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十九歳のジェイコブ
中上健次
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ジェイコブの眼は灰色に近かった。灰色の瞳《ひとみ》の奥に茶の塊があった。笑いをつくるとふっとそれがぼやけ、後は何も映さないように見えた。人はよくジェイコブに、どこから来たのか、と訊《たず》ねた。ジェイコブは決って相手を見つめ、相手が困惑げになり意味のない質問だったと視線をそらしてからやっと、その土地の名を言った。どこでもいいのだった。口から出まかせでいいのだった。
ジェイコブにしてみても、毎日同じように店に出入りしている連中の誰彼がどこから来ているのか知らなかったし、興味もなかった。店は、モダンジャズ喫茶店だった。昼日中からジェイコブと同じ齢《とし》格好の若い連中が集まり、鼓膜が震え、壁にもたれていると体中にドラムやベースの震動が伝わってくる中で、黒っぽいジャズを聴いた。仲間の誰もがコルトレーンのスキャットをする。コルトレーンは好きだった。何故だか分からない。ジェイコブにはそのコルトレーンのアルトサックスが音ではなく音のひとつひとつを強い喉《のど》の力で潰《つぶ》すために吹いていると聴えた。ジャズはその潰された音の洪水だった。潰されて中味が露出した音は卵の中でひくひく動いている赤い、まだ形を取る事のない鳥の肉のようだった。
そしてジェイコブは思い出した。
風が吹いた。犬は倒れていた。
犬にどんな力も体には残っていなかった。先ほどは頭をかすかにあげたが、いまはいくら名前を呼んでも応えなかった。毛が泥水で濡《ぬ》れ、滴が落ちている。犬はまたけいれんする。後脚を硬くのばしきったところでブルブルと震えた。
そこは小高い山の頂上だった。
ジェイコブはしゃがみ込み、その犬をみていた。
犬は呻《うめ》くことすらしなかった。腹が微《かす》かに上下に波打ち、草のように弱い息をする。ジェイコブは、ただ倒れ、待っている犬を見ていた。風が吹き上ってきて草むらを揺り、音が一斉に鳴る。音はわきあがり潰れ、わきあがる。
ジェイコブは見ていた。いや、ジェイコブはその音が、今思い出したその真空の、意味などつけようにもつけられない光景の中からふつふつとわきあがり渦巻き、こすれあって潰れるのに気づいて、ジョン・コルトレーンの吹く音が、音ではなく風、風ではなく此処《ここ》と彼方《かなた》の境目にある祈りのようなものである事に気づいていた。
その犬は山でよく見かけた。
ジェイコブらが山の斜面に生えた雑草をソリで滑ろうとするとき、きまってあらわれた。栄養が足らないためにやせた毛の抜け落ちた貧相な犬は、たとえ体に投げた石が当っても後についてきた。その犬が倒れている。
棘《いばら》の茂みの中に青い実のぐみがあった。渋い綿のような実を噛《か》む。雑木が切り開かれた畑の横を抜けると、向う側だった。日は町並みに当っている。仲間の年久が石をつかんで茂みに投げる。石の音だけで小鳥は飛び出さない。その時、正午のサイレンが鳴る。年久は石がサイレンの音を引き出したとジェイコブの顔を見た。眼をみつめるだけで人の秘密を嗅《か》ぎ取る事が出来ると年久は言ったことがあった。だがジェイコブに秘密はない。
年久はソリを踏まれてひしゃげた草の上に置き、茂みにむかって小便をはじめる。年久のその振舞いに、ジェイコブは、自分の秘密を嗅ぎ当てられた気がした。下の町を女が歩いている。雑貨店の横から白い犬が出てきて吠《ほ》えた。
光が山にあるものすべてからわき出していた。光は空中に舞う。吐く息さえ眩《まぶ》しく光った。
草すべりをする崖《がけ》は暗くかげっていた。風を受けてくすんだ色に草は揺れた。ジェイコブは真空の体で呼吸する度、その冷たい取りつく島もない崖の草のざわめきを吸い込んでしまう気がした。崖の上に立つ。足元から草は揺れる。ジェイコブは一本一本の草が何故こんなにも大量に集まり渦巻き逆まいているのだろうと不思議だった。葉ずれの音は耳から入り、体にあふれる。年久が石を置いたいつもの出発点にソリを置く。笑いをうかべ、手に唾《つば》をしてこすりあわせてソリをにぎり、坐《すわ》り、足で一蹴《ひとけ》りする。最初動かなかったソリが崖の三分の一程から速度を加え、年久は頭を下げた。風が丁度年久の方向と反対に吹いているが、年久は草の波を無事にくぐり抜けて、草の上をすべりおりるソリのスピードのかすかなすきま、精密な機械でも計ることの出来ない瞬間を無造作につなぎあわせる。不思議だった。その瞬間に立ちどまる事が出来るはずだった。あの犬でも出来た。その瞬間に立ちどまる事が死だと、ジェイコブは崖に光がもどってくるのをみながら思った。それまでかげっていた寒い風景がかくしていた輝きが顕《あら》われる。それが死だ。ジェイコブは口をあけて呼吸をした。草むらは皮膚がめくれたように黄金色だった。年久がソリを持って崖をのぼりながら声を出した。ジェイコブはその声を合図にして、風に息をつめ、生皮をはぎ取った木のソリにまたがり、足で蹴った。自然にわきおこる風に逆らわないよう頭を下げた。開けている眼が眩しかった。突然だった。草が眼の前で壁のように立ちあがり、呼吸《いき》苦しさに口をあけたジェイコブは風に真空の体を吹き抜けられてひっくり返った。光を背にして黒く見える年久に手をあげて合図を送り、ソリをかかえて草をつかんで崖をのぼりはじめる。
ジェイコブらがやってきた方から来たのはシゲだった。シゲはソリを肩にかついでいる。シゲは三人で一度に滑ろうと言った。
年久は出発点にうるさかった。ジェイコブのソリが少し出ている、と言い、その三人での競争が大事なことでもあるように風を顔に受けて息をつめる具合に頬をふくらませる。山の雑木や草の葉が風をうけてたわみこすれ合う音が、耳の内側にこもる。昼をいますぎたばかりの日が透明で、それがこの山の物に落ちると色彩が内側から吹き出てくるのが不思議だった。
ジェイコブが掛け声を出す。足で草を蹴って三人で一斉に下にむかって崖を滑りおりはじめる。シゲがはやかった。年久が手を離し足をあげておどけた。シゲは年久の声に振り返りもせずスピードを上げるために頭を下げて身をかがめる。風が吹いた。予期していないほどの強さだった。崖に密生した草の一本一本が鳥肌立ち悪寒に震えるように起き上がり逆だち音をたてた。ジェイコブはソリからつき落され、横に倒れて崖を転りおちた。炎のように光がまといつき、眩しい。丈低い雑木につかまって立ちあがると、二人は見えない。ソリが二つひっかかっている。体の中の血管が破けたように思いながらジェイコブは、ソリを取って下に駆けおりた。
黙ったまま三人でまた崖の頂上に立つ。町の家並みが手に取るように分かる。日を受けたその家並みが嫌だった。ジェイコブはその家並みのすべてを消したいと思った。
ジェイコブはその時も、自分がこの遊び仲間の年久やシゲでなかったら、その家並みのどこから来たのか分からなくなると思った。誰の子でもないしどこの子供でもない、ジェイコブは、思った。生れた時から記憶喪失に患《かか》っている。いや、記憶喪失はジャズを聴くジェイコブの最大の願望だった。睡眠薬を呑《の》むのは脳髄をひとつずつ潰《つぶ》すつもり以外になにもない、と睡眠薬と鎮痛剤で濁った頭で考え、ジェイコブは思い出したその子供が、音を潰すようにジャズを吹くコルトレーンの昔であってもよいと思った。黒い子供は考える事が嫌だった。黒いものは黒いし赤いものは赤い。兄が昨日死んだばかりだった。その事については黒い子供の知っている事は沢山あった。秘密はありすぎた。年久の知っているのはせいぜい家並みの一つで葬儀が行われているということだけだった。
すいかずらのにおいがしていた。いや、それはすいかずらのにおいではなかったかもしれないが、ジェイコブには、重く甘ったるいにおいはその花のたてるものだという思い込みがあった。
風はなかった。
年久はソリを肩にかつぎ、崖の横の茂みから飛び立った小鳥の巣をさがした。
「そんなとこに巣をかけるもんか」
シゲが言った。これから行こうとする城山に中学生がいたらどうしようかと不安なのか、ジェイコブの顔を見た。「このまえもここは調べた」
「またコブチつくろか?」ジェイコブが言った。
年久はジェイコブの言葉を耳にしなかったと茂みをソリでたたき、「あんなのはかからん」と、コブチにかかって死んでいる鳥が、そのくちばしの赤い鳥よりも下等だとジェイコブを見る。「はじめてみたと思わんか? さっき石ぶつけても出て来なんだのに、なんにもせんのにいきなり飛んで来て」
「お城山へ行くんやったらナイフ持って来るんやったね」シゲは言う。
三人はソリをその茂み下にかくした。城山からの帰りにいまいちどその小鳥の巣をさがしてみる、と年久は言った。
三人は崖の上を通って牛小屋の裏に出た。城山はその小高い山の先端にあった。椎《しい》の木が密生していた。腐葉土のにおいのする道に仕掛けられたここを遊び場とする連中の陥し穴にかかったり、わなに足をひっかけることのないように注意した。その腐葉土の道を抜けると、急に視界は開けた。海と川が見えた。川はにごっていた。昨年までそこで泳げた。
半分陸に乗りあげた廃船があった。
その廃船の中に遊び道具や喧嘩《けんか》道具をかくしていると年久は言った。
「みんな分捕ったろう。あの西島のやつみたら青なるやろね」
年久は言う。一度年久は西島と喧嘩をした。何が原因か分からなかった。
「あいつら、ぜいたくやね。こんなとこ」シゲは言った。
「ふん、こんなぼろぼろ船」年久は言い、甲板のめくれた部分から下の船室をのぞき、唾を吐いた。
船室には漫画雑誌がばらばらにされて散らかり、煙草の吸殻が捨ててあった。
「あいつらによう似あうとこやな、きたならしてじめじめしとって、年|老《と》って古ぼけてよいよいの爺《じじ》いみたいなこんな船」
年久はジェイコブの肩に手をかけて内緒話をするように耳のそばで、「あいつらあらわれるまでかくれて待とか。城山のやつだれでもかまんさか、あらわれたら袋|叩《だた》きにしたる」と言った。
それはおもしろい考えだった。この城山の陣地に遠征してきた記念になる。城山派と、ジェイコブたち山を陣地にしている山派は、誰かを袋叩きにすることによって、今までのだれた均衡が破れて、喧嘩を繰り返す。
ジェイコブらは廃船のすぐ上の、大きなせんだんの木の根方で待った。根元に、根があまりに大きく盛り上り過ぎたためか、人間が二人ほど入れる穴ができていた。その穴に入ると、川口の方から吹いてくる風をまともに受けることはない。真上からあたる光は熱い。
ジェイコブは幹に顔をつけ、廃船の向うの川の水、その対岸、白い日を受けて眠っている幾つもの山の連なりをただ見ていた。
風が吹く。年久とシゲは熱い真上からの日で眠くなったのか、黙って廃船に続いた道をぼんやりと見詰めていた。
間もなく城山のやつらはあの道を通ってあらわれる、とジェイコブは思った。誰でも良い、殴りつけ、蹴り上げてやる。それが中学生でもかまわない。そしてそのうちこの三人の中の誰かが、城山のやつらにつかまり、仕返しをされる。
風が、砂利取り機の置いてある河口の方から吹いてきて、山の樹々の上を通り、市の中心、繁華街へとのぼっていった。遠くから観光客用に流している宣伝放送の女の声がきこえてきた。
ジェイコブは、せまい市の中の三つの学校の中で自分達のグループが一番喧嘩が強いと思っていた。
浜のグループが山に遠征に来た時、ジェイコブらは追い返し、最後まで残っていた中嶋を殴りつけた。後になって、彼が浜の学校では一番けんかが強いということを知った。一番を殴ったから大丈夫だと思い浜に行ったジェイコブらは、中学生を長とする浜のグループにとりかこまれ、抵抗しないまま袋叩きにあった。シゲはすぐ泣いた。中学生たちにとり囲まれたまま、ジェイコブは年久と殴りあいをさせられた。
城山では西島が一番だった。
ジェイコブは息を大きく吸った。
せんだんの木の上に鳥がとまっているらしく間のびした声で鳴いた。
シゲが幹に顔をくっつけたまま欠伸《あくび》をし、頭をかき、「橋本のやつ、学校で調子に乗って鮒《ふな》のんだんやと、あのアホ」とわらった。「あいつ教室にずっとかくれとってね、みんな勉強しやるあいだ物置のとこでぐうぐう寝いやってね、みんな帰ってから起きてきて、寒いさか教室の板はがしてたき火したんや。小使のおいさんがいってみたら教室の真中で図画とか文庫の本燃やしやった言うて、怒っとった」
「丸焼けになったらよかったのに」
「このまえ中学生が家焼いた」年久が言った。「そいつカンカンに送りこまれた言うとった」
年久は立ち上り、待伏せすることにあきたのか「やめた、やめた」と言った。不意に両手を広げてせんだんの幹に抱きついた。腰を動かし、「ちくしょお、オメコ」
年久はわらい、せんだんの幹をはなし、「西島のどすけべ」とどなった。
「あいつはほんまにどすけべ、このまえの夏、ひずえの浄水場に行たら、そこで穴の中につっこんで、気持がようてしょうないとわらっとるんや」
城山の陣地にだれも来そうになかった。ジェイコブはそれ以上、動かずにじっとしていることは出来そうになくなってきた。
城山のやつらがこないのなら廃船の中に入ってめちゃくちゃに荒しまわるか、それとも山に戻って草すべりをし直すかだった。
汽笛が聞こえ、貨物列車が鉄橋の上に見えた。
廃船の底は水に浸されていた。
中の木は手で触るとぶよぶよ湿気て腐っていた。その腐った木のものとも水のものとも判別のつかないにおいがこもっていた。
光が入ってこない船室の底の黒い水に、漫画や食べもののかすがあった。
一段高くなった金だらいの置いてある床に、紙袋があった。女物の下着が詰っていた。
ジェイコブが年久にそのことを教えると、年久はすぐその紙袋を水のたまった船底にぶちまけた。
「あいつらのやりそうな事じゃ」と唾《つば》を吐いた。
白い花模様のついたパンティをつかみあげ、「シゲの姉さんもこんなのはいとるのか」と言い、シゲの顔の前につきだした。
シゲは手で振り払い、困ったように顔をしかめる。「あいつら街中からみんな盗んできたんやろ」
黒い水の中に捨てられた女物の下着は、水を吸って徐々に下に沈みはじめる。それはまるでここで三人に見られていることを解っている感じに見えた。
シゲは、船底の黒い水たまりにむかって、唾を音させて勢いよく吐いた。
中を探しても、ジェイコブたちが分捕ろうと思っていたナイフや、自転車チェーンはなく、漫画や雑誌しか出ては来ない。
甲板の上にある四角の穴から外をのぞいていた年久が、「来た、来た」と圧《お》し殺した低い声で言った。
四十過ぎの男が、道をすべり落ちないように足元を見ながら手招きをして、廃船の方へやってきた。
ジェイコブはその男が、市の補導員だと思った。
年久はその男のことを知ってでもいるように男にむかってわらい、それから男が廃船のすぐそばまで来たのを確かめてから、「おまえらみたいなウスノロのバイドク持ちにつかまってたまるかよ」と言い、ジェイコブとシゲに逃げようと合図した。
わけのわからないままジェイコブは年久とシゲの後について廃船の甲板からとびおり、繁華街に抜ける山の道を走り出した。
男ははっきりききとれないが、言葉を叫んでいた。
椎《しい》の木の若葉が道に重なりあっているところでジェイコブらは止った。
荒い息を吐きながら、わらった。
たしかに城山へ遠征に行った、とジェイコブは思った。分捕ってくるものは何もなかったが、確実に、遠征に行った証拠に、走って逃げ、荒い息を吐いている。
「あいつ」とジェイコブはまだ苦し気な息をしながら言った。「年久の知っとる人か? 年久の父さん?」
「あほか、あんなウスノロ」
「また山へ戻って草すべりするんやろ、なにいうてもあれが一番面白い」シゲが大人ぶった口調で言った。ジェイコブが訊《き》いていることをはぐらかすような言い方だった。
山は風が強かった。
ジェイコブは何もしたくなかった。ただけだるかった。
ジェイコブは草の上に坐《すわ》りこんだ。
風が一瞬なぎ、濃い粘り気のある山つづらのにおいがした。
不意にジェイコブは泣きわめいていた老婆を想いおこした。
なんで、死んだんなよ
それはいまとなっては遅い呪文《じゆもん》だった。
かわいもんよ、おおかわいもんよ
突然死んだ理由などどうでも良い。生きている人間は、突然死ぬ。ジェイコブは気づいた。
おおかわいもんよ、どしたんな、どして死んだりしたんな? どしたんなよ
老婆は白い布を貼った柩《ひつぎ》の板に手をかけ、体をもたせかけている。内側からくずれおちそうな体をやっと支えるように声をふるわせる。空いているしわだらけの右手で顔に流れ出た涙をせきとめるように眼をおさえる。
涙は山の草むらの中をとびはねているバッタを圧しつぶした時の体液のように茶色っぽくみえた。
それは不思議な光景だった。
ジェイコブは坐りこんだまま雲にさえぎられたためか急に柔かくなり薄くなった光を感じた。
息苦しかった。
下の町から犬の吠《ほ》える声がきこえてきた。杉の梢《こずえ》と棘《いばら》が重なりあったところから小鳥がとび出し、竹のしげみの横に落ちるようにとんで入った。光がゆっくりと固く透明になる。
「まだやらんのか」
シゲが言った。その言葉を合図のようにして、ジェイコブらはソリを持って崖《がけ》の出発点に並んだ。
風が吹き上ってくるたびにすきまなく崖に密生した枯れた草の葉は何度も何度も波を打った。黄金色の草の葉の内容物が吹きこぼれているのだった。眩《まぶ》しかった。
一番最初にジェイコブがすべりおりた。
光で眼が重く、痛んだ。三度、ジェイコブは波をまともにかぶった。
着地点に着くと年久がもうすべりおりはじめているのがみえた。
「ジェイコブ、ほれ、ほれ」とソリの手を離してバンザイする格好で年久はすべりおり、それから波がやって来たのを知るとあわてて体勢をたて直す。
その犬は死んでいた。もうけいれんもしなかった。
ジェイコブは涙を流した。昨夜からはじめての涙だった。
その涙の記憶が今、よみがえる。ジェイコブは自分はまだ死ぬ前にその犬がやっていたようにただ震えているだけだと、店の壁に伝わるドラムの音ベースの音を感じながら、思う。ジェイコブの横に坐ったキャスが顔をみている。この一か月ジェイコブはキャスにつきあった。キャスはジェイコブの眼が不思議な色に変ったと「何、考えてるのよ?」と瞳《ひとみ》の奥をのぞき込む。太腿《ふともも》に爪の先を赤くぬったぷっくり脂肪のついた手を置き、ジェイコブの性器に向って逆さに撫《な》ぜ上げた。
なにも考えていないと首を振った。ただ胸苦しいだけだった。ジェイコブはその胸苦しさが耐えられず、キャスのふっくらした手を自分の股間《こかん》に置いた。ジェイコブの前に坐っていたユキが、「また」と言い、二人とも便所へ行って済まして来いと言うように手を払うように振り、「おまえら臭いよ、豚みたいに」と顔をしかめた。キャスはそのユキの言葉を聴いてユキを煽《あお》るというように、ジェイコブの顔を両手で抱いてキスをする。
キャスの右手首に赤黄色くしみの浮き出した包帯があった。梅毒が手首に出たのではなく、かみそりで薄皮を切っただけの傷が薬をつけなかったために化膿《かのう》したのだった。キャスの舌が唇を割って入るとジェイコブはきまって勃起《ぼつき》する。ジェイコブはキャスから顔をはなして、店の客が二人をそれとなしに見ているのを気づいて照れながら、ユキにウィンクした。ユキは不思議な男だった。齢《とし》はジェイコブと同い齢の十九だったが、ジェイコブよりははるかに幼く見えた。ユキはアパートを持っていたが、ジェイコブ独りなら何日泊ってもかまわないが、女を連れてなら駄目だと言った。二時間も歩いて来たと言ってもユキは部屋の中に入れてくれなかった。
ユキがまたジェイコブに便所へ行ってやれ、と手を振る。キャスはそのユキに、「今度、見せてあげるからさ」と言い、肩に頭をもたせかけた。いつもしている髪のにおいはしなかった。
コルトレーンは吹きまくる。感傷などなかった。ユキはキャスの腐った女陰に鼻をつけ唇で吸い舌でなめる自分を想像した。赤い肉はただれている。裂かれ圧《お》し潰《つぶ》されそれでももぞもぞ動いている。
コルトレーンは呻《うめ》く。
キャスの仲間のケイコが店に入って来たので、ジェイコブはユキに誘われるまま店の外に出た。外は真夏の昼だった。
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アルトサックスの音が木のドアから外にもれていた。モダンジャズ喫茶店の前にジェイコブは一時立ったまま、そのアルトサックスが店の中からではなく、真夏の昼の日を浴びた白く乾いた道から聴こえてくる気がしていた。そのサックスは夏の日が道に当り撥《は》ねて震動する音だった。ジェイコブはそう思い、灰色の眼にあふれるほどの日の光を受けながらただつっ立ち、一緒に店を出たユキが通りの向うにある洋菓子屋からパンを二つ買って出てきて、ジェイコブに手をあげるのを見た。ユキがあげた手にも日の光が当って撥ね、音が立つ。藁《わら》のようなにおい、子供の頃かいだ犬の体臭のようなにおいの充満する夏の此処《ここ》の空気の中を、その音は震えながらジェイコブの耳に届く。
「ジェイコブ、ジェイコブ」
ユキが名前を呼ぶ。パンをひとつ自分で食い、ひとつを手に持ち犬にくれてやるように腕をつき出してそれを振る。そうしなければ光でいっぱいになって焦点が結ばないジェイコブの眼には映らないと思っているふうだった。ユキは食っていたパンを飲み込んでから、「いつも俺だけじゃないか」と言う。何を言ったのかわからない。だがジェイコブはそのユキの言葉を理解しようとも思わない。ユキの話し声がサックスの音の波に被《かぶ》さる管楽器の音の響きのように感じ、また自分が馬鹿げた妄想を考え始めたと、唾《つば》を吐く。ジャズ、ジャズ、ジェイコブはつぶやく。ジェイコブの耳も眼も、口も喉《のど》も、手も足も、すべてその為にある。世界はそれだけだ。ユキが、麻雀屋の裏路を抜けてきた吉と吉が連れた女に出くわし、パンを手でゴムボールをするようにこねくりまわしていた。吉の女が日を浴びてつっ立っているジェイコブを見て、手で、クスリを飲んだのかと仕種《しぐさ》をやり、ジェイコブが唾を吐くと、フンと顔をそむける。吉の女とは、吉が女を店に置いて麻雀に行っている隙に寝た事があった。ジェイコブは思い出す。その時も女は、「いつから、来てた?」と、ジェイコブが四六時中モダンジャズ喫茶店に入りびたりはじめたのはいつごろなのか不思議がった。そのモダンジャズ喫茶店は街のその界隈《かいわい》でも一種独特な店だと評判を取っていた。もっぱら街中で遊び暮らしているグレた若者らには知られた店だ、と女は言った。その事はユキも言った。
ユキはジェイコブの灰色の眼をのぞき込み、「マサって知ってる?」と訊《き》いた。ユキはその頃、ジェイコブよりもはるか年下の人間のような口のきき方だった。
「俺の連れだよ」ジェイコブは言った。マサという男を知らなかったがジェイコブが嘘をつくと、ユキは、それでジェイコブのふるまいを納得したと、「そうかあ」と一人でうなずいた。「マサの田舎の連れかァ」ユキはそう言って、ジェイコブに見すくめられるというように視線を下げ、素裸につけたワイシャツの襟元を見る。ジェイコブの首筋は垢《あか》で黒かったし、胸元も垢と埃《ほこり》でよごれていた。自分のアパートを引き払ってから風呂《ふろ》に入る事はめったになかった。
「俺が店に来た時、マサに面接されたんだから。何にも知らなかったから、普通のモダンジャズをやる喫茶店だと思って入ったら、マサが来てね、ちょっとお前、来いって奥の溜《たま》り場につれて行かれたんだよ。年いくつなんだ、名前はなんだって訊かれて、最初、ヤクザかな、と思ったけど」ユキは言い、マサがいかにその時の自分の眼には立派に映ったかと一人でしゃべりまくる。ジェイコブはその時ユキを見て随分幼い男だと思ったのだった。
ジェイコブは機嫌を悪くした吉の女をさらに煽るように唾を吐き、女の顔をみつめたままそれを足で踏み消してユキを呼んだ。吉がいまジェイコブに気づいたように手をあげて、「稼ぎはいいかよ」と訊く。ジェイコブは答えない。口の中に絶えずわきあがりたまる唾を白く乾いた道に吐く。そして、別にこれという当てがあるわけではなかったがジェイコブは歩き出す。ユキが後から走って来た。
「どうしたんだよ?」
ジェイコブは答えない。
「仲悪いんだな」とユキは溜息《ためいき》をつくように言った。ジェイコブはそのユキの顔をみ、 長い間思っていた事をいま切り出すというように金を貸してくれと言う。ジェイコブに金を貸すのはここのところユキ一人だった。ユキには合計二万ほどの借りがある。ジェイコブは焦点の定まらないような眼でユキをみつめた。ユキがその眼に見つめられ身動きがとれないように、ポケットから汗で湿気た千円札を一枚取り出した。その千円をポケットに入れ、千円あればキャスと二人で夜どおしジャズを聴くことが出来る、とジェイコブは思い、梅毒持ちのキャスにほれているのだろうかと苦笑した。おかしな女だった。或る時ケイコの事で喧嘩《けんか》になった。ケイコが二か月前に自分で堕胎して血まみれになったとキャスが言い、ジェイコブが、また嘘をつくと言うと、突然怒りはじめたのだった。いつでも死ねるとキャスは言い、ハンドバッグからカミソリを取り出して手首の皮を切ったのはその時だった。血よ、みて、血がでてきたのよ、と泣き声をあげた。
公園を抜け、連れ込み宿の並びを抜けると、線路沿いに道は続いていた。小学校の横の路地から先はバラックがかたまっていた。そのバラックの中を通ると、広場になる。子供らが野球をやっていた。子供らの声が空耳のようにジェイコブには聴こえる。広場の端と線路との間には、高い金網が張られていた。
キャスがリクエストした曲は後廻《あとまわ》しにしてジェイコブのリクエストしたアイラーを先にかけてやると、ボーイの君原は言った。その曲は不思議な曲だった。そのスピリチュアル・ユニティという曲を聴く度にアルバート・アイラーとはどんな男なのか、と思った。音ではなく音の芯《しん》だけの曲だった。コルトレーン、アーチー・シェップの曲と同等なくらい好きだった。音は魂であり、魂はうねり、震動する。その曲はクスリで濁ったジェイコブの頭には似合う。ボーイの君原がジェイコブの前に来て、「おまえだけだよな、こんなひねこびたのを注文するの」と言い、額に張ったバンソウコウを撫《な》ぜる。ジェイコブは君原に坐《すわ》れと言った。君原は店の支配人が見ていると、カウンターの方へもどっていった。
キャスがふくれっつらをしている。
キャスはハンドバッグをあけた。ジェイコブが見ているのを知らずに一人で錠剤を四粒、口の中に放り込む。水を飲んでから、ジェイコブに「ねえ、金あるからさ」と肩で体を押す。髪のにおいが鼻につく。
キャスの言っている事は判ったがジェイコブは動きたくなかった。ジェイコブは体にすり寄ったキャスの耳に、「金なんかそのうち腐るほど手に入れてやるから」という。自分の息が、アイラーの息の音のような気がする。店の奥で常連らは電話帳の頁をめくってオイチョカブをやっている。「あんなシケた金もうけしてもしょうがないからな。派手につかみとってやるよ」
「行こうよ」
キャスは顔を上げて、耳にこもったジャズの音を払い取るように頭を振り、ジェイコブの眼を見る。ジェイコブは笑う。ジェイコブの顔を見つめるキャスの眼が微《かす》かに緩んでいる。四粒の白い錠剤がキャスの胃の中で溶け始めているのだった。化粧をしていない顔がこころもち赧《あか》らみ浮いている。
「行こうよ」とまたキャスは言った。
ジェイコブは首を振った。アイラーのその音の芯だけのジャズを聴いていたかった。音の芯は直接耳から心臓を貫く。その針のようにとがった音の芯は心臓から血管に入り、ジェイコブの体そのものがジャズの共鳴板になっている。君原がカウンターから歩いて来てジェイコブの前に立ち、奥の席にたむろする常連をあごでさし、「勝っても負けても変りないのに、あいつら」と笑った。キャスはその君原につられて笑い顔をつくった。ジェイコブの耳に顔をよせて小声で「自分がいつもキタナク勝つくせにさ」とつぶやいた。キャスの左手が椅子の背を伝ってジェイコブの腰にまわり、とがった爪の先でジェイコブの脇腹をひっかく。それはキャスの癖だった。
そのキャスの声を耳にしたらしく、君原が、「そんなに毎日毎日ラリってて、あきないかよ?」と言った。
「何のんだというのよ。へんな事言わないでよ。ラリってなんかいないのに」
「ラリってるよ」君原は苦笑する。「この店でラリってるのは、昔ラリマリでいまはおまえだよ」そう言って君原は体をかがめジェイコブに内緒話をするように、「あいつほどじゃないけど、こいつは二代目だよ」と言い、顔をあげ何を言ったのかとジェイコブに訊くキャスにむかって、「おまえだってな、同じ事になるよ」と声をあげる。
キャスはジェイコブの体に胸を押しつける。「いいじゃないのよ」呂律《ろれつ》が廻らない。「二代目がなんだっていうのよ。ラリマリがどうしたのよ」キャスはそう言い、ジェイコブに小声で話しかけようとして舌がもつれ、ジェイコブがその様子を笑うと、いつもキスをする時そうするように顔を上げ小鼻をすぼめる。ジェイコブがからかうように唇をとがらせつき出すと、「バカア」とわらう。キスをしたいのではなく内緒話をしたいのだというようにジェイコブの耳をひっぱり、自分の顔に引きよせ、「あいつ、バイドク」と温い息を吹きかけて言う。「ケイコが言ってるよ、毎日バイドクの注射してるって」
音でかき消されキャスの言葉が聴こえなかったのか君原は頭の上で、渦巻きをつくった。アルバート・アイラーのジャケットを手に持ち、「ポックリ死んだってかまわないけどな。店の中でなしに、外で死んでくれよな」と君原は独りごちるように言う。睡眠薬ばかり飲んでいるマリ子、という意味の仇名《あだな》のラリマリが、店の中でその睡眠薬を飲み過ぎて死んだ話は、ユキに教わってジェイコブも知っていた。ユキが店に来はじめてすぐの頃だった。毎日ラリっていたし、ラリったまま眼を閉じている事もあったので、常連の誰も、奥の隅でおとなしく眼を閉じ壁に背を当ててジャズを聴きながら物思いに沈んだようなラリマリを不思議に思わなかった。クスリを飲み過ぎたと言ったが誰も自殺などとは言いもしなかった。自殺など大袈裟《おおげさ》だった。常連の誰もがラリマリが坐った姿勢のままではなくて、よくクスリを飲みすぎて意識がなくなった者がやるように椅子から転げ落ちるなり、肉の塊のように床に崩れていれば、気づき、救急車を呼んで、命は取りとめたはずだと言った。
アイラーはまだうねる。そのアイラーの音が耳を塞《ふさ》ぎ、自分がアイラーの音そのものになって床に肉のように崩れ転がり、床に散らばる石炭ガラ、土埃《つちぼこり》、店の装飾用に使った木屑《きくず》の上を這《は》いまわるのを経験しているのに、ジェイコブはキャスの吐く息の音を耳にしている。そのキャスの息の音は胸苦しさを感じさせた。ジェイコブがキャスの膝《ひざ》に手をのばしてゆっくりと顔をあげる。ハンドバッグの中からクスリを取り出し、そのまま人に気づかれぬようにタブレットをあけて口に入れ、噛《か》みくだく。
ジェイコブは水をのんだ。急に店の中が暗くなったように思った。しばらく待った。体がしびれきる前に小便しようと、立って便所に行く。奥でオイチョカブをやっていたユキがそのジェイコブを不安げにみて、立ちあがった。便所のドアをあけるジェイコブの体を抱きかかえるように、「何錠飲んだ?」と訊《き》く。「大丈夫さ」とジェイコブはわらう。
ドアを閉めようとするとユキが便所の中に入ってくる。「大丈夫だよ」と押し返そうとすると、「また、こんなところでブッ倒れるなよなァ」と言い、小便をはじめたジェイコブのふらふらする体を支え、「どうしようもないんだからな」と小声で言う。便所のドアを通してキャスのリクエストしたエルヴィン・ジョーンズがかかっている。「二人でラリってどうするんだよ」ユキが小声で言い、ジェイコブが顔をねじって訊き直すと、小便が便器からはずれ壁に当り撥《は》ねた。ユキがとんきょうな声をあげ、「梅毒のションベン、かかった」と言う。
「梅毒じゃないよ」
「キャスがおれに言ってたぜ、ジェイコブにつきあってて梅毒もらったって」ユキはわらう。「ジェイコブなんかと一緒に遊んでたら、俺も病気にかかってしまうってよ」
便所を出ると急に効いた。自由に体が動かなくなった。キャスは席にいなかった。ユキがジェイコブを席に坐らせた時、奥の席でテーブルが倒れ、いつもジェイコブやキャスにクスリを売っている頬に刀傷のある富さんが、久志を殴りつけるのが見えた。殴りかかろうとする久志に足払いをかける。久志は倒れ、壁に顔を打ちつけた。久志は顔を手でおおってうずくまる。富さんが言っている言葉はエルヴィン・ジョーンズにかき消されて聴こえない。「ばかだよ」ユキがジェイコブの耳につぶやく。「クスリだけ売ってりゃいいのに、いい齢《とし》してこんな店に来て、おまえらなってないって説教ばかりして」
ジェイコブは眼が痛くてたまらずに閉じる。
「みてみろよ、血だらけだよ」とユキの声が耳に聴こえる。ジェイコブは、眼を開けない。エルヴィン・ジョーンズ。「|重い音《ヘビイサウンド》」。キャスがこの曲をリクエストしたのはジェイコブに教えられての事だった。その曲を聴く度に、足首をくくられ木に猿のようにぶらさげられた赤ん坊を思い出す。それは映画のワンショットだった。それからその子供は棄てられて育ち、或る時、人を殺す。ジェイコブはジャズのドラムに合わせていた自分の呼吸が弱く細くなっていき、そのまま続けていれば空洞の自分の体の中にジャズがつまり、腕を切っても手首を切っても血ではなくジャズの音が流れ出して来るようになると思う。そう思い、ふと涙のようなものがわき出てくる。仲間の誰もが、染谷が死んだとき泣いた。ジェイコブは息が苦しいまま思い出す。その電報をジェイコブはユキの部屋で受け取った。その電報の中味が、都会の此処《ここ》で遊び暮らす者に関してのものなら、悲しみも苦しみも大っぴらに抱ける。ユキは電報を持って所在なくつっ立っているジェイコブに、「どうしたんだよ。坐《すわ》れよ」と言い、どこから電報が来たのかと訊く。ジェイコブが答えると、「よく俺の部屋にジェイコブが来ていると分かったな」と感心して、ステレオの音量をあげながら、「おまえんちのオフクロはESPを持ってるんじゃないのか」と言う。その時、ユキはエルヴィン・ジョーンズのこの曲をかけていた。ジェイコブは弁解口調で言った。「初めて手紙書いて、ここの住所を書いといたんだ。電報打ったのはオフクロじゃないな」その夜、電話して、その町で何が起ったのか初めて知ったのだった。姉が狂った。ジェイコブが子供の頃、兄が自殺したがその時からどのくらいの時間が積み重なったのか、とジェイコブは独りごちた。ジェイコブはユキの部屋から一人歩いた。当てもなく人影の途絶えた夜の中を自分の足音を聞きながら歩き廻《まわ》り、あの時から今まで流れ積み重なった時間のどこかに腐敗する菌がひそんでいると思いついた。ジェイコブが部屋に歩きつかれて戻ると、ユキが「どうしたんだよ、そんな顔して」と訊く。「メロン食べるか?」そう訊くユキに首を振る。ユキの部屋の台所に行き流しに首をつっ込んで水を飲んだ。ユキのステレオでいまいちどエルヴィン・ジョーンズをかけて音量をいっぱいにあげ、ヘッドホーンを耳に当てた。いま店の中で鳴っているのはそのエルヴィン・ジョーンズだった。音はジェイコブをどこから来たのか、一体齢は幾歳なのか分からない男にする。呼吸が苦しく、ジェイコブはその自分の体の様子から、あと一錠か二錠余計に飲んでいれば何度もそうやったように昏倒《こんとう》して救急車で病院に運ばれるはめになると知った。
ユキが久志に「馬鹿だよ」と言っている。「マサだってかなわなかったんだから」
キャスがケイコと一緒に店に戻ってきたのは深夜の一時だった。まだクスリは効いていた。眼の焦点が合わない。ユキがケイコの手に持ったハンドバッグの留め金を触り、「痛いぜ」と苦笑している。
「だからさ、思いっきりここが当るようにひっぱたいてやった。本当にしゃくだったんだから」
「ケイコが最初よ」キャスはわらう。
「いつもキャスと一緒の時、逆じゃない。キャスがアタマに来たと喧嘩《けんか》しても、わたしなんか、こんな人どこの人という顔してるけど、今日はわたしが、最初だから。あの子、きっと顔にミミズ脹《ば》れ出来てるよ」
「いいのよ、あんなブスは」
「今日はみんな荒れてるな」とユキが言う。ジェイコブはただ見ている。クスリを飲み、ジャズの音を体の中いっぱいに吸い込んだ今、キャスの昂《たかぶ》りもケイコのしゃべる言葉も興味がない。ジェイコブには一切合財興味はない。自分が十九の男である事も興味がない。ただ体がここにあるだけだった。キャスがその体だけのジェイコブの首を自分の肩に引き寄せてもたれかけさせ、ジェイコブの背中に手を廻し、「ねえ、何錠飲んだ?」と訊く。ジェイコブが答えないと、「一人だけで飲まないでよ」と言う。ジェイコブがうなずくように首を動かして唇をつき出すと、キャスはその唇に軽くキスをする。ボーイの君原がカウンターの方からそれを見ていたらしく、「ここは同伴喫茶じゃないぞ」と声をかけた。キャスはまたキスをし、「いいじゃない、可愛いじゃない、年下の男の子だもん」と言い、小声になった。「あんなのが一番いやだよ」キャスは自分の言葉がおかしかったらしく体をゆすって笑った。笑いがキャスの小さめの乳房の方から出てくるとジェイコブは思った。
店を出たのは四時を廻っていた。空が輝くほど深い群青《ぐんじよう》だった。色が都会の夏に少しずつ漂白されでもするように薄くなり始める。歩いていると鳥肌が立ち、ジェイコブはキャスの肩を抱いた。ユキが突然走り出し、その足音に驚いて道に降りて餌をついばんでいた雀が舞い上る。ユキは尻《しり》ポケットからハンチングを取り出して被り、ジェイコブとキャスが歩いているのをことさら珍しいというように見つめて、ジェイコブに「朝って不思議だな」と言う。追いついたジェイコブに「マサがよ、俺にそう言ったなあと思ったんだ」と言う。ジェイコブはまだ寒気がする。自分の体の周囲が氷粒でおおわれている、と思い、体の中にたまったクスリの毒をその氷粒で洗うように大きく息を吸い込む。耳の裏側でジャズが鳴っている。腹の中が熱い。
空が光っていた。その空からまた音のように光が落ちてくるはずだった。ユキが通りでタクシーに乗り、ジェイコブとキャスはそのまま公園まで歩いた。ジェイコブの耳に二人の足音が空耳のように響く。公園で二人はブランコに乗り、鉄棒にぶらさがった。ジェイコブはキャスの二倍ほどの背丈だった。ジェイコブはクスリで潰《つぶ》れた自分の頭の中にジャズの音が入り込んだまま出口を失って渦巻き鳴り続けているのを空耳に聴き、フレーズに合わせてスキャットしながら、キャスをみていた。キャスは鉄棒に尻上りしようとしていた。キャスは店の中とはまるっきり違う女の子に見える。
旅館を追い出されたのは昼の三時だった。ジェイコブはキャスよりも先に靴をはき日で蒸せた狭い通りに立ち、もう何年来も女とそうやって旅館に入り旅館を出たというように煙草を吸いながら立っていた。
「眼が痛いよ」
髪をかきあげながら歩いてくるキャスにジェイコブは言い、その声を合図にしたように腕をからめてくるキャスの腰に手を廻した。パンティをはいているのだろうか、と旅館の部屋の中で「よごれちゃってる」というキャスのけだるい声を思い出して腰の辺りを触ってみた。キャスはジェイコブに腰から太腿《ふともも》を触れられても気にしない。首を微《かす》かにジェイコブの体に寄せ、「後でケイコの家に電話してくれる?」と訊《き》く。「店に行ってから掛けてくれればいいからさ」
「めんどうくさいな」
ジェイコブは言う。キャスは怪訝《けげん》な顔でジェイコブを見る。
キャスと一緒にそのいつも行く店への近道をして神社の横を抜け、ビルとビルの隙間に出来た食物の腐ったにおいや冷房機の排出する日なたくさい熱風の吹く裏道を抜け、麻雀屋の裏に出た。そのジェイコブを一等先にみつけたのは白のシャツにことさらめだつように茶のワニ皮のバンドをした富さんだった。「また精勤だな」と言った。ジェイコブより少し遅れたキャスが小走りに駆けてくるのを見て、「今日も買うのか?」と訊く。
ジェイコブが返事をためらっていると、「買ってもらえよ」とキャスをみてあごをしゃくる。その富さんの素振りをみて、体が不意に熱くなり自分の眼が白く光る気がした。富さんの他に人は居なかった。ジャズが店の方から耳に届いた。ジェイコブは拳《こぶし》を握りしめた。
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そのジェイコブの顔をみて富さんは顔に笑いを浮かべた。道に撥《は》ねる日が眩《まぶ》しくて眼を細め、富さんは顔をこころもち傾《かし》げる。
キャスが背後から追いつき、ジェイコブの腕に手を触れた。一瞬、ジェイコブは海の底にいる気がした。ジェイコブの体から泡が立ち昇っていく。
富さんがジェイコブの腕に腕を巻きつけたキャスに、猫なで声で「幾つ欲しい?」と訊いた。
「金、持ってない」キャスは息切れした声で言った。
富さんは笑いを浮かべたまま、ポケットに手をつっ込む。まだ封を切っていないクスリの青いタブレットを取り出し、「差し入れしてやるよ」とキャスに渡した。
急に思いついたように訛《なまり》を使って、「おまえとは古いからな」と肩に手をかける。
ジェイコブはその手を払った。
「また、仕事を廻《まわ》してやるからよ」
「要《い》らねえよ」
ジェイコブは言った。
「今度、わたしら二人をモデルにしなよ」キャスが言った。
キャスはタブレットを包装したセロファン紙をむき「持っててよ」とジェイコブのポケットに入れた。「その辺りにウロウロしてる子なんかじゃなしに、わたしらみたいなさ、バイドク持ちのアベックの方がよっぽどいいよ」
富さんは全然話にならないと手を払う。
キャスが手伝った事はなかった。ジェイコブは一度だけ、エロ写真を撮る富さんの手伝いをした。その時、富さんの住むマンションの一室に行った。女をどこから連れて来たのか分からなかったが、ジェイコブは男役が来るまでの間、写真撮影の準備をしている富さんの代りに、青ざめて血の気がうせた女の介抱をした。弁当を買ってきたし、台所に立って湯をわかしコーヒーも入れた。女はなにもいらないと言い続けた。女がわざとらしく厚化粧し、衣裳《いしよう》を着はじめたのは、富さんが「しょうがねえな」と関西訛の声を出して差し出した女の腕に注射針をさし込んでからだった。それが何だったのか分からなかった。女は別人になった。
ジェイコブは、まだ笑いを浮かべている富さんの顔をみていた。
富さんの後から、松川が歩いてくる。
その松川の姿をみて、随分変ったと思った。ジェイコブにはその松川の変り様は不思議だった。丁度一年前、ジェイコブは、ふと思いついて、遊び暮らす仲間にかくれて新聞に募集広告のあった自動車工場の臨時工になって羽村という土地に行った。そこでジェイコブは松川に会ったのだった。
羽村は、遠かった。ジェイコブは思い出した。
キャスが「行こうよ」とジェイコブの腕を押す。ジェイコブは歩き出す。眩しくて眼が痛い。店の方に近づく度に、ドラムスの音が日の光の濃さを刻むように耳に響いてくる。松川が自分の後についてくるのを知り、ドアを開けるとそこは羽村だ、と思って、ドアを開けた。ドラムスとベースがドアを開けて薄暗い室内を見てつっ立っている背の高いジェイコブの体にかけより、刃のようにつき刺す。ジェイコブはまた自分がどこから来たか誰も知らない人間になったように思い、常連の誰が来ているのか確かめる事も出来ない焦点の定まらない眩《くら》んだ眼のまま席につく。ジャズは、眼が炎を上げて焼け切れてしまった魚のように暗いモダンジャズ喫茶店の中をてんでに撥ね廻っている。ボーイの君原にキャスが紅茶を注文する。ふと思いついてそのキャスに、「羽村って知ってるか?」と訊いた。ジェイコブの息が耳に当りくすぐったかったのか左肩をジェイコブの胸にこすりつけるようにして、キャスは「どこ?」と訊き返す。松川が、ジェイコブらの隣の席に坐《すわ》る。
羽村。そこまで電車を乗り継いでいく方法を知っていたが、羽村が地図のどこにあたるのかジェイコブは分からなかった。ジェイコブは何度かそういう経験はあったから、自動車工場の臨時工として手っとり早く金を稼ごうと寮に入るのも違和感はなかった。自動車工場の大きな独身寮は羽村の麦畑の中にあった。そのジェイコブが採用された時の臨時工らよりも一か月遅れて松川はやって来た。松川はジェイコブの眼にも随分|齢《とし》食ってみえた。独身寮の中で挨拶《あいさつ》を交わすようになっても互いにどこから来たのか、何をやっていたのか訊《たず》ねた事はなかった。それはその臨時工らの一等興味がある事かもしれないが、たとえ、人がジェイコブに訊いても、ジェイコブは答えなかったはずだった。羽村で、答える術《すべ》はない。ジェイコブは本当に自分がどこから来たのか、何をやっていたのか分からなかった。どこから来たのでもなにをやって来たのでもなく、ただその時は、海と山と川に閉じ込められたそこにかってに住み、十七歳からここにいるのだった。
ジェイコブに、羽村は汗の記憶だった。
夜中、ベルトコンベアに乗って流れてくる車体にバンパーをエアドリルで取りつけた。ラバーを張り、ライトを取りつけた。体が同じ動作を繰り返していた。汗が吹き出た。首筋からも額からも汗は出た。
ジャズが聴きたかった。休み毎に麦畑の道を駅に歩き、電車に乗ってモダンジャズ喫茶店のあるところに行った。
或る時、そいつがジェイコブに、「どこへ行っとるんだよ」とヘンな訛で訊いたので、ジェイコブは、モダンジャズを聴きに行っていると答えたのだった。それで休みにそいつを連れて行った。そいつがどういう順番を踏んでモダンジャズ喫茶店のその界隈《かいわい》で松川と呼ばれるようになったのかジェイコブには分からない。
ジャズが鳴っていた。
ジェイコブは想った。自分が盲目の魚になり喫茶店の中を走り廻っている。盲目の魚は盲目である分だけ肌に触れる音の振動や光の加減に敏《さと》かった。ひれを羽根のように動かしながらいったい敵がどっちの方向から来るのか見定めようとする小さな魚が、いま喫茶店の中を泳いでいる。それを隣に坐ったキャスに言おうとし顔を近づけたジェイコブに、キャスは「この曲っていやらしい」と言う。キャスは悪ぶっているのだった。「ぐちゃぐちゃしてて、わたしらみたいだよ」
ジェイコブは、自分がその盲目の魚のようにさながら何かにおびえたみたいに無鉄砲だと思った。
席を立ち、店の入口付近にある電話に歩いた。
ジェイコブは電話を掛けた。
ジェイコブがかけた電話番号は二本とも使われていない番号だった。テープに録音された女の声が、電話は使われていないと言った。それでジェイコブは、もう一つメモしておいた別の電話番号にかけた。
すぐ女が出た。
奥崎功はいないか? とジェイコブが訊《き》くと、ジャズの音が受話器に入り耳ざわりらしく何度もききなおし、女はつっけんどんな口調でそんな人はここにいないと言った。そうですか、と電話を切ってから、不意にそのつっけんどんな口調に腹立ち、脅迫電話でも掛けてやろうかと思ったが、やめた。キャスが自分の姿をみつめている気がして店の奥を振り返った。キャスも、隣の席の松川も見ていなかった。
音の洪水だった。
なにもかもが一切合財鳴り出していた。
一匹ゆっくり蛇がその音の中を這《は》ってゆく。「ジプシー」の冒頭部はベースを弓で引いているだけなのに楽器という楽器が鳴っている気がする。ボーイの君原がジェイコブにいい曲だろうと、カウンターの中から親指をつき出して合図した。
富さんが外から入ってきて店の中を一わたり見廻した。見知っているのがジェイコブとキャスだけなのを知り、「しょうがないやな」と独りごちる。ジェイコブが顔を上げてみつめる。
富さんは二人の前の椅子に浅く腰かける。ジプシーのに合わせて、ひざをとんとんと叩《たた》く。富さんの叩くリズムは、祭りの太鼓を叩く調子だった。
松川がその富さんに声を掛け、坐ったままズボンのポケットから金を取り出す。富さんは胸ポケットに入れていたタブレットを一箱手のひらで包みかくすように持ち、テーブルの下から松川に渡す。客は入口付近に二人連れの学生風しかいなかった。頬にある富さんの刃傷がしみったれてみえた。
「松川」
ジェイコブは言った。
「俺にも半分くれよな」
眉毛《まゆげ》の濃い松川は笑う。
松川はタブレットを開けて中の白い錠剤を手に受け、「半分やるよ」と差し出す。松川の腕に密生した毛が、気の弱さを表わしているとジェイコブは思い、富さんが呆《あき》れた顔をしているのをみながら、正確に五錠、手のひらから取る。キャスが、丁度松川との真中にはさまっているので、自分の眼の前に差し出された松川の手の中にあるクスリをみて、「いやねえ」と言う。キャスの手がまたジェイコブの太腿《ふともも》の上にあり指先でかりかりと生地をこすっていた。「こんなクスリばっかり呑《の》んでさ、皆、アタマどんどん悪くなっていくよ」
「もともと悪いだろ」富さんが言う。
「もともと悪いのはこの人よ」キャスはジェイコブの太腿を叩く。「何にも考えられないアタマだから」
「ここに来る連中はどうみたっていいと思えんな」富さんは言う。松川が五錠のクスリを一粒ずつ口に含み噛《か》みくだき、水を飲んでいるのをみながら、富さんは「何が楽しいんやらと思うな」と独り言のように言う。
松川が飲み終るのを待って、その五錠をジェイコブは一度に口に入れた。そのジェイコブをみてキャスは急に気づいたように、「何時?」と訊く。この店の常連で時計を持っているのは富さんしかいなかった。キャスは用事があるのだと立って、「夜、ここに来ててよ」とジェイコブに言う。
ジェイコブはうなずく。
松川を誘って外に出たのは、その金網を高く張った広場に行って夜までの時間を過ごそうと思ったからだった。体の中心が真空になっている。松川がいつその道を覚えたのか不思議だった。ユキと行った道筋よりもはるかに簡単だった。
小学校の横の路地を抜けるとバラックがかたまっている。松川が屈《かが》んで石をひろって、そのバラックに投げた。犬が吠《ほ》え出した。松川はクスリが効いているためにふらふらするのか、しゃがみ込むように膝《ひざ》を折って石をひろいあげ、ジェイコブの顔をみる。荒い息を吐きながら泡が立つように笑いをうかべる。
犬の声が間遠になった。松川は大きくモーションをつくり、投げる。石は見えなかった。バラックに打ち当る音も聞こえなかった。ただ犬が猛り狂って吠えた。
ジェイコブはその犬の声が幻聴のように思えた。つぎはぎだらけの板が白く乾き、屋根に張ったトタンがさびつき、だがそれも夏の日で白く乾いてみえる。そのバラック建ての家が、夢の中の建物のような気がした。ジェイコブは自分がここに立っている事、石を投げる者がそばにいる事が、そっくり夢の中の出来事だと思った。松川の息の音を耳にしたまま、遠い昔、これとそっくり同じ事があったような気がした。ジェイコブは、自分で石を投げたのだろうか、自分が、石を投げる者を見ていたのだろうか? と考えた。
石は家に当ったはずだった。
板壁の音が立ったはずだった。
ふと、記憶のようなものがよみがえる。石が空を飛ぶのは見えなかったが、驚くほど大きな音を立てて、みつめている眼のそばの板壁に石はぶち当り子供が思わず眼を閉じる。それは物が内側から爆発するような音だった。ジェイコブはそのバラック建ての向うに、そんな子供がいる気がした。
ジェイコブは、昔、雑草をソリで滑りおりた小高い山を城山とは反対側に抜ける新道と呼ばれる道端に、そんなバラック建ての小屋が一つあったのを思い出した。その小屋に女とジェイコブらと同じ年格好の子供が住んでいた。女の顔はむくみ脹《ふく》れあがり、いつも蓬髪《ほうはつ》だった。誰から聞きつけたのか、女の顔がぶよぶよと脹れているのも埃《ほこり》だらけの男の子の顔や手足に、じくじく膿《うみ》を持つかさが出来ているのも一家でかかったバイドクのせいだと言い出した。
その新道を通る度にジェイコブらは石を投げた。
女の金切り声が、石の音と一緒にいつも立った。
或る時、一緒にいままで遊んだ事のなかった男の子が、草すべりの崖《がけ》にガチョウの雛《ひな》を両手で翼を広げて持って来た事があった。かさだらけの男の子は、ガチョウの雛だがいまごろから訓練させると翔《と》ぶようになる、と確信ありげに言った。雛は弱っていた。男の子は、ジェイコブらの見ている前で、雛を空に放り投げた。雛は短い羽根が生えたばかりの翼をパタパタさせて、地面に落ちた。脚の骨が折れているらしく雛は立てなかった。
その雛を草すべりの崖の上から、空に向って放り投げたのは年久だった。石のように風を切って雛はとび、石のように崖下に落ちた。
かさだらけの男の子はわらっていた。
ジェイコブは、犬の吠え声がするそのバラックの一群の中に、その子供がいる気がした。
ジェイコブは石を拾った。
石を放ったが、物に当る音がしなかった。ただ犬が吠えた。犬の声がバラックの家の奥の方から聞こえ、そこから見える広場の高い金網の方にまわった。ジェイコブの眼に赤茶けた犬がこちらに牙《きば》をむいて吠えているのがみえる。肥った女が、運搬車をたてかけたドラム缶の横にいる。
松川が、「また出て来た」と言った。
「あの女は気色悪いんだよ」
松川は唾《つば》を吐き、「犬からかうやつはみんな自分に気があるんだと思ってるからな」と、ジェイコブのそばに顔をよせてうちあけるように「泊めてもらった事あるけどな」と言う。
「狂ってるんだな」ジェイコブは言った。
松川はジェイコブをみる。「イロキチガイ」と言う。「たまに夜になると客をひろいに行くって」松川は言い、笑いをうかべる。眼が細くなり、口元がゆるんだしまりのない笑いがその女よりジェイコブには気色悪い。
ジェイコブが歩いていくと、女は石を投げられ煽《あお》られて吠えつづける犬を呼ぶ。女の顔をはっきりみようと速足になると、「おいで。来るんだよ」と犬に強く言い、傾いた屋根のバラックに入った。
ジェイコブが家の前に来たのを知って女は舌打ちし唾をはいた。ジェイコブも唾を吐いた。トランジスタラジオのものらしい薄っぺらい音で歌謡曲が聞こえていた。犬がまだ吠えていた。松川がのろのろ歩いてくる。
広場に、誰もいなかった。線路との境に張った高い金網のむこうに、まっ青な空があった。
九時になってもキャスがその店にやってこなかったのでジェイコブはポケットに入れてあったタブレットを取り出し、錠剤を全部手のひらの上に受け、一度に飲み込んだ。唾液《だえき》が口の中にわきあがる。十錠ほど飲んだところで、脳が破壊されるわけでもないし、意識が混濁してしまう事もないのを、ジェイコブは知っていた。脳が潰《つぶ》れても意識が喪《な》くなり昏倒《こんとう》したところでどうという事はなかった。ハンチングを被《かぶ》ったユキがジェイコブを見て、また飲んだのか、と手で仕種《しぐさ》をつくり、ジェイコブがうなずくと、足をそろえて投げ出し、椅子をジャズに合わせてカタカタゆすりはじめる。鳴っているのはジェイコブの好きな曲ではなかった。退屈だった。
ユキに出ようとジェイコブは言った。
ユキは立ちあがったジェイコブをみて、「金持ってないんだろ」と独りごちるように言った。ユキの部屋へ行く為に、タクシーに乗ろうとする頃から、十錠のクスリは効き始め、部屋に着いた時は、すっかり呂律《ろれつ》が廻《まわ》らず、体の中心が抜けてしまったように思ったとおり動かず、ジェイコブは、部屋の壁を背にして、板間に身を屈めてうずくまっていた。眼をあけると北向きの壁に架けてある大きな裸婦のデッサン画の線が、ばらばらにほどけてみえた。ユキがステレオにまたエルヴィン・ジョーンズをかけ、音量をいっぱいにあげるのを耳にし、ジェイコブはいつモダンジャズ喫茶店からこのユキの部屋に移ったのだろうと思い、その時間の脈絡が解けないままめんどうくさくてやめた。紙に絵を描いているユキに、エルヴィン・ジョーンズはいいなと言おうとして言葉にならず、ジェイコブはそれも止めた。電話のベルが鳴る。ユキが、手短かに答え、
「キャスが来るってよ」
とジェイコブに大声を立てた。電話を音させて切り、「あいつは嫌だよ。自分の家があるのに、いつもここに棲《す》みつこうと思うから」とジェイコブに言う。ユキの顔の輪郭も崩れてみえ、そのユキにケチケチするな、と言う。声は喉元《のどもと》で詰まったままで言葉にならない。まぶたの内側に熱がある。ユキはエルヴィン・ジョーンズの音量を下げた。
キャスが来たのがそれからすぐだったのか、しばらく経ってからなのか分からない。キャスはケイコを連れていた。ケイコは部屋に入るなり、着ていた上着を脱ぎ、ステレオの横に置いてある鉢植えの観葉植物の上に放り投げた。ユキが「やめてくれよな」とその上着を取り、ケイコに渡す。
「富さんも一緒に来たいと言ってたけど、断っちゃったよ。ユキが自分の部屋に入れるのは選んでるんだからって」
ケイコはそう言って、上着を丸めて、ユキが人が泊るときまってベッド代りに使っているサンデッキに放り投げる。そのサンデッキの向うにユキの本当のベッドがある。床に本が五冊ほど散らかっていた。ジェイコブは眼をこらしてその本の題を読もうとした。眼の焦点が合わず、題を読まなくとも、本を買うユキに付きあった事があるのでそれらがジャズメンの伝記か絵の解説書だというのは想像出来ると思って、止めた。一度ユキに訊《たず》ねた事があった。「昔はジェイコブなんか知らない本ばっかり読んでいた事があったな。バクーニンとかな。それだって面白いけど、マイルス・デビスの事知る方がなんとなくカッコいいじゃないか」ユキはそう言った。ジェイコブがバクーニンというのは何だ? と訊ねると、無政府主義の思想家だよと言い、諳《そら》んじているらしい一節を説明した。
「バカバカしい」ジェイコブは言った。
「俺も、バカバカしい気して」ユキは言った。ユキはその時、ジェイコブにそう前置きして、自分が軍需品を生産している企業の社長の息子だと言った。信用できないと言うと「俺だってそんなのがいやだからこうやってるよ」とクスリをのむ仕種をする。その時、吉がユキの後から左巻きだとジェイコブに合図を送ってよこしたのだった。ユキの父親が大企業の社長である話が本当か嘘なのか確かめた事はなかったが、ジェイコブの眼からみればユキはいつも金をもっていた。
キャスが床にうずくまったままのジェイコブにコーラを渡した。ケイコが、「一人で飲めないって顔してるから口うつしで、飲ませてやりなよ」とキャスに言う。キャスはジェイコブの前にかがみ、コーラを口にふくんで唇をつき出す。ジェイコブはその唇に唇を合わせる。ジェイコブがキャスの唇にいきなり舌をつっ込んだためにコーラがたらたらと二人の唇の間からもれた。ジェイコブの眼に、ケイコがコーラの缶を持ったままステレオにもたれて、ヘッドホーンをつけているユキの顔をみているのがわかった。キャスが唇を離し、胸にジェイコブの顔を埋めさせるように抱き、ジェイコブが髪と顔でこすると笑った。
ケイコがユキのヘッドホーンを引き抜き、ステレオのボリュームをいっぱいに上げた。
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ユキがあわててステレオのボリュームを落とし、ケイコに怒鳴ろうとしてふと口をつぐむ。ジェイコブにはそのユキの狼狽《ろうばい》ぶりが面白かった。
「ちょっとぐらい音が大きくてもいいじゃない」
ケイコは開けた窓からベランダに出て、外から、「何にも見えない」と言う。
「ここから見えるの木ばかりよ。木がいっぱいあるなあ。何の木だろう、いやになってくるくらい木ばっかりよ」
ケイコがベランダの手すりからコーラの缶を棄《す》てて、ヘッドホーンを耳に当てたままのユキを見ながら「下を歩いている人に当れば面白かったけど。駄目だ」キャスがうずくまったままのジェイコブを脇から体に手をのばして支えて、そのケイコに、「あれを上げたら」と右手でクスリを飲む仕種をする。
ケイコは両手をひろげ、
「ないよ」と言う。
「さっき、ジルに、持ってたの、みんなやったもの」それからケイコはキャスの前に立ち、「ジルって馬鹿よお」と言う。キャスがヘッドホーンをつけてステレオの前に坐《すわ》り込んでいるユキをあごでさすと、「あいつ、へんだから」と小声になる。「わたしが話しても知らん顔して。あいつ、女よりジェイコブとかマサとかそんなのが好きなタイプよ」
おかしいね、とキャスが小声で言い、わらう。ケイコはジェイコブとキャスの前に股《また》を開いて男のようにアグラをかいて坐る。
「ジルがもうきちんと坐ってられないくらいだったのに、持ってるのくれって言うの。何錠ぐらい飲んだのってそばにいる女の子に訊《き》いたの。あの子もいいタマよ、自分が一緒にいるのに二十錠ぐらいじゃないって言うの。十錠、わたしは持っていたからさ。十錠みんなやると、ジルが飲むのは三十錠でしょ。ラリハイ三十錠だったら、あいつ死ぬよ。くれ、くれ、と言うから、駄目よ、あんまり飲むと死んじゃうよ、と言ったら、この間、二階から頭からまっさかさまにとび降りたけど死ななかったから大丈夫だというの。本当? と訊いたら、ほんと、と女の子が言うの。ジルに、ジル、何錠飲んだの? って訊いたら、五錠って。五錠じゃないよ。呂律廻《ろれつまわ》らなくってヨレヨレで、ゴゴゴゴジジジジジョウって言ってるのに。何錠持ってるんだ、くれくれって、しつこいの。ケイコ、昔、ジルとアったじゃない。ジル、いまでも好きよ。弱味にぎられている感じだから。けど、一緒にいる女の子が憎らしくなって、アタマに来て、ジルに十錠持ってるわよ、と言ったの。ジル、みんなあげるからここでケイコの見てる前で飲んでよ。あいつ、うんと言って、十錠、ポリポリかじって水でひとのみ。合計三十錠。いまごろ、胃洗ってるか、死んでるかね」
「死んでるよ」
ジェイコブが言う。
「死んだって変りゃしないよ」
ジェイコブはケイコの顔をみる。
ユキがヘッドホーンを耳にはめたまま歩いて台所の流しに立ち、冷蔵庫をあける。その冷蔵庫の中に一時、マリファナや覚醒剤《かくせいざい》の類が入っていた事があった。ユキは冷蔵庫の中を身を屈《かが》めてのぞき込み、ビンの音をたてて、トマトジュースを取り出す。
ユキが音のボリュームをあげた。
ジェイコブはいつもそうだった。ジェイコブは自分の眼に光も色も入り込まないと思った。ジェイコブの眼はただユキや、キャスを映しているだけだ。いつか、ジェイコブの遠縁に当る内村という配管工務店に遊びに行った時、内村の女房が、「白眼に全然濁りがないのねえ」と言った事があったが、ジェイコブは濁りがないのではなく、ただ眼の白い部分が広いのだと思っていた。
ユキが自分の寝室の横に置いてあったサンデッキをひき出し、それに身をよこたえた。ケイコが、そのユキの横に坐り、「ユキなんかこんないい部屋で、お金あって、いろんな事、出来るからおもしろいでしょ」と言い、ユキにステレオの上に置いてあったトマトジュースの缶を取り手渡した。ユキが、「くだらない」と言い、着ていた白の綿のシャツを脱ぐ。
ユキの脇腹に大きな傷痕《きずあと》がある。
ジェイコブはキャスの手を性器のうえに置いた。ジェイコブはキャスの髪につけた香油のにおいをかぎ、息をつめ、キャスの着ているブラウスの上から乳房にふれた。クスリの効き目がまだ頬のあたりに残っていた。キャスの舌がジェイコブの舌をこすり、いつもキスの時するようにジェイコブは唇でキャスの唇をおおった。キャスは力を込めてこすりつける。ジェイコブがキャスのブラウスをとろうとすると、キャスはキスをしたまま、いやと首を振った。顔をあげると、ケイコが、真顔で見ている。ユキはヘッドホーンをつけたまま背中をみせている。
ケイコも来いよ、とジェイコブは言った。キャスはブラウスのボタンをはずした。キャスの乳房はジェイコブの手の中にちょうどおさまるくらいの大きさだった。乳首が固かった。その乳房に手をふれ乳首を指でつまむとキャスはそうされる事が嫌でたまらないと身をふり、ズボンの上から触れていたジェイコブの性器から手を離し、ジェイコブの頭を抱える。ケイコが立ちあがり、洗面所のドアをあけた。ジェイコブはキャスの乳首を口で吸い、ふと思いついて「おまえも来いよ」とユキに言った。キャスは、いやよと言う。ユキがふりかえる。ユキは二人をみつめ、立ちあがった。「シャワーあびるよ」
ユキと入れ替えにケイコが出てきた。ケイコはサンデッキにおいていたユキのヘッドホーンを抜き、コードをくるくる巻いて、あけた窓からベランダに放る。ベランダの手すりに当る音は立たなかった。「落ちちゃった」とケイコは苦笑を浮かべ、レコードを替え、ミンガスをかける。「さわんないでくれよ」と、洗面所のドアをあけてユキが顔を出して言った。ユキがバスタオルをまいてまだ水滴のついた体のままステレオをとめた。
ジェイコブは服を脱いだ。キャスはジェイコブの腹にはえた毛にくちづけた。ユキが背中をむけたまま濡《ぬ》れた裸に下着をつけ、シャツを着、ズボンをはく。「来いよ」とジェイコブは言った。ユキがふりむく。ジェイコブの勃起《ぼつき》した性器にキャスが、富さんがみせてくれたブルーフィルムそっくりに赤い舌をはわせている。キャスはユキとケイコにみせるだけの為のように、顔に被《かぶ》さる髪をかきあげながら性器をなめる。ジェイコブはキャスの女陰を触りたかった。ケイコが、「おもしろくないな」と独りごちるように言う。
「ユキなんかジェイコブだけにしか興味ないしさ。あの子、ここへ連れてくるんだったよ」
「ユキ」
ジェイコブは呼んだ。
「バイドクのケイコとやれよ」
ユキは、ジェイコブの眼をみる。不思議な男だ、とジェイコブは思った。いつも行くモダンジャズ喫茶店の常連の中でユキほど金をもっている者は他にいなかった。だが、ユキが何に興味あるのかジェイコブにはわからなかった。ジェイコブは自分の借りていた部屋を追い出されて、ユキの部屋に泊りはじめて以来、ユキが女を連れて来る事もなかったし、ユキがマサのようにホモのそぶりをした事もない。ジェイコブはユキに言わなかった。マサが女と同棲《どうせい》していた部屋にジェイコブが泊るたびに、マサはまといついた。マサはジェイコブが、弟のようだと言った。ジェイコブはマサに性器をなぶられ射精させられても、マサの部屋で、互いに女を連れ込んで姦《や》っていたので、不快感はなかった。いや、マサが「帰ろうぜ」とジェイコブに言い、部屋まで一緒に歩いていく間にマサの手や唇の感触を思い出し勃起していた事もあった。ユキにそれは秘密だった。ジェイコブはキャスが言うようにユキが女に興味がないのは、ユキがホモだからでは決してないと思っていた。ただユキがホモであっても一向にかまわなかった。ジェイコブに必要なのは、さしあたって、寝る部屋と食うところだった。ジェイコブにはいま何もない。ユキがそのジェイコブをみている。
ケイコがユキの体に触る。ユキは「よしてくれよ」と身ぶるいした。ジェイコブはこれみよがしにキャスの服を脱がせた。乳房を手でもんだ。二人にみせるように大きく股を広げさせ、勃起した性器を女陰に入れるジェイコブをユキはみている。
そのユキの部屋からキャスとケイコが帰ったのは朝の十時だった。ジェイコブもユキをさそって外へ出た。電車道のそばに坂があった。ユキは、ハンチングを被り、坂をジェイコブの後からのろのろ歩いてくる。二人の女と姦ったのはジェイコブだけだった。朝の日は、濃かった。ユキがケイコとキスくらいはしたかもしれないと思った。コンクリートの電柱の角から子供が一人、走り出て来、ジェイコブの体にうち当る。子供は坂を駆け上る。ジェイコブはその子供の後姿をみながら、自分がまた、そこからここへ出て来ていると思い、板と板のすき間から石が当る度に眼を閉じながら、外をみている子供を想像した。ユキが後から、「はやく行ったって、どうしようもないだろうよ」と言う。
「いいんだよ」
ユキはうんざりしたように、
「金、ふんだくって来なくちゃならんのだからな」と言い、立ちどまったジェイコブに追いつく。「あるところからふんだくってやるのは当り前だから」とジェイコブの肩に手をかける。「金、出さないって言うなら、バズーカ砲でもぶち込んでやるよ。なあ。こっちがもう手を引いてやってるんだから」
ユキは言う。
「一緒にぶち込んでやるよ」
ジェイコブは言った。
ジェイコブは、いま自分の眼の前の板壁に石が思いっきりうち当ったと想像し、眼を閉じた。
ユキがいつも言うそのユキの親兄弟にジェイコブは何のうらみもこだわりもなかったが、ユキがもし思いついて言うように機関銃を乱射したり、爆弾を破裂させる気があるのなら手伝ってもよかった。ユキは計画はしていた。ユキの一家が関わる大企業のビルの図面をこまかくつくり、どことどこに何キロのダイナマイトをセットすれば、ビルとそのビルに働く人間を、映画のように吹きとばす事が出来るか。ユキは図面をみせた。ユキはしなだれかかるようにジェイコブの首に手を廻《まわ》し、「簡単だよ。爆弾用意するのだって簡単だし、運ぶのだって、二人ありゃあ出来るよ」と言った。ユキはジェイコブの耳元に口を寄せ、唇をくっつけるようにして言った。「世の中に要《い》らない人間ばかりつまっているビルだぜ。あいつらが要る理由なんか何もありゃしないぜ。毎日、毎日、ネクタイして背広着て、金もうけだけを考えてるんだろ。人間じゃないよ。人間だっていいけど、よっぽど整理した方がいいよ。自分らをあいつらエリートと思っているらしいけど、エリートはあいつらじゃないよ。クズにしかすぎんのだから」ユキは言う。「家へ帰って、オマンコして、会社へ行って金もうけ考えて。その金もうけだって、誰かを泣かせているんだろ。いない方がましさ。いない方が、世の中の為だよ。ダイナマイト二百本あればあのビルごと、消せるよ」
ユキは言った。
「機関銃が手に入るのか?」
「入る」
ユキは息のような声を出す。
ジェイコブは、日が燃えている坂をみながら、その坂が一瞬、炎のように草が起きあがり風にゆれるのを想像した。子供が一人、自転車に乗って坂を下りてくる。
電車道を横切って通りに出た。タクシーはすぐ来た。ユキはタクシーに乗り込み、行先を言った。
「俺、一人で話つけてくるから喫茶店で待ってて欲しいんだ」
ジェイコブはそのユキの口調にある切迫感をわからなかった。
降りたのは通りを一つ入ったパーマ屋の前だった。ユキはジェイコブにそことあごで教えた。鉄の扉のついた門にあるベルを押して「幸広です」と丁寧な言い方をした。門の向うに樹が茂り、塀をのぞき込んでも奥にある建物を目かくししている。中から鍵《かぎ》をあけて女が笑顔で出て来た。
ユキの顔がその笑いにつられるようにほころび、「電話かかってきたから」と女に言う。女は後に立っているジェイコブに会釈をひとつし、ユキを中に入れ、扉を閉める。ユキが待っていてくれと言ったのはパーマ屋の横にある喫茶店だった。
ジェイコブはユキの家の前で、しゃがんで待った。足首が痛くなり、尻《しり》をおろした。ジェイコブがそこに坐《すわ》っている事を不思議に思うらしく、通る人ごとにジェイコブをみる。あまりに静かすぎ、眼が眩《くら》む気がした。いや、ジェイコブは、ユキの閉ざした門の扉を見つめ、ユキがその家から出て来るのを待ちながら、バズーカ砲をうち込み、機関銃を乱射してやると思うユキの気持ちがわかる気がした。門の白壁が無愛想すぎる。鉄の門扉も無愛想すぎる。ジェイコブは思った。ジェイコブは坐ったまま石をひろって門の中に放り投げた。音が聞こえなかった。
ジェイコブは立ちあがった。
手で尻をはらってから、夏の日が当っている道を見た。道に陽炎《かげろう》ではなくソリで滑った崖《がけ》のように草がいちどに起きあがっている。ジェイコブは手をはたき、ジョン・コルトレーンの「オレ」をスキャットした。ジェイコブはスキャットしながら、その山の、新道にあった小屋に住んでいたバイドクの一家は、ジプシーだったかもしれない、と思った。
脚の折れた雛《ひな》は潰《つぶ》れて死んでいた。
かさぶたの子はそれを無造作にポケットに入れた。
そのかさぶたの子をみかけたのは、駅の横にある食堂だった。ジェイコブは年久と二人でラーメンを食いに行った。その金は、年久と一緒に山の反対側にあった電力会社の倉庫から電線の束を盗んで、ゴムを焼き棄て銅だけにして売った金だった。年久はその時も古物屋の親爺《おやじ》に噛《か》みついたが、親爺は取り合わなかった。親爺がジェイコブと年久の足元を見透かしている事を知っていた。猛が仲間に入る時もあったが、養護院に入れられ学校へ行かなかった年久の手引きで、放送局の倉庫からコードの束を盗みだしたり、人気のないところで溝にむきだしになったままの水道管を二人がかりでノコギリで切り盗った。水は吹き出た。古物屋の親爺はどんなに銅や鉛の量が多くても、「六十円やの」と言った。ラーメンを二杯食えば終りだった。かさぶたの子は、ラーメンを食い、百円札を出した。ジェイコブも年久も驚いた。後をつけた。新道へ抜ける道の小屋の中にもどったかさぶたの子を、なるたけ息を吸わないようにして呼びだし、出て来たかさぶたの子に、
「警察がさがしとる」
「どうしてよ?」
「警察がみつけたらすぐ教えてくれと言うとる」
ジェイコブが言うと、年久が、「養護院の先生がお前をもうこれ以上放っとくわけに行かんと言うて、収容せんならんと、さっきも自転車に乗ってさがしまわっとるのにおうた。学校も行かんと、悪い事して」とつけ加える。「残りの金、返したら、許したるが、と言うとったけど、いくらある?」
金など持っていないと言った。
「おれらまでにも嘘つくんやな。嘘ついてもしょうない」
ジェイコブは言った。
かさぶたの子はそれでも持っていないと言った。年久は、殴ろうとするが殴ると梅毒がうつると思っているらしく、拳《こぶし》を固めたままだった。ジェイコブが後から足で尻を蹴《け》り、小屋の前から、山の草すべりの崖にかさぶたの子を追い立てた。ジェイコブが思いつき、年久もそれに見ならって、雑木の枝を折って手に持った。
「いくら盗んだ?」
年久が言った。
「盗まんよ」
年久は木の枝で頭を殴った。頭を手でかかえた隙に、年久は腹を殴る。
かさぶたの子は泣き出した。
「いくら残っとる?」ジェイコブが訊《き》くと七十円と答える。年久がその七十円を受け取った。ジェイコブが草すべりするその崖から、かさぶたの子を突いた。かさぶたの子はジェイコブの手にしがみつき、一瞬、梅毒がうつると思ったジェイコブが手を払ったので、後むきに、崖から、転げ落ちた。草の上をかさぶたの子は石のように落ちていく。山の反対側にむかって走りながら自分の走る足よりもはやく山に生えた雑草が日に葉を光らせながら身を起すようにみえた。コルトレーンのサックスは、その時のかさぶたの子の手の感触に似ていた。ジェイコブはみる。いまにも日を浴びた光るアスファルトがその時の山のように草でおおわれる気がした。コルトレーンは草の崖に転がり、草の葉が膿《うみ》をもったかさぶたの顔や腕に食い込んでつけた跡を舌でなめるように吹いている。ジェイコブはそのアスファルトも門も吹きとぶ爆弾の破裂を、想像した。いや、ユキとジェイコブに機関銃を乱射されて、肉が飛び血まみれになってうめくユキの親兄弟を、想像した。
「ここにいたのか」
ユキが言った。笑いが浮かんでいた。ジェイコブが見つめると、笑いは消えた。ユキはシャツを着替えていた。ユキはそのシャツの胸ポケットからあらかじめ用意していたというように折りたたんだ一万円札を一枚取り出し、「やるよ」と言う。ジェイコブは無言のまま受け取る。
モダンジャズ喫茶店の前に吉がいた。吉はジェイコブの顔をみるなり、「麻雀をやらないかよ」と訊いた。「店にいってチンケなメクリやるより面白いぞ」
「誰かいるか?」
「今日は休みだってよ」吉はわらい、自分の言った事が気に入ったと、ポケットに手を入れ体をそらしながら「学校へ出てきたのはジェイコブとオイラだけよ」と言う。「ズル休みの名人だろ、おまえも」
「オマンコ大学だろ」
「ヒモ大学」吉は足で、モダンジャズ喫茶店の看板をキックボクシングで蹴る真似をする。「今日のヒモ大学は、俺とお前だけだよ。一人だけ珍しいまじめな奴がいるけどよ。くそまじめな奴」
「ユキか?」
「あいつは休みだよ」吉は今度は店の壁に蹴りかかる。「この間からキックボクシングやってるやつ来てるの知らないか」
ジェイコブは首を振った。ジェイコブが店のドアを開けようとすると、「そのうち、お前をやってやるよ」と言い、ジェイコブが振り返ると、吉は唾《つば》を吐く。ジェイコブは吉に吉の女と姦《や》った事を知られたと思った。吉はジェイコブと比べても背丈は変らなかったが、ジェイコブの方がはるかに筋肉がついていた。「いいぜ、そのうちな」と、ジェイコブは言った。
ドアを開けた。
一瞬にジャズのトランペットの音が耳の穴から入り込み、真空の胸の中を駆け抜けるのを知りながら、ジェイコブは自分の背中が日に当り炎をたてがみのように上げていると思った。ボーイの君原がカウンターの中から、おうと声を掛ける。
「朝、あいつら二人で来てたぞ。喧嘩《けんか》してやがんの」
君原はコーラを二本取り出して栓を抜き、カウンターに置く。砕いた氷の入ったグラスが二個。
ジェイコブは察しがついた。明け方、キャスが寝込んでいたので、またケイコと二人で乳くりあっていた。キャスはそのうち眼をさましたが、眠ったふりをしていたらしかった。そのキャスを起さないようにジェイコブの手が乳房にのびる度に、声を殺してわらい、身をよじって逃げていたが、ジェイコブが体をくっつけ、ケイコの腕を取り自分の胸に廻《まわ》さすと、ケイコはおとなしくなった。乳首を指ではさんでいると声をあげはじめた。いきなりキャスが、ジェイコブの腕を噛んだ。今度はケイコが眠ったふりをした。
「二人でおまえの悪口言ってたよ。おれが、だからあんなラリッパなんか相手にしないで、おれとつきあえばいいって言うと、あの二人、俺を殺してやろうか、とすごむの」
「ユキ、来たかい?」
君原は、いや、と言い、思い出したように「あいつ、たずねてくるの、このごろ多いな」と言う。「だいたいヨレヨレの奴だけど」君原はレコードを替える。ドラムが響く。一斉にベースとサックスが入る。あまり好きな曲ではなかった。ふと思いついて、ジェイコブはカウンターの脇にある赤電話から電話をかける。女の声がし、ジェイコブは挨拶《あいさつ》の言葉もなしに「高木直一郎を出して下さい」と言った。高木ですか、高木は只今《ただいま》、出張しておりますが、と女の声を耳にしてジェイコブは電話を切る。高木直一郎は母の腹違いの兄、ジェイコブからは母方の伯父《おじ》に当った。むらむらと腹が立った。ジェイコブはジャズを耳いっぱいに聞きながら光を遮ったために薄暗い店の中を、一等奥の常連らの溜《たま》り場に行った。喉《のど》の奥に腹立ちがつまっている。こんな時は、アイラーのむちゃくちゃな曲がいい。
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ジェイコブは、一等奥の常連らの溜り場になっている席に坐《すわ》った。音がそこでは渦巻いている。そのジャズを耳にしていると音がジェイコブの眼の細胞のひとつひとつにこびりつき、眼がその音の重さでひび割れ、眼の形そのものの空洞が顔に出来てしまう気がした。バズーカ砲を、高木直一郎の家にもぶち込んでやる。
ジェイコブはその家の経営するアパートに一時、いたのだった。モダンジャズ喫茶店にたむろする誰にもその事は言わなかったし、当のジェイコブが、自分でいままで一体何をやってきたのか、どこから来たのか分からないと思い込んでいたので、思い出す事は滅多になかった。
〈夏のまっ盛り、毎日毎日あつい日ばかりつづくのでときどき生きていることがいやになってくることがありますが、貴女《あなた》はどうですか? 昨日思い切ってプールへ行ってきましたが、やっぱりそこもひどい込みようで、ああこんなにも世の中にあつさにまいって生きている事がいやになっている人がいるのかと僕はびっくりしました。なぜかというと、生きているのがいやになっているのが僕だけの感想で他の人はそんな事を考えもしないだろうと思っていたからです〉
ジェイコブはその時自分の書いた手紙の一節を思い出した。手紙は何通も書いたのだった。その手紙を一通も投函《とうかん》した事はなかった。手紙を出したい人間もなかったし、それにジェイコブの書いた手紙は嘘ばかりだった。
〈いま何をしているのでしょうか? 僕は十九歳です。もう十九歳になってしまったというほうが、貴女に言う時はいいかもしれませんが、僕は毎日毎日、貴女の顔を思い浮かべながら、希望もなしに、つまらないことをやってすごしています。キンポウゲの花が咲いていましたね。それからタンポポも。だけど僕はタンポポはきらいです。もっともろい花がいい。
昨夜僕は七色の花弁をつけたアジサイを折ってやろうと思って手をのばすと、その花びらが、パラパラとくずれ落ちてしまった。それが悲しくてワンワン泣いている夢をみました。眼が覚めると、アパートの何もないガランとした僕の部屋でした。午前三時頃でした。こんなふうにしてみんな歳をとって大人になるのでしょうか、教えて下さい〉
ジェイコブはそう書いた。
そのアパートは高木直一郎の貨物会社の寮にもなっていた。ジェイコブは、昼間、働いた。アパートの反対側に運河に面した倉庫があった。濃い日影が、ジェイコブにはいつも不快だった。日に当って倉庫の広いコンクリの地面にくっきり浮きあがった自分の影が、ジェイコブの抱いた不満そのものにみえた。
ジェイコブはその時、何度も計画した。理由は何もなかった。ただ高木直一郎とその一家を皆殺しにしてやりたい。そうでなかったら、金庫をこじあけ、金品を盗ってやる。
仕事は単調だった。
ジェイコブはジャズの音ですっかり空洞が出来てしまったような眼を閉じ、自分の中に怒りのようなものが広がっていくのを知り、椅子に背をもたせかけ、足を投げ出す。マンガを読んでいた髪の短い男が、顔をあげ、またすぐ伏せる。
その高木直一郎の会社で働いたのも、アパートに入ったのも、ジェイコブが保護観察を受ける状態だった事以外に理由はない。高木直一郎が母方の伯父、母親の腹違いの兄に当っても、ジェイコブには知らない事だった。トラックから倉庫へ、倉庫からトラックへ貨物を移すという単調な仕事をしながら、ジェイコブは、その貨物会社で働く誰よりも、自分が、高木直一郎の一家と同僚の者から胡散《うさん》臭いと思われ、視《み》られているのを知っていた。
木箱は思ったより軽い。木箱の中に何が入っているのか、興味はない。一緒に働く二人もそうだった。矢城は、木箱をトラックからジェイコブに手渡しする。フォークリフトのつめでさした木の台に、上村が手際よく並べてゆく。その繰り返しだった。
昼になる度にその三人で、運河の通りにある定食屋へ行った。四十男が一人で店を切り盛りし、水を運ぶだけしか役に立たない白痴面の子がいた。その子が幾つか分からない。一度、三人で、その子が店の裏でしゃがんで小便をしているのを一部始終見た事があった。陰毛は生えていた。
ジェイコブは思い出す。計画を中断したのは、その子のせいだった。客が来ると水を運べと言われているのか、コップになみなみと水を注いで盆に載せてソロソロとそれをこぼさぬように持ってくるその子は、店にいるだけでうっとうしかった。だが飯を食うのは、そこだけしかなかった。
夜、その定食屋に一人で行ったのは気まぐれだった。
ミオという白痴の子は、カウンターに寝そべるように顔を伏せていた。泣きながら、「お母ちゃん、お母ちゃん」と声を出す。カウンターの中で食器を洗っていた四十男が、「いらっしゃい」と声を掛ける。「あれはあかんねん。なんべんも言うてるやろ」男はカウンターの下をくぐり抜け、コップに水をついで、ジェイコブの前に置き、
「なにしましょ? そう言うても、御飯物は出来へんが……」と無愛想に言う。
白痴の子が、一瞬、利巧になったと顔を上げ、「ミオのもないの?」
「ある、あるう、ミオのは別や」男は言う。ジェイコブは男をみる。
「今日も仕事だったのですか?」
ジェイコブは、男のどうでもよい言葉に、うなずく。開け放った窓から倉庫の辺りの闇が見える。その闇とは反対にしながきが貼ってある壁が白い。テーブル四つ。十人も入ればここは満員になる。白い蛾《が》が蛍光灯に誘われて身を打ち当て、下に落ち、また光の真中にすりよろうとする。
「あんなあ、うち、もうじき、どこへ行くか知ってる?」ミオは、ジェイコブをみつめる。みつめたまま答えあぐねているジェイコブを嘲笑《ちようしよう》するように顎《あご》をしゃくり、笑う。
「おおさかへいくねんで。人形さんいっぱい買うて、ハイヤーにのって」
「ミオ、倉庫の兄ちゃんにわりばしとったり」男がミオに用事を言いつけた。ミオは「はあい」と機嫌の良い時の返事をして、カウンターに置いてあった箸《はし》立てから一つ抜きとり、それをジェイコブにさしだした。
「おおさかへいくねんで。あんなあ、おおさかて知らへんかあ?」ミオはジェイコブの横に立って息の音をたてた。男はそれを見るに見かねたように「ミオ、飯《ママ》、すぐにできるさかいな」と言い、めんをもみほぐしザルに入れてから湯気の立つ鍋《なべ》の中につけた。
「でんしゃが走ってるねん、ほいでやね、ちかてつもあるねん。ここみたいにさみしいとことちがうんよ。夜でも昼みたいや。なあ、おとうちゃん、つうてんかくもあるねんなあ」
男は、「ある、ある」と答えた。
「ミオのおかあちゃんなあ、そこで待ってるん。お金ぎょうさんためて、三人であべので仲良う暮らす。お父ちゃん、もう、ぜんぜん酒のめへんもんなあ」
「のめへん、のめへん」
男が言うとミオは、ジェイコブの横に椅子をもってきてまたいで坐《すわ》りこみ、「あんなあ」と顔をしかめひそひそ声を出した。「うちのお父ちゃん、酒のんだらあかんねん。お母ちゃん血だらけになって、顔めちゃめちゃにどつかれて、そんで出《い》んでしもた」
「なに言うてるんや、また」男は言った。
「なあ、お父ちゃん、ミオには弱いんやねえ」
男はラーメンをジェイコブの前に置いてから、赤い子供用の茶碗《ちやわん》に盛った飯に削り節をかけたものと子供用のスプーンをテーブルに置き、カウンターにひとつある丸い椅子に腰を下ろした。ジェイコブとミオを見ながらエプロンから煙草を出し、火をつけた。
ジェイコブは黙ってラーメンを食べた。
ミオのスプーンの持ちかた、口の動かしかたは三歳の子供と変らないくらい、ぎこちなく、それに気まぐれだった。胸がかすかにふくらんでいる。それが不自然だった。
「兄ちゃん、いくつ?」男が訊《き》いた。
ジェイコブはサバをよもうとしたが、とっさに言いだせず、「十九だよ」と答えた。
「そうやろなあ、ここへ来てくれる倉庫の人の中で一番若いもんなあ。やっぱし、仕事きついことないかあ?」
「へっちゃらだよ。貨物の十|噸《トン》や二十噸」
「無茶したらあかんでえ。若い思て、見さかいなしに無茶して体使ってたら、こわれてしまう」
ジェイコブは黙っていた。ラーメンの湯気のため額と鼻先に汗がふきでてきた。
「にいちゃん、おおさかて知らへんかあ?」とミオが訊いた。「あそこはなあ、ええとこや。なあ、お父ちゃん、あほかて生きてけるなあ。そうやけど、ほんまにお母ちゃん待ってるやろか。お母ちゃん、ミオみたいなあほは好かんと言えへんやろか。ほんまはやね、ミオ、むくたいのアホとちゃうんよ。ちょっと二分ほど足らんだけやねん」
それからミオはなにを思いだしたのか、重ったるいまぶたの内側から大粒の涙を流した。まつげにぶらさがり、揺れている滴は、見事な手品だった。
その二人は、そこにいた。
ジェイコブは、ジャズが入り込んだだけの真空の自分の体を見ながら、その時とまるっきり違ったここにいると笑った。立ちあがり、音の渦の中を歩いて小便する。換気扇が音たてて廻《まわ》っている。
手を洗い、洗面台の上の鏡にうつった顔に笑いを浮かべる。ジェイコブが思い出すより他に、ジェイコブの過去を知る者はここにいない。
朝から毎日ひっきりなしに貨物をさわった。船で運ばれてきた大量のオレンジとグレープフルーツの箱を、ジェイコブら三人はフォークリフトを使わず、荷台からローラーをとりつけておろす。それをまた倉庫の奥に手で一箱ずつ積み上げる。ローラーとローラーのつなぎめに、一人が立ち、あと一人が、積み上げ役だった。トラックの上では運転手と助手がおろし役をした。伝票をもって個数のチェックをやっている男もいた。矢城はジェイコブの真似をして上半身裸になった。
「箱の底、ぐしゃぐしゃになってるな」
矢城が言った。
オレンジの箱の底から腐った果肉の汁がたれている。
ジェイコブはまた相手がいったい誰だかわからない人間にむかって手紙を書きはじめた。
〈貴女《あなた》はいまなにをしているのですか? 僕は貴女と無性《むしよう》にはなしをしたい〉そう書き出した。〈この世界が腹立たしくってしょうがない。この世界はよごれすぎているような気がします。この世界に生きるということはつまりどっぷり屁泥《ヘドロ》のような黒くぬるぬるしたよごれにつかり、よごれをのみこみ、よごれた眼、よごれた体になってものをみたり思ったりしてくらすことなのでしょうか? そうだ、絶対にそうなのです。それがいまの僕のがまんならないことです。寮の管理人のおばさんがいます。いったい彼女はなにをやっているかというと、掃除と、食べたり食べなかったりする僕たちの習性のようなものを見越して少なめに飯を炊き少なめにおかずをつくり、余ったぶんをくすね、ぺちゃくちゃしゃべりまわり、仏さんに手をあわせて眠るらしいのです。それが彼女の一日。一階の六部屋は彼女が勝手に貸しています。工員や貧乏会社の事務員が入っています。男ばかりがすんでいます。この寮兼アパートのとなりはメタテ屋のボロ家、その前は、家の前にせんべいのダンボールを積み上げているのでそれをあつかう商いなのでしょう。ここはゴミ捨場のようなところです〉
たしかにそうだった。朝も昼も空はうす灰色だったし、なによりも運河からにおってくる屁泥のにおいがジェイコブにそう感じさせた。だが悪いところではない。
〈貴女はこんなゴミ捨場のようなところを想像できますか? 想像すらできないでしょう。しかし、このゴミ捨場のようなところに住んでいる人間は、高層マンションに住んでいる貴女を、いや、団地の一室の貴女、住宅地に住んでいる貴女を想像できます。貴女がどんなことを考えたり感じたりしているのかわかります。それは怖しいことです。貴女は見ない、見ることを拒んでしまっている。しかし僕はみる、みることを拒んだりしないのです。ここではこの世界はきたないのが普通のことです。においが、女の泣きさけぶ声が、下半身裸になって歩きまわる子供が、普通のことです。ここでは世界がいやおうなしにはずかしくあつかましい。マンションの一室は快適ですか? 貴女はテレビの画面に出てくるように、平和にきれいに暮らしているのですか? ここはがまんならないくらいいやなところです。毎日毎日ドボルザークをききながら生活することができたら僕はどのくらい豊かに心をあたたかく持てることでしょう。なにもみる必要はないのです。豊かにあたたかく生きるのが一番良いのです〉
そう書いてジェイコブはわらった。冗談だろう。この世界、豊かにあたたかく生きられるはずがない。もしこの世の中にそんなやつがいたら、前頭葉を切りとられた人間か、それとも白痴か、老ボケしたやつかだ、とも思った。
砂漠、砂漠、とジェイコブは思った。人っ子ひとりいない熱砂の真中に行きたい。ジェイコブは書いた手紙を破った。そして、新しい便箋《びんせん》に黒のマジックを使って黒枠をつくり〈死亡〉と書いた。
〈僕は貴女にあいたい。あってはなしをしたい。ディスクジョッキーはこともなげに、いまシンケンにまじめに生きているゾーというが、いったい彼の言ういまとはなんなのか? この瞬間のことを言うのだろうか? もしそうだったら(そうにきまっているけれど)それはあたりまえのことだ。考えてみろよ、虫だって、犬だって、まじめにシンケンに生きているさ。しかしそんなことをまじめにシンケンになんて言いやしない。単に生きてるだけだよ。死んでないだけだよ。まじめにも、シンケンに、もありはしない。
ではまじめ、とかシンケンとかはどんなことを言うのだろうか? それがわからない。僕はメタテ屋のボロ家の中でやられる親子げんかのことを思いだす。≪真実≫はそこにある。娘が男をつれてくるのは娘の真実だし、メタテ屋のおじさんとおばさんが大声だしてそれをなじるのも真実だと思う。真実と真実がけんかする、それも真実だ。真実とはなんときくにたえないものだろうか? だがきくにたえない真実などほんとうに真実だろうか? 僕はいまそう考えている。そう疑っている。つまり≪真実≫とは貧乏ということだけなのではないかと。つまり、つまりだ、金がないということ、働いても働いてもろくなものが食えずろくなものが買えず、明日にもメタテの注文がなければ首くくって死ななければならないという貧乏のことだ。そうだ、貧乏は人を不愉快にさせる。いま、僕は考えついた。貴女はここをよくきいてくれ、人生の真実とはつまり金だ。金がどうにでも人を変えるのだ。
貧乏でなく金持ちでさえあったら、メタテ屋は毎日毎日、背をまるめてノコギリの歯をひとつひとつおこすようなことをやらなくてすむだろうし、家には明るい電灯がつき、おばさんは上等の服を着て、娘に小遣いのひとつでもやり、あまりタチの悪い男と付き合い、深入りするんじゃないよ、といいきかすぐらいの小言を言って、コーヒーのひとつでもいれようかと言うようになる。
しかし、現実にメタテ屋が金持ちになる方法はあるのだろうか? メタテ屋が現実として金持ちになる方法がまったくなく、きくに耐えない親子げんかをくり返している、むしろメタテ屋の真実とはそれではないのだろうか?
だが、虫のように生きていることは、金持ちであろうと貧乏であろうと変りない〉
そう書いて、ジェイコブはもうそれ以上、手紙を書きつづけることがいやになった。ラジオをつけた。ジャズがかかっていた。
午前三時、ジェイコブが布団の中にパンツ一丁でもぐりこみ、うとうととしはじめた。寮のどこかで、わあ、ちかいちかいという声がきこえた。
運河の船が汽笛を鳴らし続けた。
ジェイコブは起きた。服を着て、走った。
ジャズは鳴る。その炎を考えると息苦しい。
炎はジェイコブの考えたとおり、男と白痴の子がいた定食屋から上がっていた。ガソリンをまいた、と噂した。二人が焼け死んだとも火傷《やけど》をしたが救急車に収容されたとも噂したが、ジェイコブは、どうでもいい事だと思った。
計画は、失敗だった。綿密に立てたわけではなかったが、ジェイコブは、自分が高木直一郎とその一家に思いつく度に考えた計画は失敗したと思った。高木直一郎の女房の声が耳につく。
ジャズが鳴る。エルヴィン・ジョーンズ。
ユキがそのエルヴィンのドラムス音を手でかきわける仕種《しぐさ》をしながら、奥の溜《たま》り場にいたジェイコブのそばに来て、耳に口を寄せ、「ラリハイごっそり手に入れて来たからな」と言う。ジェイコブはうなずく。
ユキの後ろに見なれない男が立っていた。
ジェイコブは、手を上げるだけの挨拶《あいさつ》をした。ユキとその男は、ジェイコブの椅子の横に並んで腰かける。二人はジャズがうるさいと互いに耳に口を寄せて話す。ユキがジェイコブの眼をのぞきみて、ズボンのポケットに入れていたクスリを手につかみ取る。「ジェイコブ」と手渡しする。その手渡しされたひとつかみのクスリを一息に飲み込もうとして、ジェイコブは誰か自分をみている者がいるのに気づき、振り返った。ボーイの君原が、顎《あご》をしゃくり、大丈夫か、と合図した。ジェイコブは一息に飲み込む。喉《のど》の方からその時みた炎のように一瞬に吐き気と唾《つば》がわきあがる。ジェイコブは水を飲む。
そのジェイコブを、ユキが呼んだ。
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ユキが耳のそばで「ちょっと話があるんだ」とジェイコブに言った。外からそのモダンジャズ喫茶店の中に富さんが顔を出し、スピーカーの横の壁にもたれて坐《すわ》っていた女を手招きした。ユキが、またあの女使って写真撮るんだぜ、と独りごちるようにジェイコブの耳そばで言った。富さんに呼ばれた女は頬が異様にこけた一見して覚醒剤《かくせいざい》をやっていると分かる顔だが、立ちあがり、伝票をテーブルに置き忘れていたと笑いながらもどる仕種はジェイコブが昔好きだった女の子に似ていた。その女が富さんに笑いをつくり、外へ出て行くのをみてユキが、「オマンコされてよ」と言う。「吉が言ってたぜ、あいつのオマンコの仕方はきたねえって。クスリを打ちまくってからやるって」ユキが連れた男は、ユキの肩に手をかけて黙ってジェイコブをみつめている。
ユキに誘われるまま店の外に出て、ジェイコブはその男が口髭《くちひげ》を生やしているのに気づいた。ユキはその男を、昔、絵の勉強に通っていた頃の友達だとジェイコブに紹介した。男は、ジェイコブに、西脇と言うと名乗った。西脇は背がこころもちジェイコブよりも低くて、眼鼻立ちのはっきりした顔をしていたが、そのジェイコブらのたむろするモダンジャズ喫茶店の常連らとはあきらかに違う印象だった。常連のようにおびえが時に走る眼ではなく、ジェイコブにみつめられてもまっすぐ見返す眼をしている。
「あれ、こいつもやるからな」
ユキが言って、ジェイコブの肩をたたいた。ユキが背にしたモダンジャズ喫茶店のドアからチャーリー・ミンガスがきこえてくるのをジェイコブは耳にした。クスリが効いてくるのを感じながら、やりたいなら勝手になんでもやれ、と思った。ジェイコブは、唾を吐く。白い唾液《だえき》が糸を引き日に光りながら地面に落ちる。一瞬、炎がその地面からわき立ってくる気がした。そのジェイコブの肩に手をかけて、ユキがマサとそっくりな仕種で耳のそばに顔を寄せて「計画どおりにやれば、うまい具合に行くよ。誰も他の人間に迷惑かけないんだから心配する事、要《い》らないよ」
「心配なんかしねえよ」
とジェイコブは、ユキの手を振り払ってまた唾を吐いた。唾を吐きながら、一瞬、なめるな、と独りごちたが、その声にユキも西脇も気づかなかった。一体、俺がここでこうやって唾を吐いているまで、何をやってきたか、とジェイコブはそれをユキや西脇に言ってやりたい気がした。ユキも吉も、ケイコもキャスも、ジェイコブが一体どこから来たのか知りたがり、ジェイコブが訛《なまり》のない言葉をしゃべるのを聴いて、東京かその近郊だろうと言ったのだった。その度に、ジェイコブはうなずいた。何も自分の生れ育った場所を人にゴマかすつもりはなかったが、人がまちがえてそう思い込むならそれでよいと訂正しなかった。そのモダンジャズ喫茶店の常連の中に何人も少年院出がいたり刑務所帰りがいたりするので、ジェイコブが、マサの部屋に転がり込み、店に顔を出しはじめて一か月も経たないのにジェイコブを開店当時からの常連で少年院か刑務所にこの間まで放り込まれていた、と噂した。
立っている事が苦痛だった。
店の横の電柱にジェイコブは体をもたせかけ、両手をポケットにつっ込み、ユキが尻《しり》ポケットにつっ込んだハンチングをさわりながら、「金ふんだくりゃ、あんな連中用がないから、ジェイコブの気のすむようにしてやってくれてもいいさ」と言い、笑うのを見ていた。ユキが、血まみれになってオフクロなんか死んじゃったらおかしいだろうな、とわらうのを見て、つられて笑おうとして一瞬、足から力が抜けて電柱に背をもたせかけたまま崩れかかり、ユキと西脇が、あわてて両側から抱き起こす。急激にクスリが効いていた。「大丈夫かよ、こいつ」西脇が言い、力の入らないジェイコブの腕を自分の肩に廻《まわ》させ、ジェイコブのベルトをつかんで体を持ちあげる。眼の焦点が定まらず、地面と空が光りながらいっしょくたに溶けて見える。
西脇に言われて、ユキが車を取りに行った。しばらく西脇に体を支えられたまま立っていた。ユキが車のクラクションを鳴らしたのは、電柱の背後からだった。二人は、車の後の座席に「吐くなよ」と言ってジェイコブを寝かせ、ユキの運転で走らせる。通りに出る角でキャスに会ったのか、起きあがったジェイコブにユキが、「そこにジェイコブの彼女いるけど、ラリってるとジェイコブは女にしつこいからな」物を言い返そうとして、ジェイコブは舌が重く動かないのに気づき、止める。
車は、すぐ通りに出る。
運転してやろうか、と口の中でつぶやくが声が濁っている。ジェイコブが車を運転出来ると誰も知らないし、自動車工場でいっしょになった松川しか、ジェイコブが車の構造を熟知している事を知った者はいない。ジェイコブは、ユキがどこへ車を走らそうと構わないと思い、座席に深く坐った。日を背後にしているので首筋に日が当り馬のたてがみが燃えているように感じた。
信号待ちで車は停った。ユキがおとなしくなったジェイコブを振り返り、ジェイコブが笑いをつくると、
「さっき吉に会ったぜ」
と言う。
「あいつの女、いるだろう。店の裏の通路で女の声がすると思ってのぞいたら、女、髪が血だらけになってやがるの」
西脇は振り返りもしないで、信号が変ったとユキに言う。ユキがあわてて車を発進させて、「俺と西脇が、吉の女を病院まで連れて行ったんだから。血がついてるだろう」と独りごちるように言った。「俺が病院へ連れてってやるけど、車に血をつけるなと言ったのに、あの女、後でみるとべったりつけているんだからな」
ジェイコブは眼を閉じた。女の血が車のどこについていようと興味はなかった。眩暈《めまい》が眼窩《がんか》の奥に起っている。外から物に当って撥《は》ねる日が入ってくるために閉じたまぶたの裏側に、鳥のようなものの影がうつる。まぶたの内側で鳥がとぶとジェイコブは思い、幾千幾万の鳥が空をおおっているのを想像した。その山の頂上付近で、一度だけジェイコブは鳩より少し小ぶりな鳥の群に出喰わした事があり、つぐみだという連れの子を違うと殴りつけた事があった。ジェイコブはその雑木の中にある鳥が群がった木の下に作った〈秘密〉の中に、狙いをつけてあった放送局の倉庫から引き出し運び込んで来た大量の銅線をかくしていた。年久は、その銅線に巻きつけた黒いコイルをかき集めた落葉や新聞紙に火をつけて燃やしてしまうのだと言った。山に生えた枯草に火がつき、あやうく火事を起しかかってから、ジェイコブの言うとおり、素直に従った。ジェイコブは、その銅線を適当な長さにペンチを使って切り、ナイフを使ってコイルをけずり、むいた。一時《いちどき》に古物商に持っていっても安く買いたたかれるのはわかっていたので、ジェイコブと年久は、手でひとつかみできるほどの束になったところで売りに行った。その銅線をかくした〈秘密〉の、ちょうど目印にもしてあった木に、黒い嘴《くちばし》の赤い鳥が群がり、鳴いている。背筋が寒くなったのだった。
石を投げると、二十羽ほどがとび立ち、またその木に群がる。
ジェイコブはその声が、車に坐り、眼をとじた自分の日に照らされた首筋の方から波を打って聞こえてくる気がした。ジェイコブは眼をあけた。体の中に波が起っているように街路を歩く人も建物も輪郭が定まらず揺れ、ジェイコブは喉《のど》に熱いかたまりが溜《たま》っていると思い、声を出してみた。
ユキが、「吐かないでくれよな」と言い、振り返り、「暑いならもっとクーラー強くしてもいいよ」
ジェイコブは首を振る。
西脇がジェイコブの眼をのぞき込んでジェイコブがまばたきしないで見つめ返すと、「大丈夫かよ」とユキに言った。ユキは顔に笑いを浮かべて「昔から繰り返し言ってるからな」と言い、電話の横にあったティッシュペイパーを取って鼻をかむ。「簡単な事だぜ」
ジェイコブはユキの部屋の壁にもたれたまま、このあいだまで着ていた自分の冬物の上衣がまるでその部屋全部がジェイコブの持物だというようにハンガーにつるされているのを見ている。車で大廻りして立ち寄ったスーパーマーケットで仕入れたタイマーを持って、ユキと西脇が寝室に行き、「爆弾づくり教えてやるよ」とジェイコブを呼ぶ。ジェイコブは、立ちあがろうとして、思いつき、電話を掛けた。途中で、気が変り、さっきまでいたモダンジャズ喫茶店の電話番号を廻した。受話器からジャズが聴こえ、ジェイコブはそのジャズがはじめての曲だった事に気づき、「ユキちょっと来てみろよ」
ユキが、手に油がついたと見せた。ジェイコブがその耳に受話器を当ててやると、「新盤じゃないな」と言い、首を振って洗面所へ入って行く。「そのオマンコジャズ、誰が吹いてるんだよ」ジェイコブが訊《き》くと、受話器の中からどなるような声で君原が、「お前のオマンコ来てるぞ。会いたいってよ」と言い、キャスに代る。ユキの部屋にキャスはすぐ来る、と言った。電話を切るとユキが、「なんでまたあいつを呼ぶんだよ」と不満げな顔でジェイコブの顔をみて、「西脇、それ全部、もうしまってくれ」と言う。西脇が寝室から顔を出してジェイコブの横に立ち、「どうせ、冗談だと判ってるからな」と大人びた口調で言う。
「冗談でも本気だぜ」
「だから冗談だと思ってればいいんだろ」
西脇は言った。跡かたづけをしようともせずに床に散らばったレコードのジャケットを見る。ジェイコブは西脇のその物|馴《な》れた仕種《しぐさ》を見て一瞬、昔、運河のそばの倉庫にいた頃の母方の伯父《おじ》を思い出した。いちいちが気に喰わないというのではなく、伯父が何の気なしにする物馴れた手つきで箸《はし》を取ったり飯を食う姿が気に入らず、振り返ってジェイコブ自身がギクシャクした仕種をしている事に気づき、火が点《つ》いたように羞《はず》かしかった。何度、その羞かしさを、その家で味わったかもしれなかった。ジェイコブはその度に理由なくそのうち報復してやると心に決めた。伯父からすれば、ジェイコブの顔の表情にも立居振舞《たちいふるまい》にも変った様子が表われなかったので、ジェイコブがそんな事を考えているとは思いもしなかったはずだった。ほんのささいな事だという事は、その時のジェイコブにも分かっていた。西脇はジャケットの裏の英文を途中で読むのをやめ、ステレオの上に置く。ユキが「いやだよなあ」とつぶやく。ユキは西脇の置いたジャケットからレコードを出してかける。
キャスがユキのアパートに現われたのは日が暮れてからだった。キャスは最初からユキと西脇を挑発するように、「三人で一体、何やってたのよ」と言う。「ジェイコブにどっさりクスリ飲まして連れてったって言うから、あんたがまた何かジェイコブにやらせようとしてると思って、わたし来たんだから」
「何もしないよ」
「絶対そうよ。この前だって、ヘンな週刊誌の記者連れて、ケイコにLSDやらしたでしょ。次の日、あの子死んだように動かなかったんだから。ケイコ、ぐったりしてて朝から一緒にグラビアの写真があるって言うのに、結局駄目になったんだから」ユキがわらいだし、キャスは持っているハンドバッグでユキをぶとうと身がまえる。ジェイコブが腕をつかんで止めた。ユキが笑っているのは、グラビアの写真というキャスの言った言葉のせいだった。富さんは自分の撮るエロ写真をよくグラビア写真と言い、その撮影と称して女をアパートの中につれ込み、必要あらば覚醒剤《かくせいざい》を打った。ジェイコブにも、ケイコがそのグラビアの写真に、キャスを誘ったのはわかった。ユキがわらい続けているのでキャスが、ジェイコブにつかまれていない左手にハンドバッグを持ちかえ、それをふり廻《まわ》した。
ジェイコブがキャスを連れて外に出た。ふといつもガレージに入れたままの、ユキの車はよく鍵《かぎ》をかけたままだった事を思いつき、腰に腕を廻したキャスをアパートの入口で待たせ、ガレージに入ってみた。案の定、鍵はついたままだった。ジェイコブが車に乗り、アパートの入口でとめ、キャスを乗せようとすると、ユキがベランダの手すりから身をのり出して、駄目だとどなった。ジェイコブは、聞えないふりをして、ユキに手を上げた。運転はユキよりはるかにジェイコブの方が上手《うま》いと思い、キャスが座席に坐《すわ》るのを待って二度、エンジンの具合を見るように空吹かしさせて発進し、ユキと西脇に、家が吹っとび、建物が吹きとぶほどの爆弾でも、二人で仲よく作っていろと、クラクションを強く長く鳴らした。
モーテルを出たのは、まだ夜明けのきざしが空にもあらわれていない時間だった。キャスはジェイコブの肩に体をもたせかけ、「ねえ、店へ行ってジャズをきかない」と言う。ジェイコブはモダンジャズ喫茶店とは別の方へ車をむけ、走った。空は濁ったままだった。明け方の空気は肌寒く、キャスは運転しているジェイコブの脇腹の辺りにシャツをめくって手を入れ、ふと思いついたように、
「ジェイコブ、ユキとつきあうのよしなよ」と、男のような言い方をする。「吉とかひろしとか、もっと面白いやついるじゃない。あいつのわらい方、見た? 狂ってるよ。ユキのお家は金持ちかもしれないけど、あいつ考えてる事ってヘンな事ばかりじゃない」
「家を爆弾で吹っとばすと言うんだろ」
「狂ってるの。ジェイコブに言わなかった?」キャスが脇腹から手を抜き、髪をかきあげ、いつものキャスと違う利発げな顔で、「あいつ、いっぺんジェイコブのいない時、店でラリって、わたしに、おい、梅毒のキャス、ジェイコブのアレばっかりなめてて口がそのうちまっさきに腐ってくるぞ、って言ってさ。アタマに来たから、自分だってノーバイじゃないのって言ったら、まじめな顔でユキの家は一家そろってノーバイだって言うの。ジェイコブ連れてって、機関銃で皆殺しにさせるんだって」
「おれだって梅毒だから」
ジェイコブが言うと、「冗談を言ってるんじゃないのよ。あいつ、狂ってる」と言って黙る。ふと見ると、キャスは涙を流している。ジェイコブはキャスがモーテルに入った時から普段と変っていたのを思い出した。十九歳のジェイコブにキャスが何がどう変ったのかはっきりと分からなかったが、キャスが随分普通の女の子のようになっていると思ったのだった。キャスは自分で服を脱がずにジェイコブに脱がせてくれと言ったし、一緒に風呂《ふろ》に入った時、ジェイコブが乳房に触れようとするとくすぐったいと声も出さないでジェイコブにされるままにして浴槽の中で黙って身をすり寄せたのだった。キャスのその体を抱きかかえ、ベッドに連れて行きながらジェイコブは自分が二十ほど急に齢《とし》を取ったように感じた。
車をとめ、ジェイコブはキスをした。窓を開けはなしていたので、夏の早朝のきなくさい空気が車に入ってくる。ジェイコブはまた車を発進させながらいますこし走り廻って遊んでから、車の中でキャスを姦《や》ろうと思った。肩に頭をもたせかけたキャスにそう言うと、キャスは物を言わずうなずき、それから急に思いついたように、「もう梅毒って言うの、やめようよ」と言う。「ユキなんかそう思ってるから、わたしなんかにキタナイって言うんだから」
キャスはそう言って、ラックをあける。文庫本が一冊、車検証と車の取扱いハンドブックが、入っている。それを取り出し、キャスは、怒るだろな、と言って、窓から空に放り投げる。一瞬の事だった。文庫本がパラパラとめくれながら随分遠くの暗い闇に落ちていくのが見えた。スピードは百キロを超えていた。ブレーキを踏もうと思ったが引き返すのもめんどうくさく、ジェイコブはそのまま放っておこうと車を走らせた。
キャスがハンドバッグから煙草をとり出し、火をつけてジェイコブにくわえさせた。いつかそうやって女に煙草をくわえさせたとジェイコブは思い、昔、まだ山と川と海に囲まれた町にいた頃知り合った中年女を思い出した。その女はどこもかしこも肉付がよかった。ジェイコブの手に入り切らないほど大きな乳房の感触がまだ残っている気がした。
ヘッドライトに道路が浮かびあがり、黒い。陸橋を下りて標識通り右に曲がると、急に狭い道になっている。商店街だったが、灯《あか》りがまったく消えてしまっている。その道は山道のような気がした。ジェイコブには初めて通る道だった。
キャスがカセットを入れてみる。大学の講義を録音したものらしく、キャスはそこにいないユキをからかうようにクスクス笑い、止めて、カーラジオをかける。ジェイコブの言うとおり深夜を通してやっているディスクジョッキーにダイアルをあわせた。その番組は自動車工場で夜勤の時にBGM代りに流されたその自動車会社提供の番組だった。
交差点を左折し、歩道橋の下をくぐり抜けると、右手に水銀灯に照らされたガスタンクがあった。アクセルを踏み込んで、スピードをあげた。
走っているのは、ジェイコブとキャスの二人が乗った車だけだった、家並も、庭に植えられた木も、まだ眠り込んでいるとジェイコブは思い、車をさらに加速させた。信号を無視して走りながら、都会の道を走っている事が大それた考えを持ったあげくのように思え、ジェイコブはキャスがかさかさとハンドバッグの中をひっかき廻しているのを見た。ラジオの音楽にあわせて口笛を吹いた。ドライブインがあるなら、そこで車をとめようと思いキャスに言うと、
「鍵、ないのよ」
と言う。「ハンドバッグに入れていたんだけど。店へ行く前に荷物いっぱい持ってたから、ぜんぶコインロッカーに入れて来たけど、その鍵がないの。妹に買ってきてと頼まれていたパレットとか絵の道具とか」
「いいよ、ほったらかせ」
ジェイコブが言うと、うなずく。
車を停めたのは脇道を入り、化粧品会社の工場横の空地だった。ジェイコブはまずキャスの座席のリクライニングを下ろしてから、自分の運転席のシートを倒し、キャスにキスをし、髪を撫《な》ぜた。キャスはジェイコブの手に撫ぜられ促されるようにジェイコブのズボンのジッパーをおろし、それからジェイコブのズボンのボタンをはずした。ジェイコブはキャスにされるままズボンを下ろし、キャスの手が性器にかかり唇に含まれるのを感じながら、眼を閉じた。
唇が性器の裏側をつけ根の方にむかって這《は》って下りる。悪い気持ちではなかった。唇が今度は性器の先をなめ、舌が動く。体を起しもっと強くやれと頭を押すと、キャスはジェイコブの性器を両手でつかんで、髪をふり立てて唇を上下に動かした。
キャスをまたがらせたのは、性器に歯が当ってジェイコブがらちがあかないと思ったからだった。キャスはやっと身動き自由になったと動いた。ジェイコブはキャスの尻《しり》を両側からつかみ、逃げないように固定して腰をつきだした。キャスは、まるで子宮の壁が壊れたように声を出す。乳房をつかむとうめいた。眼を閉じ口をあけて声をあげるキャスの顔は綺麗《きれい》だった。白みはじめた空いっぱいに挿入する時いつも痛がるキャスの女陰があるようで、ジェイコブは、さっきモーテルの中で、そうしたようになめてみた。体の位置を変えようと、外に出た。夏の朝の寒気を性器そのものに感じた。
ジェイコブは車のドアをあけてキャスの下半身を広げさせて足を上げさせた。その女陰の温い中で細かい気泡が潰《つぶ》れるような動きを感じながら性器を入れなおした。キャスは好き、好き、と頭を腕でしめつけた。射精し動かずにいるジェイコブを、キャスが耳や鼻をなめまわしながら「妊娠しちゃう」とつぶやく。「あれ、もうすぐなんだから」
車に乗った時は、空はすっかり白んでいた。
ジェイコブは、ドライブインをさがした。大通りへ出て、スピードをあげた。
カーラジオのスイッチを切ったジェイコブをキャスが見て、「ジェイコブのあれ、まだ出てきてる」と言う。
信号機の向う側に、「ベル」という看板の出たドライブインがあるのをみつけ、車を駐車場に入れた。キャスがトイレに行きたいと車からとび出し、「ベル」の中に入って行く。
ジェイコブは駐車場から植え込みを廻《まわ》り込んで、「ベル」の中に入る。
窓際の席に坐《すわ》って、やっとキャスがトイレから出てきた。キャスはわざわざジェイコブの隣に坐り、小声で、「ジェイコブのアレ、いっぱい出てくるの」と言い、ボーイが注文を取りに来たのを知り取り澄ました顔になり、「紅茶とピザでいいわ」と言い、ジェイコブの太腿《ふともも》をつねる。ジェイコブはミルクを注文した。ボーイがカウンターの方へもどると、「ケイコなんかさあ、わたしが澄ました顔してると、全然、ズベ公にみえないって。だから、シャレたところに来ると、スカした顔してやろうと思うの」
「だけどお嬢さんだろ」
「そうだけど違うよ」キャスはそう言い、欠伸《あくび》をした。「急に眠くなっちゃった」それからジェイコブの耳に口をつけ、「ねえ、ユキなんかとつきあうの、あんまり好きじゃない。何を考えてるのか、分からないの」
ジェイコブはミルクを飲んだ。
ジェイコブはキャスが柔らかく溶けたチーズをこぼさないようにピザを食うのを見ながら、ユキがいま冗談とも本気ともつかない爆弾を西脇とつくっているのを想像した。ユキがジェイコブに話を持ちかけた時も冗談のようだったし、ダイナマイトを手に入れる算段がついたと言った時も冗談のようだった。ユキは、ジェイコブの顔をみて、いつものようにマサの話を延々とくり返し、ジェイコブがうんざりしたあたりで、ポケットからユキの父親の会社の系列会社が製造したという小さな黒い石のようなものを取り出し、山のハッパに使う小型のダイナマイトだと言った。爆発するのか、と訊《き》くと、爆発しないと言う。ユキの寝室のベッドの下に、コイルがすでに買い貯えられていた。ダイナマイトを入れて置くダッシュボードに似せたカンは、台所の脇に置いてあった。ユキの話は、その都度変った。ユキの父親のビルを爆破するとも、ユキの親兄弟を通り魔の犯行のようにみせかけて機関銃ででもバズーカ砲ででも皆殺しにすると言った。金は家の中にふんだんにある。
ユキの話が冗談でも本気でもよかった。ジェイコブはキャスの顔を見、キャスが果てる時の、力が体の内側から外にあふれてくるような顔を思い出して、頭の中心部が欠けたみたいな笑いをつくり、「またやりたくなってきた」と言った。キャスは、いや、と首を振る。そのキャスをジェイコブはいい女だと思った。
そのドライブインの窓から明るい朱色の空が見えた。日が地面の下の方から昇ってくるのか朱色の空は下方からじょじょに広がってくる。どこでも、その朝が一等好きな時間だった。もうジェイコブは忘れかけているが、夜勤明けの朝、サイレンが鳴り、ベルトがとまり、次のサイレンまでの間に、昼勤の者のためにボルトやナットを整理して使い易いように補充してやった。その時、いつもけだるかった。工場の採光用窓から朝の光が束になって入り込む。工場の中に舞っている鉄粉や土埃《つちぼこり》が細かい霧のようにうかびあがる。その時、夜中、死んだ虫のようだったボルトやナットが、黄金の光を放って生命を取りもどし動き出す気がした。
ジェイコブは、いま、初めて朝をみつけた気がした。一時、息をひそめて、色の変っていく空をみていた。ジェイコブはキャスが自分と同じように空をみつめているのに気づき、
「あんな色してたよ」
キャスはジェイコブの言葉がわからず訊き返した。
ジェイコブはドライブインを出て、モダンジャズ喫茶店へ行ってそこからユキに電話してやろうと思い、来た道をひき返した。道が分からなかったので、来た道を忠実にひき返す事にした。ジェイコブはキャスに言ってダッシュボードから軽いジャズのカセットを選ばせ、カーステレオにかけた。ボリュームをあげた。通りをまっすぐつっ走り、交差点の赤信号を無視して左折した。見当違いの方向に走っているのかもしれないとジェイコブは不安になったが、道がわからなくなれば、途中で、ユキの部屋に電話をかければよい。都心にあるモダンジャズ喫茶店まで行くのには勘だけしかなかった。私鉄の軌道と交差する道に出た。
「走っていると眠気さめちゃうのよ」
キャスは言って、ジェイコブの顔を見た。
ジャズがあまり軽すぎ、ジェイコブは自分の好みじゃないと思って、ラジオをかけた。道の真中にポリバケツが転がり、ゴミが散乱している。アナウンサーが、ニュースを伝えはじめた。明け方四時過ぎ、三人連れの男が派出所に押し入り、ピストルを奪おうとして一人が射殺され、二人が逃亡した。
「ちょうどやってる頃だよ」
「やってるって?」
キャスが訊き、不意に気づいて黙る。音楽がかかる。キャスはジェイコブの膝《ひざ》に手をおいた。
ジェイコブはアクセルを踏み込み、加速した。メーターは百二十キロになった。日が射しはじめた空に気をとられていたジェイコブが、先を行く車との距離の目測をまちがい、あやうく追突しかかり、急ハンドルを切る。ブレーキを踏むと車は横転しかかった。対向車がクラクションを鳴らしながら脇を走りすぎた。キャスが驚いた顔でジェイコブを見、ジェイコブはキャスに照れかくしするようにことさら口笛を吹き、クラクションを鳴らしながら次々通りすぎる車に、「あいつらだったら、とっくにひっくり返ってるよ。俺がA級ライセンスの持ち主だって事を知らんのだな」と言い、車を元の車線にもどした。ジェイコブは、その大通りをすぐ左に折れた。
信号が青だったが、その信号機のすぐ手前でジェイコブはブレーキを踏み、停めた。
ドアを開け、外に出て、車の前の道路を歩いてみると、道路の真中にねずみのようなものが血を出して轢《ひ》きつぶされていると思ったのは雀だった。ドアの窓から顔をつき出しているキャスに、
「おりてみろよ」
と手招きした。
キャスはドアをあけ、外に出た。ジェイコブは翼をつかんでつかみあげ、胴全体をタイヤに轢きつぶされた雀をふってみせた。
「雀?」キャスは欠伸をしながら言った。「ユキに会ったらお土産にやろうか?」
「雀ってバカなんだな」ジェイコブは手の平に乗せてみた。
キャスは、寒いと身ぶるいし、体をふるわせて欠伸をくり返した。
ジェイコブは、眼を閉じた雀の翼を広げてみた。その雀の血が、滴のように手の平にくっつく。その血はまだ赤く、ジェイコブは、朝の空の色がその血の滴に固まった気がした。ジェイコブは、雀の翼を持って、通りの向うにある生垣の横の空地にむかって投げた。
ユキに電話したのはモダンジャズ喫茶店の中からではなく、電車に乗って家へ帰るというキャスを降ろした国電の駅からだった。ユキは、ユキのアパートまで車を運転して行こうにも道がわからないと言うジェイコブに、すぐ行くから、警察にだけはつかまらないように車を安全な場所に置いて、自分がつくまでそこから動かないでいろと言った。
ジェイコブはユキが不機嫌でないのを不思議に思った。無断で車を持ち出して悪かったと言うジェイコブに、「いいよ、ぶつかったり、マッポにつかまったりしなかっただけでも安心したんだぜ」と言ったのだった。
「うまく出来たのか?」
そう訊くと、ユキは手を振り、笑って答えず、ジェイコブに助手席に乗れと言う。ユキは真顔だった。ジェイコブの顔を見つめてから、
「はじめてなんだぜ。俺、高校時代の友達なんかだったらそんな事もあったけど、それ以外の奴。なんでもいいや、ジェイコブに俺の家中を見せてやるよ」
「みんな、いるんだろ」
ユキは車を走らせる。
さっきジェイコブが、好みではないと切ったジャズのカセットをカーステレオにかけ、低音の音量を上げる。ジェイコブの顔をみ、「これのいいのは、ドラムスとベースだけだからな」と言い、低音を下げていた時とはまるで違った印象を気に入っただろうと、人なつっこく眼を細める。ユキはベースの音に合わせて、ハミングする。「ジェイコブに、金どっさり入っている金庫みせてやるよ」
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ユキは家の塀の脇に車を横づけにして停めた。ジェイコブは朝の日が撥《は》ねる道路が、また炎のように草が身を起こす気がしてその日が当っているだけの道路を眺めた。そのジェイコブにユキが、「来いよ」と肩を突いてから、扉の横に付いた玄関のベルを押した。そのユキはアパートにいる時ともモダンジャズ喫茶店の中にいる時とも違い、物|馴《な》れた仕種《しぐさ》が身についているとジェイコブは思った。口の中にたまった唾《つば》を吐く。自分の口の中に出来たその白い唾がユキのその物馴れた仕種をコケにしているとジェイコブは一人笑った。
家には女が一人居ただけだった。笑いを顔に浮かべ愛想はいいが、女はジェイコブを細かく観察している。ユキはその女を女中だと言った。「後で買物に行ってきてくれよな」とユキは言い、二階の階段をのぼった。ジェイコブが玄関の壁に掛った絵に見とれていると、「ビュッフェだよ。早く銀行強盗の計画、練ろうぜ」とユキが、そばにいる女のとまどいをからかうように言った。波止場の絵は、毎日働いていてみた倉庫の裏の風景に似ていた。ユキの方へむかって階段を上りながら、ジェイコブは、そこからここまで随分、遠い、と思った。そこは屁泥《ヘドロ》の臭いがしたがここは贅沢《ぜいたく》の臭いがしている。贅沢の臭い、ジェイコブはそう思い、ユキが急にわけの分からない事を考えている金持ちの息子に思えてくる。実際、ジェイコブが、仲間の誰にもどこから来たのか何をやっていたのか分からないように、ジェイコブも、ユキの事を分からない。ユキを、分かろうとも思わない。
部屋に入り、そのユキはソファに坐《すわ》り、
「みんな吹きとばすんだぜ」
と、わらう。
ジェイコブはそのユキの顔を見て、不意に、歌のように、その倉庫で働いていた頃に書いた手紙を想い出した。〈だから、ぼくはこのどうしようもないところから出てゆきたい〉
黙ったままのジェイコブに、
「いいもの聴かせてやろうか、ヘンデル」
とユキは訊《き》いた。
「眠いよ」
「走り廻《まわ》ったりするから」ユキは小声でつぶやくように言い、それから顔をあげ、「ジェイコブ、キャスってあまりよくないぜ」と言う。
「オマンコ出来りゃいいんだ。眠いよ」ジェイコブはソファに体を深くもたせかけた。素足の親指の辺りに毛が生えているのが、ジェイコブの疲れた眼には不思議なおかしさに見えた。ジェイコブは眼を閉じた。ユキが立ってステレオをセットしている音を耳にしながら、〈だから、ぼくはこのどうしようもないところから出てゆきたい〉とつぶやいた。その時、そう思った。どうしようもないところ、いつもそこばかりにいた。年久や梅毒のかさぶただらけの子は、どこへ行ったのだろうか。〈灼熱《しやくねつ》の砂漠。絶望の砂漠。人に飽いた。緑の樹木、小鳥の声、そんなものはうんざりした。熱砂だ、焼け焦げ火脹《ひぶく》れをつくる熱砂だ〉
ジェイコブには、伯父《おじ》の高木直一郎が経営するアパートにいた事は何十年も昔の出来事だった気がした。貨物会社の寮に入った者の誰も、ジェイコブが、アパートの経営者でもあり貨物会社の社長でもある高木直一郎のオイだとは知らなかった。そのアパートは楽しさもあった。「ジェイコブ」と呼ぶ声がして壁を足で蹴《け》り、同僚の矢城が合図する。矢城は、「スイカ、スイカ」とどなった。
ジェイコブははね起きた。
矢城の部屋に行くと、
「食い物と言うと、顔色が違うな」
と盆の上の大きなスイカを、ナイフで二つに切る。赤い汁が不揃いの切り口から垂れ、矢城は下手に二つに切る事が楽しくてならないように、おっ、と声をたてる。
「スイカか」ジェイコブが言う。
矢城が浮いた気分を損われたと、「だからなんだってんだ」
「スイカだよ」
ジェイコブが言うと、矢城は「そうだ、スイカだよ」とうなずき、「半分を賄いの婆さんと上村に持ってってやってくれ。よく冷えてるから」
そのアパートに、高木直一郎もその女房もまったく顔を出さなかった。保護観察をするという伯父の高木直一郎の目的は、居つかない倉庫勤務者を一人つかまえるという事以外に何もない事は分かっていた。
廊下は歩くと軋《きし》んで鳴った。
風が運河の方から吹く度に臭いが鼻についた。
矢城の切ったスイカを食べながら、矢城の持っているテレビで野球を見た。矢城はひいきのチームがヒットを打つ度に、声をあげる。その矢城が何を考えているのか不思議だった。ジェイコブは、砂漠、と思い、自分で手枕《てまくら》して体を丸めて寝転びテレビを見ている矢城に、ジェイコブと同じような熱病があるのだろうか、と思った。矢城は善人だ。壁に掛けたギターを見ながら思った。人を殺したり、金品を強奪したりする姿は似つかわしくない。女がその部屋に泊りに来て置いていったのだろうレモン色のエプロンが、ハンガーにかかっている。部屋全体とは不似合な白のサイドボードがあり、中にウイスキーとグラスが並べてある。白いレースの上には男の子と女の子が花束を真ん中にしてキスをしている人形が置かれている。
矢城の部屋の窓から、なにがみえるだろうかと気がかりになり、ジェイコブは立って、窓から首をつきだしてのぞいた。ジェイコブの部屋から見る風景と変らなかった。隣のボロアパート、メタテ屋の屋根と裏、ななめ横の駄菓子屋、そして家の切れたところにぽっかりとあいた工場の敷地跡。道をまっすぐ行くと、下働きのおっちゃんの家があり、スーパーマーケットがあり、国道の裏道がある。矢城の女は、裏道の工場で事務をやっている。
「また暑いだろうな」ジェイコブが窓から声を出した。矢城は聴き取れなかったらしく怪訝《けげん》な顔でジェイコブを見た。
テレビが歓声をあげだし、矢城は身を起こして、坐り直した。
ジェイコブは自分の部屋に戻った。矢城の部屋とくらべて、ジェイコブの部屋はほんとうになにひとつない。給料五万三千円、その中から食費と部屋代一万円ひかれて、毎月だいたい四万ほど給料袋に入ってくるが、結局貯金できるのは二万ばかりだった。仕送りする必要もなかった。金を貯め込んで、なにに使おうというのか分からなかった。アフリカの、アラビアの砂漠にいくしか手がなかった。
砂漠、砂漠、とジェイコブは口の中で言った。そんな子供だましのために金を使わないのか、と思い、おかしくなった。子供の時以来、保護観察されている今ほど、金を持った事はない。金をつかう方法を知らないに過ぎない、とジェイコブは思った。パチンコも馬鹿ばかしい、バーもキャバレーも馬鹿ばかしい。ただ派手な事はやってみたい。
黄色く赤い色に太陽が変り、熱気がおさまった午後七時、またとなりのボロアパートから女の泣き声がきこえた。
外では子供を叱る女の声がし、となりの矢城の部屋からは、テレビの歌謡番組がまるでテレビを持っていないジェイコブにきかせるためだけのようにがんがんひびき、別の部屋からは誰かブルワーカーでも使って体操をしているらしく、どしんどしんと音をたてている。
まもなく夕食時だった。ジェイコブは夕暮がはじまると同時にはじまったそれらの騒音にいたたまれず、金をポケットにつっこんで外に出た。
ジェイコブは土を入れて埋め立てた運河の横、湿った処に杭《くい》を打って張ってある有刺鉄線に沿って歩いた。屁泥の臭いと、食べ物の腐った臭いがしていた。
すぐ夜になった。あたりは一面に暗かった。月がぼおっと運河のむこうの、ガスバーナーの炎のようなものが煙突からふき上っている工場地帯の上に出ている。
へんに気持がたかぶっていた。
突然だった。
ジェイコブは有刺鉄線の突起をさぐった。一番鋭いそれをみつけた。右手で力いっぱい押した。左手の肉が破れた。
痛みに、ジェイコブはうめいた。
本当に生きているのだろうか? 引き抜くと同時に、黒いよだれのようにみえる血が、手のひらに、にじみだした。
しんじつなのか? ジェイコブは汚点のような血を見ながら思った。
〈なあ、見てみろ、冗談だろ。この世の真実、この人生の真実なんて、手のひらに拡がったひき蛙の流すような汚ならしいやつってもんさ。そうじゃないって? じゃあ、あま蛙のようなやつか。たかだか知れてるのさ。ばか。もうすこし考えてものを言え。こんな人生なんて生きるに値しないよ。生きてるやつはおまえのようなぐうたらのでれでれか、女と寝ることしか頭にないやつらだ。それをがまんできない。この世界にそんなやつらばかりだということががまんできない。おまえらなにをする。働いて飯を食って女と寝て子供をつくって、よぼよぼになって棺桶《かんおけ》に入る。草っぱと変らないじゃないか、虫と変らないじゃないか〉
ジェイコブは手をだらりと下にたらしたまま、手紙を書いてそれを読みあげるように言った。
草むらの中にひそんでいる虫が、ぎしぎし硝子《ガラス》をこするような音をたてていた。
休憩が終ってから、アルバイトの学生は完全にあごを出し、口をあけてあえぐように息をし、箱の積み方がずさんになった。矢城はアルバイトには放らず、ほとんどジェイコブの足元にばかりオレンジの箱を置き、ジェイコブはそれまでやっていたオレンジ、オレンジというリズムではなく、オレン、オレンのはやさで積み上げなくてはならなかった。
オレンジとグレープフルーツをおろし終えて、ジェイコブらは運河の底に溜《たま》った屁泥《ヘドロ》のにおいの方へ、倉庫裏へ歩いた。
下働きのおっちゃんが矢城に、左手でしょうぎを打つ格好をしてわらいかけ、矢城は「おっちゃん、テクニシャンだからなあ」とわらい返した。「今週は目標四勝三敗、辛うじて勝ち越しぐらいしたいって弱い大関のような心境だよ」「おっちゃんの奥さん、きれいなんだってなあ。今度若いときの話、ゆっくりきかせて下さいよ」やはり下働きの山下がおっちゃんに煙草を出しながら言った。おっちゃんは手をあげ、頭をひとつ下げ、その長めの外国煙草を抜きとり、口にくわえた。山下がライターを出して火をつける。
上村は背中に手をまわして爪で皮膚をかいている。そしてふりむき、「山下、おっちゃんにちょっとは女遊びでも教えてもらえよ」と猫のような茶色の眼で言った。「それともおれと遊びまわるか? どうもなあ、みんな口ばっかりでまじめ人間ばかりだから哀しくなるよ」
「いやあ」と山下はばつの悪そうなわらいをした。「上村にかかっちゃ」
「だめだめ、上村なんかと遊んでたら身の破滅さ」矢城がとりなすように言った。「テキさんの遊びは、もう遊びなどと言えないよ。神がかりだからな、見てておそろしくなってくるよ」
「まあそう言えば言えるだろうな、このターミナルで俺にかなうのは、まじめくさった顔してるけどおっちゃんぐらいだな」
「おっちゃん、まだ奥さん泣かしてるんだな」山下が言った。
「性根を入れかえたからな」おっちゃんは低い声でわらいもしないで言った。「あびるほど無茶はやったけどなあ」そう言い、倉庫裏の果物箱の椅子に腰かけ、倉庫の壁の下に新聞紙でくるんであった駒とベニヤ板のしょうぎ盤を取り出して並べはじめた。何もかも一切、右手を使わず左手でやっているのが、今さらのようにジェイコブには不思議だった。
倉庫裏は、ここちよかった。風が吹いていた。ジェイコブは草の茂った場所に坐《すわ》り、アルバイトが文庫本を読んでいるのをみていた。かもめが風に乗って飛んでいる。運河のむこうに湾があるはずだった。
「なあ」上村がぼんやり坐りこんでいるジェイコブの横に立った。「今度おれがトルコにでも遊びにつれてってやるからな」と奇妙にやさしい声で言う。ポケットから馬券を五枚とりだし、「一万でいいよ、一万」と言った。「今夜、ちょっといきたいんだよ」
「またアワオドリかあ」矢城が言った。
「いいんだよ、矢城は文なしだってこと知りつくしてるから。あとはジェイコブだけだ。おれの生命の綱、おれの救世主、ジェイコブさん、おまえだけしか金持ってるやついないってこと、知ってるんだ」
「いま持ってない」とジェイコブは言った。ついでに、この前貸した金を返せ、と言ってやりたかった。
山下が一万円出し、その一万五千円ついているという馬券五枚を買った。上村はその金を無造作に尻《しり》ポケットにいれ、「持ってる人はちがうなあ」と言い、それからジェイコブの横に坐りこみ、「貯金どのくらいあるんだよ、三十万ぐらいかあ」と訊《き》いた。ジェイコブは黙っていた。上村は「俺に貸さないかあ」とあきらかにからかっている口調で言い出した。
「実際そうだよ、ジェイコブなんかが金持ってても役に立たんよ。やっぱし金は流通させなくちゃあ。おれゃ、金をすこしでも世間に流通させてやろうと殊勝な考えを持ってる人間で、そのうち大蔵大臣か日銀総裁から賞状と記念品でも届くよ。トルコの十枚つづりの回数券が。おまえも少しは社会に役立つように金を使ったらどうだよ。どうもおまえをみていると、貧乏ったらしいって気がするよ。こいつはよっぽどガキの時から痛めつけられてきたんだなって感じがするんだよ。金がたまったら、ヨイヨイで寝たっきりのおっ母さんと、ばくち打ち大酒のみのお父っつぁんに送金でもしてやるのかあ」
「ジェイコブはおまえみたいなさかりのついた猫じゃないってよ」矢城が言った。ジェイコブは黙っていた。殴ってやろうと思ったが、やめた。
「そんなに金なんかためなくったって、この御時世、何とかなるもんだよ。いざという時のためにって、貧乏人のかなしい習性だったらバカバカしいからやめろって言ってやるよ。それとも金を二百万でも三百万でもためて、アラブでも買って、着《ちやく》狙いにでも仕立てようってのかな。おれだったらなあ、使いみちどっさりあるんだけどなあ」
「それで借金でにっちもさっちもいかなくなって、あんなことしたってのか」矢城が言った。
「こげついただけさ。社長もおれみたいな社員がいて、どうしようもないだろうな。だがな、それで良いっておれは悟ってるのさ。人生、どう転んだって一回限り、首くくって死ぬまでなおりゃしないな。社長がな、おれがなんでトルコ風呂《ぶろ》通いするか、なんで競馬をやるか、なんで飲むか説明すると、おまえには哲学があるからどうしようもないって。名付けてアワオドリ哲学」
「よく言うよ、この人」山下が言った。
「きかせてやろうか、おれのアワオドリ哲学。つまりな」上村がしゃべりはじめるのを邪魔するように、「あの社長も呆《あき》れ果てたってわけか」と矢城が合の手を入れた。
上村はへらへらわらい、ジェイコブの横に坐りこみ、ぶつぶつのできた皮膚をかき、「いくところまで行かなくちゃあ、どうにもならねえってわけよ」と言った。汚ない皮膚だった。「おれはな、何もかもわかってしまったのさ。つまりだ、おれはこの世の中に生きていてすまないと思って、自分で稼いだ金や、自分の才覚で手に入れた金をこういう人間こそしあわせに生きなくちゃいけないという人に、合法的に自然に流通さすんだ。夢殿のしのぶちゃん、あけみちゃん、新有楽のひとみちゃん、マリちゃん、りかちゃん、みんな幸せに生きなくちゃならんのだよ。りかちゃんなんかおれを神さまみたいだって言うぜ。神さまが来たって上機嫌さ。もちろん慈善事業やってるとおれも思ってないし、あいつらだってほどこしをもらってるなどと思わない。必死さ。それがまた実に良い」
上村がそう言うと、みんな一斉にわらった。「労働力と労働者の良心への正当な報酬として金をとる。ダブルで一万は高いけどな」
ジェイコブは知らない事だと思った。上村の言葉づかいとみんなのわらいが自分をなぶりものにしているような気がした。上村にむかって思いっきり悪罵《あくば》を投げつけてやりたかったが、ぼうっとけだるくなにも思いつかなかった。ブランデンブルグをききたい、とふいに思った。心を洗いたい、他人ではなくこの自分が幸せに豊かになりたい、と思った。言葉が喉《のど》の奥に詰まっているのに外に出てこず、ジェイコブはそれが腹立たしかった。
「よせ、よせ」と山下が何を思ったのか言った。「上村センセイ、あんまり害毒流しちゃこまるよ。ジェイコブはまだ二十歳にもならないんだぜ」
「おどるアホウにみるアホウって言うだろ、これぞアワオドリ哲学の神髄。ジェイコブなんかにはわからんなあ。世の中、たのしく善人になって渡らなくちゃ嘘だろ? とんがって生きてたってつまらんだろ、ああ?」
ジェイコブよりはるかに上村は背丈が低かった。女のようにジェイコブにまといつく上村をこらえかね、ジェイコブは腕に力をため、顔を殴りつけた。
運河の屁泥《ヘドロ》がにおうそこは、思い出すだけで重っ苦しい。
鼻血のとまらない上村が事務所に行き、そのすぐ後、ジェイコブは社長に呼ばれた。高木直一郎は、ジェイコブを見て、「はじめてだな」と言った。「何も若いんやからちょっとくらいやったって構わないが、あまり何度もやるなよ」その高木直一郎の訛《なまり》が自分とのかすかな血筋の繋《つな》がりのような気がして、ジェイコブには耐えがたかった。顔はジェイコブに似ても似つかない。
その高木直一郎を狙っているのは、今も、その時も変りない。高木直一郎の何に憎悪を抱いている訳でもなかったが、ジェイコブは、背の高いその男が、自分と血が繋がっているという理由だけで、その男がやって来た事すべてが許せないと思った。ジェイコブは、子供の頃からその東京に出た男の話を耳にして来た。その男とその男の父親の名はジェイコブも母から聴かされていた。その男の噂は幾つもあった。それまで闇市で芋をふかして売っていた男は或る時、その狭い海と山と川にはさまれた町で、朝鮮動乱の頃、いきなり大会社の山林部に入った。芋を売っていた男はその狭い町に何軒もある山林地主の家に朝から用もないのに出かけて、昼になるときまって縁側に坐り紙包みをひらいて芋を食った。男は芋を食いながら地主らの話を聴き、その間に、山の荒れ具合をところかまわず写真に撮りまくった。大会社にその写真を送りつけ、山林の修復料をせしめた。そのうち地主らの気に入りの蜀山人《しよくさんじん》や古|伊万里《いまり》を一個、二個とその修復料で買い集め、「納屋をさがしとったらこんなものがようさん出て来たんですわ」と、地主に持ち込んだ。男が山林地主らを信用させ、山を幾つもだまし取ったのはほどなくだった。
男が東京へ出たのは、山林地主として近隣を合わせても並ぶ者がないという吉沢に近づこうとして吉沢の凝っている新興宗教に入って、その新興宗教に凝りすぎたせいだった。高木直一郎はその新興宗教の近隣一の巫女《みこ》に誘われるまま女房子供を置いて、熊野の山中に長い事、修行にとじこもった。修行からもどった高木直一郎は、その三十を越えたか越えないかの巫女の御告げがない限り飯も食わない有様で、吉沢はその高木直一郎の信心ぶりに狂喜して、山林も何もかも高木直一郎の手にまかせると言ったが、巫女に下半身からしばられていた高木直一郎は、もうかつての商いは出来なかった。巫女がヤクザと出来たと噂が立ってからしばらくたって、高木直一郎は夜逃げ同然に、東京へ出た。
その高木直一郎はジェイコブにさして変った男に見えなかった分だけ、ジェイコブや、ジェイコブの身に沁《し》み込んでいるその土地の臭いを疎《うと》んじているように見えた。背の高い肉付きの結構厚いその体つきがジェイコブに似ていると思い、ジェイコブはその運河のそばの倉庫会社にいた時、つとめて顔をあわさないようにしたのだった。
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眠り込んでいるジェイコブをユキが起こした時、外はすでに夕焼けが始まっていた。ユキの部屋にヘンデルが鳴っていた。ソファの頭をのせていた部分が汗で濡《ぬ》れているのが分かった。ジェイコブは体を起こし、汗をかいた頭をかき、眠っている間にみた夢が倉庫に働いていた頃だった事に気づき、ユキの勧める煙草を口に咥《くわ》えながら、夢の中で炎が吹きあがっただろうか? と考えた。いや、ジェイコブが想い出す倉庫での日々は、いつも、夢のようだった。夢の中の出来事のように白痴の少女は、火に巻かれ焼け死んだ。
「石油ぶちまけたようだな」
ジェイコブは言った。椅子に坐《すわ》り、横文字の本を読んでいたユキが一瞬、ジェイコブを振り返り、ジェイコブの視線をたどってからやっと気づいたように「ああ」とうなずく。
ユキの部屋の窓いっぱいに見える空が、黄金と朱に光っている。血のような空だった。
「こんなのいつも見ていたような気がするよ。空じゅうが、血だらけみたいになって」
「血だらけか」
「毎日毎日クスリばっかりやってから最近しばらく見なかったけど」
ジェイコブはそれからソファから立って、鳴っているヘンデルを止めた。ユキに金庫がどこにあるのかと訊《き》いた。ユキはおびえたような眼をした。ユキは、読んでいた本をステレオの上に頁をひらいたまま伏せて置き、立ちあがり、ジェイコブの脇に身を寄せるように近寄って昂《たか》ぶった声で、
「いま駄目だぜ」と言う。「下見するだけだからな。見るだけだからな」
ジェイコブが唇をつき出せば顔に触れる距離にいるユキの眼の中をのぞき込むようにみると、ユキはそれをさけるように眼を伏せる。ジェイコブの眼にユキの薄い柔らかい耳たぶが赧《あか》らんでいくのが分かった。「今は駄目なんだ。さっきの女、いるだろう? 彼女しかいまはこの家にいないんだから、彼女が一人の時にやったら巻き込んでしまう事になるんだから」
ユキは言った。
ユキが震えているのに気づき、ジェイコブは、ユキの肩に手を置き、「落ちつけよ」と笑いを含んだ声を出した。
ユキはそのジェイコブの言葉に挑発されたようにジェイコブの手を払い、「来いよ」と先に立って部屋を出る。二階にあるユキの部屋から下の階の応接間までの階段をユキは口笛を吹き、後から従《つ》いていくジェイコブに振り返って、わらった。階段を降りきってユキは立ちどまりジェイコブが自分のそばに立つのを待って、「吹っとぶんだからな」とジェイコブの耳に口をつけて言う。それからことさら声をあげ、「どでかい家だろう。見てみろよ、この悪趣味なほどでかくて、金にすりゃいくらになるか想像つかんくらいの絵を掛けたのを。爆弾のひとつやふたつ破裂させたって、こんな人の血を吸って大きくなったようなところに効きゃあしないんだから」ユキはそう言い、ドアを開ける。
そこは応接間だった。空気がよどみ、日なたくさかった。ユキが電灯をつけ、クーラーのスイッチを入れる。ジェイコブはその応接間の壁にかかった海の絵に見とれた。ジェイコブはソファに坐り、テーブルの上にある煙草入れから煙草を取り、吸おうとして、その煙草が外国製ではなくどこでも市販されているものだった事に気づき拍子抜けした気がして、ふと、自分と向かいあってソファに坐っているユキの父親を想像した。ユキはその部屋の隣に同じような形の部屋があり、そこに金庫があると言った。ユキの想像は、映画のようだった。ジェイコブと西脇が、ユキの手引きでこの丸の内にビルを幾つも持つ大企業の経営者の一家を襲い、機関銃で惨殺し、金をふんだくり、その後、家を爆弾で吹きとばす。惨殺する事も、金を奪う事も、吹きとばす事もすべてユキが綿密に計画し、手引きし、実行する。ユキは、その計画がいま眼の前で行われ成功しているというように、ジェイコブの横のソファに坐り、「隣へ行くそのドアに、今、鍵《かぎ》かかっているけど、オヤジが来てればあけているし、もし鍵かかったままだったら蹴破《けやぶ》ってやればいいさ」
「その時、何人いるんだよ」
「八人。二、三人ふえているかも分からないけど、八人だよ。それに赤ん坊が一人と、女中とあとは運転手だな。そいつらもまとめてやってしまうならやってしまってもいいよ。オイになるけど、かわいくもなんともないから。ミルクじゃなしにあいつも人民の血を吸って育ってるんだからな。ぶち殺したっていいんだぜ。ウジ虫みたいなやつら」それから、ユキは指をおって数えはじめる。ユキの父親。母親。兄二人。姉三人。長女の夫の合計八人。ユキにいま一人、姉がいるが、その姉は体が虚弱で伊東の別荘に閉じ込もったままだと言った。
ジェイコブはユキが指を折って数えるのをみていた。その指を折るたびに、機関銃で撃ち殺し、バズーカ砲を撃ち込み、ダイナマイトで粉々にさせるという計画とはうらはらに、家族の一人一人に愛着を感じてしようがないように見えた。ユキの気持ちよりジェイコブの気持ちの方が本当のもののような気がした。高木直一郎を、殺《や》る。高木直一郎とその妻と、娘を、この地上から消す。ジェイコブはユキが立って、女中を呼び、女中の運んで来た紅茶をテーブルに置くのを見ながら、運河のそばの倉庫にいた時、文字を習い覚えた子供のようにあく事なくくり返しくり返しノートに、高木直一郎の一家を惨殺した事を想像した手記を書いていたのを思い出した。〈だから、ぼくはこのどうしようもないところから出てゆきたい〉ジェイコブはそう書いた。その時、眼を閉じれば、いつでもどこでも、高木直一郎とその妻と娘の三人が、血を吹きあげて、血糊《ちのり》の中で息絶えている姿が現われた。ジェイコブが殺したのだった。ジェイコブは絶えずその想像が息苦しく、アパートの部屋にもどると、手記を書いた。〈灼熱《しやくねつ》の砂漠、絶望の砂漠〉そう書くしかなかった。高木直一郎の一家を惨殺する計画を書き、惨殺した状況を書き、身をかくして逃亡して倉庫で働く身になった自分をことこまかく書いた手記は、まるでそっくり現実に起こった出来事のようだった。だが突然、何もかも焼くように、火事が起こったのだった。白痴の子を巻きぞえにした定食屋のオヤジの焼身自殺は、燃えて死んだのが自分一人では飯も食えない白痴の娘だったから余計に、ジェイコブは、自分が細かく計画し実行したつもりで手記を書いていた事が、嫌になった。命拾いをしたのは、伯父《おじ》の高木直一郎で、白痴の子は、まるでジェイコブの悪意や憎悪の犠牲になったように死んだ。ジェイコブには、高木直一郎の生きる意味を根こそぎそいでやるより先に、突然、或る日、空がまだ朝ですらない時間、石油を体に浴び火だるまになって焼け、生きる事をそがれた白痴の子が、衝撃だった。その日からジェイコブはまだ保護観察の身であり、身元引き受け人の伯父の高木直一郎の保護観察を受けなければならぬのに、運河のそばの倉庫を出た。ジェイコブが、その運河のそばの倉庫を出てから今まで、何をしてきたかユキには分からない。いや、ユキには、ジェイコブが高木直一郎に持つような胃液を吐きつくしてもなお憎悪する気持ちはない。
ユキはソファに浅く腰を掛け、体を前に乗り出して紅茶をすすった。ジェイコブが自分をみているのを知ると、「犯行現場にいるんだからな」と笑った。「ここが爆弾で吹っとぶと思いながら紅茶を飲むってのも悪くはないぜ。オヤジがそこに坐《すわ》って、オフクロがそこに坐って、いまジェイコブが坐ってるあたりに姉らがいるだろう。そこへジェイコブと俺らが顔をかくしもしないで、機関銃持ってくるのさ。オヤジの体も、オフクロの体もバラバラにちぎれてる。機関銃を撃っている間中、さっきのヘンデルが鳴ってるし、撃ち終っても、まだ鳴ってるのさ」
「音楽入りか」
「ヘンデル」ユキは紅茶のカップを持ったままグスッとわらう。それから、カップをテーブルに置き、「ジェイコブはアイラー掛けて欲しいと思うかもしれないけど、バッハとかヘンデルのほうが、血まみれに似合うんだぜ」と、またいつかユキのアパートで思いついて言いたてた理窟《りくつ》の続きのように言う。ヘンデルは、血と鉄と火薬の臭いによく合う。ユキはその時言った。ユキはその時、アパートにそなえつけた大きな冷蔵庫の、脱臭剤の箱の中にかくしていた覚醒剤《かくせいざい》をジェイコブに打たせ、饒舌《じようぜつ》だった。虚弱でしかも、足が悪く歩く事すら出来ない姉とユキは交接した事がある、と誰も耳をかそうともしないのに一人でしゃべった。一家全員を殺してやる。
「血まみれになって生きてるやつが誰もいない家で、あの部屋から、聴こえてくるのさ。ヘンデル」
「ヘンデルなんて、面白い事ないな」ジェイコブはつぶやく。ユキが笑いを消し、ジェイコブの眼をのぞき込むようにまた見ているのを知り、ジェイコブは、自分がまたクスリを飲みすぎた時のように焦点の合わない眼になっていると思った。ポケットからバラになって入っていたクスリ、四錠を取り出し、口に入れ噛《か》みくだきながら、むしろヘンデルは、白痴の子が死んだ火事に似つかわしかった、と独りごちた。
鳴っているのは、ジャズだった。アーチー・シェップ、BLACK GIPSY。ジェイコブはモダンジャズ喫茶店のドアを開け、ソプラノサックスの一節を耳にしただけで分かった。音が、おどけ、地を這《は》う。ジェイコブは、カウンターの脇を通って店の中に入るついでに、そのBLACK GIPSYのジャケットを見た。
Archie Shepp is rightly regarded as the High Priest of Free Jazz. Shepp is revolutionary(both the musician and the man)in the same wayas John Coltrane, Thelonious Monk, Miles Davis, Cecil Taylor, Lenny Bruce, Duke Ellington, Dizzy Gillespie or Stravinsky. ジェイコブの好きなアーチストばかりだった。アイラーが入ればなおいいし、マッコイ・タイナーが入れば文句はない。ジェイコブは、席につく。日本人の女と話していた奥の席の黒人が顔を上げ、ジェイコブを見て、手をあげて挨拶《あいさつ》した。ジェイコブはつられて手をあげる。
黒いジプシー。ドラムスがいい。
ジェイコブは眼を閉じた。
サックスの音が、眼を閉じているから否応なしにジェイコブの耳から入り、体の中を駆け抜ける。ジェイコブは、自分がいつの時も、そのジプシーだった気がした。ジェイコブは眼を閉じたままポケットの中のケースに入ったままの安物のクスリを指先だけで開け、六錠を取り出して口に入れた。噛みつぶした途端、吐き気が喉《のど》の下方から這い上がってくる。
ジェイコブは呻《うめ》いた。
ボーイの君原が、眼を閉じたままのジェイコブに「どうした」と訊《き》く。
君原の持ってきた水を飲み、やっと吐き気がおさまったジェイコブに、「悪い物、食ったんだろう」と君原は言う。「吉と会わなかったか? あいつ、ジェイコブを見かけたらただじゃすませねえって、俺にすごんでいたぞ。吉の女に手をつけたんだろ?」
ジェイコブは物を言うと吐き気が襲って来そうで、ただ首を振った。君原はカウンターの方を見て客がドアを開けて外からのぞいただけだと確かめて、ジェイコブの前に坐り、「おまえ、ユキとかキャスとか、つきあうのよくないぜ」と言う。「ユキって奴は見てても何考えてるか、分かんねえよ。あいつ金持ってるかも知んないけど、まともじゃないな」
「いいんだ」
「この店でまともなのは俺ぐらいだと思う時あるよ。みんなムショ帰りか、カンカン帰りだからな」君原はそう言って、ジェイコブがそのモダンジャズ喫茶店に出入りしはじめてからどのくらいその連中の影響を受けはじめているか見ていられない、と言った。クスリを十三錠、安物の鎮痛剤を六錠、飲んでいた。ポケットの中に残ったケースの四錠を飲むと意識不明になって昏倒《こんとう》するか、死ぬか、どちらかだ、という事はラリってもわかっていた。ジェイコブは壁に頭をもたせかけその BLACK GIPSY を耳にしながら、君原が顔を寄せ、息を吐きかけながらしゃべっているのを聞いていた。君原の顔の輪郭がボケていた。「おまえ、このままここにいると、死んじゃうぜ。クスリばかり飲んで。頬なんかゲッソリしてて、ジェイコブがマサなんかと遊んでいる頃にくらべたら、昔は、見てて色気みたいのがあったけど、だんだんなくなって来てるよ」ジェイコブはそういう君原に、オカマ、と毒づいてやろうと声を出そうとして、口いっぱいに唾液《だえき》がたまってくる。「ほら、ほら、見ろよ、唇によだれたらして」君原がジェイコブの唇を自分の指で拭《ぬぐ》う。「おまえがラリってこの店に出入り出来るの、俺がここにいるからだぜ。もう二十分もすりゃ、マネージャーがやって来るから、ラリって、深夜、いるとたたき出される。深夜は常連を一人もいれるな、ガラが悪くなる、と言われてるんだからな」
ジェイコブはユキが車で迎えに来ると言おうとしたが、あまりラリりすぎて、声が出なかった。小便がしたかった。立とうとして立ちあがれず、引っくり返るところを君原が後から抱きとめ、席に坐らせた。小便がしたいとジェイコブはまた立ちあがろうとした。「まったくしょうがない」と君原がいい、ジェイコブが便所に行こうとするのだと分かったと、体を支えた。「吐きたいのなら、吐いた方がいいよ」
便器の前に立ち、ズボンのジッパーを下げ、性器をつかみ出すより小便が出る方が早かった。熱い小便が股間《こかん》から太腿《ふともも》に流れ、勢いがありすぎズボンの生地の織目からあふれて流れた。ばっかだなあ、という君原の声がした。
下半身を小便で濡《ぬ》らしたジェイコブは、君原に連れられてアパートに行った。君原はズボンを脱がせ、パンツを脱がせ、臭いがすると風呂場《ふろば》につれてゆき、ジェイコブにシャワーをあびせた。君原がジェイコブの体を洗い、立っているだけで痙攣《けいれん》してくるジェイコブの性器を指でしごき、何を思いついたのかジェイコブの顔を両手で支え、ざらざらした髭《ひげ》をこすりつけ、唇に唇を圧《お》しつけた。唇のぬくい感触はジェイコブに不快ではなかったが、舌が唇の中に入り舌をこすったので、吐き気が一度にこみあげた。「しょうがねえな」と君原の声をききながらジェイコブは吐いた。
眼ざめたのは、ジェイコブの方がさきだった。ジェイコブはTシャツ一枚のまま、君原の体を抱く形で眠っていた。小便して、もどると、君原が、「テラスに干してるからな」と言う。ジェイコブがパンツをはき終え、まだ眠ろうとする君原の尻《しり》を足でつつくと、「ゲーゲー吐きやがって」と顔を起こした。「全部、昨日の事は、俺がめんどうみたんだからな。店の便所の掃除からズボンの洗濯まで」
「覚えてない」
「マネージャーに見つかると、もう店に出入りするなと言われるところだったぜ」
君原は起きあがる。パンツの中で勃起《ぼつき》した性器を見せるようにわざと腰をつき出し、「オトシマエつけてやろうと、オカマでも掘ってやろうと思ったら、ゲーゲー吐くんだよな」
ジェイコブは苦笑してテレビをつけた。
君原は十時から店へ出ると言った。ジェイコブに一緒に店へ行くかと訊き、ジェイコブが首を振ると、飯代だと金をよこし、鍵《かぎ》をかけて郵便受けに入れていくなら部屋にいてもよいと言う。
君原が出かけた後、ジェイコブはキャスの家に電話した。キャスは丁度、学校へ行くと言って家を出てモダンジャズ喫茶店に行くところだったと言った。ジェイコブは君原のアパートに来ないか、と誘い、ここがどこか分からないと言うと、
「ケイコが知ってるわよ」と言う。「ケイコがこの間、そこに行ったと言ってたから、一緒に行くよ。ジェイコブ、だけどどうしてそこにいるの、君原って、ヘンタイよ。後で言ってあげるけど、君原のところなんかにどうして泊ったりするの?」キャスは、不機嫌だった。
キャスとケイコがその君原のアパートに着いたのは、十時半を廻《まわ》っていた。キャスもケイコも制服を着ていた。
キャスはジェイコブの顔をみるなり、
「ドライブしない」と言う。
「車がないじゃないか」とジェイコブが言うと、またユキの車を持ち出せば、と言い、部屋の中を見廻し、「君原っていやなやつだと思っていたけど、そんなに趣味悪くないな」と言う。ケイコはキャスの顔を見て、「君原は富さんとずっと前から知ってるんだって言ってたから」ケイコが君原のサイドボードの引き出しをのぞいているのをみて、ジェイコブはキャスに、性交しようと耳打ちした。キャスが聞き取れなかったらしく訊《たず》ね返したので、「交接《オマンコ》しよう」と声をあげた。普段、見ている服装のキャスなら顔を赧《あか》らめる事もなかったのに、キャスは顔を上気させた。その上気した顔ととまどいぶりが、随分、女らしかった。
「いいわよ。気にしないで」これも制服姿のケイコが、言う。ジェイコブはとまどうキャスをからかうように、キャスの手をつかみ、後から制服姿を持ちあげるようにして、さっきまで寝ていた君原の布団に進み、そのまま布団の上に倒れ込んだ。制服のスカートが大きく広がり、ジェイコブには好都合だった。舌を差し入れ、キャスも強く吸うので音の立つキスを何度もくり返しながらジェイコブは、スカートをめくりあげてパンティに手を掛け、腰を浮かすころあいを待って脱がせた。キャスは、十八歳の女の子に思えなかった。
ジェイコブはふと思いつき、君原の本棚から本を引き出して読んでいたケイコを呼んだ。
「ちょっと手伝えよ。手がふさがってしまったから、俺のパンツおろしてくれ」
ケイコは、いいわよ、と本を置いて、腰をあげたジェイコブを見る。ジェイコブがキャスの胸をはだけ、服の上から手をすべり込ませて、桜色の小さな固い乳首を指にはさんだ形で乳房を外に引き出し、ゆっくりともみしだくのをみながらケイコは、ジェイコブの横にきて、坐《すわ》った。「ケイコ。キャスだってもう俺とケイコが何度も交接《オマンコ》した事があるのを知ってるんだから、服、脱いじゃえ」
ケイコは「いやよ」と首をふり、手をのばして、ジェイコブの勃起した性器の重さをはかるように両手でささげ持ち、ジェイコブがキャスにキスをし、左手で乳房をもみ、あいた右手をケイコのスカートのすそからひざの間に差し入れた。ケイコはひざの力を抜き、腰をつき出すようにしてひざをあける。ケイコはそれでもジェイコブのパンツを脱がせ、ジェイコブの気を引くように性器を力を込めて握った。それに誘われてジェイコブはキャスから唇を離し、「ちょっと待ってろよ」と言い、横に坐ったケイコの頬をひきよせ、キスをした。性器をケイコの手に持たせたまま、濡れて熱いキャスの女陰をその性器でさぐり、先を入れた。ジェイコブの性器の先が入っただけでキャスは声をあげ、ケイコの股間に差し入れた右手がパンティの上からキャスよりもふっくらと肉が盛り上がった形のケイコの女陰をさぐりあて、粘液とも汗ともつかぬもので濡れているその周囲をこすり強く押すと、ケイコはそれを待ち受けるように性器を力いっぱい握りしめる。そのケイコの手を払うようにジェイコブはキャスの脚をあげさせ、体を起こしてゆっくりと奥にむかって腰をつき出し、ケイコの手が離れたのに勢いを得て強く思いっきり二度、腰を動かした。キャスは長く尾を引いた声をあげた。
ジェイコブが腰を突き出す度に、声をあげ、ジェイコブ、ジェイコブ、と眼を閉じて名を呼ぶキャスに煽《あお》られたように、ケイコは不意に立ちあがり、うつむいて、スカートをはずした。ジェイコブが、腰を廻し、また突き出しながら、「ケイコ、君原みたいなヘンタイやろうよ、オマンコなめさしてくれよ」と言うと、「羞《はず》かしいからみないで」と言い、上着を脱ぎはじめた。素裸にパンティひとつになってケイコはジェイコブの横に坐った。ジェイコブ、ジェイコブというキャスの声をききながら腰をはやく動かし、いまひとつ違う体があるんだと気がついたようにジェイコブが首をのばしてケイコの乳房を吸おうとすると、ケイコはいきなり力が体にみなぎったようにジェイコブの頭をかかえ、唇をつけた。
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ケイコはキャスよりも、ジェイコブが知ったどの女よりも陰毛が細く濃く、一本一本が柔らかく優しかった。今にはじまった事でないのに、ジェイコブは、キャスの脇にケイコを横にして寝かせ、ケイコの声をつまらせた昂《たか》ぶりようを煽ろうとするように陰毛を上から下へゆっくり撫《な》で下ろす事が面白かった。ジェイコブは、ケイコの下腹に唇をつける。
陰毛の生えたあたりが内側からもりあがり、かすかに指が花の芽ほどの陰核に触れるたびにケイコは声をあげ、乳房を両手で押える。
キャスはジェイコブの体を下から押えつけるように身を擦り寄せる。ジェイコブの性器はキャスの奥まで達していた。ジェイコブはそのキャスの動きに合わせるように腰を動かし、その動きでケイコの大きく広げた股《また》の間から顔がはずれないように一方の手で、尻から廻して固定させた。ケイコはその陰核に指が触れ舌が当る度に、大仰に声を立てた。その声にそそのかされてキャスから身を離そうとすると、キャスは、ジェイコブの両尻を手でつかみ、つめを立てようとする。ケイコはジェイコブの指が女陰に入るのを待ちかねていたように、力を込め女陰の襞《ひだ》に指をはさみこむ。キャスにしがみつかれた形のまま、ケイコには、指で嬲《なぶ》り唇で吸うしかジェイコブには方法がなく、その事がまた、ケイコの昂ぶりを促しているように、ケイコは声をあげ、ジェイコブの頭を間にはさんだまま、果てた。キャスは、そのケイコにさらに煽られたように、もっと、と言う。キャスの女陰は固すぎる、とジェイコブは思い、ケイコが体の力を抜いたのを機に、キャスに両膝《りようひざ》を立てさせた。一気に性器が女陰の襞々を押し潰《つぶ》し伸ばすように腰を打ちつけると、キャスは、それまで一度もそんなに深く性器が入った事がないというように声を上げる。
「ジェイコブ、キスして」
ケイコがあおむけに寝たままで言う。
ジェイコブがその声に取り合わず、キャスが昂ぶり果てるのと自分が射精するのを合わせようと、強く、力一杯、体ごとキャスの女陰の中に入って行こうと打ちつけると、ケイコが、キスしてよ、キスしてよ、と泣き声を立てはじめる。
ケイコは強姦《ごうかん》されたばかりだというように、のろのろとおきあがり、膝を立て、桃色の肌に、夏の最中だというのに鳥肌を立ててジェイコブの上下する尻《しり》をみている。キスしてくれてもいいじゃない。キャスしか愛してないの、分かってるわよ、キスぐらいしてくれてもいいじゃない。
ジェイコブが射精し、キャスが便所に立ったのを機に、ジェイコブはケイコを自分の脇に寝かせた。ケイコはジェイコブの性器を握り、それからそれがいまさっき射精した為、精液でぬめっているのを知ったと手を離す。なめろよ、と小声で言った。ジェイコブはケイコの耳に口を寄せ、「キャスなんか淫乱《いんらん》ですぐ俺のをなめたがるんだぜ。今、ケイコがなめたら、俺のも、もう千回くらい人になめられる事になるさ」ケイコは、薄笑いを顔に浮かべ、それからさっき性器を握った手を引き出して、その手をいきなりジェイコブの頬にこすりつける。「ヘンタイばかりだから」
「ヘンタイだっていいさ。どうせ、みんなそんな事ばっかししてるじゃねえか。ケイコはマサってやつ知ってるか?」
ケイコはうなずき、ジェイコブの手をつかんで自分の乳房に持っていく。ジェイコブはケイコの体を足でかかえ込んだ。「マサってやつはいい奴だったぜ。ユキも、吉も、言ってるけど、あいつ、あのモダンジャズ喫茶店でひと頃、神様みたいに思われてたんだよな。喧嘩《けんか》も強かったって。あいつ、いつもキンピカの服着て、いつも金持ってたよな。どうしてなんだろうと思ってると、あいつオカマのヒモをやってたんだぜ」
「ジェイコブはそのマサにほれられたんでしょ」とキャスが言う。それからジェイコブの顔を見て、「いっぱい出て来やがるの」と口真似をやり、その自分の口真似につられて笑い、ケイコの横にすべり込む。君原がもどって来たらもう気持悪くて眠れないっていうくらいになっちゃうよ、この布団。キャスは言い、ケイコの後から手をのばし、ケイコの乳房をわしづかみにする。
「マサは俺に言ってたよ。俺のコーヒー代出してくれたり、飯代出してくれる度に、耳元で、ジェイムス・ディーンの真似して格好つくってぼそぼそ声で、ジェイコブ、昨夜、三回しゃぶられてこの金作ったんだぜって。いい奴だったけど、あいつもヘンタイだったな」
「ジェイコブもユキもヘンタイよ」
「ユキ?」ジェイコブはキャスに訊《き》き返した。
「ユキはそうよ。ジェイコブはそうだから、ユキとつきあってるのよ」
「そうじゃない」
ジェイコブは言った。
「ユキはまじめさ。それに、つきあってるのは、あいつ、アパートを持ってるだろう、それに金を持ってるじゃないか。マサとは全然違うよ。マサはいつも誰かそばにいてチンポをくじってくれるか、自分が人のをくじっているかしないとダメだと言ってたけど、ユキは、あいつ自分で言ってるよ。女が嫌いだ。男はもっと嫌いだって」
「ヘンタイよ」ケイコが言う。
ジェイコブは黙った。二人を相手にして、しゃべり勝つ自信はなかった。ジェイコブはただ、今はもう随分昔になり、マサそのものもモダンジャズ喫茶店に入りびたり遊び廻《まわ》る生活から足を洗い、故郷に帰ったが、マサという人間がいた、そのマサとオカマまがいの不思議なつきあいだったと言ってみたかっただけだった。マサの部屋に、その本物のオカマが居ない時に限って泊めてもらったのは、運河のそばの倉庫会社を抜け出て来て、ジェイコブに泊る部屋も金もなかったせいだった。すべては一変していた。
マサは、ジェイコブを自分に似ていると言った。そのモダンジャズ喫茶店にたむろする連中の誰が喧嘩を吹掛けても,手助けしてやると言った。マサの手がジェイコブの性器にのびても、一向に気色悪いと思わなかったし、むしろマサが、一緒に遊びに出たビリヤードでジェイコブの分も支払っている事に言いようのない格好のよさを感じた。二人は恋し合っていたのかもしれない、と思った。背丈はマサよりジェイコブの方が幾分高かったし、ジェイコブがそれまで力仕事をしていた事もあったし、その町で年久らと習熟した喧嘩だったので、争えばマサを殴り倒す事も出来たろうが、マサに何もかも教わったような気がする。唾《つば》の吐き方はマサの仕種《しぐさ》が最初だった。そのマサが時折、異なった人間に見える事があった。夜、街娼《がいしよう》らが客引きしている繁華街からはずれた暗がりに立った女らに、マサは口笛を吹く。女らの一人が振りかえると、「いい尻してるじゃないか」とからかい、その女が酔ったような足取りで近寄ってくると、「いいんだ、間に合ってるよ」と言う。その女が、ふんと顔をそむけて行きすぎるとジェイコブに、「オカマだよ」と耳打ちする。そのマサに惚《ほ》れている女は、その店の常連の中に何人もいた。マサはその一人と、姿を消すように不意に故郷へ帰ったのだった。
ケイコの乳房を後からキャスがもみしだき、首筋に唇を着けていた。ジェイコブはそのケイコの唇に唇を重ねて舌を差し入れ、勃起《ぼつき》した性器を片膝を立てたケイコの女陰に入れようとする。キャスがケイコの後から手を廻して長く張ったジェイコブの性器に手をそえてケイコの女陰に導こうとする。それはさっきケイコがキャスにした事と同じだった。
ケイコの女陰は濡《ぬ》れていたが、キャスよりもきつく、小さく見え、互いに横になったままジェイコブが腰をそらす形で何度か動くだけで、ケイコはキャスとはまるで違うように、また、キスして、とうわごとのように言い、ジェイコブは、舌がもう一本の性器だというように口いっぱいに差し込むと、息をつめ、せき込み苦しむように長い呻《うめ》き声を立てた。
ジャズが鳴った。
耳の内側で音は渦巻いて、空洞の体の中に流れ込み、ジェイコブは壁にもたれて坐《すわ》ったまま、その空洞に溜《たま》ったものが、呼吸をする度に耳や眼の方へ逆流する気がした。さっきまでキャスとケイコの女陰の中に入って何度も射精した性器が、ジャズに煽《あお》られるようにけだるい疲れを持っている。頭そのものが重いというように壁に体をもたせかけているジェイコブを見て、キャスが膝に手を置き、「狂ってるのよねえ」と舌ったるい口調で言った。
「ケイコ、あんな事して学校へ行って、平気なんだから」
それからジェイコブの膝を抱え込むように手を伸ばし、体を擦り寄せ、
「このごろ、いつも真面目に学校へ行くのよね。それでおかしいなって思って訊いたら、先生《センコウ》と出来たんだって言うの。ケイコは本当のバカよ。通俗よ。よく、テツとかアキラなんかが読んでいる競馬の新聞にそんな話が、小説みたいにして載ってるじゃない。ケイコが言うのよ。厭《いや》になったら、富さんにでも頼んで脅してやるつもりで、先生を襲ってやろうってさがしたら、丁度、数学の先生《センコウ》がいたんだって。数学」
キャスは顔をしかめる。
「ケイコは、いい男よ、って、数学の授業ある時だけ、休まないでトンチンカンなのに授業に出てさ、先生がすぐにでも姦《や》りたくってしょうがないような顔をして時々みつめるのを楽しんでるんだって」
キャスは笑った。その笑顔から顔をそむけるよう眼を閉じた。
ジャズが鳴った。
Sketches of Spain マイルス・デビス
空洞が胸の中にある。
ジェイコブは眼を閉じたまま、一度も行った事のないその光が当っているスペインの広い土地を想い描こうとした。だがそれは、ジェイコブ自身が見たのかどうかさえ定かでない、いつか見た、すでにもう随分遠い彼方《かなた》の犬の死んだ山での景色のような気がした。
犬の死んだ山から、家は見えなかった。
日が、黄金色に、その山の頂上から見える建物や人を光らせ、それを見る者の眼には、その町がこのうえなく悲惨な出来事に見舞われている気がしたのだった。そこにあったのは真空の町だった。ぼやけた曖昧《あいまい》な記憶のようなもの、錯覚のようなものの真空の町から、マイルス・デビスの Sketches of Spain、ジプシーがかきならすフラメンコの音に似た曲が流れでてくる。ジェイコブは、何もかも忘れたと思った。高木直一郎は自分には無関係だし、高木直一郎の一家を惨殺し、逃亡したという筋書のノートも、ガソリンをかぶり火を放たれて死んだ白痴の子も、忘れた。
ジェイコブは涙を流した。
日は黄金色にその真空の町を塗りたくった。ジェイコブは、葬儀の行われている家へ向う道筋を、木で作ったソリを肩にかついで歩きながら、体に溜っていた血が一滴一滴したたり落ちてしまうように気力がなくなるのを感じた。年久もシゲも、自分とは無縁の子供に思えた。
ジェイコブはソリを家の脇に置いた。そのまま家の中に入らず、駅の方にむかって駆けた。今となってはその自分が見たくなかったものが何であるのか、はっきりとわかっていた。すべては後になってジェイコブが保護観察を受ける高木直一郎の仕出かした事ではじまっていた。いや、ジェイコブはその事をすでに知っていた。黄金色に塗りたくられたその町で、高木直一郎が材木を商う人間として財をなして行くに従って、噂は広まった。高木直一郎は、母にジェイコブを孕《はら》ませたと噂が立った。ジェイコブの六歳上の兄が縊死《いし》したのは、その事を、耳にしたからだった。材木商として人に知られた高木直一郎が、巫女《みこ》に下半身から縛られたのは、巫女に、腹違いの妹であるジェイコブの母との秘密を握られたせいだとも噂した。噂は不快だった。子供心にも、自分が、その一人の男を新興宗教に凝り固まらせ、兄を縊死させる秘密そのものだと噂される事は耐えがたかった。母は、だが、頓着《とんちやく》しなかった。髪を振り乱して死んだ子の為にしばらくは泣きはしたが、葬儀の金も、それからの生活の援助も、通りにまだ大きな事務所を開いていた高木直一郎から出させた。兄が死んで一年後、雨漏りのひどい土間を板張りの床に改築さえした。その金もそうだったし、大工も、高木直一郎の差し向けたものだった。
その頃から、ジェイコブは家に寄りつかなかった。人の家に泊り、年久と組んで、或る日は、汽車で四時間ほどかかる町にまで行ってうろつき、金目の物をさがした。警察に補導されて連れ戻されたジェイコブを見て、母は何も言わなかった。ジェイコブのその頃を、今、キャスに話しても信用しないはずだ、とジェイコブは思った。
ジャズが変った。
今までかかっていたマイルス・デビスの曲とはまるっきり違う「惑星空間」だった。ジェイコブはサックスを吹いているのが、そのレコーディングをしてからほどなく死んだジョン・コルトレーンだという事を知っていた。スウィングする事もいらない、一切合財、拒むというコルトレーンは、耳に痛いたしく聴こえた。それでもコルトレーンが何を言っているのか聴き取ろうとジェイコブは耳をそば立てる。音と音が幾つも打ち当り青白い光のようなものを身に残すのを知り、ジェイコブは、声を限りに泣いてみたいような気がした。殺してやる。その男の頭を叩《たた》き潰《つぶ》し八つ裂きにしてやる。〈絶望だ。絶望だ。絶望の砂漠、灼熱《しやくねつ》の砂漠〉
ジェイコブは、肩にもたれたキャスの頭をはずし、立ち上がり、入口の脇にある電話に歩いた。すぐ女が出た。女の応答の声を確かめて、「バズーカ砲をぶち込んでやるからな。爆弾を投げ込んでやるからな」と言おうとして声を呑《の》んだ。受話器から「もし、もし」と女の声が応答しつづけた。ジェイコブは電話を切った。惑星空間のコルトレーンが、耳にこもり、ジェイコブは一瞬、自分の眼が白く閃光《せんこう》を放ち怒りで焼けたような気がした。ジェイコブは思い直してあわててポケットをさぐった。金は、まったくなかった。君原がそのジェイコブを見ているのを知り、ジェイコブはウィンクを送り、「今度は反吐《へど》をはかないようにするからよ」と軽口をたたき、レジから取り出した十円玉を受け取り、今一度ゆっくりとダイアルを廻《まわ》した。女の声は高木直一郎の妻だった。ジェイコブは、片耳に指をあて片耳に受話器を押しつけ、自分が思っていた事とはまったく違う声で、「ジェイコブですが」と言った。
高木直一郎の妻はとまどっていたが、「ジェイコブさんなの? 久し振りやねえ」とその町の方言さえ使って応対した。「どこへ行ってたん、元気なの? 直一郎は心配して、心配して」
「もう二年ほどになるけど、お変りなかったですか?」ジェイコブは言った。
「さして変った事はないんやけど」
ジェイコブはおかしくも何ともないのに声を立てて笑った。店の奥からキャスが見つめていた。ジェイコブはふと思いついて、笑いを残した顔のまま、「これからでも、遊びに行っていいですか? 伯父《おじ》さんにも会いたいし」それから冗談を言うように、「昔は、伯父さんにいつ怒られるか分からんとはらはらして、あんなに優しい声かけてもろたのに、逃げて廻っていたけど、離れてみたら、都会に一人いる気してさみしい気する」
今度は、受話器の向うで、女が声をたてて笑った。女は、やっと安心したように、「いらっしゃいよ」と、よくその町の旦那《だんな》衆の家の女らが使う訛《なまり》のある東京言葉で言った。ジェイコブは、唾《つば》を吐きたくてむずむずしながら、丁寧に挨拶《あいさつ》し、電話を切った。
ジェイコブを見ている君原に、「オマンコ、ぶち込んでやりたいよ」と言い、床に唾を勢いよく吐いた。君原が、きたねえな、と眉《まゆ》をしかめ、それから思いついたように、「ジェイコブ、キャスを連れて今夜、俺の部屋へ来いよ」と言った。ジェイコブは、君原を見て、「今日は行かない」と言った。
キャスを連れて高木直一郎の家へ行こうと思ったが、ジェイコブはやめた。キャスを連れて、彼女だとか、恋人だとか言えば高木直一郎は安心するかもしれないが、キャスはどんな意味でも無縁だった。その男に関する憎悪も、いや、その男の名前を見るだけでどうしようもなく不快になる事そのものもジェイコブ一人のものだった。その男と一家を殺害しようと計画したし、惨殺が計画通り遂行されたとして架空の完全な逃亡ノートを作っていたが、それは誰の力を借りたわけでもない。いまはもうすっかり忘れてしまったが、養護院に入り鑑別所に入っていて、ジェイコブに唯一あったのは、娑婆《しやば》に戻ればその男を何とかしようという思いだった。ジェイコブは、キャスに持っている金を全部出させた。定期入れと財布に入っていた金、三万七千円。ジェイコブは、君原にも頼み込んで一万円を借りた。
伯父の家へ持っていって羞《はず》かしくない果物をみつくろい、そのままタクシーに乗った。夕焼けが始まった空は、いつか見た記憶があった。いや、ジェイコブは、手に提げた箱入りのマスカットも、タクシーも、運河のそばの高木直一郎の家へ向う気持も、どこかで一度経験した事だった気がした。次々と変る空を見ながらジェイコブはふと、その箱入りのマスカットが自分のあらかじめ計画した惨殺計画の細部に酷似しているのに気づいた。その時、果物の箱には、果物ではなく爆弾が入っていた。ジェイコブはそう思いつき、高木直一郎、その妻、その娘が、
「あれが何、持って来たんじゃ?」
娘「マスカットみたい」
「そんな高級なものを、あの浮浪児みたいに育ったのがよう知っとったな。まあ、安物じゃろが」
妻「これでも精一杯、無理したんやろね」
「あれらからそんなもん、ひとつやふたつもろてもバチあたらんわい。むこうにおる時に難儀ばっかりかけてくれたんじゃから。おまえの耳に入っとらんかもわからんが、うちの番頭や営業所長らが、雨降った、と言うては屋根の修理代かしてくれ、風吹いたと言うたら板壁の修理代かしてくれと言うてくると、ネをあげとったが、あれの母親はそうやってなおしてもなおさんでも大して変らん家まで持ち出して金をせびりに来たんじゃ。高木のオヤジが、他所《よそ》の後家に孕《はら》ました子が、あの女で、オヤジもその後家のためにえらいめに会うたんじゃ」
そんな会話が、果物が入った箱を前に交される。その箱をあけたのは、高木直一郎の妻だった。途端、閃光が走り、火柱が吹き上り、その応接間の物すべてを粉ごなにして四方八方に吹きとばす。轟音《ごうおん》は倉庫の裏の運河の端まで届く。それですべてが終り、それからジェイコブの苦しい逃亡生活がはじまるのだった。
その時の果物の箱が、マスカットなのか、メロンなのか定かでない。いま、高木直一郎の家へ向うタクシーの中で、ジェイコブが膝《ひざ》に置いている箱には、マスカットの絵があり、中にマスカットが詰まっている。想像している事と現実は、ほんの紙一重の差だが、その紙一重の差が、ジェイコブを苦しめる。ジェイコブはぼんやりと外を見て、空がまたじょじょに血の色に、吹き上がった炎のような色に染まっていくのを見ながら、あの果物の箱とこの果物の箱の違いの中にこそ、毎日毎日、ジャズを耳にするたびに感じる真空になってしまったような自分があるんだと思ったのだった。一体どこから来たのか、何をしていたのか、ジェイコブは自分を分からない。汗ばんだ手が果物の箱を膝から落ちないように支えている。ビルの向うに、ボールのような日が沈む。
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10
まっすぐ行けば運河に出る道の手前で、タクシーを降りた。
日が赫《あか》かった。ジェイコブは日の方に向って通りを歩き、煙草屋の角を左に折れた。その道は見覚えがあった。煙草屋の隣は煤煙《ばいえん》や通りを走る車のために、茶っぽくすすけているが昔風の格子が変らずにあったし、その道をしばらく行ったところにある人がすれ違う事が出来る程度の露地は、ジェイコブが眼にした時と同じように家の前に置いた台に鉢植えの朝顔が繁っている。
ジェイコブは立ちどまった。
嘔気《はきけ》がした。
そこからしばらく行き信号を折れると高木直一郎の家があった。だが、さっきの昂《たか》ぶりはなく、ジェイコブはその家へ行きたくなかった。体が重く、自分の中に、赫い日が入り込んでくる。
ここまで来てその心変りをジェイコブは分からなかった。ただ日に塗りたくられて今、立っている。
そのまま運河のそばまで歩いた。日が空から消えかかるのを見つめた。風が運河の黒い水を波立てていた。ジェイコブは小石を投げるように手に持っていたマスカットの入った箱を水に投げる。爆弾のように破裂もしないし、炎もあがらなかった。顔を上げるとオートバイが二台、運河の横でぐるぐる円を描いて廻っているのが見えた。ボディに日が撥《は》ねていた。それもそのうち見えなくなった。
ユキにその時の気の昂ぶりと心変りを言おうとして、ジェイコブが「まっ赤な色ってのはヤバイよな」と言うと、ユキの横に坐《すわ》った男が鼻に抜ける声で、「まあそうだな」とうなずく。
ユキはハンチングを被《かぶ》っていた。ジェイコブの言葉に頓着《とんちやく》しないと言うように、
「面白くやりたいんだよ」と言い、ジェイコブを見る。ジェイコブは苦笑した。
その曲が誰のものか分からなかった。ロックに随分近い曲だった。そのジャズとは言い難いような曲は映画音楽のようだった。君原に文句を言ってやろうと顔を上げると、丁度外から入って来た吉の女のロペと顔が合った。ロペが一人なのを確かめてから、ジェイコブはウィンクして合図した。そのジェイコブにつられるようにユキが顔をあげ、話にならないと手をふる。
ロペはジェイコブらの隣の席に腰を下ろした。運ばれて来たコーラを置いてみつめ、
「綺麗《きれい》じゃない」と言う。
一口飲んでから、ああなにもかもすっきりするわ、と言い、それからジェイコブとユキの顔を交互に見て、「吉、死んだよ」と言う。ジェイコブを見つめたロペの大きな眼から大粒の涙が転がるように出てくる。ロペはコーラをまたストローで一口飲む。涙がストローで吸いあげたコーラのように後からこぼれ出てきた。
「吉は沖縄から来てたのよ。どうでもいいけど、吉、ずうっとこれやってたの」ロペは右腕をつき出し、左手で注射を打つ真似をした。「やりすぎよ、時どきムチャクチャになるんだから」
「ほんとかよ?」ユキが訊《き》いた。
「ほんとよ、ちゃんといまごろ警察が行ってるわ」
「覚醒剤《かくせいざい》やってたって?」
「だからどうせ吉の部屋から覚醒剤見つかるんだから富さんも挙げられる」
ロペは溜息《ためいき》をついてからジェイコブを見て、「あいつ何か言わなかった?」と訊いた。ジェイコブは首を振る。ジェイコブがモダンジャズ喫茶店に姿を現わしはじめた頃に一度、それから夏に入る前に一度、ロペと寝たのを吉は知っていた。
君原が店の音量を下げて、カウンターから首をのばし、「吉がどうしたって?」と訊く。
「死んじゃったって」ユキがどなった。「くたばったって、よ」
その声を聞いてロペが突然声をあげて泣き出した。そんな事、言わないでよ、と言う。手を上げると乳房が形よくくっきり出た。ロペがキャスやケイコと比べものにならないくらい大人びた雰囲気を持っているのにジェイコブは気づいた。「吉とずうっと一緒だったんだから。くたばったなんて言わないでよ」
君原がまたカウンター越しに通路をのぞき込んで物を言った。らちが明かないと思ったのか外に出てくる。歩いてジェイコブの前に立ち、「何で死んだんだ?」と腹立ったような声で訊く。
ロペは答えなかった。ただ泣いている顔を上げて君原を見た。ユキがハンチングをいじくりながら後に立った君原に身を反りくりかえるようにして、「あいつはヤケを起こしてこれを」と注射を打つ真似をした。「どっさり一遍にやったんだろう。いくら空手出来るんだ、キックボクシング習ってたんだって、人間なんて濃度の違うやつ入れりゃイチコロさ」
ロペが君原の顔を見あげる形で顔をあげたまま泣いている。
「ラリハイのんでりゃいいんだよ」君原が言った。「どうせろくでもない事しかしねえこの店の連中なんか、ラリハイのんでよ、芋虫みたいにボーッとしてりゃあいいんだぜ。なあ、ジェイコブ。何も考えないでボケッとして、コルトレーンとかアイラーとか、一生懸命吹いているジャズをここへ来て聴いてさ、まるで自分がハードに自由に吹きまくっているような気になってここで、この店でうたたねしてりゃいいんさ。眼さめたらイロガキみたいにオマンコすればいいじゃないか」君原はジェイコブの顔を見る。「覚醒剤までやるこたないよ」
「マサが俺に言ってたけど、ここは教会なんだからな。勉強も仕事もしたくねえってふまじめな奴が何に取り憑《つ》かれたのか、朝から神様に祈りをしにくるんだからな」君原が言った。
「教会か」ユキが独りごちるように言った。「ジャズが神様か」
君原はそのユキの言葉にチッと舌打ちした。ユキを見て、インテリぶってるのに頭悪いやつだなと言い、カウンターへ歩いた。レコードを途中で止める。それから音量を目いっぱいあげて、コルトレーンをかけた。確かにマサが言い出し、君原が今言うように、モダンジャズ喫茶店が教会のようでもあった。もっともどこのスラムでの教会でもこんなにきたなくはないし、こんなに駄目な奴ばかりは集まっていないはずだ、と独りごちる。常連の中で少年院や刑務所出でない者は数えるほどもいない。ジェイコブはいまさらながらこの教会だというモダンジャズ喫茶店に集まる連中が、不思議な嗅覚《きゆうかく》を持っているのに驚いた。コルトレーンのサックスが、轟音《ごうおん》をひびかせ雷のようにとどろく。
ロペが突然、弾《はじ》けるようにして立ちあがった。カウンターへ走り、レコードを止めようとした。針が爆弾のような炸裂《さくれつ》音をあげてレコードの上を走る。またコルトレーンの曲がフレーズをのぼり切った途中から続く。男を殴りつけるように君原がロペを殴りつけた。ロペは大声で叫んでいた。ユキがしゃがんだまま聴きとりにくい言葉を叫んでいるロペに被《おお》いかぶさるようにして、君原に「やめてよ、やめなよ」とどなる。
君原がレコードを切った。ユキに羽交いじめにされる形で起きあがったロペは、音が止むと急に口をつぐんだ。顔に被《かぶ》さった細かいウエーブのついた髪を左右にただゆすりながら、呻《うめ》く。
君原は出入り禁止だと言った。
「おまえらみたいな連中の来るところじゃねえんだ。マネージャーがはやく言え、はやく言えと言っていたのを俺がとめていたんだからな」
ロペは君原を見て、身を左右に揺すって羽交いじめを解き、顔に被さった髪を上にあげる。唇が切れ血が滲《にじ》んでいた。
そのロペを連れて、君原に追い出されるようにモダンジャズ喫茶店の外に出た。夏の蒸された街の臭いが鼻につく。ユキに体を支えられたままのロペのワンピースの腰についた血が日の光に驚くほど赤いのに見とれたジェイコブに、その夏のにおいが、甘くせつない思い出のようなものをかきたてる。ジェイコブにそんな甘くせつない思い出があるはずもなかった。自分がこれから十歳|齢《とし》を取り、二十歳齢を取れば、いまこう歩いている事が甘い思い出として記憶の片隅からひょっこり出てくるかもしれないが、今はただ赤い血が一滴ついているのを見るだけだ。吹いてきた風も、ジェイコブに遠い昔に味わった緑の葉をそよがした甘いただ眠っているだけの自分に吹く風を思い起こさせる。だが、今、十九歳のジェイコブが眼にするのは、ビルが立ち並ぶ都会の中の風だ。ジェイコブはけだるかった。何もかも、モダンジャズ喫茶店から追いたてられてきたロペとユキと鼻に抜ける声を出す男とジェイコブの四人が歩きながら抱く眠気のようなものに溶け込んでいく気がした。白いワンピースのロペの尻《しり》はキャスのものとは違い見ているだけで勃起《ぼつき》しそうなほど大人っぽく形がよい、とジェイコブは思い、はじめて吉が死んだと思った。
「どうってことないわよ」
ロペは鏡に唇をつきだし、形のよい爪にマニキュアをした指で押えてみた。
「あいつにしょっちゅう殴られていたから、平気よ。馴《な》れちゃってるよ」ロペはそう言ってジェイコブの脇に来て、「あいつ、ジェイコブとわたしがいつも連絡取り合ってると思って、突然、俺って男がいながらとどなり出して、何度買って来てもドレスもズタズタに切られちゃうの。勤めているといろいろあるわよ、ねえ」とロペは言う。
「ぶらぶら遊び歩いている吉と一緒にいるんだから、化粧品のマネキンだけじゃなしに、アルバイトでモデルもやってたのに、ちょっと遅くなると、こうよ」ロペは平手で顔をはる真似をする。もっと吉の混乱がひどい時はロペはいま仕事からつかれてもどってきたばかりだというのに、吉に服を破られ裸にされた。吉ひとり覚醒剤《かくせいざい》を打っている時もあったし、ロペも太腿《ふともも》の内側、性器のすぐそばに打たれる時もあった。
「悪い事ないのよ、モデルやってるとどうせ減量してなくちゃいけないんだから」
ロペは言い、それからまた吉を思い出したのか涙をあふれさせ、まつげをはねあげるように指先でぬぐい、「ああ一緒にはやく行ってやるんだったなあと思う」とため息をつき、笑いを浮かべる。
「どこへだよ?」ジェイコブは低いこもった声で訊《き》いた。
「沖縄」ロペは言う。
「面白いクラブもあるし、五月くらいから泳げるっていってた……」ロペはまた涙が出て来たというように顔にわざと明るい笑いをうかべ、「吉はこうよ」と声音をつくり吉の真似をする。「ロペ、俺よ、おまえがサントロペへ行きたい、サントロペへ行きたいって言ってたろう、だからよ、シャブ、自分で打っちゃわないで紀伊國屋の連中とかチェックの連中に廻《まわ》すだけにしようと思ってんだ。だから富さんに金渡してもうちょっと量、仕入れようと思ってるよ。金つくって来いよ。すぐ二人でサントロペへ行けるさ。それで、わたし、うん、そうね、と言うの。金つくって来てやるわよ、広告の仕事一つみつけりゃ、いいんだから。わたしがそう言うと吉は、ロペ、俺、好きだなあ、美人だなあ、かわいいなあって言うの。吉はヒモの天才よ。吉にそう言われると、ガンバラナクチャア、と思うけど、がんばって金を持ってくると、シャブ、全部自分で打っちゃう。切れかかったら、ジェイコブとオマンコして来たんだろうって言って殴る。弁解できないわよ、嘘言えないわよ。ジェイコブと二度ほど寝た事があるし、それに、わたし、吉、好きだし。吉になら殺されてもいいと思ってたし、吉が死んだら生きていないと思ってるから……。何されてもいいの。もちろんマネキンやってたし結構売れてるモデルだったから、体に傷つけられたり顔に傷つけられたりするのはいやだけど、でもかまわないの」
ロペの眼にユキの部屋の窓が映っている。その窓はただ白く光っているだけだった。
ジェイコブはロペの髪を撫《な》ぜた。ジェイコブはユキのサングラスをかけた。
ユキが寝室から歩いてステレオにスイッチを入れる。いつか爆弾を投げ入れる時、機関銃でユキの一家を惨殺する時、ユキの家の二階にある自分の部屋で鳴っているはずだと言ったヘンデルをかける。電話のベルが鳴り、ユキが出る。駄目だよ、この部屋、喫茶店じゃないぞ、とユキは言ってから電話を切り、ロペの髪を撫ぜたあと顔をあげたロペとキスをしているジェイコブに、「キャスだよ、ジルを連れてくるって言いやがんの」と言う。
キャスがロペとこうやって一緒にいるジェイコブを怒る事は分かっていた。ただロペは美しかった。
ロペはジェイコブに自分の方から求めてキスをした。ユキのレイバンの薄い緑色のサングラスを通して見るロペの顔はいまにも強く扱えば壊れてしまいそうなほどきゃしゃだった。死んだ吉にならロペは、何をされてもいいと思っていたというその吉が、たまらなく歯がゆい気がした。唇を離してもロペは長いまつげの眼を閉じている。唾液《だえき》に濡《ぬ》れてこころもちひらいた唇の間から舌が見えている。ロペ、ロペ、ジェイコブは呼んだ。ロペはジェイコブの声にも眼を開かない。
「今ごろ捜査してるよ」ユキが言う。ジェイコブがユキのさし出す氷水を受けとった。ロペを起こした。ユキがつくった氷を入れただけの水をのみロペがさっきとは違う低い大人びた声で、「もうちょっとここにいさせて」と言う。「あそこへ行って、また、死んだ吉みたら狂っちゃう」
「死んだのか」ジェイコブはロペの飲み残しの氷水を飲み干した。
ジルを連れてキャスが入ってきたのと、ロペが体を起こしたのと同時だった。キャスに笑顔をつくり、ロペはユキの寝室をのぞき込んで「ねえ、わたしの友達呼んでいい?」と明るい声をつくる。
ユキがキャスの顔を見て察したのか、「いいよ、かまわないよ」とうなずく。
「モデルやってる女の子と俳優してる男の子呼ぶからさ。わたしの仲のいい子」
「何でも呼んでくれ、こうなりゃ、もうお終いになってきたんだから」ユキはそう言い、「ジェイコブ」と呼ぶ。「どうしようもないよな。中途半端でも俺らのせいじゃないよな」ユキはそう言い、ジェイコブの裸の背中を後から抱くように手を廻して、「後で別なアジト教えるから」と小声で言う。ロペが電話し終るのを待って、ユキは三か所に電話を掛けた。モダンジャズ喫茶店が閉鎖したと暗号のように繰り返した。ジェイコブがけげんな顔をしていると思ったのか、「公安がずうっとマークしてるのさ。君原なんか公安のイヌじゃないか」と低い声で言う。「爆弾なんかとっくにアジトに運んでるよ。公安がどんなに計略してもやる事はやっちゃってるよ」ユキは笑いをつくる。ジェイコブがまだ理解できないという顔をしていると、「誰も信じちゃいないのさ。ロペだってジェイコブだって信じちゃいないのさ」と言う。
キャスはジェイコブの顔を見ながら近寄ってくる。ジルがそのキャスの後におどおどした眼で立ち、キャスの後から「吉が殺されたって」と言った。殺された? 誰に殺されたんだよ、とユキがヘンデルの曲にあおられるように声を出す。ロペがいきなりさっきジェイコブと一緒にいた部屋に駆ける。窓があいていた。一瞬だった。ジェイコブはロペの肩をつかんだ。ジェイコブの手をロペは振り払おうとしてもがく。「やめてくれよ」とユキが昂《たか》ぶった声で言った。「いらいらしてくるからな、誰が死のうと殺されようといいじゃないか。どうせ血のつまったズダ袋じゃないか。豚みたいに生きてるんだろ。何にも知らないでただ生きてる。吹っとばしてやりたくなるよ」
キャスがステレオのボリュームを落とす。ロペがジェイコブの腕の中で震え、裸の胸に頬を寄せるのをキャスはただ見ている。キャスはジェイコブがロペとも寝た事があるのを知らない。ジェイコブはキャスの眼を意識しながら、ロペの髪を撫ぜ、その床に坐《すわ》ってやる。「殺したのよ」とロペは言った。「吉にシャブ打ったのわたしよ」
「どうでもいいよ」ユキが言った。「一人や二人死んだってどうという事はないんだ。みんな死ぬんだ」
キャスが「ジェイコブ」と立ったまま呼ぶ。「ユキはヘンタイよ」
「バイドクのくせに。イロガキの男とみりゃ尻《しり》振って廻ってチンポつっ込んでもらいたいって言っているガキのくせに。腐ったオマンコが臭いよ。売女《ばいた》のオマンコから生れたイロガキが。俺をヘンタイだと。盗っ人のガキが。低能の知恵足らずのイロガキが」ユキは震えながらどなった。ユキはいつもとは違った。「おまえらのような下水管が詰まったような感性でこの俺を見てほしくないよ。おまえらのようなバイドクのアタマでみた世界に俺を押し込めてほしくないよ。俺が何を見ているか言ってやろうか。俺が夜眠る度に何を思っているか言ってやろうか。低能が。イロガキが」
ユキはジェイコブを見た。ジェイコブが坐ってロペを抱きかかえるのを一瞬|眩《まぶ》しげに見て、ユキは「ジェイコブもそうだ」と息を切らせながら低い声で言った。日は充分、空にある。サングラスをかけてみる日の当ったもの、何もかも白っぽい緑色にみえる。
「やっぱしヘンタイよ」キャスは言った。ジルが少女のような顔でキャスを後からつつき、キャスに「ほっといてよ」とどなられる。
「ユキなんかちっとも恐くないんだから。ユキの方がおかしいんだから。お金持ってるかもしれないけど、ただそれだけじゃない。狂ってるよ。オマンコ、オマンコって言うけどユキは人間好きになった事がある?」
「いいよ、もうどうでも」
「答えなさいよ、どうでもよくないわよ」
「愛した事なんかねえよ。俺は俺と姉だけしか愛した事ないよ。みんなガス室に放り込んでやるって言ってるんだよ。親も兄弟も友達も、ジェイコブもロペも富岡もおまえもジルもガス室にぶち込んでよ、毒ガスしゅうしゅう出してやってよ、皮はいでそれで本をつくって、脂肪そぎとって石鹸《せつけん》にするのさ。後は犬の餌にくれてやる」ユキはそう言い、眼から涙をポロポロこぼす。ユキは壁に背をもたせかけてずり落ちる。床に坐り込む。「俺が昔子供の時描いて姉にみせて喜んでいた絵はどんなんだったと思う? いまなら親父の絵かいて、二日おきに体斬りつけてやってる絵かくだろうけど、昔は違うんだ、世界の皆さん手をつなごうって決って人間の顔した鳥がとんでるんだ」
「それがどうしたのよ」
「博愛主義だったってことさ。今も昔もかわってないけど、手っとりばやいのはガス室に世界の皆さん、みんなをぶち込んじゃえということさ」ユキはにやりとわらう。「キャスのような低能の腐ったオマンコにはわからないだろうけど、俺は自分をヒットラーやヒムラーによく似ていると思うよ。俺一人しか、みんな腐ったオマンコのような奴は死ねと言うやつは居ないだろ。そのうち、みんなムカッ腹が立ちはじめるさ。たとえば俺のオヤジのやっている大企業だよ。丸の内で働いているうちの会社の社員はエリート中のエリートさ。毎日、事務を執《と》ったり計算したりしてるよ。だけど、工場に行ってごらんよ。工員たちが汗ながしてトラクターつくったり、キャタピラつくってる。工員と書類みたり計算する奴のどっちが上だと思う、物をつくってる工員の方が上なのに今もこれからも工員が上になることなんかないさ。同じ労働者だというけど、そんな事で物を扱う奴のムカッ腹をおさえられるはずがない。職人の世界を考えてみろよ、戦争前は、隣は大工、その隣は左官屋という物を相手に組み立てられた社会だったけど、今は、違うよ。物を扱う商売ってのは、機械化や分業化が進んでいろんなところで未熟練工になっちゃってる。ムカッ腹立つのは未熟練工さ。俺はそれを組織してやる。俺がつくった党に入りゃ、ムカッ腹や欲求不満が自分の向上にもなり社会の向上にもなるって教えてやるよ。キャスのような腐ったオマンコに眼もくれるな、身を律して清潔にして、天使の国に行こう、天使になろうと呼びかけて、まず今、エリートだというやつらに報復してな、それからみんなでガス室にむかって行進させる。生き残るのは俺だけさ」
「ヘンタイよ」キャスが言う。
「ファシストって言ってくれよ」ユキが言う。「おまえらみたいなイロガキにはファシストは無理なんだから」
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ロペの友達だと言うモデルと俳優がユキの部屋に来た頃は、まだ日はあった。だがすぐ日暮れた。
ユキの油絵道具の中からたっぷり液の入ったビンを持ち出し、ジルが風呂場《ふろば》に入り込んだ。シンナーの臭いが部屋に漂った。ユキは「そのうち、あいつは頭の皮はいでやるよ」と言うだけでとがめ立てなかったので、誰もジルをとめない。白い薄いビニール袋をかぶってジルは、浴場のタイルの上に転がっていた。
俳優が便所に行ったついでにそれをのぞいたらしく小声でロペに「風呂場で人が倒れてますよ」と言った。ロペは物を知らない男だと軽蔑《けいべつ》したように、「そうなの」と言う。「あれ、ジルっていう子」
モデルはロペの後に坐った。ユキが冷蔵庫の野菜入れにビニールにくるんで仕舞っていたタイ・スティックをとり出し振る舞った。
キャスはジェイコブの脇にいた。ジェイコブはサングラスをかけたままだった。低い音でロックがかかっていた。ジェイコブの耳に口を寄せてキャスが、
「お通夜っていうの? 吉、殺されたから?」と訊《き》く。
ジェイコブは吉が死んだからと言い直した。それから、キャスに訊かれるまま、キャスに金を借りて土産を買って、行こうとした高木直一郎の話をした。高木直一郎は都会に唯《ただ》一人いる伯父《おじ》だった。タクシーを降り、運河のそばまで歩き、突然、そこへ行きたくなくなったのは、夕日を受けてボディを光らせながらオートバイ二台、ぐるぐる走り廻《まわ》っている音を耳にしていたせいだった。
ロペが俳優と話をしているのを、ジェイコブは眼で追っていた。俳優は身をそらした。それからパントマイムをやるようにひょいと足を前に出して、急にけだるくなったようにだらんと力を抜き壁にもたれ、ロペが二言三言つけ足すと、俳優は首をねじるようにうなずく。その何でもない仕種《しぐさ》が腹にすえかねる、とジェイコブは思った。
ユキが振る舞ったスティックがなくなる頃、ロペが泣いていた。ジェイコブが後から「どうした?」と近づくと、ロペは「帰りたいの」と甘えるようにつぶやいた。スティックが効いてキャスはヘラヘラわらっていた。モデルと俳優はただ唇をつけ合うだけのような気のないキスを繰り返していた。ジェイコブはロペと寝たいと思った。俺も帰りたくなっていた頃だからどこへでも送ってやると、俳優におどすように「運転するから、鍵《かぎ》貸せよ」と言うと、俳優が何を取り違えたのか、「ジェイコブさん、悪くないですか?」と言う。「何でだよ?」とジェイコブが訊き返して言った意味を悟ったように「ぼくらも出ます」と笑いを浮かべる。
キャスに気づかれぬようにユキにだけ合図してこっそりと部屋を抜け出し、ロペを連れてガレージまで行くと、モデルと俳優が二人互いに身をそむけあった感じで立っている。二人が諍《いさか》いを起した事は分かった。俺が運転するんだから隣にロペが乗れとジェイコブが言うと、ロペは「後にヨッコと一緒に乗るわ」とウィンクし、俳優にむかって、「前へ乗ってよ」と言う。車に乗り込んでエンジンをかけた途端、ロペが、「吉もそうだったけどあの店に来る常連って、みんなヒモかジゴロみたいだったわね」と言う。「みんなちょっといい男で、齢《とし》が若いのが玉に傷だけど。二十八、九ぐらいになったら、女が自分の方から甘い汁吸ってちょうだいと言い寄っていくように、ちょっと冷たくて、酷くされそうな感じがして」
車を発進させ、行方も決めず走りながらジェイコブはサングラスをはずした。「やさしいんだろ?」
「そう、投げやりな感じだけど、やさしいの。今のジェイコブだってそうじゃない。一緒にドライブするって外に出たけど、彼女だってあそこにいたし、ユキと何か一緒にやる事あったんでしょ。いい男よ。あの店の男はだいたい同じよ。ちょっとスケベで、女を取り合ったりオイチョカブやマージャンで喧嘩《けんか》したりするのに、仲よくってさ。女好きでしょうがないのに、それよりか男同士の方がいいって言ってさ。ジェイコブだってそうでしょ、わたしを取るか吉を取るかってなったら、女なんてまた寄ってくるんだって言って吉の方を取るでしょ」
ジェイコブは黙っていた。ロペはまた泣いている。「いい男だよな」俳優がジェイコブを見つめて言う。
高速道路に入った。一瞬、東京からこのまま消えてもよいと思った。
「ジャズなんか聴いてやしないのよね。ジャズ聴きに行くんじゃなくって、みんなただ群つくって、よッとか、挨拶《あいさつ》に出かけるだけみたい。ジンとかワンちゃんとか、元気のいいのが時々、マッポがよお、とか、紀伊國屋の連中がよお、と言うけど、あれは低学年なのね。この彼が一度行って、ジンの話きいてて恐くなって出て来たんだって」ロペは俳優の肩を後からたたく。ロペの言葉に俳優とモデルが同時にわらった。
海が前方にみえた時、夜はまだ明けていなかった。カーラジオをFENに変え、ロックが鳴っているのを耳にしながら、ちょうど登り坂になった道のガードレール際が黄金色の粉を蒔《ま》いたようにキラキラと輝いているのを発見した。その辺りで追突事故があって硝子《ガラス》がこぼれたと推測したが、それは坂道が下りになっても変らない。ジェイコブは綺麗《きれい》だと思い、自分が初めて詩でもつくったように、黄金色の粉、とつぶやいた。黄金色の粉は黒い海に似合っている。後の座席でロペとモデルが頭を寄せあって眠り、ジェイコブの隣に俳優がドアに頭を傾《かし》げて眼を閉じている。俳優はジェイコブよりも二、三歳年上のようだった。下り坂の二股《ふたまた》の道を右に折れ、そこから入江が一望出来るところに車をとめた。ジェイコブはライトを消した。
煙草に火をつけて外に出た。
海からの風は肌寒かった。白んだ空と白っぽい海があり、見つめているとそれがゆっくりと青く変色しはじめる。普段なら水平線の辺りが緋《ひ》に燃えているところだが、今日はただ青に変色して行くだけだった。
俳優が車を運転して、海沿いのレストランまで行った。
コーヒーを頼んでいる間にジェイコブはユキに電話した。ユキではなく電話に出たのはジルだった。シンナーの酔いがまだ取れない口調で、「みんな寝てるよ。ジェイコブの悪口さんざん言ったよ」とジルは言う。キャスを起こしてくれと言うと、口ごもり、今帰ったと言う。そこで何かが起っているという姿を思い描いたが、勝手にしろと電話を切った。
日があれば青く光っている海がレストランの窓からのぞけるはずだった。ジェイコブが持ってきたユキのレイバンをかけて、ロペは灰色の外を見ながらコーヒーを飲む。俳優とモデルの二人は昨夜の諍いのしこりがまだ取れないらしく、ジェイコブが時折、モデルの子に声を掛けるのを俳優は迷惑げに見るだけだった。窓の外はくすんだ風景画のようだった。灰色の空に鴎《かもめ》が翔《と》んでいた。ロペがジェイコブの顔を見て「映画みたいね」とつぶやく。「吉が死んじゃってて」
俳優がジェイコブに、「今度コマーシャル用のストーリーつくるから俺たちと一緒に出たらどうだろう」と思いつきを言った。「このまま撮ったって面白くないからみんなドタバタ喜劇にする」ジェイコブは俳優を一瞬殴りつけたくなる衝動が起きた。ジェイコブはロペからレイバンを取り、テーブルの上に置き、「なあ、俺とオマンコしようぜ」とわざとそのモダンジャズの店の連中のよく使う言い方をしてロペの手をつかんだ。テーブルが間になかったら勃起《ぼつき》して痛い性器をロペの白い柔らかい手に握らせてやるところだった。「四人でやってもいいぜ、波の音耳にしてたら、オマンコしたくなってくると思わねえか」隣に坐《すわ》った俳優がとまどった表情をみせて曖昧《あいまい》に笑いをうかべているのを見て、「嘘だというなら、触ってみなよ」と俳優の肩をわしづかみにする。俳優のおびえたような眼をみながら、「なあ、四人でよ、死に狂うまでオマンコしようぜ」とジェイコブは言う。
ジェイコブは自分の眼の白い部分がほの青く瞳孔《どうこう》が薄茶色にみえるのは、日に当る機会がないせいだと思い、充血した眼にモデルから借りた眼薬を入れた。モデルと俳優は素裸のまま抱きあって動かずにいるし、ロペが薄いホテルそなえつけのガウンを着て外をみている。そのロペを抱えて乳房を後から手をさし入れてつかむと、ロペはその手を圧《おさ》えて、ふと「本当に行っちゃおうかな」とつぶやく。ここにいてこうやってても仕方ないし、そうかと言って、サントロペへ行ってもすぐモデルの仕事が見つからないかもしれないけど。ロペはつぶやく。
煙草を取ろうと振り返ると、モデルの両脚を持ちあげながら尻《しり》を動かしている俳優が見えた。モデルの声が耳にひびく。吉みたいな男と一緒に暮らしたらもう駄目ね。やさしいのよ。怒ったら酷くてもう殺されるというところまで、体中がひりひりするまでやるのに、優しいのよ。女の子と寝たってあんなに優しく扱ってくれない。いまさっきジェイコブとしながら、ジェイコブを吉だと思ったらそれだけでもう駄目だった。クラクラして来て、何回も何回も息が止まりそうなほど。ロペの唇を俳優が吸い、ジェイコブがモデルの女陰に顔をつけ、モデルが俳優の陰嚢《いんのう》に舌をはわして丁度四角形になった時もあった。
ホテルの下から車をたたく音がし、ジェイコブがのぞくと、俳優の車のボンネットを子供ら二人が撫《な》ぜ廻《まわ》していた。一人の子は片手に木刀を持っている。その駐車場のすぐ裏は竹林だった。そのリゾートホテルは高台にあったので海から吹きあがってくる風はホテルに当り、渦を巻き、一層強く竹林を揺すらす。俳優がモデルの上からおり、あおむけに寝ころがる。モデルが起きあがって便所にいく。モデルの尻にじゅうたんの縄目の跡が赤く出来ているのをジェイコブは眼で追い、それからロペを抱きあげるようにして椅子からおろした。
日の光が急に外に充《み》ちあふれるのをモデルが見つけ、シャワーを交互に使って裸を洗い、外に出た。駐車場の裏の竹林が海からの強い風を受け、日をきらきら撥《は》ね、音をたてながら揺れる。その駐車場の脇からホテルの裏を抜けると、さらに小高い山の上の方へつづいた道がある。
その道を登ると赤い花を幾つもつけた椿の木があった。ロペがジェイコブの腕をつかみ、「速く歩くから動悸《どうき》がしちゃった」と言い、立ちどまってその花をひとつ取り、急に思いついたように、「昔から、この花、好きじゃなかった」と花弁をマニキュアをした白さのくっきりした指で二つに割る。「ポトン、ポトンと音たてて落ちるのよ」
「綺麗じゃない」
ロペはモデルに、ほらと足元を指さす。「落ちてるの、みんな首から、もげてるみたいでしょ」
ロペは持っていた花弁を道の脇の低い灌木《かんぼく》の藪《やぶ》の中に放り投げた。そこから、青く日に光る海が、丁度浜辺に沿った山に切り取られるように見えた。その海が、夜明け前の海とも、ホテルのレストランの窓からのぞいた海とも違い、水嵩《みずかさ》の多くなまなましい感じさえある。俳優とモデルが小声でつぶやきあっているのを眼にしながら、ジェイコブはロペにその海の方へ歩いてみようと言った。ロペはうなずく。
崖《がけ》の端にある道を下りると、そこは丁度ホテルの面した海とは反対側に当る場所で岩場の横に砂浜がある。近辺の子らの海水浴場になってもいるらしく、子供らが三人、水中眼鏡をつけて泳いでいた。「泳ぐ?」ロペが訊《き》いた。ジェイコブは潮風を受け波音を耳にして急に胸が苦しくなる気がしてただ首を振った。ジェイコブは砂浜に坐り込んだ。ロペが横に坐り込む。ジェイコブは、日に当る海を見つめた。レイバンの向うには海ではないような海が見え、それがうっとうしくレイバンをはずした。やはり海でないように海は日を受け、波打ち、音を立てる。
ロペはその膝《ひざ》を立てたジェイコブの太腿《ふともも》に手を置き、ジェイコブの海を見て考え込んでいるような姿が不安になったように、「みんな、泳いでいるのよね」と言う。「わたしなんかが、薄暗いところでジャズ聴いたり、踊ったりしてるんだけど、こんな風に海があるのよね」
俳優とモデルが、海に入る。
モデルはブラウスを上に着、下はパンティ一つだし、俳優は下穿《したば》き一つだった。海に駆け入って二人は互いに水をかけあい、爆《は》ぜるように笑う。ロペ、ロペ、泳がない? 誰も見てないわよ。モデルは言う。水中眼鏡をつけた子供の一人が、俺らがおる、と小声で言い、その言い方にムッとしたように、「誰もいないわよ。あんたたちなんか、どうって事ないじゃない」とやり返す。
「透いて見えとる」
子供の一人が、水に濡《ぬ》れて貼りついたモデルのブラウスの胸を指さす。子供が水にもぐり、モデルの足元に来て顔を上げ、モデルに「イヤラシイわね、あっちへ行ってよ」と水をかけられる。それから俳優の方へ泳いで、水に胸をかくすように立ち、髪をかきあげ、ロペ、泳ごうよ、と呼ぶ。ねえ、いつかこんな風にして、フィルム撮った事あったのよ。俳優に話しかけるモデルの声がとどく。ジェイコブは砂浜に膝を抱えて坐ってただ見ていた。光を撥ねる海も、日の光さえも、一度も見た事のない光景のようだった。
波音が響く。海がジェイコブの眼や耳や鼻から中に入り込み、ジェイコブそのものが海のようにただ揺れる。
ジェイコブは思い出した。いつか子供の頃、これとそっくり同じ光景を眼にした事があった。その時、ジェイコブも水中眼鏡をかけていた。
ロペがジェイコブの肩に頭をのせる。
髪が頬をくすぐる。その髪をかきあげると、ロペはそれが自分を愛撫《あいぶ》する優しい手だというように顔をずらし、ジェイコブの手を自分の頬にずらせ、唇をつける。
「吉がさァ、ジェイコブって分かんない奴だって言ってた」
独りごちるように言い、
「ジゴロやってた?」
と訊く。
ジェイコブが黙っていると、
「二人でサントロペへ行かない」
と笑いを含んだ声になる。ロペはジェイコブの手をつかんで顔をあげ、顔に明るい笑いを浮かべ、「サントロペはここみたいに海があるし、お金持ちがいっぱいあつまる別荘地よ」と言う。ロペはジェイコブの腰を抱き、それから思いついたと声をひそめる。「ジェイコブだから言うけど、吉には絶対言わなかったけど、ジェイコブの他に寝た男、いるの。お金持ちの実業家で、何度か寝る度に、どこへでも行かせてやるって言ってくれる。ニースだって、サントロペだって。もう中年だから腰が太いのよね」ロペはわらう。「ジェイコブもそうだし、吉だって、腰が細いのよね。腕を廻すとすんなり廻るでしょ。サントロペへ行きたいって思っててふと気づいたけど、ジゴロは何故、有閑マダムに流行《はや》るかと言うと、女だってたまに自分の腕がするっと廻るぐらいの腰の細い男、抱いてたいのよ。だから、二人で、サントロペへ行っちゃうの。わたしがモデルやって。ジェイコブが、またジゴロやって」
ロペは笑う。眼尻が赤らんでいる。
ジェイコブはジゴロなどやった事ない、と声に出さず、言った。
「吉にもそう言ってやったのよ。いつか、一緒に行って吉が夜、金持ちの女を泣かせに行って、わたしはモデルをやってるの。モデルの仕事がない時、吉がヤキモチ焼かなかったら、金持ちの爺《じい》さん相手に売春婦する。ちょっと素敵な映画みたいじゃない。吉とのことだったらすぐ想像できる。吉は、突然、いやだと言って、流行ってるのに行かないの。それで仕方ないから、私が昼は超高級品のモデル、夜は売春と二つも仕事やって、そのうち吉がヤキモチ焼きはじめる。くたくたになって帰ってきて、シャワーあびて綺麗《きれい》にしてから吉に愛されようと思ってるのに、いきなり裸にする。私をぶつ。ぶってもかまわないけど商売ものだから、跡つけないようにして、と言うと、その言い方が気に入らないとミミズ脹《ば》れが幾つも出来るほどぶつ。ぶちのめす。やめてよ。吉、やめてよ」
ロペはジェイコブの体に腕をまわしたまま、身を擦りよせ、頭を振る。涙をうかべ、ジェイコブがその顔に唇をつけようとすると、「いや」と言い、ジェイコブの体を突きとばした。ロペは自分の話の昂《たか》ぶりからさめ、急にまた昂ぶったように顔を手でおおい、声をあげて泣きはじめた。ジェイコブがそのロペの耳元に、「サントロペへ行こう」と言うと、いやと首を振る。吉じゃないから、嫌。
子供が魚を突きさしたヤスを持って波打ち際から一直線にジェイコブの方へ歩いてくる。魚がひくひく動いているのはまだ生きている為か、それとも子供の歩く振動のせいか、見えない。ロペは涙をぬぐい、眩《まぶ》しげに、その子を見る。ジェイコブは、一瞬、その子が年久のように見え、眼をこらした。耳元で、ジャズの短いフレーズが稲妻のように走り去る。子供は五メートルほどのところで、弾《はじ》けるような笑い声を残して身を翻して自分の連れがたむろしている波打ち際の方へ走る。
ジェイコブは急に不安になった。
ロペが立ちあがり、波打ち際に歩いているのを眼で追いながら、ジェイコブはその風景の中から、ゴム草履《ぞうり》をはいたかさぶただらけの子や、いつか眼にした木に鈴なりに止まったムクドリの大群が、日の光のきらめきの間から突然、躍り出てくる気がした。
泳がないの、とモデルが波打ち際の方から歩いてきてロペに言うのが聴こえる。俳優が水に濡《ぬ》れた顔を手でぬぐい、「こんなとこ、写真に撮られたら大変だよな」と言う。「波がきれいだよ。全然よごれてない。沖の方へ行ったらあんまり青すぎて怖いぐらいだね」俳優はそう言い、馴《な》れなれしく手招きし、「泳がないですか」と呼びかける。
その三人を見て、ジェイコブは醜悪なものを見たと顔をそむけた。海は嫌いだ。反吐《へど》が出る。ジェイコブは思った。ジェイコブは眼を閉じた。尻《しり》の下、足に、焼けた砂を感じた。空から落ちてくるのは単なる日の光ではない気がした。光に当る肌は石綿にこすられたように熱い痛みがある。眼は焼け焦げている。高木直一郎を、殺してやる。ジェイコブは痛みに呻《うめ》きながら、独りごちた。
東京に戻ったのは、その日の夕方だった。
部屋に戻りたくないと言うロペを連れて、ジェイコブはそのモダンジャズ喫茶店から通り一つへだてた道にあるビリヤードの店に行った。ビリヤードの台の奥にカウンターがある。止まり木に腰かけていた男が、歯を見せて笑顔をつくり、「久し振りじゃないか」と声をかけた。ジェイコブはその男に合図も返さず、カウンターに入っている男にジンジャーエール二本頼み、そこからユキに電話を入れた。電話はただ呼び出し音ばかり続いて、誰も取る者はいない。部屋に誰もいないのか、それとも居るが、受話器を取らないのか。ジェイコブは呼び出し音を耳に聴きながら、ジンジャーエールのビンにストローを突っ込み飲んでいるロペの横顔を見ていた。
ロペが顔をあげて不安げに見る。
「出ないな」
ジェイコブは言った。
「あいつら俺らみたいにドライブへでも行ったんだろうか」ジェイコブはそう言って電話を切り、思いついて出入り禁止だと言われたモダンジャズ喫茶店に電話を入れてみた。君原はすぐ出た。ジェイコブは君原の声を聴いて急に不安になった。君原はユキもキャスも出入り禁止だからな、とわらい、「ジェイコブ」と声を低めて言う。「ユキの連れの西脇っていうやつ、気をつけた方がいいぜ。あいつさがして、マッポがウロウロしてる」
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ビリヤードの店の大きな硝子《ガラス》窓から、ビルとビルの隙間にのぞけた窓に今、夕焼けが広がっているのがわかる。サングラスをかけたジェイコブの眼に、それは運河の黒い水面に立った波のように見える。受話器の向うからジャズの音にかき消されそうな声で、君原が、「来いよ」と言う。「どこ行ったって面白くないんだろう。来いよ。お前一人ならこの店へ来たって構やしない。おれはあいつらが嫌なだけなんだから」
ジェイコブはその君原の声を聞きながらロペを見る。ロペはジンジャーエールをまだ半分も飲んでいない。ロペは顔をビンにくっつけ、表面に付いた細かい水滴を見つめている。止り木に腰かけていた男が立ちあがり、ビリヤードの台の方へ歩くのを眼で追いながらジェイコブは君原の「ジェイコブ」という声が不意にうっとうしくなり、言葉も返さずに電話を切った。ロペが顔をあげ、ジェイコブを見つめ、それから笑いをつくった。ジェイコブは一瞬、そのロペにむかって、また、血のような夕焼けが始まったと言いたい気がした。いや、実際にサングラスをかけたままのジェイコブの眼に夕焼けの赤い色が見えた訳ではない。ジェイコブは何度も見た炎が吹きあがるような夕焼けを思い出し、それをロペに言いたかった。吉の故郷だった沖縄にはやく一緒に行くのだった、サントロペへ行くべきだったと言うロペに、ジェイコブは自分がいままで眼にして来た事を一切、話したかった。
ジェイコブは人を殺した。そして逃げた。いつかそう思って運河のそばの倉庫に若い労働者としてかくれ、くる日もくる日も自分の犯した罪を背負ったまま働いたのだった。ジェイコブが本当に人を殺したのでも、本当に逃げて倉庫で働いていたのでもなかったが、その時高木直一郎のすぐそばにいる事で、そのジェイコブの架空の計画そのものに実在感があった。
高木直一郎は今、現に生きている。戸籍上の伯父《おじ》にあたるその男には幾つも噂があるのをジェイコブは知っていた。そこはジェイコブには噂の幾つも飛び交う土地だった。噂の幾つも飛び交う土地で葬儀は行われ、ジェイコブはその葬儀の日から自分がどこの誰であるか名前すら定かでない子供になってしまったのだと思い込んだ。モダンジャズ喫茶店に出入りしはじめ、その店の誰もが十九歳のジェイコブを、どこから来て何をやっていたのか分からないと言う度に、ジェイコブはその葬儀の日を思い浮かべた。炎のようにソリすべりの崖《がけ》に生えた草は風に身をおこした。高木直一郎を惨殺する理由はあった。惨殺して逃げのびる理由もあった。
ジェイコブは人を殺した、とロペに告白したい気だった。
ジェイコブはロペの隣に腰をおろした。腰をおろした途端、今さっき思っていた告白したいという気持が消え、くすぐったい笑いが泡のように体の奥の方から這《は》い上ってくる。ロペはそのジェイコブを怪訝《けげん》な顔つきで見つめ、それから思いついたように死んだ吉がどうなったのか心配だから部屋に帰ると言う。ジェイコブを見つめていたロペの眼に涙がにじみ出し、あふれた。
部屋に帰ると言い張って一人でロペがタクシーに乗り込んでから、ジェイコブはただ歩き廻《まわ》った。繁華街のはずれの公園でブランコに乗って一時すごした。妙にさみしかった。夏の最中なのに寒かった。夜の中にいると光はもう永久に出てこない気がした。ジェイコブは繁華街からの灯《あか》りや月で服もズボンもただ白く浮き上っているのを見ながら、昼間みた海が嘘だったように思えた。空を飛行機がとぶ音がした。つまり真実とはそんな事だけだ、とジェイコブは思った。
「まったく恥知らずな、残酷な……」と誰かが言った。男はその声には素知らぬ顔で子供に訊《たず》ねた。
学校にあんまり行ってないんだろ?
行ってる。
子供は蚊のような声でつぶやいた。
行ってるようにみえんさ。
周りの連中が笑った。
名前は?
知らない。
幾つ?
知らない。
何になりたいか教えてくれるかい?
歌手。
また周りがわらいさんざめいた、手をたたく者もいた。
歌えるのかい?
歌える。
子供は歌い出したのだった。どよめきがおこり、陶然として歌をうたっていたジェイコブが顔を上げると野犬が三匹、井戸の脇から猛烈な勢いでかけ出して来る。子供の一人が、そのジェイコブと補導員を取り巻く輪をさけて駆け続けていく犬を指さし「みて、みて」と叫んでいた。ジェイコブは口を固く閉ざし唇を噛《か》んだ。
それからジェイコブはその背の高い補導員の行く先々について廻り、ジェイコブと同じように学校へ行っていない子供に補導員が訊ねるのを見ていた。補導員は目当ての子がいた時は案内したジェイコブや他の子には用がないと目もくれなかったが、その子がいないと一日手持ちぶさたになる事が耐えられないというように、このあたりにいないのか? と訊ねる。
補導員がカメラを持った助手をつれている事もあった。そんな時は決って手持ちぶさたで、二人は、どこで働いてる? とよく娘に訊ねた。
働いてやしないよ。
写真、撮っていい?
娘は、どうすんのさ、と蓮《はす》っ葉《ぱ》な口をきき、唾《つば》を吐く。どこかの女郎屋から逃げたとでも言うのかい。その威勢のいい娘の声に誘われて昼日中からぶらぶらしている若衆らが、補導員らの顔をにやにや見つめながら集まってくる。元気かい、また来たな。若衆らの一人が言うと、また来ました、元気だよ、とオウム返しし、えらい暑いですな、という。暑いのなんのって、一日ブラブラしとるが、狭いブリキ屋根の中に入っとるだけでもめまいがする。若衆らは一斉にわらう。ここは特別に暑い。暑いというので仕事へも行かんで家にいるだけでも、めまいがする。
どこで働いてるんですか?
家。
家で何をしてるんですか?
ヤクザ。
ヤクザって?
ぶらぶらして飯食っとるの。
あんたは?
ヤクザ。
若衆らは一斉にわらい、補導員と助手はキョトンとしている。その二人に追い打ちをかけるように、若衆はジェイコブの頭に手を置き、これもどうせヤクザになるな、と言う。子供らの話をきいて写真撮ってどうするんな?
補導員は真顔になった。
学校教育が子供には要《い》るんですよ。何するにしても。補導員は若衆の一人を指差し、彼もヤクザ? と訊ねる。
まあ、ヤクザだね。
組に入ってるの?
組くんで仕事してる。
何の?
いろいろあるだろう、いちいち説明できるか。
じゃ、テキヤみたいな事やってるんですか。
それじゃない、ヤクザだよ。熱いさかりはブラブラするしかない。
補導員はそれ以上質問する事をあきらめたようにそばにいる男の子に、幾つ? と訊ねる。十二という答えをきいて、六年生か、とつぶやく。君も歌手になりたいのかい?
ヤクザ。
どうして、と補導員は腹立ったように言い、あいつみたいに歌手の方がいいのに、とつぶやく。歌がヒットしたら人気出て、金も入ってくるし、女の子にももてるじゃないか。
じゃあ、歌手。
歌ってくれよ。
学校で習った歌しか歌えない。
周りが一時《いちどき》に笑ったのはその子が嘘をついているからだった。
歌えるけど、金くれないと歌わないよ。
それでも子供は歌を歌い出した。男の子は真夏だというのに、スキーの歌を歌った。男の子は途中で歌を忘れた。周りにいた子供らが期せずして手救けした。男の子が歌い終ると周りの者が一斉に拍手した。ジェイコブは鼻白んだ。
補導員は助手に言いつけて、若衆らも全員入るように写真を撮らせた。
その若衆らからいますこし離れたところから、アル中の男が様子をうかがいながらやってきて、補導員が学校を無断でなまける子供を補導に来たのだと確かめてから、近寄り話しかける。アル中男は補導員に取り入るように、ジェイコブや他の子供たちの役割を横取りしてとうとうと演説をぶち、ジェイコブのような子供はさして多くはない、親の教育が悪いせいだとしゃべりはじめた。
歌ってくれないかな?
補導員はまた言った。
たった一分間でも。あんたも将来歌手になろうと思ってんだろ?
ジェイコブに名ざしされた女の子は身を固くして黙っていた。
歌手になりたいってこの子も言ってたよ。
補導員はうなずいた。
おじさんは知ってる。君も学校へ行ってないだろ?
行ってる。
毎日か?
毎日。
日曜日も行ってるのか、とジェイコブの横にいる男の子が顔を赧《あか》くした女の子にどなり声で言い、女の子は急に元気を喪《な》くしたように蚊の鳴くような声で、日曜日は行かない、と言った。どなり声を立てた男の子は、月曜日も、火曜日も、水曜日も、とまたどなる。金曜日も土曜日も、いっつも。
おまえの一週間は木曜日が抜けてるな。
ジェイコブが言った。
若衆の一人が、安いカレンダー買ったからな、木曜日が落ちたんじゃ、と言う。
補導員は苦笑した。その補導員につられるように周りを取り囲んでいた誰彼なしに笑い出した。補導員は自分を取り囲んでいる人間の中からジェイコブ一人が頼りだというようにジェイコブに眼をやり、それからかさだらけの男の子の家はどこか、と訊《たず》ねた。ジェイコブは一瞬、体中から火が吹き出る想いだった。補導員に向って得意げに先に立ってここの家の子も、ここの子も山学校の常習だと取り入って言わなくてもいい事を言ってしまったと後悔した。その子の事を誰も口に出して言う者はいなかった。そのかさだらけの子と、ぶよぶよした皮膚が絶えずくずれうみを持っていたバイドク持ちの母親の事は、誰もがその母子の住む小屋と暮らしぶりを知っていたが、あからさまに口に出して言う者はいなかった。案の定、補導員を取り囲んだ群が知らぬげな表情をつくり、ソッポを向く。笑い声を出す者もいない。
補導員はジェイコブが逃げ出そうとするのを見て取り、ジェイコブの腕をつかんだ。ジェイコブは補導員の力の強さに驚き、悲鳴をあげた。そのジェイコブの悲鳴を聴いて先ほど半畳《はんじよう》を入れていた若衆が補導員の顔面をいきなり殴りつけた。さして強くはなかったらしく補導員はおどろいたような表情でジェイコブをつかんでいた手を離した。
公園のベンチで眼をさましたのは温度が上りはじめた頃だった。
ジェイコブは起きあがった。
ジェイコブは眼ざめてなお、夢にいる気がした。
犬がおどろくほど沢山いた。最初それを見た時その公園で犬の品評会の類をやるために集めたのだろうと思った。早朝、よく鶯《うぐいす》の品評会が行われているのを見た事があった。だが、品評会に連れてきた人間の姿がいない。その犬の群がてんでに集まったものだというのがわかった。
犬は一か所に集まっているのではなかった。水道の脇に耳をそば立て物音を聴きとろうとするのと、蛇口からしたたってたまった水を舌でなめているのが二頭、つつじの植込み付近で耳を噛《か》み合いゆさぶりじゃれている赤毛の犬が二頭いるし、ただ走り廻《まわ》っているのもいる。
ジェイコブはただ見ていた。
犬は公園の中にいるだけではなく、繁華街の方へのびる道路にもいる。
ジェイコブがユキの部屋をたずねて行ったのはそれからすぐの事だった。ユキの部屋に行こうとしてエレベータの前に行き、それから思い直して階段を駆けのぼってみたのは単に偶然だった。
時間はまだ八時をすぎたばかりで、これも階段ののぼり口でその男に逢《あ》わなかったら、分からない事だった。瞬時にその男を私服だと思い、習い性のように逃げ出そうとしたが、ジェイコブは踏みとどまった。男は背広を着ていたし、顔つきもジェイコブの知っている私服のものとは違った。男はジェイコブに、ユキの部屋にいくのか、ユキの友達か、とたずね、ジェイコブが疑いを持っていると思ったのか、自分はユキのすぐ上の兄だと名のった。ユキを説得に来て、いま、ユキから部屋を追い出されてきたところだと言った。男は階段の壁に手をつき、思案にくれたというように体をあずけてジェイコブをみて、説得してくれないかと言った。男の父親の会社に爆破予告の手紙が届いた。その文面の中に、ユキの名が入っていたわけでも、家にかかって来た脅迫電話がユキの声だったというのでもなかったが、その武装戦線にユキが入っている事は確かだった。男はそれまで脅迫電話が家にあるとは知っていたが、直《じか》にその電話を受けて、わかったのだった。若い男の無表情な声が、九月一日をもって東南アジアと南米に企業進出したその会社と一族をすべて殺害すると予告した。ユキの兄と名のる男は「何も知っちゃいないと彼は繰り返すだけなんですよ」と言う。
「知らないよ」ジェイコブは言った。
「そう言うんですよ」
「ユキの事は俺は知っちゃいないよ」
「彼もそう繰り返すだけなんですよ」ジェイコブが階段をのぼりかかると、ジェイコブの前に立ちふさがるようにして腕をつかみ「お願いです。救けて下さい」と言い、ジェイコブがふりはらうと体から力が抜けたように階段に坐《すわ》り込んでしまう。男は頭をかかえてうずくまり身をふるわせて泣きはじめた。「彼は人一倍優しい子で、そんな事、考えつくような子じゃなかったんだ。一人で外へ出る事も怖かったおとなしい子だったんだ」男の声が震えててこもっているので、ジェイコブの耳には低いつぶやきのようにしか届かなかった。「彼にその頃の事すっかりなくなってしまっているとは思えない。ねえ、思えないですよねえ」
男は顔をあげてジェイコブを見た。
「警察が捕まえるより先に彼の計画をやめさせようと思って来たら、なにも話す事はないと言う。ピストルあったらこの僕が彼を射ち殺してやりたいと思ったですよ。昔、僕がつかまえた蝶々《ちようちよう》の羽根が破けていただけで、かわいそうだ、かわいそうだと言っていた彼が、一家を殺害する事しかもうないんだと言う。爆弾、ビルに仕掛けて破裂させる事しか、もう方法がないんだと言う。都会の真中のビルですよ。何人、人が巻きぞえ食うかわからない。彼にそんな事をして何の効果があるか、と言ったんです。ビルを一つや二つ壊したところで、何も変りはないんですよ。丸の内にビルを建てられるほどの企業なら、すぐビルは元どおりになるだろうし、殺された人間の数だけ、また新しく補充されますよ。結果として何をやったのか、もう僕には見えてます。人が何人も殺された事実と、彼らがこの社会で犯罪をやったという事ですよ」
ユキの兄という男は顔をあげ、体を起こし、まるでそこに立っているジェイコブがユキやユキの仲間の爆弾製造者でもあるように言った。ジェイコブにはその男の変りようが面白かった。男の体の中にはその無益な暴挙をやろうとする者らへの軽蔑《けいべつ》と悪意がじくじくとにじみだしている気がした。
「誰も勝てませんよ。いいですか、もうここまで文明が発達してしまったら日本では何も出来ませんよ。一つや二つの企業がこの文明の時代をつくっているのじゃなくて、言ってみれば日本の全部がこの文明の時代にゴーサイン出しているんです。右翼から左翼まで。極右から極左まで」
男は立ちあがった。
男はジェイコブよりも階段を二段上に立ったので、体が随分大きく見えた。男は日をさえぎった暗い顔をジェイコブにむけ、「彼にレーニン読ませたのもトロツキイ面白いから読めと言ったのも僕なんですよ」と言い、不意に顔を両手でおおい嗚咽《おえつ》する。まるで芝居のようだとジェイコブは思った。
「あいつが何を言って来たのか、どんな事を言っているのか分からないが、俺があいつにレーニン読め、トロツキイ読めと勧めたのは、末っ子のあいつが親父に溺愛《できあい》されてなめられるようにして育てられたのがうらやましくてしようがなかったからなんだ。俺は大学からもどるたびに親父の眼を盗んであいつにレーニンを講義してやったよ。親父から溺愛され愛玩《あいがん》動物のようにされている。その親父がどんな事をやっているか。足の悪い姉の事をあいつ言わなかったか?」
男の声は高く震えた。
「あの姉と俺は一緒に暮らしていた。あいつは姉の握ったドアに触るだけで鳥肌立つ奴だった」
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13
ユキの兄と名のる男の話はジェイコブには不思議に聴こえた。
男はジェイコブの顔をみつめ、それから随分長く眠っていなかったというように階段の壁にふらふらと体をもたせかけた。「あいつはまるっきり違ったんだよ。あいつのように人をののしるだけの人間が、何を出来るか」男はそう言って眼を閉じ、深く大きく一つ息をした。
その男の脇をすり抜けて階段を駆けのぼり、ユキの部屋の前に立ち、ユキを呼んだが中から返事する者はいない。部屋の前から下をのぞき込むと、丁度、ユキの兄が車に乗り込むところだった。
合図のようにクラクションが一つ鳴ったのでジェイコブは手を振った。車は走り出した。
ジェイコブがひょんな事で高木友子に出喰したのは、モダンジャズ喫茶店の君原に電話しようとして思い直し、高木直一郎の家に電話をかけたからだった。電話の応対に出たのが、高木直一郎かその女房なら夏の暑さのうさばらしに脅しの一つでも口にするところだったが、娘の友子だった事によって考えをかえた。
友子は高木直一郎に似ていた。
ジェイコブが言ったとおりの道順を歩いてきたと、君原のアパートの前に立っているジェイコブに言い、
「ジェイコブさんは親戚《しんせき》ですか?」といきなり訊《き》いた。
友子は父の高木直一郎が前々から奇妙な事を言ったりするので不思議に思っていたのだった。友子は時々家にかかってくる電話の事も知っていた。母の話や父の困惑げな顔からそれがこの東京に来ている故郷の昔の事を知っている者の事だと想像した。いつも夢までもみた。食事をしていても、窓の外に一瞬、電話をかけてくる者が身を屈《かが》めて走り抜けたような気がした。父と母は理由を言わなかった。東京に来て随分になるが、いまここで誰にひんぱんに脅迫電話を受けているのか、一体その原因が何なのか理解できないまま、父も母も友子自身さえも、倉庫会社を経営する家庭の者としてふるまっていた。
二週間ほど前の暑い昼間、電話を受けた母親の顔色が変ったのを、父の高木直一郎も友子もみた。母親は何も言わなかった。母親が友子にではなくあきらかに父親に言うように、それでも断定するのを避けるように、
「商売やってたらいろいろさしさわりがある事、できてしまうからなァ」
と故郷の方言で言った。
友子はその夜、高木直一郎が一人、応接間に坐《すわ》っているのを長い事見ていた。肩を落とし、以前の父親には似ても似つかなくなったやせほそり骨がごつごつした体をしげしげと眺めて、何度も息苦しくなるのか肩を上げる。高木直一郎は故郷から持ってきた骨董《こつとう》だという湯呑《ゆのみ》を手に取り、しげしげとみていた。友子は名のある湯呑だと知っていたのでそれを眺めている父親をさして奇異に思わなかった。
それから高木直一郎は立ち上がった。応接間の額の後に手をのばし、小バサミを入れるくらいの小さな箱をとり出し、それのふたを開けた。中からビニールの袋に入った白いものをとり出し、耳かきで二杯すくって湯呑の中に入れ、湯呑を手の中でゆっくりとゆすった。しばらく高木直一郎はそれをみつめた。それからおもむろに箱の中から小さな硝子《ガラス》管のようなものを取り出した。それが注射器だった事が分かったのは、まくりあげた左腕にそれを打ちはじめてからだった。高木直一郎は痛むのかそれとも効くのか短い声をあげ、打ち終って首をふり、肩を張った。
「シャブか」
ジェイコブがつぶやくと友子は訊き返す。
ジェイコブは首を振った。
高木直一郎は人が変ったようにさっきまでの消沈ぶりとはうって変った機敏さで電話帳を取り出す。電話帳をめくり、目当ての番号を捜しあてたあと電話をたぐり寄せ、膝《ひざ》の上に置き、故郷の方言を使って長々と政治家の噂話からその土地の開発公社にからむ不正の噂話を交わしはじめる。友子はその父親の高木直一郎の頭の中に巣喰っているその土地が、現実にほんとうにあるのなら、東京のここは一体何だろうとよく考えた。父親は東京の地図のあらかたを知らなかった。新宿は上野のそばにあるのかと訊いた事もあったし、高田馬場のそばに青山墓地があると言った事もあった。だが電話で話している故郷のその土地で起こる事に関しては、高木直一郎は知らないものはなかった。その土地で発行する新聞の三つまでを事務所気付で送らせていたので、その土地で元革命党の四条声為というアカ新聞発行をする者の動向まで知っていた。
「コエダメがまたはした金で、お先棒かつぎにまわったんかい?」
電話に向かって高木直一郎は言った。「市長ももうちょっとうまい手を使《つこ》て、土地転がしでもしちょらな、火ついたらいっぺんにしまいじゃろが。おうさ。コエダメ使て、チョロチョロ、松どんのように提灯《ちようちん》持たせて走らせても、何もかも知っちょるもんは知っちょるわい」高木直一郎は電話を股《また》にはさみ、両足を投げ出しその話している人間の姿が眼にうかぶというようにわらう。
高木直一郎の眼にははっきりと、四条声為の姿も市長の姿も眼に見えるのだった。高木直一郎にはその土地の市長を今やっている小路という男を、その男が柳で編んだ弁当箱ひとつ持って住友の山林事務所に顔を出した頃から知っていた。その小路とは戦後のどさくさにまぎれて成り上がった二|双璧《そうへき》と高木直一郎は並べられ、ある事ない事を噂の種にされた時期もあった。「セコイことするわい」と小さい路をいうその地方の方言をひっかけ、高木直一郎は「セコイ小路《セコ》」と仇名《あだな》をつけた。管理をまかされていた財閥の山林が台風で荒れたと言っては適当に写真をいくつも写し修理費を横流ししたし、さらにこの土地一番の材木商の番頭になってからは大っぴらにピンハネしたのは小路も高木直一郎も変りなかった。ただ小路のセコさは、商売が競いあう状態になって発揮された。或る時、高木直一郎が山を売ってくれと頼んでいた地主から、「こんな投書がまい込んどる」とみせられた。そこには高木直一郎の子供の頃から女とのつきあいまで、めんめんといかに信ずるに足らない男か書きつらね、小路でなければ知らない商売の手口まで暴露されていた。小路の女のような執拗《しつよう》さに気づいたのはその時だった。
高木直一郎は小路にたたき落されたようなものだった。
小路は酒をまったく飲まなかった。性格は昔からつきあっている者なら知っている極端に女々しく神経症で劣等感のかたまりのような男だが、高木直一郎がおどろいたのは、それを見事、抑制していたことだ。外見は剛の中の剛のような男に見えたし、劣等感は金を持つ事で解消し、敵対する者はすべてたたき潰《つぶ》すという攻撃精神に変えた。小路にしてやられ、東京に来てはじめて、小路の弱点が何よりも抑制と攻撃精神にある事がわかり、それこそ市長になった小路が市民の世論や議会工作、組合対策に使っているのと同じ手で、小路失脚を画策してやろうかと考えた。もしそれをやったなら、小路は抑制と攻撃精神におさまり切らない女々しさや神経症、劣等感を刺激され、狂うほどの状態になる。いやすでに小路は狂っている。高木直一郎は深夜、娘がカーテンの陰に身をひそめてじっとみつめている事も気づかずに、窓の硝子《ガラス》に映った自分の顔をみながらぶつぶつつぶやいている。
小路は狂っている。まず第一に提灯持ちさせるだけ人の不信を買う四条声為を使い、アカ新聞にきいた風な評論記事を載せさせている事だった。金を出資しているなら評論など載せさせず、花を植えて美しく飾りましょう、孤児院にチョコレートを送りましょうと書かすべきで、政治や事業に口出しすべきではない。それに部下の使い方が神経質すぎる。高木直一郎は小路が今そこにいるように声に出してしゃべった。それにその土地の真中にある山とごみごみとしたいつも犬と年寄りと気力のない若衆らしかいない路地の事だ。その路地の土地に甘いエサを求めてやってきた桑原スーパーマーケットとの闇取引きも、むらがった土建業者らとのやりとりも、うすぎたない。水道用地、消防署用地、高田の道路の開発公社を利用しての土地転がしをやり、小路の身内に金がころがり込んだという仕掛けはみえている。相変らずおまえはセコいやっちゃな。その土地でゴミ清掃問題がおこった時、最初からおれはおまえがどう対応するのか、面白いんで興味持ってみとった。おまえは高を括《くく》って、市役所の職員組合だけがボソボソ反対するだけじゃと、声高に例の女々しさと攻撃精神をみせて、市役所の広報車まで出して、ゴミ清掃を業者に下請けに出したらこんだけ市は得をすると、まるでゴミ清掃をやる人間がいっぱいの給料もらうのがけしからんというふうに、ししって廻《まわ》らせたが、どうない? ありゃ、おまえの劣等感があんなふうにししらせたんじゃがい? 正直、白状せえよ。おまえの親爺《おやじ》が何やっとったのかだいたい見当はつくが、何も人をししって廻らんならん事ないじゃろが。材木を商《あきの》たりする者は、人みたら、こいつ俺をだましくさるんじゃないじゃろかと疑ごうて人を味方とも仲間とも思てしもたら負けじゃが、たいがいの人間は人と喧嘩《けんか》せんと暮らして行きたいんじゃよ。弱いもんは弱いもんでそれでも地道に生きとるというふうに考えたいんじゃよ。
市会でゴリ押しして、業者に下請けに出す事にして、いくら得するようになった?
今井というボンクラ秘書が甘えの構造じゃと十年も二十年も前のお経の文句ひっぱり出して新聞に、甘えてはいかんと文章を書いとったが、おまえもええ秘書やとたもんじゃ。市役所ぐるみで小路の商売を後押ししてそのついでにその土地がうるおうか、その土地で市が一つやると必ず小路かその周囲がもうかる仕組みじゃが、それに入らんゴミ清掃をする職員らに、甘えてはいかんと説教するんかい?
高木直一郎は笑い出す。
友子は、その声が高木直一郎の頭の中に植え込まれてあるその土地からわきおこってひびき出し、いま父親の体を伝って応接間にきこえているのだと思った。友子の言う高木直一郎は狂っているとしか言いようがなかった。直一郎は笑っているその事がおかしいというようにとめどなく笑う。
君原のアパートの外階段に腰を下ろし、ジェイコブはその時、カーテンの陰から応接間の高木直一郎をみている姿を想像した。その友子と同じように物陰にかくれて高木直一郎を見た時があった。
風が吹いていた。そのジェイコブの家の前には灌木《かんぼく》種のように育った茨《いばら》同然の薔薇《ばら》の木が植えられていた。その薔薇の木に身をかくして立っている兄の姿を見て、ジェイコブは声をかけようとしてふと気づき、家の脇の物置き小屋に身をかくした。兄はジェイコブより四つほど離れていたので、丁度十五になっていた。
兄はやせて骨の出た尻《しり》を突き出したまま身じろぎもせずに薔薇の茂みの中から家の方をみていた。風が吹く度に家の前の道から乾いた土埃《つちぼこり》が舞い上がり、それがジェイコブの身をかくした物置き小屋の方へ走ってくる。その度に眼を閉じ息を止めた。穂を出しかかった麦畑が鳴った。日は空にあった。ただ青い空から落ちてくる純粋に透きとおった日を受けているだけでジェイコブは眠くなる。すべてがくっきりと彫り深く明るく牧歌的な光景だったが、その兄が中学を卒業する直前、薬を大量に飲んで死んだ事を考えると、その牧歌的な光景こそ、怖ろしい事が仕掛けられているだまし絵のようにみえる。
高木直一郎が家から出て、作業服の上衣をひとつ手で払い、道を麦畑の方へ歩き曲った。
ただそれだけだった。なにも他に起らなかった。兄が薔薇の茂みから身をそらして、高木直一郎が去った方向とは反対に道を青年会館の方へ歩き出すのをみて、ジェイコブはやっと束縛から解かれたように日で温まってわき起った眠気に大きくひとつ欠伸《あくび》をした。それから猛の家の方に駆けた。
夜、兄はいなかった。雨戸に二度、石が当る音が立ち、あと一度石の音を確かめてから外に顔を出しふらちな奴をこらしめてやろうとするように母は体を起し、寝巻をかきあわせる。兄が死んでからその石を投げた者は、兄か兄がそそのかした兄の連れの誰かだったとジェイコブは気づいた。石が雨戸に当るのが度重なると、母は「誰な?」と素速く荒げた声でどなりさえした。母のそのけものじみた声は何度耳にしても、なじめない。兄が思い込み、ジェイコブが思い込み、路地の誰彼が噂する事が確かなら、ジェイコブは友子の兄に当った。
友子はそのジェイコブの顔をみつめた。
友子は涙を眼にふくれあがらせ、それでもジェイコブをみつめた。
その涙にうつった自分の姿をジェイコブは確かめながら、おまえも、その母親も高木直一郎も三人一緒に吹きとぶ爆弾をその応接間に仕掛けてやるから待ってろと胸の中でつぶやいた。
「学校へ行ってるの?」
ジェイコブが訊《たず》ねると友子はうなずく。
「藤崎とかオッサンとか倉庫で働いている奴は?」
「いる」と友子は言い、涙を指の裏を押しあてて拭《ぬぐ》う。「火事の日から急に居なくなってしまったからみんな心配してた」
「火事か」
「焼け死んだの知ってる?」
ジェイコブは友子が真顔で訊ねるのを見て、また頭の骨の真中が欠損しているような笑いをうかべ、「俺がガソリンまいて火つけてやったんだぜ」と言う。嘘よ、と友子が言うのを訊《き》いて、急にその時、火事の朝、一人で運河の横で寝そべって感じたけだるさを思い出した。ミオと父親は突然、焼けただれて死んだ。ジェイコブはその時、すべて敗けたと思ったのだった。突然、突発する事件は現実というものに確固とした動かしがたい函数《かんすう》が存在すると思わせ、その函数はあらゆるもの一切をたたき潰《つぶ》す。ミオと父親が灯油をかぶって炎に巻かれるという事件がなかったら、運河のそばの高木直一郎の経営する倉庫会社でまだ働いていたかもしれなかった。その時、ジェイコブが思い込んでいたのはこうだ。高木直一郎とその妻とその娘友子の三人を計画し惨殺して運河の倉庫会社に身を偽って逃げのびた、それで苦しく逃亡日記をつけた。
〈ぜつぼうだ、ぜつぼうだ、灼熱《しやくねつ》の砂漠、熱砂〉そう逃亡日記に毎日書きつけた。その時は人を惨殺する計画と惨殺までには千里も距離があるのではなく、惨殺とは惨殺する計画の顕現にすぎないとジェイコブは思い、純粋に空想の殺人にふるえ、空想の逃亡を企てた先で、本当に苦しんで日記をつけた。だが、炎が、現実の函数がその空想を打ちくだいた。二度とそこには戻らない。ただ逃げつづけるよりしょうがない。
ジェイコブは自分がその現実の函数を初めて眼にした、兄が自殺したその日からはじまって、ただあてどなく逃げつづけてここまでたどりついたように思った。ジェイコブの周囲で何人、自殺したろう。子供の頃から何人も見たのだった。溺《おぼ》れ死んだり刺されたりして不慮の事故で死んだ者を入れるなら、二十人は下らなかった。だが現実の函数は嘘だ。ジェイコブは思った。友子も含めた高木直一郎の一家を惨殺してやる計画に真実があり、友子を殺害した事実や現実には、真実はない。友子を殺すと確かにジェイコブに現実の函数は現われるが、それは単に、計画や想像にあったあらゆる可能性がせばめられ、物事が友子の殺害という一点を通過しなくてはならないという規制を受ける事を意味するだけにすぎない。
ジェイコブは友子の顔をみながら、その土地によって自分も高木直一郎一家も、あらゆる可能性をせばめられその土地という一点を通過せざるを得ないという規制を受けていると思った。つまり今、ここに、現実の函数として友子がいる。
その高木直一郎に関してもっと話をききたかったので、ジェイコブは友子を誘って公園の方に歩いた。
風が凪《な》いでいた。アスファルトが日を撥《は》ね、通り一面に炎が立ちのぼり、車がその中を行き来しているのが不思議だった。
公園で友子が、水飲み場の水道をとめ、
「電話で脅迫したの、ジェイコブさんでしょ」
とたずねる。ジェイコブは答えなかった。
犬が何匹もその公園にもいるのを眼で追い、時おり口笛を吹いたが走り廻っているそれらは振り向きもしない。
「ジェイコブさんがうちの両親に会ったらわかるかもしれない。あの二人はこのごろますます狂ってきた」
友子はそう言ってジェイコブをみる。
以前は父親がそうだったが、今度は母親が宗教に入り、日の光を体に当てると病いが一切なおるといって札を首にぶらさげ、昼になると力なくうなだれている直一郎をなおすのだと、直一郎の額に手をかざし、念じた。友子は母親が、エイッ、エイッと念じる声をたてるたびにわらっていたが、そのうちに、昔そんなふうに父親の直一郎が新興宗教に凝り固まり、巫女《みこ》と称する女を家にまで入れ、踊ったり経をあげたり、あげくのはては巫女に一部屋をわたして神さまの部屋として、そこで常時裸になってこもっていた事を思い出した。不安だったし、気色が悪かった。
高木直一郎は時折り思いついて応接間のある家の外壁をペンキで塗り替えた。真白に塗っていた壁を一夜にして真緑に塗り替えて一人で悦に入っていた。母親や友子が外から見えるその外壁が白ならまだしも黄金に塗られるのが羞《はず》かしく、それでバケツにシンナーをたっぷり入れ、そのにおいをかぎ子供のように浮きうきしている高木直一郎に、
「そんな真黄色じゃ、目立ちすぎちゃうんじゃない」
と言うと、大型のペンキ缶をあけて真新しいはけにペンキをつけ、バケツのシンナーでといてみて、
「太陽じゃて黄色じゃわよ」と言う。「どうもこうくすんだ煤《すす》けた運河の景色の中ばっかしにおると何度もパッとした光るような景色眼にせなんだら、われわれみたいに、海があって山があって日の光がサンサンとふりそそいどるとこに長い事住んどった者には毒になる。夏|蜜柑《みかん》たわわにみのり、というあの夏蜜柑じゃて、胸うつような光るような色じゃろ」
そうやって高木直一郎は一晩かかって一睡もしないまま、実におどろくほど丁寧にきめ細かく真黄色のペンキで外壁をくまなく塗る。友子が朝早くペンキのにおいに気づき息苦しくて起き出して外をみると、高木直一郎は注射針の痕《あと》だらけの腕をみせて家の前に坐《すわ》り、一晩かかって黄色く塗りつぶした外壁をまるで気にいった大作を描いた絵描きのようにみて、うん、うんと一人で得心し、にやにや笑っている。
「どうしたの?」友子がそばに立って訊ねると、
「友子、みてみよ、最初は豆粒ほどじゃったお日さんが、どんどん大きなって、もうこれで冬など知らんほどの大きさになるんじゃ。あそこで、山へ材木見んに行くたびに、杉やヒノキが大きなりすぎて下の草に日が当らんと思て、同じ生きものじゃのにネエ、と胸苦しい気したが、これで木立の下の草でも一生をまっとうできる」
言っている事を理解できずに訊ねかえすと、高木直一郎は顔をしかめ、悲しげな顔をした。高木直一郎は息を一つ大きく吸った。
「これは壁にペンキ塗っただけで、お日様でもないが、そう見えるんじゃ」
さらに一つ大きく息を吸った。
「壁みとったら、まるであの土地で日を受けとる気して。つぎつぎ梢《こずえ》が大きなったりオナバエのヒノキが大きなったり、イノシシが通るのが見えて、いっこうにあきんのじゃよ」高木直一郎は自分だけに言うように口の中でもぞもぞと声を出し、友子にはそれが呻《うめ》きの声のように聴こえた。
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ジェイコブは友子の顔を見ながら、髪ふり乱し狂った高木直一郎の姿を思い浮かべ、この自分の計画もまた、最初組み立てる過程でビスを一本抜け落としたため、大きくいびつに歪《ゆが》んでしまったと思った。
公園で友子の顔に見つめられながらジェイコブは、土と日の光にむされた草の吐きだす青くさいにおいを感じていた。夏の粒のあらい光が背中の方から当り、光そのものにせきたてられるように感じていた。いつかそんな光景からも逃げ出して来た。
細くしなやかに葉をのばした草の茎をつかんで力を入れて引っ張り、それを根元から引き抜いた。
松葉が作業服の尻《しり》ポケットに入れてあった軍手を空に放りあげた。まるでこれから仕事に出かけるための景気づけという科白《せりふ》を吐く。
「要するにタコ部屋といっしょじゃないか」
ジェイコブは黙っていた。他人に合わせて言葉を吐くと体の中にたまっている柔らかくぶよぶよしたものがせきを切って反吐《へど》のように溢《あふ》れ出る気がした。
ジェイコブは松葉と羽島、東北なまりのひどい吉田の後をのろのろと歩いた。
たしかにそこは最初、面接の時にきかされた条件とまったく違っていた。一か月七万円、残業有、寮有、環境良、新聞の広告にはそうあった。
そのころジェイコブの精神は弛緩《しかん》し、よだれのようにただ朝になると起き、夜になると眠った。その新聞広告を見、ジェイコブはまたぞろ動き出した。
ジェイコブはでたらめでつじつまをあわせた履歴書を一通書き、国電日野駅にある自動車工場へ行った。そこで面接を受け、この場所までワゴンに乗せられて連れてこられた。約束は二か月間の期間工だった。
「朝が一番いやだな」
「昼も夜もだよ、俺なんか。これじゃあ一か月七万で安すぎるもんね。くたくたに疲れてよ」
板橋からやってきたという男が、草の茎を引き抜き、穂を取り払って、葉と茎に出来た隙間に唇をつけ、息を吹きこみ、チーチーときこえる草笛を鳴らした。
空が青かった。五月の朝の乾いた濃い光が一本だけ工場にむかってのびた道路と麦の畑にあたっていた。独身寮の食堂で白飯にふりかけた鰹《かつお》のふりかけを食べたのでジェイコブはジンマシンができるだろう、と思った。
定刻五分前に、独身寮にいる五人ほどの期間工のグループが列をつくってタイムレコーダーでカードを打ち、各々の割りふられた現場にむかった。
工場のあかりとりから射し込んでくる光が、静かに舞っている鉄の粉や土埃《つちぼこり》の粒を浮きあがらせていた。
ジェイコブは刻々と近づいていく作業開始の時へ、いま一挙にとびこんでしまいたかった。
ジェイコブは軍手をはめ、箱の中のボルトを使いやすいように並べた。脇の、バンパーをすぐドリルで取り付けられるように組み立てをする現場で季節工の女が、四十すぎの帽子をきちんとまぶかにかぶった男と声高に話している。女は「つかれただろう」という言葉をききとるのに二度も三度もきき直さなければわからないほど強い青森なまりだった。
何がおかしいのか、女がわらった。
ボルトが入っていた空箱を積み上げた向う、乗用車を組み立てている|流れ《ライン》の中でドアのゴムを取り付けている「板橋」と眼が合った。
「板橋」はあいまいな笑いを送ってきた。ジェイコブが手を顔のあたりにあげて合図を送り返したとき、作業の開始を告げるサイレンが鳴った。
ベルトが動き始めた。
裏返しにされた仮死状態の甲虫のような車体に、ちょうどぎざぎざのついた脚を取り付けるようにエアドリルを使ってボルトをつけ、割りピンを入れて固定する。隣の場所に移って、タイヤを右側だけ二個取り付ける。
たちまち熱い汗が全身から吹き出、額に集まり滴になって流れる。汗はジェイコブの両眼を甲虫の体液のようにおおい、くもらせた。
再び、ひっくり返って死んだふりをしている鉄でできた甲虫のような車体のそばに行った。角をつついたりひっくり返したりしているうちに殺してしまう昆虫気違いの少年のように、ジェイコブは脚と触角を取り付ける。
緑色のグリスがジェイコブの手袋の先端をぬらぬらさせた。ボルトがうまくはまらなかった。タイヤを取り付ける作業はボディビルをやっているようだった。単純だが疲れる仕事だった。
やっと三台目が終り、四台目にかかろうとする時、不意にジェイコブは、自分が電圧の高いすべてのものとものが引き合い、反発し合う場所にいる、と思った。それは突然の啓示のようだった。ジェイコブは、今、この時間を生きている、と思った。労働、劇のようなエネルギー。農夫の手によって畑にまかれたサヤエンドウの種が、水を吸ってふくらみ、薄くおおった土の下で身をこごめ、根をおろし発芽する、ここはそういう劇の現場だ、と思った。
唇の上に流れてきた汗をジェイコブは舌でなめ、塩辛い味がするのを確かめ、鼻と口で荒い息を吐いた。
黒帽をかぶった脇の下のにおう男がジェイコブに近づいてきた。
「割りピン、もう少し丁寧にな」
男は顔いっぱいに笑いをつくって言い、皮をはがされた牛の脚のように車体を吊り上げた現場の方へ歩いていった。そこにいた季節工の男が、黒帽に二言三言注意されると、遠くからでもわかるほどおどおどして、馬鹿丁寧に頭を下げていた。
ジェイコブはエアドリルをつかみ、それで小さなボルトを打ち込みながら、その季節工のことを想い描いた。
東北の、他所者《よそもの》にはまるで理解できない言葉を使う土地で、男は百姓をしている。農繁期の今、まだこんなところで働いているのは、田畑が女房子供にまかせておいても充分間に合うほど狭いからだ。いや、ひょっとすると夫婦でここにやってきて、畑を婆さんにまかせているのかもしれない。そこに帰れば子供はまといついて離れず、女房はいそいそと家事をし、彼は額に皺《しわ》を寄せて農夫の仕種《しぐさ》で煙草をくわえている。決して他人の言うことに動かされはしない。しかし土地から離れた今、飯場のようなここでは、領土《テリトリー》を追われた獣さながら素直になっている。
汗が吹き出ていた。
ジェイコブの体は、汗とグリスと、工場の中を光に透かされて舞いあがっているのがみえる鉄の粉と土埃でべったりとおおわれていた。
金具の部分に水色のチョークを塗ったタイヤは徐々に重さを増している気がした。ジェイコブは中腰になり、それを持ち上げ、車体の六本の棒にはめこみ、ボルトを下から順々に取り付けて、天井からぶらさがったばかでかいドリルでしめる。キーンという音で、もうそれ以上しまらないことがわかる。
十時のサイレンが鳴り、ジェイコブは走って便所に行って小便をし、後からコーラを飲みながらやってきた松葉が終るのを待って、いつも坐《すわ》る芝生の場所に行った。
「みんな汗になって出ちまうなあ」
松葉が作業服のポケットに軍手をつっこんで言った。
「三星製薬の女子寮で、朝、手ふってたよ」
ジェイコブはなんとあいづちをうっていいのかわからず、ただにやにやわらった。芝生に坐り松葉が羽島と給料の話をしているのをききながら、金網を張ったフェンスの向うに続く麦畑が風をうけてたわみ、光をまき散らしているのを見つめていた。青い麦の葉と茎は、一定の周期で、風にうごめいていた。
「前借りさせてくれるんやろな?」
羽島が松葉の顔をのぞきこむようにして言った。
「だめだな。街へ行っても、金持ったこともない俺たちはすぐ使っちまうもんな」
吉田が芝生の上に寝そべり、〈花壇や芝生は大切にしましょう〉と書いた立札をゆすっていた。吉田は五人の中で一番幼い感じだった。ジェイコブはふと、自分たちが不良少年のグループのように、工場の敷地内でバレーボールをやったり芝生に寝そべっている本工達と区分けされていることに気づいた。
眠気が頭の中にわきあがっている。
ジェイコブは体の中で汗が次第に乾いていくのと同時に、何かが萎《な》えていくのを感じていた。まもなくサイレンが鳴るはずだった。このままここにいて、バスに乗って駅まで行き、またあの街に舞い戻ろうか? ジェイコブは笑ったまま畑の続く向う側の山を見ていた。
「期間工だと言ったら、突然、態度変えて、ああそうですかって言ってさ」
「ちがうんだよ、吉田の手があいつの頭に当ったんだよ」
二人が朝の食堂でおこった喧嘩《けんか》の事を話していた。
食堂で羽島が本工の、頬骨の出た男と喧嘩をしかけたことをジェイコブは思い出した。食堂にある大きなテレビがニュースを流していた。食事カードの日付のところに丸をつけて自分の順番を待ち、入口付近のテーブルの前に坐り、ジェイコブたちは朝飯を食べはじめた。板橋という男の持って来た鰹《かつお》のふりかけを取ろうとした吉田の腕が、後に坐っていた男の頭にあたった。男は羽島の手があたったのだと思い、「なんとか言えよ、おい」と羽島に言った。
「なんや、こいつ、あほとちゃうか?」
男は羽島の大阪弁に刺激されたらしく、「なんだ、その言いかたは」と、手に持っていた丼《どんぶり》とはしを置いた。
「こいつもホウケー、ソーローの部類やな」
羽島は薄笑いをつくり、男の眼に映った自分自身を確かめるように、顔を近づけた。
「わいは河内者《かわちもん》でな、生れと育ちの悪さでは天下一品やさか、よう気ィつけてもの言うてや」
「どこの掛《かかり》だよ、おまえ」
「かかり? そんなもん知らんで。どづきあげたるさか、ちょっと待ってや」
羽島はそう言って立ちあがり、その本工にむかってあごをしゃくり、食堂の外へ行こうと合図した。
本工は戦意をくじかれ、おびえていた。闘いをやろうという気迫で光っているようにみえた眼は、柔らかく優しくなり、むしろ救けを求めているように見えた。ジェイコブは羽島をとめた。戸籍謄本と身上書と履歴書を会社に提出し、一体どこで生れ育ちなにをやっていまに至ったかわかっている者と、でたらめの履歴書一通で面談即決された期間工では勝負が決っていた。
羽島はどこで生れてなにをやってきたのかわからないという闇のようなものを利用して、河内者だと言い、本工を脅かすことに成功した。
「いいかげんにしろよ」ジェイコブも又、羽島にむかって言った。「自分だけ良いカッコするのはやめろよ、生れと育ちの悪いのはおまえだけじゃないんだからな、これから二か月働こうと思ってここに来たんだから、今ごろ喧嘩されたら迷惑だぜ」
光があたって眩《まぶ》しく、心地良かった。汗が乾き、肌寒さを覚えた。サイレンの音が金網を張ったフェンスの裏のあたりからわきあがり、芝生の上に坐りこんでいるジェイコブの耳の穴から体の中に入りこみ、胃袋で反響し、暗い腸をくぐり、性器の先端の穴や尻《しり》の穴めがけて這《は》い進む。作業開始五分前のサイレンだった。けだるかった。
ジェイコブは、サイレンに形があるものなら、いまサイレンの形そのものになり、建物の鉄柱や樹々《きぎ》の幹、草の茎の中に入りこみ、けだるく溶けこみたい、と思った。
そこは麦畑の中で、独身寮から工場までは砂利を敷いた大きな一本の道があった。歩道と車道を分けてはいたが、工場のワゴンが走るほかはほとんど使われていなかった。
独身寮はそのまま就職案内書のグラビアに載せてもおかしくないほど明るい建物だった。白いモルタルで塗られた鉄筋の二階建てが二棟、畑の真中にぽつんと建っていた。工場から歩いて十分ほどのところだった。工場もやはり麦畑の中だったが、寮とは違って、幾つ建物が重なりあっているのか、フェンスで囲まれた敷地がどのくらいの広さを持っているのかわからなかった。製造、設計、部品、組立、試運転、それに塗装、さまざまな部分に別れていることは確かだったが、一体、どこでなにがつくられているのか見当もつかなかった。ただベルトのまわる単調な音、鉄と鉄がこすれあい、たたきあい、裂けたり削られたり割れたりする音がしているだけだった。ジェイコブにはそれが、人間のものとは程遠い、非情で固いものなのに、音が重なり合い響き合って、人間の声で、どの建物もどの工場も一心不乱に念仏を唱和しているようにきこえた。それは疲労したときのジェイコブの幻聴に近かった。ジェイコブにはこの金網の中にいる人間たちが、獣のいっせいにうめくように祈りを始めるということは絶対おこり得ないことだということがわかっていた。
光が柔らかかった。胸と腕の筋肉が甘ったるく痛んだ。
昼休みに羽島と松葉が、雑草のまばらに生えたコートでバレーボールをしている事務員たちを、奇声を上げてからかっていた。
ジェイコブは売店で買ったパック入りのコーヒー牛乳を立ち飲みしながら、工場の建物の陰になっている芝生を歩いた。
「よっよっ」と羽島が女の事務員の手にボールが渡るたびに声をかける。松葉は帽子を裏返してかぶり、芝生にひじをついてわらっている。「もうすこし」松葉は言う。「どうせ白に決っとるけどなあ」
「いや、わからないよ、なあ、吉田」
吉田は口をすぼめ、照れかくしのような笑いをつくる。松葉は起き上がり、側に来たジェイコブの顔を見て、「みんな好きだな」と言い、「ほら、がんばれよ」と声を張り上げた。
ジェイコブは羽島の横にあぐらをかいて坐《すわ》った。ボールはほとんど、ワンツウで敵の陣営に送りこまれ、女がそれを受けるたびにコートの外に出てしまう。本工たちはグラウンドの隅でキャッチボールをしていた。
「あの髪の短い女、下手だな」
羽島がわらい声をたて、そして不意に事務員たちのバレーボールに興味を失ったのか「バカバカしい」とあおむけに倒れこんでジェイコブの足を背中でふみつけた。
「松葉」と羽島はけだるい声を出した。「今度の休みに東京の面白いとこへ連れてってくれや」
「ああ?」と松葉はきき返す。「蒲田《かまた》とか錦糸町あたりならわかるけど、このあたりは知らないな。面白いとこっていっても俺の知ってるのはハワイぐらいだよ。ワーワーエイエイってがなりたてるだけの。行ったって汗水たらした金が消えるだけだよ。それにあのあたりはもう顔を出したくないしな」
「なんどやってきたんか」
「俺はおまえじゃないから品行方正さ」
松葉が事務室の脇の駐車場においてある軽自動車をのぞきこんだ。
「車の免許持ってりゃ、運転手でもやるんだけどなあ」
「なにやっても一緒じゃないのか」
松葉はジェイコブの顔をみた。
「金でも作って旅行でもしてみたいとしょっちゅう思っていたよ。三年ほどあの店にいたけどよ、そのうち金でもできたら、ふんぎりがついたら、遊びまわってやるといつも思ったんだ」羽島がにやにやわらっているのを気にしたのか、松葉は、「いや、おまえみたいにそんな遊びじゃないんだぜ」と弁解めいた口調で言い、軽自動車のドアを力をこめてあけようとした。「金なんか簡単にできやしないよ」
「それでこんなとこへ来よったんやな」
「二か月いたら十二、三万になるだろ」
「おまえもよううまい具合に嘘つくれるな」羽島は松葉の首をタックルした。松葉は羽島の腹を膝《ひざ》で蹴《け》り上げる真似をして羽島の腕からのがれる。
「なあ、こんなこと誰も信用しちょらんな。どうせおまえがやってきたことはそんな立派なもんとはちゃうのはわかりきってる。金を盗んできたやとか、店長の娘を姦《や》ってきたとか、殺してきたとか」
「おまえじゃあるまいし、俺がそんなことするはずないじゃないか」
ジェイコブはまた高木直一郎を思い出した。
電車が響音を轟《とどろ》かせて公園の向うを走り抜けるのを友子は耳をそば立てるように顔をむけ、ジェイコブに「一緒に行ってくれない?」と訊《き》いた。ジェイコブは知らんぷりをした。
高木直一郎のその姿はジェイコブにはありありと思い描く事が出来た。ジェイコブがその時からいままで彷徨《ある》いて来た事そのものが、ジェイコブにはその覚醒剤《かくせいざい》で狂った高木直一郎の頭の中に出来あがったあの土地、架空のあの土地の周縁を廻っていた気にさせた。
そうじゃよ、と高木直一郎はつぶやいた。
友子が自分の方が架空に生きているように錯覚しながら、家の事務所を黄色く塗り、シンナーのにおいに心身が辛うじて落ち着いたように一人でうなずく高木直一郎の腕をつかみ立ってただ意味もなく震えている。ジェイコブはその姿をありありと想像できる。
犬が友子の脇を通り抜けて水飲み場の方へ駆け、また戻ってきた。うさんくさげにベンチに坐ったジェイコブの顔を見て植え込みの方へ歩き出した。
高木直一郎の頭の中にはすべて土地の事しかない。その土地の川と川の両側に延々と続く山の地図しかないのだった。ジェイコブは脈絡なしに自分がその架空の土地から出て彷徨《ある》きうろついた道筋を思い出した。
高木直一郎は、ジェイコブがそうしたようにまるで架空を確かめるようにまた電話を掛ける。
そうじゃよ。おまえがそんなセコイ事やっとるから、皆いじいじといじけて縮こまっとるんじゃ。おまえが一体何をたくらみ、何を考えてそんなにあわてとるのか俺が一番よう知っとる。港の問題。水の問題。おまえはそれを実に巧妙に様々なチマチマしたその辺りの百姓同士の喧嘩《けんか》にすり替えたが、本当はそんなとこに話の真実はない。
港のないところに人工的に大々的に港をつくり、外材を購入するという計画で、おまえと県会議員がその荷役をめぐって意見がわかれ対立しているが、おまえの本当の狙いは荷役会社などにはない。
材木と水。
結びつくようで結びつかないものをもう一度しっかり結びつけるのは、材木も水もエネルギーだという考え方じゃ。違うかいよ?
材木を当面の理由として港を強引に大々的につくり、しばらくは材木の輸出入で時をかせぎ、そのうち、石油コンビナートでもその紀伊半島のそこに持ってくるのか? 石油タンクを幾つも持ってくるほどそこに平地はあるまいよ。材木と水をエネルギーで結ぶ考え方から言うなら、小路よ、丁度ええものがある。古座や田原、勝浦でゴタゴタしとる原子力発電所じゃ。
新聞に川の水の汚れや取水料として六億五千万、関西電力からおまえは払わせたと得意になっていたが、これは単純に言うと、関西電力と市との原子力発電所設置の口約束の手付じゃろて。そこをエネルギー基地に変えようとするんかい、その紀伊半島を火薬庫にするんかい。いくら関西電力から懐《ふところ》にせしめたんか分からんが、原発を任期中に設置したら五、六億ふところに転がり込むというので無理してそれがたたって過労で死んだという町長の噂がこの間、そのあたりで出たばかりじゃ。
南紀コンピューター、不動産部、製材所、木材部、普通の者ならそんだけ景気がようて海や川に恵まれているなら観光事業に手を出すところじゃが、育ちが育ちのおまえらしく広域経済圏と、本一つ読んで喜び廻《まわ》っとる頭の悪い秘書を使ってうまい事言うてまわって原子力発電圏の設置か。
高木直一郎は薄笑いを浮かべる。受話器を取り、また赤新聞に電話をかける。四条か、声為か。ちょっとはほんまの事書かなんだらおまえもそうそう小路べったりじゃ誰そに闇討ちされる。悪いやつおおいんじゃ。おまえが市長の腰巾着《こしぎんちやく》の市会議員と一緒に川の水の汚れが問題じゃと紀州砂利へ行て金をふんだくろとして、追い返されたのはとっくに耳に入っとるんじゃ。社会党も共産党も見て見ぬふりをしてくれてよかったのう。
高木直一郎は高笑いをする。
闇屋から成り上がった桑原スーパーマーケットとおまえらのグループが、市の真中に取り残された形の路地の山を元に何をやったのか分かっとる。その駅のあたりをうろつき廻っていたアル中男を覚えているか? 知らないと言わさんぞ。アル中男は駅のベンチで寝ていて転げ落ち耳から血を出して、病院に収容されたが二日後死んだ。不審に思たんじゃよ。ちょうどその山の削り取る仕事を狙っとる土建屋に電話すると、「よかったわだ」と言う。たとえアル中でも人が死んでよかったと言うのは不審じゃと、電話して方々に訊いてまわると、そのアル中男、体のあちこちに殴られた跡があったそうじゃろ。最初は病院で医者に殺されたんじゃろと思たが、どうやら誰そに殴られとったらしい。その男、山に無断で家、建てとったんじゃ。路地から少しのぼったとこに、むかし栄養失調の親子が住んどった小屋じゃがそこを作りかえて住んどった。アル中男は日頃から、おれをどかそと思うなら金を持って来い、闇屋の桑原に金持って来いと言うたると吹聴して廻っていた。
アル中男が死んだ次の日、桑原はそのよかったという土建屋を使って家を壊し山を切り崩しはじめたんじゃ。人殺しら。それでも知らん顔するんかい。
高木直一郎はどなる。相手はとっくに電話を切っているのに、高木直一郎はツーツーと鳴りつづける受話器にむかってどなりつづける。
「栄養失調か」
ジェイコブはつぶやいた。
友子の顔を見て、「その小屋の親子、梅毒だと思っていたんだぜ」と言い、友子がうつむくのを見て、ゆっくりと口の中にわきあがってくる唾《つば》を集め、舌先でまるめて吐いた。
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15
ユキがその異様ななりをした男に出会ったというのはほんの偶然だった。偶然というにはジェイコブにしてみれば幾つも腑《ふ》におちない事が多すぎたが、ユキから耳にする話は確かにその男の事だった。
ユキは部屋の白い壁に背を当てて前歯を見せて曖昧《あいまい》な笑いを浮かべ、「そいつ、どけろと言っているのにずっとそこに坐《すわ》り込んで、ぶつぶつ言ってやがる」と言い、ユキらが火薬にタイマーを取りつけはじめてからやっとユキらが自分とはまるっきり違う人間だとわかったようにのろのろと近づき、どうするんだと訊《たず》ねた。
みてろよ。
ユキがつぶやくと、そのボロ布を寄せあつめて作ったような服を着た男は、世帯《しよたい》道具一式をあわててかき集めて、その原っぱの葦《あし》が茂った方に歩きはじめる。火柱が立ち、湿った原っぱの土が飛びあがり轟音《ごうおん》がたってからその男は振り返り、ユキらが自分を見つめていると思ったのか、あわてて駆け出す。
西脇がその男を追おうとしたが、ユキが、警察に駆け込んでも誰もそんな乞食《こじき》のなりをした男の言う事を信用しないと言って止めた。それにすぐ実行に移すつもりだったので、かまわなかった。ユキらは車に乗り、途中で高速道路に入る道筋にある私鉄の駅で西脇をおろした。「後はジェイコブの番さ」
ジェイコブは部屋の中でユキが真顔になっているのを見て、一瞬、自分を煽《あお》っているようにみえ、「ジェイコブの番さ」という事がユキ自身の計画の事を言ったのか、ジェイコブが長い事計画して来た事を言ったのか判断つきかねた。閉めた硝子《ガラス》窓のむこうから風が樹木に吹きつけて潮鳴りのように聴える。
ジェイコブはユキに向ってうなずいた。悲しみが瞬間に自分の眼の背後を通り抜けた気がした。
ユキはレコードをかけた。
それからしばらく経ってからユキは車の鍵《かぎ》をジェイコブに渡し、道路地図を広げ、こことこことと丸印を打ち、まず最初にユキの親爺《おやじ》の会社、その次にユキの家と細かい道順を教え、会社の前ではエンジンをかけたままユキが出てくるのを待つ事、ユキの家につき、ユキをおろしたならジェイコブはそのまま車に乗って出来るだけ遠くまで走りつづけ、車を捨て、結果を待つ事、と言った。ユキの親爺の会社のロビーで爆弾が破裂して硝子がとび散り、血が吹き出ている頃、ユキの家ではいつも不在のユキの部屋からヘンデルが流れ、一家がなにも知らぬまま応接間に集まって爆弾が破裂するのを待っている。
「車のラジオ、かけとけよ」とユキは言った。「実況中継するかもわからないからさ。血まみれの財閥の家からヘンデル流れでてくるのききとれるかもわからない」
ジェイコブが先に立ってユキの部屋を出ようとすると、「ほら、どうせ家宅捜査されるんだから」といつか置いていった小さなバッグを手渡した。まだ他に忘れ物がある、とユキに言おうとして、こまかい字でつまったノートなどいまさらどうでもいいと思って黙り、そのまま階段をはずみつけて下りた。
「面白いよな」
ユキが言った。
ジェイコブはうなずいた。
「面白いよ、絶対、面白いよ」ユキはそう言い、車の助手席のドアを開けて坐った。ジェイコブはまるでその言葉しか自分にはないように、面白いよ、面白いよと繰り返してからやっとドアを開けて運転席に坐り、エンジンをかける。カセットテープにデビスを入れてあったらしく、ミュートのかかったトランペットが流れ出してくる。ユキはしばらく黙っていたがカセットを差し替えた。マッコイ・タイナーのピアノだとすぐわかった。
ユキは頭を振り鼻でスキャットをとり、不意に思いついたように、「なにがフリーなもんか」とそのコルトレーンに毒づいた。ジェイコブが車を運転しながら助手席のユキを見ると、ユキは異を唱えられたというように、「だって考えてみろよ、どんなにこいつが長くコードむちゃくちゃに吹いたって、息しなくちゃならないだろう。息ってのはコードだぜ。吸って吐いてる息が結局、コードを作っちゃうんだぜ。だから、フリージャズってのはないんだって事を言いたいために、こいつは吹いてるんだ」
「コルトレーン好きじゃないな」
ジェイコブは言った。
「面白いよ」
「面白い」
「だから理由なんかなしに面白いよ」ユキは街路に撥《は》ねる夏の日に眼をほそめてつぶやく。「親爺が財閥だからとか、寄生虫のような一家だからとか理由幾つもあるけれど、本当のところ、理由などないのさ。強いてあげれば虫けらみたいにあの連中から扱われていた姉のせいだな」
おまえの兄がそれを作り話だといっていたと言おうと思ったが、ジェイコブはやめた。
「姉さんだけが好きだったな。姉さんと秘密の事がひとつあったんだ。いまから思ったらなんでそんな事したのかと思うけど、俺が姉のところに行くと、姉はきまって、『ユキちゃん人形みたい』と言って、最初、髪をクリップでくるくる巻いて、そのうちにベッドの脇のテーブルの中に入れていた化粧品を取り出して俺に化粧するんだ、女の子みたいに。姉の部屋にいる時はまるで姉妹のようにいる。『外へ出ちゃ駄目よ』と姉に言われていた。でも俺は化粧したまま外へ出て、がらんとした廊下を抜き足で歩いていると、丁度、兄に出喰したんだよ。小学校二年生だぜ。ぶったたかれてその姉との秘密の化粧のまま女中から母親、親爺から秘書まで兄は俺をみせてまわった。ヘンタイじゃないかって。その時からみんな殺してやると思っていたが、そんな事だって本当は理由じゃないさ」
「姉さん、死んだのか?」
「ブタみたいに肥って生きてるよ。閉じ込められて」
ユキは言い、カセットをとめる。ジェイコブはユキがいま、映画の中でのような海に面した人気のないところに幽閉されてしまったために肥った姉の姿を思い描いているのだろうと思った。鴎《かもめ》の鳴き声がするところだった。「キタないんだから」とユキは言う。「俺は姉をきらいだよ。親爺にも母親にもなめるようにかわいがられたのはわかっているが、みんないやだよ」
「姉さんとの話、嘘だろう?」
ジェイコブが言うとユキは黙った。しばらくして、「嘘さ」とひとりごちるように言った。ユキはくすくすとくぐもった女のようなわらい声を立て、「俺の話みんな、作り話だぜ」と言う。「ジェイコブがいつも言っているように俺も理由なしに架空をこしらえあげてさ、どんどん架空をつみ重ねていく」
爆弾もか? と訊《き》こうとしてジェイコブは止めた。
ユキに言われたとおり、ユキの親爺の会社の前で車をとめ、車の後座席からペルーかんを運び出し歩いていって何くわぬ顔で玄関の守衛に一言二言話し中に入っていくユキを見ていた。すぐユキは車にもどり、さっきまでとは打って変って緊張した顔つきで、次へ行ってくれと言う。ユキの家の前でユキがもうひとつのペルーかんを車からおろし、手を上げたのを合図にジェイコブは車を走らせた。
ラジオをつけっぱなしにしていたが、二時も三時も、ニュースでは都心と都内の住宅地での爆弾の話はかけらも出てこなかった。
浜松のインターチェンジをおりて市内に入った。駅の公衆電話でモダンジャズ喫茶店の君原を呼び出して初めて、ユキが死んだ事を知った。爆弾は? と訊《たず》ねると、爆弾じゃないよ、電気だよ、と訳の分からない事を言う。訊ね返してみて、ユキは自分の家でコードを体に巻きつけ、感電自殺したと知った。
爆弾などあいつがつくれるはずがないじゃないか。知らないけどよ、爆弾つくっていたのかもしれんけどよ。でもあいつ、自分一人死んだんだぜ。ばっかだよ。
浜松の海岸に車をとめた。ジェイコブは事態の意外な進展がのみ込めぬままだった。〈ぜつぼうだ、ぜつぼうだ、灼熱《しやくねつ》の砂漠、熱砂の砂漠〉とノートに書きつけたのがユキだったような気がした。悲しいとも思わなかった。ただ車の運転席から浜にせり上ってしぶきをあげて打ち寄せる荒い海が遠くどこまでも青いのをみて、テルオ・ナカムラのソングオブバーズのようにスキャットをうたいたい気がむずむずと動いているのを知った。ただその曲がどんなフレーズだったか忘れていた。喉《のど》はつまったままだったがフレーズの代りに水のような涙が流れ出た。面白いじゃないか、とジェイコブはつぶやいた。
ジェイコブがユキの車に乗って東京へ戻ってきたのは次の日だった。そのまままっすぐモダンジャズ喫茶店に顔を出してジャズを聴きたかったが、ユキが死んだ今行くとまさにそこを教会のように感じるだろうと思ってそれがうっとうしくて、ロペに電話をかけた。ロペがいないので仕方なしにキャスを呼び出し、ジェイコブはこみ入った道順を通って私鉄の駅までむかえに行った。
キャスはユキが死んだというのを知らなかったが、さして興味がないように、「何人も死んだからなァ」と男のように言う。
「死にたかったんだろうな」
と水をむけると、
「そうよ、自殺するのは死にたいからよ」と言う。
「ジェイコブも死にたい?」
「死んでもいいって思うけど、ことさら死にたかないな」
「死ぬって言わなかった?」
キャスと一緒に話していると舌ったるい口調になってくる。ジェイコブは話を切り上げ、キャスを乗せてひとまず車を走らせた。
モダンジャズ喫茶店に行ったのはキャスと一緒だった。君原はジェイコブの顔をみるなり、店からジェイコブを連れだし、「爆発してたってよ」と言う。ユキのアパートに出入りしていた者を警察が捜し廻《まわ》っているからすぐにかくれた方がいいと、言った。キャスを連れて連れ込み宿の前の道路にとめてあった車に歩いた。貼られてある駐車違反のステッカーをひきはがして破り、車に乗る。「どうする?」と訊ねると、キャスは家の前まで行って、と言った。着替してくる。
高速道路に入ってから、胸のブラジャーの間から銀行の袋に入っている金の束をみせて、「幾らあると思う?」と自慢げに訊いた。「弟の勉強部屋、建て増すのに大工に手つけを渡すというその金、そっくりよ。百枚は確実にある」
「家出するのか?」
「いいのよ、わたしがいなくなれば弟の勉強の邪魔にならないから」
キャスはラジオをつけ、音楽を伴奏に札を数え出し、百三十枚と得意げに顔を上げた時、ニュースが始まった。ユキのニュースは一等最後だった。コイルを体に巻きつけ感電自殺したという以外に爆発の話はなにもなかった。最初に君原から耳にした通りの話だった。
静岡で高速を降り、そのまま海ぞいの町まで走り、モーテルに入った。キャスは部屋に入るなり円形のベッドに上り込み、強盗に入り手に入れた金の束を山分けするようにきっかり半分を「はい」と気前よくジェイコブに渡し、「ねえ、明日、二人でそろいのスーツ買いに行かない? ジェイコブ、白、似合うよ」と言う。
髪、パーマかけるでしょ、化粧品買うでしょ。アイシャドーの練習してたの。ジェイコブはモーテルの天井にも貼りつけてある鏡に自分の姿がうつっているのを見て、そのうちジェイコブ自身もユキや吉のようになると思った。鏡だらけのモーテルの部屋だった。肌の臭いのするシャツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、下着一つになった自分の姿が、何の為にそんな風につくっているのか前から後から横から、幾通りにもみられる鏡の前に立って、急に穢《けが》れすぎてしまったように思え涙が流れた。ジェイコブが泣いているのを知ってキャスが驚いた顔で近寄り、「どうしたの」と体を抱きしめる。ジェイコブの気持が移ったようにキャスは声をあげて泣き、涙でジェイコブの顔もぐしゃぐしゃになる。
キャスを裸にして丁寧に愛撫《あいぶ》した。眼を閉じていないと、鏡に写し出された自分とキャスの姿がみえてしまう。ジェイコブはその自分の姿を見ながらいつ大人になってしまったのだろうかと思った。
白いスーツを着たジェイコブはキャスがパーマをかけている間中、美容院のソファに坐り、おとなしく若向けの女性雑誌を読んで待っていた。爪を染めてもらい化粧をしてもらったキャスは高校生とは思いもつかないほど垢抜《あかぬ》け、以前からは想像出来ないほど綺麗《きれい》になった。そう耳元でささやくと「ロペより綺麗でしょ」とキャスは言う。東京へ来る以前も以降も一度も入った事のないようなレストランに行き、あてずっぽうにワインを頼み、料理を頼んだ。
「ジェイコブ、結婚して」
とキャスは言った。
ジェイコブはゲームを楽しむようにうなずいた。
車を運転してその日のうちに名古屋に入った。名古屋を車で走り廻り、ホテルに部屋をとるとそろいの白のスーツを着た二人は新婚旅行のカップルに見えるらしく、城の見える部屋に案内してくれた。決して追われているわけではないのにジェイコブは気がかりで新聞をよく読んだ。名古屋から京都に足をのばそうとキャスは言ったがジェイコブは強引に静岡までもどり、いつかロペたちとドライブした時の浜に似た臨海ホテルに宿を取った。
金はまだ半分も使っていなかった。朝、抱きあって素裸で眠っていると前夜頼んでいた朝食を運んできたボーイが戸をたたいて起す。ノックされた時、キャスがジェイコブの愛撫を受け声をあげていた時もあった。
ベッドの上で二人は食事する。スクランブルエッグ、ベーコン、パン、トマトジュース、コーヒー。うまいと思わなかったが、映画のような朝食を食べているだけで満足だった。シャワーをあび、水着に着替え、買いそろえたビーチウエアをはおって海岸への道を降りて行く。
その朝のたびに、夏は今はじまったように、光が濃くくっきりと影をつくる。さらにその影すら、草や砂や樹木に当り散らばった光で、薄められる。ジェイコブは泳ぎ疲れて砂浜に坐《すわ》る度に、自分がいままでと違う人間に変っていく気がした。
青い水平線のむこうに入道雲があらわれ、ふと泳ぎに夢中になっていると、さっきまでの透きとおるような青空をおおいつくすように雲が一面に広がる。雷が鳴りはじめる。
臨海ホテルの窓から荒れる海が一望出来る。稲妻が走る度に暗い海が浮かびあがる。波は昼間のおだやかさとはくらべようがない。窓を開けていたため冷えてきた部屋で素裸のジェイコブは鳥肌立ち、あわててビーチウエアをはおる。ベッドの中で眠り込んでいるキャスを起す気がしなくて、ジェイコブはただ坐って外を見ていた。稲妻が走る。一瞬に荒れた海と雲でおおわれた空が、まるで深くえぐれたとりかえしのきかない傷跡のように顔をみせた。すぐ空とも海ともつかない夜のかたまりにもどる。雷の音が空をはたき落そうとするように鳴り轟《とどろ》いた。
ジェイコブははじめて記憶がもどった気がした。そんな荒れた夜を眼にしたのが、養護院だったか、運河のそばの倉庫でだったか、分からなかった。自分の肌にまとっているいかにも浮かれた柄のビーチウエアが厭《いや》だった。それを脱ぎ、鳥肌立ちながら、東京にもどろうと思う。車にまだ、東京までなら楽にもつほどのガソリンは入っている。パンツをはきズボンをはき、白いTシャツを着た。ジェイコブはそのまま外へ出ようとしてふり返った。ふとキャスがベッドに起きあがってジェイコブを見つめている。
「ロペの方が好きなの」
違う。
とジェイコブは首を振った。
「もうあきたの。ジェイコブが好きだから一緒に来たのに、もうあきたの」
違う。首を振るジェイコブをみて、毛布を引きあげ乳房をかくして、キャスは涙を流した。そのキャスに何を弁解しても無駄だとジェイコブは、部屋のそなえつけのタンスからハンガーに吊してあった服を取って放ってやり、「着ろよ」と言う。キャスはジェイコブの眼が怖いというように身をすくめながら下着をつけ、スカートをはきシャツをき、その臨海ホテルにいた間中、あれこれ買いおいていたものを麦藁《むぎわら》で編んだかばんの中に入れる。「一緒に行く」
フロントのボーイは不審がったが、清算をすます頃になると冗談を言うほどになった。
雨の中を駐車場まで走り、車に乗ったがキャスがまだ泣いていたので、エンジンをかける前にキャスの髪をふいてからキスまでしてやった。ひどいよ。キャスをあそこに置き去りにしていって、自分はロペとどこかへ行こうとしたのでしょう。ロペなど嫌いよ。ちょっとモデルやってて綺麗なだけじゃない。キャスはそう言って泣きつづけた。
高速に入ってからも雨は変らなかった。熱海の近くで空があけはじめた。休憩所で眠気ざましのインスタントコーヒーを買う頃にはなにもかも嘘のように止《や》んでいた。コーヒーを呑《の》みながら、朝、異様に大きく耳に響く雀の声におどろき、東京に来たのは高木直一郎に会う事以外にないと改めて思った。ジェイコブは高速道路の高い壁からコーヒーの紙コップを投げ棄てた。友子の言う高木直一郎が本当の今の姿なら、会って話をする価値はあると思う。
キャスはそのジェイコブの顔をみていた。
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16
ジェイコブが高木直一郎の家に着いたのは朝の七時だった。ジェイコブは玄関の植え込みのわきに車をとめた。キャスは助手席に坐ったままジェイコブを見ていた。
ジェイコブは植え込みの枝を折って口に噛《か》み玄関のインターホンを押した。家の中で鳴っているチャイムの音がかすかに耳に響くのを聴いてジェイコブは振り返り、キャスを見る。
キャスはただジェイコブを見ていた。
白い背広を着たジェイコブは自分の体に朝の日が撥《は》ねているのを見つめ、足元をみ、白いエナメルの靴が日の影を作っているのを知った。背広のポケットに入れてあった煙草をとり出し口に咥《くわ》え、ホテルの短い軸のマッチをすった。音をたてて燃える炎に手をかざしてジェイコブは煙草の火をつけ、玄関のポーチにマッチを棄《す》てた。一瞬爆弾が破裂した気がした。
インターホンを押しなおしながら、架空の完全犯罪に一つ崩れができたと思った。すぐに「どなたですか」という友子の声がする。それに答えずジェイコブはインターホンのチャイムを押し続けた。
ドアが開き、友子が顔を出し、そこに立っていたのがジェイコブだったことに驚いている友子にジェイコブは訪ねてきたのだと言い、車に乗っているキャスを「来いよ」と呼んだ。
キャスが玄関口に立った二人の視線を眩《まぶ》しいように白いブラウスのまま歩いて来るのを見て、ジェイコブは友子の耳元で「結婚したのさ」と言った。友子はジェイコブの顔をさして興味もないというように見て、歩いて来るキャスに眼を移す。ジェイコブは結婚の挨拶《あいさつ》に来たのだと言った。
事務所にいるという高木直一郎に会うために友子に連れられて玄関から植え込みの繁みを廻《まわ》り込み、庭に敷いた玉砂利がその高木直一郎の故郷でもありジェイコブの生まれたところでもあるその土地のものだということに思い至り、ジェイコブは見なくてもいいものを見てしまうと気が重くなった。砂利を敷いた庭はそのまま事務所の前にまで続き、突然、青い色のペンキで塗られた壁が現われる。
「綺麗じゃない」
とキャスは言った。
事務所の戸を開けようとした友子が、この前は黄色だったの、と言い、笑いかける。
キャスは友子の言った言葉の意味が分からなかったらしく、曖昧《あいまい》な笑いを返して、ジェイコブに助けを求めるように見つめた。よう来た、よう来たと高木直一郎は言い、ジェイコブとキャスに椅子を勧めた。頬がこけて青白く、昔、ジェイコブが運河の倉庫で眼にしていた頃の顔とまるで違ってしまっていた。頬骨が張り眼が落ち窪《くぼ》み顔の皮膚には艶《つや》がなかった。高木直一郎は友子からジェイコブがキャスと結婚したのだと教えられると、友子に言った嘘がよほど信憑《しんぴよう》性があるのか、「嫁さん、見せに来てくれたんじゃの。俺が嫁さん見せてもらうより、お前のかあさんの方がよっぽど喜ぶじゃろに」と言い、坐《すわ》ったばかりなのに、すぐ腰を上げて机の上にある電話の受話器をはずしダイヤルを回しかける。「電話して言うたら喜ぶじゃろよ」と言い、ふと指を止め受話器を持ったままジェイコブの顔を見て真顔で、「朝のはようから電話で喧嘩《けんか》しとったんじゃ。クソ見てみい、言うてな」とつぶやく。
高木直一郎は、覚醒剤《かくせいざい》を打ったために眠ることもできず、夜中、郷里から送られてきた地方新聞をためつすがめつ見て過したのだった。人口四万弱、その小さな市の発行部数三千ほどの地方新聞は、裏取引が多いその市の特徴を表わしていて、官報と変らないほどの味気ない記事ばかりだった。思えば、高木直一郎が郷里で材木業を営んでいた頃からその新聞は、市役所の出す公報を日々記事に組んでいるだけで、新聞記者が足で取材したという記事はほとんど見たことがなかった。その新聞は官報を思わせる分だけ、東京では暗号に満ちた奇怪なものに見えた。高木直一郎は夜中一人で、ためつすがめつその新聞の放つ暗号を解読しようと見つめた。
市役所の人事異動の発表が掲げられ、そのわきに、
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〈毎年一千万円提供
クワバラ二十周年記念で
災害備蓄センターを設置〉
とあった。
〈創業二十周年を迎えたチェーンストア「クワバラ」三十四店舗、桑原勇社長は、八月二十三日西郡浜白町で、谷仮知事ら来賓、関係者多数を迎えて盛大な記念式典を開くことにしているが、これとは別に同店エリア内の八十九の小、中学校に総額一千万円の英集社「ジュニア日本の文学・全五十巻」、「凡平社国民百科事典・全十七巻」を贈呈するほか災害発生時に被害者に年間最高一千万円相当の救助物資を無償提供する「クワバラ災害緊急備蓄センター」の設置、「県こども絵画展」の作品募集など各種の記念行事を繰り広げる。
第一回県こども絵画展の作品募集要綱は次の通り。
作品テーマは「ぼくの家族、わたしの家族」絵画、版画、きり絵四つ切大(五十二センチ×三十七センチ)、えのぐ、クレヨン、パステル(版画、きり絵は四つ切台紙に貼付《てんぷ》する。油絵はのぞく)、一人一点。応募資格は、県下の小学生。受付は九月一日から同月末日まで。送り先は市内中島三八五の三クワバラ本部内、県こども絵画展事務局。十月初旬に審査が行われ、知事賞、クワバラ社長賞など各賞のほか応募者全員に参加賞が贈られる〉
[#ここで字下げ終わり]
桑原の商売のうまさには改めて高木直一郎も舌を巻いた。
高木直一郎は、闇屋をやっていた桑原が子供に「ジュニア日本の文学」や「国民百科事典」を、終戦当時の進駐軍のチューインガムやチョコレートのようにばらまくのだと思っておかしく、深夜一人でニヤニヤ笑っていたと言った。
桑原は東郡や南郡に点在するそのクワバラチェーンで売る二束三文で安く仕入れたプラスチックのざるのように、「日本の文学」をばらまくのだった。それがどんな文学なのか分からなかったが、たしかにばらまくには都合のいい安さの本なのだろう。
こども絵画展とはうまい方法じゃ。近隣にはまじめな絵描きも多いが、田舎じゃ誰も分からんと思ってこそっと都会のまねをした絵を器用に描いてる者が多いし、絵というものに上品な気分がついて回るさか、闇屋から成り上がったクワバラチェーンでそのうち高級品も扱う時のための布石になる。
そのクワバラの新聞記事を見て、高木直一郎は、市役所の人事異動と重ねて、桑原と小路が一体何を考えているのだろうかと考えた。桑原は市内に独占して何軒かスーパーマーケットを持つ。
のう、桑原、うまい具合にやっとるのう。それもこれも佐倉の二代目が東京での土地ころがしをやってる代議士のまねして、あそこもここもと小路と同じように土地を買い占めようとして金廻りが跡絶《とだ》えてしもたせいじゃろが、俺には何もかも耳にはいって来とる。佐倉の二代目と小路と桑原の三人の紳士、実のところ一枚皮|剥《は》いだら昔のままの闇屋や木馬引きじゃろが。それらが頭をそろえて、どうやって儲《もう》けて山分けしようかと相談しとるのは俺にはありありと分かる。
高木直一郎はジェイコブに、その土地にある方々の料亭や茶屋に三人が顔を合わせたことがないかと電話して尋ねて回ったと言った。
「電話でなど言わんのじゃよ」高木直一郎は言って笑った。
前歯が一本抜け落ちている。
桑原、お前の考えとることは大体分かっとる。市の繁華街の中にある全部合わせてせいぜい五、六千坪の貧乏人らの路地の土地を手に入れたいと思うのは単に、他のスーパーマーケットやデパートに進出されると競争状態に陥って高いものを買わすことも粗悪品を買わすこともできんからじゃ。それもこれも、小路がせこい男じゃからできたことじゃ。
一見豪放なようで、女以上にこまごまと神経が張りつめ、弱い者と見ると呑《の》んでかかろうとし、強い者と見るとびっくりするほど腰を低くして、まあ、小路はおもしろい男じゃ。小路の事ならくまなく調べつくしている。
そうじゃ、これを言うとくんじゃった。俺がもののついでに東京の週刊誌に、こうこうで市長の面かぶって私腹を肥やしとる、これから何年かたつとこのまま放っておくとえらいことになると言うて、二、三電話したんじゃ。有無を言わず、週刊誌のどれも、その話にとびついてきた。ある週刊誌はわざわざ、俺の家まできて、丁寧に話を聞いて、「記事になるかい?」と訊《き》くと、なると言う。もちろん、その話だけでも記事になってスキャンダルになるが、いかんせん、人口四万の市そのものが全国的に名が売れていないし興味も引きにくいので、これにひとつ色ダネを加えたら確実だと言う。
色ダネ、あるかい?
高木直一郎は笑った。
ジェイコブの眼から視線をそらすように壁に貼った郷里の大きな航空写真を見て、「記者さんにも言うたんじゃが、俺がその色ダネで潰《つぶ》れたんじゃ」と笑う。
高木直一郎はジェイコブに見つめられることが苦しいというようにうつむき、股《また》の中をのぞき込むように見て、「何言い腐るんじゃ」とつぶやく。うつむいたまま顔を揺すり、今、耳元で桑原が話しかけるのを聴くように、「おまえのやっとる事は何でも分かるんじゃ、災害備蓄や言うて慈善事業するつもりじゃろが、その実、それでクワバラスーパーマーケットがもうける仕組みになっとるんじゃ」とつぶやく。高木直一郎はソファに坐ったまま現実にその土地にいて桑原と出会っている気がしているのだった。
ジェイコブもキャスもあきれたように見ていた。
運河のそばの倉庫で働いていた時の高木直一郎とも、そこを出て自動車工場へ行き、そこから逃げ出るようにモダンジャズ喫茶店に行った頃思い描いた高木直一郎とも違った。
もともと肌が黒くそれが日に当たらないのか乾いて褐色の顔が全てジェイコブには、その男に関して耳にした幾つもの噂に似合っていると思われた。
高木直一郎に会うだけのために方々を渡って来たとジェイコブは思い、眼の前の独り言を言い続ける男がその高木直一郎だということが、いつか丁寧に書きとめたノートの中の出来事のような気がした。高木直一郎に向かいあい、そのジェイコブの実父と噂される男に失望するという筋書はすでに分かりすぎるほどだった。
ジェイコブは独り言を言う高木直一郎の顔、首筋、半袖《はんそで》シャツから出た腕、ソファの肱掛《ひじか》けに置いた軽く握った手、指の爪を見た。ジェイコブは何から何まで架空だとあらかじめ知り尽くしていた。眼の前にある男が昔、母の家から出て来たところを兄に目撃された高木直一郎とは違う人物だということも分かっていた。だが、まぎれもなくその男は、バンドの音を鳴らしながら家から出て来た高木直一郎だったし、今、ここにいるのは架空ではなく現実の事だった。
ジェイコブは高木直一郎の話を聞くだけ聞いてやると思い、「そうなんじゃよ、そうやっておまえが、人事異動やっていろいろ目新しさをつくってみたところで、どうにもなるまいよ」と独り言を言う高木直一郎を煽《あお》るように市長をやる小路という男の顔を見たこともなかったが、うん、うんとうなずいた。
高木直一郎はそのジェイコブに「のう」と相槌《あいづち》を求めるように話しかけ、「いくら身辺を入れ替えてみても、本人が以前と変らんことをしようかと言うんじゃさか、どうしょうもないわい」と言ってから、「おい」と突然、声をかける。
高木直一郎は東京の運河に続く庭の青ベタ塗りにした事務所から、壁に貼った大きく引きのばした航空写真を見て、その土地に電話をかける。
ジェイコブはその姿をありありと描けた。
ジェイコブは高木直一郎が話し出すその土地の話を耳にしながら、その土地の山も草すべりの山も燃え上がった炎のような日の光も一切合財架空のものに思えた。
それがいつだったか分からない、隣りの町へ出るには峠を抜け、幾つも折り重なった山の方へ行くならトンネル、川の向うに行くには橋を渡るしかないその架空のような町。その中の路地で次々、人が死んだことがあったのを思い出した。
兄が突然死んだのはその幾つもの死のひとつだった。
劇薬を飲んだ者、首をくくった者、水死した者も、刺殺された者もいた。
ジェイコブは高木直一郎の顔を見ながら、その時の子供心に抱いた不思議な感じを反抗のためでもおどすためでもなく素直に言いたかった。
何人も次々に死んだ。
誰もそんな事をやって、悪気《あつき》がはらえるとは思わなかったはずなのに、丁度、高木直一郎がそうだったように祈祷師《きとうし》を呼んで来て、祓《はら》いをやった。
キャスが一人で口の中でぶつぶつつぶやいている高木直一郎を見て、口を手で隠して笑っているのに気づいて、ジェイコブは、「シャブ中で狂っているのさ」と耳元でささやいた。
「ここの会社に働いて、くる日もくる日も貨物に鼻つけて、運河を見て働いていたの、今から考えると、嘘みたいさ」
「同じ故郷なの?」
「身元引受人、保護観察人」
そう言ってジェイコブは一番大事なことを教えるというように、友子に「知ってるかい?」と訊いた。友子の顔を見ながらわざと、「俺の母親と高木直一郎が兄妹という噂があって、俺が生まれたのは、その兄妹同士がつるんだせいだっていうの、兄が一番知っていた。死んだのはその兄だけど」と言う。友子はただ眼に涙をためて、ソファに深々と坐《すわ》ったままぶつぶつ小声でしゃべっている高木直一郎を見ていた。
ジェイコブは高木直一郎の顔を見ながら、ふと宙に浮かんだ高木直一郎の脳髄を思い描いた。それがその土地のすべてなのだった。
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ジェイコブは高木直一郎のその宙に浮いた脳髄のような土地がありありと眼に浮かぶ気がして、高木直一郎の顔を喰い入るようにみつめた。手で押すとくぼんだまま元にもどらないほど弾力を喪《な》くした土気《つちけ》た精気のない顔の皮膚は、かすかに音のたつ呼吸をする事によって内側から崩れてしまう事を辛うじて支えられているようで、ジェイコブは、確かにその土地はそんな風な醜い人間に似合っていると思った。
ジェイコブは帰ろうと思った。キャスにむかって眼くばせして立ち上がろうとすると、高木直一郎が椅子に坐ったままききとれないほどの声で独り言をつぶやく。あれ、とキャスが驚き、ジェイコブが気にするなと眼くばせした時、事務所の戸が開いて高木直一郎の妻が、入ってきたのだった。
ジェイコブは一瞬、高木直一郎の妻にどう言っていいかとまどった。
高木直一郎の妻はテーブルに台所の方から運んできたジェイコブとキャスの紅茶を置き、ソファに坐った。その後に友子が立っていた。何気ない事だとジェイコブは思ったが、ふとそう気づいてから、高木直一郎に幾つもの噂があり、バンドをチャラチャラと鳴らしながら家の外へ出て来た男だったと思い出したのだった。
高木直一郎の顔をみつめながら、帰ろうとして立ちあがったキャスをとめた。
一瞬耳の内側でユキがかけていたヘンデルが鳴っていた。ジェイコブはそれを振り払おうとして顔を二度振った。突然、高木直一郎は思いもしなかったような事を言い出した。いや、それは高木直一郎の声ではなかった。「おまえらみたいな奴には天罰が下るぞ、天罰が」高木直一郎ではなく、ジェイコブの眼にしている高木直一郎の宙に浮いた脳髄が直接ジェイコブに語りかけているような声だった。
高木直一郎はジェイコブをにらみつけ、「天罰が下ると言うとるんじゃ」と、力いっぱい腕をつき出して指さし、「ドロの中を這《は》い廻《まわ》る事しか知らんウジ虫らが」と屠殺《とさつ》されるような声でどなった。女房と友子が高木直一郎に左右から駆けよった。高木直一郎はまるで眼の前にいるジェイコブが自分の昔からの敵であったと言うように、「どんなにごまかしても罰が当るもんは当るんじゃ」と言い、二人に、「ごめんなさいね」と謝っている女房と友子を、「おまえらもじゃ」と突きとばした。
女房は事務室の隅に置いてあった碁盤に頭をぶつけた。
ジェイコブはとまどい、それから口の端に泡をつけたままジェイコブを指さしてどなりつづける高木直一郎を、自分のせいでそうなったのだと思い、心持ち愉快な気がしたが、妙な腹立たしさがこみあがってくる。たとえようのない不快感もあった。
高木直一郎がジェイコブを指さして怒声を張りあげた。女房が顔と手を押えながら、帰って下さい、帰って下さいと手を振る。ジェイコブはそれを自分には無関係の他人事のようにながめた。不快さは増した。だが一体、その不快さが何なのかジェイコブにははっきりわからなかった。覚醒剤《かくせいざい》中毒で健康な肉がそげ落ちた背の高い男の唾《つば》も怒声も黄色く粘りついてくるように感じたし、さらにその黄色い粘液が自分とその男との距離を徐々に埋めていく気もする。ジェイコブはその黄色いものの意味が分らなかったが、一瞬、自分の眼も心も白く閃光《せんこう》を発して焼けただれてしまうような気がしながら、ジェイコブは自分がここにやっとたどりついたのだと漠然と思ったのだった。
ジェイコブは一度家の外へ出た。
朝の光が何もかも濃く照らし輝いているように見える外を事務所から庭のはずれまで歩き、物置きの脇にダンボール箱が積みあげられているのを確かめてから、今度は駆け足で事務所までもどり、中からキャスを呼ぼうとして、ふと事務所の脇に、電気冷蔵庫をシャブの幻覚でほぐしてみたくなったのか、扇《フアン》がとれ、ゆがんで鉄線のとび出したものが置いてあるのに気づいた。そこに、大工が使うバールがあった。
「キャス」とジェイコブは外から呼んだ。中でまだどなり続けている高木直一郎がジェイコブに気づいて、「逃げくさるな」と外へとび出す気配に、ジェイコブはそのまま車の方へ走った。
玄関から靴を手に抱え持って駆けて来るキャスを車に乗せ、すぐジェイコブは発進させた。車がカーブを曲がり、高速に入ってからジェイコブは路肩のある場所をさがし、さがし当てたとたん、車を停め、「降りろ」とキャスにどなった。車をひろって一人で家へ帰れ、と言うと「どこへ行くの?」と訊《き》く。
「殺してやる」
ジェイコブがつぶやくと、キャスは、ふうん、と合点していたというようにうなずく。殺さなくったってあんな人、いっぱい居るわよ。キャスはジェイコブの気勢をそぐように小声でつぶやき、車を降りた。ジェイコブはキャスが降りるとドアが閉ってもいないのに車を発進させ、次の降り口で高速を降りた。
光のにおいのする朝がまだ残っている事だけを確かめに来たように、ジェイコブは高木直一郎の家の庭に立って思った。壊れた冷蔵庫の脇にみつけておいたバールをつかみあげ、掌《てのひら》の皮膚にひんやりと冷たい鉄の肌触りを感じた時も、朝の寒気をただ知りたかっただけだったような気がした。バールを手に握ったまま事務所の方をうかがい、そこに誰もいないのを確かめてから裏口に廻った。家の中は静まりかえっていた。高木直一郎は発作が治まって平静を取り戻したが高木直一郎の女房も友子も台所に立って食事を作る事も出来ないほど疲れたので、どこからも物音がしないのだろうとジェイコブは思い、それで台所のドアをあけた。高木直一郎の女房は台所にいた。高木直一郎に突きとばされて打ちつけた額に貼ったバンソウコウがジェイコブの眼に入り、それが痛々しげにみえた。
女房は疲れ切っているようにみえた。
覚醒剤を打ち、あきもせずくり返しくり返し昔を思い出してその土地に向って誰彼なしに電話をかけ、独り言をいっている高木直一郎の女房であり続ける事そのものが、体をだるくさせ、神経をまひさせる事だとでも言うように、台所の真中に置いたテーブルから食器のたぐいを持ってのろのろと流しの方へ歩いていた。女房が何を考えていたのかジェイコブにはわかる気がした。女房は高木直一郎に代って運河の倉庫の経営もやっていたので、荷主やトラック会社に電話をかけ、現場にその電話を廻す事だった。事務所を倉庫に移せば家に難儀が振りかからなくていいが、そうなれば、高木直一郎が立ち直った時に困る事になる。その女房は勝手口にバールを握って立ったジェイコブをみて、疲れている事も、今日一日やる仕事の繁雑さも忘れたように顔色を変え、おびえ、声をあげようとした。ジェイコブは「うるさい」と喉《のど》の奥で言い、駆け上がり、バールで女房の顔面を力いっぱい打ちすえた。ほんの一瞬の事だった。バールそのものが重く、さらにそれを力いっぱい振り下ろしたので声を呑《の》んで倒れた女房の額が陥没し、髪がついたまま皮が肉からはがれた。ジェイコブはそのまま高木直一郎をさがして台所からすぐの部屋の戸をあけた。中に、高木直一郎が畳の上にうつむいて坐《すわ》っていた。
そのまま中に入って行こうとして背後に人が立っていると思ってジェイコブは振り返り、それが自分の腹違いの妹だと噂され、自分もそう確信している友子だとわかっているのに、ジェイコブはむしろその事が、人形のように打ち壊される条件だというようにバールを振り下ろし、肩にあたって倒れたところを頭めがけて再度打ち下ろした。そうやってもどり、部屋の中に入ると、高木直一郎はジェイコブをはじめて眼にするというようにみつめ、仁王立ちになったジェイコブがジェイコブではなくいままで眼にした事のない奇怪な物だというような顔をした。自分はここまでやっとたどりついたのだと心の内でジェイコブは言ったが、それも一瞬のうちだった。ジェイコブは立ったまま正確にバールの先が高木直一郎のその宙に浮いた脳髄に届くように降り下ろした。血が高木直一郎の体にこんなに詰まっていたのかと驚くほど吹き出、二度目を倒れ込んでもがく高木直一郎の額に打ち下ろそうとすると血糊《ちのり》で手がすべり、壁にそなえつけてあった白い布でおおった祭壇に当り、祭壇の木が折れて壊れ、中からさかきや稲の穂が畳にすべり落ちて来て、動くたびに体から流れ出る血がその上をおおった。
奇妙な味の悪い光景だとジェイコブは血糊におおわれた稲の穂をみて思い、ふと自分がそんな事まで予測がつかなかったととまどいを感じた。ジェイコブは一瞬、人のスピードよりも速いスピードで人のやる事を翔《と》び越してしまったからだろうと考え、血が流れすぎひくひく動くだけになった高木直一郎をみおろした。高木直一郎の信仰していた神仏が罰を下すのではなく、むしろジェイコブが天罰を下した、と独り言をいい、その部屋に流れ出す血に追いたてられたようにあふれ出る血糊をさけて部屋の外に出て、スカートがめくれ上がった格好で倒れた友子の脇の階段に坐り込もうとした。あまりに自分が昂奮《こうふん》しすぎていたと思い階段に腰を下ろそうとして何気なく、倒れたままの友子に身をかがみ込ませてのぞくと、オニ、とつぶやきが聴こえる。
ジェイコブはすぐにその言葉が自分の空耳だという事がわかったのに、眼を閉じたまま息が切れた友子が言ったような気がして心臓が停まるほど驚いた。それからその驚きがおかしくなり苦い味の笑いがこみあがってきた。人を三人もいきなり殺害して不謹慎だと唇を噛《か》んでくっくっと笑いを堪《こら》えながら階段に腰を下ろした。不意に立ちあがった。今度は手を洗いたかった。
ジェイコブは手を洗える水道のあるところに行くには友子の死体をまたがなくてはならないと知り、それが我慢ならない事のように思えて友子を足で蹴《け》りおこし、友子の両足を引っぱって脇にどけた。
水は手に心地よかった。
石鹸《せつけん》をつけて手を洗った。顔を洗って口を漱《すす》ぎ、顔をぬぐおうとしてタオルの類がそこにないのに気づいた。上衣を脱ぎ、血糊のかかっていない裏の部分を選んでぬぐった。
外に出ると白い上衣にもズボンにも着いている血が赤く輝いて見えた。ジェイコブは明るい朝の中で誰かに発見される事よりも、自分の体が血で赤く染まり炎が立っているように自分の眼に映る事に心を奪われた。
車に乗り込み、エンジンをかけてアクセルをいっぱいに踏み込んだまま発進した。
モダンジャズ喫茶店で、ジェイコブは自分が、山の中をただひたすら走っていた姿を思い描いた。いまさっき、その山の方からもどって車を駅ビルの下の駐車場に入れ、いつも行っているモダンジャズ喫茶店に、それまでと変らないような気分で歩いて来た。
途中高速を降りてから山の中の道を車で走り、夜になった。
眠ろうと思って小道に車を入れ、それでも車の中で眠っていると人に見つかるかもしれないと思って外に出た。
山の中の寒気のために眼がさえ、昔、子供の頃、秘密のかくれ家をつくった時したように雑草や木の梢《こずえ》を何本も折って体の周囲にかき集めて寒さをしのごうとしていて、ふと、ジェイコブは、シャブでやられた高木直一郎をみて不愉快だったのはこの事だったのだと気づいたのだった。それがいたたまれなかったし、それが自分の血をざわめかせ自分を呼ぶとも気づき、ジェイコブはその草々の中にこもっている霊のようなもの、血糊と精液の中にこもっている魂のようなものが一層濃く強く漂う方へ行こうと思った。
ジェイコブはそこが一体どこなのか分からなかった。自分がどこへ向って歩いているのか見当さえつかなかった。夜じゅう、歩き廻《まわ》った。血は穢《けが》れだったが、そうやっていると、血が体のいたるところについている事が、自分がその山や冷えた空気や暗闇がかくしている気高いもの、神々《こうごう》しいものに行きつく条件だった気がした。皮膚にひっかかる雑草の棘《とげ》、足を取る雑木、顔をはたく梢が、ジェイコブに愛《いとお》しくてたまらないとまといついている。
唾液《だえき》を吸うように夜露を飲んだ。木の梢をかじり、苦い木の実を食った。
幻聴のように風が鳴った。
ジェイコブはそれがことごとく架空のものだった気がした。山で草すべりした子供の時分と変らなかった。
ジャズが耳の内側でひびき籠《こも》る。
君原がカウンターの方からジャケットを見せ、新盤だ、と言う。
キャスはジェイコブがモダンジャズ喫茶店に戻ってきた事も知らないで、奥の席で壁に頭をもたせかけクスリでも飲んでいるのか眼を閉じて坐っている。背の高い訛《なまり》の強い男が、まるで昔からこのモダンジャズ喫茶店に通いつめていたようにヒロシやケンと電話帳を使ってオイチョカブをやっている。
カウンターの方で君原が、やめろよ、バカ、とどなる声がした。その童顔の男も初めての顔だった。童顔の男は君原がいつか得意にみせびらかしていた刃渡り十センチほどの手製のジャックナイフを手でふりながら持って来て、常連のヒロシやケンの席に坐る。
思いついてジェイコブは立ちあがった。受話器を取って番号を廻しかかった時、ヒロシの「やめろよ」という声がした。ジェイコブは君原に「なんだよ」と受話器を持ったまま訊《たず》ねた。君原はカウンターの中から身をのり出してのぞき、何でもないというようにジャズにあわせてリズムを取りながら、「バカだよ、ぶっとんでるよ」と言う。
「鑑別所出たばっかりだって。この店、鑑別所の中できいてきたと言うんだけどさ。ここに傷あったほうがいいよな、と俺に訊《き》くから、あったらスゴミはきくかもしれんなと言ったんだ。そしたら、ナイフでつけるって」
「自分でつけるのか?」
「自分で」
君原はくすくすと笑い、冗談だよ、冗談と言う。
ジェイコブは君原に向って笑い、受話器を耳に当て、ツーと発信音が鳴っているのを知って電話を切り、いま一度受話器を耳に当ててみた。発信音が鳴っているのを確かめてからあらためて電話を廻した。電話番号は高木直一郎の家のものだった。呼出し音が鳴りはじめた。
店の中で声がおこり、受話器を耳に当てたまま身をのり出してみると、童顔の男が頬をおおい、「そばへ寄るな」とどなり、右手をふっている。頬をおおった手から血があふれでてシャツにしたたり落ちている。
呼出し音が鳴り続いていた。騒ぎに眼をさましたキャスがジェイコブに気づいて電話をかけている方へ歩いてくる。そのキャスを突きとばすようにして童顔の男が頬を手でおさえ血を流しっぱなしのままジェイコブの脇を抜けてドアを開け、外へとびだしていった。キャスがジェイコブの脇に立った。
いま電話は高木直一郎の家と、そのシャブ中毒でいかれた宙に浮いた脳髄のような土地に鳴っている。電話の音を想像しながら、「狂ってるよな」とジェイコブは君原に言った。ジェイコブの眼にモダンジャズ喫茶店は教会《シナゴーグ》のようにみえた。
作品中、現時点から見れば差別的で不適切と思われる語彙・表記がありますが、作品が書かれた時代背景や作品の持つ文学性、また、著者が故人であることを考慮し、原文のままといたしました。
角川文庫『十九歳のジェイコブ』平成4年8月25日初版発行
平成18年2月25日改版初版発行