目次
山月記
名人伝
弟子
李陵
解説(瀬沼茂樹)
年譜
山月記
隴西《ろうさい》の李徴《りちょう》は博学才穎《さいえい》、天宝の末年、若くして名を虎《こ》榜《ぼう》に連ね、ついで江南《こうなん》尉《い》に補せられたが、性、狷介《けんかい》、自《みずか》ら恃《たの》むところ頗《すこぶ》る厚く、賤《せん》吏《り》に甘んずるを潔《いさぎよ》しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故《こ》山《ざん》、齬ェ《かくりゃく》に帰《き》臥《が》し、人と交《まじわり》を絶って、ひたすら詩作に耽《ふけ》った。下吏となって長く膝《ひざ》を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺《のこ》そうとしたのである。しかし、文名は容易に揚らず、生活は日を逐《お》うて苦しくなる。李徴は漸《ようや》く焦躁《しょうそう》に駆られて来た。この頃《ころ》からその容《よう》貌《ぼう》も峭刻《しょうこく》となり、肉落ち骨秀《ひい》で、眼光のみ徒《いたず》らに炯々《けいけい》として、曾《かつ》て進士に登第《とうだい》した頃の豊《ほう》頬《きょう》の美少年の俤《おもかげ》は、何処《どこ》に求めようもない。数年の後、貧窮に堪《た》えず、妻子の衣食のために遂《つい》に節を屈して、再び東へ赴き、一地方官吏の職を奉ずることになった。一方、これは、己《おのれ》の詩業に半ば絶望したためでもある。曾ての同輩は既に遥《はる》か高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙《しが》にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬことが、往年の儁才《しゅんさい》李徴の自尊心を如何《いか》に傷《きずつ》けたかは、想像に難《かた》くない。彼は怏々《おうおう》として楽しまず、狂悖《きょうはい》の性は愈々《いよいよ》抑え難《がた》くなった。一年の後、公用で旅に出、汝《じょ》水《すい》のほとりに宿った時、遂に発狂した。或《ある》夜半、急に顔色を変えて寝床から起上ると、何か訳の分らぬことを叫びつつそのまま下にとび下りて、闇《やみ》の中へ駈《かけ》出《だ》した。彼は二度と戻《もど》って来なかった。附近の山野を捜索しても、何の手掛りもない。その後李徴がどうなったかを知る者は、誰《だれ》もなかった。
翌年、監察御《かんさつぎょ》史《し》、陳郡《ちんぐん》の袁《えんさん》という者、勅命を奉じて嶺南《れいなん》に使《つかい》し、途《みち》に商於《しょうお》の地に宿った。次の朝未《ま》だ暗い中《うち》に出発しようとしたところ、駅吏が言うことに、これから先の道に人喰虎《ひとくいどら》が出る故《ゆえ》、旅人は白昼でなければ、通れない。今はまだ朝が早いから、今少し待たれたが宜《よろ》しいでしょうと。袁は、しかし、供廻《ともまわ》りの多勢なのを恃み、駅吏の言葉を斥《しりぞ》けて、出発した。残月の光をたよりに林中の草地を通って行った時、果して一匹の猛《もう》虎《こ》が叢《くさむら》の中から躍り出た。虎は、あわや袁に躍りかかるかと見えたが、忽《たちま》ち身を飜《ひるがえ》して、元の叢に隠れた。叢の中から人間の声で「あぶないところだった」と繰返し呟《つぶや》くのが聞えた。その声に袁は聞き憶《おぼ》えがあった。驚懼《きょうく》の中にも、彼は咄嗟《とっさ》に思いあたって、叫んだ。「その声は、我が友、李徴子ではないか?」袁は李徴と同年に進士の第に登り、友人の少かった李徴にとっては、最も親しい友であった。温和な袁の性格が、峻峭《しゅんしょう》な李徴の性情と衝突しなかったためであろう。
叢の中からは、暫《しばら》く返辞が無かった。しのび泣きかと思われる微《かす》かな声が時々洩《も》れるばかりである。ややあって、低い声が答えた。「如何にも自分は隴西の李徴である」と。
袁は恐怖を忘れ、馬から下りて叢に近づき、懐《なつ》かしげに久闊《きゅうかつ》を叙した。そして、何故《なぜ》叢から出て来ないのかと問うた。李徴の声が答えて言う。自分は今や異類の身となっている。どうして、おめおめと故人《とも》の前にあさましい姿をさらせようか。かつ又、自分が姿を現せば、必ず君に畏怖《いふ》嫌厭《けんえん》の情を起させるに決っているからだ。しかし、今、図らずも故人に遇《あ》うことを得て、愧《き》赧《たん》の念をも忘れる程に懐かしい。どうか、ほんの暫くでいいから、我が醜悪な今の外形を厭《いと》わず、曾て君の友李徴であったこの自分と話を交してくれないだろうか。
後で考えれば不思議だったが、その時、袁は、この超自然の怪異を、実に素直に受《うけ》容《い》れて、少しも怪もうとしなかった。彼は部下に命じて行列の進行を停《と》め、自分は叢の傍《かたわら》に立って、見えざる声と対談した。都の噂《うわさ》、旧友の消息、袁が現在の地位、それに対する李徴の祝辞。青年時代に親しかった者同志の、あの隔てのない語調で、それ等《ら》が語られた後、袁は、李徴がどうして今の身となるに至ったかを訊《たず》ねた。草中の声は次のように語った。
今から一年程前、自分が旅に出て汝水のほとりに泊った夜のこと、一睡してから、ふと眼《め》を覚ますと、戸外で誰かが我が名を呼んでいる。声に応じて外へ出て見ると、声は闇の中から頻《しき》りに自分を招く。覚えず、自分は声を追うて走り出した。無我夢中で駈けて行く中に、何時《いつ》しか途は山林に入り、しかも、知らぬ間に自分は左右の手で地を攫《つか》んで走っていた。何か身体《からだ》中に力が充《み》ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。気が付くと、手先や肱《ひじ》のあたりに毛を生じているらしい。少し明るくなってから、谷川に臨んで姿を映して見ると、既に虎となっていた。自分は初め眼を信じなかった。次に、これは夢に違いないと考えた。夢の中で、これは夢だぞと知っているような夢を、自分はそれまでに見たことがあったから。どうしても夢でないと悟らねばならなかった時、自分は茫然《ぼうぜん》とした。そうして懼《おそ》れた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判《わか》らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめ《・・・》だ。自分は直《す》ぐに死を想《おも》うた。しかし、その時、眼の前を一匹の兎《うさぎ》が駈け過ぎるのを見た途端に、自分の中の人間《・・》は忽ち姿を消した。再び自分の中の人間《・・》が目を覚ました時、自分の口は兎の血に塗《まみ》れ、あたりには兎の毛が散らばっていた。これが虎としての最初の経験であった。それ以来今までにどんな所行をし続けて来たか、それは到底語るに忍びない。ただ、一日の中に必ず数時間は、人間の心が還《かえ》って来る。そういう時には、曾ての日と同じく、人語も操《あやつ》れれば、複雑な思考にも堪え得るし、経書《けいしょ》の章句を誦《そら》んずることも出来る。その人間の心で、虎としての己《おのれ》の残虐《ざんぎゃく》な行《おこない》のあとを見、己の運命をふりかえる時が、最も情なく、恐しく、憤《いきどお》ろしい。しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己《おれ》はどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。今少し経《た》てば、己《おれ》の中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋《うも》れて消えて了《しま》うだろう。ちょうど、古い宮殿の礎《いしずえ》が次第に土砂に埋没するように。そうすれば、しまいに己は自分の過去を忘れ果て、一匹の虎として狂い廻り、今日のように途で君と出会っても故人《とも》と認めることなく、君を裂き喰《くろ》うて何の悔も感じないだろう。一体、獣でも人間でも、もとは何か他《ほか》のものだったんだろう。初めはそれを憶えているが、次第に忘れて了い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか? いや、そんな事はどうでもいい。己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせ《・・・・》になれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、哀《かな》しく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。この気持は誰にも分らない。誰にも分らない。己と同じ身の上に成った者でなければ。ところで、そうだ。己がすっかり人間でなくなって了う前に、一つ頼んで置きたいことがある。
袁はじめ一行は、息をのんで、叢中《そうちゅう》の声の語る不思議に聞入っていた。声は続けて言う。
他でもない。自分は元来詩人として名を成す積りでいた。しかも、業未《いま》だ成らざるに、この運命に立至った。曾て作るところの詩数百篇《ぺん》、固《もと》より、まだ世に行われておらぬ。遺稿の所在も最《も》早《はや》判らなくなっていよう。ところで、その中、今も尚《なお》 記誦《きしょう》せるものが数十ある。これを我が為《ため》に伝録して戴《いただ》きたいのだ。何も、これに仍《よ》って一人前の詩人面《づら》をしたいのではない。作の巧拙は知らず、とにかく、
産を破り心を狂わせてまで自分が生涯《しょうがい》それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。
袁は部下に命じ、筆を執って叢中の声に随《したが》って書きとらせた。李徴の声は叢の中から朗々と響いた。長短凡《およ》そ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである。しかし、袁は感嘆しながらも漠然《ばくぜん》と次のように感じていた。成程《なるほど》、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、このままでは、第一流の作品となるのには、何処《どこ》か(非常に微妙な点に於《おい》て)欠けるところがあるのではないか、と。
旧詩を吐き終った李徴の声は、突然調子を変え、自らを嘲《あざけ》るが如《ごと》くに言った。
羞《はずか》しいことだが、今でも、こんなあさまし《・・・・》い《・》身と成り果てた今でも、己《おれ》は、己の詩集が長安《ちょうあん》風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟《がんくつ》の中に横たわって見る夢にだよ。嗤《わら》ってくれ。詩人に成りそこなって虎になった哀れな男を。(袁は昔の青年李徴の自嘲癖《じちょうへき》を思出しながら、哀しく聞いていた。)そうだ。お笑い草ついでに、今の懐《おもい》を即席の詩に述べて見ようか。この虎の中に、まだ、曾ての李徴が生きているしる《・・》し《・》に。
袁は又下吏に命じてこれを書きとらせた。その詩に言う。
偶因狂疾成殊類 災患相仍不可逃
今日爪牙誰敢敵 当時声跡共相高
我為異物蓬茅下 君已乗気勢豪
此夕渓山対明月 不成長嘯但成
時に、残月、光冷《ひや》やかに、白露は地に滋《しげ》く、樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。人々は最早、事の奇異を忘れ、粛然として、この詩人の薄倖《はっこう》を嘆じた。李徴の声は再び続ける。
何故《なぜ》こんな運命になったか判らぬと、先刻は言ったが、しかし、考えように依《よ》れば、思い当ることが全然ないでもない。人間であった時、己《おれ》は努めて人との交《まじわり》を避けた。人々は己を倨傲《きょごう》だ、尊大だといった。実は、それが殆《ほとん》ど羞恥心《しゅうちしん》に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論《もちろん》、曾ての郷党《きょうとう》の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云《い》わない。しかし、それは臆病《おくびょう》な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋《せっさ》琢《たく》磨《ま》に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍《ご》することも潔《いさぎよ》しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為《せい》である。己《おのれ》の珠《たま》に非《あら》ざることを惧《おそ》れるが故《ゆえ》に、敢《あえ》て刻苦して磨《みが》こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々《ろくろく》として瓦《かわら》に伍することも出来なかった。己《おれ》は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶《ふんもん》と慙《ざん》恚《い》とによって益々己《ますますおのれ》の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせ《・・・・》る《・》結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だという。己《おれ》の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損い、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了ったのだ。今思えば、全く、己は、己の有《も》っていた僅《わず》かばかりの才能を空費して了った訳だ。人生は何事をも為《な》さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄《ろう》しながら、事実は、才能の不足を暴《ばく》露《ろ》するかも知れないとの卑怯《ひきょう》な危《き》惧《ぐ》と、刻苦を厭《いと》う怠惰とが己の凡《すべ》てだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。虎と成り果てた今、己は漸《ようや》くそれに気が付いた。それを思うと、己は今も胸を灼《や》かれるような悔を感じる。己には最早人間としての生活は出来ない。たとえ、今、己が頭の中で、どんな優れた詩を作ったにしたところで、どういう手段で発表できよう。まして、己の頭は日《ひ》毎《ごと》に虎に近づいて行く。どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪《たま》らなくなる。そういう時、己は、向うの山の頂の巌《いわ》に上り、空谷《くうこく》に向って吼《ほ》える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処《あそこ》で月に向って咆《ほ》えた。誰かにこの苦しみが分って貰《もら》えないかと。しかし、獣どもは己の声を聞いて、唯《ただ》、懼《おそ》れ、ひれ伏すばかり。山も樹《き》も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮《たけ》っているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易《やす》い内心を誰も理解してくれなかったように。己の毛皮の濡《ぬ》れたのは、夜露のためばかりではない。
漸く四辺《あたり》の暗さが薄らいで来た。木の間を伝って、何処《どこ》からか、暁角《ぎょうかく》が哀しげに響き始めた。
最早、別れを告げねばならぬ。酔わねばならぬ時が、(虎に還らねばならぬ時が)近づいたから、と、李徴の声が言った。だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼《かれ》等《ら》は未《ま》だ齬ェ《かくりゃく》にいる。固より、己の運命に就いては知る筈《はず》がない。君が南から帰ったら、己は既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願だが、彼等の孤弱を憐《あわ》れんで、今後とも道《どう》塗《と》に飢《き》凍《とう》することのないように計らって戴けるならば、自分にとって、恩倖《おんこう》、これに過ぎたるは莫《な》い。
言終って、叢中から慟哭《どうこく》の声が聞えた。袁もまた涙を泛《うか》べ、欣《よろこ》んで李徴の意に副《そ》いたい旨《むね》を答えた。李徴の声はしかし忽《たちま》ち又先刻の自嘲的な調子に戻《もど》って、言った。
本当は、先《ま》ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己《おのれ》の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕《おと》すのだ。
そうして、附加《つけくわ》えて言うことに、袁が嶺南からの帰途には決してこの途《みち》を通らないで欲しい、その時には自分が酔っていて故人《とも》を認めずに襲いかかるかも知れないから。又、今別れてから、前方百歩の所にある、あの丘に上ったら、此方《こちら》を振りかえって見て貰いたい。自分は今の姿をもう一度お目に掛けよう。勇に誇ろうとしてではない。我が醜悪な姿を示して、以《もっ》て、再び此処《ここ》を過ぎて自分に会おうとの気持を君に起させない為であると。
袁は叢に向って、懇《ねんご》ろに別れの言葉を述べ、馬に上った。叢の中からは、又、堪《た》え得ざるが如き悲泣《ひきゅう》の声が洩《も》れた。袁も幾度か叢を振返りながら、涙の中に出発した。
一行が丘の上についた時、彼等は、言われた通りに振返って、先程の林間の草地を眺《なが》めた。忽ち、一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼等は見た。虎は、既に白く光を失った月を仰いで、二声三声咆哮《ほうこう》したかと思うと、又、元の叢に躍り入って、再びその姿を見なかった。
名人伝
趙《ちょう》の邯鄲《かんたん》の都に住む紀昌《きしょう》という男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。己《おのれ》の師と頼むべき人物を物色するに、当今《とうこん》弓矢をとっては、名手・飛《ひ》衛《えい》に及ぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人だそうである。紀昌は遥々《はるばる》飛衛をたずねてその門に入った。
飛衛は新入《しんいり》の門人に、先《ま》ず瞬《まばた》きせざることを学べと命じた。紀昌は家に帰り、妻の機織《はたおり》台《だい》の下に潜り込んで、其処《そこ》に仰《あお》向《む》けにひっくり返った。眼《め》とすれすれに機躡《まねき》が忙しく上下往来するのをじっと《・・・》瞬《またた》かずに見詰めていようという工夫である。理由を知らない妻は大いに驚いた。第一、妙な姿勢を妙な角度から良《おっ》人《と》に覗《のぞ》かれては困るという。厭《いや》がる妻を紀昌は叱《しか》りつけて、無理に機を織り続けさせた。来る日も来る日も彼はこの可笑《おか》しな恰好《かっこう》で、瞬きせざる修練を重ねる。二年の後には、遽《あわた》だしく往返《おうへん》する牽挺《まねき》が睫毛《まつげ》を掠《かす》めても、絶えて瞬くことがなくなった。彼は漸《ようや》く機の下から匍《はい》出《だ》す。最《も》早《はや》、鋭利な錐《きり》の先を以《もっ》て瞼《まぶた》を突かれても、まばたきをせぬまでになっていた。不意に火の粉が目に飛入ろうとも、目の前に突然灰神楽《はいかぐら》が立とうとも、彼は決して目をパチつかせない。彼の瞼は最早それを閉じるべき筋肉の使用法を忘れ果て、夜、熟睡している時でも、紀昌の目はクワッと大きく見開かれたままである。竟《つい》に、彼の目の睫毛と睫毛との間に小さな一匹の蜘蛛《くも》が巣をかけるに及んで、彼は漸く自信を得て、師の飛衛にこれを告げた。
それを聞いて飛衛がいう。瞬かざるのみでは未《いま》だ射《しゃ》を授けるに足りぬ。次には、視《み》ることを学べ。視ることに熟して、さて、小を視ること大の如《ごと》く、微を見ること著《ちょ》の如くなったならば、来《きた》って我に告げるがよいと。
紀昌は再び家に戻《もど》り、肌《はだ》着《ぎ》の縫《ぬい》目《め》から虱《しらみ》を一匹探し出して、これを己《おの》が髪の毛を以て繋《つな》いだ。そうして、それを南向きの窓に懸け、終日睨《にら》み暮らすことにした。毎日々々彼は窓にぶら下った虱を見詰める。初め、勿論《もちろん》それは一匹の虱に過ぎない。二三日たっても、依然として虱である。ところが、十日余り過ぎると、気のせいか、どうやらそれがほん《・・》の少しながら大きく見えて来たように思われる。三月目の終りには、明らかに蚕ほどの大きさに見えて来た。虱を吊《つ》るした窓の外の風物は、次第に移り変る。熙々《きき》として照っていた春の陽《ひ》は何時《いつ》か烈《はげ》しい夏の光に変り、澄んだ秋空を高く雁《かり》が渡って行ったかと思うと、はや、寒々とした灰色の空から霙《みぞれ》が落ちかかる。紀昌は根気よく、毛髪の先にぶら下った有吻《ゆうふん》類・催痒《さいよう》性の小節足動物を見続けた。その虱も何十匹となく取換えられて行く中《うち》に、早くも三年の月日が流れた。或《ある》日《ひ》ふと気が付くと、窓の虱が馬のような大きさに見えていた。占めたと、紀昌は膝《ひざ》を打ち、表へ出る。彼は我が目を疑った。人は高塔であった。馬は山であった。豚は丘の如く、《とり》は城楼と見える。雀躍《じゃくやく》して家にとって返した紀昌は、再び窓際《まどぎわ》の虱に立向い、燕角《えんかく》の弧《ゆみ》に朔蓬《さくほう》のヤ《やがら》をつがえてこれを射れば、矢は見事に虱の心《しん》の臓《ぞう》を貫いて、しかも虱を繋いだ毛さえ断《き》れぬ。
紀昌は早速師の許《もと》に赴いてこれを報ずる。飛衛は高蹈《こうとう》して胸を打ち、初めて「出かしたぞ」と褒《ほ》めた。そうして、直ちに射術の奥《おう》儀《ぎ》秘伝を剰《あま》すところなく紀昌に授け始めた。
目の基礎訓練に五年もかけた甲《か》斐《い》があって紀昌の腕前の上達は、驚く程速い。
奥儀伝授が始まってから十日の後、試みに紀昌が百歩を隔てて柳葉を射るに、既に百発百中である。二十日の後、一杯に水を湛《たた》えた盃《さかずき》を右肱《みぎひじ》の上に載せて剛弓を引くに、狙《ねら》いに狂いの無いのは固《もと》より、杯中の水も微動だにしない。一月の後、百本の矢を以て速射を試みたところ、第一矢《し》が的に中《あた》れば、続いて飛《とび》来《きた》った第二矢は誤たず第一矢の括《やはず》に中って突き刺さり、更に間髪《かんはつ》を入れず第三矢の鏃《やじり》が第二矢の括にガッシと喰《く》い込む。矢矢《しし》相属し、発発《はつはつ》相及んで、後矢の鏃は必ず前矢の括に喰《くい》入《い》るが故《ゆえ》に、絶えて地に墜《お》ちることがない。瞬く中に、百本の矢は一本の如くに相連なり、的から一直線に続いたその最後の括は猶《なお》弦を銜《ふく》むが如くに見える。傍《かたわら》で見ていた師の飛衛も思わず「善し!」と言った。
二月の後、偶々《たまたま》家に帰って妻といさかい《・・・・》をした紀昌がこれを威《おど》そうとて烏《う》号《ごう》の弓にユ《き》衛《えい》の矢をつがえきりり《・・・》と引絞って妻の目を射た。矢は妻の睫毛三本を射切って彼方《かなた》へ飛び去ったが、射られた本人は一向に気づかず、まばたきもしないで亭主《ていしゅ》を罵《ののし》り続けた。蓋《けだ》し、彼の至芸による矢の速度と狙いの精妙さとは、実にこの域にまで達していたのである。
最早師から学び取るべき何ものも無くなった紀昌は、或日、ふと良からぬ考えを起した。
彼がその時独りつくづくと考えるには、今や弓を以て己《おのれ》に敵すべき者は、師の飛衛をおいて外に無い。天下第一の名人となるためには、どうあっても飛衛を除かねばならぬと。秘《ひそ》かにその機会を窺《うかが》っている中に、一日偶々郊野に於《おい》て、向うから唯《ただ》一人歩み来る飛衛に出《で》遇《あ》った。咄嗟《とっさ》に意を決した紀昌が矢を取って狙いをつければ、その気配を察して飛衛もまた弓を執って相応ずる。二人互いに射れば、矢はその度《たび》に中道にして相当り、共に地に墜ちた。地に落ちた矢が軽塵《けいじん》をも揚げなかったのは、両人の技が何《いず》れも神《しん》に入《い》っていたからであろう。さて、飛衛の矢が尽きた時、紀昌の方は尚《なお》一矢を余していた。得たりと勢込んで紀昌がその矢を放てば、飛衛は咄嗟に、傍なる野茨《のいばら》の枝を折り取り、その棘《とげ》の先端を以てハッシと鏃を叩《たた》き落した。竟に非望の遂げられないことを悟った紀昌の心に、成功したならば決して生じなかったに違いない道義的慚《ざん》愧《き》の念が、この時忽焉《こつえん》として湧起《わきおこ》った。飛衛の方では、又、危機を脱し得た安《あん》堵《ど》と己が伎倆《ぎりょう》に就いての満足とが、敵に対する憎しみをすっかり忘れさせた。二人は互いに駈《かけ》寄《よ》ると、野原の真中に相抱いて、暫《しば》し美しい師弟愛の涙にかきくれた。(こうした事を今日の道義観を以て見るのは当らない。美食家の斉《せい》の桓公《かんこう》が己の未だ味わったことのない珍味を求めた時、廚宰《ちゅうさい》の易《えき》牙《が》は己が息子を蒸焼《むしやき》にしてこれをすすめた。十六歳の少年、秦《しん》の始《し》皇《こう》帝《てい》は父が死んだその晩に、父の愛妾《あいしょう》を三度襲うた。凡《すべ》てそのような時代の話である。)
涙にくれて相擁しながらも、再び弟子がかかる企《たくら》みを抱くようなことがあっては甚《はなは》だ危いと思った飛衛は、紀昌に新たな目標を与えてその気を転ずるに如《し》くはないと考えた。彼はこの危険な弟子に向って言った。最早、伝うべき程のことは悉《ことごと》く伝えた。ヨ《なんじ》がもしこれ以上この道の蘊奥《うんおう》を極《きわ》めたいと望むならば、ゆいて西の方《かた》大行《たいこう》の嶮《けん》に攀《よ》じ、霍山《かくざん》の頂を極めよ。そこには甘蠅《かんよう》老師とて古今を曠《むな》しゅうする斯《し》道《どう》の大家がおられる筈《はず》。老師の技に比べれば、我々の射の如きは殆《ほとん》ど児戯に類する。ヨの師と頼むべきは、今は甘蠅師の外《ほか》にあるまいと。
紀昌は直《す》ぐに西に向って旅立つ。その人の前に出ては我々の技の如き児戯にひとしいと言った師の言葉が、彼の自尊心にこたえた。もしそれが本当だとすれば、天下第一を目指す彼の望《のぞみ》も、まだまだ前途程遠い訳である。己が業《わざ》が児戯に類するかどうか、とにもかくにも早くその人に会って腕を比べたいとあせりつつ、彼はひたすらに道を急ぐ。足裏を破り脛《はぎ》を傷つけ、危《き》巌《がん》を攀じ桟道《さんどう》を渡って、一月の後に彼は漸く目指す山巓《さんてん》に辿《たど》りつく。
気負い立つ紀昌を迎えたのは、羊のような柔和な目をした、しかし酷《ひど》くよぼよぼの爺《じい》さんである。年齢は百歳をも超えていよう。腰の曲っているせいもあって、白髯《はくぜん》は歩く時も地に曳《ひ》きずっている。
相手が聾《つんぼ》かも知れぬと、大声に遽《あわた》だしく紀昌は来意を告げる。己が技の程を見て貰《もら》いたい旨《むね》を述べると、あせり立った彼は相手の返辞をも待たず、いきなり背に負うた楊幹《ようかん》麻《ま》筋《きん》の弓を外《はず》して手に執った。そうして、石碣《せきけつ》の矢をつがえると、折から空の高くを飛び過ぎて行く渡り鳥の群に向って狙いを定める。弦に応じて、一箭忽《いっせんたちま》ち五羽の大鳥が鮮やかに碧《へき》空《くう》を切って落ちて来た。
一通り出来るようじゃな、と老人が穏かな微笑を含んで言う。だが、それは所詮《しょせん》射《しゃ》之《の》射《しゃ》というもの、好漢未《いま》だ不《ふ》射《しゃ》之《の》射《しゃ》を知らぬと見える。
ムッとした紀昌を導いて、老隠者は、其処《そこ》から二百歩ばかり離れた絶壁の上まで連れて来る。脚下は文字通りの屏風《びょうぶ》の如き壁立千仭《へきりつせんじん》、遥《はる》か真下に糸のような細さに見える渓流を一《ちょ》寸覗《っとのぞ》いただけで忽ち眩暈《めまい》を感ずる程の高さである。その断崖《だんがい》から半ば宙に乗出した危石の上につかつかと老人は駈上《かけのぼ》り、振返って紀昌に言う。どうじゃ。この石の上で先刻の業《わざ》を今一度見せてくれぬか。今更引込もならぬ。老人と入代りに紀昌がその石を履《ふ》んだ時、石は微《かす》かにグラリと揺らいだ。強《し》いて気を励まして矢をつがえようとすると、ちょうど崖《がけ》の端から小石が一つ転がり落ちた。その行方《ゆくえ》を目で追うた時、覚えず紀昌は石上に伏した。脚はワナワナと顫《ふる》え、汗は流れて踵《くびす》にまで至った。老人が笑いながら手を差し伸べて彼を石から下し、自ら代ってこれに乗ると、では射《しゃ》というものを御目にかけようかな、と言った。まだ動《どう》悸《き》がおさまらず蒼《あお》ざめた顔をしてはいたが、紀昌は直ぐに気が付いて言った。しかし、弓はどうなさる? 弓は? 老人は素手だったのである。弓? と老人は笑う。弓矢の要《い》る中《うち》はまだ射之射じゃ。不射之射には、烏《う》漆《しつ》の弓も粛慎《しゅくしん》の矢もいらぬ。
ちょうど彼《かれ》等《ら》の真上、空の極めて高い所を一羽の鳶《とび》が悠々《ゆうゆう》と輪を画《えが》いていた。その胡《ご》麻《ま》粒《つぶ》ほどに小さく見える姿を暫《しばら》く見上げていた甘蠅が、やがて、見えざる矢を無形の弓につがえ、満月の如くに引絞ってひょう《・・・》と放てば、見よ、鳶は羽ばたきもせず中空から石の如《ごと》くに落ちて来るではないか。
紀昌は慄然《りつぜん》とした。今にして始めて芸道の深淵《しんえん》を覗《のぞ》き得た心地であった。
九年の間、紀昌はこの老名人の許《もと》に留《とど》まった。その間如何《いか》なる修業を積んだものやらそれは誰《だれ》にも判《わか》らぬ。
九年たって山を降りて来た時、人々は紀昌の顔付の変ったのに驚いた。以前の負けず嫌《ぎら》いな精悍《せいかん》な面魂《つらだましい》は何処《どこ》かに影をひそめ、何の表情も無い、木偶《でく》の如く愚者の如き容貌《ようぼう》に変っている。久しぶりに旧師の飛衛を訪ねた時、しかし、飛衛はこの顔付を一見すると感嘆して叫んだ。これでこそ初めて天下の名人だ。我儕《われら》の如き、足下《あしもと》にも及ぶものでないと。
邯鄲の都は、天下一の名人となって戻《もど》って来た紀昌を迎えて、やがて眼前に示されるに違いないその妙技への期待に湧返《わきかえ》った。
ところが紀昌は一向にその要望に応《こた》えようとしない。いや、弓さえ絶えて手に取ろうとしない。山に入る時に携えて行った楊幹麻筋の弓も何処かへ棄《す》てて来た様子である。そのわけ《・・》を訊《たず》ねた一人に答えて、紀昌は懶《ものう》げに言った。至《し》為《い》は為《な》す無く、至言は言を去り、至射は射ることなしと。成程と、至極物分りのいい邯鄲の都人士は直ぐに合点した。弓を執らざる弓の名人は彼等の誇《ほこり》となった。紀昌が弓に触れなければ触れない程、彼の無敵の評判は愈々喧伝《いよいよけんでん》された。
様々な噂《うわさ》が人々の口から口へと伝わる。毎夜三更を過ぎる頃《ころ》、紀昌の家の屋上で何者の立てるとも知れぬ弓弦の音がする。名人の内に宿る射道の神が主人公の睡《ねむ》っている間に体内を脱《ぬ》け出し、妖《よう》魔《ま》を払うべく徹宵《てっしょう》守護に当っているのだという。彼の家の近くに住む一商人は或夜紀昌の家の上空で、雲に乗った紀昌が珍しくも弓を手にして、古《いにしえ》の名人・ラ《げい》と養由《ようゆう》基《き》の二人を相手に腕比べをしているのを確かに見たと言い出した。その時三名人の放った矢はそれぞれ夜空に青白い光芒《こうぼう》を曳《ひ》きつつ参宿《さんしゅく》と天狼星《てんろうせい》との間に消去ったと。紀昌の家に忍び入ろうとしたところ、塀《へい》に足を掛けた途端に一道の殺気が森閑《しんかん》とした家の中から奔《はし》り出てまとも《・・・》に額を打ったので、覚えず外に顛落《てんらく》したと白状した盗賊もある。爾《じ》来《らい》、邪心を抱《いだ》く者共は彼の住居の十町四方は避けて廻《まわ》り道をし、賢い渡り鳥共は彼の家の上空を通らなくなった。
雲と立《たち》罩《こ》める名声の只中《ただなか》に、名人紀昌は次第に老いて行く。既に早く射を離れた彼の心は、益々《ますます》枯淡虚静の域にはいって行ったようである。木偶の如き顔は更に表情を失い、語ることも稀《まれ》となり、ついには呼吸の有無さえ疑われるに至った。「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳の如く、耳は鼻の如く、鼻は口の如く思われる。」というのが、老名人晩年の述懐である。
甘蠅師の許《もと》を辞してから四十年の後、紀昌は静かに、誠に煙の如く静かに世を去った。その四十年の間、彼は絶えて射《しゃ》を口にすることが無かった。口にさえしなかった位だから、弓矢を執っての活動などあろう筈が無い。勿《もち》論《ろん》、寓《ぐう》話《わ》作者としてはここで老名人に掉《とう》尾《び》の大活躍をさせて、名人の真に名人たる所以《ゆえん》を明らかにしたいのは山々ながら、一方、又、何としても古書に記された事実を曲げる訳には行かぬ。実際、老後の彼に就いては唯《ただ》無為にして化したとばかりで、次のような妙な話の外には何一つ伝わっていないのだから。
その話というのは、彼の死ぬ一二年前のことらしい。或日老いたる紀昌が知人の許に招かれて行ったところ、その家で一つの器具を見た。確かに見《み》憶《おぼ》えのある道具だが、どうしてもその名前が思出せぬし、その用途も思い当らない。老人はその家の主人に尋ねた。それは何と呼ぶ品物で、又何に用いるのかと。主人は、客が冗談を言っているとのみ思って、ニヤリととぼけ《・・・》た笑い方をした。老紀昌は真剣になって再び尋ねる。それでも相手は曖昧《あいまい》な笑を浮べて、客の心をはかりかねた様子である。三度紀昌が真面目《まじめ》な顔をして同じ問を繰返した時、始めて主人の顔に驚愕《きょうがく》の色が現れた。彼は客の眼を凝乎《じっ》と見詰める。相手が冗談を言っているのでもなく、気が狂っているのでもなく、又自分が聞き違えをしているのでもないことを確かめると、彼は殆ど恐怖に近い狼狽《ろうばい》を示して、吃《ども》りながら叫んだ。
「ああ、夫《ふう》子《し》が、――古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途《みち》も!」
その後当分の間、邯鄲の都では、画家は絵筆を隠し、楽人は瑟《しつ》の絃を断ち、工匠は規《き》矩《く》を手にするのを恥じたということである。
弟子
一
魯《ろ》の卞《べん》の游侠《ゆうきょう》の徒、仲由《ちゅうゆう》、字《あざな》は子路《しろ》という者が、近頃《ちかごろ》賢者の噂《うわさ》も高い学匠・陬人孔丘《すうひとこうきゅう》を辱《はずか》しめてくれようものと思い立った。似而非《えせ》賢者何程のことやあらんと、蓬頭《ほうとう》 突鬢《とつびん》・垂冠《すいかん》・短後《たんこう》の衣という服装《いでたち》で、左手に雄《おんどり》、右手に牡豚《おすぶた》を引提《ひっさ》げ、勢《いきおい》猛に、孔丘が家を指して出掛ける。を揺《ゆす》り豚を奮い、嗷《かまびす》しい脣吻《しんぷん》の音を以《もっ》て、儒家の絃歌講誦《げんかこうしょう》の声を擾《みだ》そうというのである。
けたたましい動物の叫びと共に眼を瞋《いか》らして跳び込んで来た青年と、圜冠句《えんかんこう》履《り》緩くリ《けつ》を帯びて几《き》に凭《よ》った温顔の孔子との間に、問答が始まる。
「汝《なんじ》、何をか好む?」と孔子が聞く。
「我、長剣を好む。」と青年は昂然《こうぜん》として言い放つ。
孔子は思わずニコリとした。青年の声や態度の中に、余りに稚気満々たる誇《こ》負《ふ》を見たからである。血色のいい・眉《まゆ》の太い・眼《め》のはっきりした・見るからに精悍《せいかん》そうな青年の顔には、しかし、何処《どこ》か、愛すべき素直さが自《おの》ずと現れているように思われる。再び孔子が聞く。
「学は則《すなわ》ち如何《いかん》?」
「学、豈《あに》、益あらんや。」もともとこれを言うのが目的なのだから、子路は勢込んで怒鳴《どな》るように答える。
学の権威に就いて云々《うんぬん》されては微笑《わら》ってばかりもいられない。孔子は諄々《じゅんじゅん》として学の必要を説き始める。人君にして諫臣《かんしん》が無ければ正を失い、士にして教友が無ければ聴を失う。樹《き》も縄《なわ》を受けて始めて直くなるのではないか。馬に策《むち》が、弓に檠《けい》が必要なように、人にも、その放《ほう》恣《し》な性情を矯《た》める教学が、どうして必要でなかろうぞ。匡《ただ》し理《おさ》め磨《みが》いて、始めても《・》の《・》は有用の材となるのだ。
後世に残された語録の字《じ》面《づら》などからは到底想像も出来ぬ・極めて説得的な弁舌を、孔子は有《も》っていた。言葉の内容ばかりでなく、その穏かな音声・抑揚の中にも、それを語る時の極めて確信に充《み》ちた態度の中にも、どうしても聴者を説得せずにはおかないものがある。青年の態度からは次第に反抗の色が消えて、漸《ようや》く謹聴の様子に変って来る。
「しかし」と、それでも子路は尚《なお》逆襲する気力を失わない。南山《なんざん》の竹は揉《た》めずして自《おのずか》ら直く、斬《き》ってこれを用うれば犀革《さいかく》の厚きをも通すと聞いている。して見れば、天性優れたる者にとって、何の学ぶ必要があろうか?
孔子にとって、こんな幼稚な譬喩《ひゆ》を打破る程たやすい事はない。汝の云《い》うその南山の竹に矢の羽をつけ鏃《やじり》を付けてこれを礪《みが》いたならば、啻《ただ》に犀革を通すのみではあるまいに、と孔子に言われた時、愛すべき単純な若者は返す言葉に窮した。顔を赧《あか》らめ、暫《しばら》く孔子の前に突立ったまま何か考えている様子だったが、急にと豚とを抛《ほう》り出し、頭を低《た》れて、「謹しんで教《おしえ》を受けん。」と降参した。単に言葉に窮したためではない。実は、室に入って孔子の容《かたち》を見、その最初の一言を聞いた時、直ちに豚の場違いであることを感じ、己《おのれ》と余りにも懸絶した相手の大きさに圧倒されていたのである。
即日、子路は師弟の礼を執って孔子の門に入った。
二
このような人間を、子路は見たことがない。力千鈞《せんきん》の鼎《かなえ》を挙げる勇者を彼は見たことがある。明《めい》千里の外を察する智《ち》者《しゃ》の話も聞いたことがある。しかし、孔子に在るものは、決してそんな怪物めいた異常さではない。ただ最も常識的な完成に過ぎないのである。知情意の各々《おのおの》から肉体的の諸能力に至るまで、実に平凡に、しかし実に伸び伸びと発達した見事さである。一つ一つの能力の優秀さが全然目立たない程、過不及無く均衡のとれた豊かさは、子路にとって正《まさ》しく初めて見るところのものであった。闊達《かったつ》自在、些《いささ》かの道学者臭も無いのに子路は驚く。この人は苦労人だなと直《す》ぐに子路は感じた。可笑《おか》しいことに、子路の誇る武芸や膂力《りょりょく》に於《おい》てさえ孔子の方が上なのである。ただそれを平生用いないだけのことだ。侠者《きょうしゃ》子路は先《ま》ずこの点で度《ど》胆《ぎも》を抜かれた。放蕩《ほうとう》無《ぶ》頼《らい》の生活にも経験があるのではないかと思われる位、あらゆる人間への鋭い心理的洞察《どうさつ》がある。そういう一面から、又一方、極めて高く汚《けが》れないその理想主義に至るまでの幅の広さを考えると、子路はウーンと心の底から呻《うな》らずにはいられない。とにかく、この人は何処《どこ》へ持って行っても大丈夫《・・・》な人だ。潔癖な倫理的な見方からしても大丈夫だし、最も世俗的な意味から云っても大丈夫だ。子路が今までに会った人間の偉さは、どれも皆その利用価値の中に在った。これこれの役に立つから偉いというに過ぎない。孔子の場合は全然違う。ただ其処《そこ》に孔子という人間が存在するというだけで充分なのだ。少くとも子路には、そう思えた。彼はすっかり心酔して了《しま》った。門に入って未《いま》だ一月ならずして、最《も》早《はや》、この精神的支柱から離れ得ない自分を感じていた。
後年の孔子の長い放浪の艱《かん》苦《く》を通じて、子路程欣然《きんぜん》として従った者は無い。それは、孔子の弟子たることによって仕官の途《みち》を求めようとするのでもなく、又、滑稽《こっけい》なことに、師の傍に在って己《おのれ》の才徳を磨こうとするのでさえもなかった。死に至るまで渝《かわ》らなかった・極端に求むるところの無い・純粋な敬愛の情だけが、この男を師の傍に引留めたのである。嘗《かつ》て長剣を手離せなかったように、子路は今は何としてもこの人から離れられなくなっていた。
その時、四十而不惑《にしてまどわず》といった・その四十歳に孔子はまだ達していなかった。子路より僅《わず》か九歳の年長に過ぎないのだが、子路はその年齢の差を殆《ほとん》ど無限の距離に感じていた。
孔子は孔子で、この弟子の際《きわ》立《だ》った馴《な》らし難《がた》さに驚いている。単に勇を好むとか柔を嫌《きら》うとかいうならば幾らでも類はあるが、この弟子程もの《・・》の形を軽蔑《けいべつ》する男も珍しい。究極は精神に帰すると云いじょう、礼なるものは凡《すべ》て形から入らねばならぬのに、子路という男は、その形からはいって行くという筋道を容易に受けつけないのである。「礼と云い礼と云う。玉帛《ぎょくはく》を云わんや。楽と云い楽と云う。鐘鼓《しょうこ》を云わんや。」などというと大いに欣《よろこ》んで聞いているが、曲礼の細則を説く段になると俄《にわ》かに詰まらなさそうな顔をする。形式主義への・この本能的忌避と闘ってこの男に礼《れい》楽《がく》を教えるのは、孔子にとっても中々の難事であった。が、それ以上に、これを習うことが子路にとっての難事業であった。子路が頼るのは孔子という人間の厚みだけである。その厚みが、日常の区々たる細行《さいこう》の集積であるとは、子路には考えられない。本《もと》があって始めて末が生ずるのだと彼は言う。しかしその本を如何《いか》にして養うかに就いての実際的な考慮が足りないとて、何時《いつ》も孔子に叱《しか》られるのである。彼が孔子に心服するのは一つのこと。彼が孔子の感化を直ちに受けつけたかどうかは、又別の事に属する。
上智と下愚《かぐ》は移り難《がた》いと言った時、孔子は子路のことを考えに入れていなかった。欠点だらけではあっても、子路を下愚とは孔子も考えない。孔子はこの剽悍《ひょうかん》な弟子の無類の美点を誰《だれ》よりも高く買っている。それはこの男の純粋な没利害性《・・・・》のことだ。この種の美しさは、この国の人々の間に在っては余りにも稀《まれ》なので、子路のこの傾向は、孔子以外の誰からも徳としては認められない。むしろ一種の不可解な愚かさとして映るに過ぎないのである。しかし、子路の勇も政治的才幹も、この珍しい愚かさに比べれば、ものの数でないことを、孔子だけは良く知っていた。
師の言に従って己《おのれ》を抑え、とにもかくにも形《・》に就こうとしたのは、親に対する態度に於てであった。孔子の門に入って以来、乱暴者の子路が急に親孝行になったという親戚《しんせき》中の評判である。褒《ほ》められて子路は変な気がした。親孝行どころか、嘘《うそ》ばかりついているような気がして仕方が無いからである。我儘《わがまま》を云って親を手古摺《てこず》らせていた頃の方が、どう考えても正直だったのだ。今の自分の偽りに喜ばされている親達《たち》が少々情無くも思われる。こまかい心理分析家ではないけれども、極めて正直な人間だったので、こんな事にも気が付くのである。ずっと後年になって、或時《あるとき》突然、親の老いたことに気が付き、己の幼かった頃の両親の元気な姿を思出したら、急に泪《なみだ》が出て来た。その時以来、子路の親孝行は無類の献身的なものとなるのだが、とにかく、それまでの彼の俄《にわ》か孝行はこんな工合であった。
三
或日子路が街を歩いて行くと、曾《かつ》ての友人の二三に出会った。無《ぶ》頼《らい》とは云えぬまでも放縦にして拘《こだ》わるところの無い游侠《ゆうきょう》の徒である。子路は立止って暫《しばら》く話した。その中《うち》に彼《かれ》等《ら》の一人が子路の服装をじろじろ見《み》廻《まわ》し、やあ、これが儒服という奴《やつ》か? 随分みすぼらしいなり《・・》だな、と言った。長剣が恋しくはないかい、とも言った。子路が相手にしないでいると、今度は聞捨《ききずて》のならぬことを言出した。どうだい。あの孔丘という先生は中々の喰《く》わせものだって云《い》うじゃないか。しかつめらしい顔をして心にもない事を誠しやかに説いていると、えらく甘い汁《しる》が吸えるものと見えるなあ。別に悪意がある訳ではなく、心安立てからの何時《いつ》もの毒舌だったが、子路は顔色を変えた。いきなりその男の胸倉《むなぐら》を掴《つか》み、右手の拳《こぶし》をしたたか横面《よこつら》に飛ばした。二つ三つ続け様に喰《くら》わしてから手を離すと、相手は意気地なく倒れた。呆気《あっけ》に取られている他の連中に向っても子路は挑戦《ちょうせん》的な眼を向けたが、子路の剛勇を知る彼等は向って来ようともしない。殴られた男を左右から扶《たす》け起し、捨《すて》台詞《ぜりふ》一つ残さずにこそこそ《・・・・》と立去った。
何時かこの事が孔子の耳に入ったものと見える。子路が呼ばれて師の前に出て行った時、直接には触れないながら、次のようなことを聞かされねばならなかった。古《いにしえ》の君子は忠を以《もっ》て質となし仁を以て衛となした。不善ある時は則《すなわ》ち忠を以てこれを化し、侵暴ある時は則ち仁を以てこれを固うした。腕力の必要を見ぬ所以《ゆえん》である。とかく小人は不《ふ》遜《そん》を以て勇と見做《みな》し勝ちだが、君子の勇とは義を立つることの謂《いい》である云々《うんぬん》。神妙に子路は聞いていた。
数日後、子路が又街を歩いていると、往来の木《こ》蔭《かげ》で閑人達の盛んに弁じている声が耳に入った。それがどうやら孔子の噂《うわさ》のようである。――昔、昔、と何でも古《いにしえ》を担《かつ》ぎ出して今を貶《けな》す。誰も昔を見たことがないのだから何とでも言える訳さ。しかし昔の道を杓子定規《しゃくしじょうぎ》にそのまま履《ふ》んで、それで巧《うま》く世が治まるくらいなら、誰も苦労はしないよ。俺《おれ》達にとっては、死んだ周公よりも生ける陽《よう》虎《こ》様の方が偉いということになるのさ。
下剋上《げこくじょう》の世であった。政治の実権が魯《ろ》侯《こう》からその大《たい》夫《ふ》たる季《き》孫《そん》氏《し》の手に移り、それが今や更に季孫氏の臣たる陽虎という野心家の手に移ろうとしている。しゃべっている当人は或《ある》いは陽虎の身内の者かも知れない。
――ところで、その陽虎様がこの間から孔丘を用いようと何度も迎えを出されたのに、何と、孔丘の方からそれを避けているというじゃないか。口では大層な事を言っていても、実際の生きた政治にはまるで《・・・》自信が無いのだろうよ。あの手合はね。
子路は背後《うしろ》から人々を分けて、つかつかと弁者の前に進み出た。人々は彼が孔門の徒であることを直ぐに認めた。今まで得々と弁じ立てていた当の老人は、顔色を失い、意味も無く子路の前に頭を下げてから人垣《ひとがき》の背後に身を隠した。眦《まなじり》を決した子路の形相《ぎょうそう》が余りにすさまじかったのであろう。
その後暫く、同じような事が処々で起った。肩を怒らせ炯々《けいけい》と眼を光らせた子路の姿が遠くから見え出すと、人々は孔子を刺《そし》る口を噤《つぐ》むようになった。
子路はこの事で度々《たびたび》師に叱られるが、自分でもどうしようもない。彼は彼なりに心の中では言分が無いでもない。所謂《いわゆる》君子なるものが俺と同じ強さの忿《ふん》怒《ぬ》を感じて尚《なお》かつそれを抑え得るのだったら、そりゃ偉い。しかし、実際は、俺程強く怒りを感じやしないんだ。少くとも、抑え得る程度に弱くしか感じていないのだ。きっと……。
一年程経《た》ってから孔子が苦笑と共に嘆じた。由《ゆう》が門に入ってから自分は悪言を耳にしなくなったと。
四
或時、子路が一室で瑟《しつ》を鼓《こ》していた。
孔子はそれを別室で聞いていたが、暫くして傍《かたわ》らなる冉有《ぜんゆう》に向って言った。あの瑟の音を聞くがよい。暴ル《ぼうれい》の気が自《おのずか》ら漲《みなぎ》っているではないか。君子の音は温柔にして中《ちゅう》に居《お》り、生育の気を養うものでなければならぬ。昔舜《しゅん》は五《ご》絃《げん》琴《きん》を弾じて南風の詩を作った。南風の薫《くん》ずるや以て我が民の慍《いかり》を解くべし。南風の時なるや以て我が民の財を阜《おおい》にすべしと。今由《ゆう》の音を聞くに、誠に殺伐激越、南音に非《あら》ずして北声に類するものだ。弾者の荒怠暴《こうたいぼう》恣《し》の心状をこれ程明らかに映し出したものはない。――
後、冉有が子路の所へ行って夫《ふう》子《し》の言葉を告げた。
子路は元々自分に楽才の乏しいことを知っている。そして自《みずか》らそれを耳と手の所為《せい》に帰していた。しかし、それが実はもっと深い精神の持ち方から来ているのだと聞かされた時、彼は愕然《がくぜん》として懼《おそ》れた。大切なのは手の習練ではない。もっと深く考えねばならぬ。彼は一室に閉じ籠《こも》り、静思して喰《くら》わず、以て骨立《こつりつ》するに至った。数日の後、漸《ようや》く思い得たと信じて、再び瑟を執った。そうして、極めて恐る恐る弾じた。その音を洩《も》れ聞いた孔子は、今度は別に何も言わなかった。咎《とが》めるような顔色も見えない。子《し》貢《こう》が子路の所へ行ってその旨《むね》を告げた。師の咎《とがめ》が無かったと聞いて子路は嬉《うれ》しげに笑った。
人の良い兄弟子の嬉しそうな笑顔を見て、若い子貢も微笑を禁じ得ない。聡明《そうめい》な子貢はちゃんと《・・・・》知っている。子路の奏《かな》でる音が依然として殺伐な北声に満ちていることを。そうして、夫子がそれを咎め給《たま》わぬのは、痩《や》せ細るまで苦しんで考え込んだ子路の一本気を愍《あわれ》まれたために過ぎないことを。
五
弟子の中で、子路程孔子に叱《しか》られる者は無い。子路程遠慮なく師に反問する者もない。
「請《こ》う。古《いにしえ》の道を釈《す》てて由《ゆう》の意を行わん。可ならんか。」などと、叱られるに決っていることを聞いて見たり、孔子に面と向ってずけ《・・》ずけ《・・》と「是《これ》ある哉《かな》。子の迂《う》なるや!」などと言ってのける人間は他に誰もいない。それでいて、又、子路程全身的に孔子に凭《よ》り掛かっている者もないのである。どしどし問返すのは、心から納得出来ないものを表面《うわべ》だけ諾《うべな》うことの出来ぬ性分だからだ。又、他の弟子達のように、嗤《わら》われまい叱られまいと気を遣わないからである。
子路が他の所では飽くまで人の下《か》風《ふう》に立つを潔《いさぎよ》しとしない独立不羈《ふき》の男であり、一諾千金の快男児であるだけに、碌々《ろくろく》たる凡弟《ぼんてい》子《し》然《ぜん》として孔子の前に侍《はんべ》っている姿は、人々に確かに奇異な感じを与えた。事実、彼には、孔子の前にいる時だけは複雑な思索や重要な判断は一切師に任せて了《しま》って自分は安心しきっているような滑稽《こっけい》な傾向も無いではない。母親の前では自分に出来る事までも、して貰《もら》っている幼児と同じような工合である。退いて考えて見て、自ら苦笑することがある位だ。
だが、これ程の師にも尚触れることを許さぬ胸中の奥《おく》所《か》がある。此処《ここ》ばかりは譲れないというぎりぎり結著《・・・・・・》の所が。
即《すなわ》ち、子路にとって、この世に一つの大事なものがある。そのものの前には死生も論ずるに足りず、況《いわ》んや、区々たる利害の如《ごと》き、問題にはならない。侠《きょう》といえば稍々《やや》軽すぎる。信といい義というと、どうも道学者流で自由な躍動の気に欠ける憾《うら》みがある。そんな名前はどうでもいい。子路にとって、それは快感の一種のようなものである。とにかく、それの感じられるものが善きことであり、それの伴わないものが悪《あ》しきことだ。極めてはっきりしていて、未《いま》だ嘗《かつ》てこれに疑《うたがい》を感じたことがない。孔子の云う仁とはかなり《・・・》開きがあるのだが、子路は師の教《おしえ》の中から、この単純な倫理観を補強するようなものばかりを選んで摂《と》り入れる。巧言令色足恭《すうきょう》、怨《えん》ヲ匿《かく》シテ其《そ》ノ人ヲ友トスルハ、丘之《きゅうこれ》ヲ恥ズ とか、生ヲ求メテ以テ仁ヲ害スルナク身ヲ殺シテ以テ仁ヲ成スアリ とか、狂者ハ進ンデ取リ狷者《けんしゃ》ハ為《な》サザル所アリ とかいうのが、それだ。孔子も初めはこの角《つの》を矯《ため》めようとしないではなかったが、後には諦《あきら》めて止《や》めて了った。とにかく、これはこれで一匹の見事な牛には違いないのだから。策《むち》を必要とする弟子もあれば、手《た》綱《づな》を必要とする弟子もある。容易な手綱では抑えられそうもない子路の性格的欠点が、実は同時に却《かえ》って大いに用うるに足るものであることを知り、子路には大体の方向の指示さえ与えればよいのだと考えていた。敬ニシテ礼ニ中《あた》ラザルヲ野《や》トイイ、勇ニシテ礼ニ中ラザルヲ逆《げき》トイウ とか、信ヲ好ンデ学ヲ好マザレバソノ蔽《へい》ヤ賊、直《ちょく》ヲ好ンデ学ヲ好マザレバソノ蔽《へい》ヤ絞《こう》などというのも、結局は、個人としての子路に対してよりも、いわば塾頭《じゅくとう》格《かく》としての子路に向っての叱言《こごと》である場合が多かった。子路という特殊な個人に在っては却って魅力となり得るものが、他の門生一般に就いては概《おおむ》ね害となることが多いからである。
六
晋《しん》の魏楡《きゆ》の地で石がもの《・・》を言ったという。民の怨《えん》嗟《さ》の声が石を仮りて発したのであろうと、或《あ》る賢者が解した。既に衰微した周室は更に二つに分れて争っている。十に余る大国はそれぞれ相結び相闘って干《かん》戈《か》の止む時が無い。斉侯《せいこう》の一人は臣下の妻に通じて夜《よ》毎《ごと》その邸《やしき》に忍んで来る中《うち》に遂《つい》にその夫に弑《しい》せられて了う。楚《そ》では王族の一人が病臥《びょうが》中の王の頸《くび》をしめて位を奪う。呉《ご》では足頸を斬《きり》取《と》られた罪人共が王を襲い、晋では二人の臣が互いに妻を交換し合う。このような世の中であった。
魯《ろ》の昭公は上卿《じょうけい》季《き》平《へい》子《し》を討とうとして却って国を逐《お》われ、亡命七年にして他国で窮死する。亡命中帰国の話がととのいかかっても、昭公に従った臣下共が帰国後の己《おのれ》の運命を案じ公を引留めて帰らせない。魯の国は季《き》孫《そん》・叔孫《しゅくそん》・孟孫《もうそん》三氏の天下から、更に季氏の宰・陽《よう》虎《こ》の恣《ほしいまま》な手に操《あやつ》られて行く。
ところが、その策士陽虎が結局己の策に倒れて失脚してから、急にこの国の政界の風向きが変った。思いがけなく孔子が中都の宰として用いられることになる。公平無私な官吏や苛斂誅求《かれんちゅうきゅう》を事とせぬ政治家の皆無だった当時のこととて、孔子の公正な方針と周到な計画とは極く短い期間に驚異的な治績を挙げた。すっかり驚嘆した主君の定公《ていこう》が問うた。汝《なんじ》の中都を治めしところの法を以て魯国を治むれば則《すなわ》ち如何《いかん》? 孔子が答えて言う。何ぞ但《ただ》魯国のみならんや。天下を治むると雖《いえど》も可ならんか。凡《およ》そ法螺《ほら》とは縁の遠い孔子が頗《すこぶ》る恭《うやうや》しい調子で澄ましてこうした壮語を弄《ろう》したので、定公は益々《ますます》驚いた。彼は直ちに孔子を司《し》空《くう》に挙げ、続いて大《だい》司《し》寇《こう》に進めて宰相の事をも兼ね摂《と》らせた。孔子の推挙で子路は魯国の内閣書記官長とも言うべき季氏の宰となる。孔子の内政改革案の実行者として真先に活動したことは言うまでもない。
孔子の政策の第一は中央集権即ち魯侯の権力強化である。この為《ため》には、現在魯侯よりも勢力を有《も》つ季《き》・叔《しゅく》・孟《もう》・三桓《さんかん》の力を削《そ》がねばならぬ。三氏の私城にして百雉《ひゃくち》(厚さ三丈、高さ一丈)を超えるものにレ《こう》・費《ひ》・成《せい》の三地がある。先《ま》ずこれ等《ら》を毀《こぼ》つことに孔子は決め、その実行に直接当ったのが子路であった。
自分の仕事の結果が直《す》ぐにはっきりと現れて来る、しかも今までの経験には無かった程の大きい規模で現れて来ることは、子路のような人間にとって確かに愉快に違いなかった。殊《こと》に、既成政治家の張り廻《めぐ》らした奸悪《かんあく》な組織や習慣を一つ一つ破砕して行くことは、子路に、今まで知らなかった一種の生《いき》甲斐《がい》を感じさせる。多年の抱負の実現に生々《いきいき》と忙しげな孔子の顔を見るのも、さすがに嬉《うれ》しい。孔子の目にも、弟子の一人としてではなく一個の実行力ある政治家としての子路の姿が頼もしいものに映った。
費の城を毀《こわ》しに掛かった時、それに反抗して公山不狃《こうざんふちゅう》という者が費人を率い魯の都を襲うた。武子台に難を避けた定公の身辺にまで叛軍《はんぐん》の矢が及ぶ程、一時は危かったが、孔子の適切な判断と指揮とによって纔《わず》かに事無きを得た。子路は又改めて師の実際家的手腕に敬服する。孔子の政治家としての手腕は良く知っているし、又その個人的な膂力《りょりょく》の強さも知ってはいたが、実際の戦闘に際してこれ程の鮮やかな指揮ぶりを見せようとは思いがけなかったのである。勿論《もちろん》、子路自身もこの時は真先に立って奮い戦った。久しぶりに揮《ふる》う長剣の味も、まんざら棄《す》てたものではない。とにかく、経書《けいしょ》の字句をほじくったり古礼を習うたりするよりも、粗《あら》い現実の面と取組み合って生きて行く方が、この男の性に合っているようである。
斉《せい》との間の屈辱的媾《こう》和《わ》の為に、定公が孔子を随《したが》えて斉の景公と夾谷《きょうこく》の地に会したことがある。その時孔子は斉の無礼を咎《とが》めて、景公始め群卿《ぐんけい》諸大《たい》夫《ふ》を頭ごなしに叱《しっ》咤《た》した。戦勝国たる筈《はず》の斉の君臣一同悉《ことごと》く顫《ふる》え上ったとある。子路をして心からの快哉《かいさい》を叫ばしめるに充分な出来事ではあったが、この時以来、強国斉は、隣国の宰相としての孔子の存在に、或いは孔子の施政の下に充実して行く魯の国力に、懼《おそれ》を抱《いだ》き始めた。苦心の結果、誠に如《い》何《か》にも古代支那《しな》式な苦肉の策が採られた。即ち、斉から魯へ贈るに、歌舞に長じた美女の一団を以《もっ》てしたのである。こうして魯侯の心を蕩《とろ》かし定公と孔子との間を離間しようとしたのだ。ところで、更に古代支那式なのは、この幼稚な策が、魯国内反孔子派の策動と相《あい》俟《ま》って、余りにも速く効を奏したことである。魯侯は女楽《じょがく》に耽《ふけ》って最《も》早《はや》朝《ちょう》に出なくなった。季《き》桓《かん》子《し》以下の大官連もこれに倣《なら》い出す。子路は真先に憤慨して衝突し、官を辞した。孔子は子路程早く見《み》切《きり》をつけず、尚《なお》尽くせるだけの手段を尽くそうとする。子路は孔子に早く辞めて貰《もら》いたくて仕方が無い。師が臣節を汚《けが》すのを懼れるのではなく、ただこの淫《みだ》らな雰《ふん》囲気《いき》の中に師を置いて眺《なが》めるのが堪《たま》らないのである。
孔子の粘り強さも竟《つい》に諦《あきら》めねばならなくなった時、子路はほっと《・・・》した。そうして、師に従って欣《よろこ》んで魯の国を立《たち》退《の》いた。
作曲家でもあり作詞家でもあった孔子は、次第に遠離《とおざか》り行く都城を顧みながら、歌う。
彼《か》の美婦の口には君子も以て出走すべし。彼の美婦の謁《えつ》には君子も以て死敗すべし。……
かくて爾後《じご》永年に亙《わた》る孔子の遍歴が始まる。
七
大きな疑問が一つある。子供の時からの疑問なのだが、成人になっても老人になりかかっても未《いま》だに納得できないことに変りはない。それは、誰《だれ》もが一向に怪しもうとしない事柄《ことがら》だ。邪が栄えて正が虐《しいた》げられるという・ありきたりの事実に就いてである。
この事実にぶつかる毎《ごと》に、子路は心からの悲憤を発しないではいられない。何故《なぜ》だ? 何故そうなのだ? 悪は一時栄えても結局はその酬《むくい》を受けると人は云《い》う。成程《なるほど》そういう例もあるかも知れぬ。しかし、それも人間というものが結局は破滅に終るという一般的な場合の一例なのではないか。善人が究極の勝利を得たなどという例《ためし》は、遠い昔は知らず、今の世では殆《ほとん》ど聞いたことさえ無い。何故だ?何故だ? 大きな子供・子路にとって、こればかりは幾ら憤慨しても憤慨し足りないのだ。彼は地《じ》団《だん》駄《だ》を踏む思いで、天とは何だと考える。天は何を見ているのだ。そのような運命を作り上げるのが天なら、自分は天に反抗しないではいられない。天は人間と獣との間に区別を設けないと同じく、善と悪との間にも差別を立てないのか。正とか邪とかは畢竟《ひっきょう》人間の間だけの仮の取決《とりきめ》に過ぎないのか? 子路がこの問題で孔子の所へ聞きに行くと、何時《いつ》も決って、人間の幸福というものの真の在り方に就いて説き聞かせられるだけだ。善をなすことの報《むくい》は、では結局、善をなしたという満足の外には無いのか? 師の前では一応納得したような気になるのだが、さて退いて独《ひと》りになって考えて見ると、矢《や》張《はり》どうしても釈然としないところが残る。そんな無理に解釈して見た揚句の幸福なんかでは承知出来ない。誰が見ても文句の無い・はっきりした形の善報が義人の上に来るのでなくては、どうしても面白《おもしろ》くないのである。
天に就いてのこの不満を、彼は何よりも師の運命に就いて感じる。殆ど人間とは思えないこの大才、大徳が、何故こうした不遇に甘んじなければならぬのか。家庭的にも恵まれず、年老いてから放浪の旅に出なければならぬような不運が、どうしてこの人を待たねばならぬのか。一夜、「鳳鳥《ほうちょう》至らず。河、図《と》を出さず。已《や》んぬるかな。」と独言《ひとりごと》に孔子が呟《つぶや》くのを聞いた時、子路は思わず涙の溢《あふ》れて来るのを禁じ得なかった。孔子が嘆じたのは天下蒼生《そうせい》の為だったが、子路の泣いたのは天下の為《ため》ではなく孔子一人の為である。
この人と、この人を竢《ま》つ時世とを見て泣いた時から、子路の心は決っている。濁世《じょくせ》のあらゆる侵害からこの人を守る楯《たて》となること。精神的には導かれ守られる代りに、世俗的な煩労《はんろう》汚辱を一切己《おの》が身に引受けること。僭越《せんえつ》ながらこれが自分の務《つとめ》だと思う。学も才も自分は後学の諸才人に劣るかも知れぬ。しかし、一旦《いったん》事ある場合真先に夫《ふう》子《し》の為に生命を抛《なげう》って顧みぬのは誰よりも自分だと、彼は自ら深く信じていた。
八
「ここに美玉あり。匱《ひつ》にロ《おさ》めて蔵《かく》さんか。善《ぜん》賈《こ》を求めて沽《う》らんか。」と子《し》貢《こう》が言った時、孔子は即座に、「之《これ》を沽らん哉《かな》。之を沽らん哉。我は賈《あたい》を待つものなり。」と答えた。
そういう積りで孔子は天下周遊の旅に出たのである。随《したが》った弟子達《たち》も大部分は勿論《もちろん》沽りたいのだが、子路は必ずしも沽ろうとは思わない。権力の地位に在《あ》って所信を断行する快さは既に先頃《さきごろ》の経験で知ってはいるが、それには孔子を上に戴《いただ》くといった風な特別な条件が絶対に必要である。それが出来ないなら、寧《むし》ろ、「褐《かつ》(粗衣)を被《き》て玉を懐《いだ》く」という生き方が好ましい。生涯《しょうがい》孔子の番犬に終ろうとも、些《いささ》かの悔も無い。世俗的な虚栄心が無い訳ではないが、なまじいの仕官は却《かえ》って己《おのれ》の本領たる磊落闊達《らいらくかったつ》を害するものだと思っている。
様々な連中が孔子に従って歩いた。てきぱきした実務家の冉有《ぜんゆう》。温厚の長者閔《びん》子《し》騫《けん》。穿《せん》鑿《さく》好きな故実家の子夏《しか》。些か詭《き》弁《べん》派的な享受《きょうじゅ》家《か》宰《さい》予《よ》。気骨稜々《りょうりょう》たる慷慨《こうがい》家の公良孺《こうりょうじゅ》。身長《みのたけ》九尺六寸といわれる長人孔子の半分位しかない短矮《たんわい》な愚直者子《し》羔《こう》。年齢から云っても貫禄《かんろく》から云っても、勿論子路が彼等の宰領格である。
子路より二十二歳も年下ではあったが、子貢という青年は誠に際《きわ》立《だ》った才人である。孔子が何時も口を極めて賞《ほ》める顔回《がんかい》よりも、寧ろ子貢の方を子路は推したい気持であった。孔子からその強靱《きょうじん》な生活力と、又その政治性とを抜き去ったような顔回という若者を、子路は余り好まない。それは決して嫉妬《しっと》ではない。(子貢子張《しちょう》輩は、顔淵《がんえん》に対する・師の桁《けた》外《はず》れの打込み方に、どうしてもこの感情を禁じ得ないらしいが。)子路は年齢が違い過ぎてもいるし、それに元来そんな事に拘《こだ》わらぬ性《たち》でもあったから。唯《ただ》、彼には顔淵の受動的な柔軟な才能の良さが全然呑《の》み込めないのである。第一、何処《どこ》かjイタルな力の欠けているところが気に入らない。其処《そこ》へ行くと、多少軽薄ではあっても常に才気と活力とに充《み》ちている子貢の方が、子路の性質には合うのであろう。この若者の頭の鋭さに驚かされるのは子路ばかりではない。頭に比べて未だ人間の出来ていないことは誰にも気付かれるところだが、しかし、それは年齢というものだ。余りの軽薄さに腹を立てて一喝《いっかつ》を喰《くら》わせることもあるが、大体に於《おい》て、後世畏《おそ》るべしという感じを子路はこの青年に対して抱《いだ》いている。
或時《あるとき》、子貢が二三の朋輩《ほうばい》に向って次のような意味のことを述べた。――夫《ふう》子《し》は巧弁を忌《い》むといわれるが、しかし夫子自身弁が巧《うま》過《す》ぎると思う。これは警戒を要する。宰予などの巧さとは、まるで違う。宰予の弁の如《ごと》きは、巧さが目に立ち過ぎる故《ゆえ》、聴者に楽しみは与え得ても、信頼は与え得ない。それだけに却って安全といえる。夫子のは全く違う。流暢《りゅうちょう》さの代りに、絶対に人に疑《うたがい》を抱かせぬ重厚さを備え、諧謔《かいぎゃく》の代りに、含蓄に富む譬喩《ひゆ》を有《も》つその弁は、何人《なんぴと》といえども逆らうことの出来ぬものだ。勿論、夫子の云われるところは九分九厘まで常に謬《あやま》り無き真理だと思う。又夫子の行われるところは九分九厘まで我々の誰もが取って以て範とすべきものだ。にも拘《かかわ》らず、残りの一厘――絶対に人に信頼を起させる夫子の弁舌の中の・僅《わず》か百分の一が、時に、夫子の性格の(その性格の中の・絶対普遍的な真理と必ずしも一致しない極少部分の)弁明に用いられる惧《おそ》れがある。警戒を要するのは此処《ここ》だ。これは或いは、余り夫子に親しみ過ぎ狎《な》れ過ぎたための慾《よく》の云わせることかも知れぬ。実際、後世の者が夫子を以て聖人と崇《あが》めたところで、それは当然過ぎる位当然なことだ。夫子ほど完全に近い人を自分は見たことがないし、又将来もこういう人はそう現れるものではなかろうから。ただ自分の言いたいのは、その夫子にして尚《なお》かつかかる微小ではあるが・警戒すべき点を残すものだという事だ。顔回のような夫子と似通った肌合《はだあい》の男にとっては、自分の感じるような不満は少しも感じられないに違いない。夫子が屡々《しばしば》顔回を讃《ほ》められるのも、結局はこの肌合のせいではないのか。……
青二才の分際で師の批評などおこがましい《・・・・・・》と腹が立ち、又、これを言わせているのは畢《ひっ》竟《きょう》顔淵への嫉妬だとは知りながら、それでも子路はこの言葉の中に莫迦《ばか》にし切れないものを感じた。肌合の相違ということに就いては、確かに子路も思い当ることがあったからである。
己《おれ》達には漠然《ばくぜん》としか気付かれないものをハッキリ形に表す・妙な才能が、この生意気な若僧《わかぞう》にはあるらしいと、子路は感心と軽蔑《けいべつ》とを同時に感じる。
子貢が孔子に奇妙な質問をしたことがある。「死者は知ることありや? 将《は》た知ることなきや?」死後の知覚の有無、或いは霊魂の滅不滅に就いての疑問である。孔子が又妙な返辞をした。「死者知るありと言わんとすれば、将《まさ》に孝子順孫、生を妨げて以て死を送らんとすることを恐る。死者知るなしと言わんとすれば、将に不孝の子其《そ》の親を棄てて葬《ほうむ》らざらんとすることを恐る。」凡《およ》そ見当違いの返辞なので子貢は甚《はなは》だ不服だった。勿論、子貢の質問の意味は良く判《わか》っているが、飽くまで現実主義者、日常生活中心主義者たる孔子は、この優れた弟子の関心の方向を換えようとしたのである。
子貢は不満だったので、子路にこの話をした。子路は別にそんな問題に興味は無かったが、死そのものよりも師の死生観を知りたい気が一寸《ちょっと》したので、或時死に就いて訊《たず》ねて見た。
「未《いま》だ生を知らず。いずくんぞ死を知らん。」これが孔子の答であった。
全くだ! と子路はすっかり感心した。しかし、子貢は又しても鮮やかに肩透しを喰《く》ったような気がした。それはそうです。しかし私の言っているのはそんな事ではない。明らかにそう言っている子貢の表情である。
九
衛《えい》の霊公は極めて意志の弱い君主である。賢と不才とを識別し得ない程愚かではないのだが、結局は苦い諫言《かんげん》よりも甘い諂《てん》諛《ゆ》に欣《よろこ》ばされて了《しま》う。衛の国政を左右するものはその後宮《こうきゅう》であった。
夫人南《なん》子《し》は夙《つと》に淫奔《いんぽん》の噂《うわさ》が高い。未《ま》だ宋《そう》の公女だった頃《ころ》異母兄の朝《ちょう》という有名な美男と通じていたが、衛侯の夫人となってからも尚《なお》宋朝を衛に呼び大《たい》夫《ふ》に任じてこれと醜関係を続けている。頗《すこぶ》る才走った女で、政治向の事にまで容喙《ようかい》するが、霊公はこの夫人の言葉なら頷《うなず》かぬことはない。霊公に聴かれようとする者は先《ま》ず南子に取入るのが例であった。
孔子が魯《ろ》から衛に入った時、召を受けて霊公には謁《えつ》したが、夫人の所へは別に挨拶《あいさつ》に出なかった。南子が冠を曲げた。早速人を遣わして孔子に言わしめる。四方の君子、寡《か》君《くん》と兄弟たらんと欲《ほっ》する者は、必ず寡小君(夫人)を見る。寡小君見んことを願えり云々《うんぬん》。
孔子も已《や》むを得ず挨拶に出た。南子は譖轣sちい》(薄い葛《くず》布《ふ》の垂れぎぬ)の後に在って孔子を引見する。孔子の北面稽首《けいしゅ》の礼に対し、南子が再拝して応《こた》えると、夫人の身に着けた環佩《かんぱい》が迹R《きゅうぜん》として鳴ったとある。
孔子が公宮から帰って来ると、子路が露骨に不愉快な顔をしていた。彼は、孔子が南子風《ふ》情《ぜい》の要求などは黙殺することを望んでいたのである。まさか孔子が妖《よう》婦《ふ》にたぶらかされるとは思いはしない。しかし、絶対清浄である筈《はず》の夫子が汚《けが》らわしい淫女《いんじょ》に頭を下げたというだけで既に面白くない。美玉を愛蔵する者がその珠《たま》の表面《おもて》に不浄なるものの影の映るのさえ避けたい類《たぐい》なのであろう。孔子は又、子路の中で相当敏腕な実際家と隣り合って住んでいる大きな子供《・・・・・》が、何時までたっても一向老成しそうもないのを見て、可笑《おか》しくもあり、困りもするのである。
一日、霊公の所から孔子へ使が来た。車で一緒に都を一巡しながら色々話を承ろうと云う。孔子は欣《よろこ》んで服を改め直ちに出掛けた。
この丈《たけ》の高いぶっきらぼう《・・・・・・》な爺《じい》さんを、霊公が無《む》闇《やみ》に賢者として尊敬するのが、南子には面白くない。自分を出し抜いて、二人同車して都を巡るなどとは以《もっ》ての外である。
孔子が公に謁し、さて表に出て共に車に乗ろうとすると、其処《そこ》には既に盛装を凝らした南子夫人が乗込んでいた。孔子の席が無い。南子は意地の悪い微笑を含んで霊公を見る。孔子もさすがに不愉快になり、冷やかに公の様子を窺《うかが》う。霊公は面目無げに目を俯《ふ》せ、しかし南子には何事も言えない。黙って孔子の為《ため》に次の車を指《ゆび》さす。
二乗の車が衛の都を行く。前なる四輪の豪《ごう》奢《しゃ》な馬車には、霊公と竝《なら》んで嬋妍《せんけん》たる南子夫人の姿が牡《ぼ》丹《たん》の花のように輝く。後《うしろ》の見すぼらしい二輪の牛車には、寂しげな孔子の顔が端然と正面を向いている。沿道の民衆の間にはさすがに秘《ひそ》やかな嘆声と顰蹙《ひんしゅく》とが起る。
群集の間に交って子路もこの様子を見た。公からの使を受けた時の夫子の欣びを目にしているだけに、腸《はらわた》の煮え返る思いがするのだ。何事か嬌声《きょうせい》を弄《ろう》しながら南子が目の前を進んで行く。思わず嚇《かっ》となって、彼は拳《こぶし》を固め人々を押分けて飛出そうとする。背後《うしろ》から引留める者がある。振切ろうと眼を瞋《いか》らせて後を向く。子若《しじゃく》と子《し》正《せい》の二人である。必死に子路の袖《そで》を控えている二人の眼に、涙の宿っているのを子路は見た。子路は、漸《ようや》く振上げた拳を下す。
翌日、孔子等の一行は衛を去った。「我未《いま》だ徳を好むこと色を好むが如《ごと》き者を見ざるなり。」というのが、その時の孔子の嘆声である。
十
葉公子高《しょうこうしこう》は竜《りゅう》を好むこと甚《はなは》だしい。居室にも竜を雕《ほ》り繍帳《しゅうちょう》にも竜を画《えが》き、日常竜の中に起臥《きが》していた。これを聞いたほん物《・・・》の天竜が大きに欣《よろこ》んで一日葉公の家に降《くだ》り己《おのれ》の愛好者を覗《のぞ》き見た。頭は閨sまど》に窺《うかが》い尾は堂に驕sひ》くという素晴らしい大きさである。葉公はこれを見るや怖《おそ》れわなないて逃げ走った。その魂魄《こんぱく》を失い五色主《ごしょくしゅ》無《な》し、という意気地無さであった。
諸侯は孔子の賢の名を好んで、その実を欣ばぬ。何《いず》れも葉公の竜に於《お》ける類《たぐい》である。実際の孔子は余りに彼等には大き過ぎるもののように見えた。孔子を国賓《こくひん》として遇しようという国はある。孔子の弟子の幾人かを用いた国もある。が、孔子の政策を実行しようとする国は何処《どこ》にも無い。匡《きょう》では暴民の凌辱《りょうじょく》を受けようとし、宋《そう》では姦臣《かんしん》の迫害に遭い、蒲《ほ》では又兇漢《きょうかん》の襲撃を受ける。諸侯の敬遠と御用学者の嫉《しっ》視《し》と政治家連の排斥とが、孔子を待ち受けていたものの凡《すべ》てである。
それでも尚《なお》、講誦《こうしょう》を止《や》めず切《せっ》磋《さ》を怠らず、孔子と弟子達とは倦《う》まずに国々への旅を続けた。
「鳥よく木を択《えら》ぶ。木豈《あ》に鳥を択ばんや。」などと至って気位は高いが、決して世を拗《す》ねたのではなく、飽くまで用いられんことを求めている。そして、己等《おのれら》の用いられようとするのは己が為《ため》に非《あら》ずして天下の為、道の為なのだと本気で《・・・》――全く呆《あき》れたことに本気で《・・・》そう考えている。乏しくとも常に明るく、苦しくとも望《のぞみ》を捨てない。誠に不思議な一行であった。
一行が招かれて楚《そ》の昭王《しょうおう》の許《もと》へ行こうとした時、陳《ちん》・蔡《さい》の大《たい》夫《ふ》共が相計り秘《ひそ》かに暴徒を集めて孔子等を途《みち》に囲ましめた。孔子の楚に用いられることを惧《おそ》れこれを妨げようとしたのである。暴徒に襲われるのはこれが始めてではなかったが、この時は最も困窮に陥った。糧道が絶たれ、一同火食せざること七日に及んだ。さすがに、餒《う》え、疲れ、病者も続出する。弟子達の困憊《こんぱい》と恐惶《きょうこう》との間に在って孔子は独《ひと》り気力少しも衰えず、平生通り絃《げん》歌《か》して輟《や》まない。従者等の疲《ひ》憊《はい》を見るに見兼ねた子路が、些《いささ》か色を作《な》して、絃歌する孔子の側《そば》に行った。そうして訊《たず》ねた。夫《ふう》子《し》の歌うは礼かと。孔子は答えない。絃を操る手も休めない。さて曲が終ってから漸く言った。
「由《ゆう》よ。吾汝《われなんじ》に告げん。君子楽を好むは驕《おご》るなきが為なり。小人楽を好むは懾《おそ》るるなきが為なり。それ誰の子ぞや。我を知らずして我に従う者は。」
子路は一瞬耳を疑った。この窮境に在ってなお驕るなきが為に楽をなすとや? しかし、直《す》ぐにその心に思い到《いた》ると、途端に彼は嬉《うれ》しくなり、覚えず戚《ほこ》を執って舞うた。孔子がこれに和して弾じ、曲、三《み》度《たび》めぐった。傍《かたわら》にある者又暫《しばら》くは飢を忘れ疲《つかれ》を忘れて、この武骨な即興の舞に興じ入るのであった。
同じ陳蔡《ちんさい》の厄《やく》の時、未《ま》だ容易に囲みの解けそうもないのを見て、子路が言った。君子も窮することあるか? と。師の平生の説によれば、君子は窮することが無い筈《はず》だと思ったからである。孔子が即座に答えた。「窮するとは道に窮するの謂《いい》に非ずや。今、丘《きゅう》、仁義の道を抱《いだ》き乱世の患に遭う。何ぞ窮すとなさんや。もしそれ、食足らず体瘁《つか》るるを以《もっ》て窮すとなさば、君子も固《もと》より窮す。但《ただ》、小人は窮すればここに濫《みだ》る。」と。其処《そこ》が違うだけだというのである。子路は思わず顔を赧《あか》らめた。己《おのれ》の内なる小人を指摘された心地である。窮するも命なることを知り、大難に臨んで些かの興奮の色も無い孔子の容《すがた》を見ては、大勇なる哉《かな》と嘆ぜざるを得ない。曾《かつ》ての自分の誇《ほこり》であった・白刃前に接《まじ》わるも目まじろがざる底《てい》の勇が、何と惨《みじ》めにちっぽけ《・・・・》なことかと思うのである。
十一
許《きょ》から葉《しょう》へと出る途《みち》すがら、子路が独り孔子の一行に遅れて畑中の路《みち》を歩いて行くと、ワ《あじか》を荷《にの》うた一人の老人に会った。子路が気軽に会釈《えしゃく》して、夫《ふう》子《し》を見ざりしや、と問う。老人は立止って、「夫子々々と言ったとて、どれが一体汝のいう夫子やら俺《おれ》に分る訳がないではないか」と突堅貪《つっけんどん》に答え、子路の人態《にんてい》をじろりと眺《なが》めてから、「見受けたところ、四体を労せず実事に従わず空理空論に日を暮らしている人らしいな。」と蔑《さげす》むように笑う。それから傍の畑に入り此方《こちら》を見返りもせずにせっせ《・・・》と草を取り始めた。隠者の一人に違いないと子路は思って一揖《いちゆう》し、道に立って次の言葉を待った。老人は黙って一仕事してから道に出て来、子路を伴って己が家に導いた。既に日が暮れかかっていたのである。老人は《とり》をつぶし黍《きび》を炊《かし》いで、もてなし、二人の子にも子路を引合せた。食後、些《いささ》かの濁酒に酔の廻《まわ》った老人は傍なる琴を執って弾じた。二人の子がそれに和して唱《うた》う。
湛々《たんたん》タル露アリ
陽《ひ》ニ非ザレバ晞《ひ》ズ
厭々《えんえん》トシテ夜飲ス
酔ワズンバ帰ルコトナシ
明らかに貧しい生活《くらし》なのにも拘《かか》わらず、寔《まこと》に融々たる裕《ゆた》かさが家中に溢《あふ》れている。和やかに充《み》ち足りた親子三人の顔付の中に、時として何処《どこ》か知的なものが閃《ひらめ》くのも、見逃し難《がた》い。
弾じ終ってから老人が子路に向って語る。陸を行くには車、水を行くには舟と昔から決ったもの。今陸を行くに舟を以てすれば、如《いか》何《ん》? 今の世に周の古法を施そうとするのは、ちょうど陸に舟を行《や》るが如《ごと》きものと謂《い》うべし。k狙《さる》に周公の服を着せれば、驚いて引《ひき》裂《さ》き棄《す》てるに決っている。云々《うんぬん》……子路を孔門の徒と知っての言葉であることは明らかだ。老人は又言う。「楽しみ全くして始めて志を得たといえる。志を得るとは軒冕《けんべん》の謂ではない。」と。澹然《たんぜん》無極とでもいうのがこの老人の理想なのであろう。子路にとってこうした遁世《とんせい》哲学は始めてではない。長沮《ちょうそ》・桀溺《けつでき》の二人にも遇《あ》った。楚《そ》の接《せつ》輿《よ》という佯狂《ようきょう》の男にも遇ったことがある。しかしこうして彼等の生活の中に入り一夜を共に過したことは、まだ無かった。穏やかな老人の言葉と怡々《いい》たるその容《かたち》に接している中に、子路は、これもまた一つの美しき生き方には違いないと、幾分の羨望《せんぼう》をさえ感じないではなかった。
しかし、彼も黙って相手の言葉に頷《うなず》いてばかりいた訳ではない。「世と断つのは固《もと》より楽しかろうが、人の人たる所以《ゆえん》は楽しみを全《まっと》うするところにあるのではない。区々たる一身を潔《いさぎよ》うせんとして大倫を紊《みだ》るのは、人間の道ではない。我々とて、今の世に道の行われない事ぐらいは、とっくに承知している。今の世に道を説くことの危険さも知っている。しかし、道無き世なればこそ、危険を冒しても尚《なお》道を説く必要があるのではないか。」
翌朝、子路は老人の家を辞して道を急いだ。みちみち孔子と昨夜の老人とを竝《なら》べて考えて見た。孔子の明察があの老人に劣る訳はない。孔子の慾《よく》があの老人よりも多い訳はない。それでいて尚かつ己《おのれ》を全うする途を棄て道の為に天下を周遊していることを思うと、急に、昨夜は一向に感じなかった憎《ぞう》悪《お》を、あの老人に対して覚え始めた。午《ひる》近く、漸《ようや》く、遥《はる》か前方の真青な麦畠《むぎばたけ》の中の道に一団の人影が見えた。その中で特に際《きわ》立《だ》って丈の高い孔子の姿を認め得た時、子路は突然、何か胸を緊《し》め付けられるような苦しさを感じた。
十二
宋《そう》から陳《ちん》に出る渡船の上で、子《し》貢《こう》と宰《さい》予《よ》とが議論をしている。「十室の邑《ゆう》、必ず忠信丘《きゅう》が如き者あり。丘の学を好むに如《し》かざるなり。」という師の言葉を中心に、子貢は、この言葉にも拘《かか》わらず孔子の偉大な完成はその先天的な素質の非凡さに依《よ》るものだといい、宰予は、いや、後天的な自己完成への努力の方が与《あずか》って大きいのだと言う。宰予によれば、孔子の能力と弟子達の能力との差異は量的なものであって、決して質的なそれ《・・》ではない。孔子の有《も》っているものは万人のもっているものだ。ただその一つ一つを孔子は絶えざる刻苦によって今の大きさにまで仕上げただけのことだと。子貢は、しかし、量的な差も絶大になると結局質的な差と変るところは無いという。それに、自己完成への努力をあれ程までに続け得ることそれ自体が、既に先天的な非凡さの何よりの証拠ではないかと。だが、何にも増して孔子の天才の核心たるものは何かといえば、「それは」と子貢が言う。「あの優れた中庸への本能だ。何時如何《いついか》なる場合にも夫子の進退を美しいものにする・見事な中庸への本能だ。」と。
何を言ってるんだと、傍で子路が苦い顔をする。口先ばかりで腹の無い奴《やつ》等《ら》め! 今この舟がひっくり返りでもしたら、奴等はどんなに真蒼《まっさお》な顔をするだろう。何といっても一《いっ》旦《たん》有事の際に、実際に夫子の役に立ち得るのは己《おれ》なのだ。才弁縦横の若い二人を前にして、巧言は徳を紊《みだ》るという言葉を考え、矜《ほこ》らかに我が胸中一片の冰心《ひょうしん》を恃《たの》むのである。
子路にも、しかし、師への不満が必ずしも無い訳ではない。
陳の霊公が臣下の妻と通じその女の肌《はだ》着《ぎ》を身に着けて朝《ちょう》に立ち、それを見せびらかした時、泄《せつ》冶《や》という臣が諫《いさ》めて、殺された。百年ばかり以前のこの事件に就いて一人の弟子が孔子に尋ねたことがある。泄冶の正諫《せいかん》して殺されたのは古《いにしえ》の名臣比《ひ》干《かん》の諫死と変るところが無い。仁と称して良いであろうかと。孔子が答えた。いや、比干と紂王《ちゅうおう》との場合は血縁でもあり、又官から云っても少師であり、従って己の身を捨てて争諫し、殺された後に紂王の悔《かい》寤《ご》するのを期待した訳だ。これは仁と謂《い》うべきであろう。泄冶の霊公に於《お》けるは骨肉の親あるにも非《あら》ず、位も一大《たい》夫《ふ》に過ぎぬ。君正しからず一国正しからずと知らば、潔く身を退《ひ》くべきに、身の程をも計らず、区々たる一身を以て一国の婬婚《いんこん》を正そうとした。自《みずか》ら無駄《むだ》に生命を捐《す》てたものだ。仁どころの騒ぎではないと。
その弟子はそう言われて納得して引き下ったが、傍にいた子路にはどうしても頷《うなず》けない。早速、彼は口を出す。仁・不仁は暫《しばら》く措《お》く。しかしとにかく一身の危きを忘れて一国の紊《びん》乱《らん》を正そうとした事の中には、智《ち》不智を超えた立派なものが在るのではなかろうか。空《むな》しく命を捐つなどと言い切れないものが。仮令《たとい》結果はどうあろうとも。
「由《ゆう》よ。汝には、そういう小義の中にある見事さばかりが眼《め》に付いて、それ以上は判《わか》らぬと見える。古の士は国に道あれば忠を尽くして以てこれを輔《たす》け、国に道無ければ身を退いて以てこれを避けた。こうした出処進退の見事さは未だ判らぬと見える。詩に曰《い》う。民僻《よこしま》多き時は自ら辟《のり》を立つることなかれと。蓋《けだ》し、泄冶の場合にあてはまるようだな。」
「では」と大分長い間考えた後で子路が言う。結局この世で最も大切なことは、一身の安全を計ることに在るのか? 身を捨てて義を成すことの中にはないのであろうか? 一人の人間の出処進退の適不適の方が、天下蒼生《そうせい》の安危ということよりも大切なのであろうか?というのは、今の泄冶が若《も》し眼前の乱倫に顰《ひん》蹙《しゅく》して身を退いたとすれば、成程彼の一身はそれで良いかも知れぬが、陳国の民にとって一体それが何になろう? まだしも、無駄とは知りつつも諫死した方が、国民の気風に与える影響から言っても遥かに意味があるのではないか。
「それは何も一身の保全ばかりが大切とは言わない。それならば比干を仁人と褒《ほ》めはしない筈《はず》だ。但《ただ》、生命は道の為に捨てるとしても捨て時・捨て処《どころ》がある。それを察するに智を以てするのは、別に私《わたくし》の利の為ではない。急いで死ぬるばかりが能ではないのだ。」
そう言われれば一応はそんな気がして来るが、矢張釈然としないところがある。身を殺して仁を成すべきことを言いながら、その一方、何処《どこ》かしら明哲保身を最上智と考える傾向が、時々師の言説の中に感じられる。それがどうも気になるのだ。他《ほか》の弟子達がこれを一向に感じないのは、明哲保身主義が彼等に本能として、くっついているからだ。それを凡《すべ》ての根柢《こんてい》とした上での・仁であり義でなければ、彼等には危くて仕方が無いに違いない。
子路が納得し難げな顔色で立去った時、その後姿を見送りながら、孔子が愀然《しゅうぜん》として言った。邦《くに》に道有る時も直きこと矢の如し。道無き時も又矢の如し。あの男も衛の史《し》魚《ぎょ》の類《たぐい》だな。恐らく、尋常な死に方はしないであろうと。
楚《そ》が呉《ご》を伐《う》った時、工尹《こういん》商陽という者が呉の師を追うたが、同乗の王子棄《き》疾《しつ》に「王事なり。子、弓を手にして可なり。」といわれて始めて弓を執り、「子、之《これ》を射よ。」と勧められて漸《ようや》く一人を射《い》斃《たお》した。しかし直《す》ぐに又弓をン《かわぶくろ》に収めて了《しま》った。再び促されて又弓を取出し、あと二人を斃したが、一人を射る毎《ごと》に目を掩《おお》うた。さて三人を斃すと、「自分の今の身分ではこの位で充分反命するに足るだろう。」とて、車を返した。
この話を孔子が伝え聞き、「人を殺すの中、又礼あり。」と感心した。子路に言わせれば、しかし、こんなとんでもない《・・・・・・》話はない。殊《こと》に、「自分としては三人斃した位で充分だ。」などという言葉の中に、彼の大嫌《だいきら》いな・一身の《・・・》行動を国家の《・・・・・・》休戚《・・》より上に置く《・・・・・・》考え方が余りにハッキリしているので、腹が立つのである。彼は怫然《ふつぜん》として孔子に喰《く》って掛かる。「人臣の節、君の大事に当りては、唯《ただ》力の及ぶ所を尽くし、死して而《しこう》して後に已《や》む。夫子何ぞ彼を善《よ》しとする?」孔子もさすがにこれには一言も無い。笑いながら答える。「然《しか》り。汝の言の如し。吾、ただ其《そ》の、人を殺すに忍びざるの心あるを取るのみ。」
十三
衛に出入すること四度、陳《ちん》に留《とど》まること三年、曹《そう》・宋《そう》・蔡《さい》・葉《しょう》・楚《そ》と、子路は孔子に従って歩いた。
孔子の道を実行に移してくれる諸侯が出て来ようとは、今更望めなかったが、しかし、最《も》早《はや》不思議に子路はいらだたない。世の溷濁《こんだく》と諸侯の無能と孔子の不遇とに対する憤懣焦《ふんまんしょう》躁《そう》を幾年か繰返した後、漸《ようや》くこの頃《ころ》になって、漠然《ばくぜん》とながら、孔子及びそれに従う自分等の運命の意味が判りかけて来たようである。それは、消極的に命なり《・・・》と諦《あきら》める気持とは大分遠い。同じく命なり《・・・》と云うにしても、「一小国に限定されない・一時代に限られない・天下万代の木鐸《ぼくたく》」としての使命に目覚めかけて来た・かなり積極的な命なり《・・・》である。匡《きょう》の地で暴民に囲まれた時昂然《こうぜん》として孔子の言った「天の未《いま》だ斯《し》文《ぶん》を喪《ほろぼ》さざるや匡人《きょうひと》それ予《われ》を如《いか》何《に》せんや」が、今は子路にも実によく解《わか》って来た。如何《いか》なる場合にも絶望せず、決して現実を軽蔑《けいべつ》せず、与えられた範囲で常に最善を尽くすという師の智慧《ちえ》の大きさも判るし、常に後世の人に見られていることを意識しているような孔子の挙《きょ》措《そ》の意味も今にして始めて頷けるのである。あり余る俗才に妨げられてか、明敏子貢には、孔子のこの超時代的な使命に就いての自覚が少い。朴直《ぼくちょく》子路の方が、その単純極《きわ》まる師への愛情の故《ゆえ》であろうか、却《かえ》って孔子というものの大きな意味をつかみ得たようである。
放浪の年を重ねている中《うち》に、子路も最早五十歳であった。圭角《けいかく》がとれたとは称し難《がた》いながら、さすがに人間の重みも加わった。後世の所謂《いわゆる》「万鍾《ばんしょう》我に於《おい》て何をか加えん」の気骨も、炯々《けいけい》たるその眼光も、痩《やせ》浪人の徒《いたず》らなる誇負《こふ》から離れて、既に堂々たる一家の風格を備えて来た。
十四
孔子が四度目に衛を訪れた時、若い衛侯や正卿《せいけい》 孔叔圉《こうしゅくぎょ》等から乞《こ》われるままに、子路を推してこの国に仕えさせた。孔子が十余年ぶりで故国に聘《むか》えられた時も、子路は別れて衛に留《とど》まったのである。
十年来、衛は南子夫人の乱行を中心に、絶えず紛争を重ねていた。先《ま》ず公叔戍《こうしゅくじゅ》という者が南子排斥を企て却ってその讒《ざん》に遭って魯《ろ》に亡命する。続いて霊公の子・太子゙゚《かいがい》も義母南子を刺そうとして失敗し晋《しん》に奔《はし》る。太子欠位の中に霊公が卒《しゅつ》する。やむを得ず亡命太子の子の幼い輒《ちょう》を立てて後を嗣《つ》がせる。出公《しゅつこう》がこれである。出奔した前太子゙゚は晋の力を借りて衛の西部に潜入し虎視《こし》眈々《たんたん》と衛侯の位を窺《うかが》う。これを拒《こば》もうとする現衛侯出公は子。位を奪おうと狙《ねら》う者は父。子路が仕えることになった衛の国はこのような状態であった。
子路の仕事は孔《こう》家《け》の為に宰として蒲《ほ》の地を治めることである。衛の孔家は、魯ならば季《き》孫《そん》氏《し》に当る名家で、当主孔叔圉は夙《つと》に名大《たい》夫《ふ》の誉《ほまれ》が高い。蒲は、先頃南子の讒に遭って亡命した公叔戍の旧領地で、従って、主人を逐《お》うた現在の政府に対してことごとに反抗的な態度を執っている。元々人気の荒い土地で、嘗《かつ》て子路自身も孔子に従ってこの地で暴民に襲われたことがある。
任地に立つ前、子路は孔子の所に行き、「邑《むら》に壮士多くして治め難し」といわれる蒲の事情を述べて教《おしえ》を乞うた。孔子が言う。「恭にして敬あらば以て勇を懾《おそ》れしむべく、寛にして正しからば以て強を懐《なつ》くべく、温にして断ならば以て姦《かん》を抑《おさ》うべし」と。子路再拝して謝し、欣然《きんぜん》として任に赴いた。
蒲に着くと子路は先ず土地の有力者、反抗分子等を呼び、これと腹蔵なく語り合った。手なずけようとの手段ではない。孔子の常に言う「教えずして刑することの不可」を知るが故に、先ず彼等に己《おのれ》の意の在るところを明かしたのである。気取の無い率直さが荒っぽい土地の人気に投じたらしい。壮士連は悉《ことごと》く子路の明快闊達《かったつ》に推服した。それにこの頃になると、既に子路の名は孔門随一の快男児として天下に響いていた。「片言《へんげん》以て獄を折《さだ》むべきものは、それ由《ゆう》か」などという孔子の推奨の辞までが、大《おお》袈裟《げさ》な尾《お》鰭《ひれ》をつけて普《あまね》く知れ渡っていたのである。蒲の壮士連を推服せしめたものは、一つには確かにこうした評判でもあった。
三年後、孔子が偶々《たまたま》蒲を通った。先ず領内に入った時、「善い哉《かな》、由や、恭敬にして信なり」と言った。進んで邑に入った時、「善い哉、由や、忠信にして寛なり」と言った。愈々《いよいよ》子路の邸《やしき》に入るに及んで、「善い哉、由や、明察にして断なり」と言った。轡《くつわ》を執っていた子貢が、未だ子路を見ずしてこれを褒《ほ》める理由を聞くと、孔子が答えた。已《すで》にその領域に入れば田疇《でんちゅう》悉く治まり草莱《そうらい》甚だ辟《ひら》け溝《こう》洫《きょく》は深く整っている。治者恭敬にして信なるが故に、民その力を尽くしたからである。その邑に入れば民家の牆屋《しょうおく》は完備し樹木は繁茂している。治者忠信にして寛なるが故に、民その営《いとなみ》を忽《ゆるが》せにしないからである。さて愈々その庭に至れば甚だ清閑で従者僕僮《ぼくどう》一人として命に違《たが》う者が無い。治者の言、明察にして断なるが故に、その政が紊《みだ》れないからである。未だ由を見ずして悉くその政を知った訳ではないかと。
十五
魯《ろ》の哀公《あいこう》が西の方《かた》大《たい》野《や》に狩して麒《き》麟《りん》を獲《え》た頃、子路は一時衛から魯に帰っていた。その時小焉sしょうちゅ》の大夫・射《えき》という者が国に叛《そむ》き魯に来奔した。子路と一面識のあったこの男は、「季路をして我に要せしめば、吾盟《ちか》うことなけん。」と言った。当時の慣《なら》いとして、他国に亡命した者は、その生命の保証をその国に盟って貰《もら》ってから始めて安んじて居つくことが出来るのだが、この小烽フ大夫は「子路さえその保証に立ってくれれば魯国の誓《ちかい》など要らぬ」というのである。諾《だく》を宿するなし、という子路の信と直とは、それ程世に知られていたのだ。ところが、子路はこの頼《たのみ》をにべも《・・・》無く《・・》断った。或《ある》人が言う。千乗の国の盟《ちかい》をも信ぜずして、唯《ただ》子一人の言を信じようという。男児の本懐これに過ぎたるはあるまいに、何《なに》故《ゆえ》これを恥とするのかと。子路が答えた。魯国が小烽ニ事ある場合、その城下に死ねとあらば、事の如何《いかん》を問わず欣《よろこ》んで応じよう。しかし射という男は国を売った不臣だ。若《も》しその保証に立つとなれば、自《みずか》ら売国奴を是認することになる。己《おれ》に出来ることか、出来ないことか、考えるまでもないではないか!
子路を良く知る程の者は、この話を伝え聞いた時、思わず微笑した。余りにも彼のしそうな事、言いそうな事だったからである。
同じ年、斉《せい》の陳恒《ちんこう》がその君を弑《しい》した。孔子は斎戒《さいかい》すること三日の後、哀公の前に出て、義の為に斉を伐《う》たんことを請《こ》うた。請うこと三度。斉の強さを恐れた哀公は聴こうとしない。季《き》孫《そん》に告げて事を計れと言う。季康《こう》子《し》がこれに賛成する訳が無いのだ。孔子は君の前を退いて、さて人に告げて言った。「吾、大夫の後《しりえ》に従うを以てなり。故に敢《あえ》て言わずんばあらず。」無駄《むだ》とは知りつつも一応は言わねばならぬ己《おのれ》の地位だというのである。(当時孔子は国老の待遇を受けていた。)
子路は一寸《ちょっと》顔を曇らせた。夫《ふう》子《し》のした事は、ただ形を完《まっと》うする為に過ぎなかったのか。形さえ履《ふ》めば、それが実行に移されないでも平気で済ませる程度の義憤なのか?
教を受けること四十年に近くして、尚《なお》、この溝《みぞ》はどうしようもないのである。
十六
子路が魯に来ている間に、衛では政界の大黒柱孔叔圉《こうしゅくぎょ》が死んだ。その未亡人で、亡命太子゙゚《かいがい》の姉に当る伯《はく》姫《き》という女策士が政治の表面に出て来る。一子瘁sかい》が父圉《ぎょ》の後を嗣《つ》いだことにはなっているが、名目だけに過ぎぬ。伯姫から云《い》えば、現衛侯輒《ちょう》は甥、位を窺《うかが》う前太子は弟で、親しさに変りはない筈《はず》だが、愛憎と利《り》慾《よく》との複雑な経緯があって、妙に弟の為ばかりを計ろうとする。夫の死後頻《しき》りに寵《ちょう》愛《あい》している小姓《こしょう》上りの渾良夫《こんりょうふ》なる美青年を使として、弟゙゚との間を往復させ、秘《ひそ》かに現衛侯逐《おい》出《だ》しを企《たくら》んでいる。
子路が再び衛に戻《もど》って見ると、衛侯父子の争は更に激化し、政変の機運の濃く漂っているのが何処《どこ》となく感じられた。
周の昭王の四十年閏《うるう》十二月某日。夕方近くなって子路の家にあわただしく跳び込んで来た使があった。孔家の老・欒寧《らんねい》の所からである。「本日、前太子゙゚都に潜入。唯今孔氏の宅に入り、伯姫・渾良夫と共に当主孔瘁sこうかい》を脅《おびやか》して己《おのれ》を衛侯に戴《いただ》かしめた。大勢は既に動かし難い。自分(欒寧)は今から現衛侯を奉じて魯に奔《はし》るところだ。後は宜《よろ》しく頼む。」という口上である。
愈々《いよいよ》来たな、と子路は思った。とにかく、自分の直接の主人に当る孔痰ェ捕えられ脅されたと聞いては、黙っている訳に行かない。おっ取り刀で、彼は公宮へ駈《か》け付ける。
外門を入ろうとすると、ちょうど中から出て来るちんちくりん《・・・・・・》な男にぶっつかった。子《し》羔《こう》だ。孔門の後輩で、子路の推薦によってこの国の大夫となった・正直な・気の小さい男である。子羔が言う。内門はもう閉《しま》って了《しま》いましたよ。子路。いや、とにかく行くだけは行って見よう。子羔。しかし、もう無駄ですよ。却《かえ》って難に遭うこともないとは限らぬし。子路が声を荒らげて言う。孔家の禄《ろく》を喰《は》む身ではないか。何の為に難を避ける?
子羔を振切って内門の所まで来ると、果して中から閉っている。ドンドンと烈《はげ》しく叩《たた》く。はいってはいけない! と、中から叫ぶ。その声を聞き咎《とが》めて子路が怒鳴《どな》った。公孫敢《こうそんかん》だな、その声は。難を逃れんが為に節を変ずるような、俺《おれ》は、そんな人間じゃない。その禄を利した以上、その患を救わねばならぬのだ。開けろ! 開けろ!
ちょうど中から使の者が出て来たので、それと入違いに子路は跳び込んだ。
見ると、広庭一面の群集だ。孔痰フ名に於て新衛侯擁立の宣言があるからとて急に呼び集められた群臣である。皆それぞれに驚愕《きょうがく》と困惑との表情を浮かべ、向背に迷うものの如く見える。庭に面した露台の上には、若い孔痰ェ母の伯姫と叔父の゙゚《かいがい》とに抑えられ、一同に向って政変の宣言とその説明とをするよう、強《し》いられている貌《かたち》だ。
子路は群衆の背後《うしろ》から露台に向って大声に叫んだ。孔痰捕えて何になるか! 孔痰離せ。孔瘉齔lを殺したとて正義派は亡《ほろ》びはせぬぞ!
子路としては先《ま》ず己の主人を救い出したかったのだ。さて、広庭のざわめきが一瞬静まって一同が己の方を振向いたと知ると、今度は群集に向って煽動《せんどう》を始めた。太子は音に聞えた臆病者《おくびょうもの》だぞ。下から火を放って台を焼けば、恐れて孔叔(瘁jを舎《ゆる》すに決っている。火を放《つ》けようではないか。火を!
既に薄暮のこととて庭の隅々《すみずみ》に篝火《かがりび》が燃されている。それを指さしながら子路が、「火を! 火を!」と叫ぶ。「先代孔叔文子(圉《ぎょ》)の恩義に感ずる者共は火を取って台を焼け。そうして孔叔を救え!」
台の上の簒奪者《さんだつしゃ》は大いに懼《おそ》れ、石乞《せききつ》・盂《う》黶《えん》の二剣士に命じて、子路を討たしめた。
子路は二人を相手に激しく斬《き》り結ぶ。往年の勇者子路も、しかし、年には勝てぬ。次第に疲労が加わり、呼吸が乱れる。子路の旗色の悪いのを見た群集は、この時漸《ようや》く旗幟《きし》を明らかにした。罵《ば》声《せい》が子路に向って飛び、無数の石や棒が子路の身体《からだ》に当った。敵の戟《ほこ》の尖端《さき》が頬《ほお》を掠《かす》めた。纓《えい》(冠の紐《ひも》)が断《き》れて、冠が落ちかかる。左手でそれを支えようとした途端に、もう一人の敵の剣が肩先に喰《く》い込む。血が迸《ほとばし》り、子路は倒れ、冠が落ちる。倒れながら、子路は手を伸ばして冠を拾い、正しく頭に着けて素速く纓を結んだ。敵の刃《やいば》の下で、真赤に血を浴びた子路が、最《さい》期《ご》の力を絞って絶叫する。
「見よ! 君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」
全身膾《なます》の如くに切り刻まれて、子路は死んだ。
魯に在って遥《はる》かに衛の政変を聞いた孔子は即座に、「柴《さい》(子羔)や、それ帰らん。由《ゆう》や死なん。」と言った。果してその言の如くなったことを知った時、老聖人は佇立瞑目《ちょりつめいもく》すること暫《しば》し、やがて潸然《さんぜん》として涙下った。子路の 屍《しかばね》 が 醢《ししびしお》 にされたと聞くや、家中の塩漬《しおづけ》類を悉《ことごと》く捨てさせ、爾後《じご》、醢は一切食膳《しょくぜん》に上さなかったということである。
李陵
一
漢の武《ぶ》帝《てい》の天漢二年秋九月、騎都尉《きとい》・李陵《りりょう》は歩卒五千を率い、辺塞遮虜竅sへんさいしゃりょしょう》を発して北へ向った。阿爾泰《アルタイ》山脈の東南端が戈壁《ゴビ》沙《さ》漠《ばく》に没せんとする辺の磽縺sこうかく》たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。朔風《さくふう》は戎衣《じゅうい》を吹いて寒く、如何《いか》にも万里孤軍来《きた》るの感が深い。漠北《ばくほく》・浚《しゅん》稽山《けいさん》の麓《ふもと》に至って軍は漸《ようや》く止営した。既に敵匈奴《きょうど》の勢力圏に深く進み入っているのである。秋とはいっても北地のこととて、苜蓿《うまごやし》も枯れ、楡《にれ》や莓《かわやなぎ》の葉も最《も》早《はや》落ちつくしている。木の葉どころか、木そのものさえ(宿営地の近傍を除いては)、容易に見つからない程の・唯《ただ》沙《すな》と岩と磧《かわら》と、水の無い河床との荒涼たる風景であった。極目人煙を見ず、稀《まれ》に訪れるものとては曠《こう》野《や》に水を求める羚羊《かもしか》ぐらいのものである。突兀《とっこつ》と秋空を劃《くぎ》る遠山の上を高く雁《かり》の列が南へ急ぐのを見ても、しかし、将卒一同誰《だれ》一人として甘い懐郷の情などに唆《そそ》られるものはない。それ程に、彼《かれ》等《ら》の位置は危険極まるものだったのである。
騎兵を主力とする匈奴に向って、一隊の騎馬兵をも連れずに歩兵ばかり(馬に跨《またが》る者は、陵とその幕僚数人に過ぎなかった)、で奥地深く侵入することからして、無謀の極《きわみ》という外は無い。その歩兵も僅《わず》か五千、絶えて後援は無く、しかもこの浚稽山は、最も近い漢塞《かんさい》の居延《きょえん》からでも優に一千五百里(支那《しな》里程)は離れている。統率者李陵への絶対的な信頼と心服とが無かったなら到底続けられるような行軍ではなかった。
毎年秋風が立ち始めると決って漢の北辺には、胡馬《こば》に鞭《むち》うった剽悍《ひょうかん》な侵略者の大部隊が現れる。辺吏が殺され、人民が掠《かす》められ、家畜が奪略される。五原・朔方・雲中・上谷・雁門《がんもん》などが、その例年の被害地である。大将軍衛青《えいせい》・嫖騎《ひょうき》将軍霍去病《かくきょへい》の武略によって一時漠南《ばくなん》に王庭無しといわれた元狩《げんしゅ》以後元鼎《げんてい》へかけての数年を除いては、ここ三十年来欠かすことなくこうした北辺の災がつづいていた。霍去病が死んでから十八年、衛青が歿《ぼっ》してから七年。蝟侯趙《さくやこうちょう》破奴《はど》は全軍を率いて虜《ろ》に降《くだ》り、光禄勲《こうろくくん》徐自為の朔北《さくほく》に築いた城障も忽《たちま》ち破壊される。全軍の信頼を繋《つな》ぐに足る将帥《しょうすい》としては、わずかに先年大宛《たいえん》を遠征して武名を挙げた弐師《じし》将軍李広利があるに過ぎない。
その年――天漢二年夏五月、――匈奴の侵略に先立って、弐師将軍が三万騎に将として酒泉《しゅせん》を出た。頻《しき》りに西辺を窺《うかが》う匈奴の右賢王を天山《てんざん》に撃とうというのである。武帝は李陵に命じてこの軍旅の輜重《しちょう》のことに当らせようとした。未央宮《びおうきゅう》の武台殿に召見された李陵は、しかし、極力その役を免ぜられんことを請《こ》うた。陵は、飛将軍と呼ばれた名将李広の孫。夙《つと》に祖父の風ありといわれた騎射の名手で、数年前から騎都尉として西辺の酒泉・張掖《ちょうえき》に在って射を教え兵を練っていたのである。年齢も漸《ようや》く四十に近い血気盛りとあっては、輜重の役は余りに情無かったに違いない。臣が辺境に養うところの兵は皆荊《けい》楚《そ》の一騎当千の勇士なれば、願わくは彼等の一隊を率いて討って出《い》で、側面から匈奴の軍を牽制《けんせい》したいという陵の嘆願には、武帝も頷《うなず》くところがあった。しかし、相つづく諸方への派兵のために、生憎《あいにく》、陵の軍に割《さ》くべき騎馬の余力が無いのである。李陵はそれでも構わぬといった。確かに無理とは思われたが、輜重の役などに当てられるよりは、むしろ己《おのれ》の為《ため》に身命を惜しまぬ部下五千と共に危きを冒す方を選びたかったのである。臣願わくは少を以《もっ》て衆を撃たんといった陵の言葉を、派手好きな武帝は大いに欣《よろこ》んで、その願《ねがい》を容《い》れた。李陵は西、張掖に戻《もど》って部下の兵を勒《ろく》すると直《す》ぐに北へ向けて進発した。当時居延に屯《たむろ》していた彊弩《きょうど》都《と》尉《い》路博徳が詔を受けて、陵の軍を中道まで迎えに出る。そこまでは良かったのだが、それから先が頗《すこぶ》る拙《まず》いことになって来た。元来この路博徳という男は古くから霍去病《かくきょへい》の部下として軍に従い、l離《ふり》侯《こう》にまで封ぜられ、殊《こと》に十二年前には伏《ふく》波《は》将軍として十万の兵を率いて南越《なんえつ》を滅《ほろぼ》した老将である。その後、法に坐《ざ》して侯を失い現在の地位に堕《おと》されて西辺を守っている。年齢からいっても、李陵とは父子ほどに違う。曾《かつ》ては封侯をも得たその老将が今更若い李陵如《ごと》きの後塵《こうじん》を拝するのが何としても不愉快だったのである。彼は陵の軍を迎えると同時に、都へ使をやって奏上させた。今方《まさ》に秋とて匈奴の馬は肥え、寡《か》兵《へい》を以てしては、騎馬戦を得意とする彼等の鋭鋒《えいほう》には些《いささ》か当り難《がた》い。それ故《ゆえ》、李陵と共にここに越年し、春を待ってから、酒泉・張掖の騎各五千を以て出撃した方が得策と信ずるという上奏文である。勿論《もちろん》、李陵はこのことをしらない。武帝はこれを見ると酷《ひど》く怒った。李陵が博徳と相談の上での上書と考えたのである。我が前ではあの通り広言しておきながら、今更辺地に行って急に怯《おじ》気《け》づくとは何事ぞという。忽ち使が都から博徳と陵の所に飛ぶ。李陵は少を以て衆を撃たんと吾《わ》が前で広言した故、汝《なんじ》はこれと協力する必要はない。今匈奴が西河に侵入したとあれば、汝は早速陵を残して西河に馳《は》せつけ敵の道を遮《さえぎ》れ、というのが博徳への詔である。李陵への詔には、直ちに漠北に至り東は浚稽山《しゅんけいさん》から南は竜勒水《りょうろくすい》の辺までを偵察《ていさつ》観望し、もし異状無くんば、蛛sさく》野《や》侯《こう》の故道に従って受降城に至って士を休めよとある。博徳と相談してのあの上書は一体何たることぞ、という烈《はげ》しい詰問《きつもん》のあったことは言うまでも無い。寡兵を以て敵地に徘徊《はいかい》することの危険を別としても、尚《なお》、指定されたこの数千里の行程は、騎馬を持たぬ軍隊にとっては甚《はなは》だむずかしいものである。徒歩のみによる行軍の速度と、人力による車の牽引力《けんいんりょく》と、冬へかけての胡地《こち》の気候とを考えれば、これは誰にも明らかであった。武帝は決して庸主ではなかったが、同じく庸主ではなかった隋《ずい》の煬帝《ようだい》や始《し》皇帝《こうてい》などと共通した長所と短所とを有《も》っていた。愛寵《あいちょう》比無き李《り》夫人の兄たる弐《じ》師《し》将軍にしてからが兵力不足のため一旦《いったん》、大《たい》宛《えん》から引揚げようとして帝の逆鱗《げきりん》にふれ、玉門関をとじられて了《しま》った。その大宛征討も、たかだか善馬がほしいからとて思立《おもいた》たれたものであった。帝が一度言出したら、どんな我《わ》が儘《まま》でも絶対に通されねばならぬ。況《ま》して、李陵の場合は、元々自《みずか》ら乞《こ》うた役割でさえある。(ただ季節と距離とに相当に無理な注文があるだけで)躊躇《ちゅうちょ》すべき理由は何処《どこ》にも無い。彼は、かくて、「騎兵を伴わぬ北征」に出たのであった。
浚稽山の山間には十日余留《とど》まった。その間、日《ひ》毎《ごと》に斥候《せっこう》を遠く派して敵状を探ったのは勿論、附近の山川地形を剰《あま》すところなく図に写しとって都へ報告しなければならなかった。報告書は麾《き》下《か》の陳《ちん》歩《ぶ》楽《らく》という者が身に帯びて、単身都へ馳《は》せるのである。選ばれた使者は、李陵に一揖《いちゆう》してから、十頭に足らぬ少数の馬の中の一匹に打跨《うちまた》がると、一鞭《ひとむち》あてて丘を駈《かけ》下《お》りた。灰色に乾いた漠々たる風景の中に、その姿が次第に小さくなって行くのを、一軍の将士は何か心細い気持で見送った。
十日の間、浚稽山の東西三十里の中には一人の胡兵をも見なかった。
彼等に先立って夏の中《うち》に天山へと出撃した弐師将軍は一旦右賢王を破りながら、その帰途別の匈奴の大軍に囲まれて惨敗《ざんぱい》した。漢兵は十に六・七を討たれ、将軍の一身さえ危かったという。その噂《うわさ》は彼等の耳にも届いている。李広利を破ったその敵の主力が今どの辺りにいるのか? 今、因《いん》n《う》将軍公孫敖《こうそんごう》が西河・朔方の辺で禦《ふせ》いでいる(陵と手を分った路博徳はその応援に馳せつけて行ったのだが)という敵軍は、どうも、距離と時間とを計って見るに、問題の敵の主力では無さそうに思われる。天山から、そんなに早く、東方四千里の河南(オルドス)の地まで行ける筈《はず》がないからである。どうしても匈奴の主力は現在、陵の軍の止営地から北方m居水《しっきょすい》までの間あたりに屯《たむろ》していなければならない勘定になる。李陵自身毎日前山の頂に立って四方を眺《なが》めるのだが、東方から南へかけては只《ただ》漠々たる一面の平《へい》沙《さ》、西から北へかけては樹木に乏しい丘陵性の山々が連っているばかり、秋雲の間に時として鷹《たか》か隼《はやぶさ》かと思われる鳥の影を見ることはあっても、地上には一騎の胡兵をも見ないのである。
山峡の疎《そ》林《りん》の外《はず》れに兵車を竝《なら》べて囲い、その中に帷《い》幕《ばく》を連ねた陣営である。夜になると、気温が急に下った。士卒は乏しい木々を折取って焚《た》いては暖をとった。十日もいる中に月は無くなった。空気の乾いているせいか、ひどく星が美しい。黒々とした山影とすれすれに、夜毎、狼星《ろうせい》が青白い光芒《こうぼう》を斜めに曳《ひ》いて輝いていた。十数日事無く過した後、明日は愈々《いよいよ》此処《ここ》を立《たち》退《の》いて、指定された進路を東南へ向って取ろうと決したその晩のことである。一人の歩哨《ほしょう》が見るとも無くこの爛々《らんらん》たる狼星を見上げていると、突然、その星の直ぐ下の所に頗《すこぶ》る大きな赤黄色い星が現れた。オヤと思っている中に、その見なれぬ巨《おお》きな星が赤く太い尾を引いて動いた。と続いて、二つ三つ四つ五つ、同じような光がその周囲に現れて、動いた。思わず歩哨が声を立てようとした時、それらの遠くの灯《ひ》はフッと一時に消えた。まるで今見た事が夢だったかのように。
歩哨の報告に接した李陵は、全軍に命じて、明朝天明と共に直ちに戦闘に入るべき準備を整えさせた。外に出て一応各部署を点検し終ると、再び幕営に入り、雷の如き鼾声《かんせい》を立てて熟睡した。
翌朝李陵が目を醒《さ》まして外へ出て見ると、全軍は既に昨夜の命令通りの陣形をとり、静かに敵を待ち構えていた。全部が、兵車を竝べた外側に出、戟《ほこ》と盾《たて》とを持った者が前列に、弓弩《きゅうど》を手にした者が後列にと配置されているのである。この谷を挟《はさ》んだ二つの山はまだ暁《ぎょう》暗《あん》の中に森閑《しんかん》とはしているが、そこここの巌《いわ》蔭《かげ》に何かのひそんでいるらしい気配が何となく感じられる。
朝日の影が谷合にさしこんでくると同時に、(匈奴は、単《ぜん》于《う》が先《ま》ず朝日を拝した後でなければ事を発しないのであろう。)今まで何一つ見えなかった両山の頂から斜面にかけて、無数の人影が一時に湧《わ》いた。天地を撼《ゆる》がす喊《かん》声《せい》と共に胡兵は山下に殺到した。胡兵の先登が二十歩の距離に迫った時、それまで鳴《なり》をしずめていた漢の陣営から始めて鼓声が響く。忽《たちま》ち千《せん》弩《ど》共に発し、弦に応じて数百の胡兵は一斉《いっせい》に倒れた。間髪《かんはつ》を入れず、浮足立った残りの胡兵に向って、漢軍前列の持《じ》戟者《げきしゃ》等が襲いかかる。匈奴の軍は完全に潰《つい》えて、山上へ逃げ上った。漢軍これを追撃して虜首を挙げること数千。
鮮やかな勝ちっぷりではあったが、執念深い敵がこのままで退くことは決して無い。今日の敵軍だけでも優に三万はあったろう。それに、山上に靡《なび》いていた旗印から見れば、紛れも無く単于の親衛軍である。単于がいるものとすれば、八万や十万の後詰《あとづめ》の軍は当然繰出されるものと覚悟せねばならぬ。李陵は即刻この地を撤退して南へ移ることにした。それもここから東南二千里の受降城へという前日までの予定を変えて、半月前に辿《たど》って来たその同じ道を南へ取って一日も早くもとの居《きょ》延塞《えんさい》(それとて千数百里離れてはいるが)に入ろうとしたのである。
南行三日目の午《ひる》、漢軍の後方遥《はる》か北の地平線に、雲の如く黄塵《こうじん》の揚るのが見られた。匈奴騎兵の追撃である。翌日は既に八万の胡兵が騎馬の快速を利して、漢軍の前後左右を隙《すき》もなく取囲んで了《しま》っていた。但《ただ》し、前日の失敗に懲《こ》りたと見え、至近の距離にまでは近付いて来ない。南へ行進して行く漢軍を遠捲《とおまき》にしながら、馬上から遠矢を射かけるのである。李陵が全軍を停《と》めて、戦闘の体形をとらせれば、敵は馬を駆って遠く退き、搏戦《はくせん》を避ける。再び行軍をはじめれば、又近づいて来て矢を射かける。行進の速度が著しく減ずるのは固《もと》より、死傷者も一日ずつ確実に殖えて行くのである。飢え疲れた旅人の後をつける曠《こう》野《や》の狼《おおかみ》のように、匈奴の兵はこの戦法を続けつつ執念深く追って来る。少しずつ傷《きずつ》けて行った揚句、何時《いつ》かは最後の止《とど》めを刺そうとその機会を窺《うかが》っているのである。
かつ戦い、かつ退きつつ南行すること更に数日、或《あ》る山谷の中で漢軍は一日の休養をとった。負傷者も既にかなりの数に上っている。李陵は全員を点呼して、被害状況を調べた後、傷の一カ所に過ぎぬ者には平生通り兵器を執って闘わしめ、両創を蒙《こうむ》る者にも尚《なお》兵車を助け推さしめ、三創にして始めて輦《れん》に載せて扶《たす》け運ぶことに決めた。輸送力の欠乏から屍《し》体《たい》はすべて曠野に遺棄する外は無かったのである。この夜、陣中視察の時、李陵は偶々《たまたま》或る輜重車《しちょうしゃ》中に男の服を纏《まと》うた女を発見した。全軍の車輌《しゃりょう》について一々取調べたところ、同様にして潜《ひそ》んでいた十数人の女が捜し出された。往年関東の群盗が一時に戮《りく》に遇《あ》った時、その妻子等が逐《お》われて西辺に遷《うつ》り住んだ。それら寡《か》婦《ふ》の中《うち》衣食に窮するままに、辺境守備兵の妻となり、或《ある》いは彼等を華客《とくい》とする娼婦《しょうふ》となり果てた者が少くない。兵車中に隠れて遥々《はるばる》漠北まで従い来たったのは、そういう連中である。李陵は軍吏に女等を斬《き》るべくカンタンに命じた。彼女等を伴い来たった士卒については一言のふれるところも無い。澗《たに》間《ま》の凹《くぼ》地《ち》に引出された女共の疳高《かんだか》い号泣が暫《しばら》くつづいた後、突然それが夜の沈黙に呑《の》まれたようにフッと消えて行くのを、軍幕の中の将士一同は粛然たる思いで聞いた。
翌朝、久しぶりで肉薄来襲した敵を迎えて漢の全軍は思いきり快戦した。敵の遺棄屍体三千余。連日の執拗《しつよう》なゲリラ戦術に久しくいら立ち屈していた士気が俄《にわ》かに奮い立った形である。次の日から又、故《もと》の竜城の道に循《したが》って、南方への退行が始まる。匈奴は又しても、元の遠捲戦術に還《かえ》った。五日目、漢軍は、平沙の中に時に見《み》出《いだ》される沼沢地の一つに踏入った。水は半ば凍り、泥濘《でいねい》も脛《はぎ》を没する深さで、行けども行けども果てしない枯葦原《かれあしはら》が続く。風上《かざかみ》に廻《まわ》った匈奴の一隊が火を放った。朔風《さくふう》は焔《ほのお》を煽《あお》り、真昼の空の下に白っぽく輝《かがやき》を失った火は、すさまじい速さで漢軍に迫る。李陵は直《す》ぐに附近の葦に迎え火を放たしめて、辛《かろ》うじてこれを防いだ。火は防いだが、沮《そ》洳《じょ》地《ち》の車行の困難は言語に絶した。休息の地の無いままに一夜泥濘の中を歩き通した後、翌朝漸《ようや》く丘陵地に辿りついた途端に、先廻りして待伏せていた敵の主力の襲撃に遭った。人馬入乱れての搏兵戦《はくへいせん》である。騎馬隊の烈《はげ》しい突撃を避けるため、李陵は車を棄《す》てて、山麓《さんろく》の疎《そ》林《りん》の中に戦闘の場所を移し入れた。林間からの猛射は頗《すこぶ》る効を奏した。偶々陣頭に姿を現した単《ぜん》于《う》とその親衛隊とに向って、一時に連《れん》弩《ど》を発して乱射した時、単于の白馬は前脚を高くあげて棒立となり、青袍《せいほう》をまとうた胡《こ》王《おう》は忽ち地上に投出された。親衛隊の二騎が馬から下りもせずに、右左からさっと単于を掬《すく》い上げると、全隊が忽ちこれを中に囲んで素早く退いて行った。乱闘数刻の後漸く執拗な敵を撃退し得たが、確かに今までに無い難戦であった。遺《のこ》された敵の屍体は又しても数千を算したが、漢軍も千に近い戦死者を出したのである。
この日捕えた胡虜の口から、敵軍の事情の一端を知ることが出来た。それによれば、単于は漢兵の手《て》強《ごわ》さに驚嘆し、己《おのれ》に二十倍する大軍をも怯《おそ》れず日に日に南下して我を誘うかに見えるのは、或《ある》いは何処《どこ》か近くに伏兵があって、それを恃《たの》んでいるのではないかと疑っているらしい。前夜その疑《うたがい》を単于が幹部の諸将に洩《も》らして事を計ったところ、結局、そういう疑も確かにあり得るが、ともかくも、単于自《みずか》ら数万騎を率いて漢の寡勢を滅し得ぬとあっては、我々の面目に係《かか》わるという主戦論が勝を制し、これより南四五十里は山谷がつづくがその間力戦猛攻し、さて平地に出て一戦しても尚破り得ないとなったらその時始めて兵を北に還《かえ》そうということに決ったという。これを聞いて、校《こう》尉《い》 韓延年《かんえんねん》以下漢軍の幕僚達《たち》の頭に、或いは助かるかも知れぬぞ、という希望のようなものが微《かす》かに湧《わ》いた。
翌日からの胡軍の攻撃は猛烈を極めた。捕虜の言の中に在った最後の猛攻というのを始めたのであろう。襲撃は一日に十数回繰返された。手厳しい反撃を加えつつ漢軍は徐々に南に移って行く。三日経《た》つと平地に出た。平地戦になると倍加される騎馬隊の威力にものを言わせ匈奴軍は遮《しゃ》二《に》無《む》二《に》漢軍を圧倒しようとかかったが、結局又も二千の屍体を遺して退いた。捕虜の言が偽《いつわ》りでなければ、これで胡軍は追撃を打切る筈《はず》である。たかが一兵卒の言った言葉故《ゆえ》、それ程信頼できるとは思わなかったが、それでも幕僚一同些《いささ》かホッとしたことは争えなかった。
その晩、漢の軍侯、管敢《かんかん》という者が陣を脱して匈奴の軍に亡《に》げ降《くだ》った。嘗《かつ》て長安都下の悪少年だった男だが、前夜斥候《せっこう》上の手抜かりに就いて校尉・成安侯韓延年のために衆人の前で面《めん》罵《ば》され、笞《むち》打《う》たれた。それを含んでこの挙に出たのである。先日渓《たに》間《ま》で斬《ざん》に遭った女共の一人が彼の妻だったのだとも云《い》う。管敢は匈奴の捕虜の自供した言葉を知っていた。それ故、胡陣に亡げて単于の前に引出されるや、伏兵を懼《おそ》れて引上げる必要のないことを力説した。言う。漢軍には後援が無い。矢も殆《ほとん》ど尽きようとしている。負傷者も続出して行軍は難渋を極めている。漢軍の中心を為《な》すものは、李将軍及び成安侯韓延年の率いる各八百人だが、それぞれ黄と白との幟《のぼり》を以《もっ》て印としている故、明日胡騎の精鋭をして其処《そこ》に攻撃を集中せしめてこれを破ったなら、他は容易に潰滅《かいめつ》するであろう、云々《うんぬん》。単于は大いに喜んで厚く敢を遇し、直ちに北方への引上命令を取消した。
翌日。李陵韓延年速《すみや》かに降れと疾呼しつつ胡軍の最精鋭は、黄白の幟を目指して襲いかかった。その勢に漢軍は、次第に平地から西方の山地へと押されて行く。遂《つい》に本道から遥《はる》かに離れた山谷の間に追込まれて了《しま》った。四方の山上から敵は矢を雨の如《ごと》くに注いだ。それに応戦しようにも、今や矢が完全に尽きて了った。遮虜竅sしゃりょしょう》を出る時各人が百本ずつ携えた五十万本の矢が悉《ことごと》く射《い》悉《つく》されたのである。矢ばかりではない。全軍の刀槍矛戟《とうそうぼうげき》の類《たぐい》も半ばは折れ欠けて了った。文字通り刀折れ矢尽きたのである。それでも、戟《ほこ》を失ったものは車輻《しゃふく》を斬《き》ってこれを持ち、軍吏は尺刀を手にして防戦した。谷は奥へ進むに従って愈々《いよいよ》狭くなる。胡卒は諸所の崖《がけ》の上から大石を投下し始めた。矢よりもこの方が確実に漢軍の死傷者を増加させた。死《し》屍《し》とo石《るいせき》とで最《も》早《はや》前進も不可能になった。
その夜、李陵は小袖《しょうしゅう》短衣の便《べん》衣《い》を著《つ》け、誰《だれ》もついて来るなと禁じて独り幕営の外に出た。月が山の峡《かい》から覗《のぞ》いて谷間に堆《うずたか》 い 屍《しかばね》を照らした。浚稽山《しゅんけいさん》の陣を撤する時は夜が暗かったのに、又も月が明るくなり始めたのである。月光と満地の霜とで片岡の斜面は水に濡《ぬ》れたように見えた。幕営の中に残った将士は、李陵の服装からして、彼が単身敵陣を窺《うかが》ってあわよくば単于と刺違える所存に違いないことを察した。李陵は中々戻《もど》って来なかった。彼等は息をひそめて暫《しばら》く外の様子を窺った。遠く山上の敵塁から胡笳《こか》の声が響く。かなり久しくたってから、音もなく帷《とばり》をかかげて李陵が幕の内にはいって来た。駄《だ》目《め》だ。と一言吐き出すように言うと、踞牀《きょしょう》に腰を下した。全軍斬死《きりじに》の外、途《みち》は無いようだなと、又暫くしてから、誰《だれ》に向ってともなく言った。満座口をひらく者は無い。ややあって軍吏の一人が口を切り、先年蝟侯趙《さくやこうちょう》破奴《はど》が胡軍のために生《いけ》擒《ど》られ、数年後に漢に亡《に》げ帰った時も、武帝はこれを罰しなかったことを語った。この例から考えても、寡《か》兵《へい》を以て、かくまで匈奴を震駭《しんがい》させた李陵であってみれば、たとえ都へ逃れ帰っても、天子はこれを遇する途を知り給《たも》うであろうというのである。李陵はそれを遮《さえぎ》って言う。陵一個のことは暫く措《お》け。とにかく、今数十矢《し》もあれば一応は囲みを脱出することも出来ようが、一本の矢も無いこの有様では、明日の天明には全軍が坐《ざ》して縛《ばく》を受けるばかり。唯《ただ》、今夜の中《うち》に囲みを突いて外に出、各自鳥獣と散じて走ったならば、その中には或《ある》いは辺塞《へんさい》に辿《たど》りついて、天子に軍状を報告し得る者もあるかも知れぬ。案ずるに現在の地点はp汗山《ていかんざん》北方の山地に違いなく、居延までは尚《なお》数日の行程故《ゆえ》、成否のほどは覚《おぼ》束《つか》無いが、ともかく今となっては、その他《ほか》に残された途は無いではないか。諸将僚もこれに頷《うなず》いた。全軍の将卒に各二升の糒《ほしいい》と一個の冰片《ひょうへん》とが頒《わか》たれ、遮《しゃ》二《に》無《む》二《に》、遮虜竅sしゃりょしょう》に向って走るべき旨《むね》がふくめられた。さて、一方、悉く漢陣の旌《せい》旗《き》を倒しこれを斬って地中に埋めた後、武器兵車等の敵に利用され得る惧《おそれ》のあるものも皆打毀《うちこわ》した。夜半、鼓して兵を起した。軍鼓の音も惨《さん》として響かぬ。李陵は韓《かん》校尉と共に馬に跨《また》がり壮士十余人を従えて先登に立った。この日追い込まれた峡谷の東の口を破って平地に出、それから南へ向けて走ろうというのである。
早い月は既に落ちた。胡虜の不意を衝《つ》いて、ともかくも全軍の三分の二は予定通り峡谷の東口を突破した。しかし直ぐに敵の騎馬兵の追撃に遭った。徒歩の兵は大部分討たれ或いは捕えられたようだったが、混戦に乗じて敵の馬を奪った数十人は、その胡馬に鞭《むち》うって南方へ走った。敵の追撃をふり切って夜目にもぼっと白い平《へい》沙《さ》の上を、のがれ去った部下の数を数えて、確かに百に余ることを確かめ得ると、李陵は又峡谷の入口の修羅場にとって返した。身には数創を帯び、自《みずか》らの血と返り血とで戎衣《じゅうい》は重く濡れていた。彼と竝《なら》んでいた韓延年はすでに討たれて戦死していた。麾《き》下《か》を失い全軍を失って、最早天子に見《まみ》ゆべき面目は無い。彼は戟《ほこ》を取直すと、再び乱軍の中に駈《かけ》入《い》った。暗い中で敵味方も分らぬ程の乱闘の中に、李陵の馬が流矢《ながれや》に当ったと見えてガックリ前にのめった。それとどちらが早かったか、前なる敵を突こうと戈《ほこ》を引いた李陵は、突然背後から重量のある打撃を後頭部に喰《くら》って失神した。馬から顛落《てんらく》した彼の上に、生《いけ》擒《ど》ろうと構えた胡兵共が十重二十重《とえはたえ》とおり重なって、とびかかった。
二
九月に北へ立った五千の漢軍は、十一月に入って、疲れ傷《きずつ》いて将を失った四百足らずの敗兵となって辺塞《へんさい》に辿《たど》りついた。敗報は直ちに駅伝を以《もっ》て長安の都に達した。
武帝は思いの外《ほか》腹を立てなかった。本軍たる李広利の大軍さえ惨敗しているのに、一支隊たる李陵の寡《か》軍《ぐん》に大した期待のもてよう道理が無かったから。それに彼は、李陵が必ずや戦死しているに違いないとも思っていたのである。ただ、先頃《さきごろ》李陵の使として漠北《ばくほく》から、「戦線異状無し、士気頗《すこぶ》る旺盛《おうせい》」の報をもたらした陳《ちん》歩《ぶ》楽《らく》だけは(彼は吉報の使者として嘉《よみ》せられ郎となってそのまま都に留《とど》まっていた)成行上どうしても自殺しなければならなかった。哀れではあったが、これはやむを得ない。
翌、天漢三年の春になって、李陵は戦死したのではない。捕えられて虜《ろ》に降《くだ》ったのだという確報が届いた。武帝は始めて嚇《かく》怒《ど》した。即位後四十余年。帝は既に六十に近かったが、気象の烈《はげ》しさは壮時に超えている。神仙《しんせん》の説を好み方士巫《ふ》覡《げき》の類を信じた彼は、それまでに己《おのれ》の絶対に尊信する方士共に幾度か欺《あざむ》かれていた。漢の勢威の絶頂に当って五十余年の間君臨したこの大皇帝は、その中年以後ずっと、霊魂の世界への不安な関心に執拗《しつよう》につきまとわれていた。それだけに、その方面での失望は彼にとって、大きな打撃となった。こうした打撃は生来闊達《かったつ》だった彼の心に、年と共に群臣への暗い猜《さい》疑《ぎ》を植えつけて行った。李《り》蔡《さい》・青q《せいてき》・趙周《ちょうしゅう》と、丞相《じょうしょう》たる者は相ついで死罪に行われた。現在の丞相たる公孫賀の如《ごと》き、命を拝した時に己が運命を恐れて帝の前で手離しで泣出した程である。硬骨漢汲黯《きゅうあん》が退いた後は、帝を取巻くものは、佞臣《ねいしん》に非《あら》ずんば酷吏であった。
さて、武帝は諸重臣を召して李陵の処置に就いて計った。李陵の身体は都にはないが、その罪の決定によって、彼の妻子眷属《けんぞく》家財等の処分が行われるのである。酷吏として聞えた一廷《てい》尉《い》が常に帝の顔色を窺《うかが》い合法的に法を枉《ま》げて帝の意を迎えることに巧みであった。或人が法の権威を説いてこれを詰《なじ》ったところ、これに答えていう。前主の是《ぜ》とするところこれが律となり、後主の是とするところこれが令となる。当時の君主の意の外に何の法があろうぞと。群臣皆この廷尉の類《たぐい》であった。丞相公孫賀、御《ぎょ》史《し》大《たい》夫《ふ》 杜周《としゅう》、太常、趙弟以下、誰《だれ》一人として、帝の震怒を犯してまで陵のために弁じようとする者は無い。口を極めて彼等は李陵の売国的行為を罵《ののし》る。陵の如き変節漢と肩を比《なら》べて朝《ちょう》に仕えていたことを思うと今更ながら愧《は》ずかしいと言出した。平生の陵の行為の一つ一つが凡《すべ》て疑わしかったことに意見が一致した。陵の従弟《いとこ》に当る李《り》敢《かん》が太子の寵《ちょう》を頼んで驕恣《きょうし》であることまでが、陵への讒謗《ざんぼう》の種子《たね》になった。口を緘《かん》して意見を洩《も》らさぬ者が、結局陵に対して最大の好意を有《も》つ者だったが、それも数える程しかいない。
唯《ただ》一人、苦々しい顔をしてこれらを見守っている男がいた。今口を極めて李陵を讒《ざん》誣《ぶ》しているのは、数カ月前李陵が都を辞する時に盃《さかずき》をあげて、その行を壮《さか》んにした連中ではなかったか。漠北からの使者が来て李陵の軍の健在を伝えた時、さすがは名将李広の孫と李陵の孤軍奮闘を讃《たた》えたのも又同じ連中ではないのか。恬《てん》として既往を忘れたふりの出来る顕官連や、彼等の諂《てん》諛《ゆ》を見破る程に聡明《そうめい》ではありながら尚《なお》真実に耳を傾ける事を嫌《きら》う君主が、この男には不思議に思われた。いや、不思議ではない。人間がそういうものとは昔からいやになる程知ってはいるのだが、それにしてもその不愉快さに変りはないのである。下大夫の一人として朝につらなっていたために彼もまた下問を受けた。その時、この男はハッキリと李陵を褒《ほ》め上げた。言う。陵の平生を見るに、親に事《つか》えて孝、士と交わって信、常に奮って身を顧みず以て国家の急に殉ずるは誠に国士の風ありというべく、今不幸にして事一度破れたが、身を全うし妻子を保《やす》んずることをのみ唯念願とする君側の佞人《ねいじん》ばらが、この陵の一失を取上げてこれを誇大歪曲《わいきょく》し以て上の聡明を蔽《おお》おうとしているのは、遺《い》憾《かん》この上極まりない。抑々《そもそも》陵の今回の軍たる、五千に満たぬ歩卒を率いて深く敵地に入り、匈《きょう》奴《ど》数万の師を奔命に疲れしめ、転戦千里、矢尽き道窮《きわ》まるに至るも尚全軍空《くう》弩《ど》を張り、白刃を冒して死闘している。部下の心を得てこれに死力を尽さしむること、古《いにしえ》の名将といえどもこれには過ぎまい。軍敗れたりとはいえ、その善戦のあとは正《まさ》に天下に顕彰するに足る。思うに、彼が死せずして虜《ろ》に降ったというのも、潜《ひそ》かにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか。……
竝《なみ》いる群臣は驚いた。こんな事のいえる男が世にいようとは考えなかったからである。彼等はこめかみを顫《ふる》わせた武帝の顔を恐る恐る見上げた。それから、自分等を敢《あえ》て全躯保《くをまっとうし》妻子《さいしをたもつ》の臣と呼んだこの男を待つものが何であるかを考えて、ニヤリとするのである。
向う見ずなその男――太《たい》史《し》令《れい》・司馬《しば》遷《せん》が君前を退くと、直《す》ぐに、「全躯保妻子の臣」の一人が、遷と李陵との親しい関係について武帝の耳に入れた。太史令は故《ゆえ》あって弐師《じし》将軍と隙《げき》あり、遷が陵を褒めるのは、それによって、今度、陵に先立って出塞《しゅっさい》して功の無かった弐師将軍を陥《おとしい》れんがためであると言う者も出てきた。ともかくも、たかが星暦卜祝《せいれきぼくしゅく》を司《つかさど》るに過ぎぬ太史令の身として、余りにも不《ふ》遜《そん》な態度だというのが一同の一致した意見である。おかしな事に、李陵の家族よりも司馬遷の方が先に罪せられることになった。翌日、彼は廷尉に下された。刑は宮《きゅう》と決った。
支那《しな》で昔から行われた肉刑の主なものとして、黥《げい》、s《ぎ》(はなきる)r《ひ》(あしきる)宮、の四つがある。武帝の祖父・文帝の時、この四つの中三つまでは廃せられたが、宮刑のみはそのまま残された。宮刑とは勿論《もちろん》、男を男でなくする奇怪な刑罰である。これを一に腐刑ともいうのは、その創《きず》が腐臭を放つが故《ゆえ》だともいい、或《ある》いは、腐木の実を生ぜざるが如き男と成り果てるからだともいう。この刑を受けた者を閹人《えんじん》と称し、宮廷の宦官《かんがん》の大部分がこれであったことは言うまでも無い。人もあろうに司馬遷がこの刑に遭ったのである。しかし、後代の我々が史記の作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の太史令司馬遷は眇《びょう》たる一文筆の吏に過ぎない。頭脳の明晰《めいせき》なことは確かとしてもその頭脳に自信をもち過ぎた、人づき合いの悪い男、議論に於《おい》て決して他人《ひと》に負けない男、たかだか強情我慢の変屈人としてしか知られていなかった。彼が腐刑に遭ったからとて別に驚く者は無い。
司馬氏は元《もと》周の史官であった。後、晋《しん》に入り、秦《しん》に仕《つか》え、漢の代となってから四代目の司馬《しば》談《だん》が武帝に仕えて建元年間に太史令をつとめた。この談が遷の父である。専門たる律・暦・易《えき》の他に道家の教に精《くわ》しく又博《ひろ》く儒・墨・法・名、諸家の説にも通じていたが、それらを凡《すべ》て一家の見を以て綜《す》べて自己のものとしていた。己《おのれ》の頭脳や精神力についての自《じ》矜《きょう》の強さはそっくりそのまま息子の遷に受《うけ》嗣《つ》がれたところのものである。彼が、息子に施した最大の教育は、諸学の伝授を終えて後に、海内《かいだい》の大旅行をさせたことであった。当時としては変った教育法であったが、これが後年の歴史家司馬遷に資するところの頗《すこぶ》る大であったことは、いうまでもない。
元封元年に武帝が東《ひがし》、泰山《たいざん》に登って天を祭った時、偶々《たまたま》周南で病床にあった熱血漢司馬談は、天子始めて漢家の封《ほう》を建つる目出度《めでた》き時に、己一人従って行くことの出来ぬのを慨《なげ》き、憤を発してその為《ため》に死んだ。古今を一貫せる通史の編述こそは彼の一生の念願だったのだが、単に材料の蒐集《しゅうしゅう》のみで終って了《しま》ったのである。その臨終の光景は息子・遷の筆によって詳しく史記の最後の章に描かれている。それによると司馬談は己の又起《た》ち難《がた》きを知るや遷を呼びその手を執って、懇《ねんご》ろに修史の必要を説き、己《おのれ》太史となりながらこの事に著手《ちゃくしゅ》せず、賢君忠臣の事《じ》蹟《せき》を空《むな》しく地下に埋れしめる不《ふ》甲《が》斐《い》なさを慨いて泣いた。「予死せば汝《なんじ》必ず太史とならん。太史とならば吾《わ》が論著せんと欲《ほっ》するところを忘るるなかれ」といい、これこそ己に対する孝の最大なものだとて、爾《なんじ》それ念《おも》えやと繰返した時、遷は俯首流涕《ふしゅりゅうてい》してその命に背《そむ》かざるべきを誓ったのである。
父が死んでから二年の後、果して、司馬遷は太史令の職を継いだ。父の集蒐した資料と、宮廷所蔵の秘冊とを用いて、直《す》ぐにも父子相伝の天職にとりかかりたかったのだが、任官後の彼に先ず課せられたのは暦の改正という大事業であった。この仕事に没頭することちょうど満四年。太初元年に漸《ようや》くこれを仕上げると、直ぐに彼は史記の編纂《へんさん》に着手した。遷、時に年四十二。
腹案はとうに出来上っていた。その腹案による史書の形式は従来の史書のどれにも似ていなかった。彼は道義的批判の規準を示すものとしては春秋を推したが、事実を伝える史書としては何としてもあきたらなかった。もっと事実が欲しい。教訓よりも事実が。左伝や国語になると、成程事実《・・》はある。左伝の叙事の巧妙さに至っては感嘆の外はない。しかし、その事実を作り上げる一人一人の人間についての探求が無い。事件の中に於《お》ける彼等の姿の描出は鮮やかであっても、そうした事をしでかすまでに至る彼等一人一人の身《み》許《もと》調べの欠けているのが、司馬遷には不服だった。それに従来の史書は凡《すべ》て、当代の者に既往をしらしめる事が主眼となっていて、未来の者に当代を知らしめるためのものとしての用意が余りに欠けすぎているようである。要するに、司馬遷の欲するものは、在来の史には求めて得られなかった。どういう点で在来の史書があきたらぬかは、彼自身でも自ら欲するところを書上げて見て始めて判然する底《てい》のものと思われた。彼の胸中にあるモヤモヤと鬱《うっ》積《せき》したものを書現《かきあらわ》すことの要求の方が、在来の史書に対する批判より先に立った。いや、彼の批判は、自ら新しいものを創《つく》るという形でしか現れないのである。自分が長い間頭の中で画《えが》いて来た構想が、史といえるものか、彼にも自信はなかった。しかし、史といえてもいえなくても、とにかくそういうものが最も書かれなければならないものだ(世人にとって、後代にとって、就中《なかんずく》己自身にとって、)という点については、自信があった。彼も孔子に倣《なら》って、述べて作らぬ方針を執ったが、しかし、孔子のそれとは多分に内容を異にした述而不作《のべてつくらず》である。司馬遷にとって、単なる編年体の事件列挙は未だ「述べる」の中にはいらぬものだったし、又、後世人の事実そのものを知ることを妨げるような、余りにも道義的な断案は、寧《むし》ろ「作る」の部類に入るように思われた。
漢が天下を定めてから既に五代・百年、始皇帝の反文化政策によって湮滅《いんめつ》し或いは隠匿《いんとく》されていた書物が漸く世に行われ始め、文《。》の興らんとする気運が鬱勃《うつぼつ》として感じられた。漢の朝廷ばかりでなく、時代が、史《。》の出現を要求している時であった。司馬遷個人としては、父の遺嘱による感激が学殖・観察眼・筆力の充実を伴って漸く渾然《こんぜん》たるものを生み出すべく醗酵《はっこう》しかけて来ていた。彼の仕事は実に気持よく進んだ。むしろ快調に行きすぎて困る位であった。というのは、初めの五帝本紀から夏《か》殷《いん》周秦《しん》本紀あたりまでは、彼も、材料を按排《あんばい》して記述の正確厳密を期する一人の技師に過ぎなかったのだが、始皇帝を経て、項《こう》羽《う》本紀に入る頃《ころ》から、その技術家の冷静さが怪しくなって来た。ともすれば、項羽が彼に、或いは彼が項羽にのり移りかねないのである。
項王則《すなわ》チ夜起キテ帳中ニ飲ス。美人有リ。名ハ虞《ぐ》。常ニ幸セラレテ従ウ。駿馬《しゅんめ》名ハ騅《すい》、常ニ之《これ》ニ騎ス。是《ここ》ニ於《おい》テ項王乃《すなわ》チ悲歌慷慨《こうがい》シ自ラ詩ヲ為《つく》リテ曰《いわ》ク「力山ヲ抜キ気世ヲ蓋《おお》ウ、時利アラズ騅逝《ゆ》カズ、騅逝カズ奈何《いかに》スベキ、虞ヤ虞ヤ若《なんじ》ヲ奈何《いか》ニセン」ト。歌ウコト数w《すうけつ》、美人之ニ和ス。項王泣《なみだ》数行下ル。左右皆泣キ、能《よ》ク仰ギ視《み》ルモノ莫《な》シ……
これでいいのか? と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされたような書きっぷりでいいものだろうか? 彼は「作ル」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述ベル」ことに尽きる。事実、彼は述べただけであった。しかし何と生気溌剌《はつらつ》たる述べ方であったか? 異常な想像的視覚を有《も》った者でなければ到底不能な記述であった。彼は、時に「作ル」ことを恐れるの余り、既に書いた部分を読返して見て、それあるが為に史上の人物が現実の人物の如《ごと》くに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸を止める。これで、「作ル」ことになる心配はない訳である。しかし、(と司馬遷が思うに)これでは項羽が項羽でなくなるではないか。項羽も始皇帝も楚《そ》の荘王《そうおう》もみんな同じ人間になって了《しま》う。違った人間を同じ人間として記述することが、何が「述べる」だ? 「述べる」とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句を再び生かさない訳には行かない。元通りに直して、さて一読して見て、彼はやっと落ちつく。いや、彼ばかりではない。そこにかかれた史上の人物が、項羽や樊エ《はんかい》や范増《はんぞう》が、みんな漸く安心してそれぞれの場所に落ちつくように思われる。
調子の良い時の武帝は誠に英邁闊達《えいまいかったつ》な・理解ある文教の保護者だったし、太史令という職が地味な特殊な技能を要するものだったために、官界につきものの朋党比周《ほうとうひしゅう》の擠陥《せいかん》讒《ざん》誣《ぶ》による地位(或いは生命)の不安定からも免《まぬか》れることが出来た。
数年の間、司馬遷は充実した・幸福といっていい日々を送った。(当時の人間の考える幸福とは、現代人のそれとひどく内容の違うものだったが、それを求めることに変りはない。)妥協性は無かったが、何処《どこ》までも陽性で、良く論じ良く怒り良く笑い就中《なかんずく》論敵を完膚なきまでに説破することを最も得意としていた。
さて、そうした数年の後、突然、この禍が降《くだ》ったのである。
薄暗い蚕室の中で――腐刑施術後当分の間は風に当ることを避けねばならぬので、中に火を熾《おこ》して暖かに保った・密閉した暗室を作り、其処《そこ》に施術後の受刑者を数日の間入れて、身体を養わせる。暖く暗いところが蚕を飼う部屋に似ているとて、それを蚕室と名付けるのである。――言語を絶した混乱のあまり彼は茫然《ぼうぜん》と壁によりかかった。憤激よりも先に、驚きのようなものさえ感じていた。斬《ざん》に遭うこと、死を賜《たま》うことに対してなら、彼には固《もと》より平生から覚悟が出来ている。刑死する己の姿なら想像して見ることもできるし、武帝の気に逆《さから》って李陵を褒《ほ》め上げた時もまかり間違えば死を賜うような事になるかも知れぬ位の懸《け》念《ねん》は自分にもあったのである。ところが、刑罰も数ある中で、よりによって最も醜陋《しゅうろう》な宮刑にあおうとは! 迂《う》闊《かつ》といえば迂闊だが、(というのは、死刑を予期する位なら当然、他のあらゆる刑罰も予期しなければならない訳だから)彼は自分の運命の中に、不測の死が待受けているかもしれぬとは考えていたけれども、このような醜いものが突然現れようとは、全然、頭から考えもしなかったのである。常々、彼は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起らないのだという一種の確信のようなものを有《も》っていた。これは長い間史実を扱っている中《うち》に自然に養われた考えであった。同じ逆境にしても、慷慨《こうがい》の士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱の徒には緩慢なじめじめした醜い苦しみが、という風にである。たとえ始めは一見ふさわしくないように見えても、少くともその後の対処のし方によってその運命はその人間にふさわしいことが判《わか》ってくるのだと。司馬遷は自分を男《・》だと信じていた。文筆の吏ではあっても当代の如何《いか》なる武人よりも男であることを確信していた。自分でばかりではない。この事だけは、如何に彼に好意を寄せぬ者でも認めない訳には行かないようであった。それ故《ゆえ》、彼は自らの持論に従って、車裂《くるまざき》の刑なら自分の行手に思い画《えが》くことが出来たのである。それが齢《よわい》五十に近い身で、この辱《はずか》しめにあおうとは! 彼は、今自分が蚕室の中にいるという事が夢のような気がした。夢だと思いたかった。しかし、壁によって閉じていた目を開くと、うす暗い中に、生気のない・魂までが抜けたような顔をした男が三四人、だらしなく横たわったり坐《すわ》ったりしているのが目に入った。あの姿が、つまり今の己なのだと思った時、嗚《お》咽《えつ》とも怒号ともつかない叫びが彼の咽喉《のど》を破った。
痛憤と煩悶《はんもん》との数日の中には、時に、学者としての彼の習慣から来る思索が――反省が来た。一体、今度の出来事の中で、何が――誰《だれ》が――誰のどういうところが、悪かったのだという考えである。日本の君臣道とは根柢《こんてい》から異ったかの国のこととて、当然、彼は先《ま》ず、武帝を怨《うら》んだ。一時はその怨懣《えんまん》だけで、一切他を顧みる余裕はなかったというのが実際であった。しかし、暫《しばら》くの狂乱の時期の過ぎた後には、歴史家としての彼が、目覚めて来た。儒者と違って、所謂《いわゆる》先王の価値にも歴史家的な割引をすることを知っていた彼は、後王たる武帝の評価の上にも、私怨のために狂いを来たさせることは無かった。何といっても武帝は大君主である、そのあらゆる欠点にも拘《かか》わらず、この君がある限り、漢の天下は微動だもしない。高《こう》祖《そ》は暫く措《お》くとするも、仁君文帝も名君景帝も、この君に比べれば、やはり小さい。ただ大きいものは、その欠点までが大きく写ってくるのは、これは已《や》むを得ない。司馬遷は極度の憤怨の中にあってもこの事を忘れてはいない。今度のことは要するに天の作《な》せる疾風暴雨霹靂《へきれき》に見舞われたものと思う外はないという考えが、彼を一層絶望的な憤《いきどお》りへと駆ったが、又一方、逆に諦観《ていかん》へも向わせようとする。怨恨《えんこん》が長く君主に向い得ないとなると、勢い、君側の姦臣《かんしん》に向けられる。彼等が悪い。たしかにそうだ。しかし、この悪さは、頗《すこぶ》る副次的《・・・》な悪さである。それに、自矜心《じきょうしん》の高い彼にとって、彼等小人輩は、怨恨の対象としてさえ物足りない気がする。彼は、今度ほど好人物《・・・》というものへの腹立を感じたことは無い。これは姦臣や酷吏よりも始末が悪い。少くとも側《そば》から見ていて腹が立つ。良心的に安っぽく安心しており、他にも安心させるだけ、一層怪《け》しからぬのだ。弁護もしなければ反駁《はんぱく》もせぬ。心中、反省もなければ自責もない。丞相《じょうしょう》公孫賀の如《ごと》き、その代表的なものだ。同じ阿《あ》諛《ゆ》迎合を事としても、杜周《としゅう》(最近この男は前任者王卿《おうけい》を陥《おとしい》れてまんまと御《ぎょ》史《し》大《たい》夫《ふ》となりおおせた)のような奴《やつ》は自らそれを知っているに違いないが、このお人《ひと》好《よ》しの丞相ときた日には、その自覚さえない。自分に全躯保妻子《くをまっとうしさいしをたもつ》の臣といわれても、こういう手合は、腹も立てないのだろう。こんな手合は恨みを向けるだけの値打さえない。
司馬遷は最後に憤懣の持って行きどころを自分自身に求めようとする。実際、何ものかに対して腹を立てなければならぬとすれば、結局それは自分自身に対しての外は無かったのである。だが、自分の何処《どこ》が悪かったのか? 李陵のために弁じたこと、これは如何《いか》に考えて見ても間違っていたとは思えない。方法的にも格別拙《まず》かったとは考えぬ。阿諛に堕するのに甘んじない限り、あれはあれで外にどうしようもない。それでは、自ら顧みて嫉《やま》しくなければ、そのやましくない行為が、どのような結果を来たそうとも、士たる者はそれを甘受しなければならない筈《はず》だ。成程《なるほど》それは一応そうに違いない。だから自分も肢《し》解《かい》されようと腰斬《ようざん》にあおうと、そういうものなら甘んじて受けるつもりなのだ。しかし、この宮刑は――その結果かく成り果てた我が身の有様というものは、――これは又別だ。同じ不具でも足を切られたり鼻を切られたりするのとは全然違った種類のものだ。士たる者の加えられるべき刑ではない。こればかりは、身体のこういう状態というものは、どういう角度から見ても、完全な悪だ。飾言の余地はない。そうして、心の傷だけならば時と共に癒《い》えることもあろうが、己《おの》が身体のこの醜悪な現実は死に至るまでつづくのだ。動機がどうあろうと、このような結果を招くものは、結局「悪かった」といわなければならぬ。しかし、何処が悪かった? 己の何処が? 何処も悪くなかった。己は正しい事しかしなかった。強《し》いていえば、唯《ただ》、「我在り」という事実だけが悪かったのである。
茫然《ぼうぜん》とした虚脱の状態で坐っていたかと思うと、突然飛上り、傷《きずつ》いた獣の如くうめきながら暗く暖い室の中を歩き廻《まわ》る。そうした仕草を無意識に繰返しつつ、彼の考えもまた、何時《いつ》も同じ所をぐるぐる廻ってばかりいて帰結するところを知らないのである。
我を忘れ壁に頭を打ちつけて血を流したその数回を除けば、彼は自らを殺そうと試みなかった。死にたかった。死ねたらどんなに良かろう。それよりも数等恐ろしい恥辱が追立てるのだから死をおそれる気持は全然なかった。何故《なぜ》死ねなかったのか? 獄舎の中に、自らを殺すべき道具のなかったことにもよろう。しかし、それ以外に何かが内から彼をとめる。はじめ、彼はそれが何であるかに気付かなかった。ただ狂乱と憤懣との中で、たえず発作的に死への誘惑を感じたにも拘わらず、一方彼の気持を自殺の方へ向けさせたがらないものがあるのを漠然《ばくぜん》と感じていた。何を忘れたのかはハッキリしないながら、とにかく何か忘れものをしたような気のすることがある。ちょうどそんな工合であった。
許されて自宅に帰り、其処《そこ》で謹慎するようになってから、始めて、彼は、自分がこの一月狂乱にとり紛れて己が畢生《ひっせい》の事業たる修史のことを忘れ果てていたこと、しかし、表面は忘れていたにも拘わらず、その仕事への無意識の関心が彼を自殺から阻《はば》む役目を隠々の中につとめていたことに気がついた。
十年前臨終の床で自分の手をとり泣いて遺命した父の惻々《そくそく》たる言葉は、今尚《なお》耳底にある。しかし、今疾痛惨憺《さんたん》を極めた彼の心の中に在って尚《なお》修史の仕事を思い絶たしめないものは、その父の言葉ばかりではなかった。それは何よりも、その仕事そのものであった。仕事の魅力とか仕事への情熱とかいう怡しい《・・・》態のものではない。修史という使命の自覚には違いないとしても更に昂然《こうぜん》として自らを恃《じ》する自覚ではない。恐ろしく我の強い男だったが、今度の事で、己《おのれ》の如何にとるに足らぬものだったかを沁々《しみじみ》と考えさせられた。理想の抱負のと威張って見たところで、所詮《しょせん》己は牛にふみつぶされる道傍《みちばた》の虫けらの如きものに過ぎなかったのだ。「我《・》」はみじめに踏みつぶされたが、修史という仕事の意義は疑えなかった。このような浅間しい身と成果て自信も自《じ》恃《じ》も失いつくした後、それでも尚世にながらえてこの仕事に従うという事は、どう考えても怡《たの》しい訳はなかった。それは殆《ほとん》ど、如何《いか》にいとわしくとも最後までその関係を絶つことの許されない人間同志のような宿命的な因縁に近いものと、彼自身には感じられた。とにかくこの仕事のために自分は自らを殺すことができぬのだ(それも義務感からではなく、もっと肉体的な、この仕事との繋《つな》がりによってである)ということだけはハッキリしてきた。
当座の盲目的な獣の苦しみに代って、より《・・》意識的な・人間《・・》の苦しみが始まった。困ったことに、自殺できないことが明らかになるにつれ、自殺によっての外に苦悩と恥辱とから逃れる途《みち》の無いことが益々《ますます》明らかになってきた。一個の丈夫《じょうふ》たる太《たい》史《し》令《れい》司馬遷は天漢三年の春に死んだ、そして、その後に、彼の書残した史をつづける者は、知覚も意識もない一つの書写機械に過ぎぬ、――自らそう思い込む以外に途は無かった。無理でも、彼はそう思おうとした。修史の仕事は必ず続けられねばならぬ。これは彼にとって絶対であった。修史の仕事のつづけられるためには、如何にたえがたくとも生きながらえねばならぬ。生きながらえるためには、どうしても、完全に身を亡《な》きものと思い込む必要があったのである。
五月の後、司馬遷は再び筆を執った。歓《よろこ》びも昂奮も無い・ただ仕事の完成への意志だけに鞭《むち》打《う》たれて、傷《きずつ》いた脚を引《ひき》摺《ず》りながら目的地へ向う旅人のように、とぼとぼと稿を継いで行く。最《も》早《はや》太史令の役は免ぜられていた。些《いささ》か後悔した武帝が、暫《しばら》く後に彼を中書令に取立てたが、官職の黜陟《ちゅっちょく》の如きは、彼にとってもう何の意味もない。以前の論客司馬遷は、一切口を開かずなった。笑うことも怒ることも無い。しかし、決して悄然《しょうぜん》たる姿ではなかった。寧《むし》ろ、何か悪霊にでも取り憑《つ》かれているようなすさまじさ《・・・・・》を、人々は緘黙《かんもく》せる彼の風貌《ふうぼう》の中に見て取った。夜眠る時間をも惜しんで彼は仕事をつづけた。一刻も早く仕事を完成し、その上で早く自殺の自由を得たいとあせっているもののように、家人等には思われた。
凄惨《せいさん》な努力を一年ばかり続けた後、漸《ようや》く、生きることの歓びを失いつくした後も尚表現することの歓びだけは生残り得るものだということを、彼は発見した。しかし、その頃《ころ》になってもまだ、彼の完全な沈黙は破られなかったし、風貌の中のすさまじさも全然和らげられはしない。稿をつづけて行く中に、宦者《かんじゃ》とか閹《えん》奴《ど》とかいう文字を書かなければならぬ所に来ると、彼は覚えず呻《うめ》き声を発した。独《ひと》り居室にいる時でも、夜、牀上《しょうじょう》に横になった時でも、不《ふ》図《と》この屈辱の思いが萌《きざ》してくると、忽《たちま》ちカーッと、焼鏝《やきごて》をあてられるような熱い疼《うず》くものが全身を駈《か》けめぐる。彼は思わず飛上り、奇声を発し、呻きつつ四辺を歩きまわり、さて暫くしてから歯をくいしばって己を落ちつけようと努めるのである。
三
乱軍の中に気を失った李陵が獣脂を灯《とも》し獣《じゅう》糞《ふん》を焚《た》いた単《ぜん》于《う》の帳房の中で目を覚ました時、咄《とっ》嗟《さ》に彼は心を決めた。自《みずか》ら首《くび》刎《は》ねて辱《はずか》しめを免《まぬか》れるか、それとも今一応は敵に従っておいてその中《うち》に機を見て脱走する――敗軍の責を償うに足る手《て》柄《がら》を土産《みやげ》として――か、この二つの外に途《みち》は無いのだが、李陵は、後者を選ぶことに心を決めたのである。
単于は手ずから李陵の縄《なわ》を解いた。その後の待遇も鄭重《ていちょう》を極めた。且《そ》p侯《ていこう》単于とて先代のt《こう》犁湖《りこ》単于の弟だが、骨格の逞《たくま》しい巨眼赭《しゃ》髯《ぜん》の中年の偉丈夫である。数代の単于に従って漢と戦っては来たが、未《ま》だ李陵程の手《て》強《ごわ》い敵に遭ったことは無いと正直に語り、陵の祖父李広の名を引合に出して陵の善戦を讃《ほ》めた。虎《とら》を格殺したり岩に矢を立てたりした飛将軍李広の驍名《ぎょうめい》は今も尚《なお》胡地《こち》にまで語り伝えられている。陵が厚遇を受けるのは、彼が強き者の子孫であり又彼自身も強かったからである。食を頒《わ》ける時も強壮者が美味をとり老弱者に余り物を与えるのが匈奴《きょうど》の風であった。此処《ここ》では、強き者が辱しめられることは決してない。降将李陵は一つの穹廬《きゅうろ》と数十人の侍者とを与えられ賓客《ひんきゃく》の礼を以て遇せられた。
李陵にとって奇異な生活が始まった。家は絨帳《じゅうちょう》穹廬、食物は羶肉《せんにく》、飲物は酪漿《らくしょう》と獣乳と乳醋酒《にゅうさくしゅ》。着物は狼《おおかみ》や羊や熊《くま》の皮を綴《つづ》り合わせた旃裘《せんきゅう》。牧畜と狩猟と寇掠《こうりゃく》と、この外に彼《かれ》等《ら》の生活はない。一望際涯《さいがい》のない高原にも、しかし、河や湖や山々による境界があって、単于直轄地の外は左賢王右賢王左谷蠡王《さろくりおう》右谷蠡王以下の諸王侯の領地に分けられており、牧民の移住は各々《おのおの》その境界の中に限られているのである。城郭も無ければ田畑も無い国。村落はあっても、それが季節に従い水草を逐《お》って土地を変える。
李陵には土地は与えられない。単于麾《き》下《か》の諸将と共に何時も単于に従っていた。隙《すき》があったら単于の首でも、と李陵は狙《ねら》っていたが、容易に機会が来ない。仮令《たとい》、単于を討果したとしても、その首を持って脱出することは、非常な機会に恵まれない限り、先《ま》ず不可能であった。胡地にあって単于と刺違えたのでは、匈奴は己等《おのれら》の不名誉を有《う》耶《や》無《む》耶《や》の中に葬《ほうむ》って了《しま》うこと必定故《ひつじょうゆえ》、恐らく漢に聞えることはあるまい。李陵は辛抱強く、その不可能とも思われる機会の到来を待った。
単于の幕下には、李陵の外にも漢の降人《こうじん》が幾人かいた。その中の一人、衛律《えいりつ》という男は軍人ではなかったが、丁霊《ていれい》王の位を貰《もら》って最も重く単于に用いられている。その父は胡人だが、故あって衛律は漢の都で生れ成長した。武帝に仕えていたのだが、先年協律都《きょうりつと》尉《い》李延年の事に坐《ざ》するのを懼《おそ》れて、亡《に》げて匈奴に帰《き》したのである。血が血だけに胡風になじむ事も速く、相当の才物でもあり、常に且p侯単于の帷《い》幄《あく》に参じて凡《すべ》ての画策に与《あず》かっていた。李陵はこの衛律を始め、漢人の降《くだ》って匈奴の中にあるものと、殆《ほとん》ど口を聞かなかった。彼の頭の中にある計画に就いて事を共にすべき人物がいないと思われたのである。そういえば、他の漢人同志の間でもまた、互いに妙に気まずいものを感じるらしく、相互に親しく交わることが無いようであった。
一度単于は李陵を呼んで軍略上の示教を乞《こ》うた事がある。それは東胡に対しての戦だったので、陵は快く己が意見を述べた。次に単于が同じような相談を持ちかけた時、それは漢軍に対する策戦に就いてであった。李陵はハッキリと嫌《いや》な表情をしたまま口を開こうとしなかった。単于も強《し》いて返答を求めようとしなかった。それから大分久しく立った頃《ころ》、代・上郡を寇掠する軍隊の一将として南行することを求められた。この時は、漢に対する戦には出られない旨《むね》を言ってキッパリ断った。爾《じ》後《ご》、単于は陵に再びこうした要求をしなくなった。待遇は依然として変らない。他に利用する目的は無く、唯《ただ》士を遇するために士を遇しているのだとしか思われない。とにかくこの単于は男《・》だと李陵は感じた。
単于の長子・左賢王が妙に李陵に好意を示し始めた。好意というより尊敬といった方が近い。二十歳を越したばかりの・粗野ではあるが勇気のある真面目《まじめ》な青年である。強き者への讃《さん》美《び》が、実に純粋で強烈なのだ。初め李陵の所へ来て騎《き》射《しゃ》を教えてくれという。騎射といっても騎の方は陵に劣らぬ程巧《うま》い。殊《こと》に、裸馬を駆る技術に至っては遥《はる》かに陵を凌《しの》いでいるので、李陵はただ射だけを教えることにした。左賢王は、熱心な弟子となった。陵の祖父李広の射に於《お》ける入神の技などを語る時、蕃族《ばんぞく》の青年は眸《ひとみ》をかがやかせて熱心に聞入るのである。よく二人して狩猟に出かけた。ほんの僅《わず》かの供廻《ともまわ》りを連れただけで二人は縦横に曠《こう》野《や》を疾駆しては狐《きつね》や狼や羚羊《かもしか》やx《わし》や雉子《きじ》等を射た。或《あ》る時など夕暮近くなって矢も尽きかけた二人が――二人の馬は供の者を遥かに駈《かけ》抜《ぬ》いていたので――一群の狼に囲まれたことがある。馬に鞭《むち》うち全速力で狼群の中を駆け抜けて逃がれたが、その時、李陵の馬の尻《しり》に飛びかかった一匹を、後に駈けていた青年左賢王が彎刀《わんとう》を以《もっ》て見事に胴斬《どうぎり》にした。後で調べると二人の馬は狼共に脚を噛《か》み裂《さ》かれて血だらけになっていた。そういう一日の後、夜、天幕の中で今日の獲物を羹《あつもの》の中にぶちこんでフウフウ吹きながら啜《すす》る時、李陵は火影に顔を火《ほ》照《て》らせた若い蕃王の息子に、不《ふ》図《と》友情のようなものをさえ感じることがあった。
天漢三年の秋に匈奴が又もや雁門《がんもん》を犯した。これに酬《むく》いるとて、翌四年、漢は弐師《じし》将軍李広利に騎六万歩七万の大軍を授けて朔方《さくほう》を出《い》でしめ、歩卒一万を率いた強弩《きょうど》都尉《とい》路博徳にこれを援《たす》けしめた。従《ひ》いて因《いん》n《う》将軍公孫敖《こうそんごう》は騎一万歩三万を以《もっ》て雁門を、游撃《ゆうげき》将軍 韓説《かんえつ》は歩三万を以て五原を、それぞれ進発する。近来にない大北伐である。単于はこの報に接するや、直ちに婦女・老幼、畜群・資財の類を悉《ことごと》く余吾水(ケルレン河)北方の地に移し、自ら十万の精騎を率いて李広利・路博徳の軍を水南の大草原に邀《むか》え撃った。連戦十余日。漢軍は竟《つい》に退くの止《や》むなきに至った。李陵に師事する若き左賢王は、別に一隊を率いて東方に向い因n将軍を迎えて散々にこれを破った。漢軍の左翼たる韓説の軍もまた得るところ無くして兵を引いた。北征は完全な失敗である。李陵は例によって漢との戦には陣頭に現れず、水北に退いていたが、左賢王の戦績をひそかに気遣っている己《おのれ》を発見して愕然《がくぜん》とした。勿論《もちろん》、全体としては漢軍の成功と匈奴の敗戦とを望んでいたには違いないが、どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。李陵はこれに気がついて激しく己を責めた。
その左賢王に打破られた公孫敖が都に帰り、士卒を多く失って功が無かったとの廉《かど》で牢《ろう》に繋《つな》がれた時、妙な弁解をした。敵の捕虜が、匈奴軍の強いのは、漢から降《くだ》った李将軍が常々兵を練り軍略を授けて以て漢軍に備えさせているからだと言ったというのである。だからといって自軍が敗《ま》けたことの弁解にはならないから、勿論、因n将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝が、李陵に対して激怒したことは言うまでもない。一度許されて家に戻《もど》っていた陵の一族は再び獄に収められ、今度は、陵の老母から妻、子、弟に至るまで悉《ことごと》く殺された。軽薄なる世人の常とて、当時隴西《ろうさい》(李陵の家は隴西の出である)の士《し》大《たい》夫《ふ》等皆李家を出したことを恥としたと記されている。
この知らせが李陵の耳に入ったのは半年程後のこと、辺境から拉《ら》致《ち》された一漢卒の口からである。それを聞いた時、李陵は立上ってその男の胸倉《むなぐら》をつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめた。たしかに間違のないことを知ると、彼は歯をくい縛り、思わず力を両手にこめた。男は身をもがいて、苦《く》悶《もん》の呻《うめ》きを洩《も》らした。陵の手が無意識の中にその咽喉《のど》を扼《やく》していたのである。陵が手を離すと、男はバッタリ地に倒れた。その姿に目もやらず、陵は帳房の外へ飛出した。
目茶苦茶に彼は野を歩いた。激しい憤《いきどお》りが頭の中で渦《うず》を巻いた。老母や幼児のことを考えると心は灼《や》けるようであったが、涙は一滴も出ない。余りに強い怒りは涙を涸《こ》渇《かつ》させて了《しま》うのであろう。
今度の場合には限らぬ。今まで我が一家は抑々《そもそも》漢から、どのような扱いを受けてきたか? 彼は祖父の李広の最《さい》期《ご》を思った。(陵の父、当戸は、彼が生れる数カ月前に死んだ。陵は所謂《いわゆる》、遺腹の児《こ》である。だから、少年時代までの彼を教育し鍛え上げたのは、有名なこの祖父であった。)名将李広は数次の北征に大功を樹《た》てながら、君側の姦佞《かんねい》に妨げられて何一つ恩賞にあずからなかった。部下の諸将が次々に爵位封侯を得て行くのに、廉潔《れんけつ》な将軍だけは封侯はおろか、終始変らぬ清貧に甘んじなければならなかった。最後に彼は大将軍衛青と衝突した。さすがに衛青にはこの老将をいたわる気持はあったのだが、その幕下の一軍吏が虎《とら》の威を借りて李広を辱《はずか》しめた。憤激した老名将は直《す》ぐにその場で――陣営の中で自ら首《くび》刎《は》ねたのである。祖父の死を聞いて声をあげてないた少年の日の自分を、陵は未《いま》だにハッキリ憶《おぼ》えている。……
陵の叔父、(李広の次男)李《り》敢《かん》の最期はどうか。彼は父将軍の惨《みじ》めな死について衛青を怨《うら》み、自ら大将軍の邸に赴いてこれを辱しめた。大将軍の甥《おい》に当る嫖騎《ひょうき》将軍霍去病《かくきょへい》がそれを憤って、甘泉宮《かんせんきゅう》の猟の時に李敢を射殺した。武帝はそれを知りながら、嫖騎将軍をかばわんがために、李敢は鹿の角に触れて死んだと発表させたのだ。……
司馬遷の場合と違って、李陵の方は簡単であった。憤《ふん》怒《ぬ》が凡《すべ》てであった。(無理でも、もう少し早くかねての計画――単于の首でも持って胡地を脱するという――を実行すれば良かったという悔を除いては、)ただそれを如何《いか》にして現すかが問題であるに過ぎない。彼は先刻の男の言葉「胡地にあって李将軍が兵を教え漢に備えていると聞いて陛下が激怒され云々《うんぬん》」を思出した。漸《ようや》く思い当ったのである。勿論彼自身にはそんな覚えは無いが、同じ漢の降将に李《り》緒《しょ》という者がある。元、塞《さい》外《がい》都尉《とい》として奚侯城《けいこうじょう》を守っていた男だが、これが匈奴に降ってから常に胡軍に軍略を授け兵を練っている。現に半年前の軍にも、単于に従って、(問題の公孫敖の軍とではないが)漢軍と戦っている。これだと李陵は思った。同じ李将軍で李緒と間違えられたに違いないのである。
その晩彼は単身李緒の帳幕《ちょうばく》へと赴いた。一言も言わぬ、一言も言わせぬ。唯《ただ》の一刺しで李緒は斃《たお》れた。
翌朝李陵は単于の前に出て事情を打明けた。心配は要《い》らぬと単于は言う。だが母の大閼《だいえん》氏が少々うるさいから――というのは、相当の老齢でありながら、単于の母は李緒と醜関係があったらしい。単于はそれを承知していたのである。匈奴の風習によれば、父が死ぬと、長子たる者が、亡父の妻妾《さいしょう》の凡てをそのまま引きついで己が妻妾とするのだが、さすがに生母だけはこの中に入らない。生みの母に対する尊敬だけは極端に男尊女卑の彼等でも有《も》っているのである――今暫《しばら》く北方へ隠れていて貰《もら》いたい、ほとぼり《・・・・》がさめた頃《ころ》に迎えを遣《や》るから、と附加《つけくわ》えた。その言葉に従って、李陵は一時従者共をつれ、西北の兜銜山《とうかんざん》(額林達班嶺)の麓《ふもと》に身を避けた。
間もなく問題の大閼氏が病死し、単于の庭《てい》に呼戻された時、李陵は人間が変ったように見えた。というのは、今まで漢に対する軍略にだけは絶対に与《あずか》らなかった彼が、自ら進んでその相談に乗ろうと言出したからである。単于はこの変化を見て大いに喜んだ。彼は陵を右《う》校《こう》王に任じ、己が娘の一人をめあわせた。娘を妻にという話は以前にもあったのだが、今まで断りつづけて来た。それを今度は躊躇《ちゅうちょ》なく妻としたのである。ちょうど酒泉張掖《しゅせんちょうえき》の辺を寇掠《こうりゃく》すべく南に出て行く一軍があり、陵は自ら請《こ》うてその軍に従った。しかし、西南へと取った進路が偶々浚稽山《たまたましゅんけいさん》の麓を過《よぎ》った時、さすがに陵の心は曇った。曾《かつ》てこの地で己に従って死戦した部下共のことを考え、彼等の骨が埋められ彼等の血の染《し》み込んだその砂の上を歩きながら、今の己が身の上を思うと、彼は最《も》早《はや》南行して漢兵と闘う勇気を失った。病《やまい》と称して彼は独り北方へ馬を返した。
翌、太始元年、且《そ》p侯《ていこう》単于が死んで、陵と親しかった左賢王が後を嗣《つ》いだ。狐《こ》鹿《ろく》姑《こ》単于というのがこれである。
匈奴の右校王たる李陵の心は未《いま》だにハッキリしない。母妻子を族滅された怨《うらみ》は骨髄に徹しているものの、自ら兵を率いて漢と戦うことが出来ないのは、先頃の経験で明らかである。再び漢の地を踏むまいとは誓ったが、この匈奴の俗に化して終生安んじていられるかどうかは、新単于への友情を以《もっ》てしても、まださすがに自信が無い。考えることの嫌《きら》いな彼は、イライラしてくると、いつも独《ひと》り駿馬《しゅんめ》を駆って曠《こう》野《や》に飛び出す。秋天一碧《いっぺき》の下、u《かつ》々《かつ》と蹄《ひづめ》の音を響かせて草原となく丘陵となく狂気のように馬を駆けさせる。何十里かぶっとばした後、馬も人も漸《ようや》く疲れてくると、高原の中の小川を求めてその滸《ほとり》に下り、馬に飲《みず》かう。それから己れは草の上に仰《あお》向《む》けにねころんで、快い疲労感にウットリと見上げる碧《へき》落《らく》の潔さ、高さ、広さ。ああ我もと天地間の一微粒子のみ、何ぞ又漢と胡とあらんやと不図そんな気のすることもある。一しきり休むと又馬に跨《また》がり、がむしゃらに駈《か》け出す。終日乗り疲れ黄雲が落暉《らっき》に《くん》ずる頃になって漸く彼は幕営に戻《もど》る。疲労だけが彼の唯一つの救いなのである。
司馬《しば》遷《せん》が陵の為《ため》に弁じて罪を獲《え》たことを伝える者があった。李陵は別に有難《ありがた》いとも気の毒だとも思わなかった。司馬遷とは互に顔は知っているし挨拶《あいさつ》をしたことはあっても、特に交を結んだという程の間柄《あいだがら》ではなかった。むしろ、厭《いや》に議論ばかりしてうるさい奴《やつ》だ位にしか感じていなかったのである。それに現在の李陵は、他人の不幸を実感するには、余りに自分一個の苦しみと闘うのに懸命であった。余計な世話とまでは感じなかったにしても、特に済まないと感じることがなかったのは事実である。
初め一概に野《や》卑《ひ》滑稽《こっけい》としか映らなかった胡地の風俗が、しかし、その地の実際の風土・気候等を背景として考えて見ると決して野卑でも不合理でもないことが、次第に李陵にのみこめて来た。厚い皮革製の胡服でなければ朔北《さくほく》の冬は凌《しの》げないし、肉食でなければ胡地の寒冷に堪《た》えるだけの精力を貯《たくわ》えることが出来ない。固定した家屋を築かないのも彼等の生活形態から来た必然で、頭から低級と貶《けな》し去るのは当らない。漢人の風を飽くまで保とうとするなら、胡地の自然の中での生活は一日といえども続けられないのである。
曾《かつ》て先代の且p侯単于の言った言葉を李陵は憶えている。漢の人間が二言目には、己が国を礼儀の国といい、匈奴《きょうど》の行を以て禽獣《きんじゅう》に近いと見做《みな》すことを難じて、単于は言った。漢人のいう礼儀とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾の謂《いい》ではないか。利を好み人を嫉《そね》むこと、漢人と胡人と何《いず》れか甚《はなはだ》しき? 色に耽《ふけ》り財を貪《むさぼ》ること、又何れか甚しき? 表《うわ》べを剥《は》ぎ去れば畢竟《ひっきょう》何等の違いはない筈《はず》。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。漢初以来の骨肉相《あい》喰《は》む内乱や功臣連の排斥擠《せい》陥《かん》の跡を例に引いてこう言われた時、李陵は殆《ほとん》ど返す言葉に窮した。実際、武人たる彼は今までにも、煩《はん》瑣《さ》な礼のための礼に対して疑問を感じたことが一再ならずあったからである。たしかに、胡俗の粗野な正直さの方が、美名の影に隠れた漢人の陰険さより遥《はる》かに好ましい場合が屡々《しばしば》あると思った。諸夏の俗を正しきもの、胡俗を卑《いや》しきものと頭から決めてかかるのは、余りにも漢人的な偏見ではないかと、次第に李陵にはそんな気がして来る。たとえば今まで人間には名の外に字《あざな》がなければならぬものと、故《ゆえ》もなく信じ切っていたが、考えて見れば字が絶対に必要だという理由は何処《どこ》にもないのであった。
彼の妻は頗《すこぶ》る大人しい女だった。未《いま》だに良《おっ》人《と》の前に出るとおずおずしてろく《・・》に口も利《き》けない。しかし、彼等の間に出来た男の児《こ》は、少しも父親を恐れないで、ヨチヨチと李陵の膝《ひざ》に匍上《はいあが》って来る。その児の顔に見入りながら、数年前長安に残してきた――そして結局母や祖母と共に殺されて了《しま》った――子供の俤《おもかげ》を不図思いうかべて李陵は我しらず憮《ぶ》然《ぜん》とするのであった。
陵が匈奴に降《くだ》るよりも早く、ちょうどその一年前から、漢の中郎将 蘇武《そぶ》が胡地に引留められていた。
元来蘇武は平和の使節として捕虜交換のために遣わされたのである。ところが、その副使某が偶々《たまたま》匈奴の内紛に関係したために、使節団全員が囚《とら》えられることになって了った。単于は彼等を殺そうとはしないで、死を以て脅してこれを降らしめた。ただ蘇武一人は降服を肯《がえ》んじないばかりか、辱《はずか》しめを避けようと自ら剣を取って己が胸を貫いた。昏倒《こんとう》した蘇武に対する胡y《こい》の手当というのが頗る変っていた。地を掘って坎《あな》をつくりv《うん》火《か》を入れて、その上に傷者を寝かせその背中を蹈《ふ》んで血を出させたと漢書《かんじょ》には誌《しる》されている。この荒療治のお蔭《かげ》で、不幸にも蘇武は半日昏絶した後に又息を吹返した。且《そ》p侯《ていこう》単于はすっかり彼に惚《ほ》れ込んだ。数旬の後漸《ようや》く蘇武の身体が回復すると、例の近臣衛律をやって又熱心に降をすすめさせた。衛律は蘇武が鉄火の罵《ば》詈《り》に遭い、すっかり恥をかいて手を引いた。その後蘇武が窖《あなぐら》の中に幽閉された時旃毛《せんもう》を雪に和して喰《くら》い以て飢を凌《しの》いだ話や、ついに北海のほとり人無き所に徙《うつ》されて牡羊《おひつじ》が乳を出さば帰るを許さんと言われた話は、持節十九年の彼の名と共に、余りにも有名だから、ここには述べない。とにかく、李陵が悶々《もんもん》の余生を胡地に埋めようと漸《ようや》く決心せざるを得なくなった頃《ころ》、蘇武は、既に久しく北海(バイカル湖)のほとりで独り羊を牧していたのである。
李陵にとって蘇武は二十年来の友であった。曾《かつ》て時を同じゅうして侍中《じちゅう》を勤めていたこともある。片意地でさばけないところはあるにせよ、確かに稀《まれ》に見る硬骨の士であることは疑いないと陵は思っていた。天漢元年に蘇武が北へ立ってから間も無く、武の老母が病死した時も、陵は陽陵《ようりょう》までその葬を送った。蘇武の妻が良人の再び帰る見込無しと知って、去って他家に嫁《か》したという噂《うわさ》を聞いたのは、陵の北征出発直前のことであった。その時、陵は友の為《ため》にその妻の浮薄をいたく憤《いきどお》った。
しかし、計らずも自分が匈奴に降るようになってから後は、もはや蘇武に会いたいとは思わなかった。武が遥か北方に遷《うつ》されていて顔を合わせずに済むことを寧《むし》ろ助かったと感じていた。殊《こと》に、己の家族が戮《りく》せられて再び漢に戻る気持を失ってからは、一層この「漢節を持した牧羊者」との面接を避けたかった。
狐《こ》鹿《ろく》姑《こ》単于が父の後を嗣《つ》いでから数年後、一時蘇武が生死不明との噂が伝わった。父単于が竟《つい》に降服させることの出来なかったこの不屈の漢使の存在を思出した狐鹿姑単于は、蘇武の安否を確かめると共に、若《も》し健在ならば今一度降服を勧告するよう、李陵に頼んだ。陵が武の友人であることを聞いていたのである。已《や》むを得ず陵は北へ向った。
姑《こ》且水《じょすい》を北に溯《さかのぼ》りm居水《しっきょすい》との合流点から更に西北に森林地帯を突切る。まだ所々に雪の残っている川岸を進むこと数日、漸く北海の碧《あお》い水が森と野との向うに見え出した頃、この地方の住民たる丁霊《ていれい》族の案内人は李陵の一行を一軒の哀れな丸木小舎《ごや》へと導いた。小舎の住人が珍しい人声に驚かされて、弓矢を手に表へ出て来た。頭から毛皮を被《かぶ》った鬚《ひげ》ぼうぼうの熊《くま》のような山男の顔の中に、李陵が曾ての─中厩監《いちゅうきゅうかん》蘇子《そし》卿《けい》の俤を見《み》出《いだ》してからも、先方がこの胡服の大官を前《さき》の騎都尉《きとい》李少卿《りしょうけい》と認めるまでには尚暫《なおしばら》くの時間が必要であった。蘇武の方では陵が匈奴に事《つか》えていることも全然聞いていなかったのである。
感動が、陵の内に在って今まで武との会見を避けさせていたもの《・・》を一瞬圧倒し去った。二人とも初め殆《ほとん》どものが言えなかった。
陵の供廻《ともまわ》りどもの穹廬《きゅうろ》がいくつか、あたりに組立てられ、無人の境が急に賑《にぎ》やかになった。用意して来た酒食が早速小舎に運び入れられ、夜は珍しい歓笑の声が森の鳥獣を驚かせた。滞在は数日に亙《わた》った。
己が胡服を纏《まと》うに至った事情を話すことは、さすがに辛《つら》かった。しかし、李陵は少しも弁解の調子を交えずに事実だけを語った。蘇武がさり気なく語るその数年間の生活は全く惨《さん》憺《たん》たるものであったらしい。何年か以前に匈奴の於《お》z王《けんおう》が猟をするとて偶々ここを過ぎ蘇武に同情して、三年間つづけて衣服食料等を給してくれたが、その於z王の死後は、凍《い》てついた大地から野鼠《のねずみ》を掘出して、飢えを凌《しの》がなければならない始末だと言う。彼の生死不明の噂は彼の養っていた畜群が剽盗《ひょうとう》共のために一匹残らずさらわれて了ったことの訛《か》伝《でん》らしい。陵は蘇武の母の死んだことだけは告げたが、妻が子を棄《す》てて他家へ行ったことはさすがに言えなかった。
この男は何を目あてに生きているのかと李陵は怪しんだ。いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。蘇武の口うらから察すれば、今更そんな期待は少しももっていないようである。それでは何の為にこうした惨憺たる日々をたえ忍んでいるのか? 単于に降服を申出れば重く用いられることは請合《うけあい》だが、それをする蘇武でないことは初めから分り切っている。李陵の怪しむのは、何故早く自ら生命を絶たないのかという意味であった。李陵自身が希望のない生活を自らの手で断ち切り得ないのは、何時《いつ》の間にかこの地に根を下して了った数々の恩愛や義理のためであり、又今更死んでも格別漢のために義を立てることにもならないからである。蘇武の場合は違う。彼にはこの地での係累《けいるい》もない。漢朝に対する忠信という点から考えるなら、何時までも節旄《せつぼう》を持して曠《こう》野《や》に飢えるのと、直ちに節旄を焼いて後自ら首《くび》刎《は》ねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる。はじめ捕えられた時、いきなり自分の胸を刺した蘇武に、今となって急に死を恐れる心が萌《きざ》したとは考えられない。李陵は、若い頃の蘇武の片意地を――滑稽《こっけい》な位強情な痩《やせ》我《が》慢《まん》を思出した。単于は栄華を餌《えさ》に極度の困窮の中から蘇武を釣《つ》ろうと試みる、餌につられるのは固《もと》より、苦難に堪え得ずして自ら殺すこともまた、単于に(或《ある》いはそれによって象徴される運命に)負けることになる。蘇武はそう考えているのではなかろうか。運命と意地の張合いをしているような蘇武の姿が、しかし、李陵には滑稽や笑止には見えなかった。想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺して行かせるものが、意地だとすれば、この意地こそは誠に凄《すさま》じくも壮大なものと言わねばならぬ。昔の多少は大人気なくも見えた蘇武の痩我慢が、かかる大我慢にまで成長しているのを見て李陵は驚嘆した。しかもこの男は自分の行《おこない》が漢にまで知られることを予期していない。自分が再び漢に迎えられることは固より、自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつあることを漢は愚か匈奴の単于にさえ伝えてくれる人間の出てくることをも期待していなかった。誰《だれ》にもみとられずに独り死んで行くに違いないその最後の日に、自ら顧みて最後まで運命を笑殺し得た事に満足して死んで行こうというのだ。誰一人己が事《じ》蹟《せき》を知ってくれなくとも差支《さしつか》えないというのである。李陵は、曾て先代単于の首を狙《ねら》いながら、その目的は果すとも、自分がそれをもって匈奴の地を脱走し得なければ、折角の行為が空《むな》しく、漢にまで聞えないであろうことを恐れて、竟《つい》に決行の機を見出し得なかった。人に知られざることを憂《うれ》えぬ蘇武を前にして、彼はひそかに冷汗《ひやあせ》の出る思いであった。
最初の感動が過ぎ、二日三日とたつ中《うち》に、李陵の中に矢《や》張《はり》一種のこだわりが出来てくるのをどうする事もできなかった。何を語るにつけても、己《おのれ》の過去と蘇武のそれとの対比が一々ひっかかってくる。蘇武は義人、自分は売国奴と、それ程ハッキリ考えはしないけれども、森と野と水との沈黙によって多年の間鍛え上げられた蘇武の厳しさの前には己の行為に対する唯一《ゆいいつ》の弁明であった今までのわが苦悩の如《ごと》きは一溜《ひとたま》りもなく圧倒されるのを感じない訳にいかない。それに、気のせいか、日《ひ》日《にち》が立つにつれ、蘇武の己に対する態度の中に、何か富者が貧者に対する時のような――己の優越を知った上で相手に寛大であろうとする者の態度を感じ始めた。何処《どこ》とハッキリはいえないが、どうかした拍子にひょいとそういうものの感じられることがある。繿縷《ぼろ》をまとうた蘇武の目の中に、時として浮ぶかすかな憐愍《れんびん》の色を、豪奢《ごうしゃ》な貂裘《ちょうきゅう》をまとうた右校王李陵は何よりも恐れた。
十日ばかり滞在した後、李陵は旧友に別れて、悄然《しょうぜん》と南へ去った。食糧衣服の類《たぐい》は充分に森の丸太小舎に残して来た。
李陵は単于からの依嘱たる降服勧告については到頭《とうとう》口を切らなかった。蘇武の答は問うまでもなく明らかであるものを、何も今更そんな勧告によって蘇武をも自分をも辱《はずか》しめるには当らないと思ったからである。
南に帰ってからも、蘇武の存在は一日も彼の頭から去らなかった。離れて考える時、蘇武の姿は却《かえ》って一層きびしく彼の前に聳《そび》えているように思われる。
李陵自身、匈奴への降服という己の行為を善しとしている訳ではないが、自分の故国につくした跡と、それに対して故国の己に酬《むく》いたところとを考えるなら、如何《いか》に無情な批判者といえども、尚、その「やむを得なかった」ことを認めるだろうとは信じていた。ところが、ここに一人の男があって、如何に「やむを得ない」と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは「やむを得ぬのだ」という考え方を許そうとしないのである。
飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節が竟《つい》に何人にも知られないだろうという殆ど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬ程の止《や》むを得ぬ事情ではないのだ。
蘇武の存在は彼にとって、崇高な訓誡《くんかい》でもあり、いらだたしい悪夢でもあった。時々彼は人を遣わして蘇武の安否を問わせ、食品、牛羊、絨氈《じゅうたん》を贈った。蘇武を見たい気持と避けたい気持とが彼の中で常に闘っていた。
数年後、今一度李陵は北海のほとりの丸木小舎を訪ねた。その時途中で雲中の北方を戍《まも》る衛兵等に会い、彼等の口から、近頃《ちかごろ》漢の辺境では太守以下吏民が皆白服をつけていることを聞いた。人民が悉《ことごと》く服を白くしているとあれば天子の喪に相違ない。李陵は武帝の崩じたのを知った。北海の滸《ほとり》に到《いた》ってこの事を告げた時、蘇武は南に向って号哭《ごうこく》した。慟哭《どうこく》数日、竟に血を嘔《は》くに至った。その有様を見ながら、李陵は次第に暗く沈んだ気持になって行った。彼は勿論《もちろん》蘇武の慟哭の真《しん》摯《し》さを疑うものではない。その純粋な烈《はげ》しい悲嘆には心を動かされずにはいられない。だが、自分には今一滴の涙も泛《うか》んでこないのである。蘇武は、李陵のように一族を戮《りく》せられることこそなかったが、それでも彼の兄は天子の行列に際して一寸《ちょっと》した交通事故を起したために、又、彼の弟は或《あ》る犯罪者を捕え得なかったことのために、共に責を負うて自殺させられている。どう考えても漢朝から厚遇されていたとは称し難《がた》いのである。それを知っての上で、今目の前に蘇武の純粋な痛哭を見ている中に、以前には唯《ただ》蘇武の強烈な意地とのみ見えたものの底に、実は、譬《たと》えようも無く清冽《せいれつ》な純粋な漢の国土への愛情(それは、義とか節とかいう外から押しつけられたものではなく、抑えようとして抑えられぬ、こんこんと常に湧《わき》出《で》る最も親身な自然な愛情)が湛《たた》えられていることを、李陵は始めて発見した。
李陵は己と友とを隔てる根本的なものにぶつかっていやでも己自身に対する暗い懐疑に追いやられざるをえないのである。
蘇武の所から南へ帰って来ると、ちょうど、漢からの使者が到着したところであった。武帝の死と昭帝の即位とを報じて旁々《かたがた》当分の友好関係を――常に一年とは続いたことの無い友好関係だったが――結ぶための平和の使節である。その使としてやって来たのが、図らずも李陵の故人・隴西《ろうさい》の任立政《じんりっせい》等三人であった。
その年の二月武帝が崩じて、僅《わず》か八歳の太子弗陵《ふつりょう》が位を嗣《つ》ぐや、遺詔によって侍中奉車《じちゅうほうしゃ》都尉霍光《かくこう》が大司馬大将軍として政を輔《たす》けることになった。霍光は元、李陵と親しかったし、左将軍となった上官桀《けつ》もまた陵の故人であった。この二人の間に陵を呼返そうとの相談が出来上ったのである。今度の使にわざわざ陵の昔の友人が選ばれたのはそのためであった。
単于の前で使者の表向《おもてむき》の用が済むと、盛んな酒宴が張られる。何時《いつ》もは衛律がそうした場合の接待役を引受けるのだが、今度は李陵の友が来た場合とて彼も引張り出されて宴につらなった。任立政は陵を見たが、匈奴の大官連の竝《なら》んでいる前で、漢に帰れとは言えない。席を隔てて李陵を見ては目配せをし、々《しば》々《しば》己の刀環を撫《な》でて暗にその意を伝えようとした。陵はそれを見た。先方の伝えんとするところも略々《ほぼ》察した。しかし、如何《いか》なる仕草を以《もっ》て応《こた》えるべきかを知らない。
公式の宴が終った後で、李陵・衛律等ばかりが残って牛酒と博《ばく》戯《ぎ》とを以て漢使をもてなした。その時任立政が陵に向って言う。漢では今や大赦令が降《くだ》り万民は太平の仁政を楽しんでいる。新帝は未《いま》だ幼少のこととて君が故旧たる霍《かく》子《し》孟《もう》・上官少叔《しょうしゅく》が主上を輔けて天下の事を用いることとなったと。立政は、衛律を以て完全に胡《こ》人《じん》になり切ったものと見做《みな》して――事実それに違いなかったが――その前では明らさまに陵に説くのを憚《はばか》った。唯霍光と上官桀との名を挙げて陵の心を惹《ひ》こうとしたのである。陵は黙して答えない。暫《しばら》く立政を熟視してから、己が髪を撫でた。その髪も椎結《ついけい》とて既に中国の風ではない。ややあって衛律が服を更《か》えるために座を退いた。初めて隔てのない調子で立政が陵の字《あざな》を呼んだ。少卿よ、多年の苦しみは如何ばかりだったか。霍子孟と上官少叔から宜《よろ》しくとのことであったと。その二人の安否を問返す陵のよそよそしい言葉におっかぶせるようにして立政が再び言った。少卿よ、帰ってくれ。富貴などは言うに足りぬではないか。どうか何もいわずに帰ってくれ。蘇武の所から戻《もど》ったばかりのこととて李陵も友の切なる言葉に心が動かぬではない。しかし、考えて見るまでも無く、それはもはやどうにもならぬ事であった。「帰るのは易《やす》い。だが、又辱《はずか》しめを見るだけのことではないか? 如何《いかん》?」言葉半ばにして衛律が座に還《かえ》ってきた。二人は口を噤《つぐ》んだ。
会が散じて別れ去る時、任立政はさり気なく陵の傍に寄ると、低声で、竟《つい》に帰るに意無きやを今一度尋ねた。陵は頭を横にふった。丈夫再び辱しめらるる能《あた》わずと答えた。その言葉がひどく元気の無かったのは、衛律に聞えることを惧《おそ》れたためではない。
後五年、昭帝の始元六年の夏、このまま人に知られず北方に窮死すると思われた蘇武が偶然にも漢に帰れることになった。漢の天子が上林苑《じょうりんえん》中で得た雁《かり》の足に蘇武の帛書《はくしょ》がついていた云々《うんぬん》というあの有名な話は、勿論《もちろん》、蘇武の死を主張する単于を説破するための出《で》鱈《たら》目《め》である。十九年前蘇武に従って胡地に来た常恵《じょうけい》という者が漢使に遭って蘇武の生存を知らせ、この嘘《うそ》を以て武を救出《すくいだ》すように教えたのであった。早速北海の上に使が飛び、蘇武は単于の庭《てい》につれ出された。李陵の心はさすがに動揺した。再び漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変りは無く、従って陵の心の笞《しもと》たるに変りはないに違いないが、しかし、天は矢張り見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然として懼《おそ》れた。今でも己の過去を決して非なりとは思わないけれども、尚《なお》ここに蘇武という男があって、無理ではなかった筈《はず》の己の過去をも恥ずかしく思わせる事を堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰されることになったという事実は、何としても李陵にはこたえた《・・・・》。胸をかきむしられるような女々しい己の気持が羨望《せんぼう》ではないかと、李陵は極度に惧れた。
別れに臨んで李陵は友の為に宴を張った。いいたいことは山程あった。しかし結局それは、胡に降った時の己の志が那《な》辺《へん》にあったかということ。その志を行う前に故国の一族が戮《りく》せられて、もはや帰るに由《よし》無くなった事情とに尽きる。それを言えば愚痴になって了う。彼は一言もそれについてはいわなかった。ただ、宴酣《たけなわ》にして堪えかねて立上り、舞いかつ歌うた。
径万里兮度沙幕 為君将兮奮匈奴
路窮絶兮矢刃摧 士衆滅兮名已{
老母已死雖欲報恩将安帰
歌っている中に、声が顫《ふる》え涙が頬《ほお》を伝わった。女々しいぞと自ら叱《しか》りながら、どうしようもなかった。
蘇武は十九年ぶりで祖国に帰って行った。
司馬遷はその後も孜々《しし》として書続けた。
この世に生きることをやめた彼は書中の人物としてのみ活《い》きていた。現実の生活では再び開かれることのなくなった彼の口が、魯仲《ろちゅう》連《れん》の舌端を借りて始めて烈々と火を吐くのである。或《ある》いは伍子《ごし》胥《しょ》となって己が眼を抉《えぐ》らしめ、或いは藺相如《りんしょうじょ》となって秦王《しんおう》を叱《しっ》し、或いは太《たい》子《し》丹《たん》となって泣いて荊《けい》軻《か》を送った。楚《そ》の屈原《くつげん》の憂憤を叙して、その正《まさ》に汨羅《べきら》に身を投ぜんとして作るところの懐《かい》沙之賦《さのふ》を長々と引用した時、司馬遷にはその賦がどうしても己自身の作品の如《ごと》き気がして仕方が無かった。
稿を起してから十四年、腐刑の禍に遭ってから八年。都では巫蠱《ふこ》の獄が起り戻《れい》太子の悲劇が行われていた頃《ころ》、父子相伝のこの著述が大体最初の構想通りの通史が一通り出来上った。
これに増補改刪推敲《かいさんすいこう》を加えている中に又数年が過ぎた。史記百三十巻、五十二万六千五百字が完成したのは、既に武帝の崩御《ほうぎょ》に近い頃であった。
列伝第七十太史公自序の最後の筆を擱《お》いた時、司馬遷は几《き》に凭《よ》ったまま惘然《もうぜん》とした。深い溜息《ためいき》が腹の底から出た。目は庭前の槐樹《かいじゅ》の茂みに向って暫《しばら》くはいたが、実は何ものをも見ていなかった。うつろな耳で、それでも彼は庭の何処《どこ》からか聞えてくる一匹の蝉《せみ》の声に耳をすましているように見えた。歓《よろこ》びがある筈なのに気の抜けた漠然《ばくぜん》とした寂しさ、不安の方が先に来た。
完成した著作を官に納め、父の墓前にその報告をするまではそれでもまだ気が張っていたが、それらが終ると急に酷《ひど》い虚脱の状態が来た。憑依《ひょうい》の去った巫《ふ》者《しゃ》のように、身も心もぐったりとくずおれ、まだ六十を出たばかりの彼が急に十年も年をとったように耄《ふ》けた。武帝の崩御も昭帝の即位も嘗《かつ》てのさきの太史令司馬遷の脱殻《ぬけがら》にとってはもはや何の意味ももたないように見えた。
前に述べた任立政等が胡地に李陵を訪ねて、再び都に戻って来た頃は、司馬遷は既にこの世に亡《な》かった。
蘇武と別れた後の李陵に就いては、何一つ正確な記録は残されていない。元平元年に胡地で死んだということの外は。
既に早く、彼と親しかった狐《こ》鹿《ろく》姑《こ》単于は死に、その子壺《こ》衍p《えんてい》単于の代となっていたが、その即位にからんで左賢王、右谷蠡王《うろくりおう》の内紛があり、閼《えん》氏《し》や衛律等と対抗して李陵も心ならずもその紛争にまきこまれたろうことは想像に難《かた》くない。
漢書の匈奴伝には、その後、李陵の胡地で儲《もう》けた子が烏《う》藉《せき》都尉《とい》を立てて単于とし、呼《こ》韓《かん》邪《や》単于に対抗して竟《つい》に失敗した旨《むね》が記されている。宣帝の五《ご》鳳《ほう》二年のことだから、李陵が死んでからちょうど十八年目にあたる。李陵の子とあるだけで、名前は記されていない。
解説
瀬沼茂樹
中島敦《あつし》は短い生涯《しょうがい》にわずか二十編たらずの作品――せいぜい二編が中編小説で、他《ほか》はみんな短編小説――を残した。この二十編にも未完成のものが入っているので、完成した作品はまことに尠《すくな》い。数こそ尠いが、珠玉のように光輝を放って、永遠に忘れられぬ作家に列するとすれば、作品の芸術性は高く、古典の域に達しているといえよう。しかも、その代表作『弟子』や『李陵《りりょう》』をふくめて、死の年に発表された大部分の作品について、みずからその声価をたしかめる余裕をもつことができずに終った。中島敦はわが国の多くの天才作家と同じく、死後、名声をあげた作家に属している。
彼の不幸な作家生活は第二次世界大戦のさなかに重なっている。この悪時代に直面したために、冷厳な自己解析に疑惑や恐怖におちいった自我は、古伝説や歴史や伝記に人間関係の諸相を物語化しながら、異常な緊迫感をもって、芸術の高貴性をあらわし、日本文学の活力を護《まも》りとおすことができた。彼の文学はといえば、中国古典に題材をとったもの、或《ある》いは南島に取材したものをもって知られているが、自己身辺に取材した私小説的なものも、見のがすことはできない。孟《もう》子《し》に「指一本を惜しむばかりに、肩や背まで失うのに気がつかぬ。それを狼疾《ろうしつ》の人という」意(養其一指、而失其肩背、而不知也、則為狼疾人也)の言葉があり、これを引いて書いた自伝的な『狼疾記』がある。みずから「狼疾の人」とまで自嘲《じちょう》するように、自我(指一本)にこだわるあまり、存在そのもの(肩背)を危機に陥《おとしい》れ、やがて自我さえも滅びる不安が語られている。
幼時から家庭に恵まれず、その孤独感に加えて持病の喘息《ぜんそく》に苦しみ、早くから厭世《えんせい》主義の志向をもっていた。中島敦は芥川龍之介のように「漠《ばく》とした不安」を語り、古典によって渾然《こんぜん》とした美と秩序の世界をきずいているから芥川龍之介の世界を想起するけれども、人間存在の根源的不安にむかいあって形而上《けいじじょう》的《てき》であり、人間や宇宙の消えた「真暗な空間」を想像しての根源的恐怖ともいうべきものを味わうのである。「存在の不確かさ」という観念にとりつかれた自我を鋭く追求し、そこから生れてくる形而上学的不安を対象化することによって、いっそう自己否定をきびしいものにして、懐疑の根源にのめりこんでゆき、恐怖や不安を深めるのであるといってもよい。とにかく、すぐれた人間性の理解力をもちながら、生涯懐疑にさいなまれ、存在の不安におびやかされる人間観または世界観をもって、多様な人間関係を描くのである。
本書におさめられた四編はすべて中国の古典に取材した作品群である。中島氏の一族は、父祖の時代から漢学者であり、「近世以来の市《し》井《せい》の儒家」であったということが深い関係をもっている。祖父の撫《ぶ》山《ざん》、その弟の杉陰《さんいん》、伯父の綽軒《しゃくけん》、次の伯父の斗《と》南《なん》、その次の伯父の竦《しょう》と、一族が儒家であったという精神的血統が、外来的素因としてではなく、内面の問題として、これらの文学を形づくることを自然にしている。中国の古典は単に漢学的嗜《し》好《こう》とか儒教的教養とかいうもの以上に、血肉としての精神的位相をもったものであり、伝統の遺産である。だが、また西欧文学への傾倒をみのがすことができず、英訳によるフランツ・カフカへの愛着、デイヴィッド・ガーネット、D・H・ロレンス、オルダス・ハックスリー等に親しみ、そこに文学的趣味ばかりでなく、人間理解の仕方をもきたえていることが知られる。西欧的な人間の実存的解釈や、審美的感覚の基礎をもって、漢学的な血脈を生かして、代表的な作品を書いたのである。
まず『山月記』は、他の一編と共に、『古《こ》譚《たん》』という題名で総括されて、昭和十七年二月、「文学界」に発表された。作者の作品の世に出た最初のものであるが、この年の暮に喘息の発作から死去にいたったので、感慨の深いものをおぼえる。この清純な作品は、唐代の伝奇小説『人《じん》虎《こ》伝《でん》』に素材を仰いだものである。『人虎伝』は、国訳漢文大成第十二巻にある『晋唐《しんとう》小説』に収める『唐人説薈《せつわい》』によったもので、李景亮撰《せん》ということになっている。作者は李景亮とされていても、異本では異なるものもあるからである。原本の『人虎伝』は「ただ行の神《じん》祇《ぎ》に負《そむ》けるを以《もっ》て、一旦《いったん》化して異獣となった」とする因果譚または怪異譚にすぎない。しかし『山月記』は、「産を破り心を狂わせて」まで詩業に熱中した不幸な詩人の李徴が、虎《とら》と化しても、なお自分の詩業の一部を後代に伝えないでは、「死んでも死に切れない」という物語にしてある。どうして詩人が虎に化したか、「臆病《おくびょう》な自尊心」と「尊大な羞恥心《しゅうちしん》」という猛獣を飼いふとらせた結果であるというように、詩人の内因を明らかにしている。
『山月記』を読めば、誰《だれ》でも変身譚の一つであることに気がつく。「詩人になりそこねて虎になった哀れな男の物語」だといえる。その原因に芸術家の運命の悲しさ、或いは芸術家の狂気の哀れさをみるものだと解される。『人虎伝』から『山月記』への過程には、作者の変身譚への嗜好があり、カフカの『窖《あなぐら》』(『狼疾記』に出ている)、ガーネットの『狐《きつね》になった夫人』を愛読していたことの直接の所産である。注意すべきは、変身の原因を李徴の所業の因果応報といった観念から、詩人としての芸術衝動から狂じて虎になったというふうに、純粋に内因性――心中の虎にしたことであり、そこに作者自身によって、自己の詩的才能への自《じ》恃《じ》とともに、これへの懐疑があることを告白してもいたと考えられる。このようにしてみると、李徴は作者自身であり、或いは作者が李徴そのものになりきって、自己の心情を告白した芸術家小説とも考えられる。すでにカフカも、ガーネットも、李景亮もそこにはなく、中島敦がいるのである。このことは、『狼疾記』を併《あわ》せ読めば、いっそう明らかになろう。
『名人伝』は、昭和十七年十二月に、雑誌「文庫」に発表された生前最後の作である。単行本の『光と風と夢』『南島譚』に入っている作品を別にすれば、世に問うた第三作である。この作品の典拠は『列子』湯問篇《とうもんへん》にある射術の甘蠅《かんよう》、飛衛、紀昌の師弟関係であり、これに黄帝《こうてい》篇や仲尼《ちゅうじ》篇にある記事によって補強がおこなわれている。『列子』に書かれた紀昌修業の道は、射術の錬達とか妙技とかにふけって、名人、達人になることであり、至芸とか名人とかの説明であり、挿《そう》話《わ》である。この中国伝来の伝統、或いは日本古来の伝統に現われた芸の習練や熟達について語られる芸譚に、単に習練や熟達のおもしろさ以上の精神を考え、究極において老荘思想を体現した理想的人間像を描きあげるにある。
『名人伝』は紀昌が、射術をきわめ、射《しゃ》之《の》射《しゃ》から不射之射へと入り、「芸道の深淵《しんえん》」におどろき、ついに「至《し》為《い》は為《な》す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」といった老子のいわゆる「為 無為 則無 不 治」といった無為無我の境地に達する。この「枯淡虚静の域」に入っては、「既に、我と彼との別、是と非との分を知らぬ。眼は耳の如《ごと》く、耳は鼻の如く、鼻は口の如く思われる」と述懐するような最高の「真人」――理想的人間像として描きだされる。もちろん、『名人伝』は名人の芸譚の趣をもっているばかりでなく、寓《ぐう》意《い》譚《たん》に化しているともいえる。反面、芸術家の理想像を追求して、これを見事に具体化してみせたと断言できる。
『弟子』は、作者の死後、昭和十八年二月、「中央公論」に発表された。前年、晩年のR・L・スティーヴンソンを描いた第二作『光と風と夢』の発表されたころ、ひとりでこつこつと書いていたものである。『論語』を原典とし、最愛の弟子顔淵《がんえん》に次いで、子《し》路《ろ》篇を設けてあるほど、最年長でもあれば、大切にしていた子路の視点から、一人の師孔《こう》子《し》との関係を描いてある。子路が「游侠《ゆうきょう》の徒」として師をためし、即日、孔子の門に入ってから、ついに衛の政変に死ぬまで約三十年間の歴史(紀元前五世紀)を挿話的に追い描いている。ここには二人の師弟の性格と運命とがあり、師をめぐる顔回《がんかい》、子《し》貢《こう》、冉有《ぜんゆう》、子夏、子《し》羔《こう》、などの多くの門下の性格、その生ける思想を知ることができよう。
芥川龍之介に『枯野抄《かれのしょう》』があり、『弟子』一編は『枯野抄』を思わせる。芭蕉《ばしょう》の死にあった門弟達《たち》の近代人風の心理をさまざまに書きわけてある『枯野抄』は、夏目漱石の死にあった弟子達のありさまを、彼自身の心理を托《たく》して書いたといわれるように、龍之介独特のシニズムの所産である。しかし『弟子』は、孔子と子路の性格や運命を書いたとはいえ、題名がしめすように、門下第一の勇士である子路一人の性格や運命が描かれているといった方がよい。もちろん、孔子の人格が思想とともにみごとな人間像をつくり、生き生きと描き出されているからこそ、弟子の子路の一生がその性行とともに美しく描き出されもするのである。中島敦は、龍之介のように、シニズムをもって料理することなく、むしろ子路の人物・性行を愛して、写しだしている。
魯《ろ》の遊侠の徒であった子路が賢者の噂《うわさ》の高い孔子を辱《はずか》しめてくれようと考えて、孔子を訪《と》い、逆に学の必要を説かれ、門下になるところから説き起される。十六の章を重ね、挿話を配して、情熱家の子路がようやく五十を過ぎて衛の国に仕え、三年後にきてみた孔子から、「善い哉《かな》、由《ゆう》(子路)や」と三嘆されるほどの善政をおこなった。しかるに政界の大黒柱の死から内紛がおこり、子路はこれにまきこまれ、刺客二名と戦って、往年の勇士も殺される。冠をきちんとつけて、「君子は冠を正しゅうして、死ぬものだ」と、孔門の徒らしく死ぬのである。衛には子路の他に子羔がおり、孔子は「柴《さい》(子羔)や、それ帰らん。由や死なん」と予言したとおりに、なった。孔子の人間理解力が抜群であり、人間の命運は孔子のような聖人でも如何《いかん》ともできず、子路の生涯は悲劇をふくんでいたのである。『弟子』一編は挿話的構成をとりながら、劇的なものが孕《はら》まれていることが知られる。だから、子路の屍《しかばね》が塩漬《しおづけ》になったときくと、孔子は塩絶ちをして悼《いた》んだという結語も重味をもってくるのである。
最後の『李陵』も、『弟子』と同じく、作者の死後、昭和十八年七月に、「文学界」に発表された。未完成の推敲《すいこう》を重ねた草稿があり、「漠北悲歌」という文字が書きちらされているので、これが題名となるはずであったかもしれない。現題名は深田久弥の選んだものだといわれる。
『李陵』には、李陵、司《し》馬《ば》遷《せん》、蘇《そ》武《ぶ》の三名が主要な人物として登場してくるが、中心人物は、漢の武帝の時、辺境に派遣され、匈奴《きょうど》の大軍と戦い、気を失って俘《ふ》虜《りょ》となった勇将李陵である。武人としての李陵の勇気や決断力や大胆さを中心とし、巧妙な戦闘場面が描かれる。漢帝は俘虜となった李陵の裁判を命じ、周囲の人たちが漢帝の意を迎えて阿《あ》諛《ゆ》するなかに、ひとり司馬遷が正義感から弁護して佞《ねい》臣《しん》を斥《しりぞ》けようとすると、佞臣が却《かえ》って司馬遷に宮刑を加える。この司馬遷の話を挟《はさ》んで、胡《こ》地《ち》での李陵の忠誠心、漢帝に一族殺戮《さつりく》されて動揺し、そこに住みついて帰国する気持を失ってしまう。平和の使節として胡地を訪れ、囚《とら》われの身となった蘇武は、李陵とは対照的な人物として、李陵の心理を明らかにするために描かれている。三者三様の苦難と運命とがみごとに描きわけられているが、特に理性的な司馬遷の孤独な文人としての悲劇において「唯《ただ》『我あり』という事実」――自己の実存に悲劇があると反省し、ここからの脱出が内省的に描かれるし、これと相即的に李陵の動揺する複雑な心理、その孤独感が描かれる。「漢の国土に対する愛情」を失わぬ不屈な行動人蘇武に対照して、やむを得ぬ四囲の状況からとはいえ、士人としての面目を棄《す》て、却《かえ》って胡土に生きる勇士ではあるが、心情的に弱い李陵の動揺する心理が追求される。
『李陵』は『漢書《かんじょ》』の「李広蘇建伝」「匈奴伝」「司馬遷伝」を原典としている。司馬遷の『史記』にも李陵は出ているが、李陵の投降した直後に完成したので、投降の記事がない。なお、『李陵』は、昭和十九年八月に、盧錫台によって中国訳され、太平出版公司から出版された。春秋時代の歴史を描き、逆に彼地で読まれるほどの出《で》来《き》栄《ば》えをみせたという証拠である。わが国では、李陵に、戦時下の知識人が行動と知性との間にあって苦しむ心がよせられており、このことが『李陵』に心をひかされた所以《ゆえん》でもある。今は、そういうことを離れて、壮大な運命劇として読まれるし、司馬遷の生き方には文学者の執念が語られているといってよかろう。
(昭和四十四年八月、文芸評論家)
(一) 隴西《ろうさい》 いまの中国甘粛省《かんしゅくしょう》の 臨|《りんとう》府《ふ》から鞏昌府《きょうしょうふ》の西境にいたる地域で西域に近かった。
(二) 才穎《さいえい》 才能が非常に優れていること。
(三) 天宝 唐の玄宗の時代の年号(742〜755)。
(四) 虎《こ》榜《ぼう》 官吏任用試験に合格して進士となったものの氏名を記載して掲示する木札。
(五) 江南《こうなん》 長江下流の南岸一帯を指す。
(六) 尉《い》 県の警察事務をつかさどる役人。
(七) 狷介《けんかい》 みずから恃《たの》むところが強く、他人と容易に協調しない性格。
(八) 齬ェ《かくりゃく》 陝西《せんせい》省の地名。
(九) 峭刻《しょうこく》 残忍できびしいこと。
(一〇) 炯々《けいけい》として 眼光がきらきらと鋭く光って。
(一一) 歯《し》牙《が》にもかけなかった まったく相手にせず、無視した。
(一二) 儁才《しゅんさい》 俊才に同じ。優れた才能を持つ人材。
(一三) 怏々《おうおう》 心が満足しないさま。
(一四) 狂悖《きょうはい》 非常識で人に逆らってばかりいること。
(一五) 汝水《じょすい》 現在の汝《じょ》河《か》。河南省に源を発し、淮《わい》河《が》に注ぐ。
(一六) 監察御《かんさつぎょ》史《し》 官吏の取り締まり、賦《ぶ》役《やく》・監獄の監督のため、中央から派遣されて各地を巡回する役人。
(一七) 陳郡《ちんぐん》 河南省東部にあった地名。
(一八) 嶺南《れいなん》 広東・広西省一帯を指す。いまの壮族自治区のあたり。
(一九) 商於《しょうお》 現在の河南省西部にあった地名。
(二〇) 駅吏 宿駅の役人。
(二一) 驚懼《きょうく》 おどろき恐れること。
(二二) 峻峭《しゅんしょう》 険しく厳格なこと。
(二三) 久闊《きゅうかつ》を叙した 久しく会わなかったことの挨拶《あいさつ》をした。
(二四) 異類 人間以外の生き物。
(二五) 畏怖《いふ》嫌厭《けんえん》 怖《おそ》れ、嫌《いや》がること。
(二六) 愧《き》赧《たん》 恥じいって赤面すること。
(二七) 人間の心 小説の典拠『人《じん》虎《こ》伝《でん》』には〈我れ今形変れど心甚《はなは》だ悟《めざ》むる耳《のみ》〉とだけある。
(二八) 経書《けいしょ》 儒学の経典。四書(大学・中庸・論語・孟《もう》子《し》)五経(易経・書経・詩経・礼記《らいき》・春秋)十三経など、中国の聖人・賢者が述作した書物。
(二九) 記誦《きしょう》 記憶し、暗唱すること。
(三〇) 産を破り 破産して。
(三一) 格調高雅 詩文の品格、調子が気韻高く優雅なこと。
(三二) 意趣卓逸 表現(詩文)の意図や趣向がとくにすぐれ秀《ひい》でていること。
(三三) 第一流の作品……あるのではないか 典拠の『人虎伝』には、この種の批判はない。〈文甚だ高く、理甚だ遠し(深遠である)〉とある。
(三四) 長安 現在の陝西省西安市。唐代の首都であった。
(三五) 偶因狂疾……不成長嘯但成 大意は〈ふとしたきっかけから狂気に冒され、獣の身となってしまった。災難が重なり、不幸な運命から逃れることができない。いまや人食虎《ひとくいどら》となった私の鋭い爪《つめ》や牙《きば》に、いったい誰《だれ》が敵対できるだろう。思えばあの頃《ころ》は、私も君も秀才の誉れが名実ともに高かった。しかし、いまでは私は獣の身となって、草むらに寝起きしているが、君はすでに高官になって《しょう》(官吏の乗用車)に乗って、まことに意気盛んである。(旧友と再会した)今夜、渓《たに》や山を照らす名月にむかって(この苦しみを訴えようと)声をあげて詩を吟じようとしても、人ならぬ獣の身としては、口から洩《も》れるのはただぶざまな吠《ほ》え声だけである〉。
(三六) 薄倖《はっこう》 幸い薄いこと。ふしあわせ。
(三七) 何故《なぜ》こんな運命に…… 典拠では、以下の自尊心云々《うんぬん》の説明はない。一孀《そう》婦《ふ》(やもめの女)と通じて、その家を焼いたことがあるのを〈恨《く》いと為《な》す〉とある。
(三八) 倨傲《きょごう》 おごり高ぶるさま。
(三九) 鬼才 非常に優れた才能のひと。
(四〇) 碌々《ろくろく》として瓦《かわら》に伍する 瓦は凡才の暗《あん》喩《ゆ》、なんの為すところもなく、平凡な人間の仲間になっている。
(四一) 慙《ざん》恚《い》 恥じて怒りたつこと。
(四二) 空谷《くうこく》 人けのない谷。
(四三) 暁角《ぎょうかく》 夜明けに吹く角笛の音。
(四四) 道《どう》塗《と》 道途におなじ。道路、路上。
(四五) 恩倖《おんこう》 いつくしみ恵むこと。
(四六) 袁 袁《えんさん》のこと。
(四七) 趙《ちょう》の邯鄲《かんたん》 趙は古代中国、戦国時代の国名。七雄のひとつで、いまの山西省北部から河北省西部を領有した。邯鄲はその都、邯鄲の歩《あゆみ》の故事で有名。
(四八) 機躡《まねき》 機《はた》織《お》りの道具の一部で、足の親指で踏み、綜《あぜ》(縦糸をまとめる用具)を上下させるもの。つぎの「牽挺《まねき》」はその下の足の動きとともに上下する部分をいう(ふみぎ)。
(四九) 著《ちょ》 めだって大きいの意。
(五〇) 煕々《きき》として やわらかく、楽しげにの意。
(五一) 有吻《ゆうふん》類・催《さい》痒《よう》性の小節足動物 有吻類は動物分類上の名称(現在は半《はん》翅《し》目《もく》、虱《しらみ》は虱目)。ここでは有吻類のかゆみを催させる小昆虫《こんちゅう》の意で、しら《・・》み《・》のこと。
(五二) 燕角《えんかく》の弧《ゆみ》に朔蓬《さくほう》のヤ《やがら》 戦国時代の燕国(七雄の一で、いまの河北省にあった)で捕れる獣の角で作った弓と、北方で産するよもぎ《・・・》で作ったやがら(矢の幹・竹の部分)。
(五三) 括《やはず》 矢の上端部で、弦を受けるところ。
(五四) 矢《し》矢《し》相属し、発発《はつはつ》相及んで 『列子』仲尼篇《ちゅうじへん》に〈発発相及ビ矢矢相属ス〉とある。矢と矢があたかも一本に連続するかのように、つぎつぎに射かけること。
(五五) 烏《う》号《ごう》の弓にユ《き》衛《えい》の矢 烏号は名弓の別称。中国古代の黄帝が竜《りゅう》に乗って昇天した際、取り残された家臣たちが帝の落とした弓を抱いて号泣したという故事に拠《よ》る。一説には、烏《からす》が飛ぼうとしても飛べないほどしなやかに撓《たわ》む桑柘《そうしゃ》の木で作った弓のこと。ユ衛は地名で、すぐれた矢の産地として知られる。
(五六) 忽焉《こつえん》 たちまちの意。
(五七) 斉《せい》の桓公《かんこう》 斉は中国春秋時代の国名で、いまの山東省のあたりにあった。桓公はその第十五代の王(在位685B.C.〜643B.C.)で、春秋五《ご》覇《は》の筆頭。管仲《かんちゅう》を起用して実行した富国強兵策で有名である。
(五八) 廚宰《ちゅうさい》の易《えき》牙《が》 廚宰は料理人、コックのこと。易牙の逸話は『十八史略』などに見える。
(五九) 秦《しん》の始《し》皇帝《こうてい》 (259B.C.〜210B.C.)中国初の統一国家である秦の初代皇帝(始祖)。十三歳で即位し、中国の統一を果した。万里の長城を建設し、自分の思想に反する書物を焼き、儒学を弾圧するなど、大きな権勢を誇った。
(六〇) 蘊奥《うんおう》 学芸・技術などの奥深い極意。
(六一) 大行《たいこう》の嶮《けん》 太行山のけわしい山道。太行山は太行山脈の主峰で、いまの山西省晋《しん》城《じょう》県の南部にある。
(六二) 霍山《かくざん》 山西省霍県の東南にある高峰。古代は太岳と呼ばれた。
(六三) 古今を曠《むな》しゅうする 古今に例を見ないほどの、の意。
(六四) 桟道《さんどう》 絶壁から絶壁にかけわたした橋を通って行く道。
(六五) 楊幹《ようかん》 麻《ま》筋《きん》の弓 楊(かわやなぎ)の幹に麻糸を巻いた強い弓。
(六六) 石碣《せきけつ》の矢 石碣の原義は、まるい石碑。ここでは越王が陣中で用いたという矢の名前。
(六七) 射《しゃ》之《の》射《しゃ》 後出の〈不射之射〉に対していうことば。不射之射が矢をつがえずに射て、標的を倒すのに対して、実際に矢を射て倒すこと。
(六八) 壁立千仭《へきりつせんじん》 切り立ったような絶壁がはるか下まで続いていること。仭は高さ・深さの単位。七尺、あるいは四尺、五尺六寸など、諸説がある。
(六九) 烏《う》漆《しつ》の弓も粛慎《しゅくしん》の矢も 烏漆の弓は黒い漆を塗った弓。粛慎は現在の吉林省一帯に勢力のあった異民族。周の武王が各地の異民族にそれぞれの物産を献上させたとき、石の鏃《やじり》のついた矢を貢献した。
(七〇) 木偶《でく》 木彫りの人形。
(七一) 三更 更は一夜を五つに分けた時間の単位。また、その時刻。三更は午後十一時頃《ごろ》から午前一時頃までをいう。
(七二) ラ《げい》 古代中国の弓術の名人で、堯《ぎょう》帝《てい》の時代に十の太陽が現れ、ひとびとが炎熱に苦しんだとき、九個の太陽を射落して民を救ったという。
(七三) 養由《ようゆう》基《き》 春秋時代の楚《そ》の国の弓の名人。百歩離れて柳葉を射て、百発百中だったという。
(七四) 参宿《さんしゅく》 二十八宿(古代中国やインドで行われた星座)のひとつ、西にある一宿で、現在のオリオン座の三つ星のあたりをさす。二十八宿は黄道を二十八に区分し、日・月・星などの位置を示した星座。
(七五) 天狼星《てんろうせい》 現在の大犬座のα星・シリウスの古代名。
(七六) 枯淡虚静 心に執着やわだかまりがなく、静かに落着いているさま。
(七七) 無為にして化した 〈無為にして化す〉は『史記』老}《ろうたん》伝《でん》に見える言葉で、為政者が政策・教育をほどこすことなく、みずからの徳によって民を教化することをいうが、ここでは紀昌が技術を示すことなく、ひとびとを心服させたことをいう。
(七八) 夫《ふう》子《し》 ここでは長者・先生・年長者(男子)などに対する敬称。
(七九) 瑟《しつ》 中国古代の弦楽器。箏《そう》の大形のもの。普通は二十五弦で、両手で弦をはじいて演奏する。琴と合奏した。
(八〇) 規《き》矩《く》 古代の製図道具で、現在のコンパスと物差しにあたるもの。
(八一) 魯《ろ》の卞《べん》 魯は中国春秋時代の一国。いまの山東省~州府《えんしゅうふ》地方を領していた。卞は邑《ゆう》(地方の町や村)の名。
(八二) 仲由《ちゅうゆう》 (c.542B.C.〜?)春秋時代の卞の人。字《あざな》(注四三六参照)は子路(または季路)。孔子より九歳若く、年長の弟子に属したが、作中にあるように、性粗野にして勇武を好み、馬鹿正直で、孔子にもっとも献身的であった。
(八三) 陬人孔丘《すうひとこうきゅう》 陬は春秋時代の魯の地名で、孔子の生地。孔丘は孔子(552B.C.〜479B.C.)のこと。丘は名。字は仲尼《ちゅうじ》。先賢の道を大成して儒教の祖となった。その言動は多く『論語』に見られ、『書経』『詩経』『春秋』などを編纂《へんさん》したとされる。
(八四) 蓬頭《ほうとう》 伸びてよもぎのように乱れた頭髪。
(八五) 突鬢《とつびん》 上に突きたった鬢(頭の両側の毛)。勇ましい形。
(八六) 垂冠《すいかん》 低く傾いた冠。
(八七) 短後《たんこう》の衣 戦闘・労働などに便利なように、背中の裾《すそ》を短くした衣服。多く武人が着用した。『荘子』説剣篇《せっけんへん》第三十に剣士の風俗として、〈皆蓬頭突鬢、垂冠……短後の衣、目を瞋《いか》らして語《ご》難《なん》し(目をつりあげて喧《けん》嘩《か》腰《ごし》でしゃべる)〉とある。
(八八) 脣吻《しんぷん》 口さき。「脣吻の音」は口先で騒ぎたてる声の意。
(八九) 絃歌講誦《げんかこうしょう》の声 琴を弾き、詩を歌い、書物を講義し朗読する声。
(九〇) 圜冠句履《えんかんこうり》 圜冠は儒学者の用いる円形の冠、句履は爪先《つまさき》に装飾のある履物(靴《くつ》)。先がふたつに別れている岐頭の靴をいうとの説もある。
(九一) リ《けつ》 環状で、一部分が欠けた形のお《・》びだま《・・・》(男子が腰に付けて装飾とする玉)。
(九二) 檠《けい》 弓の矯《きょう》正《せい》・修理をする道具。
(九三) 匡《ただ》し 型通りに修復する。
(九四) 南山《なんざん》 中国の長安(いまの西安)南方に、東西に走る山脈。終南山。
(九五) 犀革《さいかく》 動物の犀の革、きわめて堅固なものの比《ひ》喩《ゆ》。
(九六) 千鈞《せんきん》の鼎《かなえ》を挙げる 鈞は重さの単位で、周代では約七・六八キログラム。鼎は青銅製の容器で、方形・半球形(三本の脚がつく)のものがあり、祭礼の用具として重視される。ここでは、きわめて重いものの譬《たと》え。
(九七) 明《めい》千里の外を察する 遠い将来のことを見抜ける。
(九八) 膂力《りょりょく》 筋肉や腕の力。腕力。
(九九) 侠者《きょうしゃ》 侠気(弱いものを見過ごせないような男だて)に生きる人間。
(一〇〇) 四十而不《にしてまど》惑《わず》 『論語』為《い》政篇《せいへん》第二に見える言葉。四十歳になって、迷いが無くなること。〈子曰《いわ》ク、吾《われ》十有五ニシテ学ニ志シ、三十ニシテ立チ、四十ニシテ惑ワズ、五十ニシテ天命ヲ知ル、六十ニシテ耳順《したが》ウ、七十ニシテ心ノ欲スル所二従ッテ矩《のり》ヲ踰《こ》エズ〉。
(一〇一) 礼と云い礼と云う。……鐘鼓《しょうこ》を云わんや 『論語』陽《よう》貨《か》篇第十七に見える言葉。〈礼というのは玉《ぎょく》帛《はく》(珠を贈るときに添える儀礼用の布)のことではなく、音楽も鐘鼓(楽器)だけをいうのではない〉の意。形式よりも精神を重視すべきことを説いている。
(一〇二) 曲礼 たちい振舞いなどの細かな礼儀作法。また、それを述べた『礼記《らいき》』の篇名。
(一〇三) 上智と下《か》愚《ぐ》は移り難《がた》い 『論語』陽貨篇第十七に見える言葉。〈飛び抜けて賢いものと、もっとも愚かなものとは、どちらも変わりにくい〉の意。
(一〇四) 古《いにしえ》の君子は……を固うした 〈昔の君子は忠(まごころ)を自分の実質とし、仁(いつくしみの心)をもって自分を守った。他人が不善をおこなうときは、真心でこれを正し、他人から侵されようとするときは、仁の心によってかたく身を守った〉の意。
(一〇五) 周公 周公旦《たん》(11C.B.C.)、周の文王の子。兄の武王と協力して殷《いん》王紂《ちゅう》を滅ぼし、周王朝の基礎を定めた。礼楽・冠婚葬祭の儀などを制定し、孔子から尊崇されたという。
(一〇六) 陽《よう》虎《こ》 陽貨。春秋時代、魯《ろ》の大夫(家老)。権力者の季平子に仕え、その死後、反乱を起こし一時政権を握ったが、三年で失脚して斉《せい》に逃れた。
(一〇七) 下剋上《げこくじょう》 下の者が上の者を押しのけて、権力を持つこと。
(一〇八) 季《き》孫《そん》氏《し》 孟孫《もうそん》氏・叔孫《しゅくそん》氏とともに三桓《さんかん》氏(桓公からわかれでた三つの分家の意)と呼ばれた魯の豪族。ここでは魯の大夫をつとめた五代目の当主季平子をさす。権力を掌握して、敵対した昭公を斉国に追った。
(一〇九) 由《ゆう》 子路(仲由)のこと。
(一一〇) 瑟《しつ》 前出注七九参照。
(一一一) 冉有《ぜんゆう》 孔子の弟子。名は求。孔子より二十九歳若かった。季氏の宰(執事)として、政治的才能も示したが、謙遜《けんそん》で消極的な性格だった。
(一一二) 暴ル《ぼうれい》 あらあらしく、激しい。
(一一三) 舜《しゅん》 中国古代の伝説上の王。五帝のひとり。堯《ぎょう》の信頼を得て摂政《せっしょう》となり、堯の没後に帝位についた。聖徳の君主の代表として堯と双称される。異母弟の象を愛した父に命を奪われようとするが、終始、孝悌《こうてい》の道を尽して変わらなかったという。
(一一四) 南風の詩 舜の作と伝えられている五言の詩で、孝道を説き、天下の治と国民の富をうたったものという。『孔子家語』に〈南風之薫兮、可以解吾民之慍(怒り)兮。南風之時兮、可以阜(豊かにする)吾民之財兮〉とある。
(一一五) 荒怠暴《こうたいぼう》恣《し》 怠けに怠けて、手荒くほしいままにする。
(一一六) 夫《ふう》子《し》 孔子をさす。本来は大《たい》夫《ふ》の尊称。孔子は一時魯《ろ》の大夫になったことがあるので、こう呼ぶ。転じて、弟子が師など長上の者を尊敬して呼ぶ言葉。
(一一七) 骨立《こつりつ》 痩《や》せ衰えて骨ばかりになること。
(一一八) 子《し》貢《こう》 十哲の一人と称される孔子の高弟。衛の人。姓は端木、名は賜《し》。子貢は字《あざな》、孔子より三十一歳年少で、文学・弁舌にすぐれ、財政経済に明るく、政治的才能にもめぐまれていた。(c.6C.B.C.〜5C.B.C.)
(一一九) 古《いにしえ》の道を……可ならんか 『孔子家語』巻之四・六本などに見える。〈むかしの聖人・賢者の教えを捨てて、私自身(由)の考えを実行して良いでしょうか〉の意。
(一二〇) 是《これ》ある哉《かな》。子の迂《う》なるや! 『論語』子《し》路《ろ》篇《へん》第十三などに見える。〈これだから困ります、先生の迂遠なのには〉の意。
(一二一) 一諾千金 一度承諾したら、かならずこれを実行すること。
(一二二) 巧言令色……丘之《きゅうこれ》ヲ恥ズ 『論語』公冶長《こうやちょう》篇第五に見える言葉だが、原文どおりではない。〈弁舌がさわやかで、表情をことさらに和らげ、ひどく腰が低いこと、また、心中に恨みを持ちながら、その人と友人付合いをすることを、自分(丘)は恥ずかしいことだと思う〉の意。
(一二三) 生ヲ求メテ……仁ヲ成スアリ 『論語』衛霊公《えいれいこう》篇第十五に見える言葉。〈(志士仁人といわれる人々は)命を惜しんで心の徳を傷付けることをしないし、身を殺して心の徳をまっとうするものである〉の意。
(一二四) 狂者ハ進ンデ……為《な》サザル所アリ 『論語』子路篇第十三に見える言葉。〈狂者、つまり熱情家は積極的に行動し過ぎるし、狷者《けんしゃ》、つまり強情な人間はあまりにも妥協がなさ過ぎる〉の意。
(一二五) 敬ニシテ……逆《げき》トイウ 『礼記《らいき》』仲尼燕居《ちゅうじえんきょ》第二十八などに見える言葉。〈敬いつつしむ心があっても、(することが)礼に適《かな》っていないのを粗野(理に達しないこと)といい、することが勇ましくても、礼に適っていないのを逆(道理にさからうこと)という〉の意。
(一二六) 信ヲ好ンデ……ソノ蔽《へい》ヤ絞《こう》 『論語』陽貨篇第十七に見える言葉。孔子が子路に、仁・知・信・直・勇・剛の六つの徳には六蔽(六つの弊害)があり、それをのぞくには学問をもってしなければならぬと説いた教えの一節。〈信を好んでも学問を好まなければ盲信して自他を傷付ける弊害があり、直きことを好んでも学問を好まなければ、義理や人情を無視して厳にすぎるという弊害がある〉の意。
(一二七) 晋《しん》 春秋時代の国名。いまの山西省を中心とする土地を領し、文公が諸侯の覇《は》者《しゃ》と成ったが、のちに韓《かん》・魏《ぎ》・趙《ちょう》に分裂した。
(一二八) 魏《き》楡《ゆ》の地で石がもの《・・》を言った 魏楡は春秋時代の晋の邑《ゆう》(町)。『春秋左氏伝』昭公八年に記事が見える。同年春の出来事で、晋侯が師《し》曠《こう》にその理由を尋ねると、師曠は〈事を作《な》すに時ならず、怨ヌ《えんとく》、民に動けば、則ち言《ものい》うに非ざるの物にして言《ものい》うこと有り(事をおこなうのが時節に適っていないで、国民の間に、恨みそしりが起こると、ものを言うはずもないものがものを言うことがある)〉と答えたという。
(一二九) 斉侯《せいこう》の一人は……夫に弑《しい》せられて 『春秋左氏伝』襄《じょう》公《こう》二十五年に記事が見える。斉の荘公が崔《さい》武《ぶ》子《し》(崔杼《さいじょ》)の妻と通じ、病気見舞いに訪れた崔武子の自宅で謀殺された。
(一三〇) 楚《そ》では王族の……位を奪う 『春秋左氏伝』昭公元年に記事が見える。この年の十一月楚の令尹《れいいん》(宰相)公子囲《い》が甥《おい》にあたる王の病気を見舞うと称して王宮に入り、冠の紐《ひも》で王の首を締めて殺した。〈公子囲至、入問王疾《やまい》、 縊而弑之《くびりてこれをしい》〉とある。囲は霊王になった。
(一三一) 呉《ご》では足頸を……が王を襲い 『春秋左氏伝』襄公二十九年に、呉子の余祭が、足きりの刑に処して船の番をさせていた越《えつ》の捕虜に殺されたという話が見える。
(一三二) 晋では二人の……交換し合う 未詳。
(一三三) 昭公 襄公の子。名はネ《ちゅう》。昭は諡《おくりな》。在位二十五年で、三桓《さんかん》家に伐《う》たれ、斉に逃れた。
(一三四) 中都の宰 中都は町の名。いまの山東省上《ぶんじょう》県の西。宰(長)はいまの町長にあたる。
(一三五) 苛斂誅求《かれんちゅうきゅう》 年《ねん》貢《ぐ》や税金などをむごく厳しく取り立てること。
(一三六) 定公《ていこう》 (在位509B.C.〜495B.C.)。昭公の亡命後、帝位を継いだ魯の君主。孔子を登用して権力の回復を策したが、失敗して失脚した。
(一三七) 司《し》空《くう》 周代の官名。三公の一で、土地や民事をつかさどった役人。
(一三八) 大《だい》司《し》寇《こう》 周代六官の一。訴訟・刑罰のことをつかさどる役人の長。のちには山林・行政・警察のことをも管掌した。
(一三九) 百雉《ひゃくち》 長さ三百丈、歩五百歩の城壁。雉は高さ一丈、長さ三丈。丈は長さの単位で十尺、約三・〇三メートル。
(一四〇) レ《こう》・費《ひ》・成《せい》 レは叔孫《しゅくそん》氏の、費は季《き》孫《そん》氏の、成は孟孫《もうそん》氏の居城で、堅固な壁をめぐらし、武器・食糧を豊富にたくわえた要害の地であった。孔子はその城壁を撤去しようとしたのである。
(一四一) 公山不狃《こうざんふちゅう》 魯の季氏に仕え、費《ひ》邑《ゆう》の宰だったが、定公《ていこう》十三年、反乱を起こした。このとき、孔子を招いたともいわれる。敗れて斉《せい》に逐《お》われた。
(一四二) 景公 春秋時代、斉の君主。名は杵臼《しょきゅう》。犬馬を集め、租税を高くし、刑罰を重くした。
(一四三) 夾谷《きょうこく》の地に会した 『孔子家語』相魯第一などに見える。孔子は兵士をもって威《い》嚇《かく》した景公を叱《しっ》咤《た》し、歌舞を演じた侏儒《しゅじゅ》を斬《き》った。
(一四四) 彼《か》の美婦の口には……死敗すべし 『史記』孔子世家に見える言葉だが、原文とはすこし違う。〈美しい女の口舌は毒があり、君子もまた避けて出るべきである。美しい女の頼みは国を滅ぼし、君子もまた危うい〉の意。
(一四五) 鳳鳥《ほうちょう》至らず……已《や》んぬるかな 『論語』子《し》罕篇《かんへん》第九に見える言葉。〈鳳鳥(鳳凰《ほうおう》)は飛んでこないし、黄河からは図《と》(河《か》図《と》)もでない。もはやわたしも道を行うすべもなく、これまでである〉の意。鳳凰は想像上の霊鳥。河図は伏羲《ふっき》の時代に黄河から出たという、竜馬《りゅうめ》の背に現れた図。伏羲がこれによって易の卦《け》を作ったという。いずれも聖王の出現を告げる瑞《ずい》兆《ちょう》とされていたもので、孔子は伝説に託して、明敏な君主のいない乱世を嘆いているのである。
(一四六) 蒼生《そうせい》 多くのひとびと。
(一四七) ここに美玉あり…… 以下の問答は『論語』子罕篇第九に見える。子貢が、綺《き》麗《れい》な宝石があったとして、匱《ひつ》(箱)にいれてしまっておくべきか、善《ぜん》賈《こ》(いい買い手)を見付けて売るべきかを問うたのに対して、孔子はもちろん売る、しかし、自分は店で買い手を待っていて売るつもりだと答えた。宝石は孔子の暗《あん》喩《ゆ》。孔子は仕官の希望は持っているが、自分から売りこみに行くことはしないと答えたのである。子貢は前出注一一八参照。
(一四八) 褐《かつ》(粗衣)を被《き》て玉を懐《いだ》く 褐は貧しい者が着る粗い毛織物。外面を飾らないで、内に美しい心を持つことの比喩。出典は『老子』七十章。
(一四九) 閔《びん》子《し》騫《けん》 名は損。子騫は字《あざな》。顔回と併称された高弟で、顔回の没後、徳行では孔門第一の人物と称された。孝を孔子に賞賛されたことがある(『論語』先進《せんしん》篇第十一)。
(一五〇) 子《し》夏《か》 (c.507B.C.〜?)姓は卜《ぼく》。名は商《しょう》。孔子より四十四歳若く、もっとも年少な弟子のひとり。のちに中原《ちゅうげん》の覇《は》者《しゃ》魏《ぎ》国《こく》の文侯の顧問となった。『春秋』や『詩経』の注釈などを後代に伝えたとされる。
(一五一) 宰《さい》予《よ》 生年未詳。通称宰我。字は子我。礼に通じ、能弁家として知られている。孔門ではやや異端の思想家で、のちの墨《ぼく》子《し》以後の実用主義の先駆者と見做《みな》される。『史記』仲尼弟子列伝によれば、のちに斉の臨《りん》ノ《し》の大夫になり、田《でん》常《じょう》の乱に連座して、一族皆殺しになった。
(一五二) 公良孺《こうりょうじゅ》 孔子の門下。陳《ちん》の人。字は子正または子幼。
(一五三) 子《し》羔《こう》 高《こう》柴《さい》。斉(一説には衛)の人。孔子より三十歳年少で、『史記』によれば、身長五尺に足りぬ小男。孔子から〈愚〉(『論語』先進篇第十一)と目されていた。はじめ衛の出公に仕え大夫だったが、のちに子路の推薦で、季氏の費城の城主になった。
(一五四) 顔回《がんかい》 顔《がん》淵《えん》(521B.C.〜490B.C.)。字は子淵。孔門中、学才、徳行ともにもっとも高く、孔子から愛されることももっとも篤《あつ》かった。四十一歳で没したとき、孔子は〈天予ヲ喪《ほろぼ》セリ〉と嘆いたという記事が『論語』に見える。
(一五五) 子張《しちょう》 姓はハ孫《せんそん》、名は師。孔子より四十八歳年少の少壮の門人。礼や制度史の専門家だが、誠意のたりない言動を孔子に批判されたこともある。
(一五六) jイタル [vital(英)]活気のある、活力に満ちた。
(一五七) 夫《ふう》子《し》は巧弁を忌《い》む 〈巧言令色、鮮《すく》ないかな仁〉(『論語』学《がく》而《じ》篇《へん》第一)、〈巧言は徳を乱る〉(同衛霊公篇第十五)など、孔子はくりかえし、さわやかすぎる弁舌を戒めている。
(一五八) 生を妨げて以て死を送らん 自分の現在の生(生活)を犠牲にしてまで、親のために盛大な葬式をするだろうの意。
(一五九) 未《いま》だ生を……死を知らん 『論語』先進篇第十一に見える言葉。〈生についてまだよく分かってもいないのに、どうして死のことなど分かるものか〉の意。
(一六〇) 衛《えい》 春秋時代の一国。周の武王の弟康叔《こうしゅく》を祖とする。四十二代続いたが、秦《しん》に滅ぼされた。
(一六一) 諂《てん》諛《ゆ》 媚《こ》びへつらうこと。
(一六二) 南《なん》子《し》 衛の霊公の寵愛《ちょうあい》した夫人。美《び》貌《ぼう》で多情な女性だった。孔子との逸話をえがいた小説に、谷崎潤《たにざきじゅん》一郎《いちろう》の『麒《き》麟《りん》』がある。
(一六三) 冠を曲げた 機《き》嫌《げん》を悪くした、いこじになったの意。
(一六四) 寡《か》君《くん》 寡徳の君(徳の足らない君主)。他の諸侯に対して、自分の主君を呼ぶときの謙称。
(一六五) 寡小君 (諸侯の)夫人の意。臣下または夫人自身が他の諸侯に対していう謙称。
(一六六) 北面稽首《けいしゅ》の礼 北面(北向き)は臣下の座位。稽首は座って頭をしばらく地につけて拝礼すること。孔子は臣下としての最高の礼をおこなったのである。
(一六七) 環佩《かんぱい》 腰に付ける環の形をした玉。おび玉。
(一六八) 迹R《きゅうぜん》 玉が触れあって鳴るさま。轤ヘまるい美しい玉の意。
(一六九) 子路が露骨に不愉快な顔をして 『論語』雍《よう》也《や》篇第六に見える。原文は〈子南子ヲ見ル。子路説《よろこ》バズ。夫子コレニ矢《ちか》イテ曰《いわ》ク、予、否《よから》ザルトコロノモノハ、天コレヲ厭《す》テン、天コレヲ厭テント〉(孔子が南子に会った。子路は不服でしかたがない。孔子は子路に、自分にもし間違いあったならば、天がかならず罰を与えるであろうといった)。
(一七〇) 嬋妍《せんけん》 美しく、あでやかなさま。
(一七一) 子若《しじゃく》 字《あざな》が子若という孔子の門人はふたりいた。有若(有子)は孔子より四十三歳年少で、容貌《ようぼう》が孔子に似ていたため、孔子の没後、門人が立てて師としたという。もうひとりは漆雕開《しつちょうかい》、魯《ろ》(一説には蔡《さい》)のひとという。孔子より十二歳年少で、尚書《しょうしょ》に詳しかった。
(一七二) 子《し》正《せい》 公《こう》良孺《りょうじゅ》(前出注一五二参照)の字。
(一七三) 我未《いま》だ徳を……見ざるなり 『論語』子《し》罕《かん》篇第九に見える言葉。〈有徳の人を愛することが、美人を愛するのとおなじように熱烈な人間を、わたしはまだ見たことがない〉の意。ただし、衛公についていった言葉ではない。
(一七四) 葉公子高《しょうこうしこう》 楚《そ》の葉《しょう》県の長官で、姓は沈《しん》、名は諸梁《しょりょう》。名臣、賢者として知られ、公を称した。〈葉公竜ヲ好ム〉の話は『荘子』や『新序』などに見え、名を好んで実を好まぬことの比《ひ》喩《ゆ》に用いる。楚は春秋戦国時代の大国で、揚子江の中流域を領有、武王以来二十五代、五百余年つづいたが、秦に滅ぼされた。
(一七五) 頭は閨sまど》に窺《うかが》い尾は堂に驕sひ》く 『荘子』に見える言葉。頭は窓からのぞき、尾は家を一巻きにするの意で、巨大な竜の形容。
(一七六) 魂魄《こんぱく》 霊魂。魂は精神を、魄は肉体をつかさどるたましい。
(一七七) 五色主《ごしょくしゅ》無《な》し 恐怖にかられて、顔色がさまざまに変ること。
(一七八) 匡《きょう》では……受けようとし 匡は邑《ゆう》(町)の名。漢の長《ちょう》垣《えん》県にあったとする説が有力。かつて陽《よう》虎《こ》(前出注一〇六参照)に攻められたことがあり、孔子の容貌が陽虎に似ていたので、邑の人が誤って襲ったのだという。出典は『史記』。
(一七九) 宋《そう》では姦《かん》臣《しん》の迫害に遭い 宋は周代の諸侯国のひとつ。殷王《いんおう》の子孫の封ぜられた国で、いまの河南省杞《き》県にあった。宋の臣司馬・桓ヒ《かんたい》が孔子を殺害しようとしたことがある。
(一八〇) 蒲《ほ》では……を受ける 蒲は衛国の国境の城、晋国《しんこく》に入ろうとして、ここで地方の軍隊から襲われたことがある。
(一八一) 鳥よく木を……択ばんや 『史記』孔子世家、『孔子家語』巻之九・正論解などに見える言葉。〈鳥(自分たち)は木(国)を選んで滞在することができるが、木のほうが鳥を選ぶことはとうてい出来ない〉の意。
(一八二) 陳《ちん》・蔡《さい》 陳はいまの河南省南部、淮水《わいすい》の流域にあった小国。舜《しゅん》の子孫の建てた国という。二十四代続いた。蔡はおなじく河南省南部にあった国、武王の異母弟、叔度《しゅくたく》の封ぜられた国。ともに楚《そ》に滅ぼされた。
(一八三) 火食 火でものを煮《に》炊《た》きして食べること。
(一八四) 「由《ゆう》よ。吾汝《われなんじ》に告げん……我に従う者は」 『孔子家語』巻之五・困誓などに見える言葉。ただし、引用は原文どおりではない。〈由よ。お前にいうことがある。君子が楽をたのしむのは驕《おご》りたかぶる心をなくすためである。つまらない人間が楽をたのしむのは恐れる心をまぎらすためである。このわたしの真意を知らないで、自分につき従っているのは、いったい誰《だれ》ですか〉の意。
(一八五) 戚《ほこ》 小さい斧《おの》、とくに武楽の舞いのとき、手に持って舞うもの。
(一八六) 陳蔡《ちんさい》の厄《やく》 本文にあるように、孔子が陳・蔡の地で災難にあったこと。転じて、君子賢者も時を得なければ災厄に会うことの比《ひ》喩《ゆ》。
(一八七) 窮するとは……ここに濫《みだ》る 『論語』衛霊公篇《えいれいこうへん》、『史記』孔子世家、『孔子家語』困誓などに見える言葉。ただし、原文どおりではない。〈真に困窮するとは、仁義道徳の道にゆきづまることではないのか。いま、わたしは仁義の道をこころに抱いて乱世の災難にあっているのだから、どうして困窮しているといえようか。もし、食糧が乏しく身体がやつれ果てるのを困窮するというのであれば、むろん、君子もまた困窮する。しかし、小人が困窮したら、とりみだして目茶目茶になってしまう。(そうならないのが、君子の小人とちがうところだ)の意。
(一八八) 許《きょ》 春秋時代、いまの河南省許《きょ》昌《しょう》の近くにあった国。堯《ぎょう》の末裔《まつえい》という文叔《ぶんしゅく》が封ぜられて建てた国だが、前五〇四年、鄭《てい》に滅ぼされた。
(一八九) 葉《しょう》 春秋時代、楚《そ》の国の町の名。いまの河南省葉県にあった。
(一九〇) ワ《あじか》 藁《わら》または竹で作った、土を運ぶための道具。この老人に会った話は『論語』微《び》子《し》篇第十八に見える。
(一九一) 一揖《いちゆう》 軽く会釈《えしゃく》すること。揖の礼は腕を前で組んで、上下または左右に振る礼をいう。
(一九二) 湛々《たんたん》タル……帰ルコトナシ 『詩経』小雅に見える歌。〈しっとりと草を濡《ぬ》らす露は太陽の光でないと乾かない、夜遅く酒を飲んで、十分に酔っ払わぬと帰らない〉の意。
(一九三) 軒冕《けんべん》 軒は大夫以上の人間の乗る車。冕は貴族の冠。転じて高位高官のこと。
(一九四) 澹然《たんぜん》無極 のんびりと気《き》儘《まま》に生きて、あっさりしていること。
(一九五) 長沮《ちょうそ》・桀《けつ》溺《でき》 『論語』微子篇に見える人物だが、沮は沼地、溺は人間の排泄《はいせつ》物《ぶつ》、長は背が高い、桀は肥えているの意で、いずれも農民らしい仮の名前を与えられたもの。有名な賢者が変名で姿を隠していたのであろうとされている。
(一九六) 接《せつ》輿《よ》 『論語』微子篇に見える人物。〈楚《そ》の狂、接輿、歌いて孔子を過ぎて曰《いわ》く、鳳《ほう》よ鳳よ、何ぞ徳の衰えたる、往《す》ぎしことは諫《いさ》むべからず。来たらんことは猶追《なおおさ》むべし。已《や》みなん已みなん。今の政《まつりごと》に従う者は殆《あや》うし〉(鳳は孔子をさす)。狂人をよそおって身を隠していた隠者のひとりと見做《みな》されている。一説に陸通《りくつう》(賢者の名が高く、昭王に招かれたが、逃れて峨《が》嵋《び》山《さん》に隠れた)のこととする。
(一九七) 佯狂《ようきょう》 狂人のふりをすること。
(一九八) 怡々《いい》 心配ごとがなく、心が穏やかになごむさま。
(一九九) 区々たる……大倫を紊《みだ》る 『論語』微《び》子《し》篇《へん》第十八には〈その身を潔くせんと欲して大倫を乱る〉とある。自分の身を清潔にしておくことばかり考えて、結局人間の踏むべき大義を乱しているの意。
(二〇〇) 宋《そう》 春秋戦国時代の国。周が殷《いん》を滅ぼした後、紂王《ちゅうおう》の兄微子の遺民を集め、祖先の祭を行うことを許して建てさせた国。弱国だったが、古い文化の継承者という自負を持っていた。
(二〇一) 宰《さい》予《よ》 前出注一五一参照。
(二〇二) 十室の邑《ゆう》……如《し》かざるなり 『論語』公冶長《こうやちょう》篇第五に見える言葉。〈家が十軒程しかない小さな村でも、かならず、誠実で言葉を違《たが》えないことでは自分に匹敵する人物はいるだろう。ただ、自分ほどの学問好きではないだろうが……〉の意。
(二〇三) 中庸 中正でかたよらないこと。儒教で最高の徳目とされる。『論語』雍《よう》也《や》篇第六に〈中庸の徳たる、それ至れるかな〉(中庸という徳はなんと完全無欠なものだろう)とある。
(二〇四) 冰心《ひょうしん》 氷のように、清く澄んだこころ。冰は氷の異字体。
(二〇五) 霊公 陳の君主。宣公の曾孫《そうそん》。名は平国。在位十五年、本文にあるように、諫《かん》言《げん》した洩《せつ》冶《や》を殺したが、のちに夏徴舒《かちょうじょ》に討たれた。
(二〇六) 泄《せつ》冶《や》 洩冶とも。陳の霊公の大夫。『春秋左氏伝』宣公九年に記事が見える。霊公が孔寧《こうねい》・儀《ぎ》行《こう》父《ほ》とともに(夏御叔《かぎょしゅく》の妻)夏《か》姫《き》と密通し、たがいに夏姫の肌《はだ》着《ぎ》を着込んで、朝廷でふざけあっていた。それを諫《いさ》めた洩冶を孔・儀が相謀《あいはか》って殺したという。
(二〇七) 比《ひ》干《かん》 殷王朝の紂王の叔父にあたる王族。賢者として知られ、紂王の暴逆をはげしく批判したため、王の怒りをかい、処刑された。〈聖人の胸には七竅《きょう》があると聞いている〉という口実で、胸を割《さ》かれたという。七竅は目・耳・口などの七つの穴。出典は『史記』。
(二〇八) 紂王《ちゅうおう》 殷王朝三十代目の最後の君主。名は辛《しん》または受。妲己《だっき》を愛し、政治をよそに酒色にふけった。暴君で民衆を苦しめ、ついに周の武王の軍と戦って敗れ、滅亡した。暴君の代表として、桀《けつ》王《おう》と双称される。
(二〇九) 少師 古代中国の官名。三孤の一。三孤は三公に次ぐ高位で、少師・少傅《しょうふ》・少保をいう。
(二一〇) 婬婚《いんこん》 婬昏か。みだらで、道理に暗いこと。
(二一一) 詩に曰《い》う 詩は『詩経』。その大雅の板《はん》篇に見える詩。〈民に邪悪・よこしまのはびこれば、自ら法《はっ》度《と》を立てがたい〉の意。
(二一二) 愀然《しゅうぜん》 顔をしかめ、心配そうなさま。
(二一三) 史《し》魚《ぎょ》 衛(春秋時代の国。注一六〇参照)の大夫。史《し》鰌《しゅう》とも書く。世襲の歴史官だったが、主君の霊公が人材を用いないので、死んで諫《いさ》めた。『論語』衛霊公篇第十五に、〈直なるかな史魚、邦道あるときも矢の如《ごと》く、邦道なきときも矢の如し〉(まっすぐな人間だな、史魚は。国家の秩序が正しいときは矢のように生き、国家の秩序が乱れたときも矢のように生きる)という孔子の批評が見える。
(二一四) 呉《ご》 周代に泰伯《たいはく》が建て、揚子江河口地方を領有し、二十五代七百五十九年にわたって続いたが、紀元前四百七十三年、夫《ふ》差《さ》が越王勾践《こうせん》に敗れ、滅んだ。
(二一五) 工尹《こういん》商陽 工尹は工務をつかさどる楚《そ》国《こく》の官名。商陽の故事は『礼記《らいき》』檀弓《だんぐう》下に見える。
(二一六) 棄《き》疾《しつ》 春秋時代、楚の平王の名。共王の第五子。
(二一七) 休戚《きゅうせき》 (休は喜び、戚は悲しみの意)。喜びと悲しみ、幸福と不幸。
(二一八) 死して而《しこう》して後に已《や》む 〈死而後已〉『論語』泰伯篇《たいはくへん》第八に見える曾《そう》子《し》(曾《そう》参《しん》)の言葉。仁《じん》の完成は死んではじめて終るのだ、の意。転じて、死ぬまで努力を続けることの意に用いる。曾子は孔子の弟子で、最年少のひとり。孔子の没後、魯《ろ》の孔子の学園の長となり、魯における儒学の正統を継いだ。
(二一九) 曹《そう》 周代の国名。周の武王の弟、叔振鐸《しゅくしんたく》の封ぜられた国で、陶丘《とうきゅう》に都があった。いまの山東省のあたりを領有し、二十五代続いたが、紀元前四百八十七年、宋に滅ぼされた。
(二二〇) 木鐸《ぼくたく》 古代、政府が人民を集めて布告するときに鳴らした木製の鈴。転じて、政治や思想の先覚者・教導者をさしていう言葉になった。『論語』八《はちいつ》篇第三に〈天下の道なきこと久し、天は将《まさ》に夫《ふう》子《し》を以《もっ》て木鐸と為《な》さんとす〉(天下に道義がうしなわれてからすでに久しい。天はあなた〔孔子〕を、道義を天下にふれまわる木鐸と為そうとしている)とある。
(二二一) 天の未《いま》だ……予《われ》を如何《いかに》せんや 『論語』子《し》罕《かん》篇第九に見える言葉。〈(わたしは周王の伝えた文化をこの身につけている)。天の神がこの身の保持する文化を滅ぼすつもりがないのならば、匡《きょう》の人々ごときが私をどうすることもできないはずである〉の意。
(二二二) 圭角《けいかく》 圭は玉。玉にある角。転じて、性質や言動に角があって、円満を欠いたさま。
(二二三) 万鍾《ばんしょう》我に……加えん 『孟子』告子章句上に見える言葉。万鍾はひじょうに多くの量の穀物(鍾は量の単位でほぼ五リットル)。〈(万鍾もの大禄《たいろく》を与えられたら、誰《だれ》でも飛びつくかもしれない、しかし、考えてみるがいい)そんな大禄はひとりでは食べ切れないし、自分にとってなんの足しにもならないのである〉の意。
(二二四) 正卿《せいけい》 大夫の上位で、卿(貴族)とおなじ待遇を受けるもの。春秋時代には、卿↓大夫↓士↓民の身分の別があった。なお、「上卿」は周代の官名で卿の最上位。
(二二五) 孔叔圉《こうしゅくぎょ》 衛の名門の出で、大夫。諡《おくりな》は文。夫人が霊公の娘だったため専横の行為が多かったというが、孔子は学問好きで、部下の意見によく耳を貸したなどの美徳を弁護している(『論語』公《こう》冶長《やちょう》篇)。なお、この前後の記事は『春秋左氏伝』定公十三、四年に見える。
(二二六) 公叔戍《こうしゅくじゅ》 公叔文子(名は抜、または発ともいう。文はその諡。献公の孫)の子。史魚がかつて予言したとおり、富裕で驕《きょう》慢《まん》だったため皇帝の霊公にうとまれた。南子の一党を除こうとして失敗し、逆に謀反《むほん》を疑われて追放され、魯《ろ》に逃れたのである。
(二二七) ゙゚《かいがい》 霊公の子で、太子。南子の行状を恥じて、側近の男に命じて殺そうとしたが、男が躊躇《ちゅうちょ》したため失敗し、晋《しん》に逃れた。中島敦に゙゚を主人公とする小説『盈虚《えいきょ》』がある。
(二二八) 卒《しゅつ》 身分の高い人間が死ぬこと。
(二二九) 輒《ちょう》 霊公は魯の哀公の二年夏に没し、南子は公子郢《えい》を太子としようとしたが果さず、亡命中の太子゙゚の子輒を後継者としたのである。
(二三〇) 恭にして敬……姦《かん》を抑《おさ》うべし 『孔子家語』巻之八・致思、『史記』仲尼《ちゅうじ》弟子列伝などに見える言葉。ただし、引用は原文どおりではない。〈うやうやしくして敬のこころがあれば、勇ある者を従わせることができる。寛大で(処置が)正しければ、民衆をなつかせることができる。おだやかでいて事にあたって決断があれば、よこしまな人間を押さえつけることができる〉の意。
(二三一)教えずして刑する。理非を教えることなく刑罰をあたえる。
(二三二) 片言《へんげん》以て……それ由《ゆう》か 『論語』顔淵《がんえん》篇第十二に見える言葉。〈原告・被告のいっぽうの言い分を聞いただけで、判決が下せるのは子路だけであろう〉の意。
(二三三) 田疇《でんちゅう》 田畑のあぜ。耕作地。
(二三四) 草莱《そうらい》 荒れ果てて、雑草の生い茂った土地。また、その雑草。
(二三五) 溝洫《こうきょく》 田畑の間にある灌漑《かんがい》用の溝《みぞ》。
(二三六) 牆屋《しょうおく》 牆は垣《かき》根《ね》、ついじ。垣根をめぐらした家。
(二三七) 哀公《あいこう》 春秋時代の魯《ろ》の君主。定公の子。名は蒋《しょう》。在位二十五年におよび、その間、孔子を重用しようとしたが、ついに採用できなかった。
(二三八) 大《たい》野《や》 藪《そう》沢《たく》の名。鉅《きょ》野《や》、巨沢ともいい、いまの山東省勝《しょう》県の北部にあった。
(二三九) 麒《き》麟《りん》を獲《え》た 『春秋左氏伝』哀公十四年、『史記』孔子世家などに見える。哀公十四年の春、西方に狩をした哀公が麒麟を得たが、麒麟はすでに死んでいた。孔子は〈わが道窮《きわ》まれり〉と嘆じて『春秋』の編集に着手したという。
(二四〇) 小焉sしょうちゅ》 春秋時代の国名。ハフ《せんぎょく》の後裔《こうえい》が周により封じられた国で、山東省勝県の東南部に城跡が残っている。戦国時代に入って、楚《そ》に滅ぼされた。
(二四一) 射《えき》 『春秋左氏伝』哀公十四年に記事が見える。小烽フ領地句繹《こうえき》(いまの山東省鄒《すう》県の東南の県境にあった)を掠《かす》め取って来奔《らいほん》したのである。
(二四二) 諾《だく》を宿するなし 『論語』顔淵《がんえん》篇《へん》第十二に見える言葉。〈(子路は)承諾したことはその日のうちに果し、翌日にまわすことはしなかった〉の意。
(二四三) 千乗の国の盟《ちかい》 〈千乗の国〉は国内から兵車千乗を出せる大国(ここでは魯のこと)。その大国の約束の意。乗は兵車を数える単位。馬四頭で一車を挽《ひ》いた。
(二四四) 陳恒《ちんこう》 斉の人。乞の子。関止とともに簡公に仕えたが、陳氏を逐《お》おうとする関公を討ち、さらに前四百八十一年、簡公を殺害して平公を擁立した。
(二四五) 吾、大夫の後《しりえ》に……ずんばあらず 『論語』憲問《けんもん》篇第十四に見える言葉。〈私も大夫の末席を汚《けが》している身だから、言わずにいられなかったのだ〉の意。
(二四六) 衛では政界の…… 『春秋左氏伝』哀公十五年、『史記』衛康叔世家《えいこうしゅくせいか》・
仲尼《ちゅうじ》弟子列伝などに記事が見える。
(二四七) 伯《はく》姫《き》 ゙《かい》゚《がい》の姉。孔叔圉《こうしゅくぎょ》の夫人となり、瘁sかい》を生んだ。
(二四八) 小姓《こしょう》上りの渾良夫《こんりょうふ》 原文には〈孔氏之豎《じゅ》〉とある。豎は小身の家臣。長身で美《び》貌《ぼう》だった。
(二四九) 周の昭王の四十年 正しくは〈周の敬王の四十年〉。衛の内紛が起ったとき、周朝は第二十六代目の王、敬王の四十年(B.C.408)であった。
(二五〇) 老 家老。
(二五一) 子《し》羔《こう》 前出注一五三参照。
(二五二) 簒奪者《さんだつしゃ》 王位を奪い取ろうとする者。
(二五三) 戟《ほこ》 両刃《もろは》の剣に長い柄《え》をつけた武器。
(二五四) 子路は死んだ この後、゙゚は衛侯(荘公)となり、孔痰ヘ伯姫とともに宋に奔《はし》り、輒は家老の欒寧とともに魯に逃れた。
(二五五) 柴《さい》(子羔)や……由《ゆう》や死なん 『史記』衛康叔世家・仲尼弟子列伝、『春秋左氏伝』哀公十五年などに見える言葉。〈子羔は難を逃れて無事に帰ってくるだろう、しかし、子路は死ぬだろう〉の意。
(二五六) 佇立瞑目《ちょりつめいもく》 目を閉じて立ちつくすこと。
(二五七) 潸然《さんぜん》 涙をさめざめと流すさま。
(二五八) 醢《ししびしお》 古代の刑罰のひとつで、死刑にして、死体を塩づけにすること。塩辛のこともいう。
(二五九) 漢の武《ぶ》帝《てい》 (159B.C.〜87B.C.)前漢第七代の孝武帝(在位140B.C.〜87B.C.)。名は徹。中央集権の古代統一国家を完成した。国内的には治水灌漑《かんがい》工事を進め、農業の奨励、儒教の国教化などを断行し、対外的には匈奴《きょうど》を漢北に追い、西域・安南・朝鮮半島を征服するなど、前漢の最盛期を実現したが、たびかさなる外征と奢《しゃ》侈《し》な生活とによって財政難をもたらし、また、晩年には神仙道にふけるなど、国力の衰微をまねいた。
(二六〇) 天漢二年 天漢は武帝時代の年号(100B.C.〜97B.C.)。天漢二年は前九十九年。
(二六一) 騎都尉《きとい》 漢代の官名で、軍務・侍従などに従った。武帝のとき、李陵を任じたのが最初。
(二六二) 辺塞遮虜《へんさいしゃりょ》竅sしょう》 居延(エチナ)城のこと。太初三年(102B.C.)路博徳が居延沢(いまのガシュンノールから天《てん》鵝《が》湖のあたりをいう)の南に築いた砦《とりで》。辺塞は辺境にある城塞の意。
(二六三) 阿爾泰《アルタイ》山脈 中国新疆《しんきょう》ウイグル自治区と、西シベリア・外モンゴルの国境地帯をはしる山脈。
(二六四) 戈壁《ゴビ》沙《さ》漠《ばく》 モンゴル南部から中国北部にかけてひろがる高原砂漠。海抜約九百〜千二百メートルで、夏冬の気温の差がはげしい。ゴビは砂《さ》礫《れき》の不毛地帯をいう。
(二六五) 磽縺sこうかく》 石の多い荒野。
(二六六) 朔風《さくふう》 北風。朔は北方のこと。
(二六七) 戎衣《じゅうい》 戦闘のときに着る衣服。軍服。
(二六八) 浚稽山《しゅんけいさん》 外モンゴルとの国境、カルカ河西方にある山。カルカ集落(咯爾喀)に近い。
(二六九) 匈奴《きょうど》 前三世紀から後五世紀にわたって中国民族をおびやかした北方高原の遊牧騎馬民族。首長を単《ぜん》于《う》と称し、冒頓《ぼくとつ》単于(209B.C.〜174B.C.)以下の二代が最全盛期で、モンゴルを中心に大帝国を建設し、しばしば漢と抗争した。白登山に漢の高祖(劉邦《りゅうほう》)を包囲したこともあるが、内紛により東西に分裂、その後も分裂をくりかえしてしだいに衰微し、後漢時代に滅亡した。
(二七〇) 苜蓿《うまごやし》 マメ科の越年草。ヨーロッパ原産で、各地に自生。茎は地上を這《は》って三十センチほどになり、春、黄色の小さな花をつける。
(二七一) 莓《かわやなぎ》 かわらやなぎ。莓科《ていりゅうか》の落葉灌木《かんぼく》。
(二七二) 極目《きょくもく》 見渡すかぎり。
(二七三) 突兀《とっこつ》 山や岩がけわしく聳《そび》えたっているさま。
(二七四) 幕僚 軍の司令官に直属し、司令部に勤務する将校(副官や参謀など)。
(二七五) 支那《しな》里程 周代には三百歩を一里(約四○五メートル)としたが、のちには三百六十歩に改訂された。
(二七六) 胡《こ》馬《ば》 中国の北方地方で産出した馬。胡はえびす《・・・》で、北方異民族の総称。
(二七七) 大将軍 全軍を統率する武官の称。戦国時代に始まり、漢代にも継承された。
(二七八) 衛青《えいせい》 (?〜106B.C.)平陽の人。字《あざな》は仲郷。武帝の寵愛《ちょうあい》を受けた衛《えい》子夫《しふ》の兄。ために抜擢《ばってき》され、元光年間に匈奴を討って功があり、長平侯になった。さらに元朔年間に匈奴の右賢王の軍を破り、大将軍を授けられた。
(二七九) 嫖騎《ひょうき》将軍霍去病《かくきょへい》 (?〜117B.C.)正しくは驃騎将軍。平陽の人。衛青の甥《おい》にあたり、匈奴を数度にわたって撃退した勇将。驃騎将軍は精強で、すばやいさまをいう漢代の将軍の名号、はじめ一般に用いられたが、霍去病に与えられて以後、かれの専称となった。
(二八〇) 漠南《ばくなん》に王庭無し 『漢書』匈奴伝第六十四上に見える言葉。砂漠の南に匈奴の都がひとつもないの意。王庭はここでは匈奴の都の意。
(二八一) 元狩《げんしゅ》以後元鼎《げんてい》 武帝時代の年号。元狩(122B.C.〜117B.C.)、元鼎(116B.C.〜111B.C.)。
(二八二) 蛛sさく》野《や》侯《こう》 趙破奴《ちょうはど》 九原の人。楼《ろう》蘭《らん》王《おう》と戦い、これを虜《とりこ》とした功績で蝟侯に任じられた。しかし、匈奴を撃とうとして敗れ、捕虜として十年間匈奴の地ですごしたが、匈奴の太子とともに逃げ帰った。のちに巫蠱《ふこ》(呪術《じゅじゅつ》で人を呪《のろ》うこと)の罪で、一族と処刑された。
(二八三) 光禄勲《こうろくくん》徐自為 光禄勲は宮殿の掖門《えきもん》(正門の左右にある小さな門)の宿衛(宿直して警備する)のことをつかさどる官職。武帝の時代に、秦《しん》以来の官名〈郎中令〉を改称した役名。徐自為は太初三年(102B.C.)に五原の砦《とりで》から更に数百里の外方に城壁や物見台を築いた。
(二八四) 弐師《じし》将軍 李広利の名号。弐師(大宛《フェルガナ》国)に遠征した将軍の意。李広利は武帝の妃李夫人の兄で、太初元年(104B.C.)大宛征討をおこない、大功をたてた。その後もしばしば匈奴と戦ったが、ついに敗れて虜となり、単《ぜん》于《う》に殺された。
(二八五) 酒泉《しゅせん》 いまの甘粛省《かんしゅくしょう》酒泉県の北東にあった地名。後出の「張掖《ちょうえき》」とおなじく、河西回廊四郡のひとつ。
(二八六) 右賢王 匈奴《きょうど》の貴族の称号。左賢王、左右の谷蠡《ろくり》王とともに四《し》角《かく》と称され、皇太子にあたる左賢王に次いで、単于となる資格を有していた。右部(西部)地方を統治し、戦時には司令官として出陣した。
(二八七) 天山《てんざん》 天山山脈。新疆《しんきょう》(いまの新疆ウイグル自治区)からキルギス共和国にかけて東西に走る大山脈。この山脈の北と南に古代のシルク・ロードが通っていた。
(二八八) 輜重《しちょう》 軍隊の食糧・武器弾薬などの軍需品をいう。ここでは、それを運搬する役目のこと。
(二八九) 未央宮《びおうきゅう》 漢の高祖が蕭何《しょうか》に命じて建てた宮殿。長安(今の西安)の竜首山上にあった。
(二九〇) 飛将軍 射撃の名手である将軍の意。匈奴によって、こう呼ばれたのである。
(二九一) 李広 (?〜119B.C.)前漢の武将で、弓術にすぐれ、石を矢で射通したなどの逸話が多く、しばしば匈奴を破って、飛将軍と恐れられた。のちに衛青に従って匈奴と戦ったとき、道に迷って士卒をうしない、みずから首を刎《は》ねて自裁した。
(二九二) 荊《けい》楚《そ》 荊は古代中国を九つに区分した九州のひとつ。楚は春秋戦国時代にその地方にあった国名。いまの湖南・湖北省一帯の地をいう。
(二九三) 勒《ろく》する 勒は馬の頭にかけて馬を御する馬具。転じて、兵をおさめ整えることをいう。
(二九四) 彊弩《きょうど》都尉《とい》 漢代の部隊長の名号、彊弩は勢いの強いいし《・・》ゆみ《・・》の意。
(二九五) 路博徳 山西省の人。はじめ右北平の大守として霍去《かくきょ》病《へい》(注二七九)に従って戦場に出たが、のち彊弩都尉に降格され、居延に駐屯《ちゅうとん》し、この地で没した。
(二九六) l《ふ》離《り》侯《こう》 漢代の諸侯のひとつ。l離は辺境の意。
(二九七) 伏《ふく》波《は》将軍 武帝時代に始まる将軍の名号で、水軍を率い、その威光によって風波を鎮《しず》めるの意。南へ出陣する武将に与えられた。
(二九八) 南越《なんえつ》 越国のこと。いまの広東・広西の地域にあった。
(二九九) 西河 いまの内モンゴル自治区の南、オルドス高原(旧綏遠《すいえん》省の南部)にあった郡名。
(三〇〇) 竜勒水《りょうろくすい》 外モンゴルの西部にある河。
(三〇一) 故道 かつて蝟侯趙破《ちょうは》奴《ど》(注二八二)が遠征のときに通った道。
(三〇二) 受降城 武帝が因《いん》n《う》将軍公孫敖《こうそんごう》(注三一○)に命じて、九原の北に太初元年(104B.C.)に造らせた城。
(三〇三) 胡《こ》地《ち》 胡夷(中国の北方地域に住む未開の異民族の総称)の勢力下にある土地。
(三〇四) 庸主 ごくふつうの平凡な君主。
(三〇五) 隋《ずい》の煬帝《ようだい》 隋は六朝《りくちょう》時代の末、楊堅《ようけん》(文帝)が長期間分裂していた中国を統一して建てた王朝。煬帝(569〜618)はその第二代皇帝で、文帝の第二子。本名は楊広《ようこう》。父を殺して帝位に就いた。贅沢《ぜいたく》な生活を好み、豪華な宮殿を造ったり、男女百万を動員して、運河を開くなどの積極策をとって、人民の恨みをかった。また、しきりに外征をおこなったが、高《こう》句《く》麗《り》遠征に失敗して、勢力を失墜し、叛臣《はんしん》に殺された。
(三〇六) 玉門関 小方盤城ともいう。西域との境界を固める要《よう》塞《さい》として甘粛省敦煌《とんこう》県の西に設けられていた関所。
(三〇七) 一揖《いちゆう》して 一礼しての意。前出注一九一参照。
(三〇八) 胡兵 ここでは匈奴の兵。
(三〇九) 因《いん》n《う》将軍 因n(胡地の地名)を征した将軍の意。
(三一〇) 公孫敖《こうそんごう》 義《ぎ》渠《きょ》の人。景帝・武帝に仕え、しばしば将軍として外征、受降城を築くなど功があったが、本文にあるように敗戦の責任を問われて投獄された。その後、夫人が呪術《じゅじゅつ》によって人を害したという疑いを受け、一族とともに処刑された。
(三一一) オルドス[ordos]中国、内モンゴル自治区南部、北と西を黄河にはさまれ、南は万里の長城に接した高原地帯。古代から漢民族と北方民族との争奪の的になった地域。
(三一二) 狼星《ろうせい》 東の空に輝く星の名で、いまのシリウスのこと。
(三一三) 弓弩《きゅうど》 弓といしゆみ(発射装置をそなえた弓で、引金で、矢や石を発射する。数人であつかう大形のものもあった)。
(三一四) 単《ぜん》于《う》 前出「匈奴《きょうど》」(注二六九)参照。
(三一五) 搏戦《はくせん》 うちあって戦うこと。格闘。
(三一六) 輦《れん》 人がひく手車。
(三一七) 沮《そ》洳《じょ》地《ち》 湿気の多い低地。ぬかるみの土地。
(三一八) 胡虜 北方のえびす。ここでは匈奴のこと。
(三一九) 校《こう》尉《い》 将軍に次ぐ位の武官。本来は宮殿の守備に任じた。
(三二〇) 韓延年《かんえんねん》 韓千秋の子。南越の征討に功があった父のあとを継いで、成安侯に任じられた。
(三二一) 軍侯 敵情の偵察《ていさつ》を任務とする兵。斥候。
(三二二) 車輻《しゃふく》 車の輻《や》(車輪の軸から放射状に車輪の外回りの部分に繋《つな》がっている支柱の棒)。
(三二三) 便《べん》衣《い》 袖《そで》を小さくした、丈の短い服。平服に用いる。
(三二四) 胡《こ》笳《か》 北方の胡人が好んで用いたという、蘆《あし》の葉を巻いて吹く笛。
(三二五) 踞牀《きょしょう》 腰を下ろすための牀几《しょうぎ》。
(三二六) 鳥獣と散じて 鳥や獣が逃げるように、散り散りになっての意。
(三二七) 冰片《ひょうへん》 氷片におなじ。
(三二八) 旌《せい》旗《き》 軍旗。
(三二九) 郎 中央官庁の中級の役人。郎官(歴代、天子の側《そば》近く仕える近侍)・郎将(秦《しん》・漢代の職名で、宮中の宿衛=宿直して防衛の任にあたる者)などの別がある。
(三三〇) 天漢三年 武帝時代の年号。前九八年。
(三三一) 方士巫《ふ》覡《げき》 方士は神仙の術、つまり不老不死をもたらすという方術をおこなう人間。巫覡は神につかえて神意をうかがい、ひとの吉凶を占うみこ《・・》で、巫は女、覡は男のみこ《・・》をいう。
(三三二) 李《り》蔡《さい》 成紀の人。軽車将軍として大将軍の匈奴征討に従って功績をあげ、楽安侯に取りたてられた。丞相《じょうしょう》に任じられたが、法を犯して元狩六年(117B.C.)に自殺した。
(三三三) 青q《せいてき》 荘青q。武彊《ぶきょう》侯。過失はなくてもきまじめなだけで、丞相となっても唯《ただ》席を暖めていただけ、と司馬《しば》遷《せん》は評している。おなじく元鼎《げんてい》二年(115B.C.)に罪を得て自殺した。
(三三四) 趙周《ちょうしゅう》 高陵侯。丞相に任じられたが、おなじく元鼎五年(112B.C.)秋、宗《そう》廟《びょう》を祭る時に、礼法を誤ったという罪で免職になり、獄中で死んだ。
(三三五) 丞相《じょうしょう》 宰相。天子を補佐して政治をおこなう最高官。漢代では三公の一。
(三三六) 公孫《こうそん》賀《が》 義《ぎ》渠《きょ》の人。渾《こん》邪《や》の子。字《あざな》は子叔。武帝即位の十七年後、騎将軍として匈奴を討って戦果をあげ、南└《なんぽう》侯に任ぜられた。その後もしばしば出撃したが、さして功績を残さなかった。のち丞相になったが、子が巫蠱《ふこ》の罪(注四七八参照)に問われ、一族とともに処刑された。
(三三七) 汲黯《きゅうあん》 (?〜112B.C.) 濮陽《ぼくよう》(河南省)の人。字は長孺《ちょうじゅ》。勇武かつ侠気《きょうき》に富み、武帝にもしばしば率直に諫言《かんげん》し、ために退けられたこともあったが、のちに主爵都《しゅしゃくと》尉《い》(諸侯の監督官で九《きゅう》卿《けい》に準ずる地位)に進み、天子からも敬意を以《もっ》て遇された。『史記』汲・鄭《てい》列伝。
(三三八) 佞臣《ねいしん》 弁舌が巧みで、媚《こ》びへつらう家臣。
(三三九) 御《ぎょ》史《し》大《たい》夫《ふ》 古代中国の官名。御史は天子に近侍し、法律をつかさどり、官吏の非違を監察・糾弾する役目の官。大夫はその長官。
(三四〇) 杜周《としゅう》 南陽郡の人。廷尉として裁判に苛《か》酷《こく》な態度で臨み、罪人に恐れられたが、天子の意を迎える判決を下したともいう。のちに御史大夫に進んだが、司馬遷は酷吏のひとりに数えている(『史記』酷吏列伝)。
(三四一) 太常《たいじょう》 古代中国で、宗廟・礼法などのことをつかさどった官名。
(三四二) 趙弟《ちょうてい》 弐《じ》師《し》将軍(李広利)の大《フェル》宛《ガナ》征討に騎兵として従い、捕虜の郁成《いくせい》王を斬《き》って武帝に認められ、新《しん》畤《じ》侯になった。のちに太常に任じられたが、罪を獲《え》て処刑された。
(三四三) 李《り》敢《かん》 李広の第三子で、李陵の叔父。匈奴《きょうど》の征討に功績があり、郎中令にまで昇進したが、大将軍衛青を辱《はずか》しめたため、霍去病《かくきょへい》に射殺された。
(三四四) 驕恣《きょうし》 奢《おご》りたかぶって、わがままなこと。
(三四五) 讒謗《ざんぼう》 事実無根のことを述べて、ひとの悪口をいうこと。
(三四六) 讒《ざん》誣《ぶ》 事実とちがう悪口をいって、ひとを陥《おとしい》れること。
(三四七) 下大夫 下位の大夫(中国古代の官吏の身分で、卿と士の中間。また、諸侯の家老)。
(三四八) 空《くう》弩《ど》を張り 矢をうしなった大弓で、なお敵を威《い》嚇《かく》して戦おうとすること。
(三四九) 全 躯《くをまっとうし》保 妻 子《さいしをたもつ》の臣 自己の身の安全をはかり、妻子を養うことばかりを考えて、主君におもねる家臣の意。司馬遷の『任少卿に報ずる書』に見える言葉。
(三五〇) 太《たい》史《し》令《れい》 太史は古代中国で、時代の記録をつかさどり、また天文・暦法のことにあたった官。令はその長官。
(三五一) 司馬《しば》遷《せん》 (145B.C.?〜86B.C.)前漢の歴史家。字《あざな》は子長。父談の後を継いで太史令となり、畢生《ひっせい》の大作『史記』を起稿、李陵を弁護して宮刑に処せられたが、なお継続して百三十巻の大著を完成した。
(三五二) 出塞《しゅっさい》 砦《とりで》を出て、戦うこと。
(三五三) 星暦卜祝《せいれきぼくしゅく》 星の運行を読み、暦法をさだめ、吉凶を占って神に祈《き》祷《とう》するの意。
(三五四) 廷尉 秦《しん》・漢時代の官名で、刑罰のことをつかさどった。
(三五五) 宮《きゅう》 古代中国の五刑のひとつで、死刑につぐ重罪。もと男女の不義を罰する刑だったが、生殖器を切除し、去勢する。
(三五六) 黥《げい》 いれずみ。
(三五七) 文帝 (202B.C.〜157B.C.)前漢第五代皇帝。孝文帝ともいう。名は恒。前漢の外戚《がいせき》呂氏が滅ぼされて前一八六年に皇帝に迎えられ、以後、在位二十三年の間、同族諸侯を抑え、徳を第一とする政治をおこなった。また、匈奴との親和政策を採用した。
(三五八) 閹人《えんじん》 宮刑に処せられて宮中に仕える者の意。
(三五九) 宦官《かんがん》 去勢された男で、宮中の後宮に仕えていた者。
(三六〇) 史記 司馬遷の編集・執筆による歴史書・全百三十巻からなり、上古の黄帝から前漢の武帝にいたるまでを紀伝体で叙した通史で、中国における歴史叙述の伝統的形式をさだめた。
(三六一) 建元 漢の武帝の年号(140B.C.〜135B.C.)。
(三六二) 律 律令《りつりょう》。国家の定めた法律。
(三六三) 道家の教 道教。老子、荘子を代表とする学派の説く哲学(思想)。無・自然・無為を価値とする道徳を建て、儒教とともに中国哲学の二大学派に数えられる。
(三六四) 儒・墨・法・名 儒は儒学。孔子の教説を中心にした教学で、仁義礼節の道徳を強調した。墨は、墨家。春秋時代の思想家、墨子の説を信奉する一派。無差別な博愛(兼愛)を説き、平和・非戦の論を唱え、儒教に匹敵する勢力を持つ学派に成長した。法は法家。おなじく戦国時代の諸子百家のひとつで、天下を治める要《かなめ》として、法による法治主義を説き、また信賞必罰の励行による富国強兵策を説いた。管子・韓《かん》非《ぴ》子《し》などが代表。名は名《めい》家《か》。やはり諸子百家のひとつで、論理学的に名(言葉)と実(実体)の関係を明らかにしようとした。工孫竜など。
(三六五) 元封元年 武帝の年号(110B.C.)
(三六六) 泰山《たいざん》 東岳のこと。いまの山東省泰安の五岳のひとつで、天子が即位のとき、天を祭る儀式をおこなう聖なる山とされた。
(三六七) 漢家の封《ほう》を建つる 漢(国家)のために天を祭るとき、四方の土をあつめ、高く盛って祭壇を作ること。
(三六八) 太初元年 武帝の年号(104B.C.)。
(三六九) 春秋 中国古代の歴史書で、五経のひとつ。魯《ろ》の史官によって書かれ、孔子が編纂《へんさん》、手を加えて正邪善悪を明らかにしたといわれる。隠公から哀公にいたる十二公、二百四十二年間の事《じ》蹟《せき》・事件を編年体で記述した年代記。
(三七〇) 左伝 『春秋左氏伝』の略。類書のなかで、もっとも有名な『春秋』の解説書。『春秋』の記事(経)を掲げ、〈伝〉によって詳しく解説するという体裁で、全三十巻。戦国時代の成立で、魯の左丘明《さきゅうめい》の作と伝える。
(三七一) 国語 『左氏伝』に洩《も》れた春秋時代の歴史を詳述した史書。二十一巻。左丘明の撰《せん》と伝える。『左氏伝(春秋内伝)』に対して『春秋外伝』と称する。
(三七二) 述而不作《のべてつくらず》 『論語』の述而篇《じゅつじへん》第七に見える言葉。〈先人の学説を祖述するだけで、新説は出さない〉の意。〈信ジテ古《いにしえ》ヲ好ム(古代を信じ、かつ愛好する)〉という言葉がつづく。
(三七三) 五代 高祖↓恵帝↓(少帝恭↓少帝弘)↓文帝↓景帝↓武帝の五代をいう。夭折《ようせつ》した恭・弘をはぶいた数えかたである。
(三七四) 湮滅《いんめつ》 すっかり消えてなくなること。
(三七五) 五帝《ごてい 》本《ほん》紀《ぎ》 中国古代の五人の聖王(黄帝・ハフ《せんぎょく》・帝ヘ《ていこく》・唐堯《とうぎょう》・虞舜《ぐしゅん》)の事蹟を記した『史記』の篇名。
(三七六) 夏《か》殷《いん》周秦《しん》本紀 夏は舜につづく禹《う》王《おう》より桀王《けつおう》にいたる王朝。以下、殷(湯王《とうおう》が桀王を滅ぼして、黄河デルタの済水《せいすい》のほとりに建てた国)・周(武王が殷の紂王《ちゅうおう》を討って華北・華中を統一して建てた国。前二五六年に秦の始皇帝に滅ぼされた)・秦(戦国時代の七雄のひとつの秦が、始皇帝の時代に他の諸国を征服して建てた中国最初の統一王朝)の四王朝の記録。
(三七七) 項《こう》羽《う》本紀 項羽(232B.C.〜202B.C.)は秦末の武将。楚《そ》の人。将軍項燕《こうえん》の子で、名は籍。劉邦《りゅうほう》(漢の高祖)とともに秦を滅ぼし、〈西楚の覇《は》王《おう》〉と称したが、のち劉邦と戦って垓《がい》下《か》で敗れ、自殺した。その史伝。
(三七八) 項王則《すなわ》チ……視《み》ルモノ莫《な》シ 項羽が垓下で漢の大軍に包囲され、〈四面楚歌〉するのを聞いて、悲憤の詩を詠じる場面。〈項羽は夜目覚めて、帳《とばり》のなかで酒を飲んでいた。その場に虞という美人がいた。項羽に愛されて、いつも側《そば》に侍していた。また名馬がいた。名は騅《すい》という。項羽はいつもこの馬に乗っていた。そこで項羽は悲憤慷慨《こうがい》して詩を作った。つぎのような詩である。「自分の腕の力は山をも引き抜き、わが気力は天下をおおいつくすこともできる。だが、時の運は自分に不利で、戦いに敗れ、騅ももはや走ろうとはしない。ああ、騅の走らぬのはどうしようもないが、しかし、それにもまして、虞姫よ、虞姫よ、そなたをどうすれば良いのだろうか」と、吟ずること数度、虞美人も声をそろえて歌った。項羽ははらはらと落涙し、左右につき従う人間もすべて泣いて、誰《だれ》ひとり、主君を仰ぎ見ることのできる者がいなかった〉の意。
(三七九) 想像的視覚 想像する事柄《ことがら》を、ありありと眼前に見ることのできる能力。
(三八〇) 荘王《そうおう》 (?〜591B.C.)春秋時代、楚の第二十二代の王(在位614B.C.〜591B.C.)。穆王《ぼくおう》の子。即位後三年は無為にすごし、日夜、音楽と酒と女にふけったが、家臣の諫言《かんげん》を容《い》れて政務に励んで国力をたくわえ、諸国を破って中国南部を制覇した。
(三八一) 樊エ《はんかい》 (?〜189B.C.)漢の武将。下層の出身だが、沛公《はいこう》(高祖)に仕えて武勲をあげ、とくに前二○六年、項羽との鴻《こう》門《もん》の会では高祖の危機を救った。のち舞陽侯に任ぜられた。
(三八二) 范増《はんぞう》 (?〜204B.C.)項羽の参謀。秦を滅ぼすのに功績があった。鴻門の会で沛公を討つことを献策したが、項羽に容れられなかった。のち項羽と訣別《けつべつ》した。
(三八三) 朋党比周《ほうとうひしゅう》 主義や利害の一致する者たちが徒党を組んで助けあうこと。
(三八四) 擠陥《せいかん》 悪意をもって、ひとを罪に落とすこと。
(三八五) 車裂《くるまざき》の刑 二輛《にりょう》の車に罪人の足を片足ずつ結び付け、車を反対方向に走らせて、体を引裂く刑罰。
(三八六) 怨懣《えんまん》 恨み憤《いきどお》ること。
(三八七) 先王 堯《ぎょう》・舜《しゅん》など昔の聖天子。儒学では、その制度・道徳が規範として尊崇された。
(三八八) 高《こう》祖《そ》 (247B.C.〜195B.C.)劉邦。豊の人。秦末に兵を挙げ、中国を統一して、長安を都とする漢朝を建てた。
(三八九) 景帝 漢の第六代皇帝。文帝の長子。在位十六年、その間、奢《しゃ》侈《し》をいましめ、善政を施したので、国民の尊崇を集め、文帝とあわせて文景の治と称される。
(三九〇) 霹靂《へきれき》 かみなり。
(三九一) 王卿《おうけい》 御史大夫として勢威を張ったが、天漢三年(98B.C.)二月に罪を得て自殺した。
(三九二) 肢《し》解《かい》 手足を切り離す刑罰。
(三九三) 腰斬《ようざん》 腰を斬《き》る刑罰。
(三九四) 惻々《そくそく》 いたみ悲しむさま。
(三九五) 怡《たの》しい 喜ばしい。
(三九六) 中書令 宮中の文書や天子の詔勅などのことをつかさどる部局(中書省)の長官。
(三九七) 黜陟《ちゅっちょく》 功績の無いものを退け、功績のあるものの位を昇格させ、重用すること。
(三九八) 宦者《かんじゃ》 宦官(注三五九)におなじ。
(三九九) 閹《えん》奴《ど》 宮刑を受けて、活力を失ったもの。とくに後宮に仕える宦官をいう。前出「閹人」(注三五八)参照。
(四〇〇) 且《そ》p侯《ていこう》
単于《ぜんう》 〈しょていこう〉とも。匈奴《きょうど》の王。ホ《こう》犁《り》侯《こう》単于の弟で、はじめ左大都尉に任じたが、兄の没後、太初四年(101B.C.)単于となった。在位五年で没した。
(四〇一) ホ《こう》犁湖《りこ》単于 ホ犁侯とも。匈奴の王。烏《う》維《い》単于の弟で、右賢王。太初三年、烏維単于の甥《おい》にあたる幼少の児《じ》単于が即位後三年で没した後に即位した。
(四〇二) 赭髯《しゃぜん》 赤《あか》髭《ひげ》。
(四〇三) 格殺 なぐり殺す。
(四〇四) 穹廬《きゅうろ》 遊牧民の住居で、いまのモンゴル包《パオ》に似た丸天井の天幕。
(四〇五) 絨帳《じゅうちょう》 毛織物の帳《とばり》。
(四〇六) 羶肉《せんにく》 なまぐさい肉。ここでは羊の生肉。
(四〇七) 酪漿《らくしょう》 羊や牛などの乳。またはそれを濃縮して作った飲料をいう。
(四〇八) 乳醋酒《にゅうさくしゅ》 乳を醗酵《はっこう》させて製造する酒。
(四〇九) 旃裘《せんきゅう》 毛織物で作った衣服。
(四一〇) 寇掠《こうりゃく》 侵攻して掠《かす》めとること。
(四一一) 衛律《えいりつ》 父は長水生れの胡《こ》人《じん》。漢で成長し、李延年(李夫人の兄で、音楽に才能があった。武帝の寵《ちょう》愛《あい》をうけたが、李夫人の没後、帝の怒りに触れて殺害された)と親しかった。しかし、延年が誅《ちゅう》されたのに恐れて匈奴の地にのがれ、投降した。
(四一二) 丁霊《ていれい》王 丁霊族は前五世紀から前三世紀にかけて、いまのイルクーツク地方、バイカル湖畔から南シべリア一帯に住んでいたトルコ系遊牧民族(北狄《ほくてき》)のひとつ。漢代に匈奴の支配下に入ったが、のちに独立した。その統治者。
(四一三) 協律《きょうりつ》 都尉《とい》 音楽をつかさどる部局の長官。李延年は注四一一参照。
(四一四) 帷《い》幄《あく》 原義は幕を張りめぐらした場所。転じて、司令官のいる場所、また、参謀本部。
(四一五) 東胡 異民族のひとつ。春秋時代以後、燕《えん》の北に居住したが、匈奴に滅ぼされた。
(四一六) 代・上郡 中国前漢時代の地名。代郡は河北省蔚《うつ》県の北東、上郡は陝西省《せんせいしょう》の北部にあった。
(四一七) x《わし》 おおわし。猛鳥の一種。
(四一八) 雁門《がんもん》 中国前漢時代の郡名。山西省代県の西北にあった。雁門山(句注山とも)があり、関所がおかれていた。雁が多く見られるので、この名があるという。
(四一九) 強弩《きょうど》都尉《 とい》 前出「彊弩《きょうど》都尉」(注二九四)におなじ。
(四二〇) 游撃《ゆうげき》将軍 漢の武将に与えられた雑号のひとつで、太初年間に韓説《かんえつ》が名乗った。
(四二一) 韓説《かんえつ》 大将軍衛青の麾《き》下《か》で、匈奴の征討に功があり、游撃将軍として五原外に駐屯《ちゅうとん》していた。のち光禄勲を授けられたが、巫蠱《ふこ》の獄(注四七八参照)に連座して戻太《れいたい》子《し》に殺された。
(四二二) 余吾水(ケルレン河) 匈奴の地、故夏州北塞外にあった。同名の湖もあった。
(四二三) 当戸 李広の長子。勇武の士だったが、父に先立って死んだ。
(四二四) 遺腹の児《こ》 父親の死後に生まれた子供。
(四二五) 甘泉宮《かんせんきゅう》 雲陽宮・林光宮ともいう。陝西省涼北県の西北部の甘泉山にあった宮殿。秦代に離宮として建てられたものだが、武帝によって増改築された。
(四二六) 李《り》緒《しょ》 『漢書』巻五四李陵伝には〈単《ぜん》于《う》、緒を客遇し、常に陵の上に坐《ざ》せしむ。陵、其家の李緒を以《もっ》て誅せらるるを痛み、人をして緒を刺殺せ使《し》む〉とある。
(四二七) 塞外《さいがい》都尉《とい》 塞は国境に設けて敵を防ぐ要塞のこと。その僻《へき》地《ち》の守備に任じる部隊の長。
(四二八) 大閼《だいえん》氏 匈奴の皇太后。閼は匈奴で単于や王族の夫人をさす言葉。
(四二九) 兜銜山《とうかんざん》(額林達班嶺)匈奴の地、余吾水の北六、七百里にある山。『漢書』には〈単于之《こ》れを北に匿《かく》まう〉とある。
(四三〇) 右《う》校王《こうおう》 校は木を組んだ矢来、また、軍営に設けた柵《さく》をいい、転じて、宮中の警備、防衛にあたる官名になった。漢代には左・右・前・後・中の五校があった。ここでは匈奴がそれに倣《なら》った呼称であろう。
(四三一) 太始元年 武帝時代の年号。前九六年。
(四三二) 狐《こ》鹿《ろく》姑《こ》単于 匈奴の王。且《そ》p侯《ていこう》単于(注四〇〇)の長子で、さきの左賢王。即位に際し、弟の左大将との間に若干のトラブルがあった。在位二十三年。
(四三三) 黄雲が落《らっ》暉《き》に《くん》ずる 黄雲は黄色い土ほこりの舞いあがるさま。舞いあがる土ほこりが落日をうすぐらくさせるの意。高適の詩に〈十里の黄雲(のために)白日《はくじつくら》し〉とある。
(四三四) 骨肉相《あい》喰《は》む 親子・兄弟など血縁の者同士がはげしく争うこと。つぎの「擠《せい》陥《かん》」は、前出注三八四参照。
(四三五) 諸夏 中国国内の諸侯の国々の総称。四囲の夷《い》狄《てき》(未開の異民族)に対していう。
(四三六) 字《あざな》 中国で、実名を知られないため、別に付けた名。字《あざな》に対して、実名を諱《いみな》という。日本でも漢学者が付けた。また、他人が呼びならわした本名以外の名をいう場合もある。
(四三七) 中郎将 秦《しん》・漢時代の官名。宮中の宿衛に任じた武官の長官。
(四三八) 蘇武《そぶ》(c.139B.C.〜60B.C.)字は子《し》卿《けい》。匈奴に使節としておもむき、抑留されたが、本文にあるとおり、十九年間節を曲げず、後世の模範として賞賛された。
(四三九) 胡《こ》y《い》 胡人(ここでは匈奴)の医者。
(四四〇) 坎《あな》 穴におなじ。
(四四一) v《うん》火《か》 炎のない火。埋《うず》み火《び》。
(四四二) 漢書《かんじょ》 中国二十四史のひとつ。前漢書、西漢書ともいう。前漢の歴史を記した紀伝体の史書。後漢の班《はん》固《こ》の撰《せん》。妹の班昭による補訂がある。
(四四三) 旃毛《せんもう》 毛織物に用いる動物の毛。
(四四四) 雪に和して 雪と混ぜて。
(四四五) 持節十九年 蘇武は天漢元年(100B.C.)匈奴に抑留され、昭帝の始元六年(81B.C.)漢に帰った。その間、十九年間、漢人としての節を屈しなかったのである。
(四四六) 侍中《じちゅう》 天子の左右に侍し、政務を奏上する役目の官。漢代では加官(本職以外に兼務する官)であった。
(四四七) 陽陵《ようりょう》 陝《せん》西省《せいしょう》長安の近くにあった墓域。
(四四八) 漢節 漢の天子から使節の証として与えられた割符。
(四四九) 姑《こ》且水《じょすい》 いまのシベリアを北に流れ、バイカル湖にそそぐ河。つぎの「m居《しっきょ》水《すい》」もおなじ。
(四五〇) 丁霊《ていれい》族 前出「丁霊王」(注四一二)参照。
(四五一) ─中厩監《いちゅうきゅうかん》 宮中の厩舎を監督する部局の長官。
(四五二) 剽盗《ひょうとう》 すばやく脅して盗む盗賊の意。追《おい》剥《は》ぎ。
(四五三) 訛《か》伝《でん》 誤って伝えられたこと。間違った言伝え(伝聞)。
(四五四) 節旄《せつぼう》 天子が自分の使者にあたえる標識の旗。使節旗。
(四五五) 貂裘《ちょうきゅう》 貂《てん》(いたちに似た動物で、木に住む。毛皮はしなやかで、茶または黒。貴人の服として用いられる)の革衣。
(四五六) 故人 ここでは知人の意。
(四五七) 弗陵《ふつりょう》 武帝の第六子で、昭帝。第八代皇帝、在位十三年。
(四五八) 霍光《かくこう》(?〜68B.C.)平陽の人。霍去病《かくきょへい》(注二七九)の異母弟。字《あざな》は子《し》孟《もう》。武帝から奉車都尉に任ぜられ、のちに大司馬大将軍に進んだ。武帝の遺言で、金日ミ《きんじってい》・上官桀《けつ》とともに幼い昭帝を補佐して功のあった人物。
(四五九) 大司馬大将軍 漢代の官制で、軍事をつかさどる三公のひとつ。
(四六〇) 左将軍 左は将軍の名号。漢代になってから、将軍にはじめて左右、前後、車騎、驃騎《ひょうき》などの号が任務・部署に応じて加えられた。
(四六一) 上官桀《けつ》 上マ《じょうけい》(甘粛省)の人。字は少叔。霍光とともに昭帝を補佐し、安陽侯に封ぜられたが、のち帝を廃そうと策して破れ、殺された。
(四六二) 刀環 刀の柄頭《つかがしら》につける環。環と還とが音が通じるため、故郷に帰る意を寓《ぐう》する。任立政も刀環を撫《な》でることで、帰郷せよとの意志を伝えようとしたのである。
(四六三) 博《ばく》戯《ぎ》 博は中国古代の遊戯で、漢代に流行した。盤上に棊(こま)を並べ、六本の箸《ちょ》(さいころにあたるもの)を投げて、出た目の教だけ棊を進めて陣を争う。
(四六四) 椎結《ついけい》 結はもとどり。さいづちまげのこと。
(四六五) 始元六年 昭帝の年号で、前八一年にあたる。
(四六六) 上林苑《じょうりんえん》 陝西省西部にある皇室の庭園。秦《しん》の始皇帝によって造営され、武帝が拡張した。
(四六七) 帛書《はくしょ》 うすい絹の布に書いた書簡。
(四六八) 常恵《じょうけい》 漢の武将。蘇武《そぶ》に随行して匈奴《きょうど》に使し、蘇武とともに抑留された人物。十余年後に漢に戻《もど》った。
(四六九) 径万里……安帰 訓は〈万里ヲ径(わた)リ、沙幕(さばく)ヲ度(わた)ル。君ノ将ト為(な)リ匈奴ニ奮(ふる)ウ。路(みち)窮(きわ)マリ絶エ、矢刃(しじん)摧(くだ)ク。士衆(ししゅう)滅ビ名已(すで)ニ{(くず)ル。老母已ニ死シ恩ヲ報ゼント欲スト雖(いえど)モ、将(まさ)ニ安(いずく)ニカ帰セン〉。大意は〈わたしは万里の長い道を越え、砂《さ》漠《ばく》をわたって長征の軍を指揮し、天子の将軍として匈奴を相手に奮戦した。しかし、武運つたなく、匈奴の大軍に包囲されて脱出の道を断たれ、刀折れ矢尽きてしまった。部下の兵士は全滅し、わたしも捕らえられて武人の名誉はもはや地に墜《お》ちた。年老いた母は処刑されてすでに亡《な》く、いまは恩を報じたいと思っても、いったい何《ど》処《こ》に帰っていったらいいのだろうか、わたしには帰るべき場所はすでに無い〉。
(四七〇) 魯仲連《ろちゅうれん》 戦国時代の斉《せい》の人で、『史記』魯仲連・鄒陽《すうよう》列伝に記事がある。高節を持した雄弁家で、秦の大軍が趙《ちょう》の都を包囲したとき、正義を説いて、秦の勢力に脅《おび》える魏《ぎ》の妥協政策を変更させた。また、斉の苦境を救ったこともある。
(四七一) 伍《ご》子《し》胥《しょ》 『史記』伍子胥列伝に記事がある。春秋時代末期の呉《ご》王《おう》夫差《ふさ》の家臣。楚《そ》の名家に生まれ、父と兄が平王に殺されたので、呉に亡命し、呉を助けて楚を攻め、平王の墓をあばいた。のちに呉・越の戦いの際、越王勾践《こうせん》との和《わ》睦《ぼく》に反対したが用いられず、みずから首を刎《は》ねて自殺した。
(四七二) 藺相如《りんしょうじょ》 『史記』廉《れん》頗《ぱ》・藺相如列伝に記事がある。戦国時代の趙の恵文王の臣で、上卿《じょうけい》。和《か》氏《し》の璧《たま》(春秋時代に楚の卞《べん》和《か》が山中で得た宝玉)を持って秦に使いし、強国の秦王を翻弄《ほんろう》し使命をまっとうした。将軍廉頗と刎頸《ふんけい》の交わりを結び、趙の安泰をはかった。
(四七三) 太《たい》子《し》丹《たん》 『史記』刺《し》客《かく》列伝に記事がある。戦国時代、燕王《えんおう》の太子。秦に人質として赴いたが、逃げ帰り、報復のため荊《けい》軻《か》を刺客として秦に差向けた。しかし失敗し燕王に斬《き》られた。
(四七四) 荊《けい》軻《か》 (?〜227B.C.)戦国時代の衛の人。太子丹の命を受けて秦の都咸陽《かんよう》に潜入し、秦王を暗殺しようとして果たさず、逆に殺された。易水《えきすい》の別れは有名である。
(四七五) 屈原《くつげん》 (332B.C.〜295B.C.)『史記』屈原・賈《か》生《せい》列伝に記事がある。戦国時代の楚の詩人・政治家。名は平、字《あざな》は原。王族で懐王・頃襄王《けいじょうおう》に仕えたが、讒言《ざんげん》によって退けられ、江南に追われた。楚の亡国の危機を憂憤《ゆうふん》し、汨羅《べきら》に投身自殺した。
(四七六) 汨羅《べきら》 湖南省の北部を流れる川。
(四七七) 懐《かい》沙《さ》之《の》賦《ふ》 屈原が汨羅に身を投じるときに作った文章。憂国の情にあふれている。『楚辞』に収められ、司馬遷も『史記』に長文の引用を試みている。
(四七八) 巫蠱《ふこ》の獄 漢の武帝の晩年、征和二年(91B.C.)に宮廷内の陰謀で起った内乱。巫蠱とは桐《きり》の木で作った人形を土中に埋めて、ひとを呪《のろ》い殺そうとする呪術《じゅじゅつ》。 江充《こうじゅう》という策士の誣《ぶ》告《こく》で、巫蠱を疑った武帝が多くの人間を捕らえ獄死させたとき、武帝の長子戻太《れいたい》子《し》(名は劉拠《りゅうきょ》)は江充を捕らえて斬ったが、逆に謀反《むほん》と見做《みな》され、丞相《じょうしょう》の軍に攻められ六日間の戦いののち敗れて自殺。母の衛皇后も死を賜った。
(四七九) 惘然《もうぜん》 ぼんやりしたさま。
(四八〇) 槐樹《かいじゅ》 まめ科の落葉高木。初夏に蝶《ちょう》の形をした黄白色の花を開く。黄色の染料を取る。
(四八一) 憑依《ひょうい》 つきもの。霊や怪異ののりうつること。
(四八二) 巫《ふ》者《しゃ》 神おろしをしたり、呪術をほどこす人間。
(四八三) 元平元年 昭帝の年号。前七四年。
(四八四) 壺《こ》衍p《えんてい》単于 匈奴の王。狐《こ》鹿《ろく》姑《こ》単于(注四三二)の子。始元年間に単于に即位したが、年少で統率力に欠けたため、衛律(注四一一)が漢との和親を策して、蘇武らを漢に帰した。
(四八五) 左賢王、右谷蠡王《うろくりおう》の内紛 左賢王は匈奴の貴族の筆頭で、皇太子にあたる本来の王位継承者。谷蠡王は賢王に継ぐ匈奴の貴族で、左・右があった。狐鹿姑単于は死ぬとき、わが子の左谷蠡王が年少なのを慮《おもんぱか》って、弟の右谷蠡王を即位させよと遺言した。しかし、母のハ渠閼《せんきょえん》氏《し》が衛律と謀《はか》って、左谷蠡王をたてて壺衍p単于とした。このため、左賢王と右谷蠡王がともに不満で、単于に反抗したのである。『漢書』匈奴伝。
(四八六) 烏《う》藉《せき》都尉《とい》 漢の宣帝の五《ご》鳳《ほう》元年(57B.C.)、匈奴に乱立した五単于のひとり。部隊長(都尉)の身分で、単于を僭称《せんしょう》し、呼《こ》韓《かん》邪《や》単于に滅ぼされた。
(四八七) 呼《こ》韓《かん》邪《や》単于 匈奴の王。虚《きょ》閭《ろ》権《けん》渠《きょ》単于の子で、名は稽《けい》侯┏《こうさん》。神爵四年(58B.C.)に即位、握衍《あくえん》ホ《く》p《てい》単于を滅ぼし、また漢の宣帝に和を請《こ》い、その援助を得て、匈奴を統一した。元帝の時代、王昭君(元帝に仕えた女官、王女の身代わりに匈奴に嫁いだ、のちの明妃)を妃とした。
(四八八) 宣帝 漢の第九代の皇帝。名は劉詢《りゅうじゅん》。戻太子の孫にあたり、匈奴と親和政策を取った。五鳳二年は前五六年。
(四八九) 李陵の子 『漢書』の原文は〈是時李陵子復立烏藉都尉為単于呼韓邪単于捕斬之〉とある。
三好行雄
年譜
明治四十二年(一九○九年) 五月五日、東京市四谷区箪笥町五十九に、父中島田人、母千代子の長男として生れる。父は中学校の漢文教師で、父方の祖父中島撫山は漢学者であった。
明治四十三年(一九一○年)一歳 生母が離婚し、以後父の郷里埼玉県久喜町の祖父母のもとで育てられる。
大正三年(一九一四年)五歳 二月、父が紺家カツと再婚。
大正五年(一九一六年)七歳 父の勤務地奈良県郡山の父母の下に移り、四月、郡山男子尋常高等小学校に入学。
大正七年(一九一八年)九歳 七月、父の転任のため浜松市に移り、浜松西尋常小学校に転入学。
大正九年(一九二○年)十一歳 九月、父の転任のため京城市に移り、京城龍山尋常小学校に転入学。
大正十一年(一九二二年)十三歳 京城中学校に入学。
大正十二年(一九二三年)十四歳 三月、妹澄子誕生。継母カツ死去。
大正十三年(一九二四年)十五歳 四月、父が飯尾コウと再婚。
大正十五年・昭和元年(一九二六年)十七歳 一月、三つ子の弟妹、敬・敏・睦子誕生(いずれも幼児期に死去)。四月、中学四年修了で第一高等学校文科甲類に入学。寄宿舎に入り、隣室の氷上英広を知る。
昭和二年(一九二七年)十八歳 春、肋膜炎にかかり一年間休学。夏、伊豆下田に旅行。十一月、第一高等学校校友会発行「校友会雑誌」に『下田の女』を投稿掲載される。
昭和三年(一九二八年)十九歳 この頃よりすでに喘息の発作があった。
昭和四年(一九二九年)二十歳 二月、文芸部委員となり、四月より「校友会雑誌」の編集に参加する。秋、氷上英広、吉田精一ら十数名で、同人雑誌「しむぽしおん」をおこす。
昭和五年(一九三○年)二十一歳 四月、東京帝国大学国文学科に入学。六月、伯父斗南中島端死去。永井荷風、谷崎潤一郎の全作品をほとんど読み、ダンスや麻雀に熱中する。
昭和六年(一九三一年)二十二歳 八月、浅草の踊り子を集めて台湾興行を企てたといわれる。
昭和七年(一九三二年)二十三歳 三月、橋本たかと結婚。八月、旅順の叔父比多吉を頼り、満州、中国を旅行。秋、朝日新聞社の入社試験を受けたが、第二次の身体検査で不合格となる。
昭和八年(一九三三年)二十四歳 三月『耽美派の研究』を卒業論文にして、東京帝国大学国文学科を卒業。四月、同大学院に入学。研究テーマは森鴎外であった。同時に、父の教え子が経営する財団法人横浜高等女学校教諭となり、国語と英語を教える。教職の余暇に、英文学、中国文学を研究。四月、妻の郷里にて長男桓誕生。九月『斗南先生』脱稿。十一月、妻子上京、目黒区緑ヶ丘に住む。この年より十二年にかけて『北方行』を執筆。
昭和九年(一九三四年)二十五歳 二月ごろ、『虎狩』を脱稿し、「中央公論」の懸賞に応募。七月、選外佳作と発表される。三月、大学院を中退。九月、喘息発作のため生命が危ぶまれた。
昭和十年(一九三五年)二十六歳 この年、ラテン語、ギリシア語を学び始めたらしい。
昭和十一年(一九三六年)二十七歳 三月、横浜市中区本郷町三ノ二四七にはじめて一家を構える。小笠原に旅行。四月、継母コウ、死去。この頃、深田久弥を訪れる。八月、中国に旅行。十一月、『狼疾記』を脱稿。
昭和十二年(一九三七年)二十八歳 一月、長女正子誕生。三日目に死亡。十一月から十二月にかけて和歌五百首を作る。喘息で眠られぬ夜ごと、一人将棋を楽しんだ。
昭和十三年(一九三八年)二十九歳 草花つくりに夢中になる。
昭和十四年(一九三九年)三十歳 この年より喘息の発作が劇しくなる。相撲、天文学、音楽に興味を持つようになる。一月『悟浄歎異』を脱稿。この年、オルダス・ハックスレーの『スピノザの虫』を翻訳。
昭和十五年(一九四○年)三十一歳 二月、次男格誕生。この頃より、アッシリア、古代エジプトの歴史を勉強しはじめ、プラトーンのほとんど全著作を読む。暮れごろより喘息の発作がしばしば訪れ、週一日か二日という勤務状態になる。
昭和十六年(一九四一年)三十二歳 一月、『ツシタラの死』を脱稿。転地療養を真剣に考えはじめ、二月、横浜高等女学校を休職。四月ごろ、『山月記』を書き上げる。この頃、ほとんど毎週土曜日に作品を携えて深田久弥を訪ねる。六月、南洋庁への就職がほぼ決まり、別れの挨拶かたがた深田久弥を訪ね、『ツシタラの死』『古譚』などの原稿を託す。同月、国語編集書記として南洋庁内務部地方課勤務となり、パラオ島に赴く。
昭和十七年(一九四二年)三十三歳 二月、『山月記』『文字禍』が『古譚』と題して「文学界」に掲載される。三月、出張のため帰京。五月、『ツシタラの死』を『光と風と夢――五河荘日記抄』と改題し、「文学界」に発表。六月、『弟子』脱稿。七月、第一創作集『光と風と夢』を筑摩書房より刊行。八月、南洋庁へ辞表を提出。十月、『李陵』を一応書きあげる。この頃より喘息の発作が激しく、心臓が衰弱する。十一月中旬、世田谷区の岡田医院に入院。同月、第二創作集『南島譚』を今日の問題社より刊行。十二月、『名人伝』を「文庫」に発表。同月四日、午前六時、喘息のため岡田医院にて死去。多磨墓地に葬られる。
昭和十八年(一九四三年)一月、『章魚木の下で(遺稿)』が「新創作」に掲載される。二月、『弟子』が「中央公論」に掲載される。七月、深田久弥の命名で『李陵』が「文学界」に掲載される。
昭和十九年(一九四四年)八月、中国語訳『李陵』が上海の太平出版公司より刊行される。
昭和二十二年(一九四七年)四月、『石とならまほしき夜の歌(遺稿)』が、「芸術」に掲載される。
昭和二十三年(一九四八年)五月、『北方行』が、「表現」に掲載される。
『中島敦全集』全三巻(十月〜二十四年六月、筑摩書房刊)
昭和三十四年(一九五九年)
『中島敦全集』全四巻、補巻一巻(六月〜三十六年四月、文治堂書店刊)
昭和五十一年(一九七六年)
『中島敦全集』全三巻(三月〜八月、筑摩書房刊)
(本年譜は、各種の年譜を参照して編集部で作成した。)