたい。才色兼備で、お父様も高名な作家さんで、そのような恵まれた環境に育ちながら、なぜ、宗教に救いを求めたのか。何が苦しかったんだ、景子? あんたもまた、林葉直子や東電OLと同じ穴のムジナなのか? 本当の気持ちを話してくれたら、私はこの人を好きになるかもしれない。少なくとも、高見恭子なんかよりは、ずっと。ま、べつに私に好かれても、景子的には、いいコトなんか何もないけどね。
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広末涼子[#「広末涼子」はゴシック体]
優等生には優等生の道がある[#「優等生には優等生の道がある」はゴシック体]
洗いたてのハンカチみたいに清潔で、飾り気がなく、いかにも優等生っぽい少女……広末涼子の第一印象は、私にとって、こんな感じであった。そして私は優等生に興味がないので、そのまま放っておいたら、なんと今では「嫌われてるタレント」なのだとか。
そーか、やっぱり例の「早稲田一芸入学&不登校」騒動のせいか。いいじゃんかよ、大学にマジメに行ってない学生なんか、山ほどいるぞ。
要するに、これは嫉妬だ。たかがアイドルのクセに一流大学にチョロリと入っちゃったのが許せない、しかも学力じゃなくて一芸入学なんてイロモノ入学(早い話が特別待遇)だし、芸能人って得よねぇ、マジメに勉強してるのがバカバカしくなっちゃうわ、てな感じでしょ。そのうえ、お情けで入れてもらった大学に登校しないなんて世の中をナメてるわよ、思い上がってんじゃないの、という非常に厳粛な(けどさ、皆さん、そんなにマジメに生きてるの?)怒りを、世間は感じてるワケですね。
ま、私に言わせりゃ、広末涼子は最初から典型的な優等生キャラだった。優等生ってのは、必ずしもマジメなヤツではなく(ホントにマジメなヤツは逆に損するからね)、単に要領のいいヤツなのである。だから一芸入学だって広末らしいし、コツコツ登校しなくたってちゃんと卒業できりゃ広末的にはOKなんだと思う。これが、優等生の生き方なのだ。羨ましけりゃ、嫉妬したり怒ったりするより、その要領良さを見習うべきだ。
ただ、私は羨ましくないから見習わない。その代わり、怒りもしない。それだけさ。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 広末涼子に関して、これ以上、言いたいコトは何もない。相変わらず女たちには嫌われてるようだが、その一方で、CM出まくり。売れてるんだな。最近は、「大学行ってない」とかも言われなくなったみたいだし。よかったな、広末。大学行こうが行くまいが、大きなお世話だよなぁ? べつに学費を、世間に出してもらってるワケじゃなし。ま、こーゆーコトに文句タレるのは、「小姑根性」ってモンですよ。
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叶姉妹[#「叶姉妹」はゴシック体]
平成のウラウラ女は今日も行く![#「平成のウラウラ女は今日も行く!」はゴシック体]
叶姉妹の姉・恭子の『蜜の味』(幻冬舎刊)を読んで、中村うさぎは感動した。いや、べつに彼女の生き方に共感したとか、そーゆーコトではなく、その傲岸不遜《ごうがんふそん》なまでの開き直り精神に、すっかり惚れちまったのであった。
だってさ、やってるコトは結局、スケールのデカい「援交」なワケよ。なのに、それを取り繕うでもなく堂々と、
「ええ、私、身体を売りましたわ。でも、男はみんな、喜んで私に札束を積んだのですわ。何が悪いの? ホホホホッ!」と、恭子様、ほとんど高笑い同然なのだ。
すごいぜ、恭子! 「パトロンいるだろ、おまえ」とは思ってたけど、ここまで胸を張って肯定されると、なんか清々《すがすが》しいぞ。薔薇の花びらでも何でも部屋じゅうに撒《ま》いて、叶恭子道を突進してくれぇ!
ところで、この姉妹を見てると、私は一九七〇年代に大ヒットした山本リンダの一連のゴーマン女ソングの歌詞を思い出してしまうのである。たとえば、「ウララー、ウララ」で始まる『狙いうち』(作詞 阿久悠)。
〈見ててごらん この私
今にのるわ 玉の輿
磨きかけた このカラダ
そうなる値打ちがあるはずよ〉
〈神がくれた この美貌
無駄にしては 罪になる
世界一の男だけ この手に
触れてもかまわない〉
どーです? 叶姉妹に間違いないっしょ、この女?
そう。叶姉妹は、「平成のウラウラ女」なのである。そーいえば、露出度の高い衣装も、ゴージャスなロングヘアも、作り物めいた美貌も、すべて当時のリンダを彷彿させるモノがあるではないか。
世間では彼女たち姉妹をバッシングするのが流行《はや》ってるようだが、私は叶姉妹に義憤も憎悪も感じない。だって、ウラウラ女なんだよ? いーじゃん、おもしろいじゃんか。マジメに怒るほうが、どうかしてるよ。山本リンダの歌みたいに、みんなで楽しめばいいの、楽しめば。
叶姉妹に対する私のスタンスは、「@怒らないA憧れないBとにかくおもしろがる」というモノである。ヘンな宗教みたいに人を騙して大金巻き上げるワケじゃなし、ちゃんと身体で稼いでらっしゃるんだから、他人が怒るようなコトじゃない。「身体で稼ぐなんて不潔」という説もあろうが、まあ、ここまで露骨じゃなくても、女が肉体を武器にする構図ってのは、昔も今も未来も変わらずあるだろ。
しかし、彼女たちに憧れてマネしようとするのも、これまた間違いだ。やめときなさい。凡人にはマネできませんよ。彼女の本を読めば、よくわかる。叶姉妹とタメ張ろうなんて、素人が考えたらヤケドするね。悪いコトは言わないから、家でおとなしくしてな、お嬢ちゃんたち。
ミス日本になったのはウソだとか、ホントは姉妹じゃないとか、もう、そんなコトはどうでもいい。そのウソかマコトか謎の経歴も含めて、叶姉妹というキャラを楽しんでしまおうではないか。すべてが虚飾だとしても、誰が損するってんだよ。べつに国会議員に立候補したワケじゃなし。美人なのは事実だし、どうやら肝っ玉も太そうだし、これから何をしでかしてくれるか、私はじっくり拝見する所存である。
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 私は、叶姉妹が嫌いじゃないよ。特に、叶恭子(会ったコトないけど)。彼女は自分たちのコトを「日本では、私たち、パンダと一緒」と言ったそうだが、けだし名言である。自分のポジション、ちゃんとわかってる。頭いい人だと思うね。世の中に「勘違い女」が溢れてるなか、この冷静な「自意識」は、評価すべきであろう。TV出演とかに変な色気出さないで、独自のウラウラ道を歩んで欲しいものである。
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華原朋美[#「華原朋美」はゴシック体]
女たちの「欲望」を演じるダッチワイフ[#「女たちの「欲望」を演じるダッチワイフ」はゴシック体]
さて。今回で最終回となるこの連載の栄えある(あるのか?)大トリを務める人物は、なんと「華原朋美」だ。大トリにしちゃ、あからさまに小物ではないか、と思われる向きもあろうが、とんでもない。私に言わせりゃ、華原朋美こそは「芸能界という虚構世界のヴァーチャルヒロイン」……というのも、彼女の芸能界における浮沈ぶりはあまりにも典型的(要するに、ベタ)過ぎて、まるで物語の登場人物のような虚構性に満ち満ちており、その生き方はなんかもう切ないほどに「芸能人的」なのである。
華原朋美……そもそもは「遠峯ありさ」という名の三流アイドルであった彼女は、たまたま天才プロデューサー小室哲哉の目に留まり、彼のオンナとなって「華原朋美」の名で歌手デビューした途端、あれよあれよという間に大スターの座に駆け上がった。その成り上がりぶりは、まさにシンデレラ。そう、炉端で床掃除してた小娘が、王子様にガラスの靴を履かせてもらった途端、まばゆく輝く童話のヒロインとなった……その「シンデレラ」の物語を地で行く姿であったのだ。
シンデレラの物語は、世界じゅうの女たちのある種の典型的な欲望を具現化したモノだと思う。それは単なる「玉の輿」ストーリーではない。ある日、力のある男が、私の隠れた魅力を発掘して、本来の輝きを与えてくれる……今までのパッとしなかった私は、やっぱりホントの私じゃなかったの。私は磨けば輝くダイヤだったのよっ……と、このような壮大な自己愛に包まれた夢を、女性に見せてくれる物語なのだ。おまえにそんな潜在的な魅力(あるいは才能)があるんなら、他人に発掘されるのをボケボケ待つより自力でとっとと発掘しなっ、などとオバチャンである私なんぞは思うのだが、この「他人に発掘される」コトこそが、女の自尊心をいたくくすぐるポイントなのであろう。
華原朋美は、その「シンデレラ」物語を体現するコトで、一瞬、すべての女たちの欲望のシンボルとなった。が、そのシンデレラ物語には、童話と違って、苛酷な続きがあったのだ。すなわち、王子様である小室哲哉が心変わりした途端、華原朋美はこれまたアッという間にスターの座から滑り落ち、いきなり「売れない泥沼芸能人」に逆戻りしたのである。一時期は王座にまで登った彼女にとって、この滑落は大きな痛手であったろう。破局直後、彼女の奇行や自殺未遂騒動は、何度もゴシップ誌を賑わせた。
ところが、このまま芸能界から消えると思ってたら、朋ちゃん、思わぬ復活を果たしたのである。小室哲哉と並んで「売れない芸能人を一躍スターにする(ただし即効性はあるが効き目は一瞬。コカインみたいだ)」という魔法の力を持つTV番組『進ぬ! 電波少年』の力を借りて、見事、泥沼から這《は》い上がったのだ。企画内容は「華原朋美、一から出直し全米デビューを目指す!」というもので、スターではなくなった朋ちゃんが貧乏と挫折に涙しながら健気にも栄冠を掴む、という筋立てのドキュメンタリー。私に言わせりゃ「うひゃあ」な鳥肌モノの企画だが、これが、ウケた。女たちはそこに、またひとつの典型的「女の夢」物語を見出したのである。
運命の悪戯《いたずら》で無一文になった令嬢が、さまざまな苦難に健気に耐えた結果、本来の輝かしい自分を取り戻す……そーです、皆さん、「小公女」です。シンデレラは、小公女となって復活したのです。めでたしめでたし……って、めでたいのか? こんな嘘っぽい夢物語、本気で信じるほど、私たちは欲望に目が眩《くら》んでるのか?
芸能界が提示する泡沫の夢を体現し、虚構の物語の主人公として生きる華原朋美。彼女こそは民衆の、特に女たちの欲望のはけ口……すなわちダッチワイフなのである。華原朋美を針で突つくとプシュ〜〜と萎《しぼ》みそうな気がするのは、私だけだろうか?
うさぎのひとりごと[#「うさぎのひとりごと」はゴシック体]
[#5字下げ] 自分のコトを「愛称」で呼ぶ女って、私は嫌いだ。「トモちゃんねー」とか「ミーコね」とかさ、おまえは何歳だっ!? そーゆー女は、たいてい、他人に媚びて生きている。媚びてないように見えても、ちゃんと媚びてる。あんたら、みっともないからやめな! 「ちせ」でさえ、自分を「あたし」って呼んでるぞっ! 「でも、あんただって時々、自分のコト、中村って呼ぶじゃない!」などとツッコまれそうだが(今、気づいた)、これは「愛称」じゃないやい、「名前」だいっ! あと、『週刊文春』で自分を「女王様」って呼んでるのは、あれはあくまでギャグだからねっ! ふぅ〜、あぶね。悪口って、天に唾する行為だなぁ(苦笑)。
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おわりに「嫌いと言いつつ、ありがとう!」[#「「嫌いと言いつつ、ありがとう!」」はゴシック体]
さて。この連載も無事終わり、こうして単行本にまとめるコトができて、私としては大変ありがたい気持ちである。さっき数えてみたら、なんと四十二本もあった。つまり私は、通算四十二人もの人間の悪口を言いまくったワケなのだ。すげぇ。これはもしかしたら、私の「悪口自己新記録」かもしれん。全然自慢にならない記録だし、当分、更新する気もないが。でもまぁ、ここに登場していただいた四十二人の皆様には、心からの感謝を捧げたいと思う。あなたがたのおかげで、私は四十二回も、原稿料をいただきました。どうも、ありがとう。今さら謝る気はありませんが、とりあえず感謝はしております。
そして、読者の皆様。中村はこのとおり他人の悪口が好きなイヤな性格の女ですが、こんな女でよかったら、これからもよろしくお願いいたします。
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文庫版あとがき[#「文庫版あとがき」はゴシック体]
この本は、二〇〇一年の十月に単行本としてフィールドワイ社から出版された作品を、文藝春秋が文庫化してくださったものである。文藝春秋さん、ありがとう。
まえがきでも書いたように、当初は別の出版社から刊行される予定だったのだが、土壇場になって「内田春菊と北川悦吏子を外してくれ」と要請され、「嫌です」と断ったら刊行中止となった、というイワクつきの一冊だ。
今となっては遠い思い出であるが、当時は私がその顛末《てんまつ》を友人に報告したメールが何故かそのまま業界じゅうにチェーンメールのような形で広まってしまい、大騒ぎになってしまった。なんであんな事が起きたのか、未だにわからない。私が頼んだわけではないんですけどね。おかげで私は、かなり評判を落としましたよ。ま、過ぎた話だけどな。
そんなワケで、「他人の悪口を言うと、自分が痛い目に遭いますよ!」という母親の教訓を、そのまま地で行ってしまったのが、この本にまつわるこれらのエピソードである。本当にイワクつきの本だ。こんなの出して、大丈夫なのか、文藝春秋?
しかしですね、この本に収録された悪口を、一本たりとも撤回するつもりのない私である。ここに書かれた人たちにも、その後、幾多の変化があった。ヤワラちゃんも広末も結婚したし、芸能界から消えてしまった人たちもいる。名前が変わった人もいる。だが、彼女たちに対する私のスタンスは、今も変わらない。ヤワラちゃんの結婚式も見なかったし(言ったでしょ、見たくないって!)、広末の出来ちゃった婚も「本人がよけりゃ、それでいーじゃん」だ。ヤワラちゃんの結婚式に関しては「あれは必見ですよ!」などと言って勧めてくれる人もいたが、私は見たくないの! 絶対に! 見たら、何か言いたくなるもん!
それから、もうひとつ。某出版社から刊行を断られた原因のひとつである「内田春菊」さんと、その後、TVの仕事でお会いした。私は春菊さんの『犬のほうが嫉妬深い』という作品には未だ批判的であり、その意見自体を翻《ひるがえ》すつもりはないが、春菊さんという人には好感を持った。彼女はゲスト出演が決まった時、スタッフの人に「うさぎさんは、著書で私のことを批判したけど、私はうさぎさんが好きです。そうお伝えください」と言ったそうで、それを聞いた私は「さすが、春菊! 肝のある女だ!」と感嘆した次第である。こういうことは、なかなか言えるもんじゃない。なので、私はTVスタジオで会った時、彼女に対してリスペクトを持って臨んだつもりだ。放送された番組を見た視聴者のひとりから「あなたは春菊さんを軽蔑した目で見てましたね」などというメールをいただいたが、とんでもない的外れである。我々は、あのTV番組で、互いを大いに尊重していた。そんな女同士の想いも表情も読み取れない人間が、わかったつもりで何を言うか、小賢《こざか》しい、という感じだ。
そうそう。変化といえば、これを書いた私自身にも、その後、いろいろと変化があった。あれほど嫌っていたTVにレギュラーで出演したり、由美かおるの五十歳ヌード写真集を揶揄《やゆ》しておいて自分が『女性セブン』で整形オッパイを披露したり、当時は思いも寄らなかった行為を自分がやっている。整形オッパイヌードは、整形手術の現状を知って欲しくてやった企画だが、それでもいい年こいてセミヌード晒《さら》したことには変わりなく、いくらでもバッシング受けます。ええ、かかってらして。他人の悪口で本書いた女よ、自分の悪口くらい、なんぼでも引き受けますわ。ただし、「内田春菊を軽蔑してた」なんて的外れな批判は容赦なく切り捨てますが。
諸君、私は嫌な女である。嫌な女でなければ、こんな本は書かない。底意地が悪く、他人への嫉妬や僻《ひが》みに満ち満ちており、なおかつ他人をこき下ろすことで優越感を覚えるような、非常に矮小《わいしよう》な人間だ。今だって、悪口を言えと命令されれば、怒濤《どとう》のごとく言える相手が何人もいる。それほど、私の心は「悪口」で一杯だ。こんな自分を本当に嫌なヤツだと思うし、恥ずかしいとも思うのだが、それでも私は他人の悪口を陰に日向に言い続けるであろう。この甘美な悪癖だけは、死ぬまで治りそうにない。
では、皆さん。また機会がありましたら、私の悪口を聞いてくださいね。よろしくお願いいたします。
二〇〇四年六月
[#地付き]中村うさぎ
単行本 二〇〇一年十月 フィールドワイ刊
〈底 本〉文春文庫 平成十六年七月十日刊