TITLE : 李陵・山月記
本書の無断複製・転載を禁じます。
また規約上、本電子書籍を有償・無償にかかわらず、第三者に譲渡することはできません。
本文中に「*」が付されている箇所には注釈があります。「*」が付されていることばにマウスポインタを合わせると、ポインタの形が変わります。そこでクリックすると、該当する注釈のページが表示されます。注釈のページからもとのページに戻るには、「Ctrl」(Macの場合は「コマンド」)キーと「B」キーを同時に押すか、注釈の付いたことばをクリックしてください。 目次
李陵
弟子
名人伝
山月記
悟浄出世
悟浄歎異
注 釈
李陵
一
漢《かん》の武帝《ぶてい*》の天漢《てんかん》二年秋九月、騎都尉《きとい》・李陵《りりよう》は歩卒五千を率い、辺塞遮虜〓《へんさいしやりよしよう》を発して北へ向かった。阿爾泰《アルタイ》山脈の東南端が戈壁《ゴビ》沙漠《さばく》に没せんとする辺の磽《こうかく》たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風《さくふう*》は戎衣《じゆうい》を吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。漠北《ばくほく》・浚稽山《しゆんけいざん》の麓《ふもと》に至って軍はようやく止営した。すでに敵匈奴《きようど*》の勢力圏に深く進み入っているのである。秋とはいっても北地のこととて、苜蓿《うまごやし》も枯れ、楡《にれ》や〓柳《かわやなぎ》の葉ももはや落ちつくしている。木の葉どころか、木そのものさえ(宿営地の近傍《きんぼう》を除いては)、容易に見つからないほどの、ただ砂と岩と磧《かわら》と、水のない河床との荒涼たる風景であった。極目人煙を見ず、まれに訪れるものとては曠野《こうや》に水を求める羚羊《かもしか》ぐらいのものである。突兀《とつこつ》と秋空を劃《くぎ》る遠山の上を高く雁《かり》の列が南へ急ぐのを見ても、しかし、将卒一同誰《だれ》一人として甘い懐郷の情などに唆《そそ》られるものはない。それほどに、彼らの位置は危険極《きわ》まるものだったのである。
騎兵を主力とする匈奴に向かって、一隊の騎馬兵をも連れずに歩兵ばかり(馬に跨《また》がる者は、陵とその幕僚《ばくりよう》数人にすぎなかった、)で奥地深く侵入することからして、無謀の極《きわ》みというほかはない。その歩兵も僅《わず》か五千、絶えて後援はなく、しかもこの浚稽山《しゆんけいざん》は、最も近い漢塞《かんさい》の居延《きよえん》からでも優に一千五百里(支那里程)は離れている。統率者李陵への絶対的な信頼と心服とがなかったならとうてい続けられるような行軍ではなかった。
毎年秋風が立ちはじめると決《きま》って漢の北辺には、胡馬《こば》に鞭《むち》うった剽悍《ひようかん》な侵略者の大部隊が現われる。辺吏が殺され、人民が掠《かす》められ、家畜が奪略される。五原《ごげん》・朔方《さくほう》・雲中《うんちゆう》・上谷《じようこく》・雁門《がんもん》などが、その例年の被害地である。大将軍衛青《えいせい》・嫖騎《ひようき》将軍霍去病《かくきよへい》の武略によって一時漠南《ばくなん》に王庭なしといわれた元狩《げんしゆ》以後元鼎《げんてい》へかけての数年を除いては、ここ三十年来欠かすことなくこうした北辺の災いがつづいていた。霍去病《かくきよへい》が死んでから十八年、衛青《えいせい》が歿《ぼつ》してから七年。〓野侯《さくやこう》趙破奴《ちようはど》は全軍を率いて虜《ろ》に降《くだ》り、光禄勲徐自為《こうろくくんじよじい》の朔北《さくほく》に築いた城障もたちまち破壊される。全軍の信頼を繋《つな》ぐに足る将帥《しようすい》としては、わずかに先年大宛《だいえん》を遠征して武名を挙《あ》げた弐師《じし》将軍李広利《りこうり*》があるにすぎない。
その年――天漢二年夏五月、――匈奴《きようど》の侵略に先立って、弐師将軍が三万騎に将として酒泉《しゆせん》を出た。しきりに西辺を窺《うかが》う匈奴の右賢王《うけんおう》を天山に撃とうというのである。武帝は李陵に命じてこの軍旅の輜重《しちよう*》のことに当たらせようとした。未央宮《びおうきゆう*》の武台殿《ぶだいでん》に召見された李陵は、しかし、極力その役を免ぜられんことを請うた。陵は、飛将軍《ひしようぐん》と呼ばれた名将李広《りこう》の孫。つとに祖父の風ありといわれた騎射《きしや》の名手で、数年前から騎都尉《きとい》として西辺の酒泉《しゆせん》・張掖《ちようえき》に在《あ》って射《しや》を教え兵を練っていたのである。年齢もようやく四十に近い血気盛りとあっては、輜重《しちよう》の役はあまりに情けなかったに違いない。臣が辺境に養うところの兵は皆荊楚《けいそ*》の一騎当千の勇士なれば、願わくは彼らの一隊を率いて討って出《い》で、側面から匈奴の軍を牽制《けんせい》したいという陵の嘆願には、武帝も頷《うなず》くところがあった。しかし、相つづく諸方への派兵のために、あいにく、陵の軍に割《さ》くべき騎馬の余力がないのである。李陵はそれでも構わぬといった。確かに無理とは思われたが、輜重《しちよう》の役などに当てられるよりは、むしろ己《おのれ》のために身命を惜しまぬ部下五千とともに危うきを冒《おか》すほうを選びたかったのである。臣願わくは少をもって衆を撃たんといった陵の言葉を、派手《はで》好きな武帝は大いに欣《よろこ》んで、その願いを容《い》れた。李陵は西、張掖《ちようえき》に戻って部下の兵を勒《ろく》するとすぐに北へ向けて進発した。当時居延《きよえん》に屯《たむろ》していた彊弩都尉《きようどとい》路博徳《ろはくとく》が詔を受けて、陵の軍を中道まで迎えに出る。そこまではよかったのだが、それから先がすこぶる拙《まず》いことになってきた。元来この路博徳《ろはくとく》という男は古くから霍去病《かくきよへい》の部下として軍に従い、〓離侯《ふりこう》にまで封ぜられ、ことに十二年前には伏波《ふくは》将軍として十万の兵を率いて南越《なんえつ*》を滅ぼした老将である。その後、法に坐《ざ》して侯を失い現在の地位に堕《おと》されて西辺を守っている。年齢からいっても、李陵とは父子ほどに違う。かつては封侯《ほうこう》をも得たその老将がいまさら若い李陵ごときの後塵《こうじん》を拝するのがなんとしても不愉快だったのである。彼は陵の軍を迎えると同時に、都へ使いをやって奏上させた。今まさに秋とて匈奴《きようど》の馬は肥え、寡兵《かへい》をもってしては、騎馬戦を得意とする彼らの鋭鋒《えいほう》には些《いささ》か当たりがたい。それゆえ、李陵とともにここに越年し、春を待ってから、酒泉《しゆせん》・張掖《ちようえき》の騎各五千をもって出撃したほうが得策と信ずるという上奏文である。もちろん、李陵はこのことをしらない。武帝はこれを見ると酷《ひど》く怒った。李陵が博徳と相談の上での上書と考えたのである。わが前ではあのとおり広言しておきながら、いまさら辺地に行って急に怯気《おじけ》づくとは何事ぞという。たちまち使いが都から博徳と陵の所に飛ぶ。李陵は少をもって衆を撃たんとわが前で広言したゆえ、汝《なんじ》はこれと協力する必要はない。今匈奴が西河《せいが》に侵入したとあれば、汝《なんじ》はさっそく陵を残して西河に馳《は》せつけ敵の道を遮《さえぎ》れ、というのが博徳への詔である。李陵への詔には、ただちに漠北《ばくほく》に至り東は浚稽山《しゆんけいざん》から南は竜勒水《りゆうろくすい》の辺までを偵察観望し、もし異状なくんば、〓野侯《さくやこう》の故道に従って受降城《じゆこうじよう》に至って士を休めよとある。博徳と相談してのあの上書はいったいなんたることぞ、という烈《はげ》しい詰問《きつもん》のあったことは言うまでもない。寡兵《かへい》をもって敵地に徘徊《はいかい》することの危険を別としても、なお、指定されたこの数千里の行程は、騎馬を持たぬ軍隊にとってははなはだむずかしいものである。徒歩のみによる行軍の速度と、人力による車の牽引《けんいん》力と、冬へかけての胡地《こち》の気候とを考えれば、これは誰にも明らかであった。武帝はけっして庸王《ようおう》ではなかったが、同じく庸王ではなかった隋《ずい》の煬帝《ようだい*》や始皇帝《しこうてい*》などと共通した長所と短所とを有《も》っていた。愛寵《あいちよう》比なき李《り》夫人の兄たる弐師《じし》将軍にしてからが兵力不足のためいったん、大宛《だいえん》から引揚げようとして帝の逆鱗《げきりん》にふれ、玉門関《ぎよくもんかん》をとじられてしまった。その大宛征討も、たかだか善馬がほしいからとて思い立たれたものであった。帝が一度言出したら、どんな我儘《わがまま》でも絶対に通されねばならぬ。まして、李陵の場合は、もともと自《みずか》ら乞《こ》うた役割でさえある。(ただ季節と距離とに相当に無理な注文があるだけで)躊躇《ちゆうちよ》すべき理由はどこにもない。彼は、かくて、「騎兵を伴わぬ北征」に出たのであった。
浚稽山《しゆんけいざん》の山間には十日余留《とど》まった。その間、日ごとに斥候《せつこう》を遠く派して敵状を探ったのはもちろん、附近の山川地形を剰《あま》すところなく図に写しとって都へ報告しなければならなかった。報告書は麾下《きか》の陳歩楽《ちんほらく》という者が身に帯びて、単身都へ馳《は》せるのである。選ばれた使者は、李陵《りりよう》に一揖《いちゆう*》してから、十頭に足らぬ少数の馬の中の一匹に打跨《うちまたが》ると、一鞭《ひとむち》あてて丘を駈下《かけお》りた。灰色に乾いた漠々《ばくばく》たる風景の中に、その姿がしだいに小さくなっていくのを、一軍の将士は何か心細い気持で見送った。
十日の間、浚稽山《しゆんけいざん》の東西三十里の中には一人の胡兵《こへい》をも見なかった。
彼らに先だって夏のうちに天山へと出撃した弐師《じし》将軍はいったん右賢王《うけんおう》を破りながら、その帰途別の匈奴《きようど》の大軍に囲まれて惨敗《ざんぱい》した。漢兵は十に六、七を討たれ、将軍の一身さえ危うかったという。その噂《うわさ》は彼らの耳にも届いている。李広利《りこうり》を破ったその敵の主力が今どのあたりにいるのか? 今、因〓《いんう》将軍公孫敖《こうそんごう》が西河《せいが》・朔方《さくほう》の辺で禦《ふせ》いでいる(陵《りよう》と手を分かった路博徳《ろはくとく》はその応援に馳《は》せつけて行ったのだが)という敵軍は、どうも、距離と時間とを計ってみるに、問題の敵の主力ではなさそうに思われる。天山から、そんなに早く、東方四千里の河南《かなん》(オルドス)の地まで行けるはずがないからである。どうしても匈奴《きようど》の主力は現在、陵の軍の止営地から北方〓居水《しつきよすい》までの間あたりに屯《たむろ》していなければならない勘定になる。李陵自身毎日前山の頂に立って四方を眺《なが》めるのだが、東方から南へかけてはただ漠々《ばくばく》たる一面の平沙《へいさ》、西から北へかけては樹木に乏しい丘陵性の山々が連なっているばかり、秋雲の間にときとして鷹《たか》か隼《はやぶさ》かと思われる鳥の影を見ることはあっても、地上には一騎の胡兵《こへい》をも見ないのである。
山峡の疎林の外《はず》れに兵車を並べて囲い、その中に帷幕《いばく》を連ねた陣営である。夜になると、気温が急に下がった。士卒は乏しい木々を折取って焚《た》いては暖をとった。十日もいるうちに月はなくなった。空気の乾いているせいか、ひどく星が美しい。黒々とした山影とすれすれに、夜ごと、狼星《ろうせい》が、青白い光芒《こうぼう》を斜めに曳《ひ》いて輝いていた。十数日事なく過ごしたのち、明日はいよいよここを立退《たちの》いて、指定された進路を東南へ向かって取ろうと決したその晩である。一人の歩哨《ほしよう》が見るともなくこの爛々《らんらん》たる狼星《ろうせい》を見上げていると、突然、その星のすぐ下の所にすこぶる大きい赤黄色い星が現われた。オヤと思っているうちに、その見なれぬ巨《おお》きな星が赤く太い尾を引いて動いた。と続いて、二つ三つ四つ五つ、同じような光がその周囲に現われて、動いた。思わず歩哨《ほしよう》が声を立てようとしたとき、それらの遠くの灯《ひ》はフッと一時に消えた。まるで今見たことが夢だったかのように。
歩哨《ほしよう》の報告に接した李陵《りりよう》は、全軍に命じて、明朝天明とともにただちに戦闘に入るべき準備を整えさせた。外に出て一応各部署を点検し終わると、ふたたび幕営に入り、雷《らい》のごとき鼾声《かんせい》を立てて熟睡した。
翌朝李陵が目を醒《さ》まして外へ出て見ると、全軍はすでに昨夜の命令どおりの陣形をとり、静かに敵を待ち構えていた。全部が、兵車を並べた外側に出、戟《ほこ》と盾《たて》とを持った者が前列に、弓弩《きゆうど》を手にした者が後列にと配置されているのである。この谷を挟《はさ》んだ二つの山はまだ暁暗《ぎようあん》の中に森閑《しんかん》とはしているが、そこここの巌蔭《いわかげ》に何かのひそんでいるらしい気配《けはい》がなんとなく感じられる。
朝日の影が谷合にさしこんでくると同時に、(匈奴《きようど》は、単于《ぜんう》がまず朝日を拝したのちでなければ事を発しないのであろう。)今まで何一つ見えなかった両山の頂から斜面にかけて、無数の人影が一時に湧《わ》いた。天地を撼《ゆる》がす喊声《かんせい》とともに胡兵《こへい》は山下に殺到した。胡兵の先登《せんとう》が二十歩の距離に迫ったとき、それまで鳴りをしずめていた漢の陣営からはじめて鼓声《こせい》が響く。たちまち千弩《せんど》ともに発し、弦に応じて数百の胡兵《こへい》はいっせいに倒れた。間髪《かんはつ》を入れず、浮足立った残りの胡兵に向かって、漢軍前列の持戟者《じげきしや》らが襲いかかる。匈奴《きようど》の軍は完全に潰《つい》えて、山上へ逃げ上った。漢軍これを追撃して虜首《りよしゆ》を挙げること数千。
鮮《あざ》やかな勝ちっぷりではあったが、執念深い敵がこのままで退くことはけっしてない。今日の敵軍だけでも優に三万はあったろう。それに、山上に靡《なび》いていた旗印から見れば、紛れもなく単于《ぜんう》の親衛軍である。単于がいるものとすれば、八万や十万の後詰《ごづ》めの軍は当然繰出されるものと覚悟せねばならぬ。李陵は即刻この地を撤退して南へ移ることにした。それもここから東南二千里の受降城《じゆこうじよう》へという前日までの予定を変えて、半月前に辿《たど》って来たその同じ道を南へ取って一日も早くもとの居延塞《きよえんさい》(それとて千数百里離れているが)に入ろうとしたのである。
南行三日めの午《ひる》、漢軍の後方はるか北の地平線に、雲のごとく黄塵《こうじん》の揚がるのが見られた。匈奴騎兵の追撃である。翌日はすでに八万の胡兵が騎馬の快速を利して、漢軍の前後左右を隙《すき》もなく取囲んでしまっていた。ただし、前日の失敗に懲《こ》りたとみえ、至近の距離にまでは近づいて来ない。南へ行進して行く漢軍を遠巻きにしながら、馬上から遠矢を射かけるのである。李陵が全軍を停《と》めて、戦闘の体形をとらせれば、敵は馬を駆って遠く退き、搏戦《はくせん》を避ける。ふたたび行軍をはじめれば、また近づいて来て矢を射かける。行進の速度が著しく減ずるのはもとより、死傷者も一日ずつ確実に殖《ふ》えていくのである。飢え疲れた旅人の後をつける曠野《こうや》の狼のように、匈奴の兵はこの戦法を続けつつ執念深く追って来る。少しずつ傷つけていった揚句《あげく》、いつかは最後の止《とど》めを刺そうとその機会を窺《うかが》っているのである。
かつ戦い、かつ退きつつ南行することさらに数日、ある山谷の中で漢軍は一日の休養をとった。負傷者もすでにかなりの数に上っている。李陵《りりよう》は全員を点呼して、被害状況を調べたのち、傷の一か所にすぎぬ者には平生どおり兵器を執《と》って闘わしめ、両創を蒙《こうむ》る者にもなお兵車を助け推《お》さしめ、三創にしてはじめて輦《れん》に乗せて扶《たす》け運ぶことに決めた。輸送力の欠乏から屍体《したい》はすべて曠野《こうや》に遺棄するほかはなかったのである。この夜、陣中視察のとき李陵はたまたまある輜重車《しちようしや》中に男の服を纏《まと》うた女を発見した。全軍の車輌《しやりよう》について一々調べたところ、同様にしてひそんでいた十数人の女が捜し出された。往年関東の群盗が一時に戮《りく》に遇《あ》ったとき、その妻子等が逐《お》われて西辺に遷《うつ》り住んだ。それら寡婦《かふ》のうち衣食に窮するままに、辺境守備兵の妻となり、あるいは彼らを華客《とくい》とする娼婦《しようふ》となり果てた者が少なくない。兵車中に隠れてはるばる漠北《ばくほく》まで従い来たったのは、そういう連中である。李陵は軍吏に女らを斬《き》るべくカンタンに命じた。彼女らを伴い来たった士卒については一言のふれるところもない。澗間《たにま》の凹地《おうち》に引出された女どもの疳高《かんだか》い号泣《ごうきゆう》がしばらくつづいた後、突然それが夜の沈黙に呑《の》まれたようにフッと消えていくのを、軍幕の中の将士一同は粛然《しゆくぜん》たる思いで聞いた。
翌朝、久しぶりで肉薄来襲した敵を迎えて漢の全軍は思いきり快戦した。敵の遺棄屍体《したい》三千余。連日の執拗《しつよう》なゲリラ戦術に久しくいらだち屈していた士気が俄《にわ》かに奮《ふる》い立った形である。次の日からまた、もとの竜城《りゆうじよう》の道に循《したが》って、南方への退行が始まる。匈奴《きようど》はまたしても、元の遠巻き戦術に還《かえ》った。五日め、漢軍は、平沙《へいさ》の中にときに見出《みいだ》される沼沢地《しようたくち》の一つに踏入った。水は半ば凍り、泥濘《でいねい》も脛《はぎ》を没する深さで、行けども行けども果てしない枯葦原《かれあしはら》が続く。風上《かざかみ》に廻《まわ》った匈奴の一隊が火を放った。朔風《さくふう》は焔《ほのお》を煽《あお》り、真昼の空の下に白っぽく輝きを失った火は、すさまじい速さで漢軍に迫る。李陵はすぐに附近の葦《あし》に迎え火を放たしめて、かろうじてこれを防いだ。火は防いだが、沮洳地《そじよち》の車行の困難は言語に絶した。休息の地のないままに一夜泥濘《でいねい》の中を歩き通したのち、翌朝ようやく丘陵地に辿《たど》りついたとたんに、先廻《さきまわ》りして待伏せていた敵の主力の襲撃に遭《あ》った。人馬入乱れての搏兵《はくへい》戦である。騎馬隊の烈《はげ》しい突撃を避けるため、李陵は車を棄《す》てて、山麓《さんろく》の疎林の中に戦闘の場所を移し入れた。林間からの猛射はすこぶる効を奏した。たまたま陣頭に姿を現わした単于《ぜんう》とその親衛隊とに向かって、一時に連弩《れんど》を発して乱射したとき、単于の白馬は前脚を高くあげて棒立ちとなり、青袍《せいほう》をまとった胡主《こしゆ》はたちまち地上に投出された。親衛隊の二騎が馬から下りもせず、左右からさっと単于を掬《すく》い上げると、全隊がたちまちこれを中に囲んですばやく退いて行った。乱闘数刻ののちようやく執拗《しつよう》な敵を撃退しえたが、確かに今までにない難戦であった。遺された敵の屍体《したい》はまたしても数千を算したが、漢軍も千に近い戦死者を出したのである。
この日捕えた胡虜《こりよ》の口から、敵軍の事情の一端を知ることができた。それによれば、単于《ぜんう》は漢兵の手強《てごわ》さに驚嘆し、己《おのれ》に二十倍する大軍をも怯《おそ》れず日に日に南下して我を誘うかに見えるのは、あるいはどこか近くに、伏兵があって、それを恃《たの》んでいるのではないかと疑っているらしい。前夜その疑いを単于が幹部の諸将に洩《も》らして事を計ったところ、結局、そういう疑いも確かにありうるが、ともかくも、単于自ら数万騎を率いて漢の寡勢《かぜい》を滅しえぬとあっては、我々の面目に係わるという主戦論が勝ちを制し、これより南四、五十里は山谷がつづくがその間力戦猛攻し、さて平地に出て一戦してもなお破りえないとなったそのときはじめて兵を北に還《かえ》そうということに決まったという。これを聞いて、校尉《こうい》韓延年《かんえんねん》以下漢軍の幕僚《ばくりよう》たちの頭に、あるいは助かるかもしれぬぞという希望のようなものが微《かす》かに湧《わ》いた。
翌日からの胡軍《こぐん》の攻撃は猛烈を極めた。捕虜《ほりょ》の言の中にあった最後の猛攻というのを始めたのであろう。襲撃は一日に十数回繰返された。手厳《てきび》しい反撃を加えつつ漢軍は徐々に南に移って行く。三日経《た》つと平地に出た。平地戦になると倍加される騎馬隊の威力にものを言わせ匈奴《きようど》らは遮二無二《しやにむに》漢軍を圧倒しようとかかったが、結局またも二千の屍体《したい》を遺《のこ》して退いた。捕虜の言が偽りでなければ、これで胡軍は追撃を打切るはずである。たかが一兵卒の言った言葉ゆえ、それほど信頼できるとは思わなかったが、それでも幕僚《ばくりよう》一同些《いささ》かホッとしたことは争えなかった。
その晩、漢の軍候《ぐんこう》、管敢《かんかん》という者が陣を脱して匈奴の軍に亡《に》げ降《くだ》った。かつて長安《ちようあん》都下の悪少年だった男だが、前夜斥候《せつこう》上の手抜かりについて校尉《こうい》・成安侯《せいあんこう》韓延年《かんえんねん》のために衆人の前で面罵《めんば》され、笞《むち》打たれた。それを含んでこの挙に出たのである。先日渓間《たにま》で斬《ざん》に遭《あ》った女どもの一人が彼の妻だったとも言う。管敢は匈奴の捕虜の自供した言葉を知っていた。それゆえ、胡陣《こじん》に亡《に》げて単于《ぜんう》の前に引出されるや、伏兵を懼《おそ》れて引上げる必要のないことを力説した。言う。漢軍には後援がない。矢もほとんど尽きようとしている。負傷者も続出して行軍は難渋《なんじゆう》を極めている。漢軍の中心をなすものは、李《り》将軍および成安侯韓延年の率いる各八百人だが、それぞれ黄と白との幟《し》をもって印としているゆえ、明日胡騎《こき》の精鋭をしてそこに攻撃を集中せしめてこれを破ったなら、他は容易に潰滅《かいめつ》するであろう、云々《うんぬん》。単于《ぜんう》は大いに喜んで厚く敢を遇し、ただちに北方への引上げ命令を取消した。
翌日、李陵《りりよう》韓延年《かんえんねん》速《すみや》かに降《くだ》れと疾呼《しつこ》しつつ、胡軍の最精鋭は、黄白の幟《し》を目ざして襲いかかった。その勢いに漢軍は、しだいに平地から西方の山地へと押されて行く。ついに本道から遥《はる》かに離れた山谷の間に追込まれてしまった。四方の山上から敵は矢を雨のごとくに注《そそ》いだ。それに応戦しようにも、今や矢が完全に尽きてしまった。遮虜〓《しやりよしよう》を出るとき各人が百本ずつ携えた五十万本の矢がことごとく射尽くされたのである。矢ばかりではない。全軍の刀槍矛戟《とうそうぼうげき》の類も半ばは折れ欠けてしまった。文字どおり刀折れ矢尽きたのである。それでも、戟《ほこ》を失ったものは車輻《しやふく》を斬《き》ってこれを持ち、軍吏《ぐんり》は尺刀《せきとう》を手にして防戦した。谷は奥へ進むに従っていよいよ狭《せま》くなる。胡卒《こそつ》は諸所の崖《がけ》の上から大石を投下しはじめた。矢よりもこのほうが確実に漢軍の死傷者を増加させた。死屍《しし》と〓石《るいせき》とでもはや前進も不可能になった。
その夜、李陵は小袖短衣《しようしゆうたんい》の便衣《べんい》を着け、誰もついて来るなと禁じて独り幕営の外に出た。月が山の峡《かい》から覗《のぞ》いて谷間に堆《うずたか》い屍《しかばね》を照らした。浚稽山《しゆんけいざん》の陣を撤するときは夜が暗かったのに、またも月が明るくなりはじめたのである。月光と満地の霜とで片岡《かたおか》の斜面は水に濡《ぬ》れたように見えた。幕営の中に残った将士は、李陵の服装からして、彼が単身敵陣を窺《うかが》ってあわよくば単于と刺違える所存に違いないことを察した。李陵はなかなか戻って来なかった。彼らは息をひそめてしばらく外の様子を窺《うかが》った。遠く山上の敵塁から胡笳《こか*》の声が響く。かなり久しくたってから、音もなく帷《とばり》をかかげて李陵が幕の内にはいって来た。だめだ。と一言吐き出すように言うと、踞牀《きよしよう》に腰を下《おろ》した。全軍斬死《ざんし》のほか、途《みち》はないようだなと、またしばらくしてから、誰に向かってともなく言った。満座口を開く者はない。ややあって軍吏《ぐんり》の一人が口を切り、先年〓野侯《さくやこう》趙破奴《ちようはど》が胡軍《こぐん》のために生擒《いけど》られ、数年後に漢に亡《に》げ帰ったときも、武帝はこれを罰しなかったことを語った。この例から考えても、寡兵《かへい》をもって、かくまで匈奴《きようど》を震駭《しんがい》させた李陵《りりよう》であってみれば、たとえ都へのがれ帰っても、天子はこれを遇する途《みち》を知りたもうであろうというのである。李陵はそれを遮《さえぎ》って言う。陵一個のことはしばらく措《お》け。とにかく、今数十矢もあれば一応は囲みを脱出することもできようが、一本の矢もないこの有様《ありさま》では、明日の天明には全軍が坐《ざ》して縛《ばく》を受けるばかり。ただ、今夜のうちに囲みを突いて外に出、各自鳥獣と散じて走ったならば、その中にはあるいは辺塞《へんさい》に辿《たど》りついて、天子に軍状を報告しうる者もあるかもしれぬ。案ずるに現在の地点は〓汗山《ていかんざん》北方の山地に違いなく、居延《きよえん》まではなお数日の行程ゆえ、成否のほどはおぼつかないが、ともかく今となっては、そのほかに残された途《みち》はないではないか。諸将僚もこれに頷《うなず》いた。全軍の将卒に各二升の糒《ほしいい》と一個の冰片《ひようへん》とが頒《わか》たれ、遮二無二《しやにむに》、遮虜〓《しやりよしよう》に向かって走るべき旨がふくめられた。さて、一方、ことごとく漢陣の旌旗《せいき》を倒しこれを斬《き》って地中に埋めたのち、武器兵車等の敵に利用されうる惧《おそ》れのあるものも皆打毀《うちこわ》した。夜半、鼓《こ》して兵を起こした。軍鼓《ぐんこ》の音も惨《さん》として響かぬ。李陵は韓校尉《かんこうい》とともに馬に跨《また》がり壮士十余人を従えて先登《せんとう》に立った。この日追い込まれた峡谷《きようこく》の東の口を破って平地に出、それから南へ向けて走ろうというのである。
早い月はすでに落ちた。胡虜《こりよ》の不意を衝《つ》いて、ともかくも全軍の三分の二は予定どおり峡谷の裏口を突破した。しかしすぐに敵の騎馬兵の追撃に遭《あ》った。徒歩の兵は大部分討たれあるいは捕えられたようだったが、混戦に乗じて敵の馬を奪った数十人は、その胡馬《こば》に鞭《むち》うって南方へ走った。敵の追撃をふり切って夜目にもぼっと白い平沙《へいさ》の上を、のがれ去った部下の数を数えて、確かに百に余ることを確かめうると、李陵《りりよう》はまた峡谷の入口の修羅場《しゆらば》にとって返した。身には数創を帯び、自《みずか》らの血と返り血とで、戎衣《じゆうい》は重く濡《ぬ》れていた。彼と並んでいた韓延年《かんえんねん》はすでに討たれて戦死していた。麾下《きか》を失い全軍を失って、もはや天子に見《まみ》ゆべき面目はない。彼は戟《ほこ》を取直すと、ふたたび乱軍の中に駈入《かけい》った。暗い中で敵味方も分らぬほどの乱闘のうちに、李陵の馬が流矢《ながれや》に当たったとみえてガックリ前にのめった。それとどちらが早かったか、前なる敵を突こうと戈《ほこ》を引いた李陵は、突然背後から重量のある打撃を後頭部に喰《くら》って失神した。馬から顛落《てんらく》した彼の上に、生擒《いけど》ろうと構えた胡兵《こへい》どもが十重《とえ》二十《はた》重《え》とおり重なって、とびかかった。
二
九月に北へ立った五千の漢軍《かんぐん》は、十一月にはいって、疲れ傷ついて将を失った四百足らずの敗兵となって辺塞《へんさい》に辿《たど》りついた。敗報はただちに駅伝《えきでん》をもって長安《ちょうあん》の都に達した。
武帝《ぶてい》は思いのほか腹を立てなかった。本軍たる李広利《りこうり》の大軍さえ惨敗《ざんぱい》しているのに、一支隊たる李陵の寡軍《かぐん》にたいした期待のもてよう道理がなかったから。それに彼は、李陵が必ずや戦死しているに違いないとも思っていたのである。ただ、先ごろ李陵の使いとして漠北《ばくほく》から、「戦線異状なし、士気すこぶる旺盛《おうせい》」の報をもたらした陳歩楽《ちんほらく》だけは(彼は吉報の使者として嘉《よみ》せられ郎《ろう》となってそのまま都に留《とど》まっていた)成行上どうしても自殺しなければならなかった。哀れではあったが、これはやむを得ない。
翌、天漢《てんかん》三年の春になって、李陵《りりよう》は戦死したのではない。捕えられて虜《ろ》に降ったのだという確報が届いた。武帝ははじめて嚇怒《かくど》した。即位後四十余年。帝はすでに六十に近かったが、気象の烈《はげ》しさは壮時に超えている。神仙《しんせん》の説を好み方士巫覡《ほうしふげき*》の類を信じた彼は、それまでに己《おのれ》の絶対に尊信する方士どもに幾度か欺《あざむ》かれていた。漢の勢威の絶頂に当たって五十余年の間君臨したこの大皇帝は、その中年以後ずっと、霊魂の世界への不安な関心に執拗《しつよう》につきまとわれていた。それだけに、その方面での失望は彼にとって大きな打撃となった。こうした打撃は、生来闊達《かつたつ》だった彼の心に、年とともに群臣への暗い猜疑《さいぎ》を植えつけていった。李蔡《りさい》・青霍《せいかく》・趙周《ちようしゆう》と、丞相《じようしよう》たる者は相ついで死罪に行なわれた。現在の丞相たる公孫賀《こうそんが》のごとき、命を拝したときに己《おの》が運命を恐れて帝の前で手離しで泣出したほどである。硬骨漢《こうこつかん》汲黯《きゆうあん》が退いた後は、帝を取巻くものは、佞臣《ねいしん》にあらずんば酷吏《こくり》であった。
さて、武帝は諸重臣を召して李陵の処置について計った。李陵の身体は都にはないが、その罪の決定によって、彼の妻子眷属《けんぞく》家財などの処分が行なわれるのである。酷吏として聞こえた一廷尉《ていい》が常に帝の顔色を窺《うかが》い合法的に法を枉《ま》げて帝の意を迎えることに巧みであった。ある人が法の権威を説いてこれを詰《なじ》ったところ、これに答えていう。前主の是《ぜ》とするところこれが律《りつ》となり、後主の是とするところこれが令《りよう》となる。当時の君主の意のほかになんの法があろうぞと。群臣皆この廷尉の類であった。丞相《じようしよう》公孫賀《こうそんが》、御史大夫《ぎよしたいふ》杜周《としゆう》、太常《たいじよう》、趙弟《ちようてい》以下、誰一人として、帝の震怒《しんど》を犯してまで陵のために弁じようとする者はない。口を極めて彼らは李陵の売国的行為を罵《ののし》る。陵のごとき変節漢《へんせつかん》と肩を比べて朝《ちよう》に仕えていたことを思うといまさらながら愧《は》ずかしいと言出した。平生の陵の行為の一つ一つがすべて疑わしかったことに意見が一致した。陵の従弟《いとこ》に当たる李敢《りかん》が太子の寵《ちよう》を頼んで驕恣《きようし》であることまでが、陵への誹謗《ひぼう》の種子になった。口を緘《かん》して意見を洩《も》らさぬ者が、結局陵に対して最大の好意を有《も》つものだったが、それも数えるほどしかいない。
ただ一人、苦々しい顔をしてこれらを見守っている男がいた。今口を極めて李陵を讒誣《ざんぶ》しているのは、数か月前李陵が都を辞するときに盃《さかずき》をあげて、その行を壮《さか》んにした連中ではなかったか。漠北《ばくほく》からの使者が来て李陵の軍の健在を伝えたとき、さすがは名将李広《りこう》の孫と李陵の孤軍奮闘を讃《たた》えたのもまた同じ連中ではないのか。恬《てん》として既往を忘れたふりのできる顕官《けんかん》連や、彼らの諂諛《てんゆ》を見破るほどに聡明《そうめい》ではありながらなお真実に耳を傾けることを嫌《きら》う君主が、この男には不思議に思われた。いや、不思議ではない。人間がそういうものとは昔からいやになるほど知ってはいるのだが、それにしてもその不愉快さに変わりはないのである。下大夫《かたいふ》の一人として朝《ちよう》につらなっていたために彼もまた下問を受けた。そのとき、この男はハッキリと李陵を褒《ほ》め上げた。言う。陵の平生を見るに、親に事《つか》えて孝、士と交わって信、常に奮って身を顧みずもって国家の急に殉ずるは誠《まこと》に国士のふうありというべく、今不幸にして事一度《たび》破れたが、身を全うし妻子を保《やす》んずることをのみただ念願とする君側の佞人《ねいじん》ばらが、この陵の一失《いつしつ》を取上げてこれを誇大歪曲《わいきよく》しもって上《しよう》の聡明を蔽《おお》おうとしているのは、遺憾《いかん》この上もない。そもそも陵の今回の軍たる、五千にも満たぬ歩卒を率いて深く敵地に入り、匈奴《きようど》数万の師を奔命《ほんめい》に疲れしめ、転戦千里、矢尽き道窮《きわ》まるに至るもなお全軍空弩《くうど》を張り、白刃《はくじん》を冒して死闘している。部下の心を得てこれに死力を尽くさしむること、古《いにしえ》の名将といえどもこれには過ぎまい。軍敗れたりとはいえ、その善戦のあとはまさに天下に顕彰するに足る。思うに、彼が死せずして虜《ろ》に降《くだ》ったというのも、ひそかにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか。……
並いる群臣は驚いた。こんなことのいえる男が世にいようとは考えなかったからである。彼らはこめかみを顫《ふる》わせた武帝の顔を恐る恐る見上げた。それから、自分らをあえて全躯保妻子《くをまつとうしさいしをたもつ》の臣と呼んだこの男を待つものが何であるかを考えて、ニヤリとするのである。
向こう見ずなその男――太史令《たいしれい》・司馬遷《しばせん*》が君前を退くと、すぐに、「全躯保妻子《くをまつとうしさいしをたもつ》の臣」の一人が、遷《せん》と李陵《りりよう》との親しい関係について武帝の耳に入れた。太史令は故《ゆえ》あって弐師《じし》将軍と隙《げき》あり、遷が陵を褒《ほ》めるのは、それによって、今度、陵に先立って出塞《しゆつさい》して功のなかった弐師将軍を陥《おとしい》れんがためであると言う者も出てきた。ともかくも、たかが星暦卜祀《せいれきぼくし》を司《つかさど》るにすぎぬ太史令の身として、あまりにも不遜《ふそん》な態度だというのが、一同の一致した意見である。おかしなことに、李陵の家族よりも司馬遷のほうが先に罪せられることになった。翌日、彼は廷尉《ていい》に下された。刑は宮《きゆう》と決まった。
支那《しな》で昔から行なわれた肉刑《にくけい》の主《おも》なるものとして、黥《けい》、〓《ぎ》(はなきる)、〓《ひ》(あしきる)、宮《きゆう》、の四つがある。武帝の祖父・文帝《ぶんてい》のとき、この四つのうち三つまでは廃せられたが、宮刑《きゆうけい》のみはそのまま残された。宮刑とはもちろん、男を男でなくする奇怪な刑罰である。これを一に腐刑《ふけい》ともいうのは、その創《きず》が腐臭を放つがゆえだともいい、あるいは、腐木《ふぼく》の実を生ぜざるがごとき男と成り果てるからだともいう。この刑を受けた者を閹人《えんじん》と称し、宮廷の宦官《かんがん》の大部分がこれであったことは言うまでもない。人もあろうに司馬遷《しばせん》がこの刑に遭《あ》ったのである。しかし、後代の我々が史記《しき》の作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令《たいしれい》司馬遷は眇《びよう》たる一文筆の吏《り》にすぎない。頭脳の明晰《めいせき》なことは確かとしてもその頭脳に自信をもちすぎた、人づき合いの悪い男、議論においてけっして他人《ひと》に負けない男、たかだか強情我慢の偏窟人《へんくつじん》としてしか知られていなかった。彼が腐刑《ふけい》に遇《あ》ったからとて別に驚く者はない。
司馬氏は元周《もとしゆう》の史官《しかん》であった。後、晋《しん》に入り、秦《しん》に仕え、漢《かん》の代となってから四代目の司馬談《しばたん》が武帝に仕えて建元《けんげん》年間に太史令《たいしれい》をつとめた。この談が遷の父である。専門たる律《りつ》・暦《れき》・易《えき》のほかに道家《どうか》の教えに精《くわ》しくまた博《ひろ》く儒《じゆ》、墨《ぼく》、法《ほう》、名《めい》、諸家《しよか》の説にも通じていたが、それらをすべて一家の見《けん》をもって綜《す》べて自己のものとしていた。己《おのれ》の頭脳や精神力についての自信の強さはそっくりそのまま息子《むすこ》の遷に受嗣《うけつ》がれたところのものである。彼が、息子に施した最大の教育は、諸学の伝授を終えてのちに、海内《かいだい》の大旅行をさせたことであった。当時としては変わった教育法であったが、これが後年の歴史家司馬遷に資するところのすこぶる大であったことは、いうまでもない。
元封《げんぽう》元年に武帝が東、泰山《たいざん》に登って天を祭ったとき、たまたま周南《しゆうなん》で病床にあった熱血漢《ねつけつかん》司馬談《しばたん》は、天子始めて漢家の封《ほう》を建つるめでたきときに、己《おのれ》一人従ってゆくことのできぬのを慨《なげ》き、憤を発してそのために死んだ。古今を一貫せる通史《つうし》の編述こそは彼の一生の念願だったのだが、単に材料の蒐集《しゆうしゆう》のみで終わってしまったのである。その臨終《りんじゆう》の光景は息子・遷《せん》の筆によって詳しく史記《しき》の最後の章に描かれている。それによると司馬談は己のまた起《た》ちがたきを知るや遷を呼びその手を執《と》って、懇《ねんご》ろに修史《しゆうし》の必要を説き、己《おのれ》太史《たいし》となりながらこのことに着手せず、賢君忠臣の事蹟《じせき》を空《むな》しく地下に埋もれしめる不甲斐《ふがい》なさを慨《なげ》いて泣いた。「予《よ》死せば汝《なんじ》必ず太史とならん。太史とならばわが論著せんと欲するところを忘るるなかれ」といい、これこそ己に対する孝の最大なものだとて、爾《なんじ》それ念《おも》えやと繰返したとき、遷は俯首流涕《ふしゆりゆうてい》してその命に背《そむ》かざるべきを誓ったのである。
父が死んでから二年ののち、はたして、司馬遷《しばせん》は太史令《たいしれい》の職を継いだ。父の蒐集《しゆうしゆう》した資料と、宮廷所蔵の秘冊とを用いて、すぐにも父子相伝《ふしそうでん》の天職にとりかかりたかったのだが、任官後の彼にまず課せられたのは暦の改正という事業であった。この仕事に没頭することちょうど満四年。太初《たいしよ》元年にようやくこれを仕上げると、すぐに彼は史記《しき》の編纂《へんさん》に着手した。遷、ときに年四十二。
腹案はとうにでき上がっていた。その腹案による史書の形式は従来の史書のどれにも似ていなかった。彼は道義的批判の規準を示すものとしては春秋《しゆんじゆう*》を推したが、事実を伝える史書としてはなんとしてもあきたらなかった。もっと事実が欲しい。教訓よりも事実が。左伝《さでん*》や国語《こくご*》になると、なるほど事実はある。左伝の叙事の巧妙さに至っては感嘆のほかはない。しかし、その事実を作り上げる一人一人の人についての探求がない。事件の中における彼らの姿の描出は鮮《あざ》やかであっても、そうしたことをしでかすまでに至る彼ら一人一人の身許《みもと》調べの欠けているのが、司馬遷《しばせん》には不服だった。それに従来の史書はすべて、当代の者に既往をしらしめることが主眼となっていて、未来の者に当代を知らしめるためのものとしての用意があまりに欠けすぎているようである。要するに、司馬遷の欲するものは、在来の史には求めて得られなかった。どういう点で在来の史書があきたらぬかは、彼自身でも自ら欲するところを書上げてみてはじめて判然する底《てい》のものと思われた。彼の胸中にあるモヤモヤと鬱積《うつせき》したものを書き現わすことの要求のほうが、在来の史書に対する批判より先に立った。いや、彼の批判は、自ら新しいものを創《つく》るという形でしか現われないのである。自分が長い間頭の中で画《えが》いてきた構想が、史といえるものか、彼には自信はなかった。しかし、史といえてもいえなくても、とにかくそういうものが最も書かれなければならないものだ(世人にとって、後代にとって、なかんずく己自身にとって)という点については、自信があった。彼も孔子《こうし》に倣《なら》って、述べて作らぬ方針をとったが、しかし、孔子のそれとはたぶんに内容を異《こと》にした述而不作《のべてつくらず*》である、司馬遷にとって、単なる編年体の事件列挙はいまだ「述べる」の中にはいらぬものだったし、また、後世人の事実そのものを知ることを妨げるような、あまりにも道義的な断案は、むしろ「作る」の部類にはいるように思われた。
漢が天下を定めてからすでに五代・百年、始皇帝《しこうてい》の反文化政策によって湮滅《いんめつ》しあるいは隠匿《いんとく》されていた書物がようやく世に行なわれはじめ、文の興《おこ》らんとする気運が鬱勃《うつぼつ》として感じられた。漢の朝廷ばかりでなく、時代が、史の出現を要求しているときであった。司馬遷《しばせん》個人としては、父の遺嘱《いしよく》による感激が学殖・観察眼・筆力の充実を伴ってようやく渾然《こんぜん》たるものを生み出すべく醗酵《はつこう》しかけてきていた。彼の仕事は実に気持よく進んだ。むしろ快調に行きすぎて困るくらいであった。というのは、初めの五帝本紀《ごていほんぎ》から夏殷周秦《かいんしゆうしん》本紀あたりまでは、彼も、材料を按排《あんばい》して記述の正確厳密を期する一人の技師に過ぎなかったのだが、始皇帝を経て、項羽《こうう》本紀《*》にはいるころから、その技術家の冷静さが怪しくなってきた。ともすれば、項羽が彼に、あるいは彼が項羽にのり移りかねないのである。
項王則《すなわ》チ夜起キテ帳中ニ飲ス。美人有リ。名ハ虞《ぐ》。常ニ幸セラレテ従フ。駿馬《しゆんめ》名ハ騅《すい》、常ニ之《これ》ニ騎ス。是《ここ》ニ於《おい》テ項王乃《すなわ》チ悲歌慷慨《こうがい》シ自ラ詩ヲ為《つく》リテ曰《いわ》ク「力山ヲ抜キ気世ヲ蓋《おお》フ、時利アラズ騅逝《ゆ》カズ、騅逝カズ奈何《いかん》スベキ、虞ヤ虞ヤ若《なんじ》ヲ奈何《いか》ニセン《*》」ト。歌フコト数〓《けつ》、美人之ニ和ス。項王泣《なみだ》数行下ル。左右皆泣キ、能《よ》ク仰ギ視《み》ルモノ莫《な》シ……。
これでいいのか? と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされたような書きっぷりでいいものだろうか? 彼は「作ル」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述ベル」ことに尽きる。事実、彼は述べただけであった。しかしなんと生気溌剌《はつらつ》たる述べ方であったか? 異常な想像的視覚を有《も》った者でなければとうてい不能な記述であった。彼は、ときに「作ル」ことを恐れるのあまり、すでに書いた部分を読返してみて、それあるがために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸を止《や》める。これで、「作ル」ことになる心配はないわけである。しかし、(と司馬遷が思うに)これでは項羽《こうう》が項羽でなくなるではないか。項羽も始皇帝《しこうてい》も楚《そ》の荘王《そうおう*》もみな同じ人間になってしまう。違った人間を同じ人間として記述することが、何が「述べる」だ? 「述べる」とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句をふたたび生かさないわけにはいかない。元どおりに直して、さて一読してみて、彼はやっと落ちつく。いや、彼ばかりではない。そこにかかれた史上の人物が、項羽や樊〓《はんかい*》や范増《はんぞう*》が、みんなようやく安心してそれぞれの場所に落ちつくように思われる。
調子のよいときの武帝《ぶてい》は誠《まこと》に高邁《こうまい》闊達《かつたつ》な・理解ある文教の保護者だったし、太史令《たいしれい》という職が地味な特殊な技能を要するものだったために、官界につきものの朋党《ほうとう》比周《ひしゆう*》の擠陥《せいかん》讒誣《ざんぶ*》による地位(あるいは生命)の不安定からも免れることができた。
数年の間、司馬遷は充実した・幸福といっていい日々を送った。(当時の人間の考える幸福とは、現代人のそれと、ひどく内容の違うものだったが、それを求めることに変わりはない。)妥協性はなかったが、どこまでも陽性で、よく論じよく怒りよく笑いなかんずく論敵を完膚《かんぷ》なきまでに説破することを最も得意としていた。
さて、そうした数年ののち、突然、この禍《わざわい》が降《くだ》ったのである。
薄暗い蚕室《さんしつ》の中で――腐刑《ふけい》施術後当分の間は風に当たることを避けねばならぬので、中に火を熾《おこ》して暖かに保った・密閉した暗室を作り、そこに施術後の受刑者を数日の間入れて、身体を養わせる。暖かく暗いところが蚕を飼う部屋に似ているとて、それを蚕室と名づけるのである。――言語を絶した混乱のあまり彼は茫然《ぼうぜん》と壁によりかかった。憤激よりも先に、驚きのようなものさえ感じていた。斬《ざん》に遭《あ》うこと、死を賜《たま》うことに対してなら、彼にはもとより平生から覚悟ができている。刑死する己《おのれ》の姿なら想像してみることもできるし、武帝の気に逆らって李陵《りりよう》を褒《ほ》め上げたときもまかりまちがえば死を賜うようなことになるかもしれぬくらいの懸念《けねん》は自分にもあったのである。ところが、刑罰も数ある中で、よりによって最も醜陋《しゆうろう》な宮刑《きゆうけい》にあおうとは! 迂闊《うかつ》といえば迂闊だが、(というのは、死刑を予期するくらいなら当然、他のあらゆる刑罰も予期しなければならないわけだから)彼は自分の運命の中に、不測の死が待受けているかもしれぬとは考えていたけれども、このような醜いものが突然現われようとは、全然、頭から考えもしなかったのである。常々、彼は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起こらないのだという一種の確信のようなものを有《も》っていた。これは長い間史実を扱っているうちに自然に養われた考えであった。同じ逆境にしても、慷慨《こうがい》の士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱の徒《と》には緩慢なじめじめした醜い苦しみが、というふうにである。たとえ始めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処のし方によってその運命はその人間にふさわしいことが判《わか》ってくるのだと。司馬遷《しばせん》は自分を男だと信じていた。文筆の吏《り》ではあっても当代のいかなる武人《ぶじん》よりも男であることを確信していた。自分でばかりではない。このことだけは、いかに彼に好意を寄せぬ者でも認めないわけにはいかないようであった。それゆえ、彼は自らの持論に従って、車裂《くるまざき》の刑なら自分の行く手に思い画《えが》くことができたのである。それが齢《よわい》五十に近い身で、この辱《はずか》しめにあおうとは! 彼は、今自分が蚕室《さんしつ》の中にいるということが夢のような気がした。夢だと思いたかった。しかし、壁によって閉じていた目を開くと、うす暗い中に、生気のない・魂までが抜けたような顔をした男が三、四人、だらしなく横たわったりすわったりしているのが目にはいった。あの姿が、つまり今の己なのだと思ったとき、嗚咽《おえつ》とも怒号《どごう》ともつかない叫びが彼の咽喉《のど》を破った。
痛憤と煩悶《はんもん》との数日のうちには、ときに、学者としての彼の習慣からくる思索が――反省が来た。いったい、今度の出来事の中で、何が――誰が――誰のどういうところが、悪かったのだという考えである。日本の君臣道とは根柢《こんてい》から異なった彼《か》の国のこととて、当然、彼はまず、武帝を怨《うら》んだ。一時はその怨懣《えんまん》だけで、いっさい他を顧みる余裕はなかったというのが実際であった。しかし、しばらくの狂乱の時期の過ぎたあとには、歴史家としての彼が、目覚めてきた。儒者《じゆしや》と違って、先王の価値にも歴史家的な割引をすることを知っていた彼は、後王たる武帝の評価の上にも、私怨《しえん》のために狂いを来たさせることはなかった。なんといっても武帝は大君主である、そのあらゆる欠点にもかかわらず、この君がある限り、漢の天下は微動だもしない。高祖はしばらく措《お》くとするも、仁君《じんくん》文帝《ぶんてい》も名君景帝《けいてい》も、この君に比べれば、やはり小さい。ただ大きいものは、その欠点までが大きく写ってくるのは、これはやむを得ない。司馬遷《しばせん》は極度の憤怨《ふんえん》のうちにあってもこのことを忘れてはいない。今度のことは要するに天の作《な》せる疾風暴雨霹靂《へきれき》に見舞われたものと思うほかはないという考えが、彼をいっそう絶望的な憤《いきどお》りへと駆《か》ったが、また一方、逆に諦観《ていかん》へも向かわせようとする。怨恨《えんこん》が長く君主に向かい得ないとなると、勢い、君側の姦臣《かんしん》に向けられる。彼らが悪い。たしかにそうだ。しかし、この悪さは、すこぶる副次的な悪さである。それに、自矜心《じきようしん》の高い彼にとって、彼ら小人輩《しようじんはい》は、怨恨の対象としてさえ物足りない気がする。彼は、今度ほど好人物というものへの腹立ちを感じたことはない。これは姦臣《かんしん》や酷吏《こくり》よりも始末が悪い。少なくとも側《かたわら》から見ていて腹が立つ。良心的に安っぽく安心しており、他にも安心させるだけ、いっそう怪《け》しからぬのだ。弁護もしなければ反駁《はんばく》もせぬ。心中、反省もなければ自責もない。丞相《じようしよう》公孫賀《こうそんが》のごとき、その代表的なものだ。同じ阿諛迎合《あゆげいごう》を事としても、杜周《としゆう》(最近この男は前任者王卿《おうけい》を陥れてまんまと御史大夫《ぎよしたいふ》となりおおせた)のような奴《やつ》は自らそれと知っているに違いないがこのお人好しの丞相ときた日には、その自覚さえない。自分に全躯保妻子《くをまつとうしさいしをたもつ》の臣といわれても、こういう手合いは、腹も立てないのだろう。こんな手合いは恨みを向けるだけの値打ちさえもない。
司馬遷は最後に忿懣《ふんまん》の持って行きどころを自分に求めようとする。実際、何ものかに対して腹を立てなければならぬとすれば、結局それは自分自身に対してのほかはなかったのである。だが、自分のどこが悪かったのか? 李陵《りりよう》のために弁じたこと、これはいかに考えてみてもまちがっていたとは思えない。方法的にも格別拙《まず》かったとは考えぬ。阿諛《あゆ》に堕《だ》するに甘んじないかぎり、あれはあれでどうしようもない。それでは、自ら顧みてやましくなければ、そのやましくない行為が、どのような結果を来たそうとも、士たる者はそれを甘受《かんじゆ》しなければならないはずだ。なるほどそれは一応そうに違いない。だから自分も肢解《しかい》されようと腰斬《ようざん》にあおうと、そういうものなら甘んじて受けるつもりなのだ。しかし、この宮刑《きゆうけい》は――その結果かく成り果てたわが身の有様というものは、――これはまた別だ。同じ不具でも足を切られたり鼻を切られたりするのとは全然違った種類のものだ。士たる者の加えられるべき刑ではない。こればかりは、身体のこういう状態というものは、どういう角度から見ても、完全な悪だ。飾言《しよくげん》の余地はない。そうして、心の傷だけならば時とともに癒《い》えることもあろうが、己《おの》が身体のこの醜悪な現実は死に至るまでつづくのだ。動機がどうあろうと、このような結果を招くものは、結局「悪かった」といわなければならぬ。しかし、どこが悪かった? 己《おのれ》のどこが? どこも悪くなかった。己は正しいことしかしなかった。強《し》いていえば、ただ、「我あり」という事実だけが悪かったのである。
茫然《ぼうぜん》とした虚脱《きよだつ》の状態ですわっていたかと思うと、突然飛上り、傷ついた獣のごとくうめきながら暗く暖かい室の中を歩き廻《まわ》る。そうしたしぐさを無意識に繰返しつつ、彼の考えもまた、いつも同じ所をぐるぐる廻ってばかりいて帰結するところを知らないのである。
我を忘れ壁に頭を打ちつけて血を流したその数回を除けば、彼は自らを殺そうと試みなかった。死にたかった。死ねたらどんなによかろう。それよりも数等恐ろしい恥辱が追立てるのだから死をおそれる気持は全然なかった。なぜ死ねなかったのか? 獄舎の中に、自らを殺すべき道具のなかったことにもよろう。しかし、それ以外に何かが内から彼をとめる。はじめ、彼はそれがなんであるかに気づかなかった。ただ狂乱と憤懣《ふんまん》との中で、たえず発作《ほつさ》的に死への誘惑を感じたにもかかわらず、一方彼の気持を自殺のほうへ向けさせたがらないものがあるのを漠然《ばくぜん》と感じていた。何を忘れたのかはハッキリしないながら、とにかく何か忘れものをしたような気のすることがある。ちょうどそんなぐあいであった。
許されて自宅に帰り、そこで謹慎《きんしん》するようになってから、はじめて、彼は、自分がこの一《ひと》月狂乱にとり紛《まぎ》れて己《おの》が畢生《ひつせい》の事業たる修史《しゆうし》のことを忘れ果てていたこと、しかし、表面は忘れていたにもかかわらず、その仕事への無意識の関心が彼を自殺から阻《はば》む役目を隠々《いんいん》のうちにつとめていたことに気がついた。
十年前臨終《りんじゆう》の床《とこ》で自分の手をとり泣いて遺命《いめい》した父の惻々《そくそく》たる言葉は、今なお耳底《じてい》にある。しかし、今疾痛惨怛《しつつうさんたん》を極《きわ》めた彼の心の中に在《あ》ってなお修史の仕事を思い絶たしめないものは、その父の言葉ばかりではなかった。それは何よりも、その仕事そのものであった。仕事の魅力とか仕事への情熱とかいう怡《たの》しい態《てい》のものではない。修史という使命の自覚には違いないとしてもさらに昂然《こうぜん》として自らを恃《じ》する自覚ではない。恐ろしく我《が》の強い男だったが、今度のことで、己《おのれ》のいかにとるに足らぬものだったかをしみじみと考えさせられた。理想の抱負のと威張《いば》ってみたところで、所詮《しよせん》己は牛にふみつぶされる道傍《みちばた》の虫けらのごときものにすぎなかったのだ。「我」はみじめに踏みつぶされたが、修史という仕事の意義は疑えなかった。このような浅ましい身と成り果て、自信も自恃《じじ》も失いつくしたのち、それでもなお世にながらえてこの仕事に従うということは、どう考えても怡《たの》しいわけはなかった。それはほとんど、いかにいとわしくとも最後までその関係を絶つことの許されない人間同士のような宿命的な因縁《いんねん》に近いものと、彼自身には感じられた。とにかくこの仕事のために自分は自らを殺すことができぬのだ(それも義務感からではなく、もっと肉体的な、この仕事との繋《つな》がりによってである)ということだけはハッキリしてきた。
当座の盲目的な獣の呻《うめ》き苦しみに代わって、より意識的な・人間の苦しみが始まった。困ったことに、自殺できないことが明らかになるにつれ、自殺によってのほかに苦悩と恥辱とから逃れる途《みち》のないことがますます明らかになってきた。一個の丈夫《じようふ》たる太史令《たいしれい》司馬遷《しばせん》は天漢《てんかん》三年の春に死んだ、そして、そののちに、彼の書残した史をつづける者は、知覚も意識もない一つの書写機械にすぎぬ、――自らそう思い込む以外に途《みち》はなかった。無理でも、彼はそう思おうとした。修史の仕事は必ず続けられねばならぬ。これは彼にとって絶対であった。修史の仕事のつづけられるためには、いかにたえがたくとも生きながらえねばならぬ。生きながらえるためには、どうしても、完全に身を亡《な》きものと思い込む必要があったのである。
五《いつ》月ののち、司馬遷はふたたび筆を執《と》った。歓《よろこ》びも昂奮《こうふん》もない・ただ仕事の完成への意志だけに鞭打《むちう》たれて、傷ついた脚を引摺《ひきず》りながら目的地へ向かう旅人のように、とぼとぼと稿を継いでいく。もはや太史令の役は免ぜられていた。些《いささ》か後悔した武帝が、しばらく後に彼を中書令《ちゆうしよれい*》に取立てたが、官職の黜陟《ちゆつちよく*》のごときは、彼にとってもうなんの意味もない。以前の論客司馬遷は、一切口を開かずなった。笑うことも怒ることもない。しかし、けっして悄然《しようぜん》たる姿ではなかった。むしろ、何か悪霊《あくりよう》にでも取り憑《つ》かれているようなすさまじさを、人々は緘黙《かんもく》せる彼の風貌《ふうぼう》の中に見て取った。夜眠る時間をも惜しんで彼は仕事をつづけた。一刻も早く仕事を完成し、そのうえで早く自殺の自由を得たいとあせっているもののように、家人らには思われた。
凄惨《せいさん》な努力を一年ばかり続けたのち、ようやく、生きることの歓《よろこ》びを失いつくしたのちもなお表現することの歓びだけは生残りうるものだということを、彼は発見した。しかし、そのころになってもまだ、彼の完全な沈黙は破られなかったし、風貌《ふうぼう》の中のすさまじさも全然和《やわ》らげられはしない。稿をつづけていくうちに、宦者《かんじや》とか閹奴《えんど*》とかいう文字を書かなければならぬところに来ると、彼は覚えず呻《うめ》き声を発した。独り居室にいるときでも、夜、牀上《しようじよう》に横になったときでも、ふとこの屈辱の思いが萌《きざ》してくると、たちまちカーッと、焼鏝《やきごて》をあてられるような熱い疼《うず》くものが全身を駈《か》けめぐる。
彼は思わず飛上り、奇声を発し、呻きつつ四辺《あたり》を歩きまわり、さてしばらくしてから歯をくいしばって己《おのれ》を落ちつけようと努めるのである。
三
乱軍の中に気を失った李陵《りりよう》が獣脂《じゆうし》を灯《とも》し獣糞《じゆうふん》を焚《た》いた単于《ぜんう》の帳房《ちようぼう》の中で目を覚ましたとき、咄嗟《とつさ》に彼は心を決めた。自《みずか》ら首刎《は》ねて辱《はずか》しめを免れるか、それとも今一応は敵に従っておいてそのうちに機を見て脱走する――敗軍の責を償《つぐな》うに足る手柄を土産《みやげ》として――か、この二つのほかに途《みち》はないのだが、李陵は、後者を選ぶことに心を決めたのである。
単于《ぜんう》は手ずから李陵の縄《なわ》を解いた。その後の待遇も鄭重《ていちよう》を極めた。且〓侯《そていこう》単于とて先代の〓犁湖《くりこ》単于の弟だが、骨骼《こつかく》の逞《たくま》しい巨眼《きよがん》赭髯《しやぜん》の中年の偉丈夫《いじようふ》である。数代の単于に従って漢《かん》と戦ってはきたが、まだ李陵ほどの手強《てごわ》い敵に遭《あ》ったことはないと正直に語り、陵の祖父李広《りこう》の名を引合いに出して陵の善戦を讃《ほ》めた。虎《とら》を格殺《かくさつ》したり岩に矢を立てたりした飛将軍《ひしようぐん》李広の驍名《ぎようめい》は今もなお胡地《こち》にまで語り伝えられている。陵が厚遇を受けるのは、彼が強き者の子孫でありまた彼自身も強かったからである。食を頒《わ》けるときも強壮者が美味をとり老弱者に余り物を与えるのが匈奴《きようど》のふうであった。ここでは、強き者が辱《はずか》しめられることはけっしてない。降将李陵は一つの穹廬《きゆうろ*》と数十人の侍者《じしや》とを与えられ賓客《ひんきやく》の礼をもって遇《ぐう》せられた。
李陵にとって奇異な生活が始まった。家は絨帳《じゆうちよう》穹廬《きゆうろ》、食物は羶肉《せんにく》、飲物は酪漿《らくしよう》と獣乳と乳醋酒《にゆうさくしゆ》。着物は狼《おおかみ》や羊や熊《くま》の皮を綴《つづ》り合わせた旃裘《せんきゅう*》。牧畜と狩猟と寇掠《こうりゃく*》と、このほかに彼らの生活はない。一望《いちぼう》際涯《さいがい》のない高原にも、しかし、河や湖や山々による境界があって、単于《ぜんう》直轄地《ちよつかつち》のほかは左賢王《さけんおう》右賢王左谷蠡王《さろくりおう》右谷蠡王以下の諸王侯の領地に分けられており、牧民の移住はおのおのその境界の中に限られているのである。城郭もなければ田畑もない国。村落はあっても、それが季節に従い水草を逐《お》って土地を変える。
李陵には土地は与えられない。単于麾下《きか》の諸将とともにいつも単于に従っていた。隙《すき》があったら単于の首でも、と李陵は狙《ねら》っていたが、容易に機会が来ない。たとえ、単于を討果たしたとしても、その首を持って脱出することは、非常な機会に恵まれないかぎり、まず不可能であった。胡地《こち》にあって単于と刺違えたのでは、匈奴《きようど》は己《おのれ》の不名誉を有耶無耶《うやむや》のうちに葬ってしまうこと必定《ひつじよう》ゆえ、おそらく漢に聞こえることはあるまい。李陵は辛抱強《しんぼうづよ》く、その不可能とも思われる機会の到来を待った。
単于《ぜんう》の幕下《ばつか》には、李陵《りりよう》のほかにも漢の降人《こうじん》が幾人かいた。その中の一人、衛律《えいりつ》という男は軍人ではなかったが、丁霊王《ていれいおう》の位を貰《もら》って最も重く単于に用いられている。その父は胡人《こじん》だが、故《ゆえ》あって衛律は漢の都で生まれ生長した。武帝に仕えていたのだが、先年協律都尉《きようりつとい》李延年《りえんねん》の事に坐《ざ》するのを懼《おそ》れて、亡《に》げて匈奴《きようど》に帰《き》したのである。血が血だけに胡風《こふう》になじむことも速く、相当の才物でもあり、常に且〓侯《そていこう》単于《ぜんう》の帷幄《いあく》に参じてすべての画策に与《あず》かっていた。李陵はこの衛律を始め、漢人《かんじん》の降《くだ》って匈奴の中にあるものと、ほとんど口をきかなかった。彼の頭の中にある計画について事をともにすべき人物がいないと思われたのである。そういえば、他の漢人同士の間でもまた、互いに妙に気まずいものを感じるらしく、相互に親しく交わることがないようであった。
一度単于は李陵を呼んで軍略上の示教を乞《こ》うたことがある。それは東胡《とうこ》に対しての戦いだったので、陵は快く己《おの》が意見を述べた。次に単于が同じような相談を持ちかけたとき、それは漢軍に対する策戦についてであった。李陵はハッキリと嫌《いや》な表情をしたまま口を開こうとしなかった。単于も強《し》いて返答を求めようとしなかった。それからだいぶ久しくたったころ、代・上郡を寇掠《こうりやく》する軍隊の一将として南行することを求められた。このときは、漢に対する戦いには出られない旨を言ってキッパリ断わった。爾後《じご》、単于は陵にふたたびこうした要求をしなくなった。待遇は依然として変わらない。他に利用する目的はなく、ただ士を遇するために士を遇しているのだとしか思われない。とにかくこの単于は男だと李陵は感じた。
単于の長子・左賢王《さけんおう》が妙に李陵に好意を示しはじめた。好意というより尊敬といったほうが近い。二十歳を越したばかりの・粗野《そや》ではあるが勇気のある真面目《まじめ》な青年である。強き者への讃美《さんび》が、実に純粋で強烈なのだ。初め李陵のところへ来て騎射《きしや》を教えてくれという。騎射といっても騎のほうは陵に劣らぬほど巧《うま》い。ことに、裸馬《らば》を駆る技術に至っては遥《はる》かに陵を凌《しの》いでいるので、李陵はただ射《しや》だけを教えることにした。左賢王《さけんおう》は、熱心な弟子となった。陵の祖父李広《りこう》の射における入神《にゆうしん》の技などを語るとき、蕃族《ばんぞく》の青年は眸《ひとみ》をかがやかせて熱心に聞入るのである。よく二人して狩猟に出かけた。ほんの僅《わず》かの供廻《ともまわ》りを連れただけで二人は縦横に曠野《こうや》を疾駆《しつく》しては狐《きつね》や狼《おおかみ》や羚羊《かもしか》や〓《おおとり》や雉子《きじ》などを射た。あるときなど夕暮れ近くなって矢も尽きかけた二人が――二人の馬は供の者を遥《はる》かに駈抜《かけぬ》いていたので――一群の狼に囲まれたことがある。馬に鞭《むち》うち全速力で狼群の中を駈け抜けて逃れたが、そのとき、李陵の馬の尻《しり》に飛びかかった一匹を、後ろに駈けていた青年左賢王が彎刀《わんとう》をもって見事《みごと》に胴斬《どうぎ》りにした。あとで調べると二人の馬は狼どもに噛《か》み裂かれて血だらけになっていた。そういう一日ののち、夜、天幕《てんまく》の中で今日の獲物を羹《あつもの》の中にぶちこんでフウフウ吹きながら啜《すす》るとき、李陵は火影《ほかげ》に顔を火照《ほて》らせた若い蕃王《ばんおう》の息子に、ふと友情のようなものをさえ感じることがあった。
天漢三年の秋に匈奴《きようど》がまたもや雁門《がんもん》を犯した。これに酬《むく》いるとて、翌四年、漢は弐師《じし》将軍李広利《りこうり》に騎六万歩七万の大軍を授《さず》けて朔方《さくほう》を出でしめ、歩卒一万を率いた強弩《きようど》都尉《とい》路博徳《ろはくとく》にこれを援《たす》けしめた。ひいて因〓《いんう》将軍公孫敖《こうそんごう》は騎一万歩三万をもって雁門を、游撃《ゆうげき》将軍韓説《かんせつ》は歩三万をもって五原《ごげん》を、それぞれ進発する。近来にない大北伐《ほくばつ》である。単于《ぜんう》はこの報に接するや、ただちに婦女、老幼、畜群、資財の類をことごとく余吾水《しよごすい》(ケルレン河)北方の地に移し、自《みずか》ら十万の精騎を率いて李広利《りこうり》・路博徳《ろはくとく》の軍を水南《すいなん》の大草原に邀《むか》え撃った。連戦十余日。漢軍はついに退くのやむなきに至った。李陵《りりよう》に師事する若き左賢王《さけんおう》は、別に一隊を率いて東方に向かい因〓《いんう》将軍を迎えてさんざんにこれを破った。漢軍の左翼たる韓説《かんせつ》の軍もまた得るところなくして兵を引いた。北征は完全な失敗である。李陵は例によって漢との戦いには陣頭に現われず、水北に退いていたが、左賢王の戦績をひそかに気遣《きづか》っている己《おのれ》を発見して愕然《がくぜん》とした。もちろん、全体としては漢軍の成功と匈奴《きようど》の敗戦とを望んでいたには違いないが、どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。李陵はこれに気がついて激しく己を責めた。
その左賢王に打破られた公孫敖《こうそんごう》が都に帰り、士卒を多く失って功がなかったとの廉《かど》で牢《ろう》に繋《つな》がれたとき、妙な弁解をした。敵の捕虜《ほりよ》が、匈奴軍の強いのは、漢から降《くだ》った李《り》将軍が常々兵を練り軍略を授けてもって漢軍に備えさせているからだと言ったというのである。だからといって自軍が敗《ま》けたことの弁解にはならないから、もちろん、因〓《いんう》将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝が、李陵に対し激怒したことは言うまでもない。一度許されて家に戻っていた陵の一族はふたたび獄《ごく》に収められ、今度は、陵の老母から妻、子、弟に至るまでことごとく殺された。軽薄なる世人の常とて、当時隴西《ろうせい》(李陵の家は隴西の出である)の士大夫《したいふ》ら皆李家を出したことを恥としたと記されている。
この知らせが李陵の耳に入ったのは半年ほど後のこと、辺境から拉致《らち》された一漢卒《かんそつ》の口からである。それを聞いたとき、李陵は立上がってその男の胸倉《むなぐら》をつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめた。たしかにまちがいのないことを知ると、彼は歯をくい縛《しば》り、思わず力を両手にこめた。男は身をもがいて、苦悶《くもん》の呻《うめ》きを洩《も》らした。陵《りよう》の手が無意識のうちにその男の咽喉《いんこう》を扼《やく》していたのである。陵が手を離すと、男はバッタリ地に倒れた。その姿に目もやらず、陵は帳房《ちようぼう》の外へ飛出した。
めちゃくちゃに彼は野を歩いた。激しい憤りが頭の中で渦《うず》を巻いた。老母や幼児のことを考えると心は灼《や》けるようであったが、涙は一滴も出ない。あまりに強い怒りは涙を涸渇《こかつ》させてしまうのであろう。
今度の場合には限らぬ。今まで我が一家はそもそも漢から、どのような扱いを受けてきたか? 彼は祖父の李広《りこう》の最期《さいご》を思った。(陵の父、当戸《とうこ》は、彼が生まれる数か月前に死んだ。陵はいわゆる、遺腹の児である。だから、少年時代までの彼を教育し鍛えあげたのは、有名なこの祖父であった。)名将李広は数次の北征に大功を樹《た》てながら、君側の姦佞《かんねい》に妨げられて何一つ恩賞にあずからなかった。部下の諸将がつぎつぎに爵位封侯《しやくいほうこう》を得て行くのに、廉潔《れんけつ》な将軍だけは封侯はおろか、終始変わらぬ清貧《せいひん》に甘んじなければならなかった。最後に彼は大将軍衛青《えいせい》と衝突した。さすがに衛青にはこの老将をいたわる気持はあったのだが、その幕下《ばつか》の一軍吏《ぐんり》が虎《とら》の威《い》を借りて李広を辱《はずか》しめた。憤激した老名将はすぐその場で――陣営の中で自《みずか》ら首刎《は》ねたのである。祖父の死を聞いて声をあげてないた少年の日の自分を、陵はいまだにハッキリと憶《おぼ》えている。……
陵の叔父(李広の次男)李敢《りかん》の最後はどうか。彼は父将軍の惨《みじ》めな死について衛青を怨《うら》み、自ら大将軍の邸に赴《おもむ》いてこれを辱《はずか》しめた。大将軍の甥《おい》にあたる嫖騎《ひようき》将軍霍去病《かくきよへい》がそれを憤って、甘泉宮《かんせんきゆう》の猟のときに李敢を射殺した。武帝はそれを知りながら、嫖騎将軍をかばわんがために、李敢は鹿《しか》の角に触れて死んだと発表させたのだ。……
司馬遷《しばせん》の場合と違って、李陵のほうは簡単であった。憤怒《ふんぬ》がすべてであった。(無理でも、もう少し早くかねての計画――単于《ぜんう》の首でも持って胡地《こち》を脱するという――を実行すればよかったという悔いを除いては、)ただそれをいかにして現わすかが問題であるにすぎない。彼は先刻の男の言葉「胡地《こち》にあって李将軍が兵を教え漢に備えていると聞いて陛下が激怒され云々《うんぬん》」を思出した。ようやく思い当たったのである。もちろん彼自身にはそんな覚えはないが、同じ漢の降将に李緒《りしよ》という者がある。元、塞外都尉《さいがいとい》として奚侯城《けいこうじよう》を守っていた男だが、これが匈奴《きようど》に降《くだ》ってから常に胡軍《こぐん》に軍略を授け兵を練っている。現に半年前の軍にも、単于に従って、(問題の公孫敖《こうそんごう》の軍とではないが)漢軍と戦っている。これだと李陵《りりよう》は思った。同じ李《り》将軍で、李緒《りしよ》とまちがえられたに違いないのである。
その晩、彼は単身、李緒の帳幕《ちようばく》へと赴《おもむ》いた。一言も言わぬ、一言も言わせぬ。ただの一刺しで李緒は斃《たお》れた。
翌朝李陵は単于の前に出て事情を打明けた。心配は要《い》らぬと単于は言う。だが母の大閼《たいえん》氏が少々うるさいから――というのは、相当の老齢でありながら、単于の母は李緒と醜関係があったらしい。単于はそれを承知していたのである。匈奴《きようど》の風習によれば、父が死ぬと、長子たる者が、亡父の妻妾《さいしよう》のすべてをそのまま引きついで己《おの》が妻妾とするのだが、さすがに生母だけはこの中にはいらない。生みの母に対する尊敬だけは極端に男尊女卑の彼らでも有《も》っているのである――今しばらく北方へ隠れていてもらいたい、ほとぼりがさめたころに迎えを遣《や》るから、とつけ加えた。その言葉に従って、李陵は一時従者どもをつれ、西北の兜銜山《とうかんざん》(額林達班嶺《がくりんたつぱんれい》)の麓《ふもと》に身を避けた。
まもなく問題の大閼《たいえん》氏が病死し、単于《ぜんう》の庭《てい》に呼戻されたとき、李陵《りりよう》は人間が変わったように見えた。というのは、今まで漢に対する軍略にだけは絶対に与《あずか》らなかった彼が、自《みずか》ら進んでその相談に乗ろうと言出したからである。単于はこの変化を見て大いに喜んだ。彼は陵を右校王《うこうおう》に任じ、己《おの》が娘の一人をめあわせた。娘を妻にという話は以前にもあったのだが、今まで断わりつづけてきた。それを今度は躊躇《ちゆうちよ》なく妻としたのである。ちょうど酒泉《しゆせん》張掖《ちようえき》の辺を寇掠《こうりやく》すべく南に出て行く一軍があり、陵は自ら請うてその軍に従った。しかし、西南へと取った進路がたまたま浚稽山《しゆんけいざん》の麓《ふもと》を過《よぎ》ったとき、さすがに陵の心は曇った。かつてこの地で己《おのれ》に従って死戦した部下どものことを考え、彼らの骨が埋められ彼らの血の染《し》み込んだその砂の上を歩きながら、今の己が身の上を思うと、彼はもはや南行して漢兵と闘う勇気を失った。病と称して彼は独り北方へ馬を返した。
翌、太始《たいし》元年、且〓侯《そていこう》単于《ぜんう》が死んで、陵と親しかった左賢王《さけんおう》が後を嗣《つ》いだ。狐鹿姑《ころくこ》単于というのがこれである。
匈奴《きようど》の右校王《うこうおう》たる李陵《りりよう》の心はいまだにハッキリしない。母妻子を族滅《ぞくめつ》された怨《うら》みは骨髄《こつずい》に徹しているものの、自《みずか》ら兵を率いて漢と戦うことができないのは、先ごろの経験で明らかである。ふたたび漢の地を踏むまいとは誓ったが、この匈奴の俗に化して終生安んじていられるかどうかは、新単于への友情をもってしても、まださすがに自信がない。考えることの嫌《きら》いな彼は、イライラしてくると、いつも独り駿馬《しゆんめ》を駆って曠野《こうや》に飛び出す。秋天一碧《しゆうてんいつぺき》の下、〓々《かつかつ》と蹄《ひづめ》の音を響かせて草原となく丘陵となく狂気のように馬を駈けさせる。何十里かぶっとばした後、馬も人もようやく疲れてくると、高原の中の小川を求めてその滸《ほとり》に下り、馬に飲《みず》かう。それから己《おのれ》は草の上に仰向《あおむ》けにねころんで快い疲労感にウットリと見上げる碧落《へきらく》の潔《きよ》さ、高さ、広さ。ああ我もと天地間の一粒子《いちりゆうし》のみ、なんぞまた漢と胡《こ》とあらんやとふとそんな気のすることもある。一しきり休むとまた馬に跨《また》がり、がむしゃらに駈《か》け出す。終日乗り疲れ黄雲《こううん》が落暉《らつき》に〓《くん》ずるころになってようやく彼は幕営《ばくえい》に戻る。疲労だけが彼のただ一つの救いなのである。
司馬遷《しばせん》が陵《りよう》のために弁じて罪をえたことを伝える者があった。李陵は別にありがたいとも気の毒だとも思わなかった。司馬遷とは互いに顔は知っているし挨拶《あいさつ》をしたことはあっても、特に交を結んだというほどの間柄ではなかった。むしろ、厭《いや》に議論ばかりしてうるさいやつだくらいにしか感じていなかったのである。それに現在の李陵は、他人の不幸を実感するには、あまりに自分一個の苦しみと闘《たたか》うのに懸命であった。よけいな世話とまでは感じなかったにしても、特に済まないと感じることがなかったのは事実である。
初め一概に野卑《やひ》滑稽《こつけい》としか映《うつ》らなかった胡地《こち》の風俗が、しかし、その地の実際の風土・気候等を背景として考えてみるとけっして野卑でも不合理でもないことが、しだいに李陵にのみこめてきた。厚い皮革製の胡服《こふく》でなければ朔北《さくほく》の冬は凌《しの》げないし、肉食でなければ胡地の寒冷に堪《た》えるだけの精力を貯《たくわ》えることができない。固定した家屋を築かないのも彼らの生活形態から来た必然で、頭から低級と貶《けな》し去るのは当たらない。漢人のふうをあくまで保《たも》とうとするなら、胡地の自然の中での生活は一日といえども続けられないのである。
かつて先代の且〓侯《そていこう》単于《ぜんう》の言った言葉を李陵《りりよう》は憶《おぼ》えている。漢の人間が二言めには、己《おの》が国を礼儀の国といい、匈奴《きようど》の行ないをもって禽獣《きんじゆう》に近いと看做《みな》すことを難じて、単于は言った。漢人のいう礼儀とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾の謂《いい》ではないか。利を好み人を嫉《ねた》むこと、漢人と胡人《こじん》といずれかはなはだしき? 色に耽《ふけ》り財を貪《むさぼ》ること、またいずれかはなはだしき? 表《うわ》べを剥《は》ぎ去れば畢竟《ひつきよう》なんらの違いはないはず。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。漢初以来の骨肉《こつにく》相喰《あいは》む内乱や功臣連の排斥《はいせき》擠陥《せいかん》の跡を例に引いてこう言われたとき、李陵はほとんど返す言葉に窮した。実際、武人《ぶじん》たる彼は今までにも、煩瑣《はんさ》な礼のための礼に対して疑問を感じたことが一再ならずあったからである。たしかに、胡俗《こぞく》の粗野《そや》な正直さのほうが、美名の影に隠れた漢人の陰険さより遥《はる》かに好ましい場合がしばしばあると思った。諸夏《しよか*》の俗を正しきもの、胡俗《こぞく》を卑しきものと頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、しだいに李陵にはそんな気がしてくる。たとえば今まで人間には名のほかに字《あざな》がなければならぬものと、ゆえもなく信じ切っていたが、考えてみれば字が絶対に必要だという理由はどこにもないのであった。
彼の妻はすこぶる大人《おとな》しい女だった。いまだに主人の前に出るとおずおずしてろくに口も利《き》けない。しかし、彼らの間にできた男の児は、少しも父親を恐れないで、ヨチヨチと李陵の膝《ひざ》に匍上《はいあ》がって来る。その児の顔に見入りながら、数年前長安《ちようあん》に残してきた――そして結局母や祖母とともに殺されてしまった――子供の俤《おもかげ》をふと思いうかべて李陵は我しらず憮然《ぶぜん》とするのであった。
陵が匈奴《きようど》に降《くだ》るよりも早く、ちょうどその一年前から、漢の中郎将《ちゆうろうしよう》蘇武《そぶ》が胡地《こち》に引留められていた。
元来蘇武は平和の使節として捕虜《ほりよ》交換のために遣《つか》わされたのである。ところが、その副使某がたまたま匈奴の内紛《ないふん》に関係したために、使節団全員が囚《とら》えられることになってしまった。単于《ぜんう》は彼らを殺そうとはしないで、死をもって脅《おびや》かしてこれを降《くだ》らしめた。ただ蘇武一人は降服を肯《がえ》んじないばかりか、辱《はずか》しめを避けようと自《みずか》ら剣を取って己《おの》が胸を貫いた。昏倒《こんとう》した蘇武に対する胡〓《こい》の手当てというのがすこぶる変わっていた。地を掘って坎《あな》をつくり〓火《うんか》を入れて、その上に傷者を寝かせその背中を蹈《ふ》んで血を出させたと漢書《かんじよ》には誌《しる》されている。この荒療治のおかげで、不幸にも蘇武は半日昏絶《こんぜつ》したのちにまた息を吹返した。且〓侯《そていこう》単于はすっかり彼に惚《ほ》れ込んだ。数旬ののちようやく蘇武の身体が恢復《かいふく》すると、例の近臣衛律《えいりつ》をやってまた熱心に降をすすめさせた。衛律は蘇武が鉄火の罵詈《ばり》に遭《あ》い、すっかり恥をかいて手を引いた。その後蘇武が窖《あなぐら》の中に幽閉《ゆうへい》されたとき旃毛《せんもう*》を雪に和して喰《くら》いもって飢えを凌《しの》いだ話や、ついに北海《ほつかい》(バイカル湖)のほとり人なき所に徙《うつ》されて牡羊《おひつじ》が乳を出さば帰るを許さんと言われた話は、持節《じせつ》十九年の彼の名とともに、あまりにも有名だから、ここには述べない。とにかく、李陵《りりよう》が悶々《もんもん》の余生を胡地《こち》に埋めようとようやく決心せざるを得なくなったころ、蘇武は、すでに久しく北海のほとりで独り羊を牧していたのである。
李陵《りりよう》にとって蘇武《そぶ》は二十年来の友であった。かつて時を同じゅうして侍中《じちゆう*》を勤めていたこともある。片意地でさばけないところはあるにせよ、確かにまれに見る硬骨の士であることは疑いないと陵は思っていた。天漢元年に蘇武が北へ立ってからまもなく、武の老母が病死したときも、陵は陽陵《ようりよう》までその葬を送った。蘇武の妻が良人《おつと》のふたたび帰る見込みなしと知って、去って他家に嫁《か》した噂《うわさ》を聞いたのは、陵の北征出発直前のことであった。そのとき、陵は友のためにその妻の浮薄をいたく憤った。
しかし、はからずも自分が匈奴《きようど》に降《くだ》るようになってからのちは、もはや蘇武に会いたいとは思わなかった。武が遥《はる》か北方に遷《うつ》されていて顔を合わせずに済むことをむしろ助かったと感じていた。ことに、己《おのれ》の家族が戮《りく》せられてふたたび漢に戻る気持を失ってからは、いっそうこの「漢節を持した牧羊者」との面接を避けたかった。
狐鹿姑《ころくこ》単于《ぜんう》が父の後《あと》を嗣《つ》いでから数年後、一時蘇武が生死不明との噂《うわさ》が伝わった。父単于がついに降服させることのできなかったこの不屈の漢使の存在を思出した狐鹿姑単于は、蘇武の安否を確かめるとともに、もし健在ならば今一度降服を勧告するよう、李陵に頼んだ。陵が武の友人であることを聞いていたのである。やむを得ず陵は北へ向かった。
姑且水《こじよすい》を北に溯《さかのぼ》り〓居水《しつきよすい》との合流点からさらに西北に森林地帯を突切る。また所々に雪の残っている川岸を進むこと数日、ようやく北海《ほつかい》の碧《あお》い水が森と野との向こうに見え出したころ、この地方の住民なる丁霊族《ていれいぞく》の案内人は李陵の一行を一軒の哀れな丸太小舎《ごや》へと導いた。小舎の住人が珍しい人声に驚かされて、弓矢を手に表へ出て来た。頭から毛皮を被《かぶ》った鬚《ひげ》ぼうぼうの熊《くま》のような山男の顔の中に、李陵がかつての〓中厩監蘇子卿《いちゆうきゆうかんそしけい》の俤《おもかげ》を見出してからも、先方がこの胡服《こふく》の大官を前《さき》の騎都尉《きとい》李少卿《りしようけい》と認めるまでにはなおしばらくの時間が必要であった。蘇武《そぶ》のほうでは陵が匈奴《きようど》に事《つか》えていることも全然聞いていなかったのである。
感動が、陵の内に在《あ》って今まで武との会見を避けさせていたものを一瞬圧倒し去った。二人とも初めほとんどものが言えなかった。
陵の供廻《ともまわ》りどもの穹廬《きゆうろ》がいくつか、あたりに組立てられ、無人の境が急に賑《にぎ》やかになった。用意してきた酒食がさっそく小舎《こや》に運び入れられ、夜は珍しい歓笑の声が森の鳥獣を驚かせた。滞在は数日に亙《わた》った。
己《おの》が胡服を纏《まと》うに至った事情を話すことは、さすがに辛《つら》かった。しかし、李陵は少しも弁解の調子を交えずに事実だけを語った。蘇武がさりげなく語るその数年間の生活はまったく惨憺《さんたん》たるものであったらしい。何年か以前に匈奴の於〓王《おけんおう》が猟をするとてたまたまここを過ぎ蘇武に同情して、三年間つづけて衣服食料等を給してくれたが、その於〓王の死後は、凍《い》てついた大地から野鼠《のねずみ》を掘出して、飢えを凌《しの》がなければならない始末だと言う。彼の生死不明の噂《うわさ》は彼の養っていた畜群が剽盗《ひようとう》どものために一匹残らずさらわれてしまったことの訛伝《かでん》らしい。陵は蘇武の母の死んだことだけは告げたが、妻が子を棄《す》てて他家へ行ったことはさすがに言えなかった。
この男は何を目あてに生きているのかと李陵は怪しんだ。いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。蘇武の口うらから察すれば、いまさらそんな期待は少しももっていないようである。それではなんのためにこうした惨憺《さんたん》たる日々をたえ忍んでいるのか? 単于《ぜんう》に降服を申出れば重く用いられることは請合《うけあ》いだが、それをする蘇武《そぶ》でないことは初めから分り切っている。陵の怪しむのは、なぜ早く自《みずか》ら生命を絶たないのかという意味であった。李陵《りりよう》自身が希望のない生活を自らの手で断ち切りえないのは、いつのまにかこの地に根を下《おろ》して了《しま》った数々の恩愛や義理のためであり、またいまさら死んでも格別漢のために義を立てることにもならないからである。蘇武の場合は違う。彼にはこの地での係累《けいるい》もない。漢朝に対する忠信という点から考えるなら、いつまでも節旄《せつぼう*》を持して曠野《こうや》に飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首刎《は》ねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる。はじめ捕えられたとき、いきなり自分の胸を刺した蘇武に、今となって急に死を恐れる心が萌《きざ》したとは考えられない。李陵は、若いころの蘇武の片意地を――滑稽《こつけい》なくらい強情な痩我慢《やせがまん》を思出した。単于《ぜんう》は栄華を餌《え》に極度の困窮《こんきゆう》の中から蘇武を釣《つ》ろうと試みる。餌につられるのはもとより、苦難に堪《た》ええずして自ら殺すこともまた、単于に(あるいはそれによって象徴される運命に)負けることになる。蘇武はそう考えているのではなかろうか。運命と意地の張合いをしているような蘇武の姿が、しかし、李陵には滑稽や笑止《しようし》には見えなかった。想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそは誠《まこと》に凄《すさま》じくも壮大なものと言わねばならぬ。昔の多少は大人《おとな》げなく見えた蘇武の痩我慢《やせがまん》が、かかる大我慢にまで成長しているのを見て李陵は驚嘆した。しかもこの男は自分の行ないが漢にまで知られることを予期していない。自分がふたたび漢に迎えられることはもとより、自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつあることを漢はおろか匈奴《きようど》の単于にさえ伝えてくれる人間の出て来ることをも期待していなかった。誰にもみとられずに独り死んでいくに違いないその最後の日に、自《みずか》ら顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ。誰一人己《おの》が事蹟《じせき》を知ってくれなくともさしつかえないというのである。李陵《りりよう》は、かつて先代単于《ぜんう》の首を狙《ねら》いながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもって匈土《きようど》の地を脱走しえなければ、せっかくの行為が空《むな》しく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった。人に知られざることを憂えぬ蘇武《そぶ》を前にして、彼はひそかに冷汗の出る思いであった。
最初の感動が過ぎ、二日三日とたつうちに、李陵の中にやはり一種のこだわりができてくるのをどうすることもできなかった。何を語るにつけても、己《おのれ》の過去と蘇武のそれとの対比がいちいちひっかかってくる。蘇武は義人《ぎじん》、自分は売国奴《ばいこくど》と、それほどハッキリ考えはしないけれども、森と野と水との沈黙によって多年の間鍛え上げられた蘇武の厳《きび》しさの前には己の行為に対する唯一の弁明であった今までのわが苦悩のごときは一溜《ひとたま》りもなく圧倒されるのを感じないわけにいかない。それに、気のせいか、日《ひ》にちが立つにつれ、蘇武の己に対する態度の中に、何か富者が貧者に対するときのような――己の優越を知ったうえで相手に寛大であろうとする者の態度を感じはじめた。どことハッキリはいえないが、どうかした拍子《ひようし》にひょいとそういうものの感じられることがある。繿縷《ぼろ》をまとうた蘇武の目の中に、ときとして浮かぶかすかな憐愍《れんびん》の色を、豪奢《ごうしや》な貂裘《ちようきゆう》をまとうた右校王《うこうおう》李陵《りりよう》はなによりも恐れた。
十日ばかり滞在したのち、李陵は旧友に別れて、悄然《しようぜん》と南へ去った。食糧衣服の類は充分に森の丸木小舎《ごや》に残してきた。
李陵は単于《ぜんう》からの依嘱《いしよく》たる降服勧告についてはとうとう口を切らなかった、蘇武《そぶ》の答えは問うまでもなく明らかであるものを、何もいまさらそんな勧告によって蘇武をも自分をも辱《はずかし》めるには当たらないと思ったからである。
南に帰ってからも、蘇武の存在は一日も彼の頭から去らなかった。離れて考えるとき、蘇武の姿はかえっていっそうきびしく彼の前に聳《そび》えているように思われる。
李陵自身、匈奴《きようど》への降服という己《おのれ》の行為をよしとしているわけではないが、自分の故国につくした跡と、それに対して故国の己に酬《むく》いたところとを考えるなら、いかに無情な批判者といえども、なお、その「やむを得なかった」ことを認めるだろうとは信じていた。ところが、ここに一人の男があって、いかに「やむを得ない」と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは「やむを得ぬのだ」という考えかたを許そうとしないのである。
飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節がついに何人《なんぴと》にも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ。
蘇武の存在は彼にとって、崇高な訓誡《くんかい》でもあり、いらだたしい悪夢でもあった。ときどき彼は人を遣《つか》わして蘇武の安否を問わせ、食品、牛羊、絨氈《じゆうせん》を贈った。蘇武をみたい気持と避けたい気持とが彼の中で常に闘っていた。
数年後、今一度李陵は北海《ほつかい》のほとりの丸木小舎《ごや》を訪《たず》ねた。そのとき途中で雲中《うんちゆう》の北方を戍《まも》る衛兵《えいへい》らに会い、彼らの口から、近ごろ漢の辺境では太守《たいしゆ》以下吏民《りみん》が皆白服をつけていることを聞いた。人民がことごとく服を白くしているとあれば天子の喪《も》に相違ない。李陵は武帝《ぶてい》の崩《ほう》じたのを知った。北海の滸《ほとり》に到《いた》ってこのことを告げたとき、蘇武《そぶ》は南に向かって号哭《ごうこく》した。慟哭《どうこく》数日、ついに血を嘔《は》くに至った。その有様を見ながら、李陵はしだいに暗く沈んだ気持になっていった。彼はもちろん蘇武の慟哭の真摯《しんし》さを疑うものではない。その純粋な烈《はげ》しい悲嘆には心を動かされずにはいられない。だが、自分には今一滴の涙も泛《うか》んでこないのである。蘇武は、李陵のように一族を戮《りく》せられることこそなかったが、それでも彼の兄は天子の行列にさいしてちょっとした交通事故を起こしたために、また、彼の弟はある犯罪者を捕ええなかったことのために、ともに責を負うて自殺させられている。どう考えても漢の朝《ちよう》から厚遇されていたとは称しがたいのである。それを知ってのうえで、今目の前に蘇武の純粋な痛哭《つうこく》を見ているうちに、以前にはただ蘇武の強烈な意地とのみ見えたものの底に、実は、譬《たと》えようもなく清冽《せいれつ》な純粋な漢の国土への愛情(それは義とか節とかいう外から押しつけられたものではなく、抑《おさ》えようとして抑えられぬ、こんこんと常に湧出《わきで》る最も親身な自然な愛情)が湛《たた》えられていることを、李陵ははじめて発見した。
李陵は己《おのれ》と友とを隔てる根本的なものにぶつかっていやでも己《おのれ》自身に対する暗い懐疑に追いやられざるをえないのである。
蘇武《そぶ》の所から南へ帰って来ると、ちょうど、漢からの使者が到着したところであった。武帝《ぶてい》の死と昭帝《しようてい》の即位とを報じてかたがた当分の友好関係を――常に一年とは続いたことのない友好関係だったが――結ぶための平和の使節である。その使いとしてやって来たのが、はからずも李陵《りりよう》の故人《とも》・隴西《ろうせい》の任立政《じんりつせい》ら三人であった。
その年の二月武帝が崩じて、僅《わず》か八歳の太子弗陵《ふつりよう》が位を嗣《つ》ぐや、遺詔《いじよう》によって侍中奉車都尉《じちゆうほうしやとい》霍光《かくこう》が大司馬《だいしば*》大将軍として政《まつりごと》を輔《たす》けることになった。霍光はもと、李陵と親しかったし、左将軍となった上官桀《じようかんけつ》もまた陵の故人であった。この二人の間に陵を呼返そうとの相談ができ上がったのである。今度の使いにわざわざ陵の昔の友人が選ばれたのはそのためであった。
単于《ぜんう》の前で使者の表向きの用が済むと、盛んな酒宴が張られる。いつもは衛律《えいりつ》がそうした場合の接待役を引受けるのだが、今度は李陵の友人が来た場合とて彼も引張り出されて宴につらなった。任立政は陵を見たが、匈奴《きようど》の大官連の並んでいる前で、漢に帰れとは言えない。席を隔てて李陵を見ては目配せをし、しばしば己《おのれ》の刀環《とうかん》を撫《な》でて暗にその意を伝えようとした。陵はそれを見た。先方の伝えんとするところもほぼ察した。しかし、いかなるしぐさをもって応《こた》えるべきかを知らない。
公式の宴が終わった後で、李陵・衛律らばかりが残って牛酒と博戯《ばくぎ*》とをもって漢使をもてなした。そのとき任立政が陵に向かって言う。漢ではいまや大赦令《たいしやれい》が降り万民は太平の仁政《じんせい》を楽しんでいる。新帝はいまだ幼少のこととて君が故旧たる霍子孟《かくしもう》・上官少叔《じようかんしようしゆく》が主上を輔《たす》けて天下の事を用いることとなったと。立政は、衛律《えいりつ》をもって完全に胡人《こじん》になり切ったものと見做《みな》して――事実それに違いなかったが――その前では明らさまに陵に説くのを憚《はばか》った。ただ霍光《かくこう》と上官桀《じようかんけつ》との名を挙《あ》げて陵の心を惹《ひ》こうとしたのである。陵は黙《もく》して答えない。しばらく立政《りつせい》を熟視してから、己《おの》が髪を撫《な》でた。その髪も椎結《ついけい》とてすでに中国のふうではない。ややあって衛律が服を更《か》えるために座を退いた。初めて隔てのない調子で立政が陵の字《あざな》を呼んだ。少卿《しようけい》よ、多年の苦しみはいかばかりだったか。霍子孟《かくしもう》と上官少叔《じようかんしようしゆく》からよろしくとのことであったと。その二人の安否を問返す陵のよそよそしい言葉におっかぶせるようにして立政がふたたび言った。少卿よ、帰ってくれ。富貴《ふうき》などは言うに足りぬではないか。どうか何もいわずに帰ってくれ。蘇武《そぶ》の所から戻ったばかりのこととて李陵も友の切なる言葉に心が動かぬではない。しかし、考えてみるまでもなく、それはもはやどうにもならぬことであった。「帰るのは易《やす》い。だが、また辱《はずか》しめを見るだけのことではないか? 如何《いかん》?」言葉半ばにして衛律が座に還《かえ》ってきた。二人は口を噤《つぐ》んだ。
会が散じて別れ去るとき、任立政はさりげなく陵のそばに寄ると、低声で、ついに帰るに意なきやを今一度尋ねた。陵は頭を横にふった。丈夫《じょうふ》ふたたび辱めらるるあたわずと答えた。その言葉がひどく元気のなかったのは、衛律に聞こえることを惧《おそ》れたためではない。
後五年、昭帝の始元《しげん》六年の夏、このまま人に知られず北方に窮死《きゆうし》すると思われた蘇武《そぶ》が偶然にも漢に帰れることになった。漢の天子が上林苑《じようりんえん》中で得た雁《かり》の足に蘇武の帛書《はくしよ》がついていた《*》云々《うんぬん》というあの有名な話は、もちろん、蘇武《そぶ》の死を主張する単于《ぜんう》を説破するためのでたらめである。十九年前蘇武に従って胡地《こち》に来た常恵《じようけい》という者が漢使に遭《あ》って蘇武の生存を知らせ、この嘘《うそ》をもって武《ぶ》を救出《すくいだ》すように教えたのであった。さっそく北海《ほつかい》の上に使いが飛び、蘇武は単于の庭《てい》につれ出された。李陵《りりよう》の心はさすがに動揺した。ふたたび漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりはなく、したがって陵の心の笞《しもと》たるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然《しゆくぜん》として懼《おそ》れた。今でも、己《おのれ》の過去をけっして非なりとは思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰《けんしよう》されることになったという事実は、なんとしても李陵にはこたえた。胸をかきむしられるような女々《めめ》しい己の気持が羨望《せんぼう》ではないかと、李陵は極度に惧《おそ》れた。
別れに臨んで李陵は友のために宴を張った。いいたいことは山ほどあった。しかし結局それは、胡《こ》に降《くだ》ったときの己《おのれ》の志が那辺《なへん》にあったかということ。その志を行なう前に故国の一族が戮《りく》せられて、もはや帰るに由なくなった事情とに尽きる。それを言えば愚痴《ぐち》になってしまう。彼は一言もそれについてはいわなかった。ただ、宴酣《たけなわ》にして堪えかねて立上がり、舞いかつ歌うた。
径万里兮度沙幕《ばんりをゆきすぎさばくをわたる》
為君将兮奮匈奴《きみのためしようとなってきようどにふるう》
路窮絶兮矢刃摧《みちきゆうぜつししじんくだけ》
士衆滅兮名已〓《ししゆうほろびなすでにおつ》
老母已死雖欲報恩将安帰《ろうぼすでにしすおんにむくいんとほつするもまたいずくにかかえらん》
歌っているうちに、声が顫《ふる》え涙が頬《ほお》を伝わった。女々《めめ》しいぞと自《みずか》ら叱《しか》りながら、どうしようもなかった。
蘇武《そぶ》は十九年ぶりで祖国に帰って行った。
司馬遷《しばせん》はその後も孜々《しし》として書き続けた。
この世に生きることをやめた彼は書中の人物としてのみ活《い》きていた。現実の生活ではふたたび開かれることのなくなった彼の口が、魯仲連《ろちゆうれん*》の舌端《ぜつたん》を借りてはじめて烈々《れつれつ》と火を噴くのである。あるいは伍子胥《ごししよ*》となって己《おの》が眼を抉《えぐ》らしめ、あるいは藺相如《りんしようじよ*》となって秦王《しんおう》を叱《しつ》し、あるいは太子丹《たいしたん*》となって泣いて荊軻《けいか》を送った。楚《そ》の屈原《くつげん*》の憂憤《うつぷん》を叙して、そのまさに汨羅《べきら》に身を投ぜんとして作るところの懐沙之賦《かいさのふ》を長々と引用したとき、司馬遷にはその賦がどうしても己《おのれ》自身の作品のごとき気がしてしかたがなかった。
稿を起こしてから十四年、腐刑《ふけい》の禍《わざわい》に遭《あ》ってから八年。都では巫蠱《ふこ》の獄《*》が起こり戻太子《れいたいし》の悲劇が行なわれていたころ、父子相伝《ふしそうでん》のこの著述がだいたい最初の構想どおりの通史《つうし》がひととおりでき上がった。これに増補改刪《かいさん》推敲《すいこう》を加えているうちにまた数年がたった。史記《しき》百三十巻、五十二万六千五百字が完成したのは、すでに武帝《ぶてい》の崩御《ほうぎよ》に近いころであった。
列伝《れつでん》第七十太史公《たいしこう》自序の最後の筆を擱《お》いたとき、司馬遷は几《き》に凭《よ》ったまま惘然《ぼうぜん》とした。深い溜息《ためいき》が腹の底から出た。目は庭前の槐樹《えんじゆ》の茂みに向かってしばらくはいたが、実は何ものをも見ていなかった。うつろな耳で、それでも彼は庭のどこからか聞こえてくる一匹の蝉《せみ》の声に耳をすましているようにみえた。歓《よろこ》びがあるはずなのに気の抜けた漠然《ばくぜん》とした寂しさ、不安のほうが先に来た。
完成した著作を官に納め、父の墓前にその報告をするまではそれでもまだ気が張っていたが、それらが終わると急に酷《ひど》い虚脱の状態が来た。憑依《ひようい*》の去った巫者《ふしや》のように、身も心もぐったりとくずおれ、また六十を出たばかりの彼が急に十年も年をとったように耄《ふ》けた。武帝の崩御《ほうぎよ》も昭帝の即位もかつてのさきの太史令《たいしれい》司馬遷《しばせん》の脱殻《ぬけがら》にとってはもはやなんの意味ももたないように見えた。
前に述べた任立政《じんりつせい》らが胡地《こち》に李陵《りりよう》を訪《たず》ねて、ふたたび都に戻って来たころは、司馬遷はすでにこの世に亡《な》かった。
蘇武《そぶ》と別れた後の李陵については、何一つ正確な記録は残されていない。元平《げんぺい》元年に胡地《こち》で死んだということのほかは。
すでに早く、彼と親しかった狐鹿姑《ころくこ》単于《ぜんう》は死に、その子壺衍〓《こえんてい》単于の代となっていたが、その即位にからんで左賢王《さけんおう》、右谷蠡王《うろくりおう》の内紛があり、閼氏《えんし》や衛律《えいりつ》らと対抗して李陵も心ならずも、その紛争にまきこまれたろうことは想像に難《かた》くない。
漢書《かんじよ*》の匈奴伝《きようどでん》には、その後、李陵の胡地で儲《もう》けた子が烏藉都尉《うせきとい》を立てて単于とし、呼韓邪単于《こかんやぜんう》に対抗してついに失敗した旨が記されている。宣帝《せんてい》の五鳳《ごほう》二年のことだから、李陵が死んでからちょうど十八年めにあたる。李陵の子とあるだけで、名前は記されていない。
弟子
一
魯《ろ》の卞《べん》の游侠《ゆうきよう》の徒、仲由《ちゆうゆう》、字《あざな》は子路《しろ》という者が、近ごろ賢者《けんじや》の噂《うわさ》も高い学匠《がくしよう》・陬人孔丘《すうひとこうきゆう》を辱《はずか》しめてくれようものと思い立った。似而非《えせ》賢者何ほどのことやあらんと、蓬頭突鬢《ほうとうとつびん》・垂冠《すいかん》・短後《たんこう》の衣という服装《いでたち》で、左手に雄鶏《おんどり》、右手に牡豚《おすぶた》を引っさげ、勢い猛に、孔丘が家を指《さ》して出かける。鶏を揺《ゆ》すり豚を奮い、嗷《かまびす》しい脣吻《しんぷん》の音をもって、儒家《じゆか》の絃歌講誦《げんかこうしよう》の声を擾《みだ》そうというのである。
けたたましい動物の叫びとともに眼を瞋《いか》らして跳《と》び込んで来た青年と、圜冠句履《えんかんこうり》緩《ゆる》く〓《けつ*》を帯びて几《き》に凭《よ》った温顔の孔子《こうし》との間に、問答が始まる。
「汝《なんじ》、何をか好む?」と孔子が聞く。
「我《われ》、長剣を好む。」と青年は昂然《こうぜん》として言い放つ。
孔子は思わずニコリとした。青年の声や態度の中に、あまりに稚気《ちき》満々たる誇負《こふ》を見たからである。血色のいい・眉《まゆ》の太い・眼のはっきりした、見るからに精悍《せいかん》そうな青年の顔には、しかし、どこか、愛すべき素直さが自《おの》ずと現われているように思われる。ふたたび孔子が聞く。
「学は則《すなわ》ち如何《いかん》?」
「学、豈《あに》、益あらんや。」もともとこれを言うのが目的なのだから、子路は勢い込んでどなるように答える。
学の権威について云々《うんぬん》されては微笑《わら》ってばかりもいられない。孔子は諄々《じゆんじゆん》として学の必要を説き始める。人君にして諌臣《かんしん》がなければ正を失い、士にして教友がなければ聴を失う。樹も縄《じよう》を受けてはじめて直《なお》くなるのではないか。馬に策《むち》が、弓に檠《けい》が必要なように、人にも、その放恣《ほうし》な性情を矯《た》める教学が、どうして必要でなかろうぞ。匡《ただ》し理《おさ》め磨《みが》いて、はじめてものは有用の材となるのだ。
後世に残された語録の字面《じづら》などからはとうてい想像もできぬ・きわめて説得的な弁舌を、孔子は有《も》っていた。言葉の内容ばかりでなく、その穏やかな音声・抑揚の中にも、それを語る時のきわめて確信にみちた態度の中にも、どうしても聴者を説得せずにはおかないものがある。青年の態度からはしだいに反抗の色が消えて、ようやく謹聴《きんちよう》のようすに変わってくる。
「しかし」と、それでも子路はなお逆襲する気力を失わない。南山《なんざん》の竹は揉《た》めずして自ら直《なお》く、斬《き》ってこれを用うれば犀革《さいかく》の厚きをも通すと聞いている。してみれば、天性優《すぐ》れたる者にとって、なんの学ぶ必要があろうか?
孔子にとって、こんな幼稚な譬喩《ひゆ》を打破るほどたやすいことはない。汝《なんじ》のいうその南山の竹に矢の羽をつけ鏃《やじり》をつけてこれを礪《みが》いたならば、啻《ただ》に犀革《さいかく》を通すのみではあるまいに、と孔子に言われた時、愛すべき単純な若者は返す言葉に窮した。顔を赧《あか》らめ、しばらく孔子の前に突っ立ったまま何か考えているようすだったが、急に鶏と豚とをほうり出し、頭をたれて、「謹《つつし》んで教《おしえ》を受けん。」と降参した。単に言葉に窮したためではない。実は、室に入って孔子の容《すがた》を見、その最初の一言を聞いた時、ただちに鶏豚の場違いであることを感じ、己《おのれ》とあまりにも懸絶《けんぜつ》した相手の大きさに圧倒されていたのである。
即日、子路は師弟の礼を執《と》って孔子の門に入った。
二
このような人間を、子路《しろ》は見たことがない。力千鈞《せんきん》の鼎《かなえ》をあげる勇者を彼は見たことがある。明千里《めいせんり》の外を察する智者《ちしや》の話も聞いたことがある。しかし、孔子《こうし》にあるものは、けっしてそんな怪物めいた異常さではない。ただ最も常識的な完成にすぎないのである。知情意《ちじようい》のおのおのから肉体的の諸能力に至るまで、実に平凡に、しかし実に伸び伸びと発達したみごとさである。一つ一つの能力の優秀さが全然目立たないほど、過不及《かふきゆう》なく均衡のとれた豊かさは、子路にとって正《まさ》しくはじめて見るところのものであった。闊達《かつたつ》自在、いささかの道学者臭もないのに子路は驚く。この人は苦労人だなとすぐに子路は感じた。おかしいことに、子路の誇る武芸や膂力《りよりよく》においてさえ孔子のほうが上なのである。ただそれを平生用いないだけのことだ。侠者《きようしや》子路はまずこの点で度胆《どぎも》を抜かれた。放蕩無頼《ほうとうぶらい》の生活にも経験があるのではないかと思われるくらい、あらゆる人間への鋭い心理的洞察《どうさつ》がある。そういう一面から、また一方、きわめて高く汚れないその理想主義に至るまでの幅の広さを考えると、子路はウーンと心の底からうならずにはいられない。とにかく、この人はどこへ持って行っても大丈夫な人だ。潔癖な倫理的な見方からしても大丈夫だし、最も世俗的な意味からいっても大丈夫だ。子路が今までに会った人間の偉さは、どれも皆その利用価値の中にあった。これこれの役に立つから偉いというにすぎない。孔子の場合は全然違う。ただそこに孔子という人間が存在するだけで充分なのだ。少なくとも子路には、そう思えた。彼はすっかり心酔してしまった。門にはいってまだ一《ひと》月ならずして、もはや、この精神的支柱から離れ得ない自分を感じていた。
後年の孔子の長い放浪の艱苦《かんく》を通じて、子路ほど欣然《きんぜん》として従った者はない。それは、孔子の弟子たることによって仕官の途《みち》を求めようとするのでもなく、また、滑稽《こつけい》なことに、師の傍《かたわら》にあって己《おのれ》の才徳を磨《みが》こうとするのでさえもなかった。死に至るまで渝《かわ》らなかった・極端に求むるところのない・純粋な敬愛の情だけが、この男を師の傍に引留めたのである。かつて長剣を手離せなかったように、子路は今はなんとしてもこの人から離れられなくなっていた。
その時、四十而不惑《しじゆうにしてまどわず》といった・その四十歳に孔子はまだ達していなかった。子路よりわずか九歳の年長にすぎないのだが、子路はその年齢の差をほとんど無限の距離に感じていた。
孔子は孔子で、この弟子のきわ立った馴《な》らしがたさに驚いている。単に勇を好むとか柔を嫌《きら》うとかいうならばいくらでも類はあるが、この弟子ほどものの形を軽蔑《けいべつ》する男も珍しい。究極は精神に帰すると言い条《じよう》、礼なるものはすべて形からはいらねばならぬのに、子路という男は、その形からはいっていくという筋道を容易に受けつけないのである。「礼といい礼という。玉帛《ぎよくはく》をいわんや。楽《がく》といい楽という。鐘鼓《しようこ》をいわんや《*》。」などというと大いに欣《よろこ》んで聞いているが、曲礼《きよくれい》の細則を説く段になるとにわかにつまらなそうな顔をする。形式主義への・この本能的忌避《ほんのうてききひ》と闘ってこの男に礼楽を教えるのは、孔子にとってもなかなかの難事であった。が、それ以上に、これを習うことが子路《しろ》にとっての難事業であった。子路が頼《たよ》るのは孔子《こうし》という人間の厚みだけである。その厚みが、日常の区々たる細行の集積であるとは、子路《しろ》には考えられない。本《もと》があってはじめて末が生ずるのだと彼は言う。しかしその本《もと》をいかにして養うかについての実際的な考慮が足りないとて、いつも孔子に叱《しか》られるのである。彼が孔子に心服するのは一つのこと。彼が孔子の感化をただちに受けつけたかどうかは、また別のことに属する。
上智《じようち》と下愚《げぐ》は移りがたいと言ったとき、孔子は子路のことを考えに入れていなかった。欠点だらけではあっても、子路を下愚とは孔子も考えない。孔子はこの剽悍《ひようかん》な弟子の無類の美点を誰よりも高く買っている。それはこの男の純粋な没利害性のことだ。この種の美しさは、この国の人々の間にあってはあまりにもまれなので、子路のこの傾向は、孔子以外の誰からも徳としては認められない。むしろ一種の不可解な愚かさとして映るにすぎないのである。しかし、子路の勇も政治的才幹も、この珍しい愚かさに比べれば、ものの数でないことを、孔子だけはよく知っていた。
師の言に従って己《おのれ》を抑《おさ》え、とにもかくにも形につこうとしたのは、親に対する態度においてであった。孔子の門にはいって以来、乱暴者の子路が急に親孝行になったという親戚《しんせき》中の評判である。褒《ほ》められて子路は変な気がした。親孝行どころか、嘘《うそ》ばかりついているような気がしてしかたがないからである。わがままをいって親をてこずらせていたころのほうが、どう考えても正直だったのだ。今の自分の偽《いつわ》りに喜ばされている親たちが少々情けなくも思われる。こまかい心理分析家ではないけれども、きわめて正直な人間だったので、こんなことにも気がつくのである。ずっと後年になって、ある時突然、親の老いたことに気がつき、己《おのれ》が幼かったころの両親の元気な姿を思い出したら、急に泪《なみだ》が出てきた。その時以来、子路の親孝行は無類の献身的なものとなるのだが、とにかく、それまでの彼の俄《にわ》か孝行はこんなぐあいであった。
三
ある日子路《しろ》が街を歩いて行くとかつての友人の二、三に出会った。無頼とはいえぬまでも放縦《ほうじゆう》してこだわるところのない游侠《ゆうきよう》の徒《と》である。子路は立ち止ってしばらく話した。そのうちに彼らの一人が子路の服装をじろじろ見まわし、やあ、これが儒服《じゆふく》というやつか? ずいぶんみすぼらしいなりだな、と言った。長剣が恋しくはないかい、とも言った。子路が相手にしないでいると、今度は聞き捨てのならぬことを言い出した。どうだい。あの孔丘《こうきゆう》という先生はなかなかのくわせものだっていうじゃないか。しかつめらしい顔をして心にもないことをまことしやかに説いていると、えらく甘い汁が吸えるものと見えるなあ。別に悪意があるわけではなく、心安立《こころやすだ》てからのいつもの毒舌だったが、子路は顔色を変えた。いきなりその男の胸倉《むなぐら》をつかみ、右手の拳《こぶし》をしたたか横面《よこつら》に飛ばした。二つ三つ続けざまに喰《くら》わしてから手を離すと、相手は意気地《いくじ》なく倒れた。呆気《あつけ》に取られている他の連中に向かっても、子路は挑戦的な眼を向けたが、子路の剛勇を知る彼らは向かって来ようともしない。殴《なぐ》られた男を左右から扶《たす》け起こし、捨台詞《すてぜりふ》一つ残さずにこそこそと立ち去った。
いつかこのことが孔子《こうし》の耳にはいったものと見える。子路が呼ばれて師の前に出て行ったとき、直接には触れないながら、次のようなことを聞かされねばならなかった。古《いにしえ》の君子《くんし》は忠をもって質《しつ》となし仁《じん》をもって衛《えい》とした。不善《ふぜん》ある時はすなわち忠をもってこれを化し、侵暴《しんぼう》ある時はすなわち仁をもってこれを固うした。腕力の必要を見ぬ所以《ゆえん》である。とかく小人《しようじん》は不遜《ふそん》をもって勇とみなしがちだが、君子の勇とは義を立つることの謂《いい》である云々《うんぬん》。神妙に子路は聞いていた。
数日後、子路がまた街を歩いていると、往来の木蔭《こかげ》で閑人《かんじん》たちの盛んに弁じている声が耳にはいった。それがどうやら孔子の噂《うわさ》のようである。――昔、昔、となんでも古《いにしえ》を担《かつ》ぎ出して今を貶《けな》す。誰も昔を見たことがないのだからなんとでも言えるわけさ。しかし昔の道を杓子定規《しやくしじょうぎ》にそのまま履《ふ》んで、それでうまく世が治まるくらいなら、誰も苦労はしないよ。俺《おれ》たちにとっては、死んだ周公《しゆうこう》よりも生ける陽虎《ようこ》様のほうが偉いということになるのさ。
下剋上《げこくじよう》の世であった。政治の実権が魯侯《ろこう》からその大夫《たいふ》たる季孫《きそん》氏の手に移り、それが今やさらに季孫氏の臣たる陽虎という野心家の手に移ろうとしている。しゃべっている当人はあるいは陽虎の身内の者かもしれない。
――ところで、その陽虎様がこの間から孔丘《こうきゆう》を用いようと何度も迎えを出されたのに、なんと、孔丘のほうからそれを避けているというじゃないか。口ではたいそうなことを言っても、実際の生きた政治にはまるで自信がないのだろうよ。あの手合いはね。
子路《しろ》は背後《うしろ》から人々を分けて、つかつかと弁者の前に進み出た。人々は彼が孔門の徒《と》であることをすぐに認めた。今まで得々《とくとく》と弁じ立てていた当の老人は、顔色を失い、意味もなく子路の前に頭を下げてから人垣《ひとがき》の背後《うしろ》に身を隠した。眥《まなじり》を決した子路の形相《ぎようそう》があまりにすさまじかったのであろう。
その後しばらく、同じようなことが処々で起こった。肩を怒らせ烱々《けいけい》と眼を光らせた子路の姿が遠くから見え出すと、人々は孔子《こうし》を剌《そし》る口をつぐむようになった。
子路はこのことでたびたび師に叱《しか》られるが、自分でもどうしようもない。彼は彼なりに心の中では言い分がないでもない。いわゆる君子なるものが俺《おれ》と同じ強さの忿怒《ふんぬ》を感じてなおかつそれを抑《おさ》えうるのだったら、そりゃ偉い。しかし、実際は、俺ほど強く怒りを感じやしないんだ。少なくとも、抑えうる程度に弱くしか感じていないのだ。きっと……。
一年ほどたってから孔子が苦笑とともに嘆じた。由《ゆう》が門に入ってから自分は悪言を耳にしなくなったと。
四
ある時、子路が一室で瑟《しつ》を鼓《こ》していた。
孔子《こうし》はそれを別室で聞いていたが、しばらくしてかたわらなる冉有《ぜんゆう》に向かって言った。あの瑟の音を聞くがよい。暴〓《ぼうれい》の気がおのずから漲《みなぎ》っているではないか。君子《くんし》の音は温柔にして中《ちゆう》に居り、生育の気を養うものでなければならぬ。昔舜《しゆん》は五絃琴《ごげんきん》を弾《だん》じて南風《なんぷう》の詩を作った。南風の薫《くん》ずるや以《もつ》て我が民の慍《いかり》を解くべし。南風の時なるや以て我が民の財を阜《おおい》にすべしと。今由《ゆう》の音を聞くに、まことに殺伐《さつばつ》激越《げきえつ》、南音にあらずして北声に類するものだ。弾者《だんじや》の荒怠暴恣《こうたいぼうし》の心状をこれほど明らかに映し出したものはない。――
のち、冉有《ぜんゆう》が子路のところへ行って夫子《ふうし》の言葉を告げた。
子路はもともと自分に楽才の乏しいことを知っている。そして自らそれを耳と手のせいに帰していた。しかし、それが実はもっと深い精神の持ち方から来ているのだと聞かされたとき、彼は愕然《がくぜん》として懼《おそ》れた。大切なのは手の習練ではない。もっと深く考えねばならぬ。彼は、一室にとじこもり、静思して喰《くら》わず、もって骨立《こつりつ》するに至った。数日の後、ようやく思いえたと信じて、ふたたび瑟《しつ》を執《と》った。そうして、きわめて恐る恐る弾じた。その音を洩《も》れ聞いた孔子は、今度は別に何も言わなかった。咎《とが》めるような顔色も見えない。子貢《しこう》が子路のところへ行ってその旨を告げた。師の咎《とがめ》がなかったと聞いて子路は嬉《うれ》しげに笑った。
人の良い兄弟子の嬉しそうな笑顔を見て、若い子貢も微笑を禁じ得ない。聡明《そうめい》な子貢はちゃんと知っている。子路の奏《かな》でる音が依然として殺伐《さつばつ》な北声に満ちていることを。そうして、夫子がそれを咎《とが》めたまわぬのは、痩《や》せ細るまで苦しんで考え込んだ子路の一本気を愍《あわれ》まれたためにすぎないことを。
五
弟子の中で、子路《しろ》ほど孔子《こうし》に叱《しか》られる者はない。子路ほど遠慮なく師に反問する者もない。「請う。古《いにしえ》の道を釈《す》てて由《ゆう》の意を行なわん。可ならんか《*》。」などと、叱られるに決まっていることを聞いてみたり、孔子に面と向かってずけずけと「是《これ》ある哉《かな》。子の迂《う》なるや!」などと言ってのける人間はほかに誰もいない。それでいて、また、子路ほど全身的に孔子によりかかっている者もないのである。どしどし問い返すのは、心から納得《なつとく》できないものを表面《うわべ》だけ諾《うべな》うことのできぬ性分《しようぶん》だからだ。また、他の弟子たちのように、嗤《わら》われまい叱られまいと気をつかわないからである。
子路が他のところではあくまで人の下風《かふう》に立つを潔《いさぎよ》しとしない独立不羈《どくりつふき》の男であり、一諾千金《いちだくせんきん》の快男児であるだけに、碌々《ろくろく》たる凡弟子然《ぼんていしぜん》として孔子の前に侍《はんべ》っている姿は、人々に確かに奇異な感じを与えた。事実、彼には、孔子の前にいる時だけは複雑な思索や重要な判断はいっさい師に任せてしまって自分は安心しきっているような滑稽《こつけい》な傾向もないではない。母親の前では自分にできることまでも、してもらっている幼児と同じようなぐあいである。退いて考えてみて、自ら苦笑することがあるくらいだ。
だが、これほどの師にもなお触れることを許さぬ胸中の奥所《おうしよ》がある。ここばかりは譲れないというぎりぎり結著のところが。
すなわち、子路にとって、この世に一つの大事なものがある。そのものの前には死生も論ずるに足りず、いわんや、区々たる利害のごとき、問題にはならない。侠《きよう》といえばやや軽すぎる。信といい義というと、どうも道学者流で自由な躍動の気に欠ける憾《うら》みがある。そんな名前はどうでもいい。子路にとって、それは快感の一種のようなものである。とにかく、それの感じられるものが善《よ》きことであり、それの伴《とも》なわないものが悪《あ》しきことだ。きわめてはっきりしていて、いまだかつてこれに疑いを感じたことがない。孔子のいう仁とはかなり開きがあるのだが、子路は『論語』の公冶長《こうやちよう》篇にある。師の教えの中から、この単純な倫理観を補強するようなものばかりを選んで摂《と》り入れる。巧言令色足恭《こうげんれいしよくすうきよう》、怨《えん》ヲ匿《かく》シテ其《そ》ノ人ヲ友トスルハ、丘《きゆう》之《これ》ヲ恥ヅ《*》とか、生ヲ求メテ以《もつ》テ仁《じん》ヲ害スルナク身ヲ殺シテ以テ仁ヲ成スアリ《*》とか、狂者ハ進ンデ取リ狷者《けんじや》ハ為《な》サザル所アリ《*》とかいうのが、それだ。孔子もはじめはこの角《つの》を矯《た》めようとしないではなかったが、後には諦《あきら》めてやめてしまった。とにかく、これはこれで一匹のみごとな牛には違いないのだから。策《むち》を必要とする弟子もあれば、手綱《たづな》を必要とする弟子もある。容易な手綱では抑《おさ》えられそうもない子路の性格的欠点が、実は同時にかえって大いに用うるに足るものであることを知り、子路にはだいたいの方向の指示さえ与えればよいのだと考えていた。敬ニシテ礼ニ中《あた》ラザルヲ野《や》トイヒ、勇ニシテ礼ニ中ラザルヲ逆トイフ《*》とか、信ヲ好ンデ学ヲ好マザレバソノ蔽《へい》ヤ賊《ぞく》、直《ちよく》ヲ好ンデ学ヲ好マザレバソノ蔽ヤ絞《こう*》などというのも、結局は、個人としての子路に対してよりも、いわば塾頭格《じゆくとうかく》としての子路に向かっての叱言《こごと》である場合が多かった。子路という特殊な個人にあってはかえって魅力となりうるものが、他の門生一般についてはおおむね害となることが多いからである。
六
晋《しん》の魏楡《ぎゆ》の地で石がものを言ったという。民の怨嗟《えんさ》の声が石を仮《か》りて発したのであろうと、ある賢者《けんじや》が解した。すでに衰微《すいび》した周室《しゆうしつ》はさらに二つに分かれて争っている。十に余る大国はそれぞれ相結《あいむす》び相闘《あいたたか》って干戈《かんか》のやむ時がない。斉侯《せいこう》の一人は臣下の妻に通じて夜ごとその邸に忍んで来るうちについにその夫に弑《しい》せられてしまう。楚《そ》では王族の一人が病臥《びようが》中の王の頸《くび》をしめて位を奪う。呉《ご》では足頸《あしくび》を斬《き》り取られた罪人どもが王を襲い、晋では二人の臣が互いに妻を交換し合う。このような世の中であった。
魯《ろ》の昭公《しようこう》は上卿《じようけい》季平子《きへいし》を討とうとしてかえって国を逐《お》われ、亡命七年にして他国で窮死《きゆうし》する。亡命中帰国の話がととのいかかっても、昭公に従った臣下どもが帰国後の己《おのれ》の運命を案じ公を引留めて帰らせない。魯の国は季孫《きそん》・叔孫《しゆくそん》・孟孫《もうそん》三氏の天下から、さらに季氏の宰《さい》・陽虎《ようこ》の恣《ほしいまま》な手に操《あやつ》られていく。
ところが、その策士陽虎が結局己《おのれ》の策に倒れて失脚してから、急にこの国の政界の風向きが変わった。思いがけなく孔子《こうし》が中都の宰として用いられることになる。公平無私な官吏や苛斂《かれん》誅求《ちゆうきゆう*》を事とせぬ政治家の皆無だった当時のこととて、孔子の公正な方針と周到な計画とはごく短い期間に驚異的な治績を挙《あ》げた。すっかり驚嘆した主君の定公《ていこう》が問うた。汝《なんじ》の中都を治めしところの法をもって魯国を治むればすなわち如何《いかん》? 孔子が答えて言う。何ぞただ魯国のみならんや。天下を治むるといえども可ならんか。およそ法螺《ほら》とは縁《えん》の遠い孔子がすこぶる恭《うやうや》しい調子ですましてこうした壮語を弄《ろう》したので、定公はますます驚いた。彼はただちに孔子を司空《しくう》に挙《あ》げ、続いて大司寇《だいしこう》に進めて宰相《さいしよう》の事をも兼ね摂《と》らせた。孔子の推挙で子路《しろ》は魯《ろ》国の内閣書記官長ともいうべき季氏の宰となる。孔子の内政改革案の実行者としてまっ先に活動したことはいうまでもない。
孔子の政策の第一は中央集権すなわち魯侯《ろこう》の権力強化である。このためには、現在魯侯よりも勢力をもつ季《き》・叔《しゆく》・孟《もう》・三桓《さんかん》の力を削《そ》がねばならぬ。三氏の私城にして百雉《ち》(厚さ三丈、高さ一丈)を超えるものに〓《こう》・費《ひ》・成《せい》の三地がある。まずこれらを毀《こぼ》つことに孔子は決め、その実行に直接当たったのが子路であった。
自分の仕事の結果がすぐにはっきりと現われてくる、しかも今までの経験にはなかったほどの大きい規模で現われてくることは、子路のような人間にとって確かに愉快に違いなかった。ことに、既成政治家の張りめぐらした奸悪《かんあく》な組織や習慣を一つ一つ破砕して行くことは、子路に、今まで知らなかった一種の生甲斐《いきがい》を感じさせる。多年の抱負の実現に生き生きと忙しげな孔子の顔を見るのも、さすがに嬉《うれ》しい。孔子の目にも、弟子の一人としてではなく一個の実行力ある政治家としての子路の姿がたのもしいものに映った。
費《ひ》の城を毀《こわ》しにかかったとき、それに反抗して公山不狃《こうざんふじゆう》という者が費人《ひひと》を率い魯《ろ》の都を襲うた。武子台《ぶしだい》に難を避けた定公の身辺にまで叛軍《はんぐん》の矢が及ぶほど、一時は危うかったが、孔子の適切な判断と指揮とによってわずかに事なきを得た。子路はまた改めて師の実際家的手腕に敬服する。孔子の政治家としての手腕はよく知っているし、またその個人的な膂力《りよりよく》の強さも知ってはいたが、実際の戦闘に際してこれほどの鮮やかな指揮ぶりを見せようとは思いがけなかったのである。もちろん、子路《しろ》自身もこの時はまっ先に立って奮い戦った。久しぶりに揮《ふる》う長剣の味も、まんざら棄《す》てたものではない。とにかく、経書《けいしよ》の字句をほじくったり古礼《これい》を習うたりするよりも、粗《あら》い現実の面と取っ組み合って生きていくほうが、この男の性《しよう》に合っているようである。
斉《せい》との間の屈辱的媾和《こうわ》のために、定公が孔子《こうし》をしたがえて斉の景公《けいこう》と夾谷《きようこく》の地に会したことがある。そのとき孔子は斉の無礼を咎《とが》めて、景公はじめ群卿諸大夫《ぐんけいしよたいふ》を頭ごなしに叱咤《しつた》した。戦勝国たるはずの斉の君臣一同ことごとく顫《ふる》え上がったとある。子路をして心からの快哉《かいさい》を叫ばしめるに充分な出来事ではあったが、この時以来、強国斉は、隣国の宰相《さいしよう》としての孔子の存在に、あるいは孔子の施政の下に充実していく魯《ろ》の国力に、懼《おそ》れを抱き始めた。苦心の結果、まことにいかにも古代支那《しな》式な苦肉の策が採《と》られた。すなわち、斉から魯へ贈るに、歌舞に長じた美女の一団をもってしたのである。こうして魯侯の心を蕩《とろ》かし定公と孔子との間を離間しようとしたのだ。ところで、さらに古代支那式なのは、この幼稚な策が、魯国内反孔子派の策動と相俟《あいま》って、あまりにも速く効を奏したことである。魯侯は女楽《じよがく》に耽《ふけ》ってもはや朝《ちよう》に出なくなった。季桓子《きかんし》以下の大官連もこれに倣《なら》い出す。子路はまっ先に憤慨して衝突し、官を辞した。孔子は子路ほど早く見切りをつけず、なおつくせるだけの手段をつくそうとする。子路は孔子に早く辞《や》めてもらいたくてしかたがない。師が臣節を汚すのを懼《おそ》れるのではなく、ただこの淫《みだ》らな雰囲気の中に師を置いて眺《なが》めるのがたまらないのである。
孔子の粘り強さもついに諦《あきら》めねばならなくなったとき、子路はほっとした。そうして、師に従って欣《よろこ》んで魯の国を立ち退《の》いた。
作曲家でもあり作詞家でもあった孔子は、しだいに遠離《とおざか》り行く都城《とじよう》を顧みながら、歌う。
彼《か》の美婦《びふ》の口には君子も以《もつ》て出走すべし。彼《か》の美婦の謁《えつ》には君子も以て死敗すべし《*》。……
かくて爾後《じご》永年にわたる孔子の遍歴が始まる。
七
大きな疑問が一つある。子供の時からの疑問なのだが、成人になっても老人になりかかってもいまだに納得できないことに変わりはない。それは誰もがいっこうに怪しもうとしない事柄だ。邪が栄えて正がしいたげられるという・ありきたりの事実についてである。
この事実にぶつかるごとに、子路《しろ》は心からの悲憤を発しないではいられない。なぜだ? 何故そうなのだ? 悪は一時栄えても結局はその酬《むく》いを受けると人はいう。なるほどそういう例もあるかもしれぬ。しかし、それも人間というものが結局は破滅に終わるという一般的な場合の一例なのではないか。善人が窮極《きゆうきよく》の勝利を得たなどという例《ためし》は、遠い昔は知らず、今の世ではほとんど聞いたことさえない。何故だ? 何故だ? 大きな子供・子路にとって、こればかりはいくら憤慨しても憤慨し足りないのだ。彼は地団駄《じだんだ》を踏む思いで、天とは何だと考える。天は何を見ているのだ。そのような運命を作り上げるのが天なら、自分は天に反抗しないではいられない。天は人間と獣との間に区別を設けないと同じく、善と悪との間にも差別を立てないのか。正とか邪とかは畢竟《ひつきよう》人間の間だけの仮の取決《とりきめ》にすぎないのか? 子路がこの問題で孔子《こうし》のところへ聞きに行くと、いつも決まって、人間の幸福というものの真のあり方について説き聞かせられるだけだ。善をなすことの報いは、では結局、善をなしたという満足のほかにはないのか? 師の前では一応納得《なつとく》したような気になるのだが、さて退いてひとりになって考えてみると、やはりどうしても釈然としないところが残る。そんな無理に解釈してみたあげくの幸福なんかでは承知できない。誰が見ても文句のない・はっきりした形の善報が義人の上に来るのでなくては、どうしてもおもしろくないのである。
天についてのこの不満を、彼は何よりも師の運命について感じる。ほとんど人間とは思えないこの大才、大徳が、何故こうした不遇に甘んじなければならぬのか。家庭的にも恵まれず、年老いてから放浪の旅に出なければならぬような不運が、どうしてこの人を待たねばならぬのか。一夜、「鳳鳥《ほうちよう》至《いた》らず。河《か》、図《と》を出さず。已《や》んぬるかな《*》。」と独言《ひとりごと》に孔子が呟《つぶや》くのを聞いたとき、子路は思わず涙が溢《あふ》れてくるのを禁じえなかった。孔子が嘆じたのは天下蒼生《そうせい》のためだったが、子路の泣いたのは天下のためではなく孔子一人のためである。
この人と、この人を竢《ま》つ時世とを見て泣いた時から、子路の心は決まっている。濁世《じよくせ》のあらゆる侵害からこの人を守る楯《たて》となること。精神的には導かれ守られる代わりに、世俗的な煩労《はんろう》汚辱《おじよく》をいっさい己《おの》が身に引受けること。僭越《せんえつ》ながらこれが自分の務めだと思う。学も才も自分は後学の諸才人に劣るかもしれぬ。しかし、一旦《いつたん》事ある場合まっ先に夫子《ふうし》のために生命をなげうって顧みぬのは誰よりも自分だと、彼は自ら深く信じていた。
八
「ここに美玉あり。匱《ひつ》に〓《おさ》めて蔵《かく》さんか。善賈《ぜんこ》を求めて沽《う》らんか。」と子貢《しこう》が言ったとき、孔子《こうし》は即座に、「之《これ》を沽《う》らん哉《かな》。之を沽らん哉。我は賈《あたい》を待つものなり。」と答えた。
そういうつもりで孔子は天下周遊の旅に出たのである。随《したが》った弟子たちも大部分はもちろん沽りたいのだが、子路は必ずしも沽ろうとは思わない。権力の地位にあって所信を断行する快《こころよ》さはすでに先ごろの経験で知ってはいるが、それには孔子を上に戴《いただ》くといったふうな特別な条件が絶対に必要である。それができないなら、むしろ、「褐《かつ》(粗衣)を被《き》て玉を懐《いだ》く」という生き方が好ましい。生涯《しようがい》孔子の番犬に終わろうとも、いささかの悔いもない。世俗的な虚栄心がないわけではないが、なまじいの仕官《しかん》はかえって己《おのれ》の本領たる磊落《らいらく》闊達《かつたつ》を害するものだと思っている。
さまざまな連中が孔子に従って歩いた。てきぱきした実務家の冉有《ぜんゆう》。温厚の長者閔子騫《びんしけん》、穿鑿好《せんさくず》きな故実家《こじつか》の子夏《しか》。いささか詭弁派的《きべんはてき》な享受家宰予《さいよ》。気骨稜々《きこつりようりよう》たる慷慨家《こうがいか》の公良孺《こうりようじゆ》。身長《みのたけ》九尺六寸といわれる長人孔子の半分くらいしかない短矮《たんわい》な愚直者子羔《しこう》。年齢からいっても貫禄《かんろく》からいっても、もちろん子路が彼等の宰領格《さいりようかく》である。
子路より二十二歳も年下ではあったが、子貢《しこう》という青年はまことにきわ立った才人である。孔子がいつも口をきわめてほめる顔回《がんかい》よりも、むしろ子貢《しこう》のほうを子路は推したい気持であった。孔子からその強靭《きようじん》な生活力と、またその政治性とを抜き去ったような顔回という若者を、子路はあまり好まない。それはけっして嫉妬《しつと》ではない。(子貢《しこう》子張《しちよう》輩は、顔淵《がんえん》に対する・師の桁《けた》はずれの打込み方に、どうしてもこの感情を禁じ得ないらしいが。)子路は年齢が違いすぎてもいるし、それに元来そんなことにこだわらぬ性《たち》でもあったから。ただ、彼には顔淵の受動的な柔軟な才能の良さが全然のみ込めないのである。第一、どこかヴァイタルな力の欠けているところが気にいらない。そこへいくと、多少軽薄ではあっても常に才気と活力とに充《み》ちている子貢のほうが、子路の性質には合うのであろう。この若者の頭の鋭さに驚かされるのは子路ばかりではない。頭に比べてまだ人間のできていないことは誰にも気づかれるところだが、しかし、それは年齢というものだ。あまりの軽薄さに腹を立てて一喝《いつかつ》を喰《くら》わせることもあるが、だいたいにおいて、後世畏《おそ》るべしという感じを子路はこの青年に対して抱《いだ》いている。
ある時、子貢が二、三の朋輩《ほうばい》に向かって次のような意味のことを述べた。――夫子《ふうし》は巧弁を忌むといわれるが、しかし夫子自身弁がうますぎると思う。これは警戒を要する。宰予《さいよ》などのうまさとは、まるで違う。宰予の弁のごときは、うまさが目に立ちすぎるゆえ、聴者に楽しみは与ええても、信頼は与ええない。それだけにかえって安全といえる。夫子のは全く違う。流暢《りゆうちよう》さの代わりに、絶対に人に疑いを抱かせぬ重厚さを備え、諧謔《かいぎやく》の代わりに、含蓄《がんちく》に富む譬喩《ひゆ》を有《も》つその弁は、何人《なんびと》といえども逆らうことのできぬものだ。もちろん、夫子のいわれるところは九分九厘《くぶくりん》まで常に謬《あやま》りなき真理だと思う。また夫子の行なわれるところは九分九厘まで我々の誰もが取ってもって範《はん》とすべきものだ。にもかかわらず、残りの一厘――絶対に人に信頼を起こさせる夫子の弁舌の中の・わずか百分の一が、時に、夫子の性格の(その性格の中の・絶対普遍的な真理と必ずしも一致しない極少部分の)弁明に用いられる惧《おそ》れがある。警戒を要するのはここだ。これはあるいは、あまり夫子に親しみすぎ狎《な》れすぎたための慾《よく》のいわせることかもしれぬ。実際、後世の者が夫子をもって聖人と崇《あが》めたところで、それは当然すぎるくらい当然なことだ。夫子ほど完全に近い人を自分は見たことがないし、また将来もこういう人はそう現われるものではなかろうから。ただ自分の言いたいのは、その夫子にしてなおかつかかる微小ではあるが・警戒すべき点を残すものだということだ。顔回のような夫子と似かよった肌合《はだあ》いの男にとっては、自分の感じるような不満は少しも感じられないに違いない。夫子がしばしば顔回を讃《ほ》められるのも、結局はこの肌合いのせいではないのか。……
青二才の分際《ぶんざい》で師の批評などおこがましいと腹が立ち、また、これを言わせているのは畢竟《ひつきょう》顔淵《がんえん》への嫉妬《しつと》だとは知りながら、それでも子路はこの言葉の中に莫迦《ばか》にしきれないものを感じた。肌合いの相違ということについては、確かに子路も思い当たることがあったからである。
己《おれ》たちには漠然《ばくぜん》としか気づかれないものをハッキリ形に表わす・妙な才能が、この生意気な若僧《わかぞう》にはあるらしいと、子路は感心と軽蔑《けいべつ》とを同時に感じる。
子貢《しこう》が孔子《こうし》に奇妙な質問をしたことがある。「死者は知ることありや? はた知ることなきや?」死後の知覚の有無、あるいは霊魂の滅不滅についての疑問である。孔子がまた妙な返辞をした。「死者知るありと言わんとすれば、将《まさ》に孝子《こうし》順孫《じゆんそん》、生を妨《さまた》げて以《もつ》て死を送らんとすることを恐る。死者知るなしと言わんとすれば、将に不孝の子その親を棄《す》てて葬《ほうむ》らざらんとすることを恐る。」およそ見当違いの返辞なので子貢ははなはだ不服だった。もちろん、子貢の質問の意味はよくわかっているが、あくまで現実主義者、日常生活中心主義者たる孔子は、このすぐれた弟子の関心の方向をかえようとしたのである。
子貢は不満だったので、子路にこの話をした。子路は別にそんな問題に興味はなかったが、死そのものよりも師の死生観を知りたい気がちょっとしたので、ある時死について訊《たず》ねてみた。
「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。」これが孔子の答であった。
全くだ! と子路はすっかり感心した。しかし、子貢はまたしても鮮やかに肩透《かたすか》しを喰《く》ったような気がした。それはそうです。しかし私の言っているのはそんなことではない。明らかにそう言っている子貢の表情である。
九
衛《えい》の霊公《れいこう》はきわめて意志の弱い君主である。賢と不才とを識別しえないほど愚かではないのだが、結局は苦い諫言《かんげん》よりも甘い諂諛《てんゆ》に欣《よろこ》ばされてしまう。衛の国政を左右するものはその後宮《こうきゆう》であった。
夫人南子《なんし》はつとに淫奔《いんぽん》の噂《うわさ》が高い。いまだ宋《そう》の公女だったころ異母兄の朝《ちよう》という有名な美男と通じていたが、衛侯の夫人となってからもなお宋朝を衛に呼び大夫《たいふ》に任じてこれと醜関係を続けている。すこぶる才ばしった女で、政治向きの事にまで容喙《ようかい》するが、霊公はこの夫人の言葉ならうなずかぬことはない。霊公に聴《き》かれようとする者はまず南子に取り入るのが例であった。
孔子《こうし》が魯《ろ》から衛《えい》に入ったとき、召を受けて霊公には謁《えつ》したが、夫人のところへは別に挨拶《あいさつ》に出なかった。南子《なんし》が冠《かんむり》をまげた。さっそく人をつかわして孔子に言わしめる。四方の君子《くんし》、寡君《かくん》と兄弟たらんと欲する者は、必ず寡小君《かしようくん》(夫人)を見る。寡小君見んことを願えり云々《うんぬん》。
孔子もやむを得ず挨拶に出た。南子は〓帷《ちい》(薄い葛布《くずふ》の垂れぎぬ)の後にあって孔子を引見する。孔子の北面稽首《ほくめんけいしゆ*》の礼に対し、南子が再拝して応《こた》えると、夫人の身に着けた環佩《かんばい》が〓然《きゆうぜん》として鳴ったとある。
孔子が公宮《こうきゆう》から帰って来ると、子路が露骨に不愉快な顔をしていた。彼は、孔子が南子風情《ふぜい》の要求などは黙殺することを望んでいたのである。まさか孔子が妖婦《ようふ》にたぶらかされるとは思いはしない。しかし、絶対清浄であるはずの夫子《ふうし》が汚《けが》らわしい淫女《いんじよ》に頭を下げたというだけですでにおもしろくない。美玉を愛蔵する者がその珠《たま》の表面《おもて》に不浄なるものの影の映るのさえ避けたい類《たぐい》なのであろう。孔子はまた、子路の中で相当敏腕な実際家と隣り合って住んでいる大きな子供が、いつまでたってもいっこう老成しそうもないのを見て、おかしくもあり困りもするのである。
一日、霊公のところから孔子へ使いが来た。車でいっしょに都を一巡しながらいろいろ話を承ろうという。孔子は欣《よろこ》んで服を改めただちに出かけた。
この丈《たけ》の高いぶっきらぼうな爺《じい》さんを、霊公がむやみに賢者《けんじや》として尊敬するのが、南子《なんし》にはおもしろくない。自分を出し抜いて、二人同車して都を巡《めぐ》るなどとはもってのほかである。
孔子が公に謁《えつ》し、さて表に出てともに車に乗ろうとすると、そこにはすでに盛装を凝《こ》らした南子夫人が乗り込んでいた。孔子の席がない。南子は意地の悪い微笑を含んで霊公を見る。孔子もさすがに不愉快になり、冷《ひや》やかに公の様子を窺《うかが》う。霊公は面目《めんぼく》なげに目を俯《ふ》せ、しかし南子には何事も言えない。黙って孔子のために次の車を指さす。
二乗の車が衛《えい》の都を行く。前なる四輪の豪奢《ごうしや》な馬車には、霊公と並んで嬋妍《せんけん》たる南子夫人の姿が牡丹《ぼたん》の花のように輝く。後《うしろ》の見すぼらしい二輪の牛車《ぎつしや》には、寂しげな孔子の顔が端然《たんぜん》と正面を向いている。沿道の民衆の間にはさすがに秘《ひめ》やかな嘆声と顰蹙《ひんしゆく》とが起こる。
群集の間に交《まじ》って子路《しろ》もこの様子を見た。公からの使いを受けた時の夫子《ふうし》の欣《よろこ》びを目にしているだけに、腸《はらわた》の煮え返る思いがするのだ。何事か嬌声《きようせい》を弄《ろう》しながら南子が目の前を進んで行く。思わず嚇《かつ》となって、彼は拳《こぶし》を固め人々を押し分けて飛び出そうとする。背後《うしろ》から引留める者がある。振り切ろうと眼を瞋《いか》らせて後を向く。子若《しじやく》と子正《しせい》の二人である。必死に子路の袖《そで》を控えている二人の眼に、涙の宿っているのを子路は見た。子路は、ようやく振り上げた拳をおろす。
翌日、孔子らの一行は衛を去った。「我いまだ徳を好むこと色を好むがごとき者を見ざるなり《*》。」というのが、その時の孔子の嘆声である。
一〇
葉公《しようこう》子高《しこう》は竜《りゆう》を好むことはなはだしい。居室にも竜を彫《ほ》り繍帳《しゆうちよう》にも竜を画き、日常竜の中に起臥《きが》していた。これを聞いたほん物《もの》の天竜が大きに欣《よろこ》んで一日葉公の家に降《くだ》り己《おのれ》の愛好者を覗《のぞ》き見た。頭は〓《まど》に窺《うかが》い尾は堂に〓《ひ》く《*》というすばらしい大きさである。葉公はこれを見るや怖《おそ》れわなないて逃げ走った。その魂魄《こんぱく》を失い五色主なし、という意気地《いくじ》なさであった。
諸侯は孔子《こうし》の賢の名を好んで、その実を欣《よろこ》ばぬ。いずれも葉公の竜における類《たぐい》である。実際の孔子はあまりに彼らには大きすぎるもののように見えた。孔子を国賓《こくひん》として遇しようという国はある。孔子の弟子の幾人かを用いた国もある。が、孔子の政策を実行しようとする国はどこにもない。匡《きよう》では暴民の凌辱《りようじよく》を受けようとし、宋《そう》では姦臣《かんしん》の迫害に遭《あ》い、蒲《ほ》ではまた兇漢《きようかん》の襲撃を受ける。諸侯の敬遠と御用学者の嫉視《しつし》と政治家連の排斥《はいせき》とが、孔子を待ち受けていたもののすべてである。
それでもなお、講誦《こうしよう》をやめず切磋《せつさ》を怠《おこた》らず、孔子と弟子たちとは倦《う》まずに国々への旅を続けた。「鳥よく木を選ぶ。木あに鳥を択《えら》ばんや。」などといたって気位は高いが、けっして世を拗《す》ねたのではなく、あくまで用いられんことを求めている。そして、己《おのれ》らの用いられようとするのは己がためにあらずして天下のため、道のためなのだと本気で――全く呆《あき》れたことに本気でそう考えている。乏しくとも常に明るく、苦しくとも望みを捨てない。まことに不思議な一行であった。
一行が招かれて楚《そ》の昭王《しようおう》のもとへ行こうとしたとき、陳《ちん》・蔡《さい》の大夫《たいふ》どもが相計《あいはか》り秘かに暴徒を集めて孔子らを途《みち》に囲ましめた。孔子の楚に用いられることを惧《おそ》れこれを妨げようとしたのである。暴徒に襲われるのはこれが始めてではなかったが、この時は最も困窮《こんきゆう》に陥った。糧道《りようどう》が絶たれ、一同火食《かしよく》せざること七日に及んだ。さすがに、餒《う》え、疲れ、病者も続出する。弟子たちの困憊《こんぱい》と恐惶《きようこう》との間にあって孔子はひとり気力少しも衰えず、平生どおり絃歌《げんか》して輟《や》まない。従者らの疲憊《ひはい》を見るに見かねた子路《しろ》が、いささか色を作《な》して、絃歌する孔子の側に行った。そうして訊《たず》ねた。夫子《ふうし》の歌うは礼かと。孔子は答えない。絃を操《あやつ》る手も休めない。さて曲が終わってからようやく言った。
「由《ゆう》よ。我汝《なんじ》に告《つ》げん。君子《くんし》楽《がく》を好むは驕《おご》るなきがためなり。小人《しようじん》楽《がく》を好むは懾《おそ》るるなきがためなり。それ誰の子ぞや。我を知らずして我に従う者は。」
子路は一瞬耳を疑った。この窮境《きゆうきよう》にあってなお驕《おご》るなきがために楽《がく》をなすとや? しかし、すぐにその心に思い到ると、とたんに彼は嬉《うれ》しくなり、覚えず戚《ほこ》を執《と》って舞うた。孔子がこれに和して弾《だん》じ、曲、三度《みたび》めぐった。傍《かたわら》にある者またしばらくは飢えを忘れ疲れを忘れて、この武骨《ぶこつ》な即興の舞に興じ入るのであった。
同じ陳蔡《ちんさい》の厄《やく》のとき、いまだ容易に囲みの解けそうもないのを見て、子路が言った。君子も窮することあるか? と。師の平生《へいぜい》の説によれば、君子は窮することがないはずだと思ったからである。孔子が即座に答えた。「窮するとは道に窮するの謂《いい》にあらずや。今、丘《きゆう》、仁義《じんぎ》の道を抱《いだ》き乱世の患に遭《あ》う。何ぞ窮すとなさんや。もしそれ、食足らず体瘁《つか》るるを以《も》って窮すとなさば、君子《くんし》ももとより窮す。ただ、小人《しようじん》は窮すればここに濫《みだ》る。」と。そこが違うだけだというのである。子路《しろ》は思わず顔を赧《あか》らめた。己《おのれ》の内なる小人を指摘された心地である。窮するも命《めい》なることを知り、大難に臨んでいささかの興奮の色もない孔子の容《すがた》を見ては、大勇なるかなと嘆ぜざるを得ない。かつての自分の誇りであった・白刃《はくじん》前に接《まじ》わるも目まじろがざる底《てい》の勇が、なんと惨《みじ》めにちっぽけなことかと思うのである。
一一
許《きよ》から葉《しよう》へと出る途《みち》すがら、子路がひとり孔子の一行に遅れて畑中の路を歩いて行くと、〓《あじか》を荷《にの》うた一人の老人に会った。子路が気軽に会釈《えしやく》して、夫子《ふうし》を見ざりしや、と問う。老人は立ち止って、「夫子夫子と言ったとて、どれがいったい汝《なんじ》のいう夫子やら俺《おれ》にわかるわけがないではないか」とつっけんどんに答え、子路の人態《にんてい》をじろりと眺《なが》めてから、「見受けたところ、四体を労せず実事に従わず空理空論に日を暮らしている人らしいな。」と蔑《さげす》むように笑う。それから傍の畑に入りこちらを見返りもせずにせっせと草を取り始めた。隠者《いんじや》の一人に違いないと子路は思って一揖《いちゆう》し、道に立って次の言葉を待った。老人は黙って一仕事してから道に出て来、子路を伴《ともな》って己《おの》が家に導いた。すでに日が暮れかかっていたのである。老人は鶏をつぶし黍《きび》を炊《かし》いで、もてなし、二人の子にも子路を引合わせた。食後、いささかの濁酒に酔いのまわった老人は傍なる琴《きん》を執って弾《だん》じた。二人の子がそれに和して唱《うた》う。
湛々《たんたん》タル露アリ
陽ニ非《あら》ザレバ晞《き》ズ
厭々《えんえん》トシテ夜飲ス
酔ハズンバ帰ルコトナシ《*》
明らかに貧しい生活《くらし》なのにもかかわらず、寔《まこと》に融々たる裕《ゆた》かさが家中にあふれている。なごやかに充《み》ち足りた親子三人の顔つきの中に、時としてどこか知的なものが閃《ひらめ》くのも、見逃しがたい。
弾《だん》じ終わってから老人が子路に向かって語る。陸を行くには車、水を行くには舟と昔から決まったもの。今陸を行くに舟を以《も》ってすれば、如何《いかん》? 今の世に周《しゆう》の古法を施そうとするのは、ちょうど陸に舟を行《や》るが如《ごと》きものというべし。〓狙《さる》に周公の服を着せれば、驚いて引裂き棄《す》てるに決まっている。云々《うんぬん》……子路を孔門《こうもん》の徒《と》と知っての言葉であることは明らかだ。老人はまた言う。「楽しみ全くしてはじめて志を得たといえる。志を得るとは軒冕《けんべん*》の謂《いい》ではない。」と。澹然無極《たんぜんむきよく》とでもいうのがこの老人の理想なのであろう。子路にとってこうした遁世哲学《とんせいてつがく》ははじめてではない。長沮《ちようそ》・桀溺《けつでき》の二人にも遇《あ》った。楚《そ》の接輿《せつよ》という佯狂《ようきよう*》の男にも遇ったことがある、しかしこうして彼らの生活の中に入り一夜をともに過ごしたことは、まだなかった。穏やかな老人の言葉と怡々《いい》たるその容《すがた》に接しているうちに、子路は、これもまた一つの美しき生き方には違いないと、いくぶんの羨望《せんぼう》をさえ感じないではなかった。
しかし、彼も黙って相手の言葉に頷《うなず》いてばかりいたわけではない。「世と断つのはもとより楽しかろうが、人の人たる所以《ゆえん》は楽しみを全うするところにあるのではない。区々たる一身を潔《いさぎよ》うせんとして大倫を紊《みだ》るのは、人間の道ではない。我々とて、今の世に道の行なわれないことぐらいは、とっくに承知している。今の世に道を説くことの危険さも知っている。しかし、道なき世なればこそ、危険を冒してもなお道を説く必要があるのではないか。」
翌朝、子路は老人の家を辞して道を急いだ。みちみち孔子と昨夜の老人とを並べて考えてみた。孔子の明察があの老人に劣るわけはない。孔子の慾《よく》があの老人よりも多いわけはない。それでいてなおかつ己《おのれ》を全うする途《みち》を棄《す》て道のために天下を周遊していることを思うと、急に、昨夜はいっこうに感じなかった憎悪《ぞうお》を、あの老人に対して覚え始めた。午《ひる》近く、ようやく、はるか前方のまっさおな麦畠《むぎばたけ》の中に一団の人影が見えた。その中で特にきわ立って丈《たけ》の高い孔子の姿を認めえたとき、子路は突然、何か胸を緊《し》めつけられるような苦しさを感じた。
一二
宋《そう》から陳《ちん》に出る渡船の上で、子貢《しこう》と宰予《さいよ》とが議論をしている。「十室の邑《ゆう》、必ず忠信丘《きゆう》が如《ごと》き者あり。丘の学を好むに如《し》かざるなり。」という師の言葉を中心に、子貢は、この言葉にもかかわらず孔子《こうし》の偉大な完成はその先天的な素質の非凡さによるものだといい、宰予は、いや、後天的な自己完成への努力のほうがあずかって大きいのだと言う。宰予によれば、孔子の能力と弟子たちの能力との差異は量的なものであって、けっして質的なそれではない。孔子の有《も》っているものは万人のもっているものだ。ただその一つ一つを孔子は絶えざる刻苦によって今の大きさにまで仕上げただけのことだと。子貢は、しかし、量的な差も絶大になると結局質的な差と変わるところはないという。それに、自己完成への努力をあれほどまでに続けうることそれ自体が、すでに先天的な非凡さの何よりの証拠ではないかと。だが、何にも増して孔子の天才の核心たるものは何かといえば、「それは」と子貢が言う。「あの優れた中庸《ちゆうよう》への本能だ。いついかなる場合にも夫子《ふうし》の進退を美しいものにする・みごとな中庸への本能だ。」と。
何を言ってるんだと、傍《そば》で子路《しろ》が苦い顔をする。口先ばかりで腹のない奴《やつ》らめ! 今この舟がひっくり返りでもしたら、奴らはどんなにまっさおな顔をするだろう。なんといっても一旦《いつたん》有事のさいに、実際に夫子の役に立ちうるのは己《おれ》なのだ。才弁縦横の若い二人を前にして、巧言《こうげん》は徳を紊《みだ》るという言葉を考え、矜《ほこ》らかにわが胸中一片の冰心《ひようしん》を恃《たの》むのである。
子路にも、しかし、師への不満が必ずしもないわけではない。
陳《ちん》の霊公が臣下の妻と通じその女の肌着《はだぎ》を身につけて朝《ちよう》に立ち、それを見せびらかしたとき、泄冶《せつや》という臣が諫《いさ》めて、殺された。百年ばかり以前のこの事件について一人の弟子が孔子に尋ねたことがある。泄冶の正諫《せいかん》して殺されたのは古《いにしえ》の名臣比干《ひかん》の諫死《かんし*》と変わるところがない。仁《じん》と称してよいであろうかと。孔子が答えた。いや、比干と紂王《ちゆうおう》との場合は血縁でもあり、また官からいっても少師《しようし》であり、したがって己《おのれ》の身を捨てて争諫《そうかん》し、殺された後に紂王の悔寤《かいご》するのを期待したわけだ。これは仁《じん》というべきであろう。泄冶の霊公におけるは骨肉の親あるにもあらず、位も一大夫《たいふ》にすぎぬ。君正しからず一国正しからずと知らば、潔《いさぎよ》く身を退くべきに、身のほどをも計らず、区々たる一身をもって一国の淫婚《いんこん》を正そうとした。自らむだに生命を捐《す》てたものだ。仁どころの騒ぎではないと。
その弟子はそう言われて納得《なつとく》して引き下がったが、傍《そば》にいた子路にはどうしても頷《うなず》けない。さっそく、彼は口を出す。仁・不仁はしばらく措《お》く。しかしとにかく一身の危うきを忘れて一国の紊乱《ぶんらん》を正そうとしたことの中には、智不智《ちふち》を超《こ》えた立派なものがあるのではなかろうか。むなしく命を捐《す》つなどと言いきれないものが。たとい結果はどうあろうとも。
「由《ゆう》よ。汝《なんじ》には、そういう小義の中にあるみごとさばかりが眼について、それ以上はわからぬと見える。古《いにしえ》の士は国に道あれば忠を尽くして以《もつ》てこれを輔《たす》け、国に道なければ身を退いて以《もつ》てこれを避けた。こうした出処進退《しゆつしよしんたい》のみごとさはまだわからぬと見える。詩に曰《い》う。民僻《よこしま》多き時は自ら辟《のり》を立つることなかれ《*》と。けだし、泄冶《せつや》の場合にあてはまるようだな。」
「では」とだいぶ長い間考えた後《あと》で子路が言う。結局この世で最も大切なことは、一身の安全を計ることにあるのか? 身を捨てて義を成すことのうちにはないのであろうか? 一人の人間の出処進退の適不適のほうが、天下蒼生《そうせい》の安危ということよりも大切なのであろうか? というのは、今の泄冶がもし眼前の乱倫《らんりん》に顰蹙《ひんしゆく》して身を退いたとすれば、なるほど彼の一身はそれでよいかも知れぬが、陳国《ちんこく》の民にとっていったいそれが何になろう? まだしも、むだとは知りつつも諫死《かんし》したほうが、国民の気風に与える影響から言ってもはるかに意味があるのではないか。
「それは何も一身の保全ばかりが大切とは言わない。それならば比干《ひかん》を仁人《じんじん》と褒《ほ》めはしないはずだ。ただ、生命は道のために捨てるとしても捨て時・捨て処《どころ》がある。それを察するに智《ち》をもってするのは、別に私の利のためではない。急いで死ぬるばかりが能ではないのだ。」
そう言われれば一応はそんな気がしてくるが、やはり釈然としないところがある。身を殺して仁を成すべきことを言いながら、その一方、どこかしら明哲保身《めいてつほしん》を最上智《さいじようち》と考える傾向が、時々師の言説の中に感じられる。それがどうも気になるのだ。他の弟子たちがこれをいっこうに感じないのは、明哲保身主義が彼らに本能として、くっついているからだ。それをすべての根柢《こんてい》とした上での・仁であり義でなければ、彼らには危うくてしかたがないに違いない。
子路が納得《なつとく》しがたげな顔色で立ち去ったとき、その後ろ姿を見送りながら、孔子が愀然《しようぜん》として言った。邦《くに》に道有る時も直《なお》きこと矢の如《ごと》し。道なき時もまた矢の如し。あの男も衛《えい》の史魚《しぎよ》の類だな。おそらく、尋常な死に方はしないであろうと。
楚《そ》が呉《ご》を伐《う》ったとき、工尹商陽《こういんしようよう》という者が呉の師を追うたが、同乗の王子棄疾《きしつ》に「王事なり。子、弓を手にして可なり。」といわれて始めて弓を執り、「子《*》、これを射よ。」と勧められてようやく一人を射斃《いたお》した。しかしすぐにまた弓を〓《かわぶくろ》に収めてしまった、ふたたびうながされてまた弓を取出し、あと二人を斃《たお》したが、一人を射るごとに目を掩《おお》うた。さて三人を斃すと、「自分の今の身分ではこのくらいで充分反命するに足るだろう。」とて、車を返した。
この話を孔子が伝え聞き、「人を殺すの中《うち》、また礼あり。」と感心した。子路に言わせれば、しかし、こんなとんでもない話はない。ことに、「自分としては三人斃《たお》したくらいで充分だ。」などという言葉の中に、彼の大嫌《だいきら》いな・一身の行動を国家の休戚より上に置く考え方があまりにハッキリしているので、腹が立つのである。彼は怫然《ふつぜん》として孔子にくってかかる。「人臣の節、君の大事に当たりては、ただ力の及ぶところを尽くし、死して而《しか》して後に已《や》む。夫子《ふうし》なんぞ彼を善《よ》しとする?」孔子もさすがにこれには一言もない。笑いながら答える。「然《しか》り。汝《なんじ》の言のごとし。我ただその、人を殺すに忍びざるの心あるを取るのみ。」
一三
衛《えい》に出入すること四度《よたび》、陳《ちん》に留まること三年、曹《そう》・宋《そう》・蔡《さい》・葉《しょう》・楚《そ》と、子路《しろ》は孔子《こうし》に従って歩いた。
孔子の道を実行に移してくれる諸侯が出てこようとは、いまさら望めなかったが、しかし、もはや不思議に子路はいらだたない。世の溷濁《こんだく》と諸侯の無能と孔子の不遇とに対する憤懣《ふんまん》焦躁《しようそう》を幾年かくり返したのち、ようやくこのごろになって、漠然《ばくぜん》とながら、孔子およびそれに従う自分らの運命の意味がわかりかけてきたようである。それは、消極的に命なりと諦《あきら》める気持とはだいぶ遠い。同じく命なりというにしても、「一小国に限定されない・一時代に限られない・天下万代の木鐸《ぼくたく》」としての使命に目覚めかけてきた・かなり積極的な命なりである。匡《きよう》の地で暴民に囲まれたとき昂然《こうぜん》として孔子の言った「天のいまだ斯《こ》の文を喪《ほろぼ》さざるや匡人《きようひと》それ予《われ》を如何《いかん》せんや《*》」が、今は子路にも実によくわかってきた。いかなる場合にも絶望せず、けっして現実を軽蔑《けいべつ》せず、与えられた範囲で常に最善を尽くすという師の智慧《ちえ》の大きさもわかるし、常に後世の人に見られていることを意識しているような孔子の挙措《きよそ》の意味も今にして初めて頷《うなず》けるのである。あり余る俗才に妨げられてか、明敏子貢《しこう》には、孔子のこの超時代的な使命についての自覚が少ない。朴直《ぼくちよく》子路のほうが、その単純きわまる師への愛情のゆえであろうか、かえって孔子というものの大きな意味をつかみえたようである。
放浪の年を重ねている中に、子路ももはや五十歳であった。圭角《けいかく》がとれたとは称しがたいながら、さすがに人間の重みも加わった。後世のいわゆる「万鍾《ばんしよう》我において何をか加えん《*》」の気骨も、烱々《けいけい》たるその眼光も、痩浪人《やせろうにん》のいたずらなる誇負《こふ》から離れて、すでに堂々たる一家の風格を備えてきた。
一四
孔子《こうし》が四度目に衛《えい》を訪れたとき、若い衛侯や正卿孔叔圉《せいけいこうしゆくぎよ》らから乞《こ》われるままに、子路《しろ》を推してこの国に仕えさせた。孔子が十余年ぶりで故国に聘《むか》えられた時も、子路は別れて衛に留《とど》まったのである。
十年来、衛は南子《なんし》夫人の乱行を中心に、絶えず紛争を重ねていた。まず公叔戍《こうしゆくじゆ》という者が南子排斥《はいせき》を企てかえってその讒《ざん》に遭《あ》って魯《ろ》に亡命する。続いて霊公《れいこう》の子・太子《たいし》〓《かい》〓《がい》も義母南子を刺そうとして失敗し晋《しん》に奔《はし》る。太子欠位の中に霊公が卒《しゆつ》する。やむを得ず亡命太子の子の幼い輒《ちよう》を立てて後を嗣《つ》がせる。出公《しゆつこう》がこれである。出奔《しゆつぽん》した前太子〓《かい》〓《がい》は晋《しん》の力を借りて衛の西部に潜入し虎視眈々《こしたんたん》と衛侯の位を窺《うかが》う。これを拒《こば》もうとする現衛侯出公は子。位を奪おうと狙《ねら》う者は父。子路が仕えることになった衛の国はこのような状態であった。
子路の仕事は孔家《こうけ》のために宰《さい》として蒲《ほ》の地を治めることである。衛の孔家は、魯《ろ》ならば季孫氏《きそんし》に当たる名家で、当主孔叔圉《こうしゆくぎよ》はつとに名大夫《めいたいふ》の響が高い。蒲は、先ごろ南子《なんし》の讒《ざん》にあって亡命した公叔戍《こうしゆくじゆ》の旧領地で、したがって、主人を逐《お》うた現在の政府に対してことごとに反抗的な態度をとっている。もともと人気《じんき》の荒い土地で、かつて子路自身も孔子に従ってこの地で暴民に襲われたことがある。
任地に立つ前、子路は孔子のところに行き、「邑《むら》に壮士多くして治めがたし」といわれる蒲の事情を述べて教を乞《こ》うた。孔子が言う。「恭《きよう》にして敬あらば以て勇を懾《おそ》れしむべく、寛にして正しからば以《もつ》て強を懐《いだ》くべく、温にして断ならばもって姦《かん》を抑《おさ》うべし」と。子路再拝して謝し、欣然《きんぜん》として任に赴《おもむ》いた。
蒲《ほ》に着くと子路はまず土地の有力者、反抗分子らを呼び、これと腹蔵《ふくぞう》なく語り合った。手なずけようとの手段ではない。孔子の常に言う「教えずして刑することの不可」を知るがゆえに、まず彼らに己《おのれ》の意のあるところを明らかにしたのである。気取りのない率直さが荒っぽい土地の人気《じんき》に投じたらしい。壮士連はことごとく子路の明快闊達《かつたつ》に推服した。それにこのころになると、すでに子路《しろ》の名は孔門随一の快男児として天下に響いていた。「片言《へんげん》以《もっ》て獄を折《さだ》むべきものは、それ由《ゆう》か《*》」などという孔子の推奨の辞までが、大袈裟《おおげさ》な尾鰭《おひれ》をつけてあまねく知れ渡っていたのである。蒲の壮士連を推服せしめたものは、一つには確かにこうした評判でもあった。
三年後、孔子がたまたま蒲を通った。まず領内にはいったとき、「善《よ》い哉《かな》、由《ゆう》や、恭敬《きようけい》にして信なり」と言った。進んで邑《むら》にはいったとき、「善い哉、由や、忠信にして寛なり」と言った。いよいよ子路の邸にはいるに及んで、「善い哉、由や、明察にして断なり」と言った。轡《くつわ》を執《と》っていた子貢《しこう》が、まだ子路を見ずしてこれを褒《ほ》める理由を聞くと、孔子が答えた。すでにその領域にはいれば田疇《でんちゆう》ことごとく治まり草莱《そうらい》はなはだ辟《ひら》け溝洫《こうきよく》は深く整っている。治者恭敬にして信なるがゆえに、民その力を尽くしたからである。その邑にはいれば民家の牆屋《しようおく》は完備し樹木は繁茂している。治者忠信にして寛なるがゆえに、民その営を忽《ゆるが》せにしないからである。さていよいよその庭に至ればはなはだ清閑で従者僕僮《ぼくどう》一人として命《めい》に違《たが》う者がない。治者の言、明察にして断なるがゆえに、その政が紊《みだ》れないからである。いまだ由《ゆう》を見ずしてことごとくその政を知ったわけではないかと。
一五
魯《ろ》の哀公《あいこう》が西の方《かた》大野《たいや》に狩して麒麟《きりん》を獲《え》たころ、子路は一時衛《えい》から魯に帰っていた。そのとき小〓《しようちゆ》の大夫《たいふ》・射《えき》という者が国に叛《そむ》き魯に来奔《らいほん》した。子路と一面識のあったこの男は、「季路をして我に要せしめば、吾《われ》盟《ちか》うことなけん。」と言った。当時の慣《なら》いとして、他国に亡命した者は、その生命の保証をその国に盟ってもらってから始めて安んじて居《い》つくことができるのだが、この小〓の大夫は「子路さえその保証に立ってくれれば魯国の誓いなどいらぬ」というのである。諾《だく》を宿するなし、という子路の信と直とは、それほど世に知られていたのだ。ところが、子路はこの頼《たの》みをにべもなく断わった。ある人が言う。千乗《せんじよう》の国の盟をも信ぜずして、ただ子《し》一人の言を信じようという。男児の本懐これにすぎたるはあるまいに、何故《なにゆえ》これを恥とするのかと。子路が答えた。魯《ろ》国が小〓《しようちゆ》と事ある場合、その城下に死ねとあらば、事の如何《いかん》を問わず欣《よろこ》んで応じよう。しかし射《えき》という男は国を売った不臣だ。もしその保証に立つとなれば、自ら売国奴《ばいこくど》を是認することになる。己《おれ》にできることか、できないことか、考えるまでもないではないか!
子路をよく知るほどの者は、この話を伝え聞いたとき、思わず微笑した。あまりにも彼のしそうなこと、言いそうなことだったからである。
同じ年、斉《せい》の陳恒《ちんこう》がその君を弑《しい》した。孔子は斎戒《さいかい》すること三日の後、哀公の前に出て、義のために斉を伐《う》たんことを請《こ》うた。請うこと三度《みたび》。斉の強さを恐れた哀公は聴《き》こうとしない。季孫《きそん》に告《つ》げて事を計れと言う。季康子《きこうし》がこれに賛成するわけがないのだ。孔子は君の前を退いて、さて人に告げて言った。「吾《われ》、大夫《たいふ》の後《しりえ》に従うを以《もつ》てなり。ゆえに敢《あえ》て言わずんばあらず。」むだとは知りつつも一応は言わねばならぬ己《おのれ》の地位だというのである。(当時孔子は国老の待遇を受けていた。)
子路《しろ》はちょっと顔を曇らせた。夫子《ふうし》のしたことは、ただ形を完《まっと》うするためにすぎなかったのか。形さえ履《ふ》めば、それが実行に移されないでも平気ですませる程度の義憤なのか?
教えを受けること四十年に近くして、なお、この溝《みぞ》はどうしようもないのである。
一六
子路が魯《ろ》に来ている間に、衛《えい》では政界の大黒柱《だいこくばしら》孔叔圉《こうしゆくぎよ》が死んだ。その未亡人で、亡命太子《たいし》〓《かい》〓《がい》の姉に当たる伯姫《はくき》という女策士が政治の表面に出てくる。一子〓《かい》が父圉《ぎよ》の後を嗣《つ》いだことにはなっているが、名目だけにすぎぬ。伯姫からいえば、現衛侯輒《ちよう》は甥《おい》、位を窺《うかが》う前太子は弟で、親しさに変わりはないはずだが、愛憎と利慾《りよく》との複雑な経緯《いきさつ》があって、妙に弟のためばかりを計ろうとする。夫の死後しきりに寵愛《ちようあい》している小姓《こしよう》上がりの渾良夫《こんりようふ》なる美青年を使いとして、弟〓〓との間を往復させ、ひそかに現衛侯追い出しを企んでいる。
子路がふたたび衛に戻ってみると、衛侯父子の争いはさらに激化し、政変の機運の濃く漂っているのがどことなく感じられた。
周《しゆう》の昭王の四十年閏《うるう》十二月某日。夕方近くなって子路の家にあわただしく跳《と》び込んで来た使いがあった。孔家の老・欒寧《らんねい》のところからである。「本日、前太子〓《かい》〓《がい》都に潜入。ただ今孔氏の宅に入り、伯姫《はくき》・渾良夫《こんりようふ》とともに当主孔〓《こうかい》を脅《おど》して己《おのれ》を衛侯《えいこう》に戴《いただ》かしめた。大勢はすでに動かしがたい。自分(欒寧)は今から現衛侯を奉じて魯《ろ》に奔《はし》るところだ。後《あと》は宜《よろ》しく頼む。」という口上である。
いよいよ来たな、と子路は思った。とにかく、自分の直接の主人に当たる孔〓《こうかい》が捕えられ脅かされたと聞いては、黙っているわけにいかない。おっ取り刀で、彼は公宮《こうきゆう》へ駈《か》けつける。
外門を入ろうとすると、ちょうど中から出て来るちんちくりんな男にぶっつかった。子羔《しこう》だ。孔門の後輩で、子路の推薦によってこの国の大夫《たいふ》となった・正直な・気の小さい男である。子羔が言う。内門はもう閉《し》まってしまいましたよ。子路。いや、とにかく行くだけは行ってみよう。子羔。しかし、もうむだですよ。かえって難に遭《あ》うこともないとは限らぬし。子路が声を荒らげて言う。孔《こう》家の禄《ろく》を食《は》む身ではないか。なんのために難を避ける?
子羔を振りきって内門の所まで来ると、はたして中から閉《し》まっている。ドンドンと烈《はげ》しく叩《たた》く。はいってはいけない! と、中から叫ぶ。その声を聞き咎《とが》めて子路が呶鳴《どな》った。公孫敢《こうそんかん》だな、その声は。難を逃れんがために節を変ずるような、俺《おれ》は、そんな人間じゃない。その禄を利した以上、その患を救わねばならぬのだ。開《あ》けろ! 開けろ!
ちょうど中から使いの者が出て来たので、それと入れ違いに子路は跳び込んだ。
見ると、広庭一面の群集だ。孔〓《こうかい》の名において新衛侯擁立《ようりつ》の宣言があるからとて急に呼び集められた群臣である。皆それぞれに驚愕《きようがく》と困惑との表情を浮かべ、向背《こうはい》に迷うもののごとく見える。庭に面した露台の上には、若い孔〓《こうかい》が母の伯姫《はくき》と叔父の〓《かい》〓《がい》とに抑《おさ》えられ、一同に向かって政変の宣言とその説明とをするよう、強《し》いられている貌《かたち》だ。
子路は群集の背後《うしろ》から露台に向かって大声に叫んだ。孔〓《こうかい》を捕えて何になるか! 孔〓を離せ。孔〓一人を殺したとて正義派は亡びはせぬぞ!
子路としてはまず己《おのれ》の主人を救い出したかったのだ。さて、広庭のざわめきが一瞬静まって一同が己《おのれ》の方を振り向いたと知ると、今度は群集に向かって煽動《せんどう》を始めた。太子は音に聞こえた臆病者《おくびようもの》だぞ。下から火を放って台を焼けば、恐れて孔叔《こうしゆく》(〓《かい》)を舎《ゆる》すに決まっている。火をつけようではないか。火を!
すでに薄暮《はくぼ》のこととて庭のすみずみに篝火《かがりび》が燃されている。それを指さしながら子路が、「火を! 火を!」と叫ぶ。「先代孔叔文子(圉《ぎよ》)の恩義に感ずる者どもは火を取って台を焼け。そうして孔叔を救え!」
台の上の簒奪者《さんだつしや》は大いに懼《おそ》れ、石乞《せききつ》・盂黶《うえん》の二剣士に命じて、子路を討《う》たしめた。
子路は二人を相手に激しく斬《き》り結ぶ。往年の勇者子路も、しかし、年には勝てぬ。しだいに疲労が加わり、呼吸が乱れる。子路の旗色の悪いのを見た群集は、この時ようやく旗幟《きし》を明らかにした。罵声《ばせい》が子路に向かって飛び、無数の石や棒が子路の身体に当たった。敵の戟《ほこ》の尖端《さき》が頬《ほお》をかすめた。纓《えい》(冠《かんむり》の紐《ひも》)が断《き》れて、冠が落ちかかる。左手でそれを支えようとしたとたんに、もう一人の敵の剣が肩先にくい込む。血が迸《ほとばし》り、子路は倒れ、冠が落ちる。倒れながら、子路は手を伸ばして冠を拾い、正しく頭に着けてすばやく纓を結んだ。敵の刃の下で、真赤《まつか》に血をあびた子路《しろ》が、最期《さいご》の力を絞って絶叫する。
「見よ! 君子《くんし》は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」
全身膾《なます》のごとくに切り刻まれて、子路《しろ》は死んだ。
魯《ろ》にあってはるかに衛《えい》の政変を聞いた孔子《こうし》は即座に、「柴《さい》(子羔《しこう》)や、それ帰らん。由《ゆう》や死なん。」と言った。はたしてその言のごとくなったことを知ったとき、老聖人は佇立《ちよりつ》瞑目《めいもく》すること暫《しば》し、やがて潸然《さんぜん》として涙下《くだ》った。子路の屍《しかばね》が醢《ししびしお》にされたと聞くや、家中の塩漬《しおづけ》類をことごとく捨てさせ、爾後《じご》、醢はいっさい食膳《しよくぜん》にのぼさなかったということである。
名人伝
趙《ちよう》の邯鄲《かんたん》の都に住む紀昌《きしよう》という男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。己《おのれ》の師と頼むべき人物を物色するに、当今弓矢をとっては、名手・飛衛《ひえい》に及ぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人だそうである。紀昌ははるばる飛衛をたずねてその門に入った。
飛衛は新入の門人に、まず瞬《まばた》きせざることを学べと命じた。紀昌は家に帰り、妻の機織台《はたおりだい》の下に潜《もぐ》り込んで、そこに仰向《あおむ》けにひっくり返った。眼とすれすれに機躡《まねき》が忙しく上下往来するのをじっと瞬かずに見つめていようという工夫である。理由を知らない妻は大いに驚いた。第一、妙な姿勢を妙な角度から良人《おっと》に覗《のぞ》かれては困るという。厭《いや》がる妻を紀昌は叱《しか》りつけて、無理に機《はた》を織り続けさせた。来る日も来る日も彼はこのおかしな恰好《かつこう》で、瞬きせざる修練を重ねる。二年ののちには、遽《あわた》だしく往返する牽挺《まねき》が睫毛《まつげ》を掠《かす》めても、絶えて瞬くことがなくなった。彼はようやく機の下から匍出《はいだ》す。もはや、鋭利な錐《きり》の先をもって瞼《まぶた》を突かれても、まばたきをせぬまでになっていた。ふいに火の粉が目に入ろうとも目の前に突然灰《はい》神楽《かぐら》が立とうとも、彼はけっして目をパチつかせない。彼の瞼はもはやそれを閉じるべき筋肉の使用法を忘れ果て、夜、熟睡しているときでも、紀昌の目はクヮッと大きく見開かれたままである。ついに、彼の目の睫毛と睫毛との間に小さな一匹の蜘蛛《くも》が巣をかけるに及んで、彼はようやく自信を得て、師の飛衛にこれを告げた。
それを聞いて飛衛がいう。瞬かざるのみではまだ射《しや》を授けるに足りぬ。次には、視《み》ることを学べ。視《み》ることに熟して、さて、小を視ること大のごとく、微《び》を見ること著《ちよ》のごとくなったならば、来たって我に告げるがよいと。
紀昌はふたたび家に戻り、肌着《はだぎ》の縫目から虱《しらみ》を一匹探《さが》し出して、これを己《おの》が髪の毛をもって繋《つな》いだ。そうして、それを南向きの窓に懸《か》け、終日睨《にら》み暮らすことにした。毎日毎日彼は窓にぶら下がった虱を見つめる。初め、もちろんそれは一匹の虱にすぎない。二、三日たっても、依然として虱である。ところが、十日余り過ぎると、気のせいか、どうやらそれがほんの少しながら大きく見えてきたように思われる。三月めの終わりには、明らかに蚕《かいこ》ほどの大きさに見えてきた。虱を吊《つ》るした窓の外の風物は、しだいに移り変わる。煕々《きき》として照っていた春の陽《ひ》はいつか烈《はげ》しい夏の光に変わり、澄んだ秋空を高く雁《かり》が渡って行ったかと思うと、はや、寒々とした灰色の空から霙《みぞれ》が落ちかかる。紀昌は根気よく、毛髪の先にぶら下がった有吻《ゆうふん》類・催痒《さいよう》性の小節足《しようせつそく》動物を見続けた。その虱も何十匹となく取換えられて行くうちに、早くも三年の月日が流れた。ある日ふと気がつくと、窓の虱が馬のような大きさに見えていた。しめたと、紀昌は膝《ひざ》を打ち、表へ出る。彼はわが目を疑った。人は高塔であった。馬は山であった。豚は丘のごとく、鷄《とり》は城楼《じようろう》と見える。雀躍《じやくやく》して家にとって返した紀昌は、ふたたび窓ぎわの虱に立向い、燕角《えんかく》の弧《ゆみ》に朔蓬《さくほう》の〓《やがら*》をつがえてこれを射れば、矢は見事に虱の心《しん》の臓《ぞう》を貫いて、しかも虱を繋《つな》いだ毛さえ断《き》れぬ。
紀昌はさっそく師のもとに赴《おもむ》いてこれを報ずる。飛衛は高蹈《こうとう》して胸をうち、はじめて「出かしたぞ」と褒《ほ》めた。そうして、ただちに射術の奥儀《おうぎ》秘伝《ひでん》を剰《あま》すところなく紀昌に授けはじめた。
目の基礎訓練に五年もかけた甲斐《かい》があって紀昌の腕前の上達は、驚くほど速い。
奥儀《おうぎ》伝授《でんじゆ》が始まってから十日ののち、試みに紀昌が百歩を隔てて柳葉を射るに、すでに百発百中である。二十日ののち、いっぱいに水を湛《たた》えた盃《さかずき》を右肱《みぎひじ》の上に載せて剛弓《ごうきゆう》を引くに、狙《ねら》いに狂いのないのはもとより、杯中の水も微動だにしない。一月ののち、百本の矢をもって速射を試みたところ、第一矢が的に中《あた》れば、続いて飛来たった第二矢は誤《あやま》たず第一矢の括《やはず》に中《あた》って突き刺さり、さらに間髪《かんはつ》を入れず第三矢の鏃《やじり》が第二矢の括《やはず》にガッシと喰《く》い込む。矢矢《しし》相属《あいしよく》し、発発《はつはつ》相及《あいおよ》んで、後矢の鏃は必ず前矢の括に喰入《くいい》るがゆえに、絶えて地に墜《お》ちることがない。瞬《またた》くうちに、百本の矢は一本のごとくに相連《あいつら》なり、的から一直線に続いたその最後の括《やはず》はなお弦を銜《ふく》むがごとくに見える。そばで見ていた師の飛衛も思わず「善《よ》し!」と言った。
二月ののち、たまたま家に帰って妻といさかいをした紀昌がこれを威《おど》そうとして烏号《うごう》の弓に〓衛《きえい》の矢《*》をつがえきりりと引絞って妻の目を射た。矢は妻の睫毛《まつげ》三本を射切ってかなたへ飛び去ったが、射られた本人はいっこうに気づかず、まばたきもしないで亭主《ていしゆ》を罵《ののし》り続けた。けだし、彼の至芸《しげい》による矢の速度と狙《ねら》いの精妙さとは、実にこの域にまで達していたのである。
もはや師から学び取るべき何ものもなくなった紀昌は、ある日、ふとよからぬ考えを起こした。
彼がそのとき独《ひと》りつくづくと考えるには、いまや弓をもって己《おのれ》に敵すべき者は、師の飛衛をおいてほかにない。天下第一の名人となるためには、どうあっても飛衛を除かねばならぬと。秘《ひそ》かにその機会を窺《うかが》っているうちに、一日たまたま郊野《こうや》において、向こうからただ一人歩み来る飛衛に出遇《であ》った。咄嗟《とつさ》に意を決した紀昌が矢を取って狙いをつければ、その気配《けはい》を察して飛衛もまた弓を執《と》って相応《あいおう》ずる。二人互いに射れば、矢はそのたびに中道にして相当《あいあ》たり、ともに地に墜《お》ちた。地に落ちた矢が軽塵《けいじん》をも揚げなかったのは、両人の技がいずれも神《しん》に入《い》っていたからであろう。さて、飛衛の矢が尽《つ》きたとき、紀昌のほうはなお一矢を余していた。得たりと勢込《いきおいこ》んで紀昌がその矢を放てば、飛衛は咄嗟《とつさ》に、かたわらなる野茨《のいばら》の枝を折り取り、その棘《とげ》の先端をもってハッシと鏃《やじり》を叩《たた》き落とした。ついに非望の遂《と》げられないことを悟った紀昌の心に、成功したならばけっして生じなかったに違いない道義的慚愧《ざんき》の念が、このとき忽焉《こつえん》として湧起《わきお》こった。飛衛のほうでは、また、危機を脱しえた安堵《あんど》と己《おの》が伎倆《ぎりよう》についての満足とが、敵に対する憎しみをすっかり忘れさせた。二人は互いに駈寄《かけよ》ると、野原の真中に相抱《あいいだ》いて、しばし美しい師弟愛の涙にかきくれた。(こうしたことを今日の道義観をもって見るのは当たらない。美食家の斉《せい》の桓公《かんこう》が己《おのれ》のいまだ味わったことのない珍味を求めたとき、廚宰《ちゆうさい》の易牙《えきが》は己《おの》が息子《むすこ》を蒸焼《むしや》きにしてこれをすすめた。十六歳の少年、秦《しん》の始皇帝《しこうてい》は父が死んだその晩に、父の愛妾《あいしよう》を三度《たび》襲うた。すべてそのような時代の話である。)
涙にくれて相擁《あいよう》しながらも、ふたたび弟子がかかる企《たくら》みを抱くようなことがあってははなはだ危ういと思った飛衛は、紀昌に新たな目標を与えてその気を転ずるにしくはないと考えた。彼はこの危険な弟子に向かって言った。もはや、伝うべきほどのことはことごとく伝えた。〓《なんじ》がもしこれ以上この道の蘊奥《うんおう》を極《きわ》めたいと望むならば、ゆいて西の方《かた》大行《たいこう》の嶮《けん》に攀《よ》じ、霍山《かくざん》の頂を極めよ。そこには甘蠅《かんよう》老師とて古今を曠《むな》しゅうする斯道《しどう》の大家《たいか》がおられるはず。老師の技に比べれば、我々の射のごときほとんど児戯《じぎ》に類する。〓《なんじ》の師と頼むべきは、今は甘蠅師のほかにあるまいと。
紀昌《きしよう》はすぐに西に向かって旅立つ。その人の前に出ては我々の技のごとき児戯《じぎ》にひとしいと言った師の言葉が、彼の自尊心にこたえた。もしそれがほんとうだとすれば、天下第一を目ざす彼の望みも、まだまだ前途程遠《ほどとお》いわけである。己《おの》が業《わざ》が児戯《じぎ》に類するかどうか、とにもかくにも早くその人に会って腕を比べたいとあせりつつ、彼はひたすらに道を急ぐ。足裏を破り脛《はぎ》を傷つけ、危巌《きがん》を攀《よ》じ桟道《さんどう》を渡って、一《ひと》月の後に彼はようやく目ざす山巓《さんてん》に辿《たど》りつく。
気負い立つ紀昌を迎えたのは、羊のような柔和な目をした、しかし酷《ひど》くよぼよぼの爺《じい》さんである。年齢は百歳をも超《こ》えていよう。腰の曲がっているせいもあって、白髯《はくぜん》は歩くときも地に曳《ひ》きずっている。
相手が聾《つんぼ》かもしれぬと、大声に遽《あわた》だしく紀昌は来意を告げる。己が技のほどを見てもらいたい旨を述べると、あせり立った彼は相手の返辞をも待たず、いきなり背に負うた楊幹麻筋《ようかんまきん》の弓を外《はず》して手に執《と》った。そうして、石碣《せきけつ》の矢をつがえると、おりから空の高くを飛び過ぎて行く渡り鳥の群れに向かって狙《ねら》いを定める。弦に応じて、一箭《いつせん》たちまち五羽の大鳥が鮮《あざ》やかに碧空《へきくう》を切って落ちて来た。
ひととおりできるようじゃな、と老人が穏やかな微笑を含んで言う。だが、それは所詮《しよせん》射之射《しやのしや》というもの、好漢《こうかん》まだ不射之射《ふしやのしや》を知らぬとみえる。
ムッとした紀昌を導いて、老隠者《いんじや》は、そこから二百歩ばかり離れた絶壁の上まで連れて来る。脚下は文字どおりの屏風《びようぶ》のごとき壁立千仞《へきりつせんじん》、遥《はる》か真下《ました》に糸のような細さに見える渓流《けいりゆう》をちょっと覗《のぞ》いただけでたちまち眩暈《めまい》を感ずるほどの高さである。その断崖《だんがい》から半ば宙に乗出した危石の上につかつかと老人は駈上《かけのぼ》り、振返って紀昌に言う。どうじゃ。この石の上で先刻の業《わざ》を今一度見せてくれぬか。いまさら引込みもならぬ。老人と入れ代わりに紀昌がその石を履《ふ》んだとき、石は微《かす》かにグラリと揺らいだ。強《し》いて気を励まして矢をつがえようとすると、ちょうど崖《がけ》の端から小石が一つ転《ころ》がり落ちた。その行方《ゆくえ》を目で追うたとき、覚えず紀昌は石上に伏した。脚はワナワナと顫《ふる》え、汗は流れて踵《くびす》にまで至った。老人が笑いながら手を差しのべて彼を石から下《おろ》し、自ら代わってこれに乗ると、では射《しや》というものをお目にかけようかな、と言った。まだ動悸《どうき》がおさまらず蒼《あお》ざめた顔をしてはいたが、紀昌はすぐに気がついて言った。しかし、弓はどうなさる? 弓は? 老人は素手《すで》だったのである。弓? と老人は笑う。弓矢の要《い》るうちはまだ射之射《しやのしや》じゃ。不射之射には、烏漆《うしつ》の弓も粛慎《しゆくしん》の矢《*》もいらぬ。
ちょうど彼らの真上《まうえ》、空のきわめて高い所を一羽の鳶《とび》が悠々《ゆうゆう》と輪を画《えが》いていた。その胡麻粒《ごまつぶ》ほどに小さく見える姿をしばらく見上げていた甘蠅《かんよう》が、やがて、見えざる矢を無形の弓につがえ、満月のごとく引絞ってひょうと放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石のごとくに落ちて来るではないか。
紀昌《きしよう》は慄然《りつぜん》とした。今にしてはじめて芸道の深淵《しんえん》を覗《のぞ》きえた心地《ここち》であった。
九年の間、紀昌はこの老名人のもとに留《とど》まった。その間いかなる修業を積んだものやらそれは誰にも判《わか》らぬ。
九年たって山を降りて来たとき、人々は紀昌の顔つきの変わったのに驚いた。以前の負けず嫌《ぎら》いな精悍《せいかん》な面魂《つらだましい》はどこかに影をひそめ、なんの表情もない、木偶《でく》のごとく愚者《ぐしや》のごとき容貌《ようぼう》に変わっている。久しぶりに旧師の飛衛《ひえい》を訪《たず》ねたとき、しかし、飛衛はこの顔つきを一見すると感嘆して叫んだ。これでこそはじめて天下の名人だ。我儕《われら》のごとき、足下《あしもと》にも及ぶものでないと。
邯鄲《かんたん》の都は、天下一の名人となって戻って来た紀昌を迎えて、やがて眼前に示されるに違いないその妙技への期待に湧返《わきかえ》った。
ところが紀昌はいっこうにその要望に応《こた》えようとしない。いや、弓さえ絶えて手に取ろうとしない。山に入るときに携えていった楊幹麻筋《ようかんまきん》の弓もどこかへ棄《す》てて来た様子である。そのわけを訊《たず》ねた一人に答えて、紀昌は懶《ものう》げに言った。至為《しい》は為《な》すなく、至言《しげん》は言を去り、至射《ししや》は射ることなしと。なるほどと、しごく物分りのいい邯鄲の都人士《とじんし》はすぐに合点《がてん》した。弓を執《と》らざる弓の名人は彼らの誇りとなった。紀昌が弓に触れなければ触れないほど、彼の無敵の評判はいよいよ喧伝《けんでん》された。
さまざまな噂《うわさ》が人々の口から口へと伝わる。毎夜三更《こう》を過ぎるころ、紀昌の家の屋上で何者の立てるとも知れぬ弓弦《ゆづる》の音がする。名人の内に宿る射道の神が主人公の睡《ねむ》っている間に体内を脱《ぬ》け出し、妖魔《ようま》を払うべく徹宵《てつしよう》守護に当たっているのだという。彼の家の近くに住む一商人はある夜紀昌の家の上空で、雲に乗った紀昌が珍しくも弓を手にして、古《いにしえ》の名人〓《げい》と養由基《ようゆうき》の二人を相手に腕比べをしているのを確かに見たと言い出した。そのとき三名人の放った矢はそれぞれ夜空に青白い光芒《こうぼう》を曳《ひ》きつつ参宿《しんしゆく》と天狼星《てんろうせい》との間に消去ったと。紀昌の家に忍び入ろうとしたところ、塀《へい》に足を掛けたとたんに一道の殺気が森閑《しんかん》とした家の中から奔《はし》り出てまともに額を打ったので、覚えず外に顛落《てんらく》したと白状した盗賊もある。爾来《じらい》、邪心を抱く者どもは彼の住居の十町四方は避けて廻《まわ》り道をし、賢い渡り鳥どもは彼の家の上空を通らなくなった。
雲と立罩《たちこ》める名声のただ中に、名人紀昌はしだいに老いていく。すでに早く射《しや》を離れた彼の心は、ますます枯淡《こたん》虚静《きよせい》の域にはいって行ったようである。木偶《でく》のごとき顔はさらに表情を失い、語ることもまれとなり、ついには呼吸の有無さえ疑われるに至った。「すでに、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳のごとく、耳は鼻のごとく、鼻は口のごとく思われる。」というのが老名人晩年の述懐である。
甘蠅師《かんようし》のもとを辞してから四十年ののち、紀昌は静かに、誠《まこと》に煙のごとく静かに世を去った。その四十年の間、彼は絶えて射《しや》を口にすることがなかった。口にさえしなかったくらいだから、弓矢を執《と》っての活動などあろうはずがない。もちろん、寓話《ぐうわ》作者としてはここで老人に掉尾《とうび》の大活躍をさせて、名人の真に名人たる所以《ゆえん》を明らかにしたいのは山々ながら、一方、また、なんとしても古書に記された事実を曲げるわけにはいかぬ。実際、老後の彼についてはただ無為《むい》にして化したとばかりで、次のような妙な話のほかには何一つ伝わっていないのだから。
その話というのは、彼の死ぬ一、二年前のことらしい。ある日老いたる紀昌が知人のもとに招かれて行ったところ、その家で一つの器具を見た。確かに見憶《みおぼ》えのある道具だが、どうしてもその名前が思出せぬし、その用途も思い当たらない。老人はその家の主人に尋ねた。それはなんと呼ぶ品物で、また何に用いるのかと。主人は、客が冗談を言っているとのみ思って、ニヤリととぼけた笑い方をした。老紀昌は真剣になってふたたび尋ねる。それでも相手は曖昧《あいまい》な笑《え》みを浮かべて、客の心をはかりかねた様子である。三度紀昌が真面目《まじめ》な顔をして同じ問いを繰返したとき、初めて主人の顔に驚愕《きようがく》の色が現われた。彼は客の眼をじっと見つめる。相手が冗談を言っているのでもなく、気が狂っているのでもなく、また自分が聞き違えをしているのでもないことを確かめると、彼はほとんど恐怖に近い狼狽《ろうばい》を示して、吃《ども》りながら叫んだ。
「ああ、夫子《ふうし》が、――古今無双《ここんむそう》の射《しや》の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途《みち》も!」
その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人《がくじん》は瑟《しつ》の弦《げん》を断ち、工匠《こうしよう》は規矩《きく*》を手にするのを恥じたということである。
山月記
隴西《ろうせい*》の李徴《りちよう》は博学才頴《さいえい》、天宝《てんぽう*》の末年、若くして名を虎榜《こぼう*》に連ね、ついで江南尉《こうなんい》に補せられたが、性、狷介《けんかい》、自ら恃《たの》むところすこぶる厚く、賤吏《せんり》に甘んずるを潔《いさぎよ》しとしなかった。いくばくもなく官を退いたのちは、故山《こざん》、〓略《かくりやく》に帰臥《きが》し、人と交を絶って、ひたすら詩作に耽《ふけ》った。下吏《かり》となって長く膝《ひざ》を俗悪な大官《たいかん》の前に屈するよりは、詩家《しか》としての名を死後百年に遺《のこ》そうとしたのである。しかし、文名は容易に揚がらず、生活は日を逐《お》うて苦しくなる。李徴はようやく焦躁《しようそう》に駆られてきた。このころからその容貌《ようぼう》も峭刻《しようこく*》となり、肉落ち骨秀《ひい》で、眼光のみいたずらに炯々《けいけい》として、かつて進士《しんし》に登第《とうだい*》したころの豊頬《ほうきよう》の美少年の俤《おもかげ》は、どこに求めようもない。数年ののち、貧窮《ひんきゆう》に堪《た》えず、妻子の衣食のためについに節《せつ》を屈して、ふたたび東へ赴《おもむ》き、一地方官吏の職を奉ずることになった。一方、これは、己《おのれ》が詩業に半ば絶望したためでもある。かつての同輩《どうはい》はすでに遥《はる》か高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙《しが》にもかけなかったその連中の下命《かめい》を拝さねばならぬことが、往年の儁才《しゆんさい》李徴の自尊心をいかに傷つけたかは、想像に難《かた》くない。彼は怏々《おうおう》として楽しまず、狂悖《きようはい》の性はいよいよ抑《おさ》えがたくなった。一年ののち、公用で旅に出、汝水《じよすい》のほとりに宿ったとき、ついに発狂した。ある夜半、急に顔色を変えて寝床から起上がると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇《やみ》の中へ駈出《かけだ》した。彼は二度と戻って来なかった。付近の山野を捜索しても、なんの手がかりもない。その後李徴がどうなったかを知る者は、誰もなかった。
翌年、監察御史《かんさつぎよし》、陳郡《ちんぐん》の袁〓《えんさん》という者、勅命を奉じて嶺南《れいなん》に使《つかい》し、途《みち》に商於《しょうお》の地に宿った。次の朝いまだ暗いうちに出発しようとしたところ、駅吏《えきり》が言うことに、これから先の道に人喰虎《ひとくいどら》が出るゆえ、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたがよろしいでしょうと。袁〓《えんさん》は、しかし、供廻《ともまわ》りの多勢なのを恃《たの》み、駅吏の言葉を斥《しりぞ》けて、出発した。残月の光をたよりに林中の草地を通って行ったとき、はたして一匹の猛虎《もうこ》が叢《くさむら》の中から躍《おど》り出た。虎は、あわや袁〓に躍《おど》りかかると見えたが、たちまち身を翻《ひるがえ》して、元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟《つぶや》くのが聞こえた。その声に袁〓は聞き憶《おぼ》えがあった。驚懼《きようく》のうちにも、彼は咄嗟《とつさ》に思いあたって、叫んだ。「その声は、わが友、李徴子《りちようし》ではないか?」袁〓は李徴と同年に進士《しんし》の第《だい》に登り、友人の少なかった李徴にとっては、最も親しい友であった。温和な袁〓の性格が、峻峭《しゆんしよう》な李徴の性情と衝突しなかったためであろう。
叢《くさむら》の中からは、しばらく返辞がなかった。しのび泣きかと思われる微《かす》かな声がときどき洩《も》れるばかりである。ややあって、低い声が答えた。「いかにも自分は隴西《ろうせい》の李徴《りちよう》である」と。
袁〓は恐怖を忘れ、馬から下《お》りて叢に近づき、懐《なつ》かしげに久闊《きゆうかつ》を叙《じよ》した。そして、なぜ叢《くさむら》から出て来ないのかと問うた。李徴の声が答えて言う。自分はいまや異類の身となっている。どうして、おめおめと故人《とも》の前にあさましい姿をさらせようか。かつまた、自分が姿を現わせば、必ず君に畏怖《いふ》嫌厭《けんえん》の情《じよう》を起こさせるに決まっているからだ。しかし、今、はからずも故人《とも》に遇《あ》うことを得て、愧赧《きたん》の念をも忘れるほどに懐かしい。どうか、ほんのしばらくでいいから、わが醜悪な今の外形を厭《いと》わず、かつて君の友李徴であったこの自分と話を交《かわ》してくれないだろうか。
あとで考えれば不思議だったが、そのとき、袁〓《えんさん》は、この超自然の怪異を、実に素直《すなお》に受容《うけい》れて、少しも怪しもうとしなかった。彼は部下に命じて行列の進行を停《と》め、自分は叢《くさむら》のそばに立って、見えざる声と対談した。都の噂《うわさ》、旧友の消息、袁〓《えんさん》が現在の地位、それに対する李徴の祝辞。青年時代に親しかった者同士の、あの隔てのない語調で、それらが語られたのち、袁〓は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを訊《たず》ねた。草中の声は次のように語った。
今から一年ほど前、自分が旅に出て汝水《じよすい》のほとりに泊まった夜のこと、一睡してから、ふと眼を覚《さ》ますと、戸外で誰かがわが名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は闇《やみ》の中からしきりに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駈《か》けて行くうちに、いつしか途《みち》は山林に入り、しかも、知らぬまに自分は左右の手で地を攫《つか》んで走っていた。何か身体《からだ》中に力が充《み》ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳《と》び越えて行った。気がつくと、手先や肱《ひじ》のあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、すでに虎《とら》となっていた。自分は初め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても夢でないと悟らねばならなかったとき、自分は茫然《ぼうぜん》とした。そうして懼《おそ》れた。まったく、どんなことでも起こりうるのだと思うて、深く懼れた。しかし、なぜこんなことになったのだろう。分らぬ。まったく何事も我々には判《わか》らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人《おとな》しく受取って、理由も分らずに生きていくのが、我々生きもののさだめだ。自分はすぐに死を想《おも》うた。しかし、そのとき、眼の前を一匹の兎《うさぎ》が駈《か》け過ぎるのを見たとたんに、自分の中の人間はたちまち姿を消した。ふたたび自分の中の人間が目を覚ましたとき、自分の口は兎の血に塗《まみ》れ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行《しよぎよう》をし続けてきたか、それはとうてい語るに忍びない。ただ、一日のうちに必ず数時間は、人間の心が還《かえ》ってくる。そういうときには、かつての日と同じく、人語も操《あやつ》れれば、複雑な思考にも堪《た》えうるし、経書《けいしよ》の章句を誦《そら》んずることもできる。その人間の心で、虎《とら》としての己《おのれ》の残虐な行ないのあとを見、己の運命をふりかえるときが、最も情けなく、恐ろしく、憤《いきどお》ろしい。しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経《へ》るに従ってしだいに短くなっていく。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気がついてみたら、己《おれ》はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐ろしいことだ。今少し経《た》てば、己の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋《うも》れて消えてしまうだろう。ちょうど、古い宮殿の礎《いしずえ》がしだいに土砂に埋没するように。そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻《まわ》り、今日のように途《みち》で君と出会っても故人《とも》と認めることなく、君を裂き喰《くろ》うてなんの悔いも感じないだろう。いったい、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。初めはそれを憶《おぼ》えているが、しだいに忘れてしまい、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? いや、そんなことはどうでもいい。己の中の人間の心がすっかり消えてしまえば、おそらく、そのほうが、己はしあわせになれるだろう。だのに、己の中の人間は、そのことを、このうえなく恐ろしく感じているのだ。ああ、まったく、どんなに、恐ろしく、哀《かな》しく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上になった者でなければ。ところで、そうだ。己がすっかり人間でなくなってしまう前に、一つ頼んでおきたいことがある。
袁〓《えんさん》はじめ一行は、息をのんで、叢中《そうちゅう》の声の語る不思議に聞入っていた。声は続けて言う。
ほかでもない。自分は元来詩人として名をなすつもりでいた。しかも、業いまだ成らざるに、この運命に立至った。かつて作るところの詩数百篇、もとより、まだ世に行なわれておらぬ。遺稿の所在ももはや判《わか》らなくなっていよう。ところで、そのうち、今もなお記誦《きしよう》せるものが数十ある。これをわがために伝録していただきたいのだ。なにも、これによって一人前の詩人面《づら》をしたいのではない。作の巧拙《こうせつ》は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯《しようがい》それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。
袁〓は部下に命じ、筆を執って叢中《そうちゆう》の声に随《したが》って書きとらせた。李徴《りちよう》の声は叢《くさむら》の中から朗々と響いた。長短およそ三十篇、格調高雅《こうが》、意趣卓逸《たくいつ》、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁〓は感嘆しながらも漠然《ばくぜん》と次のように感じていた。なるほど、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがあるのではないか、と。
旧詩を吐き終わった李徴の声は、突然調子を変え、自らを嘲《あざけ》るがごとくに言った。
羞《はずか》しいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己《おれ》は、己の詩集が長安《ちようあん》風流人士の机の上に置かれている様《さま》を、夢に見ることがあるのだ。岩窟《がんくつ》の中に横たわって見る夢にだよ。嗤《わら》ってくれ。詩人になりそこなって虎《とら》になった哀れな男を。(袁〓は昔の青年李徴の自嘲癖《じちようへき》を思出しながら、哀《かな》しく聞いていた。)そうだ。お笑いぐさついでに、今の懐《おもい》を即席の詩に述べてみようか。この虎の中に、まだ、かつての李徴が生きているしるしに。
袁〓《えんさん》はまた下吏《かり》に命じてこれを書きとらせた。その詩に言う。
偶因狂疾成殊類《たまたまきようしつによつてしゆるいとなる》 災患相仍不可逃《さいかんあいよつてのがるべからず》
今日爪牙誰敢敵《こんにちのそうがだれかあえててきせん》 当時声跡共相高《そのかみのせいせきともにあいたかし》
我為異物蓬茅下《われいぶつとなるほうぼうのもと》 君已乗〓気勢豪《きみすでにちようにのつてきせいごうなり》
此夕渓山対明月《このゆうべけいざんめいげつにたいす》 不成長嘯但成〓《ちようしようをなさずただこうをなす*》
時に、残月、光冷《ひ》ややかに、白露《はくろ》は地に滋《しげ》く、樹間《じゆかん》を渡る冷風はすでに暁の近きを告げていた。人々はもはや、事の奇異を忘れ、粛然《しゆくぜん》として、この詩人の薄倖《はつこう》を嘆じた。李徴の声はふたたび続ける。
何故《なにゆえ》こんな運命になったか判《わか》らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えようによれば、思い当たることが全然ないでもない。人間であったとき、己は努めて人との交わりを避けた。人々は己を倨傲《きよごう》だ、尊大だといった。実は、それがほとんど羞恥心《しゆうちしん》に近いものであることを、人々は知らなかった。もちろん、かつての郷党《きようとう》の鬼才《きさい》といわれた自分に、自尊心がなかったとは言わない。しかし、それは臆病《おくびよう》な自尊心とでもいうべきものであった。己《おれ》は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師についたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨《せつさたくま》に努めたりすることをしなかった。かといって、また、己は俗物《ぞくぶつ》の間に伍《ご》することも潔《いさぎよ》しとしなかった。ともに、わが臆病な自尊心と、尊大な羞恥心《しゆうちしん》との所為《せい》である。己《おのれ》の珠《たま》に非《あら》ざることを惧《おそ》れるがゆえに、あえて刻苦して磨《みが》こうともせず、また、己《おのれ》の珠《たま》なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々《ろくろく》として瓦《かわら》に伍《ご》することもできなかった。己はしだいに世と離れ、人と遠ざかり、憤悶《ふんもん》と慙恚《ざんい*》とによってますます己《おのれ》の内なる臆病《おくびよう》な自尊心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使いであり、その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。己《おれ》の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎《とら》だったのだ。これが己を損《そこな》い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくのごとく、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。今思えば、まったく、己は、己の有《も》っていた僅《わず》かばかりの才能を空費してしまったわけだ。人生は何事をも為《な》さぬにはあまりに長いが、何事かを為すにはあまりに短いなどと口先ばかりの警句を弄《ろう》しながら、事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯《ひきよう》な危惧《きぐ》と、刻苦を厭《いと》う怠惰《たいだ》とが己のすべてだったのだ。己よりも遥《はる》かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨《みが》いたがために、堂々たる詩家となった者がいくらでもいるのだ。虎と成り果てた今、己はようやくそれに気がついた。それを思うと、己は今も胸を灼《や》かれるような悔いを感じる。己にはもはや人間としての生活はできない。たとえ、今、己が頭の中で、どんな優《すぐ》れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。まして、己《おれ》の頭は日ごとに虎に近づいていく。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪《たま》らなくなる。そういうとき、己は、向こうの山の頂の巌《いわお》に上り、空谷《くうこく》に向かって吼《ほ》える。この胸を灼《や》く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、かしこで月に向かって咆《ほ》えた。誰かにこの苦しみが分ってもらえないかと。しかし、獣どもは己の声を聞いて、ただ、懼《おそ》れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮《たけ》っているとしか考えない。天に躍《おど》り地に伏して嘆いても、誰一人己《おれ》の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だったころ、己の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように。己の毛皮の濡《ぬ》れたのは、夜露のためばかりではない。
ようやく、四方《あたり》の暗《くら》さが薄らいできた。木の間を伝って、どこからか、暁角《ぎようかく*》が哀《かな》しげに響きはじめた。
もはや、別れを告げねばならぬ。酔わねばならぬ時が、(虎に還《かえ》らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴《りちよう》の声が言った。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それはわが妻子のことだ。彼らはいまだ〓略《かくりやく》にいる。もとより、己の運命については知るはずがない。君が南から帰ったら、己はすでに死んだと彼らに告げてもらえないだろうか。けっして今日のことだけは明かさないでほしい。厚かましいお願いだが、彼らの孤弱《こじやく》を憐《あわ》れんで、今後とも道塗《どうと》に飢凍《きとう》することのないように計らっていただけるならば、自分にとって、恩倖《おんこう》、これにすぎたるはない。
言終わって、叢中《そうちゆう》から慟哭《どうこく》の声が聞こえた。袁〓《えんさん》もまた涙を泛《うか》べ、欣《よろこ》んで李徴の意に副《そ》いたい旨を答えた。李徴の声はしかしたちまちまた先刻の自嘲《じちよう》的な調子に戻って、言った。
ほんとうは、まず、このことのほうを先にお願いすべきだったのだ、己《おれ》が人間だったなら。飢え凍《こご》えようとする妻子のことよりも、己《おのれ》の乏しい詩業のほうを気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕《おと》すのだ。
そうして、附加えて言うことに、袁〓《えんさん》が嶺南《れいなん》からの帰途にはけっしてこの途《みち》を通らないでほしい、そのときには自分が酔っていて故人《とも》を認めずに襲いかかるかもしれないから。また、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、こちらを振りかえって見てもらいたい。自分は今の姿をもう一度お目にかけよう。勇に誇ろうとしてではない。わが醜悪な姿を示して、もって、ふたたびここを過ぎて自分に会おうとの気持を君に起こさせないためであると。
袁〓《えんさん》は叢《くさむら》に向かって、懇《ねんご》ろに別れの言葉を述べ、馬に上った。叢の中からは、また、堪ええざるがごとき悲泣《ひきゆう》の声が洩《も》れた。袁〓も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出発した。
一行が丘の上についたとき、彼らは、言われたとおりに振返って、先程の林間の草地を眺めた。たちまち、一匹の虎《とら》が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼らは見た。虎は、すでに白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮《ほうこう》したかと思うと、また、元の叢《くさむら》に躍り入って、ふたたびその姿を見なかった。
悟浄出世
寒蝉《かんせん》敗柳《はいりゆう》に鳴き大火西に向かいて流るる秋のはじめになりければ心細くも三蔵《さんぞう》は二人の弟子にいざなわれ嶮難《けんなん》を凌《しの》ぎ道を急ぎたもうに、たちまち前面に一条の大河あり。大波湧《わき》返《かえ》りて河の広さそのいくばくという限りを知らず。岸に上りて望み見るときかたわらに一つの石碑あり。上に流沙河《りゆうさが》の三字を篆字《てんじ》にて彫付け、表に四行の小楷字《かいじ》あり。
八百流沙界《はちひやくりゆうさのかい》
三千弱水深《さんぜんじやくすいふかし》
鵞毛飄不起《がもうただよいうかばず》
蘆花定底沈《ろかそこによどみてしずむ*》
――西遊記――
一
そのころ流沙河《りゆうさが》の河底に栖《す》んでおった妖怪《ばけもの》の総数およそ一万三千、なかで、渠《かれ》ばかり心弱きはなかった。渠《かれ》に言わせると、自分は今までに九人の僧侶《そうりよ》を啖《く》った罰で、それら九人の骸顱《しやれこうべ》が自分の頸《くび》の周囲《まわり》について離れないのだそうだが、他の妖怪《ばけもの》らには誰にもそんな骸顱《しやれこうべ》は見えなかった。「見えない。それは〓《おまえ》の気の迷いだ」と言うと、渠《かれ》は信じがたげな眼で、一同を見返し、さて、それから、なぜ自分はこうみんなと違うんだろうといったふうな悲しげな表情に沈むのである。他の妖怪《ばけもの》らは互いに言合うた。「渠《あいつ》は、僧侶《そうりよ》どころか、ろくに人間さえ咋《く》ったことはないだろう。誰もそれを見た者がないのだから。鮒《ふな》やざこを取って喰っているのなら見たこともあるが」と。また彼らは渠《かれ》に綽名《あだな》して、独言悟浄《どくげんごじよう》と呼んだ。渠《かれ》が常に、自己に不安を感じ、身を切刻む後悔に苛《さいな》まれ、心の中で反芻《はんすう》されるその哀《かな》しい自己苛責《かしやく》が、つい独《ひと》り言となって洩《も》れるがゆえである。遠方から見ると小さな泡《あわ》が渠《かれ》の口から出ているにすぎないようなときでも、実は彼が微《かす》かな声で呟《つぶや》いているのである。「俺《おれ》はばかだ」とか、「どうして俺はこうなんだろう」とか、「もうだめだ。俺は」とか、ときとして「俺は堕天使《だてんし》だ」とか。
当時は、妖怪に限らず、あらゆる生きものはすべて何かの生まれかわりと信じられておった。悟浄がかつて天上界《てんじようかい》で霊霄殿《りようしようでん》の捲簾《けんれん》大将《*》を勤めておったとは、この河底で誰言わぬ者もない。それゆえすこぶる懐疑的な悟浄自身も、ついにはそれを信じておるふりをせねばならなんだ。が、実をいえば、すべての妖怪《ばけもの》の中で渠《かれ》一人はひそかに、生まれかわりの説に疑いをもっておった。天上界で五百年前に捲簾大将をしておった者が今の俺になったのだとして、さて、その昔の捲簾大将と今のこの俺とが同じものだといっていいのだろうか? 第一、俺は昔の天上界のことを何一つ記憶してはおらぬ。その記憶以前の捲簾大将と俺と、どこが同じなのだ。身体《からだ》が同じなのだろうか? それとも魂が、だろうか? ところで、いったい、魂とはなんだ? こうした疑問を渠《かれ》が洩《も》らすと、妖怪《ばけもの》どもは「また、始まった」といって嗤《わら》うのである。あるものは嘲弄《ちようろう》するように、あるものは憐愍《れんびん》の面持ちをもって「病気なんだよ。悪い病気のせいなんだよ」と言うた。
事実、渠《かれ》は病気だった。
いつのころから、また、何が因《もと》でこんな病気になったか、悟浄《ごじよう》はそのどちらをも知らぬ。ただ、気がついたらそのときはもう、このような厭《いと》わしいものが、周囲に重々しく立罩《たちこ》めておった。渠は何をするのもいやになり、見るもの聞くものがすべて渠の気を沈ませ、何事につけても自分が厭《いと》わしく、自分に信用がおけぬようになってしもうた。何日も何日も洞穴《ほらあな》に籠《こも》って、食を摂《と》らず、ギョロリと眼ばかり光らせて、渠は物思いに沈んだ。不意に立上がってその辺を歩き廻《まわ》り、何かブツブツ独り言をいいまた突然すわる。その動作の一つ一つを自分では意識しておらぬのである。どんな点がはっきりすれば、自分の不安が去るのか。それさえ渠には解《わか》らなんだ。ただ、今まで当然として受取ってきたすべてが、不可解な疑わしいものに見えてきた。今まで纏《まと》まった一つのことと思われたものが、バラバラに分解された姿で受取られ、その一つの部分部分について考えているうちに、全体の意味が解らなくなってくるといったふうだった。
医者でもあり・占星師《せんせいし》でもあり・祈祷者《きとうしや》でもある・一人の老いたる魚怪が、あるとき悟浄を見てこう言うた。「やれ、いたわしや。因果《いんが》な病にかかったものじゃ。この病にかかったが最後、百人のうち九十九人までは惨《みじ》めな一生を送らねばなりませぬぞ。元来、我々の中にはなかった病気じゃが、我々が人間を咋《く》うようになってから、我々の間にもごくまれに、これに侵される者が出てきたのじゃ。この病に侵された者はな、すべての物事を素直に受取ることができぬ。何を見ても、何に出会うても『なぜ?』とすぐに考える。究極の・正真正銘《しようしんしようめい》の・神様だけがご存じの『なぜ?』を考えようとするのじゃ。そんなことを思うては生き物は生きていけぬものじゃ。そんなことは考えぬというのが、この世の生き物の間の約束ではないか。ことに始末に困るのは、この病人が『自分』というものに疑いをもつことじゃ。なぜ俺《おれ》は俺を俺と思うのか? 他《ほか》の者を俺と思うてもさしつかえなかろうに。俺とはいったいなんだ? こう考えはじめるのが、この病のいちばん悪い徴候《ちようこう》じゃ。どうじゃ。当たりましたろうがの。お気の毒じゃが、この病には、薬もなければ、医者もない。自分で治《なお》すよりほかはないのじゃ。よほどの機縁に恵まれぬかぎり、まず、あんたの顔色のはれる時はありますまいて。」
二
文字の発明は疾《と》くに人間世界から伝わって、彼らの世界にも知られておったが、総じて彼らの間には文字を軽蔑《けいべつ》する習慣があった。生きておる智慧《ちえ》が、そんな文字などという死物で書留められるわけがない。(絵になら、まだしも画《か》けようが。)それは、煙をその形のままに手で執《と》らえようとするにも似た愚かさであると、一般に信じられておった。したがって、文字を解することは、かえって生命力衰退の徴候《しるし》として斥《しりぞ》けられた。悟浄が日ごろ憂鬱《ゆううつ》なのも、畢竟《ひつきよう》、渠《かれ》が文字を解するために違いないと、妖怪《ばけもの》どもの間では思われておった。
文字は尚《とうと》ばれなかったが、しかし、思想が軽んじられておったわけではない。一万三千の怪物の中には哲学者も少なくはなかった。ただ、彼らの語彙《ごい》ははなはだ貧弱だったので、最もむずかしい大問題が、最も無邪気な言葉でもって考えられておった。彼らは流沙河《りゆうさが》の河底にそれぞれ考える店を張り、ために、この河底には一脈の哲学的憂鬱が漂うていたほどである。ある賢明な老魚は、美しい庭を買い、明るい窓の下で、永遠の悔いなき幸福について瞑想《めいそう》しておった。ある高貴な魚族は、美しい縞《しま》のある鮮緑の藻《も》の蔭《かげ》で、竪琴《たてごと》をかき鳴らしながら、宇宙の音楽的調和を讃《たた》えておった。醜く・鈍く・ばか正直な・それでいて、自分の愚かな苦悩を隠そうともしない悟浄《ごじよう》は、こうした知的な妖怪《ばけもの》どもの間で、いい嬲《なぶ》りものになった。一人の聡明《そうめい》そうな怪物が、悟浄に向かい、真面目《まじめ》くさって言うた。「真理とはなんぞや?」そして渠《かれ》の返辞をも待たず、嘲笑《ちようしよう》を口辺に浮かべて大胯《おおまた》に歩み去った。また、一人の妖怪――これは〓魚《ふぐ》の精だったが――は、悟浄の病を聞いて、わざわざ訪《たず》ねて来た。悟浄の病因が「死への恐怖」にあると察して、これを哂《わら》おうがためにやって来たのである。「生ある間は死なし。死到《いた》れば、すでに我なし。また、何をか懼《おそ》れん。」というのがこの男の論法であった。悟浄はこの議論の正しさを素直に認めた。というのは、渠《かれ》自身けっして死を怖《おそ》れていたのではなかったし、渠の病因もそこにはなかったのだから。哂《わら》おうとしてやって来た〓魚の精は失望して帰って行った。
妖怪《ばけもの》の世界にあっては、身体《からだ》と心とが、人間の世界におけるほどはっきりと分かれてはいなかったので、心の病はただちに烈《はげ》しい肉体の苦しみとなって悟浄を責めた。堪えがたくなった渠《かれ》は、ついに意を決した。「このうえは、いかに骨が折れようと、また、いかに行く先々で愚弄《ぐろう》され哂《わら》われようと、とにかく一応、この河の底に栖《す》むあらゆる賢人《けんじん》、あらゆる医者、あらゆる占星師《せんせいし》に親しく会って、自分に納得《なつとく》のいくまで、教えを乞《こ》おう」と。
渠《かれ》は粗末な直綴《じきとつ*》を纏《まと》うて、出発した。
なぜ、妖怪《ばけもの》は妖怪であって、人間でないか? 彼らは、自己の属性の一つだけを、極度に、他との均衡《つりあい》を絶して、醜いまでに、非人間的なまでに、発達させた不具者だからである。あるものは極度に貪食《どんしよく》で、したがって口と腹がむやみに大きく、あるものは極度に淫蕩《いんとう》で、したがってそれに使用される器官が著しく発達し、あるものは極度に純潔で、したがって頭部を除くすべての部分がすっかり退化しきっていた。彼らはいずれも自己の性向、世界観に絶対に固執《こしゆう》していて、他との討論の結果、より高い結論に達するなどということを知らなかった。他人の考えの筋道を辿《たど》るにはあまりに自己の特徴が著しく伸長しすぎていたからである。それゆえ、流沙河《りゆうさが》の水底では、何百かの世界観や形而上《けいじじよう》学が、けっして他と融和することなく、あるものは穏やかな絶望の歓喜をもって、あるものは底抜けの明るさをもって、あるものは願望《ねがい》はあれど希望《のぞみ》なき溜息《ためいき》をもって、揺動《ゆれうご》く無数の藻草《もぐさ》のようにゆらゆらとたゆとうておった。
三
最初に悟浄《ごじよう》が訪ねたのは、黒卵道人《こくらんどうじん》とて、そのころ最も高名な幻術《げんじゆつ》の大家《たいか》であった。あまり深くない水底に累々《るいるい》と岩石を積重ねて洞窟《どうくつ》を作り、入口には斜月三星洞《しやげつさんせいどう》の額が掛かっておった。庵主《あんじゆ》は、魚面人身《ぎよめんじんしん》、よく幻術を行のうて、存亡自在、冬、雷を起こし、夏、氷を造り、飛者《とり》を走らしめ、走者《けもの》を飛ばしめるという噂《うわさ》である。悟浄はこの道人に三《み》月仕えた。幻術などどうでもいいのだが、幻術を能《よ》くするくらいなら真人《しんじん*》であろうし、真人なら宇宙の大道を会得《えとく》していて、渠《かれ》の病を癒《いや》すべき智慧《ちえ》をも知っていようと思われたからだ、しかし、悟浄は失望せぬわけにいかなかった。洞《ほら》の奥で巨鼇《きよごう*》の背に座った黒卵道人《こくらんどうじん》も、それを取囲む数十の弟子たちも、口にすることといえば、すべて神変不可思議《しんぺんふかしぎ》の法術のことばかり。また、その術を用いて敵を欺《あざむ》こうの、どこそこの宝を手に入れようのという実用的な話ばかり。悟浄の求めるような無用の思索の相手をしてくれるものは誰一人としておらなんだ。結局、ばかにされ哂《わら》いものになった揚句《あげく》、悟浄は三星洞を追出された。
次に悟浄が行ったのは、沙虹隠士《しやこういんし》のところだった。これは、年を経た蝦《えび》の精で、すでに腰が弓のように曲がり、半ば河底の砂に埋もれて生きておった。悟浄はまた、三《み》月の間、この老隠士に侍して、身の廻《まわ》りの世話を焼きながら、その深奥《しんおう》な哲学に触れることができた。老いたる蝦の精は曲がった腰を悟浄にさすらせ、深刻な顔つきで次のように言うた。
「世はなべて空《むな》しい。この世に何か一つでも善《よ》きことがあるか。もしありとせば、それは、この世の終わりがいずれは来るであろうことだけじゃ。別にむずかしい理窟《りくつ》を考えるまでもない。我々の身の廻りを見るがよい。絶えざる変転、不安、懊悩《おうのう》、恐怖、幻滅、闘争、倦怠《けんたい》。まさに昏々《こんこん》昧々《まいまい》紛々《ふんぷん》若々《じやくじやく》として帰《き》するところを知らぬ。我々は現在という瞬間の上にだけ立って生きている。しかもその脚下の現在は、ただちに消えて過去となる。次の瞬間もまた次の瞬間もそのとおり。ちょうど崩れやすい砂の斜面に立つ旅人の足もとが一足ごとに崩れ去るようだ。我々はどこに安んじたらよいのだ。停《と》まろうとすれば倒れぬわけにいかぬゆえ、やむを得ず走り下り続けているのが我々の生じゃ。幸福だと? そんなものは空想の概念だけで、けっして、ある現実的な状態をいうものではない。果敢《はか》ない希望が、名前を得ただけのものじゃ。」
悟浄の不安げな面持ちを見て、これを慰めるように隠士《いんし》は付加えた。
「だが、若い者よ。そう懼《おそ》れることはない。浪《なみ》にさらわれる者は溺《おぼ》れるが、浪に乗る者はこれを越えることができる。この有為転変《ういてんぺん》をのり超えて不壊不動《ふえふどう》の境地に到ることもできぬではない。古《いにしえ》の真人《しんじん》は、能《よ》く是非を超え善悪を超え、我を忘れ物を忘れ、不死不生《ふしふしよう》の域に達しておったのじゃ。が、昔から言われておるように、そういう境地が楽しいものだと思うたら、大間違い。苦しみもない代わりには、普通の生きものの有《も》つ楽しみもない。無味、無色。誠《まこと》に味気《あじけ》ないこと蝋《ろう》のごとく砂のごとしじゃ。」
悟浄は控えめに口を挟《はさ》んだ。自分の聞きたいと望むのは、個人の幸福とか、不動心《ふどうしん》の確立とかいうことではなくて、自己、および世界の究極の意味についてである、と。隠士は目脂《めやに》の溜《たま》った眼をしょぼつかせながら答えた。
「自己だと? 世界だと? 自己を外《ほか》にして客観世界など、在ると思うのか。世界とはな、自己が時間と空間との間に投射した幻《まぼろし》じゃ。自己が死ねば世界は消滅しますわい。自己が死んでも世界が残るなどとは、俗も俗、はなはだしい謬見《びゆうけん》じゃ。世界が消えても、正体の判《わか》らぬ・この不思議な自己というやつこそ、依然として続くじゃろうよ。」
悟浄が仕えてからちょうど九十日めの朝、数日間続いた猛烈な腹痛と下痢《げり》ののちに、この老隠者《いんじや》は、ついに斃《たお》れた。かかる醜い下痢と苦しい腹痛とを自分に与えるような客観世界を、自分の死によって抹殺《まつさつ》できることを喜びながら……。
悟浄は懇《ねんご》ろにあとをとぶらい、涙とともに、また、新しい旅に上った。
噂《うわさ》によれば、坐忘《ざぼう》先生は常に坐禅《ざぜん》を組んだまま眠り続け、五十日に一度目を覚《さ》まされるだけだという。そして、睡眠中の夢の世界を現実と信じ、たまに目覚めているときは、それを夢と思っておられるそうな。悟浄がこの先生をはるばる尋ね来たとき、やはり先生は睡《ねむ》っておられた。なにしろ流沙河《りゆうさが》で最も深い谷底で、上からの光もほとんど射《さ》して来ない有様ゆえ、悟浄も眼の慣れるまでは見定めにくかったが、やがて、薄暗い底の台の上に結跏趺坐《けつかふざ》したまま睡っている僧形《そうぎよう》がぼんやり目前に浮かび上がってきた。外からの音も聞こえず、魚類もまれにしか来ない所で、悟浄もしかたなしに、坐忘先生の前に坐《すわ》って眼を瞑《つぶ》ってみたら、何かジーンと耳が遠くなりそうな感じだった。
悟浄が来てから四日めに先生は眼を開いた。すぐ目の前で悟浄があわてて立上がり、礼拝《らいはい》をするのを、見るでもなく見ぬでもなく、ただ二、三度瞬《まばた》きをした。しばらく無言の対坐《たいざ》を続けたのち悟浄は恐る恐る口をきいた。「先生。さっそくでぶしつけでございますが、一つお伺いいたします。いったい『我』とはなんでございましょうか?」「咄《とつ》! 秦時《しんじ》の轢鑚《たくらくさん*》!」という烈しい声とともに、悟浄の頭はたちまち一棒を喰《くら》った。渠《かれ》はよろめいたが、また座に直り、しばらくして、今度は十分に警戒しながら、先刻の問いを繰返した。今度は棒が下《お》りて来なかった。厚い唇《くちびる》を開き、顔も身体もどこも絶対に動かさずに、坐忘先生が、夢の中でのような言葉で答えた。「長く食を得ぬときに空腹を覚えるものが〓《おまえ》じゃ。冬になって寒さを感ずるものが〓じゃ。」さて、それで厚い唇《くちびる》を閉じ、しばらく悟浄《ごじよう》のほうを見ていたが、やがて眼を閉じた。そうして、五十日間それを開かなかった。悟浄は辛抱強《しんぼうづよ》く待った。五十日めにふたたび眼を覚ました坐忘先生は前に坐《すわ》っている悟浄を見て言った。「まだいたのか?」悟浄は謹《つつ》しんで五十日待った旨を答えた。「五十日?」と先生は、例の夢を見るようなトロリとした眼を悟浄に注いだが、じっとそのままひと時ほど黙っていた。やがて重い唇が開かれた。
「時の長さを計る尺度が、それを感じる者の実際の感じ以外にないことを知らぬ者は愚かじゃ。人間の世界には、時の長さを計る器械ができたそうじゃが、のちのち大きな誤解の種を蒔《ま》くことじゃろう。大椿《たいちん》の寿《じゆ》も、朝菌《ちようきん》の夭《よう*》も、長さに変わりはないのじゃ。時とはな、我々の頭の中の一つの装置《しかけ》じゃわい」
そう言終わると、先生はまた眼を閉じた。五十日後でなければ、それがふたたび開かれることがないであろうことを知っていた悟浄は、睡れる先生に向かって恭々《うやうや》しく頭を下げてから、立去った。
「恐れよ。おののけ。しかして、神を信ぜよ。」
と、流沙河《りゆうさが》の最も繁華な四つ辻《つじ》に立って、一人の若者が叫んでいた。
「我々の短い生涯《しようがい》が、その前とあととに続く無限の大永劫《だいえいごう》の中に没入していることを思え。我々の住む狭い空間が、我々の知らぬ・また我々を知らぬ・無限の大広袤《だいこうぼう》の中に投込まれていることを思え。誰か、みずからの姿の微小さに、おののかずにいられるか。我々はみんな鉄鎖に繋《つな》がれた死刑囚だ。毎瞬間ごとにその中の幾人かずつが我々の面前で殺されていく。我々はなんの希望もなく、順番を待っているだけだ。時は迫っているぞ。その短い間を、自己欺瞞《ぎまん》と酩酊《めいてい》とに過ごそうとするのか? 呪《のろ》われた卑怯者《ひきようもの》め! その間を汝《なんじ》の惨《みじ》めな理性を恃《たの》んで自惚《うぬぼ》れ返っているつもりか? 傲慢《ごうまん》な身の程《ほど》知らずめ! 噴嚏《くしやみ》一つ、汝の貧しい理性と意志とをもってしては、左右できぬではないか。」
白皙《はくせき》の青年は頬《ほお》を紅潮させ、声を嗄《か》らして叱咤《しつた》した。その女性的な高貴な風姿のどこに、あのような激しさが潜んでいるのか。悟浄は驚きながら、その燃えるような美しい瞳《ひとみ》に見入った。渠《かれ》は青年の言葉から火のような聖《きよ》い矢が自分の魂に向かって放たれるのを感じた。
「我々の為《な》しうるのは、ただ神を愛し己《おのれ》を憎むことだけだ。部分は、みずからを、独立した本体だと自惚《うぬぼ》れてはならぬ。あくまで、全体の意志をもって己の意志とし、全体のためにのみ、自己を生きよ。神に合するものは一つの霊となるのだ」
確かにこれは聖《きよ》く優《すぐ》れた魂の声だ、と悟浄は思い、しかし、それにもかかわらず、自分の今饑《う》えているものが、このような神の声でないことをも、また、感ぜずにはいられなかった。訓言《おしえ》は薬のようなもので、〓瘧《おこり》を病む者の前に〓腫《はれもの》の薬をすすめられてもしかたがない、と、そのようなことも思うた。
その四つ辻《つじ》から程遠からぬ路傍《ろぼう》で、悟浄は醜い乞食《こじき》を見た。恐ろしい佝僂《せむし》で、高く盛上がった背骨に吊《つ》られて五臓《ごぞう》はすべて上に昇ってしまい、頭の頂は肩よりずっと低く落込んで、頤《おとがい》は臍《へそ》を隠すばかり。おまけに肩から背中にかけて一面に赤く爛《ただ》れた腫物《はれもの》が崩れている有様に、悟浄は思わず足を停《と》めて溜息《ためいき》を洩《も》らした。すると、蹲《うずくま》っているその乞食《こじき》は、頸《くび》が自由にならぬままに、赤く濁った眼玉《めだま》をじろりと上向け、一本しかない長い前歯を見せてニヤリとした。それから、上に吊上《つりあ》がった腕をブラブラさせ、悟浄の足もとまでよろめいて来ると、渠《かれ》を見上げて言った。
「僭越《せんえつ》じゃな、わしを憐《あわ》れみなさるとは。若いかたよ。わしを可哀想《かわいそう》なやつと思うのかな。どうやら、お前さんのほうがよほど可哀想に思えてならぬが。このような形にしたからとて、造物主をわしが怨んどるとでも思っていなさるのじゃろう。どうしてどうして。逆に造物主を讃《ほ》めとるくらいですわい、このような珍しい形にしてくれたと思うてな。これからも、どんなおもしろい恰好《かつこう》になるやら、思えば楽しみのようでもある。わしの左臂《ひじ》が鶏になったら、時を告げさせようし、右臂が弾《はじ》き弓になったら、それで〓《ふくろう》でもとって炙《あぶ》り肉をこしらえようし、わしの尻《しり》が車輪になり、魂が馬にでもなれば、こりゃこのうえなしの乗物で、重宝《ちようほう》じゃろう。どうじゃ。驚いたかな。わしの名はな、子輿《しよ》というてな、子祀《しし》、子犁《しれい》、子来《しらい》という三人の莫逆《ばくぎやく》の友がありますじゃ。みんな女〓《じよう》氏《*》の弟子での、ものの形を超えて不生不死《ふしようふし》の境《きよう》に入ったれば、水にも濡《ぬ》れず火にも焼《や》けず、寝て夢見ず、覚めて憂《うれ》いなきものじゃ。この間も、四人で笑うて話したことがある。わしらは、無をもって首《かしら》とし、生をもって背とし《*》、死をもって尻《しり》としとるわけじゃとな。アハハハ……。」
気味の悪い笑い声にギョッとしながらも、悟浄は、この乞食こそあるいは真人《しんじん》というものかもしれんと思うた。この言葉が本物《ほんもの》だとすればたいしたものだ。しかし、この男の言葉や態度の中にどこか誇示的なものが感じられ、それが苦痛を忍んでむりに壮語しているのではないかと疑わせたし、それに、この男の醜さと膿《うみ》の臭《くさ》さとが悟浄に生理的な反撥《はんぱつ》を与えた。渠《かれ》はだいぶ心を惹《ひ》かれながらも、ここで乞食《こじき》に仕えることだけは思い止まった。ただ先刻の話の中にあった女〓《じよう》氏とやらについて教えを乞《こ》いたく思うたので、そのことを洩《も》らした。
「ああ、師父《しふ》か。師父はな、これより北の方《かた》、二千八百里、この流沙河《りゆうさが》が赤水《せきすい》・墨水《ぼくすい》と落合うあたりに、庵《いおり》を結んでおられる。お前さんの道心《どうしん》さえ堅固なら、ずいぶんと、教訓《おしえ》も垂れてくだされよう。せっかく修業なさるがよい。わしからもよろしくと申上げてくだされい。」と、みじめな佝僂《せむし》は、尖《とが》った肩を精一杯いからせて横柄《おうへい》に言うた。
四
流沙河と墨水と赤水との落合う所を目指して、悟浄《ごじよう》は北へ旅をした。夜は葦間《あしま》に仮寝《かりね》の夢を結び、朝になれば、また、果《はて》知らぬ水底の砂原を北へ向かって歩み続けた。楽しげに銀鱗《ぎんりん》を翻《ひるが》えす魚族《いろくず》どもを見ては、何故《なにゆえ》に我一人かくは心怡《たの》しまぬぞと思い侘《わ》びつつ、渠《かれ》は毎日歩いた。途中でも、目ぼしい道人《どうじん》修験者《しゆげんしや》の類は、剰《あま》さずその門を叩《たた》くことにしていた。
貪食《どんしよく》と強力とをもって聞こえる〓髯鮎子《きゆうぜんねんし》を訪ねたとき、色あくまで黒く、逞《たくま》しげな、この鯰《なまず》の妖怪《ばけもの》は、長髯《ちようぜん》をしごきながら「遠き慮《おもんばかり》のみすれば、必ず近き憂《うれ》いあり。達人《たつじん》は大観せぬものじゃ。」と教えた。「たとえばこの魚じゃ。」と、鮎子《ねんし》は眼前を泳ぎ過ぎる一尾の鯉《こい》を掴《つか》み取ったかと思うと、それをムシャムシャかじりながら、説くのである。「この魚だが、この魚が、なぜ、わしの眼の前を通り、しかして、わしの餌《え》とならねばならぬ因縁《いんねん》をもっているか、をつくづくと考えてみることは、いかにも仙哲《せんてつ》にふさわしき振舞いじゃが、鯉を補える前に、そんなことをくどくどと考えておった日には、獲物は逃げて行くばっかりじゃ。まずすばやく鯉を捕え、これにむしゃぶりついてから、それを考えても遅うはない。鯉は何故《なにゆえ》に鯉なりや、鯉と鮒《ふな》との相異についての形而上《けいじじよう》学的考察、等々の、ばかばかしく高尚《こうしよう》な問題にひっかかって、いつも鯉を捕えそこなう男じゃろう、お前《まえ》は。おまえの物憂《ものう》げな眼《め》の光が、それをはっきり告げとるぞ。どうじゃ。」確かにそれに違いないと、悟浄は頭を垂れた。妖怪はそのときすでに鯉を平げてしまい、なお貪婪《どんらん》そうな眼つきを悟浄のうなだれた頸筋《くびすじ》に注《そそ》いでおったが、急に、その眼が光り、咽喉《のど》がゴクリと鳴った。ふと首を上げた悟浄は、咄嗟《とつさ》に、危険なものを感じて身を引いた。妖怪の刃のような鋭い爪《つめ》が、恐ろしい速さで悟浄の咽喉をかすめた。最初の一撃にしくじった妖怪の怒りに燃えた貪食《どんしよく》的な顔が大きく迫ってきた。悟浄は強く水を蹴《け》って、泥煙を立てるとともに、愴惶《そうこう》と洞穴を逃れ出た。苛刻《かこく》な現実精神をかの獰猛《どうもう》な妖怪から、身をもって学んだわけだ、と、悟浄は顫《ふる》えながら考えた。
隣人愛の教説者として有名な無腸公子《むちようこうし》の講筵《こうえん》に列したときは、説教半ばにしてこの聖僧が突然饑《う》えに駆られて、自分の実の子(もっとも彼は蟹《かに》の妖精《ようせい》ゆえ、一度に無数の子供を卵からかえすのだが)を二、三人、むしゃむしゃ喰《た》べてしまったのを見て、仰天《ぎようてん》した。
慈悲忍辱《じひにんにく》を説く聖者が、今、衆人環視の中で自分の子を捕えて食った。そして、食い終わってから、その事実をも忘れたるがごとくに、ふたたび慈悲の説を述べはじめた。忘れたのではなくて、先刻の飢えを充《み》たすための行為は、てんで彼の意識に上っていなかったに相違ない。ここにこそ俺《おれ》の学ぶべきところがあるのかもしれないぞ、と、悟浄《ごじよう》はへんな理窟《りくつ》をつけて考えた。俺の生活のどこに、ああした本能的な没我的な瞬間があるか。渠《かれ》は、貴《とうと》訓《おしえ》を得たと思い、跪《ひざまず》いて拝んだ。いや、こんなふうにして、いちいち概念的な解釈をつけてみなければ気の済まないところに、俺の弱点があるのだ、と、渠は、もう一度思い直した。教訓を、罐詰《かんづめ》にしないで生《なま》のままに身につけること、そうだ、そうだ、と悟浄は今一遍、拝《はい》をしてから、うやうやしく立去った。
蒲衣子《ほいし*》の庵室《あんしつ》は、変わった道場である。僅《わず》か四、五人しか弟子はいないが、彼らはいずれも師の歩みに倣《なろ》うて、自然の秘鑰《ひやく*》を探究する者どもであった。探求者というより、陶酔者と言ったほうがいいかもしれない。彼らの勤めるのは、ただ、自然を観《み》て、しみじみとその美しい調和の中に透過することである。
「まず感じることです。感覚を、最も美しく賢く洗煉《せんれん》することです。自然美の直接の感受から離れた思考などとは、灰色の夢ですよ。」と弟子の一人が言った。
「心を深く潜ませて自然をごらんなさい。雲、空、風、雪、うす碧《あお》い氷、紅藻《べにも》の揺れ、夜水中でこまかくきらめく珪藻《けいそう》類の光、鸚鵡貝《おうむがい》の螺旋《らせん》、紫水晶《むらさきすいしよう》の結晶、柘榴石《ざくろいし》の紅、螢石《ほたるいし》の青。なんと美しくそれらが自然の秘密を語っているように見えることでしょう。」彼の言うことは、まるで詩人の言葉のようだった。
「それだのに、自然の暗号文字を解くのも今一歩というところで、突然、幸福な予感は消去り、私どもは、またしても、美しいけれども冷たい自然の横顔を見なければならないのです。」と、また、別の弟子が続けた。「これも、まだ私どもの感覚の鍛錬が足りないからであり、心が深く潜んでいないからなのです。私どもはまだまだ努めなければなりません。やがては、師のいわれるように『観ることが愛することであり、愛することが創造《つく》ることである』ような瞬間をもつことができるでしょうから。」
その間も、師の蒲衣子《ほいし》は一言も口をきかず、鮮緑の孔雀石《くじやくいし》を一つ掌《てのひら》にのせて、深い歓《よろこ》びを湛《たた》えた穏やかな眼差《まなざし》で、じっとそれを見つめていた。
悟浄は、この庵室に一《ひと》月ばかり滞在した。その間、渠《かれ》も彼らとともに自然詩人となって宇宙の調和を讃《たた》え、その最奥《さいおう》の生命に同化することを願うた。自分にとって場違いであるとは感じながらも、彼らの静かな幸福に惹《ひ》かれたためである。
弟子の中に、一人、異常に美しい少年がいた。肌《はだ》は白魚のように透《す》きとおり、黒瞳《こくとう》は夢見るように大きく見開かれ、額にかかる捲毛《まきげ》は鳩《はと》の胸毛のように柔らかであった。心に少しの憂いがあるときは、月の前を横ぎる薄雲ほどの微《かす》かな陰翳《かげ》が美しい顔にかかり、歓《よろこ》びのあるときは静かに澄んだ瞳《ひとみ》の奥が夜の宝石のように輝いた。師も朋輩《ほうばい》もこの少年を愛した。素直で、純粋で、この少年の心は疑うことを知らないのである。ただあまりに美しく、あまりにかぼそく、まるで何か貴い気体ででもできているようで、それがみんなに不安なものを感じさせていた。少年は、ひまさえあれば、白い石の上に淡飴色《うすあめいろ》の蜂蜜《はちみつ》を垂らして、それでひるがおの花を画《か》いていた。
悟浄《ごじよう》がこの庵室《あんしつ》を去る四、五日前のこと、少年は朝、庵《いおり》を出たっきりでもどって来なかった。彼といっしょに出ていった一人の弟子は不思議な報告をした。自分が油断をしているひまに、少年はひょいと水に溶けてしまったのだ、自分は確かにそれを見た、と。他の弟子たちはそんなばかなことがと笑ったが、師の蒲衣子《ほいし》はまじめにそれをうべなった。そうかもしれぬ、あの児《こ》ならそんなことも起こるかもしれぬ、あまりに純粋だったから、と。
悟浄は、自分を取って喰《く》おうとした鯰《なまず》の妖怪《ばけもの》の逞《たくま》しさと、水に溶け去った少年の美しさとを、並べて考えながら、蒲衣子のもとを辞した。
蒲衣子の次に、渠《かれ》は斑衣〓婆《はんいけつば*》の所へ行った。すでに五百余歳を経ている女怪《じよかい》だったが、肌《はだ》のしなやかさは少しも処女と異なるところがなく、婀娜《あだ》たるその姿態は能《よ》く鉄石《てつせき》の心をも蕩《とろ》かすといわれていた。肉の楽しみを極《きわ》めることをもって唯一の生活信条としていたこの老女怪は、後庭に房を連ねること数十、容姿端正《たんせい》な若者を集めて、この中に盈《み》たし、その楽しみに耽《ふ》けるにあたっては、親昵《しんじつ》をも屏《しりぞ》け、交遊をも絶ち、後庭に隠れて、昼をもって夜に継ぎ、三《み》月に一度しか外に顔を出さないのである。悟浄の訪ねたのはちょうどこの三月に一度のときに当たったので、幸いに老女怪を見ることができた。道を求める者と聞いて、〓婆《けつば》は悟浄に説き聞かせた。ものうい憊《つか》れの翳《かげ》を、嬋娟《せんけん》たる容姿のどこかに見せながら。
「この道ですよ。この道ですよ。聖賢の教えも仙哲《せんてつ》の修業も、つまりはこうした無上《むじよう》法悦《ほうえつ》の瞬間を持続させることにその目的があるのですよ。考えてもごらんなさい。この世に生を享《う》けるということは、実に、百千万億恒河沙劫無限《ごうがしやこうむげん》の時間の中でも誠《まこと》に遇《あ》いがたく、ありがたきことです。しかも一方、死は呆《あき》れるほど速やかに私たちの上に襲いかかってくるものです。遇いがたきの生をもって、及びやすきの死を待っている私たちとして、いったい、この道のほかに何を考えることができるでしょう。ああ、あの痺《しび》れるような歓喜! 常に新しいあの陶酔!」と女怪は酔ったように〓妖淫靡《えんよういんび》な眼を細くして叫んだ。
「貴方《あなた》はお気の毒ながらたいへん醜いおかたゆえ、私のところに留《とど》まっていただこうとは思いませぬから、ほんとうのことを申しますが、実は、私の後房では毎年百人ずつの若い男が困憊《つかれ》のために死んでいきます。しかしね、断わっておきますが、その人たちはみんな喜んで、自分の一生に満足して死んでいくのですよ。誰一人、私のところへ留まったことを怨《うら》んで死んだ者はありませなんだ。今死ぬために、この楽しみがこれ以上続けられないことを悔やんだ者はありましたが。」
悟浄の醜さを憐《あわ》れむような眼《め》つきをしながら、最後に〓婆《けつば》はこうつけ加えた。
「徳とはね、楽しむことのできる能力のことですよ。」
醜いがゆえに、毎年死んでゆく百人の仲間に加わらないで済んだことを感謝しつつ、悟浄はなおも旅を続けた。
賢人《けんじん》たちの説くところはあまりにもまちまちで、渠《かれ》はまったく何を信じていいやら解らなかった。
「我とはなんですか?」という渠の問いに対して、一人の賢者はこういった。「まず吼《ほ》えてみろ。ブウと鳴くようならお前は豚じゃ。ギャアと鳴くようなら鵝鳥《がちよう》じゃ」と。他の賢者はこう教えた。「自己とはなんぞやとむりに言い表わそうとさえしなければ、自己を知るのは比較的困難ではない」と。また、曰《いわ》く「眼は一切を見るが、みずからを見ることができない。我とは所詮《しよせん》、我の知る能《あた》わざるものだ」と。
別の賢者は説いた、「我はいつも我だ。我の現在の意識の生ずる以前の・無限の時を通じて我といっていたものがあった。(それを誰も今は、記憶していないが)それがつまり今の我になったのだ。現在の我の意識が亡《ほろ》びたのちの無限の時を通じて、また、我というものがあるだろう。それを今、誰も予見することができず、またそのときになれば、現在の我の意識のことを全然忘れているに違いないが」と。
次のように言った男もあった。「一つの継続した我とはなんだ? それは記憶の影の堆積《たいせき》だよ」と。この男はまた悟浄にこう教えてくれた。「記憶の喪失ということが、俺《おれ》たちの毎日していることの全部だ。忘れてしまっていることを忘れてしまっているゆえ、いろんなことが新しく感じられるんだが、実は、あれは、俺たちが何もかも徹底的に忘れちまうからのことなんだ。昨日のことどころか、一瞬間前のことをも、つまりそのときの知覚、そのときの感情をも何もかも次の瞬間には忘れちまってるんだ。それらの、ほんの僅《わず》か一部の、朧《おぼろ》げな複製があとに残るにすぎないんだ。だから、悟浄よ、現在の瞬間てやつは、なんと、たいしたものじゃないか」と。
さて、五年に近い遍歴《へんれき》の間、同じ容態に違った処方をする多くの医者たちの間を往復するような愚かさを繰返したのち、悟浄《ごじよう》は結局自分が少しも賢くなっていないことを見いだした。賢くなるどころか、なにかしら自分がフワフワした(自分でないような)訳の分からないものに成り果てたような気がした。昔の自分は愚かではあっても、少なくとも今よりは、しっかりとした――それはほとんど肉体的な感じで、とにかく自分の重量を有《も》っていたように思う。それが今は、まるで重量のない・吹けば飛ぶようなものになってしまった。外《そと》からいろんな模様を塗り付けられはしたが、中味のまるでないものに。こいつは、いけないぞ、と悟浄は思った。思索による意味の探索以外に、もっと直接的な解答《こたえ》があるのではないか、という予感もした。こうした事柄に、計算の答えのような解答を求めようとした己《おのれ》の愚かさ。そういうことに気がつきだしたころ、行く手の水が赤黒く濁ってきて、渠《かれ》は目指す女〓《じよう》氏のもとに着いた。
女〓《じよう》氏は一見きわめて平凡な仙人《せんにん》で、むしろ迂愚《うぐ》とさえ見えた。悟浄が来ても別に渠《かれ》を使うでもなく、教えるでもなかった。堅彊《けんきよう》は死の徒《と》、柔弱《にゆうじやく》は生の徒《*》なれば、「学ぼう。学ぼう」というコチコチの態度を忌まれたもののようである。ただ、ほんのときたま、別に誰に向かって言うのでもなく、何か呟《つぶや》いておられることがある。そういうとき、悟浄は急いで聞き耳を立てるのだが、声が低くてたいていは聞きとれない。三《み》月の間、渠はついになんの教えも聞くことができなかった。「賢者《けんじや》が他人について知るよりも、愚者《ぐしや》が己《おのれ》について知るほうが多いものゆえ、自分の病は自分で治さねばならぬ」というのが、女〓氏から聞きえた唯一の言葉だった。三《み》月めの終わりに、悟浄はもはやあきらめて、暇乞《いとまご》いに師のもとへ行った。するとそのとき、珍しくも女〓氏は縷々《るる》として悟浄に教えを垂れた。「目が三つないからとて悲しむことの愚かさについて」「爪《つめ》や髪の伸長をも意志によって左右しようとしなければ気が済まない者の不幸について」「酔うている者は車から墜《お》ちても傷つかないことについて」「しかし、一概に考えることが悪いとは言えないのであって、考えない者の幸福は、船酔いを知らぬ豚のようなものだが、ただ考えることについて考えることだけは禁物であるということについて」
女〓氏は、自分のかつて識《し》っていた・ある神智を有する魔物のことを話した。その魔物は、上は星辰《せいしん》の運行から、下は微生物類の生死に至るまで、何一つ知らぬことなく、深甚微妙《しんじんみみよう》な計算によって、既往のあらゆる出来事を溯《さかのぼ》って知りうるとともに、将来起こるべきいかなる出来事をも推知しうるのであった。ところが、この魔物はたいへん不幸だった。というのは、この魔物があるときふと、「自分のすべて予見しうる全世界の出来事が、何故《なにゆえ》に(経過的ないかにしてではなく、根本的な何故に)そのごとく起こらねばならぬか」ということに想到し、その究極の理由が、彼の深甚微妙なる大計算をもってしてもついに探《さが》し出せないことを見いだしたからである。何故向日葵《ひまわり》は黄色いか。何故草は緑か。何故すべてがかく在《あ》るか。この疑問が、この神通力《じんずうりき》広大な魔物を苦しめ悩ませ、ついに惨《みじ》めな死にまで導いたのであった。
女〓《じよう》氏はまた、別の妖精《ようせい》のことを話した。これはたいへん小さなみすぼらしい魔物だったが、常に、自分はある小さな鋭く光ったものを探しに生まれてきたのだと言っていた。その光るものとはどんなものか、誰にも解らなかったが、とにかく、小妖精《しようようせい》は熱心にそれを求め、そのために生き、そのために死んでいったのだった。そしてとうとう、その小さな鋭く光ったものは見つからなかったけれど、その小妖精の一生はきわめて幸福なものだったと思われると女〓氏は語った。かく語りながら、しかし、これらの話のもつ意味については、なんの説明もなかった。ただ、最後に、師は次のようなことを言った。
「聖なる狂気を知る者は幸いじゃ。彼はみずからを殺すことによって、みずからを救うからじゃ。聖なる狂気を知らぬ者は禍《わざわ》いじゃ。彼は、みずからを殺しも生かしもせぬことによって、徐々に亡びるからじゃ。愛するとは、より高貴な理解のしかた。行なうとは、より明確な思索のしかたであると知れ。何事も意識の毒汁《どくじゆう》の中に浸さずにはいられぬ憐《あわ》れな悟浄よ。我々の運命を決定する大きな変化は、みんな我々の意識を伴わずに行なわれるのだぞ。考えてもみよ。お前が生まれたとき、お前はそれを意識しておったか?」
悟浄《ごじよう》は謹しんで師に答えた。師の教えは、今ことに身にしみてよく理解される。実は、自分も永年の遍歴の間に、思索だけではますます泥沼《どろぬま》に陥るばかりであることを感じてきたのであるが、今の自分を突破って生まれ変わることができずに苦しんでいるのである、と。それを聞いて女〓《じよう》氏は言った。
「渓流が流れて来て断崖《だんがい》の近くまで来ると、一度渦巻《うずまき》をまき、さて、それから瀑布《ばくふ》となって落下する。悟浄よ。お前は今その渦巻の一歩手前で、ためらっているのだな。一歩渦巻にまき込まれてしまえば、那落《ならく》までは一息。その途中に思索や反省や低徊《ていかい》のひまはない。臆病《おくびよう》な悟浄よ。お前は渦巻《うずま》きつつ落ちて行く者どもを恐れと憐《あわ》れみとをもって眺《なが》めながら、自分も思い切って飛込もうか、どうしようかと躊躇《ちゆうちよ》しているのだな。遅かれ早かれ自分は谷底に落ちねばならぬとは十分に承知しているくせに。渦巻《うずまき》にまき込まれないからとて、けっして幸福ではないことも承知しているくせに。それでもまだお前は、傍観者の地位に恋々《れんれん》として離れられないのか。物凄《ものすご》い生の渦巻の中で喘《あえ》いでいる連中が、案外、はたで見るほど不幸ではない(少なくとも懐疑的な傍観者より何倍もしあわせだ)ということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか。」
師の教えのありがたさは骨髄《こつずい》に徹して感じられたが、それでもなおどこか釈然としないものを残したまま、悟浄は、師のもとを辞した。
もはや誰にも道を聞くまいぞと、渠《かれ》は思うた。「誰も彼も、えらそうに見えたって、実は何一つ解《わか》ってやしないんだな」と悟浄は独言《ひとりごと》を言いながら帰途についた。「『お互いに解ってるふりをしようぜ。解ってやしないんだってことは、お互いに解り切ってるんだから』という約束のもとにみんな生きているらしいぞ。こういう約束がすでに在るのだとすれば、それをいまさら、解らない解らないと言って騒ぎ立てる俺は、なんという気の利《き》かない困りものだろう。まったく。」
五
のろまで愚図《ぐず》の悟浄《ごじよう》のことゆえ、翻然大悟《ほんぜんたいご》とか、大活現前《だいかつげんぜん》とかいった鮮《あざ》やかな芸当を見せることはできなかったが、徐々に、目に見えぬ変化が渠《かれ》の上に働いてきたようである。
はじめ、それは賭《か》けをするような気持であった。一つの選択が許される場合、一つの途《みち》が永遠の泥濘《でいねい》であり、他の途が険《けわ》しくはあってもあるいは救われるかもしれぬのだとすれば、誰しもあとの途を選ぶにきまっている。それだのになぜ躊躇《ちゆうちよ》していたのか。そこで渠《かれ》ははじめて、自分の考え方の中にあった卑《いや》しい功利的なものに気づいた。嶮《けわ》しい途《みち》を選んで苦しみ抜いた揚句《あげく》に、さて結局救われないとなったら取返しのつかない損だ、という気持が知らず知らずの間に、自分の不決断に作用していたのだ。骨折り損を避けるために、骨はさして折れない代わりに、決定的な損亡へしか導かない途に留まろうというのが、不精《ぶしよう》で愚かで卑しい俺《おれ》の気持だったのだ。女〓《じよう》氏のもとに滞在している間に、しかし、渠の気持も、しだいに一つの方向へ追詰められてきた。初めは追つめられたものが、しまいにはみずから進んで動き出すものに変わろうとしてきた。自分は今まで自己の幸福を求めてきたのではなく、世界の意味を尋ねてきたと自分では思っていたが、それはとんでもない間違いで、実は、そういう変わった形式のもとに、最も執念深く自己の幸福を探していたのだということが、悟浄に解《わか》りかけてきた。自分は、そんな世界の意味を云々《うんぬん》するほどたいした生きものでないことを、渠《かれ》は、卑下《ひげ》感をもってでなく、安らかな満足感をもって感じるようになった。そして、そんな生意気をいう前に、とにかく、自分でもまだ知らないでいるに違いない自己を試み展開してみようという勇気が出てきた。躊躇《ちゆうちよ》する前に試みよう。結果の成否は考えずに、ただ、試みるために全力を挙げて試みよう。決定的な失敗に帰《き》したっていいのだ。今までいつも、失敗への危惧《きぐ》から努力を抛棄《ほうき》していた渠が、骨折り損を厭《いと》わないところにまで昇華《しようか》されてきたのである。
六
悟浄《ごじよう》の肉体はもはや疲れ切っていた。
ある日、渠《かれ》は、とある道ばたにぶっ倒れ、そのまま深い睡《ねむ》りに落ちてしまった。まったく、何もかも忘れ果てた昏睡《こんすい》であった。渠は昏々《こんこん》として幾日か睡り続けた。空腹も忘れ、夢も見なかった。
ふと、眼《め》を覚ましたとき、何か四辺《あたり》が、青白く明るいことに気がついた。夜であった。明るい月夜であった。大きな円《まる》い春の満月が水の上から射し込んできて、浅い川底を穏やかな白い明るさで満たしているのである。悟浄は、熟睡のあとのさっぱりした気持で起上がった。とたんに空腹に気づいた。渠はそのへんを泳いでいた魚類を五、六尾手掴《てづか》みにしてむしゃむしゃ頬張《ほおば》り、さて、腰に提《さ》げた瓢《ふくべ》の酒を喇叭《らつぱ》飲みにした。旨《うま》かった。ゴクリゴクリと渠は音を立てて飲んだ。瓢《ふくべ》の底まで飲み干してしまうと、いい気持で歩き出した。
底の真砂《まさご》の一つ一つがはっきり見分けられるほど明るかった。水草に沿うて、絶えず小さな水泡《みなわ》の列が水銀球のように光り、揺れながら昇って行く。ときどき渠《かれ》の姿を見て逃出す小魚どもの腹が白く光っては青水藻《あおみどろ》の影に消える。悟浄はしだいに陶然としてきた。柄《がら》にもなく歌が唱《うた》いたくなり、すんでのことに、声を張上げるところだった。そのとき、ごく遠くの方で誰かの唱っているらしい声が耳にはいってきた。渠は立停《たちど》まって耳をすました。その声は水の外から来るようでもあり、水底のどこか遠くから来るようでもある。低いけれども澄透《すみとお》った声でほそぼそと聞こえてくるその歌に耳を傾ければ、
江国春風吹不起《こうこくのしゆんぷうふきたたず》
鷓鴣啼在深花裏《しやこないてしんかのうちにあり》
三級浪高魚化竜《さんきゆうなみたこうしてうおりゆうにかす》
痴人猶夜塘水《ちじんなおくむやとうのみず*》
どうやら、そんな文句のようでもある。悟浄《ごじよう》はその場に腰を下ろして、なおもじっと聴入った。青白い月光に染まった透明な水の世界の中で、単調な歌声は、風に消えていく狩りの角笛の音《ね》のように、ほそぼそといつまでもひびいていた。
寐《ね》たのでもなく、さりとて覚めていたのでもない。悟浄は、魂が甘く疼《うず》くような気持で茫然《ぼうぜん》と永い間そこに蹲《うずくま》っていた。そのうちに、渠《かれ》は奇妙な、夢とも幻ともつかない世界にはいって行った。水草も魚の影も卒然《そつぜん》と渠の視界から消え去り、急に、得《え》もいわれぬ蘭麝《らんじや》の匂《にお》いが漂うてきた。と思うと、見慣れぬ二人の人物がこちらへ進んで来るのを渠は見た。
前なるは手に錫杖《しやくじよう》をついた一癖《ひとくせ》ありげな偉丈夫《いじようふ》。後ろなるは、頭に宝珠《ほうじゆ》瓔珞《ようらく》を纏《まと》い、頂に肉髻《にくけい》あり、妙相端厳《みようそうたんげん》、仄《ほの》かに円光《えんこう》を負うておられるは、何さま尋常人《ただびと》ならずと見えた。さて前なるが近づいて言った。
「我は托塔《たくとう》天王の二太子、木叉恵岸《もくしやえがん》。これにいますはすなわち、わが師父《しふ》、南海の観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》摩訶薩《まかさつ》じゃ。天竜《てんりゆう》・夜叉《やしや》・乾闥婆《けんだつば》より、阿脩羅《あしゆら》・迦楼羅《かるら》・緊那羅《きんなら》・摩〓羅伽《まごらか*》・人・非人《*》に至るまで等しく憫《あわ》れみを垂れさせたもうわが師父には、このたび、爾《なんじ》、悟浄が苦悩《くるしみ》をみそなわして、特にここに降《くだ》って得度《とくど》したもうのじゃ。ありがたく承るがよい。」
覚えず頭《こうべ》を垂れた悟浄の耳に、美しい女性的な声――妙音《みようおん》というか、梵音《ぼんおん*》というか、海潮音《かいちようおん*》というか――が響いてきた。
「悟浄《ごじよう》よ、諦《あきら》かに、わが言葉を聴いて、よくこれを思念せよ。身の程《ほど》知らずの悟浄よ。いまだ得ざるを得たりといいいまだ証《あかし》せざるを証せりと言うのをさえ、世尊《せそん*》はこれを増上慢《ぞうじようまん*》とて難ぜられた。さすれば、証すべからざることを証せんと求めた爾《なんじ》のごときは、これを至極《しごく》の増上慢といわずしてなんといおうぞ。爾の求むるところは、阿羅漢《あらかん*》も辟支仏《びやくしぶつ*》もいまだ求むる能《あた》わず、また求めんともせざるところじゃ。哀れな悟浄よ。いかにして爾の魂はかくもあさましき迷路に入ったぞ。正観を得れば浄業《じようごう*》たちどころに成るべきに、爾、心相羸劣《しんそうるいれつ*》にして邪観《じやかん》に陥り、今この三途《さんず》無量《むりよう》の苦悩に遭《あ》う。惟《おも》うに、爾《なんじ》は観想《かんそう*》によって救わるべくもないがゆえに、これよりのちは、一切の思念を棄《す》て、ただただ身を働かすことによってみずからを救おうと心がけるがよい。時とは人の作用《はたらき》の謂《いい》じゃ。世界は、概観によるときは無意味のごとくなれども、その細部に直接働きかけるときはじめて無限の意味を有《も》つのじゃ。悟浄よ。まずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め。身の程知らぬ『何故』は、向後《こうご》一切打捨てることじゃ。これをよそにして、爾の救いはないぞ。さて、今年の秋、この流沙河《りゆうさが》を東から西へと横切る三人の僧があろう。西方金蝉《きんせん》長老の転生《うまれかわり》、玄奘法師《げんじようほうし》と、その二人の弟子どもじゃ。唐《とう》の太宗皇帝《たいそうこうてい》の綸命《りんめい》を受け、天竺国《てんじくこく》大雷音寺《だいらいおんじ》に大乗三蔵《だいじようさんぞう》の真経《しんぎよう》をとらんとて赴《おもむ》くものじゃ。悟浄よ、爾《なんじ》も玄奘に従うて西方に赴《おもむ》け。これ爾にふさわしき位置《ところ》にして、また、爾にふさわしき勤めじゃ。途《みち》は苦しかろうが、よく、疑わずして、ただ努めよ。玄奘の弟子の一人に悟空《ごくう》なるものがある。無知無識にして、ただ、信じて疑わざるものじゃ。爾は特にこの者について学ぶところが多かろうぞ。」
悟浄がふたたび頭をあげたとき、そこには何も見えなかった。渠《かれ》は茫然《ぼうぜん》と水底の月明の中に立ちつくした。妙な気持である。ぼんやりした頭の隅で、渠は次のようなことをとりとめもなく考えていた。
「……そういうことが起こりそうな者に、そういうことが起こり、そういうことが起こりそうなときに、そういうことが起こるんだな。半年前の俺《おれ》だったら、今のようなおかしな夢なんか見るはずはなかったんだがな。……今の夢の中の菩薩《ぼさつ》の言葉だって、考えてみりゃ、女〓《じよう》氏や〓髯鮎子《きゆうぜんねんし》の言葉と、ちっとも違ってやしないんだが、今夜はひどく身にこたえるのは、どうも変だぞ。そりゃ俺だって、夢なんかが救済《すくい》になるとは思いはしないさ。しかし、なぜか知らないが、もしかすると、今の夢のお告げの唐僧《とうそう》とやらが、ほんとうにここを通るかもしれないというような気がしてしかたがない。そういうことが起こりそうなときには、そういうことが起こるものだというやつでな。……」
渠はそう思って久しぶりに微笑した。
七
その年の秋、悟浄《ごじよう》は、はたして、大唐《だいとう》の玄奘法師《げんじようほうし》に値遇《ちぐう》し奉り、その力で、水から出て人間となりかわることができた。そうして、勇敢にして天真爛漫《てんしんらんまん》な聖天大聖《せいてんたいせい》孫悟空《そんごくう》や、怠惰《たいだ》な楽天家、天蓬元帥《てんぽうげんすい》猪悟能《ちよごのう》とともに、新しい遍歴《へんれき》の途に上ることとなった。しかし、その途上でも、まだすっかりは昔の病の脱《ぬ》け切っていない悟浄は、依然として独り言の癖を止《や》めなかった。渠《かれ》は呟《つぶや》いた。
「どうもへんだな。どうも腑《ふ》に落ちない。分からないことを強《し》いて尋ねようとしなくなることが、結局、分かったということなのか? どうも曖昧《あいまい》だな! あまりみごとな脱皮《だつぴ》ではないな! フン、フン、どうも、うまく納得《なつとく》がいかぬ。とにかく、以前ほど、苦にならなくなったのだけは、ありがたいが……。」
――「わが西遊記」の中――
悟浄歎異 ―沙門悟浄の手記―
昼餉《ひるげ》ののち、師父《しふ》が道ばたの松の樹の下でしばらく憩《いこ》うておられる間、悟空《ごくう》は八戒《はつかい》を近くの原っぱに連出して、変身の術の練習をさせていた。
「やってみろ!」と悟空が言う。「竜《りゆう》になりたいとほんとうに思うんだ。いいか。ほんとうにだぜ。この上なしの、突きつめた気持で、そう思うんだ。ほかの雑念はみんな棄《す》ててだよ。いいか。本気にだぜ。この上なしの・とことんの・本気にだぜ。」
「よし!」と八戒は眼を閉じ、印《いん》を結んだ。八戒の姿が消え、五尺ばかりの青大将《あおだいしよう》が現われた。そばで見ていた俺《おれ》は思わず吹出してしまった。
「ばか! 青大将にしかなれないのか!」と悟空が叱《しか》った。青大将が消えて八戒が現われた。「だめだよ、俺《おれ》は。まったくどうしてかな?」と八戒は面目なげに鼻を鳴らした。
「だめだめ。てんで気持が凝《こ》らないんじゃないか、お前は。もう一度やってみろ。いいか。真剣に、かけ値なしの真剣になって、竜になりたい竜になりたいと思うんだ。竜になりたいという気持だけになって、お前というものが消えてしまえばいいんだ。」
よし、もう一度と八戒は印を結ぶ。今度は前と違って奇怪なものが現われた。錦蛇《にしきへび》には違いないが、小さな前肢《まえあし》が生えていて、大蜥蜴《おおとかげ》のようでもある。しかし、腹部は八戒自身に似てブヨブヨ膨《ふく》れており、短い前肢で二、三歩匍《は》うと、なんとも言えない無恰好《ぶかつこう》さであった。俺はまたゲラゲラ笑えてきた。
「もういい。もういい。止《や》めろ!」と悟空が怒鳴る。頭を掻《か》き掻き八戒が現われる。
悟空。お前の竜になりたいという気持が、まだまだ突きつめていないからだ。だからだめなんだ。
八戒。そんなことはない。これほど一生懸命に、竜になりたい竜になりたいと思いつめているんだぜ。こんなに強く、こんなにひたむきに。
悟空。お前にそれができないということが、つまり、お前の気持の統一がまだ成っていないということになるんだ。
八戒。そりゃひどいよ。それは結果論じゃないか。
悟空。なるほどね。結果からだけ見て原因を批判することは、けっして最上のやり方じゃないさ。しかし、この世では、どうやらそれがいちばん実際的に確かな方法のようだぜ。今のお前の場合なんか、明らかにそうだからな。
悟空によれば、変化《へんげ》の法とは次のごときものである。すなわち、あるものになりたいという気持が、この上なく純粋に、この上なく強烈であれば、ついにはそのものになれる。なれないのは、まだその気持がそこまで至っていないからだ。法術の修行とは、かくのごとく己《おのれ》の気持を純一無垢《むく》、かつ強烈なものに統一する法を学ぶに在《あ》る。この修行は、かなりむずかしいものには違いないが、いったんその境に達したのちは、もはや以前のような大努力を必要とせず、ただ心をその形に置くことによって容易に目的を達しうる。これは、他の諸芸におけると同様である。変化《へんげ》の術が人間にできずして狐狸《こり》にできるのは、つまり、人間には関心すべき種々の事柄があまりに多いがゆえに精神統一が至難であるに反し、野獣は心を労すべき多くの瑣事《さじ》を有《も》たず、したがってこの統一が容易だからである、云々《うんぬん》。
悟空《ごくう》は確かに天才だ。これは疑いない。それははじめてこの猿《さる》を見た瞬間にすぐ感じ取られたことである。初め、赭顔《あからがお》・鬚面《ひげづら》のその容貌《ようぼう》を醜いと感じた俺《おれ》も、次の瞬間には、彼の内から溢《あふ》れ出るものに圧倒されて、容貌のことなど、すっかり忘れてしまった。今では、ときにこの猿の容貌を美しい(とは言えぬまでも少なくともりっぱだ)とさえ感じるくらいだ。その面魂《つらだましい》にもその言葉つきにも、悟空が自己に対して抱いている信頼が、生き生きと溢《あふ》れている。この男は嘘《うそ》のつけない男だ。誰に対してよりも、まず自分に対して。この男の中には常に火が燃えている。豊かな、激しい火が。その火はすぐにかたわらにいる者に移る。彼の言葉を聞いているうちに、自然にこちらも彼の信ずるとおりに信じないではいられなくなってくる。彼のかたわらにいるだけで、こちらまでが何か豊かな自信に充《み》ちてくる。彼は火種《ひだね》。世界は彼のために用意された薪《たきぎ》。世界は彼によって燃されるために在る。
我々にはなんの奇異もなく見える事柄も、悟空の眼から見ると、ことごとくすばらしい冒険の端緒だったり、彼の壮烈な活動を促《うなが》す機縁だったりする。もともと意味を有《も》った外《そと》の世界が彼の注意を惹《ひ》くというよりは、むしろ、彼のほうで外の世界に一つ一つ意味を与えていくように思われる。彼の内なる火が、外の世界に空《むな》しく冷えたまま眠っている火薬に、いちいち点火していくのである。探偵の眼をもってそれらを探し出すのではなく、詩人の心をもって(恐ろしく荒っぽい詩人だが)彼に触れるすべてを温《あたた》め、(ときに焦《こ》がす惧《おそ》れもないではない。)そこから種々な思いがけない芽を出させ、実を結ばせるのだ。だから、渠《かれ》・悟空《ごくう》の眼にとって平凡陳腐《ちんぷ》なものは何一つない。毎日早朝に起きると決まって彼は日の出を拝み、そして、はじめてそれを見る者のような驚嘆をもってその美に感じ入っている。心の底から、溜息《ためいき》をついて、讃嘆《さんたん》するのである。これがほとんど毎朝のことだ。松の種子から松の芽の出かかっているのを見て、なんたる不思議さよと眼を瞠《みは》るのも、この男である。
この無邪気な悟空の姿と比べて、一方、強敵と闘っているときの彼を見よ! なんと、みごとな、完全な姿であろう! 全身些《いささ》かの隙《すき》もない逞《たくま》しい緊張。律動的で、しかも一分《ぶ》のむだもない棒の使い方。疲れを知らぬ肉体が歓《よろこ》び・たけり・汗ばみ・跳《は》ねている・その圧倒的な力量感。いかなる困難をも欣《よろこ》んで迎える強靭《きようじん》な精神力の横溢《おういつ》。それは、輝く太陽よりも、咲誇る向日葵《ひまわり》よりも、鳴盛《なきさか》る蝉《せみ》よりも、もっと打込んだ・裸身の・壮《さか》んな・没我的な・灼熱《しやくねつ》した美しさだ。あのみっともない猿《さる》の闘っている姿は。
一《ひと》月ほど前、彼が翠雲《すいうん》山中で大いに牛魔《ぎゆうま》大王と戦ったときの姿は、いまだにはっきり眼底に残っている。感嘆のあまり、俺《おれ》はそのときの戦闘経過を詳しく記録に取っておいたくらいだ。
……牛魔王一匹の香〓《こうしよう》と変じ悠然《ゆうぜん》として草を喰《くら》いいたり。悟空《ごくう》これを悟り虎《とら》に変じ駈《か》け来たりて香〓を喰わんとす。牛魔王急に大豹《だいひよう》と化して虎を撃たんと飛びかかる。悟空これを見て〓猊《からしし》となり大豹目がけて襲いかかれば、牛魔王、さらばと黄獅《きじし》に変じ霹靂《へきれき》のごとくに哮《ほえたけ》って〓猊《からしし》を引裂かんとす。悟空このとき地上に転倒すと見えしが、ついに一匹の大象となる。鼻は長蛇《ちようだ》のごとく牙《きば》は筍《たかんな》に似たり。牛魔王堪えかねて本相を顕《あら》わし、たちまち一匹の大白牛《はくぎゆう》たり。頭は高峯《こうほう》のごとく眼は電光のごとく双角は両座の鉄塔に似たり。頭より尾に至る長さ千余丈、蹄《ひづめ》より背上に至る高さ八百丈。大音に呼ばわって曰《いわ》く、〓《なんじ》悪猴《わるざる》今我をいかんとするや。悟空また同じく本相を顕《あら》わし、大喝《だいかつ》一声するよと見るまに、身の高さ一万丈、頭《かしら》は泰山《たいざん》に似て眼は日月のごとく、口はあたかも血池にひとし。奮然鉄棒を揮《ふる》って牛魔王を打つ。牛魔王角《つの》をもってこれを受止め、両人半山の中にあってさんざんに戦いければ、まことに山も崩れ海も湧返《わきかえ》り、天地もこれがために反覆《はんぷく》するかと、すさまじかり。……
なんという壮観だったろう! 俺《おれ》はホッと溜息《ためいき》を吐いた。そばから助太刀《すけだち》に出ようという気も起こらない。孫行者《そんぎようじや》の負ける心配がないからというのではなく、一幅《ぷく》の完全な名画の上にさらに拙《つたな》い筆を加えるのを愧《は》じる気持からである。
災厄《さいやく》は、悟空《ごくう》の火にとって、油である。困難に出会うとき、彼の全身は(精神も肉体も)焔々《えんえん》と燃上がる。逆に、平穏無事のとき、彼はおかしいほど、しょげている。独楽《こま》のように、彼は、いつも全速力で廻《まわ》っていなければ、倒れてしまうのだ。困難な現実も、悟空にとっては、一つの地図――目的地への最短の路がハッキリと太く線を引かれた一つの地図として映るらしい。現実の事態の認識と同時に、その中にあって自己の目的に到達すべき道が、実に明瞭《めいりよう》に、彼には見えるのだ。あるいは、その途《みち》以外の一切が見えない、といったほうがほんとうかもしれぬ。闇夜《やみよ》の発光文字のごとくに、必要な途《みち》だけがハッキリ浮かび上がり、他は一切見えないのだ。我々鈍根《どんこん》のものがいまだ茫然《ぼうぜん》として考えも纏《まと》まらないうちに、悟空はもう行動を始める。目的への最短の道に向かって歩き出しているのだ。人は、彼の武勇や腕力を云々《うんぬん》する。しかし、その驚くべき天才的な智慧《ちえ》については案外知らないようである。彼の場合には、その思慮や判断があまりにも渾然《こんぜん》と、腕力行為の中に溶け込んでいるのだ。
俺《おれ》は、悟空の文盲《もんもう》なことを知っている。かつて天上で弼馬温《ひつばおん》なる馬方《うまかた》の役に任ぜられながら、弼馬温の字も知らなければ、役目の内容も知らないでいたほど、無学なことをよく知っている。しかし、俺は、悟空の(力と調和された)智慧《ちえ》と判断の高さとを何ものにも優《ま》して高く買う。悟空は教養が高いとさえ思うこともある。少なくとも、動物・植物・天文に関するかぎり、彼の知識は相当なものだ。彼は、たいていの動物なら一見してその性質、強さの程度、その主要な武器の特徴などを見抜いてしまう。雑草についても、どれが薬草で、どれが毒草かを、実によく心得ている。そのくせ、その動物や植物の名称(世間一般に通用している名前)は、まるで知らないのだ。彼はまた、星によって方角や時刻や季節を知るのを得意としているが、角宿《かくしゆく》という名も、心宿《しんしゆく》という名も知りはしない。二十八宿《しゆく》の名をことごとくそらんじていながら実物《ほんもの》を見分けることのできぬ俺と比べて、なんという相異だろう! 目に一丁字《いつていじ》のないこの猴《さる》の前にいるときほど、文字による教養の哀れさを感じさせられることはない。
悟空《ごくう》の身体の部分部分は――目も耳も口も脚も手も――みんないつも嬉《うれ》しくて堪《たま》らないらしい。生き生きとし、ピチピチしている。ことに戦う段になると、それらの各部分は歓喜のあまり、花にむらがる夏の蜂《はち》のようにいっせいにワァーッと歓声を挙げるのだ。悟空の戦いぶりが、その真剣な気魄《きはく》にもかかわらず、どこか遊戯《ゆうげ》の趣を備えているのは、このためであろうか。人はよく「死ぬ覚悟で」などというが、悟空という男はけっして死ぬ覚悟なんかしない。どんな危険に陥った場合でも、彼はただ、今自分のしている仕事(妖怪《ようかい》を退治するなり、三蔵法師《さんぞうほうし》を救い出すなり)の成否を憂えるだけで、自分の生命のことなどは、てんで考えの中に浮かんでこないのである。太上老君《たいじようろうくん》の八卦炉《はつけろ*》中に焼殺されかかったときも、銀角大王の泰山《たいざん》圧頂の法に遭《お》うて、泰山・須弥山《しゆみせん》・峨眉山《がびさん》の三山の下に圧《お》し潰《つぶ》されそうになったときも、彼はけっして自己の生命のために悲鳴を上げはしなかった。最も苦しんだのは、小雷音寺《しようらいおんじ》の黄眉《こうび》老仏のために不思議な金鐃《きんによう*》の下に閉じ込められたときである。推《お》せども突けども金鐃は破れず、身を大きく変化させて突破ろうとしても、悟空の身が大きくなれば金鐃も伸びて大きくなり、身を縮めれば金鐃もまた縮まる始末で、どうにもしようがない。身の毛を抜いて錐《きり》と変じ、これで穴を穿《うが》とうとしても、金鐃には傷一つつかない。そのうちに、ものを蕩《と》かして水と化するこの器の力で、悟空の臀部《でんぶ》のほうがそろそろ柔らかくなりはじめたが、それでも彼はただ妖怪に捕えられた師父《しふ》の身の上ばかりを気遣《きづか》っていたらしい。悟空には自分の運命に対する無限の自信があるのだ(自分ではその自信を意識していないらしいが。)やがて、天界から加勢に来た亢金竜《こうきんりよう》がその鉄のごとき角をもって満身の力をこめ、外から金鐃《きんによう》を突通した。角はみごとに内まで突通ったが、この金鐃はあたかも人の肉のごとくに角に纏《まと》いついて、少しの隙《すき》もない。風の洩《も》るほどの隙間《すきま》でもあれば、悟空は身をけし粒と化して脱《のが》れ出るのだが、それもできない。半ば臀部は溶けかかりながら、苦心惨憺《さんたん》の末、ついに耳の中から金箍棒《きんそうぼう》を取出して鋼鑚《きり》に変え、金竜の角の上に孔《あな》を穿《うが》ち、身を芥子粒《けしつぶ》に変じてその孔《あな》に潜《ひそ》み、金竜に角を引抜かせたのである。ようやく助かったのちは、柔らかくなった己《おのれ》の尻《しり》のことを忘れ、すぐさま師父《しふ》の救い出しにかかるのだ。あとになっても、あのときは危なかったなどとけっして言ったことがない。「危ない」とか「もうだめだ」とか、感じたことがないのだろう。この男は、自分の寿命とか生命とかについて考えたこともないに違いない。彼の死ぬときは、ポクンと、自分でも知らずに死んでいるだろう。その一瞬前までは溌剌《はつらつ》と暴れ廻《まわ》っているに違いない。まったく、この男の事業は、壮大という感じはしても、けっして悲壮な感じはしないのである。
猿《さる》は人真似《ひとまね》をするというのに、これはまた、なんと人真似をしない猴《さる》だろう! 真似どころか、他人から押付けられた考えは、たといそれが何千年の昔から万人に認められている考え方であっても、絶対に受付けないのだ。自分で充分に納得《なつとく》できないかぎりは。
因襲《いんしゆう》も世間的名声もこの男の前にはなんの権威もない。
悟空《ごくう》の今一つの特色は、けっして過去を語らぬことである。というより、彼は、過去《すぎさ》ったことは一切忘れてしまうらしい。少なくとも個々の出来事は忘れてしまうのだ。その代わり、一つ一つの経験の与えた教訓はその都度《つど》、彼の血液の中に吸収され、ただちに彼の精神および肉体の一部と化してしまう。いまさら、個々の出来事を一つ一つ記憶している必要はなくなるのである。彼が戦略上の同じ誤りをけっして二度と繰返さないのを見ても、これは判《わか》る。しかも彼はその教訓を、いつ、どんな苦い経験によって得たのかは、すっかり忘れ果てている。無意識のうちに体験を完全に吸収する不思議な力をこの猴《さる》は有《も》っているのだ。
ただし、彼にもけっして忘れることのできぬ怖《おそ》ろしい体験がたった一つあった。あるとき彼はそのときの恐ろしさを俺《おれ》に向かってしみじみと語ったことがある。それは、彼が始めて釈迦如来《しやかによらい》に知遇《ちぐう》し奉ったときのことだ。
そのころ、悟空は自分の力の限界を知らなかった。彼が藕糸歩雲《ぐうしほうん》の履《くつ*》を穿《は》き鎖子《さし》黄金の甲《よろい》を着け、東海竜王《とうかいりゆうおう》から奪った一万三千五百斤《きん》の如意《によい》金箍棒《きんそうぼう》を揮《ふる》って闘うところ、天上にも天下にもこれに敵する者がないのである。列仙《れつせん》の集まる蟠桃会《はんとうえ*》を擾《さわ》がし、その罰として閉じ込められた八卦炉《はつけろ》をも打破って飛出すや、天上界も狭しとばかり荒れ狂うた。群がる天兵を打倒し薙《な》ぎ倒し、三十六員の雷将を率《ひき》いた討手《うつて》の大将祐聖真君《ゆうせいしんくん》を相手に、霊霄殿《りようしようでん》の前に戦うこと半日余り。そのときちょうど、迦葉《かしよう》・阿難《あなん》の二尊者《そんじや》を連れた釈迦牟尼如来《しやかむにによらい》がそこを通りかかり、悟空の前に立ち塞《ふさ》がって闘いを停《と》めたもうた。悟空が怫然《ふつぜん》として喰《く》ってかかる。如来が笑いながら言う。「たいそう威張《いば》っているようだが、いったい、お前はいかなる道を修《ず》しえたというのか?」悟空曰《いわ》く「東勝神州傲来国《ごうらいこく》華果山《かかざん》に石卵より生まれたるこの俺《おれ》の力を知らぬとは、さてさて愚かなやつ。俺はすでに不老長生《ふろうちようせい》の法を修《ず》し畢《おわ》り、雲に乗り風に御《ぎよ》し一瞬に十万八千里を行く者だ。」如来曰《いわ》く、「大きなことを言うものではない。十万八千里はおろかわが掌《てのひら》に上って、さて、その外へ飛出すことすらできまいに。」「何を!」と腹を立てた悟空《ごくう》は、いきなり如来《によらい》の掌《てのひら》の上に跳《おど》り上がった。「俺《おれ》は通力《つうりき》によって八十万里を飛行《ひぎょう》するのに、〓《なんじ》の掌の外に飛出せまいとは何事だ!」言いも終わらず〓斗雲《きんとうん》に打乗ってたちまち二、三十万里も来たかと思われるころ、赤く大いなる五本の柱を見た。渠《かれ》はこの柱のもとに立寄り、真中の一本に、斉天大聖《せいてんたいせい》到此一遊《とうしいちゆう》と墨くろぐろと書きしるした。さてふたたび雲に乗って如来の掌に飛帰り、得々《とくとく》として言った。「掌どころか、すでに三十万里の遠くに飛行して、柱にしるしを留《とど》めてきたぞ!」「愚かな山猿《やまざる》よ!」と如来は笑った。「汝《なんじ》の通力がそもそも何事を成しうるというのか? 汝は先刻からわが掌の内を往返したにすぎぬではないか。嘘《うそ》と思わば、この指を見るがよい。」悟空が異《あや》しんで、よくよく見れば、如来の右手の中指に、まだ墨痕《ぼつこん》も新しく、斉天大聖到此一遊と己《おのれ》の筆跡で書き付けてある。「これは?」と驚いて振仰《ふりあお》ぐ如来の顔から、今までの微笑が消えた。急に厳粛《げんしゆく》に変わった如来の目が悟空をキッと見据《みす》えたまま、たちまち天をも隠すかと思われるほどの大きさに拡《ひろ》がって、悟空の上にのしかかってきた。悟空は総身《そうみ》の血が凍るような怖ろしさを覚え、慌《あわ》てて掌の外へ跳《と》び出そうとしたとたんに、如来が手を翻《ひるがえ》して彼を取抑え、そのまま五指を化して五行山《ごぎようざん》とし、悟空をその山の下に押込め、〓《おん》嘛《ま》〓《に》叭《はつ》《めい》吽《うん*》の六字を金書して山頂に貼《は》りたもうた。世界が根柢《こんてい》から覆《くつがえ》り、今までの自分が自分でなくなったような昏迷《こんめい》に、悟空はなおしばらく顫《ふる》えていた。事実、世界は彼にとってそのとき以来一変したのである。爾後《じご》、餓《う》うるときは鉄丸を喰《くら》い、渇《かっ》するときは銅汁を飲んで、岩窟《がんくつ》の中に封じられたまま、贖罪《しょくざい》の期の充《み》ちるのを待たねばならなかった。悟空は、今までの極度の増上慢《ぞうじようまん》から、一転して極度の自信のなさに堕《お》ちた。彼は気が弱くなり、ときには苦しさのあまり、恥も外聞も構わずワアワアと大声で哭《な》いた。五百年経《た》って、天竺《てんじく》への旅の途中にたまたま通りかかった三蔵法師《さんぞうほうし》が五行山頂の呪符《じゆふ》を剥《は》がして悟空を解き放ってくれたとき、彼はまたワアワアと哭いた。今度のは嬉《うれ》し涙であった。悟空が三蔵に随《したが》ってはるばる天竺までついて行こうというのも、ただこの嬉しさありがたさからである。実に純粋で、かつ、最も強烈な感謝であった。
さて、今にして思えば、釈迦牟尼《しやかむに》によって取抑えられたときの恐怖が、それまでの悟空の・途方もなく大きな(善悪以前の)存在に、一つの地上的制限を与えたもののようである。しかもなお、この猿の形をした大きな存在が地上の生活に役立つものとなるためには、五行山の重みの下に五百年間押し付けられ、小さく凝集《ぎようしゆう》する必要があったのである。だが、凝固《ぎようこ》して小さくなった現在の悟空が、俺《おれ》たちから見ると、なんと、段違いにすばらしく大きくみごとであることか!
三蔵法師は不思議な方である。実に弱い。驚くほど弱い。変化《へんげ》の術ももとより知らぬ。途《みち》で妖怪《ようかい》に襲われれば、すぐに掴《つか》まってしまう。弱いというよりも、まるで自己防衛の本能がないのだ。この意気地のない三蔵法師に、我々三人が斉《ひと》しく惹《ひ》かれているというのは、いったいどういうわけだろう? (こんなことを考えるのは俺だけだ。悟空《ごくう》も八戒《はつかい》もただなんとなく師父《しふ》を敬愛しているだけなのだから。)私は思うに、我々は師父のあの弱さの中に見られるある悲劇的なものに惹《ひ》かれるのではないか。これこそ、我々・妖怪からの成上がり者には絶対にないところのものなのだから。三蔵法師は、大きなものの中における自分の(あるいは人間の、あるいは生き物の)位置を――その哀れさと貴《とうと》さとをハッキリ悟っておられる。しかも、その悲劇性に堪えてなお、正しく美しいものを勇敢に求めていかれる。確かにこれだ、我々になくて師に在《あ》るものは。なるほど、我々は師よりも腕力がある。多少の変化の術も心得ている。しかし、いったん己《おのれ》の位置の悲劇性を悟ったが最後、金輪際《こんりんざい》、正しく美しい生活を真面目《まじめ》に続けていくことができないに違いない。あの弱い師父《しふ》の中にある・この貴い強さには、まったく驚嘆のほかはない。内なる貴さが外《そと》の弱さに包まれているところに、師父の魅力があるのだと、俺《おれ》は考える。もっとも、あの不埒《ふらち》な八戒《はつかい》の解釈によれば、俺たちの――少なくとも悟空《ごくう》の師父に対する敬愛の中には、多分に男色的要素が含まれているというのだが。
まったく、悟空《ごくう》のあの実行的な天才に比べて、三蔵法師は、なんと実務的には鈍物《どんぶつ》であることか! だが、これは二人の生きることの目的が違うのだから問題にはならぬ。外面的な困難にぶつかったとき、師父は、それを切抜ける途《みち》を外に求めずして、内に求める。つまり自分の心をそれに耐えうるように構えるのである。いや、そのとき慌《あわ》てて構えずとも、外的な事故によって内なるものが動揺を受けないように、平生《へいぜい》から構えができてしまっている。いつどこで窮死《きゆうし》してもなお幸福でありうる心を、師はすでに作り上げておられる。だから、外に途を求める必要がないのだ。我々から見ると危《あぶ》なくてしかたのない肉体上の無防禦《むぼうぎよ》も、つまりは、師の精神にとって別にたいした影響はないのである。悟空のほうは、見た眼にはすこぶる鮮やかだが、しかし彼の天才をもってしてもなお打開できないような事態が世には存在するかもしれぬ。しかし、師の場合にはその心配はない。師にとっては、何も打開する必要がないのだから。
悟空には、嚇怒《かくど》はあっても苦悩はない。歓喜はあっても憂愁《ゆうしゆう》はない。彼が単純にこの生を肯定《こうてい》できるのになんの不思議もない。三蔵法師の場合はどうか? あの病身と、禦《ふせ》ぐことを知らない弱さと、常に妖怪《ようかい》どもの迫害を受けている日々とをもってして、なお師父《しふ》は怡《たの》しげに生を肯《うべな》われる。これはたいしたことではないか!
おかしいことに、悟空は、師の自分より優《まさ》っているこの点を理解していない。ただなんとなく師父から離れられないのだと思っている。機嫌《きげん》の悪いときには、自分が三蔵法師に随《したが》っているのは、ただ緊箍咒《きんそうじゆ》(悟空の頭に箝《は》められている金の輪で、悟空が三蔵法師の命に従わぬときにはこの輪が肉に喰《く》い入って彼の頭を緊《し》め付け、堪えがたい痛みを起こすのだ。)のためだ、などと考えたりしている。そして「世話の焼ける先生だ。」などとブツブツ言いながら、妖怪に捕えられた師父を救い出しに行くのだ。「あぶなくて見ちゃいられない。どうして先生はああなんだろうなあ!」と言うとき、悟空はそれを弱きものへの憐愍《れんびん》だと自惚《うぬぼ》れているらしいが、実は、悟空の師に対する気持の中に、生き物のすべてがもつ・優者に対する本能的な畏敬《いけい》、美と貴さへの憧憬《どうけい》がたぶんに加わっていることを、彼はみずから知らぬのである。
もっとおかしいのは、師父自身が、自分の悟空に対する優越をご存じないことだ。妖怪の手から救い出されるたびごとに、師は涙を流して悟空に感謝される。「お前が助けてくれなかったら、わしの生命はなかったろうに!」と。だが、実際は、どんな妖怪に喰《く》われようと、師の生命は死にはせぬのだ。
二人とも自分たちの真の関係を知らずに、互いに敬愛し合って(もちろん、ときにはちょっとしたいさかいはあるにしても)いるのは、おもしろい眺めである。およそ対蹠《たいせき》的なこの二人の間に、しかし、たった一つ共通点があることに、俺《おれ》は気がついた。それは、二人がその生き方において、ともに、所与《しよよ》を必然と考え、必然を完全と感じていることだ。さらには、その必然を自由と看做《みな》していることだ。金剛石《こんごうせき》と炭とは同じ物質からでき上がっているのだそうだが、その金剛石と炭よりももっと違い方のはなはだしいこの二人の生き方が、ともにこうした現実の受取り方の上に立っているのはおもしろい。そして、この「必然と自由の等置《とうち》」こそ、彼らが天才であることの徴《しるし》でなくてなんであろうか?
悟空《ごくう》、八戒《はつかい》、俺《おれ》と我々三人は、まったくおかしいくらいそれぞれに違っている。日が暮れて宿がなく、路傍の廃寺に泊まることに相談が一決するときでも、三人はそれぞれ違った考えのもとに一致しているのである。悟空はかかる廃寺こそ究竟《くつきよう》の妖怪《ようかい》退治の場所だとして、進んで選ぶのだ。八戒は、いまさらよそを尋ねるのも億劫《おつくう》だし、早く家にはいって食事もしたいし、眠くもあるし、というのだし、俺の場合は、「どうせこのへんは邪悪な妖精《ようせい》に満ちているのだろう。どこへ行ったって災難に遭《あ》うのだとすれば、ここを災難の場所として選んでもいいではないか」と考えるのだ。生きものが三人寄れば、皆このように違うものであろうか? 生きものの生き方ほどおもしろいものはない。
孫行者《そんぎようじや》の華《はな》やかさに圧倒されて、すっかり影の薄らいだ感じだが、猪悟能八戒《ちよごのうはつかい》もまた特色のある男には違いない。とにかく、この豚は恐ろしくこの生を、この世を愛しておる。嗅覚《きゆうかく》・味覚・触覚のすべてを挙げて、この世に執《しゆう》しておる。あるとき八戒《はつかい》が俺《おれ》に言ったことがある。「我々が天竺《てんじく》へ行くのはなんのためだ? 善業を修《ず》して来世に極楽に生まれんがためだろうか? ところで、その極楽《ごくらく》とはどんなところだろう。蓮《はす》の葉の上に乗っかってただゆらゆら揺れているだけではしょうがないじゃないか。極楽にも、あの湯気の立つ羹《あつもの》をフウフウ吹きながら吸う楽しみや、こりこり皮の焦《こ》げた香ばしい焼肉を頬張《ほおば》る楽しみがあるのだろうか? そうでなくて、話に聞く仙人のようにただ霞《かすみ》を吸って生きていくだけだったら、ああ、厭《いや》だ、厭だ。そんな極楽なんか、まっぴらだ! たとえ、辛《つら》いことがあっても、またそれを忘れさせてくれる・堪えられぬ怡《たの》しさのあるこの世がいちばんいいよ。少なくとも俺《おれ》にはね。」そう言ってから八戒は、自分がこの世で楽しいと思う事柄を一つ一つ数え立てた。夏の木蔭《こかげ》の午睡。渓流の水浴。月夜の吹笛《すいてき》。春暁の朝寐《あさね》。冬夜の炉辺歓談。……なんと愉《たの》しげに、また、なんと数多くの項目を彼は数え立てたことだろう! ことに、若い女人の肉体の美しさと、四季それぞれの食物の味に言い及んだとき、彼の言葉はいつまで経《た》っても尽きぬもののように思われた。俺はたまげてしまった。この世にかくも多くの怡《たの》しきことがあり、それをまた、かくも余すところなく味わっているやつがいようなどとは、考えもしなかったからである。なるほど、楽しむにも才能の要《い》るものだなと俺《おれ》は気がつき、爾来《じらい》、この豚を軽蔑《けいべつ》することを止《や》めた。だが、八戒《はつかい》と語ることが繁《しげ》くなるにつれ、最近妙なことに気がついてきた。それは、八戒の享楽主義の底に、ときどき、妙に不気味なものの影がちらりと覗《のぞ》くことだ。「師父《しふ》に対する尊敬と、孫行者《そんぎようじや》への畏怖《いふ》とがなかったら、俺はとっくにこんな辛《つら》い旅なんか止《や》めてしまっていたろう。」などと口では言っている癖に、実際はその享楽家的な外貌《がいぼう》の下に戦々兢々《せんせんきようきよう》として薄氷《はくひよう》を履《ふ》むような思いの潜んでいることを、俺は確かに見抜いたのだ。いわば、天竺《てんじく》へのこの旅が、あの豚にとっても(俺にとってと同様)、幻滅と絶望との果てに、最後に縋《すが》り付いたただ一筋の糸に違いないと思われる節《ふし》が確かにあるのだ。だが、今は八戒の享楽主義の秘密への考察に耽《ふけ》っているわけにはいかぬ。とにかく、今のところ、俺は孫行者《そんぎょうじや》からあらゆるものを学び取らねばならぬのだ。他のことを顧みている暇はない。三蔵法師の智慧《ちえ》や八戒の生き方は、孫行者を卒業してからのことだ。まだまだ、俺は悟空《ごくう》からほとんど何ものをも学び取っておりはせぬ。流沙河《りゆうさが》の水を出てから、いったいどれほど進歩したか? 依然たる呉下《ごか》の旧阿蒙《きゆうあもう*》ではないのか。この旅行における俺の役割にしたって、そうだ。平穏無事のときに悟空の行きすぎを引き留め、毎日の八戒の怠惰《たいだ》を戒《いまし》めること。それだけではないか。何も積極的な役割がないのだ。俺みたいな者は、いつどこの世に生まれても、結局は、調節者、忠告者、観測者にとどまるのだろうか。けっして行動者にはなれないのだろうか?
孫行者の行動を見るにつけ、俺は考えずにはいられない。「燃え盛る火は、みずからの燃えていることを知るまい。自分は燃えているな、などと考えているうちは、まだほんとうに燃えていないのだ。」と。悟空《ごくう》の闊達《かつたつ》無碍《むげ》の働きを見ながら俺《おれ》はいつも思う。「自由な行為とは、どうしてもそれをせずにはいられないものが内に熟してきて、おのずと外に現われる行為の謂《いい》だ。」と。ところで、俺はそれを思うだけなのだ。まだ一歩でも悟空についていけないのだ。学ぼう、学ぼうと思いながらも、悟空の雰囲気《ふんいき》の持つ桁違《けたちが》いの大きさに、また、悟空的なるものの肌合《はだあ》いの粗《あら》さに、恐れをなして近づけないのだ。実際、正直なところを言えば、悟空は、どう考えてもあまり有難《ありがた》い朋輩《ほうばい》とは言えない。人の気持に思い遣《や》りがなく、ただもう頭からガミガミ怒鳴り付ける。自己の能力を標準にして他人《ひと》にもそれを要求し、それができないからとて怒《おこ》りつけるのだから堪《たま》らない。彼は自分の才能の非凡さについての自覚がないのだとも言える。彼が意地悪でないことだけは、確かに俺たちにもよく解《わか》る。ただ彼には弱者の能力の程度がうまく呑《の》み込めず、したがって、弱者の狐疑《こぎ》・躊躇《ちゆうちよ》・不安などにいっこう同情がないので、つい、あまりのじれったさに疳癪《かんしやく》を起こすのだ。俺たちの無能力が彼を怒らせさえしなければ、彼は実に人の善い無邪気な子供のような男だ。八戒はいつも寐《ね》すごしたり怠《なま》けたり化け損《そこな》ったりして、怒られどおしである。俺が比較的彼を怒らせないのは、今まで彼と一定の距離を保っていて彼の前にあまりボロを出さないようにしていたからだ。こんなことではいつまで経《た》っても学べるわけがない。もっと悟空に近づき、いかに彼の荒さが神経にこたえようとも、どんどん叱《しか》られ殴《なぐ》られ罵《ののし》られ、こちらからも罵り返して、身をもってあの猿《さる》からすべてを学び取らねばならぬ。遠方から眺めて感嘆しているだけではなんにもならない。
夜。俺《おれ》は独《ひと》り目覚めている。
今夜は宿が見つからず、山蔭《やまかげ》の渓谷の大樹の下に草を藉《し》いて、四人がごろ寐《ね》をしている。一人おいて向こうに寐ているはずの悟空《ごくう》の鼾《いびき》が山谷《さんこく》に谺《こだま》するばかりで、そのたびに頭上の木の葉の露がパラパラと落ちてくる。夏とはいえ山の夜気はさすがにうすら寒い。もう真夜中は過ぎたに違いない。俺は先刻から仰向《あおむ》けに寐ころんだまま、木の葉の隙《あいだ》から覗《のぞ》く星どもを見上げている。寂しい。何かひどく寂しい。自分があの淋《さび》しい星の上にたった独りで立って、まっ暗な・冷たい・なんにもない世界の夜を眺めているような気がする。星というやつは、以前から、永遠だの無限だのということを考えさせるので、どうも苦手《にがて》だ。それでも、仰向《あおむ》いているものだから、いやでも星を見ないわけにいかない。青白い大きな星のそばに、紅《あか》い小さな星がある。そのずっと下の方に、やや黄色味を帯びた暖かそうな星があるのだが、それは風が吹いて葉が揺れるたびに、見えたり隠れたりする。流れ星が尾を曳《ひ》いて、消える。なぜか知らないが、そのときふと俺は、三蔵法師《さんぞうほうし》の澄んだ寂しげな眼を思い出した。常に遠くを見つめているような・何物かに対する憫《あわ》れみをいつも湛《たた》えているような眼である。それが何に対する憫れみなのか、平生《へいぜい》はいっこう見当が付かないでいたが、今、ひょいと、判《わか》ったような気がした。師父《しふ》はいつも永遠を見ていられる。それから、その永遠と対比された地上のなべてのものの運命《さだめ》をもはっきりと見ておられる。いつかは来る滅亡《ほろび》の前に、それでも可憐《かれん》に花開こうとする叡智《ちえ》や愛情《なさけ》や、そうした数々の善《よ》きものの上に、師父は絶えず凝乎《じつ》と愍《あわ》れみの眼差《まなざし》を注《そそ》いでおられるのではなかろうか。星を見ていると、なんだかそんな気がしてきた。俺は起上がって、隣に寐《ね》ておられる師父の顔を覗《のぞ》き込む。しばらくその安らかな寝顔を見、静かな寝息を聞いているうちに、俺は、心の奥に何かがポッと点火されたようなほの温かさを感じてきた。
――「わが西遊記」の中――
注 釈
李 陵
*漢の武帝 前一五九年―前八七年。前漢の第七代の皇帝。一六歳で即位。専制的な中央集権制を確立し、内外に積極的な政策を行なった。国内的には、儒教《じゆきよう》を公認の教学とし、水利事業を興して経済開発を推進、対外的には匈奴《きようど》を討伐したのをはじめ四方を経略し版図を拡大した。西域《せいいき》への交通路も深く開かれた。しかし晩年には神仙道にふけり、政治・財政の破綻《はたん》が暴露され、反乱や盗賊が起こり、帝国衰微の傾向が現われた。みずから儒学を学び、文学を愛したのは中国の以後の歴史に大きく影響した。
*朔風 北風のこと。朔《さく》は北方。
*匈奴 紀元前四世紀末ころから蒙古《モンゴル》高原を本拠としていた遊牧騎馬民族。しばしば北方から漢民族をおびやかした。漢民族はそれを防ぐために、戦国時代から秦《しん》の始皇帝のころにかけて、万里の長城を築いた。冒頓単于《ぼくとつぜんう》(単于は匈奴語で君主の意味)のころ極盛となり、漢の高祖を白登山に攻囲し屈辱的な和議を結ばせたことがある。しかし武帝時代にはいると将軍衛青や霍去病《かくきよへい》にしばしば討伐されてやや衰えた。武帝の晩年には李広利が三回遠征している。第一回の遠征が天漢二年(前九九)である。のち匈奴は、後漢に至って南北に分裂、南匈奴はしだいに漢人に同化し、北匈奴は中国史上から姿を消したが、四世紀ヨーロッパに侵入したフン族は北匈奴だといわれる。人種的にはまだ定説がない。
*先年大宛を遠征して武名を挙げた弐師将軍李広利 太初《たいしよ》元年(前一〇四)に武帝は、当時中国人の足跡の及んだ最遠の地である大宛の国(今ソ連のフェルガーナ)にある弐師城に、李広利を弐師将軍に任命して六万の軍を与えて派遣、その国に産する名馬を求めさせた。四年めに三千余匹の馬をもたらした。その後、李広利は匈奴《きようど》を討つこと三回、ついに降《くだ》り、匈奴の地にて殺された。
*輜重 軍隊の荷物で武器や糧食や道具類。
*未央宮 漢の高祖が蕭何《しようか》に命じて造営した宮殿の名。長安(今の西安)にあった。
*荊楚 今の湖南・湖北省地方のこと。荊《けい》は古代中国の九州の一つで、この地方をいい、楚《そ》は春秋戦国時代にこの地方にあった国の名。
*南越 今の広東《カントン》地方にあった国。
*隋の煬帝 五六九年―六一八年。隋《ずい》の第二代の皇帝。父文帝のもとに中国統一の事業を達成、兄を失脚させ父を殺して即位した。奢侈《しやし》を好み、豪壮な宮殿を築いたり、南北に通ずる大運河を開いたりした。このとき百万の男女を動員したという。またしきりに外征を行なったが、高句麗《こうくり》遠征に失敗して政治的権威を失墜した。のち反乱が起こり部下に殺された。秦《しん》の始皇帝とともに中国史上の暴君として知られる。
*始皇帝 前二五九年―前二一〇年。前二二一年、はじめて中国を統一し始皇帝と称した。郡県制を実施して独裁的な中央集権体制を整え、土木・外征に努めた。将軍蒙恬《もうてん》に匈奴を討伐させて万里の長城を築いたり、南方へも軍をすすめて南海・桂林《けいりん》を平定。大規模な宮殿や帝陵を造営し、天下を巡遊して強大を誇った。また言論弾圧として焚書《ふんしよ》を行ない、政治を批判した儒生《じゆせい》四百余人を坑埋《あなう》めにした。帝の死後ただちに反乱が起こって、三代十五年にして統一国家秦は滅んだ。
*一揖 一礼すること。揖《ゆう》の礼とは拱手《きようしゆ》(腕を前で組む)して、上下または左右にふる礼である。
*胡笳 北方の異民族があしの葉を巻いて作ったふえ。悲痛な音色を出す。
*方士巫覡 方士は神仙道の修験者で、神秘的な方術を行なう。戦国時代に燕《えん》・斉《せい》の沿海地方(山東半島から渤海《ぼつかい》周辺)に起こったという。かれらは神秘性のゆえに畏敬《いけい》されるが、また合理性を逸脱《いつだつ》している人間として軽蔑《けいべつ》もされた。始皇帝や武帝のような不老長寿を願う君主にとり入って高い地位を占める者もあった。だから武帝時代には、燕斉《えんせい》の地で、腕をしごき「秘密の方術をもち神仙の術を行なう」と自称せぬ方士はないありさまであった。巫覡《ふげき》はみこで、巫が女、覡が男のみこ。みこの歴史は古いが、武帝のころは、とくに、珍しい南方のみこが宮中に出入りするようになった。
*司馬遷 前一四五年ごろ―前八六年ごろ。前漢の偉大な歴史家。司馬家は代々歴史家の家がらで、父談《たん》のあとをついで太史令《たいしれい》(天文・暦法をつかさどる官の長)となった。李陵事件で宮刑《きゆうけい》に処せられたが発奮して『史記《しき》』百三十巻を著述。これは上古の黄帝から時の皇帝武帝に至る紀伝体の通史で、以後の中国王朝の歴史の伝統的形式となった。簡潔で力強い描写は文学作品としても高く評価されている。
*春秋 中国古代の歴史書で、五経《きよう》の一つ。魯《ろ》の史官の手になる魯国の年代記で、隠公元年(前七二二)から哀公十四年(前四八一)までの二百四十年間を編年体でしるしたもの。孔子《こうし》がこれに筆を加えて、わずかな筆づかいで正邪善悪を正し(これを春秋の筆法という)、道のあるところ(微言大義という)を示したといわれる。孔子が『春秋』に道を託したということは『孟子《もうし》』にもすでに見えている。なお『春秋』の意義を解くものに『左氏《さし》』『公羊《くよう》』『穀梁《こくりよう》』の三伝がある。
*左伝 『春秋左氏伝《しゆんじゆうさしでん》』のこと。『春秋』の解説書。
*国語 『左氏伝』にもれた春秋時代の歴史を詳述した史書。左丘明の編といわれる。
*述而不作 論語《ろんご》の述而《じゆつじ》篇にある。古聖の道をうけ伝えるだけで、新説を立てないの意。
*項羽本紀 項羽(前二三二年―前二〇二年)は楚《そ》の将軍項燕《こうえん》の子。秦《しん》末に陳渉・呉広が乱を起こすのを見るや、おじの項梁《こうりよう》とともに兵をあげ、秦軍を撃破、首都咸陽《かんよう》に攻め入り秦を滅ぼして関中を領有したが、まもなく故郷の楚に帰って「西楚の覇王」と称した。性格は単純・豪宕《ごうとう》・磊落《らいらく》で、時に感情にもろいところもあった半面に残忍・激烈な感情の持ち主でもあった。そのため多くの敵を作ったかれはついに連合軍に垓下《がいか》で囲まれ、三十一歳で劇的な最期を遂げた。本紀とは、紀伝体の歴史書で、帝王の事跡をしるした部分。
*「力山ヲ抜キ気世ヲ蓋フ……若ヲ奈何ニセン」わが腕の力は山をも引き抜き、わが気力は天下をおおうて一飲みするに足る。だが時のめぐり合わせはわれに利あらずしてわれは敗《やぶ》れ、それを感じてか名馬の騅《すい》も前に進もうとしない。ああ騅が進んでくれないのはどうしようもない。いやそれにもましてわが愛する虞《ぐ》姫よ虞姫よ、ああそなたをどうしたらよいものであろう。
*楚の荘王 前六一四年―前五九一年在位。即位して三年間は鳴かず飛ばず、日夜、音楽を奏し女をはべらせ、宴飲したが、三年めに死を決していさめる者がありぷつりと淫楽《いんらく》をやめて政治を聞くようになった。その後善政をしいて、国力を養い、外に対しても大いに国威をあげた。
*樊〓 生年不詳―前一八九年。はじめ下層民であったが沛《はい》公《こう》(漢の高祖)に仕えて大功をたてた。剛勇の士であり、思慮も深い人であった。鴻門《こうもん》の会で項羽《こうう》と沛公が対決したとき、沛公の危機を救った。漢の世になって武陽侯に封ぜられた。
*范増 前二七五年―前二〇四年。はじめ項羽のおじ項梁に仕えたが、その死後、七十歳にして項羽に仕え参謀となる。秦を滅ぼすのに大功があった。鴻門の会で項羽に沛公を殺すことを勧めたが聞かれず、のちに沛公の謀臣陳平の離間策にあい、項羽からうとんぜられるに至り、おこって、項羽のもとを去り故郷に帰る途中病没した。
*比周 私心をはさみ悪事をするのに助け合うこと。
*擠陥讒誣 擠陥は悪意をもって人を罪におとしいれること。讒誣は事実をまげて人をそしること。
*中書令 殿中より発する文書をつかさどる。
*黜陟 功のないものを退けることと、功のあるものをあげ用いること。
*閹奴 去勢せられた宮人。閹人《えんじん》ともいう。
*穹廬 遊牧民の住居で、フェルトで作ったドーム型の天幕。今の蒙古包《モンゴルパオ》に似て丸天井の幕舎であったろう。
*旃裘 毛織物製の衣服。西北の夷人《いじん》が着用する。ここの旃は氈《せん》と同じ。
*寇掠 攻め入ってものをかすめ取ること。
*諸夏 中国内のもろもろの国。四方の夷狄《いてき》に対して中国をいう。
*旃毛 毛織物の毛。
*侍中 天子の左右に侍し、殿中の奏事をつかさどる官。
*節旄 天子から出す使者に賜わるしるしの旗。旄は毛のかざりをつけた旗。
*大司馬 前漢の軍事をつかさどった最高長官。
*博戯 博は中国古代の遊戯の一種で、すごろくに似ている。漢代に大いに流行した。たとえば、六博というのは方形の棋盤《きばん》(局)に、白と黒の棊《き》(こま)を六個ずつ計十二個を用いる。六本の箸《ちよ》(竹でつくったもので、さいころの役目をする)を投げて互いに棊を進め、敵陣に先にはいったほうが勝つ遊戯で、すごろくと飛び将棋とを組み合わせたようなものである。
*上林苑中で得た雁の足に蘇武の帛書がついていた 上林苑は、長安近郊にあった天子専用の大狩猟場であり、大植物園であり、大動物園。そこで、北から渡ってきた雁の足に蘇武の手紙が結びつけられていた。帛書は、帛《きぬ》に書いた文字、文書。蘇武のこの話から後世、手紙のことを雁帛《がんぱく》・雁書《がんしよ》などという。
*魯仲連 戦国時代の斉《せい》の人。卓抜な画策を好み、仕官せず高節をを持し、天下の士といわれた。趙《ちよう》が秦《しん》に包囲されたとき、「秦は礼儀を捨ててかえりみず、首を一つでも多くとることを功名として尊ぶ国である。その士をたぶらかしてこき使い、その民を奴隷《どれい》のごとくこき使う国である。ほしいままに帝となり、あやまって天下の政をとることになれば、この仲連は東海を踏んで死する(投身自殺する)ことあるのみ、わしはとても秦の民となるには忍びない」と決意を示して秦軍を後退させることができた。また斉が苦境にあるのを節義で救った。斉から爵位を与えられるのを避けて「わしは富貴《ふうき》となって人の下にちぢこまっているよりは、むしろ貧賤《ひんせん》となって世を軽んじ、志をほしいままにしよう」と言って沿海の地に隠れた。
*伍子胥 春秋時代の楚《そ》の人。楚の内紛で、父と兄が平王に殺されたさい、父とともに死なず、楚を覆滅《ふくめつ》せんことを誓って亡命した。苦労のすえ、かたきを討つため呉《ご》に仕えて楚に攻め入り、平王の墓をあばいてしかばねにむち打った。のち呉王夫差に越《えつ》を討つよういさめたが用いられず、讒言《ざんげん》に会い自殺させられた。その時、伍子胥は家臣に命じて「私の目をえぐって、呉都の東門につるせ、越の軍が攻め入って、呉を滅ぼすのを見てやるのだ」と言った。司馬遷《しばせん》は『史記』に「小さな義をすてて、大きな恥をすすぎ、名を後世にたれている。悲壮ではないか! こじきをしていたときにさえ、その志を忘れたことがあろうか。だからこそ隠忍して功名を遂げたのだ。壮烈な大丈夫《だいじようふ》でなくて、だれにこれができえたろう」としるしている。
*藺相如 戦国時代の趙《ちよう》の名臣。秦王が趙王を恐喝して趙王の「和氏《かし》の璧《へき》」を欺き取ろうとしたさい、藺相如は秦に使いし、知謀と剛勇とをもって、折衝して璧を無事に持ち帰った(完璧《かんぺき》の語の由来)。また、秦王と趙王が黽池《めんち》で会見したさい、お供をしていた相如が秦王をどなりつけたのでさすがの秦も趙に威圧を加えることができなかった。また廉頗《れんぱ》将軍との友情(刎頸《ふんけい》の交わり)も有名。
*太子丹 戦国時代の燕王《えんおう》の太子。秦に人質とされていたがうらんで逃げ帰り、自分のために秦王に報復してくれる者を捜した。時ちょうど秦が六国《りつこく》を滅ぼそうとしていたころで、ついに刺客として荊軻《けいか》を得る。始皇帝暗殺に出発する荊軻を国境の易水《えきすい》のほとりに見送った太子丹らはみな泣いた。暗殺は失敗し、始皇帝の怒りを買って燕は攻められた。燕王は太子丹を切って秦に献じたが、そのかいもなく前二二二年滅ぼされた。
*屈原 前三四三年ごろ―前二七七年ごろ。戦国時代の楚の忠臣で詩人として有名。楚の王族で、懐王に仕え信任を得たが、彼の才能をねたむ者に讒言《ざんげん》され、王にうとんぜられるようになった。さらに懐王の子頃襄王《けいじようおう》のときには追放のうきめをみ、洞庭湖《どうていこ》のほとりにさまよったがついに楚国の前途に光明を失い、「懐沙《かいさ》の賦《ふ》」をつくって、汨羅《べきら》に身を投げて死んだ。彼の作品には、「離騒《りそう》」「九章」など憂憤の情を吐露したものが多い。
*巫蠱の獄 巫蠱とは、桐《きり》の木の人形を土中に埋めて祈願したり、人をのろい殺そうとする妖術《ようじゆつ》で、武帝の晩年に流行した。皇太子をなきものにしようとする検察官の江充というものが、帝の病気は巫蠱のためでありしかも皇太子の御殿の地下から人形を得たと言いふらしたので、太子は自衛のため江充を捕え斬《き》った。皇太子は反逆者とされ、帝の軍をさしむけられてついに自殺した。のち武帝は皇太子の無実を知って悲嘆し、江充一族を誅殺《ちゆうさつ》した。戻太子《れいたいし》とは、不幸な皇太子へのおくり名である。
*憑依 のりうつる。
*漢書 前漢の歴史をしるした史書。百二十巻。後漢の班固《はんこ》の著。中国正史の一つ。
弟 子
*〓 おび玉の一種。男子が腰におびるもの。環状で一部分欠けた形をしている。『論語』に「去《 レバ》レ喪《 ヲ》、無《 シ》レ所レ不《 ル》レ佩《 ビ》」とあり、孔子は、喪中のほかは玉《ぎよく》などを平素身に着けていたようである。
*礼といい礼という……鐘鼓をいわんや 「礼だ礼だというが、礼とはいったい儀式用の玉や錦《にしき》のことだろうかね。音楽だ音楽だというが、鐘や太鼓のことだろうかね」。『論語』の陽貨《ようか》篇にあり、礼楽の精神を忘れて形式の末に走っているのをなげいたことばである。
*古の道を釈てて由の意を行なわん。可ならんか むかしの聖賢の教えからはなれて由《ゆう》自身の考えで行動したい。よろしいでしょうか。
*巧言令色足恭…… 『論語』の公冶長《こうやちよう》篇にある。
*生ヲ求メテ…… 『論語』の衛霊公《えいれいこう》篇にある。
*狂者ハ進ンデ…… 『論語』の子路《しろ》篇にある。
*敬ニシテ礼ニ…… 『礼記《らいき》』の仲尼燕居《ちゆうじえんきよ》にある。
*信ヲ好ンデ…… 『論語』の陽貨篇にある。
*苛斂誅求 きびしく租税などを取りたてること。
*彼の美婦の口には…… 『史記』孔子世家の原文は「彼《 ノ》婦之口《 ニハ》、可《 シ》二以《 ツテ》出走《 ス》一、彼《 ノ》婦之謁《 ニハ》、可《 シ》二以《 ツテ》死敗《 ス》一、蓋《 シ》優《 ナル》哉《かな》、游《ゆうナル》哉維《 レ》以《 ツテ》卒《 ヘン》レ歳《 ヲ》」である。訳せば、「婦の口は毒にみつ、いずべきぞ君子《おのこ》らは、婦のたのみ国やぶる、危うきぞ君子らは、さても心をのびやかに、たもちてぞ世を終えん」
*鳳鳥至らず。河、図を出さず。已んぬるかな 『論語』の子罕《しかん》篇の原文は「鳳鳥不レ至《 ラ》、河《か》不レ出《 ダサ》レ図《とヲ》、吾已矣《ンヌル》夫《カナ》」である。鳳鳥(鳳凰《ほうおう》)もやって来ないし、黄河《こうが》からは図も出ない。これでは私も生きていく力がないの意。鳳凰は想像上の霊鳥。図は河図《かと》ともいい、太古伏義《ふくぎ》の世に黄河から出た竜馬《りようば》の背に現われた図で、易の卦《け》のもとになったものという。いずれも聖王出現の瑞祥《ずいしよう》と信ぜられていた。この章は、孔子がすぐれた君主の出ないのをなげいたことばで、それを直接いうのをはばかり、伝説の瑞祥をもってこれに代えたのである。
*北面稽首 北面すなわち北向きは臣下の座位。これに対して君主は南面する。稽首は、すわって頭をしばらく地につけて敬礼することで、最高の礼。
*我いまだ徳を好むこと…… 『論語』の子罕篇にある。
*頭は〓に窺い尾は堂に〓く 『荘子《そうし》』にある原文は「窺二頭於〓一、〓二尾於堂一」である。大きな竜の形容。「葉公好《 ム》レ竜《 ヲ》」という話として有名。
*湛々タル露アリ…… 『詩経《しきよう》』の小雅湛露《しようがたんろ》の詩句で原文は「湛湛露斯、匪陽不晞、厭厭夜飲、不酔無帰……」である。晞《き》はかわくこと。
*軒冕 官位爵禄《しやくろく》のこと。また貴顕の身分であること。
*接輿という佯狂 佯狂はにせ気違いの意。この話は『論語』の微子《びし》篇などにみえる。接輿は楚《そ》の隠者《いんじや》。
*比干の諫死 比干は紂王《ちゆうおう》のおじ。紂王の暴虐をいさめた。紂王は「聖人の心臓には七つの穴があるそうだな」と、比干を解剖してその心臓を見た。箕子《きし》・微子と合わせて殷《いん》の三仁《さんじん》といわれる。
*詩に曰《い》う。…… 『詩経』の大雅《たいが》の板《はん》篇に「民之多レ辟、無二自立一レ辟」とある。
*子 おまえ。あなた。第二人称。
*天のいまだ斯《こ》の文を喪《ほろぼ》さざるや…… 『論語』の子罕《しかん》篇の原文は「文王既《 ニ》没《 シ》、文不レ在《 ラ》レ茲《ここニ》乎《や》。天之将《まさニ》レ喪《ほろボサント》二斯《こノ》文《 ヲ》也《や》、後死《 ノ》者不《 ル》レ得レ与《あずカルヲ》二於斯《 ノ》文《 ヲ》一也。天之未《ダ》ザルレ喪《ボサ》二斯《 ノ》文《 ヲ》一也、匡人其《 レ》如《いか》レ予《われヲ》何《 んセント》」である。意味は「(昔の聖人たちの文化の伝統は、伝わって文王《ぶんおう》にあったが)今、周《しゆう》の文王はすでに死んでこの世にはおられない。文王がすでになくなられたのちは、文化の伝統は絶えることなく、この私の身にこそあるのではないか。天がもしこの伝統を滅亡させてしまうつもりであれば、文王よりのちの時代の人間であるこの私は、この文化の伝統に参与できぬはずである。(私が伝統を引き継いでいるのは、天がそれを滅亡させない意志を示しているのだ。)天がまだこの文化の伝統を滅ぼそうとしないかぎりは匡《きよう》の人々ごときのものがこの(ただひとりの文化の継承者である)私をどうすることができようか。どうすることもできるものではないのだ」。
*万鍾我において何をか加えん 『孟子』の告子《こくし》章句篇上の原文は「万鍾《 ハ》則《 チ》不《 シテ》レ弁《 ゼ》二礼義《 ヲ》一而受《 ク》レ之《 ヲ》。万鍾於《 テ》レ我《 ニ》何《 ヲカ》加《 ヘン》焉」である。意味は「(たとい一杯の飯でも投げ与えるようにしたらこじきでもいさぎよしとせぬものだ。)ところが万鍾もの大禄になると、礼義にかなうかいなかを顧みずにとびつく。しかし万鍾もの大禄、まさかひとりで食べられもせず、自分にとってなんのたしになるのだ。(これこそ人の本来の良心を失ったものだ)」。鍾は量の単位で、約五リットル。
*片言以て獄を折む…… 『論語』の顔淵《がんえん》篇にある。一言でぴたりと判決を下し、当事者双方を信服させる力のあるのは、由《ゆう》だろうなの意。
名人伝
*燕角の弧に朔蓬の〓 燕《えん》国の獣角で作った弓と北方産の蓬(あざみ科の植物)で作った矢。ともに弓矢の良材。燕は今の河北省地方にあった国。
*烏号の弓に〓衛の矢 太古の黄帝《こうてい》が竜に乗って昇天したとき、竜に乗れなかった小臣たちは、黄帝の落とした弓を抱いて号泣した。そのため後世この弓を烏号とよんだ。烏は、泣きさけぶ声の意。〓と衛はりっぱな矢竹の産地。
*烏漆の弓も粛慎の矢も 烏漆の弓は、黒い漆《うるし》で塗った弓。粛慎は今の吉林《きつりん》省地方にいた異民族で周の武王が殷《いん》を滅ぼし、道を九夷九蛮《きゆういきゆうばん》に通じて、それぞれにその地方の物産をもって来貢させたとき、粛慎は石の鏃《やじり》の〓矢《こし》を貢献した。
*規矩 コンパスと定規《じようぎ》。
山月記
*隴西 中国の地名。今の甘粛《かんしゆく》省にある。
*天宝 唐の玄宗《げんそう》皇帝のころの年号。七四二年―七五六年。
*虎榜 進士《しんし》(官吏登用試験に合格した人)になった人の姓名を掲示する木札。虎《こ》は俊才をたとえる。
*峭刻 けわしくきびしい。
*進士に登第 進士の試験に及第すること。
*偶因狂疾成殊類…… 大意―偶然にも狂気になって、身は人間以外のものとなった。災患が内からも外からも重なって、この不幸からのがれることができない。今日ではわが爪牙《そうが》にだれがあえて敵対することができよう。思えば、進士に及第したあのころは私も君も秀才としてほめそやされたものだった。ところが今や、私はけだものとなってくさむらにかくれ、君はりっぱな役人となって車に乗りすばらしい勢いである。この夕、私は山や谷を照らす明月に対して、長くうそぶくことをせず、ただ悲しみのあまり短くほえ叫ぶばかりだ。
*慙恚 恥じて無念に思うこと。
*暁角 夜明けを知らせる角笛。
悟浄出世
*八百流沙界…… 弱水は川の名。『書経《しよきよう》』など古書に多く見るが場所は一定しない。三千とは長さ三千里のこと。弱水とは、軽い水ということらしく、そのため羽毛も浮かばないという。
*霊霄殿の捲簾大将 天上界の玉帝の宮殿で簾《すだれ》をかかげる役人のかしら。
*直綴 僧衣。また、ふだん着にもいう。悟浄は『西遊記《さいゆうき》』の中では、黄錦の直綴を着ている。
*真人 道教《どうきよう》で、道の奥義《おうぎ》に達した人。
*巨鼇 巨大な亀。
*咄! 秦時の轢鑚 轢鑚は、秦《しん》の始皇帝のとき、阿房宮《あぼうきゆう》を建築するのに用いた器械錐《きり》という。そのような陳腐《ちんぷ》なものは、いまどきなんの役にもたたぬの意。咄《とつ》はしかったり、舌打ちしたりする声。
*大椿の寿も、朝菌の夭も 『荘子』の逍遥遊《しようようゆう》篇に「朝菌《ハ》不レ知《ラ》二晦《かい》朔《さくヲ》一、〓蛄《なつぜみハ》不レ知《ラ》二春秋《ヲ》一。上古、有《リ》二大椿《ナル》者一。以《ツテ》二八千歳《ヲ》一為《シ》レ春《ト》、八千歳《ヲ》一為《ス》レ秋《ト》」とある。朝菌は、朝はえて晩には枯れるきのこで、これは晦朔《かいさく》、つまり月の初めと終わりを知らず一日で寿命を終える。夭《よう》は寿命の短いこと。
*女〓氏 『荘子』の大宗師《だいそうし》篇に見える人で、自然の道に任せて生きたので、たいへんな老人であったが少年のような顔色をしていたという。
*無をもって首とし、生をもって背とし 『荘子』の大宗師篇にある話で、「孰《たれカ》能《ク》以《ツテ》レ無《ヲ》為《シ》レ首《ト》、以《ツテ》生《ヲ》為《シ》レ脊《せきト》、以《ツテ》レ死《ヲ》為《サン》レ尻《こうト》。孰《カ》知《ラン》二死生存亡之一体者《ナルヲ》一」というのは、人間の一生というものは、初めは無であり、それから生まれ、それから死ぬのである。
*蒲衣子 『荘子』の応帝王篇に見える真人《しんじん》。
*秘鑰 秘密・隠微の物事を明らかにするかぎ、手びき。
*斑衣〓婆 まだらの着物を着た〓婆。〓は淡水魚の一種。
*堅彊は死の徒、柔弱は生の徒 『老子』の七十六章にある句。人が生まれ出るとき、そのからだは柔弱であるが、死ぬとからだはかたくこわばる。万物草木も同様で、生ずるときは柔らかくもろいが、死ぬと枯れてかたくなる。だから、堅く強いものは死の仲間、柔らかく弱いものは生の仲間である。
*江国春風吹不起…… 『碧巌録《へきがんろく》』にある宗教詩。江国の春風吹き立つとも見えず、鷓鴣《うずら》が花の奧で鳴いているのどかな日、三段の波浪をしのいで竜門《りゆうもん》を通過して竜と化した魚を、それとも知らず俗物がつかまえようとして夜の塘《いけ》で水をくみ出しているの意で、いつまでも古きを守って悟りの開けない人間を諷《ふう》しているものと思われる。
*天竜・夜叉…… 天竜は、諸天と竜神。夜叉は、空中を飛行する鬼神。乾闥婆《けんだつば》と緊那羅《きんなら》は、帝釈天《たいしやくてん》(天上界の王)に仕える楽神《がくしん》。阿脩羅《あしゆら》は、常に帝釈天と戦う神。迦楼羅《かるら》は、金翅鳥《こんじちよう》と訳し、木におり、竜を取って食とする、経典に見える想像上の鳥。摩〓羅伽《まごらか》は、釈迦如来《しやかによらい》の眷族《けんぞく》、地竜である。
*非人 人にあらざる悪鬼その他を総称していう。
*梵音 仏の声。
*海潮音 衆生《しゆじよう》が南無観世音《なむかんぜおん》を唱える声とともに、観世音菩薩《ぼさつ》が時をたがえず利益《りやく》を衆生に与えることにたとえていう。
*世尊 仏の尊称。
*増上慢 まだ最上の法および悟りを得ないのに、得たような気になり高慢になること。
*阿羅漢 小乗の悟りをきわめた位の名。
*辟支仏 悟りの一つの位。
*浄業 西方浄土《さいほうじようど》に往生《おうじよう》する善業《ぜんごう》。
*羸劣 疲れおとっている。
*観想 修行の一つ。心を一点に集中し、想念をこらして、迷いを払い、知見を深める。
悟浄歎異
*太上老君の八卦炉 太上老君は道教で老子《ろうし》をいう。老君が仙丹《せんたん》・金丹《きんたん》をねりあげるための炉。悟空はこの中に四十九日間も閉じこめられ、文武の火をもって焼かれたことがある。
*金鐃 金のにょうはち。にょうはちはシンバルのような楽器。
*藕糸歩雲の履 悟空が花果山水簾洞《かかざんすいれんどう》の大王であったころはいていたくつ。もと東海竜王のところから如意金箍棒《によいきんそうぼう》などといっしょに奪ったもので、北海王がはく蓮《はす》の糸で編みあげた雲の上を歩く飛行ぐつ。
*蟠桃会 西王母《せいおうぼ》が宝閣を開放して、釈迦《しやか》・老子《ろうし》・菩薩《ぼさつ》・聖僧・仙翁《せんおう》などを招待して開く宴会のこと。蟠桃は三千年に一度熟するもの(食べると仙人《せんにん》となる)、六千年に一度熟するもの(食べると飛昇でき不老長生となる)、九千年に一度熟するもの(食べると天地日月と寿命が同じになる)とがある。崑崙《こんろん》山上に住む西王母伝説と結びついている。
*〓嘛〓叭吽 梵語《ぼんご》のオーン・マニ・パドメー・フーンの音写で「おお、蓮華《れんげ》上の摩尼珠《まにしゆ》よ」という意味。ラマ教徒が、蓮華手菩薩《れんげしゆぼさつ》に未来の極楽往生を祈るときにとなえる呪《じゆ》。ラマ教では、この呪は、すべて福徳智慧《ちえ》および諸行《しよぎよう》の根本であるとして、口にとなえて功徳《くどく》があるばかりでなく、これを書いて身につけ、手に持ち、家に蔵しても生死の世界から解脱《げだつ》する因となるとする。
*呉下の旧阿蒙 いつまでたっても学問などの進歩しない人をいう。三国時代、呉《ご》の呂蒙《りよもう》が主君の孫権《そんけん》にすすめられて勉学に励み、大いに進んだので、「非《あらズ》二復《また》呉下《ノ》阿蒙《ニ》一(もはや昔の呉地方の蒙君ではない)」といわれた話がある。
李陵《りりよう》・山月記《さんげつき》
中島《なかじま》 敦《あつし》
-------------------------------------------------------------------------------
平成12年9月15日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『李陵・山月記』昭和46年4月20日初版刊行