中上健次
讃 歌
一
風が公園の樹という樹を揺する。その風にひきちぎれた小枝が、広告チラシと共に空に舞い上がっていた。風は公園の周囲に林立するビルに当たり、折れ曲がり、出口を求めて上に吹き上がる。梢も広告チラシも一対になって、さながら波に巻き込まれた舟のように上空でクルクルと舞い勢いよく上昇し、次に急降下する。
体が冷え上がった。しかし彼は身動きせず立ったまま見ていた。絹のジャケットに白のリネンの混った一目でホストと分かる服を着ている。肌に風が当たり、何人もの女らがそうしたように、いや何人かの男もそうしたように生肌の一つ一つを風に触られ、毛穴の一つ一つを濡らされ、くすぐられる。風は彼の体の熱がこの上なく有り難い事のように体温を奪おうとする。
何も考えなかった。〈白豚〉や〈黒豚〉がそうしたかったらすればよいと、ただジムナジウムで週三回、三時間ずつかけて鍛えた体を与えるように、風に吹かれて、何も考えないまま彼はただ波のように生起する快楽だけを追っている。体が冷え切り、ただひとつの財産の体が風邪を引き発熱するという思いがよぎるが、その思いすらサイボーグのように生きていこうとする彼自身を裏切る余計な考えとして邪魔になる。
風は彼にまといついた。週一回、ジムの帰りにパーラーに立ち寄って手入れする長めの嵩《かさ》の多い髪を、さながら髪フェチシズムの〈黒豚〉が唇と手の愛撫で足らずクリトリスのような短い性器をこすりつけ、射精しかかり彼が殴り倒した時のように、風が執拗にいじくり廻し、このままでは到底、店に出られない、店に出る前にサウナに寄るかパーラーに寄るかしなければ駄目だと思うほど乱されてしまっている。
〈白豚〉は事が終っても一刻も離れたくないというように、シャワーを浴びている彼の姿を見続け、そのうち眼が輝き出し、彼の足元にひざまずき、髪を濡らし胸を流れ性器からほとばしるような熱いシャワーを口で受け飲み干す。彼は〈白豚〉を止めなかった。熱いシャワーの快楽に耽る事以外、余計な事だと思い、シャンプーを使いリンスを使い、そのまま外に出た。
吹き続ける風を受けて、細かいオリーブ状の葉のついた小枝と広告チラシがビルよりも高く舞い上がるのを確かめてから、公園の入口まで歩き、公衆電話の受話器を取った。諳《そらん》じている番号を廻し、三回コールをして切り、また同じ番号を掛ける。いつまで待っても応答する声はなかった。ふっと記憶が甦り、この一年サイボーグとして自分を変えた努力が台なしになると思い、空高く舞い上がった小枝と広告チラシをさがす。もうそれらはどこにもなかった。彼は口笛を吹き、呼び出し続ける電話をそのままにして歩き出した。耳元で電話の呼び出し音が響いていた。
道路をまたぐ歩道橋を渡ってビルの中に入り、ビルの地下をつないだ道を通って隣のビルの二階のジムナジウムに入って腕と胸の筋肉を鍛える機械に挑戦し、ひと汗かいてからシャワーを浴び、専用のロッカーからドライヤーを取り出して髪を乾かし、ローションを塗り、鏡に向かってホスト用の笑を浮かべてみた。「男前になったぞ」とつぶやき、ふとその言い方が一年前まで一緒にクルーを組んでトレーラーを走らせていた相棒の言い種だったのに気づき、彼はニヤリと笑う。
話の筋はこうだった。二人で組んでトレーラーを運送会社から持ち出し、働いていて、ついにトレーラーが盗品だと発覚するや、早々に二束三文で売り払って逃げ出した。しばらく安ホテルを転々としていたが、金がなくなり、それでスポーツ新聞の広告欄にあったホストクラブにホストの面接に出かけた。面接した店のマスターと称する男は一も二もなく二人を雇ったが、「いい男ねェ、あっちの方も強いんでしょう」と科《しな》を作って言う言い方が気になり、念の為にと彼が「女、一日何回ぐらい相手にしたらええんじゃろか?」と訊いてみた。
「さあ、ねェ」マスターは鼻白んだように言い、あきらかに本気で数えていない態度で首を傾げ、一、二、三、と声に出して指を折り「ええんじゃろか、というほどいないわよ」と口をとがらし不満げな表情をつくる。薄っぺらな芝居じみたその言い方に相棒が「こりゃあかんど」と怒り出す。「あかんど、という事ないんど」マスターは相棒の言葉を真似て言い、何を思ったのか「お互い様じゃないですかァ」と居直った言い方をし、嘘をついてもその道のプロにはすべて見通しになるのだと言うように「いいじゃないの、二人、恋人同士なんでしょ。こちらもそれ、知ってて、普段ならカップルは断るんだけど、二人共あんまりいい男だから、黙って二人共入れてあげようと言うのだから」
彼と相棒は顔を見合わせ、苦笑し、最初は自分たちの求めているホストクラブではないと断り、他所《よそ》を当たったが、他所では二人一緒に働くわけにはいかない、相棒の方が齢嵩なので馴れるには時間がかかるだろうから、まだ若い彼一人を採用したいと言い出す。それで彼がホストとして働きに出て、相棒がブラブラしている時期があり、そのうちどこでどう見つけたのか相棒が金持ちの客を沢山知っているという女を連れて来た。女は男二人のゴミが散乱した部屋に来るなり「豚小屋みたいじゃん」と言い、足でゴミを蹴散らして部屋の真中にあぐらをかき、「話、全部、この人、フェラしながら聴いたからさァ」と彼に言い、唇の端に舌でガムを出し、マニキュアの指でつかんで眺め、汚い物をよく噛んでおれたというように顔をしかめて灰皿に捨てる。
「色々言ったけど、わたし、ずっと、この人、時間長くしようと思って、色々言ってたんだ、と思って、途中聴いてなかったけど、最後は何となく分かった。聴いてない時フェラに一生懸命で、最後の方、あご、くたびれてダラダラしたんだ、そしたら、逆に興奮してイッちゃったの。厭だよ、ナマシャクは、まだ喉に詰まってる気するもん」
相棒はヘラヘラ笑っている。彼は相棒の尻を蹴った。「何じゃ」相棒が言うので彼が「何じゃとは何じゃ。人が汚いオメコに鼻突っ込んで舐めさせられて稼いだ金を、おまえがこの女の口に放り込んどるのか」と怒鳴ると、女は「いいじゃん。それでわたしと知りあいになれたんだからァ」と言い、自分がどれほど金持ちで社会的地位のある人間を知っているか、と言い出した。大会社の社長、重役に政治家、野球選手に俳優、その夫人、裏に廻れば色に狂っていないものはないほど、狂乱痴態を毎晩東京のどこかで繰り広げている。女が次々に挙げる名前の何人もが、彼の相棒も新聞や週刊誌で見聞した覚えがあったので、どうして知っているのか? と訊くと、「言ってみれば、わたしら闇の軍団じゃない。ホストとか風俗とか、オカマとか、昼間じゃなく夜の商売じゃない」と言い、急に関心が湧いたように、「ねェ、一緒にこれから組むんだから、見せて」と彼に裸になってみろと言い出す。彼が女の唐突な要求に戸惑うと「何言ってるの。わたしプロよ。ファッションやソープへ行ったら裸になるでしょう。裸になって勃《た》たしてよ。見せてよ。そうしなきゃ勃たないって言うなら、プロのわたしがお金取らないで舐めてあげるからさ」
彼は女の言うまま裸になり、パンティをはいたままでよいからスカートをめくり上げ、見せてくれと頼み、性器を勃たせた。彼がサイボーグになったのはその時からだった。女が貯えていた金で二人、別々に新しいマンションを借り、彼は女が言う〈豚〉たちの為に週三回、三時間ずつジムに通って体を鍛え改造する。
イーブという呼び名が女から与えられた。相棒の方はター。いつまでもトレーラーの相棒時代の色が取れないのでコールタールのター。その時からイーブは何もつとめて考えないようにした。女の元に集まるホストの用を、一回コールが三回切れる、という合図で部屋で受け、相手が美人であろうと不美人であろうと、若かろうと年寄りであろうと、たとえそれが男であろうと相手に満足を与えるだけの為に着飾り、脱ぐ時の男の色気まで計算して一物が飛び出しかねないスキャンティをはき、オーデコロンをはたいて約束の場所に出かける。
相棒だったターは三回コールが合図だった。相棒がターという名前になってから、彼が女の与えたイーブという名に変わったほどの変化はなく、ターはトレーラー時代と同様、競輪にうつつを抜かし、ファッションに通って好みの女と遊び、そのうち惚れた女が出来たので金を貸せと無心に来るようになった。
「自分で稼げばいいじゃないか」
イーブは綺麗な訛のない標準語をことさらしゃべった。
「どうせ趣味の悪いチンケな女に惚れたんだろ。その女にいいとこ見せたいって言うなら、白豚でも黒豚でも抱いて金巻き上げて貢げばいいじゃないか。それともその女、ソープにでも出すか」
相棒だったターはイーブの変わりようを信じられないというように見て、ことさら同じ故郷の同じ路地から東京に出て来て、男相手のホストクラブのマスターから恋人同士だと疑われた仲だと強調するように「俺には合わん」と訛を使う。
「おまえと違って俺は齢取っとるし、人の言うなりにようならん」
イーブは舌打ちし、これっきりだと念をおし、金を貸した。絹のジャケットのポケットに入れていた黄金のネックレスをつける。ポケットにはダンヒルのライターが入っている。女が指にはさんだ煙草に火を点けるのはホストの役目だったが、黄金のネックレスとダンヒルのライターの贈り主は違っていた。自分の贈り物でないダンヒルのライターで火を点けられた女は、イーブの背後にもうひとりの女がいる事をめざとく感じ、イーブがその女と性交する姿まで想像して嫉妬し、金で男の歓心を買えるのならと、札びらを切り、物を贈る。
人前で札びらを切られようと物を贈られようとサイボーグのイーブは何も感じなかった。一年前と比べてただ肉体の鍛練だけに励み、ヘラクレスの彫像のように変わったイーブは、女の言うままホテルの部屋に向かい、部屋に入るや否や、いままでの女の人生で一度も味わった事のないと分かる場面を演じて見せる。若い美しい男が女への情欲に駆られてドアが閉まった途端、激しく抱き、キスをし、女への情欲にこらえ切れなくなり、昏い切なげな目で女を見ながら服を脱ぐ。女はスキャンティからはみ出しかかった勃起した性器を見るだろうか? むしろ女が贈った黄金のネックレスが裸になった美しい一角獣の首に、その獣の角がどのように凶々しく大きかろうと、胸板が巌のように厚かろうと、馴致された証の首輪のように光っているのを見る。
先に裸になるのはホストの務めだった。裸になればなるたけ早く性器を女の手に握らせるのも、女を舞い上がらせるコツの一つだった。ジムナジウムを出て、時計を見て時間が経ったのを知り、待ち合わせの場所のホテルにタクシーで向かった。ホテルの受付で、言われたとおり梶原という名を名乗り、宿泊カードに住所、電話番号を記入し、差し出すと、クラークが一瞬、男の高級売春のホストだと見破って名前も住所も電話番号もでたらめだと分かっていると笑った気がしたので、イーブはウィンクした。そのウィンクをどう勘違いしたのかクラークはうろたえ危ない物を見るように目をそらして鍵を差し出す。
約束の時間にまだ二十分あったが、イーブは部屋に上がり、漠然とした不安のままバスルームの鏡に顔を映し、クラークにしたようにウィンクしてみた。悪いウィンクではなかった。何度もウィンクしながら、クラーク・ゲイブルかハンフリー・ボガートと比べても遜色はないと独り悦に入り、煙草を小道具にしてしばらくハンフリー・ボガートの真似をしていると、客の女がバスルームの戸口にぬうっと姿を見せる。
「何してるのォ」女が間のびした声を出した。イーブは口の端に咥えていた煙草を落とし女の現われように失望しそれでも気を取り直し、ハリウッド映画の一シーンのように鏡の中の〈白豚〉に向かってウィンクを送った。「どうしたのォ、ドア開けっぱなしになってるし」〈白豚〉は微かに訛のついたハリウッド映画らしくない味気ないセリフを言う。
「さっきの下のレセプションで、梶原と名乗ったら笑ったので、ジゴロだと見破られたと思ってウィンクしたらうつむいてやがんの」
「どうせ、あんた、ここ使って商売した事あるんでしょ。山田とか佐藤とかって名前使って」
「違いますよ。ここ、初めてですよ」
〈白豚〉はバスルームの中に入り、イーブの後ろに立つ。「あら、そう」〈白豚〉はハイヒールをはいているが、イーブの胸くらいまでしか背がない。後ろからイーブの体に腕をまきつけ、かくれんぼするように右脇から顔を出し、鏡に顔を映し、鏡の中のイーブを見て、「それなら、さァ、ホモよ。わたし、チョン子に問いつめたから知ってんだけど、あんた、男も相手した事あるんでしょ。女だって男だって放っとかないわよねェ」
イーブは〈白豚〉の言葉に腹が立った。〈白豚〉は鏡に映ったイーブの眼が、以前と同じように怒りではなく情欲で昏くなったと思ったように、鏡の中のイーブを見つめ、「好きよ、メチャメチャにして」とハリウッド女優のような歯の浮くような科白《せりふ》を言う。もしハリウッド女優なら、たとえばドアが開けっぱなしになっているのでジゴロとの情事を人にさとられる、と叱り、警告するのなら、部屋のチャイムを激しく鳴らし、そんな不用心では客として遊べない、これでおしまいだからホテル中に知れ渡っても平気だと、イーブをなじる。なじられて取り繕うも取り繕わないも、ジゴロのポケットの中の金の額で決まる。そう思って〈白豚〉の腕を振り払おうか、どうしようかと昏い眼をしたまま躊躇していると、〈白豚〉が「ワイン飲もうかァ」と言う。「ここのホテルのフランス料理に行ってもいいし、部屋あるんだから町まで行って食事して上等なワイン飲んでもいい」
〈白豚〉はどっちがよいか、と訊いた。イーブは単純に町へ出かければ、受付で何度か鍵の受け渡しをやらなければならないのでホテルの中でワインを飲むと答えた。イーブを危ない物を見るように見たクラークに会いたくなかったし、たとえ顔をあわせ、互いのこだわりをなくすかのようにイーブがウィンクし直し、クラークがやっぱりジゴロだったと笑を返す事になったとしても、ジゴロの自分が体を売る相手がチビでブスで年寄りの〈白豚〉だと見られるのが、今の最大の屈辱のような気がした。
三十七階の見晴らしのよいレストランに入り〈白豚〉はワインリストを眺め、ボーイとあれこれ話した。手持ちぶさたのイーブはする事がなく〈白豚〉をまじまじと見た。〈白豚〉の耳に真珠のイヤリングが揺れているのを初めて知って〈白豚〉がジゴロとの情事に備えて着飾っているのを知り、おそらく体中どころか股の間にまで香水を振りかけて来たのだろうと思い、女のいじらしさが浮き上がっていると急に優しい気持ちであふれ、〈白豚〉がワインリストをボーイに渡すなりテーブル越しに手を差しのべ、〈白豚〉の手を握った。〈白豚〉はキム・ノヴァクかビビアン・リーか今風のブルック・シールズになったように驚いてイーブを見つめ「つらかったァ」と言い出す。
「どうして?」イーブはホストの鉄則どおり、言葉少なに相手の気をそらさないように訊いた。
「忘れられなくなりそう、と言ったけど、そう」〈白豚〉は科白のように言う。
「チョン子と顔見知りだから一回ぐらいはいいって誘いに乗ったんだけど、あれからずっとあなたの事、考えていた」
イーブは黙ったまま〈白豚〉を見つめた。イーブはサイボーグだった。何も考えない。元々、考える事は大して多くなかったので、どう見てもハリウッド女優の吐くような科白の似合いそうのない、貧相なチビでブスの年寄りの〈白豚〉が、伯爵夫人のような、金満家の有閑マダムの言いそうな言葉を親身になって受けている、という事など、たやすい。何も考えず、何も感じないまま、サイボーグとして女の前に坐って相手を見つめると、相手はイーブの腹が減ったなと目を細めただけで恋に身を焼き想いが募ったのは自分もそうだと言っているかと思ってくれる。
顔のひげそり跡がかみそり負けし、かゆくなったとしよう。指でかけば炎症を起こし赤くなると分かっているのでかくのをこらえ、しかしかゆさに思わず頬を動かしてしまうと、相手はイーブがサイボーグではなく、自分と同じ心を持った人間で自分の話を聴いて嘲笑したと取り、失意に陥るか怒るかする。
ジゴロと言ったとしてもホストと言い直しても、相手とは金でしかつながっていない。相手も当方も分かっている事だが、相手は急に小便臭い日常からハラハラドキドキする劇映画の中に入り込んだように、目の前にいる美青年との会話は国際電話の通話料金より高い金がかかっていると知りながら、子供が現実の人形に語りかけるように夢見心地で苦しい胸のうちを話すのだった。
〈白豚〉がチョン子と呼ぶ連絡係のファッション・パーラーで働く女に、イーブの方は〈白豚〉の身元を何も知らされていなかった。だいたいは身元の確かな本当の大金持ちだが、中には女のチョン子さえ長い事だまされ続けたくわせ者もいる。夫はしがない平凡なサラリーマンなのに何に火がついたのか、サラ金を借りまくり、カードで物を買いまくってホストに貢いでいた客もいる。人の預金を操作して金をつくり、遊び廻った女もいる。チョン子は言うのだった。そりゃそうだよ。セックスってあっち向いたってこっち向いたってワーワやってるじゃん。パートに出たり何だかんだとしてさ、小金あったらさ、ちょっとは遊びたくなるじゃない。ちょっと着飾って映画に行ってさ。次の時はスナックへ行ってさ。ひょこっとホストの世界にまぎれ込む。美しい男らがいっぱいいる。それにくたびれたお父ちゃんのじゃなくて、その為だけに磨いてる男がいる。もう駄目ね。もう戻れないね。だってデパートで売ってる物なんて、それで女の夢、見ようと思っても手間暇かかるもの。こつこつこつこつ。骨がきしんじゃう。ところがホストの世界ってシンデレラじゃん。中に入った途端、シンデレラか白雪姫になったみたいに美しい男にかしずかれて、そのうち寝て、天に舞い上がる心地して、ああ、人生こんな素晴らしい世界味わっている人いるんだと思う。もう歯止め利かないよ。
〈白豚〉は運ばれて来たワインを味見し、ボーイにうなずき、イーブの顔を悲しげに見る。ボーイが去ってから、「今度、あなたがしてね」とささやき、イーブが何の事か分からず見つめ続けると「ワイン」と目を伏せ、言い難い事を言ってしまったと話を変えるように、「こんな店一軒、持っていた事あるのね」と言い出す。
「ああ、そうなんですか」イーブはホストの鉄則どおり、毒にも薬にもならない相槌をうつ。〈白豚〉はホストのイーブに、見栄を張ってつくり話をしていると誤解されたと思ったように、「ほんとよォ」と言い、イーブには格別聴きたい事ではないのに、事業をしていた夫と別居したのでしばらく自分が経営していた、と身元を明かしかかった。
話している最中に料理が運ばれる。〈白豚〉が、何の料理を頼んだのか分からなかった。フォークとナイフをどう使いどう置けばよいのか見当がつかず〈白豚〉の真似をすると、身元を話し続けていた〈白豚〉は笑い出し、「まだ子供みたいなところあるのねェ。可愛いのねェ」と言い、食べるのを止め、フォークとナイフをそろえ「こうすれば終了という合図」と言い、一瞬、〈白豚〉からシンデレラの気持ちを味わっているのは〈白豚〉の自分ではなくイーブという源氏名の彼の方だと言われたと顔がほてったイーブに、「飲みましょうよ」とグラスを持ちあげる。渋々彼はグラスを持ちあげ乾杯した。グラスの音が立って、彼からまたサイボーグのイーブに戻ったように、〈白豚〉を見つめ、相棒だったターがチョン子に何を言ったのか、チョン子が〈白豚〉に何を言ったのか、サイボーグの今のイーブには関知しない事だと目を微かにしかめる。
ジゴロ、ホストのイーブは力を抜き、しかめた目が相手に何を訴えるか、分かっている。相手にはサイボーグのイーブが目のあたりの筋力をかすかに緩めただけのものが、すぐにでもベッドへ行こうと若い猛った一角獣が誘っているように映る。〈白豚〉はワインの酔いで羞恥心が薄らいだのか二度目だったので不安がなくなったのか部屋に入るなりイーブにしなだれかかり、服を脱がして欲しいとあえいだ。イーブが灯の煌々とついた部屋の中では羞かしいだろと灯に手をのばして落としかかると見ていて欲しいと言った。
〈白豚〉の裸の何を見て情欲に猛るのではなく、サイボーグの一角獣は二人きりの部屋に入ると、後頭部にか前頭葉にか埋め込まれた情欲のセンサーが感応し、刺激が流れ、勃起する。〈白豚〉の着ているブラウスのボタンをはずし、そのままシュミーズの下の肉に埋まるほどきついブラジャーのホックをさぐり当ててはずし、さらにサイボーグの指にも情欲のセンサーが埋め込まれているというように、たるんだ肉をたどり、スカートにおりる。左腕で〈白豚〉の体ごと抱え、スカートのホックをはずし、〈白豚〉を膝の上に乗せたまま、はずした服を脱がしにかかる。〈白豚〉はイーブのサイボーグの指が夢想の中の恋男のもののように、「ああ好きよ」とハリウッド女優のような科白を吐き、ふと、シュミーズの下にはいていた小さめの、きつく肉に食い込んだガーターに指が困惑していると知ると、身をゆすり起き上がって自分で脱ぎにかかる。
サイボーグは〈白豚〉のその仕種で鼻白むわけではなかった。鼻白むというなら最初からだった。〈白豚〉は娘のはくようなフリルのついたパンティをはいている。パンティ一枚になってから〈白豚〉は自分一人あられもない裸身をさらしているのに羞恥を覚えたように体をよじり、イーブの体に身をのしかけ「取って」とネクタイの結び目に手を掛ける。淡い水色のストライプのネクタイには真珠のタイピンがしてある。
イーブは〈白豚〉の手を押え、「待ってな」と優しく言葉を掛け、立ちあがって〈白豚〉の情欲に燃える目に一角獣のサイボーグがどう映っているのか計算しながら、情欲のセンサーのついた指で小さなタイピンをはずし、鏡の前の台に置き、次にネクタイをはずす。ネクタイをはずし襟のボタンを広げ、中の黄金のネックレスをさりげなく〈白豚〉に見せた。〈白豚〉は案の定「ああ」と声を出し、自分が贈った物が一角獣の首に首輪のように飾られているのに満足し、二度目とは言え、見も知らぬ男と一緒に狭いホテルの一室にいる不安が消えたように露骨に夢見心地の顔をする。
絹のジャケットもズボンも型が崩れないように椅子の背に掛けた。シャツを脱ぎ、スキャンティ一枚になって、イーブは〈白豚〉に羞かしげな笑を浮かべた。〈白豚〉はそのサイボーグの笑に誘われたように、ふらふらと垂れた乳房を片手でかくしながらベッドから降りてイーブのそばに来る。イーブは〈白豚〉が何をしたいのか察した。
〈白豚〉はイーブの前に来て坐り込み、腰を抱え、勃起して小さなスキャンティから頭が出たサイボーグの性器に頬ずりする。性器に頬ずりするのは一向にかまわないが、スキャンティに頬ずりすれば、〈白豚〉のファンデイションやら微かに塗った頬紅がつくし、キスをすればどう見ても安物としか思えない口紅がつく。以前の彼なら十日同じ下穿きをはいていても苦にならなかった。ホストの務めで清潔を第一として毎日替えるが、ファンデイションや口紅のしみがコインランドリーで洗って拭えるとは思えないと思い、一枚、営業用の衣裳が無駄になったと思った。一晩の務めでスキャンティを五十枚でも百枚でも、さらに腕を上げれば〈白豚〉から五千枚でも買う事の出来る金を巻き上げる事は出来るが、スキャンティを買いに行くのが億劫だった。
車をビルの角で降りて、繁華街のはずれの一角に入った途端、建物の群の何がイーブを刺激するのか、そこが路地と感じとる。イーブはその一角にうろつく男らがホモだから相手を見つけようとそこにいるのだと分かっているのに路地の男たちのような気がしてならない。
スキャンティはその一角にある雑貨屋の隣の下着専門ブティック「アンダーフィールド」に売っていた。イーブが店に入っていくと、用もなしに店の中にいて下半身だけのマネキンのつけた下着を触ったり、ひそひそ声で話を交わしていた男から目線が飛ぶ。店の外で酔った女装の男が、店の中にいた少年に「おまえなんかのものはねえよ」と絡まれている。
「あら、生意気なガキねェ。彼氏にプレゼントするの買いに来ていいじゃない」
「ねェよ」少年は言い、丁度営業用のスキャンティを買い終えて外に出かかるイーブに話すきっかけをつかんだように、「こいつに売るような奴、ないよねェ」と声を掛ける。「知らないよ、俺は」イーブが言うと、少年が「どこへ行っちゃうの」と甘ったれた言い方で訊く。酔った女装の男が「きまってらァね。ホストだよホスト。お茶でも飲みたいってのなら、金、払えってよ」と無言のまま歩き去ろうとするイーブの後ろから言う。営業用のスキャンティ一枚にサイボーグが微かに抱く屈辱が染み込んでいた。
その時少年はイーブの後を従いて来た。ホストがその一帯に点在する〈黒豚〉向けのものだと思ったらしく、イーブの早足に合わせて大通りまで来てイーブがタクシーを停め乗り込んでからやっと気づいたように「損しちゃった」とつぶやく。
〈白豚〉はイーブの気持ちなぞ気にせず、スキャンティを化粧品と唾液で汚していた。イーブはスキャンティをはき続けるのが厭で〈白豚〉の顔を手で離し、スキャンティに手を掛けた。〈白豚〉は自分の愛撫に感応して若い一角獣が自制心を失いはじめたと錯覚したように、スキャンティを下までおろした。性器は〈白豚〉の顔をぶたなかった。左手で性器の先をおさえ勃起して張っているのが外からでも分かる尿道に沿って〈白豚〉は唇を這わせ、舌を這わせ、右手でスキャンティを下ろす。イーブは〈白豚〉の髪を撫ぜ上げながら、〈白豚〉の手の動きに合わせて足を動かし、呪縛からのがれるように裸になる。若い女であろうと〈白豚〉であろうとたとえ〈黒豚〉であろうと、快楽は快楽だった。舌で舐められくすぐられ、唇を押しつけられ、歯が当たらぬようにかくし、唇に力を込め吸われれば、相手が何であろうとイーブの一角獣の角は、快楽の束が集まり自然に感応し、止まらなくなる。いっそ相手もサイボーグであればよかった。サイボーグとサイボーグであれば、チョン子と姦る時のように、こうすれば女は気持ちがよい、ああすれば男は気持ちがよいと「忍者」と「くの一」が秘術の限りをつくして争うように、快楽だけを求めて性交出来る。
〈白豚〉は一心不乱にイーブの性器を舐めていた。そうする事が〈白豚〉の快楽なのか、それとも、イーブに快楽を与える為に自分を犠牲にしているのか判別つきかねた。立ったまま〈白豚〉に前に身をかがめられ、舐められ続けるとサイボーグの一角獣は漠然と不安になる。
「やろうか?」イーブは訊いた。〈白豚〉は口を大きく開け、性器を咥えたままイーブを見て首を振る。「ほら、駄々こねないで」イーブは言い、〈白豚〉の髪を痛くないように両手でつかみ、腰を引いて性器を口からいきおいよく抜く。〈白豚〉はなおイーブの体にしがみついた。「駄々をこねてると、男に嫌われちゃうよ」イーブは言い、〈白豚〉を立たせた。イーブがベッドに行こうと誘うと、〈白豚〉は何を思ったのか、「シャワーを浴びたい」と小声でつぶやく。イーブは思いついて〈白豚〉を抱き上げた。〈白豚〉は身をよじり、「私、体が重いからァ」と言い、下に降ろしてくれと言うので、「重くないぞ、ほら。こんなに筋肉がついているんだから」と鏡に腕の筋肉を映して見せ、二度、〈白豚〉を抱えたまま廻って見せた。〈白豚〉は悲鳴を上げ、「やめてェ」と呻いた。驚いて腕の中の〈白豚〉の顔を見ると、悲鳴を上げた事が羞かしいと言うようにイーブの筋肉の張った胸に顔を埋め、「子供の頃からブランコとか駄目なの」とつぶやき、「キスをして」と顔を上げる。イーブは〈白豚〉を抱いたまま首をのばしてキスをした。舌を差し入れ、くすぐり、〈白豚〉のよく動く舌に絡める。唇を離した途端、〈白豚〉は「時が停まってくれたら」と、またハリウッド女優のような言葉をつぶやいた。時折り、チョン子の仕事仲間のファッション・パーラーの女の子らと出掛けるスナックのカラオケにそんな歌があったと思っておかしくなったが、「時ねェ」と笑いをこらえイーブはつぶやく。
〈白豚〉は眼を閉じたまま「金だと思ってる?」と訊く。イーブは〈白豚〉の顔を見つめ直し、こらえていた笑を解くように笑い、「思っているよ」と答えた。
「姦るの姦らないの? どうせ金もらってるジゴロだから、して欲しい事、何でも言ってごらん。何でもしてやる。セックスしないでこんな事してるだけならそれだっていいし、話だけなら話だけでもいい」
イーブはヤクザっぽい口調で言う。
「あるじゃない、そんな医者。ファッションの女の子だって、男にもよく居るって言うよ。何もしないで、話だけして帰るの。一人しゃべってるか、ファッションの女の子の身の上話、聞いているか、どっちかだってよ」
イーブはそう言ってから〈白豚〉をベッドに降ろす。〈白豚〉はイーブの首にしがみついたままだった。手をのばし、イーブは女の子のもののようなフリルのついた〈白豚〉のパンティを「アンフェアだから取ろうね」とささやきかけて取りにかかる。〈白豚〉は股を閉じて抵抗の姿勢を見せるが、イーブが「お客とジゴロ、圧倒的にお客が強いんだからさ。お客が、おまえなんかお払い箱だから帰れ、と言われたら俺たちジゴロは帰るしかないんだから、裸のまんまの五分五分になろうよ」とささやくと、〈白豚〉は股を開き、パンティを脱がせやすいように腰を浮かせる。
ふとイーブは笑い出す。〈白豚〉が「どうしたの?」と訊く。
「チョン子にホモの客、紹介されたの知ってる? どうなったか知ってる? 殴り倒しちまった」
イーブは〈白豚〉の横に添寝し、乳房を愛撫しはじめた。
「そいつの話か誰の話か知らない。男の子と一緒に暮らしていたんだって。フィリピンかどこかで。そいつが日本に帰った時、男の子を連れて来たんだって。しばらく男の子をアパートに住まわしていたんだけど、相手が日本語を覚えないし、手間暇かかるのでめんどうくさくなった。それに傍目《はため》もあるし。日本に帰ったら仕事もあるし。或る時喧嘩しちゃった。男の子はフィリピンに帰りたいと言った。じゃあ、帰れ。フィリピンまでの片道チケット買ってくれと男の子が言う。帰るんだったら自分でチケット買って帰れ。フィリピンの男の子、泣きながらアパートを飛び出した。その夜、大雪になった。それっきりフィリピンの男の子は行方不明になった。その子、東京に居るの、フィリピンに帰ったの? と俺が訊くと、さあ、と言うんだ。そいつは友達の話だ、と逃げたけど、たぶんそいつが当の本人だろうね。俺に、ホストやってると女や男に囲われて服買ってもらったり車買ってもらったりするから、そのフィリピンの男の子の気持ち分かるだろう、と言って、俺のに抱きつきながらジョジョとか名前を呼ぶんだ。そいつが厭な事するんでジョジョの代わりになって殴ってやった」
「悪いわよ」〈白豚〉は言う。
「厭な事されたんだぜ」
「厭な事って」〈白豚〉は言い淀み、「わたし、厭な事した?」と訊く。
イーブは首を振る。「何もしていない。むしろいい事してくれるから、こっちの方が、ホストの役、何もしていない気になって、悪いと思って」と言い、ここらが潮時だと〈白豚〉の力のない垂れた乳房に顔を埋め、乳首を吸う。〈白豚〉は声をあげ呻きながら手を這わせ、イーブの性器をつかみ、容積をはかるように握り直した。イーブは〈白豚〉が自由に手をつかえるように片脚を〈白豚〉の股の間に入れ、膝で股間をゆるやかにこする。性器を握った〈白豚〉の手の動きに合わせて起こる、自然なイーブの腰の動きが〈白豚〉の体全体に波動をつくり、快楽を生み、そのうち昂まりが起これば右の手を股間にそえ、それで果てない時は指を大きめのクリトリスにそえてやる。
すぐ波は来た。〈白豚〉は身をそらし、性器を握った手に力を込め、股間にあてがったイーブの分厚い筋肉のついた膝をはねとばしそうな勢いで力を入れ、震えながら息を詰める。二度波が襲い、あえぎながら〈白豚〉は、イーブの耳元で「イって欲しい」とささやいた。
「いいんだよ。人の事、気にする事ないって」イーブが言うと、性器を握り直し、「こんなままなのに」とささやく。「俺が客だったら別だけど、ジゴロだからいいんだよ」
「イって、お願い。わたしの中で」〈白豚〉はまたハリウッド女優のような言い方をする。イーブは苦笑いし、〈白豚〉の乳房に顔を埋めたままハンフリー・ボガートの真似をやり、「俺が姦った女の中で一番感じやすいんじゃないか」と殺し文句をつぶやく。
「何人?」〈白豚〉は訊く。黙っていると、「女千人、男七百人?」と〈白豚〉は訊き直し、黙っているイーブの耳元で、「イってくれたら欲しいもの、なんでも買ってあげる」とささやく。
「要らねェよ。欲しいものなんかねェよ」イーブは言い、〈白豚〉をおだてるように「それより、見せてくれたら、中でイってやる」と言う。
「厭」〈白豚〉は若い娘が彼に言ったように言い、「ねェ、欲しいもの、買ってあげるからァ。洋服なんかじゃない、マンションだって買ってあげるから」とイーブの性器をしごく。イーブはまたハンフリー・ボガートの真似をし、「そうやってそこに閉じ込めるんだよなァ」とつぶやき、顔を起こし〈白豚〉にキスして、指を〈白豚〉の股間に這わせる。指が陰毛に触れさらに下がって萎びた野菜の葉のように力なく容易にめくれるひだを指で起こしかかると、〈白豚〉は「好きよォ」と声を出し、指が快楽を味わい尽さなければ気がすまないと言うように突出したクリトリスに触れると、「ああ、独り占めしたい」と言葉を吐く。確かに千人のうち一人か二人のクリトリスだ、と不思議に思い、イーブは〈白豚〉が声をあげ続けるのに頓着せず、大きな突出したクリトリスからさらに下におりてみる。クリトリスが女陰の入口まで帯状に広がっているのに驚き、その帯がどこまで続いているのか入口の中に指を入れると、齢を取って緩んだひだは何の抵抗もなしに入ってしまう。指をもう一本そえ、中をさぐると、〈白豚〉は、イーブの行為が前戯だと勘違いしたように、「もう、駄目。中に来て」とあえぎながら言い、声をあげ、声を詰める。「分かった」イーブは言った。
いま一回、おどけてみようと煙草を咥えた仕種のまま、「忘れられないようにしてやる」と言い、〈白豚〉の股の間に両脚を入れた。〈白豚〉はイーブの性器を握ったままだった。〈白豚〉の手に導かれて、萎れた野菜の葉のようなひだを割って入口に当て、ゆっくり腰を沈めると、齢取り弾力なく開いてしまった入口は、それでも微かな抵抗感がある。〈白豚〉が足をのばしたままなのですぐ行きどまりになり、仕方なくイーブが腰を上下に使いはじめると、〈白豚〉の帯状のクリトリスにイーブの性器の一等固い二つに盛り上がった背の部分が当たる。〈白豚〉は、あっけないほど早く絶頂を迎え、イーブが躊躇せずさらに腰を使うとあえぎ続け、「もう駄目。許してェ」と蚊の鳴くような声を出す。そこで止めてもよかった。
サイボーグの一角獣の役目は取りあえず客を満足させる事で、一角獣自体が快楽を得、射精するのは二の次だった。しかし、止まらない。たとえサイボーグであろうと、〈白豚〉のゆるんだ女陰の中で微かに現われた快楽にかなわない。快楽が〈白豚〉のあえぎに煽られ直線上を飛んでやってくるのを知り、「中でいいの?」と訊いた。〈白豚〉は答えられず、ただうなずくのを見て、イーブは半身を起こし、両脚を上げさせ固く締めさせ〈白豚〉が気をうしなわないように自分の腰の動きに合わせて〈白豚〉の尻をたたき続ける。尻をたたく度に締まり、その度〈白豚〉が、ただ息の音だけで、許してェ、殺さないで、と言葉にならない譫言《うわごと》をつぶやき、そのうち、殺して、殺して、という声になった時、赤ん坊のように〈白豚〉の両脚をそろえて持ち上げた格好でイーブは声を上げて射精した。最後の射精の痙攣が終った時、萎びた〈白豚〉の足の裏が、イーブの額に当たっていた。イーブは息を整え、足の裏にキスをした。
二
鴉が三羽、電柱の脇に積み上げた黒いポリ袋を嘴で喰い破り、中から魚の腸や骨を引きずり出していた。朝、五時を廻ったばかりだった。都会の鴉はその一画に立ち歩く人間らが、ただの酔っ払いか、男を漁る男か、自分の店がひけたので客と飲み歩くホステスかで、スナックやバーから出る生ゴミをめぐって競合もしないし、危害を加える事はないとたかをくくって、人が近寄っても動じる様子はないとイーブは笑った。腸を咥え振り廻す鴉を避けてイーブはビルのエレベーターの前に立ち、ボタンを押した。
ビルに入っている何軒ものスナックの名前を見るだけでも、その繁華街の一画が他と違っているのが分かる。その辺り一帯は元は赤線だった。売春防止法が施行され、一画は様変わりし、沖縄の飲み物や食物を出すスナックが出来、ホモの店が出来、次に流行に敏《さと》い若者らのディスコが現われた。そのビルの一階は何でもないスナックばかりだった。二階に一軒、沖縄料理があり、他にホモのスナックが一軒。三階にイーブが行こうとする(金[#底本では「○に金」。以下すべて])多摩霊園があった。
エレベーターが降りて来てドアが開き、中から一眼見ただけで素裸の上に祭用の半纏を羽織っているだけだと分かる従業員が、力なくうなだれた女の子の肩を抱えて現われ、イーブの顔を見るなり、「チョン子にこいつ怒られちゃってよ」と言った。イーブは従業員に覚えはなかった。従業員はイーブがけげんな顔をしているのは、チョン子が何故怒ったのか理由を分からないからだと思ったのか、半纏がはだけあらわになった従業員の胸に頭をすり寄せ、自力で歩く気もないような女の子を「さあ、タクシーに乗るよ」とエレベーターの中から連れ出し、「こんなにラリっちゃったら、チョン子だって怒るよ」と声を掛ける。うなだれて歩く気力のない女の子の肩を抱えて歩かせるには力が腕に入るので、まだ少年のままのような鍛えていない胸にも筋肉がうっすらと浮きあがる。下穿きをつけず大きめの半纏の上だけつけ、紐を締めて股間をおおっているので、歩き出すと従業員の性器が露出する。無言のまま二人と入れ替わりにエレベーターに入った。従業員が裸のいたるところになすりつけたものか、女の子がつけたものか、香水の匂いが鼻を突く。従業員が振り返ってイーブに声を掛けるのに耳を貸さず、イーブはボタンを押し、ドアを閉めた。
(金)多摩霊園に入るなり、従業員の一人が半纏の紐も締めず、ただ両袖に腕を通したという格好で現われ、客がファッション・パーラーやソープランドで働く女の子でも男の裸を覗きに来た男でもなく、自分らとさして違わないホストだというように、「奥にいる」と暗がりを指差す。明るい朝の外から入って来ると、センサーが微妙な狂いを起こし、サイボーグのイーブは一瞬、眼が利かない。明るい照明の当たっている入口に立った裸同然の従業員も、入口付近に陣取った男の客二人、従業員三人の姿もはっきり見えるが、奥の薄明りにいるのが、男らか女らか、女らなら誰らなのか、分からない。入口付近にいた男客の席で、従業員三人が客の命ずるまま性器を勃起させようとしているのが仕種で分かった。たとえ勃起させ、性器を客に見せ、触らせるのが(金)多摩霊園の従業員の仕事だといえ、射精しなくとも入れ替わり立ち替わりやってくる女客や男客に見せていては、刺激を与えても勃たない。店には従業員らが持ち込んだ女の大胆なヌードの写った週刊誌が幾種類もある。一人の従業員が、この女の子の、このポーズでは勃たない、と次をめくろうとすると、「あッ、もうちょっと待ってよ」と別の従業員が抗議の声を挙げ、ページが遂にめくられてしまうと、言う事を聞かない自分の性器にかんしゃくを起こし、奥にいる女の子の方に、「ちょっと助けて。本物、見せて」と甘ったれた声を出す。
「冗談じゃないわよ。こっちだってお仕事なんだから」
「お金払ってんだからね」女の子があきらかに酔った口調で、弱い動物をいたぶるように棘々しく言い返す。
「不運だと思って観念しなって」
この声が、チョン子のものだ、とイーブは分かった。イーブは声の方に歩いた。キャンドルライトを三つ置いたテーブルにチョン子とチョン子の遊び友達のファッション・パーラーの女の子が二人、店がひけ、客と別れ、気分直しに従業員を玩具にして遊ぶ事の出来る(金)多摩霊園に来たというようにそれぞれ従業員を脇にはべらせている。チョン子はイーブに笑いかけたが、ファッションの女の子はあきらかに睡眠薬で酔い、ラリった状態で玩具にして遊びに来た従業員に甘えてしなだれかかり、従業員に耳元でささやかれ、うんうんとうなずき、ふと、いまさっき、本物を見せて欲しいと言った従業員がそばに来たと思ったのか顔を上げ、「冗談じゃないわよ」と口をとがらせ、そこにいるのが、いまホテルで仕事を終えて来たばかりのイーブだと気づいて、「イーブかァ」と声を和らげる。ふと思い出したように、「イーブとここのトイレで姦った事あるよ」と言い出し、耳元に言葉をささやきかけようとする従業員の胸を突き、「ちょっと、わたしの彼氏が来たのに、控えてよ」と声を荒らげる。
イーブは(金)多摩霊園の従業員のように、女三人がそれぞれの相手を連れて坐ったボックスを避け、丸椅子に腰掛け、「俺もプロだから、スッパ抜かれたら困る」と、戸惑い顔の従業員に救け舟を出した。
「そうよねェ。プロよねェ」女の子は言い、自分の働くファッション・パーラーであきるほど商売用の性行為まがいをやって来た、という顔で、「あんたみたいな男の子、いっぱい客で来る」と従業員に言う。
「勃っちゃってるから」従業員が言うと女の子は身をよじり、従業員の顔を見てふんと鼻を鳴らし、「それが、何だってのよ。勃つわよ。そんな事、自慢しないで」と言い、イーブに向かって「ねェ、この子と替わって。この前みたいに優しく言って」と見つめる。脇にいる従業員と話し込んでいたチョン子が顔を上げる。
「ケイ、そんな事言ってたらイーブが居ない時どうするのよ。アキラ、もう相手にしてくれないわよ」
アキラと呼ばれた従業員は、「そうだよ。ラリってても知らんぷりするからな」と答え、イーブに今初めて気づいたというように、プロとしての値打ちをはかるように見つめる。
事が終り、サーヴィス心を出して〈白豚〉と共にシャワーを浴びて服をつけ、ホテルを出てそのままチョン子と待ち合わせた(金)多摩霊園に来たので、自分の体からも服からも性の匂いが立ちのぼっているのを見られているような気がする。アキラと呼ばれた従業員は、イーブを見つめたまま、「僕、初めてですね?」と訊いた。
「チョン子と待ち合わせて何回か来てるけど、初めてだよな」イーブは言外に、この(金)多摩霊園へ従業員を玩具にしてうさばらしをしに来ているのではない、と言うが、アキラはイーブの言葉をどう取り違えたのか、半纏の紐をほどいて前をはだけ、ふらふらと立ちあがり、「アキラ、と言うの。二十一歳です」と名乗り、畏ろしい物を見ているような眼でイーブを見る。
「芸をしましょうか?」
「いらねえよ」イーブは即座に答えた。
「やらせなさいよ」ケイが言う。「新顔だって言うのに、何にもしないで、ただそばに坐って、セックスの話ばかりしてんだから」
ケイは前をはだけて立ったアキラの勃起した性器をおしぼりで「何よ、これ」とはたき、「ワイパーやってみなよ。あんたみたいな素人にお仕事の苦労なんか、分かるはずないよ」と言う。
「じゃあ、ワイパーやります」アキラはイーブを見つめたまま言う。イーブは苦笑した。勃起した性器を使ってどうワイパーを真似るのだろう。
あの日、チョン子が客の斡旋役になると決まって、金の受け渡しや配分の打ち合わせをやり、ターと共に面白い店があるとチョン子に誘われてこの(金)多摩霊園にやって来たのが初めてだった。あの時も、前をはだけて坐った従業員が、性器を道具にしてやりはじめた芸を見て笑い入ったのだった。ワイパー。かたつむり。ヨーヨー。突出した形の男の性器にしか出来ない芸、それも男なら誰にでも出来る芸と呼べる代物ではない芸に、笑い転げてから鼻白んだ。ワイパーは勃起していない、引っぱればゴムのようにのびる性器を使って、先をつかんで引っぱり、「雨降って来ちゃった、前がくもって見えない、カチン。ワイパーでーす」という言葉と共に、ただですらぶらぶらする性器を左右に動かす。大雨が降って来れば、左右に動かす手の動作を速めれば、性器のワイパーはたあいもなく速度が増す。速度を増しすぎて壊れれば、先をつかんだ指を離し、ぶらぶらと動かせばよい。
アキラはケイにささやき、身を寄せていて勃起したという性器を使い、手で左右に動かした。弾力なく硬く身を突っ張ったままの性器は左右に動かすと、いかにも愚鈍な感じがする。その愚鈍さをチョン子もケイも、もう一人、みどりも男の性器は女には本来そう見えるのだというように笑った。
「痛いんじゃないの?」
チョン子が訊くと、アキラは「ちょっとだけ」とつぶやき、笑いもせずにいるイーブを見る。
「いいんだって言うだろ。もうやめろ」イーブは言う。イーブはアキラが勃起した性器を手でつつむようにして坐るのを見ながら、自分なら到底耐えられない事だ、と思い、もし、〈白豚〉の一人が(金)多摩霊園で性器の芸を目撃して、イーブにやってみろと迫るような事があれば、即座に張り倒すだろうと独りごちた。
イーブはアキラを見つめた。アキラの眼にイーブは黄金の角を持つ一角獣と映っていなければ、形や容積、色が違っても同じ機能の性器を持つイーブは、おさまりがつかない。一角獣は神話の動物だった。神話の、架空の動物だから、黄金の角は〈白豚〉や〈黒豚〉らが目を見張り、拝跪し、手に触れてそれが札びらを切った一瞬だけ自分のものとなると恍惚に酔い、聖像に信者が接吻するように唇を這わし、聖なる液を浴びる。イーブはアキラを見、アキラのまだ勃起しない性器を「バカ、バカ、ちゃんと出来ないで」とおしぼりではたいているケイを見、サイボーグの体の中から怒りとも情欲ともつかないものが湧き上がってくるのを知り、〈雌豚〉と〈雄豚〉を同時に姦ってやる、と思い、アキラに秘密の話があるから脇に来い、と呼んだ。
「何?」チョン子が訊いた。イーブはアキラを見つめながら、「来いよ」と声を掛ける。アキラが「はい」と答え金縛りに遭ったように立ち上がる。チョン子が異変を察知したように「この子にひどい事しちゃ駄目よ」と言う。アキラは半纏の前を押えながらイーブの脇の丸椅子に坐った。イーブはアキラの肩に手を掛けた。
チョン子が斡旋する客の〈黒豚〉は、誰もがたとえ自分の話に酔ってまくしたてている最中であろうと、初対面で羞かしさと後ろめたさでおどおどしていようと、イーブの手が肩に掛かると、手からマイクロ波が〈黒豚〉の体にバイブレーションを伝えるように、男と男の性が始まったと知って異様になる。男と男が接近するのは戦い以外になかった。それが接近するだけにとどまらず、肩に手が置かれれば、互いに同じ性として反発しあう磁力が変化し、〈黒豚〉は男であって違うものになる。相手が男のままであり続けるなら、イーブが神話の、架空の一角獣になり、男を凌駕するのだった。
イーブは鍛えていない生地のままの筋肉だと分かるアキラの肩に手を掛けたまま、耳元に顔を寄せて、「俺がおびき出すから、三人で姦ろうぜ」とささやく。アキラはイーブの申し出が意外だったらしく、イーブの手から伝わり体にバイブレーションを送っていたマイクロ波が急に途絶えたように、顔をそらしイーブを見る。イーブは微笑をつくった。誰もがほめる笑だった。〈白豚〉も〈黒豚〉も、チョン子も、チョン子の遊び仲間のソープランドやファッション・パーラーの女の子さえ、爽やかでセクシーだという微笑だった。アキラはイーブが本心から微笑を浮かべたと信じたようにイーブを見て笑を返し、「どこで?」と訊く。イーブはアキラの肩に置いた手に力を込め、引き寄せ、耳のそばで「ここのトイレで」とささやく。息と声がアキラの耳をくすぐっているはずだった。
「セックスって面白いぜ。チンポコって大事だぜ。プロが本気になったらどんな風に姦るのか、見せてやるよ。俺がケイと姦ってるから、人に気づかれないように後から来りゃいい。ノック、三回して、名前言えば、開けてやる。二本入れてやってもいいし、後ろと前と両方、入れてやってもいい。おまえのバカにされたの、ワイパーとかかたつむりじゃなくってこう使うんだって教えてやれ」
アキラは、イーブの言葉を聴いて「仕事ですから」とつぶやいた。「ああ言っても、あいつ、ほとんど僕目当てに毎日来るんですから」アキラは弁解した。イーブはアキラの弁解に取り合わなかった。
「見せてやるよ。二人で一緒に姦るの厭だって言うのなら替わってやるよ」イーブは言い、アキラが、躊躇するのをほぐすように、「大丈夫だって」とアキラの髪に手を掛けこすり、胸に引き寄せる。
「あっ、何か企んでいる」チョン子が言った。
「売り物だから変な事して、病気なんかもらわないで」
「病気って何だよ?」
イーブが訊くと、アキラはイーブの金縛りから解けたように、「僕、病気なんか持ってませんよ」と言い出す。その言葉を聴いて、イーブはアキラが口説かれるのを気づいていたと気づき苦笑し、それなら、手早くイーブが思いついた一角獣の黄金の角だけが光り輝くようなアクロバットめいた体位を説明し単刀直入にケイを姦らせる代わりに鶏姦もさせろと言うべきだったと思った。
(金)多摩霊園の経営者が一体、その店を繁華街の一画にたむろするホモの男客用につくったのか、それとも遊びにあいたり、並の男にうんざりかした女客用につくったのか判別つかなかったが、女客が化粧を整える事の出来るよう明るい照明のついた洗面所も便所も、広くつくられていた。明るい洗面所の鏡の前に立って自分の顔を見つめながら、ケイがチョン子や他の従業員に気づかれないようにやって来るのを待った。
イーブの手はずは、まずケイが来て、イーブとケイが便所の扉を開けて中に入り、次にアキラがやってくる。合図のノックを聴くと、イーブは中から鍵を開ける。中でイーブとケイは立ったまま姦っている。ケイを後ろ向きにさせ、便器に手をつかせ尻を突き出させた格好のままなら、イーブが退き、アキラが入れ替わってもケイは抵抗の仕様がない。イーブは鏡の中の自分の眼を見つめながらあれこれ考える。イーブは手をのばして股間を触った。ズボンの生地の向こうに「アンダーフィールド」で買ったスキャンティがあり、その中に毛も生えていないモグラのような性器がある。(金)多摩霊園の従業員もイーブもそれを商売に使っているのに変わりはないが、向こうはどんな男のどんな性器であれ持っている愚鈍な、間が抜けた、ただの余計な突起にすぎないようなところを誇張して商売し、イーブの方は力が漲り、鋭く、それこそが中心だと主張してやまないようなところを商売にする。
ズボンの上から性器の形を指でなぞり、イーブは外国映画の中のジゴロのようにあごを引き、上目づかいに見る。
「姦ろうぜ」とつぶやき、イーブはズボンの上から徐々に脹《ふく》らみを増す性器を愛撫するようになぞりながら、鏡の中の自分を誘惑するようにウィンクした。その時ドアが開き、入って来たのがアキラとケイの二人だったのに気づき、イーブは思わず振り返った。
「何だよ」イーブがアキラに手順が違うというように声を荒らげると、「女の人、洗面所に立ったら、おしぼり持って待ってなきゃいけないんです」とアキラが弁解する。
「チンポコ勃たせたままかよ。危ねェな」イーブが言うと、アキラが笑う。「一応、僕らもホストですから。男の人にしませんけど、ホストとして女の人にはサービスするんです」
「ホストだってよ」イーブはケイに同調を求めるように苦笑し、アキラがケイのすぐ脇におしぼりを持って立ったままなのにかまわず、腕を取って引き寄せ、ケイの手をつかんで完全に勃起した性器の脹らみに当て、「同じホストでもこんだけ違うよな」と耳元でささやく。ケイはファッション・パーラーで働く女の職業的習性だというようにズボンの生地からはっきり分かるように掌で撫ぜあげ、指をもぞもぞと動かす。
「月とスッポン」ケイは言う。「猫に小判」ケイは言い、イーブが髪に顔を埋めたので混乱したように「あッ、違ったかァ」と小声でつぶやき、くすくすと笑いはじめる。ケイが笑いはじめると、アキラがふてくされたようにドアに背をもたせかけて「いいよ。何でも」と言い、手に持っていたおしぼりを壁に投げる。
「早く、姦りなよ。さっき言ってたじゃないか、二人でお客さんを姦ろうって」
イーブは聴かなかった振りをした。
「本当?」と疑わしげに見るケイを引き寄せ、唇に唇を重ね、舌を入れてケイの舌を軽くこすり、唇を離してから「何本と姦ったって俺の一本にかなうかっての」とヤクザ口調でイーブは言い「早く姦れよ」と合いの手を入れているアキラに「見せてやるよ。プロのオマンコはこうするんだって」と言い、ケイのミニスカートを脱がしにかかる。ケイはイーブの手を止めた。
「いいよ、自分でやる。それより、自分の脱いで」ケイはエナメルのベルトをはずしスカートのホックをはずし、手馴れたように脱ぎ、体にぴったりとくっついたニットの袖なしのセーターはそのままで、シュミーズ一枚になった。腰をかがめてシュミーズの中に手を突っ込みパンティをはずしにかかりふと思いついたというように、「ねェ、脱がして。裸にして」とアキラに体を向ける。イーブは洗面台の上にジャケットを二つ折りにして置いた。ピンをはずし、ネクタイをはずし、折ってシャツの胸ポケットに入れてから、自分が(金)多摩霊園の従業員同様、裸になろうとしているのに気づき、ケイやアキラと商売ではなく余興のように男二人、女一人の3Pをやろうとするのに素裸になる必要があるのかと躊躇し、ケイがアキラをなめきったようにアキラの前に立って両手で髪をかき上げ、黒のサマーニットを脱がせろと迫っているのを見て決心し、シャツを脱いだ。ズボンを脱いでスキャンティひとつになると、アキラが「やっぱし」とつぶやく。
「何だよ?」イーブが訊くと、アキラは黙る。黙ったアキラを見て、イーブはアキラが何を言っているのか分かったと、「格好いいよな。一日三時間もジムで体緞えてるんだぜ。見てみろよ、ここなんか、ケイのパンティより露骨なの」とほとんど前と後ろをつなぐ紐のようにしか見えないスキャンティの太腿の部分を指でつまみ弾く。アキラがケイのパンティを下ろすと、ケイが「見て」と洗面台の鏡を指差す。
イーブはスキャンティに手を掛けて鏡を見た。鏡を見ながらゆっくりとスキャンティを取る。勃起した性器がイーブの体の真中にあるのを見て、いまさらながら自分が不思議な動物だと思う。
「何か三人でおトイレの中でパーティー開いてるみたいじゃない。キラキラして綺麗じゃない」ケイが鏡に映った三人を見て眼を輝かせる。イーブが自分の見方と違うと思い、ケイは何を見ているのかと疑い振り返ると、「こっちじゃない、鏡の中だよ」と言う。
「鏡を見てよ」ケイは言う。イーブは鏡に背を向けてケイの前に立ったまま、ケイとアキラを見た。イーブが鏡を見つめたままのケイに近寄ると、合図を受けたようにアキラが申し訳のように羽織っていた半纏を脱いで裸になり、ケイの背後にぴったりと寄りそい、腕を廻して両の乳房を手でつかみ、首筋に口をつける。イーブが手のとどく距離に来ると、体が視界を遮り鏡が見えないと首を右に振り、アキラが首筋から耳たぶに唇を動かしはじめると首を振り、微かに唇を開け、イーブが左手でケイの手をつかみ、さっきのように性器を愛撫してくれと引き寄せ、右手でケイの肩に触れかかると、まるでイーブのセンサーのついた指先から強い熱線が襲ったように身震いし、見開いた眼から涙がこぼれ出る。
「綺麗じゃない。見てよ」ケイは言う。
「綺麗だよ」イーブは言った。
「おトイレの中でさァ。綺麗じゃない」ケイは言い、イーブが真前に立ってケイの形よくくびれた腰に手を掛け体を引き寄せ、右手で尻を撫ぜ、唇に唇を重ねかかると、鏡に映った綺麗な世界を守るにはこうするしかない、というように、目を閉じる。イーブのものに比べてどんなに見劣りしようと、体の中心に勃起した性器を笑いものにされたアキラがまず手始めに、男の性器の威力をまざまざと見せつけるべく最初にケイに挑ませてもよかったが、ホストと言ってもこれほど哀れなホストはいないというような、(金)多摩霊園の従業員のアキラでは、挿入してすぐに果てるような粗相をしでかしそうな気がして、イーブはアキラの肩をたたき、自分が主導権を握るから従えと合図した。
ケイを二人で前と後ろから挟み撃ちにしたまま、アキラが洗面所の壁に背をもたせかけ、そのアキラを背中で押しひしぐ形でケイは、片足を上げて、大きく曲げ、イーブが前からケイの小さな桃色の女陰の中に挿入する。ケイが尻を後ろに突き出せば楽々とアキラの性器が、まださして使ってはいない固めの女陰の中に入る事が出来るが、ケイは股間部に当たる二本の性器を見もしないでより分けるというようにアキラの性器が入りかかると腰を反らし、イーブの固い巌のような性器の方へすり寄る。イーブは右手を壁につき、左手でケイの足を支え、さらに自分の性器がケイの股間の中心部に当たるように左足を上げぎみに身をねじっているので、ケイの女陰の中に入り、腰を振る度にケイが声を出しても、それがケイの体なのか、アキラの股のくびれなのか分からない。時折り誰かの手が性器と女陰の結合部にのび、あたりを這いまわる。手はしばらくイーブの性器の容積をはかるようにまとわりつき、次にイーブの性器がポルノショップで売っているバイブレーターのように余計な突起がついているというようにケイのクリトリスに当たる部分の指が折り曲げられ、そのうち、手がイーブの性器を女陰から引き離す。
ふっと性器が宙に浮遊し、腰を振り続けると、中空は自由ひとつない行きどまりばかりだというように固い物に当たり、かまわずに腰を振り性器を固い物に打ち当て続けると、急に閉塞が解かれ自由になったように暖かい柔らかい物に包まれる。イーブはあえぐケイにキスをし続けた。「綺麗だよ」とささやいた。自分の体全体の筋肉が性器の言うがまま行動する大群のようにむくむく動くのを見ながら、ケイが昂まり続けるのを励ますように、「綺麗だよ」とささやき、「気持ちいいよ」とつぶやいた。ケイは声をあげるだけだったが、イーブの腰の動きに合わせて腰を突き出すアキラが「いいよ、気持ちいい」と答え、その度にイーブは、ケイだけでなくアキラも姦っている気がした。壁について体を支えていた手を離し、アキラの髪を撫ぜると、アキラは嫌うように払い除ける。手をケイの乳房にやり、さらに脇に動かし、背中を撫ぜにかかると、腰を突き出す度に動くアキラの胸が当たる。薄い筋肉のほとんど無いに等しい胸をさぐった。豆粒のようなアキラの乳首は指でつまむと固さを増す。性器の結合部にアキラの手がのび、性器が小さなケイの女陰の中に納まり、なおかつ動いているのが不思議だというように境目を這いまわる。
ケイにこんなポーズをやれと命じたのははっきりとアキラを鶏姦する為だった。
「床に?」と訊くケイに答えず、イーブはまず床にアキラが脱いだ半纏を敷き、その上に、いつも着る度に性が匂い立つ気がする絹のジャケットを広げ、ズボンを広げ、ネクタイとタイピンを胸ポケットから取り出してワイシャツを広げて置き、ケイを仰むけに寝かせた。アキラはケイが仰むけになってから何がはじまるのか察したように「厭だよ、さっきのままでいいじゃない」と言い出し、イーブが見え透いた嘘を言うように「何にもしないさ。パーティーだから。こいつ、プロなんだぜ」と言うと、「何にもしないでよ」と言う。イーブは苦笑する。
「何にもしない事、あるか」イーブがつぶやくと「厭だ」と首を振る。イーブは仰むけに寝たケイの脇に坐り、わざとらしく溜息をつき、「じゃあ、そこで指咥えて見てろ。外へ出ていったら承知しないからな」と言い、ケイの乳房を愛撫しはじめると、アキラは口をとがらせる。
「セックスって自由じゃない。外へ行こうと勝手じゃない」
「何言っているのよ」ケイが快楽を中断されて焦立ち、声を荒らげる。イーブはケイをなだめる為、アキラにそうしろと言ったようにケイと逆方向になって横たわる。すぐケイの手が股間にのび、性器をつかむと首を起こし、口に含む。イーブはケイの立てて大きく開いた両足に腕を廻し、抱え、アキラを誘うようにじっと見つめ、性の快楽の前では何ひとつこだわる事は要らないのだというように、ケイの股間に顔をうずめる。形よく整えられた柔らかい毛が、いまさっき、イーブの巌のようなものを呑み込んだと思えないくらい、小さく優しく口を開けている。二本の指で花弁を開くと桃色の真珠のような突起があり、一本、イーブのものかアキラのものか、化粧室の明るい照明で黄金色に光っているちぢれた毛がついている。
舌をまるめ、イーブはクリトリスについたちぢれ毛をすくい取り、顔を上げ、アキラの目を見つめながら息を吹いて飛ばした。ケイは喉元までイーブの性器を咥え、まるで見世物小屋の蛇使いの女のように舌で側面をこすりながらずるずると性器を引き出す。
昼すぎから夕方までファッション・パーラーをおとずれる客の何本もの性器を咥え、口一つで満足させるケイの技術はイーブでさえ、声を上げたくなる。イーブは思わずケイの髪を撫ぜた。その演技ではない仕種がアキラに火をつけたのか、アキラはイーブと反対側の壁寄りに坐った。ケイの手に自分の股間が当たる位置に身をずらし、見つめているイーブに「変な事しないでよ」とつぶやく。
「変な事するんだって」イーブは言った。
イーブはアキラが言葉にどう反応するのか知る必要もないと言うように、根元まで呑み込み、ズルズルと蛇を引き出すように性器を引き出しているケイに、「やっぱり、ケイにやって欲しいって」と教え、ケイの手をアキラの性器にそえてやり、男同士はケイの股間で一緒に遊ぼうと言うように、アキラの腕を引き、身を横たえる。アキラはイーブが言わなくても、そうして遊ぶのが一等楽しいのだというようにイーブと同じ事をした。太腿の内側を唇でイーブがなぞれば反対側の脚をそうし、舌のひらで舐めれば、舌のひらで舐める。アキラは鏡に映ったもう一人のイーブのようだった。ケイの体がへそと性器を結ぶ線で左右対称になっていて、イーブが内腿から性器に向かって舌を這わすと、アキラもまた二匹の仔犬が母犬の乳を同時に吸うように舌を這わし、顔と顔がぶつからないように舌だけを女陰のひだの奥に出して桃色の果肉を舐める。
イーブはそうなるのも当然だというように、クリトリスに這わせた舌でアキラの舌を押しやり、次に絡め、くすぐった。イーブはアキラが抗議しないのを見て、手をのばし、アキラの胸をまさぐり、乳首をさがした。アキラは戸惑ったが、イーブの手が豆粒のような乳首をさぐり当てると、ケイを真中にして男同士、まったく平等だというようにイーブの胸に腕をのばし、週三回、一回三時間ジムナジウムに通って鍛え築き上げた筋肉の張った胸をまさぐり、乳首をさぐり当てる。
甘酸っぱいくすぐったさが湧き上がり、アキラの手を自分の乳首からはたき落としたい衝動が起こるが、イーブがアキラの手を払えばアキラもイーブの手を払うのが目に見えていた。イーブは一瞬策を弄した。イーブの性器に取りついたきりのケイに、せっかくアキラを男同士の性愛の中に引っ張り込もうとしているのに、イーブだけ口でやり、アキラには手だけで済ませている差別はいけないと言うように、ケイの口からのがれるために腰を引き、なお追ってこようとするケイに、次はアキラの番だと脚で突くと、ケイは合図を察したのか、口で咥える習い性の為か、アキラの性器を口で咥える。
いきなり口で咥えられ、アキラは短い声を上げた。その刹那、イーブはアキラの手を払った。アキラは声を上げ続けた。イーブはその声を聞き、いままでケイの左右対称の体を借りて鏡に向き合ったように何ら差別のなかった男同士の均衡が破れたように、手をのばして尻や背中を撫ぜ廻す。
尻も背中もケイの印象とはまるで違った。ケイの尻も背中も、硬いところはひとつもないが、イーブのセンサーのついた指は鍛えた事なぞないはずのアキラの体が硬いところばかりなのに戸惑う。イーブが体を撫ぜ廻し、それがケイの性器への愛撫と相まって快楽を昂めるのか、アキラはケイを愛撫する事すら忘れ、声を上げ続ける。その声が、イーブを誘っている気がし、いままでチョン子が斡旋するまま金をもらって〈黒豚〉と寝たが、自分から進んで一度もしようとした事がない行為をやろうと決心し、イーブは性器を握りしごくケイの手を払う。イーブは身を起こし、アキラを見つめた。身をねじって横たわり、快楽に顔をしかめているのは自分と同じ男ではなく、体のどこを触っても快楽に直結した別の人間のような気がし、イーブはケイと共にその人間を嬲ってみたくなる。
イーブは立ち上がって、二人をまたぎ、アキラの脇に坐った。アキラは異変に気づいたように顔を上げ、イーブが自分のすぐ後に来ているのを驚いたように見て、「変な事しないでよ」と言う。イーブは何も答えず、尻を撫ぜた。尻の二つの肉を両手でつかむと、力が入り、瞬間に凝固したように硬くなる。その硬い肉をほぐすように揉みしだき、硬いままなので腰椎から順番に骨盤に向かって押してみると、アキラは微かに力を抜き、尾※[#「骨」+「低」のつくり]骨に指が触れると、声を出す。尻の二つの肉の間から毛が微かに顔をのぞかせ、そこもまたケイの女陰同様、性器を受け入れる穴があると誘っているように見えた。イーブはアキラの尻から陰嚢にかけてもり上がった肉に手を触れ、真中を走る蟻の門渡《とわた》りにそって指を走らせ、ケイなら女陰はこのあたりというところにある陰嚢のつけ根をつかんだ。つけ根のふくらみは陰嚢の中をくぐり、表に現われ出て、ケイの口にすっぽり咥えられた性器になる。
何もかもがイーブと同じだった。イーブがそうされて快楽を感じる事をすれば、アキラも同じように快楽を感じる。謎も目新しい事も何一つなかったが、イーブはもり上がった蟻の門渡りの奥のふくらみも、尻も、その硬さが自分の性器を引きつけるように今は感じ、アキラの体に後ろから寄りそうように横になった。
背後にイーブが来ると、アキラは身をよじって逃げようとした。アキラの背中にぴったりと寄りそって髪に顔を埋め、イーブは腕を腰に廻した。腹に手を動かすと、腹に力を込める。小さな腹筋が指に分かる。その腹筋の一つ一つをなぞり、背中にぴったりと密着している硬い肉と同じものだというように下腹を押しつけ、さらにイーブは口説いているのは〈白豚〉や〈黒豚〉が目の色を変えるジゴロのイーブだと教えるように、耳に口を寄せ、「可愛いよ」とささやく。ささやいたついでにイーブは耳に口をつけ、噛んだ。アキラは抗《あらが》わず、ただ女のように声を上げた。その声を聴いて、イーブはアキラがもうどんな事をされても逃げる意思もなく、ただ体の中で渦巻く快楽が頂上に向かって昂まり、なだれを打って奈落に崩れ落ちるまで行くしかない、と分かった。
〈白豚〉のみならず〈黒豚〉までチョン子に斡旋され、〈黒豚〉からああして欲しい、こうして欲しいとせがまれ、ジゴロの責務を果たしもしたので、アキラぐらい快楽で縛りつける技術は持っていた。イーブはアキラの耳を前歯ではなく奥歯で噛む。それも〈黒豚〉に教えられたのだった。前歯で噛めば耳には快楽より痛みの方が強い。奥歯なら薄い敏感な軟骨で出来た耳に当たる表面積が大きくなり柔らかい心地よい刺激となるし、さらに相手の耳に、噛む男の喉の音が獣の性の雄叫《おたけ》びのように響き、男が男に組み敷かれるという倒錯の悦びが倍化する。
アキラは声を上げ続ける。乳首は〈黒豚〉の誰もが吸われるのを喜んだ。〈黒豚〉によって大きかったり小さかったり色が赤かったりあずき色に変色したものもあったりするが、時に女の子の小さな乳首よりも大きいものもあるが、総じて女より小さく、吸い続けても舌でころがしても、舌の表面で強く押しつけ舐めても、女にやるより口がだるくなる。アキラはケイに性器を吸われ、イーブに乳首を吸われ、舌で舐められ、性器と乳首が快楽で直結し、まるで本当のアンドロギュヌスになったようにもだえる。
〈黒豚〉によって性感帯は違った。しかし一様に背中か脇腹のどこかに性感帯はあった。人それぞれ快楽の形は違った。イーブが相手にした〈黒豚〉の数は〈白豚〉と比べて五分の一程度だったが、いままで相手にした〈黒豚〉だけ考えてみても、世の中のありとあらゆる倒錯が混り、前の〈黒豚〉に通用するものが次の〈黒豚〉には通用しない。女そのものとして自分を扱って欲しい〈黒豚〉もいるし、男のまま純正の男に抱かれたい者もいる。尻を掘られたい者もいるし、尻に指を入れられるだけで飛び上がる者もいる。イーブは、客ではない(金)多摩霊園のアキラが尻に性器を突っ込まれて快楽を感じるかどうか、注意深く観察する必要がなかった。ホモの客も多い(金)多摩霊園で働くアキラにいままで男同士の性愛の経験があろうとなかろうと、イーブが鶏姦したい為にアキラをケイとの3Pに誘い込み、始まりがあり終りがあるという性の快楽に火をつけ、それが終ってしまわないうちにサイボーグの一角獣であるイーブは黄金の角で尻の穴を突こうというだけの事だった。
イーブは尻を触るのを極度に警戒した。尻は極端に感じやすく、昂ぶった状態では指一本で射精しかねなかった。男の尻が敏感なのはどうしてかとイーブが訊くと、勃起や射精をつかさどる中枢が尻の穴の中からすぐにあって、それが証拠に淋病の検査で精液を取る時、尻に指を突っ込んで中枢を刺激する、と〈黒豚〉は言った。イーブは納得した。〈黒豚〉が何人もイーブの上にまたがり、イーブの性器を中に入れた状態で射精するのに何度も出喰わした。
アキラはケイに口で性器を咥えられ、イーブの愛撫を受けて後はもうそれしかないと観念したようにイーブの言うがまま、尻をあげた。ケイの真上にアキラの股間が来たので口で咥えにくいとケイが言い、イーブはケイの口が動きよいように股を広げさせた。イーブは唾を掌に受けて、ふと思いつき、洗面台の石鹸を取り、唾をまぜてアキラの尻に塗りつけた。指でこすりさらに唾をしぼって加えると、尻の穴の周りは草の葉に虫の幼虫がかけた白い巣のようになる。
イーブは自分の性器には水で石鹸を塗らしてつけた。イーブは石鹸が万遍なく性器に行き渡るようにしごき、アキラと同じ形でケイの頭の上にまたがった。ケイが急にイーブが何をしようとしているのか気づいたように、「ずるい、そんな事」と言い出す。「大丈夫だって」イーブは言った。「ほら、二人共舐めっこしろって」イーブは言い、アキラの顔をケイの股間に埋めさせた。
「なんにもしないじゃない」ケイがアキラの性器を口からはなし、手で押えながら不満を言う。
「ほら、やってやれ」イーブはアキラの尻をたたいた。それでもアキラが口をケイの女陰につける気配がないので尻を二発たたくと、「殴らないでくれる? 怖いんだから」と尻を突き出した姿のまま、ケイの股間から顔を上げて涙声で言う。
「怖いんだから。ワイパーやった時から、怖かったんだから」アキラの眼から涙がこぼれる。イーブは苦笑した。
「怖くない」とイーブは言い、鶏姦を始めるというようにアキラの脇腹を二度両手で撫ぜ、腰がくだけないように左手で押え、右手で女のものと比べればほとんど無いに等しい穴をさぐり、性器を押し当て、はずれないように手で支えながら一気に突いた。性器は硬い物にぶつかっただけで穴に入ったという何の感触もなかったが、アキラが呻き声を上げ、逃げ出しかかったので、イーブはそのまま、腰をしっかりと両手で支え直し、突きすすんだ。痛いと言い、アキラは呻き続けた。イーブは取りあわなかった。
〈黒豚〉を姦る時とも〈白豚〉を姦る時とも違ってイーブはただ性の為だけに改造されたサイボーグらしく、痛いと呻き続ける声の中から、一角獣の黄金の角を受け入れる悦楽の声が混って聴こえてこないかと注意深く耳をそばだて、何時間かかっても射精はしないという速度で腰を振った。
何の徴候も事前になかった。ケイが声を立て、口からアキラの性器をはずした。いま射精がはじまったように性器から精液が飛び出し、ケイの裸の胸に二度、三度とかかった。ケイは身を起こし、便所の中に駆け込んだ。
イーブは一角獣の黄金の角がアキラに勝ったように、「痛いだけじゃなく、気持ちよかったんじゃないか」と、腰を使う速度を上げようとすると、アキラは「止めて下さい」と身をよじり、押え込もうとするイーブを手で突っぱねて逃げ、性器がはずれた途端、さらに激痛が襲ったと言うように呻く。
アキラは痛みが去ってから、無言のまま床に敷いた半纏を取って羽織り、外に行く。イーブは勃起したままの性器を見つめていた。ワイパーだ、かたつむりだ、と女客を笑わせる道具にするには威風堂々としすぎているが一角獣の黄金の角でも何でもない、ただの性器にすぎなかったが、たとえ従業員のアキラ相手と言え、昂まりもしないで相手に逃げられて怒っているように見えた。
イーブは鏡に素裸を映して見た。便所の中で水の流れる音がし、すぐに鍵があき、ドアを開けてケイがイーブと同じように素裸のまま現われ、「アキラは?」と訊く。
「俺に何されるか分からないって言って出ていったよ」
ケイは「あいつ」とイーブの落胆を分かったというようにつぶやく。
「二人のプロからただで遊んでもらったのに」
「俺たちプロから玩具にされたと思ってるよ」
「それでいいのよ。あの子たち、玩具じゃない。おトイレの窓から、大人のおもちゃの店見えるけど、あいつ、大人のおもちゃ以外に何ある? 大人のおもちゃ」
イーブは鏡に向かって筋肉を確かめるように力を入れてみる。浮き上がった肩や胸の筋肉がイーブに子供用のおもちゃ屋で売られるテレビ漫画のロボットを連想させ、イーブはジゴロと言ってもホストと言っても、〈白豚〉や〈黒豚〉の架空の恋人役を演じる玩具に変わりはないと思い、「俺たちだって、おもちゃだよ」とつぶやく。
三
腰にバスタオルを巻いて眠り続けていたイーブを従業員が揺すり起こした。一瞬、夢なのか現実なのか自分がどこにいるのかも分からず、「電話が入ってますよ」と肩を揺さぶる従業員の顔を見つめると、眠り続けていたイーブを観ていたのか、傍から「おお怖」と野太い声が掛かる。イーブは声の方を振り向いて、そこが簡易ホテルと一対になったサウナ風呂の、ほてった体を横たえるビニールのビーチ・チェアの上であり、声を掛けたのが背中から肩、太股にまで鷹と龍の格闘する斬新な図柄の刺青《いれずみ》を彫ったヤクザのイヤさんだと分かった。
「電話です」従業員はまた肩に触った。
「分かってる」イーブが言うと、イーブの寝起きが悪いのはすべて従業員の起こし方が悪いせいだと言うように、イーブの左隣、ヤクザのイヤさんとは反対側のビーチ・チェアに、胸にも腰にもバスタオルを女のように巻いて身を横たえたピオニールのマスターが「触ったりするから怖いのよォ」とあきらかにつくった女のような物言いをする。
イーブはピオニールのマスターを振り向かなかった。ビーチ・チェアに身を横たえ、顔をヤクザのイヤさんに向け、肩から鎖骨のあたりに広がる刺青の鷹の翼を見ていた。
「誰でもそうだよな。眠ってる時、触ったりすると、ぶったたくよな」イヤさんはイーブがはっきり目覚めているように相槌を求める。
イーブは黙ったままだった。声を出したくなかった。無理して声を出せばヤクザのイヤさんにでも、うるせえ、と言いかねなかった。
サウナ室から薄い筋肉の少年が二人、汗だらけになって飛び出して来て、冷水プールの中に次々飛び込む。顔をよじればビーチ・チェアにあおむけに横たわったまま、プールを泳ぐ姿を見る事が出来る。イーブはイヤさんが冷水プールを泳ぎはじめた裸の少年らに視線を移すのを見た。イヤさんとピオニールのマスターに両脇から見られ続けながらイーブは眠っていたのだった。
電話はフロント脇にある赤電話でなく従業員用の黒電話だと教えられ、それがチョン子からのものだと分かった。ファッション・パーラーで働くチョン子は、どこに何時にいる、と教えてくれていれば、そこに確実に連絡してやる、とジゴロの仕事を始めるに当たって言った。サウナ風呂の従業員用の黒電話に掛けるのは、チョン子が従業員の何人かを色仕掛けで口説いたからだった。
受話器を持ち、耳に当て、休憩室にたむろする客の顔を見ながら、「イーブだけど」と声を出す。チョン子は韓国語で誰かと話し込んでいる最中だった。
「イーブだよ。寝起きで機嫌悪いんだからな」
イーブが声を荒らげると、客の何人かが振り返る。客の飲み物や軽食の注文をさばいていた従業員が二人、イーブを見る。サウナ風呂の従業員も顔なじみの客も、イーブが女のみならず男も相手にする高級ジゴロだと知っている。チョン子が借りたマンションの部屋に帰るのは営業用の服を着替えにいくくらいで、朝はほとんど毎日、サウナで眠っている。
チョン子が「ああ、イーブ」と妙な訛で言った。「三時半にリムジン出すから、そこで三人ほどみつくろってくれない?」
「何だよ?」イーブは訊いた。
「パーティーなのよ。Jってデザイナー知ってるでしょ。急にパーティーするからって。女と男そろえて欲しいと言うのよ」
チョン子の妙な訛はまだついていた。チョン子の申し出よりその訛に不快さがつのり、「ここでオカマを捜せって?」と声を荒らげる。電話を掛けるイーブを盗見していた客が、オカマという言葉を聴いてそっと目をそらせる。イーブは一層不快になる。
「捜さなくたって、ここの客、みんなオカマだよ。働いている奴だって、そうだろ? おまえ、股、開いてみて知ってるだろ?」
電話の中でチョン子が「違うよォ」と異をとなえる。
イーブはチョン子の言葉を無視した。「どうせロクなものじゃないって。昼日中からサウナに入ってるんだから」
チョン子の電話を切り、イーブはそのままサウナ室に向かった。ビーチ・チェアの前を通りかかり、イヤさんとピオニールのマスターが見ている前で腰に巻いたバスタオルを取った。二人の視線がイーブの下半身に集中する。イーブは二人を挑発するように、性器をひっくり返し、繁華街の一角のポルノショップで売っている外国のホモ雑誌のモデルのように、甘えすねたような眼をしてみる。
「宝物だよなァ」イーブはイヤさんに言う。
イヤさんは微笑み、「前から言ってるけど、真珠入れる時、俺が入れてやっからな」と言葉を返し、「色男と一緒に汗流すか」と身を起こす。
「あら、もう入るの?」ピオニールのマスターが訊く。
「いまごろからサウナ入ってると、ひからびちゃうわよ」
「サウナに来て、最初からここに陣取って休憩してるの、おまえだけだろ?」
「四時まで間がもたないじゃない」
「何でもあるじゃないか。ボディビルの機械もあるし向こうにテレビもあるし。おまえだろ。サウナに来て汗も流さないで、最初から最後までここに坐って男の裸、見てるの」
イヤさんはそう言い、立ち上がる。自慢の真珠を二個入れた性器が(金)多摩霊園の従業員の芸のように大きく揺れる。
「ホモサウナじゃあるまいし」イーブがここを確保するというようにバスタオルをビーチ・チェアの上に放ると、ピオニールのマスターが「あら、ここはハッテンバとして、プレイマップにも載ってるわよ」と口をとがらせ、ホモをからかうならこうして仕返しする、というように、ビーチ・チェアの上で身を起こし、胸と腰に一枚ずつ巻きつけたバスタオルがはずれないように左手でおさえ、身をよじって手をのばしてイーブの放ったバスタオルを取る。それに顔をうずめ、「ああ、いい匂い」と言った。
イーブが苦笑すると、興が乗ったというように、バスタオルに二度三度「たまんない」と口づけし、「惚れた男なら屁の匂いだって麝香のような気がするのよね、いびきだって愛しいし、寝言だって切ないんだから」と言い、バスタオルをくるくると頭に巻きつけにかかる。
イーブは呆気に取られた。相手にしていられないとサウナ室に歩きかかると、「ムニャムニャと寝言言っている間、そうよ、うち、椿姫だわよ、と言い続けたの知らないでしょう」と声を投げ掛ける。サウナ室のドアを開けかかると、「薄情者」と叫ぶ。
熱気がイーブの苦笑をたちまち溶かした。息を詰め、奥に熱い床板を踏んで歩き、ベンチに腰掛けた。すぐにイヤさんが熱気を背中で受け止めるというように身を屈めて入って来て、イーブの隣に坐った。
「あのババァ、また自分の芝居に熱中しはじめてるよ。バスタオルの匂いかぎながら泣いてやがんの」
「知らねえよ」イーブがつぶやくと、窓をあごで差し、「ああなりゃ、キ印だよな」と言う。
「屁の匂いするってよ。チンポの匂いするってよ。プールの中で若い奴らがけたけた笑ってるから、余計ノってるんだ。そのうち、またこの前みたいにつまみ出されるさ」
「知らねえよ」イーブは言い、汗のにじみ始めた腕を見る。サウナ室の黄色い明りを受けた皮膚に浮いた汗が光る。光は動き、固まって滴となって流れ出し、ひじの先からぽたぽたと落ちはじめる。
汗が床に落ちるのを見ていると、ヤクザのイヤさんがさっきイーブがしたように真珠の入った性器を手でつかみ、ひっくり返してみて、「おまえ、尿道炎にならないかよ?」と訊く。
何を言い出すのか、とイーブが顔を上げると、「俺は男なんか姦った事ないけど、女の尻に突っ込んだら、一発で尿道炎になっちまって」と性器をしごく。
「もう膿出なくなったけどな。ありゃ、淋病と一緒だな」
「かかった事ないな」イーブは言った。前を隠すものがないので他と同じように直接にサウナの熱気を浴び、汗をかき、充血したように赤らんで見える性器をつかみ、卵をのみ込んだ蛇をしごくように強くこすった。性器の先に精液とも汗ともつかない滴がたまる。
「大丈夫だよな」イヤさんが言った。
「病気なぞにかかるかっての」イーブは答えた。
サウナ室を出る前に、もっと汗を体からしぼり出してやれと思って、イーブは床に両手をついて腕立て伏せを五十回、床に足をのばして寝そべり腹筋運動を五十回、休む暇を与えず続けてやった。腹筋運動三十回目あたりから息が切れ、腹筋が体を支え切れず床にそろえた足が上がりかかると、イヤさんがイーブの尻をのぞき込み、「いい眺めだよ」とからかう。「俺がおまえの尻の穴、見たと言ったら、あのババァ、ヒステリー起こすぜ」
イーブはイヤさんのからかいに応じなかった。目標の五十回の腹筋運動をサウナの熱気の中でやると眩暈《めまい》がした。立ち上がり、外に出ようと歩きかかり、足元がふらついた。瞬間イヤさんが立ってイーブの体を支えた。汗でぬらぬらするイヤさんの腕が肩にかかり、イーブの体を支える為に腕に力が込められているのが分かった。イヤさんに肩を抱えられたままサウナ室を出、イーブは素裸のままビーチ・チェアにあおむけに寝かされた。
イヤさんはサウナで火照った体のまま休憩室に走った。ピオニールのマスターがバスタオルを冷水プールの水でぬらし、イーブの体を拭いた。ピオニールのマスターがイーブの体をバスタオルでくすぐってでもいるように拭きながら、ギリシャ神話のゼウスやポセイドンのような体なのにサウナでの暑気当たりは似合わない、失望する、とぼやいていると、休憩室から従業員を連れて戻って来たイヤさんは、人の弱味につけ込んでピオニールのマスターがここぞとばかりイーブの体をいじくり廻している、と取ったように、頭を思いきりはたき、「おまえは何やってるんだ。あっちへ行け」と怒鳴る。
「なによ。看病してやってるのに」ピオニールのマスターはどなり返す。
「オカマはあっちへ行け」
「なによ、オカマ、オカマって何がオカマよ」
「あっちへ行けってんだよ」イヤさんは一発見舞おうかとにらみつける。「行けってんだよ。このサウナはオカマの来るとこじゃねえんだ」
ピオニールのマスターはふんとイヤさんの言葉を鼻で吹く。
「このサウナはヤー公の来るところじゃねえよ。ヤー公がなんだってんだ。ヤー公が怖くってオカマをやってられるかってんだ」
ピオニールのマスターは早口で言った。
「ねェ、みんなヤー公って鴉の親戚でしょ。二丁目にさ、親戚いっぱいいるわよ。いっつも群がってんの。お店の周りにさ。何か餌になるもの、ないかって」
ピオニールのマスターは興が乗ってくる。
「お店のお姐さん、冷ややかなもんよ。アラ、またカー公かヤー公か知らないけど、鳴いてるわ。ソォーオ? ふん、色気のない声だこと。アラァ、素敵よ。お黙り。ちょっとでも甘い顔すると、尻の毛まで抜かれちまうぜ。いいじゃない、毛の一本や二本。そうやってしゃぶっていて、アラ、違った、しゃ、べっ、て、いて、この間、死んだ土曜日のハーレクイーンって呼ばれたアユミちゃんが来たの。その日も土曜日だったのよ。死ぬ頃、しょっちゅう土曜日だったわよ。土曜日に二十年間女装しつづけたんだから、国民栄誉賞ものの年増だったわよ。あらアユミちゃん、今日は土曜日? きまってらい、今日も土曜日だい。えらい女だわねェ、カレンダー勝手に変えちゃうんだから。さっき、うちの店にカー公かヤー公か分かんないけど、来てすごんでいったの、って言うと、よし、あたしがそいつを脅してやるって言うの。何したと思う、あの女? 女装だけでも怖ろしいのに、髪の毛に、イボイボのついたのとか、赤とか黒とか、コンドームふくらませてリボン代わりにつけて、待ってー、棄てないでーって店飛び出してヤー公追ったの。もちろん、一発で、ヤー公に張り倒されたわよ」
ピオニールのマスターは口をつぐみ、視線を落とした。言いたい事を言って、ヤクザのイヤさんをからかったのだから、一発見舞われても仕方がない、というように息を詰めるのが分かった。ただ眼はイヤさんの自慢の真珠の入った性器を見ていた。自慢のそれが実のところ一等弱い部分で、一発見舞われれば、必ずやそこに報復する、と決心しているように見つめ、イヤさんが毒気に当てられたように、「ババァにはかなわねえよ」とつぶやくと、顔を上げ、ニコリともしないで、「ババァじゃないわよ。言うなら大年増とでも言ってよ」と言葉を返す。
ビーチ・チェアに横たわったまま、従業員が運んで来たアルカリ飲料水を飲み、疲労回復とうたったドリンク剤を飲んでから、まるで病人がリハビリテーションをやるようにイヤさんにつきそわれて冷水プールに入り、頭からもぐった。サウナの熱気で開いた皮膚の毛穴が冷たい水にさらされ、海の中のイソギンチャクのように縮むのが心地よかった。
イーブは二度クロールでプールを往復し、首を水の上に出しじっと動かないでイーブの動きを見ていたイヤさんに声も掛けずプールから上がり、シャワーの下に立った。シャワーをひねり頭から冷たい水を被りながら、「パーティーに行かないか?」とイヤさんに訊いた。
「俺がイヤさんに変な事させないから。きちんと、女、あてがうから」
リムジンがデザイナーの別荘に着いた時は五時を廻っていた。イーブもその別荘に来たのは初めてだったが、何が始まるのか説明も充分受けないままサウナ風呂からイーブに従いて来たイヤさんと三人の少年の手前、不安がることも出来ず、チョン子の言うとおり率先して裸になった。チョン子はまだ言葉に訛が残っていた。素裸になったイーブの前に、デザイナーが持ち前の才能とユーモア精神を発揮して昨夜つくったのだというボール紙にきらきら光る赤や青の紙を貼った円錐状のペニス・ケースを六個、差し出す。「選んでよ」イーブが色とりどりのペニス・ケースを手に取って逡巡すると、「大きさも形も同じ。色が違うだけ」と言い、赤と金色の組み合わせのペニス・ケースを「これがいいんじゃない」と取り、イヤさんと三人の少年らに教えるように、イーブの前にしゃがみ、性器に被せようとする。チョン子の指が性器の根元をつかんでいるので、性器に埋め込まれたセンサーが発動したように、意志もなく動きはじめる。
ピースの箱の大きさより大きめにつくられているペニス・ケースのボール紙の中でふくらんでいく性器は淫らだった。好奇心だけでイーブの誘いに乗り別荘まで従いて来てのっけから呆気に取られたという顔のイヤさんに、〈白豚〉も〈黒豚〉も相手にする高級ジゴロの、意志を持たない淫らな性器だ、とウィンクすると、イヤさんは少年のもののような笑を浮かべる。
「ちょっと自分でおさえてて」
チョン子はイーブにペニス・ケースを持たせた。
「この紐でお尻のあたりに結ぶの」
チョン子はそう言ってイーブの尻を抱きかかえるようにペニス・ケースについた二本の紐を尻で結んだ。結び終えてから、イーブに尻を見せてみろと言う。
イーブは振り向いた。イーブの正面に、別荘の別棟のバンガローが見え、開いた戸口から素裸同然の女が三人、腰をわざとらしく振りながら出てくる。三人共乳首に光を撥ねる金粉状のものをまぶしていた。股間には下の陰毛がすけてみえる赤や青の紗の生地でつくった小さなバタフライがつけられ、鳥の尾羽根のようなものが尻につけられていた。
「イヤさん、女」イーブはイヤさんに言った。
振り返り、イヤさんは揺れる鳥の尾羽根が面白いと腰を振り続ける女らを見て、いままで何を勘違いしていたのか、「女もいたんだ」とつぶやく。
「いるわよ。パーティーだもの」チョン子は言う。チョン子は立ちあがり、イーブの尻に手をあてて体を自分に向けさせ、振り向いたイーブのペニス・ケースに手をやりながら体をおしつけ、イーブにキスをする。唇を重ねた途端、舌と舌を絡めあう。ペニス・ケースのボール紙の上からでももぞもぞ動くチョン子の指の感触が伝わり、性器がまた動きはじめる。音楽が鳴り始めた。チョン子は舌を離し、イーブの顔を見つめ、「浮気者」と言う。
「アキラがみんな白状したよ。切れて血が出たって。ケイがこのパーティー、かぎつけたけど、人の男、使ったバツだって連れて来てやんなかったんだから」
イーブはニヤリと笑う。
「ケイなんてまだ素人のうちだから、一回使って幾らというイーブをタダで使うなって言うの。何から何まで金かかってるんだから。ねェ、胸の筋肉だって腹の筋肉一つだって、値段ついてるんだから」
チョン子がパーティーの仕度があると部屋を去ってから、イーブはサウナ風呂で声を掛けて連れて来た三人の少年に、裸になって自分のようにペニス・ケースを着けろ、と命じた。少年らは互いに相手の気持ちをさぐり合うように見ていたが、イーブをはばかって言い出しかねていたイヤさんが、「俺はこれだからな」と青と銀の配色のペニス・ケースを手に取り、イーブに「自分で尻、出来ないからやってくれよ」と意味ありげな言い方をすると、少年らの気持ちが急にほぐれたのか、「ぼくはこの色」とそれぞれ一つずつ選ぶ。イヤさんはニヤリと笑った。その笑いに気づいて服を脱ぎはじめていた少年が「笑ったよ」と別の少年に言う。
「バカ」イヤさんは言った。「俺が笑おうと何しようと勝手じゃないか。どうせ、サウナで小っこいのブラブラさせて暇つぶししてんだろ。学校もいかねえし、働きたくもねえし、いっちょ前に、女、ひっかける時間まで遊んでたんだろ?」
「まあ、そんなとこかな」少年がペニス・ケースの穴をのぞきながら言う。「大きすぎるかな。ぽろっとはずれちゃうんじゃない?」
少年の言い方に他の二人が笑で応じる。少年らと共にイヤさんが裸になりかかったので少し待てと言った。三十を越えたか越えないか、イーブより五歳は確実に歳上のヤクザのイヤさんは、パーティーの当て馬、せいぜい活用しても雑用係であるしかないサウナ風呂でみつくろったジゴロ志願の少年らとはっきり一線を画してあるべきだった。イヤさんは部屋の籐椅子に白いブリーフ一枚で坐り、サウナにもう一度入り直すようにあっけらかんと素裸になり、ペニス・ケースを着け合う少年を見ていた。
三人は互いに友達でも何でもなかった。サウナ風呂の休憩室でイーブが一本釣りした。休憩室の無料煙草をなれない手つきでやたら吹かしていたのがトシ、従業員に水を呉れと騒いでいたのがミツル、サウナ風呂のあるビルの一階のビリヤードで何度か顔を合わせたのがジュン。三人は三人共、イーブがジゴロだというと面白い人間に会ったと目を輝かせた。
イーブとイヤさんは三人の少年の裸を見つめた。どの〈黒豚〉と姦るよりはるかに楽しく三人となら同性愛を楽しめる事は確実だった。繁華街の一角のバーやスナックに蔓延している女言葉を真似たオネエ言葉をあやつるピオニールのマスターに触られでもしたら胸がむかつくしかないが、無料煙草を吸っていたトシのカンの強そうな性格の出た華奢な指で触れられれば、チョン子のプロの指に触れられたように性器は勃起する。
トシはイーブが自分を見つめているのを意識していた。トシはホモでも何でもないが、齢上の鍛えに鍛えた筋肉を持つハンサムな性の一角獣に見つめられ、本能で、自分がその一角獣と相似形である事、自分が一角獣になるには、黄金に輝く一角を体内に深く納める必要のある事を知っている。
「出来ないよ」トシはペニス・ケースを持ったまま、イーブを見た。イーブが答えないと、むかっ腹が立ち、不満だらけだと言うようにあごを上げ、そばに来て紐を尻のあたりで結えるのを手伝えとイーブを見つめる。イーブはそれにも応じなかった。トシは不貞腐れたというように目をそらし脇にいたミツルに「やってくれる?」とペニス・ケースを渡そうとする。
「バカ、それ、チンポコに当てて持てって」ミツルは言い、ペニス・ケースが汚い物だというように手を引っ込める。トシは渋々と性器の上にペニス・ケースを被せる。
「おッ、カッコいいじゃないか」イヤさんが言った。
「そうやったらでっかいの持ってるなって、女、驚くぜ。女、おまえのそれ見るだけでイッちまう。女、イかした事、ねえんだろ?」イヤさんはからかい、トシがむかっ腹が立ったというように顔を上げると、急に気づいたというように、「女、知ってんのか?」と訊く。
トシは答えない。
「おまえ、ホモか?」イヤさんが訊く。
トシはイヤさんを見つめる。トシのペニス・ケースが動き、イーブはトシの性器と陰嚢が収縮し、いつイヤさんに殴りかかっても不思議ではない状態になったのを知った。イーブは無言のまま仲裁するように立って、テーブルの上に残ったペニス・ケースから、イヤさんが自分で選んだ青と銀のペニス・ケースを取った。手の指をひろげて長さをはかり、「二十五センチあるだろうな」とイヤさんに言う。
「着けてやるから脱げよ」イーブはわざとらしくぞんざいな口のきき方をした。「裸になりゃ、みんな同じだってんの」
イヤさんに後ろを向かせペニス・ケースの紐を締めていると、他の女と同じように、両の乳首を金粉で隠し、バタフライを股間につけたチョン子が来て、少年三人に庭でバーベキューをするのを手伝えと言った。少年三人がサウナ室に入るように駆け出て行くと、チョン子はイーブに秘密の事を打ちあけるようにデザイナーが会いたがっているからなるたけ早く顔を見せてやってくれと言った。イーブはデザイナーの顔を思い出した。
「俺は今日は厭だよ。何もしたくねえよ」イーブは言い、イヤさんの尻に手を当てた。何をするんだ、と訊くようにイヤさんが振り向く。
「何言ってるのォ」チョン子は訛をつけて言った。「これ全部、あんたのパーティーだよ。あんたが面白がるように、全部、用意したんだから」
チョン子は唇を噛み、意を決したように歩いて来て、イヤさんの尻に当てたイーブの手を取り、「売り物だから勝手にしないの」と手を自分の乳房に置き、「この人には女、与えるから、勝手に同性愛やらないの」と、そうする事が一瞬、方向が分からず途方に暮れた一角獣を導く最良の方法だと言うようにキスをする。腕をイーブの太い首に巻きつけ、バタフライのついた股間をペニス・ケースに押しつけ、チョン子の舌はイーブの口の中で動き廻る。音を立てて唇を離し、イーブの耳に「むこうが疲れてしまったら一緒にいれるじゃない」とささやく。
「あの人、見たい、と言うんだから。イーブの為に小道具、全部手づくりして用意したんだから。イーブのような人間はいないって。セックスの神様だって。金、いくらつぎ込んでもいい、名誉も地位もイーブの股座《またぐら》にもみくしゃにされていいって」
「そんなにいいのかよ」イヤさんが合の手を入れた。
チョン子はハイヒールをはいた片脚でイーブの固い尻を抱え、バタフライをいっそうペニス・ケースに押しつけながら、「あんたも勝手に使って、イーブにのぼせ上がったから従いて来たんじゃないの?」とイヤさんに訊く。
「勝手に使うって、何だよ」
「何から何まで売り物だからね。私が売りに出してるんだから。誰も一人占め出来ない」
「気が多いんだよ」イーブは言った。
サウナでよく顔を合わせ話を交わすようになったジゴロのイーブが、自分の思ってもみなかった人間だというように見るイヤさんに、イーブは百の言葉よりこれだというようにウィンクする。ウィンクがどんな意味を持っているのか分からず混乱したイヤさんを見つめる。ウィンクも見つめる目にも、意味なぞなかった。ただ素早くまぶたを閉じて開け、空っぽの気持ちのまま人を見ているだけだった。いつも意味は相手が用意した。相手がイーブの眼から蠱惑《こわく》を読み取り、情欲を読み取る。
イヤさんはあわてて眼をそらした。イーブは初《うぶ》な男だと笑った。
イーブは人の汗と自分の汗が混りあい、相互の体にバターを塗ったようにぬらぬらするのを嫌いではなかった。たとえ相手が女ではなく、普段なら反吐が出そうな〈黒豚〉であっても、ひとたびセンサーが動きはじめ情動に火が点けば、相互の体から吹き出た汗が、他人と自分を分ける皮膚を溶かす体液で、自分が性器だけでなく、肉ごと他人の中に入り込んで性の愉悦を楽しんでいるように思え楽しかった。
バーベキューを食べ、デザイナーがかけた音楽で少年や女らが踊り、酒を飲み、チョン子に何度も叱言を言われ、それならデザイナーと自分の二人だけでは厭だ、いっその事、別荘に居合わせた全員で入り乱れて姦ろうとイーブが言い出した。
「バターみたいに溶けちゃうんじゃない」トシが言ったのだった。
「おまえのチンポコじゃ、溶けちまうなァ」イヤさんがからかった。
音楽のテープをそのままにし、トシのバターのように溶けるという言葉が気に入ったと、別棟のクーラーも扇風機もついていないバンガローを選び、ベッドや椅子を運び出し、床に転んでも痛くないように蒲団を敷きつめた。
イーブの腰にペニス・ケースなぞなかった。チョン子がトレーナーのように、素裸のイーブにつきそい、キスを繰り返し性器に指を這わせ、バンガローを乱交用の快楽の部屋に替える間、サイボーグのイーブの体から情欲の火が消えないように、ファッション・パーラーで使う技術のありったけを使う。チョン子はイーブの乳首も舐めた。イーブの尻の穴も指でこすった。イーブはたまらず、向かい合わせた籐椅子に坐ったチョン子の足を広げ高く上げさせ、月の明りと水銀灯で濡れて光る女陰を身を屈め、舌を突き出して舐めた。入れかかると、チョン子は「駄目よ、あの人、怒るよ」と言い、何もかもイーブとデザイナーの二人が口開けをして始まるのだと言う。
イーブは自分の手で性器をしごいた。チョン子は股を大きく広げ、イーブに女陰が充分見えるように二本の指で花弁を開いて見せながら、「イーブ、格好いい」と言う。「あのケースより大きく見えるよ。顔だって彫りが深く見えるし、胸だって月の光で彫刻みたいに見える」
イーブはチョン子の女陰を舐めた。チョン子は「そこよ、そこ」と腰をつき出し、舌が求めているところに当たったのか声を上げ、「ああ駄目」と太股を閉じ、イーブの首をはさみつける。「駄目よ、イーブは売るんだから。ジゴロはただで姦ったりしちゃいけないんだから」チョン子の太股で首を締めつけられながらイーブは苦笑する。
用意が整ったと女の一人がチョン子に言いに来た。イーブはチョン子に手を引かれ、バンガローの中に入る。敷き詰めた蒲団の上にデザイナーがまだペニス・ケースをしたまま途方に暮れたように立っていた。チョン子が花婿を連れて来たと言わんばかりにイーブをデザイナーの方に押しやる。デザイナーは花嫁になって周りから祝福されている気になっているのか、アジアの森の中で物語の王子様に出喰わしたと夢心地なのか、イーブの腕を取り、自分の肩を抱けと置き、「オージーって初めてだから」と言い、胸に頬をつけ、「守ってね」とささやく。
イーブはデザイナーの肩を抱いた。腕に汗がくっつき、瞬間、腕がバターのように溶けたと思った。肩をさらに抱き寄せるとデザイナーの手が腰に廻り、イーブは自分が抱いているのが、男でも女でもなく、女よりもはるかに脆い蚊トンボのような微小な生き物のような気がし、不意にセンサーに火が点いたように庇ってやりたくなる。蚊トンボの体は抱きしめると、しなしなとイーブの固い筋肉の肌にくっつき、すぐにバターのように溶ける。抱え込んだまま、ゆっくり坐ると、固いところがなに一つないバターのような液体だというようにイーブの体と共に坐り、イーブが蒲団の上に横たわると、今度はイーブを溶かそうとするように唇になま温かい唇をつける。
イーブのすぐ後ろにぴったり体をくっつけて横たわる者がいた。イーブの体にスプーンを重ねるように体を重ねるのを知り、イーブがそれがまだバターのように溶けていない欲情したままのチョン子と分かり、デザイナーだけでなくチョン子も同時に相手にすると言うようにあおむけになった。
次々と重なり、汗に溶けたイーブの体を這い廻る手がデザイナーのものかチョン子のものか、性器をいじくり、口にふくみ、足の指を舐め廻す者が、女なのか男なのか分からなかった。鼻を舐め廻す者と唇を吸う者が違ったし、性器をいじくる者と陰毛を舐める者が同じ者なのか、違うのか分からず、イーブはサイボーグの方々に埋め込まれた快楽を感知するセンサーが統制を失い、次々と作動し、自分が一角獣ではなく全身が赤むけの、海の底に潜むしかないような下等な腔腸動物になり、快楽の波が次々と起こる度に一本の巨大な性器に進化し続ける気になる。
何もかも溶けてしまっていた。陰嚢や蟻の門渡りのみならず尻の穴まで舌を這わす者がいて、いつか遠い昔、尻を舐める女がいた気がし、呻き声を上げる。快楽に声を上げ、その快楽が波になって体の底から一点に駆け登りはじめたのを知り、イーブはチョン子の名を呼びながら性器を咥えている者の頭をおさえ、もう終りが近い事を伝えた。触った髪の感触で、それがチョン子でもなく他に三人いる女ではなく、深々と咥え、舌を動かしているのは蚊トンボのデザイナーと知れた。誰でもいまとなってはよかった。誰の口でも誰の穴でも、深海の腔腸動物から進化し続け、進化の極みに元の一角獣に戻り、射精するイーブを受け止めて欲しかった。
イーブは声を出した。イーブは両手で頭をおさえつけ、腰を突き出し、激しく喉を突いた。蚊トンボは咳こまなかった。イーブの進化を促すように一層強く力を入れすらした。波は一気に高まった。さらに腰を突き出し、激しく喉を突いて喉の壁にこすりつけ、壁に慰藉されるように思いながら二度、三度、口の中に射精する。
イーブの性器を咥えた口は、しばらく性器を離さなかった。射精して初めて元の一角獣に戻ったように勃起し続けたままの性器を咥え、音を立てて精液を飲み込み、また海の底から陸の上まで快楽の進化をなぞらせるのだというように縦横に動きはじめ、イーブは苦痛になり、デザイナーの頭を引き離し、チョン子を呼んだ。返事がないので体を起こすと、チョン子はバンガローの壁に頭を打ちつけられた形で、イヤさんにのしかかられていた。イーブとデザイナーの廻りに三人の少年と三人の女が呆けたように坐っていた。
「体、洗う?」デザイナーが訊いた。
「いらない」イーブは言葉少なに言った。
「体、洗ってくるから」デザイナーは言い、立ち上がった。
イーブはデザイナーがバンガローを出てから、女の一人を「おいで」と呼んだ。女が三人共、少年らがそこにいるのに眼中にないようにイーブの廻りに集まり、イーブの体にしなだれかかった。イーブはまだ勃起している性器を相手にしてくれるのは一人でよい、と女二人に「あいつら相手にしてやれ」と命じると「先にしてから」と言う。イーブは女を一人、あおむけに寝かせ、足を曲げさせて性器を入れ、もう一人の女を股広げさせて立たせ舌で舐め、いま一人の女を指でなぶった。イーブの性器を入れた女は、イーブが唇や指に気を取られ腰の動きが留守になると、イーブの腰を股で締めつけ、イーブが動きはじめると声を立てる。
少年らは三人共、勃起していた。イーブが女を替え、立って唇でやっていた女を寝かせ、固い蕾のままのような女陰に入れはじめると、女の脇に来て「やらせてよ」と言う。
「あんたらすぐ出すから厭よ」女は言う。
チョン子のよがり声がイーブの耳に届いた。目の前に立ちはだかって股を広げる他の二人の女を払い、イーブは組み敷いた固い蕾のような女陰の女に、「ちゃんといい目させてやるから、向こうへ行ってやろう」とささやき、女を性器が入ったままの状態で抱き上げた。イヤさんとチョン子の脇に女を下ろすと、イヤさんは身を起こし腰を使いながら、「初めて男があんなに男に尽くすの見たよ」と言う。
「ああまで並の女はしないぜ。足の指まで舐めてんだから」
「初めてだよ」イーブは言う。
「いつもはあいつ、バック掘ってくれってせがむさ」イーブが言うと、小刻みにイヤさんに腰を使われていたチョン子が、「もっと真剣にやってよ、姦りながらオカマの話なんかしないでよ」と苛立った声を出し、腰を大きく振りはじめる。イヤさんは悪かったと思ったのか、チョン子の足を持ち、強く腰を打ちつけ、そのうちふと思い出したように、イーブと女の性器の接合部分に手をのばし、「嘘だろう。こんなん尻の穴に入んないだろう」と言い出す。
イーブはその言い方に笑い出す。イヤさんがまるでサウナに出没するホモのようにいつまでもイーブの性器の根元を握っているのを見て、イヤさんが同性愛を隠しているのか、両刀使いなのだと思い、声をひそめて「入るか、入らないか試してみようか?」と言った。
「裂けちまうぜ」
「入れる気があったら裂けないって」イーブは言い、イヤさんが真顔なのに気づき、「一度、味知ったらやみつきになるって言ってるよ」と誘ってみる。
「冗談じゃない、女のヒモになるヤクザが、尻の穴、やみつきになってジゴロにみつぐのかよ。おまえが俺の尻に惚れてくれて、ジゴロで上がった金、みついでくれて、俺を遊ばせてくれるって言うなら、ちょっとは考えてもいいけど、おまえ、女、好きだろ? 男、真底から好きじゃねェだろ?」
「穴、ありゃなんでもいいさ」イーブが言うと、イヤさんは混乱したのかしばらく考え込み、「じゃあ、何か、俺も穴か?」と訊く。
「サウナで見てるだろ、チンポに二個、真珠入ってるんだぜ。おまえ、ひょっとすると、そのあたりの感化院帰りのように歯ブラシの柄まるめた玉、入ってると思ってるんだろ? 真珠だぜ、真珠。一個十万は下らない真珠、二個だぜ」
イヤさんはそう言い、何を思ったのか、腰を振る動きを止め、「あとでしっかりやるから」と言い訳をし、チョン子の女陰から性器を抜き、濡れていては真珠の所在がはっきりしないと言うようにしごき、手を蒲団でぬぐい、「ほら、これとこれだ」と指でぐりぐりと押えてみる。
チョン子は快楽を中断され、腹立ってたまらないように身を起こし、「バカばっかし」と言って立ち上がる。
「ああ、ムシャクシャする」
チョン子はバンガローの外に歩き出す。
イヤさんはチョン子を笑った。「玉が中で動くだろ。女、いままで味わった事ない気分になってるよ。あれもそうだな」
女のよがり声がした。イヤさんは振り返り、少年が三人、二人の女にかかっているのをしばらく見て、一人あぶれているのを誰だ、と訊く。
イーブは眼をこらした。二人の女にかぶさっているのがミツルとジュンで、一人あぶれて女の口に性器を咥えさせようとしているのが、トシだと分かった。
イヤさんはトシを呼んだ。おそるおそるトシが勃起した性器を手で隠しながらやって来ると、先ほどイーブを総がかりで面白がってイかせた時、イーブの性器を執拗に手でいじくっていたのがトシだと言い、「ほら、俺の見てみろ、真珠が入ってる」と言う。
「見たかねえよ」トシは言う。「きたないチンポしてよ。女に言えばいいのに、俺にばっかし、チンポ押しつけて来てよ。誰がおまえのなんか触るもんか。イーブさんのなら綺麗だよ。男前だし、いい体してるし、兄貴にして連れ歩いたってカッコいいけど。ヤクザなんかカッコ悪いじゃねぇか」
「真珠二つも入ってるって」イーブが言うと、トシは面白い事を思いついたように笑う。
「自慢じゃないけど、俺にだって金の玉、二つ入ってる」トシは言い、二人をからかうように前を隠していた両の手を開き、「触ってみる?」と言う。
「小っこい金玉触ってどうするんだ」とイヤさんが言った。
「触って調べてやろう」イーブが言った。
「ほらな」トシが言う。「ここにいる男、みんなホモだよ。サウナにいた時から分かってたんだ。女、四人いるけど、ブスばっかしだし。イーブさんはブスの中の一番ブスと姦ってるんだ。見てみなよ、このブスな顔。人類と思えないよ。鼻がヘンだろ、目がヘンだろ、ブスが顔ゆがめてさ」
「小っさいきゅっと締まるオマンコ持ってる」イーブが言うと、「俺だって持ってるよ」と言う。
「どこに? おまえの言うの、糞の詰まった尻の穴だろ?」イヤさんが笑う。
「ブスでも女の穴、突っ込んでかき廻したって尿道炎にならないぞ」
「糞なんか詰まってねえよ」トシは言う。
その時、デザイナーが「イーブ」と呼びながらバンガローの中に入って来た。デザイナーはイーブが女の一人を組み敷いているのを見て黙り、イーブの前に来て坐り、しばらくイーブの姿を見ていて、「もうそのくらいにして、外でお月様見ながら酒を飲もう」と言って、イーブが女と性交するのは病の一種だというように、髪を撫ぜ、「よし、よし」とあやすように言い、「さあ起きて。後は他の人にまかせて、外で酒飲もう」と起こしにかかる。
女はしがみついたが、イーブは身を起こした。何故なのか分からなかった。イーブは自分が何かに大きく傷つけられている気がした。デザイナーの優しさがことの他、身にしみ、「さあ、一晩中でも外で飲もうね」と言い、腕に腕をからめるデザイナーにもたれるようにイーブは外に向かって歩いた。
四
デザイナーは裸のイーブを、芝生に広げたタオルケットの上に坐らせた。芝生は刈りつめていないので、毛足の長いじゅうたんのように柔らかく弾力があった。デザイナーが自分のペリエとイーブのラムをグラスに入れ、「さあ、飲もうね」と脇に坐ると、タオルケットは海に浮かんでいるように揺れる。グラスを受け取り、イーブは、傷が治癒するには、アルコールで唇をしめらせるしかない、と一口飲む。デザイナーはペリエを持ったまま、月明りに浮き上がったイーブを見る。イーブはデザイナーに見つめられたまま、もう一口飲み、氷も入っていない、水で割ってもいない生のラムの滴が、サイボーグの体の喉を駆け降り、胃に滲み入るのを確かめ、いつでも性の愉楽を売るジゴロ、サイボーグの一角獣に戻る準備が出来たように、デザイナーの手を取って筋肉の浮き出た自分の膝に置く。いつもならそれがデザイナーとの性の合図だった。それでデザイナーはしなだれかかる。
しかしデザイナーは動かなかった。誘いをかたくなに拒むように、月の光で濡れたイーブを見つめたままだった。しばらく物思いに沈み、今、目にしているのが物語に現われる当の王子様だと言うように、「イーブ」と尻上がりの切なげな声で名を呼ぶ。「涙が出てしまう」デザイナーは黙った。イーブの膝に置いた手は力ないまま動かなかった。
「どうしてイーブなぞ好きになってしまうんだろう。泣きたくないのに涙が出てしまう。イーブ」
デザイナーはペリエの入ったグラスを、手をのばして芝生の上に置こうとする。手を離した途端グラスは倒れ、中のペリエがこぼれる。イーブが声を上げ、グラスを取ろうとするとイーブを制し、グラスを持っていた手で涙をぬぐう。イーブはラムの入ったグラスを芝生の上に置いた。イーブのグラスは倒れない。
「ペリエ持ってこようか」イーブはデザイナーの感情の変化に狼狽して訊ねると、「いいんだ。ペリエなんてただの水だから」と言い、「畜生」と舌打ちし、自分で芝生に倒れたグラスを取り、月明りの方に放った。草か木の葉に物の落ちる音はしたが、硝子《ガラス》の砕ける音は立たなかった。
「イーブは普通の水を飲むだろう。サウナの洗い場の水道とか、パチンコ屋の洗面所か、その脇の飲料水の機械かで。僕はペリエしか飲まない。アルコールもコーヒーも駄目。レストランに入ってもペリエかミネラルウォーター。普通の水道の水じゃ駄目。その僕がイーブが水道の水を飲む事に嫉妬する。イーブと一緒にサウナに行った時、僕の神々しい神様は喉が乾いたからと言って、体を折り曲げて、洗い場の蛇口に直《じか》に口をつけて飲んだ。その水が欲しい。サウナの水道の水じゃなくて今さっきイーブが飲んだ水が飲みたい。本当の水《アクア》だよ」
イーブは苦笑した。自分の苦笑が月の明りで、ギリシャの彫像が微笑んだように不思議な安らぎを相手に与えるだろうとイーブは思い、「Jはデリケートすぎるんだよ」と友達か歳下の者に言うように言い、デザイナーを引き寄せる。デザイナーはイーブにそうされるのを待っていたように、イーブの裸の胸に体を寄せ、物語の王子様の醜い花嫁のようにおずおずと頬をつけた。デザイナーが乞うのでキスをした。たとえキス一つであろうと、性のサイボーグのイーブは手を抜かない。舌も歯も歯茎も口腔内にわいて出る唾さえも、相手が誰であろうと一切の差別なく、性の愉楽一点に向かって駆け昇る為に作動する。音立てて唇を離すと、デザイナーはまた「イーブ」と尻上がりに呼んだ。
「僕の王子様だよ。夢としか思えない。裸で、こんな山奥の草むらの上で、抱かれるの」
デザイナーは月明りが花嫁の醜さを消してくれたというように、イーブを見上げ、「アドボケイトにしょっちゅう広告出てるキーウェストに行こうと思ったんだけど」と言う。イーブが分からないと思ったらしく、アドボケイトはアメリカのホモの理論誌で、日本のポルノ雑誌のようなものではないと言う。キーウェストはフロリダにあるホモのリゾート地。一週間の休みを取る予定だったが、金を幾ら積んでもイーブを一週間も独占させるわけにはいかない、とマネージメントをするチョン子に断られた。それなら三泊四日のバリ島旅行。最初チョン子は乗り気だった。しかし、デザイナーがイーブとの水入らずの旅しか考えていないと言うと、渋り出し、結局、別荘でのパーティーに落ちついたと言う。
「素敵だよ。王子様がここに居て、その腕に抱かれてるんだから。ここは誰も来ない。他所《よそ》の人間、一人もいない。山の中。明日、案内するけどすぐ裏に滝がある。イーブの毎日行ってるサウナにも滝があるって連れて来た坊やが言ってたけど」
イーブはトシの顔を思い描いて苦笑する。
「滝ってたって名前もないサウナにつくった滝みたいだけど、時どき、こうやって秘密のパーティーやりに来てみると霊力がある気するな。滝の水、何度か飲んだから、イーブにこうやって抱かれてると、猿かなんかに変わってしまう気するよ」
「俺がその滝に入ると本当に一角獣になる」イーブが言うとデザイナーはそれまで用心深く避けていた性器に触れ、「イーブは変わんないだろうな」と笑う。
「もっとでかくなるかもしれない。Jは苦しむぜ」イーブが軽口をたたくと、デザイナーは驚いたという顔をし、イーブが笑いながら「裂けたって知らないぜ」と顔をのぞき込むと急に羞かしくなったように目をそらし、イーブの胸の匂いをかぐように顔をうずめる。
片方の手でデザイナーの腰を抱え、片方の手で芝生に置いたラムのグラスを取り、男色に興じるヴァッカスのように中に入っていたラムを、清涼飲料水を飲むように全て口に含む。イーブはラムを飲み干した。デザイナーがイーブの喉に立った音に気づいたように顔を上げ、「イーブ」と尻上がりに呼び、「イーブの為だったら何でもするから」と言う。デザイナーは真顔だった。イーブはデザイナーの背を撫ぜた。イーブの固い掌が背骨を下にたどり尻の割れ目まで下りないうちに、デザイナーは、「分かって欲しいな」と快楽なのか悲しいのか定かでない声を上げる。
「ここまできても、まだ昔のように不安だよ。誰もが皆な僕の習性を知っている。でも人から脅かされ続けている気がする。皆なからのけ者にされている気がする。イーブ」デザイナーは呼ぶ。
「イーブの顔を見ていると、不安がなくなるから不思議だ。イーブに愛撫されてるのは、愛されてるからじゃない、と分かってるけどな。神様の愛なんか求めない。愛撫だけでいい。愛してもらわなくていい、こっち向いて欲しいんだ。イーブ」デザイナーははっきりと快楽の声を上げる。
その声を聴きつけ、チョン子のよがり声だと間違えたようにバンガローから一人、歩いてくる者があった。男はデザイナーの声を耳にして立ち止まり、イーブが小声でデザイナーに「人が来た」とささやくと、男は見てはいけないものを見たように引き返しかかった。イーブは「来いよ」と男に声を掛けた。男は立ち止まり、一瞬、考えるように間を置き、「俺が居たら色男の気が散ったと、スポンサーが怒るだろうよ」と言う。
「いいって。俺の言うとおりにするって。来てくれよ」
イーブが言うと、イヤさんは「そうかい」と素直に了解し、デザイナーを抱えたままのイーブの方へ歩いてくる。デザイナーは自分からイーブの手を離した。デザイナーは前をかくして立ち、「悪いな」とイーブの脇に坐ったイヤさんに、「何、飲むんだろう」と訊く。
「何だよ」イーブは訊いた。イヤさんは「バーボン」と答え、前をかくして立ったデザイナーをサウナ室にいるとでもいうように見上げ、「悪いよな。せっかく色男とのナニの最中に」と心にもないような詫びを言う。
「いえいえ」デザイナーはイーブが暗に命じたから酒を用意しに立つが、イヤさんなぞ眼中にないという言い方をし、イヤさんがクスッと笑うと「イーブにホモのホスピタリティーを説こうとしてたばかりだから」と念を押す。
デザイナーが別荘の方に向かってから、イヤさんは「変態パーティー」とつぶやいた。
「よっぽどあのサウナのオカマの方がまともだ。あいつは商売は因業だけど、男の裸、見て楽しんでいるだけだから可愛いもんだよ」
「じやあ、あいつと俺がピオニールのマスターより変態ってわけか」
「まあ、そうだな」イヤさんは言う。
「変態って厭かよ?」イーブは自分の性器を嬲りながら訊く。
イヤさんはイーブに訊かれ、イーブを性の相手にするのは厭かと訊かれたように戸惑い、「まあ、変態ってのはな」と曖昧な答のまま眼を宙に外らす。
イヤさんをいますこし挑発してやろうと、イーブは半勃起の性器をゆっくりとしごいた。すこし固くなりかかったので、両手に唾をつけ、左手でつけ根を右手で先の方をしごきはじめると、イヤさんはますます目のやり場に困ったように遠くを見、「イーブぐらいだったらどこのクラブに行ってもナンバーワンになるだろう」と、何故、女だけ相手のホスト・クラブに鞍替えしないのかと訊く。
その問に、イーブは何とでも答える事が出来た。相棒のターが見つけて来たチョン子と出会い、行きがかり上、そうなった。チョン子を窓口にしていると、気苦労がなかった。〈黒豚〉は女より楽だった。
イーブはイヤさんに答えず、ただ月明りに浮き出た鍛えあげたサイボーグの腕や胸の筋肉の動きを誇示し、勃起した性器の淫らな動きをわざとらしく見せつけた。イーブはホモ・ヴィデオの男優がするように下唇をすこしあけ、唾液をまぶした両の手で性器をしごき、その度に声をもらす。イヤさんの真珠の入った性器が、目の前で繰り広げるイーブの挑発のショーで勃起しかかっている。
別荘からデザイナーが出て来て、イーブがイヤさんを前に何をやっているのか、分かったらしく、「イーブ」と呼ぶ。イーブは返事をしなかった。イーブはわざとらしくあえぎ、溜息をつき、「もうすこしだ」と言うと、またデザイナーが呼び、「そこの新しい彼氏にバーボンの氷運ぶの、手伝えよ」と言う。
「ヤキモチ焼いてるぜ」とイーブは言う。
「彼氏が俺のショーを見たいっていうから、おつとめしてんの」イーブが小声で言うと、イヤさんは「俺はおまえの彼氏かよ」と苦笑する。「おまえは男前だし、いい体してるし、ナニもでかいけどよ、ヤクザの俺に向いてないよ。俺は女の方がいい」
またデザイナーが呼ぶ。イーブは答える代りにイヤさんの手をつかみ、不貞腐れたような声で「彼氏じゃなくても友達だろ」と言い、もうすぐ果てるから手伝えと性器を握らせた。イヤさんは「しょうがねえな」とあきらかに気持ちとは違う言葉を言い、イーブの性器を握り、「でかいよな」とつぶやきこすり始める。
「上手じゃないか」イーブは笑った。
「十三の歳からしごいて来たからよ」イヤさんは言う。
「幾つの時、人のをしごいたんだよ」イーブが言う。
デザイナーがしびれを切らせて、イーブの方にバーボンのボトル、氷の入ったアイス・ボックス、を持って歩いてくる。
イーブはデザイナーの嫉妬を煽るように、イヤさんの手の動きに合わせてわざと声を上げ、ここまで来れば性の愉楽に盲目の獣のまま果まで突っ走ってしまうしか手がないというように、「イヤさん、もっとそばに寄ってくれ、イヤさんのも触らせてくれ」と手をのばす。イヤさんは術にかかっているようだった。充分に勃起した性器をイーブの手でしごけるよう腰を突き出して、自分が鏡に映ったイーブだというように股を開いて前に坐り、イーブに「そんなにいいのか、いいのか」と語りかける。
イーブは、女にも同じ言葉をささやきかけるのだろうと、おかしく、笑い出したかったがこらえた。デザイナーがイヤさんの背後に立つのを待って、今、道ならぬ性愛に思わずふけってしまったのを気づき反省に襲われたように、イヤさんの性器から手を離した。
まだこすり続けるイヤさんの手をイーブは押えた。イヤさんは突然、中断した意味を分からず、「どうした?」と訊き、イーブが「バーボン」と声を出すと振り返り、後ろに立ったデザイナーに気づいてやっと理由を呑み込めたように、「バーボン、頼んでたよなァ」と言う。
「バーボンを運ぶの、ホモのホスピタリティーだから」デザイナーは言う。「バーボンが来るまで退屈させないのも、そう」
イーブは黙ったままデザイナーからバーボンの瓶と氷の入ったアイス・ボックスを受け取る。グラスは空のラムのグラスを使った。バーボンのオンザロックをイーブが飲み干したラムのグラスでつくったのが、デザイナーにもイヤさんにも、イーブがイヤさんの男の恋人だと宣言する行為に取った。感情が昂ぶったのがありありと分かる震え声でデザイナーは「イーブ、どうしてこんな非道い事、する?」と訊く。
「何にもしてないぜ」即座にイーブは口をとがらせて言った。
「いつでも彼氏とする時間があるじゃないか。こんなところまで連れて来て、何にも僕の前でしなくても」デザイナーはイーブの脇に坐った。
イーブは黙ったままいた。イヤさんはバーボンのグラスを持ったまま、飲みもしないでイーブの顔を見ている。
イーブは噴き出したかった。イヤさんに小声でホモの強味も弱味も妄想にたけている事だと教え、まずイヤさんの中に眠っている妄想を刺激して相互オナニーに引きずり込み、さらにそれを〈黒豚〉の一人であるデザイナーに見せて妄想を刺激したのだと一から十まで解説し、ピオニールのマスターをからかうならこの手にかぎると教えたくてむずむずしたが、演技していると理由なく腹が立ってくる。恋人を勝手にパーティーに連れて来て、客の〈黒豚〉をそっちのけにして性愛にふけっていたというのは、デザイナーの妄想だが、イヤさんがふくれっ面のイーブを気づかうように見て、そっとイーブのつくったバーボンを飲むのを見ると、妄想が本当だったような気がしてくる。
「そうだよ、俺の彼氏だよ」イーブは演技しているのか、本当の事なのか分からないまま言う。
「俺が彼氏だって言うのに、このヤクザ、厭だって言う」イーブがすねた目を投げかけると、イヤさんはうろたえ、それでも自分がデザイナーとイーブの気まずさの原因になった責任感のようなものを抱くのか、イーブを見つめ返し、決心したように、「もう厭って言ってないぜ」と言う。イーブはその言い方になお不貞腐れたように鼻で吹き、「もう遅いって。どうせジゴロだから。女にも男にも体売る商売だから」と言い、隣にいるデザイナーに「J。俺をお払い箱にするかい?」と訊く。
「簡単だぜ。ジゴロって言ったって高級ホストって言ったって、一発何万。ホテル代からチップから貢物まで入れりゃ、一発何十万だけど、玩具に変わりはないんだから。気に食わねえ、って客に言われりゃ、ここからだって歩いて帰んなくちゃなんない。イーブって呼んでもらったって、ベッドの中だけだって言われりゃ、しょうがない」
「俺が買ってやるよ」イヤさんが言う。イーブは苦笑し、取りあわず、デザイナーに「J」と呼び掛ける。「はっきり言いなよ。お払い箱にするって」
デザイナーは答えずにイーブの髪を撫ぜた。「なんだよ」イーブが訝ると、「何をしたってイーブをお払い箱に出来るはずがないじゃないか」とイーブの行為の何もかもを理解するのが自分の務めだというように耳元でささやく。
イーブは事の成り行きに戸惑った。一から十まで自分の思惑が外れ、デザイナーが、イーブが感情を害したのはグラス一個からだというようにイーブの為にグラスを運び、ラムの瓶を運んで来て、イーブはホモ・ヴィデオのメイル・ショーのような振る舞いをしてイヤさんを挑発した事を後悔した。デザイナーはバーボンを飲みつぐイヤさんの前で、客の〈黒豚〉の当然の権利のようにイーブの髪を撫ぜ、イーブの同意も得ないまま、「こっちに来て一緒に触ってごらん」とイヤさんを脇に呼ぶ。
デザイナーは「意外に柔らかい髪だろう」とイヤさんに同意を求める。
「汗でちょっと柔らかくなってるのかもしれないけど、嵩が多いから。微かにイーブの髪はウェーブがかかってるから、汗で濡れると本当の巻き毛のように見える。ほら」デザイナーは額の髪を手で受け、「銀色とも黄金色とも見える」とイヤさんに言う。
「僕は、男の裸で好きなのは、あるところにあってないところにはないってもの。イーブの裸がそうだよ。胸に触ってごらん。一本も胸毛なぞない。毛がもじゃもじゃ生えているのは不潔だし、毛がしょぼしょぼ生えているの、もっと不潔だし、みっともない。だけど脇毛は密生している。陰毛も密生している。見ているだけで清々しい。美しい馬って感じだな」
デザイナーはイーブの手からグラスを取り、腕を上にあげさせる。背中を撫ぜ、胸を撫ぜ、黒々と茂った脇毛に手をやり、「いつもイーブの体を見る度に、この間まで脇に翼が生えていたんじゃないのかと思う」と言い、イヤさんに脇毛を触ってみるのを勧め、イヤさんが手を触れると、「髪より柔らかい。ビロードみたいな感触だろう」と言う。
「ビロード?」イヤさんは訊き直し、脇毛を指で撫ぜ廻す。
「ヤー公、くすぐったい」イーブは笑をこらえて苦情を言った。
イヤさんは興に乗ったように頭の後ろで両手を組んだポーズで静止したイーブの脇腹をさすり、這い上がって毛をいじくり、さらに上にあがり、腕の浮き上がった筋肉を撫ぜる。タオルケットに素裸であぐらをかき、上半身をデザイナーとイヤさんの二人の眼にさらしているので、力を入れ、体をねじり、筋肉をくっきり浮き上がらせてみても、月影はずんぐりした形のままだった。しかし月の明りは二人の鑑賞者の眼に、脇毛や陰毛の生え方や形よりはるかに美しくイーブの体が逆三角形をしているのを見せている。体の形を言うならイーブは立って、トレーニング・ジムの大鏡の前でポーズを取る時のように、無駄な物一つない、ただ客の〈白豚〉や〈黒豚〉の性の道具になる為に鍛練した全体の形の美しさを見せたかった。尻は固く締まり、二本の脚は大きな流れるような筋肉で出来ている。
「綺麗だよな。女の事しかなかった俺が入れあげたっていいと思いはじめるんだから、そのケのあるやつなんか放っておかないよな」
「自分で知ってるから、さっきあんたを口説いてたんだ」デザイナーが言う。「今、分かる。こんな事、言って誤解しないかなァ。イーブは何にも最初、考えない。思いつき、気まぐれで何かやりはじめる。人が気づいて、イーブがあんまり良い男だから、意味があるように思いはじめる。人がそう思いはじめると、イーブはますます熱中する。だから、最初はあんたを誘惑しようとするのも気まぐれなんだ。でも今は本気だよ。腕、頭の上にあげてポーズ取って見せるのも、イーブはあんたを落としたいからなんだ。自分がそうやれば、あんたに好かれると思っている」
「そうだよ」イーブは胸の筋肉がくっきり浮き出るように坐ったままポーズを取り、「トレーニング・ジムに三時間も四時間もいて体鍛えるの、こんな事あるからだもの」と言い、直截な言い方に臆したようなイヤさんに胸の鋼のような筋肉を触ってみろと言う。
イヤさんはあきらかにイーブの術に陥っていた。称賛の声を上げる事が、イーブと相互オナニーの快楽を続行する合図だし、今、金を払って、イーブを性の玩具として所有している〈黒豚〉のデザイナーの使用許可を乞う言葉だというように、筋肉に触る前から、「凄いなァ」と声を出し、いざ触れてみると、筋肉のあまりの硬さに驚き、不安になったように黙る。イヤさんが手をおずおず引っ込めかかるのを見て、イーブは「ちゃんと触ってみろよ」と素早くイヤさんの手首をつかみ、「ちゃんと触ってみなけりゃ、俺がどんな男か、分かんないぜ」と言う。
「何か、おまえら怖くって」イヤさんは言う。
「怖いものか、男同士だぜ」イーブが言うと、イヤさんは「本当におまえ、俺を口説きたいって思うのか?」と訊く。「あのオカマのように男、好きじゃないだろ。商売で男とやってんだろ?」
「分かんねえよ」イーブは言う。「俺はただ、いま、イヤさんと姦りたい」
「どうして俺だよ。女だっているし、まだヒョロヒョロしたの、いるじゃねェか」
「分かんない。この草むらの上で、イヤさんしか、いま頭にないよ」
「どうしてだよ」イヤさんは訊く。「ここへ来る時、絶対、俺にヘンな事させないと言ったろう。あれは嘘か?」
「嘘じゃない」イーブは声を強めた。イーブはデザイナーに見つめられながらイヤさんの刺青《いれずみ》のある肩に手を置き、声を低め、「あの時からイヤさんと俺は姦る気してたんだぜ」と言い、デザイナーに片目を瞑って合図し、イヤさんに立って別荘の寝室に入ろうと言う。立ち渋るイヤさんにデザイナーは「もう観念した方がいい」と言った。
別荘の寝室に入るなり、イヤさんは便所に入った。便器に小便する音が立ち、次に屁の音が立ち、次にいきむ音がした。
「なんだ、色気ないよな。イヤさんじゃなかったら、俺が逃げるぜ」イーブがドアの前に立って言うと、中から、
「しょうがねえじゃないか。処女だよ、処女、俺は処女」と声が返ってくる。苦笑し、ベッドに寝そべり、枕元のあきらかにデザイナーがベッドに連れ込むパートナー用に用意した外国女の股間もろだしの写真集を見ながら、イーブは性器をしごいた。勃起してしばらくしてから、シャワーを浴び腰にバスタオルを巻いたイヤさんが便所から出て来て、「ヤクザの俺が、足カタカタ震えるんだから、可愛いやね」とイーブの寝そべったベッドの前に立つ。イヤさんはイーブの性器を見る。
「ああ、厭だ。逃げだしたいよ」
イーブは身を起こし、いかにも〈黒豚〉を相手に場数を踏んだジゴロだというように、「俺にまかせとけって」と手招きし、イヤさんの体に眠っているホモを刺激するように身をねじり、背中の筋肉を浮き上がらせてイヤさんの眼にさらし、バスタオルをほどいた。
「ちぢこまっちまって小便だってうまく出やしない」
イーブはイヤさんの性器をしごいた。性器はしごくと一層ちぢこまる。
「舐めてくれよ」イヤさんは言う。
「いいよ、お安い御用だ」イーブはイヤさんのシャワーにあたってなまあたたかい性器を口にふくむ。大ぶりの芋虫のような性器はそれでも動かない。イーブは立ったままのイヤさんの尻を抱えた。イヤさんはイーブの頭に手を置き、腰をゆっくりと振る。性器が微かにしか動かないのを見て、口から吐き出し、イヤさんにベッドに寝ころがれと命じた。
イヤさんはあおむけに寝た。イーブはそのイヤさんの頭の下に腕を差し入れ、イヤさんの胸を撫ぜ、乳首をつまみ、「俺の言うとおり、ついて来ればいいから。絶対、心配いらないって」と言い、イヤさんの手持ちぶさたの手に玩具を与えるというように勃起した性器を握らせ、「イヤさん、ちょっとでも感じたら声上げた方がいい。そうした方が、俺うれしいから」とささやいた。
「女のようにか」
「ああ、女になっていい。誰も見ちゃいない。俺だけだから。俺とイヤさんの二人だけの秘密だから」
「あんな声、出ないぞ」イヤさんの言い種をイーブは笑った。「声じゃなくて、女になった気でいてくれりゃいい」イーブが言い直すと、イヤさんは「そうか」と素直に返事をする。
イヤさんは〈黒豚〉としては、段違いに筋がよかった。もしたとえ、イヤさんにそのケがあっても〈黒豚〉になるには若すぎる歳を考えるなら、当然すぎるほど当然の事だったが、繁華街の一角にある男相手のマッサージ・パーラーの少年らがやるように、イーブが唇と舌で全身をなぞると、イヤさんはふざけているように体をよじり声を上げる。誰にでもある男の性感帯の幾つか、内股や蟻の門渡《とわた》りや陰嚢の筋目を舌の先でなぞるだけで、自分の体がたった一本のアンテナに感度が集中しているのでなく、実のところ体の何カ所にも方向の定かでない昂揚するだけの感覚の点があり、その昂揚におぼれると自然に声が変わってしまうと知ったようにあえぐ声を出す。イヤさんは自然にイーブの性器を咥え唾液で濡れたそれを取り出すと自分からイーブにまたがり、自然にイーブを穴の中に導こうとした。刺青を彫った男が片膝を立て目を閉じ苦痛に呻きながら、イーブの性器を入れ、頭の部分を入れてしまい間を置くと、何回もそうやって試した事があるように、痛みを避けながらゆっくりと尻を落としてゆく。根元まで入れてから、イヤさんは目を開け、自分の臍のあたりを手でおさえ、「このあたりまで入ってるよ」と言う。イーブが下腹に力を込め、性器を二度動かすと、「分かる」と言う。「凄いよ、イーブのでっかいの入ったんだから、たいしたもんだな」
「たいしたもんだ」イーブがオウム返しすると、「痛くも何ともないぜ」と独りごちる。
「でっかいのが尻の中に入ってるの分かるけど痛かない」
「気持ちいいか?」イーブはイヤさんの尻を撫ぜながら訊く。
「分かんねェな。変な気持ちだけど。それより、イーブのがすっぽり入って尻に毛が当たってるし、キンタマが当たってるって方が、なんとなしに嬉しいよ。尻でイーブを犯している気持ちな」
イーブがゆっくり動きはじめた。
「待ってくれ」とイヤさんはイーブの筋肉の浮き上がった腹を手でおさえる。「おまえが動きはじめると、男にオカマやられてる気する」イーブは笑い、上半身を微かに起こし、「今、俺たち、それ、やってるんだぜ」とイヤさんの真珠の入った性器を握る。「ああ」とうなずくイヤさんに「楽しみなよ。いいめ味わうんだから、悪い事、ひとつもありゃしない」と言って両の掌に唾をつけ性器をしごき、イーブはイヤさんの性器の快楽を補助する手段のようにゆっくりと腰を振りはじめる。
イヤさんの穴の中で性器が柔らかいぬらぬらする藻のようなひだに当たり、捉えられ、ふりほどき、また捉えられるのが分かった。性器と穴の筋肉がつながっているので、イヤさんの勃起した性器に力が加わると穴のひだというひだは締まり、なお衝くと藻が、一斉《いつせい》に絡みつくような感触がある。イーブはたまらず「イヤさんもっと強くしていいか?」と訊くと、「やりたいようにやっていい」と言う。イーブは目いっぱい腰を引き、今度は性器のつけ根まで押し入れた。イヤさんは声を上げた。イヤさんは自分で自分の性器を握り、早いスピードでこすりはじめた。
「たまんないよ」イヤさんは言い、イーブがまだ姦りはじめてほんの少ししか時間が経っていないから出すのを待て、と手の動きを止めにかかると、「イかせてくれ」と言う。「そこまで来てる。もう駄目だ」イーブがイヤさんの動きに合わせて腰を使いはじめると、すぐ昂揚の一等高い波がやってきたらしく、少年のもののような声を出して、イーブの胸や腹に射精する。イヤさんはイーブの性器を尻の穴に入れたまま、イーブの胸に倒れ込んだ。荒い息を吐くイヤさんの尻を両手でおさえ、足を立てて弾力にし、なお抜き差しを繰り返していると、イヤさんは「出しちまうと急に痛いよ」と言い、抜いてくれと訴える。
「厭だね。まだ終ってないんだから」イーブが言うと、それならこのままの姿でいいかと訊く。「いいよ、充分だよ」とイーブは答え、動き続けるとしばらくして、「痛いよ、どこか切れてる」と言い、顔を起こし「腰、使うの止めて、抜けってんだろ」とすごむ。イーブがなお動き続けると、「ヤクザの俺が姦らしたんだぜ。処女だって言ったろう」と言い、イーブがその物言いのおかしさに笑うと「早く抜けってんだ。殴るぜ」と手を上げる。
「分かったよ」イーブは言った。イーブが手をそえ、抜きかかると、イヤさんは同性愛の一等羞しい場面を演じているというように、再びイーブの胸に顔をうずめ、声を上げ、すっぽりと取り出すと性器の頭が尻の穴にひっかかった、というように、痛いと呻く。
「処女、破ったばかりだぜ、もっと優しく扱えよ」イヤさんは痛みをこらえながら苦情を言う。「何人、男と寝たんだよ」
イーブはイヤさんの苦情が同性愛をして果てた後の照れかくしだと分かった。自分の出した精液が体や顔にくっつくのにイーブにまたがったまま、胸に頬よせて倒れ込み、イーブが尻を撫ぜ、痛いという尻の穴を撫ぜるのにされるがままになり、イヤさんは「こんなに乱暴にして、よくホモの客がつくなァ」と言う。
もう一度やろうと誘ったが、痛いと言って応じないイヤさんにあきらめ、イーブはそれなら少しは奉仕しろとイヤさんに命じ、シャワーで体を洗ってもらい、別荘を出た。イヤさんの肩を抱きバンガローに向かいかかると、チョン子が、イーブを呼びとめ、
「どうしたの。Jが泣いてるよ」と言う。
「また勝手な事して」
チョン子は、パーティーが始まる前のようにバタフライを股間につけていた。
「Jがイヤさんと姦れとそそのかしたんだぜ」イーブが言うと、チョン子は韓国語で一言二言つぶやき、舌を鳴らし、「そんな事ない。あんたたち、最初からおかしかった」と首を振り、「この人のお尻に興味あるんだったら、あの人がお客なんだからJの前で姦って、Jも仲間に入れてやればいいじゃない」と言い、今度はイヤさんに絡むように「どこの組? どうせあのあたりのサウナに出入りするんだからしれてるだろうけど、人の商売、めちゃめちゃにするなら、落とし前つけなよ」とにらむ。イヤさんはニヤリと笑った。
「落とし前つけろって、俺が、イーブに狙われて、尻の穴の処女奪われたんだから。痛くってたまんねえや」
チョン子は「バッカみたい」と軽蔑しきった顔をする。
「痛くたって使ったらきちんと金払うのが道理でしょ。あんた、マゾバーへ行ったと思ってごらんなさいよ。ムチで打たれて痛いからって金払わなかったらどうするのよ。イーブの勃ったチンポコ一回使ったら幾らって決まってるんだからね」
「じゃあ、おまえも金、取るのか」イヤさんは訊く。
「わたし? 当たり前でしょ」
チョン子の言葉にイヤさんは焦立ち、「さっきの姦りかけの一発だよ」と言う。チョン子は「ああ」と言い、「あれはタダ。オカマの話ばっかしして。それまでイーブの一発試してみるような男と思わなかったから、姦らしたんだ」と聴いているイーブの頭が混乱するような事を言う。チョン子は「J」とデザイナーの名を呼んだ。
「浮気者のイーブがいま戻って来た。ヤクザに乗っかってたんだって」チョン子が声を掛けるとデザイナーが歩いて来て、まだ苦情を言いたそうなチョン子を無視し、イーブとイヤさんに「さあ、また三人であそこの芝生へ行って飲もうね」と誘う。二人の真中に入り、裸の三角形が出来たというように両手を広げてイーブとイヤさんの肩に当て歩き出し、それが一等訊きたかったというように、「どうだった? イーブは素敵だった?」とイヤさんに訊く。イヤさんは一瞬バツ悪げにデザイナーを見て「初めてだから。だけど一回こっきりだろうな。おそらく、もう。ないな。イーブに優しくしてもらったけどよ」
「そんな事はない」デザイナーは言う。「イーブと初体験で出会って、一回こっきりなんて信じられない」
デザイナーは元のタオルケットを敷いた芝生に戻ると、飲み物は自分が用意するから坐れと言った。バーベキュー台の周りに三人の少年らが残り物を火にあぶっていた。イーブはデザイナーから生のままのラムの入ったグラスを受け取り、少年の一人が手を上げるのに答えて坐り、立っているイヤさんに「あのうちの一人とイヤさんが姦りたいって言うなら交渉してやるよ。俺に姦って来いって言うならすぐでも姦って来てやる」とささやきかけた。イヤさんはデザイナーがつくったバーボンのオンザロックを受け取り黙っている。
「一回こっきりって事はないな。絶対、あんたはこれからも経験する。女と姦らないってわけじゃない。男と姦るのと女と姦るのは位相が違うんだ。対立しないんだ。男と姦るのはどう言えばいいのだろう、架空のものと姦る。或る人は架空のものを、神というかもしれないし、美というかもしれないし、力というかもしれない。色々、好きになる対象はあるよ。男っぽいのが好きな人、女っぽいのがいい人、普通の人がいい人。筋肉質がいい人、肥った人がいい人、やせた人、若い人、中年の人、年取った人。或る人は穢ない乞食に神を見る。乞食は現実だけど性愛の対象になった途端、架空の彼方のものになる。イーブに体を唇で愛撫され、イーブを愛撫し、イーブに伸《の》しかかられてよがり声を出したのは、イーブに彼方をのぞき込まされたんだ。どんなに具体的に人に言うに羞かしいところを舐めようと噛もうと突っ込まれようと、たとえ小便を顔から乞食にかけられようと、ホモセクシャルは具体じゃなく架空だし、観念なんだ」
「分からないな」イヤさんは首を振る。デザイナーはイヤさんの前に坐る。イヤさんの肩の刺青を見つめている。
「分からない人、多いよ。分からないまま知らず知らずに過ぎていく人、多いよ。自分が同性愛だと知っててかくしてる人はいい。知らないで過ごしてしまう。或る時、首を吊って死ぬ。というのも、イーブによく言うけど、男が好きだ、男しか愛せないというのは大事じゃなくて、人間の何割か、性と彼方がくっついてしまっている人間がいるって事なんだ。同性愛のほとんど、普通の人でも何割も、そんな人がいる。スポーツやったり、芸術やったり、宗教に凝ったりしているけど、彼らは、一つつまずくと、彼方がむきだしになり、生きていく方策が分からなくなる。或る市の浜辺に男子高校生の尻を触るホモが出た。そのうち警察につかまった。現場検証の日、ホモの男は浜に引き出された。近くを電車が走っている。男は何時何分に電車が来るのを知っていた。一服させてくれと言い、電車が来るのを待って、飛び込んだ。その男は罪の意識で死んだんではなく、むしろ恥の意識で死んだんだ。だけど父親を殺し、母親を犯す恥の王様と比べると、男の尻触りは確信犯だ。だから僕は、性と彼方が直結した性格の典型としてこの男が、見える」
「高校生の汚い尻を神様の尻と思ったのかなァ」イヤさんは言う。
「まあ、そうだろうな。僕がそうだったよ。まだ会社に勤めている頃、わざわざ廻り道して満員電車に乗って、男の尻やふくらみに触っていた。好きな人のに触れると指が燃え上がる気がしたよ。毎日、その時間になると宗教的な恍惚感にさえ襲われる。他の時間は死んだように暮らしているのに」
「サウナに来て、眠っている奴のを触っているのも、そうかな」イーブは言う。イーブは不意に思い出し笑いをした。「あのサウナのオカマ、寝ているイヤさんのを触ったから顔が脹《は》れ上がるほど殴られたんだぜ」
イヤさんは不意に顔をくもらせ、イーブを見つめ、たまたま物に憑かれたような声で「誰でもこんなイーブみたいな奴と口きくようになり誘われたら魔がさすよな」と当のイーブに同意を求めるように言う。「そうだよ」イーブはイヤさんを誘うように見て言った。「俺は俺に声掛けてくる奴、男でも女でも皆な気があると思っている。触りたい奴に触らせてやるよ。一発姦って欲しいと思っている奴には一発姦ってやる」そう言ってイーブは黙った。黙ったイーブに讃辞をなげかけなければイーブが忽然とその場から姿を消すか、自分が猿にでも変わってしまうように不安げなまま「イーブは他の人間と違うんだよ」と言い出す。
「イーブは誰にでも勃つ。あの少年たち三人だって、本当はイーブの性器をいじってみたい。性器が勃ってイーブが穴に入れたいと言うなら、途中で痛いから止めてくれと言うかもしれないけど、穴に入れさせる。もちろん女なんか論外だ。イーブが女のヒモでいようと思うならよりどりみどり」
別荘のパーティーから戻り、イーブもチョン子も二日、休養を取った。元々テレビを観るたちではなかったから、午前中はパチンコをやり、スロットルをやり、午後からジムナジウムに出掛け、普段よりセット数を増やしてウェイトリフティングをやって、夜になって繁華街に出掛けた。
営業用の服装ではなく、ただジムに出掛けるだけの服でも、イーブは人目につく事を充分知っている。イーブは一人で何をしても面白くないと、二日間共、街を行く女の子に声を掛け、一緒に喫茶店に入った。向かい合って坐ると、女の子は〈白豚〉や〈黒豚〉と比べると怖ろしく貧困な話題をしゃべり、話にあきてしばらく女の子の股座《またぐら》に一角獣の角を突っ込もうかどうか思案し、あげくは友達と約束があるのでと別れてしまうのだった。
二日の休養が終り、約束の時間を待ちかねたようにチョン子に電話して、イーブは、都心のホテルのスィートルームを大前という名前で予約しているから、六時にチェック・インしろと指令を受けた。二日間、退屈極まりなかったと言うと、チョン子は「嘘ばっかし」とからかう。
「目の届かないところでろくな事をしてないんだから。イーブが手当たり次第姦らないでどうするの」
「面白くねェよ。タダで姦ると思いはじめると、顔を見ちゃうね」
電話の中で、「もうプロになったって言うの」とチョン子がケタケタ笑う。「そりゃ、そうだよ。うまい物、食べていいところに泊って。それでセックスやって金もらうんだからさ。もうイーブは普通じゃないよ」
ジムナジウムでシャワーを浴び、そのまま営業用の服に着替え、六時に着くようにタクシーに乗って、待ち合わせのホテルへ行った。フロントに歩いて「予約を入れておいた大前だけど」と名を言うと、すでに大前という名の男性がチェック・インしていると言う。訝って、取りあえず部屋に電話を入れてくれと頼み、フロントに立っていると、イーブの本名を呼ぶ者がいる。振り返り、そこに立っている正装した男が、チョン子からターと源氏名をもらった元の同僚だと分かった。
「どうしたんだよ」イーブは懐かしさに抱きつきたいほどだった。
「何遍、電話しても部屋にいないし。おまえの事だからロクでもない事して、刑務所にでもぶち込まれてる、と思った」
イーブがそう言うと、フロントの係がチェック・インしている大前とはターの事だと言う。
「どうしたんだ、何だ、これ?」
イーブはターの着ているタキシードの襟を触り振った。ターは「仕事、仕事」と笑を浮かべる。
「仕事って?」とイーブが訊き返すと、ターはフロントの前では言えないから、と下の階にあるコーヒーショップに行こうと誘う。エスカレーターを共に並んで降りながら、ターの横顔を見、以前より精悍な顔つきになっているのに気づいて、「女、つきあっているのか?」と訊いた。ターは自分のタキシードを見、視線を移し、「今、つきあってるの、別な女。今日はパーティーのお伴」と言い、イーブに部屋のキーを渡す。イーブが六時にホテルにチェック・インするのはチョン子に電話して訊いたと言い、ターはさりげなくタキシードの内ポケットから懐中時計を取り出し、パーティーに行く為、女を迎えに行くのに一時間あると言う。「アメリカ大使館だぜ」ターは言う。イーブは「ああ、あれか」と言った。「あれだよ」ターはウィンクした。
五
イーブが正装のターを先導するように先に立って、ホテルのコーヒーショップの前に立った。係の者が案内するというプレートの前に背筋をのばして、どこから誰が視線を飛ばそうと非の打ちどころのない若いアジア系の紳士、望むなら力と性でいつでも圧倒してやるという気の漲った美しいジゴロとして立ち姿を決め、自分より野卑だが他の男より抜きん出た性の魅力を放つターを見る。ターはイーブの昏い青みがかった、無垢としか言いようのない目で見つめられ、無垢の目の彼方に、人の体の毛穴という毛穴を開けさせ快楽の液を注ぎ込むに足る沼を確かめたと言うように、無言でも言っている事は分かると爽やかな笑をつくる。イーブもターもカフェの中で、入口に立った二人を目撃したアジア系、欧米系の男や女が波立ち、心を動かし、意識するともなしに性の波動を送っているのに気づいている。黒服の従業員が来て二人を窓辺の席に案内した。欧米人の夫婦が、二人をジゴロと見抜いたのか露骨すぎる好奇の眼を向ける。ターは席につくなり、「チョン子のやつ、プリプリしとる」と訛を使ってしゃべり出す。
「俺が勝手にあの女に連絡、取ってたからな。デュポンだ、オメガだって言ったって、誰でももらっとるだろ。チョン子は俺がおまえの居所突きとめるのに電話しただけで、素裸にして点検するように、指輪は何グラム、チェーンは? と訊くんだぜ。いちいち訊くから、みんな言ってやった。あの女に囲われて、昔の借金ぐらしから足洗って、今じゃ電話つきの車に乗って、今日は軽井沢、明日は湘南って走り廻ってるって」
「電話つきの何の車だよ?」イーブが訊く。
「ベーエムベー」ターは答える。
イーブはホテルの隣のビルに何台も車を飾ったショーケースがあったのを思い出しながら、BMWをベーエムベーと発音するターの得意げな顔を見て、「ついにおまえもジゴロだよな」と笑う。
「チョン子もそう言ってたな」ターは言う。ターはイーブの笑に微かに軽蔑が混っているのに気づき、「おまえ、何、持ってる?」と訊く。
「何にも」イーブは笑って答える。イーブの斜め前の席の欧米人の女がイーブの笑を盗み見て、気高い貴婦人が町のジゴロから誘われ穢らわしさに身震いするというように眉をしかめる。「チョン子に赤電話で電話してタクシーで現場に行ってる。ここだってタクシーで来たさ」
「俺はベーエムベー」ターはまた言う。
イーブははっきり欧米人の女を挑発するように笑をつくる。欧米人の女は苛立ったように手を組み直しツンと顔を上げ、胸をそらし、態度で自分は下賤な町をうろつくジゴロに挑発されるようないやしい女ではない、と示そうとする。イーブは女が夜の川にもぐって懐中電灯を当てた時の鮎のような気がした。懐中電灯の光を直接当てると鮎は驚いて逃げるが、直接の光をあらぬ方に当てると、鮎はほのかなあかりに気づき、眠りから目覚め、苛立ち、岩場のかげで動いて廻る。夜の川にもぐり、懐中電灯一つ左手で持ち、右手に持ったヤス一本で鮎は何の苦労もなしに面白いほど突ける。欧米人の女はヤスではなくイーブの黄金の一角で股座の奥を突かれるのを想像し、宇宙に向かってメッセイジを放つパルスのようなイーブの笑に、どう反応してよいか苛立っている。
ターとイーブの二人連れは誰がどこから見ても、周りとは違っているはずだった。客の何人かがターの話す声に耳を澄ましていた。ターは女と別れて一念発起して、アメリカ大使館の女と呼ばれる女の囲われ者になった。チョン子が怒るのは無理もなかった。というのも、チョン子の客にアメリカ大使館の運転手と称する男がいて、嘘か本当か、アメリカから重要な人間が来た時に秘密のパーティーを開く為に、人集めを依頼する。その秘密のパーティーはアメリカから来た重要な人間の身分や趣向によって集める人の色合いが違った。大臣や長官クラスでは女優が芸能プロダクションの手を通して集められるが、さして重要でない人物なら、チョン子の元に依頼が来る。もっぱらソープランドやファッション・パーラーの女の子を送り込むが、主賓が女の場合、チョン子はジゴロを送り込む。ターはそのパーティーで夫がアメリカ大使館に勤務するという女に出会ったのだった。
「結構、楽しいよ」ターは言う。
「週末は別荘だから、どうしても車がいるって買ってもらったけど、ナンパ結局、出来ないのな。ベーエムベー手に入った時、よし、これで女、皆なひっかけてやる、と思うけど、女に買ってもらった車だと分かると、つい、悪い気がする。別な女と車に乗ってる最中に、女から電話かかって来ても困るしな」ターは言って、懐中時計を取り出して時間を見、「もう時間だ」と立ち上がる。
イーブも時計を見た。約束の時間を十分、過ぎていた。イーブは立ち上がり、伝票を取ってから欧米人の女の顔を見てはっきりと分かるようにウィンクし、女がまだイーブがそこに居てゲームを続けてくれると思っていた、とあきらかに不意を打たれ、戸惑ったように目をそらすのを見て、「さあ俺も仕事だ」とターに言い、レジに歩き出す。レジで金を払う間、ターは何のつもりか、イーブの服の肩に手を掛け、「電話くれよ。おまえにだけ、車の電話、教えるからよ。誰にも教えていない、チョン子にも教えてない」と言う。
「ああ、電話する」イーブが言い、財布を取り出すと、
「エルメスの財布か」と言い、「取っかえ引っかえ姦るのもいいけど、一人につかえるのもいいもんだぜ」とつぶやき、「ヤキモチ焼くんだけどな」と言う。
金を払い終って外に出て歩き出した。ターは別れるのが未練げに、車でいつでもドライブに連れてってやる、と言い、この春、出かけた高原の話をしはじめ、ハイキングに来ていた女を引っかけ、車の中でくどき、人の気配のない高台で昼間から姦りはじめた途端、電話が鳴り出した、と言った。東京から離れているのに、車の電話が鳴る。姦りながら受話器を取った。声は囲っている女のものだが、高原のそこにかかっているものだから、電波のいたずらで何を言っているか分からない。ターは「現実の女とオバケの女、二人相手にしている気がしたぜ」と言い、笑い転げる。
エスカレーターの中ほどで、イーブは〈黒豚〉の一人がエスカレーターで下に降りてくるのを見つけ、驚き、笑を消した。興に乗って本物の女のよがり声と電話の女のよがり声のように聴こえる声を真似して笑い転げていたターは、イーブの変化に気づいて黙り、〈黒豚〉がイーブを見つけ、笑い転げるターがそばにいるのを見て何を誤解したのかこわばった顔のまま擦れ違いかかると、イーブの変化の原因はこの事だった、と分かったと言うように黙礼する。エスカレーターで上に昇りきって一階のフロアに立って、「今日の客か?」と訊く。
イーブはターにどう蔑まれようとかまわないと思い、決心して、「チョン子が入れてる今日の客は女だ」と言う。
「別嬪か?」
「まあな」イーブが曖昧に返すと、「俺みたいに専属にしてもらえばいいじゃないか」と言う。
イーブは立ち止まり、「選びたくねえんだよ」と言う。ターはイーブの声を聴いて曖昧な笑をつくり、イーブと話をしていたが「アメリカ大使館の女」をむかえに行く時間がさし迫っていると時計を見、電話をするし、電話をくれと言いおいて、ドアの方へ駆けた。
イーブはその瞬間にターの事も、同じホテルにいま迷い込んで来ている〈黒豚〉の事もきっぱりと忘れた。イーブが客を選ばず、口約束で契約したチョン子に客の選別をまかせている以上、イーブに十分前の記憶、五分前の記憶、いや一分前の記憶すら余計なものだった。〈白豚〉と会っている時に、サイボーグのイーブのまだ柔らかなままの脳の中に消し忘れたデジタルな記憶や、アナログの残像が甦り、イーブは〈白豚〉を応対するのも上の空になって、古い井戸から汲み出した冷たい水の感触やその冷たい水に長い間浸していた小さな粒のぶどうの瑞々しさを喚起し、サイボーグの機能が壊れたように、独りぼんやりと幽明のような記憶を楽しむ。遠い昔なぞサイボーグのイーブにあってはならなかった。機能が壊れれば、〈白豚〉がイーブの為にデザートとして選んだ人工の柔らかいエメラルドのようなマスカットから、昔、精霊流しの夜、悲しみにくれる者らが家路についた後をみはからって、子供らと組を組んで川原に出かけ、川原にそなえられた供物で食べられるものは全て拾い上げ、持ちかえり、冷たい井戸の水に浸していたのを思い出す。出来そこないのエメラルドのようなマスカットを歯で噛むと、サイボーグの機能を正常に戻す果汁が口の中で飛び、イーブはたちまち、〈白豚〉の一夜の恋人をプログラムされた完璧なサイボーグに戻る。
「甘いよ」イーブは口をあけ、舌をつき出し、無残に割れて潰れたのが偽物のエメラルドの証拠だというように見せ、舌から舌へマスカットを受け取れと合図する。〈白豚〉はそこが繁盛したレストランで客もボーイもいる場所だと、イーブの言葉に顔を赭らめ、それでも今は自分の理想の恋人と一緒の人生の特別な時間だと言うように、イーブの眼を見つめ、次に舌の上のマスカットを見つめ、寄り目になりながら、テーブルに手を置き、顔を近づける。イーブは息を殺し、寄り目になり、上気して小鼻の膨らんだ〈白豚〉に綺麗だと目で讃え、顔が舌先に近づいたところで、テーブルの上の〈白豚〉の手を握る。
〈白豚〉は唇を開いた。唇が震えた。
イーブはそうではない、舌から舌へ、ギリシャの若い神が噛み砕き、咀嚼出来るように潰したエメラルドを受け取れと言うように、舌の先で〈白豚〉の震える唇をなぞる。〈白豚〉の舌は二度三度の誘いを受けて臆病な小蛇のように先を見せ、イーブの舌に絡みつこうとする。イーブは舌先をまげて、もっと羞かしがらず全身をあらわにしろといざない、〈白豚〉の舌が固定したのを確かめて、噛み砕き、潰した一片だに残すどころか、果汁まで〈白豚〉の舌に載せそのまま、〈白豚〉の舌に従《つ》いて舌を口の中に入れる。自ずと唇と唇が重なった。〈白豚〉はマスカットを呑み込み、イーブの舌に残った果汁まで吸い取ろうとするように唾液を飲んだ。
唇を離し、イーブは「甘いだろう?」と訊く。
〈白豚〉は傍目《はため》にどう思われてもよいと言うように、「甘い」とイーブを見つめたままつぶやき、生涯で初めて果物が甘いのだと気づいたと言うように「甘い」と言い直す。〈白豚〉はイーブとの一夜が、どんな恋愛小説の一夜より甘い一夜だというのを知っている。普通の恋愛なら人目をはばかり、たとえ恋人の誘いがあろうと踏み留まり自制するところを、イーブが高級ジゴロだから、高級ジゴロの手練手管に乗じるふりをして規《のり》を越え、規を越えた自分を知って普段の自分との差に驚き、差に羞恥を抱き、何もかもジゴロのイーブのせいだと言うように、イーブを見つめたまま「悪い人」とつぶやく。
そのままホテルに戻り、ベッドに運び上げても充分に〈白豚〉の情欲は花開くが、イーブがサイボーグの分だけ、恋愛ゲームは続く。イーブはレストランを出て、〈白豚〉をサパークラブに連れ出す。〈白豚〉が求めるなら、イーブと同じ男とは到底思えないオカマらが、男の体に筋肉がつく事、男の体がごつごつしたこわばった線の連鎖である事、毛が濃く生える事を嘲るように男の特徴を誇張し、それが白い衣裳をつけ、白鳥の湖を踊るショーにも連れて行く。
サパークラブではイーブは〈白豚〉に何のサーヴィスもしない。ウェイターもウェイトレスもイーブがジゴロであり、女が〈白豚〉であるのを一目で見て取り、客の〈白豚〉がその場でどう指図するのか、待っている。〈白豚〉はコニャックを注《つ》ごうとするウェイトレスをまるで恋仇のようにしりぞけ、そうかと言ってウェイターを呼んで飲み物をつくらせ、一言二言口をはさませればイーブから二心ある女だと見られると言うように、飲み物を自分の手でつくり、ダンスを踊ろうと誘う。イーブは誘われるまま、ダンスを踊る。
イーブはダンスを踊りながら、恋愛ゲームの続きを仕掛けようと、「ここのウェイター、あんたに気があるみたいだぜ」と話しかける。サパークラブのピアノの脇にある大きな花びんに盛りつけた花陰にいるウェイターを〈白豚〉に見せるようにターンをし、丁度、イーブの真正面に手持ちぶさたに立ったウェイトレスにウィンクし、「こっちのウェイトレスは俺に気があるってよ」と笑を含んだ声でささやく。
「どうする? どうするって言ったって結果は分かってるけど。ちょっとでもあんたに秋波送ろうもんなら、腕ずくだよ。殴りつけてやる。ジゴロの上前をはねるのかってな」
「あたし、出来ない」〈白豚〉は言う。
イーブは「何が」と髪に手を掛け訊き返す。
「イーブに人が気があるからって、殴りに行けない」
イーブは笑う。「俺は厭だな。男は女と違うもの。あんたの他に客の女いっぱいいるけど、今日はあんたは俺の獲物だもの。俺が穴ぐらから追い立ててこれから一晩かけてゆっくり噛みくだいて味わおうと思ってるウサギだもの。これから喰おうと思ってるの、他から取り上げられると怒ってしまう。狙ってる奴がいるっていうだけでイライラする」
〈白豚〉はイーブに髪を撫ぜられながら頬をイーブの胸にすり寄せ、「イライラしないでェ」と詠うようにつぶやく。イーブはなお恋愛ゲームを楽しむように、「イライラしちゃうよ」と耳元でささやく。
〈白豚〉は顔を上げ、イーブを見上げ、「人が見てても、私はイーブしか見ない。見たくない」と哀願する眼で見て、「ずっとイーブしか見てない、今日だけでもイーブの事しか見たくない」と涙を浮かべる。「いつも厭な人の顔、見てるのに。女は好きな人しか見たくないの。男の人は違う、あっちもこっちも見る」
「ジゴロの事か?」イーブが訊くと、〈白豚〉は首を振る。
「男の人は、ウサギを何匹でも獲って、好きな時に適当に食べるのよ。哀れなウサギね」
恋愛ゲームのクライマックスに達したように〈白豚〉は涙を流し、笑を浮かべる。その〈白豚〉の言い方が可憐で、イーブは曲が終り抱いていた手を離す前に、首筋にキスをするふりをして肩に唇をずらし、甘噛みをした。そのまま離さず、獅子が獲物の肉を喰いちぎろうと振り廻すようにイーブが首を振ると、〈白豚〉はそこがサパークラブのダンスフロアなのに、「いたーい」と絶え入るような声を出す。
サパークラブからホテルまで歩けば、ゆうに一時間はかかった。酔いをさます為に歩きたいと言う〈白豚〉の意見を聴き入れ、イーブは〈白豚〉の体を抱え、「イッた時のような声出すんだからな」とからかい、また甘噛みし、「いたーい」と声を上げさせ、また抱えて歩き出す。
「ズタズタになってる気がする。傷だらけになってる気する」〈白豚〉は歩き出して一層、酔いが体に廻ったように言い、体から力が抜けはじめる。
繁華街を抜け出て高層ビルの林立する一帯に来て、もう歩けないというように〈白豚〉が立ち止まるので、イーブが励ますように唇に唇を重ね、舌を吸う〈白豚〉に気合いを入れるように首筋を少し強く噛むと、〈白豚〉は言葉にならない声を上げ、はっきりと気がイき、力が全身から抜け落ちて崩れ落ちかかる。
イーブが腰を抱き、力を入れて支えた途端、大粒の雨がまるで恋愛ゲームの罰則のように降りはじめる。イーブは〈白豚〉を抱いたまま苦笑した。タクシーは通っていなかった。
何もかも罰のような気がした。自分の足で歩く気力を喪くした〈白豚〉を両の腕で抱え上げてホテルまで歩いたことも、〈白豚〉のずぶ濡れの服を脱がしたのも、乾いたバスタオルで〈白豚〉の体を拭うのも、一切合財、自分で選ぶのを拒み、チョン子にまかせっきりのイーブ流のジゴロの受ける必然の罰の気がした。〈白豚〉は乾いたバスタオルで濡れた裸を拭われるのが、優しい理想の恋人からほどこされる全身マッサージと受けとめるのか、裸のまま、胸を手でかくして眠った。
イーブは、〈白豚〉が眠ったのを確かめて、やっと濡れた自分の服を脱いだ。素裸になってから、ベッドの脇に腰掛け、ルームサービスに電話して明日の朝までにクリーニングが上がるかどうか訊いた。クリーニングは出来ないが、濡れた物を乾かし、アイロンをかけるくらいは出来る。
「頼むよ」イーブは言った。ボーイが上がって来る間までに用意しておこうと、〈白豚〉のブラウス、スカートの中をさぐり、ブラウスの飾り物のポケットの中にも紙切れ一枚入っていないのを確かめて揃え、イーブは自分のジャケットのポケット、ズボンのポケットから、ライター、財布、鍵の束を取り出し、〈白豚〉の脇のベッドに放る。
鍵の束が鳴る音を耳にして、イーブは、鍵の一つ一つが〈白豚〉や〈黒豚〉のマンションの一室や別荘のものだというのに気づき、不意にターが何故、一人を選んで囲われないのか、と訊いたのを思い出す。
イーブはむしろターに、何故、一人に囲われているのか、訊きたい。その一人が好きな相手ならよい。好きでもない一人を相手に何故、囲われるのか?
〈白豚〉の物、パンティからガーターまで、イーブのもの、ジャケットから繁華街の一角で買ったスキャンティまで濡れた物をまとめ、ランドリーサーヴィスの袋に詰め込んだ時、ボーイが部屋のチャイムを鳴らした。
イーブは素裸の腰にバスタオルを巻き、ドアを開ける。開けたドアからボーイが部屋に入って〈白豚〉が裸体のまま何もまとわずベッドの上に横たわっているのに気づき、イーブはあわててはだけた毛布を〈白豚〉にかけた。それで〈白豚〉は目覚め、ジゴロのイーブとの特別な一夜、酔った体を乾いたバスタオルでこすられ思わず眠ってしまったと気づき、「イーブ」と呼ぶ。
〈白豚〉は顔を上げる。
イーブが、ランドリーサーヴィスの袋の中身を、ブラウス一枚、スカート一枚と伝票に記しているボーイにつきそっているのが見えず、ボーイが無断で部屋に侵入し、はがした身ぐるみを値ぶみしていると思ったのか、〈白豚〉は、
「出てってよー」と声を出す。
「どうした?」イーブがボーイの代わりに訊くと、〈白豚〉は、「ああ、そこにいてくれたの」と毛布を体に巻きつけ、ベッドの上に四つん這いになり、あたりを見廻し、テーブルの上に置いたハンドバッグに目をやって「そこに置いてあったの」と安堵したように言って坐る。
「どこかに棄てられてる夢、見てた。一人で眠っている気がした」〈白豚〉は言い、イーブに煙草を吸いたいからハンドバッグを取ってくれと頼む。
イーブはボーイに伝票はそちらでつけてくれと言い、「ありがとう」と礼を言ってボーイに二つ、ランドリーサーヴィスを差し出した。ボーイはイーブのその仕種で、イーブが〈白豚〉に買われたジゴロで、客の〈白豚〉が眠りから覚めたのでこれから本業に入るのだと悟ったように、黙ったままうなずく。イーブはそのうなずき方に、微かに性を売る者への軽蔑が混っているのを気づいている。
イーブはボーイが部屋の外に出て、ドアが閉まるまで待った。自動ロックが音立ててかかるのを耳にして、初めてサイボーグの一角獣のスイッチが入ったように、イーブは歩いてテーブルの上のハンドバッグを取り、〈白豚〉に渡す。
ハンドバッグを受け取り、〈白豚〉は口金を開け、中を手早くあさり、さがしていたものがあった、と安堵の色を浮かべ、それから煙草を取り出して火を点ける。煙を一つ吐いて、ハンドバッグの中から大事な物が盗まれていると疑った事も、大事な物があったと安堵した事も、一夜だけの最高の恋人イーブとの恋愛ゲームをぶち壊す事だったと反省するように、もう乾いたセットの取れた髪を二度振って顔を上げ、「ヘンな夢よォ」とイーブを見つめる。
「誰かに殺されてるのよ。おそらくあの人だと思う。だけど、あの人、私を棄てられない。それでイーブに頼むの。私は殺されても意識があるの。あの人とイーブが相談してるの聴こえてる。ドレスが何枚、ブラウスが何枚、あの人は私の持ち物を全部イーブに言ってるの。あの人は、私の意識まで死ぬのを待つ為、わざとイーブに細かく言ってる。スカーフが何枚、ネックレスが何個、いちいち言うの。いやらしいわね、わざと引きのばす為に、そんな事まで言っている」
「あのルームサーヴィスのボーイが、あんたの裸、見たから、わざと細かく伝票つけてたんだ」
「結局、イーブが私を棄てるのよ。イーブは私を棄ててどんどん歩いていく。私は棄てられてもまだ意識があるの」〈白豚〉はそう言ってまた煙草を吸う。〈白豚〉はイーブの眼を見つめ、それから煙を吐き、目の前に漂う煙に視線を移して寄り目になる。夢を見る〈白豚〉にどんな事情があるのか、イーブは事こまかく知らなかったし、また知りたくもなかった。夢の中身に興味はないが、煙の行方を追って寄り目になるその動きがサイボーグの一角獣を刺激する。
イーブはバスタオルを腰に巻いたままベッドの上に片脚を掛け、〈白豚〉に手をのばし、片方の手で洗い髪のような髪の後頭部をおさえ、撫ぜ、片方の手で〈白豚〉の指から煙草を取り、身をよじり、腕をのばしてテーブルの上の灰皿で消した。
無言のままだった。身をよじり腕をのばしたので後頭部をおさえ撫ぜていた手に力が加わり、それが〈白豚〉には合図と取れたのか、身を起こすと、〈白豚〉は毛布を被ったまま四つん這いになっていた。引き起こそうとすると、〈白豚〉はイーブのバスタオルがはだけのぞいた脚のふくらはぎを舐めた。ふくらはぎの硬い毛を舌でたどり、くるぶしに下りる。
イーブは〈白豚〉の髪を撫ぜ、あいている手で被った毛布を引きずり下ろす。〈白豚〉は裸体があらわになると、イーブの眼に裸体をさらすならこうするしかしようがないというように、「ああ」と声を上げ、両の手でイーブの脚に抱きつき、持ち上げ、イーブが脚を上げると、足に頬ずりし、舌を出して舐めにかかる。〈白豚〉は四つん這いのまま、イーブの足の指を一つずつ口に含み、イーブがバスタオルをはずし、その手で〈白豚〉の腰を撫ぜ、まだ形の崩れていない尻に手をのばしかかると、イーブの愛撫を拒むように身を左右によじって避ける。足指の一本一本に〈白豚〉の舌が這い、唇の粘膜が吸いつく感触はイーブには快楽とほど遠かった。イーブは脚を上げた。〈白豚〉は獲物に戯れる猫のように足を抱え、唇からとび出した足指をなお口に含もうと身を起こしかかる。
「分かったよ」イーブはつぶやいた。「なんでもやるし、やらせてやるから、少し明りを落とそうな」
イーブは〈白豚〉をなだめるように、頭を軽く二つたたき、ベッドの下に足を降ろそうとする。
〈白豚〉はききわけの悪いいつまでも遊んでいようとする猫のように、イーブの足にしがみついたままだったから、イーブの足と共にベッドの下に落ちかかる。足裏で〈白豚〉の顔を踏みつけそうになり、手で体を支えた。しかし脚が顔に当たった。
「大丈夫か」とあわててイーブは〈白豚〉の顔を、まるで体から斬り取られた首のように抱き上げようとすると、
「イーブ、痛くしないで」とつぶやく。鼻の穴から血が流れ出す。〈白豚〉はイーブを寄り目になって見つめる。
「ごめんな。足が当たってしまった。血が出てる」イーブが言うと、〈白豚〉は「いいの」とつぶやき、「痛くしないで、噛んで」と言う。
イーブは噛んだ。〈白豚〉は声を上げる。イーブは〈白豚〉の、子供を生んだ事も孕んだ事もないような色素の薄い淡い桃色の乳首を、舌でさぐり、転がし、最初、奥歯で噛み、次に前歯で噛む。
それはイーブの一角獣のセンサーに火の点く儀式のようなものだった。まだホストやジゴロの世話にならずとも、充分に恋人を見つける事の出来る若い〈白豚〉だったが、他のどの〈白豚〉より若い分だけ、情欲がむき出しになり、その分だけイーブに要求する事が多くなる。サイボーグの一角獣は、自分の一角が他の〈白豚〉や〈黒豚〉を姦る時のようにその〈白豚〉には簡単に有効でない事を知っている。
〈白豚〉は縛られたまま犯されたがった。イーブは最初戸惑った。〈白豚〉を鏡の前に立たせ、まず後ろ手に〈白豚〉の用意した紐で縛った。その次に、両の乳房が四つに横に断ち切られたというように体に紐をかけて縛り、〈白豚〉が声を上げ、自分の縛られている姿を見ていられないと言い出して、イーブは鏡に映った自分が昏い情欲に燃える眼をしていると気づいて昂ぶり、興が乗り、〈白豚〉を乱暴に転がし、鏡に向かった〈白豚〉の股間から女陰の奥までのぞけるように脚をえびぞりにして縛り、その姿勢で犯した。或る時は縛られたまま〈白豚〉は顔に小便をかけられたいと言った。
イーブは躊躇した。〈白豚〉のまず必要とするのは、角ではなく、小便の出る管だった。イーブは縛った〈白豚〉を洗面所の床に転がし、努力に努力を重ね、〈白豚〉のあらゆる要求に応え情欲を満たそうとする高級ジゴロは、愛も恋も、憎しみも怒りも必要ではなく、いまに噴出すると小便を待ち焦がれる〈白豚〉への限りのない優しさだと胆に銘じ、イーブの汗や小便や体液という不浄の臭い匂いのするものが、人に愉楽を与えもすると知ったのだった。小便はイーブの性器が勃起している状態では出なかった。一角ではなく何の脅威も人に与えない管の状態になって小便は噴出し、〈白豚〉は恍惚として声を上げてよろこんで顔に浴び口に受けた。その〈白豚〉の恍惚はイーブに不思議な興奮をもたらし、センサーが狂ったままなのにサイボーグの一角獣に火を点ける。
いまも〈白豚〉は噛まれたところが痛いと声を上げ、イーブの筋肉の浮き出た首を抱えたまま絶え入り、痛みが和らぎ、甘やかな波になって消えかかると、「痛くしないでェ」と言葉とは裏腹にもっと強く噛んでくれと催促し、誘うように身をよじり、ふっくらと肉のついた右脇のあたりをイーブの前にさらす。
イーブは〈白豚〉の体をあぐらをかいて坐った上に横抱きにし、一方の手で乳房を、一方の手で女陰を嬲りながら、〈白豚〉の誘うまま脇の肉を歯ではさみ、両の手の嬲る速度と強さに合わせて徐々に力を加え、歯型がくっきりとつき、血がにじむまで噛む。〈白豚〉は声を上げ続ける。痛みなのか快楽なのか、その二つのないまぜになったものか、イーブは〈白豚〉の声を耳にし、〈白豚〉がイーブをどう思っているのか、〈白豚〉を襲う悪の権化か、それともサイボーグの一角獣なぞではさらさらない優しく果の果までつきあう愉楽の化身か、訊いてみたい気がする。
イーブは〈白豚〉を抱き直す。ぐったり力ない〈白豚〉の股を広げ、イーブの体をはさませて体がイーブに向かい合わせになるようにしてから、女陰の中に猛った邪悪そのもののような性器を入れる。〈白豚〉を抱き上げると〈白豚〉はイーブの顔に顔を近づけ、寄り目になり、舌を突き出してから身をよじり、女陰の奥深く突き刺さった一角が、イーブの顔の真中にある鼻だと言うように舐めにかかる。
六
〈白豚〉はイーブが二つに割った石榴《ざくろ》の果肉に噛みつき、流れ出した血のような果汁を舌で舐めまわし、歯の先で微かに疵ついただけの、大きな模造のルビーのような一片を舌の上に載せ、イーブに舌で受け取れと言った。
イーブは、首を振った。石榴の味は好きではない。それに〈白豚〉がその前の客の〈白豚〉を気にし、イーブの体や立ち居振る舞いの微細な違いから他の〈白豚〉の匂いをかぎわけ、むこうがそうするならこちらはこうする、むこうの〈白豚〉がマスカットをイーブに口移しで食べさせてもらったのならこちらは、サファイアではなく世にも珍しい柔らかい果汁の滲み出るルビーだと、嫉妬と敵対心のまま舌から舌へ受け取れ、という猛った気持ちが厭だった。
〈白豚〉は、赤い果汁だらけの舌の上に模造の大きなルビーを載せたままイーブの眼を見つめる。無言のまま〈白豚〉は言っているのだった。赤い果汁のついた形のよい鼻先も、紅がすっかりくすんでしまった唇も、口の周りも、言ってみれば戴冠式の日、王になる人に被せる王冠を引き立てる為に赤く塗りたくられた宮城だった。果汁でまっ赤に染った舌はルビーの赤の為に赤く塗られていた。そのルビーをイーブの舌が受け取れば、戴冠式は終了し、イーブは宮城に王として君臨する。イーブは自分を見つめる〈白豚〉の猛った気持ちをはぐらかすように、歯を見せてにやりと笑い、アジアの国のジゴロが演じる王権継承の儀式はそんなものではないというように首を振る。
イーブは素裸の〈白豚〉から眼をそらし、これ以上〈白豚〉が他の〈白豚〉に嫉妬し、イーブが自分専属のジゴロなのに自分の眼の届かない隙に、ヤリテのチョン子から〈白豚〉や〈黒豚〉を紹介されて小金を稼いでいたという口ぶりをするなら、ホテルの部屋を出て行こうと、椅子の背に掛けた上着を見た。
イーブは立ち上がった。ズボンに石榴の果汁の飛沫がついていた。イーブは〈白豚〉を振り返らず、隣の部屋に入り、その部屋と寝室をつなぐ場所にある化粧台の大きな鏡に映った自分を知り、自分の眼を見つめた。眼の奥をさぐるように見て、いまでは網膜の奥までサイボーグだと思い、また〈白豚〉に送ったと同じ笑をつくり、アジアのサイボーグの王子様だと思う。
サイボーグの王子様は並み居るアジアの王子様の中で一等下賤な穢らわしい王子様だった。どんな宝石を頭に被ろうと金糸銀糸でよった錦で服をつくり、肌に当たるのは砂漠の真中でつくられた絹というありえない物で出来ていようと、下賤で穢らわしい王子様は血と糞便にまみれ、血と糞便の出所の〈白豚〉や〈黒豚〉の股の間をうろうろしている。明るい鏡に映ったイーブのどこにも血や糞便の跡はない。〈白豚〉や〈黒豚〉の女陰や性器や肛門を、鼻先に突きつけられたどころか、眼にもした事ないという涼しい眼をしているし、イーブ自身ですら、汗も涙も精液も出さなければ、ましてや糞便なぞ生まれてこの方した事はないという顔をしている。
イーブは水道の蛇口をひねり水を流した。石榴を割った時に滲みついた果汁が〈白豚〉の経血のように右の親指、人差し指についているのを洗い、イーブは顔を上げる。イーブの後ろに〈白豚〉がまだ舌に石榴の果肉の一片を載せたまま立った。イーブはにやりと笑い、「分かったよ」と酷薄に言った。
イーブは手をタオルで拭き、床に捨てて振り返り、気性の激しさをそのままデザインしたような、上にはね上がった〈白豚〉の髪を両の手ではさみ、かきあげ、「いいか、俺はおまえの恋人じゃないからな」と言う。
「おまえ専属のジゴロじゃない。噛んだり、爪立てたりすると、この前みたいに張り倒すからな」
〈白豚〉はイーブを見上げ、眼を見つめたままゆっくり首を振る。舌の上の果肉の一片が転がりかかる。イーブは素早く手でつかんだ。
「駄目」やっと声が出せるようになった〈白豚〉は言う。
「あいつと同じ事をやるんだから」
「同じ事じゃない、反対だ」イーブが言うと〈白豚〉はイーブの手の中にある果肉の一片を取り返そうと、いきなり爪を立て手をつかみかかる。瞬間に手を引いたが、それより早く〈白豚〉のとがった爪の先がイーブの手の甲に当たり、熱い痛みが起きる。イーブはむかっ腹が立ち、髪をつかんでいた左手に力を込め、まるで暴れる猫を身から遠ざけるように上に持ちあげ、「この前もこんな事するな、とチョン子にも言われただろう」とどなる。
「返して」〈白豚〉は猫のように身を振り、イーブが〈白豚〉の攻撃をさけて背中の方に廻した手の中にある果肉の一片がよほど大事なもののように、爪を立てた手をのばす。
「厭なんだから。あたし、あんなブスに負けたくないんだから。あの人、綺麗かもしれないけど、あたしだって、あんなのに負けないくらいだから。イーブが言ったじゃない、あたしの方がいいって」
「手から血が出てるぜ。約束に違反すると、どんなに金をくれたって、これっきりだ、と言ったろう」
「じゃあ、何なの? あいつにしてあたしにしないの」
「臭えんだよ」イーブがそう言うと〈白豚〉はうろたえ、眼の中から昏い輝きが失せ、街を歩いていた時とさして変わらない、よく行儀をしつけられた良家のお嬢さんの顔になり、「何が?」と訊く。
「厭なんだ、石榴なんて口移しにするもんじゃないって。石榴の匂いも厭だし、血みたいのも厭だ」
「あたしが臭いって?」〈白豚〉が不安げに訊くので、イーブは髪をつかんだ力を緩めて首を振り、「分かったよ、おまえの言うようにしてやるよ」と優しく笑いをつくり、顔を引き寄せる。
〈白豚〉は眼を見ひらいたままだった。イーブの眼を仰ぎ見、イーブの言葉が心から出たものか今を取りつくろう為のものか詮索するように見つめ、イーブがキスをしようとゆっくり顔を近づけると、消えかかった欲望の火が音を立てて点いたように眼が昏く輝き出し、素裸の体をイーブの体に圧しつける。上着を脱いだだけのイーブの体に小ぶりの乳房を圧しつけ、股間を圧しつけ、まるでイーブのサイボーグの体の皮膚を破く為だけのように鋭くとがらせた指でイーブの尻を両方からつかみ、顔を上げ、形のよい唇を心もちあける。〈白豚〉の口の周り、唇も唇の間からすけて見える歯も舌も果汁で染まり、それが微かに、本物の経血の放つ酸っぱくて荒っぽいような石榴の果肉の匂いを放っている。石榴の匂いが何故、厭なのか分からない。イーブは息を詰め、〈白豚〉の唇に唇を重ね、たちまち圧し入って来た〈白豚〉の勢いのよい舌と争うように舌を絡め、こすられるとこすり、瞬時、舌の戯れに我を忘れた。
〈白豚〉は弾力のある肌をしていた。街を歩いたなら男の一人や二人、従いて来る事請けあいの顔立ちだったし、実際〈白豚〉の性戯は、一人や二人の男としか経験のない〈白豚〉と同年齢の若い女なぞとは比較にならないほど、男の官能を知っていたし、自分が楽しむ術を知っていた。
〈白豚〉は舌の戯れが済むとイーブの唇を舐めはじめた。歯茎と唇の間に小魚のようによく動く〈白豚〉の舌が入り、震え、こすり、イーブの上唇が、男のイーブが宝の持ち腐れ同然にしている大陰唇だというように吸い上げ、またこすり、吸い上げる。
イーブの体の中でいきなりセンサーが稼動する。一角獣の黄金の角が音を立てて突き出し、〈白豚〉の小ぶりの形のよい女陰の記憶を甦らせる。イーブは〈白豚〉の唇から唇を離し、右手の中にあった果肉の破片を自分の舌先に置いた。
〈白豚〉はイーブの気持ちを確かめるように見る。イーブはサイボーグの一角獣のセンサーが稼動し、いまさっきまでの石榴の果肉の匂いに嫌悪を感じる生身のイーブではなく、筋肉の一つ一つを鍛え上げた性に官能する一角獣に変身したと言うように〈白豚〉を見つめ、証すように、尻の肉に爪を立てて、しっかりつかんだ〈白豚〉の左手を離させ、自分の股間に導く。〈白豚〉はイーブの眼を見つめたまま、股間のスキャンティからはみ出た黄金の一角をズボンの上からにぎり、爪を立て、一瞬、呆けたような表情をつくり、次にゆっくりと唇を開け、まだ赤く染まったままの小さな舌を突き出しかかる。故意にか自然にか口の中から姿をあらわす赤い舌は震え、イーブが舌の先と先を当て果肉の一片を転がしかかると、いきなり急《せ》いて最初から自分がもくろんでいたのはこの事だというように、果肉もろとも舌をイーブの口の中に突っ込み、唇を圧しつける。
〈白豚〉は勃起した一角をつかんだ手に力を込めた。
イーブの口の中で果肉が転がり、〈白豚〉の唾液が舌の動きと共に流れ込む。〈白豚〉の動きがあまりに性急でイーブは唾液もろとも果肉を飲み込んだ。〈白豚〉はイーブの口の中をさぐり、果肉がないと知ると、またイーブの上唇も下唇も本人が気がつかないままでいた大陰唇だというようにこすり、吸った。〈白豚〉は乳房を圧しつけ、イーブの太腿に股間をこすりつけ、勃起した性器に爪を立てようとするように手に力を込める。唇を吸われるのがこれほどの快楽だと知らなかったと〈白豚〉に言うように、勃起した黄金の一角に力を込め、動かした。〈白豚〉は一角を握った手に力を込め、ズボンの生地に爪を立て、不意に唇を吸い続けているのがまだるっこしいと言うように歯を立てた。
一瞬のうちだった。〈白豚〉は噛んだ。イーブが痛みに呻き、不意打ちに驚き、〈白豚〉の髪をつかんで見ると、唇をめくれあがらせ歯をむき出し、抵抗したり、乱暴したりするならさらに歯に力を込め、唇を噛みちぎると威嚇するように歯の間から声のような息を吐き、イーブを見つめる。
イーブは髪の毛を離した。そうする事が、金も美貌も若さもあわせ持ち、何不自由なしに遊び暮らし、自分の適わない相手を求めて高級ジゴロのイーブの元に来た〈白豚〉をなだめる事だというように、上唇を噛みつかれ、激しい憎しみにあふれるような眼で見つめられたまま、両の手で自分のベルトをはずし、ジッパーをはずし、スキャンティをずらして〈白豚〉に勃起した黄金の一角を握らせる。〈白豚〉は猫のように鋭く先の尖った爪をかくし、掌と指の腹で手にあまる一角を下から受け止めるように握った。上からではなく下から握る事が、〈白豚〉の性の本当の合図だというように、〈白豚〉は歯で噛んだイーブの上唇を離し、また唇を圧しつける。
イーブはキスをし、一方の手を〈白豚〉の尻に廻し、いまひとつを乳房に当てたまま、ゆっくりとターンし、唇を離し、〈白豚〉の首に唇を移しながら、唇が切れていないか鏡に映して見た。外見には何の変化もなかった。耳に口をつけ、耳元から唇を這わし唾液をたらして見て、唇の這った跡に唾液に混って血が糸屑のようにあるのを見て、〈白豚〉の歯が上唇の裏を傷つけたのを知った。ちくちくと痛むが、イーブの腕の中で仔猫のようにおとなしくなり、声を上げはじめた〈白豚〉に煽られ、何よりももうそうなれば、暴君同然の傍若無人の振る舞いをする姫君が閨《ねや》に引き入れた下賤の者の言いなりになるように柔順になり、イーブの為にソープランドの女以上に尽くすのが分かっているので、黙ったまま〈白豚〉を抱え上げた。
イーブは寝室に入って唖然とした。果物屋で買った四個の大ぶりの石榴を〈白豚〉はイーブが自分の傍にいないといって腹立ちまぎれにことごとく割り、果肉をほぐし、床と言わず、ベッドと言わず、まき散らしている。椅子の背に掛けたイーブの上衣にも投げつけた跡があるのを見つけ、商売用の服なのに、とうろたえると、〈白豚〉はイーブを驚かす為にそうしたと白状するように目を閉じたままくすりと笑い、「もうすねないで」とささやく。「ベッドに下ろしてよ、このまま」
「歩けないよ」イーブは言う。
「大丈夫よ、よって歩けば、踏みはしない」〈白豚〉はそう言ってイーブの腕の中で丸めた体をのばし、まだ結んだままのネクタイをほどき、シャツのボタンをはずして、胸の筋肉を撫ぜ、乳首を爪で弾く。
〈白豚〉はイーブの胸を撫ぜたがった。〈白豚〉が下になっている時でも、〈白豚〉が上になっている時でも、イーブのジムナジウムで一日に三時間も四時間もかけて重いダンベルを持ち上げて仕立てた胸が、〈白豚〉のきゃしゃな胸や小ぶりの乳房と変わらず、そうして撫ぜていれば自分の感じている快楽と寸分違わないものがイーブの体にも湧き上がり、イーブから受け取るだけでなくはっきり快楽を与えているのだと得心出来るように、声を上げながら撫ぜ続けた。〈白豚〉は女同士の性愛はそうするのだと言った。一方が乳房を愛撫すれば片方もそうする。
「ほらァ」〈白豚〉は尖った爪で弾いていたイーブのあるかないかの乳首が感応し、突起したと勝ち誇って言う。
「痛いんだよ」
床に散らばった果肉を踏み潰し、果汁が床を染めても〈白豚〉がホテルに代償を払うのだ、とイーブは居直って、冷たくぬらぬらした感触に足を汚しながらべッドに歩き、シーツの上にまき散らされた果肉の上に〈白豚〉を放り投げるように置く。
イーブはそのままシャツを脱いだ。えりからはずれ、直《じか》に首に巻きついたままのネクタイを〈白豚〉が勢いよく引き抜き、素早く自分の背中にかくす。
「冷たくていい気持ちだから。ネクタイ、綺麗なワインレッドの汚点《しみ》がつく」〈白豚〉はネクタイでこすれた首を抑えたイーブを挑発するように鼻にかかった笑をつくる。
イーブは〈白豚〉の顔を見つめたまま、覚悟を決めたと合図するように、果肉の散らばった床の上に脱いだシャツを無造作に放った。
〈白豚〉はそのイーブをきらきら光る眼で見て、背中に敷いてかくしたネクタイに、イーブの厭な石榴の果汁を滲み込ませる事が、ジゴロのイーブを挑発し、煽り、誰をでも相手にするジゴロではなく本性をむき出しにした自分一人相手の男にするというように、ゆっくり体を二度三度前後に振り、腰を振る。〈白豚〉はそれからイーブの眼を誘うように軽く両ひじをついて顔を上げ、視線を自分の白いきゃしゃな股間に移し、イーブの眼が自分の視線に従いて来たか確かめるようにまたイーブを見て、今度は徐々に両脚を広げ、曲げはじめる。広げ、両膝を立ててから、〈白豚〉は果肉を二つに割るように両手をそえてさらに広げ、「ほら」と言って開いた小さな桃色の女陰の辺りに転がった果肉の一片を手でつかみ、爪で果肉を破ってみて果汁で汚れた指をかざし、「綺麗でしょう」と言う。
「綺麗だよ」
イーブが答えると、〈白豚〉は次の手品をやるというように、手を尻の下に差し入れ、体を左手に動かし、背中に敷いてかくしていたイーブのネクタイの先をさぐり当て、まるで女陰から今、出しているというように引き出す。その石榴の果汁に汚れたネクタイを〈白豚〉は自分の首に巻き、イーブをベッドに仰むけに寝かせ、上からまたがった。
不思議な感触だった。
〈白豚〉は最初、片膝をつき、片一方を立て、誰に教わったのか、どこで会得したのか、男の欲望の大半が、女しか持っていない物の中に、子供の頃から朝毎に存在を主張し苦しめて来た物を納めるという行為なのだと言うように、自分の快楽に頓着しないで、性器を女陰に入れる行為を繰り返す。穴と言えばそのままの状態では、石榴の果肉の一片しか入りはしないというほどなのに、〈白豚〉は片膝つき片脚を立て身の動きひとつでイーブの黄金の一角をさぐり当て、先を納め、〈白豚〉の女陰のひだのひとつひとつが、黄金の一角に充分な官能を与えるようにゆっくりと根方まで納め、歯を喰いしばって呻きを耐え、そしてまた、もう一度、イーブに納める楽しみを味わわせるように、穴をしぼり、声を上げながら抜き、初めからやり直す。
三度、四度、〈白豚〉は繰り返し、不意に高波にさらわれたように根方まで一角を納めたまま硬直し、震え、イーブが傷ついた動物をいたわるように筋肉の浮き出た丹田に力を込め、圧しつけた〈白豚〉のクリトリスを女陰の内側から一角の背で愛撫するように腰を動かすと、ますます絶え入る。
〈白豚〉は両の手を後ろ手に突き、手の力で加減しながら穴をしぼって身を振り上下運動するのが好きだった。同じように後ろ手を突き、〈白豚〉の何もかも、〈白豚〉のふくれ上がった女陰に呑み込まれ吐き出される黄金の一角の一部始終を見る事の出来るイーブが、穴をしぼって上下運動するのが相手の男にえも言われぬ快楽を与えていると錯覚しているような〈白豚〉をからかうように、女にしては小ぶりの乳房を撫ぜあげると、まるで女同士の性愛を一つで二つの役割をする張形を使って戯れているのだというようにイーブの胸に手をやり、豆粒同然のイーブの乳首に爪を立てる。愛撫する為にではなく性愛の対象の男や女を攻撃する為に研いでマニキュアを塗った〈白豚〉の爪は、イーブが〈白豚〉とは異質の快楽をしか味わえないのに苛立つように乳首に小さな傷をつける。
イーブはまるで快楽のような呻き声を立てる。
そのイーブの呻き声が〈白豚〉の欲望に火を点けたように、〈白豚〉は身を起こしイーブの上にまたがった。まるで男と女が入れ替わったように腰を上下しながら、〈白豚〉はイーブの両の乳首をなぶる。
シャワーを浴びると両の乳首はしみた。体をぬぐい、鏡に乳首を映し、赤らんでいるのを確かめ、イーブは〈白豚〉を呼んだ。〈白豚〉はイーブを上に乗ったままイカせてイーブを自分のものにしたというように得意げに来て、鏡に映ったイーブを見、裸の尻を一つたたき、「今日みたいに言う事、聞いたら、何でも買っちゃう」と言う。
「血がにじんでる」イーブは言う。
「手の甲をひっかかれたろう。唇噛まれて血が出てるし、乳首、女みたいにいじくり廻されてちくちくする。これ以上、何かすると俺は帰るからな」
「何もしないよ」〈白豚〉はそう言ってから、イーブが髪をまで洗っているのに気づき、不意にいまさっきまでの自分の猛った行為がジゴロのイーブを心から傷つけたのだと思い違いしたように、「髪、洗ったの? セット、落としたの」とつぶやく。
イーブは〈白豚〉のうろたえ様がおかしかった。すでに人間の心を喪くし一角獣のサイボーグとしてジゴロを職業とするイーブに、〈白豚〉がどう猛ろうと、男としての誇りを踏みにじろうと傷つけられる心なぞない。厭なのは心の傷ではなく売り物の体につけられている傷だった。欲情し、猛って、そのあげく目の前にある美しい理想の男の姿をしたイーブを自分が金を出して買ったジゴロだと壊しにかからなければ、〈白豚〉はどの〈白豚〉よりも若く見栄えがして、性愛が楽しい。
〈白豚〉は男の体が珍しくてしようがないのだった。どういう家庭環境に生まれ、いままでどんな男と性愛を持ったのか分からなかったが、まずイーブの裸を見て、筋肉の連鎖で出来ているのに驚き、次に一本の角があり、二個の玉の入った陰嚢があるのに極度にこだわった。〈白豚〉はぬっと手をのばしてまだ乾いていない陰嚢を触り、二つの玉が中で動くのを面白がって玩び、洗い髪の乾き具合を手で確かめているイーブに、「あたしが下になるから」と催促する。
「いやだよ、また乳首つねるから痛えよ」イーブは〈白豚〉の魂胆を見抜いていると言うように鏡を見ながらつぶやく。
〈白豚〉は陰嚢に爪を立てる。イーブは髪を撫ぜつけていた手を離し、〈白豚〉の手首をつかみ、力を込める。〈白豚〉は陰嚢を離さない。逆に爪に力を込め、「潰すよ」と言う。
イーブは痛みに顔をしかめ、つかんだ〈白豚〉の手首を自分から離し、途端、〈白豚〉が爪の力を緩めるのに気づき、「とんでもないのに惚れられたもんだよ」と苦笑し、〈白豚〉のくすぶり続ける欲望になぞかまっていられないというように、「さあ、これで男前に戻った。今から町に出ればまだ間に合う。女ひっかけて、二、三発姦れるの間違いなしだ」と〈白豚〉を煽る。
どっちでもよかった。〈白豚〉の手を振り切ってホテルから出ても、〈白豚〉の言うように今一度ベッドに戻り、イーブ流のやり方で今まで何人もの〈白豚〉を組み敷きよがり声を上げさせて来たように目の前の若いわがままな〈白豚〉を力ずくで圧えつけ、強姦同然でイカせても。どちらも高級ジゴロの客との駆け引きにすぎない。
〈白豚〉はまた爪に力を入れた。鏡の中のイーブがことさら痛がって呻く。その呻くイーブを見る〈白豚〉を見て、イーブは笑い出したかった。たとえ〈白豚〉に鋭い爪があろうと肉を噛みちぎる歯があろうと、イーブが本当に抗《あらが》えば、爪も歯も物の用ではない。だが、〈白豚〉との性愛に本当なぞはない。
イーブは鏡を見ながら〈白豚〉の髪を撫ぜる。〈白豚〉の爪の力がふっと緩くなる。そのうちちくちく異物のように当たっていた爪の感触が消え、柔らかい温かい物が陰嚢を包み込む。
イーブは鏡を見た。〈白豚〉が不安げな顔でイーブをのぞき込み、イーブがその〈白豚〉に笑を送ると、不思議な読解不能の信号がイーブの顔に去来したように直にイーブを見て、「あたしがそんなに怖い?」と訊き、「怖いことないよねェ」と一人でうなずく。「なんかしらないけど、イーブといるとすごく荒っぽくなる。このチンポコとか、これとか、みんな欲しい。体もその笑い顔も。買えるんだったら、みんな買いたい。セックスなんてどうでもいい。イーブの苦しんでる顔みたい」
「俺は苦しまねえよ」
「痛いって呻くじゃない」
イーブは痛いと顔をしかめる事と苦しむ事は違うと思うが、ジゴロに理屈なぞ百害あって一利もないと反省し、「うん、まあな」と相槌を打ち、〈白豚〉の一人に見せられたインドの性交の彫刻のように〈白豚〉を自分の前に引き寄せ鏡に向かい合わさせ、股を両の手で開ける。そのままの姿勢で〈白豚〉を持ち上げ、性器を女陰に突っ込めば、彫刻の中の一つと同じ姿勢だった。
「ねえ、逆になりたいのよ。あたしが後ろからイーブを姦りたいのよ。どうしてって思わない? あたしは後ろからされるの一番、厭。こんなのが一番、厭」
「姦ってやるよ」イーブは耳元でささやく。
「男のチンポコ、本当は怖いから、俺を先にヌいて、勃っていないチンポで俺相手にレズごっこやるんだろ? くちゃくちゃオマンコの音させてさ。チンポがびっくりしちまっているのに、一発、二発ヌいて、ちょっと休憩ってチンポ悲鳴上げてるのに、俺をクリトリスのでっかい女にしたててさ、半勃ちのでっかいクリトリス、中に入れてさ、放っておくと二時間でも三時間でもやってる。見てみろよ、いやらしいの」
「何で女が後ろばっかし向くの」
「いやらしいこれのせい」イーブは耳元でささやき、〈白豚〉に鏡を見ろとあごで教える。鏡には股を広げられ、左脚をかすかに持ち上げられた〈白豚〉の姿が映っている。その大きく開いた股間からイーブの勃起した性器がのぞく。〈白豚〉は鏡を見つめ、それからかすれ声で、「ねェ、イーブ」と耳元に口を寄せたイーブに語りかける。
「他の人、皆な後ろからさせる?」
「ああ」イーブはつぶやく。
「犬とかニワトリとかみたいに、お尻、突き出す?」
「ああ、そんなの好きなの、どっさりいる」
「怖かない? 男の人に何かされるみたいで、顔見えなかったら相手がどんな人か分からないじゃない、後ろむかされて違う人だったとしても分からないじゃない」
「分かんない事ないな」イーブは言い、〈白豚〉の耳元で「ほら見ててみな」とささやき、〈白豚〉を両手で子供を抱え上げるように抱き、中腰になって膝に〈白豚〉の片方の膝を載せ、腰と脚ひとつの動きで女陰に性器を入れる。
〈白豚〉は声を上げ、イーブがゆっくり腰を使い、〈白豚〉に見せる為にだけ出し入れしはじめると、「イーブ、後ろから厭なの」と〈白豚〉はあえぐ。そのあえぎに煽られ、鏡に映った爬虫類の交接のような奇怪さにそそのかされ、動きをはやめようとしてバランスを欠き、前につんのめる。性器がはずれかかったのでイーブは床に両手を突いた〈白豚〉の背中をおさえ、「厭なの」と声を上げる〈白豚〉の尻を持ち上げ、動き続けた。
鏡の前で、イーブは性交する自分の姿を見ながら腰を使い続けた。昂まりの波が押し寄せ、あと一歩の時、こらえかねたように〈白豚〉が突然、身を起こしかかった。あわててイーブは圧えつけにかかるが、〈白豚〉が身をよじり、尖った爪で腹をひっかいたので、イーブはひるんでしまう。
〈白豚〉は両手の爪を体の前にかざし、きらきら光る眼でイーブを見て、「後ろから姦られるの厭だって言ったじゃない」と声を荒らげる。
「姦らせろよ、もうちょっとだから」イーブは言った。
「バカにしないでよ、厭だって言ったじゃない」
「本気だぞ、強姦するぞ」イーブが近寄りかかると、〈白豚〉は両の手の爪をかざして身構える。本気になれば手の爪なぞ何一つ怖れることがないのだと、イーブが冗談とも本気ともつかないまま、バスタオルを二本取り、闘牛士のように構えかかった隙に、〈白豚〉は寝室の中に駆け込みドアを閉めた。よほどあわてたのか寝室の中で物音がした。
開けろ。開けないと、ドアをぶち破る。イーブはドアをたたいた。後ろから一発姦っていい目みたら、ジゴロ相手のレズごっこなんかしようと思わないぞ。イーブがどなり続けると、ふっと寝室のドアが開いた。
中に入ってのぞいたが〈白豚〉はいない。あたりを見廻し、寝室の奥のシャワー室に裸の〈白豚〉の姿がくもり硝子《ガラス》ごしに見えた。イーブは声を上げ、いかにも悪党が物陰にひそんだやんごとない姫君を見つけて小躍りするように、「ようし、今日は男の威力を教えてやる。爪も引き抜いてやる」と声音を作って言って、床に散らばった石榴の果肉を物の数にもしないと踏みつけ寄ろうとし、いきなりイーブは激痛に襲われた。
瞬間、踏み潰したのが石榴の果肉ではなく硝子の破片だったのに気づき、思わず跪くと、その膝にもワイングラスの破片状のものが刺さる。血が足の裏からも膝からも石榴の果汁のように流れ出した。膝に刺さった硝子の破片を取り、見ると、シャワー室から〈白豚〉がおずおずと体を現わし、「イーブ、あたしも踏んじゃった」と切れて血の流れる足の裏を見せる。
「最初からこのあたりにばらまいていたけど、忘れちゃっていた」〈白豚〉の足の裏にイーブの膝に刺さったのより厚い大きな破片が刺さっていた。
イーブは眼の前に差し出された〈白豚〉の足から硝子を取り、血の流れる足をタオルできつく巻いた。タオルはたちまち石榴の果汁のような血で染まる。
七
ジムナジウムの機械相手に、規則正しく教本どおりに繰り返す自分の呼吸音を伴奏にして汗を流し、イーブは自分がますますサイボーグになっていくと思い、性よりも何よりもそれが今の自分の一等の快楽なのに気づいた。
機械を上げ下げする為の筋肉のポジティブとネガティブの運動を繰り返し、規則どおりに呼吸すればするほどイーブの体は一層優秀なサイボーグとして心臓と肺が動き、無駄なく空気中の酸素を取り入れ、血液を浄化し、体内に入れた有害な物や無用の物を体内から排除する。ジムナジウムで流す汗はイーブがこの世で生きる上での生活反応の穢れを体から押し流し、穢れなぞ一切受けつけない完璧なサイボーグに変えていく。ウェイト・トレーニングをやりはじめた頃では無理だったが、今となってみれば腕の筋肉をあと一センチ追加する、太腿《ふともも》の内側の筋肉を強化するという調節は、自動車工がオプションを車に加工するよりも自由に出来た。機械を相手に汗を流し、さらに二階のサウナ室に入ってからシャワーを浴び、イーブは化粧室の大鏡の前に立って素裸を映してみる。そこには非のうちどころのない美しい肉体の若者がいる。イーブはその若者を見つめ、おまえは後何日かすれば本当のサイボーグになり、一切、人間の感情を喪失してしまうと語りかけ、笑を浮かべ、〈白豚〉や〈黒豚〉がイーブにささやいた讃辞を思い出し悦に入り、そのうち不思議な感情に見舞われるのだった。
悲しいわけではなかったが悲しい気がした。涙がにじんだわけではなかったが、讃辞に包まれ悦に入った表情の眼に架空の涙がにじみ広がり、頬に伝う。架空の涙はサイボーグのイーブにふさわしかった。イーブはその架空の涙をサイボーグらしく振り払うように目を閉じ、目を開け、涙がひとまばたきで瞬時に蒸発したというようにまた一つサイボーグの笑を浮かべて、化粧室の壁に掛けてあるバスローブを羽織り、化粧台の前に坐る。
要求すればジムナジウム専属の美容師が化粧やグルーミングをしてくれるが、イーブはした事がない。ただ化粧水やオーデコロン、ヘヤートニックやムースの類は自前だった。ジゴロの商売を始める前にチョン子にもらった布製の化粧道具入れに必要な品物の一切を納っていたので、自分のロッカーから布袋を一つ持ってくれば、備えつけの匂いの甘ったるい物を使わなくとも、髪も体も自分の好みの匂いに仕上がる。
青いビンに入ったオーデコロン。
手に受けて胸につけると微かに記憶が甦る。その記憶は、初めてオーデコロンをつけた時のものだった。エンジンオイルの焼ける屈託のない匂いの中で、肌に振った一滴、二滴の香油は、自分を有頂天にし、これから外に出かけて、待ち合わせた女と味わう性の歓喜そのもののように甘く爽やかに匂った。
イーブは思い出す。その頃はイーブはイーブという名なぞではなかった。イーブはトレーラーを運転していた。助手席に乗った相棒もターというどこの国から来た人間なのか判断のつかない名前ではなかった。イーブはオーデコロンの滴をさらに手に受け、透明な雨滴のような滴に鼻をつけて匂いをかぎ、不意に最前とはまるで違うどんなに外見を変えようと、過去を断ち切ろうと、自分がサイボーグになれるはずがないし、なってしまうはずがないと思い、オーデコロンの滴を舌で舐めてみる。
舌はたちまち痺れた。唾が喉の奥からあふれた。イーブは吐き気が条件反射のように起こるのはサイボーグの舌のセンサーの読み誤りだというように唾もろとも飲み下した。飲み下してみて、イーブは急に記憶が甦った男のように自分が場違いの所にいる気がし、立ち上がり、ガウンを脱ぎかかる。一瞬、鏡に映った自分を見て、イーブは〈白豚〉や〈黒豚〉の性の玩具として振る舞う時のような演技をしている気になり、鏡を見つめたまま坐り直し、完璧なサイボーグになりかかった自分を点検してみる。
どこからどう見ても非のうちどころはなかった。〈黒豚〉の一人の言葉ではないが、イーブはアジアの王国の王子様のように曇り一つない澄んだ眼で鏡に映ったイーブを見ている。架空の涙が曇り一つない澄んだ眼から流れ続ける。イーブはその想像がたまらず、眼を閉じたままガウンを脱ぎ、再び立ってロッカーへ行き、洗髪のままなのに服を着はじめた。
入口で預けてあった会員証を受け取ろうとすると、インストラクターが様子の違ったイーブに気づいて怪訝な顔をし、「今日はちょっと違うじゃない」と声を掛けた。
「用事を思い出したものだから」イーブは答え、ふっと自分の言葉がサイボーグの合成語だったような気がし、「これから仕事、キャンセルしに行くんじゃよ」と方言を使ってみる。
「仕事、仕事でつまらん。ちょっとは遊びをもろてもええじゃろ、と思て」
インストラクターは方言を使うイーブに驚いたように「へーえ」と相槌を打ち、イーブの言う仕事が他の人間にすれば遊びになる事だったと気づいたように、「遊びって言ったって、そっちのはこっちと違うから」と話にならないと言うように手を振る。
ジムナジウムを出て、もうすっかり葉が黄ばんだ木々の公園に入り、そこから手始めにターの部屋に電話した。すぐに会いたい。会って相談したい事がある。イーブは呼び出し音を耳にしながら、心の中でターに言う事を手短にまとめた。手短にまとめて、心の中でもやもやしている事の一かたまりが、一言か二言に要約されたのに拍子抜けし、苦笑して呼び出し音を耳にしながら空を見る。三回呼び出し音を聴いてから一度切り、また掛け直す。秋の高い空を電話の呼び出し音が飛んでいる気がする。応答がないので新たに教えてもらった車の電話に掛けようと財布を取り出し、メモを広げかかって、公園の高い空を、蜂鳥のような小さな金色の小鳥が群になって飛び交うのを見つけ、イーブはそれが夏芙蓉の花の甘い匂いに誘われて群をなし、花の蜜を吸おうと狂ったように飛び交う小鳥だった事に気づいた。
イーブは耳を澄ました。公園に響く車のエンジンの音、タイヤの音の隙間から高い澄んだ金色の小鳥の鳴き声がする。イーブは電話番号を廻した。一回の呼び出し音が終らないうちに応答のあった声に「金色の小鳥知っとるかいの?」といきなり訊いた。
「何遍もこのあたりに来とるけど、気づかなんだ。今、ここに飛んどるんじゃわ、チーチー、チーチー鳴いとる。何どの因縁じゃ。何羽も飛び廻っとる。アニ、知っとるこ?」
「何をよ?」ターが方言で訊き返す。
「この小鳥ら、あの白い花の蜜、吸いに来るんじゃ。匂いの強い花、手で受けた蜜がたれてくる花」イーブは言う。イーブはその金色の小鳥の群、白い夏芙蓉の話をし、自分の言いたい事を言わず、それだからターに今すぐに会いたいと言った。
ターはイーブのその申し出に「何を言っとるんじゃ、自分の事ばっかし言うて」と苦情を言ったが、イーブがサイボーグの話す合成語のような標準語でなく方言を使っているのを知って、イーブが言わずに黙した事をさとったように、「今日も俺はアメリカ大使館のレディーとパーティーじゃさか、そんなに長い事、おれんど」と断り、車ですぐ行くから待っている場所を教えろと言う。
イーブは公園に迎えに来てくれと言った。電話のある方の入口ではなく噴水の方の入口、と指示し、十分以内に行くと言うターの言葉を聴いて電話を切った。イーブは空を見上げ、金色の小鳥の群が空に湧き上がり広がりまた一カ所に集まる方に向かって歩き出す。
公園内の道のとおりに歩くと、さえぎるもののない空を縦横に群れる金色の小鳥を見逃すので、イーブは立ち入り禁止の柵も茂みもかまわず分け入った。昔、ただ目測一つで藪の中の鶯の巣を見つけ出した時のような気になりながらまといつく木の枝を払い、空をおおう大きな欅の木の幹を廻り込んで、ようやく金色の小鳥が群れる夏芙蓉の木の元に立った。
イーブは目を瞠った。金色の小鳥も本当の金色の小鳥ではないのではないかと疑い、何もかも模造品じみて出来ている東京のここで、故郷の裏山の頂にあり、故郷と他郷を繋ぐ峠にあった夏芙蓉があるはずがないと疑い、もしあったとしても貧相なものか枯死しかかったものだと軽んじていたのが、いままで一度も目にした事がないような、大人が一人では抱え切れない醜悪なほど節くれ立った太い幹の夏芙蓉が梢に実を鈴生りにつけていた。その実のついた梢のそばに、木の精力が余って吹き出したとあきらかに分かる夏芙蓉の白い花が咲いている。
イーブは木の下に立ち、物も言わず幹を撫ぜた。金色の小鳥は鳴き騒いだ。夏芙蓉も金色の小鳥もイーブに物を言いかけている気がした。
イーブは約束より十分ほど遅れて噴水のある方の公園の入口に向かった。ターはイーブの顔を見るなり、黄金の装飾の値が張ったと分かる腕時計に眼をやって、人を呼び出してその場所にいないのは何事だと文句を言った。イーブがいままで見た事もないほどの立派な夏芙蓉を発見したと説明しかかると、ターはイーブの言葉をさえぎり、「オバらがおったんかよ?」と単刀直入に訊く。
イーブは言葉を夫った。ジムナジウムで起こった妙な心変わりのようなもの、その気持ちを誰かに伝えようとして外に出て公園の空に見つけた金色の小鳥の事、金色の小鳥に導かれるようにして発見した夏芙蓉の大木の事を話したかったが、ターに老婆らがいたのか? と訊かれ、イーブは自分の話したい事がみな、他人には取るに足りない不確かな気分のようなものなのに気づいたのだった。
「おらん」イーブは言葉少なに言った。ターはイーブを見て、そもそもイーブの運転していた大型トレーラーを売り飛ばしたのも、二人がジゴロの道に入ったのも、郷里から物見遊山がてらに東京まで連れてきた老婆らに或る日、忽然と姿を消され、途方にも暮れるし、責任も感じての事だ、と言うように、「おらんのかよ」とつぶやき、イーブが黙っていると、初めてイーブが髪をセットせずにいるのに気づいて不思議に思ったように、「どしたんな?」と訊く。
「どうもせん」イーブは答えた。
イーブは腕時計を見た。ターのものとどちらが値が高いのか分からない。〈白豚〉の一人がイーブの歓心を惹こうとして買って寄こした百万を下らない品物だった。時間は三時を廻ったばかりだった。
ターはイーブに「何時からな?」と訊いた。
イーブはターを見つめ、首を振り、笑った。笑うと鏡に映った自分の笑顔が目に浮かび、急速にサイボーグの姿に戻ったように、「今日は遊びだよ。チョン子に電話入れて、もしどうしても駄目だって言うなら、奥の手、使う」と合成語を喋り出す。合成語を喋るイーブを前にすると、ターの顔を微かに不安げな表情がよぎる。
「どうしたんな?」ターは方言のまま訊く。
「何な? 何、話したかったんな?」ターはそう言い、立ち話も何だから車に乗れとイーブを誘った。
車に乗るなり、ターは車があるから以前には想像出来なかったような機動力が出来、レディーの用がない時は上野、浅草、横浜とひっきりなしに廻ってみるのだと言い出した。老婆らは元気なら身を寄せあって、同じような齢格好の者や身寄りのない者らの集まりそうなところに居るはずだった。
「上野公園の不忍池《しのばずのいけ》、知っとるこ?」ターは訊く。
名前を聴いた、とイーブが答えると、これからそこに向かうと言った。イーブが訊くと、そこは蓮池だとターは言う。
ターは蓮池の周辺を車で可能な限り流して、何人にも方言を使う老婆を見なかったか訊いて廻り、あげくは歩きくたびれてベンチに坐り込む。
風が渡って来ても渡って行っても、蓮の葉は揺れる。枯れかかった蓮の葉が揺れるのを見ていると、不忍池の周囲のどこかに、忽然と姿を消した老婆らがいてじっと見ている気がしてならず、ターはまた車で周囲を流しはじめる。
イーブはターの話を聴いて、そんな事を自分も言いたかった気がした。ターにそう伝えようと思い、声を出しかかり、ターのように老婆らを捜した事なぞ一回もないのに気づき、黙る。イーブはむしろ忘れようとした。忽然と姿を消した老婆らを捜す口実で東京に居続けている事どころか、老婆らが居た事も、物見遊山に出る老婆らを改造した大型トレーラーに乗せて郷里を出た事も一切、思い出してはいけない事として忘れ、ひたすら〈白豚〉や〈黒豚〉にあがめられる性のサイボーグとしてあろうとした。イーブはチョン子のつけたイーブという男とも女ともつかない名前すら、過去を忘れさせてくれるものとして気に入った。
誰とも以前のような粘りつきまといつくような関係を持ちたくなかった。〈白豚〉や〈黒豚〉はチョン子の指示に従って客になる。一回客を相手に性のサイボーグとして振る舞えば、チョン子を通じて金がイーブの手元に入るし、相手の特別の好意や愛情のような気持ちは、数量で快楽の深度を計るように腕時計やライターやダイヤつきのネクタイピンという物に変わって〈白豚〉や〈黒豚〉からイーブの元に届けられる。
イーブはターに、そのサイボーグとしての自分を不意に襲って脅す物の所在を言いたかったが、言葉がなかった。言葉の代わりに車の受話器を取った。車は角を曲がり、すぐ高速に入った。イーブは暗記している電話番号を押した。
すぐ男の声がした。
「イヤさん、居りますか?」イーブが訊いた。
「こちらは正桜会ですが、どちらさんで?」男が訊き返した。
「電話だと取りつぎゃいいんだよ。何をいちいち名乗る事がいるか。人を脅すのに、こっちの名前を名乗れと言うんかい?」イーブが圧し殺した声をつくり出すと、ターがイーブの顔を見る。イーブはそのターに遊びだとウィンクした。
電話の向こうの男が、「てめえ、こっちをどこだと思ってんだ」とどなり始めたのを耳にし、面白い遊びをするのだと受話器を手で押え、「チョン子が聴きゃ面白がるぜ」とターに言うと、ターは相手の話が聴けるようにスピーカーのモニターのスイッチを入れ、「ヤクザか?」と訊く。
イーブはうなずき、相手がどなり終ったので、「つべこべ言わずイヤを出せと言うんだ」とまた物に動じない圧し殺した声で言い、相手がどなり始める前に、ヤクザ口調で、「俺のスケがよー、おまえとこのイヤに商売の邪魔されたんだからヨー」と言い出す。
「俺のスケ、客のリスト作り上げるのに一財産使っちまったと言っている。そうやって作った客の上前をイヤの野郎、ハネちまったのさ。そっちはやり得だと思ってるだろうけどな。上前をハネられた客の方は黙ってない。金、払わねェって言いやがる。だから脅かしたら筋違いだって。こっち脅す前にそっちを脅してくれって」
「てめえ言いがかりつけやがって、どこの組のモンだ?」
「どこの組って分かるだろうが。客に俺のスケが女や男紹介して、俺がその客、脅すんだから。奥さん、旦那さんにバラしますよ、旦那、奥さんにバラしますよって一言二言ささやいて、小口の金、巻き上げてんだから、組にも入れてもらえないチンケなチンピラさ」
「どこの野郎だ、極道の組に脅しかけるの?」
「だから言ってるじゃないか、ションベン臭いチンピラだって」イーブはイヤさんにはまた別に電話を掛ける、と電話番の男に言って電話を切った。
ターはイーブが突然、明らかに偽と分かる脅迫電話を掛けたのに戸惑ったようにイーブの顔を見、前方に標識が出たので目をやり、ふと不安になったように、「チョン子とおまえと二人組んで客を脅しているのか?」と真顔で訊いた。
イーブは苦笑する。
「人の秘密、握ってるけどな。あの連中も、人に秘密握られるから口封じの代わりにチョン子に高い金払ってるんだからな。秘密使って脅迫したら、それこそ人非人だよ」イーブは自分の使った人非人という言葉の響きの異様さに戸惑う。「サイボーグ」イーブは言ってみる。自分の声を耳にして、イーブは無慈悲に、血も涙もないやり方で、〈白豚〉や〈黒豚〉が性のサイボーグのイーブと繰り広げた痴態の数々を暴露するような人間とは言えない邪悪なサイボーグを想像し、〈白豚〉や〈黒豚〉はジゴロの身のイーブの彼方に、そのような邪悪なサイボーグを想像しているからこそ、取りあえず今は、と性の相手に選んで勝手に昂ぶるのだと思う。〈白豚〉や〈黒豚〉の誰一人としてジゴロを信用している者はいない。ジゴロと愛のような交流を持つが、それは愛ではないのを互いに知っている。ジゴロとの愛のような交流は、互いに何度会おうとその都度の刹那でしかないが、愛は永遠に続くものと信じてしか成り立たない。ジゴロは単なる〈白豚〉や〈黒豚〉の性の玩具だった。玩具をいじくりすぎて限度が来れば玩具は玩具でなくなり、血の通う人間に戻ってしまうか血も涙もない邪悪なサイボーグに変わってしまう。
上野に出て不忍池の周囲を車でひとめぐりし、車を駐車場に停めて池のほとりまで歩いてみて、イーブは玩具の限度が来て血の通う人間に戻るより、邪悪なサイボーグになった方がよいと思った。
ターはよくここに坐ると言ってベンチに腰を下ろし、そうやって枯れかかった蓮の葉を見つめれば、老婆らが立ち現われるというように蓮の茂みを見る。ターは蓮の葉が打ち重なった景色に目をこらし、老婆らの思い出を嬉しげに喋り、そのうちツヨシという名の若者の話になり、また老婆らの話になる。
イーブはただ聴いていた。ターが興に乗って話せば話すほど、ターの言うツヨシという名の若者が自分の事とはほど遠い気がし、そのうちいまさっき車の電話を使ってイヤさんの組の事務所にでたらめの脅迫電話を掛けた事をそっくり、ターらから仕掛けられている気になり始める。イーブには東京で忽然と消えた老婆らは、さながらイーブが違ってしまったように、ターが違ってしまったように、元の老婆らではなく、東京の風景に溶け込み、もし今出会っても判別つきかねる類に変わってしまっていると見えるのだった。
老婆が居なくなった当初、イーブとターは植え込みの中まで、老婆らが身を小さくすぼめて潜んでいるのではないかと捜したし、空地の隅のダンボールの囲いまでめくってみた。そのうちイーブは、どこを捜しても老婆らがいないので、老婆らが植え込みに身をひそめたのではなく植え込みそのものになってしまった、ダンボールの囲いの中にいるのではなくダンボールそのものになってしまったと思い、東京の風景に溶けた老婆らを捜し当てるには時間がかかると気づいたのだった。その思いは強まりこそすれ、ターのように昔のままの姿でいて、忽然と姿を現わすとは考えられなかった。
ターの話を耳にしていると、チョン子の捜してくる〈黒豚〉の客に怖気《おじけ》をふるい、〈白豚〉さえブスだったり齢取りすぎたという理由で、女とフイに姿を消したのも老婆を捜す為だったし、大使館の女をつかまえ、専属のジゴロになっているのも老婆を捜す為だったように聴こえてくる。イーブはこの二年間、ただ自分を変えようとだけした。自分を変える為には一切の記憶が邪魔だった。だが記憶は気が緩むと浮上して変化し続けるイーブを脅し、サイボーグの回路を混乱させる。回路が狂った為に手当てするには時間と金がかかったとチョン子に苦情を言われる。
記憶はいつも不意にやって来た。老婆らが植え込みになり、ダンボールになり、朝の光の跳ねる舗道になったように、記憶は〈白豚〉や〈黒豚〉と一緒に飲むコーヒーの中にあったり、目の前を通り過ぎたバスの排気ガスの中にあったり、ホテルの窓ごしに聴こえる救急車のサイレンの中にあって、過去を一切断ち、人との粘りつくような関係を切断してサイボーグとして生きていこうとするイーブを苦しめた。
イーブはその時、今、ターがわざわざ車に乗せて見せに連れて来てくれた蓮が池一面に茂ったようなやすらぎが欲しかった。池の蓮は過去と今の違いに苦しむ神経をなだめるように風に微かに揺れる。ぬぐっても払ってもまといつき、身動き一つ出来ないような人とのつきあいと、薄いあるかないかのつきあいの違い、人の心を独占し人に独占されるものと、刹那のただ射精までの時間だけのものとの違いに苛立つ気持ちを蓮の茂みは溶かしてくれる。
イーブは溜息をついた。ターがベンチの背に腕を掛け、「なんない?」と訊いた。イーブが額に被さる洗髪をかき上げ、ターに向かって何から何まで二人の性向は反対だというように、「そっちは昔のまま変わらないよな」と言うと、ターはイーブの言う意味を呑み込めず、「変わった、変わった」とベンチの背に掛けた手を上げる。
「だいたいしょっちゅう競輪やっていたのに止めたじゃろ。女一人で男は変わる。ころっと変わる。前の女の時は何してもつきが廻らなんだんじゃが、今のは違う。前の女はオバら連れて、行くとこないさか二人で路地棄て出て来たんじゃと言うても、同情一つせなんだが、今のは違う。話聴いて涙ぐんでくれる。考えてみたら切ない話じゃど」
「切ない話だ」イーブは蓮の葉が突風で揺れるのを見ながらサイボーグの合成語で相槌を打つ。
「あの女、俺に惚れてくれる。俺も惚れとる。惚れて惚れられた女が俺を着飾らせてくれるんじゃさか、果報者じゃと言うと、あの女、オバらが運を持って来てくれたんじゃろと言う。あの女の亭主も、父親も急にようなったと言う。オバらを何とかして捜してやれと言う。あの車で俺が女、引っかけてドライブして来ても、オバらを捜しに行っとったんじゃと言うと何も言わん」
「ああ、そうか」イーブは明るい声を出す。
「このベンチに女引っかけて坐って、蓮の花、見ているんだ」イーブの言葉にターは図星だったと言うように「まあな」とうなずき、車を手に入れてすぐ、三人の違う女をその都度、蓮の茂みしか目の前に見えないベンチに連れて来、当たり障りのない話をして女の様子を見、口説き、ホテルに連れ込んだと言った。ターはそのベンチに女と並んで腰かけると、触ってみなくとも乳房の形から、腰のくびれ、女陰の具合まで分かる気がしたのだった。
日が暮れかかり、池の周囲から繁華街のネオンの明りが入り込み、蓮の葉の茂みに当たると、そこが路地の裏山のような気になる。裏山と違うのは、隣にもベンチがあり、そこにもカップルが抱き合っている事だった。通りがかった振りをして何人もがのぞきに来た。のぞかれると、誰もいない路地の裏山で密かに女と密会しているような錯覚が砕け、ターは仕方なく女を促して立ってホテルに行く。
「のぞいたのをオバらだと思いやいいじゃないか」イーブが混ぜっ返すと、ターは笑いもせず真顔になり、「おうよ。時々、そう思うけど」と言葉を切り、イーブの顔を見て、「おまえ、自分の事じゃと思てみ。オバら、のぞきにも来るかもしれんけど、母親じゃとも思うオバらにのぞかれて、気分出るか?」と笑いをこらえながら訊く。
日がかげり始めてアメリカ大使館の女との約束があるので服を着替えに戻るというターの車に乗り、どこへでも送ってやるというターの申し出に、イーブは今日は遊ぶつもりだが取りあえず、チョン子に連絡をしてみると言って、車の電話を使った。チョン子はイーブの声を聴くなり、「どこォ?」と訊いた。その言い方がおかしく、イーブは「分かんねェよ。いま高速に入りかかったところだよ」と答えると、チョン子は苛立ったように「何、言ってんのョ、あんた、高速道路にまで電話掛けに行くの。そんな暇あるんだったら、真珠の人、待ってんだからすぐ行きなさいよォ」と訛の浮き出た言葉で言う。チョン子の元に誰かがいるらしかった。
「何してんのよォ」チョン子は言い、イーブが言うより先に「誰か一緒にいるの?」と訊く。
「そっちだろうよ、誰かいるの。訛ですぐ分かるんだからな」イーブが言うとチョン子は「誰といる?」と訊く。
ターと居るのだと答えかかると、「わたしが誰といる? いい人、イーブの他にいないよ。あんた、誰といる?」と言い直す。「音がしてるね。あんた、私の言う事聴かないで、何か勝手にしてるね」チョン子はイーブが答えないと急に不信を募らせたように言葉を吐き、それよりも火急の事として〈白豚〉との待ち合わせの時間に一時間も遅れているのだからすぐ向かってくれと言う。イーブは今日は行きたくないと言った。
「どうするのォ、レストランで一時間も待ってるのにィ」と言い、急に訛が取れた綺麗な日本語になる。「一時間遅れたって、途中で薔薇の花でも買えば平気だから。何にも言い訳いらない、黙って花束差し出せば、女なんてコロッと心が変わるんだから」
イーブは渋った。
チョン子は苛立ち、そのうちイーブが顔だけでも〈白豚〉に見せなければ信用がなくなると愚痴を言い出す。チョン子は自分の信用なぞどうでもよいと言った。信用がなくなるのは、チョン子を裏で支えているヤクザの組の幹部の信用だった。
「なんで幹部の信用だよ?」とイーブが訊くと、チョン子は「あんたバカね」と言い出す。
「お金、きっちり取ってるわよ。真珠の人からもお金取ってる。お金、最初に払わない人をイーブに紹介しないよ。そのお客が別のとこへ移って、こっちの悪口言ってごらんよ。金だけ取って、ジゴロが来ないって。こっちの信用ガタ落ちになるし、こっちの頼っている組の幹部も美人局《つつもたせ》に噛んだって信用なくなる。信用なんだから、信用」
チョン子はイーブに〈白豚〉の待っているレストランに行かないのなら、事務所に顔を出してくれと言った。「脅すのか?」イーブが訊くと、チョン子は「あんた、バカねェ」とまた言う。「あんた、うちが抱えてるたった一人の男だよ。うちは主にファッションとかソープの女の子回転させて売り上げあげてるの。女の子じゃあるまいし、イーブを脅してどうするの。お金よ、お金」
繁華街の入口でターの車を降りた。繁華街の入口のビルの前の舗道に水が打たれていた。その水に灯りはじめた電光板の明りがくっきり映り、夕焼けで黄色に光る凪いだ海のように眩く輝いていた。
イーブは立ち止まり、その海をどこで目にしたとすぐに思いつかないのに懐かしく楽しい事が記憶の中にある気がしてしばらく見ていた。
繁華街に近接した私鉄の駅が四ブロックほど先にあったので、勤めから戻るサラリーマンらが間断なくイーブの脇を通り過ぎた。サラリーマンらは人波に逆らうように立ったイーブを明らかに迷惑顔で見る。洗髪のままだったが、イーブの服装はサラリーマンの人波の中では際立ち、ジャケットもシャツも、靴ですら夜の性の匂いを放っているように見え、イーブは自分をサラリーマンが夜の中に置き去りにして来た羞かしい性の澱《おり》のような気がし、悪戯をしかけるように、光る海を踏んで歩いて来る一人の女を選び、顔を見つめる。
女はイーブの視線に気づき、戸惑い、性を売る高級ジゴロという職業に気づいたのか単に繁華街にたむろする遊び人で自分と無縁と思ったのか、無視にかかる。胸を張ってイーブの脇を通り抜ける。誰かがイーブを観察していれば、あんな女なぞ歯牙にもかけないとうそぶいたと分かるように薄笑いを浮かべた。笑うと一層、自分の体が放つ性の匂いが強まったように感じ、自分がとてつもない邪悪な意志を持った犯罪者になった気がする。急に街が輝いて見える。イーブは明るい気持ちのまま犯罪者のように歩き出した。
実際、犯罪をやろうと思えばすぐでも出来る。客の〈白豚〉や〈黒豚〉が何をしているのか、どんな社会的地位にいるのか、どんな人間関係なのか耳にしてもいつも聴かない振りをしたが、客との連絡の手続きを意図的に一つ違え、自分が金で性を売っている男だと名乗るだけで犯罪のとば口にすぐ立ってしまうのは知っていた。イーブは〈白豚〉や〈黒豚〉を選ばなかった。〈白豚〉や〈黒豚〉から一方的に性の相手として選ばれるだけだったから、舗道にあふれる海の光のような中に居ると、今、イーブの手が〈白豚〉や〈黒豚〉の運命の糸を握っている気がする。繁華街を歩くと、〈白豚〉や〈黒豚〉の手元に犯罪が誕生日のケーキか花束のように送り届ける事の出来る電話がいたるところに設置されているのが見える。〈白豚〉や〈黒豚〉も醜聞を怖れる。醜聞を怖れるからこそチョン子は率のよい商売が出来た。
イーブは角を曲がる。その角から突き当たりのキャバレーまで両側には性を商売にする店がひしめいていた。女が中で薄いネグリジェを脱ぎ、パンティーを脱ぎ、煽情的な姿勢をしてみせるのを外から観るのぞき喫茶、ファッション・パーラー、テレフォン・クラブ、ポルノグラフィーやヴィデオを売る店、何人もの客引きが立って通りかかる者に声を掛けている。
チョン子の言う事務所はその通りからさらに一つ角を曲がったところにあった。客引きがイーブに声を掛けようとして顔を見て、チョン子の元でジゴロの商売をするイーブだと気づいたようにニヤリと笑い、「あんた、今度の子の相手かい?」と訊く。
「何だよ?」イーブは釣られて笑った。
客引きはイーブの体を上から下まで目を遣り、「いいよなァ、得だよなァ」と言う。
「ちょっとぐらい羞かしくったって姦れてよ、金、取れてよ」
イーブは「まあな」と答える。
下がポルノ・ヴィデオ屋になった二階の事務所にチョン子は手提げ金庫を膝に抱えて椅子に坐り、二人の男と大きな写真を机に広げて話し込んでいた。イーブの顔を見るなり、「どうしたの?」と訊き、イーブが黙っていると二人の男に臆していると取ったように、「こっちはヴィデオ屋さん、こっちはエロ写真屋さん」と紹介し、二人がバラバラに挨拶するのを見て、「取りあえず大事なキンタマだから」と冗談を言い、気に入ったと言うように膝を打って笑い、「お金渡しとく。二百万」と金庫を開け、札束を取り出す。チョン子は札束を数え、数え終えてから金庫の中からノートを取り出し、まるでジゴロも日傭い賃労働だというように、何回客を取ったか声に出して数を数え、「丁度、二十発、二百万」とイーブに札束を差し出す。イーブは数え直す。数えているイーブの脇でヴィデオ屋が、「ヴィデオの方が一発にもう少し出せるけど、そっちは数が多いからなァ。まとまれば大きいよ」と言う。
「何、言ってるの、これ、固定給だよー」チョン子が口をとがらせる。「こっちは二割か三割だけど、他にどっさり贈り物もらってるし、ヴィデオの役者なんかと一緒になんかならない」チョン子はそう言い、札束を二百枚数え終えたイーブに「ねェ」と相槌を求める。イーブはうなずく代わりに、意味ありげに笑い、札束をポケットに納った。
その時、下から男が女の子を連れて入って来た。女の子は虚ろな眼だった。ヴィデオ屋が女の子を見て「来た、来た」と声を出し、女の子を「こっちへおいで」と椅子に腰かけろと手招きすると、女の子はふらふらと近寄りかかり、机の上に広げた写真を見る。
「いやだァ、あたしのー」と少女は甘ったるい声を出して身をよじった。
イーブは股を開いた女の写真を見た。
八
写真は実物の少女より子供っぽく見えた。少女は籐椅子の肘掛けに両脚を掛け、一方の手で乳房を握って乳首を誇示し、もう一方の手で女陰を開き、濡れた陰核を見せている。窮屈な姿勢のせいか、体全体に漂う少女特有の青くささのせいか、あらかじめ彩色されてあるように鮮やかな桃色の乳首も陰核も煽情的というより奇形の為に肥大してそんな色になったと見えた。
少女はイーブが写真をのぞき込んでいるのを見て、イーブが居合わせるヴィデオ屋やエロ写真屋の仲間うちだというように、イーブの腕をつかみ、身をよじり、「ひどーい」と言い、イーブが振り向くと甘えて「撮られた本人は見たくないんですからァ」とふくれっ面をする。ヴィデオ屋は少女がイーブの腕をつかみ「ひどーい、ひどーい」と甘えるように身をよじっているのを見てにやにや笑い、当のイーブに「子供だって女だ。誰に何、言えばいいか知ってらァ」と目配せする。
「ヴィデオの相手に俺を口説いてるって?」イーブは訊く。
ヴィデオ屋はうなずきもせずただにやにや笑い続け、「そんなことないですよー」と少女が笑い出すと、「本能だよ、本能。十六の、さっき穴あいたばかりの子でも、誰とナニすりゃ、楽しくなるか知ってる」と言い出す。ヴィデオ屋はひとくさり、本能というものの理屈をまくしたてたのだった。
イーブは聴いていなかった。少女に写真を撮った時の話を訊いた。チョン子は手提げ金庫を抱えたまま、ヴィデオ屋を見ていた。ヴィデオ屋は、雄しべ雌しべの話から、猿山の猿の性交、犬の性交まで並べたて、だから裏本裏ヴィデオと差別され、警察から摘発される危険におびえながらも性を商い続けるのは貴い事なのだと冗談か本気か分からない理屈を言う。
チョン子はヴィデオ屋が理屈を言い終って溜息をつき、「ワタシ、パカだから、ムツカシ、ムツカシ」とわざと訛を使う。
「ヴィデオは難しいよ」エロ写真屋はヴィデオ屋の肩を持つように言う。「スチールの方は、ああ、綺麗だ、もっと見せて、とほめ上げるだけで撮れるけど、ヴィデオじゃ、役者ってのにまかせなくちゃいかんからな。つい考えちゃうよ」
チョン子は「ムツカシ、ムツカシ」と言い、ふと気づいたように時計を見て、イーブに外へ行こうと立ち上がった。イーブが渋りながらチョン子の後を従《つ》いて行きかかると、少女が「本当に今日の撮影、一緒じゃないんですかァ」と泣き顔で訊く。
先に事務所を出たチョン子が振り返り、「子供をからかうから」とイーブをにらみ、我慢ならないと言うようにイーブを外に出し、事務所の中に半身を入れ、「裏ヴィデオの男なんて、そのあたりに転がっている男で充分なの」と言う。
「でもー」
「でもがなんなのよ。イーブは違うの。このプロダクション、わたしらは使ってるけど、ソープもファッションも、イーブも別系統」
チョン子は建物の外に出るなり、イーブの腕をつねりかかった。筋肉がまだジムナジウムの機械を相手にした運動で張っているのでチョン子の指は肉をつねり切れず、それでチョン子は不満と嫉妬を伝えるにはこうするしかないというようにハイヒールでイーブのすねを蹴りかかる。イーブは咄嗟に身をかわした。
「何をしてたのよ? 言いなさい、何が不服で待ち合わせの場所に行かない」チョン子は訛のある言葉を使う。
「何にもー」イーブは次の言葉を呑み込んだ。何にも、ないさ、と続ければ自然にサイボーグの使う合成語になり、何にも、ない、とか、何にも、ないんじゃ、と続ければ、たちまちサイボーグの体中に張りめぐらされた回路が壊れ、イーブは自分が誰なのかすらも分からない、ただ不安とか孤独とかが気流のように身の周りにも体の中にも漂うしかない男になってしまう。
チョン子はイーブに合わせて歩いたし、イーブはチョン子に合わせて、すっかり日が暮れ、ネオンが輝き出した通りを歩いた。
「言いなさい。不服あるんでしょ。だから待ち合わせのレストランに行かないし、さっきだってわざと汚い女の子の耳元で、ヘンな事、されなかった? 羞かしかった? と口説いてるみたいに言ってたんでしょ。分かってるのに。ヤクザのプロダクションがエロ写真を作ってるのよ。役得だって、スタッフはみんな姦るわよ。何が不満なのよ」
「何にも」イーブはまた次の言葉を呑み込む。
四つ角でチョン子は立ち止まった。
「イーブ」チョン子はイーブの顔を見つめ、まるで恋愛映画の破局の時のように思い詰めた顔で、「何で理由を説明してくれないの」と訊く。チョン子は手提げ金庫を右手に持ち、左手で髪をかき上げる。
「ターのように一人に決めたいと言うの? 誰か好きな人が出来て、このお仕事やめたいと言うの? あたしがひどいと言うの? お金でセックスするの、厭だと言うの?」チョン子はたて続けに訊く。
イーブは首を振る。言葉を発したら自然にサイボーグの合成語か訛のある言葉かどちらかを選ぶ事になり、それが今のイーブにはこの上なく苦痛の事のように思えたのだった。
チョン子は「イーブ」と呼び、益々恋愛映画のヒロインのように切羽つまった顔になり、「何か隠してるの? 誰かに裏切られたの?」と訊く。
そのチョン子の言葉がイーブの胸に刺さった。
一瞬、雪の山道をトレーラーで走った日を思い出した。それから〈黒豚〉の一人に聴いたのか、映画の一シーンか、少年が雪の中を歩き続けている姿を思い出した。裏切られたのでも棄てられたのでもなく、少年はただ自由になりたくて歩き続けているのだった。イーブは、自由、と思い、不思議な言葉が胸の中に去来したのに戸惑った。
その戸惑いをイーブの顔からチョン子は見て取り、「裏切られたのォ」とつぶやき、恋愛映画のヒロインのように両眼に涙をたたえ、戸惑ったまま立ちすくんだイーブの首を両手で抱く。右手に持った手提げ金庫がイーブの背に打ち当たり、弾みで落ちた。手提げ金庫に目もくれず、チョン子は四つ角の真中でイーブの唇に唇を重ね、舌まで差し入れてキスをした。
「何やってんだろうね、こんなところで」聴き覚えのある声がし、チョン子が体を離すと、舎弟分らしい男を二人連れたイヤさんが、落とした拍子に口の開いた手提げ金庫を持ってニヤニヤ笑いながら立っていた。「大金が入ってるのかと思って中みたら何もないぜ」
「全部フトコロに納ってるよ」イーブはイヤさんに言葉を返して、それがサイボーグの合成語だった事に気づき、一瞬、夢からさめたように、体に残っているジムナジウムでのトレーニングのもたらす筋肉の甘い痛みに気づく。
「どうしたんだよ、こんな一番目立つとこで抱き合って」
「ヤキモチさ」イーブは軽口を言い、イヤさんの手から手提げ金庫を受け取り、チョン子に渡す。「毎月、そこの事務所でこの金庫めいっぱいの金、もらうけど、ソープの女王のチョン子にとってみりゃ、その分だけ、ヤキモチ焼いたってわけさ」
イヤさんはイーブの言葉で初めて、チョン子がどこのヤクザの組織を背後に持っているのか気づいたように、「ああ、あそこ」と言い、チョン子を見て、「だから威勢がいいんだ、こんな目立つとこで、俺の色男と堂々とキッスしてるんだ」とからかう。
チョン子は露骨に不快な顔をした。イーブがイヤさんの手から取って渡した空の手提げ金庫を持ったまま、「どこの組よ?」とイヤさんに訊く。
イヤさんはそのチョン子の言い方がおかしくてならないというように、イーブの肩に手を掛け笑いながら小声で、「このバカスケ、この往来でシマ争ってしょっちゅう血の雨、降ってるのに、どこの組か? だってよ」とつぶやき、不意にヤクザの幹部に戻ったように、「ここ取り合ってるの、二つしかないだろうがァ。そっちの若いのが、ハジキ使ってそこの硝子ぶち抜いたの、覚えてねぇのかァ」と作り声を出す。「ヤクザの風上にも置けねぇ、チンピラの風上にも置けねェ。いきなり飛び道具使いやがって、それがはずれてやがんの。カタギに迷惑かけて」、イヤさんは作り声を出してチョン子を脅してる間中、手をイーブの肩に置いたままだった。イヤさんがチョン子の背景とする組織の対立組織の幹部だという事より、チョン子はイヤさんの手がイーブの肩に置かれているのが我慢ならないようだった。
「イーブ」チョン子はイーブを呼んだ。
イヤさんはチョン子をからかうだけの為のように、「何だよ、俺の色男をそう安く呼ぶなよ」と声を掛ける。
「イーブ、行こう。この連中、たち悪い。皆な言ってるの知ってる、だから。客引き、たち悪い。女の子、たち悪い。売ってるヴィデオ、写真、悪い。それもこれもこの連中、たち悪いから。Jの別荘に行った時だって、この男、勝手に従いて来てメチャメチャにしたんだから」
「俺はこの色男に呼ばれて連れて行かれたんだぜ。おまえとも姦りかかったけど、言ってみりゃ、被害者みたいなものさ」イヤさんが言うと、デザイナーの別荘での一部始終を知っていると言うようにチョン子はあきらかに軽蔑した笑を浮かべ、「あら、そうかしら、ねェ」と妙な抑揚で言い、イーブの腕を取り、「行こう」と言う。
「行かせねェよ」イヤさんはなおからかうようにチョン子が持ったイーブの腕を押える。それでも足りないと思ったのか、イヤさんは舎弟分に「オイ、誰かハジキ持ってるか、こないだの落とし前、この二人にやってもらおうじゃないか」と言い出す。
イーブには冗談に聴こえた。そのイヤさんの言葉を舎弟分がどう聴いたのか、それともあらかじめ仕組まれていた事なのか、四つ角で客を引いていた男らまで集まり、イーブとチョン子を取り囲んだ。
すぐ気の荒い一人がイーブをイヤさんと諍っている相手と勘違いして胸倉をつかみかかる。イーブが払うと、「この野郎、ナンパのくせしやがって」と殴りかかる。イーブが身をかわすより早くイヤさんが、気の荒い客引きの股間を蹴り上げ、「誰が手を出せと言った?」とどなった。イーブとチョン子の周りに集まった客引きらは事態の展開にあっけに取られたようだった。イヤさんは股間を押えてうずくまる客引きの胸倉をつかんで引き起こし、「誰が手を出せと言った?」と詰めより、客引きが呻きながら「済みません」と謝ると投げ捨て「俺がここにいるのに出過ぎたまねしやがって」と怒鳴った。
イヤさんが人を払い、金を手に入れたばかりのイーブが席を持つ事にして、イーブら三人は繁華街の真中にある台湾バーに行った。酒が入ると、チョン子はイーブに殴りかかった客引きを瞬間に蹴り倒したイヤさんにテコンドをやっているのか訊ね、テコンドではなく少林寺拳法をやっていると言うと、合点したと言うように周囲を見廻し、「だから台湾なんだァ」と言う。チョン子は少林寺拳法、台湾という言葉でイヤさんを見る目が変わったというように、イヤさんを好ましく思っていたが、イーブが客との約束をスッぽかしたので苛立っていて口が悪くなったのだ、と謝った。イヤさんが「そういう時は一報くれたら、好いた男の為だから身替わりになるさ」と冗談で言うと、「本当?」と訊く。
「本当、本当」とイヤさんが答えると、チョン子はイーブに向かって「ほらァ、真面目にやらないと、お客取られちゃうよ」と言い、イヤさんに向かって、今日のようなスッぽかしがあると、何度、客の男女に謝らなくてはならないかとボヤき出す。
「いい男は相手が逃げる事なぞ絶対ないと思ってるから、そんなワガママ出るんだ」
イヤさんが自分で自分の言葉に相槌を打つようにうなずくと、チョン子は「違うのよ」と真顔で言葉を返す。
「ねえ、男にも生理ってあるの? イーブを見ていると、そんな感じ。調子よくお客こなしてるなーと思ってると、ポカッと穴あける。理由がわたしには分からない。大事な客で、本人も次の時にローレックス買ってもらう。二百万は下らない皮コート、手に入るという時に、ポカリとやって、そんな物要らないと言うの。極貧育ちのわたしなんか、イーブは育ちがいいからなんだと思っていたけど、訊くと貧乏で育ったと言うじゃない。何か女の子みたいに調子が乱れてるのね。何言っても通じない」
「ジゴロなんて気抜かないとやってられないよ」イーブは言う。
「でも、何か違う。あと一発、だめ押しすれば何でも相手が言う事を聴くという時になって、フッと気を抜く。ジゴロ、他にもどっさりいるけど、他の子は必死よ。もみ手で擦り寄って金とか物、手にしている」
「俺は本気なんだよ」
「本気?」チョン子は訊く。イーブは自分を見つめるイヤさんに、おまえの事を言っているんだというようにウィンクし、「本気の嘘」と言う。「この俺がババアやジジイから金をもらわなかったら姦るはずがないじゃないか。でも金だけで姦れるはずがないぜ。姦る時は本気さ」
「じゃあ、本気の本当ってのは何だよ?」イヤさんが訊いた。
イーブは首を振る。「そんなもの、ないよ」イーブはつぶやく。つぶやいてみて、イーブは本気の本当がないと分かったから、今、東京に居てここにいる、と思う。イーブは公園の空に群れて飛ぶ金色の小鳥の声を思い出し、公園に植わっていた夏芙蓉を思い出した。何故思い出すのか分からなかったが、金色の小鳥と夏芙蓉は、本気の嘘のかたまりであるサイボーグのイーブを動かす動力源のようなものと似ていた。高く澄んだ幾つもの鳴き声が幻聴のように響いた。鈴生りに実をつけているのに活力が吹き出したように匂いの強い白い花が咲いていた。
台湾バーで居る間、イヤさんはしょっちゅう出入りする男らから挨拶を受けた。その都度、イヤさんは鷹揚に手を上げたり笑を返したりしていたが、一人、あきらかにチンピラと分かる男が入って来た時、チョン子の話をさえぎって立って外に出、しばらくして戻って来る。話の途中で人に席を立たれて鼻白んだチョン子を見て、「今、この繁華街で夜、働いているの、他所《よそ》の国の奴ばかりだろ。トラブルも国際的だよ」と説明する。パキスタンの若い男同士が日本人の女の子をめぐって喧嘩する、ラオスから来た男が働き出す時に言われた金と実際の金が違うというのでその文句をイヤさんの事務所に持ち込む。イヤさんはそう言い、「そのうち数多くなりゃ、あいつらだって組織つくるよな」とチョン子に水を向ける。
「そりゃ、そうよ」チョン子は言う。「誰も我慢する事ないんだから。客の方だけが、街の中で何、起こっているか分からない。ベトナムとかタイとかイランとか、何人もキッチンで皿洗いしてる。安いお金で。韓国とか台湾なら本国から来て言葉が分からなくってもそんな事ないけど、タイとかイランじゃ、まだ沢山いないから、あこぎな奴にやられるのよ。こないだ、この裏で台湾のチンピラ三人と色の黒いパキスタンかタイの四人が殴り合ったの知ってる? わたし、ソープの女の子二人連れて鮨屋にいたの。板前が外の騒ぎのぞきに行って、お姐さん、行っていっちょうまくしたててやんなよ、って言うから、ソープの女の子と見に行ったのよ。お姐さんの国の言葉? ってソープの子が訊くの。パカ、こんな訳のわかんない言葉、あるか、そう言ってるうちに、誰も言葉わかんないから、とめられなかったから、蹴り合ったり殴り合ったりしはじめた。おもしろかったよ。喧嘩してる当人らも言葉わかんないから、喧嘩してる。ヤクザが黒い方の一人、おさえつけたら、黒い方が、わたし、悪い、わたし、悪い、とどなり続ける。悪かったらおとなしくすればいいじゃないかってヤクザが言ったけど、あれ、本当は、わたし、悪くない、と言っているつもりなのね」
「わたしも悪い」イーブが言う。
チョン子は「そう」とうなずく。それから店の中を見廻し、ホステスとボーイの顔を見て、ホステスの一人に目を留め、日本語ではない言葉をかけた。ホステスは驚き、立ち上がってカウンターに置いてあったワイヤレスの電話を持って来る。ホステスが脇に坐ると、「マネージャー業って、人を見る商売だから、台湾にまぎれ込んでたって分かる」と日本語で言う。
チョン子は自分の部屋に電話を掛けたらしかった。一言二言話し、電話を切ってイーブに、「新しいあんたよ」と言う。「もう一人、ジゴロふやしてやろうか、と思っていま部屋に置いてる」
「新式のチョン子の玩具かよ」イーブは言う。
「そう、バイブレーター」チョン子は笑って冗談を言い、「イーブによく似ている。ちょっと口が多いけど綺麗な子よ」と言う。
確かにチョン子の言うように人形か犬の仔のようにルイと命名された十九歳の少年は、外見はイーブに似ていた。だが、チョン子に連れられてホテルのロビーで会い、「今日は、初めまして」と挨拶し、チョン子が急用が出来たので都心まで出かける、と訳を言って帰った途端、チョン子の急用とは、外人登録証を紛失したから再交付の手続きをしに外務省に行く事だと言った。口の軽い男だと見つめると、ルイは「行く事ないのに。洗面台の棚にあるのに」と笑い、外務省に行くと言っても〈黒豚〉の一人を呼び出し、手続きの一切をやってもらうだけだから、脅迫しに行くようなものだ、と言う。
イーブは十九歳のルイが脅迫という言葉を使うのを聴いて驚き、目の前にいるルイがイーブと似ても似つかない性格をしていると思い、そのうち、ルイがジゴロという性の玩具、性のサイボーグとしてまだ人体改造をしはじめたばかりだから、何でも出来る気がするのだと思い直し、ルイを煽るように「脅迫かァ」と言ってみる。「脅迫出来るのかなァ」イーブがつぶやくと、「出来ますよ」と言う。
「あいつら世間気にしてるもの。ジゴロとこんな事してますよとバクロされたら一発だもの」イーブはそう思わなかったが、「そうだよな」と相槌を打つ。
ルイは「そうですよ」と自分の意見を正しいと言われたのが誇らしいように言い、「でも脅迫して金、巻き上げるより、おだて上げた方がいいから、いいオマンコですねと言うんですよね」と言う。
ホテルのカフェの二つ隣の席の女がイーブたちを見るともなしに見ていた。女は人と待ち合わせ、待ち人が来ないものだから、心に隙間が出来ている。イーブはルイに目で合図した。ルイが振り向いて、女が自分が知らずに若い男に目をやっていたと気づいたようにあわてて眼をそらす。ルイは女の狼狽ぶりを笑い、「今の家庭の奥さん、あんなのばかりだから」と言う。
時間が来たのでルイと朝の五時に(金)多摩霊園で待ち合わせ、イーブはホテルの部屋に上がった。ホテルの部屋にはチョン子の発案で抱え切れないくらいの薔薇の花束が届いているはずだったが、部屋のどこにもなかった。フロントに電話して一階のエレベーターの脇のフローリストに電話を掛けると、手持ちの薔薇だけでは足らないから本店に配送してもらっているところだからしばらく待ってくれと言う。約束をすっぽかした詫びの言葉の代わりに大量の花束で度胆を抜く演出が手違いに終ると思い、イーブは電話を切り、舌打ちし、それなら何の演出もしないし詫びの言葉も吐かない、俺の正味はこれだけだと性のサイボーグの体を〈白豚〉に差し出そうと決め、イーブは〈白豚〉が来てもいないのに服を脱いだ。ブレスレットも腕にはめた時計もはずした。服を脱ぎ素裸になると、コロンの匂いがする。それが性の匂いとうつるか、どこででも買える匂いととるかは、それをふりかける者による。イーブはまた鏡に体を映してみた。鏡に映った裸の若い男は意図して力を込めなくとも筋肉の所在がくっきりと分かるほどだが、窓からまだ明るい外からの光が入って来て、その筋肉が自然の物ではなく人工の物だと明かしている。
イーブは笑った。笑すらも人工の物だった。人工の笑を消し、イーブは冷蔵庫に歩いてドアを開ける。冷蔵庫の中からミネラル・ウォーターをさがし出してつかみ、栓抜きで栓を抜いて、イーブは鏡を振り返った。イーブの眼は顔の正面に付いているものだから、歩く為の足、冷蔵庫を開ける腕、かがんだ時に視界に入る腹や性器しか映っていなかったが、鏡には後頭や首、背中、尻が、何の不思議もなく精巧なサイボーグの歩く姿、かがんだ姿として映っていたはずだった。
栓を抜いたミネラル・ウォーターをそのまま飲みかかると、ドアのチャイムが鳴った。ドアを開けると〈白豚〉がくしゃくしゃに顔を歪め、上ずった声で「イーブ、あなただったのォ」と言い、後ろを振り返る。フローリストにいたニキビ面の少年が自分の胴体よりも太い薔薇の花束を抱え、薔薇の花束の陰からのぞき見するように顔を出してイーブを見ていた。ニキビ面の少年がそこにいるので、一瞬自分が素裸だというのに気後れしたが、鏡がイーブの心を映さず、形しか映さないようにイーブと無縁のフローリストの少年の眼もサイボーグのイーブしか映さないと思い、少年に好奇心や不安なぞあるはずがないというように、「中に運んでくれ」と促し、ドアの脇に立った〈白豚〉の手を取る。素裸だから部屋の外に出るわけにいかないとイーブが無言で〈白豚〉を部屋の中に引き入れようとすると、「イーブ、嬉しいわァ」と、メロドラマの世界はホテルの部屋に足を一歩入れた途端始まる、というように〈白豚〉は声を出す。
イーブは〈白豚〉を抱え込み、唇を唇で塞いだ。唇を離し、「咋日はごめんね。友達と会ってしまったからしようがなかった、と分かってくれるよね」と言うと、〈白豚〉は首を振り、「いいの、わたしみたいなオバアサンの事、気にかけてくれるだけで嬉しいの」とまるでガルボのようにささやく。
堂に入ったものだった。いつも齢相応、身分相応の男を恋人にするのに、そのメロドラマでは十五歳の処女を相手にしてよいような少年に恋をし、ガルボはいままで思ってもみなかったような胸の痛みにあえぐ。若づくりし、いっその事、その十五の処女になってしまえとクロゼットの中をひっかき廻し、足らない物は町まで出かけて行って買って身に纏ってみたが、あきらかに身につかない。これも駄目、あれも駄目、と棄ててみて辛うじて今、着て来た服に落ち着いた。
〈白豚〉はイーブに体を抱えられたままささやく。「あの坊やがあわててエレベーターに乗って来たの。坊や、何階って訊いたら、十八階って言うでしょ。その時は少し暗い気持ちだったから、幸せな人もいるものね、と思ったの」
「今日もスッポかすと思ってたんだ」
〈白豚〉はイーブの眼を見ながら「信じてたけど不安だったの」と言い、キスを待ち受けるように眼を閉じる。イーブは軽く油性の紅を引いた唇に唇を重ねる。「坊や、どの部屋? って訊こうと思ったけど、幸せな人、嫉妬する自分の気持ちが厭だから止めて、坊やより先にエレベーター出て先に歩いてここ来たの、ここに来て立ったら坊やも立つの。お花、ここのなの? って訊いたら、うん、とうなずく。幸せな人って私の事なのね、イーブ」
「嬉しいよ、そんなに喜んでもらえて」
一段落するのを待ちかねたように部屋の中で薔薇の花束を抱えたまま少年が「あのー」とおびえたような声を出し、イーブを呼ぶ。イーブが振り返ると、「どこへ置けばいいでしょうか?」と訊く。
イーブは〈白豚〉の体を離し、礼を言って花束を抱え受け取った。裸の胸に花束の包装紙が当たり音が立ち、サイボーグのイーブは包装紙の冷たさと薔薇の新鮮な匂いを感じ止め、それが数値に置き換えられて次の行動指示と音声が合成されたように、「ほら、この薔薇もこの体も女王様の物だよ」と薔薇ごと体を〈白豚〉の体に圧しつける。
背の低い少しばかり描背ぎみのガルボは腕をイーブの腰に廻す。
その〈白豚〉相手の性交は前戯の段階であまり強い刺激を与えると、羞恥によって快楽の制御をかけるので、前戯は十五の少女に十六の少年が愛撫を施すようにごく軽い物でよかった。イーブが思うに、〈白豚〉はイーブの腕の中でガルボになり、そのガルボがさらに少女を演じているのだった。本来ならその齢なら萎びて垂れているはずの乳房が、仰むけに寝ると平べったくなってもまだ乳房の形を取るのは、〈白豚〉が固太りのせいだからだとイーブには分かっているが、〈白豚〉はそれを齢の割には体が若さを保っているせいだと思い込み、自慢したいのだった。自慢してみても、ソフトボールのように固い乳房は若い娘と成分が違うので感度が悪い。感度を回復するには、時間がかかる。女陰もそうだった。緩み、口を開いた女陰は前戯なしにサイボーグの一角を受け入れるはずだが、女の手一つで不動産業をやり、強者ぞろいのブローカーと互角に渡り合っているという〈白豚〉は、男がいきなり自分の欲望だけの為に突き進むと、自分は男に穴だけ貸してやっているのだというふうに投げ遣りになるし、いきなり女陰に顔を埋めれば、女の弱さが暴かれるというように快楽を制御しにかかる。
〈白豚〉はイーブに打ちあけたのだった。物心ついてから一度も性を楽しんだ事がなかった。処女のまま結婚して、一方的に男が行為して果てる性交しか経験しないまま夫と死別し、不動産業を始めてから仕方なしに男に身を投げ出したから、性を楽しんだ事なぞない。イーブには乳房を触られ、女陰を触られ、〈白豚〉もまたイーブの一物を触るが、この性は一方方向ではなかった。イーブはガルボが演じる少女になった〈白豚〉に好きなようにさせた。
少女はいつも世の中にこんな不思議な物があるのかというようにイーブの性器を見つめ、舌で舐め、匂いをかいだ。少女は不思議な匂いだと言った。森の苔の匂いに似ている。少女がそう言い、その不思議な物の放つ不思議な匂いが少女からガルボに戻す魔法を与えたというように、〈白豚〉はガルボのまま、イーブに犯されたがる。〈白豚〉は陶酔の中で男ならどんな事をしてでも凌辱したい気品に満ちた美しい女を演じた。そうなればイーブが手加減すれば後で〈白豚〉に不満が残った。乳房を愛撫されるのでなくわしづかみにされ、もみしだかれながら、性器が奥深く、まるでハンマーで杭を打ちつけられているかなんぞのようにはっきり分かる強さで出入りするのを好み、あえぎながら「そと、そと」と言う。昂まりが極まり、イーブが性器をしごきながら起き上がると、どのメロドラマの映画でもヒロインがそんな事すれば今までの気品も美しさもかたなしだというようにガルボはイーブの股の間を芋虫のように身をよじってずり下がり、イーブの陰嚢が乳首のあたるあたりで口を開けて顔を上げる。時に噴出した一滴目から顔に命中する時もあるが、往々にしてコントロールしなければイーブの精液は〈白豚〉の顔を飛び越して、ベッドの枠に当たる。射精したイーブを〈白豚〉は素敵だったと言う。イーブも、ガルボが素敵だったと言う。イーブの胸に顔をうずめた〈白豚〉の髪に精液の飛沫が飛び、からみついているのが、森の苔の匂いとは思えないような匂いを放つのを気にしながら、精液に触らないように髪を撫ぜ、イーブはまだ固いままの性器に物欲しげに手を掛ける〈白豚〉に「いいよ」と言う。イーブは枕元から輪ゴムを取り出す。輪ゴムを二重にし、性器にリングのようにはめる。固いままの性器は血の循環がとまり手で触ってみるだけで勃起時の半分は容積が増したようにふくれ上がる。
「いきなりだったら傷つけるから、上になって自分でゆっくり加減した方がいい」と言うと、〈白豚〉はいまさっきまでガルボだった事も少女だった事も忘れて、性に貪欲な男まさりの不動産業を営む〈白豚〉に戻ったように、体を起こし、イーブにまたがり、拳ほどにふくれ上がった性器を入れかかる。入れかかった途端、「痛ァ」と〈白豚〉は呻いた。しばらく体を動かし、「駄目、入んない」と〈白豚〉は言う。
「この前、入ったじゃないか」イーブはそう言って、いきなり〈白豚〉の尻を支え、下から突き上げる。〈白豚〉は呻く。イーブは上半身を起こし、呻く以上、性器が中に入りかかっているのだと下から突き上げ続け、ふっと下半身が楽になったのを知り、「ほら、入ったじゃないか」とささやく。「ボーッとしびれてるよ。熱いの、分かる」イーブがささやき続けると、〈白豚〉は痛みが消えたと暗に言うようにイーブの腹に手をつき、ゆっくり腰を動かし、イーブがそれに応じて突き上げると、声を上げて動きをとめ痙攣する。
痙攣が去ってから目を閉じたまま、「さっきだって何回もだったんだからァ」と言い、力なく顔を上げ、「眩暈《めまい》がするゥ。どうにかなっちゃう」とイーブの腰の動きを煽るように腰を廻し、「固い時、上になるの、つらい」と言って呻く。「イーブ、イーブ。イかないんでしょ。ずっとわたしだけ、こうやってイーブにイかされてるんでしょう」
イーブは腰を強く打ちつける。次を待つように〈白豚〉が腰を軽く持ち上げたのを知り、「こうしろと輪ゴムでとめるの教えたの、そっちだろ。何回もイきたいって」とイーブは下から打ちつける速度をはやめる。〈白豚〉は「好きよ」と言って、長く尾を引いた声を上げ、息を詰める。
九
ベッドを起き出ようとして寝入っている〈白豚〉の髪をまじないのように撫ぜると、〈白豚〉は眼を開けかかった。髪にかけた手を離しかかり、〈白豚〉がガルボではなくアジアの極東の小金を持った女というのが本来の姿のように、イーブも、夢の恋人ではなく金で性を売る若い男だ、とはっきりさせるしかないと決めて、髪を撫ぜるのを止めなかった。眼を開けた〈白豚〉が甘い夢に逃げ込むように胸に擦り寄りかかるので、イーブは「もう行くから」とささやいてみる。
イーブの心の中に皮肉な科白《せりふ》が浮かぶ。
シンデレラは十二時に帰るけど、ジゴロは朝が明けきらないうちにホテルの部屋を出る。朝になりきらないうちに帰るのは幾つか理由がある。朝の光の中で〈白豚〉の裸を見るのも、服を着た姿を見るのも厭だった。食事をしなくとも、コーヒーを飲むだけでも、朝のホテルのレストランはジゴロのイーブには最悪の場所だった。若いカップルを見れば自分の後ろめたさが、サイボーグの動きをぎこちなくさせたし、たまたまイーブと同じような齢上の女と齢下の男のカップル、その逆の齢上の男と齢若い娘のカップル、男と男、女と女に出喰わせば、余計イーブが人の前では身を隠し、本性を秘し、人の蔑みの視線を避けて生きていく身だという事が浮き上がる。朝のホテルのレストランでのどんな組み合わせのカップルも素性のさぐりあいだった。カップルでなくとも、たとえば外見はビジネスマンが一人朝食を取っていたと見えたとしても、その男は〈白豚〉や〈黒豚〉と連れ立ってレストランに現われたイーブを見つけ、追い、盗み見し、その男がごく普通の性の趣味しか持っていないなら露骨な蔑みの眼差しを送り、同性愛の嗜好を持っているなら、イーブの放つ性の匂いをかぎつけ、値ぶみすらしはじめる。同性愛の男が初《うぶ》でイーブが〈黒豚〉も相手にするジゴロと気づかないなら、男はイーブに秋波を送るともなしに送り、〈白豚〉や〈黒豚〉とコーヒーを飲む間に、イーブを視線の糸でがんじがらめにする。
イーブは選ばなかった。選ばれるだけだった。その同性愛の男の視線でがんじがらめにされ、身動きつかなくなって苦しくなり、イーブはその男に、金をチョン子に払って申し込めばいつでも〈黒豚〉としてサイボーグを自由に出来ると言ってやりたくなる。
イーブはベッドから身を起こし、「もうじき夜が明けるから」と〈白豚〉には意味不明に映るような事をつぶやく。ベッドから降りて外に立って、サイボーグになったのは、世の中のありとあらゆる汚辱や恥辱をひっかぶってやると決心したからだと思った。
「もう行くの。待ってよ」〈白豚〉はイーブの汚辱も恥辱も想像した事もないというように間の抜けた言葉を吐く。
イーブは答えないで、シャワーを浴びる。シャワーの石鹸置きの上に縮れた陰毛のからみついた色つきの輪ゴムが虫のようにある。輪ゴムの痛みは性器のどこにもなかった。熱いシャワーの滴を体に受けながら引きのばしていると、〈白豚〉がドアを開けて顔をのぞかせ、「嫌だ、それ」と言う。
「毛が巻きついてる。今度、リングを買っとかなくちゃな」イーブは〈白豚〉に答え、自分の答に厭気が差す。
「ホモのポルノショップに行くと、売ってるの分かるけど、めったに行かないから。あのあたりへ商売用のスキャンティとか、サポーター買いにいくけど、そうそう、顔出さないからな」
「いいの」〈白豚〉は言い、シャワー室に入りかかる。〈白豚〉が裸をイーブに洗わせようとする魂胆なのは分かっていた。イーブは今、思い出したというように、「そうだ、今朝、そのあたりでチョン子たちと会う事になっているんだ」と言い、のんびりとシャワーを浴びる時間はないのだとシャワーを止めて外に出る。
〈白豚〉と共にエレベーターで降りながら、一瞬、イーブはジゴロと客の演じるメロドラマはいつも朝でお終いになると思い、朝の光が嫌いなのはサイボーグの身で、心のひとかけらもないのに、〈白豚〉と恋愛をしていたという気になっているからだ、と思い、〈白豚〉の顔を見つめる。どこからどう見ても〈白豚〉はイーブの恋人にはなりえない。しかし本当にそうか、イーブはなお見つめる。顔のどこか、体のどこかに、イーブがイーブというチョン子のつけたジゴロ名ではなく普通の名前の若者として恋愛の相手に選んでもよいような何かが漂っている。ただその何かが漂っているのは一人その〈白豚〉だけではなく、他の〈白豚〉にも〈黒豚〉にもあった。いやジゴロとして相手にして来た〈白豚〉や〈黒豚〉だけでなく、いままで行きあたりばったりに寝た相手のすべてにある。
カフェでコーヒーを飲もうと言い張るのを断ってホテルの外に出ると、〈白豚〉はイーブの強い語調を取り違え、「どうしたのォ」と追って来る。〈白豚〉は涙ぐんでいた。車止めの明りの下に立つと、明るい若やいだ服が〈白豚〉には一層不似合いに見え、その不似合いな服を着た〈白豚〉といまさっきまで裸体を重ねていたと思うと、外に広がる冷えた闇の中から恥辱が押し寄せてくる気がしてイーブは眼をそらし、眼の前に一台タクシーがさあ乗れと言わんばかりにドアを開けたのに、夜の中に向かって歩き出す。
〈白豚〉は呆気に取られたようだった。「どうしたのォ、何、怒ったのォ」〈白豚〉は声を掛け、イーブが逡巡し歩を緩めると、夕方、ホテルの部屋で演じたガルボと少年のメロドラマを演じ直すというように、「言ってちょうだいよ、何、怒ってるの?」と声を掛け、イーブの後に従いて来る。
さながらそこは東京のあっという間に竣工し終えた高層ビル街のホテルの前ではなく、石でつくられたベルリンやパリの街角のように、ガルボは少年を追うのに急なのだと、ドアを開けたタクシーに「ごめんなさいね」と声を掛け、靴音を高くして追う。
イーブはその靴音がガルボの歩幅ではないのに気づき、歩を緩めて闇の中で苦笑し、振り返る。
「怒ってなんかないさ」
ガルボは少年に追いつき、腕を取る。
「どこへ行くの?」
イーブは(金)多摩霊園の少年らの唖然とする芸を思い出し、「ろくでもないところだよ」と言う。言ってみて、イーブもまたメロドラマの少年のように、本心では腹立たしい事なぞひとつもないのに、いかにも幼い邪気のない怒りで燃えているような口調だったのに気づき、押し黙って歩き出す。
考える事は何もなかった。悩む事も何もなかった。ただ異様なほど都会の朝になる寸前の、冷えた風が体に心地よかった。もしイーブに悩む事があるのなら毎日毎日、時間が経てば夜から朝になってしまう理由がいま皆目分からない事だった。おそらく十歳の子供なら習った知識で正確に言い当てる理由を、イーブは〈白豚〉に腕を取られてガルボと恋人の少年を演じるように歩きながら、夜が何故、朝になるのか悩みながら、夜から朝に向かって歩いて来る。ホテルから(金)多摩霊園に向かって歩いている。イーブは歩調を緩めていた。〈白豚〉のガルボは時折り小走りになった。
その〈白豚〉のガルボの、仔馬がトロットを踏むような足音を耳にしていると、何故か分からなかったが、次第に心がなごんだ。イーブはさらに歩調を緩めた。〈白豚〉の歩調になったのか、足音がガルボのもののように響き、また理由なく自分が怒って、夜から朝に向かって歩き続けているような気がしはじめる。映画の筋なのか、〈白豚〉か〈黒豚〉から聴いたのか判別つかなかったが、イーブは怒りに駆られて都会の中を歩き廻る少年のような気がし、歩を速め、「従いて来たってろくでもないところだぜ」と〈白豚〉にまるでハンフリー・ボガートのような口調で言う。
「いいの、どんなところでも。今日は従いていく」
〈白豚〉は興奮して声を震わせる。
「今日はわがまま言う。彼女にそう言ってあるの。焦らされて、朝になって置いてけぼりにされるの、たまらない。お金の事だと言うなら彼女にどんな申し出も聴くと言ってあるわよ。あなたは知らないでしょうけど彼女にはもうすでに特別な事をしてある。イーブ、言いましょうか?」
イーブは事の展開にあわて、躊躇し、「聴きたくないな」と答える。
「聴いてよ。イーブとの仲、お金じゃないと思っているんだから」
イーブは苦笑する。「金さ」
「金じゃないわよ」
イーブは立ち止まりサイボーグになったように声を出して笑い出す。「金だよ。ジゴロは金だよ」
〈白豚〉はイーブをあおぎ見る。「じゃあ、ちゃんと彼女からお金もらってよ。マンションだってもらってよ」
「マンション?」イーブが訊き返すと、〈白豚〉はチョン子にマンションをひとつ、イーブを住まわせるという条件で格安で譲ったと言う。
イーブはそれは〈白豚〉の商売の取り引きではないかと笑った。イーブの笑い声に煽られたように〈白豚〉は、そのまま取り引きに出せば億というケタがつくマンションを売りに出された二年前の値段でチョン子に売ったと言い直す。
「彼女は何千万も得をしてるわよ。でもわたしは何も言わない。そこにイーブが住んでくれると思ってるから。イーブはそれも自分に関係ないと思うんでしょ」〈白豚〉はイーブが返事をしないと、「そうね、関係ないわね」と独りごち、「彼女が蟻地獄をつくってるんだから」と言い、いまさっきと気分が少し違い、腕一つで不動産屋を開き成功させている女だったと気づいたように、イーブの腕をひとつポンとたたき、「行きましょ」と言う。
イーブが足早に歩くのを押えるように腕を強くつかむ。
「彼女が獲物を狙って蟻地獄を掘ったのね。獲物も中の虫も、その掘ったのに食べられる。昔から甘い汁吸うのは、そんな連中なの。イーブはお金の事、言わない。他のジゴロと比べて全然というくらい言わない。その代わりに彼女、言ってくるわよ。社長夫人は車、プレゼントするって言ってる。まるがかえしたいって言ってる。イーブはわたしの方に気があるって彼女が言うの。恋のとりこだから。ヤケドしてる最中だから。興信所くらいつけてイーブを調べたわよ。他の女もしてるかもしれない。今だって興信所がわたしたち尾行してるかもしれない。イーブは何もない。誰とも特定につきあっていない。ただ彼女の言うがまま人とセックスしてるだけ。どうしたの、何かあるの?」
「調査して何かあったか?」イーブが訊くと〈白豚〉は焦れたように、「だから訊いてる」とつぶやく。
〈白豚〉のそのつぶやきを聴き、イーブは夜の街を歩いている不安に駆られ、自分のサイボーグの顔を確かめてみたくなる。鏡はどこにもなかった。ショーウィンドーすらなかった。街路樹が石のかたまりのように続き、灯を落とした高層ビルが育ちすぎた樹木のようにそびえていた。イーブはふと思いつく。
「少年がフィリピンから連れて来られて男に囲われていた話、知ってる? ジョジョという名前だったと思うけどな。その話、知らなかったらしてやるよ」
「それ、イーブの事?」
イーブはうなずく。
「俺の事かもしれない。おそらく俺の事さ。男に囲われた事なぞ一度もないけど、そのジョジョは俺だな。最初はジョジョも嬉しかった。外国から東京に来て、見る物、聴く物、驚く事ばかりだし、新鮮な物ばかりだった。鮨屋に行くだろ、ジョジョは鮨を見よう見真似で食べる。デパートに行くだろ、物があふれてる。言葉は分からないけど面白い。驚いているうちに或る日、不意に自分を囲っている男がジョジョをやっかい者あつかいしはじめた。やっかい者にされると立つ瀬ない。或る夜、喧嘩して、外へ飛び出した。ジョジョには友達、一人もいない。道も分からない。ジョジョは東京中歩き廻るだけなんだぜ。俺がそのジョジョだって気がする」
〈白豚〉が不安げに「イーブ」とガルボのように声を掛ける。「昔、そんなに愛してくれた人、いると言うの?」
イーブは首を振る。「分からないな。愛されたのかも愛したのかも分からない」
「イーブの考えてる愛って何よ?」ガルボは甘く切なげに訊く。
イーブは苦笑し、愛も恋も(金)多摩霊園に行けば、ボーイらの粗末な芸ひとつでかたなしになると思いながら、「じゃあ、あなたはどう考えている?」と訊き返す。
「愛って不思議なものよ」
ガルボのセリフを耳にして思わずイーブは吹き出した。ガルボは「やあね。人が真剣に言ってるのに」とイーブの腕をぶつ。
「イーブなんか若いから愛とか恋ってのを四十、五十の女が口にすると笑うけど、四十、五十になると、本当に喉から手が出るほど欲しいのよ。女の友達と話し込んでいて、特に相手が自分と同じ独り身だったら、ゾッとするわね。わたし何度もある。目尻の皺も額の皺も見ているうちにますます深くなる。どんな冗談言って笑い転げていても、顔の皺が物言っているわよ。本心で笑ってない。愛が欲しい、愛したい、愛しあいたい。四十、五十にもなると、愛したり愛されたりしたら、どんなつまんない物でも魅力あるように見えるの知ってるの。三度の食事だってそう。四十、五十で愛するの、あんなめんどうくさい事って言う人いるけど、本当はその人、充分愛に恵まれてるか、ふてくされてるだけよ。わたしがそうだから。イーブに熱あげてから、孤独じゃないし、仕事にも張りが出来たし」
「愛は不思議か」イーブは独りごちる。
高速道路の高架線の下を抜け、駅のガードを通って向こう側に近道しようとして道を折れ、明るい灯りのついたガードの入口にうずくまっている三人の浮浪者を見、いままでそうだったようによもやそうであるまいと思いながら歩を緩め、それが三人の女乞食だと気づいて注意深く観察し、のろのろと顔を上げた一人を見て、イーブは思わず声を上げた。女乞食はイーブの声に驚き、おびえたように身をすくめ、イーブが声を掛けようとするとあわてて顔を伏せる。
〈白豚〉が「どうしたの」と訊き、イーブがボロ屑をまとい、ふくれ上がった紙袋を抱え込むようにして顔を伏せ身を寄せあっている女乞食の前に立ちつくすのを見て、「何なのよ、イーブ。知ってる人なの?」と訊く。
イーブは興奮しすぎて声もなかった。立ったまま、〈白豚〉に腕をつかまれ、「何なの?」と腕を揺さぶられ、三人の女乞食の顔をいま一度確かめなければしようがないと思って、言葉をさがしたが、サイボーグの暮らしがたたったように言葉が出て来ない。
「何なの、イーブ、何なの?」〈白豚〉が腕を揺する度に、サイボーグの体の方々に埋め込まれた回路が壊れ、ICのチップスが剥離し液化したように涙がにじみ流れ出す。
女乞食がさらに身を小さくし、紙袋を盗られるというように抱え込み、身を寄せ合い、若い男と中年女のカップルから難癖をつけられているように女乞食の一人が「何にもないどォ、他へ行てくれよォ」と呻くように言う。
その訛は確かに、イーブやターがやって来た地方のものだった。イーブは体が震えた。声を掛けようとし、イーブは三人の女乞食が、ターと共に捜し続けていた老婆らに違いないのなら、捕虫網の影を感じた蝶のように下手に声を掛ければ何処かに飛び去ってしまう気がして口をつぐみ、「イーブ、どうしたの?」と言い続ける〈白豚〉の手を強引に取って、ガードを引き返した。
ガードから離れ、道を角まで戻ってイーブは〈白豚〉に独りにして欲しいと言った。「ダメェ」〈白豚〉は言う。「あの人たちと何かある。知り合いなの? ダメよォ。さっきまで言ってたでしょう。イーブを好きだって、愛してるって」
〈白豚〉はイーブの腰を抱え体を圧しつける。「わたしがそばにいるとイーブはあの人らと知り合いだと言うのが羞かしいの。イーブの事、何から何まで好き。あの人たち、知り合いなの?」〈白豚〉は訊く。
イーブは自分の行為が何によるのか分からないまま首を振り、「独りにして欲しい」と言った。イーブは〈白豚〉を見つめた。〈白豚〉を見つめていると、埋め込まれた回路の機能が戻り、涙が乾く。
「何の関係もないさ。乞食に驚いただけだから」イーブは〈白豚〉が端《はな》から自分の言葉を信用しないのを分かりながら言う。
イーブは昏い眼で〈白豚〉を見つめる。イーブのサイボーグの眼は、映画で見たどの役者よりも複雑で高度な演技をしている。微かに白みはじめた夜の中で、イーブの昏い眼は〈白豚〉に向かって、酷薄な調子さえ帯びて、あのようなボロ屑のかたまりか人間なのか判別つかない身の女乞食と、人に美しい、魅力的だと称賛される為にあるようなイーブとは一切無縁だと言い、さらに、もし、その昏い眼の中から、一条だけ実のところ、そうだ、愛しくてたまらないという光がまたたくのを見つけたとしても、この社会に生きていく者として、あいつらと俺をつなげないでくれ、と問いかける。
〈白豚〉はしかしイーブのその演技には反応しない。「イーブ、何、羞かしがる事あるのよ。知っているんでしょ。イーブ、わたしに言ってよ、秘密があるのなら、それを言ってよ。お金ぐらい幾らでも用意出来る。あの人たちくらいどんなにでもしてやれる。もしあの人らがイーブのお母さんだったとしても」
「違うよ」イーブは突き放すように言う。
イーブは不意に腹立つ。「何で乞食に関係があるんだよ」イーブは言葉を言ってみて、言葉に促されるように、「ジゴロも乞食も、おまえの中で、右や左の旦那さまとお恵みを乞うている同じ仲間だというのか」と毒づく。
〈白豚〉は「イーブ」と名を呼ぶ。
「俺は最初、あの女乞食見て、あんまり穢いのでびっくりしたし、顔を見て、あんたにそっくりだってびっくりしたんだ。あんたに抱かれてオマンコの相手させられてるってのは乞食女に抱かれてるみたいだって思って悲しくなったんだ。他所《よそ》で口直しに若い娘と遊んでいこうというのに、いつまでもつきまとうって。俺が何で乞食を母親にしなくちゃいけない。ジゴロだからか。金ではたかれて、おまえのきたないオマンコ舐めさせられてるからか」
「本当? イーブ、本気で言ってるの?」〈白豚〉は涙声で訊く。
イーブは白みが増した空の明りで一層乾いた昏い眼を〈白豚〉に向け、〈白豚〉にとどめの一撃を突き刺すように、「ああ」と言う。
〈白豚〉は一撃を受け、しゃがみ込む。しゃがみ込んだ〈白豚〉をイーブは足で「ほら、行けよ。俺につきまとってないで帰れよ」と小突いた。〈白豚〉は仔猫のようにその小突くイーブの足を両手で抱きかかえ、「許してェ」と泣きじゃくりながら言う。
イーブには〈白豚〉がどこまでガルボを演じているのか、どこから男に伍して女手一つで不動産業を営む〈白豚〉の本性が出てくるのか分からなかった。ベッドの中、ホテルの部屋の中なら、森の中で強姦されたがる〈白豚〉の事だから、足で小突く程度の事はあったが、外で乱暴な言葉を吐くのも、足で小突くのも初めてだった。
「行けよ。これから若い娘といちゃつくの、迷惑なんじゃよ」イーブは言ってみて、方言をしゃべったのに気づき、自分で驚く。その自分の言葉でまたサイボーグの回路が壊れた気がし、イーブは転がったまま泣きじゃくっているガルボのままの〈白豚〉を置いてガードに戻った。
女乞食ら三人はガードからさして離れていない場所で諍いしはじめた声を耳にし、とばっちりをこうむるのを逃れようと三人、それぞれ紙袋を二個ずつ抱え、歩き出したところだった。
イーブは脇を通って前に廻った。そうするのが双方のこだわりを一挙に吹きとばす事だというように、両手を広げて立ち塞がり、いまさっき涙を流した事も怒った事もなかったというように笑を顔いっぱいに浮かべ、「見つけたど。ここで会うたのが百年目じゃ」と言う。
女乞食は驚いて立ちすくみ、明るいガードの中に立ったイーブを分からず「何にもしやせんよ」「また言うてくる」と口々に言い、方向を変えようとする。
イーブはあわてて、「オバ。コサノオバ、マツノオバ、ヨソノオバよ。ツヨシじゃ」と名を呼び、名乗る。
ガードの天井のせいで声が反響したせいか、それとも単に耳が遠いせいか、女乞食はのろのろした仕種で逃げ続け、反対側に〈白豚〉が顔を両手でおおい立ったのを見て、また立ち止まる。
「ツヨシじゃ」イーブは声を掛けて〈白豚〉が顔をおおった両の手を取り、イーブの顔を見つめるのに眼をやる。
女乞食にやっと声が届いたというように三人は顔を見合わせ、ゆっくりとイーブの方を振り返る。蓬髪のコサノオバが、ついさっきまでイーブやターと大型トレーラーで東京の町中を移動していたというように、「ツヨシかよ」と訊き、ついでのように、「吾背《あぜ》かよ、女、えらい目にしいたの」となじる口調で言う。「ええ、どこのワリ者が女を泣かしとるんないねと三人で言うとったら、吾背《あぜ》かよ」
「ほんまにィ。何様じゃと思とるんないね」マツノオバが言う。
「オバ。田中さんも俺も捜しとった。オバら見つからんさか、ずっと東京におったんじゃ」
「あくかよ、女、せちごたりしたら。今も、ワリ者、また、おる。ひとつ飛んで来てもあかんし、へんなとこ見てうらまれてもあかん、公園の方へ行これと三人で行きかかったとこじゃったのに」コサノオバが言い、イーブがどういう気持ちなのか一切斟酌する必要もないというように、「ツヨシじゃったらかまんわ。朝までおろれ」とマツノオバに言いガードの元の場所に坐りかかる。
十
ガードの同じ場所に坐り込む三人の老婆を見て、コサノオバもマツノオバもヨソノオバもイーブがツヨシという名だった頃から若《わか》い衆《し》の意見に素直に従う事なぞ皆無だったのに気づいた。一計を案じるように、〈白豚〉を呼び、「ここに電話をしてくれ」と手帳を破って電話番号を書き出しかかり、ふと〈白豚〉に老婆の事で用件を頼むのは片腹痛いと思い、五分や十分の間、老婆らは逃げ出しもしないだろうと、電話の方に駆け出す。〈白豚〉がイーブの背に「どこへ行くのォ」と声を掛けた。
電話を掛けてすぐ戻って来ると答えようとし、答える声を出す暇もないと思い、イーブはガードを抜け、角を曲がり、ハンバーガー・ショップの前の公衆電話のボックスに飛び込む。ボックスのドアが閉まりきらないうちに、その電話がカード専用なのに気づいた。ボックスを飛び出、二つ先の長距離用の電話を置いたボックスに入り、イーブは譜んじているターの部屋の電話番号を廻した。呼び出し音に答える声はなかった。
「あの野郎」とイーブは唇を噛んだ。ドアに映った自分の顔を見つめて待ち、応答がないのにあきらめて、手帳を取り出し、書き留めた車の電話番号を捜した。その番号にも応答はなかった。
「あの野郎、こんな大事な時に」
イーブは電話を切り、おそらくターは大使館の女とホテルにしけこみ、老婆らが見つかった事なぞ想像もつかず、昨日も今日も変わらないという風に眠っているのだろうと思い、会ったらどやしつけてやろうと腹に決め、電話ボックスから外に出る。ふと、老婆らに出喰わしたのが幻想の一つのように思え、不安になった。
空が白んでいた。
イーブはガードに走った。イーブは声を上げた。ガードの同じ場所に三人の老婆の姿はなく、〈白豚〉がガルボを演じるようにポルノ映画やストリップショーのポスターを貼った壁に肩をもたせかけ、無言で老婆ら三人は厄介を嫌って去ったというようにすねた眼をイーブに投げかける。ガードを突っ切って向こう側に出、すぐに広がる駅の広場のどこかに身をひそめているのだと推測して物陰や植え込みの中まで捜し、三人が公園に喧嘩の飛ばっちりを避けようと言っていたのを思い出し、イーブは公園に行こうと思う。だが、どの公園か分からないし、ホテルのそばの、夏芙蓉を見つけた公園以外、どこに浮浪者のたむろする公園があるのかイーブは知らない。
イーブは明けて来る駅の広場で立ちつくした。一瞬、幻を見て我を忘れていたように、目が利く明るさになって餌を求めて動く鳩の群を〈白豚〉が追いながら、イーブを注視しているのを見る。イーブは呆けたまま追われて逃げる鳩を見つめた。鳩は翼を持った狡猾な東京にだけ棲む鼠だった。鳩の群の中に、三人の老婆、コサノオバとマツノオバとヨソノオバが身を変えてまぎれている気がする。
時間はまだ六時を廻ったばかりだった。(金)多摩霊園は開いているはずだと思い、イーブは〈白豚〉に声も掛けず、歩き出した。信号を四つほど無視してまっすぐ道を突っ切り、靴屋の角を左に折れてさらに三ブロックほど歩くと、繁華街の一角の端に当たる寺の敷地に出た。一角と一線を画すように高いコンクリートの塀がつくられ、その塀伝いに歩き、角を曲がると(金)多摩霊園のあるビルに出る。ビルに入りかかると、息を切らして後から従いて来た〈白豚〉が、「イーブ」と呼ぶ。
声に振り返らず、エレベーターのボタンを押すと、「イーブ、止めてやってェ」と〈白豚〉が哀願するような声を出す。
「何だよ。うるせえな。人の事は放ったらかしで、ただ見てただけなのに」「違うのよォ」
〈白豚〉の声を聴きながら、エレベーターが降りて来てドアが開き、中から出て来たソープランドで働く女の子と素裸の上に一枚印半纏を羽織っただけの(金)多摩霊園の従業員と交替に中に入った。(金)多摩霊園のある階のボタンを押しかかると、女の子が悲鳴を上げ、従業員が、「おっ、すげえ」と声を出して胸に顔を伏せる女の子を抱えるのを見て、イーブはエレベーターが閉まるのを止めた。エレベーターの中から、女の子と従業員の体ごしにその喧嘩は見えた。
女装の大男は相手が倒れようと容赦しなかった。馬乗りになり、髪をわしづかみにして相手を振り廻し、赤いマニキュアの爪で顔を真一文字にひっかき、それでも足らないというように唾を吐いた。従業員は胸に顔うずめた女の子に「おっもしれえ、オカマ同士の喧嘩だぜ」とささやき、焦れたように拳を突き出し、「これでやれ、これで」と声を掛ける。
女装の大男は余裕を持って喧嘩をしているというように従業員をチラリと見て「何、言ってる。男じゃないわよ」と言い、相手の髪をわしづかみにしたまま頬を張る。
「殴りなさいよ」相手は言う。「どうせ警察に言うんだから。ここで皆な目撃してるんだから、証人いるんだから」
「何、言ってやがる。警察が怖くってオカマやってられるかァ。おまえの整形した顔、殴るの、気持ち悪いからだ」
相手は馬乗りにされ、ぐったりしているのに口だけは負けてはいないと誇示するように、「あら、そうかしら?」と言い返す。「あんたの岩みたいな手で殴ったら、鼻、曲がっちゃうからじゃない。あたしゃ、整形手術し直すけど、あんたその金も慰謝料も払わなくちゃならない。皆な見てるし、逃げられない。百年、立ちんぼしても稼げないわねェ」相手は女装の大男を言い負かしたように嵩《かさ》にかかって、「誰かポラロイド、店から持って来て、これ撮っといてェ」と言う。
イーブの前に立った従業員がすかさず、「バカ、ここ、どこだと思うんだ。誰もいねえよ」と言う。イーブが笑うと従業員は振り返り、イーブを自分と同じ職種の若者と見て取ったのか、「なあ、夜だって誰もいないのに朝の六時に、誰がいるってんだよ。ゴーストタウンだぜ。俺ら幽霊」と、オカマは常識はずれでしょうがないと言外に言うように笑いかける。イーブは同調して笑をつくった。
女装の大男が言い負かされた腹いせをするように、両の手で髪をつかみ、「こうしてやる、こうしてやる」と相手を人形のように左右に揺さぶった。相手は抵抗する気力もないのに、「あんたの、赤毛のかつらじゃないんだから」とへらず口をたたく。
従業員がソープの女の子の耳元で、このまま帰るとオカマの喧嘩で何のとばっちりを受けるかもしれないから、(金)多摩霊園に戻り直そうとささやくのを聴いてイーブも、喧嘩を目撃した事で〈白豚〉にどんな難儀が降りかかるかもしれないと気づいて、立ちつくして喧嘩を見ている〈白豚〉を呼んだ。イーブの声に気づいて〈白豚〉が身をすくめ、ガルボではなく厄介を避けたいアジアの中年の女そのものの姿で道を渡りビルに入りかかると、女装の大男に組み伏せられた相手が、「見ててよ、オバサン」と声を掛ける。
〈白豚〉は声を掛けられた事そのものが不快だというように顔をしかめ、エレベーターの中に入ってイーブに擦り寄り、腕に腕を廻し、「おお、気色悪い。早くドア、閉めて」と言う。
イーブはボタンを離した。ドアはすぐ閉まる。
(金)多摩霊園の従業員が、「あいつらああやってネチネチ喧嘩してるんだぜ。バシバシと殴り合ってすぐ決着つけりゃいいのに」と言うと、ソープの女の子が、「そんなの、あんたらじゃない」と従業員の裸の尻に手を当てる。女の子が従業員の尻を指でかく真似をすると、普通、ドジを踏んで羞かしさのあまりに頭をかくが、(金)多摩霊園の従業員は売り物の裸の尻をかくとおどけるつもりか、「ポリ、ポリ」と女の子の指の動きに合わせてつぶやき、「そうか、アキナに俺がシン坊と喧嘩したの、見られていたよなァ」と言う。
(金)多摩霊園は丁度、従業員ら総員でやるショーの最中だった。ソープの女の子に耳うちすると、従業員は印半纏を勢いよく脱ぎ捨てカラオケ用につくられた小さな舞台に駆け上がり、体の筋肉を誇示するマッチョ・ダンスの輪の中に入り、従業員目当てのソープやファッションの女の子らから掛け声を受ける。店中に光の粉をまき散らすミーラーボールが三個天井から廻り、ディスコ音楽にあわせて舞台の奥の壁に墓や卒塔婆の形に豆電球が点いたので、チョン子や新顔のルイの坐っているボックスはすぐ分かった。
チョン子はイーブの顔を見るなり時計を灯りにかざし、音楽が大きすぎるので物を言っても無駄だというように、時計のはまった腕をイーブの方に突き出し、遅いというように顔をしかめる。イーブは弁解するように、後ろに立った〈白豚〉を指差した。
チョン子が坐ったまま〈白豚〉に握手の手を差しのべる。〈白豚〉は、音楽と色とりどりの光の粉と、小さな舞台の上で箱詰めにされ苦しさにもがく裸の奴隷の群のような従業員の踊りに、気圧《けお》されていた。横に坐り、〈白豚〉の膝にぴったりと膝をつけ、イーブが務めは終ったが後のめんどうを見るのもジゴロの役目だというように、「可愛い子、多いだろう」と耳元で言うと、〈白豚〉は「なにィ、これ」とつぶやく。
ショータイムはすぐ終る。音楽もミラーボールも消え、従業員がバラバラと舞台の上から降りそれぞれの指名の席に戻るのをみはからって、また音楽が鳴り出し、ミラーボールが廻りはじめる。
店の奥から、先ほどの従業員が「独りでやるのォ」と半纏を脱ぎながら出て来て舞台に上がる。従業員は踊りはじめ、すぐ照れて「厭だよ、羞かしいよォ」と声をつくると、従業員目当ての客なのか、酔った女の子が立ち上がり、はいていたミニスカートのホックをはずし、「トシちゃん、一緒に裸になって踊ってやろうかァ」と腰を振る。
従業員が「うん、一緒にやってよ」と言い終らないうちに、店の方々から「やめろ、てめえの裸なんか見に来てんじゃねえよ」「ブス、調子に乗るなって」と女の罵声が飛ぶ。
「バカ、パボ。てめえの仕事、一発姦らして幾らだろ。こちとら、そんな連中の顔見るの、へきえきしてるんだ。何でここまで来て、そんな顔見なくちゃいけない」イーブの右隣に坐ったチョン子が身を乗り出し、腹の底から怒ったというようにひと際大きな声で酔った女の子をなじる。
従業員が渋々、一人体をくねらせ、マッチョ・ダンスを始めると、いまさっき罵ったのと同じ声が、「セクシーよ」「トシちゃん、お尻ちっちゃくて可愛い」「あそこも」と飛び交う。
チョン子が耳うちするので、イーブは〈白豚〉に(金)多摩霊園の説明をし、男の子は店から支給される金ではなく指名料やチップをあてにしているのだから、指名してやれと勧めると、〈白豚〉は「じゃあ、あの子」と途方に暮れたように、洋酒を並べた棚に背をもたせかけて立った男の子を指差した。トシちゃんと声の掛かった独りマッチョ・ダンスをやらされた従業員ではないのか? と訊き直すと、〈白豚〉はホストクラブで遊び馴れているように、「どうせ指名料取られたり、チップ払ったりするんだから、人情はなし」と言い、イーブが〈白豚〉の思いがけない言葉に苦笑すると、取りつくろうように「イーブがいるじゃない」と耳元でささやく。「こんなところ初めてよ。朝からこんなに騒いでいるなんて、誰も信じないわね」
「金出したら誰でも買えるぜ」イーブが言うと、「買えるでしょうね」と〈白豚〉はつぶやく。
〈白豚〉のそのつぶやきを耳ざとく聴き止めたチョン子がイーブの膝に手を突き、身を乗り出し、「だからイーブにも、新人のルイにも、女の子らにも、お金がすべてよォと言ってる」と口をはさむ。「お金、お金。お金がみんなひっくり返す。女が男を買えるのもお金。朝なのに夜みたいに騒いでいられるの、ここの経営者、お金になると知ってるからでしょ。お金持ってれば魔法、使えるの。ソープやって股開いたって、一億持っててごらん、厭な事、全部、なくなっちゃう」
チョン子の言葉を聴いて〈白豚〉が不安げな顔になるのを見て「まあな」と相槌を打ちながら、イーブは〈白豚〉にウィンクする。
チョン子の言葉の何に刺戟を受けたのか、〈白豚〉は次々と指差し、集まった三人の従業員が席に坐り名乗って挨拶するなり、札びらを切った。
指名された三人の中にアキラが混っているのを見てチョン子が〈白豚〉に「イーブはあんたの魔法の恋人でしょ」と訊き、〈白豚〉がおずおずとうなずくと、「もう一枚出しなさい」と妙な口調で言って、一万円札を出させ、アキラに「はい」と渡す。呆気に取られているアキラを見つめ、チョン子は急に酔いが廻ったような口調で、「わたしが全部、取りしきっているんだから」と言い出す。「イーブとそこのルイはわたしが持っている。だから本当は、あんたがわたしに払わなくちゃいけない」
イーブはルイに目配せする。ソープの女の子と話していたルイが立ってアキラの脇に来て坐り、チョン子に「お姐さん、酒、作りますか?」と訊く。「お姐さんじゃない、マネージャー」チョン子は聴きとがめる。酒を飲ませろと言うのではないんだとルイに首を振って合図を送ると、ルイは立ってチョン子の脇に坐り、冗談なのか本気なのか「マネージャー、今日も酔ったままでセックスのトレーニングですかァ?」と訊く。チョン子は事もなげに、「そうよォ」とルイを見る。「あんた何も知らないでしょ。今はまだ普通の金のタマで、わたしがトレーニングしてやんないと、この子らみたいにやってるのが精一杯でしょ。磨けば高く売れるのよ」
「高く売れますか?」顔をしかめルイが訊き返すと、チョン子は「当然じゃない」と口をとがらし、ルイを見て、ルイが顔をしかめたままなのに気づき、「その不満だらけの顔がつまんないのよ」とルイの膝をたたく。ルイは痛みに一層顔をしかめ「イーブさんの真似をしてたのに」と言う。
トイレに立ってイーブは鏡に映った顔を見つめ苦笑した。顔をしかめてみても、ルイのような不平だらけの表情にならない。イーブはチョン子の言う金がすべてだという考えに同意出来ないと思っていたし、チョン子が次第に酔って来た事や、それにつきあわされる〈白豚〉の気持ちを案じていた。それにも増して、イーブは眼の前に忽然と現われ、忽然と消えた三人の老婆らを心の奥底で心配していた。金が魔法だというなら、突然記憶の底から這い上がってきたような老婆らはサイボーグのイーブの魔法にさらに魔法をかけ、何が本当なのか、何が嘘なのか、皆目見当つかなくさせる。
トイレのドアを開けると、立って待っていた素裸のアキラがささげ持っていたおしぼりを差し出す。手をぬぐって渡すと、「マネージャー寝ちゃった」と奥のボックスを教える。イーブが奥に行きかかると、「あのオバサン、イーブさん居なくなると、すぐ両脇に呼んで握ったの」とつげ口する。
「いいんだよ、遊びはそうした方が面白いと知ってんだから」イーブが取り合わないと、「ほら、イーブさん、見て、イーブさんがトイレから出て来たと知ったから、二人、脇からどけた」と言う。
イーブはアキラがやけにまといつくと思い、アキラの顔を見直すと、イーブに臆す事なぞ一つもないというように見つめ、「あの時の事、本気だったんですか?」と改まった口調で訊く。
「何がだよ?」
「ケイちゃんと三人の時」、アキラはそう言って後を言い淀んだ。イーブはアキラに難癖をつけられている気になり、「俺がケイを姦ってお前がケイを姦って、俺がおまえのケツに突っ込んだ時の事か?」と訊くと、「僕のケツにイーブさんが突っ込んだ事」とヤケクソのように言う。「ケツ痛かったですよ。しばらく僕、ウンチする度に苦しんだもの。痛くって痛くって、それに血出てたし、二日も店休んじゃった」
「そりゃ、痛いだろうよ、処女だったろうし、唾しかつけなかったし」
「痛かったですよ」
イーブはアキラが難癖をつけると確信し、どう出ようと応じてやると腹をくくり、アキラが立った背後の通路の壁に手を掛け、体で裸のアキラをおおうように身を寄せてアキラの耳に口をつけ、「何して欲しい? 立ったまんまで姦った事あるか?」と女を口説いてでもいるような言い方をする。イーブの顔を見つめるアキラの眼が人に難癖つけるには柔すぎると気づき、眼の奥をさぐるように見つめ直すと、まぶたの奥が盛り上がり、それがみるみるうちに涙の粒になって広がる。
事態の妙な展開にイーブは戸惑い、「おい、おい」と声を出し、難癖をつけるならしっかりつけるか脅すなら脅すとはっきりしろと言おうとすると、アキラは壁に突いたイーブの腕に顔を擦り寄せ、イーブがこんな事だったのかと驚いて口笛を吹くと「本気」と言いかかり言葉が気持ちとうまく合わないと言うようにイーブの腕を噛む。
「分かった、分かった」とアキラの髪を撫ぜ、「あの時は本気で姦りたいと思ったに決まってる」とつけ加えると、アキラは涙のたまった眼で「僕、ホモじゃないですよ。でもイーブさん好きです」と言う。
イーブはまた口笛を吹く。「俺を好きな奴、ホモさ」イーブが言い、悪ぶるようにアキラの手をつかみ、いまさっき小便したばかりの性器に当てさらに握ってみろと指を曲げてやり、「ババアもホモもこれ欲しいと言ってんだぜ」と言う。
アキラはイーブが圧えていた手を離すと素早く手を股間からどけ、イーブがなおからかうというように、ジッパーを下ろし、「ここから手を突っ込んで直《じか》に触ってみるか、それともおまえらみたいに出してやろうか」と訊くと、首を振り、「僕、そんな事言うイーブさん、厭です」と眼を閉じ涙を流す。
イーブが〈白豚〉の脇に戻り、しばらくしてもアキラは席に戻って来なかった。最初、イーブはアキラをからかいすぎたと後悔した。イーブが固い顔をしているのに気づいた二人の男の子が自分らで言い出し、〈白豚〉が所望した性器を使ってのワイパーだとか、カタツムリだとか、(金)多摩霊園の従業員の誰もが習得した形態模写をひととおりやらせ終えても、アキラは席に戻って来なかった。従業員の一人が新案特許だと言って、包茎の性器の皮をむくだけのバナナの形態模写をやり、〈白豚〉が「あら、おいしそうだ事」というのを聴いて、性器や裸を座興の種にする(金)多摩霊園で働きながら、性や性器の話をイーブがして何が悪い、と腹立ち、男の子にアキラを呼びに行かせた。
男の子はすぐ戻って来て、「指名料も要らないし、チップも返すって」と金をテーブルの上に置く。〈白豚〉が「どうしたのォ。何か、あんた、してしまったのォ」とイーブに訊くのでむかっ腹立ち、イーブは黙ったまま席を立ち、入口の脇の従業員の更衣室に行く。
アキラはすでに服を着ていた。ものを言おうとして、アキラに何を言っても通じないし、言えば言うだけ混乱すると思い、そのまま引き返そうとドアを閉めかかると、「僕をドライブに連れてって下さい」と不意に言う。
車なぞ持ってないと答えると、アキラは「ボウリングは?」と訊く。イーブが答えないと「ビリヤードは?」と訊き直す。
「ビリヤードへ行ってどうする?」イーブが訊くと、アキラはイーブが引っかかったというように、「何でもいいけど、普通の生活したら」と言い、突然、優位に立ったように笑う。
「おまえもソープやファッションの女の子相手に裸、見せてないで喫茶店で皿洗いでもしたらどうだよ」イーブが言うとアキラは「今日眼りこんなとこ辞めちゃうよ」と言う。
「狂っちゃうよ。イーブさんは、もう狂ってるけど」
イーブは苦笑する。「(金)多摩霊園で働いてて、よく言うよ」イーブは苦笑しながら、突然、公園で見つけた夏芙蓉を思い出し、啓示のように老婆らは夏芙蓉の周りに棲みついていると思い、自分が思ってもみない邪悪な精神が還流するサイボーグだと気づいたように更衣室の中に入る。
イーブは後ろ手にドアを閉め、鍵を掛ける。
十一
ビーチウエアの上にタオルを腰に巻いて横たわり、イーブはアキラがイヤさんとプールで競泳しているのを見ていた。三往復目にアキラはプールの全長の半分ほどの差をつくり、イヤさんが水の冷たさに震え上がって泳ぐのを止め、プールから上がってもなお泳ぎ続け、五往復してやっと泳ぎ止めてプールの中に立ち、イヤさんに「百メートル泳いだぜ」とぞんざいな口を利く。
イーブは眼を閉じた。サイボーグの視神経を司る回路が壊れ、人工血液か単なる余剰の潤滑油の類か液がまぶたにあふれ出しかかる。イーブはあわてて、うずくまって紙袋を抱え込んだ老婆の姿を思い出し、その老婆らを、公園の中にあった大きな夏芙蓉の元に連れて行く想像をする。
夏芙蓉の根方に来て、「おお、おっきい木じゃねぇ」と声を上げるところまで想像し、音を立てて視神経の回路が切れたように、液があふれ出す。
「どうしたのよォ、涙流してるじゃない」左隣のビーチ・チェアに坐ったピオニールのマスターがイーブの異変に気づいて言う。
イーブは眼を開ける。丁度、イヤさんがアキラを連れてサウナ室に入りかかるところだった。ピオニールのマスターはサウナ室に二人が消えるのを待って「あいつ、厭な奴よォ、イーブとあの子がサウナに来てから、ずっと脅してくるんだから。近寄るな、触るなって」と大声で言い、サウナ室に向かってアカンベーをやり、「どうしたのよ、何があったのよ」とイーブの腕に触る。
イーブは腕を引っ込める。
「何で泣くのよ、大年増のオネエだから、色男が涙を流していたら放っておけないわよ。言って。ねえ、お願い。あの男の子と何かあったの?」
「何にもねえよ」イーブは言う。鼻声だったのに気づき、鼻腔を指でつまみ、そんな事、老婆の誰にもされた記憶がないのに、外で女をウィンク一つで落とし、一発抜いて来たと誇らしげに言う顔の、鼻の頭に指を当てられ、「下の口ばっかし食わすのエラても、男はあかんどォ」とからかわれた事がある気がして、また涙を流す。
「どうしたのォ、イーブー」ピオニールはもらい泣きしはじめる。「泣くな、邪魔なんだから」イーブが言うと、涙を流すのも芸の一つだったというようにぴたりと涙を止め、「あのガキに関係ある?」と訊く。
「知らねえよ」イーブが言うと、アキラの居るサウナ室の方を見て、「あいつ、関係ねェな。イーブに惚れてるだけだもんな」と言い、「なら、女か? イーブが女に振られて、しくしく涙を流すか」と唇を噛む。
丁度その時、サウナ室からアキラが出て来た。アキラは滑る床に足を取られないようにイーブの前に来て、「イヤさんが働きすぎて疲れてるからサウナで汗流してから一眠りしろってよ」と言い、ピオニールのマスターを見て「ヘンタイのオカマと口利いたら、具合悪くなるって」とつけ加える。ピオニールのマスターは不意を衝かれたように「なにをこのガキは」と手を振り上げ立ち上がり、アキラが「なんだよ」と気色ばむと、「どうせ、てめえだってオカマのガキん子だろ」と悪たれをつく。
イーブはアキラを見た。アキラはひるまなかった。
「そうだよ」とアキラは犬が威嚇するような声を出し、「てめえみたいなオカマにつべこべ言われてたまるか」と言いざま、突然、廻し蹴りをピオニールのマスターの顔面に見舞う。ピオニールのマスターは仰むけに倒れ、サッシの窓|硝子《ガラス》に顔を打ちつけた。
物音に人が振り返り、気絶し、頭から血を流すピオニールのマスターを取り囲んだ。騒ぎを知って、サウナ室からイヤさんが汗みずくのまま飛び出して来て、イーブに無言のまま目配せした。イーブがアキラにイヤさんを見ろと言うと、これと同じ様な鉄火場を何度も踏んで来たというように、イーブに向かってウィンクし、先に立ってロッカー室に出る階段を降りはじめる。
サウナの外に出ると、イヤさんは「俺の事務所に行くか?」と訊き、イーブの返答を待たないで先に立って歩き出した。事務所のあるビルに来て、アキラがガムを買いに煙草屋に行った隙に、イヤさんは疑いがすべて晴れたというように、「おまえが悪さをしたのだろう」と訊いた。
「まあな」イーブは答えた。
「知らないぞ。あいつ、今、おまえに命令されりゃ、誰の命《たま》でも取りに走る鉄砲玉になる。俺は何人も手下持ってるから分かるが、おまえ、そんなの、初めてだろ?」イーブはイヤさんのにやにや笑う眼を見てうなずいた。
ガムを買ってアキラは振り返った。アキラはイーブが自分を見ていると知って笑をつくった。
一瞬、そのアキラがイーブという源氏名の性の一角獣ではなく昔大型トレーラーを運転していたもう一人の自分を見ていると思い、イーブは笑を返しながら戸惑う。
イヤさんの事務所で話しているうちに、午後、いつの間にかイーブは長椅子でアキラと二人、もたれ合って眠ってしまった。いつまでも鳴り止まない電話の音で同時に目覚め、受話器を取ると、イヤさんが、いきなり「俺という男がいながらよ、いい格好で眠ってくれてたぜ」とからかう。
イーブが苦笑しアキラを見ると、欠伸《あくび》をし、それから立ち上がってイーブのジャケットのポケットをさぐり、煙草を取り出して一本口に咥え、火を点ける。一服吸い終らないうちに、煙草はイーブの為に点けたのだと指に持たせ、イーブが「どこにいるんだよ?」と訊くと、アキラは話の内容が分かっているというように「ビリヤードじゃないですか」と答える。
電話のイヤさんは「おまえらそこでイチャイチャやってるから、俺もここに来て、イチャついてるのさ」とはぐらかし、イーブが「ビリヤードか?」と訊くと、「ビリヤードでどうイチャつけるんだよ」と嘲笑い、「まァ、待てよ」と言う。受話器が他人の手に渡る音がし、次にあきらかに作った女のよがり声がし、イーブが「どうしたよ」と訊くと、チョン子とはっきり分かる声で「てめえ、よくも人の顔に泥塗ってくれたな、(金)のガキ引っかけて遊び歩いてるらしいじゃないか」と怒鳴る。
「そんな一銭の得にもならないガキと遊ぶのなら、一晩で二人でも三人でも〈黒豚〉こなしなよ。それが厭なら客、全部ルイに廻しちゃうよ。このヤクザさんにも廻しちゃう」
イーブはそれがチョン子の冗談だと分かっているのにムカッ腹が立つ。「本気で言ってるのかよ」イーブは怒鳴る。
アキラがあわてて怒鳴るイーブの脇に来て「どうしたの?」と訊く。その世話女房じみた言い方にいっそう腹立ち、イーブは、「冗談じゃないぜ、俺は玩具じゃない」と怒鳴り、チョン子が「なに、あんた、またあのターみたいに、反抗する」と興奮して訛のある日本語を使いはじめるのを耳にして受話器をたたきつけ、電話を切った。
「俺はジゴロなんか辞めるぞ」イーブは言う。「人の股の間にもぐり込んでよ、汚い皺だらけのオッパイ吸わされてよ、日本中で一番羞かしい仕事だぜ。まだ(金)多摩霊園のおまえらの方がましさ。見せりゃいいんだろ。子供がいじくるみたいに客の前で自分の物いじくってりゃいいんだろ。俺は逆だよ、いじくらなくちゃいけない。奉仕しなくちゃいけない」イーブが言うとアキラは初めて打ちあけるというように「僕らもそうですよ」と言う。
「イーブさんやルイさんなんかの本物と違うけど、僕らも売るんですよ。だってお客さん、指名料五千円払うけど、僕ら千円しかもらえないでしょ、チップだって、くれるかどうか分かんないし。だから、皆客とひそひそ声ですぐ交渉するんですよ」
「いいじゃないか、好きな子に交渉できるんだから」イーブが言うと「好きな子?」と頓狂な声をアキラは出す。
「あそこに来る客ってどんなのか知っていますか? イーブさんやルイさんは特別中の特別ですよ。僕だけイーブさんにこの間と昨日と二回ひどい事されたけど、イーブさん優しいし、席に行ったらチップくれるし、評判いいですよ。格好いいし。他はホモの変態オジサンでしょ。後は、一日に十本か二十本、手でしごいたり、口でいかせたり、パックンやられて、うさばらしにやって来たソープとかファッションの女の子。あそこで騒ぐのはいいけど、交渉しはじめたら、男の事、知りつくしてるし、男に腹立ってるから、こっちの勃たせて握って、太すぎると、くたびれてんのヨネーと言うし、小さい奴のだったら、使いすぎて広がってるからもの足りない、と言うし、丁度、いい、ぴったしと決まっても、あたし、何もしないわよ、あんた全部するのよ、って言って、あそこ舐められるか、お尻も舐められるかって訊く」
「幾らもらうんだ?」イーブは訊く。
アキラは「だいたい皆金持ってるから気前いいけど」と言い、イーブの顔を見ながら、「五万とか十万とか、ポンとくれる子がいるけど」と言う。
「上等じゃないか」イーブはつぶやく。腹立つ気持ちをアキラの言葉ではぐらかされたように萎えたまま、「チョン子が言ってたけど」とイーブは言う。「ソープやファッションの子、(金)多摩霊園に集まるのさみしいからだってよ。金目当てじゃなくって、優しい言葉掛けてやれば一発で引っ掛かるって」
「引っ掛けてる奴、いるけど」アキラは言う。「でも、ソープとかファッションの女の子、彼女にしてるって人に知れたら、羞かしい気しない?」
イーブは苦笑し、言葉に出さず、おまえ(金)多摩霊園で裸になっているんだぞと独りごちる。
事務所のドアが開き、チョン子が顔を見せたと思った途端、チョン子はアキラのそばに寄り、いきなり顔を平手で思いっきりはたき、「あんた、わたしの商売物、どうする気?」と怒鳴って詰めよる。アキラが答を返す暇も与えず、チョン子は二度、三度、同じ箇所を「どうする気」とはたき、イーブが止めに入ると、「わたしと本当に別れるか?」と手を上げる。
「言え、本当に言え」チョン子はイーブに噛みつく勢いで言い、さらに昂ぶったように、「こんなオカマのイモに引っ掛けられて何してる?」と怒鳴り、片手を上げ、片手を差し出してイヤさんに向かって「ヤクザ。ほらほら」と手に持った自分のハンドバッグを渡せと言う。
「俺の恋男だぜ、本当に使うのかよ」
「使うに決まってる。わたし、嘘、言った事ない。その為に、百万も出して組長から買ったよ」チョン子はのろのろしたイヤさんに癇癪を起こしたように、「ええい、|この野郎《イセキヤ》」と怒鳴り、手をのばしてハンドバッグをひったくる。ふたを開け、中に手を突っ込み、素早く小さな拳銃を取り出し「偽物と思うか?」とイーブの顔面に突きつける。
イーブがまばたきもしないでチョン子を見つめると、サイボーグのイーブの眼から人間の感情を読み取ったように、「偽物と思うか?」とまた訊き、不意に銃口をアキラの足元に向けて撃つ。
音と共にアキラが声を上げた。
十二
イーブが音に驚き、アキラの悲鳴に驚いて目をやると、床に脚を抱えて倒れたアキラは呻き声を上げてもだえていた。手のひらで押えた太腿から血が流れ出し、アキラの体がもだえる度に床に絵のように広がった。
「動くな」
チョン子は激したままイーブとイヤさんに向かって言い、なおアキラに向かって拳銃を向け「撃ち殺すか?」と言う。
イヤさんが事態の思ってもみない展開に呆気に取られたように、「何やるんだ、このアマ」とすごみ、チョン子が拳銃をイヤさんに向ける間も与えず、身を翻しチョン子の腕をねじあげる。
チョン子は意味の通じない言葉で怒鳴った。チョン子の腕から拳銃が床に落ち、イヤさんはそれを足で壁にくっつけて置いた事務机の下に蹴り込んでから、腕を振りほどこうと身をよじり怒鳴り続けるチョン子を突き放つ。
「この気違いアマ、連れて行け」イヤさんはイーブに言う。床に転がって呻くアキラを放って置けないと言おうとすると、「俺がやる。全部、俺がやる」と、わめき続けるチョン子を抱えたイーブの肩を押し、「このアマ、冗談やら本気やら、全然分かんないやつだぜ」と言い、何度も鉄火場に遭遇したからこんな事も馴れているというように音を立てて自分のベルトを抜き、「死にやしないよ」とアキラのそばに屈み込む。
ベルトを太腿に巻き止血をするイヤさんの背中を見て、イーブは不意にデザイナーの山荘でイヤさんを姦《や》ったのを思い出す。サイボーグの感情の回路が壊れ、消えていたはずの記憶が甦るのにイーブは戸惑い、呆けたように立ったままでいる。
「早くトンズラしろ」イヤさんが怒鳴る。
イーブはチョン子の背中を抱えたまましゃがんだイヤさんの背中の筋肉がシャツごしに動くのをぼんやりと見て、今まではしかと気づかなかったが、自分がチョン子とイヤさんとアキラの真中にいるのを感じ、金縛りに遭ったようにこの場から一歩も動けないと立ちつくしたのだった。
アキラの止血を終えたイヤさんが立ち上がり、まだ小声で意味の通じない言葉をつぶやいているチョン子に、「ここまでバカだと思わなかったぜ。刑務所に行くか?」と鋭い眼でにらみ、事務机に腰をかけ手をのばして電話の受話器を取り番号を廻してから振り返り、イーブに向かって「まァ、まかしとけって。こんな事、俺らの専門だっての」と、元の遊び好きのヤクザに戻ったというようにウィンクする。
イヤさんが手配した車でイヤさんの顔の利く組がよく使う病院にアキラを運び、流れた血と悲鳴から想像出来ないような短い手術を済ませ、病院にもホテルにも置いておけないというのでその足ですぐアキラをチョン子のマンションに運び込む事にした。
左脚に包帯をしぐったりと力の抜けた体のアキラをイヤさんとイーブが両脇から抱えてエレベーターを降りると、部屋の前に立ってチョン子はハンドバッグを開けかかり、中から音楽が聴こえるのに気づいてチャイムを忙しく鳴らした。しばらくして中からドアが開けられ、ボーダーのシャツを着たルイが顔を出した途端、事件が突発したのに一人音楽を聴いてくつろいでいた罰だというように「あんた、今日からここ出て行く」とチョン子は歯をむき出して怒鳴り、勢いよくドアをいっぱいに広げて振り返り、「さあ、中に入る」と言う。
「今日からここを出てくって、それはないですよー」ルイが事態を呑み込めず甘えた口調で言い、チョン子にまといつくように手のハンドバッグを受け取ろうとすると、チョン子はルイの手を払い、ハンドバッグをソファに放り、ハイヒールを片方ずつ足を上げて脱ぎ、脇にそろえ、「自分の胸に手を当てて考えてみなさいよ、あんた、ここで何した」と言い、玄関を上がりかかるイーブに「この子、何もかも隠す。ヘアピン隠したし、マックスファクターの口紅も隠すし、それに外人登録証も隠す」といままで我慢したルイの悪戯にそもそもの原因があるように言い、奥のルイが使っている部屋に入る。「ひどいですよー」ルイがチョン子の後に従《つ》いた。
ソファにアキラを寝かせかかると、ふくれっ面のルイが奥の部屋から戻って来て、「あのベッドで寝ろってよ」とアキラに言う。痛みどめのモルヒネを射たれているアキラはルイに言葉を返そうとして気力がわかないというように「ああ」とだけ答え、そのアキラに不満をぶつけるようにルイが、「あのベッドは順番なんだって。最初、イーブさんが使ってた。その次、僕。そのまた次がそっちだよ」と言ってヘッと舌を出し、イーブに今度は不満をぶつけるように、「ベッドの引き出しに入れていたコンドームなんか一つしか使ってませんからね」と言う。ルイはイヤさんに顔を向ける。
「数かぞえたら十ケースもあるの。クネクネ動くバイブレーターも入ってるし、使ったやつのも入ってるし」
ルイの不満を煽るように「ほう」とイヤさんが声を出す。アキラを立たせながらイーブは「俺のじゃねえよ」と苦笑する。
アキラをベッドに寝かせ、荷物は後で取りに来るとルイが外に出たのを潮に、まるでチョン子の性のトレーニングを受ける新しいジゴロの卵が転がり込んだのを祝うようにチョン子がビールの栓をぬいたのでイーブはソファに坐った。ビールを飲みかけてすぐにイヤさんが祝杯を上げているのではないと気づいたように、事務所に電話を入れ、あれこれと様子をさぐった。
「そうか」と言って電話を切り、イヤさんは「これで当人が言わない限り、何にも起こらなかったのさ。マグロの処理と一緒。マグロ。うちの連中、手なれたもんだ」と、通行人の通報で警察が来ていた事、組の者があたり一帯にいる者らに口封じをしたので事務所で拳銃の発砲があったという事実は顕らかになっていない、と言い、ふと何事か思いついたように笑い、「マグロまで処理したんだからな」とソフアに坐る。
「なんだよ?」とイーブが訊くと、イヤさんはニヤニヤ笑い、首をベッドのある部屋の方に振って「マグロはいいけどよ。後は俺たちに、おまえらがどう落し前つけるかってことだな」とイーブの肩に手を掛ける。イヤさんの掌が意味ありげに〈黒豚〉のようにイーブの肩の筋肉を撫ぜ、指が筋肉の形をなぞる。
「またあの別荘みたいにやろうって」指の力にそそのかされ、イーブがからかうつもりで営業用の、力を抜き焦点を欠いた誘うような視線を投げると、逃げるようにチョン子に眼を遣り、「そうでもいいけどよ、だけど、まず金の話からだな」と言い、グラスのビールを一息で飲み干して音を立ててテーブルに置く。「こう見えたって、俺んとこもあそこで商売している」
「幾ら要る?」チョン子は単刀直入に訊いた。
イヤさんはチョン子の物の言い方から心の動揺を見抜き、ヤクザというものは簡単に喰いついたものは離さないというようにイーブの肩から手を離し手を振り、またイーブの肩に手を置いて、「何にしろ二人のとばっちりを受けちまったんだから。金と言えば金だけど、金じゃないと言うならそうも言えるさ」と言いまた何事かを思いついたようにニヤニヤ笑い、「イーブ、こりゃ、惚れた男のヤキモチだぜ」と言う。
「四角関係ってわけか?」イーブが訊くと、「四角か」とつぶやき、ことさらチョン子の動揺を煽るように肩に置いた手の指を折って「俺だろ、この女だろ、あのガキだろ」と言い、イーブに「何人のババアや変態ジイさんを客に持ってるって?」と訊く。
「もう止めたさ」イーブは言う。
チョン子はイーブを見つめた。その眼が何を言っているのか分からないままイーブは、イヤさんに、大型トレーラーを買う為に始めたジゴロの生活だから、金が充分に貯まった今、ジゴロをやり、〈白豚〉や〈黒豚〉の性の玩具になる必要はもうないと説明した。
そうかとうなずくと思っていたのにイヤさんは「もったいないだろうが」と言い出す。「どうしてだよ」と訊き返すと、イーブの肩の筋肉を触っていたのは話を切り出すのに間をもたせる為だったというように手を離し、坐り直し、「イーブとこの女と二人、これを機会にうちの事務所に来てもらおうと思ってる。いままでどおりやってくれればいい。ソープの子もファッションの子も一緒に来てくれりゃいい」と言う。
チョン子に「事務所の方、いろいろなだめるのに、俺がそう言っちまった」と言ってテーブルに両手をつき、「悪い、このとおりだ」と頭を下げ、またイーブの肩に手を掛け、イーブを口説くように耳元に口を寄せ、「さっき電話したら、組の連中、事務所を血だらけにしやがって迷惑かけやがって、そのくらいじゃ甘いっていきりたってやがってよォ」とささやく。「それにマグロの処理だろ。こりゃかかるぜ」
チョン子はイヤさんに揺さぶられ、一層混乱した。イヤさんがビールを一本飲み終え、何を話すのか事務所に電話をまた入れてから、返事は今でなくともよいと言い置いてチョン子のマンションから帰った後、普段なら仕事があるからと昼間や夕方の酒はひかえるのに、自分で立って戸棚を開けてヘネシーを取り出し、生のままあおる。二杯まであおり、そこにイーブが居たのに気づいたように「イーブ、今日は仕事休みにして」と〈白豚〉のような口調で言い、立って冷蔵庫を開ける。中をのぞいて「また、あの子」とつぶやき、冷蔵庫の中から、インスタント焼そばの箱を三個取り出す。まだ封を切っていないそれを流しの棚に置き、「どういう生活していたのかね、まったく。バングラデッシュの子でも焼そばを冷蔵庫で冷やしゃしないのに」と言って、製氷器から金《かね》のボールに水を移し持って来る。ブランデーグラスに氷を入れ、それにヘネシーをそそぎ、チョン子はイーブに何のつもりか乾杯しようと言う。乾杯し、ヘネシーを飲み、そのアルコールの色と同じ色の夕陽が入り込む西向きの部屋から痛みどめのモルヒネの甘い作用で眠っていたアキラが眼をさまして「イーブ」と呼ぶ。
チョン子は小声で呼んだ一声から耳に止め、イーブにべッドで眠っていたアキラが起きたと首を振った。イーブは声に素知らぬ振りをした。
「イーブ」アキラはまた呼んだ。声が震えているのを聴きとめ、イーブは一瞬、発熱した夜半、目覚め、そうやって人を呼んだのを思い出したが、振り向かなかった。
夕陽はますますグラスの中のアルコールと似て来ると思い、夕陽を飲むようにヘネシーを口に含むと、チョン子が脚に傷を負っているアキラの声に耐え切れなくなったように立って部屋の中に入り、「イーブに来て欲しいって」とすぐ出て来る。
ブランデーグラスを置き渋々部屋の中に入ると、アキラは寝かした時の姿のまま両手を上げ、起こして欲しいと言う。どうしたと訊くとアキラは傷を受けた者の特権だというように得意げに、小便をしたいと言う。
「しょうがねえな」とアキラの両手を持つと、アキラはイヤさんがしたように耳元に口を寄せ小声で、「僕にイーブさんが非道い事をした罰だよ」と笑い、「(金)多摩霊園で働いていたから、チンポコ握られても平気。仕事がこんなとこで役に立つ」と軽口をたたく。
便所で小便させて水を流し、外に出ると、チョン子が首をうなだれ、床に坐り込んでいる。イーブに肩を支えられ、片脚で歩き、アキラはチョン子の前に来て「怒ってないよ」と言い、チョン子が顔を上げないのを見て、ソファに坐らせろとイーブに言う。イーブはベッドに寝ていろと命じた。
「そんなに考える事ないのに」アキラは言い、片脚で跳びながら部屋に戻る。ベッドに仰むけに寝かせるとアキラは、「怪我治ってももう(金)多摩霊園で働けないよ。傷残っちゃうし」と言い出す。「ピストルの傷跡だろ。女にもてるかもな」イーブが言うと、「傷なんかでもてないよォ」と声をつくり足の包帯を触る。
「(金)多摩霊園の奴、最初、店長に裸にされてテストされたんだから。尻にオデキが出来てたら、採用してくんない。前の方はちっちゃくてもいいって。皮かむっててもいい。でも、皮むけなくちゃあ、アウト。バナナだって出来ない、カタツムリだって出来ない。ジュンってやつ知ってる。店で結構指名つくの。あいつ皮かむってるの。むくと痛いって、だからバナナなんかやらされたら、涙浮かべてやがんの。あいつの得意なのはワイパー。ワイパーやってて、あいつ、勃つと長いから、うんとひっぱって、そのうち、勃って来て、YSの金沢行きだってやるんだけど」アキラはくすりと笑う。「あいつ僕と一緒に店長にテスト受けたけど、むけって命令されて呻きながらむいたら、臭くって。店長も僕も他の奴も皆な逃げ出した。毎日、洗うという条件でやっとテスト合格」
イーブが笑い、アキラがなお皮かむりのジュンの話をしかかると、「何、パカな事しゃべってる」とチョン子の声が聴こえる。チョン子は夕陽の色がアルコールより濃くなったのに耐えられないというように、酔った声でイーブを呼ぶ。
そのチョン子の声を遮るようにアキラが「イーブさん、不安だからここに居て」と言う。「何か怖い。ずっとヘンな夢見ていたし。夢の中で、マグロ、マグロって言うんだ」
「マグロか。何が怖い」イーブが鼻で吹き、アルコールより濃い夕陽しか明りのない、入口の部屋の床に坐り込んだチョン子の呼ぶ声に答えて、部屋を出ようとすると、「イーブさん、僕、いまごろ死んでたかもしれないんだよ」と言い出す。
「あの人、僕を気まぐれに、殺していたかもしれないよ。犬を撃ち殺すみたいに。僕、イーブさんと一緒にいただけなのに。僕がイーブさんを盗ったと思っている。あの人、僕なんか平気で撃ち殺す。マグロっていうの、死体の事でしょう?」
チョン子はマンションの中じゅうに漂う、もうアルコールの色とも判別のつかないような暗いもやのようなものの中から、昏い森の中で手探りで離れた者を捜すような声を出してイーブを呼ぶ。
イーブはその声の方に歩く。「そばに居て欲しい。行くなら部屋の電気をつけてよ」涙を流しているのか鼻にかかった哀願するアキラの声を耳にしながら、自分の名を呼ぶチョン子の声が、人の救けをどうしても必要とする者が発したように思え、イーブは足音を耳にしながら部屋を出、そこが暗いもやのようなものどころか闇とすら呼べない、人の心の底にある孤独の海のように見えるソファを置いた床を歩き、黒い影だけになったチョン子の背後にたたずむ。チョン子はテーブルに顔をうなだれたまま「イーブ?」と訊く。
「ああ」とイーブが答えると、「抱いてよォ」とダダをこねる口調で言う。背後に立ったままただ自分の息が、孤独の海で苦しくてたまらずあえぐように響くのを耳にしながら、イーブは無言でいる。
「イーブ、愛してよォ」チョン子は〈白豚〉とはまるで違う発音でアイと言う。チョン子のいうアイも〈白豚〉や〈黒豚〉の撒《ま》き散らす愛と同じように、裸と裸をこすりつけ、熱と熱をぶつけ合うものかと訊くように、イーブはチョン子の後ろでひざをゆっくり折ってしゃがみ、手を肩に掛ける。
「愛してよォ、分かってよォ」チョン子は涙声になる。「イーブを好きだからしてしまったんだから。イーブ、あいつの言うとおりしたら、わたし、今の組織から殺される」
イーブは坐っているチョン子の脇腹に両手を当て、黙ったまま立てと促した。チョン子はよろけながら立ち上がり、拳銃をアキラに向かって発射してから動揺と混乱の極みに達したように、「出来っこないの分かっているのに」と言い、顔をイーブの胸にこすりつけ、涙を流す。
「あいつ、脅してるだけさ」イーブは言う。
「じゃあ、何で脅すのよ。金欲しいなら言えばいいじゃない」チョン子はそう言い、ふと思いついたというように「あいつ、どうして出来ない事をもちかけて来るのよ? 何でよ? イーブに惚れてるから?」と言い出す。「わたしが逆上してピストル撃ったから、それを種に、わたしからイーブを横取りしようと言うの」
イーブは黙ったまま首を振る。イーブの心の中で、イヤさんはジゴロやソープの女の子らに采配を振るチョン子をいたぶりたいだけなのだと言葉が這い上がる。チョン子は闇の中でイーブの顔を見ようとする。「イーブ、あんた、何?」チョン子は不意に訛のある言葉で訊く。
イーブは鼻白む。心の中で、たとえまっ暗闇の中でさえ、指先についたセンサーのおかげで指一本でホックをはずし、衣服を脱がせ正確に〈白豚〉や〈黒豚〉の性の快楽の中心に滑り入るサイボーグの一角獣だと自嘲が湧き、自分が悪の権化のような、人間の心を忘れたイーブという源氏名のジゴロだと悪ぶるように、「忘れちまいな、皆な俺にまかせればカタがつくから」と言う。
イーブは背中に左手を廻し、胸に当てた右手の指でチョン子のブラウスのボタンをはずす。ブラウスが緩むと左手を中に差し入れ指一本でブラジャーのホックをはずし、ずり落ちるのを右手で支え「おまえがバカな事、考えるの、あんなルイのような奴、拾って来てママゴトのような事してたからだぜ」と言い、「イーブ」と声を上げるチョン子の唇に唇を重ねる。
唇を離した途端、チョン子はまた「イーブ、あんた、何?」と言った。その言い方にイーブは最前と同じように鼻白み、「人間じゃない、サイボーグさ」と言って急にサイボーグの回路が壊れたように怒りがこみ上げる。
イーブは乱暴にチョン子のブラジャーを取った。次にブラウスを脱がせ、チョン子がスカートを自分からはずし出したのを知り、〈白豚〉や〈黒豚〉がイーブを性の玩具にして扱うのはそもそもチョン子がイーブを性の玩具にしているからだと気づき、一層腹立ち、心を持たないサイボーグも入力が狂えば、邪悪そのものの凶器になると教えてやろうと、いきなり頬を張り、「誰が脱げと言った」と怒鳴り、スカートを腰にまとわりつかせたまま、隣のアキラの寝ているベッドのある部屋に腕を引いて行く。チョン子はよろけ、部屋の入口に体をうちつける。
イーブはチョン子の髪をつかみ、「来い」と怒鳴る。
「おまえは誰をも人間と思ってないんだろうが。何でも金がありゃ、自由になると思ってるだろうが。俺を金で方々に売って、その俺に愛してくれだと。愛してやるよ」
「愛して欲しい」チョン子は言う。
「愛して欲しいと言いながら、ピストルで俺を撃とうとするのか。俺を撃つと、死んじまうので、他の奴を狙ったのか?」
チョン子はイーブが髪を引くと逆らう事なく、まるで人形のようにイーブの体に擦り寄る。「イーブ、愛して欲しい」チョン子は震え声で言う。チョン子は髪をわしづかみにされたまま、イーブの腰に腕を巻きつけ、イーブの体の中にたぎる怒りがまるでいままで誰一人持った事のない新しい愛というものだというように、イーブの名を呼ぶ。
アキラが闇の中で身を起こしてイーブを注視しているのが分かった。闇の中でチョン子に名前を呼ばれアキラに注視され、イーブはチョン子に放った言葉の全て、腹立ちの全てが、実のところイーブがイーブ自身に放つ言葉であり、腹立ちなのに気づく。
「愛してよ、イーブ」とチョン子は髪をつかんだイーブの手から力が抜けるのに苛立つように言い、床に坐って足元にまとわりついていたスカートを取り、パンティを取り、「坐って」と手でイーブの足を引く。イーブはチョン子の言うまま、床に坐った。
「イーブは誰を愛しているの? 誰を好き?」チョン子は訊く。
イーブは答えようと言葉をさがす。だが言葉はない。イーブは闇の中で言葉を待ち受けるチョン子の顔に手をのばし、盲目で聾唖の人間が唇の動きで意味をさぐろうとするように唇に触れ「誰を好き?」と訊くチョン子の言葉を反復してみる。イーブには愛も好きも、自分と無縁のもののような気がする。
「イーブ、答えて。誰を愛してるの?」チョン子は訊く。
チョン子になお答えようとして、イーブはガードでうずくまっている老婆らを思い出すが、それがチョン子の言う愛とはほど遠いものに思えて、口をつぐむ。言葉を吐く代わりのようにイーブはチョン子の裸の体を引き寄せ、唇に唇を重ねた。
チョン子がベルトに手をのばし、ジッパーを下ろすのを知って上着を脱ぎシャツをはだけ、昔、ジゴロをはじめたばかりの頃、ソープランドで働いて溜まった不満をぶちまけるようなチョン子を相手に性の手練手管を学んだ時のように、チョン子に絡みつかれる。最初、チョン子は両膝を折って半坐りのイーブにまたがり、両脚を尻に絡めてイーブを導き、次にイーブの動きがとり易いように仰むけに身をそらせる。イーブが動く度にチョン子は声を立てる。
その声に合わせるように闇の中でアキラのすすり泣く声が部屋に広がった。
十三
イヤさんはイーブの顔を見るなり、「まァ、あいつにああ言ったけど、事務所あてに百万でもつつめば、皆の気が晴れるさ」と言い、イーブが「もっと取ってもいいんだぜ」と煽ると、「おまえはワルだよ」と言う。
イーブは笑いもせずイヤさんの顔を見つめ「ワルさ」と言い、イヤさんに耳を貸せと言い、「チョン子の代わりに俺のマネージャーやってみないか?」と言ってみる。
「俺がおまえのジゴロのマネージャーかよ? 女や男、おまえのでっかい奴の餌食にする手配するのかよ?」
イーブはイヤさんの頓狂な声に苦笑し、「何を考えている」と頭を小突き、周りの客が裸の大の男二人乳くりあっていると視ているから、と言って、サウナ室の外に出ようと合図する。
「乳くりあってるって視ると言っても実際乳くりあってるだろうが」と妙な言い方をし、先にサウナ室を出てくれと言う。
「もうちょっと汗かいて酒抜いてないとな」イヤさんは言い、イーブが冗談を言い出したというように取りあわない。「おまえ、俺の昼間の姿しか見てねえからブラブラしてるいい商売だと思うだろうけど、俺なんか上と下の挟みうちの位置だろ、夜中、あっちこっち駆けずり廻ってる」
「俺が言うのはその駆けずり廻る仕事さ」イーブの言葉にイヤさんは何事か思い当たったように険しい目つきをし、「そうか」とイーブの汗だらけの背を一つたたき、話を聴くから、外に出ろと合図する。
イヤさんはサウナ室の外に出た途端、「駆けずり廻る仕事って言ったな? 集金か?」と訊く。
イーブはイヤさんに口を利くなと合図し、先に立って冷水シャワーを浴び、汗とほてりを落としてからガウンを着て、一階上の休憩ラウンジに上った。
従業員にビールを頼んで「待っててくれ」とイヤさんに言い、ふと奥を見ると頭に包帯をしたピオニールのマスターが籐椅子に坐り、テレビを見ている。
「イヤさん、あれ」と教えると、イヤさんは「頭に包帯をしてまでサウナに男の裸、見に来ているのか」と感じ入るという顔をつくり、「呼ぶか?」と訊く。
イーブは「後、あと」と答え、一階下の階段を駆け降りる。ロッカーを開け、黒の手帳を自分のポケットから取り、イーブが駆けて休憩ラウンジに戻ると、丁度、所在なくテレビを見ていたピオニールのマスターが周りに目を遣った時だった。ピオニールのマスターはイーブを見つけ、笑をつくり、次に素知らぬ顔を決め込んだイヤさんを見つけわざとらしく驚いた顔をつくり、唇を噛み、科《しな》をつくりながら、籐椅子から立ち、歩いて来る。
イーブはロッカーから出した手帳をガウンのポケットの中にあわてて突っ込んだ。その仕種を一部始終見ていたとピオニールのマスターが「何なのよ? 何、あわててポッケに隠したのよ」とはるか遠くから声を掛け、「どうせ二人つるんでるんだからろくな事じゃないでしょうけど」と言い、丁度、従業員がビールを運んで来るのを見て、「あと一杯、このお兄さんの札番号でちょうだい」と勝手にビールを追加する。
椅子に坐るなり、イーブとイヤさんのはだけたガウンの胸を見て、「今度、ちょっと触ったぐらいで殴ったりするなら、寝てる時、短刀でグサリと刺してやるから」と言い、イーブとイヤさんがあわててガウンの前をかき合わせると、「もちろん、二人を刺して、わたしも美しく大和撫子の大年増として喉を突いて死ぬわ」と言う。
見てよ、とピオニールのマスターは包帯の頭をかがめて見せる。「あのガキんこに蹴り飛ばされて三針も縫ったんだから。よっぽど包帯の代わりにコンドームでも被って、ほらイーブがつくったの、あのヤー公が私の頭にこんないやらしい割れ目をつくったの、と厭味言いに来ようかと思ったわよ」
イヤさんは苛立って貧乏ゆすりをする。「ヤー公じゃねえだろ。それに、ケガした日くらい男の裸、見に来るの、休んだらどうなんだ」
ピオニールのマスターはビールを運んで来た従業員に「お互い様よねー」と相槌を求める。「酒を抜くんだって言って、イーブが来ないか来ないかってキョロキョロしてるくせに」
「よくそんな包帯頭で入れたな」イーブが言うと、ピオニールのマスターはビールを唇を濡らす程度に飲み、ジョッキをテーブルに置き、「あんたの何倍もここは古いんだ、バカにしないでよ」と言う。「入口でいいんですか? って訊くから、いいに決まってるって答えたら、どうぞって言ったわ。皆わたしがサウナ嫌いなの百も承知よ」
そのピオニールのマスターに「あら、しばらく」と声を掛ける男がいた。
「あらァ、シルクのママ」ピオニールのマスターが声を張り上げると男は、「おだまりッ、あんたと同じマスターよ」と言う。
「皆来てるわよ。エノちゃんでしょ、ムネでしょ、テキでしょ、後、ぶつぶつ反対意見唱えてるのヤマちゃんでしょ。センセは出張で来れなかったけど、だいたいいっつものメンバーが来てる。開店記念のパーティーの福引」
「あら、サウナが当たるの。ゴーカねェ」
「ゴーカでしょー」シルクのママと呼ばれた男はイーブに話しかける。
イーブは苦笑し、席を替わるか、外に出ようとイヤさんに合図し、立ち上がる。そのイーブにシルクのママが、「(金)の子が客に殺されたっての知ってる?」と訊く。イーブはイヤさんの顔を見る。
「誰言ってた?」イヤさんが訊き直すと、ヤクザから声を掛けられたとすくみ上がったように「誰って言ったって、今朝から皆な噂してる」と言い、シルクのママは同業のピオニールのマスターなら強張《こわば》る事なく話せるというように「朝のうちから何本も電話掛かって来たわよ、(金)におまわりが来て、従業員も客も調べられたんだって。もう営業停止なんだってという噂」と言う。
外へ出るなり、イヤさんは「はっきり言って何だよ?」とイーブに訊く。イーブが答えずにいると、「あいつらの言っていた事か?」と訊く、うなずくと、「あいつら噂だけで生きてるようなもんだから」と言う。
「噂は早いよな。どうせ嘘か本当か分からん世界に生きているから、針の先の事でも大事《おおごと》になるって。アキラってガキの事じゃないだろうよ。事務所のあたりの連中、誰もアキラが(金)多摩霊園で働いてるって知らないしな、あの女がピストル撃ったってのも口封じしてある。マグロのやり方と一緒だからな。だからもし外にもれるなら、俺、おまえ、あの女、あのガキの四人だろう、その四人の一人が外にもらしたらバレちまうが」
イーブはイヤさんの話を聴いてアキラが警察に密告電話を掛ける姿を想像する。チョン子が声を上げる度にすすり泣いたアキラは、イーブとチョン子の寝入った隙か、留守を狙って電話機まで傷を受けて痛む左脚をかばいながら這って受話器を取り、警察に(金)多摩霊園の実情を訴える。
裸で客にサーヴィスし体を売っていたあげく、店の中で従業員が撃ち殺される事件が起こった。アキラはチョン子に弾みで犬のように撃ち殺され、死体すらヤクザの手によって隠される自分の姿を想像し、「(金)多摩霊園の男の子だからってあんまりですよ。同じ人間なのに」と涙を流し、警察にしっかり捜査してくれと頼む。
イーブは歩きながらポケットの中から、チョン子の手帳を取り出して渡した。立ち止まり中を開いて頁をめくり、声を上げて名前と住所を読み、職業を読むイヤさんに「住所録だよ」と言った。「幾つも印あるだろう。それは俺も分かんないな。チョン子の考えた暗号だからな」
「これで駆け廻ってみろってかい?」イヤさんが訊くのでイーブはああと答える。
「一行一千万。いや二千万ずつかなァ」イーブはイヤさんの肩に手を置き、「いい金づるだろうが。男前でよ、サイボーグのように体、鍛えて、たたけば埃の出る奴、いっぱい知ってて」と耳元でささやく。
「いいのかよ、イーブ」イヤさんは訊く。
イーブはイヤさんを見つめ、うなずく。そのうなずくイーブを見てから、またイヤさんは手帳をパラパラとめくり、「上等な御方ばっかりだ」とつぶやき、手帳を閉じて、考え込むように表紙を見てから顔を上げ、「イーブ、こりゃ、駄目だな」と手帳をイーブの目の前に突き出す。
「どうした? 一行二千万どころか、暗号解いてうまくすりゃ、億って金だって取れるぜ」
「やるんだったら自分でやれって」
「だから二人で一緒に組もうと言ってる」イーブはじれて声を荒らげる。「俺は世間で一番賤しい商売をし続けたんだぜ。こいつら上等の客かもしれんけど、こっちは一番賤しい。オマンコだって男のナニだって尻の穴だって、小便と糞の出るところだろうが。それ相手に商売してる」
「そんなら余計、俺は出来ん」
イーブは唇を噛む。
十四
イーブは唇を噛んだままイヤさんを視た。イヤさんの顔に笑がゆっくり浮かぶのを見て、笑の速度と同じように訳の分からない腹立ちがこみあげ、「分かったよ」と言った。そのサイボーグの喉から出た声が、真底から賤しい商売に恥じて、その恥の屈辱を晴らしたい怨念に染っているというように重く昏く響くのに気づき、笑を浮かべたイヤさんの口から慰めの言葉を聴くより早く、「まあ、遊びだからな。ちょっとはつきあえよな」と言ってみる。「俺もこの商売、楽しんでるしよ。二人でまた乳くるようなもんさ。本当に考えりゃ賤しい商売だけど、考えようだよな。体売ってるんじゃなくって、体触らせてやって御布施をもらってる」
笑を浮かべていたイヤさんはイーブの物言いに戸惑い顔をつくり、「まあな」とつぶやいてから、また笑を浮かべ、「おまえよ」と笑をこらえながらイーブの肩に手を掛ける。「そのあたりのソープの女の子らがよく言う科白《せりふ》だぜ」イヤさんは俄然、優位に立ったように口を利く。
「女の子、連れて来る連中がそう言ったんだろうけどな。彼女がいりゃ、ソープなんかに来ねえの。持てれば、わざわざ来ないの。不幸でさみしくってどうしようもないから、金持ってやってくんのって、おまえの彼女もソープやファッションの子に言いきかせているだろうが」
イーブは確かにそうだ、と苦笑する。相手が札びらを拾えと放り投げようが、逆にうやうやしくささげ持って差し出そうが、金が〈白豚〉や〈黒豚〉との中に介在するのは変わりない。
イヤさんの事務所に着くなり、イヤさんに断りもなしにイーブはまず〈白豚〉の電話番号を廻し、呼び出し音の鳴る電話をイヤさんに渡し、取り次げと言った。
受話器を持たされたまま「一緒に組まないと言っただろうが」と怒るイヤさんを尻目に、イーブはソファに足を投げ出して横になり、はだけたシャツの胸元からサウナ据え付けの安物のオーデコロンの匂いが立ちのぼるのをかぐ。イーブはジャケットのポケットからガムを取り出し、一枚をめくり、一枚をイヤさんに放り、ガムの甘い液を飲み込んでから、「俺と一緒にババアや変態おっさん、いたぶって遊ぶの厭なら、俺、アキラやルイと組んでやったっていいんだぜ」と言う。
イヤさんは受け取ったガムを事務机の上に置いてから、「呼び出すだけで出ねえじゃないか?」と言う。
「あのババア、横柄だからすぐ出ないんだよ。いまごろ、しかめっ面してる。閑もて余してるくせに、ボランティアの手紙書いてるとか刺繍をしてるとか、さも忙しい事してるという風にしかめっ面だぜ」イーブが言い終らないうちに、「出ねえよ」とイヤさんは電話を切った。
イーブは呆れてイヤさんを見た。「面白くも何ともないだろうが」と気の短さを顔に出したイヤさんはイーブに見られバツ悪げに「次の電話番号を言え、次の電話番号」と苛立ち、胸元でひろげた手帳からイーブが電話番号を読み上げるとすぐにダイアルを廻し、相手が出ると教えた〈白豚〉の名を挙げてから、繁華街一帯を取りしきる組織の者だが一度会って話を聴かせて欲しいと言い出した。
事前に何の打ち合わせもしていないし、〈白豚〉について説明もしていなかった。混乱し、困惑しきった〈白豚〉にイヤさんは、イーブとチョン子の名を出し、その二人が組織に迷惑をかけたと言った。イヤさんは〈白豚〉にチョン子の属している組織は繁華街を奪い合っている対立している組織だと言明し、その二人のかけた迷惑で組織と組織が一触即発、血の雨が降るという状況だと言った。
電話を切るなり、「何度やっても厭な商売だな」とイヤさんは舌を鳴らし、イーブに「あのガキらと一緒にやるなら遊びで済むけど、俺とやると本気になってしまうだろうが」と言い、机のガムを取って包み紙をめくりながらイーブの前に立ち、ソファに寝ころびペンダントをいじっているイーブに自分で電話を掛けてみろと言った。
イーブが気まぐれに電話帳から選び出し電話を掛けた〈黒豚〉の一人、デザイナーのJは、イーブの声を聴くなり、会いたいと言った。犬が威嚇するように声を落とし、荒らげ、繁華街で彷徨《ふら》つくチンピラのように脅しの文句を吐いてもよかったが、Jがあまりに手放しで、誰も知らないと思っていたプロダクションの事務所にイーブが電話を掛けて来た事を喜ぶので気勢をそがれ、ただ会う場所と時間だけを言い、電話を切った。
今度はイヤさんがソファに寝ころび、イーブをからかう。「要するに、自分一人じゃ、何も出来ないってわけだろ? いま電話掛けるの聴いていて分かったぜ。あのオカマ、何の為に呼び出されたのか分からないで、いそいそと尻振って出て来るぜ。俺に組もうって言ったのも、あのガキらと組むというのも、おまえ一人じゃワルになりきれないからだろ」イヤさんはそう言って手帳を無造作に開け、「ハイ、次々に掛ける」とチョン子の口調を真似して声をつくり、電話番号を読み上げる。
イーブは電話の相手が誰か分からないままダイアルを廻し、応答する声に「救けて欲しいんだけど、金が欲しいんだけど」といきなり切り出した。ガムを噛む音が受話器で拡大されて耳に入り、その分、応答する女の驚く声が弱まって聴こえ、イーブは応答する女が誰と分からないまま〈白豚〉の一人と確信して、「もう俺はジゴロを止めたんだよ、金輪際やらない」と言う。「これから、一人一人確かめに行ってやろうと思ってる。愛してって言ったろう、愛して欲しいって言ったろう」イーブがそう言った時、応答する女が突然、電話を切った。
「なんだ、このアマ」イーブは受話器に向かって怒鳴った。イヤさんが抑揚のない声で、まるでイーブを煽るように電話番号を読み上げる。すぐダイアルを廻し直し、いくら待っても応答がないのを知り、イーブは受話器を放り棄てるようにして電話を切る。イヤさんは続けて電話をしろと無言で言うように別の番号を読み上げ、イーブがダイアルを廻さないのを知って体を起こし、「愛なんか誰がしているものか」と笑い出す。
イーブはガムを噛みながら、愛をしている、と心の中でつぶやき、〈白豚〉や〈黒豚〉に湧き上がった感情は何だったのだろうと思う。チョン子の指示どおりホテルに行き、〈白豚〉や〈黒豚〉の恋人役になり、降る星ほど愛していると言われ続け、性の昂ぶりの果に愛のような感情でいっぱいになる。
イーブは混乱していた。ガムを噛み、机の上に腰を掛け、はだけたシャツの胸元から安物のオーデコロンの匂いが立つのにむかつきながら、いままで相手にした〈白豚〉や〈黒豚〉の顔を思い出す。
ドアを開き、事務所にイヤさんの組の若い衆が戻ったので、イヤさんは無言のまま遊びは止めたというようにイーブに手帳を放った。若い衆は「何だ、また来てんのかよ」とイーブをねめつけたが相手にする暇がないというように、ソファのイヤさんに、身を屈め、「オジキが呼んでます」と言う。
短く返事してイヤさんは身を起こし、ベルトを締め直してから、イーブの顔を見、「やるならこいつらみたいに、徹底的にふんだくって来いや」と言い出す。相手に電話を切られて怒りとも拍子抜けともつかない気持ちのままガムをただ噛んでいるイーブを見て、「やるんだったら、徹底して悪どくやれ」と言い、「なんなら、うちのカツアゲの名人ら、連れて行くか?」と耳元に顔を寄せ小声でつぶやき、からかうようにまた肩をたたく。その手をイーブの肩から離さず、肩の筋肉を意味があるように掌で撫ぜる。
「この名人ら、地上げで鍛えてるから、一千万、二千万の額じゃ面白くないって言うだろうけど、一旦、喰いついたら雷鳴っても放さないからな」
〈白豚〉の指定した球場横のカフェでイーブはジュースの氷が溶けていくのを見つめながら時間を潰した。〈白豚〉は五時半にカフェから一キロも離れていないマンションからやって来る。三十分近くもカフェにいたのでタンブラーの中の氷はあらかた溶け、一等最後に残った氷がいま形を崩し、動いたばかりだ。飲み干したはずのフレッシュ・オレンジ・ジュースの液がタンブラーの底や氷の表面に付いていたらしく、氷が溶け出して出来た水は黄赤色に濁っている。
窓際の丸テーブルに席を取り、窓も店内も見られるように坐ったので、近くにあるスポーツ・ジム帰りの男や恋人同士らは、窓に眼を遣る度に、ジゴロのイーブを見る事になる。男や女の視線が届くのをタンブラーの氷を見つめながら感じとめられる。
視線に気づいて店内に眼を遣り、洗い髪の青年もスポーツバッグを脇に置いた若者も、スポーツ・ジムに通いつめ性の相手を物色する〈黒豚〉の同族だと分かった。恋人同士と分かる男女は、窓に横顔をさらしたイーブを見て、美青年である事、よく鍛えた体をしている事、リゾート地にいるような服装をしてただひたすらジュースのタンブラーを見つめている姿から、イーブが単に恋人の出現を待つ若者ではない事に気づいていると取れた。
恋人たちは〈白豚〉や〈黒豚〉に体を売る男の売春、ジゴロというものが、この東京に存在するという事を知らないかもしれない。タンブラーの氷がすべて溶けたのを確かめて、イーブは時計を見た。四十分経っているのに気づいて、窓の外に眼を遣り、初夏のまだ明るい空を見る。
電話を掛けようと立ち上がりかかると、カフェの前でタクシーが停まり、待ち合わせた〈白豚〉ではなくデザイナーのJが降りて来る。Jはタクシーに金を払うなり、利《しな》をつくりながらカフェのアプローチを小走りで駆け、カフェのドアを開けて立ちすくんだイーブを見つけるなり、「どうしたのよー」と女言葉を使う。
カフェの中にいた男や女の視線がイーブに注がれる。
「誰がここにいるって教えた?」イーブが訊くと、「こんな事ないように手を打っているんだから」とJは言い、イーブに席に坐れと言う。
イーブは坐った。Jはそのイーブの手を握り、注文を取りに来たウェイターに「同じやつ」と言い、誰の目にもやましい事ひとつないと言うように「どうしたの、言ってごらん。どうしたの?」と訊く。
イーブが答えないでJを見つめると、Jは「言ってくれよ、水臭いなァ。どうしたの?」と訊き、イーブの眼から、その話より先に、〈白豚〉と待ち合わせた場所にJが現われた謎を言えと言っていると取ったように、「チョン子に電話したから分かったんだよ」と言い出す。
Jも〈白豚〉らも、イヤさんやイーブから電話を受けた途端、チョン子に電話をした。〈白豚〉の一人は五時半にカフェに呼び出されたと言った。チョン子は〈白豚〉にカフェに行く必要はないと言い、〈白豚〉が突然、脅迫まがいの電話を掛けて来たのはどういう事だと訊ねると、質の悪いヤクザにひっかかってだまされているだけだ、自分がマネージャーとして解決すると言った。
イーブはチョン子の言い訳を思わず笑い、Jに「本気だぜ」と言う。「俺がイヤさんにだまされて脅迫しはじめたって言うのか? 逆だよ、俺があいつを引っ張り込んでやろうとしてる」
Jはイーブの顔を見、「何でそんな事をする」と泣き顔をつくる。Jがイーブの体の脇にぴったりと体をくっつけるように坐っているので、うっとうしいし、羞かしく、〈白豚〉が来ないのならカフェにいても仕方がないと考え、Jに外に出ようと言った。Jはその言葉がよほど嬉しかったように顔を明るくし、「行こう。どこへでも行こう」と立ち上がり、先に立ってレジで勘定を払いながら、「あんなヤクザなんかと組むんじゃなくて、僕と組んだ方がよっぽど上手《うま》く行くのに」と言い出す。
カフェを出て並んで歩きはじめると、Jは初夏の緑の中を、二人の相思相愛の同性愛者が歩いている気になっている。イーブはそこにいるが、幻のJの恋人役だった。Jの背丈はイーブの肩ほどしかなかったので、Jはイーブを仰ぎ見る形で見て、初夏の夕暮は長い、と言う。そう話す事が質の悪いヤクザにだまされて悪の道に踏み込みかかった若者を救う事だというように。
昼を過ぎると光の色が微妙に変化し、赤色が次第に濃くなり、空に赤みが差す頃、木々の葉は粘りつくような緑色に変わると言う。確かに初夏の夕暮は長かった。赤い夕暮の靄が一段と濃くなる球場の裏通りを抜け、人通りのない道の横断歩道をイーブが渡りかかるとJは信号が赤だと言って制止する。イーブが素直に信号の前で立ち止まると、Jは笑い、「脅迫事件、起こそうとしている風に見えないな」と言い、笑を消し、「どうして、あんなヤクザと組もうとする?」と真顔で訊く。
「いっそやるなら、チョン子と二人で、片っ端から脅迫して廻ればいい。それもただ思いつきでやるんじゃなしに、写真撮ったりヴィデオ撮ったりして証拠をきちんと揃えてから、脅迫してやればいい。夜の町で遊んでる紳士、淑女はそう脅されたら一発なのに。僕も昔、やられた事あるんだから。昔、まだ駆け出しの頃、ノンケの顔してたけど、ホモ・バーに行っていた。そこで一人の男の人、二人でかちあったんだね。ある時、会社へ行くと、皆ヘンな顔をして見るんだ。女の子なんか、露骨に気持ち悪がる。そのうち係長が僕を呼んでヘンな電話が相次いでいると言うんだ。密告電話。Jさんはいつも一番前の電車に乗ります。一番前の電車はその当時からホモの集まる電車。駅の便所の中で必ず小便します。それもホモの集まる便所。会社が引けると公園か映画館へ寄ります。繁華街の『紅花』とか『もりちゃん』とか『タランチュラ』に行きますって、僕の行きつけのバーをちくってる。それで会社、突然、辞めちまった」Jは苦笑いをし、「イーブが僕を脅迫するなら、僕もイーブを脅迫するよ。男同士は、おあいこだからな」と言う。
イーブは心の中でJに脅迫される事は何一つないとうそぶいた。信号を渡ってから、Jはどこへ行くのか? と訊く。Jに答えないで、公園に降りてゆく緩い下り坂を歩き出して、イーブは不意にサイボーグの回線が壊れたように、ガードにうずくまっていた老婆らの姿を思い出し、胸が詰まる。
イーブは立ち止まった。大型トレーラーを見棄てて東京のどこかに姿を消した老婆らを捜し出したとしても、イーブにする事はない。イーブはジゴロで貯めた金で買うつもりの新品の大型トレーラーを想い描く。公園で見つけた夏芙蓉の木の下に身を寄せあう老婆らにその大型トレーラーを見せ、「ええじゃがい」と自慢し、昔、物見遊山に出発した時のように明るい声で、「乗らんかよ」と勧め、だが老婆らはかたくなに拒む。どこにも行くあてはない。それならせめて天子様の住む東京の方がよい。老婆らはそう言う。老婆らの一人、元気で好奇心の旺盛なコサノオバなら、自分の物ではなく勤めていた会社の物で、塗装をしたが、中古だというのが歴然とした大型トレーラーの代わりに新品の大型トレーラーが顕われたと言って、「どしたんな?」と訊く。口の悪いコサノオバは、盗んだのか、金を盗人したのか? と訊く。盗んだのではなく買った、金を盗人したのではなく、体を〈白豚〉や〈黒豚〉に売って荒かせぎしたとイーブは正直に言う。老婆らは口ぐちに「おとろしよ」と言うが、男が人に体を売れるとは誰も信じられないから、新品の大型トレーラーを気色悪がり一層近寄らない。イーブは大型トレーラーを避け、イーブを見まいとしてうずくまる老婆らに業を煮やし、「トレーラーに乗らんのじゃったら、いつまでも生きてくれるな、早よ死ね」と怒鳴る。
「早よ、死ね」と声に出してつぶやき、ふとイーブは自分の想像が眠って見る悪夢のような気がした。脅迫というなら、イーブを脅迫出来るのは、老婆らしかいない。
イーブは溜息をつく。Jが溜息を聴きつけ、からかいではなく本心からそう思うというように、「若い神様のする事は何でも美しいよ」と言い、イーブの手を取り、公園のベンチに坐ろうと歩く。イーブは素直にJに従《つ》いて歩き、Jが腰かけたベンチに並んで腰かけた。Jはイーブがベンチに腰かけるなり、「この僕からどう脅迫しようと言うのか、その方法を教えて欲しい」と言い、ふと悪戯を思いついたように「イーブ。両方のポケット、触ってごらん」と体を突き出す。イーブが渋ると、手を取り、ジャケットの右ポケットを触らせる。
「取ってもいいよ、百万、入っている。左のポケットも」イーブの手にジャケットの生地を通して、重く硬い物の感触が伝わる。
「何だと思う? 刃渡り十五センチのジャックナイフ」
Jはそう言って、ポケョトの中からジャックナイフを取り出す。「チョン子からイーブが馬鹿な事をしていると確かめて、出掛けに、ついに終りが来たって思って、神様を殺してもいい、自分が死んでもいいってポケットに入れて来たんだ。今、そんな心の動きが僕らの悪いところだと反省する。いや、反省しない。いつも性と彼方がくっついてるこんな変態だから、デザインなんて細かい事出来るんだから」
Jはジャックナイフのボタンを押し、ナイフを出し、刃で掌をペタペタとたたき、「イーブ、僕のような人間、からかうと怖いよ」と言う。
「Jが俺を脅迫してるのか?」イーブが訊くと、Jは素直に「そうだよ」と答え、「刺されても刺してもいいと思っている。ここで神様の手で殺されたってひとつも後悔しない」と言い、不意に昂ぶったように、「イーブ、僕の前から姿を消すというなら殺して欲しい」と言う。
イーブは靄のように立ちこめた暗闇の中で首を振り、それではJに見えないだろうと思い、「殺す理由、俺にない」と声に出して言ってみる。
「何故……」Jが訊き返すのを遮って、「俺の事じゃなしに、自分がデッチ上げた神様に殺されたいんだろう」とイーブは言い、「神様か」とつぶやく。
神様は胸苦しさにまた溜息をつく。Jはイーブの溜息を耳にして「何苦しんでいる」と訊く。「言ってごらん。そんな溜息つかれると、つらい。何、考えている」そう言ってから不意に思い出したように、「ジゴロという商売、厭で、客を憎んでるから脅迫するというならしてもいいんだから」と言い、一度、ホストクラブのボーイに非道い目にあったと言い出す。
「本当の客の気持ちを言ってやろうか? イーブは女とだって男とだってホテルに行くだろう。他と違って、しっかりチョン子というマネージャーがついている。チョン子にはしっかりした後ろだてがいると分かっていても、たとえイーブでも、客の方は密室の中に二人きりになるんだから、信用しきってない。女が遊んだり、男が遊んだりする夜の裏の世界じゃ、誰でも一度は脅迫されたり暴行受けたりしてる。僕だって経験ある。ホテルに入って、部屋の鍵かけるなり、すぐぶん殴られ、床にたたきつけられた。金ふんだくられたけど、僕は警察に届けなかった。皆なそうだよ。十万、二十万奪られたって警察で根掘り葉掘り訊かれるよりましだし、交通事故だと思えばそれまでだから」
「俺もそうか?」
「そりゃそうだよ、イーブだってそうさ。女の客はほとんどそうさ。イーブを信用なぞしてるものか。ジゴロのイーブが客と対等なんかであるものか。ジゴロは乞食か神様かどっちか。恋人として扱っても、セックスのパートナーとしても、普通じゃなくて、夢の恋人か夢のセックスのパートナーじゃなくちゃ、ジゴロの意味ない。僕を殴ったボーイをどう思ったか知ってるか? 僕は怒髪天をつく神様の一人だと思った。舌で舐めるどころか手で触らせてもくれなかったけど、怒りの神様は夢の肉体、夢の性器を持っていたと思っている」
イーブは苦笑する。「Jは変態だからな」
「ああ、もう取り返しがつかないから」
「俺を怒らせて、ぶん殴られたいんだ。ついでに、そのまま強姦でもされたいんだ。いつか、俺と会った二回目か三回目かに、ムチとか蝋燭とかロープとか変態の道具一式持って来て、これ使ってやってくれと頼んだみたいに、俺の前にひれ伏して、救けてくれ、許してくれ、と泣きわめきたいんだ」イーブが言うと、Jはそっくり反復し、「そうしてもらいたい」と小声でつけ加える。
イーブの中でムズムズと動くものがある。「ジャックナイフ持って来て、どうしようと言う。俺を怒らせて、片眼でもえぐり取ってもらおうと思ってか。汚いケツの穴、リンゴの芯取るみたいに、えぐり取ってもらいたいからか?」
イーブがわざと言うと、ホテルの密室でイーブと二人だけになったように、Jは緊張と興奮で声を震わせながら、「ケツの穴より、汚いだろう、イーブは」と言い、「チョン子とつるんで、沖縄出のヤクザとつるんで、臭いオマンコに顔突っ込んで」とつけ加える。
イーブは黙ったまま、Jの掌のジャックナイフをよこせと手を差し出した。Jはなおイーブの怒りを煽ろうとするように、「さっきのカフェでも何を言わなくとも、体で客に、男にも女にも夜のお相手しますと言っている」と言い、イーブがJの掌からジャックナイフをもぎ取ると、掌のジャックナイフが挑発の言辞を言わせていたというように突然黙る。それが単にJの思いつきなのか、〈白豚〉や〈黒豚〉から苦情の電話を受けたチョン子が仕掛けし、Jに持ちかけたものか。怒ってはJの手に乗る、チョン子の張っている蜘蛛の巣にひっかかると分かっているのにイーブは取り上げたジャックナイフをかざし、怒声で「謝れ」と言い、ベンチに坐ったまま顔を下げかかるJの向こう脛を蹴り、土下座して謝れと言う。
Jはのろのろとした仕種で立ち上がり、ベンチに股を開いて坐ったイーブの前に正座するが、嬉々とした心情を隠し切れないように高い声を出し、声を震わせ、「悪う御座いました、このとおり」と芝居じみた口調で言う。地面にひれ伏したJの頭を靴で踏みつけると、Jは待っていたように顔をよじりかかり、よじり切らないうちに舌を出して靴を舐めにかかる。
Jにとって今、イーブはギリシャの怒りの若い神だった。神の怒りがあまりに激しすぎるから、靴の裏に這わした舌は砂礫で熱くただれ、首が折れそうなほど痛い。街灯の光の届かない公園のベンチにいる二人を誰も見ている者はいなかったが、もし見たとしても、足で頭を踏んづけ、足の先であごをのけぞらせ、返す刀で首を払うイーブの行為が怒りにのみ駆られた行為だと取り、若い神の怒りの裏に芽生えた優しさのようなもの、憐愍のようなものに気づきはしない。その優しさ、憐愍のようなものを、愛と呼ぶのか、欲情と呼ぶのか、イーブは分からなかった。
イーブは靴を舐め廻すJが、昂まり、喘ぎながら、ホテルに誘うのに同意した。公園を出てタクシーを拾い、先に乗り込もうとするJのジャケットから、脅迫が一つ成功したというように百万あるという札束を抜き取り、内ポケットに納めた。
Jが声を出しかかるので、素早くジャックナイフの刃を脇腹に当て、弱く突いた。Jは呻き、運転手が振り返るので、イーブが繁華街の名を言った。安ホテルの一つ手前で降り、Jを待たせて駄菓子屋でチョコレートを買い、脇腹を圧え、まだ怒る神におびえたように焦点の定まらない眼でイーブを見るJに、「こんなとこで、ペリエしか飲まないとゴネたら承知しないからな」と言う。Jはうなずき、小声で「さっき刺したとこ、痛い」とつぶやく。
イーブは取り合わないと薄笑いを浮かべ、今日は徹底的にやってやるから覚悟しろと言うようにジャックナイフの刃をJの鼻先で開け、「おまえが小道具に持って来たんだろうが、穴あけたとこに、たっぷりチョコレートを詰めてやる」と言って、チョコレートの包装紙を刃で斬り裂く。
「汚ねえババアとする時、よくチョコレートを使う。ジゴロだからオマンコ舐めてやらなくちゃならんから、その時、噛んどくのさ。臭くなくなるし、甘いし」
Jは何を想像するのか目の焦点がますますぼやける。
十五
内鍵を下ろし、チェーンをかけてから、コンクリの打ちぬきだけのような壁をさぐりスイッチをさぐり当てた。指で弾くように音を立ててスイッチを点けると、ただ料金にしては広いだけが取り柄の安ホテルの部屋に灯りがつく。窓辺に一つ、キングサイズのダブルベッドの枕元に一つ置かれた大型のスタンドに点けられた電球の燭光が高いので、部屋は両隅から照明を投げかけられた舞台のようだった。
床は板に花柄のビニールを貼っただけのものだった。入口に靴脱ぎがありスリッパも用意してあったが、シティホテルと同じように靴を脱がず、そのまま二つのスタンドの交錯する真中に歩き、Jが靴脱ぎで脱いだ靴を丁寧にそろえるのを見た。膝をそろえて曲げ靴をそろえるJの尻が動くのを見て、イーブは地底に巣を張る蜘蛛に運び込まれた餌になった気がした。
右手に刃渡り十五センチのナイフがあった。左手にかじりかけのチョコレートがあった。五種類の、いずれ安物だが、女子供を惑わす為に趣向を凝らしたチョコレートがジャケットのポケットに入っていた。最初、チョコレートを思いついたのは、街でひっかけた女と姦《や》った時のことだった。あまり長い時間姦っていたものだから腹が減り、そなえつけの冷蔵庫を漁ったが何もなく、女が「持っている」とハンドバッグを開けて取り出したチョコレートを食べたのだった。半分ほど食べたところで「私もおなかすいて来た」と言うので口移しに、噛みくだき唾液で溶けたチョコレートを食わせた。女の歯はチョコレートで染まり、ほの暗い寝室の中でお歯黒で染まっているように見えた。
イーブはお歯黒に染まった女に飲み込まれる唾液で溶けた甘い液に抱いた情欲の感触を思い浮かべながら、Jが体を起こし、向かい合わせに立つのを見る。Jの眼の焦点はあっていない。イーブは分かる。鏡に向き合い、顔の筋肉をのばし、映った自分の顔ではなく顔の向こうをのぞき込もうとすると、そんな眼になる。
女でも男でもよく出喰わした。マクドナルドのハンバーガーの売り子はイーブが注文の為にカウンターに立つと一瞬その眼をする。チョン子はイーブの尻をつねろうとする。力を下肢に込め、尻を締めると爪の立ったチョン子の指ですらつまめないほどに尻に筋肉は張り、爪は辛うじて羞かしいほど小さいスキャンティをつかむだけだった。安ホテルのある繁華街の薬局の親爺もコンドームを買いに行ったイーブにそんな眼をした。
イーブはJを見つめ、Jに見られながら、かじりかけのチョコレートを一口でほおばる。Jはそのイーブの行為に、重大な性の意味が隠されてあるように、まるで口の中で溶けてゆくチョコレートの早さに合わせるように、ジャケットを取り、イブ・サンローランのイニシャルの入ったポロシャツを脱ぐ。
「イーブー」
ワインレッドのポロシャツを脱ぎ、下穿き一つになってJは訴えるように声を出し、脇腹にポロシャツの色が染みついたように広がった血を見せる。Jは殉教の聖人の絵をきどるように右手を頭の後ろに上げ、脇腹を見せ、また「イーブー」と呼ぶ。
イーブは脇腹に血がふくらみ、下に流れるのを見ながら口の中で溶けたチョコレートを、Jと密室で男同士の性の遊戯を楽しむ合意の合図のように飲み込む。飲み込んでから、「俺に脅し取られた百万円分、痛い目をしたいわけだ」と言い、イーブはジャケットから五つチョコレートをつかみ出し、次々とジャックナイフで包装を破って取り出し、ベッドの上に放る。
部屋にチョコレートの煽情的な匂いが漂う。イーブはジャケットを脱いだ。そのジャケットをどこに掛けようかと部屋を見廻すと、Jは我に返りはるかに齢上で女性的な者の宿命のように「こっちへ頂だい」とジャケットを取り、クロゼットのハンガーに掛ける。
シャツのボタンをはずさせて欲しいとJは言った。分かったとうなずき、丁度、チョコレートを一個まるごと食べて舌ったるくなったとこだから、ビールを飲んでいる間、体に手を触れさせてやる、と答え、籐椅子を運び寄せて坐る。
一切合財、Jがやる。イーブが籐椅子に坐った途端、安ホテルの密室は逆しまになる。密室の外で大手振って歩く金も地位も名誉も、ここでは重力を喪い、宙に浮遊するものとなるし、逆しまを支配する王様の中の王様としてのイーブが注意したなら、十万の十倍の百万という金を王に寄進したから罰が大きくなり、地位や名誉や生まれや育ちが人以上の分だけ、恥辱にまみれる事になり、体液や糞尿の海に沈められ、血しぶきの痛みを味わう。
Jは冷蔵庫のビールを取りに行く前に、自分の身をおおっているたった一つの物が、燃え上がろうとする快楽のさまたげになると苛立つように下穿きを取りかかった。
絶対の王は叱った。「てめえの小っこい萎びたチンポコと汚い尻、何で見てなくちゃならない」
Jはまだ密室の外の世間の了見が残っているように「まァ、憎たらしい」と女言葉を使う。
籐椅子に腰かけたまま、靴でJの尻を蹴り上げる。Jはスタンドに顔ごと倒れ込む。スタンドは折れ、灯りが消える。Jの頭をイーブは靴で踏みつけた。
「この部屋に入ったら、神様の言うとおりするんだろうが。俺に何やられても、文句言えた筋合いじゃないだろうが。さっき公園で俺にして欲しいと言う事を、昔の事、ひっぱり出してあてつけがましく言ったろう」
靴でJの頭を、折れて下に落ちたスタンドの柄にこすりつける。「謝れ」とイーブが言うと、Jは「はい」と言い、頭を持ち上げ、イーブが足を離すと正座し、「悪うございました」と三つ指を突き、芝居の女形のように謝り、その姿から気の荒い亭主を持った長屋の女房のようだと苦笑すると、Jは両手を顔に当てて泣きじゃくる。
「どうしたんだよ、まず、ビールだろ。俺がビール飲んでる間に、俺の服、脱がすんだろ。易《やさ》しいじゃないか」
「何でこうなのか、と思って」
「俺がか?」
Jは顔に当てた両手を取り、涙いっぱいの顔で、籐椅子にふんぞり返ったイーブを見つめ、こらえ切れなくなって顔をくしゃくしゃにし、「あたしがァ」と言い、イーブの投げ出した足を持ち上げ、靴に頬ずりする。
「あたしって誰だよ、あたしってここにいるのか?」
Jは靴に口づけする。
「ここにいるのは、神様とチンケなオカマだろ? あたしなんて言ってたら神様、消えてなくなっちゃうよ」
Jは「はい」と言う。Jは立ち上がる。下穿きの下の性器が勃起しているのを見てイーブは苦笑する。そのイーブの苦笑で、密室の中の神様とチンケなオカマを結んでいるこの上なく太い信仰の絆が証されたように、Jはいそいそと冷蔵庫に歩き、大ビンのビールを二本とグラス一個を盆に入れて運び、テーブルを引き寄せて上に置く。オープナーで栓を抜きかかり、「痛ァい」と呻く。
イーブが振り返ると、「突き指したみたい」と指を口でくわえて呻く。指を振って、「まァ、いいか、フーコーの部屋で突き指したっていいか」とつぶやき、オープナーでビールの栓を抜き、「はい、神様」とグラスに注ぐ。グラスのビールを一口飲むのを合図にして、神様は今、ビールを飲むのに夢中で、チンケなオカマのする事なぞ蝿がとまったほどにも感じないと言うように、Jは体を撫ぜ廻し、ズボンの上から性器を嬲り、牛が尻尾で蝿を払うように手を払うとやっとシャツのボタンをはずしにかかる。ボタンを全部はずしてもJはシャツを脱がせなかった。
密室の中でチンケなオカマの復讐は、神様がビールを飲むのに気を取られる間に、神様の神々しさを演じたてる物をすべて壊す事だというようにベルトを開け、ズボンのボタンをはずしジッパーを下ろし、さらにそのズボンをスキャンティごと膝まで脱がせて放置し、Jは見ようによっては凌辱されやけになってビールを飲んでいるように見えるイーブの前に正座し、「すごいエロチックだ」とつぶやく。イーブはJを籐椅子に坐ったまま見おろし、「脱がせるなら早く脱がせ」と言い、靴でJの体を小突きかかる。膝にまといついたズボンとスキャンティは足の自由を奪い、靴はJの体にも届かない。
Jは自分の方から神様のむきだしの太腿に頬を寄せ、唇を這わせ、舌で舐めた。一本のビールの残りを一気に飲み干してからイーブは二本目に取りかかると、Jはイーブの靴を脱がしはじめた。靴を脱がせ、靴下を脱がせ、顕われたイーブの足の甲に口づけし、神様自身にも見えない傷が足全体にあるのが見えるというように「ああ」と声を出し頬ずりし、指の一つ一つを口にほおばる。神様がJの口の粘膜と舌が海草のようでくすぐったいと足を払いにかかってやっと離した。Jは脱がした靴を両手でささげ持って靴脱ぎに置き、そろえ、靴下を折り畳んでクロゼットに入れる。
ビール二本を飲むのは、チンケなオカマへの神様の慈愛そのものの行為だった。Jは神様のビールを飲む速度に合わせるように、だらしなく淫らにまといついたシャツをまず脱がせ、最後の一杯、最後の一口が喉を通り、胃に流れ落ちるのに合わせて、ズボンを脱がせ、スキャンティを脱がせた。シャツをハンガーに掛け、ズボンを掛け、この上なく丁寧にスキャンティを二つに折り畳んでクロゼットに納う。
Jは振り返った。Jは神様を見て、今となってはこの一枚があるから神の福音がチンケなオカマに届かないのだと訴えるように自分の下穿きを見る。神様はげっぷをしながら、ジャックナイフで自分の筋肉の張った太腿をぺたぺたとたたき、Jを見る。籐椅子のクッションがビールの酔いで汗をかいた肌に気色悪いと神様は尻を浮かせる。神様はげっぷをしながら無造作にJを手招きする。
Jの顔に喜びが漲る。Jは神様に向かって歩く。神様は左手をのばし、すぐ左手にしなだれかかってくるJの体を突いて立たせ、Jに後ろを向かせる。左手で下穿きのゴムの部分に手を掛け、ジャックナイフを入れた。ジャックナイフで尻の部分のゴムを切った。神様は今度は前を向かせ、下穿きの中にジャックナイフを差し入れ、極端に尖ったもう一つの勃起した性器だというように前開きの部分を内側から突き破り、ゆっくりと切りあげた。Jが股を閉ざし力を入れたので、下穿きははずれず、尻の部分と前の部分の切り裂かれた跡は、Jの下腹に現われた妊娠線のように見えた。Jの肌のどこも新たに傷をつけられていないのに、Jは呻き、ジャックナイフがイーブの性器の代わりのようにあるのにもかまわず、しなだれかかる。
神様は「腹、自分で刺しちまうど」と警告し、しなだれかかる体を突き起こす。Jは自分で立つ気がないと、力を抜いて身を投げかかる。
「何してもいい。どうされてもいい。ここで殺されたっていい」Jはつぶやく。
「ようし」神様は言う。神様は、しなだれかかり、手でイーブの腹を撫ぜ廻すJの喉にジャックナイフの先を当て、のけぞったままのJの毛の生えた乳首をつかむ。
「いま、死ぬのか、それとも、この乳首斬らすか」イーブが言い、小さな乳首を指に力を入れて揉むとJは眼を閉じ、「どっちでもいい」と言う。
イーブは「そうか」と言い、Jを再度、突いて立たせようとする。Jはしなだれかかる。ジャックナイフが喉に突き刺さるところをあわてて引き、イーブは身をかわしてはね起きようとする。Jは籐椅子に倒れ込み、イーブの脚を抱え、「痛い」と呻いた。
「どうした?」と訊くと、ジャックナイフの刃が喉を斬ったと言う。喉の傷はひげをそる時に剃刀でつくる程度のごく浅いものだったが、Jはベッドに横たわり、神様の失策をなじるように痛いと言い続けた。
イーブはJの呻き声と共に、密室の中で自分が絶対の王の位置、神様の位置から徐々にすべり落ち、〈黒豚〉のJに金で買われたジゴロに舞い戻る気がして鼻白み、籐椅子に腰かけていた。呻きが和らぎ、Jが「イーブ、来て」と喉にタオルをあてたまま起き上がって呼んだ。
「行かないよ」イーブは言う。
「こっちへ来て欲しいよ」Jは言う。
イーブが黙ったままジャックナイフを振り見つめると、Jはイーブの機嫌を取るにはそういうしかないと決心したように、「斬りたいだけ斬っていい。もっと斬って欲しい」とつぶやく。
「イーブは何したっていいんだから。乱暴にされたって乱暴にされるの、好きだから。血を流して痛くったって、血を流すのも痛いのも、好きなんだから。イーブ、斬り刻んで欲しいんだ。イーブに食べられたいんだから。イーブ、来て欲しい、そうじゃなかったら、僕はここで死ぬよ」
Jは見てみろと、喉のタオルを取ってみせる。黄色のタオルにまっ赤な血が広がりついている。Jは体をよじり、シーツについた脇腹の血の跡を見せる。
「イーブ、ここへ来て、抱いて欲しい。その胸で圧し潰されたい、その太いチンポで姦って欲しい。お願いだから。痛くったって呻かない。イーブの好きな女みたいな声出す。分かって欲しい。そうでないともう生きてられない。この部屋に、フーコーもいたんだよ」
イーブは黙っている。
「もういっぺん、お願いする。もしイーブがそれでもここに来てくれないなら、生きていたくないから死ぬ」
Jはイーブを見つめ、黙る。呻き声からも、いまさっきの声からも想像出来ない小声でJは「ここに来て欲しい」ささやくように言い、立ち上がる。Jは股間にまとわりつく切り裂かれた下穿きをベッドの上で脱ぎ棄て、素裸になり、銭湯で裸になるようにイーブの視線を気にもせず、洗面所に入り、扉を閉める。すぐバスタブに湯が張られる音が立つ。
イーブは瞬間、風呂に入り、血を洗い流して服を着、客の言いなりにならないイーブなぞ、もう二度とジゴロ遊びの相手をしないと啖呵を切って出て行くのだろうと思った。バスタブの音が変わり、しばらくしてから小便をしたくなり、手首を切り湯につかって死ぬ自殺の方法があるのに気づき、あわてて洗面所の扉を開けた。灯を点けていなかった。湯気が立ち籠めているので、一層、Jの様子が分からず、イーブは外に出てスイッチをさがす。
Jはバスタブの湯の中で、イーブを見た。湯は血で染まっていた。イーブは湯を止め、Jをバスタブから引っ張り出し、「死なせて」と湯の中に戻ろうとするJを組み伏せた。Jは跳ね起きかかり、尻もちをつき、イーブに壁に圧しつけられる。イーブはJの頬を思い切り張った。
「このオカマ野郎」イーブが言うと、Jは黙ったまま目をそらす。イーブはJの髪をつかみ、もう一方の手で顔を張る。Jはまた目をそらす。
イーブはJの態度が密室の隅々まで配下に収めた絶対の王、神様を侮辱したと思い、髪を揺さぶり、顔を殴る。洗面所の外へ引きずり出そうとして立ち上がりかかった。Jの顔が丁度、イーブの性器の真前にあるのを見て、「てめえみたいなの、これ咥えられないからって、自殺するんだろ」と腰を突き出し、Jの顔に性器をこすりつける。
Jは顔をそむける。
「咥えろよ」イーブは股を開き、性器と陰嚢に髪をつかんだJの顔を力いっぱい押しつける。Jは顔をそむけ続ける。
「欲しいんだろ。欲しくって生命も絶つというくらいだろ。ションベンと精液の出る男の管、咥えてれば、生きてられるんだろ」
Jは激しく顔を左右に振り、いま生命が戻ったというように「違う」と声を上げる。
「それ以外にあるものか、おまえがいつも言ってるじゃないか」
「違う」
なお言いつのるJの声を聴いて、イーブはむかっ腹立つ。イーブはJを拳で殴りつけた。
Jは呻く。
殴られた顔を両手でおさえてうなだれたJを見おろし、イーブはそのJにかつて〈白豚〉にしたように小便をかけた。小便をかけ始め、Jが歓喜と聴きちがえ見まがうように声を上げ身をよじるのを見て、イーブは怒りではなく優しさで小便が体から外に出るのだと思う。
シーツを血とチョコレートで汚した代償にホテル代と同じ額の金を枕の下にはさみ、Jを連れてイーブは外に出た。喉にあるジャックナイフの傷の為に薬局で化膿止めの液とガーゼ包帯を買い、応急治療の為に、サウナでマスターとよく顔を合わす「ピオニール」を捜した。捜し当てた「ピオニール」の扉に「本日は閉店、詳しくはシルクへ。(金)殺人事件、噂知りたい人もシルクへ」とあった。イーブは驚き、「シルク」へ行こうとJを誘った。Jは「シルク」を知らないと言った。「シルクハットなら知っている」
シルクでもシルクハットでも傷の治療の為だからこだわらない、と言うと、Jは「あそこは人がいいの集まって来るけど、キ印が多いからなァ、エノなんかイーブを見て、何しはじめるか分からない」とつぶやく。
イーブはJの頭を小突いた。「あんだけ派手に騒いで嫉妬かよ?」イーブが言うと、道を左に曲がると教えながら、「女と違うから。男は男の心理分かるから」と言い、繁華街で擦れ違う男らがイーブを見て通り過ぎるのを、「ほら」と教える。「人には好き嫌いあると分かっていても、イーブと一緒にいると、イーブが他の男に連れていかれる気がする」
ビルの中に入り、エレベーターに乗った途端、Jはイーブに抱きつく。「まじないだから。呪いだから」Jはイーブにキスをする。エレベーターのドアが開き、Jの唇から逃げて外に出かかると、男が一人仁王立ちになっている。顔をそむけ脇を抜けようとすると、男はイーブとJの前に立ちはだかる。顔を上げて、腕組みしているのがピオニールのマスターだと分かった。
「見たわよ」ピオニールのマスターが言った。「へえ、あんた、こんな人ともお仕事してるの」ピオニールのマスターは軽蔑するというように声を作った。
「お仕事、終ったの? これから? いまのサーヴィス? 本気? あの様子じゃ、本気半分ね」ピオニールのマスターはそう言って、大柄のグレた女のようにJの周りを廻り、Jの腕をつかみ、「ちょっと何よォ、あんた。こんなところで、人の彼氏とお安くないわね」と脅しかかる。
「イーブ」Jはつぶやく。
イーブは苦笑する。
「イーブ、どういう事?」Jが言うと、「何なの?」とピオニールのマスターがJに顔をすりつける。「誰に訊いてもらってもいいわ。わたしとイーブしか知らない秘事、どっさりあるんだから」ピオニールのマスターはそう言って、イーブの腕を取る。
Jがうろたえるのを尻目に「シルクハット」のドアを開け、カラオケを歌っている女に当てこするように、「お孝ママー、噂の彼氏連れて来たわよー」とラインダンスでもやるというように手を上げて手首を振る。お孝ママと呼ばれたマスターは、女客の連れの客のカラオケの曲捜しに没頭している為、顔も上げず、「あら、いいわネー」と声を出す。
ピオニールのマスターはカウンターだけのシルクハットの狭い店内を、女客の歌の邪魔するようにカンカンをがなり、スキップして空いている止り木まで行き、シルクハットのマスターに、「とろいんだからね」と歌本をひったくる。それでやっと顔を上げ、イーブを見て、「あら、あの人」と言う。
「あの人って誰?」止り木の客が訊く。
「ほら、あの人よ」
「あの人たって分かりゃしねえよ、お孝ばあさん、このごろ物忘れひどいから、なんでもあの人だァ」
わざとつくった言い方で止り木の客は言い、「どれどれ?」とのびをしてイーブを見る。
その客の顔を見てJが、「エノちゃんじゃない」と声を出す。エノちゃんと呼ばれた客ではなく、シルクハットのマスターが「え?」と声を出す。しばらくして、「ジュンイチロウさん?」と訊き、Jがうなずき、あいさつすると、「随分来なかったから分からなかったわよォ」と言う。
エノちゃんと呼ばれた客は、水割りの入ったグラスを持ち、「そっちへ行っていいかしら?」と訊く。Jが即座に、「駄目よ、あんた淫乱なんだから」と切り返す。
「あらー、よく言ってくれる。ジュンイチロウさんも、久し振りにしては態度がでかいじゃない」
Jは声の調子が最前とまるで変わっている。「駄目。今日は駄目。ここにいるの、惚れて惚れぬいてる男なんだから、今日は嫌。ここへ寄ったの、この子に斬られた喉の首に薬つける為だけだから」
「あら、そんなに情が深いの?」
イーブは苦笑しながらエノちゃんに「まあな」と相槌を打つ。
Jがイーブの太腿をつねりにかかる。「情が深すぎて、こんなに若くていい体してるでしょう。一人じゃ、体がもたない感じ。このまま続くとサナトリウム行き」
「労咳ね」シルクハットのマスターが合の手を入れると、止り木の方からエノちゃんのものではない声が、「貫一お宮みたい」と言い、たちまち、「ちがうわよ」、「八百屋お七よ」と冗談とも本気ともつかないまぜっ返しが入る。
笑い転げている最中に女客の歌が終ると、シルクハットのマスター一人、お義理のように拍手を送り、女客に「オネエがこう集まるとうるさくってしょうがないのよ」と眉をしかめて言う。そのマスターの言葉を待ちうけていたようにピオニールのマスターが、「だからさ、オネエがこの町でちょっとでも何か嗅ぎつけたら大変よォ」と意味ありげにイーブの膝を突つく。
イーブがJに身を寄せると、ピオニールのマスターは「ああじれったい」と大仰に身をよじり、シルクハットのマスターに紙とボールペンを持ってこさせる。
すぐ女客の連れの男が歌いはじめる。Jが脇にいるのを無視したように、紙を広げ、「いい?」と訊き、アキラ、女、ピストル、イーブと書き、イーブに耳を貸せと言い、「皆なあんたの事件、知ってるけど、ここではあんたの事、わたしとお孝ママしか知らないの」とささやく。「エノなんか知ってごらんよ、大騒ぎして、のぼせあがって、今日のうちにこのあたり一帯で、イーブがエノに惚れてアキラにつれないそぶりしたから、女が逆上したというチンプンカンプンな話になって広がってるわよ」
イーブはピオニールのマスターに、「何でアキラが撃たれたと知っている」と訊き返す。
ピオニールのマスターはまたイーブの耳元に口を寄せる。「(金)で人殺しあったというタレ込みでしょ。(金)で行方不明なのアキラだけだったし、(金)にいくバーのマスター連中のところに、男の子の声で(金)の殺人事件はジゴロやソープの子のマネージャーやってる女だとタレ込み電話あるの。それに、あいつに、わたしゃ、やられたんだから。(金)のあいつが撃たれたというの、すぐ、あのヤクザも絡んでると分かったし」
ピオニールのマスターが耳元から口を離すのを待ちかねていたように、Jが、イーブの肩を抱き、「どうしたの?」と訊く。
イーブはチョン子の起こした事件を打ちあけようかと迷った。
「どうしたの、急に深刻な顔をして。何かこのオネエさんに変な事、言われたの」Jは訊ね、イーブが「何にも」と答えると、首を上げ、血の固まった傷口を見せて、「ここでいいから薬つけてくれる。後は自分でやるから」と薬局の紙袋を開け、薬をガーゼに滲ませ油紙の上に載せ、イーブの手に渡す。
シルクハットのマスターが、Jの首にガーゼを当てるイーブに、「本当に斬ったの?」と訊くと、イーブの言葉を取ってJが、「ひどいんだから、傷にチョコレート効くって、チョコレートのかたまり詰めて舐めるの」と、さもイーブが率先して酷い事をやったように言い出す。
「怖ろしいわよ。何やり出すか分からない。いっそこんな非道い事されるんだったら、ひと思いに殺された方がましだと思うくらい、わたしをせめる。口で言えないような苦しみ。惚れて惚れぬいているから耐えられるんで、ちょっとくらいじゃ駄目ね」Jは包帯を首に巻きながら言う。
「いい男じゃない。私なんかじゃ駄目かしら」エノちゃんが言うとすかさず、「駄目」とシルクハットのマスターが言う。
「駄目に決まってる。今、こんなに優しいけど、さっきなんか獣以上。獣なんて言ってたらまた二人になった時、御仕置される。獣って言うなら美しい獣ね。フーコーの泊り込んでた部屋だったのよ」
「あらフー子なの、ロラン子の部屋じゃないの、何にもないガランとした部屋でしょ」
そういうエノちゃんにJは「違う、違う、あそこはフー子」とフーコーという名を言い直し、「久し振りにキングコングに閉じ込められた美女の気持ちになったわ。この若さだし、美男子だし、きっちりやりたいようにやらして抜いていてあげないと他所《よそ》の男に走っちゃうかもしれない、他の女に走っちゃうかもしれないって涙ながしながら、耐えに耐えたの」と溜息をつく。
その溜息をイーブは笑う。イーブは分かっている。Jはおそらく、今、死ぬほど羞かしい。殴られ、小便をかけられ、チョコレートを傷に詰められたのだった。密室の中で、チンケなオカマとさげすまれ、この世の一等哀れな生き物にたたき落とされ、一等無力な存在として扱われるのを求め、ジゴロのイーブを王様の中の王様、神様に仕立てあげ、拝跪し、許しを乞い、憐れみを乞い、それでもかなわず凌辱され、暴行され、強姦されたのが、体中に残る様々な痛みと共に、密室の外でも甦る。イーブはJがどう事実を修正しようと羞かしくなかった。普通ならJと一緒に死ぬほど羞かしい気持ちを共有するのだろうが、イーブにはそれを一発で解消する魔法を持っている。その魔法はイーブのポケットにあった。
包帯を首輪のように巻いたJは、繁華街のバーも実のところ密室とは変わらないと弁解するようにイーブを見、「あんまり言ってるとぶったたかれるけどさ」とつぶやく。
酒を飲まないJの為に水割り二杯飲んだだけで「シルクハット」を出かかると、ピオニールのマスターが一緒に外に出て、イーブに話があるから、もう一軒、閑古鳥の鳴いている静かな店に行かないかと誘った。
イーブが思案すると、Jが「あんた、失礼じゃないか?」と急に男っぽい言葉つきでピオニールのマスターの前に立つ。「イーブとどういう仲かしらんが、今日は僕と一緒にいるって言っている。人の恋路を邪魔するの、無粋だよ」
「ブスはそっち、こっちはこっち」
「ブスってお互い様だろうが、オニガワラみたいな顔して、ダサイ十九の子供の着るような服、着て。こっちはこっちって、こっちに何が用あるってんだ。僕もイーブもそこでワイワイ騒いでいたけど、朝までどう過ごそう、朝どうしようと後朝《きぬぎぬ》の別れに悩んでるってのに」
ピオニールのマスターは「ああ、オニガワラで悪うござんしたね」とすねて、ふんと鼻を鳴らす。「おまえなんか一発で世間面ひきはがされる事、起きるから泣き面かくな」ピオニールのマスターは言い、思いついたようににやりと笑う。
「分かったよ、これまで警察なんか来たって、噂でもちきりで真犯人分かっていてもここの人間、一度もチクった事ないのが自慢だったけど、(金)多摩の殺人事件だけは、イーブという源氏名のジゴロ当たってみな、イヤというヤー公に当たってみな、すけこましの女当たってみろとチクってやる。ここでは噂もちきりだよ。誰でも知ってる。(金)多摩のボウヤとイーブと女の三角関係だって。その噂にヘンタイのおっさん、入ってなかった。警察が来たら、ついでにあたしが入れてやるわ、あッ、この間、イーブって子、ヘンタイおっさんと一緒だったって。女が紹介した客だって」
「何を言ってるんだ」イーブが言うと、ピオニールのマスターは「知らないの?」と訊き、「ここの人間、敵に廻したら人生めちゃくちゃになるよ」と脅す。
「どの店のマスターだって、マスター同士会うと、あらーお久しぶり、とか、あらー、今日も綺麗って言うけど、整形した鼻がつっ張ってらァ、と心の中で舌出してるし、顔見なかったの、病気でくたばっちまってたと喜んでたのに、と悔しがってる。ちょっと騒ぐと自分の事、棚に上げてチクるし、はやっていると、アラ見つけて、タレ込む。ウリセンの子なんか非道いめに遭ってる、入る時に身分証明書調べてるもんだから、マスターの言うとおりしないと、親元にお宅の息子、ホモ売春してると電話を掛ける、非道い時は、少年の住むアパートに、あの子はホモ、と貼り紙を貼りに行く。ここは皆いびつなんだから、歪んでるんだから、皆な相手より自分がもてたいと思ってる格好だけの街だから」
Jはピオニールのマスターの言葉に衝撃を受け、イーブに涙を流し、「そんな人ばかりじゃない」と言った。
ビルの入口の礎石に坐り込み、しばらく物言わず黙り、イーブが六本木あたりのサパークラブにでも行こうかと誘っても、行きたくないと首を振り、「あの人は商売してるから、あんな事、言う」と言って、イーブに、繁華街の一角にやって来る者の大半は、純で柔《やわ》ですぐ壊れてしまいそうな神経を持っている、それが時に、人をののしったり、人の不幸を喜んだりするのは、そうしないと自分の純で柔な神経を守れないのだと言い、繁華街の一角は弱い者ばかりの集まりだと言う。かつて赤線、青線という売春窟があり、そこにゲイバーが入り込み、さらに沖縄の人間の集まる店が固まってある。
イーブは(金)多摩霊園に集まるソープランドやファッションマッサージの女の子を思い出し、「(金)多摩霊園で女の子ら、めちゃくちゃに金使うよな」と言うと、Jは改まって「(金)多摩殺人事件って何? 何、あいつ、知ってる?」と訊く。
イーブは言い渋る。そのイーブにJが「何?」となお訊くので、イーブは正直に「あんたに関係のない事だ。俺とチョン子だけの問題だよ」と答えた。「ひょっとすると、今日、脅迫電話掛けまくったのも、あんたがやって来て、俺に金巻き上げられたのも、チョン子のせいかもしれん」
「愛しているのか?」Jは訊く。
「俺はジゴロであいつ、マネージャーだぜ。セックスはたまにやってるけど。もし愛って言ったとしても、Jの言う愛と違う」
「僕は?」Jは訊く。
イーブは黙る。
十六
「僕は?」Jがまた訊いた。
イーブは答えなかった。Jの質問に深刻な意味合いはないと分かっているが、繁華街の一角のビルの前でJに詰問されている気になり、イーブは苦痛になる。
答える代わりに、イーブはJの肩に手を掛け、無言のまま歩こうと誘った。Jは二歩、三歩、歩き出し、ふと急にジゴロを大枚の金をはたいて買った〈黒豚〉の身だった事に思い到ったように、「いつものように朝までつきあってくれるね」とつぶやき、先ほど「シルクハット」にいた時の口調で「どこへ行こうかしら。後朝《きぬぎぬ》の別れ、どこで迎えようかしらねェ?」とイーブの顔を見る。
イーブはジゴロの務めとして考えた。予約を入れていないのでまともなシティホテルに宿を取れるはずがなかったし、ただ寝るだけの安ホテルも厭だった。Jはそれなら自分のマンションに来ないか、と誘ったが、イーブは拒んだ。
「どうするの?」と訊くJに、イーブは(金)多摩霊園の名を挙げた。Jは「なんなの、イーブ、本当?」と大仰に声を上げて立ち止まる。
イーブがうなずくと、「おおいやだ、いやだ」と手を振る。「昔、出来たばかりの頃ならよかったわよ。秘密クラブみたいで。今は違うでしょ、ソープランドやファッションで働く子とか女子大生が金にあかして、男の子を嬲りに来てるんでしょ」
Jはそれなら「シルクハット」に戻ろうと言った。イーブがドアを開けかかると、Jが、「いいの、ここは大年増にまかせといて」と片眼を瞑った。「いいこと? ここは地獄の二丁目よ、あのオニガワラが言うように、皆な意地が悪いんだから。帰ったら後で何言われてるか分かったもんじゃないんだから」
Jはイーブの前に立ってドアを開けた。途端、一瞬短い沈黙があり、マスターの「あら、お帰り」という驚いた口調の声と共に、「もう3Pは済んだの?」「お速いこと」と声が掛かる。
「そうなのよ。この子が知らないところに行くより、次の3Pの相手、ここで物色した方がいいんじゃないかって言うから」
Jは先ほどの同じ止り木に坐れとイーブに言う。「でもさ、3Pなんて変態と思わない。PとPで間に合ってるとこにもう一本Pが加わるんだから」
「あなた、Pでも色々あるのよ」マスターがイーブの顔を照れたような眼で見てJに言う。
「この間、久しぶりにエノ子なんかとサウナ行ったじゃない。若い人がたくさん来るノンケのサウナ。労働者風とかスポーツマンタイプとか、若い人、芋洗ってるって言うから、開店記念のパーティーの福引につけて。芋だって色々あるのよ、Pだって、まァ、ゴーカ、色々ッ」
オシボリを用意し、注文しないのにウィスキーの水割りをつくりながらマスターは言う。
Jは吹き出す。「Pって何、ペニスの事?」
「でしょう?」マスターが訊く。
Jはオシボリを手に持ったまま身をよじって笑い、「だから厭。淫乱だから厭」と言い、水割りを飲みかかるイーブに、「人前で間違えちゃ駄目よ。3PのPはペニスのPじゃなく、パースンのP、三人という意味」と言う。
「三本という意味じゃないの?」
「三人よ。だから、あんたが眼にしたら泣いてこわがるアレ持った女入っても3P」
「でも3Pって、このあたりで言う時、三本って語感よ。二本と穴ボコとかドンブリバチとかオサラとかと想像する?」
マスターはイーブにそう訊き、イーブが言い方に苦笑すると、Jに言い負かされた不満を当たるように「この子はノンケだから、ドンブリバチを想像してるわね」と言う。
「ドンブリバチ」とイーブが笑うと、「そうよ、あんなの、ドンブリバチよ」と言い、Jに「ドンブリバチ、浮いた、浮いた、って囃子《はやし》言葉があるじゃない。あれ、女の人のあそこが浮いた、浮いた、と言っていると思って気色悪かった、多感な少年期ッ」
「多感な少女期でしょ」誰かが合の手を入れ、「シルクハット」の中の会話は収拾つかなくなる。
「いいえ、違います。多感な少年期。だって初体験が酒飲んで騒いでいた親戚のオジサンだもの」
「近親相姦じゃねえか」
「ドンブリバチって大きな固い茶碗じゃない。あれが女の人のあれだって、その頃から今に到るまで思い続けてるの。生きてるし、でも血が通ってない。怖い話ッ」
「マスターは女の人、全部ドンブリバチ持っているって言うの?」
「ドンブリバチ、とか、お茶碗とかお皿とか」
「瀬戸物屋じゃねえか」
「お箸はどうするの?」
誰かが訊いた言葉に「福島の田舎の瀬戸物屋にお箸は売ってねえの」とマスターが答える。
「お箸ねえ、お箸は精神分析で何の象徴になるのかねェ」Jが言うと、酔いが廻り少し呂律《ろれつ》のおかしいエノちゃんが、「フー子やロラン子呼んで来たって、飯食べるしか使い道ねえって言うさ」と言い、「ねえ、ジュンイチロウさん」とJを呼ぶ。
「ロラン子っていい子だったわよねェ、日本語なんかひとつも分かりゃしないのに、可愛い子にぴったりとくっついて、じっと見つめてるの。あの子、あたしにもウィンクしたんだから。あたしにも言い寄ったんだから」
「あんたはいつもそう誤解してるのよ」マスターは言う。
「事故で死んじゃったって。フー子は病気で死んじゃったし、オシゲは投身自殺だし」
「あんたは?」マスターはめんどうくさげに訊く。
「あたしゃ、腹上死よ」エノちゃんが言うと、たちまち方々から「ケツ上死でしょ」「腹下死でしょ」と合の手が入る。
「いいわさ。どうせケツ上死で」エノちゃんは不意に涙声になる。「マスターが多感な少年期なんて言うからロラン子に言い寄られた頃、思い出しちまった。初体験、高校に入った時なんだから。友達と二人、山に行ったの。受験に合格したら、山へ行こうと約束してて。二人、合格したから、山へ行ったの」
「青姦?」Jが訊く。
「そう星の降る下で、青姦。二人でふざけあってて、二人共、ヘンになって来ちゃって、サプラーイズ」エノちゃんは歌うように言う。
「いいじゃない、ロマンチックじゃない」Jは言い、イーブを振り返り、「初体験どうだった?」と訊く。
「覚えてない」イーブは答える。
「初めてイッたから、何がなんだか分からない。友達の方は知ってたから、震えてる僕にものすごい優しい。相手はノンケだよ、ずっとノンケのままだった、僕の方はホモになった」
「流転の人生ね」誰かが言う。
「流転の人生の始まり」エノちゃんが言う。
「ああ、結構だ事。薔薇族どころかリボンとかマーガレットに載っている文部省推薦の少女漫画みたいじゃない。エノちゃんの初体験話、これで十二種類目なんだから」マスターが言う。「ここでうけた筋、そのまま書いて薔薇族の少年の部屋ってページに投稿するんだから、まともに取らない方がいい」
エノちゃんは「バレたか」と笑う。「マスターだって、ドンブリバチの話、サブとかサムソンとかに投稿しようと思っているんだからね」
「そう、エノちゃんはワカ専の薔薇族。編集者の眼をだまくらかすのが面白いんだって言うけど、エノちゃんのパターンって決まってるの。思春期の少年二人でしょ。一方は早生《わせ》で一方は晩生《おくて》。早生がノンケで晩生がホモ。何かの記念の日、二人っきりになる。ふざけっこしてホモ行為しちゃって、ノンケの方が優しいの。ホモの子の方に傷がのこって、それでホモになるの」
「マスターは」エノちゃんが言うと「わたしの方は」と自分で言い出す。
「近親相姦ってまでいかなくたって、お父さんのように慕っていたとか、町内会のおじさんとかって多いわね。薔薇族に投稿したら、一回目は載っけてくれたけど、二回目から没。だからもっぱらフケ専のサブとかサムソン。ここもパターンがあるの。エノちゃんの筋じゃ載っかんないわよ」
「あんな雑誌、趣味じゃないのッ」
「趣味よォ」
「どうせオイラ、宝塚だい。星菫路線だい。フンドシだとか縄だとかムチだとか、そんなのからっきし興味ねェ」
「でも、やる事は同じじゃないの」
マスターの言葉に科《しな》をつくってJが「違うわよう」と異をとなえ、顔を向けたエノちゃんと「ねェ」と声をそろえてうなずきあう。
イーブは席を立った。止り木の後ろを通って便所に行こうとすると、エノちゃんがイーブのジャケットのすそをつかまえ、「どこへ行くの?」と訊く。
「ちょっと」と答えると、「ちょっとじゃ分かんねェ、言え」と言うので「ションベン」と答えると、エノちゃんはマスターに「サブとかサムソンのポルノ小説のパターンって、これでしょ」と言い、ジャケットのすそを離す。
「どの小説だって、やって欲しいのか、やって欲しいって言うなら、はっきり何をやって欲しいか言えって科白が出て来るの。相手の方は羞かしがって、それでもじれて言うの、オカマって」
「あら、薔薇族だってそうよ、オカマって言ってるわよ」
「そうじゃねェの、小説のつくり」
「薔薇族は普通のハーレクインを男と男にしただけでしょ」
イーブは便所のドアを閉める。小便をするつもりで席を立ったわけではなかったが、小便をし、手を洗いながら鏡を見る。一瞬、自分がホモ雑誌の小説の主人公になり、鏡に姿が映っていない気がする。イーブは鏡に向けて笑をつくる。笑を浮かべた顔はポルノ小説の主人公にふさわしい。筋は喫茶店のボーイを誘惑するとか、ピザのデリバリー・ボーイを口説くというものだった。
イーブは笑を消して鏡に映ったサイボーグの美青年を見つめ、外に出る。誘惑し、骨抜きした喫茶店のボーイをつなぎとめるだけのように、便所のドアの脇にある電話の受話器を取り、ダイヤルを廻す。
「どこの彼氏に掛けるのよ?」エノちゃんが訊く。「薔薇族? サブ?」
呼び出し音を聴きながら、イーブは「分かんねェよ」と答える。しばらく呼び出し音が続き、いきなり「もう掛けて来ないでって言ってるでしょ」とアキラの声が飛び込んで来る。
「俺だよ、イーブだよ」イーブが声を出すと、「あッ」と短く声を出し、アキラは「どこにいるの、僕、死んじゃうよ。すぐ来てよォ」と言い出す。「本当にマグロになっちゃうから。本当にマグロにされちゃうんだから。あのブス女、イーブさんから電話なかったかって騒いでいる。昼ご飯も晩ご飯も食べてないんだから。電話だけ掛けて来て、お腹すいて死にそうだって言っても、知らんぷりだから」
アキラはイーブに何をしているのか? と訊いた。
「何にも」イーブが答えると、「仕事してるの? そばに穢いババアいるの?」と訊く。
イーブは暗にアキラを脅すように、(金)多摩霊園から三つ通りを渡った繁華街の一角の「シルクハット」という店にいると場所を正確に言うと、「やめてよ、僕がいると言うのに」とホモ雑誌のポルノ小説さながら、涙声になる。すぐ来てくれと哀願するアキラに「すぐは行けないさ。もうちょっと待て。食べ物、持ってってやるから」と答えると、エノちゃんが「やっぱ、薔薇族だわ。あたしの勝ちだわ」と言い、「部屋で吉野家の牛丼、土産に持って帰るのを、可愛い子が待ってるんだわさ」とからかう。
「誰? いま、吉野家の牛丼って言ったの?」アキラが訊く。「知らない」イーブが答える。
「今日のお客?」
「知らない」イーブは言う。
「僕、殺してやる」アキラはつぶやく。
「いいねェ、薔薇族なの」とマスターの冷かしを受けながらイーブは電話を切って席に戻った。Jが不満を煽られたように、イーブの膝に手を置く。
朝四時、Jと共に店を出てタクシーに乗った。イーブのマンションまで送っていくというのを断ると、Jはそれなら逆に自分を送れと言う。公園を一周する形でJのマンションの前に着き、Jを降ろし、イーブはそのまま行きつけのサウナに行った。
受付の男が、イーブの顔を見て「誰も来てませんよ」と言う。
「誰だよ」ロッカーの鍵をもらい受けながら、イーブは訊く。
男は「これ」と頬に人差し指を当てて刀傷がついたヤクザの合図をやり、イーブが「ああ、あいつか」とうなずくと、ジゴロ商売の中身を知っているというように「大変ですね」と言う。
「まあな」イーブは体から男の匂いが立ちのぼる気がして、顔をしかめながらロッカーの方に歩く。ロッカーの前で裸になり、そのままサウナの洗い場の方に歩く。
掛け湯もせず、湯舟に飛び込み、湯の熱さに耐えながら、何度そうやって〈白豚〉や〈黒豚〉の匂いを洗ったのだろうと数え、熱い湯に〈白豚〉や〈黒豚〉の体液が溶け込んでいる気がし、いたたまれなくなって起き上がった。
早朝の事なので洗い場に誰もいない。イーブは湯の中を歩いて、湯舟の縁の水道の前に立ち、身を屈めて蛇口から直《じか》に水を飲む。二度、三度、水を飲み干し、人が来た気配に顔を上げる。誰もいない。洗い場の鏡に、反対側の洗い場の鏡に映ったイーブの背中と尻が映っている。
湯から上がり、シャワーを使い、備え付けの石鹸で体を洗いながら、さっき別れたばかりのJがマンションの浴室で同じように体を洗っているのを想像した。〈白豚〉も〈黒豚〉もジゴロとの性愛はその場かぎりだと思っている。体に立った泡が消えるように熱いシャワーを浴びれば記憶は消える。Jはイーブのように鼻歌をうたっている。イーブは濡れた裸のままサウナ室に歩いた。
電話だとサウナの従業員に揺すり起こされ、従業員専用の電話に歩きかかり、ふと時計を見ると十一時を廻っていた。受話器を取りながら、昨夜、アキラが空腹を訴えていたのを思い出し、マンションに寄る、寄らない、どっちが送って行くとJともみあって、ころりとチョン子の部屋で寝たままの空腹のアキラを忘れていたのに気づき、頭をかきながら、受話器に「俺だけど」と答えると、「おまえ、いい玉だよな」とイヤさんの声がする。「おまえ、このガキ、どうするんだよ。朝からここへ来て騒いでるの」
「誰だよ?」
「誰って、名前知らないけど、あのガキだよ」イヤさんは言い、「アキラか?」とイーブが言うと、「誰でもいいけど、すぐに連れに来いや」と返事も聴かず電話を切る。
イーブは一瞬、前後の脈絡がつかなかった。眠りこけていたビーチ・チェアに戻り、仰むけに身を横たえ、眠りながら見ていた夢をもう一度見ようと眼を閉じ、チョン子に訴えイーブに訴えたのに聴いてもらえず、空腹にいたたまれなくなったアキラが、拳銃で撃たれ痛む脚を引きずりながら、繁華街の中にあるイヤさんの事務所に押しかけたのだ、と気づき、イーブは跳ね起きる。跳ね起きてみて、イヤさんの、痛いから尻から性器を抜けと怒った顔を思い出し、アキラがイヤさんの事務所にいるのは、イヤさんの策略のように思えて急ごうとする気が萎える。
イーブはタオルを腰に巻いたままサウナ室に入る。熱気に息を詰め、腰を下ろす場所を捜す。男がイーブの顔を見て席一つ分、腰をずらす。イーブは腰を下ろそうとして躊躇し、サウナ室の熱さにこらえかねるように眼を閉じて息を詰め、男の脇に坐った。
ジゴロ商売を始める前、行き場のなかったターと二人、毎日サウナに泊り込んだ。男が男の裸を鑑賞する事も性の相手として誘う事もイーブは知らなかった。腕を伝い、指先を伝い流れ落ちる汗を見つめ、イーブは自分を蜘蛛の巣にかかった羽虫のような気がし、何も見たくないと眼を閉じる。都会にはあらゆる形の蜘蛛がいる。
腰を一つずらした脇の男が、「今日は特別に熱いんじゃないの」と声を出す。「百十度か。いつもより三度か四度高いな」
眼を閉じたまま耳にすると、男の口調に微かに〈黒豚〉特有の粘りがあるのが分かる。イーブはやり過ごそうと眼を開けない。
前の椅子に坐った素裸の男ら三人、小声でラグビーの話をし、〈黒豚〉の類ではさらさらないのに声を殺して〈黒豚〉のように笑う。「熱いっ、熱いっ」隣の男がことさら言って立ち上がる。
ドアが開けられ、熱風がサウナ室をかきまわすのを感じてイーブは眼を開け、サウナ室に残った男らを見廻す。十三人の男のうち、〈黒豚〉か〈黒豚〉の類の者三人、イーブと同じジゴロ商売の男一人、イーブは見つけ出す。ジゴロ商売の男はイーブの視線に気づいて、眼をあらぬ方に這わす。ジゴロ商売の男が、男を誘う為に体を鍛えた〈黒豚〉の類だとイーブを誤解したのだと気づき、苦笑する。
熱さに眼が眩みながら、イーブは容貌にしろ、体の線にしろ、自分はジゴロ商売の男とは比べ物にならない、と思い、サウナ室にいる男らをすべて誘うように、「さあ、冷いプールに飛び込むぞ」と声を出し、立ち上がって男らの注視を受けながらドアを開ける。
先に出た男が熱で赫い体をビーチ・チェアに横たえ、サウナ室から出て来たイーブを見た。イーブの後からラグビーの話をしていた素裸の男が三人出て来た。男と素裸の三人の男らに見られながら、腰のバスタオルを取り、イーブは冷水プールに頭から飛び込んだ。
十七
事務所のドアを開けた途端、イヤさんが椅子から立ち上がり、「あれから何時間かかったんだよ」と言う。
「眠っちまってよ」イーブは言う。
「眠ったっての言い訳だと思ってるのか」イヤさんは言い、ソファに眠っているアキラをあごで差す。アキラの胸元に中身の入ったフライドポテトの袋があり、床に三個ハンバーガーの箱が転がっている。
「うるさいガキだぜ、まったく。鮨買って来たら食いたくねえって言うし、タコ焼かって訊いたら違うって言う。ハンバーガーだって言うんで買いに行かしたら、メーカーが違うって言う。買い直しに行かせたら、やっと機嫌直して、三個喰っちまったら、コトンと落ちやがったよ。あと一時間、おまえが来るの遅かったら、こいつ、うちの若い衆らに夢の島に棄てられてるぜ」イヤさんはそう言い、イーブに「おまえ、また昨夜も商売したのか?」と訊く。
イーブはうなずく。
「女か?」イヤさんは訊き、イーブが答えないと、「また男かよ」と言う。
イーブがうなずくと、イヤさんは軽蔑するというように鼻で吹き、「病気にかかるなよな。悪い病気が流行ってるからよ」と笑う。
そのイヤさんの笑がイーブは気に喰わなかった。アキラの投げ出した脚に触らないようにソファの端に腰掛けるなり、居合わせるイヤさんとイヤさんの組の若い衆二人の度胆を抜くようにジャケットのポケットから札束を取り出し、「イヤさんの取り分だから取っといていいよ」と無造作に投げた。
イヤさんは頓狂な声を出し、「昨夜、かちあげたのか?」と訊く。
「昨夜の稼ぎ」イーブは言う。
「これを分け前にくれるって?」イヤさんにまたイーブはうなずく。
イヤさんは札束をぱらぱらとめくり、「ほッほッ、百万だぜ、百万」と言い、イーブに「本当にかまわないんだな」と訊き、組の若い衆二人を手招きし、「ほら、おまえらにもやる」と二十万ずつ数えて渡す。「いい稼ぎ頭じゃねえか、ソープやファッションのチンケなアマッ子なんかより、よっぽど稼ぎがいいぜ」
若い衆二人に渡した金の残りをイヤさんは声を出して数え、五十二まで来て、「これは驚いた、ちょっきり六十万ある」と言って札束をポケットに納い、イーブを見て、「どうやって脅した?」と訊く。イーブが言い渋ると、「まァ、言わなくっていいさ。こっちはプロだ。おまえの遣り口くらい、分からァ」と言い、ふっと笑を浮かべ、片眼を瞑《つむ》り、「俺とおまえの仲だ、今日は俺らのシマでパッと派手に行くか」と言う。
イヤさんと夜の七時に会う約束をし、若い衆二人に担がせて眠り込んでいるアキラをタクシーに乗せ、イーブのマンションに運ぶ事にした。若い衆二人に両脇から抱えられるとアキラは半眼を開けたが、睡魔に抗《あらが》えないらしく眼を閉じ、ぐったりと力ない。階段を降りかかり、傷のある左脚が当たると、呂律《ろれつ》の廻らない舌で譫言のように「痛くしないで」とつぶやく。
「たっぷりクスリ飲ませてるからよ。こいつ、普通の女の子の、三倍、喰ってるからよ、めんどうくさかったらどこに放り出してやっても分かりはしないって」タクシーに乗り込んだイーブにイヤさんは言う。
若い衆二人がタクシーに乗り込まないのを見て、「何だ、部屋へ運ぶのどうする?」とイーブが不平を言うと、若い衆二人はイヤさんの顔を見る。イヤさんは無言のまま、同行してやれと言うようにあごをしゃくる。若い衆二人は渋々とタクシーの助手席に乗る。
アキラをイーブの部屋の長椅子に寝かせ、イーブは改めてシャワーを浴び、営業用のコロンを裸につけ、衣服を着替えた。外出の準備が整い、アキラを揺り起こしたが起きないので約束の七時ぎりぎりまで寝かせてやろうと決め、その間にたまった洗濯物の仕分けをした。クリーニングに出す物とコインランドリーで洗う物。仕分けを終り、イーブはステレオをつけた。ロックが流れ出した。ロックのリズムに解きほぐされるように、気分が軽くなり、イーブは部屋の窓を開ける。
窓を開けた途端、下の通りから軍歌が聴こえ、眼ざめたアキラの声がする。「ここ、どこ?」アキラは訊く。
イーブはアキラの前に立つ。「これからちょっと用事に行くけど、ここで待てるよな」
イーブが言うと、アキラは何を思ったのか、「嘘っ」と叫んで起き上がりかかり、脚の傷が痛いと呻く。
「これからちょっと外へ行ってくるから」イーブが言い直すと、アキラはやっと眠りからさめたように、「ああ、イーブ」と名を呼び、「ここ、イーブの部屋?」と訊く。
「そうだ」とイーブが答えると、「眠りながらずっと分かっていた」とつぶやく。「髪、洗って、ドライヤーで乾かして、オーデコロンつけてる間、ずっと歌ってるの。何て歌か分からない。僕は自分が殺されてると思ってた。眠りながら、ヤクザのあのハンバーガーに毒入ってたんだと思ってた」
「この部屋で待ってられるだろ?」イーブが訊くとアキラは「僕も行く」と身を起こしにかかる。痛みに声を上げ、イーブに体を起こしてくれと手を差し出す。
手を引きながら、「自分で起き上がれないだろ、立てないし、歩けない。どうやって一緒に外に行く」とイーブが言うと、アキラは「僕をこんなにしたの、イーブさんじゃないか。責任取ってよ」と言い、「イーブさん、これ」とズボンのポケットから手帳のようなものを取り出して見せる。
「あの部屋にあったの。中を開いてみたら、これ」とアキラは手帳のようなものを開き、二枚の写真を見せる。
片方の頁に、大型トレーラーを背景にしたイーブとターが写り、片方にスナックの開店祝いに出たイーブとチョン子の頬寄せあった写真がある。
「引出しの中にあったから、持って来た。ずっと昔の写真でしょ? 足痛いし、お腹すいたし、それでこれを見つけてすごい腹立って、イーブさんにもこのブス女にも絶対復讐するって、これ、盗《ぎ》って来た。この野郎が一等憎たらしいんだからね」アキラは写真のイーブを指で弾《はじ》く。
「この野郎って、人間じゃないんだから。人を玩具だと思ってる」
「そいつは逆に人が自分を玩具にすると思ってるよ。ジゴロって玩具だぜ」
「じゃあ、僕の玩具になってもいいじゃない」
イーブは苦笑する。「俺を買うって?」
アキラはイーブを見つめる。「僕に売るの?」
イーブは「売らねえよ」とつぶやく。「もう自分を売るのはいいよ。金も余るほど貯《た》まったしよ」イーブはそう言って時計を見た。七時までにまだ一時間半ほどある。「話してやろうか、なんでジゴロの商売するようになったかって」イーブはソファに腰を下ろす。
アキラはイーブを見つめ、うなずく。イーブはアキラの真顔を見て、「シルクハット」で薔薇族だとからかわれたのを思い出し、性の快楽を売るジゴロ商売に何の大仰な理屈もありはしないと笑い、「そりゃあ、セックス好きだからさ」と言う。
「ああだこうだって言ったって、セックス好きなのさ。気持ちいい事、好きなのさ。女だって男だっていい。若くたって齢喰ってたっていい。本当は、好きと言うだけ。チョン子と組んで商売はじめたの、二人共、セックス好きだからなんだ。あいつは気違いじみたセックス好き。一緒にいるだろ、あいつ、俺のを夜中握って離さない。一晩中、しゃぶって舐めて吸って、チンポコの匂いも好きなんだって。俺が眠れないからいい加減にしろと体どけたら、怒って俺を引っかく。ジゴロ商売で女も男も相手にしたけれど、あんな奴、いないよ。あいつに比べたら、みんな淡白なもんだよ。あいつも俺がセックス大好きだと知っている」
「僕だって知ってるよ」
「アキラだって知ってる。イヤさんだって知ってる」
「イヤさんともホモやったの?」アキラが訊く。
イーブは苦笑する。「誰とでも俺はセックスするさ」イーブはうそぶく。そんな筋が「シルクハット」のマスターらの言う薔薇族のポルノ小説にあったかどうか知らなかったが、セックスが好きで好きでしょうがないから、外で誰と何するか分からないとアキラを説得して部屋で待たせ、七時きっかりに事務所に着いた。
イヤさんはイーブの顔を見るなり、「行くか」と言い、事務所に入りかかったイーブの体を外に圧し戻し、振り返って若い衆らに「ガサ入れがあったっておたおたするんじゃないぞ」と言い置き、事務所のドアを閉める。
「また拳銃《チヤカ》振り廻して、向こうで暴れて来た若いのがいてな」イアさんは階段を先に降りるイーブに言い、一等下の階段から往来に出たイーブが立ち止まると、後ろから来て脇に立つはずみに尻を撫ぜ「まったくいい尻してるぜ」と耳元でささやく。
「前じゃなくって尻がいいってか?」イーブが訊き直すと、「タンマ、タンマ。今夜はもう、そっちの話は休み」と手を振り、「せっかくこんな俺に貢いでくれた金だから、綺麗に使わないとな」と真顔で言う。
繁華街をどっちの方に向かうのだと訊くように左右を見廻すイーブに、「まかせとけって。自分のシマで行方不明になる事ないって」と言い、先に立って歩き出す。
何人もの男がイヤさんに挨拶した。その都度、イヤさんは言葉にならない掛け声のようなものを返し、突き当たりの花屋が荷をほどいたビルの中に入り、ビルのエレベーターの脇の鏡に姿を映し、後ろから来たイーブが並んで立つのを見て、「見てみろ。二人共、いい男じゃねえか」と言う。
「極道の世界に置いておくの、もったいない」
「ジゴロでもやるか?」
「ジゴロもいいよな。好きなのだけ選べりゃ」
エレベーターが降りて来て、イヤさんとイーブは二人乗った。イヤさんは十二階のボタンを押した。エレベーターの壁の店舗案内に「ミス・ユニヴァース」とあった。エレベーターを降り、「ミス・ユニヴァース」のドアを開けた途端、イーブは立ちすくむ。
周囲が鏡張りの店内にミラーボールが廻り、光をまき散らし、鏡にくっつけられた椅子に女らが思い思いの衣裳で腰掛け、店に入って来たイヤさんとイーブを見て一斉《いつせい》に声を掛ける。一眼で「ミス・ユニヴァース」の店内にいる四十人ほどの女らが、世界の方々から集まった売春婦なのが見て取れた。白人もいれば黒人もいる。褐色のフィリピン娘もいれば、チマチョゴリの韓国娘もいる。
女らは一時、それぞれの国の言葉で客に「いらっしゃいませ」と言い、そこが往来と変わらないというように、そばに歩み寄ったイヤさんとイーブに「あなた、あなた」と呼び、指を曲げて手招きし、立ち上がって尻を突き出して媚を売り、「わたし、グッド、わたし、グッド」と自分を売り込む。
イヤさんが、尻を突き出して振って媚を売る金髪女の尻を触ると、隣の短パン姿のフィリピン娘も、チマチョゴリの韓国娘も尻を突き出す。イヤさんは「分かった、分かった」と言い、フィリピン娘と韓国娘の尻を撫ぜる。
イヤさんと反対側から女を物色しながら歩きはじめたイーブはラテン系の白人娘に腕をつかまれ、「わたし、わたし」と言い募られる。その白人娘の手を払うと、次にチャイナドレスの中国娘が、ショーのスポットライトが自分に当たったというように椅子から立って片足を椅子に掛けて、割れた脇から太腿を見せる。
何語なのか分からない声がとび交い、その声の合い間から、イヤさんが「適当なのを二、三人な」とイーブに声を掛ける。
イーブは眼移りがした。赤毛の白人娘もよいし、チャイナドレスの中国娘も捨てがたい。結局、イーブは白人娘を二人と中国娘を選び、イヤさんは大柄な褐色の肌のブラジル娘と少年のようなフィリピン娘を選び、鏡張りの向こうのボックス席に着いた。
イヤさんは選んだ五人が来る間に、「三人いっしょにやるのか?」と訊く。イーブが「分かんねえな」と首を傾《かし》げると、「やっちまったらどうだ」と持ち掛ける。
「どうやるんだよ、三対一で」イーブが訊くと、イヤさんは少年のように両の手を広げ、「こうだろ」と指を絡めてみせ、「こんなもの車の運転と同じだぜ、学科いくらやったって乗ってみなくちゃ、何にも分かんねえぜ」と苦笑する。
「二輪車ならあるけどな」
「一輪車は?」イヤさんが訊く。
「男二人と女一人か?」イーブが訊き返すとイヤさんは好奇心に満ちた眼を向ける。イヤさんの好奇心を煽るように、「二本一緒じゃ、これくらいの太さだろ?」と両手で円をつくり、「いっぺんに突っ込んだ事、ある」と言う。
「最初、騎乗位でやってるだろ。ころあいを見て、女をかがませて、ゆっくり後一本入れさせる」
イヤさんがイーブの耳に口を寄せ、「今日、やろうか?」と誘う。
イーブは「いいって」と断る。「イヤさんのナニの真珠、俺のに当たったら痛そうだし」
すぐに五人の娘らはボックスに来た。「ほら、誰、置いてけぼり喰ったって怨みっこなしなようにな」イヤさんは五人の娘に一万円ずつチップを配った。ブラジル娘を右側、フィリピン娘を左側に置いてイヤさんは二人に「セックス、グッド?」と訊く。
イーブは両脇を白人娘にはさまれ、両耳に呪文のような言葉をささやきかけられる。中国娘は手持ちぶさただった。中国娘は氷を入れたアイスボックスを氷挟みで突つき、ふと喉が渇いたというように氷のかけらを指でつかみ、隠すようにして口に放り込んだ。白人娘が両耳を舐めるのに眼を閉じ、中国娘の口の中を冷す氷を想い描き、イーブは不意に性衝動に駆られる。
イヤさんがブラジル娘を返し、イーブに「どの娘にする?」と訊いた。イーブは三人共連れて行くと言った。「ミス・ユニヴァース」の紹介のホテルは坂を登った歓楽街の真っただ中にあった。最初、フロントの従業員は渋ったが、白人娘が声を掛けると、すぐに鍵を渡してくれた。
白人娘二人はキャシー、マギーと名乗った。キャシーとマギーがバスタブの湯を張りに行った間に名を訊ねると、中国娘はファ・チンと名乗り、唖のようにイーブの手を取り、ベッドの枕元のコンピューター操作のスイッチを押してみろ、と言った。イーブがスイッチの一つを押すと、いきなりべッドが波打つ。次のスイッチを押すと回転しはじめ、さらに下のスイッチを押すとベッドはゆっくり前後に揺れる。
中国娘のファ・チンは遊園地の乗物に乗った子供のように笑い、寝転んだイーブの手を取り、他のスイッチも押してみろと言う。VTRとあるスイッチを見つけ、イーブは部屋の大型テレビを見ていろと指差し、魔術がとび出すように待ち受けるファ・チンの顔を見ながら、スイッチを押す。
ファ・チンが声を上げる。テレビを見て間髪を入れず現われたのが、獲物を捕食する昆虫の顔のような大写しの性器の結合場面だったのに気づき、予期していた事だが、イーブも驚き、ファ・チンの顔を見る。ファ・チンの顔を見ながら、イーブは乳房に手をのばした。下にブラジャーをつけていない乳房は絹の中国服の上から小ぶりの房も小さめの乳首もはっきりと分かる。
イーブは、ファ・チンが喉が渇いたように微かに口を開けるのを見た。小鼻が開く。ファ・チンは乳房を撫ぜるイーブの手を押え、不意にイーブの顔を見、イーブが笑をつくると眼を閉じて顔を寄せる。
イーブはファ・チンの性の技倆を確かめるように接吻し、舌をゆっくり差し入れる。ファ・チンの舌がイーブの舌に絡みかかった時、白人娘のキャシーが「ミス・ユニヴァース」で名乗った名前を覚えていたらしく「イーブ、オーケーよ」と浴室から出て来る。
唇を離そうとするファ・チンの首を抱え、キスをしたまま立ち上がると、キャシーが無言でイーブの商売用のジャケットを脱がしにかかる。ファ・チンの首を抱えたままではジャケットを脱げないので腕を離すとファ・チンは唇を離し、ベッドの上にひざまずき、イーブの靴下を脱がせにかかる。ジャケットを脱がせたキャシーが右耳に舌を這わせ、ねじったイーブの唇を捉え、吸う。
イーブの腰に誰か手を廻す者がいた。ベルトがはずされ、ズボンのホックがはずされ、ジッパーが下げられる。ファ・チンか浴室から戻った白人娘のマギーかもしれなかった。誰かの手がイーブのスキャンティからはみ出た性器を握った。二度、三度、撫ぜられ、スキャンティが下ろされる。キャシーの手がシャツのボタンにかかる。
三人の娘の裸は三様に違った。洗い場で三人の手で石鹸を塗りたくられ、冗談でやっているのか、日本に来て誰かに娼婦の技巧の一つとして教えられたのか、キャシーとマギーは石鹸を塗りたくった両の膝にそれぞれまたがり股間の柔らかい内側で膝をこすり、声を上げた。女同士、時々、乳房を手をのばして触り合い、身をよじり、ファ・チンがこの上なく丁寧な手つきで洗っているイーブの股間に手をのばし、性器を撫ぜる。白人娘二人が股間で膝を洗ってくれるのだったら、ファ・チンにソープランドでやる性器の壺洗いをやってもらいたかったが、手ぶり、身ぶりを加えれば加えるほど、性の遊戯に昂ぶり、こらえきれなくなって腰を使って性交し、射精したくなったと誤解される。
イーブは四つん這いになるファ・チンに、「違う、違う」と手を振る。そのファ・チンを三人のうち一等能動的なキャシーが、イーブの意向を受けたように後ろからのしかかり、圧えつけた。猿が儀礼で後ろから弱い猿にのしかかり腰を使うように、キャシーは自分が男のイーブだというように尻笑窪を作りながらファ・チンの上で笑いながら腰を使う。ファ・チンが屈辱を感じたというように呻き、身を反転させると、キャシーはファ・チンの乳房に乳房を押しつけ、身を蛇のように左右にくねらせる。
マギーがイーブに湯舟に入れと手まねする。イーブは立ち上がる。マギーがイーブを待てと止める。しゃがんで勃起した性器をつかんだままイーブを見上げ、右手で二度湯をすくって石鹸のあぶくを落とし、口を開け、大きく舌を出し、性器を舐める。舌は性器の裏から表に這い上がる。
イーブはマギーの金髪をつかむ。マギーの女陰の金髪が体をずらすとしゃがんだ股間からのぞける。浅い湯舟に入り、イーブに従《つ》いて入って来るマギーを立たせ、キャシーとファ・チンが股間と股間を圧しつけ合い、こすり合い、足を卍に絡めながらなお上半身で抱き合おうとして身をよじるのを見、イーブはマギーの女陰を舐めた。
ジゴロを商売とし、ごく自然に女の快楽の欲求についていけるイーブにしては、女に舐めてもらえば舐めるのは当たり前の事だったが、マギーは客にされるのが不意打ちに等しかったらしく、声を上げる。乳房を自分の手でもみ、ダンサーのように身をよじり、舌が花弁を広げ、すくい上げ、色素の薄い桃色の真珠のような突起に当たるとかたかたと体を痙攣させる。
そのマギーをベッドに誘ったのはイーブだった。ベッドに倒れるなり、イーブは何の技巧も弄さず、そのまま待ち受けるマギーの中に入り、大声を出し身を振るのに合わせて出し入れし、そのうちあっけなくマギーの方に昂まりが来る。マギーはイーブの首にしがみつく。しがみつかれたままイーブは動き続け、声を聴きつけて浴室から出て来たキャシーとファ・チンに笑いかけ、ぐったりとして動かないマギーを見ろと合図する。
マギーを離し、ファ・チンの体を抱き、二人の脇に跪いたキャシーに乳房を嬲れと勧めるが、キャシーは「ノー、ノー」と抗い、ファ・チンを抱くイーブの腕をほどき、自分の乳房に持ってこようとする。イーブは腰を一突きすれば挿入出来る位置にあるファ・チンが女同士で遊んだので前戯は要らないと思い、身を起こし、キャシーの乳房を撫ぜ、昂ぶったキャシーに舌を深々と入れるキスをしながら、ファ・チンに挿入する。ファ・チンは声を上げる。その声を耳にしながら、キャシーの性急な欲求に噛んでふくめるというように、舌を細かく震わせて舌をこすり、歯茎の裏を舐める丁寧なキスをする。ファ・チンはイーブの腰の動きに合わせて腰を使い、大きく波を打つように動くと身をそらしはじめるのを知り、キャシーに横に寝ろと手まねする。
キャシーは分からない。一人脇から離れろと言われたように、「ノー、ノー」とまた首を振り、イーブの耳を舐めにかかる。イーブはくすぐったさのあまり、キャシーの体を抱き寄せる。中腰だったキャシーの脚がファ・チンに当たりかかり、キャシーはファ・チンをまたぐ格好になる。キャシーは躊躇なくファ・チンの胸に股間を下ろした。イーブはファ・チンに押しつけたキャシーの股間に手をのばし、女陰をさぐる。柔らかいひだがめくれ、ファ・チンの乳首が小さな男の性器のようにキャシーの股間に当たっているのが分かる。イーブは右手で乳首をつかみ、キャシーの性器を指の腹で撫ぜ、左手でキャシーの乳房をつかみ、乳首を指ではさんだ。キャシーが声を上げ、「イーブ」と呼び、そのままの姿勢でキスを求めた。イーブはキスをする。キスをし、焦れるようにキャシーが舌を吸うのを知って、キャシーの中にも入れたいと思い、イーブは足を投げ出し、キャシーを抱き寄せ、そのままゆっくり仰むけに倒れる。キャシーはイーブの上にまたがり、ファ・チンの女陰からはずれかかった性器に手をそえ、イーブが腰を引いて抜くや、本来は自分の中にまっ先に入るものだったというように股間にあてがい腰を沈める。
キャシーは誰よりも声が大きかった。キャシーは腰を振り続け、あっという間にのぼりつめる。
十八
キャシーの金髪が撫ぜる手の中で揺れる度に、イーブは糸のように細やかな髪をおさえた。キャシーが何故、イーブの手が乳房を愛撫しないで髪を撫ぜているのか問うように視線を投げる。イーブは男の歓楽がそこを中心にせり上がって来るのだと伝えるように笑を浮かべ、ウィンクを返す。唇が性器の表を這い、舌が、性器の真中を断ち割るように伸びて膨らんだ、性器の中心のその中心がそこだと言うように、鼓動を伝える尿道管の部分に沿ってゆっくりと這い上がる。イーブは短く声を上げる。キャシーはイーブを独占し、支配しているのを、マギーにも、ファ・チンにも誇示するように舐める舌に力を込める。キャシーの舌ではなく黄金色の髪がイーブを昂ぶらせる。イーブは股間にうずくまる金髪を撫ぜる。キャシーは顔を上げる。
イーブはまたウィンクする。そのウィンク一つでキャシーは何の言葉を言わなくとも、東洋人より白い肌を持ち黄金の髪の毛を持って生まれた事をほめられ、キャシー自身も自慢し、イーブを快楽の極みに運ぶのは自分以外にないという得意げな顔をし、口を大きく開け、イーブの性器を舐めにかかる。イーブはキャシーの腰を上げさせる。
寝転んだイーブの顔の上に、キャシーの白い股間がある。イーブの顔の鼻の上にキャシーの髪の毛と同じ色の、だが東洋の女に比較すれば薄い黄金色の陰毛がある。それがかくそうにもかくせない女陰は、まるで小さな弱い生き物のように微かに口を開けている。
イーブはキャシーの舌の動きに合わせて、女陰に唇をつける。キャシーの匂いと浴室で遊んだ名残りのような石鹸の匂いが、女陰に舌を這わせる度に鼻腔に広がる。イーブは安堵する。微かな異臭はジゴロのイーブを救う。イーブはキャシーの花弁に埋もれた真珠のような突起を舌でゆっくり押し包み、瞬間にチョン子の顔を思い出す。
眠り続けているイーブを舌で愛撫し、チョン子はふとイーブの性器の匂いに気づいたように怒る。
「あんたの匂い? 女の匂い?」チョン子は訊く。
「分からないの大嫌い。イーブのなら、いい。そうでないなら、大嫌い」
イーブはチョン子に股間を抑えつけられ、性器を両手で握られたまま、「おまえの匂いの他に誰がつく」と髪を撫ぜてなだめ、暗黙のうちに、金の為に〈白豚〉や〈黒豚〉の相手をしている、心はおまえ以外に移った事はないと言うように、チョン子が這わす舌に合わせて声を出す。イーブはチョン子に応じるように、キャシーが得意げに舌を這わせる度に声を出す。そのイーブの声がマギーとファ・チンの欲情に火を点けたようだった。
最初、キャシーがイーブを誘った。それで体位を変え、キャシーが下になり、イーブが上になった。喉の奥深くまでイーブの性器を受け入れた仰むけのキャシーが何を言ったのか、最初、ファ・チンがイーブの尻に口づけする。そのファ・チンがすぐ脇にどかされ、マギーがイーブの右の尻の肉に口をつけ、ゆっくりと舌を動かし、キャシーに性器を咥えさす事に急で無防備そのもののイーブの尻の穴に、不意に唇を移す。イーブは驚き、自制を失って性器を含んだキャシーの喉奥深く性器を突き立てる。
キャシーは声を上げたが耐える。マギーの舌は動く。
イーブは声を上げる。イーブは腰を左右に振る。
舌は離れない。尻の穴を舐める舌は、腰を左右に振るイーブに、遠い昔、何の間違いをしても罰する事のなかった母親のようにゆっくりと動き、イーブが抗《あらが》いを止め、力を抜くと、舌の先を錐のようにとがらせ、尻の穴を突く。
キャシーはマギーの舌の動きに合わせてイーブの性器を舐める。そのイーブの前に大きく股を開いたマギーの黄金色の陰毛におおわれた股間がある。その股間にイーブは顔を埋めようとして不意にファ・チンに止められる。
ジゴロの習い性を出す事は要らない、三人の娼婦の客として技巧の快楽を味わえばよいとイーブを説得するように、ファ・チンは首を振りながら、イーブの胸に手をのばし、あるかないかの乳首をつまむ。ファ・チンは仰むけに寝たキャシーをまたいでイーブの前に中腰になり、イーブの両の乳首を嬲り、尻を舐められ、性器を舐められているイーブの体にもぐり込むような形で、固くなった乳首を舐めようと唇をつけ、舌を這わせた。錐のようにとがった舌が尻の穴を突き、もう一つの舌が性器の先をくすぐり、ファ・チンの舌が乳首を吸いはじめ、一瞬、昂ぶり、イーブは粗相をするように声を上げて果てる。
ジゴロ商売なら夜が明けないうちから客から解放される事はありえなかった。午前三時、イーブは言葉の通じない三人に、時間が早いかもしれないが、これで帰れ、客の俺は満足したと伝え、一人ホテルを出た。
ファ・チンが先に立ったイーブを呼び止め、「わたし、わたし」と言う。イーブは首を振る。キャシーとマギーがイーブに取りすがるファ・チンに苦笑し、揃いのような小さなバッグを肩にかけ直して「アイゴー、ユーゴー」と言う。腕に取りすがったファ・チンの髪を撫ぜ、イーブはイヤさんの泊ったホテルの方を指差し、「ヒーゴー、ユーゴー、アイゴー」と、人が聴けば何の意味か分からない呪文のような言葉を言う。
キャシーとマギーは「イエース、イエース」とうなずき、ファ・チンに「レッツゴー」と呼び掛ける。ファ・チンはイーブの腕を一層強く抱き、「ノー」と首を振る。ファ・チンが何を目論んでいるのか分からなかった。
イーブはファ・チンを連れ、イヤさんの組の若い衆らが出入りする終夜営業の喫茶店に行った。自動扉が開くと、すぐ脇の鳥籠からぬいぐるみのようなオウムが「いらっしゃいませ」と声を出し、その声を合図に奥にたむろしていた店員が、あきらかに日本人の発音ではないと分かる声で、オウムと同じ言葉を言う。
イーブは腕に取りすがったままのファ・チンを見る。ファ・チンは言葉の訛を聴いただけで同じ国の人間はいないと分かったのか、それともイーブに熱心のあまり従業員なぞ眼中にないのか関心も示さず、壁際の席に坐ろうと指差す。
肌の黒いパキスタン人の従業員がオウムよりひどい訛で「いらっしゃいませ」と言い、その言葉のおかしさに釣られるように、トランプ・ゲームの機械に没頭していた女が顔を上げ、「イセキヤ」と声を出す。イーブは驚いたが、手を上げて挨拶する。女は最後の賭けを張るように機械のボタンを押し、負けだという機械の音を聴いて席を立ち「すぐ彼女来る。逃げたら、わたし怒られるから」と訛の強い言葉で言う。
イーブは、立った女がチョン子の友達なのを見て、照れ隠しのように「どうした?」と声を掛け、ファ・チンを席に坐らせるのを見て、女は店員を呼ぶ。色の黒いパキスタン人の従業員が近寄ると、女は違うと手を振り、カウンターに陣取って、七人いる従業員の指揮をしている日本人の従業員を呼ぶ。女は、日本人の従業員にトランプ・ゲームの機械を指差し、一言、二言つぶやいてから、赤いハンドバッグをかき抱く。
日本人の従業員はレジの方へ歩く。飲みかけのコーラのグラスを持ち、煙草の箱を持ち、盆に置いてあった吸いさしの煙草を指にはさみ、それで手いっぱいなのに、レシートを取ろうとして、やっと気づいたようにパキスタン人の従業員に「持って」と声を掛け、イーブとファ・チンの方に歩いて来る。女はファ・チンの持っている小さなバッグを見て、娼婦だと一目で見抜いたようだった。
ファ・チンに声も掛けず、イーブの隣に坐り、脇にはさんだ赤いハンドバッグをイーブに取ってくれと身をよじる。イーブがハンドバッグを受け取ると、やっと言葉が自由に使えるというように、右手のコーラのグラスをテーブルに置き、左手の赤い煙草の箱を落とし、指にはさんだ吸いさしを右手で取り、灰皿で消し、「どこへ行ってた?」と訊く。イーブが答えるより先に女が「ほら来た」と言い、方々から掛かる従業員の訛ある声の中をかき分けるように歩いて来るチョン子を教える。チョン子は、そこにイーブが居るのをあらかじめ分かっていたように見つめ、一直線に歩いて来る。
脇に立って物を言いかかり、日本人の従業員がレジから戻り、一万円札を扇形に広げ、「十五万ね」と女に差し出したのに機先を制されて苛立つように、従業員の持った金を取り上げ、「この女にゲームさせたら、この店、破算するよ」と言い、女の了解も取らず一万円札を一枚、従業員に「ほら、チップ上げるから」と渡す。
「大変だよねェ、夜中、言葉のトンチンカンなの使って、客扱ってるんだから」
チョン子は女に金を渡し、イーブの脇から席を移れと言う。女は中腰のままテーブルに手をつき、中国娘のファ・チンの脇に移る。
「タメよ、パボよ、こんな女にゲームさせるの。この女、どこのゲームでも勝つ。勝って勝ってこの女、一晩ゲームやらせていたら、店の金すっからかんだわ。コーヒー一杯売って幾らでしょ、コーラ一本売って三百円? そんなもうけ、この女、一晩でふっ飛ばしちゃう」
「千円使ったんよ」
「千円?」チョン子は大仰にあきれ顔をつくり、ファ・チンに「千円で十五万買うんだから不公平だよね」と話しかけ、ファ・チンが曖昧な笑を浮かべ、救けを求めるようにイーブに視線を投げるのを見て、「この子もトンチンカンの一人なんだ」とイーブに話しかける。
イーブは黙ったままチョン子におしぼりを取り、袋を破り広げ、熱をさまして折り畳み、差し出す。チョン子は、イーブのホストじみた仕種から言葉を聴き分けたように「どこの子?」と訊く。
「ミス・ユニヴァースだな」イーブはファ・チンに訊く。ファ・チンはイーブの言葉を分かるように、うんうんとうなずく。
「何? クラブ? ファッション?」チョン子は訊く。
「イヤさんと一緒に行った店だけど、ここでイヤさん、終ったら待ってろと言ったからな」
「終ったら、と言って、何、終る?」
チョン子はイーブに向き合う。
「ジゴロのイーブがこんなチンケな女に金払って何する? 何度言ったら分かる。イーブは私の大事な売り物なんだよ。最初から約束しているの、忘れてしまったと言うの? イーブの体は全部、私の物だよ。ボディ・ビルに行くのも、ジゴロの服だって何だって全部、私が投資したの知ってるよね。ソープのテクニック、私がジゴロにする為に教えたよ」
チョン子の眼にうっすらと涙が溜まる。チョン子は女を「美子《ミジヤ》」と呼び、「わたし、この男《ナムジヤ》に惚れたの知ってるね?」と訊く。
「わたし、韓国の女よ。この繁華街、韓国の人、どっさりいる。ヤクザから会社の社長まで。韓国のアジュマが、このあたりの景品買いしている。わたし、昔は仕方なしにソープで働いていたけれど、今は十人、二十人、日本人のソープの女の子、持ってるよ。わたしんとこへ韓国の女の子、ソープで来ても、わたし扱わない。他のお兄さんに廻すし、ソープなんかやめときなって説得して、高級クラブに紹介する。今、韓国の女の子、高いよ。一番高い。日本人の女の子、十人、二十人扱っているわたし、イーブのマネジャーした。この男《ナムジヤ》に惚れたから。この男《ナムジヤ》が金欲しい、でもわたしのヒモやって金せびるより、体売ってセックスして金作りたいって言うから、わたしマネージャーして、客を選んでイーブにセックスさせたよ」
「もうジゴロにあきたんだよ」イーブは言う。
チョン子はイーブの言い方にむかっ腹立ったように唇を噛み、「じゃあ、何でセックスする?」と訊く。「人に体売ってセックスして金もうけにあきたのに、こんな日本語もちゃんと話せないチンケな中国人、何で金で買う? 売るより買う方がいいか?」
イーブはチョン子を見てうなずく。
「買う方がいい」イーブはつぶやく。
イーブは金で買った三人の女が体を吸い、舐め廻すのを思い出し、金で買われていたなら、ただ身を投げ出して、一方的に快楽を味わうような事は絶対にあり得ないと独りごちる。イーブは尻の穴を舐められ、性器を舐められ、乳首を吸われ、女のように快楽にあえぎ声を出す。三人の女は容赦しなかった。乳首と尻の穴が熱く溶けたバターのような快楽でつながり、そのバターのような快楽が性器めがけて吹き上がる。
イヤさんが「悪い、悪い」と入って来て、チョン子がそこにいるのに驚いた顔をつくる。イーブらの席の隣に坐り、イヤさんは不機嫌なチョン子に「あんまり男を追い詰めない方がいいさ。男は女と違うんだからよ」と言い、無言で女三人との首尾を訊ねるように、中国娘のファ・チンを見てあごをしゃくる。
イーブはイヤさんに上首尾だったと伝えるようにウィンクを返す。
「何、二人で合図し合ってる?」チョン子が言う。
イヤさんはパキスタン人の従業員が持って来たおしぼりを受け取り、両の手をぬぐってから、「まだ金あるからよ、ビール五本ね」と言う。パキスタン人の従業員がきょとんとした顔をしているのを見て「ビール、ファイブね」と右の手の指を広げ突き出す。
「ゴホン、ビア」パキスタン人の従業員は繰り返す。イヤさんは広げた手に何かが着いているように見て、「どこへ行っても国際的だよな」と言い、チョン子を挑発するように、「このところ、そっちの組とよく鉢合わせするけどな、それもこれも台湾の連中と香港の連中、そっちの縄張り荒して、それでこっちに入って来るからなんだぜ。ちょっとは他所《よそ》の国に来てるって自覚、持って欲しいっての」と言い、ふとファ・チンが眠たげな顔をしているのを見て「スリープ、スリープ」と、眠りたいのなら帰れと手まねする。ファ・チンは首を振り、イーブを見つめる。イーブは、居たいなら居てよいと伝えるようにうなずく。
「そうか、この中国の女、イーブに一発で惚れたか。そうだろうな、俺だって、あんだけでフラフラッとしてるからな。セックスは上手いしよ、キップはいいし、擦り寄ってきたら拒めないくらい気が優しいしよ。こいつと一発|姦《や》ったら、すがりつきたくなるだろうな」
「わたしに頼ってんだよ」チョン子は苛立たしげに言う。
「そうか、イーブはおまえに頼ってんのか」イヤさんはパキスタン人の従業員の運んで来たビールをグラスに注《つ》ぎかかる。チョン子がイヤさんの手を押え、イヤさんの持ち上げたビールを取り、グラスに注ぐ。何に乾杯するのか、イヤさんが率先してグラスを上げ、ビールを飲む。
「どうせ何もかも今日はイーブのおごりだな。百万、ぽんとよこしたんだからな。今日からイーブのマネージャー、俺が代わってやってやるよ。俺とイーブが組みゃ、濡れ手で粟でよ、入れ喰いの状態だな、あそこから百万、こちらから二百万、集金して廻って毎晩その金でミス・ユニヴァースに通う。あそこに行くだけで世界中旅行するのと一緒だからな」
「何、言ってる」チョン子が言う。
チョン子はグラスのビールを一口で飲み干し、イヤさんが言い、イーブが黙っている話の中身にふと気づいたように「本当に客をこのヤクザと組んで脅迫しようと言うの?」と訊く。イーブは「ああ」と答える。
「イーブ、ああって話じゃないわよ」
チョン子は訛のない綺麗な日本語で言う。
「何を言ってるのか分かるの? 昼間もお客に電話して脅迫まがいの事、言ったらしいけど。何本もお客から問い合わせの電話、掛かって来たから、電話はイーブじゃないってゴマ化したんだから。イーブを信用しないのかって訊いた。イーブは優しいでしょ、夢の中の王子様でしょって言いくるめて、あんまり疑うなら、お客なぞなってもらわなくてもいいって言ってやったんだから」
「もう終りだよ。俺はジゴロをやりたくない」
「それでこのヤクザと組む?」チョン子は訊く。
「ヤクザ、ヤクザって人聴きの悪い」
イヤさんが舌打ちすると、チョン子はイヤさんに顔を向け、「てめえ、ヤクザじゃないか、人の弱みにつけ込んで甘い汁吸ってる野郎じゃないか」とすごみ、鼻白んだとイヤさんが苦笑すると、「その薄笑いは何だよ、こちとらを女だと思ってバカにしてるのか、韓国の女だと思ってナメてんのか」とタンカを切ってにらむ。チョン子はイヤさんをにらんだまま「美子《ミジヤ》、ハンドバッグをよこしな」と手を差し出す。赤のハンドバッグを手に持ち、女は渡しにかかり、ふと気づいたように「オンニ、オプソヨ」とつぶやく。
「オプソ?」とチョン子は訊き、「ピストルない?」と訊き直す。
「ごめんね、オンニ、本当にこの男《ナムジヤ》撃つと思って、組のアジシに預けて来た」
イーブが「また騒ぎ作ろうと言うのか?」とあきれて声を上げると、イヤさんがイーブに「嘘、うそ」と手を払う。
「こいつら夜の街飛び廻っている蝶々か蛾か知らんが、こいつらの話は千に三つだから。この前の拳銃《チヤカ》だって、俺が口利いてやったから買えたんだからな。おまえが自分の言う事、聴かないから脅すんだと言って。俺はおまえの事でやましい事あるだろうよ。本当は俺が金もらいたいくらいなのに、売り物をただで使ったと言われてな。ホモを隠していたって言われて。誰だってあんなホモのオッサンのやっている乱交のパーティーに入っちまうとああなっちまうぜ。お前に口説かれたのに、俺が口説いたと言う。仕方なしに、チャカ買う口利いてやってやっと手に入れたんだぜ。別なチャカ、手に入ってるはずねえじゃないか」
イヤさんはまた手を払う。ファ・チンが何を間違えたのか笑い声を立て、あわてて口を手でおおう。イヤさんはそのファ・チンに右腕を突き出し、こぶしを握って腕を曲げ、「ヒー、ペニス、グッドね。ファック、グッドね」と語りかける。
ファ・チンは顔全体を手でおおう。「グッド・ペニス。ビッグね」イヤさんのからかいに顔を手でおおったままファ・チンは笑い声を立てる。
この時、いきなりチョン子がビール瓶をつかみ、顔を手でおおって笑い声を立てるファ・チンの顔めがけて殴りかかった。間一髪でビール瓶が顔に当たる寸前でイーブがチョン子の腕をおさえると、振り下ろした腕の力と半分以上入った中身の重みでビール瓶は床に落ち、割れる。
泡が吹き飛んだ割れたビール瓶をチョン子はつかみ上げ、立ち上がったイヤさんにビール瓶を構え、「わたしからこの男を取るなら取ってみなよ」と怒鳴る。
「千に三つか万に三つか知らないけど、おまえらみたいな昼あんどんと違って、本気でやる時はやるんだ」チョン子はそう言い、「美子《ミジヤ》」と女に声を掛ける。
女は素早くビール瓶をつかみ、壁のそばの観葉植物の植木鉢を殴りつけてビール瓶を割り、チョン子と同じようにイヤさんに向かって構える。店中の客が立ち上がり、イヤさん一人を狙って構えたチョン子と女を注視する。イーブは事態の思わぬ展開に、ただ呆気に取られ、チョン子と女にどう声を掛けてよいのか戸惑ったまま茫然とする。
「取れるなら、取ってみなよ。イーブはわたしが仕込んだんだ、わたしの物なんだ、それを横からつべこべやりやがって」
イヤさんは二人の女に構えられ、まだ事態が飲み込めないというように首を傾《かし》げ、「俺じゃないだろうが、おまえが狙うの、その色男だろうが」と言い、ただファ・チンをかばって立っているイーブに、「おい、何とかしろ」と声を掛ける。イヤさんにそう声を掛けられてもまだ茫然としているイーブに、「あの色の黒いパキスタンのボーイ、後ろから飛び出して組の若い衆呼びに行ったぞ」と奥の方を見ろと言う。
「イーブ、この女ら、どこで何してるか分からないんだぜ。ここは俺の組の縄張りだし、組の若い衆が出たり入ったりしてると教えたろう。深夜のチーフが今、俺に合図したから、若い衆、連れて来いとうなずいた。若い衆ら、おまえがこの女二人使って幹部の俺を脅してると思うぜ。俺は怒らない。だから、おまえがこの二人、止めろ」
「イーブは関係ない、わたしがおまえと勝負している」チョン子が言うと、イヤさんはまた薄笑いを浮かべ、「それじゃ、イーブが女の子みたいじゃないか。おまえがヒモでイーブが稼ぐ」と言い、ふと気づいたように「だからイーブがずっと言っているだろうが、女と男が逆さまになったような商売したくないって」と言い、覚悟を決め、刺すなら刺せと言うように「どっこいしょ」と席に坐る。
イヤさんはビール瓶を構えたチョン子が眼中にないというように足で割れた破片を払い、イーブを見て、「イーブ、立ってないで坐れ。立っていると若い衆ら、間違えてお前を半殺しの目にあわす」とあごをしゃくる。
イーブが躊躇すると、イヤさんは「坐れと言ってるだろう」と怒鳴る。イーブはファ・チンをかばうように椅子に坐った。
「あんた、何でこのヤクザの言う事、聴く」チョン子がイーブに言う。
「イーブ、話を聴くな」イヤさんが言う。「どんな育ちしたのか知らんが、平気で逆さまの事やってるんだからな。いくら好き者だって、男がいつまでも女の言いなりになって体を売れるはずがないだろうが」イヤさんは言って相槌を求めるようにイーブを見る。
「だからこいつは俺に話を持ちかける。遊びだよ、遊び。お前は商売しか知らねえけど、こいつは俺が遊びを知ってるっつうんで、一口百万、二百万、ひょっとすると一千万かもしれん、その金、色ババアや変態ジジイがからんでくる遊びを持ちかけた。失敗すりゃ元々なにもないんだからしょうがないが、上手《うま》く運んだら、その金で女、買って豪勢に遊ぶ」
チョン子は焦れて、割れたビール瓶の先をイヤさんの鼻先に突き出し、「うるさいんだよ」と言う。その言い方が最前の勢いとほど遠いのに気づき、説得しようとして「坐れ」と声を掛けた時、パキスタン人の従業員と共にイヤさんの組の若い衆がどやどやと駆け込んで来る。
若い衆らは繁華街で繰り返すイザコザで訓練を積んでいるというように、二人が素早く席に坐ったイヤさんの前に身を乗り出し、後の三人がチョン子と女の腕をねじ上げる。チョン子の持っていた割れたビール瓶が床に落ち砕ける。その音に驚いたように、若い衆がねじり上げた腕をさらにねじったらしく、チョン子が悲鳴を上げる。
その悲鳴を聴いてイーブは立ち、「そんなに強くやる事ないだろう」と若い衆を突き飛ばし、気色ばむ顔を条件反射のように殴った。女をねじり上げていた若い衆が足でイーブの腰を蹴りかかり、見覚えのある若い衆が、胸倉をつかみに来る。イーブに殴られた若い衆が多勢に無勢を知って嵩にかかり、チョン子を突き飛ばして離れ、子供の仕種のように殴りかかり、よろめいたチョン子を足蹴にする。砕けたビール瓶の破片の上に転がるのが見え、悲鳴が聴こえ、気を取られた瞬間に、三方からイーブは殴られ、蹴られた。四つん這いになって倒れたままのチョン子が動かないのを見て救け起こそうとした途端、若い衆の一発が顔面に命中する。眩んだイーブのえり首を若い衆がつかむのを見て、イヤさんが止めた。
イーブの鼻から血が流れ出した。倒れたチョン子の手と膝にビール瓶の破片が喰い込んでいた。無傷の女とファ・チンが両側から体を抱いて立たせ、椅子に坐らせた。ファ・チンが意味の通じない言葉でチョン子に話しかけ、流れ出す血をおしぼりでぬぐってやり、両の手をのばす。掌に喰い込んだ硝子《ガラス》をファ・チンが抜きかかると、チョン子は歯を喰いしばって耐え、次に膝の破片を自分で抜きにかかる。イーブは鼻におしぼりを当てたまま、チョン子の動作を眼で追い、硝子が抜けた途端、血が太い管になって膝からふくらはぎを伝うのを見て、イヤさんに救急車を呼んでくれと頼んだ。
「救急車か?」イヤさんは渋る。「大騒ぎになるだろうが」イヤさんは言う。「遊びだよ、これも遊び」
イーブは鼻に当てたおしぼりをはずし、流れ出す血を鼻水のようにすすりながら言う。「さっき、おまえが言ってたじゃないか。これも遊びだよ。本気になってイヤさんを刺そうと思ってやしない。俺をだって刺そうと思ってやしない。俺とイヤさんがよ、男同士で乳繰り合うみたいにカツ上げして遊ばうというのヤキモチ焼いて、こんなバカな目にあってる」
「そうか、これも遊びか」イヤさんは苦笑する。
イーブの鼻から血がたれるのを見て顔をしかめ、女にイーブの血を拭いてやれと言ってから、「男前が台なしじゃないか」とつぶやき、若い衆にタクシーをつかまえて来いと命じる。若い衆が外に飛び出してから、「どうせ行くのはうちの組の先生のところだ、タクシーで行けや」と事なげに言い、イーブとチョン子にそれとなく言い聴かせるというように、「二度目だから、いっぺん二人で正式に組の方に詫びを入れてもらわんとな」と言う。
傷口を縫い、両手と両膝に包帯を巻いたチョン子を女が脇から体を抱え、病院の外に出た。イーブに擦り寄り、脹《は》れた鼻柱や唇が気にかかってならないというように見るファ・チン共ども、チョン子の部屋に向かった。
タクシーの前の席に坐ったファ・チンをチョン子が迷惑がっていると察して、女が「あんた、帰ったら」と言うが、ファ・チンは本当なのか演技をしているのか、何を言っているか分からないと首を傾げ、二人の女にまるで関心はないというようにイーブを振り返る。イーブはファ・チンの目に笑いかける。ファ・チンは悲しげな眼を返し、二人の女をまいてどこかに消えようと誘うようにうなずく。
ファ・チンをチョン子と女の意向を受けてタクシーから降ろしても、傷をしたチョン子と女二人置いてイーブとファ・チンが降りても、イーブは一向に構わなかった。すべては性のサイボーグの気まぐれだった。性のサイボーグを自分の物だと言い、性のサイボーグを〈白豚〉や〈黒豚〉の快楽の為に一層巧妙に能率よく供そうとする為に拳銃を撃ち、割れたビール瓶を振り廻そうと、イーブはただチョン子の心の中に湧いて出た愛のような感情が嬉しかった。そのチョン子の愛のような感情に報いるように、イーブは右手をのばし、女の肩越しにチョン子の髪を撫ぜる。チョン子の髪を撫ぜ下ろす度に、肘が女の首に当たり右耳に微かに触れる。髪を撫ぜ続けると女の膝がイーブの膝に擦り寄る。タクシーの振動を使ってイーブは膝で女の膝をこすり、チョン子が窓の外を見つめているのを確かめ、女の手を取る。女の手は力ない。手を握り、女が指を曲げ、イーブの掌をこするのを知って、イーブは股間に導こうとする。その瞬間、タクシーがクラクションを鳴らし、急停車した。
「バカヤロー、このォッ」と運転手が舌打ちし、窓を開け、「一体、道路を何だと思ってんだ。道渡るんだったら信号を守れ」と怒鳴るのを聴いて、イーブはチョン子の見ていた外を見る。
チョン子は物を言おうとするようにイーブに振り返り、イーブの右手が女の左手をおおい、女の手がイーブの股間の性器の脹らみの上にあるのを見て、言葉を呑み込むように唾を飲み、「イーブー」といままで一度も耳にした事のない優しい口調で名を呼ぶ。
イーブは窓の外を見たまま鳥肌立つ。「イーブー」と呼ぶチョン子の声をまた耳にし、急停車した為にエンジンをかけ直す音に気づき、「ドア、開けてくれ」と怒鳴った。
「大丈夫ですよ、お客さん、轢いてませんよ」
「ドア、開けてくれ」イーブは怒鳴る。運転手は渋々ドアを開けた。
イーブはまだ夜のとばりの残る樹影を見る。そして、そこが夏芙蓉のある公園である事に気づく。
イーブは路上で火を起こしている三人の老婆の前に立った。朝の肌寒さの為なのか三人共、綿入れを着込み、道路を横切って汲んで来た水の入ったヤカンを一人が火の上に掛けると、一人が「このまま掛けたら火、消えるわだ」となじり、ふと自分たちの前に立った人影に驚いたように顔を上げる。老婆の一人、コサノオバが「ツヨシかよ?」と声を掛けた時、タクシーの走り出す音がする。
イーブが振り返ると、両脚と両手に包帯を巻いたチョン子が難を避けるように走り去ったタクシーを見つめて立ち、イーブが手を上げると、のろのろと女とファ・チンに支えられ、早朝の道を渡って来る。
コサノオバが体を起こし、歩いて来る三人を見て「なんな、ツヨシ、吾背《あぜ》はまだ癖、抜けのこ?」とカマをかけるように言う。
「この間もオバら、吾背《あぜ》が後家かなんどせちごとるの見て、女にそんな事するの見たない、この齢になって、天子様のおるここで女らをせちがうの、たとえ、ツヨシでも顔も見とない、と言い合って、姿をくらましたんじゃのに」
「俺が何で女をせちがう」
「せちごたんと違うんかよ?」
コサノオバは言い、ヤカンをたき火の上に直《じか》に置いた為に消えた火を起こしにかかった老婆に「マツノオバよ」と声を掛ける。マツノオバは顔を上げる。イーブの顔を見て驚きもしないで、「ツヨシかよ何なァ?」と言う。
「マツノオバ、見てみいよ。またツヨシ、女、せちごとるわよ。つらいもんじゃだ。のう、オバら三人、ここまで来て、吾背《あぜ》らみたいなワル者が、弱い者をどついた、たたいた、せちごたと言うの、見ともないし、聴きともない」
「せちごたんと違う」イーブは方言を使う。
紙屑をかき集め、それで足らないと思ったのか、ショッピング・バッグの中から綺麗に折り畳んだ新聞紙を抜き出し、一枚ずつ丸め、火の中に入れはじめた老婆が「言うても分からんのやさか、知らんふりをしといたらええ」と言い、イーブが「なんなよ、オバ。ヨソノオバも万引したの知っとるど」と言うと、「なにを、ツヨシ」と頓狂な声を上げ、イーブの脇に立った三人の女を見上げ、「人聴きの悪い事、言うな」と小声でつぶやく。
そのヨソノオバにチョン子が、何を思ったのか「湯、沸すのだったら、石、拾って来て、かまど作りゃ早いじゃない」と言い、イーブと女に、石を拾って来いと言う。
「石がないの。どっこにも落ちてないの」コサノオバが言う。「石がないのなら窪みのところで火、起こして、ヤカンを掛ければいいでしょう」と言い、女に韓国語で話しかける。女は老婆ら三人の了解も取らず、歩道と車道の境い目に火のついた紙屑や新聞紙をそのまま移し、段差を利用してヤカンをななめに立てかける。ヤカンの下の紙屑が燃えきらないうちに、老婆らがあたりから丹念に集めた木屑や枯枝を継ぎ足し、ものの十分もしないうちにヤカンの湯が沸騰する。老婆ら三人は声を上げて驚き、一等齢若いコサノオバが「一つまた賢こなったよォ」と謳うように言う。
老婆らは沸いた湯をカップの中に次々とそそぎ込んだ。カップの中には、それぞれ即席の味噌汁の粉が入っていたらしく、老婆らはスプーンでかき廻し、立ちのぼる匂いを嗅いですすり、コサノオバの持った黒いショルダーバッグの中から、雀の餌にしかならないようなひからびた食パンを取り出し、汁につけて食べ始める。
チョン子はイーブの目論見を分かっているようだった。その三人の老婆こそ、そもそもイーブとターがジゴロ稼業に足を入れた原因だった。大型トレーラーを駆って路地を出て、老婆らの言うとおり、伊勢を廻り、一宮を通り、諏訪に出て、それから日本国中を転々とし、東京に出て皇居の前で老婆らは突然、姿を消したのだった。トレーラーを売った金が切れたので、最初はホストクラブに行った。相棒がチョン子を見つけ、チョン子がツヨシという名をイーブと変え、田中さんをターと変え、二人をジゴロに仕立てあげた。
そのチョン子は老婆らの脇に坐り込み、老婆らから乾いた食パンを分けてもらい、コサノオバの差し出したカップの味噌汁にひたし、「おいしいじゃない」と、いままで耳にした事のないような上品な東京言葉を使ってしゃべり、老婆らの機嫌を取ろうとする。コサノオバが「せちがわれたんか、あれに」と訊く。チョン子は歩道のガードレールに腰掛けたイーブを見る。チョン子の不安げなのを見て、老婆らの方言が分からないのだと気づき、「殴られたのか折檻を受けたのか、と言っている」と説明すると、「あの人、あんまりもてるので、わたしがヤキモチ焼いて、さっきビール瓶、振り廻した」と言って舌を出し、「さっきのタクシーの中で、もう女を口説いている。あの子、わたしの妹みたいなものだけど、それを知っててもう口説いている」と言う。「ソンじゃわ」ヨソノオバが言って笑う。
「血筋だってよ」と、イーブが通訳する。
「擦りつけたれ」
「あくかよ、ツヨシらに。腹いっぱい食わしても、他の見たら入るとこ違うて」
イーブは苦笑する。
「乞食みたいななりして、口だけは減らんの」
イーブがへらず口をたたくと、コサノオバが若《わか》い衆《し》のへらず口を切り返すのは自分にまかせとけというようにあたりを見て、「ツヨシもねェ」と言う。
「キジも鳴かずば撃たれまい、と言うじゃがい、吾背《あぜ》がキジみたいじゃさか、オバら言うんじゃ」
「キジかよ?」
「おお、キジじゃった。雄《オン》ばっかし着飾って、女から見たら胸糞悪いよ」
チョン子が笑うと「のう」とコサノオバは相槌を求める。その勝ち誇ったような声に声を上げてチョン子が笑うと、コサノオバは「タエコによう似とるわ」とつぶやく。
「タエコって?」チョン子が訊く。「昔の女だ」とイーブは言い、ふと、思いがこみあがり、胸苦しくなってチッと唾を飛ばす。
十九
乾いた食パンを味噌汁にひたして食い、汁を飲む三人の老婆らの姿をイーブは見ていた。
大型トレーラーの荷台に乗せて、伊勢から皇居のある東京まで同行して来た記憶のあるイーブにしてみれば、朝飯に食パンを食い、味噌汁を飲む老婆らの姿は異様すぎた。老婆らは路地を出る時、住みなれた土地を離れようと家を失《な》くそうと、朝毎に濃く煮出した茶に米を入れて炊く茶粥があれば、流れていくどの土地であろうと路地になるとうそぶき、炭、七輪、なべを荷台に積み込み、うそぶいたとおり行く先々で茶粥を作った。老婆らの間で、茶粥に隠し味として、一つまみの塩を入れるか入れないかと涙を流すほどの口論も起こった。親の代、その親の親の代、はるか昔から塩を入れている、塩の入ってない茶粥は味気ないどころか気色悪い、と言い張ったコサノオバは、朝、茶粥を食う習慣なぞ縁もないというように、カップの内にとごった即席味噌汁の滴をこすった指を舐め、自分を見つめているイーブに笑いかける。
東京でイーブが一角獣の性のサイボーグなら、茶粥ではなく味噌汁を飲むコサノオバも、食習慣を改造されたサイボーグだった。
イーブは笑を返す。イーブは笑いを作ってみて、心の中が明るく晴れるのが分かった。「オバ」イーブは声を掛ける。
「何なら?」コサノオバがどこのものか分からない方言を使う。
「東京でイーブと呼ばれている。田中さんはターって言う」イーブは東京弁を使う。
コサノオバはカップを両手に持ったまま、同じように味噌汁を飲み終えたヨソノオバとマツノオバに誰がカップを水道で洗ってくるかと訊き、ヨソノオバが無言のまま手をのばすと、いざり寄ってカップを渡し、「オバらもオバサンと言われとるよォ」と歌うように声を出す。「広いここでわしらに、オバと言うの、吾背《あぜ》だけじゃわ。皆な、オバサン、オバサンと言う」
「口だけ綺麗じゃけど、追い払うわだ。若っかい娘が、店の飾り窓見とったら、あっちへ行けと言う。見るだけじゃのに、と言うたら見るのもあかんと言うて、警察呼ぶとししくり出す」マツノオバはイーブとチョン子の顔を交互に見て、二人が話に聴き入っているのを確かめ、腹立ちがこみあがったように話し出す。
「腹立ったさか、ワシも、何なっ、エラい娘じゃね、と言い返したったら、またししくり廻すんじゃ。コサノオバ、後ろから、口ひねり上げたれ、と言うさか、思いっきりひねり上げたった」
「ワシら三人、走って逃げた」ヨソノオバが愉快げに笑いながら言う。「走りいたらね、せっかく集めとった新聞|紙《がみ》、袋破れてバラバラ落ちて、拾《ひら》おと思たら、マツノオバもコサノオバも怒るさか、仕方なしに走った」
ヨソノオバは言い、ふと思いついたようにマツノオバに「あの新聞|紙《がみ》、あとで拾《ひろ》いに行たらなかったね?」と問いかける。
「あの娘が拾たんじゃわ」マツノオバが言う。くすっと笑い、「たきつけにする紙じゃとも知らんと、大事な物じゃと思て、一枚一枚拾とるんじゃ」と言う。
車道に走る車の数が目に見えて増え始めた。街路樹の枝ごしに見上げた空はすでに明るく青く輝き、その輝きが初秋の気配のような気がする。イーブは、サイボーグの自分が何故、季節を感知するのか不思議だった。イーブにまだ残っている生《き》のままの何かが作動したのか、回路が壊れたのか、それとも東京に生きられるように人工改造されたサイボーグの老婆らに出会い、路地の裏山に広がる空を仰ぎ見て瞬時、無意識のうちに抱く何かが死滅してしまう不安のようなものが心の中に甦ったのか。
故郷で秋は百舌《もず》の声を耳にした。高い声はどこにいても耳に届いた。イーブはその時から自分がサイボーグだった気がする。
ヨソノオバがカップを集め、道路を渡って向かいのビルの外水道に洗いに行こうとする。走る車に行手をふさがれ立往生しているのを見て、ファ・チンが手まねで助けてくると言ってヨソノオバの方に走ると、コサノオバが「物よう言わんのか?」と訊く。
「中国の子」チョン子は言う。コサノオバが「ああ」とうなずくのを見てチョン子は何を思ったのか、「あの子、中国の娼婦だし、わたしやこの美子《ミジヤ》、韓国のソープのベテラン。この男は日本のジゴロ、男の娼婦ね、パンパンね」と言い出す。
コサノオバは言葉を聴き取れなかったようにイーブを見る。
「オバサン、驚く? 驚かないよね。さっきのタクシーの運ちゃんだって誰だって驚かない。眼瞑ったって分かるんじゃないの。わたしは資生堂だし美子《ミジヤ》はプワゾンだし、あの中国女はディオールだし、イーブは何だっけ?」
「ホテル帰りだよ」
チョン子はイーブの答に口をとがらせる。「その服にしみついてる。何?」
イーブはジムナジウムに置いてあるコロンの名を言う。チョン子はそのコロンの名が商売用に使えと勧めたコロンではないのに機嫌をそこねたように、「タクシーの運ちゃん、四人が乗ったら途端に匂いで頭が痛いって顔した」と言い、コサノオバに「この人のイーブって名前、わたしがつけた。イブ・モンタンって知ってる? イブ・サンローラン?」と訊く。
「イーブ」コサノオバは不吉な言葉を声にするようにつぶやく。
「イブのイーブ」チョン子は言う。
「イーブかよ、イブ」コサノオバは口の中で唱え、イーブに眼を遣り、イーブが混ぜっ返すように、「イベ、イボ、イボベベ」と笑うと、「吾背《あぜ》の名前らしいわだ」と小馬鹿にしたように鼻で吹く。「名前つけてもらうんじゃったら、ヨワシでもトロシでもアホラシでもええのに、イボかよ、イブかよ」
「イーブ」チョン子は言う。
「コサノオバも名前つけるんじゃったらコラノオバじゃとつけられるより、メリーの方がええじゃがい?」イーブは言う。「オバらもこれから三人共、このチョン子に名前つけてもろたらええ。コサノオバがメリーじゃったらマツノオバ、ジャンヌ・モローのジャンヌ、ヨソノオバ、ブルック・シールズのブルック。オバらの名前、他所の者には言いにくい。朝、起こすのも、メリーさん、もうそろそろオカイサン炊く時間よ、と優しいに言うてもらえる」
「メリーかよ?」
「おうよ」イーブは言う。「この女に炊き方教えとったらそのうち、オカイサン炊いてくれて、メリーさん、もう起きなんだらオカイサン、冷えていくど、と起こしてくれる」
三人の老婆を後ろの座席に乗せ、イーブは、竹藪から鶯の雛をつかまえた時のような昂ぶりのまま自分の部屋に向かった。チョン子は三人の老婆を連れて行くなら、男と女がいつでも住めるように食器も寝具もそろった自分の部屋がよいと言い張ったが、老婆らはたとえそこがどんなに快適であろうと、赤子の頃から見知ったイーブの部屋の方が安気になるはずだと強引に押し切った。
イーブが老婆と乗ったタクシーよりも、チョン子ら三人の女が乗ったタクシーが先に着き、老婆らが降りかかると、美子《ミジヤ》と呼ばれた女とファ・チンが競うように手を差しのべる。コサノオバが降り、マツノオバがそれぞれ支えられてタクシーを降りて、一等端に坐ったヨソノオバが一人、座席の上でもぞもぞと身を動かしているのを見て、両手、両膝に包帯を巻いたチョン子が、美子《ミジヤ》に向かって「中に残ってるブルックちゃんはどうするのよ」と怒鳴る。
美子《ミジヤ》はコサノオバから離れてタクシーに戻り、「ブルックちゃん、タクシー片一方しか開かないのよォ」と言い、こっちからタクシー降りるのだと手を差しのべる。
タクシーのトランクを開けただけで、運転手は手を貸そうともしなかった。中に新聞紙を折り畳んで入れた紙袋、ビニール袋を入れた紙袋、老婆ら一人一人が持っているショルダーバッグをイーブが一人で降ろした。ショルダーバッグを三つ両肩に振りわけて掛け、嵩のある紙袋を両手に持ち、先に立ってエレベーターに入る。マンションの玄関を見廻すコサノオバに、「早よ、入らんかよ」とイーブが声を掛けると、チョン子は「メリーちゃん、こっちよ」とからかう。
チャイムが鳴らされるのを待ち受けていたようにドアを開けたアキラに、チョン子は「今日からメリーちゃんとジャンヌちゃんとブルックちゃんの三人も、ここに住むんだからね」と言う。
撃たれた脚が痛む為に壁に手をついて立ったアキラは、「嘘ッ」と声を上げる。玄関口に立った美子《ミジヤ》とファ・チンがメリーやジャンヌだと誤解して「ソープのお姐さん?」とイーブに訊く。
「何を言ってる。見れば分かるのに」チョン子はハイヒールを脱いで上がりかかり、アキラが誤解しているのに気づき笑い入り、「ここに住むのは三人のオバサン」と言う。
アキラは大仰に驚き、「イーブさん、このオバサンたちに何したの。浮浪者じゃない」と言う。
チョン子は美子《ミジヤ》の助けを借りてハイヒールを脱ぎ、コサノオバに「心配なんか何も要らないから。ここの物、全部、この人の物だから」と言い、ソファに坐る。
アキラは美子《ミジヤ》とファ・チンに手を引かれて中に入った三人の老婆を見、「風呂なんか入ってるのォ。服なんか洗濯してるのォ」と言い、チョン子に「やい、|この野郎《イセキヤ》」とねめつけられる。
「風呂なんかすぐ入れる。服なんかすぐ都合出来る。一緒に居たくないと言い出すのは、こっちのオバサンたちの方だからね。厭だったらすぐ出ていきゃいい。あんたがイーブの周りでチョロチョロするの、迷惑だから。警察にでも言えばいい。ピストルで撃たれたと駆け込んでごらん。警察は医者の診断書持って来いって言うの知らないの? 病院へ行って診断書見てごらん。バカのオカマが包丁で怪我したと書いてる。ピストルの傷なんてどこにも書いてない。さっき、ケガしたついでに、訊いて来たんだから」
アキラは老婆らの為に流しに立って茶を沸かしはじめたイーブに「ほんと?」と訊く。
イーブは答えない。ファ・チンがイーブの脇に来たので、「ティーね」と茶筒を渡して交替をさせ、電話機に歩く。
番号を押すイーブに「本当?」とアキラは訊き直す。
イーブはうなずく。「繁華街で(金)多摩殺人事件って噂、広がってるけどな」と言いかかり、受話器の向こうからターの眠たげな声が聴こえたのでイーブはコサノオバを呼ぶ。
「眠っとったのか?」イーブが訊くと、ターは「さっき寝入ったばっかしじゃのに」と不平を言う。
「眠たいか?」
「眠たい。さっきのさっきまでしぼりまくられて空撃ちするくらいじゃのに。お前は、眠やんのか?」
「眠るどころと違う。誰という名前じゃったかいの」イーブがチョン子に訊こうとすると、脇に立ったコサノオバが話の中身を察したようにイーブの耳元で「メリー」とささやく。
「おお、メリーちゃんじゃ。尻の大っきいメリーちゃん。それからジャンヌちゃんとブルックちゃんじゃ。三人の別嬪さん、見て、眠気、吹き飛んだ」
「金髪か? 染めとるのもおるさか、あそこの毛、見なんだら分からんど」
「金髪と言うんかいの、メリーちゃんもジャンヌちゃんもブルックちゃんもちぢれ毛じゃけどね。風呂入ってシャンプーさせなんだら、どんなんか分からん」
「外人の女、シャンプー好きじゃがい」
「さあよ」イーブは言って笑う。「三人もいっぺんにつかまえたさか、風呂先に入れさすか、オカイサン先につくって食わすか、それとも先に寝かしつけるか、思案しとるとこじゃ。どっちええと思う」
「どっちて人の女の事ら分かるか。自分の女にでも手ェ焼いとるのに」
「人の女て?」イーブは訊き直す。「アニの女とも違うんかよ?」イーブが訊くと「俺の姦《や》った女、おるんか?」とターはこころもち不安げな声を出す。
「さあ、知らん。アニが姦っとるんか姦ってないんか」
「俺の女て?」ターは訊く。
イーブが黙ると、「誰ない」と訊き直す。
イーブは傍に横坐りになったコサノオバに受話器を渡した。コサノオバは相手が誰なのか端《はな》から分かっていたように、受話器を握るなり、「オバら吾背《あぜ》らにねェ、何の迷惑かけるつもりないんじえ」と言い出す。コサノオバの声を突然、耳にした受話器の向こう側のターの驚きが、イーブには手に取るように想像出来た。
「吾背《あぜ》ら若《わか》い衆《し》に、天子様のおるここへ連れて来てもろたのに、吾背《あぜ》らにいつまでも寄りかかっておられんと皆で言いおおてね、オバらだけでひとかたまりになって、ずっとおっただけじゃのに」コサノオバはそう言い、ターの言葉を聴くように黙り、しばらくして「分からんよ」と言って、イーブに受話器の声が聴き取り難いから替わってくれと受話器を差し出す。
ターはすぐイーブの部屋に来ると言った。ターが来るまでの間、風呂に入れと勧め、三人一度では狭すぎると思ったが、イーブは強引に勧めて風呂に入れた。イーブの気持ちの一から十まで察しているようにチョン子は老婆らが風呂に入っている間に、衣料品屋へ三人の老婆の服を都合しに行ってくるよう、美子《ミジヤ》に命じた。美子《ミジヤ》はチョン子が気前よく握らせた一万円札の束を持って立ち上がり、ふと気づいたように「オンニ」と言って、茶を継ぎ足しているファ・チンをあごで教える。
チョン子はうなずき、韓国語で美子《ミジヤ》に一言二言声を掛け、「分かった」と美子《ミジヤ》がうなずくと、「おい」と男のようにファ・チンを呼び、「あなた、美子《ミジヤ》と買い物に行くあるね。服ね。パンティね。オバサン、全部、はきかえるね」と身振りを入れて言う。
美子《ミジヤ》とファ・チンが服をみつくろいに外に出てから、「中国のトンチンカンなんて何の役にも立ちゃしない。やっぱし韓国の女だよ」と独りごちる。
イーブとアキラが苦笑すると、「イーブのオバサンの代りに同じところに中国のトンカチ、棄ててきなって言ってやったよ」と言い、アキラに「嫁さんにもらうんでも、ヒモになるんでも、韓国の娘《アガシ》が最高って覚えときな」と言う。
「その嫁さん、男が気に喰わなかったらピストルでとか、割ったビール瓶で脅すの? 関係ない人を撃ってうさばらしして、割ったビール瓶で手を斬ったり脚斬ったりするの?」アキラが嘲笑すると、チョン子は苦り切った顔で「そうだよ」と言い、アキラの眼がソファに腰を下ろしたチョン子の両膝の包帯に注がれているのに気づいてスカートをひいて隠し、「嫌味なオカマのガキ」とつぶやく。「あのあたりで裸で尻振ってるガキに、生命がけで男に惚れる女の気持ちなんか分かるものか。本当に邪魔したなら、頭でも心臓でも今度はぶち抜いてやる。汚いお尻振ってても、皮かむりのモンキー・バナナのチンポコでも女の子らがキャーキャー言うから、女にたかをくくってるんだ。厭なガキなのよ、あんた。甘ったれて人にぺったりとくっついて、人を蔑むような眼で見て。|寸足らず《ウエノム》。|獣の手脚《チヨツパリ》のくせに。韓国の女、あんたみたいなネチネチ絡んで来るタイプ、一番厭」
「何にも絡んでませんよ。僕は被害者だからここにいる。イーブさんにも悪戯されたんだから。二度も。誰でも二回も悪戯されたら、この人、本当は女より僕の事、好きなのかもしれないと思う。それ知りたかったから、僕はイーブさんと一緒に居たんだから。(金)多摩霊園終って一緒にサウナに連れてってもらって、イーブさん、チェアに坐って冷水プールで泳ぐ僕をずっと眼で追ってた。完全に僕を好きなんだと思った」
「うぬぼれるな、阿呆《パボ》」
「ずっと見てたから。素裸で泳ぐんだよ。イーブさん、僕をねっとりした眼で見てた」
「そりゃ、眠たかったんだ」イーブは他人事のように言う。イーブの合の手が自分に味方をしての事だと取ったようにアキラは「うん、あの時は眠たかったんだ、すぐ眠っちゃったから」と言い、身をそらして床に置いたバスタオルを取り、「はい」と渡す。イーブが怪訝な顔をすると、「今、バスの中からタオルと言ったよ」と言う。
イーブは耳を澄ます。話し声はするが、タオルという言葉は聴こえない。「何も言ってないじゃないか」イーブが受け取ったバスタオルを投げつけて返すと、アキラは「嘘だった」と舌を出す。
その顔を見てチョン子は身震いし、「気持ち悪いガキ、本当に撃ち殺してしまえばよかった」とつぶやく。
チャイムが鳴り、イーブがドアを開け、荷物を抱えて満面笑を浮かべて玄関に立ったファ・チンを見て、チョン子は声を上げた。ファ・チンの後ろに大きな紙袋を抱えた美子《ミジヤ》が立ち、チョン子に弁解するように韓国語で話し、「安いから。何でも七十プロから八十プロくらいティスカウントしてるから」と訛の強い言葉で言い訳する。
「安いね。フレンド、いつも買う」ファ・チンは得意げに荷物を床に置く。荷物を束ねた紐をほどき、「みんな千円」と言って、柄のついたナベ、フライパン、シチューを煮込んだ絵を刷り込んだ箱を床に並べる。美子《ミジヤ》の抱えた大きな紙袋にはタオルの束と三人の老婆の服と下着が十組、入っていた。十組の衣服とフライパンやナベのセット全部で二万円足らずで済んだと、美子《ミジヤ》は金の束をチョン子に渡した。
チョン子は声を出して一万円札を数え「十八万」と言って顔を上げ、イーブを見て、「気前よく買って来たらいいのに。こんな時、彼氏にいいとこ見せなくちゃ、女がすたるというのに」と言い、イーブが「気前のいいのと始末のいいの、どっちが韓国ではいい女って言われる?」と訊くと、ファ・チンを見、美子《ミジヤ》を見て、「どっちだと思う?」と気弱げに訊く。
「さあな」イーブは言う。
イーブは浴室のドアを開ける。イーブは大声で風呂場の中にいる老婆らに下着も服も新しいのを用意したと言い、思いついて頓智の利くコサノオバに声を掛ける。
「何なら?」コサノオバはまた聴き馴れない方言を使う。「長者のぶさいくな息子と貧乏じゃが男前のええ男の二人から嫁に来てくれと言われた娘、どうしたんじゃった?」
コサノオバは風呂場から聴き取りにくい言葉を返す。訊き直すと風呂場のドアを開け、「何、訊きたいんな?」と言い、イーブが答えると、「娘、迷って親も困り果てて、娘に着物を渡したんじゃわ」と言う。風呂場の中でヨソノオバが「銘仙の袖だけ縫うてない着物、渡したの」と補足するようにつけ加えるのが聴こえる。
「親の方も迷たんじゃ。長者に嫁に出したら一生、安気に暮らせる。じゃけど娘、男前のええ若《わか》い衆《し》好きじゃというのも分かる。親も迷とるさか、娘のええようにしたらええと思たんやの、それで袖だけ縫うてない着物、渡して、右は長者の息子じゃ、左は貧乏の男前のええ若《わか》い衆《し》じゃとようように言いきかせて、どっちか選んで縫えと言うたんやの」
「親、そうしたの、娘が口で言うの羞かしがっとると思たんやのに」ヨソノオバがまた風呂場の中でつけ加える。コサノオバはうっとうしげに「そんなん言わいでも分かる」とヨソノオバに言い返し、「ツヨシ、娘は両方の袖縫うたと」と言う。
イーブはことさら「どしてよ?」と訊く。
「どしてて、女じゃだ。親に何んで右も左も、長者の方も男前の方も縫うたんな? と訊かれて、娘、まっ赤になって蚊の鳴くような声で、昼だけ長者のぶさいくな息子の嫁になって、夜、暗なってからは寝るだけじゃさか、貧乏じゃけど男前の若《わか》い衆《し》の嫁になると答えたと」
浴室のドアを閉めても老婆らの笑い声が聴こえた。チョン子は老婆らの昔話をどう取ったのか、イーブをにらみ、思いついたようにアキラに「野郎《セキヤ》」と呼びかけ、「ここで手を打とうか? 手を打ってこのあっちもこっちもに手を出すジゴロをしめ上げてやる」と言い出す。
「このソープの女王のわたしと組んだら君ぐらいでもイーブの客、次々|奪《と》るぐらいのジゴロになれる。ソープのテクニック、全部教えてやる。女どうしたらいちころで殺せるか何から何まで教えてやる」
「僕がイーブさんみたいになるの?」アキラはイーブを見る。
イーブは機嫌を損ねているチョン子の話に乗ってやれとアキラにウィンクし、老婆らの浮かれた声が風呂場の方から聴こえるのに気が晴れ、腕を曲げて力こぶをつくり、「三カ月パワーリフトやってればすぐ筋肉つくな」と言う。イーブはチョン子の脇に坐り、チョン子の機嫌を取るように手を引いて腕の力こぶに触らせる。「今みたいに彼女が俺に言ったの、今、風呂に入っているバアサンらが姿消して二カ月もしない頃だったんだぜ。最初、一発姦って、俺が上手だし、セックス好きだって見抜いて、この名コーチに抜擢されたってわけだ。三カ月まで何という事ないけど、三カ月経ったら、裸になっても全然違う。そうすると面白くなっちゃう。プロテイン飲んだり、肉食ったり食い物も違って来るし、どんどんセックスのマシーンになりはじめるのが分かる」
チョン子が突然、笑い、イーブの胸に手を当て「覚えてる、イーブ?」と言い出す。
「風呂にいっぱい砂、落ちてた。わたし、まだその頃ソープで働いていたから、帰って来て疲れてるのできついの。イーブ、何したの? 世話を焼かさないでね、まったく、って言いながら砂を洗い流してる。イーブは何も言わない。ううん、ちょっと砂くっついちゃって、とか何とかごまかしてる。毎日、風呂場が砂っぽいの、或る日、お店でマネージャーと喧嘩して冗談じゃないわよ、やってられないわよ、恋人のイーブが何か隠し事をしてるみたいだし、と思って早引けして部屋へ戻ったの。声が聴こえるのね。なんかあの時のような声。カーッとなってこのとおり血の気が多いから、恩を忘れた人非人が、女を引っ張り込みやがって殺してやると中にはいると、声は風呂場から聴こえる。のぞいてみて、思わず韓国語でパボって叫んだわよ。何してたと思う、砂の中にアレ、突っ込んでるの。空手で砂を手で突く訓練あるので思いついてやったんだって。恋人がそんな事やるって呆然とするけど、その時、イーブって他の人と全然違うと分かった。だから超一流のジゴロにしてやるって決心した」
チョン子はイーブの頬を包帯の手で撫ぜる。
「アキラも超一流にするのか?」イーブはチョン子の包帯の手に唇を当てる。
「無理に決まってるじゃない。どこの誰が人にこんなにまで優しいのよ。どの男がわたしみたいなバカとつきあえる」
チョン子は涙ぐむ。
二十
電話が鳴り、美子《ミジヤ》が素早く取った受話器にアキラが手を差し出した。美子《ミジヤ》は受話器を渡そうとしたが、部屋の主人がアキラではないというように見て、チョン子と並んで坐ったイーブに、「電話よ」と渡した。
ソファから身を乗り出して受け取り、茶粥用の茶を買って行くからと言うターの声に、「湯、沸かしとく」とイーブは答えて美子《ミジヤ》に受話器を渡すと、アキラが「(金)の奴じゃなかった?」と訊く。
美子《ミジヤ》は受け取った受話器を耳に当て「もし、もし」と訛の強い言葉で呼びかける。イーブが「切れてるよ」と教えると、「ヨボセヨ、切れてるの? ヨボセヨ、切れてるの?」とふざけているのか真剣なのか判別つかない口調で訊く。
浴室で老婆らの声がしていた。一瞬、イーブは、死んだ老婆の顔を手で撫ぜながら老婆の一人が「死んだんかよ? オバ、死んだんかよ?」と訊いていたのを思い出す。死んだ老婆は何も答えない。だが、「死んだんやよ」と答えそうな気がする。
イーブは、美子《ミジヤ》が受話器を元に戻すのを確かめて、涙がまつげにひっかかったチョン子を見る。チョン子はイーブの眼をまっすぐに見つめる。チョン子はイーブの眼の微かな光からサイボーグの体内に作動した変化を感じとる。それは変化というより錯誤のようなものだった。受話器と老婆の死体の取り違え。
イーブは心の中で独りごち、「ターが茶粥の茶を買ってくるって。ひとっ走りして浅草まで行って買ってくるって、車の中から電話して来た」とチョン子に言い、美子《ミジヤ》に茶粥用の湯を沸かしてくれと頼んだ。
美子《ミジヤ》がファ・チンと共に流しで買ったばかりの鍋やフライパンを洗い、鍋に湯を張ってガスレンジにかけた。火の熱が部屋に広がり、ちょうど揃いの花柄のブラウスにモンペをはいて浴室から老婆らが出て来たので、たちまち部屋の窓|硝子《ガラス》は曇る。
コサノオバもマツノオバもヨソノオバもタオルで髪をふいている。
「やれよォ、すっぱりした」コサノオバがチョン子に媚びを売るように笑いかけると、チョン子は立ち上がりかかって両脚の傷に気づいたように、「痛っ」と声を出し、不意に襲った痛みに顔をしかめながらイーブに「乳液とかヘア・クリーム、出してやって」と言う。
イーブは素直に立ち上がる。浴室に入り、洗面台の脇の棚からスキン・クリームとチューブ入りのヘア・クリームを取る。外に出かかって床に老婆らの着物が三組、きちんと折り畳まれ積み重ねられているのを見た。
胸を衝《つ》かれたが、イーブはことさら無頓着を装って、「男物じゃ言うて今、ごねるなよ。後でいくらでもオバらに合うたの買うて来たるんじゃさか」と言い、コサノオバにスキン・クリームとヘア・クリームを渡す。
「ごねんけどよ」コサノオバはスキン・クリームの瓶とヘア・クリームのチューブを見ながら言う。
「三人共、同じ花柄のモンペはいて、着る時、まちがうど」
「しるしつけてもかまんのやったら、しるしつけるけど」ヨソノオバが言う。
イーブは苦笑し「これじゃから」とチョン子に言う。
「風呂場の中で何ど言い争そとると思たら、この事だったんじゃ。メリーちゃん、ジャンヌちゃん、ブルックちゃん、三人共、それぞれスターじゃさか、人と同じ物着とるの厭なんじゃ。ブルックちゃん、しるしつけたいと言うとる」
「アップリケする?」チョン子が訊く。
「どんなしるしつけるんか知らんけど」イーブが言う。
そのイーブにコサノオバのメリーちゃんが「どっちが顔な? どっちが頭な?」と訊く。
イーブはスキン・クリームの入った瓶を持って「顔」と言い、メリーちゃんの皺くちゃの手の中のヘア・クリームの入ったチューブを「頭」と教え、「今はごねんと、言う事きいて、おとなしくして。ゆっくりしてから、買い物にいこらい」と言う。
「猿の惑星みたい」老婆らを見ていたアキラが意味不明の言葉をつぶやく。
「|この野郎《イセキヤ》、お前が猿じゃないか」チョン子が意味を分かったのか言う。
「このレゲエ婆さんたち何にも知らないんだから」アキラはまたつぶやく。
「誰だって、分かんないの、当然じゃないか」チョン子は言う。「じゃあ、あんた、ファンデイションの使い方知ってんの? アイラインの入れ方知ってんの? そうだよ、(金)多摩で小っさい腐ったモンキーバナナまで化粧して尻振って踊ってるから知ってる。あんたもしただろ。ソープの馬鹿女が札束切って、使い方知ってる子に金あげるって言ったら、タンポンをお尻に入れたの」
「僕じゃない」アキラは憮然として言う。
アキラはイーブを見つめる。「そんな事までしてお金もうけしてたの、ジゴロのイーブさんじゃない?」
イーブは取り合わなかった。美子《ミジヤ》に言って老婆らには朝食は茶粥でよいが他の者には飯が要ると米をとがせ、炊飯器に仕掛けさせ、角のコンビーニエンス・ストアまでおかずを買いに行かせた。
美子《ミジヤ》が外に出かかる時、韓国語でチョン子は物を言ったが、美子《ミジヤ》は気弱げに笑を浮かべて首を振り、「あの子、いい子よ」と、流しに立って食器を洗っているファ・チンを見る。
「いい子ですよ」アキラが言う。
チョン子は唇を噛む。不機嫌なチョン子と挑発的な眼で周りを見つめているアキラと、我関せずと食器を洗い、時折り振り返って笑をつくるファ・チンの三人と離れて、三人の老婆らは隣の寝室に置いた大鏡の前でスキン・クリームを顔に塗り、髪にヘア・クリームを塗った。
老婆らはその全身を映すことが出来る縦長の大鏡が何故そこにあるのか分からない。最初、イーブがチョン子の部屋から出て部屋を借りた時、大鏡は部屋にたずねて来る〈白豚〉用の物だった。〈白豚〉は灯りを羞かしがった。大鏡はイーブ用の物になった。醜い〈白豚〉に理不尽の奉仕をさせられ、そのうち昂揚し、抑圧を打ち破り、激しく雄々しく征服する若い美しい体。大鏡は相手がどんな〈白豚〉であろうとわずかな光線があれば物語を映し出した。そのうち〈白豚〉を部屋に入れるのが苦痛になった。バスタオルを折り畳んでおけ、と言ったし、石鹸を香りのよい物に変えろ、と注文した。歯|刷子《ブラシ》を誰か使ったのか? 誰かのアイ・ライナーの忘れ物があると〈白豚〉は嫉妬しはじめ、イーブの行動を監視しはじめた。探偵を雇って素行を調べ、写真を撮り、イーブがそれなら関係をやめると言うと、泣きわめき、つきまとった。マンションの玄関で待ちぶせしたり、部屋の前にたたずんでいた。〈白豚〉はチョン子の取りなしで、十数人の〈白豚〉〈黒豚〉の一人となった。
その時以降、部屋に〈白豚〉は入った事がない。大鏡はイーブの姿だけ映す。昼すぎに起き出してシャワーを浴びる。大鏡に裸の姿を映し、性のサイボーグとしてイーブは自分が完璧なのを確かめる。
何百回もイーブの裸体を映した大鏡の前に三人の老婆らはしゃがんだり、立て膝をした姿を映し、掌に受けた乳液を両手で餅をこねるようにこね、顔に塗る。量が多すぎて顔が光り、イーブが顔をぬぐえとティッシュの箱を持って寝室に歩くと、花柄のメリーちゃんの役のコサノオバは、「水みたいじゃさか、難かしの」と言う。
ジャンヌちゃん役のマツノオバとブルックちゃん役のヨソノオバが、大鏡に映ったイーブをしゃがんだ姿のまま見上げる。ジャンヌちゃんとブルックちゃんが裸体ならイーブの眼に股間は隠すところなくあらわになっているはずだった。
軽口をたたこうとした時、チャイムが鳴り、ドアを開けてターが玄関に立ったのが大鏡に映った。ターの眼に二人の老婆の後ろ姿と大鏡に映った乳液を塗りたくった顔が見えているらしく、「オバら」と物を言いかけて絶句し、立ちつくす。
「吾背《あぜ》らに」メリーちゃんがしゃがれ声で言い、咳をする。咳をしたはずみに洩れてしまったように涙がまぶたにふくれ、乳液の顔に流れて雨滴のように丸まる。
「吾背《あぜ》ら、安気にさせたろと、他所《よそ》におったんじぇ」メリーちゃんは怒ったような口調で言い、いきなり振り返り、ばくれん女のように「吾背《あぜ》ら綺麗な衣裳着て、ええわだ」と言う。
「だからパンパンだって言ったでしょ。パン助。女と男の。体が売り物だから、綺麗な衣裳ぐらい着るわよ」聴き耳を立てていたのかチョン子がソファに坐ったまま、メリーちゃんの言葉に悲鳴を上げるように言う。
イーブはティッシュの箱を大鏡と三人の老婆らの間に身を屈めて置いた。大鏡に映った箱の側面、自分の手、ジャケットの袖、顔と確認するように見て身を起こし、メリーちゃんの昂ぶりもチョン子の的はずれな言い訳も取り合わないというように、「色男のアニが茶粥の茶を買うて来たど」と言って振り返る。
驚き入ったように口を開けて玄関に立ったままのターに「どうした? 上がれよ」とイーブは声を掛ける。それでも身動きするのを忘れたように立ちつくすターの方にイーブは歩み寄り、「女ばっかりの部屋で気後れした?」とからかう。
ターは「いや」と一言つぶやき、手に持った紙包みをイーブに渡し、靴を脱ぐ。紙包みを破り、セロファン袋に入った茶を取り出してイーブは茶粥を作るには布の茶袋が要ると気づいて、準備しておけばよかったと舌打ちすると、ターはイーブを見て、ツィードのジャケットのポケットから真新しい茶袋を二枚取り出し、手渡す。
「用意がいいじゃないか」イーブが言うと「ああ」と答える。
ターは靴を脱ぎ終えて上がり、ソファに坐ったチョン子に頭を一つ下げる。ターはそのまま寝室に入り、大鏡の前にいる老婆らの方に行く。外からおかずを買い込んで戻って来た美子《ミジヤ》に茶と茶袋を渡し、湯が沸き立った時茶を詰めた茶袋を入れろと手短に説明し、イーブも大鏡の方へ歩いた。大鏡の前で、ターが眼を瞑《つむ》ったメリーちゃんの顔から、つけすぎた乳液を、ティッシュでぬぐっていた。
「つけすぎて」小声でターは言った。メリーちゃんはターの指がくすぐったいらしく小鼻をふくらます。
「高い物じゃのに」ターがさらに小声で言うと、「ええ匂いする」とメリーちゃんが答える。
「男物じゃのに」ターの言葉にイーブが「俺には一緒に住んでくれるアメリカ大使館みたいな女、いないしな」と答えると、チョン子が「いっぱいあったの、あたしが捨てたんだから」と言い出す。
「女がここへ来たらいつでも化粧品置いていくから、全部捨てた。ポンポン気前よく窓から放り投げて捨てた」
「危なーい。危ないですよ」アキラの声がする。
「オカイサン食べてゆっくりしたら、ブラブラ買い物に行ってみようと言ってる」イーブはターに言う。
ターは顔の乳液をぬぐい終ってもまだ目を瞑ったままのメリーちゃんの耳に「終り」とささやき、メリーちゃんの代わりにジャンヌちゃんを呼び寄せ、ティッシュで顔をぬぐいだす。
「こんなにどっさりつけて」ターはつぶやく。
「皺も汚点《しみ》もどっさりつけたら取れると思たんじゃろよ」イーブが言う。
「取れるかもしれんけど」ターは言う。「じゃけど、俺らに会うてこのクリーム使てよかった。俺らに会わん前に、クリーム塗って皺も汚点も取れて、元の別嬪に戻っとったら、東京でえらい事になる」
「何をよ?」顔をぬぐってもらっているジャンヌちゃんではなく、乳液を塗りたくったままのブルックちゃんが訊く。
「何を、て。この男の悪りの知っとるがい。昔も、どこへ行ても、若い女ひっかけて、ポイと放ったじゃろがい。この男のようなの、どっさりおる。おっ、この腰は曲がっとるが、皺も汚点もない別嬪じゃと言うて、男ら近寄って来る」メリーちゃんが立ち上がり様、「アホを言えよ、こんなババらに」とつぶやき、イーブの脇を抜けてソファの置いてある部屋の方に行く。
イーブはメリーちゃんの後ろに従《つ》いた。メリーちゃんが、茶の匂い立つ流しの方に行くのでイーブが「何ない?」と訊くと、メリーちゃんはイーブの顔をまっすぐ見て、「オバ、塩一つまみ入れんオカイサン、食いたないど」と言う。
思わずイーブは「何な」と声を出した。
「何な、て何な? 塩入ってないオカイサン、オカイサンと違う」
大鏡の方でブルックちゃんの、「また天満《てんま》の出腰《でごし》やよ」とメリーちゃんをからかう声がする。
「天満の出腰て、ヨソノイネの方が腰出とるのに。親の親の代から天満でオカイサン塩入れて、あの路地に嫁に行て姑死んだらすぐ塩入れるの作ったのやのに」メリーちゃんは言い募る。
「塩入れてないんやったらオカイサンら要らん。味気ないし、じいじいとする塩の入ってないオカイサンやったら、みそ汁の方がよっぽどええ」
イーブは美子《ミジヤ》に言って塩入りと塩入りでないのと二種類の茶粥を作らせた。美子《ミジヤ》がまったく等分に茶の煮出た湯を分け、米を分けたので、ジャンヌちゃんとブルックちゃんの食べる塩の入っていない茶粥はたちまち底をつき、メリーちゃん一人食べる塩入りの茶粥はいつまでもある。それにしても茶粥の減り方が遅いと思ってイーブが一杯くれと茶碗を差し出すと、「食わいでもええよ」とメリーちゃんは言う。
「くれ」とイーブがなお言い、「食わいでもええ」とメリーちゃんが渋ると、ジャンヌちゃんとブルックちゃんが顔を見合わせる。「また間違えたんやわ」とジャンヌちゃんが言う。
メリーちゃんはそっぽをむく。
「何ない?」ターが訊く。
ジャンヌちゃんがブルックちゃんの顔を見てから決心したように「二回も間違ごた」と言う。
「塩の塩梅《あんばい》をの」ブルックちゃんが合の手を入れる。
「間違ごても放ってしまうわけにいかんさか、また茶をぐらぐら沸かしてオカイサンにさすんや。さしてもさしても塩辛て、いっぺんは米だけすくて食べたんや。オカイサンの味もせんようになった米、味気ないわの。茶の方は塩辛て放ったらんならんし」
「オカイサンの茶、放るとこ捜すのに、苦労したわだ。米、炊いたもんやのに、簡単に地面に放れんし。堀に放り行こら言うたけど、警察に怒られたし」
「あの時、皇居のそばにおったんか?」ターが訊く。
「さあよ」ジャンヌちゃんが素気なく言い、メリーちゃんの顔を見て、しゃもじで鍋の底の茶をすくう。
「このイネ、こんなんや。オカイサンの事になったら、天満はこうじゃったと言いししる。そうやんでワシらも、もうオカイサン作るのやめよらと言って。パンばっかし」
「違うの」メリーちゃんが顔を上げる。
「このイネら、ワシにかつけるんじゃわ。何でもワシが悪いと言うの。七輪も盗まれたし、オカイサンの鍋も盗まれたんで作れんようになったのに、ワシのオカイサンの塩のせいにするの」
ブルックちゃんはそこまで言うのかと問うようにメリーちゃんを見る。メリーちゃんは眼を伏せる。
「コサノイネ、泥棒に盗まれたと言うけど、あの時、そばにおったオイサンに売ったんと違うんかん。パンか餅買うて食とったの見た気するど」
メリーちゃんはブルックちゃんの追及に「何をよ」と抗《あらが》い、手に持った茶碗と箸を置き、イーブとターを交互に視て、「このイネらこうやってワシをいびるんじゃ」と訴えかける。
「仲良うせなあくか」ターが言うと、「仲良えのは天子様に祈ったり神さんや仏さんに祈った時だけや。えしむんよォ」と言い出す。
三人の老婆の中でメリーちゃんが一等齢若い。水があるところも、人目に立たず火を起こせる場所もメリーちゃんが見つけ出す。歩き廻り、親切な人に庇ってもらってバスの切符を手に入れて遠くまで行き、川沿いに出来た公園に居を定めたのも、メリーちゃんのおかげだったし、ダンボールやビールの空罐を拾い集めて持っていけば十円二十円の金で買ってくれる浮浪者を見つけ出したのもメリーちゃんだった。
「わしが自分の拾た分の金、十円二十円と貯めて一回パン買うて食たら、その事をずっと言うの。このイネら口だけ達者で、何にもよう拾わんのやさか。ワシがちょっとおらなんだら、飴買いに行たんか餅買いに行たんかと言う。ワシ、今度、そんな事言うんやったら、一人、離れて安気に暮らすわと思うけど、イネらがおろおろしとるの見たら、よう一人離れん。死ぬ時、一緒やと思て」メリーちゃんは涙ぐむ。
「死ぬ時、一緒やよ」ブルックちゃんが言い、ジャンヌちゃんが「三人しかおらんのやさか、死ぬ時、一緒やよ」と言い、茶碗を置き、左手の甲で涙をぬぐう。
茶粥で諍いをしていた老婆らが三人共、涙を流し始めたのがおかしいとアキラが笑い出す。
同じように涙を浮かべたターが笑い声に振り向き、「何だ、こいつ」と訊く。
「さあ」チョン子が答え、イーブを見る。
「さあ」とイーブもとぼける。
アキラがとぼけるイーブに不満だと物言いかかった時、一人、離れてソファの脇に坐っていたファ・チンが「わたし、この人、ノー」と言い出す。「ノーだよ、ノー。きれいたから」ファ・チンが舌足らずに言うと美子《ミジヤ》が、「きらいたから」と直す。
「きだいだからだろ」チョン子が直して「あれ」と首を傾《かし》げ、「きらいだから、きらいだから」と苦笑して続ける。
「誰だってこんな奴、好きになるのいないよ。ター知ってる。わたしがファッションの子やソープの子のウサ晴らしに連れて行く(金)多摩霊園にいる奴。裸で女の子の前に坐ってゴマすって、男って何でバカか、みっともないか、芸なしか、コケおどしかって実演してみせてる奴。イーブやターと同じ人間じゃない。きらいだよね」チョン子はファ・チンに問いかける。
「きらい」ファ・チンは綺麗な発音で言う。
「嫌われても結構ですよ」アキラは言う。「(金)多摩に入った時、マネージャーにどうせ客はソープとかファッションとかの姦《や》られすぎて頭まで開いちゃった女か、ヘンタイ爺ィだから、客が安心するように徹底的にバカになれって教育されてますから」
「オカマの店か?」ターは訊く。
アキラはそのターをまっすぐ見て「入った事ありますか?」と訊く。
ターはアキラを見たまま首を振る。アキラがターの眼から視線を外さないので、ターは何かを察知したようにイーブを見る。イーブはターに見つめられ、居直るようにゆっくりとあごを引き、瞳に力を込めながら焦点をぼかし、微笑を浮かべる。〈白豚〉や〈黒豚〉に向かって性の遊戯に誘う時、イーブはいつもそのジゴロの微笑を浮かべた。チョン子にその微笑がセクシーだとほめられ、ターに何度も教えたが、ターは覚えなかった。
ターは〈白豚〉や〈黒豚〉を誘う微笑を浮かべたイーブを最初驚いたように見て、次にイーブの居直りを見すかし、合図を送るようににやりと笑い、アキラに「これ、タチが悪いさか、くっついて廻ったらえらいめに遭うど」と言う。
「えらい目って?」
「大変な目」ターは言い直し、「俺がそうじゃし、チョン子がそうじゃ。この婆さんらもそうかもしれん」と言い出す。
ターはアキラにイーブを見てみろと言う。アキラはイーブを見る。
「さっきみたいに笑てみいま」ターは方言を使う。
「何をよ」イーブは一蹴する。
「のう、オバ。この男がトレーラー持ち込んで来て、お伊勢参りしようら、物見遊山に出よらと誘わなんだら、出て来てないねえ? 優しい眼で笑《わろ》て誘て、富士山も見る、皇居も拝めると言わなんだら、オバらも動かんし、俺じゃて動かん。この男の眼に誘われてオバらもこの俺もここにおるんじゃ」
「吾背《あぜ》の眼も誘たよ」ブルックちゃんが混ぜっ返す。
「オバらの眼にも吾背《あぜ》ら若《わか》い衆《し》、誘われたと違うんかよ」メリーちゃんが混ぜっ返しに加勢する。
「最初にお伊勢さんに行きたいね、皇居を拝みたいねと言うたの、ワシじゃもん。吾背《あぜ》ら若《わか》い衆《し》じゃさか行こと思たら何回でも行けるけど、オバら齢取ってヨボヨボになって来て、一人でよう行かん。行きたいね、連れてくれんこ、オバらいっつも、御詠歌の練習しとるけど、いっぺん外へ行てしたいわだ、言うて、誘たんやのに。ちゃんとオバら面々覚悟して来とる。外で放り出されても文句言わん、体あかんようになったら人の巡礼に迷惑をかけんと一人離れると言い合うて来とる。面白かったわだ」
イーブがメリーちゃんの言葉を受けてアキラに「面白かっただろ?」と訊く。
「どうして?」アキラは問い直す。
「どうしてって、この婆さんらも面白かったと言ってる」
「面白かったって」アキラは声を詰まらせる。
昼近くなってイーブとターは老婆ら三人を連れて商店街に買い物に出た。衣料品店で肌着、下穿き、靴下の類を整え、三人同じ物では厭だろうとブラウス、スカートを選ばせ、コート、襟巻きを買い整え、一人メリーちゃんが荒物屋の前にたたずみ動かないのに気づいて、ターが「何な? 何、欲しいんな?」と訊くと、店の脇に立てかけた竹箒を指差す。
ターはイーブを見て肩をすぼめ両手を広げてアメリカ大使館の女仕込みの仕種をやり、「また皇居に行くと言うんじゃ」と言う。
「何遍も掃いたけど」メリーちゃんは言う。
「欲しんかよ?」イーブは訊く。
メリーちゃんはうなずく。あきれ返ったターを無視してイーブは「オバら三人戻って来てくれたんじゃさか、今日は何でもほうびに買うたる」と竹箒を三本買い込んだ。竹箒をターに持てと言うと断った。仕方なしにイーブが竹箒をかつぎ、老婆らが三人、部屋で生活するのに必要な歯刷子、石鹸の類の雑貨を買い、洗濯物を干すロープを買って、蒲団屋に寄る。三組の蒲団と毛布、枕を届けてくれるように注文し、電機屋に寄る。イーブ一人なら洗濯はコインランドリーとクリーニング屋で間に合うが、老婆三人が加われば、年寄りにも簡単に操作の出来る電気洗濯機、乾燥機が要る。電機屋に金を払う段になって、用意した現金が足らないのに気づき、ターに老婆三人を見ていてくれと言って、銀行に出かけた。
キャッシュカードで現金を下ろして残高を確かめ、ゆうに大型トレーラーを買うに足る額が残っているのを知り、イーブは一角獣の性のサイボーグがその金でバラバラに壊れるのだと気づく。イーブはカードと共に出て来た伝票に思わず音を立てて口づけする。
しばらく老婆らが落ちつくまで待って、老婆らと大型トレーラーを買いに出る。皇居から恐山へ、恐山から月山へ、逆にたどって伊勢に出、熊野に出てもよいし、東京から一直線に東海道を下り、大型トレーラーが跡にして来た道を戻り、熊野の路地に戻ってもよい。イーブは月明りの山道を走る蛇のような大型トレーラーの姿を想像する。
銀行を出た途端、イーブは不意に男から肩をたたかれた。驚いて男を見つめ「久し振り」と声を掛けるのが〈黒豚〉の一人だったのに気づき、気後れし、曖昧な笑を浮かべる。
〈黒豚〉はイーブの笑から意味を深読みする。〈黒豚〉はイーブと肩を並べて歩き出し、何をしていたのだと問わずもがなの事を訊き、イーブが言い渋ると、銀行に幾らあるのだと訊き、「そんなにないですよ」と答えると、コーヒーでもつきあえと言う。
「時間がないんです」イーブは言う。
〈黒豚〉は誰が待っているのかと訊く。
「誰も待ってませんけど。ジムの時間迫ってるし、ジム、終ってからひと眠りしたいし」
〈黒豚〉はイーブの嘘を見抜いたように、商店街の喫茶店の前でコーヒーを飲もうと誘う。〈黒豚〉の手が背に当てられている。そのうち腰のあたりに当てられる。
イーブは〈黒豚〉を殴りつけたい衝動に駆られる。決心すれば〈黒豚〉を殴り倒すのはわけもない事だった。
イーブは「本当に時間がないんです」と言って周囲を見た。〈黒豚〉の後ろの喫茶店のドアに困惑げなイーブの顔が映っていた。イーブはその顔のままゆっくり微笑を浮かべてみた。性のサイボーグは微笑一つで作動する。
「本当にコーヒーだけでいいなら」イーブは言う。
〈黒豚〉はイーブを口説き落としたと酔ったように、「いいのよ、コーヒーだけで。無理言わないからさ」と女口調で言い、「さあ入ろう」とイーブの尻を押す。
〈黒豚〉の指差す奥の席に坐り、イーブはコーヒーを注文する。ウェイトレスはイーブを見て、映画俳優かテレビタレントと思ったらしかった。椅子に深く腰かけ、背筋をのばし、心持ち股間を突き出すような姿勢で股を開いて坐る。ウェイトレスが見ても、男を性の対象にする〈黒豚〉から見ても、イーブは一分の隙もない雄として映っている。ズボンの下、下穿きの下では陰毛のあたり丹田に筋肉がもり上がり、それが腹筋を伝って顔の表情に出る。
イーブはくだくだしい〈黒豚〉の話なぞ聴いてはいない。〈黒豚〉もまたイーブに、〈黒豚〉でなければ理解不能な心理の綾なぞ分かるはずがないとたかをくくっている。〈黒豚〉は心理の綾を言い募りながら、イーブの眼や顔、体中にあらわれ消える蠱惑するようなもの、哀願するようなもの、抱擁を求めるようなもの、人を冷酷に突き放すようなものを見つけ、感応している。イーブは自分が発する熱線のようなものを充分知っている。
「もう無理ですよ」と言って、外に出たイーブを〈黒豚〉は未練げに追って出て来た。「誰なの?」と言う〈黒豚〉にかまわずイーブは電機店に戻り、店の前に竹箒を三本持って立っているターを見つけ、待っているのはこの男前だと自慢するように、ことさら「兄貴、待たせたよなァ」と肩を抱くと、〈黒豚〉は追って来た事が嘘のように目をそらし何事もなかったように店の前を通りすぎる。
「何じゃ、気色悪い」ターはイーブを突き離す。
イーブは笑い入る。ターは何故笑っているのか分からない。もう誰にも体を売る必要はない。イーブは銀行の伝票を見せる。「アニ、見てみ。アニみたいに一人の女相手にしとったらこんなに貯《た》まらんど」
ターは伝票を受け取り、桁を数え、声を上げる。
「チョン子の言うとおり、客選ばんと姦りまくったさかじゃ。減る物でない。オバら明日でも路地に戻りたい言うたら、すぐでもトレーラー買いに行ける。アレ一本でかせいだんじゃさか、アレの形したトレーラー買おかいね。それともアレの絵描いて電気に飾りつけて山道でも分かるようにしようかいね」
ターは舌打ちし、「そうせえ」と言う。「そんな聴いただけで臭いような物に、俺は乗らんど」
老婆らは店の中でテレビに見とれていた。電機屋に金を払い、外に出ると老婆ら三人が三人とも買い物を切り上げて部屋に帰りたい、テレビを見たいと言い出し、そのまま商店街の入口に停めてあったターのBMWに乗った。
部屋に着くなり、老婆らは寝室に入り込む。すぐ蒲団屋が蒲団を届けて来たのでイーブが受け取り、寝室に運び込もうとすると、チョン子が手で合図して呼びとめ鏡を見ろと教える。「イーブ、叱らなくちゃ、駄目だわ」チョン子は小声でつぶやく。
イーブは大鏡に映ったブルックちゃんを見る。寝室の床にブルックちゃんは這いつくばり、手に持った電球を寝台の下に隠そうとしていた。そのブルックちゃんにまた一個、坐ったメリーちゃんが電球を渡す。
「これどうするんな?」ジャンヌちゃんの声がする。ジャンヌちゃんの全身は見えないが、桃色のウォークマンらしい物をつかんだ手が見える。
「盗《ぎ》ったの?」アキラが小声で訊く。
「でしょう」チョン子がイーブの顔を見上げる。
「ああ、分かった」アキラが言う。「あのレゲエおばさんたち、ああして盗って廻ってたんだ」
「阿呆《パボ》ねえ」チョン子は言う。「鏡に映ってるって分からないでせっせと隠してる。そんな物盗ったっていくらにもなんないのに。わたしがお金ぐらい、どんなにでもしてやるのに。イーブ。わたしの本当の恋人の、大事な大事なお婆さんだよ。何、あれ?」
「知らねえ」イーブは首を振る。
「物、盗ってくるのも、盗ってきた物をわたしらに分からないように隠してるのも、見たくない。哀しい。イーブ、チョン子、悲しい。涙《ヌンムル》、出るね」
「俺は悲しくない」イーブは言う。
「悲しくない? さみしくない?」チョン子はつぶやく。
そのまま放っておくとチョン子が老婆らを傷つけるようなひどい言葉を吐きそうな気がして、イーブは「オバ、何しいるんな」と声を掛ける。
ブルックちゃんが老婆と思えない勢いで跳ね起きる。
「いま、蒲団届いたさか見てみよよ。誰がどれに寝るのか決めよよ」イーブが言うと、メリーちゃんがあきらかにつくり声で「分かっとるじゃがい。オバ、一番若いさか赤い柄やど」と言う。
二十一
イーブはターに手伝わせて、老婆らの居る寝室に蒲団を運び込んだ。ターに目配せしてアキラが使っていたイーブのベッドの上に、二つの蒲団袋を置いて袋の紐をほどきにかかると、アキラがソファの方から、「一緒の部屋で寝るのー」と声を出す。
「一緒の部屋じゃない」イーブはベッドに腰掛け紐をほどきながら、所在なげな三人の老婆を交互に見て言う。
「ベッド、そっちのクロゼット代わりの部屋に運ぶさ」
イーブはブルックちゃんの顔を見る。
「のう、ブルックノオバ、他所《よそ》の若衆《わかいし》らと一緒に眠れなど、せんわい。のう」
イーブが相槌を求めると、ブルックちゃんは戸惑い、「これ、どけるんか?」と訊く。
心の中に湧き上がる笑いをこらえて、イーブは「オバら、これ使いたいんかよ?」と訊く。「使いたかったらかまんど。ただ俺ら、蒲団上げたり敷いたりするの、めんどくさいから、置いとる」
「三組、敷けるわだ」メリーちゃんがそこに一組、あそこに一組と指差して言う。
蒲団袋の紐をほどき終えて、イーブは老婆ら三人を必要以上に不安がらせてはいけないと思い、「おうよ」とメリーちゃんに相槌を打つ。
敷き蒲団に掛け蒲団に毛布、三つの籾殻《もみがら》の入った枕、いつでも寝たい時に敷けるように、部屋の隅に並べ、イーブは寝室を出た。
そのイーブの顔をチョン子が見ていた。イーブは片目を瞑《つむ》り合図を送っただけで何も言葉を返さず、チョン子の脇に腰掛けた。チョン子がイーブの膝に包帯の手を置いた。
寝室の方で老婆らのひそひそ声がした。意味の取れない老婆らのひそひそ声は、聴き耳を立てていると体に湧き上がる笑いの音のような気がする。
イーブはチョン子の包帯の手を取る。
「何、笑ってる?」チョン子が訊く。
「何にも」耳に響くひそひそ声が笑をつくらせるのだ、と説明したいが、イーブは黙る。
「綺麗な微笑ねェ」チョン子はイーブの顔を見つめたまま言う。「何にも悪い事しないみたい。汚い事とか醜い物とか穢れた事とか、何にも知らないで、今ここに天から舞い降りて来たみたい」
「オバらの声、聴いてたら、嬉しくなってくる」
「その綺麗な微笑見てると、このチョン子も嬉しくなってくる。清潔よ、穢れてない」
イーブはチョン子の大仰な言い方に、一瞬、〈白豚〉の言葉を思い出す。〈白豚〉は興奮すると妙な言葉遣いをした。忘れられなくなりそう。あなたがこんなに素晴らしいなんて。ベッドの中で繰り返す〈白豚〉の譫言《うわごと》は芝居の科白《せりふ》のようだった。イーブは鼻白んだが、我慢した。イーブはチョン子の科白にハンフリー・ボガートを真似て苦笑し、「ジャケットはアルマーニ、トロージャーはセシル・ジー、靴下だってバーニー・ニューヨーク」と言い、「金で固めた天使さまってか?」とつぶやく。
「金で固めた天使さま。だからあのお婆ちゃんたちに、もう仕事する事なんか要らないって教えてやらなくちゃ。イーブやこのチョン子様が、キンキラキンで固めているのだから、あのお婆ちゃんたちだってキンキラキンに飾ってやるよ」
「ああ、飾ってやる」イーブは言う。
寝室からターが出て来る。ターは流しに立っているファ・チンのそばに行き、耳元で何事かささやく。ファ・チンは寝室の方を見た。
「何?」チョン子が訊いた。
ファ・チンはチョン子に答えようとし、日本語が出て来ないというように首を振り、寝室の方を指差し、歩き出す。
ターが「オバらあの子に用事あるんじゃと」と言う。
「用事って?」チョン子は言い、不意に笑い出す。「何語で話すの?」
ターは首を振る。ターは美子《ミジヤ》の脇の床に坐る。「あのオバら、何語でもかまんと思とる。東京弁も韓国語も中国語も一緒じゃさか。同じように分からんのじゃさか」
「そうなの?」チョン子がイーブに訊く。
イーブは「そうじゃ」と方言を使い、チョン子の髪に手をのばし、撫ぜる。
チョン子はイーブの顔を見る。綺麗だと言われた微笑を浮かベイーブが見つめ返すと、チョン子の眼に涙が滲《にじ》み出る。
「どうした?」イーブは訊く。
「愛してる」チョン子はかすれ声でささやく。「イーブ、優しい。わたしたって、優し」チョン子は訛を使う。
「嘘、ちがう。本当。本当に、優しい。ファ・チンたって、美子《ミジヤ》たって、お婆ちゃんたちたって、本当」
「俺は?」ターがにやにや笑いながら言葉をはさむ。
「あんたも」チョン子が答えると、アキラが「僕は?」と訊く。
「バカ」チョン子は吐き棄てるように言う。「あんたなんか、数に入ってない。さっさとどこかに行けばいいんだ。優しい人間、みんな苦労してる。ここでみんな苦労してる。誰も本当に好きでない人なんかとセックスしたくない。お金あれば苦労、少しで済むと思ってセックスしてる」
「イーブさんは違うよ」アキラは挑発する。「あんたの事なんか知らないけど、イーブさんの事なら何だって知ってる。イーブさんはセックスが好きなんだよ。相手が何だっていいの。綺麗だとかカッコいいとか男前だって言ってくれりゃ、セックスするの」
イーブはアキラを見る。「ああ」とうなずく。「誰とでもセックスする」イーブはアキラに向かって商売用のベッドに誘う時の表情を作る。瞳にゆっくり力を込め、相手を見、あごを微かに引く。鏡の前で何回も繰り返し、チョン子やターに効果のほどを確かめたのだった。
「俺に金を積むからセックスして欲しいって?」イーブは挑発していたアキラを突き放すようににやりと笑う。「もうしないよ。する必要ない。いま三人、婆さん、いるだろう。三人の婆さんがここに居るなら、もうジゴロしなくたっていい」
「何で?」アキラが訊く。
「何で、って、婆さんが見つかるまでって決めてジゴロやってたんだから」
「セックスはしないの?」
「しないよ」イーブが答えると、チョン子が、「わたしとだけするんだよ」とアキラに怒鳴る。
ファ・チンが老婆らの居る寝室から出て来て、イーブを呼んだ。
ベッドの端に腰掛けていたメリーちゃんがイーブの顔を見るなり、「これ、ここにあったら狭いわ。出せるんじゃったら出してくれんこ」とべッドをたたく。
「動かせと言うんか?」イーブが驚いて訊くと、「おうよ」と言う。
「外に出したってもかまんのかよ? 何も支障ないんか?」ベッドの下に隠した物は大丈夫かと暗に訊くと、「わしらに何の役に立たん」と言う。
「誰そ、それに寝るんじゃろ?」ブルックちゃんが訊く。
「あの足、ケガした若《わか》い衆《し》」イーブは言う。
「あんなのどうヘンに思いもせんが、転がって落ちて来たら、厭じゃし、他所の者、味気ないわだ」ブルックちゃんは勢いついたように言い、イーブの傍に立ったファ・チンに「吾背《あぜ》、せいでもええわ。田中さんを呼べ、男の手じゃなかったら動かんわ」とまるでファ・チンが何不自由なく日本語の方言を使いこなせるように言う。
ファ・チンはブルックちゃんの言葉をすべて理解したように寝室の外に出て、「あなたー」と声を出し、ターを呼ぶ。ベッドの端に手を掛けイーブはターに目配せした。
「イチ、ニー、サン」と魔術を始めるように二人で声を合わせ、同時に持ち上げると、老婆らが一斉《いつせい》に声を上げ、メリーちゃんがブルックちゃんを「何なよ」とねめつける。イーブが「何な、オバ」と声を掛けると、物言うべきではなかったというように口をおさえる。一歩、二歩ずらし、入口を通れるようにベッドをななめにしてみて、ベッドの下に電球が一個だけ、転がっているのが分かった。
老婆らは電球にそ知らぬ振りをした。
ターが送って来るウィンクにウィンクを返し、イーブもそ知らぬ振りを装い、ベッドを運び出した。クロゼット代わりにした部屋にベッドを置き、美子《ミジヤ》に整理を頼み、ファ・チンに寝室の掃除を頼んだ。ベッドの下に隠していた電球とウォークマンをどこに移したのか、老婆ら三人はファ・チンが電気掃除機のスイッチを入れるや、取りつくろうように寝室を出て、ソファの脇に坐る。
「お婆さん、こっち」チョン子は身をずらし、いまさっきまでイーブが坐っていたソファに坐れと勧めた。
「落ちつかんよ」とメリーちゃんが言うと、ジャンヌちゃんが気を遣って「わし、坐るわ」とチョン子の脇に行く。
ジャンヌちゃんが坐ると、チョン子は「もう何にも心配要らないんだから」と言い、不意にイーブにハンドバッグからサイフを取ってくれと言う。
ハンドバッグがどこにあるのか分からず、イーブがもたつくと、クロゼット代わりにした部屋をかたづけている美子《ミジヤ》を呼び、ハンドバッグを受け取って、包帯の手で開けてサイフを取り出し、そのままジャンヌちゃんの膝に置く。
「四十万。違う、四十六万ある。ウォンにしたら五倍で二百三十万、七倍で三百二十二万か。お婆さんたち、三人で遣っていい。どんなにして使ってもいい。何、買ってもいい。嘘の金じゃない、本当の金だから」
ジャンヌちゃんはサイフを持ち上げ、メリーちゃんとブルックちゃんの顔を見る。
「何に遣ってもいいよー」チョン子は笑を浮かべ、歌うように言う。
ジャンヌちゃんはチョン子の声にあわてて振り向き、チョン子がうなずいて「四十六万あったら、何だって買える」と言うのを聴いて、またメリーちゃんとブルックちゃんの顔を見つめ、不意に決心したように「要らんわ」とチョン子の膝に放る。
「哀号《アイグ》」チョン子は事態の思わぬ展開にあきれたという顔をし、イーブとターを見て「どうしてお婆さんたち、お金、取らないの」と言う。
イーブは言葉に答えず、チョン子を見つめる。「四十六万入ってる。何でも買える。好きな物、買える」
「要らんよ」ジャンヌちゃんは言い、チョン子がサイフの中から金の束を取り出すのを見て、ソファから立ち、脇目も振らず寝室へ歩いて行く。
「どうしてお金、要らないの」チョン子は言う。「日本人は乞食してても韓国人からお金もらいたくないって? 哀号、電機屋から電球盗んで来ても、わたしの金、要らないって」チョン子が言うと、メリーちゃんが「電気の球、どうしたと言うんな」とつぶやいて立ち上がり、ブルックちゃんに「あんた、金、欲しんこ」と訊く。
「金ら、欲しないよ。金持っとると思てひけらかして、こころ悪いと思とるんやよ」ブルックちゃんは立ち上がる。
「何な、ひとりエラそうに。最前からふんぞり返って」メリーちゃんはチョン子に言い、ジャンヌちゃんの入って行った寝室に向かう。
チョン子は一万円札の束を包帯の手に持ったまま「何で、イーブ?」と訊く。「お金、あげるって言っただけなのに。わたしが出来る事、お金しかないって分かってるのに」
イーブは困惑した。「よし、オバらを謝らす」と、寝室に入ると、すかさずメリーちゃんが「なんな、あの女。わしらを盗人扱いにして」とイーブに喰ってかかった。
「どこに電気の球があるんな」ブルックちゃんは言った。
「あんな人を疑てかかる女とオバら一緒におれんど」口々に言うのを聴いて、イーブは老婆らがチョン子に何かを知られたと思って、ヤケッパチになり、イーブに裁けと言っているのだと悟り、寝室の壁に立てかけた鏡の前に坐り、立っているブルックちゃんに坐れと言った。
「オバ、ここに鏡あるじゃろがい。ここから、あの女、泣いとるの見えるじゃがい。あの気性の激しい女。こっちに、女、泣いとるさか、嬉しがって見とる若衆、おるじゃがい。あの若衆、こっち見えとる。見てみいよ。目瞑って合図したるど」イーブは鏡の中のアキラに向かってウィンクする。
アキラはウィンクを返す。
「合図、返って来るじゃがい。というのは、オバら、ここで何しとっても、ドア開けとったら向こうから見えとる。オバらさっき電気の球、ベッドの下に隠すの、皆な見とった。ウォークマン隠すの、見とった。あの女、オバらが物盗むの、売って百円か二百円に換えるさかじゃと思て、金あったらそんな事せんじゃろ、要るだけ使たらええとサイフ渡そとしたんじゃのに」
「電気の球らもうない」ジャンヌちゃんが言う。
メリーちゃんが鏡をのぞき込む。「こっちも向こうに映っとるんか?」イーブはメリーちゃんに「おうよ」と相槌を打ち、「手招きしたてみいだ」と言う。
メリーちゃんは素直に手招きする。
アキラが「何なの?」と大声で訊く。
「見られとったんじゃと。どうもツヨシや田中さんが、ベッド運ぶと言うし、おかしいねと言うとったんじゃけど、やっぱし見られとったんじゃね」苦笑しながらそう言うメリーちゃんの耳にイーブは「オバ、どこへ電気の球、手品したんなよ?」とささやき声で訊いた。
「手品教えてくれと言うんか?」メリーちゃんは笑い、電気掃除機のコードを納いかかるファ・チンを目で教え、「訊いてみ」と言う。
イーブは坐ったままファ・チンに声を掛け、電球という中国語の単語のつもりで天井の蛍光灯を指差し、「どこ?」と訊いた。
ファ・チンは三人の老婆を見、イーブを見て曖昧な笑を浮かべ、イーブの腕を引き、流しの脇に積み重ねた空箱の一つを指差す。空箱の中に電球が五個、ウォークマンが一つ、入っている。
「ほら、チョン子」イーブは箱の中を見せる。
チョン子は涙のついた顔を上げ、イーブを見、ファ・チンを見る。ジャンヌちゃんが寝室から歩いて来て、黙ってファ・チンの横に立ち、手に持った小さく折り畳んだ千円札を二枚、ひろげてから「返すわ」と渡す。
ファ・チンは意味の分からない微笑をつくって臆せずに金を受け取り、ポケットに入れる。東京弁も分かりかねる老婆らが、中国語しか分からないファ・チンとどう売買の交渉したのか分からなかったが、老婆らが何も説明せずとも、電球五個とウォークマン一つを二千円でファ・チンに売った事は明白だった。
イーブは箱の中の電球とウォークマンを見て笑った。チョン子の脇に坐り、チョン子に説明するように「オバら二千円入ったさか、気ィも強なったんじゃ」と言う。
ダンボールを拾ったり、鉄屑を拾い集めて十円、二十円の金を貯《た》めていた生活では、二千円は大金だった。二千円の大金があれば、たとえ四十六万円の嵩《かさ》であろうと用はない。イーブは言った。
チョン子は「わたしが恩着せがましかったのよ」と言う。「両手両足にケガしてる。イーブの大事なお婆さんが居るっていうのに何にもしてやれない。韓国人の悪いクセよ。金、バラまけばすぐ解決すると思う。気が短いのね。いっぺんにパッとやっちゃえばいいと思う。金、金、金でずっと来たから。ソープの子にもファッションの子にも、金がなくちゃ何にも出来ないんだから、金があれば何でも出来るんだからって言い続けて来たから。イーブのお婆さんらもソープの子らと一緒になっちゃって。二千円は使えるけど、四十六万持ったって、お婆さんら遣い道ないよね。食べる物だって、着る物だって、お金かかんない」
チョン子は涙ぐむ。こらえきれないようにイーブの肩に額を当て、イーブが髪に手をやると、「愛して欲しい」とつぶやく。
「今、初めてイーブをジゴロにして後悔してる。本当に後悔してる。イーブ、不安なのよ。イーブはお金を欲しかったでしょ。お婆さんらを物見遊山に連れ出して、東京でお婆さんらを見失ってしまって、お婆さんを見つけるまで東京にいると言った。東京まで乗って来たトレーラーを売り飛ばしてしまったと言った。イーブをジゴロに仕立てたし、イーブに客をつけるのも、わたし。お金の為にセックスするの、わたしと一緒よ。あの時はイーブはわたし。お金、お金。イーブの貯金通帳に幾らあるのか、知っている。トレーラー買える。ベンツだってBMWだって買える。ターのように一人を選んでジゴロやれば、ささやき一つでトレーラー買ってもらえる。でもイーブはしない。優しいから、いざという時、相手と切れなくなるから。イーブは色んな客と寝る。私も意図的に色んな客をつける。イーブは相手を愛したくない。誰も愛さない。私をも愛さない。じゃあ、誰を愛してる? 三人のお婆さんよ。いまここにいる。イーブは客を振るみたいに、私も振る」
チョン子は顔を上げる。イーブの顔を見つめ、「一人だけ、逃げようたって逃がさない」と言う。
イーブは激しい怒りが浮き出たようなチョン子の眼を見ながら、怒りをなだめようとするように唇に唇を重ねようとする。唇が重なり、チョン子の舌が割って入り、舌を絡めようとした途端、チョン子は待ち受けていたように舌を噛みかかる。
イーブは驚いて顔を左右に振って逃げた。なお唇を重ねかかるチョン子の顔を払って、ソファから立ち上がると、「イーブはわたしの物だからね」と怒鳴る。
「僕の物ですよ」アキラが合の手を入れる。
「イーブはわたしの物だよ。絶対に自分勝手になんかさせない」チョン子は言い、急に激しく、そうするしかおさまりがつかないというように突然、左手の包帯をはずしにかかる。包帯をはずし、血のしみついたガーゼをはずして一層激したように、「こんな物」と言って右手の包帯を乱暴に取る。
美子《ミジヤ》がクロゼット代わりにした部屋から飛び出して来て、「|姉さん《オンネ》」と駆け寄った。
老婆らが三人、寝室の入口に固まり、難を避けて離れたイーブに「わしら悪口言うたさか怒っとるの?」と訊く。
イーブは違うと首を振った。
チョン子は抱きかかえる美子《ミジヤ》を振り払った。チョン子は老婆らの脇に立ったイーブをはっきりと憎悪の眼で見る。
「イーブ」チョン子は呼ぶ。
「イーブ」黙ったまま見つめるイーブを見て、「今、死ねと言うなら死ぬ」と言う。「皆な韓国の女、男の一人や二人の為に死んでたまるかって言うけど、わたしは死ぬよ。日本に来て、大っぴらに言えないような事ばかりして来たんだ、金、金、金って口で唱えて、厭な事ばかりして来たんだ。韓国にも戻れない。戻りたくない、死ねって言えば、すぐにでも窓から飛び降りてやる」チョン子は涙を流し、泣き声になる。
「言って、イーブ。おまえみたいな女は、金の亡者で穢いから、窓から飛び降りて死ねって。俺は婆さんとどこかに行ってしまうって。ずっとおまえをだましてたんだって。おまえは穢い、俺は本当は綺麗だって」
「じゃあ、飛び降りれば」アキラがぶっきら棒に言う。
「イーブさんに迷惑かけたり、僕をピストルで撃ったり、騒ぎつくるの、そっちだから、責任取って飛び降りたら」アキラは言って首を傾《かし》げ、「でも、このマンションから飛び降りたら、結局、イーブさんに迷惑かかるね」と舌を出す。「ぐしゃぐしゃに潰れて肉のかたまりになってても、すぐ調べれば、札つきの女だって分かるし、イーブさんの事だって調べられてしまうし。高層ビルあたりからだといいんじゃない」
「うるさいガキじゃな」ターがアキラを威嚇する。ターは声を出して、心の堰が切れたように、「愛だ恋だと言いっこなしじゃろが」と言う。「一番最初に、俺がソープに行てあんたに会うて、ええ女、おるとツヨシに教えたんじゃ。それでツヨシがソープに行てあんたに会うて、この話、始まったんじゃろ。初めに言うたはずじゃ、ツヨシは女と姦《や》るの好きじゃが、愛も恋も分からん奴じゃと言うて。人から恋されたり愛されたりして好きになるが、自分の方から人を好きになる事ないと言うて。あんた、そんな方が、ジゴロ商売に向くと喜んだ。これは一種の心のカタワじゃから」
「サイボーグだよ」イーブはつぶやく。「人間じゃない。ロボット」
イーブの脇でメリーちゃんが「ロボット?」と訊く。
イーブはサイボーグのように振り返る。心の中に、体中どこからどこまでもすべてチョン子の物だ、とチョン子に答える言葉が渦巻き、チョン子がジゴロ商売を勧めたのを反省するのを待っていたと抱きしめてやりたい衝動に駆られているのに、イーブは突然、センサーが作動したように、「オバらと別れてから、ロボットになったんじゃわ」と言う。
メリーちゃんは不安げにイーブを見る。
「何もかも機械で動いとる。機械じゃさか、忘れてしもた。井戸があったじゃがい。井戸の左の家に誰、住んどったんか、右に誰、住んどったんか」
メリーちゃんはイーブを見て顔をしかめる。口をもぐもぐさせ、不意に、「オバも忘れたよ」とメリーちゃんはつぶやく。
「時々、冷たい井戸の水、思い出すんじゃ。中に葡萄の実を入れて冷やしとった。青い葡萄じゃったか赤い葡萄じゃったか分からん。その葡萄買うた物ではないの知っとる。精霊流しの川原でひろって来たと分かるが、サイボーグになってしもとるさか、誰と一緒にひろいに川原へ行たか忘れとる」
「イーブ、わたしと行ったのよ」チョン子はかすれ声で言う。
「いつもそう言う。そうあの女に言われて、ますますロボットになる。あの女にロボットにつくり変えられたようなもんじゃ」
「だからそのロボットはわたしの物だって言っている」チョン子はイーブを見つめる。
「イーブ、もう乱暴しない。ここに来て。わたしを安心させて」
サイボーグのセンサーを作動させるコードのようにチョン子は声を出す。
二十二
イーブは黙ったままチョン子を見つめていた。マンションの宙に浮いたような一室に、皆が居るのが不思議に思えた。
「俺はおまえを安心させる玩具じゃないよ」サイボーグのような声でイーブはつぶやいた。
チョン子はうつむき、頭を振った。髪が撥ね、いかにも男を粗末に扱ったと後悔している大仰な振りに見え、イーブは〈白豚〉や〈黒豚〉に返すような人工的な微笑を浮かべる。見ようによっては、酷薄とも憐憫とも取れる。
イーブを注視していたターが微笑をどう取ったのか、ウィンクをつくって合図した。アキラが、いままでイーブの心の中にあったチョン子への違和が噴き出した徴だと取ったように、笑を返す。
イーブは一瞬、宙に浮いたマンションの一室に集まった者が、互いに誰も信じていないし、愛していなかったと思う。愛と言葉で言うには奇妙すぎた。ジゴロのイーブもターも、チョン子も美子《ミジヤ》も、ファ・チンも、(金)多摩霊園で裸を見せ性器を見せているアキラですら、愛という言葉は周りに、掃いて棄てるほどある。何から何まで愛ずくめだった。愛は一夜だけ灯りをとぼす、使えば棄てるしかない燐寸《マツチ》のような物だった。ターはイーブをその愛も恋も分からない心のカタワだと言う。
イーブはチョン子を見る。チョン子は涙の眼で、サイボーグのイーブを見る。サイボーグのイーブは気の強い女の涙を見て回路に変調をきたしたように、考える。
愛も恋も分からない心のカタワではなかった。東京に来るまで、愛も恋も言葉として要らなかっただけだった。元々が、愛と恋の中にいた。春先から咲き始める夏芙蓉の花の香りが、辺り一面に漂い、だからそこは何であれ、誰でも、愛や恋を口にせずに、娘は若衆に体を許し、男は女に言い寄った。東京のここでは、愛という言葉が要る。
イーブは涙を浮かべたチョン子がいま不安でしようがないのだと思った。チョン子の過去の事を多くは知らないが、ジゴロをやるイーブのマネージャーをやり、〈白豚〉や〈黒豚〉を客としてつけたチョン子は、最初、恋や愛を言葉にして出せなくともイーブに自分を愛させる自信があった。〈白豚〉の誰よりもチョン子はイーブにつくした。イーブが普通の若者ならジゴロ商売をやる必要はなかった。
ジゴロをやるというイーブの決意を信じていなかったチョン子は、「金いくらでもあげるから、普通のヒモみたいに、パチンコやってるかサウナででもゴロゴロしててよ」と言った。チョン子は普通のヒモが厭なら、普通に働いてくれればよいと言った。二束三文の値で売り飛ばした大型トレーラーの代わりに、新品の大型トレーラーを買う金が要るなら、三カ月待ってくれれば、ソープランドで相手する客の数を増やし、用立てる。
イーブは駄目だと突っぱねた。女のヒモをやり、ソープランドで女が稼いで買ったトレーラーに、路地の老婆らが乗ってくれるはずがない。チョン子は空を見て、「哀号《アイグ》」とつぶやき、感極まったようにイーブの首っ玉にすがり、人の目があるのに頬ずりして、「だから好き」と言った。
イーブは照れながらチョン子の腰を抱き、その時は昼の部で、勤めるソープランドが目と鼻の距離だというのに、これから香水と石鹸の匂いの中で裸になると思うと一日の最初の相手になりたくてたまらず、チョン子をビルの二階にある駐車場に連れ込んだ。ホテルが目白押しに建ち並んだ繁華街のまっただ中だったが、服を脱ぎ素裸になる時間が惜しく、人気のない駐車場の物置の陰で、相互に最小限度の物だけ下ろし、最初は後ろから、最後は向かい合って片足でチョン子の体を支え両手両足に絡みつかれたままで姦《や》った。後ろ向きになって尻を突き出したチョン子の女陰の桃色の花弁と、疵跡のある肛門が煽情的だった。女陰に触り、肛門の疵跡に触ると「この間、切れたの」と弁解したが、「愛している?」と問わなかったし、「愛して欲しい」とも言わなかった。チョン子はいい女だった。
駐車場に人が来て、事の最中を目撃されかかり、あわてて衣服を整え、外に出て、イーブは上気した肌のチョン子に自分の方から肩を抱き、そういうしか方法がないように「しっかり稼いで来いよ」とささやいた。
チョン子は羞かしげに「うん」と首を縦に振る。
チョン子もイーブに〈白豚〉や〈黒豚〉を紹介する時、言葉では直《じか》に言わなかったが、しっかり稼げと励ましの想いを持ったはずだった。〈白豚〉や〈黒豚〉を相手に、一夜の恋人、一夜の王子様や神様に変身したが、チョン子は苦しまなかった。チョン子が組織の幹部の後見を受け、男がやるより女のチョン子の方が機微が分かると、ソープランドやファッション・マッサージの女の子らの手配をやりはじめ、チョン子はイーブに「愛してる?」と訊くようになった。
サイボーグのイーブはいまはっきり分かる。チョン子が変わったのだった。チョン子がソープランドで働かなくなって、イーブに〈白豚〉や〈黒豚〉をあてがうだけになり、イーブとチョン子の不平等が出来、イーブがどこかへ姿を消す不安にさいなまれ始めた。チョン子は自分のあてがう〈白豚〉や〈黒豚〉以外、イーブが誰と一緒でも苛立つ。ヤクザの幹部のイヤさんも、アキラも、ファ・チンもチョン子の眼から見れば一緒だった。
その苛立ちの最中に、老婆らが忽然と姿を現わした。チョン子は老婆らに金を遣ろうとした。老婆らははねつけた。
サイボーグのイーブの思考の終りを待ち受けていたように、チョン子が顔を上げ、「イーブ、どこかに行くの?」と訊く。
「どこだよ?」イーブが訊き直すと、「ここじゃない、どこか。大型トレーラー、買って」と言い、髪を両手でかきあげかかり、掌の痛みに顔をしかめる。
「一緒に行きたいなァ」チョン子は言い、不意に涙を流す。「イーブはどこかに行く。わたしも行けるなら行きたい。このままここにいても、どうせパチンコ屋の景品買いのアジュマみたいに、お金勘定してるたけ。アジュマに、ピンポウ、いやたねェって言ってやったら、韓国語で話し込んで来たよ。ちょうど新聞で、韓国のソウルで、働いても働いても生活が貧乏で親が苦しんでいるから、六人の子供のうち上の四人が死んでいなくなれば生活が楽になると、子供らで話し合って毒を飲んだの。二番と三番目が死んで後が発見されて救かった。アジュマ、札束見せて、ここにこんたけあるよ、と怒って言う。今の韓国にも金持ちはどっさりいるはずだって。お金の為に、体売って、お金持ったら、どうすればいいか分からない。ソープの子、何人も自殺してる。自殺してなかったって、クスリ中毒。わたしも、一緒にどっかへ行きたい」
イーブは黙ったままでいる。ターが「ツヨシに訊いてみ」とチョン子に言う。
「故郷《コヒヤン》に帰る?」とチョン子は言い、イーブが怪訝な顔をしていると見て「故郷《コキヨウ》」と言い直し、それでも妙な日本語だと思ったのか、「蓮の花の田舎」と言い換える。
チョン子の癖で、普段は訛のない日本語を話すが、韓国や韓国人の話になると日本語はたちまち訛がつく。訛って口にされた蓮の花の田舎は、イーブにはすぐに大型トレーラーで後にして来た夏芙蓉の花の香に満ちた路地の事とは思えなかった。
イーブより先に寝室の入口に立ったジャンヌちゃんが、「蓮の花て言うて、もうないど」と言う。
チョン子がジャンヌちゃんに優しい眼を向ける。ジャンヌちゃんは見られ、戸惑ったように傍に立ったブルックちゃんに、「蓮池、もう昔の事じゃねえ」と話しかける。ブルックちゃんではなくメリーちゃんが「わしらの娘の時代は残っとったけど、ツヨシらの時は人増えたんで埋めてしもとったわだ」と言い、ターに「吾背《あぜ》も知らんじゃろ」と訊く。
ターは不意に声を掛けられて面喰らったとイーブの顔を見、「俺ら、ようあの蓮池の話、聴いたさか、自分らがそこで遊んどった気するけど」と言い、イーブに、蓮の花が咲く頃、朝から一日中、池のあちらこちらで花弁の開くポーンという音が路地に響き渡ったのだと言った。
メリーちゃんは「おうよ」と相槌を打ち、いま現実に、東京の宙に浮いたイーブの部屋で音を耳にするというように、「ポーン」と口真似して坐り、「オバらも吾背《あぜ》みたいに獅子吼《ししく》った事あったわ」とチョン子に言う。
「かまんど。娘、若《わか》い衆《し》にいくら獅子吼っても羞かし事ない。いっぺん心許したら、いっつも若衆ゃ、娘、自分の言うとおりにすると思う。後で所帯持った時に、何遍もサンジノアニから、吾背《あぜ》の声の大っきいのは、娘の時からじゃ、と言われたけど、わし、苛々して来とったんや。確かに仲良うなったけど、嫁にもらいに父《トト》さんのとこへ話しに来てくれん」
メリーちゃんはブルックちゃんとジャンヌちゃんを見上げる。チョン子を慰めてやる為に話をするのだというように「坐んなァれ」と手を引き、二人の老婆が坐ると「あんたら二人もおったやろ?」と訊く。
ジャンヌちゃんとブルックちゃんは「さあ」と首を傾ける。「人の事は知らんわい」とメリーちゃんはつぶやき、「おったんやよ」と言う。
「コサノオバはタツノアニ、あんたはトシノアニ、他に色々おった。最初、娘のわしらが紡績の話聴いて、話、ちっとも面白ないさか、朝からポーン、ポーンと鳴る蓮池の方へ、花、見に行たんや。紡績から戻って来たばっかしやのに、また紡績に行く話やさか。親の方はええ。娘、紡績へ行たら、足しになる。娘のこっちはかなわん。わしらが蓮の花、見て、あっち咲いた、こっち咲いた、と言うとったら、若衆らが来た。他の人の事、知らんけど、わし、サンジノアニと出来とった。サンジノアニ、体こまいけど、助平なんやァ。音が面白い、色がええと娘ら言いおうて、極楽てこんなんかいの、こんな妙《たえ》な景色かいの、と礼如さんの説経を思い出して話しとるのに、サンジノアニ、耳元で『おさん、ちょっと、山行こら』と言い続けるんや。苛々しての。『蓮の花、咲くの見とるのに、山、行て、交接《べべ》しようらと言うんかよ。ええ。そんなんやったら父《トト》さんに早よ嫁にもらいに来てくれ。幾らでもしたるわ』と獅子吼ったったんや」
メリーちゃんは苦笑する。チョン子は笑う。
「えらい娘じゃね」ターがあきれ果てたという顔をすると、メリーちゃんは「後で別れたけど、サンジノアニ、男気のある若衆やったで」と言う。
サンジノアニはその夜のうちに、区長と共にメリーちゃんの父親の元に、好きおうた仲になっている、嫁にくれないかと言いに来た。サンジノアニが父親の元に来なければ、メリーちゃんは路地におれなかった。
メリーちゃんは「結構、大きい池やったで」と言う。
「その蓮池ないわだ」ブルックちゃんが言う。
「路地もないど」ターが言う。
「知ったァるよ」ブルックちゃんが言う。「あそこにおっても何にもないさか、ここに来たんじゃのに。オバらここでどんなにしてでも生きて行ける」
イーブはブルックちゃんの物言いに胸が詰まった。「ここて……」と言いかかり、ここをどう言っても性のサイボーグの回路が混乱するだけだと思い、イーブは思いつきを言った。「俺はこの気の強い交接《べべ》の上手な別嬪さんの女、連れて路地に戻って所帯持とと思うんじゃ。家建てての。家、建つぐらいの金、この女、持っとる。俺はまたトレーラーの運転手、やっての。前は会社に雇われて会社のトレーラーに乗っとったさか、率、悪りかったけど、今度は、男のパンパンやった金あるさか、それでトレーラー買うて、持ち込みじゃ。直接、漁協に雇てもろて、あそこから大阪や名古屋にマグロ運んでもええ。あそこから材木運んで木場に来てもええ」
メリーちゃんが「おう、所帯持てよ」と言い、ターが思ってもみない事を言うというふうにイーブを見、「ほんまか?」と訊く。
イーブは「おう、ほんまじゃ」と返す。「チョン子を嫁にもらうのに、じゃから昔、乗っとったような大型トレーラーを買い直さんならんし、オバらをまた乗せて片道戻らなならん。東京から東名使て、東名阪に入ったら、十時間じゃ。前みたいに途中寄るんじゃったら、何日もかかるけど」
「イーブがいなくなっちゃうの?」アキラが頓狂な声で訊く。自分の声の可笑しさにアキラは照れてから、チョン子をいたぶる好機は今しかないというように、「こんな犯人を嫁さんにするの?」と言い出す。
「めちゃくちゃだよ、そのうち、御飯なんか塩まぶして食べなって言い出すよ。外から働いて戻って腹減ったって言ったら、これで食べて来なよって十万円放り出して、文句を言うと拳銃で脅すの」アキラは「イーブさん、止めなよ」と言う。
イーブは苦笑する。「おまえと結婚したら、その女、そうやるだろうな」
アキラはイーブの言葉に、嘔吐する振りをし、「ぼくは二人から慰謝料を取るからね」とターに向かって宣言するように言う。
「何ほざいてる、このガキ」ターはアキラに考えをかき乱されたという顔で見て、「路地に戻ってチョン子と所帯を持つって?」とイーブに訊く。
「ぼくは絶対、引き下がらないからね。ぼくはイーブさんとあの女の犠牲者なんだから。冗談じゃない。二人に結婚なんかさせないよ。幸せになんかさせない。二人、死ぬか、最低でも、イーブさんは今のままジゴロやっている。あの女は刑務所に入るか、ぼくに慰謝料一千万ぐらい渡して、ソープで働いている。誰だって笑う。(金)多摩霊園の連中だって客だって、ジゴロのイーブさんと評判の悪い嫌われ者の女がくっついたと聴くと、大笑いする。繁華街のオカマのマスターなんか大騒ぎするよ。(金)多摩殺人事件の犯人とジゴロが結婚して、次の殺人を計画してるって騒ぎ出す」
「本当かよ?」アキラの言葉を無視してターが訊く。
イーブがターに返事せず、心の中を分かってくれと思って見つめると、ターはチョン子に「本当かよ?」と訊く。「いま初めてたからァ」チョン子は訛のある言葉を言った。訛は無自覚のものではなかった。
「わたしはァ、今、はちめてたからァ、イーブさんのかんかえてる事、分からないてすよ。わたしはわたしの事、ちぷん勝手と思いますけと、イーブさんもちゅうぷん、ちぷん勝手てすよ。わたし、結婚する? アニヨ。結婚、ないてすよ」チョン子はイーブの顔を見て笑う。「イーブさん、ハラモニの話、聴いて、女、結婚すると言うと、みんな安心して、苛々しないと思ってるけど、韓|ごく《国》の女、結婚より先に、心からの愛情欲しいてすよ。女、東京《トンギヨン》で一人いて、好きな男《ナムジヤ》から、好きよ、愛してる、と言って欲しいてすよ」
ターはチョン子の訛の言葉を笑い、「本当じゃ、チョン子の言うとおりじゃ」と相槌を打つ。
「何もかも分かってる」チョン子は訛のない日本語を使う。
「イーブに客をあっせんしはじめた時から、こんな時来るの、分かっていたから、どんな事になってもイーブをジゴロにしなければ、よかったのよ。でもねェ、自分で稼ぎたい、並の事してたら金、つくれない、体売ってセックス売って稼ぐと言い張るイーブに、いつまでも反対し続けていたら、棄てられる気がしたのよ。本当に、もう一言、その事に口はさむと、わたし棄てて他の女と組む気がした。好きだからマネージャーやって好きだからイーブが客と深くつきあいそうになると嫉妬する。何度も、イーブはいい男だし優しいけど、所詮、倭人《ウエノム》よ、韓国人《ハングクサラム》じゃないと思うけと、好きなものは好きよ」チョン子は不意に訛り、涙ぐむ。
「イーブ、愛して欲しい」チョン子はまた言う。
イーブは、愛している、だが、チョン子の言う愛が分からない、と独りごちる。ジゴロを始めてから、数え切れないくらい愛という言葉を使い、相手からささやかれた。その愛とチョン子の言う愛は似ているが、違う。違いはあるが似ている。
チョン子は涙の浮かんだ眼でイーブを見つめる。イーブの心の動きを読み取ったように腕時計に目を遣り、「まだ昼を過ぎたばかり」とつぶやく。「すぐ行ったら、何もかも間に合う」
「何がだよ?」ターが訊く。
「何が? って、イーブの夢に見て来た物。この為に厭な客とも我慢して夢の恋人の振りしてセックスをして来た物」
「トレーラーか?」ターはチョン子に訊き、イーブを見る。
「さっきイーブが言ったじゃない。高速道路通ればトレーラーで十時間みれば行くって。ここでお婆さんらを寝かせて、わたし待ってるから、買って乗って来て。大きいばかでっかい奴でしょ。曲がる時、蛇のように頭と胴が折れ曲がる。街でイーブはいつも見ていた。好きな男がわたしを放ったらかして、子供のように口を開けて、ただ通り過ぎるのを見ている。好きな男の大きな玩具。女なら買ってやって、喜んでもらいたいよ。でも、イーブに買ってやるって言ったら、張り倒される気がした。だって、お婆ちゃんたちを東京で見つけた時、買うと心に決めてしまってるもの」
「買うのか?」
「買いに行く」イーブは答える。
「いつ?」ターは訊く。
「今に決まってるじゃない」チョン子は口をとがらせる。「わたしが何で不安か分かる? イーブが何でいきなりわたしと結婚すると言ったか分かる。イーブはわたしが不安なのを知ってるから、優しさ出して慰めの言葉を掛けてくれたの。本当の結婚じゃない。慰め」
「慰めじゃない。本当に思とる」イーブは方言を使う。
「じゃあ、愛してるって言ってよ」
「愛してる」イーブは言う。
チョン子は笑う。「ハンフリー・ボガート風でしょ」チョン子の言葉にイーブは苦笑する。
「今はいい。何も聴かなくたっていい。不安なままでいい。それより好きな男の喜ぶ顔が見たい。満足している顔を見たい。ター。一緒に行ってやって」
事態の推移をよく呑み込めない老婆らに、これから二、三時間、ターと一緒に外出するが心配するな、とイーブは説いた。
心配するなと言われて老婆らは、部屋に残るのが、気心の知れない他所《よそ》の国の人間と、何を言っているのか満足に聴き取れないアキラなのに気づき、「寝とけと言われても」と心細げな声を出す。
イーブは方言を使って老婆らをなじる口調で言った。「他所の国の人間じゃと言うても、長い事ここにおるんじゃし、あれら、ちゃんと日本語、分かる。オバらを俺の大事な人間じゃと分かっとる。親以上の者《もん》じゃと知っとる。それにあの女、嫁にして路地へ連れて行こと思とるんじゃのに」
老婆らは、ターと二人、外出しようとして気が急《せ》くイーブに、何を言っても甘えの類だと言い負かされるとあきらめたように、口々に「分かったよ」とか「寝とったらええんじゃろ」とか「はい、はい」と返答した。
イーブは上機嫌だった。シャツを替え、ジャケットを替え、寝室の大鏡の前で全身を映して髪を櫛で梳《す》き、床にぺたりと坐り込んだ老婆らに、「こんな男前、そうざらにおらんど」と軽口をたたいた。鼻で吹く老婆らに、鏡の前で煙草を咥えてハンフリー・ボガートの真似をやり、「誰か知っとるか?」と訊いた。
「知るかよ」メリーちゃんが言った。「いっつも昔、礼如さんに教えてもろた御詠歌うとて、仏さんや神さんの話ばっかししとるの関の山やのに」
「ハンフリー・ボガート。生きとったらオバらと齢変わらんのと違うか?」イーブが言うと、老婆らは何を考えるのか、「法然《ほうねん》様の訓《おし》えには人生わずか五十年、と言うじゃがい。オバら死ぬ事、恐ろしと思てない」「皆行こら」「こうしてツヨシの顔、見るの嬉しけど、向こうへ行たら、吾背《あぜ》らどこへ行とったんな、と言われるんやで」と口々に言う。「どこへ行とった言うて、ツヨシが引き止めるさか、と言うても、皆、しばらく怒るんやわい」ブルックちゃんが言う。「オバらここにおれよ。腹減ったら勝手に飯食てええし、眠れなんだら御詠歌うとてもええし、話しとってもええし」とようように言い聴かせ、チョン子に老婆らを頼むと言い置いて、イーブはターと戸外に出たのだった。
外は初夏の日射しだった。イヤさんのおごりで遊び、老婆らを見つけて一睡もしていなかったが、体そのものが特別な一日に感応して、眠気をまったく感じなかった。
最初、ターの忠告で、あらかじめ当たりをつけていた販売店に電話を掛け、現金で全額払うからすぐ大型トレーラーを引き渡すか? と訊いた。
販売店の従業員は初めての事態だと驚き、引き渡しに二、三日かかると答えたが、一切のオプションは要らない、と言い、すぐ引き渡さなければ他を当たると言うと、展示し棚ざらしになっているものでよいなら引き渡すと言い出した。オプションが要らないのなら、一割五分まで値引きする。
イーブは電話を切り、煙草を咥え、大通りにある銀行を指差し、ターに「アニ、現金《げんなま》の調達じゃ」と銀行強盗に出かけるハンフリー・ボガートのように言う。
ターはイーブの顔を見て、従順な相棒のように、「おお、現金じゃね」とつぶやく。
二十三
銀行を出る時、イーブは初めて時計を見て窓口の受付が終了する寸前だったのに気づいた。大枚の金だったので支店長が直々《じきじき》に詰めてくれた札束の入った紙袋を無造作に持ち、銀行の前でタクシーを拾い、ターと共に座席に乗り込んでイーブは妙なおかしさにとらわれ、独り笑った。ターはイーブの笑い声に虚を衝《つ》かれたように驚いて顔を向け、物を言おうとして止め、笑い続けるイーブの額を小突き、自分も笑い始める。
「どしたんな?」笑いながらターは訊いた。
イーブは答えないまま笑い続けた。
「どした?」ターはなお訊いた。
「俺の四、五倍も金|貯《た》めて、金の顔、見たら、笑い止まらんか?」ターは言い笑いながら、笑い続けるイーブの顔を不安げな眼で見る。後から後から湧いて来る笑いを止めようのないままイーブがなお笑い続けると、眼の中に漂っていた不安が一挙に体中に広がったように、ターは真顔になって見つめ、「笑うな」と小声でつぶやく。つぶやいた自分の声に刺激されたように、ターは大声で「笑うなァ」と怒鳴る。
タクシーがいきなり停まった。運転手は自動ドアを開け、振り返らずバック・ミラーを見つめたまま「降りて下さい。金はいいですから」と言った。
「何じゃあ?」とターがすごむ。
「金はいいですから」タクシーの運転手は動じないと演じるようにことさら声を低めた。
イーブは笑いながら「金、どっさりある」と紙袋を見せた。
「いいんです。金はいいんです」そう言う運転手の顔の表情を確かめようと、イーブはバック・ミラーをのぞいた。視線が合っても、運転手は眼をそらさなかった。運転手がバック・ミラーに映った自分の眼から何を読みとっているのかイーブは確かめようとして、ふと老婆らに都会にターと二人置き去りにされて、ジゴロになってから、出喰わす人間に嘘をばかりついてきたと思った。〈白豚〉や〈黒豚〉のみならず、町中で二言三言の立ち話を交わすだけの連中にまで嘘をついてきた。
「何か俺たちが危ない事して来たと思ってるんだ?」イーブは嘘を重ねるようにバック・ミラーの中の運転手に言った。
イーブの言葉に不同意を表わすつもりなのか、侮辱されたから耐えるつもりか、運転手は唇の端を噛んだ。
イーブは運転手に幼い仕種をするなというように笑をつくり、ウィンクをする。瞬間、運転手の眼に戸惑いの色が走るのを見て、イーブは新たな嘘を重ねるように、紙袋から札束を取り出し、「銀行強盗の金じゃないど。あの銀行の店長が汗かきながら直々に詰めてくれた金だからな」と、運転手の鼻先に突きつけた。
いきなり運転手はドアを閉めた。急《せ》いた動作でギアを入れ、急発進させる。
「どした?」とイーブが訊くが、運転手は黙ったままだった。
赤信号で停まって、「交番で降りてもらいますよ」と独りごちるように言う。
「冗談じゃない。金が幾らあろうと、車の中で大声出されたり、すごまれたり。やってられないよ」
「交番?」ターが訊き直す。「交番ってお巡りのおるとこか?」ターは笑い出す。
「せっかくこいつが体売ってつくった金、銀行からおろして、トレーラー買い戻しに行こと言うのに、疑われて交番に突き出されるんか?」
信号が変わってタクシーが発進しはじめる。運転手の肩をいきなりターがわしづかみにした。
「停めろ」
運転手はターの手を払おうとし、ハンドルがぶれるのに気づいて「やめてくださいよ」と声を出し、ターが運転席に身を乗り出しかかると、タクシーを路肩に停めた。
「やめてくださいよ。こっちは何にも関係ないんですから。お客さんが現金いくら持っていようと知りませんよ。その現金、銀行から盗んでこようと、体張って稼いだもんだろうと、わたしには関係ない。タクシーってのは密室なんですからね。わたしらみたいなひ弱いの、あんたらみたいな、体の大きな若い、無鉄砲そうなの怖いんですよ。車の中で大声出されたり騒がれたら、わたしら、降りてもらうしかないですよ。何にも言わないで降りてくださいよ。お願いします。お宅らはお宅らの世界あるだろうし、わたしらはわたしらの世界あるでしょう」運転手は一気にしゃべって黙る。
イーブはターに向かって、タクシーを降りろとあごをしゃくって合図した。そのイーブの心の隙間を突くように、運転手が「わたしら堅気ですから」と言う。
タクシーを先に降りて歩道に立ち、ふと見上げた街路樹の茂った梢から、夕暮の色に変わった光の加減か細い糸のような樹液の霧が降っているのを知り、イーブはそれをターに教えようとした。
金を受け取らないと言い張る運転手を脅していたターがどうすると訊くように歩道のイーブに顔を向けたので、「細かい糸みたいじゃ」と言うと、ターは一瞬、いぶかる。
イーブが両手で樹液の霧を受けるというように手を広げる。ターはやっと気づいたように「まだ車を買うてないうちから、もう心配かよ?」と言う。
ターはタクシーに放り投げるように千円札を一枚置いて、イーブの脇に来る。イーブと同じように街路樹の下に立って、今を盛りと茂った青葉の重なりを見上げ、あるかなきかの細い糸のような樹液の霧を手に受け、確かめるようにこする。
「無理もないけどの。金で念願のトレーラー買うんじゃさか。いままで見えもせなんだもんでも見えてくる」
イーブは心の中で違うと言いながら、口では「おうよ」と素直に諾《うべ》なう。
ジゴロ稼業の前、イーブは大型トレーラーの運転手だった。ターはイーブの助手をしていたが、一度も運転手稼業をやった事はない。春から夏、木の芽が芽吹く頃から紅葉が始まるまで、山の中であろうと海沿いであろうと都会地であろうと、青葉は樹液を昼となく夜となく霧のように降らした。大型トレーラーは乗用車ではないし、客を乗せるタクシーではないから、外観の汚れを気にする事がなかったが、日射しを避けて茂った樹の下に置こうものなら、たちまち樹木の吹きこぼした樹液を受け、汚れた。
イーブは夜、〈白豚〉や〈黒豚〉とホテルにいて、外の水銀灯に照らし出された街路樹や植え込みからしたたる樹液の霧が光るのを目にした。
「欅じゃの」ターは茂った青葉を見上げてつぶやいた。
「トレーラー買うても、こんな精の強い木の下に置いたりしたら、上も腹のどこもべったり汚れる」ターは言い、また手を広げて霧のような樹液を受け、両の手をこすってイーブを真顔で見つめる。
「何ない?」イーブは訊いた。
ターは物言おうとして言い淀んだ。
「何ない?」イーブは再度同じ訊き方をした。ためらってから、ターは、「路地に、もうないど」と言う。
「何が?」イーブは訊く。
「オバらと一緒に戻っても、路地に昔の家ないし、皆なちりぢりになっとるど。分かっとるじゃろが。銀行でおまえが金、おろしとる時からずっと考えとったんじゃ。オバら何にもないのを知っとるさか、そんなとこへ戻って見とうもない物見るより、東京でおった方がええと俺らから逃げたんじゃ。オバら東京で死ぬつもりじゃった」ターは苦しげに言った。
イーブは「おう、死ぬつもりじゃった」と事もなげに言う。イーブはターを真似て手に受けた樹液の霧を両手でこすった。
「死ぬつもりじゃっても死なんと生きとるの俺らに見つかったじゃさか、また同じようにトレーラーに乗ってもらう。オバら路地に戻りたいと言うなら路地に向かうし、チョン子の国へでも行て暮らすと言うなら、そうする」イーブはそう言ってから、ターが老婆らの事を言うには訳があると気づいて、「何ない、アニ?」と訊いて、手の匂いをかいだ。微かに青臭い。
「何どあるんじゃがい。何でも自由に言うてくれ」
ターはイーブの口調に鼻白むというようにチッと音を立てて唾を飛ばし、「金、あっても解決せんのじゃ。トレーラー買うても、解決せんのじゃ」と言う。
イーブが怪訝な顔をすると、「分からんか? 女らから教えてもらわなんだか?」と言い、あごをしゃくって歩こうと促す。
イーブはターが変わったのだと思う。
「トレーラーに乗りたないんじゃったらかまんど。オバら三人に減っとるし。俺だけでも世話出来るし、あの女も手伝てくれるんじゃろし」イーブが言うと先に立って歩き出していたターが振り返り、「トレーラー買うても、オバら三人乗せても、どん詰まりじゃというんじゃよ。ここからどこへ行く?」と言う。
イーブは黙ったまま歩き出す。夕暮の初めの光が街路樹の緑を変えていた。街路樹の樹液の霧は光の加減で一層くっきりと見えた。霧が流れはじめ瞬時かき消えてから、ようやく吹いた風を受け取めたように葉が震え枝が揺れた。
イーブは前を歩くターの後ろ姿を見て、ターの方が昔、トレーラーに乗って路地を出た頃と違ってしまっていると思った。当時からはターはイーブのようにジーンズやチノパンをはく事はなかったが、いま囲われている女の趣味なのか、麻の上衣に清潔な白のドレス・シャツを着ているし、白いスリポンをはいている。手首の時計を見なければ、女に金をせびって暮らすジゴロではなく、ファッション雑誌から抜け出て来たような遊び好きのシャレ男だと見える。
〈白豚〉にも〈黒豚〉にも体を売る性のサイボーグ、一角獣である為にジムナジウムでトレーニングを続けたイーブと比べると、首の線も肩も胸も、尻の張り具合も見劣りはするが、前を行くターの体から、男の性の匂いが漂う。イーブは突然、ターを抱きしめたい衝動に駆られ、ターが何も気づかず拒むように先に立って歩き続けるのを見て自分を見棄てるのだと怒りが湧き、体の中に埋め込まれたサイボーグのセンサーが誤作動を繰り返すように混乱したまま、老婆らを乗せたトレーラーに行き場がないのでなく、路地に生まれたイーブとターの二人に行き場がないのだと思った。
路地に生まれ、路地で育ち、そこの男らが皆なそうなように、子供の頃から肌をすり合わせて暮らした。齢上の者らは得意げに性の手柄話を吹聴し、齢下の者らは春秋にある祭りの時は一カ月前から集会場にたむろし、齢上の者らの話を固唾を呑んで耳にし、齢上の者らの自涜[#底本では「さんずい」+「賣」。以下すべて]に感嘆の声を上げた。ターもイーブも集会場で齢上の者から教えられ、自涜を繰り返した。路地の者らは女の性を知れば、口にするほどのものではないとかえりみる事はなかったが、イーブにもターにも、愉楽の性の記録としてそれはある。その愉楽の性の記録が二人にある路地の種子のようなものだった。
イーブとターは路地の種子を庇護する為だけのように、路地の山や建物が懐される前に老婆らと共に、トレーラーを駆って抜け出た。伊勢を廻り、一宮を巡り、諏訪を出て東北をひとめぐりして皇居のある東京に来て、老婆らに棄てられるように行方不明になられ、イーブとターは二人が抱えて来た路地の愉楽の性の種子を育てるように、それぞれジゴロを稼業とした。イーブは性のサイボーグだった。〈白豚〉であろうと〈黒豚〉であろうと相手にした。
ターは常時、イーブの声が届く範囲にいた。そのターがトレーラーを買いに向かう今、イーブから離れようとしている。イーブを棄てようとしている。
「アニ」とイーブはターを呼んだ。ターは立ち止まって振り返り、「早よ行かなんだら、今日中にトレーラー取れんど」と言い、イーブが見つめるのを見て、「何な、その顔」と笑う。
ターは歩いて戻り、イーブの背に手を掛ける。
「おまえがトレーラー買うの、見たい。チョン子と同じじゃ。俺もおまえがトレーラーに乗って満足げな顔でふんぞり返っとるのを見たい。強情者じゃさか。おまえはどうしても、オバら三人乗せて、路地に戻るんじゃ。どん詰まりまで行て自分の眼で確かめるんじゃ」
イーブはターの手を払った。ターが苦笑するのを見て、「用もないのに変態のJみたいにベタベタ触るな」と思ってもみない事を口走る。
「路地の者の悪り癖じゃ。理由なしにベタベタくっつく。集会場でチンポこすりおうた子供の頃と違うど。大人の男じゃど。いっつも俺が機嫌悪なると、子供にするみたいに体くっつけたり、擦りつける。俺が男も相手にして金稼いださか、そうしたら慰められると思とるのか?」イーブは言い募る。
「〈白豚〉も〈黒豚〉も相手にしたさか、オバら見つけた日に、トレーラー買えるだけの金、作れたんじゃ。アニがトレーラーに乗りたないんじゃったらかまん。女のツバメになって暮らすのが安気じゃと言うんじゃったら、それでええ。アニはいつまでもターという名前のままじゃ。俺は今日でジゴロのイーブという名前から、昔のオバらに育てられたツヨシという名前に戻る。俺は死んどったんじゃ。イーブという名前のサイボーグになっての。サイボーグからまたツヨシという人間に戻った」
「そうか」ターはつぶやくように言った。「俺にはいっつもツヨシじゃったけどの」
ターはイーブの世迷い言より気がかりだというように顔を上げ、光の加減で一層くっきりと見える樹液の霧を見つめ、麻のジャケットの肩を払う。
即金で金を払い、キーを受け取って矢も盾もたまらず大型トレーラーの運転台に乗った。ハンドルを握り、掌で撫ぜ廻し、体の奥から湧いて出る笑を止めようもなく、ルームミラーに顔を映した。笑を浮かべているのはイーブというジゴロではなく、ツヨシという若者のはずだった。
助手席に乗るターを待ってからエンジンをかけ、イーブは大型トレーラーを動かした。駐車場を出かかる時、即金で棚ざらしのトレーラーを売ったとこぼれるような笑をたたえた販売店の店長と従業員らに、挨拶のクラクションを鳴らした。
「上機嫌じゃ。最敬礼しとる」ターは助手席のドアに背をもたせ、ハンドルを握ったイーブの顔を見る。
「嬉しいじゃろ」ターはつぶやく。
直進してくるオートバイを待ってイーブは大型トレーラーを車道に入れ、老婆たちやチョン子の待つマンションの方へ走らせた。普通の状態で車が流れていれば速度を上げずとも三十分もあればつく距離なのに、イーブとターの二人、タクシーを降ろされたあたりまで来るのに一時間あまりかかった。渋滞はそこからマンションの脇の道路にまでも続いている。急《せ》いた車が何度もトレーラーの前に割り込みをはかったが、イーブは逆らわずに道をあけた。マンションまで目と鼻の先の距離だというのが、もの足りない気もした。
「どうな、運転のしごこち?」とターが訊いた。
「悪い事あろか」イーブは口笛を吹きたいような気持ちのまま答えた。
「前のと比べたら、ハンドルの握り具合も、フェンダーミラーの感じも違うけど、そのうち全部、身に馴れる。飾りつけはじっくり金かけてやる。どうせ中も改造せんならん。オバら坐っても転がらんようにしたらんならんし、退屈せんようにテレビもヴィデオもつけたらんならん。内も外も。運転席も仮眠ベッドも」
「あの女、飾り立てるんじゃ」
イーブは「ああ、そうじゃろ」とうなずく。
イーブは飾り立てた仮眠ベッドを想像する。チョン子は同棲した頃そうしたように、上野の韓国服地の店に行き、絹の色とりどりの花の刺繍をした蒲団を買い込んで来るだろうし、壁や窓にマスコットを飾りつける。チョン子はイーブがつきあった過去のどの女にも似ているが、喜怒哀楽の激しさでは群を抜いている。そのチョン子と路地に向かって旅をするのだった。
路地から出て東京へ向かった時、ターがいた。ターの代わりのチョン子は、おそらく通りで見かけた女に声を掛けただけで、百年も二百年も誓い温めあって来た愛や恋を裏切ったと怒り、イーブをなじる。ジゴロのイーブのマネージャーをやり、ソープランドやファッション・パーラーに女の子らを手配しているのに、チョン子は愛や恋を人一倍、口にする。金を払って買えるのは性の快楽だけで愛も恋も金をどのくらい積もうと買えない。チョン子は繰り返して言った。
クラクションが外で鳴り、窓からのぞくと、ターが「追突起こした奴ら、車停めて怒鳴り合っとる」と言い、何を思いついたのか「事故に気をつけよよ。この間もエラいめに遭うたんじゃ」と言い出す。
「アメリカ大使館の彼女、旦那に怒られたんかえらい落ち込んで、すぐホテルに来てくれと言うんじゃ。俺は部屋でサッカーの試合見とった。すぐ来なんだら、死ぬ、と脅すんで、車で飛び出したんじゃ。他に二つ断りの電話入れての。一つは麻雀の断りじゃさか楽じゃったけど、あと一つは女。アメリカ大使館の女から鞍替えするんじゃったら、この女、と思とる子じゃけど、急に用事が出来たさか行けんと言うたら、えんえんと理由訊く。おまえが病気で入院したさか、と嘘をついたけど、その女、アメリカ大使館の女のツバメじゃと知っとるさか、信用せん。自動車電話でああでもない、こうでもないと話しとったら、後ろからクラクション鳴らしまくって、今度は幅寄せに来る。それで腕見せたろと思て、電話で女に実況中継しもて、カーチェイスしたんじゃ。ホテルに行く高速の出口で、相手、俺が急に逃げたと思て急ハンドル切ってガードレールにぶつかっとる」
「相手は?」
「知らん。ぶつかったの分かったけど、死んだかどうか分からん」ターは言い、苦笑し、雌握りをつくり、「アメリカ大使館の女、これしたらすぐ機嫌おさまった」と言う。
「おうよ」イーブは言う。
「俺も帰ったらあれにしたろと思て。仕事ばっかしじゃったし、他の女ばっかりにかまけたんで、注射が切れとるんじゃろと考えとったんじゃ。チョン子はすぐ直る。あいつがソープで働いとった時もそうじゃったし。トレーラーをオバらに見せてからチョン子連れて、連れ込みにちょっと行て来る」
イーブが言うと、ターはトレーラーに乗らないと決めた気後れをとりつくろうように、「おう、そうせえよ」と分別くさげに言う。「これからあれに世話になるんじゃのに」
大型トレーラーをマンションの前に横づけにした時、九時を廻っていた。エンジンを切ってから、運転台の窓を開けてマンションの部屋の窓を見上げ、遠征に出かけた武将が帰還の声を上げるように、たて続けに三回クラクションを鳴らした。三回目の長く尾を引いたクラクションの音が消えても、マンションの窓に変化はなかった。
「どした、ほら、開けよ」イーブは声を出していま一度鳴らした。部屋の応接セットの置いてある窓に灯はともっているが、引き開ける者はない。
「おるじゃろに」ターがイーブの肩ごしにのぞいた。「チョン子も膝にケガしとるし、あのガキも足、撃たれとるし」
身動きのつかない二人がトレーラーのクラクションを耳にしているが、窓を開けるのに手間取っているのだ、とターはイーブの肩ごしにマンションの窓を見上げ、クラクションを短く三度鳴らす。それでも窓に何の変化もなかった。
「聴こえんのかいね?」イーブが言った。
「上から見たら太い俺のチンポのように見えるじゃろに」イーブは軽口を言い、ドアを開けた。「この太い龍ほどの物にすがりついとったらええんじゃと、オバらもチョン子も俺に惚れ直すのに」
イーブは大型トレーラーの運転台から降りた。ターが助手席のドアを開けかかったので、「ちょっとおってくれ、オバらを呼んでくる」とイーブはとめて、ドアを閉め、マンションのエレベーターに向かった。
エレベーターの前に折り畳んだ新聞紙の入った紙袋が二つ置かれていた。その二つを持ち上げた。確かその新聞紙の入った紙袋は老婆らの持ち物だったし、老婆らを早朝マンションに連れ込んだ時、たとえ意味不明の物だろうと老婆らが所持している限り貴重品だと、一つ残らず部屋に運んだはずだった。
イーブは胸騒ぎがした。エレベーターが降りて来て、眼の前で扉が開く。紙袋を持ったまま中に入った。五階で扉が開いた。何度かマンションの入口で顔を合わせた若い女が立っていた。若い女は紙袋二つ提げたイーブを、見てはならないものを見たという風に「済みません」と声を出して眼を伏せる。
イーブはエレベーターのボタンを押した。扉が閉まった。
部屋のドアに鍵は掛けられていなかった。イーブは紙袋を持った手でノブを廻した。紙袋が逆さになり、折り畳んだ新聞紙がこぼれた。
ドアを開け、「オバァ」とイーブは声を掛ける。返事を聴かず玄関に入ると、ソファに坐り、うなだれていたチョン子が顔を上げ、イーブを見る。チョン子の顔に何の表情もなかった。
「オバァ」イーブは玄関から老婆らに割り振った奥の寝室の方に向けて声を張り上げた。返事はない。チョン子は無表情のままイーブを見る。
「オバ、見てみよよ。大っきいトレーラー、持って来たど。魚の匂いもせん、新品の真っさらの、大っきい奴じゃ。下まで行かいでも、窓から見える。のぞいて見よ」イーブは言って返事を待った。
返事はない。物音もしない。イーブは胸苦しくなったまま、「オバらは?」とチョン子に訊いた。
チョン子は首を振る。
「おらん?」イーブは言い、「どこへ行た?」と訊いた。
チョン子は焦点のぼやけた眼でイーブを見て、「これで、わたし、あんたに棄てられるんだ」と抑揚のない声でつぶやく。
イーブは瞬時にチョン子が何を言ったのか理解出来なかった。
「棄てられる」チョン子が日本語の発音を確かめ直すように言うのを聴いて、老婆らが部屋にいないと言っているのだと知り、あわてて玄関を上がる。
ソファに坐ったチョン子の前を通って「オバ、おらんのか?」と寝室の方に歩きかかると、チョン子が立ち上がり、包帯の手でイーブの腰に抱きつく。両膝も怪我をしているのでチョン子は独りで立っている事も出来ず、イーブの腰を抱いたまま倒れかかる。イーブはチョン子の体を抱えた。
「早く棄てろ。早く出て行けって言え。あんたのハラモニらを逃がしてしまったんだから、わたしを殴れ」チョン子は脈絡なしに言う。
イーブはチョン子をソファに坐らせた。チョン子はしなだれかかった体を引き離されまいと腕に力を入れ、イーブの腰を引き寄せ、顔に顔を近づける。
「好きよ、イーブ。キスして」チョン子はささやく。チョン子は舌を出し、イーブの額を先でこする。舌の先は鼻柱を伝って鼻頭にたどりつき、鼻が性器だというようにこすり、唇にたどりつく。イーブの閉じた唇を圧しひらき、イーブが唇を開けると中にすべり込む。イーブの舌の上をくるくると踊るように動き、チョン子の唇が押しつけられる。舌に舌をからめようとした途端、チョン子はイーブの唇を噛んだ。
イーブは呻いた。チョン子は離さなかった。歯をむきだし、唇を噛んだままチョン子は物を言う。唇の裏が破け、血が流れるのが分かった。イーブは眼を閉じた。燃え上がるような痛みが老婆らの再度の失踪を本当だと教える。チョン子は呻き続け、その呻き声に脅されるようにチョン子の頬を張ると不意に噛んだ唇を離した。イーブは両の手で顔をおさえた。唇の血が掌に溜まる。イーブは台所に立って水道の水で唇の血を洗った。
「棄てればいいよ。もうかまわない。最初からこうなると分かっていたんだ。あんた韓国人じゃない。わたしも日本人じゃない。あのハラモニらも逃げ出すの、分かっていたんだ。イーブが出かけてすぐに、ハラモニら部屋の中でごそごそやっていた。それから新聞紙捨てに行って来ると言い出した。わたし、分かる。逃げ出そうとするの、分かる。ゴミを下まで持って行かなくとも、そのあたりに置いとけばいいと言うのに、美子《ミジヤ》を連れ出して、何度も出たり入ったりした。美子《ミジヤ》が一人、空の紙袋持って戻って来て、部屋の中に一人もオバさんらいないのに気づいて、美子《ミジヤ》は、ハラモニらにまかれた、と言ったよ」
「何時くらいだ?」イーブは訊いた。
「三時半くらい」
イーブは街路樹の霧に見とれていた頃だと思った。イーブはまた水道の水で口を漱《すす》いだ。
「それで美子《ミジヤ》やファ・チンは? アキラは?」
「三人共、イーブが可哀相だと言ってハラモニたちを捜しに行った」チョン子はそう言ってから、「嘘」と首を振る。「アキラもファ・チンも、組の人呼んで追い払った」と言う。
イーブは口に溜まった血を飲み込む。「オバらも追い出したのか?」
チョン子はイーブを見つめる。眼が灯りを撥ね、それが滴になって頬に落ちる。
「そう」チョン子は言う。「わたしがイーブを一人占めするんだから」
「あのオバらを追い出したんか?」
「あんたはわたしの物だから」
二十四
「あのオバらを追い出したんか?」
「そう」チョン子は譫言《うわごと》のようにつぶやく。
「わたし、分かっていたですよ。ハラモニら出て行くの」
「出て行けと追い出したんだろ?」イーブはチョン子を見つめる。
チョン子は「そう」と言いかかり、あわてて首を振り、「違うよ」と言う。
「美子《ミジヤ》をたまして逃げ出した。わたしは何も言わないてすよ。わたしが何も言えるはずがない。両手両脚に傷してるから、わたしは動けなかった。体が動けたら、ゴミを捨てにわたしが行くのに、動けないから、美子《ミジヤ》に代わりに行かせた。メリーちゃんが、わたしに、ポツナムと言うの、何だ? と訊くから、わたしはポツナムの話をしていたんだ。韓国人は昔からポツナム好き。ポツナムというの柳という韓国語。韓国のどこでもポツナムがある。ポツナムという言葉、聴いたら、韓国人みんな自分の家の前のポツナム、思い出す。ハラモニに、他郷暮《タヒヤンサリ》という歌の中のポツナム、教えてたよ。歌をうたってる途中、美子《ミジヤ》が来たので、ハラモニ、自分もゴミがあると持ち出して、美子《ミジヤ》に一緒にゴミ捨場に行ってくれと言う。わたしに、ゴミ捨てて来てから、歌を最初から歌ってくれと言って出かけた。逃げる、と分かってたよ。他郷暮《タヒヤンサリ》、歌っていたら、美子《ミジヤ》、一人で空の紙袋持って帰って来た」
チョン子は急に声を変え、そこに美子《ミジヤ》が居るように言う。「哀号《アイグ》、美子《ミジヤ》。空の紙袋持って。ハラモニは? ウリ愛人《エイン》のハラモニは? 哀号《アイグ》、ゴミと一緒にゴミ捨場に捨てたか? 美子《ミジヤ》は立ちすくんで、ヌニンと声を出す。ヌニンじゃないよ、このパカたれが。美子《ミジヤ》はすぐエレベーターに戻ったし、ファ・チンも飛び出したけど、もう後の祭り。美子《ミジヤ》が方々さがして戻って来る間、ひょっとすると美子《ミジヤ》やファ・チンが、わたしを罠にかけたのかもしれないと疑った。ハラモニらが居なくなったら、イーブはわたしを叱り、憎む。わたしを棄てる。美子《ミジヤ》やファ・チンが、そのイーブを狙い、射止める。アキラは端《はな》から、わたしが出ていけとハラモニらに言ったと思い込んでいる。ふさぎ込んでるわたしの耳元で、ついにイーブに棄てられるのだと言いたてる。イセキヤ。お前の決める事じゃない、ウリ愛人《エイン》が棄てるかどうか決めるんだ」
チョン子は言葉を飲み込む。イーブはチョン子を見つめる。眼の奥でサイボーグのセンサーが始動するように、別れ話をしている暇はなく、今は一刻も早く老婆らを発見するのが先だ、と考え、唇から流れ出した血を流す為にまた水道の水を口に受け、漱《すす》ぎ、窓に立つ。
大型トレーラーは道路を塞がないようにマンションの壁にぴったりとくっつけて停めてあり、その横を車が一台、難渋しながらすり抜ける。窓から身を乗り出し、運転台にいるターに声を掛けようとして思い直し、振り返ってチョン子に「でかいの、見ないのかよ」と言う。
「俺のどでかい奴、錦蛇ぐらいの」イーブは急にジゴロの身に戻ったように、チョン子に片目を瞑《つむ》る。
「おまえがまだ何にも知らないヒヨッコの俺に、商売始めの時、言ったろうが。金稼ごうと思ったら、甘い言葉もキザな科白《せりふ》も要らない、股座《またぐら》の物、早く握らせてやれって。ズボンの中でさあ握ってくれとおっ勃《た》って待ってる奴みたいに、道にどでかい態《なり》で停まってる。見ろよ」
チョン子は「いい」と首を振る。
「どうしてだ?」
「だって、それで飛んで行くんでしょ」
イーブはむかっ腹立つ。「飛んで行こうと行くまいと、俺の女だったら、一物握るくらいの事するだろうよ。握りたくもねぇ、見たくもねぇって?」
「違うの、イーブ」チョン子は涙声で言って首を振る。
「見ろって言ってるんだよ」イーブが言うと、チョン子は子供のようにベソをかき、怪我《けが》をした両の手を広げ、「だって動けないでしょう」と泣き声を出す。
チョン子の脇まで歩み寄り、獰猛な獣を警戒するようにソファの後ろに廻って立ち、体をねじったチョン子に「起こしてやるよ」と言った。
チョン子は手を差し出した。その手が危険だと払い、イーブは後ろからチョン子の胸のあたりを抱えて立たせる。獰猛な獣は乳房に腕が廻っていると警告するように、喉の音を立てるが、柔順に立ち上がり、両手両脚の怪我の為、体が身動きつかないのだというように体をあずける。ソファから窓まで獣を抱えて六歩。開けた窓からチョン子とイーブは首を出し、下をのぞき込んだ。大型トレーラーはマンションに取りつけられた物置小屋のように見えた。なお見つめていると、輪郭が顕われる。運転台に乗ったターが、マンションの窓に姿を見せた二人を、老婆らのうちの誰かと錯覚したように、ヘッドライトをつけ、幾つも反響するのを楽しむようにクラクションを鳴らす。その音をチョン子は笑う。チョン子の背中がイーブの腹に当たっていた。笑いすら、イーブの腹や肢に伝わる。後ろから〈白豚〉をそうやって抱きしめた事はあったが、チョン子の感触はまるで違った。またクラクションが鳴った。
「あれがイーブの夢に見ていた車?」チョン子は言う。
イーブは「ああ」と返答し、まだ鳴り続ける音を聴いて、「クラクション、改造するの、わけない事さ」と言う。チョン子は首筋に唇を当てられ、身をよじる。
「改造の初歩の初歩。おまえにだって出来る。幾つも音が出るようになる。走りながら、ちょっとずつ改造していって、最後はベートーベンでも弾けるようになる。ついでに車体も改造してやる。バスのようにしてソファ置いたり、ベッド置いたっていいさ」
「そこに住むの? 電話はついてるの?」
「ついてる。夕方になると、一番の繁華街の脇に停めて、シャワー浴びてめかし込んで夕飯を食べに行く。街の一流中の一流のレストラン。値段も高いが、キザな奴が集まってる。メニューの中で一番高い物を選んで食う。おまえは別嬪な貴婦人だし、俺は〈白豚〉から仕込まれた立派なマナーの持ち主のハンサムな紳士だ。二人に色目つかう奴どっさりいる。廻りは溜息だらけ」
「あたしもいるの?」
「空想でな。俺とターの二人でもいい。夕飯が終るとディスコに行く。十二時までに絶対帰らにゃならん。婆さんらが三人、トレーラーで待ってる。だからターと二人、ディスコで相手見つけるのも、一発すますのも、手間取ったらオシャカさ。下はもう濡れてるのに、手間かかせる女、いるんだ」
チョン子は子供の会話のように「いる、いる」と相槌を打つ。
「時計が十二時をボンボンと打ちかかった。俺とターはくどいていた相手ほったらかしてディスコを出る。女は俺らの後を従《つ》いてくる。女らびっくりする、だって俺ら吸血鬼の往む城のように改造したトレーラーに入ってくんだからな。俺ら吸血鬼だったって」
イーブはチョン子の首筋に唇を当て、強く吸った。チョン子は声を上げた。唇を離し、赤くなった跡を見て、「吸血鬼同士血を吸い合ったってしょうがないから、おまえの血は吸わない」とイーブはつぶやく。
「あたしは吸う」チョン子は言う。
下に降りてイーブが物にした大型トレーラーを直《じか》に見てみたいと言うチョン子を拒み切れず、チョン子を背負って、部屋の外に出た。部屋の鍵を掛けた途端、大型トレーラーに乗ってそのまま遠くへ行く気がし、遠出の準備を何一つしていないのに気づいた。窓が開け放しになっている、部屋の電灯が点けっ放しだ、老婆らの持ち物が幾つか残っている、イーブは瞬時に思ったが、不意に旅に出るとそんな忘れ事がままあると、チョン子を背負い直してエレベーターに乗った。後ろに組んだイーブの左手が、チョン子の尻に当たっていた。指を動かすと、抗《あらが》いもしないで、肩に頬をつけた。イーブは不意に路地の家の脇に放り置いた火鉢の中に誰かが放り入れていたメダカを思い出した。餌を与えた事がないのにメダカは生き続けていた。
エレベーターが一階に着いた。ドアが開きかかる時、イーブは長い夢からさめて夜の昏がりに出て行くような気がし、不安になった。チョン子がイーブの肩を頬でこすった。イーブは開いたドアから外に出た。大型トレーラーを見るなり、チョン子は「大きいのねぇ」と声を上げた。腕をのばし、突き出した指先をかき寄せるように動かし、イーブの耳元で、「これ、いっつも街の中で、イーブが見とれてるのと同じなの? 倍くらい大きいんじゃないの?」と言い、運転台にいるターに、「BMWとどっちが乗りごこちいい?」と訊く。
ターは窓硝子を開け、「何だって?」と間のびした質問を返す。
「この男はBMWさ」イーブはターの代わりに答える。
「ああ、BMWか」ターは言い、初めて老婆らではなくチョン子を背負って部屋から出て来たのに不審を抱いたように、「オバらは?」と訊く。
イーブはターの問に答えなかった。「ドア、開けてくれ」イーブはターより先に、運転台のドアに手をのばし開けた。
「オバら、どした? 眠っとるんか?」
イーブはターの質問に答えず、チョン子が運転台に乗れるように体を車体につけ、身をよじった。
「乗っていいの? 乗っけてくれるの?」チョン子は訊き、運転台に乗る。両手と両足が利かないので、腰でいざり移るチョン子の尻を押し、続いてイーブも乗った。ハンドルを前にして坐り、「見晴らしいいのね」と言うチョン子の言葉に苦笑し、合図のつもりでクラクションを三度鳴らし、発進させると、ターが「どこへ行く?」と訊く。
「どこへ行くと言うて、行方不明になったオバら捜しに行くんじゃ」
「行方不明? どのオバらを、よ?」ターはイーブを見つめる。
イーブは黙っている。イーブの沈黙から悟ったようにターが「オバらまたどこそへ行たんか?」と訊く。
イーブもチョン子も答えないでいると、「オバらの行方捜すのに、こんな大っきな物で出来るもんか」と怒鳴りかかり、アメリカ大使館の女とのつきあいでついた癖か両の手を上げ、助手席のドアをたたき、「また振り出しに戻ったんかよ」とつぶやく。
道はすぐ四つ辻になっている。左に行けば商店街、右に行けば大通りに沿った細い抜け道だが、タクシー一台通るのに精いっぱいの道だから、大型トレーラーの取る道は、大通りに直結する真中の道しかない。真中の道も大型トレーラーでは小さすぎるほどだった。十メートル走れば障害に出喰わし、五メートル走れば、通行人の非難と舌打ちに合う。ターは通行人に謝り、降りて障害の自転車をかたづけ、「降りて歩いて捜した方がよっぽど早いんと違うんか?」と苦情を言う。
大通りに抜けて、イーブがしたのは老婆らを二度目に見つけ、朝の味噌汁を飲んだ夏芙蓉の樹のある公園に行く事だった。信号を二つ越して次を左に折れ、夜の昏がりに浮いて出た照明のついたホテルを左手に取りながら、黒く塗ったような公園に沿って道を曲がる。大型トレーラーを公園の手すりに接して停めると、チョン子は想像していた事が当たったというように「やっぱり、ここ」と言う。ターは助手席のドアを開けるやイーブのする事が気に喰わないというように飛び降りる。運転台の室内灯が点く。ターが運転席のイーブに「いくらオバらじゃとて、同じとこに舞い戻るものか」と言う。
イーブはハンドルを握ったまま、ヘッドライトで照らし出された公園の樹の枝を見つめ「おうよ」と言う。イーブはフロントガラスに映った自分の顔に視線を移す。呆けたまま、イーブは「分かっとるけどよ」とつぶやく。物をつぶやく唇が「分かっとるけどよ」と動いたと思い、イーブは再度「分かっとるけどよ」と言い直し、開け放した助手席のドアに手を掛けて一目で遊び人と分かる風態のターが自分を見ているのを見て、「アニ」と呼ぶ。
「この女、オバら逃がしたの自分じゃさか、棄てよ、と言う。オバらおったら俺がこの女棄てて路地に帰る、おらなんだらおらなんだで、俺がこの女、棄てる。はよ、棄てよ、と言う」
「何な? 何言いたいんな?」ターが問い直す。
「分からん」イーブはつぶやく。「部屋に戻って、オバらまたどこそへ逃げたと聴いて、何か分からんようになってきた」
ターは昔の癖が出たようにチッと音させて唾を飛ばし、「降りて来い」と命じる。
イーブは呆けたままターを見、イーブを見つめたままのチョン子に眼を遣る。「このまま走ってどこそへ行こかいね? チョン子の国へでも行こかいね。全圭子《チヨンケイコ》の婿になって他の国で働く」
ターはまた音させて唾を飛ばし、「降りよ」とあごをしゃくる。「おまえはどうも好かん。前から、トレーラーに乗ったら、狐が憑いたようになる」
ターは助手席に体を入れ、「ハンドル、放せ。ドア、開けて、外へ出よ」と言う。
イーブはターの言うとおり、運転台から降りた。
風が吹いていた。微かに夏芙蓉の花の匂いが混っていた。降りようと運転台をいざるチョン子に手を貸そうとすると、ターが、「ツヨシ、ここへ来てみいよ」と呼ぶ。
子供の頃、路地の齢嵩の者から呼ばれたようにイーブはチョン子に貸そうとしていた手を引っ込めて、夏芙蓉の微かな匂いがターの方から流れて来るというように、ヘッドライトに照らし出された樹々の梢を見上げながら歩く。ターは公園の柵に尻を掛けていた。イーブに煙草を吸えと一本差し出した。イーブが受け取ると、火を点ける。イーブが煙を吐き出すのを待って、ターも煙草に火を点け、「オバら死ぬつもりじゃ」とつぶやく。
「おまえも俺も一生懸命、オバらを捜した。捜し出して、またオバらおらんようになった。もう捜すなと言うんじゃ。オバら、死なさしてくれと言う」
「死なせるもんか」イーブは短く言う。
「おうよ、死なせられん」ターは言う。「じゃけど、オバらここで、誰の世話にもならんと、紙袋の中に家財道具入れてブラブラしておりたいと言うんじゃ。訊かいでも分かる。俺やおまえは、東京で迷い子にしてしもたと思たが、オバら自分らで蒸発したんじゃ。捜されるの迷惑に思とった。捜し出されたの、迷惑じゃと思とった。天子様のおるここで死にたいと思とったんじゃよ。天子様のおるここでブラブラ乞食しながら暮らしたいと願とるんじゃよ」
「天子様か」イーブがつぶやくと、ターは「おうさ」と相槌を打ち、「オバらが言うとった。天子様」と言う。
イーブは妙な言葉を耳にしたようにターの顔を見る。ヘッドライトの明りがターの横顔を浮き上がらせる。そのターの向こうに、一人で運転台を降り、痛みをこらえながら大型トレーラーの車体につかまり伝い歩きしているチョン子が不意に見えた。
イーブは駆け寄った。「大丈夫か?」と抱え上げようとした。
「いいの、自業自得だから」チョン子は言い、イーブの手を払った。「ハラモニを追い出したの、わたしだから」
「おまえじゃないよ」ターが言う。「オバらが言う事を聴くもんか」
「俺の言う事は聴く」イーブは言う。
ターはあきらかにイーブの言い種《ぐさ》を否定するというようにチッと音させて唾を飛ばした。ヘッと笑い声を立て、
「おまえもええかげんにうのぼれ、止めよ。あの強情者のオバらが、何でおまえの意見を聴く。オバらにしてみたら俺もおまえも、体売る男のパンパンじゃ。あのマンションも、このトレーラーも、体売って稼いだ金で買うたんじゃと分かっとる。おまえはトレーラーで路地から来たんじゃさか、トレーラーで帰るんじゃと思とる。路地から来た時はおまえも俺も、オバらも、普通の若衆とオバらじゃが、帰る時は男のパンパンと乞食のババじゃ。オバらもうあそこはないんじゃと知っとる。あそこへ行ても、俺らもオバらも、前と違うの知っとる」
「何も過去をしゃべる事ない」
「しゃべらいでもかまん。じゃが、俺ら二人とも違とる」
「アニは行かんのか?」イーブは訊く。
「どこへ?」ターが訊き返す。
イーブは言おうとして、言葉が喉に詰まる。
三人で長い事、公園にいた。夜が更けるにつれて冷え込んだ。イーブはチョン子に車の中に入れと勧めた。
「いいよ」とチョン子は拒み、「ハラモニたちがここへ来るまで待つよ」と冗談か本気か分からない言い方をする。
「ハラモニたちは来ないよ」イーブはチョン子の言い方を真似て言った。
「あのハラモニたちは、ターの言うように強情だからな。茶粥に塩を入れるか入れないかで喧嘩するんだからな」イーブは苦笑する。チョン子はイーブの肩に頭をもたせかけた。
不意にターが「どうしようもない奴らじゃ」と舌打ちする。
「なんな、アニ」イーブが気色ばむと、ターは大型トレーラーの陰の方に向かってあごをしゃくり、「あれらじゃよ」と言う。
陰の中で影が動く。
「何人、おるんない?」
「あそこに二人、こっちの木の陰に三人」ターは言い、ヘッと笑い、「俺らここにずっとおるさか、女一人を男二人で姦《や》ると思て集まっとるんじゃ」と言う。
「ソープの女王とジゴロの二人じゃ、専門家中の専門家がオバらの事で悩んでここにおるというの知らんと、あれら、素人三人がセックスの饗宴繰り広げると思い違いして、寒いのにじっと待っとる」
「のぞきのオッサンらか」イーブがつぶやく。「オバらここへ捜して連れて来たると言うなら、すぐでもして見せたるど」
「あたしも」チョン子が言う。「イーブがそうすると言うなら、二人いっぺんに入れたっていい」
イーブはチョン子の頭を小突いた。ターが「いくら待っても始まらんど」と影に向かって怒鳴る。
空が白み始める頃、寒気が頂点に達した。チョン子は震えながらイーブのジャケットの背に手を差し入れ、「思い出すよ、こんなにして寒さに耐えた」と言う。「人の体って温ったかいよね」
「俺は冷たい」
チョン子の手が背中を撫ぜ、脇腹に移る。くすぐったさに耐えながら、イーブは刻々と白んでゆく空を見つめる。イーブは何も考えなかった。空が白み切った時、イーブは決心した。イーブは脇腹を這い廻るチョン子の手をどけ、立ち上がり、「アニ、行こらい」と言った。
その一言を待ち受けて公園にいたというようにターが「俺は行かんど。行てどうするんな」と言う。
「どこへよ?」イーブは苦笑して訊き返す。
「強い酒か熱いコーヒーでも飲みに行こらい」イーブが言うと、ターは拍子抜けしたように、ああ、と諾《うべ》ない、立ち上がる。周囲を見廻し、まだ木陰に男が立っているのを見て、「残念だったな。セックス見れなくて」と声を掛ける。
木陰の男は「すりゃいいのに」と小声で答える。
イーブはチョン子を運転台に先に乗せ、その後に続いた。ターが助手席に乗り込むや、手をのばしてクラクションを鳴らす。「アベックの名所の公園じゃさか、のぞきの連中、まだ三人もおる」ターは木陰に二人、道路の反対側に一人と指差す。
「この街、誰も彼もセックス、セックスと言うとるように見える」ターは言って、助手席のドアを閉め、「さあ、どこへなりと連れて行ってくれ、路地以外じゃったらどこへでも行く」と言う。
「路地か」大型トレーラーを走らせながら、イーブはつぶやく。
信号を左に折れ、大通りに出て、イーブはまっすぐ突っ走った。ものの十分と経たないうちに繁華街の一角に着く。大型トレーラーをビル前に横づけにし、三人は降りた。チョン子はそのビルの前に大型トレーラーを横づけした事も、三人共エレベーターに乗り込む事も解せない様子だった。(金)多摩霊園のドアを開け、ショータイムらしくサンバのリズムと共に素裸で踊る少年らを見、客の歓声を聴いて、イーブの決心を気づいたように、「イーブなの?」と妙な訊き方をした。
「イーブだよ」イーブは答え、戸惑うターに「強い酒でも飲んで行こう」とジゴロ然として言う。
「なんじゃ、こりゃ」ターは言う。
イーブは店の空気に暖められ、眠っていたサイボーグのセンサーが作動しはじめたようにハンフリー・ボガート風の笑をつくり、ウィンクし、「俺らの仲間だよ」と言う。
「男の子ら、男のパンパンだしな、客は皆なファッションやソープの女の子。(金)多摩霊園だってよ。皆な幽霊だ」
「俺らもか?」イーブはうなずく。
素裸の少年が入口に立った三人を見つけ、少年らの踊りに合わせて吹いていたホイッスルを高く鳴らし、合図した。半纏を羽織っただけの少年が中から駆けてやって来てチョン子の顔を見て、「やばッ」と立ち止まる。
「何がやばいのよ、手を貸しなさいよ」チョン子は手を差し出す。
「手、貸すだけですよ、他にどこも貸さない。前も後ろも」
「分かってるわよ、そんなちっこくて小汚いの、ごめんこうむるわよ」チョン子は手を引かれ、へらず口をたたきながら、脚の痛みを耐え、ロボットが歩くように歩く。
「どうしたんですか?」少年は訊く。
「どうしたって、怪我《けが》したのよ」
「だから」
「だからって、怪我したのよ」チョン子は言い、店の奥のテーブルから手を振る女に、「ちゃんと美子《ミジヤ》に連絡した?」と声を上げる。
女は声を出す。レコードと歓声とホイッスルとタンバリンの音で聴こえない。チョン子は舌を鳴らし、「ウェノムのパカ女」と言い、席に坐る。
(金)多摩霊園でいつもチョン子は、客に自分が扱っている女がいると必ず席に呼ぶ。見知らぬ女の子でも扱えそうな子がいれば、引き抜きの為に呼ぶ。
イーブは席を二つずらして坐った。チョン子はイーブを引き寄せた。半纏一つの少年がステージで踊っていた素裸の店長を呼ぶ。店長は三人を見て、「大丈夫ですね?」と訊く。
「この間、こんな人だったですよ。お巡り。カッコよくて」
「お巡りじゃないよ」ターが店長をからかうように上から下に順に眼を移し、「ここでホンバンやるのか?」と訊く。
「ホンバンじゃないですよ。バナナ・ショー」店長は性器の先をつまみ、左右に揺すり、「何でしょうか?」と訊く。
「ワイパー」イーブが答える。
ターがイーブを見て、笑いをこらえ、「誰だって出来るじゃねえか」と言う。
「男はね」チョン子は言う。「わたしら女は出来ないよ」
キープしたボトルを納わせてチョン子はバーボンを頼んだ。バーボンが運ばれ、店長の指示で少年が三人集まり、当然の事のようにグラスが六個並ぶ。六杯、オンザロックをつくれば、バーボンはボトル半分ほどになる。
「一本五万円するのよ」チョン子は言う。「あのバカ女ら、嫁いだ分、半分以上、ここで使ってるんだから」
チョン子は(金)多摩霊園が初めてだというターの為に少年らを七人集め、「これは何ですか?」「ワイパーでーす」で始まるバナナ・ショーをさせた。でんでん虫、芋虫、ちょうちょ、ねじりん棒。勃起しない性器が柔らかく、ねじれ、のびちぢみするという形状を使った子供じみた芸だったが、チョン子は何度見てもおかしいと笑い転げる。
そのうち、「イーブもターもやってみなよ」と言い出すのを聴いて、二人はチョン子が酔っているのに気づいた。イーブはターに目配せをした。ターも酔っているのか、「何ない?」と訊く。「男のパンパンが意味ありげに目で合図する」
イーブはむかっ腹が立ち、「馴れんとこに来て、足腰取られるの、心配しとるんじゃ」と言い、タクシーを呼ぶから先に帰れと言った。
「帰らん」ターは言う。「俺は帰らん。おまえらが起きて遊んどるのに、何で俺が先に帰る」
ターは言い、突然、立ち上がり、服を脱ぎ始めた。上半身裸になり、次にズボンを脱いで、ブリーフを取る。ターは椅子の上にあぐらをかき、「バナナでーす」と性器をしごき、次に陰嚢を根元できつく握り、「マンゴーでーす」と言う。少年の一人が、「おッ、新発見」と声を出す。ターは七人の少年に同じ事をさせた。
イーブは苦笑し、チョン子は笑い入る。チョン子の右手がイーブの股間を這い廻った。イーブは凌辱されている気がした。老婆らから見棄てられ、ターからも、チョン子からも、凌辱される。
イーブはビルの前に停めた大型トレーラーを思った。店を飛び出し、エレベーターで下に降り、運転台に飛び乗り、エンジンをかければ、好きなところへ行く事が出来る。もう一度、公園に戻れば、老婆らがひと固まりになって朝飯の準備をしているのに出喰わすかもしれなかった。
席を立つ寸前に、客の女が帰りかかり、ターに連れられて、バナナとマンゴーのミックス・ジュースをつくる為にジューサーに放り込み、攪拌している途中の少年が店長に呼ばれる。少年はミックス・ジュースをつくる手を休めないで女客にキスをし、もらったチップを口に咥えて戻って来る。
少年は席に戻り、チップを口に咥えたまま、物を言った。二度言い直し、「何、言ってるのか分からない」と笑う酔ったチョン子に、口を開いて「バナナ放り込んでも放り込んでも、減ってかない。増えてくる」と言う。
口から一万円札がひらひらと落ちる。イーブがそれを拾った。少年に渡しかかり、少年の両の手がミックス・ジュースつくる為に塞がっているのを見て、イーブはテーブルに音させて置いた。その音に何かが砕け、酔いが一時に廻ったように、「俺とイチかバチかの賭けをしようか?」と訊く。
「賭けって?」
「この一万と賭ける。たった一回だけ、野球拳やる。そんなミックス・ジュースつくるより面白いって。誰が先に飛ばしたって、つまんないって。おまえが勝ったら、今日、俺が持ってる物、全部やる。時計も服も、財布も何もかも。俺が勝ったらこの一万をもらう」
チョン子が「あれも」とイーブに訊こうとする。イーブはチョン子の口を手で塞ぎ、その唇にキスをした。
「アニ、面白いじゃがい。俺、勝ったら、こいつのチップ巻き上げる。負けたら、俺はスッカラカンの素裸じゃ。部屋まで素っ裸で戻らんならん。こいつ、勝ったら、シンデレラじゃ。時計、質に入れるだけで何十万するし、ジャケットもシャツもブリーフも靴もサイフも、手に入る。下に置いとる物も、こいつの物じゃ」
「野球拳するの?」少年がおずおずと訊く。
ターはまだ性器と陰嚢の根元を握りしめ、ねじり、こすり、ミックス・ジュースをつくりながら、少年に「難しい事ない、ジャンケンすればいい」と言い、「やったれ。何から何まで巻き上げたれ」とあごをしゃくる。
素裸の少年とイーブはステージに上げられた。店の客の注目を惹くようにしばらくサンバを踊らされた。客の何人もがイーブに服を脱げと金切り声を上げ、チョン子が怒鳴り返した。
不意に音楽が止み、アウト・セーフと合唱がチョン子の席の方から聴こえてくる。次のジャン・ケン・ポンは店中の合唱だった。合唱に煽られ考えもしないで、イーブはグーを出す。少年も同じグーだった。歓声とあいこでしょという掛け声とすぐかかったサンバが入り混り、イーブは待ったをかけた。
酔って素裸のターが半勃起状態の性器を隠しもしないで、バーボンをなみなみと注《つ》いだグラスを持ってステージに上がり、「ぐっといけ」と勧める。イーブはグラスのバーボンを一息で飲んだ。
店長がすぐサンバをかけた。酔ったターが音楽を圧しとどめ、イーブが何を考えて圧倒的に不公平な賭け率の野球拳をしようとするのか演説をぶつように、「この男は」と言いかかり、「いいのよ、ター」とチョン子にとめられる。
少年らの中から、「イーブってジゴロだよ」「アキラの彼氏だよ」と声が掛かる。
「あたしの彼氏だよ」女の客が声を出す。
ターがなお話しかかるのを阻むようにサンバがいままでの倍の音量でかけられる。イーブは踊った。喉元まで、サンバを踊る裸の少年に次に出す自分の手を教える言葉が出かかるが、イーブはこれが本当の最後の賭けだと思ってこらえた。ホイッスルが吹かれ、タンバリンが鳴らされ、唐突に曲が止まり、アウト・セーフの合唱が続く。
パーを出すつもりが瞬間にチョキに変わった。少年はグーを出していた。イーブは何の躊躇もなく、ステージの上で服を脱ぎ、茫然と立った少年に次々と渡した。店長は裸体をくねらせて踊るショータイム用の曲をかけ、桃色の照明に切り換える。靴を脱ぎ、ズボンのベルトに手を掛けた時、マッチョ・ダンスの少年らがばらばらとステージに駆け上がって来た。
二十五
どこで眠ったのか、一瞬、見当がつかずイーブは起きて周囲を見廻した。イヤさんの笑い顔がそばにあった。
「随分、眠っていたなァ。おまえ、ふらふらしてここに来て、風呂も入らず眠り込んじまった。頭痛くないか?」イヤさんは訊いた。
イーブはすべて夢だったような気になり、冷水プールの上にかかった時計を見る。六時半を過ぎたばかり。チョン子が四時過ぎに電話を入れると言っていたのを思い出し、「俺に電話なかった?」と訊く。
イヤさんは腕を上げ、腋毛を指でしごき、「三度ばかりあったけどな。せっかく眠ってるんだから起こすなって俺が止めた」と言い、くぐもった声で「おまえのおごりで行って、文句言うのもヘンだけど、あそこのクラブの女と姦《や》った後、妙にかゆくってよ」と顔を上げる。
「ドンチャン騒ぎやらかしたんだってな。おまえも相棒もどうやってこのサウナに入って来たか知ってるか? 半纏だけ着てな、タクシーから降りて、一階から上がって来た」
イーブは記憶になかった。「ターは?」と訊くと「相棒か?」とイヤさんは訊き返す。
「あいつ、殊勝にサウナに入ったが、中で寝込んでしまいやがった。うちの苦い衆が見つけて引っ張り出して、従業員の仮眠室に寝かせてもらってる。さっき従業員がおまえの女からの届け物だと、おまえと相棒の分の服、持って来た。フロントに預かってるってよ」
「そうか」イーブは言う。イーブは頭を振る。「カランカランって鳴るな」イーブは冗談を言う。
「イヤさん、あんた一対千の賭け、やった事あるか?」
「いや。ないなァ」イヤさんは腋毛をしごきながら言う。
「一万円と一千万円だぜ」イーブは苦笑する。「一千万|貯《た》める為に、どんだけ姦ったんだよ。ババアの股座《またぐら》に顔突っ込んでお世辞言ってな。それが一発勝負で、消えた」
「また稼ぎゃいいじゃないか。おまえなんか勃《た》つ限り、金ついて廻るんだろ。俺らはそうはいかない。勃ったって、それで商売してるわけじゃないからな。顔が要る。度胸が要る。最近は頭も要る」
イーブはビーチ・チェアから立った。酔いが後頭部に残り、立ちくらみがした。歩きはじめると、「もう帰るのか?」とイヤさんが訊いた。
「まだ帰らない。熱いシャワーを浴びて、女に電話して、今日、仕事が入っているのかどうか訊いて、時間があるなら、サウナに入る」
予定は以前からの物なら入っているが、今日は勧められないと言うチョン子に、イーブは「稼がなくちゃ、しょうがねえじゃないか」と抗弁した。
「いいじゃない。あんなバカな野球拳、もともと誰も本気にしてないんだから、十万か二十万やって、服も時計も車も取り戻せば済む事じゃない」チョン子はイーブ本人が言い出せないのなら自分が出てやる、と言った。「あの車、イーブが持ってて欲しいよ」
「俺の物じゃない」イーブは言う。
「あの車でどこかに連れてって欲しい」
「俺とおまえが二人でどこへ行くんだよ。おまえはマネージャーだろ。俺は男のパンパンだぜ」イーブは言い、もし客を紹介しないなら、この足でホストクラブに行き、職を見つけると言った。
チョン子は確認を取るから三十分待てと言った。三十分の間に髪を乾かし、フロントに預けられた服を取ってまとい、チョン子がまとめたターの衣服を持って、イーブは従業員の仮眠室に入り、寝込んでいるターを起こした。
「昨日、ひどい事をしなかったか?」起き上がるなり、ターは言った。
「俺に何が出来る」イーブは笑う。
「おまえじゃない。俺がおまえに」ターは言い直し、イーブが「じゃからセックスのサイボーグの俺に、アニが何出来る、と言うとる」と言う。
ターは仮眠ベッドから降り、よろめきながら服をつけた。フロントで女の声がするので振り返ると、チョン子が美子《ミジヤ》に支えられて立っている。
「イーブ」チョン子は思い詰めたように呼ぶ。美子《ミジヤ》はおびえた眼でイーブを見、イーブが視線を移すと眼をそらす。
「イーブ」チョン子はまた名前を呼び、イーブが何事もないと言うように、「電話で済む事なのにわざわざ来たのか」と仮眠室を出かかると、チョン子は美子《ミジヤ》の持っていたハンドバッグを引ったくる。中を開けようとして傷が痛むのか手こずり、「イセキヤ」と怒鳴る。
ハンドバッグが開いた。中に拳銃が入っていると思った。立ちすくんだイーブに見せるようにチョン子はハンドバッグの中から、財布、時計、大型トレーラーのエンジンキーの束を取り出し、フロントの上に置く。
「イーブ、朝、酔っていたですよ。わたしが朝のうちに話つけて皆取り返した。財布の中に幾ら入ってると思う、五十三万。銀行のカード二枚、クレジット・カード二枚とジムのカード。テレクラの会員券も入ってる。あんだけ、女いながら、まだ引っかけようとしてるって、(金)多摩の店長が笑ってたですよ。この時計、自分で買ったのでないから分からないかもしれないけど、ダイヤはめてるから三百万はする。車の値段はわたし知らないですよ」チョン子は訛の強い日本語を使い、「何であんなウェノムのガキにやる」と言う。
イーブはターの仕度を待たず、カウンターの外に出た。カウンターの従業員が中にもう一人、居たはずだと確かめるように仮眠室の中をのぞく。イーブは従業員に「鍵」と言って靴箱の鍵をもらおうとし、従業員が戸惑う。
美子《ミジヤ》が衣服を部屋から運んだのは自分だと誇示するように、カウンターの中をのぞき込み、「ほら、下にありますよ」と指差す。従業員は二足、靴を取り出す。イーブは二足を受け取り、イーブの服をまとって仮眠室から出て来たターに、「アニ、その服にこれ似合うさか履けよ」と一足を差し上げる。
「昔は肩幅も変わらなんだが、ジムに行っとるさか、何から何まで俺より大きいの」
靴を履きながらイーブは「あそこも」と合の手を入れる。
「イーブ、あたし、あんたの大事な物、取り返してきた」
「大事な物てかい?」イーブは訊き直す。
「大事な物。ずっと欲しがってたですよ。そうでしょ。いやな客、相手にしたの、欲しかったからでしょ。いつも見ていたじゃない。いつも欲しいと言ってたじゃない。どこへでも行けるって言ったでしょ」チョン子はカウンターに音させて手をつき、大型トレーラーのキーの束をつかむ。
「これあれば、もうイーブはイーブじゃない」
「イーブじゃないって?」イーブは鼻白む。
「ツヨシって名前」
イーブは笑う。「俺をイーブって名前のセックス上手なジゴロに仕立て上げたの、自分のくせに。ジゴロ開業、一日目に、俺に紫のスキャンティをはかしたくせに」
イーブはターが靴を履き終えるのを待って、エレベーターのボタンを押す。すぐドアが開き、イーブは滑り込む。イーブはエレベーターの壁にジゴロ然としてもたれる。
「紫の女の子のはくようなスキャンティつけてよ、俺はヘンに興奮しておっ勃ててんの。最初に当たった客なんか、こんな人、初めて。こんな強い人、初めて、ってしがみつきっ放しだったぜ」
「スキャンティて妙に興奮するよな」ターが当たりさわりのない言い方をする。
「それから下着に凝ったって訳よ。アンダーフィールドかトップガンでしか見つくろわない。テレクラで引っかけた女子高生相手の時なら、わざと白いサルマタ、はくけどな」
ドアが閉まりかかり、美子《ミジヤ》がおさえた。カウンターの財布や時計を持ったチョン子が脚を引きずりながらエレベーターに乗り、ターはやっと一階のボタンを押した。降下しはじめてからイーブはチョン子に、「今日の客はどこ?」と訊いた。チョン子はあわててハンドバッグの中をのぞく。口の開いたハンドバッグに案の定、拳銃のような物が見える。指を素早く動かせないのか、拳銃を握るのに躊躇するのか、チョン子はハンドバッグを引き上げ、中をかき廻す。チョン子は拳銃ではなく手帳を取り出す。チョン子はハングル文字を読んでホテルの名を言う。そのホテルの名を言っただけで、客が誰か分かる。
建物の外に出るなり、ターはタクシーをつかまえた。乗り込む段になって、ジャケットがイーブの物で、自分のジャケットに入れていた財布もBMWの鍵も、一切合財ないのに気づき、ターはチョン子から金を借りた。ターの服を少年らにやったわけではない、とチョン子は言い、後で連絡しろと(金)多摩霊園の店長の電話番号を教えた。
「部屋の鍵は?」イーブが訊くと、ターは野暮な事を言うなとウィンクする。タクシーが走りはじめるとターは手を上げ、何でもない一日だったというように合図する。
イーブがタクシーに乗り込むと、断りもなしに、チョン子も乗り込んで来た。助手席に乗ろうと美子《ミジヤ》が立つと、「開けないでいいから」と命じ、ホテルの名を言った。ホテルまでイーブもチョン子も無言だった。ホテルの車止めに着き、チョン子が金を払った。〈白豚〉とは奥のレストランでいつも待ち合わせた。イーブは常席にしている奥の、硝子越しに滝の見えるテーブルに着いた。歩きかねるチョン子はイーブより数分遅れてレストランに入り、丁度、真中のテーブルに自分で坐った。
イーブは白ワインを頼んだ。チョン子はイーブを見つめ、ワインリストを運んで来たガルソンに、「あの人と同じ物ちょうだい」と言った。
イーブは運ばれて来たワインを飲みながら、公園前の路上で老婆らを見つけた時を思い出した。老婆らはことさら嬉しい顔をしなかった。イーブは素直に嬉しかった。金は大型トレーラーを即金で購入出来るほど貯えてある。老婆らがよいと言うなら、すぐにでも、大型トレーラーを駆って、山から山に懸かった高速道路をたどって、老婆らがやって来た伊勢の向こう、熊野の路地へ帰る事が出来る。だが、老婆らはイーブが大型トレーラーを調達して戻って来る間に忽然と姿を消した。大型トレーラーは間のびした図体のでかい車にたちまち成り下がった。チョン子だけが、東京にいつくようになってから今まで、イーブが抱き続けた夢じゃないかと言う。チョン子と同棲したての頃、ヒモ稼業になじめず手持ちぶさただったし、自分の手で金を稼ぎたく、何度も働きに出ようとした。その都度、チョン子は厭がった。そしてイーブとターは、チョン子に勧められジゴロ稼業についた。ターは一人と長続きする専属の方を望んだし、イーブはチョン子が采配を振り、許可する形の、金廻りのよい方のジゴロを選んだ。イーブは大型トレーラーを買う為なら厭な客とでもかまわないし、チョン子の方も、イーブが〈白豚〉や〈黒豚〉相手に性愛を持とうと、くっつけたり離したりしているのが自分だから、大型トレーラーを買う為だからと、少々の事は我慢する。それが突然、老婆が現われ、それまで夢にすぎなかった大型トレーラーが、眼の前に現われた。老婆らがまた姿をくらまし、あぶり出された夢の大型トレーラーがまるで巨大な模造性器のようにある。
イーブは溜息をついた。チョン子は大型トレーラーが夢のトレーラーだと言い募るように、イーブを見つめる。ハンドバッグに入れてあるのが本物の拳銃なら、撃ち殺してくれてもよい。イーブは誘うようにチョン子を見た。
撃つなら、撃て。イーブは心の中で言う。
イーブの独りごちる言葉が通じたようにチョン子は笑を浮かべる。その笑に何の含意もないのを知って、イーブは笑を返す。イーブの笑に釣られたようにチョン子は立ち上がり、左の脇にハンドバッグを抱え、左手にグラスを持ち、右手にボトルをつかんで歩いて来る。ガルソンらが何が始まるのかと固唾を飲んでいるのが分かった。脚を引きずり、両手に怪我《けが》をしているので強くつかめないボトルが落ちかかる。思わずイーブは立ち上がって手をのばし、右手のボトルを取った。チョン子はへヘッと子供じみた笑をつくり、酔ったようにイーブにしなだれかかる。
「色男ぶりやがって。ウェノムの田舎者のくせに」チョン子は甘くささやくように耳元で言う。
「このワイン、顔からひっかけてやろうか」チョン子はまた笑う。「そんな事すればアルマーニのジャケット、よごれちゃうか」チョン子はグラスを持ったままイーブの首っ玉にしがみつく。
ガルソンが二人、入口の方から駆け寄った。そのガルソンをイーブは制した。入口に客が来たのを知って〈白豚〉でないのを確かめ、イーブは「坐れよ」と言う。
チョン子は「坐るわよ。一体、この席に誰が坐ると思ってるの?」チョン子は言う。「誰だと思ってるのよ、あの色ババアが気取って坐ると思ってるの」チョン子は椅子に腰を下ろした。「嫉妬に狂って従《つ》いて来たとかん違いしてるのね。そうじゃない」
「チョン子が俺をはめたのか?」
「そう」チョン子は言う。チョン子はイーブを見つめる。ハンドバッグをさぐり、大型トレーラーのキーの束をテーブルに置く。
「行こう。どこでもかまわない。行けるとこまで、走ろう。そうじゃなかったら、バカみたいじゃないか。死ぬしかないじゃない」
「おまえはいつも俺を脅すな」イーブは言う。イーブはチョン子を見つめたまま、テーブルの大型トレーラーのキーをつかむ。
「今晩、俺をジゴロとして買ったって?」イーブが訊く。チョン子はイーブを無言で見つめる。
「一晩中、姦りまくる代わりに、一晩中、走り続けろって?」
イーブは十時間も走れば路地に着くと思う。その時、入口に客が入って来たらしく、ガルソンの声がする。イーブは高速道路を疾駆する蛇のような大型トレーラーを想い描く。ガルソンがイーブの脇に駆け寄るのと聴き覚えのある声が「イーブ」と呼ぶのが同時にし、チョン子が同棲していた頃、性の遊戯に誘う時のように唇を舌で舐めるのを見て、イーブはチョン子にかつがれたと思った。
「トレーラーの狭いとこでも、俺が姦りたくなったら姦らしてくれるって?」イーブは訊き、返事も待たず、チョン子に、店を出ようと合図し、立ち上がる。
〈白豚〉がイーブを見ていた。チョン子はワインのボトルをつかんだ。大型トレーラーのキーをぶらぶら揺すり、イーブは舌打ちし、「そんな物、持っていかなくたって、どこででも買えるだろうよ。腐るほど金稼いでいるくせに」と言い、自分を見つめる〈白豚〉なぞ見も知らぬ他人だというように、会釈もしないで脇を通る。チョン子はハンドバッグを左手に持ち、右手にワインのボトルを持って足を引きずるように歩く。
イーブはチョン子を背負った。財布からレジで勘定を取り出し、イーブは暇を弄ぶように指で尻の割れ目をなぞった。チョン子は大型トレーラーの運転手の女はそうするというように「くすぐったい」と声を出して身をよじり、ワインのボトルをレジのキャッシャーの上に落とした。
「文學界」一九八七年七月号〜一九八九年十月号
一九九〇年五月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成五年二月十日刊