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中村うさぎ
壊れたおねえさんは、好きですか?
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はじめに[#「はじめに」はゴシック体]
人間の女として生まれてきてしまった以上、「人間として」生きる意味とはまた別に、「女として」の自分の存在価値についても頭を悩ますこととなる。今の世の中がどれくらい男女平等なのかは知らないが、たとえば「知性」や「才能」や「人柄」といった男女差を超えた評価基準で採点される一方、我々は「男」や「女」という性的能力(魅力とも言う)をも別基準で評価され続けているのであり、その両方の基準を満たしてないと「欠落感」や「劣等感」に苛《さいな》まれてしまうのであった。
昼間は一流大学卒のエリートOL、夜は渋谷の道端で身体を売る娼婦……「東電OL」が我々に与えた衝撃は、彼女がじつにわかりやすい形で、その「ふたつの評価基準」を体現していたからである。実際に彼女が身を売っていた理由は定かではないが、事件はそのように解釈され、多くの男の「欲情」を刺激し、多くの女の「不安」を煽《あお》ったのだ。どんなに頑張って社会的地位を築いても、「ブス」だ「デブ」だ「貧乳」だ「色気がない」だのといった理由で、女は異性からも同性からも侮蔑《ぶべつ》を浴びなきゃいかんのか。男は金や社会的地位で「性的魅力の欠如」を補完できるようだが、女はどうして補完できないのか。いや、補完できないどころか、金だの地位だのを持てば持つほど男が遠ざかっていくのは何故か。諸君、私は納得できない。このままでは、女たちは引き裂かれていく一方ではないか。「男顔負けに活躍したい」社会的自己実現願望と、「かわいくてモテる女でいたい」性的自己実現願望は、どうすれば矛盾をきたさず両立できるのか。
この本は、四十代半ばになった私が、「とりあえず仕事はある、収入もある、仲の良い女友だちもライフパートナーもいる」といった状態で、ふいに「でも、私には性的魅力がない!」という事実に気づいて愕然とし、「年齢的にも女の賞味期限が切れかけてる」という焦りも手伝って、ジタバタと悪あがきをしてしまった約一年間の記録である。ホストにハマってみたり、フェロモンを身につけようと努力(どんな努力や)してみたり、整形で若さと美貌を獲得しようとしてみたり、じつに虚《むな》しく愚かしい悪あがきの最中に、私が何を考えていたのか……それを読み取っていただき、笑っていただければ幸いだ。
「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」
いーや、そんなことはない。女の一生は長いし、苦しいことも楽しいこともテンコ盛りである。悪あがきするのは苦しいだけではない、悪あがきの楽しみというものも存在するのだ。少なくとも私は、悪あがきするのがけっこう好きだ。やるだけやったぜ、という達成感もあるし、思いも寄らない自分を発見する楽しみもある。現にこの連載(『夕刊フジ』に週一で連載してたのです)でも、最後に悪あがきの結論とでも言うべきものが暫定的に出され、それは私にとって「自分の再確認」にもなった。喜ばしきことである。こうやって、いろんな愚行を重ねながら、一歩一歩、自分に近づいていく作業は本当に楽しい。私に限らず、「自分を知りたい」女は多いから、彼女たちの一生もまた苦しくも楽しい「愚行」と「発見」に彩られていることであろう。花たちは、枯れかけても萎《しお》れても、したたかに自分の人生を楽しんでいるのである。
我々は「東電OL」にはならない。引き裂かれても壊れても、決して命は散らさない。何故なら、壊れることさえ快感であることを、我々は知ってしまったからである。
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目 次
はじめに
「闇フェロモン」とは、何か?
「闇フェロモン」はクサヤである
「欠落」という名のエロス
「ダメ男好き」は自傷嗜癖である
「闇フェロモン」=「病みフェロモン」
ベトナムの黒い月 その1
ベトナムの黒い月 その2
純文学エロ女vs大衆ギャグ女
フェロモンとは「湿度」である
オヤジは「堕落した父性」である
父性の堕落vs母性の濫用
「母性」という名の魔女たち
「青フェロモン」のホスト
魔女が白雪姫に嫉妬した理由
人魚姫は何故、海の泡になったか
ツバメはいつでもサロメになれる
女性作家は月のエロスに欲情する
「闇フェロモン」のカリスマ性
カリスマは、暗黒神の司祭である
神は死に、死神だけが生き残った
「恐怖」という名の恍惚
恐妻家は闇フェロモンがお好き?
彼女がブラを見せる理由
「魔性の女」の自己欺瞞
中村うさぎの大いなる欠落
男はいらない、「私」が欲しい
お笑い系男にフェロモンはあるか
お笑い系女にフェロモンはあるか
王子は国に帰り、王女は国を捨てる
そんなオーラに騙されて
「男を犯したい」願望について
婆ちゃんフェロモンって、あり?
老け専男と老け専女はどう違う?
サイコキラーは理系エロスの夢を見るか?
女たちは文系エロスの夢を見るか?
美貌と色気は「異形」である
セックスに擬態したオナニー
女は何故オナニーを語らないのか
オナニーを語る彼女の潔癖について
六本木SMバーの夜 その1
六本木SMバーの夜 その2
うさぎ、幼少時から変態に目覚める
口中のエロスについて考える
メディチ家の食事作法とエロスの関係
我々はエロスを失いつつある生き物なのか
古代ローマ人の入浴とエロスの関係
「革」の感触にエロスはあるか
女たちの「レイプ妄想」について
女のレイプ妄想は「被虐」ではなく「自虐」である
君よ知るや「自虐」のエロス
中村うさぎは悪女になれるか?
女は結局、「パイ力」なのか?
おっちょこちょい女に明日はない
フェロモンの「温度」について
パイ力もフェロモンもない中年女のひとりごと
私、Hがヘタなんです(マジ)!
連合赤軍とエロスについて考える その1
連合赤軍とエロスについて考える その2
連合赤軍とエロスについて考える その3
連合赤軍とエロスについて考える その4
三角関係とは、誰と誰の恋愛なのか?
自分好きの女にエロスは発生しないのか?
文庫版あとがき
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「闇フェロモン」とは、何か?[#「「闇フェロモン」とは、何か?」はゴシック体]
今回は、「オヤジ・フェロモン」について考えたいと思う。というのも先日、女同士三人で「フェロモンの不思議」について、どっぷり話し合ったからである。
「チビ・フェロモンって、あるよねー。小男って、妙な色気があったりするじゃん」
「本人は、コンプレックスなんだろうけどね」
「そう。チビの男って、一般的にはモテない。でも、不思議なんだよ。そのマイナス部分が、逆に色気を発してたりするんだよねー」
「そうそう。ハンサムには、意外とフェロモンが希薄だったりするもんね」
「ホストには、フェロモンないよね。ハンサムだしカッコいいけど、ヘンな吸引力とゆーか、淫靡《いんび》な色気みたいなモノがない。きれいすぎて、お人形さんみたいなの」
「コンプレックスのない男は、フェロモンが出ないんだよ」
「それもあるけど、そもそもフェロモンの質が違うんじゃない? ハンサム・フェロモンより、絶対にチビ・フェロモンとかハゲ・フェロモンとかのほうが、ドロドロした吸引力がある。闇のフェロモンとゆーか、黒フェロモンってゆーか……」
「ハマったら怖い感じがするよね。闇フェロモンにハマると、引き返せない」
「もう、どっぷりだよ」
「ハンサムは、一度やったら気がすんじゃうよね。意外と、あっさり」
「爽やかなんだよねー。その点、チビ、デブ、ハゲ、オヤジ、ダメ男……このへんのフェロモンは怖いよ。破滅的な匂いのする、危険なフェロモンだ」
「ハンサム・フェロモンとは違う部分を刺激するんだよね。魂を揺さぶるフェロモン」
「そうそう! そーゆーの、あるよねー」
我々は大きく頷き、「フェロモンの不思議」について、しばし考え込んでしまったのであった。だって、ホントに不可解な現象ではないか。基本的に女は、優良な遺伝子を残したいという本能のもとに、男を選ぶものである。そうすると、必然的に健康的で背が高くてハンサムな男を選ぶはずなのに、何故チビとかデブとかオヤジとか、パッとしない遺伝子の持ち主に惹かれてしまうのだろう。
私が思うに、これは、「人間が前頭葉でセックスする動物」であるがゆえの現象である。「本能」の部分ではなく、我々は「前頭葉」すなわち「抽象思考」の部分で、恋をしたり性欲を感じたりする。「本能」の部分が見向きもしないような、動物学的にはマイナスで不健康でリスキーな存在にこそ、「抽象思考の前頭葉」は破滅的な匂いや淫靡な雰囲気を嗅ぎ取り、そこに勝手にストーリーを作って、そのストーリー自体に刺激されるのである。よって、マイナスな部分が大きければ大きいほど、「前頭葉」派の女は想像力を掻《か》き立てられ、妙な色気を感じ取り、いてもたってもいられなくなってダメ男にどっぷり溺れる。「魂を揺さぶられる」フェロモンとは、このようなタイプのフェロモンなのだ。
なるほど、そーゆーメカニズムか。オヤジ好きの女が「物語好き」であるのも、これで納得できるではないか。一方、中村は、物語を背負ったオヤジより、若くて健康で爽やかなハンサムに惹かれるタイプの女である。すなわち、より動物に近いのね。なんか、悔しい……。
「闇フェロモン」はクサヤである[#「「闇フェロモン」はクサヤである」はゴシック体]
ある日、友人が憤慨しながら、こう言った。
「ねぇねぇ、こないだTV観てたらさぁ、市原悦子主演の『家政婦は見た!』シリーズやってたんだよ。でね、そのドラマの中で、市原悦子がレイプされそうになるシーンが何回かあってさー、これがどう見てもサービスショットっぽいんだけど、でも、市原悦子の濡れ場って、いったい誰に対するサービスなのっ!? 私、制作者の意図を知りたい───っ!」
ま、彼女の義憤は、わからないでもない。市原悦子って、全然美人じゃないし、身体の線も崩れまくりだし、どっから見ても鈍くさいオバチャンだもの。そんなババアの濡れ場なんか、誰も喜びゃしないだろ……というのが彼女の主張であるが、しかし諸君、私は市原悦子に、そこはかとなく淫靡な色気を感じてしまうのである。美女や若い娘にはない、何かドロドロとした禍々《まがまが》しいフェロモン。そう、前回もこのコラムで言及した、例の「闇フェロモン」なのだ。
たとえば、市原悦子がもっと垢抜けていたり、きちんとドレスアップしてたりしたら、この「闇フェロモン」は決して漂ってこない。田舎くさいサマーセーターにエプロンなんぞかけて、中途半端な丈のスカートからブリンと出た足には今どき貴重な三つ折ソックスなんか履いてたりと、そのあくまでパッとしない「専業主婦ファッション」に身を包んでこそ、「闇フェロモン」は黒いオーラとなって彼女を取り巻くのだ。私が男だったら、この田舎くさくて冴えない中年主婦に決して恋心など抱かないと思うが、そのくせ、この女を畳の上(ベッドでもフローリングの床でもなく、あくまで畳に限る)に押し倒して思うさま陵辱《りようじよく》したいという気持ちを、ある瞬間、抑えきれなくなるであろう。
そう、この「陵辱」ってのが、大切なポイントだよ。市原悦子から誘われてもピクリともしないと思うが、まったく油断しきってる市原悦子を押し倒し、嫌がる彼女を無理やり犯すシチュエーションには、かなり燃えそうな気がする。すなわち、性の匂いからもっとも遠いゆえに、市原悦子はレイプの対象となり得るのである。なぜならレイプは、禁断の果実を犯すことだから。それも、良家の淑女とか聖なる尼僧とか、そのよーなわかりやすい芳香を漂わす「禁断の果実」より、台所の隅で腐りかけてる悪臭一歩手前の生活臭あふれる「禁断の果実」のほうが、より淫靡なフェロモンを発しているような気がする。ま、クサヤの干物みたいなものですか。ダメな人はまったくダメだが、一度ハマると病みつきになるという……なるほど、「闇フェロモン」とは「クサヤ・フェロモン」なのであるな。
このよーなクサヤ系闇フェロモンを漂わす女といえば、やはり稀代の悪女・福田和子であろう。整形したわりには、ちっとも美人じゃない。すでに中年肥りの域に達しているブヨブヨした身体は、決して「いい女」の範疇《はんちゆう》には入らない。場末の酒場でマラカス持ってカラオケ歌ってるところを逮捕されるような、限りなく洗練されてない女なのだ。なのに彼女は逃亡中、行く先々で男を作り、一度などは裕福な菓子屋の女将《おかみ》にまでおさまっていたという。おそらく、彼女を取り巻く男たちが、特別に悪趣味だったワケではあるまい。きっと、安旅館の饐《す》えた布団のような淫靡で破滅的な匂いが、彼女の身体から漂っていたに違いないのである。恐るべし、闇フェロモン……当分、中村の研究課題になりそうだ。
「欠落」という名のエロス[#「「欠落」という名のエロス」はゴシック体]
さて。前々回からずっと、中村の「闇フェロモン」考察は続いている。だって、不思議で不思議でしょうがないんだもん。人間は何故、マイナスのフェロモンに惹かれてしまうのだろーか?
いや、もちろん、すべての人間がマイナスのフェロモンに弱いわけではない。たとえば「ハンサムで背が高くて高学歴で高収入」な男にしか恋愛感情を発動しないような女は確かに存在するし、このような女は動物学的に大変正しい本能の持ち主なので、決して闇フェロモンなんぞに翻弄《ほんろう》されたりしないのである。てゆーか、きっと、感知できないんだと思う、そんな薄汚いフェロモン。
ま、これは男も同じでさ、「モデルみたいな顔と身体で、料理がうまけりゃ、頭はバカでも全然よし!」なんてぇ男は、ブスやババアや電波系フェロモン女(←いるよな、こーゆーの)にゃ見向きもしないもんですよ。あくまで、性的|嗜好《しこう》において、健全なの。破滅や欠落を意味する闇フェロモンは、彼らにとって性欲の圏外なのよ。あ、ちなみに「バカ」ってのは、この場合、欠落でもなければマイナス・フェロモンでもありません。何故なら、男は自分が主導権を握るために、自分より頭のいい女を好まないものであり、それはマイナスではなく健全な本能の選択だからなのである。むしろ、知性の欠落は、前向きな「欠落」なのね(苦笑)。
ところが「闇フェロモン」は、後ろ向きも後ろ向き、自分にとって百害あって一利なし、と、まぁそこまで行かなくとも(行く場合も大いにあるが)、少なくとも実利のない「欠落」や「破滅」に誘い込まれ吸い込まれてしまうような、そんなロクでもないフェロモンなのである。それは、ある種の疵《きず》だ。かつて世間の若者たちを魅了した『エヴァンゲリオン』のヒロイン・綾波レイは、なぜ、あんなに彼らの欲望を刺激したのか。それは彼女が、包帯だらけの姿で描かれていたからだと、私は思う。身体的損傷、欠落、疵のイメージ。そこから発せられる禁断の色気は、まさしく典型的な闇フェロモンであったのだ。
大人たちの無意味な戦いの犠牲者となり、世界に捧げられた供物となって、壊れたお人形みたいにされてしまった美少女、綾波レイ……そんないたいけな少女に刺激される性欲とは、なんと忌まわしく淫猥《いんわい》でダークな欲望であろうか。だが、忌まわしく淫猥でダークだからこそ、それは言語化し難く、ゆえにますます激しく掻き立てられる欲望なのだ。ちょっと谷崎の『春琴抄』入ってるよな。綾波のシャワーシーン(漫画の)なんか、女の私ですらドキッとしたもん。ああ、あれは本当に不健全で後ろめたい色気だった……。
ちなみに私もまた、ある種の闇フェロモンの愛好者である。オヤジや醜男《ぶおとこ》の闇フェロは全然効かんが、健康的なハンサムより陰のあるハンサムに惹かれる傾向があり、陰がなければ無理やり陰を作るっちゅーか、そいつの精神的欠落部分を探り出して勝手にストーリー作ったうえに、その自作のストーリーに勝手に萌えちゃう、という厄介な性癖を持っているらしい。「らしい」というのは、ついさっき、それを人から指摘されて「がぁ──ん」ときたところだからである。しかも、好みのストーリーは「捨て子」物語。結論、中村うさぎは精神的孤児の美少年に弱い。ああっ、幸せになれないはずだぁ〜〜っ!!!
「ダメ男好き」は自傷嗜癖である[#「「ダメ男好き」は自傷嗜癖である」はゴシック体]
蜂の巣。いや、牛の胃袋のことではない。四方八方から全身に銃弾を浴びて死ぬことを「蜂の巣になる」と言うが、その「蜂の巣」に、私は憧れるのである。
どうせ死ぬなら、あんな死に方がいい。目を閉じて両手を広げ、銃弾を浴びるたびに衝撃で身を震わせながら、恍惚《こうこつ》の表情を浮かべて死ぬ……なんか、すごく気持ちよさそうに思えるのは、私だけだろうか。昔、『俺たちに明日はない』という映画のラストシーンで、フェイ・ダナウェイ演じる女銀行強盗がそんな死に方をするのを観た。美しかった。あんなふうに死にたい、と、思った。その頃から、私の「破滅願望」は始動していたのかもしれない。
そんなワケで、破滅願望が強く、しかも面食いな中村は、「墮落を匂わせるハンサム」の闇フェロモンに弱い。明るく健康的で育ちの良さそうなハンサムにはピクリともせず、何やら心に傷を負ってそうな隠花植物のようなハンサムに、激しく反応してしまうのである。そーゆーヤツは、きっとその心の傷口から、甘い蜜を滴らせているんだと思う。嫌なヤツだ。だけど、その蜜に惹かれて寄っていく自分も、すごく嫌なヤツだと思う。なんか、卑しいよな。他人の傷口に欲情するなんて。
それにしても、何故私は殊更に、瑕《きず》のある玉を愛してしまうのだろうか。まぁ、一番わかりやすい解釈としては、欠損のある人間がこちらの「護ってあげたい、癒してあげたい」という使命感を燃え上がらせるからであろう。私は何とか自分を価値ある人間と思いたくて、わざわざ癒し甲斐のある傷病者を選び、「私が彼を支えてあげるの」的な部分に己の存在価値を見出そうとするワケである。つまり、自分の価値に自信のない女ほど、このテの男にハマりやすいのだ。
そして、こーゆー女は自我が弱いので、必ず、男の弱さにズルズルと引きずり込まれてしまう。癒してあげるどころか、自分が傷病者になってしまうのである。ミイラ取りがミイラになる、とは、このことだ。しかし、それがまた快感になってしまうのだから、まったく始末に負えないではないか。
では何故、男の弱さに引きずられ、自分もダメダメになってしまうことが「快感」なのか。癒してあげたいと本当に思っているのなら、自分がしっかりして、男をきちんと更生させなきゃいかんではないか。
そーか。おそらく私は、男の傷を本気で癒すつもりはないのだな。てゆーか、傷のある男にではなく、そいつの傷そのものに萌えているのだ。「その傷を、あたしにちょうだい。その傷の痛みを、あたしにも味わわせて!」と、このような下心を持って、男に近づいていくワケである。傷マニア。だから、蜂の巣になって全身から血を流しながら死にたい、なんてマゾヒスティックな願いを抱いてしまうんだわ。
ああ、書いてるうちに、どんどん自分が変態に思えてきた。そーいえば、私の破滅的な浪費癖は、ほとんど自傷行為に近いしなぁ。自分で自分をボロボロにする快感。そのうえ男にもボロボロにされたい、と。でも、お望みどおりボロボロにされたらされたで、その男を激しく憎んじゃうクセに。愛と憎悪、幸福と破滅は、私の場合、同じコインの裏表なのだ。
「闇フェロモン」=「病みフェロモン」[#「「闇フェロモン」=「病みフェロモン」」はゴシック体]
目病み女を色っぽいと感じた昔の日本人の感性は、やはり、闇フェロモン的嗜好が強いのであろうか。そう、「闇」は「病み」に通じ、我々は確かに「病弱」であったり「壊れかけ」であったり「欠損」を抱えた異性に、ダークな色気を感じるのである。
往年の「いしだあゆみ」なんか好きな男は、絶対そうだよな。折れそうに細い身体とか、病み上がりみたいに青白い肌とか、いかにも不健康そうな外見の女。このテの女が発するフェロモンを、私は「青フェロモン」と名づけている。闇系のフェロモンにもいろいろあって、「黒フェロモン(魔性系)」「青フェロモン(病弱系)」「紫フェロモン(淫乱系)」と、タイプ別に発するオーラの色が違うのだ。ホントかよ(笑)。
ちなみに、「黒フェロモン(魔性系)」の対極に位置するのは言うまでもなく「白フェロモン(聖女系)」であり、「青フェロモン(病弱系)」の対極は「赤フェロモン(健康系)」、「紫フェロモン(淫乱系)」の対極は「黄色フェロモン(お子ちゃま系)」という図式が中村の頭の中に成り立っているのだが、読者諸君はどう思われますか?
え? 「魔性」と「淫乱」は、どう違うのかって? 全然違いますよ、あなた。男を引きずり込む魔性の女が必ずしもセックス好きとは限らないし(じつは淡白だったりしそうだ)、淫乱な女の外見がいかにもそれらしく色気むんむんとは限らない。本当にセックス好きな女って、けっこう地味ですよ。でも、隠しきれないセックスの匂いが、わかる人にはわかるんだなぁ。
ま、一般の男の理想は、「白フェロモン」+「紫フェロモン」であろうと思われる。昼は聖女、夜は娼婦ってヤツ。光と闇が共存してるのね。ある意味、まっとうな女だ。光ばかり(魂は聖女、肉体は健康、セックスはお子ちゃま)だと、それはそれで女として欠陥品であろうし、もっと始末に負えないのは闇ばかり(魔性で病弱で淫乱)のドドメ色女で、私はこのドドメ色女を想像すると、必ず「東電OL」を思い浮かべてしまうのだった。
摂食障害のせいでガリガリに痩せた、不健康な肉体。腐臭にも似た破滅の匂いを漂わす、魔性の魂。そして、夜な夜な街角に立って身体を売らずにいられない旺盛な性欲(純粋な性欲とは違うと思うが)。これほど見事な闇フェロモンのサンプルが、他にいるだろうか。彼女は、隠花植物の女王だ。こんな女に欲情する男は、自らも深く病んでいるに違いない。肉体ではなく、魂が病んでいるのだ。この魂の「病み」こそが「闇」なのである。魂に闇(病み)を抱えた人間ほど、闇フェロモンに激しく感応する。「感応」は「官能」に通じ、そこに淫靡なエロスが誕生する。
エロスはギリシャ神話における愛の神であり、美の女神アフロディーテの息子。絵画には、弓矢を携えた無垢《むく》な幼児の姿で描かれるのが定番だ。が、この「闇エロス」神の場合、無垢な幼児の姿はしていても、邪悪で老獪《ろうかい》な笑みを浮かべ、股間には幼児にあるまじき巨根が黒々とそそり立っていそうである。グロテスク。そうだ、それは一種の異形なのだ。歪《ゆが》んだ魂が産み落としたフリークス。間違っても、美の女神アフロディーテの血筋ではあるまい。
汝ら、呪われた闇の子たち。だが、呪われた者だけが味わえる至福を、彼らは知っているのだ。
ベトナムの黒い月 その1[#「ベトナムの黒い月 その1」はゴシック体]
友人のホラー作家・岩井志麻子さんは、業界でも有名なデブ専であった。「であった」と、ここで過去形になっているのは、なんと志麻子さんったら最近、突然の路線変更をされたからなのである。
「デブはいいのぉ〜、デブが好きじゃあ〜、デブの乳を揉《も》んどると幸せじゃあ〜」
つい最近まで、このようなおぞましい発言を繰り返していた志麻子さんに、中村は密かに驚き呆れていた。蓼《たで》食う虫も好き好きとは言うが、デブなんかのどこにセックスアピールを感じるのだろう。
正統派ジャニーズ系ハンサムしか眼中にない中村にとって、デブとかハゲとかオヤジとかは、セックスアピールどころか、存在自体が圏外だ。なのに志麻子さん、あなたの理想のタイプは「エラそーなデブ」。そう、デブだけでは飽き足らず、「エラそー」で「陽気な」デブがお好きなのよね。うさぎ、信じらんなーい!
「志麻子さん、デブ好きはいいとしても、なんでエラそーなデブなの?」
「なんでかのぉ〜、金持ちそうな感じがするからじゃろーか」
「デブ=金持ちってのは、これまた貧しい国の価値観だねぇ。アメリカあたりじゃ、むしろ金持ちはジムに通ってシェイプしてるから肥ってないし、だらしないデブは逆に教養のない下層階級の証らしいよ」
「そうじゃのぉ〜。わしの価値観は、岡山の貧しい農民の価値観じゃからのぉ〜」
「でもさ、志麻子さんは売れっ子作家だし、今じゃそこらへんの男より金持ちじゃん。もはや、男に経済力を求めるよーな立場の女じゃないでしょ」
「しかしなぁ、うさぎさん。身に染みついた価値観は、そう簡単には消えんのじゃ」
と、このように答えて、都心の億ションに住む高額所得作家の志麻子さんはタメ息をつき、「ああ、どこかにいいデブはおらんか〜」などと呟《つぶや》くのであった。
ところがっ……!!!!
その志麻子さんが、最近、恋をしたらしい。しかもお相手は、デブでもエラそーでも金持ちでもなく、「痩せたベトナムの美青年(おそらく年収は志麻子さんの百分の一以下)」だというではないか! 志麻子、何があったんだぁ───っ!!!!
「し、志麻子さん、どーゆーことなのっ!?」
「うさぎさん、わしは年下の貧しい美男子に目覚めたんじゃあ〜! もう、デブなんか、ウザいだけじゃ。グエンくん(ベトナム人)の憂い顔に、シマコ、胸がぐるじぃ〜っ!」
「憂い顔? 笑顔じゃなくて、憂い顔?」
「そーなんじゃ。ベトナムにはたくさん美青年がおったが、明るく健康的で笑顔の眩《まぶ》しい美青年には、シマコ、ピクリともせんのよ。翳《かげ》りのある美青年が、好きっ!」
出たっ、「翳り」! 闇フェロモンのキーワード! 「陽気でエラそーなデブ」にはない闇フェロモンに、ついに志麻子さんも毒されたか! しかし何故、「翳りのあるデブ」じゃダメなのか?
その答は、次回で明かされる……。
ベトナムの黒い月 その2[#「ベトナムの黒い月 その2」はゴシック体]
前回は、「陽気でエラそーで金持ちそーなデブ男が好き」と言い続けてきたホラー作家・岩井志麻子さんが、ベトナム旅行から帰った途端に宗旨替えして、突如、「翳りのある貧しいベトナム美青年(むろん、痩せてる)」に恋をしてしまった顛末《てんまつ》をご報告した。一週間たった現在も、この恋は冷めるどころか、ますます燃え上がっている様子である。
「なぁ、女王。わしは初めて恋をしたのかもしれんのぉ」
「何言ってんのよ、いい年して。あんた、バツイチでしょ? 前の結婚は、恋愛結婚じゃなかったの? しかも、元夫は、あんたの大好きな色白デブだったんでしょ?」
「あれは恋ではなかったんじゃ、女王。思えば、わしとデブとの関係は、すべて恋とは言えぬモノだったのかもしれん」
「恋じゃなかったら、何なのよ?」
「復讐……かのぉ〜」
なるほど、わかりますわ、志麻子さん。中村うさぎ女王は、深く深く頷《うなず》いたのであった。
恋愛とは、「相手を手に入れる」こと……すなわち、「征服」である。人間、年とともに欲しいモノが変わっていくのは当然だが、若い頃は何かと上昇志向が強いため、「自分より上のモノ、上の相手」を手に入れようとするものだ。そして、それはしばしば「自分を虐《しいた》げてきたモノ」にすり替わり、たとえば金とか地位とか権力とか、そんなモノへの鬱屈《うつくつ》した憧憬《しようけい》と復讐心が、それを体現する男(志麻子さんの場合はデブ)に投影され、化学変化を起こして「恋愛」にバケてしまうワケである。
だが、人間は変化する。年をとり、金も地位も権力も己の力で手に入れてしまうと、今度は違うモノが欲しくなる。それは、何か?
諸君、それは「失くした自分」なんですよ。志麻子さんは、貧しく憂いを秘めたベトナム青年に若き日の自分自身(←だから痩せてるのね)を重ね合わせ、その彼を愛することで、「あの頃の私」を救ってあげたい、抱きしめてあげたい、と願っているのだ。それはもはや「復讐」でも「征服」でもない、ある種の「贖罪《しよくざい》」であり「禊《みそぎ》」であろう。愛は「求めるもの」から「与えるもの」に変質し、そしてそれは「若い女に貢ぐオヤジの恋」そのものなのである。我々は、少女から一足飛びにオヤジになったのだよ、志麻子さん。失ったモノは大きいのぉ〜。
純文学エロ女vs大衆ギャグ女[#「純文学エロ女vs大衆ギャグ女」はゴシック体]
先日、某誌の仕事で俳優の中尾彬氏と対談したのだが、その折に我々は「闇フェロモン」の話で盛り上がってしまったのであった。
「市原悦子には、なんか変な色気があるでしょ。私は女ですが、あの人見てると、ふと畳の上に押し倒したい衝動に駆られるんですよー」
「ああ、わかるわかる。あるよなぁ、そういうねっとりした色気」
「なんでか知らないけど、畳なんですよ。カーペットとかフローリングじゃなくて」
「布団でも、羽根布団とかじゃないだろ。汗でじっとり重くなった真綿の布団な」
「そーそー! 薄暗ーい部屋でね、汗と体液でどろどろになって交わりたい。オシャレで綺麗なセックスじゃないの。汚くて臭くてベトベトで、っていうのが、いいんですよ。そーゆー欲望を刺激する女っているでしょ。私は、それを闇フェロモンって呼んでるんです」
「わかるよ。そういう女と昼間、明るい太陽の下で会ってても、こっちはピクリともしないんだよな。だけど、暗くて貧乏臭い安旅館なんかで見ると、おおっと思わせる。くたびれた仲居頭のおばちゃんなんかに、そういうタイプがいるねぇ」
「布団部屋に連れ込んで、バックで犯したくなりますよねー(←何を言ってるんだ、中村!)。で、私、思ったんですけどね」
「うん」
「美人でもなくセクシーでもなく、しかも年取ってオバチャンになっちゃった女は、この闇フェロモンで男を引き寄せるしかない、と。いや、じつは自分のことなんですけどね。ブス、デブ、ババア……この女としての致命的なマイナスポイントを逆手に取って男にモテようとしたら、闇フェロモンを身につけるしかないんですよ」
「ははは、なるほど」
「でもね、私には闇フェロモンがない。やっぱね、シャネル着てるのが、よくないような気がするの。ほら、泉ピン子とか、シャネル着てるブスには色気がないでしょ」
「んー……確かに、ピン子はなぁ〜(苦笑)。押し倒したい気分にはならねぇなぁ〜」
「ほらね。でもピン子だって、市原悦子と同様、小太りのオバチャンじゃないですか。なのに、市原悦子には闇フェロモンがあって、泉ピン子にはない。どーしてなんでしょ? やっぱ、シャネルのせいですか?」
「違うだろ。シャネル着てなくても、俺はピン子を押し倒したいとは思わねぇよ、きっと」
「なんでっ!?」
「なんでかなぁ」
てなワケで、諸君。中村は「闇フェロモン」について、また深く考え込んでしまったのである。ブスでデブでババアで貧乏臭くて育ちが悪そうで、マイナスばかりの泉ピン子。なのにそのマイナスがフェロモンに転化しない理由は何かっ!? 市原悦子にあって、泉ピン子に欠けてるモノとは何なのかっ!?
たとえば小説なら、市原悦子は「純文学系エロ小説」で泉ピン子は「大衆ギャグ小説」……そんなふうに思わせてしまう根拠は何なのか? 次回、ゆっくり考察するぞーっ![#「」はゴシック体]
フェロモンとは「湿度」である[#「フェロモンとは「湿度」である」はゴシック体]
さて、テーマは前回に引き続き、「市原悦子には闇フェロモンがあるが、泉ピン子にそれがないのは何故か」という問題である。ともにブス、ともに小太り、ともにオバサン……なのに、セクシャルなイメージにおける、この決定的な違いは何か?
この問題提起に対して、某編集者氏の意見は「母性の有無」であった。曰く、
「泉ピン子は支配的な母性イメージが強いので、性的対象にならない(要するに男が勃起する気にならないワケですね)。対する市原悦子は、母性イメージが希薄である分、フェロモンの発生する余地があるのではないか」
母性は男根を去勢する……これはまぁ、おっしゃるとおりである。男たちが外に愛人を作りたがるのは、古女房がもはや「女」ではなく「母」になってしまって、彼らの性的ファンタジーを満足させてくれないからだ。これは男に限らず中村自身にも当てはまる現象で、たとえば私は、「夫」や「家族同然となってしまった彼氏」に対して急速に性的欲求が減退し、なんだか近親相姦みたいな気分になって気持ち悪くなってしまう、という経験を何度か味わっている。ただ、この場合、相手の男に「父性」を感じ取るのではなく、むしろ「兄妹(あるいは姉弟)」みたいな感覚なのであるが。
そうだよ。やはり「性的ファンタジー」というのは、相手の未知なる部分(闇の部分)にこそ掻き立てられるのだ。そういう意味では、母性云々はさておき、確かに市原悦子のほうが泉ピン子に較べて「底知れなさ」感が強い。市原悦子の醸し出す「ねっとり感」とゆーか「湿度」みたいなモノがピン子においては希薄で、ピン子のイメージはむしろ「サバサバ感」とでも言いたいモノである。市原悦子が「底なし沼」なら、泉ピン子は「砂漠」だな。そして「闇フェロモン」とは、じつに、この「湿度」なくしては発生しない化学物質なのであった。
男が古女房に性的ファンタジーを抱けなくなるのは、相手が「家族」となることで、女の湿度を失ってしまうからだ。家族とは日常であり、日常とは殺伐たる砂漠である。「母性」においても然りで、すべての「母性」は「男を支配し去勢するダークサイド」を包括するものであるが、そのダークサイドにも「底なし沼型」と「砂漠型」とあってだね、前者は闇フェロモンに転化するけど後者はフェロモンから遠く遠く離れてしまう、と。こういうことなのではなかろうか。
で、この「湿度」を失えば失うほど、「女」は「オヤジ」になっていくのであり、言ってみりゃピン子のサバサバ感は、「オバサンっぽい」というより「オヤジっぽい」のだ。あのガハガハ笑いそうな感じとか、片膝立てて茶碗酒飲みそうな勢いとかさ、なんかもう女としてミもフタもないイメージなのね。
湿度を失った母性は、オヤジに変身する。しかし、だからといって泉ピン子が父親になるワケでは決してなく、それを考えると「オヤジ」と「父性」とはまったく違うモノであり、むしろ「オヤジ」とは「堕落した父性」あるいは「父性の欠落した男根」なのではあるまいか……と、ここまで考えたところで文字数が尽きたので、次回は「オヤジ」vs「父性」、「母性」vs「男根」について論を進めたいと思う中村である。
オヤジは「堕落した父性」である[#「オヤジは「堕落した父性」である」はゴシック体]
オヤジ(←親父ではなく、片仮名のオヤジね)とは、何か。それは「堕落した父性」であり、「父性の欠落した男根」なのではないか……と、前回、中村は申し上げた。こうなると「父性とは何か」という問題が急速に浮上し、かつまた「父性と男根は両立するのか」という問いにも答えねばなるまい。
さて、諸君。「父性」とは何か。言うまでもなく、それは「母性」とともに並び立ち、子どもたちを支える柱である。そこには、当然、群れを率いる「リーダーシップ」だの「カリスマ性」だのといった特質が期待され、子どもに「行動規範」や「処世訓」を教えるという、情操教育的な母性に較べて多分に社会教育的な役割を求められる「性」なのであった……おそらく、戦前までは。
ところが戦後、「厳格な父」が「高圧的で独善的な時代遅れの父性」とみなされ、その社会教育的な役割もまた「体制的・保守的」という文脈で批判的に捉えられるようになって以来、世間にはやさしくて物わかりのいいアメリカン・ホームドラマみたいな父親が増えてしまったワケである。うちのパパは世界一、ってなもんだよ。まぁ、やさしいのは結構さ。だけどな、「ポリシーのあるやさしさ」と「外ヅラだけのやさしさ」には雲泥の差があり、やはり父性というモノには、何がしかの社会性や本人の気骨といった「硬い部分」が必要なのだと中村は思う。スライムみたいに骨のないブヨブヨの父性を、いったい誰がリスペクトできようか。
で、世の中で「オヤジ」と呼ばれ、「汚い」「臭い」「みっともない」と蔑《さげす》まれる男たちは、この硬く屹立《きつりつ》した「父性」を失った(あるいは最初から持たない)堕落者たちなのである。背骨のない男たち。硬くなるのは海綿体だけだ。しかもバイアグラでな(笑)。情けねぇ。
諸君は、自分が今まで生きてきた人生において学んだこと、身につけたスキルを、堂々と胸を張って子どもたちに伝えられるか……それができてこそ、「父性」は確立されるのだ。中身のなさやコンプレックスから生じる空威張《からいば》りや、自信のなさを意味する魂のない愛想笑いは、正しい「父性」とは対極に位置し、感受性の鋭い子どもたちはたちまちそれを看破して、尊敬どころか嘲笑の対象とする。その結果、父性なき父親たちは十把一絡《じつぱひとから》げで「オヤジ」と呼ばれ、ゴミ以下に扱われるようになった次第である。
高圧的でもいいではないか。しょせん親なんてモノは、「父性」だろうと「母性」だろうと、子どもを抑圧する存在なのだ。その「抑圧」と戦い、挫折したり克服したりを繰り返してこそ、子どもたちの魂は成長する。父親は、子どもたちにとって、最初の「人生の壁」となるべきなのだ。なのに、「子を抑圧する親」の役割を恐れるあまり、我が子と対峙《たいじ》することも戦うことも放棄して、ひたすら物わかりのいい父親を演じるだけに終始した場合、いったい誰がその子たちに社会的行動規範を教え、人生の壁を乗り越える術《すべ》を授けるのか。
中村はオヤジが嫌いだ……と、このコラムで最初から申し上げてきた。「男」が嫌いなんじゃない、「オヤジ」が嫌いなのだ。自信のない、あるいはやたら男根をひけらかすだけの、中身のない堕落した男たちが嫌いなのだ。男の堕落とは、「父性」の喪失である。男たちよ、海綿体ではなく、背骨で立て! これが、中村からのメッセージなのだよ、オヤジたち。
父性の堕落vs母性の濫用[#「父性の堕落vs母性の濫用」はゴシック体]
「男の堕落とは、父性の喪失である」というのが、前回の中村の主張であった。そして、この「堕落した父性」こそが、世でオヤジと呼ばれ蔑まれる男たちの特徴なのだ、と。
では、女の堕落とは、何か。男の堕落が「父性の喪失」なら、女の堕落は「母性の喪失」なのか。いや、私はそうは思わない。「母性の喪失」などというと、「我が子を虐待する母親」のイメージがちらつき、「そーだそーだ、最近の若い女は……」なーんて話に持っていかれがちだが、我が子の虐待を「母性の喪失」だなんて、中村は露ほども思ってないのである。むしろ母親なんてモノは、子どもを無自覚にやんわり虐待してるもんですよ。子どもをスポイルする「過保護」も、子どもを傷つける「虐待」も、根っこの部分は同じである。それは「母性の喪失」ではなく、「母性の濫用」なのだ。
男の堕落が「父性の喪失」なら、女の堕落は「母性の濫用」ではなかろうか、と、中村は考える。母性という名のもとにすべての反論を封じ込め、他者を支配しようとする思い上がり。男が父性を喪失する一方で、女が母性を過剰に濫用するのは、男にとって父性が自分のアイデンティティと折り合いのつきにくいモノであるのに対して、女にとっての母性は大いに居心地のいいアイデンティティだからである。
男は努力しなくては「神」になれないが、女は生まれながらに「女神」である。世界の神話伝説を見渡しても、男神は必ず何かと戦って「最高神=父性」の地位を獲得するが、女神はあらゆる神や生物を産み落とす存在として、誰とも戦わずに「地母神=母性」の地位をハナから手に入れているのだ。だから女性はすぐれている、なんて結論を振り回すつもりはまったくない。これは単に雄と雌の「性の特質」の問題に過ぎないからだ。
「父性」とは、男が生まれつき備えている属性ではなく、何かに打ち勝って獲得するもの。だからこそ、それは子どもにルールや行動規範といった「社会的」な役割を教える存在となる。他方、「母性」は多分に生得的な属性であり、それゆえ子どもに情愛や信頼といった「非言語的・観念的」な価値観を授ける。このふたつは、人間という社会的かつ生物的な存在にとって、車の両輪のようになくてはならない存在なのだ。
で、戦って獲得しなければ手に入らない「父性」であるからこそ、前回も申し上げたとおり、何とも戦わず何にも打ち勝ってこなかった男は「父性」を持たずに年を取り、単なるオヤジに成り下がる。そして女たちは、これまた「自己抑制」とか「客観的視座」といった社会的作法を父親から授けられないままに成長するものだから、自分の「母性」のコントロールが利かず、我欲も母性も一緒くたにして子どもを支配し、夫である「父性なき男(それは単なるガキである)」まで母性で抑圧し、結果的にあらゆる男たちを去勢する恐るべき存在となるのであった。
某編集者が泉ピン子に嗅ぎ取った「支配的母性イメージ」とは、じつにこの「母性の濫用」そのものなのである。彼はそれでも「母性の濫用」に恐怖と嫌悪を感じる分、自らの「父性の危機」の問題に自覚的であると言えるかもしれない。シュメール神話の英雄マルドゥークは、邪悪なる母性の女神ティアマットを倒して最高神の地位を手に入れた。男の戦いは、母性との戦いから始まるのだ。
「母性」という名の魔女たち[#「「母性」という名の魔女たち」はゴシック体]
私は、恋愛が苦手だ。恋愛をすると、常日頃は固く蓋を閉ざして封印している井戸が開いてしまい、その深く暗い底から、恐ろしい女神たちがぞろぞろと這《は》い出してくるからだ。その女神たちの名を、「母性」という。
彼女たちは揃って醜く、凶暴で、貪欲である。男をひと睨《にら》みで石に変えてしまうメデューサもいる。男たちを甘い餌で歓待し、飽きるとブタに変えてしまうキルケーもいる。ちなみにギリシャ神話に恐ろしい女怪が多く登場するのは、ラテン男たちが女という生き物を熟知していたからである。だてに恋ばかりしてないワケだな、ヤツらも。
だが、私が恐れる彼女たちの属性は、その異形《いぎよう》でもなく攻撃性でもない。私が恐れるのは、彼女たちが「非言語的存在」であるからだ。言語を生業《なりわい》にする者にとって、非言語的存在ほど厄介なものはなく、しかも私の職業は、それら「非言語的女神たち」を作品上に召喚《しようかん》することである。だから彼女たちとは、日頃からできるだけ仲良くしておきたいし、ある程度コントロールしておく必要があるのだが、こと恋愛となると、日頃の訓練にもかかわらず、彼女たちの暴走に対して私はまったく無力なのであった。嗚呼……。
何故、恋をすると「母性」が暴走するのか。それは恋愛というものがそもそも独占欲に基づいた感情であり、ほとんどの場合、我々が「愛」だと思っているモノは単なる「執着」に過ぎないからだ。これは男も女もそうなのだが、しかし特に女の場合、恋を通して自己確認しようとする傾向が非常に強いため、「相手への愛」はいともたやすく「我執」すなわち「我への執着」に変質し、相手も自分もヘトヘトになるくらい追い詰めるのである。
そして、この「我執」は非常に「母性」と融和性の高いモノであり、何故なら「母性」というものは元来「我執」の延長であるからだ。子を想う母なんてぇ言い方すると美しいが、母親が子どもを命がけで守るのは、彼女にとって子どもが「自我の延長線上にある生き物」だからこそ、だ。子どもは自分の所有物でもなけりゃ付属品でもない、などということは意識上ではわかっているのだが、非言語的無意識の混沌《こんとん》の中では、母親は常に子どもと一体であり、その一体感ゆえの愛着を「母性愛」と感じている。すなわち母性とは、他者を自分と一体化させようとする恐るべき願望であり、「我への執着」に他ならないのだ。
女は、男のすべてを欲しがる。与えても与えても、まだ足りないような顔をしている。それは「母性」の仕業である。彼女の中の「母性」が、男を呑み込み、我と一体化させようとするからだ。しかし、他人はしょせん他人であるから、その野望は必ず失敗に終わる。すると女は逆上し、理不尽な怒りと欲求不満で、ますます男を追い詰める。繰り返し恋愛に失敗する女は、自分の母性をコントロールできない女である。そして私もまた、その傾向が自分にあるのを重々承知しているから、恋愛が苦手であり、男によって解き放たれる自分の母性を嫌悪しているのであった。
なのに男たちは、しばしば私に近寄ってきては、私がせっかく厳重に封印している母性のスイッチを押す。スイッチを押すと、井戸の蓋が開いて、恐るべき女神たちがぞろぞろと這い出す。そして、たいていの男は、それを見て、尻に帆かけて逃げ出すのである。
私が男で幸せになれないのは、これなんだなぁ。やれやれ。私の人生もまた、母性との戦いなのだ。
「青フェロモン」のホスト[#「「青フェロモン」のホスト」はゴシック体]
「のりちゃん(←私のこと)、俺ね、風邪引いて熱があってボロボロなんだ。昨日から、何も食ってないし」
ホストがそう言って、訴えるように私を見つめた。確かに見るからに具合が悪そうで、両目の下には薄く隈《くま》ができ、それゆえ、いつもより目がくっきりと大きく見える。頬のあたりも心なしかやつれ、なんだか全体的に哀愁が色濃く漂っているのであった。
我々はタクシーの後部座席に並んで座っていたのであるが、その暗がりの中で私は病みやつれた彼の顔をつくづくと眺め、心の底から「辛そうだな、かわいそうに」と思うと同時に、「なんか、こいつ、セクシー」などと不謹慎にもムラムラしてしまった。この思いっきり弱っている男を乱暴に押し倒したら、こいつはきっと桜の花びらよりも儚《はかな》げに、はらはらと崩れ落ちてしまうだろう。もちろん、四十度近くも熱のある人間に、そんなことをしたら鬼畜である。しかし、実際に私は通常の二・五倍くらいスケベな気分になってしまい、そんな自分をつくづくオヤジだなぁと感じたのであった。
病み上がりの女に「闇フェロモン」を感じる男は、大勢いる。以前、私はその病みフェロモンを、「青フェロモン」と呼んだことがある。が、それは、男が女に「儚さ」や「たおやかさ」を求める生き物であるからこそだ。その理屈でいくと、女は男の「力強さ」や「雄々しさ」といった多分に男根的な要素にフェロモンを感じ取るはずであり、実際に「健康的なスポーツマン」とか「仕事をバリバリこなすサラリーマン金太郎系」とかは、たいそう女にモテている。病みやつれて弱りきったホストなんて、不健康の極みであり、明るく前向きで力強い「男らしさ」から三億光年くらいかけ離れた存在ではないか。
なのに私ときたら、男のなよなよとした風情につい「むふう」などと鼻息を弾ませてしまい、「ほれほれ、よいではないか」とばかりに組み伏せたくなっちゃったりして、中村、おまえは変態なのか。
変態といえば、私は幼少のみぎり、テレビの時代劇などでか弱いお姫様が悪い浪人にてごめにされて「何をするのじゃ、あれぇ〜」みたいなシチュエーションに密かにワキワキしていた記憶があり、てっきり自分とお姫様を同一視していたのかと思っていたのだが(ふつう、女の子はお姫様に自己投影するものである)、あれはじつは浪人と自分を重ね合わせていたのではないか。てぇことは中村、「軽くサディスト」にして「薄くトランスセクシュアル(性同一性障害)」入ってて、そのうえ「やや同性愛傾向」なのか。うーむ、複雑。
まぁ、幼い頃というのは自我も確立しておらず、性的快感を求める対象が異性とは限らなかったり、それどころか相手は「毛布」や「ヌイグルミ」だったりするフェティッシュな傾向も強いので、一概に幼児期の自分の偏愛をただちに変態と結論づける気はない。が、四十四歳になった今でも、病気で弱っている若い男が「か弱いお姫様」に見えてしまい、つい「力ずくで犯しちゃうぞ、おらおら」気分になってしまうのは、やはり私の魂に「オヤジ(それも、すげぇ鬼畜なヤツ)」が住んでるとしか思えないのである。
もしも私が男だったら、間違いなく権力志向のオヤジになってるだろうな。ああ、イヤだ。お母さん、女に産んでくれてありがとう。
魔女が白雪姫に嫉妬した理由[#「魔女が白雪姫に嫉妬した理由」はゴシック体]
以前、このコラムで「ホストにはフェロモンがない」と書いた私であるが、これは何も私ひとりの意見ではなく、某女性誌の仕事で私と一緒に毎週ホストクラブに行ってる漫画家の倉田真由美および編集者が、普段から口を揃えてそう嘆いているのである。
「ホストって、エロっぽいオーラが出てないよねー。お肌もツルツルで、毛なんか一本も生えてなさそうで、男臭さが全然ないんだもーん」
「まぁ、なかには『男っぽさ』を売りにしてるホストもいるけどさぁ、そーゆーのはたいてい単なる勘違い野郎で、単に無神経だったりガサツだったりするだけなんだよねー」
「そうそう。そーゆーのは男っぽいんじゃなくて、タダのバカだよ。バカにはフェロモンがないからね。結果的には、ホストにフェロモンはないってことになるよね」
おっしゃるとおりである。「男っぽさ」と「ガサツさ」とを混同してるような男に、フェロモンなんかあるワケない。フェロモンってのは、ある程度、知性や品性を隠し持ってるモノなのだ。「男の獣性」なんてものに惹かれる女はいようが、それだってよほどのマニアじゃない限り、本当にケダモノみたいな男を求めてるワケじゃない。心の中に野獣を飼い慣らしてるような男をこそセクシーと感じるのであり、野獣を飼い慣らすにはある程度の知性や品性が必要なのである。
一方、ホストたちの多くは、野獣どころか、愛玩犬のような清潔さと人工的な美貌(整形という意味ではなく、よく手入れされた、という意味ね)を備えており、そんなお人形みたいな男たちにフェロモンの発生する余地はない、と、彼女たちは言うのであった。
だが、私も含めた一部の女たちは、そんな清潔で無機質でフェロモンの抑制されたお人形のようなハンサムに、強く惹かれてしまう。我々にとって、彼らは「王子様」なのであり、王子様にはフェロモンなんかあっちゃいけないのである。考えてもみるがよい。王子様がフェロモンむんむんの胸毛生やしたラテン男だったら、シンデレラも白雪姫も、抱かれた途端に鼻をつまんで逃げ出すぜ。だって彼女たちは、処女なんだもの。世間知らずで臆病な処女のお姫様は、中性的な美貌を持つフェロモン皆無の王子様にしか心を許せない。
と、このようなことを言うと、「中村、おまえは処女のお姫様のつもりか。えーかげんにせい、四十四歳のバツイチ女が」などと嘲笑されそうだが、自分が処女でもなければお姫様でもないからこそ、私は「王子様」を必要としてしまうのであった。いや、もっと言えば、私が「女」ですらなくなったからこそ、なのかもしれない。
ある時期から、私は「女」になった。「少女」でもなく「お姫様」でもなくなった私は、しかし「女」というアイデンティティを、さしたる感傷もなく受け容れ、何の疑問も持たずに「女」として生きてきた。ところが中年にさしかかった頃から、もう「女」として生きていく必要すら感じなくなり、人生から「男」を締め出してしまったのであった。「女」でなくなった中村は、「男」の代わりに、フェロモン皆無の「王子様」を愛玩する趣味を持った。老人がボケると幼児に退行するように、「女」をリタイアした魔女はお姫様に退行するのであろうか。白雪姫に嫉妬した魔女は、本当は白雪姫の美貌より王子様が欲しかったのかもしれない。だとしたら、あれは哀しい話である。
人魚姫は何故、海の泡になったか[#「人魚姫は何故、海の泡になったか」はゴシック体]
『人魚姫』という童話は、醜形コンプレックスの女の話だ。夢のようにハンサムな王子様に恋をして、だけど自分は醜い魚の身体をしてる。こんなブスな自分を、美しい王子様が愛してくれるはずがない。
そんなことは初めからわかってるんだから、そもそも恋心など抱かなければよかったのだ。まぁ、うっかり抱いてしまったとしても、住む世界が違うのだからと早々に諦めるべきだった。が、人魚姫は諦めきれなかったのである。自分がブスだと知ってはいても、もしかしたら王子様はそんな自分を愛してくれるかもしれない、などと、ご都合主義な夢を見てしまった。いや、それどころか、あの美しい王子様に愛されたら自分はブスじゃなくなるんじゃないか、という大それた野望まで持ってしまったのだ。
んなワケねーだろ、ブスはブスだよ、と、人は言うかもしれない。でも私には、人魚姫の気持ちがよくわかる。容貌や性的能力に根深いコンプレックスを持っている女は、分不相応な物で自分を飾り立て、現実の自分を少しでも底上げしようとするのである。高価なブランド物や、美しいドレスや、ハンサムな恋人。そんな物を手に入れれば、自分の欠落が埋め合わされて、一瞬でも苦しいコンプレックスから解放されるような気がするのだ。
人魚姫は、魚のくせに「人間の足」を欲しがった。それだけでも身の程知らずなのに、そのうえ「人間の王子様」まで欲しくなった。その貪欲にしてナルシスティックな始末に負えない野望は、前借りしてまで分不相応なブランド物を買い漁ったあげく、次には若くてハンサムなホストまで手に入れようとした中村うさぎのそれと、どこが違うだろうか。私は魚のくせに人間になりたがった、愚かな醜形コンプレックスの人魚姫なのだ。
「人間の足」と引き換えに人魚姫の「声」を取り上げたのは、海底に住む魔女である。しかし、じつはこの魔女は、シニカルな現実主義者である「もうひとりの人魚姫自身」であった。魔女は夢見がちで現実逃避型の自分に、こう忠告したかったのだ。
ブランド物で身を飾り、いっぱしの人物になったつもりでも、根底のコンプレックスは解消されたワケではない。その証拠におまえは、美しい王子様に自分の気持ちを伝える手段を永遠に失うであろう。自分は人間のふりをしている魚だという認識が常に心の片隅にあるからこそ、そしてそんなインチキな扮装をして王子様に近づいた自分を恥じる気持ちがあればこそ、おまえはますます劣等感に苛まれ、王子様に恋心を告白することなどできなくなるのだ。おまえの恋は、実らない。いや、それはそもそも、恋ですらない。それは、おまえの自意識の呪縛《じゆばく》が生み出した妄執に過ぎないのだ。おまえが愛したいのは王子様ではなく、王子様に愛される自分自身に過ぎないのだよ、人魚姫。
魔女の忠告は、残酷なほど当たった。人魚姫の身の程知らずの恋も野望も、ついに実ることはなかった。自分を好きになれない女が、他人を愛することなどできるだろうか。王子様に愛されなかった人魚姫は、王子様を憎んで殺すか、自分を憎んで殺すかの二者択一を迫られ、自ら海に飛び込んで泡と散った。自己嫌悪を他者への恨みにすりかえなかった人魚姫は正しい。この童話の唯一の救いは、彼女のその哀しいほど潔い決断である。その結末を醜くご都合主義にねじ曲げたディズニーアニメを、私は絶対に許さない。
ツバメはいつでもサロメになれる[#「ツバメはいつでもサロメになれる」はゴシック体]
オスカー・ワイルドがゲイであったことは有名な話だが、そう思って読み返してみると、彼の『幸福の王子』という童話は、とても哀しい物語だ。何が哀しいって、自分の身をボロボロにしながら貧しい人々に施し続ける王子はともかく、その王子につくし続け、ついには南国にも飛び立てずに寒さで死んでしまうツバメが、あまりに哀れである。ツバメは一度もそんなことを口にしないが、おそらく王子を愛していたのだ。なのに、王子の目は貧しい人々に向けられたままで、ツバメの恋心など一顧だにしようとはしなかった。
自分のことなど歯牙《しが》にもかけず遠いものばかり見つめている王子の足元にうずくまり、その美しい顔を見上げているだけのツバメの孤独……その凍える想いは、冬の寒さよりも、骨身にこたえたに違いない。
もしかすると、それは、オスカー・ワイルド自身の姿だったのではなかろうか、と、私は思う。ゲイではない(つまりヘテロの)美青年に報われない恋をして、その青年のためにひたすらつくすけれども、青年の目はいつも他の女たちに向けられている。青年はワイルドの恋心に気づかない。気づかないどころか、思いも寄らない。だって、彼は同性愛者じゃないのだから。そしてワイルドも、自らの気持ちを口にしないまま、ただただ青年の無邪気な要求に応え、女たちとの間をとりもってやり、そして凍える想いでその美しい顔を見つめているのだ……うう、哀しいなぁ。
諸君、美しい男とは、なんと残酷な存在だろうか。ホストにハマって出版社に膨大な借金作ってる私も、まるで王子様に仕えるツバメのようだよ。てゆーか、ホストクラブ自体が、たくさんの「幸福の王子様」たちと、たくさんの「ツバメ」たちの集まる場所なのだ。美しい王子様たちの足元には、彼のために身を滅ぼしたツバメたちの死骸が累々と重なっている。でも王子様の目は、決してツバメたちには向けられないの。彼らが見ているのは、彼らの夢ばかり……なんちゃって、まぁ現実には、ツバメが怒って王子様の目をつついてる姿を時々目撃したりもするが(笑)。
てなワケで、「私は『幸福の王子』のツバメのようだなぁ」なんてぇことをしみじみ友人に話したら、その友人が答えて曰く、
「そーかなぁ。むしろ王子様は、あなたなんじゃない? ホストのために身を削って金を貢ぎまくってる姿を見ると、貧しい人々に自分の身体を削って与え続ける王子様を連想するよ」
なるほど。じゃあ、私のツバメはどこにいるのよ、と、ふと足元を見下ろすと、妻のホスト狂いに耐えながら、凍える孤独に身を震わせている我が夫の姿が目に入った。
そーだったのかぁ〜〜っ!!! ご、ごめんよ、夫〜〜っ!!! いつもそばにいるあなたのことを、私はすっかり忘れてましたぁ〜〜っ!!! そーいえば、ホストクラブで百万円とか遣いながら、私はあなたの誕生日プレゼントすら買ってなかったわ(←鬼畜)!
しかし『幸福の王子』を書いたワイルドが、『サロメ』という作品で、自分を振り向きもしない男(彼の目は永遠に神に注がれているのだ!)の首を斬り落とすお姫様の話を書いたのは、なかなか示唆的である。ツバメは、いつでもサロメになれる。私も夫に寝首をかかれないよう、気をつけなければ……やれやれ。
女性作家は月のエロスに欲情する[#「女性作家は月のエロスに欲情する」はゴシック体]
デブ専作家・岩井志麻子さんが突然宗旨替えし、ベトナムの美青年(←痩せてる)にハマって、はや数か月。今も彼女はベトナムに行っているのだが、その渡航前夜、我々はスッポン鍋を食いながら、いろいろと語り合ったのであった。
「ねぇ、志麻子さん。なぜ、グエンくん(志麻子さんのハマったベトナム美青年の名前)を見初めたの?」
「なんでかなぁ。彼はホーチミンのレストランでウェイターをやっとったんじゃが、その店のウェイターは美男揃いで、グエン以外のハンサムもおったんじゃ」
「へぇ。でもそいつには、志麻子さん、ピクリとも来なかったんでしょ?」
「うん。そのハンサムは、たとえて言えば太陽みたいなハンサムじゃった。でもグエンは、月のようなハンサムだったんじゃ」
月か、と、中村は心の中で頷いた。なるほど、月ならば闇フェロモンに違いない。
ご存じのように、西洋における「月」の寓意は「狂気」である。月の女神を指す「Luna」が「Lunacy(狂気)」「Lunatic(狂人)」という派生語を生んだように、中世ヨーロッパの人々は月の光を浴び過ぎると精神的に不調をきたすと考えていた。狼男が満月の夜に変身するのも、そのためである。月の光には、呪わしい負の魔力が満ち満ちているのだ。人を狂わせ、人を破滅させ、人を怪物に変えてしまう悪魔の光。
そして一方、日本神話(『日本書紀』)における月の神もまた、暗く陰惨なエピソードの持ち主だ。太陽神アマテラスの弟である月読《ツクヨミ》は、ウケモチという名の食物の神を剣で刺し殺してしまう。じつはこれが農耕の起源となるのだが、月読は褒められるどころか、姉の怒りを買って夜の世界に追放されてしまうのだ。まるで犯罪者のように……そう、月は忌まわしき殺人者なのである。
西洋で狂気のシンボルとして扱われた月は、日本神話で血に濡れた凶器を振りかざす神と重なる。そして猟奇殺人者は、獲物を求めて月の光の中をさまよう。狂気、凶器、猟奇……月の光は、ひたすら死と破滅を囁きかけるのだ。
月のような美青年は、女たちを破滅の淵に引きずり込む魔性の男なのである。まさに、闇フェロモン。私がホストクラブで選んだ男もまた、太陽のようなハンサムたちの中で、ひとり月の光を滴らせていた。特別に線が細いワケでもない、暗い性格とも言えない。むしろ脳天気で明るいキャラに見えるのに、その笑顔にはいつも月の影が漂っている。きっと本人も、気づいていないだろう。だが、私はそこに闇フェロモンを感じ取り、彼の暗黒部にまっすぐ惹きつけられていったのだ。そこに破滅の淵があるのを承知のうえで。いや、破滅の淵があるからこそ。
志麻子さんも私も、破滅志向の強い女なのだと思う。心の奥底に暗い破滅願望を持つ女たちは、月の闇フェロモンに強く感応するのだ。月は我々を暗黒に引き込むかもしれないが、代わりに神を降ろしてくれる。霊感という名の神を。それがなければ、我々は、小説なんぞ一行も書けない。月が中世の魔女たちに呪力を与えたように、闇フェロモンの男たちは我々に呪われた魔力を与える。たとえ破滅しても、私は手を伸ばしてそれを受け取るだろう。
「闇フェロモン」のカリスマ性[#「「闇フェロモン」のカリスマ性」はゴシック体]
世の中は今(二〇〇二年四月)、看護師殺人事件の話題で持ちきりである。ある新聞記者から聞いたのだが、彼女たちの職業が「看護師」ということが明らかになった時点で、報道側の扱いが一段と大きくなったのだそうだ。ま、そりゃそうでしょ。人命を救う立場にある看護師が、その知識と技術を殺人に使ったのであるから、世間の受ける衝撃はいやがうえにも増大する。「怖いわねぇ」「人を生かすも殺すも簡単だものねぇ、プロだもの」「かかりつけの病院に、あんな看護師がいたら安心して通院できないわぁ〜」と、このように、茶の間の主婦は顔を見合わせ、怖がってみせたり憤慨してみせたり、しているはずである。
が、しかし。「看護師であるから、世間の関心が集まる」理由は、それだけではないだろう。そこにはきっと、「看護師」という職業が持つ「フェロモン」の影響があるはずだ。
人々が殺人事件に寄せる関心の濃度は、かなり「欲情」に支配されている、と、私は思う。たとえば猟奇殺人事件なんかの場合、その恐ろしさや衝撃度が強ければ強いほど、人々は何か性的な暗黒部分を刺激されているのである。まぁ、これはそもそも猟奇殺人が性的快楽殺人であるケースがほとんどなので、むべなるかな、と言えるかもしれない。が、性的快楽とは一見無縁な殺人事件であっても、犯人が看護師だったりすると、俄然《がぜん》、そこに「闇フェロモン」が漂い始め、人々の暗い欲望を引き寄せるのではないか。
そういえば、ちょっと前にも看護師が恋愛のもつれから同僚の看護師を殺す事件があったが、容疑者とされる看護師の写真を雑誌で見た時も、私は彼女の姿に一種異様な吸引力を感じてしまった。容貌自体はメガネをかけた地味な印象の彼女であったが、その服装は大胆に肩を露出したワンショルダーのタンクトップで、その妙にチグハグな感じが正統派ではない闇のフェロモンを発散している。その露出度の高さにもかかわらず、セクシーとか色っぽいとかいう肯定的な性的魅力からはほど遠く、むしろ怨念や狂気すら孕《はら》んだ、だからこそ目が離せなくなるような、マイナスのオーラに満ちているのであった。
しかも、彼女はOLでも主婦でもなく、看護師だ。白衣の天使といった陳腐な「聖女イメージ」をあてはめられがちな職業であり、「聖女と殺人者」というギャップが、その「地味顔とワンショルダーのタンクトップ」のギャップに象徴される、どこかバランスを欠いた(やはりどうしても狂気に近いものを感じずにいられない)不安定さを、ますます強調している。そして我々がそこに掻き立てられるのは、恐怖や不安と同時に、井戸の底にどんよりと澱《よど》んだ汚泥のごとき欲情なのである。
今回の四人の看護師たち(正確には全員が看護師ではないようだが)のうち、主犯格とされている吉田容疑者もまた、ちょっと異様な闇フェロモンの持ち主だ。決して美人ではなく、化粧の厚い中年肥りのオバサン以外の何ものにも見えないが、奇妙な存在感というか威圧感というか、変な言い方だが「説得力」がある。他の三人がこの女の言いなりであったというのも、何となく納得できる。レズ疑惑などもあるが、私は彼女たちをいわゆるレズビアンだとは思わない。そもそも、一緒に暮らしてたり手をつないで歩いてただけでレズ呼ばわりは、ちょっとトホホである。が、そこには間違いなく、闇フェロモンによる操作があったであろう。闇フェロモンはセックスではなく、恐怖で人を支配するのだ。
カリスマは、暗黒神の司祭である[#「カリスマは、暗黒神の司祭である」はゴシック体]
闇フェロモンは、セックスではなく、恐怖で人を支配する……前回、四人の看護師による保険金殺人事件に興味を引かれた中村は、主犯格とされる吉田容疑者について、このように述べた。そう、闇フェロモンは、いわゆる「カリスマ性」を発揮するのだ。
カリスマ美容師などという安っぽい呼称のおかげで本来の神秘的なイメージを失ってしまった「カリスマ」という言葉であるが、もちろんご存じのようにこれは、抗し難い魅力と説得力で人々を導く霊的指導者や政治的リーダーたちを指す言葉である。キリストや仏陀、毛沢東やホーチミンなどは代表的なカリスマであろうが、いかに聖人偉人として語り継がれようと、そこに一種いかがわしい闇フェロモンを感じずにいられない私なのだ。人心を惹きつけ掌握する人物には、心のどこかに「狂気」に近い暗黒神が宿っており、人々はその暗黒神の笛の音に踊らされるように、彼の後をついていく……そんなふうに、私はついつい想像してしまう。苦痛と快楽が紙一重であるように、恐怖と心酔も近似値であるに違いないからだ。
さて。キリストや仏陀と並列に語ったら罰が当たりそうであるが、この吉田容疑者もまた、一種のプチ・カリスマ性を持っていたようである。たとえば脅迫されていたとか、怒らせると何をされるかわからなかったとか、おそらく三人の容疑者たちは「吉田に対する恐怖」を口々に言い立てることであろうが、しかし、単なる恐怖だけで人殺し(しかも夫殺し)までするだろうか。それは限りなく「心酔」の域に近い「恐怖」だったのではなかろうか。心を縛られ、言いなりにさせられる悦び……そんな暗い快楽が、三人になかったとは思えない。
この世には、無意識に「神」を探している人々がいる。誰か強烈な個性と有無を言わせぬ説得力で、自分をぐいぐいと引っ張ってくれる人が現れて欲しい……そのような盲目の羊のような願望を持つ人間が、意外なほど多く存在するのである。その人たちは、自分で物を考えるのが苦手な人々だ。自分で決断し、自分で責任を取るのが怖い人たちだ。彼らは、いとも簡単に他人の言いなりになる。言いなりになるほうがラクだし、甘美だからである。その弱い心の隙間《すきま》に、暗黒神の笛の音が忍び込んでくる。
一方、暗黒神を宿すカリスマたちは、他人を操る快感に溺れる。言いなりになる人々に対してサディスティックな悦びを感じ、その要求はどんどんエスカレートする。キリストもそうであったが、新興宗教の教祖たちの多くは、信者たちに俗世との縁を切るよう勧める。親も子も夫や妻も捨てて、自分について来いと誘う。それは彼らが、信者にとって唯一無二の係累となるためだ。吉田容疑者が自分に服従する女たちに夫や親殺しを要求したのは、保険金だけが目当てではなかったのかもしれない。彼女たちが自分のために係累を殺すことこそが、吉田容疑者にとっての究極の快楽だったのかもしれないのだ。
人質になった人間が、自分を誘拐した犯人に恋をすることがある。支配される恐怖を「恋情」にすり替え、支配される快感に変換することで、自分を守ろうとするのである。ストックホルム・シンドロームと呼ばれるこの現象は、現在、DV(家庭内暴力)の犠牲者たちの心理とも関連づけられている。夫に殴られる女たち……彼女たちの耳にも、暗黒神の笛の音が轟《とどろ》いているのだ。
神は死に、死神だけが生き残った[#「神は死に、死神だけが生き残った」はゴシック体]
死体写真が好きである。怖いけれども、それは私の心に強く訴えかけてくる。
遊園地のお化け屋敷にも入れない怖がりのくせに、家に死体写真集を置いておくのは全然平気……などと言うと、「それ、悪趣味だよ」と気味悪がられるのだが、そうなのか? だってさ、いつか自分も死体になるんじゃん。死体のことは、よく知っておいたほうがいいと思うんだけど、違う?
私にはむしろ、金払ってお化け屋敷に入りたがる人の気持ちがわからんよ。物陰からふいに脅かされたりして、心臓に悪いったらありゃしない。あれこそ、悪趣味だ。その点、死体写真は何もしないよ、いきなり飛び出して私を脅かしたりもしないしね。
さて。死体写真愛好家である私が、死体に対して何らかのエロスを感じているのかどうか、それは自分でもわからない。死体とセックスしたいと思ったことはないが、食い入るように死体に見入ってしまう気持ちには、もしかすると性的なものも含まれているのかもしれない。
なにしろ私は猟奇殺人なども大好きで、死体の皮を被って踊った(と言われる)エド・ゲインなんかには、もう興味津々。もっとも、この男に興味津々なのは私に限らず世界じゅうに大勢いて、エド・ゲインは『サイコ』や『羊たちの沈黙』などのモデルにもなったカリスマ変態殺人者なのである。
死体は言うまでもなく「死」という概念のシンボルであり、死体に惹きつけられる人々は、とりもなおさず「死」に惹きつけられている人々だ。「死」の放つ魅力には、暗黒の光彩とでも言うべき独特の力強さがある。闇の中からしめやかに手を伸ばし、こちらの魂をむんずとわしづかみにするような力。真っ暗なのに、眩しい。冷たいのに、熱い。恐ろしいのに、吸い寄せられる。それはある意味、究極の「闇フェロモン」であろう。
この世には、「神」も「悪魔」も存在しない。彼らが象徴する「善悪」は、しょせん人間の発明した価値観に過ぎない。が、「死神」は確実に存在し、我々の人生に君臨している。神が死んでも、死神は死なない。彼こそが、生きとし生ける物たちの唯一無二の支配者なのだ。その権力は絶大であり、その玉座はもっとも高い場所にある。
人を殺したいと思ったことは一度もないが、しかし、殺人者たちの欲望と快感は、私にはわかる気がする。彼らは「死神」になりたいのだ。最高の権力者、神々のサバイバー、王のなかの王になりたいのだ。死神の衣をまとうことで、ちっぽけな自分を隠蔽《いんぺい》し、支配者の恍惚を存分に味わうことができる……おそらくその快感は、何物にも替えがたいものであろう。
快感や好奇心ゆえに人殺しをする少年たちを、世間は口を揃えて「理解できない」と嘆く。本当に理解できないのか、と、私は不思議に思う。世間の人々は、そのような暗黒の呼び声を、聞いたことがないのだろうか。もちろん、その呼び声に従って人を殺すような者たちを私は軽蔑するし憎みもするが(世界一、愚かで矮小《わいしよう》な自我の持ち主だと思うから)、その欲望を理解できないと本気で言い張る人々もまた、私にとって不気味な存在である。
闇を見つめることを忘れた人間は、闇に復讐される。これは肝に銘じておいたほうがいい。
「恐怖」という名の恍惚[#「「恐怖」という名の恍惚」はゴシック体]
苦痛と快楽が紙一重であるように、恐怖と心酔も近似値である……と、私は前々回、このコラムに書いた。おそらく、我々が対極にあると思っているものの多くは、双頭一身の二重体児のような存在なのであろう。
「苦痛」と「快楽」、「恐怖」と「心酔」、「愛」と「憎悪」、「悲嘆」と「歓喜」……どちらか一方だけが意識の上に現れていても、その裏の無意識では、もう一方の感情が暗黒のうちに蠢《うごめ》いている。まぁ、それでも片方が無意識の枠内に留まっているうちは問題ないが、ちょっとしたきっかけで、相克《そうこく》する両方の感情が一気に意識上に噴出してくることがあり、このような時に人は自らのコントロールを失って、「何かにハマって抜けられない」蟻地獄状態に陥るのである。そして「闇フェロモン」とは、じつに、この相克&膠着《こうちやく》状態を引き起こすフェロモンに他ならない。
たとえば、自分を破滅させるようなダメ男や暴力男にハマる女。相手から逃れたいのに離れられない、憎いのに愛しい、恐ろしいのに引き寄せられる、というその感情は、まさに男の「闇フェロモン」に罹患《りかん》してしまった結果であり、こうなると誰が何と言おうと、本人がどんなに足掻《あが》こうと、ズルズルと抜けられなくなってしまう。何故なら苦痛の後には必ず揺り返しの快感が押し寄せ、愛と憎悪は区別がつかなくなるほどグチャグチャに混じり合い、相手に対する恐怖と心酔の間を振り子のように行ったり来たりする感情の永久運動に、本人はすっかり疲弊し茫然自失状態になってしまうからである。
それを思えば、「依存症」というものはすべて、このような「闇フェロモン」病と言えるのかもしれない。一時期、買い物依存症と医者に診断されていた頃の私も、日々、破滅の恐怖に怯えつつ買い物をする恍惚感に、まったく我を忘れていた。破滅の恐怖がなければ、あそこまで強烈な陶酔は得られなかったであろう。苦痛あってこその快楽、恐怖あってこその陶酔だったのだ。
そして今、私はまさにホストにハマっているワケだが、これもまた「苦痛」と「快楽」の末期的症状を呈しつつある。当初は単純にホスト遊びを楽しみ、明るくポジティヴにドンペリなど開けていた私であるが、今はシャンパンの栓が抜かれるたびに、激しい痛みと毒々しい快感がこの身を貫く。従順なペットであったはずのホストは、いつの間にか私の支配者になっており、その立場の逆転がまた激しい感情の相克を呼ぶ。
ホストに対する愛と憎しみ、優越感と屈辱感。ホストを金で支配しているのは私であるが、彼の術中にハマって支配されているのも私である、という事実。おそらくホストもまた、私に対して、愛憎入り混じる感情を抱いているのではないか。自分を金で買った気分になっている憎い女、しかしこの女もまた、自分の魅力に抗しきれずに服従しているのだと思うと、毒々しい快感が彼の胸中に押し寄せているのではないか。愛と憎しみ、優越感と屈辱感を、私たちは互いに共有している。だからこそホストは客から、客はホストから離れられなくなるのである。
ホストには女嫌いが多い。しかし、ホストにハマる客もまた、男性恐怖者が多いのではないか、と私は思う。何故なら、恐怖心のない相手に、闇フェロモンは効かないからである。
恐妻家は闇フェロモンがお好き?[#「恐妻家は闇フェロモンがお好き?」はゴシック体]
前回、「恐怖と心酔は、双頭一身の二重体児である」と書いたら、編集者の方から「では、恐妻家というのは、どういう存在なんでしょう?」という質問をいただいた。
恐妻家ね。そう言われて気づいたんだが、中村は本物の恐妻家なるものを見たことがないなぁ。「いやぁ、女房の尻に敷かれちゃってね」とか「女房が怖くて浮気なんかできませんよ、ははは」などと言う男たちはいるけれど、そんな笑いのネタにするくらいだから、本心では女房のことなど全然恐れているはずがないのである。
では、「恐妻家」とは、どのような人のことを言うのだろうか? 心の底から妻を怖れているにもかかわらず、妻から離れることができず、妻に完璧に支配されている夫……世の中にはそのような男も存在するに違いないのだが、それをカミングアウトする人はあまりいないし、夫婦や家庭の内情など他人は知るよしもないから、きっと水面下にしかいないんだろうな、という気がする。
まぁ、夫が妻に対して恐怖政治を敷く場合、圧倒的に暴力による支配が多いので、事件にもなりやすいし、傍《はた》からもわかりやすい。が、暴力妻の存在は、たまに耳にするけれどもかなりレアケースであるし、女の恐怖政治は直接的な暴力よりもむしろ精神的支配によるものであろうから、なかなか表に現れにくいのであろう。ましてや男のメンツって問題があるから、本物の恐妻家は、滅多に人に相談したりしないしね(苦笑)。
そうやって考えてみると、女の「闇フェロモン」に弱い男は、恐妻家になる可能性がかなり高いと言えよう。
「僕の付き合う女の子って、何故か、ちょっと壊れた子が多いんですよねー」
先日、まだ若い新人ホストが、苦笑しながら私に言った。
「なんかもう、すぐ手首切っちゃったり、ヒステリー起こして暴れちゃったり、そういうタイプが多いんですよ。なんでですかねー?」
「なんでって……」と、私は答えた。
「それはあなたが、そういう女の子を選んでいるからでしょう」
「そんなことないですよー。僕だって、明るくて健康的な女の子と付き合いたいです」
「いや、違うね。うわべはともかく、本当に心の底から明るくて健康的な女の子には、あなたはたいして魅力を感じないんだよ。あなたは無意識に、どこか壊れた女の子を選んでるの。そういう子に振り回されてヘトヘトになるのを、自分で望んでるんだよ」
「そうなのかなぁ。なんで僕、そんな壊れた子なんか選んじゃうんだろ?」
「それは、あなたも壊れているからですよ」
「えーっ、そうなんですか──っ!?」
そうなのだ、と、思う。壊れた者は、壊れた魂に惹かれるのだ。相手に自分を投影するためである。彼らにとって恋人は、壊れた自分の鏡像だ。普段は明るくふるまっている者ほど、このような自分のダークサイドを照らし出す「闇フェロモン」に弱い。
病んだ女、壊れた女、危ない女に惹かれるタイプは、「恐妻家」の資質を持っている。『エヴァンゲリオン』の綾波レイとか好きな人は、気をつけてくださいね。
彼女がブラを見せる理由[#「彼女がブラを見せる理由」はゴシック体]
色気とは、何だろう……と、つくづく考えこんでしまう今日この頃である。
知り合いのS子さんは、痩せているけど胸が大きい。だからいつも大胆に胸元の開いたカットソーのシャツやタンクトップを着ていて、まぁそれは結構なことなのだが、問題はその肩先から常にブラジャーの紐が出ていることなのであった。見せブラ、と言われる種類のオシャレなブラではない。ごくごくフツーのオバチャンみたいな肌色のブラジャーの紐なのであって、それはお世辞にもオシャレとは言えない、いやむしろオシャレとは対極にある「ダサさ」の典型と、私の目には映っていたのであった。
で、ある日、私は彼女に指摘したのである。
「あのねぇ、S子さん。いつもいつもタンクトップからブラジャーの紐が出てるの、それ何とかしたほうがいいんじゃないですかー? そーゆータンクトップ着る時は、肩紐のないブラジャーをするもんですよ」
「いや、でもね」と、S子さんは平然と答えた。
「このほうが男は喜ぶんですよー」
「えっ、そーなの? だって……なんか、だらしなく見えるじゃないですかー」
「だらしない、隙だらけ、それはすなわち男にとって、やらせてくれそう、ということになるんです。だから私、わざとこうやって、ごくフツーの下着然としたブラジャーの紐を見せてるんです」
「わ、わざとだったんですかっ!? 私はてっきり、あなたがうっかりしてるのかと思った」
驚く私に向かって、その場にいたバツイチ子持ち女のKもまた、
「わざとに決まってるじゃないですかー。私はS子さんのブラの紐は、確信犯だと思ってたよ。いやぁ、エロいなぁ、と、いつも感心してたんです」
そーゆーKも、よくダラリとしたブラウスの肩口からブラの紐が見えている。私は彼女たちを「ホントにオシャレに気を遣わない、田舎くさい女たちなんだから」と思っていたのだが、まさかそれが男を吸い寄せるための演出だったとは……がぁ───ん!!!
しかしファッション的には、それはどう見ても「許されざるダサさ、だらしなさ」なのであり、いくら男が喜ぶからって、ブラの紐やらパンツのゴムやらがダラダラと服からはみ出してるのはどうよっ、と、私などは思ってしまうのだ。色気をアピールするファッションがいけない、と言うのではない。超ミニや深いスリット入りドレスや、胸や肩の露出したデザインは、私だって好きだよ。カッコいいと思っちゃうよ。しかし、肌色のブラの紐は、全然カッコよくない! ハッキリ言って、みっともないよ、あんたたち!
ところが、その数日後、とある男性の編集者が、Kのことを評して曰く、
「いやぁ、Kさん、色っぽいですよねぇ〜。こないだお会いした時、肩が大きく開いたブラウスを着てらして、そこからブラの紐が丸見えなんですよー。僕、クラッと来ちゃいましたぁ〜、ははは」
やっぱり男は、こーゆー隙だらけのダサいファッションが好きなのねー! オシャレって何だろう、色気って何なんだろう……と、しみじみ遠い目になる中村である。
「魔性の女」の自己欺瞞[#「「魔性の女」の自己欺瞞」はゴシック体]
「魔性の女」にもいろいろなタイプがあろうが、一般的には「男を翻弄する女」がそのような称号をいただけるらしい。愛してもいないのに手玉に取るのか、愛してしまったがゆえに相手を振り回すのか、まぁ、どちらにしろ迷惑な存在には違いないが、このような女たちの内面に、私は強く興味をそそられる。
はたして彼女たちは、どのような自意識を持っているのであろーか?
「私に関わった男は、みんな不幸になってしまう。私なんかと出会わなければ、平凡で幸福な人生を送れたのにね。ごめんなさい。私が悪いの……」
と、このようなことを殊勝な顔で口走る女がいるが、そこに見え隠れするナルシシズムに、中村はかなり辟易《へきえき》してしまう。私が悪いの、なんて言いつつ、おまえ、そんな自分が大好きなんじゃん! 自己批判の皮をかぶった自己肯定。反吐《へど》が出るほど醜悪な偽善だよ。
それにしても「他人に迷惑をかけること」を勲章のように思うのは、数あるナルシシズムのうちでも、もっとも下劣なものではなかろうか。他人を翻弄するということは、すなわち他人を支配することであるから、それだけ自分の魅力が並々ならぬものであることの証明だと彼女たちは思っているのだろう。その快感はわからないでもないが、他人を踏みつけにすることで自分の力を確認するナルシシズムなんて、いじめっ子のそれと一緒で、ちっともカッコよくないよ。たとえ美人でもセクシーでも、そんな人間はサイテーだ。
もちろん、魔性の女たちに罪悪感がないとは言わない。「不幸にしちゃって、ごめんなさい」と言うのは、まんざら口先だけの言葉ではなかろう。ただ、その罪悪感すらも、彼女たちにとっては甘美な痛みなのである。それがまた、私には耐えられない。自分を追い詰めることに甘美な痛みを感じてしまう私のような自虐体質者には、他人を追い詰めて罪悪感とナルシシズムに酔う彼女たちの自意識が、根本的に肌に合わないのだ。マゾヒストとサディストでちょうどいい組み合わせじゃないか、と思う人もいるだろうが、被虐と自虐は違うので、私はたぶんマゾヒストではないのだと思う。自分で自分の首を絞めるのは好きだけど、他人に首を絞められるのは絶対にイヤ。私の趣味は「自分イジメ」であって、他人にイジメられたり他人をイジメたりすることではない。
「無頼」という言葉があって、それに憧れる人は多い。おそらく「魔性の女」のナルシシズムも、この無頼願望の延長線上にあるものと思われる。だが、私が思うに、「無頼」とは他人に迷惑をかけることでも、単に悪行を重ねることでもない。読んでその字のごとく、「頼るべきものを、あえて持たない」という孤高と潔さをこそ、「無頼」と呼ぶのである。多くの者を翻弄し支配しなくては生きていけない自意識に、そのような孤高はない。自分に翻弄される犠牲者たち、そんな自分を礼讃するギャラリーを、彼女たちは常に求めているからだ。そんなに人に愛されたいか、そんなに人に君臨したいか。そんなに孤独が怖いのか。
人は、ひとりでは生きていけない。それはもちろん、そのとおりだと私は思う。だからこそ人は、誰にも媚《こ》びない生き方に強い憧れを抱くのではないか。魔性の女たちは世間に背を向けているようで、じつは世間に媚びている。そして、何より自分に媚びている。露悪とはしょせんナルシシズムなのであろうか……と、我が身を振り返り嘆息する私である。
中村うさぎの大いなる欠落[#「中村うさぎの大いなる欠落」はゴシック体]
先日、漫画家のくらたまが私に言った。
「のりちゃん(←私のこと)と一緒にいろんなホストクラブ行って、わかったことがあるよ。のりちゃんは、ホストクラブ全然好きじゃないよね」
「えっ……そう? こんなにホストクラブで金遣ってるのにっ!?」
「のりちゃんはホストクラブが好きなんじゃないよ。春樹が好きなんだよ。だってね、のりちゃんは基本的に男が好きじゃないもん。ホストクラブって、やっぱ、男好きの女が行く場所だよ。のりちゃんは男に囲まれてても、全然うれしそうに見えない。男が好きな女は、ああいうシチュエーションでは、もっとイキイキしてるもんだよ」
「ふーん」
「ホントにのりちゃんは、男好きじゃないよね。だって普段、男の話を全然しないじゃん。男好きの女の人って、会話のほとんどが男の話だよ。恋人の話とか、そんなんじゃなくて、周りにいる男たちを話題にするのが大好きなの。いつも男に興味あるから、男ばっかり見てるから、話題もほとんど男で占められてるの」
「私は男の話をしないかなぁ」
「しないよ。のりちゃんはむしろ、女の話ばかりしてるよ」
「それって、レズってこと?」
「そうじゃないけど、周りの男たちより、女たちのほうに興味あるでしょ。あの女は何考えてるんだ、とか。あの女の性格を分析するとこうだ、とか」
「ああ、女ウォッチャー。それは言える。好きだもん、女の分析」
「ね。そういう人は、男好きとは言えないよ。だから、のりちゃんからは性的なオーラが出てない。シモネタ話してても、ちっともエッチじゃないの。フェロモンが全然ないよね」
がぁ─────ん!!! そうだったのか────っ!!!!
諸君、中村は今まで、自分に色気がないのは容姿のせいだと思っていた。もし私にセクシーな美貌とグラマーな肉体があれば、たちまち色気むんむん、男にモテモテになれるのかと思っていた。だけど、それは大きな間違いだったのね。そういえば、特に美人でもグラマーでもないクセに妙に男からチヤホヤされる女がいるけど、あれってそーゆーことだったのか。好きこそものの上手なれ……うーむ、なるほどー!
しかしまぁ、だからと言って急に男好きになるワケにはいかないではないか。てゆーか、どうやったらなれるの、男好きに? それとも、たいして好きじゃないクセに「モテたい願望」だけは旺盛なのが、そもそも間違ってるのだろうか。
そうだな。きっとそうだ。中村の「モテたい願望」って、「男が好き」なんじゃなくて、「男にモテる自分が好き」なんだよ。要するに「自分好き」。本当に男が好きな人たちは男に向かってオーラを発散するけど、自分好きの女は自閉してるからオーラも何も、外部への働きかけを一切しないんだ。そんな女にフェロモンも色気もあるワケないよなぁ。
日頃、女にモテないとお悩みの諸兄へ。あなたは本当に女好きなのか、それとも単なる自分好きか、己の欲望の矛先について一度じっくり考察してみるといいぞ。
男はいらない、「私」が欲しい[#「男はいらない、「私」が欲しい」はゴシック体]
思えば去年(二〇〇一年)の秋頃、「闇フェロモンのオンナになりたい」と心に強く願った中村であったが、その後、つくづく自分に闇フェロ女の才能がないことを思い知った次第である。「好きこそものの上手なれ」と言うが、やはり基本的に「男好き」であり「セックス好き」でないと、フェロモンなんぞ一滴も出てこないものらしい。
私の「男にモテたい願望」は、「男が好き」なのではなく「男にモテる自分が好き」というナルシシズムに起因した願望なので、男たちに欲望のシグナルを送ることができないのだ。だって、欲望の対象が「自分」なんだもん。鏡に映った自分に向かって求愛ダンス踊ってる文鳥みたいなもんだよ、あたしゃ。ああ、不毛……。
こんな中村が最近ハマっているのが「プチ整形」なのであるが、ボツリヌス菌を注射してシワを取り、ヒアルロン酸を注射して鼻や顎の形を整え、そうやって手に入れた人工的な美貌(というほどのモノでもないが、まぁ、以前に較べればだいぶマシ、という程度のね)を鏡でまじまじと検分しつつ心に去来する想いはただひとつ……。
「あたし、もう男なんか要らないわぁ〜」
これなのであった。
そもそも男との恋愛および性的関係が面倒くさくなり、そういうものを人生から一切締め出したのが五、六年前のこと。以来、女友だちとゲイの男たちに囲まれて心穏やかに満たされた日々を送っていたクセに、去年の夏から突如ホストクラブなんぞに通い始めて周囲を驚かせ、それまでオクビにも出さなかった「男にモテたい願望」を公然と口にするようになってますます周囲を当惑させ、挙句の果てに「若返って男にモテるためにプチ整形するわっ!」などと宣言して実行に移したかと思ったら、その結論が「もはや男は要らん」……って、いったい何だったのよ、ここ一年くらいの騷動は!
結局、アレか。私は単に、忍び寄る老化の影に脅え、自分が現役の女であることを確認したくて十五歳も年下のホストにハマり、プチ整形で不安が解消されるや、とっとと充足してしまった、と、こーゆーことだったのか。しかしまぁ、それだけのことにこんなに大騒ぎして、金はかかったけどそれなりに楽しい日々を送って、いつもながら私の人生はスラップスティックスであることよ。いや、全然後悔してないけどね。「大山鳴動して鼠一匹」であろうとも、仔鼠一匹見つけただけで、私にとっては儲けものだと思うから。ま、めでたしめでたし、ではないか。
それにしても、プチ整形してからというもの、めっきり充実してしまった自分がつまらない。走り続けていないと死んでしまう女なのに、こんなに安らかになっちゃってどーすんだ。そのうち、またドカンと揺り返しが来るのかなぁ。次は何にハマるのか……楽しみなようでもあり、怖いようでもあり、複雑な心境である。
ホストを手に入れるために身につけたかった「闇フェロモン」も、もはや欲しいと思わない。「闇フェロモン」自体には興味があるから当然観察は続けたいと思うが、それを我が身にまとって男をどうこうする気はなくなってしまった。四十四年間、私はただひたすら私に愛されたかった女なのである。ナルシシズム一直線。それが私のテーマであったのだ。
お笑い系男にフェロモンはあるか[#「お笑い系男にフェロモンはあるか」はゴシック体]
お笑いにフェロモンはあるだろうか……。
以前にも申し上げたように、「恐怖」は闇フェロモンの一成分である。では、「恐怖」とは対極にある「笑い」(しかし、もちろん「恐怖」と「笑い」は背中合わせである。ホラー小説は一歩間違うとギャグ小説になり、その逆も然り。ホラーの名手はギャグの名手でもある。楳図かずおを見よ)は、はたしてどのようなフェロモンを発するのか、大いに気になるところではないか。
現実を見渡してみると、面白い男は確かに女にモテる。合コンなどで座を盛り上げ、ワッと笑わせる男は人気者だ。しかし、その男が最終的に「いい女」をゲットするかというと必ずしもそうと決まったワケではないようで、単なる「道化者」で終わるか「モテモテ男」になるか、かなりハッキリと明暗が分かれてしまう傾向がある。おそらく「お笑いフェロモン」があったかどうかで、その結果に格差ができてしまうのではないか、と中村は考えるのだが、いかがでしょうか。
たとえば「道化者」に対する女たちの評価は、次のようなものである。
「面白いし、いい人だよねー。でも、恋愛の対象じゃないの。ときめかないもん」
どうやら女たちは、「ときめき」を求めているようである。そして「いい人」には「ときめき」がないようである。
では、「モテモテ男」に対する評価はどうか。あ、念のために申し上げるが、この場合、「ハンサムで面白い」という男は除外する。すでにハンサムだという時点で有利なので、そいつがモテるのは当たり前だからである。ハンサムでもかっこよくもなくて、面白いだけでモテる男ね。
「○○くんって、面白ーい。頭の回転が速くて、ちょっと毒舌なところも好きー」
どうやら「いい人」ではないらしい(笑)。そして、前者に較べて明らかに「頭の回転の速さ」が印象に残っているようだ。面白いヤツというのは総じて「頭の回転が速い」ものなのだが、それが印象に残るかどうかは「切れ味」を感じさせるかどうかであり、すなわち「毒舌」だったり「切り返しの鋭さ」だったりするワケだ。
要するに女は、「毒」のある男に「ときめき」を感じるのである。お笑いにも「毒のある笑い」と「毒のない笑い(ほのぼの系ですな)」があり、前者は「刺激」を、後者は「安心感」を提供する。スピード感、刺激、スリル、毒気……そのようなものを身上とする前者の「笑い」に安心感など皆無だが、スピードやスリルが「心臓どきどき」状態を誘発するのは間違いなく(例:絶叫マシーン)、その「心臓どきどき」が「ときめき」と認識される時、いともたやすく女は「ときめき=恋愛感情」の図式にハマってしまうのである。自分の感情を、自ら類型化するワケね。何故なら「恋愛とはときめきなり」という大前提を漫画やドラマによって強力に刷り込まれてるからさ、我々は。
そんなワケで、お笑いにフェロモンがあるとしたら、それは「毒」を含む「闇フェロモン」である、というのが今回の結論だが、しかし、男から女を見た場合、はたして「毒のお笑い闇フェロモン」は有効なのであろうか? 次回は、それを考えたいと思いまーす。
お笑い系女にフェロモンはあるか[#「お笑い系女にフェロモンはあるか」はゴシック体]
前回は、男における「お笑い闇フェロモン」について考えた。で、今回は予告どおり、女の場合を考えたいと思った……のだが、しかし。この問題については、もはや考える必要もないほど、答が明確である。すなわち、「毒舌お笑い系の女は、モテない」。
これだよ。そもそも男は、女に「毒舌」やら「お笑い」など求めてないのだ。合コンなどで率先してギャグを飛ばし、座を盛り上げるような女は、間違いなく男から敬遠されるだけで終わる。たとえ美人であっても、お笑いキャラを演じた時点で、速やかに美人オーラが失われることは覚悟しなくてはいけない。
面白い男は女にモテるのに、面白い女は男にモテない。毒のあるスリリングなギャグは女たちに知性の閃《ひらめ》きを感じさせて好印象を残すが、女が毒舌ギャグなんか吐いたら最後、男たちは一気に引き引き。人気者どころか、「なんだよ、あの女」などと陰口叩かれ、ロクな印象を残さないのだ。
これは何故かというと、男たちが基本的に女からツッコまれることを好まないせいであろう。毒舌というのはもちろんツッコミであり、相手の痛いところを鋭く突けば突くほど、そのギャグは冴えわたる。ところが男は、自分の痛いところを突かれることについて、女よりはるかに敏感である。これは、彼らが何より「俺様幻想」を大切にする生き物であり、そしてその幻想がいかに脆《もろ》い自我の上に立脚した砂上の楼閣であるかを、如実に物語っている現象と言えよう。しかも、その楼閣を突き崩すのが女とあっては、こりゃあ男の沽券《こけん》に関わるっちゅうもんではないか。
そもそも合コンなんぞでモテるのは、派手で気の強い美人より、地味でやさしげな女の子である。特別に美人である必要などない。かわいい雰囲気さえ漂わせていれば、男はそこに勝手に幻想を抱いてしまい、「いい子だな」「かわいいな」などといった好印象を持ってくれるのだ。「美しさ」より「かわいさ」、「頭の回転の速さ」より「おっとりした天然ボケ」が評価される……これはすなわち、男があくまで自分の目線よりも下にいる女に安心するからであろう。
男は女に「安心感」を求め、女は男に「スリル」を求める。男は「俺についておいで」と言い、女は「私をどこかに連れてって」と言う。男は自分の自我が揺すぶられることを好まないが、女はむしろ自我の変革を求める傾向にある。となると、「お笑い闇フェロモン」が女相手に有効であり、男相手にはまったく無効であるのもむべなるかな、であろう。
では、もう一方の「お笑い」……すなわち女たちには「いい人だけど、ときめかない」などと評価されてしまう「ほのぼの系お笑い」キャラは、逆に男からの評価が高いのであろうか。まぁ、「あたしってドジで天然ボケなの〜」みたいな女の子が人気を得るところを見ると、こちらは基本的に「OK」らしい。だって安心だもんな。そこには知性もなければ、自我を揺すぶられる危機感も、斬新な価値観の転換(そもそも「毒のある笑い」は、従来の価値観を引っくり返すトリックスター的存在なのだから)もない。
結局、男の恋愛は自分帝国の護持《ごじ》であり、女の恋愛は自分帝国の革命なのである。どちらが正しいとも言えんが、私自身は常に変わりゆく女でありたいと願っている。
王子は国に帰り、王女は国を捨てる[#「王子は国に帰り、王女は国を捨てる」はゴシック体]
前回、私は「男の恋愛は自分帝国の護持であり、女の恋愛は自分帝国の革命である」と申し上げた。自分帝国というのは、もちろん「自分の内面世界」である。
男は、本当に「自分を変える」ことを好まない。イメチェンしたいとか、そういう表面的な変化は受け容れるが、その内面においてはとにかく自我を護る強固な王国と城塞を築き上げ、それを揺るぎないものとすることだけに心を砕く。
一方、女は「自分を変える」ことにむしろ積極的であり、外部から新しい価値観を持つ強力な指導者が侵入して、自分帝国に輝かしい革命をもたらしてくれたり、どこか違う場所に連れて行ってくれたりすることを常に望んでいるようなフシがある。まぁ、新しい価値観に対して開放的であることは評価できるが、「私をどこかに連れてって」願望に関しては、中村、自分も含む女性一般に対して常に危機感を感じている点ではあるのだ。だってね、変な場所に連れてかれちゃったら、戻ってこれなくなっちゃうじゃない?
社会学者の宮台真司氏は、上記の傾向を、「男は世界を変えたがり、女は自分を変えたがる」という言葉で表現した。すなわち、自分帝国と現実世界の間に激しいギャップがあった場合、男は周囲の現実世界を変えることで折り合いをつけようとし、女は自分帝国を変革あるいは放棄することで周囲に受け容れられようと図るのである。それゆえ、現実世界に適応しにくい男が暴力的な犯罪や政治的革命によって周囲の構造を破壊しようとするのに対し、女は宗教だの自傷行為(依存症も含む)だの自己啓発セミナーなどによって自分の構造を変革(酷《ひど》い時には破壊)しようとする傾向が強い、と、宮台氏は私に語り、私もなるほどと深く頷いたのであった。
確かに、そうだよ。たとえば宗教ひとつ取ってもさ、男性原理の強い宗教は、たとえばオウム真理教や創価学会のように、当初の目的は自己変革であっても、結局のところ、テロ行為や政治活動による社会変革へと矛先が向かう。一方、イエスの方舟なんてのは指導者が男性だけれど行動原理は女性的であり(なぜなら信者がほとんど女性だから)、「変革者」となるよりもむしろ「漂流者」となる道を選んだワケである。
どっちが正しい、という問題ではない。これは単に、「男性原理」と「女性原理」の問題だ。そしてこの「男性原理」と「女性原理」は、性別による生来的な傾向ではなく、むしろ後天的な社会的性別(すなわちジェンダー)の役割分担によって形作られた傾向なのだ。
女は結婚して男の家に入るものだから、あまり強固な自分帝国の持ち主だと、そこに軋轢《あつれき》が生じる。一方、男があまりに受動的な自我を持っていると、家長として「家族」という名の帝国を運営護持していけなくなる。そういう「生活の知恵」によって男女の役割が決まり、親も世間もそのように子どもの自我を教育してきたワケで、結果、男は「大きな城から旅に出て、塔の中に捕われたお姫様を救出し、自分の城に連れ帰る王子様」であり、女は「塔の中に閉じこめられ、王子様がどこかに連れて行ってくれることを夢見て待つお姫様」に育てられて、その行動様式が恋愛だけでなくすべての基礎となっている、と、それだけの話なのである。
我々が男女の別なく「自由で開かれた、それでいて基礎の強固な自分帝国」を築ける日は、いつか来るのだろうか。
そんなオーラに騙されて[#「そんなオーラに騙されて」はゴシック体]
ある美容整形外科医の先生が、知り合いの顔を評して、このようにおっしゃった。
「彼女はとても整った顔立ちをしているのに、ちっとも美人に見えないねぇ。もったいないと思うけどなぁ」
「なるほどねぇ」と、私は彼女の顔を思い浮かべつつ、頷いた。
「確かにきれいな顔してますけど、なんてゆーのかな、美人オーラが出てないですよね。見た瞬間に、『おおっ、美人だ!』と思わせる説得力がないっつーか」
「でしょ? 僕みたいな職業の人間から見たら、彼女の顔は非の打ち所がないくらいバランスいいのになぁ。バランスのいい顔って、インパクトに欠けるから、かえって印象に残らないのかな」
「あ、それはあるかも。浜崎あゆみなんて、よくよく見たらバランスの悪い顔立ちだけど、インパクトあるから、なんとなく美人のような気がしちゃう。気のせいなんだけど」
「あとは服装かな。浜崎あゆみは服のセンスがいいから」
「それもあるけど、でも、やっぱり自意識の問題ですよ。浜崎あゆみは職業柄、『私はスターよ! 私は美人よ!』というオーラを出してるじゃないですか。でも、先生が美人と言った彼女は、自分が美人だってことをアピールするつもりがないのね。本人、顔なんてどうでもいいと思ってる。だから美人オーラが出ないんですよ」
「美人オーラは、本人の思い込みで出るのかな」
「絶対、そう。たいして美人じゃないくせに、自分のことをものすごーく美人でいい女だと思い込んでる人って、他人に有無を言わせない雰囲気があるもん。本人が出してる『ほら、私は美人でしょ!』というオーラに騙されて、うっかり美人だと思っちゃうんだよ、こっちも。よくよく見たら、チンクシャな顔してるのに」
「ああ、そういう人、いるねぇ」
「いるいる。すでにもう、知り合いの顔がいくつか浮かんだよー」
てなワケで、諸君。中村は最近、つくづく思うのだが、人間の思い込みというものはかなりのパワーを持っていて、周囲の人々から客観性すら奪ってしまうものなのであるなぁ。件《くだん》の「美人オーラ」もそうなんだけど、たとえば「フェロモン」なんてモノも、多分に本人の自意識に関わってるものだと思う。
パッとしない外見なのに妙にモテる男ってのがいて、そういうヤツの評価を女友だちから聞いてみると、「でも、あの人、色っぽいよね」とか「なんかセックスが巧そう」とか、そのようなフェロモン系のオーラに人気が集まってるようなのである。が、そういう人が本当にセックスの達人かというと、必ずしもそうではないのでは、と、中村は睨んでいる。本人が勝手に自信持ってるだけ(←こーゆー男、いるよね)で、じつは大したことなかったりするんだよ。だから中村は男の「俺、巧いぜ」光線を信用しないことにしてるのだが、世の中の女たちは意外に単純に、そいつのオーラに目を眩まされてしまうのだった。
男性諸君、モテたければ、鏡に向かって日々、「俺はセックスの達人である」という自己暗示をかけるべし。金もかからないし、効果抜群だよ。かなりの精神力が必要だけどね。
「男を犯したい」願望について[#「「男を犯したい」願望について」はゴシック体]
私がハマっているホストの春樹は、友人一同に言わせると、「フェロモンが一ミクロンも出ていない」のだそうな。「春樹はエロくないよね」と、彼女たちは口を揃えて評するのである。だが、私はそのたびに、首をひねってしまう。
そうかなぁ? 私はあの子に、時々、すっごくフェロモン感じちゃうんだけど。もしかして、私が特殊なの? しかも、皆が「セクシー」とか「エロい」と評する男に、私はピクリとも反応しないのだ。
皆が「セクシー」だと評する男たちは、どいつもこいつも自信ありげで、いかにも女好きな感じで、私はもうそれだけで辟易してしまう。春樹は確かに「女好き」っぽい印象がないし、セックスに対してもあまり積極的な感じはしないんだけど、そのあくまで受動的というか消極的な感じが、逆に私にとってはエロスなのである。押しつけがましい動物的なエロスはイヤなの。むしろ植物的な、抱き締めると恥じらいながらもはらはらと手の中に落ちてきそうな感じに、なんだかすごく掻き立てられちゃうんだけど……って、やっぱ、中村、オヤジなのか?
男に乱暴にやられるのが好きだとか、貪るように求められたいとか、そんな願望が私には全然ない。かといって、やさしくやさしく上手にベッドの中でエスコートされたい、といった気持ちもない。
じゃあどんなセックスに萌えるのかというと、あくまで想像なんだけど、すっごくきれいな王子様みたいな男の子を押し倒してヒィヒィ言わせたいとゆーか(←レイプでんがな)、なんかそういうかなり倒錯した欲望があるのよ。だけど実際には「ヒィヒィ言わせる」テクニックも自信もないから、やらないだけなの。ホント、演技でもいいから身悶えして声とか出して欲しいわ。だけど男の人って、ヒィヒィ言わないじゃない? 私がヘタなんだと思うけど、悲しいなぁ。今度生まれてくる時は、ぜひ性豪の女に生まれてきたいぜ。
ところで、私が自分のこのような性癖に気づいたのは、つい最近のことである。というのも、それまでは私、自分のことをマゾだと思ってたのだ。何故ならば、私がAV観てて一番興奮するのは、男が女に言葉責めとかしてるシーンだったりするワケで、「私はきっと、こんなふうにされたいんだわ」なーんて、ずっと思っていた次第なのですよ。ところが実際にそーゆーことされると、興奮するどころか、頭に来ちゃうのね。「てめぇ、何様じゃい!」とか思っちゃうのよ、相手の男に。
で「おかしいなぁ。AVだとあんなに興奮するのに」とか思ってて、そしてある日、ふと気づいたのでした。
「そーか! 私はAV観てる時、やられてる女じゃなくて、やってる男に自分を代入してたんだぁ────っ!!!」
がぁ──────ん!!!! そうだったのかぁ────っ!!!!
しかしまぁ、四十四歳にもなってこんなことに気づいても、後の祭りなんである。それもこれも私が自分のセックスにあまりにも無自覚だったせいだ。若いうちから、自らの欲望にしっかりと向き合うべきであった、と、現在、臍《ほぞ》をかむ想いの中村であります。
婆ちゃんフェロモンって、あり?[#「婆ちゃんフェロモンって、あり?」はゴシック体]
某雑誌の編集者Xくんは、以前、オヤジ向け週刊誌で「風俗レポート」の仕事をしており、さまざまな性風俗を体験取材してきたツワモノである。その彼が、これまでで一番辛かった仕事……それは、「おばあちゃんクラブ」なるババア専のデリヘルだったそうな。
「あのね、電話したら『はーい、おばあちゃんですぅ〜』とか言って電話に出るんですよー。なんかもう、それだけで萎《な》えちゃいますよねぇ」
「わはははは! 田舎の祖母ちゃんに電話してる気分だねぇ」
「そう。それで、『どんなお婆ちゃんがお好みですかー?』と訊かれまして、まぁ、痩せたシワシワの婆ちゃん抱くくらいだったら、ぽっちゃりした婆ちゃんのほうがマシかなと考え、『ぽっちゃり型で』と言ったワケです。そしたら電話の向こうで『うーん、ぽっちゃり型かぁ〜。ちょっと若いんだけど、いいですかぁ? 五十九歳なんだけど』って」
「五十九歳〜〜! それでも若いほうなんだー!」
「上は七十代までいますからねぇ。で、しばらくしてピンポーンとかチャイム鳴って、ドアを開けたら、そこに塩沢トキそっくりの婆さんが! 両手に買い物袋提げて!」
「なんで買い物袋なの?」
「買い物の途中で、呼び出されたみたいです。袋からネギとか出ててね、その生活感溢れるネギを見たら、ますますトホホな気分になっちゃって……」
だが、トホホなXくんを尻目に、塩沢トキは買い物袋提げたままズカズカと部屋に入り、
『どうする? 責められるのが好き? 責めるのが好き? どっちでもいいわよん』
ねっとりした流し目で誘うのであった。
『うう────ん』
Xくんはまたもや悩み、トドみたいなババアの局部を舐めるくらいなら、自分が舐められたほうがマシ、と結論づけて、
『じゃ、責められるほう……(←消極的な選択である)』
『いいわよぉ〜』
ふたりはシャワーを浴び、ベッドに横たわると、塩沢トキの果敢な責めが始まった。巧かった。さすが、プロであった。
「心はトホホだったのですが、下半身はビンビンになってしまいました」
と、Xくんは我々に遠い目で語った。
「その婆さん、ホントにテクニシャンでサービス精神も旺盛なんですよ」
「素晴らしいことじゃん!」
「でもね、サービス精神が旺盛すぎて……僕の身体の上に跨《またが》り、大げさに身悶《みもだ》えしながら『ああ〜〜っ、いい〜〜っ!』とか叫ぶんですけど、そのトドの遠吠えみたいな声聞いたら萎えちゃって」
「ま、無理もないけどさ。それでも、女はいくつになっても性的ニーズがあるんだねぇ」
なんだか救われたような気分になった中村うさぎ、四十四歳なのであった。そんなワケで、次回は「婆ちゃんフェロモン」について考えようと思いまーす。
老け専男と老け専女はどう違う?[#「老け専男と老け専女はどう違う?」はゴシック体]
寄る年波とともに、「これじゃますます男に縁がなくなる!」と、日々、危機感を新たにしている中村うさぎであるが、先日、「おばあちゃんクラブ」なるデリヘルの話を聞いて、
「うーむっ、四十四歳なら、まだまだ捨てたもんじゃないかも」などと密かにワクワクしてしまった次第である。
しかしマニアの世界は奥が深いっつーか、トドみたいな五十九歳のババアを金出して買うヤツがいるんだから、奇特とゆーか美徳とゆーか(もはやボランティア感さえ漂っています)、中村の不思議探求意欲を刺激してやまないのであった。
もちろん、女にも「老け専」は存在する。脂ぎったオヤジや干物みたいなジジイをこよなく愛する女たちは、確かにいる。が、女の「老け専」と男の「老け専」は、全然メンタリティが違うと思うのだ。恋愛に「物語性」を求める女たちは、オヤジやジジイの背負う「人生の物語」みたいなものに価値を見出す。彼らの背負った人生の重みを、彼ら自身の人間性の深みと考えるのだ。
だが、老け専の男たちは、ババアに「物語性」なんぞ求めているだろーか? おそらく「否」である。ババアが憂い顔で人生語りだした日にゃ、たちまちウンザリゲンナリするに違いない。こんなこと言ったら非難ゴウゴウかもしれんが、デリヘルでババア買うような男は、ババアに人間的な属性などむしろ認めたくないのではないか、とさえ思われる。偏見だったら、すみません。
では、彼らは何故、ババアに性欲を掻き立てられるのか。マザコンなのか。まぁ、これは一番わかりやすい「解」であり、実際に老け専男のマザコン率は高かろうと推察できる。アメリカの連続殺人犯エド・ゲインは中高年の女ばかりを犠牲者に選んだが、彼が大変なマザコンであったことは有名な話である。彼は、いわゆる「マザー・ファッカー」であった。彼は母親とセックスをする代わりにババアたちを殺し、その肉を食べ、皮を剥いで己が身にまとったのであった。
だが、このような典型的な「マザー・ファッカー」たちとは動機を異にする老け専男たちもまた、確実に存在するに違いない。たるんだ皮膚や崩れた肉体は、彼らの何を刺激するのか……優越感? そう、「優越感」は、あるかもしれない。少なくとも若くて溌剌《はつらつ》とした生命力に溢れる娘たちよりは、衰え萎《しぼ》んだババアのほうが彼らの脅威にはなりにくい。性的あるいは精神的にコンプレックスを抱える男ほど、何でも許してくれそうなババアでないと安心してペニスを勃てることができないのではないか。構造的には、ロリコンと一緒である。ただし、ロリコンが対象に「無垢」と「潔癖」を求めるとしたら、老け専は対象に「堕落」と「淫猥」を求める。崩れた肉体は崩れた倫理の象徴であり、「こんなババアとやっちゃう俺」の堕落ぶりが、彼らを激しく興奮させるのではないか、と思われる。そういう意味では、ババア相手の彼らのセックスは、果てしなくオナニーに近い行為なのかもしれない。だからこそ彼らは、ババアに人間性など求めないのではないか、という気がしてしまうのである。
ババアの発するフェロモンは、堕落の象徴……まさに究極の闇フェロモンではないか。
サイコキラーは理系エロスの夢を見るか?[#「サイコキラーは理系エロスの夢を見るか?」はゴシック体]
世の中には、まだまだ私の知らないことがあるなぁ……と、つい最近、またしても感じ入ってしまった中村である。というのも、ある女性作家さんと対談している時にSMの話題が出たのであるが、彼女が言うには、
「SMにも『文系』『理系』『体育会系』があるんですよ」
「へぇ〜、どう違うんですか?」
「つまりね、『文系』のSMは、たとえば言葉責めなんかが典型的だけど、台詞とか状況とか相手との関係性とか、そういう抽象的なものにエロスを感じちゃうの」
「あー、わかる。物語性なんだね、それは。うんうん、確かにそりゃ『文系』だわ」
「それに対して『理系』のSMは、たとえば『蛇を輪切りにしたら、どうなってるんだろう』とか、そーゆー方向の興味なのね。解剖とか実験とか、そんな感じに近いの。だから、あまり対象に人間関係を求めない傾向も強い」
「快楽殺人なんか犯すのも、そのタイプかな。あれって、被害者を人間だと思ってないでしょ。ほら、酒鬼薔薇の『実験』とか。人間と野菜はどう違うのか、みたいな」
「まぁ、一概には言えないけどね。『理系』SMには、確かにそういう感じはありますね」
「それじゃ、『体育会系』SMは?」
「あの人たちは、もう純粋に肉体派ね。肉体の快感をとことん追求する。どこをどう刺激したらもっとも強い快感が得られるか、とか。自分はどこまで肉体の苦痛に耐えられるか、とか」
「ああ、そうか。トレーニングなんだ、セックスは」
「そう。トレーニングして、スキルを上達させていくことに興味があるの。ああ、ここまでできた、という達成感とか。それも純粋にフィジカルな達成感ね」
「なるほど〜!」
中村、思わずウームと唸ってしまったのであった。あまりSMに興味がなかったせいもあるだろうが、それにしてもSMに「文系」「理系」「体育会系」なんて分け方があるとは思ってもみなかった。でも、よく考えてみたら、それって当たり前だよね。
私はやはり文系の人間だから、どちらかというと「言葉責め」とか「羞恥プレイ」といったメンタルなSMプレイには感情移入できるのだが、たとえばエド・ゲインみたいに殺して皮を剥いじゃうような行為に対しては到底理解し難いものがあって、だからこそエド・ゲインに激しく興味をそそられていたのであった。マザコンが高じて中高年女性を殺すという文脈までは理解できるが、死体をバラバラに切り刻んだり皮を剥いだりする行為のどこにエロスがあるのよ、と。
しかし、エド・ゲインを「理系」と規定すれば、かなりすんなりとその行為の意味が呑み込める。彼は知りたかったのだ、皮を剥いだ女の肉体を。それは蛙の解剖にワクワクする(私には嫌悪感しかないが)理系少年の延長であろう。連続殺人犯の多くが少年時代に猫などを実験的に殺すのも、そうした傾向ゆえと考えれば納得できるじゃないか。
ああ、うれしい。サイコキラーの心理に一歩近づけた気がして、中村は大変満足である。
女たちは文系エロスの夢を見るか?[#「女たちは文系エロスの夢を見るか?」はゴシック体]
SMに「文系」「理系」「体育会系」があるのなら、当然、フツーのセックスにだって「文系」「理系」「体育会系」は存在するに違いない。それを考えると、私が今まで抱いていた「他人とのセックスの価値観の相違」も、すんなりと納得できるのである。
たとえば「人間関係を伴わなければセックスできない」と考える私は、「快感さえあれば人間関係は必要ない」と言う人の気持ちが、どうしてもわからなかった。もしかしたら私はセックスに対する抑圧が強く、「愛してないとできない」と信じ込んでるだけじゃないのか、もっと自分の性欲や快感に正直であるべきでは、などと考えて、全然好きじゃない相手とセックスしようとしたこともあるのだが、いかんせん盛り上がらず、途中でやめてしまった経験もある。しかし、「人間関係重視派」が文系で、「快感追求派」が体育会系だとしたら、こりゃ致し方ないことなのかもしれない。だって私は、どう逆立ちしても、脳ミソの回路が体育会系じゃないもん。
ちなみに、私がもっと違和感を抱いていたセックス観に、「自己記録(何人やったとか、何回イッたとかイカせたとか)の更新」に価値を見出す、というのがあって、これもまた「なんじゃ、そりゃ?」なのであったが、こーゆー人たちが「体育会系」の一派であることは間違いなかろう。男に多いけどな、「千人斬り」とか「抜かずの何連発」とか言いたがるヤツ。そーか、体育会系なら、さもありなん。
では、「理系」のセックスとは、どういうものであろうか。ひと口に「理系」と言っても、数学、物理学、化学、生物学などいろいろあるが、それぞれのジャンルによって、セックスが「方程式」だったり「実験」だったり「解剖」だったりするんだろうか。もしかして「理系」男のセックスって、本人が挿入して射精することはあまり重要ではなく、むしろ相手の身体をさまざまにいじり回して反応を見る、みたいな方向に興味が向いているのだろうか。あり得るっ! ねぇ、誰か「我こそは理系」という方、あなたのセックスの嗜好について教えてください!
しかし、こうやって考えてみると、「男の思考経路は体育会系、女の思考経路は文系」という仮説が立てられそうな気がする。いや、必ずしもスポーツをやってなくても、文学少女じゃなくてもいいんだよ。つまりさ、女は恋愛やセックスに「物語(あるいはドラマ)」を欲しがるじゃん。誰もがそうと決めつける気はないけど、そういう女はかなりいるじゃん。私は恋愛映画あんまり好きじゃないんだけど(なぜか感情移入できないのよね)、「恋愛映画」のヒロインに自己投影する女ってけっこういるもんなぁ。どうしてだろう。何故、女は「物語」が好きなのか。脳の違いだろうか? もしかして男は「言語野」の発達がヌルくて(男児のほうが女児より発語が遅いそうだし)、それゆえ「物語」に関心が薄いんだろうか? うーん、これは「脳ミソ」の専門家に訊いてみなければ……。
もしも私が「体育会系」および「理系」の思考経路を解読できれば、私にはもっと「男」というものが理解できるのだろうか。ただし、理解できた途端に、「男」に興味を失う可能性もあるのだが。何かを理解するたびに、人は幻想を失っていく。そして残るのが殺伐とした現実だとしたら、一生、「男って、わかんなーい」とか言ってたほうが幸せなのかも。
美貌と色気は「異形」である[#「美貌と色気は「異形」である」はゴシック体]
小池栄子という巨乳アイドルを、私はつい最近まで知らなかった。おそらく雑誌などで何度か写真を見たことはあると思うのだが、まったく視界に入らなかったというか、顔も名前も印象に留めることなくページをめくってしまったのだと思う。
ある時、その名前が何かの会話に登場し、「小池栄子って誰?」と訊いて周囲に驚かれたため、以降は気をつけて見るようになった。で、何度か彼女の写真を見た結果、今ではしっかりと彼女を認識している……と言いたいところなのだが、じつは自信がないのである。おそらく私は、道で小池栄子とすれ違っても、わからないであろう。見覚えのある顔だとすら思わないかもしれない。どうやら小池栄子の顔は、私にとって「記憶に残りにくい顔」であるらしい。じゃあオッパイで覚えろよ、という人もいるだろうが、オッパイなんて顔の百倍も個体識別しにくいじゃん。
それにしても、私は何故、小池栄子の顔が覚えられないのだろう。好きでも嫌いでもないからか。しかし、そんなこと言ったら、ほとんどのタレントの顔立ちは私にとって、「好きでも嫌いでもない」タイプである。藤原紀香だって神田うのだって、特別に好きでもなければ嫌いでもない。だけど、このふたりの顔は、ちゃんと覚えてる。不思議だなぁ。
あと、私がどうしても覚えられない顔は、松嶋菜々子と黒木瞳。松嶋菜々子と松たか子の見分けがつかないし、黒木瞳にいたっては何度見ても「誰だっけ?」と思ってしまう。なのに、このふたりは、「好きな女優ベストテン」とかにもよく名前が挙がるし、ドラマやCMでも引っ張りだこの人気女優である。すなわち、私以外の人々は、松嶋菜々子の顔も黒木瞳の顔もきちん認識できるどころか、むしろ「きれいだなぁ」とか「感じいいなぁ」などと好感を持っているらしいのだ。顔も覚えられない私は、もちろん、このふたりを「美人」だなんて思ったこともない。そりゃブスだとは思わないが(滅相もない!)、「美人」と呼ぶにはあまりにも地味ではないか、と思うのだ。私にとって「美人」とは、もっと華やかで強烈な印象の容姿でなくてはいけないらしい。
一方、小池栄子の顔は、世間でどのような評価を得ているのだろうか。「美人」なのか「かわいい」なのか「色っぽい」なのか。この「色っぽい」というのも、「美人」と同様、私の価値観と世間の価値観との間に大きなズレが生じる案件である。グラビアなどを見ると「とろんとした半眼」「半開きの唇」といったものが色っぽい表情として多く採用されているようだが、あれが「痴呆」にしか見えないのは私だけなのだろうか? ああいうのが色気の表現なのだとしたら、世の中の男性にとって「色っぽい女」とは「頭の悪い女」のことなのだろうか? では、何故、「頭が悪い」と色っぽく見えてしまうのか。すぐにヤラせてくれそうだからか? 安心して跨れそうな気がするからか?
私にとって、「美人」とか「色っぽい女」とかは、どこか異形感すら漂う凄味のある印象を持つ女たちである。一度見た瞬間から、その女が心に住みついてしまうような、そんな恐ろしい女たちだ。だから「地味な美人」だの「愚鈍な色気」だのといった存在は、あり得ないのだ。「美人」と「色っぽい女」は、どこか妖怪変化の部類に属していて、「かわいい女」だけが人間の域に存在する……そんなふうに思う私は、間違ってるのでしょうか?
セックスに擬態したオナニー[#「セックスに擬態したオナニー」はゴシック体]
ゲイの友人たちと付き合っていて、つくづく「やっぱ男と女は違うのかなぁ」と思ってしまうのは、「ハッテン場」の存在についてである。ハッテン場というのは、ホモセクシュアルの男性たちがセックスをするために行く場所(サウナとか)で、薄暗い中で出会った好みのタイプとその場でヤッてしまうのである。相手を替えて何人もと次々にヤる者もおれば、3Pや4Pなどに発展する場合もある。そして、相手の顔も名前も知らないまま、二度と会わないケースもままあるのだ。まさに「欲望のおもむくまま」ってな感じの場所ではないか。
ところが同じゲイでも、レズビアンの世界に、この「ハッテン場」は少ない。ほとんどない、と言ってもいいくらいだ。レズビアンたちだって一夜限りのセックスをする場合もあるが、さすがに暗闇の中で出会った顔も名前も知らない相手と組んずほぐれつ、というケースは少ないようだ。したがって、レズビアン用の「ハッテン場」は需要が少ないのである。やはり女は、セックスに「人間関係」や「物語」を求めてしまうのであろうか。男の性欲が即物的なのは、俗に言われる「種蒔き本能」ゆえなのだろうか。
てなことをいろいろ考えた挙句、ある日、私はゲイの友人(男)に尋ねたのであった。
「あんたたちってさぁ、ハッテン場とかで顔も名前も素性もわからない相手と平気でセックスできるじゃん? いくら『心は女の子なのよっ!』とか言ってるネコ(女役)の子も、そこんとこがやっぱり男なんだよねぇ。そのクセ、恋愛においては、一般の女の子よりロマンチストだったりしてさぁ、私はそれが不思議なんだよ」
すると、彼はしばらく考えて、こう言った。
「あのさ、俺は思うんだけど、ハッテン場のセックスはセックスじゃないんだよ」
「じゃあ、何なのよ?」
「あれはね、どっちかって言うとオナニーなの。人間を相手にやってるけど、気持ち的にはオナニーに近いな」
「なるほどー! ハッテン場でエッチする相手は、生きてるダッチワイフなんだ! だから顔も名前も素性も、人間性そのものも必要ないのね!」
「そうそう。かえって邪魔かも、相手の人間的な属性は」
「そうだったのかぁ──っ! ああ、なんか納得した! 恋人がちゃんといるのにハッテン場に行く心理も理解できなかったけど、オナニーと言われれば、それも納得だよ。オナニーとセックスは別物だもんね!」
「そうそう。まったく別物。女だって、彼氏がいてもオナニーはするでしょ?」
「するよ、するする! 別に彼氏とのセックスに不満があるワケじゃないんだよね。それとこれとは別だもん」
諸君、中村の心の霧は、彼のひと言で一気に晴れたよ。そんじゃ、ノンケの男が女房や彼女に対して不満も罪悪感もなく風俗に行くのも、あれもセックスじゃなくてオナニーなのか。だとしたら、私たち女も、オナニーのつもりでなら風俗に行けるワケだね。理屈的には。よし、一度挑戦してみるか、出張ホストでも呼んで。
女は何故オナニーを語らないのか[#「女は何故オナニーを語らないのか」はゴシック体]
前回、「パートナーに対して特に性的に不満があるわけでもないのに、男は風俗に行ったり一夜限りのセックスを好んだりするが、それは彼らにとってセックスではなくオナニーなのではないか」という仮説を立てた中村である。いや、べつにこの仮説に絶大な自信があるワケではないが、そういうふうに考えると得心がいくとゆーか、要するに私の中の「男に対する違和感」がある程度氷解するのである。
男の風俗遊びや浮気が発覚した時、我々が一番傷つくポイントは、「私のセックスは彼を満足させられないのか」「彼は私とのセックスに飽きたのか」という、この部分だ。しかし、それがオナニーなのであれば、べつに私が傷つく必要もないし、自分を責めたりコンプレックスを持ったりしなくてすむ。だから、それが本当かどうかはともかく、「自分にとって受け容れやすいイイワケ」なので、私はこれを支持したくなってしまう……と、こういう心理も、この仮説を陰で支えている。それに実際、「セックスとオナニーは全然別物で、セックスに満足しているからといってオナニーが必要なくなるワケではない」ということを、我々は我が身のこととして知っているからね。
ところが世の中には「女ってオナニーするの?」なんてぇことを真顔で訊く男がいたりして、私は驚いてしまうのであった。いや、男ならまだしも、女の中にも「私、オナニーなんかしたことない」などと言う人がいて、もちろん嘘だと頭から決めつける気はないが、しかしその半数くらいは嘘をついている、と、私は睨んでいるのである。
女は、自分がオナニーすることを認めたがらない。セックスの話は開けっぴろげにする女でも、オナニーの話はしたがらなかったりする。その理由はいくつか考えられるが、
(1)性欲の強い女だと思われたくない。
(2)モテない女だと思われたくない。
このふたつが、かなり大きな抑圧となっているのだと私は思う。そして、よくよく考えると、このふたつは全然的外れで、こんなつまんない理由でオナニーを恥じる必要などまったくないのであった。何故なら、「オナニーはセックスの代替品ではない」からだ。オナニーをセックスの代替品だと思うから、上記のような理由で自分を抑圧してしまうのであって、通常の回数のセックスじゃ満足できないほど性欲が強いとか、男に相手にされないからオナニーで欲求不満を解消するとか、そういう理由で人はオナニーをするワケではないのである。
じゃあ何のためにオナニーするかと言いますと、私の場合、「自分の性的ファンタジーをとことん追求できるから」……ええ、そうなの。私にとってオナニーの醍醐味は、まさにここにあるのですよ。だって、セックスだと「相手」がいるから、そこに人間関係が関与してきて(相手に気を遣うとか、いろいろね)、なかなか心ゆくまで「自分だけの性的ファンタジー」に浸ることができないでしょ。そんな自閉的なセックスしたら、失礼じゃない?
そう、諸君、ここである。「風俗や一夜限りのセックス」が男にとって「オナニー」だと思うのは、それが「人間関係」ではなく「自閉」の愉しみであるからだ。我々は、妄想とセックスできる生き物だ。それは高等霊長類だけの特権だと私は考えているのである。
オナニーを語る彼女の潔癖について[#「オナニーを語る彼女の潔癖について」はゴシック体]
私の知り合いの女性作家M嬢は、自分のオナニーの話を赤裸々に語る一方で、セックスの話は具体的には一切しない。フツーの女はこの逆で、セックスの話ならあけすけに語る人も、ことオナニーに関しては口を噤《つぐ》む傾向が強いのである。そんなワケで私は、「Mさんは変わってるなぁ。どうしてフツーの女と反対なんだろう」と思っていたのだが、このたび、その理由を聞くにおよび、本当に心の底からM嬢を尊敬するに至ったのであった。
M嬢が語った「理由」とは、次のようなことである。
「セックスには相手がいるものですから、私がセックスの話をあけすけにすると、私はよくても相手が傷ついたり迷惑したりするかもしれない。でもオナニーの話なら、私個人の問題ですから、誰のプライバシーも侵害せずに語れるではありませんか」
ホントにそうだ! そのとおりだよ! 恋人や夫とのセックス話は露骨にするくせに、自分のオナニー話は恥ずかしくてできん、などと考えている世の女性たちは、このM嬢の発言に、すべからく己の身勝手さと屁タレぶりを恥じるべし!
優先的に尊重すべきは「他人」のプライバシーであって、「自分」のそれではないはずだ。元々シモネタはやらないというのなら、それはそれで結構なのである。が、他人のシモの話をする以上は自分のシモもきちんと語らねばならん、というM嬢の理屈には、きちんと筋が通っているではないか。まぁ、奇妙な律儀さとも言えるが、私は彼女のそんなところが好きだ。「自己責任」というものを、きちんと考えている人だと思う。
女たちが自分のパートナーのセックス話をする場合、その内容は大雑把に言えば「ノロケ話」「暴露話」「身の下相談」の三タイプに分類されると思う。まぁ、「身の下相談」に関しては、たとえば「彼がこんなことするんだけど、これってヘンタイかな。大丈夫なのかな」とか「彼のモノが大きくてじつは苦痛なんだけど、これって本人に言っちゃ悪いし、どうすればいいの?」とか、語る本人にとってはやむにやまれぬ深刻な事情があったりするので、他人のプライバシーの暴露とはいえ、まだ情状酌量の余地はあろう。
問題は「ノロケ話」と「暴露話」で、これらのどこがイヤらしいかといえば、語る本人に明らかな「快感」がある、という点である。自分の快感のために、パートナーにとっては赤面モノの秘め事を友人にバラすのは、一種の背信行為であろう。そこにはパートナーに対する「愛」も「尊重」もなく、「見世物」感すらある。己の自慢や復讐の快感のためにパートナーを見世物にする心根は、とてつもなく卑しいものではないか。ああ、そうだ。たとえ別れた相手でも、現在付き合っている相手ならなおのこと、その人の恥をさらすような真似をしてはいかん。そんなことをするくらいなら、「オナニー自慢」をしたほうが、百倍も人の道にかなっているのである!
てなワケで、今までこの問題に無自覚であった自分を大いに恥じ、心を入れ替える決意をした私である。以後、私は、他人に迷惑をかけるかもしれないセックス話を公私ともに慎み、どうしてもする場合は匿名性に気を遣い、そして、その埋め合わせにオナニー話は気前よくやる所存でありますっ……と決意した数日後、さっそくホストクラブでホストたち相手に「オナニー話」をしたら、これが思いのほかウケてしまった。おお、新ネタ発見。ラッキー!
六本木SMバーの夜 その1[#「六本木SMバーの夜 その1」はゴシック体]
先日、某女性作家さんに誘われて、六本木のSMバーに行ってみた。そして、予想以上に面白いものを見てしまった私なのである。まぁ、あくまで私にとって「面白い」だけで、他の人が聞いたら「なーんだ」ってなものかもしれないが。すまん。なにしろSMに関しては無知なので。
その店は一日に何度かショータイムがあるとのことで、ちょうど我々が店に入った直後に金髪の外国人女性によるショーが始まったのであるが、それはだいたい予想どおりのもので、「ま、こんな感じですかね」などと私はすっかり油断してしまったのであった。が、しかし……!
小一時間ほど飲みながら談笑していると、私の斜め向かいに座っていた常連カップルに従業員が何やら囁きかけ、女性のほうが「ええーっ!?」と声をあげた。
「えっ、そんなぁ〜。恥ずかしい……」
な、何が恥ずかしいのだっ、と、たちまち聞き耳立てる中村うさぎ。どうやら従業員が女性客に「ステージでショーをやらないか」と持ちかけているようだ。女性客は困惑した顔で彼氏を見上げ、彼氏は薄く微笑みながら頷く。
と、この男性客の「頷き」によって、すべてが決まってしまったらしい。女性客は「恥ずかしい〜」を連発しながら、ふたりの従業員(どちらも女性)に手を取られ、正面の低いステージに上がる。ふたりの従業員は彼女の服をスルスルと脱がせ、下着姿になった彼女を赤いロープで縛り始める。
「ふぅ〜むっ……素人さん参加ショーなのか〜」
さきほどの外国人女性に較べて明らかに素人っぽい彼女が見る見る縛り上げられるのを見つつ、私はそれでも内心で油断しまくっていた。素人相手に過激なことをやるはずがない、せいぜいパンティ一枚で縛られて軽く嬲《なぶ》られたりする程度でしょ。
と、ところが……!!!
ひとりの従業員が奥から持ってきたブツを見て、私はギョッとしてしまったね。なんと、片手にボウル、片手に浣腸器……ちょちょ、ちょっと待ってよ、あんたら! 素人相手に浣腸するつもりか──っ!?
縛られた女性は浣腸器を見るや、「いやっ! それはイヤ!」と激しく首を振る。無理もない。私だってイヤだよ、人前で浣腸されるなんて。もっとも私は、人前で半裸で縛られるのもゴメンだが。
「赦《ゆる》して欲しいの? ご主人様に訊いてごらん」
従業員がからかうように言うと、女性は客席に座っている彼氏に切ない視線を投げ、弱々しくイヤイヤをする。私は思わず、男性の顔を見た。さっきと同様、薄く笑っている。薄く笑って、小さく頷く。女性は観念して、目を閉じる。
決まった。
従業員はニッコリ笑って、浣腸器でボウルの中の液体を吸い上げる。嘘でしょ───っ、と、中村の声にならない叫びが轟いたところで、以下、次回に続く。
六本木SMバーの夜 その2[#「六本木SMバーの夜 その2」はゴシック体]
さて。引き続き、SMバーでの出来事である。素人の客(三十歳くらいの女性)をステージに引き出し半裸で縛り上げたところに出て来たのは、ボウルに入った液体と浣腸器!
嘘でしょ、ここで浣腸するの? ちょっと待ってよ、と、心の準備のできてない中村は、大いに動揺したのであった。
私は他人のウンコなんか見たいのかっ!? 見たくない。自分のウンコだって、ホントはあまり見たくない(健康チェックのために、いちおう観察するけどさ)。しかし、他人のウンコは見たくないが、他人がウンコ漏らす姿は、ちょっと見たいような気もする。滅多に見られる光景じゃないもんなぁー。
そうこうするうちに、従業員は浣腸器で液体(後にお湯だと判明。よかった、グリセリンじゃなくて)を吸い上げ、女性客のパンティを膝まで下ろすや、その肛門にブチュ〜〜ッと注入する。「ああっ」と声を上げ、苦悶の表情を浮かべる女性。だが従業員はニヤニヤ笑いつつ、何度も吸い上げては注入し、吸い上げては注入し……ああっ、やめてぇ〜っ! そんなに入れたら、漏れちゃうよぉ〜〜っ!!!
女性の腹は見る見るタップンタップンに膨らみ、歯を食いしばって堪《こら》えているのだが、その女性を無理やり椅子に縛りつけ、客に向かって両脚開かせると、
「さぁ、ここでオナニーしなさい」
どひぃ〜〜〜っ、そんなご無体なぁ〜〜〜っ!!!
と、その時であった。見ていた中村の下腹部が、突然、キュ〜〜ッゴロゴロゴロ……と、不穏な音を発したのである。
そうなのだ。ただでさえ腹の弱い中村なのだが、その女性客に感情移入するあまり、自分も腹がユルくなってしまったのであった。がぁ─────ん(笑)!!!
しかしねぇ、浣腸シーンを生で見て性的に興奮している客はこの店内に多数いようが、一緒に腹下してる女は私ひとりだっつーの! ああ、自分の敏感な腸が恥ずかしい〜っ!
結局、その女性は耐えに耐え(偉いっ!)、ついにウンコも漏らさずご主人様に赦されて、ステージから転がるようにトイレに駆け込んだのであった。そしてその後、私も転がるようにトイレに駆け込んだワケであるが、ショーの直後とてトイレは満員御礼。ようやく自分の番が回ってきたものの、ドアの外にズラリと客が並んで待ってる状態じゃ、いくら図々しい私でもおちおちウンコしてらんないわよ。
ああ、腹が……腹がピーピーだ。早くお家に帰らせてぇ〜〜っ! ところが……!!!
ようやくお勘定して店を出た途端、連れの女性作家が言った。
「そうだわ! これから皆でホストクラブ行きましょう!」
ホ、ホストクラブ……行きたい……行きたいけど、腹がぁ〜〜っ!!!!
「わ、わかりました! 行きましょう! でも私はちょっと家に用事があるので、いったん帰宅します。先に行って待ってて。では、さらば。どぴゅ───ん!!!」
帰宅してトイレに入って心ゆくまで排便した私だったが、いやぁ、まいった。今後、SMバーに行く時は、ちゃんとウンコ出してからにしよっと。
うさぎ、幼少時から変態に目覚める[#「うさぎ、幼少時から変態に目覚める」はゴシック体]
前回、六本木のSMバーで「素人の女性客による浣腸ショー」を目撃した話を書いた際に、私は「他人のウンコは見たくないが、他人がウンコ漏らす姿は見たい」と述べた。深く考えずに書いた一文なのであるが、よくよく考えれば妙な話である。なんで私は、「他人がウンコ漏らす姿」なんか見たいのであろうか?
それで思い出したのだが、私は小学校三年生くらいの頃、「他人の排泄《はいせつ》行為」に並々ならぬ興味を持っていた。それくらいの年の女子は、何故か知らんが休み時間、仲良しの子と誘い合って一緒にトイレに行く習慣がある。私は一人っ子のせいか、「トイレなんか、ひとりで行くもんだ」と思っており、「友だちと一緒にトイレに行く」習慣に軽く違和感を抱いていたのであるが、それでも誘われれば嬉々として同行したのには、ちょっとした理由があった。なんと、トイレで用を足す友人の尻を、ドアの下の隙間から覗き見るのが楽しみだったのである。
ひぇ〜〜〜っ!!! 変態じゃ────ん!!!
そうなのだ。ずっと忘れていたのだが、思い出してみると、あれはかなり変態な行為であった。友人がトイレの個室に入る。私はドアの外にしゃがみ込み、トイレの床に頭をつけんばかりにして(汚ぇ……)、ドアの下の十センチほどの隙間から中を覗き込む。最初、そこに見えるのは、友人の白いお尻と足首だけである。が、辛抱強く待っていると、やがてその尻から、一条の尿が勢いよくほとばしり出る……すると私はウームと感動してしまい、「いいもの見せてもらったぁ〜」とホクホクした気分になるのであった。後に友人から「典子ちゃん(←私)はオシッコしてるところ覗くから、一緒にトイレ行かなぁ〜い!」と宣言された時には、異様にガックリしたのを覚えている。
ということは、アレかね。私は幼少の頃から、「他人の排泄行為を見る」ことにエロスを感じるタイプだったのかね。しかし、だからと言って、恋人の排泄シーンなど見たいと思ったことはないのである。むしろ、そんなもの見たら、かなり醒めてしまうような気がする。恋人に限らず、男性全般の排泄シーンには興味がない。私は……そうよ、私はね、若くてかわいい女の子の排泄シーンを覗きたいの。ああ、ますます変態。
恋をする相手も男性、セックスをする相手も男性なのに、私の内なる性的ファンタジーの対象は、何故か「女の子」であったり「窃視《せつし》」であったりするのである。AVなんぞを見ていても、一番興奮するのはレズシーンだ。男が出てきたら、しかもその男が全然タイプじゃない外見だったりしたら、もう萎えちゃう。そんな自分を「私ってレズビアンなのかしら」と思ったこともあるが、しかし女性に恋愛感情を抱いたことは、ただの一度もないのだった。私が恋するのは、いつも男性。しかも、ちょっと女性的な線の細いタイプの美形。女の子みたいな顔をした美少年が好き、という点に「レズビアン嗜好」を感じないではないが、しかしあくまで相手は男なのだ。これはいったい何故なのだろうか。
現実の恋愛&セックスの対象は男性、性的ファンタジーの対象は女性……と、このような分裂した嗜好が中村の内面に確立されているのであれば、中村が現実のセックスで満足を味わう日は永遠に来そうにないのであった。因果な女であることよのぉ。
口中のエロスについて考える[#「口中のエロスについて考える」はゴシック体]
私は「フェラチオ」が嫌いである。はっきり言って、あんなもの(←失礼)、口に含んで美味しいものでもなければ気持ちいいものでもなく、あくまでフェラチオという行為は一種のサービスというか、愛の証明(ほら、私はこんな気持ち悪いことまでしてあげられるほどあなたを愛してるのよ、といったアピール)みたいなものだと思ってた。それはもう、この年になるまで、ずっとずっとそう思ってきたのである。
ところが……!!!
ある仕事で『カトリーヌ・Mの正直な告白』(早川書房刊)という本を読むことになり、これはカトリーヌ・ミエというフランスの現代美術雑誌の編集長が自らの性生活を赤裸々に書いたものなのであるが、とにかくまぁ、この本を読んでビックリ仰天した中村うさぎ四十四歳なのであった。
というのも、彼女は著書の中で「フェラチオ大好き」と公言し、いかにフェラチオが素晴らしい快感を与えてくれるかを六ページも割いてこってりと説明しているのであるが、それを読んで初めて私は「世の中には、フェラチオで本当に身体的快感を得る人がいるのだ」ということを深く納得するにいたったのである。そう、今までだって私の周りに「フェラ大好き」と主張する女性がいなかったワケではない。が、それはあくまで「精神的快感」……すなわち、相手を愛撫して反応を見る楽しさ、相手をちょっといたぶってる気分の嗜虐的快感、そして相手から褒められる喜び、といった種類の快感であって、純然たる「身体的快感」とはまったくかけ離れた種類のものだと思っていたのだ。が、カトリーヌ・ミエはその種の「精神的快感」をも認めつつ、さらに「口中の快感」についても語っていて、それが私をガーンさせたのである。
そ、そうだったのか! あれが気持ちいい人って、やっぱ、いるんだー!
もちろん舌や口腔は大変敏感な感覚器官であるから、その器官が性的快感に対しても敏感であろうという理屈は、よくわかる。現に「舌を絡ませるキス」については、気の遠くなるような快感(時と場合と相手によるが)を私とて認めざるを得ない。しかしですね、口いっぱいに何かを頬張るという行為は、そしてまたそれによって喉が詰まるような感覚は、たとえそれが食べ物でも、私にとっては「不快」の範疇に入るのだ。だって、吐きそうになるじゃん。なのに、それが快感だなんていう人が、この世にいるなんて……信じられーん! それとも中村は、口腔感覚において、著しく未開人なのであろーか!?
そこで思い出したのが、ある女友だちの話であった。彼女はやはり「フェラ好き女」を自認するタイプなのであるが、それとは全然別の話題で、このようなことを言ったのである。
「手づかみで物を食べると、美味しさが倍増しますよね。私はインドでカレーを手で食べることになった時、最初はちょっと抵抗があったんですが、指でカレーライスをつまんで口の中に押し込んだ瞬間、その快感に開眼したんですよー。以来、家ではけっこう手づかみで何でも食べちゃうようになりましたー」
指を口に入れ、舌でベチョベチョ舐める……その行為には、単なる「食の愉しみ」以外に、確かに「官能」に属する快感が伴うに違いない。インド人の食事はエロスなのだなぁ〜。
メディチ家の食事作法とエロスの関係[#「メディチ家の食事作法とエロスの関係」はゴシック体]
「食べ物を手づかみで口に頬張るインド人スタイルの食事は、もしかしてとってもエロティックな儀式なのであろうか」……と、こういう疑問を前回提示したワケであるが、今回も引き続き「食のエロス」について考えたいと思う。
食事というのは、実際、かなりセックスに近い感じがある。唇や口腔を女性器になぞらえる人も多々いるし(「下の口にも入れて欲しいかー?」などというオヤジ的エロ発言なども含め)、前回も申し上げたとおり、口腔の快感は限りなく性的快感に近い「粘膜感覚」であることは否めない。ところで私は「ニチャニチャネバネバした食感」のものより「サクサクポリポリした食感」のものを好む傾向にあるのだが、これは私が「口腔の性的感覚」に疎いがゆえの嗜好であろうか。コーンフレークスなんか大好きなんだけど、色っぽくない食べ物だよねぇ、コーンフレークスって(苦笑)。
まぁ、「手づかみの食事スタイル」といえば、我が日本にも、「おにぎり」とか「握り寿司」といった「手づかみ文化」は存在する。が、それらはカレーのような汁っぽい食べ物ではないため、口の中に指を入れてネチャネチャとしゃぶる、といった粘着質なエロティシズムからは少し遠いような気がする。結局、人類は、テーブルマナーのような食事様式の洗練とともに、「食」と「エロス」を意識的に切り離して来たのであろう。「エロス」は下品である、という思想こそが「洗練」の本質なのだろうか?
テーブルマナーといえば、フランス王朝に初めて「ナイフとフォークで上品に食事をする」スタイルを持ち込んだのは、イタリアから嫁いで来たカトリーヌ・ド・メディチだったと言われている。それまでは、フランス王家の人々さえ、手づかみでメシを食ってたらしいのである。そして、このカトリーヌ・ド・メディチの夫アンリ二世は、生涯、カトリーヌを愛さずに妾のポワティエ夫人を寵愛した。そう、フランスにテーブルマナーを持ち込んで「食」と「エロス」を分離させたカトリーヌは、夫婦生活における「エロス」からも遠ざけられていた女なのだ(もっとも、子ども何人か産んでるけど)。これもまた、何か意味ある符合なのだろうか。カトリーヌが「食」のみならずベッドの中でも「エロス」に対して禁欲的な女であったからこそ、アンリ二世は彼女を疎んじたのかも……というのは、まぁ、深読みし過ぎなのかもしれない。
「食」と「エロス」の間の距離をどんどん縮めていくと、行き着くところは、ご存じ「カニバリズム」である。人肉を食べることに性的興奮を感じる、佐川くんみたいな人々だ。ちなみに中村が偏愛する史上最悪の変態殺人鬼エド・ゲインも、犠牲者の皮を剥いだだけではなく、その肉を食してもいたと伝えられる。そして中村は先日、整形手術で己の顔から切り取った「顔の皮」を見せられた折、麻酔で朦朧《もうろう》とした状態でこう言ったそうである。
「食べたい……」
どひぃ──────っ!!!! 私って、変態だったのか────っ!?
じつは、この発言、中村の記憶からはきれいに消え失せているのだが、それだけに潜在意識の欲望が垣間見えたような不気味なエピソードである。しかし自分の肉を食うってのは、カニバリストにとって究極のオナニーなのかなぁ?
我々はエロスを失いつつある生き物なのか[#「我々はエロスを失いつつある生き物なのか」はゴシック体]
ずっと前に「朝シャン」という風習が流行《はや》って、「朝シャン用洗面台」なんてぇ商品も登場したものだが、若者たちはあれからずっと「朝シャン」し続けているのだろうか。
てなことを考えてしまったのは、最近、ちょっとショックな話を聞いてしまったからである。ある若者(二十代前半)が、次のようなエピソードを語ってくれた……。
「俺のことを好きだって言ってくれる女の子がいて、美人だし性格もいいし、付き合っちゃおうかな、と思ったワケだよ。ところがさ、その子、普段はまったくわからないんだけど、Hの時だけ……ワキガってゆーの? なんかさ、匂いがするんだよ。俺、それでダメになっちゃってさぁ〜、その子には悪いけど、引いちゃったよ。いくら美人でも性格よくても、あれはダメだねぇ〜」
「そんなことってあるのかなぁ」
その話を聞いた私と友人は、彼が帰った後、語り合った。
「もし、Hの時だけワキガになる体質があるとしたら、怖いよねぇ。自分じゃ一生気づかないし、そんなこと言ってくれる男も少ないだろうしさ。ずっと、自分の何が悪いのかわからないまま、男にふられ続けちゃうんだねぇ」
「確かに怖いけどね。でも、私が感じたのは、別の怖さだな」
「何?」
「つまりさ、たぶんHの時だけ匂うってことは、それ、フェロモンの一種なんだと思うのよ。性的に興奮すると、フェロモンが濃厚に出ちゃう体質なんだよ、その女の子。その匂いは本来、相手の男も興奮させる匂いなんだと思うのね。なのに今の若い男の子は、それをワキガだと思っちゃう。もはや彼らは、セックスにフェロモンなんか必要としない、むしろ邪魔だと感じる世代なんだよね。私は、それが怖かったよ」
なるほど確かに、と、友人の言葉に深く頷いた私であった。
「朝シャン」や「便座除菌クリーナー」は、「不潔恐怖」とも呼べるほど極端に不潔を嫌うクリーン世代を育て上げた。汚れやばい菌はもちろん、あらゆる体臭をも拒絶して育った彼らは、他人を「臭い」と言ってイジメたり、セックスの時に出るフェロモンに萎えたりする、神経質で脆弱な人間になってしまった。人間が人間の匂いを発することさえ、自然と思えなくなった無機質世代。それは確かに、怖い現象かもしれない。
以前、「セックスは嫌いだ。汗でベトベトするから」と言った男の子がいて、「汗もかかずにセックスができるかぁ──っ!」と反論した中村であったが、本当にこういう子って増えてるのよね。汗や体液を汚いと思い、その匂いを嫌悪して、セックスするのもイヤになってしまうなんて、そのうち少子化どころか子孫が絶滅しちゃいそうな勢いではないか。
フェロモンの存在自体を忌み嫌う若者たちは、いったいどのような動機で恋やセックスをするのだろうか。まぁ「恋」はますます観念的なものになっていくのだろうが、セックスは? 汗をかく生き物、フェロモンの匂いを発散させる生き物であることを拒否したら、もはやキスによる唾液の交換も忌まわしいものとなり、最終的には肉体的なコミュニケーションはすたれてしまうのであろうか? ううっ、殺伐とした世の中ですなぁ〜。
古代ローマ人の入浴とエロスの関係[#「古代ローマ人の入浴とエロスの関係」はゴシック体]
ワキガの人は嫌われる。確かに腋《わき》から発する強烈な臭いは、我々にとって「不快」以外の何物でもない。だが、腋の下の臭いを作り出すアポクリン汗腺は、周知のとおり、フェロモンの一種ではないか。そしてフェロモンとは、言うまでもなく、異性を性的に誘惑する匂い。ならば何故、我々は、フェロモンの匂いを「不快」と感じるのであろうか。人間が動物である限り、フェロモンの匂いは性的快感と結びつくべきであり、間違っても「不快」のはずがないではないか。何故なんだ、人間。おまえら、動物学的におかしいぞっ!
と、このような疑問を、常々、持ち続けてきた私が、このたび『悪臭学 人体篇』(鈴木隆著、イースト・プレス刊)なる書物を読んだ。いや、大変面白い本だったので皆さんにもお薦めしたいのであるが、「腋の下の臭い」に関して特に私が興味をそそられたのは、「何故、人間の腋の下は臭うのか」という問題に関する説明である。
そういえば、犬や猫の「腋の下」は臭わないよなぁ。まぁ、犬猫に「腋の下」があるのか、とツッコまれればアレだけど、とにかく彼らの前脚の付け根は、確かに全然臭くないよ。他の部分の体臭はかなりキツいのにね。考えてみたら、不思議だわ。
鈴木氏は、「四足歩行の動物たちは相手の性器や肛門を鼻で嗅ぎやすいが、二足歩行の人間は鼻の位置と下半身が離れすぎていて、なかなか相手のフェロモンの匂いを感知しにくい。だから、より鼻の位置に近い腋の部分がフェロモンを発するようになったのではないか」という説を述べている。なるほど、である。やはり腋の下は、異性に対して性的信号を発していたのだ。ならば何故、その性的な匂いを、我々は悪臭と感じてしまうのか。
おそらくそれは、例の「洗練」という思想がエロスを意識的に日常生活から遠ざけたためではないのか。テーブルマナーの発達が手指を口の中に直接突っ込む「食のエロス」的快感を封じたように、着衣や入浴というエチケットが「匂いのエロス」を駆逐したのではなかろうか。入浴文化を発達させたのは古代ローマ人であるが、その目的は「衛生」から徐々に「体臭隠し」に移行したものと思われる。「健全な魂は健全な肉体に宿る」とまで言ったほど健康オタクだった古代ギリシャ・ローマ人たちは、「健全=清潔=無臭」「不健全=不潔=悪臭」といった価値観を発達させ、本来、性的信号であるはずのフェロモンの匂いさえ「不健全」と決めつけたのではあるまいか。そこにまた禁欲的なキリスト教的価値観がエロス退治に加わったものだから、ますます「性的な匂い」は嫌悪や羞恥の対象となったのだろう、と、私は推察するのである。
ところでもうひとつ、私がどうしても納得できないのは、そこまでして「悪臭」を駆逐してきた人間が、一方で、ある種の「悪臭」を放つ食物に対する嗜好を「文化」として温存している現象だ。「カビ入りチーズ」とか「納豆」などの匂いは、私にとって「悪臭」以外の何物でもない。なのにあれを好んで食う人々が大勢いるのは本当に不思議である。しかも、チーズも納豆も、どこか「人間の体臭」を連想させる匂いだと思いませんか? チーズは「女性器の臭い」に喩《たと》えられるし、納豆は紛れもなく「足の臭い」でしょう。
もしかしたら、「チーズ」や「納豆」は、人間が日常生活から駆逐し続けてきた「エロス」の最後の残り香なのではないか……と、私は思うのですが、どうでしょう?
「革」の感触にエロスはあるか[#「「革」の感触にエロスはあるか」はゴシック体]
「食のエロス」「匂いのエロス」について語ったら、次は「感触」であろうか。エロスを誘う感触……しかし、これは難しい。かなり個人差があると思われるからだ。
私の夫はゲイなのだが、大変な「レザー」好きである。革のジャケット、革のパンツ、革のアクセサリー……昔、『クルージング』というゲイをテーマにした映画を観たが、そこに登場した「ハードゲイ」と呼ばれる同性愛者たちも、まるでトレードマークのように革モノを身につけていた。で、私は考えたね。
革の「感触」は、エロスなのであろうか?
しかし私は、革の手触りにエロスを感じない。手に触れた時のひんやりした感じ、硬くてゴワゴワした(もちろん革の種類によっては、しなやかで柔らかい物もあるが)感じは、私の中の「エロス」のイメージの、むしろ対極にあるような気がする。私にとっては、革よりむしろ毛皮やシルクなどの柔らかくすべすべと滑らかな感触こそが、「触ってうっとり、ああエロティック」な感触なのであり、ゴワゴワなんてものにはピクリとも反応しないのである。
が、しかし。ゲイに限らずSMの世界でも、「革」はかなり性的な記号として、他の素材よりも圧倒的な存在感を誇っているではないか。何故なんだ。「革」にエロスを感じないのは、人類で私ひとりなのか。私は「感触のエロス」に関してマイノリティなのか。それとも、皮革愛好者の人々は、革の「感触」ではなく、革の「物語性」に萌えているのか。確かに硬くて強くてゴワゴワした革には、「奴隷」とか「拘束」などといったイメージが付随しやすく、それを考えるとやはり「物語」のほうに比重がある気もするのであった。
あ、そういえば、うちの夫は「鎖」とかジャラジャラさせたファッションも好きだなぁ。やっぱ奴隷なのか、あいつ……(笑)。
だが一方、私の好む「毛皮」や「シルク」は圧倒的に「女物」の衣服に使用される素材であり、もしもこれらの素材が「女性のエロスを誘発する」ものであれば、もっと男性用の衣服にも積極的に使われてしかるべきではないか、と思うのである。なのに、毛皮なんか着てる男、オカマとホスト以外に見たことないよ。あ、ロシア人は別としてな。
私は毛皮フェチなので、ふかふかと柔らかい毛皮に顔を埋めただけで、しばし陶然としてしまう。その毛皮の下から、すべすべとシルクのように滑らかな素肌が現れたら、とてつもなく興奮してしまうだろう。そうなると、毛皮に包まれるべき肌は女か、あるいはきわめて男性ホルモンの少ない美少年のそれでなくてはならない。
ああ、今、想像しただけでクラッときたわ。毛皮プレイ……今度ぜひ、やってみなければ!
女たちの「レイプ妄想」について[#「女たちの「レイプ妄想」について」はゴシック体]
男は「視覚」によってエロスを刺激される生き物であるらしい。その証拠に、男のオナニーのオカズとして、あられもないポーズを取ったヌード写真集がこの世には星の数ほど存在する。女のヌード写真でヌく男は大勢いるが、男のヌード写真をオナニーのオカズにしてるという女に、私はあまり会ったことがない。
これは、男女のエロスの仕組みの違いなのだろうか。男が主に視覚でエロスを掻き立てられる生き物だとしたら、女はどの器官でエロスを感知するのだろうか。
「オナニーをする時に、何をオカズにするか」
この質問を周囲の女性たちに訊いて回ろうと思ったのだが、正直に答えてくれた相手は数えるほどしかいなかった。まだまだ多くの女性たちは、「たとえ同性に対しても、女がオナニーについて語るのは恥ずかしい」と思っているようである。男はあんなに堂々とオナニーを語るのに、女はまだまだ己の欲望に対して正直になれない。それが女の慎みだと教えられたせいかもしれないが、非常に嘆かわしい現状だ。正直に言えよ、オナニーしてんだろ、おまえら!?
ま、それはともかく、私の質問に答えてくれた数少ない女たちのデータによると、どうやら女は「官能小説」や「エッチ漫画」をネタにするか、あるいは何も使わず、自分の中の妄想をオカズにする傾向が強いようだ。男のヌードや性器の写真で興奮した、という話はほぼ皆無に等しい。なるほど。やはり女は「性器のビジュアル」そのものよりも「性をめぐる状況」のほうにエロスを感じがちな生き物なんだな。
面白いのは、彼女たちがオカズに使う「エロ妄想」の内容である。それはしばしばレイプシーンなどがテーマになるにもかかわらず、実際に強姦されるのはマッピラである、と言い切る女性が圧倒的で、どうやら彼女たちのエロ妄想は現実の願望と必ずしも一致しないようなのだ。これは、
「女にはもともとレイプ願望がある。だから強姦は罪ではないし、強姦されたほうも喜んでるんだ」
と、このように開き直る婦女暴行犯たちに、ぜひぜひわきまえていただきたい事実である。一部の女には、確かに「レイプ妄想」があるかもしれない。が、それは「現実にレイプされたい」という短絡的な話ではなく、むしろ彼女たちにとっては妄想の中で「安全に」レイプされることがエロスなのだ。つまり、かなり「プレイ感」のあるレイプなのであって、現実のレイプは、女に「恐怖」と「屈辱」しか与えない。ここは絶対に混同しないでいただきたいのだ。SMプレイで肉体を傷つけられるのを喜ぶマゾヒストが、必ずしも強盗に刃物を突きつけられて喜びゃしないのと同じである。
しかし「レイプ妄想」は何故、こんなに男女問わず人気があるのか。次回はそれを考えてみたいと思う。
女のレイプ妄想は「被虐」ではなく「自虐」である[#「女のレイプ妄想は「被虐」ではなく「自虐」である」はゴシック体]
男女ともに人気のある「レイプ妄想」。その理由を単純に考えようとすると、そこにはたちまち「男性=支配欲・征服欲」「女性=被支配願望・被征服願望」という絵が描かれてしまい、そーか、女には結局、男に支配されたいという根源的な欲望があるのだな、などという話になってしまいがちなのであるが、しかし、ホントにそうなのだろうか。なんかちょっと違うと思うんだけどなぁ。
男が女に対してレイプ妄想を持つのは、おそらく「男らしさの確認」であり、イヤよイヤよなんて言ってる女が力ずくで押し倒されて自分に貫かれ、しまいにゃアフンなどと喘《あえ》いで快感に身悶えする、なーんて絵を想像するだけで勝利の快感に軽く陶然としてしまう気持ちは、わからないではない。しかしそれを言うなら女にだって、美少年が自分に組み敷かれてめくるめく快感に喘いでくれたらさぞかし気持ちよかろう、という欲望はあるのだ。すべての女にあるとは言わんが、少なくとも私にはある。だから、年下の相手で容姿が美しければ、できれば騎乗位でやらせていただきたいのである……って、まぁ、そんな私の個人的な嗜好はどうでもいいですね。今、想像して気持ち悪くなっちゃった人、すみません。
が、その一方で、タイプでもない男に無理やり犯《や》られて心ならずも気持ちよくなっちゃって、などというレイプ妄想が私の中にあることは否定できない事実で、ただし前者の美少年騎乗位妄想と決定的に違うのは、相手の男に「顔がない」ということなのだ。そう、レイプ妄想でオナニーする時は、相手の男に「顔」があってはいけないのである。おそらく、不細工だったら気持ちが盛り下がるし、ハンサムだったらレイプなんかされたくない、という理由なのであろう。でも、よくよく考えたら、顔も見えない状況で見知らぬ男にレイプなんかされたら、めちゃくちゃ怖いじゃんか。現実にそんなことが起きたら、恐怖のあまりすくみあがって、絶対に気持ちよくなるはずがないのである。
じゃあ、この妄想は、いったい何なの?
現実にはどんな男にもレイプなんかされたくない、タイプの男にはなおさら支配されたくないからレイプなんぞ御免である、なのに妄想の中では「顔」のない男にレイプされる自分にちょっとムラムラしちゃう。このあからさまな矛盾は何?
おそらく、これは私の自虐プレイなのではなかろうか。あくまで私が主人公の、私以外に誰の存在も必要としないプレイなので、相手の男なんか顔もいらないし、そいつに属性なんかあったらかえって邪魔だし、ハッキリ言ってチンコだけあればじゅうぶんで他の部分は人間の形さえしてりゃOK、と。どうやら、そういうことらしい。被虐ではなく、自虐。ちょっとした自分イジメ。崩れていく私に対する欲望、である。
女は、「自分」に欲情できる生き物なのだ。
君よ知るや「自虐」のエロス[#「君よ知るや「自虐」のエロス」はゴシック体]
以前、素人の浣腸ショーを目撃して衝撃を受けた例の六本木のSMバーに、再び友人たちと「新年会」の名目で訪れた中村である。今回のショーは女性従業員を裸にして縛り上げ、天井のフックから吊るすという趣向であったが、その日あまり睡眠を取っていなかった私は、ショーが始まって照明が暗くなった途端に不覚にも寝てしまい、ショーが終わった直後に目覚めて何食わぬ顔を装ったものの、同行の友人たちから「あんた、寝てたねっ!」と鋭く指摘されてまさに汗顔のいたりであった。人は何故、自分が居眠りしてる現場を他人に見られると恥ずかしく思うのだろう。無防備な姿をさらしてしまった、という理由かなぁ。でも、それを言うなら、私は起きていたって常に無防備だが(苦笑)。
さて。ショーの後、我々はしばらく飲みながら歓談したのであるが、そこでまた「自虐的人間と被虐的人間」についての話題が出た。というのも、そのメンバーの中に「レズビアンでマゾヒスト」を自認するR嬢という友だちがいて、その彼女に向かって私が「あなたは被虐系で、私は自虐系。これは似てるようで全然違うよねぇ」と問いかけたからである。同席していたS子嬢もまた「自虐系」のメンタリティを持つ女であり、この人はまた私とは違った方向で自虐性が発露してしまうタイプなのだが、我々に共通しているのは、他人との関係性に欲情しているのではなく、ひたすら自分に欲情している、という困った点なのであった。ある意味、他人なんか必要としないほど自分にメロメロなのである。
S子嬢はそれを「わたしの中の悦び組」と表現しており、彼女が何かバカなことをしでかすたびに、彼らが「S子様、素晴らしい〜! マンセー、マンセー!」と歓喜の涙を流すのだそうな。いいなぁ(笑)。一方、私の中には「うさぎの脳内小人」と周囲に呼ばれる小人軍団がいて、そいつらが寄ってたかって私にツッコミを入れ続け、私を揶揄《やゆ》し嘲笑し囃《はや》したて、一分一秒も黙っていてくれないのであった。S子嬢の「悦び組」と違って小人軍団は滅多に私を褒めてくれない。が、時に全力を挙げて私を煽ることがあり、それがまた必ず「浪費」や「自堕落」といった自爆系テロ行為であるため、私は全身に冷や汗をかきながらも恍惚として破滅的行為に身を投じてしまうのだった。
で、困ったことに両者(S子嬢と私)にとって、その瞬間がもっともエロティックなクライマックスなのである。その時の我々は、さきほども申し上げたように、本当に自分にメロメロだ。その高揚感、その多幸感の後には必ず、ズドーンと自己嫌悪の反動が待っているのだが、それも含めて我々は「ああ、こんなにダメな私。あふーん」とイッてしまうワケである。わかる?
このような自虐エロスの報告を男性から聞いたことがないのだが、諸君、身に覚えはありますか?
中村うさぎは悪女になれるか?[#「中村うさぎは悪女になれるか?」はゴシック体]
プチ整形だけでは飽き足らず、ついに本格整形をしてしまった顛末《てんまつ》は、別の本で詳しく述べたので割愛するが、その後、私の顎は惚れ惚れするほど尖《とが》っており、本人は大いにご満悦の日々である。この原稿を書いているのは一月初旬なのであるが、もう「今年の抱負」まで決めちゃったもんね。諸君、聞いて驚け。中村うさぎ、二〇〇三年の目標は、
「悪女になる!」
これなのであった。
そう。中村は顔を変えたついでに、キャラも変更しようと目論んでいるのである。黒フェロモンむんむんの悪女に、今年こそは見事、変貌を遂げてみせるわ! 四十四年間、一度も手にしたことのない「色気」を、今の私なら獲得できると思うから!
と、このように中村が自信満々で宣言するのには、もちろん根拠がある。じつは中村の整形を手がけたタカナシクリニックの高梨院長が、次のように言ったのである。
「中村さん、顎の尖った女の人はセクシーに見えるんですよー」
「えっ、そうなの? それは何故?」
「つまりですね、セックスしてる時、女性はたいていこう顎をツンと上げてる状態じゃないですか」
「ああ……のけぞったりするからね」
「だから男性の位置から見ると、持ち上がった顎の線がくっきり目立つわけですよ。その顎の線がシャープであればあるほど、性的な刺激を受けるんですね。顎の丸い人がのけぞっても、あんまり顎が出ないから、セクシーな感じがしないんです」
そ、そうだったのか! それで顎の丸い女は、今イチお子様な印象で、色気からほど遠い感じがするのだろうか。
今こそ、わかった。中村が四十四年間、色っぽいと言われた例《ためし》のない理由。それは、顎だったのねっ……って、ちょっと待て。以前、目の下の涙堂《るいどう》を膨らませた時も、確か「涙堂はホルモンタンク。ここがプックリしてるとセクシーに見える」などという甘言《かんげん》にノセられたのではなかったか!?
「いや、甘言じゃないです。中村さんは顎も尖ったし涙堂も膨らんだし、顔の条件的にはかなりセクシーになったはずですよー」
「ホント?」
「本当です!」
てなワケで、それでなくても調子に乗りやすい中村うさぎ。高梨院長の言葉に勇気づけられて、ついに今年から「フェロモン女」デビューを果たすことに決めたのである。
やっほー! これからは、男に振り回されるのではなく、男を振り回してみせるわよ! 諸君、中村の華麗なる変身を、どうぞお楽しみに!
女は結局、「パイ力《りよく》」なのか?[#「女は結局、「パイ力」なのか?」はゴシック体]
私は男にモテない。これは顔が不細工なせいであろう。美人とまでは言わなくても、もうちょっと見目よくなったなら、たちまち花束抱えた男たちが門前市をなすに違いない。我が家に「門」なんてないけどさ。
と、このように考えて整形などしてしまった中村であるが、どうしたことであろうか、一向に男たちが門前市をなす気配もないのである。要するに、相変わらずモテないのだ。これは何故?
さては「顔」の問題ではなかったか、じゃあ何が私に欠けてるというのか、オッパイか。確かに胸はないが、敗因はそれか。
こう考えて朋友のくらたまに相談してみたところ、
「そうだね、胸だよ。女は顔じゃなくて、パイ力《りよく》なんだよ!」
と、強く力説されたのであった。そうか、女は「パイ力」なのか。ならば豊胸手術して巨乳になったら、今度こそ、男が門前市をなしてくれるのか。うーむ、豊胸手術はかなり痛いという噂だが、モテるためなら痛みくらい我慢しなくちゃいかんかのぉ〜。でも、痛いのは嫌だなぁ。てゆうか、痛い思いまでして、そのうえモテなかったら、なんか私、生きていく気力が失くなりそうな予感がするんですけど。
こうして、揺れ動く女心の中村うさぎなのであったが、つい先日、『新潮45』という雑誌の「日野OL不倫放火殺人事件」の記事を読んでたら、ささやかながら激しく衝撃的な一行を発見してしまったのである。ちなみにこの事件は、OLが不倫の果てに相手の男の家に放火、幼いふたりの子どもを焼死させたという痛ましい事件なのだが、警察の事情聴取を受けた不倫男が供述して曰く、
「北村(←犯人の名)は妻と違い、肉体的にも豊乳でしたし、以後、ずるずると肉体関係を続けていました」
こ、これかっ……と、中村は目を剥いたのである。この犯人の北村という女は、写真を見る限り特別な美人でもなく、むしろ地味で凡庸な顔立ちという印象で、そこが当時から中村の胸に引っかかっていたのであるが、このひと言で目からハラハラとウロコが落ちた思いであった。
そうか! パイ力か! この女もパイ力の持ち主であったのか! ううーん、パイ力、侮《あなど》りがたしっ! やはり私も豊胸手術をやるべきかーっ!?
ところが、私が息巻いてこの話を友人たちに語ってきかせたところ、男がひとり、このように呟いた。
「でも、その女って顔が地味だからこそ巨乳が引き立つんだよ。顔と胸のギャップね。顔が派手で胸もデカい女って、逆に男心をそそらないかもしれないなぁ。ほら、叶恭子とかさぁ……」
な、なるほど! パイ力は地味顔あってこそ威力を発揮するものなのか! それじゃ整形して派手顔になった私は、永遠にパイ力を持てなくなったワケ〜ッ!? ああ諸君、新年早々、私は絶望したのであった!
おっちょこちょい女に明日はない[#「おっちょこちょい女に明日はない」はゴシック体]
幼い頃、「明るくハキハキとした活発な子ども」というキャラが親からも教師からも求められていたものだから、サービス精神(媚び精神ともいうが)満点の私は積極的にそのキャラを内面化したものである。積極的過ぎて過剰になり、「活発」というより「でしゃばり」、「明るい」というより「うるさい」、「ハキハキした」というより「ズケズケした」キャラになってしまったような気もするが、なにしろ子どもというのは加減のわからないものであるから、これは致し方ないではないか。
で、大人になってからも、この「明るくハキハキした活発なキャラ」というのは、「暗くてジメジメした不健全なキャラ」よりも百倍、世間のウケがよろしいようなので、何の疑問もなくその路線を突っ走ってきた私なのである。ところが、そこで私は、自分の大きな誤算に気づかなかった。
「世間ウケのいいキャラ」というのは、表面的には「男ウケ」も悪くないのだが、女の根っこの部分に決定的な欠陥があるのだ。これがすなわち「闇フェロモン」というもので、若い頃にはこんなモノはあまり求められないし、ちょっとかわいい顔で明るく活発な女の子のほうがむしろモテるのであるが、中高年以降は一気にこの「闇フェロモン」力が淫靡《いんび》な威力を発揮するのであった。つまり、容色が皆等しく衰えていくと、どんなに清楚な美女でも輪郭が崩れて「爛熟」やら「堕落」やらの匂いが漂ってくるワケで(吉永小百合みたいな人は例外ですがね)、すると今度は逆にその「崩れ方」のニュアンスに重きが置かれるようになり、その絶妙な崩れ方こそが「闇フェロモン」である、と、このように私は考えるのだ。
不健全で薄幸そうな女がすべて「闇フェロモン」を持てるとは限らない。なかには「煮干のダシガラ」みたいにパサパサになっちゃう女もいて、私がたとえ貧乏臭くて不幸になったところで間違いなくこのテの女になることは明らかなのだが、なぜそこに「闇フェロモン」が発動しないのかというと、おそらく致命的に「おっちょこちょい」な雰囲気があるからではないかと思われるのである。
そう、「明るくハキハキして活発」なキャラを一度でも過剰に内面化してしまった者は、後にそれを封印したところで、スティグマのように刻印された「おっちょこちょい」オーラを消し去ることができないのだ。ちなみに私は「短気」なのだが、これも「おっちょこちょい」オーラの元素のひとつである。「活発」と「短気」が組み合わされると、人は往々にして「おっちょこちょい」になる。
「短気」の代わりに「不注意」が代入されることもあり、気が急《せ》いてるワケでもないのによくつまずいたり卓上の物を引っくり返したりする女に「闇フェロモン」は一ミクロンも発生しない。闇とは緩やかに、かつ慎重に人を侵すものなのである。
フェロモンの「温度」について[#「フェロモンの「温度」について」はゴシック体]
「フェロモン」に温度はあるのだろうか、と、ふと考えてみた。「熱いフェロモン」と「冷たいフェロモン」って、あるのかな。フェロモンを身につけたい私としては、どちらを目指せばいいのかな。
「熱いフェロモン」女というなら、たとえばそれは「私の身体の奥にたぎるマグマのような欲望」みたいなものをチラチラと垣間見せる(あんまり噴出しちゃうと男が引くので)ような女であろう。要するに、「ベッドの中では凄そうだ」と想像させる女ね。普段、澄ましていればいるほど、このフェロモンの効力は高まる。おとなしそうなのに、気位が高そうなのに、ベッドの中では娼婦みたい、という意外性。私のように日頃からアツい女は、ヘタに「熱フェロモン」なんか出すと、ますます暑苦しいだけだろう。そうか。ダメですね、中村の「熱フェロモン」計画。却下。
では、「冷フェロモン」なら、何とかなりそうだろうか。「冷フェロモン」とは、どんなフェロモンなのか。「熱フェロモン」とは逆に、「ベッドの中では冷感症」な女? いや、そりゃダメだ。そもそもフェロモンじゃないでしょ、それ。「昼は娼婦、夜は淑女」なんて女、どこにも需要がなさそうだ。
それでは「冷フェロモン」など存在しないのか? いや、ある。ほとばしるのではなく凍りつくようなエロス、爆発ではなく凝固、融合ではなく分離、という方向に向かうエロスは、どこかにきっとあるような気がする。
それはたとえば「恐怖」に似たエロスなのかもしれない。腕の中で喘ぐ女の身体の芯に、何か絶対に溶けない氷の核のようなものを感じ、それを溶かしてやろうと躍起になればなるほど深みにはまり、そして気づいたら氷の中に永遠に閉じこめられている、というような。男を「謎」と「恐怖」と「孤独」に誘い込む冷たい冷たいフェロモンがあるのではないか。アツい女と「熱いフェロモン」の組み合わせが鬱陶しいのなら、アツい女とこの「冷たいフェロモン」の組み合わせは、意外性もあり、素晴らしい効果を発揮するのではなかろうか。
なるほど(と、自分で自分の仮説に納得)。中村が今後目指すべきは「謎の女フェロモン」なのであるな。いつもは騒々しいくらいにアツい女だが、ベッドに入ると途端に神秘的な存在となり、男を翻弄する。いいねぇ。あとは、どのように神秘性を出すかという具体策だが、たとえばセックスの最中にいきなり目を開けて男の顔を凝視するとか、終わった後に意味ありげにフフンと冷笑してみるとか、そういうのはどうでしょう? 男性諸君、引きますか? それとも、逆に燃えますか? こればっかりは男の反応を見てみなきゃわからないな。
とりあえず、今度試してみようと思うので(誰にだ)、中村の結果報告を楽しみにお待ちいただきたい。
パイ力もフェロモンもない中年女のひとりごと[#「パイ力もフェロモンもない中年女のひとりごと」はゴシック体]
前回ご提案した「冷フェロモン女」であるが、編集者(男性)から「セックスの途中に目を開けてニヤリと冷笑するような女は論外である!」と、ダメ出しされました。がはは、やっぱダメかぁ〜。
どうやら中村のような暑苦しい女は、どう足掻いてもフェロモンなんぞ一滴も搾り出しようがないらしい。今度から、これと狙った男の前ではキャラを変えることにしよう。無駄口は叩かず、ミステリアスな微笑みを浮かべて、じっと見つめるだけにしとこう。高笑いなど、もってのほか。高価なブランド物の服も、相手が引くだけだから、あえて着ない。白いシンプルなブラウスに黒いタイトスカートで、「大人の女」を演出するんだい!
ああ、でも問題は、私がこんな女を蛇蠍《だかつ》のごとく嫌ってる、という事実なのだ。芸のないシンプルを洗練だと思い込み、口数の少なさを品のよさだと勘違いして、己の意思も感情もあえて表明することをせず曖昧なる微笑ですべてをごまかす女……おそらく退屈で凡庸で愚鈍ですらあるかもしれない女。そのうえ控え目なキャラであるにもかかわらず意外と巨乳だったりした日にゃ、男の食いつき率は一気に倍増だ。暑苦しい女の巨乳より、涼しげな女の巨乳のほうが、女としての偏差値が高そうである。
ところで今、「ブラバ」という名の増乳器が話題となっているのをご存じだろうか。ごっついプラスチック製のブラジャーみたいな器具で、一日十時間ずつ十週間連続装用すると、超音波だか低周波だか知らんが、そんなようなモノがぐいぐいとオッパイの組織を引っ張り上げて、二カップほどサイズアップするらしい。私のような貧乳女には、まさに夢の商品ではないか。
さっそく取り寄せるべく知人に相談してみたところ、「若けりゃ皮膚の弾力があるからいいだろうけど、四十代のオッパイじゃ、垂れ下がる危険性のほうが大きいのでは」と指摘された。
チッ、なんだ。そーゆーことかよ。ババアが今さらオッパイ大きくする夢なんか見るなってことか。胸の小さいババアには、夢も希望もないのかのぉ〜。
そんなワケで、フェロモンもオッパイも手に入りそうにない中村は、現在、ガックリと首を垂れて傷心の日々を送っている次第である。じつは「こーなったら金で解決してやれ」と、「出張ホスト」のサイトを覗いてみたりもしたのだが、そこに並べられた顔写真を見てますます夢も希望も失くしてしまった。
「こ、この程度の容姿で金取るなぁ〜っ!」
まぁ、胸も美貌もないババアが偉そうに言う台詞でもないが、それにしても……あっ、そうか! 出張ホストにプチ整形させて、好みの顔に変えればいいんじゃない? 三か月で元の顔に戻っちゃうけど、べつにずっと付き合うワケじゃないんだし。なんだかSFみたいな話だが、こんなことも実現する時代になったのだ。
私、Hがヘタなんです(マジ)![#「私、Hがヘタなんです(マジ)!」はゴシック体]
このたび河出書房新社から『私、Hがヘタなんです!』という対談集を出した中村である。このタイトルどおり、私には「セックスがヘタだ」というコンプレックスがあり、「セックスがヘタだから、私は女としてB級品なのである」という自己認識を持っているのだが、世間の女性たちは自分のセックスについて問題意識を持ったりしないのだろうか。持っているとしたら、どのように解決しているのであろうか。皆さん、教えてくださいませ。
さて、私が「セックス下手コンプレックス」について語ると、慰めようとしてくれてるのか本気でそう思ってるのか知らんが、「セックスのうまい女なんか目指す必要ない。男はかえって、そんな女に引いちゃうよ」などと忠告してくれる男性がいる。慰めようとしてくれてるんならお気持ちはうれしいが、本気で言ってるとしたら、それはどうよ? なんでセックスのうまい女に引いちゃうの? 自分のコンプレックスを刺激されるから? セックスは男がリードすべきだという固定観念があって、そこに男の沽券が関わってくるから、あまりセックスのうまそうな女は苦手ということなのか? でもさぁ、たとえばセックスがテニスのダブルスのような共同プレイだとしたら、やっぱパートナーのスキルが高いほうが楽しめると思わない? あんまりヘタな人とペア組んでたって、お互いに上達しないじゃん。
私の理想は、「もっともっと、いろんなセックスしてみたい」という上達志向のあるパートナーを見つけて、ふたりでいっぱい楽しいこと、気持ちいいことを開拓していく、という関係だ。開拓していくうちに、お互い上達するし、ふたりでやりたいことのネタが尽きちゃったら、またパートナーを替えればいいじゃない? そんなふうに屈託なくセックスを楽しめる相手がいたらいいのになぁ、できれば若くてハンサムな男でさ、などと考えたりするのだが、そんなに私に都合のいい現実はどこにも転がっていないのだ。たまにすっごくタイプな男に出会っても、相手が私をタイプじゃなかったり、あるいは前述したような「女がセックスに前向き過ぎるのは、男として云々」みたいな考えの持ち主だったりして、もしかしてセックスのベストパートナーを見つけるのって恋愛相手を見つけるより難しいのかもしれない。
対談集の中で、風吹あんなさんというAV監督が「屈託なくセックスを楽しめる相手を見つけたいのなら、お金で買うしかないかも」と、提案してくれた。本当に楽しませてくれるなら、私は金を払ったって構わない。男の人が風俗に行くのと、おそらく同じ気持ちであろうと思う。ただ残念なことに、女の人向けの性風俗産業って限られてるからなぁ。ソープにはフードルと呼ばれる美少女がいるのに、出張ホストにはハンサムがいない。心底、男が羨ましい今日この頃である。
連合赤軍とエロスについて考える その1[#「連合赤軍とエロスについて考える その1」はゴシック体]
レンタルビデオ屋で『光の雨』を借りて観た。連合赤軍事件を題材にした映画である。事件当時、私は中学生だった。彼らが山中のアジトで「総括」と称して仲間たちを殺したこと、その後、あさま山荘に籠城《ろうじよう》して警察と銃撃戦を繰り広げたことなど、事件のおおまかな輪郭は把握しているが、細かいことはよく知らない。そもそも「総括」というのが何だったのかも、あまり理解していないのであった。正直言って、映画を観終わった今も、まだ理解していない。「総括」って何?
ま、それはともかく、だ。連合赤軍の指導者のひとりであった永田|洋子《ひろこ》には、当時から興味を持っていた。この映画では、永田洋子を裕木奈江が演じている。ちょっとかわい過ぎるのではないか、と思うのは、私だけではあるまい。あの頃、ニュース番組などで見た永田洋子の顔写真は、はっきり言ってブスだった。まぁ、犯罪者の写真なんてたいてい不細工に写ってるもんなので、実際の永田洋子の容貌が本当にブスだったのかどうかはわからない。が、世間的にも「永田洋子はブス」という認識が定着していて、その証拠に当時、「永田洋子は自分がブスだから、かわいい女に嫉妬して、そういうタイプの女たちを率先して総括した」というような記事を雑誌で読んだ記憶がある。その時は「へぇ、そうだったのか」と驚いたものだが、今にして思えば「ブスだから、女だから」という物言いは、いかにも男的な悪意に満ちた発想だ。
仮にもインテリ学生たちを率いたリーダー格の女ではないか。それなりの知性、それなりのカリスマ性があったに違いない。そんな人間が「あの女、男にモテてムカつく〜」なんて理由で人殺しするだろうか。いや、心の底にちょびっとはあったかもしれないが、それだけじゃないでしょ、ホントはどうだったのよ……というような疑問を胸に映画を観たワケであったが、そこに描かれている永田洋子はやはり「男とキスをしてアジトを汚した」とか「化粧してチャラチャラしてて革命を真面目に考えてない」などといった理由で総括しているのであり、私は「うーむ」と唸ってしまったのだった。
永田洋子は、「女」とか「エロス」とかいった存在を徹底的に排除したかったのかなぁ。彼女の「革命」や「闘争」は、「エロス」とは共存できないものだったのかなぁ。
昔、付き合ってた男に「女を商品化してる女は嫌いだ。今後、髪も伸ばすな、化粧もするな」と言われたことがある。永田洋子の理屈は、これに通ずるものだったのだろうか。「女の商品化=資本主義的堕落」みたいな。だとしたら、彼女は自分の「エロス」的なものと、どう折り合いをつけていたのだろう。
彼女の敵は、もしかしたら「エロス」であり「男」であったのではないか。そしてそれは、現在、私の前に立ちはだかっている壁と同じものなのである。
連合赤軍とエロスについて考える その2[#「連合赤軍とエロスについて考える その2」はゴシック体]
映画『光の雨』で連合赤軍事件に興味を持った私は、その後、あさま山荘事件の主犯格である坂口弘の手記『あさま山荘1972』(彩流社刊)を読んだ。興味の主眼は何といっても例の山岳ベースにおける同志粛清である。彼らがどのような理屈で同志を十二名も殺害したのか、そして、その理屈の陰に潜んでいた言語化されない動機とは何だったのか、それを知りたいと思ったからだ。
しかし手記は二人目の犠牲者である進藤隆三郎の死の場面で中断されており、これは坂口氏の責任ではなく原稿を出版社に送る途中の郵便事故であるとのことだが、一読者としては非常に残念である。事故ではあるまい、この原稿紛失には何かあるな、と、ついつい邪推してしまいたくなるのも当然であろう。
まぁ、それはともかく、坂口弘の手記に描かれた四名の同志の総括において、どうしても気になってしまうのは彼らの思想よりも理屈よりも「エロスに対する強い嫌悪感」だ。この傾向は総括の主導者であった森恒夫と永田洋子の共通点であり、「革命戦士としての自覚を問う」などといった理論武装よりも、むしろこの「エロスへの嫌悪感」の共有こそが両者を結びつけ、同志のリンチ殺害にまで発展していったのだと思わざるを得ない。次第にエスカレートしていく一連の「総括」の最初のきっかけとなったのは永田洋子による同志の遠山美枝子批判であったようだ。その際の永田洋子の批判は「遠山が射撃訓練中も指輪をしたままである」「化粧をしたり髪を伸ばしたりしている」というもので、明らかに彼女の「女性顕示」的行為への批判である。
続いて、最初のリンチの対象となる加藤能敬と小嶋和子の場合は「ふたりが接吻していた」ことが永田洋子によって問題とされる。もっともこれは坂口弘、坂東國男、吉野雅邦の記憶であり、永田洋子と森恒夫は小嶋が加藤のセクハラ行為を訴えたことがきっかけと言っている。まぁ、「接吻」にせよ「セクハラ」にせよ、間違いなく「エロス」的行為であり、それに対する嫌悪感がリンチを決意させた事実は同じである。三人目のリンチ被害者にして最初の死亡者である尾崎充男に関しては、エロス的見地ではなく彼の思想性が問題視されたらしいが、次の進藤隆三郎は「金に対する執着」「逃亡の意思」、そして「女性問題」が非難の核となった。またしても「エロス嫌悪」が顔を覗かせる。同志の女性問題など、革命とは何の関係もないではないか。
森と永田が徹底的にエロスを排除しようとしたのは何故だったのか。永田に関しては、そもそものきっかけとなった「永田vs遠山」の対立を読み解いていくことで理解ができる。「女」を捨てることが女性解放だと思った永田と、「女」であることを肯定したうえで男女平等であろうとした遠山の対立。次回は、この問題をもう少し掘り下げたい。
連合赤軍とエロスについて考える その3[#「連合赤軍とエロスについて考える その3」はゴシック体]
永田洋子は、革命運動の指導者として尊敬していた川島豪から強引に性的関係を迫られて屈し、その後も投獄された川島からことあるごとに「俺の女」扱いされて、かなり忸怩《じくじ》たる想いを抱き続けていたようだ。また、彼女の属していた革命左派は女性闘士が多く、フェミニズム的意識にも自覚的であった。
こうした背景から、永田が「能動的な革命戦士でありたい」と願っている気持ちとは裏腹な現実……すなわちセックスにおいて「受動的立場」を強いられ、結局は男たちに抑圧されるという「女」の性的現実に、心の底で怒りと屈辱を感じていたことは確実であろう。おそらく永田は、自らの「女」を封印することで、男と対等な立場を持ちたいと思ったのではないか。ストイシズムを美徳とする革命戦士的見地からも、「女を捨てること」は正しく思えたに違いない。つまり、髪を伸ばしたりチャラチャラ着飾ったりするのはプチブル的であり、すなわち「女」を顕示するのは反革命的である、と。
が、その一方で彼女には、男に対する「甘え」もあった。山岳ベースにおいて彼女が森恒夫に圧倒され、後に傾倒していったことは否定できない事実だし、裁判中も塩見孝也や植垣康博など、その時々に「支えてくれる男」を必要としたのは、やはり彼女の「男に承認を求めてしまう」体質を物語っている。自分を抑圧してきた男たちを憎みながら、彼らの承認を必要とする自分もいる……永田にとって、そんな自分自身の傾向は容易に認め難いものであったろう。
そこに、赤軍派の遠山美枝子が登場する。彼女は身分的には森や坂東に従属する一兵士とはいえ、彼らより遥かに地位のある赤軍派最高幹部・高原浩之の「妻」であることから、周囲の態度も特別扱いで、永田の目には「まるで女王様」のごとく振る舞っているように見えた。このあたりの永田の怒りや嫌悪感が、後に「ブスの僻《ひが》み」などという失礼千万な読み解き方をされるワケだが、問題は容貌などではなく、永田が捨てようとした「女」を遠山は何の屈託もなく利用し、「最高幹部の妻」になることで組織内に実力以上の地位を確保している、という、この一点なのである。
「女」という性を、男に抑圧されたり屈服を強いられたりすることもなく、いや、たとえ抑圧されても無自覚に受け容れ、積極的に利用して生きているかのように見える遠山。髪を伸ばし指輪をはめ、永田が男と対等になるためにあえて捨ててきたものをすべて体現して、しかも、それゆえに得た地位で赤軍派の男たちから一目置かれる遠山。彼女の存在を許すと、永田がこれまで戦ってきたことの意味がユルユルになる。加えて、永田がこっそりと自分の中に内包していた「男への甘え」に対する自己嫌悪が、この遠山という女に投影され、内部の敵が外在化してしまったワケである。こうして、悲劇は勃発した。
連合赤軍とエロスについて考える その4[#「連合赤軍とエロスについて考える その4」はゴシック体]
永田洋子の遠山美枝子的な存在に対する嫌悪を、私は自分の中にも容易に見出すことができる。「女」を売り物にしてのし上がっていく女たち……それは、いつでも私の敵だった。「仕事に『女』を使わない」と決めたのはあくまで自分の選択であるにもかかわらず、他の女たちがそれを使っていると「ズルい」と感じてしまう、この気持ちは何なのだ。使いたければ使えばいいじゃないか。使いたくないのなら、使っている者に妬《ねた》ましさなど感じる必要はないではないか。
ストイシズムの落とし穴は、ここにある。禁欲とは、欲望があるからこそ、それを封印する行為である。私には「女を武器にして思いっきり甘い汁吸いてぇ〜」という欲望が嫌になるほどあるのだ。それは「甘い汁を吸う」という現実的利益への欲望でもあり、同時に「女としての価値を確認できる」というナルシシズムの欲望でもある。前者だけなら封印もできようが、後者の欲望はそうそう簡単に封印できないのだ。何故だか知らんが我々は、「人間としての価値」「職業人としての価値」が認められてもなお、「女としての価値」が認められなきゃ不全者であるという頑《かたく》なな思い込みから自由になれない。そして「女としての価値」を承認し裏付けてくれる存在は「男」であるから、「男の欲望の対象になること」を憎みながらも欲してしまうという、がんじがらめの状態に陥ってしまうのである。
極論すれば男たちは、チンコさえ勃てば「男としての価値」を立証できるが、女は性器さえ使えればいいというものではなく、男から欲情されて初めて女の価値が保証されると考えられているのだ。
たとえば鈴木宗男みたいなオヤジを見て女たちが「あんな男に欲情できないわ」と言ったところで宗男は痛くも痒くもないだろう。何故なら彼はその地位や金で女を思うままにすることができ、その行為をひとつも恥じてないからだ。地位や金は、いわば彼の「男の甲斐性」に含まれる。
が、一方、不細工なババアが地位や金を楯に男を食い放題、なんてぇことになると、世間の目はかなり厳しくなる。「ババア、みっともねぇ」と異性からも同性からも唾を吐きかけられるのだ。地位や金は「女の甲斐性」にカウントされない。女は、男に欲情していただいてこそ女、なのである。私がホストに金を注ぎ込んでいた頃、「女は男に金使わせてナンボでしょ。男に金使う女なんて、みっともない」という意見はかなり目立った。そういうもんかなぁ、と哀しく思ったものである。男が言うんならともかく、女が言うんだもんね。
同様に「仕事一筋で女にわき目もふらぬ」男は肯定されても、女がそれだと「潤いがない」だの「寂しい女」だのと必ず言われる。女は男に肯定されなければ価値がないのか……永田洋子の絶望を、私もまた感じている。
三角関係とは、誰と誰の恋愛なのか?[#「三角関係とは、誰と誰の恋愛なのか?」はゴシック体]
先日、知り合いの女性作家が言った。
「じつは私、3Pをしたことがあるんです」
「へぇ〜。私はないなぁ。どうでした?」
「あれはねぇ、結局、その男たちがお互いに欲情していただけで、私は両者の単なる媒介物に過ぎなかったんだと思います」
「どういうこと? そいつらはホモだったんですか?」
「いや、自分ではホモだとは思ってないんですよ。とても仲の良い親友同士なんです。だからこそ、私を必要としたワケですね。本当は互いにホモセクシュアルな感情を抱いているくせに、それを認めたくない。そこで私を巻き込み、3Pという形をとって、互いの欲望を実現させたんだと思いますよ。ふぅ」
「なるほど、3Pなら言い訳も立ちますもんね。ひとりの女を共有することで、ますます親友の絆が深まる、とか何とかね。じつはホモセクシュアルな絆が深まってるだけなのに」
「そうなんですよ。私は、あの場で『女』でもなきゃ『人間』ですらなかったのです。両者の間の潤滑油というか、まぁ、ローションみたいなもんですわ」
「わははは! 人間ローション! それ、どうよ?」
「まぁ、私は私で興奮したし気持ちよかったんで、べつにいいんですけどねぇ」
人間のセックスというのは、つくづく複雑なものである。私は友人の男を盗ったことはないが、友人の片想いの相手を好きになってしまったことがある。中学生の頃だ。その時はわからなかったけど、今にして振り返ると、べつにその男が好きだったワケではなく、むしろ友人に対して同性愛的な感情を抱いていたのだと思う。私は彼女と「男」を共有したかったのだ。その男を介して、彼女と密につながりたかったのである。
憎い女友だちの「男」を横取りする、あるいは、はからずもひとりの「男」を共有するはめになってしまった女たちが互いに憎み合う、といった話は、世の中にごろごろ転がっている凡庸な構図である。が、「憎しみ」というものが「愛情」と背中合わせになっていることを考えれば、ふたりの女の間に存在する「憎しみ」は「屈折した恋情」の一表現なのかもしれない。私の別の友人は、自分の留守中に夫の愛人が家に来て風呂に入り、あまつさえ自分の愛用しているボディローションまで使ったと腹を立てていた。その時、私はこう言った。
「普通は不倫相手の妻の持ち物なんかに触らないよ。ましてや素肌につけるボディローションなんて、絶対に身につけない。不愉快だもん。その女はきっと、あんたに特殊な感情を抱いてるんだと思うな。憧れとか思慕とか呼んでもいいような気持ちだよ。その女があんたの夫の愛人やってるのは、あんたが目当てなのかもしれない」
「まさか」と言って友人は笑ったが、世の中にはそんな恋もある、絶対にあるのだ、と、私は思う。
自分好きの女にエロスは発生しないのか?[#「自分好きの女にエロスは発生しないのか?」はゴシック体]
さて。長らく続いたこの「色問答、フェロモン道」(注:連載当時のタイトル)も、いよいよ今回で最終回となった。最初の頃こそ「闇フェロモン」などと色っぽい話を語っていたが、そのうちに何故か連合赤軍の話になったりして、色気路線から大きく逸脱していったのは、やはり私という女に「エロス」が決定的に欠けている証拠なのかもしれない。
エロスのない女というのは、もうすでに「女」ではない(男もね)。私にエロスが欠けているのは、私がそれを封印してきたからではないか、などと思って、あえてエロスをテーマにしたエッセイを書こうと努力してきたのだが、どうやらそうでもないようである。べつにエロスを封印していたのではなく、そもそもエロスに縁がないっつーか、エロス的感受性みたいなものを一切持ち合わせていないようなのだ。
しかしまぁ、私だって努力はしたのである。たとえば今年(二〇〇三年)の初め、六万五千円も払って歌舞伎町のソープに行き、お姉ちゃんと乳繰り合ったりもしたのだ。しかし、あんまりエッチな気分にもならず、頑張ってくれてるお姉ちゃんに対して申し訳ない気分になってしまい、しまいにゃイッたふりまでしちゃったりして、私もまぁ何に向かってサービスしてんのか自分でもわからなくなってしまった。
ねぇ、私、何がしたいの(笑)? 自分に対する罰ゲーム?
そもそも私は、男よりも女に興味のある人間だ。とはいえ、性的嗜好は至極まっとうで、同性愛的なものに憧れや好奇心はあるものの、現実的に性欲や恋愛欲が向かう対象は常に「男」で、いわゆるノンケなのである。だが、日常生活において深く愛憎を感じ共感を求め一体感を持ちたがる対象は、必ず「女」。「この人は何を考えているのだろう。この人の脳の中に入ってみたい。この人の人格を我が身に憑依《ひようい》させてみたい」と強烈に関心を寄せる相手は常に「女」たちなのだ。
恋愛中の相手(男)に対してすら、ここまで興味を持つことはない。私が恋愛相手に関心を寄せるポイントはただ一点、「私のことを本当に愛しているのか」だけであり、それ以外の男の胸中などまったく意に介さないフシが確かにある。一方、女たちに対しては、相手が私にどんな感情を持っているかよりも、むしろその女の自意識だとか心の闇だとかを覗き込みたくて、それを我が事として追体験したくて、躍起になってしまう。もはやこれを「恋情」と呼んでもいいほどの執心ぶりなのである。が、「関係性」に執着しているワケではないから、その女が私を嫌いになっても避けたりしても全然気にしない。遠くからストーカーのように見守るまでのことだ。
このような性向から推し量っても、私にはエロス的感受性が欠けている。女の闇、ひいては自分の闇に執着している限り、私にフェロモンは発生しない。それが、この連載の結論である。悲し〜っ!
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文庫版あとがき[#「文庫版あとがき」はゴシック体]
この本に収められているエッセイは、だいたい四〜五年くらい前に書いたものである。私がホストにハマっていた頃のことだ。恥ずかしいなぁ〜。いや、ホストにハマってたことが恥ずかしいんじゃなくて、「私にはエロがないから、意中の男(←要するに、当時ハマってたホスト)が本気になってくれないんだわ」などと考えてるところが恥ずかしいのだ。エロの問題じゃなかったんだよね。今ならわかるけど、当時は愛欲に目が眩《くら》んでて、わからなかったの。
あと、当時の私の交友関係に、かなり影響されている部分も目につく。数年前、私の周囲には「男のことなどろくろくわかってないのに、わかったような口をきく女たち」が多く、私は彼女たちの言葉にいちいち驚いたり、目からウロコが落ちたりしてたのであるが、今にして思えば「んなワケないじゃん!」的な話も多々あって、「私の目から落ちたウロコを返して〜っ!」てな気分である。最近、ドライアイ気味なのは、あの時に無駄にウロコを落としてしまったせいに違いない。
たとえば「肌色のオバチャンブラの肩紐」に男がそそられる、という話。その場には私も含めて五人の女がいたのであるが、私以外の四人が全員、「オバチャンブラの肩紐、エロいじゃないですか〜」と主張し、私に多大なカルチャーショックを与えたのであった。が、その後の調査により、やはり「いやぁ、オバチャンブラはマズイっしょ」という反応が男女を問わず大多数を占めたため、「そーか。そーだよな。やっぱ、あの場にいた女たちが変わり者だったんだ」という結論に、今では達している。確かに「オバチャンブラの肩紐」にそそられる男は存在するだろうが、それはマジョリティではなく、やはりブラの紐など見えないに越したことはないのである。「見せブラ」としてデザインされた商品は別としてね。
それにつけても不思議なのは、あの場にいた四人の女たちが、何故、あそこまで自信満々だったのか、という謎である。その場には、現在でも交友のあるくらたま(倉田真由美)がいたので、先日、彼女にそれとなく尋ねてみたら、「え〜、そーだっけ? でも、昔の私は、かなり偏った価値観を持ってたよ〜」という返答であった。そーだよね。当時のくらたまが「男というものはですねぇ〜」などと語る時の「男」なるものは、それまで私が付き合ってきた「男」とは別種の「男」たちであり、我々はそこに気づかず話をしていたのである。女にもいろんな種族がいるように、男にだって多様な種族があり、その文化や価値観や棲息圏は、それぞれまったく違うのだ。くらたまの周囲にいた「男」と、私の周囲にいた「男」は、たとえば「水棲生物」と「陸棲生物」くらいの違いがあったのよ。極論すれば、くらたまの周囲の男たちは「オバチャンブラOK」の男たちであり、私の周囲の男たちは「オバチャンブラNG」の男たちだった。なのに我々は、自分の世界観がきわめて狭いことに気づかないまま、「男というものは……」などという大雑把な論議を重ねていたのだ。いやぁ、お恥ずかしい限りである。
ま、そんなワケで、現在の私に言えることは、「世の中にはいろんな種族の男がいるから、どんな女にも、それなりのニーズはありますよ」という、毒にも薬にもならん結論だ。しかし、世の中の真実というものは、往々にして毒にも薬にもならない曖昧で陳腐なものなのである(と、思う)。ちなみに最近の私は、もはや「フェロモン」なんてぇもの自体、諦めてしまった。そんなもの、私の人生には必要ないみたい。いつでも最強装備の自分でいたい、なんて野望を抱くから、そんなものが欲しくなっちゃうのよね。今では美容整形で偽物のオッパイまで装着しちゃったけど、べつに私自身はちっともエロくなってないし、男にも相変わらずモテないわ。それでいいのよ。私は、私以外の者にはなれない。それがわかっただけでも、身体を張って悪足掻きした甲斐があるってもんだわ〜。
二〇〇六年十二月
[#地付き]中村うさぎ
単行本 二〇〇三年八月 フィールドワイ刊
〈底 本〉 文春文庫 平成十九年二月十日刊