とらんぷ譚
中井英夫
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)|流薔園《るそうえん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)深い|濠《ほり》のある
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「木偏+羅」、第4水準2-15-82]
かれら[#「かれら」に傍点]
[#改ページ][#ここから1字下げ]
/\:二倍の踊り字
(例)くよ/\することはない
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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目 次
幻想博物館
悪夢の骨牌
人外境通信
真珠母の匣
影の狩人 幻戯
[#改ページ]
幻想博物館
[#改ページ]
目 次
juillet 火星植物園
aout 聖父子
septembre |大望《たいもう》ある乗客
octobre 影の舞踏会
novemre 黒闇天女
decembre 地下街
intermede チッペンデールの寝台 もしくはロココふうな友情について
janvier セザーレの悪夢
feurier 蘇るオルフェウス
mars 公園にて
avril 牧神の春
mai 薔薇の夜を旅するとき
juin 邪眼
[#改ページ]
火星植物園
灰いろの曇天は、魚の尾のように垂れた。遠く海鳴りの響きが微かに伝わってくる。潮風に湿って草もまばらな赤土の丘の上に、その病院は建っていた。麓から仰ぐと、銃眼のついた尖塔や跳ね橋や、深い|濠《ほり》のある異国の|城砦《じょうさい》めいて見えたせいであろう、村の人びとは、そこを癲狂院とか脳病院とかの古めかしい名で呼んで、コンクリートの粗壁と鉄格子に囲まれたあの中には、血の染みた拷問室や、鎖で繋ぐ懲罰室があるのだと言い触らした。事実は日本でも稀れなほど設備の行届いた精神病院だったのである。
ここはまた、トラック何十台分もの黒土を運びこんで造成した、広大な薔薇園でも知られていた。新種の花々が|絡《から》みあい|縺《もつ》れあいして咲く異様な美しさは、早速また村人たちの憶測の種となったが、『|流薔園《るそうえん》』という変った名の由来を訪ねると、院長は、
「この薔薇たちは、いわばここへ流刑になったようなものですから」
と答えた。
それはしかし、院長自身の思いでもあったのだろう。さる大学の精神科主任教授という地位を離れ、資産のすべてを傾けて風変りなこの病院を建てたのは、大学にいては到底得られない、彼自身の期待を充たすためらしかった。というのは、ここでは患者の身分や貧富の差などはいっさい問題にしない代り、彼らの妄想や幻覚が類型的でない場合に限って入棟を許可していたからである。従って患者の盲覚が、自分の悪口をラジオが放送しているから止めてくれといった、ごくありふれたケースに落ちつき出すと、じきに麓に近い、別棟の一般病棟に移されてしまう。悪口をいわれたくないなどというのは、社会復帰をいそぎたいだけの心理だから、相応の医療を尽くしてやればいい。人間界に戻りたいなどという患者は、この院長にとってさしあたり興味もない存在で、彼のいちばんの関心は、残された幻視者の群れの、さまざまな反地上的な夢を蒐集し、蓄えて、この『流薔園』を病院というより、幻想博物館として完備したいということにあるらしかった。
七月のある日、久しぶりに院長を訪ねて雑談を交したあと、私は窓辺に立って流薔園を眺めた。|花季《はなどき》には、壮麗な色彩と香気の饗宴が拡げられるが、夏に咲かせるのを|厭《いと》うのか、いまは猛々しいほど繁った葉が強い日射しを返すばかりで、花はどこにも見当らない。
|丈《たけ》高い薔薇の沈黙。いまこのとき、薔薇の内部では、何が行われているのだろう。
「花もいいが、ああやって黙りこんだ姿も悪くはないでしょう」
いつのまにか立ってきていた院長が、うしろでそう呟くのを聞きながら、私は妙なものを見つけた。薔薇園の外れに、円いビニールテントらしいものがいくつか光っている。白い排気鐘めいて伏せられたそれは、小型の宇宙船か空飛ぶ円盤といった奇異な趣きだった。
「あれですか」
私の問いに、院長は苦笑したようにいった。
「実はうちのお客さんに、またひとり変ったのが殖えましてね。まだ若い男ですが、それが妙な実験に凝っているんです。あれはいわば、火星植物園≠ニいったところでしょう」
「へえ、火星の植物を育てているんですか」
私は呆れた声を出した。
「いや、くるなりここの薔薇に魅せられましてね。夢中になったのはいいが、花のほうにはさっぱり関心がないらしい。根っこだけが好きなんですね。薔薇の根を見ると、こう、ほとんど性的な興奮に襲われるらしいんですが、それがこのごろ本物の恋愛を始めたようなので、厄介なことになりました」
「恋愛って、ここの患者とですか」
ゆっくり話をききたくなって、私は坐り直すと煙草を取り出した。院長もまた、自分の大きなデスクの向うに廻りこんで腰をおろした。しばらく二人の吐き出す烟りが流れた。
「患者だか、事務の女の子だか、もうじき判り出すことだって笑うばかりで……。あとでたぶんこの部屋にもくると思いますがね、その薔薇の根から始まって火星植物園≠作るようになったいきさつは、ここに本人の書いた手記があります。手記というより、小説まがいの告白のようなものですが」
院長は何のつもりか、この暑いのにわざわざ両の手に手袋をはめると、机の抽出しから一冊の大学ノートを取り出した。表紙に大きく、ラテン語の標題が書かれている。
TANTUS AMOR RADICORUMA
あいにく、そんなものは読めない。
「どういう意味ですか、これは」
「タンツス・アモール・ラディコルム。なべての愛を根に、とでもいうんでしょう。リンネの紋章のもじりですよ」
そういって、卓上の部厚い書物を指した。国際植物学会の年次報告書か何からしいその表紙には、図案化されたリンネ草の葉と花が左右からのびて、
TANTUS AMOR FLORUM
という文字を押し包んでいる簡素な紋章が、淡い緑で捺されていた。
「スウェーデンのウプサラ近郊のハマービーというところですが、リンネウスの別荘がまだ残されていましてね。そこでは蔵書から紅茶茶碗のはてまでこの紋章で飾られているんですよ。もっとも、こっちのこれを書いたのは、そんな大学者とは比較にならない、暗黒時代の|本草学者《ハーバリスト》でも考えそうな幻想ですが……。読んでごらんになりますか。なんだか筋が通っているようで、やっぱりどこかしらおかしいんですね。さあ、どうぞ、どうぞ」
手袋のままの手で押してよこされた大学ノートを、私は不審に思いながらも受け取り、そっと第一ページめを開いてみた。緑いろのインクで書かれた美しいペン字が、びっしりノートを埋め、それは私が先ほど薔薇を眺めながら考えた、同じ思いから始まっていた。
『……伸び立った一本の薔薇の中で、具体的に何が行われているか、男はそれを知りたいと|希《ねが》った。それも、地上のFlos(花)ではなく、地下のRadix(根)の部分に魅かれてならないのだ。植物は感覚作用を持たないとするアリストテレス以来の誤謬を、何としても打ち破らなければならない。感覚どころか、りっぱに思考作用も持っていることを、どうしても立証しなくてはならぬ。そのためには、あの地下の根が直接に水に触れたときと、あるいは肥料を含んだ土壌の湿った部分に触れたときとの差異を、あたかも舌で味わいわけるように感じるべきだろう。足許を濡らされるのは嫌だという水への好悪ひとつでも、根のうちのどの部分がどう区別して受けとめるのかを、自分の感覚として知りたいのだ。
人間でも夏の盛りに、清冽な井戸水を口いっぱい撥ね返らせてむさぼり飲むのと、よく冷えた生ビールのジョッキを傾けるのとでは、同じ渇きをいやすといってもその味わいはまるで違う。まして薔薇の根ほどになれば、ただの水と、さまざまな有機物の融けこんだ溶液とでは、すぐ区別するだろうし、その反応も異なっているのが当然であろう。男は、もし出来るものなら、自分の肉体のどこか、たとえば左の手の甲の一部分にでも培養地を造り、そこに本物の、思いきり小さい薔薇を植えこんでみたいと念じていた。爪楊子くらいの、ごく細い緑の茎がどうにか根づき、玩具のジョロで水をかけてやると、薔薇は嬉しがって白根をぞよぞよ動かす。そのむず痒いような感覚をじかに知ることができたら、少しは根の思考法に近づけるかも知れないので、そのためには左手の親指と人差し指のつけ根のあたりをいくらか抉って、その薔薇に必要なだけの養分や少量の土を埋めこんでやることも、すこしも苦痛だとは思えない。
いや、土壌などという|夾雑物《きょうざつぶつ》をいっさい介在させず、もし人間の躯のどこにでも薔薇が根づいてくれるものなら、頭にでも、肩の上でも、好きなところに住んでもらいたいけれども、高等植物と動物との共生はまず例のないことで、男にとってこれほどの不満はなかった。ナマケモノの背中や、ある種の亀の尾などに、緑藻植物が付着して拡がることはあるが、それは共生というには遠い。木の幹や酸性の花崗岩の上では好んで繁茂する|蘚苔《せんたい》類も、動物の皮膚で生育した例は聞かない。唯一の奇跡は綿吹き病の臨床報告だが、ただれた潰瘍とともに共生するほど落ちぶれた関係を結ぶのは堪えがたいことだ。人間もいつから花粉に触れてさえアレルギーを起すような高慢さを身につけたものか、このぶんでは到底しばらくの間は植物と一心同体になるわけにはゆかないだろうが、他のものはともかく、ただ薔薇のために生きたままの肉体を捧げられるならば、それも地下に潜む根のために奉仕できるならば、それだけでいい。
車椅子≠フ中で、男は熱心に考えた。
むろん、死んだあとならば、そのまま土葬にしてもらって、ほどよく腐って土にまじり始めたころ、その上に巨大な薔薇を一株植えてもらうことはできるだろう。|貪婪《どんらん》に伸び続けるその根は、思わぬ獲物の|在処《ありど》を知って、暗黒の土の中をかきわけ、多くの支根を張りめぐらしながらしだいに近づいてくる。やがて逃れようもなく四方を取り包むと、ある日ついにそのひとつの尖端が腐肉に触れ、そのまま検屍用の|消息子《ゾンデ》めいて、どこまでも深くのめりこむ。そのときその薔薇の根は、触手のようにためらいながら入りこんでくるのか、|蛭《ひる》のように吸いつくのか、あるいはしなやかな鞭さながらにまつわるのか、あいにく腐肉の男には知ることができない。薔薇がその養分を吸いあげるためならば、どのようにでも肢体を取り巻き、胸からでも腿からでも、好きなところを採っていってかまわない。もとより内臓も脳漿も役に立てて欲しいし、うつろな眼窩の中に、褐色のひげ根が一本入りこんで、まだどこかに養分は残されていないかと探り廻ってくれるならば、それはまさに本望だけれども、そのめくるめく恍惚の|刻《とき》を自分で意識できないのでは、せっかく土中に埋もれた甲斐もないだろう。死にかけ腐れかけてまだ幽かに知覚が残っている、せめておぼろげにでも感触があるそのうちに、這い廻りうごめく薔薇の根の触手に犯されるのでなければいやだ、と男は思った。
薔薇の根への偏愛。
TANTUS AMOR RADICORUM
といってこんなことをあの白人女≠ノ聞かせたら、
「そんなもの、愛なんかであるもんですか」
と、にべもなく断言するだろう。
「だからあなたは、車椅子の中にしか住めないんだわ」
女は、よく男の髪をなでながらいった。
「いいこと。あなたは、あのお気の毒なポリオに|罹《かか》った方たちのように、脊髄を病んでいらっしゃるのよ。あなたの考えは、いわば車椅子の中の思想なんだわ」
初めてそういわれたときから、男はすなおに同意した。車椅子という言葉もひどく気に入って、ひとりでいるときにもふっと腰を浮かせ、右手でハンドルを廻して車椅子を漕ぐ真似をしてみることもあった。脊髄を病んでいる£jにとっては、その中に腰をおろしているときがもっとも落ちつけたし、それが行為の始まりでもあった。そこではたとえばマンドラゴラの根を人体さながらに描いた中世の写本は、どう見ても淫靡をきわめた秘画のたぐいに思えたし、顔の代りに首の上に葉を生やし、手足の先が根となって|岐《わか》れている裸形に眼を凝らすときは、真剣にそんな生物と寝たいと念じた。この根が引抜かれるとき悲鳴をあげると信じていたビザンツ人たちの考えは、男にとってそれほど遠い時代のものとは思えなかったのである。
それにしても白人女≠フ親切さは、ひどく男の心に染みた。あれが好意というより愛に近いものだとするなら、この地上の習慣に従って、男もまた優しく女を愛し返さなければいけないのだろう。それには何よりもわれわれの躯に馴染もうとしない植物をなだめて、人間の皮膚にだけは好んで生育するように変えるのがいちばんの贈り物だ。人間の体毛が、黒や褐色のケラチン繊維ではなく、苔植物の原糸体か、できれば柔らかい緑の草、それも絹糸草ほどのしなやかさでいちめんに生えるとしたら、どんなにすばらしいことだろう。それに白人女≠ニいう呼び名は、女が軽くスカートをたくしあげたときに、びっしりと苔に蔽われた緑の脚をしていて欲しいという期待をこめてのことであった。
「きょうはちょっと、胞子体にくふうをしてみたの」
そんなことをいって、まるで新しい靴下を誇示するように、先週とは変った緑いろの脚を投げ出す女がいるとすれば、それこそ恋人にふさわしい。
さてその贈り物をどうやって作出するか、これは男にとって相当の難関だったが、まもなくひとつのヒントが訪れた。ソビエトの科学者G・A・チホフの天体植物園である。マリナー四号のおかげで、火星への夢はあらかたつぶされたが、といって苔や地衣類の存在までが否定され尽したのではない。どんなかけらでもいい、火星の植物の一片を掌の上において眺めたいというのが、久しいあいだの男の願望だったが、チホフやトクマチェフはそれに先んじて、この地上に火星と同じ気圧や温度を人工的に作り出し、その中で植物を育てた詳細な実験報告を行なっている。その結果は、火星のきびしい条件下でも繁茂の可能性があること、その植物は空いろがかった青に近い色を持つことが確かめられ、ソビエトの学会ではほぼ承認されている。火星ばかりではない、金星植物の研究も同様に進められて、それを総合した天体植物園が、天文台で知られるアルアマタに開設されたことは、日本にも一部に報じられた。
だが、もともと地球型植物は、どんな条件下におかれてもその固有の性質を|枉《ま》げようとはしない。男が求めるのは、何よりも人間、それも若い女の肌に好んで寄生する、新しい火星型植物の創造であった。下等菌類はこの際植物と認めがたい。しかし動物の体表に寄生する性質はこれを活用して、冬虫夏草の類から徐々に上へと及ぼさなければならぬ。かたわら男は、徹底した土壌の改良に挑んだ。男の左手の指の数本がその実験に供せられた、といえば、そのめざす方向は推測されよう。蘚苔類は、土壌も皮膚も区別することなく這い進んだのである。巨大な排気鐘の中では、走地性と屈性との奇妙な訓練が行われた。さらに世代交番の不規則性を、ある一種に限って定着することに成功したとき、ようやくかれら[#「かれら」に傍点]はその新しい性質を示し始めた。これらの苦闘の記録は、当然詳細な学術論文としてまとめられ発表されるべきだろうが、その反応としてあらわれる学会あげての混乱と発揚状態を思うと、当分はささやかな実験の成果に甘んじていたほうが無難であろう。
ああしかし、第一次の成功だけは、もう疑いがない。かれら[#「かれら」に傍点]は、ときどき気まぐれのように男の皮膚の上に遊ぶようになった。まだしっかりと根づこうとはしないが、頬の上を這いのぼる擽ったい囁きを聞くことはできるのだ。長い間の、植物の根に支配されたいという願望は、ようやく聞き届けられた。じきにこれを白人女≠ノうつすことができるだろう。男はそのとき、初めて女を愛することを許される。そしてやがては、息ながら土中に身を横たえ、あの薔薇の根の、あらあらしい、息のつまるほどな抱擁を受けることが可能になる。あの褐色の根の愛撫ほど淫らで恍惚とした法悦があろうか。この役立たずな肉身の最後の一塊まで、どんな部分までも、ああどうか Radix 、君のほしいままな鞭の下に支配してくれ給え。………………………………………………………………………………………………………………………………
熱烈な祈りの言葉で、突然に切れて終っている大学ノートを、わたしは呆気にとられながら閉じた。
「なるほど、先生のところだけあって、風変りな患者もいたものですね。しかし、いくら蘚類や苔類みたいな下等植物だといっても、人間の皮膚に共生するわけはないでしょう。こういう妄想は、何型っていうんですか」
院長は奇妙な笑いを洩らしたまま答えなかったが、そのとき、廊下のほうで華やかな男女の嬌声がもつれあって、いきなりドアがあくと、色の白いミニスカートの女が駆けこんできた。
「先生、ごらんになって。やっとここまでになりましてよ」
そういってさし示す脚には、あざやかな緑の苔が、もう膝頭の上まで、うっすらと這いのぼっていた。
わたしを脅やかしたのは、その女ばかりではない、すぐあとから、けんめいに車椅子を漕ぎながら入ってきた若い男の顔であった。それはまるでビロードの仮面のように、びっしりと緑藻めいたものに蔽われていたのである。しかもこちらへ向かって、合図するようにふってみせる左手は、明らかに二、三本の指を欠いていた。
名状しがたい恐怖と嫌悪感から、思わず院長の傍に逃れ寄ろうとして、わたしは三たび身を退いた。院長のしている手袋の意味に、そのとき初めて思い当ったのだ。
そのとおりだった。ゆっくりと手袋を脱ぎ出すその下から、さっきまでなぜ気がつかなかったものか、緑の|鱗《うろこ》めいた手の甲が覗きかけていた。……』
緑いろのペン字を、ようやくそこまで読み終えた私に、こともなく手袋を脱ぎ棄てた院長が笑いかけた。
「これでお判りになったでしょう。このノートを人にお見せするとき手袋をするのは、いわばこの作者へのエチケットなんですよ」
[#改ページ]
聖父子
………………………………………………
|滋彦《しげひこ》。
こうして呼びかけるお前が、いつこの手記を手にするか、それは判らない。さしあたってどんな方法でこれをお前の眼に触れさせるか、それも容易ではない。当然眼につきやすいところに、といって、どこかしら秘密めかしたところに、この手記はさりげなく、だがいかにも曰くありげに隠されているだろう。これを手にするお前が、少なくとも十七歳より上であることを望みたい。知恵や判断力をいうのではない、その年齢ならば、必ずやお前が、|膂力《りょりょく》ゆたかな若者に変身しているだろうからだ。この手記を読み終えたお前には、どうしても鋼鉄めく腕と、わけても握力の強い指とが必要になってくる。好智にたけた一人の殺人者を、お前のその指で思いきり締めつけ、かれの顔が赤黒くふくれあがってついに息絶えるまで、決して離してはならぬからだ。
十七歳。だが、その日はまだあまりにも遠い。それまでの時間を、ふつつかな父はただこうして書斎の椅子に|倚《よりかか》り、ひたすらに堪えて待つ以外にない。窓の外には、乳いろに輝く八月の空が熱風を孕んでひろがり、地上の風はすでに死んだ。灰紫のルリシジミがもつれ合って飛んでいるほか、動くものもない。桃の老樹は萎えた葉を垂らし、その樹肌には、とろりとしたなめくじや、蟻や、小さい毛虫たちが這い廻り、そのむず痔さに堪えかねたものであろう、飴いろの樹液がところどころに垂れ固まって瘤を作っているのが、ここにいてもありありと見えるようだ。この透視の能力もまた、わたしに不幸をもたらしたものの一つである。
何のために父のわたしが、こんな手記をお前に残そうとするか、滋彦はこれを手にするが早いか察するだろう。父と子と二人きりの家庭に立ちこめてゆく黴の臭い、隠された血の臭いに、お前はことにも敏感に育つ筈だ。従って当然それは、早くに死んだお前の母、わたしにとっては唯一の女性である|路子《みちこ》と関わりのあることも、またたちまち推察がつくだろう。なぜ母の遺影がたった一枚しかないのか、それも不鮮明な白い笑顔しか残されていないのか、お前はすでに疑念を持ち始めている。お母さんは写真嫌いだったんだよというわたしの答に、そのうち必ず満足しなくなるだろう。真黒な疑惑がみるみるお前の内部でひろがり、とめどもなくふくれあがるだろう。それをひたすら待つといえば、この父はあまりにも残酷にすぎるのか。だが、滋彦。復讐はぜひともお前の手で果して貰わねばならぬ。お前が快活な学生から、一転して暗い執念の虜となり、唇を引きしめた復讐者に変身することを念じて、この手記は書かれたのだから。
お前の母・路子は、過失死として葬られた。その真相は以下に記すとおりだが、順序としてまず、どのような状態で死亡したか、それから述べよう。路子は当時、わたしたちの住んでいた|市《いち》ヶ|谷《や》|台町《だいまち》の浴室で|斃《たお》れた。二十五歳であった。前年にお前を産み、ほぼ一年後の八月十一日、日曜のことである。この夏は連日三十一度を越す暑さが続き、その日の午後、汗を流す心算もあったろうし、|旁々《かたがた》おびただしい洗い物のために、しばらく洗濯機の唸る音がしていたのは、わたしも聞いている。だが、どうしてかその前後のわたしの記憶はひどくあいまいをきわめ、事件が起ってからのち、もっともわたしを苦しめたのはこの点であった。ただひとつ鮮明な記憶は、お前がわたしの傍らで無心に眠り続けていたということだけなのだ。それは神々しいばかりの天使の眠りで、わたしはひたすらその寝顔に見とれ、はては滂沱と涙を流しさえした。
事件に気づいたのは、当時その家に同居していた路子の実弟で、大学生の|朔郎《さくろう》である。(この青年は、のちに事情あってわが家より遠ざけた。滋彦はおそらく会うことがないだろう)。朝から出かけていた彼は、帰ってくるなり暑い暑いと騒ぎ立て、裸になって浴室へ飛びこもうとしたが、その硝子戸は内側から固くとざされて開かなかった。タオルを腰に巻きつけた姿でわたしの部屋へ顔を覗かせた朔郎のひどく怯えた、不安な眼のいろは忘れることができない。
………………………………………………
「姉さんは」と、彼は訊いた。
「さあ、さっきまで風呂場にいたようだが」
わたしは努めて平静に答えたが、もうそのときから激しい胸騒ぎに襲われた。それも、奇妙なことに、不吉な予感からというより、風呂場に横たわっている路子の裸身が、突如ありありと眼前に浮かんだせいであった。
「鍵がかかって開かないんだよ。来てみて」
朔郎は|口迅《くちど》にいって姿を消した。二人で路子を呼び立てながら硝子戸に手をかけ、力をこめて押してもびくともしない。鍵といっても、ごく簡単な手廻しのボルトを内側から差しこむだけのもので、わたしたちは締めもしないが、路子はいつでもかけていた。むろんこんなものはわたしがつけたのではない。引越してきたときからついていたのである。
わたしたちは途方にくれた。硝子を壊すといっても、中でただ気を失っているだけかも知れぬ路子に怪我でもさせてはならぬ。大声で呼びながら、いくら透かしても見えない硝子戸に焦立ったあげく、先に電話でかかりつけの医者を呼ぶことにした。日曜で心配したがすぐに来てくれ、三人で苦心の未に、硝子を割って、ようやく戸が開かれた。案じたとおりというより、先刻あざやかに眼前に浮かんだそのままの裸身で、路子は体をまるめたなり、完全に息絶えていた。死後約一時間。足をすべらせたのか、あるいは急激な眩暈でも起したのか、それは判らぬ。ただそのあげく、したたかこめかみをタイルの湯槽に打ちつけ、それが生命とりになったことだけは確かである。頭の下には、暗い血だまりがあった。
わたしがどれほど仰天し、悲嘆し、冷たい裸身をかき抱いて身も世もなく号泣したかは、医師も朔郎もよく承知している。しかしいまわたしが滋彦に伝えようとするのは、そうした世の常の夫にふさわしい狂態ではない。死後一時間というなら、なぜもっと早く気にして様子を見にゆき、硝子戸を蹴破ってでも飛込まなかったかという痛恨の念でもない。うつけたように通夜の席に坐っているあいだ、徐々に徐々に甦ってきたその日の午後の記憶についてである。まったくの空白だったその部分を埋めるように、おぼろげなものの形が見え始めた。それはほかならぬわたし自身の像で、しかも両腕には死亡直後の妻・路子を抱えあげていた。すなわち、少しずつ戻ってきた記憶は、こうわたしに告げたのである。
――お前が路子を抱きかかえたのは、死体発見のときばかりではない、その一時間前にも同じことを風呂場でしたのではないか、と。
………………………………………………
これはまことに奇怪な想念で、わたしは思わず|竦然《しょうぜん》として眼を見ひらき、通夜の客を見廻したほどである。だが、もしそれが事実だとするなら、いったい何のためにそんなことをしたのか。路子が足をすべらせて倒れたのではなく、わたしが横たえたというなら、あの致命傷となったこめかみの傷も、わたしが作ったのだろうか。まさか、このわたしが妻を殺した、このわたしが殺人者とでも?
だが、疑いはきりもなくひろがった。なぜ午後の記憶がひどくあいまいなのか、そして滋彦の寝顔ばかり眺めていたように思いこもうとしているのか。その寝顔を眺めながら、わたしは確かに泣き続けていた。なぜだ、何を泣いていたのだ。いったい、何があったというのだ? こうまでも何も思い出せぬというのは、よほど異常な事件があったに相違なく、その記憶が甦るのを怖れて、わたしは咄嗟に自分でそれを忘却という石の|甕《かめ》に封じこめ、しっかりと蓋をしてしまったらしい。だが、そんなにも心は都合よく器用に働くものだろうか。自分が殺人者であることまで忘れるということがあり得ることかどうか。
通夜の席では、しかしそこまで考えるのが精々だった。いや、あわただしい葬儀や初七日が済むまで、それ以上のことは何も思い浮かばなかった。さしあたってすぐ、滋彦の世話をする女性が必要だったし、身の周りいっさいのことにも人手がいった。しかしそれらが一段落し、また勤めにも出るようになると、再び執拗な疑惑がわたしを|苛《さいな》み始めた。
滋彦。記憶のほとんどが戻ってきたいま、こうした書き方を続けるのは本意ではない。真相のすべてを端的に書き残せばそれで済むことだが、しかしこの当時のわたしの、奇妙な苦しみも察して欲しいのだ。わたしの手がかりは、ただあの朔郎が顔を見せて「姉さんは」と訊いたそのとき、すぐ路子の裸身を、発見当時とそっくりに思い浮かべることができた[#「できた」に傍点]、ただその一点にかかっていたのだから。それが果して愛する妻の異変を察して働いた透視能力なのか、それとも残忍な殺人者の黒い笑いなのか、このときはまだ判断がつかなかった。だが紆余曲折の末、わたしはついに自分を殺人者として告発することに決めたのだった。
………………………………………………
殺人者の条件を充たすためには、動機・犯行方法・アリバイの三つがまず明らかにされねばならぬ。アリバイはまったくない。朝から路子と共にいたのはわたしだけである。同時に動機にもまったく心当りはない。結婚して三年、ようやく愛の結晶を得たばかりの二人にどんな獣の血がたぎるというのか。とすれば残された犯行方法に、解明の|緒口《いとぐち》は残されている筈であった。ことにあの風呂場は、内側から掛金がさしこまれて、いわゆる密室だったが、わたしがもし滑稽にも探偵小説にあるようなトリックを弄したとするなら、必ずその辺に手がかりがあるに違いない。こうしてわたしは、おびただしい文献をあさって密室殺人の手口に専念してみたが、一向にはかがゆかない。思い余って|伝手《つて》を頼み、工学関係の、その方面に詳しい人を紹介してもらった。かれはまさかわたし自身が妻を殺害した方法を追求しているとは想像もしなかったのであろう。流行にのって推理小説でも書くつもりかと思ったらしく、気軽くわたしのいう条件での新しいトリックを創案してくれた。その際、洗濯機の位置と、中に水があるのか|空《から》なのかを決めてくれといわれたが、わたしは口ごもりながら空のほうがいいと答えた。硝子を破って入ったときは、気も動転して別段の注意も払わなかったが、洗濯機の放水ホースが外され、水はすっかり流れ出して、中に洗濯物がぐんにゃりとたぐまっていたような気がしたからである。
二、三日してかれの電話で呼び出され、行ってみると詳細な図解を渡されて説明を受けた。要するに密室殺人のトリックというなら、満水した洗濯機を斜めに倒して壁に立てかけ、それから放水ホースを外せばよいという。その際二本の紐をあらかじめタイムスイッチのダイヤルと、洗濯機の中の回転翼に引っかけ、双方からたるみを持たせて硝子戸のボルトのつまみにからみ合わせておく。殺人者が中でスイッチを入れ、半開きの戸からすりぬけて外へ出、戸をしめさえすれば、洗濯機の水が流れ出るにつれてその重心が移動し、ついに元通り直立すると同時に紐のたるみがのび、ボルトのつまみが引かれて鍵がかかるというものであった。さらに回転翼にからめた紐が、そのもう一本の紐を引っかけて洗濯機の中へ巻きこむという寸法だが、実際にこんなことが可能かどうか、内心ばかばかしいと思いながらも、一日、風呂場の中でひそかに実験してみた。その結果、少なくとも傾けた洗濯機が直立すると同時に、鍵だけはかかり得ることを知って、異様な感懐に捉われた。その紐をまた洗濯物の中に巻きこむという操作は、どうしてもうまくゆかなかったが、少なくとも肝心な密室を作るということだけには成功したのだ。むろん、あの当時の洗濯物の始末は、駆けつけた親類の誰かが気を利かしてやってくれただろうから、その中に二本の紐があったかなどと、いまさら聞けもしない。そしてこの実験をあえてしたのは、その動作をくり返すうち、確かにあの日もこれと同じことをしたという記憶の甦ることを期待したからであるが、それはついに返ってはこなかった。しかしながら、これによってわたしは、ともかくも殺人者に一歩だけ近づき得たのである。
………………………………………………
そして、動機。
だがわたしは、いまこの手記を、ここで急速に閉じたい思いに駆られている。あらためてわたしの殺人の動機について語るより、お前ともどもに父子心中をとげたほうがどれだけましか知れないからである。
石の甕にとざされていた記憶が突然に甦ったのは、路子の死後半歳がすぎてからで、夕食の折に朔郎が暗い顔でこういい出したときであった。
「きょう姉さんの友達に会ったんだ。そしたらね、こんなことをいうんだよ」
その女友達の名を聞いたときから、不思議な戦慄がわたしの体を貫いた。つとめて忘れようとしていたその名。そのひとこそ、路子の死の前日にわたしの会社へあらわれ、路子の行状についての恐るべき忠告をしてくれた当人だったからである。果して朔郎も、そのときと同じことを、聞かされたままに語りはじめた。
といってその友達と路子とは、べつだん親しかったわけではない。葬式にも顔を見せなかったし、家も遠い、そんなひとのところへ、路子は死の一週間ほど前、突然に訪ねてきて、いきなり奇妙なことをいった。
「あなた、けさ早くに、お隣へいらしたでしょう」
「いいえ。でも、どうして? 行くわけがないじゃありませんか」
けげんに思って訊き返すと、路子は何ともつかぬ蒼白な顔であいまいに笑い、それもそうね、などといって帰ったが、夕方また、あわただしくあらわれた。汗をだらだら流して、こういた。
「さっき、うちのお隣の方がここへ見えたのね。話声がきこえたから、大急ぎできたの」
――これはいけない、と友達も思ったという。路子は、まちがいなく発狂していたのである。それも、わたしとの結婚前からつき合っていた男と家で間違いを犯し、しかもその行為の直後に隣家の家人に見られた、と思いこんだ。こちら向きの窓がふいに閉ざされ、人影がすっと消えるのを確かに見たというのだ。それ以来、耳に|騒立《さわだ》つ声、声、声のすべては、ただ隣家の家人と友人たちとが、眉をひそめて語り合う|陰《かげ》ぐちに変った。いたたまれず友人のひとりひとりを訪ねてはその話≠したかどうかを聞いて廻っていたのである。
会社へ訪ねてきて忠告してくれた同じ話を朔郎がしはじめたとき、わたしは突然立ち上がって獣さながらに吼え狂ったという。朔郎をやにわに打ちのめしたという、そのことも覚えていない。気がついたときは床に寝て、近所の人々が枕許につめかけ、かわるがわる冷たいタオルを額に当ててくれていた。
そうなのだ。あの日の午後も、一晩を懊悩反転したあげく、わたしは路子を呼んでその不倫をなじった。いや、不倫だけならばまだ許せる。その醜行を友人のひとりひとりに自分で吹聴して廻った情なさ、くやしさに、わたしは激怒した。わたしはこの手で妻の両肩を掴み、何か固いものに打ちつけ打ちつけした。妻は青白い|眸《ひとみ》をみひらいたまま、抗弁も抵抗もしなかった。ああ、そのあげくにわたしが逆上して路子を殺したのかどうか、それが憶い出せさえしたら!だが、滋彦、肝心なその一点だけが、どうしても甦ってはこないのだ。そのあとわたしが無心に眠り続ける滋彦の傍らへ戻り、お前のあどけない躯の中に、もうまぎれもなく潜んでいる狂気の因子、その黒い血を思って涙を流し続けたのは、前に記したとおりだが、果してこの手が路子の頭を掴んで叩きつけ、ついに死亡させたものなのか、そのあと裸にして風呂場へかつぎこみ、過失死を擬装したのかどうか、それはどうしても憶い出せないのだ。
だが、もうまちがいはない。わたしこそ、もっとも卑劣で残忍な殺人者にほかならぬ。朔郎の話に錯乱した夜、わたしは心をきめて近くの交番へ自首して出た。それなのに巡査は、愚かにも笑うばかりで相手にしない。あげく医師を呼んで引取らせさえした。わたしが殺人の動機だけは、秘して語らなかったからである。数日後、本署へ出頭し、このたびはその動機も包まず打明けて逮捕してくれと願ったが、容れられなかった。それから今日まで、まだ誰もわたしを殺人者として認めようとはしない。これほど確かな情況証拠をそろえても、どうしても彼らが|肯《がえ》んじないというなら、滋彦、お前だけが、わたしを裁き得る唯一の人間であろう。この手記のすべてに偽りはない。どうか滋彦、一日も早く逞しい若者となり、その母のための復讐をなしとげて欲しい。それだけが父の願いである。
神よ、裁きの速やかならんことを。願わくはわが愛児の怒りに血走った眼のより近からんことを。その若者の強靭なる指がわが咽喉に喰い入り、この愚かなる父にして殺人者が、血反吐を吐きつつ恍惚と悶死し得ることを!
∴
『|流薔園《るそうえん》』住人のひとりである男の手記は、こうして奇妙な祈りの言葉で結ばれていた。
「これは、ほとんど事実なんですよ」
院長は、いくぶん苦い笑いを見せた。
「暗い、悲惨な話のようですが、それでも彼はここへ来てから救われました。いま散歩場にいる筈ですから、会ってごらんなさい」
院長に連れ立った私は、手記の主という中年男を指さされてハッとした。彼は十七、八の少年と肩を組んで、いかにも仲睦まじい父子のように歩いていたからである。
「じゃ、あれが滋彦君なんですね。父親を罰する代りに許したんですね」
「ところが、そうじゃないんです」
院長はふたたび微笑した。
「あの二人は親子でもなんでもない。本物の滋彦君はだいぶ前に病死したんで、あの少年はまったく別な病因で来たのですが、もう初めから男の話に、自分がその滋彦だと思いこんだのですね。しかし、これもなかなかいい眺めじゃありませんか。案外ここは、二人にとっての天国かも知れませんよ」
いかにも、そのとおりかも知れない。私もまたほほえましい気持になって、肩を組んだまま遠ざかってゆく贋の聖父子を見送った。
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|大望《たいもう》ある乗客
そのワンマンバスには、はじめ運転手を含めて十三人の客が乗っていたのだが、市街を出はずれるころには、客は五人だけになって、薄暗い車内灯の下でみんな黙りこくっていた。めいめいがひどく陰鬱な顔でうつむいていたが、ときおり何かを思いついたように顔をあげると、そこには誰もがぞっとするくらいの凄い微笑が浮かんだ。といってこの乗客たちは、お互いにまったく見知らぬ同士だったし、みんな自分の考えに忙しくて、相手のそんな表情に気をとめるものもいなかった。終点まで行くつもりなのか、誰も声をかけない。運転手も機械的に停留所名を口の中で呟くだけで、バスは郊外の夜道を走り続けた。
いちばん前のほうに、何事か念じるようにうつむいているのは、まだ若い人妻で|相原啓子《あいはらけいこ》といった。確かに彼女は、念じていたには違いない。今夜の計画は、どうしても成功させなければならなかった。あんな獣、死ぬのが当然だわ。そう心の中で呟くたび、それは次第にゆるぎのない確信に変っていった。
啓子のところに匿名の女名前で封書が届いたのは一週間前のことである。お眼にかかって折入ってお話したいという内容に、さっぱり心当りはなかったが、これはたぶん旅行がちの夫に女がいるという忠告に違いない。持ち前の好奇心から、指定された喫茶店へ出かけてみると、待っていたのは顔見知りの洗濯屋の店員だった。もうずっと前にやめた男だが、何をしているのか、汚れた足にゴム草履をはき、眼のふちをくろずませて、こともなげに十万円請求した。三年前、啓子は、まだうぶうぶしかったこの店員を、むしろこちらから誘惑したことがあったのだ。一遍こっきりのことだし、その時啓子の胸に顔を埋めて涙さえ流した態度からいっても、まさか|強請《ゆすり》にくるとは夢にも思っていなかったのだが、男の|削《そ》げたような陰惨な顔つきは、もう昔のものではなかった。
「十万円なんて、ある筈ないじゃないの」
「指輪でも売ってつくるんだな。二週間、待ってやるよ」
男はふてぶてしくいうと、残り少ないコーヒーを、いやな音を立ててかき廻した。
強請の金は、一度渡したらおしまいで、骨までしゃぶられるというのが映画やテレビの教えるところである。第一、貯金は家を建てるための資金にすぎないし、へそくりは五万円を出たためしがない。しかし男からの催促の電話は、執拗で正確だった。
「今、おたくの旦那の会社の前からかけてるんだぜ」
乾いた笑い声が、そのたび受話器の底に残った。
一週間めのけさになって、一枚のはがきが舞いこんだのは、どういう偶然であろう。
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12万円の12だけが赤鉛筆で書き入れてあった。帝国信用という会社名も不安だったが、おずおずと電話してみると、実印と印鑑証明を二通、それに三文判を持ってきてくれればいいという。
「あの、あたくし、保証人なんてないんですけど」
「かまいませんよ。お待ちしています」
市役所へ寄って印鑑証明をとり、エレベーターもないビルの五階へ階段を登ってゆくときが、いちばんみじめだった。主任だという男が出てきて、はがきを見ながら、いまは相場がさがって十一万円しかお貸しできませんねという。
「でも、あたくし、どうしても十万円いるんです」
「それは大丈夫でしょう」
手もとに紙を引寄せて、翌月の何日までの利息が三分で三千三百円、質権設定費が四百円、組合の何とかがいくらと、結局、天引き七千円で十万三千円がお手許へゆきますが、よろしいですか、ただし利息は翌月から五分の五千五百円になりますというのだが、啓子にしてみれば否も応もなかった。それでは、と、主任なる男はほくそ笑んだようにいい、ちょっと実印を拝借、というが早いか、取り出した書類に片端からぺたぺたと捺しはじめた。
印鑑票が三通、買戻特約付電話加入権譲渡契約書が正副二通、名義変更の委任状、委任状承諾書、連帯借用証書、金員借用並質権設定契約証書、電話加入権質権譲渡承認請求書、同じく質登録請求書、それに約束手形から受取まで一息に捺し終って、ひとつひとつの説明をやり出したが、もう啓子にはどうでもいいことだった。三文判は、でたらめな兄の名を書いてそこに捺した。
「あの、お金はいついただけるんでしょう」
「それはこれから電話局へ行って質権設定の手続きをいたしますから、そのあとでお宅へお届けします」
主任はチラと憐れむような表情を浮かべた。少なくとも啓子にはそう思えたのだった。
欺されるんじゃないかしら、やらずぶったくりというように、電話と利子だけ取り上げて、お金なんて持ってこないかも知れないという不安に苛まれたあげく、ようやくの思いで一万円札を十枚、無事に受取って、それはいま啓子のハンドバッグの中にある。だが、もう啓子は、誰があんな男に渡すものかという気になっていた。これは見せ金。安心させてもう一度寝るふりをして、その上で、と、今日の午後から大いそぎで立てた殺しの計画をひとつひとつ点検し出すと、まず遺漏はないらしい。
夫は出張で留守だが、一応のアリバイ工作はしておいた。男に飲ませる薬は、夫の仕事の性質上、お手のものだし、何より有利なのは、これから訪ねようとする男が、出入りの自由な離れの一間を借りていて、どんなお客が来たのか見咎められる心配のないことだった。母屋の老夫婦が男の死に気づくのは三日も経ってからのことだろう。ただひとつ不安なのは、男が強請の相手、つまり啓子の名を、友人か情婦にでも話していないかということだが、啓子のカンでは、具体的に誰とまでは口に出さないのが、こういう場合の通例らしい。日記をつけているとも思えないが、書き残したものがないか、おちついて点検しなくちゃ。この手袋をこうはめて……。
この計画は成功するだろう。啓子がにんまり笑って下うつむいたとき、そのすぐうしろの席で物思いに耽っていた青年が、薄気味わるい笑い方をして顔をあげた。井川章次という大学生で、昼間のほうはろくに出席しないくせに、この春から思い立って通い出した、いまはやりのコンピューター学院の夜学には休みなく顔を出し、いまもその帰りなのであった。もっとも、彼の本当のお目当ては、プログラマーになりたいとか、就職のときの条件を有利にしようとかいうことではない。八十人ほどいるクラスに僅か三人もかいない女性のうちの一人と顔を合わせるだけが楽しみなのであった。聡明な顔立ちに、肩まで垂らした髪の似合う女の子で、入学式のとき口をきいてからずっと隣に坐って、これまで結構楽しくやってきた。それが、夏休みの前から郷里へ帰るといって姿を消し、そのまま九月の新学期にも出てこない。段々と事情を聞いて廻っているうち、意外なことを耳にした。コンピューター学院の講師で、いかにも秀才らしい冷酷な顔つきをした奴と前から出来ていて、妊娠したあげくに棄てられたというのである。
その講師は、たしかに初めから虫が好かない奴だった。早口でまくし立てる講義も、ひどく癖のあるもので、例えばコボルの上限下限ひとつについても、
「何ケタかというのはリシーヴィングできめてくれ、ただしヴァリューは何かといえば|0《ゼロ》とか|△《スペース》でなく、上限はワンメモリーロケーションでできる最高の値にしてくれ、従って8進数77といえば、バイナリーでいえば6ビット分が全部1ということです」
などと喋られても、もともと法律や政治の本にしかなじんでいない頭には、さっぱり何のことだか判らない。それが九月の新学期になって、コボルの入出力の動詞関係になると、いっそういけなかった。
「クローズを書いておけば、トレーラレーブルはもう全部やってくれるわけで、ウイズロックと書けばまずリワインドをしてバックスペースをするわけです。レディじゃなくチェック状態になる、判りますね」
この講師の頭には、日常意のままに使っているコンピューターの細部までが具体的にあるのだろうが、井川章次にとってコンピューターというものは、ただテープがくるくる廻っている巨大な機械というイメージしかないのだから、理解のしようがない。この男は大企業のエリート社員だということだが、こんな連中がこんな言葉で喋り散らす未来というものは、章次にとって反吐のでるくらい無気味な反ユートピヤに思えた。しかもその男が、あの純情な乙女を凌辱したのだという。手を廻して調べたあげく、ついに彼女の郷里まで行って事実を確かめると、章次はすぐ決心した。いま、このバスに乗っているのは、その講師の自宅へ乗りこんで、最後の対決をするつもりなのであった。
恋と革命に生きよう、というのが、章次のひそかな決意だったが、せっかく恋らしいものが実りかかったところで、その芽はあっさりと摘みとられた。革命のほうは、たびたびの学生運動で、火焔びんを通じてその一端を経験したが、こうしてコンピューター学院に通っているのも、ただそれのもたらす輝かしい未来に触れようと思ったからなのに、実際はわけの判らぬ講義の連続にすぎない。しかもその難解な講義を、クラスに十人ほどいる自衛隊員はこともなく受入れているらしく、ときどき出される問題もすぐ出ていって正解してみせるのが、章次にはいっそう容易ならぬ事態に思われた。コンピューターがただ資本家の走狗と軍国主義の若き担い手を結びつけるためにだけ動くものならば、いさざよく爆破してしまったほうがいい。今夜おれがあの講師の股間めがけて投げつけようとするこの火焔びんは、と章次は膝の上の鞄を押えた。まさにそのための第一弾なのだ。法廷でおれは堂々と訴え、暗黒の未来の恐ろしさを説こう。おれのしようとしていることは、恋の恨みなどというちっぽけな、個人的なことではない。このプランは完遂させねばならぬ。章次はもう一度、いとおしむように膝の鞄へ眼を落した。
バスは瞼しい山道にかかった。その振動でびっくりしたように顔をあげたのは、いちばん奥の席に手をつないで坐っている、幼い兄妹であった。固く唇を結んだ顔は|凛々《りり》しいといってもいいくらいで、澄んだ眼には、哀しいまでの決意が浮かんでいた。
|宇田《うだ》まさるに|葉子《ようこ》というこの二人は、きょう町の小母さん≠フところに遊びに行って帰るところだった。この小母さんというのは、パパの遠い親戚に当るとかで、ほんとならあたしがふたありのお母さんになる筈だったのよと、いつか冗談めかしていったことがある。それがどんな意味かはよく判らなかったが、幼い兄妹には、あたしが実は本当のお母さんなのといっているように聞えた。ママとほとんど変らないとしだというのに、若々しくて陽気で、パパと一緒にお酒を飲んでいるのを見かけたときは、あんまり美しく艶めかしい眼をしているのに、胸のときめくような思いがしたくらいだった。怒りぽくて口うるさくて、学校のお勉強と塾通いばかりをせき立てるママの代りに、あの小母さんが本当のお母さんだったらどんなにいいだろうというのが、まさると葉子の一致した意見だった。SFにも詳しくて、新しい宇宙のベムが、どんなにさりげない顔をしてぼくたちの周りにいるか、ぞっとするようなお話もたくさん知っていた。ただ近所の人の噂では、パパが近郊きっての大地主で、市街化調整区域に指定されるのをうまいこと外してどうとかしたから、後釜を狙って大変だという悪口めいたことを聞かされたことがあるけれども、もとより二人にはアトガマというのも、死骸がチョーセイ≠ノ喰いこんだという言葉も、何のことだか判らなかった。
それよりここのところずっと二人を悩ましていたのは、小母さんのことは別にして、どうみてもママが昔どおりの本物のママではないらしいという疑問であった。子どもの週刊誌ではよく見るけれども、宇宙の怪物がママを喰い殺して、そのあとママそっくりに化けているとしか思えない。
放し飼いにして卵を産ませていた鶏を、一羽ずつ平気で首を締めて喰べだしたのもこのごろのことだ。頭が痛いといって寝こんだりすることも昔はなかったし、お薬を飲んで、死んだように眠りこける姿も気味が悪かった。その寝顔を見ると、顔だってずっと頬がこけて、いつも青ざめたいろをし、脂汗みたいなものを額に浮かべている。これは贋物なんだという思いがだんだん強まったころの夜半、こわごわ便所へ行ったとき、まさるは大変なものを見た。それはあまりにも異常な姿だったので、どうしても信じられず、おかげで気を失わなかったくらいのものだった。
「ママが白い着物をきて、髪をふり乱してさ、お庭を歩いていたんだよ。はだしでさ」
妹の葉子は、いきなり両方の耳に指を突っこんで聞くまいとしたが、まさるはひきつったような眼で喋り続けた。
「ママに|角《つの》が生えていたんだ。そして手に金づちを持ってたんだよ。同じところを何べんも何べんも歩いていた。嘘じゃないってば」
翌日、ママとパパとが、藁人形がどうしたというようなことで大喧嘩しているのを聞いたが、まさるにはもう昼間でもママの姿を正面から見ることはできなくなっていた。やっぱり本当は|人鬼《ひとおに》だったんだ。だから平気で鶏の首をしめたりするんだ。夜、きまってうなされるようになった葉子をなだめながら、どうしたって妹だけは守ってやらなくちゃ、とまさるは心に決めた。きょう小母さんを訪ねたのも、さりげなくその方法を聞くためであった。
「ねえ、魔女を退治するのは、どうしたらいいの」
縛りつけて水をたくさん飲ませるとか、火焙りにするとかいう代りに、小母さんはあっさりと、大きな眼を輝かして答えた。
「魔女だって夜は眠るでしょ。そこをそうっと、首に紐か針金をからませてね、えいって引張っちゃうのよ、片っ方の端はベッドに固く|結《ゆわ》えつけといて。思いきって、眼をつぶってやらなくちゃダメよ、力いっぱいに。そうすればすぐ魔女なんて正体をあらわすわ。そしたら魔法がとけて、何もかも元どおりになるのよ。判った?」
その方法を小母さんに聞いたなんて、絶対に誰にもいわない約束をしたけど、当り前だ。妹を守ってやるだけなんだ。ただ最後に、鶏だって首をしめられたらどんなに苦しいか、判ったろうって、ひとことだけいってやろう。それで魔法がとけたら、あとのことはパパがちゃんとしてくれるって小母さんもうけあったし、本物のママだって戻ってくるんだから。きっと、何もかもうまくいくさ。まさるは、うつらうつら眠りかけている妹の顔を優しく覗きこんだ。
江崎みな子は、ひょいと顔をあげて外を見た。道はそろそろ下りになる筈で、家の前につくころだ。ぼんくら亭主は、また折紙に夢中になっているだろう。きょうこそ片をつけなくちゃ。
みな子の経営する美容院が繁昌すればするほど、髪結いの亭主さながら、のらくらするのはまだいいとして、我慢のならないのは、役にも立たない折紙に夢中になり、それもいっぱしの研究家づらで自慢することであった。『嬉遊笑覧』とか『守貞漫稿』、さては『和漢三才図会』から『古事類苑』のたぐいまで、古書展には欠かさず顔を出して買いあつめ、|伊勢《いせ》流や|小笠原《おがさわら》流ののしの折り方はなどと話しかけるのは、黙殺すればすむことだが、夜、寝る前に畳を掃き出そうとすると、いちめんに散らかっている小さな紙屑が、ひとつひとつ、蟹とか蛙とか蝉とかの形に丹念に折ってあるというのが、みな子にはどうしても許せなかった。第一きび[#「きび」に傍点]が悪くって仕方がない。
話し相手がいないので、嫌われるのを承知で知人の誰かれを訪ね歩く。それも折紙の話しかできないので、相手にされる筈もないのに、いっこうこりないらしかった。
「この間もね、ふいにいらしたの。あたしったら応接間にお通しして、それから店へ出ちゃったでしょう。ハッと気がついたのが一時間たってからなのよ。慌てていってみたらお帰りになったあと。それがね、まあテーブルの上いちめんに、よくも折ったと思うくらい鶴だの亀だのお猿さんだのが折ってあって。ごめんなさァい、あたし、どういってお詫びしようかしら」
親しい友人が笑いながらいう言葉に、みな子は強いて笑い返しながら、憤怒と羞恥で体の固くなる思いがしばしばだった。ぼんくらの髪結い亭主でも、せめて粋な遊びをしてくれれば、あたしだって人から後ろ指さされることもない。それを、七つ八つの餓鬼でもあるまいに、折紙だなんて。
この不満は、きょう、かねて狙っていたデパートへの進出が、ただあんな御主人をお持ちではとしか聞こえようのないいい方をされて破談になりかけたことで、ついに爆発した。美容のビルを建てる計画でも、パトロンになりそうな男から、それとなく仄めかされたことがある。
「まだお若くてお美しいのに、よくおやりですなあ」
そういう挨拶も、みな子には皮肉としか思えなかった。片づけてしまえ、と思い出してから日が長いせいか、具体的な実行案はすぐ実った。実際にあった事件から考えついたのだが、友人にやはりやり手な女事業家がいて、このほうはあたしと違って亭主を大事にしない、それどころか男をこしらえて亭主をほっぽり出そうとしている。可哀そうで見ていられないからというふうに切り出すのがみな子の計画であった。
「ちょっとのあいだ、その旦那さんに隠れてて貰おうと思うのよ。そいで、あんたその旦那さんの代りに、私が死ねばお前も幸福になると思うからって遺書を書いてくれない? それが、あんたとその旦那さんとが、偶然おんなじ名前なの。短い走り書きでいいわよ。ね、それをみたら女のほうだって、少しは慌てて反省するでしょ」
なんでもいい、自筆の遺書さえ手に入れてしまえば、あとは毒を飲ませようと崖から突き落とそうと、こちらの勝手だ。どうしたって今夜は、それを書かせてやる。きっとうまくいくだろう。
みな子はふたたび顔をあげた。もうじき家に着くころだ。尾島秀夫と貼り出してある運転手の名が眼に入って、降りますと声をかけようとしたとき、思わず息をのんだ。ハンドルの上に首を垂れて、まるでお祈りでもしているような恰好の運転手に気がついたからである。居眠りしていたのか、それとも理由があって乗客を道づれにしたのか、それは判らない。五人の|大望《たいもう》ある客人≠乗せたバスは、右にスリップすると、勢いよく宙に浮いて、それから逆落しに崖下へ転落していった。
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影の舞踏会
十月の、肌寒い日々が訪れた。暗い雨が続いて、それは、骨にまで沁み徹ってゆく氷雨の|季《とき》を思わせながら、まだ幽かに匂いを持っていた。かつて暖かかったもの、生きて、動いていたもの、いまはもう遠い記憶でしかないものへの哀惜を甦らせながら、雨の匂いは、|宇沢洋子《うざわようこ》の周りにも仄かにまつわった。
――いやだわ、いつから濡れていたのかしら」
立止まった洋子は、手に提げたままだった傘をひろげた。その薄青い翳りに包まれて、洋子の眼はかすかに潤み、唇のはたには、|巫女《みこ》のような微笑が浮かんだ。
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――あなたなら、ごぞんじでいらっしゃるわね。でも、わたしが当ててみましょうか。この雨の匂いは、あの仔犬たちの匂いと同じなの」
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それは、もう記憶の沼の底深くに沈んで、濃い霜の立ち|罩《こ》めた夜としか覚えはなかったのだが、そこだけが明るい犬屋の店の前で、ふたりはどちらからともなく足を留めた。|木島勝男《きじまかつお》は、僧院にこそふさわしい黒の学生服のまま、硝子に額を捺しつけるようにして、仔犬たちの戯れに見入っていた。あたりには濃い獣の臭いが漂い、洋子は、所在なさに、何べんか訴えるような眼で勝男の横顔を見上げたが、その若々しい鼻梁は、夜の灯に滑らかに映えるばかりで、動こうともしない。硝子張りの小さな檻の中では、仔犬たちが寒さに体を寄せ合い、けんめいに眠ろうとしているのだが、潜りそこねた二、三匹が、ところかまわず上に乗ってくるので、騒ぎは、いつまでも鎮まらないのだった。
犬屋は、まるで花舗のように、豪奢な、眩ゆい光を舗道にあふれさせていた。道を行く人びとは、突然に靄の中からあらわれて次々に足をとめ、また、じきに離れて靄の中へ紛れ去った。街灯は淡いオレンジのいろに滲んで、暈に包まれたまま連なり、その向うには今夜だけの、奇妙な、得体の知れぬ闇の儀式が待ち受けているように思えた。
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――あなたは、あの仔犬の|温《ぬく》みを欲しがっていらしたのね」
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洋子は、ようやく鮮明になってきたその記憶を、いとおしむように反芻した。
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――掌を当てただけで、激しく伝わってくる稚い動悸と、まろやかな毛の触りごこち。あの、生命そのもののような温みを腕の中に抱えていたいと、そればかりを考え、息をつめて見守っていらした。尿の沁みた藁の上で眠りこんでいる仔犬たちを、わたしは憎んだ。それは、わたしにも差上げられた筈のもので、もしあなたの掌がわたしの胸に伸ばされさえすれば、そこで同じに息づき、喘いでいたのに、わたしからは決して受取ろうとされない何かが、あの小動物たちにあるとでもいうのかしら。まさか、それとも…」
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名づけようもないほど幽かに心の奥に兆した思いは、不安というにはあまりにも軽やかなものだったが、洋子はぜひそれを確かめたいと念じた。自分の齢が一廻りも上だという思いではない。若すぎる女に、勝男が何の興味も持たぬことはよく判っていたし、フラール・ヌーボーと名づけた、寒冷紗や|絖《ぬめ》を新しい感覚でデザインする洋子の仕事は、雑誌やテレビばかりではない、数多い女性教室でも、暇をもてあます夫人たちに囲まれて、ゆるぎはなかった。この夏には、火山の麓にひろがる高原の別荘地に、瀟洒な山荘も建てたほどで、もとより月々の収入は、勝男ほどの年齢の、蒸発させるというほかに評しようのない金の使い方を補って充分だったし、手渡し、受取るときの手つきを、縦、横、斜めというふうに眺め返してもごく自然で、その限りでは姉と弟のようにうまく続いていた。
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――子供っぽい、ほんとうに子供っぽいひとなんだから」
[#ここで字下げ終わり]
犬屋の前を離れさせることを諦めて、洋子はそんなふうに自分にいいきかせ、強いて微笑もうとしたが、昼日なか、虻の群が立てる細かい顫音のような軽い不安は、変らずに残って、追い払おうとすると、それはたちまち縺れ合いながら、いっせいに空へのぼり始めた。そして、そのあとに、不安の正体は初めて姿をあらわしたのである。
それは、ひどく奇妙な発見だったが、勝男は決して仔犬たちを見守っているのではなく、何か別なものに心を奪われているということであった。その眼は確かに、奥行のない犬屋の店の中に注がれていた。しかし、その空間には、裸電球がいくつか輝き、若い男がひとり退屈そうに店番をしているだけで、勝男の凝視を誘うようなものは何もない。いったい、この人は、何をそんなに見つめているんだろう。洋子はそういぶかしんで、何べんもその視線を追ってみたが、間違いはなかった。勝男は、何もない空間に気をとられて、こんなにも熱っぽいまばたきをくり返しているのだ。
その発見は、いかにも無気味だったので、ひどく洋子を怯えさせた。本当にそこには何もないのか。自分が気づこうとしないのは、気づきたくないからではないのか。そう胸の裡で問いつめてゆくうち、洋子には、もうひとつの新しい疑惑が生れた。この不安は、決して今日だけの経験ではないことに思い到ったのである。
それは、つい一と月ほど前の、初秋の暗い昼なかのことで、そのときにも同じ覚えがあった。曇り日の街はそのまま音を失い、幅ひろい裏通りを歩きながら、ふいに誰もいなくなったような気がしてふり返ると、勝男は、それまでそこにあるとも気づかなかった一軒のビリヤード店の前で立ちどまり、はにかんだ笑いを見せているのであった。子供が新しい玩具を見つけた時のようなそのそぶりは、ちょっとの間、この店に寄ってゆこうという意味に違いない。
――あなた、お出来になるの」
洋子も、同じように声には出さず、足をとめて訊き返したが、彼はもう先に立って、その暗い店の中に入ってしまっていた。
ビリヤードというのは、いくぶん上品な男の遊び、というぐらいの、漠然とした気持しかなかったのだが、小さな|城館《シャトオ》めく入口の構えもよかったし、何よりそれが魔法の店のように突然出現したことがおもしろくて、洋子もあとに続いた。かりにあとで洋子が、ひとりでこの店を探し廻ったとしても、おそらく決して見つからないだろうとさえ思われた。
しんかんと静まった店の中には、濃いグリーンの羅紗を張った大きな台が、三つ並んで横たわっていた。ひどく古めかしい木彫り模様が刻みこまれているその台は、まるで前世紀の巨大な獣が、長い眠りについたままそこに|蹲《うずく》まっているように見えた。窓べりの一台には、磨かれて光沢のいい紅と目の玉が散らばり、店の|主《あるじ》らしい若い男が、キューを手にひとりで黙々と突いていたが、二人が入ってゆくと、じきに顔をあげて、軽いこなしをみせた。
――いらっしゃいまし」
そして、お茶だけは運んできたけれども、洋子のほうは初めから無視したように、こう勝男にいった。
――おいくつ、おつきになります」
それに何と答えたかは、記憶にない。勝男はすぐ上衣を脱ぎ、壁際に並んで立てかけられたキューのうちから一本を選ぶと、その見知らぬ男と玉を突きはじめた。洋子は、諦めた思いで隅の革椅子に腰をおろすと、足を組んだ。
男は、白い仮面をつけたように無表情で、低い、しかしよく透る声で点を取っていた。自分で突くときも、数をいいながら狙いをさだめ、すべてにいんぎんなようすを崩さなかった。玉と玉の触れ合う音が、仄暗い店の中に響き、勝男は、彼にそんな勝負好きなところがあろうとは思ってもみなかったのだが、洋子のいることなどまったく忘れたように、熱心に体を屈め、キューをしごいた。羅紗の上に置く左手はしなやかに|撓《たわ》み、小指は美しく|反《そ》った。
冷えた心のまま、洋子は革椅子に坐り続けていた。眼の前を、二人は影と影のようにもつれ合い、行き交い、台の周りを靴音だけ響かせて廻っていた。生きているのは、羅紗の上を走る玉ばかりで、突き出されるキューの思いのまま、その白い象牙質の玉は、一瞬、体をのけぞらすように鋭い弧を描き、それから、いっさんに赤玉へ走り寄ってゆくのだった。
小さな棘のような苛立ちが洋子を捉えていた。自分勝手な遊びに耽っている男を見るのは、ふだんならばそれほど不愉快なものではなかったであろう。むしろ、寛やかに微笑して、砂場遊びに幼児を連れてきた保母のように待っていてやることも、あるいはたやすかった筈だが、革椅子の上で洋子の心に刺さったのは、彼らの左手の指の、あまりな美しさであった。
代る代る台の上におかれる白い指は、そのとき洋子には通じない黙契を果しているらしい。何かの暗号めいたもの、男たちの間でだけ通じる約束のようなもの。洋子は、ひとり自分の掌を打返して眺めながら、その暗号を知らぬ空しい指たちを憐れんだ。そればかりではない、仮面のように動かないと見えた男の口のはたには、ときどき皮肉めいた笑いが浮かんで、そのたびかすかな皺が鼻に寄ることに洋子は気がついていた。勝男が玉を取りそこねたときに限って浮かぶその笑いは、しかし嘲笑というのではなく、何事かの了解の合図のように思えた。
指と微笑。革椅子の上で、洋子は体を固くした。そのふたつが、肯き合うように取引されるのを見るのは、今日が初めてではないことに気がついたからである。こことよく似たところで、たしかに同じ経験をした、それもついこの間のことだ。苦い記憶が舌の上にのぼりはじめた。こことよく似たところ。それは、ここよりもいっそう暗く、さらに古めかしい科学博物館の中でだった。天井が高く、夏の盛りにも冷え冷えとして人の気配がないそこは、いま思えばいかにもビリヤードに似ていた。古風で、いくぶん上品めいていて、興味のない者にはやはり退屈な、別の小世界。二階、三階と昇ってゆくにつれ、靴音だけの静けさがいよいよ迫ってくる。
部屋は、どの部屋にも、しらじらとした硝子ばかりが光っていた。その中で薄くほこりをかぶっている鳥や獣たちの剥製を、勝男はゆっくりと見て廻った。いや、そのときも彼は、ただ見て廻るふりだけをしていたに違いない。というのは、その三階で、それまでどこにいたとも思えない人影が、急に近づいてきたからである。壁から湧いて出たという形容をそのままに、男は、足音も立てず、気配も感じさせずにあらわれ、勝男をみると、さもおどろいたように挨拶した。いかにも久闊を叙すといった顔で、ありふれた世間話を交し出す二人の傍らを、洋子はさりげなく離れた。
鼻のわきに目立って大きな|黒子《ほくろ》のある中年紳士で、半白の髪に櫛目の行きとどいた、さしあたり叔父さんとでもいう恰好だが、そんな人物とのつき合いを、勝男はこれまで一度も語ったことはない。二人は、いまここで、まったく偶然に行き合ったようなそぶりでいるが、初めから示し合せ、待ち合せていたことに疑いはない。というのは、洋子はわざと二人に背を向け、硝子ケースの中の、茶いろい硝子玉を眼に嵌めこんだ剥製の鳥を、余念なく眺めているふりをしていたのだが、その硝子ケースには、二人が寄り添って話をしている、もうひとつ別の硝子ケースが映っていて、二人の薬指が交互にそれに触れ、規則正しい|軽打《タベ》をくり返しているのに気づいたからである。
影の世界の、奇妙な合図。おそらく二人が口にしている会話のほうは、誰に聞かれてもいい変哲もないもので、たとえ洋子が傍にいたとしても、差支えなかったに違いない。いったい、何のために彼らは、スパイの秘密通信か、一と昔も前の党員のレポのような方法で連絡を取り合っているのだろう。その意図を考えると、洋子はみぶるいした。一度だけその意図をおぼろげに察した記憶が頭を掠めたからだった。いやだ、思い出したくない、とでもいうように、洋子は固く眼を瞑った。しかし、もうそれは、扉いちまい向うにいるというほどに近づいていて、いまにもその異様な貌をのぞかせるまでに迫っていた。もう一度眼をひらいて、ふだんに変らぬ後ろ肩を見せている勝男を硝子ケースの中に眺めた洋子は、そのとき、ふいに色のない焔が燃えあがりでもしたように、はっきりと彼を憎んだ。白昼の光の中でともされた、一本の蝋燭。眼にみえないその焔の舌は、洋子の心のはしをほんのかけらほど焼き、小さく爛れさせ、そしてたちまち全部にひろがった。それとともに洋子は、固く心に封じこめていた最後の記憶を甦らせたのだった。
この夏、火山の麓に設けた新しい山荘で、洋子は初めて勝男とベッドを倶にした。もともとその山荘も、ただ彼と、めくるめく夏を過すために建てたものだが、期待はすべて裏切られ、洋子に与えられたのは、苦い屈辱にすぎなかった。ベッドの上で、青年の裸身は、申し分のない逞しさを見せていながら、ついに一度も燃えることはなかったのである。
閉された窓の向う、漆黒の闇に塗りこめられた彼方に火山は姿を消したが、いわばその化身としての青年が洋子の傍らに横たわっていた。洋子はそのとどろきを待った。耳許に熱っぽく吹きつける噴煙を焦がれた。だがそれはいつまで経っても鳴動しない。じれったくなった洋子は、その繊い指をふるわせ、赤茶けた|山巓《さんてん》のガレを自分から辿った。右手はあわただしく左手を求め、どんな岩肌をも優しく愛撫した。洋子はいま、この火山に仕える巫女であり、やがて噴きあげる灼熱の熔岩に、他愛なくとろけ果てる筈であった。しかし、見かけだけ完壁をきわめた青年の裸身が、その内部にまったく火を持たず、ただの死灰にすぎないことを知るのは、それほど時間のかかることではなかった。
信じられない、という気持で、洋子は男の顔をのぞきこんだのだが、そのとき、まさに見たのである。男のほうも洋子を見返していた。そしてその眼にあるのは、何でこんなことをするのかという、非難とも、嫌悪ともつかぬ問いであった。不能者ではない不能者。初めから男女の営みというものを理解出来ないでいる、奇妙な生物がそこに寝ていた。それはむろん勝男の筈はない。ただいつのまにか勝男の肉体を藉りた、未知の宇宙生物にほかならなかった。
………………………………………………
再び、あたりいちめんにまつわる淡い雨の匂いに気づいて、洋子は歩みをとめた。
逆行する記憶。愛だとばかり錯覚していた信頼が最初にあった。そこにかすかな疑いが兆し不安が芽生え、それは怖れから憎悪に変った。とすれば、その果てにあるのは、当然『死』でなければならぬ。記憶はさかのぼって行止まりとなり、行為はそこから始まったわけだが、そんなことは、時計の針が左廻りに戻ってゆくのを見るように、いま洋子の心の中では、何の矛盾もなかった。洋子はもう三か月も前に、この奇妙な宇宙生物のひとりを自分の手で始末したことを、まったく忘れていたのである。
それにしても、いつから彼らはこの地球に侵入してきたのであろう。それも、男の肉体にだけ寄生し、陰微な眼くばせと指先の合図で交信し合って、いつの間にかこの地上に、女を除いた、男たちばかりの、影のような舞踏会を開こうとしているらしい。彼らの通信法は、博物館の白い指の動きでもそれと察しがついたが、一種のモールス符号めいたもので、とすればあの犬屋の店先でも、勝男は何もない空間を見つめていたわけではない。わたしは強いてそれに気づくまいとしたけれども、やはりあの店の奥に、退屈そうな見せかけで腰をかけていた仲間のひとりに、まばたきで信号を送っていたのだ。おそろしいことだが、その内容は、ここにいるこの連れの女、彼らの生存にとってはひどく邪魔なわたしを始末する相談だったに違いない。
とすると、あのビリヤードでは、どんな方法で具体的な通信ができたのだろうか。初めは台の上におく左手の美しさに見とれて、あれが何かの黙契だとばかり思っていたが、そんな単純なことではないらしい。なぜあの店の男が、ときどき鼻に皺を寄せて笑っていたのか、それが判りさえすれば。たちまち洋子の眼前には、緑の羅紗の上に散らばった紅白の玉が鮮かに|顕《た》った。そう、たしかあの男は、「おいくつおつきになります」といった。そして、手球が白赤に当ると二点、赤赤に当ると三点というふうに数えていたけれども、もしかしてそれが、モールス符号の短と長のようにおきかえられるとすれば、そして字と字の切れ目では、構える仕草にちょっと間をおきさえすれば、どんな会話でも可能なことにならないだろうか。
それに違いはない。二人はこのわたしの眼の前でゲームをしているように見せながら、その実、わたしを消す相談をしていたのだ。あの男の奇妙な微笑は、まさにその意味だった以上、もうぐずぐずしてはいられない。彼らは示し合せて、すぐにもわたしを掴まえにくるだろう。女をすべて抹殺して、男たちだけの倖せな地上を作るために。……
洋子の推察は当っていた。さっきから見え隠れにあとをつけていた二つの黒い影が、そのとき急に走り寄って、左右から腕をつかまえ、つづいて野太い声がこういった。
「宇沢洋子だね。木島勝男殺害容疑で逮捕する」
∴
「いやあ、てこずるなあ、あのアマには。完全にいかれてますよ、主任」
若い刑事は調室から戻ってくると、|店屋《てんや》物の丼の上に顔を伏せている警部へ、呆れ返ったようにいった。
「ヒンマガリのメンチリが若い男にいれあげたら、これがあいにくのホモで、女はお呼びじゃない。いいくらいに金を絞るだけなんでカッとなって|殺《や》ったってことは、友人たちの証言で判りきっているんだが、どうしても認めようとしないんですからね。宇宙人が侵入して、玉を突きながら秘密の通信をしただなんて、いやはや、近ごろは女までSFぐるいなんだから恐れいるよ。三か月も腐爛死体をおっ放っといて、いい度胸だァ。冬の前には山荘の管理人が水道をとめに入るのを知らなかったんだろうが、それも認めない。つい先月も一緒に犬屋の前を散歩した記憶があるの一点ばりで、男がホモだてえのが、よっぽどショックだったんでしょうねェ、可哀そうに」
それから、ふっと鼻に皺を寄せて笑った。
「われわれのこともグルだってきかないんですよ。なんでもあたしはどっかのビリヤードにいて、ガイシャと玉を突いたことがあるてえんで」
「わしも同じことをいわれたよ」
警部はようやく井から顔をあげた。
「わしとは博物館で会ったそうだ。が、しかし……」
鼻のわきの大きな黒子へやった手を、いつもの癖でテーブルの上において|軽打《タベ》しながら、警部は遠い記憶を探るような、奇妙な微笑を洩らした。
「そういわれてみると、たしかにどこかで見かけた気がしないでもないな」
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黒闇天女
堅く嵌めこまれた窓は、初冬の曇り空を直線に|截《き》った。その向うには数本の銀杏樹が黄色い炎をあげているばかりで、戸外にも室内にも、動くものは何もない。大理石のマントルピースに白熊の毛皮、農耕図を織り出したタペストリーに黒壇の大時計という調度は、格式張ってはいるが俗なもので、|星川《ほしかわ》家の昔を知っている|伊沢《いざわ》には、いまさらのことながら|為親《ためちか》がこの家にいたころの趣味のよさが懐かしまれた。
伊沢の父がこの家の主治医をしていたのは戦前までのことだが、そのころの星川家は、分家とはいいながら堂上方の血をひく由緒のあるもので、従兄弟にあたる本家の子爵は、大正の初めごろだかに、さる宮妃のペイジボーイをつとめたという。為親自身も赤ん坊のような皮膚をしてい、そう思ってみると、いかにも、縁飾りのついた紺ビロードの上衣や半ズボン、白い長沓下といういでたちで、官妃の裳裾を捧げ持つのが似合いそうな、貴公子のふぜいを残していた。
敗戦後いち早く爵位を返上した本家の没落はとめどもないものだったが、星川家のほうも、為親にとっては継母に当る|綾子《あやこ》|刀自《とじ》が坐り直さなければ、たぶん同じ運命を辿っていたことであろう。おそろしく利財の才に長けたこの女性は、公卿の末裔という|権高《けんだか》な美貌と態度を逆手にとって、戦前にもました資産を蓄えるのに成功したが、その代り為親と嫡男の|為弘《ためひろ》とは、疎開のため建てた|茅《ち》ヶ|崎《さき》の別邸に追いやられ、かつがつの手当をあてがわれて、不如意な親子ぐらしを続けている。もっとも、唯一の孫の為弘にだけは刀自も格別の愛着があって、伊沢を使者に何度か本宅へ呼び戻す工作が行われたが、そのたび、お祖母ちゃまは好きだけれどもという返事が届いた。伊沢にしても、明治・大正から続いているこの一家の確執を解くすべはなかったのである。
万事に荘重めかしたことの好きな綾子刀自は、広い客間を客との応接のためではなく、勿体ぶって客を待たせるために用いてきたが、今日は違っていた。いつもなら五つ紋のお召羽織か古風な被布を着こみ、冷厳な横顔を見せているひとが、ひどく怯えたようすで伊沢の前に腰をおろしている。もう八十歳近いというのに、最近の医師の診断では多少心臓と眼に衰えが来ているだけで、あと十年や十五年は息災に過されるでしょうと受け合ったくらいの、体も達者なら頭もいっそう冴えている刀自が、今朝あわただしく電話をかけてきた。得体の知れない品物が次つぎと届けられるので、すぐに来て謎ときをして欲しいということだったが、駆けつけてみて愕かされたのは、それらの品が茅ヶ崎にいる為弘からの贈り物だという点にあった。伊沢は、医師の業は継がなかったものの、史学研究所に籍をおく学究、というよりは雑学の徒なので、有職故実に明るく、まだ独身というせいもあって何かと重宝がられ、父の死後もよく星川家へ出入りしていたし、茅ヶ崎の別邸ではまた、為弘と撞球室に籠って、小半日、フランス大理石の玉台を囲んで過すというふうだったから、綾子刀自にしても、まず第一の相談相手に選んだのであろう。
ところでその贈り物というのは、この九月に最初の品が届き、まる一か月して次のが、そして今日、三つ目の品が来たのだという。それは刀自から見ると、いずれも信じられぬほど悪意と邪心に充ちたもので、口にいえないほど恐ろしい思いをしたとばかり繰返すので、伊沢はいいかげん|焦《じ》れていた。父の為親から何を吹込まれているにしろ、祖母と孫との間で、邪悪と呼ぶに足るほどのものを送りつける筈はないと思うのが常識である。
「それはもう、しんから恐うございました」
刀自は、いま一度その言葉を口にした。白い頬肉がこまかに痙攣し、その瞳は水いろの光を宿して怯えた。
「九月のわたくしの誕生日に、その小さな函が贈られてまいりましたの。為弘は子供の時分には、何かしら自分で見つけては贈り物をいたしてくれましたし、今度はまた、|吉野《よしの》の山奥にまで人をやって探させたという添え書もございましたから、喜んであけてみますと――まあ、何が入っていたとおぼし召す、あの、緑に|金斑《きんぶち》のある、|斑猫《はんみょう》という猛毒の昆虫だったんでございますよ。御存知でいらっしゃいましょう、わたくしどもの幼い時分には、触っただけで死ぬといわれておりましたほどのものを、何で手間暇かけて探したうえに送りつけてまいりましたのか、考えますと無気味で、無気味で……」
「ちょっとお待ち下さいよ」
伊沢は苦笑しながら遮った。
「そりゃしかし、悪意があってというわけじゃありませんでしょう。斑猫という、きれいな虫を掴まえたから、子供らしい気持でお祖母様に見せようという……。なんですよ、為弘君は、お小さいときにいつもなさっていたような、ごく軽い気持で……」
「とんでもございません」
刀自は、あからさまな非難の眼を向けて伊沢の言葉をふり払った。
「四つや五つの子供ならばともかく、あれももう廿三でございます。大学院にも通って、していいことと悪いことの区別は、ちゃんとついておりましょう。なんの、軽い気持でありますものか。ただ、どうしても合点が参りませんのは、為親のような根性曲りの父親と一緒におりますにせよ、あの気立ての優しい為弘が、なんでこんな恐ろしいことを思い立ちましたか、そこのところでございます。斑猫のような毒を送りつけるほどの才覚が、本当にあれひとりの胸から出ましたものかどうか、そこのところを……」
「その虫を、いまでもお持ちですか」
「まさか、あなた。すぐ|菊乃《きくの》に命じて、函ごと庭で燃やさせました。あんな猛毒のありますものを」
「ところが、斑猫は、ちっとも毒じゃないんですよ」
「は?」というふうにふり向けた水いろの眼をそのままに、伊沢は続けた。
「あれでございましょう、為弘君の送ってきましたのは、緑金色の、きれいな色をしておりましたでしょう」
「はい、もう見るからに毒々しい……」
「ですから安心なんですよ。あれは道しるべともいいましてね、山道などで歩いている先を、ふわっと道案内でもするように飛んでみせる、無害な虫ですよ。よく間違えられますが、毒のある方は、ツチハンミョウとかマメハンミョウという、色も黒や黄色の、地味なやつなんです。もっとも、その毒にしたって大したことはない、死ぬどころか、せいぜい軽い水ぶくれが出来るほどで……。あの為弘君が、何で大事なお祖母様にそんなことをしますものか。思いすごしですよ、それは」
「いいえ、気休めをおっしゃっていただかずともよろしゅうございます」
刀自は、かたくなにいいつのった。
「送りつけて参りましたのは、斑猫ばかりではございません。二つ目のものをごらんいただけば、わたくしの申します意味もお判りでしょう」
そういうと手をのばして、卓上のガラスの鈴をとり、いつもの冷厳な顔つきになって、小刻みに鳴らし立てた。
「およびでございますか」
たちまちドアの外に、可憐な声がした。菊乃である。この家の三人の使用人は、戦前さながらの厳格さで躾けられ、決して客間に入ることを許されない。先刻、レモンピールにジャムを添えたロシアティーを運んできたときも、刀自が自ら立って受取りに行くというふうで、菊乃ほどの愛くるしい娘が、いまどき珍しい女中奉公に甘んじているのは、むろん破格な給料にもよることだが、その三人は、いずれも伊沢が探し出し、因果を含めて住み込ませたもので、その点でも伊沢に対する信用は絶大な筈だった。
「あれを持っておいで」
そういっただけですぐ運ばれてきた|畳紙《たとう》包みを、自分でドアの外まで出て持ち帰ると、そそくさとテーブルの上いっぱいに拡げてみせた。
中から現われたのは、おそろしく時代のついた、黒の絵羽織であった。しかもその背から裾にかけては、蝋いろの、幽鬼めいた貌の老婆が、髑髏のついた杖を手に立っている奇怪な図柄が描かれている。さんばら髪に欠けた歯を剥き出しにした表情や、うつろに窪んだ眼窩は、ひどくおどろおどろしたもので、よほど名のある画家の手描きであろう、眺めていると、白昼といっても、八つ手の白い花のこぼれる音さえも聞えてきそうな、初冬の静けさがあらためて迫った。
「為弘が二度目に送って参りましたのが、これでございます。|河鍋《かわなべ》|暁斎《ぎょうさい》の|黒闇女《こくあんにょ》――。はい、わたくしなどが生れます前に描かせたものでございましょう。こちらの|義父《ちち》は大変な粋人でございましたから、明治の昔からこんなものを着て茶屋通いを致しましたにしても、それをいまさら、何のために送ってよこしましたものか、茅ヶ崎の倉の中に、疎開の荷物とともに入っていたという手紙はついておりましたけれども、斑猫に続いて黒闇女の絵羽織を送るというその神経を、どうお考え遊ばします」
畳紙を片寄せながら、綾子刀自はいささか切り口上めいていった。
「御承知でいらっしゃいましょうが、黒闇女と申しますのは、閻魔大王の妃で、いたるところに災いをもたらすと伝えられております。不吉な、凶々しいものを選んで送りつけて参ります為弘は、気が狂ったとしか思えませんけれども、本心は何を考えておりますものか、どうかお気づきのことを腹蔵なくおっしゃっていただきとう存じます」
伊沢は黙って絵羽織を見つめていた。梵名を|迦※[#「木偏+羅」、第4水準2-15-82]羅《かるら》|底哩《とり》という黒闇天女は、|大般《だいはつ》|涅槃経《ねはんぎょう》の南本に説かれているとおり、災禍をもたらす女神に違いない。或時功徳天来りて福徳を生ぜしめんとせし時、門外に更に一女あり、名を黒闇と称す、形容醜悪にして到る所損亡あらしむることを聞き、利刀を以て之を逐ひ出さんとす、乃ち我姉と共に去らんと告げて二女相伴ひて去りたることを云へり≠ニいうのがそのあらましだが、一名を黒夜天ともいって、もともと天部に属しているのだから、いわゆる閻魔大王の妃とするのは俗説で、この絵柄のように髑髏杖を持たせたり、見る目嗅ぐ鼻の策杖を添えたりするのは、後世の十王思想や、|倶生神《ぐしょうじん》の信仰が混同したせいであろう。
といって、いま、癇の昂ぶっている相手にそんな講釈をしたところで、慰めになるとも思えない。何かいわなければという焦りは、しかしそのとき、もう一度ドアの外から、
「お薬の時間でございます」
と声をかけた菊乃によって救われた。
刀自自身の考案になる漢方秘薬で、若さの秘密はこれにあるのかも知れない。蜂蜜をいれた薬湯をゆっくり啜り終えるのを見守っていた伊沢は、ようやく安心したように口をひらいた。
「これだってしかし、考えようによっては、倉の中を整理していたら珍しいものが出てきた、あ、これは|曽《ひい》お祖父様のものだから返しておかなくちゃという気持じゃないんでしょうか」
見えすいた慰めはききたくもないというふうに、相変らずそっぽを向いたままなので、伊沢は仕方なく続けた。
「それにしても、九、十、十一月と、続けて妙なものばかり送りつけてくるというのは、確かにおかしいですな。それで、きょうは何を届けてきたんでしょう」
刀自はもう一度卓上の鈴を鳴らし、最後の贈り物を持ってこさせた。新聞紙に幾重にもくるまれたそれは、ほどくにつれてたちまち紫いろの、特徴のある花の姿を現わした。毒草といっても、これ以上のものはないアコニット――古代でも中世でも、毒殺には欠かすことのできない|鳥兜《とりかぶと》の一束がそこに包まれていた。ことに毒成分の強い根には、丁寧に水苔がからませてあって、送り手の意図はもうそれだけで明らかといえた。
「や、これはヤマトリカブトですな」
伊沢は、何もいわれない先に、自分からいそいで喋り出した。
「これならばぼくもよく知っていますよ。学名は確か Aconitum japonicum (アコニツム・ヤポニクム)という筈ですが、日本ではさる学者が、|妙高《みょうこう》、|日高《ひだか》、|伊吹《いぶき》、|白山《はくさん》なんぞと、産地別にやたら細かく分類してしまったんで、いずれ整理し直さなくちゃならないと聞いています。いまがちょうど花季で、新しい子根を伸ばす時期なんで、ごらん下さい、この根の、これ、この母根のほうを|烏頭《うず》、ここから生えてくる子根のほうを|附子《ぶし》といって、たいへんな猛毒です。そうですな、中に含まれているアコニチンの三ミリから四ミリグラムで、まず人間はお陀仏でしょう」
「そこまでよく御存知でございましたら」
老刀自は皮肉にいった。
「為弘がどういう意図でこれを送って参りましたものか、あれがいま何を考えておりますものか、すっかり御説明いただけましょう。あれほど親しくおつきあいを願っているあなた様が、まさか御存知ない筈もございますまい」
「まんざら知らないこともありませんが」
伊沢は、へんににやにやしながら答えた。
「なんじゃありませんか、為弘君は、お祖母様がいつも漢方薬を煎じて召上っているのを承知していますから、それの足しにとでも思って自分で採集したんでしょう。烏頭や附子はよくお用いになると伺っていますが」
「はぐらかさずにお答えいただきとうございます」
思いもかけぬほど強い調子だった。
「この三つの贈り物が、為弘の胸から出たものではない、周りにそそのかされてしたことだぐらいは、わたくしにも察しのつくことでございます。もともと為親には何ひとつ遺してやる気はございませんから、今夜にでも早速遺言書を書き替えまして、遺留分さえ行かないように手を打ってやりますわ。ただわたくしの知りたいのは、財産のあらかたを譲るつもりでいた為弘までが、ほんの少しでも殺意を持ったのかどうか、そこのところでございますよ。どうもわたくしには、これがたちの悪い冗談だとは思えませんの。為親とも違うシテの軍師がいて、あれこれ指図致しておりますような気がいたしますけれど、お心当りはございませんでしょうかしら」
刀自の口許には、あきらかに揶揄するようないろが浮かんだ。それを眺めていると、なるほど為親が、継母ながらあれは女怪だとつねづね嘆じているのが肯けるように思えた。もう、教えてやってもいいころだろう。
「そのシテの軍師がこのぼくだといったら、お驚きになりますか」
「いいえ、ちっとも」
相手はしかし、眉も動かさずに答えた。
「薄々は察しておりましたもの」
「そうでしたか。すると、このヤマトリカブトの使い方も、お判りいただけたでしょうな」
「さあ、どうでしょうか」
まだ端然と姿勢を崩さずに、刀自は、まっすぐ伊沢の眼を見つめていた。しかし、それももう長いことではない筈だ。
「こういうことなんですよ。これが届いて、あなたが開いてごらんになった。それからいまこうしてぼくが拝見する前に、菊乃がこの根の二、三本を抜いておいた筈です。あの女はいずれぼくと結婚することになっているんでね、まちがいなく仕度はしたでしょう。その根を何に使ったかは、もうお判りですね。さっき召上った薬湯にいつもいれる附子は、わざわざ北海道から取寄せる毒性の少ないものだということは承知していますが、今日だけはそれが違うんです。なあに、これまでずっと召上ってきたんですから、医者も警察も蓄積作用だと思うこってしょう。かりに量を|秤《はか》り違えたといっても、罪にはなりません。呼吸中枢麻痺というのは、あんまり楽な死に方でもありませんが、少しばかり長生きされすぎた報いで、それも仕方ないですな。あなたはいつものとおりお薬を召上った。ただ今日に限って薬草の中に毒の成分が少しばかり多かったという寸法になるんです。おや、お顔が蒼ざめてきましたね。そろそろ効いてきてもいいころだから。……動機ですか、動機は簡単ですよ。今年の八月、敗戦二十五年目っていう日に、茅ヶ崎で三人で相談したんです。戦争が終って四半世紀経つというのに、まだ堂上華族の生き残りめいた姿さんが、何億もの財産を抱えて元気でいるってえのは間違いだろうってね。それも医者の診立てでは、あと十年も十五年も長生きされるそうで、それじゃあ我々の楽しみもそれだけ減るわけですからな。オヤ、お苦しいですか。なに、じきに済みますよ」
だが老刀自が顔を伏せて身をよじっているのは、苦しんでいるのではなかった。それどころか、くっくっと身悶えするほどに笑いこけていたのである。
「わたくしのことより、伊沢さん」
なおも笑い続けながら刀自はいった。それはひどく若やいだ、ほとんど嬌めかしいといってもいいくらいの声だった。
「あなた、口の中が、そろそろ痺れてきやしないこと? ねえ、さっきのロシアティーはいつもよりずうっと苦かったんじゃないかしら。長いこと漢方に親しんできたわたくしが、鳥兜の別名を継母の毒≠セというくらい存じないとお思いでしたら、ずいぶん迂闊じゃありませんか。それに、菊乃がどうとかおっしゃっていたけれど、いまどきの女は男より金を選ぶというふうには考えられないかどうか、さあ、この鈴を鳴らしてお訊きになってみたらいかがでしょう。何を変な顔をなさっているの? ああ、もう舌が縮んで、そろそろ息が出来ないからなのね。大丈夫、じきに済むって御自分でもおっしゃっていたくらいだから」
それは本当だった。咽喉を押えて、すさまじい苦悶の表情をあらわに立上った伊沢をめがけて、そのとき無作法にドアからよろけこんできたのは、御殿女中のように身仕舞した菊乃であった。何を飲んだのか、口のはたには血にまじって茶色い液体が流れ続けた。
「許して、許してちょうだい、伊沢さん。あたくしにはどうしても出来なかったの。どうしてもお薬をすりかえるなんてことは……」
二人は、白熊の毛皮の上に折重なって倒れ、咽喉や脇腹をかきむしりながら、長いあいだのた打ち廻っていたが、やがてすっかり動かなくなったのを見定めると、刀自は、水いろの眼をした黒闇女さながらの表情で立上って、三たび、ガラスの鈴を鳴らした。ドアの外に控えて用向きを伺う二人の女中に、権高にこう命じた。
「不義者を片づけておしまい」
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地下街
師走の一日、和風の|手妻《てづま》では名の聞えていた|旭日斎《きょくじつさい》|天花《てんか》の引退興行の通知が届いた。そのひとらしく趣向を凝らした|雲母《きらら》引きの案内状を手にしていると、久しい以前に楽屋を訪ねた折りの、濃い白粉の下に塗りこめられた皺ばんだ皮膚と、どこかへ誘われてゆきそうな眼の光とが、ひどく無気味だったことを思い出した。島田髷の娘姿で舞台を通し、日常の立居振舞まで女形のとりなりを崩すまいとするのは、芸人らしいといえばそうだが、間近く見ると、やはり老残の妖しさが先立つ。|高野《こうや》六十|那智《なち》八十といった|妍《なま》めかしさは、まだ若い芸能記者の|米倉《よねくら》にとって、到底理解できることではなかった。
名札のかかった楽屋の玄関で案内を乞うと、若い衆が出てきて膝を折りながら、「ただいま顔をしておりますので、少々お待ちを」といった。だいぶ待たせてから、またその男が、「ただいま通ります」と触れに来た。通りますというのは、何のことだか判らない。新米記者の米倉が、ただまごまごしていると、藤いろの長襦袢をしどけなく着て、二、三人の付人に囲まれながら現われたのは、トイレにでも行くのだろうか、いきなりそこへ三つ指を突くほどの腰のかがめようで、慇懃なこなしを見せながら姿を消した。米倉が部屋へ通されたのは、それが帰ってしばらくしてのことだから、写真一枚を借りに来ただけなのにと、いいかげんじりじりさせられたのだが、楽屋というものも初めてだったし、このひとが舞台では、せいぜいとって二十五、六という、あでやかな娘姿で通すのかという変身の不思議さに魅かれて我慢したのだった。ことにその帰り、奈落を通って客席へ抜ける楽屋廊下は、裸電球だけが点った長い地下道で、そのままどことも知れぬ世界に紛れてゆきそうな迷路に思え、束の間、異次元にさまよいこんだ思いに囚われた。
それから十数年が経つ。米倉はベテランの記者となったが、天花のほうは舞台を退いて久しい。古風な水芸や、切り紙の胡蝶の舞などが現代の色物席で通用する筈はないと思いこんでいたのは、こちらの認識不足で、テレビでも寄席でも出演交渉は後を絶たないが、天花自身が心霊術に凝り出し、どうしても霊界通信のメドがつくまではといい張って、交渉に応じないということだった。噂では任意の相手に催眠術をかけて|憑坐《よりまし》にするというのだが、フーディニほどの奇術師ならば、メスメリズムもネクロマンシイもふさわしいのだろうけれど、手妻使いと心霊科学がどう結びつくのか、それぎり気にもとめないでいたが、その研究がようやく実ったのであろうか、案内状にも大喜利に[#ここから割り注] 玄妙神秘 [#ここで割り注終わり]と|角書《つのがき》して、
降霊術【死者の呼び声】
としてあるのが眼についた。
死者の呼び声。
ふだんならば、それほど気をとめなかった言葉かも知れない。だが、つい半年ほど前に妻をなくしたばかりの米倉には、その一行が妙に心に沁みた。医者にもはっきりとは原因の掴めなかった全身衰弱で、ただ最後まで何事かを訴え続けるように、大きな哀しげな眼が見ひらかれていた。必死に見つめ続けて、ついに見つめ終らぬまま閉じられたその眼は、何をいいかけようとしていたのか、十万億土という言葉がふいに実感を伴って甦るほど、その隔たりの涯しなさは身に応えた。遠くへ去ったもの、二度と手に触れがたいものへの哀惜はあまりに痛切だったので、あり得ないと判ってはいても、死者からの呼びかけがもし可能ならという思いは、期待と怖れとがこもごもに身を責めてくる時期だったせいであろうか、案内状の一行は、思いもかけず米倉に、妻の|香織《かおり》の仄白い貌と、見ひらかれたままの眼とを、ありありと|顕《た》たせたのであった。
引退興行の会場は渋谷の劇場だったが、年末のことだし、久しく舞台を遠ざかっていた天花の名では、入りも知れているという予想を裏切って、花輪も盛大なら、ロビイにもあふれるほどの客がつめかけていた。受付に刺を通じて、第一部のあとの休憩時間に楽屋を訪ねることにし、顔見知りの誰彼と立話をしながら煙草を吸っていた米倉は、そのとき一人の、混血めいた美少女に眼を奪われた。思いきったカットを見せたイブニングは深いベージュだが、その背で軽やかにうねる銀のストールが鮮かな色の対比を見せている。濃い目の化粧は、稚な顔を隠そうとしてのことらしいが、それはかえって清純な初々しさを引立てるのに役立っていた。小学校のときの級長にあんな顔の子がいたなと米倉は思った。
「誰だい、あれゃ」
「ああ、天花の姪だ。御自慢の|娘《こ》だよ」
「やるのかい、これを」
米倉は巧みに吸いかけの煙草を指の間に隠顕させた。
「トリに死者の呼び声≠チてのがあるだろ。それに催眠術師として出る筈だ」
プログラムを繰って、旭日斎|天嬢《てんじょう》という芸名を見てとると、米倉は仲間から離れて、ひとり鉢植えのゴム樹の傍らに立った。こんな凛々しい顔の美少女が催眠術師というのも意外だったが、そうと聞くと、もっとよくその眼を眺めてみたいと思ったのである。それに、会場へ入るなり天嬢に気を取られたのは、必ずしもイブニングのせいではない、初めからすれ違いざまに向うが、あでやかな|盻《なが》し|眼《め》をくれていったからだった。それは芸人らしい媚というより、何かもう少し切実に語りかけるものを持っていた。果して、米倉が独りになったと知ると、天嬢は二度三度と前を行きすぎ、そのたびに黒く深い眸が、眼くばせめいたものを送ってくる。もとより今日が初めての出逢いで、マスカラや口紅に隠された素顔の見当もつかぬにしろ、これまで見かけたことがないのは確かだが、この少女が何事かを伝えたがっていることも、また確からしい。米倉は少年のような好奇心に胸をときめかせたが、そのとき第一部の開幕を告げるベルが鳴った。
∴
当然裏方へ廻ると思った天嬢は、しかしどうしたことか客席に入って、しかもその席は米倉から少し離れた斜め前なので、折角始まった演技のほうには、さっぱり身が入らなくなった。銀いろのストールの翳から、時おり先程のあの盻し眼が向けられるような気がしたからである。
舞台では、賛助出演の若手が次々に現われて、軽妙なスライハンドを見せていた。ステッキは一閃してハンカチになり、ハンカチは鳩になった。五色のテープや時計やコインがめまぐるしく掌の裡に出没し、白日の幻となって消えてゆくのを見ながら、米倉はいつか回想に耽った。米倉のとしでは、もとより|天一《てんいち》や|天勝《てんしょう》の全盛時代とは無縁だし、二代目天勝が日劇で見せた『魔術の秋』の娯しさも知らない。僅かに戦後帰国した|石田《いしだ》|天海《てんかい》の妙技に花やかな昔を偲ぶくらいのことだったが、そのせいか、仕掛の大きい魔術ショウより、手先の鮮かさだけで見せる小奇術に親しみを感じていた。それもこんな舞台でなく、このごろはさっぱり見かけなくなったけれども、空っ風の吹く駅前などで、うらぶれて客集めをしている街頭の手品師がひどく気に入って、倦かずその傍に立ちつくした。
骨立った指が色鮮かなトランプを扇にひらき、指先の一めぐりでまたこともなく閉じるうちに、そのカードは次第に生き物めいて身をくねらせる。用心しながら、おずおずと客の抜いた一枚は、たちまち束の中から|迫《せ》り上ったり、別の客の上衣の裾から取出されたりする。煙草や銅貨の他愛もない出没は、いずれも種を知って見倦きている筈だのに、それがなぜこんなにも胸をときめかせるのか、米倉はいつも、つとめて無表情に、むしろ冷淡なふうを装いながら、手品師を囲む人垣のうしろに佇むのを好んだ。
一通り客寄せの芸を見せ終って、さて種を売る段になると、集った人々はすぐわらわらと風の中に散ってしまうのだが、そうなったときでも米倉は、帽子の廂をこころもち深く引下げるような気持で、少し離れたところに立止り、手品師のいくぶん哀しそうな表情を|窃《ぬす》み見した。つい、いまのいままで、得意げな微笑を浮かべ、シルクハットに燕尾服さえ似合いそうに颯爽としていたこの男が、いまは何という憐れな、寒々しい様子で立っていることだろう。着ている服もひどく見すぼらしげに、木枯しめいた風の中にひとりぼっちで唇を噛みしめている、これは遠いところから来た旅人だ。そして同時に、他ならぬこの俺なんだ。……
米倉は感傷から醒めた。舞台では白いタキシードの青年奇術師が、きりもない数の白兎を、手を虚空にひらめかすたびに取り出し終って、いまちょうど引込むところだった。プログラムでは、この次が第一部の|切《きり》で、天花お名残の水芸だが、そのときふっと天嬢の立上るのに気づいたからだった。いかにもさりげなく人をわけて、ドアの向うに消えようとする一瞬、美少女の謎めいた微笑が、あきらかに米倉へ向けて残された。
皆と同じように拍手をしながら、米倉もつとめて何気ないふうに立上った。あとはかまわず天嬢の姿を消したドアへ突進した。絨緞を敷きつめたロビイの廊下には人影がなかったが、その外れで、チラとベージュの色が動いたようだった。米倉は小走りに後を追った。突当りがトイレで、天嬢はその右にある扉の中に消えたらしい。勢いこんでそこへ飛びこんだ米倉は、たちまちぐったりと倒れかかってきた天嬢の、引緊った肉の感触を手のうちに受けとめなければならなかった。すぐ眼の前に、喘ぐように小さくあげられた朱唇と、深い怯えを秘めた黒い眸とがあった。その眸は活き活きと動いて、米倉を見つめ続けたが、次の瞬間、天嬢は少年のような身軽さで体をひるがえし、呀と思う間もなく走り去った。
「君」
ふいに腕の中から失われた花束の重さに、米倉はよろけた。眼の前にはなだらかな傾斜で降ってゆく別な廊下が、しんかんと続いている。その外れの曲り角に、銀のストールが吸いこまれた。靴音を響かせて米倉が追ってゆくと、折れ曲った廊下はどこまでも続いて、ただその曲り角ごとに、あたかもチェシャア猫のように謎めいた微笑だけが残されているのだった。廊下はしだいに奈落へ近づいてゆくらしい。初めて天花の楽屋を訪ねたときと同じで、ここは異次元の空間に続いているのかも知れない。未知の地下街がこの先にあって、地上とはまったく別な世界が営まれているのかも知れない。漂うように米倉は走り続けた。
とうとう追いつめた。行き止りになった廊下の外れのドアの前で、天嬢は力つきたらしく、再び米倉の腕の中に抱かれた。気を失ったのだろうか、閉じた瞼は蒼みをおびて痙攣し、細い腰も、少年めいて薄い胸も、すべてぐったりと米倉に預けられていた。柔らかい|項《うなじ》を抱え起すようにして、小さな朱唇へ心をこめたペーゼを捺し続けていると、天嬢は再びくろぐろと濡れた眸を見ひらいた。つくづくというふうに米倉の顔を眺め、それから耳許へ唇を寄せるようにして、こう囁いた。
「あたくしを殺して欲しいの。奥さんと同じように」
∴
見つめ続ける天嬢の眼は、そのまま妻の香織に変った。それも一瞬で、その奥から二重映しに透けて覗いているのは、まぎれもなく白粉で塗り固められた天花の顔だった。
「待ち給え、君」
それは、声にはならなかった。身をひるがえしてドアの向うに消えた天嬢へのばした手は、ただ銀のストールの端を掴み、それだけが手の中に残った。
ドアをひらいて中に一歩踏みこんだ米倉は、思わず息をのんで立ちつくした。部屋の中には天嬢の生首だけが宙に浮いて、自在に走り廻っていたからだった。天井も壁も床も、窓いちめんのカーテンも、すべて天嬢の着ているイブニングと同じベージュで飾り立てられているせいで、黒幕の前で骸骨のバラバラ踊りを見せる奇術をそのままに、深いベージュの海の中に、天嬢の首と両腕と脚とが、それぞれ別な生物めいて、勝手に揺れ動き、狂い廻っていた。その首は、半ば愛らしく、半ば揶揄するように米倉へ笑いかけ、白い両腕が宙吊りになって手招きするのを呆然と眺めているうちに、それらは急速に一箇所へ集り、たちまちベージュの海の中に吸いこまれて見えなくなった。
その空間へ、米倉は力をこめて体当りした。案の定、そこは隠しドアで、よろけこんだ次の部屋は、まるで殺風景な、がらんどうだった。二、三の椅子と、三本脚の丸テーブルが置かれているだけで、天嬢の姿はどこにもない。姿が消えた一瞬後には、米倉もここへ飛びこんだのだから、向うに見えているもう一つのドアまでは絶対に行きつける筈もないし、どこに隠れる場所もないのに、天嬢はそこで、みごとに消失したのである。
米倉は、うなだれた。「奥さんのように殺して」という囁きが、耳に痛く甦った。身に覚えのないことでありながら、やはりそうだったのかという思いがし、臨終のときまで見つめ続けて見つめ終らなかった香織の眼が、何を訴えようとしたのか、いまようやく理解できる気がしたからであった。とすれば、最後に残った向うのドアは、そのまま刑場につながっていても不思議はない。覚悟をきめて歩み寄ると、ドアをひらいた。それを後ろ手に閉めるとき、しまった、いまの丸テーブルは、サロメの卓といわれる鏡張りのもので、天嬢はあの陰にかくれていたに違いないという思いがチラと頭を掠めたが、それはもうどうでもいいことだった。
強烈な白色光が正面から米倉を捉えた。予期していたように、そこは舞台の真中で、もうそこでは最後の番組の降霊術が始まっていた。口上を述べ立てながら、肩衣姿の天花は米倉の手をとって椅子に腰をおろさせ、一段と声を張りあげた。
「早々のお越し、ありがとう存じまする。さあて、只今申し述べましたる如く、ここにお出でのお客様は正真正銘、さる大新聞の幹部ともいうべき方、お名前はお預り致しますなれど、斯界ではそれと知られた先達の記者先生にござりまする。このお方の口を通じて、いかなる霊が天降りますか、皆様もお待ちかね、早速呼出しにかかりますれば、しばらく御静粛に願い上げ奉ります」
再び天花の、ひどく冷たい手が触れた。しかし米倉は、深い睡気に襲われて、もう頭を上げることも出来なかった。人前で心を裸にされてゆく羞恥心も失せていた。あのロビイで天嬢に催眠術をかけられたんだなということは判ったが、それよりも無辺際の空間を超えて香織が顕われ、その死の真相を語ってくれることのほうが待遠しかった。
重く頭を垂れた米倉の口から、氷の風が吹きぬけるような、きれぎれに甲高い女の声が洩れ始めた。
「わたくし、香織。妻でございます」
「歿くなられた方ですね。いつごろでした」
「半年ほど、前でございます」
「御病気ですか」
「いいえ、殺されたのでございます」
「殺された、誰にです」
「夫に……。ここにいるこの夫に殺されたのでございます」
「どんなふうに」
「…………」
「さあ、どんなふうに殺されたか、おっしゃってごらんなさい」
深い沈黙に包まれた観客席から、突然、一人の男が躍り上った。|濁《だみ》声で怒号した。
「やめろ、たったいまやめるんだ」
立上って叫んでいるのは、まぎれもないもう一人の米倉自身だった。だが奇妙なことに、固唾をのんで沈黙している観客たちや、残忍なまでに眼を輝かせている術者の天花には、腕をふり廻しているその男の姿も声も届かないらしい。舞台の女の声は、ためらいながら続いた。
「少しずつ毒を飲まされましたの。でも、わたくし、それが毒だということを、よく知っておりました。ですから、ちっとも夫を恨んではおりませんわ。いいえ、あんなものを飲ませられるより、ひと思いに夫の手で首をしめられたら、どんなに倖せだったでしょう。わたくし、それがいいたくて、けんめいに眼で合図したのでございますけれど、とうとう判ってもらえませんでした……」
観客席で立上った米倉は、その声をきくと、全身の力が抜けたように、また椅子へ腰をおとした。そうなのだ、医者にさえ理由の判らぬ全身衰弱で、刻々に病み衰えてゆく妻を見守っている間、俺はどんなにかこれが自分の手で企んだ殺人だったらと思い続けたことだろう。眼に見えぬ病魔にむざむざと生命を奪われるのを、手を束ねて眺めているより、そのほうがどれだけ愛の証しになるか知れない。その思いは、香織にもまた伝わった。妻は、朝晩の薬餌を、夫の手から与えられる甘美な毒薬だと錯覚して死んだのだ。それでもやはり、まだ不安で、自分の咽喉をたしかに締めつけてくれる愛の手を欲しがっていたに違いない。見つめ続けて、ついに見つめ終らなかったあの眼の訴えは、全身をふるわせて俺を愛していると叫ぶ代りのものだった。……
∴
触れこみほどにもなく、ありきたりのサクラを使ったと覚しい降霊術が終りを告げて、場内が一斉に明るくなったとき、半ば昏睡状態でいる一人の中年男が客席で発見された。だが彼の口の周りには、みるからに倖せそうなほほえみが浮かんでいた。それは、心の地下街をへめぐって、ようやく死者の愛を確かめ得た者の、満足しきった表情であった。
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チッペンデールの寝台
もしくはロココふうな友情について
|白坂《しらさか》|三郎《さぶろう》がニューヨークのクーパーユニオンで家具のデザインを学んだのは、もう十年以上も前のことだが、日本へ帰ってからもいっこう店を持つ気がなく、|上野毛《かみのげ》の工房に引籠ったなりでいるのは、一種の名人気質によるものだろうが、その仕事がおよそ当世風でないこともまた確かなので、ひとつひとつが入念に仕上げられた美術品を創り出すほか、さしあたって関心もないらしい。
もともと彼がめざしていたのは、チッペンデール系統のシノワズリーを現代に生かしたものだったから、一七五四年に出た Gentleman and Cabinet-maker's Director は、いわば彼にとっての聖書なので、アメリカにいた時分、その仕様書どおりに贅を尽して仕上げた寝台は、そのまま分解して日本に送られ、工房の奥に神殿さながらの勿体ぶったようすで飾られていた。こればかりは誰が何をいおうと譲ろうとしない。おそらく白坂にとっては、彼の美しい女房よりも大事なんだろうというくらいのものだった。
だいたい白坂の作品は、|飛騨《ひだ》ものとはまた趣きが違って、猫脚が美しく反った椅子ひとつにしても、材はカナダのマホガニー、表張りは中国産の緞子、詰め物は鴨の胸毛というふうだから、少数の顧客が、おとなしく順番にその仕上りを待つより仕方ないのだが、このごろはそれが|織原《おりはら》|衡平《こうへい》の独占めいてきていた。秋に建てた|下田《しもだ》の別邸は、壁張りから床組みまで、すべて白坂の家具に合せるという念の入れようで、組物のあらかたは仕上って運びこまれたが、あとひとつ、ローボーイふうのキャビネットが遅れているのに|焦《じ》れたものか、織原は何かというと車を駆って、|世田谷《せたがや》の奥まで催促に出向いた。それが近頃では、白坂が旅行で不在と判っているときにも訪れるので、やはりあれは女房を口説くのが半分の目的だろうと噂されていた。
白坂の妻の|未央《みお》は、誰が見ても猫のような美人というのが一致した意見で、歩くときにまるで音を立てない。めったにものをいわない。大きな眼がキャッツアイめいて光り、好んで着ているシナ服の腰のくびれが、いやでも視線をあつめた。中年以上の男には、その服を見ただけで、曲馬団に誘拐された少女とか、身売りされた花売娘とか、|太馬路《タマロ》の闇に咲く妖しい花といった、勝手な空想が湧くものらしい。織原には人の持物なら何でも欲しくなる悪癖があるけれども、金の力を過信しなければいいというのが、友人たちの一致した意見だった。
だが肝心の白坂のほうでは、一度でも嫉妬めいたそぶりを見せたことがない。繊原は有力なパトロンに違いないが、それ以上に自分の芸術のこよない理解者だと信じているらしく、下田の別邸をそのまま白坂美術館にするほどの意気ごみで、壁紙から絨緞までの細かい世話を焼き、織原が訪ねてくるといつまでも引留めて、イタリアへ実習に行ったころの勉強ぶりなどを聞かせた。未央はその間中、繻子の上靴の爪先を揃え、つつましく耳を傾けたり、上手に紅茶を淹れたりした。
例のキャビネット――丈の低い、ひとつだけドロワーズのついた飾り棚が、いよいよ仕上げに入るから、その前にちょっと来て欲しいという電話があったのは、クリスマスもほど近いころのことで、工房に続く庭もすっかりすがれ、樹木がへんにおし黙ったまま立っている、暗い季節だった。
「やあ、すまないなあ。壁の塗り変えをしなくちゃと思ってね。きょうは散らかったままでかんべんしてくれないか」
仕事着のままの白坂に通された工房は、いちめんビニールシートを敷きつめてあって、御自慢の寝台も今日ばかりは天蓋が外され、これもきっちりとビニールに包まれている。仕事の性質上、暖房には手をかけているので、室内は蒸しばむほどだった。
「何をまた思い立ったんだい」
そういいながらスリッパに穿きかえ、いつも坐ると決めている明朝スタイルの木椅子におちつくと、織原はいくぶん不安そうにあたりを見廻した。
「奥さんは?」
「ああ、|鏨《たがね》屋へ行って貰った。キャビネットの把手がね、どうもうまくないんだ。もうじき一緒に帰ってくるよ。紅茶でも淹れようか」
「いいよ、自分でやる」
未央がいないときはいつもするように、出し放しのポットに湯を注いでいる織原へ、仕事の話をし出すときに見せる、楽しい予測をあれこれとめぐらしている微笑を浮かべて、白坂がいった。
「これで今日キャビネットがいいということになりゃ、一通り仕事は終るわけだけど、いいかげん遅れて君にも迷惑をかけたからね、小さいものだけどクリスマスのプレゼントに、鏡を別に作って贈ろうと思うんだが……」
「鏡だって?」
織原は狂喜した声をあげた。
「本当か、おい。オレも実はどうしたって頼みたかったんだけど、こんところずっと君を独占しちゃったもんな。とってもいい出せなかったんだよ、迷惑だと思って」
「迷惑はこっちのことさ。どうも考えてみると、あの部屋も壁掛け鏡がないとしまらない感じだし、君はどっちかといえば純正なロココ派だからな」
鷹揚に笑っている白坂の顔を見ながら、チッ、何というお人好しだと織原は思った。まあ芸術家というのはこうしたものだろうし、オレも相応以上の金を払っているんだから、当り前といえば当り前だと考えながら、ふと白坂が旨そうに飲んでいる、湯気の立つ飲み物に眼をとめた。織原が淹れた紅茶には手をつけず、工房に続くキチネットに立って自分で持ってきたものだが、何の薬草を煎じたのか、爽やかな香りが鼻を|撲《う》った。
「何を飲んでるんだい、今日は」
「これかい」
白坂は、少しはにかんだように笑った。
「天雄散さ。きんぽうげ科の薬草を一時間ほどとろ火で煮てね、それを漉してから今度は蜂蜜をいれて五分ほど煮たものなんだ」
「へえ、何に利くんだい」
返事の代りに白坂は、本当に顔をあからめ、左手をパッとひらいてみせた。
「強精剤か。お安くないな」
「いやあ、恥ずかしい話だけどね」
カップをテーブルにおくと、口を拭いながら、
「ぼくのように坐業を続けていると、てんで衰えるものらしいよ。ところが未央はあのとおりまだ女盛りだろう。いくら何でも気の毒だから……」
「で、そいつは利くのかい」
織原は、はっきり生唾を飲みこみながら尋ねた。
「利くの何のって、利きすぎて困るくらいさ」
「ふうん」
残り少なくなった白坂のカップを、さも羨ましそうに覗きこんでいる織原の顔に、思わず笑い出しながら、
「飲んでみるかい。まだ少しなら残ってるけど」
「ああ、一杯くれ」
こんな男が強精剤を飲んで、未央の美しい腰にまつわりつくくらいなら、オレのほうがよっぽど資格があるというものだろう。もっともオレは、そんなものを飲まなくったって、いつでも未央をのけぞらしてはいるわけだが……。
「なんだ、ばかに甘いんだな」
キチネットに立って持ってきた、沸かしざましらしい湯気をあげている鍋から、とろとろの溶液をカップに注いでもらうと、織原は用心しいしい口をつけていたが、漢方秘薬の強精剤というのが魅力だったのか、とうとう最後まで飲み干してしまった。
「皮肉に聞えたら困るんだが……」
黙ってその口許を見つめていた白坂は、やはりはにかんだようにいった。
「ぼくのように仕事一点張りで、体も弱い男に、よく未央が我慢していると思ってね。その意味では君がときどきあれを楽しましてくれるのは、ほんとうに皮肉でなく、ありがたいと思ってるんだよ」
あくまでも穏かないい方なので、織原は照れたように笑いかけたが、それはうまく笑い顔にならなかった。どこかが痺れかけているような不安が襲った。
「ああ君。口の中が渇いてきたんじゃないのかい。誰でも初めはそうなるっていうよ」
そういいながら白坂は、何のつもりか、ドアのところへ行って鍵をかけている。しかし織原の眼には、それがひどく遠いところの風景のような気がした。
白坂の奴こそ、どうかしたんじゃないのか、と、まだチラとそんなことを考えた、というのは、戻ってくる白坂の姿が、へんに伸び縮みして前後に揺れているように思えたからである。
「あ、立上っちゃダメだよ」
白坂が揺れながらそんなことをいっている。唇と咽喉とがひどく渇いて、織原はなんべんも舌なめずりした。
「耳だけはちゃんと聞えるだろう? 実はね、天雄散をあげてもよかったんだけれど、きんぽうげ科といっても、それに使う薬草は|鳥兜《とりかぶと》という猛毒だから、うっかり処方をまちがえてコロリと死なれちゃ大変だと思って、やめにしたんだよ。判るかい、ぼくの飲んでいたのは、ただの蜂蜜湯に香りと色をつけたものでね、漢方薬なんかじゃなかったのさ」
白坂はまだそんなことをいっていた。織原にはそれが、うっかり彼自身の薬の処方をまちがえたための|囈言《うわごと》のように思えたのだが、それはやはり違っていた。
「何とかして君には、ベラドンナの実を御馳走したかったんだよ。知っているだろう、アトローパ・ベラドンナ。死の女神の花さ。なにしろ君は、どっちかといえば純正なロココ派だからね」
白坂は、一語一語をゆっくり、織原の耳の底へ届くように喋り続けた。
「ところがね、ベラドンナはどうしても手に入らないんで、日本産のハシリドコロで間に合せることにしたのさ。|莨※[#「くさかんむり/宕」、第3水準1-91-03]根《ろうとこん》という根にベラドンナと同じ毒があってね、これを煎じて飲むと気違いみたいに走り廻るからハシリドコロっていうんだ。人ヲシテ狂惑、鬼ヲ見セシムって古い本にも書いてあるから、ここにいてどんなふうになるのか、見ていてあげるよ」
そういうと白坂は、深い吐息をついた。
「さっきもいったけど、君が未央を誘惑したことは、ぼくは何とも思やしないんだ。女房をどうされたって、ぼくは平気さ。だが、君はあの寝台を使ったね、あの聖なる神殿を。あれを汚された以上は、どうしてもぼくには許すわけにはいかないのさ」
そういってチッペンデールの寝台を指さしている白坂の姿が眼に映じたとき、さしも鈍い織原も、自分が何をされたのか、白坂が何を怒っているのか、ようやく理解したのだった。そればかりではない、皮膚に赤斑を浮かべ、瞳孔をひらき放しにして、説明どおり工房の中を狂い廻りながらも、吐き散らす血反吐で、少しでもチッペンデールの寝台を汚さないよう、あらかじめ床いちめんにビニールシートを敷いた白坂の行届いた友情に、かすかな感謝さえ覚えたほどであった。
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セザーレの悪夢
流薔園の窓という窓を鳴らして、激しい|虎落《もがり》笛が吹き荒れていたのが嘘のように、穏かな正月だった。空いちめん、砥ぎ澄まされた水いろのシーツをたらし、その向うに切り立った氷山が迫りでもしているような季節は早くも遠のいて、春ふたたびの思いに浸れる日も遠くはないらしい。風はまだ少しあるが、それもいずれは|雲雀《ひばり》|東風《ごち》から|貝寄風《かいよせ》という、春の先がけに変ってゆくのであろう。
院長室で、お|屠蘇《とそ》代りのベルモットのグラスを手にしながら、私はつくづくと流薔園主人の顔を眺めていた。五十歳はとうに過ぎている筈だが、頬髯も妙にくろぐろとし、皮膚もまだ光沢を失っていない。ひょっとすると二十代の青年が白衣を着こんで変装しているような気がしてくるのは思いすごしというものだろうが、どことなく精巧をきわめたアンドロイドと向き合っている感じが異様であった。
E・A・ポオの譚になぞらえるまでもない、この院長も患者のひとりで、とうから気が狂っているとするなら――。きょうはひとつ、この院長自身の話を訊き出してやろうという初めからのつもりが、早くも相手に伝わったのか、なかなか誘いにのってこない。ほんぞらと暖かい初春の陽ざしの中で、長い沈黙が続き、私はようやく院長の身許洗いを諦めて、こう訊いた。
「いままで伺ったここの患者たちというのは、だいたい何らかの事件を起した人でしたよね。つまり、みんなある物語の主人公といった形ですが、そうでないケースだって多いわけでしょう? たとえば、どういう理由で発狂したのか、その妄想の原因が皆目判らないといったような」
これまでお伝えしたように、流薔園の住人たちは、継母を黒闇天女の再来だと信じて怯えている老人だとか、あるいは日がな一日、病院内のビリヤード室で紅白の玉を撞いて宇宙人の信号を研究している女性とか、さらには善良な市民たちを道づれにした後悔のあまり、その乗客ひとりひとりが恐るべき殺人者だったと思いこみ、その計画を綿々と訴え続けるバスの運転手とかいうように、何らかの物語がからんでいる場合が多いけれども、妄想というのは本来もっととりとめもないものだから、まとまった話のていをなさないほうが当り前であろう。しかもそれが、必ずしも次元が低いとはいえない筈である。
「それはそうですね」
院長はすぐに肯いた。
「そちらのケースのほうが、ずっと多いでしょう。専門的にいうと、|Wahnwahrnehmung《ヴァーンヴァールネームンク》、妄想知覚には独特の意味づけが必要ですが、|Wahneinfall《ヴァーンアインファール》、妄想着想となると理由なぞいらない。いま、うちにも苦悶者≠ニ名づけている患者がいますが、これなぞもその一人かも知れません」
「苦悶者ですか」
私は、何となく、へらへら笑った。
「何だか、いつも胸でもかきむしっているような感じですね。GNP第二位の日本が、公害だらけなのに悩んでいるってとこですか」
「うちの患者に、そういう人がいると思いますか」
声は冷静だったが、いつになく険しく院長は私の軽薄さをたしなめた。
「むろん、彼にとっては、どんなことでも身を切られるような痛みに変ってしまうので、いわゆる正常人から見ればつまらない、些細なことでも、とうてい堪えがたいらしいんです。それが発狂の直接の原因だとも思えませんが、つけていた日記の最後を見ると、文房具店なんかで売っている地球儀ですね、あれが金属製でなく、ビニールに変ったことがあるらしくて、もう二度と冷たく青い金属の海が見られもしなければ手に触れることも出来ないと思いこんでからのことらしい。現在ではプラスチックの詰め物に金属を張ったのがほとんどのようですから、早とちりといえばそうですけれども、何となく判るような気がしませんか」
いかにも、金属の海や半島の代りに、ブヨブヨと頼りなくへこむビニール出来の地球儀しか売られていないということに、激しい絶望を感じて心をとざしてしまうほどのひとがいるならそれは、確かに苦悶者≠ニ呼ばれるにふさわしいかも知れない。ことに、院長がファイルから取出して見せてくれたその男の日記には、毎日の通勤途上に小暗いピアノ店があって、店の男が舗道の上に黒い|竪《たて》型ピアノを持出し、朝からそれの解体に取りかかっていたことが記されている。昼休みに見ると、それは半ば形を失い、やがて夕方、ピアノは溶け終ったように残骸をさらして、折柄、ほこりっぽい空に遠々と浮かんだアドバルーンを不安に眺めているうち、唐突に地球儀さえビニールに変ってしまったという思いに心を捉われたらしい。そのとき、その男の憂鬱の水甕は、ひたひたと一杯に充たされたものであろう。
「もう、四、五年前でしたか」
私はいくぶん沈んだ口調でいった。
「これとは一緒にならないかも知れないけれど、会社の同僚から二万五千円だかを借りて、道で出逢う人ごとにポケットに金を押しこみ、借金を返すんだから受取ってくれといってきかなかった若い男がいましたね。何て哀しい発狂の仕方だろうと思ったけど、これもただ気が小さいというだけで片付けられてしまうんでしょうか」
「そうでした。新聞にも出ていました」
院長もわずかにほほえんだ。
「罪業妄想も、そのうちだんだんと個人的なものでなく、痛みを忘れた他の人たちの身代りをつとめるケースが多くなるでしょう。しかし、うちにだってなかなか気丈なのもいますよ。これは水死人≠ニ名づけられていたひとですが、右手を固く握りしめて、決してあけようとしない。なんでも掌の中に白い時間というやつを掴まえたんだそうで、強直したまんま、もう本人の意志でもどうにもならないんですね。白い時間なんていうからには、どうせ何も握りしめていないことは確かですが、てんかんの発作とも違うんで厄介なことになった。ところが、これはうちでも稀れな例ですが、やはり患者のひとりが作った詩のようなものを何度か読んできかせるうち、それがアリババの呪文でも唱えたように、突然利いて、いきなりぱっと掌がひらかれた。本人もまるで憑き物が落ちたような顔でしたが、それぎり癒って退院してゆきましたよ。これがその『水死人』という題の詩ですが」
そういって差出された紙片には、次のような三聨の詩が記されていた。
[#ここから2字下げ]
このてのひらをわれはひらく
固き指のひとつひとつ
握りしむる『無』を見んとして
指の間に
抱かるる記憶の相の白き深さ
秘めつつも漂える時の長かりし
ことごとく放ち了え
死顔に微笑浮ぶ束の間
遂にこの冒し難き腐肉を離るる魚の群
[#ここで字下げ終わり]
そういうこともあり得るのかどうか、素人には判断のつかぬまま、なるほど、という顔で紙片を眺めている私に、院長は、ベルモットにうっすらと染まった笑顔を向けた。
「こういう連中の話をし出すときりもありませんが、もうひとり、御紹介しておきましょうか。眠り男≠ニいう呼び名で……」
「眠り男? まるで『カリガリ博士』ですね。やはり夢遊病者なんですか」
思わずそう聞き返したのは、とっさにあの古いドイツ映画の、黒タイツに身を固めたコンラット・ファイトの姿体を思い出したからであった。眠り男セザーレが届けられてきたときのカリガリ博士のあの喜びようは、いったい何を現わしていたのだろう。
「いやいや、そんな犯罪に関係のあるような話じゃないんです。インシュリンのショックで昏睡しているわけでもない。むしろ眠ることを極度におそれているんで、眠り男≠ニいうのは、願望と期待をこめた呼び名というわけです。それというのが、眠るたび決まってひどい悪夢に悩まされるからなんですね。私も何とか原因を掴みたいと思って、夢のひとつひとつを克明に記録しているのですが、やっぱり判らない。内臓の精密検査も何回かやりましたが、駄目でした。本人は衰弱する一方で、そのくせ悪夢のほうだけはいよいよ毒々しく色彩が強くなってゆくんですね。まあこれなどは最近の中では比較的おとなしいほうですが」
綴じたファイルごと、そのうちの一ページを開いて渡されたのを見ると、びっしりしたペン字が読みにくいほどに並んで、夢魔にとりつかれた男の苦痛をありのまま伝えてくるようであった。夢のならいで、前後の関連も時間の経過も支離滅裂だが、示された日付のところには、長い長い滑り台の上をゆっくりとすべり降りてゆきながら、紫いろの皮膚をした印度人の首を何とかして絞めようとする執拗な格闘のありさまが、くだくだしいまでに述べられていた。滑り台のうしろには、遠い花火が打上げられ、当人は印度人の首に五色の紙テープを巻きつけて殺そうとするのだが、もとより相手は口から泡を吹くようにして拒み続ける。紫いろの皮膚にも部厚い唇の上にも白い粉が噴き、首にからんだ水いろや赤のテープが異様に美しい。
「むろん当人は日常でも印度人とは縁もゆかりもないんですが、印度大魔術の舞台は見たことがあるといっていました。その影響かも知れないが、しかし本人は、どうもこのところ夢の中の人物と|互《かた》みに夢を見合っているんだといい張り出しましてね。つまりどこかの印度人は印度人で、見も知らぬ日本人から首をしめられる夢を見てる筈だというんです。まるでSF小説みたいな話ですが、そういう妄想もだんだん出てくるかも知れない。……SFの多次元宇宙もの≠ニいうのを御存知ですか。われわれの宇宙にそっくりで、ただどこかしらが微妙に違う宇宙が限りなく並んでいる。ひょっとしたはずみでその一つへまぎれこんでしまうという話ですが、あのジョン・F・ケネディが暗殺されたニュースね、あれは確か六三年の十二月二十三日ですが、あの日の朝刊が同じ十二版で、ひとつにはむろんケネディ大統領撃たれて死亡≠ニ特大の見出しで載せ、もうひとつには池田体制地固め≠ネんていうだけの国内ニュースをトップに掲げている例があります。これなんか多次元宇宙のいい例じゃありませんか。ケネディ死亡≠ニいうほうを見なかった少数の幸運な人々は、もしかしたらいまでもケネディが健在でいる宇宙に、まだそのまんま住んでいるかも知れませんからね」
たぶん私が妙な顔をしていたせいであろう、院長は気を取り直したように話を変えた。
「まあ、うちはこんな連中ばかりですからね、おとなしくしている間はいいが、いったんちょっとした騒ぎが起ると、もう大変ですよ。去年の春でしたか、ものもあろうに病院で唄がひとつ紛失したって届け出がありましてね。いいえ、楽譜なんかじゃありません、正真正銘の唄、シャンソン、ソング、まあ何でもいい、あの歌う唄ですよ。そんなものがなくなるわけはないけれど、そこが流薔園ですからね、すぐ元刑事と自称する古参の患者が出て来て探偵を始める。廊下に点々と花粉にまみれた痕があって、ここで唄が紛失したに違いないって結論になったんです。あいにくとうちには、元コロラトゥーラの歌手でガリクルチの再来といわれたと思いこんでいる老嬢がいて、まいにちベッドの上で舞台衣裳を脱いだり着たりしているから、これが真先に疑われて、元刑事の探訪を受けた。毛布にくるまって眼玉ばかり大きくして、そりゃもう大騒ぎでしたが、廊下が花粉にまみれていたと聞くと、元歌手のほうは、とたんにそれなんだわと考えた。花粉のせいなのね、あたしは花粉病だから思うように唄がうたえないんだというので、さめざめと毛布にくるまって泣き出す始末なんです。ああ、その唄がうたえさえしたらと呟くばかりなんで、元刑事もすっかりたじたじになった。するとそこへ真裸の男が廊下を駆け出してくる、後から看護婦だと信じこんでいる女が、長い釣竿を持って追っかけてゆく。これは彼らの儀式なんで、一日一回はこれをやらないとおさまらないんだから仕方がない。たぶん男がお魚のつもりなんでしょう。結局、その唄の紛失騒ぎは、ひとりの少女の患者が皆を集めて、わたしが実はその唄なの、どうかわたしを唄ってちょうだいといって、わっと泣き伏したものだから、めでたく幕になりましたがね、一時はれいの白人女≠竍車椅子≠フ男まで集まって、いやもう大変でした」
院長の長話を、しかし私は半分も聞いていなかった。苦悶者≠セの水死人≠セの眠り男≠セの、妙な連中の妙な話ばかり聞かされたけれども、やはり一番狂っているのは、他ならぬこの流薔園主人その人ではないか。私には彼が黒マントを羽織って眼鏡をかけた怪人カリガリ博士のような気がしてきた。とすれば、私もまた眠り男セザーレの悪夢を見続けているのだろうか。
何よりの証拠は、ジョン・F・ケネディが暗殺されたなどというでたらめを、平然と述べ立てていることだ。少数の幸運な人々だって? とんでもない、ケネディは、一九七一年のいまだってりっぱに大統領だし、次の選挙でも三選されるだろうことは、ベトナム戦争介入の鮮かな収束ぶりからでも、もう確実だと噂されているくらいだのに。それとも院長にそっと訊いてみようか、それならあなたは、いま誰が大統領だと思っているんですか、と。いや、よそう。まさかそんなこともいうまいが、ひょっとしてニクソンだなどと答えられてはたまらない。ましてそうと聞いたとたん、そちらの宇宙にまぎれこみでもしたら。――
私は|匆々《そうそう》にベルモットのグラスを置き、けげんそうな顔の院長をしりめに流薔園を辞した。
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蘇るオルフェウス
第一信
昨夜来の雪はいちめん庭面を埋め尽して、陽光にひどく眩しい。尾長の群れは餌を求めて、こんな朝にも賑やかに訪れていますが、その一羽が雪のうえを低く掠めると、その青い尾羽の|翔《かけ》りは、たちまちアトリエの中にも映って、壁に貼ったギュスターヴ・モローの『死せる詩人を運ぶケンタウロス』――あのポスターのおもてに翳を走らせ、女体に紛うほどしろじろとしたオルフェウスの肉身は、そのたまゆらだけ蘇るようです。
オルフェウスの蘇生。この言葉に、貴女は何かしら不安なものを、かすかな怖れの予兆といったものを読みとられはしないでしょうか。
何通かの手紙を貴女に差上げるだけで、ひとつの殺人が可能だと、あの夜のパーティで私が断言したとき、|柚子《ゆうこ》さん、貴女を初め、居合せた皆さんが失笑なさいましたね。貴女と同じようにお美しい姉上の|薔子《しょうこ》さんや、優雅にパイプをくゆらせておいでだったパパの|保造《やすぞう》氏、屈託なげな笑い声をふりまかれる|香菜江《かなえ》伯母さんといった|藤井《ふじい》家の面々、それに若い|牧《まき》君や、|再従姉妹《またいとこ》だという、巫女めいた表情の|椒子《としこ》さん、そう、そのほかにも、あのときちょうどアイスペールに氷を盛って客間へ運んできた婆やの|時《とき》さんまでが、びっくりしたようにしばらく私を――この無躾な、見なれぬ客を見つめていました。皆が皆、そんなことが出来るわけはないというより、一瞬白けかけたその場の空気を、何とか笑いほぐそうと努めていらしたのでしょう。何しろ、私を初めてパーティに連れていった|由良《ゆら》は先に帰ってしまったし、居残った得体の知れない人物が不吉な予言をやり出したというのでは、皆さんの困惑ももっともですが、幸い、若い牧君が何かのゲームだと思いこんだのか、しきりに賛同してくれましたし、椒子さんもおごそかなくらいの声ですすめられるというふうで、ようやく、いま、手紙だけによる殺人という実験が開始されることになりました。
で、これがお約束の第一信です。おそらくこの手紙も初めのうちは、貴女も軽く笑って読み棄てにされることでしょう。しかし、四信、五信と重なるにつれて、貴女の頬はしだいに硬ばり、額はすっかり蒼ざめて、読み終ったあと、不安のあまり立上って周りを見廻さずにいられないでしょう。そして第六信、おそらくは七信あたりで、すべては終りを告げ、貴女は何もかも悟られる筈です。なぜ、手紙だけの殺人が可能なのか、殺されるのは一体誰か、誰がそれを果すのか、いやでも気づかずにはいられない。といって私は刑事でもなく、生命保険の事故係でもありません。名もない画家のはしくれですから、こんな手紙を送りつけたといって殺人教唆の罪に問われるのはまっぴらなので、これはあくまでも眠られぬ夜のためのゲームだという確認を先にいただきたいと思います。そう、不眠症なのは、お姉様の薔子さんのほうでしたね。
それでは今日は、オルフェウスが、青い翳に射られて蘇ることもあり得るのだという、謎めいた言葉をとりあえずお送りして、第一信を終りましょう。お約束したように、この手紙は誰にも見せず、そしてすぐ送り返すというルールだけは、固く守って下さい。
第二信
アトリエの隅に置かれた青磁の甕に、今日はたわたわにミモザの花があふれて、その暗い黄の花粉は、私の背後から忍びやかな香りの触手を伸ばしてくるらしい。この匂いの主成分はファーネソールですが、薔薇の主香ゲラニオール、薄荷のメントール、レモンのシトラールと同様、 C6H8 のイソプレン核を持つことは、化学専攻の柚子さんですから、よく御存知でしょう。テルペン類に関するワールラッハの法則が正しいものなら、藤井家にもそれはあてはまる筈で、どこかしら秘密めき|妖《あや》かしめいた雰囲気は、そこに立ちゆらぐ薫香のせいだと思われてなりません。
英語の perfume もフランス語の parfum も、ともにラテン語の per fumum 烟によって≠ニいう語からきていますが、あたかも藤井家を寺院のように思わせるその香煙は、何によって生れてくるのかといえば、まちがいなくそれは藤井の一族の、この世ならぬ美貌のせいでしょう。
不吉なまでの美しさ、といういいかたは、甚しく非礼なことに思われるかも知れませんが、でも、たとえば薔子さんという方。三十歳というおとしだというのに、あの透き徹るような頬のほのぼのとしたくれないは、どこから訪れてくるのでしょう。この薔薇は、おそらく氷の中でだけ息づくことができると思わせるほどに、いったい、この方は本当に呼吸をしているのだろうかと、ふと手を差しのべたくなる衝動を、なんべん抑えたか知れません。これほど美しい方が、なぜ結婚もされないのかと思うのは俗にすぎる疑問で、薔子さんにふさわしい男がこの地上にいる筈はないというのが私の確信です。しかも大学では薬学を修められて、古代香料についての独自の研究をすすめられている点が、わけても興味深いのです。
「エホバ、モーセに|言《いひ》たまはく、汝ナタフ、シケレテ、ヘルベナの香物を取りその香物を浄き乳香に|和《まぜ》あはすべし」とか、あるいは「推古帝の三年夏四月、沈水、淡路島に漂着す。其太さ一囲あり、島人、沈水たるを知らず、以て薪に交へて竈に焼く。其煙気、遠く薫れり」というような、和洋それぞれ最初の香についての記述がなされたとき、薔子さんの存在はもう約束されていたような気がします。海の泡からでなく、香煙から生れたアフロディテ。柚子さんともどもに、そうした学問を修められたのは、むろんお父上の保造氏が応用化学の泰斗でいらっしゃる影響が主だとしても、お二方のたとえもならぬ美貌は、おそらく早くに歿くなられた母上から譲られたものなのでしょう。
ですが、藤井家のもうひとり、六年前に思わぬ事故で、あたら若い生命を|隕《おと》された、あなた方の兄上――かの|杏介《きょうすけ》君こそ、何にもまして不吉なまでの美貌の持主でした。いまここで私が「隕す」という言葉をあえて用いたのも、まさにその死が天空の涯における、星の終焉にも似た迅さと美しさ、痛ましさとはかなさを持っていたからです。
思えばかれは、理科系の才に秀でた藤井家では、ひとり異端者だったかも知れません。何よりかれは、天性の詩人でしたから。だって、あれほど長く美しい指をしていたら、詩人になるほか何が出来たでしょう。針葉樹林を思わせる長身は、それ自体が息づく|樅《もみ》の木ともいえましたが、何より不思議なのは、かれが一種独特の体臭を持っていたことです。決して嗅ぐ必要がなく相手に伝わる体臭というものを、貴女は信じられるでしょうか。名のとおり仄かな杏に似た口臭、鋭い蓬の香に似た腋臭は、その意味で同性をも酔わせることが出来たのです。
あれほどに長く翳を落す睫毛というものもまだ見たことはありませんが、しかし、このあまりにも冴え冴えとした杏介君の美貌が、六年前の悲劇を生んだのでした。まだ小さかった柚子さんは、あるいはその真相にまったく気づいておられないでしょう。次便に私がお送りするのは、他ならぬオルフェウスの死≠ノついてなのです。
第四信
予想したとおり第三信が届かぬ由、やむを得ずこれからは郵送でなく、こうして牧君の手をわずらわすことにします。しかし第三信が何者かによって遮られたということは、約束と違っておうちの中のどなたかが私の手紙を読んでいた、そして杏介君の死の真相を知られるのをいまも怖れていることの証明に他ならず、実をいえば私の狙いもそこにあった。オルフェウスの死について語ると予告したのはそのためだったのです。
どうせ第三信には、実のあることは書いてありませんから、こちらでいきなり本題に入りましょう。杏介君は六年前の二月、自宅の寝室でガス中毒による変死をとげた。結局は本人の過失死ということで落着したのは御承知のとおりですが、感性鋭い詩人のことだからというので、自殺という疑いも中にはあったようです。しかし、遺書もなければ死を仄めかした日記のたぐいも見当らず、部屋のガス栓がごく細めにあいていて、部屋中がその異臭に充ちていたこと、本人が特有の紅斑を浮かべて死んでいた等のことから、とりたてて調べられることもなかったのですが、その一夜、ある黒い影が杏介君の寝室に音もなく侵入し、またひそかに立去ったことを、私はここにいながら、時間を隔ててありありと透視できる気がします。
といってその影が、締まっていたガス栓をゆるめただけで出てきたというのではない。第一、その夜の藤井家には、時さんのほかは肉親しかいず、ふだんから仲の良すぎるほどいいその一族の間で、どんな憎しみが湧くというのでしょう。かりに殺人の動機が誰かにあったとしても、ガス栓をちょいとあけてくるだけという、いいかげんなことで済ます殺人者という者はまずいない。加えていえば、人一倍敏感な杏介君が、いくらわずかだといってもガスの異臭に気づかずに眠り続けるということもおかしいし、もし本当に気づかないほどだというなら、それが室内いっぱいになるまでの時間は意外なほどかかるので、致死量にはなかなか達しないのです。そしてもうひとつ、藤井家では夜中にガスの元栓を締める習慣がないのかというと、これは当時まで締めたり締めなかったりだったのですが、その日に限って婆やの時さんがしっかりと締めて寝たというのが本当のところで、つまり杏介君は、主治医の|内村《うちむら》博士の推定では、晩方の四時から五時の間に、出もしないガスで中毒死したことになります。
従って問題は、かかって時さんの締めたというのが思い違いではないのか、あるいはそのあと何者かが再びあけはなったのではないかという点に絞られてきますが、これはどちらもいいえという答しかありません。むろんこのことは、警察にも最後まで秘匿されたわけで、杏介君は藤井家の体面上、おとなしく過失で死んでもらう必要があったと考えられてくるのです。
どうか、くれぐれも誤解のないように。私には藤井家の秘密や旧悪を曝くという気持はさらさらありません。私はただオルフェウスのなきがらを頭うなだれて運ぶケンタウロスなのです。悲哀の聖地にまで詩人を連れ去って、何とかその蘇りを希うほかに、何をしようとも思ってはいないのですから。むろん貴女も、いまさら時さんを訪問したり、誰かれにこの手紙の内容を触れて廻るようなことは絶対なさらぬことを信じています。
第五信
一息に真相までを記してしまいたい衝動に駆られますが、慣れないペンで、思うにまかせません。さて、杏介君の死が発見されたのは、当日泊り合せていた香菜江伯母さんが、その朝かかってきた友人からの急用の電話を取次いで寝室をノックしてからということになっていますが、ではその友人というのが誰だったのか、これは由良が調べて廻りましたが、ついにはっきりしないままです。疑えばそんな電話なぞかかりはしなかったので、杏介君の死体は、あまり遅くならない時間に発見されないと都合の悪いことがあったともいえます。
それはともかく、驚いた伯母さんが薔子さんを呼んで、二人して寝室へ入ると、ひよわな体質のせいでしょうか、薔子さんまでがその場に昏睡してしまい、お二人を病院へ運ぶのにどれほどの騒ぎだったかは、貴女もよく覚えておいででしょう。当然杏介君のほうは、警察医の検屍を受けたわけですが、世間的にも著名な学者の家庭ということもあり、内村博士という権威者もおられたことですから、どこまで突込んで調べたものか、これはだいぶ疑わしい。薔子さんの昏睡の方はほどなく回復したというのですが、これも本当にガスのためだったのか、いや、伯母さんと一緒に杏介君の寝室へ行ったというのが本当かどうか、私には疑問に思えてきます。しかし、これら一連の、ほんの少しずつ奇妙な出来事の背後には、藤井家としてはどうしても隠さなければならぬ事情があったわけで、それも保造氏と旧制高校が同期だという内村博士の格別の配慮がなければ、到底秘匿しきれなかったでしょう。
いまさらそれを曝いて何になろうという気はします。しかし、もうお気づきでしょうが私は、お宅にこそ伺ったことはありませんが、杏介君の無二の親友だった――というよりかれは私にとってかけがえのない掌中の珠だったのです。それを突然に奪われてからの六年間、椒子さんや由良の援けはあったというものの、どれほど凄惨な努力をして死の真相を探ろうとしたことでしょう。そしてこれがその成果だと申しあげれば、ところどころに洩れてしまう黒い笑いも、あるいはお許しいただけると思います。次便には、何もかも打ち明けてお話しすることをお約束しましょう。
第六信
冷え冷えとした灰いろの空から粉雪が舞って、風花という言葉はいかにも美しいのですが、東京では火事場の|煤《すす》めいた薄墨いろをしながら、それでもしだいに力を揃えて白さを増し、淡い雪景色が外面に作られています。
六年前の二月、黒い影は眠りこんだ杏介君の傍らに立ちつくし、おそらくは涙さえ流していたでしょう。その寝顔はあまりにも美しく、影はまたこよなくかれを愛していたでしょうから。そう、憎しみからではなく、愛のために影は殺人を、つまり心中を計ったのです。杏介君の腕を取り、ある注射を手早く済ませる。ガス中毒と同じ紅斑をのちに浮かびあがらせる薬品といえば、青酸も考えられますが、その種類は影にとってはお手のものだったでしょう。何しろ影はそれを専門にしていたのですから。
そしてガスストーブの栓をごく細目にひらくと、黒い影は自分の寝室へ戻って、おそらくは多量の睡眠薬を一気に嚥下したのです。その枕許には、一通の部厚い遺書がありました。その内容だけは、藤井家としてはどうしても隠し了せなければならぬものだったのです。
しかしここで影には、いくつかの誤算があって、思わぬ成行が展開されました。その一は杏介君を即死させながら、中毒死にみせかける予定のガスが止められていたのに気づかなかったこと、その二は耳ざとい伯母さんに気配を知られ、まっさきにその遺書を発見されてしまったことです。
事は急速に陰蔽されねばなりませんでした。保造氏が叩き起され、内村博士が呼び出され、慌しい協議の結果、とりあえず影の方は胃洗滌と注射で一命をとりとめましたが、杏介君ばかりはもう蘇生の見込みがない。とすれば、かれは、藤井家にめったな風評を立てられぬよう、おとなしく出もしないガスによって中毒死していなければなりません。そのうちに貴女も起き出してくる、時さんも気づいていろめき立つ、その前に杏介君の寝室は浸みつくほどのガスの異臭で飾られなければならなかったのです。
もうお判りですね。われわれがガス臭いというときの都市ガスは本来無臭ですが、着臭剤としてメルカプタンが用いられることがあります。これは私のほうでも実験をくり返しましたが、いわゆるガスの臭いを分析してゆくと、ピリジンやメルカプタン、シクロペタンなど、いずれも環状の化合物にわかれるうち、シクロヘキサンが一番ガス臭さに近いようです。しかし、安全なのはチオフェノールかも知れません。これら無色の液体は大学の傍の試薬品売場でいくらも手に入るものですし、揃って化学に詳しい貴女方の手許には常時おかれてあったと見てもよいでしょう。
こうして杏介君は、モローの絵さながらのしろじろと香気ある肉体を死の床に横たえました。しかもなお生き続ける黒い影を、私はどう受けとめたらよいのでしょう。果して呼吸をしているのか、していられるのかと手を差しのべたい衝動については、すでにお話ししたとおりです。風花は、まだ舞い続けています。
第七信
二月尽。庭面では淡い早春の陽ざしを汲むために、クロッカスは忘れず|黄金《きん》の盃を置き、夕方、弱々しい微笑とともにそれを伏せています。
きょう、薔子さんの死の報をききました。二度めの遺書は、おそらく言葉すくないものだったでしょう。燃やされてしまった一度めの遺書は、むろん世にも異常な兄妹相姦のつぶさな叙述に終始していたと思われます。しかも愛する者は、この地上にほかにはいないという、確かな愛の誓いとともに。
不吉なまでの美しさ、と書きました。藤井家の美貌はこの世ならぬもので、一度それを自覚してしまったら、絶対にその身内とでなければ恋はできないと、でなければ鏡を近寄せて狂おしくくちづけをくり返すほかないだろうというのが私の意見です。
オルフェウスの蘇りを希ってこの手紙を書き初めた私でしたが、目覚めたかれに憐れみと蔑みの眼で見返されるより、聖らかな死体をこのままに、ケンタウロスは再び山を降ることにしましょう。ごきげんよう。
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公園にて
わたしは、日暮れどきの小さな公園が好きだ。優しい灰いろの時間が好きだ。
緑いろのマントに長い杖をつき、ゆるやかな坂をのぼって丘の上に着く、これはわたしのような老人にとって何よりの運動だが、それよりもこの丘の上にひろがる小公園の静けさが何にも換えがたい。夕方には、とりわけ人影が少なく、乳母車を押す若い母親とか、兄妹のように美しい恋人とか、あるいはわたしのような風体の老人などが、木立の合間を縫う小径や、淡い緑に塗られたベンチに見受けられるばかりで、いまごろの季節ならば、じっとりと甘くかぐわしい空気があたりを包んでいる、このひととき。なべて世はこともなしという詩人の訓えを、このときほど身に沁みて味わうことはない。
眼路の果ては港だが、ここからは霞んで見えない。すぐ|眼下《まなした》には貨物の駅があって、黒く長い貨車の行き交いや操車場の屋根、鳩や煙突や信号灯など、眼になれたそのたたずまいが、やがて夕霧に蔽われてゆくとみる間に、きんいろの灯がそこここに点きはじめ、さあお帰りの時刻ですよ、おうちには暖かいスウプが湯気を立てていますよと告げ知らせる。なごり惜しい腰をあげて、わたしはまた杖を曳きながら家路を辿るのだが、その帰り道にも、この季節にはもうひとつの楽しみがあった。
公園を降りきろうとする坂道の途中で、わたしはふいに呼びとめられる、それは、まぎれもない沈丁の香りであった。ふり返ると、宵闇の中に、白い頬を初々しくそめた少女のような花叢が見え、その香りは、遠慮がちにこう囁くのだ。
「おぼえてらして?」
「おぼえているとも」
わたしの皺ばんだ皮膚の中に、いきなり青年の血が騒立つのはそんなときだ。しっとりした夜気の中に佇むこの少女を、わたしはちょうど一年待ったのだから。人眼のないここでは、老いさらばえたわたしでも、思うさま少女を抱き寄せてくちづけすることも許されていたから。
∴
だが、これほどおだやかで平和な公園にも、あとで思い合わせれば、凶事のいくつかの予告はあった。たとえば沈丁花のうしろには戦争中に掘られた防空壕がまだそのままに口をあけていて、しかも傍には朽ちかけた蓋をしただけの古井戸さえあった。子供が立入らないよう、周りに形ばかりの柵はしてあるけれども、いつどんな事故が起るかも知れないこの古井戸を、わたしはどんなに憎んだことだろう。市役所ではわたしの姿を見るなり、「ああ、また井戸のことですか。いや、埋めます、埋めます」などと、笑いながらいうけれども、本当に気が気ではない。それというのが、あたかも井戸の上にさしかけた形で、一本の|樒《しきみ》が立っていたからである。これは不吉な、凶々しい木だ。墓地にだけふさわしいこんなものが、何でここにあるのかは判らぬが、年寄というものがどんな思いで木の花を眺めるものか、市役所の若い者には、おそらく察しもつかぬのだろう。
しかし、公園に初めての異変をもたらしたのは、そんな静物ではなく、二年ほど前に突然ここへ姿をあらわした、無作法な動物であった。みるからにむさくるしい中年の浮浪者で、昼間から安ウィスキーの瓶を手にしてらっぱ飲みをしている。大声で演歌を唄う。人にからまぬだけがまだしもだったが、わたしは当時、彼の姿を見かけるなり、いいようのない不快な思いが胸底にこみあげるのをどうしようもなかった。その彼が、ある日、わたしの眼の前でいきなり変死をとげたのである。
それはまったく不可解な事件で、日曜の昼間のことだから、目撃者はわたしのほかにも何人かいた。男はいつものとおり酔っぱらいながら、よろけて、|濁《だみ》声で唄をうたっていた。ちょうど反対側から、乳母車をそろそろと押しながら若い母親が来、さらに後から二人づれの女学生がくるのを見て、ベンチのわたしは眉をひそめた。女学生はともかく、浮浪者の捩れたような歩き方がいかにも危なかしく、いまにも乳母車につかまって、ともども横たおしになりそうな気配だった。若い母親も、|把手《とって》に手をかけたなり、ちょっとの間、棒立ちになった。狭い道で、どちらへよけることもできない。母親の困惑は、こちらで見ていてもありありと判った。
そのとき、ふいに男が、まるでバンザイでもするように両手をあげ、白眼を剥き出しにしてのけぞったと思うと、異様な咽喉声を出したなり、みごとにうしろへひっくり返ったのである。それはまるで、西部劇のインディアンのような恰好で、大仰にもぶざまな倒れ方だった。はずみに男の泥靴が、したたかに乳母車を蹴上げたのを見て、わたしはとっさに立上ると、女学生たちより早く現場へ駆けつけた。乳母車の中の赤ちゃんが、いまにも火のついたように泣き出すのをおそれたからである。
しかし、中は、しんとしていた。覗いてみると、純白の毛糸に包まれ、この上もない安らかな寝顔があった。ふっくらと愛らしい手が玩具の笛を握りしめ、この神々しい天使は、外の騒ぎも知らずに眠っていた。
「大丈夫なようですよ」
わたしは顔見知りの母親に笑いかけた。ひきつったような顔でいた彼女は、深く怯えた眼のいろで、黙って礼を返した。それからわたしは、足をすべらしたにしては、ずいぶん大げさな倒れ方だったなと、軽い気持で浮浪者のほうへかがみこんだのだが、たちまち驚きの声をあげた。男はあきらかに死んでいたのである。土気いろに醜くひきつれたその顔には、まるでこの世ならぬ異形の者を見かけでもしたような、深い恐怖の相があった。
わたしの声で、そこここから野次馬が集まってきた。日曜のせいかも知れない、ふだんは見かけたこともないような連中がわたしたちを取巻き、警察が駆けつけるまで、くちぐちに勝手なことをいい合った。しかし、何といわれても、目撃者はわたしばかりではない。母親も女学生もいることだし、誰ひとり浮浪者の体に手を触れた者はない。男は、ひとりで勝手にひっくり返ったので、おおかた飲みすぎのアル|中《ちゅう》で、心臓麻痺を起したのだろうというのが、その場の結論だった。それに、こうして身寄り頼りのない行路病者が、どんな扱いを受けるかは容易に想像のつくところで、おざなりな解剖のあと、かりに毒物死の痕跡がみられたところで、常用の薬物中毒くらいの病名でおさまってしまうのは眼に見えていた。市当局の扱いも、事実そのとおりだったのである。
ともかくわたしは、確かな目撃者ではあるけれども、なるべく警察とかかり合いを持ちたくなかったので、つとめて女学生のほうをおもてに立て、肝心な男の死にざまについては、眼が悪いのでとか、樹の蔭だったので確かではないがと断りをいれた。わたしのように隠栖した老人にとって、なまぐさい浮世とのやりとりぐらいうとましいものはない。それでもあの若い母親とは少し親しくなって、会うたび挨拶を交すほどになった。乳母車の中の赤ちゃんは、いつでもおとなしく、起きているときでも、まるで綿菓子の中から覗くような黒い眸で、まじまじとわたしの顔を見つめるだけだった。
「もう大きいんでございますけど、ちょっと足が悪うございまして」
母親はそんなことをいいながらも、やはり可愛い子供が自慢らしく、襟もとへ手を添えて直してやったり、ときおりその頬につくえくぼに指をさしのべたりするのだった。
∴
二年前の事件からあと、公園はまたおだやかさを取り戻していた。あの母親は見かけなくなったが、あまり気にもとめなかった。代りに幾組かの乳母車が、あるときは緑の葉洩れ陽に|幌《ほろ》をそめながら、あるときはまたこのごろのように、どこかしらうるおいのついた空気の中を童話の影絵めいてゆき交うようになっていたからである。
わたしの緑のマントと、仙人めいた長い杖は、ここに集まる子供たちの人気の的になっていた。魔法使いのお爺さんというのが仇名だったが、わたしはそれを喜んだ。雛祭の前には、菜の花を薬袋紙に包んだり、去年拾い集めておいた銀杏の実を、緑の葉でくるんだりして素朴なお雛様を作ってやると、女の子ばかりでなく子供たちみんなが、僕にも作ってとせがむのだった。
「みんな、あの古井戸のあるところは知ってるだろう。あそこへ近寄っちゃいけないよ」
わたしは周りに集まった子供たちに、そういいきかせた。
「なぜ。ねえ、なぜなの」
危いからと教えるのは容易だったが、わたしはちょっと考えてから、こう答えた。
「あそこにはシキミが繁っているからだよ」
「シキミって、なに。ねえ、なあに」
たちまち子供たちの合唱が返ってくる。
「シキミっていうのはね、たいへんな毒を持った木でね、秋になって実がなるだろう。その実をひとつでもたべたら、七転八倒して苦しむんだよ」
子供たちは笑い出した。七転八倒という言葉がおかしかったのか、
「シチテンバットウ、シチテンバットウ」
といいながら、てんでんの方角に駆け出していった。しかし、ひとりだけ残った男の子がいる。五つか六つか、利口そうな眼をいきいきさせて、こう訊いた。
「ねえ、おじいさん。そんな木がそこいらにあるんなら、まだもっとほかにも、すごい毒のあるものが生えてるかも知んないよね」
「そうだよ。だから、めったにそこらの木の実なんか喰べちゃダメだ」
そう答えながら、わたしは俄かに慄然とした。この少年の質問の意味が、まるで違うことに気づいたからである。少年はあきらかにその別な毒を手に入れたがっているのだ。
探り合うような沈黙が続いた。無邪気な少年の顔のうしろに、わたしが何十年となく見続けてきたある種の貌が、もう半ばまであらわれかかっているような気がする。
「坊やは毒のあるものが好きなのかい」
「ああ、大好きだよ」
その|忌《いま》わしい貌は、突然天空から落ちかかって少年の顔に貼りついた。わたしは半ば眼をそらしながら、ひからびた声でいった。
「なんでそんなものが好きなんだね」
「おじいさんだって好きじゃないか」
少年は高らかに笑うと、そのまま走り去った。すこし跛をひいている後ろ姿に、わたしは憤然と眼をとめた。そんな筈はない、そんな筈はないと打消しながら、それから数日も経たぬうち、少年の母親が得体の知れない中毒で死んだときいてから、わたしはどうしてもかれの噂や行動に注意を払わずにいられなくなっていた。
少年には、その出生から凶々しいものがつきまとっていたらしい。あれほど騒がれたあとだから、サリドマイド系の薬品の筈はないが、かれの左の足指は何本か癒着して、そのためにいつも跛をひいていた。ひとには見えないところだから、そのせいで遊び仲間から嫌われていたのではない。かれと一緒に遊んでいた子は、この一年ほどの間に、みんな奇妙な事故で死んでいるので、いつも少うし群から離れて、ひとりでいることが多かった。ある子供は崖から落ち、ある子供は堀にはまった。つい先月にもおないどしの子が、置き去りにしてあったライトバンの運転台でマッチをすっていきなり火に包まれ、逃げる暇もなく焼死した。その少し前まで、噂の少年が一緒に遊んでいるのを見た子供がいたのだが、少年はかたくなに頭をふって、というより、おどろくべき無邪気な顔で否定するので、どうにも真相は確かめようがないということだった。
まだ学校にも行かない、幼児といってもいいくらいの年齢で、ひどく残忍な殺人をすることは、これまでにも例がないわけではない。しかし、この少年のように次々と計画的に、まるで娯しむように仲間を殺すなどということがあり得ようか。しかもそのあげくに、何を用いたか知らぬが、自分の母親まで毒殺するほどの、悪魔の申し子めいた怪物がこの世にいる筈はない。
笑い出そうとして心は凍った。わたしを捉えて離さない疑問は、いま足は悪くとも元気で跳ね廻っているあの男の児が、つい二年前まで乳母車にのせられて、外気にも当てぬよう育てられていたあの赤ん坊だったのではないかという点にあった。とすれば、こんど中毒死したという母親はあの日の若い母親であり、空を掴んでのけぞった浮浪者を殺し得たのは、乳母車の中に無邪気な眠りを装っていたかれではなかったか。あのとき、赤ん坊とみえたのは、すでに三歳か四歳の小児なので、手に握りしめていたのは玩具の笛ではなく、たとえば凶悪な土人の使う吹矢の類ではなかっただろうか。毒殺という噂はあの当時もきいた。「もう大きいんですけれど足が悪くて」という母親の挨拶も耳にしている。悪魔の子は、乳母車から出る前に、すでにひとりの人間を葬っていたのかも知れないのだ。
∴
わたしはいつものベンチに坐って、さまざまに思い惑っていた。向い側の鉄柵の内らには、ムスカリや芝桜の緑が風に吹き靡いているばかりで、まだ紫や桃いろの花穂は見えない。そういえばきょうは、春を告げる風であろうか、砂塵を巻きあげるほどの勢いで走りぬけてゆく。風の日に吹きすぎてゆくのは、しかし砂埃りばかりではない。かつて美しかったもの、輝かしかったもののいっさいがむざんに吹き荒らされてゆくようだ。わたしは、まだ眠りについたままの花を見ながら、けんめいに考えをまとめようとしていた。いつのまにか、それを持ち歩くのが癖になっている小さな砂時計をわたしは手にしていたらしい、いきなり耳もとで、甘えるような少年の声におどろかされた。
「おじいさん、それ、なあに」
「おう、これか」
わたしは腕をのばして砂時計をかざした。桃いろの砂の結晶が、ガラスの中に美しい。この砂は、黒大理石を細かに砕いて、葡萄酒で煮ては乾かし、また煮ては乾かしして作りあげたものだ。わたしはこの数日、これを少年への贈り物にしようと決めていた。
「これは砂時計だよ。ホラ、こうして倒すと、下に砂がおちるまで、きっちり二分かかるというわけさ」
桃いろの砂は飛沫をあげるように落下し、みるまに下のくびれの中に溜まっていった。その一分の間に、わたしは充分、少年の心を量っていたのだ。
「これが欲しいかな」
「うん、欲しい」
少年は無邪気に答えた。その眸は澄んで黒く、かつて静かに乳母車の中からわたしを見返したものと同じに思えた。
「これを坊やにあげよう。だから今日は、正直にわしのいうことに答えなさい。いいナ」
わたしは少年の瞳をのぞきこみ、ゆっくりとこう切り出した。
「坊やは吹矢が得意だろう。どうかね」
「あれ、どうして知ってるの」
少年はすぐにポケットから手製らしい小さな筒を取り出し、縫針様のものを数本、中に潜めた。
「見ててごらん、あの木の枝」
指さした一本の細い枝に、たちまち狂いもなくその針が突き刺さるのをわたしは見た。
「ちっちゃいときは、もっと得意だったよ。でも、どうして? 誰にも見せたことはないのに、どうして知ってるの?」
そういいながら、少年はさっと体を離すようにして、それから改めてわたしを見た。
「そうか。おじいさんはアレなんだね。アレだから知ってるんだね」
「そうだよ。アレだから知っているのさ」
わたしはおだやかに答えた。
「だから正直にいってごらん。いままでずいぶん人を殺したね。こんどは誰を殺そうと考えているか、それを聞かせてごらん」
「考えてやしないよ。もうしちゃったよ」
少年はすっかり親密な態度になり、仲間だけに見せる表情で肩を並べて坐った。
「一年生の餓鬼大将がいるんだよ。いつもオレを跛だってからかう奴」
かれはその名をいった。
「春休みで、ひとりで九州の叔父さんちへ行くところだって威張ってたから、その前にいいこと教えてやるって、あの古井戸のところへ連れてったの。うん、旅行鞄もって、ついて来たよ。だからね、この井戸の底には変ったビー玉がいっぱい浮いてるんだっていってやったんだ。ビニールの縄を用意しといたから、勇気があったら降りて取ってきてごらんて。判るだろ、あとは。あのシキミの木に片っ方を結わえつけといて、体を縛ってそろそろ降ろさせたのさ。半分くらい行ったところで、縄をほどいてやったんだ。むろん鞄もあとから放りこんでおいたよ」
少年はあたかも、ねえこれでいいんでしょう先生、とでもいうように、ぞっとするほど残酷な笑顔でわたしをふり仰いだ。
先生には違いない。この子だけが見ぬいたように、わたしは「アレ」すなわち殺人者である。この砂時計が使われているところで、わたしは二十余年をつとめあげて来たのだ。刑務所では入浴時間をこれで計る。入口の円い衣類入れを一廻しして、縦長の二つの風呂に形ばかり入って出てくると、衣類はちょうどそこに来ている。その間にも浴室の隅で、砂時計はサラサラと砂をこぼし続けているのだ。この少年と同じように、わたしも小さいときから悪の天才だった。何十人が詭計にはまって死んでいったことだろう。それが、中年をすぎてのあの失敗さえなければ――。発覚したのは、そのひとつの殺人にすぎない。
だが、いまは違う。二十数年のムショ生活で、わたしの心は入れ替ったのだ。
「ああ、そのせいだな。さっきおじいさんがあの井戸の傍を通ったら、どっかで小さな悲鳴がすると思ったのは」
「ほんとう?」
少年は無邪気におどろいた。
「だって一昨日だぜ、奴を落っことしたのは」
「一昨日だって生きてるとも。中には水が溜ってるんだから、いくらだって生きて、人を呼べるさ。嘘だと思ったら行って確かめてみるかね?」
少年は他愛なかった。わたしもまたこれまでにない用心をして、マントの下にビニールの縄をひそませ、少年と連れ立って歩いているところを人に見られぬよう、うまうまと井戸の傍まで辿りついた。
長いあいだの要請が実って、ここはあすの朝から埋め立てられることになっている。悪魔の申し子は、その前に土に返さなくてはならなかった。成長すれば、またわたしと同じように長い刑務所生活を送るか、絞首台行きのいずれかであろう。わたしの震える手の先に、少年の重味はしばらく激しくゆり動き、そして暗黒の地下をめがけて落下していった。折からの風に、薄黄いろい樒の花はいっせいに揺れて、朽ちかけた井戸蓋の上にもその周りにも、さんさんと降りそそいだ。……
そしていま再び、わたしはいつものベンチに戻ってきたところだ。あるいは二人の少年の失踪は、あすの朝までに評判となって、あの古井戸も埋め立てる前に捜索されるかも知れない。何もかも曝き出されるかも知れない。それでもこうやって遠い港や、眼下の貨物駅をぼんやり眺めている、このひとときだけは、何にも換えがたい安らぎのように思える。
わたしは、日暮れどきの、小さな公園が好きだ。優しい、灰いろの時間が好きだ。…………………………
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牧神の春
なにしろ、そのころの|貴《たかし》の考えることといったら、役立たずという言葉そのもので、そのくせ一度それにとりつかれると、いつまでも抜け出せないで堂々めぐりをするというふうだった。たとえばいまノートへ書いたばかりの文字に吸取紙をあてたとき、その瞬間にひょいと身を移す文字の形態というものが、どうにも気になってならない。ノートから離れて吸取紙に移るあいだに、あいつはまるでサーカスのぶらんこ乗りといった要領で、かるがると体をひねって裏返しになるのだろうか。一ミクロンほどもない空間での曲芸を、貴はどうかして覗きみたいと希った。逆しまにぶらさがりながら、文字はそのとき束の間のべっかんこうをするかも知れないではないか。
あるいは一組のとらんぷの中で、スペエドの3はスペエドの2について、いったいどう思っているのだろうかと考え、たぶん、なんとも思っちゃいやしないんだと行き当ると、さながら自分が無視されでもしたようにはかない気がする。胸飾りをいっぱいつけたキングやジャックの札になりたいというのではない、いちばん地味な2だというのに、それでも皆はとらんぷの表面の、白く磨かれた光沢のように、よそよそしくそっぽを向くのだろうか。
――プシュウドモナス・デスモリチカ。
――プシュウドモナス・デスモリチカ。
呪文のように唱えていたそれが、そうだ、石油を喰うという微生物の名だったと思い出すと、たちまち貴の眼前いっぱいに青金色の彩光を揺らしている油層がひろがり、その中で蠢き群生するかれらの生態が、顕微鏡を覗きでもしたようにつぶさに映じた。
――おれは早く土星に行かなくちゃ。
その日、街を歩きながら、貴は唐突にそう思った。埃りっぽい風の吹きすぎる、春の昼なかのせいだったかも知れない。貴にとって、春はいつでも汚れていた。桜はすべて白い造花の列だった。
――こんなところでぐずぐずしてちゃいけないんだ。土星への旅。それにしてもあの土星の環ってのは、夜には色さまざまに映り輝いて、壮大な光の饗宴という趣きだろうけど、昼間見たらごちゃごちゃした|土塊《つちくれ》で、さぞきたならしいこったろうな。
そして、ちょうどそのときであった。なんの気もなしに頭へ手をやって、初めて触れたのがその|角《つの》だった。まさかとは思ったのだが、たしかに瘤などではない、異様に尖った二つの隆起が、額のすぐ上に感じられた。同時に全身、とりわけ下半身のほうに音を立てるほどの勢いで体毛の伸び出すのが判った。春の街なかで、何かとんでもない変身が起りかけているらしい。髪も髯も、前から長くのばしているんだし、人眼に立つとは思えないけれども、貴はあわてて行きずりのメンズウエアの店の前で立止ると、仄暗いウインドをのぞきこんだ。
みかけだけは平凡な若者がそこに映っていた。しかし、よくよく眺めると、長髪も頬髯も家を出るときよりはるかに伸びて縮れ、額のところへもう一度手をやってみると、まぎれもない二本の角が生えかけていた。顔つきまでがどことなく山羊の精めいてきているらしい。びらびらのついたインディアンコートの下に白のデニム、モカシンを穿いたいつものとおりのオレに、いったい何が起ったというのだろう。なんだって急に角なんかが生えてきたのか、そして、なぜオレにはこれが角だという確信があり、おまけに前からそれが判ってでもいたように、それほどうろたえもしないのか、貴にはむしろそのことのほうが不思議に思えた。
ウインドの中に立ちつくす黒い影のうしろには、こともなく明るい市街が拡がり、疾走する車も、行き交う通行人も、まだこちらに気をとめる気配はない。貴はそのままじっとして変身の終るのを待った。ありがたいことに、角はもうこれ以上伸びないらしい。ただモカシンの中で足の先が堅くなり、|蹄《ひづめ》の割れてゆく感じが異様だった。それに、何より尻の合間に短い尻尾が生え、そのむず痒い感覚といったらない。コートを着ているからいいようなものの、そうでなければずいぶん恥ずかしい思いをしなければならないだろう。どこか喫茶店にでも飛びこんで、トイレでどんな具合か調べたい気もしたが、どっちにしろみっともないことに変りはないんだと、貴はようやく我慢した。
変身はどうやら完了したらしい。サチュロスというのか、それともフォーヌとかパンとか呼ばれる、山羊の蹄と角とを持った、あの毛むくじゃらな牧神に自分がなってしまったことを、まだ誰も気がついていないんだと思うと、ちょっぴり嬉しいような、それでいてひどくみじめなような、妙な気分だった。こんなことになったのは|苜蓿《うまごやし》を食べすぎた山羊のように、あまりに雑多な理念をむさぼりすぎたせいだろうか。プシュウドモナス・デスモリチカなんて変な呪文を、やたら唱えなければよかったんだ。それにしても、このまんま街の中にいるのはまずいと貴は思った。牧神は当然、森とか沼の畔とか、放たれた空間を自由に遊び回るべきだろう。それに、鉢が変化したせいか、窮屈な衣服を脱ぎすてて、思うさま飛んだり跳ねたりしたい衝動がさっきからしきりとする。蹄のままの趾で靴を穿いて、うまく歩けるかどうか心配だったが、貴はそろりと一歩を踏み出し、痛くないと知ると急に元気になって、躯けるように駅へ向った。
∴
……決闘・金狼・愛餐・緑盲・幻日・袋小路・紫水晶・歪景鏡・贋法王・挽歌集・首天使・三角帆・宝石筐・帰休兵・火喰鳥・花火師・水蛇類・送風塔・冷水瓶・小林檎・逃亡兵・人像柱・水飼い場・聖木曜日・耳付の壺・神怒宣告・囚人名簿・女曲馬師・舌ひらめ・放浪楽人・夜見の司・草売り女・二人椅子・表情喪失症・とらんぷ屋・埃及の舞姫・西班牙の法官・ボンボン容器・貴族制反対者・土耳古スリッパ・仏蘭西の古金貨・露西亜の四輪馬車等々々……
さっきから耳の中で唸りをあげているのは、およそ脈絡もない言葉の羅列で、それがふらんす語やロシア語やらのきれぎれな発音を伴って次から次と風のように掠めては去るのに、貴はすっかり閉口していた。なるほどサチュロスというのは山野の精で、風の中を吹きすぎてゆく言葉は何でもこんなふうに聞きとめてしまうものらしい。すこしばかり尖って髪の間からはみ出している耳を、貴はいそいで隠した。
どこへ行こうと考え、初めはひたすら海が見たかった。こんな生ぬるい風の吹く日にだって、海だけは岬の間に柔らかな灰青色をして横たわっているだろう。だが、その砂浜へ行きつくが早いか、オレはどうしたって素裸になってそこいらを駆け回りたくなる筈だ。冗談じゃない。まだしばらくは人間のふりをしていなくちゃ。で、考えついたのが、T**川の向うにある、自然動物園だった。あの広大な丘陵の間には、どこかしら洞窟めいた隠れ処があるに違いない。それに、ずっと前、まだ子供のときに一度行って、すごく気にいったのは、どういうわけか裏門の傍の山羊の檻の中に一羽のオオハシが一緒にいて、真中の木にとまったまま、ひとりで眼玉をパチクリさせていたからである。
大きすぎる黄いろの口嘴をもてあましながら、そのときその鳥は、けんめいに何かを思い出そうとしているらしかった。ええっと、何だっけあれは。いや、そうじゃない、弱ったな。あれも違うしこれも違う。だからさ、ホラ、あれだよ、あれ。そんなふうにひっきりなしまばたきをくり返しているのは、得意の嘘を忘れてしまったからに違いない。オオハシとかツーカンというより、嘘つき鳥とでも名づけたい貌で困りきっていたのだが、もしまだあそこにいるなら、もう一度どうしても逢いに行ってやろう。
そう考えると、貴はようやく安心して、電車の片隅に立ったまま、再び自分だけの思いに沈んだ。もしかしたらT**自然動物園は小高い丘の上にあるんだから、あそこからだって海や岬が見えないとも限らない。
――岬があんなにも孤独に見えるのは、
貴は眼裏にその情景を思い浮かべた。
[#ここから1字下げ]
――あれが海の中へ突き出された腕、我慢強い男の腕だからだ。で、愛する者は必ずその|突端《はな》を曲って見えなくなってしまうのさ。そうなったら古い望遠鏡を持ち出していつまでも眺めていよう。たぶんぼやけた人影が、目的もないように右往左往するばかりだろうけど。
[#ここで字下げ終わり]
ふいに近くで、若い女の声がした。
「ねえ、ちょっと。なんだかチーズみたいな匂いがしない?」
「え?」
話しかけられた連れのほうは、貴に気をかねたようにちらと顔を見てから答えた。
「そういえば、そうね。ブルーチーズみたような匂いね」
貴はさりげなくそこから離れて、人のいないドアのところへ歩いてゆき、凭れながら溜息をついた。
[#ここから1字下げ]
――匂いとは気がつかなかったな。むろんこんな躰になっちゃったんだから、山羊の乳を固めたような、饐えた匂いがしたって不思議じゃない。けど、本当にそうなんだろうか。もう人交わりのできないくらいに匂いもひどくなったんだろうか。
[#ここで字下げ終わり]
ふいに得体の知れない哀しみが貴を領した。その哀しみは風船のように柔らかく、それでいてひどく重かった。
∴
T**自然動物園の正門を入ると、貴は人群れを避けて、右手の坂道を選んだ。昆虫館というコンクリートの建物に入ってみると、奥には赤いランプをつけた夜行動物の檻が並んでいて中には蝙蝠が飛び交ったり、オポッサムの類が怯えた眼でこちらを見ながら歩き回ったりしていた。外には眩しいまでの陽光があふれているというのに、|暗《くら》ぼったい赤色光の部屋は、ひどく残忍な拷問室を見るようで、貴は匆々にそこを離れた。夜になったら、ここでは反対に白色光を点して動物たちを眠らせるのだろうか。何だか、自分までが追われはじめたような気がする。狩人たちのしのびやかな跫音や、執拗な犬の追跡が、もうすぐそこまで近寄ってきたように思える。
ライオン園の柵のところで、向うから来た十六、七の少女が無邪気に手をあげた。
「ハーイ」
「ハーイ」
柄物のシャツに大きなベルトをしめ、白いパンタロンを穿いている。髪を栗いろに染め、幼稚な化粧をしている。フーテンだなと貴は思った。
「見たのか、ライオン園」
「ううん」
「一緒に見ようか」
「見たくないや」
「どうして」
少女は黙って顎をしゃくった。なるほど、ここから見おろしただけでも、ライオンたちは四月の陽気にぐったりし、ほとんど寝そべってばかりいる。檻付きのバスが通りかかっても、たまに一頭が眼もくれず前を横切るくらいのことで、吠えかかったり飛びついたりというスリルは、まず味わえそうもない。
「下にライオンの写真が出てるよ。みんな鼻に引掻き傷があってさ、餓鬼大将みたいな、いじめられっ子みたいな、へんな顔」
そんなことをいっている少女を連れて、貴はさらに山の奥めいた道を辿った。もう少し行くと、鷲のいる檻があるらしい。前に来たときも、美しいと思ったのは尾白鷲ぐらいのものだった。かれらは決して地上の人間どもなどに気を取られない。ひろびろとした檻の中でも、いちばんの高みの梢に羽を休め、じっと空の気配を窺っている。その鋭い、確信にみちた眼は、もうすぐ仲間たちの救援の羽ばたきが聞えてくることを、少しも疑ぐっていないようだ。
鷲をしばらく眺めてから貴は、ガムばかり噛んでいる少女と、兄妹のようにどこまでも歩いた。裏門のところにも行ってみたが、もう山羊の檻もなく、小さなワラビーが走り回っているだけで、もとよりオオハシもいなかった。きっとすばらしい嘘を思い出して、南米の森に飛んで帰り、仲間たちと眼玉をパチクリさせながら法螺の吹きくらべをやっているのだろう。貴がそうやってやみくもに歩き回っているのは、どこか早く人眼につかない洞のようなところを見つけて、いちど思い切って裸になってみたい衝動が、しだいに強まってきたからでもあった。だが、その前にこの少女に、何といって説明したらいいだろう。
「どこか、絶対に人のこないとこってないかなあ」
貴はそういって嘆息した。
「どうして?」
それには答えずに訊き返した。
「君はニンフって知ってるかい」
「知ってるよ。高校んとき、お芝居でやったもの」
「裸で出たのかい」
「バカいってら。ネグリジェ着てやったよ」
「じゃあ、牧神てのも知ってるだろ」
「ボクシン? ああ、あれ。山羊のおじいさん」
「おじいさんてことはないけど」
どっちへ行こうというように、ちょっと立止ってから、貴は少女の手を引いて、灌木の間に続いている細い径に入った。木立に隠れてだいぶ奥へ入りこんでから、ようやく一息に、だがやはり掠れた声になっていった。
「オレは実は牧神なんだよ」
少女が黙っているので、貴はふりむいてつけ加えた。
「近寄ってごらん。なんだかチーズみたいな匂いがするから」
「そんなの、平気さ」
少女はまだガムを噛みながらいった。
「あたいだって、もう何日もお風呂に入ってないもの」
「違うんだよ」
貴はいらだち、まじめな顔で告げた。
「ほんとうなんだ。ホラ、触ってごらん。頭に角が生えてるだろう」
そこにしゃがんで頭を突き出すと、少女は盲目になったように両手を差し出して、宙をまさぐった。それからようやく頭をつかまえて、二本の角に触れた。
「あらいやだ。ほんとに生えてるのね」
「そうさ。もっといいものを見せてやるよ」
細い径はしばらく暗い梢の重なりの下をすぎ、それからふいに円形の芝生になった小さい広場へ出た。人声も足音も遠く離れ、ここなら誰に見られる心配もなさそうだった。
「眼をつぶってろよ。いいか、よしっていうまで、あけちゃダメだぞ」
コートを脱ぎ棄て、シャツをむしり取り、貴は水浴びをする前のような手早さで、着ているものすべてをそこへ払い落した。靴下をとって二つに割れた蹄を見たときは、ちょっと哀しい気がしたが、それよりもこの青空の下で、生れながらの本当の姿に還れた喜びのほうが大きかった。下半身には長い毛が垂れさがって、大事なところはすっかり隠してくれているのが救いだった。
「よし、眼をあけていいよ」
それまで少女が確かに眼をつぶっていたかどうかは判らないが、うしろで無邪気な嘆声があがった。
「どうした、気味が悪いかい」
「ううん、とっても綺麗」
少女が近づいてきて、手をのばして触っているのが判った。
「これが尻尾なんだね」
「ああ、でもオレには見えないんだ」
少女はしばらくその短い突起物を、優しい手で撫で回していたが、ふいに思いつめたような声でいった。
「あたいも裸になっちゃおうかな」
「そうしろよ。ニンフはみんな裸だぜ」
「こっちを見ちゃ、いやだよ」
「見るもんか」
実際、見ることは不可能だった。少女の声はいつも背後からしたし、衣ずれの気配でニンフさながらの美しい裸になったことが判ったあとでも、首をめぐらしたときには、もう相手はすばやくうしろへ廻っていたからである。そのことはしかし貴には、まだ若干不満でないことはなかった。……
ふたりはしばらく、自由に軽快にそこいらを跳ね回った。芝生の生えた円形の小広場は細い径つづきでもう一つあることが判り、そこには水浴びに必要な小さな泉もあったし、木の切り株もあった。休息のためらしい丸太小屋も見つかったが、その戸はいくら押してもあかなかった。
「ダメよ。夕方にならなきゃ入れないのよ」
少女はまるで初めから知っていたように、そんなことをいった。そして、もっと不思議なことには、ふたりが広場から向うに出ようとすると、眼に見えない強い力で押し返されるように、そこには何かが遮っているらしかった。もとの広場へ戻ってみてもそれは同じで、ふたりが脱ぎ棄てた筈の衣服も、どうしてだかどこにも見当らない。束の間、貴には、罠にかかったような気持が胸を掠め、まだ見物人もいない新しい檻の中に自分がとじこめられた不安に怯えたが、それもすぐきらめく陽光と水と緑の木立の中に、あとかたもなく融けた。笑いながら尻尾を掴まえにくるニンフを追い回す生活が、楽しくてならなくなっていた。……
こういうわけでT**自然動物園には、新しく牧神とニンフの放し飼いになっている場所があることはあるのだが、それはまだ誰でも行って見れるわけではない。そこへ行くには、まずプシュウドモナス・デスモリチカというあの呪文を唱え、そう、それから………………
[#改ページ]
薔薇の夜を旅するとき
車椅子≠フ男のところへ、白人女≠ゥら電話がかかった。
「ごぞんじかしら、多摩川べりのG**薔薇園。あれが、この五月いっぱいで閉鎖になるの」
「どうして」
「役に立たないから、つぶして自動車の教習場にするんですって。放っておけることじゃないわ。御一緒に、見に行きましょう」
黙っていると、
「三時に車でお迎えにあがってよ」
そういって、電話を切った。
男は、ふたたび車椅子の中に凭れこんだ。
外側から薔薇を眺めるなどという大それた興味を、男はもう抱いてはいなかった。暗黒の腐土の中に生きながら埋められ、薔薇の根の|恣《ほしいまま》な愛撫と刑罰とをこもごもに味わうならばともかく、僭越にも養い親のようなふるまいをみせることが許されようか。地上の薔薇愛好家と称する人びとがするように、庭土に植えたその樹に薬剤を撒いたり油虫をつぶしたり、あるいは日当りと水はけに気を配ったりというたぐいの奉仕をする身分ではとうていない。まして自分で交配した種子を砂地にまき、クリリウムの何パーセントの処理土が発根に適切かなどと呟く園芸家、さらには書斎いちめんに文献をひろげ、ガリカやダマスクの昔から系統を探り、もしくは実験室で顕微鏡を覗いて、ペラルゴニジンとシアニジン系の色素の微妙な差異を定着させようとする学者などの仕事は、思っても身ぶるいの出るほど奇怪な作業といえないだろうか。
将来、それらのいっさいは、精巧を極めたアンドロイドが、銀いろの鋼鉄の腕を光らせながら無表情に行えばよいことで、人間はみな時を定めて薔薇の飼料となるべく栄養を与えられ、やがて成長ののち全裸に剥かれて土中に降ろされることだけが、男の願望であり成人の儀式でもあった。地下深くに息をつめて、巨大な薔薇の根の尖端がしなやかに巻きついてくるのを待つほどの倖せがあろうか。うずくまり、眼を瞑って、その触手のかすかなそよぎが次第にきつく厳しく裸身をいましめてゆく、栄光の一瞬。これほどの高貴な方が、この醜い、下賤な奴隷に手ずから触れて下さるのだ。最後の最後まで意識は鮮明に保たれ、すでに半ば融けかかりながらも、いまのいま肥料として吸いあげられてゆく至福の刻。
根圧と蒸散作用の働くまま、導管と|篩《し》管の緑いろのエレベーターを自在に上下し、薔薇の内部を旅するとき、外側からだけ眺めてその美を讃えていた愚昧がはっきりする。細胞の一部に変じながらも、運よく緑の茎を最上階まで昇りつめて、花弁の構成分子となるよう命じられたとするなら、それはちょうど高層ビルの屋上に立って淡い色の天蓋を、空いちめんに張りめぐらされた光の薄膜を、それもオレンジや黄の|暈《ぼかし》に包まれた美しさを仰ぎ見るようなものだろう。ここは花の内部なのだ。柔らかな日光が照り翳りするたび心はときめき、眩しさと晴れがましさとのなかで、花の内部に住む楽しさを満喫できるに違いない。そのためにも早く、役立たずな肉身は地下に横たえ、暗い根の執拗なまで淫らな愛撫に身をまかせていたかった。
|TANTUS《なべての》 |AMOR《愛を》 |RADICORUM《根に!》
車椅子の中に深く凭れこんで、容易に立上ろうとしない男を、白人女≠ヘいくぶん輿味本位に、またいくらかは真剣に、母性本能めいた残酷さで、外へ、現実社会へつれ出そうと考えているらしかった。白人女≠ニいう呼び名は、そうした強引さ・性急さがいくらか煩わしく思えるときの男のひそかな呟きだが、車椅子≠ニいう、それに対する女の批評のほうが、より鋭く当っていたかも知れない。四肢の不自由さではなく、思考の不自由さを揶揄した言葉だが、薔薇の外ではなく内を、花ではなく根を愛する男にとっては、書斎の中でその車椅子をひとり漕いでいるときのほうが、はるかに自由な天地に遊ぶ思いが、するのだった。
女のプジョオは、正確に三時に着いた。ふきげんそうな男を積みこんで、かまわず出発する。|玉川《たまがわ》通りを左に折れて、川堤沿いの道に出ると、日曜のせいで、もうほとんど行き交う車もない。遠く第三京浜の長大な鉄橋が見え、糸杉が並ぶこのあたりは、どこか日本ばなれがして、東欧へんの小さな町を疾駆しているような気がしてくる。
「国境が近いな」
「そうなの」
女が応じる。
「なんとか全速力で脱出しなくちゃ、ね」
いま車を走らせてゆくこの先に、たちまち三、四人の異国の兵士が銃を持って飛び出し、くちぐちに判らぬことを叫びながら馳せ寄ってくる束の間の幻影。だが、お目当てのG**薔薇園は、こともなく平和に、遊園地の向うに見え始めていた。
何千坪かのひろがりの中で、色とりどりに咲き乱れる薔薇群を見渡しながら、男はつとめて憂鬱そうに眉をしかめた。たかがこれは外≠フ風景ではないか。薔薇の内部の、この世ならぬ神秘な眺めは、暗い書斎の中でしか味わえないのだ。どれほど多くの花を見たところで、その外側にいる限り薔薇を知ったことにはならない。かれらの穏やかな秩序を敬愛し、その神殿に心身とも捧げる気持になって初めて果される交信。動物はまず自分らが、いかに不潔で下等な生物かを自覚すべきなのだ。色彩と香気とによって語られる薔薇たちの会話を、眼とか鼻とかいう低俗な器官が、どうして聞きわけられよう。いっそのこと動物は動物らしく、薔薇の花びらをサラダのように食べてしまったほうが、まだしももののはずみで、一語くらいは理解できるかも知れないのだが。……
そんなふうにそっぽを向いて、車椅子に戻りたがっているのをよそに、女は顔なじみらしい園丁に声をかけ、前にきたとき予約しておいた鉢が、いくつかまだそのまま埋めこまれているのを掘りおこす相談をしてから、ようやく、さあ、と促した。
「そんなお顔をなすっても駄目。きょうはどうしたってお見せしたいものがあるんですから」
肩をあらわにした、淡い水いろのクレープで、白のカーディガンを手にして歩き出すうしろに従いながら、男にはこの明るい五月の庭園が、やはり人並みに美しく思えることに苛立っていた。女のふるまいも、かぐわしい薔薇園の空気も、すべてがこうもこころよいとすれば、彼はやはりまっとうな人間、人間らしい人間という名の、なさけない小動物でしかない。その証拠に、なんという遺憾なことであろう、薔薇たちは外側から眺めても、ふしぎなまでに美しいのであった。
ベネチアングラスの杯を思わせ、透き徹る翅ほどに薄い桃いろの花片はラ・フランス。肉の厚いオレンジいろの花から、いきなりというふうに強い香を放つチガーヌ。この香は、まぎれもない刺客であった。濃緑の葉叢の中で深紅の風をそよがせているのはノクターンであろう。やや古風な大輪の黄薔薇、サンバーストやゴールデンレプチュアは、古城か廃園にふさわしい。それは雨に当って褪めかけたり、茶色くすがれたりしていても、なおひとつひとつが|譚詩《バラード》を語りやめなかった。女に命じられたのか、さっきの若い園丁が距離をおいて、つかず離れずといった形でついてくるのは知っていたが、それも気にならないほどに男は、ペルシアンイエローの傍ではジャルダン・マルメゾンの奥庭に佇み、サム・マクレディの前ではキウガーデンの一角で足をとめているような錯覚を楽しんでいた。
「お見せしたいものは、いちばん奥にあるのよ」
ふいに女は囁くようにいった。
もうそこはこの薔薇園でも入口から遠く離れたところで、初めからまばらだった入場者たちは、一人も姿を見せない。
「こっち。ほかの花はまだいいとしても、これがローラーで轢きつぶされて自動車の教習場になるなんて、どうしてもがまんできないの」
そういいながら身をひるがえすと、まったく突然に、ある巨大な何物かが眼の前にわだかまって見えた。点々と白い炎を噴きあげている、それが花だと判るには、その全容はあまりに大きすぎた。
「フラウ・カール・ドルシュキー。ほんとうの白薔薇といったら、これだけじゃないかしら」
日本名は不二。一九〇〇年、ランベルトによって作出され、二十世紀の開幕を告げるというより、古き艮き時代のすべてを身にまとった白薔薇の女王だとは後で聞いたことで、男の前にあるのは、得体の知れぬ何物かだった。丈高い数本の株立ちから、さらに強靭な蔓が縦横に伸び、こんなにも奔放に枝を張りめぐらしていいのかと思うほど熾んな樹勢が、まず男をおどろかした。それ自身がひとつの森のような威容を持ちながら、その全体になんともつかぬ寂蓼感が漂っているのは、どんな理由によるのであろう。咲きがけには仄かな紅を残しているが、開ききった花は、純白といってもこれほどの眼に沁みる白は、決してこの世にはあり得ないと思われるほどだった。それでいてその花群れから滲み出てくるのは、豪奢とか華麗とかの形容には遠い、もうとうに滅んでしまったものの哀歌に似ていた。これが薔薇といえるだろうか。
白い|墓窖《ぼこう》。
唐突にそう思い当って、男はようやく納得した。この巨大な白薔薇の一群は、それ自体が墓なのだ。今年限りで終りという運命をいちはやく知って、刻々に死に近づいてゆく装いをみずから続けてきたに違いない。といって、これほどの壮大な薔薇を、この五月を最後に終らせようなどという大それた考えは、いったいどこの誰が、どんな資格で持ち得るというのだろう。
跫音もなく、すぐうしろまで近寄っていた園丁に、女が声をかけた。
「ねえ、ここの薔薇を、全部が全部ブルドーザーで轢きつぶすわけじゃないんでしょう。これだけでも、なんとかして移せないのかしら」
園丁は日焼けした顔で、ひどく恐縮したように答えた。
「ハア、しかし、これぐらいになりますと、もう大型トラックにも積めないほど根が張っておりますもんで」
それはおそらくそのとおりであろう。男はあらためて、ようやく夕翳に沈もうとしている薔薇園の全景を見渡した。長い年月を咲き継いできたこの薔薇の群れは、ある日ふいに何者かの指令によって、鉄の固まりに|薙《な》ぎ倒され、押しつぶされる。土の下深くで息づいていた根までが無残に切断され、念入りに|篩《ふるい》にかけられて|地均《じなら》しされたあと、上いちめんにコンクリートが流されてゆくだろう。万一、僥倖に地下で生き残った根があったとしても、それで完全に息をとめられてしまう。このおびただしい薔薇はすべて記憶に変り、幻の残骸として埋め尽され、すっかり舗装ができあがったあとは、さまざまな形に教習場のコースが作られ、瀟洒なバンガローふうな事務所も建ち、やがて明るい色に塗られた練習用の車が走り出す。そこここに貼り出されるポスターが謳うように、川風の薫る、明るく広い快適な教習場が現出し、むらがるのは無心な、屈託もない若者たちだ。……
気がつくと、女は園丁にこう頼んでいた。
「それじゃあ、このフラウ・カール・ドルシュキーを、三本ばかり截って下さらない? うちへ持って帰って、つくかどうかやってみますから。いいえ、なんとしてでもつけなくちゃ、ね」
それから、沈んだ声で男にいった。
「三十本の白薔薇を飾って、今夜あなたのところでお通夜をしましょう」
立去る前に、男はもう一度この女王をふり仰いだ。それはまさしく白い墓窖であり、同時にひとつの王朝の終焉を、その歴史をさながらに映し出しているようだった。
夜、男の書斎に、あるだけの花瓶と、アイスペールまで持ち出して花を挿し終えると、二人は向き合ってしばらく黙った。灯の下で花はまた白さを増した。
「帰りの車でおっしゃっていた、教習場を狙い撃ちするお話、ね」
女が笑みを含んだ口調でいい出した。
「おもしろいけれど、でもどうして過去からの弾丸≠ナなくちゃいけないの? 本当に計画しましょうよ」
過去からの弾丸=Aというのは、未来の教習場風景を思い描いていて浮かんだことだが、来年の三月か、あるいは早くて今年の秋か、いずれにしろ川風の薫るそこで、無心に運転を習っている若者の脚に、どこからともなく飛来する銃弾があってもいいという考えからだった。若者ばかりではない、教習場の所長室にも、あるいは本社のお歴々のところにも、一様にその見えない弾丸は、襲い、つらぬく。窓もドアも閉まったなりの重役室で、その革椅子にそっくり返っている生物をふいに貫通するものがあるとするなら、それは過去からの弾丸=Aいま現在、未来へ向けて発射されるべき薔薇の怨念だろうというのが男の考えだったが、白人女≠ヘもう少し現実的だった。
「そんな生ぬるいことで、彼らが何を感じるものですか。やるんなら、あそこが教習場として発足するその開所式当日に、いちばんのお偉方を狙って本当に撃たなくちゃ。どうせ連中は、胸に造花の白バラでもつけて、もったいぶって祝辞を読むでしょう。自分がどれほど大それた犯罪を犯したか、まるで気がつきもしないでね。その胸の白バラを狙って撃てば、まず外れっこないわ。本物の薔薇が、贋物のバラを襲うんですもの」
「胸を狙うのかい」
すこし心配になって、そういおうと思ったが、やめた。三十本の白薔薇に飾られた夜は、いかにも殺人計画にふさわしい。それに、白人女≠ニいう呼び名のとおり、どことなく革のブーツを穿き、革の鞭を持った猛獣使いがふさわしいこの女は、実行力にかけては車椅子≠フ男の比ではなかった。
「あたくしのクレーの腕は、ごぞんじでしょう。性能のいい狙撃銃が手に入るかどうかは判りませんけれど、もうトラップなんてまどろこしいことをやっていられないわ。開所式のあるまでに、みっちりラピッドファイヤの練習をするつもりよ。正確に、一発でそのけだものを仕留められるように。そしてむろん、その造花の白のバラが真赤に染まるのが見えたら、あとは掴まっても何しても平気。むろん銃と弾丸という、のっぴきらない証拠があることですから、すぐにも起訴されてたいへんな騒ぎになることでしょう。ただ、そうなっても、絶対に最後まで犯行を否認し続けるの。誰かひとりでも、動機をいい当ててくれるまでは。あたくしがこうして、フラウ・カール・ドルシュキーの遺児たちを育てていることを知ってくれるまでは。……」
そう、それなら、と男も思った。あの偉大な女王に最後の拝謁を仰せつかった身として、忠実な臣下であることを誓うのに、なんの否やがあろう。再興しようとしているのは、美の王朝≠ノほかならないのだから。滅んでゆこうとしているのは、ただ一樹の薔薇ではないのだから。車椅子≠出て、自分の二本の脚で立つときがようやく来たのだ。
三十人のいとけない王子と王女を囲んで、白い沈黙が続いた。
………………………………………………
「これがたぶん、一番その理由に近いと思うのですよ。つまり二人は、薔薇の夜を旅したのです」
語り終えて、流薔園の院長は、なお寂しそうだった。私がかねてから、白人女≠ニ車椅子≠フ男と呼ばれる二人が、ここへ来るに到った理由を聞かせて欲しいと頼んでいたからである。
「実際にG**薔薇園が閉鎖されたのは三年前のことで、また実際にあの二人は、十二月の開所式にライフルを持ってのりこんだからです。弾丸は一発だけ射たれ、空しく初冬の青空に流れて、誰も傷つけはしませんでした。むろんそこに集まったお歴々は、自分の胸につけている白バラが、犯した覚えもない犯行の目印だなぞと気がつきもしなかった。薔薇がバラに復讐するなんて、聞いたこともない話ですからね。ですから、真相が明らかになりかけたときの驚きようといったらなく、とんでもない不祥事として揉み消しにかかったんです。警察でも殺人未遂で起訴するなど思いもよらず、銃砲不法所持ぐらいで片づけたかったのでしょうが、話がこじれて精神鑑定ということになり、二人に逢ったというわけです」
それはむろん、世間ふつうにいう狂気とは異なったものに違いない。ひとりは外部を、ひとりは内部を、ともに薔薇の夜を旅して、ともに|人外《にんがい》と呼ばれる異次元へ、この流薔園へ辿り着いただけのことだ。私は訊ねた。
「で、二人はその後どうなんですか」
「ええ、いつも一緒に暮しています。もう二度と離れることはないでしょう」
院長は妙な笑い方をした。
「じゃあそのフラウ・カール・ドルシュキーの三十人の遺児たちはどうしました」
「むろん一緒にここへ引取りましたよ。元気に育って、ちょうどいまいちめんに咲いています。御案内しましょうか」
「どうぞ、ぜひ」
院長につれられて、私は宏大な薔薇園の門をくぐった。色彩のシャワーが降りそそぎ、色彩幻覚のトリップが始まる。かねて話に聞いているとおりならば、車椅子≠フ男の薔薇の根への偏愛はいよいよ深まり、その褐色のひげ根に巻かれる喜びを白人女≠ノも教えこんだところであろう。
薔薇園の奥に、女王の遺児たちはかたまり合って白い合唱曲を流していた。みごとな成長ぶりである。三十本全部がうまく根づいたのだろうか。私は、順番に、ゆっくりと数えていった。しかし、どう数え直しても、その白薔薇は三十一本あった。
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邪 眼
白い病室である。天井も壁も窓も、その窓の鉄格子さえ白一色の部屋で、純白のシーツに蔽われたベッドにも白い睡りがあった。昏睡を続ける青年を囲んで、白衣を着た三人の男が、影のように立ちつくしていた。彼らにとってこの青年はいわば名づけようもない患者であった。分裂症の治療を受けていたには違いないが、その昏睡は薬物や電気のショックによるものでけなく、ある白昼、突然に訪れた。そのとき彼は医師の質問にも答えず、ただひたすら雲母を貼りつめたような六月の曇り空を見つめ続けていたのだが、まったく不意に、あたかもそこに浮かんでいる巨大な邪眼に魅入られでもしたのか、すさまじい恐怖の表情をみせたかと思うと、水鳥の叫びに似た一声をあげてそのまま昏倒した。その瞬間から睡りは彼を包み、長く彼を蝕んだのである。
Evil eye.
といって、そのとき彼が何を見たのか、その後どのような夢魔に寄り添われているのか何ひとつ手がかりはなかったのだが、覚醒のためのあらゆる努力を斥けて日は過ぎた。だが、ようやく一年ほど前から、その唇はきれぎれな言葉を呟くようになった。克明にノートにとってみると、それは断片的ながら、ひとつびとつが短い物語の態をなしてい、さながら睡りの井戸の底から吹きあげてくる冷たい黒い風めいて、彼の陥ち込んだ夢魔の世界をかつがつに伝えていた。
妄想の源になっているのは、流薔園と名づけられた精神病院で、どうやら彼はそこの院長から、患者ひとりひとりの経歴を聞かされているつもりらしい。つまりこの青年の妄想には、架空の病院の、架空の患者の妄想が二重三重にからみついているので、しかもその話には奇妙な省略があって、なぜその話の主人公が流薔園へくることになったかについては、わざとのように伏せられていた。たとえば公園での老人と子供の話では、古井戸が曝かれたとき中に死体は一つしかなかった、というたぐいである。しかしその話のようすから推すと、ようやく彼が夢魔の手を逃れて、ふたたび地上に戻ろうとしている――今日明日にも覚めかかっているということが、病院側にも察しられた。
「ぼくには、かれが眼を覚ますということのほうが恐いね」
白衣を着た三人の中のひとりが、ぼそぼそとくぐもったような声でいった。
「知ってるだろう、『鏡の国のアリス』って童話。あの中でアリスが、お前は赤の王様の夢なんだよといわれて、けんめいに反対するのが判るような気特なんだ。ぼくたちみんなが、この青年の夢だったら、どうする。そして、もしかれが眼を覚ましたとしたら……」
「つまり、かれが眼を覚ますと同時に、おれたち三人とも、蝋燭みたいに吹き消されっちまうというわけかね、 Bang! てなぐあいに」
もうひとりが、皮肉な笑いで応じた。
「大丈夫さ。かれが夢見ているのは、流薔園とかいう、ありもしない精神病院だろう。そっちは消えるかも知れないが、こっちはあいにくと健在さ。つまりかれは、眼を覚ますと同時に、架空から現実の精神病院へお引越しになるんだ。向うと違って、こっちじゃ勝手に外へ出るわけにはゆかんから、永久にこの病院の名前は判りっこないよ」
「そうだろうか」
ぼそぼそ声は、まだ不安そうにいった。
「この病院の名を、最後まで気がつかれずに済むと思うかい」
「教えなきゃいいじゃないか」
皮肉屋はこともなく答えた。
「なにより逃げ出さないように、よく見張ることだ。もっとも、かりに病院の外へ出て、門のところであの古ぼけた、大きな木札を眺めたら、誰だってもう一度……」
「しーっ」
それまで黙っていた年かさの男が制した。
「そろそろ始まるぞ。用意はいいのか。これが終ったら、いよいよ覚醒だからな」
話し始める前、いつもしていたように、青年はシーツの中で苦しげに身をよじった。それは丹念に布に巻かれたミイラが蠢き出すような印象を与えた。唇はのろのろとうごき、不明瞭な音声が洩れ始めた。
………………………………………………
門の前には、まだあの暗緑色に塗られた護送用の自動車がとまっているのだろうか。窓のない箱型の車に押しこまれてここへ運ばれるあいだ、おれは自分が玩具箱の中の古い玩具のように思えてならなかった。壊れたがらがらか、塗りの剥げた積み木。手足のもげた人形を入院させる人形の病院がどこかにあると聞いたが、そのうち、ませた子供は、自分の人形が気が狂ったと思いこみ、どうしても人形の脳病院を探してくれといいだすことだろう。ガラスの眼玉をとほんと光らせているだけの気違い人形。それがおれなのだ。
「ねえママ、あたいのブッチイ、また頭がおかしくなったの。見てやってえ」
「また悪くなったの? いけないブッチイだことねえ」
初めのころはひどく気味わるがったママも、このごろは慣れてしまって、気休めに人形の頭をなでてみたり、ガラスの眼玉を透かしたりするけれども、それで子供が満足するわけがないことは承知している。
「それじゃ、また叔父ちゃまに手術していただきましょうね。叔父ちゃま、お二階にいるかな」
そういってママが呼びにいっているあいだ、女の子は残忍な期待に胸をふくらませ、狂った人形を見つめている。ブッチイと呼ばれているおれは、腹話術師が抱えて歩くような男の子に作られていて、頬の肉がまるく盛りあがり、唇を歪めて、いつでも奇妙な忍び笑いを洩らしているみたいな表情を崩せないでいるが、こころは憎悪に煮えたぎっていた。
「さあ、ブッチイちゃん、またシジツしていただくのよ。嬉しいでしょ」
狂っているのはおれではない。少なくとも二十世紀までは、こんなことをいう人間のほうを、たとえ子供であっても入院させたものだが、今世紀の初め、なんとかいう博士の奇妙な論文が出て以来、人形がその代役をすることになった。しかも、おれのように、生きている人形が。――
「どれどれ、どんな具合だね」
二階から降りてきた、叔父ちゃまと呼ばれる若い男は、そんなことをいいながら、いそいそと白衣を着こみ、くろぐろとしたつけ髭を鼻の下に貼りつけた。これは彼らが楽しんでするお医者さまごっこの服装である。それにしてもその顔は、なんと、かつておれの夢みていた流薔園の院長に似ていることだろう。
電気メスが取り出され、もう前に何度もあけられたこめかみの骨が切り取られる。ロボトミーという古い脳手術が、彼らのお気に入りの様式だった。こめかみに一センチ角ほどの穴をあけ、そこからへら[#「へら」に傍点]で僅かばかりの脳みそをかき出すあいだ、おれがどれほどの苦痛を味わうか、女の子は眼を輝かして見守っていた。しかもそれに堪えながら、なおおれは、腹話術師の人形らしく、テープを逆廻しするような早口で、おれの眼前に浮かんでくる幻覚について喋り続けねばならなかった。
おれが見ているのは広い浴室で、昔の風呂屋に似ていた。風呂屋といっても彼らは知るまいが、いたずらに天井の高いそこいちめん湯気が立ちこめている。タイル張りの大きな浴槽に浸っているのは、しかし人間ではなく、何頭かの馬であった。濛々と噴き出す蒸気に、馬たちは唸り声をあげ、脂汗を流してのたうっていた。その外には、三助ふうの恰好をした男が鞭を持って突立ち、冷酷な横顔を見せながら馬の看視をしている。そしておれはといえば、他の数人の男とともに、素裸でそこへ引きすえられ、おずおずと順番を待っているのだった。
順番を? そのとき、ようやくおれは気づいた。浴槽の中にいるのは、ほんものの馬ではなく、馬の皮を被せられた人間なのだ。彼らはこのおれと同じように、考えてはならぬことを考えた罰として、地上にふさわしくない思考者として、ひとりひとり馬の皮の中に入れられ、熱湯に浸けられているのであった。時間が来た。息も絶え絶えに赤茹でにされた彼らが引き出され、代りに鞭で追い立てられて、おれは湿ってじとじとする馬の皮の中に閉じこめられた。皮の匂いと熱気の籠った、そこは暗い洞窟だ。すでに下肢は灼けるように熱い。反抗する気力もなしに眼をとじながら、おれは、なぜ戦争中あんなにもおびただしい馬がいたのか、やっと判ったような気になった。あれらはすべて人間の変形にほかならず、あれこそミリタリストの陰謀だった!
激しい耳鳴りと息苦しさの中でもがきながら、おれの気力は尽きかけていた。斃れる前に、別な幻覚がおれを救った。いつ赦されたのだろう、おれの傍には、まだ少女めく妻が裸身のまま横たわり、柔らかくおれを受け入れようとしていた。おれもまたさっきのままの裸で、ああやっと帰れたんだと思いながら妻を抱いた。その唇に、思いのたけを捺し当てようとした。だが何ということだろう、おれの抱いていたのは女ではなく、同じように柔らかく白い腹部を持った、巨大な盲目の蛙にほかならなかった。そしてこれまでも、一度だって女は妻だったためしはなく、いつでも盲目の蛙であり、黒い眼玉をつなげたようなぬるぬるの卵を産み続けていることにもっと早く気がつくべきだったのだ。……
「だめよ、ブッチイ、そんなお話をしちゃダメ」
ふいに女の子の声が耳もとでした。小さなこぶしをふり廻して話をやめさせようとしている姿が、ついで眼に映った。ロボトミーの手術は、どうやら終ったらしい。叔父ちゃまなる若い男は、まだ白衣のまま、憎悪と冷笑にみちた眼でおれを眺めている。それはもうまぎれもない、流薔園の院長そのひとであった。ああ、なぜもっと早く気がつかなかったのだろう、あいつは患者たちみんなから少しずつ脳みそをかきとり、それを薔薇の肥料にしていたに違いないのだ。でなくて、どうしてあの薔薇たちは、あんなにも美しく咲くわけはないのに。そのあげく廃人になった患者たちみんなを人形に改造し、生きている玩具として売りに出した。おれの脳に注入された記憶は誰のものなのか、もう判然とはしないけれど、その告発だけは最後まで続けることが出来る。おれが流薔園に放火し、みごとに炎上するあの建物に手を拍いたのは、まったく正しいことだったのだ。だのに院長だけは巧みに逃げだして、まだこんなところに生きのびているのか。
「お黙り、ブッチイたら。黙らないとお口をつねるわよ」
女の子はまだそんなことをいっている。おれはなんにも喋っていやしないのに。一瞬、奇異な思いがして、おれはガラスの眼玉をぐるりと廻し、あたりの気配をうかがった。そう、たしかに喋り続ける声だけがしている。それは|口迅《くちど》な、意味もよく聞きとれない話しぶりだが、呪咀と怨念にみちていることだけは判った。何を綿々と訴え続けているのか、いったい誰が喋っているのだろう。耳を澄まそうとするおれに、叔父ちゃまの毒々しい笑いが響いた。
「いいんだよ、ブッチイにもうひとつ口をつけてやったんだから。みてごらん、顎の下んとこ。これでもうブッチイは、心に思っていることを何にも隠せなくなったんだ。何でも喋ってしまうからね、聞いていて変なことをいったら、思いきり懲らしめておやり」
初めて声の主と、その綿々とした訴えの内容を理解したおれは、また初めてガラスの眼玉から滂沱として涙が流れ出るのを感じた。こんなにされてまで、まだ生きてゆかなければいけないのか。涙に曇ってぼやけた視界に、救いのように浮かんでいるのは、暗緑の箱型自動車だった。灰いろの風が吹きぬける門の前に、あれはいったいいつまでとまっているつもりなのだろう。それから、髪の毛の焼け焦げたようなこの匂いは何なのか。ふと手をやって、剃り上げられた坊主頭に触れたおれは、たちまち何をされたのか、はっきりと判った。おれはいつものとおり電撃療法を受け、獣さながらに吠え狂って、床の上をのたうち廻ったに違いない。女の子も腹話術の人形も、すべてその間の幻覚だった。……
「さあ、もう泣かなくていい」
いつもの老先生が優しく肩を叩いた。
「これで君は帰れるんだ。治療はすんだよ。どうかね。よっぽど頭がすっきりしたような気がするだろう」
泣きじゃくりながらおれはうなずいていた。頭がすっきりしたかどうか、そんなことはおれにとってどうでもいいことだ。いまはただあの緑の護送車にのってうちへ帰るだけが望みなんだから。といって、うちというのはどこのことだろう。どこに本当の「うち」があるというのか。そしてそこにまたあの意地悪な叔父ちゃまがいないと、確かにいいきれるのだろうか。
「いやです先生。帰りたくないんです」
おれは体を固くして拒もうとしたが、老先生の笑顔はたちまちうしろに遠のいて、代りに三人の屈強な看護夫が、手とり足とりおれを担ぎ出そうとする。おれは暴れた。しかしいくらもがいても、檻から檻へ移される獣以外の生き方が残されている筈はなかった。ふたたび護送車の扉はとじられ、わめき続けるおれをのせて、車はどことも知れぬ「うち」へ向かって走り出した。
………………………………………………
「さあ、いよいよ御帰還になるぜ」
語り終えて青年がみじろぎをやめると、白衣の皮肉屋は薄い唇を歪めた。坊主刈りの頭をしたこの男の眼の中に、ふいに凶悪なものがよぎった。
「箱型自動車か。自分が乗ってきたことだけは覚えてるんだよな」
「先生を呼んどいたほうがよくないか」
これも五分刈り頭のぼそぼそ声が心配そうにいった。
「なあに、暴れたって知れてらあ」
皮肉屋は太い腕を剥き出しにし、残忍な笑顔になった。
「手間暇かけやがって、この野郎」
「しかし、なんだな」
年かさの看護夫は、感慨深くいった。
「これが意識を恢復したら、早速ロボトミーの実験に使うことになっているんだが、どこで聞いてたのか、昏睡していてもそれだけは恐くて仕方がないというふうだったな」
「こんな野郎の脳みそは、みんなかき出しちまった方がお国のためですよ」
「でも、ずいぶん変なことをいっていた」
ぼそぼそ声は記憶を辿るように顔をしかめた。
「何か月前だったっけ、一九七一年がどうとかで、アメリカの大統領がケネディだとかニクソンだとか。あれはどういうつもりなんだろう」
「おおかた時間旅行でもしているつもりなのさ」
皮肉屋は気にもとめないふうで、
「あと三十年も経つと、アメリカにそんな野郎が出てくるかもしれないがね、そんなたわごとはともかく、ルーズベルトは三選されてからというもの、めっぽう強気で、着々戦争準備をしてるっていいますぜ。一発、鼻づらにぶちかましてやりやいいんだ」
「今年はいよいよやるらしい」
年かさはおもおもしく腕組みをした。
「これは極秘の情報だがね、軍が南方へ進駐しようというのを、|松岡《まつおか》ひとりが反対してるんで近く|近衛《このえ》が松岡追出し策をとるだろうって話だ。そうなりゃ敵さんも放っとかんさ。いよいよわしたちもお役に立つときがくる。なにしろアングロサクソン民族なんてのは、ここの連中よりよっぽどいかれたのばかりだからな、やり甲斐があるというものだ」
「でも、戦争になったら、これなんかどうなるんでしょうね」
まだ少し気がかりらしいようすで、最後までぼそぼそのふくみ声が訊ねた。
「なあに、自分でいっとったろうが。それ、あのチャーリー・マッカシーのような人形の顔に似せて、ついでに手術してやるさ。昭和十六年というこの非常時に頭がおかしくなるような奴には、それが似合いだ」
ベッドの上で、青年は静かに眼覚めかけていた。その瞼は、いま徐々に徐々にみひらかれ、ついに大きく、いっぱいに開ききった。
[#地付き]〈幻想博物館・完〉
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悪夢の骨牌
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目 次
I 玻璃の柩のこと並びに青年夢魔の館を訪れること
janvier 水仙の眠り
feurier アケロンの流れの涯てに
mars 暖かい墓
U ビーナスの翼のこと並びにアタランテ獅子に変ずること
avril 大星蝕の夜
mai ヨカナーンの夜
juin 青髯の夜
intermede 薔薇の獄 もしくは鳥の匂いのする少年
V 戦後に打上げられた花火のこと並びに凶のお|神籤《みくじ》のこと
juillet 緑の唇
aout 緑の時間
septembre 緑の訪問者
W 時間の獄のこと並びに車掌車の赤い尾灯のこと
octobre 廃屋を訪ねて
novemre 戦後よ、眠れ
decembre 闇の彼方へ
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水仙の眠り
新春の陽ざしは、金いろの恵みに充ちた。賀状の束を繰るうち、|藍沢《あいざわ》家からの一葉が混じっているのに気づいて、|木原《きはら》|直人《なおと》の胸は妖しく騒いだ。それも|瑠璃《るり》夫人の筆蹟で、午すぎからの賀宴にぜひ来て欲しいという招待状である。夫人といっても、夫の|惟之《これゆき》はすでにいない。心霊術師めいたその美貌はただならぬもので、月ごとに催される風変りなサロンの女主人として知られている。令嬢の|柚香《ゆのか》もまた、ドードーナの森に身をひそめ、梢のそよぎに耳を澄ます巫女の趣きがあり、一介の学究にすぎぬ直人にとってこの一葉は、甘美な異次元への誘いでもあった。ただ、旧臘、柚香の親友であり愛人とも思われていた二人の青年が相次いで失踪するという事件があり、直人もそのいきさつを知っているため、到底新年の祝宴は望めないと考えていたので、奇異な思いもしたが、それだけにいっそう心をときめかせて入念な身仕度をした。
|目黒《めぐろ》の高台にある藍沢邸は、通称灯台の家≠ナ知られている。坂の下から見上げると空中に浮かぶ巨船のようだが、中でも際立っているのは中央に聳える白亜の塔で、晩年、奇体な鬱病にかかって、いっさいの事業から手を退いてしまった藍沢惟之が、そこに引籠って星と夕焼を眺めるために建てたものだが、いかさま灯台としか見えない孤独なようすで残されている。そのひとはすでに亡いが、そこはまたたしかな狂者の檻であり、惟之はおそらくバイエルン国王ルードウィヒのように、心内の苦患に灼かれ、妄想の数々に苛まれながら、はかない星との交信を続けていたものであろう。その死とともに塔は鎖され、それ以来誰も昇った者はいない。邸内に入ってしまうと、頭上にそんな陰鬱な塔のあることはしばらく忘れられるが、それでも時折はそこへ昇ってゆく暗い螺旋階段が、幻のように思い浮かんだ。
いつもの広間には七、八人の先客がいて、めいめいグラスを手にしていた。新春の陽光はここにも柔らかく及んでいるが、一座の空気には何がなし重苦しいものが漂い、直人はそれをいぶかしんだ。瑠璃夫人は黒絹に銀糸のラメを織りこんだ服で、歩くたびそれは、あるときは燦めき、あるときは光を失った。柚香の姿は見えないが、直人がまずおどろかされたのは、広間のいたるところにおかれた壺で、ペルシア藍やボヘミアングラスや仁清や、色も形もさまざまなそれに差されているのは、ことごとくが白水仙であった。香い立つというほどではないが、これほどの花の群れに囲まれていると、どこか息苦しい。
先客のほとんどはサロンの常連で顔見知りだが、中には初めてのひともいる。いつもなら扇と微笑に添えて紹介を怠らない夫人が、どこかよそよそしい顔で立っているので、直人は自分から近づいた。
「きょうはいつもよりお客様が少ないようですね。もっとも、お正月にお招きいただいたのは、ぼくも初めてですが」
「ええ、ちょうど十人の方だけお呼びしましたの。あと、お一人。ああ、お見えになったようね」
入ってきたのは、直人と同じ研究室にいる|野口《のぐち》だった。これまで一度もサロンに出たこともない彼が、なんで突然に呼ばれたのか、直人にも意外だったが、勝手が判らない不安顔で近寄ってきた野口は、夫人に挨拶をし終えても、なおとけきらないようすでいる。それを無視したように、夫人は直人に語りかけた。
「木原さんは、水仙はお嫌いでしたかしら」
「いいえ、嫌いじゃありません。ただ、変った趣向だなと思って」
「そう、たしかに変った趣向ね」
ふいに夫人の眼の中に閃くものがあった。
「水仙の花言葉は自己愛=Bでも、どうしてでしょう。ナルキッソスは呪われて水辺に斃れたんですもの、わたくしなら昏睡≠ニか眠り≠ニかにしたいくらいですわ」
その言葉に、かすかながらも毒が秘められているのを直人は感じた。同時に、きょうのパーティが、ただの新春の集まりではない、何ごとかの意図を秘めたものだということも、いち早く察しられた。案の定、夫人は、暮れに失踪した二人の青年の名を唐突に口にした。
「|深見《ふかみ》さんと|水島《みずしま》さんのことは、お二人ともごぞんじでしたわね。あなた方の研究室にもよく出入りされていたとか」
「ええ、それは」
口ごもりながら直人は答えた。学部は違うが、その二人が直人らの人類学教室を.いい遊び場所に心得てよく顔を見せていたのは確かなことだし、研究室全体にそんな雰囲気があふれているのも事実だった。
「それなら当然御承知ですわね。柚香がその方たちをこよなく愛していたことも、それからお二人が続けて失踪なすったことも。いいえ、失踪とは思えませんの、あの方たちは水仙の葉のように並んで眠りにおつきになった。きょうお集まりいただいたのは、そのことのためなんです」
夫人は身をひるがえした。突然に湧き出した密雲に太陽は蔽われたのであろう。朝からの明るい陽ざしは、そのときいきなり翳って、広間はひととき光を失った。それを合図のように正面の扉は左右に開かれ、そこには柚香の黒い喪服を着た立姿があった。
書類の束のようなものを手にし、声にならぬざわめきを立てている一座の中央にまで進み出ると、いつもの透きとおるほどに細い声が香烟のようにゆらぎ出た。
「きょうはようこそお越し下さいました。もうお判りいただけたと思いますけれど、ここにお集まり下さったのは、深見|悠介《ゆうすけ》と水島|滋男《しげお》の二人に関係の深い方ばかりでございます。そしてこの中のただお一人だけが、二人の失踪の真相をごぞんじでいらっしゃる……。いいえ、あたくしの推察で申しあげるのではなく、ここに水島さんからの手紙が届いておりますの。あたくし、それを読んでいただきたくて複写して参りました。どうか先にこれを皆様でお読み下さいまし。その上でどうか、二人がもし生きているとすればどこにいるのか、皆様で考えていただきとうございます」
柚香はあおじろい微笑を見せ、ひとりひとりに手にしていたものを配り始めた。そしてすっかり手渡し終えると、母とともに壁際の椅子に退き、静かに腰をおちつけた。しかしその眼は油断なくあたりを見廻し、銘々のどんな表情も見落すまいとつとめているのは明らかだった。
直人も硬ばった顔のまま、渡された何枚かの複写紙に眼を落した。
∴
その青年深見悠介の突然の失踪が伝えられたのは、師走のうすら寒い曇り日のことだった。もともと人に怯え物に怯え、扉を鎖して自分の部屋に籠ることの多い日常からいっても、失踪でも自殺でもあるいは静かな発狂でも、|人外《にんがい》という異境に容易に行きつくだろうと推察されていたが、家人の話では遺書めいたものも走り書きも何ひとつ書置きがないうえ、その夜はふだんどおりのベッドで眠ったらしく、ドアも内側から鍵を差したままだったという。昼をしばらくすぎて、いつものことながらもうそろそろ起こそうと母親が呼びに立ち、返事のないのをいぶかしんで窓をあけて覗いてみると、ベッドには皺の寄った白いシーツが乱れているばかりで青年の姿はなかった。といって持物や服は何ひとつ持ち出されていず、靴もスリッパもそのままとなると、思いつめての自殺行とか不意の旅立ちということも考えられない。せいぜい夜中に眠れぬままふらりと窓から庭に降りて散歩に出たぐらいの気配であったが、そのまま夕方になり夜になっても帰らぬことから急に家じゅうがあわただしく色めき立った。心当たりに次々と電話をかけたが消息もなく空しい一夜が流れ二夜が過ぎ、愁い顔で集まった友人たちも首をかしげるばかりだった。こうまでさりげなく姿を消すというのはよほど前々から計画を立て準備をすすめ、何くれと心を配らなくては出来ることではない。そしてもっとも親しい仲間たち、わけてもそのひとり、いまこれを書きすすめている水島滋男がひそかに心にうなずき確かな結論としたのは、これは決してありきたりの蒸発でも自殺旅行でもないという確信であった。その何よりの証拠はただ水島だけが読むことを許されたのだが、鍵がかけてあったとはいえ最近の深見の日記が机の抽出にそのまま残されていたという事実による。その内容をすべて公開することが彼の行方を知ることに繋がるものならば決してためらうものではないが、それはほとんどが架空の相手、まだ見ぬ相手に対するとりとめもない思慕の言葉に終始しており、青年同士の勘からいってことにも潔癖ではにかみ屋のかれが、こんなものをこのままおいて失踪するとは到底考えられないことであった。いくぶんか参考になると思われるのは夜ごとに彼を襲っていたらしい悪夢の詳細な記録で、それを読み返すたび水島の心の中に次第に大きくひろがってきたのは捜索願いの結果などは知れきっている、また全国のどんな変死者名簿にも入っている筈はない、なぜなら彼はもう地上のどこにもいず、それでいて決して死んだのではないという一事に尽きていた。この確信を裏書きするようにまぎれもない深見悠介の自筆の手紙が届いたのは失踪後一週間を経た今日である。その封筒に切手もなく局の消印もないということは、常識からいえば彼がどこか身近かなところに姿を隠してい、自身あるいは人に託してこれを郵便受けに投じたと考えることもできるが、あえてそう思いたくないまたどうしてもそうは思えないのは以下に示すその内容による。これを公表し併せて日記をも衆人の眼にさらして地上の捜索願いを打切るわけにゆかぬ理由、およびいまここにあわただしい走り書きのノートをつけてこれを藍沢柚香に送るいぶかしさもまた最後に納得されるに違いない。
……………………………………………
水島。
こんな手紙を出すべきか、どうか、ずいぶん迷った。おれがふいに姿を消し、なんの消息もないことを、君がどう解釈したか知らない。しかし、もうおそらく、君は唯一の正しい結論に達していると思う。そう、そのとおりだ。他の誰が信じなくてもいい、おれはいま夢魔の館≠ノいるのだ。
悪夢は、ほとんど血の味がする。
ベッドの上で、いっぱいに眼をみひらきながら、おれはひそかにその味を反芻した。舌は、塩からく苦いものを探り当てていた。
いま、灯りを点けるとともに、おれの腸に群がり寄っていた得体の知れぬ奴らが、ひどく慌てふためいて逃げ去るのを、おれは確かに見届けたのだ。その、影の群れ。小肥りに肥って矮小なそいつらは、ふいの灯りに醜くうろたえ、ころげるように四散して、壁やドアやカーテンの蔭に吸われていった。いったい、奴らは何をおれにしていたのだろう。眠るたび、灯を消すたびに忍び寄って、どんなにおぞましい行為をくりひろげていたのか。腐肉に群がるハイエナさながら、夢魔たちは夜ごとにこうしておれを犯し続けていたのだろうか。
後頭部の痺れがけだるく収まってゆくのを感じながら、おれは仰向けのまま躯を固くしていた。たったいま夢の中でおれに向かって激しい憎悪の言葉を吐き散らしていた水頭症の奇型児がこともなく消え失せ、いつもの部屋、いつものベッドの上で眼をみひらいているのが奇異でならなかった。石油ランプが熱すぎるといって、手を触れては跳びはねていたその侏儒。かれのうしろには暗い大きな町がひろがり、どこ行きとも知れぬ市街電車が、音もなく陰気に走っていた。そこは、まちがいなくおれの故郷だというのに、おれはまたこんな見知らぬベッドの上で眼覚めてしまったのだ。
そう気づくとともに、いま散り散りに消え失せた夢魔たちを憎むことのまちがいを、おれははっきりと知った。血の味のする悪夢を見ているあいだ、奴らが何をしていたかではない。このおれが何をしていたかを悟ったのだ。奴らが犯していたのではない、このおれが犯していたんだ。おれが夢魔を呼び寄せ、おれがその血を吸っていた、むさぼり、すすり、音を立てて。
ふたたび灯を消した闇の天井に、大きな影があった。その巨大な黒い腕は、ゆっくりと下降しておれを抱こうとしていた。
夢魔の王。
ついに現われてくれた巨人の、漆黒の息吹きが耳に囁く。
――故郷に、帰りたいのか。
――ええ。
低く、おれは答えた。水島。信じてくれ、その王の影の腕が、どれほど軽々とおれを攫ったか。そしてここ、夢魔の館が、どれほど暖く安らぎに充ちているかを。ここの臥処は、洞のなかの深い苔だ。それほどの睡りが許されることを、どう君に伝えたらいいだろう。なぜならここの住人たちは、その夜々、ぜんぶ地表へ舞い降りてゆき、かつておれを苦しめたと信じていたかれらを、おれは心から祝福できるからなんだ。
ただ、欠けているものがある。それは、君だ。
………………………………………………
以上が深見の手紙であり見られるとおり彼の自筆なことにまちがいはない。とすれば一夜かれはたしかに現実から夢に飛翔し、いまなお夢魔の館に棲み続けていることはまず疑いをいれない。そこを訪れることは水島滋男にもまた可能な筈である。多量の睡眠薬があるいはその手だすけをしてくれるだろうか。しかし水島が彼の後を追う決心をしたのはただ深見とふたりその館に住みたいためばかりではない、なお深見の失踪に地上の犯罪の匂いを嗅ぐ気持が強いせいである。夢想癖の強い彼をそそのかし死に追いやることはあるいは容易であり、すでにその犯行が夢幻の裡に行われたとすればその探偵もまた|夢寐《むび》になされるべきことは当然であろう。首尾よく館に到着しその真相が明らかとなったら、それを十編の物語に変えて藍沢家の巫女・柚香に月に一編ずつ送り届けるとしよう。それは次第にある人物を描き定め次第にその犯行の裏の意図を摘発して最後に影の手が一閃するとき、犯人は醜く色を変えて床の上に横たわっているに違いない。それまでは柚香も瑠璃夫人もさらには懐しいサロンの諸兄にもしばらく別れを告げよう。月に一度の夢魔の館からの便りをどうか期待していてもらいたい。
∴
そこここで紙を折畳み、あるいはめくり返す音が聞え、十人の客は水島滋男の手紙を読み終った。重苦しい沈黙を破って最初に口を開いたのは野口であった。
「ぼくにはどうもよく判らない。だいたいぼくは水島君たちとそれほど親しくはなかったし、もし二人が失踪してそのままだというなら、ここに書かれているようにそれは夢想癖のつのった二人の青年が|互《かた》みに自殺した、あるいは一種の心中をとげたと考えてもいいんじゃないでしょうか」
誰も答える者はいない。隅の方で、先客の一人がしきりに咳ばらいし、皺ばんだ声でいい出した。深見をモデルにして甘い青年の裸像を描き続けていた|能登《のと》である。
「するとこれは何ですかな、いわば殺人ゲームといったもので、われわれ十人の中に一人の殺人者が潜んでおるというわけですな。しかし、第一まだ殺人にもなにも、なんらかの犯罪が行われたという確証もなしに、犯人の候補者だけが決まっておるというのが解せんですなあ」
詩人の|御津川《おつがわ》が乾いた笑い声を立てた。
「いやあ、これはいつもの遊びですよ。新年早々から手のこんだことだが、こうしてわれわれを楽しませておいて、実は無事に二人は見つかりましたと披露しようという魂胆。そうでしょう、そこいらの扉の蔭に二人とも隠れているに違いないんだ」
志つ加工房で知られるデザイナーの|石塚《いしづか》が薄い唇を歪めて遮った。
「そうともいえないわよ。あたしや能登さんはべつですけど、ここにいる皆さんは柚香さんのたいへんな信者ばかりじゃないの。その御当人があいにくと深見だの水島だのって雛っ子のほうにばかり眼がいってるとなりゃ、小僧、なまいきだてんで、あっさり|殺《や》らないとも限らない。お上のお眼こぼしに預かるくらいの殺しは皆さんお得意でしょうから」
「ぼくはやはり夢魔の館を信じるな」
一メートル八十を超えるバレエダンサーの|美東《びとう》が、張りのあるバリトンでいった。
「みんな銘々勝手に夢を見るからいけないんです。もっと昔から人間が協力して夢の王国を建設していれば、いまごろは、きっとたやすく往き来できたに違いないんだ。いや、水島君たちは早くそれに気づいて、とうとうその入口を発点したんだと思いますよ」
「たいそうお賑やかな御意見ですけれど」
瑠璃夫人がゆっくり立上って一座を見渡した。
「わたくしも娘も、この水島さんのお手紙を本気で信じておりますの。また、信じていればこそこうして皆様をお招きしたんですもの。死体がなければ殺人はない、犯行の現場が残されなければ犯罪はないと信じていられたのは、もうずいぶん前のことではありませんかしら。いま、どなたかが、二人はそこいらの扉の蔭に隠れているだろうとおっしゃいましたが、ごらん下さいましな」
銀いろの光と影をゆらしながら、夫人は広間にある三方のドアを次々とあけ放していった。最後に、食堂に続くアコーディオンドアを左右に押しひらくとき、木原直人はふいの幻想に期待の胸をとどろかした。透明に光を返す巨大な棺が、並んで眠り続ける二人の青年と、あおあおとした水仙の葉を詰めて出現するような気がしたからである。
だが、ドアの向うは、いずれも寒々しい空間がひろがっているばかりで、人の気配はさらになかった。直人は、なお熱心に耳を澄ませた。どこがそこに繋がっているのか、それは知らないが、頭上の塔の部屋から誰かの、惟之であれ深見であれ、いずれにしろ死者の一人が、こつこつと松葉杖を衝くように、一歩ずつ螺旋階段を降りてくる跫音を聞きとめようとしたのである。
しかし、それも空しかった。広い邸内のどこからも、なんの物音もしない。
喪服を着たまま動こうとしない柚香。立ち尽す夫人。さらにひととき化石のように凝固した客たちから、開け放されたドアの向うの空間に眼を移して、直人はそのときようやく悟った。ここに行われたのは完全な「無」の犯罪であり、被害者も探偵もすべては不在であるにしても、ただひとり、そのためには架空の犯人がいやでも必要だということを。
直人は、眼に見えぬ警官から手錠を受けるように、うなだれて両手を差し出した。
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アケロンの流れの涯てに
なつかしい柚香。きょうも瑠璃夫人のサロンにはいつもの連中が集まっているだろうか。先便に約束したようにこれはようやく夢魔の館に辿りついた水島滋男がしたためる第一の手紙だ。その館への旅はまことに奇妙なものでそれについても書きたいことは多いが、何より肝心な深見悠介がまだどこを探しても見当らぬことを報告しなければならない。地上での探索に疲れ、ここに来てもまだ捜し続けなければならぬとは因果なことだが、それほどにこの館は広くいくつもの棟にわかれ、間を埋め尽しているのは黒い森であり陰鬱な下生えの繁った庭園である。それらは地表のように明確な物の象があるわけではないが、おおよそは古びた中世の城館を思ってもらえばよい。アルコーブを設けた長い廊下や突当りごとの大鏡と燭台。それらは近づくにつれてゆらめきそのまま影の炎となって実体を伴わない。深見を捜しあぐねて日が経つうちそれでもその失踪に一つの大きな手がかりになるような話を聞いた。やはりこの館をついの|棲処《すみか》としている青年に出逢っての話だが、かれの経験は深見の行方について何がしかのヒントを与えずにはいないだろう。以下にかれから聞いたままを書きしるす。
………………………………………………
父はその二人について話すとき、昔はいつも叔父さんたち≠ニいう名で呼んでいました。それは、とても奇妙な二人づれだったらしく、むろん、ぼくなどが生まれるずっと前ですが、父がまだ小学生だったころ、その叔父さんたちはふいにやって来て、何か忘れがたい思い出を残していったらしいのです。そのことを父はひどくなつかしそうな口調で語るのでしたが、ぼくがだんだん大きくなるにつれて二人の話も、叔父さんたちという呼び名も出なくなり、たまに口にしかけても、ふっと気づいたようにやめてしまう。そしてどこか不安そうな、疑わしげな表情になって、じっとぼくの顔をのぞきこむようにするのです。まるで、うっかりその話を聞かせると、ぼくにとんでもない不幸なことが起こるとでもいうように。
子供ごころに、その叔父さんたちというのが何者なのか、何をしていったのか気がかりでした。それというのが父ばかりでなく、祖母からも一度その話を聞いたことがあるからです。祖父はぼくの生まれる前に奇妙な失踪をとげていましたが、祖母はぼくの小さいころ、非常に高齢でしたがまだ生きていて、病室にしている離れの座敷はいつ行っても陰気に湿っぽかったし、もう頭もぼけていたのでしょう、ぼくの顔を見てもおうおうとうなずくばかりで、子供にはおもしろくもなんともないところでしたが、それがある日、そのときだけ意識がはっきりしたのでしょうか、入っていったぼくの顔をまじまじと見つめているうち、だんだんに驚愕のいろをあらわにしたと思うと、いきなり、
「やっぱり帰って来たとか」
訛りを剥き出しに、叫ぶような一と言を洩らすと、起こしかけていた半身をまたばったりと倒してしまったのです。付添いの人があわてて駆けつけ、祖母はそれからずっと昏睡状態のまま一年あまりして世を去りましたが、ぼくには何よりもそのときの祖母の顔、おどろきと喜びと、それよりもさらに深く怯えたようなその表情が忘れられず、あとあとまでずいぶん怖い思いをしたほどです。
「やっぱり帰って来た」という言葉は、ぼくと誰かをまちがえたことは明らかですが、その誰かというのは、祖父ではなく、父がいつも口にする叔父さんであろうとは、子供ごころにもすぐ推察がつきました。いくらなんでも子供のぼくを祖父とまちがえる筈はありません。叔父さんは父の話ではたしか二人づれということでしたが、ぼくの空想はしだいにひろがり、もしかしてそれは二人でいながら一体であるような、つまり一つの体に二つの首をつけた怪物ではないのかとさえ思うようになったのです。それでいてその怪物は、少しも怖ろしくありませんでした。それどころか、思春期のころにはひどくなつかしくさえ思え、もしかしてその二頭一身の怪物こそ、ぼくの本当の父親ではなかったろうかなどということを、うつらうつら考えるようになったくらいです。この推察は、ある意味では当っていたかも知れないのですが。
父に向かって、正面から問いつめるような形でその叔父さんたちの話を聞きだそうとしたのは、高校に入った年でした。ぼくのきょうだいは姉ばかりでしたから、末っ子で男ひとりのぼくは、小さいころ父とは大の仲よしだったのに、そのころはこちらも向うも、何かお互いに避け合う雰囲気になっていました。その夜、ぼくはかまわず父の書斎に入ってゆき、ガウン姿でパイプをくわえたま揺り椅子を揺らしている父の傍に立ちました。何の話をしに来たのか、もう父には判っていたのでしょう、ひどく怯えた視線をチラと走らせたなり、しばらく向うを向いていましたが、
「まあ、おかけ」
嗄れた声で、やっとそういいました。
「ねえ、あの叔父さんたち≠フことだけどさァ」
ぼくはつとめて陽気に切り出しました。
「来たのは昭和九年だっていったよね」
「うん? うんまあ、そんなころだ。古い話だよ」
父は乾いた笑いを立てました。昭和九年というのは、その叔父さんたちが来たという年に|東郷《とうごう》元帥が死んで国葬があり、父の通っていた|番町《ばんちょう》の小学校が東郷小学校と名を変えたと聞いていたので、ぼくがあとから調べて確かめた年代なのです。なんでもその年には渋谷駅前のハチ公の銅像も立ったとかで、父は、その当時まだ生きていたハチ公の頭を撫でたこともあるそうです。他に聞いたのはさくら音頭≠ニいう唄が大はやりだったというくらいですが、それがどんな唄かは知りませんでした。なにしろ、ぼくの生まれる二十年も前のことですから。
「その叔父さんたちって、親戚か何かなの」
ぼくは父の横顔をずっと注目しながら質問を続けました。というのは、叔父さんの話をするときに限って父の表情に、かすかだけれども決まってはにかみのいろが浮かぶのに気づいていたからです。そのときも確かに、年齢に似合わぬ擽ったそうな頬肉のふるえがすばやく掠めてすぎました。
「まあ、そうだ。親戚のようなものだ」
「じゃあ、お祖父さんの弟か何か」
「いや、弟じゃない」
ふいに父は、いままで見せたこともない厳しい顔でぼくをふりむきました。怒りというのでもない、ただの悲しみとも違う、それはほとんど哀願に近い表情で、眼鏡の奥には涙さえ光っていたようです。でも、ぼくはひるみませんでした。
「だって叔父さんなんでしょう。二人で来たって、二人とも叔父さんなの」
父は答えません。
「知りたいんだよ、ぼくは。その叔父さんたちとぼくとがどういう関係なのか」
さすがにそのころはもう、二頭一身で、しかも父親などということは考えていませんでしたが、長いあいだ胸にわだかまっていたその問いだけは、しずにいられなかったのです。
父は呻きました。頭をかかえ、天に祈るような声がこういいました。
「判ることだ、いまに判ることだ。おれに聞かないでくれ、聞くのならお祖父さんに聞いてくれ」
父はついに錯乱した、とぼくは思いました。なにしろ祖父は、謎の失踪をとげたといっても、年齢からいって当然もう死んでいる筈だったからです。ただたいへんな神秘主義者で、さまざまな予言をし、ぼくの名にしても父に向かって、お前には必ず男の子が生まれるから、ぜひこういう名前にしろといったという以外、写真でしか知らない人でしたから、祖父に聞けということは、その秘密はぼくが死んでから墓の下で知るがいいというに等しかったのです。
それ以後一度も父とはその話をしたことはなく、父との仲はいよいよ遠のくばかりでした。大学に入ると、ぼくは家を出て友人と二人で下宿へ移りました。|因《ちな》みに家は、もとは空襲にも焼け残った|麻布《あざぶ》|本村《もとむら》町に、それからしばらくして|紀尾井《きおい》町に移っていました。そんなところに住むのがステイタスシンボルであるような、そういう家系にいたのです。
下宿を|倶《とも》にした友人――かりにRとしておきましょう、彼はむろん当時のぼくの大の親友で、何でも話し合う仲でしたから、むろんぼくの奇妙な叔父さんのことも打明けて、彼の意見を請いました。
「昭和九年か」
と、Rはもっともらしい顔でうなずき、
「満州事変はもう始まっとるなあ」
などと政治史に詳しいところを見せましたが、ふっと思いついたように、
「いいものを見せてやろうか」
といって財布の中から取出したのは、大きくて重たい一枚の銀貨でした。
「五十銭玉さ。昔はこれをギザっていったんだ。|縁《ふち》にギザギザがあるだろう」
オリンピックの千円玉や百円玉と一緒に、彼はそれをお守りにしていたのです。ギザ一枚で結構いろいろなものが買えたという話は、ぼくも聞いて知っていました。といって四十年も前の時代の物価など、ぼくには興味もないことでしたが。
「おやじは、お祖父さんに聞けっていったんだ。お祖父さんてのはさ、戦争前に急に失踪したんだけど、なんでもすごく未来のことが判る人で、おやじが戦争中に兵隊へ行って、危いってときは必ずお祖父さんの予言を思い出して助かったんだって。オレの名前も、生まれる十年も前に決めてて、必ず男の子ができるから、そしたらこれにしろっていってあったんだ」
「ふうん。昔はそんな人がよくいたみたいだな」
「そのお祖父さんに聞けっていうんだから、訳が判らんよ。どっかにまだ生きているっていうんならべつだが」
「生きているんだよ、きっと」
Rはいきなりそんなことをいいました。もともと怪奇なこと幻想風なこと、非現実の世界が何より好きな彼は、理不尽な話となるとすぐ眼を輝かすというふうだったのです。
そう、彼がそんな性格でなければ、ぼくたちもあんな無茶な冒険にのり出さなかったかも知れません。ことしの初めですが、二人で街を歩いていて、地下鉄工事の鉄板を敷きつめたところがよくあるでしょう、その穴から灯りが洩れているのを、Rは立止まっていつまでも見つめているんです。
「何をしてるんだ、早く行こうよ」
「うん、しかし変だぞこれは」
Rはそんなことをいって周りを見廻していましたが、その地下へ降りる木造の入口小屋が建っているのを見つけると、黙ってぼくの手を引張りました。そして何と、人眼を避けてすばやくその扉を開くとぼくを中へ押しこみ、続いて入りこむとピタリと扉を閉めてしまったのです。
「何をするんだ、怒られるぞ」
ぼくたちの足もとには、狭い鉄の階段がのめりこむように下へ続いてい、大きな|梁《はり》をめぐらした|窖《あなぐら》がところどころに裸電球を点しながらひろがっています。人の気配はまったくありません。
「降りてみようよ。大丈夫だよ」
Rの誘いに、こわごわぼくも階段を降り始めました。それは梁の間を折れ曲りながら、どこまでも下へ続き、いつ現場の人に見つかってどやされるかも知れないと思ったのに、工事は今日は休みなのかと考えたほど、中には誰もいないのです。地下鉄工事というのがこんなにも深い、大規模なものかと呆れましたが、鉄板の下には文字どおりの奈落がありました。どうにか地底へついたというのに、階段はそこからまた小さな穴へ入りこんでいるのです。
「もう帰ろうよ、おい」
Rは口を結んで、強くぼくの手を引きました。坑道めいたその穴は、冷やかな土の匂いと、湿りけとをまつわらせ、頭上に一本の電線でつながれた裸電球の光に照らされて、下へ下へとぼくたちを導きました。不思議の国のアリスさながら、二人は落下していったのです。そして、ついに行止まりとなったところは、少し掘りひろげられた空間で、地下水を流しているのか、ねっとりと黒い川が眼の前にありました。どこへ続いているのか、幅広い暗渠がその川を吸いこんでいます。ぼくらは奇妙な感懐に打たれ、そこへ腰をおろしました。地底の静寂もそれほど恐しく思えませんでした。
「とうとう見つけたな」
Rが耳許でそう囁きました。ぼくはいつか眠りに誘われていたようです。気がついたときぼくは一枚の板の舟の上にいて、黒い川の上を音もなく流されていました。Rは前に坐って背中だけを見せています。まだ眠気から覚めやらぬまま、これは冥府の川なんだなとぼんやり考えていられたのがふしぎです。渡し守カロンの姿はなかったのに、Rはあの五十銭銀貨で渡し賃を払ったのでしょうか。
何度か白い明りが差しこみ、地上のざわめきがそのたび耳に入りました。Rは行先に確信があるのか、舟をとめようとしません。それでもついに、さあここが目的地だというように舟を片寄せ、狭い出口にぼくを押し上げました。明りの差すほうに歩いてゆくと、ふいに出たのが、なんと|築地《つきじ》の|三原橋《みはらばし》の近く、いまは埋め立てられてしまっている掘割の河岸だったのです。神秘な地底旅行が、いきなり地上の現実に続いているので、ぼくは呆気にとられました。東劇や|新橋《しんばし》演舞場があるので、場所はすぐ判りましたが、それにしても何かそこは異次元めいた、奇妙な雰囲気でした。陽気もひどく暑く、四月か五月の気候です。
「どうしたんだろう、みんな、なんだか変な服装だな」
「当り前さ」
Rは涼しい顔でぼくをふり返りました。
「おれたちは昭和九年にきたんだ」
なんということを、と一瞬は思ったものの、すぐそれが事実だと悟らざるを得なかったのです。街という街に飾られた造花の桜、そしてレコード屋の拡声機から割れるような音で響き渡るのは、まぎれもない勝太郎の唄うさくら音頭≠ナしたから。
「どうしたらいいだろう」
ぼくはふるえていました。いろんな事がいっぺんに判りかけてきたからです。
「考えたんだが、|麻布《あざぶ》の君の家へ行くよりなさそうだよ。何しろおれたち、金はギザ一枚しかないんだからな」
二人がともかくもまっとうな服装、背広にスウェーターという恰好で、髪も長髪でなかったのが幸いでした。すうっと寄ってきた古ぼけたタクシーは、市内一円という札を正面に出し、窓から運ちゃんが不審顔もせずにこういったからです。
「旦那、どうです。お安くしときますぜ」
――もう、お判りでしょう。神秘家の祖父は、突然に訪れた二人の時間旅行者、父のいう奇妙な叔父さんたち≠フ話を容易に信じてくれ、ぼくたちを家に滞在させたのです。それは、じっさい妙な経験でした。ぼくは渋谷へ行って、うずくまっているハチ公の頭も撫でてきました。うす汚れた、茶いろの犬でした。|東横《とうよこ》デパートもまだ建てかけの、生まれる二十年も前の渋谷。
その世界に長く留まらなかったのは、もうすぐ戦争になるのがわかっていましたし、なんといっても小学生の父に顔を合わせるのが苦痛だったからです。いくらなついてくれても、どうしてぼくが父をあやせるでしょう。後から祖父にぼくたちの正体を聞かされたかどうか、それは知りません。でも、あのはにかみようからいっても、気づいていたことは確かです。一年後、ぼくらは黒い流れに戻りました。冥府の川アケロンではなく、時間の川に。そして空襲のひどくなる前に、祖父もまたひとりでそこを訪れたのです。黒い流れの涯てが、この夢魔の館だった。Rも祖父も、一緒にここにいますよ。ここでは誰も年をとる者はいませんから。
………………………………………………
この話からひとつだけ推察できる深見悠介の行方は、かれが思いついて黒い流れを遡りまた地表へ戻ったのではないかということだが、それが容易に果たされるものではないことは四方から流れこむその涯ての湖を眺めれば容易に推察される。またその神秘な入口すなわち青年の入りこんだ地下鉄工事の小屋がどこにあるかは水島滋男も確かめたがそれはここでは明すまい。誰もがやたら時間旅行を試み出しても困ることだし、それを見出すのは当然限られた夢想家に委ねられてしかるべきだから。それでは藍沢家のサロンへ向けて熱い思いを送りながら、さようなら。
∴
「どういうことです、これは」
真先に口を開いたのはやはり野口だった。
「どうしたってこんな話を信じるわけにはいかない。夢魔の館なんて存在する筈がないじゃありませんか」
象牙いろのシルクブラウスに胸を包み、黒っぽいシャネルスーツをつつましく着た柚香は相変らず黙ったままだったが、瑠璃夫人がつけつけと遮った。
「いいのよ野口さん。地上の科学が及ばない世界だって、この世には確かに存在するんですから。木原さんをごらんなさい、もうちゃんとこのお正月に自分が架空の犯人だって名乗りでたくらいじゃありませんか。わたくしが女王ならば、野口さん、あなたには無知の罪を宣告するところよ」
石塚が傍から口を出した。なんのつもりか、黒のネイルエナメルを塗った細い指先を宙に泳がせながら、
「それにしても水島君もじれったいわね。せっかく遠いところにまで行きながら、また深見君を取り逃すてはないじゃないの。それにもう少しヒントになるようなことをいってくれなくちゃ、犯人の見当もつきゃしない。月に一度なんて終身刑の囚人みたいなことをいってないで、どんどん手紙を書いたらいいのに」
「その手紙だけど」
画学生の|征矢野《まさやの》がきまじめに首をかしげた。
「どうやって届くんだろう、ふしぎだな」
窓際に立ってカーテンを引きあけながら、星空に見入っていた|御津川《おつがわ》が答えた。
「郵便受けには星の光だって入りこむさ。ほら、シリウスがあんなに青い」
木原直人も窓に寄って上を仰いだ。地球は重く暗く傾き、真南にその星は痛いまでに輝いている。そのまたたきは、しかしいくら眺めても解きがたいものに思われた。
ふたたび直人は、この家の塔の中で果てた藍沢惟之を思った。ある深い視線がこれら冬空の星を見つめ続けてそのまま閉じられたとするなら、その星はまた必ず人にその思いを返してよこすだろう。シリウスの青い光に、直人はうつろな瞳を探した。その瞳は確かにひとりの見えない犯人がこの広間に潜んでいることを告げるように、二度三度、またたきを返し、確信は次第にたかまった。
直人は、そのひとりに歩み寄った。
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暖い墓
水仙の眠りを倶にするため、アケロンの流れの涯てに夢魔の館に辿りついたという水島滋男の人外境便りは、その日、次のように始まっていた。
∴
とうとう深見悠介に再会したこの喜びをいったいどう伝えたらいいだろうか。久しく逢えなかったのも道理で、かりに冥府でいえばアケロンどころではないさらに巨大なスチュクスの流れのあることに水島は気づいていなかった、それほどな館の宏大さをよく認識していなかったせいに他ならない。絶対の支配者である大時間の前にはわれわれの持つ固有の小時間がいかほど無力であるかをあらためて知らされたわけだが、さらにいえばその生の三分の一を眠って半ば死を装う一にぎりの生者と太古以来のおびただしい死者の群れとでは、その数も力もすべて比較にならぬことを早く知るべきだったのであろう。生者はすでにその刻々を冥府の査問にかけられているのだ。ともあれここにあるのは深い眠りでありその苔の|褥《しとね》にいまこそわれわれは水仙の葉さながらに並んで横たわることができる。この洞の奥に眠るエンデュミオンには決して月光は射しこむことがないのだから。ここで当然深見からの挨拶を送りたいところだが、あまりに友の眠りが深いため水島はただその寝顔を見守るほかにすべを知らぬ。せめてこの暇に二人がここへ辿りつくに到った経緯をひとりの青年の話を籍りてお伝えすることにしよう。かれはいまから二十五年も前のまだ戦争が終ってまもない時期にここを訪れたのだが、それはまたなにがしかわれわれの軌跡を証しせずにいないだろうから。
………………………………………………
〜おいらは子供
見棄てられ投げ出され
――おいらは|孤《みな》し|児《ご》
川沿いの小公園に続く僅かな空地に、その一かたまりの墓は並んでいた。それは、三年ほど前の戦争の、春の夜の大空襲で、猛火に追われてこの川へ逃げ、そのまま焼け死んだ人びとの墓であった。炎は、川に浮かぶかれらを伝わり、かれらを飛石にして対岸にまで及んだのである。そのため、ほとんどが身許不明になるほど焦げた屍体で、墓も、戦後すぐは「無名氏之墓」と記された木片だったのが、いまは「不詳之墓」と刻まれた、丈の低い石に変っている。
その青年がそこを訪れるのは、いつも夕方に限られていた。あるいはこの墓地には、いつでも夕方という時刻しか残されていないのかも知れない。うそ寒い三月のことで、西空はわずかな水いろをのぞかせているが、川面にはもうどんな明るい反射も残されていず、淡い灰いろの靄がすべてを宰領しようとしている。墓のうしろの草むらに、浮浪者らしい男がひとり、小さな焚火を燃やしているほかあたりにはまったく人影はなかった。低い石垣に凭れて川面をのぞくと、つながれた貸ボートの胴に波のうちつける音がするばかりで、対岸の並木の緑も夕靄に沈もうとしていた。
――死にたくなったな。
――うん、死にたくなった。
ひとりでそんな問答を交しながら、ついにここしかない、ここしか行くところはないというふうに、瓦礫の焼野原を越え、こうしてここに辿りつくのがいつでものことだったが、青年はそのたび自分が生者であることをいぶかしんだ。
――まだ、生きているんだって?
化石植物とでもいうように、低く地面から生い出ている石の墓たち。土の下で、呪文めく死者の合唱が湧き起こる。青年はそれに併せて「人生案内」の唄、古いソビエト映画の主題歌を口ずさんだ。
〜おいらが死んだら誰かが
おいらを埋めてくれようさ
――けど誰も知らぬだろ
ふりむくと浮浪者の焚火の炎は、すでに色濃く眺められた。先ほどからひどくその男が気がかりだったので、青年はポケットから煙草の袋を取り出してそこへ近づいた。青年自身、すりきれた黒のジャンパーに汚れたズボン、ひび割れた靴というなりである。
戦争が終って三年、かれの周りでは、ようやくすべてが浮浪の臭いを立て始めていた。蒸れた・暖い・どぶ水を煮立てたようなその臭いには、何かまだひとつの、見知らぬ愉楽が秘められているようであった。しまいまで頼りにできるもの、さいごにこの肌を暖めてくれるものがまだ残っていることを、青年はその汚臭から嗅ぎ当てていた。たぶんそれは浮浪者の体温に似たものであったろう。暖い墓。そのふところに抱かれてすごす一夜の予感は、懶惰な|日《にち》にちにいい知れぬ安堵を与えさえした。青年はその墓を求めて歩いた。後生を願って寺詣りを怠らぬ老人のように、乏しい持ち物を売払って浮浪者の|棲処《すみか》近くをさまようのがいつものことだったのである。
近寄ったとき、何かある異様な感覚、何かは判らないが時折り感じることのある一種の感覚が胸を掠めたが、こうして向き合ってみると、浮浪者は意外に若く、端麗ともいえる顔をしていた。着ているジャケットもズボンも、痛んではいるが、昔は相当にいいものだったらしい。これは、浮浪者じゃないなと青年は思った。少なくともそこいらに|蓆《むしろ》がけでおカンをしている連中とは違うらしい。火を貸してくれといい出す前に、男は明るい笑顔を見せていった。
「まあ、おあたりなさい」
相手に煙草の一本を献呈し、自分も蹲んで|榾火《ほたび》から火を移そうとして、青年は愕然とした。男は一人ではなかったのである。くろぐろと立っている枇杷の木のうしろに、もう一人が黒い外套を頭からひっかぶったまま横になっているのだった。
その男について問いただすのも憚られるまま、青年はしばらく黙って煙草を吸った。空気はすでに湿っぽく、冷え冷えとあたりを包んでいる。男の眼はかすかに微笑し、青年の若さを値ぶみしているようなところがあった。それでいてその態度は、格べつ不愉快というのでもない。
――何をしている奴だろう。もしかして墓の番人?
いかにも、そうかも知れなかった。木片だった墓標を石に代えたり、周りを低い|榊《さかき》できれいに囲んだりという仕事は、そこいらの町会事務所などがするより、このての高等遊民まがいの男のほうがふさわしいかも知れない。青年は心の中で、ひとり死者のために唄った。
〜春がくりゃ鶯が
そっと来て啼いてくれようさ
――おいらの墓場で
それにしても黒外套を頭からかぶったもう一人の仲間が、さっきからみじろきもしないのは、いかにもぶきみであった。青年は長いことそれをいおうかいうまいかと思案したあげく、ようやく吸いさしの煙草を焚火の中に投げ入れると、掠れた声で訊いた。
「眠って、おられるんですか」
男は、ふいに厳しい顔つきで青年を見た。まるで、いまの一と言で何もかも変ってしまったんだぞというほど、その眼にはなんともいえぬ陰惨な光さえ見受けられた。青年が思わず体を固くしたほどの凄い笑いを浮かべると、男はゆっくりとこう答えた。
「なあに、死んだんですよ」
――そういう世界だとは知らなかった。
とっさに青年の頭を掠めたのは、そんな思いであった。自分自身がもう浮浪の臭いに色濃くまつわられているのだから、その世界とはもうお仲間同士だと安易に考えていたのが、突然手きびしく戸を立てきられたような、自分の甘えを思い知らされる気持であった。恐怖にもそれは近かった。ここからつい眼の先に眺められる、廃墟の中に建ち始めたバラックの履物問屋とか、その向うを走っている焼け残りの市電とか、あるいは川の上の鉄橋を何分おきかに渡ってゆく四輪の電車とか、そこにも人はいるに違いないが、ここでいくら声を限りに呼んだとしても、誰も助けにはあらわれないだろう。
――見えているものなんか、なんのあてにもならない。
青年がそんな教訓を噛みしめているうち、男はもう元の顔に返って、こともないようにこういった。
「ちょっと、お見せしましょうかね」
男は黒外套に手をかけると、さもたいせつなものを見せるように、そっとその端をめくった。蝋いろの皮膚をした男の顔で、固く鼻を尖らせて眼をとじている、それは明らかに死人の容貌をしていた。一度見せておいてから、またすぐ外套で蔽ってしまうと、男は独り言のように喋り始めた。それは次第に|香具師《やし》の口上めいた熱さえ帯びて、もう一人の男の身の上をこう語ったのである。
「なんでもないことですよ。
ただの行倒れがひとり。べつに珍しいというほどのものじゃありません。
そりゃ、こいつはぼくの友人だった。友達でいながら、こいつが死んでぼくだけがこんなふうに焚火に当っているてえのは、いささか薄情ともいえますが――しかし、いずれにしたってこいつはもうダメでした。寒さだの飢えだの疲れだの、そんなものはなんとでも追払えますけどね、本人の怠け癖ってやつだけは、どうしようもないんです。何をしていても、いっぺん、こう、何か堰を切ったみたいに怠けの虫が繁殖し出すとね、もうそいつに全身を喰い荒らされて、死ぬまでダメ。おまけに無一文の上に無収入。ええ、働くつもりがまったくないし、たまにどこかへ顔と履歴書を出したって、あなた、向うも馬鹿じゃありませんや。一眼見て、結構です。そんなふうにそっぽを向かれちまうんですからね。つまるところは売り喰い。といって焼け出されだから、金にするようなものはありゃしない。しまいには肌着まで脱いで、垢のついたまま売払って、それで酒でも飲むならまだ救われるが、あなた、あつあつのお焼きかなんか買って喰ってるんだ。|生得《しょうとく》、生まれついての下女根性とでもいうんでしょう。
まあいまこうして眼をつぶった仏を前においてなんですが、この顔、ごらんになったでしょう? 顴骨が出っぱって、頬のこけた、みるからに下司で我の強そうな顔じゃありませんか。額が狭くって鼻が大きくって、こりゃあんた、馬鹿の上に欲望ばっかり強い相でさあ。いなくなったほうがお国のため、むろんいなきゃいないでいい男だし、いないほうが、へへ、そりゃずうっと結構てえクチでしょうな。
死んじゃった――んですね、まあ。それだけ、まったくそれだけのこってす。もう少しきれいな死に方をすりゃよかったけど、それがその生得のなんとやらで、死ぬまでダメだったんでしょう。
ところが、おもしろいことがあるんですよ。え、気がつかれなかったかしら、もういっぺんお見せしましょう、この顔。ホラ、いいですか。鼻の大きさ、頬骨の出っぱりかた。どこをとってもこのぼくにそっくりじゃないですか。ホラホラ、このぼくの顔に」
ぴたりと自分の鼻をさしている男は、もうまったく夕闇にのまれて、草を踏みしだきながらふり返ると、燃えさしの榾火だけがじんじんと赤かった。
逃げるように道をいそぎながら、青年はこみあげてくる嘔吐感に堪えた。なんという気違い、と思いながらも、黒外套をかぶって横たわっていた男とたしかに瓜二つだったジャケット姿の男の顔がなまなましく迫り、もしかしたらあれは二人とも死人なのかも知れない、いや、あるいは一人の死人が、自分のみじめな死にざまを人に|嗤《わら》われる先に自分から嗤ってみせたくて、ああして誰かのくるのを待っていたんだという思いに、しだいに強く捉われていた。だから、いまもしもう一度あそこへ帰ってみたら、ジャケット姿の男などはいず、ひとりの冷たい死骸が横たわっているだけではないのかしらん。……
――おれだったらそうしたろう。
ふいにはっきりした言葉が耳もとでし、青年は慌ててあたりを見廻した。
――おれだったらそうしたろう。
声は、もう一度、小さく聞えた。
誰かが通りすがりに投げてよこしたようなその言葉に続いて、いくぶん嘲笑めく声がどこかで響いた。
――あの男はお前じゃないか。
そうすると?
――そうなんだよ、だからお前は今日初めから奴を気にしていたろう。
そうすると?
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――そのとおりだ。お前があの男に近づいたとき、すうっと胸を掠めたあの感じを忘れたのか。あれは鏡の前に立ったときだけ、つまり、同じ距離、同じ速度で現われる相手を見たときにだけ感じるものだったろうが。
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そうすると?
――判らないかね。もうじきお前もあんなふうにして死ぬのさ。
声は、それなり黙った。
青年が歩いているのは、地下鉄の入口に近い賑やかな通りで、そこももう明るい夜景に変っていた。どろりとしたシチュウや、芋餡の汁粉を並べた人びとの黒い影にまぎれこもうとしながら、青年は愕然と立止まった。またしても生者の群れに戻ろうとする自分が、そのときたまらなく愧ずかしいものに思えたからである。青年の頬に、しだいにある得体の知れぬ微笑が昇り始めた。……
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いかにもその青年はそこから唇を結んだまま足早やに引き返した。土気いろに鼻を尖らせた死者がひとり。その死の卑少さ無意味さをわれから述べ立てている亡者がひとり。それを教えられながらなお灯の下を歩もうとする生者がひとり。三人はすべて短い時間を隔てた同一人にほかならず、当然離ればなれに過すことは許されなかったからである。ここでいいたいのはこの話にあらわれる地上の川のことで、いまも確かにくろぐろと流れ続けている地表のそれさえ、条件が整えば容易に冥界へもあるいはこの夢魔の館へも通じる神秘の川と変じ得るそのことだ。ああ柚香、もうわれわれが何を望み何を希ってこの便りを書き送っているか察していよう。ためらうことはない、深見がもっとも愛したあの灰青色の衣裳をまとって虚空に身を躍らせるとき、われわれはふたたび倶に棲み倶に眠ることができるのだから。
∴
「お待ち下さい、皆さん」
サロンの客が手紙を読み終えるのを見すまして、木原直人は前に進み出た。
「今日でようやく犯人が何を考え、何を企んでいたかがはっきりしたようです。これじゃまるっきり自殺を教唆していると思うほかはない。柚香さんは犯人の注文どおりそんな青いアフタヌーンを着こんで、隅田川へでも身を投げるおつもりなんでしょうが、いいですか、この手紙の意図は初めから深見君の死因を探るなんてことじゃない、柚香さんを死に追いやるためのものだったんです。幸い藍沢家でこうしてサロンを開いて、次々手紙を公開なさったから、愚かな悲劇は未然に喰いとめることが出来ますが、そうでなく柚香さんが一人でこれを読み続けていらしたら、まちがいなく後追い自殺をとげていらしたでしょう。
深見君と水島君がどこに失踪したかは、ぼくも知りません。今日あいにく瑠璃夫人の御勘気を蒙って来ていませんが、あの野口が最初にいい当てたように、二人はおそらく一種の心中をとげたのでしょう。たぶん深い雪山へ姿を隠して、絶対に死体が見つからぬよう心を配ったとすれば、この先いくら捜索を続けたとしても行方は知れようがない。ただその二人の死に、眼も眩むような嫉妬を覚えた人間がこのサロンの常連に、つまりいまここにいる皆さんの中に確かにいた。それがすなわち犯人です。
犯人が二人のうちどちらを愛していたか、それは判らない。二人ともたぐい稀れな美青年でしたからね。しかしとにかく二人は死んでしまったとなると、取り残された犯人はたちまち錯乱した。生前に二人が愛していた柚香さんまでを、どうしても死に追いやらずには気が済まなくなった。それもこうした公開の席で、じりじりと追いつめる形でその美貌の痩せ衰えてゆくのを見守るという仕打ちを考え出したのです。水島君の手紙と称するこれらを、まさか正式に筆蹟鑑定までする筈はない。そこでよく似た手蹟の人間を探し出し、深見君の死因を探ると称して次第に柚香さんを自殺するよう仕向けてゆく。そんな心情を持つ犯人といえば、もうお判りでしょう。誰よりも二人を愛していた志つ加工房の石塚さん、でなければ深見君の裸像を描き続けていた能登さん。お二人のどちらが主謀者かは御本人の口から聞かせていただきましょうか」
だが、そうして面と向かっての告発を受けながらも、石塚は顔いろひとつ変えずにこうやり返した。
「ずいぶん早とちりの探偵さんだこと。貴方の推理はただもうこの手紙が水島君の|筆蹟《て》じゃないという仮定で出発しているんでしょう。どうぞどこへでも持出して調べておもらいになったら、どう。それでもしこれが本当の水島君の字だとしたら、結論はひとつ、かれはまだ生きていて、深見君を喪った狂乱のあまりに柚香さんまでをアケロンならぬどぶ泥の隅田川へ放りこもうって算段をしてるとしか思えないじゃないの。あたしは|最初《はな》っからそうにらんでいたから、ずいぶん妙なことをするもんだって、おなかで笑ってたくらい」
初めに名が出たときは、思わず身構えるほどに直人を|睨《ね》めつけていた能登も、ようやくおちついた表情に戻り、沈んだ声でいい出した。
「いかにも私はこよなく深見君を愛してはおった。愛したことで犯人扱いされるというなら、喜んでその名誉をお受けしますがな、しかし真筆でも贋でもそれはかまわん、もっとも強い愛がこの手紙を書かせたというなら、ここにはもう一人、その動機をお持ちの方がおられるようですな」
その言葉の終らぬうち、立ち尽していた柚香が、ふいに音もなく床に崩折れた。駆け寄る瑠璃夫人の手の中で、灰青色の服は|季《とき》ならぬ水いろの紫陽花が花開いたようだった。
直人はふたたび頭を垂れた。気を失っている柚香が、塔屋で果てた父の狂気を受け継ぎ、次第に妄想をつのらせたあげくのことなのか、石塚がとぼけているのか、それは判らないし、もうそれはどちらでもよかった。犯人≠強いて求めるとすれば、それは次々とこの客のうえを移って、ついには自分に帰るほかないであろう。能登が言外に匂わせたように、男をも女をも誰一人愛したことのない者こそその名にふさわしいことをあらためて思い知ると、直人は静かにサロンに背を向けて歩き出した。
[#改ページ]
大星蝕の夜
藍沢柚香のなかで何かが変ったのは、その婚約者が不慮の死をとげた、あの事件のせいではない。それより遥か前、ある年の四月に日本へ来た、ミロのビーナスを見てからのことだった。それは期待や評判とまったく異なったものを彼女の心に植えつけ、急速にそれを発酵させた。あるいはその美の一撃が、久しく眠っていた暗い魂を激しく揺り起こしたのかも知れない。柚香はまだ女学生で、学校からも引率で見に行くことになっていたが、それには初めから参加するつもりはなかった。よけいなお喋りしか知らず、ビートルズの噂なら誰よりも詳しい癖に、美についてはことにも鈍感な生徒たちと長い行列を作り、たった一基、ポツンと置かれている彫像を眺めたって何になるだろう。
「まあ、どうかしら。江戸時代に象でも来たような騒ぎ」
柚香は心の中で、世間の反応の仕方をこう嗤った。実際、会場へ行ってみると、季節がら修学旅行らしい生徒がごった返し、入口にはメガフォンを持った若い男が見世物の呼びこみめいてどなり続けているのにも心は冷えた。中では古代ギリシアの曲を復原したとかいう音楽がスピーカーからうるさく流れ、柚香は頭をふった。
「本当はこんなところで見ちゃいけないんだわ。天井に靴音だけが響くルーブル美術館の特別室で、|海緑色《ベルマレエ》の台座にひっそり立っているのを一人で見る筈だったんですもの」
だが、その像を最初に一瞥したときから、そうした思いはたちまち遠のいた。入場者は初め高い処へ導かれていくつかの窓から見おろし、次第に下へ降りて最後に広場から像を見上げるようになっている。その広場の中央に、ビーナスは意外に小さかった。それは笑っていた。優しい微笑ではなく、不敵な笑みを浮かべていた。窓のひとつを廻るごとに袖香の眼には、女神像ではなく、ひとりの猛々しい剣士が映り始めていた。
「なんという、嘘!」
これまで教科書でも美術書でも、これこそは女性美の典型と讃え、なだらかな腹筋だの着衣の|襞《ひだ》の微妙さばかり説かれていたけれども、そんな評価は現代という品下った時代の男性が勝手にする臆測にすぎない。その思いは、下へ降り立って見上げたとき、ほとんど確信に変った。そこに聳えているのは決して世にいう女性像ではなく、鋭い猛禽に似た何かだった。檻の中の鷹や鷲が、人間どもには眼もくれず、ときおりチラと遠い青空へ視線を走らせる、望郷の思いをこめた一瞬の眼の輝きさえこの像は持っていた。
「女神というなら美の女神じゃない、勝利の女神に決まっているわ。絶対に、そう」
ビーナスの口辺に刻まれた微笑は変らなかったが、それはいま海と群集とを足下に見下し、無言の雄弁によって人々を納得させ|慴伏《しょうふく》させ得た、この上もない冷やかな微笑であった。左足をわずかに踏み出したその姿態は、まぎれもない剣士のものであって、無残にもげた左手の先に何が持たれていたか、これまでにもさまざまな推測が試みられているが、かりにそれを盾とし、右手には剣があったとしても不思議ではない。そして柚香は、あるいは柚香だけが、そこにもう一つの欠落した何かを発見したのだった。
その日、家へ帰ってから一週間、ふしぎな熱病が彼女を襲った。十七歳の少女にとってその発見は、あまりにも強い衝撃だったのかも知れない。母の瑠璃夫人も医師も、ただおろおろと病床に反転する少女を見守るばかりであった。体温計はいたずらに高かったが、柚香の意識は覚めていた。一度それ≠ノ気づいてしまうと、こうまで何もかもいっぺんに明らかになるのか、見てはならぬものを見、知ってはならぬものを知った思いだけが、肉体の熱を駆り立てていたのである。
「海の泡から生まれるのがアフロディテですって? あの像だって土から掘り起こされたのに」
病室に誰もいなくなると、柚香は眼を見ひらいてひとり呟いた。
「ミロのビーナスが農夫の手で、メロス島の畑の中から掘り出されたのがいい証拠だわ。女性こそ大地の産物なんですもの」
反対に、その名にふさわしいポセイドン像や、アンティキュテラの青年像など多くの男性像が海の底で発見され、そこから拾いあげられたように、海の泡から生まれるべきものは女性でなく男性かも知れないという思いが柚香をおどろかした。とすれば胎み、産み、育むべき女性が大地から出現するのは当然であろう。それこそは母性の象徴なのだから。そう気づくと、ジャン・コクトオが『オルフェの遺言』の中で、海の泡から生まれた青年に導かれ歩む詩人を、生涯の夢とも理想ともしてみせたように、柚香もまた早急にその青年を探さなければならなかった。
あいにく青年はいなかったが、手近なところに早宮秀樹という二歳年下の少年がいて、みるからに思春期特有のうるんだ眼と仄白い頬を持ち、本人も早熟な詩を書いているが、何より柚香に渇仰というに近い気持を抱いているのが手ごろだった。
「熱が引いたら、早速あの子に案内役をさせなくちゃ。それとも反対かしら」
ベッドの上で、柚香は奇妙な微笑を洩らした。これまでも二人が共有する空想の世界に、他愛もなく手を引かれて歩み入るのは秀樹のほうで、柚香が語り出す街≠フ物語に、たちまちかれは溺れた。街≠ニいうのは、二人の空想で次々と作られてゆく夢の|棲処《すみか》であり、いまのところ住人は柚香と秀樹しかいない。
「さあ、神聖な街の大工さん。今日もけんめいに働かなくちゃダメよ」
いつもの広間で、女王のような微笑みを浮かべた柚香がそう告げると、正面のやや離れた椅子に騎士然と坐った秀樹は、もう息のつまる思いがしてくるのだった。
「あなたのいない間に、あたくし、また一つ街を作ったわ。そこは星の街なの。青いのや銀いろのや、血のようないろをした星がいっぱいあるんだけれど、満月の夜になるとその光があんまり強いんで、星はぜんぶ消されてしまうのよ。星を甦らすためには、あなた、何をすればいいと思って?」
秀樹はひととき長い睫毛を羽のように動かし、それから正確に答える。
「ぼくが昇天すればいいんです」
「そのとおり。でもこの街では自殺は許されていないの。必ず誰かの手が直接触れて、咽喉を締めるなり心臓を|抉《えぐ》るなりしてくれなければ、お星様にはなれないからなのよ。だとしたら、どうなさるおつもり」
「お姉様の手で……」
秀樹は、二人きりの時にだけ許されている呼び名を掠れた声でいった。
「あたくしは駄目」
にべもないように首をふると、
「だってその街では、赤の他人に殺されなくちゃ星になれないんですもの。そうね、じゃこうしましょう。もう街もだいぶ建設が進んだから、そろそろ人をいれましょう。凛々しい少年たちがいいわね、白虎隊みたいな。それからその少年たちを誘惑して堕落させるための娼婦も大勢いるわ」
「娼婦って、あの……」
「そうよ。アイシャドーで凄まじい|隈《くま》を作って、口紅を毒々しく引いた女たち。腰をくねらせて流し眼を送って」
「いやだ、そんなのはいやだ」
秀樹はほんとうに躯をふるわせた。
「お姉様と二人きりの神聖な街に、そんな……」
「いいえ、これは試練なのよ」
どんな小さな怯えも見逃すまいとするように眼を凝らして、柚香はまじめに告げた。
「だってあたくしたちの建てているのは、いずれは硫黄の火で焼かれなくちゃいけない、ソドムやゴモラのような街なんですもの。でも御安心なさいな。街には娼婦のほかにあなたの仲間がいっぱいいるわ。さあ早く誰か相手を探すのよ」
「ええ、でもぼく……」
「駄目」
きびしくいい渡しておいてから柚香は、秀樹の好きでたまらない、とっておきの笑顔を見せた。
「でもね、その少年たちも町の猥雑な空気に堪えられなくて、皆な死のうと考えるの。日蝕や月蝕と同じ大星蝕の夜が来ると、皆なも自分が星になろうとするのよ。嬉しそうに、顔いっぱいのほほえみを浮かべて、それぞれいちばん好きな相手と刺し違えて死ぬの。でも、もうお判りでしょう、秀樹さん。あなただけはいつも奇数番ではみ出してしまうんだわ」
あとはいつものように秀樹の涙を見ながら物語をしめくくればよかった。この不倖せなはみ出し野郎のために。
「街には次から次に純潔な少年や若者たちがやってくるけれど、あなたはいつも奇数の|剰《あま》り者で、誰も相手はいない。暗い娼家の軒下を歩くのは、あなた一人なんだわ。でも大丈夫。あなたはその死者たちの残したほほえみを拾い集めさえすればいいの。ポケットにいっぱいに詰めて、両手にも捧げ持って、そうすれば一人でも天に昇れてよ」
秀樹は涙に濡れた頬をあげ、むりに笑おうとした。
「さあ、その前に、いつものように詩を一編残さなくちゃ」
少年の眼はふいに鋭く輝き、不敵な光さえ宿す。それを見るのが柚香にはこころよかった。
まぎれもない、いまこの私は少年のミューズなのだから。
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死よ
香ぐはしき星よ
汝がまたたきの深みに降り
汝が光の臥処に休らはんを
死よ
それまでは青くあれ
[#ここで字下げ終わり]
たちまち少年は紙片にそう記した。柚香は口の中で確かめるように何度か呟き、おしまいの二行が特にいいと賞めてから、ちゃんと名前を書いてと促した。少年は勢いよく署名した。
ミロのビーナスの衝撃でひどい熱を出している間、柚香がうつらうつら考えていたのはその紙片のことで、そのほかにも習作ふうな散文などが残されているけれども、それはこの際、焼きすてておいたほうがいいかも知れない。柚香の胸は期待にあふれ、少年の才能は痛ましいほどいじらしく思われた。
少し元気になると柚香は電話で少年を呼び、しばらく逢えないこと、秀樹一人でミロのビーナスを見にゆくことを命じた。
「秀樹さん、あなた、あたくしのことをよく日記に書いたりするの」
「ううん、そんなことないよ」
少年は口ごもった。
「いいえ、書いてもいいの。でも変に具体的にお姉様がどうしたこうしたなんて書いたりはしないでしょうね。誰かに見られでもしたら、もう二人の街もおしまいよ。……ちょっと、聞いているの? あたくし、変なことを人からいわれたの。大丈夫だとは思うけど、具体的にあたくしの名前を書いたものなんかあったら、すぐ全部焼き棄ててちょうだい。これは命令≠諱v
その言葉にどれだけ秀樹が弱いかを、柚香はよく承知していた。これからの計画が少しでも地上の俗物どもに誤解されることのないよう、あらゆる注意を払っておかなくてはならない。
「ミロのビーナスを見てきたら、あなたにだけ大事なことをお話してあげるわ。本当の女性の秘密を、ね。ですからようく見てくるのよ。ことに、ホラ、あのビーナスは両腕がもげているでしょう。その両手がもしあったとしたら何を持っていたか、どんな恰好をしていたかも考えといて。判った?」
「判りました」
少年はおとなしく答えた。
「それからもうひとつ、あたくし、あの像に大変な発見をしたの。両腕ばかりじゃない、とっても大事な部分が落ちているんだって。それも考えてみてちょうだいね」
四月の末になって秀樹は、ようやく待ち焦がれていた指示を受けた。決して行先を告げずに家を出て、夜の十一時に、ある駅の改札口までくるようにというのだった。少年がいわれたとおりに待っていると、ふいに妖艶な顔が笑いかけた。黒ずくめの服を着た柚香で、その化粧は思わずたじろぐほどに大人っぽかった。
「びっくりしたでしょ。お友達んとこで着替えてきたの。お化粧もそこのお姉さんにしてもらったのよ。少しここんとこ、濃すぎるかしら」
「いいえ、でも……」
眩しすぎるとしか秀樹にはいうことができない。それと同時に新しく志望どおりの高校に入ったとはいえ、いつものとおりの学生服の自分が、この上なくみすぼらしい、稚い生物に思えた。
「おうちにはなんていって出ていらしたの」
「べつに……。高校へ入ってから、うるさくいわないんです」
「そう」
柚香はそれでも疑わしげに、しろしろ[#「しろしろ」に傍点]と秀樹の周囲を見渡した。
「この近くにとってもいい場所を見つけたの。大事なお話をするのに、喫茶店なんかじゃ、ざわついてていやでしょう」
「ええ、まあ」
「こっち」
角を曲って、ふいに大きな新築のビルの裏手に出ると、柚香は身をかがめて小さな石ころを拾い、うしろを向いたままいった。
「このビルはね、下がスーパーで上がマンション。でもまだほとんど人が入っていないから、大丈夫。屋上の眺めがとってもいいのよ。こっちから行きましょう」
大胆に非常階段の鉄柵に近づき、鍵もかかっていない低い扉をあけると、柚香はすばやく周辺に人影のないのを見すまして秀樹を促した。鉄の階段は星空へ向いて限りもなく伸びているようだった。跫音だけが夜気に昇った。
屋上に立って二人はしばらく満天の星を眺めた。柚香の躯は少し顫えていた。少年だけはまだ今夜が聖なる大星蝕の夜だと知らないのだ。……
「夜風が気持いいこと。ところで、考えてきた? ミロのビーナスが両手で何をしていたか」
「ええ、まあ。でもよく判りません」
秀樹は言葉少なだった。
「あたくし、我慢がならないのよ。どんな御本を見ても、あの右手はつつましく裳裾をつまんで、左手は掌にリンゴを載せていたなんて書いてあるでしょ。そんなの、不潔な見方だと思わない? 女と見ればただもう優しいとかつつましいものと思いこむのは、あのビーナスを娼婦みたいに見ようとする大変な冒涜よ。あれほど猛々しい像をなんだと思っているのかしら。あのもげた両腕にあったのは、まちがいなく剣と盾だし、女性の本質ってほんとうは猛々しい威厳にあるの。粗野な暴力じゃない、優雅さを兼ねそなえた威厳。ですから逆に男性の本質は純潔とかはにかみにある筈なのに、現代ではまったくそれが逆になっているんですもの。どんなにいまが野蛮な時代か判るでしょう」
柚香は自分の言葉に酔っていた。秀樹もまた、一夜を変身した黒の女神の傍に立ち尽し、凝固したように動かなかった。
「ああ、もうあの時代を取り返すことは出来ないのかしら。緑のオリーブと無花果と、紫に泡立つ海とは返ってこないのかしら」
柚香の嘆きに、秀樹もまたようやく熱っぽい囁きに似た言葉をいった。
「教えて下さい、ぼくにも。ミロのビーナスから失われたもう一つのものって何ですか。もし、ぼくが教えるのに値いするなら、お願いです」
ふいに柚香は軽々と屋上の一部に走り寄った。工事の遅れか、そこだけは防護網がついていない僅かな隙間から低い石垣の上に立つと、艶然と秀樹をふり返った。
「それはね、翼よ。左の肩から生えていた大きな翼。こうして空を飛ぶための」
両腕を翼さながらに拡げ、いまにもそこから翔び立とうとする姿勢に、秀樹もまた夢中で走り寄った。
「大丈夫。あたくしには翼があるの。それからあなたにも」
柚香は優しく身を屈め、秀樹のいちばん好きな笑顔になっていった。
「ねえ、選ばれた人間にだけは、見えない翼があるって考えたことはなくて。物理学なんて卑しい学問のおかげで、あたくしたちまで空を翔べないように思いこんでいるけど、それは信念が足りないからなの。ここに立っておなかの底から深呼吸して、そこから星空を全部自分のものにするまで見つめて、そう、いまこそ翼があるんだって判るでしょう。そっと眼を閉じてごらんなさい。そのまま星に向かって旅立てば絶対に飛べる筈よ。それでいいわ。ええ、そうやって深呼吸して」
話しながら柚香は巧みに少年と入れ変り、下から優しい微笑を崩さずに畳みかけた。
「どう、ちゃんとあなたの肩に大きな翼があるのが判るでしょう」
「ええ、判ります。とても強い翼です」
「そうっとそれを|羽撃《はばた》かせて、ええ、そう、あたくしのももうこんなに大きく動いてるわ。さあ、あなたが先へ飛ぶのよ。あたくしたち二人で作りあげたあの聖なる街へ行くために。よくって。あたくし、もう待てないくらい」
柚香はほとんど息をつめていた。この豊かな詩才を持った少年を、いまミューズは本当に天の高みへ送り届けようとしている。神も必ずこの魂を嘉納されるだろう。熱病にうかされながら柚香の考え続けていたのは、まさにこの一瞬の法悦であり、あとはあの、
死よ
それまでは青くあれ
という二行を含む署名入りの紙片を、さっき拾っておいた石ころでこの屋上に飛ばないよう押えておけばいい。ここの真下はスーパーの横の空地だから、物音にさえ気づかれなければ、感傷的な高校生の自殺死体が発見されるのは明日の朝になるだろう。あたしはさっきの非常階段を誰にも気づかれぬよう降りて、報告を待ち構えている友達の家へ化粧を落しに帰るだけだ。
「どうしたの? さあ、一緒に翔びましょうよ」
柚香はできるだけ優しく、尖った声にならぬよう気をつけながら促した。
「ええ、いま翔び立つところです」
少年はふり返った。星明りに光る涙をふり払うようにして柚香を眺め、宙に身を躍らせる前に一言だけこういった。
「さようなら、星の街の娼婦さん」
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ヨカナーンの夜
Nonはふしぎな微笑をたたえた少女で、Rueはその白い頬をみるたび、うすいガラスのエレベーターを思った。花は、その透明なエレベーターにのせられて、音もなく頬を上下するのである。銀とうす紅の花・淡緑の花・焦茶いろの花。微笑は花束からこぼれ落ちた固い花びらで、手品師が虚空からいちまいの銀貨をつまみ出すように、Rueはその微笑を摘みとり、指先に挟んでしばらく眺めてから、それを口に抛りこんだ。口中でそれは香り、小さな固型の粒になって咽喉の奥にころげこんでゆく。と、Nonの頬には、もう静かにべつのエレベーターが昇りはじめていた。
「あたくし、あなたの考えているほど聖少女≠カゃないわ」
「そうだった?」
「そうですとも。ね、あなたにあたくしの脳髄のスクリーン、貸してあげましょうか」
そういってNonは、むかしの無線技師が頭にはめこんでいたレシーバーをはずすように、それを脱いでRueに渡した。仄かな温もりがRueのこめかみに伝わり、スイッチをいれると、Nonが好んで空想するその場面が、いきいきと動き出した。
「ああ、本当だ。やっぱりきみは、残虐に血を流すことが好きだったんだね」
「残虐って、なあに?」
Nonは小さなあくびをすると、眠りに入るための水いろのボンボンを口にいれた。すぐに安らかな寝息をたて始め、透明なエレベーターはその頬で静止した。花たちはたちまち萎れ、Nonは貧血した少女のように動かない。その寝顔を見守りながら、RueはNonの残した空想の続きを追った。白銀の甲冑に身を固めたNonがまたがっている茶褐色の、顔の長い|鬣《たてがみ》のある獣はなんという名だろう。手にしている長い剣が西陽に煌くたび、Nonの周りにむらがる半裸の兵士は血しぶきをあげて斃れる。血は噴水のように夕空に散って、兵士たちはゆっくりのけぞってゆく。
僧院で育ち、聖歌隊のメンバーに加わったばかりのRueには、それが古代の戦いを模したらしいというほか、まったく理解できない眺めだったが、Nonのいうとおり、これは残虐なんかとは無関係だという思いはしだいに強まった。なぜなら、兵士たちは進んでNonの周囲にむらがり、聖なる祝福を求めるようにしてNonの剣の下に集まってくるのだから。
さしのべる両腕。草のサンダルを巻きつけただけの両脚。短衣に蔽われた腰。むかしの人間たちはこんなに大きく、力強く、こうまで筋肉を光らせていたのだろうか。そのまったく無用な肉の逞しさは、たぶん彼ら自身の縛めの縄なので、Nonの剣の一ふりは、つぎつぎそれを切り落し、解き放ってやっているとしか思えない。だからこれは残虐≠ネどではない、反対に愛≠サのもの優雅≠サのものなんだ。……
………………………………………………
早宮秀樹が書き遺した、散文詩とも未来小説ともつかぬ文章をそこまで読むと、藍沢柚香は仄白く笑って顔をおこした。確かに才能はあったに違いない。少年にしては出来すぎ気がつきすぎている。だからこそ柚香はかれを星に還さずにはいられなかった。
「文学少年、飛降り自殺」という小さな新聞記事で事件が片づけられてから、もう数年が経つ。初めは書いたもの全部を焼き棄てておこうと思ったが、あえてこれだけを手許に留めたのは、少年の長い睫毛を偲ぶよすがが欲しかったのと、後半に柚香の意を受けて書いた、生首の宴の記述があるからだった。Nonというのは、むろん秀樹のひそかな渇仰をあらわした柚香への呼び名である。
………………………………………………
……Rueはスイッチを切ると、自分の脳髄スクリーンとかけ替え、Nonの眠りに向けてビームの出力をあげた。
眠りのなかでは、またあの酒宴が開かれようとしていた。そこではもうNonは、白銀の甲冑を脱ぎ、この城に並ぶ者のない美しい姫に戻ろうとしている。多くの侍女に囲まれながら浴みをし香をふり、長い時間をかけて化粧をし衣裳を選ぶ間に、今日の戦いで剣の下に斃れた敵の兵士のうち、とりわけて眉目の秀でた若者だけが選ばれてつぎつぎ首を|刎《は》ねられてゆく。あるいは捕虜の中からでも、眼に適った者だけは特に刎頸を志願することが許される。彼等ばかりではない、時として味方の兵士さえ喜んで首をさしのべようとするのは、Nonの国の生首処理の技術が大そう進んでおり、生前さながらに涼しげに眼をみひらき、血のいろも美しい頬に微笑みを絶やさぬ秘法が久しく伝えられているせいであった。一度そのみごとな仕上りを見せられると、何を措いてもこうありたい、生首になりたいと念じぬ者はいなかったのである。
酒宴の席にそれは欠かせぬ馳走であり、ことにも大きな玻璃の器に一つずつ置かれた若者の首は、燭台の灯に一際映え、王女や宮中の選りすぐった美女たちの前で、いっそう倖せな微笑を深めた。その|靨《えくぼ》を浸すほどに珍らかな酒が湛えられ、長い柄のついた銀の杓子で銘々の盃にとりわけられると、その夜の客の舌の上には仄かな血の味が沁み渡った。それはただちに、今日の仄明るい夕されどきに噴きしぶいた血の噴水を思い出させ、客たちはひとしきり合戦の模様を語り合って打ち興じるのであった。
夜気は花の香とともに|立罩《たちこ》めたが、姫は、まだ現われない。……
………………………………………………
三年前、秀樹にこう書かせた以前から、柚香はどうしても一度、本当の生首パーティをやってみたいと念じていたのだが、今日こうして読み返していると、その願望はいよいよ昂じて息苦しいまでになった。二十歳を迎えた柚香の美貌はただならぬもので、崇拝者の中には持ちかければ幾人かは生首志願者も現われるだろうが、あいにくNonの国と違って、それをさながら生きているように保存する技術は現代にない。死首に白粉を刷き、紅をさしてもグロテスクな死相は消えないだろうし、第一それでは玻璃の器、現代ふうにいって巨大なパンチボウルの底に据えて、酒とともに楽しむわけにはゆかない。
「なんてことかしら」
柚香は心に呟いた。
「どんな未開の蛮族でも、大昔からミイラの乾し首はりっぱに作ってみせるというのに、現代の科学ときたら、なんてまあ役立たずなんでしょう、美しい生首ひとつ作れないなんて!」
柚香はうっとりと空想に耽った。その技術が進んで、頬艶のいい若い生首がいつまでも眼をあき、靨を絶やさずに冷蔵庫の中へ蔵っておけたらすばらしいのに。パーティでも、あるいは深夜独りでもそれを取り出し、照明を美しく工夫したパンチボウルの中にいれ、ひたひたに香り高い果実酒を注ぐ。そのとき切り口の封印は少しほどけて、僅かばかりの血が流れ出るようにしておかなければならない。掌に掬って飲んでもいい。塩はゆい血の味と南国産のフルーツの香りとがほどよく融け合ったその酒でなら、本当の酩酊を味わうことが出来るだろう。
柚香の頬は紅潮し、髪は苛立たしく額に乱れた。この生首パーティはどうあっても実行しなければならない。さしあたって助手がひとり必要だが、それは早宮秀樹を星の街へ飛翔させるとき手伝った友達――篠原真矢を措いてない。いまは美術学校の彫金科に通って、男のような口のきき方をする、ただし柚香のいうことには逆らったことのない便利な存在だった。
「そりゃ無理ってもんだ。SFや怪奇映画じゃあるまいし、ちょん切った生首だけが眼をあいて笑ってろたって、そうはいかないよ」
柚香の提案を聞くと、珍しく真矢は、つけつけと反対の意見を述べた。
「ですから、ちょん切らなくてもいいのよ。生きたまま首だけをパンチボウルの底から突き出させる方法って、何かないかしら。ホラ、昔の見世物小屋によくあったでしょう、台の上の首だけが笑ったり喋ったりする、あんな仕掛」
「ああ、サロメの卓って鏡張りの奇術だね」
真矢はそこでザラ紙を持出し、慣れたようすで図を描いてみせながらいった。
「パンチボウルじゃ、どうしたって無理だ。底を首廻りに合せてうまくつなぐってことが難しいし、第一まだ生きてるとなりゃ、お酒を鼻から上まで入れるわけにはいかないよ。唇だって浸けられないとなると、ね、こんなふうに底のほうにちょっぴりしか溜らないじゃないか」
真矢はいそがしく鉛筆を動かして生首の周りを塗りつぶした。
「電気スタンドの笠みたいなものをひっくり返しにして、首にはめこんだって詰らないだろ。だから、こうしようよ。ガラス工芸社に特別に頼んで、厚い丸火鉢の胴みたいな酒の器を作って貰うのさ。むろん胴だけで真中の底のない奴。顔の正面の部分があいててもいいけど、それじゃまるで西洋便器だから、ぐるりと囲んじまおう。それをサロメの卓に載っけて、照明をうまくすりゃ、結構気分が出ると思うよ」
喋りながら出来上がってゆく図を、柚香は冷やかな顔で見守っていたが、やがてこういった。
「イメージとはだいぶ違うけど、まあ仕方がないでしょう。それはいいとして、その夜のヨカナーンには誰か心当りがあって? 四時間でも五時間でも箱の中にじっと坐って、あたくしが顔を見せたときはいつでも嬉しそうに笑ってくれる子でなくちゃ。それもバプティスマのヨハネみたいな、むさくるしいのは、いや。喰べ物といったら蝗と蜂蜜の代りに、あたくしが額にするキスだけで満足する、清潔な感じの子がいないかしら」
「いる、いる、ぴったりなのが」
真矢は自信ありげに笑った。
「こないだ一度連れて来たけど、気がつかなかったかな。とんと『太十』の十次郎みたいな顔の癖に、胎内願望の強い子だから、箱ん中でじっとさせとくなら持ってこいだ。あんな気品のあるプリンセスはみたことがないって柚香にはいかれ放しだったから、いえば二つ返事で飛んでくるさ」
「そんな子がいたかしら」
柚香は仄かな眼づかいをした。
|杉山隆史《すぎやまたかふみ》というその青年は、そのころはしり[#「はしり」に傍点]のアングラ劇団に所属し、京都の在から家出してきて、係累がいっさいないというのも気にいった。どういう家系の突然変異か、横笛と小太刀に秀でた公達か若武者といった蒼白な面立ちで、切れ長な眼が冴え冴えとまたたく。純白の狼を思わせる歯も眼を引いた。改めて紹介されると、顔を伏せて、よくものもいえないというふうだったが、ヨカナーンの首の役と聞かされると心から喜色をあらわにし、かまわないから本当に首を切って、すてきに大きい銀盆の上に載せて下さったら、どんなにすばらしいだろうという意味のことを呟いた。
準備は着々と進んだ。サロメの卓も、それを匿す厚手な|天鵞絨《びろうど》の垂れ幕も新調して届けられた。舞台と違うから、客が酒を酌むために前までくれば、いやでも脚が映って仕掛はすぐ見破られるだろうが、それはこの際仕方がない。別誂えの円型の工芸ガラスは、酒を容れる部分が相当な幅をとってしまうので、やはり顔の前面の部分はあけられることになった。照明は酒の色を引き立てるためにも、思いきって明るい薔薇色と決まった。これなら杉山隆史の血の気のない顔も、生き生きと輝くことだろう。客は気心の知れた女性ばかりとし、半裸体の兵士、もしくは小姓の役としてなら男性も参加できることにした。
しかし、日が近づくにつれて、柚香はしだいに心楽しまぬ顔になった。もともとが巨大なパンチボウルの中に、生きているとしか思えぬ青年の首をいれ、かすかな血の味とともに酒を楽しもうという趣向が、こうまで変型されたのでは嬉しい筈がない。さらにもう一つは、隆史という若者が、見かけや容貌は完璧を極めながら、内実は女性一般に他愛もない憧れを抱いている程度と見極めがついたせいもあった。柚香が選んだ以上は、柚香にだけ心身を捧げる誓いが欲しい。なんべんかのリハーサルをくり返しながら、柚香はそろそろとそのへんに探りをいれるつもりで、こうもちかけてみた。
「よくって? あなたは井戸の底に捕えられたヨカナーンで、あたくしがサロメ。でも、御存知かしら。サロメっていうのは、本当は淫奔な妖姫でもなんでもない、つつましい人妻だったのよ。それが聖書にあるとおり、母のヘロディアスにそそのかされて、ヨカナーンの首を求めることになるんだわ。あたくし、それが恐いの。パーティの夜にも、母はきっとあなたとあたくしの仲を嫉んで、同じことをいい出すに違いないんですもの。首をちょん切っておしまいって。もし、本当にそうなったらどうしましょう。あなたの、こんなにも青白く燃えている美しい首を、皆の前で切らなければならないとしたら」
台の上に首だけ出し、サロメの卓に箱詰めになった隆史は、やつれたような微笑を浮かべ、予想どおりのことを答えた。
「かまいません。ぼくは初めてお会いしたとき、瑠璃夫人をあなたのお母様だなんて思わなかったんです。お姉様だとばかり思っていました。こんなにも美しい母娘の方がいらっしゃるなんて、いまでも夢のようだ。そのお二人が、もしぼくの首を、首だけを愛して下さるのなら、こんな晴れがましいことはありません。どうか、瑠璃夫人が首をとおっしゃったら、そのときは本気で、ひと思いにスパッと切って下さい。でも、ただ……、ただそのあとで、必ず約束していただけませんか、そのあとで瑠璃夫人と柚香さんが、こもごもぼくの首にくちづけして下さることを……」
箱の中で隆史は身悶えし、できるなら両手をさしのべたいというほどのふぜいであったが、柚香の眼はたちまち光った。母を持ち出したのはへロディアスから思いついた偶然にすぎないが、たとえ母であっても、それへ自分と同格の渇仰を惜しまぬ青年の無神経は許せなかった。それに、初めは確かにおとなしい、清潔なタイプを望んだには違いないが、自分から殺してくれといい出すヨカナーンというのも興醒めで、これではせいぜい、若いシリア人ナラボスの役処でしかない。
「それは違うのよ、隆史さん」
柚香は優しい声でいい聞かせた。
「母にでも誰にでも、絶対にあなたは渡したくないの。ねえ、判ってちょうだい、そうやって箱に入っているあなたが、あたくしはいちばん好き。なんべんでもこうしてベエゼしたいくらい」
いきなり両手で頬を挟むと、額にも瞼にもかまわずキスの雨を降らせた。
「もうパーティなんかで、あなたを人に見せるのは、いや。お願いだからそうやって箱に入ったまま、いつまでもあたくしの傍にいて下さらない? あたくしの傍だけに。その代り、なんでも好きなことをしてさしあげてよ」
「本当ですか」
青年は他愛なく眼を輝かせた。
「入っていますとも。一生入っていますから本当にお傍へおいて下さい」
「約束するわ。これが約束のしるし」
隆史の唇へ、ほとんど一滴の飛沫がかかったほどの感触で、柚香の唇が触れた。それからドードーナの森の巫女めいた眼が、正面から見つめて、おごそかにいい渡した。
「誓ってちょうだい。一度劇団に帰って、あとくされのないよう退団するの。むろん郷里にもどこにも、うちへ来るなんて一言でも洩らしちゃ駄目。この地上といっさい縁を切って、それから改めて来るのよ。約束できて?」
「むろんですとも」
「そう、それならその間に、あなたのお部屋を用意しておくわ。うちには誰も足を踏み入れたことのない開かずの間がいっぱいあるの」
一度隆史を帰してから、柚香の活躍はめざましかった。突然にパーティの中止を聞かされて真矢はだいぶ憤慨したが、それでもいわれるままに隆史の新しいお部屋=Aサロメの卓ならぬ、もっと丈夫な、やはり首だけを出す式の、錠前付きで底に特殊な仕掛をした四角な箱を作ることを請負い、期日にそれを届けた。
「あたくし、中の腰掛けは天鵞絨で作らせたの。そのほうがあのひとにいいと思って」
「ずいぶん手廻しがいいんだね。中に裸で坐らせようってわけか」
真矢はよく知っているが、隆史の下半身は顔に似合ず逞しいもので、白く光沢のいい太腿や尻に、天鵞絨の短毛はほどよい刺激を与えることだろう。
「昔は見世物小屋に出すために、子供を箱詰めにして育てたなんて話を聞いたけど、どうするんだい。飼うなら飼うだけの心がまえもいるし」
柚香は艶然と笑い、Nonの台詞で答えた。
「あたくし、あなたの考えているほど聖少女≠カゃないわ」
「おや、そうだった?」
真矢も同じ台詞で引取った。
「そうですとも。あたくしはただ彼を罰してやろうと思ってるだけ」
――約束の夜が来た。哀れなヨカナーンは、柚香のためにだけ微笑む生首となるため、本当に地上のいっさいと縁を切ってきたらしい。ことさらに厚手なドアと、高い窓がひとつ浮いている部屋に木箱は置かれていた。予定どおり一糸まとわぬ素裸にしてその中へ追いこむと、柚香は遠慮なく前と後ろ、それに首の部分の三つの錠をおろした。
「坐りごこちは、どうかしら」
「ええ。でもなんだか少しこそばゆいです」
隆史は甘えた笑顔になって、皓い歯を見せた。
柚香は首の周りに花を飾り、血の色の酒を充たしたワイングラスを置くと、自分も椅子を引き寄せて、こう話しかけた。
「ガラスの酒器は、折角作ったけれど、二人には邪魔だからこうしてお話しましょうね。まずワインをひとくち召し上がれ。どう? これからは首のあなた≠フ周りには、いつでもあたくしの笑顔と花とお酒と、それからおいしい喰べ物をふんだんに用意してよ。その代り箱の中のあなた≠ヘ、その代償を受けるの。捕えられたヨハネが獄の中でそうだったように、あらゆる汚穢と汚辱が待ち受けることになるでしょう。みじめな暗黒を、でもあなたもあたくしも見ないで済むよう、箱の底にいろんな工夫がしてあるのよ。安心なさい、首から上の法悦があれば、あなただって満足でしょう? あたくしも心からこうして首だけのあなたを愛しているんですもの」
柚香はふたたび隆史の頬を両手に挟み、その額に軽い接吻を与えたが、ヨカナーンの首は、そのときもう世にも醜い、ひきつれた恐怖の表情を浮かべただけであった。
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青髯の夜
数日後、杉山隆史は、たやすく発狂した。純白の狼を思わせるその鋭い歯で、舌を噛み切らなかったのがまだしものことだった。涎を垂れ放しにし、焦点の定まらぬ眼で、食物をまったく受けつけなくなると、藍沢柚香はまたすぐ篠原真矢を呼んで、こともなげに後始末を命じた。
「だから、いわないこっちゃない。ヨカナーンの首だけを可愛がろうなんて、初めっから無理だっていったろう」
その処置をすませてくると、さすがに真矢はそういって口を尖らせたが、柚香はなんの感じもない顔だった。
「いいえ、いいの。そういう約束で箱に入ったんですもの。堪えられないというのは、それだけ愛が薄かった証拠よ。それで、どうなさったの」
「ああ、東京駅へ連れてって、発車間際に新幹線に乗せてやった。ぼんやり坐ってたよ。おふくろから来た古い手紙をポケットに突っこんどいたから、終点まで来て降りないとなりゃ、誰かが気がついてなんとか故郷へ連れ帰すだろ。大丈夫、おとなしい気違いだから暴れたりはしないし、柚香のことも思い出す気づかいはないさ。それにしても、お姫さまの道楽にも困ったもんだ。いくら温水調節つきのトイレだからって、夜も昼もその上に腰かけさせられてごらんな。たいがい頭もおかしくなるよ」
「あら、そうかしら」
柚香は、不満そうに呟いた。
お姫さまの道楽、といっても、自殺だの発狂だのという大物ばかりを狙うとは限らない。ちょっとしたトリックで、周りに群がる男たちを片輪にし火傷をさせ、いともやすやすと廃人にする才能は生得のもので、幼稚園のころから、しんそこ無邪気にその能力を発揮してきたのだが、周りではついに一度も柚香の仕業だと気づいた者はいない。もともと本人自身が信じていないのだから、それも当然であろう。
二十歳をすぎて、周囲につぎつぎと熱烈な求婚者があらわれ出すと、このアタランテの駿足はいよいよとめどもないものになった。柚香の愛を得たいと望む者は、奇妙な事故としか名づけようのない形で屠られていった。だが、いつかは必ず女神から三つの黄金の林檎を授けられ、その駿足を封じるヒッポメネスが出現することは、あるいは当然な運命だったのであろう。|宇川《うがわ》|柾夫《まさお》が、研ぎすまされたほどに青い髯の剃り痕を見せて柚香の前に現われたのは、ヨカナーンの夜からさらに三年ほどを隔てた六月の宵であった。
真矢の姉――女流カメラマンの篠原美矢が仕事でシドニーへ発つというので、羽田まで行ったのだが、見送りの一団の中でも宇川の長身は人眼をひいた。三十歳をいくつか過ぎているのだろう、隙のないスーツの着こなしと、冷酷な印象さえ与えかねない引緊った横顔とを、柚香は見るともなく眺めていたのだが、その気配を見てとると美矢は、すっと体をすべらせるようにして二人の間に立った。コンピューター関係のエリート社員で、まだ独身という紹介のあと、いかにもさりげない顔で、
「そりゃあもう、何をなすっても手剛い方」
とつけ加えたのは、なんのためだったろう。宇川と柚香は、互いに涼しく微笑み合った。
如才なく服を賞め、持物の好みを賞め、家が目黒と聞くと自分も同じ方角だし、車で来ておりますからお送りしましょうといい、手早くドアをあけて直立不動の姿勢をとるという折りかがみの良さで、真矢は遠くから呆気に取られた顔で見送っていた。車はおとなしい型のセダンだが、フィアットの新車だった。
「美矢さんも大変ですね。こちらは六月でも、たった一晩でもう向うは冬ですから」
「ほんとうに」
柚香はつつましく相槌をうった。
「宇川さんは、よく外国へいらっしゃいますの」
「ええ、四、五回ほど。仕事の性質上、主にアメリカですが」
「コンピューターの関係って、どんなことをなさるのかしら」
「いろいろ、というより何でも屋ですね。まだ会社が発足したばかりで」
「でも、ああいうものでも、綿密に計画していざ実行という段になると、どこかで狂ってミスを犯すってことがありますの。あたくしには想像もつかないことですけど」
次第に話を核心に触れさせながら、袖香は試合の前の剣士にも似た微笑を崩さなかった。美矢がああして言い置いていった以上、宇川はこれまでとは比較にならぬ強敵に違いなく、なまじなことで屈伏するとは思われない。柚香の胸奥にある夜≠フひとつ、深い井戸にも似たそこへ落しこむためには、周到すぎるほどの用意が必要らしかった。だが宇川は、おや、こんな美しいお嬢さんが、というように、
「コンピューターのミスですか」
と、意外そうに柚香を見返った。
「そうですね。人間のすることですから、ファクターを入れるときのポイントミスもあるし、初心者のプログラマーだと途中の誤差に気づかないで、数字の手計算までして合ってるのにって不思議がるケースもありますね。マシンサイドだと、オンラインのデータ転送のときミスが起こりがちなのは、ノイズがひょいと化けちまうからなんです。プリンターってのが大体頼りになりませんしね」
喋っていることのあらかたは柚香には訳の判らぬ話で、さし当っての参考になるとも思えないが、こうした種類の男のものの考え方、思考の偏りを知っておくのも無駄ではない。宇川の方はしかし、よっぽど自分の仕事に理解があると思ったのであろう、一度ぜひ会社へ遊びに来て欲しい、電算室を案内するからと熱心に誘い、柚香はもったいぶって承知した。
デートを重ねるうちに、二人は誰の眼にもほほえましい恋人同士に映り始めたが、二人の考えているのは、当然べつべつのことだった。柚香は、今度こそ彼を、生首どころではない、完全な剥製にしたいと、そればかりを希っていた。中でも磨きぬかれたような剃り痕の青い頬を眺めていると、どうしたらこれをいきいきと保存できるだろうと心は逸った。ホルマリンに浸けこんで|生《き》の|明礬《みょうばん》液で仕上げをしたところで、人間の皮膚が色艶よく保たれるとは思えない。それでランプシェードを作ったというナチの女の話には興味もなかったが、考えているのは江戸川乱歩が『恐怖美術館』で蝋細工を芯にして描き、三島由紀夫がそれに惚れこんで自作自演したような、一枚皮の裸像[#「一枚皮の裸像」に傍点]であった。真矢は前の事件に懲りたのか、相手になろうとしない。それどころか柚香が本気で惚れこんだと思ったのであろう、無遠慮にこういった。
「どうしたんだ、他愛もない。そんなことをしてると二人とも獅子にされちまうよ。いいのかい」
「ええ、いいの。だってようやく生涯の相手にめぐり会ったっていう感じなんですもの」
真矢のいう真意も、そのとき柚香にはよくのみこめていなかったのだが、反対にそんな返事も、真矢にはだらしのない|惚気《のろけ》としか聞えなかったのであろう、肩をすくめてみせただけで、もう何もいわなかった。
宇川は柚香の家へ遊びにくるたび、父の惟之が果てた塔屋に興味を持って、一度どうしてもそこを見たいとせがんだ。
「だってあそこは母からタブーにされてますのよ。ことに男のひとは入れちゃいけないって」
「だから、瑠璃夫人のいらっしゃらない時に。ね、いいでしょう」
熱心にせがむ宇川の表情には、これまで見せたことのない子供っぽさが浮かび、柚香はようやく彼の弱点を一つ掴んだ気になったが、わざと話をそらせた。
「それより今度、千ヶ滝の山荘へいらっしゃらないこと。あたくし、いまごろの季節がいちばん好き。シーズンに入るともう暑苦しくていられませんもの」
「ええ、行きます、伺いますよ。だけど今日はお母様がお留守なんでしょう。ぼくは一度どうしても塔に昇ってみたいんだ。こんな美しい人を遺して、お父様が何を考えていらしたか知りたいんですよ」
相手が少年らしい隙を見せることは、柚香にとって何かの入口を見つけることに等しい。不承々々に承知して鍵は開かれ、二人は薄く埃の溜った螺旋階段を昇った。備え付けの望遠鏡も書棚も安楽椅子も、さらにふかぶかとしたベッドも置かれているそこで、宇川はしばらく眼を輝かして立尽していたが、やがてその腕はごく自然に柚香の肩を抱き、二人は初めて唇を合せた。長く熱い抱擁の刻が過ぎ、柚香はうっとりと男の頬を指で辿った。
「ねえ、ここはどうしてこんなに青いのかしら。あたくしには眩しいくらい」
その皮膚を優しく撫でている白い指が、何を希っているかには気づきもしないように、宇川は照れながらいった。
「一日二回は剃らないといけないんでね。めんどくさいったらないですよ」
「髪の毛や髭って、人が死んだあとも、すこうしだけ伸びるんですってね。本当かしら」
「ああ、そういうね。心臓や呼吸が停っても、皮膚の細胞まで死ぬわけじゃないから」
宇川は屈託もない笑顔を見せた。
「千ヶ滝のほうは、いついらして戴けて」
「そうだなあ。でも、あちらには瑠璃夫人もおいでなんでしょう。ぼくはどうもちょっと苦手だ。お母様のほうは気に入って下すっているらしいけど」
――その母は、二人が下へ降りると時間より早く帰って来てい、塔屋に昇ったのを当然知っているだろうに、いとしい娘婿を迎える態度で手をさしのべた。
柚香がしきりと千ヶ滝の山荘に宇川を誘ったのには理由があった。まだ容易に尻尾を出さないが、人を愛する愛し方が一風変ってい、地上では残酷とだけ評されるそんな仕方でしか愛することのできない、いわば自分のお仲間として宇川を見ていたのだが、相手にかけらもその気配が見えてこないことに、ようやく不安を覚えたからであった。同じ東京ではなく、小さい時から夏を過して勝手の判っている軽井沢でなら、何とかその仕掛をするチャンスがあるだろう。そうはいってももしかすると彼は、智力の上でも数等こちらを上回ってい、うっかり罠をかけると、そのとき初めてびしっと打返して反対に罠を仕掛け、苦もなくこちらの正体をあばく準備をしているのだろうか。表情にも態度にもそれと表わさない宇川の本性は掴みどころもなかったが、予備知識を仕入れようにも、頼みの美矢はシドニーからメルボルン、パースと飛び廻って、ときどきのんきたらしい絵葉書を寄越すほか、連絡のつけようもない。
しかし、ようやく千ヶ滝の山荘へ行く話がまとまり、柚香を右脇にのせて車を走らせながら、何気ない話の合間に宇川がこういったときは、思わず胸のとどろく思いがしたほどだった。
「車っていうのも、いろいろに使われるものらしいですね。ぼくの知人の話だと思って下さい。Aという人間の運転していた車が、ふいにブレーキが利かなくなって、危うく大事故を起こしかけたことがあるんですよ。それが、調べてみると、どうもBという別な人物がブレーキのオイル管に細工をして、空気を入れておいたらしいんですね。それも、ある時間以後にそれが働くように。ところが、おかしなことに、そのBなる人物もそのあと奇妙な事故で死んでるんですよ。なんでも断崖の上に車をとめておいて飯を喰って、車に帰って当然ギヤをバックに入れたんだろうに、どうしたことかそのまんま前に突っ込んじゃったんですね。まあ、ぼくなんかでも自分の車じゃないのを運転してることを忘れて、いきなりわっとふかしたりすると、バックのつもりがロウに入ってたなんてことがありますけれど」
くだくだしく言っているが、要はかりに君がブレーキオイルにいたずらするような陳腐な仕掛をしても、すぐと逆に変速器のレバーを入れ違えさせるぐらいのしっぺ返しはされるんだぞという警告であろう。
――大丈夫。あなたの体に傷をつけずに、本物の一枚皮を手に入れたいんですもの。
柚香は心の中でそうやり返した。だがそれとともに、どこかで何かが違うというか、本気で人の死を希うときにだけ湧き上っていた甘美な情緒が、少しも心を潤してこないことに気づかずにはいられなかった。する筈もない地上の恋を、そのとき柚香は初めて味わったのであろうか。あるいはあれ以後、しばしば塔屋のベッドを愛の営みに用いた、いわばそれと知らずにゼウスの神殿を汚した罪を意識しなかった報いなのか、山荘の帰り、|碓氷《うすい》峠で二人を見舞った無残な事故が、それを証していよう。宇川は即死し、柚香は奇蹟的に軽傷のみで助かったその経過が、まったく偶然なのか、あるいは綿密な人為の所為か、それとも女神レアの神意によるものかは誰も知らない。ただその一瞬、藍沢柚香がみごと一匹の牝獅子に変じせしめられたことだけは確かであった。……
∴
読みようによっては、十七歳から二十三歳までの柚香の、一種陰微な犯罪記録ともとれ、あるいはその母の瑠璃夫人の神怒宣告めいた文書とも、さらにはまったく別な意図を秘めて何事かを訴えているともいえそうな三つの話が、立続けに藍沢家のサロンの常連に届けられたとき、いち早く皆に電話をかけて、われわれだけでこれを処理し、瑠璃夫人と柚香にはとにかく伏せておこうと提案したのは、やはり木原直人であった。
召集を受けて集まった皆の口から明らかにされたのは、何より三年前の自動車事故で柚香が婚約者を失った事実は確かだとしても、それをとっこ[#「とっこ」に傍点]にこうまで人を誣告できるものだろうかという疑問であり、いかにも早宮秀樹だの杉山隆史だのという若者が、以前に出入りしていたことはあったにしても、その後の消息は誰も知らず、かつて親友だった篠原真矢という女性はいまもいるが、どう持ちかけたところで生首パーティの手伝いをしたろうとか、あるいは本当に柚香は許婚の宇川柾夫の皮を剥いで、みごとな剥製裸像を作ろうとしていたのかなどと聞けもしないということであった。
「でもねえ、これは誣告っていうのとは違うんじゃないかしら」
志つ加工房の石塚がまず口を切った。
「要するに前と同じで、誰かが退屈なわれわれを楽しませてくれてるだけってわけか」
詩人の御津川がすぐ言葉を挟んだが、石塚は意外にまじめだった。
「そうじゃないの。おそらく調べてみれば、きっとこの早宮って坊やは飛降り自殺をしてるし、杉山っていう平家の公達みたいなのは何かの理由で発狂して故郷へ帰ってると思うのよ。それを、こうまでねちっこく柚香のしたことだって告発めいたことをいうのは、その蔭にもう一つの黒い意志が働いてるってこと。あたしなら、ここまでのことをいってくるのは、歿くなった惟之氏以外には考えられないくらい」
「じゃ、これもまた死者の手紙ってわけですか。水島君が寄越したような」
美東がバリトンを響かせた。
「ぼくが不思議に思うのは、前の二つと違って、なんだかこの青髯の夜≠チてのは、おしまいの歯切れがよくないでしょう。つまりこれは柚香さんや瑠璃夫人を悪くいうためではない、むしろ宇川柾夫という人が、ここに書かれているような殺人淫楽症でもなんでもない、アフロディテから貰った三つの黄金の林檎、いえば愛≠ニ誠実≠ニ寛容≠ナもって柚香さんの心を射留めた、むしろそのことを秘めて語られているからだと思うんです」
「ああ、ぼくもそう思ったんだ」
画学生の征矢野が声を合せた。
「しかし、ギリシャ神話を踏まえてというなら」
年輩だけに能登は、ゆっくりと意見を挟んだ。
「アタランテは数多い求婚者と競争しては負かし、ついにヒッポメネスに敗れてその妻となった。その二人がゼウスの神殿と知らずに愛し合ったため、女神レアの馬車を曳く二頭の獅子に変えられた、つまりは二人ながら自動車事故の生贄となったというのが、この最後の話のしめくくりでしょうが、そうとすれば当然これは瑠璃夫人を指してのことで、私はこの三つの話とも、夫人自身が怒りをあらわにして誰かに書かせたものと見ますな。実際にここに書かれたことが事実とするなら、夫人にはさらに輪をかけた経験も手腕もある筈だから」
「どうも相変らず皆さんの御意見はまちまちのようですが」
自宅に集まってもらったこともあって、直人は最後にいい出した。
「本当のことを決める資格は、まず誰にもないと思うんです。ぼくの感じでは、前の三つの水島君の手紙は、柚香さんが寂しさのあまりに考え出したことだし、この三つの話は能登さんのおっしゃるように瑠璃夫人がゼウスの神殿、つまりあの塔屋を汚されたと思って誰かに書かせたのかも知れない。それにしてもここに書かれたことの真相なんて、永遠に明らかにならないでしょう。そしてまだこの先こうした不思議な話がつぎつぎと届けられるなら、それはあの塔屋に誰にも見えない死者の鐘が一つ吊され、それが折にふれて鳴るたび、われわれにだけ聞えるんだって、そう考えたっていいじゃありませんか。とにかくあの寂しい母娘の友人はぼくたちの他にはいないんだし、地上ふうな発想でこれを詮索することはもうやめようと思うんですが、いかがですか」
――それはいかにももっともな提案だったので、皆はそのまま黙った。すると銘々のうなだれた耳には、また一つの深い韻きを伴って、見えない鐘の音が届くように思われた。
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薔薇の獄
もしくは鳥の匂いのする少年
雲は熱気を孕んで、白銀色に鈍く輝いた。薔薇の新芽は、一日に三センチほども伸び続け、葉裏には小さな赤い蜘蛛を潜ませている。梅雨の|霽《は》れ間というより、今年もまた|空《から》梅雨のまま終るらしい。どこかに薔薇の墓を作らなくちゃ、と藍沢|惟之《これゆき》は思った。摘んだ|病薬《わくらば》や掻き取った台芽、あるいは花片を思いきり反らして|蕊《しべ》をあらわにし、踊り子めいた衣裳で終った花など、本当はすべて燃やさなくてはいけないのだろうが、まだ半ば生きている感じのままそれらを葬って、腐土に変じさせてゆくための深い穴が、薔薇園の夏には欠かせない。その穴は、しかも自分が埋められる墓になるかも知れないのだ。
そう考えると、白い高曇りの空の下で、惟之は俄かに慄然とした。いつ死刑を執行されるかも知れない囚徒。それも、大の男が小学生に逆に誘拐されて、こんな薔薇園に閉じこめられているなどと、誰が信じてくれるだろう。しかし一方で惟之には、いつかはこんな形で幽閉されるような予感が久しく棲みついていたので、いまの境遇をそれほど不思議とも異常とも思う気持はなかった。
鳥のような匂いのするその少年に出逢ったのは、この五月のことである。そこは広い屋敷町の裏手に当り、白昼の路上に人影はどこにもなかった。人を訪ねて探しあぐねているとき、少年はさながら光の精とでもいうように空から降ってきた。あるいはその出現があまり突然だったので、惟之にはそうとしか見えなかったのかも知れない。しかも訪ねる家の番地と苗字とを告げると、相手はこともなくこういった。
「それはぼくのうちだよ」
潤んだ黒い瞳が惟之を見返していた。こんな子がいたのかしらんと意外だったが、訊いてみると小学一年だという。すこし神経質そうなところはあるが、四肢のよく伸びた上品な身のこなしや、齢のわりに考え探そうな顔つきが、訪ねる相手の息子のイメージにそぐわなかったが、商売上のこともあって惟之はお世辞をいった。少年は答えない。先に立って身軽に歩いてゆく。そのときから惟之が少年を鳥のように思い始めたのは、相手が|鸚哥《インコ》の胸毛を思わせる緑の服を着ていたからではない、どこか熱帯産の鳥めいた黒い瞳のせいであった。
高い石塀がどこまでも続き、いっそうあてもない迷路に導かれた気持でいるうち、小さな潜り戸の傍で少年は「ここだよ」というようにふり返った。その少しのたゆたいには、もし表門まで行くのならこの塀添いに廻ってどうぞというような態度が見えたので、惟之はためらわず後について戸を潜った。そこはいきなりの薔薇園で、遠く母屋らしい建物の見えるところまで、みごとな花群れが香い立つばかりに続いていた。灌木の繁みは少年の姿を蔽い隠すほどで、緑の服はことにまぎらわしい。赤、黄、紫、オレンジ、白、ピンクと、めまぐるしく咲き続く花のあわいを、惟之は息苦しく後を追ったが、ちょうど半ばほどと思われるあたりの、少しひらけた中庭のところまでくると、少年はふいに立止まって、まともに惟之の顔をふり仰いだ。
「とうとう来たね、小父さん」
「なんだって」
何かが思い出せそうな気がする。この少年の正体がなんで、ここがどこで、そして自分がかつて何であったかまでが。――しかしその凍りついたような数秒が過ぎると、少年はまた初々しいほどの微笑を浮かべ、ようやく近づいた母屋の一角を指さしていった。
「これから小父さんの棲むところはあそこだよ」
「おい、待った」
惟之は太い腕を伸ばして、歩み去ろうとする華奢な肩を掴まえたが、少年は憤然と誇り高くそれをふり払った。
「これはどういうことだ。ここはいったいどこ……」
いいかけて言葉は消えた。自分の探しあぐねていた家の名をいおうとして、まったくそれを知らないことに気づいたのだった。確かに誰かを訪ねてきたような気はする。しかしいまはその名も用件も、すべて頭に残っていない。とすれば自分は初めからこんな見も知らぬ薔薇園を訪ねるために来たのだろうか。
「教えてくれ、おれはどうして……」
それもしかし訊くまでもないことだった。惟之は地上のいっさいを棄てて、この薔薇園の園丁となるために来たということを、もう知っていたからである。
………………………………………………
月は夜ごとに|暈《かさ》を持った。星もまた西の夕空に輝きながら、銀いろの小太陽といった風情で小さな暈を滲ませた。
少年との生活は奇妙なものだった。食事はいつ調えられるのか、大きな食堂の長方形のテーブルに、二人前ずつ並べられた。廃屋じみて誰もいない母屋は、荘重な家具の類を並べながら、その秘密を明かそうとはしなかった。庭は四方に拡がり、惟之がどう探し歩いても涯にあるべき石塀も潜り戸も見当らず、いつかまた母屋の近くに立戻るように出来ていた。宙に浮かんだ円球上の蟻めいた数日が過ぎると、惟之はその空しい努力を放棄した。少年に詰問する気も起らなかったし、その問いが無駄なこともあらかじめ判っていた。何よりも庭仕事のいそがしさがそれを忘れさせた。油粕を腐らせて肥料も作らねばならず、梅雨明けも近いとなると、これだけの本数の薔薇に土盛りし藁を敷きこんでマルチングをしてやらなくてはならない。
しかも庭は薔薇園ばかりではなかった。栗の大樹のある広場には、その花の匂いが鬱陶しいほどに籠って、朝ごとに白い毛虫めいて土の上に散り敷く。グラジオラスの畑もあって、数十本の緑の剣が風にさゆらぎ、周りには春から咲き継いでいるらしいパンジーが、半ば枯れながらまだ花をつけている。ポンポンダリヤは黄に輝き、サルビヤが早々と朱をのぞかせ、|萼《がく》あじさいはうっすらと紅を滲ませているそのひとつひとつを見廻ることも園丁に課せられた仕事であった。
いつからその少年と寄り添って共に寝るようになったのか、記憶はさだかではない。最初の夜、少年はベッドにまっすぐ上を向いて横たわり、惟之は半身を起してその白い咽喉を見つめていた。顔を近づけると、七つなのか八つなのか、まだあまりにも稚い少年の躯は、小鳥の胸毛に鼻をおし当てたときのような、かすかに焦げくさい匂いがした。
「君は鳥のような匂いがするね」
少年は眼を瞑ったまま答えた。
「それはぼくの猫が鳥をたべたからだよ」
「猫がいるの?」と訊こうとして、その猫も小鳥も、少年が自分の躯の奥で行われている代謝についていっているのだとすぐに気づいた。とどめようもない新しい力は、たしかに猫のように身軽く跳躍して、それまでの小鳥たちの胸毛を散らしながら引裂くことだろう。あっけない、瞬時の死。
惟之は手を伸ばして白い咽喉に触れた。滑らかに冷たいその皮膚を優しく撫でた。
「きもちいい。きもちいい」
少年は喘いだ。紅唇は軽くほどけて、むしろ苦痛を訴えるような呻きが洩れた。いまこのとき、惟之の脂ののった太い指が咽喉に喰いこみ、次第に締めつけていったらどうするのだろう。自分のその考えに愕然として惟之が思わず手を放すと、少年は潤んだ黒瞳を見ひらいてこういった。
「でも水の退いてしまった湖の底には、必ず首を絞めた痕が紅く顕われるんだよ」
………………………………………………
雲はいよいよ白い鉛いろに拡がり、息づくように照り翳りした。グラジオラスはまだ風にゆらぎながら、そのひとつ、アッカ・ローレンチアにようやく鮭いろの花片がのぞき始めた。やがてラベンダー・ドリームにも、眠たげな白紫がほほえむだろう。パンジーはまず黄が姿を消し、ついで黄紫が消え赤が消え、紫と白だけが衰えながら咲き続いている。ポンポンダリヤの第一号はすでに散り、|未央《びよう》柳が紙細工めく頼りない花をつけた。向日葵は下葉を喰い荒らされながら、みるまに惟之の背丈を越えて、晴れ晴れと一花がゆらいでいる。薔薇の伸びはすでに止まり、薬を撒くたび夜半の雨に流されるので、チュウレンジバチやクキタマバチの防ぎようがない。
名も知らぬ少年と二人だけの生活を続けながら、惟之はそれでも時折りは夢のように家のことを思い返すことがあった。十二歳になった娘の|柚香《ゆのか》は気強いたちだから却ってそれほど寂しがりもしないだろうが、妻の瑠璃は捜索願いを出しても何の反響もないのに、さぞ焦立っていることであろう。一度、少年にそのことをいうと、びっくりしたようにいった。
「それじゃ小父さんは、ここで時間が過ぎてるとでも思ってるの」
「だってげんに、花はあんなにどんどん成長しているじゃないか」
「季節は移るんだよ、そりゃ。移らなくちゃ花が可哀そうだもの」
この論理は惟之にはたやすく呑みこめなかったが、いかにも花の時間というものは、その茎立ちや葉の中に徐々に垂直に充ちてゆくばかりで、その頂点に花をつけ、それが咲き切ると同時に崩壊するといってもよいのだろう。こともなく少年にそういわれてみると、惟之もまた家庭のことはそれほど気にならなくなり、この薔薇園の園丁としていっそう励まなければという気がするのであった。
「だから君は学校にも行かないんだね」
「学校?」
少年はひどく奇異な言葉を聞かされたように眉をしかめた。
「そうだ。君は小学一年生だって、自分でいったろう」
「ああ、あれ」
少年は微笑した。
「あれは外だからそういったんだ。この中に学校なんてないじゃないか」
この論理も奇妙なものだったが、惟之は容易に納得した。いかにもここには宏大な花園のほか何もない。家庭も事業も、それはすべて外≠フことだ。……
「でももう、薔薇もそろそろ終りだ。あと一つコンフィダンスが蕾をつけているけど、あれが咲いたら花はおしまいなんだ」
「ほんとう?」
少年は俄かに眼を大きくした。
「もう、そんなに?」
それが何を意味するのか、惟之にはまだよく判っていなかったけれども、別れの刻が近づいていることだけは、初めてうすうす察しられた。
「ああ、本当だ。あれが咲きそうになったらまた知らせるよ」
その数日、惟之は風邪に苦しみながら雑草取りに熱中した。風草や藪枯らしの凄まじい繁茂は手がつけられぬほどで、ほかにも|鴨跖《つゆ》草や昼顔の意外な強靭さにてこずった。雨に倒れ伏した矢車草やコスモスもすべて抜いてしまい、グラジオラスはことごとく截って活けてしまうと、ようやく薔薇のマルチングにかかった。たった一つの最後の蕾をつけて高々とゆらぐコンフィダンスの傍に立って見守っていると、いつか少年も来て、反り返った萼に手をさしのべた。
「これ、もう明日はきっと咲くね」
「ああ、たぶん咲くだろう」
肉の厚い花片と強い芳香とを惟之は思った。それから少年がその花の中に帰ってしまうことも。
その夜は遠雷がいつまでもとどろき、雨は来ずに寝室は蒸暑かった。やはり上を向いたまま躯を固くしている少年の傍で、惟之は再び灯明りに白い咽喉を見守っていた。おずおずと手を触れる。静かに上下に撫でさする。
「きもちいい。きもちいい」
身を|縒《よ》るような呻きが続く。
「君に名前をつけたよ」
「晶。水晶の晶」
少年は先に答えた。
「湖の底だといったね。そこに紅い痕が顕われるって」
「そう、だからもう一度。おんなじように」
ふいに少年は躯をひるがえして、惟之の腕の中に入ってきた。その白い咽喉をのけぞらせ、そこに喰い入る指先を待ち焦がれながら。
「お願いだよ。パパ」
………………………………………………
薔薇の終りとともに元通りの五月、こともなく瑠璃の許に帰った惟之は、しかし八年ほど前、母体を慮って中絶し、その小さい亡骸をいとおしんで錘とともに湖底へ沈めた少年と暮した日々のことを、決して口にしようとはしなかった。そこは薔薇の獄というよりは、ほかならぬ薔薇の胎内だったのだから。
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緑の唇
「柚香ぐらいの年齢のとき、わたくしが何をしておりましたかですって?」
山荘の居間で瑠璃夫人は、思いもかけぬ質問にいささかたじろいだようすだったが、それでも微笑は崩さずに木原直人を顧みた。
「それはもう、敗戦直後のことでございますもの、街も人も、ただ喰べるだけでいっぱいというふうでしたわ。屋根の上まで鈴なりに人の乗った買出し列車なんて、木原さん、ごぞんじでしたかしら。わたくしもモンペ姿でよく参りましたけれど、お藷を詰めましたリュックがあまり重くて、石炭車の中へ仰向けに落ちこんだこともございましてよ」
|栄耀《えよう》ずくめの豊満な夫人とばかり思っていたのが、そんな経験があるとは意外だったけれど、直人はなおもいい|募《つの》った。
「ぼくだって少しは覚えていますけど、でもあんな時代にだって、若い人たちは、やはり恋に身を灼くということもあったわけでしょう。ぼくは一度、御主人とのローマンスを、ぜひお聞かせいただけたらと思っていたんです」
「まあまあ、そんなお古いことを……」
夫人は頬を染めるようにみじろきしたが、その眼は懐しさというよりは、過ぎ去り喪われた時代を射る、一条の光の矢のように煌いた。
「わたくしどもには、ロマンスらしいロマンスはついぞございませんでした。時代が時代と申しますより、惟之とわたくしとの間の問題……。お話しましょうか。木原さんのおとしでは、あの時代の風俗も、ちょうど古いパノラマ絵のようなものでございましょうから」
七月といいながら、千ヶ滝の山荘の夜は冷え冷えと迫り、柚香は早くに部屋へ引取って音も立てない。
「そういえば、きょうは十日。浅草観音の四万六千日ですわね。わたくしどもが戦後初めて浅草へ参りましたのも、やはり|酸漿《ほおずき》市の時でございました。……」
いっとき眼をつぶるようにしてから、瑠璃夫人は二十六年も前の惟之との奇妙なデートを、こう語り出した。
………………………………………………
戦争が終って二度目の夏のことで、そのころの東京は、幼児がクレヨンでいたずらに塗りたくったような色彩に溢れていた。四万六千日に行こうやと惟之がいい出し、二人は池袋で待合せたのだが、駅前の店は、あらかたがまだ|葦簀《よしず》張りの屋台で、ライターだの鼻紙だのを並べた間に、鯨ハムの固まりが置かれていたりする。赤黒い肉にくっついた白い脂身は、フライパンでいためるときの凄まじい悪臭を思い出させ、見るだけで胸が悪くなるようだった。武蔵野デパートへ行く通りの屋台では若い男が|泥鰌《どじょう》を割いてい、薄緑にぬめぬめした下腹を器用に指の間へくぐらせて包丁をいれると、黄と赤の内臓がとろけ出る。それを真赤に|熾《おこ》した炭火でかたっぱしから焼いてしまうのだが、頭を針で刺されながら、なお|俎《まないた》の上をくるくる廻っている、これは生きた時計であった。
黄土色をしたハリハリ漬けや、萎びた子供の脚のような沢庵。肉屋では桃いろの鶏モツの間に牛の腸が黄いろくわだかまり、果物屋の果実はことごとく熟れすぎて腐臭を立てた。書店の新刊書さえ、ここでは乱雑な色彩にすぎない。蛇精宣伝所のガラスの壺の中に、ぐにゃりと坐りこんでいる緑いろの蛇。惟之を待つつれづれに、瑠璃は見るとなしにそれらの暑気に|倦《うん》じた街のたたずまいを眺めていたのだが、人通りの激しい往来の中に一人だけデパートの鉄柵に凭れ、色の醒めた赤い水玉模様のパジャマめいたものを着こんで動こうとしない、病人らしい男を見つけて眼を凝らすと、それはチンドン屋がひっそりと休んでいるのであった。だがピエロまがいのその衣装は、男が病んだ皮膚をそのまま剥き出しに曝しているように眺められた。
惟之が駆けてきた。型は古いけれど夏物の背広を着こんでいるのが、まだ街中では眼立つほどで、軍服はさすがに減ったものの、よれよれの国民服やジャンパーが当り前な時代である。
惟之と親しくなったのは、昨年の五月、配給が遅れに遅れた戦後一番の端境期に、伝手を頼ってはるばる京都府の農家まで米の買出しに行った帰り、たて混んだ引揚列車で隣り合せてからのことで、惟之はジャワ島から強制送還され、京都の収容所からようやく故郷へ帰ろうというところであった。モンぺ姿につくろってはいても、久々に見る都会風な令嬢と映ったものか、通路までぎっしりリュックに埋まった上で体を扱いかねているとすぐ声をかけてき、隣りの客が早くに降りるのを知っていて、空くが早いか荷物の上を抱きあげるようにして坐らせてくれた。お礼のつもりで出した白米のおにぎりを旨そうに頬張り、収容所でも米の飯はただ一度出たばかりで、こうして帰るのにも糧食といえば外食券十五枚と乾パンが少々だけなんですと不安そうに呟いた。三十五、六歳か、日に焼けた精悍な鼻すじはしているものの、ひどく孤独な翳りがあって瑠璃の胸にも影を落したが、後で聞くと三年前に妻をなくし、子供もいないので、知人の経営するコタバトの奥の農園へ単身赴任したのだという。家財は疎開もせず、|江古田《えこだ》の親戚に預け放しだが、収容所の小学校に貼り出された戦災地図ではどうやらそこも焼けたらしいので、帰っても着のみ着のままでしょうと笑った。江古田のその番地の近くには折よく友人がいることを思い出して、大丈夫、焼けていませんわという答えに惟之は思わず瑠璃の両手を握りしめて飛びあがらんばかりだったが、気がついて耳許まで赧くした。引揚船がガラン島を出てから、これほど嬉しかったことはないと述懐したが、そのときから瑠璃が幸運の女神に見え出したとしても不思議はなかったであろう。
二人のつきあいはごく自然なかたちで深まったが、瑠璃がおどろかされたのは惟之がただの技師でも嘱託でもなく、一種の発明家であり、それもどうやら夢想家に近い心情でいることだった。内地にいた時から、棄てられて顧みられなかった黒松の表皮からタンニンを抽出したり、タカジアスターゼの六倍の消化力を持つ新しいジアスターゼのかびを分離して企業化したりということはやってきたのだが、ジャワでは蚊取り線香をこしらえていたという奇妙な仕事が瑠璃の興味を引いた。農園のほうは放たらかしにし、何かと名目をつけてジャワのあちこちを飛び廻っているうち、|向日葵《ひまわり》めいた黄色い花の植物に眼をつけたのがその端緒である。高さはせいぜい二メートルまでだが、どこへ行ってもうんざりするくらいに咲いている。ことに溝とか小川のほとりには、少し刈り取ったらどうだろうと思うほど群生しているのだが、誰に訊いても花の名を知らず、どうしてこう多いのだろうという問いにも答えはなかった。何か理由があるに違いないと惟之が見こんだのは、ふつうならどこの叢をゆすっても、わーんと音を立てて飛び立つ蚊の群れが、この花の咲いている溝のへんでは一匹もいないことに気づいたからであった。そのうちインドネシア人の古老から、こうして繁殖させてあるのはマラリヤ蚊を防ぐためだという一言を聞くなり、惟之はすぐ科学研究所を訪ね、へッベルというオランダの有機化学者に、花の成分の分析を依頼した。花の正式な名称は、ティトニア・ディベルシフォリアということも知ったが、そんなこむずかしい学名など企業にはいらない。彼が勝手に決めた名は蚊取りヒマワリというので、研究所から返事のくるまで、わくわくしながら商品化のてだてを思いめぐらし、ことに商売敵になりそうな除虫菊の分布状態を調べ、ジャワでは千メートル以上の高地でないと育たぬため、問題にならぬと知ったときはほぼ腹も決まっていた。
一週間ほどしてへッベル博士から返事が届き、それによるとティトニアは大そう珍しい花で、これまで除虫菊にしかないと思われていたピレトリンを〇・六%ほど含んでいる。精製したとして除虫菊の半分も有効成分があれば、なにぶん到る処にある花だから充分商品価値はありましょうという添え書きが惟之を有頂天にした。マラリヤ蚊の完全駆逐という夢のような力が与えられれば、軍も協力を惜しむ筈はないからである。もっともそう考えたのはお先走りな発明家の夢想にすぎず、蚊取り線香を作りあげることに決めて試作品に着手してみると、これが容易ではない。第一の難点は線香を固める糊のないことで、米やタピオカ、甘藷の蔓、カポックの枝、肉桂の類からディレニアの実、ゴム樹の液と、眼につく限りの植物から糊を抽出してみたがいっこうに思わしくなく、最後にアベルモスクスという葵の属から若枝と葉を乾かして粉末にし、これを溶かして作りあげた糊がどうやら一番の出来であったが、その他にもまだ火付けをよくするための植物も探さなければならなかった。これだけ苦心した試作品も、考えてみれば蚊取り線香なぞ密林地帯の作戦に向くわけはない。大得意で出かけた惟之は、掛合った参謀からしたたかに皮肉をいわれ、結局軍の方にはティトニアの改良種の種子を収めるだけとなったが、ともかくも、バタビヤ郊外に工場をひらくまでになって、藍沢の蚊取り線香≠フ名は、それでもジャワ全土にひろまる気配であった。
それが一年足らずで敗戦となり、器材も家具も捨て値で売払って得た数万の金は内地へ上陸するとともに没収され、引揚者は一律に千円という金額をあてがわれたに過ぎない。京都で闇煙草の「光」を、さあ二十円、二十円としつこく片手に突き出す街の子供たちを見ていると、この千円がなんの足しにならないことも判っている。そんな心細い状態のときに知合った瑠璃は、その後なんべんも惟之がくり返した言葉だが、文字どおり光の珠であった。彼は勢いこんで次の発明――アンモニアによる新しい製塩法に取りかかって生き生きと飛廻っている。瑠璃との結婚も日が迫って、きょう浅草観音へ出かけようというのも、引けば必ず大吉≠ェ出るに違いないおみくじを手にして、いまの幸運を確かめたいくらいの気持であったのだろう。
しかし、瑠璃のほうの気持はまるで違っていた。発明企業家を志しながら、ともすれば少年めいた夢想に耽ろうとする惟之の性質が不安だったのではない。あるいはもともとが芸術好きな家庭の雰囲気に包まれ、いまも小脇にアメリカの週刊誌「タイム」――このとし初めてカフカを紹介した四月二十八日号を抱え、マックス・ブロートの、
[#ここから2字下げ]
……『城』を近代の『天路歴程』とするなら『審判』は二〇世紀の『ヨブ記』であろう。ヨオゼフ・Kはヨブのごとくに善良実直の人であり、神を畏れ邪悪を遠ざける者であった。
[#ここで字下げ終わり]
などと記した一節を思い浮かべて、英訳でもいいから、早く『変身』を読みたいと考えている瑠璃とでは、あまりに趣味が違いすぎるということでもない。それどころか、いわゆる教養という点でなら、惟之のほうがはるかに深かったといえるであろう。瑠璃が案じているのは、もう少し根深く二人の間に横たわる溝であった。
「浅草は、よくいらっしゃるの」
高曇りの空の下で、不安そうにあたりを見廻しながらそう訊いてみても惟之は、
「なんだか、べつな処へ来たみたいだな」
と嘆息するだけであった。
へうたん[#「へうたん」に傍点]池の青みどろだけは変らないが、六区の映画館は万盛座がピカル座と名を変え、半分ほど崩れおちた三友館がメトロポリタン劇場と名のりをあげている。新しい映画は「三連銃の鬼」と「かけ出し時代」ぐらいで、あとは「素晴らしき日曜日」「シー・ホーク」「鉄腕ターザン」等の古物がかかっている。池のほとりに並んだ露店は、一杯一円のレモン水がばかでかい氷を漬け、腐れ芋をすりつぶして紫色に着色したアンコが一皿五円。寄ってらっしゃい涼んでらっしゃいという呼び込みの声に、国際劇場に御|贔屓《ひいき》のオリエ|津坂《つさか》を観にしか来たことのない瑠璃は、怯えて惟之のうしろに従った。
その国際も再建が遅れ、オペラ館が|浜松《はままつ》に疎開したあと、衛生博覧会などをやっていた天幕張りの小屋は明治大正犯罪現場写真展、|奥山《おくやま》では「遠州小夜中山夜泣石の正体」が毒々しい幟を立てている。酸漿市の眼に爽かな緑と、吊された風鈴の赤だけが眼に沁み渡るような夏であった。その一鉢を買って提げながら来た観音のお堂は、チンマリと再建されたというものの、仁王門も焼けたなりで、境内まで入りこんだ|仲見世《なかみせ》のあらかたは古着を並べている。別に小さく建っている社務所で、惟之は早速一円玉をおいておみくじを貰ったが、ひろげるなり顔色を変えてまた一円を置いた。そんなことをなんべんかくり返している後ろ姿を、瑠璃は無感動に眺めていた。
国際通りまで引返し、戦前は六区の|瓢《ひさご》通りにあったスズヤというミルクホールで、一杯十円の上製氷あずきを前にすると、惟之は急に疲れきったようすで、頭を抱えこんだ。
「どうなすったの」
「いや、なんでもない」
そういいかけたが、急に憤懣やるかたないという顔で、
「こんな馬鹿なことってあるか」
と吐き出すようにいうのを瑠璃は静かに遮った。
「おみくじ、悪かったんでしょう。どれもこれも」
「え?」
「いいの。知っているわ。第六十九凶。事を惹いて心を傷ましむる処、船をやるに遠く|図《はか》ることなかれ。それとも第九十七凶、白雲帰り去るの路、月波の澄めるを見ず、かしら」
瑠璃のもの静かな笑顔を、惟之はひどくうろたえ、呆気にとられたようすで見守っていたが、その眼は次第に恐怖のいろに捉われ、声は慌しく吃った。
「君は……、君は一体誰なんだ」
「誰でもないわ。わたくしはわたくし。ただちょっぴり、前の奥さんを存じ上げているだけ。貴方の発明狂のおかげで、ひどく惨めに苦しんでお歿くなりになったでしょう。それより、今日のおみくじ、出してごらんなさい。絵解きをして差上げるわ」
暗示にかかったようにポケットから掴み出した数枚をひろげると、瑠璃は陽気に笑い出した。
「ほら、ごらんなさい。わたくしのいったとおりでしょう。
第六十九凶
明月暗雲浮(めいげつあんうんうかぶ)
あきらかなる月にもくもかゝり、はれやらぬていなり
花紅一半枯(はなくれなゐにしていつぱんかる)
くれなゐのはなもはんぶんかれたり、よき中にもあしきことあるにたとふ
お次は? ああ、第六十三凶ね。
佳人意漸疎(かじんこゝろやうやくそなり)
こんいの人もだんだんそゑんになるなり
久困重輪下(ひさしくくるしむぢうりんのもと)
久しくくらうして下にうづもれをるなり
どっちにしたってぐわんもう叶ひがたし∞病人おぼつかなし∞よめとり、むことり、人をかゝへるわろし≠チてところね。どう、これでもまだやっぱりわたくしと結婚なさるおつもり?」
「しかし、これは……」
「なんでもないの。昨日わざわざあの社務所へ行って、あした夫を連れて来ますけど、とんでもない大ばくちに手を出そうとしているから、何とか凶のおみくじだけを出して下さいませんかって、あらかじめお願いしておいたのよ。ですからさっき、貴方の後ろで、ちょっと合図のお辞儀をして……。そりゃもう長年のことだし、あの方たち、箱のふり方ひとつでどんな札だってお出しになれるんですわ。いくらお引きになっても今日は逆数の凶ばかりが出たことでしょう」
惟之は低く圧しつける声で問い返した。
「なんのためにそんなことをしたんだ。君は妻の何に当るんだ」
「なんのためって、貴方を愛しているからですわ」
瑠璃は平気な顔で、淡々といった。
「前の奥さんの妹さんと、女学校時代からいちばんの親友で、今度貴方がお帰りになると聞いて、どうしても仇討ちがしたいって頼まれただけ。ですから引揚げられてからのことをすっかり調べ上げて、わざわざ京都まで買出しに行くことにして、無理矢理お隣りに席を取ったというわけ。あの混雑ですもの、お近づきになるのもたいへんな苦労でしたわ。でもね、頼まれたのはいかにも復讐の手助けという大時代なことで、わたくしも初めのうちは親友のためならという気持でしたけれど、貴方と知合ってから考えが変りましたの。それに調べてみると、前の奥さんて方は、実家の財産を鼻にかけて、ずいぶんひどいことばかりなすってらしたんだし、わたくし、昨日はっきりと妹さんにもいい渡してきましたわ。やっぱり藍沢さんと結婚するつもりだから、もう復讐なんて諦めてちょうだいって。いっさい黙っていようとも思ったけれど、いつまでも心にしこりを残すのも嫌なことですから、こうして何もかも打明けたんです。いかが? そんな女かって、もう愛想を尽かされたかしら。嫁取り、婿取りわろしですものね。でも、わたくし、いま初めて戦後の女になれたような気がしていますの。それから戦争に生き残って、しかも人を愛するってどんなことだかも。だってもう……、気がつかれなかったかしら、おなかに貴方の赤ちゃんがいるんですもの」
気丈にそこまでをいい終えた瑠璃を、惟之は深い瞳になって見つめ続けていたが、それはある感動を伴ったものであることは明らかであった。徐々に徐々に、テーブルの上を越して差し出されようとする腕に気を取られて瑠璃は気がつかなかったが、そこにはまだ緑の唇を閉ざしたままの酸漿と、溶けてしまった氷あずきの容器、そして数枚の凶のおみくじが、鈍い仙花紙の光沢を放って置きさらされていた。
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緑の時間
敗戦後、三度めの夏が訪れた。
そのとしの八月一日、久しぶりに再開された両国の川開きは、瑠璃にとっていまも忘れがたいもので、あれから四半世紀も経つというのに、まだその夕方の花火は、朱いろの傘|形《なり》に打ちあげられては消える、はかない情景を瞼のうらでくり返していた。金いろに開きかけて、ひととき空にとどまると見えながらまたすぐ薄闇に吸われてしまう哀れさは、同時にそのころの瑠璃のものであった。夫の藍沢惟之も一緒に歩いていた筈だが、その姿はどうしてか記憶にない。生まれて間もない柚香をその日だけ実家に預け、わざわざ二人で来たというのに、思い返すと自分ひとりが群衆の中を歩いていたような気がしてくるのは、たぶん二人がめいめい自分だけのことを考えていたからであろう。自分だけ――それも自分だけが早く死ぬことを。
川面にはコバルト色に塗られたポンポン蒸汽が|舳《みよし》を廻し、海水着ひとつの紅毛びとが坐りこんでいる。きょう川を埋めた船のあらかたはアメリカ人の買切りなので、この川開きも江戸情緒を偲んでのことではない、もっぱら彼ら占領軍を接待するためのものであった。日本人のほうは、浅草橋から両国緑町まで、手に手に六尺棒を構えて往還を仕切る三千人の警官に追い立てられ制止され、暑苦しい行列を作って歩きながら、束の間、頭をめぐらす自由だけが許されていた。そのせいか、明るいうちの音だけの花火は、B29の昼間爆撃さながらで興醒めだったが、それでもようやく空が翳り出すと心はともに昏んで、その心象のおもてにだけ花火は|滲《にじ》み、かつ消えた。光と色彩で織りなされながら、これもまた遠い誰かの遺書かも知れないと瑠璃は思った。
このとしの主な事件といえば、内閣は|片山《かたやま》から|芦田《あしだ》、第二次の|吉田《よしだ》と変り、一月の帝銀事件に始まって|太宰《だざい》|治《おさむ》の自殺、福井の大地震、|古橋《ふるはし》・|橋爪《はしづめ》の世界新記録、埼玉の|本庄《ほんじょう》事件、昭和電工の汚職、アイオーン台風、老いらくの恋、|東条《とうじょう》|英機《ひでき》らの絞首刑判決、それに警視総監がオカマになぐられ、上野公園が夜は一時閉鎖される騒ぎまでおまけにつき、外ではガンジーが暗殺され、米ソの対立が激化してベルリン封鎖、米軍の大空輸作戦などが伝えられているけれども、当時の惟之にとってそれらは、まったく無縁な、走りすぎる車窓の風景でしかなかった。のちにはそれが成功して、次から次と新事業を興すことになる新しい製塩法も、このときはまだメドもつかずに失敗を重ねるばかりで、体がひりつくほどの借金に追い廻されていたからである。前の妻とのいきさつからしても、実家の援助だけは受ける筈がない。瑠璃は時たま内密に五千円とか一万円とかの封鎖預金を貰い、それを一時株券に変えてから現金化して、かつがつ生活を支えていた。二人は郊外の朽ちかけたアパートに籠り、惟之はカストリとかバクダンとかの安酒をしきりに|呷《あお》った。
だがいま二十五年という歳月をおいてみると、借金地獄にあけくれた当時も、瑠璃には時間の洞窟の彼方に、おぼろげな形でわだかまる煤けた生物を眺める思いしかしない。その八月に逮捕され、稀代の毒殺魔と騒がれた|平沢《ひらさわ》|貞通《さだみち》というひとがいまなおひっそりと獄中に生き継ぎ、いわばただ一人の時間の生き証人として存在していることが、あまりにも奇異に思われ、時間の獄というその刑罰がぶきみであった。帝銀事件は|椎名町《しいなまち》の支店で起こったことだが、瑠璃にはただ、そこと|池袋《いけぶくろ》との間にあった、上り屋敷という小さな駅のたたずまいが眼に浮かぶばかりなのだ。消えてしまった駅。上り屋敷と|万世橋《まんせいばし》と、それから……。
惟之の焦りをおろおろと見守る新妻という役を忠実に果しながら、瑠璃はその当時から自分の身内に、何か得体の知れない新しい力が蓄えられかけているのを知っていた。お嬢さんの時には思いもよらぬ、どんなにでも身を堕すことが可能だという確信は、あの時代特有のものだったのだろうか。瑠璃はひそかにパンパンガールの生きざまを心に|疎《うと》みさえした。聖女めいた思いからではない、そのあまりに効率の悪い、稚拙な方法を疎んだのである。GHQの高官とでもいうなら、何人でも手玉にとってやろうという心ばえは、そのひととき|慥《たし》かに瑠璃にも萌していた。
その郊外の駅に近いラ・リュウ≠ニいう店は、絵描き崩れと自称する、口髭の美しい中年男がひとりで珈琲を淹れたり麺麭を焼いたり、あるいはどぶ臭いカストリの盃を客とともにあげて「どん底」の唄を合唱するというふうで、瑠璃も時おりは惟之に連れられて顔を出したが、夜が更けるにつれて百鬼夜行のけしきになるのが楽しかった。といって当時はありふれた庶民に違いないのだが、中でも凄まじいのは、ひそかに客たちの間で三十七歳の不仕合せ≠ニ仇名されているダンサーだった。白粉で固めた皺のうえに青いアイシャドーで隈取りし、けばけばしいドレスを流行り初めのロングスカートにしてひきずっている。
「きょう銀座でパンパンにはっぱかけられちゃってサ」
珈琲の湯気に顔をあおられながら、独特の嗄れ声が陽気に語り出す。
「いえさァ、PXの前でボーイフレンド待ってたのよ。そしたら兵隊が、へーイドコイクノってうるさくってしょうがないから、ちょっと横丁に隠れてたの。そしたらデコデコに酔っぱらった二十一、二のパンちゃんがさ、やい手前っち、どこのズベだ、そんなところにまごまごしやがってヤキいれてやろうか、なーんてサ。相手にしないでだまあってたの。だって凄いんですもん。ラク町のミチ子を知らねえかだって、そうよあんた、男だってかなやしないわよ。ちょっとパンなんてのが聞えようもんなら、オヤ手前、何がおかしくって人の|面《つら》ァ見て笑いやがるんだなんて難癖つけてね、パンがどうしたって? なにょオ、手前らに喰わしてもらやすめえし、なんてってると、ナニナニどこのどいつが吐かしやがったんだなんて、たちまち十人ぐらいでずらっと取り囲んじゃってさ」
そこで℃O十七歳の不仕合せ≠ヘ、ふっと声を落し、溜息をつくようにつけ加えた。
「でもね、ラク町のミチ子ってあんなんじゃないわ。もっと髪|真赤《まっか》」
そのパンパン諸嬢も店の常連なので、ラク町の何というほど格調は高くないにしろ、アンディとかキルロイとかのありふれた名の兵隊をつれてやってくるのだが、ダンサーというまっとうな職業はやはり羨望に|堪《た》えないらしく、
「ねえ、あたいも下地はあるんだけど、いまからじゃダンサーになれないかしら」
などと持ちかけるのがいると、
「あんた、ちょいと、そんな簡単に考えてたら、いちんちでやんなるわよ」
不仕合せ≠ヘ噛みつくばかりにいい立てるのだった。
「テケツは一枚二円でしょ。四分六で八十銭の手取りが、健康保険費とかダンサー組合費とかで月九十円も引かれたうえ、一割の税引きですもん。結局手に入るのは六十八銭ぐらいにしかならないの。それも月に千五百枚稼がなくちゃ、あんたクビよ」
そう突っ放しておいてから、
「あたしはきょう百二十五枚」
口の中で確かめるように、何度かくり返した。
トロンボーン吹き、プロ野球の二軍選手、
「キャラコ買いました摘発喰いました、ではねえ」
などとぼやいている小肥りの闇屋。コンソリの猛爆で硫黄島の防空壕に生き埋めになり、危うく掘り出されてから絵をやめたという青年。新劇のチョイ役、もと「|哈爾浜《ハルピン》日日」の記者、
「おれみたいに刑事をなぐったってさ」
と意気がっている与太者。
ラ・リュウ≠ノ集まるかれらは、瑠璃にとってまったく初めて出逢ったというほどの種族には違いないが、それでもたとえば駅から少しばかり離れたお邸町に、下町の何がしという老舗の菓子屋が店開きし、そこでこころもち小首をかしげるようにしながら、
「アノ、こんせつはお饅頭なんぞないんざんすか」
と訊いている、明らかに昔の仲間というに足る若奥様ふぜいとつき合うより、よっぽど心の晴れる思いがした。
郊外の駅前ばかりではない、新宿三越裏の広大な焼野原もいちめんの屋台で、戦争前は毎日のように山小舎≠竍新聞とラジオの店≠ノ通っていたという惟之は、しきりに懐しがって瑠璃を連れ歩くのだが、面影はもうどこにもなかった。若い文士が集まるので有名な「|魔子《まこ》」の店にも西瓜が並べられ、魔子が西瓜を売るようになったかねえと通りすがりの若い男が冷やかしてゆく。これは一斉よけのカムフラージュなので、八月に入っていよいよ銀シャリと酒の販売取締りが強化されたため、客の前にはいつも薄く切った西瓜が一つずつ並べられ、カストリのコップは腰掛けの脇に置かされるという念の入れようであった。六頭立ての競馬ゲームが軒並み流行って、一頭が十円、一着に賭けたのに煙草一箱が出る。新型の玉ころがしに集う若者たちは、気が違ったかと思うほどの素頓狂な声で、銀に青! などと叫んでいた、その日々。
のんきたらしくそんな店を廻りながら、惟之がどれほど資金ぐりに苦しみ、金、その咽喉笛に喰らいつき、血をば啜らんというほどの思いでカストリの盃を手にしているかは、瑠璃にも痛いほど判った。八月一日の大川の花火を二人で見に行ったのは、そういう日常にあがき疲れてのことには相違ないが、いつまでも暮れようとしないサマータイムの空の下で|焦《じ》れていたのは、もしかして自分ひとりではなかったのだろうか、おそらくは大群衆の中ではぐれぬため、二人は手をつないで歩いていたに違いないのを、なぜ一人だったように思い出されるのか、自分だけが早く死ぬことを考えていたといえばそれは確かにそうなのだが、何かそこに二十五年前には気づかなかった心理の綾がありはしないか。時間の洞窟の彼方に、おぼろげにわだかまる生物とばかり見ていたものが、ふいに鮮明に歪んだ表情を浮き出させ、醜い貌をさしつけて来そうな思いに、瑠璃はわずかにみじろいだ。
いまさら何を、という気はする。二十五年も気づかなかったとすれば、よくよく気づきたくないこだわりがあるに相違なく、それを追いつめ、曝いてみたところで、いまの平安を乱す以外の効果があろうとも思えない。それとも――。瑠璃の心に兆したのは、いわば記憶の中だけではぐれてしまった夫が、もしかして夫ではなく、もう一人のまったく別な人物であり、そのために思い出したくないのではないかという疑いであった。
――あのとき一緒に歩いていたのは、本当に夫ではなかったのかしら。
――そのとおり。
答えは意外にすばやく返って来、瑠璃は再びみじろいだ。
――じゃあ、誰? 一緒にいたのは誰だったの?
影の応答者はひととき黙った。するとその短い沈黙の間に、犯した筈もない罪の記憶がすばやく頭を掠め、瑠璃はついに身ぶるいした。その相手を、わたくしは二十五年間も記憶の底に封じこめていたのだろうか。それほどの秘密や悪徳をその相手と頒け合っていたとでも?
凝固していた時間は、いま急速に流れ出し、その歳月は決して一すじの道ではなく、大きく拡げられた一枚のスクリーンのようで、そこにはさまざまな記憶の断片が、流星雨さながらに降り注いだ。たとえば――。
たとえば生き死にの境に沈んで頭を抱えるていの惟之を励ますため、当時の瑠璃があれこれと心を砕いて努めたことに間違いはない。あるときはさりげない冗談話のようにハムレットの台詞を持ち出し、
To be or not to be.
のnをmと換えて、
飛べ、もっと飛べ
と読めばいいんだわと笑ってみせたり、あるいはもう少し凝って or not を ornit とし、あとに hopter をつけ加えて、バタバタ翼の飛行機だっていいじゃないの、などといってみたりしたけれども、惟之はやはり暗い顔のままうつむいていた。
また、ある日曜日、珍しく瑠璃の伯母が進駐軍物資や青いりんごを山ほど抱えて二人のアパートを訪ねて来ているとき、ふいにドアがあいて奇体な風体の老人が顔をのぞかせ、いやいや私は決して怪しいものではなどといいながら、八卦見の鑑札らしいものを出してみせた。占いが何より好きな伯母が早速坐り直して掌を差し出すと、行きずりの八卦見に判る筈もない少女時代からの特殊な境遇をこともなくいい当てたことがある。惟之もすっかり驚いて興味半分に観てもらうと、あと二、三年、四十歳まで辛抱すれば豁然と運が展けますぞ、それも海に|縁《ゆかり》の深い仕事でというみごとな洞察だった。もっともそのあと瑠璃の掌を一眼みるなり、ひどく怯えた顔つきになったのは何のせいか、それとも三人で見料が百円じゃとふてくされたのか、
「貴女のお手は葉っぱの形、末はだんだん拡がる印し。末は輪廻の時間にまかせ……」
と、しどろもどろなことをいって出て行ってしまったのだが、もしかすると惟之は、それさえも|浅草《あさくさ》観音のおみくじと同じように、瑠璃が顔見知りの占い師に頼みこんでしたことと疑っていたのかも知れない。それだけは瑠璃の預り知らぬところだが、思い返すとあまりにも伯母の過去をみごとにいい当てすぎたのが怪しい。それにあの日、親戚の中でもつき合いが薄く、めったに往き来もしない伯母がなぜ訪ねて来たのか、それも不思議であった。どこか神秘家めいた美貌のこの伯母は母の姉だが、事情があって幼いころ里子に出され、瑠璃の実家にもめったに顔を見せたことがない。生涯独身のままで、晩年もその風体にふさわしく、ふいに蒸発してしまった謎の人物なのだが、派手好きで花やかな顔立ちに瑠璃は少女時代から憧れていた。向うもたまに逢うたび、なんともつかぬ|慈《いつく》しみの眼を向けながら、どこかこちらを避けようとする気配があって、瑠璃はひそかに、あの人が本当の母かも知れないなどと空想していたのだった。あの日曜日も、玉虫いろに燦めくノースリーブの大胆な服で、ちょうどいまのこのわたくしと同じ恰好をしていた、あの伯母…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………瑠璃はあたりを見廻した。そこは最近開店したばかりらしいフルーツパーラーで、あまりの暑さに冷房が故障しているのだろうかといぶかしんだが、すぐいまは昭和二十三年の八月なので、郊外のこんな店に冷房などあるわけはないと気づいた。瑠璃を訪ねるにはまだちょっと時間が早い。占いの爺さんが指定した時間どおりに来て、吹きこんでおいたとおりのことをうまく喋るかどうかは判らないが、まあ任せるより仕方ないだろう。いちばん肝心なのは製塩法のヒントだが、これはわたくし自身、惟之の発明が成功したときも具体的なことは詳しく聞かなかったので、海水の濃縮と脱塩とを交互に、しかも同時に起こさせるための新しい設備を、決して専門的でなく八卦見らしい口ぶりでいわせるというのが難しい。それにしても、まだお嬢さん気のぬけない瑠璃すなわち二十五年前の自分に会うという、このときめきはなんのせいだろう。決して相手にわたくしの正体を気づかせてはならず、必要以上の注意を与えて未来を|紊《みだ》すことも禁じられているけれども、そしてひとときの、おそらくこれが最後の使者ということも判っているのだけれど、人によっては稀れにこうして二重の時間を生きる奇妙な課役があることを、この齢になるまで気づくことも出来ないとは何という不自由さであろう。注意深く日常を見廻していれば、時間の再帰性というありふれた流れの法則は、誰でもすぐ理解できる筈だのに。
瑠璃はそこで、さっきから執拗にこちらへ視線を向けている、口髭を生やした中年紳士めいた男をようやく見返った。そう、慥かにあれはラ・リュウ≠フマスターで、向かい合って喋っているのは三十七歳の不仕合せ≠ノ間違いない。懐しい嗄れ声がこんなことをいっている。
「マスターも隅におけないじゃないの。ホラ先々週の日曜さァ、あたし、ちゃんと見てたんだから」
「なんのことだい」
マスターは慌てて視線をひっこめ、不仕合せ≠フ方に向き直った。
「とぼけたってダメよ。両国の花火に、あんた藍沢さんの奥さん連れ出したじゃないの。手をつないで歩いちゃったりして、ウフフ、悪いしと」
瑠璃はゆるく微笑した。マスターが手をふるようにして、そんなんじゃないったらと弁解するのも滑稽だった。そう、慥かに二人は何でもなかった。手をつないだのはあまりな混雑に怯えたひとときのことにすぎない。小金を溜めこんで、瑠璃には一方ならず心を傾けているこの初老の男から、金を借り出すという積極的な気持もなかった。しかしそのあと、若い瑠璃の潔癖さはそれを許さず、二十五年間も記憶の底に男の名をとじこめたのだ。
可哀そうな瑠璃。そして可哀そうな二十五年前のこの男女たち。先々週の日曜というところをみると、今日は八月十五日、敗戦三周年の記念日らしい。この二人がそれからどう生き継ぐのか、わたくしには知る機会もなかったけれども、昭和四十八年の繁栄とやらは、二人に、そしてわたくし自身に与えられる皮膚の皺ほどにうとましいものでしかないだろう。走り出そうとする戦後≠ノ、せめていまのうち何かを働きかければ。いまのうちせめて立って、何か一言を叫んだならば。……
瑠璃はしかし黙って席を離れた。そろそろ瑠璃のアパートに行っておかなければならない。クリームソーダは公定価格のせいで、伝票にはクリームが十円、ソーダが五円と、べつべつについている。PXで見つくろわせたチョコレートやウィスキーは手土産に抱えてきたが、他にも何か自分の手で買ってゆこう。瑠璃は果物屋の店先に立った。はしりの甲州葡萄に、水蜜なども並んでいる。青りんごが一個十円から二十五円、西瓜が百匁十円。店員がおどろいたように瑠璃の豪華な服を見ている。どこの貴婦人というわけでもない、わたくしはこの近くのボロアパートに貧乏ぐらしをしている若奥さんのなれの果てにすぎない。そう、はっきりいってしまえば、親戚の誰ひとり気づいてはいないが、GHQの高官相手の|高級娼婦《クルチザンヌ》でしかないのだ。……
瑠璃は緑いろの肌をしたりんごをいくつか取り上げた。印度りんごなどではない、早生で酸っぱいだけの、貧しいりんごだ。だがこうしてわたくしが手を触れ、わたくしが思いをこめて取り上げるというだけで、四半世紀に亙る戦後という時間が、せめてかすかにでもこの緑いろに染まってくれるならば。思いもかけぬ来訪におどろく若い夫婦、そして無心に眠り続ける柚香。わけてもやはり死別する運命にある惟之の沈鬱に引緊まった|風貌に、久しぶりに接するのだと思うと、あやうく涙がこぼれそうになる。
「おいくらかしら、全部で」
まだぼんやりと、憧れの眼で自分を見つめている若い店員に、瑠璃はつとめてはなやいだ声をかけた。
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緑の訪問者
白く涼しい韮の花が咲きついで、九月。気がつくと窓のカーテンに、生まれたばかりの濡れた翅いろで精霊|蝗《ばった》がきている。黒い金属片を貼りつけた眼に新秋の灯が映って、それはひとときの静夜であった。
「それからまた一年ほどが経ちました昭和二十四年のことでございますが、でもそうした穏やかな秋の夜というものも、いつまでも味わえますかどうか」
戦後の異様な体験をなおも語り継ごうとして瑠璃夫人は、木原直人を顧みて頼りなげに笑った。山荘の居間に今夜は珍しく柚香も顔を見せ、ふだん見慣れぬ山住いの客たちも、灯りに遠く膝を揃えている。それはいずれも実体のない、影のような老人たちであった。
「このごろは九月と申せば、関東大震災の五十年忌とやらで、大地震の噂ばかりでございますもの。それも浅間の爆発から始まったことですから、またここへ帰って参りましょうけれども」
房総半島の隆起、アーツ衛星が発見した二本の活断層、絶え間のない小地震。それに赤トンボやサンマの異様な大群、やたら這い出てくる青大将ということになれば、鈍感な人間には判らなくても、虫や魚たちが恐慌を起こすほど地中になんらかの異変が生じつつあることを疑うわけにはいかない。ことに関東大震災も、直後の道学者流によれば、第一次大戦後の好況で消費と享楽に明け暮れた愚かな民への天譴と説かれたことだし、その点でもレジャーアニマルに溢れた現代は、充分すぎるほど時期が見合っているようなものであろう。
「戦前はなんでしたな、九月二日の例の時間になると、|午砲《ドン》でしたかサイレンでしたかが鳴って、必ず一分間の黙祷をさせられたものでしたな」
枯れたぼそぼそ声が遠くからした。奇妙なことに今夜の客は、誰もみな灯りから顔を隠すように銘々の椅子に凭れこんでい、直人は一度その顔をはっきり確かめたいと思って、薄明りを透かすようにしてみたが、声の主はただ黒く沈んだ生き物としか判らなかった。
「戦前だけじゃありませんよ、戦後だってやっていましたよ」
それより少し若い声が、ぶっきらぼうに口を添えた。
「震災からちょうど二十五年後、いまから二十五年前というと昭和二十三年ですが、その九月一日のやはり十一時五十八分にラジオがポーンと鐘を鳴らして、皆様、お忘れではないでしょうねなんていってるんです。ばかばかしい、つい三年ほど前の空襲の日々はどうなんだと思ってね、大いに腹を立てたものですが、どうやらまた戦災より震災てえことになったらしいです」
「儂は焼け跡で売っておったミカン水というものを覚えとるが、あれは確か一杯五銭という馬鹿高い値じゃった」
いっそうくぐもって|咳《しわぶ》きめいた声が、遠い憶い出話を語り出そうとしたが、
「焼け跡って、どっちの焼け跡です」
ぶっきらぼうなのは突っかかるように遮った。
「戦後の闇市だって同じようなものだったでしょう。少なくともぼくは、九月一日に黙祷するよりは、三月九日、四月十三日、五月二十五日といった空襲記念日に十秒でもいいから瞑目したいですね。地震のほうはいくら黙祷したって、くるときはくるんだから」
「君のような短期旅行者≠ヘそう考えがちだが……」
さらに遠くからおもおもしい声が届いた。
「第二次関東大震災と世界飢餓、それに続く第三次世界大戦、そのあとの凄まじい荒廃という人間の業を眺めてきたら、少しは意見も変るだろうよ」
「そりゃそうかも知れません。ぼくは貴方みたいに長老≠カゃないし、数知れない死を|看護《みと》るほどの器量でもない。しかしですね……」
何か訳の判らない論争が始まり、直人はなぜか、さっきより老人の客の数がずっと殖えたような気がして、体を固くしていた。得体の知れぬ影の一団が自分を取り包み、これから自分を生贄に黒彌撒の儀式が始まるような雰囲気を感じとると、強いて陽気に瑠璃夫人に話しかけた。
「藍沢さんは震災のときは、どちらにいらしたんですか」
「はあ、あの」
夫人も屈託のない声で答えた。
「いまの|西《にし》|日暮里《にっぽり》の近くにおりましたの。お蔭様で家も壁がちょっと崩れたぐらいのことで済みまして、うちじゅう近くのお寺の境内に避難は致しましたけれども、わたくしはまあ、周りの空いちめんが炎を映しておりますのに喜んで、夕焼け小焼けに日が暮れてを歌っていたそうですの。自分では覚えておりませんけれど、ずいぶん後までそのことで親きょうだいからからかわれましたわ」
低い、嗄れた笑い声がひととき周りをざわめかせ、またどこかへ吸われるように消えていった。灯はいっそう暗く、蝋燭のようにゆらめきさえした。
「この間のお話で……」
直人はなおも話しかけながら、声が顫えているのを自分で知っていた。
「ひとつ不思議でならないのは、貴女と伯母様とが同一人でいらした、とすると、伯母様としての貴女はその後どうなさったんでしょう。たしか謎の失踪をとげたと伺いましたが、時間旅行者というわけでなし、二重人格というのでもない、その伯母様のほうは……」
「それはこのわたくしには判りませんわ」
瑠璃夫人は哀しげに答えた。
「戦後という曠野をどうさまよい、どこで果てましたものか、それを知らせることは叶わない約束でございますもの」
「お連れしたらよろしいのに、その戦後へ」
黙っていた柚香がふいに口を挟んだ。
「そのために皆様に来ていただいたんですもの」
その皆様――影の老人たちは一斉に肯いたようだった。あまり暗いので気配しか判らないが、確かに彼らは一膝のり出すように、直人を取り囲むかたちに近づいてきているのに間違いはなかった。
「木原さんは戦後に興味がおありかしら。わたくしなら二度とあの時代に戻りたいとは思いませんけれども、ここで古いお話をするより一度見てきていただけたらと思って」
瑠璃夫人もいつかしら姿は影ばかりのように朧ろとなり、声だけが届き始めていた。直人もまるでそれが当り前のことのように、こう答えていた。
「そうですね。一度その戦後の時代とやらへ行って、三十七歳の不仕合せ≠チてひとには会ってみたいな。うちへ行けば赤ん坊のぼくがいるというのも妙な話だけれども。でも、向うでうまく暮せるかどうか心配だし、またどうやって帰ってくるんですか」
「それよりも、お若いの」
長老≠轤オいひとの声が、初めて直人に呼びかけた。
「第二次関東大震災がいつ起こるか、そのほうに興味はないかね。ひょっとして瓦礫に埋まって焼死しかけている自分を助け出すチャンスが与えられるかも知れんて」
「ええ、いいえ」
直人はあいまいに、しかしすぐ心を決めたようにかぶりをふった。
「自分の未来を覗くというのは、興味深いといえばそうですけれど、やはり慎みたい気がするんです。それより時間旅行というものがどんな時代へ向かっても可能なら、ぼくは自分よりクレオパトラに会ってきたほうがいいし、でなければどこか遠くから恐竜でも眺めて帰りたいものですね」
「SFのようにはゆかんのだよ、お若いの」
長老≠ヘ苦笑まじりにいった。
「時間は自分の生きている間にだけしか働かず、作用もしない。稀れにわたしのように因果な役を仰せつかることもあるが、あらかたはまず原体験に追体験を重ねて不都合のない地点にだけ行けるということだ。大地震のさなかに君が自分を助けることが出来るのは、その行為がかりに他人であっても不思議はないからで、他の場合にまで通じるわけではないのだよ。さて、それでは昭和二十四年の九月一日に案内しようか。ちょうど前夜がキティ台風で、風速三十メートル、電灯も消え水道もとまり、ガスもつかないという荒れようだから、叩きつけるような雨と風のなかへ姿を現わすというのもメフィストフェレスめいて効果があるだろう。服装はそれでいいとして、金はここにある。見当はつくだろうが千円札さえまだ出来ていない時代だからね、むやみな使い方をされても困るが……」
「ちょっと待って下さい」
あまり話が急なことで、このまま古い時代へ送りこまれそうな気配に、直人は慌てて喋り出した。
「昭和二十四年といえば、たしか下山事件に三鷹事件、それに松川事件と立て続けに起きたとしでしょう。何月かいまは覚えていないけれど、それを調べてぼく一人がその現場へ行くことも可能なんですか。カメラを持って行って真犯人の写真を撮ることだって出来るというならば、もうこれまでにも誰かがやっていそうなものですが」
「そうなんだ。ぼくはなんべんそれを志願したか知れやしない」
さっきの若い、ぶっきらぼうな声が焦立たしげにいった。
「何も真相を曝いて歴史をひっくり返そうなんてことを考えてるんじゃない、ぼくはただ真実をこの眼で見てから死にたいだけなのに、危険人物扱いで許してもらえない。あの当時ぼくは日本橋の商社に勤める、しがないサラリーマンだったけれど、あの三つの事件がどんな意図で、誰の手で惹き起こされたかは、そのときから判っていましたよ。いまでこそブレジネフがニクソンを訪ねて、握手をしたり冗談をいい合ったりという狃れようだけど、あの時代は米ソの対立が頂点に達して、トルーマンがソ連にも原子爆弾がある、核爆発があったことを発表すると、ソ連もにやりと凄んだ面構えで、実は一昨年から持っておりやす、なんて上眼づかいにじろりと見上げるってふうでさ、アメリカとしては共産党の勢力を何がなんでも叩きつぶしたかった時代でしょう。国鉄の大量馘首に組合が反対するのは当然だてえのに、下山総裁の死体をバラバラにして抛り出しとくと、新聞がすぐ他殺とするのはいいとして、背後に某団体かなんて見当違いの触れこみをする。組合側の気勢を削いだ鼻先へ三鷹事件を浴びせて国鉄十万人の整理は完了てえあのやりくちは、日本人が考え出せることじゃない。下山事件の当日、ぼくは昼に三越の裏を通ったけれど、事件を知らなくてもなにがあったのかと思うほどアメリカのステーションワゴンが何台もつめかけていましたよ。それはむろん通信記者たちがニュースを知って集まったといえばそうだろうけれど、それが事件の前からつめかけていたとしたってちっとも不思議とは思えませんね」
勢いこんでいう正義漢の口調に、長老≠ヘいささか閉口したようすだったが、やがていくぶん揶揄めいた調子でこういった。
「すると君は何かね、許されさえすれば七月五日の朝九時半からカメラを持って三越に張りこみ、下山総裁が背の高い紅毛びとや、えぐい顔をした猪首の男どもに囲まれ、地下鉄へ降りる傍の小さな出口から連れ出されるところを一発、ばっちり写真にとれば満足なのかね。そんなことをしたら当然君もまた一緒に連れ出されて、バラバラの轢死体にさえしてもらえない、セメントの樽漬けでどこかの海に沈められるだろう。そんなふうだから短期旅行者≠フ資格しか取れんのだよ」
「ぼくがいうのはただ……」
正義漢はいくらかしょぼんとしたようだった。
「昭和二十四年から翌年にかけて戦後の反動化が決定した、その時代に生きていて何もしなかったことが恥ずかしいだけなんです。二つの事件のあとがレッドパージでしょう、朝鮮戦争でしょう。軍需景気のなかで警察予備隊が作られ、集会とデモを禁止し、日の丸と君が代を復活させという政策がまかり通って、一方ではフジヤマのトビウオなんてことで古橋を生神様のように讃え、これで奴らも日本民族を見直したろう、少しは日本という国の偉大さが判ったろうなんていう見当違いのうぬぼれで、またぞろ世界に必要な国みたいな錯覚をする、そのことがこうした反動政策とみごとに裏腹になっているのが悲しいんだ。あの当時の待ちに待った引揚げ≠セってそうでしょう。ソ連の奴め、なんてひどいことをしやがるんだ、四年もシベリアで冬を越させて、おお可哀そうに、さあ大丈夫、日本ですよ日の丸だよ万歳だよというおろおろ涙で出迎えたら、あいにく引揚者は全部マルキストに早変りしていて、まるでつづらからお化けでも出たようにびっくりしている中を、スクラムを組みインターを歌って皆さん|代々木《よよぎ》へ行っちまった。新聞もいまさら引込みがつかないから、ソ連の思想教育がいかに苛烈を極めたかという宣伝を始める。その俄かマルキストも、実は日本人生得のお先走りから起こったことだと、当時は気づく筈もないから、それはいいんです。でもこの六月だかにエフトシェンコですか、ソ連の詩人が来て、寿司屋のおやじだかが引揚者だと知ると、どうだったシベリアは。楽しかった。そうだろう、シベリアはすばらしいところだからなんてやってるのを聞くと、この馬鹿野郎と思ってね。シベリアは楽しかったなんていうほうもいうほうだけど」
正義漢はどうやら熱弁のあまり涙声になっているようすで、長老≠煦・拶に困っているらしい。思わぬ戦後史のおさらいに、直人はそれでも興味深く聞いてはいたけれども、ようやくこういった。
「どうもせっかく時間旅行をさせてもらえそうな雰囲気でしたけれど、お話を聞くと昭和二十四、五年というのも、あんまり楽しい時代ではないようですね。まあぼくは歴史の証人になるつもりもないし、大事件の真相を曝くという心がけもないんで、このあいだ瑠璃夫人のお話にあった緑のりんご、その仄かな、流れるような緑のいろに戦後という時間が染まるものなら、差し障りのない訪問者ぐらいになりたかったというのが本音です。しかしどうもこうなると出かけるのもぞっとしないな。三十七歳の不仕合せ≠ノいまさら会ってみても仕方がないだろうし」
「でも木原さんはお芝居がお好きでしたでしょう」
柚香が傍から優しくすすめた。
「古い時代に帰って一幕見を覗いてくるというのも、しゃれてていいものよ。あの時代には何があったかしら、|演《だ》し物は」
「二十四年の九月というと……」
誰かがすぐ答えた。
「東劇で|幸四郎《こうしろう》の襲名披露がありますな。夜の部の『縮屋新助』などがいいでしょう。|吉《きち》|右衛門《えもん》は少し弱っていて、熱演ももひとつしゃっきりしないが、芝翫の|美代吉《みよきち》がずんといい。むろんいまの|歌《うた》|右衛門《えもん》ですが。それから十月にかけて帝劇で文楽が出ています。これはやはり文五郎と|山城《やましろ》|小掾《しょうじょう》の『寺小屋』が圧巻でしょう。中は浜太夫だが、まあ聞いてらっしゃい。ちょうど|清六《せいろく》が、この興行限りであんな冷たい人とはお別れやという爆弾声明を出そうというところで」
「あの、それで、どうやって行くんです。やはりタイムマシンとやらに乗るんですか。それと帰り方が心配だけれど」
「タイムマシンなどあるわけはないさ。時間の性質を考えたら、そんな機械が役に立たぬことはすぐ判るだろうに。秋へ行くには秋の呪文さえ唱えればわけはない」
誰かが遠くで呟くのに続いて、自分のと引替えに、当時の金の入った財布が渡された。
たしかに、吉右衛門でも六代目でも、死んでしまった名優たちを立見でなり観られるというなら時間旅行も悪くはない。それにしても瑠璃夫人や柚香がどういう手蔓でかそれの可能なグループに所属しているというのは、思いもかけないことだった。影の老人たちが改めて円陣を作り、いよいよ二十四年前の九月に送り届けられるらしい気配に、木原直人は手術を受ける前のように体を強ばらせたが、もう一度、弱々しい微笑を浮かべて訊いた。
「で、帰ってくるにはどうしたらいいんですか。その、つまり、ちゃんとこの昭和四十八年の九月のここへ帰るのは」
「それは簡単なことなの」
柚香が涼しい声でいった。
「行ったらまず、どこでも眼についた交番へ顔を出して、時間旅行者の登録をすればいいのよ。帰りも同じ。どの交番でも受付けてくれますから、大丈夫、すぐお帰りになれてよ」
「交番ですって?」
「ええ、ちょっと気がつかなかったでしょ。いまだって場所によってはやっているわ。このあいだ新宿三丁目の交番が爆破されたのは、赤軍派の仕業なんかじゃない、時間旅行者の内輪揉めだったの。犯人はもう逮捕されて厳重に処罰されましたけど」
「いや、当節は多少物騒なことになったが、二十四年前は、まだのんびりしたものだて」
長老≠ェ慰め顔にいった。
「党員がアイスキャンデー売りに化けて様子を探りにくるぐらいのことでな。パンパンが偽刑事におどかされて、恐かったからサービスしちゃったなぞというのんびりした時代さ。さて、あまり手間どってもいかん。お若いの。こう手を揃えて差し出して、軽く眼を瞑るがいい。すこうし眠気がさしたら、そうっと体を楽にして、らくーにして、そう……」
ひどく冷たい掌が――まるで骸骨そのままのように枯れきった掌が直人に触れ、それはおずおずと腕から肩に這いのぼった。
「さあ、秋の呪文を。君も一節ずつ口の中で唱えるのだよ」
老人たちは、立ちゆらぐ香煙の|経文歌《モテット》のように、その呪文を唱え出した。
………
鏡は空ばかり映している
………
こんなにも痩せてしまったと
山羊の嘆き
………
谷底から
もう合唱も湧いてこない
………
だが、ひどい眠気に誘われながら、直人は初めてあることに気づいた。この連中は、いかにも自分を過去のある時代へ送り届けることだけは可能なので、それはたぶん間違いはない。しかし、交番がその連絡所だなどというのは、真赤な嘘に決まっている。昭和二十四年九月のある日、交番へ駆けこんできた若い男が、自分は時間旅行者だなどと名のったとしたら。……
いくら主張しても信じてもらえず、業を煮やして朝鮮戦争やその他のいくつかの事件の予言をしてみたところで正確な日時を知っているわけではなく、|阿佐《あさ》|谷《がや》の自宅へ行って赤ん坊の自分や、両親の出生などをいい立てたとしても、やはり気違い扱いされるだろう。
またしても柚香の黒い願望――絶対に救いのない過去の精神病院≠ヨひとを閉じこめようとする、その悪念に自分はひっかかったに違いない。いやだ、助けてくれという叫びは、もう声にならなかった。深い眠りにおちこんでゆきながら直人が最後に聞きとめたのは、立ち上った柚香のけたたましいまでの狂笑であった。
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廃屋を訪ねて
T
鉄格子のついた窓の外に繁っているのは、見たところ確かに金木犀で、風につれて鋭い香が吹き渡る風情から推すと季節は十月と知れたが、広い病室のどこにも暦や時計はいっさいなく、もとより新聞やテレビのたぐいも見当らぬため、いまが一体いつなのか、どんな時代に生きているのか、患者たちは知ることができなかった。
朝夕のきまった時刻に回診にくる医師と看護夫とは、終始にこやかな微笑を浮かべ、気分はどうかねとか、欲しいものはないかとかの口先だけのいたわりは示すけれども、時間を返して欲しいという、いちばん切実な要求にだけは、決して応じようとしなかった。
「時計ならあげよう。なんならここの壁いちめん柱いちめんを時計屋の店先のように、大小さまざまな時計で飾り立ててもいい。でなければ諸君が工夫して作るというなら、日時計、水時計、砂時計その他の材料はいくらでも持たせよう。しかし時間そのものを、いったいどうやって手渡せると思うね。かりにいまが一九七三年だ、あるいは八三年だと私が告げれば、諸君はそのまま信用するというのかね。そんな借着の時間をやすやすと身につけるような真似は、これからもまずしないほうがいい」
医師は 本当に医師かどうかも疑わしいのだが、白衣のかれはそういってたしなめさえした。
「それに、いくら時計をおいたところで、これまでも必ずそうだったが、皆なしてそのひとつひとつを壊し出すにきまっているのだ。壊してバラバラになったぜんまいやてんぷの中に、ひょっとして時間が隠されているとでもいうようにね。そういう訳でここには時計もおいてないのだよ」
それはひどく残酷ないい方で、閉じこめられた患者たちは、しだいにその底にある、根深い悪意に気づかずにいられなかった。ここはもしかすると病院などではなく、時間の剥奪という新しい刑を課せられた囚人たちの獄舎であり、そのために設備は残りなく行届いているのではないかと疑い出すと、その悪意の周到さは容易ならぬものに思われた。かりにここを脱出できたとしても、外界にはいわゆる娑婆≠ェ存在する筈はなく、たとえば虚無の白波が空しく岩を噛んでは引返してゆく、すでに時間の破滅した荒涼とした風景がひろがっているばかりではないのか。内部ばかりではない、外部にもいっさいの時は喪われ、この建物の存在自体が時間外≠フ領域にあるのだとしたら。――
この中で意識を取り戻してから木原直人が考え続けていたのは、ここ≠ェ時空の断層に危うくひっかかった特殊な位相に違いないということであった。途中の経過は何ひとつ覚えていず、かれが送りこまれようとしたのは昭和二十四年九月一日の筈であったが、暦の上の日時というものは、いわば向うで激しく揺れている空中ブランコの一転瞬の位置に等しく、玄人でもないものが無謀なタイムジャンプを試みたが最後、サーカスの救助網へもろに墜落する形でここ≠ヨ陥ちこむということは、同室の仲間たちと話し合ううち容易に理解された。彼らもまた、なんらかの形で時間旅行を試みた連中ばかりだったからである。
その同室者の中の一人に藍沢惟之が――あの塔屋で星と夕焼けとを眺めながら果てたとばかり聞かされていた当の本人がまじっていたのは、いまとなってみれば偶然とはいえず、沈鬱に額を翳らせながら彼の語るのを聞くと、直人はいまさらながら、どれほど迂闊に瑠璃夫人や柚香とつき合っていたか、身に沁みて顧みられた。
「この現代にも確かに魔女は存在するといったら、まず大方の人は信じないだろうが、あの二人だけはべつなんだ。時間の特質を手に入れるという、ただそれだけの資格によって二人ながら時間の魔女になり得たといっていいだろう。私の怖れているのは、もしかしてここが実態のない、彼女らの妄想の檻ではないかということなんだ。かりにそうだとしたら、いったんその中へ閉じこめられた以上、それを中から壊すことはできないし、もとより脱出も不可能だからさ。なぜといって彼女らの妄想に、外界なんてものは初めから存在していやしないのだからね」
「だって、それじゃ………」
直人はいいよどんだ。
「それじゃ、窓の外の金木犀は、あれも仮象なんですか。春になったらべつな花が咲くとでも……」
「そう、あの窓の外の花は、君のように新入りがくるたび新しく咲くんだ。季節らしいものだけは残しておくという、それも時間刑の意地の悪いところでね、十月になったから金木犀が咲いたんじゃない、金木犀を咲かせておいていまが十月だと思わせようというんだが、それがいつの十月かは絶対に判らないのだよ。私が眺めくらしていた星座の知識も、この昼の館ではなんの役にも立たない。強いて時間を創り出すとすれば、古代人がそうしたように、ここだけの新しい暦を編み出すしか|術《て》はないのさ」
「ああ、でも……」
いいかけて、直人はうなだれた。たとえば夜空に壮大なジャコビニ流星群が降り注いだというなら、それは一九三三年の十月九日と知れるが、眺め尽し立ち尽してもどんな星屑ひとつ掠めようとはしなかった一九七二年のその夜はいったい何だったのだろう、名づけがたき十月とでもいうほかはないのかという思いが胸をよぎったからである。日蝕も月蝕もあらかじめ地上の暦を携えていればの話で、第一、この窓の外の天空が、地上のそれと同じものだという保証はない。
惟之がここにきたのは、晩年ついに瑠璃と伯母とが同一人だったとようやくに悟り、時間の再帰性という特殊な性質を自分で験すつもりになって失敗したと語ったが、いまが千九百何年ということが分明でない以上、それからどれほどの年数が経ったかという問いもまた無意味であった。ここでは時間が経たないんでしょうかという問いには、いっそう正確に経ちながら、いわばそれはから回りしているのだという奇妙な答が返ってきた。
何もかも訊き出したいことばかりであった。
「そういえばここに、水島滋男とか深見悠介といった青年は来ませんでしたか」
思いついて直人はたずね、手短かに藍沢家のサロンでのいきさつを語った。
時間の中を落下しながら直人が聞きとめた柚香の狂笑は、また一人をうまうまと異次元に葬り去った喜びの声としか思えなかったのだが、とすれば突然の失踪を遂げた水島も深見も、ともに同じ方法で過去へ、時間の彼方へと送りこまれたに相違ない。おそらく彼らはここを夢魔の館と信じてあの手紙を書き送ったのだろうという直人の推察は、やはり当っていた。
「ああ、知っている」
惟之は重苦しく答えた。
「二人とも純真すぎるというのか、いまだに奸計に嵌ってここへ送られたとは信じていない。それだけに瑠璃と袖香には恰好の獲物だったのだろうが、深見君のほうは寝込みを襲われて、眠ったままタイムジャンプをさせられたようだ。だから彼は夜の館にいるよ」
「夜の館ですって」
「そう、ここは昼の館だ。朝も夕もない昼≠ニいう概念だけのあけくれがのべつ続くんだ。夜の館に入れられても、深見君はまだ自分が何をさせられたか気づいちゃいない。自分の夢想癖が募って、夢魔の王に攫われて非現実へまぎれこんだぐらいに思っているのだろう。それもいっそ倖せだろうが」
「そうか。じゃ、後を追いかけた水島君は、真相に気づいて柚香さんたちに迫ったんですね。秘密を公開しない代り、自分を深見君の許に送ってくれというふうに」
惟之は黙って肯いた。
直人はいまようやく正月のサロンで何が行われたのかを知った。瑠璃夫人と柚香は、あたかも舞台の女魔術師さながらの誇らしさで、サロンの常連に二人の消失を披露してみせ、一人でもその謎をとけるかというぐらいの気持であの手紙を配ったのであろう。その手紙がどんな手順で地上へ送られたのかは分明でないが、直人はいまさらながら水島滋男の、何か口籠ってたどたどしい言い廻しを思い返さずにいられなかった。冥界の川に託して時間旅行を語り続けた彼は、それとなく真相を知らせるというつもりもなく、まして柚香を時間の魔女だとも思わずに、ただひたすらこちらでもう一度|倶《とも》に住むことだけを願った純情な青年なのであろう。
しかし、かりにもここから地上に手紙が届くものなら、人間もまた何らかの手段で復帰することも不可能とはいえない。ただその中間に横たわる完全な無≠フ海、無≠フ砂漠に迷いこみさえしなければ。……
「私もそれは考え続けているんだよ」
惟之は容易に同意した。
「なんとしてでもいま一度地上に戻って、瑠璃や柚香に一泡吹かせんことには気が納まらん。水島君もいま一度説得してみるが、ともかくも君が来てくれたのは大いに心強い。なんとか二人で頑張ろうじゃないか。柚香がどれほど酷薄な女かを知らせるために、私も三度ほど君たちに手紙を書いたが、その甲斐もなく君が送られてきたとなると、後の連中も危いものだ。もうぐずぐずはしておれん。大体この、時間の獄とも病院ともつかぬ館にしたって、まったく地表とは別な空間に存在している筈はない。どこか一部分だけは変りなく地上に露出していると思うんだが、その部分を外から、つまり誰か地上の人間が開いたら、一瞬のうちにここは崩壊してわれわれは元に戻れると思わないかね」
惟之の提案を聞きながら、直人は妙な微笑を浮かべていった。
「ここへ来てから、ぼくはひどく変った気持がしているんです。つまり時間の中を潜りぬけてくる間に、ぼくが二人に岐れちまったような……。一人はたしかにこうしてここにいる、しかしもう一人のぼくは、変りなく地上に残ってふらふらどこかをさまよっている感じなんです。プラトンじゃないけど、その半身とぼくとはなんとか合体したいし、向うもそれを熱望している。そいつが地上のどこを歩いているか、なんとなくいまのぼくには判るんですよ。ですから、もしここの一部が地上に露出していて、その門を開きさえすればいいというなら、ぼくがけんめいにテレパシーですか、その念力で半身を呼んで、そいつに開けさせたらどうでしょう」
「本当かね、君」
惟之の顔は俄かに喜色に溢れた。
「はっきりとその存在が感じられるんだね。確かに半身が実在して、その彼と交信できるというなら、頼む、いますぐに呼び寄せて、なんとか門を開かせてくれ。そうすればすぐにも二人は合体できるだろうし、こんな病院みたいなものはたちまち消滅するだろう。どうだね、出来そうかね。ああうまくその彼を門のところまでこさせることができさえすれば………」
「ええ、やってみます」
実際、もう一人の自分は、いますぐこの近くを歩いていて、あと一息でこちらの存在に気づきそうなことは疑いなかった。そう、その角を曲ってまっすぐだ。うまいぞ、それから左手の原っぱだ。かまわない、どんどん入ってゆけはいいんだ。木立の奥に、ホラ、ちゃんと門が見えてるじゃないか。何をぐずぐずしてるんだ。よし、そう、もっと近づいて、そうだ、その門を片手で押しさえすれば。……
けんめいに念じる直人のそばで、惟之もまた唇を噛むようにして、見えない半身を待ち続けていた。
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鉄格子のついた窓の外に繁っているのは、見たところ確かに金木犀で、風につれて鋭い香が吹き渡る風情から推すと季節は十月と知れたが、広い病室のどこにも時計はおかれていない。それというのもここの患者たちは、時計とみると必ずそのひとつひとつを壊してしまうからであった。壊してバラバラになったぜんまいやてんぷの中に、ひょっとして時間が隠されているとでもいうようなモノマニアたちを、木原直人はひそかに憎み、かつは軽蔑した。彼だけはいまが一九七三年の十月だと知っており、しかも絶対に自分だけは発狂していない確信があるからだったが、狂院の中で自分は狂人ではないと言い張る愚も、同時に思い知らされていたのである。
九月に千ヶ滝の山荘で柚香や奇妙な老人たちに囲まれ、時間旅行へ送り出すと称して催眠術をかけられたことは確かだが、なぜそんな手間暇をかけてまで自分をこんな精神病院に閉じこめる必要があるのか、そんなことをしてなんの得になるのか、その点だけはいくら考えても判らない。あれから一と月、どこで意識を失っていたのか、ここが東京かそれともどこかの地方都市なのかも医者は語ろうとせず、気分はどうかねとか、欲しいものはないかとかの口先だけのいたわりは示すけれども、家へ帰して欲しい、とにかく家族や友人に連絡だけはさせてくれといういちばん切実な要求にだけは、にこやかな微笑を浮かべるだけで、決して応じようとはしなかった。暴れ廻り喚き散らして、そのたびに容赦のない看護夫の殴打と拘禁衣と罰房というくり返しの末、直人はすっかり寡黙になった。眼だけを執拗に光らせ、この不当な監禁の意味を探ろうとつとめたが、ようやく知り得たのは、どうやら自分を囮にして誰かをおびき寄せようとしているらしいという、およそ見当違いな理由であった。
何か途方もない誤解の末にこんなことになったらしいが、かりに自分が囮になったところで、スパイ物語ではあるまいし、某重要人物がのこのこ現われるなぞということは絶対にあり得ない。突然行方不明になったとすれば当然家族から捜索願いも出されているだろうし、自分が千ヶ滝の山荘に滞在していたことは友人たち、わけてもサロンの常連は皆が知っている筈だから、その線からもいつかは必ずここが探知されるだろう。楽観は出来ないにしても、その点では直人は充分に冷静であった。
しかし、敵の――というふうにいつか考えるようになっていたのだが、敵の一味の考えていることはいよいよ得体が知れないと思わせられたのは、地上にいる筈もない藍沢惟之と称する人物が同室の患者として送りこまれてきたときであった。明らかに医師の回し者としか思えない彼は、ひどく親身な味方を装い、ここは精神病院ではなく時間の獄だなどと荒唐無稽なことを囁いたりするのだが、直人は逆に彼を利用して、何とかこの監禁の真相を探り出そうと心に決め、二人でここを脱出しようと持ちかけてみると、
「私もそれは考え続けているんだよ」
惟之と称する人物は容易に同意した。
「なんとしてでもいま一度地上に帰って、瑠璃や柚香に一泡吹かせんことには気が納まらん。君がいてくれるというのは大いに心強い。なんとか二人で頑張ろうじゃないか。大体ここがどんなところにしたって、地表と別な空間に存在している筈はない。その、変りなく地上に露出している部分、つまり門をだね、誰か君の知人に見つけてもらって、外から開かせさえすれば、こんな陰謀は一瞬の裡に崩壊してわれわれは元に戻れると思うんだが、誰かいないだろうか、その君の分身とでもいうべき人間は」
おいでなすったな。直人は妙な微笑を浮かべると、ためしにこう答えた。
「本当をいうともう一人のぼくがいるんですよ。つまりぼくの半身ですね。そいつをテレパシーで呼んで門を開けさせたらどうでしょう」
「本当かね、君」
相手の顔は俄かに喜色に溢れた。やはり敵の狙いはそれで、どういう誤解からか架空の半身とやらをおびき寄せたがっているらしい。
「確かに半身が実在して、その彼と交信できるというなら、頼む、いますぐに呼び寄せて、なんとか門を開かせてくれ。どうだね、出来そうかね。ああうまくその彼を門のところまでこさせることができさえすれば……」
「ええ、やってみます」
低く、直人は答えた。
笑いを噛み殺しながら眼を瞑って念じるふりをすると、ふいにありありと自分の像が浮かんで来たのに直人は慄然とした。どうしたというのだろう、そのもう一人の自分は、いま確かに存在し始め、間違いなく心眼に見え出したのである。いままで気づきもしなかったが、本当に分身がいるのだろうか。しかし、もしそいつがのこのこと此処にやってきたら、すぐにも敵に捉えられ、自分は完全な発狂者として終生をここで送ることになるだろう。直人はけんめいに心に叫んだ。馬鹿、その角を曲るな、戻れ、戻れったら。だが像はいよいよ鮮明になり、左手の原っぱに踏みこんで容赦なく門に近づいてくる。何をぐずぐずしてるんだ、引返せ、早く。その門を押したら、何もかもおしまいだぞ。……
けんめいに念じる直人のそばで、惟之と称する人物もまた唇を噛むようにして、見えない半身を待ち統けていた。
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鉄格子のついた窓の外に繁っているのは、見たところ確かに金木犀で、風につれて鋭い香が吹き渡る風情から推すと季節は十月と知れたが、木原直人はぼんやりとその外に佇んで首をかしげていた。原っぱは何か大きな建物を壊したあとらしいが、その向うの木立に隠れて、こんな病院めいた建物があるとは、いままでついぞ気づいたこともない。毎日のようにここを通りながら、第一、原っぱにもと何が建っていたのかさえ記憶にないのだ。おかしいな、もう十月か。なにしろ九月の千ヶ滝以来、どこかおれは魂が抜けたみたいになっちゃったな。まるで本物のおれは、どこかへ行っちまったみたいだ。……
あの夜、千ヶ滝の山荘で奇妙な老人たちに囲まれているうち、自分はいつか寝こんだらしい。
「ずいぶんよくお|寝《よ》ってでしたわ」
あとで瑠璃夫人にそう冷やかされたが、そのときおれは確か時間旅行の夢を見ていた。そうだ、呪文を唱えただけで過去へ行けるなんて、他愛もない子供のような夢だった。それにしてもあれからこっち、始終誰かに呼ばれているような気がするのはなんのせいだろう。いまだって、この金木犀の咲いた窓の中に誰かよく知ってる奴がいて、けんめいにおれに呼びかけているような気がする。ここはなんだろう。病院にしちゃ門札も出ていないし、およそ人なんか住んでないみたいな感じだけれど、廃屋かしらん。門だけはずいぶんりっぱだな。少し開きかけているようだから、ちょっと中へ入ってみようか。怒られるかな。かまやしない、ただ覗いてみるだけなんだから。
直人は誘われるように門の前へ近づき、ためらいながらその[#「その」に傍点]片手をさし出した。
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戦後よ、眠れ
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その最初の震動が伝わったとき、藍沢惟之は、思わず低く「やった!」と叫んでいた。あたかも待ちに待った友軍が到着して、援護射撃のとどろきが初めて一斉に聞こえたとでもいうように、解放の刻の訪れはいま紛れもなく、少なくとも惟之と木原直人にとっては、分身の到着はもう疑いを容れなかった。
震動はひどく奇妙なもので、ちょうど古いエレベーターが急降下して停止するとき、一度ふわっと体が浮きあがるようなあの感じだったが、それもおそらく建物全体が時間相の中を急速度で移行したためであろう。時間の獄、時間の病院はいま、昼の館も夜の館も残りなく破砕される筈であった。
甦った時間が、一分経ち、二分経つ。しかしどうしたことか建物はまだそのままで、外も異様なまでに鎮まり返っている。
「あ、金木犀が」
誰かが頓狂な声をあげた。鉄格子の外で鋭い香をまき散らしていた金木犀は忽然と消えて、あとにはただきんいろの陽ざしだけが眩しいまでに溢れた。だが依然として建物自体には、なんの変化も見られない。
「おかしいぞ」
惟之が先に立ってドアへ近づき、力をこめてノブを廻した。いつもは頑丈に鎖されているドアはこともなく押し開かれ、見張りの咎める声もしない。のみならず長い廊下には、白衣の医師つまりは看守の姿も一人として現われる気配はなかった。
「そうか。建物はそのままで、奴らのほうが消えちまったんだ」
患者たちつまりは囚人たちは、一列につながって廊下へ出た。
「用心したほうがいい。どんなことになったのか、まだよく判ってはおらんのだから」
惟之は慎重にそう制したが、久しく静止した時の中にとじこめられていた皆は、
「戻ったぞ、動く時間の中に帰れたんだぞ」
と叫びながら駆け出し、てんでに勝手な方角へ散っていった。残ったのは惟之と直人ともう一人、小肥りのまるっこい指をした男だけになった。
古川というこの男とは直人もしばしば話を交したが、どこかあの正義漢≠ノ似た口調で戦後の反動化を罵り、聞いてみるとやはり昭和二十四年の九月に世相をいきどおって未来へ時間旅行を試み、あげくここへ陥ちこんできたものらしい。直人が同じ二十四年の九月一日へ送られるところだったと知ると、めざましく興奮し、たぶん二人はサーカスのブランコ乗りさながらに両方から跳躍して、ともにもつれて失敗したに違いないといい張るのだった。
「そうですよ、それに違いありませんよ。二十四年を隔てたタイムジャンプがうまく行きさえすれば、きっと二人は入れ替って存在していたんですよ。いうなれば二人は時間の兄弟みたいなものじゃありませんか。さ、握手しましょう、握手」
そういって、ぷよぷよと柔らかい両手で包むように直人の掌を握りしめたときの感触はへんになまなましく、だんだん問いつめてみると当時の学生には違いないが本職はスリだというのが気に入った。向うもひどく狎れていつも身近かにいるふうだったから、当然のように行動をともにする気になったのであろう。
「夜の館の方はどうなったんでしょう。水島君たちも解放されたのかしらん」
「うん、行ってみよう」
三人は宏大な館の奥へ踏みこんだ。元はおそらく何某という由緒ある邸だったのだろうが、アルコーブを設けた廊下や、つき当りごとの大鏡は、いま昼の光でみるとひどく醜い、荒れ果てた廃墟の残骸にすぎなかった。庭園もいたずらに草が繁り、夢魔の館というよりは時間の幽霊屋敷に用いられたというほうが当っていよう。
水島滋男と深見悠介は、何が起こったかも判らずに奥まった一部屋に坐っていた。傍にはアケロンの流れを遡って昭和九年に戻ったという青年やその友人のR、また戦後の隅田川の辺りに戦災者の墓を訪ねて分身に逢ってしまった青年もいたが、三人が来たのをみると安心したように立上って別れをいった。帰るべきところがあるのかどうか、それは直人たちも同じだが、帰らねばならぬということもまた同じであったろう。
直人は手短かに事情を説明した。
水島は最初から知っていたが、深見はただ、
「信じられない、ぼくには信じられない」
と呻くばかりだった。
「だけど、そうすると」
「その門のところまでやってきた木原さんの分身はどうしちゃったのかな。その瞬間にまた合体したとすれば、なんかこう異様な感じはあったんですか」
「それがねえ」
直人は首をかしげた。
「建物がこう大きな衝撃を受けた感じは君たちもしたわけだろう。ところがぼく自身には何もないんだ。このとおり自由になったんだから、確かに分身は来たには違いないんだけれど」
「それはそうと」
古川が口を挟んだ。
「あなた方はこれからその瑠璃夫人と柚香さんとやらの許へ行って一合戦するつもりなんでしよう。しかしね、あたしの予想じゃこの建物の外では大変な時間の混乱が始まっていると思いますよ。さしずめここを出ると、時間の砂嵐に見舞われること必定で、そうたやすく昭和四十八年へ戻れるとは考えられませんね。だって話を聞くとあの反動政策がそのまんま続いたっていうんでしょう。それだけでも戦後が空間的にじゃない、時間的に混乱しない筈はないんだから」
「ああしかし」
深見悠介はまだエンデュミオンの睡りから醒めやらぬ顔で嘆じた。
「ぼくにはどうしたってまだ柚香たちが時間の魔女だなんて思えないや。かりにそうだとしたって、ぼくはここが気に入っていたんだし、そんな外へ出て行って戦後の時間が砂嵐のように吹き狂っているような中を歩く気はしないよ。そんなのは自由になったってことじゃないもの。ねえ、水島、なんとかまたここで、二人で暮すてだてはないの」
「ああ。もうこうなったら出かけて、元の時代へ戻るしかないだろう。いままでと違って、たぶん腹も減ることだし」
――しかし、五人が揃って門から外へ出てみると、古川のいうとおりであった。そこの原っぱを横切ることは、ほとんど戦後史を横切ることに近かった。その原っぱは、いわば忘れられ放置された戦後問題のごみ棄て場だったからである。
季節はいつも十一月で、|黄金《きん》の陽ざしがいちめんに溢れると、歩いている人たちはすべて黒い半外套を着ているように眺められた。古い写真集でおなじみの瓦礫の焼け跡、でなければ強制疎開させられた建物跡はどこも露天の闇市で、蜜柑、鰯、林檎、干物、ふかし藷、美味しい∴ケ、するめ、大根、小かぶなど佗しい限りに並べられ、群がる人々も女はもんぺ、男はあらかたが兵隊服に、きまって肩から雑嚢をかけているのが異様だった。
「いつなんだろう、これは」
「きまっていますよ、昭和二十年ですよ。戦後はいま始まったばかりですからね。われわれは戦後の原点へ戻ったんだ」
古川が眼を光らせて説明した。同じように眼を血走らせた生の鰯が八匹十円で大安売りの札がついているのは、ふつう生干しで六、七匹十円が相場だかららしい。五人が固まって歩くと服装の違いが目立つので、少し離れるようにしながらその闇市を視察≠オたのだが、聞くともなしに周りの会話が耳に入ってくる。
――おじや[#「おじや」に傍点]にしますとね、なんだおじや[#「おじや」に傍点]かなんてって、またよけいに喰べますでしょ。
――一まわり小さいのが、そう、五円から十円ね。
――九合にこすんで樽が残りゃ安いよ。
きれぎれな内容はいずれも喰い物か闇の儲け話ばかりで、惟之が思わず嘆息した。
「私はこの当時まだジャワにいたんだが、内地もずいぶんひどかったんだなあ」
「ぼくたちはまだ生まれてもいないんだ」
水島と深見が声を揃えた。
「ぼくは赤ん坊だ。阿佐谷に行けば、なんにも知らずに泣いてるんだな」
直人があとをつけた。
「あたしはね、えへへ」
古川は急にくだけた調子になると、
「このころは大学のほうで『赤門戦士』ってガリ刷りの新聞を友人と出してたんで、なァに、いま思や『赤門文学』なんてのと同じ官僚臭芬々な題だけど、禁書の公開要求、志賀義雄氏学生に語る、学生諸君は何を見たかなんて原稿募集とかね、そりゃもうけんめいでした。なにしろこの十一月には、鳩山の自由党とか、町田忠治なんて骨董品を担ぎ出して進歩党なんぞという反動政党の結集がもう出来上ってたんですからね。へ、へ、ですからこれであたしは、赤門出のスリってわけでして」
そういって卑屈に笑ったが、そのスリの技術はこの際大いに役に立った、というのは、五人とも当時の金はまったく身につけていなかったからである。
古川は立売りの新聞スタンドへ近寄ると、いつの間に手に入れたのか小銭を出して一部を買った。
「ホラ、もう昭和二十一年ですよ」
それはいかにも二十一年の十一月二十九日付けの読売新聞で、気がつくとさっきの闇市もいくつかは屋根のある屋台に変っているのだった。
「ここに出てるでしょう、改元問題で政府は態度を決定って奴。昭和という年号が四十八年も続いたって、あなた方は不思議にも思わず、むしろおめでたいぐらいに考えてんでしょうが、その淵源がここにあるんです」
古川はまたいくぶん学生らしい口調に戻ってその新聞を差し出した。
それによると、このたび皇室典範の改正に付帯して改元問題が表面化してきたけれども、政府としては改元しないことに閣議の決定をみたというので、理由は新皇室典範の第一条に「改元は明治元年の行政官規則に依る」と明記してあり、従って元号は「一世一代とし、特に吉凶禍福のない限りこれを変えざること」という一行が、現代にもなお効力を有するためだというのであった。
「ねえ、どう思いますか」
古川は真剣にいった。
「あの八月十五日の敗戦が特に吉凶禍福≠ナすらないというこの神経。国体とやらを温存さえすれば、それで日本は安泰だというその考え方が戦後を駄目にしちまったんですよ。ごらんなさい!」
五人はいつか駅の構内にいた。ホームには電車がドアをあけ放しにして動かない。只今なんとか列車の通過でございます、というアナウンスにつれて、そのなんとか列車が向うを颯と通りすぎた。気がつくと周りにいる早稲田や一高の学生が帽子を取って凝然と突立っている。他の人々も大抵が戦闘帽を取って直立不動の姿勢でいる。
「判りましたか。あれがお召し列車だと思うと泣くに泣けないじゃありませんか。ことにあの学生たち!」
古川は吐き出すようにいった。
「自分とその仲間たちが駆り出されて命を|隕《おと》したのは誰の命令だと思っているのか、それをまだ美しい、崇高な行為だと考えている限り、それは戦争中の指導者の思う壺だと、口惜しくってもなんでも、それははっきり犬死だったと考え直すこと。その犬死させた奴らとあらためて闘うこと。それしか戦後の方向はないっていうのに……」
どうやら彼もあの正義漢≠ニ同じ涙もろい性格らしい。まるまっこい指がしきりに瞼を拭うところはなんとなくおかしかったが、しばらく見ているうち直人は気の毒になって訊ねた。
「このころでしたっけね、天皇が人間宣言をしたのは」
「そうです、この一月です。ああ、考えただけでも胸くそが悪いや。それをまた五月には米よこせデモなんてことで宮城へ押しかけたりする、そんなことで天皇制の本質がビクともするものじゃないのに」
「でもあなたは……」
直人はちょっぴり意地悪にいった。
「もしかすると天皇を憎みながら、ひどく愛しているのかも知れませんね、三島由紀夫みたいに」
「三島由紀夫って誰です」
古川は血相を変えていった。
「誰が、誰が天皇なんて」
またもや眼がうるみ出すのに閉口して、直人は惟之に話しかけた。
「さっきからぼくたちは時間も空間も勝手に移動してるようだけど、これでやはり、例のあの原っぱから一歩も出られないでいるんでしょう。二十一年、二十二年と順番に世相を眺めてゆくとなると、こりゃあちょっと大変だな。といって、もう元にも戻れないだろうし」
「そうだ、私も閉口しているところだよ。これでいつか君が話したとおり、下山事件でもなんでも戦後の大事件だけを選んで見られるというならまだしもだが、いつでも十一月というのが|解《げ》せないね」
「しかし十一月だって大事件はあったんですよ。ケネディ大統領の暗殺もそうだし、三島由紀夫の自殺も十一月だし」
「それがいけないんだ、そんな表面だけの事件に眼を奪われるのが」
古川がまた説教口調で割りこんだ。
「ケネディだの三島だのって人は知りませんが、あの原っぱが戦後史の吹き溜りになったものなら、話題にもならなかったようなことの中にも歴史の真実はきらめく筈でしょう。いいじゃありませんか、じっくり構えたって。オヤ、またやっちゃった」
裕福な闇屋といった風体の、もじり外套に金ぶち眼鏡を光らせた一見紳士風とすれ違いざまに、古川の手には厚ぼったい革財布が残されていた。
周りの街の色彩はいよいよ原色調にどきつくなり、大統領選挙で予想をくつがえしてデューイが敗れ、トルーマンが勝ったという新聞をみると昭和二十三年の十一月らしい。相変らず陽ざしはきんいろで、土壌にさんざしの朱が美しく照り輝いている。
「これで」
古川は玄人らしく、器用に札束だけを引きぬき、財布を目立たぬように棄ててからいった。
「どっかでちょっと休んでゆきましょうよ。咽喉が乾いちまった」
その金を使うことに、不思議となんの抵抗もなかったのは、それこそ戦後の証しであろうか。
「まだちょっと明るいが、あそこに赤提灯の飲み屋があるな。ビールでもどうだね」
惟之が提案し、五人はぞろぞろとのれんをくぐった。中はしかしへんにがらんとしてもやしや春雨を妙めた代用中華そばぐらいしかできないという。
「そうか、忘れてたよ」
古川が心得て百円札を一枚握らせ、酒を頼むというと亭主の態度はたちまち変った。
「これァどうも旦那、さ、さ、奥へどうぞ」
調理場を通りぬけたその土間では、わんわんと人いきれのするほどの酒盛りが始まっていた。
「ビールはあるかい。それから、と」
古川はいけるくちらしく、学生らしくもない世慣れた調子で、
「酒をさ、その、封の切ってない奴があったら、ちょいとつけて欲しいんだが」
「へい、冨久娘ならございます」
「それでいいや。早いとこ頼ま」
亭主が行ってしまうと古川は水島たちに、この時代の酒はたっぷりと水で薄めるのがふつうなので、封のあけてないのを眼で確かめてからでなくては飲めたものじゃないんだと説明した。
うち続く奇異な経験のせいだろうか、ビールも酒も早く廻って、直人は一体こんなところで酔っぱらって大丈夫だろうかと案じながらも、眼はいつかとろんとしてくる。隣りの客は競馬場の道すじでカストリとフライを売っている爺さんらしく、しきりに自分の商売を廻らぬ舌で喋り立てていた。
「そりゃあね、いまは権利金たって顔をつなぎに行くこたァないのさ。初めに客徒てんで百円、あとは一日五十円を向うの若い衆が取りにくるって寸法だ。まあな、そういったって駅の近くは高くって高くって、とてもじゃねえが割り込めないやな。その代り足が近いや。豆にしても仕入れが百五十円から百七十円が四升から|捌《は》けら。ホレ、あの底高の枡で一杯が二十五円、帰りの客を叩くのが狙いさ。あんぱんなんかも出るには出るが、受けが八円で十円に出すんじゃ、二束売ったって四百円、知れたものだあな。フライはおめえ、そりゃその場で揚げて熱い奴を出さなきゃ足が遠いしよ、それで酒を釣るてえやつ。なあに店ったって空箱四つ並べるだけだが、デン助が早いとこ買い占めちまうでよ、箱ひとつ五十円するつうんで、おめえ……」
箱ひとつ五十円、五十円、五十円……。耳許でレコードが空廻りするように、酔客たちの声はいたずらに天井にこだました。ここで眠りこんじゃダメだと自分を叱りながらも直人は、オレが眠るんじゃない、戦後が眠るんだ、戦後よ、眠れ、などと呟き、いつか皆とともに汚染のついたテーブルにうつぶせてしまうと、古川はひとりで眼を光らせながら立ち上った。
U
その最初の震動が伝わったとき、藍沢惟之と称する人物は「やった!」と叫んで門のほうへ駆け出していったが、すぐに意気揚々と他の看護夫とともにもう一人の木原直人、哀れな分身を引立てるようにして連れ戻ってきた。
「てこずらせやがって、野郎」
「一緒にして縛っとけ」
「うまく罠にかかったな。ざまァみろ」
口汚い罵言の数々が何を意味するのか、何を間違えて彼らがこんなことをするのか、直人には何ひとつ判らなかったけれども、本当に分身などというものが出現してしまった以上、この世には理外の理というものもあって、その中で闇から闇に葬られてゆく確かな存在もあるのだと思い知らぬわけにはゆかなかった。シャム兄弟さながら、向かい合せにくくりつけられた二人は、頬を寄せ合うようにしながら初めのうち口もきかなかった。しかしそうやって暗い部屋に放りこまれていると、地表にいるときも気づかずにやはりこうして分身を抱いていたのだと、それが人間の本当の姿だと、いつか納得されるような気になっていた。
「馬鹿だなあ、お前」
ずいぶん経ってから直人は、一度だけそういいかけた。
「なんだって生まれて来ちまったんだい」
もう一人の直人は、頬にうす白い涙の痕を光らせながら、ついに何も答えなかった。
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闇の彼方へ
二号館の二階から三階にかけて階段添いに並べられていたサモア島土人の槍は、大学紛争の折りにいち早く片づけられてしまったけれども、仄暗い戸棚の奥にはジャワやエスキモーの仮面が変らず潜まっていたし、ミイラや長頭の頭蓋骨もうつろな眼窩のまま置かれている。廊下の壁には朝鮮の|長承《チャングング》や、ヤップ島の石貨が立てかけられ、発掘したまま未整理の土器や石器の収集箱も昔ながらのようすで積みあげられている。ここでも時間は、ひととき凝固し死滅したふりをしているらしかった。
ひそかに昼の|塒《ねぐら》と呼んでいる人類学研究室の、散らかり放題の一室に腰をおろしていると、木原直人には、この一年間の慌しい経験が、半分は確かに自分のものながら、あとの半分は誰か他人の記憶をそれと知らぬ間に植えつけられたようで、ひどく頼りない気がした。ある時点から自分が数人に分散して、勝手な時間空間をそれぞれ歩き出したような、それでいてそのどこにも少しずつ存在しているといった感じ――あるいはそのどこにも実は不在で、久しい留守をしてきた感じは、九月このかた離れたことはないが、それをいうと、研究室で机を並べる野口は、けげんそうに首をふった。そりゃ水島や深見は一月からこっち、ずっと顔を見せなくなったことは確かだが、君は間違いなくここへ来ていたさ、夏休みは別として、十月にも十一月にも留守をするわけはない、第一、時間の獄とか病院とかに閉じこめられたり、戦後史の原っぱとやらで奇妙な散歩をしたりする筈はないじゃないかといわれてみると、それもそうだと思うほかはない。直人は時おり鏡に向かって、頬を抑えたり眼の中を覗きこんだりして、これが本当の自分だろうかと疑うことが多くなっていた。もしかりに贋者だとしたら。知らぬ間に本物を裏切ってここへ戻ってきたというなら――。鏡の中の眼は深い怯えとともにこちらを見返した。
常識という無知の罪を宣せられて、いち早く瑠璃夫人のサロンから追放された野口は、それなりの現実家であって、確かな生き証人には違いないが、現実という強烈な光彩のスクリーンに添って歩き続けるこのての連中が、果してそのめくるめく光の洪水の中で他者を見失わずにいられるものかどうか。ましてそのスクリーンは、その気になりさえすればいつでもわけ入ることが出来、いわば真昼の表通りからひょいと薄暮めく裏通りへまぎれこむように、二十数年向うの戦後という街並みへひととき入りこんでしまうことも、あるいは可能な筈であった。眼を灼くほどの白色光に包まれた現実は、つねに時間の表通りにすぎないのだから。そこでは他者ばかりではない、自分すら時に見失われ、それに並行して段々に暗くなる裏通りが幾層にも続くとき、そこに一人ずつの自分が歩いているのはむしろ当然のことだろうから。ある空しい祈りだけがそれを可能にすることを直人は信じた。
ちょうど同じ角度から撮った震災直後の銀座通りと復興後のそれと、あるいは空襲後の瓦礫の街と現在と、さらにいえば明治初年ごろの赤煉瓦と瓦斯燈の街並みとがこともなく一つの空間に包含されているように、人間自体も体験した限りの失意も希望も一つに畳みこみ、いわば裏返しの空洞といった形で常時持ち歩いている以上、どんなはずみでそれがほどけ出して逆体験しないものでもない。この研究室におかれている埃だらけの遺物も、現在なおそれを用いている原住民や過去の文献とつき合せるとき、ふいに生き生きと経ることもあるのだから。
直人はさまざまに思い惑いながらも、なお惟之や古川たちと歩き廻った原っぱの戦後、脱け出られる筈もないクラインの壺から、こうして現在へ辿りついた自分をいぶかしんだ。それは決して鮮明な記憶に彩られたものではなく、生ぬるい、おぼろな記憶であり、いわばそこでの直人は単なる通過者であって、鮮烈に戦後を生きたという思いはどこにもなかった。その記憶も赤提灯の飲み屋でテーブルにうつぶせたあたりからいっそう混沌としてくるのだが、古川ひとりが眼を光らせて立上がったのを薄々気づいてはいた。そしてそのとき最初の古川は立ち去り、二番目の古川が代りに席へついたのであろう。というのは、直人が顔をあげたとき、他の三人はまだよく寝こんでいたが、古川はひとり手酌で盃を傾けながら考えに沈んでいたからである。
「あ、起きたの」というように眼で笑いかける古川に、直人は「いま何時」という代りにこう訊いた。
「いまはいつ?」
「え?」
「いや、さっきトルーマンがデューイを敗って勝ったとかいう新聞を見たでしょう。あれが昭和二十三年の十一月だったから、もう二十五年ぐらいにはなっているかと思って」
「ああ」
帽子屋ならぬ古川は、懐中時計を取り出して心配そうに眺める代りに片腕を突き出し、まるでそこに年単位で動く時計をはめているかのように眺めてからこう答えた。
「そんなには経ってませんよ。せいぜい一と月で、十二月になったってとこかな」
それから立ち上って促した。
「そろそろ行きますか」
「だってこの連中は?」
顔をテーブルにつけてぐっすり眠りこんでいる三人を直人は心配そうに見やったが、
「大丈夫」
古川は平気な顔でいった。
「こうして寝てる間に時間の砂嵐も収まるだろうし、存外簡単に元へ戻れるかも知れない。それよりあたしはね、昭和二十四年の九月までしかこちらにいなかったんで、ちょいとそれまでにしときたいことがあるんでさ」
亭主を呼んで勘定を済ませると、
「念のためこの旦那に、……」
といいながら惟之のポケットに何千円かの札束を押しこみ、このまま寝かせておいてくれといいおいて二人は外に出た。
古川がいうには、この十二月十日に初めて百万円の宝くじが発表されるので、先に当り番号の券を探し出して買ってしまおうというのであった。
「あんときはね。あたしたちの仲間は皆な五枚ずつ買ってきて、神棚に供えて、心魂こめて拝んだもんですよ。これがはずれたらあとァ押し込み強盗だけだなんてね」
それから軍資金を作るために池袋へ闇ドルを買いに行こうというのにおどろかされた。
「いまの相場は三百五十円、ましかし三百二十がいいところかな。入るのは二百六十円だけれど」
「そんなことまでやってたの」
「そりゃそうですよ。学資なんて誰も出しちゃあくれないもの。|煙草《モク》なんかもよく扱ったな」
古川の話によると、煙草の葉は|天葉《てんば》、|本葉《ほんば》、|中葉《ちゅうは》、|泥葉《どろは》または土葉、|雑葉《ざっぱ》の五種に分れて、本葉を最上とするのだという。天葉は一番上に出来る小さい葉だが、辛いだけでおいしくない。泥葉は一番下の土に近い部分で、色もくろずみ、配給煙草ののぞみ≠ヘもっぱらこれが用いられる。葉の値段は貫目で三千円、これに手数をかけて手巻きにすると大体四千本ほど出来、十本で二十五円が相場というものの買値は十七円にしかならない。交換所ではのぞみ≠フ二十五匁で靴下一足、七十匁で雪印チーズ一ポンドの割りだという。
「この七月の値上げ以来、いまは煙草だって全部闇でね、金鵄≠ェ三十五円、ピース≠竍光≠ェ五十円てえとこかな。公定価格より安いのもあるんだから世話はないや」
「闇ってのも、やれば結構楽しかったんだろうな」
直人はぼんやりいいながら、戦後の反動化を罵る古川が、傍らいっぱしのエコノミックアニマルのはしりになりかけているのをおもしろく眺めた。
「ぼくもこっちへ送りこまれるとき、ちゃんとこの当時の金を財布ごと貰ってきたんだけど、どうしてだかなくなっちゃってね。あれがあれば何かやりたいところだな」
「へ、へ、えへへ」
古川はそれを聞くと、恐縮したように笑い出した。
「たぶん、なんですよ、タイムジャンプですれ違うときに、あたしの手の中に残っちまったんですよ」
「あんたが?」
直人は呆気にとられてその顔を見守った。いかにもこんな時代だから、時間旅行者の中にスリがいても不思議はないだろうけれど、これでは油断も隙もならない。
「そのお詫びにね、少うしこちらで金儲けをおさせ申しあげようてんで」
だがその池袋へ来てみると、中華の一斉があって千二百名の制私服が出たということで、何台ものトラックに詰めこまれてきた警官たちが笛を鳴らして整列するところだった。
「こりゃァいけねえや」
「なんです、中華の一斉って」
「え、中華料理の闇だけを狙う一斉取締りでね。ドル買いのおやじも中華やってるから、今夜はこりゃヤバい。またにしましょう。さあて、と」
古川はどこへ行こうというように立ち止まって考えこんでいる。瑠璃夫人が四万六千日に行くため惟之と待合せたのも、年代は少し前にしろこの池袋だったなと、直人は懐かしい気持になってあたりを眺めた。時間の砂嵐も少しは収まったのか、街はおだやかに灯を点し、俄かにどこへ連れ去られるという気配もいまはない。それだけにこのまま昭和二十三年の十二月に、時間とともに固定しかけている自分を危ぶむ気持もあった。こんな時代に住みつくというのではありがたくないが、といってぜひとも昭和四十八年に帰りたい気持もなかった。
「そうだ、ノガミにでも行ってみますか」
古川は思い当ったように手を打った。
「ねえ、戦後に警視総監がオカマになぐられたって話、聞いたことがあるでしょう」
「そういえば、あったかな」
「それでね、けしからん閉鎖しちまえってんで、この十日から上野公園は夜間立入り禁止になるんですよ。どうです、一度お別れに行ってやろうじゃないですか」
「お別れって、男娼にですか」
直人は情けない声を出した。
「いや、男娼ばかりじゃない、パン助だって大ぜいいますさ。あなた、本場のパンパン諸嬢はまだ見たことがないでしょう。いけませんよ、彼女らこそ戦後の英雄ですからね。さあ行きましょう、行きましょう」
上野駅の公園出口には、仙台や平へ行く人々の長い行列が出来、それを囲んで十円均一の月遅れ雑誌屋やアイスキャンデー売りがひしめいている。西郷の銅像下にも清水堂の下にもパンパンは溢れ、石段の上から見おろすノガミの眺めは、仲町から広小路、聚楽、永藤、赤札堂、それに裏通りは市松、いせかん、おらが春などにかけての灯が美しい。
袴越しの暗い樹の下に二、三人、ぞろりとした着流しに申訳ばかりの白粉を塗った、これが下駄をふるって警視総監になぐりかかったそのつれ[#「つれ」に傍点]であろう。古川は気さくに声をかけた。
「よう、これからどうするんだい」
「どうにかするわよ。あしたいちんち休んでゆっくり考えるわ」
「転業か。残念だな」
「あんた、ナアニ。新聞記者?」
年かさらしい一人が進み出てくると、貫禄のついた錆び声で、
「さっきも五枚くれて、いろいろ聞いていったのがいたわ」
「なに、お名残り惜しいからさ」
「そんならつきあいなさいよう」
若いのが嬌声をあげた。
「二枚ぐらいに負けとくわよーッ」
直人は辟易して匆々に離れたが、この当時のここは必ずしもこうした商売人ばかりがいたのでもないらしい。古川を待って佇んでいるのへ、妙につるっとした顔の小綺麗な男がチラチラ視線を送ってくる。それへ、闇の向うからいらいら声が飛んだ。
「ともちゃん、もう帰ろうよ。電車なくなっちゃうわよ」
「ちょいと待ってよ、も少し発展してきたいのよ。あんまりしけてるんですもん」
「帰るわよ、あたし」
「あらいやだわ」
小綺麗なのは、未練ありげに直人へ聞かせる声になって、
「だって三鷹までひとりじゃさびしいんですもん。いいのめっけて引張ってきたいのよ」
――前に三十七歳の不仕合せ≠フ話を聞いた時から想像していた百鬼夜行の現実がそこにあった。自分一人では到底パンパンをつかまえて交渉はおろか、他愛のない無駄話すら出来そうもないが、いずれ話すことといってはこれらの男娼やゲイボーイと大同小異であろう。そしてこれも落ちこぼれ忘れ去られた戦後の実体の一つなのだろうか。かりにそれらの娼婦・娼夫の一人をしんそこ愛してしまった男がいるとするなら。そのときは彼女らもまたふいにすべての襤褸を払い落し、俄かに聖性をあらわにするかも知れない。いずれにしろこの時代から二十五年をすぎて、自分はまだ誰をも心から愛したことはないのだから。
直人はうなだれ、もし自分をすら選んでくれるなら、その三鷹≠ニやらまでお伴をしてもいいくらいに考えた。たぶん若造りにはしていても、明るい灯の下で見たならばおびただしい小皺に飾られた中年男の素顔が剥き出しになるにしても――。
闇の中から、古川の妙に緊張した顔があらわれた。それも道理で、古川は二人になっていた。
「すみません、こいつとここで会うことに決っていたもんで」
古川はうしろの古川を顧みた。
「こいつは前のあたしなんでして、やっぱりこの上野公園が閉鎖になる前の晩に一度会っているんですよ。会わなきゃよかったんだけど……」
どこか言葉を濁しながら、
「それでまあ、あたしの方は、あしたっから売り出される百万円くじの当選番号を覚えてるんで、二人してそれを探しましてね、兄弟会社を一度こさえたけれどみごとにそれは失敗でした。首をくくる代りにタイムジャンプをやったってえわけで、今度こそ大丈夫でさ。どうですか、木原さん。ひとつ仲間に入って一緒にやりませんか。未来のことをいろいろ御存知なんだし、三人一緒ならこいつァ成功すると思いますがね。いつまでもコレもやってられないし」
古川は右の人さし指で鍵を作った。
「いや、しかし……」
直人は静かに遮った。
「初めにいわれたようにこの戦後は、いわばあの小さな原っぱの上にだけ出来ているような狭い世界なんでしょう。むろんそれをそれなりに案内していただけたのはありがたいけれど、これから二十五年をここでやり直す気はもてないんです。あんまり嬉しい時代でもないけれど昭和四十八年に帰って、自分なりの一番めの人生を生きてゆくか、あるいは、もしやり直すというならあの時間の獄へやってきたぼくの分身ですね、そいつを探し出すところから始めたいと思うんですよ。どうもぼくにはそいつが、このぼくの代りにどこかへ閉じこめられているような気がしてならないから」
そしてそれが直人の記憶の最後であった。こともなく阿佐谷の自宅や大学の研究室、すなわち昭和四十八年の現実へ帰りつく前に、感じたとおり分身に出会った気もする。いや帰りついたというそのこと自体に、囚われた分身を身代りの犠牲にするという取引きがあった確かな証しのような気もするのだが、それらはすべて時間の闇の彼方へ沈み、残されているのは何者かを裏切ってこうして生きているに違いないという、うしろめたさばかりであった。もとより直人は、その後二度と瑠璃夫人や柚香の名を口にしたこともなく、いつかしらそれは、あり得ない非実在の人びとのようにすら考えられてくるほどだった。
直人は日常を|購《あがな》ったのである。
∴
そのとし、十二月も押し詰って、藍沢家の母娘はひとしきり寂しい正月の準備に追われた。賀状は例年のとおり十人にだけ書き送られ、彼らと親しい二人の青年の失踪はもう予定されていた。
「本当に誰か一人ぐらいはいないものかしら」
その夜、珍しく座敷に床を並べてから、仰向けに眼を見ひらいて柚香がいった。
「いきなり古い戦後の中に放り出されても、裏切らずにここへ帰りつく人といったら」
「無理かも知れないわね、どうしたって」
瑠璃夫人もさすがに疲れた声だった。毎年毎年、いったいもう何回同じことをくり返し、何人をどぶ泥めいた戦争直後の時代へ送りこんだことであろう。だが、いまだに誰ひとりその戦後の核を、いわば輝く真珠を手に戻ってきたものはいない。それさえ手に入れてくれれば、正真の時間の獄もたちまち崩壊するだろうに。――
黙りこんだ母娘の耳に、長い貨物列車の通りすぎる音ばかりが響いた。それは夜更けの黒い葬列のようだった。
「あれに乗っている人は寂しいでしょうね」
柚香が呟く。くろぐろとした貨物の影は、いま二人の瞼の裏にも、部屋の壁のうえにも動いてゆくように思えた。一番うしろの箱に乗っている疲れた車掌。鉄路と電線にだけ僅かにきらめく青い光。
ワラ・ワラ・ワラ・ワム。それからトキ・トキ・トキ。もう一度ワラ・ワラ・ワラ・ワム・ワム・ワム。そしてワフ、でなければヨ。車掌車の赤い尾灯が彼方に呑まれてしまうと、闇はまた巨大ないきもののように息をひそめるに違いない。
「あなた寝たの?」
その小さな声には、もう誰も答える者はいなかった。
[#地付き]〈悪夢の骨牌・完〉
[#改ページ]
人外境通信
[#改ページ]
目 次
juillet 薔薇の縛め
aout 被衣
septembre 呼び名
octobre 笑う椅子
novemre 鏡に棲む男
decembre 扉の彼方には
intermede 藍いろの夜
janvier 青猫の惑わし
feurier 夜への誘い
mars 美味迫真
avril 悪夢者
mai 薔人
juin 薔薇の戒め
[#改ページ]
薔薇の縛め
人外(にんがい)。
それは私である。
ことごとしくいい立てることでもない、殊更に異端の徒めかすつもりもない、ただ、いまは用いられることも少なくなったこの言葉に、私はなお深い愛着を持つ。人非人というニュアンスともまた異なる、あるいは青春の一時期に誰しもが抱くあの疎外感、いわれもなく仲間外れにされたような寂しさなどではもとよりない、ついにこの地上にふさわしくない一個の生物とでも定義すれば、やや近いかも知れない。どこかしら人間になりきれないでいる、何か根本に欠けたところのある、おかしな奴。そう呟きながらも、なお長く地球の片隅の小さな席にへばりついている哀れな微生物。
だが、そうした私の感懐とは別に、この地上にはさらに深く、さらに根強く別種の一群が存在すること、そしてかれらはまたいつか寄り集うて影の王国を、すなわち人外境を形づくっていることも確かな事実らしい。その扉は容易に開かれず、あるいはかりにあけひろげの扉から入りこんで、かれらの宴に紛れこんだとしても、人は気づかぬまま過ぎることが多い筈である。これから私が招待しようとするのは、その秘められた宴であり、それを取巻く囁きの森であり、血紅と漆黒のみが支配する城館の広間に他ならず、そしてそれを思い立たせその機縁となったのは、昨年六月から七月にかけてのヨーロッパ旅行であった。
旅行は主にフランスの優雅を極めた薔薇園を見て廻ることを目的としたが、その途次たまたま手に入れた『薔薇綺譚集』の中の一編が、それを私に唆かした。譚の舞台は中世の荘園というところらしいが、そこに語られている若い領主の奇矯な振舞が、私には時代を隔てた懐かしい友のように映ったのである。もとよりその時代には独特な発想法も生活形態もあって、一概に人外などといえもしないだろうし、中世の薔薇の歴史はまた意外なほどに伝わっていない。従ってここに記すのは私なりの勝手な飜案であり空想でもあって、中世という暗く輝かしい時代の雰囲気も果して伝え得るものか甚だ覚束ない。さらに怖れるのはこの話がすでに一部の好事家の間ではとうに知れ渡っているのではないかという点だが、ともあれ遠い異国の人でなしの宴に、いまは一夜を過していただければ幸いである。
∴
世に隠れなきロザリアン大公妃の甥エグジール侯が領主の地位についてから、農民の評判は上々であった。地租は軽減する、作物の改良には援助を惜しまぬ、学芸を奨励して才能ある者は必ず引立てるというふうで、苛斂誅求に慣らされてきた領民にとっては、夢かと疑うばかりな善政が次から次と行われた。
北寄りの、地味には稍ゝ乏しい土地柄でありながら、布令が行届いて肥料と種苗との徹底した改良が進むと、両三年の裡には驚くべき増収が現実のものとなった。獣疫の予防に配慮が尽されたのを見ても進取の気性は信じられぬ程で、天然の要害に囲まれて侵略の虞もなく、貴族、僧侶、騎士、市民という身分制度はなお揺がなかったが、分を超えた権力をふるう者はいず、侯の威令は領土に|遍《あまね》く行渡った――|恰《あたか》もその頃から、とある黒い噂が忍びやかに囁かれ出したのである。
ひとつには侯もその奥方のミレーヌも、人前に出ることを極度に嫌ったことから流れ出た噂であろう。二人ともまだ若く、類稀れな美貌を喧伝されており、ミレーヌはまだしも折々はヴェールを掲げて優しい笑顔を惜しまなかったが、侯となると心を許した側近の他は近づけず、声は垂幕の向うに苦い憂愁を籠めて響くばかりであった。
宴会や舞踏会には絹のタイツの伸びやかな姿態を見せても、顔は必ずドミ・マスクに隠され、人びとはその秀でた鼻と美しい亜麻いろの頬髯の他に望み見るすべはなかった。従って噂好きな何人かは、ひそかにこう囁き交したのである。
[#ここから1字下げ]
――もしかして侯の顔には、醜い火傷の引攣れでもあるのではないか。否、もっと忌わしい皮膚病の徴候でも顕われているのではあるまいか、と。
[#ここで字下げ終わり]
この噂は、さらにもう一つの噂と重なって口から口に伝わった。北国の習いで薔薇の季は遅いが、その盛りの一日、侯を中心にごく内輪の宴が開かれる。だがその折の馳走は、すぐりのソースで味つけした鹿の肉でも、キャベツのブイヨン煮でも、さらには香りの渓谷を秘めた葡萄酒でもない、その宴席を取り巻く十二人の男女の裸形であり、かれらはことごとく薔薇の贄であった。すなわち強靭な蔓薔薇のひとつひとつが、選びぬかれた美少女と青年の裸身を犇々と縛めているので、容赦なく肌を刺す鋭い棘、|鮮《あざ》らかな血のしたたり、さらにはかれらの苦痛とも恍惚ともつかぬ表情を楽しみながら宴は続けられて薄暮から深更に及ぶという。
春の初め、新しい緑の茎の、さながら蜜蝋を滴らせたかのような柔らかい棘ならば、薔薇の縛めもむしろ甘美な情景かも知れない。しかし年を経た蔓薔薇の、魔女や鮫の牙、さては凍る波ほどに鋭い、したたかな尖りは、容赦もなく若者たちの滑らかな肌に喰い入り、それを裂くことだろう。みじろぐたびに新しい棘は新しい傷を生み、鮮血はとどまることがない。蜂や虻も群がっていよいよ増すに違いない苦痛を、かれらはどうやって堪え通すことが出来るのか、それについてもしめやかな噂が交されていた。すなわち毎年のこの薔薇の贄たちは、使者が回って早くから各地で候補者を選び、厳しい訓練をあらかじめ受けたのち侯の城館へ召出されるのだという。そこでさらに苦痛を快楽に亢めるまでの仕上げが施されてようやく薔薇と一体になることが出来るのだとまことしやかに伝えられたが、その措置はもとより極秘裡に行われることとて、どこに確証のある話ではなかった。
こうした黒い噂は、しかし|予《かね》ての善政のお蔭で、エグジール侯の徳望を損なうまでには到らなかった。そればかりか、館に引籠り勝ちな侯の、それが唯一の慰めというなら、人を殺すという訳ではなし、咎め立てすべきことでもないという意見さえあって、噂は下火になると見えながらまたふいに隠微な眼配せめいて交される程度に過ぎていたが、ここに一人の男、その名をセレストという牧童頭だけは、それがまぎれもない事実なことを知っていた。思いもかけずその春、彼は贄の一人を預けられ、苛酷な訓練を施すようひそかに命じられていたからである。
……………………………………………
「それは儂とてどれほど驚いたか知れぬ。あの慈悲深い領主様がそのように非道な真似をなさろう筈がない。これはおそらく悪い側近の企みであろうとは疑ってもみたが、どうやら領主様じきじきの命令に違いはなさそうじゃ。それに、|孰方《いずれ》にしろこの秘密を守り通していわれた通りしないでは、儂の一族ばかりではない、この村の者たちに図り知れぬ災厄が舞いこむほど怠りなく用意が整えられている気配だてな、どうかひとつ、是非にも引受けて貰いたいのだ」
村の長老ルテランは、そういって白髯をふるわせた。
「幸いお前は牧場の外れの独り暮しで、気性も激しいかと思えば分別もあり、読み書きの出来るということが得難い取柄じゃ。というのは一週間ごとに領主様へ宛てて、訓練の有様と成果とを報告するというのが大事な勤めになっておるからでな、それを三回繰返して一人前に仕上げさえすれば、お前には莫大な褒美が約束されておるし、とりわけ調教に秀でた者は館へ召抱えられもするらしい。どうじゃ、引受けてくれるだろうな」
「判りました」
セレストは鋭い眼をあげてルテランを見返し、頬に不敵な微笑さえ浮かべて肯いた。
「しごきにかけちゃひけはとりませんや。しかしこの、皮膚に深い傷をつけてはならぬ、誇りを喪わせてはならぬてのが厄介でさあね。こいつが何のことだか……」
領主の使者が|齎《もたら》した命令書には、訓練の次第が事細かに定めてあったが、特に守るべきこととして冒頭にあげてある二つの戒めのうち、皮膚の傷は判るとして、誇り云々というのは、終の日の薔薇の宴に縛められ裸身を晒しながらなお昂然と頭を挙げて反抗の姿勢を示すほどでなくては、それだけ楽しみも薄いという意味であろうか。
「まあいいや。それで肝心な玉のほうは女ですかい、それとも……」
「それが男なのだ」
失望を揶揄するような口調でルテランは続けた。
「しかし女のほうがずっと厄介じゃよ。うら若い美女を裸にして傍に置きながら、決して犯してはならぬ、もし万一そのようなことがあったら火焙りは確実と思えという厳しいお達しだからな。男はその使者が離れた村から見つけて連れてこられた。ホレ、そこに……」
ルテランは立って一隅の帷を掲げ、手にした灯りを奥に差し伸べた。
不安に駆られた表情の若者が、粗衣を纏って腰かけていたが、それでも清冽な泉を思わせる涼しい眼で二人をふり仰いだ。
「名前はジュペールだ。銀十枚でいい働き口があると欺されて来たものらしい。ジュペール、こっちへ出てこい。その衣を取れ」
いわれるまま進み出て粗衣を落すと、光沢のいい白い裸身が露わになった。均整のとれた姿体は僅かな腰布に蔽われ、眼はいっそう哀しみと怯えの色を深くした。脚はぬかりなく鎖で繋がれ、手も固く縛められている。
「先刻から儂が諄々といいきかせたから、もう反抗はすまい。ジュペール、これが今夜からお前の御主人になるセレスト様だ。なんでもいいつけ通りに従うのだぞ」
セレストはふしぎな感懐に襲われてこの若い薔薇の虜囚を見つめていた。体つきはひどく優雅でいまだ稚ささえ窺われるが、おそらく齢は自分といくらも違わないだろう。毛深く逞しいセレストから見ると、頬も滑らかで生毛が|戦《そよ》ぐほどのこの若者は、まるで別種の生き物としか思えない。こんな華奢な男に命令書にあるような訓練が堪えられるかどうか、挙句、厳しい薔薇の棘に巻かれて一日を立尽すまでになるだろうかという疑問より先に、領主の奇異な好みが、ほんの僅かばかり理解出来るような気がしたからであった。
それはセレストにとって、いきなり深い陥し穴へ墜ちこんだような衝撃だった。しかもそこは暗い、湿った地底ではなく、意外にも緑豊かな、広々とした世界のように思われ、彼は自分でそれを訝しんだ。美しい男女を、縛めに堪え得るほどに鍛えること、それもおどおどといじけた獣のようにではなく、なお毅然として誇りを喪わぬ人間のままという証文の意味も、いまようやく理解のつくような気がする。セレストはなおも鋭い眼で裸の若者を見守っていたが、ルテランが足の鎖を外すのを待ちかねたように、
「来い」
と、低い声で命じた。
……………………………………………
こちらで命じたことの返事以外は、決して自分から喋らせてはならぬ、食物は麺麭と乳と少しの果物の他与えてはならぬ、渇きと飢えに慣らすため、菓子や水を誘惑に堪えがたくなるほど手近かにおき、かりそめにもそれを盗むことがあったら容赦なく罰を加えること、主人への無言の奉仕、絶対の服従を躯に沁みて覚えさせるため、水浴と香油塗り、わけて足指の間を丹念に、必ず手ずから行わせること等々が最初の日課であった。ルテランの計らいで牧場の仕事には休暇が与えられ、セレストは人眼につかぬよう、この奴隷ならぬ奴隷の調教に取りかかった。
第一遇は柳の鞭がきまりである。それは翌朝早くから遠慮もなく飛んだ。これまでの生活からセレストにとっては暗い裡に起きるのは何でもないが、ジュペールにはそれが思いも寄らぬ苦痛らしい。夜は寝台の脚に鎖で繋がれ、|裘《かわごろも》を一枚だけ与えられて眠ることが定められていたが、セレストが眼を覚まして暫く様子を窺っていても、若者は一向に起きる気配もない。安らかな寝息と、無防備な、そしてむしろ倖せそうな寝顔を眺めているうち、セレストは次第に腹が立ってきた。意外に厄介な荷物だと気づいたからであった。
牧童を仕込むならいっそ簡単だが、これはいわば大切な預り物で、半殺しの目に会わせる訳にもいかない。いまはまだ幾分|孱弱《ひよわ》なこの若者を、あくまで美しいままに鍛え上げねばならぬことに思い到ると、セレストは奇妙な混乱に襲われた。これまで考えたこともない美というもの、それも男の、となると、どうにも手に負えない気がする。昨夜は何かしら肯けるように錯覚し、領主の望みどおりというより、それ以上に仕立ててやろうと気負ったのが嘘のようで、思いあぐねたセレストは俄かに床を蹴って跳ね起きた。さすがに気配に気づいて眼覚めたジュペールへ仁王立ちになり、すばやく手にした柳の鞭をしたたかにくれてやると、ようやく胸の|閊《つか》えはおりたが、もうこの時から彼は大事な調教に|躓《つまず》きを見せていたのだった。
朝寝坊という欠点を除いては、ジュペールは頗るまめに仕えた。食事の仕度、ことにも命令書で事細かく指示している水浴と香油塗りとは申分なかった。セレストは初めのうち擽ったがったが、じきにこの僕の繊細な指が、触れられたこともない躯の各部を入念に弄う日毎の奉仕に慣れ、むず痒い興奮と期待を抱くまでになった。ジュペールの食事は物静かで気品さえあった。盗みは彼にとって思いもよらぬことらしく、水や菓子の誘惑にのりそうもない。まったく口を利こうとせず、初めに変らず澄んで哀しげな瞳を見つめていると、セレストはこの亜麻いろの髪の若者の持つ優雅さに焦れ、ついに五晩め、おとなしく寝台の脚に繋がれて眠ろうとするのを足先でゆすり起こした。
「おい、お前はこれからここでどんな目に会うのか、知ってるのか」
ジュペールは黙って肯いた。
「いいか、鞭だってこんなものではなくなるんだぞ。恐くないのか」
やはりおとなしく肯く。のみならずその頬に微かな微笑を浮かべさえした。セレストはいっそう焦立っていった。
「そのあげく領主様のところで薔薇の樹にさせられるんだ。素っ裸で、棘という棘が躯に喰いこんで、幾日でもそのまんま放っておかれるんだぞ」
瞳の中でわずかに動くものがあり、それからやっとこう答えた。
「かまいません。私は薔薇の樹になりたいのです」
「貴様」
不意にセレストを襲った怒りが何によるものか、自分では判らなかった。矢庭に寝台を飛降りて若者の上に馬乗りになると、散々に打擲し、首を絞め、それでも倦きたらず唾を吐きかけさえしたが、ジュペールはいっさい逆らわなかった。のみならず、翌朝も変らず朝寝坊した。セレストはむしろ呆然とその寝顔を見つめ、すじの透った高い鼻が、ゆうべはしたたかに鼻血を出したのを思い出して愕然とした。彼はようやく、この手に負えない優雅さが、逆に自分の主人になりかけているのに気づいたのである。
ジュペールの眼を覚まさぬよう、静かに寝台を降りると、セレストはその足許に蹲んだ。裘から白い脚が伸びている。セレストはその足指に手をかけてそっと開いた。微かに桃色を帯びたその指の間には、ひとすじ、黒い垢が溜っている。しかしそれはセレストの眼に、この上もなく美しいものに映った。
――命令書にあったのは、このことだったのか。
彼はそんなことを考え、なおも朝の光の中で若者の寝顔と足指とを交互に、いつまでも見つめていた。それから少しずつ、ゆっくり、その指の合間に顔を近づけていった。
……………………………………………
一週間はたちまち過ぎた。報告書にはいかに自分が冷静苛酷にジュペールを鞭打ち、少しでもお役に立つよう鍛え上げたか事細かに記し、悲鳴を上げてのたうつ若者の描写まで書き添えると、彼は独り北叟笑んだ。領主様もこの俺と同じ心情に違いないと推察したからだった。ルテランが迎えに来、ジュペールを連れて去った。三日の後、新たな指示書とともに若者は戻され、第二週の訓練が始まる予定であった。
――そう、今度来たならば、
セレストはその三日の空白にひどく焦々し、しきりに次の計画を考えた。
――もっと思いきり非道いことをしてやろう。ふん、そうだ、女と違って男なら犯したことにはならないだろうからな。
だが、新たな命令書は意外なものだった。あの報告書どおりならお前はもう訓練を続ける必要はない、至急使者とともに領主の城館まで出頭せよというのである。まさか嘘がばれたとも思われない、たぶん褒美にありつけるのだろう、それともお城で調教頭に取立てられるのかと、さまざまに思い惑ったが、使者はいかめしい顔で物も言わぬので、旅は辛いものになった。
城館に着いてすぐ、エグジール侯のお召しがあった。せめて手足を浄め衣服を更めてと願い出たが許されない。間道を通って、人形としか思われない番兵の佇つ広間を過ぎ、これから先は一人で行けと突っ放された。どんな仕掛があるのか、扉はその前に佇つと自ら開き、セレストはついに侯の寝室へ導かれた。かねて話に聞いていたとおり、ドミ・マスクに顔を隠し、亜麻いろの髪も頬髯もいかめしいその人は、しかし愛想よく手を差伸べた。
「よく来たな、セレスト」
その声を聞いたときから、セレストの脚はいたく顫えて立つのもやっとだった。
「今夜はここに泊ってゆくがいい」
そういいながら侯はドミ・マスクを手早く外した。頬髯を|※[#「手偏+劣」、第3水準1-84-77]《むし》り取った。澄んだ哀しげな瞳がそのときだけ悪戯っぽく笑って、ジュペールはこういった。
「ただし、明日の朝はゆっくり朝寝坊させてくれるだろうね」
[#改ページ]
被衣
……それが病んだ薔薇の樹の所為か、茸の惑わしか、それとも森の|魑魅《すだま》の誘いだったのか、ついに誰も知らない。ともあれ、それまでは、クレモンの奥方ほど信心深くまた慈悲深い方は、当節稀れであろうというのが|専《もっぱ》らの噂であった。
朝一番の御堂の鐘が森の樹々の|雫《しずく》を払い、遠い|野末《のずえ》にまで沁み渡って鳴り響く頃、いつもの|被衣《かつぎ》――フードのついたギャルド・コール、それもダルマチカ風の重い衣裳に身を包み、念入りにウィンプルと深い|面紗《ヴェール》に顔を隠した奥方は、供も連れず、木靴をしとどに濡らしながら|彌撒《ミサ》に急いでいる。篠つく雨、凍てつく霜の朝にもその姿は変ることがない。有難い説教を聴き、聖体を戴いてのち、修道僧の捧げて廻る鉢には、誰よりも大きな銀貨が慎しい音を立てて沈んだ。その帰るさ、独り暮しの老人や、病んだ寡婦の家には、声こそかけないが|生計《たつき》に困らぬ程の小銭が秘かに戸口に置かれる。富裕な商人であるクレモンは、好色で酒好きの救われぬ魂を持っていただけ、奥方の|面紗《ヴェール》の裡には、さぞや哀しみにみちた蒼白な貌があろうと噂された。
|扨《さ》て、そうして行ない澄まして日を送るうち、季節は北国の夏となって、とある美しく晴れた朝、御堂を出た奥方は、あまりな空気の香ぐわしさに、つい森の中へ誘われたのが仇になった。日頃は踏み入れたこともない奥の小径を気ままに歩くうち、遅咲きの薔薇が一株、恰度奥方の背丈ほどの高さで立っているのを見出したが、それは悉く虫喰いの、病んだ薔薇だったからである。葉といえば黄ばんで小さく縮れているか、何やら白く粉を噴いている様子。でなければ|疫病《えやみ》の紋章のように黒い斑点をちりばめ、枝は伸びかけて素枯れたまま、どうにか緑を残している蔓には、おぞましいほどに細かい虫が群れて取りつき、折角の新芽も蕾も|恣《ほしいまま》に喰い荒していた。それでも健気なその薔薇は、なお懸命に立って僅かな花を咲かしていたが、当然なことにそれは、畸型とよりいいようのない、いじけた、みすぼらしい紅を残すばかりであった。
その哀れな株立ちに眼を留めるより早く奥方を襲った感懐は、激しい嵐にも似たもので、四肢は顫え、唇はわななく他なかった。たちまち奥方は、
「あゝ」
と呻いて顔を蔽われたが、その白い繊細な指の合間からは、とめどもない涙と呟きとが洩れ続けた。
「あゝ、可哀相なお前。お前はたまたま薔薇の樹として生まれたばかりに、そんな姿となってもまだ薔薇の花を咲かそうと、|果敢《あえ》ない努力を続けておいでなのだね。その誇りの、なんという空しさだろう。しかるべき家の庭に生まれ育ったならば、充分に手当も受け、扶けられもして、巨きな花弁と強い香りとを垣根にも壁にも輝かしく開こうものを、こんな薄暗い森蔭に、|看護《みと》る者もいない老婆のようにうらぶれ、枯枝を杖のように|支《か》ててなお生きてゆかねばならぬとは。それでいてまだ誇りを失わず、薔薇の樹であり続けようとする痛ましさ、もういい、もうおやめ。そんな畸型な花を咲かすより、いまのお前にふさわしい邪悪な姿に変身しておしまい。人間とても同じこと、このような姿に堕ちたならば、いさぎよく誇りを棄てて|塵泥《ちりひじ》に|塗《まみ》れる生きざまを選ぶほうがどれだけましなことか。これまで御主イエズス・キリスト様に縋って、魂の苦患だけは救われたいと後生を願ってきた私だけれど、そして、せめてもと貧しい人びとに施しを怠らなかったけれど、思えば大それた望みを抱いたものだ。この一本の薔薇の樹さえ私の手にあまるというのに」
熱い涙に|噎《む》せ返って、ほとんど|転《まろ》ぶように元の径を辿ろうとする奥方の耳に、そのとき嗄れて深い声が囁かれた。
「そういったものでもございますまいよ、クレモンの奥方様」
「あゝ」
その囁きの主を眼にするなり、再び奥方が悲鳴に似た声をあげたというのは、それが|予《かね》てこの森の奥に栖む老婆と知ったからである。齢の頃も知れず、およそ顔立ちの似ても似つかぬ美しい娘と暮しているのは、おそらくどこからか|拐《かどわか》したに違いない、いや、老婆自身がおそるべき魔法使いなのだと取沙汰されていたが、いまこのとき、もっとも奥方が怖れたのは、薔薇の樹がそのまま老婆になり変ったかと一瞬、錯覚したせいであった。
その心を読み取ったように、水色の瞳をひたと据えながら老婆はいった。
「貴女様は確かに薔薇の樹に呪いをおかけになりました。邪悪な姿に変身してしまえと仰言ったからには、この婆があの醜い薔薇の化身だと思われても不思議はございません。ですが、町方の衆には魔法の妖術のと思われることでも、この森の中ではごく自然な営みである道理もお判りでございましよう。この森は生きております、恰度奥方様の家で煖炉の炎が生きておりますように」
そのいい方にはどこか真摯で、また親切な響きがあったので、奥方は稍ゝ安堵の息をついた。何より胸に懸けた十字架に手を触れている以上、どんな妖しい者でも仇することは出来ないと知っていたし、日頃の優しい心根から、異教の徒や無信心者ほど救いがあることを信じて疑わなかった。
老婆は言葉を継いだ。
「さあ、どうか御安心なさいまし。町方ではどういわれようと、この婆は森の掟以外のことはしようとも思わず、出来も致しません。森の中で道に迷われた方を無事に送り返すのが第一の勤めでございます。ですが、クレモンの奥方様、貴女様はあまりに疲れていらっしゃる。まずはこの婆の栖家へお寄りになって、少しだけお休み下さいまし。むさくるしくとも、暖いスウプも出来ておりますし、それに、ホレ、もうすぐそこでございます」
本当に、いわれてみれば俄かに疲れが体に重かった。咽喉も渇いて、この先不案内な森の中を一人で潜りぬける自信もない。
「でも、どうしてお前は、私がクレモンの家内だと知っているのかえ」
老婆の家へ連れ立ちながら、奥方はそう訊いたが、相手はこともない様子で答えた。
「何もかも森が教えてくれるのでございますよ、奥方様。梢のそよぎ、風の囁きがすべてをあらかじめ語ってくれます。お顔を見るまでもなく信心深い、お心の優しい方で、お子様は二人。上の坊ちゃまは気象の激しいところからいまは海の上へ出ていらっしゃる。下のお嬢様は、それはもう臈たけた、奥方様そっくりの美しい方だと、そこまで判っておりますからには、きょう、ふとした気の迷いで森の中へお出でになることも、薔薇の樹の痛ましさに涙されることまでも、すべてこの婆には見透しでございます。なんの、魔法なぞでありますものか。この森に翔び交う鳥の囀りさえ一日として同じことはございませんからには。さあ、もう着きました。汚くはしておりますが、ずっと中へお通り下さいまし」
奥方は物珍しそうに古びた小屋の内外を見廻していたが、それでもまだ胸の十字架から手を離そうとはしなかった。
「お前にも美しい娘さんがいると聞いたが、会いたいものだこと」
「ハイ、ただいますぐ参りまして御挨拶申し上げます。ですが、まあこちらへお掛け遊ばして、ゆっくりおくつろぎにならなければ。婆はちょっと召上り物を整えて参ります」
甲斐々々しく立働いて用意されたのは、洗い鉢に湛えられた美味しそうなスウプで、その柔らかな湯気は快く奥方の鼻を|擽《くすぐ》った。
「さあ、冷めませんうちに一口お召上りを。森でとれますものばかりで、お口に合えばよろしゅうございますけれども。娘は奥で支度をしております。一向に作法を知らぬ無調法者で、まともな御挨拶も出来ますかどうか」
奥方はようやく気を許して鉢を受取り、大きな木の匙で一口スウプを掬った。どんな香料で味つけしたものか、これまで嗅いだこともない香りが掠め、そっと舌の上に流しこんでみると、たちまち疲れも|医《いや》されるほどの味わいが拡がった。
「まあ、お美味い」
確かにそれは咽喉の渇きばかりではない、先程までの心の患いも、森の奥に一人でいる心細さもすっかり消えて、それはさながら天上に遊ぶといった甘美な気持にさせられるほどの飲物であった。
「お味がお気に召して戴いて、ようございました」
老婆は少し離れたところに立って、注意深く奥方の口許を見守っていたが、もうあらかたが、むしろ|忙《せわ》しないほどの動きで運ばれてしまったと見てとると、いっそう優しい表情になっていった。
「この森の奥でだけ取れる、変った茸のスウプなんですよ、奥様。どうかしら、体がもうすっかり楽におなりではなくって」
その突然に変った喋り方にも気づかぬらしく、奥方はなおも残り惜しそうに深鉢の底を掬いながら問い返した。
「娘さんはどうおしだろう。何も着替えることもあるまいに」
「まあ、まだお気づきにならないの」
不意に華やいだ笑い声が耳を打った。奥方の眼の前には、皺ばんだ老婆の代りに、輝くばかりの頬をした若い娘が、明るい色の衣裳で立っていた。
「さっきからここにこうしておりましてよ。クレモンの奥様、ようこそいらっしゃいました。スウプを気に入っていただいて、嬉しいわ。だって、幻茸を採るのに七日、煮て仕上げるのに七夜もかかりましたの」
鉢と匙を受取ろうとする腕が奥方の眼の前にあった。桃いろの皮膚に生毛が光り、これは紛れもない若い娘に違いない。
「何を驚いていらっしゃるの。あゝ、さっきの妖しいお婆さんがどこへ行ったかと吃驚していらっしゃるのね。どこにも行きはしませんわ。といってあたしに変ったってわけでもない、何もかもが入れ替っただけ。御覧なさい、この小屋だって」
いかにも、差し示されて初めて気づいたが、先刻の煤けた丸太小屋は跡かたもなく、内部は金殿玉楼というほどに輝き、それもことごとくが虹の光彩を帯びて燦いているのだった。
「そして一番お変りになったのは、奥様、貴女御自身でいらっしゃるわ。さあ、立って、こっちへ来て御覧になったら」
導かれたのは美事な大鏡の前で、その中に奥方は信じられぬものを見た。いわれるまま被衣を脱ぎ、面紗を取ると、鏡に映っているのはまさにこれから|眩《めくるめ》く恋に陥入ろうとするほどの情熱を籠めた瞳と紅い唇を持った乙女で、誰もが思わず見惚れずにいられぬその容姿は、どうしても自分のものとは思われない。
「これが? これが私?」
「そうですとも」
相手はすぐ|肯《うべな》った。
「あの悩ましい潤んだ瞳。どんな殿御の心も|唆《そそ》らずにおかない唇。それなのに貴女は、毎朝こんな重たい、野暮な被衣を着て、その花のようなお顔をわざわざ隠して、詰らない処に通っていらしたの。退屈で暗い、お墓の中そっくりの処へ。さ、こちらへ来て、自分でも見ないように、いいえ、触っても駄目、鎖の処にだけ手をかけて、その首に懸けていらっしゃるものをお取りなさい。そうっとよ、そうすればもっともっと貴女は美しくなれるわ。気をつけて、落さないように、さあ、この容器の中へ鎖ごと入れて、蓋をしてしまいましょう。大丈夫、旨く行ったわ。どう? ずうっと心が楽になったでしょう」
相手の娘は言葉巧みに十字架を外させると、自分でも見ないように容れ物の蓋をした。
「でも、でも私」
「なあに?」
「私、あの方にお仕えするって……、そう、ずっとあの方に……」
「莫迦ねえ」
娘はいっそう華やいだ声をあげた。
「もう貴女は何もかも忘れたの、あの方のことも家のことも。これからはずっとここで陽気な暮しが出来るのよ。貴女の美しさに相応しい、若い、立派な殿御がいっぱいいらっしゃるんですもの」
その言葉どおり、もう窓辺には派手な服装をしたお洒落男たちが幾人か顔をのぞけ、口ぐちに淫らな賞め言葉を投げかけていた。
「選り取り見取りよ、どんな男だって。ね、うんと下品な男になさるといいわ。安っぽい下司な男ほど床の娯しみは倍になるっていうもの」
娘自身も思いきって淫蕩なながし眼を男たちにくれ、鴉のような声で笑った。
「何を心配しているの。よくって? いままでの貴女はいつだってこの被衣を深く被り、面紗を垂らして歩いていたのよ。そりゃ、あそこでは思いきった寄進にもついたし、貧しい人に何がしか恵んでもやったでしょう。でも、そんなことは貴女でなくってもいい、つまり被衣の中にクレモンの奥方が入っていなくたって、誰でも出来ることじゃありませんか。ね、つまり貴女はただ被衣のお化けにすぎなかったの。お判りになったかしら。これからあたしがあの被衣と面紗をつけて貴女の家へ戻るわ。そうして夜も昼も祈っていたいからって、旦那様にねだってお庭の外れに祈祷室を作って貰うの。むろん秘密の脱け道つきでね。そうして明日の朝からは侍女の一人に特別手当をやって彌撒に行かせもすれば昼間は籠りきりで祈祷台に打伏せてるって寸法。誰がいいかしら。貴女のお付きには私の仲間が多いから大抵大丈夫ですけど、何なら祈ってる恰好の人形でも作らせましょうか。どう? 名案でしょ」
娘はそういうと、再び鴉のような声で笑ったが、主よ憐み給え、此度は奥方までが声を合せて笑ったのである。
斯うして森の奥の浅間しい肉欲の宴は、夜昼なしにその日から始まった。奥方が相手に選んだのは、肉瘤ばかりが逞しい粗野な男だったが、その男の何が気に入ったかといえば、それは男が|眇《すがめ》だったからで、行為の最中にも絶えず傍見しているような、あらぬ妄想を抱いているような表情に堪らなく惚れ込んだのだという。
娘は(あるいは老婆かも知れないのだが)一人で奮闘し、絶えずどこかから男と女を補充し、また一人でせっせと幻茸を採りに出て倦きることなくスウプを作った。しかし、斯かる破廉恥な、天を怖れざる肉の宴がいつまでも滅ぼされぬわけはない。程なく、高名隠れなき聖ビコルヌ、かつては半獣神でありながら不思議な徳性の故に洗礼を受け、遂には聖人の列に加えられたその人が、最後の苦行の地を求めてこの森を訪ね、魔性の者らを忽ち滅ぼした事蹟に就てはその地の所伝に詳しい。
驚くべきことに夫のクレモンは、最後まで妻の貞潔を疑わず、もとよりその所業も知らぬまま、被衣を着て早朝の彌撒に出、帰っては祈祷室へ籠って遂に顔を見せたこともない侍女だか人形だかを妻と信じていたという。哀れなその奥方は聖ビコルヌの手の一閃で忽ち迷いから醒めたが、身を恥じて隠れようとしたのを恩寵に救われ、秘かに祈祷室へ戻されて断食を続けたまま枯れるように死んだ。
それが病んだ薔薇の樹の所為か、茸の惑わしか、それとも森の魑魅の誘いだったのか、ついに誰も知らない……。
∴
さて、先に続いて『薔薇綺譚集』の中から更に一編を紹介してみたが、異邦のわれわれにはこのどこに教訓があるのか、いささか見当のつきかねる気がする。薔薇の樹がどうなったかも分明でなく、クレモンの奥方の死後、その口から虫喰いの薔薇が噴き出して哀しい聖性を証したというなら、まだしも判ると思われるのに、そんな記載はどこにもない。あるいは聖ピコルヌに発見された時、奥方と眇の男とがどんな恰好で抱き合っていたとか、老醜の頬に紅白粉を塗り立てていたというなら、少しは潤色して書きようもあるのだろうが、下手な空想をつけ加えるのも憚られてそのままにした。
しかし、私が敢えてこの幾分稚拙な物語を選んだのは、この内容が殆んど現代に変らぬ点を滑稽にも思い、苦々しくも思ったせいで、例えば知合いの若い夫人で、マンモス団地に住んでいる一人は、日曜ごとに遠く離れた教会まで車を駆って礼拝に行くことを怠らぬが、その代り夜の所業となると……といった話柄は当節いくらも見られるところであろう。現代にも森はまだ到る処にあり、病んだ薔薇の代りとなるものや、幻覚剤にもまた事欠かぬに違いない。ただ幾許なりとも考えさせられるのは、そのときビザンツ風ならぬ現代の被衣とは果して何であろうという問題である。
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呼び名
……こうして『薔薇綺譚集』の貢を繰りながら、私の心は次第に沈んだ。|悒鬱《ゆううつ》は灰色の水を満たした大きな|甕《かめ》で、気づかぬ裡にその水は部屋に溢れ、部屋を湖に変え、心を湖底に沈めてしまうものらしい。いつ知らずその水が退き去るまで、心はそこで果てのない若さを|反芻《にれか》む他はない。
綺譚≠ヘ何もヨーロッパ中世にばかりあるとは限らない、日本にも、そしてごく身近なところにもと思うと、私は不意に得体の知れぬ悒鬱に襲われたのだった。そこでは但し必ず生活≠ニいううっすらとした手垢めいたもの、|澱《おり》のようなものがまつわらずにいないので、近年、友人の画家・|矢川《やがわ》|澄人《すみと》を見舞った幾分滑稽な運命も、またその例外ではない。それは一人の、蒼白な頬をした少年によってもたらされたのだが、その背後には、やはり日本特有の、見えない汚れた手が働いて、薔薇の花片にもなにがしか泥の指紋を捺していったのである。
……………………………………………
矢川の家の庭には、およそ百五十本ほどの薔薇が植込まれて四季を彩っていたが、それは花の美であるより先に、制作の合間、その手入に時間を費すことで、こよない慰めとなっていた。その花たちはあらかじめ厳密な色彩の構図を織りなすよう配置されていたが、薔薇の気紛れというよりはおのずからな遅咲き・早咲きがあって、剪定の時季をいろいろに工夫はしても、思うように咲き揃ってくれないというのが矢川の悩みのひとつであった。
妻のようこ[#「ようこ」に傍点]は、いつも広縁の椅子にショーツ姿の脚を投げ出し、庭に這いつくばっている矢川をおもしろそうに眺めるばかりだった。妻といってもいつものとおり、一年ほど前ふいに舞いこんできてそのまま居ついただけで、本名も知らなければこれまで何をしていたのかも分明ではない。ようこという名も、どんな字を書くんだと訊くと、めんど臭そうに、
「そうね、妖精の妖じゃどうかしら」
と答えた。妖子。しかしこの女には、その字面の感じから遙かに遠い稚さがあって、しなやかでいながら物憂い姿態は、最初のうちアトリエの中に新しい興奮をもたらした。矢川はもっぱらその骨を愛し、骨を透視することに腐心していたからである。
庭の垣根はいちめん蔓薔薇に蔽われ、そのしたたかに太い蔓はいま縦横に伸びて、容易に|撓《たわ》めることも難いほど力を持ってしまったのだが、咎はその棘にあった。一夜、矢川は警官の突然の来訪に愕かされたが、聞くと、通報があって、通行人のひとりがその棘に刺されて傷を負ったのだという。
――たったそんなことで一一〇番したのか。
憮然とした気持で矢川は二人を眺めた。二人といっても同行の通行人は警官のうしろに隠れるようにしていたのだが。
これまでにも酔っ払いから捩じ込まれたり、通りすがりに嫌味をいわれることもあって、充分に気をつけてはいたのだが、よくよく垣根沿いに歩きでもしない限り怪我などする筈はないという自信があった。それも、おおよそは無理に花を採ろうとして掻き傷をつけるのだという見当もついていたが、警察まで来たのではそんなこともいっていられない。矢川はともかくも玄関の内に二人を招じ入れ、いかにも恐縮したように応えた。
「やあ、済みません、済みません。あの薔薇の奴、このごろすっかりいうことを聞かなくなりましてね。で、お怪我は……」
そのとき初めて訴えの主が前に進み出た。それはひどく華奢な少年で、矢川は何よりもそのあまりにも血の気のない顔色に愕かされたのだが、彼は左の手を前に差出し、それからこういった。
「ぼく、血友病なんです」
その左手には、ところどころ噴き出たばかりの血がまるい滴となって、その真紅の鮮やかさが意外な言葉とともに矢川を脅やかした。
「なんだって」
あらためて少年を見返すと、蒼白な頼、不安げな瞳は、いかにもその病気で知られるロシアの皇太子アレクセイを思わせ、矢川は腰を浮かせた。
「そりゃ大変だ。すぐ医者に行かなくちゃ。それより何か血止めを。おーい、ようこ」
うろたえて立騒ぐうしろに、ようこはもうネグリジェの上にガウンを羽織った姿で立っていた。妙に冷やかな眼で少年を見据えると黙って奥へ入ってゆく。
「|宮口《みやぐち》さんにすぐ電話しろ。救急箱はどこだ、救急箱は」
後を追った矢川に躯をすり寄せるようにしてくると、
「血友病ですって? フン、何だか判ったもんじゃないわ」
そんな、ふてくされた口を利いた。だが、結局は女の直感のほうが当っていたのかも知れない。近くの宮口医院で手当を受けるまでもなく、少年の血はもう止まっていた。医師も夜に起されたせいか、ひどくそっけなく、
「血小板やフィブリンの精密検査をしてみなくちゃ、何ともいえないね」
疑わしそうに歯茎を覗いてみたりしている。
「ぼくは前に血友病Bだっていわれました」
「PTCが欠けてるって?」
「判りません。鼻血が出るとなかなか止まらないんです」
少年は頬肉をいっそう引き緊めるようにして答えた。その癖は蒼白いままに燃えあがるかと思われるほどで、翳りの深い瞳と、あくまでも華奢な肩とを、矢川はとどろく思いで|窃《ぬす》み視た。これほどのあえかな少年には、いかにも怪僧ラスプーチンがふさわしいと思ったのである。後に聞いたことだが、ふつうは出血した折にフィブリンという繊維素が出て血球を固まらせるのだが、その最初のトロンボプラスチン生成の際に必要な因子が欠けると血友病を起すのだという。少年の透きとおるばかりな肌は、いかにもそのために余分な血のほとんどを放出したせいに思われた。
若い警官が挙手の礼をして帰っていったあと、矢川は近くだという少年の家に連れ立った。
|木村《きむら》|柾夫《まさお》、十七歳。
カルテに記入するときは確かそう答えたのだが、それをいうと少年は夜目にも涼やかな微笑をふり向けた。
「違います。本当はひろしっていうんです」
「ひろし? どんな字」
少年は勢いよく夜空に指でその字を書いてみせたが、もとよりそれははっきりしたものではなく、むしろ矢川に判らせまいとしてしたことのようだった。
矢川は黙った。齢のせいで人の名前を覚えることが苦手になっていることは確かだが、このごろは男女を問わず正式の名前なぞ必要でないタイプが俄かに殖えたことも事実だった。むろん画家という職業柄、そうした曖昧な人種とつき合う場合の多いせいもあるだろう。しかしこの先、石川とか鈴木とか中村とかいう同じ苗字がますます多くなり、人名漢字まで制限するという愚かな制度のお蔭で、名前もまたありふれたものばかりになってゆくと、あと二十年もしないうちに同姓同名は巷に溢れて収拾がつかなくなることだろう。むしろこの少年のように、あるいはようこのように、しなやかな肢体と柔らかな骨とを持ち、名のほうは何とでも新しく呼んでくれといわんばかりのほうが正しい在り方かも知れない。名づけるたび姿を変え、性格まで変えてゆく新鮮さを二人ながらに味わえるとするならば。
崩れかけたような木造の二階家が見えてくると、少年は、
「あそこです」
と指さした。それはいつも通るたび、よくこんな朽ちかけた家を消防がほっとくな、地震があったらひとたまりもないだろうなと思っていたところなので、矢川もおどろいたが、
「友達んところへ転がりこんでいるんです」
少年はそういうと、向き直って改まった挨拶をした。
「今晩はお騒がせして本当に済みません」
「しかし、大丈夫かい、君。もし傷がまたおかしいようだったら……」
「ええ、大丈夫です。どうもありがとう」
もう一度、涼やかな微笑をふり向けると、足早に去った。
――なんという可愛い笑い方をする奴だろう。
というのが、その時の実感であった。それからまた、こうも考えた。
――己も早くに結婚してりゃ、あいつくらいの息子がいるんだな。
矢川は何か独りで肯くようにしながら、夜道を家に帰った。
……………………………………………
ようこがその奇妙な提言を聞いたのは、それから一週間ほど経ってからだった。いつぞやの少年を家に置こうというのである。
「冗談じゃないわ、そんな……」
ようこはとっさに気色ばんだが、矢川はおちついていた。
「いや、君にはあくまでも美しいモデルのままにいて欲しいのさ。実はあれから二度ばかり君の留守に来たんだが、係累はまったくないようだし、料理がいちばん得意だっていうんだな。家事がいっさい任せられるとなりゃ、君だって楽だろうし」
実のところようこの下手な料理に音をあげてというのが本音だが、そのことでは向うもだいぶ引けめもあるので、さすがにちょっと黙った。だが、またすぐ激しい口調になると、
「だって気味が悪いわ、血友病だなんて。包丁で指でも切ったら、どうするのよ」
「まあ、そりゃそうだけど、こないだも実際はたいしたことはなかったし、ごく軽い症状らしいよ。いいじゃないか、しばらく来てもらって、君がどうしても嫌だっていうなら、すぐ出てもらう約束にするから」
「あたしねえ、ああいう変に綺麗な顔立ちの子って嫌なのよ。何だか不吉な感じがして」
ようこはまだいろいろと難点を並べていたが、それでも少し折れる気になったのか、ようやく訊いた。
「それで、何ていう名なの」
「木村柾夫。木偏に正しいって書くんだが、名前はどうでもいいさ、好きなように呼べば。まあ一応、田舎の実家は確かめておいたがね。本人がデザイナー志望なんで、向うもこっちに来たがってるわけさ」
矢川はわざと嘘の名を告げた。柾夫という名をどうしてつけたのかは判らないが、それも案外少年の端正な横顔に似合っている気がする。北海道の出で、戸籍名は大柳ひろしとかいっていたが、そんな流行歌手まがいの名よりはましだろう。だが矢川が本当に呼びたいのはアレクセイ・ニコラエーヴィッチ――ニコライ二世と皇后アレクサンドラの狂信の裡に生まれ|育《はぐく》まれ、妖僧ラスプーチンの催眠術に飜弄されたあげく、ウラル山の東麓、エカテリンブルグで果敢ない十四歳の生涯を閉じた、ロマノフ王朝最後の皇太子の名であった。
呼び名。いちばんふさわしいのはアリョーシャだが、それではあまりに著名な長編のイメージがまつわりすぎ、といってアレックなどと呼ぶ気はしない。アレクセイのままではまた、姉のアナスターシャほど美しい|韻《ひび》きを伴わない気がする。
――まあ、いい。一緒にいるうち、何かいい呼び名を考えつくだろうさ。
不承々々にようこが同居に賛成したあと、矢川はひどく浮き浮きとそんなことを考えた。三畳の居間を与えられてからというもの、少年の活躍はめざましかった。食事は朝昼兼用と、遅いめの夕食と二回だったが、朝は挽き立ての珈琲の香を欠かしたことはなく、その日の矢川たちの気分を見抜いたように、厚焼きのハムステーキが出るかと思えばシナモントーストとサラダでさらりと|躱《かわ》すこともある。最初の夕食に、アルミホイルで蒸焼きにしたミートローフに、軽く冷したボージョレを添えて出されたときは、矢川たちも思わず顔を見合せたが、あとで値段を聞いてその安さにまた一驚した。ただ料理を作るばかりではない、家計の出納はどこまでもきちんとしていたし、後片付けの手際もよく、台所はたちまち見違えるほどに磨き立てられた。客のあるときの折り|屈《かが》みのよさも目立ち、シャンゼリゼ辺のレストランでも勤まりそうな給仕ぶりだった。
「どういう子だい、ありゃ」
「いやあ、何となく転がりこんできたんだがね」
そんなふうにさりげなくいうときの楽しみといってはなかったが、ようこはまだ解けきらぬ顔で、
「そうねえ」
などといっていた。
「まあ、便利は便利だけど」
名前のほうは最初から木村君の一本槍で、慣れるにつれて柾夫君も混じるようになったものの、それ以上に進まぬのを矢川はむしろ喜んだ。それよりも日を重ねるにつれ、矢川の心には、これまでにないときめきめいたものがさざなみ立つのを、彼はひそかに怖れもし、みずから期待もしていたのだった。女については若いうちからむしろ自堕落めいたタイプを好み、ただそれがようこのようにほっそりと|撓《しな》う躯つきの場合に限って賞味していたのだが、仕事となるとおのずから別で、彼の作品には必ず透きとおるほどに薄じろい骨が描かれるのが常であった。制作が続くと、次第にその外側の皮膚までが疎ましくなり、衣裳を剥ぎとるようにその皮膚も肉も取り去って、しなやかにたわむ骨だけに自由なポーズをつけたくなってくる。その思いはついアトリエの外にまで持越されて、矢川はいつかようこの、かつては妖精のように思えた奔放さも自堕落さも鼻につき始めていたのである。
それは明らかに薄倖な皇太子アレクセイの訪れのせいに違いなかった。まだ呼び名は思いつかず、かれの裸身を描きたいとも思わなかったが、この蒼白な美少年と二人だけでいるとき、かれが青猫のように身じろきし、惹きこまれるような微笑を見せると、戦慄めいた快楽の予感が身内を走った。
――女に倦きたというわけではないが、
矢川は自分に苦笑した。
[#ここから1字下げ]
――結局、中年になると、女より少年のほうが本当に必要になってくるのかも知れないな。ただ日本には、いまのところ薄汚い奴ばかり多くて、こんな、吸いこまれるような|靨《えくぼ》だの涼しい眼もとだのを持った子が少ないから、どうしようもないわけだけれど。
[#ここで字下げ終わり]
そんな心移りを見抜いたように、少年もまた明らかに矢川だけに甘え、いっそうまめに仕えた。ことに愛してやまない薔薇の手入を、家事の合間に喜んで手伝い、肥料作りや薬剤の撒布も抜かりはなかった。農家の出というわけでもないだろうに、妙なことを知っていて、米の研ぎ汁をやるといいだの、植穴はもう少し深く掘って、黒ボカと底の赤土との天地返しをしたらなどと口を入れた。
「おい、また薔薇の棘で怪我するとこと[#「こと」に傍点]だぞ」
「いえ、大丈夫です」
さすがに照れたように笑ったが、恰度ようこが内に引込んでいないと知ると、囁くようにいった次の言葉は、矢川の絵ばかりではない、そこに表わし得ないでいる秘密を見抜いてのこととしか思えなかった。
「焼き物には人間の骨を混ぜると綺麗に仕上るなんていうけど、薔薇にもきっと効くでしょうねえ。ことに女のひとの骨なんか」
矢川は呆気に取られて少年を見た。しかしそこにはいつものとおり端正な横顔があるばかりだった。しばらくして矢川は呻くようにいった。
「君も相当な小悪魔だな」
……………………………………………
そのままで進んでいたら、乃至は矢川がもう少し積極的に出ていたら、少年と二人はようこの留守にアトリエの中、あるいはベッドの上でさえも、人知れずようこを始末するため、いろいろと策を練るまでになっていたかも知れない。少年のほうはそれぐらいを厭わぬ気構えがあったかと推察されたからである。
だが幸か不幸か、声は先に届いた。その声は少年の囁きよりいっそう残酷な響きを秘めたものだった。
買物に出た矢川が予定より早く帰り、重い荷物を裏の物置に入れようとしているとき、ようこの――いや、妖子の罵声が食堂の方でいきなりあがったのである。
「オイ、いいかげん肉料理ばっかり出すのはよしたらどうなんだい。こんなものより秋刀魚や鯵のひらきをジュウジュウ焼いたほうがよっぽど好きだって、昔から知ってるだろう。え、ひろし[#「ひろし」に傍点]。聞いてるのかい、ひろし[#「ひろし」に傍点]」
その呼び名は、哀れなほど深く矢川を刺し貫いた。それに続く「ハーイ、姐御」といった少年ののどかな声は、もう二度と耳に入らぬまでに。矢川は初めて中年ならぬ、残酷な老いの到来を知ったのである。
妖子と贋のアレクセイは、携えて家出をし、薔薇園はその後、廃れるままに置かれた。
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笑う椅子
……………………………………………
日あたりのいい草叢で、けたたましく椅子は笑った。およそ飾り気のないコロニアル・スタイルで、背もたれの部分は小割り板をあしらっていたずらに高い。|貫《ぬき》はゆるみ、座部は破損したあとにあり合せの木片を打ちつけただけというその椅子には、しかし、おかしくてたまらない理由があった。人間たちが傍にいるときは、それでも無表情に黙っているが、独りになるとどうにも我慢がならず、笑い出さずにはいられない。奴らときたら、まったく何も知らないのだ。これまでこの椅子をめぐってどれほどの血が流されてきたか、そもそもどんないきさつで生まれたのか、それさえ気に留める気配もないのだから、いずれまたすぐ、身いっぱいに真紅の血を浴びることになると思うと、いくら抑えようとしても、笑いはとめどもなくこみあげてくるのであった。
たとえばそれは四十年前の秋。
……………………………………………
「|忠博《ただひろ》ちゃん、どこにいるの。忠博ちゃんたら」
居間のソファに凭れて、新着のファッション雑誌に夢中になっていた明子は、しばらく前から子供の声がまったくしないのに気づくと、慌てて立上がった。二階の子供部屋にもいない。また階下へ降りてみると、奥まった食堂は灯が消されて、フランス窓から月光が凄惨なまでに照りつけている。明子はわれ知らず身ぶるいした。
――おや、椅子がひとつ足りない。
チラとそんなことを考えたが、いまはそんな詮索もしていられない。夫が留守のせいか、邸中がしずまり返って、台所にも女中部屋にもまったく物音がしないのを知ると、俄かに不安な思いにとざされた。
――きっとまた御仏間だわ。御飯のあとはもう行っちゃいけないっていってあるのに。
姑のいる棟つづきの離れへ、足音を忍ばせるようにして行く。だが戸口に佇って中を覗きこんだ明子は、
「まあ、おばあちゃまり灯りもおつけにならないで」
思わず、立ったままそう口走った。
広縁の戸障子を明け放しにし、いちめんの月の光に影を浮かせていた姑の|兼子《かねこ》は、その声に無言でふりむいた。いつもながら妖婆めく姿に総毛立つ思いをしながら、
「忠博は参っておりませんの」
腰をかがめて訊く明子に、皮肉な嗄れ声が打ち返す。
「独りで庭へ出て行ったよ」
「お庭にですって。こんな時間に」
「ああ、お前に似て、月の庭で遊ぶのが好きなんだろうさ」
その言葉に含まれている異様な棘に気づくと、明子は思わず膝をついた。
「わたくしがどう致しましたって」
「お月様とお|戯《たわむ》れだということさ」
姑の声はむしろ淡々としながら、いきなり明子の秘事を曝き出した。
「|博行《ひろゆき》との結婚前に、お前があの|細川《ほそかわ》とかいう男とつきあっていたのはよく知ってるよ。それでも探偵社の報告を信用して、綺麗な躯で嫁いできたと思ったのが間違いだった。この三年、いっこうに切れてはいなかったんだからね。あげく裏木戸から引入れて、うちの庭で逢引とは、ずいぶん派手なことをするじゃないか」
――見られたんだわ。
息を呑む明子へ、月光さながらの冷やかな言葉が続いた。
「いくら博行が旅行中でも、女中たちの眼というものがあるだろう。あれほどお月様が隈ない庭先で、よくもまあと不思議に思ったから、お|美代《みよ》を呼んで問いつめたのさ。大枚十円の口止め料だか買収費だかはここにあるよ」
不潔なものを払うように手が動いて、紙幣はかぐろく畳に舞った。
「きのうが立待、きょうが居待。あれから三晩考えたんだ。やっぱり忠博は孫なんかじゃない、お前と細川が乳繰り合って出来た子だってね」
明子の貌は白く凍った。
「おばあちゃま、まさか、忠博を……」
いいさして、いざり寄ると、ようやく底の坐った声になった。
「どこにおりますの、忠博は。さあ、すぐおっしゃっていただきます」
「どこだかねえ」
姑は――異形の老婆は、庭に顔を向けたままうそぶいた。
「おおかた、あの古井戸のへんで遊んでいるんじゃないかねえ」
明子は走り出した。裸足のまま庭へ飛び降りると、木立の奥の古井戸へ馳せ寄った。そこには、案の定、一脚の椅子が踏台代りに片寄せて置かれ、井戸の蓋は除かれて、涯もなく深い、かぐろい穴を――まぎれもない|墓窖《ぼこう》をのぞかせていた。
木立を洩れる月光は、到底その底にまでは届かない。しかし古井戸の冷たい石畳に両手をついて躯を支えながら、明子はそこに沈んでいるものの無残な姿態を、ありありと透視できた。あの妖婆のことだ。わざわざ食堂からダイニング・チェアーを持出すくらいだから、ただ欺して登らせたうえ、覗かせて突き落しただけとは考えられない。必ず残忍にその枯れた手で細い首を絞めあげ、あげく、ありったけの呪言を吐き散らしながら投げこんだことだろう。
その椅子の背を引っ掴んで仏間へ引返す明子の貌は、あきらかに笑っていた。笑いはますます拡がるばかりで、月光に半身を浮きあがらせたままの老婆を見ると、その笑いは耳まで裂けた。
「どうおしだい、お前の可愛い忠博は」
まだ揶揄するようにそんなことをいいかける相手へ、引きずってきた椅子を無二無三に打ちおろす。崩折れた躯へ、なおも叩きつけ続ける明子は、そのとき鋭い悲鳴を聞いた。悲鳴は怯えきって立ち尽す美代の腕の中に、固く抱きすくめられている忠博のものだった。
……………………………………………
草叢で椅子は笑った。笑い続けた。もうひとつの、沁みついた血の記憶を甦らせたからである。
たとえばそれは三十年前の春。
……………………………………………
「これはすばらしい。こいつは君、たいした掘り出し物だよ」
自分で古道具屋から自転車に積んで持って帰った小詰らない椅子を、独りで悦に入って自讃する夫の|康《やすし》を|梨枝《なしえ》はうとましく眺めた。
「だいぶガタがきて黒い|汚染《しみ》もついているが、なに、大したことじゃない。もとは大名華族の血すじの家から出たものだそうだがね、さすがに好みが渋いじゃないか。こいつは確か十八世紀の初めごろ、デラウェアの渓谷沿いで作り出されたものだが、のちにシェーカー教団の手でいっそう厳格な様式に統一されるんだ」
少壮の建築学者で、インテリアにもうるさいといっても、この戦争末期、家財も何もいつ空襲で焼かれてしまうかも知れないという時勢に、そんな講釈が何になるだろう。そっぽを向く梨枝に気づかず、康はいよいよ上機嫌で、
「こいつはぜひとも疎開の荷物に入れよう。あとの五脚はいつ届くか判らんから、何とかこれだけでも助けなくちゃ。せっかくアメさんの作り出した美術品を、アメさんの火で焼かれちゃたまらんからな」
「だって、あなた。昨日も茶箪笥を追加したばかりじゃありませんか。いくら軍の方で載せてくださるからって、そう次々に殖やしていったら……」
「いいさ、いいさ。|木崎《きざき》はおれのポン友なんだ」
康はまたいつもの台詞になった。いかにも木崎は、疎開先の高原にある技術研究所に勤める海軍大尉で、小学から中学にかけて夫の親友だったには違いないが、それへの遠慮というより梨枝には、いまのこの時勢に軍のトラックに便乗して疎開の荷物を運び出すことのほうが、肩身の狭い思いだった。
「ピアノだって頼んだ奴がいるんだぞ。何しろ奴は気がいいから、何でもかでも…」
いいかけて、不意に梨枝の横顔を窺うと、粘っこい口調でつけ加えた。
「しかし奴はまだ独身だからな。いいか、梨枝、お前がひょっとして……」
「莫迦なことをいわないで。|保夫《やすお》だっているんですよ」
梨枝は反射的に子供の名をあげていた。異常に嫉妬深い康のこうした妄想に、これまでどれほど苦しめられてきたろう。それもあまりな執拗さに梨枝が半ば呆れて、
「そんなにいうなら、少しは好きだったことにしてもいいわ」
ふてくされていうが早いか、やっと安心するという繰返しだった。しかし、それも長くは続かない。またぞろねちねちと疑い出し、責め立て、問いただす。それも同情していえば、この戦争でみるみる引き剥がされ、離されてゆく人間関係に堪え切れず、通常の夫婦愛に二重三重の嫉妬の糸をからませ、何とかそのしがらみを繋ぎとめようとしているのかも知れない。軍関係の仕事をしているといっても、いつ召集されるか判らぬ時だけに、せめてものそれが慰めなのかも知れない。しかし梨枝にはもうつくづくたくさんだという気がしていた。疎開しているうち、この夫が空襲で消しとんでくれたら、どんなにさばさばすることだろう。それに木崎は、これまでと違って架空の相手ではない、確かな約束さえ交した仲であるからには。
疎開先をその高原の古めかしい洋館と決めてからというもの、夫とともに、あるいは一人で、木崎とは屡ゝ会う機会があった。初めのうちその白皙長身の制服姿に不思議なときめきを覚え、康には絶対にない清潔な感じを好もしく思うだけだったが、最後には違っていた。凍雪の林の中で、木崎は白い手套で挙手の礼をする代りに、優しくそれを伸べて梨枝の手を引き寄せ、うやうやしく接吻したのだった。眼をあげる次の瞬間に、腕の中に抱かれていた。頼もしさと優しさとが、かつて知らぬ温もりとなって梨枝を包んだ。その長い抱擁と、灼き尽すような一度のくちづけだけが証しのすべてだったが、二人にはそれ以上の何もいらなかった。
「奥さん、待っています」
簡潔にそう囁いたすがすがしい声に、いま夫の|濁《だ》み声が重なる。
「おれは必ず、ひと月に二度は行くからな。朝早くか夜遅くか、それは判らんぞ。そんなとき、もしお前が……」
いつものとおりのくだくだしさも、今度ばかりは身に沁み、梨枝はひたすらに出発の時を待った。
雪溶けの川水が躍るように奔り、淡い色の茎や雪割草に約束の時間を事寄せる束の間の逢いは、しかしあまりにも短かった。急な命令で木崎が九州へ出張させられたあと、五月の大空襲に家を焼け出された康が、煤黒く汚れて辿りついてからというもの、高原は|衆合《しゅごう》地獄と化した。手に入る食物はキャベツに馬鈴薯しかないので、月に何度か康が米や肉の買出しに行く。警察を憚って帰りつくのは夜になるが、木崎がいないと知りながらその留守に男が来たろうと責め立てるのが、康の陰惨な娯しみとなった。
「そんなに疑うのなら、あたしを閉じ込めていったらいいでしょう」
思わずそう叫んだのが仇になって、康は嗜虐の眼を輝かした。
「ようし、望みどおりにしてやる」
牢獄は物置代りの屋根裏部屋だった。僅かな食物と布団と、それに便器まであてがってから、康は幼い保夫を負って買出しに出かける。百姓の憐みを買うためのねんねこ半纏を梨枝は侮蔑の眼で見おろした。梯子を取払われてしまうと、覗きこむ二階の床は眼も眩むばかり遠かった。おまけに一階からの階段が近くに口をあけているため、下手に飛降りでもしたら真逆様に下まで転げ落ちて、足を折るぐらいでは済まないだろう。一度めの経験で梨枝は、ひそかに丈夫な綱を隠そうとしたが、康の検査は徹底して、日がな一日、その屋根裏部屋で顫えの止まらぬ憎悪を守る他はなかった。
二度までは堪えた。しかし三度め、夜になっても帰らぬ康に、梨枝はついに我慢の限度を超えた。犀鳥という嘴の大きい鳥がいて、雛を育てるとき雌鳥は樹の洞の中に自分を閉じ込めてしまう。餌は雄が運んで小さな穴から与えるのだが、その雄が思わぬ猟師の手にかかることもあるように、夫も担いだ闇米の取締りにあって、一晩警察に泊められることだってあり得ないことではない。それにもうきっと木崎さんも帰っているに違いないと思うと、梨枝は血走った眼であたりを見廻した。帯を解いて巻きつけようにも、柱は降り口からあまりに遠い。そのとき暗い裸電球に照らされたものに、一脚だけ運んできた椅子があった。こちらで一度も使ったことのない役立たずな椅子だが、背もたれの長いこれは、逆さまにして座部をここの床に固定させれば、何とか掴まって一メートルぐらい下にはぶらさがれそうである。梨枝は熱心にその作業に取りかかった。二階も一階も電気はついていず、底知れぬ闇が口をあけている。いよいよ覚悟を決めて降りかけたとき、梨枝は玄関の方で、忍びやかな物音と人声を聞いたように思った。
――木崎さん?
胸の裡に問い返して待ってみたが、それぎりで何も聞えない。しかし、夫にしろ誰にしろ、もう降りるほかはなかった。眼を|瞑《つぶ》って足をまずおろし、両手で椅子の背に掴まろうとしたとき、慌ただしく駆けあがってきたのは、やはり保夫を背負った夫のほうだった。訳の判らぬ罵声を発しながら梯子をかけて登ろうとする。憎しみの眼と眼が向き合った一瞬、重しの不完全だった椅子の座部は脆くも床を滑り、親子三人はもつれ合ったまま暗闇の底へ逆落しに落ちこんでいった。
……………………………………………
草叢で、椅子は苦い笑いを浮かべた。自分の出生の記憶は、さすがに忌わしい気がする。作り出したのは、当時まだ珍しかった西洋家具店の親爺だが、それを注文し、あげくその上で血のミサをあげたのは、間違いなく悪魔の司祭ということになるのだろうか。たとえばそれは五十年前の冬。
……………………………………………
注文の椅子六脚を大八車に積み、坂道に汗を流しながら少年店員が辿りついたのは、ひどく陰気な教会だった。玄関に出てきたその神父は、だぶだぶの黒い僧服に細紐を締め、見るからに異様な風体で怯えたが、中まで運んでくれといわれれば嫌ともいえない。しかもいわれたとおり、ストーブが赤々と燃えているだけの、がらんとした一室に運び終えると、神父はまるで少年の躯つきを値踏みするように眺め廻しながら、
「あなた、まだどこか、行くとこありますか」と訊く。
「ええ、近くにもう一軒だけ、お代を取りに」
おずおずと答えると、それで早く行って、そこに大八車を置いてから戻ってこい、そうすれば代金の他にもたくさんのお駄賃をあげようといわれて、少年は疑わずに引返した。珍しい菓子が出る、暖い飲物が出る。
「あなた、いくつ? 十七歳。それはすばらしい齢」
そういって神父が異様に眼を光らせたまでは意識があった。眠りこんだ少年を何のためらいもなく素裸にすると、三つずつ向い合せに並べた椅子の上に横たえる。それから鋭いナイフの|切尖《きっさき》が、白い胸から腹へ走った。一筋の鮮紅の溝を、神父は惚れ惚れと眺めていたが、やがて自分も僧服を脱ぎ棄て、筋骨逞しい全裸になった。金色の縮れ毛に蔽われた己れの胸を、今度はみごとに真横へ切り裂く。神父は静かに少年の上に重なり、二人の躯のあわいに、いま血の十字架が鮮やかに創り出された。
……………………………………………
椅子は二人の重みに堪えた。堪えながら神父の碧いろの瞳を見ていた。何を希ってこんな振舞をするのか、これが何を念じての儀式なのか、そのときからもう判っていたような気がする。
たとえばそれは現在の夏。
……………………………………………
事務に置かれて笑いを収めたコロニアル・スタイルの椅子に、いま三人の男女が近づいてゆく。夫婦と仲のいいその男友達。三人はこの椅子を高原の廃屋で見つけ出し、車に積んで自分たちの山小屋へ運んできたところだ。
「ちょっと直しゃ、まだ使えるよ」
「そうよ。りっぱなもんだわ」
夫の眼を盗んで、男と女の間にすばやい眼くばせが交される。
椅子はまたひそかに笑いを抑えた。夫婦とその男友達。つまりは二人の男と一人の女。二対一というこの永遠に陳腐な図式。これが続く限り、碧いろの瞳をした神父の念じたとおり、椅子の役目はいつまでも終らない。終る筈はないのだから。
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鏡に棲む男
その季節になると|松原《まつばら》の心の裡に、きまって驟雨のように通りすぎるものがあった。それは冬も間近い暗い時雨かと見るうち、いつしか霧雨に変って、陰鬱にすべてを塗りこめてしまう。動かぬ窓、開かぬ窓を伝う水滴の向うに、人影は黒く行き交い、それでいてドアをあけてみると、濡れて拡がる大きな舗道に誰もいないことは初めから判っていた。雨を光らせて疾駆するのは、音もない車の群れにすぎない。
――また独り取残された。
松原は老人のように呟く。その仄白い窓明りに照らし出されるだけの室内。せめて暖炉に燃すものをと思っても、何ひとつ見つかりはしない。灯に似たもの、炎に似たもの、何がしか心を明るませる暖い色はすでに去って、長い徒刑の日々が始まろうとしていた。
一つの椅子。一つの寝台。実際に松原の部屋には、その僅かな家具しかなかったし、心の中の室内にも同じような調度しか置かれてはいなかった。半身を映すに足る大きな鏡が、唯一不似合な贅沢品であったが、それさえも|立罩《たちこ》めた暗さを倍に拡げることにしか役立たず、そこに姿を見せるのは、怯えた眼をし、頬の|削《そ》げた青年でしかない。
鏡の中では、どちらが囚人であり、どちらが看守なのだろうか。きまった点検の時刻にきまって同時に現われ、肯いて同時に立去るこの|獄《ひとや》の|為来《しきたり》は空しいもので、空しいながら確実に行われてきたというなら。――松原は彼と顔を合せるたび、少しでも自分と違ったところ、自分ではない証拠を見つけてやろうとでもいうように、順番に眉だの鼻だの唇だのというありふれた造作を辿るのだったが、息を凝らしてこちらを見守っている相手の気配を知ると、先方の油断を見澄ましてという試みは、まず成功は覚束なかった。
かりに一つの精神病院に、医師と患者と一人ずつしかいないとするなら(それは屡ゝ一夫一婦制の夫婦の関係に似ているが)、どちらが狂人なのか、第三者にとって判別は困難を極めるに違いない。同じく看守も囚人もともにただ一人というここでは、その役割は日により気分によって変えられ、二人ながら看守、二人ながら囚人ということも多いが、それを|傍《はた》から確かめるすべはなかった。
むろん現実の松原は、もう一つのドア即ち現実のドアをあけて、買物にも行けば勤めにも出る。しかしその世界では、人間の行為はすべて精巧な、等身大の人形によって代行されていた。どこかしら無表情な、どこかしら冷酷な印象を与えるそれらの人形の中で、松原がもっとも気に入っているのは野菜を売るひと[#「ひと」に傍点]であった。かれはいかにも老人らしく造られてい、皺ばみ、血管のふくれた大きな掌をしていた。しかもその眼にはどこか哀しげな光があって、松原にはひょっとするとこれが人間でいながら人形のふりをして強制労働に就かされるという例の刑かとも思えてくる。ちょうど勤め先の松原のように、|堆《うずたか》い書類を窓よりももっと高く積み上げる作業の代りに、この老人もキャベツや胡瓜や人参やセルリーや、あるいは季節々々の果物をいっぱいに拡げて売っているのかも知れなかった。
松原はそこで緑いろの野菜だけを買った。緑だけが彼を慰め、喪われた遠い世界の記憶をひととき甦らせるからだった。それに、緑は、ほかのどんな色よりも優しいのだ。しかし、ピーマンは買わなかった。ピーマンはかれら即ち精巧な自動人形の科学者たちが、ついに作り出した怖るべき贋の自然食品≠ナあり、これほどの高度の技術は決して人間たちにはなかった。だが、それだけにこの人工野菜のいやらしさは比類がない。まず駄目なのは、その外側の色である。
ヒト科生物に与える緑の効用について≠ニか、残存遺種の緑色に対する反応≠ネどという、もっともらしい研究のあげくに、かれらは贋の野菜の第一号に緑の色を選んだのだろうが、そのいくぶん暗っぽい色調は、決して本物の野菜にはない不快なもので、おまけに蝋状の物質で不自然な光沢を与えたため、かつての遠い記憶、母の時間を夢のように奏で出すあの優しい緑とは似ても似つかぬものになった。瘤のように盛り上がった形状も嫌味なもので、同じように肩を怒らせ、同じように緑の光沢を持つといっても、印度林檎のあの親しい手応え、あの優雅な重さ、そして流れるような色調と較べてみれば、この食品の卑しさは一目瞭然である。
しかもこれに包丁をいれてみれば、かれらの失敗はなお歴然とする。かれらはこれに匂いを与えた。しかしその匂いは、これまでのどんな野菜にもない、鼻粘膜を刺す異臭であって、同じく唐辛子の類として売られてはいても、原体とは似ても似つかぬ刺激臭がどれほど堪えがたいものか、もともと嗅覚の研究が一番遅れているかれらには想像もつかなかったのであろう。そして内部の、ついに充たし得なかった空洞!
肉の厚い果皮は出来た、白っぽい種子も驚異の発明として完成した。しかもその皮と種子との間に、本物の野菜ならばごく自然に充たされる筈の果肉だけは、ついにかれらの頭脳も作り出すことは出来なかったのである。うつろな頭蓋骨、ことに眼窩の窪みを覗きこむような暗い空洞こそ、この食品が完全な贋物、|擬《まが》い物、欺瞞と虚偽に充ち、僅かに残された人間の微かな記憶さえ消し去ろうとするための悪質な薬品のたぐいであることを立証している。松原は秘かに自分の墓碑銘を、
〈ピーマンを憎み続けし者、ここに眠る〉
としたい気持でいたが、それはこの薬品の普及によって、まだいくらかは残っている筈の、かれらのいうヒト科の遺存種が、その|棲処《すみか》から曝かれ、追い立てられることを怖れたからであった。彼自身はそれを唯一の反逆の証として、たとえば食堂で注文したピラフや|炒飯《チャーハン》に、細かに刻まれたピーマンが混っているときは、丹念に時間をかけて箸の先でそれを選りわけ、摘み出し、盛り上がったその残骸を皿の片隅に眺めながら、またもかれらの謀計にかからなかったことを感謝しつつ食事するのが常であったが。
だが、折角そうしてピーマンを置き去りにし、レタスやパセリやブロッコリーや、あるいは|莢豌豆《さやえんどう》、隠元、葱、|蚕豆《そらまめ》、白菜などの緑を、腕に抱えあまるほど持って帰っても、彼の室内ではそれら本物の野菜もまた忽ち色を喪い、影のように積まれて置き晒されるほかはなかった。
――ここは暗すぎる。
思いはそれに尽きた。ここでは灯はその意味を喪い、かつては果物のように熟れた秋の灯火も、いまは自ら光を発することはなかった。少し前までは、それだけが松原にとっての最後の明りと思われた一本の蝋燭も、明滅し、さゆらぎ、何事かを誘いはしながら、却って自分を、それの手向けられた死者としか思わせない。手向けたのはむろん鏡の向うに棲む陰鬱な青年であろう。
今日も窓の外には雨まじりの風が吹きつけ、水滴はたちまち流れ伝わって現実の風景を溶かし出すと、そこにはくろぐろとした人影がしめやかに行き交い始める。記憶の行列。死者の投影。すでに喪われたものだけが映ることの出来る窓。
数日前から松原は、いつもの煙草を吸う少年≠ェ部屋の中に来ているのに気づいていた。それは昔の中国奇術の子役といった風体で、色の白い、おとなしい子だが、朝からきちんと椅子に坐って、ただ煙草だけを吸っている。口を尖らせ、慣れない手つきで、立続けに紫烟をあげていることは、部屋の中の濁った空気と、特別大きな灰皿にみるみる溜ってゆく吸殻の在り様とで判った。話しかけても答えず、腕を把ろうとしても突きぬけてしまうその虚体は、しかし次第に松原をいたたまらなくさせた。朝、起きてみると、たった一つの椅子はもうその少年に占領されて、わざとのようにスッパスッパと音をさせて煙草を吸っている、それ以外は何もしない少年は、松原を困惑させ、苛々させる。しかも窓はやはり晩秋の霖雨に塗りこめられ、室内は限りもなく暗い。
松原は久しぶりにドアをあけて外を覗いてみた。そこには相も変らず濡れて光る灰いろの舗道と、疾駆する黒い車とだけがあって、人間の姿はどこにもなかった。
――旅に出るしかないな。
松原は心に呟いた。
……………………………………………
そのとき黒い車の一台は吸い寄せられるようにドアの前に来て停り、客席の扉は音もなくあいた。ガラスに隔てられた運転席にいるのは、しかつめらしく制帽をかぶった男で、これも自動人形の一つに違いない。
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――するとこれは奴らの招待というわけだな。よし、ひとつ誘いに乗ってみるか。
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松原は珍しく強気になって、そのまま客席に入りこみ、シートに凭れこんだ。扉はすぐに閉って、黒い車は雨しぶきの中を走り出す。運転手は制帽を眼深に押しさげ、どちらへともいおうとしない。
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――しかし、旅に出るしかないと考えたとたん、この車が停ったということは、
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松原はいくらか眉をひそめた。
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――奴らが己の心の中にまで入りこみ、どんな思考も傍受しているという証拠だ。こいつは油断がならないな。
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旅へ、と自分は考えた。あてもない旅、といって無意識の底では、砂浜とか岬とか、あるいは火山の麓にある樹林地帯とか、|孰方《いずれ》にしろ海か湖の見える場所といった秘かな願望が働いていたに違いない。もしそこまでかれらが読み取っているなら、これはもう己の完全な敗けだが、まだそれほどは技術が及んでいず、それなればこそこうして己を乗せ、懸命に心の動きを追って少しでも深層心理へ近づく方法を完成させようと躍起なんだろう。だが、あいにくなことだ。己の行きたいのは喪われた過去、ほんの少しは人間たちが生き残っていた時代なので、かれらの黒い車は、決してそこにだけは行きつけやしないんだから。そのため、あんなにもぶざまに右往左往しているだけなんだから。
松原が考え続けている間に、車はいつか深い山奥に似たところへ差しかかっていた。ハイウェイはどこまでも続き、対向車の一瞬の光芒もしきりに行きすぎるところを見ると、まだそれほど辺鄙な山林の中というわけではないのだろうが、道の両側に押し黙って並んでいるのは、樅とか落葉松とかの高山帯の樹木に相違なく、忍び寄る寒気も次第に|徹《こた》えた。しかも視野いちめんを蔽いつつあるのはかつて知らぬ濃い霧で、ヘッドライトの照らし出す狭い範囲しかすでに視界は及ばなかった。路肩に並ぶ安全標識はその明りに照らされ、待宵草のように仄かな黄に光った。
霧はハイウェイの中央に漂い出て、さながら人魂か魔性の怨霊めく形でフロントガラスに襲いかかる。そして何度かそれが続くうち、どこも窓はあいていないというのに、車内までが濃い霧に包まれ始めていることを松原は知った。ようやく不安な思いが兆して、松原は仕切りのガラスを叩いた。
「運転手さん、いったい君はどこへ行こうとしているの。ねえ、ちょっと……」
運転手は初めて制帽の庇を撥ねあげ、バックミラーの中から睨み返した。
「きまってるじゃないか。己とお前とどちらか一人が残るために、決着をつけに行くのさ」
鏡の中の顔は、|慥《たし》かに松原自身に他ならず、その眼はこれまでになく憎悪に充ちた。
「己はお前に倦きたし、お前だってそうだろう。こうなりゃどっちかが従順な家来になる他はないさ。それを決めるのは決闘の他にないだろうからな」
喋る裡にその顔も肩も、さらにハンドルも計器の類もすべては霧の中に没し、松原自身も|噎《む》せるような霧の渦の中に埋もれて、自分で動かす手さえ見えなくなっていった。
――決闘だって? 決着をつけるだって?
鏡の中の彼がいつの間にか脱け出し、黒い車の運転手に化けていたのも意外だが、愕きは彼が車を運転しているという、その点にあった。松原自身はまだ運転の仕方を知らず、覚えようとも思わなかったからである。両手両足をフルに使いわけ、眼と耳を絶え間なく働かせて緊張の連続を強いられるうち、運転手はいつかごく自然に、かれら[#「かれら」に傍点]の望みどおり自動人形化してしまう。いや、人形化計画のそもそもの始まりは、この夥しい車の氾濫にあったと考えている松原には、到底その席に坐って器械に変ずるまで待つつもりは最初からなかった。それを、こともなく、しかもさっき乗ったときからの運転技術を考えれば、相当高度にこれをこなすほどの、もう一人の松原の存在などあろう筈もなく、明らかにそれは第三者であり、顔がそっくりというなら何者かの扮した贋者に間違いはない。といってそれをもう一度確かめようにも、間のガラス仕切りは嵌込み式で開かず、すべては霧の底に沈んで、見えるものといっては対向車のオレンジに輝く霧灯の他にはなかった。
かりに運転席にいるのが本当に鏡の中の彼というなら、すでに絶対の優位に立っている奴といまさら決闘に及ぶまでもない、武器はピストルであれラピエールふうな長剣であれ、こちらの敗北は眼に見えている。
[#ここから1字下げ]
――それともかれらは、己が手に負えなくなってこんな贋者を用意し、何とか嚇かして己をもっと従順な人形にしようというのだろうか。人間の記憶をいっさい頭から払い落し、嬉々としてピーマンまで喰べるような無気味な新しい生物に変えたがっているのか。己はこれまで充分に勤め先では人形のふりをし、定刻がくるまで役立たずな書類を天井に届くほど積みあげる作業に熱中してきたというのに、それだけではまだ忠誠心が足りないという判定が下ったとでも?
[#ここで字下げ終わり]
そこで松原は、見えないながらもう一度仕切りのガラスを叩き、運転席へ呼びかけた。
「おい君、君がそういうならいかにも決闘に応じもしようさ。それで、もしぼくが負けたら、今度はどうすればいいんだい。鏡の中に君が現われたら恭々しくお辞儀をして、囚人第一号、異常ありませんとでも報告すれば満足なの? そんなことで済むなら、何も決闘まですることはありゃしない、いつでもそうしてあげるよ。君だってまさか決闘でぼくを殺してしまったら、これから先、いつまでもからっぽの鏡、自分の映らない鏡を眺めるしかないんだぜ。さあ、もう家へ帰ろう。とっくに察しているだろうが、ぼくにはそろそろ、あの流しの傍に積まれたまま静かに腐ってゆく緑の野菜や、影のように坐っていつまでも煙草を吸っている少年が恋しくなってきたんだ。あれしかぼくの仲間はいないし、結局は雫の垂れる窓ガラスを内側から眺めているしかすることはないんだって、ようやく判ってきたところだからね」
しかし、そこまで譲歩し懇願しても、運転席に答えはなかった。松原の心に兆した不安は、ようやく確かな怯えに変った。いい気になってこの黒い車に乗りこんだのは、やはり間違いではなかったのか。かれらの管理する社会は知らぬうち苛酷の度を加えて、折角の発明品であるピーマンをわざわざ選りわけて喰べまいとするような不穏分子は、この際すべて消してしまうように決められたのかも知れない。でも、ピーマンだけは嫌だ。あの異臭だけは堪えられない。あの|髑髏《どくろ》の眼のような空洞を口に入れたら、心の中にいつまでも塞がれない黒い穴があいてしまうだろう。……
霧の中を車はなおも疾走し、処刑の場の断崖が近づいていることを松原は知った。死ぬ前にもう一度、自分の指を眺めたい思いがしたが、それさえ適えられそうもない。松原は左手で右手をまさぐり、その骨立った感触と、仄かな|温《ぬく》みとをいとおしんだ。
……………………………………………
家に帰りつくが早いか、松原は何を措いても鏡の前に走った。期待と不安とは|交々《こもごも》胸を領して締めつけられるばかりだったが、いまそれは二つながら適えられた。鏡の中に、相手の姿はみごと消え失せていたからである。
「ああ、お前!」
からっぽの鏡の前で、贋の松原は悲痛な声を|迸《ほとば》しらせた。
「そうする気はなかったんだ。そうまでするつもりは己にはなかった。これはただ命令さ。命令でしたことなのさ。お前は決して悪い奴じゃない、ただちょっと、ほんのちょっと欠けているところがあっただけなんだ」
しかし、眼を挙げて、台所の隅に積まれたまま滅んでゆこうとする緑の野菜と、たった一つの椅子に腰かけたまま、無表情に煙草を吸っている少年の姿が――こちらには決してないその情景が眼に入ると、松原はふいに唇を歪めた。
「そうさ、馬鹿者めが。あの野菜の中にたった一つピーマンを入れてさえおけば、こんなことにはならないで済んだんだぞ」
憎々しげにそういい棄てると、山道でかぶった霧の雫と塵埃と、それからほんのちょっぴりついた血の痕を洗い落すために、黒い愛車の傍に戻った。
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扉の彼方には
扉というものは、いったい出てゆくためにあるのか、それとも入ってくるためのものか、考え出すと|宮坂《みやさか》|四郎《しろう》には、それがただ一枚の板戸ではなく、ひどく堅固な鋼鉄とか岩のように思えてくるのだった。もとより生身の躯が突き抜けられる筈もない、頑丈な障害物として眼に映り、それが閉っているというだけで地底の牢に幽閉された気がする。扉には必ず把手なり引手なりがついているので、それに手をかけて押すなり引くなりしさえすればいいようなものだが、そこへ手を伸ばすその動作が次第にぎこちなくなってゆくのが自分でも判った。もしこの扉が出てゆくためのものでなく、入ってくるためのものなら、手を触れる行為そのものが違反であり、禁じられてもいる筈だ。敵≠ヘまた必ず扉の外に息を殺してこちらの様子を窺っており、規則に反して出ようとする者に容赦はしないだろう。引戸ならいい、左右に動く引戸なら、それは初めから出口も入口もない、共通の通路だ。しかし向うへか手前へか、どちらかしか動かぬ扉の場合、わけても内部から手前へ引く式の場合は、明らかにそれは入ってくるために作られているので、そこから出てゆくという行為が間違っていることは、誰の眼にも明白であろう。
一度その思いに取り憑かれてしまうと、宮坂はどうしてもこのアパートの自分の部屋に、二つの扉が必要なことを痛感した。第一、入るためのところから出てゆく、その罪悪感がたまらない。いまはまだ敵≠熄ュしは寛容に、いちいち咎め立てをせず、黙って見逃してくれているが、度重なれば決して放ってはおかないだろう。不意の銃弾か、有無をいわさぬ白刃が、ある日突然にこの胸を貫くことになるだろう。
[#ここから2字下げ]
――御免なさい。御免なさい。悪いことは知っているんです。そのうち必ずもうひとつ扉をつけて、それは外へ開くようにしてそちらから出ますから、ちょっとだけ勘忍して下さい。
[#ここで字下げ終わり]
そう口の中で呟きながら、ごく細めに扉を引き、廊下の気配を窺う。誰もいなければするりと躯をすべらせて抜け出るが、チラとでも人影が眼に入ると、大急ぎで扉をしめ、そこに凭れるようにして吐息をつく。
[#ここから2字下げ]
――危なかった! やっぱりちゃんと奴らは見張ってるんだ。そうして己の違反の回数を計算して、ある数になったら検挙するか、それともいきなり処刑しちまうつもりでいるんだ。
[#ここで字下げ終わり]
実際、廊下の向うの人物は、宮坂が急いで扉をしめ、またそろそろとあけて覗きにかかると、ひどく不審そうに、そして疑わしげに、さっきと同じ姿勢でこちらを見つめていることがよくあった。よくもそんなところから大胆に、図々しく出てこれるなというような咎め立てる眼をし、時にはそのままこちらへ引返してくる場合さえある。宮坂は押しつけるようにもう一度扉をしめ、把手を固く握りしめたまま冷汗を流し続けるのだ。そいつは扉の向うで何か独り言をいい、時には扉を叩いて呼びかけることさえあったが、蒼白に顔をひきつらして眼を閉じ、御免なさい、勘忍して下さいと呟き続けている宮坂には、到底その声は届かなかった。
[#ここから2字下げ]
――早く何とかしなくちゃ。こんなことがいつまでも許される筈はないんだから、出ていい扉を作らなかったら、もうすぐ己は処刑されるに決まっている。壁を破るのも大変だけど、でもどうにかして……。
[#ここで字下げ終わり]
血走った眼でうろうろと室内を見廻し、どこか簡単に破れるところはないだろうかと考えるうち、それもいわば収容された監房に勝手な脱け穴を作るようなものだと気づく。その方がずっと罪は重く、そんな作業に取りかかったら、それこそ光の射さない罰房に移されて、暗黒の石畳を這い廻らなくてはならないだろう。しかし一方で出口でないところから出ているという罪障感は、ますます強く彼を苦しめた。
部屋の中にいるとき、宮坂は決して内側から鍵を閉めたことがない。もともと罪人自身が鍵を持っていること自体が異常なので、本当は、もし内側から何とか外側に鍵をかけることが出来さえすれば一番いいのだが、人手を借りずには果せそうもない。その代り、うまく誰の眼にもつかず扉の外へ脱け出せた時は、歓喜に手が震えて、鍵穴にうまく鍵が入らぬことも屡ゝだった。これで奴はしばらく閉じこめられ、どう|足掻《あが》こうと|※[#「足偏+宛」、第3水準1-92-36]《もが》こうとしばらく出るわけにはいかない。鍵をかけ終ると宮坂は、部屋の中で苦しんでいる宮坂を思って胸を躍らせた。
「ざまァみろ、思い知ったか」
初めは小さな声でいっていたのが、だんだん大きく怒鳴るようになって、あちこちから人が顔を出すこともあった。宮坂はその人々に精一杯の笑顔を見せる。大丈夫、悪い奴はこうして閉じこめました、私があけてやるまで、奴はここで後悔と懺悔の生活を送るんですというその合図の笑いは、本当ならすぐ皆から肯き返される筈だのに、その連中は妙にお互い顔を見合せどこか不安気な表情をするのが気に入らない。
「大丈夫ですか、宮坂さん」
中にはそんなことまでいいかける者さえいる。
「大丈夫ですとも」
宮坂は意気軒昂と、抜きとった鍵を皆なに見せて廻るのだ。
……………………………………………
一方、残された宮坂は、決して騒いだりはしなかった。腰をおろし、両手で膝を抱えたまま、考えることはひとつだった。どうしたら内側にいて外から鍵をかけられるかという問題である。人に頼まず、また人眼につかず、扉の外に差し込まれた鍵がそろそろと廻り、かちりと音を立てて施錠され、その上、出来れば室内の自分の手も届かぬ離れたところまで鍵が抜き取られて運ばれるにはどうしたらいいか、そればかりを熱心に考えていた。
機械仕掛というのは味気なくて嫌だし、後に何らかの痕跡が残るのも面白くない。ごく自然な形で好きなとき外から鍵をかけられ、自分が室内に閉じこめられるというのが、この課題の眼目であった。世に行われている推理小説には、被害者だけを室内に残して、犯人が外から巧みに中の鍵をかけ、しかもその鍵をたとえば屍体の掌に握らせるという、いわゆる密室殺人なるものがさまざまに考案されているらしい。宮坂の場合は話が逆で、決して内側からはかけられない状況で外から鍵をかけたい、それだけが出口ならぬ出口から出て行こうとする自分への罰であり、それで初めてもう二度と大それた行為をしなくなるだろうという期待があった。何かの参考になるかと思って、その密室殺人の手口もいくらか調べてはみたけれども、自殺する人間がある理由からそれを他殺に見せるため、外から施錠するというケースに|当嵌《あては》まるらしい。複雑な機械仕掛を除くと、たとえばこんな例がある。扉の内側に大鏡を立てて、変装した被害者自身が自分を訪問する。目撃者のいるのを承知で、鏡には被害者自身が写るようにし、変装した方は後ろ背だけを見せて室内へ招き入れられたように姿を消す。あとは大鏡だの変装用具だのを始末して被害者の姿に戻り、そこで倒れて死ぬと、目撃者はその間ずっと扉から眼を離さないので密室殺人が成立するというのだが、これではいかにも不自然で、宮坂の考えている趣旨には合いそうもない。それに、目撃者がそうそう都合よく見張ってくれる筈もないから、いつ発見されてもいいように――つまり一つの棺の中に身を横たえ、蓋をおろし、しかも外から人の手を借りず、充分な自分の意志で施錠するという形が望ましかった。確かに棺というものは入るもので、決して出るものではない。正確にいえば入れられるものだが、まだこちらが生きたままということになると、その仕掛は意外に複雑なことになりそうだった。
それともこうしたらどうだろう。外出するとき、わざと変装して宮坂とは思えぬようにしておく。扉の外へすべり出て、鍵をかけながらこれも声色で何かを怒鳴ると、いつものように誰彼がきっと顔を出すだろう。そこで顔を見られぬよう走りぬけて、ほとぼりの納まったころ帰って部屋に入り、宮坂自身に戻っているというのでは。しかしこれも、怪しい奴だというのですぐ一一〇番されたり、あるいは折角の健をこじあけられて中を点検され、誰もいないと判ると、やはりいま出ていったのが背恰好も似ていたし宮坂自身に違いないということになって、計画は何の効も奏しないのは眼に見えていた。むろん外の鍵だけは特別誂えの大きな南京錠にして、出来合いの安っぽい合鍵が利く扉の鍵などは使わないにしても、とっさの間の一人二役が出来ないのでは意味がない。犯人らしい奴が皆の眼の前で施錠し、一目散に逃げ出すのを|訝《いぶか》しんだ人々が、すぐ扉を破って入りこむと、もうそこに宮坂がいるというのでなければ駄目である。窓というものは初めから彼の念頭になく、部屋というものは壁も天井も床もない、ただ扉ひとつのついた空間として常に存在した。その扉が、出る扉か入る扉かだけが問題なのだ。
だが、そうして日夜考えこむうち頭に浮かんだ棺という想念は、ひとときひとつの啓示になった。棺には扉がなく、出入口は蓋になっていて、持上げて開けるか、おろして閉めるかという形を取る。死者は人形のように扱われるだけで、ここに自分の意志で出入りする奴は吸血鬼ぐらいしかいない。密室トリックを調べてみると、段々に手がこんできて、しまいには天井の一部を持上げて屍体を放りこんだり、あるいは屍体が先にあって後から部屋を建てるなどというケースもあるらしいが、これもおそらく棺からの発想であろう。その出入りの形式は長く心にとまって、扉ならぬ扉の存在を執拗に考えつめることもあったが、結局それは自分に課した重要な問題からずれたところで解決をつけようとすることだと反省した。扉だ、扉だけが問題なのだ。いっそのこともう、誰かが出ていいと声をかけてくれるまで、ここから出るのはよそうかと思った。心の痛みを押し隠し、周りの人眼を窺いながら外に忍び出て、いったい何をしようというのか。学校へ行く。しかし学校というものも、宮坂にはよく理解のつかぬものになっていた。そこにも扉があり、しかも大抵は明け放しになっているため、皆は平気で出入りしているけれども、それだって、もしかりに閉っていたら、宮坂にはたぶん手が出せぬものに変っていたろう。その大事な問題を語り合う友人は、そこには一人もいなかった。
あるいは部屋でつくねんと膝を抱えていると、ときどき現金書留が届く。それは紺の制服を着た郵便配達が持ってきてくれるのではなく、必ず管理人と称する小肥りの小母さんが受け取っておいて手渡すのだが、そのたびに扉の隙間から|胡散《うさん》臭げに中を覗き、宮坂の顔を気味惑そうに眺め、
「出かけるとき、あんまり変な声を出さないで下さいよ」
などと、つっけんどんに言い置いたりするのが堪えがたかった。そうして渡された金で、いったい自分は何をしているのだろう。パンだのバターだのトマトだのという喰物を買う。それで自分を養うという行為。あるいは町の食堂で、薄い味噌汁を啜るときの卑屈な温もり。それらも、ほんのひとときの許された自由の範囲でしていることで、部屋に帰れば、あの建物に一歩でも入れば、すぐ隠微な眼くばせと囁きと、時には聞こえよがしな罵りの声まで聞かされる、それが生活の全部なのだ。
「貴様はもう出るな。出ちゃいかん」
外から部屋に鍵をかけるとき、宮坂は大声でそう申し渡すようになっていた。中にいる筈の青年は、聞えているのかいないのか、ひっそりと音も立てない。
そしてある日、気配が違った。いつものように怒鳴って、念のためにガンガン扉を叩いていると、廊下いっぱいの人だかりは変らなかったが、その眼はすべて期待に溢れていた。宮坂だけがアパートの表に護送車の停ったことを知らなかったのである。白衣を着た屈強な男が二、三人、階段を駆け上ってきた。
……………………………………………
「そうすると、君はうまうまと奴を閉じこめてきたってわけだね」
年配の男は、優しい表情で、いたわり深く話しかけた。
「ええ、もう大丈夫でさ。出られっこないすからね。なあに、出さえしなきゃいいんすよ。もともとあの扉はこっちから入るためのものだのに、奴ときたらもう長いこと、知ってる癖に中から平気で出ていたんだ。罰をくらうのは当然でさァ。まあこれでしばらく放っときゃ、いい薬になりますよ」
注射のせいとも知らぬげに、宮坂は饒舌になり、得意げに喋り続けた。
「だけどあそこはちょっと、閉じこめるには不向きなところでね。造りがひどく|柔《やわ》だし、鍵もね、初めのうちは両側から共通の穴ひとつしかなかったんすからね。ええ、あたしがこんなでっかい南京錠をつけたから少しはいいけど、窓に鉄格子さえ嵌ってないんじゃ、不心得者は勝手に飛び出しかねないすよ。それに皆な非協力的でね、あたしがやっと閉じこめてざまアみろっていうと、出てきてぶつぶつ文句をいうんだからなア。独りで大変でした」
「それは御苦労だったね」
年配者は逆らわない。あくまでも穏かな笑顔のままにいった。
「そうすると彼は、出口でもないところから平気で出ていたってわけだ。それはいかん。それはいかんが、君自身はすると何かね。看守の当然の権利として中へ入っても出るときは本来なら別の出口から出なくちゃいけなかったんじゃないか。何しろあの扉は入口で、出口じゃなかった筈だからね」
「ええ、ええ」
宮坂はうっすらと靄のかかってきたような頭をもてあまして、ためらい勝ちに答えた。
「ですからね、それは苦労したんすよ。ええといま何ていいましたっけ。カンシュ? そうだ、カンシュだ。看守は規則として入っていい。でも出るときはね、つまり奴のふりをして出るんです。奴がいつも規則違反をやらかすように、そうっと細目に扉をあけといて、誰もいないのを見澄ましてするっと、こうね、こうするっと体を|躱《かわ》して、うまーく忍び出るんでさ。まあ、それでもよく見つかって、また慌てて扉を締めたりしたけど、三遍に一遍ぐらいはね、成功するんです。で、出ちまえばもうこっちのもんですからね、ガチンとしめて南京錠をおろして……」
「ちょっと待った」
びっくりするほどの大声で留めると、男は俄かに眼を光らせた。
「それじゃあ証拠にならない。いいか、出てきたのが本当に看守の君だって保証はどこにもないじゃないか。もしかすると宮坂四郎が君のふりをして出てきたのかも知れん。オイ、欺そうとしても駄目だぞ。君は本当は宮坂なんだろう。そうだろう? よく自分を見廻して見給え。え? え? え?」
その声はいつまでも|谺《こだま》になって耳に響いた。それにつれて自分がずんずん小さくなり、椅子の上に一寸法師のように縮かまり、畏まっているのも判った。両手で耳を蔽うと、涙声になって懇願した。
「許して下さい、勘忍して下さい。そうです、ぼくは宮坂です。うまく欺して逃げ出すつもりだったんです。もうしません。しませんから勘忍して下さい」
見上げるばかりの巨大な赭ら顔の猿が、唇を捩じ曲げて笑った。鋭い犬歯が伸びるだけ伸び、その口はいまにも自分を一呑みにするほどだった。
「とうとう白状したな。出口じゃないところから出たらどうなるか、お前にはよく判っている筈だぞ。そうら、もう逃げようたって駄目だ。ほら、ほら、ほうら」
指先でつまみあげられると、テーブルの上に一吊しで運ばれ、何かの薬品の入ったビーカーに漬け込もうとする。足をばたばたさせても無駄だった。たぶん自分は濃硫酸か何かで骨まで溶かされるのだろう。宮坂は声を限りに叫んだまま失神した。
眼を覚ましたのは真白な部屋だった。窓も見えず、天井も床もただ白一色の部屋。そこのベッドの白いシーツの中に埋まっている自分を発見すると、何よりもまず自分の手の赤さが気になった。白い寝巻のまま裸足で床に降りると、今度はその足首の赤さが目立った。
「早く、みんなと一緒に白くならなければいけない」
そう口に出して呟いたが、それはどこかにスピーカーでもあって、そこから告げられた言葉のようだった。
白い闇のなかを手探りで歩き出したが、壁までの距離感がさっぱり掴めない。ようやく何か固いものにつき当る。まさぐってもどこまでも平面が続く、滑らかな手触りだった。眼を|瞑《つむ》って探り続けた。どこにもどんな小さな突起もないことを確かめ終ると、ようやく本当の安心感が全身にみなぎり、彼は床に崩れた。扉のないことだけが、いま唯一の救いだった。
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藍いろの夜
枯芝の土堤は陽だまりに烟った。さすがにもうボートに乗る者はいない。風のたび|水皺《みじわ》を揺らしているこの濠も、やがて|薄氷《うすらい》を張りつめることだろう。
「こんどの正月には、ひとつ着物を着てみるかな」
そう|峻《たかし》がいい出したとき、|三輪子《みわこ》は一心に水面を見つめていたので、とっさの返事に詰った。
「え、ああ、いいわね」
それは、われながらお座なりないい方に思えたので、今度ははっきり横顔に向き直って訊いた。
「着物は、持っていらっしゃるの」
「いいや」
峻は前を向いたまま笑った。
その|皓《しろ》い歯、それは今年の四月に、アルバイトで入社したときに見せたそのままである。
――|矢島《やじま》です。
――わたくし、|岡田《おかだ》です。
初めての挨拶を交したときから、胸苦しいまでの思いに捉われたのは、堅い木の実でも苦もなく噛み砕くほどの、この歯のせいである。それから秀でた直線の鼻梁、それは、つねに横を向いている。これまで一度も――少なくとも三輪子が話しかけたときは、かつて一度もこちらに向き直ったことがないと思われるほど、それは端麗な横顔を刻んだ。三輪子がそこに見出すのは、早くに両親を歿くして独り住居をし、冬には猟銃を持って山に入るだけが娯しみという青年の、孤独な翳りではない。この半歳の余、こちらの好意だけは素直に、むしろ無遠慮に受け入れる弟≠ナある。その代り胸中の思いには決して手を触れようとしない弟≠フ貌である。……
――六つも齢が違うというのに。
自嘲はそのたび苦い葡萄のように|潰《つぶ》れ、三輪子は今日もまた光沢のいい鼻翼を|窃《ぬす》み視るほかはなかった。
「でも貴方には、デパートで売っているようなウールのアンサンブルなんか、絶対にいけないわ」
三輪子は力をこめていった。
「どうして」
「だって安っぽいじゃありませんか」
峻は答えない。どうせそれぐらいしか買えやしないという思いでいるのは判っていたが、和服というのなら峻には、ぜひとも|紬《つむぎ》を着せてみたかった。それも|藍甕《あいがめ》からいま引上げたばかりというほどのを。
「そりゃウールでも、このごろはずいぶん上等なのが出てますけど、貴方には似合わないわ。ね、こうしない? わたしの知合いの呉服屋さんでね、とってもいい生地をたくさん持っているところがあるの。そこでならデパートと同じくらいのお値段で仕立ててくれるかも知れなくてよ。一度御一緒してみましょうよ」
峻はふきげんそうに黙っていた。暮れのボーナスも、勤めたばかりのアルバイト学生では、出るにしろたかが知れている。ただ帰るべき故郷のないかれには、子供の時分からこの方、久しく着たことのない和服で正月を迎えたら少しは気が晴れるかと思い立ったばかりだから、めんどうに呉服屋まで行って、あれこれ三輪子に世話を焼かれるのは、うるさいばかりである。そう思うと、朝日しか当たらない自分の部屋で、元旦だけ仕立ておろしの着物で|畏《かしこま》ってみたいという気持もたちまち崩れた。
「風が冷たくなったな」
濠の水皺は俄かに寒々とひろがり、峻は尻をはたいて立上った。林や土堤の小径に、午の休みを終ろうとして帰りかける姿がもの憂げに動いた。
「何をしているの。帰ろうよ」
「ええ、いま」
三輪子は奇妙な微笑を洩らして峻の顔をふり仰いだ。ジャンパー姿の長身に、いままで夢みていた幻の裸身をすばやく重ね合せた。筋肉質の白い肌のそこかしこに、脱ぎ棄てた紬の藍が沁みつき、それはほとんど香い立つばかりに思える。三輪子は仕立ておろしの着物を、青年の素肌にじかに着せたいと希っていたのである。
――結局、峻はその呉服屋に連れて行かれた。あらかじめ見立てておいたらしい生地は平織りの十日町紬というもので、峻には初めて見る高級品に思えたが、きょうは絶対にお値段のことを口にしちゃ駄目、呉服屋さんではそれはとても野暮なことなのと釘をさされていたので、こんな買物をしたことのない峻は、そんなものかと思って任せるよりなかった。
「そりゃあもう、お正月は平織りが結構でございますな、こう|畝《うね》の出ましたものは、やはりふだん着という感じでして……」
呉服屋の主人は寸法を採ってしまうと、もっぱら三輪子を相手に喋った。今日の三輪子はよそ行きのスーツに、これまでしたこともない大きな指輪をはめ、週刊誌やテレビなどで見る青山通りのミッシーといった風情でいるのが、峻にはひどく奇異に眺められた。
「殿方のお正月着ということになりますと、これはやはり下着からちゃんと致しませんと……」
主人はすっかり心得顔で、藍微塵の着尺地を押しやると、そんな講釈をした。肌襦袢や長襦袢、それに黒繻子の足袋は、お祝いにわたしから贈ると聞かされていたので、峻の心配はもっぱら角帯の締め方や羽織の紐の結び方にあったのだが、いま改めて下着からといわれてみると、何かしら|胡乱《うろん》な、淫靡な漂いがあった。果して主人は、とんでもないことをいい出した。
「まずお腰でございますな。これからきちんと締めませんと」
峻は呆気にとられ、呻くように掠れた声を出した。
「嫌だよ、オレ、そんな腰巻だなんて」
実際かれには、お腰と聞くが早いか、まるで自分が湯女か御殿女中の仮装でもさせられるような気がしたのだが、主人は笑いもせずにいった。
「いえいえ、これが不思議なものでございまして、これを召しますと初めてこう和服が身についたという気がなさいます。まあ|験《ため》してごらんなさいませ」
峻は眼を光らせて黙っていた。スコットランドふうにスカートをつけることを考えただけでも冗談じゃないという気がするのに、ましてびらびらの湯文字! それが自分の腰にまつわりつくさまを思うと、みじめたらしい男妾になりさがって、あさましく女の歓心を買うかたちとしか映らない。そしてかれは突然に気づいたのだった。それこそまさにいまの、そしてこれまでの自分の姿そのものではないのか。
峻の押し黙った憤怒を見てとると、三輪子は陽気に割って入った。
「いいじゃないの、そんなものは後のことで。それよりもお仕立てのほう、お正月に間に合せていただけますわね」
「へえもう、そのほうは確かに……」
近くの喫茶店で向い合うと、峻は|頑《かたく》なに、あんなもの要らないとだけくり返した。顔は伏せたなりなので、三輪子はせっかく正面に坐りながら、またしても光る鼻すじばかりを眺めることになった。
「ですから下着のほうは好きになさいな。あの十日町紬は、本当に安いの、信じられないくらい。ですから貴方はデパートで買ったつもりで、二万円だけお出しになればいいのよ。襦袢や仕立て代は特別にまけてくれるんですもの、御心配はいらないわ。ね、せっかくの晴れ着でしょう。少しでもいいものを身につけたほうがずっとお得よ」
三輪子はわざと値段を口にした、実際の差額の十万円ほどは、もし峻の肌に沁みついた藍の、その鋭い香を嗅ぐことが出来るものなら、なんの痛痒もない出費に思われた。
「いいんだ、オレ」
最後の弱々しい呟きには、とどめを刺すようにこう答えた。
「黙っていうことをお聞きなさい。しようのないやんちゃな弟ね」
∴
その年のクリスマス・イブは月曜だったので、二人は一日早めに三輪子のアパートでささやかな祝宴を開いた。仕立てがその日に出来るというばかりではない、休みに入るとすぐに峻は山へ入るというので、一度その猟銃を見ておこうと思ったのである。丙種免許のポンプ銃と聞いていたので、案ずるにも当らないが、小さな鳥や獣を殺傷するからには、なにがしかの凶の紋章を帯びずにはいないだろう。
食卓には四本の太めなクリスマス・キャンドルが点されていたが、部屋の暗さは入ってきた峻の眉をしかめさせた。二十一歳のこの青年には、炎のゆらぎさえ純潔ならざるものの祝祭に映った。
「着物、出来ているわ、でもその前に、その銃をちょっと見せてちょうだい」
ことさらに胸の張りを誇張した白のドレスで三輪子がいうと、その姿は洞窟の奥に潜む古代の巫女さながらで、峻は黙ってケースを開いた。
「まあ、美しい」
素直な讃嘆をいおうとして、声は咽喉につまり、へんに嗄れた。初めて間近かに見る銃は、漆黒の銃身も、木目の美しい|銃床も、すべて若い、清潔な男性の化身のように思われて、三輪子は息をのんだのである。この銃口は火よりも熱い何物かを吐き、瞬時に稚い小動物をのけぞらすことだろう。
「これで、何を射つの」
「|鶫《つぐみ》か土鳩ぐらいさ。野兎にでも逢えりゃいいけど、こんなの、玩具みたいなものだもの」
「その野兎は、さぞ白いでしょうねえ」
三輪子は、意味もないことをいった。胸のあわいを射たれ、僅かに血が滲んだとしても、小動物はまだ死んではいない。|蹲《うずくま》り、待ち佗びるのは、落葉を踏みわけて近づく、しめやかな跫音である。眼を輝かせ、息を荒くして獲物へ手を伸ばす若者である。三輪子はもう一度、漆黒に輝く銃身に見惚れた。この長い、鍛えぬかれた脚。これはまさしく弟≠フものだ。弟≠サのものだ。……
「ああ、わたしもこんな銃が欲しいわ」
三輪子は本音をいった。
「さあ、先に葡萄酒で乾杯しましょうよ。今夜は少し強いお酒も用意してあるの」
暗い灯の影で三輪子はグラスの血紅色をいとおしんだ。ロースト・チキンを暖め直し、冷した山盛りのサラダが青年の口唇へ勢いよく運ばれるのをこころよく眺めた。峻の酒量は知れたもので、眼元には早くも潤みがつき、優しい表情になっている。いまならば仮りにギターを持たせたら、かき抱いて低く恋の歌を唄い出すだろう。三輪子はバーゲンで仕入れたスコッチで、手早く水割りを二つ作ると、その一つを蝋燭の灯に|翳《かざ》した。
「ごらんなさい、氷の美しいこと。わたしもきょうは少しいただくわ」
三輪子は青年期特有の純潔を、少なくとも純潔好みを知っている。どんな誘惑もそれが|生腥《なまぐさ》い舌のように見えたが最後、容易に身を翻す性癖を知っている。かつて峻が二度とあの風呂屋には行かないぞとか何とか、ぶつぶつ言っているのを訊いてみると、番台の親爺が冗談に、そんなにのびあがってまで女湯を覗くなよと笑ったからだと知っておどろいた。そんな些細なことにも傷つく性の悒鬱をいっぱいに抱えこんでいるからには、媚態のかけらでも示すが早いか、すぐにも暗く顔をそむけて遠くへ立去ることだろう。三輪子は軽やかなアルコール分子が、峻の血管の中で奔騰するのを待った。それで何を誘うというつもりはない。ただかれの血潮が四肢に若々しく充実し、その極まりの果てに藍の香で蔽うひとときを焦がれたのである。
「そろそろ着てごらんになる、着物」
三輪子はさりげなくいった。とはいえそれは充分な間合いを測った上のことで、曖昧に笑って「まあいいや」などとはいわせない響きを持っていた。
「お襦袢も出来ているけど、貴方、おいやでしょう。ぞろっとして。素肌へじかに召したほうがいいね。きっとそのほうがお似合いよ」
|畳紙《たとう》をひらきながらそう続けたが、峻は意外にも、はにかみながらこんなことをいい出した
「ねえ、そのお腰ってのも出来てるの」
「ええ、入っているわよ。どうして」
「オレ、友達にいわれたんだ。男でも女でも和服っていうのは下着で着るもんだって。だから一度、ちゃんと着てみたいんだよ」
それがアルコールの作用というなら、三輪子にとってはとんだ計算違いであったが、いまさら反対する理由もない。三輪子は黙って二つの畳紙を押しやった。
「お願いだから向うを向いててよ。絶対に、だよ」
壁に向いた三輪子のうしろで、手早く服を脱ぎ棄てる音がし、影は部屋いっぱいに大きくゆらいだ。臆面もなくここで素裸になれるというのは、アルコールのせいでもなんでもない。わたしを女でなく姉としてしか見ていない明らかな証左であろう。
――念願どおりじゃないの。
三輪子は自嘲した。とはいえその自嘲は、ほとんど憤怒に近かった。
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――呉服屋ではあれほど怒ってみせたというのに、なんという裏切り!
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三輪子はむかし何かの雑誌で読んだ、さる新派の名優が、弟のところへ行く姉に扮する心がまえを作るため、舞台ではもとより必要のない猿股を一つ、箱の中へ入れて抱えたという芸談を思い出していた。下着の心配までしてやるというのがおんな≠ナなく姉≠フ|証《あかし》になるのかどうか、そこのところは疑わしいが、それにしても猿股と違って腰巻というのは、どこか滑稽で、締らない。
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――ああ、もしそんなものをつける前に、紬をわたしの手でひろげ、裸のうしろ背からふわりとかけてやることが出来たら、そうしてたった一秒でもその肩に鼻を押しあてることが出来たら!
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しかし、三輪子の希いの刻はすでに過ぎつつあった。その引緊った白い腰はだらしなく湯文字に巻かれ肌は襦袢に隠され、そして上から藍の紬をまとった恰好でふり向くと、峻はこともなくいった。
「もういいよ。ねえ、角帯の本式な締め方、ちゃんと聞いてきてくれた?」
それにしても藍の香りは、そんなにも早く飛び去るものであろうか。峻の肩に手をかけ、帯にも手を添えて締めるのを手伝ってやりながら、三輪子は久しい念願だった鼻を撲つ筈の香りが掠めもしないのを、ふしぎに思う気持もなかった。
「そ、一回廻すごとにポンポンと叩いて、手早く締めこんでゆくのよ、そんなぐんにゃり巻いたら、さまにならないわ」
声は少しは尖っていたに違いない。
「どうしてかしら、腰骨の下にきりっと巻きつけたら、そんな、ずれるなんてことないのに。痩せてる人って、やっぱり和服には向かないのね。そうだわ、おなかに手拭でも挟んでごらんになったら」
いかにも、いま三輪子が涙の滲むほど欲しいと思い、傍にいて欲しいと念じたのは、父親のように大きく突き出た腹を持ち、父親のように暖い微笑を絶やさない、これまで一度も考えたこともない肥り|肉《じし》の男性であった。その傍でならわたしは、何日でも安心して眠り続けることが出来るだろう。……
「履物は自分でお買いなさい。この着物なら革の鼻緒の、五千円ぐらいするんじゃないと合わないわよ」
邪慳にいい放つと三輪子は食卓に戻った。あまりにも長く、不当に自分を苦しめてきた年下の男性への愛着が、いま残りなく虚空に翔び立つ思いに浸りながら、いつまでも水割りのグラスを揺らし続けた。
∴
峻は山へ入ったまま帰らなかった。どういう獲物を追い損ねたものか、崖から足をすべらせ、念入りに頭を打って死んだ。身許は携帯していた許可証からすぐに知れたが、三輪子の許へ会社の同僚から知らせがあったのは、もうすでに|茶毘《だび》に付されたあとで、遺骨はふだん往き来もない母方の叔父が迷惑そうに引き取ったという。
「あのぶんでは、とてもお墓へ入れてもらえそうもないわね」
同僚の|登美子《とみこ》は、そうつけ足した。
なにぶんにも会社が休みで、総務課長だけが金一封を持って出かけたほか、まだ誰も知らない。
「そうそう、貴女がよく面倒を見てらしたなと思って、おととい聞いてからすぐここへ来たのよ。でもお留守だったから」
「ええ、鉄砲打ちに山へ入るとは知ってたの。危いからって、ずいぶんいったんだけど……」
三輪子はいい加減な相槌を打った。同じ課で席が隣ということから、二人の仲はべつだん不自然というほどのものではない。ただこれも齢のいった登美子には、事実以上の組合せに映っていたことであろう。
「身寄り頼りがまったくないっていうから、何かと気を配っていたんだけど、孤独な人って、やっぱり孤独な死に方をするものね」
しらじらしくそういってから、ふいに思い出して訊いた。
「そうそう、それじゃあの銃どうしたのかしら」
「銃って?」
「鉄砲よ。小鳥か何か撃ちに行ったんでしょう。その猟銃」
「さあ、知らないわ。叔父さんが引取っていったんじゃない」
最初に知らせを聞いたそのときから、眉も動かさない三輪子の表情に拍子抜けしていた登美子は、なんの不審を抱いたようすもなく、早々に帰っていった。
実際、三輪子は、自分でもおどろくほど冷静だった。クリスマスの夜以来、すっかり心が離れたということばかりではない、実利的な計算もあったので、あの十日町紬は、代金こそ全部三輪子が立替えはしたが、一式そっくり手許に残されている。さすがにあの夜、もぞもぞと脱ぎ終えたものの、持って帰る気にならなかったのであろう。帯の締め方がまだよく判らないから、お正月前にまたくるよといい残して、峻はそのまま帰った。そのときからこれはもう形見の品に変じていたような気がする。平織りの地味な仕立てだから、何も二十歳そこそこの青年だけに向くとは限らない。背丈さえ同じであれば、三十代の固肥りの男性にだって少しもおかしくはないだろう。むしろそのときにこそ、喪われた藍の香は、一瞬の裡に鋭く甦るかも知れないのだ。唯一の証人である呉服屋は、あのときの青年が山奥で急死したことなど知るわけもない。
一度三輪子の心に兆したこの思いは、暮れの間じゅうふくらんで、それはまるで豊かなオーバーを一着新調したようだった。いまは冷えて沈黙している紬は、もうすぐ活力溢れる男性をその内側に迎え入れるだろう。これはまさにそのため、そのためにだけ残された幸運の使いのようにさえ思われた。
「貴方、ちょっと寸法計らせて。ううん、とってもいい贈り物があるの」
着丈から|桁《ゆき》、首回りに襟下と、ごつごつした腰骨の感触をしみじみ味わいながら、合うにきまっている男にメジャーをあてがうとき、妻の倖せは胸いっぱいにひろがるだろう。それをまあ、いまのいままで役にも立たたない年下の雛っ子にばかり眼を向けていたなんて。三輪子は街で男とすれ違うときも、必ず背恰好を値ぶみする眼つきになっていた。
初めて心をひらいて、年上の男性へ素直にかしずく気持になったことが、三輪子の表情まで変えたのであろうか、見違えるほど女っぽくなったと囁かれ、会社でもうちつけに、「どうしたの、岡田さん」といわれるほど、楽しげな微笑は絶えず口許に浮かんだ。予感がみごと適中し、理想どおりの身長を具えた男、|八木沢《やぎさわ》|太一郎《たいいちろう》が出現したのは、正月に入って間もなくのことである。うるさい係累もないようだし、言訳めいていう独身の理由も苦にならなかった。知りあったのはさる有名な天ぷら屋で、二人がけの合席で窮屈そうに坐っていると、四人がけの席に一人でいた太一郎がわざわざ立って来て、よろしかったらこちらへと慇懃に申し出てくれた、いささか強引な誘いに応じてのことだが、何よりそのときに見上げた背丈のあまりなほどの良さが否応なしに三輪子を頷かせていた。性急な求婚にもおどろかなかったし、三十代も半ばというのにひどく子供っぽい性格も却って好ましく、すべては幸運の女神の手招きのまま歩み出すことが残されていると思うほかない。結婚の日取りもきまった夜、三輪子はかねて夢見ていたとおりに男の寸法を計った。
「まあ、腰回りがこんなにおありになるのね」
「何をくれるんだい。ズボン?」
「ううん、もっといいもの」
童顔の柔和な眼が、いとしくてならないというように近づき、熱い抱擁に上気した躯は、男が帰ってからもいつまでも|火照《ほて》った。
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――ああ、こんな倖せが、わたしにはちゃんと用意されていたんだわ。そう、何かの童話にあったけれど、大事に手の中に握りしめていた宝石を思いきって|擲《なげう》ったときに魔法がとけて、万事めでたしになるというアレなのね。矢島君はわたしにとって青いサファイヤみたいなものだった。でもそれを棄てる決心をしたからこそわたしはおんな≠ノ戻れたの。そう、おんな≠ノ戻れたのよ。
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そう思うと、久しく忘れていた峻への供養をすべきだと考えついて、三輪子はあのときの太い蝋燭を引張り出して火をつけた。外はひどい|凩《こがらし》で、炎はしきりに隙間風にゆらいだが、気にならなかった。ついでに残りの葡萄酒やウィスキーも持ち出してくると、代りばんこに舐めながら、うっとりしたように峻へ呼びかけた。
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――こんなに風の激しい夜、貴方はまだあの黒い光沢のある猟銃を手に、どことも知れない暗い道を歩いているのかしら。可哀そうなわたしの最後の弟。貴方が崖から落ちたとき、眼の前を掠めたのは、たぶんこのわたしの化身の白い兎だったのよ。貴方に射たれたくて血を流したくて、いつまでも身を縮めていたわたしを、貴方はとうとう手も触れず行ってしまわれた。その代りの野兎に気を取られてみごと崖を踏み外した、その仕掛をしたのがわたしだと思われてもかまわないわ。それぐらい貴方はわたしを踏みつけにしたんですものね。でも、もう許してあげましょう。貴方の遺した藍いろの紬は、いますばらしい人に贈られて、そこで本当に香り立つんですもの。その藍の香に包まれてわたしは恍惚と昇天するんですもの。
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そのとき蝋燭の炎が再び激しくゆらいだのは、風のせいばかりではなく峻の幽かな応えだったのかも知れない。
約束の日、いそいそと取り出された畳紙に大きく記された商店名を見るなり、太一郎は無邪気な声をあげた。
「おや、着物をくれるの。それにしても偶然なのかな。この呉服屋、うちの親戚なんだ」
「なんですって」
「たしかおふくろの従兄弟か何かだよ。あの親爺、元気でいるかな。へんに職人気質で講釈のうるさいひとだけど、早速電話してやろう。わざわざ俺のを仕立てたんだって知ったら、きっと喜ぶよ」
太一郎はすぐ畳紙の紙紐をほどいて、十日町紬を引張り出すと、胸にあてがうようにしてしんそこ嬉しそうに三輪子を見返ったが、その姿は三輪子にはさながら青い幽霊としか映らず、もとより匂うべき藍の香はどこにもなかった。
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青猫の惑わし
「ねえ|岬《みさき》、来年は辰年なのよ。あなたの年なんですからね、もう少ししっかりしてちょうだい」
暮れのうちから母にいわれいわれしていたのだが、岬にはさしあたってこれという思いも湧かない。しっかりというのは、いつまでも遊び半分の勤めなどせず、早く婿を取って孫の顔を見せ、親を安心させろということだろうが、縁のないものは仕方がない。いまのところ望みがあるのは|沢渡《さわたり》という三十を過ぎた男だけだが、猫の抜け毛を上衣にもズボンにもつけた偏屈なタイプだかち初めから母の気に入る筈はなかった。
「辰年というのはね、|万《よろず》に立つといって運気の改まる年なの。龍は雲を呼んで天に昇るというぐらいのものですからね、少しはあなたもあやからなくっちゃ。ほんとに、辰子とでもつけとけばよかったわ」
「よしてよ、あんな爬虫類」
岬はいつも肩をすくめ、まあそれでも辰だから助かった、あと二年遅れて生まれたら、一生やりきれない思いをするところだったと考える。
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――どうして十二支には犬も鶏も鼠もあって、猫だけがないのかしら。
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それは、小さいときから不審でならず、口にしては笑われた。猫年だったらいいのに、猫に囲まれて暮せたら倖せだのにという久しい願いは、あいにく大の猫嫌いな両親のせいで、一度もかなえられたことはない。早くに独立すればいいようなものだが、一人娘では思いきったことも出来ず、猫好きな男性はまた必ず両親の気受けが悪かった。どこかうじうじして、女を倖せにするタイプではないという偏見は昔からのことだが、実際に岬自身もためらうほど、お人好しというだけの男が多い。しかし、辰年に運気が盛んになるものなら、せめてそれを機会に、一匹のしなやかな獣と夜をともにする幸運を願うほかにはないだろう。
家で飼えないから、いきおい岬はそこらじゅうの猫にかまうことになる。駅近くの八百屋に、いつもロロという名の仔猫がつながれているのを見ると、|蹲《かが》みこんで倦かずというふうに相手をせずにはいられない。
「ロロ、ミャウーワ」
「ミャー」
「ミャウミャーミャ。ちょっと小母さん、そのお葱とおじゃが、包んでくださらない。ミャーオミュ?」
「ミャ」
仔猫の返事はだんだん短くなり、ミャからミになって、そのミも咽喉にひっかかったぐらいの声にすぎなくなるが、それでも岬は耳たぶを|擽《くすぐ》り、|蹠《あなうら》のくぼみに指を入れ、ひととき離れようとはしなかった。
「ずいぶん猫がお好きなんですね」
ようやくやれやれと背を伸ばして立ったとき声をかけてきたのが沢渡だが、彼が手ぶらだったらそのまま軽く頬を染め、小走りに立去っていたことだろう。ところが彼は見たこともない毛並の、高貴な|面立《おもだ》ちをした猫を腕の中に抱えていたのだった。
ペルシャでもない、シャムでもない、青とも銀ともつかぬ毛の色も美事だったが、まるで無関心に、それでいてこの上もなく優雅に岬を見つめている金いろの瞳の奥深さはたとえようもなく、そのひとときだけは沢渡までが異国の王子ぐらいに思えたのだった。
「まあ、なんてすてき」
声は咽喉の奥に掠れた。それとともに岬は何ともいいようのない、突然の恥ずかしさに突きあげられ、脚はおかしいほど顫えた。
「いい猫でしょう。ビルマ種の色変りでね、日本にはあんまりいないんです。牡ですが名前はマミー。魔物の魔に魅惑の魅。……おや、どうしました?」
並んで歩き出そうとしながら、沢渡はいぶかしそうに岬を見た。だが幸いに、一瞬の強烈な羞恥は拭ったように消え、そして岬は、まだその猫に見られていた。
「青猫というと他にもロシア猫とかコラットとかね、いろいろあるんですが、欲しいのはシャルトルってフランスだけにいる奴ですね。十六世紀ごろからシャルトルーズ派の修道院で育てられて、まず外国に出すことはないっていうから」
いかにも猫好きらしくそんな話をのんびりしているのに、つられて並びながら、岬はやはり青猫に魅入られていた。相変らず表情を動かさないこの猫が、決してただ無感動なのではなく、心の中で不思議な呪文をかけ続けているのがどうしてだか判るような気がする。
「ああ、ぼくは沢渡っていいます。うちはこの先ですが、ちょっとお寄りになりませんか」
それからすこしためらったようにつけ足した。
「母がいるだけですから」
行きたい、一度でいいからマミーを抱かせてもらいたいという思いは、その一言で冷えたが、青猫の呪縛だけは解けそうにない。男手にも重そうな躯をこんな道傍で抱けもしないし、猫のほうもそれを望んでいないことは初めから判っていた。
口の中でいう断りを沢渡は黙って聞いていたが、ふいに猫の前脚をとって、握手を求めるように差出した。おずおずとそれを右手に包みこむと、ほんの僅か身じろきするほどに青猫の爪は岬の掌を掻いた。こそばゆい合図は瞬時のことだったが、その感触だけで岬は、まるで沢渡がそれを通訳したような言葉として聞いたのである。
[#ここから2字下げ]
――それじゃお別れの御挨拶をなさい、マミーちゃん。あさっての日曜の午すぎには母が留守ですから、必ず来て下さいよ。ぼくのうちはその先を左に曲って三軒目です。いいですか、きっとですよ。
[#ここで字下げ終わり]
そしてマミーの金の瞳は、やはりまじろきもせずに岬を見守っていた。
……………………………………………
しかし年が明けるまで、岬は沢渡を訪ねようとはしなかった。掌に僅かだけ残された、むず痒いような感触の爪の合図は、その夜からさまざまに岬を惑わせて決心がつかなかったのである。むろんもう八百屋の仔猫や、そこいらの駄猫にかまう気はしない。マミーと名づけられた神秘の青猫が、あのとき何を考えていたかを解き明し、もう一度会ったらこちらも眉も動かさぬ表情のまま意思を伝えられるよう訓練しなければならない。
調べてみるとビルマ猫といってもアメリカで改良されて新品種に定着したらしいので、当然会話も考えることもアメリカ語なわけだが、もうひとつ、そんな言語などという表現手段を超えたテレパシーに似たものが可能な筈で、なまじ猫語のお喋りに長じてしまっただけ、高度な交感は難しく思われる。大体がマミーを見たとたん全身を貫いたあの羞恥心は何だったのであろう。あまりにも貴族風な顔立ちをしているので、どこかの国の貴公子にいきなり紹介されたようにどぎまぎしたのだろうか。しかも相手がチラとでも表情を動かそうとしないので、醜い、下賤な育ちの女に見られた屈辱感か。
――それだけは違うわ。
岬はかぶりをふった。
[#ここから2字下げ]
――ああいう猫は、めったに好奇心を動かさないよう、生まれながらに躾が行届いているから、あんなに澄んだ大きい瞳をしていられるのよ。それに初めから私に興味がないものなら、最後までああもまじまじと見つめもしないでしょう。ぷいとそっぽを向くに決まってるわ。好意を持ってるとまで己惚れたくないけど、とにかく黙ってても会話が出来るよう早く練習しなくちゃ。
――そう、そしてあの爪!
[#ここで字下げ終わり]
岬はほとんど恍惚と、掌の内側に動いた爪の感じを思い出していた。これまでどんな猫からも味わったことのない、鋭く短い戦慄に似た快感。あれだけは人間の男性の絶対に真似の出来ない愛情の伝え方で、慣れるにつれこそばゆさ、時には痛さで、千差万別の感情を表現し得るに違いない。いまではそこいらの駄猫を駄猫とも思わず、反対にこちらから耳のうしろを掻いてやったり、小さな乳首のふくらみの周りを指の腹でぐりぐりしたり、肢のくぼみ、両の脇腹などをそうっと擽ったりして、向うが小刻みに躯をふるわせるのばかりを喜んでいたけれども、反対にあんな微妙な愛情通信を受けることが出来るとしたら、なんとすてきなことだろう。
――いやだわ、牡だなんて。
岬は声に出して呟く。
[#ここから2字下げ]
――あれはれっきとした王室の方よ。東南アジアだから、そりゃ少しは色が黒いけれども。
[#ここで字下げ終わり]
沢渡に再会したのは、正月に入ってすぐのことだった。近くの公園で、枯草いろの土堤の陽だまりにいて、やはり散歩に来た沢渡から眼ざとく見つけられた。
「やあ、ひどいなあ。待っていたのに」
屈託のない笑顔につられて、岬も思わず声をかけた。
「あら、猫ちゃんは。元気ですの」
「ええ元気ですとも。元気すぎてね、このごろはちょっと連れて出られないんです。そうだマミーも会いたがっているかも知れませんよ。行ってみませんか」
「だって、お母様が……」
岬は口籠った。
「なあに、いまちょっと弱っていてね、寝てますから出てきやしませんよ。それよりマミーに会ってやって下さい」
沢渡は弾んだ声でいった。
――マミー。そうね、マミーだけが大事なんだわ。
岬は意味もないことを考えた。うまく沈黙の交信が出来るかどうか、まだいくらか不安が残っているが、沢渡の腕の中ではない自由な空間で、あの猫がどう振舞うか、背を丸めるにしろ、ゆっくり床を歩くにしろ、その動きもまた新しい啓示になることだろう。それに、男遊びは齢相応に経験を積んでいるが、こうも真剣な誘いを受けるのも久しぶりのことで、それについてはさっきも出がけに母から小うるさく、辰年なんだよと聞かされたばかりだ。
岬は近くの原っぱにあがっている凧のひとつを見上げた。朱色の龍という字が、水いろの空にすがすがしい。運気がどうの、よろずに立つだのといっていたけど、男なんかどうでもいい、私は猫年の女ですもの、今年はあの青猫に賭けてみることにするわ。
声をひそめるようにして名前を訊く沢渡に、家の所番地から勤め先までテキパキ教えると、岬はあとに従った。
……………………………………………
マミーは少しの間に、またいっそう逞しさを増したようだった。気が立っているから抱かないほうがいいという注意で、手を触れることもしなかったのだが、恐れげもなく近寄って、やはり金の瞳をいっぱいに開いてこちらを見ている。ただその瞳の中に、ふしぎな微笑に似たものが浮かんでいるのを、岬はありありと感じた。それは決して好意の微笑、親愛の微笑というのではなく、かりにこの猫の前で殺人が行われたとしても、やはり同じような瞳で見守るだろうと思われるほど、それは何もかも見尽した、人間のすることならばすべて見透しだというほどの微笑であった。思いがけぬほど広い邸で、母なる人は遠くの病室にいるのか、音も立てない。
二人は猫の話ばかりした。帰国したアメリカ人が置いていったという由来から、喰べ物の好み、専用の小ベッドで沢渡の傍に眠ること、ロシア猫と同じでめったに声を立てない等々から、いきなり肩に手を伸ばすような口調になった。
「だから嫁さんは、どうしても猫好きな人でないと駄目なんですよ。母も病気してから、そればかりいうんです」
「でも、猫のつく言葉って……」
岬はさりげなく話をそらした。
「どうしてかしら、悪いことばっかりですのね。猫ばばとか猫っかぶりとか。私、猫いらずってお薬見ると、気味が悪くって。昔はよくあれで自殺する人があったんですってね」
はぐらかされて沢渡も苦笑しながら相槌を打った。
「そう、あれは苦しいらしいよ。黄燐が入ってるから吐いたものが夜でも光るんだって」
「恐いわ、私。でも猫が化けるってことだけは信じられないの。化けてもいいって気がするぐらい」
沢渡の頬には、そのときひょいと凄味のある笑いが浮かんで、またたちまち消えたが、岬はまったく知らずにマミーの方に気を取られていた。急にのんびりしたいい方に戻ると、
「そういえばろくな言葉がないねえ。猫背とか猫なで声とかね」
そういっておいて、科学技術関係だという自分の専門や、母のほか係累はいっさいないという話になった。それもしかし岬には、遠回しの求婚のように思われ、息苦しいまでの気持がする。
――帰りにもう一度、あの原っぱの凧を見て帰ろうかしら。
どうせ沢渡は猫好きの上に、母一人子一人という家庭となると、両親の承諾は容易に得られないだろうけれども、さっきの、あのはればれと明るく空に刻まれた龍の字だけは、今日の記念にいま一度確かめておきたかった。
マミーを口実に二度三度と訪ねるうち、岬は自然に抱かれた。猫はその間も決して傍を離れようとせず、初めのうち何としても追っ払って欲しいと頼んだが、
「猫好きなんだから、いいじゃないか。ちゃんとホラ、出口も作ってあるし、嫌なものなら出て行くよ」
と相手にされず、しまいには、
「見られているほうがいいんだ」
とさえいって、片手で猫の頭を撫でながら岬を弄ぶことさえあった。実際マミーは、二人の行為を見ていても、まったくおどろくようすもなく、最初に出会ったときと同じに金いろの瞳のままなので、岬も次第に慣れたが、その無感動さには底の知れないところがあって、まだ折々は脅やかされずにはいない。そして沢渡の愛撫はマミーの爪どころではない巧みさで、岬は用心しながらも溺れずにいられなかったのである。母なる人も一度「今日は気分がいいから」と挨拶に出て、厳しい眼元ながら昔の武家風な品の良い風態が岬を安心させた。
「でもねえ、どうしたってうちじゃ承知する筈がないわ。そりゃあ信じられないくらいの猫嫌いなんですもの。それにいまさら別に養子を迎えるなんていったって……」
「だからさ、思いきって子供を作ろうよ。赤ちゃんが出来たら少しは御両親も折れるさ」
そんな会話を、岬のほうは一人娘・一人息子の、ままならぬ恋の溜息のように交していたのだが、破局は容易に訪れた。それは二人の痴態が次第にエスカレートし、白昼に真裸のまま戯れていたときだった。それまで黙って自分のいつもの場所に坐りこんでいたマミーが、何ともつかぬ声を――岬にとっては初めて聞く啼き声を立てて出口のほうへ飛び出していったのを思わず見送った瞬間、岬は信じられぬものを見た。
化け猫、ととっさに思ったほどの蓬髪の老婆が、その狭い猫の出口から、眼を吊りあげて中の様子を窺っている、それは最愛の息子を見知らぬ女に取られようとする母の、怨念に充ちた姿であることはすぐ察しがついたけれども、同時に沢渡の頬に不敵な苦笑が浮かんだのを見て、岬はすべてを悟ったのだった。この孝行息子は、珍しい青猫を餌に猫好きの女を漁り、巧みに口説いてベッドへ連れこんだあげく、こうしていつも老いた母親を慰めていたことを。それなればこそ青猫は牡でありながらマミーと名づけられ、その瞳は、もう何事にも感動せず、開かれたまますべてをただ見て≠「ることを。
悲鳴をあげかける岬の口を、部厚い掌が|塞《ふさ》いだ。
……………………………………………
八百屋のお内儀は、しばらく見えなかったお嬢さんが、駆けこむようにしてくるなり、やや大きくなった仔猫の前に蹲みこむのを見た。
「まあ、しばらくでしたわねえ。ロロもさびしがってたんですよ」
そんなお愛想も聞えぬように、その娘は昔どおり仔猫と、きりもない会話を続けている。
「ミャウワーワ、ミャウミャウミャウ」
「ンニャーウ」
「ミャーミュ、ミャワワーワ、ミャウー」
「ンニャー」
「ミャウ、ウ、ウ、ウ、ウミャー」
「ニャ」
すこし経って、仔猫のほうがいぶかしげに問いかけた。
「ミャーニュ?」
[#改ページ]
夜への誘い
二月という季節が意外に優しいものを秘めていることに、|藤木《ふじき》|悠治《ゆうじ》はいつかしら気づくようになった。もともときさらぎ≠ニいうのは、木が更生することからついた名の由で、紫立つ土の間にチューリップもようやく緑を覗かせ、小鳥たちの|囀《さえず》りも思いのほか賑やかである。末近くなれば薔薇の芽はことごとく動き、猫の恋は夜ごとに|喧《かまびす》しい。春は、ついそこの門口まで来ているのだが、それは|跫音《あしおと》を忍ばせた刺客ではなく、いわば呑気な郵便配達なのだ。かれの鞄には、何と多くのふくらんだ手紙が詰まっていることだろう。桃いろや青の、和紙の|毳《けば》立ちも優しい封筒。暗号めかした葉書。菫いろの航空便。それらは、たっぷり光を吸った野菜のようにみずみずしいというのに、郵便配達はまたいつものとおり、遠からぬ|他人《ひと》の戸口で、のんびりとお喋りに耽っているに違いない。……
で、その朝、郵便受けの中に白い長方形の封筒が混じっているのを見つけたとき悠治は、少しばかり早目に届いた春からの招待状のように|摘《つま》みあげ、浮き浮きと小さい銀の鋏で封を切った。裏には画廊ラビラントと記されていたが、もとより知らない名である。そして知らない名のほうが、このときはむしろ快かった。
小動物を主題にした
野奈古愁美新作展
2月16日→23日(日曜閉廊)
といって作品らしいものはどこにも印刷されていず、作者の経歴もない。野奈古という変った苗字にもいっこうに心当りはなく、悠治は|怪訝《けげん》に表裏を見返した。UREMI NONAKO というローマ字に、何かの紋章めいて巨きな黒猫を浮き上らせた図柄で、そのうす青い瞳のほかカラーはいっさい使っていない。そしてその瞳ばかりがひどく精巧に、まるで生きているように一筋の血管を走らせさえしている。
封筒を覗くと、小さなカードがあった。
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16日PM・5時よりオープニングパーティを行います。御出席下さい
[#ここで字下げ終わり]
そう印刷された傍に、女手の走り書きで、
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ぜひお越し下さいませ。久しぶりのおめもじ楽しみにお待ちしてをります。
[#ここで字下げ終わり]
とあるのを見て、奇異の思いはなお昂まった。作品が油とも版画とも断りがないのは、野奈古愁美という名だけで通る世界があるのだろうが、悠治の仕事は美術とは畠違いな建材を扱っているだけだから、同姓異人で宛名の書き違いと思うほかはない。考え出すと気になって、ラビラントという画廊に電話を入れた。|銀座《ぎんざ》の七丁目。あらかたの見当はつくが、聞いたことのないビルの五階にあるらしい。かぼそいベルが小じれったく鳴って、やがてこれも細い、きれぎれな女の声が「……画廊でございます」と告げた。
「いや、それでね、どうにも覚えがないものだから、ひょっとしてそちらの書き損じじゃないかと思って……。え、間違いない? こちら|大原《おおはら》二丁目の藤木ですよ」
しかし、事務員らしい相手は、よく聴きとれぬほど遠い声ながら、野奈古先生からも特にいわれているので、オープニングにはぜひと繰返すばかりである。悠治は電話を切ると、独り暮しにはいささか過ぎた離れ屋造りの一室で、手近かな椅子に躯を投げ出した。
これまでにも見知らぬ展覧会の案内状が舞込まなかったわけではない。しかしわざわざオープニングにペン書きを添えた招待などは初めてだし、明らかに向うはこちらを誰と知ってのことらしい。野奈古愁美というのが一種の雅号だとなると、本名の見当はまるでつかない。おめもじをお待ちしてをりますなどという筆づかいから推すと、ひょっとして相当な齢かも知れず、そうするとなおさら相手が多すぎて混乱する。
十年前、八年前、六年前……。|苑子《そのこ》かな、当時の苑子はちょうど仕事がおもしろくなり出したところで、小物のアクセサリーから靴や帽子のデザイン、それにインテリアにも手を出し、逢えば必ず小遣いをくれていたから、油なり水彩なりに移ったとしてもおかしくはないし、そういえばパリへ行ったきりで切れたんだっけ。いくぶん険のある顔ながら、ぎゅっと眼を瞑るときの瞼の|引攣《ひきつ》れと肉感とが同時で、あれはあれで悪くはなかった。
それとも九年前、七年前、五年前……|眉美《まゆみ》だろうか。夜になるにつれ物憂げな猫めいてくる姿態はもっぱらホステス稼業のためで、昼間はしゃっきりした和服で日本舞踊を教え、マンションには到るところ精巧な手製の刺繍が飾ってあったから、溜めこんだ末に先生と呼ばれたくなっても不思議はない。眉美では出が知れるから愁美という線も当っていそうだ。怒って札束で顔を引っ張たかれた経験は後にも先にも一回きりだが、結局はあの倍額が手切れ金になった。といって決して恨んでいる筈はない。でなければ|由良《ゆら》夫人。あのころで旦那は重役だったから、いまはもう専務か社長に納まっているだろう。押絵だか貼絵だかでは当時から婦人雑誌で先生扱いだったが、そうすると名前を変えてというのはちょっと解せないな。
貴方の牡々しい百合のためにと称して、毎月銀行に定額を振込んでくれた未亡人の名はすでに忘れた。たぶらかしたわけでもない、ホストクラブの誰彼のように巧みな甘えで取入ったのでもない。会えば自然にそうなったという時期が、こちらの若さのせいではなく時代の風潮として確かにあったので、当節では母性本能をかき立てる男たちの優雅な生活≠ネどといい立て、週刊誌が騒ぐ、テレビが紹介するという剥き出しの状態となり、向うもばっちり楽しもうと心がけてくるから始末に悪い。それでもこうして数々の情事を思い返していると、ベッドの上、あるいはそこから手を伸ばして取ることの多かった電話の受話器の底で耳を擽った、甘い囁きと含み笑いとはしきりに甦って、愁美という女がその中の誰であれ、無い込んだ二通の招待状には、慥かに春の|魁《さきがけ》という風情があった。
……………………………………………
だが、俄かに待遠しく思われ出した二月十六日のくる前、悠治がもうひとつ愕然と気づいたのは、この年上の女たちが例外なく大の猫好きだったという点である。それも徒らに見栄を張って、高価な品種を競っていたのではない、仔を産むたび物臭になり鈍くなり、見るからにむさくるしいぼてぼての腹をした牝猫だろうと、シーズン中は一週間も十日も家に寄りつかず、たまに帰るなり餌を貪りくらって、またそのまま飛び出して行こうとする泥だらけの牡猫だろうと、彼女らはどこまでも寛大に面倒を見た。マンションに居た眉美がその出入口にはらった苦心など涙でましいほどで、持込まれる苦情先には高価な付届けを惜しまなかった。飼猫の常で、自宅の美食には見向きもしなくなっても、|他家《よそ》で出される粗食は喜んで喰う、そんな習性さえ可愛くて仕方がないらしい。
それを思い出したのは、庭先で屋根でところ構わず啼き立てる恋猫たちに悩まされているうちだが、そういえば案内状の黒猫の紋章もその証しであろう。悠治自身は小さいころからの犬好きで、猫とみると|苛《いじ》めてばかりいたのだが、それでも初めて東京へ出てきて郊外のアパートに住んだ学生時分、飼うというよりは棲みつかれたことがある。狭い台所の流しの下が雑な作りで、猫が通れるだけの抜け穴があり、そこからあどけないほどの仔猫が入りこんできたのだった。なんだとも思わず首すじを掴んで窓から放り出す、ともう同じ穴からけんめいに這い上ってくる。それを三遍くり返して、ようやく悠治はその猫の愛くるしさと利口さに気づいて、置いてやろうという気になった。管理人も雑な|普請《ふしん》のせいか黙認の形で、オレンジ色の綿毛の塊りは日ましに敏捷になり、牡だったがミミと名づけて育てるうちに、半年はど経って忘られぬ光景に逢った。
彼が帰るころ、ミミは必ずドアの前に小さくまるまって待ち受けている。大はしゃぎで肩に駆けあがり、足を踏み立て咽喉を鳴らし、少しでもドアの鍵をあけるのに手間取ると催促して啼くのだが、その晩はどうしてか姿が見えない。ドアをあけた時から中の異様な気配は察しられたが、灯りをつけて思わず立ちすくんだ。およそ十匹近い牡猫がミミを取り囲んで円陣を作っている。悠治の入ってきたとき、灯りのついたときだけは、ほんの僅かたじろいでみせたが、逃げるようすもなくなお執拗にミミの動きを見守り、二匹がさっと襲いかかる、際どく避けられてまたすぐ元の態勢に返る。もう二匹が手を出す、それを他の猫が牽制する。何をしているのかといえば、さかりのついたこの牡猫たちはどう間違えたか、まだ美少年ともいえぬ稚いミミの取り合いっこをしているのであった。
いかにもミミは器量よしで、それは確かにアパートの連中にも評判だったが、分泌物とかその匂いとかで異性を見分ける筈の猫が、いくら美童といってもお稚児さん狂いをするものだろうか。あとで管理人から、
「ちょいと藤木さん、あんたんとこの猫、牡でしょう」
と、いわれて返答に窮したが、それともこのあられもない、図々しい猫たちは、みんな|牝《めす》だったのだろうか。
ようやく我に返って蹴散らすように追い立てると、野良猫どもは悠々と台所の穴から退散したが、悠治にとっては、あるいはミミが受けたよりも激しい驚愕というに充分であった。
「よしよし、恐かったろうな」
掌にのるほどの仔猫はまだ顫えてい、頬にすり寄せて暖めてやると、その利口そうな瞳と整った鼻すじは、いつにもましていとおしく思えた。まぎれもなく悠治は、そこに自分の姿を見たのである。
牝猫が集団で牡の仔猫に構うということはシーズン中でもまずあり得ないだろうから、あの異様な円陣はやはり牡――それもよほど牝にあぶれた牡猫の群れとしか考えようはないが、そんな区別はこの際どうでもいい。これまでも不思議なほど年長者には可愛がられ、教師でも上級生でも自分のある種の笑顔に対しては、ほとんど狼狽に似たはにかみで対することは判っていたが、今度はそれを年上の女たち、それも豊かな肉体と財力とを持った女たちに向けてみようというのが、そのとき悠治に閃いた考えであった。
ミミはその後|幾許《いくばく》もなく食当りで夭折してしまったが、あるいはそれは身代りに死んだといえるかも知れない。悠治の事業[#「事業」に傍点]は成功し、まったく無心に、何の婚びも甘えも必要なく、年上の女たちとの交渉は絶えることがなかった。確かにマスクや筋肉はずばぬけていたが、もてるのは若さや美貌のせいではない、いまの時代がそれを可能にしているのだという彼の直観は正しかったのであろう、もう四年ほど前から女たちの態度がひどく露骨になり、こちらでそれを煩しく思い初めたころに悠治はあっさりと事業から手を引いた。独立資金といまの住居と車と、それだけを確実なものにした上で、さりげなく律儀なサラリーマンに転身してみせたのは、もとより齢を考えたせいもあるが、次の本物の事業に取りかかるにはいささか経験不足だという知恵が先立っていた。
猫との交渉もそれとともに絶えた。惰性で何匹か飼いはしたものの、ミミほどの器量よしにはついぞめぐり合わなかったし、いつかまた少年時分の、猫を苛める楽しさが甦ったものか、女たちの猫を構いながらも、つい眼を盗んで|悪戯《わるさ》をするので、ことにも敏感だった苑子の飼っていた董いろの瞳の黒猫などは、ベッドの下に潜りこんでめったに姿を見せないほどだった。いま、恋猫たちの夜ごとの合唱を聞きながら彼が思いめぐらすのも、どうしたら水をかけるとか石をぶつけるとかの生ぬるい手段ではなく、小気味よくまとめて安楽死させ得るかというその手段であった。たまさか庭に尾長の群れが来ると、悠治はそれを喜んだ。かれらは猫に対してはひどく挑発的で、わざと猫のすぐ上を低空飛行してからかうのが得意だったからである。
……………………………………………
ようやく二月十六日が来た。肌寒い曇り日だったが、愁美に会うのはいずれ灯の下であることを考え、映りのいい苔いろの|天鵞絨《びろうど》の上下に、ワインカラーのアスコットタイを選んだ。これなら三十を過ぎてやや翳りを増した白い頬でも引き立つだろう。考えてみれば女たちは例外なく彫りの深いという形容で己を賞めたが、あれもまた何という陳腐な、日本人だけにしか通用しない殺し文句だろう。……
あれこれと女たちのことを思い返しながら、いい加減な見当で歩いているうち、ふいに眼の前にラビラント画廊の看板があった。淡い灯を点した酒場ふうな表示だが、悠治はためらわずそのビルに足を踏み入れ、エレベーターを探した。ラビラントというからには迷路か何かの意味なんだろうが、こうあっさり見つかっちゃおもしろくない。謎は深いほどいいので、今夜の愁美にしても、なんだあんただったのというたぐいではなく、誰かまったく思いもかけぬ女が、見違えるばかりに美しくなって出てくるんでなくちゃ。
エレベーターの箱には、背を掠めるようにして飛びこんだ外人の大男が、うしろから手を伸ばして先に五階のボタンを押したので、悠治はすこし鼻白み、手持無沙汰にじっとしていた。ふりむくわけにもいかないが、何か威圧されるようで、そのせいかひどくのろのろと上ってゆくような気がする。高層ビルならとっくに十五階ぐらいを通過しているぞと考えるうち扉があき、うしろの外人に押されるような形で、ぶつかったその鼻先が画廊の入口だった。
作品らしいものは何もない。照明は奥へ行くほど薄暗くなっているのも奇異な感じだが、グラスを手にした連中が|屯《たむ》ろしている向うに展示場があるのだろうと、そのまま奥へ進んだ。
「あらン、しばらくン」
蓮っぱないい方で女が話しかけ、どこかのバアで会ったなとは思っても場所と名前が出てこない。
「野奈古さん、いる?」
女は黙って人混みの向うを示した。狭い通路に、どうしてこう人が群れているのだろう。それになぜ一点も作品らしいものが飾られていないのだろう。無気味な予感にたじろいたが、奥にやや明るい部屋が見えたので、勇を鼓して進んだ。
ふいに柔らかく腕が掴まれ、確かに聞き覚えのあるアルトが甘く囁いた。
「やっぱり来て下さったのね」
悠治は眼をしばたたいた。色っぽく怨ずるように見上げている女は三十四、五というところか、黒ずくめのソワレに、胸につけているブローチの宝石が董いろにまたたく。しかしその顔は、どう考えても見覚えのないものだった。
「野奈古さん、ですか」
声は思わず掠れた。
「まあ、いやだわ、そんな……。それより一口、召しあがれ」
すばやくテーブルからグラスを取って渡すと、そのまま空いているソファへ押しつけるように並んで座った。
「ぼくは藤木ですが」
「何をおっしゃってるのよ、悠治さん」
なれなれしくいいながら、眼は射すくめるように鋭かった。
ままよ、と悠治は考え、望みどおり思いもかけぬ美人が出てきてくれたのだから、ここはじっくり時間をかけてと、ウィスキーのグラスを口に運びながら相手を窺った。
「きょうはいったい何の展覧会なんです? ちっとも知らなかったもんで」
探りをいれるようにそういってみたが、
「あら、だって、案内状の|字謎《アナグラム》は解いていらしたんでしょ?」
女はこともなげにいって、グラスのお代りを手渡しただけであった。アナグラムというのは何のことか判らないが、腕を動かすたびに伝わる香水が、ホラ、あれさ、あれだよというじれったさで頭をかき乱す。苑子? 違う。眉美? いや。
そうやって何かを払い落すようにかぶりをふっている悠治を、女はだんだんに冷たく見すましていたが、やがて急に立上ると、いきなりこう告げた。
「みなさん、ようやく今夜の主賓がお見えになりましたので、お静かに願います。逃げられないよう戸口はお締めになったでしょうね。それではわたくしの新しい作品、どうぞ御覧遊ばして」
群れていた連中の喧噪はたちまち鎮まった。皆が皆、今日の主題の小動物≠見ようとして、そろそろと爪先立った。飼猫の常で、かれらはいっさい音を立てなかった。
[#改ページ]
美味迫真
エストラゴン・オウ・ヴィネーグル。
よもぎの、酢漬け。
フランス料理といっても、家庭ではまずめったに用いられないこの名を、できればあまり多くの人が知らないといいが。――というのは、そのほうがずっと、きょうのこの話の話し手には話がしやすいからである。
大体、私(というのはすなわちその話し手だが)は、おいしいものを喰べるのは人並みに好きだけれども、いまだかつて食通とか、美食家とかいわれるようになりたいとも、なろうとも思ったことはない。そもそもあれは熱心においしいものを探し、自分でもあれこれ|工夫《くふう》して料理法を心がけるうち、自然になるもので、専門家は知らず、なろうとしてなれるものではないことは、すでにブリア・サヴァランの『美味礼賛』にも説かれている。十九世紀初頭に出たこの本と、日本では明治末年の『|食《くい》道楽』――|村井《むらい》|弦斎《げんさい》の名著のおかげで、近代の|美味学《ガストロノミー》は確立したのだが、そうはいっても向うとこちらとでは、根本的に違うのが体力の差であろう。
エストラゴンの話はしばらく|措《お》くとして、その体力の差ということだが、|薩摩《さつま》|治郎八《じろはち》氏の伝えるルイ十四世のメニューに誤りがなければ、王のただ一回の食卓には次のようなものが供された。
|生牡蠣《なまがき》十二ダース、ポタージュ、魚、鳥の丸焼三羽、うずら十二羽、牛肉、野菜各種、サラダ、フォワグラ、果実、菓子。それに酒はブルゴーニュとボルドーが三本ずつ、シャンペンの大瓶が一本。
『美味礼賛』にも十五歳ほどのお嬢さんがデザートまでたっぷり平らげる話が出てくるけれども、先年、カンヌへ行く特急の食堂車で向い合せに坐った小柄なお婆さんは、魚貝の煮込みからステーキ、チーズ、ケーキという昼の定食をワインとともに実にすんなりと胃袋へ納めてしまい、眼の当りグルマンドの見本を示してくれた。日本にも近年は快食漢とでも名づけたいタイプの食通が殖えてはきたが、これはやはりあちら流のグルマンと称すべき人たちで、いささか神経質に、またいささか謹厳に味というものを勘案する、純日本風の食通に対しては、むしろグルメという名のほうがふさわしいであろう。(こうして喰べれば)どんなにかおいしゅうございましょう、を連発する村井弦斎もたぶんグルメに属するタイプだったので、それだけに単なる大食漢に対する嫌悪は、その冒頭からあらわれている。
しかしどちらの呼び名でいうにしろ「美食家」という存在はとにかく楽しい。ことにいまの三十代から上、芋の茎まで主食代りに配給を受け、それを甘んじて喰べた経験のある人の中から、それだけ味にうるさい連中が出てきたことは、楽しいというより大事な意味があるので、たとえば戦争中、漢文学の教授だったさる老人は、もとより生粋の国粋主義者だったけれども、昭和十九年の夏、それまで肥料にしかしなかった豆粕が米に混ぜられて配給されると、人民[#「人民」に傍点]を侮辱したといって憤ったという。そんな気概がもう少し多く臣民[#「臣民」に傍点]に持たれていれば、あの戦争の成行きも少しは違ったものになったかと思われるからである。
エストラゴンはまだもう少し先の話として――楽しいというのは、むろん食通についての文章のことだが、現実にでもそういう四十代そこそこといった人に馴染みの寿司屋に連れていかれる。と、いまの季節、春先の、三月ならば、黙って出される子持ち|烏賊《いか》もいいが、「かすご[#「かすご」に傍点]はあるかい」などとケースを見過す、ともう、
「へえい」
よく洗った|葉蘭《はらん》の上に並べられる小鯛の、なんという美しい桜いろだろう。
「かすごって、どんな字?」と小声で訊く、
「春の子って書くんだって。春日神社の春ですよね」
なんかんと、産地から喰べ方からの講釈を受けるのも、決してうるさくはない。
続いて、|比目魚《ひらめ》の縁側。|蝦蛄《しゃこ》の爪。
しかし、私の齢のせいか、あるいは主として幼稚な舌のせいか、それとも(自分ではいちばんそのせいだと思いこもうとしているのだが)戦争中に外地で、多くの戦友がみじめに、いやみじめ以上に飢え死ぬのを眼の当たりにした体験のあるためだろうか、私にはどうしても我を忘れておいしいものに没入するとまではいかない。何かしら忘れ物をしたような、早くとって返してその連中に「こんなおいしいものがある」といって連れてこなければいけないような、そのときいちいちそんなことを考えるわけではないのだけれども、饗宴はつねに不在の戦友たちにかまけて、もうひとつ弾まないのである。
感傷。幼児性。たぶん、それに違いない。実際のところ私は、いまごろ何をばかなと自分で思いながらも、たとえば新宿二幸[#「二幸」に傍点]の地下の食品売場を歩いている、と、ふいに、心からタイムマシンが欲しくなって、あたり山盛りの食料品がしわしわと瞼の中で妙な具合に揺れ出す。
――そのまま、待ってろよ。
で、昔にとって返して、というのではない、こちらからそれを持ってゆくのではあまり意味がないので、向うから過去の私を含めて、連中をどうにかして呼び寄せたい、呼んだって現在の金を持っていないのだから仕方がないと思いながらも、何はともあれ呼んで、といったくだらない空想を、やっぱり本気で考えずにいられないのである。つまり、それほどに二幸の、二幸に限ったことではない、どこのデパートでもスーパーでも、そこに溢れている喰べ物≠ヘ、戦後の時間がどれほど経とうと、まだ私にはどこか信じがたい、夢を見ているような気がするといえば、これは初めから美食家になる資格などあろう筈もないが、およそ戦中・戦後のそうした実情を直接に知ることのない現在の二十代、さらにもうとうに忘れておられるであろう大方のために、いまいきなり三十年前にタイムマシンを駆って、ひととき実況をお眼にかけようと思うのだが――といってそれは決して凄惨な飢えの場面へ御招待するというのではなく、例によってごくくだらない、役にも立たぬ場面だからどうか御安心いただきたいと申し上げて、とにかく御案内――といううちにも、もう一九四六年の三月、春寒の曇り日に着いてしまったようである。
……………………………………………
予備知識というほどのものも要らないが、このとしの三月というと何より新円の発行が大きな事件で、二月十七日の預貯金封鎖以降、かりに何万円貯金があっても五百円だけしか使えないという生活が始まっている。それと、|片岡《かたおか》|仁左衛門《にざえもん》宅の同居人|飯田《いいだ》|利明《としあき》が、自分だけ二食の、それも一度は粥というその恨みから一家を皆殺しにした、つづめていえば空腹とインフレの空っ風に追いまくられていた時代――何しろ史上空前の餓死者が出るといわれた冬をどうにか越してみると、また五月危機などと叫ばれ、飢えは日常のものであった時代ということだけは――でもそれは、戦争中と違って声高に叫ばれていたので、一月に人間宣言をした天皇のところへ、
朕はタラフク食ってるぞ
ナンジ人民飢えて死ね
などというプラカードを掲げた一隊が押しかけたのが五月という、買出しに行っても物々交換のレートはあがるばかりで、百姓一揆ならぬ都会一揆がおきるだろうといわれていたその時期、さりげない顔で世相一端に触れるとすれば、そうだ、このころは何のためとも判らぬ行列がそこここに出来ていたので、何か配給にありつけるだろうと並んでいたら御焼香だったという笑い話も実際にあったけれども、まずそんな心配はなさそうな郵便局の中の行列に加わってみよう。旧円は封鎖になっても、それを新円に換えるさまざまな抜け道はあったし、また別な特典もあって、たとえば戦災者には千円までおろすことが許されていたが、何に使うか使い先の証明がなければ出してもらえないといった細かい話はさておき、時間旅行者も一緒に並んでいて、順番がきそうになったら抜け出してしまえばいいのだから。むろんここでも、ほとんど喰べものの話しかしていず、喋りまくっているのはいつの時代にも変らぬ中年女のひとりである。
「十キロで八日間なら喰べない方だ」
――そりゃね、
と、きろり狡い眼つきになって、
――うちは年中お芋切らさないから。ところがさ、こんだお芋の切れたところへもってきてお米の配給がないでしょう。さァ困っちゃって。
髪を無造作に束ね、汚れたコートにショールを巻きつけ、お風呂ィ行く暇がないからという顔も手も白粉っ気なしの真黒だが、お喋りが得意というのか、自分の話し方に自信のあるタイプで、行列はいっこう進まないまま、みな仕方なしに女の話に聴き入っている。
――いくら高くっても三十円だから。こないだうち二十円で買ってたけど。
「よくまあ、ありますわね」
そう口を挟んだのは上品ななりのお婆さんで、それはさっきからあたりの人にくどくどと、
「年金おろして預け入れるんですけど、すぐやってもらえましょうね」
と聞いていた、それがさも羨ましそうにいろいろ問いかける。
「どちらへ買いに」
――方々ですよ、方々。
と、敵もさるもので、
――ホラ、|飯岡《いいおか》とか何とか、買出し列車って大騒ぎしてたでしょう。あのほうへ行きますのさ。行くたんび十二貫つ[#「つ」に傍点]|背負《しょ》ってくるから。
「まあ、ねえ」
――ええ、ありゃ若いもんでなきゃ、駄目。
軽く突放しておいて、
――政府の今度のじゃ、供出っての何てのか知らないけど、産地で出す値段はちっとも抑えてないでしょう。それを、持ってきた小売値だけ統制してるんですからね。駄目ですよ、どっかに無理があるから。結局、太るのは漁師と農民だけですもん。
一瞬、眼が鋭く光って、都会一揆ともなればあっぱれ闘士の風格を見せることだろう。
――こないだうちは南京豆ばっかり。そう南京豆いっぺん背負ってくりゃ、お芋のお金ぐらい浮きますからね。
――え、そう、あたしはこっちで手取りがあるから買喰いするの、買喰いを。ホホホ、まごまごするといちんち三十円は使っちゃいますよ、三十円はね。少なくても十円は使うし。
「切符がよく買えますね」
――ええ、いまはね、新宿の三越の裏へ行って申込みゃ。それに、うちのがアレヘ出てますでしょ。だから私ひとりぐらいの切符は買ってきてくれますのさ。
――本給は安い、六十五円。鉄道なんて安いもんですよ。二日で月給使っちまったわ。あがるあがるったって、本給はあがりゃしませんよ。うっかりあげたら、こんど物価の下がったとき急に下げられないからね。やっぱし手当手当で出してくよりありませんわ。
結局この女は自分の話を聞かせたいために会話をしているので、上品ななりのお婆さんが、頭に怪我をしたといいかけると、
――災難なんてどこにあるか判んないから。
と一言で片づけ、別のお内儀さんの口端のおできには、
――いけませんねえ。
その子が病気だといわれると、
――いけませんねえ。
ひとつも親身なところがない。で、いいかげん詰らないお喋りの立聴きを切りあげて外へ出ると、兵隊帰りの学生が二人、声高に話し合って通りすぎる。
「オレ大隊副官だったんだ。命令なんて全部書くのサ。インチキだよアッハッハ」
「大隊副官て、いそがしいだろ」
「ああ、それにね、中隊長が古参中尉で、命令出してもこんな命令あるかってえし」
その二人にチラと気を取られたのがいけなかったのかも知れない。それは確かに私の仲間、というか、同じく学徒出陣をし、それでいてたいして苦労もせずに無事復員した学生、そのくせ身なりから推すと焼け出されもせずに済んだ、もうそれだけで私とは、身分に天地の差がある仲間だと気づき、怨念と羨望の眼をあげた一瞬に何かが間違ったのである。タイムマシンの乗り違えか、それともふいに昔の私が――よれよれの夏の兵隊服一着に藁草履をつっかけた、一九四六年の私がそのまま乗りこんだのか、そこのところはなおはっきりしない。そしてあの二幸へ戻りたいという意識が奇妙な作用をしたのであろう、この時点で戦友たちはもうとっくに死んでいないのだから当然だが、次の瞬間には私はたったひとりで二幸に似たところ、すなわち同じ新宿の高野[#「高野」に傍点]の地下に立っていることを発見したのだった。
……………………………………………
エストラゴン≠ニいう名を最初に聞いたのではなかった。高野の地下の食品売場で、向うからきた十代の、ひとりはひょっとすると中学生かとも思えるほど、色白で華奢な二人づれの少年が、店員をつかまえて何かいっている。店員はこう答えた。
「さあ、似たような奴ならここにあるけど」
そういって手を伸ばした商品、小さな緑いろの壜を手にするが早いか、少年たちはたちまち歓声をあげた。
「ああ、やっとあった。ずいぶん探し廻ったんですよ」
その喜びようは見ていても微笑ましいものだったが、私にはすぐ近づくことは憚られた。で、なおも二、三の専門的な話を店員と交して、二人がレジの方へ行ったあと、私はおずおずとその売場へ近寄り、いまの商品を手に取ってみたのである。
エストラゴン・オウ・ヴィネーグルという標示はフランス語で記してあり、輸入元の貼ったレッテルには日本語の商品名に添えて、鶏肉料理やサラダによく合いますという説明がある。それはむろん私にとって初めての名であり、それだけにその小さな緑の一壜は奇妙な感懐をもたらさずにはいなかった。十四歳か十五歳か、それは判らない。その、いわばほんの稚いといってもいい年齢で、こんなものを東京中探し廻る心がけ。そしてその喜びよう。この二人は、いったいどんな料理を作ろうとするのだろう。
それを思っただけで、私はもうその一壜を掠め取って少年たちの後を迫っていた。どうしても彼らにいいたいことがあったのだ。地下道の人混みの中でも、野戦で鍛えた私の判断に狂いはなかった。私はすぐに追いつき、楽しげに話を交しながら歩いてゆく二人の肩を叩いた。
「ちょっと」
というなり、ポケットからその壜を出してみせたのがよかったのであろう、忘れ物か勘定の違いか、とにかくこの|胡乱《うろん》な風体の私を店の人間と思ったものか、二人はそれほど妙な顔もせず体を退いて、通行の流れを通した。
「このエストラゴンのことだけどね、ねえ、君たちこれでどんな料理を作るつもり?」
「え?」
年嵩のほうの眉根に、たちまち険しいものが走った。
「いやね、オレちょっといい料理を知ってるんだよ。そいつをぜひ教えようと思ってさ」
「なんだい、あんたは」
美食家の卵だけあって小粋な、喧嘩っ早い都会の子で、構えにもそれがあった。しかし私には、もうとにかく時間がないという気持ばかりがつのり、いったいいまの私が三十年前のままの年齢か、それとも現在どおり五十歳を過ぎているのか、それさえ判らぬまま、なおも早口に、泣き笑いめいた表情でいった。
「本当においしいんだよ。ここにホラ、鶏肉料理に合うって書いてあるだろ。鶏なんかよりずっと、そりゃもう……」
アミルスタンの羊といえば、この早熟な少年たちにはすぐ判ったのかも知れない。だが残念なことに、スタンリー・エリンの『特別料理』が書かれたのは、同じ一九四六年でも十一月のことだったのだ。
「行こう」
充分な軽蔑のあとで――というのは、かりに殴り合いになっても自分たちに勝目があると見てとったからだが、もう二人は背を向けて歩き出していた。
「待ってくれ。お願いだ。己は、己は……」
あとをいうとすれば、このエストラゴンで己を喰べてみてくれというしかなかったろう。しかし、もうひとつの思いが私を|止《とど》めた。時間がない。そう、時間がないのだ。いまならばまだタイムマシンの扉は締まり切っていない。いまならばまだ私は自分の風体にふさわしい故郷≠ヨ戻ることが可能だろう。
二人の色白な少年の、いかにも柔らかそうな肩や尻に心は残しながら、私は引返した。一壜のエストラゴン・オウ・ヴィネーグルを持ち、蓋をあけて、ひとつ急、その仄かに甘酸っぱい味を賞味しながら。
だが頼む、タイムマシンが、行き過ぎずに元通り一九四六年に停ってくれればいいが。……
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悪夢者
その駅を降りたのはもう日暮れ方に近く、空は灰墨いろに蔽われていたが、僅かに西のほうだけに淡い水いろが溶き流したように覗いている。ここからほど近いT**精神病院は、|武蔵野《むさしの》の面影を留めた雑木林の中に赤い屋根を見せていたが、本館はすげて木造の平屋建てで、正面だけがいかめしい鉄門造りになっている。そこに近づこうとして|水品《みずしな》啓介は、何か大きな|洞《うろ》めいたものに呑みこまれるような予感に立止ったが、それは暗鬱に葉を繁らせて押し黙ったまま立っている樹々のせいであった。
この狂院の中から、再々執拗なまでに手紙を寄越す|鬼村《おにむら》|庄造《しょうぞう》という人物にまったく心当りはない。だが今日の午後五時に限って面会が可能であり、そのときに初めて貴方もお気付きでない重大な秘密について話をしたい。|宮内《みやうち》先生も一緒だから安心して欲しい、ただしこのことは誰にもいわず、一人だけで来てくれという三日ほど前の手紙には、やはり心を|唆《そそ》られずにはいなかった。それまでも文面は、狂っていると思えば確かに狂っているという程度だし、狂暴性のある様子もない。一度会いに行ってみようかと考えないでもないところだったから、最後の便りにはついにんまりしたくらいである。二十八歳という若さのせいか、あるいはこのときが一九四八年――戦争が終って間もない時期で、水品自身も薄ぺらなカストリ雑誌や、猟奇風俗読物を出している小さな出版社に勤めてい、好奇心に充ちていたのが災いしたのかも知れない。妻の|香苗《かなえ》や、生まれたばかりの啓嗣のことを考えれば、そんな怪しげな手紙に誘われるべきではなかったのであろう。
手紙が来始めたのは今年に入ってからで、カストリ雑誌の編集名義人は水品の名になっていたから、未知の読者の手紙は珍しいことではない。狂院の中からというのは初めてだが、他にも毎日のように分厚い封筒が社宛てに届いていたことがある。厳密にいえば社の気付で、宛名は各界の名士――それも主に政治家とか学者とかのことが多かった。差出人は女名前で、達筆な墨字から推すとかなりの年輩らしかったが、なぜ直接に出さずわざわざ社を経由して手紙を書いてくるのか、回送してやることもないので放っておいたが、ある日、文部大臣宛てというのが気になって開封してみた。型どおりの奉書の巻紙に、前文も何もない、いきなり、
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今日は御天気が良いので髪を洗ひましたから、大層気分が宜敷う御座居ます。
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という文面で始まっていた。そのまま最後まで午前中に自分が何をしたか、誰が訪ねてきたかという家事の報告が続き、唐突にまた終っている。つまりこの女性は、文部大臣でも誰でもいい、その日の朝、新聞を開いて、少しでも知った名前があると、すぐ衝動的に手紙を書かずにいられない、おとなしい狂人だったのである。医学上はまだ狂気ともいえないかもしれないが、それにしてもよく倦きずに同じような家庭内の些事を繰返し書くものだと、他の手紙の一つ二つを開けてみて、水品はほとほと感心した。だが静かさやおとなしさが反対に何ともいえず無気味だったその手紙も、あるときばったりこなくなったのは、家人に見つかったせいか、次第に病気が昂じたのか、ついに知らぬままにすぎた。
もうひとり、やはり女性で、これは脈絡もないただ卑猥なだけの描写を綴った原稿を次々に送りつけてきていたが、これが実業界のさる名士夫人であることを社長が聞きつけて来、いっそ本名で発表したらどうだろうということになって、その旨申入れたことがある。ふだんは監禁してあったのかどうか、いま逃げ出してそちらへ向ったから取抑えておいてくれ、すぐ引取りにゆくという電話が入ったのはそれから二、三日後のことだった。
看護人であろうか、血相を変えた若い男たちと、中年紳士風の引取り手が現われるまで、その女は社の応接間に坐って、ただニタニタしていた。名士夫人らしくもない洗いざらしの浴衣を左前に着、乱れ髪に履物も片々のままという異様な風体よりも、その笑いだけで参って、水品も到底相手をする気にもならず自分の机のところから様子を見守る他なかったが、結局、艶本の原稿は女もろとも、社長の思惑どおり多額の金一封で引取られてケリがついた。
今度の手紙は男のせいもあるのか、陰惨さや無気味さはそれほどに感じられなかったが、脳病院を訪ねるというのも初めてのことなので、あれこれと聞き廻って多少の予備知識は仕入れてきた。それによると面会人は病棟に入るとうしろからどーんと扉がしめられ、たちまち狂気の世界に取り残される。出るときはその扉を思いきり叩いてあけてもらうのだが、入るが早いか、鈍い黄色い眼の異様に光っている男たちに囲まれる気持は、どうにもぞっとしないという。何しろ彼らはつねに飢えているので、面会人があると何か喰べ物を持ってきたのではないかと思って、いつまでも周りをうろうろするからという説明であった。
もっとも狂人といっても戦争中から物々交換は盛んで、奇妙なくらい時の相場を知っているのだが、しつこいこともまた無類で、話してくれた奴がたまたま面会に行っていたとき、女形あがりという若い男が現われてこういいかけたという。
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――アノ、まことにつかぬことをお願いにあがりまして何でございますが、……
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まるで振袖でも着ているような物腰で入口のところに三つ指を揃え、それでも中に見慣れぬ人間がいるのに気づくと、慌てて艶然と笑ってみせた。
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――ま、これはいらっしゃいませ。本当にマア、ようこそいらっしゃいました。
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かと思うと、もうそのことは忘れたように、今日これで五へんめだという同じ頼みを繰返し始めるのだった。
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――わたくしの煙草と、少しばかりで結構でございますから、小麦粉と換えていただけませんでしょうか。
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水品はようやく決心を固めると玄関に向った。だがどういうことだろう、受付の守衛は、あれこれと電話をかけてくれたものの、患者にも職員にも鬼村とか宮内なぞという者は絶対にいないと言い張って水品をおどろかせた。手紙を持ってこなかったので証明にもならない。押問答も無益のことで、出直すほかないと決めた水品が、また駅に帰りかけたときである。さっきから樹蔭に佇んでいた若い男が、狙いすました獲物を窺う影のように、薄笑って近づいてきた。……
……………………………………………
妻の香苗はもう何遍、いや何十遍眼を通したか知れぬその手紙を、これが最後のつもりで読み返し始めた。再婚話も迫って、いますぐにも決心しなければならない。手紙といっても実物は警察で持っていったままなので、これは写しにすぎないが、夫の奇妙な失踪と不可解な死を解く鍵は、やはりこの三通の鬼村庄造なる人物の手紙の他にはない。それでいてまったく取りとめもないその内容が、何の手がかりになろうとも思えないのは、最初に眼を通したとき以来である。
水品啓介は、その日廻るところがあるといって会社を早退し、そのまま家にも帰らなかった。執筆者のどこにも立寄っていず、かねて同僚に脳病院から手紙が来て困ると洩らしていたところから、その線が洗われて、夕刻にT**精神病院の受付に姿を見せたことまでは判明したが、鬼村某がいないと判ると、ぶつくさ呟きながら帰って、それきりどうしたか病院側ではまったく知らない。怨恨、物盗り、それに戦後いくらも経たぬこととて、戦争中の動静まで調べられたものの、いずれも思い当る不審な点はなかった。そしてちょうど二か月後、|太宰《だざい》|治《おさむ》の情死行騒ぎのすぐ後で、同じく|玉川《たまがわ》上水に泥酔した水死体として発見されたのだが、外傷は見当らず、自殺は論外としてもその二か月間どこで何をしていたのか、その死が鬼村某なる者と何らか関係があるのかということさえ、なんらの手がかりはなく、その小さな市井の死は、関係者以外からはたちまち忘れられた。いや、関係者からさえも忘れられたことは後述するとおりで、|下山《しもやま》総裁などの死と較べたら、完全に無意味な、理由も何もない死といえたであろう。
鬼村の手紙は、三通だけが会社の机の抽出しに残されてい、もっと数多く届いていたことは確かだが、なぜその三通が保管されていたのかは分明でない。
第一の手紙は次のようなものであった。
*
新年御芽出たう、編集長殿!
此頃は此処も大分袖の下が利くやうになって、我輩も時折は御忍びで市井風物を見学出来るやうになったが、扨、巷にも格別面白いやうな事柄はない。そこでこのウヰスキー乙類、アルコール分四〇度以上、メチル含有量一立方センチ当 0.2―1.0 ミリグラム、青地に白と赤を抜いた御存知三級ウヰスキーを嘗め乍ら君に新年の賀詞を述べる事とした。イミテーションは承知して居るが、兎に角、メチルでない|丈《だけ》を安堵して乾杯と行かう。尤も中身は石油ランプの様な臭ひがし、水を薄めたアルコールさながら、後からぐわーんと頭に来る事は君も先刻御承知の通りだ。一本三百六十円也の伊達巻や、百匁百円也の栗金團には到底手が出ないからして、漸く半分百三十円の蒲鉾を肴に|飲《や》って居るが、飲む程に寒々として来るのは瘋癲病院の内ともなれば致仕方あるまい。
我輩は此処では分裂症と云ふ病名の許に拘禁されて居るが、これぐらゐ滑稽な名称も無い。若し假りに精神が分裂したと云ふなら、これは当然亦統一出来る筈ではないか。野蛮極まりない電撃療法などではなく、或ひは微妙なる音響の連続、或ひは強烈なる色彩の任意な時間的投影とか、患者の残された五官の残像に手早く適確に投げかける網さへ用意されるならば、|容易《たやす》く肉体は引かかつて如何なる精神病も治癒さるる事は疑ひを容れない。既に我輩は|夙《と》うに此の療法を自ら応用して自己治療を為遂げたのであるが、今以て医師及び看護人は徒らに腕力のみを振ひ、肉体を精神の墓場と化せしめて居る。さうであるからして不幸な患者は肉体を零に置き、精神丈が無限の割算を続けて居る様な甲斐無い努力を続ける他はないのである。
然し、無理もない事であらう、実をいへば未だ君には打明けて居なかったが、此処の看護人共は皆|歴《れっき》とした類人猿なのだ。さうでなければあれほど無用の肉体のみを得々と誇示し得る筈はない。但しこれは絶対の秘密である。彼等が若し其の事実に気付いたなら容易に発狂する筈で、地上には彼等類人猿が人間を閉込めておく檻は用意されてゐても、発狂した類人猿を人間が閉込める檻は未だ存在しないからである。
*
(第二伸)
昨夜また彼奴が来た。寝てゐるといきなり耳鳴りがし、鼓膜が内側からぐんぐん膨れてくる。頭の中一杯に拡がつてゆく痛みと痺れと。もう体は動かさうとしても動かぬ。その時に念じ続けてゐたのは、編集長、|只管《ひたすら》君の事なのだ。何も判らぬ激痛の中で、|怺《こら》へて怺へ切れず、骨の曲るやうな痛苦に堪へて俺は君の名を呼んだ。途端にすっと身が軽くなった。彼奴≠ェ躍り出たのだ。割れる様な頭から影に似て立出た彼奴。そして俺はまた彼奴のせいで狂ってしまつたのだが、そこは前住んでゐたアパートで、俺は直ぐ向ひの小野さんを尋ねた。薄暗い、夕闇の様に澱んだ部屋はしんとして誰もゐない。隣の石井さん。これもからつぽ。長い廊下も灰色に暗い。俺は次から次に扉を開けた。宇多川さんの部屋を覗くと、其処には河合の小母さん独りが寝て居たが、俺をみるとぎよつとした様に起き上り、どうして誰もゐないのと訊く俺に、さう? 変ね、ぢや此処で一寸待ってて、皆にさういってくるからと出ていった。扉がしまる。はっきりと俺は悟った。皆は気違ひの俺を怖れて隠れてゐるんだと。
そのあと、俺は彼奴と踊ったんだ。髪をさんばらにし、幽鬼そのままの眼をした彼奴と、二人してきちがひの踊を踊り続けたんだ。……
そこで眼が覚めた。あの割れる様な痛み。灰色の暗い廊下。あけてみて誰も居なかった部屋。物凄かった彼奴の眼を思い出して躯を固くした時、今度は夢でも幻聴でもない。扉をコン、コン、コンと短く三つノツクする音がはつきり聴えた。誰か来た、と考へてすぐ判つた。彼奴≠セ、彼奴はまだそこいらをうろうろし、この部屋に躍り込まうとしてゐるのだ。もしさうなつたら、俺は本当にいつぺんに狂つてしまふだらう。しかしノツクの音はもう二度と聞えてはこなかつた。
宮内先生に訴へて、彼奴≠ノつき話をする。大丈夫、来ない様にしてやるといつて呉れた。この先生丈が俺の今の味方だ。先生は何時もヤスパースだの富ノ沢鱗太郎だのの話をし、俺の考へにも決して逆はず耳を傾けてくれる唯一の人だ。未だ君の事は云つてゐないが、そのうち是非話す心算だ。あの激痛の中で只君の名だけを念じて居られた嬉しさに、この手紙を書いた。
*
(第三伸)
朗報! 編集長殿!!
いや、水品啓介君!!!
判つた。すつかり判つたんだ。何故僕の夢の中に斯うも屡ゝ君が登場し、あの兇暴な彼奴≠フ襲来の時にも君の名を念じさへすれば堪へられるのか、初めて、すつかり理解がついた。何だそんなことかと云はれる位簡単で、そして恐るべ真理がそこにあつた。早速宮内先生にも話したが、さうだ、それに達ひないだらうといつてくれた。
愉快、大愉快だ。どうしてもこの重大な秘密は、すぐにも君に教へたいが、二月のあのウヰスキー事件以来、外出もままならなくなつたことは承知だらう。電話も何時殺し屋みたいな腕をした看護夫に聞き咎められるか判つたもんぢやない。で、提案だが、
四月二十三日。金曜。午後五時。
いいね。絶対にこの時間以外はダメなんだ。この日のこの時間に、誰にもここへ来るなどといはず、必ず一人で訊ねて来て欲しい。|吃度《きっと》だよ!
あぁ其の時、君が此の秘密を知つてどんなに眼を輝かせ、どんなに喜んで呉れるかと思ふと、僕も胸が躍る様だ。宮内先生も立会つて説明してくれるといふから、安心して誰にも内密で来て呉れ給へ。では、待つてゐる。
* * *
読みようによっては本物の狂人の|囈言《たわごと》のようでもあり、何者かの陰険な謀略とも受け取れるこの呼び出し状は、しかしついに何の手がかりにもならなかったことは先に述べたとおりである。帝銀事件に幕をあけたこの年の世相も悪すぎたのかも知れない。|永井《ながい》|荷風《かふう》が『四畳半襖下張』で取調べられ、太宰治が投身し、老いらくの恋の|川田《かわだ》|順《じゅん》が家出し、|東条《とうじょう》他の絞首刑が決って翌年の下山、三鷹、松川事件へと続く毒々しい時代に、カストリ雑誌の編集者の行方不明など問題にもならぬ風潮がそこにあった。
香苗は三通の写しを窓べりのコンロの中に突込むと、マッチをすった。悪夢。そう、戦後の悪夢として燃して了おう。啓嗣が成人したら水品家を嗣がせるという約束の再婚話も、もう明日には返事をしなければならない。啓嗣がいずれは真相を知るにしても、実父はカストリ雑誌などでなくりっぱな出版社員で、単に事故死したと思わせておけばよい。鬼村某などという正体も知れぬ悪夢者の名を、なんで覚えさせる必要があるだろう。コンロの中で手紙は、もう血紅の|条《すじ》を走らせる黒い燃え滓に変っていた。
……………………………………………
水品啓嗣はバスを降りると、行手のU**病院を眺めた。それは明るい、モダンなビルで、こんな中に精神病院があるなどとはちょっと想像もつかない。しかし、何分にもそんな処を訪ねるというのは初めてのことなので、あれこれと聞き廻って多少の予備知識は仕入れてきた。それによると面会人は、医局員の案内でエレベーターに乗り、そのまま病棟のある上層階まで運ばれる。但し降りる時はエレベーターはすぐ下の階までしか動かず、そこでもう一度医局員の同乗で一階までくることになるらしい。しかしモダンとはいっても、病棟に入るが早いか、どこかしら曰くありげに、沈鬱な眼を光らせている男たちに囲まれる気持は、あまりぞっとしないという。
ここにいる鬼村庄造という患者から手紙が来始めたのは、ことし一九七六年二月のことだが、きょう、
四月二十三日。金曜。午後五時。
に限って面会が可能だから、そのとき初めて貴方もお気付きでない重大な秘密について話をしたい、ただしこのことは誰にもいわず一人だけで来てくれという三日ほど前の手紙には、やはり心を唆られずにはいなかった。しかし、本当はよせばよかったのかも知れない。二十八歳という若さのせいか、それとも一流の固い物ばかり出している大手の出版社に勤めてい、それだけ好奇心に充ちていたのが災いしたのかも知れない。妻の|早苗《さなえ》や、生まれたばかりの|啓一《けいいち》のことを考えれば、そんな怪しげな手紙に誘われるべきではなかったのであろう。ましてあらかじめ病院に電話をして、鬼村庄造という患者がちゃんと実在していると知っていたからには。
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薔人
薔薇園のおびただしい花群れの中では、どこかでひっそりと薔薇が薔薇を|妊《みごも》り、光と倶に産み、風のそよがすままに柔らかな揺り|籃《かご》の中でその|愛児《ういご》を育てている一組もあるに違いない。そうでなくて、どうしてあんなにも花たちは明るく優しい筈がないのだ。
|千秋《ちあき》|薔人《ばらと》は、自分もかつてはそのひとりだったと信じていた。何より鮮明な記憶がその証拠である。匂うばかりの産着にくるまれて眠っていた、その日々。それから元気な悪戯っ子に育って地上に降り立ち、朝露をふり|零《こぼ》しながらそこいらを跳ね廻っているときの、樹々の梢の穏やかな肯き合い。小鳥たちの弾む噂。だがそれも人間の気配が少しでもしたらおしまいで、薔薇の赤ん坊はすぐ|両親《ふたおや》の許に馳せ帰らなければならない。つぶらな瞳で花片の合間から、おそるおそる侵入者を覗き見する。その、みるからに異形な、世にも醜い二本足の生物を。
それが、いまはどうだろう。どんな罰でか神の手違いか、自分がその異形者の仲間入りをしてしまった。腕が生え、その先は五本に岐れた。口が出来、その中には歯さえ生えた。無気味な変身がいつ行われたのか、このほうはさっぱり記憶にないが、薔薇の子供だった、子供でいられた時のことを思い返すと、たちまち涙ぐまずにはいられない。喪ったもの奪われたものは無限であり、美のすべてといってよいが、中でも貴重なといえばあの香りだ。かぐわしい緑の風に育くまれ蓄えられた香りが何よりだ。……
もっとも人間たちの間では、当然ながら薔人の美貌は際立って見えるらしい。信じられぬほどだと取沙汰され、会うたび指先で軽く頬を突いて、生きていることを確かめる青年さえいた。
「お前さァ、本当はいくつなんだよ」
「十七」
「いつでもそういうけど、だってよう……」
いいさして、瞳のなかに自在にきらめく光に気を取られると、相手はもう黙って吐息をつく他はない。名のとおり薔薇いろに輝く頬には生毛が仄見え、さきほど突いた指痕はそのまま深い|靨《えくぼ》になっているからだ。
十七歳。それに間違いはない。あたかも薔薇の時間が、芽立ちから及んで緑の茎へ徐々に充ち渡り、頂上の花が開ききると何時に崩壊するように、薔人の内部でも時はすでに登りつめ、充溢し、これ以上齢を取ろうにも取りようがない。永遠にということはあり得ないだろうが、いましばらく十七歳でいるより仕方がないのである。
千秋薔人という名も、自分でつけたと思われているのかも知れないが、それも違う。姓の方はもしかすると養い親のままという微かな記憶があるが、名の方はこれ以外には考えられず、それがまた薔薇の中に生まれ、幼年期を薔薇園で過した唯一の|証《あか》しでもあった。ただし、このことはまだ誰にも打明けていない。いまのところ|類《たぐ》い稀れな美少年と思われていたほうが有利なので、本質は野蛮極まりない生物のことだ、薔人がもともとは仲間でないと知ると、すぐに狂暴な正体をあらわし、花片を|毟《むし》るように躯を引裂き、血に狂った凱歌をあげるか知れたものではない。
もっとも、人間のふりをして地上の生活を営むのに不自由はなかった。パトロンめいた者がいるとか、寄進につきたい男女が多いということではない。特殊な、秘められた能力を少しばかり駆使するだけで、必要なだけの金はすぐに手に入った。彼は人の心の中に自在に入りこむことが出来、あまつさえそれを操ることも可能だった。それも男よりは多く女の内部に寄生することで、薔人は屡ゝ主目的を果した。変身願望に憑かれた女は、自分がひととき心を操られていることさえ気づかず、恍惚として薔人のために奉仕する努力を惜しまなかったからである。
……………………………………………
最初にその能力に気づいたのは、街の風呂屋で浴槽に腰をかけている時であった。これまでもよく裸の男たちから、「ほう」というように好奇の眼を向けられることは多かったが、それは多少の煩わしさと、さらにほどよい満足感を|擽《くすぐ》る程度に済んでいたのだが、そのときは少し違った。昼間のことで人影の少ないせいもあったのかも知れない。眼の前で湯の中に沈んでいる二十七、八の男は、タオルで蔽うことをしない薔人のあけひろげな股間に無遠慮な視線を走らせていたが、そのうちとんでもない独り言を呟き出したのである。
いや、いくら何でも独り言の筈はなかった。薔人がそれに気づいたのは男の口が少しも動いていないと知ったからで、相手はもっぱら頭の中で妄想を逞しくしていたにすぎず、その考えがまるで耳に聴くように、ずんずんこちらに響いてくることに薔人はおどろいた。錯覚かと照ったが、そうではない。男のみじろきのリズムにも、まったくそれは符合していた。
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――こいつはまあ本当に人間なんだろうか。たしかにこうして素っ裸で、しかも男性のシンボルを隠そうともしやがらないんだから、まあ男には違いないんだが、しかし惜しいな。これで腰廻りがもう少しふっくらとして、胸に豊かな乳房があれば、完璧なアンドロギュノスというところだのに。
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そこで男は泳ぎ出すような恰好でいっそう薔人に近寄り、立上ると見せて一渡り裸身を点検してから、また元の位置に帰って続きを考え始めた。
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――そういえばルーブル美術館の、ミロのヴィーナスの隣の部屋にあった大理石像。そう、たしか眠るヘルマフロディットって題がついていた、あれもこんなふうになかなかの巨砲とでかパイで、何だか美しいというより異様な気がしたっけが……
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そして男がそう考え出すと同時に、薔人にもありありと、これも大理石の布団の上に身をくねらせたその像の姿態が浮かんで、却ってたじろぐほどであった。男の名も職業も、どうしてパリを訪れたかも、そしてルーブルが日曜は入場無料ということまで同時に判った。
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――まったく惜しいな。何だってこんなものをくっつけてやがるんだろう。皮膚ときたら薔薇いろの|絖《ぬめ》みたいに光ってるのに、男にしとくのはもったいないや。姉貴でもいりゃ一発だがな。
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薔人は自尊心を傷つけられ、それに少々うるさくなって、男の灰いろの脳細胞を点検した。いそがしく膨らんだり縮んだりしている思考中枢の、そのまた中心へ押しわけるようにして入りこむ。そして初めて薔人は、鏡ならぬ他人の眼で自分の裸身を隈なく眺めた。薫風に育まれ、光に造型された薔薇の化身。それは我ながら惚れ惚れするほどの眺めで、あれだって決して男のいうほど大きすぎはしない。漆黒の恥毛さえ桃いろの肌にふさわしく輝き、薔人は薔人の眼を見上げ、二人はともに肯いた。このときから薔人は自分に恋したのであった。
そのあとで彼が男に命じたことは、思い返すとちょろりと舌を出したいほどで、初めての経験にしてはまず上出来といえたであろう。新しい主人の俄かの出現にうろたえ騒ぐ脳細胞を鎮め、男がこの午後婚約者とデートするつもりで、その仕度までして来たと知ると、計画はたちまち実った。思考中枢から立去るとき、押込み強盗の棄て台詞さながら、こういい残せばよかったのである。
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――いいか、騒ぐんじゃねえ。オレが出て行ったら、命令だけ実行して、あとは綺麗さっぱり忘れちまうんだ。いいな、自分のしたことも全然忘れるんだぞ。
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ともに湯からあがると、冷やかに薔人は待った。むろん本当は男が待っていたのだ。忠実な犬のように命令を実行する|刻《とき》を。鏡の前で入念に髪を撫でつけ、ネクタイの結び目を気にしながら、男は薔人の動きを横眼で窺っていた。いそいそとデートの仕度をしているつもりなのだろうが、どうしてもその前に果さなければいけないことがあるのだ。薔人が風呂屋を出ると、すぐ後を追駆けてき、一定の間隔をおいてつけてくる。薔人は人通りのない横丁へ折れ、|欅《けやき》の大木の下で待った。男はおずおずと近づき、内ポケットから部厚い財布を出すとそのまま手渡した。
「あの、これを、どうぞ」
薔人は少しからかってやる気になっていった。
「なあに、これ。ぼくの忘れ物?」
「そ、そうです。忘れ物です。受け取って下さい」
男の眼には明らかな喜色が浮かんだ。自分でも納得出来ない行動に理由がつけられたので、嬉しかったのであろう。薔人は無造作に札束を引き抜き、財布を男へ返すとその眼にもう一度いいかけた。
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――いいか、みんな忘れるんだぞ。風呂場で金を取られたなんて、間違っても騒ぐんじゃない。どっかで落しただけなんだ。交番にも届けるんじゃないぞ。もう一度オレに会ったってお前は覚えちゃいやしないんだからな。
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男は気弱なほほえみを浮かべ、首をふりながら引返していった。
……………………………………………
こうして一度味をしめてしまうと、後の仕事はたやすかった。その気になれば銀行の金庫室から有金残らずを運び出させることも出来た筈だし、億万長者から遺産をすっかり譲られるのも可能に思えたのだが、もともとの気質のせいであろうか、それとも能力の限界か、入りこめるのは三十歳までの男女で、それも自分が満足できるほどの容貌を具えていなければ駄目だということが判ると、それは却ってこころよい刺激ともなり、つねに新しい興奮を伴った。若い彼らは、これほどまでとはまさか思えぬほどセックスに励んでいたからである。
習練を重ねるにつれ、入りこむのは何も一緒にいる必要はないまでになった。街で気に入りのアベックを見つけ、一度眼を見合せてしまえば後は簡単である。無垢の童貞だった薔人が思わぬ初体験をしたのは、その一組とともに訪れた瀟洒なホテルの一室であった。二人がシャワーを浴びるまでは、男の脳細胞の|襞《ひだ》に腰をかけた恰好で、じっと見守っているだけだった。いや、ベッドに横たわり、濃厚な愛撫が始まっても、思いきって男の中枢の支配者になる勇気は持てなかった。見ているだけでも薔人にはあまりに強い刺激で、実物の薔人の方はいたたまれず自分のアパートに駆け戻ったほどである。敷き放しの布団の上に|俯《うつぶ》せ、頭を抱えて酔ったように転げ廻った。だがいよいよという時になると、どうしても初めてのその感触を味わいたかったので、薔人は勇を鼓して男の中枢にわけ入った。花蜜の湛えられたその壺は、危うく薔人に故郷に戻った錯覚を抱かせたほどである。だがたちまちその行為は、女の|怪訝《けげん》そうな声に遮られた。
「どうしたのよ、|孝夫《たかお》さん。きょうはとっても変」
薔人は狼狽し、いそいで命じた。
――何でもないっていえ。何でもないって。
「何でもないよ」
男は、――孝夫なる男は力なく答え、それでも薔人が慌てた一瞬に主体を取戻して、余計なことをつけ加えた。
「ただ何となく、どっかから見られてるような気がするんだ」
「いやあね」
女は白い咽喉をそらし、物憂げに室内を見廻した。
「大丈夫よ、ここは。変な仕掛なんかないわ。ねえ、もっと……」
「う、うん」
孝夫は、いや薔人は稚い腕を廻し、再び女体に蔽いかぶさった。
めくるめく、落下。アパートの一室で稚い腰を突っ張らせると同時に、ホテルのベッドでも異変が起った。二度三度と女を喜ばせてからでなくては決して果てたことのない孝夫が、他愛もなく全身を痙攣させたのである。
「いや、いや、いや」
女は小さな拳を固めて男の背を打った。痺れた中枢部から容易に撥き出された薔人は、それでも危うく脳の端っこに踏みとどまって、呆然と事の成行きを理解しようと努めていた。何で女が怒り出したのか、それが判らない。まして孝夫が死ぬほど恥じ入って、「ごめん、ごめん。どうかしてたんだ、俺」などと詫び事を囁くに到っては、到底理解の他である。あんなによかったのに、何が不足だっていうんだろう。思いついて、女の中に入ってみることにした。由布子。二十三歳か。……
だが一度その中枢部に近づこうとして、薔人は再び呆気に取られた。これはまさしく灼熱の熔岩に|爛《ただ》れた噴火口に近い。男とは比較にもならぬ恍惚感の中を漂いながら、女はまだその頂上の十分の一も極めてはいないのだ。アパートの一室でのろのろと起き上がって身繕いしながら、薔人もようやく女の怒った原因を知って、頬をそめた。そうか、早すぎるといけないのか。でもなんて女って欲張りなんだろう。
考える暇もなく、もうそれは始まっていた。薔人がいなくなって俄かに元気を取戻した孝夫が、思わぬ失敗を埋めるべく猛然と作業を開始したのである。それはあまりにも荒々しい動作なので、薔人はすっかり怯えたが、女は、由布子は夢遊病者さながらに、いやさらに貪婪に、あまさずそれを受け入れようとしていた。思考の中枢部などその激変の前には物の数でもなく、薔人はふり飛ばされぬようしがみついているのがやっとだった。
男の獣じみた眼が迫り、耳たぶは絶間なく噛じられる。そして中心の火口には、噴き上げる熔岩を反対に抑えこむ形で、天の|逆鉾《さかほこ》といった何かが灼熟して責め立ててくるのだが、そのたびに由布子は小さな叫びをあげ続けた。従って薔人がようやく女に命令を発することが出来たのは、およそそれから二時間も経った後のことで、これに較べたら最初に風呂屋で会った男などは、何と純情だったことであろう。
――こりゃ、いけねえや。
薔人は小さく舌を出した。これからも絶対に女の現場≠ノは近づかないことだ。そこには決して思考中枢などありはしないのだから。
ただ、その後の経験で、虚栄心を逆手に利用することを覚えた彼にとって、女ほど便利な金融機関はなかった。何しろ彼女らは、向うからわざわざ薔人のアパートを訪れ、したたかな金額を部屋に放りこむと、後も見ずに帰って、二度とその部屋のことなど思い出さなかったのだから。
薔人がついに自分自身を男女どちらの相手にも選ばなかったことは当然であろう。己れに恋した彼にとって相手は自分しかあり得ず、それだけがこの超能力者の唯一つの泣き処だったのだから。
* * *
精神科医として知られる|宮内《みやうち》博士が、パリ近郊にあるX**病院を訪れ、国籍不明に思われていた患者の一人に対面し、異様な衝撃に襲われたのはつい昨年のことである。そこは、広大もない敷地に数千株の薔薇を植え込み、軽症の患者に作業療法を行わせることで知られていたが、初めはしごく快活に手入れにいそしんでいたその患者は、あまりな薔薇の美しさに魅せられたのであろうか、ふいに躁状態となってあらぬことを口走り始めた。もともと長くヨーロッパ三界を放浪していたらしく、フランス語も達者な男だが、それが自分は確かに薔薇の赤ん坊だった、いまその記憶を残りなく取戻したといい出したのである。始末に悪いのは、それから次々と幼年期・少年期の憶い出を甦らせてゆくうち、どうしても薔薇から人間になった経過が判らず、俺はこんなグロテスクな生物ではなかった、知らぬ間に整形手術をしたのだろうと暴れ出したことで、もとより作業療法は中止されたが、それは却って患者の妄想をいっそう募らせる結果となった。記憶は十七歳のままで固定し、いまもってロザアルとかロザンドとかいう訳の判らぬ名の、輝く頬の少年でいるつもりらしい。
博士は、引合せられるなり日本人だと見抜いた由だが、それにしてもその男のあまりな醜貌には、顔を|背《そむ》ける他なかったという。十七歳といえばいかにも十七歳なのだろう、それは知能がそこらへんで停っただけで、本当の年齢は五十歳を過ぎているのか、あるいは六十あまりか、皺だらけの口許に狡猾そうな笑いを洩らし、禿の癖に残った蓬髪を長く垂らしているのがさらにうとましい。妖気の漂う眼は患者を扱い慣れた博士にも、どれほどの卑しい想念が内部に充ちているかが思いやられて暗然とした。ましてそれが二人きりになると俄かに正体をあらわし、「とうとう逢いましたね」などと|狃《な》れ狃れしく話しかけるというのも気味が悪い。それでいてたどたどしい日本語で得意げに語り続けるのは、十七歳のいまの自分がどれほど美しく魅力に溢れているかということばかりで、黄色い|乱杭歯《らんぐいば》をのぞかせ、生臭い息を吐きかけながら、日本名は実は薔人というのだと、さも大事そうに打明けたという。
苦心の末、本名は鬼村正造だと調べがつき、日本に送還する手続きも済ませてきた由であるが、もし誰か心当りの家族でもいるようならと、なぜか博士は私に語った。
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薔薇の戒め
……私はその部屋で、いわゆる処分≠フ発表を待っていた。時計も暦もないここでは、実際、待つことのほかに何が出来たろう。かつて外にいた時分から、あるときは地検の固い木椅子の上で、窓の外の絶えず出入りする護送バスの発着を見おろし、あるいは廊下を往き来する囚人の腰縄や編笠といった、あまりにも古風なしきたりを眺めながら、私は待った。またあるときは病院の廊下の端で、リノリウムの床に散らばったスリッパの湿った感触を味わいながら、ドアの動きに気をとられ、窓口に覗く異様に大きな顔に怯えて、私は待った。ただそのときは、おおむね私の白い友人≠ノ関する処分だったから、祈り続け念じ続けはしても、やはりまだどこかに余裕があったといえるかも知れない。
ところが今度は、私自身に関する、いわば最終決定ともいうべき宣告を待っていたのだ。それも上級委員で構成される評議会が決めたとなれば、もう逃れようはない。どれほど苛酷なものだろうと、私はそれに従うしかなかった。たぶん私は身に覚えのない罪=Aそのきらびやかに縫い取りした奇妙な衣裳を着せられ、そこここを引廻されることになるのだろう。何しろ私は薔薇の掟を犯したというのだから。
それは、例年のように気象庁の梅雨入り宣言が出て、あんなにもみずみずしかった柿の若葉が俄かに|黝《くろ》ずむ季節だった。うす白い翅の蝶たちが限りなく墓から湧き立つ。霧雨の中のその葬列が誰のものかは初めから知れていたし、草叢に混る|鴨跖《つき》草は、ただ青い鬼火を点したにすぎない。そして私の掌には、やはり鉄格子の赤錆がざらつくばかりなのだ。
「だって、先生」
と私はいった。事態がそれほど進んでいるとは思っていなかったので、口調にはまだいくぶんの甘えがあったかも知れない。
「こんなところにいたら、せっかくの墓が全部駄目になってしまいますよ。ホラ、いま果物屋で、桜桃だの枇杷だの巴旦杏だのが、あんなに積みあげられたま静かに腐ってゆくのが、ここにいても見えるでしょう。あれが全部、こう紅くとろけ終るころには、薔薇だって当然滅んでしまうでしょうに」
「いいんだよ、君」
先生は、いつにない厳しい表情でいった。そしてそれに続く言葉は、思いもかけぬほど峻烈を極めたものだった。
「君が薔薇の世話を焼く必要はないんだ。いや、焼かれちゃ迷惑なんだと、この際はっきりいっておいたほうがいいだろう。第一だよ、これまでにも君が作業場で、能率よく仕事を仕上げたことが一度でもあるかね」
私は愕然と先生を、それから部屋を、そして最後に鉄格子の窓の外にある作業場を眺めた。私はここに、いつものあの先生と、のんびり薔薇の話をしにきただけではなかったのか。私が育てていたのは、間違いもなく私の庭の薔薇で、こんな見も知らぬ病院の薔薇ではないという思いも胸を掠めたが、それが錯覚にすぎないことは、いまの先生の一言でたちまち明らかになった。そうだ、私はずっと前からこの病院にいて、作業療法でもへまばかりしている一人の患者にすぎないのに、いったい何を考えていたのだろう。その証拠に、私に割当てられた数十本の薔薇は、いつだって初めのうちは勢いよく芽を噴き葉をひろげ茎を伸ばししているが、ある日ふっと理由もなしに|萎《しお》れいじけて、成長をとめてしまう。あるいはせっかく伸びてきた花枝も、案の定というほどブラインドとなり、見えない嘲笑を浴びせかける。肥料の不足とかやりすぎとか、薬を怠ったとか調合を間違えたとか、シュートの処理を誤ったとかいうことではない。理由はただひとつ、薔薇は私に育てられることを好んでいないのだ。そのために作業場では、私の受持の花圃だけが、いつも日蔭の地であるかのように、暗い翳りを見せている、そう、それだけは確かな事実であった。うなだれた私に、先生はさらにおもおもしくいい渡した。
「そのくせ君は、口をひらけば地下の薔薇園が暗い輝きに充ちたとか、虚の薔薇がどうの不在の薔薇だけが美しいのと、勝手なことばかりいっておるが、少しは|愧《は》ずかしいとは思わんのかね。いいか、君。薔薇には薔薇の掟というものが厳然とあるんだよ。それに違反する奴は容赦なく取締るし、薔薇の戒めがどんなものか、骨身に沁みて思い知ることになるだろう。そういうわけで君の処分も、評議会ではもうとうに決っておるんだ」
薔薇の掟。
いつ、誰がそんなものを決め、評議会とはいったいどんな人たちで構成されているんですと反論しようとして、言葉は|閊《つか》えた。訊かなくても判る気がしたし、何よりへたな薔薇作りというほどの罪悪はこの地上にある筈もない。それをまあ、私は何という大それた思い上り、そしてとんでもない思い違いをしていたことだろう。ここはかつての、あの優しい光と夢に溢れたS**病院ではなく、先生だって当然違うというのに、私は今日ちょっとここに遊びに来ただけだと錯覚していたんだ。……
「処分が発表になるまで、ここでしばらく謹慎していたまえ」
先生はそういい捨てて部屋を出ていった。覗き穴のついた重い扉がとざされ、残された私はその処分≠フ方法について、さまざまに思いめぐらすほかはなかった。
……………………………………………
処分はおそらく処刑といってもいいほど厳しいものであることは疑いない。それもむろん常識を超えた、時間・空間を自在に操作しての刑罰で、確かな訪問客だった筈の私が、一瞬の裡にそれよりも確かな患者になるぐらいのことは、ここでは当り前なのだ。そういえばなぜあの宮内博士が、声をひそめるようにして私に、千秋|薔人《ばらと》こと鬼村庄造の醜貌を念入りに話して聞かせたのか、のみならずその話をするとき、ひどく不安そうに私の顔を覗きこんだのか、いまとなっては判る気がする。先生は何とかして、私が実は私ではなく、鬼村庄造そのひとであることを思い出させようとしていたのだ。それも初めのうちは、深い|靨《えくぼ》を持つ少年を持出し、薔人になりさえすれば男女どちらのセックス体験も思いのままという誘惑を試みもした。幸い、私はまだ充分に理性を保ち、あいにく薔薇の申し子だった記憶もなければ、それほど美しい頬をしていたことなんて一度だってなかったと突っ撥ねると、今度は反対に、陰惨にくすぶった顔つきの鬼村を持出したのである。私の生得のコンプレックスを|唆《そそ》るように、殊更その醜貌を私に似せて語ったのは、ついに堪えかねて、そのとおりだ、私がその鬼村だと悲鳴をあげるのを期待したからに違いない。
その一瞬、舞台の魔術さながらに二人の人格は入れ変り、あらかじめしつらえられた過去の犯罪までが私に|被《かぶ》せられる手筈だったのであろう。すなわちS**病院ならぬパリ郊外のX**病院から、エレベーターのついた東京のU**病院へと移送し、さらに過去の年代のT**病院へと送りこんで、そこで滅ぼすつもりだったと想像される。ただしその代り鬼村はいわば不死の人で、善良な市民である水品某を、親子代々、その家系の果てるまで誘惑し、生かすも殺すも思いのままという娯しみをつけ加えた。ほとんど私が、その悪夢者≠ノなるのも悪くはないと思うまでに。
こうして見ると私は、過去のどこかにあった精神病院の、黒く穴のあいた台帳を埋めるために作りあげられた影の存在、影の要員として処分を待っている気もしてくる。|恰度《ちょうど》手だれの刑事が、どこからかボロ屑のような人間を見つけてきて、否応なく放火犯人・強殺犯人に仕立てあげるように、着々とその準備は進んでいるのではないだろうか。だが私はその罠には|嵌《はま》らなかった。千秋薔人であることも、鬼村庄造であることも拒否し、のっぴきならず過去の精神病院へ送りこまれることだけはどうにか避けた。とすれば、次に考えられる処刑の方法は何だろう。
私は窓べりに近づき、鉄格子を両手に掴んで外を眺めた。何千株という薔薇を植えこんだ、広大もない作業場。人影もないそこには、いま薔薇だけがほしいままな色彩の饗宴をひろげている。してみるとここはやはり昔どおりのS**院なのだろうか。同時に私は、ある異様な事実に気づいて息をのんだ。いや、異様なということはないかも知れぬ。それは単なる時間≠ノすぎなかったのだから。しかし、それが、単なるそのことが、地上で考え得る限りの残酷な処刑につながるとしたら。……
私は頭をふって、なんとかその想念をふり払おうとした。しかし、くろぐろとこびりついて離れぬそいつは、あざわらうように何度でも問いかける。
いまはいつだ? 何月だ?
六月。
――すぐ、次の問いが襲いかかる。
いつの六月だ? 六月の何日だ?
やめてくれ!
私はほとんど悲鳴に近い声をあげ、さらにその事実[#「事実」に傍点]を認めないために、急いで他のことを考えようとした。
六月は判っている。しかし六月だって楽しい記憶がないわけではない。あれは、いつだったか。そう、とある日われは大海に……。よせ。大海に、いずこの空の下とも、はや覚えねど……。よせったら。美酒すこし海に流しぬ、いとすこしを。そして、どうなったんだ?
めくるめく、酩酊。そうだった。六月のとある日、私はパリにいた。これだけは本当のことだ。それもノートルダム寺院に近い、セーヌ河畔の晴れやかなレストランで、その美酒を傾けていた。焼きたてのパンにくるみ、煮こごりを添えたフォワグラのあと、すてきもないヴィアンドを待っていた。おや、これは洒落になるな、待っていたのはシャンピニヨンを添えたセニヤンのステーキだったのだから。すてきもないステーキ。
よせったら、でも、いいじゃないか。そのあとのデセールがまたとびきりだった。ワインは何に変えたっけ。とにかくジュエリーという木苺で、まず壺いっぱいの砂糖が持出され、次に大きな鉢になみなみと湛えられた生クリーム。そして素朴な赤い苺が山盛りになって届くと、もう食卓はそれだけで大入り満員。胃袋も大入り満員。それがしかも御たいそうな高級レストランなんかじゃない、ウェーターは全部、シャツをはだけて胸毛をのぞかせた兄ちゃんだし、一緒だった連中も生ハムだのソフトサーモンだのと、いいくらい好きなものを喰べて、一人前六〇フラン。サービス料ともで四千円にもならないなんて、いったいどういう仕掛になってたんだろう。そして次の夜は、つい隣りの戸外のテラスで、アントレのあのミートパイのおいしさときたら! よせといってるんだ。
私は鉄格子を離した。掌に|塗《まみ》れた赤錆は、そのとき確かに、こびりついた血の固まりとしか思えず、その血に、そしてこうやって鉄格子を握りしめていた私自身に、私は確かな記憶があった。それは二十一年前の六月。……
……………………………………………
この部屋、閉じこめられたここに暦も時計もないことはすでにいった。とすればいまが六月だとは薔薇園の表情から知れても、いつの六月かということは私には判りようがない。かりにこの部屋が空間ではなく、時間のエレベーターだったらどうだろう。二十一階下へボタンを押すまでもなく着いてしまうことはいくらでもあり得る。いや、人間は、ただ老いに向って階段を昇るばかりの人生を送るわけではない。こうやって自在に時間のエレベーターを下降することだって、想像力というボタンに軽く手を触れるだけで可能なのだ。誰でも、そう、誰にでも。
しかし、いま、私の場合には、それがもっとも苛酷な処刑につながることに、いやでも気づかぬわけにはゆかなかった。なぜなら、二十一年前の六月十八日、土曜日、ここS**精神病院は、漏電と伝えられる自火のために焼け落ち、数十名の焼死者と行方不明者とを出したのだから。きょうがその前日、六月十七日だとすれば、もう逃れようはない。今夜半、確か一時すぎごろ、この部屋は猛火に包まれ、私は鉄格子を掴んだなりの焼死体に変るのだ。それが先生のいい残した処分=Aへたな薔薇作りの癖に大それた薔薇談議をした私への罰だとするならば。……
私はけんめいに当時の新聞記事を思い出そうと試みた。どこかに脱出の手だてが残されている筈だと思ったのである。
火に飛込む患者も
バラの園£n獄と化す
陰惨な見出しが、きれぎれに瞼に浮かぶ。
病室ごとに違う鍵
逃げ遅れた重症者
そうだ、鍵ばかりではない、火に怯えた患者たちは、せっかくドアが開かれても、かえって中に固まり合って逃げようとせず、そのために死んだ者もいると新聞は伝えていた。しかし、それが例によって彼らの黒い笑いではないという保証があるのか。それからまた――。
鉄格子にしがみつき
薄幸の患者
二十一年前、すなわち一九五五年の六月、ここS**病院で、火は当然のように不可抗力の真夜中に出た。何時だ? 午前一時。正確にいえば午前一時十四分。原因は? ぬかりなく漏電=Bそれも便所の天井からいきなり火を噴いたことになっている。彼らの指定した患者、すなわち処分に値する不治の§A中は、あらかじ選ばれ、一か所に集められていたのか。いや、用意周到に、みんなバラバラの病棟に押込められ、鍵さえ違えて確実な死を招くよう工夫されていた。何名だ? 焼死者十八名。新聞に載っていた、おぼろげな顔写真が思い出される。私は感覚を研ぎすました。あの中に、他ならぬこの私の顔もあったのかどうか。
だが、そうやって思いを凝らすうち、ひとつの、もっとも正確な記憶が甦り、それが閃くとともに私は、助かったという気がした。あの騒ぎの中で、たったひとりだけ、最後まで行方不明だった人物がいることを思い出したのである。そうだ、かれ[#「かれ」に傍点]はその後、杳として消息を絶った。その可能性、かれ[#「かれ」に傍点]になる可能性だけは、たとえ今日が六月十七日だとしても、まだ残されている。ドアには鍵、窓には鉄格子というここからどうやって逃げ出すのか、具体的な方法はまだ思いつかないが、あらかじめ時間まで判っているからには、何とか脱出のチャンスはあるに違いない。ありとあらゆる手だてを思いめぐらしながら、なお私はとどろく胸を抑えかねていた。
∴
しかし、過去へ送りこまれるというその考えは甘かったとしかいいようはない。彼らは、時間も空間も操ることなく、もっと直接に、いきなりこのいまの私の肉体を処刑したのだから。先生がにこやかな顔で入ってきた。この病院では、笑顔ほどおそろしいものはない。あとに屈強な看護夫が続き、私はむしろ彼に犯されることを願ったほどである。
「さあ、いつもの注射の時間だよ」
先生の、顔いっぱいの、笑い。それがのしかかるとともに私は昏睡した。
どれほどの時間が経ったものか、もとより覚えはない。厚ぼったい眼帯を取られたのは、薔薇園の真只中だった。しかし、それが薔薇園といえたかどうか、薔薇はすでに薔薇ではなく、私にとっての薔薇の|季《とき》も終ったのとを、いやでも思い知らされたからである。
薔薇の、戒め。
彼らは私の眼を、私にふさわしく、すなわちへたな薔薇作りに対する掟に従って手術したのだった。眼帯を取られたとき、私の眼に映ったのは、いっさいの色彩を喪い、もとより香りもなく、あの幽霊|茸《たけ》と呼ばれる銀竜草や錫杖草のたぐい、どう見ても腐生植物としか呼びようのない、僅かに形態だけを留めた異形の薔薇、薔薇の残骸であった。
「どうかね、君。この眺めは」
先生がいたわり深く声をかけた。
「これがいちばん君にふさわしいと評議会で決ったんだよ。これならまさに君の望みどおり、地下の薔薇園といったところだろうからね」
確かに、そのとおりだ。すべてが幻さながらに、色彩と香りと、ふたつながらの美を奪い去る、このみごとな処刑。
だが、日が経つにつれ、私の口辺には、ふしぎな、ゆるやかな微笑が浮かぶのを留めようもない。いまこそ、あるいはいまようやく、私は声を大にしていえそうな気がするからだ。仲間たち、あの影の王国の一員になれたからには、かつてはためらいがちだったその言葉を、誇りをもって。
人外(にんがい)。それは私である。
[#地付き]〈人外境通信・完〉
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真珠母の匣
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目 次
I 三人姉妹予言に戦くこと並びに海の死者のこと
janvier 恋するグライアイ
feurier 死者からの音信
mars 海の雫
U 老女独り旅のこと並びにセーヌ河に浮かぶ真珠のこと
avril 幻影の囚人
mai ピノキオの鼻
juin 優しい嘘
intermede |虚《うろ》
V 花火と殺人の誘いのこと並びに青は紅に勝つこと
juillet 紅と青と黒
aout 金色の蜘蛛
septembre 青い贈り物
W 砂時計の砂の滅びのこと並びに飛べない翼のこと
octobre 無の時間
novemre 盗まれた夜
decembre 絶滅鳥の宴
[#改ページ]
恋するグライアイ
正月も半ばを過ぎて、冬ざれの曇天に僅かばかり覗いている|群青《ぐんじょう》いろが救いのように思われるほど、寒々しい日だった。レストランの小部屋で、ひととき玻璃窓から空模様を窺っていた|星川《ほしかわ》|江梨《えり》は、昔を思い出したときにする、おぼつかない、遠い瞳になって、二人の姉妹のどちらにともなくいいかけた。
「ねえ、群青いろっていえば、もとはラピス・ラズリから来ているんでしょう。青金石なんだから本当はもっと鮮かな色でよかった筈なのに、昔のクレヨンじゃ、ずいぶんと灰いろがかった、地味な色じゃなかったこと?」
姉の|由良《ゆら》も妹の|志乃《しの》も、ともに答えない。江梨は少しはにかんだようにつけ足した。
「あたし、クレヨンの中じゃ、群青いろと、それから|黄土《おうど》いろってのが、いちばん好きだったわ」
「そう?」
志乃は細く尖った、形のいい鼻を向けると、少しそこに小皺を寄せた。
「いやだ、あんな、ねぼけた色。あたくしなら金と銀だけ。あれならいまでも欲しいくらい」
「そうでしょうとも」
揶揄するでも咎めるというのでもない、淡々とした声で江梨が応じた。
「あなただけは二十四色の箱を買ってもらえたんですものね。あたしなんか、いつだって八色がせいぜいだった」
貧乏学者だった星川家では、江梨の小さいころまで極端に切りつめた生活をしていたので、学用品ひとつを取っても暗い思い出しかない。金と銀の入った二十四色ものクレヨンは、少し齢の離れた志乃のころになってようやく買い与えられたのだが、万事に甘やかされて育った妹を羨む気持はすでになかった。
ボーイがオードブルを持ってきたので、二人はそれなり黙った。この三姉妹の新年の会合は毎年のことなので、白葡萄酒を注ぎわけてしまうと給仕は心得て引きさがり、それから陰気な祝宴が始まる。すっかり孫も大きくなって、未亡人ながら気楽な隠居の身分の姉や、夫が運輸業で羽振りのいい妹と違って、これまで独身を通し、ペーパークラフトの手芸教室で生活を支えている江梨には、お正月だけでも顔を合せましょうよというまま続けられてきたこの集まりが内心|疎《うと》ましくてならない。何かと都合をいい立てて出席すまいとしていたのだが、今年だけは特別だからと暮れの内から釘を刺されて、やむを得ず来たため、他の二人のように和服でなしに、ことさら眉をひそめせるためのセーター姿だった。その腕を少したくしあげ、型どおりの乾盃を済ますと、早速つんけんした口調になった。
「なあに、お姉様、今日は特別に大事なお話があるって。あたしねえ、こうしてお正月ごとに集まって、段々お互いに齢取ってくのを見較べるってのが、このごろ情なくなってきたのよ。志乃ちゃんだってもう五十でしょう。数えだったら誰の齢かって思うくらいよ。そのうち話といえば昔の苦労話や病気のことばかりなんて、いやなこったわ」
「その病気のことなんだよ」
由良はふっくらした掌の中でグラスを廻し、清澄な金いろの液体を思い入れ深く眺めながらいった。
「去年の御法事のあと、何かこうひどく空しくなってねえ。だって三十三回忌といや、生きてる者の出来る最後の年忌だもの。これで戦争の思い出ともお別れだし、あと何を支えに生きていったらいいか判りゃしない。そう考えたら今年はひどく悪いことが起りそうに思えてきてね、気になったから久しぶりに|宇田川《うだがわ》さんのところへ行ってきたんだよ。そうしたら……」
著名な女占い師の名が出て、江梨は俄かに眼を輝かせた。気だても顔かたちも異なる三姉妹にただひとつ共通しているのが無類に占い好きということで、ことに宇田川女史の御託宣は絶対の権威を持っている。そのひとに何かいわれたとあっては、聞き逃せることではなかった。
「そうしたら?」
問い返す江梨の声は、すでに僅かながら顫えていた。
「案の定さ。女の厄が三十三で終るなんてとんでもないことだって。こう皆な長生きするようになると、五十代に必ずもう一度厄年が廻ってくるんで、まだいくつと決ったことはいえないが、わたしたちそれぞれ今年がいちばんいけないそうだ。ことに眼と歯の病気から大変なことになるというんだが、そればかりじゃなくて……」
由良は再び言葉を切ると、少しばかり白葡萄酒で唇を湿した。あとの二人も見習って杯を傾けたが、いつもなら甘すぎると感じるそれが、江梨にはこころもち苦いような気がしたので、眉をひそめながらいった。
「眼と歯の病気ってなんのこと? あたし、このごろよく歯が欠ける夢を見るのよ。実際に奥歯はとうにないし、これだってほとんどが継ぎ歯ですから不思議はないんですけど、いやあね、この上まだ悪くなるっていうのかしら」
「わたしもね、こうして……」
由良は顔を仰向けて眼をしばたたいた。その眼はまさに何かの病気を思わせるように淡い水いろをしていた。
「ひょっと動かすたびに黒いものがだいぶちらつくようになったんだよ。気がかりですぐ志乃ちゃんに電話してみたら、やっぱり眼と歯がいけないっていうじゃないか」
志乃は軽いこなしをみせ、照れたように笑った。いわれてみると、これまで齢よりは遥か下に見え、若作りにしてもそれが似合っていたこの妹にも、いつかしら老いの影が寄り添い、その眼もどこか焦点が定まらぬうつろさを宿しているようで江梨は愕然とした。
「まあ飛蚊症というほどじゃなし、そこひの心配もすぐにはないことだろうが、宇田川さんもひどいことをいわれるのさ、放っておくとギリシア神話のグライアイのように、三人で一つの眼、一つの歯しかなくなるだろうって」
かすかに聞き覚えのあるその名は、ひどく忌わしい何かの象徴のようで、押し返して訊ねるのは憚られた。自分でいっておきながら由良は、それほど気にしているようすもない。ようやくフォークをとって、ムール貝を口に運びながらこんな感懐を洩らした。
「まあ考えてみりゃ、わたしたち大正の女ってのは損な役廻りだね。わたしの場合はそれを承知で嫁に行ったんだから、戦死されても諦めるしかないけれど、江梨ちゃんの頃にはもう生きのいい相手そのものがいなかったし、嫁入り道具を飾り立てられる時代でもなかった。せっかく山下さんと纏りかけたかと思うと、お父様が些細なことから壊しておしまいになるし」
「いいわよ、そんな古い話」
ただひとつの甘美な記憶に触れられるのがいやで、江梨は尖った声を出した。
「それよりそのギリシア神話って何だったっけ。子供のころ読んだことがあるようだけど忘れたわ」
聞きたい話でもないが仕方がない。手を伸ばして水槽から葡萄酒壜を取ると、銘々のグラスに注ぎ足しながら銘柄を読もうとしたが、老眼鏡をバッグから出すのも億劫なのでそのまま元に戻した。
「志乃ちゃん、書いてきておくれかい。わたしもうちの|広志《ひろし》が詳しいから聞いといたんだけど、何でもゴルゴーン退治の話さね」
「ええ、ペルセウスの冒険譚」
志乃は手廻しよく書きつけてきたメモを出すと、これも明りに透かすようにして読みあげた。ゴルゴーンもステンノー、エウリュアレー、メドゥーサの三人姉妹だが、グライアイもまたパムプレードー、エニューオー、デイノーという同じ父母から生まれた三人姉妹で、ただしこちらは初めから老婆だった。ペルセウスがメドゥーサの首を切り落す前、その棲処を訊ねるために寄って、一つしかない眼玉を取り上げて強迫した話が著名である。
いいかげんに聞き流しながら江梨は、いわれるまでもなく今日の三人が、どこか滑稽で哀しいグライアイになりかけていることを思い知らされずにいなかった。それはあくまでも歯欠け眼なしの醜悪な老婆で、頭髪に生きた蛇をそよがせ、手は青銅、黄金の翼を張り伸べて飛行するというゴルゴーンのように凄まじくも力強くもない。また同じ三人といっても『マクベス』の妖婆たちや北欧神話のノルンのように、何事かを司どるという柄でもない、大正生まれの女たち。
「ちょっと、それが今日の大事なお話なの? せいぜい眼医者や歯医者に通えっていう」
オードブルが下げられ、銘々の注文した皿を並べ終って支配人やボーイたちが引き取ると、早速に江梨が意地悪声を出した。
「まあさ、せかさないでお聞き」
由良は仄かに紅らんだ眼元に、おだやかな笑いを滲ませた。
「宇田川さんの話に後があるんだよ。それも途方もないことで、いまのグライアイだけど、わたしたちのところにも今年は必ずペルセウスのように凛々しい美青年が現われて、それに三人が三人とも恋をするって。……いいえ、わたしもすぐにいったの、冗談はやめて下さいって。でもそれが冗談どころか、まじりっけなしの本当の話で、その美青年というのが幻の母を求めて旅をしている真剣そのものの男だから気をつけなさいというんだよ。まあこれが宇田川さんの話でなけりゃばかばかしくて、聞いてもわざわざ報告するものかね。だけどあの人の占いで外れたためしはないんだもの」
声を立てて笑い続けていた江梨は、そこでようやく黙った。笑ったのは戦争を挟んで四十年近く、ついに実ることのなかった不毛の恋への嘲笑であり、同棲さえ拒んで独り生きてきた自分への憫笑だが、この人の言葉だけはと信じてきて、しかもかつていわれたこともない新しい恋の予言となると、あまりにも何もかもが惨めすぎて、滑稽さはさらに加わるほかなかった。親子ほども齢の違う青年に、いまさら何をいいかけることができるだろう。のみならず姉には孫が、妹には夫がいるというのに、三人が争って恋をするなどという情景は想像するだけであさましすぎる。
「いやよ、いやよ。あんまり笑わせないで」
だが、しきりとハンケチで眼を抑えながら江梨は、溢れ出てくる涙が笑いのためばかりではないと知ると、いそいでバッグをさらって手洗いに立った。タイルと鏡とに囲まれたそこで、躯はおかしいほどふるえた。洗面器に両手をつき、しばらくうつむいたままにしていたが、思いきって顔をあげる。鏡の中には、きつい眼をした初老の女がひとり、こちらを見返していた。だがその背後には、須臾の間にさゆらぎ消えた何者かの透明な像があった。
食卓に戻った江梨は、半ば放心の態で、料理には手をつけず、残った白葡萄酒をしきりと口に運んだ。由良はゆったりとナイフ、フォークを動かしながら、こんなことをいっている。
「わたしたち大正の女ってのは、あれだよね、戦争中に皆なと同じ病気に罹って、むしろそれでやれやれと安心していたら、いつの間にか皆なは癒っちまっているのに気づかなかったところがあるんじゃないかしら。いいえ、皆さんは本当に病気になったかどうかも疑わしいものさ。いっときそんなふりをしていただけかも知れないのに、情ない、わたしたちだけはまだ病気のままなんだから」
「それより、お姉様」
志乃が甘ったれた声を出した。
「その魔除けの宝石はどうなすったの。一月はガーネットでしょう。いい石が手に入りまして?」
江梨を除け者にして、というほどでもないが、この二人が特別に仲がよく、二人だけで通じる話を交すのはいまに始まったことではない。幼いころから慣れすぎているくらいだのに、由良は気を兼ねたように言訳がましく話し出した。
「さっきのペルセウスの話だけど、そんな輝くばかりの美青年が現われて、年甲斐もない騒動を起すことになっちゃ大変だから、宇田川さんにとっくり相談したんだよ。何かあらかじめお|呪《まじな》いをして、厄除けするわけにはいかないだろうかって。そうしたら大まじめに、宝石だけが魔除けになるっていうの。わたしたちの誕生石はむろんだけれど、向うとの相性というものがあるから、毎月ひとつずつでも新しい石を買って、その力で何とか防ぐ他はないというのさ」
「それで? お姉様ったらそのガーネットをお買いになったの」
江梨は思わずのり出すようにして訊いた。貧しい中流家庭に育って戦争を迎え、徴用だ挺身隊だと炎の中を走り廻っているうち終戦になった過ぎ行きからいっても、宝石らしい宝石は身につけたことがない。それを、志乃もそうだが由良のほうは夫の実家が地方の素封家だった上に、三人の子供は自動車屋、カメラ屋、弱電屋と不況知らずの輸出業界でそれぞれ活躍しているので、厄除けだなどとばかな理由さえいわなければ、ひとつずつ宝石を買うぐらい差し障りのあろう筈はなかった。
「まあねえ、それがさ、とんだ失敗をしちまったんだよ」
由良は手提げを引き寄せると、|天鵞絨《びろうど》の美しい小筥を出した。蓋があくと、スターカットだけに小さくは見えるが、1/2カラットはありそうなダイヤの指輪が光を返す。だが見たとたんに江梨は、どこかに不自然なものを感じた。いままでこれという石をはめたことがないだけに、憧れは却って本物贋物を見る眼を養っていたのかも知れない。
「初めから、ホラあの|石川《いしかわ》さんへ行けばよかったんだけど、知り合いの|塚田《つかだ》って奥さんで、そりゃあ上手に宝石で利殖なさってる方があるの。大そうな|目利《めきき》というからすっかり信用して、この石がたったの十万というんだもの、ぜひにもって頒けていただいたの。そうしたら、結局その奥さんも欺されていなすったんだけども……」
「だってこれ、まるっきりのガラス玉ってわけじゃないでしょ」
志乃はさっそく筥ごと自分の指に近寄せて、と見こう見している。
「それゃ、そう。贋物というよりは|悪戯《いたずら》物っていうのか、石川さんに見せたらすっかり笑われたよ。ダイヤモニヤって商品名がついてて、一カラット六千円が相場だって。通称をヤグ――YAGっていうそうだけど、それがおかしいの。ガーネットにまんざら縁がないでもない。YがイットリウムでAがアルミニウムでGがガーネット。つまりこれでもガーネットの結晶らしいんだよ。それなら少しは厄除けになるだろうしさ」
「いやだ、こんなもので間に合せになさるおつもり? ダメよ。それに誕生石にはひとつずつ何かの花がついているんでしょう。ちゃんとした石にちゃんとした花を添えて、宇田川さんのところで念じていただかなくちゃ」
「花はね、そう、花は確かスノードロップだけど、あんなもの、二月にならなくちゃ生えやしないよ」
「花はともかくも、石だけはちゃんとしたものをお買いにならなくちゃ。財産の意味がないじゃありませんか」
姉と妹の、殊更にはしゃいだ浮薄な会話をひどく遠いところに聞きながら、江梨はひそかに石の中でも魔除けの力が強いというガーネットが実際に買われなかったことを心の中で祝福した。いくら宇田川女史の予言でも、もとよりペルセウスにまがう美青年が実際に現われる筈もないし、かりに現われた途端、三人は本物のグライアイに変じて、老醜無残なまま不死という恐るべき刑を受けねばならぬだろう。
たった一度のめくるめく恋は、三十数年前の戦争のさなかに芽生え、そして踏みしだかれ、消えたのだ。その甘美な記憶だけを唯一の宝石として生きてきたのに、それ以上の何が必要だろう。
――でも宇田川さんの占いだけは外れたことがないもの。
再び三たびその思いが頭を掠めると同時に、江梨はまたバッグを手にしていた。
「ちょっと失礼。またおトイレ」
小走りに立つと、しんかんとした鏡の部屋に再び閉じこもった。そこにはしかし前と違って、俄かに若やぎ、眼も優しい女がひとり佇んでいた。そして背後には銀いろの狭霧か淡い靄めいた何者かが立ちゆらぐ気配がさらに濃厚となった。鏡の奥に、まぎれもない青年像が現われようとするのを江梨は知った。
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死者からの音信
星川|江梨《えり》は紫水晶の結晶体をひとつ、大事に|蔵《しま》い込んでいる。むろん宝石ともいえない雑な代物で、眺めるほど美しくはないし、せいぜい文鎮代りにするぐらいしか利用価値はない。それでもこれは二月十日が誕生日だった山下|洋司《ようじ》を偲ぶための記念品なので、戦後だいぶ経ってから甲府で買った。取り出して眺めるたび江梨は、不規則な尖りを寄せ合っているその形に、丘の上に建つ紫いろの古城を思った。それは同時にもう誰も近寄ることは出来ぬ墓なので、埋められた柩の中で死者は永遠に若い。
洋司は昭和十九年十月、航空母艦の瑞鳳に艦長付きで乗り、レイテ沖海戦で艦長とではなく、艦と運命を共にした。戦後すぐに江梨が第二復員局へ行って調べたところでは、たった二人だけの行方不明者の中に入ってい、万一の奇蹟を願わぬでもなかったが、それから三十三年、いまもって死者からの|音信《おとずれ》はない。
知り合ったのはその二年前、洋司はまだ早稲田の専門部に通っている学生だったが、江梨が町会の女子青年団の団長をつとめ、向うが男子の副団長ということからのつき合いで、齢は数えの二十二歳、いくらか下というその差はお互い口にしたこともない。色白で華奢で眼が澄んでいてというのは最初の印象だけで、喧嘩早いやくざじみたところもある男だったが、その代りきっぷは滅法よかった。唄が旨く英語も達者だったため、ウクレレの爪弾きでその時代にはおよそふさわしくないハワイアンを囁くように聞かせるとき、|晩熟《おくて》だった江梨は初めて躯の芯を揺さぶられる思いがした。あれは何という唄だったのだろう、青い月の夜に扉をあけてテラスに走る娘という出だしの唄は。
学徒出陣で|佐世保《させぼ》の先の相浦海兵団へ入団と決ったあと、ふいに郷里の高松の在から両親が出てきて、征く前に仮祝言だけ済ませたいと申し入れて星川家をおどろかせた。齢下、身分違いという難点は時局柄どうにか超えられたが、本人と会った父の|広之進《ひろのしん》が吐き出すようにいった、あんな不良に娘はやれんという一言ですべては破談となった。それでも江梨は、母や姉の隠れた応援で、学徒列車にともに乗って佐世保まで送った。その途中、|鳥栖《とす》の町で少し時間があき、駅前の旅館で過した二人だけの刻は忘れられない。宿の女中が真赤に|熾《おこ》した炭を惜し気もなく火鉢についでくれている間の、息苦しいまでの沈黙。そしてすぐ、さらに熱い火は江梨をつらぬき、裂いた。むろん形見の児を残さぬ配慮はとっさに行われたのだけれども。
相浦からじきに三重の海軍航空隊へ送られ、再々の検査で視力不足が発見されたため、念願の飛行機乗りになることは出来ず、航空要務員の予備生徒となって鹿児島へ、さらに高知から|呉《くれ》へと転々するのだが、その間ひそかに雑記帖へ日記をしたため続けていたのは、当時としては相当に度胸もいり、難しいことだっただろうが、むろん内容はありふれた若者の感想にとどまり、教育係の少尉への反感を除いては、かりに見つかったとしてもバッター棒に|譴責《けんせき》没収ぐらいで済んだことだろう。その雑記帖は遺族から贈られて江梨の手許にあるが、たとえば昭和十九年一月の記述は次のようなものである。
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一月二十七日 木曜日 晴
いよいよ二等水兵の戦友と別れてなつかしの相浦海兵団団門を出づ、親友|萩本《はぎもと》より送別の歌を貰ふ。
天かけり寄せ来る敵機打ち落せ
君が燃え立つ大和魂
元日にものせし余の歌。
今年こそ天かけらむと決意もて
初日を拝す海のつはもの
…………
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たった四十日あまりの兵団生活で、やや大人びた都会の不良という表面の苔は洗い流され、単純といえば単純な、無垢の青年に帰ったものであろう。五月の鹿児島生活となると、いっそう字句も躍るようだ。
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五月十二日 金曜日 晴
久し振りのいゝお天気だ。朝飛行場で行ふ体操も特別気持がいゝ。要務の試験、大して出来なかったがそれでも予想よりは出来たと思ふ。しかし他の人が殆んど出来たと思ふから結局俺は駄目だらう。……しかしくよ/\することはない。もう過ぎ去ったことだもの。明日の数学では絶対に挽回するぞ、俺は得意なんだから。
昼からカッターに乗って敵前上陸の演習を行った。武装もしなかったのであまり状況が映らなかったが、それでも俺は一生懸命にやったので愉快だった。もう海の中に飛び込むといゝ気持だ。一度水泳がして見たくなった。帰って来てすぐ洗濯をしてしまつた。
…………
五月十五日 月曜日
今日も又いゝお天気だ。|桜島《さくらじま》の噴煙が、風の都合でこちらへ流れて来て、とても硫黄臭かった。こんなこと始めてだ。
|高居《たかい》中尉の訓話、実に味はふべきものがある。
意気、若さ、熱、
そして我等の人生は、試練の連続に終始する。神は只一つのみ。正しく生き抜く事が我等の皇国に尽くす所以。
祖国の為に召された命を、いつ祖国の為に捨てゝも、それは悠久の大義に生きることなのだ。
意気、若さ、そして熱!
…………
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この日から五か月あまり、百六十日の後にはすでにこの世にいないのだと思うと、江梨はいつも同じ涙に誘われる。おまけにレイテ沖海戦ときたらもう周知のことだが、空母も持たぬ主力の|栗田《くりた》艦隊があやふやな情報でうろうろするうち、瑞鳳を含む|小沢《おざわ》艦隊は|囮《おとり》となって敵のハルゼー艦隊を引きつけたはいいが、そのまま恰好の目標となり餌食となって波状攻撃を受け、十月二十五日午後、瑞鶴は二時すぎ、瑞鳳は三時半、千代田は夕刻と、その朝に沈んだ千歳とも空母四隻がルソン島東方海上でやられて日本海軍の命運は尽きた。この愚かな捷一号作戦を直接指揮した司令長官や参謀長たちは、戦後のんびりと、初めから勝てる自信はなかった、天佑に恵まれなかったなどと談笑しているが、江梨は一度も洋司の死を、祖国の運命に殉じたなどと思ったことはない。二百万に及ぶ戦死者・行方不明者の、たった二百万分の一なんだからと諦めたこともない。おびただしい戦記のたぐいより洋司の日記の方がよほど身近なものだが、反対にそれを通して埋もれていった兵士たちの魂の復権を叫ぶ気持もなかった。魂というなら洋司個人のため自分のために反魂香を|※[#「火偏+(十/工)」、第3水準1-87-40]《た》くしか出来ることはない。それを、もうなんべん試み、なんべん失敗したことだろう。正月のレストランの化粧室で念じたのも、そのひとときの魔法だったが、銀いろの靄はついに本物の青年像となって甦ることをしなかった。
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――どこかにまだ欠けているものがあるんだわ。洋司さんからの合図を忘れているような。
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自分のことを江梨様と呼んで神聖化したり、あるいは危うく肉体のことにまで及びそうな箇所はもうことごとく|諳《そらん》じているので、あわただしく日記の他のページをめくる。高知の海軍航空隊にいたときの一葉が眼につく。
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六月十六日 金曜日 薄曇後本曇
夜半にサイレンの音に眼を覚ます。つひに空襲警報発令、真暗の中で直ちに服装を整へ温習室に待機するもつひに敵機来らず、夜明方ベンチの上に横になり、しばしトロリと仮眠する間にもう夜は明け放たれる。待避した者は草原に寝たさうだ。総員起しと共に空襲警報解除、再び第二警戒配備となる。朝のニューズに聞けば「北九州に敵重爆二十数機来襲、|中《うち》数機撃墜、我が方の損害軽微」といふ。つひにやって来た。いよ/\のんびり出来ないぞ、これからは何時来るかも分らないから。朝休業、八時より十一時まで眠って昨夜の睡眠不足を補ふ。昼のニューズでは敵は又サイパンに上陸したらしい。
あゝ早く前線に出たいものだ、一刻も早く。
昼からは予定通り、五次限航空基地、別科、排球。夕方のニューズによれば敵機動部隊|小笠原《おがさわら》父嶋来襲、同時に|千島《ちしま》にも来襲したといふ。もうぢつとしてゐられない気持だ。|和田《わだ》の|恵子《けいこ》さんと|利雄《としお》から便りを受け取る。もう外出どころのさわぎぢやないよ。全く! 東京でもさぞ緊張してゐることであろう。今夕も温習なし。待機。八時三十分就寝。
…………
[#ここで字下げ終わり]
――ここでもないわ。
ふいに四方を灰色の扉にとざされたような不安が兆す。だが瑞鳳に乗り組む前の、次のような遺詠と短い遺言が残されているからには、地上の時間が何十年経とうと二人の|絆《きずな》の切れる筈はなかった。
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しみじみと御身の姿に思ひ入る
このごろの我に哀しみもなし
|天皇《すめらぎ》の御盾となりて死なむ身の
生きてある日は楽しかりけり
天から貴女を見守らせていただきます。
江梨様 [#地付き]洋司
…………
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たぐいなく健康であるが故に、逃れられぬ本物の死を約束された若者たちの、束の間の交信。それは、灰色の曇天からいきなり放たれた銀の|箭《や》のように江梨を射とめ、いまだに射とめたままでいる。このあいだ正月の会合で姉の由良は、大正生まれの女たちというのは、戦争中にようやく皆と同じ病気に|罹《かか》ってやれやれと安心したら、皆は実は罹ったふりをしていただけだったという感懐を洩らしていたが、どちらかの相手が死んだ二人にとってその病気は終身つきまとう。悠久の大義とかすめらぎの御盾などという美辞麗句を心底信じたということではない。死を賭けた信義がこの世には確かにあると知って、黙々とそれを実行しただけという誇りまでを汚泥に埋め|溝《どぶ》に棄てて築かれた戦後という名の繁栄。それが大正生まれの女には|徒《いたず》らに肩に重いばかりなのだ。とりわけそのとき|廿歳《はたち》前後で、一度きりの恋をした者にとっては。
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――でも建前と本音とはやはり達うだろうし、洋司さんの日記は内緒で書かれたといってもそのへんの見わけが自分でもつかなかった時代なんだから……。
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それを考え出すといつも暗い渦に巻きこまれるような軽い眩暈を誘った。つまり洋司もまた多くの司令官のように元気で復員し、二人が結ばれてともに齢を取ったとするなら、この日記帖などすぐどこかへ蔵い忘れて得意の英語を生かし、口髭を蓄えたバイヤーかなんぞになってどこまでも商売上手な初老の紳士に変じているかも知れないこと。可愛い子供も孫も多く生まれるだろうが、同時に上品な女蕩しにもなって決して尻尾を掴ませぬ情事の数々で自分を苦しめていはしないかという|惧《おそ》れ。それは古い友人たちの一見倖せそうな結婚の陰にもっともありふれて行われていることだったから、江梨にとっても例外ではあり得ない。
――洋司さん、あなた本当にそんなふうになるの?
紫水晶の城、その小さな墓に指を触れながら、江梨は頼りなげな声を出した。
この年の冬は日本ばかりでなく世界中寒気が厳しく、豪雪の報は到る処から届いた。死者の誕生日である十日にも晩方から雪が降ったほどだが、それでも春というものは忘れずにくるものだと陳腐な感懐を催すほど、手芸教室を兼ねた自宅のささやかな庭にもチューリップは確かな芽立ちを見せ、霜柱も立たなくなると鶯が稚い声を聞かせるようになった。
玄関のチャイムが鳴って男の声がする。いつもは内弟子めいた生徒が二、三人はいるので、めったに応対に出たことはないが、材料を買いに行かせていたので、紫水晶をおいたまま江梨は気さくに立った。
「ハイ、どなた?」
何とかカンコーでございますという、若い癖に沈んだ声が扉の向うにする。チェーンをつけたままドアを細めに開いた江梨は、たちまち顔を硬ばらせた。紛れもない洋司の面影を持つ色白の青年が、左手にアタッシュケースを提げ、右手にパンフレットを持って笑いかけていたからである。
「何のお話かしら」
「ちょっと奥様に|伊豆《いず》の別荘の御案内を申し上げようと思いまして」
喋り方は型どおりの|慇懃《いんぎん》さで、声も洋司のあの弾むような元気さはない。だがこれまでにも何人か、ああ似ていると思うひとには出会ったが、これほどじかに眼の中に飛びこんでくるというほどの顔はなかった。
――冗談じゃないわ、別荘なんて。
明るく笑い放そうとしたが、差し出されるパンフレットをつい受け取ってしまったのは、その上に一枚の名刺が似顔絵入りで載っているのを知ったからであった。
瞬時に名前は読んでいた。六車|多計志《たけし》。幸いに山下洋司とは縁もゆかりもない名である。
――うちはね、独り暮しでお金なんかないの。
そういおうとして江梨は、もう一度その名刺だけを明るみへ向けて名を確かめてから、自分でも思いがけぬことをいった。
「珍しいお名前ね。ムグルマって読むのかしら」
「ハイ。四国の高松の近くにはわりに多くありますが」
「まあ、あなた、高松」
声は途切れた。やはりこれだけの似た顔でどこかに繋がりがない筈はない。だが、
「いいわ、お入りなさい。お話だけ伺いますから」
そういってチェーンを外したのは、懐かしさのためではなく、もとより宇田川女史の予言のペルセウスが現われたと思ったのでもなかった。むしろあの洋司が、もう一度人生をやり直そうとして、およそ不似合なセールスマンになってしまったような錯覚、どこかしら滑稽なその間違いぶりをもう少しこの眼で確かめたいというほどの気持からである。マンションならば知らず、この白昼に無用心ということもないし、それにこの青年が少しも強引なところがなく、むしろ引込み思案で仕事も|覚束《おぼつか》ぬ風情なのが内心じれったくもあった。意気、若さ、そして熱という予備生徒に較べたら、何という頼りなさだろう。
「でも悪いけど、本当にお話だけよ。いまお茶を|淹《い》れるわ」
ストーブをつけ替えるのも面倒なのでダイニングのテーブルに押し据え、魔法壜を取りに立つのを、青年は腰を浮かしてとどめようとしたが声にはならない。それでもそのまま坐り直すと、どこか育ちのよさそうな、悪びれないようすであたりを見廻している。
「伊豆はいま春が盛りでございます。ことにこの南|熱川《あたがわ》となりますと、およそまだ……」
テープに吹き込んだような台詞に江梨はあっさりといった。
「いやだわ伊豆なんて。いつ大地震がくるかも知れないんでしょう」
「いいえ、いまはそんな……」
躍起になって弁解をしたあげく、もういまからだって泳げるくらいだが、海はお嫌いですかというたぐいのことを青年がいいかけたとき、江梨はこう答えていた。
「海はあたしにとってのお墓なの。あたしの主人は戦争中に、あなたぐらいの齢でルソン島沖で戦死しちゃいましたけれど、泳いで泳ぎぬいて死んだかと思うと、あんまり海も好きにはなれないわ」
青年は俄かに深い怯えを伴なった眼で江梨を見つめた。それは思いもかけぬほど柏手が齢を取っているのだと知って、その思い違いを計りかねているようにも見えたが、
「そうですか」
と吐息をつくようにしてからいった次の言葉を、本当に聞いたのかどうか、後から考えると自信はない。
「ぼくの叔父も航空母艦に乗ってて、ルソン島沖で死んだそうです」
ふいの嘔吐感がいったい何によるものか江梨には判らなかった。
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――ああいや、そんな話をしないで。叔父さんが誰だか、その名前だけは絶対にいわないで。
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とっさにそんなことを考えた、その瞬時の間の幻影めいて青年が立上り、近々と顔を寄せてこう囁いたのはもとより錯覚だろうが、その不安げな顔にだけは見覚えがあった。それは死者にだけ許される筈の、あのいたわりの表情だったのだから。
「ぼくだよ、ぼくが帰って来たというのに、どうしたんだ。躯でも悪いの」
それほど長い時間をうつぶせていたのではなかった。眼尻に残る涙を拭いながら、江梨は残された名刺の走り書きを庭先の明りで読んだ。ご気分が悪いようなので失礼します。またうかがいます。
「なんてへたくそな字!」
声に出して呟くと、それを持ったままテーブルの上に出し放しの紫水晶の前に坐った。つくづくと似顔絵と面影を見較べ、そうっと指を出して結晶のひとつに触れる。
「いまね、あなたによく似たひとが来たの。もしかしたらあなたの甥かも知れないなんて思ったくらい。でもね、よく見たらちっとも似てやしなかったわ」
紫水晶の墓は何も答えない。
「だけど、もしかしたら、本当にもしかしたら、あたしがこうして触ったから、魔法のランプのように洋司さん、あなたが出て来て下さったの? ねえ、もしかしたら……」
紫水晶の墓は、それでもまだ何を答えようともしなかった。
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海の雫
江梨は押入れの中に78回転のレコードがかかるプレイヤーをまだ持っていて、ごくたまに古いSP盤を取り出してかけてみることがある。プレイヤーのほうは十年ほど前のものだが、レコードはもういつとも知れぬ昔から手許にあって、表面には無数の白い引掻き傷が走り、あるものは|乾反《ひぞ》って始末に負えない。ステレオもSPも同じ針というのでは、逆に針のほうが傷んで仕方がないことは判っているが、新しいステレオなどめったに聴くこともないので気にはしていなかった。それより暗い押入れの中に半分首を突込んでアームに指をかけ、そっと針先を落すと、たちまちめまぐるしく廻り出すレコードと、|擦《す》れ合い|軋《きし》り出す昔ながらの音のほうが慰めとなった。そのとき押入れは過去という名の洞窟に変り、傷だらけで厚ぼったいSP盤は、自分たち大正生まれの女さながらに不器用な生きざまを引摺って廻っているとしか思えない。
曲はそれほど多くはなく、ブルッ・ブルッ・ブルッ・キャナーリーと|燥《はしゃ》ぐダイナ・ショアの「青いカナリヤ」、アーサ・キットの鼻にかかった「セシボン」、シャンソンではさらにアンドレ・トッフェルの「ドミノ」、ジャン・サブロンの「メランコリー」といった渋いところが、いつ買ったとも覚えぬまま小|抽斗《ひきだし》に納まっている。中には乾反ったうえ|縦《たて》ひと筋に深い傷がついて、もうとてもかけられないのも何枚かあるが、これは戦後間もないころ、手廻しの蓄音器で針も鋼鉄針だった時につけたものに違いない。ダミアが|嗄《しゃが》れた声で唄う「|私の心は大洋よ《モン・クール・エタノセアン》」という曲もまたその一枚であった。裏面は「|小さな居酒屋で《セ・ダンザン・キャブロ》」という軽いヴァルス・ミュゼットだが、こちらはあまり聴いたこともない。
もともとフランス語がよく判らない上に、ついていた筈の解説書もとうに失われたため、どういう内容の唄だったかもうおぼろげな記憶しかないけれども、私の心の大洋に一羽の不吉な鳥が翔ぶとか、飛べ飛べ私の夢想よとかいった詞句があったことは確かで、そのためにこの曲は久しく忘れがたいものとなった。これもまた江梨にとっては、ルソン島沖で死んだ山下洋司を偲ぶよすがだったのである。
ダミアの唄う海は少しも明るくない。老婆めくその声はもともと碧い波、陽の|燦《きらめ》きとは無縁である。希望は初めから断ち切られ、鳥さえも曇天に見まがう灰色をしている。だがそれだけに江梨にはこの曲が鎮魂の意味を持ち、レコードの白く深い傷は空母瑞鳳のよろめく航跡のように思えた。いずれにしろ海は逃れようのない黒い円盤ではなかったのか?
それにしても死者は老いず、そのまま永遠に若いとは不都合なはなしであった。昨年の三十三回忌以後、とりわけて感じられるようになったのだが、例の洋司が遺した雑記帖はかつての恋人のものではなく愛児のそれであるかのような稚さで眼に映った。たとえば先の高知時代には、引続いてこんな記述がある。
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六月二十九日 木曜日 晴
朝からきつい夏の日ざし。午前中兵用資料調査法(|青木《あおき》少尉)であつたが、猛烈に眠くて仕方がなかった。暑い、暑い、まだ六月末だといふのに、七月八月はどんなであらう。午後攻撃、約半分は眠つて居つた。
俺は眠らない、そしてがんばつた。希望に向つて成功を期して、進め、進め、後九週間の後、又嬉しい事がお前を待つ。楽しい事がお前を待つ。
失敗なんぞ遠い過去へ小包で送るのだ。
夕、別科「スモウ」。生れて始めて「マワシ」なるものをしめて「スモウ」をやった。三勝一敗、よき成績なり。
今日は誰からも便りなし。
…………
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遠い過去へ小包で≠ニいう表現をし得たとき、洋司の時間は逆行を始めたに違いない。軍刀を持つ制服姿の、あまりにも稚い遺影がその証しである。いっぱしの大人でもあり|悪《わる》でもあったのは学生時代という過去で、日曜日の外出だけを楽しみに汗みずくで生きていたこのときには、およそ純粋無垢な少年の魂に還っていたのであろう。七月には「俺は本当に生きて帰る積りは毛頭ない。只、聖なる戦士でありたい」とか、「お母様、洋司はこのまま御国に命を召されても幸福です。江梨様、美しい心の人よ、永遠に幸あれかし」といった、単純な学徒兵の心境を書き連ねている。
だがサイパン玉砕の報が伝えられたこの七月、こうして海軍予備生徒の生活はすでに|恣《ほしいまま》な波の上にあった。それは実際に海の戦場に逆巻く激浪とは比較にならぬにしろ、いまからふり返るといかにも日本人ならではの騒立ち方で、洋司はその薄い板の上で揉みくちゃにされていたのである。十八日になってようやく玉砕を知ると、
「いよいよ来るべきものが来たのだ。喜んで俺達も死の配置につくのだ。でも間に合ふのかしら、俺達の出て行くときに、その決戦に」
という不安と決意を記した前日には、
「午後五時三十分より|奥田《おくだ》|良三《りょうぞう》、|淡谷《あわや》のり子の慰問演芸会あり、生徒は見学止であったが、やつと隊長の許可により見学する事を得」
とあって、ラ・クンパルシータや雨のブルース等、おなじみの曲名が出る。そういえばダミアも戦争中はどこぞを廻ってフランス兵士を鼓舞していたのだろうか。もっともあの声ではどこに行ってもたちまち厭戦気分をかき立てるだけだったろうけれども。
八月に入ると教育係の少尉との確執、生徒のひとりが発狂した話、またひとりが番兵とトラブルを起し、総員上陸止めという禁足のことなどが|細々《こまごま》と記されている。
「生きた人間の体を血の通はない棒でなぐるなんて以ての外だ」
という上官(教育係の少尉)に対する強い反抗の言辞が見えるのは、八月を終ればひと月の実習を経て少尉候補生になるというプライドからであったろう。
この辺になると江梨はそわそわと落着かなくなるのだが、それはそろそろ日記が終りというせいではない、二か月後の運命を予知したかのように、海との関わりが事細かに記されているからである。ひとつは外出止めとなった日曜日、行軍という名目で隊長が生徒全員を海に連れ出す。網曳きをさせるつもりだったらしいが波が大きくて中止となり、代って泳いだことが次のように記されている。
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八月十三日 日曜日 晴
……水泳の許可が出たので早速裸になって飛び込んだ。生れて始めてこんな大きな波の中で泳いだ。太平洋の黒潮、それは暖かであった。大波に揺り上げられ揺り下げられ、とてもいい気持だつた。ところが泳ぎ疲れて岸に上るとき約七回波に巻き込まれてもがいた。潮を呑んだ。ふら/\になってやつと上って来たらぐつたりしてしまった。今まで海では相当鍛へて来た積りだが、今日許りは本当に参つた。こんな大きな波の中では、人間の力なんて本当に頼りのないものだと思つた。
…………
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もとよりありふれた水泳の記録である。だが江梨にはこの浜辺でもがき潮を呑む姿と、血と落日に染まった激戦地の高波の中で泳ぎ疲れて沈んでゆく姿とをひそかに較べずにはいられなかった。高松の|在《ざい》といっても海浜育ちではないから、どれほど泳ぎに自信があったかは知らない。だがもしかするとこれは、その郷里に近い波の中であらかじめしたためられた遺書という気さえする。
それでいて一方洋司は、海の底に果てたのではない、飛行機乗りの夢は充たされなくとも、天空に散ることも可能だったと思えてくるのは、日記の最後に近く、こう記されているからである。
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八月二十一日 月曜日 晴一時雨
……夕食後、避退訓練をしてゐると、太平洋に竜巻が起つて美しかった。「トーネード」なるものを生れて始めて見た。絵や写真ぢやずいぶん見たが、実物を見たのはこれが始めてだ。かやうなすごいものとは思はなかつた。
…………
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そしてそこには幼稚ながら二すじの竜巻の絵が添えられている。アメリカ艦隊がこれに巻きこまれたら痛快だという続いての夢想は当時誰しもが持ったことだろうが、江梨にとってはせめて最後の日、|大竜巻《トルネード》によって昇天するのは洋司自身であって欲しかったし、それこそダミアの唄うように、心の大洋の上を飛ぶ、|わが夢想《マ・シメール》≠ナあった。とはいえそのレコードに深い縦傷があって二度とかけることも|適《かな》わぬというのは、いわばみごとな象徴に近く、江梨はひとりで壊しもならぬ黒い廃盤のような自分の心をもてあました。
∴
洋司の面影を持つ|六車《むぐるま》多計志という青年が二度めに訪ねて来たのは、あれからひと月ほど経ってのことで、江梨は鉢植えのパンジーを庭に移し植えているときだった。
クロッカスもそうだが、いったいこうした多色系の花には、咲く色の順序というものが決まっているのだろうか。大体が黄から始まって赤、ついで紫、それから白、そして白紫で終るような気がしているけれど、確証があってのことではない。ただパンジーは放っておくと初夏のころまで白紫がきりもなく咲くので、多少|疎《うと》ましい気持で眺めると同時に、そんなことを考えるばかりである。
気配に気がつくと、木戸のところに青年の姿があった。
「奥様、この前は失礼を致しました」
「ああ、あの時の……」
ようやく思い出したという顔で立上ると、しらじらしくいった。
「こないだは何だか急に気持が悪くなったの。御免なさい話の中途だったのに」
本当はこのひと月、どれほどこちらから電話をしようと思ったか知れない。だが別荘のセールスマンをわざわざ呼んでとなると、この先どうなるかは知れている。その面倒さでようやくこらえてきたというくらい、この青年は気がかりな存在であった。顔を見たいばかりではない、あのとき本当に自分の叔父も航空母艦に乗ってルソン島沖で戦死したといったのかどうか、それだけはもう一度じかに確かめておきたかった。
「どう? その後は。少しは注文がとれて?」
青年ははにかんだように笑って、軽く頭を下げた。それは「お蔭様で」というのではない「いっこうにダメです」という意味なことはすぐ判ったが、それでもそれを苦にしているらしくもなく、服装も明るい色の上下で、貧にやつれたといった感じはこればかりもなかった。今日もまた生徒たちが一人もいないのは幸いである。
「まあおあがんなさいな。相変らず別荘は買えそうもありませんけどね」
一応釘をさしておいて先に立つ。青年は「失礼します」といって庭先で靴を脱いだ。
「何ですか今年は春がこないかと思ったら急に来ちゃって。こんなところでも毎朝のように鶯が来て鳴くのよ」
「本当にいいお住居ですね」
青年はとってつけたようなお世辞をいった。初めて会ったときはこんな頼りのない性格でセールスが出来るのかしらんと思ったが、鷹揚な坊ちゃん育ちという感じは、昼の時間をもてあます主婦たちに存外に受けるかも知れない。ただそれだけは洋司さんになかったと思うと、江梨はまたしても意気、若さ、そして熱≠ニいう青春を生きた彼の短い一生を、反対にひどく空しいものに思い返した。
「ところで……」
本題に入ろうとして江梨は、もう蔵いこんだこのあいだの紫水晶を思い出すと、唐突に質問を変えた。
「うちの主人は二月生まれでアメジストが誕生石ですけど、貴方は何日のお生まれ?」
「はあ?」
いきなりのことで間の抜けた問い返しをしたが、すぐおとなしい笑顔に戻って答えた。
「三月です。ついこないだ過ぎました」
「あら、じゃ、いくつになったの」
「二十五です」
――なんだ次男か、と江梨は思った。これはいつからか癖になった数え方で、戦後すぐに洋司さんと結ばれていたとするなら、子供たちはいったいいま幾つになっているだろうと想像すると出てくる答えである。長男はやはり三十歳ですっかり分別臭く、孫もひょっとすると二人になっている、そんな計算からであった。
「三月というと誕生石アクアマリンね」
この正月に姉の由良から話を聞いて、改めて宝石の本を買いこみ、少しは詳しくなっているので軽い気持でいったことだが、青年は急にとんでもないという顔つきになった。
「違います。三月はブラッドストーンです」
「あら」
たじろいだ江梨に、青年はひどく得意そうにYシャツの腕を伸ばし、カフスボタンを見せた。
「だって買ってもらったばかりですから」
血石という名をそのまま、緑の石の中に飛び散った血のような斑点が見える。しかしそれは江梨にとって、何かひどく忌わしい紋章のように映った。
「いいえ」
ことさらに静かに|訓《さと》すような口調になると、
「そんな石は下品だわ。三月はね、やはりアクアマリン。アクアは水、マリンは海のことですから海の水という意味の、澄んだ綺麗な水いろの石なの。むしろ海の|雫《しずく》とか海の涙とでも呼びしずくたいくらいな、いい色。エメラルドに似てますけど暗いところでも輝くから、ヨーロッパの社交界ではエメラルドより大事にされるんですって」
読んだ本の受売りでそんな講釈までしたが、いまこのとき江梨が考えていたのはどうかして美しい原石の、それも出来ればいつか写真で見たことのある平行連晶のアクアマリンを手に入れたいということだった。それこそ誕生月は違っても洋司へのこよない贈り物――海の雫・海の涙そのままではないか。
それから俄かに気づいていった。
「御免なさい、変なことをいって。でもきっとその石のほうがアクアマリンよりお高い筈ね。どなたに買っておもらいになったの」
ガールフレンドでして、と頭でもかくと思いのほか、青年はいとも無邪気に答えた。
「母にです」
「お母様ですって」
江梨が悲鳴に近い声をあげたのは、何という甘ったれだと呆れ果てたからだが、それでも油断のない顔つきで少しずつ躯を起すと、とうとう最後の矢を射かけるようにいった。
「ねえ貴方、こないだ見えたとき、確か叔父様がやはりルソン島沖で戦死したとおっしゃらなかった?」
「ハイ、いいました」
おどろくほどの素直さで青年は答えた。
「父と腹違いで齢上ですけど、航空母艦の瑞鳳に乗っていたんです」
瑞鳳――江梨の頬から血の気が引いた。
「まさか艦長付きだったんじゃないでしょうね」
「いえ、艦長付きです。艦長って人は生きて帰ってきたらしいけど、叔父は行方不明のままだって聞いてます。ですからぼく、この間御主人がそうだとおっしゃったとき……」
「それでお名前は」
おそらく江梨の眼は、ほとんど青年を怯えさすほど光っていたに違いない。だが泣き声めいた相手の答えはまったく予想を裏切っていた。
「ぼくとおなじで六車……ただタケシってのが武士の武で、ぼくの名はそれからつけたんだって。本当です。六車武っていうんです」
がっくりと肩を落しながら江梨が考えていたのは、艦長付きといっても何も一人とは限らなかったろうこと、それでもこれは驚くべき機縁で、その六車武という青年はもう名も覚えていないけれど、第二復員局へ行って調べたときの、たった二人の行方不明者のもう一人であることは間違いなさそうだった。
「貴方、山下洋司って名を聞いたことない? やっぱり高松の出で、貴方によく似ている顔をしてたの。それがあたしの夫」
「いえ、知りません。聞いたことありません。済みませんけど、ぼくもう帰らなくちゃ」
「逃げないで!」
鋭く命じると崩れるようにまた腰を落す相手へ、江梨は諄々と説くようにお父様でも親戚にでもすぐ問い合せて、至急に山下洋司という名に心当りがないかを聞いてくれることを、大事な写真の一枚を添えて依頼した。反対にその六車武という青年の写真も探して見せて欲しいこと、そうすれば青年のセールスにはどれほどでも便宜を計ることも申し添えた。
一週間経ち、十日経った。その間に江梨のしたことといえば、大きめなアクアマリンのペンダントを手に入れただけであった。待ちかねて会社へ電話すると、案の定、青年はもう辞めて行方が判らないという。ただそれと前後して一通の封書が届いたのがまだしもの慰めだった。向うの住所はないが、手紙には洋司の写真が戻されて入ってい、郷里へ問い合せたが誰も知らないこと、そしてしまいにはこんな一行が、例のへたな字で添えられていた。
――でもこの写真、ぜんぜんぼくに似ているとは思えません。
∴
久しぶりに押入れをあけ、仄暗い過去≠ヨ首を差入れたのは、手紙が届いた夜である。アクアマリンの一顆はその中で海の雫さながらに輝いた。今夜は針が飛ぼうと何しようと、どうしても「|私の心は大洋よ《モン・クール・エタノセアン》」をかけずにはいられない。心を鎮めて針を落す。レコードはたちまちがたぴしと廻り出し、ダミアは縦ひと筋の傷に途切れながらも、深い老婆の嗄れ声で唄い始めた。
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Mon coeur est un ocean,
Vole, vole, ma chimere!
…………
…………
Sur l'ocean de mon coeur,
Plane un oiseau de malheur!
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幻影の囚人
星川家の長女・由良からの慌しい電話で、江梨と志乃の二人に至急の呼び出しがかかったのは、四月も末近いころであった。テープレコーダーの売込みでベルギーに行っている三男の広志が、何ともいえぬ異様な体験をし、ひょっとするとそれは星川家の浮沈に係ることだというのだが、江梨がその大時代な言葉を咎めても、笑いもしない真剣さだった。もともとこの三姉妹が、内輪だけの結束を固めるかのように仲が良いのは、徒らに大正生まれの女の不運を嘆き合うためではない。ずばぬけて頭の良かった長兄の|俊男《としお》が、ただひとりの後継ぎでいながら、戦争中にドイツから帰国する途中で行方不明になったせいもあるので、両親はそれを嘆くかのように次々と歿くなった。由良は早く|宮原《みやはら》家に嫁いで、夫は戦死したものの三男一女を儲け、志乃も戦後にあっさり|塩沢《しおざわ》という男と結婚してしまったので、星川の家名は独身を通した江梨だけに伝えられることになった。三姉妹それぞれその名に愛着を持ちながら、孫の一人に継がせてという古風なしきたりを推し進めることも出来ないでいる。それだけに俊男の生死不明は長い|痼《しこ》りとなって、三人の頭から離れたことはなかった。
「何があったっていうの。こんなところに呼び出したりして」
指定されたホテルのロビーで、江梨は居心地が悪そうに革椅子の上でみじろきした。
「広志さんが国際スパイ団の活動に巻き込まれでもしたのかしら」
もみあげを長く伸ばした|赭《あか》ら顔の外人たちが多いので、つい口にした言葉だったが、いつにない由良の緊張したようすは、いっこうにほどけなかった。
「そうかも知れないんだよ」
油断のない顔つきで声をひそめると、
「志乃ちゃんが来てからと思ったけど、先にこれを読んでおくれでないか。あとの話はここに部屋がとってあるから、そこでのことにして」
渡されたのは航空便を複写した広志からの手紙で、その長身を思わすような細長い字が並んでいる。電機器業界の大手に勤め、齢も三十半ばというのにまだ独身で、詩人肌というのか、ひそかにこまごましたものを書き溜めているのは江梨も知っていた。
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アントワープにて。
|塚田《つかだ》夫人と待合せるため、この町いちばんの広場グランプラスのカフェテラスで、しばらく放心の刻を過しています。
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そんな書き出しを見るなり、江梨は眉をひそめた。
「いやだ、塚田さんなんかと一緒なの」
この正月に贋のダイヤを掴まされたばかりだというのに、|性懲《しょうこ》りもなくまだつき合っているのかという非難だったが、由良は動じない。
「そうなんだよ。どうしても本場の取引所や研磨工場を見たいとおっしゃるから、わたしのほうでおすすめしたの。広志も仕事が済めば一週間ほど体があきますから御案内させましょうって。でも肝心なのは、それじゃなくて終りのほう……」
早く先を読めというように顎をしゃくった。
「ちょっと待って。暗いわね、ここ」
バッグから老眼鏡を出して、ゆっくり拭うと、腰を据えて読み出す。
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つい先ほどまで眩しいくらい差し込んでいた夕陽は、もう市庁舎のうしろに廻って、向う正面の建物の上にある、金いろの女神像を輝かしています。年寄りのギャルソンが、テーブルの上の日覆いを片づけ始めました。広場の中央にある噴水は、アント(手)ワーペン(捨てる)の名の由来となった巨人退治の伝説でネオ・バロック期の彫刻ですが、それもいまは緑の翳になって沈もうとしています。長い、たゆたいの刻。忙しかった仕事を離れてこうしていると、ようやく夕闇とともにベルギーという国の中にも溶け込むことができるような気がしてきます。
何しろこの国を二分する、ワロン語・フラマン語両族の複雑さは、行きずりの旅行者などにはもとより理解の外で、せいぜい駅名の表示が両方の言語で書かれているのに戸惑うくらいですが、そのために教育相、文化相の閣僚も必ず二人ずついるとなると、日本人には到底のみこめないしきたりでしょう。
それと、人種問題。いまこのカフェテラスの周りにも、黒い山高帽に黒い髯を生やしたユダヤ商人が、夕闇とともに俄かに殖えてきましたが、たぶん日本の旅行者はこの風体を異様に思うばかりで、必ず被り物をしなければならないユダヤ教の戒律を知ろうとする人は少ない筈です。こちらの観光局にむりやり頼みこんで、昨日、日本人は天皇のほかまずもって入ったことがないというダイヤモンドセンターの内部を案内してもらったのですが、やはりこのスタイルのユダヤ人が多かった。ここばかりではなく、世界の市場を動かすユダヤ人のダイヤへの執着、その裏の虐げられた歴史を肌で理解することは、まず不可能というほかないでしょう。
センターは何しろ一日の取引高が七兆ドルに及ぶところなので、街の入り口からして見えない狙撃者・監視者の眼をひしひしと感じるほどです。商人たちはダイヤを入れた鞄を自分で左手に鎖付けにして歩いているので、奪うならその手を切り落すしかないと考えて、自分でぞっとしました。ここは塚田夫人の|強《た》っての望みで見学を頼んだのですが、中のお偉方にいきなり妙な英語で取引を申しこむので冷汗をかきました。何でも大そうなエメラルドをひそかに持出してきているらしいのですが、およそ場違いも甚しく、向うからは皮肉をいわれるし、間に立った観光局の役人も頭をかかえて舌打ちするほどで、後でさんざん文句をいわれました。
だいぶ暗くなってきました。黒い山高帽のユダヤ人たちは、どうやらぼくを遠巻きにして監視しているようなのが無気味です。約束の時間をとっくに過ぎてまだ現われない夫人のことも心配です。あのひとが大手デパートの社長と親戚というのは本当でしょうか。いま、ユダヤ人のひとりが
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手紙はそこで突然に切れている。老眼鏡を外した江梨は、めったにないほど沈みこんだ由良と眼を合せて、初めて自分も深い怯えに捉われていることを知った。読んでいる途中に志乃が来て、向い合せにつつましく腰をおろしたが、覗きこむでも問いかけるでもないのは、いつものとおり、あらかじめ由良から何もかも聞かされているせいであろう。
「でも何だってこんなところで……」
江梨はもう一度周りの外人たちを見廻した。気のせいか彼らも、それとなくこちらの様子を窺っているような気がする。
「こういうざわっとしたところのほうが、却って安心だと思ったんだよ。まさかわたしたちまでが狙われもすまいじゃないか」
由良は言訳にもならないことをいいながらもう一遇の航空便を出した。
「手紙にはあとがあるの。ところがおとついの夜、いきなり国際電話があってねえ」
いいさしたまま放心のていでいるのは、よくせき考えに余ってのこととしか思えない。江梨は黙ってまた老眼鏡をかけると、残りの手紙をひったくった。
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無事にホテルへ帰りついたところです。初めから順序立てて手紙を書き直せば心配させずに済むでしょうが、ひどく疲れてもいるので前のをそのまま同封し、続きを書きます。
あのユダヤ人たちは、やはり昨日の塚田夫人の件で、背後関係を探るために現われたのです。丁重な英語で御同行を願いたいといわれ、センターに近いビルに連れこまれたときは、正直のところ生きた心地がせず、顫えを見せないのが精一杯でした。着いてからも慇懃な態度は崩さないものの、早口に飛び交う各国語の洪水で、ようやく理解がついたのはわれわれが大がかりな密輸団の一味かと疑われている滑稽な錯覚でしたが、何しろ夫人の態度が態度だったので、言い|釈《と》くのに大汗をかきました。彼らはぼくをミスター・パールと呼び、売込みに来たにしろこの町を雑貨屋とまちがえてくれるなというたぐいの嫌味を口にしましたが、後で聞くと夫人も別室へ連れ込まれて、マダム・エメロードなどと|嬲《なぶ》りものにされたようです。もっとも彼女のほうは言葉があらかた判らない上に、ぼくより度胸が坐っているためか、日本語で啖呵を切ってやったなどと得意がっていましたが。
それはともかく、二人が救われたのは、この町でも相当な顔らしい日本の老紳士のおかげです。服装を見ただけでこちらの生活が長い人だと察しがつきましたが、電話で呼ばれたのか、それともこういう情報網を握っているのか、品の良い顔立ちで現われたとき、彼らが一種畏敬のざわめきを見せたことは確かで、もの静かにこちらのいい分を聞きとると、ぼくに判らない言葉ですぐ彼らを納得させ、ホテルまで送り返してくれました。
名前を訊いても首をふるばかりでしたが、ぼくには何よりその顔立ちがあまりにも深い憂愁と|苦患《くげん》に充ちていることにおどろかされました。何かがその瞳の奥で燃えている、それは確かに魂と呼ぶに足るものだという感じで、齢は六十をとうに過ぎているでしょう。ほとんど慈父といいたいくらいの優しさと、それでいて峻烈に甘えを拒否する厳しさとが一緒になっているのは、故郷を思い棄てた人特有のものでしょうか。
「日本へはお帰りにならないんですか」
と訊いてみましたが、これにも黙って首をふり、それからちょっと妙なことをいいました。
――帰ったらお母さんによろしく、と。
こんな老人に心当りはおありですか。
とにかくとんだ経験でしたが、無事一件落着というところです。塚田夫人はまだ|懲《こ》りずまにここで頑張るといっていますが、ぼくはあすブラッセルへ帰り、ゲントでファン・アイクの祭壇画を見てから、ブルージュへ遊んで、予定どおりパリから帰国するつもりです。お元気で。
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「これならどうってことはないじゃないの。電話では何といってきたの」
人騒がせなというように手紙を返し、やれやれという顔で老眼鏡を蔵い込んだが、由良の一言は充分に江梨をおどろかすに足りた。
「その老人が俊男兄さんだったっていうのさ」
それから急にせかし立てて、わざわざ取ったというホテルの部屋へ案内すると、三人は改めて顔を見合せ、深い吐息をついた。
兄の生存説はこれが初めてではない。何しろその行方不明も第二次大戦秘話という形で、出来すぎ作り話めきすぎているので、親しい人に打明けて話すのも気がひけるほどだった。それだけに意外なところでひっそり生きていることも充分にあり得るというのが、三人姉妹それぞれの思惑だったのである。
東大では応用化学を学んで、その秀抜さに教授はしきりと大学に残るよう勧めたが、貧乏学者のくらしは父の代でたくさんだと、あっさり三菱商事に入社してしまった。数え齢二十九歳の若さでドイツへ出張を命じられたのは昭和十六年のことである。アメリカ経由で船は野村吉三郎特命駐米大使と一緒だったことでも知れるように、着いてしばらくすると十二月八日の開戦となり、商売のほうは手詰りとなってすることがない。海軍の嘱託となったのを機会に、大学時代から専攻していた火薬の研究、それもロケット燃料について勉強し直したいと、ブランデンブルク門に近い地下のレストランで在独邦人の懇親会があったとき挨拶したのは、多くの人が聞いている。しかしそれがついにぺーネミュンデの地下要塞に潜り、フォン・ブラウンの下でV2号の設計にまで携わることになるとは、初めのうち本人も思いもしなかった成行であろう。
この秘密兵器については日本の陸海軍も刮目していたので、その設計図が一民間人によって入手できるとなると、騒ぎはただごとでなくなった。各国スパイの暗躍ぶりもめざましかったが、どうにか日本の海軍側が勝って設計図とともにノルウェーのフィヨルドのひとつから潜水艦に乗せ、日本へ送り出したのが二十年の三月初旬だった。
後で聞くと俊男は、設計図と一緒では危ない、それはもう頭の中に叩きこんであるし、ソ連邦がまだ参戦していないのを幸い、シベリア経由で帰らせてくれと懇願した由だが、軍人の石頭が聞き入れる筈はなかった。どちらの経路を取っても無事に帰国は出来なかったろうが、とにかくフィヨルドを出た潜水艦はそのまま消息を絶ち、どこで沈められたにしろ星川家では、その三月のとある日を命日と考えて戦後を迎えた。
その兄が実は生きていて、それも潜水艦ごとソ連邦へ持って行かれたという新しい情報がもたらされたのは昭和二十九年になってからで、米ソの対立が極まった中で起ったラストボロフ事件以来である。これはベレンコ中尉のミグ25のような派手さはなかったにしろ、当時は世間を瞠目させるに充分で、駐日ソ連代表部からラストボロフ二等書記官がアメリカ情報機関に抑留されたと発表があったのが一月二十四日、ついで日本側から彼は書記官などではない内務省所属の陸軍中佐で、自発的にアメリカへ亡命したのだという説明やら、勝手にそんなことをされても困るというアメリカへの苦情やらがつけられた。その間、本人と親しかった日本人の一人から、最初の星川俊男生存説がひそかに伝えられたので、俊男は潜水艦ごとソ連邦へ抑留され、いまも軍事ロケットの開発に従事しているという。
そしてそれを裏づけるように、その三年後からスプートニク1号、エクスプローラー1号の人工衛星合戦が始まり、ガガーリンのウォストーク、テレシコワのヤーチャイカと続いてみると、フォン・ブラウンら百五十人のスタッフがそっくりアメリカへ連れ去られたことが公にされているだけ、星川家の姉妹たちは、ソ連邦のどこか秘密の研究所で、兄ひとりが孤独に黙々と向うの成果に太刀打ちすべく働かされている姿を思い浮かべるしかなかった。あり得るともあり得ないとも、二十世紀の鉄仮面さながらの暗黒生活は、俊男の死ぬまで続けられることだろう。スプートニクを開発した科学者の名さえ公表しないソ連邦の秘密主義は、こうしてひとりの幻影の囚人を生み出したのである。
その兄がまだ生きている、それも全世界の七割のダイヤモンドを研磨するアントワープの町の隠れた黒幕のように、となると、姉妹たちにはどう空想の翼をひろげてみても、追いつける現実とは思えなかった。
「だから広志さんは電話で何といってきたのよ。正確に、言葉どおり教えてったら」
いいかげん|焦《じ》れた口調で江梨は何度めかの同じことをいったが、由良の答えにも変りはなかった。
「だからいったろう、パリからだって。何か交換手が訳の判らないことをいってさ、おつなぎしますっていうから、てっきりこれは広志だと思って耳を澄ましていたら、向うが興奮しちゃって話にならないのさ。母さん、大変だ、俊男伯父さんが生きてたんだ、判らない? 手紙に書いた老人のことだよ。またよく調べてから電話するよって。こっちはもう何を訊き返す間もありゃしない、え、え、っていうばかりで、切れちまった」
「無理もないわ。突然のことですもの」
志乃が取りなし顔で口を挟んだが、江梨はなお胸の中がくすぶる気持だった。
「思いついて会社へ訊いてみたら、やはり国際電話で帰国が遅れるっていってきたって。じれったいのはこっちのほうさ。コレクトコールでも何でも、どんどんかけてくりゃいいのに」
「だってパリのホテルは判ってるんだし、こっちから問い合せたらいいじゃないの」
「ああ、むろん|雄一《ゆういち》にかけてもらったさ。前の日に引払って行先も判らないそうだ」
「それでお姉様」
訊かないでももう目的は判ったが、江梨はわざとゆっくりとたずねた。
「こんなところにホテルを取って、これからどうなさるおつもり」
「むろん向うへ行くつもりさ。ホテル住いなどしたことがないから、少し慣らしておいて、このまま広志から連絡がないようなら、どうでも行って見つけてこなくちゃ。ミスター・パールと、その得体の知れない老人とをね。マダム・エメロードとやらは、これはまあ勝手にしてもらうしかないけど」
「呆れた」
小さく口には出したが一図に思いつめた母の貌≠見ると、それ以上はいえなかった。
「だって、たったひとりで?」
「ああ、ひとりで」
由良は当然のように答えて唇を結んだ。
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ピノキオの鼻
アンカレジを飛び立ってしばらく、食事が出て映画が終ると、初めての海外旅行に何かとおちつかなかった宮原由良も、ようやく心がくつろぐのを覚えた。何しろ時差というものが判らないので、|朦々《もうもう》と暗い雲から雲の中ばかりを飛び続けるのが不安だったが、いま外はすっかり明るく、北極に近いとかで窓の下に氷山が青い翳を伴って輝いている。それでもこれから四時間あまりを、ひたすら朝から朝を追って飛び、あげく出発したと同じ日の午前七時に逆戻りしてアムステルダムへ着くというのは、どうしても呑み込めることではなかった。
アントワープから妙な手紙を寄越したなり消息を絶った三男の広志はそのままで連絡はないが、同行していた塚田夫人のほうはやっとのことでアムスにいるのを掴まえることができ、国際電話で訊きただすと、広志の行方ならいくらか心当りもあり、たぶんオランダにいる筈なので探し出せるだろうから、なるべく早くいらっしゃいという。それにあの事件以来わたしの名はマダム・エメロードとしてこちらの業界にも知れわたり、却って一種の名士になっているからどのような|伝手《つて》を辿ることも可能だし、奇妙な老人のことも気がかりなら調べてあげるというので、何はともあれ出かけることにし、それが実は長兄の俊男かも知れないという内輪話は、塚田夫人との電話では伏せておいた。しばらくアムスに滞在するからスキポール空港まで出迎えに行く、かりに急用ができても|VVV《フィフィフィ》(市観光局)の|美原《みはら》さんという人に頼んでおくから心配は要らないという声を頼りに、由良にとっては雲烟万里の彼方にあるオランダまで旅立つことになったのだが、五月という美しい季節にも見知らぬ土地で人探しかと思うと、心はいっこうに|霽《は》れなかった。
それが少しずつほどけてきたのはアンカレジの空港からで、地図を見て初めてそこがアラスカだと知ると俄かにもう引返しもならぬという度胸がついた。日本人のために漢字で大書された金・毛皮免税店≠ニいう看板はいかにも気がひけるが、それにも異国へ来たんだという実感があった。女学校のとき以来使ったことのない英語で、時候の挨拶ぐらいしてみようかという気になったのは、志乃の見立てで整えた久しぶりの洋装のせいかも知れない。
もうひとつ幸いだったのは隣に坐った青年が、年に二、三度はこちらにくる旅慣れたフリーのカメラマンで、言葉も達者なら現地に友人も多いから、いつでも御案内しましょうと申し出てくれたことである。きっかけは一杯のブランデーにあった。窓が暗くされると、鶏のようにすぐおとなしく眠りにつく客たちをまあ羨ましいと思い、いっこうに睡気がささないのに弱っているうち、薄い水割りでもいただいてみようかしらという気になった。スチュワーデスに頼みながらふと気づくと、隣でも退屈そうに眼を据えている。一杯いかがと声をかけると、はにかみながら、ではブランデーをといった。それじゃそれを二杯、わたしのは水で薄めてと頼んだのは、免税で一杯が二百五十円という安さが珍しいこともあったが、やはり旅慣れない不安に加えて、初めからその青年の横顔の孤独な翳りが気になっていたせいであろう。
|江崎《えざき》|卓也《たくや》、二十七歳。
その彼はいまようやく安心したように眠り始めた。少し上を向いて尖った鼻をピノキオみたいだと思うと、急にすべてが可愛らしくなって、よく光る巻毛や若々しい皮膚までがひどく好もしいものに眺められる。ブランデーで体は火照っているが、まだ睡気はささない。由良はぼんやりとこの正月の、宇田川女史の予言を思った。幻の母を求めて旅を続ける、輝くばかりの美青年が現われてという話だったが、いっこうにそれらしいものと出逢いそうにもない。江梨のところには戦死した恋人そっくりの青年がふいに訪ねて来たらしいが、問いつめるまでもなく何も起らなかったことは明らかである。このピノキオ青年もひとときの幻影を醸すためかと思うと、外れたためしのない占いというものも、実は意外に残酷な意図を秘めていることが知られる。
――そりゃあそう。占いが当るか当らないかは、皆さんの心ごころですもの。
宇田川女史の口癖が聞える気がする。魔除けの石はさしあたって塚田夫人の持つエメラルドだろうから、空港へ着いてしまえば安心だなどと考えているうち、いつか知らずに由良にも、きれぎれな短い眠りが訪れていた。
………………………………………………
しかしスキポール空港には、塚田夫人の影も見えず、代りにくる筈の美原という人もいるようすがない。宿だけは日本語が通じるようホテルオークラにしてあったので、とにかくそこまで辿りつけばいいようなものだが、二人がいないと判ったときの心細さは類がなく、ピノキオ青年が甲斐々々しく面倒を見てくれなければ、由良はその場に坐りこんだかも知れないくらいだった。江崎は仕事が始まるまで二、三日はあるから、大丈夫ずっとついていてあげますといい、空港で換金を済ますとホテルまでタクシーで同行してくれた。フロントには塚田夫人のメッセージがあって、急な商談で迎えに出られなかった詫びと、夕方までには帰る旨が記されていたが、またしてもという不信感ばかりが募った。後になって美原からも電話が入り、約束の時間に待っていたのだが、ともかくも着かれたならば安心というのも、外国ではこれからもこうした行き違いが屡々起るという予告のように聞えた。
日本時間でいまが何時だなどと考える暇もなく、フロント|傍《わき》の電話室で東京へ繋いでもらい、あらましの報告だけを済ませると、急に疲れが出てもう鞄のひとつも持つ元気はない。江崎は部屋までついてきてくれ、
「バスを使って一と眠りなさって下さい。三時間後に車でお迎えにあがります」
といい残して去った。しかし浴衣に伊達巻という姿でくつろごうとしても、いっこうに眠くはならない。
――やはり無理だったのだろうか。
後悔はじっくりと胸に這い登った。日常の会話もできない身で、息子だの幻の兄だのを探そうとする無謀さは判っていたが、くる早々に肩すかしをくってみると、まだまだ陥穽は到るところにしつらえられている気がした。
――それでもさ、こうして来てしまったものを、いまさら仕方もなかろうじゃないか。
声に出して呟く。
ピノキオ青年にはまだ何も打ち明けてはいないが、いよいよとなれば頼るほかはない。行きずりの赤の他人に過ぎないものを、こうまで親身に面倒を見てくれるからには、お礼も相当弾まなくちゃと気づいて、由良はもう一度起き上ると旅行者小切手やら現金やらを確かめた。ふた月はたっぷり滞在できるほどの大金だけに、これもまた気重の種である。広志の手紙にあったユダヤ人のように、自分で左手へ鎖で繋ぐというわけにもいかないだろうが、何かいい工夫はないかしらんと由良は真剣に考え始めた。
飛行機の中ではジーンズの上下だった江崎が、見違えるほど瀟洒な服で現われたとき、由良もまた淡い藤紫のスーツにともいろの帽子をつけ、入念に化粧も済ませてフロントにいた。三十分も眠れはしなかったが、ともかくも気を張って頑張るほかはないと思い定めたからで、初めて運転台の横に乗るときは、ひどく若やいだ気分になっていた。
「もう少し遅いかも知れませんが……」
気のせいか江崎は、そんな由良を多少とも吟味するように眺め、それから気に入ったという思い入れで晴れやかにいった。
「キューケンホフのチューリップ公園にでも行ってみましょうか。車は、大丈夫ですか」
涼しい眼許が笑いかけるのは、車に酔わないかという意味であろう。
「ええ、わたしは平気」
由良もはなやいだ声を出した。
――諸君、|季《とき》は五月だ。そしてここはハイデルベルヒだ。
というのは、|水《みず》の|江《え》|滝子《たきこ》がデビューして間もないころの『アルト・ハイデルベルヒ』の台詞で、その舞台姿も声もいまなお由良には灼きついている。この明るい五月、晴れわたったアムステルダムで、かりにひとときの幻影というにしろ、美青年とドライブするのをためらう必要はない。
車は快適に一直線の幅広い高速道路を走り続けた。左右は運河と並木とはろばろしいまでの牧場が眺められる。乳をふくらませるだけふくらました乳牛たちも風の中である。青年は|口措《くちお》かず、この牛たちは三月から十月までこうして出し放しなこと、ポプラ並木のこの樹から木靴を作ること、海抜下七メートルというところもあるので、逆に道路の上を運河が走る場合もあることなどを喋り続けた。
キューケンホフのチューリップ公園はオランダのどんな観光案内にも載っているが、さすがにもう衰えが見え、何よりも見に来ている外人たちがすべて老人だと知ると、由良はまた心に翳りが差すのを覚えた。尖った形や風変りな色で織りなされる花の絨緞は、そのとき不意に退屈無残な美に変じ、自分の藤紫いろの服さえそのひとつに過ぎない気がする。青年がニコンのF2を持ち出してこちらの写真を撮ろうとするのを、由良は大げさに手をふって遮った。
………………………………………………
|DE《デウ》・|VIER《フィエール》・|BALKEN《バルケン》(四つの|梁《はり》)という赤い窓のレストランに連れて行かれたとき、由良は思いきって今度の旅の目的を打ち明けた。さすがに奇妙な老人のほうは、親しい知人らしいというぐらいに留めたが、そう聞くと江崎はまるで腕組みでもするように考えこんでしまった。それからおずおずといった言葉は、ひどく由良をおどろかした。もしかすると広志は、誰かに強制されて手紙を書かされ、電話をかけさせられたのではないかというのである。
「でも、なんのために?」
由良は反論した。
「いいえ、電話の傍に人のいる気配はなかったし、かりにそうでもわたしなど|誘《おび》き寄せたところで、誰の得にもなる筈もないしね。それは違うと思うの。ただ……」
「ただ?」
青年はそう問い返したが、由良には胸の中の不安を旨くいい表す言葉が見つからない。仕方なしに第二次大戦の秘話から始めて、兄の俊男生存説までを残らず話してしまったが、江崎は聞き終ると、つくづくというような声を出した。
「そんな大事なことを、たったおひとりで解決されにいらしたんですか」
「解決できるつもりもないけど、何か手がかりぐらいは見つかるだろうと思ってねえ」
ついいつもの年寄りじみた口吻に戻ったのも気づかぬように続けた。
「塚田さんひとりを信用して出てきたのが間違いよね。もう少し頼りになると思っていたけど」
実際そのとき由良には塚田夫人が、眼の前の大皿に山盛りになっているじゃがいもほどにも疎ましい気がした。
「ぼくがいるじゃありませんか」
突然何かの決心をしたように、江崎は顔を輝かしていった。
「たまたまお近づきになったというだけですけど、ぼくでよかったらお手伝いしますよ。ベルギーにも友達はたくさんいるし」
「だってお仕事が……」
「いいんです。今度はぼく独りに任されてるんで、時間はどうにでもなりますから。しかし、こんなことって初めてだなあ。日本人はどだい顔からして向いてないんで、ヨーロッパでスパイやら宝石の密輸やらができるとも思わないけれど、案外そのへんも噛んでいるとなると、宮原さんおひとりの手に負えることじゃなし……」
「でも江崎さんのお顔なら大丈夫ね」
思わずそんなことをいってしまったのも、頼もしい味方ができた喜びに、また少し浮かれた気持になったというより、いきいきした青年の表情が前よりいっそう彫りが深く、上向いた鼻もさらに高く、黒い巻毛のイタリア人かスペイン人に見まがうくらいだと思ったからである。
「まさか」
江崎は屈託なく笑った。
「こちらの暗黒街は底の知れないところがありますからね、迂闊に入りこんだら大変ですよ。ただ広志さんの行方ぐらいは何とか探れるんじゃないかと思って。それで塚田さんという方は何ていってらっしゃるんですか。どこかに心当りがあるとか……」
「それもね、電話で請合っただけだから」
由良は心細さ、嬉しさ半々の声を出した。
もともと塚田|多鶴子《たづこ》という女には得体の知れないところがあって、夫がどことかの大学教授というのは本当らしいが、知合いの夫人はことごとく聖心か学習院の出のようなことをいい、|日本橋《にほんばし》のデパートの社長は親戚でなどと触れ廻るところは|胡散《うさん》臭いながら、宝石の利殖に|長《た》けていることは事実だった。いつもは石川という確かな筋の宝石商からしか買ったことはないのに、一度あまりにも安すぎるというほどの石をすすめられて正式に鑑定してもらうと、これがまちがいのない上物だったときからのつきあいで、いつぞやのダイヤモニヤだけが唯一の失敗例である。資金を殖やして商会を作ってという話にも一口乗ってもいいと思うほど肩入れする気持になっていたのを、初めての海外旅行に迎えにも出なかったいまは、もう誰が|助《す》けてやるものかという気さえする。肝心の広志の行方さえ見当がつけば、あとはもうこの青年だけを頼って縁を切ってやろう、何より一度彼女に見せつけてやらなくちゃと思うと、由良は再び若やいだ表情に戻っていった。
「でもこのお料理、ずいぶん盛りだくさんだこと。オランダって、みんなこんなにおじゃがばかりが多いのかしら」
「え?」
青年は初めて気づいたように皿の上のものを見た。
………………………………………………
江崎に送ってもらってホテルに戻り、再会を約したあと、ようやく疲れが出て部屋でうとうとしていたが、夕方になって塚田夫人からいま戻ったという電話が入った。ごめんなさーい、このまますぐお部屋に伺うわという軽薄な調子もうとましく、それでも何か手がかりがあったのだろうかと聞いてみると、それはまだだという。
「ひどく体が大儀なのよ。えゝえゝ、長旅のあげく貴方にお逢いできなくて、すっかりくたぶれたらしくてね」
軽い嫌味をいって、六時半に下の食堂で逢うことを約した。
四十五ギルダーという天ぷら定食を頼み、前は日本人の好物と知らずみんな棄てていたという北海のかずのこを肴に、二人はハイネッケンのビールで気のない乾杯をした。
「こちらで商売を始めるつもりなの? 広志の手紙には大そうもないエメラルドを持ち出して売り込みに歩いてるってあったけど」
多鶴子はすばやく辺りを見廻した。その卑しい一瞬の表情に由良は眉をひそめたが、相手はさらに油断のない顔つきになって、
「いいえ、エメラルドといってもまだ本物ともいえないの。あとでお見せするわ」
一と息に残りのビールを飲み干して口を拭った。
「何よ、そりゃ、まだというのは」
「いえね、あなた、いま日本の鑑定協会がエメラルドをめぐって真二つに意見が|岐《わか》れてるのを御存知?」
「知らないわね。何でも戦後すぐのころはそんな話があったって聞いたけど」
「あれはチャザム・エメラルド。今度のはね、もし合成とすれば大変なしろものなのよ。日本じゃ|埒《らち》があかないから、いい機会だと思ってこっちへ持ってきて、本職に見てもらおうと思っただけ。それが売り込みにまちがえられたの。むろんこっちでお墨付きがとれれば、大きな商売にはなる話ですけど」
多鶴子のいうことはどこかあやふやだが、由良はそんなものかと聞き流すことにした。
「でもね、おかげでこことベルギーじゃ、マダム・エメロードつてことですっかり有名になっちまったわ。むろん彼らは見当違いに、あたしが大量の売込みにきたと思いこんでるだけなんだけど」
「そんな、危くはないの? 生命を狙われるようなことが起らなければいいが」
口ではそういったものの、広志の行方なぞ少しも本気で心配しているわけではないと見極めがつくと、せっかくの美しい五月の石をこんな女が持ち歩くというだけでも腹が立ち、早く運河でもどこでも死体になって浮かべばいいという気がする。
ホテルの多鶴子の部屋に引き取ってから、広志についてはゆっくり相談するつもりで、それよりどうにかして江崎という青年の出現を教えてやりたくなった由良が、小出しに話し出すとたちまち多鶴子の顔いろが変った。ことにそれがフリーのカメラマンで、鼻ときたらピノキオのようにちょっぴり上を向いているのとつけ加えたとき、たまりかねたようにいった言葉は充分に由良をおどろかせた。
「まあ、何といううっかり者なの、宮原さんは。ピノキオの鼻といえば嘘をつくたび伸びるってことぐらい有名じゃありませんか。黒い巻毛のイタリア人みたいって、あなた、よく鼻をごらんになって?」
思い返すまでもない、四つの梁≠ナ、青年の鼻は確かに前より高くなっていたと気づくと、由良のはしゃいだ心はたちまちうなだれた。
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優しい嘘
「ところで広志の行方のほうは、全然見当もつかないままなの」
ピノキオの鼻などとは思いもかけぬことをいわれて、由良は慌てて話題を変えた。
「ええ、電話をもらってから、大急ぎで二、三当ってみたのよ。それがベルギーにもパリにも、まるで手がかりがないまんま。ごめんなさい、お役に立たなくて。でも、いるとすればきっとこのオランダだわ」
塚田多鶴子はこともなげにいった。
「どうして」
「どうしてって、それはあたしのカンよ」
およそ無責任なことをいうと、また声をひそめるようにして、自分の持ってきたエメラルドがいかにすばらしいか、合成だとすればギルソル系だが、その見わけのつけようがないので、名古屋から飛火していま東京でも鑑定業界は大騒ぎをしている、もしこちらであたしがお墨付きをもらって帰れば、沖縄のルートを知っているので思いきった投機もできるし、それこそ日本でもマダムエメロードとして箔がつくだろうなどと、のべつに喋り立てたが、由良はもう半ばも聞いてはいなかった。やはり考えつづけていたのはピノキオと呼んでいた江崎卓也のことだが、飛行機でたまたま隣り合せ、スキポール空港からホテルへの案内、キューケンホフの見物と甲斐々々しく面倒を見てくれた彼に、どのような魂胆があろうとも思えない。それでも塚田夫人から半ば冷笑するように、ピノキオの鼻は嘘をつくたび伸びるのがきまりといわれてこうまでうろたえたとなると、問題は向うにでなく、こちらの心にありそうであった。
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――判っているよ。わたしが年甲斐もなくあの鼻に見とれたことを見抜かれたような気がしただけさ。
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由良はそう自分にいいきかせた。いかにももうこの齢では、みずみずしく光る青年の鼻すじだの、ちょっぴり上向いた具合だのを惚れ惚れと眺めることは滑稽にすぎるかも知れない。しかし、いくら齢を取っても女ごころに変りはなく、それも不案内な異国で親切にされ、思わず知らず頼りにしたあげくのことだと割り切ると心はきまった。何より眼の前にいるこの女が、自分の商売にかまけて、広志の行方などひとつも本気で心配しているわけではないと見極めがついたいま、彼のほかに誰が頼れるとも思えない。
「まあ広志のことはもういいけれど……」
由良はもうひとつの肝心な話を訊き出しにかかった。
「なんでもアントワープのダイヤモンドセンターかどこかで、二人を助け出してくれたお年寄りがいたというじゃないの。それはどんな方だったの」
むろん塚田夫人にまで、その老人が実兄の俊男かも知れないなどと打ち明けるつもりはないが、人相・風体の特徴だけはぜひにも聞いておきたい気がする。といって年月を隔てたいま、何が目印になるとも思えず、際立った|黒子《ほくろ》などもあるわけではなかったのだが。
「そうねえ、何といったらいいのかしら」
さすがにそのときのことになると、多少とも照れくさいのか、小狡く視線が動いた。
「名前も何もおっしゃらなかったから、よくは判りませんけどね、まあ日本人には違いないわね。六十をだいぶ過ぎた齢恰好ですけど背丈のしっかりした、顔は……顔はそう、彫りが深いというのか、りっぱなお顔だったわ」
あまり手がかりにもならないことを、しどろもどろにいいかけたが、由良のほうでもまた訊いた瞬間から、答えが何の役にも立たないことを承知していた。兄と別れたのは、もう三十六年も前のことなのだ。かりに偶然に出逢ったとしても、二十代だったその|俤《おもかげ》を探し当てられるのは、三人の姉妹のほかにいる筈はない。
由良はあまりにも遠いその日の光景を思い浮かべた。三菱の社員でも二十代で洋行というのはめったに先例のないころで、アメリカ経由で行くことになった兄を、一家揃って横浜の埠頭まで見送りに行ったのは、昭和十六年の一月二十三日であった。野村吉三郎大使が最後の日米交渉に出かけるのと同じ船で、その鎌倉丸の甲板は、おおよそが故国へ帰る外人たちで埋められ、色とりどりのテープの向うに辛うじて兄の姿も認められた。だがそうやって出航を待っている間に、由良はいつの間にか船の手すりに凭れ、いまにも泣き出しそうな顔でこちらを見つめているひとりの白人が気になり出していた三十四、五歳ぐらいのポーランド人、と勝手に決めて見ていたが、それはもとより確かではない。何よりその表情があまりにも寂しげなので、誰も見送りがいないようなら、せめてわたしだけでも送ってあげましょうと、初めのうちはひそかに手をふっていたが、次第に二人は眼と眼を見つめ合うように引かれ始め、意思の通い合うのが互いに判った。相手は|解纜《かいらん》間際に、いきなりなんべんも肯いたかと思うと、熱っぽくこちらに手をふり始めたからである。そしてついには甲板から体いっぱいに乗り出し、何事か絶叫するように手をふり続けていた、その彼。
すでに五年前に結婚して、子供も二人まで儲けていながら、それはたった一度の、心で犯した不貞であった。しかしいまなお由良には白皙のポーランド人≠フ声のない絶叫が耳に残り、涙でくしゃくしゃになった顔が忘れられない。むろん傍目には実の兄を見送っていたとしか映らなかった筈だが、あのときぐらい見も知らぬひとと心の通い合ったことはかつてなかった。……
しばらくして鎌倉丸での仮装パーティの写真が実家に届けられたが、三角帽子をすっとこ冠りにした野村大使を中心に写っているのは、兄を含めておおむねが日本人ばかりで、肝心のその顔はついに見当らず、瞼に灼きついたままに終った。とはいえそれも三十六年の昔である。いまかりにこのアムステルダムで七十歳を過ぎた彼とすれ違っても見わけのつく筈はなく、万が一ついたとして、二人の間にどんな話があるとも思えない。
戦争、その海。
由良は意味もない言葉を心に呟いていた。そこに揺れる、茫洋と涯もない時間の波の彼方・此方に、いったい何が浮いているというのだろう。
「どうなすったの、急に」
気がつくと塚田夫人のいぶかしげな顔が迫っていた。
「いえ、ね」
まだその波に揺られているような感触を味わいながら、由良は歪んだ、奇妙な笑いを浮かべた。
「ずいぶん遠くまで来たもんだって、ふっと思ったのよ」
………………………………………………
広志さんはアムスにいるに違いないし、何かあればこのホテルか|VVV《フィフィフィ》に連絡がある筈だから、ここでじっとしていたほうがいいというのをふりきって当てもない旅に出たのは、せめてそれぐらいのことはしなければ来た甲斐がないという思いからでもあったが、何より江崎卓也の好意に甘えられるうち甘えておこうという心づもりが大きかった。薔薇の写真集を作るのが目的で、六月半ばまで自由に撮って廻ればいいのだからという言葉をそのまま信じ、旅費やホテル代はあらかじめ相応な金額を渡して、親子というにはいささか齢の離れすぎた二人の旅が始まったのだが、由良は由良で充分に満足していた。志乃にいわれて服装をすべて若作りにしてきたこともこちらでは気がねもいらず、いくらかでも江崎の齢に近づけるのが嬉しかった。宇田川女史の予言にはいささか遠いにしても、思いもかけぬ美青年に案内されて、ダイヤにエメラルド、そして真珠と続く月を、オランダからベルギー、さらにはフランスと気ままに廻る機会に恵まれたことは、素直に喜ぶ気持しか持てなかったし、もうひとつ、特別な理由もあった。塚田夫人と食事をし、自分でも忘れていた横浜埠頭の情景を思い浮かべてからというもの、探し求めるつもりできた兄のイメージがふいにしらじらと遠のいたことを、いやでも心に噛みしめるほかなかったのである。
かりに俊男が健在で、たまたまアントワープに姿を見せた老人がそうだとしても、それはすでに故国を思い棄て、二度と帰るつもりのない人間だということは明らかで、日本とも星川家とも縁のない異邦人、永遠の放浪者として生きていることに間違いはない。折角こうして来たといっても、二人を隔てているのはただの時間ではなく、名づけがたいまでの落下と酩酊とを秘めた断層とでも呼ぶほかはなかった。うかつに近寄れもせず渡りもできないことが実感として判ってしまうと、出かけるまで涙の出るほど懐しく甦った兄は、またこともなく一枚の写真の中に戻った気がする。平面の、冷たい、白黒の写真。その中からどうやって現実に兄を呼び出すことができるだろう。……
「ねえ、さまよえるオランダ人≠ニいうのは、何のことだったかしらん」
由良がそんなことを口にしたのは、アムストーンのダイヤモンドセンターへ行こうとして車を走らせている途中であった。
「え?」
江崎はチラと顔を向けたが、すぐ何でもないように答えた。
「ワーグナーのオペラじゃないですか。幽霊船の船長がノルウェーの海を永遠にさまようっていう。……」
どうかしましたか、という問いに何といっていいか判らず、ただこう呟いた。
「そう、やっぱりノルウェーだったのね。きっと霧が深いだろうから……」
江崎はもう一度、由良の横顔にすばやい視線を走らせた。
アントワープの取引所とは違って、ここは観光宣伝のために開かれているので、センターにはぬけめなく日本語のパンフレットもおかれ、日本人の案内嬢もいたが、江崎は電話をしておいたからといってショールームのフロアマネージャーに刺を通じ、別室で話を聞くことができた。日本でも物の本に説かれていることかも知れないのだが、こうして外人の口からじかに聞かされるダイヤモンドは、ロンドンにあるデ・ビアスのシンジケートにがっちり握られていて、二百三十のそのメンバー以外どうにも動かしようのないものだということが、由良にもおぼろげながら察しのつく気がする。
「日本人はその会員の中には誰もいないんでしょうね」
小声で江崎に囁いたことだったが、すぐ通訳してくれ、あいにく日本人は一人も入っていないが、会員になるにはメンバー全員の承認と、入会金の八千ギルダーが必要だというたぐいをぼんやり聞きとめた。
ユダヤ人が牛耳っているのは虐げられた歴史があるからで、家具でも橋でも造ることはいっさい許されず、ただ物を扱うことだけが許可されたため、自然にダイヤと結びついたというのも由良には初耳であった。十四年前にここでエリザベス・テーラーが、百七十カラットのラフストーンからペア・シェイプに磨かせて七十カラットのものを仕上げたこと。しかし研磨より何よりまずどんな型にするかのアドバイスのほうが大切だという話。各国の王室からどんな注文がどういった手順でくるかというたぐいをマネージャーは立て続けに喋り、江崎はまた片端からそれを通訳してくれたが、由良には宝石業界はもとより、ふいに宝石そのものがひどく遠い存在に思え、ほとんど空しい気さえした。美しく硬く稀れな鉱物というのが宝石の定義だが、それが日本に産しないばかりではない、もともと日本人には根本的に向いていないとまで思えてくるのは、塚田夫人のような臆面のなさを目の当りに見すぎたせいであろうか。
帰り際の立話になって、ミスター・パールという早口の言葉が聞えたので、さりげなく広志の行方を訊いてくれたのだと察したが、マネージャーは首をふってこれも|口迅《くちど》に何か答え、それからいくぶん気の毒そうに由良のほうを見たのが、お辞儀をしながらも判った。
「いいのよ、江崎さん、もう広志のことは」
玄関を出ながら由良は正直にいった。
「あれも子供じゃないんだし、心配はいらないわ。連絡場所さえきちんとしておけば、いずれ顔を出すでしょうから」
それはまったくの本心で、もうこのとき兄とともに広志の行方もいっこう気にかからなくなり、あとは気ままな旅をするだけという決心がついたのもこの瞬間であった。
「それよりも御迷惑でなかったら……」
再び車に戻りながら、由良ははしゃいだ調子でいいかけた。
「貴方のことを卓也さんと呼んでもいいかしら」
「えゝ、どうぞどうぞ。そのほうがこちらじゃ自然ですからね」
卓也は横顔を見せたまま答え、由良にはどうやらまたその鼻が少しばかり前より高くなった気がしたけれども、そのときはピノキオ青年がどんな嘘をついたってかまわないという気持のほうがはるかに強かったのである。
………………………………………………
車の旅は快適で楽しかった。もっともこちらの規制は日本に較べると呆気に取られるほど緩やかで、道路が整備されているせいかも知れないが、オランダでは酔っ払い運転も平気だし、踏切で一時停車の必要もない。鼠取りはいつも決った場所でしかやらないという寛大さだが、それでいて事故の件数が少ないのは人と車の体質的な慣れ合いのせいであろう。ただそのオランダで魔の赤ナンバーとして恐れられているのがベルギーの車で、かつては誰でも無免許で乗れたため、いったん事故が起ると常識では信じられない形態を取ることもあるという。
広志の手紙にあったとおり、ベルギーではブラッセル、ゲント、ブルージュといった都市を訪れ、むろんアントワープにも行ってみたが、セントラルストリートのダイヤモンド街はその入り口から立入りを断られ、謎の老人の消息も名前が判らないのではと相手にもされなかった。むろん由良にとってそのことはもうどうでもよくなってい、俄かにフランス風の優しさを増す町のたたずまいと食事だけが楽しみとなった。
パリのパガテル園で世界の新種の薔薇コンクールがあるからという卓也に従ってフランス入りをしたのが六月で、もうそのころ由良はすべてのものに酔っていた。むろん行く先々の宿は東京にもアムスにも連絡することは怠らなかったが、それよりもヨーロッパの古い町がもたらす色彩と香りは、この齢になってと時折は自嘲の浮かぶほどに深い陶酔をもたらした。卓也が何を考えてつき合ってくれるかはよく判らないが、美貌の騎士に守られているという思いだけが確かなもので、そのほかに何がいるだろう。ピノキオがまだ嘘をついているというなら、それは世界でもいちばん優しい、いたわりに充ちた嘘だという確信に由良はすべてを賭けたのだが、それは間違ってはいなかった。
惟悴しきった表情の広志が、セーヌ河に面したパリのホテルに突然現われたとき、すべては知れた。部屋にいた卓也に、広志はいきなりこういったからである。
「どうも長いことありがとう。もう大丈夫だから」
卓也は黙って頭をさげ、それから深い瞳になって由良を見つめた。
「それじゃ、これで」
それだけいうと自室に引き取るため、そしておそらく二度と姿を現わさないため、その長身は扉の向うに消えた。
「わたしだって薄々判っていたさ」
いきなりまた元の老女に戻るのではあまりに辛い。由良は広志に背を向け、立上ってガウンを羽織った。
「全部あの人≠フ差し金だったんだね」
飛行機で隣り合せに席を取ることにどれほどの技術が要るのか判らないが、やって出来ないことではないだろう。塚田夫人のほうはルーズな性格で空港にこなかっただけだろうが、VVVの美原という人が妙な伝言を寄越したときから、誰かがわざと到着便の変更を告げたことは気がついたし、それ以後全部のスケジュールを卓也の意のままにすること、そしてごく自然に兄の存在も広志の行方も案じないようにすること。それがあの人≠フ指示のまま動いていたピノキオ青年の優しい嘘のすべてだった。従ってあの人=Aすなわちアントワープに現われた謎の老人は兄ではなく、ただし俊男と非常に親密な関係にあったであろうことは由良にも察しがついたし、それが判ったからこそノルウェーのフィヨルドから潜水艦で出航した兄のイメージにダブらせて、ふいにさまよえるオランダ人≠ニいう言葉が浮かびもしたのだから。
「母さん、念友って何のこと」
広志は唐突に訊いた。
「さあ、知らないね」
由良は古びた緑いろのセーヌ河を見おろす姿勢のまま答えた。
「何でもドイツ時代に、あの人は俊男伯父さんのいちばんの念友だったって。まあそれはいいんだけど、おんなじ海軍の嘱託で、潜水艦ごとソビエトに抑留させるように仕向けたのもあの人のしたことらしいよ。つまりはスパイ行為だけど、世界の情勢を考えると、どうしても新しいロケット技術をアメリカに独占させるわけにはいかなかったって。でもそのあと伯父さんに、二十世紀の鉄仮面のように一度も名前を明かされることもなく研究所で死なれてみると、どうにもやりきれなくなって、自分で自分を追放して、さまよえるユダヤ人みたいに一生をこちらで暮すことに決めたらしい。それでいて母さんのこと、叔母さんたちのこと、つまり元の星川家の家族全部の動静はすっかり調べ上げてあるんだからね。今度聞いて、本当におどろいちゃった。聞いてるの? あの人はね……」
「名前は、いわなくていいよ」
由良はぽつんといったが、その思いにはあの白皙のポーランド人≠烽ィのずと重なっていた。名前も知らず顔もさだかではないままの人間でも、他人の一生に重い影を落すことはあり得るのだ。
「ヨーロッパって、ぼくたちの想像を超えた何かがあるんだね」
しばらくして広志がそういい出したとき、室内はすでに相当暗くなっていた。
「この半月ほど、ぼくはあの人につきっきりで、本当は弟子入りして一生こちらで暮すぐらいの気持でいたんだけど、いわれちゃったよ。日本人にはマーケットの問題ばかりじゃなく、宝石の本質とはどこか合わないところがあるって。それだからこそ|御木本《みきもと》さんの養殖真珠の発明は偉大なんで、あれは日本人の心を取り出してみせたんだって。つまり脆さとか傷つき易さってのは、決して欠点とばかりはいえない、傷つくからこそ美しいものもあるんだっていうけど、ぼくはお前なんかやっぱりミスター・パールだって皮肉をいわれたのかと思った。母さん、何のことだか判る?」
「ああ、こないだやっと判ったよ。アムストーンのダイヤモンドセンターで」
由良はくぐもった声で答えたが、その眼には、まだ明るい|外面《とのも》を流れ続けるセーヌ河が、次第に凝固しかかっているように眺められた。同時に茫洋とした時間の波に浮いているもののひとつが、まぎれもない真円の真珠だということも、いまようやく理解がついたのだった。
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虚(うろ)
庚申薔薇は夢を見ようとしている、と少女時代の江梨はいつも思った。そのころはまだ郊外にすぎなかった渋谷の星川家は、|簷《のき》の深い暗い家で、庭には徒らに|桧葉《ひば》や八つ手が繁り、この季節の花といっては|萼《がく》|紫陽花《あじさい》か|※[#「草かんむり/(「揖」の旁+戈)」、第3水準1-91-28]草《どくだみ》ぐらいしかなかったので、内庭の垣根にまつわる庚申薔薇はひとときの彩りとなった。乏しい房咲きながら濃い紅は|花綵《はなづな》のように垂れ、長い|揺蕩《たゆた》うような夕暮、それは羽虫たちの|宴《うたげ》のために点された灯りのように眺められた。そしてほどなく闇の手が伸び、柔らかな眠りの刻が訪れる。庭は暗い湖の底に沈み、宴は終ったのだ。
この花については、父の広之進から一度妙なことをいわれたことがある。大学で水理学を講ずる地味な学者で、家庭でも固苦しい姿勢を崩さぬひとだったが、その夕方、江梨がふっと、
「あのお花、もっとたくさんあればいいのに」と呟くと、傍らに立ちながら、
「どうして」と問い返した。
「だってあんなに美しいんですもの」
すると父は珍しく江梨の肩に手を置いてこういった。
「あんなものを美しいと思ってはいかんよ」
その声の調子がいつになく優しかったばかりではない、これまで末娘の志乃のほかは、子供を抱き上げたり頬ずりしたりなぞ決してしたことがないだけに、江梨は肩に置かれた手を奇妙なほど重い、息苦しいものに感じて黙っていた。それでもそのぎこちない躯の動きで、父にはすぐ気持が伝わったのであろう、じきに手を離すと|諭《さと》すように続けた。
「美しいというのは調和があるということだろう。ところが本当の調和は、決して肉眼で見えるところにはないんだよ」
続いて望遠鏡で仰ぐ天体の運行や、顕微鏡で覗く花粉の精緻さなどを話してくれたような記憶があるけれども、その教訓は少女の江梨にとって、すぐ素直に飲み込めることではなかった。父の専門が地下水流の研究だとは知っていたので、肉眼で見えないというのは多分その意味だと咄嗟に思ってしまったせいもあるのだろう。ただ、ふだんから武骨な、いかついひとだとばかり思いこんでいた父が、もしかすると見かけによらずロマンチストなのかも知れないといった感懐は、肩に置かれた手の重みとともに長く心に沁みた。
だがいま自分が満で六十歳近い齢になってみると、あのとき父は美というよりもう少し何か深い意味での眼に見えぬものに怯え、そのためにふっと江梨にまでその不安を語ってしまったのではないかという気がする。もとよりそれが何であったのかは、いまからでは推測の届かせようもないが、肉眼で見えぬというより五官の及ばぬ神秘なもの、運命的なものを畏れていた節がある。戦争がエスカレートするにつれ|産霊《むすび》≠アそが宇宙の原理である式の神がかりな言辞が多く、頑迷固陋な日本主義者になり了せたのも、好意的に考えれば必ずしも時流にのったせいばかりではなく、一種の神秘思想に取り憑かれたためかも知れない。GHQの追放令にも遭わず、戦争が終るとともに死んでくれて、そのときはやれやれとしか思わなかったが、いまになってみるともう少し長生して、固く鎧ったままだった胸の内を、ほつりほつりとでも聞かせてくれたらという気がするのは、紛れもなく自分がその死の齢に近くなり、老いに浸され始めたせいであろう。
「いまならばいい話し相手になれるのにね」
益にもならぬことを独りごちて、江梨は思わず苦笑した。
それにしてもこのごろ江梨が閉口しているのは、戦争中の記憶と実際との食い違いであった。手近な歴史年表にでも当ってみれば、すぐこちらの間違いと判ることでも何か釈然としない気持で、たとえば満州事変が昭和六年の九月で上海事変が七年の一月とあっても、あら、上海事変の方が先じゃなかったかしらんという疑いが離れない。ましてフランス映画だのシャンソンだのとなると、南京陥落の年に我等の仲間=A徐州徐州と軍馬は進むなどと唄っていた翌十三年に舞踏会の手帖=A続いてノモンハン事件の年に望郷≠ェ封切られたとは到底信じられず、順序も逆だったとしか思えない。シャンソンの暗い日曜日≠竍待ちましょう≠ヘさらにそれらの前年らしいが、兄の俊男がそのレコードをかけづめにかけていた姿が瞼に残るばかりで、戦争の狂躁とはおよそ別の時間が流れ、その中での出来事だという気がする。
記憶が当てにならぬことを、しかし江梨は老いのせいだとは思いたくなかった。個人の体験した過去の出来事は、当然のことながら一つ一つ重さが違い、記憶の中で浮きもすれば沈みもする。それを押し拡げて時間の流れの中でも同じことだと、個人の歴史のほかに歴史など決してありはしないといっては間違いだろうか。たとえば江梨にとって、瑞鳳の沈んだ昭和十九年十月二十五日はいつだって昨日≠ナあり、一度も遠い過去になったことはない。うっかりこんな齢まで生きてしまったが、それをつねに昨日≠ナあり続けさせるために江梨は、絶間なく明日≠ゥら時間を補充し統けたのだ。しかし一度めくられてしまった日暦は、いくら手を差し伸べても届く筈がない。時間の絶壁の上に立って江梨は、その白い暦の一葉がいつまでもゆらゆらと漂い、緩慢に下降してゆくのを眺める気持だった。
「あたし、こないだ調べてみてびっくりしちゃった。あの望郷≠チて映画、昭和十四年の二月に封切られてるのね。何だかもっと前みたいな気がしてたのに」
そんなふうに切り出して、由良ならば判ってくれるだろうと久しい感懐を披瀝しようとしたことがあるが、四歳齢上だけに当時のことはよく分別がついていたのか、
「そうだよ、知らなかったの」
と、|気《け》もない顔で管えた。
「ちょうど|幸次《こうじ》が生まれる前でねえ、でもどうしても観たかったから、主人の眼を盗んで大きいお腹で出かけてさ。恥ずかしかった」
目許を皺めて笑い顔になったが、すぐうっとりした表情になった。
「だけどまああの時代は、どうしてあんな素晴しい映画ばっかり封切られたのかねえ。ミモザ館≠セろ、女だけの都≠セろ、ジェニイの家≠セろ。フランソワーズ・ロゼエを見てると、自分もお婆さんになってもいい、いっそ早くなりたいぐらいのものだった。まあ、こうして間違いなくお婆さんにはなったけどさ」
江梨はすっかり気押され、もう感懐を述べる気もなく、
「いやだ、お婆さんになりたいだなんて」
と呟いたばかりだったが、由良はまだ懐古調をやめなかった。
「そうそう、それに乙女の湖≠フジャン・ピエール・オーモンのよかったこと。眩しいくらいな美青年でさ。あれは昭和十年、結婚する前に観た最後の映画だった。いえモンパルナスの夜≠竅A何といったっけジョセフィン・ベーカーの、そうはだかの女王≠煌マたかしらん」
放っておくと当時の映画の全部の題名を並べかねないようすなので、江梨は慌てて遮った。
「それに俊男兄さんがシャンソン好きだったでしょう。お父様の留守によくおんなじレコードばかりかけて。あんな時代でもフランスのものがあんなに流行ったなんて不思議ね」
「それそれ」
由良はすぐ合槌を打った。
「コロンビアからシャンソン・ド・パリ≠フ第一輯が出たのが望郷≠フ封切られるちょっと前でね、兄さんがどうしても聴きにおいでっていうから、雄一をおぶって行ったものさ。十一円もするお|高値《たか》いアルバムで、|藤田《ふじた》|嗣治《つぐじ》さんの絵がしゃれていたねえ」
モンマルトルの丘を描いたそのジャケットは江梨の眼にもはっきり残っているが、続いて何気なくいわれた言葉にはすっかり驚かされた。
「あのレコードなんか、みんなどうしちまったんだろう。イヴォンヌ・ジョルジュの水夫の唄≠ニか、ダミアの私の心は大洋よ≠ネんてよかったもんだが」
――そうだったのか、というのが最初の感慨であった。水夫の唄≠フ方はないが、古ぼけたダミアの一枚が兄の形見としてうちの押入れに紛れ込んでいたとは思いもしないことだった。だが同時に、その一枚のレコードにはかない思いを託した自分を思い出すと、何かいたたまれない気がして、江梨は話を打ち切るようにただこういった。
「お姉様ったら、ずいぶん詳しくいろんなことを覚えてらっしゃるのね」
………………………………………………
由良とはそんな具合で、とても父の鬱憤についてまで話をするに到らなかったが、ふだんはあまり反りの合わぬ、五つも齢下の志乃が、話を聞くとすっかり共鳴してくれたのは意外だった。のみならず志乃はこんなことをいったのである。
「記憶っていうのはアレね、いろんなものの詰った古い大きな壺を誰かから貰ったような気がするの。手を突込んで、手探りだけで中の品を引張り出してみると、形はそっくりだのにまるで違うものだったりして。いやあねえ、齢とってくると、守銭奴みたいにこんな壺を大事にしなくちゃいけないのかなって。でも本当。他に蓄えもないんですもの、せめてこの記憶でも整理して暮すしかないわ」
戦前に限ったことではない、戦後だって時間はまっとうな流れ方をした筈はなく、記憶もまた順序正しく積み重なるわけがない。ごろた石もあれば宝石もあるその中から、いいものだけを大事に並べ直すつもりという志乃をほほえましく眺めながら、江梨はふっと気がかりになって訊ねた。
「そういえば宇田川さんの御託宣はその後どうなったのかしら。あなたのとこにも来たでしょう、お姉様の絵葉書。なんだか思わせぶりなことが書いてあったけど、魔除けの|宝石《いし》どころか、あちらで本場ものの幸運の宝石でも買い込みかねない気配よ。何かよっぽどいいことがあったみたい」
自分のアクアマリンには口を拭ってそんな探りを入れてみたが、志乃は弱々しくかぶりをふった。
「ええ、お姉様の方はね、思いきって来てよかったって、とてもお倖せそうですけど、あたくしなんか、そんな気のきいた青年が現われる筈もないわ。アンドロメダみたいに鎖に縛られてでもいたら、ひょっとしてペルセウスが援けに来てくれるかも知れませんけど」
まだとてもその齢には見えない、光沢のいい白い頬を翳らせたが、すぐまた悪戯ぽい眼つきになった。
「でも宝石の方はね、このごろまた塩沢といろいろあって、くさくさするから百万ぐらいのをパァって買っちゃおうかしらんなんて考えてるの。いいえ、本当は三百万ぐらいじゃなきゃ腹の虫が納まらないんですけど」
「おや、おや」
江梨は仕方なく白けた笑いをした。
夫の運輸業が盛大になるのと引換えに、志乃との間はいよいよ冷えきって、公然と女を囲っているという話は前から聞いている。その夫は見たところ温厚な、いたわり深い性格に思え、京育ちの上品さもあったが、いつものことで家庭内のいざこざは、親身に聞く気にもならない。
「まあでもあなたはそうして憂さ晴しが出来るだけまだいいわ。あたしなんか娘盛りにだってあの戦争で、宝石なんて何ひとつ買っちゃ貰えなかったもの。もっともお父様があんな風だから、それは志乃ちゃんも同じことだけどね」
だが志乃は擽ったいような表情になると、照れながらいい出した。
「白状するとね、一度だけおねだりして買って貰ったことがあるの。いいえ、宝石といっても月長石って安物の飾り玉で、五十円もしなかったんじゃないかしら。でも一応宝石は宝石でしょう。お姉様のこともあるし、隠すのに往生したわ。お母様にだって内緒にしてたんですもの。だけどこれは絶対の秘密だぞってお父様にいわれてみるとゾクゾクするくらい嬉しくって、それだけにあれは真珠母いろっていうのかしら、乳白色の曇り玉がどんなものより美しい宝物に思えたくらい。御免なさい、気を悪くすると思っていままで黙ってたんですけど」
それはまったく初めて聞かされる話であった。末娘だけに父からもひとしお眼にかけられていたことは確かだが、由良が婚約したときでさえエンゲージリングなど夷狄の風習だといきまいていたほどだのに、よくもまあと呆れる気にもならない。
ただ、いま志乃が口にした真珠母いろという言葉に、たちまち江梨の眼裏にもムーンストーンの柔らかい肌合いと、大粒の葡萄めく形とが浮かび、もし戦争中にそんな一顆を秘密の手匣に隠し持っていられたら、確かに何よりも美しく見えたろうという気はする。江梨は嫉みのいろを隠さずに聞いた。
「それで、どうしたのその宝石。いまでも大事に持ってるってわけ?」
「いやだ、とうに手放しちゃったわよ、戦後のどさくさに。匣だけはまだ残ってますけどね」
――ふうん。
江梨は心にうす白く笑った。やっぱりそうかという気がする。同時に真珠母いろの匣≠ニいう言葉が唐突に浮かび、それは星川家の三姉妹それぞれに、生まれたときからあらかじめ配られているのかも知れないと思った。開けてみると、肝心な宝石は溶け去ったようになく、皺の寄った絹布の窪みだけが残されている、その匣。それは別な言葉でいえば虚とか不在とでも名づける他ない天与の贈り物であろう。……
その虚のイメージを振り払うように、江梨は努めて優しくいった。
「それはお父様と志乃ちゃんだけの秘密だったってわけね。でもあのお父様がそんな隠し事をなさるなんて意外ねえ。このごろ何だか、思ってたのとは別なひとだったんじゃないかって気がし始めてるの。齢が近くなったせいかも知れないわね」
|産霊《むすび》≠ニは生成の原理すなわち宇宙に充満する生命力に他ならず、|神随《かんながら》の道≠フ道とはすなわち|御血《みち》≠ナあってそれを体し伝える血の流れであるというたぐいのことは、その晩年、いやというほど聞かされ、いくらなんでもこじつけが過ぎるという気しかしなかったが、|天津《あまつ》|日嗣《ひつぎ》≠体現された天皇こそ無窮の生命を託されているという予言は、こうも昭和という年代が続いてみると、もしかすると本当かも知れないと思われてくる。ヒットラーもムッソリーニもルーズベルトも戦争とともに斃れ、生き残ったスターリンもチャーチルもそして|蒋《しょう》|介石《かいせき》も|毛沢東《もうたくとう》もついに|北※[#「亡+おおざと」、第3水準1-92-61]《ほくぼう》の煙と化したというのに、この奇蹟はただごとではない。忠臣|面《づら》をしていた|奴輩《やつばら》もそろそろ薄気味が悪くなったかして、不敬きわまる元号法案などを画策しよると、父が生きていたら反対に一喝するだろうと、いささかおかしくなってそんな思い出のあれこれをいいかけると、志乃もまた沈んだ眼色になって答えた。
「神秘思想といえるかどうかは判りませんけれど、お父様って本物の右翼じゃなかったことは確かね。三月十日の大空襲の時だったかしら、防空壕の中であたくしを抱き寄せるようにしていったことがあるの。ちょうど俊男兄さんが行方不明って報せがあったばかりの時でしょう。アレが死ぬことはもう前から判っておったって。戦争も負けるし、儂らの言辞がどれほど|囈言《たわごと》扱いされるかも知っている。ただ儂の祈りはお前の無事だけで、すべてと引換えにあと三十五年の平安だけは約束していただいたから安心しろなんて、独りで泣いているのよ。躯がブルブル顫えて、あたくし、何だか酔っ払いの知らない小父さんといるみたいで怖かったわ。月長石の小匣だけを握りしめて……そうよね、あの時はお姉さんもお母様も一緒だった筈ですけど、向うの隅で黒い影になって何もいわないでしょう。防空壕の入口から炎明りが差して、あの晩のこと、覚えていらっしゃる?」
「いいえ、知らないわ」
江梨は冷たくいった。実際に女子青年団の仕事にかまけて、おとなしく防空壕に潜むことなど出来ず、どこかを走り廻っていたには相違ないが、それよりももう少しましなことだと思っていた父の鬱懐がただの子煩悩――それも末娘への偏愛にすぎなかったのかということが腹立たしい。
「それじゃ戦後の平和は、もっぱら志乃ちゃんのおかげってわけね。ありがたいこった」
「そうですとも」
志乃は意外に強気で応じた。
「あたくしばかりじゃないけど、これまでどうにか泰平の御代が続いたのは、大正生まれの女たちからの、せめてもの贈り物ですとでも考えなくちゃやりきれないでしょ。だからこんなに生ぬるい、ふやけた時代だっていわれてもそれは平気。他に誰がこんな|襤褸《ぼろ》風呂敷を繕ってつづくり続けるもんですか」
自分こそ戦後という時間の縫い子≠セとでもいうような気焔に江梨が黙っていると、志乃は少ししみじみした口調になって続けた。それは先ほど江梨がぼんやり考えた真珠母の匣≠ニ同じことをいっているのかも知れなかった。
「このごろよく空想するの、あたくしたちのお墓ってどんなだろうなって。きっと野っ原に一列に並んで、石材だって脆いに決まっているわ。雨に打たれてだんだんに穴があいて、あたくしにはいまからそのまるい|虚《うろ》が眼に見えるような気がする」
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紅と青と黒
宮原由良、星川江梨、塩沢志乃の老いた三姉妹は、七月の蒸暑い一日、|新宿《しんじゅく》|御苑《ぎょえん》の池を見おろす太鼓橋の上に寄り添って佇んでいた。池の面のあらかたは睡蓮で埋まり、それも|糶《せ》り合うように浮きあがり伸びあがりして光沢のいい広葉が|蔓《はびこ》っているため、花といえば僅かな白が覗いているにすぎない。太鼓橋の下にかぐろい波が騒立っているのは餌を求める鯉の群れで、橋袂にいるアベックがソフトクリームのコーン容器をちぎっては投げ入れするたび、幾十とも知れぬ黒い鯉たちがうねり盛りあがって旋回するさまは、地底の大蛇が作る渦のようだった。アベックが去るとその騒ぎもじきに収まったが、それはむしろ朱の|銹《さ》びた錦鯉が一匹、群衆を鎮める女王のように悠々と泳ぎ寄ってきたためかも知れなかった。……
「もう花には少し遅いのかしら、白ばっかりなんて。七月には紅い睡蓮がふさわしいんだのに」
不満そうに呟く志乃に、
「そうねえ。でも|不忍池《しのばずのいけ》へ行ってみたら、もしかして紅いのもあるんじゃないの」
江梨は軽い気持で応じたが、たちまち由良に遮られた。
「馬鹿をおいいな。不忍池のは、あれはただの蓮。睡蓮なんかじゃありゃあしない」
――あら、そうなの。
という顔の江梨にかまわず、遠く西の方に立ち並ぶ高層ビルを見やりながら、由良は続けた。
「昔はそれでも呑気だったねえ。朝、暗い裡から不忍池の畔りに集まって、蓮の花が開くときは確かにポンて音がする、いやしないとか、聞いた聞かないで大騒ぎしていられたんだもの。戦争前までは、さ」
しみじみとした口調を反対に江梨が|嗤《わら》った。
「いやだ、それならいまでもやってるわ。夏に一度だけ朝の四時ごろから集まるんですってよ」
「違うんだよ、昔の風流ってのは」
鼻白んだ由良の呟きを志乃が受けていった。
「暗い裡からっていえば|入谷《いりや》の朝顔市もそうでしたでしょう。お|天道《てんと》様が出てからじゃいけないって早くから集まって、帰りには|池《いけ》の|端《はた》の揚出し≠ナ朝御飯をいただいて。あたくし、一度だけ連れてってもらったわ」
「誰に」
「お父様に」
「へえ」
およそそんな思いをしたことのない由良は、気のないようすで答えたが、江梨にとっては二十四色のクレヨンと同じで羨む気にもなれない。だが志乃にしてもその日の記憶はあまり楽しいものではなかった。揚出し≠ノはたまたま|広小路《ひろこうじ》に面した表玄関からでなく、池に向いた通用口から入ったのだが、下働きや仲居に廊下の角で出くわすたび父の広之進は、おでこでも叩くような調子で、
「いやー今朝は|搦手《からめて》からあがっちゃったよ」
などと、さも通人ぶったきまりを繰り返したからである。お固い学者先生の|捌《さば》けたところを見せたかったのだろうが、女中がいちいち大げさにおどろいてみせるのも志乃には腹立たしかった。そのせいか朝御飯に何が出たものやら、さっぱり覚えてもいない。
……由良が先に立って|雲母《きらら》を張りつめたような高曇りの空の下を歩き出す。ふだんの日なのにベンチというベンチは若いアベックで埋まっているので、休むとすればコンクリートの休憩所の他にない。だがたちまち江梨の不服そうな声が後ろからとんだ。
「ねえ、お姉様、今年もうこれで三回めよ、大事な話があるってのは。桜のころならともかく、暑いさなかに御苑なんてとこへ呼び出されて、ありがたくもない。あちらでのお話をまだよく伺ってないからと思って来たんだけど、今度の大事な御用って何なのかしら」
「あら、御免なさい。御苑はあたくしがいい出したの、どうしても紅い睡蓮が見たかったもんだから」
志乃の言訳にかぶせて、由良はむしろ|怪訝《けげん》そうに問い返した。
「いやだねえ江梨ちゃんは。今朝の新開、読んでこなかったのかい」
「え? 忙しかったのよ、今朝は。なんでも南太平洋かどこかでネッシーみたいなものが見つかったってニュース、うちの|娘《こ》がいってたけど、まさかそんな話じゃないでしょう」
「当り前だよ、ばかばかしい。あの塚田さんが宝石詐欺で指名手配されたのさ。知らなかったの」
「ほんとう? まあおどろいた」
口ではそういったものの、それはいかにもしらじらしい響きを伴っていた。この三月に買ったアクアマリンのペンダントは、まだそのまま持っているが、それがあまりにもはかない海の雫だったことは身に沁みている。裕福な姉や妹が騒ぎ廻るのは勝手だが、江梨にとって宝石は、もう前以上に空しく遠い存在としか思えなかった。
この日の朝刊には助教授夫人が宝石詐欺∞暴力団員と逃避行≠ニいう派手な見出しで、マダム・エメロードこと塚田多鶴子がこれまで一億一千万円の不渡りを出したあげく、先月末に二千万円近いダイヤの指輪を空手形で詐取しこの八日から前科四犯の男と行方をくらましたので全国に指名手配になったという記事が賑々しく出ているが、逃げ疲れた二人はこの翌々日に自首して出た。もともとヨーロッパでの商談もうまく行く筈がなく、由良と別れてからじきに帰国したらしいのだが、スキポール空港にも迎えに出ず、広志の行方についても何の役にも立たなかった彼女のことなど、こちらではとうに忘れた気でいた。それを、向うは逆に由良の不在を幸い志乃に近づき、相当高額な石を売りつけたというのが、休憩所へおちついてから聞かされた今日の大事な話≠セった。といって江梨にとっては、それさえ遠い出来事というほかはない。
「だって何よ、お|高価《たか》い石って。またお正月のダイヤモニヤみたいな贋物だったっていうの」
「いいえさ、それがスタールビーの上物なんだけれど、志乃ちゃんは本物らしいから|口惜《くや》しいっていうんでね。いい機会だから被害届けを出したらと思っていたのに、何だか話がこんぐらがっちゃってさ」
由良はいとおしむように九つも離れた末の妹を見やった。だが江梨にしてみれば、たまたま今朝の新聞を見ていなかったこと以上に筋の通らない話で、納得しようにも出来ることではない。
「なぜ本物じゃいけないの。塚田さんを訴えてやれないから? オランダの仇を東京でって、お姉様が肩入れしていらっしゃるわけ?」
「いいの、もうその話は」
志乃は少しばかり尖った|頤《おとがい》をこころもちすくめるようにして答えた。女学生時代は花王石鹸≠ニいう仇名だったなと思い出しながら江梨は、昔からこの妹には愛情を注ごうとしても両親や兄姉の分で先にいっぱいだし、心を|展《ひら》いて接しようとすると向うで頑なに扉を|鎖《さ》すといった繰り返しだったことを苦々しく反芻していた。
――なにさ、わざわざ呼び出しておいてからに。
そう思うとまた意地になったような|苛々《いらいら》声でいい|募《つの》った。
「大体があなたの誕生石は八月で、サードニクスか何かでしょう。それを、張りこんでルビーを買って、何の間違いがないものなら結構じゃないの。そういえば紅い睡蓮てルビーの付き物だったわね。なあに、それでわざわざ御苑まで呼び出したってわけ?」
「まあさ、そればかりでもないんだよ」
由良が穏やかに割って入った。
「まあ塚田さんのことは指名手配になったというだけで、捕まってもあとどうなるか判りゃしないんだけどね。わたしの留守を承知で志乃ちゃんに取り入ったというのが憎いんだよ。わたしもアレはこれこれこういう女だからって、もっと|強《きつ》くいっときゃよかったんだけど、まさか志乃ちゃんにまでと思いもしなかったし……」
「そういえばお姉様、向うでは大そうお倖せだったみたいね。いただいた絵葉書にもなんだか当てられたくらい。その護衛してた騎士は結局どうしちゃったのかしら。こないだのお土産話じゃそのへんが曖昧でしたから、今日はそれもゆっくり伺おうと思って楽しみにしてたの」
いきなり鉾先が変わったのも、由良はやんわりと受け流した。
「なに、パリの宿に広志が現われてくれたから、そのままお別れしただけさ。初めからお仕事が始まるまでってお約束でガイドをお願いしたんだもの、タイミングはちょうどよかったわけ。そりゃ少し寂しい気はしたけど、まあ仕方もないことだしね」
まさかいまさら妹たちに、ピノキオ青年の鼻はほんの少うし上向き加減で、若々しく光っていたなどと|惚気《のろけ》も出来ない。別れた日、窓越しに眺めた苔色のセーヌの流れは、あのとき確かに何かを断ち切ったに違いないのだから。
「それゃもう過ぎたことだけどね。今度のルビーは少し大物すぎてそれが心配なのさ。まさか宇田川女史の予言を恐れて、魔除けのために買ったわけでもないだろうが……」
しかし今日の志乃はいつもと違って、由良にもうちとける気配がない。さしぐんだようすで横を向いたまま、力のない声で、
「いいのよ、もう」
を繰り返すばかりであった。実際そのときの志乃には、由良が小声になりながら、かいつまんでする説明も煩しかった。五十万とか七十万とか口を濁しているけれども、志乃ちゃんの買ったのは小粒ながら百万を越しているに違いなく、それが売り手は塚田夫人ながら鑑定書もしっかりしているし、石川さんに見てもらってもまあ値段相応ですなといわれて、その点では何の問題もない。その問題のないことが問題という点を由良までが|釈《と》きかねているのがじれったい。あるいは察してくれているのかも知れないが、江梨に気を兼ねてというのなら初めから呼ばなければいいのに、こればかりは由良にもこちらから打ち明けたい話ではなかった。
休憩所の外に群れて、浅間しいまで餌の取り合いをする鳩の|貪婪《どんらん》な眼玉を見ながら、いつか志乃が思い沈んでいったのは、あの横に長い揚出し≠フ建物から連想される戦前の風物であった。父の話では広小路には三本の橋がかかって馬車が行き交い、不忍池の周りで行われた競べ馬には明治大帝も十二|単《ひとえ》の女官たちを連れて臨席遊ばされたというし、松坂屋のへんは草茫々の原っぱだったと聞かされていたが、むろんそんな時代のことは写真でさえ見たこともない。ただ松坂屋の送迎バスは覚えていて、東京駅から出ていた三越のバスに較べると、飴色で幾分野暮ったかった気がしているが、これも確かな記憶とはいえなかった。
それから必ず助手を乗せていた円タク。母と乗るといつもぎこちなく、言い値どおり五十銭取られてしまう距離でも、あの渡部の小母さんは乗る前に優しく、
「上野まで三十銭ね」
と値切ってしまうのがいかにもスマートに思われ、大きくなったらぜひ真似をしようと思っているうち戦争になって、たったそれだけのことも果せなかった。
――そういえばずいぶんできなかったことがあるわ。
志乃はぼんやり思い返して、そのぶんだけ大人になりきれなかったのだろうかと|訝《いぶかし》んだ。江梨はすぐ、志乃ちゃんのころは何でも買ってもらえたからいいなどというが、先に生まれていればこそできたことも多いのだ。
[#ここから1字下げ]
――縁談だってそう。江梨姉様にだってずいぶんいいお話があったのに、山下さんなんて兵隊に取られるに決まっている人に義理立てして、あんなの、戦争中の感傷にすぎないじゃありませんか。
[#ここで字下げ終わり]
そういう自分にも父のお弟子で一番の秀才だった|若林《わかばやし》という講師とすっかり話が決まりかけたことがある。しかし志乃はもうひとりの弟子で|田所《たどころ》という助手にひそかに夢中になってい、どうしても気が進まないまま父に泣きついて断ってしまった。といって代りに田所さんを、といえるほど自由な家庭でも時代でもなく、かりにいい出したら末っ子で甘やかされていたとはいえ、若林を断っておいてふしだらなと叱りつけられたことだろう。
[#ここから1字下げ]
――九州の大学で、もう名誉教授におなりの筈だけど、どうなすったかしら。
[#ここで字下げ終わり]
青年時代の田所は白皙長身の、誰が見ても惚れ惚れする容貌だったが、どういうわけか毛嫌いされて、父の死ぬまでは不遇だった。何度か東京へ帰るチャンスがあったのに、それさえ父の手で|潰《つい》えさせられたほどである。田所が目立ったのは顔立ちばかりでなく、着ている学生服が黒でなく、同じサージ系統に違いないだろうが、いつも深い青だったせいもあった。いまならばミッドナイト・ブルーとでもいうのか、底知れぬ深さを|湛《たた》えた青い服は仕立てもよく、白皙の顔にいっそう映えた。
[#ここから1字下げ]
――あのとき思いきって若林さんと結婚していたら、まだしも田所さんとおつき合いが続いたかも知れないのに。
[#ここで字下げ終わり]
考えが次第にある一点に――そもそもの初めから強いて思うまいと努めていることに近づこうとしているのを知って、志乃は小さく身顫いした。戦後になってからの塩沢との結婚が、すべて自分に勇気がなかったことへの罰であり、報いだという考えである。
もっとも初めのうちは塩沢も、働き者の気のいい青年だった。実家は京都の格式ある香道の家元から別れたとかで、三男ながら|胤保《たねやす》という勿体ぶった名もそのせいらしい。それはいいのだが、オート三輪一台で始めた運送業が次第に拡がり、いまは各地に営業所を置くほどになってみると、その格式は厄介なことになった。さすがに事業の上では使わないが、自宅の表札は塩沢≠ナなく鹽澤≠ニ正字で大書されている。手紙の名もいちいち墨でしたためろと強要するほどで、閉口した志乃は判こを彫らせて間に合せた。当然のようにいい出したのは後継ぎのできない不満で、胤保という名は血すじを保つという意味だとうるさくいわれても、医学的には問題のない二人にとっては、やはり相性が悪かったと思うほかはない。長い争いの末に妾は半ば公認となり、|三枝《みえ》というその女には二人の男児がいて認知もされているのは承知していた。そして三人めを懐妊した祝いに女の誕生石を贈る気だと知ったとき、志乃はあえてそれを許し、自分からその石を――眼眩むばかり鮮かな贋物のスタールビーを探すことを決心したのだった。
もとより金は夫から出ているので、百万が二百万でも知ったことではない。ただ、いかにも|胡散《うさん》臭い塚田夫人ならば、相当の目利きでも欺し了せるほどの贋物を掴ませるかと思いのほか、役立たずな本物をこんなときだけ持ってくるとは何事だろう。出処は夫にも明していないので、今朝の新聞記事で怪しむ筈もないが、いっそさっぱりとあのルビーはこの女から買ったのよと打明けたらどんな顔をするだろうと思う傍ら、有利な離婚材料を提供するだけだという気がして、せめて腹癒せに紅い睡蓮でも眺めてやりましょうというのが今日の気持だった。しかし、どうしても今度だけは親しい由良にも相談する気になれない。それに江梨からもいわれたとおり、自分の誕生石は中でも安物のサードニクス――赤縞めのうだということも屈辱だった。
「あたくし、どうしてかひどく頭痛がするの。悪いけど独りにしてくださらない」
あれこれと推測を逞しくしている二人の姉に、志乃はとうとうそういった。たちまちおろおろ声になる由良を制して、
「ねえ、お願い。もう少しここでゆっくりしてゆきますから」
そういって不安顔の二人を無理に帰したのは、さきほど太鼓橋の上から見た錦鯉の上品な朱色を、もう一度独りで眺めたいと願ったからであった。ルビーの紅でもサードニクスの赤でもない、あの|銹朱《さびしゅ》にだけ本当の安らぎが秘められている気がする。姉たちの姿がまったく見えなくなるのを待って、売店からパンを買うと、志乃はいそいそと池の方へ歩き出したが、橋へ行きつくまでもなく足はたちまち止った。
「田所さん」
と思わず声をかけようかと思ったほど、そっくりな長身の青年が池の畔りに佇んでいたからである。学生服ではないが同じミッドナイト・ブルーのタウン・ウェアーで、その白い額にも鼻すじにもすべて見覚えがあった。
とどろく胸を鎮めかねるまま、少し離れたところからパンを僅かばかり投げると、たちまち先ほどと同じように黒い渦がうねり出す。青年はおどろいたように志乃を見た。
「投げてごらんになる?」
つとめて気さくに声をかけると、パンを半分ほどちぎって渡した。
「とってもいい色の錦鯉がいるんですけど、きょうはどうしてか出てきませんわ」
無心そうに池に眼を落しながら志乃は、これまで本当に望んでいたのが紅でも赤でも朱でもなく、ただ深い青だったことを知った。同時に水に映るその立姿を絶え間なく掻き乱す邪悪な色の渦が自分の心にも秘められていることに気づくと、志乃は激しい眩暈に堪えかねたようにその場にしゃがみこんだ。
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金色の蜘蛛
新宿御苑の太鼓橋の畔りで、崩折れるようにしゃがみこんだ塩沢志乃は、|幾許《いくばく》もなく動悸を収めて立上ったが、馳せ寄って腕を支えてくれ、
「大丈夫ですか、奥さん」
と、何度か耳許で熱っぽく囁いてくれた青年の顔を改めて眼にするなり、俄かに躯を固くして二度めの眩暈に堪えた。いまのいま、かつての田所にそっくりだと思った面影はどこにも見当らず、それはむしろ武骨で実直そうな若者だったからである。着ているのはいかにも青系統の服だが、それもミッドナイト・ブルーなどではないありふれた色あいで、白皙の顔どころか陽に焼けて健康そうな頬艶や強く張った眉は、見も知らぬ他人としかいいようはない。しゃがみこんだ須臾の間に別人と入れ替ったのではないとするなら、この白昼に幻を見るほど自分は、心の底で田所を慕い続けていたのだろうか。
「あそこのベンチがおいています。少しお休みになったほうがいいです」
青年は突立ったままで掠れ声を出した。志乃の微かな身じろきと|硬張《こわば》りとを感じ取るなり支えた腕を放して、もう二度と触れようとしない。それが青年の潔癖さによるものか、それとも束の間の感触にこちらの老いを読み取ってのことか、志乃には測りかねた。
「ありがとう、そうするわ」
こんもりとした植込みの陰のベンチに向って歩きながら、志乃はふっとはかない思いに捉われた。それは先ほど半分にちぎって渡したパンのことで、自分があの場に置いてきたように、青年もとっさに取り落すか棄ててしまったに違いない。だがそれは双方とも少しずつ|毟《むし》られているので、拾い上げて合せようとしても、ぴったり元の形になる筈はないのだ。……
志乃がベンチに坐ると、青年は護衛するように斜め後ろに立った。その角度からなら、せいぜい取って四十代そこそこの夫人という風情に映る筈である。
「あのう、ぼく、事務所へ行って、何か薬でも貰ってきましょうか」
ぎこちなくいい出す青年を、志乃は凄艶な笑顔でふり仰いだ。行ってくれといえば、鉄砲玉か|疾風《はやて》のように駆け出すことだろうが。
「いいえ、いいのよ。少し貧血気味なものですから、ときどき目まいがするだけ。それよりあなた、もう少しここにいてくださらないこと?」
「はあ、まあ……」
「それじゃ、おかけなさいな」
志乃が躯をずらすと、青年はおずおずと端に腰をおろした。はにかんだようにあらぬ方を向いている横顔を少し後ろから見ると、顎と鼻を結ぶ線に僅かながらも田所の面影が偲ばれ、志乃はひそかに安堵した。
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――たぶんさっきもこの角度から見かけたので一瞬錯覚しただけ。そう、それだけのことよ。
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白昼に幻を見るほど飢え渇いていたわけではないと自分に納得させようとして、同時に志乃はさっきから身内に疼いていたものが急速に昂ぶり、突き上げ、ついには炬火のようにあかあかと点じられたのを知った。
新しい赤の誕生。
いかにも贋のルビーによる隠微な復讐は失敗した。腹癒せに眺めようとした紅い睡蓮にもめぐり逢えなかった。しかし思わぬ偶然でベンチに並び合せているこの青年は、まだ名前も知らないとはいえ、代っての慰めであり天の賜物とはいえないだろうか。二十四、五歳か、あるいは体育大の学生さんかしらんと思えるほど健康そうな様子からいっても、夫への当てつけにする浮気の相手として先ずは及第であろう。
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――でも気をつけなくちゃ。急いでみじめなことにならないように。
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敗戦の日の前日が満二十歳の誕生日だったということは、五つ年上の江梨などのまた及ばぬ貧しい青春をたっぷり享受させられたということで、徴用のがれに転々とした軍司令部や監督局の事務室でも、いたわりの瞳・いとおしむ瞳・いざなう瞳のいくつかに囲まれることはあっても、それはついに腕や唇を伴うまでには到らなかった。からめ合う指先ほどに白く細い|絆《きずな》。それが敗戦までの記憶のすべてであった。
戦後いきなりの放縦な男女関係は|巷《ちまた》のもので平凡な家庭までを浸し崩したわけではないが、何よりも――飢餓よりも鋭く身を刺す人恋しさに加えて、その|露《あら》わさは眼に見えぬところであらゆる|覊絆《きはん》を解いた。志乃はいわば軽々と塩沢に|攫《さら》われ、同時に奔逸な性の高波にも攫われていたのである。
「ああ、ずいぶん楽になりましたわ」
緑いろの池の面に眼をやりながら、志乃はまだいくぶんせつなそうな声を出した。
「すっかりお世話をかけて……。そういえば朝からまだ何もいただいてないんだわ。いやだ、きっとそのせいでしたのね。あなた、よろしかったらお食事につき合ってくださらないこと? いいえ、大げさなことじゃなくて」
言葉の矢はいま葉陰に潜む白い睡蓮に向って放たれ、その花に突き刺さってみごとに血を流すことを志乃は念じた。
………………………………………………
青年は|矢島《やじま》|竣介《しゅんすけ》と名乗り、警備保障会社のガードマンだと告げた。仕事に興味を失って辞める気でいることも話の合い間に知れた。群馬の|在《ざい》の出で、恋人もいず友達も少ないといいながら、それほど苦にしているようすもない。ただ、笑うと逆に翳りめいた淋しさが眼元に滲み、志乃はそれを賞味した。おどろくほど健啖なのも皓い歯とともにこころよかった。車の運転だけが趣味で、二種の免許も持っているという。
「そう。だったら安心ね」
ぼんやり相槌を打ちながら志乃が考えていたのは、このごろは行ったこともないが夫の営業所で立ち働く若者の中にさりげなく入れたらということで、その二人だけの秘密を持つとき翳りは初めて全身に及んで、孤独な狼の相を現わすに違いない。同時にその皓い歯で引き裂かれ喰いちぎられることも可能であろう。
「昼間はほとんどあたくしだけですから、かけていらしてもいいわ」
|庄沢《しょうざわ》という偽名を口にしながら、自宅の電話番号を書いて渡すと、矢島はおどけて押し戴く真似をした。再び目許に色濃く滲むものを、全身に疼く人恋しさのせいと志乃は判断したのだが、それだけに宇田川夫人の忠告どおり魔除けの|宝石《いし》を買っておかなくちゃという思いも胸を掠めた。
親子ほどに違う齢を気づいてもいないのか、あるいはもともと年上の女を愛するタイプなのか、機会は予想より早く訪れた。
|MON《モン》 |LOUP《ルウ》、私の狼と呟きながら抱かれた志乃は、それでも乳房を這う舌と牙に怯え、喘ぎながら頼んでいた。
「お願い、歯型だけはつけないで」
そうでなくとも人工の闇の中で感知される筋肉と剛毛とあらあらしい息遣いは、充分に森林と水原と断崖と、そこでの咆哮と疾駆と跳躍とを味わわせ、志乃は幾度かの失墜に堪えた。
「初めてお逢いしたときから、奥さんとはこうなると思ったんです」
激情がけだるく鎮まって、まっすぐ上を向いた姿勢のまま、矢島がそんな律儀なことをいい出したとき、志乃はくすりと笑ってその耳に口を寄せた。
「頼みがあるの。ねえ、聞いて」
八月十四日の誕生日に指輪を贈って欲しいこと、むろん費用はこちらで持つけれども、安い宝石だから心配はいらないこと。裏にはMON LOUPという字に日付だけ彫って、サイズはいくらでと囁きながら、最後にその石の名をいった。
「まちがえないで、サードニクスよ。誕生石の中でもいちばん安いくらいな石」
しかしこのとき志乃には、どんな安物の赤縞めのうでも、スタールビーも及ばぬ輝きを秘めている実感があった。睡蓮の白花は血を流すことによって忽然と紅花に変ったのだ。
「十四日なんですか、奥さん」
矢島はまだ上を向いたまま、手だけが志乃をまさぐった。
「ぼくは二十五日でね、どうしてだか乙女座なんだな、これが」
「まあ、おんなじ八月?」
「ええ。だけど十四日というと、何曜かな。その日にぼくと一緒に|北軽井沢《きたかるいざわ》へ行きませんか。毎年、十四日か十五日にあそこで花火大会があるんです。相当大がかりだし、綺麗ですよ、そりゃ。花火を見ながら……ねえ、いいでしょう」
志乃の手を取って自分に導く。その感触だけで頭は痺れた。
「行ってもいいけど、だけど、指輪だけは忘れないで。ねえ待って、少し……」
だが前にも増してしたたかな|量感《ボリューム》を取り戻した肉塊と、それまで気づかなかった|強《きつ》い体臭――革のように鋭く苔のように深いその香りが鼻を|撲《う》つとともに、志乃は他愛なくまた無明の闇に溺れた。
………………………………………………
指輪のためにサードニクスのおよそ三倍ほどの金額を渡し、旅行のための細かな打合せを済ますと、さすがに気落ちして仄かな自嘲もわいたが、一方で十四日の誕生日は子供の時も及ばぬほど待たれた。ちょうどその日は日曜で、今年は十四・十五の両日とも花火大会が開かれるという。北軽井沢にはまだ行ったことはないが、|浅間《あさま》山の北麓に当るので旧軽のような混雑もなく、群馬の在という矢島の故郷にも近いらしい。
――いったいあの子は、あたくしにとって何に当るんだろう。
考え出すとその映像はすぐに崩れ、流砂のように下半身を埋めて身動きもならぬ気がする。宇田川夫人の予言に外れはなく、口を濁してはいるが二人の姉にもそれぞれ年甲斐もない出来事があったらしい。といってあたくしほど烈しい体験をした筈はないと思うと、部屋にいてもつい|目蔭《まかげ》せずにいられぬほどの眩しい気持だった。ペルセウスほどの美青年というには遠く、逢うほどに田所の面影などかけらもないことはいやでも身に沁みて、ひたすら毛の長い優雅な狼というイメージしか湧かないが、激しいのはベッドの上だけで、獣の正体を剥き出しに、卑しく小遣いをせびったりする気配などまったくないのが救いであった。
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――そうなの、これは夫への当てつけなんかじゃない、戦争への復讐なんだわ。
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考えがそれに行き当ると、ようやく心は和んだ。誰が企て、誰がいちばん望んだのか、いまとなっては瓦礫の焼野原に埋もれて見当もつかぬ戦争というもの。それはしかし何よりも多くの瞳を奪った。そして戦後はまたせっかく生き残った瞳を濁らせ、そのおかげでようやく続けられた平和というもの。そのどちらにも|与《くみ》する気持のないまま流されてきたとなれば、性だけが――埋み火とも|燠《おき》ともなりかけていた性だけが確かな証のように燃え上ったとしても不思議はない。そのチャンスに恵まれ、肉体がまだ老けこまずに済んでいたことを大事に思いさえすれば、いまはそれでいいとしよう。もともと喪われた青春を僅かばかりのお金で|購《あがな》えると思うほど愚かなつもりもないし、いまはただ燦爛と夜空を彩る花火のほかに欲しいものはなかった。
夫は三枝という女のところに決っているし、留守番の心配さえすれば言訳も口実も必要のないことだったが、友人の別荘に招かれたからといって志乃は前日に家を出た。教えられたとおり|吾妻《あがつま》線というのに乗って|万座《まんざ》|鹿沢口《かざわぐち》に着くと、改札の向うに矢島が|雀躍《こおど》りするように手をあげているのが見え、思わず頬がゆるむ。その無邪気さにはどこか測りかねるものがあった。
シルバーメタリックの車に乗りこみながらふっと不安になって尋ねた。
「ずいぶんいいお車ね。これ、あなたの?」
「そうです。新車です。いまあちこちで広告してるでしょう」
矢島はいくらか得意そうに答えた。父親はこちらで役所に出ていると聞いたが、開発の拡がっているここいらでは、土地持ちとすればこの程度の車も当り前なのかも知れない。ただ失業中の身でと思うと、何かおちつかない気がする。
|草津《くさつ》・|白根《しらね》のルートを離れ、すっかり舗装された村道へ走りこんだとき、志乃は独り言のようにいった。
「指輪は、間に合ったのかしら」
「ええ、それはもうバッチリ。だけどホテルが混んじゃってて、一部屋しか取れなかったんです」
「困るわ、そんな……」
「でもね、ちょうど偶然に高校んときのダチが部屋取っててね、譲ってもいいっていってるんです。でなくてもぼくがそいつんところへ転がりこんでもいいし」
前を向いたまま済ましてそういわれると、それで我慢できるのかと訊かれているようで、志乃はほっと肩を落した。これまで数回の人工の夜の、無限の陶酔を誘う失墜。その甘美な闇のあるじは、いま事もない顔で隣にいる。そう、それはもう紛れもなく、すべての夜なるもののあるじに他ならなかった。
「だけど、あのサードニクス、安いなあ。プラチナ台にして、いわれたとおりの字を彫ってもらって、預かったお金の半分もしなかった。あとでお返しします」
正直にそんなことをいい出す矢島の横顔は、そのときひどく朴訥そうに見え、志乃はむしろ慌てた気持になった。
「いいのよ、そんな。残ったらお使いなさいっていったでしょう」
二十五日という誕生日になったら、正真のミッドナイト・ブルーのセーターか背広を贈るつもりでいるのに、という秘かな心構えが自分でいじらしい。だが何を考えているのか矢島は、
「ええ、あとで」
とだけ繰り返した。高校時代の友人だという|鷹見《たかみ》|三郎《さぶろう》にホテルの部屋で紹介されたとき、志乃は大げさでなく凶変の予感に怯えた。悪魔のような美青年≠ニいう言葉は、テレビのタイトルだったのかどうか覚えはないが、さしあたってそうとでもいう他ないくらい、しなやかな体つきの、謎めいた微笑、ひどく紅い唇、誘いかける瞳、さては青い髯剃り痕のどれをとっても、洗練された女蕩しという印象しか与えず、それでいて決して不快でない戦慄をそそるところがあった。
「こいつは無類のオカルト好きでね、読心術にも長けてますから用心したほうがいいですよ」
そんな紹介にも優雅に|一揖《いちゆう》したまま、ただ深い瞳がこちらを見つめ続けている。
「怖いわ、あの方」
鷹見が出てゆくと志乃はすぐそういった。それからサードニクスの指輪を取り出した矢島が、まず指にうやうやしく接吻しようとするのをふり払うと、厳しい表情になってしどろもどろに告げた。
「これはね、あたくしにとって魔除けの石なの。ですから今夜はどうしても駄目。あしたね、あした花火が終ってからならば何でもおっしゃるとおりにするわ」
急な怯えが何によるものか自分でも判らない。指輪の裏に彫られた文字は細かすぎて見えなかったが、注文どおりだとすればわがウルフ≠フ筈だと思うと、それを指に嵌めてみることさえ憚られ、志乃は独りでまんじりともしない夜を過した。
翌日の夜は三人で食事をしたが、志乃は珍しく盃を重ねた。花火大会は、例年のことらしいが|埒《らち》もない歌謡曲だの役員の挨拶だのがいつまでも続き、ようやく始まるころは天気も崩れて小雨になった。夏空に轟く大輪の舞#ェ号玉一発に尺玉一発、夜空に輝くレジャーの園℃l号玉八発、特大スターマイン等々が靄がかった空に開くと見えては消え、色とりどりの残像を残した。広場を埋める群衆に暗く|気押《けお》されて、離れた薄暗に立っていると、従っていた筈の矢島の姿はなく、代って鷹見の紅い唇が間近かに浮いた。
尺玉が金の刺繍をくりひろげ、赤と緑の雨が夜空に吸われる。
「御心配いりませんよ、塩沢の奥さん」
酔いのせいか、庄沢でなく確かに塩沢と聞えたように思ったが、鷹見は横顔を見せたままである。
「ウフフ、これはいってみれば腹話術のようなものでね、いいから知らん顔をして聞いていらっしゃい」
女のアナウンスが合間にかまびすしい。
「次は第十六番、天下に轟く星空の乱舞。早打ち五号玉七発。提供は吾妻信用組合|長野原《ながのはら》支店……」
また低く囁きが這いのぼる。
「もっと正直に強くならなきゃいけませんな、塩沢の奥さん。ホラ、あの三枝という御主人の女のことですよ。何でも三人めの子供ができるっていうじゃありませんか。かまわないから先の二人の子を、先手を打って殺しちまえばいいでしょうに。なに、お任せ下さればいつでも請け負います。なにしろ花火の夜のことだ、殺人計画を練るにはもってこいですぜ」
ウフフフという含み笑いは、どう見ても鷹見の紅い唇を洩れたものとは思えない。だが声は執拗に余韻を引いた。
「次は第十八番、高原を七色にいろどる共栄の花。四号玉二発、尺玉一発、提供は……」
再び金いろの傘が夜空いっぱいに開いてのしかかる。しかしそのとき志乃にとってそれは、巨大な金色の蜘蛛としか映らなかった。
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青い贈り物
北軽井沢の花火大会の夜、耳許に囁かれたのが果して鷹見三郎の腹話術によるものか、それとも己れの内心の声か、志乃はついに判らぬままであった。正直に心の底を覗き込んでみても、三枝という女の子供を殺したいほどの憎悪が|激《たぎ》っているわけもなく、これまでうっとりとそんな空想に耽った記憶もない。とすればその囁きは、紅すぎる唇と、|滑《なめ》らかに青い剃り痕を持つ容貌が醸し出したひとときの幻聴であって、燦爛と降りかかる花火を巨大な蜘蛛のように錯覚したと同じい凶変の予感、惨事への期待だったのかも知れない。
酔いは二重に這い登り、もつれた足でホテルへ引返す志乃を、鷹見はすばやく追った。部屋へ入って鍵を|鎖《さ》すより先に肩は優しく抱かれ、掌は胸乳を包んだ。首すじを這う吐息に志乃は容易に知った。間違いなく矢島と鷹見は、初めから示し合せて交替したので、薄暗いこの部屋のどこかに、もうひとつの光る眼が潜んでいても不思議はない。だが、いつもなら身顫いする筈のそのおぞましさは、いま|譬《たと》えようもない|快楽《けらく》に変った。二人の青年はついに手触られることのなかった戦争中の彼ら――あんなにも深かったいとおしむ瞳・いざなう瞳の持主の化身に他ならず、その数はかりに十倍であっても当然と思えたからである。彼らの年齢はそのままに、志乃だけが時間を|遡行《そこう》して無垢の乙女に変じ、彼らの無数の腕の中で|羞《はじ》らい、歓喜し、ついには悶え、のけぞった。床の上に滴る血の色の|鮮《あたら》しさまで、ありありと瞼の裏に映じたのである。
枕許の卓燈が小さな音を立てて点じられたとき、志乃はようやく現実に戻った。花火も納涼踊りもとうに終ったのか、マイクの喚声も群集のとよめきもすでに伝わらない。深沈とした高原の夜気だけがこの部屋を包んでいる気配であった。
鷹見はそしらぬ横顔を見せながら、閉じた眼元に笑いが滲んでいる。頬の翳りに指を伸ばした志乃は、そのしたたかな張りと冷たさにおどろかされた。それは青く凍えた沼で、硬く厚い氷は容易に|罅《ひび》割れるとも思えない。しかもそこにはすでに新しく生え伸び始めた苔の感触があった。
――どうしてここはこんなに青いの。
そういおうとして志乃が口にしたのは、自分でも思いがけない言葉だった。
「教えて。ねえ、青っていったい何なの」
「青がどうしたって?」
鷹見はこちらに向き直ると、肩を抱き寄せながら聞き返した。唇は隠れて見えない。
「青って何だか知りたいのよ」
志乃は稚く繰り返した。
「ふん、青って何、か」
笑いながら手と唇は動きをやめない。
「困りましたな。青は光の三原色の一つでありまして、なんてことを聞きたいわけじゃないだろうし、ゲーテ先生によればそもそも色彩とはエレメンターレス・ナトゥールフェノメーン、すなわち基本的なる自然現象と定義されておられまするが、もともと無限時間を一定の振幅で運動し続ける振動子なぞあり得ないからには、この地上に純粋な単色光は存在しない、すなわち純粋な青もまたないことになりますな」
鷹見は言葉と行為のちぐはぐさを楽しむようにそんな術語を並べ立て、傍らいっそう動きを早めた。
「本当なの? 本当に青はこの世にないの」
「ああ、ないね、残念ながら」
「だってアレでしょう、白色光をプリズムで分解したら虹の七色になるって、どんな教科書にも載っているわ」
志乃も釣られたように古い知識を口にしながら、相手の磨きぬかれた青い皮膚に頬を寄せた。
「だからって無理に白色光を衝撃波だって考えることはないのさ」
ついに鷹見はしなやかな躯を躍らせ、真上から催眠術師めく瞳をちかぢかと寄せた。その眼のいろも志乃には、ひととき青い沼か湖のような底深さに映った。尠くともその底に沈んでいる一顆の宝石は鋭い光茫で志乃を射すくめ、ひたすらその理由によって志乃の|購《あがな》った魔除けの石、安物のサードニクスを一撃で打ち砕いた。悪魔めく美青年の妖しい力によってではない、人は生れながらその瞳の中に自分の誕生石を秘めているとするなら、どんな誓いも用心も及ばないのは当然であろう。……
埒もないことを考えるうち、湖の氷は柔らかく溶け出し、委ねられた女体を緩やかに揺さぶった。やがてはその中心部に運ばれ、ほしいままな上下動を続けて奥深く突き沈められてしまうにしても、志乃にとってそれはもはや甘美な戦慄以外の何物でもなかった。
………………………………………………
青とはいったい何だろうという疑問は、その一夜を過ぎてもなお深く心に残った。むろんそれは戯れに口にした色彩学や光学や、あるいは鷹見が専門に学んだという高分子化学などに|係《かかわ》りのあることではない。青という神秘な色が自分にもたらす、この不思議な感情はいったい何かという問いにすぎないので、もともと考えて解ける性質のものではなかった。
はろばろしいまでの海の青、空の青。あるいはモルフォ蝶科のメネラウスやカテナリウスの輝く翅。露草や矢車菊、そして朝顔の底知れぬ藍色の井戸。さらには磁器の染付の色。宝石ではサファイヤばかりではない、ブラック・オパールやラピスラズリに潜む青金色も、あるときは謎の手紙のように胸ときめかす一条の光を投げて寄越す。それらの傍えにいるとき、心はつねに和み、また理由もなく騒立った。その優しい誘いがまったく同時に憧れと苛立ちとを唆る理由について知りたいというのが志乃の願いだったが、それはもともと適えられる筈もない、心理に譬えていえば深層生理[#「生理」に傍点]の問題であった。そしていま鷹見三郎がそのすべてを統べる青の|変化《へんげ》者として、青い鞭を手に現われたというならば。
もっとも、瞳の中に一顆の宝石を見るというのは、これが初めての経験ではないことに志乃は気づいていた。敗戦直後に、志乃の住む街にも多くの米兵が来たとき教えられたことだが、さすがに婦女子は顔に鍋墨を塗って|濫《みだ》りに近寄らざることなどという布告は、もう誰の念頭にもなかったにしろ、初めのうち彼らはオフリミッツの禁制も無視して酒と女を漁る大男という印象しか与えなかった。それが一夜、強制疎開させられた駅前の広場に一人の若いGIが椅子を持ち出し、腰をおろしてギターの弾き語りをしている。酔っているらしくシャツ一枚の胸をはだけ、郷愁に堪えかねたように唄う曲の数々を、人びとはむしろ呆気にとられ、遠巻きにして聴いていた。乱れた金髪と哀しい声に魅かれ、志乃もまたいつまでも佇んでいた一人である。一曲終るごとにハワユ、ドーデスカと周りを見廻すが、固くなった日本人は誰も拍手ひとつ送ろうとしない。だが小さな男の子が、ためらいなくハローと声をかけたときのGIの喜びようといってはなかった。その子の手を執らんばかりにして調子を替え、モシモシカメヨを弾き出したとき志乃は突然に悟った。この若い異国の兵士の瞳、その|奥処《おくが》にどれほどの優しさが充ちているかを――。
正確にいえば、臆せず彼らと向き合い、その美しい水いろの瞳の中に望郷という宝石を見たのは、おそらくそれよりだいぶ後のことだったであろう。だがその一夜を境に志乃は、それまで胸に抱いてきた紅毛碧眼という言葉の意味を変えた。碧眼の中にこそ紛れもない異国の風物がそのままに揺れ動いているのだから。彼らにつきまとうパンパン諸嬢を心に疎むことも止めた。彼女らもまた自分と同じ幻影を共有し、より間近く覗きこむために接しているのだろうから。
それにしても三十年前の古い記憶がこうして唐突に甦り、ひとつの瞳の中で合体するというのはいかにも奇異な体験だったが、志乃にとってそれほどの違和感はなかった。敗戦までの二十年間、わけても物心ついてから戦争ばかりしていた日本に住んでいたこと自体が奇妙といえば奇妙で、その闇の中で時間はまっとうに過ぎていった筈もない。いまさらあの戦争がどうで誰が何をしてなどと考え直す気にもなれないが、朝鮮戦争以降そのうちでも確かな指導者だった政治家や実業家がみごとな復活をとげたというなら、自分でも気づかぬうち闇の中の時間は再びあたりを包み、戦後もまた何ひとつ過ぎて行きはしなかったといえるのかも知れない。オキュパイド・ジャパン時代の初期はともかく、その後の占領者はまさしく|旧《ふる》い日本人そのものだったと思うと、志乃には心ばかりでなく肉体さえみずみずと老いないことを不審に思う気持もなかった。
鷹見とのつき合いは東京へ帰ってからも続けられた。勤めている薬品会社のほうは電話はちょっとまずいということで一方的な交流だったが、たまさかの逢いは存分に志乃を燃え立たせた。ただ矢島については二人ともしらじらしく触れようとせず、その存在は初めからなかったもののように蔵いこまれた。老眼気味で確かめもしなかったが、|MON《モン》 |LOUP《ルウ》(私の狼)などと彫らせてしまったサードニクスの指輪も同様であって、もともと安物の赤縞の石は、イメージの上からいってもとうに砕かれ終っている。
志乃は鷹見の生まれ月だけは訊くまいと思い定めていた。瞳の中に誕生石があると知ったからには、それはこれから九月になるというばかりでなく、ひとときの青の幻にもっともふさわしいサファイヤ以外に贈るべき石は考えられなかった。
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――ただ黙って持っていてもらえばそれでいいんだから、そんなにお高い石でなくてもいいし。
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ぼんやりそんなことを考えたり、いっそ二つ買って一つずつ持っていようかしらんなどと思うと、微笑は絶えず頬にのぼった。元はといえば御苑の池の畔りから起ったことである。ついに見ることのできなかった睡蓮の紅。かぐろい鯉の群れ。そしてそこに佇んでいた青の人は実は矢島などではなく、もともと鷹見がいるべきだったので、あるいはこれも時間を透視したための錯覚かも知れない。紅と青と黒でいうなら、矢島はその猛々しい裸身からいっても黒以外に考えられず、それはもう地底に鎮まるべき瞬時の擾乱と思う他にない。残された紅は、ひたすら青とは何かを問い続け、そしてついに答を見出すことだろう。
そのためのサファイヤは決して無駄な|費《つい》えではないと心を決め、志乃はすぐダイヤルを廻し始めたが、じきに気がついて受話器を置いた。宝石詐欺で捕まったという塚田夫人の番号を無意識に廻していたからである。だがその小さな過ちは奇妙に尾を引いて心に残った。
………………………………………………
九月に入ると夫の塩沢はこれまでになく家で過すようになった。夏にまた支店が出来たようなことをいっていたが、それも順調に成績が伸びてきた安心感というより、七月の贋ならぬ贋のルビーの一件を志乃の寛大さだと勘違いして、俄かに見直す気になったものらしい。たぶん三人めの子供も三枝のお腹の中ですくすくと育っているのだろうと思うと、嫉妬の代りに擽ったさ・おかしさがこみあげてくるほどだった。
塩沢は中年を過ぎてからの美食家で、やたら形式張ったフランス料理を家庭でも並べさせたがったが、そんなものは倦きるほど贅沢に一流のレストランを連れ廻してくれたら作ってあげると突放して、まだ一度も手がけたことはない。おそらく三枝を仕込んで、ワインもボージョレはルイ・ジャドの七三年に限るなどとやってきたのが、いささか倦きがきたのだろうと、その夜も子持ち鰈の煮つけにハムとキャベツの煮込みという、いいかげんな手料理を並べながら、志乃は皮肉の気持もなしにいった。
「珍しいわね、あたくしのお料理をおいしそうに召上るなんて。もう一本、つけましょうか」
「そうやな、それより畳み鰯をもう少し焼いてくれんか、こんがりと」
それから少し照れたような口調になっていい出した。
「やはりな、心尽しという奴が一番さ。心尽しの贈り物には何かお返しをせんと」
――やっぱりあのルビーを恩に着てるんだ。
ダイニングのガス台で手早く焙った畳み鰯を血に盛りながら、志乃はやんわりと切り返した。
「あら、だって贈り物もいろいろだわ。紅い贈り物に青い贈り物。あたくしならやっぱり青がいちばんですけどね」
「そうか、お前は昔から青い色が好きやったな」
ひとりでうなずく気配に、志乃はまた差向いに坐ると慌てていった。
「いいのよ、着物なんか買って下さらなくても。あたくしが自分で買ってツケだけそちらへ廻しますから」
それから少しからかう気になって、神妙につけ加えた。
「でもこのごろどうしてかしら、しみじみ青という色が|愛《かな》しく思えるの。青っていったい何なのかしらんと思って。齢のせいね、きっと」
愛しくはむろん哀しくとしか聞えない筈で、寄る年波の悲哀だと思わせておけばいい。紅い贈り物が実は黒い悪意の贈り物だったことなぞ永久に判りはしないのだから。だが少しいいすぎたように思ってそれなり話題を変えた。
「ねえ、今度出来た支店て|下北沢《しもきたざわ》だったかしら。あたくしもたまには奥さんらしく顔を出さなくちゃね。あなたのお仕事のこと、知らなすぎるんですもの」
「うん、まあ、それはいいよ」
夫は急にうろたえたようすで冷えた盃を干した。たぶん店には三枝という女が女房気取りで出入りしているためであろう。
――ばかねえ、初めっから行く気なんかないわ。
志乃はまたうそ寒い気持になって茶碗を取り上げた。
………………………………………………
すべては偶然に始まったと思い込んでいた誤りを教えられたのは、その一週間ほど後のことである。鷹見からはしばらく連絡のないまま、買い求めた一カラットに満たぬ小さなサファイヤは、そのまま手提げの中で空しい色を返していたが、一度不安になると例の指輪にしてもMON LOUPならぬMA LOUPEと彫られていたかも知れないと思われた。
その日、下北沢まで出たのは友人を訪ねるためで新しい支店のことなどその時は念頭になかった。だが|小田《おだ》|急《きゅう》線と|京王《けいおう》の|井《い》の|頭《かしら》線が交差するこの駅は区切られた四つの街並が入り交って、これまでもそうだったが思うところへ素直に行けたためしがない。まごまごしているうちに駅は遠ざかって小さな工場めいたところに出た。その看板に塩沢運送下北沢支店とあったのは、従ってまったくの偶然だが、向うからその塀添いに歩いてきて、連れ立って構内へ入って行った二人を見かけたのまで偶然だったのかどうか。紛れもなく二人は矢島と鷹見だったからである。
とどろく胸を抑えかねていた志乃は、入れ替りに門から出てきた作業服の男の許へ小走りに走り寄った。
「ちょっと御免なさい、あなた、塩沢運送の方?」
怪訝そうに肯くのに畳みかけて訊いた。
「いま入ってった二人連れ、ええ、門のところですれ違った若い二人よ。あの人たちも塩沢の店の人?」
「さあ」
男はふり向いて不審顔をしていたが、じきに答えた。
「ええ、一人はね。二、三日前に本社のほうから転勤になった、そう、矢島ってたっけかな。もう一人は知らないけど、何か?」
「いいえ、いいの。どうもありがとう」
背を向けて歩き出しながら志乃は、ようやくこの間の夫の、妙に口籠るような喋り方の意味を知った。矢島という青年そのものが、すでに七月ごろから因果を含められ、孤閨を慰めるべく偶然らしい出逢いを狙っていた黒い贈り物≠ナあり、確かとはいえないにしても鷹見もまたあるいは逆の青い贈り物≠セったとすれば。すべてはただのお返し≠ノすぎなかったというなら。……
|MA《マ》 |LOUPE《ルウプ》。瑕物の宝石。
いま憎悪のルビーはいよいよ紅く彼方に輝き、愛情のすべてを託したサファイヤは手提げの中で青く冷えた。
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無の時間
何かというと呼び出しをかけてきた姉の由良が、このところさっぱりと電話も寄越さなくなったことを、星川江梨は別段気にするでもなく家居する日が多くなっていた。正月に聞かされた宇田川女史の奇妙な御託宣は、いったい当ったのか当らなかったのか、どちらともいえない。由良もわざわざヨーロッパまで出かけたくらいだから、なにがしか収穫と呼ぶに足るものは得てきたのだろうが、その話となると言葉を濁し、むしろ沈痛な翳りさえ表情に窺われる。妹の志乃となるとなおさらで、暑い盛りに新宿御苑へ呼び出し、ルビーが本物だから口惜しいなどと訳の判らぬことをいっていたが、これもおそらく太刀の一振りは空を斬って、手ひどい肩透かしをくったせいであろう。一度その後の成行を知りたいと思って電話をしてみたが、珍しく夫の塩沢が出て、只今はちょっと北軽井沢の別荘に出かけておりますがという口上だった。いつの間に別荘など作ったのか知らないが、花火大会もあることだし、たまにはお出かけになりませんかという誘いを、江梨はこの上もなくしらじらしいものに聞いた。
「何なら別にホテルをお取りしますが」
という言草にも腹が立ち、誰が行ってやるものかとそのままにしたが、考えてみると三人師妹の中では、自分がいちばん貧乏|籤《くじ》を引いた気がする。今年のささやかな出来事にしてもそうで、もともとは六車という見知らぬ青年が|南《みなみ》|熱川《あたがわ》の別荘を勧めにきてから起ったことだった。まさかあれが宇田川女史のいうペルセウスのような美青年だと思いもしなかったが、それでも仄かな期待に似たものはあった。だが結局は渡しもならなかったアクアマリンの淡い水いろの石を傍らに、過去そのままの暗い押入れへ半身をさしこみ、古びたダミアのレコードを聴いていた自分を思い返すと、羞恥とも憤怒ともつかぬむず痒さが躯を走る気がする。
………………
私の心は大洋よ
翔べよ翔べよわが夢想
………………
私の心の大洋に
一羽の病んだ鳥が翔ぶ
………………
唄ったのは嗄れ声のダミアではない、老婆に変じた自分である。歯欠け眼なしの妖婆グライアイのひとりである。そう断定してしまうことはさすがに堪えがたかったが、この十月、さらに翌年の十月、レイテ沖海戦の当日を迎えるたび、山下洋司の面影はいよいよ若く、ついには稚く輝き、自分の棲むべき場所は押入れの中にも似た過去という名の洞窟≠ナあることは間違いないらしい。
「先生ったら、このごろ何だかお元気がないみたい」
通いの弟子の一人にそういわれて、江梨は僅かに眼元を皺めた。
ぺーパークラフトの教室を始めて、もう二十年になるだろうか。むろん昔はこんな名称はなかったので、とある女性週刊誌が雑誌の名を冠せた講習会を開くことになり、千代紙細工の教室を受け持ってもらえないだろうかと話を持ち込んできたのが最初である。紙手芸というのも冴えないし姉様人形ではいっそう古めかしい。新しい紙の素材も出廻り出したころなので、外国の本から思いついてペーパークラフトにしてもらったのだが、相手はなかなか承知せず、ペーパーがつくとどうしたっておトイレを連想してしまうから、パピエ何とかにしていただけませんかと粘ったのが昨日のことのように思い返される。
いまは主に昼間が暇をもてあます夫人たち、夕方からは勤めを終えたお嬢さん連中に囲まれ、あるいは団地ごとの巡回教室という形で名前も知れ渡っているが、改まって元気がないといわれてみると、いかにも働きすぎかも知れないと思い、このまま本物のグライアイに変じてはたまらないという気が俄かにした。
「そうねえ、この夏もとうとうお休みしないままだったし」
江梨は何か鬱陶しいものでも見るように、八畳と六畳をつなげた教室の、広いテーブルの上に散乱する色とりどりの紙細工と、まだきょうは小人数ながら屈託のない娘たちの表情とを眺めた。
「それにね、十月になるとどうしても気が滅入ってくるのよ。ごぞんじないでしょうけれど十月二十五日がレイテ沖海戦の日で、あたしの大事なひとが戦死したもんだから」
何をいい出す、という気は自分でもした。胸奥に秘めてきたからこそ記憶は宝石となり得たものを、この頬の明るい、|項《うなじ》の白い乙女たちに話すことによって、いっぺんに|擲《なげう》つつもりなのか。
だがたちまち歓声をあげるほどな期待に釣られて、栗田艦隊のレイテ湾突入と突然の転進、それを成功させるために|囮《おとり》となった小沢艦隊の無残な敗走、そして航空母艦瑞鳳の最後という戦史のおさらいをしてみせ、ほんの少し仄めかすように、艦と運命を共にした無名の青年士官の話をつけ足した。
「うわあ、かっこいい」
「じゃ、その方が先生の恋人だったのね」
「ねえ、戦争中ってどうでしたの。デートだってむつかしかったんでしょう」
くちぐちに騒ぎ立てる戦後っ|娘《こ》たちへ、江梨は訓すようにいった。
「むろんですとも、腕を組んで歩いてても非国民だって本当に石をぶっつけられたぐらいなのよ。何が出来るもんですか。でも、戦争中の恋人なんて、みんなそんなものだったわ。手も触れずに眼と眼を見交すだけ」
図にのって喋りながら江梨は初めて自分の躯の中を充たしているものの正体を知った。羞恥でも憤怒でも、また悲哀でもない。老婆に変じる怖れでもない、それはちょうど砂時計の中の桃いろの砂が|迸《ほとばし》り落ちた跡のような無の時間≠ナあった。
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しかし江梨の空しい思いとはうらはらに、眼と眼を見交すだけの恋≠ニいう言葉は、ひとしきり教室ではやり、もてはやされもした。さらに古株の弟子たちが音頭取りとなって、先生を元気づける会までが結成されることになり、思わぬ人気に苦笑するしかない。
「そうよ、先生。少しお仕事のしすぎよ。そろそろ骨休みをお考えにならないといけませんわ」
親身らしくいい出したのは古株の一人の|本多《ほんだ》|可奈子《かなこ》であった。夫は鉄工関係の重役で、不況で首が廻らないといいながら苦にするようすもない。戦前ならば典型的な有閑マダムといわれただろうと思うと、どうでもいいと思う傍ら、戦後になっていつしか失われた古い言葉を拾い集めてみたい気もする。
「どこかに保養地をお作りになったら、どう? 別荘なんていうと御大層に聞えますけど、いまどき車夫馬丁だって持ってますわよ、先生」
――車夫馬丁か。
江梨は心に笑った。人力車も馬車もあらかた姿を消したため、危うく差別語などといわれずに済んでいるのだろうが、これも失われた言葉のひとつに違いない。
「別荘ねえ」
思い入れのある調子になって、江梨は繰り返した。
「実はこの春にもずいぶん勧められたの、南熱川にいいところがあるって。でも東伊豆なんて地震が怖いから嫌だって断ったのに、いつまでもしつこくいわれて……」
しつこく来てくれたらどんなによかったろうという思いを籠めて遠い眼になったが、相手はもとより何だとも思わぬ顔で相槌をうった。
「そりゃあそうですわ、先生。私も昔から伊豆が好きで、|蓮台寺《れんだいじ》から河内、|下賀茂《しもがも》なんて温泉めぐりをよく致しましたけれど、いまはちょっとねえ。でしたら、どう? 軽井沢へんに二百坪ぐらいお持ちになったら。いえね、軽井沢といっても群馬県のほうですけれど、まだいい土地がございましてよ」
「まさか」
とはいったものの、笑い放してしまえぬ引っかかりがあった。
「群馬県て、あの、北軽井沢のほう?」
「ええ、群馬県|嬬恋《つまごい》村。いい名前でしょう、先生」
それから急に雄弁になって、地元の人が口を揃えていうけれども、軽井沢はどこでも秋がいちばん美しいので、ことにいまからの紅葉と青空の|邃《ふか》さ、|黄金《きん》の炎をあげるような落葉松がついに光の針をふり|零《こぼ》すまでを、何の受売りか滔々と説いてきかせた。
「それがね、先生」
相弟子のいない気安さで、いたずらっぽい眼つきになると、
「地元の不動産屋の青年にいまうるさく勧められてますの。それが三十過ぎって齢恰好ですけど、|鄙《ひな》には稀れな逸品てところ。ヌレエフってバレエダンサー、ごぞんじでしょ。そっくりな彫りの深い顔で、眼なんかキラキラしちゃって、どういう突然変異かしら。その子がね、もし土地を買ってくれるなら特別に大黒シメジの群生地と、それに松茸の採れるところも内緒で教えてくれるって。シメジはともかく、私、松茸ときたら眼がなくて……」
「呆れた」
短く口の中で呟いたが、自分でさえ行きずりのセールスマンにあれほど心を傾けたものを、一回りも齢の若いこの夫人が、ヌレエフ紛いの美男子にやきもきする図は、むしろほほえましいぐらいのことかも知れない。
「ねえ先生、こんどの土曜日に御一緒しませんこと? 主人は忙しくて別荘どころじゃないと申しますけど、このごろはもう呆れて勝手にしろですって。私、どうしてもその不動産屋、先生にお眼にかけたくって」
これでは何のための誘いか判らないが、江梨はひそかにその北軽井沢とやらに土地を持つのも悪くはないと考え始めていた。地価は知らないが頭金ぐらいの用意は充分にある。志乃への当てつけというつもりもあったし、本多夫人が熱っぽく語って聞かせる男についても若干の興味が湧いた。同じ不動産のセールスといっても、捉える間もなく手の内を滑りぬけたような六車多計志と違って、いくぶん骨太な、土の匂いのするような頑丈さだけは持っているに違いない。
――ヌレエフねえ。
何かのグラビアで見たぐらいのことだが、亡命したこの舞踏家がヨーロッパではニジンスキーの再来と謳われ、日本にも以前に一度来たというぐらいの知識はあった。
「そうね、見るだけでいいんだったら、お伴してもいいわ」
せいぜい気のないようすで答えながら江梨は、久しぶりの旅行なんだからたまには若造りにしなくちゃと考え、衣裳箪笥の中の洋服のあれこれを思い浮かべていた。
………………………………………………
約束した日の午後、数か月前に志乃が同じところに降り立ったとつゆ[#「つゆ」に傍点]知らぬ江梨は、万座鹿沢口という終点の駅で本多夫人から、問題の不動産屋に紹介された。三十歳を僅かに過ぎた思慮深い顔立ちで、骨太の頑丈なという予想はみごとに外れ、ヌレエフは大げさにしても磨きぬかれた容姿は、かりに制服を着せるとしたら海軍の青年将校あたりがふさわしい。ただしすでにそれは山下洋司とは何の関わりもない、大人びた、別種の肖像であった。
こちらが全国にお弟子を持っていらっしゃる、日本一偉い先生という夫人の紹介をうるさく聞きながら、しかし江梨は、何とか高原観光KK|水谷《みずたに》|良治《りょうじ》という名刺にちょっと眼をくれたなり、何の表情も見せなかった。この三月、自分がひそかにアクアマリンの一顆を買ったことを、六車多計志はついに知らぬまま過ぎたわけだが、いま十月、この青年のためにオパールを買うことは決してないだろうという思いがどこかに湧き、そう考えること自体の滑稽さも惨めさもすでに江梨からは遠かった。車に向いながら夫人がすばやく、どう印象はと眼顔で問いかけたのにも軽く肯き返しただけで、水のようといっても心は冷えているので平静というのでもない、何かをくぐりぬけた別天地に来てしまったことだけが意識の底にあった。
それは|中之条《なかのじょう》から長野原と多くの隧道を通りぬけてこの高原に着いたせいだったかも知れない。紅葉はあと十日ほどして急速に山と渓を埋め尽すということで見られず、花もたぶん野紺菊と|御山《おやま》|龍胆《りんどう》のほか何もないでしょうという寂しい季節だったが、とにかくそこは底抜けに明るかった。一点の雲も留めない快晴で、蒼穹の天蓋だけが無限に深い。落葉松の黄葉を透かすときだけその深さは実感となった。初めて北側から見る浅間は|突兀《とっこつ》と尖り、一条の白い噴煙が光る蛇のようにたなびく。
「ねえ、ちょっと、あれ大丈夫なのかしら」
車の中で、江梨は不安な口調で囁いた。
「大丈夫って?」
「噴火よ。あれが大爆発したら、ここいらひとたまりもないんじゃない」
名刺を取り出して窓外に向け、事務所の住所に嬬恋村|鎌原《かんばら》とあるのを読み取ると慌ててつけたした。
「そうだわ、ホラ、天明の大噴火でいちばん被害が大きかったのが確かここいらよ。何でも神社の石段が百段から埋まったって」
「いやだ先生、こんどは地震じゃなくて噴火の心配? そんなこといったら日本国中どこにも住めないじゃございませんの」
夫人はこともなく笑い放したが、水谷はまっすぐ背を向けたまま、おちついた声で遮った。
「大丈夫でございます、先生。火山の爆発は前触れもなくいきなりということはありませんので、天明の噴火にしても四月から鳴動し始めたんです。それが七月に入ってひどくなって、でも大爆発までは一週間かかっております。いまは測候も予知も昔とは比較になりませんし、第一このところずっと安定していますので御心配には及びません。埋もれた神社の石段はこの下にございますが、御覧になりますか」
「いいえ、それはいいわ」
小さく答えながら江梨はまた青い影になってそそり立つ浅間山を窓から窺った。
これは著名な別荘地のある側からいえば、いわば裏浅間であろう。その頂上を長野県と群馬県の境界線が走っていることは今度の旅で初めて知ったのだが、同様に自分もいつか何物かの裏側へ来てしまったのかも知れない。あるいは二度と愛する者の面影も|顕《た》つことはなく、深い瞳の肯きも、声にならぬ唇の囁きも見ることの|適《かな》わぬ世界。ただしそれは徒らな老いに溺れるのでも、愛に背かれるということでもない、ひたすらな寂≠フ境地。ちょうどいま水谷という青年が背中だけを向け続けているように。
本多夫人は前に何度か来たという、その売地を見せられたときも江梨は、そこここに蔓を伸ばしている唐花草という名の、白緑いろのホップに似た花を眺めてばかりいた。事務所に戻ると早速契約の話になったが、これもパンフレットをもらうだけに留めた。ローンにすれば百坪の土地に小さい山小屋を建てるのはそれほど重荷でもなく、さまざまな設計図を見ているだけで心は弾むものの、この澄明な高原の秋が寂の境地への第一歩と知ったいま、三割以上の頭金をいつまで、二分の一に達したとき所有権を移転、但し完済まで抵当権を設定するというたぐいの交渉はひどく煩わしく、手をつける気にはならなかった。
その夜、二人は|新鹿沢《しんかざわ》の温泉に泊った。待望の三百坪を手に入れた夫人は、あすの朝は水谷の案内でシメジ採りという嬉しさもあってひどくはしゃいでいたが、江梨にはまだ、きょう初めて見えてきたもう一つの世界のイメージがまつわりつき、容貌は衰えぬままとしても中年と初老との間に横たわるものをしみじみ眺める気持になっていた。
「あなた、あの人がそんなに気に入っているんなら」
少しばかりの酒に紅潮した相手の頬を、美しいというのでもない|疎《うと》ましいとも違う眼で眺めながら、江梨は優しくいいかけた。
「きょうの記念に小さなネクタイピンでも買ってあげたら? そう、むろん石は十月のオパールがいいわ。それもあの乳白色のメキシコものは駄目。オーストラリアの思いきって青味の強いブラックオパールで、少しどぎついぐらいのほうが似合うかも知れなくてよ」
「まあ、先生」
夫人は手を|拍《う》つようにして笑顔を寄せた。
「何てすてきな思いつきなんでしょう。ブラックオパールね。あの青や緑や赤が寄り合って、カレイドスコープのようにめまぐるしく色変りして。そうですわ、あの人にはきっとそんな暗く輝くものだけが似合う筈ですわ、先生」
江梨はただ冷たく笑った。この先、二度と宝石に手を触れることのない自分を思うと、やれやれと呟くような気になり、バッグから水谷の名刺と老眼鏡を取り出し、改めて仔細らしく眺めた。
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盗まれた夜
紅葉もあらかたが散り、|石蕗《つわぶき》の黄もようやくすがれ始めた庭には、水仙の芽立ちばかりがみずみずしく青い。揺り椅子に身を凭せながら間もない師走を思うと由良は、一年という歳月を晩秋にも似た自分のいまに引き較べずにいられなかった。念仏を唱えるように寂滅為楽≠ニ呟いてみると、またいつもの影が傍らを掠めるように思える。四十歳を過ぎるころから由良は、人生の折目折目にこの何者とも知れぬ影のような人物が佇み、行き過ぎようとする自分に紙片めいたものを渡す気がし始めていた。もともとその人物も淡く朧ろで実体はなく、渡されるのも紙片かどうか疑わしい。読み取れるほどの文字が記してあるわけではないそれが、もし何かの切符のたぐいだというなら、それはたぶん老いへの入場券か通行許可証にすぎないだろう。それでいて五十歳を過ぎ、すでに六十代を迎えたいま、影の佇立者はいよいよ実在のいろが濃くなって、その数も次第に殖えてくるように思えた。これが死後というなら――すでに自分が死んだ後というなら、|奪衣婆《だつえば》もカロンの渡し守もいて不思議はない。それを、まだ生きているうちから黙って側に立ち、確実に何かを手渡すというのが無気味である。しかもそれはとっさには判らず、しばらく行き過ぎてから、ああまたと気づくのが|習慣《ならわし》であった。由良は、現実の街角や駅前でビラなどを渡されようとすると、これまでになく強く手をふって拒むようになった。
それもこれも老いの岬に立って、終末の修羅がどうにか見渡せる地点に来たせいであろう。大正五年に生まれたといっても、はっきり物心がついて育ったのは、昭和という何者かの牙が剥き出しの時代だった。大体が一九一二年から二六年までという大正生まれは、初めから数が少ないうえ、戦争にはほどよく間に合って消耗品となり、心細い小集団になっている。頭を抑えられて育ったせいで奔放さにも乏しく、明治女といえば心意気とつけられるが、大正女といってみても何のイメージも浮かばぬうちただの老媼となって、あとどれほどの楽しみが残されているとも思えない。手渡されるものが何なのかは判然としないが、ただそれを繰り返すうち自分の中に重苦しく貯ってくるものは由良も覚えがあった。それは奇妙なまでに情景化された記憶で、場末の小屋で見る活動写真がひどく擦り切れて雨が降っていたように、過去も同じく白黒はおぼろでありながら映像を伴わずにはいない。たとえば|飛鳥《あすか》|山《やま》や|村山《むらやま》の貯水池へ遠足に行ったとき見た光景はただその再現ではなく、それを見ている自分を小さくつけ加えて瞼の裏に甦るのが不思議だった。
引越し好きだった父のせいで、子供のころは|田端《たばた》から|目白《めじろ》、それから渋谷の奥と、当時の郊外ばかりを選んで借家住まいが続き、雨の日は高下駄なしでは歩けないぬかるみの道がいまでも眼に浮かぶけれども、たとえば|谷崎《たにざき》|潤一郎《じゅんいちろう》が大正七年に書いた『金と銀』という小説を読んだ時など、あ、と声をあげたいほど、子供のころの情景がありありと迫った。それは、
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動坂の終点まで行く筈であつた青野は根津の停留場へ来ると、なぜか慌てて車掌台の方から電車を飛び降りてしまつた。
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という書き出しで、これは夏外套を借りて質に入れてしまった友人の姿を見かけたせいだが、それにも懲りず青野は、田端に住む画家仲間を訪ねて牛鍋を御馳走になってやろう、あわよくば金を借りてやろうと思いながら足を早め動坂を右へ曲って、閑静な郊外の町へ%って行く。
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其の辺には、一体にかなめの生垣を|繞《めぐ》らした、気楽さうな、小綺麗な住宅が並んで居た。茶の湯の師匠でも住まひさうな、庵室めいた風雅な|普請《ふしん》だの、市内の豪商の別邸ででもありさうな、広々とした庭を囲んだ、奥床しい板塀の構へなどが、ところ/″\に入り交つて、油のやうに光つて居る緑樹の新芽と其の鮮かさを争ふやうに、新築の家の木の香を漂はせて居た。
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この訪ねる先の友人というのは、おそらく坂の上に住んでいて、由良も何度か見かけたことのある|芥川《あくたがわ》|龍之介《りゅうのすけ》をモデルにしたものだったのであろう。そうして大正も半ばごろの田端は、いかにも文人村らしいおちつきを持っていたに違いない。晴れてさえいれば由良の記憶もそのとおりで、春秋の彼岸には無花果の葉越しに聞える与楽寺の鐘の音が睡気を誘うほどだったし、|潺湲《せんかん》と音を立てる谷田川の流れも眼の底に残っている。卵アリ升という貼り紙。そして縮緬の帯を胸高に締め、メリンスの長袂をもてあましていた自分の姿までが、入口のドアもまだなかった朱色の市電と一緒に浮かんでくる。
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――つまりはこの記憶の重たさが人間に齢を取らせるんだろうね。
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由良はひとり肯くように心に思った。
大震災のときはこれという被害も受けなかったのだが、火の見櫓から迫る|擂半《すりばん》の音はいまも耳に在るほどで、下町が近くて危いというだけの理由で父は目白へ越した。おびただしい雑木林に囲まれた、それこそ郊外の一軒家という風情だった。
小学校だけは転々としないで済んだが、囲炉裏を切った小使室も、そこにかかっていた紫の大薬罐も、それから小使が触れて歩く真鍮の鐘も、すべて戦争前までの色であり音であった。原っぱもなければ安心して遊べる路地もないいま、ジャンケンの仕方だって変るのは当然で、パアをパ・イ・ナ・ツ・プ・ルなどといって飛び出したら、まず間違いなく小型車ぐらいには衝突するだろう。スーパーの階段を登り降りしながら同じ遊びをしているのが痛ましい。もっとも、グウをグリコ、チョキをチョコレートなどといい始めたのは、由良などよりはるか齢下の子供たちの発明だったが。
遠足のお弁当は竹の皮包みのお握りと決まっていたが、外側の茶いろの|毳《けば》、内側の白く滑らかな繊維に滲む梅干の赤から次第に贅沢になって、厚手な卵焼きやサンドイッチまで持ってゆけるようになったのはいつごろからであろう。小さな籐のバスケットは魔法の箱で、時に思わぬヌガーや氷砂糖などが入っていることもあったが、金貨の形をしたチョコレートなどはいいおうち≠フ友達から頒けてもらうしかなかった。ジャミパン、三色パンと数えてくると、|餡《あん》パンに芥子胡麻をつけるという偉大な発明が誰のものでいつからのことか、ぜひにも知りたい気持がする。
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――いつだって貧しかったし、いつでもお行儀のことばかりいわれていた。
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そう思い返すと、せめて家が貧乏学者でなければ大正生まれといってもこうまで負目を|背負《しょ》うことはなかったのにと由良は思った。目白の次は坂の入り組んだ渋谷の奥に越したのだが、周りは高い板塀や|建仁寺《けんにんじ》|垣《がき》をめぐらしたお邸ふうの家が多かった。しかし気位の高い母は、どれもこれも成金商人ばかりだと近所づきあいを避け、由良にも往来を禁じた。ピアノを羨しがると軟弱だと叱り、士族の娘はお琴を覚えれば沢山ですと眼を吊り上げた。学用品にしても|倹約《しまつ》に倹約を重ね、薄いノートの粗い手触りはいまも指先に残っているほどである。正月の会合で志乃が二十四色のクレヨンのことをいっていたが、むろんそんなものは手にした覚えもなく、さてようやく学齢期の子供たちに買ってやろうとすると、戦争はあっさり一本の色鉛筆さえ奪った。谷崎の小説でいう金と銀は、画家それぞれの天賦の才についての言葉だが、こう辿ってくると自分の一生にもっとも欠けていたのは、この金と銀≠フもたらす煌きだという気がする。そこまで考えた由良は、また独りで顔をあからめた。ことしの外国旅行が与えてくれたのは、楽しさばかりではなく、ほとんどその煌きにさえ似た深い恥もあったことを思い出したからである。
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幻の兄を求めて、あてもなくヨーロッパ三界まで出かけて行ったのは、いまからすれば大変な冒険だったに違いないが、元はといえば宇田川女史に|唆《そその》かされたのでも、それからあの人≠フ差し金でもなかった。よくよく考え直してみると三男の広志がすっかりお膳立てをし、兄弟で打合せをして、容易なことでは腰をあげそうにない母親への親孝行のつもりで引張り出したというのが真相ではないのか? ともに帰国してからも何もいわず、問いつめたわけでもないが、塚田多鶴子とも口裏を合せれば、架空のあの人≠創り上げるぐらいはたやすい。何しろ兄の行方不明は星川家の三姉妹にとっては一つ話といっていいくらい、小さいときから広志にも大戦秘話としてさんざん聞かせてきたのだから。ただ、かりにそうだとしても、あのピノキオ青年同様に欺され放しになっていたほうが倖せなのか、そこのところが由良にはまだちょっと納得がいきかねた。兄までだしにしなくてもと思う傍ら、そうでもしなければとても思いきって出かけはしなかったし、ピノキオこと江崎卓也とともにいた時間は、これまでになく光に充ちていたこともまた確かであった。
その卓也の消息も、あれぎり尋ねたことはない。しかし、あの彼が宇田川夫人の御託宣になぞらえたペルセウスだとするなら、こちらはやはりグライアイの一人で、一つの眼・一つの歯しか持たぬおぞましい存在になるほかはなく、記憶はたちまち楽しさと惨めさとの二重映しになるのが常だった。
[#ここから1字下げ]
――楽しさというならまずあれだね。何といっても食事のほかにないだろうね。
[#ここで字下げ終わり]
由良はせめてもの思い出に縋るように呟く。オランダではあいにく四つの梁≠熈五匹の蝿≠焉A料理はさほどに思えなかったが、それはもっぱら戦争中に喰べ倦きたじゃが芋が多かったせいで、ベルギーとフランスでは名もないような河岸のレストランでも、料理そのものには存分に酔うことができた。ふんわり軽い仔牛の|喉《のど》肉のフリカセ。香料の利いた鴨のパテとオレンジ。鶏レバーをこってり浸すオマールのソース。苺とすぐりをふんだんに使ったデセール。あるときは卓也が慣れた口調で頼み、あるときはソムリエ任せにしたワインとともに、それらは由良にとって眩ゆいほどの饗宴に違いなかったが、その場合の記憶はすぐ彼を酒壜や卓上の花の向うに小さく押しこめてしまう。尖った鼻も光る巻毛も鮮明な像を結ばない。
「フランス料理にフルコースって言葉はないんですよ。だって彼らは昼も夜も、いつだってフルコースしか喰べないんですから」
そんなことをいって笑っていた表情もふいに遠く思えてくるとき、由良はようやくその理由を知った。金と銀とに煌く恥は、旅にまつわるさまざまな宝石からもなおいっそう閃光のように襲いかかり、その記憶のいっさいが却って疎ましいせいであった。アントワープやアムストーンのダイヤモンドセンター、マダム・エメロードなどと得意がっていた塚田多鶴子、そして苔いろのセーヌにひととき浮かんで見えた真珠さえ、いまは何という離れた存在であろう。宇田川女史の予言に惑わされたのではない。それこそもっとも自分自身に欠けているものだと知るとき、すでにいっさいは明白であった。
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――それはそう。もともと大正女ぐらい宝石の似合ない種族もないだろうし、何しろわたしたちはまだあの病気に罹ったなりでいるんだからね。
[#ここで字下げ終わり]
由良はそう自嘲した。
こちらが日本主義を鼓吹する学者、相手は裕福な家柄ながら陸大出の武骨な軍人、そして結婚が二・二六事件を|閲《けみ》した春という時勢で、西洋風な婚約指輪などもってのほかだったし、ダイヤというだけでユダヤ人の陰謀と罵るような家風にも疑いを挟んだことはない。ひたすら身を縮めるようにしてハイこのとおり到らぬわたし|奴《め》も軍国日本に一身を捧げ、悠久の大義に生きる覚悟でおります、皆様と同じ病気にやっと罹ることができましたと本気で考えていたというのに、年長者たちはこともなく、いやなにアレは罹ったふりをしてみせただけさ、その証拠にホレこのとおりと皮膚を洗い落すと、いかにも何の痕跡も残さず白い肌が現われ、あっと驚いてからもう三十年あまりが経つ。|皸《ひび》、|皹《あかぎれ》のたぐいなら時間が経てば癒りもしようが、この病気ばかりは皮膚に喰いこんで離れぬ業病として、いまはおそらく大正生まれだけが持ち続けている特殊な症例だとすれば、その醜い肌の持主に、いったいどんな宝石が似合うというのだろう。
正月に妹たちを呼び集めて宇田川女史の御託宣を聞かせたのは、あまりにも突拍子もない内容で、いまさら美青年も宝石も無縁だと決めこんだ上での笑い話のつもりだったが、心のどこかには微かな期待もあった。内緒で誕生石を一つずつ買っていたのもそのためだが、いまは俄かの円高不況に加えて気持もそれどころではなくなっている。まだ何も聞いていないが妹たちも事情は同じであろう。
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――だけど宇田川さんは、何だってあんなことをいい出したんだろうねえ。
[#ここで字下げ終わり]
思いはまたそこへ帰った。自分よりは遥かに若いが、同じ大正生まれの女史は昔風の餅肌に金|縁《ぶち》の眼鏡をかけた、男にはいいだろうが同性にとってはあまり人好きのする顔立ちではない。ただ占いだけは滅法当るという評判で信者も多く、これまでは由良も何かと寄進についてきたのだが、今年のように中途半端な結果も珍しい。何がいけなかったのか、報告がてら一度行って確かめてこなくちゃと思う傍ら、子供もなければ結婚したようすもない女史自身の私生活を何とか窺い知りたい気もした。いずれその背後には時間の深淵に似たものが截り立ってい、自分がこれまでそうしてきたように思い棄てたものいっさいが投げ入れられ、尾を曳く悲鳴も痛恨もいまは次第に鎮まりかけているような暗い海につながっていることだろう。
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――宝石ばかりじゃない、事の|次手《ついで》に身にそぐわないものいっさいをもっとどんどん投げ棄てて、いっそのこと自分自身まで投じてしまったら、どんなにさばさばするこったろう。
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揺り椅子の上で由良の思いは次第に沈み、庭の面もようやく暗さを増した。
[#ここから1字下げ]
――まだ何かある筈だ。わたしの身につかぬ金と銀に似た何かが。そういえば十一月の石って何だったっけ。
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眼をつぶるたまゆらにその石は瞼の裏に|顕《た》って黄の雫をしたたらせた。
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――おや、そう。トパーズだったのね。黄水晶でなけりゃお前さんも悪くはないけれど、どっちにしろわたしにはもう関係のないことさ。何だって?
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黄の雫はなおも誘うように揺れ、それは次第にある形を取った。同時に由良は宝石よりなお自分に似つかわしくないものがあることを思い出していた。それはいまでも鏡台の|抽斗《ひきだし》かどこかに蔵われたままになっている筈の、小さな香水壜であった。
――おやおや、大変なものを忘れていたよ。
由良は笑いながら立って化粧室へ行き、容易にその金いろの液を湛えた容器をみつけて揺り椅子に戻った。ヴォル・ド・ニュイ。夜間飛行という名のそれは古くから人気のある香水で、この間の旅行にもひそかに携えた一壜である。しかし栓を緩めて、ほんの僅か左手の甲にすりこむが早いか、金の香はたちまち立って胸苦しいまでになった。遠い思い出のためではない、いまのいま忘れよう思い棄てようと定めた宝石と美青年との二つながらが、かつてない妖しい誘いとなって香りの中に現われたからである。
それは交々にさゆらぎ、微笑し、遠退くかと見えては大写しとなり、由良は堪えかねて左手を押しやるように離したが、またすぐ引き寄せて鼻を埋めた。香りは星屑のようにまたたき、その夜のその沼の畔りでなら、いつまでも裸身の少女でいられるような気さえする。
何か他のことを考えなければ、というけんめいの思いが招き寄せたのは、何で読んだのか、誰の言葉だかは忘れたが、ヴォル・ド・ニュイのヴォルには飛行の他に盗みという意味もあるので、必ずしも夜間飛行とは限らないという奇妙な解釈であった。
盗まれた夜。
だがいま煌く金と銀との星空の下、無心に遊ぶ少女こそが本当の自分――どんな美青年とも愛を語らい、どんな宝石も髪に飾って映るもう一人の自分だというなら、ここにいる老女こそすべての輝かしい夜を奪われた残骸ではないのか?
由良は夢想から醒めた。立って窓を明けると、栓をしないままの香水壜をいきなり庭に抛った。薄暗の中に押し黙って咲く石蕗の|葉叢《はむら》にそれは沈んだ。
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絶滅鳥の宴
志乃はいつもながらの|擽《くすぐ》ったい気持で、食卓の向うの夫を見つめていた。九月ごろからそれが当り前のように、また当り前には違いないのだが、夕方きちんと家に帰って食事を|倶《とも》にするようになったことが、やはりまだ幾分か奇妙な気がしてならない。何しろここ十年近く、夫は三枝という女のところに入り浸りで、家庭などとうに崩壊した気でいた。離婚だけは絶対にしてやらないと決めたのも、べつに意地や張りの問題ではない、銀婚式を過ぎて何をいまさらというほどの気持からである。それが、この七月の本物のルビー℃膜盾ゥら、どうやら風向きが変ってきたらしい。これもいまさらという気はするものの、故障していた暖房装置がまた不意に動き出して、柔らかな温風に包まれているような感じは、それなりに棄てがたいものであった。とはいっても、秘かに青い贈り物≠差し向けて寄越すほどの塩沢のことだから、おなかでは何を考えているのか油断はならない。いつかはしっぺ返しをしてやらなくちゃというように、志乃はうつむいて箸を動かしている夫の、すっかり白くなった|小鬢《こびん》を改めて眺めた。
きょうの献立は、酒の肴は別に、蟹と白菜のクリーム煮と|鰤《ぶり》の照り焼き、それに|菠薐《ほうれん》草の胡麻和え、香の物は十二月らしく浅漬けというありきたりの取り合せだが、それでもそこには五十代の半ばを過ぎて、歯もあまり丈夫ではない夫への心遣いがあった。齢なりにそれが嬉しいのであろう、湯気に顔を埋めながらしきりに味のほどよさをいうのに、志乃は含み笑いをしながら話しかけた。
「覚えていらっしゃるかしら、結婚する前に、うちのアパートで、配給のメリケン粉を生で喰べたことがあったでしょう」
「メリケン粉を、生で?」
塩沢は|鸚鵡《おうむ》返しにいったが、すぐ、
「うん、うん、うん」
と何度も肯いた。
「おれの下宿が|吉祥寺《きちじょうじ》だもんで郡部扱いされて、そっちは駅ひとつ離れているだけなのに東京いうことで、放出物資の罐詰やら何やら配給があって……」
いかにもそれは不公平な扱いだったが、郡部は自給自足が出来る建前なので、戦後すぐのころは配給でも三十五区内とはいちじるしい差があった。星川家も離散して、志乃は|西荻窪《にしおぎくぼ》にアパート住いしながら勤めに出ていたのだが、知り合ったばかりの塩沢は復員したての学生で、京都からいきなり区内に転入できぬまま吉祥寺にいた。何かというと遊びに来たのは、人恋しさもむろんだが、外食券食堂ではまずお眼にかかれないアメリカの放出物資も魅力だったに相違ない。
そんなある日、これまで見たこともない純白に精製されたメリケン粉が四日分ほど配給になったことがある。それは|生絹《すずし》か|繻子《しゅす》にも似た手触りで、煤黒くぼそぼそしたうどん粉とは較べ物にならぬ高級品であった。
「ね、この真白いお粉ねえ、ただ水で溶いてお塩入れて、生でたべるとおいしいわよ」
志乃がそういうと塩沢は眼を丸くし、兵隊帰りだけに妙に中途半端な京都弁でいった。
「そやけどおなかに悪いことないの、生で喰うたら」
「そんなこと。あたくし、もう何遍もたべたわ。待ってらっしゃい」
狭い台所でごそごそやっていたが、
「ホラ」
丼いっぱいに白いのを練り上げて持ってくると、匙ですくってみせた。塩沢はきび[#「きび」に傍点]悪そうに少し舐めてみたが、意外に甘味があって、つきたての餅のような感じがする。
「ふうん、こらおいしいな」
「でしょう」
志乃は自分でも一と匙しゃぶって、また匙を渡した。そんなにして二人は交りばんこに丼いっぱいのメリケン粉を綺麗に舐めてしまった。
「ほんまにお腹こわさへんやろか」
「知らないわよ、そんな、たべちまってから」
「ふつうのうどん粉はあかんの」
「ううん、おんなじよ。でもそりゃお味が違うわね。これだとほんとにお餅みたい」
「これな、お酒燃やして焼いたら、あんじょういくいうて聞いたことある」
そのころまで酒を嗜まなかった塩沢は平気でそんなことをいったが、志乃はすぐ遮った。
「勿体ないじゃないの、そんな。でも、もうじきお酒の配給があるわ。売れるといいんだけど」
「売れるやろ、酒なら」
「ううん、駄目なの。いまはすぐ腐っちゃうでしょう。酒屋でうんとこさ水入れるんですもの。前は合成酒でも一合二十円からで買ったけれど」
戦争前は思いもよらぬ世話じみたことをいうと、志乃は溜息をついた。
「油があるとね、何でもおいしく作れるんだけど」
「油いうたら、いま時分なんぼや」
「そこで売ってるの、二十三円、一合」
「二十三円やて」
財布に十円札の納っていることも珍しい二人には、天ぷらや焼餅は当分望みもない。
「生がええわ、手がかからんで。なあ、もうちょっと作ってくれへん?」
………………………………………………
「よくまあ詳しく覚えてるなあ、そんな昔のこと」
「そりゃあ覚えてますわ」
志乃は澄まして答えた。夫も本当は忘れている筈はない。その夜、二人はごく自然に結ばれたからである。停電ばかり多かった時代だが、蝋燭の芯が音を立てて燃える感じに似た貧しい青春は、それでもめったなことで吹き消されはしないという昂ぶりも伴なっていた。事実、ほどなく大学を出て結婚するとともにたった一人の運送業を始めてからの塩沢は、京の優男という印象からはおよそかけ離れた逞しさで志乃をおどろかせた。
食卓を立って丁寧にお茶を淹れると、名前が通い合うのでとりわけ好きな鼠志野の茶碗を手に、志乃はまたゆったりと坐り直した。
「男はどうか知りませんけど、大正の女ってもう記憶だけが生き甲斐って気がするの。いいえ、過去を懐かしむなんてことじゃなく、記憶の中で二重に生きるってこと。……そうすれば未来も全部記憶の中から引き出してこれるんですもの」
何をいいたいのか測りかねた塩沢は、それでもまだ上機嫌にいった。
「えらくまた難しいことをいい出したな」
「べつに難しいことでもないわ。男の人は仕事があるから、いやでも現在から未来のことしか考えられないでしょうけれど、あたくしのような立場の女ができることといったら、過去を忠実に再現してその中にきちんとした法則があるのを見つけることしかないって、いくらあなたでもお判りになるでしょう。そう、それができたら、あたくし、りっぱな占い師になれるわ。いいえ、このごろ本当に女占い師になろうかと思っているくらい……」
次第に渋い顔になって、手持ち無沙汰な夫へ、急須から茶を注いで押してやると、志乃は続けていった。
「宇田川さんて名前、覚えてらっしゃるでしょう。外れたためしがないって占いをなさる方。あなたと別れて、あの方のところに弟子入りしようかって、今年はずいぶん本気で考えたくらい。だって……」
それから急に凄艶な眼になって相手を見澄ますと、自分でもいうつもりのなかったことを口にした。
「そうそう、この夏はいろいろと御配慮いただいたようで、どうもありがとう。そういえば昔あなたに田所さんの写真を見せて戦争中の|惚気《のろけ》をいったことがあったの、忘れてたわ。でもね、あなたの青い贈り物≠謔關謔ノ、宇田川さんはこのお正月にもうちゃんと予言なさっていらしたの。今年はペルセウスのような美青年が現われて、あたくしを慰めてくれるだろうって。どう? 凄い読みでしょう。姉たちも一緒に聞いて知ってますけど、ただそのためにはぜひとも魔除けの宝石が必要だといわれてたから、次手にあのルビーを探したの。次手でも結構いい石だったでしょう」
黙りこくった夫が眼ばかり光らせているのは、おそらく憤怒のせいだろうが、志乃はもう何もかもいってしまう気でいた。
「大丈夫よ、あたくしから別れ話を持ち出したって、大正生まれの女は慰藉料なんて字、書けもしないくらいですから。むろん一応はきちんとしたことはしていただくつもりですけれどもね。それより、あたくしまだその魔除けの石って買ってないの。何かのお|咒《まじな》いに、本当に青い贈り物を下さらないかしら。サファイヤはちょっと気の毒だし、十二月ですからトルコ石っていいたいところだけど、それじゃ安っぽすぎるし、そう、あの群青いろのラピスラズリがいいわ。前にもいいましたけど、このごろ青って色が|愛《かな》しくてならないんですもの」
夫はふいに立上っていた。同時に右手がすばやく伸びて志乃の頬は小気味のいい音を立てて鳴ったが、実際は軽やかな|疾風《はやて》が吹き過ぎたほどの感触だった。
「おれはお前と別れる気はない」
そういって一瞬だけ立ちはだかり、すぐ背を向けて去ったその須臾の間に、志乃ははっきりと夫の双の瞳を見た。それはかつてのギターを弾いていたGIや、むろん鷹見三郎などとは比較にならぬ、若い日の塩沢胤保そのままの、きらきらしい瞳であった。
………………………………………………
「ですから、ひっぱたかれたといっても、本当は痛くもなんともなかったの」
「まあ、とんだ『リリオム』じゃないの」
江梨はそういって笑った。
暮れ近い宇田川女史の家の奥座敷である。正月の女史の御託宣のいわれを訊くため、由良・江梨・志乃の三姉妹が顔を合せての酒宴で、一人ずつ今年の出来事とその結末を語ったところだが、歯切れの悪い姉二人と違って、志乃の話はいちばんあけすけで、それなり迫力があった。
「でもね、おかげで三枝の上の男の子だけはこっちの籍に移されそう。四十万や五十万のラピスラズリを買ってもらっても、とんだおまけつきっていうところだわ」
「それでも正月に江梨ちゃんのいったとおりだったんだね」
由良は、薄い切子ガラスの杯に注がれた日本酒をゆっくり含みながら、おだやかにいった。
「クレヨンでも宝石でも同じことで、ねぼけた群青いろがわたしたちにはいちばんお似合いなのさ。金と銀なんて身のほど知らずのものに手を出すと、ろくなことはありゃしない。……でも、先生」
床の間を背にした、教祖ともいうべき宇田川女史の方に向き直ると、ことさら皮肉な調子もなくいいかけた。
「これで厄落しというにしては随分と中途半端な気もしますけれど、よろしいんでしょうか。まあ、幸い、眼と歯もどうやら|保《も》ったようだし、ペルセウスほどの美青年には逢わなかった代り、それほど手ひどい火傷もせずに済みましたしね。いま聞くと銘々がどうということもない宝石を買いこんでいたらしくて、そんなものでも魔除けの役に立ったのかしらんて、不安は不安なまんまだけど……」
「それはもう御安心下さいまし」
宇田川女史――宇田川圭子は、いつもの金属的な声で答えた。
「正月にわたくしが申し上げましたのは、このお三方がまだまだ若くお美しくいらっしゃるのに、控え目な|性質《たち》で御損ばかりなさるのが歯がゆかったからでございますもの。せめて宝石で身をお飾り下さいまし、男だって諦めずに、それも思いきって若い子を、昔で申しますステッキボーイのようにお連れ下さいましという意味でしたの。今年は必ずそうなる、でなければ歯も眼も衰えるだけで、グライアイのようなお婆さんになるだけですわと、まあその暗示を強く申し上げておけば、あとは心ごころでございましょう。ダイヤのつもりがダイヤモニヤ、サファイヤは勿体ないからラピスラズリというのは、相変らず皆さん欲がおありになさすざるから……。金と銀、大いに結構じゃございませんの。いつまでも大正女の|宿命《さだめ》だなぞとお嘆きにならず、来年もかまわず宝石をお求め遊ばせな。もっとも今年はわたくしも、ああ申した責任上、少しは蔭で工作致しましたけれども」
細身の金縁めがねを光らせるのに、由良がつけつけといった。
「えゝえゝ、そうらしゅうございましたね。広志もやっと白状しました。母さんを何とか外国旅行に出したいけど、どうしたらいいかってこちらに御相談にあがったとか。塚田さんも前は随分熱心な信者でいらしたようだし、何もかもお膳立てしていただいて、本当にありがとうございました。でもねえ、わたしどもの引込み思案は、これはもう身についた殻ですもの、いまさら剥がせも致しませんしね」
「それがいけませんのよ。では、こうお考えになりましたら」
女史も手酌で注いだ杯を口許に運びながら平然と切り返した。
「大正生まれの女たちは、いま世界各地でどんどん滅ぼされようとしている絶滅鳥のようなものだと。一度滅んでしまったら二度とそれは創り出すことも|適《かな》わぬことは知れていますのに、この地球では平気で追いつめて狩さえなさるんだと。ねえ、わたくしたちもこれで|生《しょう》のある生き物でございましょう。むざむざ片隅で息を殺したまま死んでゆくこともなかろうじゃございませんの」
透きとおるような青白い翳りを帯びた餅肌の女というのは、三姉妹にしてみれば大正生まれというより、戦前は黒板塀の蔭にひっそりと息づいていた大正時代の女のイメージで、名前にしても圭子よりは古風にお圭とでも呼ぶほうがふさわしい。それでも絶滅鳥とまでいわれてみると、どこか擽ったい気持はするものの、失われかけている翼を精いっぱい張って、自分なりの新天地をひらかなければという思いもした。
「でも妙な|譬《たと》えねえ。絶滅鳥って何?」
志乃が小声で囁く。
「ほら、昔はよく絵本にあったじゃないの、ドードーとかモアなんて巨きな|趾《あし》をした鳥。アラビアンナイトのロック鳥も仲間だし、そういえばアメリカの旅行鳩なんてのも、何億羽もいたのが百年ほどの間に一羽残らず殺されたって何かに出ていたわ。……あたし、少し酔っぱらっちゃった」
江梨は遠慮のない恰好で躯をそらせたが、女史は|眼端《めはし》で笑顔を送るとお愛想をいった。
「どうぞ、きょうは少しお過し遊ばせ。|牡蠣《かき》のコキールがお口に合えばよろしいけど」
「いいえ、とってもおいしい」
由良が引き取っていった。
「でも江梨は本当に子供のころから弱くて、よくまあ育ったと思うくらい。薬戸棚の固腸丸とか感応散、サントニン、ブロチン、キナエン丸、ゼローデル錠なんて、みんな江梨が独り占めしていたくらいだもの」
「まあ古い名前」
古ぼけた薬戸棚を透視するように江梨は眼を細めた。
「でもそれも当り前ね。あたしがおなかにいるとき、あのスペイン風邪でしょう。世界で六億人が罹って、日本でも四十万人近くが死んだほどですもの。生きて生まれたのが不思議なくらい」
旅行鳩と較べるかのようにそんな数字を口にしたが、由良はいっそうしみじみした顔になった。
「あのときは本当にひどかった。お母様が発熱で顔を真赤になすって、それでもあれは迷信だったのかどうか、とにかく咳をしちゃいけない、咳をしたらもう片方の肺も駄目になっておなかの子が死ぬといわれて、そりやもう必死に我慢なすったんだもの。お父様がまたよくお努めになったんだよ」
それは江梨が無事に生まれてからも、口おかず聞かされた一つ話で、大正七年から八年にかけてのスペイン風邪では、日本の患者総数は二千万人を超えている。いつかしら三人の姉妹には、そこに住んだことのない志乃でさえも、田端の家の暗い奥座敷で咳をこらえて身悶えする母と、夜昼なしにつきそって励ます父との像が灼きついていた。大正という時代そのままのような、その一つ家。
「そんな思いをなさってお育ちになって、それから年頃になってみれば戦争でございましょう。いいえ、もう誰にも遠慮は要りません。お三方だってこれから翼を張って、とにかく生きてごらんにならなければ。いま熱いのを持って参りますから、御一緒に乾杯しませんこと?」
そうして整えられた杯を、四人は空に打ち合せた。
「大正の女たちのために」
「新しい金と銀のために」
「ペルセウスのようなステッキボーイのために」
「絶滅鳥のために」
だが薄い切子ガラスの杯は、打ち合せるまでもなく脆く崩れるかのようだった。
[#地付き]〈真珠母の匣・完〉
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影の狩人 幻戯
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目 次
影の狩人
幻戯
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影の狩人
壹
青年はひたすら夜を待った。夜になれば親しい友人のような顔をして彼≠ェ訪れてくれるからだ。
貳
彼≠ノ初めて逢ったのは、行きつけの近所のスナックで、カウンターに並んだ客と頻りに悪魔の話に興じているのが関心を|唆《そそ》った。いくらか翳のある横顔で、それまで見かけたことはない。齢はやや上というところか、悪魔についてもその階級から役割と詳しかったが、知識を誇るような話し方ではなく、もっぱら悪魔の美しさだけを話題にした。醜い駱駝の姿で現われるベルゼビュートなど御免だというのである。
青年はいつもより長く、余分にウィスキーグラスを手にしていたが、隣の話が血の供犠から失われた大陸に移ったところで立上がった。部屋に帰って、自分だけの夢想に耽りたくなったからだった。立つとき偶然に眼が合って、相手が前からの知合いのように軽く肯いたのにどぎまぎし、慌てて外に飛び出した。
冷え込みが鋭く、寒気と遠い星のほかには何もない暗い道だったが、お誂えに黒猫が一匹、先を歩いているので青年は笑った。借りている離れの庭先をいつも用心深く横切り、時折こちらを窺っている奴に違いない。まだ若く、しなやかな姿態で、手馴づけようとして口笛を吹いたり、小魚を抛ったりしてみても、軽い跳躍で姿を隠し、甘える気配はなかった。
いまも黒猫は、先導するように歩いて行きながら、眼を離したとも思わぬうち、不意に姿を消した。そこは両側とも石の塀の、邸街の裏手だったから、塀を駆け上りでもするほか、隠れるところはない。
――やはり知らんふりをしながら、気を許してはいなかったんだ。
青年はそんなことを考え、黒猫ならば闇に紛れることはいくらでも可能だと思うと、何か自分がなくしものをしたような気になった。
……その夜、青年は、なかなか|温《ぬく》もろうとしないベッドの中で、幻の黒猫を抱いた。猫は滑らかな|天鵞絨《びろうど》質の柔毛に蔽われ、甘えて擦り寄ってきた。のみならず次第に大きさを増し、重さを増した。手触りも猫のように柔らかくなく、しなやかであっても筋肉質の肉体に変った。
ふさふさと長い尻尾が下肢にまつわり、愛撫に似た|軽打《タペット》を繰り返した。これは黒猫などではなく、今夜の話に出たあの美しい悪魔かも知れないと思いながら、青年は眠りに落ちた。
参
彼≠ニ二度めに出逢ったのは次の週の水曜で、話しているのは夭折した天才についてだった。五次元方程式とか楕円関数とかいっているところからすると数学者のことらしい。数学者ではガロアしか知らない。それも業績は皆目判らず、ただ時の官憲の仕組んだ入念な罠に嵌って、決闘という名目で嫐り殺しにされた|経緯《いきさつ》だけを覚えている。実際、ド・ルルシン街の療養所で、さも偶然のように同室者となった美青年アントワン・ファレールほど卑劣な犬はいないだろう。その悪意は、陽気でほとんど鼻唄まじりなだけに、反吐が出るほどおぞましく思われる。
青年がグラスを前にぼんやりしているうち、話は麻薬から自白剤のことに変っていた。どうやら彼は、地上の出来事の中でも、殊更に影に|涵《ひた》された部分が好みらしい。それなら自分も同じだ。話がさらに植物毒に及んだとき、青年はかすかな苛立ちを感じた。
肆
三度め、青年は初めて彼≠フすぐ隣に坐ることが出来た。彼は珍しく一人でいたが、先週の土曜のようにごく自然に肯き、親しみの持てる笑顔を向けた。いつも話をしている客を待っているのかなという遠慮もあり、それに、いざとなるとこちらから何を話題にしていいか判らない。すると彼は囁くようにいい出した。
「このごろは星空が美しいね」
「え? ああ、そうですね」
青年はぎこちなく答えて咳払いをした。
「ぼくは変光星が好きなんだ」
彼は続けた。
「あれはいかにも星が息づいているという感じがするからね」
「でもまだぼくは見たことがありません」
「見なくても判るだろうに」
彼はやや語気を強めていた。
「蝕変光星は二つの星がお互いに|蝕《むしば》み、脈動変光星は一つの星が膨脹と収縮を繰り返す、そういう知識よりも、こうして坐りながら星と一緒に呼吸できることの方がぼくには楽しいのさ。腹式呼吸じゃなくて星式呼吸かな」
そういうと彼は、カウンターの壁の向うに変光星が見えでもするかのように、静かな深呼吸をしてみせた。
「貴方は何というか……」
青年は言葉を探した。
「物事の影の部分がお好きなようですね」
「そうかも知れない」
彼は素直にいった。
「星の光は弱いからいい、強ければ影が落ちるでしょうからといったのは、ワロージャという少年だけど」
それからその星の光と影が|交々《こもごも》に差すような表情をふりむけて言葉を継いだ。
「確かにぼくには逆しまの思考の方が|性《しょう》に合ってるようだな。たとえば壁画で有名な洞窟があるとする。普通ならその入口を撮るにしても外から撮るけれども、外国の本に一枚だけ、中からその入口を撮った写真があって、それが何ともいえず雰囲気を伝えていた、そういった物の見方ね。だって、中からではそこは出口に違いないけれど、古代の壁画の世界に遊んでから夢が醒めたように引返して外に戻ろうとするとき、ほうっと明るんだその出口は、また確かに別の次元の入口になっている筈だよ。カメラマンの意図もそこにあったと思うんだけれど」
青年はようやく彼のいう影の世界が朧ろげに理解出来るような気がした。それを目指すこの人物は、いったい影のコレクターというべきか、それとも影の狩人といったらいいのか、言葉を反芻しながら黙っていると、相手はもういち早く話題を飛躍させていた。
「まあ壁画は壁画で立派なものだけど、ぼくはね、|手宮《てみや》|洞窟《どうくつ》の古代文字のようにあやふやなものじゃない、文字の記録が残されていたらと思うな。しかもそれが暗号だったらすばらしいじゃないか」
「古代人の暗号、ですか」
青年は掠れた声を出した。
「暗号に興味はないの」
「いや、あります。あるけど、よく判んないんです」
「ぼくの知人にね、暗号を迷路で解くことを考えたひとがいるけど、この取合せもおもしろいね」
青年はなおさら答えられず、何杯めかのグラスの氷を揺らすばかりだった。
相手が知識を誇るために話題を変えているのでないことは判っている。しかしこの影の世界の水先案内は、蹤いてゆけばゆくほどその暗い部分へ連れて行きそうに思えた。洞窟の中に続く流れにまで船を乗り入れたからには、|黒白《あやめ》も判たぬ闇の中へ導かれるのも遠くない気がする。そして、もしかするとそれが彼の最初からの狙いではなかったのか?
ばかな、というように頭をふってから、青年は辛うじていった。
「貴方は一週間ほど前、ここで悪魔の話をしていらしたでしょう」
「ああ、あのベルゼビュートのこと?」
相手は平気な顔で答えた。それからようやくぞんざいな口調に慣れたような早口になった。
「君は馬の首星雲の天体写真を見たことがあるかい。ぼくにはあの醜い駱駝のお化けが、あれによく似ているもんで嫌でしょうがないのさ。で?」
「それからの血の供犠の話になった……」
青年の怯えたような呟きをようやく聞き取ると、彼はほとんど呆れ顔になった。
「なんだ、みんな聞いてたのか」
それでも周りを憚ったように小さい声になりながら、頬には奇妙な微笑が刻まれた。
「それで、何の話だか判ったの?」
「いえ、よく聞えなかったけど、世界各国の生贄のことじゃなかったんですか」
「まあ、そうだけど」
何か思案するように上を向いていたが、急ににっこりすると、明らかに前に耳にしたのとは違う話を始めた。
「あれはこういうことだよ。聖書にあるアブラハムとイサクの話は知ってるね。エホバに試されてアブラハムは独り子のイサクを羊の代りに燔祭の捧げ物にしようとする。ところがイサクの方はまだ何も気づいていない……。
アブラハム|乃《すなは》ち燔祭の|柴薪《たきぎ》を取て其子イサクに負せ、手に火と刀を|執《とり》て二人ともに|往《ゆけ》り。イサク父アブラハムに|語《かたり》て父よと|曰《い》ふ、彼答て子よ我|此《これ》にありといひければイサク即ち言ふ。火と柴薪は有り、|然《され》ど燔祭の|羔《こひつじ》は|何処《いづく》にあるや……」
創世記の一節を誦し終ると彼は突然に青年の膝をつついて囁いた。
「ところでちょっと出ないか。続きは道々話すよ」
青年は従った。彼が何をいおうとしているかは判らないが、イサクが愕然と気づいたように、自分自身が燔祭の羔にされかけているような、それでいてそのことが半ば嬉しいような、妙に甘えた気分になっていた。
伍
並んで歩くと、やはり彼の方が背は高かった。彼が名前を告げ、やや曖昧に医学関係らしい勤め先をいい、齢は二十七歳と教えたので青年もそれに|倣《なら》った。
「いつも店で話してらした方は……」
いいかけて青年は口籠った。お友達ですかという言葉が素直に出てこない。もっとも、その客も今夜の自分のように、もっぱら聞き役に廻っていたので、印象は薄かったのだが。
「いいや、知らない人だよ」
と彼は答え、それから行きつけの店だという仄暗いバアへ誘った。
「水曜と土曜にさ、いつもここで会うことにしないか」
いきなりそういわれて、青年はぶっきらぼうに、
「ええ、いいです」
とだけ答えた。
二人は遅くまで飲んだ。気がおけぬ店のせいか彼はいっそう饒舌になり、モアイやアク・アクの話をするかと思えば砂漠の国の暦や一角獣のタペストリーについて語り、憑き物のさまざまな例から転じて熱烈に刺青讃美をするというふうだった。
それらの言葉は色彩豊かな万華鏡を見るように青年の周りに飛び交い、錯綜するばかりだったが、酔い痺れてゆく頭の中で青年は、その一つ一つが見えない糸で繁っている気がしてならなかった。それはそもそもの最初から、ある意図の下に、ある確かな順序で語られてきたのではないだろうか。
悪魔・血の供犠・失われた大陸・夭折・麻薬・自白剤……
だが呂律の回らぬ舌でそれをいうのは憚られ、青年は黙ってただ聞いていた。それにしても二人が店を出たとき、暗い夜道で思いもかけず流星を見たのは、後になってみれば驚くべき偶然といわねばならない。そのときは一瞬の青白い光茫に打たれて立ち尽し、声も出ないままだったのだが。
陸
その夜、青年のベッドに寄り添ったのは黒猫ではなく、初めから美しい悪魔だった。青年は酔に火照った躯をもてあましていたが、悪魔は黒天鵞絨に似た冷ややかな肌でそれを鎮めた。肉体はいっそうしなやかに弾みがあった。青年は自分が燔祭の羔に選ばれたことを知ったが、それは明らかに恍惚感を伴ったものだった。あるいは『青頭巾』の僧と美童のように、貪り喰われることの快美感を斯待しながら、青年は眠りに落ちた。
漆
だが、青年は一種の誤解をしていたといえるかも知れない。確かに彼≠ゥら選ばれたのには相違ないにしろ、それは悪魔の誘惑やギリシャ風な恋愛と違って、大そう手間のかかる、面倒な手続きの要る選ばれ方で、何で彼がそんな儀式を必要としたのかは不明だった。
冬のあいだ二人は、約束どおり水曜と土曜ごとに逢い、ますます親しみを深めた。彼には病弱な妻がいるということだったが、それは青年を自宅に近づけぬための言訳とも受け取れ、家庭や女性関係のことになると話は急に曖昧になった。その代り青年の部屋にはよく遊びに来、時には連れ立って風呂に行くこともあったが、決して泊ろうとはしなかった。
青年の蔵書を見ながらの感想でも、話はまったくとりとめがないようでいながら、やはりある秩序に従っているとも思え、青年はその日その日の話題を克明にノートしておくことを忘れなかった。
彼と直接口をきいた最初に変光星の話が出たように、もっとも深い関心が宇宙にあることは知れたが、それは暗黒星雲やブラックホール、さらには反宇宙がそこに含まれているからで、同じく茫洋とした海についても、そこにはなお多くの未知が潜むために興味を持っていることは明らかだった。すべて反地上的なものへの収斂を目指しているにしても、そこにはたとえば時間が必ず介在しているといった印象を青年は受けた。
占星術について熱心に語るのは当然として、それは自分の運命を知るためではなく、青年が仮りに永遠などという問題を持ち出しても、すぐ永遠に動くものに話を変えてしまうのは、具体的なものだけが関心の的のせいらしい。ひとしきり心霊現象の新しい在り方について語ったあと、彼はいくらか気恥しげにいった。
「こんなことばかり喋っていると、まるで知識の淫楽者か快楽主義者に思われるかも知れないが、こんなものは知識でも何でもないし、ただの雑学でもないさ。ただぼくはどうしてだか生まれが乙女座なんでね、反宇宙の指令には従わなくちゃ。それに君を相手にしていると何となく楽しいんだ」
――でも、どうして……
といいかけて青年は口を|噤《つぐ》んだ。どうしてぼくなんかを選んだんですかという質問は、まだしばらく心秘かな謎にしておきたい。従順という他に性質に取得はなく、容貌は人並みだとしても、かつて人から美しいなどといわれたこともない。それに、そんな己惚は持ちたくもなかった。
ただ一度だけ風呂の帰りに彼から、
「君は本当に色が白いんだね」
と嘆ずるようにいわれて、ひどく恥しかったことがあり、それは深く心に残っているけれども、これまで彼は酔ったまぎれでさえ、同性愛風な振舞を見せたことはついぞなかった。
――まあいいや、彼が楽しいといってくれるんだから、俺もいままでどおり新しい兄貴が出来たと思ってりゃいいんだ。
青年はそう自分を納得させた。それはしかし多少不満でないこともなく、次に逢ったとき彼は、幻覚剤から始めて古代ギリシャの詩型、その詩人のソロンやカリマス、トランプの王子たちの素性、地獄に棲む黒闇天女まで、例のとおりさまざまな話を聞かせてくれたが、青年はあまり熱心になれなかった。
捌
「春になったら二人して海を見に行こう」というのが、そのころの彼の口癖だった。実際その冬はあまりにも長く、暗かった。世界の各地を大寒気団が包み、地球は再び氷河期を迎える予感に堪えた。
彼の儀式はまだ辛抱強く続けられ、水曜と土曜ごとの逢いは確実に守られた。それは青年が薄々ながら彼の意図に気づいて、むしろそれを早めるために守ったといえるかも知れない。話は相変らず多彩で、ツタンカーメンのマスクから狼男、さまざまな爬虫類、かつて行われていた宇宙通信、隠れ里の伝説、神話のいろいろ、白夜についてなど自在に移ったが、青年はそれらを結ぶ見えない糸に微かながらも手触れ、それを手繰ることが出来るようになった。ただ彼の最終の目的がそうだといいきれぬまま、もう少し黙っていることにした。
「春になったら、一緒に海へ行きたいなあ」
その日、青年の部屋へ遊びに来た彼は、また同じことをいい、眼を輝かせてその楽しさを語った。海辺で拾った猩々貝や月日貝の色彩。きらめく砂の砦。あるいは自然に|穿《うが》たれた洞穴。少年時代に夢見た海賊船の一員になること。
そんな話をしながら彼は、何のつもりか、青年の部屋では唯一の装飾になっている、大きな壁掛け鏡の前に行き、その中から注意深く青年をみつめていった。
「こうしてぼくが見ているうちに、君が立って歩いてきて、重ならないように注意したら、たぶんこちらへ脱け出せるかも知れないね。そうしたら同じ言葉で話し合えるんだのに」
しかし、いつまでも青年が動こうとしないので、諦めたように元の椅子に戻り、たぶんそうするだろうと期待していたとおり、古い暦の話を始めた。それは前に話したものとは違って、美しい名前を持つフランス革命暦のことだった。
「一月から三月までが秋で葡萄月、霧月、霜月。バンデミエール、ブリュメール、フリメール。春が七月からで芽月、花月、草月。ジェルミナール、フロレアル……」
青年はベッドに腰掛けたまま、話の区切りを待ってこういいかけた。
「前に星の光がもっと強かったらって話をなさっていたでしょう。あの本、やっと見つけましたよ。母と子が二人きりで影絵を映しながら少しずつ狂ってゆくなんて、すばらしい小説ですね」
「そう、ソログープの中ではいちばんいいかも知れない」
彼はいくぶん不機嫌そうに答えたが、表情には、やっとお互い暗黙の了解に達したかというような安堵感があった。従って、そのあと猛然と話し始めた事柄のすべては、もう青年にとってノートに取る必要もない、既知のことだった。
次に逢ったとき、ドクササコやニガクリタケなどの毒茸から、聞香、宦官で話を打ち切ったとき、青年はようやく紛れもない彼の目的を知った。やはり初めから燔祭の贄にするつもりで近づいてきたんだと思うと、疼くような期待感に溢れた。
玖
その夜、彼は腕の中に黒猫を抱いて青年の部屋に現われたが、黒猫は床に降されると、たちまち走り去って消え失せた。
「君の|頸筋《くびすじ》に触らせて欲しいんだ」
彼はさすがに顔を引き緊めてその頼み事をした。
「頸筋ですか、咽喉じゃなくて?」
「ああ」
「いいですよ。だけどその前に教えて下さい。どうしてこんな手間のかかることをしたのか」
青年は幾枚かの紙片を出した。そこには美しいペン字で、そもそもの初めから彼の喋った事柄が順に書きつけられていた。
悪魔・血の供犠・失われた大陸・夭折・麻薬・自白剤・植物毒・変光星・洞窟絵画・暗号・馬の首星雲……
「初めて気づいたとき、これを結ぶ糸は時間≠ゥななんて思ったんです。それから生贄の話をしたときは血≠カゃないかとも思った。それはむしろ当っていたけど、ばかばかしく単純なことを、何だって順番に……」
「だけどフェアにはやった筈だよ」
彼は平然と答えた。
「最初に口をきいたときが変光星だったろう。アルゴルっていうのは悪魔≠チて意味なんだから。それにあの流れ星もみごとな偶然だったな。だって落ちてしまえば当然あれは隕石になる筈だからね」
「そうですね。アグラハムからイサクへというのも、うまい説明だった。あとからだけど、ぼくはあれでもしかしたら五十音順じゃないかって気づいたんです。夭折した数学者はアーベルのことだったんですね」
青年は別の紙片を示した。
悪魔・アステカ王国・アトランチス大陸・アーベル・阿片・アミタール面接・アルカロイド・アルゴル・アルタミラ洞窟・暗号・暗黒星雲……
生贄・イサク・イースター島・イスラム暦・一角獣・犬神憑き・刺青・隕石……
…………………………………………
永久連動・エクトプラズム・エピクロス・M87星雲・LSD・エレゲイア・円卓の騎士・閻魔……
王家の谷・狼男・大蜥蜴・オズマ計画・落人伝説・オラクル・オーロラ……
貝殻・海岸・海食洞・海賊船・鏡の国のアリス・革命暦……
「だからぼくは影絵の話をしてあげたんだ。貴方はやっと判ったかという顔で、火山やガス灯、カストラート、火星、化石、カニバリズム、仮面、からくりって具合に続けて喋った。そしてこないだが、茸、伽羅、宮刑で終ったでしょう。それが今夜のためというのは判るけど、なんだってこんなくだくだしい手続きが要ったんですか」
「それがぼくら[#「ぼくら」に傍点]の儀式だからさ」
彼はまともに青年の眼をみつめ、少し苛々したようにいった。
「さあ、もういいだろう。早く頸筋に触らせてくれよ」
青年はまだ解けやらぬ顔で、この新しいタイプの吸血鬼[#「吸血鬼」に傍点]を眺めていたが、やがて覚悟を決めたように白い|項《うなじ》を差し伸べた。しかし期待とは違って、その痛みは一瞬で終り、彼はすぐ顔を離した。本来なら一寸ほどに伸びる筈の皓い犬歯もなく、彼は明るく笑っていた。
「おどろいたかい。便宜上その名にしておいたけれど、残念ながら生身の吸血鬼なんて現実にいるわけはない。いるとすればぼくのような嗜血症というか、噛むという行為が好きで、少しだけ血を見れば気の済む手合いだろう。もっともそれじゃ君が不満だというなら、望みどおりしてやってもいいが」
青年ははにかんでうつむき、彼はその肩に手を置いて続けた。
「君はくだくだしい手続きなんていったけど、それを経ないでこんな行為だけするなんてぼくはいやだね。イサク即ちいう燔祭の羔は何処にあるや、さ。段々にそれが判って、それでもついて来てくれる奴だけがぼくには必要だったんだ。しかし、吸血鬼を友人に持つのも、そう悪い気持じゃないだろう?」
拾
青年はひたすら夜を待った。夜になれば親しい友人のような顔をして彼≠ェ訪れてくれるからだ。
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幻戯
魔術師Qという私の名を、どなたか覚えていてくれるだろうか。グレート・マジシャン・ミスタQ。たぶん、誰も知る筈はない。私の指先に美しいトランプの扇がひらき、ウォンドは一閃して鳩になりスカーフに変ったのは、もう遠い昔、戦争が終ったばかりのころだ。五彩の照明も、軽やかな紗幕も、私を囲んだ踊り子たちも時間の彼方へ去り、いかにも私は年老いた。仕掛物に新しいアイディアが生まれることもなく、スライハンドの指は慄えてネタをこぼしかねない。何よりも私自身の心が冷えきって、華やかな舞台を作り出そうという気組みも湧かないのである。
――何もかも終ってしまったんだな。
といまは思う。
あなたは魔術の女王といわれたTを御存知だろうか。そう、その彼女の引退興行が行われてから四十年あまり、死んでからでもざっと三十年ともなれば、その偉大さをまのあたり見たひとも年々に少なくなる道理だが、戦争が終ってこの方、この道のさびれ方はひととおりでない。科学万能という新しい迷信がはびこったせいか、それともこれぞという大物スタアが生まれなかったせいか、それは明らかでないけれども、ついぞ評判の大舞台がかかったためしのないことでも、衰退は疑いを容れない。文字どおり満都を湧き返らせたTの人気を知っているだけに、私にはそれが情なく歯がゆくて仕方ないのである。なるほど、若手の奇術師は数多いかも知れない。しかし彼らの多くは、へんなもったいぶりばかりが先立って本来の愛嬌というものが見られず、技にしたってこちらが冷汗をかきかねないのが実情ではなかろうか。演しものといえば五十年も昔からの道具ばかりだというのに、客が娯しむ先を越して「どうだ不思議だろう」と得意顔をするのだけは止めてくれと、なんべん心に思ったか知れないのだ。
何よりも芸人であれ、ショウマンに徹しろと、そういう私自身、古めかしい芸名を棄てて魔術師Qを名乗り、進駐していた異国の兵士たちのキャンプを廻って、はかない人気を得たのも僅かな期間のことで、こよない相棒だった妻のRに先立たれてからは、子供もいず、人の運にもめぐまれず、芸も枯れたといえば聞えはいいが、人気も腕も衰えるばかりという仕儀に立到った。皮肉なことにテレビというものがこれほど粗末な芸人を濫造する前に、私の名はとうに忘れ去られてしまったのである。
木枯らしの中に私はいる。奇術師としてはもう場末の小屋の前座がせいぜいだろうし、駅前のネタ売りにさえ堕ちかねない私の先行きなど知れたものだが、安酒に唇をしめらすたび思い返すのはTの妖しいまでの魅力であり、妻のRの限りない優しさであった。|雲母《きらら》引きの眼も眩む衣裳に豊満な肉体を包み、ダイヤの義歯を光らせる魔術の女王の舞台姿は、なお語り草として残っているが、たった一人でどんな大劇場も狭く見せてしまう風格もさることながら、私にはあの当時の観客の熱狂が懐かしい。とにかく素直に魔術というものに酔うことが出来た、むろん私もその一人だが、あれは時代のせいばかりではない。客が純朴だったということでもない。照明も衣裳も装置も、そのひとときだけ贋の世界に奉仕したからこそ、燦然とそれを輝かせ、あり得ない色彩幻覚の夢を白昼に現前させたのだ。Tのしなやかなマジックウォンドの一振りがそれを導き出したには違いないが、観客のほうで初めから贋の王国に酔い、心からそれに溺れるつもりでなければ不可能の魅力はあり得ない。そう、だからその気になりさえすれば、いまだってこの白茶けた現実を気をそろえて憎みさえすれば、またすぐその夢の世界は帰ってくる筈ではないのか。
幻戯。
手品とも奇術とももうこれからは呼ぶまい。幻戯。それでいい。メスカリンにもLSDにも依らない白昼の色彩幻覚をもし地上に造り出したいというなら、いま一度この贋の王国に憧れ、夢み、それを切望しさえすればいいのだと私には思えるのだが、頭から子供だましと決めてかかる観客と、そういわれても仕方のない芸人たちと、しょぼくれた男やもめにすぎない自身に行き当ると、たちまちその思いも冷えて遠のく。私は深い涸れた井戸で、その底にはもうどんな水も溜まる気配はない。
そして妻のR。いまでも私はインパラという羚羊の写真を見るたび、すぐ若いころの妻を思い出す。もともとがサーカスあがりだったから、肉襦袢が何よりも似合った。|撓《しな》う腕、跳ねる肢のどこをとっても、それは草原を疾駆する獣さながらで、紅の滲んだ眼もとに涼しい微笑をたたえ、エスケープマジックでも例の空中浮揚でも欠かせない花形だった。小柄なためにキャンプの兵士たちからはうぶうぶしい美少女に見られていたが、齢を聞いたら彼らもさぞ愕いたことだろう。それでいて日常はまめやかに仕えてくれ、あまりにも私には分不相応にすぎたというのか、神はその倖せをこともなく奪った。戦後まもないうちに妻はジープにはねられて死んだのである。
歳月が隔たったとはいえ、その白い頬とともに過した日々のことを、こうまで淡く、むしろ平然と思い返し得るのは自分でも奇異な気がするほどだが、それには理由がある。妻は死んでからのち、まがうことのない再生を告げたからである。初めのうち私は腑抜け同然だった。ついで酒浸りになった。契約に厳しい軍の仕事はじきに馘になり、ずいぶん地方も転々とした。そしてようやく思い到ったのは、他ならぬ死者との交信であった。
といってこの世界では、手錠王として名を馳せたかつての巨匠でさえ、その妻に必ず霊界通信を送ると遺言し、十月末日の命日のたび、妻も友人たちも待ち続けてついに何のしらせもなかったという哀しい逸話が知られている。非力の私がどうして自在に交信を果たし得よう。しかも何をいい残す間もなく事故死した妻が、いったい死者の国のどこへ立去ったのか、どこにその霊が浮遊しているか、どうして探り得るだろう。しかしその当時の私には、すがるべきものは何もなかった。冥々暗々の境にさまよっている妻を見つけ出し、その魂をおちつかせること、かたがたその口を開かせてこちらから慰めもし、地上に置き去りにされた私の凍えかけた心を少しでも温めてもらうこと。それ以外の何が出来、何をすることがあったろう。
私の念力も霊力も知れたものであった。念じて念じ抜いて、しかも何の応答もないのに焦立ったあげく私は再び酒の力を籍りた。その酔いの中で頭はさらに濁り、死者の国に何が届くとも思われなかったが、それでも酔ってさえいれば、妻の顔だけは容易に蘇った。鼻すじの一刷毛濃い白粉が少年じみて愛らしい。眼もとにほんの抑えに使う紅は汗に流れ、いかにも緊張したさまを伝えている。しかしそれが動かず固い死者の表情だと知れるのに時間はかからなかった。そのままでいたら、私はなおのこと酒に浸り、とうの昔に中毒患者として廃人になり果てていたろう。それを|礙《さまた》げたのは、一つの思いがけない声であった。その当啼いくらもあった|葦簀《よしず》張りの屋台の傍を通りかかった私の耳に、その声はふいに届いた。若い女の、いくらか甘えたような嬌声である。
「いやよ、いやだったら。お酒臭いもの」
その声音はあまりに妻に似ていたので、私は思わず足を留めた。ついで激しい顫えが襲った。もしかして妻が蘇り、この世の中で私にかかわりなく生きているとしたら。それよりも妻が死んだなどというのは、まったくの妄想であり長い悪夢でもあって、いまのいま、それが醒めてくれたというなら。
そこに佇んでいたのが何分か何秒か覚えはない。表情を硬ばらせ、酔いにまかせた足どりでその屋台に顔をのぞけた私は、醜くはないが妻には似もつかぬ女と、それに戯れている酔漢とを見出しただけであった。いぶかしげな客と女将をあとに蹌踉と立去りながら、私はいまの声が、声だけがいわば妻の伝言であることを疑わなかった。
「よし、よし」
私はひとり頷いた。何かが癒えてゆく、癒されつつある確信もあった。もともといける口でもなかった私が日夜こうまで酒臭いのは、妻にとっても堪えがたいに違いない。そしてこれをきっかけに酒を手控え、仕事に精を出し始めるとともに、奇妙なことに妻の伝言≠ヘしきりと届くようになった。
たぶん人は嗤っていうだろう。それはアルコール中毒につきものの幻聴にすぎず、お前はもうとうに廃人になっていたのだと。真偽は私にも自信はない。小さいころから奇術に憧れ、将来は必ず魔法博士か鉄下駄を穿いた道士になろうなどと夢見ていた私ごとき屑人間が、いったい本当に生きているのかどうかさえ実は疑わしい。この齢になってもまだ私は物語にあるような誰かの夢の中の人物、その誰かが眼を覚ましてしまえばたちまち消滅してしまうやくざな人間だと信じているくらいだから、いつからか自分自身で創り出した幻覚の中に生き始めるというのも充分あり得ることだ。ともかく私は再び三度妻の伝言を聞いた。それは明るい昼の喫茶店で、|斜《はす》向いにいた中年女性が喋り出そうとしてチラと私に眼をとめ、それから相手に視線を戻していったため、ことのほか身に沁みた言葉である。
「そりゃあそうよ、あなた。別れたきり二十五年も逢えないってことになりゃ、そりゃもう当然よ」
その前後の会話はまったく聞きとれず、私の耳に響いたのはただ、これから二十五年も妻とは逢えない、逢うことを許されないというそのことであった。私は俄に竦然として会話の主を見た。向うは先に一度こちらに眼をとめたことなど気にもかけぬようすで、二人だけの話に熱中し、その声はもう届かなかった。
二十五年。なんという残酷な刑であろう。そのときそろそろ四十歳に手の届こうとしていた私に、なお四半世紀の禁固をいい渡すとは。それまで待たなければ地上で妻に再会出来ぬくらいなら、私もまたジープであれ地下鉄であれ喜んで轢かれることを選ぶだろう。冥界がどれほどの暗さだろうと、馳せ廻って妻を探すほうがまだしも易しい、まだしも救いがある。だが、憤然と立って伝票をつかみ、忌々しいその喫茶店を出ようとした私の耳に、また突然の伝言が届いた。それは先の二人とはまったく関係のない若い女のグループで、中の一人がはしゃいだ調子で友人にこういったのである。
「大丈夫よ。そんなもの、あっという間よ」
――こうして私の刑は決定した。二つの会話は偶然であろうか。昼の茶房の喧噪の中から、ことさら選びぬいたように耳に飛びこんできた言葉に、明らかな妻の遺志を聞いたと思うのはあまりな無知であったろうか。だが私はそれに従う道を選び、その生活を自分に課した。気も遠くなるような徒刑の日々を送ることに決めたのである。倖い、それからほどなく勤めることになったデパートの玩具売場、そこでの手品の実演と販売という仕事が、しばらくは時間の刑のいくばくかを消してくれた。
ただ、死者はもう老いることはない。その代り私の生身の肉体は容赦なく古び、思いもかけぬ病の訪れも屡々であった。再会時の妻の失望を思って、私は夜ごとに鏡に向い、己の皺ばみかけた顔に薄くクリームを塗ることさえした。指は|就中《なかんずく》私の生命である。そのしなやかに骨立った指を鏡に映し、シカゴの四つ玉を、ミリオンカードを昔ながらに演じてみせるとき、私は僅かに吐息をつく。もうかつての舞台の面影はまったくないにしろ、この指だけはまだいくらか名残の夢を、その郷愁を誘うことが出来る。むざんに老いてゆく肉体の中で、まだ唯一別種の生物、別次元の|寄生木《やどりぎ》といったあんばいで生え延び、深海魚のすばやい揺らめきをさながらに伝えることも可能なのだ。そのためにふだん道を歩くときでも、カードと玉とはポケットから離したことはなく、いつでも絶えず指を動かしているのが私の日課であった。そして夜、こうしてひととおりの練習を終えてしまうと、私はまた鏡に向っていつもの呪文を唱えずにはいられなかった。
――時よ、時よ、時よ、速やかにすされ。彼方へ退け。小さく、小さく、小さく、己れの本体に戻れ。
そうだ。時間はあまりにふくらみすぎ、勝手にはみ出しすぎている。ちょうど何者かが過って堤防を壊しでもしたように、濁流はあたりに渦を巻き、ガラスの城、ガラスの庭園にすぎぬ人間たちの|棲処《すみか》をほとんど埋め尽そうとしている。いつかは退くだろう、いつかは治まるだろう。だがどうしてそれまで安閑と待っていられるものか。既に私の内部にある|鰾《うきぶくろ》さえ破れ出したからには。
こうして私は待ちに待ち、焦がれに焦がれたあげく、ようやく刑期を終えた。二十五年という歳月をとにもかくにも乗り越え了えたのである。このいい方を若者はたぶん|肯《うべな》わぬに違いないが、ほとんど孤島とも思える老いの岬へ辿りついたひとならば、憫れみつつも許すことだろう。乗りこえてきた時の潮騒をその耳に聞いたひとならば。
二十五年前の喫茶店で苛酷な声を聞きとめたときの日付も時間も私の脳裡には深く刻みこまれていたから、再会の刻を誤る怖れはなかった。問題は場所である。肝心なその時刻に私がそこに居合せなければ、天はまたこともなく妻を|攫《さら》って死者の国に投げ返すだろう。
――R。
と私は呼んだ。
――教えてくれ、その香しい花咲く地を。すべてが充たされ、何もかも許される約束の地を。そりゃむろんこの地球の裏側かも知れない。あるいは私がここだと信じて待つ、つい隣の街角かも知れない。だが一度だけは与えてくれ、お前の姿を確かに見かけ、追い、せめて手を差し伸ばして捉えることの出来るチャンスを。
そしてこの希いに応えるかのように、それ以来さまざまな伝言≠ェそこここに氾濫し始めた。南船北馬といっては大げさだが、その声に従ってどれほど近県の町を訪ね歩いたことだろう。そしてついに、やはり近県のU市が指示され、私はそこで妻に再会したのである。いまから二年ほど前のことであった。
約束の時間、晩秋の枯れ色の風景の中で、すりきれたオーバーの襟を立てて私は待った。かねての呪文どおりそのとき時間はふいに凝縮し、体を固くして小さく遠のいていった。眩暈と絶え間のない嘔吐感がそれに伴った。私は鉄道の柵に凭れてくずおれるのに堪えた。瞑り続けていた眼を思いきってみひらいたとき、私は眼の前に、不安そうにこちらを見上げている稚い女の子を見出したのである。
小さな水色の法被を着ている。鼻すじに一刷毛の白粉がある。眼もとには抑えた紅が滲んでいる。それが眼に入るとともに私は再び気を失いかけた。近くの神社の秋祭の日だと思い当たるより早く、そこに紛れもない妻の稚な顔を見たからであった。七つか八つ、この生まじめに引結んだ唇はどうだ。少年じみて凛々しい眼は、細い剃りあげた眉は。私は神々の声のない揶揄を聴いた。悪意というにはあまりにも底知れぬ嘲弄を感じた。神は妻をマジックハウスに閉じこめ、二十五年の歳月を加える代りに引き去って私に返し与えたのだ。その私はといえば地上の掟どおりの齢をとって、六十歳をとうに過ぎたというのに!
「大丈夫だよ、大丈夫だとも」
私は顔を歪めて泣き笑いに堪え、少しでもこの文字どおりの稚な妻が怯えて走り去らないよう心を尽した。たったいま抱き上げたい、頬ずりをしたいという念いを必死に抑え、さりげない笑顔でこういった。
「心配してくれてありがとうよ。さあ、お礼におもしろいものを見せてあげようね」
ポケットから離したことのないシカゴの四つ玉は、たちまち巧妙に私の指の間に隠顕し、一つは二つになり、二つは三つになった。私の生涯を賭けて断言するが、このときほど冴えた技を披露したことは絶対にない。少女の眼の輝きがそれを証していた。それはかつての日、私を畏敬し、ほとんど神の御業をまのあたりにしたかのようにいつまでも眼を離そうとしなかった妻の、妻だけの持っている輝きであった。そう、この輝きのもとでだけ、私は稀代の魔術師に変じ得るのだ。
もうそのころは眼ざとい他の子たちが一人二人と周りに集まり、賑やかにはやし立てながら見物してくれたので、却って私は案じないで済んだ。こんなところに少女と二人だけでいて、誘拐犯人だなどと騒ぎ立てられてはたまらない。私は心をこめてトランプの一組を取り出した。それはたちまち一重にも二重にも花ひらき、生き物のように閉じた。腕の上に長い橋を架けたかと思うとすぐ起き上り、喜び勇んで手許へ走り寄った。カードは甦ったのである。少女の食い入るような眼が、その熱いまなざしが奇蹟を可能にした。スライハンドにかけてはキャンプに並ぶもののない名人といわれたその昔の指の感覚は、いま再び確かに私のものであった。
――だが急ぐまい。
と私は考えた。もうさっきからの子供たちの会話で、この少女の呼び名も知れている。大体の家の見当もついた。Lちゃんというその名は、妻とはいささか異なってはいるけれども、マジックハウスを抜けてきたとあればそれも当然であろう。ただ私はひそかに少女の母のことを思って多少の胸のときめきを覚えた。それがもし、万が一、Rそのものだとしたら。……
「さあ、きょうはこれでおしまいだよ。また見せてあげようね」
通りかかる大人たちの好奇と疑いを呼びさまさぬうちに、私は手早く店仕舞をした。
「きょうはお祭りなんだろう。おじいさんも連れていっておくれ。そうして皆のおうちも教えておくれよ。そしたらいつでも、もっとすばらしい魔法を見せてあげられるからね」
私は一度だけ、さりげなく少女の手を曳いた。その手はあまりにも小さく、そして冷たかった。
∴
そのあとの経過を、手短かに書きつけておくべきだろう。私は早速にU市へ移り住み、倉庫番という地味な仕事を見つけた。私の魔術の腕が甦ったことは、少なくともいま天下無双といえるほどだということは、少女だけが知っていればそれでいい。そのうちに私の力は次第に充ち、大仕掛な舞台奇術にもつぎつぎ新機軸を出すほどになるだろう。一流の劇場から迎えられて演出を頼まれることも、そう遠い夢ではない。なにしろ私にはあの少女が、変身した妻がいてくれるのだから。
Sという少女の母なるひとにもじきに会って親しくなった。私がことさらその家に近く部屋を借りたからである。未亡人で仕立物の仕事で生計を営んでいる、おとなしい、平凡な女で、顔はむろん妻とは似てもいなかったが、それは当然であろう。これは妻の母なのだから。そして私がどうやらその町におちついてみると、彼女は男やもめにとって恰好な茶飲み友達となり、二人は結ばれた。少女が目当てだったのではない。まことに滑稽な錯覚だが、Sは少女の母ではなく、実の両親は若い共稼ぎ夫婦なので、なついているのを倖い、保母代りに預けていたことがじきに判明したからである。
滑稽な錯覚。それだってかまいはしない。私はもともとその錯覚、そのトリックに生命を賭けてきたのではないか。しかし、そうはいってもSが、私と結婚してからというもの安堵したせいか俄に老けこみ、この一年の間に、まるでずっと以前から私と夫婦だったような、齢恰好もそうとしか思えぬほどの婆さんになってしまったのを見ると、あるいいようのない不安が頭をもたげる。もしかして、そう、本当に万が一……。
私がいま熱中しているのは、少女Lちゃんのために三月の雛人形を豪華な飾りつけで見せてやることだ。といって貧しい老人に十五人飾り、十八人飾りなどは手の出しようもないので、私が工夫を凝らしているのは幻茶屋≠ニいう昔ながらのトリックである。向うに見えている美人がいつの間にかすうっと骸骨に変り、オヤと眼をこらすとまた知らぬ間に美人になっているというあの仕掛は、ただ黒幕の前に大きなガラスを斜めに置き、正面と横から交互に光を当てて変化させるだけのものだが、私のはそこをさらにひねって、スライドの雛飾りを次から次に映し出すようにしてやろうというものだ。あの子は躍り上がって喜ぶだろう。そしていつか私が奇術界にカムバックしたら、あの魔術の女王が演じた京人形≠さながら、雛壇の内裏様も三官女も仕丁も、全部生きて踊り出す、すてきもないマジックレビューを創案して見せてやるのだ。
だが、こうまで齢を取ったせいか、このごろあらぬ妄想はいっそう頻繁に私を苦しめる。もしSがときどき愚痴をこぼすように、私は一度だって魔術師だったことはないとしたら。Rなどというサーカスあがりの妻などもともと存在せず、このうちの婆さんが三十年あまりも前からの|糟糠《そうこう》の妻だというなら。
ばかな、と思わず口を歪める私の頭の中に、その奇怪な空想はいっそう拡がるばかりである。私はただの奇術好き酒好きの平凡なサラリーマンで、停年退職ののちU市へ隠栖し、しがない倉庫番という隠居仕事をしているだけだと、子供もない老夫婦ぐらしで、近所に越してきたLちゃんという少女に夢中になり、下手な手品を見せては御機嫌を取り結んでいるだけだと、そんなくだらない想念があまり次から次に湧いてくると、私は思わず舌打ちし、ついにはこう自分にいい聞かせるのだ。
――よしよし、かりにそれならそれでもいいじゃないか。いや、その方が私にとってはよほど楽な人生だし、なんならそのとおりだといってもいい。どうせ人生はいま作っている幻茶屋≠ヌおり、他人には何が見えているのか、美人か骸骨か判りはしないのだ。そしてそれこそ私が残生を賭けて完成させようとしている本当の幻戯、あの|目眩《めくら》ましの本体に違いはないのだから。
[#地付き]〈とらんぷ譚・完〉