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さすらいの女王
中村うさぎ
目 次
巨乳で迎える正月[#「巨乳で迎える正月」はゴシック体]
[#この行2字下げ]巨乳で迎える正月 神は味方か敵なのか いい気な女 寒い宮殿 空っぽの胃袋と空っぽの自己 地獄で出会う自分 美容整形で得たもの 事実を認めよ 夫婦って何? 喋ります 他者嫌悪システム 渋谷区へ遷都 もうひとりの自分 望むところじゃ──っ!
遺伝子、恐るべし……[#「遺伝子、恐るべし……」はゴシック体]
[#この行2字下げ]子宮を取る? 女とは結局…… 王子様はどこに 知り合いの死に想う 遺伝子、恐るべし…… 自分が見えた! 自分の遺伝子を飾っておきたい──か? 愛しているのは「幻想の自分」 子はかすがい? 避妊を誓う理由 犯罪者の卵!? 生田博士に遺伝子を学ぶ(1) 生田博士に遺伝子を学ぶ(2) 生田博士に遺伝子を学ぶ(3) 夫婦≠フ定義はそれぞれ 「言葉」と「概念」の扱いに注意せよ
医者の「大丈夫」に腹立つ![#「医者の「大丈夫」に腹立つ!」はゴシック体]
[#この行2字下げ]ストレス発散旅行 愛の不全感による自己否定 恋愛したい 気功を受けた翌朝…… 医者の「大丈夫」に腹立つ! 自分の身体に対する「義務」 メッセージを探しに 「悪夢の女」との戦い フラレた私への夫の言葉 三カ月おきの選択 パワーゲーム好きの女
私、癌なんですか?[#「私、癌なんですか?」はゴシック体]
[#この行2字下げ]血液検査の結果 私、癌なんですか? 騒いだって仕方ない もしも癌だとしても 生きることの意味を考える 残高「0」円! 情けない…… 見返してやる 残された者にとっての「死」 駆けずり回る年の暮れ ゾクゾクする快感を求めて 私のお部屋に来て! 「今は書けない」理由 鬱も吹き飛ぶ話 勝負下着大量購入
あとがき[#「あとがき」はゴシック体]
文庫版あとがき[#「文庫版あとがき」はゴシック体]
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巨乳で迎える正月
巨乳で迎える正月[#「巨乳で迎える正月」はゴシック体]
気分一新、タイトルもレイアウトも文字の大きさもリニューアルした女王様のお部屋である。新タイトルは「さすらいの女王」、しかし内容は旧態依然……ということになったら申し訳ないが、書いている人間が同一人物なのだから、こればかりは如何ともしようがないではないか。急にキャラを変えられるなら、私もこんな人生歩んでないよ。
さて。それでも新装開店なのであるから、いちおう女王様も、気分だけはどことなくフレッシュなのである。この原稿を書いているのは、じつは豊胸手術を四日後に控えた十二月十五日(二〇〇四年)なのであるが、掲載される頃にはめでたくDカップくらいの巨乳(当社比)となっているのであろうと想像すると、嫌でもフレッシュな気分になるではないか。巨乳で迎える正月……すごいわ、四十五年の人生で、そんな正月、初めてだわ。ちなみに元日早々、女王様は作家の岩井志麻子嬢とともに『おすぎの美食倶楽部』というテレビ番組に出演する予定であるが、その収録は手術前なので、「貧乳女王の最後の映像」をご覧になりたい方は、どうぞ。
振り返れば、二〇〇二年の秋に顔面にメスを入れ、プチ整形から初めての本格整形を体験するにいたってから約一年後、まさか自分がオッパイにシリコンパックを入れようとは思いも寄らなかった。「次はオッパイだね」なんて口では言ってたけど、あくまで冗談のつもりだったのである。オッパイが欲しいなんて、それほど切実に願ったことは若い頃から一度もない。あるといいなぁ、という程度の漠然とした願望であったのだ。が、四十五歳の女王様は、リスクを冒してまで豊胸しようとしている。若い頃ならともかく、今さらオッパイが大きくなったからって、何の得があるだろうか? べつに喜んでくれる男もいないのに。
で、思うのだが、もしかすると女王様が二十代だったら、どんなチャンスが到来しても「豊胸手術」に踏み切ることはなかったのではないか。この年だからこそ、「年々、忍び寄る老い」への恐怖と「女としての賞味期限切れ」という過酷な現実からの逃避のためにオッパイなんぞを欲しがっているのだ、という気がする。間違いなく、「他者へのアピール」よりも「自己確認」的な要素が強いのだ。こんなことをやったら男にモテるなんて、さすがのバカ女王様も本気で思っちゃいない。どうせ「綺麗な胸ですね。ドキドキしちゃう」なんてお世辞を言われたところで「そーですか? これ、整形ですよ」などと答えて相手が退《ひ》くのを楽しむに違いないので、もうハナから男に相手にされたいなどと思っての整形ではないのである。じゃあ、なんのための整形かというと「胸の大きいあたし」を「あたし」が楽しむための整形なのだ。すべては、自分のために。我が愚かしきナルシシズムのために。
とめどなくほとばしるナルシシズムの欲求と、自己確認の欲望……それに踊らされる自分がいったいどこまで行くのか、いつになったら女王様の流浪の道行きは終焉《しゆうえん》するのか。これが、「さすらいの女王」という看板で新装開店したこのコラムのテーマである。
民よ、さすらい続ける女王様を、これからもよろしくお願いいたします。
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神は味方か敵なのか[#「神は味方か敵なのか」はゴシック体]
女王様は、ナルシシズムの下僕である。
「何かしらの才能を認められた女になりたい→作家という職業の選択」、「お洒落でハイソな女になりたい→ブランド物買い漁り」、「若くてハンサムな男にチヤホヤされたい→ホストクラブでの遊興」、「いつまでも若々しくグラマーな女になりたい→整形手術」……と、このように、自分に何らかの付加価値をつけたがるナルシシズムの欲求にいちいち愚直に応えた挙句、「借金」だの「依存症」だのを抱えて周囲から「イタい女」と認定される、というオチをつけ、結果的には「自分に価値をつける」ための行為がすべて「自分から価値を剥奪する」行為に成り下がる、まるでイソップ童話みたいに寓意に満ちた人生を歩み続けているのだ。
私の「主人」であるナルシシズムは、いつになったら満足してくれるのだろうか? 「もう、これでいいよ」と、いつになったら言ってくれるのだろうか?
秋里和国《あきさとわくに》という女流漫画家の作品の中に、クリスチャンであるアメリカ人青年が自殺願望を仄《ほの》めかす主人公(日本人の医者)を叱咤して「人は神がもう死んでもいいというまで生きなけりゃだめなんだ!!」と叫ぶシーンがある。その青年は後に、たったひとりの妹を遺したまま、爆死してしまう(舞台は中近東なのである)。そして主人公は、青年の遺体に向かって「神がもう死んでもいいといったのか?」と問いかけるのだ。この作品は、若かりし女王様の胸にズシンと重い物を落とした。女王様に、「神」はいない。その代わり、ナルシシズムという名の「偽神」が、女王様に向かって飽くことのない奉仕を要求するのである。
地位も年収も将来性もある男と結婚し、子どもを私立の学校に入れ、高級マンションや瀟洒《しようしや》な一戸建て住宅で何不自由なくハイソな暮らしをしているように見える主婦が、出会い系サイトで知り合った正体不明の男とこっそり会ってセックスする。もしも夫や知人にばれれば、今まで自分が獲得してきたすべての物が泡沫のごとく消え去るというのに。いや、夫や子どもを失うだけならともかく、得体の知れない男に殺される可能性すらあるというのに。彼女たちは、そんな危険を冒してまで、いったい何を確認したいのか。自分はまだ「女」である、という証明か。「ハイソな奥様」という地位は、彼女たちの女の価値を裏付けてくれる物ではないのか。少なくとも女王様よりは遥かに「女としての勝ち組」だと思うのだけれど……。
あるいは、総合職のキャリアウーマンとして華々しい成功を収めながら、売春婦として夜な夜な街に立ち、僅か五千円で身を売った挙句に殺害された女もいる。彼女は、そのような行為によって、いったい何を確認したかったのか。いかなる神が彼女たちに「出会い系サイトで彼氏を獲得せよ」とか「渋谷の街角で売春せよ」などという指令を与えるのか。満たされぬ性欲ではない、満たされぬナルシシズム、満たされぬ自己確認欲望が、彼女たちを危険きわまる「さすらい」に追い立てるのではないか。
民よ、さすらう女たちはすべて「女王様」の化身である。我々の「神」は、我々の敵なのか、味方なのか?
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いい気な女[#「いい気な女」はゴシック体]
民よ、新年はいかがお過ごしであったろうか。女王様にとって、今年は輝かしき「巨乳元年」である。ま、巨乳ったって、たかだかCカップ〜Dカップ程度なんですけどね。これまでAカップの貧乳に四十五年も甘んじてきた女といたしましては、涙がこぼれるほど、もったいねぇ乳でございますだ。
しかも、だ。こればっかりは天然ではなくサイボーグの強みと言うべきか、姿かたちの美しさは完璧。普通、四十五歳にもなったら、どんな美巨乳もだらしなく垂れてくるものであるが、女王様の作り物のオッパイはこんもりとお椀形に盛り上がり、そこだけ二十代の張りを保っているのだ。腹は紛れもない四十代だがな……ああ、痩せなきゃ。
さて。女王様のこのたびの豊胸手術は、昨年の十二月十九日に行われた。点滴で睡眠薬を注入し、眠っている間に局部麻酔をかけて腋の下を切開する。以前のフェイスリフトアップ手術時と同様、半分眠った女王様は、自白剤を打たれたも同然の状態。カメラマンや編集者の立ち会いのもと、マッド高梨院長のセクハラ質問に、赤裸々に答えたのであった(記憶にないが)。
「うさぎさん、胸が大きくなったら、誰とセックスしたいですかー? やっぱり、ホストのHくん?」
「H〜? あんな男、もう結構よ。うざいもん」
「へぇ〜。じゃあ、誰か他に候補はいるの?」
「そうねぇ……特にいないけどぉー、TとかN(いずれもホストの名)なら、ま、やらせてあげてもよろしくってよ」
な、何が「やらせてあげてもよろしくってよ」だぁーっ!!! おまえ、何様のつもりだよっ! さすが、日本一の勘違い女・中村うさぎ女王陛下。シリコン入れる前から、既に「巨乳自意識」満々かぁ──っ!!
と、その場にいた全員が心の中でツッコんだそうであるが、女王様自身もそれを後に聞いた時には激しく汗顔の至りであった。
うへぇ、恥ずかしい〜! 薄々気づいてはいたけど、私ってやっぱり、すげぇ傲慢な女だったのね。「やらせてあげてもよろしくってよ」だって。フツーじゃないよ、この発言。これが他人だったら、女王様、後ろから飛び蹴り入れるね。
で、手術が終わって覚醒した後も、まだ睡眠薬で軽くラリっていた女王様、タカナシクリニックのベッドの上で頼まれてもいないのに様々なセクシーポーズを取り、カメラマンに「撮れ、撮れ」と命令したらしい。じつは、この部分も女王様の記憶からすっぽりと抜け落ちていて、高梨院長から聞いた時には自分のアホさに眩暈《めまい》がしたほどであった。
すげぇ! いい気になってるよ、この人ーっ! たかだかオッパイが大きくなった程度で、天下取った気でいるよ、絶対ぃ〜〜っ!
そうなのだ。自らを「バカ女」などと称しながらも、じつは「ちょっとくらいは賢そうに見られた〜い」などという薄汚い下心に支配されている女王様は、決して人前で「いい気になってる」様子を見せないよう普段から粉骨砕身の努力をしているのであるが、ひと皮剥けば、これこのように思いっきり「いい気」になりまくっているのである。
民よ、女王様の巨乳元年は、別名「勘違い元年」だ。今年もよろしくな!
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寒い宮殿[#「寒い宮殿」はゴシック体]
現在、我が家の最重要テーマは「越冬」である。この冬を、いかに無事に越せるか、という問題ね。
というのも、我が家にある三台のエアコンのうち二台が壊れ、残りの一台はリモコンがゴミの山に埋もれて行方不明。家の中が汚いから修理屋さんも呼べず、女王様と夫は暖房もない宮殿で、ひたすら厚着にて凍える寒さをしのいでいる状態なのだ。現に今だって、家の中で毛皮のコート着て原稿書いてるの。ゴージャスなんだか貧乏なんだか、自分でもよくわからないわ。
貧乏といえば、今月、久々にカード会社からの請求が四百万円に達し、慌てて各社から前借りして金を掻き集めたものの、どうしても百万円足りずに、買ったばかりの夫のカルティエの時計を質屋に入れてしまった。あと一週間待てば、新潮社から百万円が振り込まれる。それまで時計なしで我慢してくれ、夫よ。暖房もない、時計もない、こんな暮らしをさせて申し訳ない。君の伴侶は、甲斐性があるんだかないんだか、本当にわからん女だ。世間でいうところの「ダメ亭主」は働かないうえに浪費癖があるらしいが、君の伴侶はとりあえず働き者ではあると思う。ただ、稼ぐ以上に遣ってしまうのだから、やっぱりこれは「甲斐性なし」なのであろう。やれやれ。
それにしても、寒さというのは人間の生きる気力を著しく阻害するものである。毛皮を着てパソコンに向かっても、しんしんとした冷気は女王様の指先をかじかませ、キーボードを打つのも一苦労だ。せめて熱い湯に入って身体を温めようと思っても、浴槽の蓋の上には積年の洗濯物の山がどっしりと漬物石のごとく陣取っており、それをば押しのけて僅か三十センチほどの隙間から身体を滑り込ませて入浴を図ったが、年末にシリコン入れて膨らませた乳がつかえて、これまた思わぬ苦労を強いられてしまったのだった。
チッ、巨乳なんて必ずしも効率のいい物じゃないわね。巨根と同じだわ。他人に喜ばれたり羨ましがられたりして初めて存在価値が確認できるけど、他者の視線の介在しない日常生活ではブラブラと重くて邪魔なだけの無用の長物。女王様は顔をしかめ、浴槽の中で身を丸めつつ、「そうだわ。この巨乳の苦労を、貧乳女たちに話してやって自慢しちゃいましょ」と思いついて、風呂から上がるや早速、行きつけの飲み屋に直行したのであったが……。
「へぇ〜、豊胸手術したんだ。何カップになったの? Cカップ? ふぅ〜ん」
息せき切って報告した相手は、元プロレスラーのキューティー鈴木。女王様のCカップを羨ましがるどころか顔色ひとつ変えない彼女に業を煮やして、
「あんた、何カップよ?」
「あたし? Dカップ」
「…………」
ムッとして押し黙った女王様に向かって、その場にいた女たちが次々と名乗りを上げる。
「わたしはEカップだよ〜」
「あたし、Fカップでーす」
「な、何だよっ! てめーら、全員、デブじゃん!」
「うわぁ、聞いた? すっごい負け惜しみ〜」
うっがぁ〜〜っ、悔しい〜〜っ!!! シリコン入れても負けてる女王様、寒いし貧乏だし、今年はホントにいい事なしだっ!!
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空っぽの胃袋と空っぽの自己[#「空っぽの胃袋と空っぽの自己」はゴシック体]
深夜、空きっ腹を抱えて近所のカフェに入る。メニューを眺めているだけで涎《よだれ》が垂れそうになり、「ああ、これも食べたい、あれも食べたい」と、幸福な逡巡《しゆんじゆん》にしばし身を浸す。
ところが、いざ注文しようとすると、頭の片隅から聞こえてくる荘厳なる声が私を制止するのである。
「痩せよ!」と。
その声を聞いた途端、女王様はハッと我に返る。幸福なる逡巡に浸っていた我が身はザバリと冷水を浴びたように硬直し、メニューに並ぶ美味しそうな料理は恐ろしき脂肪の怪物のイメージと化して唸り声をあげつつ襲いかかってくる。
空っぽの胃袋は暴れながら泣き叫ぶ。食いたい、食いたい。ダイエットの神は剣を振り上げて声高に命じる。痩せよ、痩せよ。
「食いたい! 食いたい!」
「食うな! 食うな!」
そのせめぎ合いは毎夜繰り広げられ、どちらが勝つかは決まっていない。たとえその場はダイエットの神が勝っても、数時間後に空腹の悪魔から手酷い逆襲を受け、煎餅を貪《むさぼ》り食ってしまうこともある。
女王様は両者の間に挟まれて揉みくちゃにされつつ、ふと思うのだ。ああ、この想いは、以前に何度も体験した覚えがある。買い物の悪魔と理性の神が戦っていた、あの頃。
「欲しい、欲しい、欲しい」
「買うな、買うな、買うな」
戦いが熾烈《しれつ》であればあるほど、悪魔が勝利した時の暴走ぶりは常軌を逸した。あの際限なき戦いと暴走を、私は今、ダイエットで再現しているに過ぎない。
しかし、それは一見すると「欲望」と「理性」の戦いという同じ構図に見えるのだが、よくよく観察してみれば、神と悪魔の立場が逆転していることに気づくのである。つまり、「欲望vs.理性」ではなく、これは「ナルシシズムvs.自己保存欲求」の戦いなのだ。
ブランド物が欲しい、高価な物で着飾って周囲の羨望の視線を集めたい、というナルシシズムの声が、私の中に浪費の悪魔を産み出した。それに対して「買うな」と命じる神は、破滅を恐れる「自己保存欲求」の声であった。
一方、ダイエットの場合はどうか。私は自分が健康に悪いほど肥っているわけではないことを重々承知している。それでも「痩せよ」と命じる神は、スリムなボディラインで他者の羨望の視線を集めたいというナルシシズムの声なのだ。そして、その神に対して反抗し、思いのままに食いたがる悪魔は、私の体力を維持しようとする「自己保存欲求」の化身に違いない。
そう。買い物|嗜癖《しへき》の頃の私にとって「欲望の悪魔」であったナルシシズムは、ダイエットにおいては「理性の神」を装っている。まるで「食べたい」という低劣な欲望と戦う謹厳なる正義のような顔をしているが、その正体は「痩せて美しいと思われたい」という浅はかなナルシシズム。「他者の目にどう映るか」を至上価値とするおまえは、食欲を抑圧して痩せろ痩せろと命じ、物欲を刺激してブランド物を買い漁らせ、結果、本来快楽であるはずの食事も消費も何もかも悪夢の戦いに変えてしまったのだ。
ナルシシズムとは何か。それは、他者の視線を満たすことだけを欲求する空っぽの自己なのである。
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地獄で出会う自分[#「地獄で出会う自分」はゴシック体]
人から認められたい、賞賛されたい。同性からは羨望され、異性からは欲望され、誰からも好かれるパーフェクトな人間になりたい。そのためには美しくあらねばならず、センスもよくなくてはならず、知性と才能を発揮できる何かしらの表現手段をも持っていなければならない。
このような不可能とも言えるほど過剰なナルシシズムの欲求を満たすため、女王様はありとあらゆる愚行と浪費に身をやつして来た。女王様にとって大切だったのは、自分が自分をどう思うか、ということよりも、他人が自分をどう思うか、という判定だったのである。
ナルシシズムの欲求とは、他者の肯定に満たされることで初めて自分を肯定できる、言い換えれば、他者に肯定されなければ永遠に不全感を伴う「空っぽの自己」の表れなのだ、と、ようやく今にして、女王様は思う。そんなこと誰でも知ってらぁ、何を今さら得々と言ってやがる、と嘲《あざけ》る賢人も数多くいらっしゃるであろうが、私のような愚者は自分で地獄を見ないことにはそれを実感できないのである。
そして、そのような「空っぽの自己」に苦しめられている人間が女王様ひとりなら何も問題はないのであるが、「他者の視線を通してしか自分を規定できない」不安定な自意識に揺れ動いた挙句、自分の身体まで自分の物として認識できなくなってしまう女性たちが多く見受けられることに、他人事とは思えない痛みを感じてしまうのであった。
自分の身体が、もはや自分の物ではなくなる……それはどういうことかというと、たとえば安野モヨコという漫画家の『脂肪と言う名の服を着て』という漫画を読めば、そこに私の言う「女の自意識とボディイメージの闇」がリアルに描かれているのである。
「太ってたら、ずっとバカにされ続けるんだ」と考えたヒロインは、痩身エステに通い、食べ吐き行為を繰り返して、急激に痩せていく。ところが、痩せた彼女を周囲は受け容れるどころか、女友達に「気持ち悪い」と罵《ののし》られたり恋人に捨てられたりして、ヒロインは周囲から散々な拒絶に遭うのだ。その挙句、「私が太ってないと、周りの人が安心しない」と考えた彼女は再び元の肥満体に戻り、痩身エステの女店長から「あきれた! あなたの身体なのよ!」と言われる。私は、この女店長の台詞こそが、この作品の中の白眉であると思うのだ。
他者の視線を通してしか、自分の身体が「痩せているべきか、太っているべきか」を判定できないヒロイン。どれくらいの体型が自分にとって快適であるか、自分の身体感覚としての適正体重は何キロ程度なのか、もはや彼女には実感できない。実感できるのは、他者の視線だけだ。だからこそ彼女は適度なところで踏みとどまれず、極端に痩せ細ったり過剰に太ったりしてしまうのである。
諸君、これは彼女だけの問題であろうか。少なくとも女王様には「他人事」と思えない。何故なら女王様もまた、他者の目に映る自分のボディイメージにこだわるあまり、自らの肉体に苦痛を課してまで「美容整形」するバカ女だからだ。その結果、女王様が何を得たか? 次号は、それについて語りたいと思う。
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美容整形で得たもの[#「美容整形で得たもの」はゴシック体]
自分の身体が自分の物ではなくなる……「美容整形」とは、まさに、それを自覚的に実践する行為である。
女王様の「顔」は、もはや「自意識の延長線上にある」という意味での「自分の顔」ではない。目の形にも鼻の高さにも顔の輪郭にも手を加えたこの顔は、もはや「タカナシクリニックの作品」であり、「本来の私」ではない。したがって、ブスと罵られようが、美人と褒められようが、その評価は高梨院長の腕前に帰するものであって、「私という人間のカタチ」に対する評価ではないのだ。
「お綺麗ですね」と褒められたら、「これ、作り物ですからねぇ」とニッコリ笑って答える。その瞬間、女王様の全身に、えもいわれぬ解放感が満ち満ちるのである。以前は、顔を褒められたら褒められたで、「本気で言ってるんだろうか? お世辞を真に受けて喜んだりしたら、たいそう間抜けに見えるんじゃないか?」などと心の中で葛藤し、何とも居心地の悪い想いをしたものだが、整形後はそんな悶々とした境地からも自由になった。「美容整形」によって女王様は「自分の顔」に対する責任から逃れ、さらに、「ブスだ、美人だ」と判定したがる他者の視線からも解放されたのだ。
むろん、「美容整形なんかしたバカ女」という謗《そし》りが新たに加わることにもなったワケだが、それに対しては「そうですよ。私は美容整形なんかしたバカ女ですよ」と自分で思っているので、自己評価と他者からの評価がずれることもなく、いたって平静な気分で謗られていられるのであった。
人がもっとも傷つくのは、自分でも目を背けている部分を、容赦なく他者から指摘されることである。自分がブスであることを受け容れられるほどの大人物ならともかく、あまり受け容れたい気分になれない私のような人間にとっては、他者から「ブス」と言われることは「おまえには女としての価値がない」と言われたも同然で、全人格すら否定されたような苦痛に結びつくのである。
これは「ブス」だけではなく、たとえば「デブ」であるとか「ハゲ」であるとか、とにかく「容貌に関する誹謗《ひぼう》」すべてに当てはまる、と、女王様は考える。
たとえば「デブ」にも二種類あって、「楽しそうに太ってるデブ」と「苦しそうに太ってるデブ」がいるのである。これは「太りすぎて息が苦しそう」とかいう意味ではなく、「本人の自意識が苦しそう」という意味だ。「私はデブを気にしてませんよーん」と口で言いつつも、じつは「私がデブだからって、皆、バカにしてるんじゃないだろうか。冗談じゃないわ。私はデブだけどモテるし、頭もいいしセンスもいいし、あんたたちにバカにされるような女じゃないんだからね」などと言わんばかりに周囲を睨み回しているデブは、しょせん「他者の視線」から自由になれず、その自意識の息苦しさが伝わってきて、こちらまで苦しくなってしまうのだ。
こういう人は、脂肪吸引でも何でもして、素直に痩せるべきだと私は思う。自分の容貌を背負えない者は、自分を別のものに加工してしまうしかないのである。
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事実を認めよ[#「事実を認めよ」はゴシック体]
「自分の容貌を背負えない者は、自分を別のものに加工してしまうしかない」と、前回、女王様は言い放った。自分でも、ずいぶんと乱暴な言い草だと思う。現代の医学では手の打てないような容貌上の問題を抱えた者はどうすればいいのか、という問いが、当然、ここには立ち塞がるであろうし、それに対して女王様は、正直、返す言葉もない。
しかし、これといった重大な欠陥もなく生まれてきた者が、他人よりも多少見栄えが悪いとか太っているとか、あるいは果てしなく凡庸であるとか、そのような欠陥とも呼べぬような些細な差異にくよくよと悩み、自意識の獄に囚われている状態を、必ずしも「贅沢な悩み」だとか「くだらん煩悶」だとか言って切り捨てることも、女王様にはできないのである。何故なら、その苦しみが本人にとって、やはり苦しみには違いないことを、些細であるからこそ救われない状況でもあることを、女王様は身をもって知っているからだ。
「人間を容貌で判断するのは恥ずべきことである」と、我々は教えられた。「人は外見ではない、内面なのだ」と。確かにそのとおりなのであるが、一方で、人はやはり容貌に左右されてしまう生き物ではないか。そろそろ我々は、そのお恥ずかしい事実を、しぶしぶ認めなければならない時期に来ているのではないか。それを認めず、相変わらず「人を外見で判断するのは低劣だ」と口先だけで言い続けていると、それはすなわち「たかが容貌なんぞで、くよくよと思い悩むなんてバカだ」という理屈になり、己がブスであると悩む人間は「ブスのうえにバカだ」ということにもなって、結果、ますます救われない状況になるのである。
で、バカだと思われたくないばかりに、自分の容貌コンプレックスを必死で糊塗《こと》したり、あるいは克服しきったふうを装ったり、そんな無理なことをするもんだから、その内面が歪みきってしまった女たちを、私は何人も目にしてきた。もちろん、私自身にも、そういう傾向はあったと思う。彼女たちの苦しみは、切実だ。もう、じゅうぶんだよ。やめにしようじゃないか。
「外見ばかり気にかける人間は軽薄でバカだ。人間は内面だよ」などと言ったその口で、他人を「ブスだ、デブだ」と陰口叩く、その矛盾に満ちた底意地の悪い行為をこそ、我々は恥じるべきではないか。
いくら綺麗事を並べたって、人間はついつい他人の容貌を採点してしまうものなのである。それは是か非かといえば非に決まっているのであるが、それでも悲しいかな、我々は「容貌による差別」から逃れられない。他人に差別されながら、自分もまた他人を差別しているのだ。それを否定するのは、カマトトというものである。
以前、容貌による差別を受けていたのは、専《もつぱ》ら女たちであった。だが今は、女たちの選択権が強くなってきたため、若い男たちも、やれ髭が濃いの目が小さいのと思い煩《わずら》っている。いい傾向だ。青年よ、もっと悩め。そして「容貌とは何か」を、女王様と一緒に考えてくれないか。その答が、多くの人間を救うのだから。
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夫婦って何?[#「夫婦って何?」はゴシック体]
このたび、女王様は引越しをすることになった。十年近く住み続けた麻布のマンションを、ついに引き払う決心がついたのである。
もちろん、今回も賃貸マンションだ。数年前にマンションを買おうとして銀行からローンを断られて以来、「自分は社会的に『信用するに足りん人間』という評価を下されたのだ。よし、銀行が金を貸してくれるような人物には、一生ならんぞ!」と決意したのだ。
だから、女王様は生涯、賃貸マンションに住む。組織に所属してない自由業で、そのうえ不動産も持たない人間などますます社会的信用度が低くなるのは承知だが、んなもん、願ったり叶ったりである。そんなことで信用していただかなくて結構ざます。
友人のゲイが、ある時、嘆いていた。
「日本って、まだまだ『結婚制度』に重きを置く社会なのよね。僕の勤めてる会社でも、中途採用の人を選ぶ時に、『この人は三十歳過ぎてるのに独身だから、信用度が低い』なんて理由で、平気で落としちゃうのよ。ねぇ、そんな事が重要なの? 仕事の能力じゃなくて、結婚してるかどうかで判断されちゃうワケなのって、愕然《がくぜん》としちゃうよ」
結婚というものがこれほど形骸化している現状なのに、まだそんな事に拘泥《こうでい》しているのが日本の企業である。とっくに崩壊した家庭を上っ面だけ維持してるような人間でも信用できるのか、独りで毅然と自立して生きている人間は信用できないのか、人間の信用度って何なのさ、と、思ってしまう。マイホーム幻想なんて、クソ食らえだわ。女王様は組織にも属さず、マイホームも持たず、社会的信用度の底辺で誇り高く生き抜いてやるわよ。ま、家庭は持っちゃったけどさ。
小倉千加子氏の『結婚の条件』が売れていると聞く。結婚って何のためにするの、と、今や未婚の女たちは首を傾げている。自分に経済力があるなら、わざわざ結婚しなくていいじゃない? ひとりの男に縛られず、自由に恋愛を楽しみたいし。
ところが、その一方で、女王様の周囲の三十代半ば過ぎの女たちは「仕事仕事で頑張ってきたけど、家に帰ってご飯を一緒に食べる相手が欲しくなって来ちゃった。でも今さら結婚するのは面倒くさいし、いいパートナーいないかな? 恋愛はまだまだしたいから、夫じゃなくて家族が欲しいの」などとおっしゃる。そして必ず、「おたくの夫婦関係は理想だわ。私もゲイと結婚しようかな。お互いに外で自由に恋愛できるし、家では親友みたいな夫婦でいられるしね」と言うのである。彼女たちにとっての「結婚」は働く自分の「癒しの場」作りなのだ。
このような世の中になったからこそ、結婚とは何だ、夫婦って何なんだ、という問題を今一度考え直さねばなるまい……と思っていた矢先に、興味深い仕事が舞い込んできた。NHKの番組のレギュラー司会である。毎週、いろいろな夫婦をゲストに呼んで、「夫婦って何?」というテーマで話すのだという。面白そうだ。やってみようじゃないの。
というワケで、女王様は四月からNHKに出演するのだ。
よろしく、皆の衆。
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喋ります[#「喋ります」はゴシック体]
前回もご報告申し上げたとおり、女王様はNHKのトーク番組で「夫婦とは何か」という問題を検証していくこととなった。『今夜は恋人気分』という番組である。その一方で、もうひとつ、テレビ東京の『女神の欲望《リビドー》』という深夜番組にもレギュラー出演することとなり、こっちは作家の岩井志麻子さんと一緒にやるので、またどんな破天荒な内容になるのか予想もつかず、NHKとは別の意味で楽しみなのであった。
ま、女王様の近況は、このような感じである。テレビに出るのは正直あまり好きではないのだが(私はやはり活字媒体の人間であり、映像は私という人間が考えていることをきちんと責任持って表現できるメディアとは思えないので)、少しでも自分にとって刺激になるのなら、そして、これが一番大きな動機なんだけど、今回の引越しによって跳ね上がった家賃を毎月払っていくために、従来の女王様のポリシーに反するがごとき「レギュラー出演」(しかも二本もな)が新たな現実となってしまったのだった。忸怩《じくじ》たる想いがないかと言えば、嘘になる。しかし、やると決めた以上はやってやろうじゃないの。テレビという媒体に飲み込まれないよう、足元に気をつけて頑張りますわ。
それにしても、女王様の「テレビに対する不安」というのは、いったい何なのだろう。これまでにテレビに出て幾度か不快な想いをした、というのは確かなのだが、その不快さが女王様の何を脅《おびや》かすものなのか、これまではっきりと考えては来なかった。単にテレビという媒体に対して不信感を抱いただけで、それを自身の問題として問いかけたことはなかったのである。
だが、よくよく考えてみると、これは「話す自分」と「書く自分」とのギャップをテレビによって暴露されてしまうことへの不安ではなかったか。文章ならばきちんと推敲《すいこう》できて、納得のいくまで自分を語れるのであるが、女王様におかれましては会話における自己表現能力が致命的に欠けており、結果、思っていることの半分も言い表せないというジレンマに陥ってしまうのである。半端に語られた言葉は、直ちに批判の刃となって女王様に襲いかかり、そして女王様は「自分でも半端だと認めざるを得ない言葉」に責任を十全に負うことができない。よって、文章の時のように「喧嘩上等」といった覚悟ができないので、覚悟のできない仕事はしたくない、と、このような結論に達していたのだと思う。
なのに、女王様はついにテレビのレギュラー番組を引き受けてしまった。苦手な仕事を請ける、というのは、何かとんでもない失敗(番組の失敗ではなく、女王様がのちのち自己嫌悪に陥るような失敗)をしてしまう危険性を孕《はら》んでいる。だが、その失敗をしないと、女王様は己の「会話能力の欠如」が何に起因するものなのか、永遠に向き合えないような気もするのだ。
女王様が「喋り」で自分を表現できないのは何故か? いかなるコンプレックスが女王様を口籠《くちごも》らせるのか?
民よ、番組を観る機会があれば、そのあたりを大いに検証していただきたい。
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他者嫌悪システム[#「他者嫌悪システム」はゴシック体]
腋の下に注射したボトックスが切れてきた……と、このようなことを唐突にボヤかれても、民草においては何のことだか、とんと見当がつかぬであろう。そもそも顔面のシワ取りに使われるボトックス注射を、女王様は何故に腋の下なんぞに打っているのか?
じつは、ボトックス注射を腋の下に打つと、発汗を抑えてくれるのである。女王様は人一倍汗かきで、そのことが激しいコンプレックスになっている。人間だから汗をかくのは当然じゃないか、と思われるであろうが、しかし、パステルカラーの服など着ていると腋の周囲に汗ジミができて変色してしまい、服が台なしになってしまうのだ。いや、べつに服が台なしになってもいいが、それよりも気になるのは「他人に不快感を与えてしまう」という事実である。
民よ、人間の自然な発汗現象を「汚い」と感じてしまう女王様の感覚は、いかにもおかしなものであることよのぉ。だが、そうは言っても、女王様は自分の汗が恥ずかしい。今までに他人から「うわぁ、すごく汗かいてるねぇ」と指摘されるたびに、身の縮む想いをしてきた。べつに相手がそれを汚いと非難しているワケではなくとも、勝手に身が縮んでしまう。そして、明らかに「汚い」という意味で言われたことも何度かあり、それはもう深く深く傷ついてしまうのであった。
「うげっ、汗びっしょり! 気持ちわりぃ〜!」なんて、悪気はなくとも反射的に言ってしまうものである。女王様だって、見知らぬ他人の汗でベトベトした身体に触ってしまうと、「げっ」と思ってしまうのだ。他人に対する生理的嫌悪……これを克服するのは難しい。それを知っているから、自分が汗かきでベトベトしてしまうことを、そしてそれを他人が不快に思ってしまうことを恥じ入り、汗かきの自分への嫌悪がつのるのである。
「人間が汗をかくのは当たり前だ。それを汚いと感じるほうがおかしいし、きわめて不当な差別ではないか。汗かきは差別に屈せず、恥じることなく堂々と汗をかいた身体で歩け!」
と、このような正論を振りかざしても、人間の根源的な「他者への生理的否定感」を払拭することなど不可能である。
人間は他者に対して如何ともしがたい拒否の感情を持っており、体臭や体液や触感(他人の息が顔にかかったりすると、すげぇ嫌ですよね。べつに臭くなくても)や、そういう生理的なものに嫌悪感を抱いてしまう生き物なのだ。何故だか知らんが、そういう「他者嫌悪システム」が奥深く埋め込まれているらしい。そうして、自分が他人を生理的に拒否してしまう気持ちは、そのまま己自身にも跳ね返り、自分の体臭や体液や触感を激しく恥じ入ってしまうはめになるのである。これによって、自意識はますます固く小さく縮こまり、他者との距離はどんどん遠くなっていくのであった。
しかし、これって、かなり最近の傾向ですよね。昔の日本人はもうちょっと他人に対して大らかだったような気もする。皆で箸を突っ込む鍋料理文化なんか見ても、他者への生理的嫌悪が今よりもずっと希薄《きはく》だったに違いないのだ。核家族化のせいかなぁ。それとも逆に人口密度のせい?
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渋谷区へ遷都[#「渋谷区へ遷都」はゴシック体]
このたび、めでたく港区から脱出し、渋谷区へと遷都した女王様である。しかし、めでたいことには金がかかるもので、敷金礼金などの諸費用が約三百万円、引越し業者に支払った代金が約八十万円、合計三百八十万円もの金が遷都に費やされてしまった。おかげさまでスッカラカンの女王様、新しい宮殿には、いまだカーテンも掛かってない。カーテンを買う金がないのである。わっはっは。まさにガラス張りの私生活じゃ!
それにしても、引越し費用の八十万円には驚いた。荷造り御無用のラクラクパックをお願いしたのだが、見積もりの営業マンは我が宮殿に一歩足を踏み入れた時点で軽く絶句し、カシャカシャと電卓をはじいて、
「こんな感じですかねぇ」
「は、はちじゅーまん……」
見積書を覗き込むと『ダンボール(大)百個、(小)百個』などと書かれているではないか。全部で二百個か。どんな大荷物や。さすが女王様、と、自分で自分に感銘を受けたわ。
ちなみに今度の渋谷宮殿には、冷蔵庫も洗濯機も乾燥機もエアコンも食器洗い機も全部ついていて、女王様は手持ちの電化製品のほとんどを引越し業者に引き取っていただくことになった。その引き取り費用だけでも三万円である。物を買うにも捨てるにも、いちいち金のかかる我が日本。もう二度と冷蔵庫も洗濯機も買うもんか、と、心に誓う。冷蔵庫も食器洗い機もまだまだ使える状態だから、引越し業者はこれをリサイクルして売れば、女王様から徴収する引き取り料金と古道具屋への売却代金とでダブル収入となるワケだ。結局、ひとりで損してるのは消費者じゃんか。民よ、理不尽であることよのぉ。
しかし、生来の面倒臭がり屋である女王様は、金を払ってでも電化製品を引き取っていただきたい。自分で処分するのは真っ平だ。よって、自分がラクする分、余分な金がかかるのは仕方なかろう。梱包だって、自分でできないし。
明細を見ると、ダンボール梱包費用、ダンボール購入費用、梱包作業員手当て、などなどで約四十万円となっている。これに運送費だの運送作業員手当てだの不要品引き取り料だの何だのでさらに約四十万円。で、合計約八十万円、と、こうなるワケだ。これが高いのか安いのか適正なのか、女王様には判断がつかん。ただ理解できるのは、ダンボール箱などを近くのスーパーなどから自分で集め、梱包をすべて自力でやったら半額で済んだ、という事実であるが、二百個ものダンボール箱をいったいどこから集めて来られるというのだ。無理よ、無理。結局、金で何とかしてもらうしかないでしょ。ああ、それにしても八十万円はイタい。
と、このようにボヤいていたら、またまた新たな問題が勃発した。電話を移転しようとしたところ、NTTからこう言われたのだ。
「お客様の電話加入権は港区役所に差し押さえられておりますので、勝手に移転手続きはできません」
「使用停止もできないの?」
「はい。できません」
「でも、このまま引っ越したらどうなるの?」
「次に引っ越して来た方が電話を設置できません」
がぁ────ん!!!!
またしても港区役所と一戦交える予感に打ち震える女王様なのであった……。
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もうひとりの自分[#「もうひとりの自分」はゴシック体]
民よ、女王様は本日、港区役所と渋谷区役所をハシゴして、ようやく遷都の手続きを完了した。「電話加入権」の差し押さえに関しては「次に引っ越して来る人に迷惑がかかるから」と説得して何とかしてもらったが、その代わり、新居の敷金を丸々、差し押さえられることとあいなったのだった。いろんなモノを差し押さえるんですね、お役所って。勉強になるわ。
一方、夫は毎日、ダンボール箱をせっせと開けては片付けている。タグがついたまま着ないで放置していた服が箱の中から続々と出現し、しかもその服にまったく見覚えがなかったりするもんだから、
「あんた! こんな服、いつ、どこで買ったの!?」
「さぁ……どこの服?」
「ジャンフランコ・フェレ。もしかして、買った記憶ないの?」
「ないねぇ」
「じゃあ、貰い物?」
「いや、たぶん私が買ったんだと思うけど……」
「記憶喪失なの、あんた」
このような会話が一日に何度も交わされる。しかし本当に、買った覚えも見た覚えもない服が出て来ると驚くよ。もしかして、私、多重人格かも……と、半ば本気で思ってしまう。
女王様が高校生の頃、三田佳子主演の『私という他人』というTVドラマにいたく感銘を受けた記憶がある。そのドラマの中で、内向的なヒロインの三田佳子が、クローゼットの中に見覚えのない派手な服を見つけてギョッとするシーンがあった。その時の彼女は、それが何を意味するのか理解できない。が、それをきっかけとして、自分の知らない「もうひとりの自分」が陰で奔放に遊びまわっているという衝撃の事実に徐々に気づいていくのである。
自分の買った服を全然憶えてないなんてあり得ない、この人は本当に病気なんだ、と、当時十六歳の女王様は無邪気に感心した。まさかその三十年後、自分が買った覚えのない服を目の前にぶら下げて愕然としているとは思いも寄らなかった。人生というのは、ホント、何が起きるかわからない。多重人格などという珍しい症状ですら、対岸の火事とは限らないのである。まぁ、もちろん女王様は本物の解離性人格障害ではないし、「そんな気分がする」という程度であるが、それにしても「そんな気分」さえ三十年前の自分には理解不能であったのだ。
三十年前の私は、自分というものを全然知らなかった。今だって、自分が何者であるのか、まったくわからない。これから先、どんな自分にギョッとさせられるのかと思うと、生きていくのが怖くなるほどだ。クローゼットを開けて見慣れない服を見つけ、自分という名の他人の存在に怯えるくらいなら、まだマシだ。もしかすると、ある日、クローゼットの中から包丁を振りかざした自分が躍り出て来るかもしれない。あるいは、クローゼットの中に、自分が殺した誰かの死体が転がっているかもしれない。その死体を恐る恐る引っくり返すと、それは自分の死体であるかもしれない。
民よ、女王様は夢想する。消息を絶った女王様を探して、港区の滞納整理マンが部屋に踏み込んで来る様子を。そうして彼らが、クローゼットの中から、恐ろしい形相の女王様の死体を引きずり出すシーンを……。
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望むところじゃ──っ![#「望むところじゃ──っ!」はゴシック体]
引越しによって総額四百万円もの支出を余儀なくされた女王様の家計は、言うまでもなく火の車である。今月に文藝春秋から発売予定の単行本『ショッピングの女王 FINAL 最後の聖戦!?』の印税も、すでに前借りしてしまった。当分、贅沢は敵だ。衝動買いなんて、とんでもない。ダンボール箱に埋もれて、ジャージで暮らす女王様。おいたわしい限りである。
ところが、民よ、このような窮乏の時にこそ、神は厳しい試練を与え給うのであろうか。
というのも、このたび女王様がレギュラー司会を務めることとなったNHKの『今夜は恋人気分』(毎週水曜日夜十一時十五分)の第二回目のゲストに、漫画家の桜沢エリカさんご夫妻をお招きすることになったのであった。桜沢エリカさんといえば、言わずと知れた漫画界のゴージャス女王様。ディオールのドレスを華やかに着こなしたその御姿を、私も女性誌で何度も拝見したことがある。
こ、これは、もしかして……女王様対決ってヤツ?
打ち合わせの席で、女王様の心は激しく打ち震えた。頭の片隅で、何者かが鬨《とき》の声をあげている。昔の私だ。ライバルを見つけた「ショッピングの女王様」が「キェーッ」と叫びつつ、髪振り乱して突進してくる。ああ、怖い。この女はいつもいつも勝手に自分のライバルと認定した女に闘志を燃やし、このようになりふり構わず突撃して来ては、この私を無理やり浪費地獄の道連れにするのだ。
相手にすまい、と、もはや「ショッピングの女王」ではない「さすらいの女王」様は、ひとりごちた。私は「ショッピングの女王」の座から引退した女。連載タイトルも変わったことだし、ホント、やめてください、こーゆーの。あんたなんかお呼びじゃないのよ。迷惑ですから、もう来ないで!
「そうそう、うさぎさん」
必死で耳を塞いでいる女王様に、制作スタッフが声をかけてきた。
「桜沢さんにお会いしたら、おっしゃってましたよ。司会がうさぎさんなら私も頑張らなくちゃって」
「頑張るって、何を?」
「衣装ですよー」
「キェ───ッ!!!」
途端に、あの恐るべき前女王が馬上で躍り上がり、奇声をあげた。
「望むところじゃ──っ! おのれ、桜沢エリカ、首を洗って待っておれ──っ!」
「やめてぇ〜〜っ!!!」
「者ども、青山に遷都したのも何かの縁ぞ! グッチじゃ! グッチ青山店に、いざ急げぇ〜〜っ!!!」
「嫌ぁ〜〜っ!!!!」
しかし、嫌よ嫌よも好きのうち、なのかどうかは知らんが、鼻息荒くグッチ青山店に駆けつけた女王様、
「いらっしゃいませ、中村様。お久しぶりですね。本日はどのような物をお探しで……」
「桜沢エリカをギャフンと言わせる服じゃ──っ!」
って、どんな服や、それ。
で、購入いたしましたわよ、上下で五十七万円のスーツ。出演料から大幅に足が出とるっちゅうねん!
化粧回しをつけた関取のごとくグッチのスーツで土俵入り、じゃなかった、スタジオ入りした女王様の姿を見たい民草は、四月七日の放送をお楽しみに。ちなみにエリカ女王様は春らしいプラダのワンピース。お似合いでしたよ、フン!
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遺伝子、恐るべし……[#「遺伝子、恐るべし……」はゴシック体]
子宮を取る?[#「子宮を取る?」はゴシック体]
それは、三月二十六日の朝のことであった。その日の夕方便でベトナムに発たねばならぬ状況にあった女王様は、数日前からほとんど寝ずに仕事と格闘していたのであるが、午前八時くらいに突然、下腹部がズンズンと痛み始めたのである。
「ちくしょう、生理痛だ」
トイレにて出血を確認した女王様は舌打ちをした。薄々恐れてはいたのだが、旅行の朝に生理になるなんて運が悪い。そのうえ、この痛み……締め切りはあと二本残っており、横になって休んでいる余裕はない。仕方ないから痛み止めの錠剤を飲み、己が不運を呪いつつ、パソコンに向かっていたのだが、
「うう……むむうっ……」
痛みは治まるどころか、ますます激しさを増し、ついには原稿など書いてられないほど逼迫《ひつぱく》した状況になってしまったのであった。
「い、痛い……なんじゃ、こりゃ……うぐぐぐっ!」
下腹を押さえながら、トイレに這って行く。下痢と嘔吐が押し寄せる。しかし、出すものを出しても、腹の痛みはつのるばかり。トイレから寝室に這って行き、寝ている夫の隣に横たわってみたが、じっとしていられないほどの激痛だ。「あひ〜」などと意味不明の悲鳴をあげつつ、脂汗垂らして苦悶する。仰向けになってみたり蹲《うずくま》ってみたり足をバタバタさせてみたり、七転八倒とはこのことだ。
ついには夫を叩き起こし、
「た、助けてぇ〜」
「どうしたの?」
「腹が痛い〜。助けてよ〜」
「助けるって……どうやって? どうすればいいの?」
「救急車、呼んで〜」
「えっ! ホントに? ホントに呼んでいいの?」
「呼んでくれ〜〜っ!!」
床を転げまわって絶叫する妻の姿に恐れをなして、寝ぼけ眼で一一九番に電話する夫。そして、駆けつけた救急車に乗せられて、病院に担ぎ込まれた女王様は、痛みも落ち着いて診察を受けた後、医者から次のような宣告を受けたのであった。
「子宮筋腫ですね。三個くらいありますよ」
ガ───ン!!!!
よりにもよって旅行の当日に、そんなものが発見されるとは! せめて来月まで待てなかったのか、忌々しい筋腫どもめ!
「どうしますか?」
医者は、穏やかな口調で続ける。
「もう子どもを産む予定がないのなら、子宮をそっくり取ってしまうのが一番楽ですけどね」
「子宮を取る?」
「困りますか?」
「いやぁ、べつに……」
そう。もはや四十六歳だし、子どもを産む気もさらさらない。だから子宮など必要ないと言えばそのとおりなのであるが、子宮を取ったら困るかどうかなんて、普段考えたこともなかったので、咄嗟《とつさ》に言葉に詰まる女王様なのであった。
私ニハ、何ノタメニ子宮ガアルンダッケ?
「まぁ、お家で、ゆっくり考えてくださいね」
「はぁ……」
てなワケで家に戻った女王様だが、子宮問題を深く追求する余裕もなく書きかけの原稿を仕上げ、バタバタと旅行の用意を整えて、そのまま一路ベトナムへと向かってしまった。そして、ホーチミンにて友人の岩井志麻子と合流した途端、彼女の第一声によって、改めて「子宮」について考えさせられたのであった……。
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女とは結局……[#「女とは結局……」はゴシック体]
「女王!」
ノーブラタンクトップにミニスカートという露出系ファッションでホーチミンに現れた女王様を見て、志麻子さんは叫んだ。
「その格好で街角に立っている御姿、とても日本人観光客には見えません!」
「じゃあ、何に見えるんですか?」
「どっから見ても、ホンダガールです!」
ホンダガールとは、この街で春をひさいでいる女たちのことである。さては女王様、売春婦に見えたか。しかし、四十六歳の売春婦とは、なかなか渋過ぎる。しかも、オッパイは作り物だし、子宮はほどなく撤去される予定。これじゃ、女というよりニューハーフではないか。
「志麻子さん、私はホントに現役のホンダガールに見えますか」
「見えます、見えます。正直言って、女王の外見は、この国では三十歳そこそこくらいにしか見えません。暑くて貧しい国は、女が老《ふ》けるのも早いのです。ベトナムでなら、女王はまだまだ売り物に見えます」
「しかしですね、志麻子さん。ご存知のとおり、私のこのオッパイは偽物ですし、このうえ子宮まで取ってしまったら、私は女と言えるのでしょうか。もしもうっかり私を買ってしまった男は、女と間違えて四十六歳のニューハーフを買った気分になるのでは?」
「なるほど。しかも女王の場合、その魂も、女というよりオカマですからね」
「そうなのです、志麻子さん。私はずっと自分が女であるという自意識の居心地の悪さに戸惑っていました。しかし、ここに来て、私の身体はついに男でも女でもないモノになりつつあり、それは喪失というよりむしろ、自分の本来の姿にどんどん近づいていってるような気がするのです」
「女王はついに、女を脱却してオカマになる日を迎えたのですね。サナギが蝶になるように(笑)」
「ところが、それでも姿かたちは女なので、こんな私にも女としての商品価値は生じる、と。そうすると、志麻子さん、女とはいったい何なんでしょう。子宮がなくても、オッパイが偽物でも、女の形をしていれば、それは女であると言うのなら、女とは結局、単なるビジュアルだということになるではありませんか」
民よ、これである。女を女であらしめているのは、単にオッパイだの顔かたちだのといったビジュアル的な記号に過ぎない……このように考えれば、「母性」とか「女性らしさ」とかいったものが「女」を形成しているというのは、単なる幻想ではないか、とさえ思えてくる。だって女王様は子宮摘出によって母性を放棄しようとしているし、女性らしさの象徴であるオッパイも偽物だし、そのうえ内面的にも女らしいとは言い難いのだが、それでもやはり「女」として流通しているのだから。
後に、別の友人が、このように語った。
「医者の話によると、最近は子宮摘出で女を喪失すると感じる人は少ないが、乳癌などで乳房を失うケースのほうが女の喪失感に悩む人が多いそうです。子宮の象徴する母性より、乳房の象徴する女性性のほうが重要になってるんですね」
そのとおり。しかも、その女性性とはビジュアルの問題なのである。なんだ。女ってコスプレなんじゃん。
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王子様はどこに[#「王子様はどこに」はゴシック体]
「子宮を取るかもしれん」と宣言したら、友人知人や読者の方々から「女王、早まってはなりません。今一度、ご熟考のほどを」と諫《いさ》められてしまった。どうやら、軽はずみに取ってはならんものらしい。
私を診察した医者は「卵巣を残せばホルモン異常も起きないし、更年期障害や骨粗鬆症《こつそしようしよう》の心配もありません」と太鼓判を押したが、とりあえずセカンド・オピニオン、サード・オピニオンも参考にすべく、いくつかの病院をハシゴしてみようかと考えている。
美容整形手術をして学んだことが、ひとつある。医者というのは、腕はもちろんだが、自分との相性も大切である、ということ。わからないことは徹底的に質問できて、意思の疎通をきちんと行える医者が、自分にとっての名医となるのだ。
患者には医者を選ぶ権利がある。当たり前のことなのだが、複数の病院を渡り歩く時間の余裕もなく(病院って、どうしてあんなに長時間待たせるんでしょうね?)、自分には専門的な知識もないからプロにお任せしよう、などという意味不明の謙虚さが発動して、ついつい「ま、ここでいいや。大きな病院だし、間違いないでしょ」と安易に決めてしまう。だが、自分の身体のことなのだから、こんなところで謙虚になる必要はないのである。医者って、意外と責任取ってくれないしね。
大学生の頃、ガラスの破片で指をざっくり切ってしまい、救急病院で縫ってもらったことがある。かなり深い傷で指の筋まで切れてしまっていたのだが、担当の医者がそれに気づかずそのまま縫合してしまったため、女王様は傷が治ってからも指先で物がつまめなくなり、再度、同じ病院を訪れたのだった。べつにクレームをつけるつもりは毛頭なかったのに、診察室で事情を話した途端、医者が三人も出て来て「救急医療の基本は応急処置である。よって当方の医療ミスではない」と、妙に高圧的に諭された。誰も「医療ミス」だなんて言ってないのに。ただ、「こないだ縫ってもらった指が動かないんですけど」と言っただけなのに。医者って責任取るのが怖いんだなぁ、と、その時にしみじみ思いましたよ。
ま、指の筋なんか繋げば治るけど、臓器ばかりは取ってしまったら取り返しがつかない。民草たちの言うとおり、慌てずにゆっくり考えたいと思う。「子宮の喪失」自体には何の感傷もないが、そのせいで他の病気を誘発してしまうのは、女王様とて嫌である。じっくりと相談に乗ってくれて、私にとって一番いい治療法を考えてくれる医者を捜し当てたい。王子様を捜す気分、とでも言うのかしら。「子宮筋腫の王子様」ね。もちろん、「王子様」が女医さんである可能性も、かなり高いけど。
そんなワケで、さすらいの女王は、当分の間、あちこちの病院の婦人科をさすらうことになりそうなのである。この連載タイトルを決めた当時は、まさか病院をさすらうとは思いも寄らなかったなぁ。わずか数カ月の間に、人は、「子宮を取るべきや否や」などという予想外の問題に直面するのだ。これからまた数カ月後には、いったいどんな問題に直面していることやら。自分の人生から目の離せない女王様なのであります。
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知り合いの死に想う[#「知り合いの死に想う」はゴシック体]
最近、知り合いが亡くなった。自殺だそうだ。その人とは二回しか会ったことがない。一度は仕事で、二度目はパーティ会場で軽くご挨拶をしただけである。彼女が何故亡くなってしまったのか、女王様にはわからない。ただ、その報せを受けた時は、さすがに血の気が引いた。
他人の死について、あれこれ詮索するのは不謹慎である、ましてやおまえは本人と個人的な付き合いもない人間ではないか、おまえに何がわかるのだ、という謗《そし》りを受けることは覚悟のうえで、それでも女王様は彼女の死の理由について考えずにいられない。たとえ付き合いはなくとも、顔見知りの人の若すぎる死は、リアルな衝撃だ。自分も明日死ぬかもしれない、という想いもあり、また、私が死なないのは何故だろう、という疑問もあり、「自分研究家」である女王様は、知人の訃報を通じて、またもや「自分の謎解き」に熱中してしまうのであった。
こんなにも「自分」に拘泥しておりながら、いや、拘泥しておればこそ、女王様の悲願は常に「自分から離れること」である。いかにして自分に対する執着から逃れるか、というのが、女王様の行動を貫くテーマであった。ブランド物で身を固めるのも整形手術で肉体改造するのも、女王様にとっては「コスプレ」の一形態であり、また、それを他人事のように描写しようとする傾向も、「いっそ自分を他人にしてしまえ」という願望に根ざした行為だった。
女王様は「別人になりたい」のではなく、「他人になりたい」のだ。別人になっても「自己愛」からは逃れられないが、他人になってしまえば厄介な「自己愛」は発動しにくくなる、と、女王様は考えたらしい。らしい、と言うのは、どうもそうとしか思えない、という程度にしか解析不能であるからだ。
女王様の試みがどこまで功を奏したのか、自分でもよくわからない。しかし、自分を完璧な他者にしてしまいたい(無理だけど)、自分の肉体を自意識から切り離された「物体」にしてしまいたい、という願望は、突き詰めていけば「死体になりたい」という願望に行き着くのかもしれず、そんな結論に行き着いてしまいそうな自分に密かな不安を抱いていた矢先に、その人の訃報が舞い込んだのだ。
どうして、そっちに行っちゃったの? 何があなたの背中を押したの?
尋ねたい相手はもはやこの世にいなくて、だけど、女王様はついつい尋ねずにはいられない。
あなたは自分であり続けることに疲れちゃったの? じつは、私もずっとそれが苦しかった。自分のことを赤の他人と思えたら、自分のイタさや滑稽さを指差して笑えたら、どんなに楽になるだろう、と、いつもいつも思っていた。「自分らしく生きたい」と、人は言う。確かにそれは大切だけど、「自分らしく」の「自分」って何よ、と考えた途端に、あてのない「自分探し」にハマってしまう人も多い。だけど結局は、私たち、「自分らしく生きる」なんて苦し過ぎてできないんじゃない?
探し当てた「自分」はゴミだった、というのが、女王様の結論であった。捨てられないゴミを抱えて、私は今日も生きている。
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遺伝子、恐るべし……[#「遺伝子、恐るべし……」はゴシック体]
過日、『タモリの未来予測TV』という番組で遺伝子の特集をするにあたり、女王様の遺伝子をサンプルとして提供したことがあった。提供といっても髪の毛を数本抜いて手渡しただけのことであるが、制作スタッフの話によると、その髪の毛を韓国の某企業に送れば、遺伝子の情報を解読して本人の性格などを診断してくれるそうなのである。
人間の性格なんてものは、先天的な傾向と後天的な環境が複雑に絡み合って構築されるものだ。単純に遺伝子だけでその人のすべてを解読することなど不可能であろうが、それにしても遺伝子はそこにどれくらいの影響力を持っているのであろうか。女王様の買い物依存や極端な暴走行為はDNAに書き込まれた情報なのか。もしも書き込まれているとしたら、どういう形で書き込まれているのか。自分を知りたい女王様にとって、己の遺伝子情報を知ることは大いに意義あることではなかろうか。
このように考えて髪の毛を提供した女王様であるが、このたび、ようやくその診断結果が送られてきた。
まず、女王様を驚かせたのは、診断書に書かれた次のような記述である。
「ウサギ様の中毒遺伝子はDRD2A、BのA2/A2、B2/B2です。このタイプの人は中毒遺伝子に変異のないタイプで、酒、麻薬、賭博などの有害環境に入り込むことはないと考えられます」
なんと! 女王様には悪習に中毒的にハマる傾向が遺伝子的にはない、と? まぁ、確かに酒も飲まないし麻薬にも縁はないし、ギャンブルにも耽溺《たんでき》した経験はない。が、買い物依存という中毒症状に、あれほどずっぽりとハマっていたではないか。あれが私じゃないのなら、はたして何者だったのよ?
不思議に思いつつ、その先を読んだ。すると……!
「憂鬱・暴力遺伝子はSSタイプと判明しました。このタイプは、セロトニン運搬体遺伝子に変異があるため、環境的なストレスや身体的疾患がある場合、憂鬱症や自殺衝動、暴力性向が現れる可能性があります」
あっ、と、思わず声をあげた。セロトニン運搬体という単語には聞き覚えがある。確か、依存症の原因のひとつと言われている脳内物質ではなかったか。セロトニン運搬体が正常に働かないと、悲しみや苦悩が長引き、ために買い物依存などの自傷的な嗜癖にハマりやすいという話を聞いたことがある。
なるほど。さては、女王様を破滅的な浪費に走らせたのは、「中毒傾向」ではなく「暴力傾向」であったのか。女王様は他人を殴ることに快感を覚えた経験もないし、自分に暴力的な傾向があるなどとは思ったこともなかったが、しかし、あのような行為は確かに自分自身に対する「暴力」ではないか。ずっと以前から「私は買い物だの浪費だのには簡単にハマるくせに、何故、ギャンブルにはハマらないのだろう」と不思議に思っていたのだが、「買い物」と「ギャンブル」を司る遺伝子が別個のものなら、その疑問はすんなりと解決するではないか。
ううーむ、遺伝子、恐るべし……と、思わず唸ってしまった女王様、さらに診断書を読み進み、またしても新たな自分を発見することになったのだった……。
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自分が見えた![#「自分が見えた!」はゴシック体]
さて。中毒遺伝子には変異がないと診断された女王様であるが、その件に関してもうひとつ、意外な性向が報告されていた。曰く、
「(中毒遺伝子に変異のないタイプの人は)従順的で規範的であり、多少楽天的な面もあります。しかし冒険精神や挑戦心が多少劣ることもあり、集中力を向上させる生活習慣が要求されます(以上、原文ママ)」
えっ? 「従順的で規範的」? この私がですか? 住民税も滞納し、出版社に前借りしてまで己の欲望に突っ走る、この反社会的な女王様が?
しかも、「冒険精神や挑戦心」が劣るって? ホストだの美容整形だの、危険な水域に進んで頭から飛び込む私に冒険精神がないのなら、いったい誰に冒険精神があるの? 植村直己? エベレスト登頂しなきゃ、やっぱ駄目ですかっ!?
わからないのは、「冒険精神や挑戦心が多少劣ることもあり」という文章に続く「集中力を向上させる生活習慣が要求されます」という一文である。韓国から送られてきた診断書を日本語に翻訳したものとはいえ、ちょっと文意が不明じゃないか。「冒険精神」や「挑戦心」に富んだ人には「集中力」もある、と解釈される文章だが、はたしてそうなのか? 一所《ひとところ》にじっとしていられない性格だからこそ冒険するのではないか? 少なくとも私は、「冒険」とか「挑戦」といったものに対して、そのようなイメージを抱いていたが、違うのだろうか?
首を傾げつつ、その先を読み進むと、これまた、ちょっとしたオチが続いていたのだった。
「そして、好奇心(衝動性)遺伝子に変異が見えます。始めた仕事は最後までやり抜ける習慣を身につけるよう心がけて下さい」
「大体好奇心に変異があるタイプの方は、質問が多く、奇抜な考えや行動がよく出るタイプですが、多くの対話を通じて解していくべきです。更に、このようなタイプは環境によって変化の多様な遺伝子を持っているとされます。周囲の環境により大きく成功する可能性があるとしたら、間違った道に陥る恐れもあります(こちらも原文ママ)」
そ、そうだったのかっ! 女王様は立ち上がって叫んだ。今、自分が見えたよ! 私の行動原理はすべて「好奇心(衝動性)」であり、それは「冒険精神」や「挑戦心」とは違うんだ! 冒険や挑戦には周到な計画が必要だが、女王様の人生には計画性が一切ない。何故なら計画を練るだけの理性も集中力もなく……なるほど、それか! 単に新しい刺激を求めるだけの衝動的好奇心は、粘り強さや計算を要求する冒険とは対極にあるメンタリティなのである。衝動的に冒険する人間は、冒険家ではなく、単なる「無謀なバカ」ではないか。そうだそうだ、確かに私は無謀なバカだよ!
民よ、如何なものであろうか。女王様の遺伝子を解読診断した韓国の企業は、おそらく「中村うさぎ」について何も知らないのである。何の先入観もなく解読した結果、このような診断が出たのだとしたら、遺伝子というのは私という人間をかなり細かい部分にわたって操っているのだと思わざるを得んではないか。遺伝子万能説を唱える気はないが、その威力に深く感銘を受けた女王様であった。
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自分の遺伝子を飾っておきたい──か?[#「自分の遺伝子を飾っておきたい──か?」はゴシック体]
『タモリの未来予測TV』の制作スタッフから送付された「遺伝子診断書」をきっかけに、己が人生と遺伝子との繋がりについて考えさせられてしまった女王様。さっそくインターネットで遺伝子関連のニュースを検索してみたところ、こんな記事を発見した。
「『自分のDNAをアピールする』商売にプライバシーの懸念」(Kristen Philipkoski/2003.3.21)
この記事には、英国のキャッチー社が開発した「自分のDNAを洒落た金属ケースに保存して、仕事場の机や自宅の暖炉の上に飾っておく」ための商品キットや、米国のDNAコピーライト研究所による「客のDNAサンプルを採取し、遺伝子プロファイルを作成し、結果をデータベースに収録して『最高に素敵な装飾プレート』を送ってくれる」というサービスが紹介されていて、またまた女王様を面白がらせてくれたのであった。
プライバシー問題はともかく、このようなサービスを本気で喜ぶ人々がいるのだろうか。女王様は確かに遺伝子によって自分を解読する作業には興味も快感も覚えたけれど、自分の遺伝子を飾っておこうとは露ほども思わんなぁ。もちろん、不慮の事故に巻き込まれて死亡した場合、損傷の激しい遺体の身元確認の手がかりとなる、という利点には「なるほど」と思うものの、それならべつに「洒落た金属ケース」や「最高に素敵な装飾プレート」である必要はないワケで、要するにこれは「ナルシシズム」商品なのであろう。キャッチー社の社長は、自社の製品について、電子メールでこのように述べているという。
「自分の個性を表現するのに、これ以上の方法があるだろうか? 自分だけにしかないものがあるということを、仕事場に置かれた銀色のブリキ缶がいつも教えてくれる。そこに自分の遺伝子が入っているのだ」
ふーん……嬉しいのか、それ?
女王様は「世界でたったひとり、私が『私』と呼べる人間」としての自己に、ひとかたならぬ愛と執着を抱えている。が、「世界でたったひとつの自分の遺伝子」には、愛も執着も感じない。これは、生まれてこのかた「自分の子どもが欲しい」などと一度も思ったことのない女王様ならではの特殊なメンタリティなのだろうか。いや、そんなことはあるまい。「自己愛」や「生殖本能」と「自分の遺伝子を飾っておきたい願望」とは似て非なるものである。自己愛は確かに「自分が世界で唯一無二の存在」であることを確認したがるものだが、それは他者や世界との関係性によって確認されるべきもので、決して「自分の遺伝子が唯一無二」という文脈でのアイデンティティ確認ではない。
また、女たちの生殖本能にしても、必ずしも「世界でたったひとつの自分の遺伝子を残したい」という希求ではなく、むしろ「この男の子どもが欲しい」という言葉に表されているように、「世界でたったひとつ、自分と彼との組み合わせの遺伝子が欲しい」という、他者と混じり合うことへの欲求なのである。
だとしたら、民よ、自分の遺伝子を飾りたいという願望は、どんな種類のナルシシズムなのか。女王様は、激しく興味をそそられた。
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愛しているのは「幻想の自分」[#「愛しているのは「幻想の自分」」はゴシック体]
「自分の遺伝子への執着」という行為で思い浮かぶのは、「クローン作成」である。諸君は、自分のクローンを作成したいと思うだろうか? 女王様は、思わない。そもそも自分のクローンなんか作成した日にゃ、整形前の丸顔&貧乳の自分がそっくり再生されてしまうワケであり、せっかく肉体改造までして自分から逃げ出した女王様の悪あがきは何だったのよ、ということになるではないか。
もしも整形前の丸顔&貧乳の「自分」が目の前に現れたら、女王様はそいつを愛せるだろうか? いや、愛せる愛せない以前に、そいつを「自分の複製」と認識できるだろうか? もはや以前の顔立ちを忘れてしまった女王様、その女の顔をしみじみ眺めて「何よ、このブス」とか思うんじゃなかろうか(←あり得る)。
美容整形した女に関してよく言われていた揶揄《やゆ》は、「結婚して子どもが生まれたら、似ても似つかないブスが生まれて、整形したことがいっぺんにバレちまうんじゃねーの?」といったものである。しかしまぁ、子どもというのは必ずしも両親のどちらかに似ると決まったものではないので、生まれた子どもが不細工であったとて、「そういえば死んだ曾祖父に似てる」などと言い張ってしまえば、いくらでもごまかせよう。が、クローンは、そうはいかない。本人の遺伝子の複製なのだから、整形女は否応なく「かつて密かに殺して葬った自分の顔」に直面させられる羽目になるのだ。整形女である女王様としては、想像しただけで震撼してしまう光景だ。
このように考えると、女王様には「己の遺伝子」に対する誇りもナルシシズムもないのか、と、こういう疑問が発生するのであるが、民よ、これは微妙な問題である。遺伝子が複製するのはもちろん容姿だけではなく、例の「遺伝子診断書」で報告された「精神的傾向」もそっくり再現されてしまうのであろうが、「憂鬱・暴力遺伝子」と「好奇心遺伝子」に変異のある女……すなわち依存症や自傷行為にハマりやすい傾向を持ち、衝動的な言動が多く見られる女など、女王様は自分以外にあまり身近に見たくない。近親憎悪が働いて、きっと自分のクローンを深く憎むことになるであろう。もしかしたら、殺し合っちゃうかもな、私たち……。
女王様は人一倍、ナルシシズムの強い人間である。そうでなければ、こんなに自分に拘泥しない。けれども女王様が愛しているのは、遺伝子に刻まれた「本来の自分」ではなく、自分の心の中で好き放題に創り上げた「幻想の自分」なのだ。ナルシシズムの神殿に祀られたその女神像に我と我が身を近づけるべく、女王様は肉体を改造し高価な衣装で着飾り小賢しげな言葉を並べて空っぽの脳ミソをごまかし、ありとあらゆる手段を駆使して「自己粉飾」に血道を上げてるワケだ。
でも、皆さんだって同じでしょ? 本当の自分を愛せる人なんて、この世にどれほどいらっしゃるの? あなたの遺伝子に書き込まれた「本来の自分」なんて、ただのオッチョコチョイだったり恐ろしく凡庸な小心者だったり不細工なチビだったりするのよ、きっと。
我々の人生はフロイトの言う「父殺し」でも、「母殺し」でもなく、「自分殺し」から始まるのではないか。
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子はかすがい?[#「子はかすがい?」はゴシック体]
NHKの『今夜は恋人気分』という番組に出て、毎週、いろいろな夫婦に会っている。子どものいる夫婦もあれば、いない夫婦もあって、それが本人たちの幸福感(あるいは不幸感)に影響している場合もあれば、まったく関係なさそうな場合もある。子どもの存在がかろうじて夫婦関係を繋いでいるように見えるケースもあり、まさに「子はかすがい」ってヤツなんだけれども、「かすがい」にされてる子どもの気分はどうであろうか、などと考えてしまう今日この頃である。
また、その一方で、旧家や名家に嫁いだ女には「跡継ぎを産む」という使命が課せられるワケで、これはもう「DNAへの執着」としか言いようがない。単なる「家督の相続人」なら、子どもが出来なきゃ養子でも貰って継がせるがよかろう。そこに「余所者にこの家を継がせたくない」という気持ちが働くのは、「家」が「血筋」であり「DNA」であることを示しており、その挙句、「出来のいい余所者より、出来の悪い子孫」が跡継ぎに選ばれて、名家は没落していくのであった。
優れたDNAを守ろうとした結果、あまり優れているとも思えないDNAまで必死で守る羽目になるとは皮肉なものである。一族に際立った成功者が現れたからといって、それが優れたDNAの証明とは限らないのだ。もしかすると、それはギャンブルのようなハイリスク・ハイリターンの変異遺伝子なのかもしれず、たまたま大当たりしたからといって有難がってると続々とダメ子孫を生み出すことになる、と、こういうことなのかもしれない。
以前、某女性タレントが子宮を摘出して子どもの産めない身体になり、それでも子どもが欲しくてアメリカの代理母と出産契約をしたことが話題になった。そんなに子どもが欲しいのなら養子でも貰えばよかろう、と、女王様は思ったが、彼女としては「自分と夫との子ども」でなくては意味がないのであろう。あれもまた「DNA」への執着か。ジャーナリストの石井政之氏が「ああいう血統主義的な行為に対して、自分はあまり肯定的な気分にはなれない」と批判した気持ちに、女王様も少々共感する部分がある。「自分と夫との子どもが欲しいと思う気持ちは、女として自然な感情ではないか」という意見もあろうが、あんなに無理をするのが「自然な感情」とも思えず、そして「あそこまで無理を通して、彼女は何に執着しているのだろう」と考えると、ちょっと嫌なものを見てしまったような気分になるのだ。「嫌なもの」とは、「自分と夫のDNAを格別なものと考える自惚れ」であり、その「自分たちのDNAは格別だ」という自惚れは「余所者の優秀でないDNAが混入する」ことを嫌う名家の鼻持ちならない「血統主義」や「選民意識」に容易につながるものであるから、女王様のような俗悪なる血統の持ち主は不愉快になるのであった。
人が自分のDNAを残すことへの執着を失ったら、少子化はますます進んで、人類は絶滅するだろう。そのうえ女王様のように「子はかすがい」にまで疑問を持ってしまっては、なおさらである。それを何とも思わぬ女王様は「人類滅亡」を目論む悪魔の遺伝子の継承者なのかもしれない。
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避妊を誓う理由[#「避妊を誓う理由」はゴシック体]
先日、夫から突然、「最近、あなたに対して優しい気持ちになれない」と言われて、ガーンとしてしまった女王様である。一瞬、西原理恵子の漫画『毎日かあさん』の帯コピーが頭に浮かんだ。
「家庭円満マンガを描いていたら、連載中に離婚してしまいました(笑)」
このコピーを読んだ時にはガハハと笑い、「サイバラ、バッカでぇ〜!」と叫んだ女王様であったが、まさか自分が夫から愛想を尽かされていたとは思いも寄らず。さしずめ、私の場合は、こういうことか。
「NHKで夫婦円満番組の司会をやっていたら、放映中に離婚されてしまいました(泣)」
やだよ、そんなの! ちょっと待ってよ、マイダーリン!
てなワケで、久々に夫婦の会話なるものを持った我々である。夫が言うには、
「だってね、あなた、全然病院に行かないじゃない! いくら忙しくても、病院くらい行く時間あるはずでしょ! こっちは心配してるのに、あなたに病気治す気がないんじゃ意味ないよ。そのくせ、こないだも体調悪いとか言ってて、同情する気も起こらない」
なるほど。それは確かに私が悪い。夫よ、申し訳ない。それにしても、言われて初めて気づいたが、女王様はどうして病院に行かないのだろうか? 病院嫌いなのか? それにしては、美容整形外科には、まめに通っているではないか。美しくなることには執念を燃やせるが、健康になることには執念がないとでも言うのか?
どうやら、そうらしい。美容整形外科では、やれ注射だ手術だと、普通の病院に行くよりも痛い想いを進んでやってるくせに、いざ「病気を治す」という消極的(なのか?)な目的だと、急激にモチベーションが下がる女王様なのだった。顔のシワ取るより、子宮の筋腫を取れ、中村!
すべての生き物において、「生存への欲求」は、何よりも優先されるべき事項であろう。子宮筋腫じゃ死なないとはいえ、顔のシワよりは火急の問題であると思われる。なのに、女王様の中では、子宮筋腫よりも顔のシワのほうが優先されるべき問題らしい。それは、別の意味での「サバイバル」なのだろうか。つまり「女として生き残る」という意味の。「女として生き残る」ことが「個体として生き残る」ことよりも大事だと、もしも女王様の脳が考えているとしたら、それは「個体として滅びても、遺伝子だけは残せ」という命令なのだろうか。ということは、女王様もまた遺伝子に執着しているクチなのか。
そんなはずはない、と、思いたい。子どもを産まないという選択をしたのは、他ならぬ自分自身であるはずなのに、脳がいまだ遺伝子を残すことに執着しているなんて、ちょっと裏切られた気分である。そういえば最近、好みのタイプの男を見ると、ついつい「やりてぇ!」などとはしたなく思ってしまう自分がいて、これもまた「そろそろ限界だぞ。早く遺伝子を残さんかい!」と脳にけしかけられているのだろうか。
これでご懐妊でもした日にゃ、自分が遺伝子の下僕のような気がして悔しいから、せめて避妊だけはきっちりやろう、と心に誓う今日この頃なのであった。
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犯罪者の卵!?[#「犯罪者の卵!?」はゴシック体] 生田博士に遺伝子を学ぶ(1)[#「生田博士に遺伝子を学ぶ(1)」はゴシック体]
以前、テレビ番組の企画で調べていただいた女王様の「遺伝子診断書」を、このたび、薬学博士の生田哲氏に見ていただいた。生田氏はアメリカで「DNAと蛋白質をターゲットにしたドラッグデザインの研究」をされていた方で、遺伝子や脳内物質に大変詳しい方なのだ。
女王様は、何故、自分の「遺伝子診断書」を専門家に見ていただこうと思ったのか。それは、「韓国では生まれた子どもの遺伝子を調べ、その診断書を元に、我が子の遺伝子に合った教育方針を立てる」という話を聞いて、「んなこと、本当にできるんじゃろうか? つーか、この診断書って、どこまで信用できるの?」という素朴な疑問を覚えたためである。
で、さっそく生田氏に診断書をお見せしたところ、
「まずね、ドーパミンやセロトニンといった脳内物質に関係する遺伝子は、ひとつやふたつじゃないんですよ。実際には、何十個も関係している。だから、ここにあるデータは非常に少ないんです。こんなごく一部の遺伝子を調べたって、その人の性格や傾向が把握できるわけがないんです」
「え、そーなんですか!?」
「そうなんですよ。たとえば、ここに『好奇心(衝動性)遺伝子に変異が見えます』と書いてありますね。これはたぶん、ドーパミンの受容体であるD4レセプターを指してるんだと思いますが、そもそもドーパミンが脳に影響を与える仕組みを考えると、レセプターだけでなく、ドーパミンの量や運搬体の量も調べなきゃいけないわけで、それぞれ別の遺伝子が関わっているんですよ。なのに、この診断書はD4レセプターの遺伝子しか調べてない」
「こんな中途半端な調べ方じゃ何にもわからん、と」
「そう。ただね、D4レセプターに変異のあるのが確かなら、うさぎさんが『センセーション・シーカー』と呼ばれるタイプの人間である可能性は考えられる、と。それくらいのことは推測できるわけ」
「センセ……? 何ですか、それ?」
「ノベルティ・シーキングとも言うんだけど、新規探求性の人ね。ドーパミンの効きが普通の人より弱いから、普通の刺激じゃ満足できない。空から飛び降りたり、崖に登ったり、要するに生きるか死ぬかという行為に快感を覚える人」
「あっ、それです、私!」
「わかる。これはね、ひと言で言うと危ない人です」
「危ない人?」
「極限まで行っちゃうからね。犯罪者に多いんですよ」
がぁ───ん!!!!
民よ、女王様は「犯罪者の卵」であったらしい。生まれて四十六年、万引きすらしたことのない私が、まさかそんな傾向を持っていたとは! とはいえ、福田和子に妙に関心を寄せてしまったり、東電OL(犯罪者じゃないけど)に異様に感情移入したり、私には確かに「逸脱者への共感」とでも呼ぶべき感情がある。それは、自分に「道を踏み外す者」の遺伝子が備わっていたからなのか。彼女たちはやはり、女王様の「鏡像」であったのか。
驚き慄《おのの》く女王様に、生田氏はさらに興味深い遺伝子の話をしてくださったのであった。
「遺伝子は図書館なんです」
「は?」
そのココロは次号に続く。
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生田博士に遺伝子を学ぶ(2)[#「生田博士に遺伝子を学ぶ(2)」はゴシック体]
「うさぎさん、遺伝子っていうのはね、図書館なんですよ」
謎のような言葉を吐いて、生田氏はむふふと微笑んだ。
「わかりますか?」
「わかりません」
「つまりね、こういうことなんですよ。図書館に行くと、本がたくさん並んでるでしょう? その本の一冊一冊が、遺伝子に書き込まれたデータだと想像してください。でも、そこに並んでいるだけで誰も引っ張り出して読まなければ、本に書き込まれた情報は活用されませんよね?」
「そうですね」
「そこなんですよ。遺伝子というのは、細胞の核の中にあるわけです。その核の中にホルモンが入っていって、そこにある本を開いて活用する。つまり、ホルモンが図書館を訪れて本を開き、情報を取り出さない限り、そこに書かれているデータはまったく活用されないんです」
「じゃあ、一生のうちに一度も開かれない本もある?」
「いっぱいありますよ。人間は必ずしも、遺伝子に書かれた情報をすべて活用しているわけじゃないんです。うさぎさんの遺伝子にAという情報が書かれている。でも、それは書かれているだけ。ホルモンがそのAという本を引っ張り出して開かない限り、うさぎさんの人格や体質にAという遺伝子の影響は発現しない。そして、そのホルモンは、うさぎさんの脳に命令されて図書館に行くんです」
「じゃあ、私のドーパミン受容体の遺伝子変異ってヤツも、もしかしたら全然発現してないかも……?」
「発現されない可能性もある、と。ドーパミン受容体の遺伝子変異を持った人が、すべて『センセーション・シーカー』になるとは限らない。穏やかで平穏無事な一生を送る可能性もあるんです。だから遺伝子に書かれたデータを調べることは、その人の傾向を知るよすがにはなるけど、その人が遺伝子に書かれたとおりの人間になるかどうかは判断できません。一生閉じたままの本かもしれないし」
民よ、女王様は誤解していた。昔、ドーキンス博士の「利己的な遺伝子」説を耳にした時から、女王様は自分が遺伝子に支配された生き物であり、遺伝子に書かれたことには逆らえない、という、半ば「運命論者」的な思想を持っていたのである。だが、生田氏の解説によると、親からもらった遺伝子は変えられないものの、その遺伝子を使うかどうかは我々の脳が決めている、ということなのだ。これはまた驚愕の事実であるが、そんじゃ、アレか。自分の遺伝子の何をどう使うか、自分で意識的に操作することはできるのか?
「じゃあですね、図書館に行ってこれこれの本を出せ、というのは脳が命令するという話でしたけど、その脳は、何によってそんな命令を決定するんですか?」
「それは外的刺激とか、そういうものによってね」
「その刺激と命令の因果関係を把握していれば、意識的に自分の遺伝子の情報を活用したりとか、そういうこともできるんですか?」
「頭を使えば、できるね。たとえば自分の言葉と行動で脳は左右されるから」
「言葉?」
「そう。言葉は大事なんですよ」
生田氏は身を乗り出し、ここからものすごく面白い話が始まるのだった。
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生田博士に遺伝子を学ぶ(3)[#「生田博士に遺伝子を学ぶ(3)」はゴシック体]
「遺伝子を活用するのは、脳です。そして、脳を刺激するのは言葉と行動です。なかでも言葉は、とりわけ重要なんですよ」
生田氏の目が、ひたと女王様を見つめた。
「自分の中でもやもやと思っている気持ちが、はっきりと結晶化される……それが『言葉』です」
「言語化されることで、明確に意識化される、ということですね」
「そうです。その言葉によって脳は刺激されて反応し、脳内物質やホルモンを分泌させ、図書館に使者を遣わして遺伝子をピックアップするわけ」
「なるほど。言葉によって明確に意識化された想いを行動化するために、脳が動き始める」
「だから、言葉ってのは危ない。言語化するかしないかで、その人の脳の動きが変わり、行動も変わり、人格にも影響するんです」
うーむ、これはなかなか説得力に満ちた話である。女王様はかねがね、「言語化→意識化」という作業には重要な意味がある、と考えていた。自分の中の想いを文章にしたためることで、今までわからなかったことがふいに明確に理解できる瞬間がある。「書く」という作業が「客観性」を養うことにどれだけ貢献しているか……それを身をもって知っている女王様は、生田氏の説明に、深く納得したのであった。
そうか。自分の想いを言語化して文字に書けば、その文字をまた自分の目が読んで、今度は外部情報として脳に送り込む。つまり、「言語化」とは、言葉によって一度思考を外に出し、再び内面化することなのだ。その「一度、外に出す」という作業が、「客観性」を養う、と。なるほど、そういうシステムか。
ならば、生田氏の言うとおり、「言語化」とは諸刃の剣である。自分の言葉によって、とんでもない潜在意識が行動化される可能性もあるからだ。
たとえば、『あいつ、ぶっ殺してやる』みたいなことを、人はしょっちゅう心の中で漠然と思ったりするわけである。ただ、言語化されなければ、それは単にもやもやした想いで終わる。ところが、それを口に出したり文字に書いたりすることで、脳がその言葉に反応するのだ。自分の発した言葉や書いた言葉を、自分の耳や目が外部情報として認識し、その情報が脳にフィードバックされて、殺意がきわめて明確に意識される。そして、その瞬間、脳は、その言葉の行動化に備えて動き始めるのだ。
言葉には、力がある。古《いにしえ》の人々は、その「言葉の力」を「言霊《ことだま》」と呼んだ。そう、生田氏が語ったのは、その「言霊」の科学的なメカニズムなのである。
『はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった』(ヨハネによる福音書第一章一節)
女王様は中学一年生の時に、この聖句を授業で習った。「これをロゴスと言います」と、その時、教師は説明した。「ロゴスとは、言霊です」
十二歳の女王様は、そこに含まれた意味をよく理解できないままに、その聖句とロゴスと言霊という語句を心に刻んだ。そして、それから約三十五年の時を経て、言霊の神は、その姿を明確に現したのである。
言葉は、人間を変える。だから言葉は「神」なのだ。
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夫婦≠フ定義はそれぞれ[#「夫婦≠フ定義はそれぞれ」はゴシック体]
先日、NHKの番組収録前にメイク室でメイクをしてもらっていたら、テレビで保坂尚輝(現在は改名して、保阪尚希)の離婚記者会見をやっていて、これがなかなか面白かった。
保坂尚輝は妻の高岡早紀と「夫婦であることを解消」するべく離婚に踏み切ったワケであるが、彼らは夫婦であると同時に二児の両親なのであり、「夫婦であることは解消できても、両親であることは解消できない」との理屈から、「今後も親子四人でひとつ屋根の下に暮らし、家族としての生活は続ける。ただ、離婚したから、自分と高岡早紀は夫婦ではないのだ」と、宣言していたのであった。
なるほど、と、女王様は感心した。保坂尚輝にとって「夫婦」とは「男女のステディな関係」であり、それを解消してもなお「家族」ではあり続けられる、と、いうことなのだ。これは非常に明確な「夫婦」と「家族」の定義づけであり、彼らがその定義を共有している限り、彼らの家族関係には確かに何の支障もなかろう。保坂尚輝の言いたいことは女王様には非常によく理解できたのであるが、どうやらワイドショーのコメンテイターや芸能レポーターにはまったく「理解の範疇外」であったらしく、スタジオでは出演者全員が、「何が言いたいのか、さっぱりわからん」という結論に達していたのであった。
愚民どもめ、と、女王様は思ったね。あれほど明確な保坂の説明が理解できないのは、おまえらが今までに「夫婦とは何か」「家族とは何か」ということに対して、自分なりの定義づけを怠《おこた》ってきたからではないか。何となく夫婦になって、何となく家族になって、もはや夫婦間に男女のエロスがなくなっても「だって、夫婦なんてそんなもんでしょ」と深く考えもせずに納得してきた……そのような浅薄で怠惰な生き方をしてきたからこそ、おまえらには保坂の言葉が通じないのだ。記者会見の保坂尚輝を評して、「一生懸命なのはわかるが、言葉が下手で、きちんと説明できてない」などと、まるで保坂がバカだと言わんばかりのコメントをした出演者もいたが、バカはおまえだ、恥を知れ。
NHKの番組に出るようになって、毎週、「夫婦とは何か」「家族とは何か」について、否応なく考えさせられる。たとえば先日のゲストは作家の藤田宜永・小池真理子夫妻であったが、彼らの「夫婦の情愛と男女のエロスは別。自分たちは家族として夫婦の情愛を育てているが、男女のエロスはもはや存在しない。しかし、男女のエロスなしでは生きていけないので、お互いに恋愛は家庭の外でしましょう、と決めている」という発言は、先の保坂尚輝とはまた別の「夫婦観」「家族観」で、大変興味深いものであった。
この問題に関心のある方は、ぜひ、藤田・小池夫妻の回と併せて保坂尚輝の離婚記者会見を観ていただきたいと思う。夫婦の定義とは本人同士が決めることであり、それが共有できていれば夫婦はどんなスタイルでも良し、ということが、はっきりわかるからだ。
保坂尚輝は「夫婦は男女」と定義したから離婚に至った。藤田・小池夫妻は「夫婦は男女でなく家族」と定義したから結婚生活が続いている。どちらが正しいという話ではなく、定義することが大事なのだ。
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「言葉」と「概念」の扱いに注意せよ[#「「言葉」と「概念」の扱いに注意せよ」はゴシック体]
脳と遺伝子について取材させてくださった生田氏が「言葉の重要さ」を説いて女王様を感動させて以来、今まで無造作に使っていた言葉の定義や概念を改めて振り返るようになった。
前回、保坂尚輝の「夫婦観・家族観」について述べたが、これもまた「夫婦」「家族」という言葉の定義について考えさせられるエピソードであった。
我々は、じつに無造作に曖昧に「言葉」を共有している。相手方と自分とでは、その言葉の定義がまったく違うかもしれないのに、それを確かめもせずに「わかったつもり」になっているのだ。だから今回のように、保坂にとっての「夫婦」の定義が自分の「夫婦」の定義とずれていると、「ああ、この人は『夫婦』というものを、このように捉えているのか」と考えることすらせずに、「言ってることがわからない」と切り捨ててしまう。本当に、バカだ。このような現象こそを養老孟司氏は「バカの壁」と呼んだのではないかと思うが、違いますかね。
そもそも言葉の定義を怠り、無造作に無神経に言葉を使う者の脳内では、その言葉の表す概念自体が大雑把で乱暴である場合が多い。たとえば、ひと口に「家族」と言ってもさまざまな形態があるワケで、どれが正しいとも健全だとも言い切れないものだと思うのだが、それを深く考えることもせずに「家族とは、両親が揃っているのが普通である」という単純な思い込みのもとに「やっぱり母子家庭で育つと子どもの人格が歪むのだ」などと決めつける人がいたりして、女王様を大いに憤慨させるのであった。
両親が揃っていても、健全とは言えない家族もあろう。家族とはポーカーゲームではないのだから、これこれのカードが何枚揃っているからOK、というようなものではないはずだ。他人の家庭環境や生育歴を根拠に何かを述べるのであれば、まずは「どのような家族が健全と言えるのか」という問題を明確にすべきではないか。なのに、それを怠って、「あの人が変人なのは、家庭環境が不健全だからだ。だって、あの人は母子家庭だもの」などと簡単に言い切るその乱暴さ、その概念の貧しさに、女王様は絶望する。
言葉は「神」なのである。言葉を無造作に使い、偏見に満ちた概念を平気で垂れ流すのは、罪悪だとすら思える。特にメディアに携わる者は「言葉」と「概念」の扱いに細心の注意を払うべきであるのに(何故ならメディアの影響力は本当に強く、人々の無意識なる偏見をうっかり育ててしまうからである)、テレビ関係者の多くはそれをじつに平然と怠るのだ。
保坂尚輝は記者会見の際、「自分は幼少期に両親と死別した」と語っていた。そのコメントを、今回の保坂の「離婚」と「独自の家族観」に繋げて批評した人間がいたかどうかは知らないが、もしも「保坂さんは恵まれない家庭環境に育ったから、夫婦というものがわかってないし、家族観も歪んでいるんですね」などとしたり顔で発言したコメンテイターがいたとしたら、そいつは日本一のボンクラだ。二度とテレビに出してはいかんと思うね。
ところで保坂の布袋批判もまた痛烈であった。女王様は今回、かなり保坂尚輝を見直したなぁ。
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医者の「大丈夫」に腹立つ![#「医者の「大丈夫」に腹立つ!」はゴシック体]
ストレス発散旅行[#「ストレス発散旅行」はゴシック体]
子宮筋腫問題を放置したままの女王様に、新たなる身体的試練が襲いかかった。
今度は、眩暈《めまい》である。横になったり起き上がったりするたびに、眼球がグルグルと回る。もちろん、視界もグルグルと回る。ああ、地球はメリーゴーラウンド。でも、楽しくないわ。つーか、むしろ怖ぇ〜よ。私、どうなっちゃうんだろ?
これは、やはりアレか。更年期障害というヤツか。ネットで調べてみたら、眩暈にはいくつか種類があり、耳の三半規管に起因するもの、脳に原因があるもの、首からくるもの、などなど、そのいずれにも心当たりがある。耳は以前から軽く耳鳴り感があるし、脳の血管も時々ドクドク鳴ってるし、首と肩は慢性的に凝っている。ストレスから来るメニエール氏症候群ではないか、とアドバイスしてくれる人もいて、いったい何のストレスなのか知らんが、もしかしたら女王様、自分でも気づかないうちにお疲れなのか。
そんなワケで、思い切って早めの夏休みを取り、夫の故郷である香港に四泊五日の小旅行をしたのであった。旅行中、仕事をしたのは一日だけ。あとは朝から晩まで、食ってるか買い物してるか寝ているか、まるで有閑階級のごとき優雅にして怠惰な日々。そしたら、民よ、なんと帰国した頃には眩暈がピタリと治まってしまったではないか。凄いぜ、香港! メニエール氏もビックリの治療効果だ。SARSだ何だで、ここのところ人気薄だったが、ストレスも更年期障害も吹き飛ばす悦楽の国、お疲れ気味の日本国民よ、ぜひぜひ行ってみるがよい。
と、このように、思わぬ治療効果に上機嫌の女王様であったが、しかし、良く効く薬には強烈な副作用がつきものなのであった。眩暈の完治と引き換えに、香港で女王様が散財したカードの請求額は約三百万円、そのうえ朝から晩までのグルメ三昧が祟《たた》って腹部を中心にこってりついた脂肪は二キロ半。
「うぎゃあ〜〜!!!」
カードの請求書に失神しかけ、体重計の数字にクラクラと眩暈がぶり返す女王様なのであった。ねぇねぇ、ストレス発散旅行で新たなストレスを抱える私って、何? 結局は、無意味な遠出をしただけってこと?
ちなみに香港にて女王様がお買い物した品々は、シャネル、グッチ、ディオール、ヴェルサーチ、モスキーノ、ヴェルサス、D&Gといったブランドの服やら靴やら十数点と、毛皮のショール、イエローダイヤの指輪、カラーストーンの指輪、などなど。それに加えて、ペニンシュラホテルのスィートルーム四泊分の宿泊料とルームサービス料、連日連夜の豪勢な食事代。しかも調子に乗った女王様は帰りの空港の免税店で化粧品を十五万円分も購入した大バカ女であった。二キロ半も太りやがって、デブが顔にシャネルやラ・メールの高級クリーム塗ったって意味あるかい。己の腹の脂肪でも絞って塗っとけ、リサイクルじゃ!
と、ひたすら自分を責め、罵詈雑言を浴びせる今日この頃。しかし、どんなに自分を責め立てても冷や汗かきつつ前借りのメールを書いても、例のストレス性眩暈は一向に再発しない。散財と借金のストレスなんて、じつは大したことないってワケか。図太い女だなぁ〜。
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愛の不全感による自己否定[#「愛の不全感による自己否定」はゴシック体]
ある種の女にとって恋愛は、どうしていつも苦しいものになってしまうのだろう。おそらく、と、女王様は考える。恋する女たちにとって、相手の男は、自分の存在価値を決定する、この世で唯一の存在になってしまうからではないか。
どんなに仕事のキャリアを評価されていようと、友人たちから慕われていようと、好きな男に愛されていないと感じただけで、自分のすべての価値が無に帰したような気分になる……そんなアイデンティティ・クライシスに、恋愛中の女たちはいともたやすく陥ってしまうのである。
その代わり、恋人から愛されていると感じた瞬間は、自分を全肯定されたような絶大な恍惚感と充足感に浸される。その快感がまた何よりも強烈なので、女たちは身を引き裂かれるような苦しみを味わいつつも、恋愛をやめられないのだ。
たとえ女として十全に愛されなくとも、仕事や才能や人間性を評価されていればそれでいいではないか、と、恋をしていない時には冷静にそう思えるのであるが、ひとたび恋をした途端、キャリアや人間性なんかより女として愛されることにすべての価値があるかのような錯覚に陥ってしまう。恋愛相手の肯定なんて、一時的なものに過ぎないのに。それを承知で、なお、その男の評価が絶対基準となってしまう……これはつくづく不思議な現象ではないか。
そもそも女にとっての恋愛は、自己確認的な要素が強い。自分が愛されているか、必要とされているか、と、必死で確認を取りたがるのは、男よりも専ら女のほうである。このことには以前から気づいていたが、それはきっと女たちが恋愛以外に自己を確認する手段を持たないような(つまり、キャリアや人間性を評価されるチャンスが極端に少ないような)前時代的価値観の遺物なのだと思っていた。
が、どうも、そうではないらしい。人も羨むようなキャリアや才能の持ち主であろうとも、その人柄が高く評価されている高徳の人であろうとも、「女として十全に愛されていない」という欠落感が本人の誇りをどんなに損なうかを、私は目の当たりにしてきたのだ。女が傷つき壊れるのは、たいてい、その「愛」の問題である。キャリアウーマンも専業主婦も、若い女も年取った女も、等しく「愛の不全感」ゆえに深刻な自己否定感を持つのであった。
とりあえず男女平等という思想が浸透している現代ですら、女たちはその不全感と苦しみから逃れられない。解放されるどころか、ますます苦しんでいるようにも見受けられる。そして一方、若い男たちのほうが、男女平等思想によって女の自意識により近くなり、愛されることに絶大な価値を置くようになって、アイデンティティがぐらつき始めたようにも見えるのだ。たとえば「摂食障害」は、他人の目に映る己の美醜にこだわり過ぎる「女性特有の病」であると思われていた。が、アメリカなどでは今や若い男性の「摂食障害」が増加していると聞く。美醜の問題は、もちろん「愛の問題」と深く関わっている。
男女が平等であるべきなのは当然だが、性差という役割を失った結果、人はより「愛」に拘泥するようになったのだ。それだけが唯一、自分の性の確認となったからであろうか。
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恋愛したい[#「恋愛したい」はゴシック体]
バイアグラとプチ整形は、全国のオヤジとオバサンに、「まだまだ諦めない」という良くも悪くも前向きな姿勢を与えたと思う。そう、現代人は諦めることを放棄したのだ。老いとともに、自分の肉体的機能や外観が「ままならないもの」になっていく事実を、昔の人は仕方なく受け容れていたのであろうが、我々は「受け容れずにとことん抗《あらが》う」という選択肢を得た。
その結果、いくつになろうと、男はますます「性的機能」に「男性の尊厳」を賭け、女はますます「美貌」に「女性の価値」を見いだすこととなったのである。つまり、男女ともに「異性に愛されること」が重大な課題となってきたわけで、これが現代人の自意識に大きな変革をもたらしたことは明らかであろう。「バイアグラ&プチ整形」以前の男女が老いとともに諦めた「性愛や恋愛による自己確認」を、我々は諦めずに追い求め続ける。むろん「いい年して恋だのセックスだの言ってるのは愚かしいことだ。自分にはバイアグラもプチ整形も必要ない。恬淡《てんたん》と老いていく境地を楽しむのである」という人はあろうが、そういう人の数はこれから減少の一途をたどり、多くの人は「性的自己確認」の欲望に勝てずに薬や整形を受け容れるのではないか、と思うのだ。
「社会」とか「世間」などと呼ばれる「他者の複合体」にリアリティがなくなりつつあるのが、現代の傾向であろう。インターネットで個人と個人がグローバルに繋がったおかげで、「顔のない他者たち」が急増し、それはある意味で「外部世界と繋がりながらも、その外部世界にリアリティがない」という現象を生んでいるのだ。だって、顔のない他者には、どうしたってリアリティがないもの。
世界が広がったように見えて、じつは個人の脳内世界は閉じている。
そうなると、「顔の見える他者」の承認がどうしても欲しくなり、結果、現代人は「手近な他者から愛されること」に自己確認の比重を大きく置くようになってきたのだ、と思うのですが、いかがでしょうか。少なくとも女王様は、自分自身に、その傾向を強く感じる。年齢的に発生した「女としての賞味期限切れ」への危機感も手伝って、女王様は昨今、これまでの人生でもっとも激しく「異性から愛されること」を希求しているのだ。
それは、やはり女王様の中で「世界とか他者といった存在がどんどんリアリティを失っていく」ことへの不安と恐怖心が増大してきたからではないかと思う。その孤立感、隔絶感に、最近の女王様は堪えられそうにないのである。
そもそもが依存症体質であるから、このまま「恋愛依存」や「セックス依存」に行ってしまったら怖いなぁ、という気持ちはある。しかし、それでも「恋愛したい」という欲求は、どうにも抑えがたい。それも、『冬のソナタ』みたいな純愛じゃ嫌だ。ちゃんと抱き締め合って肉体的な接触のリアリティを確認できないと意味がない。
なまじ顔だの胸だの整形したために、女王様は、恋愛ゲームへの再参入権を獲得したかのように勘違いしているのだろうか。
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気功を受けた翌朝……[#「気功を受けた翌朝……」はゴシック体]
さて、民よ。かねてより懸案の一件、女王様の「子宮筋腫」問題に、また新たな展開が訪れた。
じつは救急病院で「子宮摘出」手術を勧められて以来、女王様は悩みに悩んで、病院に行っていなかったのである。べつに子宮に未練があるわけではないが、あまりにも多くの民草から、「女王、子宮を取ったら後悔しますぞ!」との声が寄せられたため、考え込んでしまったのだ。
子宮を取っても卵巣を残せばホルモンバランスも崩れず副作用も少ない、と、女王様を診察したN病院の医師は言った。が、それに対する反論の声も多く、インターネットのサイトなどで調べてみたら苦痛に満ちた体験談などもあまた目につき、「どないせぇっちゅうねん!」てな気分になってしまった次第である。まぁ、正直、忙しさにかまけて、ついつい先送りにしていたふしもなきにしもあらず……つーか、それが大きな理由かな。すまん。
で、あれから数カ月、生理も順調だし激痛というほどの生理痛もなく、なんとなく平穏無事に過ごしていたのだったが、ここにいたって異変が起きた。というのも、女王様、知人に勧められて気功なんてぇものを受けてしまったのである。
諸君は「気功」を信じているか。女王様はあまり信じていない。以前、何かのテレビ番組で「気功で人を吹っ飛ばす」実演をやっているのを見て、「あり得ねぇ〜!」と爆笑した記憶がある。オカルト、占い、超常現象などに対して常に冷笑的な立場を取っている女王様なのである。
しかしまぁ、今回は知人の勧めでもあるし、べつに気功を受けたからといって失うものがあるわけでもなし、などと考えて、気軽に受けてしまったのだ。もしもこれで子宮筋腫が治ったらラッキー、くらいの気持ちはあったかもしれない。ということは、心の底でちょっぴり信じていた、ということになるのであろう。「半信半疑」というよりは「三信七疑」ほどの心境であった、と、想像していただきたい。
で、受けたわけですよ、気功を。ベッドに横たわって三十分ほど、「気」を送られたりしたわけ。終わって感想を訊かれた時も「うーん、心なしか肩凝りがスッキリしたような……」という程度の非常にあやふやな返答しかできなかった。が、驚いたのは、その翌朝のことである!
な、な、なんと! 生理が十日も早く来てしまったのだ! そのうえ、いつもより五割増しくらいの出血量だ。「多い日も安心」と謳っている特大ナプキンが全然安心じゃないくらい。挙句の果てに、何十年かぶりに「スカートを汚す」という中学生みたいな失態を演じてしまった女王様は我と我が身が恐ろしく、「あひぃ〜っ!」と悲鳴を上げつつ深夜に気功の先生に電話をかけてしまったのだった。すると……。
「それはね、気功が効いているんですよ」
「そうですか? かえって悪化してるんじゃ? これ、生理じゃなくて不正出血なのでは???」
「いや、大丈夫。以前、気功を受けた直後に筋腫がポロンと出てきたケースもありますよ」
ホントかよーっ、と、心の中で叫んだ女王様であったが、以下次号!
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医者の「大丈夫」に腹立つ![#「医者の「大丈夫」に腹立つ!」はゴシック体]
気功を受けた翌朝からの大出血、「これって生理じゃなくて不正出血? だとしたら、この量は、只事じゃない病状の証拠?」と不安に慄《おのの》いた女王様であったが、出血はきっちり一週間で収まった。やっぱ、ただの生理だったのかなぁ?
それにしても不安は残っているので、一大決心して早起きし、「子宮筋腫ならここがお勧め」と友人からアドバイスされた某大学病院に行ったのだった。ここではUAE(子宮動脈塞栓術)とかいう治療法を取り入れていて、これは腿の付け根あたりを数ミリ切開してカテーテルを通しゼラチン様のもので子宮動脈に栓をすることによって筋腫を兵糧攻めにして縮小させる、という、副作用も少なく効果抜群の新療法なのだそうである。あまりにも多くの人が子宮摘出に反対し、このUAEを勧めてくれたので、女王様は「もし治療を受けるなら、ぜひともこれで!」と決めたのだ。導入している病院が少ないだけに、臨床データもまだ少ない治療法なので、興味のある方々には、その内容と効果のほどを女王様が身をもって示すことができる、とも考えた。どうやら美容整形以来、誰からも頼まれてないのにモルモットになる、という妙な快感に目覚めたらしい。世のため人のため、みたいな幻想が欲しいんですよね、要するに。
ま、それはともかく、朝も早うからタクシーに乗って件《くだん》の大学病院を訪れた女王様、三時間ほど待たされてイライラした挙句、ようやく名前を呼ばれて診察室に入ったね。医者は優しげなオジサマ、肉付きのいい腹回りに貫禄を感じる。
「数カ月前に突然激しい痛みがあって救急病院に行きまして、その時、子宮筋腫と診断されたんです。で、今回は十日も早く生理が来て……不正出血じゃないかと心配なんですが」
「なるほど。では、調べてみますか」
脚を開いて器具を突っ込まれる。エコーとかいうヤツであろう。その後、再び診察室に呼ばれて入ると、そのエコー写真らしきものを見ながら医者がひと言、
「ま、大丈夫ですよ」
「大丈夫って?」
「確かに筋腫はあるけど、そんなに心配ないですね」
「筋腫は今、どんな状態なんですか? 子宮のどのへんに、どれくらいの大きさの筋腫が、いくつあるんですか?」
畳み込むように尋ねると、医者は心なしか不快そうな顔をして、
「そういうことまでは、はっきりわかりませんね」
わからん、だと? じゃあ訊くけど、場所も数も大きさもはっきりわからんのに、何を根拠に「大丈夫」だなんて言えるんじゃあ!
これだよ。医者に腹立つのは、この部分だよ。自分の身体のことだから、医者任せにしないで、何でもきちんと把握しておきたいの。説明が長くなっても構わない、専門的な知識が必要なら勉強する。だからお願い、面倒臭がらずに説明して!
ムッとした女王様だが、心を鎮めて、こう訊いた。
「じゃあ今回の出血なんですけど、生理なのか不正出血なのか、どこで判断すればいいんでしょう?」
「予定日に来れば生理だよ」
当たり前じゃーっ、その予定日が狂うから判断つかんで心配なんじゃーっ!
ああ民よ、こんな医者に身体預けて大丈夫なのっ!?
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自分の身体に対する「義務」[#「自分の身体に対する「義務」」はゴシック体]
病院を変えようか、と、女王様は思った。
自分の身体のことである。納得のいく医師に診て欲しい。ろくろく調べもせずに「子宮摘出」を勧める医師は論外だが、他の治療法を指し示してくれるにしても、もう少し会話のできる医師がいい。
これまで病気らしい病気もせず医者要らずで過ごして来た女王様、唯一お世話になったのは美容形成外科のタカナシクリニックであるが、そこで学んだことがひとつある。
自分の身体にメスを入れるという決断には、その結果を最終的に引き受けるのは自分の身体である、という覚悟が必要なのだ。もしも手術が失敗した場合、たとえ執刀医に全面的に責任があったとしても、痛みや苦しみを受けるのは自分自身の身体である。裁判を起こせば賠償金を取れるかもしれないが、金では補えない苦しみを、ずっと引きずっていかねばならないのだ。だからこそ、患者は医師を真剣に選ぶべきであるし、納得の行くまで医師とコミュニケーションを取って、自分の身体に一番いい方法を選択する義務がある。
この場合の「義務」とは、自分の身体に対する「義務」である。我々は、もっと自分の身体に責任と自負を持たねばならないのだ。何事であろうとも、「あなた任せ」という姿勢は、従順で謙虚であるかのように見えて、じつは大変無責任なことなのである。
去年、知人が子宮癌で亡くなった。癌が発見された時には全身に転移していて手の施しようがなく、抗がん剤と痛み止めだけで進行を遅らせるしか方策がなかったという。が、当の本人はその事実を知らされておらず、「子宮を取らなくても大丈夫らしいよ」などと、きわめて明るく楽観的に、見舞い客たちに説明していたそうだ。だが、結局、彼女は亡くなってしまった。医師や家族が本当のことを彼女に知らせなかったことには、それなりの理由があるだろう。しかし、女王様は思った。私だったら、せめて自分の身体に起こっていることは正しく知りたい、そのうえで抗がん剤を打つかどうかも自分で選ばせて欲しい、と。私にはその権利があり、義務もあるはずだ、と。
子宮筋腫は、癌と違って、命に係わる病気ではない。だからといって簡単に考え、軽率にも「子宮取れって言われたから取りまーす」などと脳天気な宣言をしてしまった自分を、今、女王様は恥じている。「子宮を取ったら女じゃなくなるのではないか」という恐怖がネックになっているのではない。「子宮を取ったら、自分の身体にどんな影響があるか」をきちんと調べもせずに、安易に医師の勧めに乗ってしまおうとした、己の無責任さを猛省したのである。
確かに多くの医師は「子宮は、ただの臓器。卵巣を取らなければ、ホルモンバランスには影響がない」と言う。しかし、女王様がネットで調べてみたら、子宮を取ったことを後悔している女性は大勢いるのである。身体に影響がないわけではないのだ。ただ、「ま、それくらいはね」といった感じで、瑣末なこととして扱われているだけだ。
だが、それが瑣末なことかどうかは、身体の持ち主が決めることだと、女王様は思うのである。
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メッセージを探しに[#「メッセージを探しに」はゴシック体]
腹の中に抱えた数個の肉塊をめぐって、日々、悶々としている今日この頃の女王様であるが、そうこうしているうちに、十日間ほどアメリカに行かなくてはならなくなった。NHK衛星放送の特番で、カレン・カーペンターの人生を辿る、という内容の仕事である。
カレン・カーペンターは、ご存知、カーペンターズの女性ヴォーカリストだ。素晴らしく綺麗な声で多くのヒット曲を歌い上げ、世界中の人々から愛されリスペクトされたけれど、一九八三年に拒食症で亡くなった。
当時、「拒食症」という病気は、ほとんど知られていなかった。それだけに、強い衝撃を受けたことを憶えている。「痩せたいという欲求が生存本能を凌駕《りようが》するような病気が、この世にはあるのだ」と驚き、何だか俄《にわ》かには信じられなかった。生存本能というものは、他のどんな欲望よりも強いはずではないか。
しかし、驚きながらも女王様は、そこに何か他人事ではないような不穏な心のざわめきを感じ取ったのである。そうでなければ、正直、カーペンターズのファンというわけでもなかった私が、あれほどの衝撃を受けるはずがない。
おそらくあの時、カレンが目に見えない指で、私の心に何かを書きつけたのだ。だが、私は、その書付けを失くしてしまった。家の中よりももっと乱雑に散らかっている女王様の脳内の奥深くに、それは紛れて埋もれたままである。そこに書かれていた言葉が何だったのかを知るために、今回、アメリカに行ってみようと思い立ったのだ。
カレン・カーペンターは、アメリカンドリームを絵に描いたような成功を収めて世界的スーパースターになりながら、最後まで自分に「OK」を出せなかった。ミュージシャンとしてどんなに成功しても、女として成功しなくては、自分は完璧と認めてもらえない、と、彼女は感じていたのだろう。ロサンジェルスの豪華マンションで贅沢なひとり暮らしを楽しみながらも、郊外の家で夫と子どもの世話をする白いエプロン姿の自分に憧れていた。そんな彼女を「いつまでも夢見る少女だった」と友人たちは言うが、それは周りが思うほど微笑ましい夢ではなく、彼女にとって強迫観念に近い悪夢だったのではないか。
そう。執着すればするほど、夢は悪夢に変わるのだ。彼女を追い詰めたのは、白いエプロン姿の「もうひとりのカレン」である。その女が、いつも囁《ささや》くのだ。
「あんたは、いつまでたっても不全者だ。いくらお金があっても才能に恵まれてても、女として母として愛され祝福され尊敬されない女は、欠陥品なのよ。あんたは成功者かもしれないけど、その舞台衣装を脱いだら、ただの冴えないモテない野暮ったい、太めの女じゃないの。女たちは皆、あんたを見て思ってるわ。ああ、あんな女にだけはなりたくない、って」
カレンの「悪夢の女」は、女王様の中にも住んでいる。独善的で高圧的で冷笑的な女。その女と戦うためにカレンはダイエットに、女王様は美容整形に走った。
カレンは死んだが、女王様は終わりなき悪夢をしぶとく生きている。あの時カレンが書き残したメッセージを見つけられれば、女王様の「さすらい」の旅もついに終わるのだろうか。
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「悪夢の女」との戦い[#「「悪夢の女」との戦い」はゴシック体]
カレン・カーペンターの中に住んでいた「悪夢の女」は、白いエプロンを着た幸福な主婦だった。女王様の中に住んでいる「悪夢の女」は、どんな女なのだろう。
子宮筋腫が発覚した時、「これは子どもを産まなかった私への罰なのか?」などという思いも寄らない罪悪感が女王様の心をよぎった。今にして思えば、あれこそが女王様の「悪夢の女」の囁きだったのだ。
「ほら、ごらん。女は子を産んでこそ一人前なのよ。その義務を怠ったから、あんたはそんな病気に罹《かか》ったんだわ。好き勝手に生きて、出産も子育ても放棄した女には、子宮に醜い肉塊でも孕《はら》んでるのがお似合いよ!」
そんな女が自分の中にいることを、あの時、女王様は初めて知った。いや、薄々知ってはいたのだろうが、ここまではっきりとその声を聞いたのは初めてだったのだ。自分がとっくに捨て去ったと思っていた価値観が、予想だにしない罪悪感という形で、意識の表面に浮かび上がって来たのだ。と、同時に、今まで戦って来た敵の姿が初めて見えた、という気がした。
そうか。私は、世間と戦って来たのでも、神と戦って来たのでもない。自分の中の「悪夢の女」と戦っていたのだ。そのためのブランド物、そのためのホスト、そのための美容整形だったのか、と。
女王様の中の「悪夢の女」は、「女とは、心身ともに多大な犠牲を払って子どもを産み育てるからこそ、尊い生き物なのである」と考えている。だから、その役割を放棄した女王様に対して、常に批判的なのだ。
「あんたがいったい何をしたって言うの?」と、彼女はせせら笑う。「文章を書いてるって? それが何? そんなの、女にしか出来ない仕事ってわけじゃないでしょう? せっかく子どもを産める身体を神様が授けてくれたのに、それを無駄にして、自分の野望や自己顕示欲の実現だけのために生きて来て、あんたがいったい何を成し遂げたというの? 自分以外の命のために、犠牲を払ったことってある? 産みの苦しみも知らなければ、子に乳をやる充実感も知らない。あんたは不幸な女だわ」
ショウビズ界でこれ以上は望めないほどの大成功を収めたカレンですら、自分を肯定することができず、女としての欠落感や不全感に苦しめられていた。たかだか雑文を書いていい気になってる女王様はもちろん、世の中の多くの女たちが煩悶するのは当然である。
しかし一方で、幸福な結婚をして子を産み育てた女たちが自分の人生に充足しているかといえば、必ずしもそうではない。彼女たちは彼女たちで、自分が社会との接点を失って取り残されていく不安、己の野望や自己顕示欲が十全に満たされていない不満に苛《さいな》まれているのである。彼女たちにとっては、逆に「自立して成功した女」という幻想が「悪夢の女」として眼前に立ちはだかっている。
「勝ち犬」「負け犬」などと言っているけど、この世に蔓延しているのは「勝ちながら負けている犬」たちの自責地獄だ。「性的価値」と「社会的価値」と「生殖的価値」という三つの価値のプライオリティが同等であり、どれが欠落しても不全感を抱えてしまうシステム……それが、我々の中の「悪夢の女」を産んでいる。
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フラレた私への夫の言葉[#「フラレた私への夫の言葉」はゴシック体]
突然だが、民よ、女王様は男にフラレた。カレン・カーペンターの取材でアメリカに行っている間に、メールで別れを宣告されたのだ。いやぁ、びっくりしたね。元々ネガティブな性格なので、常に最悪の事態を想定しているつもりなのだが、こんなに急にフラレるとは予想もしてなかったよ。
人のふり見て我がふり直せ、とは、女王様の母親が常々、口にしていた諺《ことわざ》である。今後、また恋愛をして別れるようなことがあったとしたら、相手に別れる理由をきちんと説明できるような人間になろう、と、決意した女王様だ。それが、付き合った相手に対するせめてもの礼儀だと、このたび実感いたしましたわ。
そんなワケで、渡米して数日後に「もう会いたくない」旨のメールを受け取ってガーンとした女王様は、早速、日本にいる夫にメールで報告したのだった。
「私、男にフラレちゃったみたい。悲しいよぉ」
「どうしたの? 何があったの?」
「一緒に旅行に行く約束をキャンセルされて、残念だったから、つい文句を言っちゃったの。だって私、そのためにすごく無理してスケジュール空けてたんだよ。だから悔しくって、『キャンセルは仕方ないけど、私も暇じゃないんだから、もう少し早めに言って欲しかったわ』って言ったら、それがカチンと来たみたいで『私も暇じゃありません。そんなことでいちいち文句言う人とは、もう付き合えません』って」
「えーっ、自分でキャンセルしといて逆ギレ? あなたがその日程を空けるために払った犠牲も、おかまいなしに?」
「うん。自分の仕事はこういう仕事だからって」
「彼にとって仕事が大切なように、あなたにとっても仕事は大切なのにね。普通は、怒る前に申し訳なく思うよ」
「まぁ、私の言い方も悪かったんだろうけど。そう思ってすぐに謝ったのに、許してくれないの」
「でも、変だよ。まさかそんなことで別れる人なんて、いないでしょ。他に何か理由があるんじゃない?」
「あるのかもしれないけど向こうが言わないから見当もつかないよ」
「そっか……仕方ないね。あなたとは価値観が違い過ぎるんだよ。そんな人とは、どのみちうまく行かないよ」
「でも、悲しい。こんなふうにブチッと切られて、今までのは何だったのか、と思っちゃう。私のことなんて、最初からそんなに好きじゃなかったのかも」
と、まぁ、このように、散々ウジウジしたやり取りをした結果、女王様はようやく眠りにつき、翌朝目覚めてみると、夫から次のようなメールが入っていた。
「元気出して。何があっても、ワタシはあなたの傍にいるから」
その言葉はフラレた心にジーンと響き、女王様はまたもや決意した。人のふり見て、我がふり直せ。いや、夫のふりを見習え、私。
「ありがとう。すごく嬉しい。もし、あんたがフラレた時には、私もあんたの傍にいてあげるね!」
すると夫は、あっさりとこう答えたのであった。
「いや、あんたには相談しないと思うけどね」
なんじゃ、そりゃっ!? 民よ、女王様は、フラレたことより、ここまで人望のない自分が悲しいぞっ!
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三カ月おきの選択[#「三カ月おきの選択」はゴシック体]
さて。四十六歳にもなって男にフラレるというのは、傍から見ても痛々しかろうが、本人も相当にトホホな気分である。若い時分なら「次があるよ! 元気出して!」といった慰めの言葉にも素直に頷けるが、残念ながらババアには「明日」がない。次のチャンスなんてないかもしれないのだ。
一度は降りたつもりだった「恋愛」の土俵に、女王様が再び返り咲きしたがっている動機は、「女の賞味期限切れ」に対する恐怖である。まだ賞味期限は残っている、現役の女なのだ、という自己確認をしたいのだ。
思えば、美容整形によって外見を若返らせた瞬間から、「まだまだイケる」ということを証明したくて居ても立ってもいられなくなった。美容整形は、「女であることへの執着」を蘇らせたのだ。あのまま自然に任せて老いていたら、こんなに身を焦がすような煩悩に苛まれることもなかったであろう。神の摂理に逆らって無理やり夢を実現しようとした人間は、自らの夢に復讐される、ということなのか。まるで、イソップ寓話のようなオチだ。面白くない。こんなつまらないオチに着地するために、女王様は美容整形を受けたのだろうか。
思わず暗澹《あんたん》たる気分になってしまう今日この頃なのだが、しかし、女王様にはまだ「引き返す」という選択肢が残されているのだ。プチ整形の面白いところは、「三カ月で薬の効果が切れてしまう」という点である。顔面に注射を打ってシワだのタルミだのを消し去っても、三カ月も経つと徐々に衰えが戻ってくる。したがって、常に若さを保つには三カ月おきに注射を打たねばならず、その都度、金も手間もかかるワケで、ここがネックとなってプチ整形に踏み出せない人もいるのである。
が、それは必ずしも欠点ではなく、逆に言えば「いつでも元に戻れる」ということでもあるのだから、たとえば女王様のように「若返ったばかりに煩悩に身を焼く結果となって、かえって苦しみが増してしまった」と感じたなら、半年か一年くらい注射を打たずに放置すれば元の年相応の老顔に戻れるのだ。
すなわち、「諦めてラクになるか」「執着して苦しみ続けるか」という選択を、三カ月おきに自分で自分に問いかけ、答を出さねばならないのだ。図らずも、ということであろうが、これって大変うまいシステムだと、思わずにはいられない。
「選択の自由」には、常に「自己責任」というものが伴うのであって、三カ月おきに自覚的に「欲望の充足と執着の苦しみ」を選んだ者は、自ら選択した苦しみを腹をば括って引き受けねばならないのである。選択の自由と自己責任の覚悟という問題を、定期的に突きつけられる機会なんて、人生においてそうそうあるものではない。プチ整形のこういう側面が、女王様は気に入っている。
「鏡よ、鏡」と、おとぎ話の業の深いお后様のように、女王様は、三カ月に一度、自分に問いかけるのだ。
「人工的な若さと引き換えに、自らの欲望の重荷を、これからも背負っていく覚悟はあって?」
鏡の中の女王様は、にやりと笑って答える。
「もちろんよ。それが私の選んだ生き方だから」
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パワーゲーム好きの女[#「パワーゲーム好きの女」はゴシック体]
もしも自分が男だったら、どんな人生を送っていただろうか……てなことを、時折、考えてみる。
まず、今の職業に就いてなかろうということは確かである。女王様が文章を書くのは、「女であること」の業の深さゆえなのだ。男だったら、このような鬱屈を抱えてはおるまい。「男であること」にも、むろん業の深さはあるだろうが、物を書くとかいう形では発現せず、もっとパワーゲームみたいなものにハマってるような気がする。少なくとも女王様の性格には、そういう部分が顕著に見受けられるのだ。
パワーゲーム女というのは、二重三重に孤独である。
まず第一に、男にモテない。多くの男は、権力を誇示したがる女に対して、恋愛感情やエロスを抱きにくいからだ。権力志向の男に惚れる女は結構いるのに、その逆はほぼあり得ないというのは、「男女平等」なんちゅうものが所詮、絵空事に過ぎない現実を指し示している。
さらに、パワーゲーム志向の女は、女同士の世界で嫌われやすい。女の世界では、上下関係ではなく並列関係の交流が重視されるからだ。つまり、同じ女としての対等な立場で、どこまで共感し合えるか、という能力を問われるのである。
もちろん女の世界でも、互いの優劣を競い合う作業はしょっちゅう行われている。しかし、それはパワーゲーム的な戦いとは根本的に違うものだ。女たちの競い合いとは、たとえば、どちらが魅力的か、どちらが男にモテるか、どちらが幸せか、どちらの生き方が素晴らしいか、といったような、ある意味、客観的判断基準の曖昧な部分で戦っているので、これは非常に答の出にくいゲームであり、したがって、はっきりした勝敗が決まらないまま、最後には「でも、女として共感できる部分は、お互いにあるよねぇ」みたいなオチで心の繋がりを確認することが多いのである。つまり、白黒つかないことが重要なのよ、女の世界では。白黒ついちゃうと、友達でいられなくなるから。
だから、たとえ本質はパワーゲーム志向の女であっても、この「共感能力」を持っていれば、女の世界でも排除されずにすむのであるが、そもそもパワーゲーム好きの女というのは、そういうことを面倒臭がる傾向にあり、したがって「競って、白黒つけて、フォローなし」といった行動に出やすく、結果的に女友達の少ない寂しい生き方を強いられてしまうのだ。
恋人もいない、子もいない、女友達もいない……これぞ、正真正銘の「負け犬」である。男であれば、たとえパワーゲーム人格であろうとも、そのパワーに惹かれて近づいてくる女が必ずいるから、それなりに家庭は持てるし、さほど寂しい状況にならずにすむのだ。
女王様は、己のパワーゲーム人格がどれほど女の世界でマイナスであるかを女子校時代に実感したので、以後、「共感能力」に磨きをかけて、女友達だけは確保できるよう腐心して生きてきた。結果、女友達の延長線上であるゲイの夫を獲得して、何とかギリギリで「負け犬」にならずにすんだが、基本的に孤独であることからは逃れられないのだ。民よ、女王様が永遠にさすらっているのは、じつに、このためなのである。
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私、癌なんですか?[#「私、癌なんですか?」はゴシック体]
血液検査の結果[#「血液検査の結果」はゴシック体]
前の検診から二カ月経って、ようやく自分の子宮筋腫の姿を拝める日がやってきた。病院で撮ったMRIの画像を見せてもらうのだ。
「直径四センチくらいのが真ん中に二つ、あとは小さいのが奥に三つくらいありますね。全部で五つくらいですか」
医者の説明を受けながら、不鮮明な画像に目を凝らす。確かに、子宮の真ん中(厳密に言えば、やや左寄り)に、双子の胎児のように丸い塊が寄り添っている。こんなものを、女王様はいつの間に孕んでいたのだろう。いつまで経っても生まれない、ただ子宮内で成長するだけの、魂も生命もない胎児のごとき腫瘍。
「これUAEで取れます?」
「うーん……UAEは、大きい筋腫がひとつある場合には有効なんですが、こんなふうに小さいのがいくつもあるケースは難しいね。そもそもUAEは、筋腫に栄養を送っている血管を塞いで兵糧攻めにする、という手法なんですよ」
「はい、知ってます」
「だから、これだけ数が多いと、血管をいくつも塞がなくちゃいけないし、そうなると結構厄介なんだね」
「なるほど……」
UAEを採用している病院、という条件で、ここを選んだのだ。それが受けられないというのなら、別の病院に行ってもよかろう。と、思いつつも、とりあえず訊いてみた。
「じゃあ、先生は、どのような治療法をお考えですか」
「どうせ年齢的にも、もうすぐ閉経だから、薬で生理を止めて筋腫を成長させない方法がいいと思いますね」
「でも、それじゃ筋腫は残ったままでしょう? それに私、投薬治療は嫌です。ホルモン剤だから副作用が大きいと聞いてます。頭がボーッとしたり、のぼせたりするとか……」
「まぁ、確かに更年期障害のような症状は出ますね」
どうせもうすぐ閉経なんだし、更年期障害は免れないのだ、ちょっとくらい早く来たからって、それが何なんだ……と、医者が思っていたかどうかは知らない。が、女王様の耳には、医者のそんな声が聞こえてくるような気がした。
冗談じゃない、頭がボーッとしたら、たちまち、おまんま食い上げなんだよ、うちらの商売。それでなくても、ただでさえボーッとしてる女なのに、これ以上ボケボケしちゃったら、使い物になんねぇっつーの。
「まぁ、投薬が嫌なら手術ですね。子宮摘出か、あるいは開腹して筋腫だけ取り除くか」
「開腹せずに、筋腫だけ取り除く方法もあると聞いてますが」
「腹腔鏡を使った手術ですね。うちではやってません」
そうか……やっぱり他の病院を当たるか。開腹したら取り返しがつかない、という話をよく聞く。たとえば「筋腫だけ取る」という約束で手術を受けたのに、麻酔から醒めたら「やっぱり子宮取りました」と事後報告されて愕然、というケースも耳にした。返して、と言っても後の祭りだ。自分の臓器を勝手に取られるなんて絶対に承服できん。
と、まぁ、女王様がそのようなことを考えている時、医者は血液検査の結果を取り出し、さらりと言った。
「それから、腫瘍マーカーが基準値の二倍以上です。癌かもしれませんね」
「はぁっ……!?」
女王様、さらに愕然!
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私、癌なんですか?[#「私、癌なんですか?」はゴシック体]
「腫瘍マーカー(CEA)」とは、「癌胎児性抗原」とかいわれているものの数値を表すデータで、要するに「身体のどこかに腫瘍がありますよ、もしかすると悪性かもね」ということを教えてくれるものらしい。
で、こいつの基準値は、「5・0以下」なのであるが、なんと女王様におかれましては「12・6」という数値が出てしまったのであった。
「じゃあ、私は癌なんですかねぇ?」
診察室でデータを眺めつつ、女王様は医者に尋ねた。
「さぁ、それは詳しく調べてみなきゃわかりませんけどね。まぁ、子宮頸癌ではないようですよ。たぶん、消化器系だと思いますね。ここは婦人科なので、消化器科のほうで調べてもらうといいでしょう」
専門外だからね、ということで、この話題は打ち切られた。そりゃまあ、そうなんだが、女王様的には気になるではないか。場合によっては、子宮筋腫なんか二の次ですよ。命に係わる病気じゃないんだし、もしも癌なら、そっちのほうが優先順位が高くなるのは当然である。
しかし、話は終わってしまったので、それ以上食い下がるのも憚《はばか》られ、女王様は釈然としない気分のまま帰宅したのであった。
で、その「CEA」とかいうものについて、いろいろと友人知人に訊いてみたところ、どうやら「食道、胃、大腸、膵臓、胆道、肺、乳腺、甲状腺」などに腫瘍があることを示すデータらしく、しかし、「それらのどこにあるかは、特定できない」のだそうな。上記のリストを見る限り、確かに消化器系が主だが、肺やら乳房やらは消化器系じゃないし、たとえば消化器の検査を受けてシロだったら肺を調べ、それもシロだったら乳癌検査をして……と、このように、消去法で腫瘍の部位を特定しろ、ということなのだろうか。
面倒臭いなぁ、と、病院嫌いでズボラな女王様は思った。腫瘍の位置がどこなのか、一発で特定できる検査はないのか? こんなに医療が発達してるんだもの、絶対にあると思うんだけどなぁ。だってさぁ、消去法で特定するとして、あっちこっちの科をタライ回しにされつつグダグダと検査なんかやってたら、悪化しちゃうかもしれないじゃん。
そこで、さらに友人知人に尋ねてみたら、やっぱりあったのだったよ。腫瘍の位置を一発で特定でき、しかも悪性かどうかもわかっちゃう検査法が。
民よ、それは「PET」と呼ばれる検査で、癌の早期発見や再発の確認に有効なのだそうだが、あまりにも機械が高額なので導入している医療機関が少なく、もちろん検査費用もお高いのであった。たとえば「国立がんセンター」の場合、PET検査費用は二十万円以上。また、とある会員制の医療機関にも導入されているのを確認したが、そこでPET検査を受けるためには入会金を払って会員にならねばならず、その入会金が百五十万円と聞いて、女王様はかなり萎えた。
貧乏人は死ねっちゅうことなのかね、これは?
「もういい。なんか頭に来た。私、このまま放置して、もしも癌なら潔く死ぬ」
このようにヤケクソになった女王様だが、しかし、そこへ思わぬ救いの手が差し伸べられたのであった。
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騒いだって仕方ない[#「騒いだって仕方ない」はゴシック体]
「PET検査ですか。僕の知り合いに医者がいるから、訊いてみましょうか。顔の広い人だから、そんな何十万円も何百万円も払わなくたってPET検査できる病院を、どこか紹介してくれるかもしれませんよ」
行きつけの喫茶店でよく会う会社社長が、このように申し出てくれたので、女王様は渡りに船と飛びついたのであった。
「お願いします! 私、本当に金ないの〜」
ひと月に何百万円も浪費する女が何を言う、と、読者諸君も思ったろうが、その会社社長も思ったに違いない(苦笑してたし)。
しかし、クレジットカードの支払いで何百万円も引き落とされた後の女王様の預金口座は、ペンペン草も生えてないくらいの不毛の痩せ地状態なのだ。貯金って大事よね、と、思わず改心しそうになった女王様だ。すぐ忘れるんだけどさ。
で、数日後、会社社長に紹介された病院に行ってみたワケである。
「なるほど」
女王様の血液検査データを眺めつつ、そのクリニックの院長は言った。
「煙草は吸われますか?」
「吸います。つーか、ヘビースモーカーですね」
「煙草を吸う人は、腫瘍マーカーの数値が倍くらい出ることがあるんですよ。必ずしも癌というわけではないんですが、身体のあちこちに微細な癌細胞の芽みたいなものが出来かかってるんですよね」
「じゃあ、それがいつかは癌になるってことですか」
「なるとは限らない。それは断言できませんが、なる可能性を孕んだ状態ということです」
「はぁ……」
煙草やめなきゃダメよね、と、貯金に引き続き、ちょっぴり改心しかけた女王様だった。とはいえ、こちらもすぐに忘れて、相変わらず吸いまくっているのだが。浪費や喫煙といった悪習慣の改善は難しい。だって悪習慣こそが快楽だもの。
「まぁ、いずれにせよ、PET検査は受けておいたほうがいいですね。新横浜にいい病院があるから、ご紹介しましょう」
「ありがとうございます。あのぉ……費用はどれくらいかかりますかねぇ?」
「PET検査だけなら、九万円くらいですね」
とりあえず、十万円は切ったわけである。よかった、よかった。何だかすごく得した気分だわ。
それにしても、去年の二月に八万円も払って「人間ドック」とやらで検査したのに、子宮筋腫も発見されなかったし腫瘍マーカーの話もなかったわ。指摘されたのはコレステロール値の高さと胃のポリープだけ。子宮筋腫なんて昨日今日で五個も出来るもんじゃなし、「人間ドック」って何だったのかしら。
ま、それはともかく、だ。十一月十一日に、無事、PET検査の予約も取れたので、この問題に関しては、他に何もやることがなくなってしまった。結果が出るまで、癌かどうかもわからないんだし、騒いだって仕方ないもんね。
ただ今回、自分でも意外だったのは、「癌かもしれない」と言われたのに特に衝撃を受けなかったことだ。真っ先に思ったのは「ま、人間はいつか死ぬもんな」ということだった。老化には必死で抵抗するくせに、死には抵抗する気のない女……我ながら不思議である。
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もしも癌だとしても[#「もしも癌だとしても」はゴシック体]
自分が老い萎《しな》びていく恐怖に耐えきれず、シワ取りのプチ整形から始まってメスを使ったフェイスリフト手術、挙句の果てには豊胸手術まで、表面上の「老化」には徹底的に抵抗してきた女王様であるが、ワックスで磨き上げた蜜柑がそのピカピカの皮の下で静かに萎び腐っていくように、皮膚の下の臓器はひたひたと老いに侵され、「死」への準備を無言で推し進めているのであった。
たとえ今回、癌細胞が発見されなかったとしても、自分の身体が死に向かってカウントダウンし続けているという事実は変わらない。女王様は、そのことを深く肝に銘じようと思った。
残り時間は、思っているよりもずっと少ないかもしれないのだ、と。
例のごとく徹底的に「悪あがき」をする、という選択肢もある。美容整形の先端技術に頼って「老化」を押しとどめようとしたように、「死」へのカウントダウンに必死の抵抗を試みようか? それが女王様らしいやり方ではないのか?
否、と、女王様の心が答えた。私の欲望は常に「生きている時間の使い方」なのだ。買い物もホストも美容整形も、「いつまで生きるか」ではなく「どう生きるか」という問題であった。自分に与えられた時間を引き延ばすことよりも、どのように費やすかに執念を燃やす女なのだ。燃え尽きて死ぬなら本望だ。苦しみたくはないけれど、長生きする気はもとよりない。
と、このように、自分の心がきっぱりと答えたので、女王様もその決定に従うことにした。
もしも癌だとしても、放射線治療と抗がん剤治療は受けない。「生きること」への執着と「見た目の美しさ」への執着を秤《はかり》にかけると、女王様の秤は後者にぐぐっと傾くのだ。くだらない、本末転倒だ、という批判は百も承知だが、自分の秤がそう言うのだから仕方ない。
以前、女王様のプチ整形に立ち会った知人が「こんなに痛い想いをしてまで美しくなりたいなんて、あなたはバカです」と言った。そのとおり、女王様はバカである。「苦痛」より「生命」より「ナルシシズム」と「ボディイメージ」を優先する、抽象思考の怪物である。盟友のくらたま(倉田真由美)は女王様を評して「実よりも花を取る女」と述べたが、然り、女王様は「現実」よりも「幻想」にプライオリティを置く女、人類の「前頭葉文化の成れの果て」を体現する徒花《あだばな》の女王なのだ。
民よ、見よ。この女は、醜くなるくらいなら死ぬ、と言う。太るくらいなら死ぬ、と決めたカレン・カーペンターのように。その肉体はもはや現実の肉体ではなく、脳内に映し出された虚像、ナルシシズムが作り上げた幻の鏡像だ。女王様の「現実」はあくまで脳内の「仮想現実」、その「肉体」もまた脳内の「仮想肉体」、女王様が「自分」と考える存在も脳内のセルフイメージに過ぎないのだ。
女王様がこれまでに欲しがったものは何だったか。
「ブランド物」という幻想のシンボル、「愛」という幻想の甘露、「美貌」という幻想の果実……そう、この女は、幻想の中でしか生きて来なかったのである。ならば民よ、せめて、この女を幻想のために死なせてやってくれないか。
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生きることの意味を考える[#「生きることの意味を考える」はゴシック体]
先週書いたように、自分の「生き方」と「死に方」についてのスタンスがはっきりしたので、なんだかもう晴れ晴れとした気分になっている女王様である。
思えば、面白い人生だったなぁ(←過去形かよ)。一瞬一瞬は苦しい時期もあったけど、こんなに刺激的で楽しい人生、まさに女王様向きであったと思うよ。平穏無事な安定型人生だったら、きっと途中で退屈しちゃったと思うの。ま、最初から、そんな生き方選ばないんだろうけど。
生きるのがすごく苦しかった頃や、精神的にかなり疲弊してしまった時期に、「死んだほうが、なんぼかラクじゃなかろうか」などと思ったりもしたものだが、あの当時の私に会って「よくぞ死ななかったな、おまえは正しい!」と褒めてやりたい気分である。だってね、その後の人生の楽しさを思い起こせば、心の底から「あの時に死ななくて正解だったよ」と言えるのだから。
自殺という選択肢は、もはや女王様の今後の人生にはあり得ないと思う。少なくとも今は、そんな気、全然ない。わざわざそんなことしなくたって、残り時間は大してないのかもしれないのだ。それを考えると、「やれるだけ、やっとけ」という気分になるではないか。とりあえず、今日は生きてる。だから、今日はちゃんとやれることをやっておこう、と。明日のことはわかんないんだからさ。未練なんか残したくないじゃん。それにしても、こんな気分で生きてたら、ますます貯金はしなくなるなぁ。
先日、友人と「自殺」について話していた時、彼女が「生きるのに退屈しちゃって死ぬことって、きっとあるよね。私は、自分にそういう瞬間が来るような気がする」と言った。女王様も、そういうことってあると思う。「生きるのに退屈して」という言い方には語弊があるが、「生きることに意味を見失って」という表現なら、ご理解いただけるであろう。人間は「意味」を求めてしまう生き物だ。抽象概念の化け物ならではのモチベーションだが、そういう脳みそになってしまったのだから、もう他の動物のような思考回路には引き返せない。「自殺」の動機も十人十色であろうが、「生きることに意味を見失って」という理由もまた、じゅうぶんに納得できるのである。
で、女王様は「生きることの意味は自分で作れ」がモットーであるから、「意味を見失って」しまう以前に「意味を考える」ことに熱中してしまい、結果、意味を考えること自体が生きる動機となってしまって、現在に到ってしまった、と、このような次第なのだった。
なんだか『雨月物語』の「青頭巾」みたいだ。答の出ない問題を与えられ、それを考えているうちに生をまっとうしてしまう、という。あの話は確か、煩悩を捨てきれずに鬼と化した住職が高僧に禅問答の宿題を与えられ、それをずっと考え続けている間に煩悩が消えて本人も白骨化する、といった物語であった。小学生の頃に読んだきりなので記憶が曖昧なのだが、女王様の頭の中ではそういう話になっている。まぁ「考える」こと自体が煩悩じゃん、という気もするのだが、そういう救いもありでしょう。白骨化するまで考えていられるなんて幸福だよなぁ。
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残高「0」円![#「残高「0」円!」はゴシック体]
十一月十一日、いよいよPET検査の日がやって来た。仕事で徹夜して、前日の朝から一睡もしていない状態で、体調はこれ以上ないほど最悪。それでも朝十時には新横浜のクリニックに到着、看護婦さんたちがむちゃくちゃ優しくて感じが良くて、これには感激した。待合室で思わず寝てしまった(なにしろ徹夜明けだもの)女王様に毛布をかけてくれたりしてさ、人の情けが身にしみるなぁ。
で、検査結果はまだ出てないのだが、じつはその日に大事件が起こり、あらゆることが吹っ飛んでしまったのである。
午後一時ごろ、新横浜から心身ともにヘロヘロになって東京に戻ってきた女王様は、とりあえず金を引き出そうと、銀行に向かった。徹夜で頭はガンガンしてるし、しかも何の理由かわからんが私だけ検査を二回もされてしまったこともあって、「やっぱ、私、やばいのかもなぁ。夫には、せめて何か残してやりたいなぁ」などとちょっとクヨクヨと考えてしまい、本当に厭世的な気分になっていたのだ。
ところが……!!!
銀行のATMで残高照会した途端、ガガガガーンと、脳内でベートーベンの「運命」が鳴り響き、癌のことも夫のことも吹っ飛んで、その場で膝から崩れ落ちそうになったのである。
預金口座の残高は、「0円」であった。
こういうことって、普通はあり得ない。どんなに貧乏してても、残高には「三百十円」とか、端数が残っているものだ。なのに、きっぱりと「0円」! これがどういうことか、民にはわかるか。女王様には、瞬時にわかった。
「港区役所に差し押さえられたっ!!!」
これである。女王様は以前にも同じ目に遭い、コンビニのATM前で膝から崩れ落ちた経験があるのだ。
それにしても、港区役所も絶妙のタイミングで差し押さえたものである。一日おきの徹夜で今世紀最高に弱っており、そのうえ癌検査のその日に「差し押さえ」とは! 人が生きるか死ぬかという抽象的な問題についてどっぷりと考えている時に、よくぞ現実に引き戻してくれた。ありがとう、港区役所。君のメッセージは、しかと受け取ったよ。死ぬ前に、とりあえず税金払っとけって、な。
そんなわけで、港区役所からの死刑宣告にも似た衝撃のメッセージを受け取った女王様は、金を引き出すことも叶わず、よろよろと銀行から歩み出た。と、その途端、携帯電話にピピピッとメールが入ったのである。見ると、某出版社の編集者からで、
「ただいま、弊社に港区役所の滞納整理係の人が来て、今後の原稿料と印税を一切差し押さえたいと通告していきました。どうしましょうか。連絡ください」
再び、ガーン!!!
もはや歩くことすらまともにできず、這うように帰宅してパソコンを立ち上げると、文藝春秋からも新潮社からも同様のメールが入っており、どうやら港区役所は女王様を本気で一文無しにするつもりらしい。
そうか。癌になっても抗がん剤治療は受けたくないとか、そんな選択すら女王様には残されていなかったのだ。治療を受ける金もないんだもんな。あははは、と、乾いた笑いを漏らしたところで、以下次号!
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情けない……[#「情けない……」はゴシック体]
「港区役所に銀行預金を差し押さえられちゃってさぁ、今、預金残高が0円なんだよ〜。正真正銘の一文無し」
このように周囲の友人に打ち明けると、皆、驚いて、こう答える。
「えーっ、大丈夫なの?」
大丈夫では、ない。いきなり一文無しになって、大丈夫なワケがなかろう。
が、何と言っても、この一文無し状態は自業自得であるので、身近な友人たちから同情されたいとも思わないし、ましてや個人的に金を貸してくれという気もないのであった。
女王様はこれまで、何人かの友人に金を貸した経験がある。日常的に借金をする人というのは、他人からの借金の申し込みを断れない傾向にあるのだ。自分がやむなく金を借り、大いに助かった経験があるので、他人から借金を申し込まれた時に、つい「困った時はお互い様だもんなぁ」などと思ってしまう。
しかし、その経験によって、「他人に金を貸す」ことがどんなに負担であるかも知ってしまった。個人的に金を貸すと、返せと言いにくくなるので、結果、貸した金が一円も戻らないまま、相手が姿を消すことも多々あって、非常に寂しい想いをするのである。そこで女王様は、自分は個人からは絶対に金を借りまいと心に誓ったのだ。
現在、個人的に借りがあるのは、一カ月ほど前にたまたま財布に現金がなくてタカナシクリニックの院長に一万円借りた際の負債だけだ。今度会ったら返そうと思っていたのだが、一文無しになったので、それも叶わぬこととなってしまった。すみません、院長。でも、こないだ、「そんなワケなんで、一万円、もうちょっと待ってね」とお願いしたら、院長は真顔で「貸してませんよ、そんな金」などと言い放ってこちらを驚愕させ、挙句に「借りた、貸さない」で言い争いになってしまった。変な男である。借りた人間が借りたって言ってんだから、認めろっちゅうねん! ホントに借りたんだよ! そのうち返すから、覚悟しとけっ!
と、まぁ、金を借りたら借りたでムキになるような女王様であるから、こんな状況になっても、友人から個人的に金を借りるつもりは全然ない。どうせ借金するのなら、金貸しを専門としている消費者金融に借りたほうが気が楽だ。
で、その日、さっそくアコムから、当座の生活資金を借り受けたのだった。せっかくコツコツと返し続けてきて、残金を半分くらいに減らしたのに、また「むじんくん」との付き合いが長引くこととなった。忸怩《じくじ》たる想いであるが、仕方ない。ちくしょう、どこまで続くヌカルミぞ、などと呻吟《しんぎん》しつつ、行きつけの喫茶店に入った。コーヒーチケットを持っているので、ここのコーヒーは現金がなくても飲めるのだ。やれやれ、ありがたい。
ところが、である。この一文無しの女王様に、たった今アコムから金を借りてきたばかりの女王様に、喫茶店のマスター(←もちろん、事情を知っている)が何を言ったと思うかね?
「悪い、五千円貸して」
わしから借りるなぁっ! 人でなしなのか、おまえはっ! 女王様、追いはぎに遭った泥棒の気分であった。しかし五千円でこれだけ殺伐となる自分も情けない。貧乏はしたくないのぉ〜。
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見返してやる[#「見返してやる」はゴシック体]
例の自業自得の差し押さえ事件以降、経済的にもボロボロ、精神的にもボロボロ、それに引きずられて体調も崩し、仕事も遅れ気味となり、本当に「いいとこなし」の女王様だ。
そのうえ、まさに「泣きっ面に蜂」とでも呼ぶべき衝撃的事件が、数日前に女王様を襲った。
例の滞納金支払いのため、数社の出版社に原稿料や印税の前借りをお願いしまくった次第であるが、そのうちの一社から「印税の前借りはお断りいたします」と、きっぱり通告されてしまったのである。が、まぁ、それは仕方ない。こちらも無理なお願いをしているのだし、「げぇっ、どうしよう。当てにしてたのに」と内心動揺はしたものの、「わかりました。無理言ってすみません」と電話口で謝ったのだ。すると、その編集者が続けて言うには、
「じつは今度出す予定の単行本も、ちょっといろいろ練り直したいと上司が申しておりまして……」
奥歯にものすごーく分厚い物の挟まったような言い方なので、行間を読む能力に乏しいバカ女王様はしばらくキョトンとしてしまったのだが、要するに「あんたの本は出しません」と、どうやら先方はそういうことを言いたいのであった。
「なるほど!」と、その意図が通じた途端、女王様は膝を打ったね。出版する気がないから前借りもさせられん、と、さっきの返答はそういう意味だったのか! そりゃまぁ、確かにね。正しい姿勢であるよ。出すつもりのない本の印税なんか、誰が貸すかっちゅうねん。私でも貸さんわな。
ただ、このような状況で言われると、本人的には通常の百倍くらいのダメージを受けるものだ。正直、女王様の目の前は暗転した。
どうしよう。これじゃ、港区役所に滞納金を支払えないわ! つーか、それ以前に出版を断られるって、すっげぇかっこ悪くない? いや、べつに初めてってワケじゃないけどさ。でも、連載時にはけっこう読者の反応も悪くないと思ってたし、それなりに自信持ってた作品だっただけに、鼻っ柱をへし折られた気分だわ。
「そうですか」と、女王様は呼吸を落ち着けつつ、できるだけ冷静に答えた。
「では、この本は他社から出すことになると思いますが、その件については問題ありませんよね」
「いや、本当に失礼なことになって申し訳……」
「いえ、これはビジネスですから、出す価値がないと判断された本を無理やり出す義務は、そちら様にはありません。私はこれを失礼とは受け取ってませんよ」
悔しくないと言えば、もちろん嘘になる。だが、ここでギャーギャー怒るより、他社でこの本を出して、それなりの売り上げを達成して見返してやればいい。それが女王様のやり方だ。
これまでも悔しい想いは何度もして来たが、結果的に見返すことで鬱憤《うつぷん》を晴らしてきた。鼻っ柱が強過ぎて、もはや背骨の代わりに鼻っ柱で自分を支えているような女だけど、そんな鼻っ柱人生がどこまで通用するのか、我が事ながら興味があるわ。
えーい、こうなったらとことん仕事に燃えてやる! 逆境に置かれると脳内麻薬がドバドバ出てしまう女の底力、とくとご覧あそばせ!
と、虚空に吠える四面楚歌の女王様なのであった。
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残された者にとっての「死」[#「残された者にとっての「死」」はゴシック体]
先日、打ち合わせから帰宅したら、夫が何やらウキウキした様子で、女王様に一通の封書を差し出した。
「ねぇねぇ、これ見て」
「何それ?」
例の港区役所差し押さえ事件以降、すべての便りは悪い報せであるような気がして、郵便物を開封したり留守電を聞いたりするのがすっかり怖くなってしまった臆病者の女王様、夫の手の中でヒラヒラしているB4サイズの封筒を胡散臭げに見やった。
「あんた、もう開封したんでしょ? 中身、教えてよ」
「あのね。こないだの検査の結果。PETって言うんだっけ?」
「ああ……」
「えっと、読み上げるよ。いい? 『今回の検査では、悪性を示唆する明らかな異常所見は認められませんでした』……だって」
「ふーん」
「癌じゃないみたい、あんた。良かったね!」
良かったのか悪かったのかと言われれば、そりゃあ良かったに決まってるのであろうが、べつに飛び上がるほど嬉しいとか胸の底から安堵の息が出たとか、そのような人間らしい反応が一切出てこないことに、我ながら驚いた。なんかね、「あ、そう」って感じ。他人事みたいよ、正直な話。
ただ、目の前の夫の顔があまりにも嬉しそうなので、むしろそちらのほうに安堵を覚えた女王様である。
そうか。良かったな、夫。私がここで死んだら、私よりもあなたのほうが衝撃を受けるだろう。「死」というものが悲劇的なのは、死んでいく者よりも残された者の悲嘆の深さゆえである。
そう、夫よ、女王様にも覚えがある。ずっとずっと前のこと、あなたが病気になった時、私もすごく苦しんだ。あなたは死んでしまうのかと思いながら病院から帰宅し、床にあなたの脱ぎ捨てたセーターを見たら、急に胸が締め付けられるような気分になった。「死」とはこういうことなのだ、と、ふいに思ったのだ。
脱ぎ捨てられたセーターが昨日と同じように床に転がっていても、今日からはもうそのセーターを着る人はこの世にいないのだ、と、認識すること。抜け殻のセーターのように、あなたの不在を、家のあちこちに感じること。それが、残された者にとっての「死」のリアリティなのだと。
結局、あの時、あなたは死なずにすんだ。けれども「死」は、あれからずっと、私たちの家の中を幽霊のごとく漂っている。私の脱ぎ捨てたシャネルが、いつか私の死を、私の永遠の不在を、夫よ、あなたに囁きかけるだろう。その時のあなたの喪失感を思うと、ちょっと胸が重苦しくなるけれど、私は何もしてあげられない。だって、人はいつか必ず、ここからいなくなるのだから。
今年の初め、女王様の旧友が癌で死んだ。五十代半ばの若さであった。彼女が癌なのは知っていたのに、まさか死ぬとは思っていなかった。危篤の報せに慌てて病院に駆けつけると、息を引き取ったばかりの彼女が、ベッドの上に横たわっていた。ぺちゃんこに痩せ細って捻《ね》じくれた亡骸を見て、「ああ、抜け殻だ」と思った。「死」とはやはり、脱ぎ捨てたセーターに似ていたのだ。
気づけば、もう年末だ。女王様のさすらいは、いつまで続くのだろうか。
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駆けずり回る年の暮れ[#「駆けずり回る年の暮れ」はゴシック体]
もしかして今年の年末は、港区で、差し押さえキャンペーンでも開催中なのであろうか。
というのも、港区役所から住民税滞納で預金口座を差し押さえられた事件に続いて、同じく港区役所の国保年金課、さらに麻布税務署から、女王様の元に続々と「差し押さえ予告書」が送られてきたのである。
うーむ、どうしよう。とてもじゃないが、払えそうにないわ。女王様はもう、日本国民でいられないかもしれない。まぁ、よくよく考えたら、べつに日本国民でいたいってわけでもないんだけどさ。
ずっと以前、邱永漢氏から「あなた、香港人と結婚してるんだから、向こうに移住しなさい。日本の税金払ってるより、そっちのほうがいいですよ」というアドバイスをいただいたものだが、ちょっと本気で考えてみたくなった女王様だ。だって、税金、高いんだもん。しかも、その税金を滞納すると、すげぇ利率で延滞金がつくのよ。女王様が支払いに頭を痛めているのは、まさにその延滞金、約三百万円也。ちゃんと支払ったら、何に使ったか教えてくれよ、港区。納税が国民の義務なら、使途を説明するのはそっちの義務だろ。ま、女王様のような不良国民に、ご公儀に文句を言う資格などないかもしれん。言いたいことは税金払ってから言え、てなもんだ。
そこでまた思い出すのは、何年か前、政府税調前会長の加藤寛氏が、「どうして税金を払わなきゃいけないの?」という女王様の小学生みたいな疑問に答えて、「税金というのは入場料みたいなもんで、要するに国の政治に参加する権利を持つ、ということです」と説明してくださったことである。その時の女王様は「そうか、なるほど。税金を払えば、国の政《まつりごと》にも堂々と意見ができて、よりよい日本を作ることができるのね」などと納得したのであるが、あれからイラク戦争とか北朝鮮の拉致問題とかいろいろ見てるとさ、意見したい気持ちもどっかに行くよな。もう勝手にしろよ、あたし日本人じゃなくていいや、という気持ちになっちまう。税金は参政料なのであると考えたら、女王様、選挙権いらないから、その分、税金をまけて欲しいな。
そんなふうにボヤきながらも、この年末の超多忙時に、港区役所と麻布税務署に出頭せねばならぬ女王様である。なにしろ午後五時には閉まっちゃうから、大変だよ。締め切りに追われ、金策に追われ、税金に追われて、駆けずり回る年の暮れ。師走というより女王走だわ。寝不足だし、ホント、辛いの。
げっそりした顔で新宿二丁目の友人の店に顔を出したら、これまた女王様よりげっそりした顔のゲイが、会うなり倒れかかってきて、
「ちょっと、聞いてよ〜」
「どうしたの?」
「一昨日の夜、あたし、泥酔して歌舞伎町のホストクラブに行っちゃったらしいの。全っ然、憶えてないんだけど。それでね、昨日、鞄の中からカードの明細書が出て来てさ、その金額がなんと四十万円なのよ!」
「えっ、四十万円も!?」
「そうなのよ! あたし、本当に何にも憶えてないのよ! ああ、死にたい〜」
差し押さえられ女王とホストにカモられオカマで、その夜は痛飲したわ。バカって辛いわねぇ。皆様は、どうぞ、よいお年を!
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ゾクゾクする快感を求めて[#「ゾクゾクする快感を求めて」はゴシック体]
民よ、二〇〇五年である。
「めでたさも 中くらいなり おらが春」というのは、ご存知、一茶の句であるが、女王様の心境は「めでたさなんぞ どこにもねぇわよ おらが春」(字あまり)だ。
思えば去年の元旦は、女王様の舌禍で深夜にホストが怒鳴り込み、警察を呼ぶ騒ぎで始まった。その年の締め括りである年末は、港区役所と麻布税務署に差し押さえ通告をされる騒ぎで幕を閉じた。
自業自得で始まり、自業自得で終わった二〇〇四年……ああ、ちくしょう、振り返りたくもねぇわ。そういえば、夏には、ようやく出来た彼氏にこっぴどくフラレるしな。踏んだり蹴ったりとは、このことよ。でも、それも、今思い返せば、自業自得なのかも……そうか、去年は女王様にとって「自業自得強化キャンペーン年」であったのか。なんか、納得。
四十は不惑の年と言うけれど、女王様は四十代半ばにして、いまだ惑いっぱなしだ。しかし、こうやって「人生のツケ」を一気に清算してですね、また新たな年をゼロからスタートすれば、五十歳になるまでには「不惑」状態に到達できるかもしれない。そうよ、女王様、今年で四十七歳になるけど、あと三年で「自己模索」の時代は終わり、素晴らしき「自己確立」の時代が訪れるかも……って、それまで生きてる保証はないがな。
ところが、である。女王様は本当に「自己確立」なんか望んでいるのかというと、じつはそうでもないのだ。確立した途端に、人生は停滞してしまうような気がする。澱《よど》むのは嫌だ。恐ろしい。もしかすると女王様は、一生、不惑を迎えたくないのかもしれない。
いくつになっても、ああ世界は大きい、まだまだ知らないことがいっぱいあるのだ、と、感銘を受け続けていたい。新しい価値観、新しい世界観を発見するたびに、見えない扉がパァッと開かれたような気がしてゾクゾクする……ここ最近の女王様がハマっているのは、その快感だ。仕事自体はアウトプット業務であるから、インプット回路を開いておかないと、たちまち閉塞してしまうのである。
今年は新しい人間にいっぱい会って、新しい情報をいっぱい仕入れ、新しい世界の空気をいっぱい取り込みたい。少しでも視野を広げなきゃ、何のために生まれてきたのかわからないよ。
赤ん坊の頃の女王様の脳内世界は、揺り籠の中だけの広さしかなかった。そこに生存する他者も、母親と父親のふたりくらいしかいなかった。長ずるにつれ、世界は徐々に広がり、他者の数も増えていき、脳内世界は豊かに広がっていった。世界の広さに不安を感じたり迷子になったりもしたものだが(ま、今でも迷子だけど)、自分のテリトリーが広がっていく興奮と快感は、不安や恐怖を凌駕して余りあるものであった。おそらく女王様にとって「生きる実感」とは、その快感そのものだったのだと思う。
生きている間に、すべてを知ることはできない。しかし、知ってるものが多ければ、その分、知識を土台としたリアルな想像力を働かせることができるはずだ。体験できなかったことまでも理解できるほどの経験値と想像力が欲しい。それが「人間力」ではないかと女王様は思うのであります。
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私のお部屋に来て![#「私のお部屋に来て!」はゴシック体]
新しい年を迎えたから、という動機では全然ないのだが、「ミクシィ」というものを始めた。「ミクシィ」というのは、インターネットを通じて「お友達」の輪を広げる会員制のコミュニケーションサイトである、らしい。「らしい」というのは、いまだに女王様がシステムをよく理解してないからであるが、まぁしかし、システムがわかってなくても何となく始められちゃうところがインターネットの便利さなのであった。
それにしても、インターネットを通じてお友達を増やしたい、などと考えるほど、女王様は孤独に苛まれているのであろうか。
じつは、そういうワケでは全然ない。ただ、友人が「面白い」と言うので、何となくやってみたくなっただけだ。当初は、面倒臭いから日記も書かないつもりであった。何が悲しくて一銭にもならん文章を書かなくちゃいけないのよ、と、本気で訝《いぶか》っていたのである。何しろ女王様は、小学生の頃から日記をつけるのが大嫌い。しかも、日記なんて本来プライベートなものでしょ? それを不特定多数に向けて公開するなんて、どういうつもりだよ、露出狂なのかい、と、正直、バカにしていたのであった。インターネットで日記を書いている民には、このような傲慢な言い草、まことに申し訳なく思う。この行間に溢れる女王様の嫌らしい「物書きサマサマ自意識」を、どうぞ、思う存分、揶揄してくれたまえ。
ま、そんなワケで、鼻持ちならない傲慢女王様は、斜に構えまくってほとんど後ろ向きになるくらいの体勢で、件の「ミクシィ」を始めたのである。そしたらさぁ、あーた、だぁれも女王様のお部屋に来ないのよ。他の人の部屋を覗くと、お友達が十人も二十人も登録されてるのに、女王様のお部屋には、いつまで経っても紹介してくれたお友達ただひとり……。
こ、これは寂しい! なんか知らんけど、むちゃくちゃ孤独じゃん!
女王様は、我ながら愕然とするほど、この状況に動揺した。つまりですね、自分は人々から全く無視されており、世間からこれっぽっちも存在を認められていないのだ、というアイデンティティの危機をリアルに味わい、まさに現代人の疎外感ってヤツを身につまされて実感したワケですよ。
皆に私の存在を認識して欲しい、私に興味を持って欲しい、という自己顕示欲がむくむくと頭をもたげ、そのためには日記でも書くか、という気になってしまった女王様は、一銭にもならない文章を書くべくカタカタとキーボードを叩く始末になってしまった。
バカじゃないのか、本当に。不特定多数に向けて日記まがいのエッセイを書くことを生業としていながら、「ミクシィ」というインターネット内小世間の中で認められたいというちっぽけな願望に突き動かされて、本業より優先して他愛もない日記を必死で書いてるこの私は何者であろうか?
しかも、相変わらず友人の数はたいして増えず(現在、ようやく三人……トホホ)、日記にはほとんどレスもつかず。それほど女王様の文章には魅力がないのか、と、膝から崩れ落ちそうな気分の今日この頃である。ミクシィよ、厳しい現実を教えてくれてありがとう。本気で感謝してるぜ!
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「今は書けない」理由[#「「今は書けない」理由」はゴシック体]
先日、HPに送られてきた読者の方からのメールが、女王様の心をズキンと突いた。
「もう以前のような軽妙で自虐的な爆笑エッセイは書かないのか、あるいは書けないのか」
と、その人は、このように女王様に問いかけてきたのであった。
「書かないのか、あるいは書けないのか?」
女王様は、彼の問いかけを自分の胸に質《ただ》してみた。作風が変わった、内容が重くなった、という批判は、以前からいただいている。が、彼の口調にはまったく批判めいた調子はなく、ただ知りたいから質問してみました、といった感じだったので、女王様も素直に受け止める気になったのであろう。批判されると、人はついつい頑なになっちゃうからなぁ。
で、その質問に対する女王様の答はというと、
「今は書けない」
これであった。というのもですね、この連載をずっと読んでくださっている方はお気づきかもしれないが、女王様は現在、「軽鬱状態」なのである。月刊と違って週刊連載は、刻々と変わっていく書き手の精神状態が、修正する余裕もなく如実に表れてしまう。いや、そのような精神の揺らぎが露出してしまうのは、ひとえに女王様の稚拙さゆえなのであろうが、取り繕うこともできず笑い飛ばすこともできないくらい、昨今の女王様はどんよりと暗く澱んでいるのであった。
思えば、この軽鬱状態、もうかれこれ一年くらい続いているような気がする。買い物だホストだと乱痴気な空騒ぎをしていた頃は、我ながら一種の「軽躁状態」であった。そもそも浪費なんて、「躁」の典型的な症状なのだ。女王様の場合は、この「軽躁状態」が十年以上も続き、その反動で、去年あたりから「軽鬱状態」に入ってしまったのではないか、と、このように自己診断している次第である。大変スパンの長い躁鬱病なのだと思えば、まぁ納得できないこともない。
だから、以前のように自虐的に己の愚行を笑い飛ばすような文章は、書きたくても書けないのだ。そして、いつになったら再び書けるようになるのか、残念ながら自分でもわからないのであった。しかし、そこはあくまで前向きな女王様であるから、「鬱なら鬱で、鬱状態でしか書けないことがあるだろ」くらいに思っているので、あまり深刻に悩んでいるわけでもない。つーか、深刻に悩み始めたらますます鬱が悪化して何も書けなくなるのではないか、という恐怖があるため、できるだけ気楽に構えるよう自分に言い聞かせているのだ。書けなくなったら、洒落にならんからね。
で、前回報告したように、先日からミクシィなるものを始めたワケなのだが、そこの日記ではバカバカしい自虐ネタをポツポツと書いて、女王様なりのリハビリをしているのだった。金を貰う原稿ではないので、気負わずに書けるし、何より短くてすむからリハビリにはちょうどいい。最近は、もっぱらウンコネタである。何と言っても、これ、女王様の原点ですから。初心に帰ったってコトかしら?
長い人生、躁もありゃ鬱もあるさ。できるだけ軽度ですませられるよう努力するくらいしか、我々にできることはないのである。
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鬱も吹き飛ぶ話[#「鬱も吹き飛ぶ話」はゴシック体]
民よ、女王様はようやく最低の状態から脱したようである。前回は、弱音を吐いて申し訳なかった。あんなのは女王様らしくないと自分でも思うのであるが、わかっちゃいるけど口から弱音しか出て来ないのが、「鬱」ってもんなのだなぁ。まぁ、友人知人の深刻な鬱に比べりゃ、女王様の鬱なんて軽いもんだけどさ。
女王様の友人知人の中で、一番の鬱大王といえば、作家の原田宗典である。以前、彼と対談した折に、「鬱の脱し方」として、彼はこのようなことを言った。
「鬱ってさ、自分より大変な人が身近に現れると、吹っ飛んじゃったりするんだよ。俺の場合も、すげぇ鬱に入ってた時、友人のカメラマンが俺より深刻な鬱になっちゃってさ、『もうひとりの自分が見える』とか言い出しちゃって、もう大変な状態になっちゃったの。それを見て、俺のほうの鬱は吹っ飛んじゃったよ」
なるほどねぇ。「自分より大変な人を見ると、自分のクヨクヨが吹っ飛ぶ」という件に関しては、女王様にも微かに身に覚えがある。
五年ほど前のこと、女王様は自宅の玄関でウンコを漏らす、という人生でもっとも落ち込む失態を演じてしまった。そもそも、女王様はその日、腹の調子がすこぶる悪かったのであるが、食い気に負けて知人と鰻を食いに行き、食ってる途中から襲ってきた不穏な気配を無理やり我慢して帰宅の途についたのだった。で、タクシーの中で何度もピンチを迎えながらも額に脂汗を浮かべてどうにか家の前まで辿り着いたのであるが、自宅のドアを開けるやいなや、肛門が決壊して、その場で鉄砲水のごとく溢れ出てしまったのである。
後にも先にも、この時ほど、自分を嫌いになった瞬間はない。四十二歳にもなってウンコ漏らすなんて、生きてる資格がないわ、とまで思い詰め、何もかも嫌になってベッドに潜り込み、どうやって死んでやろうかと鬱々と思い悩んでいた。と、その時、枕元の電話がけたたましく鳴ったのである。こんな時間に誰だろう、と、受話器を取ると、
「もしもし……」
友人が、地獄の底から響いてくるような陰々滅々たる声で、
「俺、もう死ぬことにしたから。たった今、手首切った。さようなら」
「な、な、なんじゃ、そりゃ──っ!!!!」
女王様、ガバッと起き上がり、タクシーに乗ってそいつの家に駆けつけ、その後は警察やら病院やらの対応に追われて(自殺未遂って、救急車を呼ぶと警察が来るんですね。知らなかったわよ)、自分のウンコ漏らし事件もその後のクヨクヨも、すっかり吹っ飛んだのであった。
その時の彼はむろん一命を取りとめ、五年前に自殺未遂をしたことは、女王様がウンコ漏らしたエピソードとセットになって、今じゃ彼の十八番のお笑いネタになっている。
「あの時、俺は本当に死にたいくらい落ち込んでたんだけどさ、のりちゃん(←私のこと)がウンコ漏らした話を聞いて、世の中には俺よりダメな人がいるんだって思ったよ。そんな大変な時に駆けつけてくれて、ありがとう」
女王様のウンコが彼を救い、彼の自殺未遂が女王様を救った。うーん、いい話……なのかよ、これ!?
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勝負下着大量購入[#「勝負下着大量購入」はゴシック体]
今さらの話題で恐縮なのだが、民草の皆様は、どんな初夢をご覧になったのであろうか。
というのも、女王様はですね、元旦早々から正々堂々と(って、誰に対して?)「セックスの夢」など見てしまったのであった。我ながら、こんなに分かりやすく欲望に忠実な女だとは思わなかった。「初夢でセックス」か……いいんだか、悪いんだか。
大晦日、女王様はかなりしつこい風邪にやられて、早々に布団に入って寝てしまったのだった。で、熱に浮かされたのかどうか知らんが(そう思いたい……)、夢の中で何やら色っぽい展開になってしまい、まぁ、女王様も満更ではない気分で事に及んだ次第であるが、その時……!
行為の最中に、女王様はハッと気づいたのである。
「いけない! あたし、最近、年のせいで膣が緩んでるかもしれないから、頑張って締めなきゃ!」
なんと、真面目な心がけではないか。夢の中でまで、そんなこと気にしてる自分が、いじらしくって涙が出そうだよ。
で、女王様、一生懸命に気張って気張って、こめかみに青筋立ててぎゅうぎゅうと膣を締めているところで、電話の音に起こされた。そして、目が覚めた時、布団の中で本当に「ふんっ!」と鼻息荒く膣を締めている自分を発見して、心の底から虚しくなったのであった。
正月早々、布団の中でひとりで膣を締めてる私って……もしかして、相当イタい女じゃないかしら? しかも、これが初夢かよ。べつに富士山やら鷹やら茄子やらが登場しなくてもいいけど、何かもうちょっとマシな初夢は見れんのか。ああ、悔しい。こんなんだから私は、皆から「やーい、男日照り」とか言われてバカにされるんだわっ!
「決めたわ! 私、今年こそ素敵な彼氏を見つける!」
思い詰めた口調で、夫に向かって新年の抱負を述べたところ、
「ふふん」
心の底からどうでもよさそうな鼻先笑いで返されてしまった。悔しい。本っ当に、悔しい──っ!!!
憤懣やるかたない女王様は再び布団に潜り込み、二度寝してすっきりと気分をリフレッシュしたのであるが、どうやら初夢の影響は深く心の底に沈潜して女王様を無意識レベルで操ろうとしたらしい。というのも女王様は先日、通りすがりにふらりと寄った下着屋で、狂ったように高級輸入下着を買い込んでしまったのであった。価格的にもデザイン的にも、とてもじゃないが日常的に身につける類の下着ではない。そう、俗に言う「勝負下着」ってヤツよ。勝負する相手もいないのに、まさに宝の持ち腐れ。つーか、オトコもいないくせに勝負下着に十数万円も遣う女って、ある意味、布団の中でひとりで膣を締めてるよりもイタい女じゃないかしらーっ!?
この話をしたら、友人のゲイがこう言った。
「あんたね、ウン万円の高級下着つけてて彼氏のいない女より、スーパーで買った安物のパンツ穿いてても彼氏のいる女のほうが、結局は勝ち組なのよ……」
いや、まったく、そのとおり。ぐうの音も出ぬほど正しい意見である。
この連載タイトル、「負け組の女王」に変えようかなぁ〜。
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あとがき[#「あとがき」はゴシック体]
約五年間、「ショッピングの女王」というエッセイを連載していた『週刊文春』が誌面をリニューアルし、私のエッセイも新ヴァージョンに衣替えして、「さすらいの女王」というタイトルになった。これは、その「さすらいの女王」の単行本第一弾である。
オッパイ整形してヤル気満々で迎えた正月の話から始まるものの、結局はオトコもできず(つーか、むしろフラレてるし)、虚しいエロ初夢で目を醒ます翌年の正月の話で終わる、ひたすらダメな女の一年間だ。途中で癌疑惑が勃発したり、港区役所から人生何度目かの差し押さえを食らったり、いい事なんかひとつもありゃしねーよ。
この「あとがき」を書いているのは、二〇〇五年の四月中旬なのであるが、港区役所による厳しい取り立てはいまだ生々しい爪痕を私の経済生活に残しており、現在の預金残高は冗談抜きで四千円弱。家賃やら公共料金やら消費者金融への借金返済やら、さまざまな支払いをはたしてどうやってクリアするのか、皆目見当もつかない状態だ。いやぁ、さすが中村うさぎ、四十七歳になってもギリギリの人生だなぁ〜。
なぁ〜んて、ついつい他人事みたいに書いちゃう私なのであるが、ホント、これが他人事だったらどんなにいいか、と、しみじみ思う春の夕暮れである。
桜の花はとっくに散ったのに、私という女は散り際もジタバタと悪足掻きし、人工のオッパイをつけたり若返りの注射を打ったり、必死で花盛りを装っている。こんなことをして何の意味があるのか(万年オトコ日照りだしな)、と、自分で自分にお尋ねしたいくらいなのであるが、諸君、こういう事にもきっと「意味」はあるのだ。「価値」はないかもしれないけど、「意味」はある。私の家に堆積している、ゴミと化したブランド物の蟻塚と一緒だよ。その蟻塚に、もはや商品的な価値はない。けれども、私にとっての意味はあるのだ。そして、人がその人生において狂おしく求めているものとは、結局、「価値」ではなくて「意味」なのではないか、と、思うのである。
私は何のために生まれて来たのか、と、問いかける。それは、「私にはどれだけの価値があるのか」という問いではなく、「私の人生にはどんな意味があるのか」という問いなのである。「価値」というのは他人が決めることだけど、「意味」は自分で見つけていくものだ。私は、そう思っている。私の原稿料(作家としての価値)やモテ度(女としての価値)なんてぇものは、出版社の皆様や男性方がそれぞれ判断してくださればいいことなので、私がジタバタしたって仕方ない。それよりも大切なのは、私が自分の人生にどれだけの意味を見出せるか、なのではないだろうか。よくわかんないけど、そう思うのよ、私。
「価値」よりも「意味」に重きを置けば、他人の評価に振り回されることもない。「勝ち組」だの「負け組」だのと、自分の生き方を採点する必要もなくなる。美容整形やシャネルのスーツによって、私の「女の価値」は一向に上がらなかったが(むしろ下がったかもしれない)、私にとってはじゅうぶんに「意味」のある行為であった。人生に無駄をなくそう、などと人は提唱するけれど、無駄を通り過ぎなければ自分に必要なものさえわからない女もいるの。それが、私。
皆さん、無駄を恐れず、うんと悪足掻きして生きましょうよ。ジタバタしたって、いいじゃない? たった一度の人生なんだもんね。
二〇〇五年四月
[#地付き]中村うさぎ
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文庫版あとがき[#「文庫版あとがき」はゴシック体]
この「文庫版あとがき」は、二〇〇七年の年末に書いている。連載開始時から約四年後というわけであり、年が明けて二カ月弱で、私は五十歳の誕生日を迎えるのだ。
この本の中で「子宮を取るか」などと悩んでいるが、現在の私は既に閉経しており、依然として子宮は腹の中にあるものの、もはや機能していない。そして、機能を停止した子宮と卵巣を抱えたまま、私は相変わらず男に恋したりセックスに執着したりして、ちっとも「女」を引退していないのである。私の卵巣が女性ホルモンの製造を中止してから何カ月も経つのに、いまだに「女であること」をやめられないということは、すなわち「女であること」と「女性ホルモン」の間には思ったほど緊密な関連がない、ということだろう。女性ホルモンの分泌が男性並みの数値に低下しようとも、脳が「私は女」と思っている限り、女は女でい続けるのだ。いや、ホント、業《ごう》の深い生き物ですねぇ。
今年(二〇〇七年)は、ウリセンの色恋にハマった年であった。連載開始時の二〇〇三年年末には、ホストに怒鳴り込まれるという事件が勃発している。で、それから四年後の年末はどうかというと、ホストを卒業してウリセンに騙されてるワケだから、何のことはない、私はちっとも成長していないのだった(苦笑)。ま、貢いだ金額も、ハマった期間も、ホストに比べれば全然少ないけどね。
私がこのように男に騙されやすい理由は、もちろん「愛されたい」という強い欲求があるために、相手の嘘を信じ込もうとしてしまうためである。人間は、自分が信じたいと思う嘘を、積極的に信じてしまう生き物だ。嘘をつくほうが悪いのは当たり前だが、騙されるほうも、その嘘に無意識に加担しているのである。ある意味、共犯者なのだ。詐欺事件なんかだって、そうだよね。騙される者は、己の欲に目が眩《くら》んで、騙す者に協力している。第三者から見れば「なんで、あんな嘘が見抜けないのか」と思うのだろうが、騙されている人は、詐欺師に不利な情報をあえて見ないようにしているのである。騙されていると思いたくないものだから、不都合な情報を脳が恣意的に取りこぼしてしまうのだ。
さらに、今回、ウリセンに騙されて気づいたことは、私はどうも「他人を疑ってはいけない」という強い倫理的呪縛にかかっているようだ。他人を疑うことに、ものすごく罪悪感を抱いてしまうのである。それは、とりもなおさず、この私が、「自分を信じて欲しい」という欲求を人一倍抱えているからだと思う。私はよく、人から「エッセイに書かれていることって、本当なんですか?」と訊《き》かれて、ひどく憤慨するのだが、そのたびに「本当のことに決まってるでしょ! 私は本当のことしか書かないのよ! どうして信じてくれないのっ!?」と、もう身悶えせんばかりに苛立つのだ。皆、私を信じてよ! そりゃ、記憶ミスとかでうっかり間違えることはあるかもしれないけど、でも、ほぼ九〇%は本当のことだよ!
このような私であるから、なおさら、男から「どうして疑うの!? 俺を信じて!」などと言われると、すぐに我が身を振り返り、「ああ、そうだ。信じてあげなきゃ。自分だって、人から信じて欲しいと、常々、あんなに思ってるじゃないか」などと反省してしまうのであった。そんで、見事に騙される、と(笑)。やれやれ、バカは死ぬまで治らんのかねぇ。てゆーか、平気で嘘をつく人間の、この世にどれだけ多いことか。こういう人たちって、罪悪感なんか持ってないんだろうなぁ。でも私、他人を騙す人間になるくらいなら、死ぬまで騙される側の人間でいたい。どうぞ、金を持ってくなり、心を踏みにじるなり、好きなようにするがいい。私はそれで傷つくけど、でも、おまえらみたいに汚れない。
と、まぁ、二〇〇七年の暮れも、心身ともにボロボロの女王様なのである。ついでに、経済的にもボロボロだ。本日付けで、預金残高は約六千円ですよ(笑)。これで年が越せるのかしら? 不安だわぁ〜。
そんなワケで、相変わらずの女王様を、民よ、見捨てずにいてくれぇ〜。
二〇〇七年十二月
[#地付き]中村うさぎ
初 出 『週刊文春』二〇〇四年一月八日号〜二〇〇五年二月十日号
単行本 二〇〇五年六月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成二十年三月十日刊