[#表紙(表紙.jpg)]
えんちゃん
岸和田純情暴れ恋
中場利一
[#改ページ]
(なあなあ、コレなにやろ)
(タンポポやんか、知らんの)
コッペパンのようなブルマをはいた少女がふたり、電信柱の根元に座り込んでいた。
(タンポポは知ってるけど、なんかコレ耳かきの先っちょについているフワフワみたいやで)
(うん、コレはな、冠毛《かんもう》ていうてフッと吹いたらいっぱい飛ぶねん。飛んであっちこっちタンポポだらけになるねん)
吹いてみようかと、ふたつのホッペタが大きく膨らんだ。その時である。
──ズサン!!
と、下駄を履いた大きな足が電信柱の上から降ってきた。
「ええ女やあ、いっつ見てもええ女やあ」
下駄履きにパンツ一丁。真っ黒に日焼けした男がジッと遠くを睨《にら》みつけ、足をジタバタさせた。
「おっちゃん! なにするんよ! タンポポさんが漬物《つけもん》みたいにペッシャンコやんか」
「じゃあっしゃい、ダレがおっちゃんじゃい。ニイちゃんて呼ばんかい、ドアホ」
言うが早いかすでに手が出ていた。
──ブンッ! という音がした時にはすでに、少女ふたりの頭のてっぺんに見事なタンコブが盛り上がっている。
「しっかしええ女や、なんとかせんと悪い虫でもついたらナンギやで。うんうん」
空気を切り裂くような声で泣く少女には見向きもせず、男はマバタキが極端に少ない目で、遠くを見つめたままだった。
つい今さっき、電信柱の真下を通ったアベックがゆっくりと遠ざかっていた。
「ええーい。当たって砕けろじゃい」
男は目の前に停めてある子供用自転車にまたがると、アベックめがけて突進していった。
少女たちの泣き声が一段と高くなっていた。
「そうか、まだ半年かいな。そのわりに岸和田弁、うまいな」
田宮は自転車を手で押しながら、自分にしか聞こえないように舌打ちをした。家業であるプラモデル屋の前を江美が通った時、慌てて追いかけて来たのはいいが、江美と田宮の間に自転車を挟むような恰好《かつこう》で降りてしまった。
「うん、早いこと言葉を覚えんと、仕事を覚えるの遅《お》そなるし」
江美は両手をうしろで組みながら、道に落ちている小石をひとつ蹴《け》った。
空気が辛い。
生まれ育った富山から初めて岸和田に降り立った時、まずそう思った。
汽車に乗って大阪駅に降りた時にはそれほど思わなかったのであるが、南海電車に乗って大和《やまと》川を渡ったとたん、空気が変わった。
──ジャリ。と砂を噛《か》むような辛い空気の下、まずは駅員にどなられた。
あの……野田織布というゥ……大きな工場ォはァ、どこですかァ──。
「おう、あの工場かい。それやったらその道、パーと行って右にツーと曲がってピーと行ったらあるわい。わかったけ」
わかるわけがなかった。パーツーピーと言われるのも初めてだし、どうしたらこんなに早口でしゃべれるのか、江美は駅員の口を茫然《ぼうぜん》と眺めるしかなかった。
「わからんのかい、よォーねーちゃん。ピーと行ってダーと曲がってデーと行ったらあるっちゅうねん。ワイ、なんかヤタケタなこと言うてるかえ」
聞き返すたびに変わる。五回ほど聞き返したであろうか。
「ワレ自分で探せ! ダアホ!!」
えらく怒られてしまった。結局意味がわかったのは最後の台詞《せりふ》だけであった。
それからというもの、工場で働く地元の人の言葉をオウム返しに繰り返しているうちに、なんとかうまく話せるようになってきた。言葉の意味がわかるにつれて、岸和田の土地が好きになっていった。気は短く荒いが、ざっくばらんで世話好きな人が多い土地だった。おかげでオウムちゃんと工場で呼ばれるようになってしまったが。
「なんやねん、ひとりで笑《わ》ろて。気持ち悪いなあ」
「あっ、ごめんごめん、いろいろ思い出してたから」
田宮の声に、ふと我に返った江美はまたひとつ小石を蹴った。土地が変われば小石の転がりかたまで違うような気がする。
「思い出したついでに、ボクがこないだ言うたことも、思い出してくれへんかなァ」
いまいましそうに自転車をまたぐと、田宮は改めて江美の側に降り立った。
「言うたことって……」
「デートやがな、今度いっしょに活動映画を見に行こて」
田宮が一歩寄ると、江美も一歩、横に移動した。砂浜を歩くカニのようにふたりは横移動を繰り返し、
「な! 行こや。あすこの電気館でええ活動がかかってんねん」
と、大きく田宮が足を踏み出した。自然立ったままの大の字のようになる。
「うわあー!! ブ、ブレーキィブレーキー!!」
江美の後方から大声が聞こえ、下駄であろう、木で地面をこする音が聞こえた。
──はぐふぅ──
すべての音が止まった時、江美の横に立っていた田宮の股間《こかん》から、子供用自転車のタイヤが突き出ていた。
「あっ、ごめんごめん、すまん堪忍」
聞いたことのない男の声と同時に、田宮がぴょんぴょんと飛び跳ね始めていた。タイヤが田宮のどこを直撃したかは、江美にもわかったが、飛び跳ねるほどの痛さはどんなものなのか、そこまでは知らない。
「あれな、けっこう痛いんやど。見てるほうはおもろいけどな」
涼しい顔で笑う男が、子供用自転車のハンドルに覆い被《かぶ》さるように立っていた。
「オレのこと、知ってるか」
「…………」
江美はただ首を振るだけだった。さっきまで横にいた田宮の目とは、あきらかに違う目がそこにあった。自分の顔を木端微塵《こつぱみじん》に打ち砕くような鋭い眼光が、音をたてるかのように向けられていた。なによりも男はパンツ一丁に下駄だけである。
「そうか知らんか。オレは、俊夫いうねん。ワレはなんちゅうねん」
「はい?」
と突然のことに江美はどうしていいものかもわからずに、聞き返してしまった。と同時に俊夫の奥歯がギリリと音をたてた。
「おんなじことなんべんも言わすな。ワレの名前はなんちゅうねん」
「江、江美です」
「そうか。ほたらえんちゃん≠竄ネ」
ぽっと俊夫が赤くなるのがわかった。パンツ一丁で赤くなった俊夫は、まるで赤鬼のようである。それよりも江美を驚かせたのは、俊夫が言ったえんちゃん≠ニいう言葉である。田舎ではずっとえんちゃん≠ニ呼ばれていたが、こっちに来てからはずっとオウムちゃんかえみちゃん≠セった。
「なんでえんちゃん≠ト知ってんの」
江美はおそるおそる聞いてみた。ひとつでも間違ったことをすればタダではすまない。俊夫の目を見るとそう感じた。
「知るかいそんなこと」
言ったのは自分なのに、ぶっきらぼうに答えた俊夫は、
「オレは俊《とつ》しゃん≠ト呼ばれてる。のォ田宮」
と、いまだに飛び跳ねたままの田宮に言ってはいるが、田宮からの返事はなかった。どうやらふたりは知り合いのようである。
「ひとつ、聞いてもええ……」
「ひとつだけやど」
江美が言うと、俊夫はさもめんどくさそうに田宮を見つめたまま答えた。いつまでも痛がっている田宮が気に入らないのか、コメカミがヒクヒクと動いていた。
「なんでそんな恰好してるん? まだ春やのに」
「バクチや博奕《ばくち》、博奕の帰りや」
「博奕に行ったら、みんなそんなカッコせんとあかんの」
「じゃかまっしゃい、ふたつも聞くなて言うてるやろがい! こらあ田宮あ!! シャキッとせんかい!!」
地が割れるんじゃないかと思うくらいの大声だった。ドスのきいた大声を聞いた江美は自分の足が宙に浮いたように思った。
「い、いよお……俊しゃんやんけ……」
もともと宙に浮いていた田宮は江美とは逆に、やっと足が地についたようだった。
「ほれ、俊しゃん≠ト呼んどる」
俊夫はニカリと笑うと、改めて田宮を指さし、
「あいつ、田宮で模型屋やけどな、あの有名なタミヤ模型とはちゃうで。パッチもんや」
と、実にうれしそうに言った。江美には何のことだかさっぱりわからなかったが、笑わないと恐そうなので笑うことにした。
「それよりか、や」
その笑顔を見抜くように、俊夫はクルリと振り返った。マバタキしない目が、江美を睨みつけていた。
「今週の土曜日、活動に行くど。なん時にどこ迎えに行ったらええ」
「はァ?」
聞き返すなと、俊夫のコメカミが言っていた。右手一本で子供用自転車をゴミ箱のフタでも持つように持ち上げていた。
「なん時にどこやねん」
江美は習いに行っているお華教室の場所を教え、夕方ごろとだけ言った。嘘でも言えば、自分も自転車のように持ち上げられて、どこか遠くのほうまで投げ飛ばされるように思った。
「よっしゃわかった、ほな!」
言った時には自転車にまたがり、あっという間に去っていた。
「あいつな……イバラの俊しゃんいうてな。ゴンタさしたら世界一の奴や。あれの親もイバラのなんとかいうてたなァ」
目を泳がせた田宮はそう言いながら、俊夫の背中に向かって石をひとつ投げた。すでに小さな点になってしまった俊夫の背中ではあるが、田宮の声はそれでもコソコソ声だった。
「イバラてあのトゲのあるバラのこと?」
「そや、触ったら大ケガするんや。あんまり、関わらんほうがええで」
「それより田宮さん。自転車乗って行かれたみたいやよ」
「あ──!!」
子供用自転車だけがポツンと残っていた。
岸和田の横に忠岡町という小さな町がある。泉北郡忠岡町。小さいからとなめてはいけない。なんと泉北郡には忠岡町しかない。○○町も××町もなく忠岡町のみである。その忠岡町の隣に泉大津市という毛布で有名な市があり、両方を分断するかのように川が流れている。川の上にはコンクリートの橋がかかり、橋を泉大津側に降りきった所が江美の通う、お華教室である。
「えみちゃん、また来てるよ赤鬼さんが」
きれいにそろえたぞうりを履き、江美が外へ出ると、教室の仲間たちがはやしたてた。
今日が俊夫との約束の日、映画を見に行く日なのであるが、俊夫は三日ほど前からずっとこの時間にやってくる。
そして黙って立っている。
やってくるだけで声をかけるでもなく笑うでもなく、川の流れをじっと睨みつけているだけである。
ただ江美がペコリと頭を下げて俊夫のうしろを通り抜けたりすると、真っ黒に日焼けした顔がみるみる赤く変わる。それにいつもパンツ一丁に下駄だけである。だれが見ても赤鬼そのものだった。
──あの赤鬼は、どうやらえみちゃんに気があるらしい──
教室に通う女性たちに噂が広まるのはあっという間である。
「赤鬼は動くけどあの人は動かへんやんかァ、どっちか言うたら郵便ポストやで」
「ほんまやな。えみちゃんからの手紙でも口の中に入れてあげたら、アブク出して倒れるんとちゃうやろか」
「それやったら茹《ゆ》でたカニやんか」
いろいろと言われているのを俊夫は知らない。
「こんにちは……」
江美が声をかけた時、俊夫はすでに真っ赤だった。教室帰りの女性たちすべてから「えみちゃーん」とでも言われたのであろう。
「ごっつい水カサや」
赤い顔で振り返った俊夫は、川の流れを指さして言った。水牛の群れが走るかのように川が流れていた。
「はい」
それがどうしたといった顔で江美は聞き返したが、それっきりである。俊夫はまた川の流れへと目を落とした。あんがい横顔が涼しい顔立ちだった。
「なんの……映画に行くん?」
江美は俊夫の横顔を見ながら言った。言ったと同時に俊夫が振り向いたものだから、慌ててうしろへ下がった。
カシャン──、と音がしたので見ると、田宮の自転車が停まっていた。まだ返していないらしい。
「そうか! やっぱり今日か! そうかそうか」
江美が下がった分、俊夫は前進し、江美の肩をわしづかみにして揺すった。そして立て続けに言った。自分は時間のほうは覚えていたが、日にちのほうを忘れてしまった。だからといって誘ったほうが「いつだった」とは聞けない。
「それで毎日、立ってたん?」
うん──と俊夫は首を縦に振った。その顔がなんとも無邪気で江美はドキリとした。
「それにしても今日もパンツ一丁やけど」
「ああ、コレかあ」
ポリポリと頭をかきながら笑う俊夫は、まさに悪ガキがそのまま大きくなったような顔だった。
「また博奕ていうやつ……」
「アホか……今日は暑いだけじゃ。行くど」
乗れ、と俊夫は顎《あご》で自転車のうしろをさし、江美のお尻が荷台に着地するや、前輪を浮かせて発車した。
「重たいから、前のタイヤ浮いたわ」
「やらしいこと言わんといて! 重たくありませんよォーだ」
ピシャリと俊夫の背中をたたいた江美は、慌ててその手を引っ込めた。男性の素肌を触った驚きか、心臓がドキドキしていた。
──ORION座。
流れるような英語で書かれた文字の下には、江美が見たこともないヤクザ映画のでかい看板がかかっていた。しかも三本立て。そのうえ俊夫は、
「ニイちゃん木戸銭、木戸銭! お金払ろてや!!」
というモギリの女性に向かって、
「アホかいクソババア! おもろいかおもろないかわからんもんに、なんでゼニ払えんねん。お代は見てのお帰りで、ちゅうのん知らんのかい!!」
と、さっさと中へ入ってしまった。
しまった、これなら田宮くんと電気館のほうへ行けばよかったか、と思う江美ではあるが、ついて来てしまったものはしかたがない。
「あ、すみません……」
と、江美がキップを買い、俊夫のあとを追うようにして中へと入って行った。
真っ暗である。
目がまだ慣れてない江美は入口のドアの所に立ち尽くしていた。独特の匂いの中、
「朝吉ー! そこやいてまえ、ソリャア!」
「清次わりゃなにしてケツかんねん!」
という男どもの大声が聞こえ、その合間に俊夫の声が聞こえた。
「えんちゃん! ここやここ。どこ見てんねん、そのまま左向いて……そこや!」
言われるままに首を動かすと、真っ黒な俊夫が真っ暗な映画館の中で、溶け込むように手を振っていた。パンツをはいてなかったらカメレオンのように見えなかったかもしれない。
「ごめんやっしゃあ、前ごめんやっしゃあ」
江美の手を引いた俊夫は、足を曲げる先客たちを下駄で蹴散《けち》らすようにして席に座り、またすぐ立ち上がった。
「チッ、立つなやボケが」
うしろの男が言ったが、俊夫がジッと睨みつけるや、口にチャックでもしたかのように黙りこんだ。
「なんか、欲しいもんあるか」
顎をひょいと動かし、俊夫は売店をさした。売店が中にあった。へェー売店が中にあるのか、珍しいなァなどと感心している場合ではなかった。俊夫の声はでかい。体もでかい。
声と体のでかい者は映画館で嫌われる。
「アイスかい、冷やしアメかい、なにほしいねん!」
「アイス、アイスでいいです」
江美が言うと俊夫は「よっしゃ」と、先客たちに足を曲げさせて席を立つ。そしてまた帰ってくる。
「なんの味のアイスや」
また行って帰ってくる。
「菓子はいらんのかい、よお」
何回かそんなことを繰り返したころである。
「ええかげんにさらさんかい、くおらァー」
ひとりの男が足を伸ばして通せんぼをした。
左にならえで数人が同じことをした。
「ほほう、そうきましたか、と」
言うが早いか俊夫は下駄を履いたまま、先客たちの太股《ふともも》の上を走り抜けてしまった。
「痛たたた!! いてもうちゃろかオドリャ!!」
「じゃかまっしゃい、早よかかってこい」
ひとりが立ち上がると下駄で額をたたき割り、またひとりが立ち上がると鼻のてっぺんに頭突きを入れる。
まるでケンカをしに来たようなものである。
「ぼやっとすな! 逃げるど!」
暴れるだけ暴れ、人をどつくだけどつくと、俊夫は江美の手を引いて走った。
「自転車! 自転車どないすんのォ!」
「ほっとけ! 田宮のんや、気にすな!!」
数十人が追いかけて来ていた。中には刃物を持った者もいた。
「もったいないやんか、せっかくお金払ろたのに何も見てないやん!」
江美はぞうりを手に持ち走っていた。片手はしっかりと俊夫が握っていた。
「払ろたんかいドアホ! そやから見てのお帰りに、て言うたやろ」
「それをいうなら、見てのお楽しみ!」
「すまん!!」
江美は走った。うしろからは血相を変えた男の群れが追っていたが、不思議と怖さはなく、弾《はじ》けるように楽しかった。
「おい、飛び込むど、えんちゃん!」
橋の上まで来た時、俊夫が言った。追っ手は声が聞こえるほどに迫っていた。
「うん!!」
言った自分が信じられなかった。
次の瞬間、体が浮き、俊夫に抱きかかえられるように江美は水の中にいた。
ゆっくりとゆっくりと──。
俊夫の大きな背中は江美を乗せたまま、浜のほうへと泳いで行った。
大きく開かれた窓の外には、一番星が見えていた。
「このゴールデン・バットて、黄金のコウモリていう意味らしいね。見たことないけど」
その一番星にかけ登るかのように、煙草の煙は窓から外へと消えてゆく。
「それはそうと、えみちゃん。赤鬼さんとはうまいこといってんの、毎日迎えには来てるみたいやけど」
江美はじっと一番星を見つめていた。
──あの一番星なあ、ホンマは星とちゃうねんぞ。ロケットたら言うもんらしいわい。こっち向いて飛んできてんや──
言ったのは俊夫である。江美のお華教室への送り迎えは俊夫がするようになっていた。
──しかもロケットは中国製や。よお見てみい、ラーメン鉢とおんなじ模様が見えるわい──
そのうえ寿≠ニいう字まで見えるという。一番星にである。
「騙《だま》されたんかなあ……」
江美はお華教室の窓枠にちょこんと顎《あご》をのせると目をつむった。まぶたの底に残った一番星にも寿≠フ字は発見できない。
「なあて! えみちゃん! ひとの話を聞いてんのお!」
「え?」
声に驚いて目を開けると、煙草の煙の中、ちりちり頭の顔があった。お華教室の先輩、本木さんである。
「あ、ごめん、電気さん。聞いてなかったわ」
振り返った江美の前に座る本木さんは、みんなから「電気さん」と呼ばれている。天然パーマの髪の毛があまりにチリチリで、まるで電気パーマをかけたみたいだからである。では電気パーマとはどんなパーマだと聞かれると江美も困ってしまうのであるが、なんとなく本木さんの頭を見ればわかる。近所の子供たちが描く、カミナリ様の絵を見て、
「本木さんと同じ所でパーマあててんのかな」
と、言ってみたい日もあるが、同じ天然パーマでゆったりとウエーブのある江美がそんなことを言えば、
「なにソレ。イヤミ? お返しにわたしの今までの苦労話を聞かそうか。徹夜になるで」
と言われるに決まっている。その世界一の苦労人と自負する電気さんが、煙草の火を花瓶の水で消しながら畳をたたいた。
「どうなってんの、えみちゃん。赤鬼さんとはどこまでいったの」
電気さんの投げた煙草のすいがらが、江美の頭上を飛び越えて窓の外で小さな音をたてた。
「どこまでて……映画館まで行って……川にふたりで……」
江美はそこまで言うと、畳の上にの≠フ字をくねくねと書き始めた。あの日、川に飛び込んだ江美は、泳ぐ俊夫の背中に乗りながら不覚にも眠ってしまった。
──ワレおまえ、けっこうド性根《しようね》すわってんのお。つかまったら殺されるかも知れんのに、オレの背中で寝言いうんやもんなあ──
細く切れ上がった目を大きく見開き、俊夫は言ったものである。
──なんて言うてた、うち。
──パイナップルとか、さとうきびとか、イチジクの時はうれしそうやったわい。
食べ物ばかりの寝言かと下を向く江美の頭を、俊夫は笑いながらコツンとたたいた。
──なんで眠ったんやろ。大きな背中で安心したんかなあ──
江美はの≠フ字を書きながら、ひとりではにかんだ。
「なにひとりで笑《わ》ろてんの。気持ち悪いなあ。うちが聞いてんのは場所と違ごてホレ、どのへんまでいったのかていうこと」
「え!!」
畳に書かれるの≠フ字が突然ぬ≠フ字に変わり、江美の顔は燃え上がった。目の前に闘牛場の牛がいれば、江美の顔めがけて突進してくるであろう。
真っ赤っかである。
実はまだ、なにもされてはいない。
いないが言われたことがある。
──オレと結婚せい──
命令口調で言っておきながら、俊夫はプイと横を向いた。パンツ一丁、おたがい川に飛び込んだからずぶ濡《ぬ》れ、そのうえ初デートである。
──ちょっと待って下さい。
当然江美は言った。言ったとたんに俊夫の目つきが変わり、江美を睨《にら》みつけてきた。しかし一生の問題、江美もあとにはひけない。
「そんなん、うち、あの人の家も知らんし、家族も知らんし、どんな人かは……なんとなくわかるけど」
畳の上はぬ≠フ字だらけである。
「ちょっと、えみちゃん! あんた大丈夫? なにひとりで困り果てた顔してブツブツ言うてんのん。けったいな娘《こ》やなあ」
電気さんは江美の顔をあきれたように覗《のぞ》き込み、中指で煙草の箱をバシバシたたくと、新しいゴールデン・バットを口にくわえた。
口の端にくわえた白い巻煙草が、なかなかサマになっていてカッコイイ。
「電気さんはァ、なんていうか……男の人に結婚してくれェーて、言われたことある?」
電気さんなら相談にのってくれるだろうと江美は思った。
「あるよ! 言われたことも言うたこともあるよ。場数で勝負したらうちはチャンピョンになれるで」
男に騙された女の世界大会でもあれば、わたしは必ず出場して上位を狙う、といつも豪語している電気さんである。ははーんと煙草に火をつけると江美の顔を覗き込んだ。
「あんた、えみちゃん、ひょっとしてプロ……プロ……?」
「プロポーズ」
「そうそれ! あんたけっこうハイカラな言葉知ってるな。そのプロポーズされたんか」
コクリと江美は頷《うなず》いた。
「へえー! 何回目の逢引《あいびき》で? なあ、五回目か、八回目か、あの赤鬼、ケンカは強そうやけど女には弱そうやから……十回目か」
電気さんの吐く煙草の煙の中、江美の人さし指がもち上がった。
「一回目えー! 初回からかいな」
「うん」
「やめとき!」
ピシャリと言うと、電気さんは鼻の穴から大量の煙を吐き出した。
「そんな男、ロクなもんとちゃうわ」
「なんで? ふつうは言わへんもんですか」
「言うかいな一回目で。やろか、やったるわいのケンカとちゃうねんで」
ならば自分の経験上から、ロクでもない男の条件をあげてやろうかと、電気さんは姿勢を正した。江美も思わず正座をするかたちとなった。
自分勝手な男。強引すぎる男。金を持ってない男。そのうえ夢も持ってない男。博奕《ばくち》好きな男。
電気さんはえんえんと言い続け、俊夫とロクでもない条件もまた、えんえんと当たり続けた。
「ほんで最後にこう言うたやろ」
「……」
「おまえだけは絶対に幸せにしてみせる! て」
泣きそうになっていた江美の顔が急に明るくなった。たったひとつ、違うところがある。
──おまえだけ幸せになるのんはズルイ。幸せはオレも半分もらう。そのかわり苦労も半分ずつや──
怒ったような顔で俊夫は言っていた。
「残念でしたあ。違いますぅー」
正座からピョンと飛び跳ねるように立ち上がった江美は、うれしそうに窓の外を見た。
「なんて言うたのん。あの赤鬼はなんて言うたのん」
「へへ、ないしょー」
「アホらし。えみちゃん、あんた赤鬼のことほれてもうたな」
窓の外は星だらけだった。一番星はほかの星にまぎれこんだのか、江美は見つけることができなかった。本当にロケットなのかな。
江美は明日|逢《あ》う俊夫のことを考えていた。
「でや、あれが通天閣や」
疲れたように肩を落として歩く江美に、俊夫は大声で振り返った。まばたきの少ない目は今日も刃物のように江美を睨みつけてはいるが、顔全体は崩れている。満面の笑みである。それに対し江美はクタクタ状態だった。
新世界へ行こう。
言いだしたのは俊夫で、言った五分後には電車に乗っていた。問題はこの電車である。
江美の生まれ育った富山の山奥には電車なるものがない。汽車である。大阪へ出てくる時も汽車でやってきた。そこで初めて電車に出会った。
江美は電車が大嫌いなのである。いや電車というより電車の座席が嫌いといったほうがいいであろう。
江美がいつも乗っていた汽車の座席はふたり掛けのが交互に並んだものだった。しかし今日、俊夫と一緒に乗った南海電車は、十人ほどが座れる長椅子タイプの座席である。
このふたつのタイプ、座れるだけでもいいのだが、大きな違いがある。汽車であれ電車であれ、駅に着いたらブレーキをかける。当たり前である。ブレーキをかければ座っている人はどうなるか。汽車の座席に座る人は前につんのめるか背中が背もたれに押しつけられる。電車に座る人は横に揺れるために足をふんばることになる。
体の小さな江美は座ると足が床にとどかない。足が宙に浮いた状態である。もしそんな人が電車の長椅子タイプに座ったらどうなるであろうか。ブレーキがかかった時、ふんばる足が浮いているのである。コロコロ転がってしまうではないか。
──えんちゃん! ここ空いてるど、座れや。
電車の中で俊夫のやさしさがアダとなった。
──遠慮すな、ホレ座れ座れ。
首をちぎれんばかりに横に振る江美を、俊夫は無理に座らせた。そしてブレーキがかかった。
コロコロコロ──。ドングリのように江美は隣に座る人へと、転がりながら接近してしまう。
──コラわれ! 人のオナゴにひっつくな。
俊夫は江美の隣に座る男のミゾオチへと、足の爪先《つまさき》をめりこますことになる。
「どないした、えんちゃん。さっきから両方の腕振りまくってるけど。昨日《きんの》の晩に腕立て伏せでもやりすぎたんかい」
人の気も知らない俊夫は、通天閣を仰ぎ見ながら言った。
「ううん大丈夫、ちょっと」
足がとどかないからと、手でふんばっていた江美の両腕は、筋が張りすぎてコムラ返りする一歩手前である。そんなことより通天閣、江美はもちろん初めてだった。
──あの辺は女ひとりで行くとこちゃうよ。岸和田より味付けは濃いよ──
電気さんはよく言っていた。
「来てよかったなァ、うん」
江美はひとり言をいうと、そり返るようにして通天閣のてっぺんを仰いだ。雲がひとつ、通天閣の真上で止まっていた。
「通天閣もなあ、昔はもうちょっと南よりに建ってたんや」
俊夫もてっぺんを見ているのか、喉《のど》になにか詰まったような声だった。
「移動したん?」
「そや、一年に一センチずつ東京のほうに動いてるらしい。ほんで東京タワーもちょっとずつ、こっち向いて動いてるらしいわい」
「え! ウソ! ホンマそれ」
江美は通天閣から慌てて目を移すと、俊夫の顔を見つめた。俊夫がまじまじと江美の顔を見ていた。
「ウソに決まってるやんけ。背ェ比べでもするんかい」
ハハッと笑った俊夫はくるりと背をむけ、
「次はジャンジャン町に、突撃ィ」
と歩き始めていた。
アッカンベー。江美は大好きな俊夫の背中へと舌を出すと、スキップをするようにあとを追いかけた。
ジャンジャン町。正式名称はジャンジャン横丁。通天閣から山王へと抜けるこの路地を、江美はすぐ好きになってしまった。
薄っぺらいスイカの切り売り、中古の電池や不ぞろいのスリッパを売る露店。スマートボールの店にビンゴゲームの店。将棋と碁の会所に、そこに群がる人々。
その通りを俊夫はさっそうと歩いている。
黒のスーツの襟には下に着た白い開襟シャツの襟が出され、頭には真っ白なソフト帽がのっている。そこへきて長身、ガッシリとした体格である。すれ違う女性が何人も振り返っていた。
「なに笑ろてんねんコラ、さっきから」
うしろを歩く江美の含み笑いの声が気になるのか、俊夫は体をひねるように振り返った。上着が風に舞い、ちらりと背広のネームが見えた。
──Tamiya──
借り物のようである。また模型店の息子をおどして無理矢理に借りたのであろう。
「ううん、なにもないけど」
俊夫を振り返る女性達に言ってやりたかった。この人ふだんはパンツと下駄だけで暮らしてますよと。
「なにもなかったら笑うなダアホ。それよりおまえ、腹へってないか」
人さし指でソフト帽の前をくいっと上げながら、俊夫は首を一回転させた。串カツ、ホルモンうどん、ドテヤキ、すし。ありとあらゆる店が立ち並び、ありとあらゆるいい匂いを路地へとまき散らしている。
「また食《く》いもんの寝言いわれたらカッコワルイからの」
「お腹なんかへってませんよォーだ」
言ったとたんに腹の虫が鳴いたが、俊夫には聞こえなかったようである。
「ほうか、ほたら一発、腹へらすために射的でもどうや」
「射的てなに」
「コレやコレやこれやがな。ちょうど煙草もきらしたとこや」
俊夫はライフル銃を目の高さで構える真似をすると、狭い横道へと入って行った。いちいち説明などしない男である。返事すら聞かない男である。江美はどうして煙草が関係あるのかさえわからず、自然と俊夫のうしろをついてゆく自分がいまいましくもあった。
古い木のカウンターの上に灰皿が置かれ、その横には小さな皿が置かれていた。それと同じものが十もあるであろうか、等間隔で用意されている。
「おばはん、ふたり分や」
俊夫はくわえていた煙草を灰皿にねじ曲げるように消すと、カウンターの上に小銭を置いた。同時に空気銃二丁とコルクの玉が十個、おたがいの小皿の上へとバラまかれた。
「ええか狙うんは、あの煙草やど」
俊夫は江美の前に置かれた空気銃を手に持つと、銃口にコルクの玉を詰めながら指さした。指の先三メートル向こうにいこい≠ニ書かれた煙草が立っていた。
「まあオレがやるの見とれ。煙草の箱のな、右肩を狙ろたら一発や」
銃口のコルク玉をカウンターの上でさらに押し込んだ俊夫は、体を伸ばすだけ伸ばすと片目をつむり、口をゆがめるように開けた。
「口は開けんとアカンの」
「これはクセじゃい。黙って見とれボケ」
江美のほうを見向きもせずに言った俊夫は、ポンッ! と一発目を発射した。玉は見事に煙草の右上部に当たり、当たった煙草は回転しながら乗っていた台のうしろへと落ちていった。
「落としたもんはもらえるっちゅうこっちゃ」
「うまいな、にーちゃん」
「まあな」
パイプ椅子に座っていた店の女性が落ちた煙草をカウンターの上へと置いた。
「おまえもやってみい」
またひとつ、コルク玉を銃口へと押し込んだ俊夫は、江美に空気銃を構えさせ、
「そうそう、煙草の右肩やど。回転させんと落ちれへん。倒れただけやったらオバハン、ケチやからなんもくれんぞ」
と、江美の手の上から銃身を握り締め、顔と顔とがひっつくかのように照準を定めた。目の前にゆがめて口を開ける俊夫の顔があった。
「用ォー意ィ!」
心臓が飛び出さないか心配するほどドキドキしていた。
「いっけえー!!」
──ドン!!
──ポンッ!!
コルク玉が発射される前に何かが江美の背中に当たった。玉は方向違いへと飛んでゆき、的のうしろのビニールに当たってコロコロと落ちていた。
「なんやねんオマエら、なにすんねん!」
「ええやんけオッサン、ワシらにも撃たしたれや、おう」
酒くさい息を吐く男が三人、江美の隣で射的をやっていた老人をこづいていた。男三人組のひとりの肘《ひじ》が、江美の背中に当たったようである。その男がドンヨリとした目で江美を見ていた。
「ごめんなネェちゃーん。肘が当たってもうたわい。肘鉄砲は女がするもんやでなあ、ワハハハ」
酒くさい息をまき散らかせて笑っている。
「おもろないど、ボケ!」
──ポン! と江美の真横で空気銃の発射音がし、コルク玉は見事に男の鼻柱に当たった。
俊夫の手が伸びていた。
「痛たあ! なにさらすんじゃい!!」
「やかまし。玉一発損したやんけ」
落ち着いた俊夫の声がした時には、空気銃が刀のように男の頭頂部へと振り下ろされていた。
ピッーと飛んだ返り血が、江美の白い首筋に赤い道のようにしたたり落ちた。男は気味の悪い悲鳴をひとつあげると、その場に崩れ落ちていった。
──なんやワレ! なにすんじゃいコラァア!!
──女の前やと思てイチビッてたらドエライメにあわっそクソぼけがあ!
残りふたりの男がいきり立つように江美の前で血相を変えた。
「なあにぬかしてんねんアホがァ。体の中身抜いて剥製《はくせい》にしてまうど」
腹のすわった声を出した俊夫は、江美を自分の背中に隠すようにすると、小さな声で江美に言った。
──オレは右の奴いてまうから、えんちゃんオマエは左の奴頼むど──
ちょっと待て、と江美は俊夫の背中をひいた。ふつう女に逃げろとは言っても、加勢は頼むまい。
「ちょ、ちょっとォ、どないしたらええんよ」
「ドタマで考えんな、勝手に体が動くわい」
「なにゴチャゴチャぬかしとんじゃい! よお」
右の男が一歩前へ出た瞬間、俊夫の大きなゲンコツが男の目玉へと打ち放たれた。
「なにさらしてんじゃい!! くおォらあ!!」
左の男があわてて俊夫に飛びかかっていった。江美はハイヒールを脱いで手に持つと、男の頭めがけて殴りかかっていた。
口の中ではまだ、血のかおりが残っていた。
「どつかれた時に切れたんやのォ、これ飲んどけ。消毒になるさけェ」
串カツを丈夫そうな奥歯でひきちぎりながら、俊夫はジョッキを指で押した。
濡《ぬ》れたカウンターの上にナメクジが通ったような跡がついた。
「うん、これ……ナニ?」
江美は差し出されたジョッキの中の液体を、大きく目を見開くようにして見つめた。
「焼酎《しようちゆう》や、知らんか」
それならば知っている。よく時代物の映画を見に行くと、刀で切られた侍なんかが消毒のため、「ププー!!」と吹いている。
「それ口の中に入れて、グチュグチュしたらええねん」
「グチュグチュのあとは……」
おそるおそる聞いてみた。
「飲み込むんやんけ」
やっぱりかと思った。
「ええからやってみい」
「うん」
それでこのにじむような痛さが少しでも和らげばと、江美はジョッキに口をつけた。
「焼酎をビールで割ってるけどな」
俊夫がポツリと言った時には、江美の口の中は大騒動になっていた。
酒というものを飲んだことのない者がいきなりビール入り焼酎である。そういえば焼酎なのに泡が出ていたはずである。
「どや、うまいやろ」
ブルンブルンと首を振りながら、江美は口の中のものを無理やり胃の中へと流し込んだ。プッスン! と耳から何かが噴き出すような気がした。
「もう一口いけや、いまグチュグチュするのん忘れたやろ」
「ううん、もうええ……」
顔をくしゃくしゃにして答えるのがやっとだった。体中が熱く燃えていた。そしてまだ、震えは止まってはいなかった。
体の震えはこの店に入る前から続いている。なにしろ殴り合いのケンカを見たのもしたのも初めてだった。
──オレは右の奴、えんちゃん、左の奴を頼む──
言った俊夫は左の男を見向きもせずに、右の男だけをめった打ちにした。一発目こそゲンコツであったが、そのあとは射的屋の空気銃を手に持ち、相手が痙攣《けいれん》を起こすまで打ちすえていた。
血と男が吐いた胃液の中で、江美は茫然《ぼうぜん》と立ち尽くした。立ち尽くしたのは江美だけではない、江美が任された男もまた、俊夫を見ながら立ち尽くしていた。ケンカの始まりから殴り合いまでが短い。
──もうすこしハッタリのかまし合いとか……いろいろ言い合ってもいいだろうに──
真っ青な顔色に、そう書いてあった。だからといってじっとしていたら、仲間が俊夫に殺されてしまうかも知れない。
男はそう思ったのか、突然、俊夫の背後にまわるや飛びかかり、首を絞めようとした。
「あっ! あぶない」
思ったら勝手に江美の体は動いていた。男の背中をバシバシたたき、服が伸びるほど引っぱった。
──ええい! うるさい!
男は右手の甲で江美を振り払い、その手が江美の口元へと当たった。砂を強く噛《か》みしめたような感触のあと、鉄くさいかおりが口の中でツンと弾《はじ》けた。
「やったなあ! オッサン!!」
大声を出してしまった。目を丸くした俊夫が振り返り、男もまた振り返った。振り返ってすぐ、男は目をつむった。
知らずのうちに脱いでしまったハイヒールを、江美は男の額めがけて打ち下ろしていた。
連打である。夢中になって何度も男の頭をぶったたいた。
「おどれドスベタ! なにさらすんじゃいコラ」
オデコに血をにじませ、やっとの思いで男は江美の手首をつかんだ。
つかまれた江美は、また体が勝手に動いた。空いたほうの手で男の顔に爪をたてるや、バリバリとひっかき、同時に膝《ひざ》で急所を蹴《け》り上げていた。
「おいおい、オレの分もおいとけよ」
俊夫の声がした。冷や汗を流して急所を押さえる男を軽くこづくと、下からすくい上げるように顔面を空気銃の底で砕いた。
ピッ! と男の血が天井まで飛び、さっきまで急所を押さえていた両手はダラリと下がり、まるで操り人形の糸が切れたみたいにその場へと崩れ落ちていった。
さらに俊夫は男の顔を蹴り続けた。瞼《まぶた》が切れ、ザックリと皮膚の裏側がめくれ上がろうとも、前歯がへし折れようとも鼻がつぶれて赤黒く変色しようとも止めない。
男のズボンに小便のシミが広がったころ、
「まあ、こんなもんかの」
と、江美のほうを振り返った。まさに赤鬼だった形相《ぎようそう》が、抱き締めてやりたいほどの無邪気な笑顔へと変わっていた。
「し、死んでへん……その人ら」
江美の体は立っていられないほど震えていた。倒れるふたり組の様子を見れば、顎《あご》の付け根まで震えだしてしまう。声も出さず静けさの中で男ふたりはボロ雑巾《ぞうきん》のように地面にひっついている。人間の体というのは、こんなに薄っぺらいものなのかと思うほど、平たく小さく感じた。
「死なへん死なへん、死ぬ寸前のちょうどエエとこで止めてる」
ちょうどいいところで止めるというのは、今後、もし道で俊夫を見かけたら、関わり合いになりたくないと逃げるくらいだと俊夫は言う。もし少しでも「かわいそうだ」と思って手を緩めてしまったら、このふたりは仕返しを考えるらしい。
「そやから、こういう時は徹底的にせんとアカン。わかったか」
そんなこと自分に教えてどうするつもりだろう、また喧嘩の加勢でもしろというのだろうか、と思いながらも江美は頷《うなず》くしかなかった。一刻も早く、こんな血なまぐさい所から離れたかった。
「どないした、えんちゃん、体、震えてるやんけ」
俊夫は初めてみせるやさしい目で、江美の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「当たり前やんか、怖かったもん、ウチ女の子やで、もう」
俊夫の目があまりにもやさしかったせいか、江美は甘えるように泣いた。俊夫の服をつかみ、揺さぶるようにして泣いた。
「すまんすまん、そやけど半分はワレ、えんちゃんがやったんやど」
大きな手で江美の頭をわしづかみにして揺さぶった俊夫は、少し目に力を入れるとズボンのポケットから紙幣を一枚取り出し、
「すまなんだのオバハン、これで口にフタしといてくれや」
と、射的屋の女性に言った。
「ただのケンカや。もう忘れたで」
女性は知らん顔で金を前掛けのポケットへとねじり入れると、「来たで」と店の外を指さした。
「さあてと、ええ運動して腹も減ったことやし、めしでも喰《く》いにいこかい。えんちゃん、ワレなに喰いたい」
「もう、なんでもエエ」
そうか、と俊夫は江美の手をつかむと、人だかりのする路地へと歩き始めていた。すれ違うように警官が三人、射的屋の中へと走り込んで行った。
──なんでもええなんて、言わへんかったらよかった。
焼酎《しようちゆう》とビールのチャンポンを俊夫に突き返しながら、江美は俊夫の口元を憎々しげに見ていた。
「ほら、好きなだけ喰わんかい」
何度も俊夫は同じことを言うのであるが、なにしろモノは串《くし》カツである。ソースの皿にドボリとつけて口の中に入れるとまずソースが傷にしみる。次に熱さがしみる。串カツと一緒に頼んだドテヤキもそうである。まず白ミソのタレがしみる。そして熱さもしみる。
ンー!! と足をバタバタさせて一本分を食べおわり、次のに手を伸ばそうにも、もうなにもない。江美が一本たいらげる間に俊夫は五本は軽く食べてしまう。
──なんでもええていくら言うても、てっちりの店もあったしハリハリ鍋《なべ》の店もあったのに──
まったくもう、と江美はキャベツばかり食べている。そのキャベツすら落ち着いて俊夫は食べさせてはくれない。
「ああー喰うた喰うたあ! さあ去《い》のか。えんちゃんそんなキャベツばっかし虫みたいに喰うてんと。去《い》ぬぞ」
言うなりもう立ち上がっている。どうも自分がお腹いっぱいになると人も腹いっぱいになると思っているようである。
「オヤジ、なんぼや。こことここ、一緒や」
「へい、おおきに」
店の人がカウンターの向こうで串の本数を数え始めた。自分の分は自分で出そうと江美はサイフを出したが、俊夫は手で制し、
「カッコワルイことすんな、ボケ」
と、江美の顔を刺し貫くように睨《にら》みつけた。
「はい……」
と江美は頷いたが、なんだかおさまらない。江美が食べたのは三本だけである。三本食べただけでありがとうと言うのも癪《しやく》に障る。すでに俊夫の怖い目だって慣れてきているし、よく見ると目の奥のほうは江美だけにはやさしい。
「ありがとう、ごちそうさまあ。下にもいっぱい串落ちてるよォ」
それだけを言うと、江美はプイと店の外へと歩き始めた。この店が串の本数で勘定するのは他の客を見てわかっていたし、俊夫が食べた串を下に落としているのも知っている。
「あ! ボケ! あほ!」
「お客さーん、てんごしたらあきまへんなァ」
──スーツのポケットの中にも、串を折って入れていたのは黙っておいてやるよーだ──
照れくさそうに頭をかく俊夫へと振り返り、江美は舌を出して笑った。
陽はすでに西に傾いているのだろう、ジャンジャン横丁のアーケードが赤く染まっていた。
「ほんま、無茶しよんな……」
串を一本、口にくわえたまま片手で勢いよく暖簾《のれん》をはねあげた俊夫は、バツが悪そうにソフト帽を深く被《かぶ》った。
「払うのがもったいないとか、そういうのんとはちゃうんや……。なんちゅうかその……」
「知恵?」
「それやそれ、生活の知恵っていうやつや、うん」
腕を組んで大きく頷きながら、俊夫はチラリと向かいの店の中を覗き見た。江美もつられるように覗くと、大きな時計が視線の先にぶらさがっている。
「うん」
だれに言うでもなく俊夫は言った。
「ゴメンな」
江美も下を向きながらつぶやいた。自分の肩がガクリと落ちているのがわかった。
時がたつのが速すぎる。
俊夫と居ると、いつも感じることである。このあいだふたりで映画館に行った時も感じたことだし、お華教室の送り迎えをしてもらってる時もそう、今日だってそうである。
別にたくさんしゃべっているのでもなく、特別なことをしているわけでもない。なのに俊夫といると、世間一般の人達より、はるかに時計の針が速く進んでいるように思う。
「特別な、ことやよな……やっぱり」
「ん? なんか言うたか」
すでに俊夫は歩き始めていた。大きな背中を揺らすように、肩で風を切って歩いている。この人もわたしと同じようなことを思っているのだろうか、江美と一緒だと時間がたつのが速いな、と感じてくれてるのだろうか。
──ドシン!
江美は何かにぶち当たった。目の前にぶ厚い俊夫の胸板があった。
「なにボーとしてんねん。人の話聞いてんかい」
「え! なになに、時間、時間?」
突然、現実にもどったかのように、江美は目をパチクリとさせた。
「そうや時間や、そろそろやっぱりやなァ、やっぱり帰らんとアカンのかい、やっぱり」
「うん……ゴメンな。やっぱり……あ、ゴメン」
つい俊夫の真似をやったのがおかしく、江美はクスリと笑った。
「なにがおもろいねんボケ! おまえとおったらホンマに──」
言いながらまた歩き始めた俊夫であったが、最後のほうが江美には聞こえなかった。
「なあなあ、なに? ホンマになに?」
背の高い俊夫にジャンプするかのように、江美は聞くのであるが俊夫は何も答えない。
ただ耳が赤くなっている。
「なあなあ教えてよォ、なんて言うたか教えてよォ」
「う、うるさいわい! ちょっと待てや」
まとわりつく江美を振り払うように、俊夫は一軒の店の中へと飛び込んだ。
「帰る前にちょっと付き合えや」
俊夫が飛び込んだのは靴屋だった。
「なに? 靴買うん?」
「お、おう、田宮て知ってるやろ、あのパッチもんの模型店のアホ息子」
言いながら俊夫は自分が着ているスーツを指さし、実はこのスーツは田宮のもので今日だけ借りてきたこと、そのスーツにさっきのケンカで相手の血がついてしまったことなどを、首のうしろをたたきながら言った。そんなこと江美はとうに知ってはいる。
「そやから靴でも買《こ》うて帰ったろ思てな」
俊夫は店の中をグルリと睨みつけると、ひとつの黒い革靴に目をとめた。
「オッサン、ちょっとあの靴、見《め》してくれや」
「へいおおきに、サイズ言うておくんなはれ。出しまっせ」
「ええと……な」
俊夫は自分が今履いている靴を脱ぐと、靴の底やら内側やらを見ている。
「あんさん、自分の靴のサイズわかりまへんのか」
店の主人は困ったように俊夫をキョトンと見つめ、江美は吹き出した。
「ちゃ、ちゃうわい。ツレに買《こ》うていったろ思てんじゃい。自分のんとちゃうわいや」
「ほたらあんさん、自分の靴のサイズ見てどないしまんねん」
どうやら今履いてる靴まで田宮のものらしい。ヘタをすると靴下まで借りものかも知れないと思うと、江美はおかしくてたまらなかった。
「わかっとるわい。そいつはオレとサイズが一緒なんじゃい、黙ってい」
「へいへいすんまへん、ワタイが見まひょか」
ひょいと主人は片手を出し、俊夫は靴を差し出した。
「十文半ですなこの靴。あんさん運がよろしいわ。これも十文半!」
俊夫が選んだ靴を指さし、現品限りで安くするがと主人が言った。
「この靴、一足で終わりかい」
照れくさそうにしていた俊夫の顔が、ニヤリと笑い始めていた。同じ笑顔でも江美に見せるようなのとは違う。なにかを思いついたような、串カツの串を細かく折ってスーツのポケットに隠した時と同じ笑顔である。
「へえ、これで最後ですわ。勉強させてもらいまっせ」
「ほう、なんぼやねん」
俊夫はサイフを取り出し聞くと、主人はソロバンを弾《はじ》いて俊夫の目の前へと突き出した。
いちいちソロバンでやるのかと思いながらも、江美はワクワクしていた。俊夫のあのニヤリの笑顔が楽しみで仕方がない。
「よっしゃ買うた。なかなか勉強熱心やの」
「おおきに、ほな包みますさかいに」
俊夫からお金を受け取り、店の主人が靴の箱を用意しかけた、その時である。
「ちょっと待った。念のため履いてみてもええか」
俊夫の片手が靴へと伸びていた。
「そやけどあんさん、人のでっしゃろ」
「おう、いま思い出したんや。そいつな、右の踵《かかと》に大きなイボあんねん」
だから踵のきついのはダメだと俊夫は言う。江美は田宮のことを思い出してみたが、スリッパをはいてる時でもそんなイボ、見たことがない。
「そやからちょっと履くで」
言った時には足を滑り込ませ、
「ん!?」
「ん!?」「ん!?」と、俊夫は靴を履いたまま店の外へと出て行った。
「けったいな人でんな。奥さんもたいへんでっしゃろ」
あきれたように店の主人は言った。江美は思わずハイと笑った。奥さんと呼ばれたのが妙にくすぐったかった。
──アカンな、これはアカン。イボに悪い。
しばらくして戻って来た俊夫は、店に入るなりそう言った。言ってからが早い。
他のにしようか、ソレを見せろアレを見せろ、やっぱり気に入らないからやめにする。
「しゃあないの、また来るわい」
お金を返してもらった俊夫は江美を引っぱるようにして店の外へ出てしまった。
出てすぐだった。
「今からオレは何もしゃべらん、オレが言うことをえんちゃん、おまえが言えよ」
と、江美の肩をつかんでUターンさせると、また同じ店へと入って行った。
キョトンとする主人を尻目《しりめ》に、俊夫は江美の耳元でささやいた。
──オッサン……靴見せてんか……。
俊夫の言うことを江美が言う。
──おお……ええ靴や、なに、現品限りィ、
江美は赤くなり、主人はあきれた。まったくさっきと同じ靴である。
──で、なんぼ……や。
「そやから言いましたがな、さっきも。ホレ、この値ェですがな」
ソロバンを手にした主人は、江美の肩ごしに俊夫へと言った。
──ほほう、中古の靴がえらい高いやんけ。
言った江美すら驚いてしまった。たしかに中古である。俊夫自身が履いて、店の外を歩き回っている。
店の主人の口がポカンとあいていた。
──なにかえ、この店は中古の靴を新品《サラ》やいうて売ってんかい。
こうなると俊夫のものである。大声でも出されては店のほうも困るのであろう、靴は一気に安くなってしまった。
──すまなんだの、また来るで。
「へえおおきに、踵にイボのある友達によろしゅうに」
せめてものイヤミであろう、店の主人は靴を履くのに注意しろと言った。
「イボが痛みまっせ」
「慣れたら大丈夫や」
俊夫が言う前に江美が言った。
店の外はきれいな夕焼けだった。長い影がふたつ、駅へと向かっていた。
──あのなァワレ。
見ているだけで安心するでかい背中が、江美にそっぽを向くかのようにそそり立っていた。
電車が大きく揺れ、ぎゅうぎゅう詰めの乗客も合わせるように揺れたが、その背中だけはピクリとも動かない。
──なに聞こえんフリしてんねんコラ。
「もう……ええやん。やめときて」
江美はおそるおそる俊夫の背中を引っぱるのであるが、俊夫の左手を見たらそれ以上言うのが怖くなってしまう。
つり革《かわ》の白い輪が、俊夫のでかい手でわしづかみにされ、ミシミシと悲鳴をあげている。あとほんの少しでも力を加えると、輪は木端微塵《こつぱみじん》に砕け散るであろう。
俊夫はずっとひとりの男を睨《にら》みつけている。
小便臭い新今宮の駅に着いた時はまだ、俊夫の機嫌はよかった。
「なあ、さっき言うたことのつづき、言うてよォ」
靴の箱を小脇にかかえる俊夫にぶら下がるように、江美は俊夫の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「なんや、さっきのつづきて?」
「おまえとおったらホンマに……のアト。そのあと言うて」
「え? ああ、おお、うん」
俊夫は困ったように夜空を見上げ、オレが死んで流れ星になったら、絶対、人口密集地のド真ン中に落ちてみんなを道連れにしてやると、訳のわからないことを言ってごまかしていた。
そこまでは機嫌がよかった。問題はそのあとである。
「おっ、電車来たど。乗るぞ、えんちゃん」
ホームに滑り込んで来た電車のドアが開き、俊夫と江美が乗り込んだあたりから急にイライラし始めた。
「ダレやねんこいつら、こんなようさん[#「ようさん」に傍点]、なんで乗ってんねん」
給料日のあとの初めての日曜日。ミナミや新世界、梅田で遊んだ家族連れやらで、電車は思っていた以上に混んでいた。
「平日はもっとすごいらしいよ。頭がカユイからかいた手ェの、おろす場所ないて言うてたもん、電気さんが」
そう言う江美も満員電車は生まれて初めてである。どの場所のどの位置で立てばいいのかすらわからず、とにかく俊夫から離れまいと、ずっと俊夫の背広の袖《そで》をかたく握り締めていた。
五分ほど揺れていただろうか、痛っ! と俊夫が小さく舌打ちをした。
「どないしたん」
江美はつかんでいる袖が俊夫の身まで巻きこんだのかと、慌てて手を離したがそうではなく、どうやら俊夫の隣に立つ男が足を踏んだようだった。
電車が揺れた。
乗客は揺れに身をまかせるように揺れ、たったひとりでふんばっている俊夫に四方八方から体をぶつける。
──痛いっちゅうてんねん、おい。
大きな背中が隣の男に覆い被《かぶ》さるようになっているため、江美からはどんな男かは見えないが、窓の反射で見る限りでは真面目な勤め人らしく、髪を海苔《のり》のようにピタリと額にへばりつけて七三に分け、日曜出勤でもやらされて気分が悪いのかブスーと口をへの字に曲げている。
口を曲げる暇があったら、謝ってほしい。江美は窓に映る見ず知らずの男に祈りたい気分だった。
──ワレ、タコかい。ふにゃふにゃしくさって、まっすぐよう立たんのかい。
俊夫のイライラはもう沸点の少し手前まできている。頼むから「ゴメン」の一言でいいから謝るか、さもなければ両手で本を読むのをやめて、つり革を持ってほしい。揺れにまかせて俊夫によりかかるのは自分だけでいい。
また電車が揺れた。
「痛っ!」
また男が俊夫の足を踏んだようだった。
江美は身を固くして目をつむった。そして全てを諦《あきら》めた。もう止まるまい。プチンと頭の中で音をたてた俊夫はまず、男の本を取り上げるであろう。
「なにをするんだキミィ!」
男は最後の台詞《せりふ》を吐く。吐いた時には持っていた本の角で頭をたたかれ、口の中に本を突っこまれ、家族の者ですらわからないほど顔の形を変えられ、つり革を持たないと立てないほどガタガタのボロボロにされる。
それを止めるのは無理である。
俊夫のケンカは夕立と同じで突然始まりすぐ終わる。傘を持っていれば濡《ぬ》れないが、なければとばっちりをくう。だからといって文句を言っても相手は夕立である。諦めるしかない。江美は俊夫という男を知れば知るほど、諦める、ということも大事なことだと思うようになってきた。
──痛いちゅうてんねん……。
ところがどうしたことか、俊夫の動きが鈍い。
「この靴はなあ、ワレが履いてるみたいな安もんとちゃうねん。踏むなっちゅうねん」
しかもこの靴は借り物だぞ、と江美はイジワルなことを横から言ってやりたいほど、夕立は降らないのである。
「どないしたん? 気分でも悪いん?」
そうなると反対に心配になってくる。江美は俊夫を自分がけしかけているようでおかしかった。
「うん。気分悪い」
「あらま……」
くるりと振り向いた俊夫の顔を見て江美は驚いた。電車の窓に映った俊夫の横顔では気づかなかったが、顔色が真っ青である。
「どないしたん、大丈夫?」
「あかん……吐くぞ」
言ったとたん、今までぎゅうぎゅう詰めだった車内が、俊夫のまわりだけ大きく開いた。
「人に酔うたんかなァ、お酒に酔うたんかなァ」
まわりの人たちと同じように二歩ほどうしろに下がってしまった江美は、コツンと心の中で自分の頭をひとつたたいて俊夫の元へと戻った。
俊夫は金魚のように口をパクパクさせていた。たしかにジャンジャン横丁の串《くし》カツ屋で焼酎《しようちゆう》をビールで割ったものをかなり飲んでいたし、そこへきてこの満員電車である。おそらく俊夫がふだん地元で見かける人の数の半年分は、今日一日で見てるだろう。
「ごめんね、ウチのために」
江美はうれしくなってしまい、俊夫の背中をさすった。
不思議だった。
たとえ親であれ自分の体の一部に触れたりするのも嫌なほうである。それが他人となればましてや触るのも好きではない。
なのに俊夫の背中をさすっていても、なんの違和感もないのである。
──そういえばあの時もなんともなかった。それどころか安心して眠ったんや──
江美は俊夫の大きな背中をさすりながら、ふたりで川の中に飛び込んだ時のことを思い出していた。
「おいおい……えんちゃん」
突然、俊夫の声で我に返った。
「吐いてもないのに背中さすったら、出えへんもんでも出てまうやんけ」
そりゃそうである。江美は慌てて手を止めると今度はたたいてしまった。
「オレを殺す気ィか、えんちゃん」
「あ! ごめんなさい!」
江美はどうしていいのかわからず、とにかく今どのへんを走っているのか窓の外を見た。
外は暗く、車内が明るいため見にくい。見えるのは光の反射で鏡のようになった窓に映る、冷たい視線の乗客たちの姿だけだった。
その遠まきに見つめる乗客たちの頭の上でアナウンスが聞こえた。
「あっ、つぎ堺《さかい》や言うてるよ。いったん降りる? 外の風あたる?」
「おう、できるだけ飛ばしてくれて、運ちゃんに言うてくれるか。ううっ」
少し笑った俊夫だったが、急に苦しみがやってきたのか自分のかぶるソフト帽で口を押さえた。
「あっ! それ……」
田宮からの借り物の帽子だと江美が言いかけた時、やっと電車がブレーキをかけ始めていた。
プシューン! と電車のドアが開き、江美は俊夫を抱きかかえるようにして外へ出た。
重い。
俊夫の全体重が小さな江美の肩へと乗り上げてくるかのようだし、脂汗がポタリポタリと江美の顔へとしたたり落ちてくる。
これがもし、田宮くんや他の人ならどうだろうか、考えようとしたがそれどころではないようだった。
「もうアカン……辛抱たまらん、吐いてええか」
「待って! 待って! まだホームの真ン中やから!」
俊夫を半ばオンブするかのように江美はホームの一番うしろへと向かった。
やっとホームのはずれに着いた時だった。
「うぷっ、うぷっ」と言いながらも俊夫は体を起こすと、
「おい、すぐすむから、それまでちょっと待っとけよ」
と、電車の車掌を睨《にら》みつけるように言った。車掌は気弱そうに笑い、江美はただ頭を下げるしかない。
「そんなんどうでもええから。早く吐きなさい」
「偉そうに言うな。嫁さんでもないのに、ううっ」
俊夫はエビのように体を曲げ、ホーム下へと頭を突き出した。
──そしたら嫁さんにしてよ。
心の中で赤くなりながら、江美は俊夫の背中をさすろうとした。今ならもうさすっても文句は言われまい。
口の横をヨダレを光らせ、涙をためた俊夫が振り返っていた。
「今、なんか言うたか?」
「……ううん、なにも」
「そうか」
俊夫はまたホーム下へと顔を向け、喉《のど》に指を突っ込んでがんばり始めた。その背中をさすりながら、江美はドキドキしていた。
思ったことがつい言葉になって出てしまったんだろうか。それとも俊夫は人の心が読めるんだろうか。
背中をさすりながらひとりで赤くなる江美である。
「なんかええのお」
ひと息ついた俊夫の声が聞こえた。江美に言っているのか、ホームの下に向いてひとり言を言っているのか、それはわからない。
「オレなァ、人に背中さすってもらうのん、初めてや」
「…………」
「親にもそんなこと、してもろたことないわ」
言いながら俊夫はむくりと立ち上がっていた。うしろを電車が一台、通りすぎていった。ふたりが乗って来た電車はまだ停まったままである。
「なんかこう、照れくさいような、ええもんやのお」
「背中ぐらい、いつでもさするよ」
江美はハンカチを取り出し、俊夫の口のまわりを拭《ふ》こうとした。その手を俊夫がつかんでいた。
「目の中に入れても痛たないとかいうけど、オレはえんちゃんを、心の中に入れても痛たないで」
ぐいっと強引に引き寄せられていた。もう少しマシなことは言えないものかと思ったが、言えない。少しでも口を開くと心臓が飛び出しそうだった。
「えんちゃんのこと思ただけで、煙草吸いすぎたみたいに胸が苦しなんねん。好きやと思う」
いつの間にかスッポリ俊夫の両方の腕に包み込まれていた。江美は下を向いたままプウッとふくれた。
「好きやと思う、だけやのん」
自分の言ってることにビックリしていた。
「いや、スマン……好きや大好きや」
俊夫の指が顎《あご》を押し上げ、顔が近づいてきた。
口のまわりはヨダレで光ったままである。
「目ェくらいつむれ、えんちゃん」
「はい……」
なぜだかわからなかった。俊夫の腕の中で震えるように江美は泣いていた。
「よおよお! やるやんけニーサン。駅のホームで女とキスてかい! いよっ!!」
色男! と言おうとしたのであろう、俊夫は電車の中に乗り込むなり、
──ブンッ!
と、その男の顔面へとゲンコツをめりこませた。男は両手で自分の鼻を押さえたが、指の間からは鼻血が溢《あふ》れるようにしたたり落ちていた。
「チャチャいれんやったら相手みてせいよコラ」
さらに俊夫は男の股間《こかん》を蹴《け》り上げ、髪の毛をわしづかみにするとホームへと蹴り出した。
「よっしゃ! 待たして悪かったの。行こけ」
俊夫が車掌に手を上げると同時に「プシュン」とドアが閉まり、男をホームに残したまま、電車は動き始めた。
江美は泣いたままである。
なぜ涙が出るのか江美にもわからない。ただただ溢れ出てくるのである。
「えんちゃん泣くなよォ、なんかオレ、悪い奴みたいやんけ」
まわりを気にしながら俊夫は困り果てているが、江美は悪い人と思うどころかすごい人だと思っていた。
ちょっと待っとけ──。
と電車を待たせ、気分の悪いのを直し、オマケのように江美の唇を奪い、また乗り込む。
乗り込んだら乗り込んだで、冷やかした男を放り出して片手を上げたら電車が発車した。
江美は急行の通過待ちをまだ知らない。
本当に俊夫と江美、ふたりだけのために俊夫が電車を待たしたと思っている。
そのすごい人、俊夫は困り果てたように頭をかきながら、ひとりで隣の車両へ行こうとしていた。
「どこ行くん?」
えくえくと喉《のど》で泣きながら言うと、ピタリと俊夫の足が止まった。
「どこ行くんよ、ウチひとりにして」
「え!? ほたらえんちゃんも一緒に行く?」
さっきまでの気分の悪い青い顔はどこへいったのか、晴ればれとした顔である。
「そやから、どこへ行くんよ」
「さっきの奴、しばいてくるだけやけど」
おそろしいというか、かなり執念深い男である。堺の駅に着くまで、自分の足を何度も踏んだ男を忘れてはいない。
「えんちゃんも行く?」
「うん」
どうも俊夫と一緒にいると、自分のペースが完璧《かんぺき》に崩れてしまう。
「そのかわり、もうケンカはやめて」
今日一日で何度ケンカしたか、江美は俊夫につめ寄った。せっかくふたりで会う日にあなたはケンカばかりしている、これ以上ケンカするなら、わたしは大声で泣いてやる。
「そらナンギやなあ。そやから言うて、あのガキほっといたら今晩腹立って寝れんしな」
困り果てた顔でしばらく考えていた俊夫は、突然ニヤリと笑った。
この男がニヤリと笑うとロクな事がない。
笑いながら俊夫は江美の耳元でささやいた。
今度は江美が困る番である。
「そんなん、ウチ……」
「な! それがええ。どうせ駅に着くまで暇なんやから、やろやろ」
俊夫は江美の手を取ると、人混みを蹴散らすようにさっきまでふたりがいた車両へと向かう。
──ケンカはせん。その代わりえんちゃん、オレがやられたことと、同じことをせい。あの男の足を、ずーと黙って踏みまくれ──
「あのオッチャン、怒らへんかなあ」
江美は俊夫に引かれたまま聞いた。
「怒るよ、足踏まれるんやから」
「ほなどないすんよォ、ウチ怖いわ」
そうなりゃオレが助けてやる、ケンカと人助けは違うものだと俊夫はぐいぐい進んでゆく。
──どうせ踏むなら、踵《かかと》で踏んでやったほうが痛いだろうな──
またそんなことを考えている自分が、江美はおかしくてたまらなかった。
泉大津の駅に着いても、ふたりは黙ったままだった。
電車から降り、ホームを歩き、改札を抜けても黙ったまま。駅の外に出てふたりして並んだ時「ぷっー!」と江美が吹き出した。
歩く人が振り返るほど、ふたりは大声を出して笑った。俊夫など地面の上で飛び跳ねるようにして全身で笑っている。
「しかしえんちゃんヒドイのォ、『あ、そうですか』やもんな」
江美は俊夫に言われるまま、男の足を踏んだ。もちろんハイヒールの踵でである。男は「んん!」と言ったあと、
──あの、ボクの足の上にあなたの踵の先が乗っているんだが──
と、紳士的な言いかたをした。それに対して江美は「あ、そうですか」と言っただけである。足をのけようともしなかった。
紳士は口を開けたまま江美を見つめた。しかしその口もすぐ閉口することになった。
「よいしょっと」と今度は反対側の足を俊夫が踏みつけた。
──キ、キミ。足を踏んでいるのだが──
──体ごと踏まれへんだけ、ありがたァ思え──
俊夫はギリリと紳士の顔を睨《にら》みつけたのであった。
「しっかしあのオッサンもええ根性してたわい、痛いてひと言も言わんと脂汗ながしながら本読んでたもんなあ」
俊夫は腹をかかえて笑い、江美は何年ぶりかで声を出して笑った。俊夫といると普段、ひとりで出来ないようなことでも、当たり前のようにしてしまう。
「さてとか……」
ひと息つくかのように俊夫は江美のほうへと向き直った。
「来週、また会うぞ」
いつも強引な男である。
「どっか連れていってほしいとこあるか?」
「うん!」
どこやと俊夫は江美の顔を覗《のぞ》き込んだ。
「家。家に連れていってェ」
「オ、オレの家にかい……」
そのままの姿勢で俊夫は固まってしまった。何かいけないことでも言ったのか、心配になった江美は俊夫の顔を覗き込んだ。
──えみちゃん!!
うしろで声がした。振り返ると田宮が見知らぬ男と立っていた。男は白い腰巻き一丁で藍《あい》色の半纏《はんてん》をはおり、俊夫の顔をじっと睨みつけていた。
男はじっと俊夫の顔を射貫くかのように、真正面から睨みつけていた。
前に立つ田宮とはあきらかにモノゴシが違う。どっしりと低く構えた腰のあたりまで、陽炎《かげろう》が立ち上っていた。
「だれ……? 知ってる人?」
江美は注意深く男の右手を見ながら言った。俊夫も同じように男の右手を見つめている。
男は大きなノコギリを手に持ち、刃先を小刻みに動かしていた。
──刻んでくれますか。
──あいよ。
言ったら最後、眉《まゆ》ひとつ動かさずに江美の体をバラバラに切り刻むであろう。そんな雰囲気を体中の毛穴からまき散らかしていた。
それにしても男の服装である。
女性用の白い腰巻き一丁に藍色の半纏、それだけである。そのかわり日焼けした肉体がバネを仕込んだヨロイのように、半纏の下に盛り上がっている。いつもパンツ一丁でウロウロしている俊夫と、体付きや攻撃的な身のこなしかたまでがよく似ていた。
──どういう人なんやろう?
「あれか? あれはな、木津川の沖仲仕や」
江美が好奇心の目をクルクルさせると、まるで心の中を覗いていたかのような俊夫の返事が返ってきた。
「沖仲仕?」
「そや。木津川に着いた船から、石炭とかを担いで運び出すんや」
まあ力はいるけど頭は使わん気楽な仕事だと、俊夫は男に聞こえるほど大声で笑った。男の半纏に染め抜かれた山尾組≠フ文字が少し動いたような気がした。
「ふうん、あの腰巻きはなに?」
江美は男の鋭い視線から逃げるように、俊夫の背中に隠れながら聞いた。
男は俊夫を睨みつけるのが飽きたのか、今度は江美の顔を睨みつけている。
「あれを肩の上に置くんや。こうやってな」
俊夫はぐんと腰を落とすと、重そうな石炭袋を肩の上に乗せる真似をし、船から陸まで伸びる狭い板の上をバランスよく歩く恰好《かつこう》をして説明してくれた。
それによると腰巻きは肩の上に乗せるアテ布の役目をするらしく、腰巻きをはずした下はフンドシ一丁ということだった。
「フ、フンドシィー!」
「そや。サルマタやったら汗でひっついて動きにくいやんけ」
パンツ一丁やらフンドシやら腰巻きやら、俊夫のまわりはつねに合理的な考えが優先する。
「ふうーん。よう知ってるね」
俊夫の背中からちょこんと首を出した江美は、男の恰好をながめながら言った。ただノコギリだけは俊夫の説明には入ってなかったような気がする。
「そらそうや。オレも先月まで行ってたもん。沖仲仕」
うん、と首を振りながら男を指さした俊夫は、男が着ているものはすべてオレがあげたものだと言った。
「弟や」
「え!?」
「そやから弟やおとうと。オレの弟や、あの目つきの悪いのん」
俊夫の思いもかけない言葉に、江美は慌てて俊夫の背中から飛び出し、足をそろえると頭を下げた。自分の顔に火がついたかのように赤かった。
男も同じように少し視線のチカラを緩めると、かるく頭を下げて笑った。
いや笑っているのだろう。江美から見ると、よほど普段笑い慣れていないらしく、歯ぎしりしているようにしか見えない。
──笑ってるの、弟さん……。
──おう、かなり笑ろてるぞ、今日のサブは。
──サブ?
──三郎やサブロウ。どこにでもある名前や。
どうやら弟は三郎というらしく、江美が改めて、
「江美です、はじめまして、いつもお兄さんにはお世話になってます」
と、挨拶《あいさつ》をするや、俊夫とまるっきり同じく赤鬼のように顔を赤くし、ギリギリと歯ぎしりするかのように笑った。まさしく兄弟である。女性への免疫が少ないようである。
「それよりどないしたんじゃい田宮ァ、サブにノコギリ持たして。なんかモメゴトかい」
駅前をグルリと見渡すように、俊夫は田宮の顎《あご》をつかんだ。ぐいんと持ち上げられた田宮の顔に、うっすらと青いアザがあるのが江美からでもわかった。
「い、いや、なんもないよ」
田宮は江美の顔を見ながら俊夫の手を払いのけた。つい今さっきまで泣いていたのか、目のまわりが腫《は》れてもいる。
そんなことを見逃す俊夫ではない。
「嘘つけェー田宮ァ。だれかにどつかれて泣いてたんやろ」
「ち、ちがうわい」
田宮は江美に顔が見えないように身をよじった。
「ほたら、なんやねん。階段から落ちて打ったとは言わさんぞ」
おまえの家は平屋のはずだと、俊夫はなおも田宮の顔をつかもうとする。その間、三郎は笑いもせず、駅前を歩く人達に強い視線を送っていた。たまに視線の間に江美が入ると、突然真っ赤な顔をして歯ぎしりをした。いや笑った。
「ほっといてくれよお」
「いいや、親友が元気ないのん、ほっとけるかい」
いつの間にか田宮を親友にしてしまった俊夫は、彼の手を取ると自分が持っていた箱を手渡した。
「ん?」
「開けてみんかい」
箱の中は新世界でねぎるだけねぎって買った靴である。
「田宮おまえ、黒の革靴欲しいて言うてたやろ」
「と、俊しゃん」
その革靴をどうやって手に入れたか知っている江美はおかしくてしかたがない。きっといま田宮の頭の中で思っている値段の三分の一以下であろう。いちおう中古品である。
「おまえには、いつも世話になってるしな」
「俊しゃん……」
「今日もスーツやら借りたしな」
「気にすんなよ」
「靴も帽子も借りた」
「ええってことよ」
「履いてみい、サイズ合うか」
田宮は俊夫に言われるまま、箱から靴を取り出し足を滑り込ませた。
俊夫がニヤリと笑った。
串《くし》カツ屋で見せた、靴屋で見せた、あの笑顔である。いつもなにか企《たくら》んだあとの、自分が仕掛けたワナに小動物が足を踏み入れた時に見せる笑顔である。
──ちょっと、なにする気ィ?
と江美が俊夫の服を引っぱった時はすでに遅かった。
「おおきに俊しゃん。ピッターと足に吸いつくようや」
「そうか、そらよかった」
俊夫のでかい手のひらが、小動物田宮の前に突き出されていた。
「へっ?……」
と田宮の額から脂汗が流れていた。
俊夫の性格は一本気である。そんなことは田宮だって知っているし江美も知っている。そのへんの奴のように簡単に手のひらを裏返したりはしない。そのかわり突き出した手のひらも、現金が乗らない限り引っ込むことはない。無理に引っ込んだ時はゲンコツという形になってまた飛び出してくる。
「と、俊しゃん。タダと違うんかい」
江美に助けを求めるかのように、田宮は江美の顔を見ながら言った。きっと俊夫の目つきは田宮のうしろにいる三郎と同じかそれ以上のキツイ目になっているのであろう。
「まさかァ、これだけでええぞ親友」
突き出された手のひらが曲がり、新世界の靴屋の主人が最初に言った元値分の指が立った。
──ちょっとォ、田宮くんかわいそうやんか。
俊夫をぐいっと引っぱり、江美は小声で言うのであるが、こんな時はあまり小声は出さないほうがよい。
「なにえんちゃん! あんがい田宮もケツの穴のこまいやと! まあそう言うてやるな! えんちゃん! そんなこと言うもんとちゃう!」
大声で自分が言ってもないことを人に伝えられてしまう。
江美の前ではエエカッコしたい。
田宮の心理をうまく俊夫は突いてゆく。そのうえ慌てた江美が青い顔をして俊夫をたたいたものだから、
「すまんすまん! えんちゃん! 言うたらアカンかったかあ! 内証かあ! スマン!」
と、ますます深みにはまってしまうのであった。
「買《か》うよ! 買《こ》うたるわい! ちょっとマケてくれよ」
怒ったような顔で田宮は財布を取り出し、江美の顔を睨《にら》みつけていた。江美としても睨まれても困るのであるが、行きがかり上黙って頭を下げるしかなかった。
「あいかわらず、セコイことしてんのお」
指をなめながら紙幣を勘定する俊夫の向こう側で、三郎が落ち着いた声を出した。
「こないだまで沖仲仕やってる思たらオレに押しつけて」
ドスの利いた声を出しながら、三郎は江美のほうを向いていた。よく聞きなさい、とでも言いたいのであろうか。
「今度は家具屋のサクラや」
そんなこと、あんた何も知らんやろといった三郎の顔である。
「サクラ……?」
「そう、サクラ。家具屋の前でいつも俊しゃんは立ってんねん」
なら教えてやろうと、言い出したのは田宮である。いささか靴のことで腹に据えかねるものでもあるのだろう。俊夫の機嫌を盗み見るかのように口をはさんだ。
俊夫は勝手に言ってろと、駅行く人達を見ながら大きなアクビをひとつした。
「立ってるだけなん」
「そう、立ってるだけ。女の人と」
俊夫の仕事である家具屋のサクラは至って簡単である。じっと煙草でもふかしながら店の前に立っている。その時、横には必ずといっていいほど女性も立っている。ふたりともぼうっとはしているが、目と耳だけは油断なく店の中へと向けられている。
──どないしたもんかなァ、このタンス。もうちょっと安けりゃなあ──
──そうやね、迷うとこやねェ。どうしょうかあ──
こんな会話が客の口から洩《も》れていたら出番である。俊夫と女性はその客にすれ違うように近づいてゆく。そして聞こえるか聞こえないかという音量で話し出す。
「こうやって見たら、家具ていうのは安いね」
女性サクラは溜《た》め息まじりに言い始める。
「なんでやねん」
俊夫はタンスをなぜながら聞き返す。この時たいていの客は俊夫と同じくなんで≠ニ心の中で思っている。
ここで女性サクラが決めの一発を放つ。
「そうやんか。きょうびスーツとか買うたらナンボすると思う」
突然、洋服の話である。人は不思議と家具というものは洋服より、はるかに高いものだと思っている。女性サクラはさらにつづける。
「高いでェ、スーツも。誂《あつら》えたりしたら目ェむくで」
話を聞いている客がサラリーマンなら頷《うなず》くところである。
「そのクセ、何年も着れるもんとちがうし、クリーニング代もバカにならへん」
「ほんまやの」
俊夫のセリフは短い。
「それからみたら家具は安いやんか」
女性サクラは言い、俊夫は短いながらもトドメのひと言をいう。
「一生もんやしの」
タンスはめでたく売れるわけである。
「ぼおっと立ってて、三つほど言葉いうだけで金|儲《もう》けしよんやで。な!」
鼻の穴に指を突っ込む俊夫の横顔を、いまいましそうに見つめる田宮であるが、次の江美の言葉は田宮が横恋慕するのもばかばかしくなるようなものだった。
「ええなあー、うちもやりたいなあ」
好奇心むき出しの江美の目が、またもやクルクルと回り出した。俊夫と一緒に立っている女性に嫉妬《しつと》することもなく、ただただ珍しいことを体中で受け止めたい、そんな目が俊夫に向けられている。
「そうか、えんちゃん。やってみたいか」
「うん! 家具屋さんも喜ぶし、買《こ》うた人もそれでええはずやし。みんなに喜ばれるもん!」
「えらいなあ、えんちゃんは。ものごとをハスカイに見たりせん。深ーいとこまで見てくれる」
「田宮! おまえも見習え」と言いながら、俊夫は江美の頭をぐりぐりとなぜ回した。
江美は体が宙に浮くぐらいうれしかった。
──オッホン!
咳《せき》払いをひとつした三郎は、丸太のような両腕を広げて俊夫と江美に離れるよう促し、
「まあ好きにしてええけど、世間の端っこのほうでやってくれ」
と、俊夫の顔を砕くような強い視線で言った。
「みんなが迷惑する」
「なんやと、コラ」
三郎の言葉に俊夫の声が変わり、目つきが変わった。もともと人を刺すような目である。それが一瞬にしてドスンと据わったような、底光りする目になっていた。
「もういっぺんぬかしてみ、サブ」
端っこに寄るのはどっちだ、迷惑と言う奴がいるなら連れてこい、一歩踏み出した俊夫の体が言っている。
「迷惑や、言うてんねん。田宮はんの顔見てみい」
三郎が言うや俊夫の視線が田宮に向けられた。よほど俊夫が怖いのか、田宮は目をつむって顔をそむける。
「なんで? この人のことで田宮くんがたたかれたん?」
江美は顔をそむける田宮の前に立つと、下から覗《のぞ》き見るようにして言った。
くんくん、と鼻でニオイを嗅《か》ぐようなしぐさをした田宮は「えみちゃんか?」と、うっすら目を開けた。
目に涙がたまっていた。
「オレもよう知らんけどな……」
田宮は江美の手を取り、子供のように話し始めた。簡単な内容である。
──ワレおまえ俊夫いうのん知ってるやろ。
──知ってる。
──どこにおるねん。
──知らん。オレのスーツ着てどこかへ行ってもうた。
──どこや。
──知らん。
それで殴られたらしい。だれかが俊夫を探しているようである。
「痛かった?」
江美は田宮の手をポンポンとやさしくたたきながら言った。
「うん痛かったでえ。ほら、ここ。ここも。あっちこっちアオーになってるやろ」
「どんな人? 田宮くんをたたいたのは」
「覚えてないねーん。メガネかけてたのは覚えてるけど、覚えてなーい」
「しっかりしい!!」
バシン──と江美の平手打ちが田宮の頬を打った。驚いたのは打たれた田宮より打った江美である。
知らないうちに手が出ていた。
じっと自分の手を見つめる江美と、頬に手をあてオロオロと崩れる田宮。男女が逆になったようなふたりをじっとながめていた俊夫は、
「そうかメガネしかわからんのかい」
と、首をコキコキ鳴らし始めていた。
「ほんでサブ、ノコギリ持ってメガネ探してんかい」
遠くから駅に向かってくるメガネの男性を見つけた俊夫は、捨て台詞《ぜりふ》のように言うと歩き始めていた。
「そやけど、おまえのタメちゃうわい。田宮はんのカタキ討ちやぞ」
三郎はつられるように俊夫のあとを追った。
「どこ行くん? ちょっと待ってよ」
江美もなにやら不吉な予感がするので俊夫のあとを追った。俊夫は腕をぐるんぐるん回し、駅に近づきつつあるメガネの男性の行く手を遮《さえぎ》っている。
メガネという特徴しかわからない。
「ほたらメガネはめてる奴、みな殺しにしたらええがな」
──ゴチッ!!
全速力で走った江美が俊夫の背中にしがみついた時、メガネの男性は鼻血の海の中、もんどりうっていた。
「さてと、おっ! あそこにもおるど」
オデコに返り血を浴びた俊夫は、江美を引きずるようにして次の標的へと向かう。
またひとり、メガネの男性が歩いていた。
「とめて! だれか止めてえ!」
「やめんかいコラ! ええかげんにせい」
俊夫の行く手を遮るように、三郎が仁王立ちになっていた。
「なんでそうやって、敵ばっかりつくるねん」
「やかましい、どけ! サブ」
「どけてみんかい」
月のひかりにノコギリの歯が光った。
「やるか、久しぶりに」
「おう、もう負けへんど」
三郎が言った時には俊夫は突っ込んでいた。
兄弟ゲンカなら、と俊夫を離した江美の目の前で信じられない光景が展開されていた。
「死ねや! 俊夫!!」
兄に向かってノコギリをチカラいっぱい振り下ろす弟。
マバタキもせず、よけもせず、
「なんじゃい、そんなもん」
と、肩口でザックリと歯を受けとめながら、手の指を弟の眼球へ突き刺そうとする兄。
「あーあ、また始まってもうたか」
頬を手でさすりながら、田宮が横に立っていた。
「と、止めらんでもええの……」
江美の白い足が震えていた。
「だれが止めるんや。死にたないよダレも」
三郎がノコギリを振り上げていた。真下に俊夫の脳天があった。
「あぶない!!」
江美は田宮が手に持つ靴の箱を奪い取ると、三郎めがけて投げつけた。
「あー!! オレの靴ー!!」
靴の箱は見事に三郎の顔に当たり、打ち下ろしたノコギリは俊夫のスーツを切り裂いた。
「あー!! オレのスーツ!!」
江美は震えていた。来週、この兄弟の住む家に行くと言ったのは、ほかでもない江美なのである。
ここまで。あとは知らない。──。
アスファルトの道は、江美の足元でスパリと切れていた。あとは地道、でこぼこがつづくだけである。まるで他者《よそもの》を阻むかのように大きな水たまりが、でこぼこ道をよけいに歩きにくいものにしていた。
雨はやんだようである。
「ふうっ、たしかここをまっすぐ行ってえ、雑貨屋さんの角を……」
江美は傘を閉じるとワンピースの胸ポケットに入れていた地図を取り出した。
きれいにたたまれた小さな紙の真ン中に、赤い線が一本と小さな点がふたつだけの地図である。
(あんなァ、この線が磯ノ上の真ン中の道や。そこを浜まで真ァ──すぐ下がってきたらデンヤスていう店があんねん)
あの日俊夫は三郎との壮絶な兄弟ゲンカのあと、死体のように倒れる三郎の上に腰をおろして言った。
(デンヤス?)
(そや。屋号や屋号。どこにでもあるような雑貨屋や)
そう言って地図を説明する間も、俊夫の額からは血がポタポタと落ちていた。
地図すら、その血で書いたものだった。
「たしか、共同浴場を訪ねて来いと言うてたけど……」
地図の赤い点のひとつはデンヤス、もうひとつが共同浴場。ただそれだけの地図である。血で書いた地図であるから、細かい路地まで書いていたら俊夫は出血多量で倒れてしまったかもしれない。
雨がまた降り始めた。
台風が近づいているせいか、雲がえらいスピードで空を突っ走っている。そのため分刻みで雨が降ったりやんだりする。
「もう、ややこしい天気やなあ」
たたんだ傘をもう一度拡げようとした時、風が鳴いた。俊夫にもらった地図が江美の手のひらで一回転すると、水たまりの上に飛び込んでいった。
あっ!
紙の端についていた血色の俊夫の指紋が水たまりに溶け出そうとしてる。
江美が拾おうとするのと、黒いゴム長が地図を踏み沈めるのとが一緒だった。
「あー! すまんすまん!」
顔を上げると見たような顔が立っていた。
三郎だった。
一週間前、俊夫にボコボコにされた顔はやっと腫《は》れがひいたようであるが、まだ目の玉の白いところが青黒くなっている。まるで黒目がふたつも三つもあるようだった。
「なんや、あんたかい。えーと」
「江美です」
「そうそう、それそれ」
人の名前をそれそれというのも失礼ではあるが、三郎はそれっきり黙り込んでしまう。地図も水たまりの中で踏んだままである。
何も言わない。黙って立ったままである。
「あのォ……」
「…………」
「地図が」
江美が呆《あき》れ果てて指で三郎のゴム長を指すと、やっと思い出したのか三郎は踊るように足をのけた。
水たまりの底から渦を巻くかのように地図が現れた。すでに土色に変色してしまい、踵《かかと》で踏まれていたのかU字型にやぶけてしまっている。
血の色だけが土色に負けずに残っていた。
目の前の三郎が振り下ろすノコギリに、目もつむらずに飛び込んでいった俊夫の血。
──なんで手で防ぐとかせえへんの。
──防ぐ間があったら、どつくわい。
血をしたたり落としながらも明るく笑った俊夫の顔は、ガキ大将のように晴ればれしていた。
──抱き締めてあげたい──
もしあの時、駅前にだれもいなかったら、江美は俊夫を胸の中に抱き締めていただろう。
「すまん!! ほんまにゴメン!」
ひとりで思い出し笑いをする江美の前に、節くれだった指が合掌するかのように合わさっていた。
「知って踏んだんとちゃうでえ、足の下にその紙が入ってきたんや……いや、オレが悪い! すまん」
三郎は頭を下げ、合わせた手を突き出す。この人も俊夫と一緒で、血の気が多いだけで悪い人じゃない。江美は真剣に頭を下げる三郎がおもしろくてしかたがなかった。
「ううん、別にもういいです。詳しい人に会《お》うたから」
江美は地図を拡げて手のひらに乗せ、上からたたいて水気を取りながら笑った。俊夫の血がついた地図である。簡単に捨てる気にはなれない。
「詳しい人て……」
「レンガ場の共同浴場て、どこ?」
すっと三郎の顔が曇るのがわかった。
「それやったら、この道まっすぐ行ってデンヤスの横の細い道入って……ほんまにあんた、俊と付き合う気ィか?」
オレにはわからんと三郎は首を振る。
「まあ、しゃあないけどな……その細い道入って一本目を左。ほたら音してるわ」
「音?」
江美が小首をかしげると三郎はコクリと頷《うなず》いた。
「なにしてんか知らんけど。今日は朝から何か削ってるような」
「削ってる……?」
行けばわかると、三郎は手を上げると大股《おおまた》で歩き始めた。そして十歩ほど行くと立ち止まり、
「あんまり、あいつには深入りせんほうがええで。泣くのんはあんたやで」
と、振り返って言った。
「兄弟やのに、そんなん言うてええの」
「兄弟やから言うねん。ロクでもないわ、あいつは」
それだけを言うと、プイと歩き始めてしまった。すでにさっきまで江美に手を合わせていた三郎はいない。
どこからでもかかってこい──。
そんな歩きかたで三郎は去ってゆく。
(うちから見たら、アモにモチやけどなあ)
江美は三郎の背中を見送りながら思っていた。アモとは京都で言うところのモチのことである。アモにモチ。モチにモチ、どちらも同じという意味である。これも俊夫に教えてもらった言葉だった。
雨はまたやんだようである。
レンガ場。
もともと漁師町だったところに「岸煉」という煉瓦《れんが》工場ができ、そのための社宅に元漁師たちが住みついた場所である。
その集落の入口にデンヤスと屋号で呼ばれる雑貨店がある。よくアメリカ映画に出てくるような、片田舎の小さな町にひとつあるスーパーみたいに、魚から野菜、生活用品、駄菓子、なんでも売っている店である。
「ここかなァ……」
デンヤスの中からこぼれでる、関東炊《かんとうだ》きのいい匂いに鼻をクンクンとさせながら、江美は狭い路地へと入って行った。うしろを振り返るとデンヤスの前にいたステテコ一丁の老人と目が合った。
「こんにちは」
と江美は頭を下げるのであるが、老人は関わり合いになりたくないといった表情で、慌てて顔をすっこめる。みんなそうである。
三郎と別れたあと、五人ほどの人とすれ違ったのであるが、五人が五人とも江美の全身を警戒心まる出しの目でなめまわす。少しでもおかしな行動をとれば、
ケーケケケケケー!!
と、ジャングルの獣のように鳴き出しそうな雰囲気だった。
問題はそのあとである。
「あの、共同浴場……」
と言ったところで全員そそくさと逃げ出すのである。四人目に会った老女など、道で立ち小便をしているのを横歩きしてまで逃げてしまった。
「逃げたいのんは、ウチのほうやわ」
生まれて初めて立ち小便をする女性を見た江美は、大きく深呼吸をして気持ちを落ち着けた。
音はしている。
なにかを削っているような音が、デンヤスの横の路地を入った時からしている。そしてその音の発生源をたどってゆくと、ひとつの小さな建物にぶち当たった。
──岸煉・磯ノ上工場・共同浴場──
くすんだ縦長の蛍光灯カバーの上に、消えかかってはいるがマジックでそう書かれていた。
入口は開いたままだが、中の戸は閉まっていた。音はその中から聞こえてきた。
「すみませーん」
呼んだが音は止まらなかった。
「ごめんください!!」
人の気配はするし、いつも俊夫が履いている下駄がひとつ、脱ぎ捨ててある。
「ごォーめーん!! くださあーいィー!!」
ピタリと音がやんだ。
「だれや!!」
俊夫の声だった。なぜか俊夫の声を聞くだけで心が躍る。
「わたしィー!!」
「どこのわたしじゃい!」
ドスンとなにかから飛び降りる音がし、ドスドスと大きな足音が近づいてきた。
「うちィ、江美いー!!」
「おう、えんちゃんかあ」
ガラガラとすりガラスの戸が開いた。
この人はなんで、こんないい顔をしてんだろう。
俊夫が顔をシワだらけにして笑っていた。
「まあ、入りいな」
「うん」
と言いかけて江美の足は止まった。たしか玄関に共同浴場と書いてあった。それにすりガラスの引き戸も二ヶ所に入口がある。俊夫が現れたのは右側である。とすると自分は左側か? でも今日は風呂に入りに来たわけではない。
「なんや、どないしてん?」
ん? といった顔で俊夫は振り返り、しばらく江美の顔をながめていたが、
「ああ、だいじょーぶや、大丈夫。今はここ風呂とちゃうねん。オレの家や」
と、俊夫は手招きをして笑っている。
「みんなはお風呂に来《け》えへんの?」
江美は中を覗《のぞ》き込むようにして聞いた。
「来《け》えへん来えへん。オレがここに住むようになったら。ダレも来えへんようになったな」
共同浴場として使わなくなったから俊夫が住みだしたのとは違うようである。俊夫が勝手にここを「オレの家!」と決め、まわりの人たちが来れなくなったみたいだった。
「まあ、入《はい》れて、えんちゃん」
「うん、おじゃまします」
江美は俊夫に手招きされるまま、大きな背中のあとに続いた。
なかは四部屋に分かれていた。銭湯ほど広くはないが、一応、男湯と女湯とに分かれている。男湯、女湯、ともに脱衣場と湯殿が引き戸によって分けられているから合計四部屋ある計算である。
「男湯のほうはな、オレが住めるように造り直したけど、女湯のほうはホレ」
見てのとおりそのままだと俊夫は言った。
しかしそれがそのままではない。脱衣場の真ン中に電動ヤスリを置き、その前に座布団、そして座布団のまわりには削り屑《くず》の鉄の粉と傘が数本、ほっぽらかしてある。ずっとしていた音はこれのせいであろう。
「こっちは納屋みたいにつこてんや」
なるほどガラス戸の向こう側の湯殿には、梯子《はしご》やゴム長やツリ道具、バールやら何に使うのか縄梯子まで見えていた。
ふうーん、と江美は両手をうしろに組みながら体をくねくねとさせた。
納屋の説明なんかどうでもいいから、早くふたりきりで俊夫の部屋にゆきたい。俊夫の体温を感じながら、いろいろなことを話したい。どんなくだらない事でも、俊夫となら二時間でも三時間でも笑って話せる。もちろん黙っていてもいい、呼吸が聞こえるところにいてくれるだけでいい。
しかし気になることもある。
くねくねと揺れる江美の足元に広がる鉄の粉である。横には数本の傘が転がっているのだが、それらの傘の先がピンピンに尖《とが》っているのである。
どうやら朝から削っていたのは、傘の先っちょの部分のようである。
「なあ……」
江美は足元の傘を一本、拾いあげて言った。
「なんで、傘の先を尖らすん?」
「ああ、ソレかい」
俊夫は江美から傘を取り上げると、傘の先を自分の人さし指で軽くたたいた。
じわっーと、まるで赤い風船が膨らむように、俊夫の指に血が拡がった。
「人を刺すためやんけ。今日は雨やろ、傘持って歩いてても、ダレも不思議に思わんやろ」
「人を刺す? ダレを刺すの! もう!」
自分のパンツで血を拭《ふ》こうとする俊夫の手をつかみながら江美は言った。
「クマ、とかいう奴や」
「だれよクマて……」
江美は俊夫の指を口の中へとふくんだ。鉄のような血のかおりが拡がる。
「……クマはクマやんけ……」
みるみる俊夫の顔が赤くなっていった。この人はなんで急に赤い顔をしてるんだろう。江美は気づかない。
「…………」
どういう人かを聞こうとした時、初めて気づいた。何かが口の中にあって言葉が出ない。俊夫の指である。
あ! と思った時には体の芯《しん》に電流が走っていた。指のかわりに俊夫の唇が被《かぶ》さっていた。
ドンーと入口の引き戸に体を押しつけられ、俊夫の手がはうように胸を押さえた。
「ンー!!」
両目を開いて首を振ろうとするが、俊夫の唇が江美の自由を奪っている。
また目を閉じた。堅く目を閉じ、体を俊夫にあずけた。
(この人はすごくやさしい人かもしれない)
俊夫の舌を受け入れた時、そう思った。
「俊しゃーん!! おったおったあ!! 見つけたでえ、クマやあ!!」
突然、大声が聞こえ、勢いよく引き戸を開ける音が聞こえた。ありがたいことに江美が押しつけられている引き戸ではなく、左側の引き戸、俊夫の住居部分の戸であった。真うしろの引き戸だったらふたりは今ごろ、玄関先へともつれてひっくり返っているだろう。
「俊しゃーん! おらんのかい、俊しゃん!」
田宮の声だった。
「俊しゃん俊しゃん俊しゃんしゃんしゃん!!」
「じゃかましいわい!」
俊夫は首をすくめながらも江美のオデコに軽くキスをすると、男湯と女湯とを結ぶ小さなドアを勢いよく開けた。江美もぴょこんと首を出した。
「なんべんも言わいでも聞こえとるわい! ドアホ」
「おう俊しゃん、おったんかいな」
言いながら田宮の顔は、ドアから顔を出す江美を見つめたままだった。
その江美はというと、田宮の顔など見向きもせず、元男湯だという俊夫の部屋に見とれている。
脱衣場と湯殿との間にあるはずのガラス戸をはずし、突き抜けの一部屋にしているのであるが、目を見張るのは湯殿の部分である。
タイルの床もあれば湯舟だってあるはずなのに、それらすべてを板でおおい隠し、上げ底のように見えなくしてある。
脱衣場の部分にはきれいに畳を敷き、湯殿の部分は三段ほどの階段がついた中二階風にしつらえてある。今でいうところのロフト風フローリングである。
(へえ、こういうことが出来る人なんや)
ただし家具というものがない。見渡す限り、ちゃぶ台がわりのリンゴ箱と小さな魔法瓶、そして白い目をして江美の顔を睨《にら》みつける田宮の顔……。
「えみちゃんって!」
その田宮が何かを言っていた。
「あ! はい!?」
「はいやあらへんで、どないするんや。一緒について来るんかボクらと」
へ? という顔で、江美は俊夫のパンツを引っぱった。本当は服の端でも引っぱりたいのであるが、この生まれたままのような男は今日もパンツ一丁である。引っぱる場所がない。
「今から春陽館に行くねん、春陽館。知ってるか、えみちゃん」
部屋を見渡しているうちに話は進んでいたようで、田宮は口から唾《つば》を飛ばして急《せ》き立てる。
「知ってるよ。今日もふたりで活動見に行くつもりやもん」
江美は俊夫の陰に隠れるように言った。
「なんやて、ふたりてダレとやねん」
まさか、と田宮は俊夫の顔を睨みつけた。けっこうニブイ男かもしれない。俊夫の部屋に江美がいる。それなのに映画をふたりで行くと言うまでピンとこない田宮である。
「あー!! こんなとこでなにしてたんや、えみちゃん」
「こんなとこてなんじゃい! コラァ!!」
ゴチッと俊夫は田宮の頭を殴ると、隣の部屋へと消えた。
「痛あ、あいつは照れくさいとすぐどつく」
「なあ田宮くん、どういうこと? 春陽館がどうかしたん」
頭を押さえる田宮の両頬をつねるように、江美は問いただした。どうも傘の先とクマというナニモノかと春陽館が一直線に並ぶような気がする。
「いやあ、実はなあー」
そのとおりだった。この間田宮を、俊夫の友達というだけで殴った男は、クマ≠ニあだ名される奴で、柔道をやっているらしい。そいつは今さっきまで春陽館で映画を見ていたのだが、ちょうど田宮はクマのうしろで映画を見ていたという。
「サブちゃん一緒におってな、ボクと」
江美が三郎と会ったのは映画館に行く途中だったようである。
「サブちゃん! こいつやあ! て言うたら……」
三郎はクマを外へと引きずり出し、今現在、反対にやられているらしい。
「それを早《は》よ言わんかい! ボケ!!」
改造傘を手に持った俊夫は、田宮の頭を殴りつけると、獣のように飛び出して行った。
──これは雨台風やな。風台風の時とは、雲の流れかたがちゃうわい。
プイッとひと言だけ言って歩き始めた俊夫を追うようにして、江美は今来た道を振り返った。
遠くにレンガ場が見えていた。
レンガ場の前まで続くでこぼこ道は、そのまま海へと消えている。海と道との境界線の役割を果たす砂浜が、ドシャ降りの雨を片っ端から飲み込んでいるようだった。
海が幾分か、膨らんで見える。
「ひゃー、ドシャ降りになってきたなあ。ほらほら、えみちゃん! 濡《ぬ》れるで」
真横で田宮の声がした。共同浴場を飛び出した俊夫のあとを追うように、この男も江美と一緒に外へ出たのであるが、
「あっ、しもた! 傘を忘れて来た」
と、江美の傘に入ったままなのである。しかも傘を持つ江美の手を、包むように上から握り締めている。
「ほんま、俊しゃんの言うたとおりや。今度の台風は雨台風やで、な、えみちゃん」
田宮はぐいっと体を江美に近づけ、江美は田宮が近づいた分、離れる。
自然に肩が濡れてしまう。
しかし江美はそれでもよかった。自分のかなり前を歩く俊夫は、パンツ一丁に下駄。傘もささずにグイグイと進んでいく。
いや、手には一応傘は持っている。
ただその傘はたたんだままである。先をピンピンに電動ヤスリで尖《とが》らせた傘は、雨をしのぐためのものではなく武器として俊夫の手に握られている。
「おーい! 俊しゃーん」
コメカミをひくひくと動かせたあと、田宮は俊夫の背中に声をかけた。コメカミが動くのは田宮の癖である。なにか一言いうたびにコメカミがひくひくと動く。本人いわく、
「脳ミソで思い浮かんだことを、頭の中で三周くらい回してボクは発言するんや。俊しゃんなんか半周もせんと発言する。社会人としては最低やで、あいつ」
と、いうことらしい。
その社会人として最低の男は、返事をせずに歩いてゆく。自分の行動をすべて直感にまかせっきりの男の歩く速度はべらぼうに速く、田宮と江美は小走り状態でついてゆく。
「おい! 俊しゃんて!」
「なんや!」
やっと返事はしたが歩くのはやめない。
「何か着れよ。服を着れへんのやったら、せめて傘くらいさせよ」
息をはずませて田宮は言った。
打ちつけるような雨はどうしたわけか、俊夫の体を避けて落ちるかのようだった。それもそのハズである。このケンカ好きの男は、体に油まで塗っている。
「聞いてるかあ! 俊しゃーん」
「聞いてるわい。相手は柔道やってんやろがい。服着てつかまったらオワリやんけ」
油を塗ってのハダカ、しかも雨。これもひとつの作戦だと俊夫は言うのである。
「よう言うで、いつもパンイチのくせして」
手で口を隠すように田宮は笑い、ところで、と江美を真顔で見つめた。
「えみちゃん……」
田宮の声を聞き流し、江美はじっと俊夫のうしろ姿を見つめていた。
雨が俊夫の体で砕け散り、ガラスの粉のように輝いている。
──この傘は人を刺すためのものだ。
そう言い切った俊夫の体からは、うっすらと湯気がたちのぼっていた。この人は必ずこのあと人を刺す。わかっているのに江美は止める気になれない。そんな自分が不思議だった。
「えみちゃん、けっこう冷静やな」
田宮の声に江美はふと我に返った。傘にあたる雨の音が急に大きくなったように感じた。
「ええ、なにが……」
「なにがて。これから俊しゃん大ゲンカするのに、平気のへいざでついてきてるやんか」
江美の肩に手を回そうか、やめようか。田宮の手が江美の背中で宙を躍っている。
「そんなことないよォ、もう喉《のど》から心臓が出そうやもん、ほら」
江美はいたずらっぽく笑うと、田宮のほうを向いて口を開けた。喉の奥に心臓が見えるだろう。
(うわっ! ほんまやな、えんちゃん)
俊夫なら同じように笑ってくれるのであるが、物事を頭の中で三周させる田宮はそうはいかない。
「そこまでして……なんでついていくねん」
と、目をつむって首を振る。
「なんでやろ……」
雨はますます強くなり、でこぼこ道からアスファルトの道に変わったころには、俊夫のうしろ姿を消すかのように水煙りを上げていた。
「無理についていく必要ないで」
「うん……そやけど」
「なっ! やめよやめよ。ボクもやめる」
田宮の手が江美の肩の上にのった。
「やめて、ボクとふたりでおいしいもんでも、食べに行こうな。ええカフェーがあるねん」
田宮くん、と江美は田宮の横顔を睨《にら》みつけた。もとはといえば田宮がクマという男にやられ、そのカタキをと三郎が出張っているのである。
その三郎が今、春陽館という映画館の前でやられている。
「なんでやねんな、もとはアイツやで。俊しゃんや」
ぶるんぶるんと田宮は首を振り、俊夫の背中を指さした。
「俊しゃんがクマていう奴の女に手ェ出したんやで。それでクマが怒ってやなァ……あ!」
しまったと田宮は慌てて江美の肩から手を離した。俊夫の背中をさす指だけはそのままである。
「なにそれ、どういうことォ。田宮くん、もういっぺん言うて」
「いやいや、なんもない、なんもない。早《は》よ行かなサブちゃん再起不能にされるで」
江美の傘から飛び出した田宮は、俊夫のもとへと走って行った。
「ちょっとお! 田宮く……」
言いかけたところで急に胸がパンクしそうになった。女という言葉がこれほど喉ごしの悪い言葉だとは知らなかった。
ゴクン──と江美は女≠飲み込み、俊夫と田宮のあとを追った。
三人は春陽館に向かっていた。
俊夫の足は速い。
レンガ場のでこぼこ道からアスファルトの道に出て、紀州街道を右折する。むかし紀州の殿様が駕籠《かご》で通ったという細い街道をどんどん歩いてゆく。
ドシャ降りの雨の中、パンツ一丁の俊夫は全身にバネでも仕込んであるのか、歩けば歩くほど加速するかのようである。反対にうしろを歩く田宮は老人のように腰を曲げ、荒い息を吐きながら、かろうじて江美に背中を押してもらって歩いてゆく。
同じ雨の中を歩いているのに、田宮はびしょ濡れ、俊夫はあまり濡れていないような感じさえする。
春陽館という町はずれの映画館の前までやって来た時、まず目についたのは黒い山である。映画館の前に、傘をさした者やカッパを着込んだ者が山のように集まっている。
その山の真ン中だけが、ポツンと空洞のように空いていた。
その中にふたりの男。
ひとりは雨と血で、ヌタヌタに濡れた三郎であり、もうひとりは身長二メートルはあるかと思うほどの大男だった。
大男はまるでメンコでもするかのように、倒れる三郎をつかみ上げては地面へとたたきつけている。
──これが払い腰!!
──そりゃ足払い!!
──大外刈はこないすんじゃい!!
野太い声が雨の中で聞こえ、そのたんびに三郎の体とアスファルトがぶつかる低い衝撃音が腹の底まで響いた。
「ひやー、サブちゃん、びしゃびしゃにやられとるがなァ」
人混みの最後尾で飛び跳ねるように田宮は言うと、どうする? と俊夫の顔を振り返った。
「カッコワルイのお、サブのあほめ」
俊夫が言ったのはこのひと言だけである。この後、ケンカが終わるまで、この男の口は真一文字に固く結ばれたままだった。
目は口ほどにモノを言うという。
江美が田宮と同じように俊夫を振り返った時、俊夫の目は鋭く尖っていた。
(あのやさしい目が、どうしたらこんなに怖い目になるんだろうか)
とてもじゃないが近寄れない、江美さえも遠ざけるような目。
(わたしが思っているより、この人はもっと奥行きがあるかも知れない)
ただその奥行きが、どちらに深く伸びているかは江美にもわからない。
弟が地面にたたきつけられているのを見ながら、俊夫は笑みさえ浮かべている。いや、その弟も同じである。
「いやあ! 強い強い! ワレほんまに強いのお!」
わはははは、と三郎はうれしそうに立ち上がっては地面にぶつけられているのである。
すでに髪は血で固まり、服は破け、襟は伸びきり、骨が折れているのか左手はダラリとぶらさがったままである。
なのに三郎は笑っている。
俊夫も笑っている。
この場にいる者のなかで、笑っているのはこの兄弟だけであろう。
「ほんまクマみたいやのォ、あだ名どおりや」
腕を組んでしきりに頷《うなず》く田宮の顔も強張《こわば》っているし、言われている大男のほうも、三郎を投げ飛ばしながら顔がひきつっている。
──そりゃ背負い投げ!!
──ともえ投げもできるで! ホラぁ!!
大声でも出していないとやっていられないのかも知れない。何度投げようがたたきつけようが、三郎は必ず立ち上がってくるのである。立ち上がっては笑いながらうれしそうな声を上げる。
そして俊夫と同じように、底なし沼のような奥深い目で、じっと間合いを詰めてくる。
「ええかげんに! さらせボケ!!」
何度その言葉を言ったであろうか、フラフラの三郎の奥襟をつかみ、血と雨とが流れる地面にたたきつけ、クマとよばれる男は三郎の背後へ回り込んだ。
──こうなりゃ首を締めてオトしてやるか。
クマが太い腕を三郎の首と頭に回した時、黒い山がふたつに割れた。
傘を手に持つ俊夫が立っていた。
「な、なんやワレ!」
と言ったのは三郎のほうだった。
「俊! われはへっこんでいよ。これはオレのケンカじゃい」
首を絞められながら、三郎は俊夫に噛《か》みつきそうな勢いで言う。
ふと三郎の首が軽くなった。
「ほーう、オノレが俊かい」
ぬいっと立ち上がったクマは、俊夫の前に立ち塞《ふさ》がった。
とても勝ち目はない。
おおいつぶされそうな俊夫を見ながら、江美は思った。ただし勝ち目がないのはクマのほうである。俊夫が負けるわけがない、そう江美は信じて疑わない。
「人の女に手ェ出しやがって、コラァ」
負けてしまえ、とも思う江美である。
「聞いとんかい、おう」
俊夫は黙ったままである。
「なんとか言わんかい!!」
クマが言うと同時に俊夫は一歩前に出た。別段殴りかかるわけでもなく、蹴《け》りを入れるわけでもない。ちょっと散歩にでも行くかのような、軽い一歩である。
「あかん!! つかまったら終《しま》いやあ!!」
江美の真横にいた田宮が慌てて飛び出し、クマは声に反応するかのように俊夫の肩をつかんだ。
服も着ず、パンツ一丁の俊夫である。他につかむところはない。クマはうまく田宮にのせられ、殴るということを忘れて俊夫の肩をつかんだのである。
ズブッ!
皮膚が弾《はじ》けるような音がした。俊夫の持っていた傘が、クマの太股《ふともも》に突き刺さっていた。
「ひぎゃあー、痛!!」
と言う間もない。ズリッと太股から傘を引き抜いた俊夫は、今度は目の前で無防備にさらけ出されたクマの腹をめがけて傘を突き出した。
──パスンッ!!
と、なにかが割れたような、小さな風船が裂けたような音がした。
俊夫の肩に乗っていた手がズリズリと落ち、雨に濡《ぬ》れたクマの顔からは脂汗が噴き出し始めている。
傘はクマの腹に突き刺さっていた。
「ちょっとお、田宮くん! 止めてよォ!!」
このままでは俊夫は目の前の男を殺してしまう。そう思った江美は田宮の背中を突き飛ばした。
──俊しゃん待ったあ、もう堪忍したれ。堪忍したれえ──
人の山から田宮と江美が転がり出た。その瞬間、俊夫は素早く横に動いた。
腹に傘が突き刺さったままのクマが江美の目の前にいた。
──死んでしまう、腹に刺さった傘を抜かないと、この人は死んでしまう──
俊夫を殺人者にしたくない思いから、江美は、無我夢中で傘を引き抜いた。これが悪かった。
(ズルッ!)
傘のなくなった腹の穴から、臓物がはみ出してきたのである。
「いやあー! なにソレ!!」
江美はこの時、気丈にも傘をもう一度フタでもするかのようにクマの腹めがけて戻そうとした。
たまらないのはクマのほうである。
刺されて抜かれて、また刺し戻されようとしている。
クマは両手で自分の腹を押さえながら、這《は》うようにして後方へとズリ下がった。
そこには三郎がすでに立ち上がっている。
「ニーさん、しっかり腹押さえときや。出てくるでテッチャンが」
三郎は不敵に笑うと、クマの背後から首に手を回した。左腕を首に巻きつけ、右手で頭を前方に倒してゆく。
ゆっくり、ゆっくり、首が絞まってゆく。
苦しくてもクマは両手を腹から離すことはできない。離したら最後、腸が「コンチワ」と出てきてしまう。
クマはすぐオチた。
雨の中、舌と腸をはみ出させた大男が横たわっていた。
江美は立っているのがやっとだった。意識が何度も飛んでいきそうになる。
ふっ、ふっと体がどこかに持っていかれそうになり、膝《ひざ》の力が抜けた。
「いけるか、えんちゃん」
視野が一気に狭くなり、真っ暗な所に落ちそうになった時、声がした。
がっしりと大きな温かいものが、江美の体を支えていた。
「えんちゃん、傘ささんと濡れるで」
やさしい声が傘を拾い上げ、江美の体を抱き寄せている。
俊夫だというのはわかっている。
わかっているがあえて返事はしない。目の前にはクマを抱き起こす田宮が見えている。
「えいやあ!! ほりゃあ!!」
活動映画の侍のように、田宮はクマの背中に膝を当て、カーッ!! と肩を揺すっている。それでクマも目が醒《さ》めるからおかしい。
江美はクスリと笑い、クマのはみ出た腸を見てまた暗い闇の中へと落ちそうになった。
クマが腹を押さえながら走って逃げてゆくのが見えていた。
「覚えとれよお!」
ふつう、クマが言うべき台詞《せりふ》が江美の頭の上から聞こえた。俊夫という男はまだやり足らないのか、悔しそうにクマの背中に罵声《ばせい》を投げつけている。
「さてと……や」
また江美の頭の上で声がした。
「田宮ァ、ワレすまんけど、サブを送ったってくれるかあ」
俊夫が言うころには田宮の肩が三郎の腕の中に滑り込んでいた。
「うん、ボクはええけど、俊しゃんはどうすんねん」
「オレかい、オレはえんちゃんを送って行くがな」
俊夫が言い、江美の体は俊夫に強く引き寄せられた。江美はその俊夫を両手で押しのけた。
「そらアカンで、ボクも一緒に行くわ」
田宮は三郎の腕から肩を抜いた。三郎はその場に崩れ落ちてしまう。
「なんやねん、なんで田宮ァ、ワレが一緒に来るねん」
「なんでもや」
「アホか。ワレはサブとふたりで肩組んで帰れ。なあー、えんちゃん」
言いながら俊夫は江美の手を引いたが、江美は振りほどいた。そしてプイと横を向く。
「なんや、どないしてん、えんちゃん」
「どないもしませんよーだ」
傘をぶるんと回し、雨の滴を俊夫の顔にかける江美である。
クマという人の女──。
それがどうも心の中で居ごこちが悪い。
「なんやねん、かわいないなあ」
「どうせクマさんの女の人のほうが、カワイイんやろ」
ヤキモチを焼く自分が好きではないが、言わないと心がペシャンコになりそうだった。言って俊夫に笑い飛ばしてほしかった。
「まあな。そらあの女はきれいやけど……」
ところが俊夫はよりによって、相手の女性を江美の前で誉めたのである。
「え……」
「そやけど、えんちゃんのほうがオレには合うていうか」
「あほ!! アホぼけカス! 死ね!!」
体が震えた。どうしていいかわからず、体中の力が足元から地面に溶け出していきそうだった。
江美は傘を俊夫にぶつけ、勢いよく歩き始めた。
──止めて! わたしを止めて! 追いかけてきて、わたしをつかんで──
雨を蹴散らすように江美は歩く。
「冗談やんけ」
俊夫の声が江美のうしろをついてきていた。
雨は少し小降りになったようである。
俊夫の大きな手のひらが、江美の手を包み込むようにして固く握り締めていた。
あったかい。
世の中のなによりもあったかい手だった。
──手のあったかい人は、心が冷たいというのはホントなのかな──
思うだけで江美は息苦しくなってしまう。
この大きなあったかい手で、よその女《ひと》の手を握ったのか。その時、いつも江美の前で見せる、シワだらけのやさしい目をしたんだろうか。
考えるだけで、喉《のど》と胸の間に太い鉄の棒を刺し込まれたような気分になった。
「離してよ、もう! エロガッパ!」
「エ……エロガッパぁ……」
江美が手を振り解《ほど》こうとすると、俊夫が奥歯が見えるほど口を開けて笑った。思わずその笑顔につり込まれそうになったが、江美はなんとか膨れっ面を保つことができた。
「オレのどこがエロガッパやねん」
「自分の胸に聞いてみたら」
フン! と顔を横に背けると、そこに田宮が立っていた。
──今回のイザコザの原因は、俊しゃんがクマの女にちょっかいを出したから──
田宮は確かにそう言った。
その田宮が両手を合わせ、江美ではなく俊夫のほうを向いて小声で謝っている。
(ワレこら田宮ァ、なんか余計なこと言うたんかい?)
(すまん俊しゃん、つい口が滑ってもうて)
(ほたら二度と滑らんように、顎《あご》の骨バラバラにしたろか)
(ひゃー)
「なにをこそこそ言うてんの! 離して」
江美は手を俊夫に握らせたまま、半歩うしろに下がると同時に右足を思い切り振り上げた。
「……!!」
ちょうど右足の足首が俊夫の股間《こかん》にめり込むかたちになり、俊夫の手が緩んだ。痴漢に出遭って腕を取られたら、こうして蹴飛《けと》ばすんやで、と俊夫が教えてくれた蹴り方だった。
「ひとりで帰れますよーだ。ほっといて」
クルリと背中を向けたが、相手は痴漢ではなく俊夫である。つい「大丈夫かな」と思ってしまう。一歩前に歩くということができない。帰る気持ちより、なんとか俊夫に止めてほしい気持ちのほうが上である。
「えんちゃん、待てて」
痛そうなくぐもった声の俊夫が、また江美の手をつかんでいた。
江美は黙ったまま振り解いた。
「ええかげんにせい!」
まるでその言葉が合図だったかのように、江美の体はクルリと俊夫のほうに向き直り、向いたとたんに手が飛んできた。
──パシン!
江美も待っていたのかも知れない。
スネているわけでもなければ怒っているわけでもない。ヤキモチという形で甘えてみたかっただけである。
──女遊びのひとつやふたつ、できないような男なんて──
そう思う心も江美の中にはある。しかし今は別の感情が顔をのぞかせている。親にも殴られたことのない顔を俊夫に張られた時、なぜか「うれしい」と思った。思ったら涙が溢《あふ》れ出てきた。
江美は目の前の広い胸に飛び込んだ。
服もなにも着けないハダカの胸を雨が濡《ぬ》らしていた。
「あのな、えんちゃん……」
俊夫の声に江美は頷《うなず》いた。俊夫の鼓動が江美の中に入ってくる。
「このアホとオレと、えんちゃんはどっちを信用する?」
頭の上で俊夫の顎が動くのがわかった。顎の先に田宮の顔があった。どの程度江美と俊夫の胸がひっついているのか、田宮は角度を変えながら覗《のぞ》き込んでいる。そして首を振りながら両手で(そんな男を信用してはイケナイ)と、ふたりを引き裂くような手振りをしていた。
女は好きな人の言葉だけ信じるものである。そこが男とは違う。
「たしかにな、クマのオナゴと一回だけ会《お》うたことはホンマや」
俊夫の胸が響き、いつものやさしい声が聞こえた。いいや二回や三回は会っているぞと田宮は体をくねらせて手を振ったが、俊夫のゲンコツが黙らせた。
「……信用してええのん」
「おう、オレを信用せんとダレを信用するねん」
「なにもなかった? その女《ひと》と」
「………」
俊夫は黙り込んでしまった。しかし江美の耳に聞こえる鼓動はゆっくりと落ち着いたままである。まったくアセリもしてはいない。
「あったん?」
「事故や」
え? と聞き返す間もなかった。
あれは事故だ。早い話、オレは事故にあった被害者だ。もし責めるならクマの女を責めるべきで、被害者のオレを責めてはいけない。俊夫は一気にしゃべると、
「そやけど、好きな女はえんちゃんだけや」
と、言い訳の最後を赤い顔で締めくくった。胸焼けするんじゃないかと思うくらい、胸元まで真っ赤である。
──えんちゃんだけが好き。
そう言った時だけ俊夫の鼓動が速くなったような気がした。
「第一オレ、いっぺんにふたりも好きになれるほど器用とちゃうわい!」
その証拠を見せてやる、ついて来い! と俊夫は江美を一度引き離すと、ひとりで歩き始めてしまった。
(いいや器用や。あいつやったら一ダースはいっぺんに好きになれるで)
俊夫のうしろ姿に田宮は小声で言った。
「うるさいな!!」
バシンー!! と田宮の横っ面を張り飛ばし、江美は俊夫のあとを追った。
「痛ったあー、なにすんねん、えみちゃん」
田宮の足も江美のうしろを追いかけてきていた。
どこに行くの? とは聞かない江美である。このへん「おーい俊しゃーん、どこに行く気やあ」と関係ないくせにうるさい田宮とは違う。けっこう腹の据わった女かも知れない。
俊夫は大股《おおまた》でどんどん歩いてゆく。
途中、少し速度を落とすのは小股でチョコチョコとついてくる江美のためだろう。しかしその時だって振り返りもしない。まっすぐ前を睨《にら》みつけるかのように歩いてゆく。
一度、大津川の橋を渡る時だけ、チラリと川の流れに目を落とした。
そのころには雨もやんでいた。
「雨台風の予想はハズレたね」
江美も同じように川の流れを見ると、俊夫はコクリと頷き、また歩き始めた。川の水は増し、橋の底を舐《な》めるかのように過ぎていく。
「俊しゃーん、どこ行くねーん。そっち行ったら、えみちゃんの家……」
田宮が立ち止まるのがわかった。橋を越えれば江美が通うお華教室があり、その先には江美の住む家がある。
雲がえらい勢いで江美の頭の上を流れていった。風が強くなり始めていた。
大津川の土手から続く坂道の途中に江美が通うお華教室がある。さらに坂を下りてゆくと小さな八百屋がある。
その裏が江美の家である。
大阪に出てきて間がないころは勤め先の寮に住んでいた江美ではあったが、先に出てきていた父がやっとの思いで家を借りた。
母はすでにこの世にはいない。
父とまだ幼い弟の三人で、この八百屋の裏の借家に住んでいる。
俊夫、江美に続いて田宮までが八百屋の横の狭い路地に行きついた時、ちょうど江美の父である政治が玄関先に立っていた。
手には八百屋が捨てたキャベツの芯《しん》を持っている。
「あっ、お父さん」
江美は飛び上がって俊夫の両目を塞《ふさ》ぎたかった。自分の父親が八百屋の捨てたものを物色してるのである。江美でなくても恥ずかしい。しかもそれを俊夫はじっと見ている。
「なんや、酒のアテにでもするんかい」
その俊夫が政治へポツリと言った。
「こんにちは」でもなければ「はじめまして」でもない。そのうえ、ひとつ間違えれば飛びかかりそうな目つきである。女には弱いが同じ男同士にはキツイ攻撃的な男である。
「ああ、細かーにきざんで醤油《しようゆ》でな」
政治もまた見向きもしない。若い頃から全国各地、薬をかついで身ひとつで渡り歩いている。土地に女もつくれば鉄火場で暴れてスマキにされたことだってある。
「オレはいつも、米粒を楊枝《ようじ》でついて、醤油つけるわい」
「それが一番やけど、米を炊くはずの娘が朝から出たまま、まだ帰らん」
キャベツの芯を手に、政治はやっと俊夫のほうを向いた。メガネの端に江美が映っている。
「あ! ごめんなさい、すぐ支度するわ」
慌てた江美が俊夫の横をすり抜けようとした時、俊夫は江美の手をつかんだ。そしてゆっくりと頭を下げ、
「こんな時間まで娘はんを引っぱり回してすんまへん。謝ります。また今度、ゆっくり挨拶《あいさつ》に来《こ》させてもらいますけど」
と言ってグイと頭を上げ、今度は政治を真正面に見据え、
「中途半端な気ィで付きおうてまへん、毎日、顔見て暮らしたいと思てます」
と、地面につきそうなくらい頭を下げた。つられるように江美も下げた。そして田宮である。
「ボ、ボクもそない思てます。いや、こいつの倍は思てます」
俊夫の横に並んで頭を下げてしまった。頭を下げながら俊夫と睨み合っている。
「そうか……。まあ、がんばりィなふたりとも」
政治はそれだけを言うと、プイと家の中へと入ってしまった。江美も仕方なく入るかたちになってしまう。
玄関口で俊夫に小さく手を握り、砂をひきずるように戸を締めた時である。
「ワシ思うんやけどな」
政治が外の気配をおもしろそうに探りながら首を伸ばした。そして言った。
「あのふたりの指見たか、江美」
自分の指を透かして見るようにしながら、
「あの目つきの悪いほう、あいつの指は汚かったなあァ。油か鉄屑《てつくず》かしらんけど、爪の間までドロドロや」
と、俊夫のことを言う。それに比べて田宮のほうはスラリときれいな指だと。
(それは傘をピンピンに削ったり、ケンカしたり)
言いたいが江美は言えない。そんな奴と付き合うなと政治は怒るかも知れないのである。
「ええか江美」
政治が江美の顔を覗き込んでいた。
「男で指のきれいな奴はロクなのんおらん。指の汚い男は仕事をようする奴やで」
ありがたい勘違いである。江美は大きく頷いていた。
外では俊夫が田宮の頭をひっぱたく音が聞こえていた。
次の日、江美は家が揺れるので目を覚ました。
風である。
横なぐりの強い風が大きく家を揺らしていた。
「ジェーン台風ていうらしいで。気ィつけて行きや、おまえも」
政治はお茶漬けを胃の中にかき込むと、置き薬のたくさん入ったカバンを手に出て行ってしまった。弟も友達と学校へ行ってしまっている。
心配だから帰りに少し寄ってみようかな。
今日は晴れてお華の免状をもらう日である。俊夫にも見せてあげたいし、誉めてももらいたい。足は自然とレンガ場のほうへと向かうことになる。
江美がお華教室に立ち寄り、レンガ場に向かったのは正午すぎである。
御室《おむろ》流・奥伝──と書かれた板切れを風呂敷に包み、小走りに歩いているのだが、なかなか前に進まない。
強風である。
今までの台風とはケタ違いの風が江美の前進を阻むどころか、重力に逆らって風呂敷包みを真上へと吹き上げるのである。
(今日は着物でよかったァ、スカートやったら落下傘みたいに丸見えになってしまうわ)
江美はなるべく風の抵抗が少ないようにと、カニのように横歩きしながら思った。けっこうノンキな性格《たち》かも知れない。
しかしそのノンキな江美でさえ、レンガ場のでこぼこ道にさしかかった時は一瞬、立ちすくんでしまった。
海が立ち上がっている──。
そう思ってしまうような光景である。
レンガ場の集落より海のほうが高いのである。遠くに見える各家の屋根の上に海が見えている。
「なにコレ……どういうこと」
真正面からの風は息さえロクにさせなかった。風の中に画鋲《がびよう》でも混ざっているのか、皮膚になにかが当たっては砕け散る。
「うわー、しょっぱい」
海水である。海水が風と一緒に飛んでくる。
(逃げい逃げい!!)
(東洋紡やどお! みんな東洋紡のほうに行けい!!)
江美とすれ違うように人々は叫びながら、逃げて行く。
もともとレンガ場の向こうは砂浜である。防波堤なんていうシャレたものは見たことも聞いたこともない。海が立ち上がるとひとたまりもない場所なのである。
「おう! え……え……、えーと……」
すれ違う人の群れの中に三郎がいた。
「え……え……」
「江美です」
「そうそう! えみちゃん。どこ行くんや?」
三郎はわかりきったことを聞いた。この若者は不死身なのか痛いという言葉を知らないのか、きのう折れたはずの右手にギプスすらはめていない。
「どこて、あの人のとこ……」
モジモジとしながら江美は答えるのであるが、なにしろ体ごと飛ばされそうな強風である。恥ずかしいことを聞かないでと、江美が三郎の肩をたたいた時には二メートルほど違う位置に立っている。
知らない老人の頭をピシャリとたたいてしまった。
「あ! ゴメンなさい」
「こっちやこっち! えみちゃん」
あららと三郎のほうへ歩きたいのであるが、なかなか進まない。風の中に海水どころか、砂浜の砂まで混ざり出している。
「あのな!! ワイらこれから東洋紡まで逃げるからな」
仕方がないと三郎がやって来て言った。東洋紡とはレンガ場から少し離れた所にある紡績工場のことである。そこには高くて大きな塀がある。
「俊にそない言うといてくれるか! レンガ場で残ってんのん、あのアホだけや」
言いながら三郎は振り返っていた。今さっきまで屋根の上に見えていた海が見えなくなっていた。まるで身を潜めるかのように、海は低く身構えていた。
「止めても行くやろ、えみちゃん」
「うん!」
笑いながら江美の尻《しり》をたたいた三郎は、風に押し出されるように去って行った。
江美はまた少しずつ歩き始めた。不思議と恐怖心はなかった。早く俊夫に会いたい。俊夫なら台風くらいなんとかするだろう。それに俊夫と一緒なら、どんなことでも楽しくなるような気がする。
海が唸《うな》り始めていた。
共同浴場の俊夫の部屋に入った時、外とは違う時間の流れを感じた。
急《せ》きも慌てもしてはいない。俊夫はひとりでモソモソと遅い昼食をとっていた。
「おう、えんちゃん! ひとりで来たんか」
大変だったろうと俊夫は茶碗《ちやわん》と箸《はし》を持ったまま立ち上がった。質素というべきか俊夫の昼食はごはんにキナ粉を振りかけただけのものである。なぜかわからないが、江美の胸は締めつけられるような想いだった。
「ゴメン、お茶いれるわ」
「ああ、かめへんかめへん。もう終《し》まいや」
俊夫は一気に残りのごはんとキナ粉をかきこむと、ちゃぶ台がわりの新聞紙を足で部屋の隅へと蹴《け》り寄せた。
「で?」と大きなアグラをかくと、その前へチョコンと江美が正座した。今までにない江美の神妙な顔に思わず俊夫もアグラをやめ正座をしてしまう。
「このあいだの返事をしに来ました」
風で乱れた着物の襟を正し、江美は風呂敷包みを前に置いた。
「嫁入り道具はこれだけですけど」
江美は風呂敷を解き、中の板切れを出した。
何もこんな日に──とは俊夫も言わない。眉《まゆ》ひとつ動かさず「御室流・奥伝」の文字をしばらく見つめ、思いたったように奥に消えるとカンナと白いハンカチ、そして墨汁と筆を持って現れた。
黙ったままである。おたがい沈黙が苦痛にはならない。聞こえるのは地を裂くような風の音だけである。
俊夫は江美の免状を手に取るや、黙ったままカンナで削った。御室流・奥伝があっという間に消えてゆく。江美は俊夫の太い指先を見つめたまま、文句ひとつ言わない。
俊夫はきれいに削れたのを確かめると、墨汁を染み込ませた筆をくねくねと動かした。
お華の免状はふたりの表札に変わってしまった。
「玄関にかけにいくか」
「うん!」
江美が立ち上がると俊夫はその頭の上に白いハンカチを乗せた。
「ツノカクシや」
「はい」
「その顔を……一生頼みます」
頭をボリボリかきながら、俊夫は江美の顔を覗《のぞ》き込んだ。
ひとつの迷いもない、天真爛漫《てんしんらんまん》な笑顔がじっと俊夫を見つめていた。
ふたりは玄関へと向かった。戸を開けた共同浴場の看板の横に表札を掲げた時、海がまた立ち上がった。
波が押し寄せていた。
また雨が降りだしたのかな。
ツノカクシがわりの白いハンカチを押さえる江美の手に、水の粒が落ちてくる。空を見上げると口の端に塩を感じた。
海水である。
レンガ場に来る途中、真横から風に混じって飛んできたはずの海水が、今は真上から雨のように落ちていた。
海水だけではない。木の切れっ端や、ちぎれた漁船の網までが海水と混じって落ちてくる。
「ほおーう、にぎやかな天気やのォ」
俊夫の落ち着いた声が聞こえた。
世の中で一番怖いのは生きた人間だと、いつも口癖のように言う男は、空を睨《にら》みつけながら江美の手を握っていた。
その手が少し震えている。
なぜ震えているのかはわからない。普段は見えない風の姿が、空に舞う海水によって渦巻状に見えているためか、それとも今日もパンツ一丁でいるのが少し寒いのか、江美にはわからない。
「うわっ、見てみィえんちゃん! カニやカニ、カニが空を飛んでるぞ!」
砂浜にいるはずのカニが風に巻き上げられている。俊夫の手の震えは一段と速度を上げた。
「怖いん?」
江美はまっすぐヘタな字で書かれた表札を見ながら言った。
「あ、あほか、なにが怖いねん」
俊夫も表札を睨みつけている。
「手ェ、震えてるもん」
「武者震いじゃい」
じっと表札を見ながら俊夫と話していると、急に涙がこぼれ始めてしまった。
ずっとお華教室に通って取った御室流・奥伝の免状。それをいとも簡単にカンナで削って表札にしてしまった俊夫。削られた悲しさより、削って出来上がった表札のほうが、なんとなくうれしいような気がする。
涙を流す江美を見て、俊夫は慌てた。
慌てて自分のやってしまったことを恥じた。
そりゃそうであろう。人が雨の日も風の日もずっと通って、やっと取った免状である。それを(表札にもってこいの木ィやんけ)と思い、思うだけならまだしも、雨だから仕事を休み、風だからと博奕《ばくち》ばかりしているこの男は、あっさりとカンナで削って表札にしてしまったのである。
(そやけどまあ、失くしたて言うたら、もう一枚くらいくれるやろ)
慌てているわりにあまり反省はしないといった顔が、江美の横顔を覗き込んでいた。
「ごめんな、えんちゃん」
俊夫は江美の頭にのる白いハンカチを取ると、これで涙を拭《ふ》けとばかりに差し出した。
「それを頭から取ったら……ツノがでるよ」
小首をゆっくり横に振りながら江美が言うと、俊夫はまた慌ててハンカチを江美の頭へとのせた。
のせたまま、頭を押さえつけている。よほどツノが怖いらしい。
「あんまり泣いたら、えんちゃん、明日の朝、目ぇ腫《は》れてしまうで」
だから頼むから泣かないでくれと俊夫は手を合わせる。男にはめっぽう強いこの男も、女にはからきしである。
「うん、それは大丈夫やと思う」
江美はポツリと言った。不思議なもので、うれしい時や甘えて泣いた時は瞼《まぶた》は腫れない。瞼が腫れるのは悲しくて泣いた時だけである。
「そんなもんかのォ……」
俊夫は宙を見つめてしばらく考え込んでいた。どうやらこの男は人に悲しい涙しか与えてこなかったようである。
「ダレの顔、思い出してんの」
ギュウウと江美の指が俊夫の腕の内側をツネリ上げた。
「痛たた……」
あっ、表札が傾いているな、縁起が悪いなと、俊夫は話を横にそらしながら表札の傾きを直そうとした。
指が当たり、表札が下に落ちてしまった。
「あらら、余計に縁起が悪いわい」
「んもうっ!」
俊夫に釣り込まれるように笑った江美は、落ちた表札を拾い上げようとした。
表札が宙に浮いていた。
「え!?」
その表札の横に、ふたりの笑顔が波打ちながら映っていた。
海水である。
ゆっくりと海の水がふたりの足首を飲み込み始めている。
「なんやねん、コレ……」
「海の水」
「それはわかっとるわい」
俊夫の声を聞きながら表札を拾い上げた江美の前に信じられない光景が映っていた。
レンガ場の路地が沈んでいる。
それどころか小さな波が押し寄せるたびに、海水はどんどん水位を増やしてゆく。
「おいおい……頼むで」
あっという間に海水はふたりの膝《ひざ》までも飲み込んでいた。入っていいぞなんて言ってないのに、各家の玄関を押し破った水は、スリッパや靴を浮かべてまた路地へと流れ出てくるのである。
その水が俊夫の膝あたりでピタリと止まった。そこからは上にあがるどころか、一気に引いてゆく。
風が逆方向に吹いていた。風が海を一度落ち着かせるかのように、浜へと戻している。
あっという間の出来事である。
足元を取られそうな江美の手を俊夫が固く握り締めたころには、まるで今さっきの光景が嘘だったかのように海水は引いていた。
屋根の瓦《かわら》が浜に向かって飛んでゆく。
「わあっ」
江美が小さく声をあげた。
びしょ濡《ぬ》れになった白い足袋《たび》の前に、貝殻が転がっていた。
「わあー、きれい」
着物の裾《すそ》を気にしながら、江美は貝殻をひとつ、拾い上げた。
「わあー、ごっつい」
今度は俊夫が言う番である。もちろん海水が置き忘れた貝殻のことではない。
波の音である。
一気に引いた水の音が、かなり遠くのほうで止まった音。そしてまた風がこちらを睨んだ。
「次はごっつい波が来るど」
言った時には動いている男である。江美の手を引き、走り始めていた。
「どこ行くの」
「どこでもええ、走れ、えんちゃん」
ところが江美はあいにく着物である。パンツ一丁の俊夫のようには走れない。
地鳴りのような音が、海の向こうから風と一緒に押し寄せて来ていた。
「ええい! 乗れ! えんちゃん」
大きな俊夫の背中が目の前にあった。
「おっぱしちゃるから、はよ飛び乗れ」
「おっぱ?」
おんぶのことである。言葉の意味を説明している暇はない。
俊夫は江美の着物の裾を勢いよくめくり上げると、帯の間に指先を挟んだ。
「キャー! なにすんの」
「やかましい!」
また背中を向けた。今度は乗りやすいように、ぐんと腰を落としてくれている。
その腰が江美の膝の間に割り込んできた。自然、江美は俊夫の背中に倒れ込む恰好《かつこう》になってしまう。
「ほな逃げるど」
俊夫が立ち上がり、江美の体が持ち上がった。潮の香りが鼻をくすぐった。
風が一度やみ、次には突風となってやってくる。まるで地震の時のように、海は一気に不平不満を人に向かってぶちまける。海が押し寄せていた。
「こういう時は逃げるが勝ちや」
「前もいっぺん逃げたね」
俊夫との初めてのデートの時は、大勢の男たちに追いかけられ、ふたりは川へと飛び込んで逃げた。
その時も江美は俊夫の背中にいた。
「あの時みたいに寝るなよ」
川の中を泳ぐ俊夫の背中で眠ってしまった江美ではあるが、さすがに今日は寝てはいられない。俊夫が大股《おおまた》で走るたびに、小さな江美の体は上下に揺れる。
「あの時とは方向が逆やもん」
「ホンマやの」
あの日ふたりを守ってくれたはずの水が、今日は反対に追いかけて来る。
走る俊夫の足首まで、すでに海は迫ってきていた。
さてどこへ逃げようか。
俊夫は江美をおぶったまま、レンガ場のでこぼこ道からやっとアスファルトの道へと出た。
「三郎さんは、みんな東洋紡に行くと言うてたよ」
江美は俊夫の肩にチョコンと顎《あご》を乗せ、アスファルトの道をカラカラ転がってゆくテレビのアンテナを見ながら言った。
さすがにまだ、このへんまで海水は押し寄せて来てないが、道にはいろいろなものが転がっている。
「なんや、サブのあほと会《お》うたんかい」
自分の足元にからみつくトタンを蹴《け》りどけながら、俊夫は赤い顔をして言った。蹴りどけたトタンが急に風に舞い、一度空高く飛んだと思ったら江美の背中すれすれに落ちてきた。
キャッ──江美がしがみつくと俊夫の顔は余計に赤くなる。と同時に手がもぞもぞと動く。どうやら俊夫は江美をおんぶしたのはいいが、自分の手の置き場所で困っているらしい。着物の裾をまくり上げ、オンブをすれば手は自然と江美の白い太股《ふともも》を持ち上げることになる。
そう思うと江美までも赤くなってしまう。
俊夫も赤い顔、江美も赤い顔。サクランボがふたつ、海水が押し寄せる路上に立ち尽くしたままになってしまった。
そのふたりをやっと我に戻したのは、ひとりの老女だった。
ゴム入りのモンペ風ズボンをはき、何枚もの重ね着の上に汚れた割烹着《かつぽうぎ》をはおり、風を避けるためか元々なのか、腰を折り曲げながらやってくる。
「なんや、甲斐《かい》のバーやんやんけ」
暗い所をじっと見るような目で、俊夫は前からやってくる老女に言った。
「貝?」
「みよじや名字、うちの近所の甲斐のオバアや」
顔は江美も知っている。初めて俊夫の家にやって来た時、道端で立ちションをしていた老女である。
女性が立ちションするのを初めて見た驚きよりも、その老女が江美を見て逃げ出したことのほうが驚いた。
「あのオバアちゃんね、アンタの家のことを聞いたら逃げ出したんやよ」
「なにい! 失礼なクソババアやのォ。また便所してる最中に石でも放り込んだるか」
俊夫の赤い顔が、幼い悪ガキの顔に変わった。
聞くと俊夫がまだ小さいころ、寝小便をした布団を干していると甲斐のオバアちゃんがやって来て、
(うちの家まで風で小便臭いにおいが入ってくるやろ! もっと向こうに干してんか!)
といきなり怒ったという。
彼女の家は俊夫の家の斜め前である。
(ぬかしやがったなあ、死にぞこない)
思った俊夫はさっそく反撃に出た。昔から執念深い男である。
「なにをしたの……」
老女はときおり風に流されながらも、前傾姿勢で近づいてくる。
「そやから、毎日石を放り込んだんや」
その日から甲斐のオバアちゃんが便所に入ると必ず、何者かがくみ取り式の便所のフタを開け、大きな石を放り込むようになった。
もちろん俊夫のシワザである。
くみ取り式便所というのは、読んで字のごとく汚物をくみ取る穴が開いている。その穴に大きな石を放り込まれたらどうなるか?
真上で用を足していた者へ強烈なオツリが跳ねかかる。
「そんなこと毎日やったん?」
「おう、二年くらいやったかな。勤勉やろ」
はたしてそれを勤勉というかどうか。
しかしそのため老女は俊夫を見ると何も言わなくなり、それどころか落ち着いて用を足せない我が家の便所より、外のほうがマシだと立ちションというワザを習得したという。
その老女がふと顔を上げ、俊夫の顔を見るや石のように固まってしまった。
「よお甲斐のバアやん! どこ行くんない」
俊夫の声にピクンと少し跳ね上がった老女は、しばらくは石のようになっていたが、意を決するようにまた歩き始めた。
老女を直撃するかのように、曲がったトタンが飛んできていた。
「あ! あぶない」
江美が大声を張り上げた時には俊夫は動いている。
江美をオンブしたまま老女の前に立ちはだかると、少し惜しそうに左手を江美の太股から離した。
ザクッ──。
鈍い音とともにトタンは老女の寸前、俊夫の左手に、突き刺さるかのように止まっていた。
「どこ行くねんて、聞いてんじゃい、ババア」
したたり落ちる血を見もしないし、眉《まゆ》ひとつ動かさない。
「え……」
「便所に行くんやったら、ついて行くど」
やさしい目をして笑っている。老女もその目に安心したのか、自分の首に巻いていたタオルを俊夫の左手に巻きつける。
「いやな……わたいとこの息子がな」
「ジローかい。あいつがどないしてん」
俊夫の手から離れたトタンが、かなわないと地面をするように飛んでいった。
「まだ、家の中におるねん」
「な、なんやとおー!!」
「鎖につないだままで」
「それをはよ言わんかい! 死にぞこない!!」
江美の体がストンと地面へ降ろされた。
「鎖て……息子さんを?」
「犬や犬! そのババアの犬や」
江美の両足が地面についた時には俊夫の声はすでに小さく聞こえている。
ひとりすたすたとレンガ場へと向かっていた。
「ウチも行く!」
「あほ! えんちゃんはそのババアを東洋紡まで連れて行け」
でも、と思っていたら聞いたことのある声がした。腰までのゴム長をはき、雨ガッパで全身を包んだ男が走ってきていた。
「いよー! えみちゃん」
田宮だった。
「ひやー! えらいことになってるなあ、このまま海の底に沈んだらおもろいのに」
レンガ場のほうへ背伸びをした田宮は、俊夫には目もくれずに江美の足元を見たまま黙ってしまった。
「……」
「ちょうどエエとこに来たわあ、田宮くん」
「……」
「どないしたんよ」
ん? と江美は田宮の視線の先、自分の足元を見て驚いた。さっき俊夫におんぶされたため、着物の裾《すそ》をまくり上げたままである。
「なに見てんのよお! もうっ!!」
「い、いや」
バッチーンと電気がショートするような音がして、田宮の頬に江美の手形がくっきりとのこった。
「痛いなあ。さっきは血のついたトタンが頭に当たるし、今日は厄日やで」
田宮は自分の頭と頬を同時にさすった。
「田宮くん! お願いやから! このババア……オバアちゃんを東洋紡まで、連れて行って」
ペコリと江美は老女に頭を下げながら言う。
「ああ、それはええよ」
「頼んだよ、ね!」
「それで、それでえみちゃんはどないするんや。着物なんか着たままで」
田宮はまた視線を下へ落とそうとしたが、江美の右手がピクリと動くのを確かめるや、慌てて顔を手でかばった。
「決まってるやんか」
江美は走り始めていた。俊夫の姿は遠くのほうで小さく見えるだけである。
(わたいの息子がな、鎖でな、ジローていいますんや)
(ダレやねんオバアちゃん、ひっつくなよォ)
田宮と老女の声を聞きながら江美は走った。俊夫の姿はもう見えなくなっていた。
共同浴場の看板の横に表札が掛かっていた。海水はすでに江美の膝《ひざ》小僧を軽くこえるくらいまで押し寄せてはいるが、元々砂地のレンガ場である。増えては引き、押し寄せては戻りを繰り返しているようだった。
「えんちゃん、ここや」
ふいに俊夫の声がした。見ると共同浴場の中、俊夫が自分で作ったロフト風、中二階の板の間に座っている。おそらくレンガ場で水につかってないのはここだけであろう。元々風呂場だけに水ハケもいいようである。俊夫の隣で小犬が眠っている。
「あっ、助かったん? ジローくん」
「おう、自分で鎖ちぎって、ここにおったんや。強いぞジローは」
犬を起こさないように、江美はゆっくりと俊夫のところへと上った。
いつも感じることだが、ここだけ時間が止まっているように思ってしまう。外は風の音だけがしている。
ほかに聞こえるものは、俊夫の息づかいと江美の息づかいだけである。
犬の首に老女のタオルが巻かれていた。犬は老女の匂いに安心したのか、ぐっすりと眠っているようだ。
俊夫の匂いがした。
江美のうしろからそっとやってきた俊夫の匂いに、江美は全身をまかせることにした。
風の音が止まった。
江美はただ俊夫の息づかいに身をまかせ、波の中を漂っている。波は白い色に見えたり、赤い色に見えたりした。
俊夫の匂いが目の前にあった。江美は小犬が甘噛《あまが》みするように、俊夫の体を軽く噛んでいる。やがて大きな波が押し寄せた。
真っ白な世界の中で、江美は女になった。
10
風は弱くなったようだ。
海水も少しずつではあるが引いている。俊夫の下で震える江美からは見えるはずもないのだが、小さな人形が浮かんでいるように感じた。
その人形の色が変わる。
赤くなり、黄色に変わり、マンダラ模様になり、真っ白になったところで意識がやっと戻ってきた。
(怖い)
と江美は心の中でくぐもった声を出した。自分がどこか遠くへ飛んでいってしまいそうな、二度と俊夫のもとへ戻れないような気がした。
江美は俊夫によって女になった。
「痛かったなァ……」
ポツリと俊夫のほうが言った。大事なガラス細工を扱うように、俊夫の腕は江美の頭の下に回っている。
(痛いのはこっちやわ)
思いながらも江美はじっと俊夫の顔を見つめている。人を刺すような目つきも江美の前ではシワクチャのやさしい目になってくれる。
「ほんま痛かったで、ホラ」
空いているほうの腕を、俊夫は江美の顔の前に差し出した。歯型がくっきりとつき、血が滲《にじ》んでいるところもあった。
「これ、ウチがやったん?」
「そやで。小犬みたいにガブガフ噛むんやもんなあ、ほんま痛かったわい」
「ごめェん、ウチな、昔から突然人を噛みたくなる時あるねん。赤ちゃんを見てたりとか、お父ちゃんにやさしィされた時とか」
「甘噛み、いうやつやな」
うん、と江美は頷《うなず》いたが、噛んだことすら覚えてはいない。
ピクリと風が動いたような気がした。
首に巻いた老女のタオルに、うずくまるように眠っていた小犬のジローの目が開いた。開いたと同時に尻尾《しつぽ》をちぎれんばかりに振りだした。
トントントントン。尻尾が床をうれしそうに打ち鳴らす。遠くから声が近づいていた。
──オーイ! えみちゃーん! オーイ、えーみちゃーん! ついでに俊しゃーん!
田宮の声だった。
「またあのアホか」
俊夫はゆっくりと体を起こすと、小犬の頭をグリグリとなぜ、玄関先を指さして笑った。
(あかん! ウチ以外の頭は犬でもなぜたらアカン)
つい出そうになった言葉を、江美は慌てて飲み込んだ。自分が明らかに変わっていた。
「おーい、えみちゃーん! ついでに俊しゃーん」
「だれがついでやねん」
外の戸が開く音が聞こえ、そのあと部屋の戸が開いたとたんに俊夫のゲンコツが飛んだ。
「痛ったあー! いたたたた」
「痛いのはオレやっちゅうねん、見てみい」
頭を押さえてうずくまる田宮に、腕の甘噛み跡を見せようとする俊夫の背中を、江美はドスンとたたいた。
「アレ……なんかえみちゃん、変わったんとちゃう?」
驚いたのは田宮だった。今まで俊夫がなにを言おうが、背中をたたくなんてしなかったのが江美である。
「なあなあ、えみちゃん。なんかあったんかァ?」
ボクの知らない間に、キミたちになにが起こったの? という顔の田宮のうしろに、ピョコリと老女が顔を出した。小犬のジローの尻尾は、この人のために振られたようである。
「なんや甲斐のバーやん、東洋紡、行かずかい」
ババアの息子は元気だったぞと、俊夫はジローの首根っこをわしづかみにすると、老女めがけて投げつけた。
ギャウン! とジローは老女の胸に抱かれ、指を何度も甘噛みする。
「ハハハ、えんちゃんみたいや」
「もう! 言わんといて」
バシンと江美は俊夫の尻《しり》をたたく。たたかれる俊夫もうれしそうである。
おもしろくないのは田宮だけである。
「なんか変わったなあ、どこかはわからんけど変わった。うん」
と、江美の顔ばかり覗《のぞ》き込む。
「とりあえずは、ここを離れろかい」
俊夫が言った。風は弱まってはいるが、まだどうなるかわかったものではない。もし今がちょうど台風の目の中だったら、風と水は休んでいるだけである。
「東洋紡に行くか」
田宮が老女の顔を見ながら言った。さっきはいくら手を引っぱっても、テコでも動かなかった老女であるが、犬が見つかればすんなり行くであろう。
「いいや、八幡山に行こかい」
「そうか、あしこやったら近いし高台やな」
「ついでに土佐屋もある」
土佐屋とは一膳飯屋、つまり大衆食堂のことである。レンガ場から少し歩くと八幡山という小さな丘があり、中には八幡神社というこれまた小さな社《やしろ》がある。その前にあるのが土佐屋である。
「今日は開いてるかなあ、土佐屋」
田宮は外を見ながら言った。なんといっても台風直撃の日である。
「開いてなかったら、開けさすがな。朝からこれしか喰《く》てないんや」
俊夫は部屋の隅に置かれた茶碗《ちやわん》を顎《あご》でさした。碗には米粒こそ残ってはいないが、キナ粉が少しこびりついている。
ごはんの上に甘いキナ粉をぶっかけたものが、ひとり暮らしの俊夫には最高の贅沢《ぜいたく》なのであるが、その茶碗を見ると不思議に江美の胸は締めつけられる。
きちんとしたものを食べさせてやりたい。そう思う気持ちが一段と強くなったような気がする。
ほな行こけ。
俊夫は納屋に使っている別の部屋に行くと、小さな風呂敷《ふろしき》包みをひとつ、手にぶらさげて現れた。着替えはナシ、今日もパンツ一丁のままである。
「それ、なに?」
江美が聞くと俊夫は目を伏せながら言った。
「えっ……うん。金とかハンコとかや」
大事なものをまとめてある。俊夫はそう言うのであるが、なぜか江美の気持ちの中でパクンとなにかが動く。
(オレの大事なもんをみんな風呂敷で包んだァるねん、えんちゃんも入れよか)
いつもなら明るく言うはずの俊夫が、つまったように下を向いている。
ふうーん……。
じっと風呂敷を見つめる江美を避けるように、俊夫はなるべく江美から見えない角度で風呂敷包みを持つ。
「ほな行こか。オレの顔で、田宮のオゴリや」
ともあれ四人と一匹は土佐屋へと向かった。
老女とはレンガ場のでこぼこ道の先で別れた。息子がわりの小犬が戻った老女は、東洋紡のほうへと向かった。
一度、なりをひそめた風が、どんよりと重そうな雲と一緒にまた近づきつつあった。
「これはもう一発、くるなァ」
風に流されるように飛んでゆくカモメを見上げながら俊夫は言った。
「どこが変わったんやろ……なんか知らんけど、雰囲気がこう……いつもとちゃうねん」
田宮はまだ言っている。
江美のまわりを歩きながら、江美の平手打ちから顔面を守るためか、両手で顔をおおいながら首をひねっている。
「なァなァ、俊しゃんも思わへんか、えみちゃん変わったように思わんか」
「さあのォ、それよりワレなんやねん。なんかオレに用事でもあんのかい」
江美を変えた張本人は、手に持つ風呂敷包みで田宮の後頭部をひとつ、たたいた。
「さいな、それやがな」
待ってましたといわんばかりに田宮は飛び跳ねると、俊夫と江美の前にまわって両手を拡げた。
そして「オメデトウ!」と笑う。
(おめでとう? まだできたかどうか、わからんでのォ)
俊夫は江美の耳元でコッソリと言い、江美はそれが子供のことだとわかると赤く頬を染めた。
「イチャイチャすな、俊しゃん」
「おうおう、すまん。こっちの話や」
ほなら次はボクの話を聞いてもらおうかと、田宮はまるでポケットから鳩でも出したかのような得意気な顔をした。
「住友はん、なんとかなりそやで。ヒヒ」
「住友はん?」
「前に言うてたやろ俊しゃん、キチッとした仕事せなアカンて」
「言うたかなァ、そんなこと」
俊夫は尻をかきながら首をひねる。フル回転で頭を使う時の俊夫の癖である。
「言うたがな」
田宮の人のよさはこういうところである。
俊夫が真面目に働きたい、マトモな仕事をしたいと言えば、それが自分のタメになろうがなるまいが、親身になって骨を折ってくれる。
「で、その住友て、あの住友かい」
「そや! あの住友や。うちのお父《と》んが住友の下請け会社のエライさんと友達なんや」
その会社が金属部門の新しい会社をつくるという。そこへ面接に来いという。
「ホ、ホンマ田宮くん。ウソとちゃうのん」
江美は知らないうちに田宮の両手をつかみ、ブルブルと揺さぶっていた。自分のこと以上にうれしい。
「ホンマや。しかもそのオッサンが面接もやるらしいから、もうもろたようなもんやで」
まさにそのとおりであろう。田宮の父の友人である新会社のエライさんが面接官である。よほどのことがない限り採用は間違いない。
「話はもう通ってるから、俊しゃんが大暴れでもせん限り、大丈夫や」
やったあ! と江美は田宮の手を持ったままその場に飛び跳ねた。田宮も同じように飛び跳ねる。俊夫ひとりだけが尻をかき続けていた。
喜ぶのがヘタなのかも知れない。
「そんなうまいこといくかなァ」
パンツの中に手を突っ込み、忙しく尻をかきながら俊夫は言った。いつも楽しみにしていたものが突然中止になる。確実に手に入る見込みだったものが何かの都合で消えてなくなる。ヒヤメシばかり食い続けてきた男というのは、まずは一番悪いほうへと考えるものである。そのほうがあとの落胆が少なくすむ。
「俊しゃん、心配せんでもええて。うちのお父ちゃんは顔の広いのんが自慢やで」
田宮が江美の手を固く握り締めて言った。
「そうそう。インケツばっかり続いたアトは、カブがようでるもんやん」
江美が俊夫の口癖を言った。
「そうかなァ……」
顔をくしゃくしゃにして俊夫がやっと笑った。
「がんばれ俊しゃん!……それにしてもえみちゃん変わったなあ、急に女らしなったていうか」
しつこいなあ! と江美は田宮の手を振りほどくと、ピシャリと一発、平手打ちをかます。
「よっしゃあ! さあ今日から、真面目になるどお!」
俊夫は空に向かって風呂敷包みを放り投げ、大声で叫んだ。
さあ、今日から真面目になるどお! この日から俊夫はこれを毎朝叫び、毎日見事に忘れることになる。
「痛ったあ! いたたたた! たたかいでもええやんか、えみちゃん」
頬に赤い手形をつけ、慌てて逃げる田宮の足元に俊夫の風呂敷包みは落ちてきた。
ドスンー。と地面にたたきつけられた風呂敷包みは、結び目がほどけていた。
俊夫の大事なものが風に舞う。
「なんやあ、俊しゃんの大事なもんて、こんなもんかいな」
田宮は舞い上がるキナ粉を手で払いのける。江美の足元へはパンツが飛んできた。
「もう! パンツなんか持って出らんでも」
くるくる笑う江美はパンツを拾い上げた。パンツの下に隠れるように紙切れがあった。
写真である。
弾《はじ》けるように笑う女性。セピアカラーの写真は江美を笑っているかのようだった。
女の人? 見まちがい? 大事なもの? 一瞬にして江美の体は固く小さくなり、血の気が足から地面へと吸い取られてゆく。
「返せ!」
江美の指先が写真の真上で迷っていると、俊夫の大きな手が横から写真を取り上げた。
「なんもない、関係ない」
それだけを言うと、俊夫は不機嫌に歩き始めていた。歩きながら田宮の頭をついでのように殴り、また小さな風呂敷《ふろしき》包みをこしらえる。
三人は押し黙ったまま、また歩き始めた。
土佐屋は閉まっていた。
入れ忘れたのであろう、「めし」と描かれた青い暖簾《のれん》が、風と雨のため、地面に落ちてぬたぬたとへばりついていた。
「さてどうする俊しゃん。店ごと揺すって開けさすか?」
足元の暖簾を拾って店の入口へと立てかけながら、田宮は俊夫を振り返った。俊夫は店の真横にある小さな鳥居を見上げていた。手には石ころが握られている。
「その前にやなァ……」
よいしょっと俊夫は石ころを放り投げた。石は鳥居の貫の上へと、うまい具合に乗った。そのかわり先に乗っていた石がひとつ、江美の爪先《つまさき》に落ちてきた。
江美はまっすぐ俊夫を見つめ、俊夫は江美と視線を合わそうとはしない。
「その前にちょっと、お礼まいりしてええか」
言った時には歩き始めている。江美も黙ったままあとに続いた。
「お礼まいりて、どこへや俊しゃん」
「この中の神社やんけ」
俊夫は大股《おおまた》で参道を歩く。江美は足をフル回転させて俊夫の横へと並んだ。
「神主はん、どつく気ィか! バチ当たるで」
「あほ、そのお礼まいりとちごて、ホンマもんのお礼まいりや」
田宮のほうは振り返らず、俊夫は前を見たまま言った。振り返る途中には江美の横顔がある。
俊夫は黙ったままである。
江美も黙っている。
沈黙を破るのはいつも、心にやましい部分をもっているほうである。
「なに怒ってんねん……」
俊夫が先に口を開いた。それでもまだ、江美は黙ったままである。心にやましい部分を持つ者は、まっすぐな者の沈黙がなにより怖い。
「なんとか言わんかいコラ!」
そして怖いとつい、大声になるものである。それでも江美は黙っている。
(あの写真の女《ひと》はだれ?)
言いたいのはやまやまなのであるが、そんなことを聞く自分が好きにはなれない。イヤな女になってしまうように思うのである。それにただのヤキモチですまないような事実を聞かされるのも怖い。
「おい、えんちゃん!」
江美は黙ったままである。
「ええかげんにさらせ! ボケェ!!」
一瞬、江美の視界がテレビのスイッチを消したかのように真っ暗になった。俊夫の平手打ちで殴られたと気づいたのは地面に倒れ込んでからである。
「おのりゃ、それほどオレを信用できんのかい!」
今度は風呂敷包みが飛んできて、江美の丸くて白い額に当たった。そして足である。俊夫の足が宙に浮き、倒れたままの江美の頭上へと打ち下ろされそうになった時、
「俊しゃん! なにしてんや、俊しゃん!!」
田宮が割って入った。
「なんで殴るんや! 自分より弱いもん殴るやなんて、俊しゃんらしないぞ!」
「どかんかい、田宮ァ」
「殴るんならボクを殴れ!!」
両手を大きく拡げ、田宮は俊夫の前に立ち塞《ふさ》がった。
その田宮の顔面を、俊夫は思い切り殴り飛ばした。殴れと言われれば、ハイと殴る男である。田宮は真うしろへと倒れ、下敷きになりかけた江美は慌てて逃げる。
「痛ったあ! いたたたた! ちょっと待ったあ」
地面に尻《しり》もちをつきながら、田宮は両手を突き出した。しかし俊夫のゲンコツがよほど効いているらしく、だれもいない方向へと手を突き出している。方向感覚が戻るにはもう少し時間がかかりそうである。
「あのなァ……」
田宮を殴って少し気が落ち着いたのか、俊夫はふうっと息を吐きながら言った。
「さっきの写真で怒ってんなら、おカド違いじゃい」
あれは自分の妹で、白血病で三年前に死んだ。助けてやりたかったが家には金がない。どうしようもなかったんだ。
「オレに一番、なついてたんや。そやから今でも写真を持ってる」
俊夫はいつものやさしい目になり、江美の手を取って立ち上がらせた。
「ゴメン……」
江美は下を向いたまま自分の気持ちの中を覗《のぞ》き込んでいる。鉄の棒を飲み込んだような、重い気持ちは晴れてはいない。
嘘のヘタな人──。
そう思う自分がいる。その自分は俊夫にいじわるな質問をぶつける。
「妹さん、なんていう名前やったん?」
「え、えーと……な」
俊夫の右手がパンツの中に入り、尻を勢いよくかき始めた。
「ヒフミやヒフミ。うん、ヒフミ」
「きれいな名前やね。どんな字ィ?」
「一二三でヒフミや……」
尻をかく速度は増すばかりである。
「まあ、その話はいつかゆっくりしたるから」
俊夫の目はいつものそれではない。攻撃的な獣のような目でもなければ、やさしいシワクチャの目でもない。
この人はこんな目も持っているのか。
人を好きになるということは、その人の嫌なところまで好きになること。そう江美は思っている。
でも隠し事はいや。
江美は倒れたままの田宮に手を差し伸べた。この人なら教えてくれるかも知れない。
11
小さな爪、白くて丸い江美の手が、田宮の目の前に差し出されていた。
いや、自分で起きれるから。
江美の手を握りかけた田宮だったが、泥だらけの自分の手を見るや、慌てて引っ込めた。台風でぬかるんだ地道は、田宮の手と雨ガッパをドロドロにしていた。
「やっぱり、えみちゃん変わったよ。どこがて聞かれたら困るんやけどな」
勢いよく立ち上がった田宮であるが、よほど俊夫の一発が効いているのか、まだ足元がしっかりとはしていない。
「もう、まだ言うてんの」
「うん、ボクの知ってるえみちゃんは、そんな暗い顔してなかったで」
言いながら田宮はやさしく江美の肩に手を置こうとしたが、泥だらけの手を寸前で江美はかわし、フラフラと田宮はまたこけそうになる。
江美はじっと俊夫のうしろ姿を見つめた。
よほど都合が悪いのであろう、尻をいつまでもかきながら、田宮と江美のほうを振り返ろうともしない。
「暗い顔の原因は、やっぱりアレか」
なんとかまっすぐに立つことができた田宮は、俊夫が今も大事そうに持つ、小さな風呂敷《ふろしき》包みを指さした。
江美も俊夫の風呂敷包みを見ている。
あの中に入っていた写真。弾けるように笑う女の人の写真。ただ笑っているだけではない。カメラではなくカメラを持つ人に向けられた笑顔。
「あの写真の女《ひと》、だれなん?」
そのひと言を田宮に向かっても言えなかった。言えば最後、余計な言葉が溢《あふ》れて自分で溺《おぼ》れてしまうかも知れない。
「俊しゃんはなんて言うてた」
「お姉さんや、て言うてたけど」
嘘をついた。心の中で舌を出したいが、今は無邪気な気持ちにもなれない。
「そやろ。うん、あれは俊しゃんの姉ちゃんや。そうそう、確か姉ちゃんのハズや。関東のほうに嫁いだ姉ちゃんやで」
安心と不幸がゴチャ混ぜになった笑顔で田宮は笑う。その笑顔を思い切りひっぱたいて、ついでに俊夫の風呂敷包みをドロ道にたたきつけてやろうか、そう思った時に俊夫の声がした。
「おい、こんな台風の日ィに、結婚式やってるアホがおるぞ」
見てみろと社《やしろ》のほうを指さして笑っている。くしゃくしゃの笑顔。あの顔を見るとつい、江美の心もパチンと弾《はじ》けてしまう。
雨も風もどこかへ行ったようだった。
「見に行こ! 見に行こ! 饅頭《まんじゆう》くらい、くれるかも知れんぞ、おい!」
足をその場でジタバタさせながら、俊夫は社のほうを飛び上がって覗いている。
「その前に俊しゃん、お礼まいりせんと」
これ以上この場にいると、余計なことを言いそうだと、田宮は江美に向かって両手を合わせたあと俊夫の元へと走った。
嘘のつけない男である。江美に向かって両手を合わせるなんて、自分が嘘を言いましたと白状したようなものである。
「第一、なんのお礼まいりやねん、なんか願でも掛けてたんかあ」
田宮の声に江美も続く。つい今さっき江美と田宮をぶん殴ったくせに、俊夫は早く来いと手招きをしている。どうやら都合の悪いことはすぐ忘れるタチであるらしい。
「願は掛けてないけどな……、拾た金を賽銭《さいせん》箱に放り込んだらやな」
俊夫はひとりで頷《うなず》くと、
「田宮が仕事を段取りつけて来たがな。けっこうエエ神さんやど、ここの神さんは」
と、うれしそうに江美の顔を覗き込んだ。
江美はプン! と横を向く。嘘をつかれ、殴られ、笑って良かったねと言えるほど時間はたっていない。
「拾た金を入れたんかいな」
「そや。相手は神さんや、銭の区別なんかするかい」
「そうみたいやのォ。ボクもひとつ、願い事してみよかなァ」
田宮は雨ガッパの前を開け、上着のポケットから小銭を取り出した。
「なんの願い事するの」
「決まってるがな。えみちゃんについてる悪い虫を取り除いてくれや」
ペロッと舌を出して、自分の頭を手でカバーする田宮であるが、飛んでくるはずの俊夫のゲンコツは黙ったままである。
御神木の根っ子のところに男がひとり、うまそうにキセルで煙草をふかしていた。
俊夫の視線はその男に向けられている。そして尻をまたかき始めてしまった。今度は片方では追いつかないのか、両方の尻をバリバリとかいている。
男は政治だった。
遠目でもメガネ越しにこちらを睨《にら》みつけているのがよくわかる。
「あれ、えんちゃんのお父《と》んやろ」
政治からの視線をはずさずに俊夫が言った。
小さな舌打ちの音が聞こえた。
「うん……」
江美は小さく返事をする。できるなら今日は父には会いたくなかった。悪いことをしたつもりはないが、俊夫に抱かれた日に父の目を見るのが怖いような気がする。
政治はそんな江美の気持ちを見透かすように、黙ったまま俊夫を睨《にら》みつけていた。
「こないだはどうも。今日はちょっと、えみちゃんをお借りしてますゥ」
最初に声をかけたのは田宮だった。正装のつもりなのか、雨ガッパのボタンを一番上まで留め、ゴム長の中に突っ込んでいたズボンを外へと出している。しかも手のひらに唾《つば》を吐いて髪を整えるものだから、うしろに立っている江美から見ると、耳の上がネバネバと光っていた。
それとは正反対なのが俊夫である。
もともとパンツ一丁であるから正装など出来るハズもないが、手に持つ風呂敷包みを空高く放り投げては、落下地点まで走るということを繰り返していた。この男なりに照れているのであろう。
この照れを見逃す政治ではない。
「なんかこう……空気が変わったんちゃうかあ……おまえらふたり」
キセルの先に、「敷島《しきしま》」と書かれた煙草の葉を詰めながら、政治は上目遣いに江美を見る。
「いやあ! そうかなあ、他の奴と空気が、違いますかあ、ハハハのハ」
「ニーちゃんとちゃうがな。そ知らん顔しながら、耳でこっち見てる、あのパンイチのことや」
口をすぼめてキセルに火をつけながら政治が言うと、ドスンと風呂敷包みが地面へ落ちる音がした。
「もう、お父ちゃんまで変なこと言わんといてよ」
クルリと体を反転させて江美は政治へ背中を向ける。じっと真正面に立つほどの勇気はまだない。
なんとかしてよ。
思ったら俊夫が真横に来ていた。甘えたい、すがりたい、思うと必ず俊夫は知らないうちにやって来る。やって来て余計なことをする。
「お、おっさん……お父さん」
「まだ早い」
俊夫の言葉にピシャリと政治が言った。
「ところが早いことない……ねん。手は昔から早いほうで……」
あっ! と江美は俊夫のパンツを引っぱった。ほっておいたら何を言い出すかわからない。こんな時は田宮がいてくれるから助かる。
「そうですわ、こいつは昔から手が早い。すぐ人を殴ったりするんですわ」
だからあまり娘さんを近づけないほうがいいと、田宮が言いかけた時である。
「ちょっと待て!」
パシンと手のひらでキセルの胴の部分をたたいて煙草の灰を落とした政治は、うしろ向きになったままの我が娘の足元へとにじり寄った。
ちょうど江美の尻に、膝《ひざ》を折る政治の顔がある。
「あらま、お父さん、ボクと替わって」
田宮が精一杯の冗談とも本気とも取れることを言った。
「江美よ」
「はい」
江美は背筋を伸ばし、目をつむって返事をした。
「ちょっと、着物の裾《すそ》、めくり上げてみ」
「…………え?」
いくら親とはいえ男性である。困った顔で江美は俊夫を窺《うかが》った。俊夫は頷き、田宮も大きく頷いている。
「はよせい! 膝の裏が見えるまででええ」
「もうちょっと上でもええで」
政治と田宮に促されるように、江美はスルスルと着物の裾をめくり上げた。
「あ──!!」
遠くで結婚式を挙げている連中が全員、振り返るほどの大声だった。おそらく江美もこれほどの声をあげる父は初めて見たに違いない。
「あ──!! あ──!!」
今度はメガネをはずし、目を凝らして見るや、また大声を張り上げた。
「ど、どないしました、お父さん。膝が肘《ひじ》になってますかあ!」
「やかまっしゃい! うちの娘は化けもんか!」
余計なことを言った田宮の顎《あご》に、政治の握り締めた手の甲がぶち当たる。
「お父さん! なにすんの!」
「うるさい。おまえはすっこんどれい!」
慌てて止めようとする江美を突き飛ばし、政治は俊夫の真正面へと立った。
そして思い切り、俊夫の横っ面へとゲンコツをたたき込む。
突然の出来事である。しかし俊夫は倒れない。
二発、三発とたたき込まれても、しっかりと足をふんばったまま、政治のゲンコツを受け止めている。横では田宮が顎を押さえておおげさにもがいていた。
二十発も殴ったであろうか。服を着ていない俊夫の上半身が、血でヌタヌタと光りだしたころ、政治は息をあげながら言った。
「順番が逆やろが」
若いころから場数をイヤというほど踏んだ目が、俊夫の血だらけの顔を射貫いている。
俊夫も目を離さない。
離さないどころかこの男は、あれだけ殴られているのに足の位置すらズレてもいない。何事もなかったかのように、ずっとそこに立っている。
「順番てなによ……」
「おまえはなにも言うな。ワシはこいつと話してる」
俊夫に駆け寄る江美を目で制し、政治は続けた。
「ワシもこの年になるまで、せんど女遊びしてきたからな」
俊夫はまばたきもせずに、じっと政治の話に耳を傾けている。
「女の体のことなら、ぜーんぶ、膝の裏を見ただけでわかる」
おまえはうちの娘をやったな。江美はもう生娘《きむすめ》ではない。政治は歯にコロモもメリケン粉も着せないで、スパリと言い放った。
「えー!! な、なにいー!!」
田宮が驚いて立ち上がった。
「そんなん、膝の裏見ただけでわかるもんですか、お父さん」
「おまえはなんでワシをお父さんて呼ぶんや」
「い、いや……それより膝の裏」
そうそう、と政治は占い師のように深いシワを眉間《みけん》に寄せた。女の膝の裏。そこの肉付きひとつで政治はすべてがわかるという。
「男は目ェや。女は膝の裏。今までこれで間違《まちご》うたことないで。どや」
コクリと俊夫は頷《うなず》き、江美は俊夫の背中へと隠れる。そして田宮は膝を折ってその場に崩れた。
「ホンマすんまへん、順番間違えました」
「うん、言い出しっぺはそっちやからな」
この間、家の前でまた改めて挨拶《あいさつ》に来ると言ったのは俊夫のほうである。言った限りは筋を通せ、政治の言葉に俊夫は頷く。
「ほたらちょっと、あそこで式を挙げて来ますわ」
ヒョイと俊夫が首を動かした先に、結婚式をしている社が見えていた。
「ワシもさっきから見てたとこや。今やったら神主はんも居《お》るやろ」
ついでにチョコッとやってもらうか。政治は江美を目で促した。
「そんなん、ヨソの人の結婚式やんか」
ちょっと待ってよと江美は言うが、ふたりは聞く耳すら持っていない。
「そんなもん、うしろのほうに並んどいたらわからへんて、えんちゃん」
「一組やんのも二組やんのも一緒や。おまえもちょうど着物着てるがな」
えらいことを言いだす男どもである。こっそりと結婚式の中に紛れ込み、神主が現れたらついでにやってもらおう。そう言うのである。
「ツノカクシのハンカチ、頭に乗せときや」
俊夫は江美の手を握り、ずんずんと歩いてゆく。
「こらあ! 友人代表ォ! シャキッとせんか!」
政治は田宮の頭をピシャリとたたき、満足そうにキセルに煙草を詰め始める。
「もう! ちゃんとした式を挙げる気ィないん、ふたりとも」
江美は困りながらもうれしかった。
「金がなーい」
と、俊夫も政治も口をそろえて言うが、それでもうれしい。俊夫と一緒になることを、父である政治も認めてくれた。ただ気になることもある。
田宮が俊夫の横に並ぶと、小声で言った。
「俊しゃん、順番言うんやったら、静代ちゃんのことキチンとせんとあかんで」
江美の体は熱くなり、軽いメマイすらおぼえた。
「シッ!」
口に指を当て、俊夫は田宮をひっぱたく。江美の手を握る俊夫の手が、いつものように温かくなかった。血の通わない何かを、江美は握り締めていた。
江美が歩くたびに、菓子折りの箱がゆらゆらと揺れた。中には田宮の大好物、竹利商店の村雨が入っている。
村雨。ムラサメと読む。小豆とモチ米からなる岸和田の銘菓である。四角い棒状のこの菓子は、手に取るとパラパラ粉状にこぼれるほどか弱いが、口に入れた瞬間、もちもちとしたマカ不思議な食感へと変わる。
田宮はこれが大の好物である。
江美が(田宮模型店)と書かれた、ガラス戸を開けた時、ちょうど田宮が店番をしていた。箸《はし》箱のような長細い店の一番奥に畳を敷いた小上りがひとつ、田宮はそこに座り、木製のゴム飛行機をこしらえている。
「こんにちは」
「おこし……あ! えみちゃん」
慌てて立ち上がったものだから、膝の上に乗せていた木製飛行機が水をうった床へと落ちた。
「上手に作るね」
それを片手で拾い、江美は小首をかしげるように微笑んだ。
カワイイなあー。田宮の顔に書いてあった。
「まあな、新しい飛行機が入荷したから、きれいに作って並べんとあかんねん」
言いながら田宮は飛行機を受け取り、店の外から見える陳列ケースを指さした。
その指先に江美は菓子折りをぶら下げた。
「なんやコレ?」
「竹利の村雨。田宮くん好きやろう」
好きなんてものじゃない。村雨好きは親の代から受け継いでいる。以前、田宮の姉が家に結婚相手をつれてきた時、その男は手にカステラを持ってきた。
ガックリ──。
と肩を落とした田宮の父は、とうとう日が暮れても口ひとつきかなかったという。
(あんた、カステラ持ってくるんやったら、手ブラのほうがまだエエ。期待持たせるぶん罪やで!)
田宮もそのひと言を言ったきり、いまだに姉|婿《むこ》とは口をきいていない。
「すまんけど、開けてエエか?」
「うん! 食べてもらうために、買《こ》うてきたんやもん、開けて開けて」
田宮は今まで作っていた飛行機を放り投げると、目を細めて菓子折りをバラした。
「おおー! 赤と白、一本ずつ入ってるがな」
村雨にはワインのように、赤と白の二種がある。
「ほたら先に、あっさりと白から……」
江美が目の前に立っているのすら忘れたかのように、田宮は大口を開けて村雨を口の中へとねじり込む。
なにかある。
気づくのが遅い男である。突然自分の大好物を持ってダレかがやって来る。いい話ではないことは確かであろう。いい話はめったに向こうからはやってこない。
このへん、用心深い俊夫とは違う。
「食べたね、田宮くん」
江美がニヤリと笑った。おもしろくもないのに笑う女も怖いものである。
「ひいえ、たへてまへん」
「いいえ、食べました」
口に村雨を突っ込んだまま、涙目で首を振る田宮の横に、江美はゆっくりと腰をおろした。黒の上着に黒のタイトスカート、匂いたつような色気も持ち合わせている。
「ひとつだけ、田宮くんに聞きたいこと、あるんやけど」
江美が言い終わらないうちに、田宮は手のひらと首をせわしなく振った。
「また今度にしてくれへんかな。ボクな、ちょっと行かなあかんとこあるねん」
どこ? とは江美も聞かない。今日が俊夫の面接の日だということぐらい、初めからわかっている。そのための黒の上下である。
「うん、ウチもついていくわ」
「ええー!! 俊しゃんの面接に行くんやで」
紹介したボクはついていくが、江美まで来ても退屈なだけだ。田宮は村雨を喉《のど》に押し込みながら言う。
「その間、田宮くんはなにしてんの」
「さあ、廊下で待っとこかな、思てるけど」
「そしたらウチもそこで待つ。ゆっくり話できるやん」
自分はなんてイヤな女なんだろう。そんなことをして何になるんだろう。自分さえ俊夫を愛していればいいじゃないか。
愛した分、愛されたい。
そんなことを考える自分もいるから困ってしまう。
「静代ってだれ?」
江美は必死で言葉を飲み込んでいた。
12
静代てだれ?
ここへ来る道のりで、何度その言葉を飲み込んだであろうか。
村雨の菓子クズを頬につけたままの田宮の横顔に、江美は気持ちの中だけで話しかける。
(この前、田宮くんがあいつに言うた、静代てだれのことなん?)
(ああ、静代ちゃんかいな。俊しゃんがホンマに好きな女やで)
返事を聞いたら自分の気持ちはペシャンコにつぶれてしまう。それに俊夫のことを、あいつと呼んでしまう自分が憎くもある。
「えみちゃん……」
田宮が声をかけているのもわからなかった。悪いほうへばかり考えてしまう自分の気持ちの中に、手を突っ込んでヨシヨシとなだめてあげたい。
「えみちゃーん」
ふいに田宮の顔が道を塞《ふさ》いだ。今日は俊夫の付き添いだけだというのに、この律儀な男はヒゲまで剃《そ》って、髪をピチリと七・三に分けている。
「なになに、ん?」
「ん? やあらへんがな。なんべんも言うけどな」
静代という女性のことが頭に浮かぶ。しかし顔のところだけが、モヤでもかかったかのように江美には見えない。
「勝手にえみちゃんがついて来た、ちゅうことにしといてや」
駅のほうを見ながら、田宮は少し肩をすぼめて言った。スーツを着こんだ大きな男が、駅前で立っているのが見える。
「ボクがOKしたとか言うたら、俊しゃんボクの頭をたたくさかいにな」
たたかれるのは慣れてはいるが、せっかくきれいに整えた髪型を崩されるのはもったいないと、田宮はまた手のひらで髪をピシリとへばりつける。
「うん、黙っとく。そのかわり……あとで、ひとつだけ聞いてもええ」
駅前で俊夫が手を振っていた。少しスーツが小さいのか、手を上げるとヘソの上まで裾《すそ》が持ち上がっていた。
「なんや、聞きたいことて」
待ち切れないのか、俊夫が走って近づいて来る。江美は思わず自分も走り出しそうになるのを、必死になって止めていた。
「遅いやんけ、田宮あ!」
言うなり俊夫は田宮の頭をひとつ張った。
田宮の七・三はあっという間につぶれてしまったのであるが、いつもなら頭をかかえて倒れるのは田宮のはずなのに、どうした訳か、殴った俊夫のほうが足を取られるかのようにその場に崩れてしまった。
「どないしたん、大丈夫?」
思わず江美は手を差し出す。慌てて江美の手をつかんだ俊夫の顔が真っ青である。
「いやな……」
よいしょと立ち上がろうとする俊夫の顔は蝋《ろう》人形のように血の気がない。普通の人より血の気が多い俊夫が、血色すらないのである。
「俊しゃん顔悪い、いや顔色悪いで」
冗談を言って大事な七・三分けを手で守る田宮であるが、俊夫は田宮に向かって再度平手打ちを飛ばすどころか、まだ立ち上がることすらできずにいる。
そういえばどことなく、体も細くなったように思う。顔も体も、枯れたようにしぼんでいた。
たしか俊夫は二日ほど前、江美の父である政治にどつきまわされたはずである。もともと顔というのは、腫《は》れやすい顔と、俊夫のように腫れにくい顔とがあるにはあるが、その時の傷跡さえ枯れている。
カサブタも目の縁の青アザも、白く乾いてしまっている。
「いやな……スーツの下に着るな……」
江美の手をしっかりと握り締め、俊夫はやっとのことで立ち上がった。江美の体温が俊夫の体に入っていったのか、少し血の気が戻ったように江美には見える。
「シャツとネクタイがないわけや。オレの家には」
スーツは今回も田宮から借りたが、シャツやネクタイまでは借りにくい。
「すまん俊しゃん、ボク気がつくべきやった」
「そうそう、気づいてほしかった」
しかし俊夫からは言えない。仕事まで探してもらい、面接の段取りもつけてもらいスーツも借りた。
これ以上は恩となって動きが鈍くなる。
「頭を張り飛ばすのも、力を緩めてしまうやんけ。それはアカンやろ」
「いや、ボクはそのほうがありがたいで」
だからといってシャツやネクタイを買う金はない。
「そやからな……血ィ売ったんや」
照れくさそうに俊夫は頭をかいた。
「血ィー!!」
「売ったん!!」
驚いたのは田宮と江美である。血の気がなくなるのは当然であろう。その血をこの男は売ってしまったと軽く言う。
「そんなもん、売れるん?」
江美は慌てて俊夫の体を手でこすり始めた。こうすれば、この何をしでかすかわからない男の血の気が、少しでも戻るような気がする。
「まあ、昔はなんぼでも血ィは売れたけど、そうか……今でも買《こ》うてくれるとこ、あるんやなァ」
俊夫に代わって答えたのは田宮だった。
「あるある、蛇《じや》の道はヘビや」
「そうか……すまん! 俊しゃん、ボクのせいや」
田宮は目に薄く涙を溜《た》め、俊夫へ深々と頭を下げた。自分さえシャツとネクタイに気づいていれば、友人にそんなことをさせなかったのに。
やさしい男である。
しかしそのやさしさは、俊夫のような男には見せないほうがいい。
「ホンマにそんなこと思うてんかい」
「当たり前や! ボクは俊しゃんのこと、好きやないけど親友やと思てるで」
田宮はややこしい。
「その親友に血ィ売らすなんて……」
「そうか……」
俊夫がニヤリと笑った。一気に血の気が戻ったのか、江美の握る俊夫の手に温かみが戻る。
「ほたらスマンけど、おまえのはいてる靴脱げや。親友の田宮くん」
しまったと田宮が思った時にはすでに、俊夫は自分の履いていた下駄をポーンと、足で跳ね飛ばして手に持っている。
イヤだと言えば下駄が飛ぶであろう。
「と、俊しゃん、血ィ売った話も嘘かいな……」
「さあな、早《は》よ脱げや」
田宮の革靴を奪い取った俊夫は、そそくさと駅に向かって歩き始めてしまった。
江美の手は握ったままである。
「それはそうと田宮ァ、なんでえんちゃんが一緒やねん。遠足行くんとちゃうぞ」
これには江美がピシャリと言う。
「結婚式挙げたんやから、ついてきて当然です!」
あんなついでのような結婚式をしたくせに、なにか文句でもあるか。江美は俊夫の痛いところを突くのがうまい。
「そ、そうか。勝手にせいや」
「勝手にします!」
ふん! と横を向くふりをしながら、江美は田宮に向かい、いたずらっぽく笑った。
(そうか、えみちゃんのほうは、式挙げたんやもんなァ)
ポツリと田宮が言った。
えみちゃんのほう[#「ほう」に傍点]──。一番聞きたくない言葉を聞いた時、また俊夫がもつれてひっくり返ってしまった。
江美は俊夫の手を引っぱりながら、このままどこかに隠してしまいたいと思っていた。
面接会場は堺にあった。途中で一回乗り換えても、二十分ほどで着いてしまう。
江美がまず驚いたのは、面接会場に来ている人数と、その雰囲気である。
人が溢《あふ》れている。しかも来ている人たちは全員、明らかに俊夫とは種類が違う。
毎日、当たり前のようにスーツを着ている人たち。パジャマや浴衣のようにスーツを着こなしている人たち。
いつもパンツ一丁でいる俊夫だけが浮いていた。
「ほうーう。けっこう多いなァ」
田宮が手をかざしながら言った。ピタリとへばりついた七・三頭がここでは目立たない。俊夫以外は全員、七・三分けである。メガネをかけている人だけでも半数以上がそうだった。
「ちょっと、田宮くん……これ」
江美は自分が勘違いしていたことに、初めて気づいた。住友さんの下請けのところの工場。俊夫はその工場で働くものと思っていたが、どうやら今日の面接は、住友さんの下請けの面接のようである。
「工場で働く人の面接と違うの」
「違うでェ。工員さんは工場で面接するがな」
今日はその人たちを管理する人たちの面接だと、田宮はまるで自分のことのように胸を張った。
管理職である。パンツ一丁の管理職である。管理されたほうがいい俊夫が、管理する職につけるのであろうか。
「あの人、あがってないかなあ」
江美は心配そうに俊夫を探したが、どうやら余計な心配は無用のようだった。
「さあてとォ! オレに勝てる奴はおるかあ」
と、会場に集まる人たちひとりひとりの顔を、順番に睨《にら》みつけに回っている。
「どいつもこいつも、青い顔しくさって」
ギリギリとケンカ売るかのようである。青い顔なら俊夫も今日は同じである。
睨みつけられた人たちは黙って下を向く。なかには俊夫の顔を睨み返してくる者もいたが、俊夫が田宮から奪い取った革靴で爪先《つまさき》を踏みつければ下を向いた。「なんやコラ」と言ったら最後、口ゲンカだけではすまないモノを俊夫は持っている。
みんな下を向き、こっそり江美を見つめた。全員が江美を見ていた。
女は江美ひとりである。
男だらけの会場に、黒いタイトスカートから雪のように白いスラリと伸びた足がある。江美がその視線に気づいてスカートの裾《すそ》をぴしりと合わせた時、部屋の扉が開いた。
おそらく面接の係の人であろう。メガネ越しに白い紙に書いてあるものを読み上げた。
五人分の名前だった。最後に俊夫の名前も入っていた。
「どうぞ、中へ入ってください」
四人の男が立ち上がり、部屋の中へと消えてゆく。よほど緊張しているのか、喉仏《のどぼとけ》が上へ行ったり下に行ったりしていた。
俊夫もあとへと続く。
「こんな、家の屋根にテレビのアンテナがついてるようなボンボンどもに、負けへんど」
気合を入れているのか、ヒガミなのか、俊夫は自分の頬をひとつ、ふたつとひっぱたいて歩いてゆく。
右手と右足が同時に出ていた。
「大丈夫やろか、あの人」
「さあー、あんな俊しゃん、初めて見たなァ」
田宮は俊夫の背中を見送りながら、右手と右足をロボットのように出して笑った。
会場は水を打ったように静かだった。
時折り声を裏返した返事をする、俊夫らしき声が部屋の中から聞こえるが、待合室は静まり返っている。俊夫が居たあとの場所は、いつも哀しいくらい静かになってしまう。
「ねェ、田宮くん……」
「ハヒー!」
今度は田宮の声が裏返った。そらきた、という顔だった。喉《のど》が渇くのか、生唾《なまつば》を飲み込む音がする。
「静代て……ダレ……」
「……」
言ったと同時に体がはち切れそうになった。体中の血が毛穴から湧き出るかと思うほど、熱くなってゆく。
「……」
田宮は黙ったままだった。永遠に続くんじゃないかと思うほどの長い沈黙だった。時たまリズムをとるかのように田宮の足が動く。そのたびに大きく首を振って頷《うなず》いている。
「あのな、えみちゃん」
「うん」
返事をしながら自分の耳を塞《ふさ》ぎたかった。
「俊しゃんが満州に行ってたのは知ってるか」
知っている。戦争中は陸軍の兵隊として満州に行っていたと本人から聞いた。
「知らんか……」
「ううん、知ってる。陸軍中野学校のエリートスパイやったんやろ」
たしか俊夫はそう言っていた。陸軍のエリートばかりが集まる諜報《ちようほう》要員養成所・陸軍中野学校。その中からさらに選ばれた者だけが満州に渡って活躍した。その活躍の内容は教えてもらえなかったが、俊夫は確かにそう言った。
田宮があんぐりと口を開けていた。
「え! 違うの」
「違ーう!!」
俊夫は確かに満州へは渡った。陸軍の二等兵。一番下っ端である。しかも炊事係だった。同じ町内で同時に満州に行った奴の話によると、普通、兵隊さんのめしというのは丼《どんぶり》に箸《はし》を立てても量があまりにも少なくスカスカのため、箸が倒れるという。それなのに俊夫の丼だけは箸が倒れず、それどころかそのまま箸に丼がくっついてきたという。ぎっしり押し込んであるからできることである。
騙《だま》された──。と思いながら江美は笑った。俊夫のそんなところも好きな一部である。しかし江美の笑顔は長く続いたためしがない。
「そこからや」
なにかを踏ん切るかのように田宮が言った。
「え?」
「そやから、その満州で知り会《お》うたんや。もう七年かそこらになるかな」
体中が熱く燃えた。カッと火がついたようになり、喉から煮えた油が出てくるんじゃないかと思った。同時に体中の力が抜けてゆく。
七年──。
その長さから比べると、江美との仲なんて、はるかに及ばない。
「七年もずっと、付きおうてるん?」
消え入りたいと思った。どこでもいいから体ごと消えてなくなりたい。
「うん……、そやけどその間《かん》、静代ちゃん一本ていうことはないで。男やから、つまみ食いもしたで」
江美のためを思って言ったに違いないが、田宮の言葉は江美を打ちのめす。
ウチもつまみ食いのひとつやろか。
でも、そんな気持ちで、男というものは結婚式を挙げれるものなのか。あとで逃げれるように、あんなついでのような式だったのか。
バン──!!
と勢いよく部屋の戸が開いた。
俊夫が立っていた。青い顔のてっぺんだけが上気したように赤く染まっている。
江美はじっと俊夫を見つめた。田宮の言ったことが嘘だと、いつものように田宮の頭をひっぱたいて笑って欲しかった。しかし俊夫は江美の顔は見ていない。
じっと田宮を睨《にら》みつけている。
「どないした、俊しゃん」
田宮が言った時には、目の前まで俊夫は来ている。そして頭を一発、ピシャリとたたく。
「な、なんやねんな、ボクはホンマのことを」
「筆記試験てなんやねん」
俊夫は違うことを言った。俊夫が今までいた部屋には、次の五人が入ってゆく。俊夫と一緒だった四人は、隣の部屋へと移ったようだった。どうやらその部屋で、引き続き筆記試験が行なわれるようである。
俊夫は田宮を睨みつけながら、ボリボリと尻《しり》をかいている。
「ワレ、知ってたんやろ」
「すまん俊しゃん。そやけど……とにかく! 受けるだけでも受けてくれ! なんとかする!」
田宮は筆記試験のあとに、最終面接があることも言った。
「な! わからんでもともとや。やってみたらええやんか。な! 俊しゃん」
「オノレはオレに恥かかしたいんかい」
俊夫は田宮の首を片手で持ち上げ、その場にたたきつけると、便所へと向かった。
ドン!! ドタン!! と便所の戸を荒々しく閉める音が聞こえた。
しばらくはシンとしていた。
ゴツッ! ゴツッ! ゴツッ! ゴツッ!!
肉をたたきつけるような音が聞こえた。
ゴツッ! ゴツッ! ゴツッ! ゴツッ!!
「と、俊しゃん……なにしてんねん!」
慌てて起き上がった田宮は、便所へと走ったが、ちょうど俊夫が出てくるところだった。
鼻血がアルマイトの床に音をたてて落ちていた。
「ようけ血ィ売ったから、なかなか鼻血が出てけえへんかったわい」
おそらく自分で自分の鼻っ柱を何度も殴ったのであろう、右のコブシが血でヌタヌタと光っている。
「な、なにしてんねん俊しゃん! そんなことしてどうすんねん」
「早引きできるやんけ、だれの顔もつぶさんと」
俊夫はカラリと言ってのけた。
筆記試験が都合悪いからと、面接の途中で早退しては、紹介してくれた田宮の父の顔をつぶすことになる。しかし急に体の具合が悪くなったなら仕方がないことである。
ただ俊夫の場合、口先だけではすまない。自らの体を傷つけてでも、本当に具合を悪くしてしまう。
「ちょっと待っといてくれや」
俊夫は鼻血を溢《あふ》れさせたまま、もう一度面接部屋へと戻って行った。
きちんと挨拶《あいさつ》をすませ、部屋から出て来た時は、面接官が俊夫の体を労《いたわ》っている。
さあ、帰ろうか。ごちゃごちゃ言うな。俊夫は田宮の肩をたたき、江美の前までやって来た。
(いくじなし)
江美は小さな声で言った。
「ん? なんて」
「いくじなし! いくじなしの嘘つき!」
そこには俊夫と江美がいるだけで、まわりのものは目に入らなかった。
「いくじなし!」
「やかまっしゃい!! オノレにオレの気持ちがわかるかい!」
俊夫にぶたれた瞬間、やっとまわりが見えてくる。
「そしたら、わかってくれる人のとこに行ったらあ! アホアホ!」
俊夫に置きざりにされた江美は、田宮の胸の中で泣いていた。
13
ひとりぼっちという言葉が、自分の真横にいる。
今日も江美は共同浴場にやって来たが、俊夫はあの日以来帰ってこない。
(いくじなしの、大嘘つき…………)
俊夫の残り香さえなくなった部屋で、何度同じ言葉をつぶやいたであろうか。
会って、とにかく謝りたい。いや、謝るどころか、頼むから自分をひとりぼっちにしないでと、俊夫の胸に飛び込みたかった。そしてその大きな胸の中で、死ぬまで抱き締め続けてほしかった。
「コラ、俊夫。どこ行ったんや、もう!」
居ても立ってもいられなくなった江美は、家から持ってきた大きな風呂敷《ふろしき》包みを、だれも居ない部屋の中へと投げつけた。
少しだけ空気が揺れ、柱に当たった風呂敷包みは江美の足元へと転がり戻る。
「静代のうちになんか行ってたら、行ってたら……行ってたら」
あほー!! と今度は足で風呂敷包みを蹴《け》っ飛ばした。
「俊しゃん、おるかあー」
田宮の声がした。江美が蹴った風呂敷包みは声の方向へと飛んでゆく。
「あぶない! 田宮くん!!」
「あ、えみちゃ……はぐっ!」
戸が開くと同時に風呂敷包みは宙で一度止まり、ポトリと真下へと落ちた。同じ場所で田宮が顔を押さえてうずくまっていた。
「ごめん田宮くん、大丈夫?」
「今のは絶対、ねろてたな」
大きな声と、黒く日焼けした下駄のような顔が、ムスリと田宮のうしろに立っていた。
三郎だった。
俊夫の弟にあたるこの若者は、笑顔というものが何より苦手らしく、今も顔全体を緩めようと思ってはいるがうまくいかず、鬼瓦《おにがわら》がクシャミをする寸前のような顔をしている。
「あのアホの帰ってくるのん、待ってんか?」
鬼瓦が口を引きつらせながら言った。
「うん……そろそろ帰ってくるかな、と思て」
「オレらも、そろそろやと思てな」
のォ、田宮くん、と三郎は田宮の襟首をつかむと、強引に立ち上がらせる。怪力である。顔面から足の先まで、すべてが筋肉かと思われるガッシリした三郎の前に、モヤシが服を着て風邪をひいたような田宮がひょろりと立っている。
「ずっと待ってたんか? えみちゃん」
「うん……今日は泊まろかなと思て……」
俊夫は面接の日から突然消えた。家にも帰らず町内で見かけたものすらいなかった。もちろん江美の家にも連絡はない。
それから一週間、ずっと江美はここにいる。
紡績工場が早出の時は一晩中、遅出の時は朝から晩まで。仕事が休みの今朝などは、さすがに見かねた父・政治が、
「もう思い切って、弁当つめて泊まり込んだらどうや。そろそろ山場やで」
と娘の不幸がこれ以上おもしろいことはない、といったような笑顔で言った。
みんなが口をそろえてそろそろだと言う。
「そうか、なるほどなァ」
田宮が三郎に寄りかかるように言った。目は自分の足元を見ている。
三郎も困ったように田宮の足元を見ている。江美が蹴飛ばした風呂敷包みがほどけ、着替え用の下着やら浴衣がはみ出していた。慌てて江美は風呂敷包みを拾い上げた。
「そやけどなんや、オナゴがひとりでこんなとこに泊まるのもアレやで」
三郎は話を変えるかのように、赤い顔のまま腕を組む。
「腹もすいてるやろし」
たしかに腹はすいていた。こんな時でも腹がすく自分が嫌だと思うが仕方がない。
「うちにおいでや。あのアホは連れて行ってくれてないやろ」
俊夫の実家。そういえば一度も行ったことがない。行く暇すらないほど、俊夫には色々なことが起こる。
「おいでや」
「うん……かめへんかなァ。あの人怒らへんかなァ……勝手に行って」
江美は下を向いたまま、風呂敷包みを抱き締めた。
「なにを怒ることあるねん。あれがガタガタ言うたら、オレがパチンと言い返しちゃるがな」
三郎は田宮からすべてを聞いているようだった。
「なっ。おいでおいで。田宮くんも一緒においでや。晩めし喰《く》ていきいな」
「ボクはハナからそのつもりやで」
江美の手を三郎が引き、田宮が風呂敷包みを持ってくれた。外はすでに日が暮れていた。
江美はふたりに押されるまま、俊夫の実家へと向かった。
俊夫の実家は共同浴場から歩いて、一分足らずのところにある。レンガ場でも一番の海寄り、家の向こうはすぐに砂浜が続いている。
潮の香りに混じり、微《かす》かにお茶の匂いがしていた。
「うわー、また茶ガユやあ」
鼻をくんくんさせながら三郎が言うと、同じように田宮も顔をしかめた。
「ここの家の晩めしはな、茶ガユかイモガユか、普通のオカユのどれかなんや」
田宮は少し肩を浮き上がらせるように言う。
茶ガユ──。俊夫の父が大好物らしいこのオカユは、茶《ちや》ん袋という、お茶の葉を入れる小さな袋をオカユの中に落とす。するとお茶の香りのするオカユができる。イモガユはサツマイモを放り込んだオカユ。どれも質素で簡単な夕食ではあるが、働き者の少ない大家族ではこれが普通である。
「お母はん! 今日も茶ガユかいや、ええかげんにせいよ」
玄関の戸を開けると三郎は大声を出した。
──おかえりィ!
元気な声が返ってくる。しかもその声はひとつやふたつではない。七つほどの声と打たれ強そうな顔も七つ、こちらを振り返って笑っていた。俊夫の家は両親と八人兄弟でなっている。
「えーとな、あれがお母はんで……おい! 順番に呼ぶから手ェ上げいよ」
江美が玄関口に立つと、点呼が始まった。
「まず、お母はん! 名前はケイ」
「はーいよっと!」
次は長男、ついで末っ子。あそこで泣いてるのが七男だと、三郎はひとりひとりを江美に紹介する。上は立派な大人なのであるが下のほうへいくと、まだ学校にも行ってない子供になってしまう。大家族とはこれほど年の差があるものらしい。兄は弟や妹の、ほとんど親代わりみたいなものである。
「ほんで三郎、そのネーチャンはだれや」
白い割烹着《かつぽうぎ》に鍋《なべ》から上げた茶ん袋を持ち、ケイは江美へほほえんだ。
「田宮はんとこの、馬鹿息子の彼女かいな」
「本人を前にしてよう言うな、オバちゃん」
田宮は笑いながらも、すでに靴を脱ぎ捨て上がり込んでいる。
「だれや」
「俊の嫁さんになる女《ひと》や。なんや知らんけど、ふたりだけで結婚式も挙げたらしいで」
言っちゃあダメと、江美が三郎の口を塞《ふさ》ごうとした時には遅かった。
「やめとき!!」
と、母・ケイ、そして兄弟全員が首を横に振っていた。田宮もみんなに交じって、振っている。
「あのな、あんた……えーと名前は……」
「あ、はじめまして、江美です。藤岡江美です」
「うちはケイ。恵まれない人の恵とかいてケイ」
「もうええて、お母はん、先にめしや」
三郎は江美の手を引くと、みんなが輪になる、開けっぱなしの奥へと連れて行く。
「そやけど三郎、きちんと言うといたらんと、あとで泣くのはこの娘《こ》やで」
ケイは言い、家族全員が頷《うなず》く。ついでに田宮も頷く。
「今日の頭数みてもわかるやろ」
一家の大黒柱である父親がいない。ケイは自分に言い聞かせるように言う。
「お仕事ですか?」
江美が聞くと、ケイは玄関を見ながら首を振った。玄関先に近所の人が立っている。近所の住人はペコリと頭を下げると、靴を脱ぐと部屋の中を通り抜け、奥へと消えてゆく。
「コレや」
ケイは小指をピンと立てた。
コレ? 江美も同じように小指を立てるのであるが、それがただの小指ではなく「女」という意味なのは知っている。
「女をこしらえてなァ。今はそいつと姫路で住んでるらしいわ」
なあアキラと、ケイは大きなちゃぶ台の前へと座る男に声をかけた。
「おおそうや、いっぺん姫路の家に行こかと思てんやけどな」
男の膝《ひざ》には子供のような妹が乗っている。男はシンサイ刈りといわれる、頭の両サイドだけを短く刈り、上と前だけを伸ばした髪型で江美の顔をじくりと睨《にら》んだ。
「その女グセの悪い、うちのオヤジと一番似てるのんが俊の兄《ニイ》や」
男は俊夫の弟らしい。これまた三郎同様、不敵な面構えである。体つきは全身ハガネのような三郎とは違い、白くぽっちゃりとしてはいるが、縮緬《ちりめん》の白いシャツの下には、うっすらと刺青《いれずみ》が浮かび上がっている。そしてこの弟も俊夫と同じく、人と話をする時はまばたきもせずに、睨みつけてくる。
目に力の入った男ばかりである。
「その証拠に、オヤジと俊|兄《ニイ》のふたりだけが、今おらへんやろ。血ィや血ィ」
アキラは江美が腰砕けになりそうなことを平然と言う。言いながらも「まあ、めしでも食えや」と自分の横に空間を開けてくれる。
「そやけどな、そろそろ俊のアホのほうは、帰ってくるころやろ」
三郎はケイに向かって言いながら、江美のうしろへと腰をおろした。
「帰ってけえへんかったら行かんかい。どうせあの、満州で引っかけたスベタのとこにおるんやろがい」
かわりに答えたのはアキラで、江美を静代の家に連れて行ってやれと言う。
「知ってんやろ、おまえら。女の家」
三郎と田宮は顔を見合わせ、江美は田宮の顔から煙が出るほど、睨みつけた。どうやらふたりとも知っているようだった。
「えーと……え、え……」
ケイがやさしい目で江美を見つめた。
「江美です」
「そうそう、えみちゃん。あんた俊夫の赤い顔に騙《だま》されてんやろ」
あの男はカメレオンのように、平気で自分の顔を赤く染めることができる。だから女どもはすぐ「純情」だと思い込むフシがある。
「いつもの手ェや。うちの人と一緒!」
「血ィや血ィ。やめとき、あんな男」
こんな家族も珍しいであろう。だれひとりとして俊夫のことを良く言う者がいない。普通ならば嘘をついてでも、かばうのが当たり前である。
それにもうひとつ、普通ではないことがある。さっきから見ず知らずの人が、勝手に上がり込んでは、部屋の中を突っ切り奥へと消えてゆく。一番最初にやってきた、近所の人らしき人は、頭のてっぺんにタオルを乗せ、すでに帰って行った。
「あのォ……」
お茶の匂いを嗅《か》ぎながら、江美は隣にどっしりと座るアキラに聞こうとした。
(いやあー!! ごっつかったなあ! そらもう! ごっついごっつい!)
玄関にはまた新たな知らない人が立っている。
「なにがごっついねん、よォ徳さん」
アキラがドシンと据わった目で玄関の人に聞く。よく見るとアキラは、眉毛《まゆげ》のところにも刺青が入っていた。
「いや今日な、梅田に遊びに行って百貨店っちゅうもんに入ったんや」
徳さんと呼ばれる男も勝手に上がり込み、江美の顔を覗《のぞ》きながら、ちゃぶ台の上に紙袋を置いた。この人はダレ? そんな顔だった。
「ああ、この人は俊にだまされてるネーちゃんや」
「あらま! かわいそうに。だーれも恨んだらアカンで。あんたも半分悪い!」
徳さんは紙袋の中はおみやげだといい、これまた奥へ消えようとする。
「徳さん、待てよ、なにがごっついか言えょ」
気になるタチなのであろう、今度は田宮が聞いた。
「おうそれやがな、エベレーター[#「エベレーター」に傍点]ちゅう乗りもん知ってるか? 知らんやろ」
それを言うなら、エレベーターだと思ったが、江美は目をくるくるしながら黙っていた。
「そのエベレーター[#「エベレーター」に傍点]ちゅうのがごっついんやあ!」
まっすぐ上に登ったり、急に落ちていったり、それはもう声が出るほど怖いという。
「ほほう、一回なんぼや、その乗りもんは」
不敵に笑いながらアキラは聞いた。
「タダやタダ、無料! そらごっついでェ。うっとこの子ォなんか泣きっぱなしや」
徳さんは自慢気に言うと、日本てぬぐいをハチマキに締め、奥へと消えてゆく。代わりにさっき消えた若い夫婦が「ありがとう」と帰ってくる。
「エベレーター[#「エベレーター」に傍点]かァ……」
「いっぺん乗りにいかなアカンなあ」
江美はおかしくて仕方がない。俊夫が以前言っていた。
(オレ以外はだれひとりとして、堺の大和川から向こうに行ったことがない。情けないわ)
という話は本当だったようである。近所の事情通を自認する田宮でさえ、
「えみちゃん……このまま俊しゃんが生きて帰ってけえへんかったら、ボクと一緒にエベレーター[#「エベレーター」に傍点]ちゅうもん、乗りに行かへんか」
と、三郎とアキラを押しのけて江美の横へとにじり寄ってくる。
縁起の悪いことを言うなと、一発田宮の頬をつねった江美は、身を乗り出すように奥を覗いた。
「その前に田宮くん、あの人らはなにしに来《く》んの? 奥になんかあるん?」
「ああ、あれかいな……」
田宮はぞんざいに言う。
「風呂《ふろ》や風呂、てっぽう風呂」
「てっぽう風呂?」
鉄砲風呂である。木の湯舟の中に鉄製の筒が入っていてカマを焚《た》くと、その筒が熱くなり湯を沸《わ》かす。ちょうど携帯用の湯沸かし器に似たものがあるが原理は同じである。
俊夫の家の奥にはその鉄砲風呂があった。しかも風呂場の窓を開けるとすぐそこが海である。今ならかなり贅沢《ぜいたく》なロケーションといえるが、近所の人たちはなにも海を見ながら風呂に入りたくてやって来るのではない。また鉄砲風呂に入りたくて来ているのでもない。俊夫が勝手に共同浴場に住みついてしまったので、仕方なく湯を借りに来ている。
「そうですか……えらいすみません」
江美は思わず頭を下げてしまった。
「ハハハ、あんたが頭下げてもしゃあないで。俊の兄《ニイ》のかわりかいや」
アキラが刺青入りの眉を下げて笑った。笑うと俊夫と同じように、やさしい顔になった。
「はいはい。おまちどうさん。えみちゃん、あんたも食べなさい。早よ食べて早よお休み」
ケイが大きな鍋をふきんで持ち、ちゃぶ台の上へと乗せる。
「今日は泊まっていくんやろ」
「はい。かまいませんか」
「なん日でもおったらエエ。俊が帰ってこんでも、ずっとおってええんやで」
フタを開けると茶の香りと湯気が広がる。どうやら今晩は、茶ガユにイモの入ったスペシャル・バージョンのようだった。
「よーい、どん!!」
ケイの合図とともに夕食は始まった。合計十人のイモ茶ガユ争奪戦である。
「オバちゃん、ボクも泊まってええかな」
田宮は大きなイモを口いっぱいに頬ばりながら言ったが、
「あかーん、あんたはよからんことを企《たくら》んでそうやからペケ」
と、背中をケイにたたかれてイモがこぼれてしまった。そのイモを三郎がとる。
(あのな、えんちゃん、えらい人数でめしを喰う時はな、自分の碗《わん》にいっぱい取って、半分減ったらまたいっぱいにするんや。歯ァで噛《か》もなんて思てたらなくなってまうで)
いつも俊夫が笑いながら言ってたことを思い出すと、江美は胸がいっぱいになってしまう。
会いたい。とにかく会いたい。
思ったら急に涙がこぼれてしまった。泣けば俊夫が「よしよし」とやさしく頭をなぜてくれるため、戻って来るような気がした。
「田宮くん! あんた、えみちゃんのイモ盗ったんやろ。泣いてるやんか」
「ええー!! 盗ってないでボクゥ!! ええー!」
みんな江美にやさしかった。そのやさしさがつらくて江美はまた泣いた。
夜中に何度も目が覚めた。
布団は三郎が共同浴場から持ってきてくれた、俊夫が使っている布団だった。
目を覚ますたびに、匂いを嗅いだ。
──イワシやでえ!!
翌朝は人が走る物音で目が覚めた。まだ太陽は半分ほどしか顔を出してはいない。
──イワシやイワシ! イワシやでェ──
外を走る声はすべて女性の声だった。すでにケイは着替えをすませ、小さな妹たちも目をこすりながらも起きている。
「えみちゃん、イワシや。手伝ォてくれるか」
ケイの言葉に、江美はなにがなにやらわからないまま飛び起きた。
イワシ──?
地引網のことである。浜には仕掛けた地引網にイワシが大量にかかると、レンガ場総出で引き上げに行く。
「どこのんやァ」
「そこの西浦さんとこの網やァ」
すべて女性の声。男はあいかわらず寝たままで、手伝った報酬のイワシが食卓に上がるのを待つだけである。
「今夜はイワシガユですね」
「アホかいな、そんなんナマぐさて喰《く》えるかいな」
江美は舌を出して笑い、ケイと一緒に浜へと走った。浜はレンガ場の女どもで溢《あふ》れかえっている。これで江美もレンガ場の女と認められる。
「さあ! 腰に力入れいや、えみちゃん。これになれたら、ヤヤコ生む時は楽やで」
ケイが江美の腰をたたいた。何かで体を動かしていないと俊夫のことばかり考えてしまう。江美は手の皮が血でめくれあがるまでただ一心不乱に網を引っぱった。
横に田宮と三郎が立っているのすら気がつかなかった。
「えみちゃん……しっかり聞きや」
俊夫が女と心中を図った。江美は黙って網を引き続けていた。
14
濡《ぬ》れた砂浜の中に、すべての力が吸い込まれてゆく。
(俊夫が女と心中を図った)
江美の体は石のように固まり、地引網の動きもピタリと止まった。
「ホンマかいな、心中はないやろォー。あの男に限って」
俊夫を生み落としたケイが、目を輝かせて言うと、網を引っぱっていたレンガ場の女たちも一斉に、
「そらそうや、あのエエカッコシイのこっちゃ、女はこの世に残すはずやで」
と、心中話を持ってきた田宮と三郎を、いぶかしげに見つめた。
「……そやけど……確かに」
「と、隣のオッサンが……」
田宮と三郎は自信なげに、おたがいの顔をながめ合っている。
「どこの隣のオッサンが言うてますねん」
ケイは三郎の顔をキリリと睨《にら》みつけた。
「そやから……そのォ……」
三郎は困ったように田宮を肘《ひじ》でつつく。
「静代ちゃんの隣というか、ハスカイ前の横のオッサンが……」
「それは隣とちゃう。ご近所て言いますんや」
「ご近所の人が……」
「あんたら夜中に抜け出して、なにをしてますんや」
ケイはほおかむりの日本てぬぐいを取りながら、
「そないいうたら、アキラの布団も、もぬけのカラでしたなァ」
と、改めてふたりを睨みつけた。どうやらここの男どもは、俊夫に悪態をつきながらも、江美が乗り込んでくる前になんとか俊夫を逃がそうとしていたのかも知れない。
江美は気持ちの中にポワンと穴が開いてしまい、砂浜に突っ立ったままである。ずっと連絡のないまま行方不明になり、帰って来たと思ったら女と心中をしている。しかもその女は江美ではなく、静代という七年来の関係を持つ女性だった。
「と、とにかく! えみちゃん!」
「そこの忠岡病院に担ぎ込まれたらしいから!」
行こう行こうと田宮と三郎は慌てて砂浜へ下りてくる。
「お母《か》んはどうする!」
三郎が江美の手を引きながら言った。
「そんな死にそこないの見舞いなんか、カッコワルてよう行かんわ」
おまえらだけで行ってこいと、ケイは何事もなかったかのように地引網へと戻る。
そして江美へと振り返った。
「えみちゃん、辛抱しいや。あれが心中するやなんて、よほどあんたのことが好きなんやわ。辛抱しいや。いつかな……いつかヨイヨイのおじいになったら」
一気に仕返ししたらええわと、ケイは太陽のように笑った。
すっと江美の力が戻ってくる。
江美のことが好きだから俊夫は他の女性と心中をした。
「よくわかりません」
江美はケイに向かって問いかける。
「行ったらわかるわ」
「行ってきます」
「はよ、お帰り」
江美はペコリと頭を下げると、着物の裾をめくり上げて走った。
「えみちゃん! 足! 足! 足ー!」
「まる見えー!!」
田宮と三郎が声を裏返して追ってくる。
「もう! 心配ばっかしかけて。死んだら承知せえへんからなァ。もう」
江美は空を見上げて走った。星が朝の光にひとつずつ飲み込まれていった。
バン──と病室のドアを勢いよく開けると、ベッドが少し音をたてた。
(なんや、えんちゃん。走ってきたんかァ。汗|拭《ふ》いたるさかいに、こっちおいで)
言うべき俊夫はベッドに横たわっていた。
ベッドの横にはアキラが座り、俊夫の顔の上には白いハンカチが乗せられている。
白い布が顔の上に乗っている──。
「えっ……」
江美、そして田宮に三郎。三人は黙ったまま、じっと俊夫の顔に乗った白い布を見つめていた。
「おお……来たんか」
アキラが椅子から立ち上がって言った。
心中ではない。俊夫は静代という女の家で、ひとりで睡眠薬を大量に飲んだらしい。
今わかることはそれだけだった。
「胃ィの洗浄して、今はこの点滴とかいうもんを、血管の中に流し込んでる」
これがその点滴というものだ。注射の親玉みたいなものらしいが、なんで血が逆流してこないんだろうなァーと、アキラはしきりに点滴を覗《のぞ》き込んでいる。
「な、なんで死んだ者《もん》に点滴なんかすんねん」
三郎が声を震わせて言った。
「死んだ? ダレが」
キョトンとするアキラに、江美は震える指で俊夫の顔をさした。
「ああー! コレかあ! いやなァ、ヨダレがダラダラ出てて、気持ち悪いからなあー」
アキラは笑いながら俊夫の顔から、白いハンカチを取り除いた。
確かに俊夫の口からはヨダレが垂れ流しのように溢《あふ》れ出ているし、鼻水も青いやつがニュルニュルと出ている。
「な! 気色悪いやろ、この顔」
もう一度、顔の上へと白いハンカチを乗せかけるアキラを、江美は勢いよく引っぱった。
「縁起でもないこと、せんといてよォ! アホォ」
バシンとアキラをたたき、白いハンカチを奪い取ると、しばらくはじっとその白いハンカチを握り締めていた。
(えんちゃん、ツノ隠しやで。ほら)
俊夫が江美の頭に乗せてくれた白いハンカチを思い出すと、今でも胸が熱くなる。
「さてと……。ほたらあとはネーチャンにまかすとしてや。オレらは仕事もあるこっちゃし、帰ろか」
いちおうパンツなどの着替えはそこに置いてあるからと、アキラは三郎と田宮のほうを向いて顎《あご》を軽く動かし、三人で病室から出て行ってしまった。
(しばらくはふたりにしといたれや)
外からアキラの声が聞こえていた。
じっと江美は俊夫の顔を見つめている。椅子に座り、覗き込むようにして、たまに指でチョンチョンと鼻の頭をたたき、江美はじっと俊夫を見続けている。
(ほな、ボクら帰るけど、なんかあったらいつでも呼んでや。すぐ来るからな)
田宮が消え入るような声で言ったのも知らなかった。
江美は俊夫の胸に耳をひっつけ、胸の鼓動を聞いた。しっかりとした鼓動が聞こえる。
「この人の言うことだけを信じよ。他の人の言うことより、この人が言うてくれることを信じよ」
ひとり言をつぶやきながら、江美は俊夫の手を握り、いつまでもこすり続けた。
江美はじっと俊夫を見ている。
(なんや、えんちゃん。オレの顔になんかついてるか)
俊夫が言ったような気がした。
(ううん、ウチ、この人に抱かれてるんかなァて思て……)
ひとりで答え、ひとりではにかむ江美である。しかし俊夫は目を覚まさない。
どれくらい時間がたっただろうか。途中で一回、先生が回診にやってきて「もう大丈夫、ふだんから何を食べているのか、この人は毒をも栄養にしてしまう。明日、大部屋に移りましょう」と、笑って出て行った。
俊夫の寝息と点滴の落ちる音だけがする。
そして水の流れるような音。
「ん?」
と江美はあたりを見回した。水が流れるようなものはなにもない。音は俊夫のベッドのほうから聞こえてくる。
「ええー、まさかァ。えー」
慌てて布団の端を手でつかみ、消毒くさい掛布団をめくり上げると、やはりというかなんというか、俊夫の股間《こかん》が濡《ぬ》れている。
鼻水もヨダレをも垂れ流し状態の俊夫が、失禁をするのは当たり前のことである。よく今までしなかったほうが不思議なくらいだが、この男は気を失ってはいても、まだ江美の前ではエエカッコがしたかったのかも知れない。
江美は慌てた。慌てたからといって、俊夫の小便が止まるわけではないが、とにかく止めようと、
「きゃァー!!」
と悲鳴を上げながら俊夫の見慣れたパンツの中に手を突っ込んだ。
手でフタをするつもりらしい。
「いやあー」
と、今度は真っ赤な顔で、慌てて手をすっこめる。噂には聞いていたが、男性のものをつかんだのは生まれて初めてである。
水の漏れる音はすでに止まっている。
「や、柔らかい……」
言ってひとりでまた赤くなった。あの全身がハガネのような俊夫に、こんな柔らかい部分があると思うと、急にいとおしくなってしまう。
「と、とにかく……拭《ふ》いてあげんと」
キョロキョロと部屋の中を見回すと、落とし紙が青い紙テープで巻かれて、ひとつあった。それを手に数枚とり、またパンツの中に手を突っ込んだ。
「きゃァあー!!」
「えみちゃん、なにしてんやァ」
突然、田宮の声がした。江美は慌てて振り返ったのではあるが、手は俊夫のパンツの中に入れたままである。
「うわー、なにしてんや」
「きゃァー!!」
「えんちゃん、どこに手ェ突っ込んでんや!」
「おしっこォー」
「便所は外や! 階段の横!」
「ちがうー! この人!」
大慌てである。江美は落とし紙を振り回しながら田宮に失禁の処理を頼んだ。
「よっしゃよっしゃ、ボクに任しとき。こんなこと、えみちゃんにさせるくらいなら、ボクが喜んでするがな」
田宮はズボンの腰につるしている日本てぬぐいを鼻に巻き、人さし指と親指とで俊夫のパンツをゆるゆると脱がせる。江美が目をそらさないのが田宮にとっては哀しい。
「そうか、もうふたりはそこまでいってんやな」
「え、なんのこと」
なんでもないと、今度は下に敷いてあるシーツを取り除く。シーツの下にはナイロンのカバーが敷いてあった。
「ほなコレ持っていって、新しいシーツをもろてくるわ」
丸めたシーツを手に、田宮は病室を出ようとした。
「……拭いていってよ、田宮くん」
「え? どこをや」
「……」
江美はモジモジとしている。シーツを替えるくらいなら自分でもできる。パンツだって好きな人のだから大丈夫。しかし拭くのは恥ずかしい。
「えんちゃん……男は拭かへんで」
田宮は少女に話すように、やさしい顔で言った。
「ええー、なんでェ」
「なんでて。えみちゃんのお父さんや弟は拭いてるか」
知らない。便所に一緒に行ったことがないから知らないが、そういえば家の男性用小便器の横には紙は備えてはいない。
「拭かへん! 男は」
「汚なないのォ」
「なにが汚いもんか。その汚いもんを女の人は」
言いかけたところで江美の平手打ちが田宮の頬に飛んだ。胸の中で泣かれたり、毎日のようにビンタをくらったり、田宮も忙しい男である。
「痛ったあ! えみちゃんはボクの横っ面を張りたおすのが趣味か」
たたかれても田宮はうれしそうである。
「もう知らん、それかしてェ」
わたしが持って行きますと、江美が田宮からシーツを受け取ろうとした、その時である。
(……!)
俊夫が微《かす》かに動いた。
(……ちゃん)
そしてヨダレだらけの唇を動かし、だれかの名前を呼んでいる。
(……ちゃん)
「えみちゃん! 呼んでるでホラ、俊しゃん呼んでるで」
「うん」と江美はシーツを持ったまま、俊夫の枕元へと耳を近づけた。田宮も同じように江美の真横に顔を近づけた。
(……ちゃん……)
「俊しゃーん、えみちゃんやったらココにおるでェ!」
田宮は大声を出して俊夫を揺さぶり、こういう場合は一番人間が正直になるもんだ。大事な人を真っ先に思い浮かべるものなんだと、江美にも何か言ってあげろと促した。
「もしもーし」
「えみちゃん、電話と違うねんから」
(……ちゃん)
俊夫はまだダレかを呼び続け、江美と田宮はさらに耳を近づけた。
(ユカちゃん……)
江美は固まり、田宮は鼻の頭をぼりぼりと指でかいた。
「今のはカフェーの女給さんや」
(ミカちゃん……)
「今のは、その妹……」
(ヨッちゃん)
「へえー、俊しゃんはお茶屋のヨッちゃんまでツバつけてたんかァ、やるなあ」
言った田宮の足に江美の踵《かかと》が乗っていた。さらに俊夫のかすれ言葉は続く。
食堂のカヨちゃん、映画館で切符のもぎりをしているヨウちゃん、仕立て直しをしているエッちゃん、写真屋のひとり娘チーちゃん。
(イヨちゃん……)
「これはあそこのホラ、煙草屋の裏の長屋に住んでるホラ、色の白いポチャッとした……」
「知り、ま、せ、ん!!」
(静代……)
俊夫がポツリと言った。これが今の江美には一番つらい。体中が熱くほてってしまう。
(えんちゃん……)
「ああ! 呼んだ呼んだ! やっと呼んだあ!!」
「うるさいなあ、もう」
これはきっと順番だ、今まで付き合ってきた女の順番だ、きっと今、彼の頭の中では走馬灯のように昔からの女が、規則正しく順番に流れているんだと、田宮は江美の聞きたくないことを言う。
(えんちゃん……えんちゃん)
「うわあ! 二回やで二回、回数でいったら一番やあ!」
(静代……)
「あかーん!!」
「うるさいー!!」
江美は持っていたシーツを俊夫の顔をめがけてたたきつけると、田宮の膝《ひざ》を思い切り蹴《け》り上げた。頬を手でガードしていた田宮は、その場に崩れ落ちた。
「なんやのんなあー、お父さんとかお母さんの名前も呼ばんとー、みんなに心配かけてェ」
あほー!! と、江美は俊夫の顔に濡れたシーツを押しつけた。
「あかんで、えみちゃん。ぐぐぐ……そんなことしたら俊しゃん、窒息して死んでしまう」
片手で膝をさすり、もう片方の手で江美を止める田宮は苦しそうな声を出した。しかし江美は止まらない。
江美を止めたのは静代だった。
「ごめんください……あの」
青白い顔をした静代が立っていた。
背が小さく、小股《こまた》の切れ上がった感じの江美とは違い、おくれ毛のように細く弱々しい女性だった。ゆうべから一睡もしていないのであろう。目の下の隈《くま》を隠せないでいる。
江美は黙って頭を下げた。不思議なもので、なにも聞かなくても、この女《ひと》が静代という人だとわかってしまう。むこうもそうなのだろう。
「江美さんですか」
ちょっと……と肩をすぼめるようにしてドアの外へと出て行った。
「田宮くん、すぐ戻るから、見といて」
「あかんで! えみちゃん、短気は損気! 腹の中煮えくり返ってるやろけど」
「見といて」
「はい!」
江美は静代のあとに続いた。
階段をひとつ降りると小さな売店があった。江美が降りていった時、静代はその売店で男物の浴衣《ゆかた》を買っていた。
「いじめてやるつもりやったんよ」
浴衣を江美に手渡しながら、静代は革のベンチへと腰をおろした。
「別れてほしかったら死んでて言うたら、あいつ」
静代は一方的にしゃべり続けた。なにかを話していないと身がもたない、そんな話し方だった。
「そしたらあいつ、薬、いっぱい飲んで」
江美は黙って聞いた。煙草に火をつける静代の手を見たまま、ひと言もしゃべらない。
「あいつ……あっ、ごめん。あいつなんて言い方」
マッチを持つ静代の手が小刻みに震えていた。爪が透き通っていて、きれいに手入れされている。
「よっぽど、あんたのことが好きなんやろな。あんたの子供がほしいて言うとったわ」
自分も俊夫に子供がほしいと言ったことがあるが、ついに最後まで俊夫は首を縦に振らなかった。静代はつけた煙草をすぐ消し、また新しいのに火をつけた。
「男って、冗談半分でくどいてくる奴、多いやろ。そやけどあいつ、俊しゃんはちごうた」
かわされた時のことなど考えないで、好きになったからと本気でくどいてくる。
「そやからモテるんやと思うわ」
また煙草の火を消し、新しいのを取り出す。
「苦労するよ、あんた」
静代はマッチに火をつけ、煙草にはつけずにしばらくじっと火を見つめていた。指ぎりぎりまで火が移動する。
「二度……二度と来《け》えへんから」
煙草を手でくしゃくしゃにつぶし、灰皿に向かって投げ捨てた静代は江美の言葉を待つかのように立ち上がった。
江美は静かにほほえんでいる。
ゆっくりと立ち上がった江美は浴衣を静代の前に突き出していた。
「浴衣はウチが買いますから」
たったひと言だけを残し、江美は階段を上った。
マッチを擦る音だけが聞こえていた。
15
今にも泣き出しそうな空だった。
俊夫の高|鼾《いびき》が病室の窓ガラスを揺らしている。時折「かっ」と、鼾が飛び跳ねることもあるが、穏やかなことには変わりない。
「なかなか目ェ覚まさへんね」
俊夫の頬をつねり上げながら、江美はひとり言のように言った。
カフェーのユカちゃん……
その妹のミカちゃん……
お茶屋のヨッちゃん……
食堂のカヨちゃん、映画館のヨウちゃん、仕立て屋のエッちゃん、写真屋のひとり娘チーちゃん、煙草屋裏のサンマ長屋のイヨちゃん、そして静代……。
俊夫がうなされながら呼んだ女性の数だけ、江美は俊夫の頬をつねり上げた。
「コラコラえみちゃん、生死の谷間をさまよォてる奴に、なんちゅーことを」
と、隣に座る田宮が言ったが、
「こんな時やないと、でけへんもん」
と、いたずらっぽく舌を出している。
「早《は》よ目ェー覚ませェー。おーい」
今度は鼻を指でつかむと、真横を向くぐらい、ひん曲げた。
「そら無理やろ。なんせ睡眠薬飲んでんやから、思い切り睡眠すると思うで、ボクは」
江美の手を俊夫の鼻からのけさせ、田宮はまた膝をそろえて江美のほうへと向き直る。
「で、どうなったん?」
静代とのことばかりをしつこく聞いてくる。
「べつにィ、ちょっとお話しただけやよォ」
「そやから、どんな話したんや?」
「さあ、よう覚えてないもん」
もちろん田宮には教えない。浴衣を突き返したことも、静代という女性の涙も。
女同士の話し合いを、男性にペラペラしゃべってはいけないような気がした。ただ俊夫に聞かれたら言うかも知れない。
「うーん……しかしその、えみちゃんの勝ち誇ったような顔は、どこからきたもんやろ」
病室に充満する消毒液の臭いに鼻をクンクンさせながら、田宮は細い節くれだった腕を組んで考え込んでしまった。
聞かれてもそれだけは言えないけれど、俊夫に聞きたいことはたくさんあった。もちろんうわごとで言った一ダース分の女性の名前のこともそうだが、なんで死のうとしたのか、江美を残してひとりだけで死ぬつもりだったのか、それはなぜか。
俊夫の目がうっすらと開いていた。
「あ、おはよう……」
江美はそれだけを言うのが精一杯だった。雨に濡《ぬ》れた窓ガラスの向こうに俊夫がいるかのように、ゆがんで見えてしまう。
「うん」
俊夫はじっと江美を見つめている。
(もうどうでもいい、ウチはこの人だけを信じたらええねん、この人の口から出る言葉だけを信じよ)
言葉にはならなかった。ただベッドを何度もたたきながら、江美は甘えるように泣く。
「ああー、よかったァ。とりあえずはこれで、ボクも俊しゃんの下《しも》の世話から解放されるわけや」
うんうんと頷《うなず》きながら、田宮も目に涙をためて俊夫を見つめる。その俊夫が田宮の顔を睨《にら》みつけていた。
江美に見せるやさしい目のカケラもなかった。まるで邪魔者を見るように、
「ん! んん! んー!!」
と、掛布団から足をはみ出させ、器用に足の指で田宮の脇腹をつねっている。
「ん?……」
「んん! んーんー!!」
ちょっと外へ出ていろ。なんて気の利かない男だ、とっとと帰れ。俊夫は江美にはわからないように田宮を責めた。
「あ、ああ……えみちゃん! ボ、ボク急に腹|痛《い》たなってきたから、ちょっと便所行ってくるわ、俊しゃん見といたってや」
このへん、田宮はいい奴である。さっさと部屋を出て行ってしまった。
江美は目に涙をためて、俊夫の腕をさすっている。
「オレな、両方とも好きやってん」
天井のシミを見ながら、ポツリと俊夫は言った。
「えんちゃんのことは大好きや。そやけど静代のことも好きやった」
まるで自分に言いきかせるかのように、俊夫は続けた。勝手な言い分ではあるが、不思議と腹は立たなかった。
「それでオレな……」
言いかけた俊夫の口に、江美の白く丸い手のひらが乗った。
「ええの、なにも言わんでもええよ、ウチ」
透き通ったように笑いながら、江美は首を振った。
「そのかわり、ひとつだけ聞いて。これからは二度と、ウチひとり残して死のなんか、ぜったい思わんといて」
江美の手を、俊夫の大きな手が握り締め、指の先を軽く噛《か》んでいる。
「死んでもしゃあない思た。そやけどもし、もし生きてたら、えんちゃんだけを好きでおろて自分で決めたんや」
江美の指を甘噛みしながら、俊夫は言った。ピクンと江美の体に電流が走り、白いものに飲み込まれそうになる。
ぐいっと俊夫は江美の手を引き、倒れ込むように江美は俊夫の顔を覗き込んだ。
「俊しゃーん!」
田宮の声がした。俊夫は放り投げるように江美を離した。
「入ってかまへんか……」
「うん、ええよ」
ドアが開き、ふたりを観察するような目が入ってきた。急に雨の匂いがした。どうやら外は雨が降り出したらしく、新聞を頭にかざして走る人が、窓の外に見えている。
田宮のうしろに黒い傘を持った男が立っていた。きっとだれか、俊夫の知り合いでもやって来たのであろう。江美は自分が座っていた丸い木の椅子を空けた。
「邪魔するでェ」
田宮に続くように入って来た男は、見たこともない人だった。濡れた傘を手に持ち、キチンと背広を着てはいるが、足元だけがゴム長だった。
「だれや」
俊夫が口を半分ほど開いた時には、男は一気に掛け寄っていた。
「オドレ!! 人の嫁はんオモチャにしくさって! てこねてまえ!!」
言うが早いか手に持っていた傘を逆に持ち替えると、俊夫のベッドめがけて突き刺した。
ズブッ! と布を突き破る音がした時には俊夫はいない。
「あんた、なにすんねんなー」
と、田宮が体当たりをしかけて、傘の先を見て途中で踏み止まったころには俊夫は点滴の針を抜いている。
「キャー!! やめてよー」
と、江美が男の膝《ひざ》のうしろを蹴飛《けと》ばした時には丸い木の椅子をつかんでいた。
「なにさらすんじゃい、ボケ!」
つかんだ椅子で男の脳天をかち割り、もんどりうって倒れたところを今度は、声が出なくなるまで蹴り上げる。
速い。
一発目を放り込んでから相手が動かなくなるまでが、恐ろしいほど速い。年中不意をつかれるケンカをしていることもあるだろうが、これは生まれもってのものかも知れない。
「逝《い》んでまえ」
俊夫はトドメのように、点滴を吊《つ》るしていた鉄の支柱を大きく振りかぶると、仰むけになった男の顔をめがけて振り下ろした。
田宮は顔をそむけ、江美は固く目をつむって耳を塞《ふさ》いだ。男の断末魔のような声と、顔面がつぶれる音を聞かないために。
しかしいつまでたっても男の悲鳴は聞こえない。聞こえたのは急に強くなった雨の音と、
「あ──!!」
という、俊夫の大声だけだった。
江美はうっすらと目を開け、田宮もそろりと俊夫を見た。俊夫は支柱を両手で振り上げたまま、自分の股間《こかん》を見て赤くなっている。
オシメである。
失禁の処理を頼まれた田宮が、どうせもう一回くらいするだろうと、パンツをはかせずにそばにあった日本てぬぐいを使って作ったオシメである。さすが模型店の息子、こういうモノを作るのがうまい。
田宮が力なく笑い、江美が吹き出し、倒れている男までもが肩を震わせた。
「おまえまで、なに笑てんねんコラ」
オシメを巻いた俊夫は、点滴の支柱を打ち下ろしたがさっきまでのようにはいかない。男は間一髪で逃げ、支柱は床に当たってゴインと跳ね返った。
「ええか、言うとくぞ! 二度とワイの嫁はんに近よんな、わかったな! あほ俊」
男は転げるように言うと、田宮を突き飛ばして出て行ってしまった。
だれかはわからない。
それにこういうことは年中ある。突然見ず知らずの男が訪ねて来て、俊夫が玄関先に顔を出したとたん、
「おんどれダボ! 人の女にチャチャいれくさって!」
と、レンガで殴りかかってきたり、ヒドイのになると、何も言わずにいきなり大きなナタを振り下ろす者までいる。
俊夫は慣れている。田宮もまあ、古くからの知り合いだから聞いてもいるし、何度か見たこともある。しかし江美は初めてである。
オシメをした俊夫を笑ったらいいのか、元気になったと喜んだらいいのか、今のはどういうことだと問い詰めたらいいのか。
「大丈夫? 怪我なかった」
つい、俊夫に掛け寄ってしまう。この人の口から出る言葉だけを信じるなんて、思わないほうがよかったかも知れない。
「うん大丈夫や。まだまだあんなもんには負けへんけど……な」
俊夫は今の殴り込みなんか意にも介していない。気になっているのはオシメのほうである。
「こんなことしくさんのは、田宮やなァ」
自分のオシメをいまいましそうに見つめると歯ぎしりをしながら、一歩、また一歩と田宮に近づいてゆく。
「ちょ、ちょっと待ったァ、俊しゃん」
「やかましいわい」
「俊しゃんが小便ばっかしちびるから、しゃあなかったんや」
「嘘つくな、ドアホ!」
俊夫が一気に飛びかかり、田宮が慌てて逃げ出そうとした時、ドアが開いた。
俊夫の生みの母、ケイが入って来た。
「あらま!」
着物の上に、よそ行き用の道ゆきコートを着、田宮を跳ね飛ばして立っている。
「俊夫、どないしましてん、オシメなんかして。よう似おてますなァ」
江美に向かって軽くウインクをすると、ケイは江美が出した丸椅子に座った。
「な、なにが似おてんねん」
「一生しときなはれ。子供のまんま、大きならん人にはお似合いや」
なァ江美ちゃんと、ケイは笑いながらフトコロから紙切れを一枚出した。
紙切れは病院の領収書だった。
「これをアンタ、払ろてもらいますよってにな」
領収書をヒラヒラとさせたあと、ケイは俊夫の前へと突き出した。
「払らえて……お母ん。オレ、もう退院してもええんか」
俊夫が言い、江美も大きく頷《うなず》いた。先生は大部屋に移したあと、二、三日はいたほうがいいと言っていた。なんといっても俊夫が睡眠薬自殺を図ったのは昨日のことである。
「退院ちゅうのは医者が決めるもんやのうて、本人が決めるもんや。それにワイとこには、なにもせんと病院でゴロゴロさせるような銭はおまへん」
ぴしゃりとケイは言う。俊夫の育ったレンガ場の女たちは自分のことを「ワイ」と、男のように呼ぶ。気性も男以上に荒い。
「ほんまに! 自分だけ目立と思て、自殺なんかしてからに」
こんな男、あきまへんでと、ケイは江美に向かって首を振る。
「ちゃ、ちゃうわい。死んだら別れたるて、あの女が言うたからじゃい」
「へえー、ほんでアンタ、死にもようせんと、また付き合う気ィかいな」
どうですねん! と、ケイは俊夫のオシメの上から、尻《しり》を思い切り張り倒した。さすがの俊夫もケイの前ではカタなしである。
「あ、あほかァ、だれがそんなことをするかい」
「ホンマやな、もうあの女……なんちゅうたかいな? 沈んだよ……?」
「静代じゃい。なにが沈んだよやねん、おもろないわい」
俊夫は笑う田宮を目で黙らせ、江美と目が合うと下を向く。
「ホンマにスパンと手ェ切るんやな」
「切る!」
「よっしゃわかった。そうしなはれ」
ケイはまたフトコロに手を突っ込み、今度は一枚の地図を取り出した。
「ふたりで気晴らしに旅行でも行っといで。宿はもう取ってまっさかいに」
「ええー!! どこへ行けっちゅうねん」
「姫路や姫路、へめじィ」
「ひめじー!?」
姫路の地図の周りには赤エンピツで丸く囲まれている所があった。
高砂市宝殿《たかさごしほうでん》。
俊夫たちの父である三好が、若い女と一緒に逃げ住んでいる所である。
「おみやげ持って帰っといでや」
ケイは立ち上がると、田宮の顔をじっと見ていた。
薄手のジャンパーを着こんだ俊夫の顔が、揺れる列車の窓に映っていた。
もちろん借りもののジャンパーである。一年中パンツ一丁で通す男が、そんなシャレたものを持っているわけがない。
「俊の兄《ニイ》、いくらなんでも、パンイチで姫路まではアカンで。オシメやったらまだカワイイけどの」
パンツ一丁で行こうとする俊夫を、弟のアキラが眉毛《まゆげ》の刺青《いれずみ》を跳ね上げて笑った。ジャンパーはそのアキラのものである。大きなタンコブと引き換えにぶん取ってきた。
「国鉄さんの線路のほうが、南海より幅が広いような気がするね」
江美は俊夫の肩についたゴミを払いながら、窓の外を這《は》うように流れるレールを覗《のぞ》き込んで言った。しかし俊夫からの返事はない。
黙ったまま、じっと反対側の席を睨《にら》みつけている。
「なんで姫路なんか行かなアカンねん」
やっと口を開いた俊夫は、だれに言うでもなくポツリと言った。それでも目は、向かい側の席に座る男を睨みつけたままである。
「うん……なんでやろね」
これには江美も歯切れが悪い。ケイがふたりで旅行にでも行っといでと言った場所は、俊夫の父・三好が女性と住んでいる所。しかも「宿は取ってある」ともらった地図は、宝殿という所にある、レンガ工場の社宅だった。
どうやら三好は、そのレンガ工場の社宅に、若い女性と暮らしているらしい。
「連れ戻して来いっちゅうことか」
「そうやろうと思うわ」
ふうっとふたりして肩を並べて溜《た》め息をつきながら、真向かいに座る男を見つめる。
「ほたらコレはなんや、えんちゃん」
俊夫は真向かいを指さした。
「うん……さあァ……」
江美は困ったように下を向く。
「宝殿ちゅうたら、加古川の手前になるんかな? え! 向こう? どっちやろな俊しゃん」
真向かいに座る田宮が、ゆで玉子を口いっぱいに頬張りながら言った。
「やかましわい!」
旅行はふたりきりではなかった。あの日、田宮の顔をじっとながめていたケイは、
「コレも連れていきなはれ」
と、まるでペットのように言った。一応理由はある。本当ならアキラも一緒に行かすつもりだったが、俊夫とアキラ、どちらも暴れるタイプの人間である。止めて話を聞いて、あとくされなくきれいに穏便に決着をつける人間がひとりはいる。それが田宮である。
「ええー!! オレも行くん? なに着て行こかな」
もちろん田宮に異存はない。俊夫とは一緒になんかいたくないが、江美となら少しでも長くいたい。
列車はガクンとブレーキをかけ、まもなく宝殿だとアナウンスが流れた。
「へえー、まあまあ、おもろそうなとこやんけ」
夕日に赤く染まる宝殿の街全体を、俊夫はじっくりと睨みつけていた。
「ここやここや、俊しゃんココやでえ!」
田宮がレンガ造りの門と地図とを見比べながら言った。日はもうとっくに暮れている。駅に着くなり俊夫は「ちょっと探検しょうかい」と言って、ぐるぐる街を見て回った。このへん、犬と同じである。知らない土地へ行ったら、まずは自分の匂いをあちこちにつけないと落ち着かない。おかげで駅の向こうに銭湯があり、川を越えたら加古川の映画館もあるのがわかった。
「で、今夜の宿は、この中にあるんかい」
俊夫が江美と一緒に門前に立った時には、田宮はすでに中の敷地まで入っている。
一軒の平屋建ての家の前で田宮は音をたてずに飛び跳ねていた。窓から中の様子をうかがっているらしい。
「どうもここみたいやで、先客がふたりもおるけど」
社宅の中を歩いてる人に、笑顔で会釈をしながら田宮は言った。このへんこの男は社交的であるが、世の中社交的でない男もいる。俊夫がそうである。
「そうか、ほなら入らしてもらおか、えんちゃん」
と、何も言わず玄関の戸を開け、土足のままズンズンと入って行った。
「靴、靴! 今日は靴、靴、履いてるんやよォ」
慌てて江美があとを追ったが、俊夫はすでに部屋へと上がり込み、仁王立ちになっている。
「……あれ」
三好はちょうど夕食中らしく、小さなちゃぶ台をはさんで、女性に酒をついでもらっていた。
「ええ気なもんやの、よォ、オッサン」
俊夫はちゃぶ台を足で引っ掛けると、そのまま蹴《け》り上げていた。
16
三好の前には一合徳利と少しあぶった酒の粕《かす》だけ、女はオカユをサラサラと流しこんでいた。質素な夕食である。少しだけの贅沢《ぜいたく》は、酒の粕の上に振りかけられた砂糖くらいだろうか。
「俊ィ、堪忍してくれ」
突然上がり込んできた俊夫が、天井に当たるほどの勢いでちゃぶ台を蹴り上げた時、三好は畳に手をついて頭を下げた。
飛び散った砂糖を三好は手に唾《つば》をつけ、拾い舐《な》めている。
「カッコワルイことすな!!」
俊夫が大声を出すと三好はビクンと体を固くする。よく日に焼けた華奢《きやしや》な体に、さらしのステテコ姿が涼しげだった。
「どういうつもりじゃい」
俊夫の歯ぎしりが部屋の空気を震わせた。自分の父親が、目の前で女とふたりして正座をして頭を下げている。
父親に文句をひとつ言うたびに、息子というものは自分自身に腹を立てる。
江美も田宮も口をはさめなかった。
「お母《か》んほったらかしにして、こんな姫路くんだりまで逃げくさって」
「ちがうんや俊、ここは姫路とちゃう。宝殿は高砂やで」
「じゃかまっしゃい! どっちも一緒じゃ」
いや違うぞソレは、と言いかける三好に、俊夫はいまいましそうに足の外れたちゃぶ台を拾い上げると、三好めがけて投げつけようとした。
「あかーん!!」
大声を出したのは三好の女で、体全体を三好に被《かぶ》せるようにして守っている。
「なんや、女に守ってもろてんかい……それでもワリャ男かい!」
またもやちゃぶ台を振り上げるのであるが、俊夫は俊夫でなかなか投げつけない。それどころか、江美のほうを見ながら、なにやらしきりに目で合図を送っている。
(えみちゃん、止めてやらんと)
田宮が少し笑いながら、江美の背中を押した。
「おのれみたいなもん、親とちゃうわい!」
「あかん、やめて!!」
宙で止まったままの俊夫の手を、江美は必死でつかんだ。不思議なほど簡単に俊夫はちゃぶ台をおろした。
「ま、まあ、今日のとこは、こいつの顔たてて堪忍しちゃるわい」
俊夫が江美を見ながら言うと、女の背中越しにピョコンと三好が首を出した。
「こんばんは。突然押しかけてすみません」
人のよさそうなゴマ塩頭に、江美はペコリと頭を下げた。
「今度、オレの嫁はんになる奴や」
照れくさそうに俊夫が言うと「こりゃどうも」と三好は正座をして背筋を伸ばした。江美も慌てて正座をし、立ったままの俊夫の服を引っぱった。
ドスンと俊夫は大あぐらをかく。
「ふつつか者ですが……えーと……これからもよろしくお願いいたします」
型どおりの挨拶《あいさつ》をしながら、江美は三ツ指をついて頭を下げた。三好と横に座った女も、深々と頭を下げる。三好まで三ツ指をついているのが江美にはおかしかった。
「へえー、ええ娘さんやないか。のお俊ィ」
「当たり前じゃ」
うんうんうんと、三好はうれしそうに江美の顔をながめ、そして言った。
「そうかァ、あんたが静代さんやな」
江美の眉《まゆ》がピクリと上がった。
飛び散ったものを拾い集めていた田宮が石のように固まり、俊夫が口をパクパクとさせた。
「あんたのことは、こいつからよーく聞いてまっせェ。うんうん」
ただひとり、三好だけが空気の変化に気づいていない。女性はなんとなく《ヤバイなァ》という顔をしながら、台所へと消えた。
「そうですか……いつも言うてます?」
江美が声を震わせて言った。自分でも顔が引きつっているのがわかった。
「そらもう毎日や! オレが一緒になるとしたら、静代しかおらん! て。なあ」
顔を崩せるだけ崩した三好は、俊夫の顔を見ながら何度も頷《うなず》いた。
その首がピタリと止まる。
鬼のような形相《ぎようそう》で、俊夫は三好を睨《にら》みつけている。
(ワシ……なんかいらんこと言うた?)
三好は助けを求めるかのように、田宮の顔を覗《のぞ》き込んだが、田宮は知らん顔である。
「ん? ん?……」
じっと今度は江美の顔を見つめている。
「はじめまして、江美です!」
江美もまた、三好の顔を真正面から睨む。
「ひやあー!!」
「ひやあーやあるかえ! ドアホ!!」
俊夫は三好に飛びかかったが、今度は江美は止めない。(行け行け! こんなオヤジやってしまえ)と心の中で思っている。
「気にすることないで、えみちゃん」
うしろで田宮の声がした。気にはしていない。ただ好きな男の父親から静代の名前が真っ先に出たこと、その名前を言った時の、三好の顔がやさしすぎたこと。
哀しいような悔しいような、聞き流すには少し癪《しやく》に障る。
「第一俊しゃんのお父《と》んて、年中女つくって蒸発してたからなァ」
実はこうして、俊夫が乗り込んでちゃぶ台をひっくり返すのも、一度や二度じゃないんだと、田宮は小声で言った。
その小声が三好と俊夫にも聞こえた。
「余計なこと言うな模型屋」
俊夫に首を絞めつけられ、顔を赤くしながら三好は酒の粕を投げつけた。しかし田宮は続ける。
「ここに来る前は、助松におったんやで」
助松とは江美の実家がある泉大津と目と鼻の先である。そこでも一度、三好は俊夫に乗り込まれている。
もともとは漁師だった三好は、女と博奕《ばくち》のために舟を売ったりもしている。その後しばらくはレンガ工場に勤め、真面目に働いているかのように見えたが、ある日突然、姿を消す。
いくら探してもわからない。
そのころの三好は、レンガ工場の室《むろ》≠ニいう、レンガを焼く所を任されていた。総責任者、工場長みたいなものである。
レンガ用の土も、レンガを焼くためのオガ屑《くず》も、すべて三好が自分の責任で仕入れるようになっている。
賄賂《わいろ》が動くポジションである。
レンガを造ったあとのカスまで、欲しいという業者はたくさんいた。もちろんそれらを流すのも三好が自由に行なえる。
男というものは、金が手に入ると必ず女遊びをする。男が一番|恰好《かつこう》をつける場所、女が一番きれいに見せる場所。三好は酒場で知り合った女に家を借り、自分もそこに転がり込んでしまった。
その場所がわからない。
「そこを見つけたんが、ボクなんや」
田宮は遠い目をしてひとりで大きく頷いた。視線の先には台所があり、そこに三好の今の女が立っていた。
田宮が三好を見つけたのは、まさに偶然だった。友人の家でビールをたらふく飲み、駅に向かって歩いている時、尿意がやってきた。
(さて、どないしたもんやろか)
このへん田宮は常識人である。いつもパンツ一丁で歩き、犬のようにあっちこっちに小便をひっかける俊夫とは違う。
「あのー、すみませーん」
道沿いにあったニコイチの家の玄関をたたいた。小さな庭の突きあたりに、離れのように便所が見えていた。
「なんやー、ダレじゃーい」
聞いたことがあるような、甲《かん》高い男の声が聞こえた。
「すんません、ちょっと手洗いを貸してもらえませんかァ」
「おーう、貸すだけやぞォー。持って帰ったらアカンぞおー」
おもしろいことを言う人だと思いながら、田宮は便所へと歩いた。途中、縁側の雪見障子から家の中が見えた。
男が蛇皮線《じやびせん》を弾き、女が手をクネクネとさせて踊っていた。
(ほう、沖縄の人か……)
と思って通り過ぎようとしたら、男の顔が見えた。
三好である。
田宮は小便も半分だけ出して我慢し、急いでレンガ場へと走った。
「俊ィ、堪忍してくれ! 見逃してくれェ」
三好は今日言ったことと同じことを言い、飛んだちゃぶ台の下敷きになって謝った。
しかし俊夫も、その時は甘かった。明日必ず帰るという三好の言葉を信じ、一度レンガ場へと戻ってしまった。
「ドあほ! サカリのついた犬が勝手に帰って来ますかいな。首に縄つけて、水でも掛けて連れておいで!」
何度も同じ手口で騙《だま》されているケイは、俊夫の尻《しり》をたたいて、もう一度助松の家へと向かわせた。
すでにもぬけのカラだったという。
それから約三ヶ月、今度は宝殿のレンガ工場にいるのを、ケイの知り合いが見つけ俊夫がまたやってきたのである。
「そやから三好さんも、今回だけは、にっちもさっちもいかんはずや」
「ふうーん」
江美にしてみれば複雑な話である。そんなにも女癖の悪い三好は俊夫の実の父である。しっかりと血がつながっている。良い血ならばいいが、悪いクセの血がつながっていると困るのは江美である。
大丈夫だろうか。
「しかもあの女、どう見ても沖縄とちがうみたいやし、また新しいにつくったんやで。やるなあ、三好さんも」
田宮はそんな江美の気も知らないでノンキなことを言う。言いながら田宮は、じっと台所を見ている。体が少し震えていた。
三好の女が包丁を手に持ち、三好をじっと睨みつけていた。
「ちょっとォ、あんた!」
女は髪の毛が逆立つような声を出した。三好は「わちゃー」と顔をゆがめ(おまえはすぐ余計なことを言う)と、田宮を目で責めた。
「沖縄の女て、糸数《いとかず》さんのこと!」
今度は田宮を睨みつけ、手に持った包丁を小刻みに揺らす。田宮は情けないくらい「うんうん」と首を振った。
「キイー!!」
女は金切声を上げて包丁を振り回した。
どうやら三好は、助松に二軒の家を借りていて、一軒にこの女、もう一軒に糸数という沖縄の女性を住まわせていたらしい。しかも女性ふたりは同じ職場の同僚らしい。
「鬼!! あんたは鬼や!!」
「じゃかっしゃい! すっこんでい、ドスベタ」
女の包丁をたたき落とし、横っ面を曲がるほど張り飛ばしたのは三好ではなく、俊夫のほうだった。
包丁は女の手を離れ、江美の前へと飛んできた。江美は体のうしろへと包丁を隠す。
「ぐたぐたいわんでも、コレは連れて帰るわい」
俊夫は三好の首筋をつかんで言った。女は部屋の隅にふっ飛び、髪を振り乱して泣いた。
「あほか! ワシは帰らんぞ、帰れるかい」
三好は俊夫の手を振りほどくと、女の元へと這《は》い進み、やさしく抱き寄せた。
「おまえ残して帰らへんでェ。今は静ちゃんだけやでェ」
女の名前は静ちゃんというらしい。
「あ、一緒や」
田宮がポツリと言った。静代と同じ呼び名。江美と俊夫が田宮を睨《にら》みつける。江美などは、背中に隠した包丁を田宮に突きつけそうになってしまった。
「あかん! 連れて帰る!!」
「いいや、ワシは帰らへん」
「力づくでも、連れて帰る」
やれるものならやってみろと、三好が俊夫の足を蹴《け》り払い、俊夫が「やってやる」とゲンコツを固く握り締めた時だった。
「ごめんやっしゃあ……」
と、開けっぱなしだった玄関に老人がひとり立っていた。
「おとりこみ中、すんまへんが……」
よく見ると、玄関の向こうは黒山の人だかりである。近所の人たちが興味津々で家の中を覗《のぞ》き込んでいた。
「あ、深町さん」
静ちゃんと呼ばれる女性は慌てて髪を直しながら、玄関口へと向かった。老人はこの社宅の一番の古株で、管理人みたいな人だった。
「なんや、近所からウルサイて、苦情ちゅうやつが出とんのかい、よおコラ」
俊夫はいつも好戦的である。江美は俊夫の服を引っぱり黙らせた。
「いや、別に苦情は出てまへんけどな」
「ほたら、なんじゃい」
今度は三好が食ってかかる。親子とも、他人に厳しく自分に甘い。
「荷物が届いたみたいでっせ」
「荷物ゥー、なんの荷物やねん」
玄関から外を指さす深町さんにつられるように、俊夫を先頭に全員が表へと出た。
ボロボロに錆《さび》ついたトラックが、苦しそうに車体を震わせて停まっていた。
「なんや、三郎やないか」
トラックの運転席には三郎が座り、三好は軽く手を上げた。
「おまえなにしてんねん……」
キョトンと俊夫が言うと、三郎は実に迷惑そうにトラックを降りてきた。
「なにしてる? オレもこんなとこまで、トラック乗ってきたないわい」
免許もなければトラックなんか運転したこともなかったのに、ケイが「あんた暇やろ、これを運びなはれ」と、地図とトラックのキーを手渡したという。
「みーんな、オマエらの荷物や」
三郎は俊夫を睨みつけるように言うと、江美にペコリと頭を下げた。
「どういうこと?」
江美は自分より背の高いトラックの荷台を、背伸びをして覗いた。水屋に小さなタンス、風呂敷《ふろしき》包みなど、俊夫の家にあったものが載っていた。
「いやあ……そやからコレが……」
三好をまるで物のように指をさしながら三郎は言った。
「帰れ言うても、ハイそうですかて、帰ってくるようなタマとちゃうやろから」
「やろから……」
不安気な顔で俊夫が聞いた。
「おんなじ社宅に住んで、監視しとけて……」
「なんやとォ! ほたらなにかえ、この荷物はみんなオレの荷物かい」
嫌がらせである。ケイの三好に対しての嫌がらせである。兄弟の中でも一番ウルサイ俊夫を三好のそばに置くことで、どこへも逃げられず自由も奪える。
「クチベラシやなァ」
田宮がポツリと言って俊夫に張り飛ばされた。
それもある。ロクな仕事もせずにブラブラしている俊夫に無駄めしを喰わせるくらいなら、三好と一緒にレンガ造りの仕事をさせておくほうがよい。一石二鳥でもある。
「アーホー言え! おまえが残れ、おまえが」
ぶるんぶるんと首を振りながら、俊夫は顎《あご》で三郎をさした。
「だいいち、えんちゃんはどうすんねん。オレだけ残ったら、えんちゃんがかわいそうやろがい」
俊夫が言うと、三郎はさも気の毒そうに、トラックの最後尾を指さした。
荷台の一番うしろに三面鏡が載っている。
「江美さんのお父さんがな……」
これもついでに載せていってくれと、実に楽しそうに言ったという。
「あらま……」
江美はポカンと口を開けたままである。たしかに江美の父である政治は、おもしろがっているフシがある。俊夫との結婚式の時もそうだったように、今まで平穏すぎた江美の前に俊夫が現れてからは、時間が今までの五倍くらいの速さで過ぎるようになった。
政治はそれを楽しんでいる。
「ま! とにかく頼んだぞ。荷物降ろすからな」
あまり関わり合いになりたくないと、三郎は急いでトラックの荷台に上った。田宮が手伝うように、下で荷物を受け取る。
「待てアホ! どこに降ろすねん、降ろす場所がないやんけ」
俊夫は田宮をうしろから蹴り飛ばし、荷物を降ろさせないようにする。
「どこて……こっちの人には、もう話が通ってるて言うてたぞ」
キョロキョロと荷台の上から周りを見渡す三郎の前に、深町さんが手を上げた。
「はいはい、聞いてまっせえ、空けてまっせえ、いつでもどうぞ」
一軒の家をさしながら、深町さんはニカリと笑った。入れ歯なのであろう、笑うたびに口全体がずれる。
ちょうど、三好の家の真向かいであった。
「ウチ……どないしょ、着替えもなにもないし」
江美は困り果てたように言うが、顔はうれしそうである。好きな人と、どのようなカタチにしろ一緒に暮らせる。それだけでも充分にうれしかった。
「着替えはここに、一緒に積んでるでえ」
よいしょと三郎は大きな行李《こうり》を持ち上げた。それに比べ、俊夫の着替えはパンツが三枚ほど、トラックの助手席に置かれていた。
江美はすでに家の玄関に立っている。
玄関を開けるとすぐ、通り庭がまっすぐ延びている。その通り庭にひっつくように、六畳と三畳の部屋、そして炊事場が続く。三好らが住む家とは間取りが違う。
「ふうーん、これはええなァ」
江美の横から、部屋の中を覗くように田宮が言った。通り庭が全部の部屋に面しているため、靴をはいたまま奥の六畳にそのまま行ける。
「俊しゃーん、ほたらボクは、手前の三畳を使わせてもらうでー!!」
田宮が大声でとんでもないことを言った。
「ええー! 田宮くんも、残るのォ」
なにを言い出すんだこいつめと、江美は赤ちゃんのように眉《まゆ》にシワを寄せた。俊夫とのふたりきりの生活の邪魔はされたくない。
「残るでえ。当たり前やん」
目の前が真っ暗になりそうだった。
「ええやろ、俊しゃん。ボクも残って」
タンスを持った俊夫がやって来た。江美は俊夫の「あかん」という一言を待ったが、
「おう、ええぞ別に。残れや」
と、快く了承した。そして言った。
「そのかわり、あっちで寝れよ」
三好の家を顎《あご》でさしていた。田宮に三好の監視をさせるらしい。
「ええー!!」
三好の飛び上がるような声が聞こえていた。
17
夢にも大小があるらしい。
そう江美は思っている。あまり大きな夢を望むと、なかなか神様もかなえてくれず、
「もう忘れたやろ」
と、放ったらかしにされるという。しかし小さな夢を年中望んでいると、
「あー! わかったわかった。うるさいなァ。もうー」
と、ひとつくらいはかなえてくれる。
俊夫の寝息を聞きながら、朝食を作ってやりたい。
江美の望んだ夢は現実となり、さらにもうひとつの小さな夢、
「いってらっしゃい」
「ああ、いってきます」
と言葉を交し、弁当箱を手渡す。俊夫は笑顔で出てゆく。ふたつの小さな夢がかなった。
と、思っていた。
しかし神様は小さなものより、まず大きなものを片づけてしまおうと、江美の夢を置きざりにしたようだった。
「えみちゃん! えみちゃーん!! おーい!」
声で目が覚めた。玄関で田宮の声がする。
「は、はい。はいはい」
枕元の古い時計を見ると、針は午前五時を少し回ったところである。ゆうべはトラックから降ろした荷物をほどき、たったひとつの布団に俊夫と入ったのが午前二時。まだ三時間しかたっていない。
しかも俊夫の寝息はすでにない。江美の頭の下に敷いていた腕枕の温かさだけが、少しだけ俊夫の気配を残していた。
「えみちゃーん! 起きてるかあー!!」
「はーい!」
江美は布団の真横にある、ガラス障子を開けた。開けたらすぐに通り庭がある。
田宮はその通り庭の突き当たり、玄関の敷居をまたぐか、またぐまいか、迷っているようだった。
「入ってええかな?」
「うん、ええよォ」
江美は寝巻きの前をきれいに合わせた。玄関、台所、三畳間、六畳間と通り庭ひとつで自由に出入りができる。
「いやー、まいった、まいった」
田宮のうしろには、三好がオマケのようについてきていた。真っ白な綿の縮み織りのステテコにシャツ、ゴマ塩頭には白い手ぬぐいのハチマキをしめ、紙袋を手に涼やかに笑っている。これで女癖さえ悪くなかったら、いい歳の取り方をしている部類に入るであろう。
「えみちゃん、こいつなんとかしてえなァ」
その三好は軽く足を上げると、田宮の尻《しり》をうしろから突き飛ばすように蹴《け》った。
「頼むわ。エサは残飯でええさかいに。こっちで飼《こ》うてえな、こいつ」
ボクは犬や猫と違います、という田宮を三好はまた足で蹴る。
「どうしたんですかァ」
「どうもこうもあるかいな」
よいしょと三好は開いたガラス障子の敷居に尻を降ろすと、プイと横を向く田宮をなじるように言い始めた。
「覗《のぞ》くワケや、この男は。ワシらの部屋をなァ、一晩中」
「覗いたんとちゃうよ」
「ほたらなんや、十分に一回『居りますかァ』て、勝手に襖《ふすま》開けやがって」
田宮は俊夫に三好を監視しろと言われたものだから(逃げては困る)と、十分に一回の割合で三好と女が寝る部屋の襖を開けたらしい。
「覗きとはちゃいます。監視ですわ」
「一緒じゃ。おかげでワシら、イチャイチャすることも出来んかったんやで」
ところで江美ちゃんはゆうべ、イチャイチャしたかと三好は聞いた。
「はい……あ!」
つられて江美は言ってしまった。耳のうしろが急に熱くなる。
「わははは! 自分で言うて赤ァになってりゃ世話ないで……田宮ァ、なんでおまえ泣いてんねん。アホか」
「泣いてへんわ!」
「泣いてるやんけ。ほたらその目ェから出てるもんはなんや、小便かい」
「そうや。もう、放っといてんか」
「へえー、おまえ小便が目ェから出んか? ほたらババは耳からか? くっさァー」
三好は田宮の耳タブを指でつかみ、ねじるようにして引っぱった。俊夫といい三好といい、親子そろって田宮にちょっかいを出すのが好きなようである。
「あのォ……」
ところで、こんな早朝になんの用だと、江美は田宮の泣き顔を覗き込んだ。
別に用事などはない。
田宮も三好も、出来ることならこんな早朝に眠い目をこすって起きたくもない。
「いや……仕事に行くのん、誘いに来たんや」
田宮の言葉に、江美は頭を下げた。
「ごめん、あの人おれへんみたいやねん、どこ行ったんやろか」
仕事といえばレンガ工場の社宅であるから、レンガを造ることである。レンガを造るのは男の仕事。俊夫も三好もレンガ場の住人だから詳しいし、田宮もたまに手伝ったことがあると、以前言っていたのを聞いている。
肉体労働である。
山から土を持ってきて、その土を練る。練ったものをトロッコで運び、ひとつずつ型に入れて板の上に出し、天日《てんぴ》で乾燥させる。雨が降れば「そら、中に入れろ」とまた小屋の中に入れる。そして乾燥させたものを室《むろ》という、三階建てのビルくらいはあろうか、ドーム型のカマの中に入れて焼く。カマの中には「カマコ」と呼ばれる乾燥したレンガをうまく積み上げる者がいて、それがすめばいよいよ火入れである。火を入れる者がすべての総責任者で、焼き上がるまで一睡もせずに、ずっと火の番をしている。めしも家族のものが持ってきたものを室の上で喰《く》う。
その火入れが三好であり、カマコが俊夫である。すべて手作業、レンガを運ぶのもなにもかも、人の力で行なう。俊夫をはじめ、レンガ場の連中に怪力が多いのも頷《うなず》ける。
それに次々と型に入れて、次々に出して乾燥させねばならない。一日の喰う分を作ったり、採ったりする農家や漁師ではない。きちんとノルマのある工業製品なのである。トロトロしていたら、三好や俊夫のゲンコツが飛んでくる。
(あのアホ、人を牛や馬みたいに思てけつかる。腰が痛いから背伸びしただけで、「家に去《い》んでからせい!」言うてどつくんや。鬼やで)
と、よく三郎が思い出して言っていた。
男の仕事、江美はカヤの外だと思っていた。
「ただいまあ! えんちゃん、そろそろ起きいよおォ!」
ところが俊夫が帰ってきたあたりから、雲行きが怪しくなってきた。
「なんや、来とったんかい」
俊夫は田宮の頭を一発、挨拶《あいさつ》がわりに張ると三好の横に腰をおろした。
「どこ行っててん、こんなカイラシイ嫁さんひとりにして」
三好は「なあ」と江美に笑いかけると、持っていた紙袋を俊夫の膝《ひざ》へと置いた。
「けっこうええ室やんけ、みんな任されてんかい」
三好の顔をじっくりと見つめ、俊夫は言った。任されているというのは、レンガ会社から直《ちよく》で、下請けしているのかという意味らしい。普通、このころの制度として、会社はひとつの室をひとつの下請けに任せるというやり方が多かった。三好もまた、その下請けの長のひとりだった。
「え? おお……まあな」
「そうか」
俊夫は紙袋からワラぞうり一足と、木綿のモンペを一着取り出すと、江美へと投げてよこし、(すぐ着替えろ)と言った。
着替える? コレに?
「そうやで、えんちゃん。遅いことは牛でもするもんや。早《は》よしい」
どうやら江美も働き人《ど》の一員らしかった。三好や田宮、俊夫のために、お昼の弁当を作ったり、ドロドロになって帰ってくる俊夫の服を脱がせ、風呂《ふろ》が先か夕ごはんが先かと、女らしいことを言う、そう思っていたが、それは三好の女がすべて任されているらしい。
「このワラぞうり……履くの?」
「そうそう、ボクも履いてんねん、ホラ」
それには田宮が答えた。下が砂地のために、ワラぞうりが一番いいらしい。レンガが足の先に落ちたらどうするんだろう。
「そんなトロくさい奴は、ケガして休んでくれたほうが、こっちも助かる」
ぴしゃりと俊夫は言う。言いながら三好の目の前に手を突き出している。
「……なんや、この手は」
「しらばっくれるなよ、オッサン」
「おまえ、自分のパパに向かって、オッサンてなんや」
なにがパパだと俊夫は指の先が三好の鼻に当たるほど、手のひらを余計に突き出した。
「上からもろてるやろ、支度金」
「バレたか」
三好はピシャリと自分の頭をたたくと、腹巻きの中に手を突っ込んだ。
「はい、どうぞ」
俊夫は三好から数枚の紙幣を受け取ると、それを江美へと渡し、また手を突き出した。
「なな、なんやこの手は!」
「まだあるハズや」
今のは俊夫の分、まだ江美の分と田宮の分が残っているはずだと俊夫は言う。
「バレたか」
俊夫はそのために早起きし、社宅の管理人である深町老人の寝込みを襲っている。
(ゆうべ、こっそり渡してたもんはなんじゃい! 言わへんかったらレンガと一緒に焼いてしまうどコラ)
(言いますがな、支度金ですわ。あんたらが社宅に入るいうて、会社の者《もん》が持ってきよったんを……三好はんが……黙っとけよ言うて)
「あのオジイだけは、ホンマあかんたれやのォ。ペラペラしゃべりやがって」
三好はしぶしぶながらも腹巻きから、江美の分と田宮の分の支度金を手渡した。俊夫はその中から江美の分だけを取り、田宮の分は突き返した。
「なんでや! こいつの分も受け取ってくれや」
「いらん」
「そない言わんと、なァ俊夫ォ」
「あかん、こいつはそっちの所帯でやってもらうで」
三好にしたら、たまったものではなかろう。自分を一日中監視する男を喰わせていかねばならない。
「よろしくお願いします。バチが当たったと思て、あきらめて」
「う、うるさい! ノゾキめ」
三好は田宮の首を絞め、俊夫はふたりを見ながら支度金すべてを江美に渡した。
「なんや、うれしそうやな、えんちゃん」
「うん!」
俊夫から大切なお金を預かり、江美が所帯をうまくやってゆく。また江美の小さな夢がひとつ、現実のものとなりかけていた。
「ほな、そろそろ行こか」
俊夫が立ち上がった。
遊ぶ時は思い切り遊び、仕事をする時は思い切り働く。人の二倍も三倍もやる。立ってる者は親でも使え。江美はそんな俊夫のことを、まだ知らなかった。
大きな室の前で、江美は立ち尽くしていた。
「なんか、大きな大きな湯タンポみたい」
江美が言うとおりだった。真上から見ると、きっと湯タンポみたいな形の室が聳《そび》え立っている。広場に突然、空母型の空飛ぶ円盤が着陸したようである。さらにその円盤の上には、相撲の土俵のように、大きな屋根がかぶさっていた。
室の横には人が出入りするためのアーチ型の口がいくつも開き、江美には見えないが天井にはたくさんの穴も開いている。
三好は室の上にいた。
たくさんの穴から室の中を覗《のぞ》き、オガ屑《くず》を落としてゆく。中にもオガ屑はいっぱい詰まっていて、それを燃やして焼くわけである。レンガの焼きはそのオガ屑の入れ方で決まる。
「えみちゃーん! こっちこっち! ここやでェ」
田宮の声がした。室のまわりには小屋というか納屋のようなものが二十ほど建っていて、その中でレンガの型を造っている。そのひとつに田宮がいた。
まるで大きな室という女王蟻に群がる、働き蟻のようだった。
「よろしくお願いします」
江美は頭を下げて納屋の中へと入っていった。働いているのは田宮と江美だけではない。三好に雇われた人達も、同じ納屋の中で汗を落としながら働いていた。
ドスン!!
ドーン!!
練った土を思い切りぶつける音が、江美の挨拶《あいさつ》への返事だった。みんな黙々と働いている。
俊夫はいない。
俊夫はすでに三好の右腕となり、カマコに指示を与えたり、三好と一緒に火の加減を見たり、番頭のように動き回っている。不思議とそれが許された。だれひとりとして、(なんやあのガキ、新米が偉そうに)と言うものはいない。いてもゲンコツで黙らせるであろうし、やることなすこと、他のだれよりも早い。
「これな、こないして型の中にたたきつけたらええわ」
型造りの仕事は田宮が教えてくれた。
まず練った土を、四角い型の中へとたたきつける。
ドスーン!! とたたきつけることによって、土の中の空気が抜ける。
そして型の土に盛り上がった分を針金で削ぎ取り、それを干し板≠ニいう板の上に載せる。一枚に五個。一個載せて一個分間を空けて続けて三個、また一個分間を空けて一個置く。間を空けた所に出来上がったレンガを立て、上にもう一枚干し板を載せ、何枚も重ねたものを肩に担いで外へと運んでゆく。そして三日ほど乾かす。もちろん江美に干し板を担げとはだれも言わないが、型に土をたたきつけるのも難しい。
「あ!……」
江美がやると、どうしても四隅に空洞ができてしまう。
「違う違う、こうすんねん、オリャ!!」
ドスンと田宮もやるが、もともと模型のセメダインより重いものを持ったことのない男である。江美よりヒドイ。ほとんどが型の外へとこぼれ出ている。
「こらオッサン! 手ブラで帰ってどないすんねん、これ室の中に持っていけ!」
俊夫の大声がした。どうやら、干し板を担いでいった男が、そのまま戻ろうとしたものだから、手ブラで帰しては能率が悪いと、ついでに干し上がったレンガを持って帰れとどなっているようだ。
「ほな、もういっぺんやるでェ、えみちゃん」
「うん!」
「せいのー」
ドスーン! とぶつけるが江美も田宮もうまくいかなかった。
「ワレら、ママゴトしてんとちゃうんじゃい! ド性根《しようね》入れてせんかい、ダボ!!」
俊夫の声がしたと、振り返ったとたんに殴られていた。頭の芯《しん》までがジーンと痺《しび》れている。
「俊しゃん、どつくことないやろ」
「じゃかまっしゃい! クチ動かせる間ァあったら、手ェ動かせ!」
おまえもじゃ、と江美の顔を睨《にら》む俊夫にいつものやさしさはない。膨れるように江美はまたやり直す。
失敗。
どつかれる。
また失敗。
またどつかれる。
何度やってもうまくいかずに、江美は泣き出してしまうが、他の人たちはだれも助けてはくれない。また殴られた。もうヤケクソである。くやしいやら恥ずかしいやらで、
(俊夫のあほめー!!)
と、思い切りぶつけたらうまくいった。江美は誉めてもらえると思い、涙をこぼして振り返った。
「手ェ休めるなアホ、次せんかい、ホラァ!」
また殴られた。
一日中その調子だった。失敗しては殴られ、うまくいっても殴られる。昼になっても昼食時間というものすらない。三好の女がオカユを鍋《なべ》に入れて運んで来たものを、立ったまま食べる。その時、一度だけ俊夫は江美に近づき、
(すまん、えんちゃん。オレらだけやったらええんやけど、アカの他人さんもようけおるねん。そんな奴らに負けたないやろ)
あいつらは大将である三好の身内やもんな。そう思われるのがつらい、三好の立場もなくなる。
(一番|早《は》よ仕事を覚える方法や、辛抱してや)
そう言って尻《しり》をボリボリかきながら去っていった。(ふん、何十発もたたいといて、よう言うわ、アッカンベー)と思った江美ではあるが、たしかに夕ぐれ近くなると、失敗はなくなっていた。田宮はいつも俊夫に殴られ慣れているためか、まだ失敗の連続であった。
一日の仕事を終えた時は、もう体がドロドロに溶けてしまいそうなほど疲れていた。やっとの思いで社宅まで帰りつき、田宮にさよならを言って部屋へと入った。
「ただいま……」
先に帰ったはずの俊夫がいなかった。夕食は三好の女によってオニギリが配られ、すでにすませている。
「ただいまあ」
真っ暗な部屋の明かりをつけると、俊夫が着ていた借りものの古いズボンとランニングシャツが脱ぎ捨ててあった。
「もうー」と拾い集め、先に風呂《ふろ》にでも行ったのかと思った。せめて風呂くらい一緒に行ってくれればと、白くて柔らかいホッペを膨らまそうとして目がとまった。
たったひとつだけのタンスの引き出しが開けっぱなしである。たしか朝、俊夫から受け取った支度金をあの中に入れ、上から風呂敷《ふろしき》を乗せ、閉めた……はず。
「ちょっとォー……」
不思議とドロボウとは思わなかった。なぜか俊夫の顔が浮かんだ。
慌てて風呂敷をのけると白い封筒が見えた。紙幣をそのまま入れておくのも、と思い、江美が自分で白い封筒に入れた。
(なんや、閉め忘れたんか)
自分の頭をコツンとたたき、封筒をつかむ。
「ん?」
封筒の上半分は厚みがあるが下半分だけが何も入っていないかのように薄い。封筒の口からのぞくと枚数はあっていた。
まさか! と思って引き抜いた。
すべての紙幣が半分に折られていた。封筒から半分抜いて残り半分を二つ折りにして、また戻す。見た目は全くわからない。
俊夫はその夜、帰ってはこなかった。
18
この人はいつ寝ているんだろうか。
ここ二、三日、江美は俊夫の横顔を見ながら、ずっと思っている。
仕事が終わると必ず出かける。出かけたら朝まで帰っては来なかった。
「女かしら……」
とも思うのであるが、まさか知らない土地に来た次の日から、ずっと泊まり続けてまで女遊びもしまい。ただ不思議なことに、毎晩、生活費を半分抜いてゆき、朝になるとソレが元に戻っている。多少、減る日もあるがいくらか多くなっている日もある。
「なぁ……毎晩、どこへ行ってるん」
「え、ああ、うん、心配すんな」
としか俊夫は言ってくれない。
毎日布団を敷き、枕もふたつ並べて置く。俊夫のことだけを考え、つらくなって布団の中で震える。朝起きたら枕元に俊夫が寝不足の顔で立っている。何も言わない。それが三日も続いていた。
今夜も俊夫は出て行った。入れかわるように女がひとり、真夜中過ぎにやってきた。
「ごめーん、頼まれてくれへんかなァ」
女は三好の女、静ちゃんだった。名前を聞くだけでムカムカッとはするが、江美は平静を装って笑った。
「これ、あの人のとこに持って行ってくれへんかなァ、夜食やねーん」
ほとほと疲れたといった表情で静ちゃんは言った。彼女もまた俊夫と同じように寝不足だった。ただ俊夫のように毎晩出かけてはいない。きちんと家にいる。
「眠たそうやね」
「そう! あいつが来てからずっと寝不足やよ。ウチ、もう変になりそうやわ」
静ちゃんはキッ! と自分の家を振り返った。
ペコリと頭を下げる田宮が立っていた。
「どこ行くのんも、ずっとついてくるねん」
静ちゃんは走って外へ出ると、落ちていた石をつかんで田宮に投げつけた。
「キャイン! キャイン! キャイン!」
田宮は犬の鳴き声をマネしながらも、少し逃げるとまた立ち止まって笑っている。
(三好を監視しなさい)
田宮は俊夫に言われたとおり、三好と静ちゃんを監視し続けていた。
「お風呂に行くのもついてくるし、布団を敷いたら真ン中に入ろうとするし、便所までついてくるんやもん」
かなり気持ちがザラついているのか、静ちゃんは髪を振り乱して田宮をののしった。
「今日という今日はウチ、なにがあっても知らん顔して寝るから!」
江美に言うでもなく、かといって田宮に言うでもなく、静ちゃんはぶつけるように江美へと小さなフタ付き鍋《なべ》を押しつけると、また田宮に石を投げて帰って行った。
(キャンキャンキャン)
田宮が一度逃げ、また戻ってくると江美の家の玄関先に顔を出した。
「えみちゃんに三好さんは任せたで。ボクはあの女を寝かさんようにするから」
ほな! と田宮は去ってゆく。
「ちょっとォ、田宮くん。なんで寝かしてあげへんのォ!」
「俊やんの命令や! ふたりとも寝かすなァて」
家の中へと消えていった。
「なんでやろ」
江美はひとり首をひねり、鍋のフタを開けてみた。中にはメリケン粉だろうか、水で溶いたものが入っていた。上には少し塩が振ってあった。
「夜食?」
江美は三好がいるであろう、レンガ工場の室《むろ》へと向かった。
室の高さはビルの三階ほどもあろうか、その室全体が熱く燃えている。中にはぎっしりとつまったレンガ。三好はてっぺんにひとり、寝ずに火の番をしていた。
星が舞い上がった火の粉のように多い。
「こんばんはァ」
鍋を片手に、江美はやっと室のてっぺんまで登り切った。室には古い木の梯子《はしご》が一本かかっているだけで、江美は登ってきた道を振り返ろうとした。
「あかん!! 見るなァ!!」
三好の声が聞こえた時には振り返ったあとだった。身のすくむような、足の力が吸い取られてゆくような高さだった。
普通の者ならその瞬間、足に震えがきて動けなくなってしまう。しかし江美は平気だった。
「お父さん!」
言いながら三好を睨《にら》みつけている。三好は「危ない!」と言っておきながら、江美の手を引っぱるのではなく夜食の入った鍋に手を伸ばしていた。
「鍋のほうが大事なんですね」
「い、いや……ワシ腹減って腹減ってな。すまん!」
ゴマ塩頭を気持ちよさそうにかきながら、三好は江美を引っぱり上げた。
「うわー、すごーい」
室の上は平べったい楕円《だえん》形、そこへ小さな穴がいくつも開いている。穴は煙突のように十センチほど突き出し、フタが被《かぶ》さっていた。三好はその穴からレンガの焼け具合を見て、オガ屑《くず》を足してゆく。
「ふうーん」
江美は室の上を少し歩くと、自分の爪先《つまさき》を見ながら振り返った。
「あの……血ィですか?」
そして言った。女のことを隠していたり、毎晩何も言わず出てゆく。そのクセふたりきりの時は人一倍やさしい。三好と一緒だった。
「血ィやで。そやけど俊なんか、ワシに比べたらマシなほうや」
三好は胸を張って言った。自分は昔からめったに仕事はしない。そのかわりたまにした時は給料袋を開けずにそのまま渡す。しかし二日ほどしたら、「ちょっと貸して」と、給料袋分は必ず博奕《ばくち》でつかってしまう。
「どや、ごっついやろ」
「威張ることと違うと思います」
「こりゃ手厳しい」
ハハハと笑いながら、三好はなにやらゴソゴソと始めた。
まず煙突状に突き出た穴の縁に、水で練ったメリケン粉を流す。そしてその上に煙突のフタをかぶせる。室の下ではずっとレンガを焼いているほどだから室自体がかなりの熱をもっている。
しばらくしてフタをどける。
「ほうれ、パンの出来上がりやァ」
インド料理のナンのようなものが出来上がる。それに三好は塩をかけて夜食にする。一日中熱い室の上にいるわけだから、塩を舐《な》めながら仕事をする。その塩がいつも室の上に置いてあった。
「どや?」
「うわァ、おいしい!」
うんうんと三好はうれしそうに、自分の分のパンを作る。
江美は口いっぱいにパンを頬張りながら三好の横へと座った。古い木のベンチが置いてあった。
「ずっと、レンガの仕事してるんですか」
「うんにゃ、若い時は押し屋や」
「押し屋?」
「そや。坂の下で一日中待っててな」
たくさん荷物を積んだリヤカーや大八車がやってくると「押したろかあ」と、うしろから押す。リヤカーや大八車がなくなっても、バスなどは人が大勢乗ると長い坂を登れない。
「押したろかあー♪ 押したろかあ♪」
三好は押し屋の口上をリズムをつけて言った。焼きあがったパンを半分にちぎり、江美の手のひらへと置く。
「ひとりもんやからできたんやけどな。家族がおったらできんな」
「なんでですか」
なにも重い車や、たくさん積んだリヤカーばかりがやってくるわけではない。待ってる時間のほうが長い。
「博奕してしまうからな」
しかも自分は博奕は弱い。あっという間に、さっき稼いだ分をすってしまう。
「なんで弱いんですか」
「顔に出るからや」
もともとそんな奴は感情の起伏の激しい奴だから、どんな博奕をしても負けてしまう。とくに俊夫、あのタイプが一番弱い。
「そやから、早めにとめたほうが、ええかも知れんな」
「え?」
三好はみんな知っていた。しかも俊夫の行き先までわかっていた。
「あのアホ、毎晩博奕しに行ってんで」
「ふうーん」
そうか、それで女の匂いがせず、煙草くさい体で帰ってくるのか。
「浮気とちごて、ちょっと安心か」
「はい」
「正直な娘《こ》ォや」
よいしょと三好は立ち上がった。
「どや、ちょっとは気ィも落ち着いたか」
人間、腹が減ったらロクなことを考えない。腹が膨れると多少のことでも辛抱ができる。
「それにしてもあの田宮、あいつなんとかできんか。かなんわ」
三好は困ったように深く溜《た》め息をついた。
(もうイヤやあ! あの人と別れるから寝かせてえ!!)
遠くで静ちゃんの声がしていた。
次の日も俊夫は出て行った。
ただし今日はひとりではなかった。江美がそっとうしろをつけていた。
(なんとかして博奕をやめてもらわんと)
暗闇の中、俊夫の背中を見失わないように距離をおいて小走りについてゆく江美ではあるが、どうしたらいいかなど考えてはいない。
(大暴れしたろか。つぎから顔がさして、行きにくなるやろ)
俊夫のようなことも考えている。
社宅を出て橋を越え、地道をしばらく歩いただろうか。曲がり角に必ずだれかがひとり、立っているようになってきた。その人たちは俊夫に頭を下げ、少し離れて歩く江美を値踏みするかのような目で見た。
板塀で囲まれた家が一軒、俊夫は吸い込まれるように入っていった。門の前にはこの家の子供のものなのか、三輪車が一台置かれたままになっている。門の中にも補助輪のついた赤い自転車が停まり、子供用の靴が物干し竿《ざお》に吊《つ》るされていた。
子供の多い、幸せそうな家には見える。
しかし玄関先に隠れるように立っている男は白いダボシャツに腹巻き、下はダボシャツと同じく白い腰巻きが膝《ひざ》まであった。いかにもヤクザの見習いの若い衆という感じだった。
「ども、おこし」
俊夫が玄関口に消えると、なかから眉毛《まゆげ》の薄い男が油断なく外の気配を探り、また引き戸が締まった。
江美は一度、門の前を通りすぎると、ひとつ目の角で立ち止まった。板塀越しに家の中を覗《のぞ》き見たが、すべての窓や戸には厚いカーテンが引かれているのか、明かりひとつ漏れてはいない。
(どないしょ)
考えようとした時、向こうから男がひとり、近づいてきた。男はスーツからシャツの襟を外に出し、オカマ帽と呼ばれる帽子をハスに被《かぶ》っている。江美に気づいたが知らん顔で、俊夫と同じように家の中へと入ってゆく。
江美は男のうしろへ寄り添うように、一緒に入って行った。
「ども! おこしやす」
さっき見た眉毛の薄い男が玄関の戸を開け、オカマ帽へと深々と頭を下げた。オカマ帽の男は「うん」と言いながらも、江美が気になるのか何度も江美と眉毛の顔を見ていた。江美は江美で外に立っている腰巻きの視線が気になる。
(さあいこ!)
(よっしゃいこ!)
──ドスン!
奥の部屋からは腹の底に響くような音と、威勢のいい掛け声が聞こえるが、何をしているのかは江美にはわからない。
畳の上に白い布を敷き、電話帳を三冊重ねたぐらいの台の上にも白い布を被せ、大振りな湯飲み茶碗にサイコロ、その前には今までの出目がわかるように数字の書かれた木の札が置かれている。
「さあいこ!」
「はい、次いこ!」
合力と呼ばれる配当の勘定をする男どもが声を掛けると、壺《つぼ》振りがサイコロを湯飲み茶碗《ぢやわん》の中へと入れ、台の上へと打ち下ろす。
──ドスン!!
けっこうな音がするものである。客は次の出目を予想し、数の書かれた札を人に見えないよう、伏せて置く。
一枚から四枚まで置けるが、置く位置によって配当が違う。
ひとりの男がスイチという、一枚勝負に出ていた。俊夫である。
「勝負ゥ!!」
壺振りが壺をどけるとサイコロの目は二と三だった。
「ごォ!!」
「はい! ごォ!」
合力が言うと、はずれた者は黙って自分の札だけを引き下げ、賭《か》けた金は持ってゆかれる。
俊夫は黙って札を返した。「五」である。そしてすぐ手を引っ込めた。手の中に札が握られている。俊夫は三好が言うように、博奕は弱い。しかしイカサマはうまい。
ここ三日ほど、社宅の長老、深町老人に教えられたこの賭場《とば》に居つづけ、ずっと小さく張りながら出目を探っていた。そしてひとつの法則、三の出目のあとには必ず「二」か「五」がくるのをつかんだ。
勝負やな、と思った俊夫は、めんどくさいので「二」を張り、手の中に「五」を持ち、どちらにでも替えられるイカサマに打って出たのである。
江美はなにも知らない。
なにも知らずに玄関先で、オカマ帽の男の連れのような顔でニコリとほほえんでいた時、奥の部屋から大声が聞こえた。
「なんじゃい! 田舎のぼんはあいそ悪いのお! 負けたら横むいて、勝ったらイカサマてかい。早《は》よ銭出さんかい!」
俊夫の声だった。
「ワリャ! なにさらすんじゃいダボォ!!」
「じゃかっしゃい! どけェ! どかんかい」
襖《ふすま》が大きく破れる音、なにか硬いものが弾《はじ》けるような音、ガラスが割れ、なにかが外へ飛び出る音、そして悲鳴。
「ま、待たんかいコラァ!」
声に追われるように、俊夫が廊下に走り出てきた。手には千両箱のような木の箱を抱えている。
(あれ? えんちゃん)
(うん)
一瞬、俊夫と江美は目で話したが、大勢の男どもが部屋から溢《あふ》れ出てきたので、それ以上は何もできない。
(逃げるぞ、走れ)
俊夫は合図を送ってくると、「待てや」と目の前に立ち塞《ふさ》がった眉毛の股間《こかん》を思い切り蹴り上げた。眉毛は「ヒャン!」と両手で股間を押さえて飛び跳ねたが、今度はオカマ帽の男が俊夫の服をつかんだ。
「もう! どいて!!」
江美の踵《かかと》が高く上がったかと思うと、オカマ帽の男の爪先《つまさき》へと一気に落ちていった。
江美の踵の下で、オカマ帽の足の爪が割れるのがわかった。
「痛ったあー、たたたたたあー」
眉毛と同じように、オカマ帽もピョンピョンと跳ねてしまった。
「待たんかい!!」
大勢の男どもが、オカマ帽と眉毛を突き飛ばすように、あとを追いかけてくる。俊夫は江美の手を握り、片方の手で木の箱を抱きかかえるようにして走っていた。
「その箱、なに?」
江美は走りながら言った。
「金や金! 中に金が入ってる」
賭場では合力の横に、お金を入れておく木の箱が必ずあった。俊夫はイカサマがバレた時、その箱をふんだくって逃げたのである。
すぐうしろを二十人ほどの男たちが、目を血走らせて追ってくる。
少し先に橋が見えていた。
「えんちゃん! 飛び込むぞ!」
「ええー!! またあー」
俊夫と初めてのデートの時も、たしかケンカ相手に追われて川に飛び込んだことがあった。
「いくどォー」
「うえーん、いややあ」
川の水面にはきれいな月が揺れていた。その月が真っぷたつに割れた。
ドボーン──。と俊夫と江美は手をつないだまま、川の中へと飛び込んだ。
「えんちゃん、乗りや」
俊夫は木の箱を浮輪のように腕で抱え込むと、自分の背中を顎《あご》でさした。
広い背中に江美はつかまった。
「なァ……ひとつ聞いてもええ」
橋の上からは次々と石を投げ込んではいるが、なかなか飛び込んでまで追ってはこない。
「なんで、こんなことしてまで、お金が欲しかったん?」
やっと何人かが飛び込んだのであろう、大きな水しぶきの音が聞こえた。
「欲しいもん、あったんや」
「なに欲しかったん?」
「指輪や……」
結婚指輪を買ってやりたいが金がない。質流れの品物なら買えそうだが、一生に一回、どうせならとびきりいい指輪を買ってやりたかった。
「あほ……」
江美は俊夫の背中に顔を埋めた。
「これで買えるで、えんちゃん」
俊夫はうしろの追っ手を少し気にしながら、抱《だき》かえたままの木の箱をたたいた。
「指輪なんか、いらん……」
ひとりにしないでほしい。いつも横で笑っていてくれたらいい。太い腕でしっかりと抱き締めていてほしい。
「そうか……」
「うん」
「ほな、これ返そうか、あいつらに」
俊夫は木の箱を腕の中からはずし、うしろを振り返った。浜で育った俊夫に水の中で追いつける者はいない。追っ手はずっと遠くにいた。
「せっかくやから、もらっとこ……」
江美は舌を出して笑った。
「そやな、せっかくやもんな」
「うん、せっかくやもん」
江美は俊夫の背中に身をあずけ、そのまま眠ってしまった。俊夫は黙って泳いでいる。
木の箱だけがプカプカと浮いていた。
角川文庫『えんちゃん 岸和田純情暴れ恋』平成17年5月25日初版発行