魔法使いの夜
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)唐突《とうとつ》
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(例)数分|唸《うな》りながら
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(例)[#ここから目次]
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唐突《とうとつ》に言うと、私は魔法使いである。
『何を馬鹿な、君のどこが魔法使いだというんだね?
君は空を飛んじゃいないし、格好だって全然それらしくない。違うかな? 蒼崎青子《あおさきあおこ 》?』
そう尋ねられれば、私はその通りだと頷《うなず》くだろう。
ただ、それは私の姿に関する誤《あやま》りが無いということへの首肯《しゅこう》であり、魔法使いではないという事実にまで頷いてやるつもりはない。
じゃあ訊くけれど。
ローブを着ていれば魔法使い? 空を飛べれば魔法使い?
本気でそう思う?
そんな条件で魔法使いになれるのなら、この世はきっと魔法使いだらけだ。
黒くてゆったりとした衣服を身に纏《まと》い、飛行機にでも乗ればいい。それが不満なら、ハングライダーでも構わないと思う。
そんな簡単なことで決着がつくのなら、世の魔術師はきっと悩んだりしないだろう。
それで済むのなら、一生を賭ける必要などどこにも無い。
だから、見かけで魔法使いだとか違うとか、そんな判断をするのは間違っている。
ん? 何?
魔法使いと魔術師と、どこが違うのかって?
う〜ん、大雑把《おおざっぱ 》に説明すると、魔法使いは科学をもってしても成せないことを成す連中で、
魔術師は科学で出来ることを違う方法でやってる連中。
本当に大雑把な説明だけど。
さてと。
本当は色々言わなきゃならないんだけど、それは次第に解るでしょう。だから前口上はこれで終わり。
さあ、繰り返そう。
―――私は、魔法使いである。
∫ ∫ ∫
ただ一人、ぼんやりと見も知らぬ世界に佇《たたず》んでいる。
真夜中の都会が奏でる色彩の群れは目にあまり優しくない。
中心地と思しき場所からは離れているのに、刺すような赤・青・緑…といった様々な光が絶えない。
夜というものがこれ程に明るく眩《まぶ》しいものだとは、ついぞ知りもしなかった。
明暗がハッキリと別れており、影ですら目に悪い気がする。
……実家の方じゃ、暗すぎて影も何も無いんだろうが…。
込み上げる苦笑を隠しもせず、オレこと静希《しずき 》草十郎《そうじゅうろう》は街並みに目を向けた。
今まで憧れ続けた世界に、こうして立つことがあるとは思わなかった。あまり表に出さないようにはしているが、正直感動の嵐である。
それもそのはず、電気も引かれていない田舎から出てきたのだ、
こんな明かりを見るのも初めてならば、こんな夜遅くに出歩くのも初めてときている。興奮しない方がおかしい。
ここまでの旅路を思い出してみる。
まず家を出て二時間歩いて、バス停へ。それからバスで一時間かけて駅に着いて……。
「……で、新幹線か」
苦いモノが込み上げる。
どうせ気疲れするだろうから眠ってしまおうと考えていたのだが、
音も無く後ろに滑っていく景色に少々はしゃいでしまったのと、
慣れない移動方法(正直、移動している気がせず気持ち悪い)で寝付けなかった。
結果、疲労も眠気もかなりのところまできている。
しかし困ったことに、初めての都会というものに圧倒されて、オレはそれを半ば忘れかけてしまっていた。
「凄えもんだなあ……」
感嘆の吐息が漏れた。
こうして忙しなくあちらこちらを眺めていると、まるで自分が田舎者だと宣伝しているようで嫌なのだが、
かといって簡単には落ち着けそうもない。
規模が小さい話をして悪いが、オレは近所の廃寺にある御神木以上に背丈のあるものを見たことがないのだ。
それ以上のものに囲まれていては、落ち着けないのも当たり前だろう。
見上げる。
……こんな所で働いているヤツがいるんだよな……。上にどうやって登るのか知らないが、
目的地に行くという段階で疲れきってしまいそうだ。大変じゃないのだろうか?
どうなのか考えてみる。解らないし、ちょっと入ってみようか……。百聞は一見にしかずと言うし、折角こっちに来たんだし。
「……いや、いかんいかん」
好奇心に流されそうになった自分を、かろうじて押し留める。
今回こちらに来たのは、親戚の葬儀があるからだ。それなのに、いきなり観光気分でほっつき歩くのも不謹慎だろう。
仲が良い縁者ではないとか、それ以前に顔もよく解らんとか、正直どうでもいいとか、こちとら御伽噺《おとぎばなし》の魔法を見ているような気分なんだから邪魔すんなとか……。
ともかく色々あるが、まあ取り敢えず不謹慎っぽい。
「葬儀、か」
不意にある人のことが浮かぶ。
オレの尊敬していた、だがあまり親しくはなかった人。彼が死んだ時、葬儀に出席したいと願ったのだが、当時オレはあまりに幼く、遠出は無理だと言われてしまった。
悼《いた》むべき人の葬儀に出ず、どうでもいい人の葬儀には出るというのは、何か間違ってる気がする。
そう考えれば、自分には一生縁が無いと思っていた場所にこうして存在しているのに、ただ手をこまねいているのは勿体《もったい》無い。
形ばかりの親戚付き合いに、そこまで真摯《しんし 》になる必要なんてあるのだろうか。この機会を利用せずして、オレは後悔しないのか。
本気で迷い始める。
その場で数分|唸《うな》りながら過ごす。さぞや変な人間に見えているだろうが、体面は一旦置いておく。
「………よし」
一つ頷く。結論は出た。
腹が減っていることだし、まずはメシでも食おう。
さて、偉《えら》く現実的な結論を出したとはいえ、オレはこちらの地理に詳しい訳ではない。
こういう時は慌てず騒がず、それらしい場所に行き着くまで散歩を楽しむのが吉。
ならば、と鼻歌一つで歩き出す。
この辺りがどういった機能を果たしているのかは知らないが、見渡す限り似たような建物ばかりが並んでいる。
無機質な森。
道は開けていてどこにだって行けるような気がするのに、気が付けば自分の位置を見失ってしまいそう。
……いや、格好つけるのは止めよう。
はっきり言ってしまえば、店らしきモノが全く見当たらない。
どれも同じに見えるということは、どれもそうではないということではないのか。
「参ったな……。あそこまで行けばいいのかねえ?」
遠くのけばけばしい明かりに目をやる。歩いて行けない距離ではないが、体のことを考えれば、いつもより時間はかかるだろう。
まあ、自分で決めたことだ。たまにはこういうのもいい。
……我ながらお気楽なもんだ。
お気楽ついでに捻《ひね》くれて、わざと道を曲がってみたりする。これという目的地に向かっているのではないのだし、
方向さえ間違わなければそれで問題無い。
普通は歩く距離が長くなるのを人は嫌うのだろうが、田舎暮らしで足腰が鍛えられているオレとしては、そう苦だとは思わない。
近づいているという実感がハッキリしているだけ、新幹線なんかよりは余程マシである。
やれやれ、新幹線に対して苦手意識が出来てしまってるな。心配せずとも、もう機会なんてありはしないだろうに。
味も素っ気も無い意見だが、恐らくは最初で最後の長旅だ。それを思えば、嫌だとも言えまい。
……本気で味気《あじけ 》無いな。止めよう。後ろ向きな思考で、期待を打ち消すこともない。
散漫な脳内を取り敢えず打ち払い、時間を確かめようとする。
時計など洒落《しゃれ 》たものは持っていないので、星の位置を読む。
「………ん?」
あれ? 星が無い?
掌《てのひら》を差し出しても雫は落ちてこない。ということは雨は降っていない。そして、濃紺の空はあからさまに夜を示している。
……何でだ?
首を傾《かし》げる。ともかく、見えない以上、時間の確認は無理だ。
「むう」
予備知識はやはり大事だよなあ、と今更のように実感する。無知な人間が好奇心だけで来るべき土地ではないのかもしれない。
誰か人と擦《す》れ違うなりすれば、色々訊けるんだが……。
しかし折悪く、ここに人気《ひとけ 》は無い。
ここまで不都合が重なると、何だか街中から敬遠されているような錯覚を覚えてしまう。気の所為《せい》か、周囲の空気も固く張り詰めている。
「………?」
強すぎる違和感。好ましくない環境が着々と形成されている。オレの独《ひと》り善《よ》がりな発想がこれを成したのか。
かといって、歩くという程度の行為を止める訳にもいかない。自分に従うのなら止めるべきなのだろが、
歩くのを止めたらじゃあオレはどうすればいい、ということになる。目的地どころかどこにも行けはしない。
……やれやれ、いつからこんな弱腰でへっぴり腰な性格になったのやら。
呆れてしまう。溜息とともに、短く刈り込まれた頭を掻き毟《むし》る。
左折、直進、右折。
直進、左折、右折。
立ち止まった。
大した理由ではない。行く先の街灯が三つに一つくらいの割合で切れており、残りは点滅といった有様になっていた。
別に不便は無いが、実家はもっと暗いんだよなあ、という感慨に襲われる。
「直せばいいだろうに」
ぼやいてから、まるで自分がこちらの人間のようだ、と思ってしまった。
……馬鹿みたいだな。
苦笑しつつも、ようやく調子が出てきた自覚を持った。
―――ガシャン!!
さて、もう一頑張り……という時に、いきなり何かが割れたような音が響き渡った。
静かな夜を、透明かつ剣呑な残響が無遠慮に切り裂いていく。
「何だ……?」
―――ガシャン、ガシャン、ガシャン!!
立て続けに割音が叫ぶ。近い。
想像したものは、建物の窓ガラスが一枚一枚割られている光景。等速で歩きながら金槌を叩きつけていけば、
きっとこんな拍子になるだろう。
……泥棒か、悪戯か。いや、それにしちゃ派手すぎるような…。
ここまで大っぴらにやれば、大抵の人間が気付きそうなものだ。
だが誰も確認しようとする気配が無いことから鑑みて、案外これは日常的なことなのかもしれない。
ふむ、どうしたものかな。
一瞬だけ悩む。自分の性格からして結論は出ていたも同然だが、用心はしておきたいところだ。
「……さて」
結論は、変わらず。
とにかく行ってみよう。そう距離も離れてはいないし、何より気になるしな。
未だ鳴り続ける破砕音の中、オレは駆け出した。
ところで、犯罪絡みで犯人が刃物を持っていたりしたら、オレはどうするべきだろう。
用心って、何を考えていたのやら。
∫ ∫ ∫
言ってしまえば、これは私一人でも充分どうにかし得る問題で、久遠寺《く お んじ 》有珠《アリス 》の出番なんて本当は無いのだ。
実際、彼女の手を借りずとも事態を切り抜けることは容易であるのだし、別に彼女に役割を与える必要は見当たらなかった。
なのに彼女が何故ここにいないのか、そして何故彼女が働いているのか。
その答えは簡単、止める前に飛び出して行ってしまったからである。
私としては楽が出来るし、彼女が人払いをしてくれれば用心にはなるのだから、まあ別に構わない。
それで当面の問題は解決するのだから。
私はこれで解決するのが当たり前だと思っていた。アリスもそうだったと思う。
……しかし困ったことに。
予想外というヤツは、どこにだってあるのよね―――。
半透明の、緑色をした正四面体を打ち砕く。
一つ、二つ、三つ。
鋭角的なフォルムを活かして、敵目掛けて突っ込むというシンプルなトラップ。それなりに効果的ではあるが、動きが単純で読み易い。
―――つまらない。
嘆息。馬鹿正直に体を狙う緑を、機械的に打ち落としていく。
程《ほど》無くしてその作業は終わり、後にはただ静寂だけが残る。
……誰の差し金かは知らないけれど、随分と程度の低いモノを寄越《よこ》したものだ。
命を狙うとしたらもっと大掛かりな仕掛けで来るだろうし……。ということは、スカウトか何かかしら?
だとしても、こんな稚拙な手段で来るような相手と組む気になんてなれない。
私は私が認めた相手じゃない限り、首を縦に振るつもりは無い。
―――まあ、私が認める人間なんて、二人しかいないのだけれど。
暇潰しにもならないこの件に、私は落胆を禁じ得なかった。これだったらアリスに任せて、私が人払いをしていた方がマシだったかもしれない。
再び嘆息。息を抜く。ともかく、私の認める一人を待つとしますか。
すると、微かに足音が響いてきた。
「タイミングいいわね」
振り向く。
白状すれば、事が済んで気が抜けていたという自覚はあった。
敵意はもう感じられないし、ここに来るとしたら役目を終えたアリスしか有り得ない。
だから安心していた。
「…………え?」
「…………ん?」
予想とは違う顔が目に飛び込んできて、頭が一瞬で白くなる。
短く刈り込まれた黒髪に、意思の強そうな目。薄手の白いジャンパーに、履き古したようなジーンズ。
この季節に見せる格好としては些《いささ》か寒々しいものがある。普通にしているが、彼は寒くないのだろうか。
……違う。問題はそこじゃない。
男は大雑把に周囲を見渡すと、納得したように軽く頷いた。
一体、何に?
しかし、私を置いて事態は進む。彼はどこか険のあった表情を緩めると、困ったように問うた。
「忙しそうな所悪いが、今何時か教えてくれないか?」
場違いな言葉に、思わず時計を見る。
「十時半過ぎだけど……」
「そうか、ありがとう。手間をかけたな」
ひらひらと手を振って、彼は何事も無かったように立ち去った。ただ一人、私は路地裏に立ち尽くす。
台風の直撃を受けたかのようにまとまりの無い頭が、次第に落ち着きを取り戻していく。
―――見られた。
真っ先に、その言葉が浮かんだ。
見られた。見られてしまった。
まずいとかやばいとか、そんなありふれた言葉ばかりが浮かび、消えていく。
迂闊《う かつ》、致命《ち めい》。
終わったからといって身勝手に気を抜いた、自分の愚かさに恨みすら湧き上がる。
何てこと。
「どうしたのかしら?」
一人で慌てふためいていると、ようやく戻ってきたアリスが私の肩を叩く。
驚いて向き直ると、冷静かつ理知的な瞳が私を覗き込んでいた。
静かな態度に、少しだけ我に返る。絡まった意識が僅かに解けた。
いつからそこに、と思いはしたが、それ以前もっと大事なことがある。私は今しがた起こったことを、詰まりながらも彼女に説明した。
「ふうん……」
聞き終えると、彼女は柳眉《りゅうび》を吊り上げた。目に見えて不機嫌なご様子だ。
「魔法を見られる、ということの意味くらい、解っているわよね?」
「……当たり前でしょ」
拗《す》ねたような声が出た。それくらい私だって解っている。
魔術師・魔法使いにとって、自分の持つ力を他者に見られるということは致命的なことである。
魔術師同士であっても、自身の技能を見せる場合は酷く限定されている。
何故か。
それは、魔術というものが神秘だからである。オカルトとは秘匿《ひ とく》を指す言葉であるが、魔術とはまさしくオカルトなのだ。
科学が誰にでも扱える、という公平さをもって勢力を増していくのとは反対に、
魔術とは他者の目から隠れ、それを特化・神秘にしてこそ力を得る。
そうした前提に立つ、私の根幹を成すモノ、それを見られてしまった訳だ。
「……アリスの人払い、働いてないじゃないの」
唇を尖らせる。本来無関係である筈の彼が、ここまで入ってこれるという状況が、そもそもおかしい。
私の不手際もあるが、彼女にだって落ち度はある。だから、私だけが責められるのは間違っている。
「私はいつも通りにやったわよ。でも、貴方も知っての通り、この類《たぐい》の結界は、当事者が入ろうと思えば入れるものでしょう。
その男の進もうという意思が強かっただけで、私を責めるのはお門違《かどちが》いだわ」
「それでも、貴方の力が及ばなかったのは事実でしょ」
アリスが私を睨み付ける。しかし反論はしない。彼女は仕方が無い、といった調子で腕を組んだ。
「……まあ、過ぎたことを言っても仕方が無いわ。こうなった以上、やるべきことをやらないとね」
「やるべきこと?」
鸚鵡《お う む》返しに尋ねる。彼女は落ち着いた様子で続けた。
「貴方が魔法を見られた、というのも問題だけれど、これで私達の所在が割れるのも問題だわ。
ただでさえ私達は疎《うと》まれているのだしね」
「それはそうだけど……。じゃあ、どうするのよ」
まだ解らないのか、と呆れたように彼女は肩を竦めた。自分一人で出した答えを、さも自他共通であるかのように思われても、こちらにはどうしようもない。私には何の結論も与えられてはいないのだから。
「全く……、ここまで状況が揃っているのよ? 結論なんて一つ――その男を殺す以外ないじゃない」
「―――な」
何気無く、本当に何気無く彼女は言い放った。
彼女にとってそれが当たり前であり、また、それ以外に無いと信じているからこその、何気無さ。
知らず、反論が口をついた。
「そんな、それは―――」
ちょっと待ってほしい。
そこまでする必要があるのだろうか?
簡単に殺すとは言うけれど、それ以外の方法を考えたのだろうか?
見られた時点で殺すタイプもいるだろう。相手を束縛、或いは記憶を消すタイプだっているだろう。それは本人の資質による。
だが、少なくとも私は前者ではないのだ。勿論《もちろん》殺せない訳ではない。
ただ、敵と判断していない人間を殺すのは、私の趣味じゃない。
だから、彼女の言葉に、素直に頷けない私がいる。
「迷うのは貴方の勝手だけれど、何もしなくても時間は過ぎていくわよ?」
急き立てる響きが、熟考を遮《さえぎ》った。他に方法は無いか、やるとしても、どうするのか――そうした諸々の道筋が掠れていく。
「何を躊躇《た め ら》っているの?」
何を? 何に? ああ、そう急かさないでほしい。考えがまとまらないから。
頭の中で自分が盛大に騒ぎ出す。
本当に殺すの? 彼が実際に私達の不利益になるかなんて、解らない。でも、禍根を断つことは大事。
でも、その行動の所為《せい》で貴方という痕跡が残るかもよ? うるさい。別に彼だって、平然としていたじゃない。
見られていないのかもよ? うるさい。見られたという確信があるの? うるさい。時間的に見て微妙よ?
ああ、彼も魔術師かもね。だったら別に慌てないかも。うるさい。うるさい。
―――ああ、うるさい。
黙れ。喧《やかま》しい。
前髪を掴んで、下ろす。視界を塞ぐ。
脳内で騒ぎ立てる自問の声を無視。頼むから口を出さないで。
確認。
彼の顔、覚えている。服装、思い出せる。
時間はまだあまり経っていない。特徴は未だ明瞭で、距離も恐らく離れてはいない。
視界を戻した。
「覚悟は決まったみたいね」
「ええ」
「手助けはいるかしら?」
「見縊《み くび》らないで」
「そう」
簡潔な遣《や》り取り。お互いの役割をはっきりさせる。
私は彼を殺す。
彼の正体も何も、知ったことじゃない。魔術師だろうが、一般人だろうが、構いはしない。
さて、注意すべき点は何か。
場所が場所だし、周囲に人がいる点も考慮すれば、魔法・魔術の行使は相当に限られた状況でしか不可能。
殺すという行為を思えば、最初から人目は気にしなければならないけれど。
まあその場の状況によって、一時的に捕獲という可能性もあるが、そこは臨機応変に、というところか。
今はこれだけ確認すれば充分。
アリスに背を向け、路地裏を出る。
行こう。
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唐突に言うと、オレは事態が飲み込めていない。
ただひたすらに嫌な予感がするので、必死で走っているだけである。
考えてみてほしい。自分の身にこんな出来事が起こったらどうするかを、冷静に。
例えば。
つい数分前に出逢った見目麗《み めうるわ》しい少女が、いきなり自分を追ってきたとしよう。
落し物でもしたっけか? 或いは、惚れられたか?
思うとすればこんな感じか。疑問の余地は無いと固く信じるところである。これなら何も問題は無い。
世の中平和で良かったね、で終わりだ。
しかし、しかしだ。
そんな彼女の表情が、未だかつて見たこともない程、鬼気迫っていればどうだろう。
激しい足音に振り返ってみれば、血走った目を見開いて、髪の毛を振り乱し、
「待ちなさい!」
これである。
そんなに必死にならずとも、僕はここにいるよ。
そうした科白《せ り ふ》を吐ける男になりたいとオレが願ったとして、何の不憫《ふ びん》があろうか。
……我ながら、錯乱気味だな。
ともかく、オレには彼女を受け入れる器量が無いので、かなり本気で逃げている。
よく解らないうちに、鬼ごっこが始まっていた。
道を行く人々は様々である。
疲れきって家路を行く者。一杯引っ掛けてきたのか、顔を真っ赤に染めている者。歌い出す者。
大通りのけばけばしい明かりの下には、数限りない人間模様が詰まっている。華やいだ世界にはそれに相応しいだけの彩りがある。
人生色々。
だから、そんな喧騒の中を風切って駆け抜けるオレという存在も、別におかしくはないはずだ。
だから、物珍しそうにこちらを眺め遣るのは止めてくれないものか。
「兄ちゃん頑張れー!」
「おい、気をつけろよ!」
冷やかされたり怒られたりに軽く手を挙げて応え、とにかくひた走る。
いちいち反応してる場合じゃない。とにかく目に付いた角を適当に選んで曲がる。
時折直進も混ぜて、単純な移動をしないよう心掛ける。そう距離が離れている訳ではないので、油断は禁物である。
何か都合のいい隠れ蓑《みの》は無いかと、細やかに気を配りつつ走る。これだけの集中力が自分にあるとは思わなんだ。
「……っと、いいの見っけ!」
建物と建物の間に、大き目のゴミ箱が二三、それとゴミ袋が並んでいる。生ゴミ臭いのは、料理店か何かのゴミだからだろう。
そういや、メシ食ってないんだよなあ……。
腹の虫が鳴りそうになるのを堪《こら》え、隠れる。今は我慢するしかない。
さて、右見て、左見て、と。
ゴミ箱の上にゴミ袋を乗せて、即席の壁を作る。隙間から通りを覗けるようにして、後は息を潜めて待つだけ。
ここは袋小路の入り口だ、注意する方向は一つでいい。
傍目《はため 》から見て不自然になっていなければいいが……。
如何《い か ん》せん急拵《きゅうごしら》えの代物《しろもの》だ。見つかってもおかしくはない。
目の前を通り過ぎてくれるのが最善。このまま時間が過ぎるのが次善。見つかるのが最悪。
そんなところか。
取り敢えず、今のうちに少し休んでおこう。幸いここには女の嫌悪感を駆り立てるものが満載だし、飛び道具には事欠かない。
恐らくじっくり話を聞く余裕は無いだろうしな。準備はしておかなければ。
比較的小さめの袋を手繰《たぐ》り寄せる。さて、待つか。
密やかに心躍らせて、時を過ごす。耳を澄ませ、目を凝らせ、集中しろ。
……しかし、何だかんだ言って結構余裕あるな、オレも。
こんなことしてないで、適当な店に入るべきだったかもしれない。まあいいんだが。
苦笑してしまう。さっきから食欲しか浮かばない。不規則な生活に不慣れな体が、文句をぶつけているようだ。
とその時、通りが少し騒がしくなる。
―――来たか?
隙間から覗き込む。やはり彼女だ。
長い髪の毛が真横に流れるくらいの早さで、目の前をあっという間に過ぎ去っていった。
垣間見えたその視線はどこまでも直線的で、清々《すがすが》しさを覚える。
……まあ、すぐ脇にいる目標に目もくれずに走り去ったのだ、清々しくもあるな。
「純粋なもんだ……」
鬼ごっこをかくれんぼに変えたこっちが恥ずかしいくらいに、彼女は真っ直ぐだった。
自分は捻くれているらしいと知る。
ありがとう名も知らぬ君、お陰でオレは自分を発見出来たよ。
おざなりな感謝を浮かべ、ゴミ袋を蹴散らす。
「さて、出るか」
腰を下ろしたお陰で、少し疲れが取れている。オレは背筋を伸ばし、筋張った体をほぐした。
軋みを上げる体が心地良い。ついでに首の骨を鳴らし、体調をある程度戻す。
もう彼女も行っただろう。
「どこに行くか―――」
「ああ、いた!!」
体が強張《こわば 》った。踏みかけた一歩が所在無く揺れる。
周囲を貫く大音声《だいおんじょう》にそろそろと振り返ってみれば、どうしようもなく間の悪い結果が飛び込んできた。
彼女が肩で息をして、オレを睨みつけている。
―――こりゃまずい。
考えるより先に足が動く。景色を振り解《ほど》く勢いで、前進。急激な運動で心臓が不平を言うが、気にしちゃいられない。
「待ちなさい!!」
そう言われて誰が待つものか。折角《せっかく》撒いたと思ったのに、また振り出しだ。何だって戻ってきたんだ、一体!
溜息が出てくる。手近な曲がり角に差し掛かる。
やり場の無い感情が溢れてきた。何か理不尽だ。
どうやって撒くかな、クソ。
案が無いかと、頭の中を引っ掻き回す。そうこうしている内に、俺の中に一つ良くない発想が浮かんだ。
まず、状況をまとめよう。
こうして鬼ごっこを続けていても埒《らち》が明かない。説明を求めようにも、彼女は冷静さに欠けている。
つまり、このままでは結論が出ない。
そして。
―――何より、つまらん。
いつ終わるとも知れない鬼ごっこを延々と続けるのは苦痛でしかない。ただ追われるだけの疲弊《ひ へい》に過ぎない。
だが、これを遊びと捉えてはどうだろう。
鬼は変わらないにせよ、捕まらないようにこちらから仕掛ける。そもそも鬼ごっことは遊びだ。ならば楽しまなければなるまい。
…だからまず、あちらだけが攻め手という状況を崩す。
どうやって、という問いの答えは既に出ている。そう、言われた通りにするのだ。
「さあて、どう出るかな」
自覚出来る程の笑みを浮かべ、角を曲がり切った。忙しく回転を始めた思考が、結果を心待ちにしている。
やはり、オレは底意地が悪いようだ。
∫ ∫ ∫
姑息《こ そく》な。
曲がり角へと素早く消えた後ろ姿に、そう投げかける。
自分では足は速い方だと思っていたのだが、彼はそれ以上に速い。そして、逃げるのが上手い。
私が曲がり切った時に、影が一瞬見えるくらいのタイミングで、彼は姿を消す。
それを信じて追いかけると、後ろから出て来たりする。さっきからそれの繰り返しだ。
一筋縄ではいかない。
お互いに相当の距離を走っているが、まだ彼の方が走れるだろう。男と女だ、悔しいけれど器の差は如何ともし難い。
遅れること数秒、曲がり角に辿り着く。彼がどこに曲がろうと、今度こそ見極めてやる。
気合は入っている。
電信柱を掴んで、半円を描くようにターン。慣性を殺さず、ベクトルを直線に修正。
曲がり切った。
「よ」
「―――へ?」
にやけた口元が見えた。それが最初。わざとらしい爽やかさで、彼が片手を上げて笑う。
彼が一歩進み出る。私の横に並ぶ。ただし、向きは反対だ。
「ぼけっとするなよ」
軽口を叩くと、彼は勢い良く私の後ろに走り抜けていった。擦れ違いざまに後頭部を小突かれたのは、きっと気の所為ではないのだろう。
何が起きたか理解出来ず、脳味噌は呆けたまま、慣性を殺さなかった体が勝手に前進を続ける。
遠ざかる足音を聞きながら、考える。蹈鞴《た た ら》を踏んで、前につんのめった。
―――え、いや、だってそんな。
導き出した答えを打ち消そうとしてみる。馬鹿らしい。でもそれしか考えられない。
つまり。
待てと私が言ったから、待っていたのだろう。ほんのちょっとの間だけ。
「あんの男は……!」
声が軋った。かろうじて保っていた何か大事なモノが、音を立てて切れた。
転びそうになる体をどうにか抑え付けて、来たばかりの道に向き直る。
全力で振り向いたものだから、自分の髪の毛が目に入ってしまった。悔しさと相俟《あいま 》って少し涙ぐむ。
自分の鼻息の荒さに気付くが、もうそんなことはどうだっていい。
ただで済ますものか。
目尻を軽く指先で拭い、後を追う。
アリスにはやるだけやる、といった旨《むね》の返事はしたが、私としては穏便に済ませたいという想いがあった。
殺すなら苦しませず、逃がすなら記憶を消す。そんな風に思っていた。
甘ったれていた。もう知ったことか。
どこかの馬鹿が放置していた空き缶を拾う。スチール缶三本、上等だ。
我ながら信じられないような速度でカーブに進入する。無防備な姿を捉えた。
「待ちなさいって……言ってんでしょうが!!」
手首のスナップを利かせて、思い切り一本を投擲《とうてき》。
空き缶は鋭い弧を描き、酔っ払いの間を切り裂いて、獲物に食らい付こうとする。
「うっわ、危ねえ!」
頬の脇を缶が掠める。涼やかな音を立てて缶は転がっていった。慌てたような彼の顔に、ちょっとだけ気分が晴れる。
一発目は外れ。でも、調整としては充分。
残るは二本だ、どんどん行こう。
両手に一本ずつ持つ。もう少し数が欲しいところだが、かさばるので結局は邪魔になる。ポシェットか何かがあれば助かったのに。
「馬鹿、当たるだろ!」
「当てようとしてんのよ!」
彼の文句が響くが、そんなものどこ吹く風。
躊躇い無く二本を打ち出す。緩めのカーブで、左右から挟みこむような軌道。
横に逃げれば体に当たる、かといって避けない訳にもいかない。
どうしたって当たる。そして、痛みは動きを鈍らせる。
これでチェックメイトだ。
終わりを予期していた。しかし、それは呆気《あっけ》無く打ち砕かれる。
「ちっ!」
苛立たしげに舌打ちすると、彼は踵《かかと》を跳ね上げた。地面から上へと伸びた足が曲線を遮る。
一本を蹴り飛ばして作り上げた空間に、彼は身を滑らせた。
「―――な」
……何でアレを防げるのよ! 後ろなんて見てないのに!
不満すら出せず、ただ歯噛みする。体勢を崩している今なら当たるだろうが、もう手駒は使い切ってしまっていた。
彼は落ち着き払って姿勢を正し、再び走り出す。
「ああ、もう!」
「甘い甘い!」
馬鹿にした口調に、どんどんテンションが上がっていく。ここまで虚仮《こけ》にされたのは初めてだ。
握り締めた拳が小刻みに震え、魔法の行使を本気で考え始める。
避ける暇も余地も無いだけ大規模に破壊してしまえば、きっと簡単に終わる。一切合財《いっさいがっさい》の区別無く、全部消し飛ばして……。
ああ、きっと気分爽快だろうな……。
子供の頃に口ずさんだ花占いのメロディがよぎる。そのリズムに合わせて、手を閉じたり開いたり。
やる、やらない。やる、やらない。
やる、やる。
いつの間にやら選択肢が無くなっている。これではいけない。
深く息を吐いて、沸騰していた頭を冷ます。落ち着いて、冷静に。相手のペースに嵌《はま》らない。状況を弁《わきま》えると決めたのは私。
それが魔法を使おうなんて、軽率が過ぎる。
もっと慎重に、追い詰めていかなくては。
考える。
今のところ、私はやられっぱなしだ。追えば逃げられ、煙《けむ》に巻かれる。ならばやはり、方法を変えなければならないだろう。
となると、どう動くべきか。
「単純なのはやっぱり良くないわね」
呟く。遠ざかる彼が私を気にかけた瞬間、近くの角に飛び込んだ。これで彼に私が見えなくなった。
素直に追うのはもう終わり。
展開は変えた。さあ、楽しませてもらいましょうか。
∫ ∫ ∫
久遠寺有珠は、遥かビルの高みからその騒ぎを見詰めている。
名も知らぬ建物の屋上のフェンスに腰掛け、どの瞬間も見逃すものか、と目を光らせている。
野暮ったい。青子ならばそう一言で切り捨てるであろう漆黒のローブを風に遊ばせて、彼女は軽く眉根を寄せる。
「何をやっているのかしらね……」
一部始終の全てを、彼女は目にしている。それでもなお、眼下の光景に対して理解が出来ないでいる。
やるのならば、もっと手際良くやるべきだ。律儀に追いかけっこに興じる必要は無い。
一撃で、一瞬で決める。そうして然《しか》るべきだろう。そうでなければ、悪戯に時間が過ぎるばかりだ。
青子は決意と殺意に欠ける。アリスは常々そう思っていた。
彼女の相棒としてこれから先を生きるなら、振りかかる火の粉を払えるだけの力は備えていなければならない。
敵に対して躊躇いを覚えるなど、愚の骨頂。
今回の件がその契機になればいい、と彼女は高みの見物を決め込んでいた。
自分が手を貸してしまえば、青子に甘えが生まれてしまう。それは本意ではない。
これで青子が一皮剥けてくれれば、明るい展望が開ける。彼女はそう信じていた。
見詰める。
男の方に用は無い。アレはただの一般人。アレはただの踏み台。
アリスが見詰めるのはただ一人、青子だけである。
「ふふっ……」
小さく笑みがこぼれる。
気付けば、常の彼女にある、理知的な瞳は消え果てている。およそ正気とは思えない熱が、奥底で渦を巻いているかのよう。
「悔しそうね……。いいわ、もっと見せて……」
トーンの高い嘲笑が唇から漏れた。目を細め、屈辱に歪む青子を脳裏に刻み付ける。
深い愛情と嫉妬が混ざり合った色で、彼女の目が青子を追う。
いつもは見せてくれないのに、だとか、そんな言葉ばかりが響き渡る。
夜気に呼気を蕩つかせて、アリスは手の甲を口元に運んだ。ピンク色の舌先が静かに皮膚を這い、湿らせていく。
手の甲が舌という刷毛《はけ》でぬめる。たっぷりと水気を含ませて、次は指先。白く滑らかな手が唾液で汚れていく。
それはネオンに照らされ、赤・青・緑と一秒毎に彩りを変えていく。
しばらくすると、彼女は手を離した。今度はその濡れそぼった手を乳房に宛《あて》がい、そっと揉みしだく。
抱きしめるようにして四肢に絡んだ腕が、柔らかな乳房を持ち上げる形となる。
そうして乳房に唾液を擦りつけ、薄い快感に彼女は酔い始める。
胸元は淡く照り返しを受け、淫靡《いんび 》な光を湛《たた》えている。
嫣然《えんぜん》とした微笑を浮かべる。浮かされたような吐息が荒ぎ、加速していく。自身を押し流す快楽に咽《むせ》ぶように、唇を噛んだ。
血でルージュを引く。
「良い顔だわ、青子……」
呟いて、アリスはほんの僅か視線を外した。空を仰ぐ。
「本当に、良い顔……」
酷く、婀娜《あだ》な姿。
もう一人の魔法使いは、密やかに痴態を楽しんでいる。
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オレ何したっけ?
真っ先に浮かんだ疑問。
直接攻撃まで飛んで来たのだ、相当酷いことをしてしまったのだろうが……正直、何一つ思い当たらない。
オレはどこで何を間違った?
首を傾げる。だが、今更何を言い訳したところで、事態が変わるはずもない。
鬼はお冠《かんむり》だった頭が冷えてしまったらしいし、まずオレがすべきは対処法を講じることか。
「しかし……、厄介だな」
今までは相手が単純に追い掛けてきてくれた。それに便乗した逃げ方を続けていればそれで済んだのだが、やり返されると立場が弱い。
追うと遊ぶが、追うと追われるに戻ってしまった。
……どうするかな。
相手がどうするかを考えて行き詰まっては、術中に嵌まる。嵌めるのは好きだが、嵌められるのは真っ平御免だ。
しかし、相手の行動すら利用してこその駆け引き。
「ふむ……」
唇を湿らせる。本腰を入れるか。
直線的な動きは速さという点で優れているが、応用が利かない。今の彼女の動きは応用が利く。
だが、今までの速さは無い。アレは回りくどい手段だから。
成程《なるほど》、オレは迷いと引き換えに時間を手にした訳か。ならば、それを利用せねばなるまい。
考えろ。相手の裏をかけ。まず、オレが彼女ならばどうする?
隠れた以上、それを活かすだろう。まず、迂回しつつ接近。しばらくして顔を出し、直進。或いはあそこで待ち伏せ。
これくらいか。
だが、それが解ったところで、オレは彼女ではない。選択肢を知っても、絞り込む要因が無い。
……それじゃ対処出来んのだな、これが。全く、どうしたもんか。
近づいて駆け抜ける……いや、それは最善ではない。
「……あ、そうだ」
一つ妙案。
取り敢えず視界内に彼女はいない。ということは、全力でこの場を離れるくらいの余裕はあるはず。
ならば、作戦に見合う場所を探せるはずだ。
さて、そうと決まれば移動しなければならない。ここは場所が悪すぎる。
念の為に、周囲を確認。監視されているとすれば滑稽《こっけい》な姿だが、かといって用心を怠る気も無い。
迅速に行動を開始する。ここからはオレの運次第。
オレも男だ、たまには冒険しないとな。
なるべく人目の無い場所へ移動した。普通ならば、絶対にしてはいけない手段。だが、敢えてそれをする。
別に、彼女が他人に缶をぶつけないように、という配慮ではない。
目的が叶《かな》いそうな場所を勘で探しているうちに、こうなったというだけの話。
折角考えた作戦があるのだ、多少の無理があっても実行したくなるのは人の常だろう。
「さて、と……」
見上げる。煌々《こうこう》と照らされた空の真ん中に、細長く角張った先端が突き刺さっている。
この建物がどういう用途で使われているかは知らないが、さっき普通に人が入っていったことだし、オレが入っても問題は無かろう。
ここにするか。
彼女が追い付く様子はまだ無い。
とはいえ、オレは物音くらいでしか気配を感じ取れないのだから、自分の感覚全てが正しいとは思わないでおこう。
明かりの眩しい入り口を抜ける。
正面にエレベーター、その隣に階段。すぐ左、非常口。右側に廊下。
実に単純な作りだ。
選択肢としてはエレベーターか階段だろう。
だが、オレは奇跡的にエレベーターだと解りはしたが、使い方を知っている訳ではない。迷うことなく階段を選択し、駆け上がる。
都会に来ても解らないことだらけだろう、そう言った親戚の顔を思い出す。
本当に何もかも解らないことだらけではあるが、彼から多少話を聞いていただけマシなのかもしれない。
少なくとも、エレベーターだと解ったのだから。
と、考えごとも終わらぬ間に、三階に到着する。もっと上の階もあるが、三階が限度。四階以上ではちと保証しかねる為だ。
……やれやれ、今度ばかりは追い掛けてきてくれないものかね。
そうじゃなきゃ、人が恐々としながら、未知の領域に踏み込んだ甲斐《かい》が無くなる。
廊下に出た。左側に部屋が並んでおり、右側は腰の少し上くらいの壁で出来ている。つまり、外が覗けるという訳だ。
涼しいというよりは寒い空気が吹き込んでいるが、今はその寒さがありがたい。
走り続けたお陰で汗ばんでいる体には、これくらいが丁度良い。
どうせなら水の一杯でも欲しいところだが、流石《さ す が》にそれは贅沢《ぜいたく》だろうな……。
溜息と同時に白が舞う。ゆっくりと闇に溶けていくその色は幻想的で、今までの喧騒が嘘だったかのように思わせてくれる。
余分な音の無い世界。自分の鼓動、少し荒い息――諸々がただ静かな旋律を奏でている。
優しい。
そう思った。
実家の方では当たり前の静けさ。だが、それに意味を感じることなど、今まで一度も無かった。
それをこうして考えられただけ、オレはこっちに来て良かったのかもしれない。
……現状はさておきとして、な。
「何だかねえ……」
郷愁とは、こういう気持ちのことを言うのだろうか。だとすれば間の抜けた話である。
到着から一日も経っていないのにこの調子なのだ、オレが都会で生きていくのは無理だろう。
苦笑する。気を取り直し、階下を見下ろす。気が抜けていたのか、彼女が入り口でこちらを凝視しているのに気付きもしなかった。
「……見つけたわよ」
「……ああ、見つかったな」
自分の感情に浸っていた所為《せい》か、驚くほど素直な声が出る。彼女も意外だったらしく、眉を跳ね上げて不思議そうにオレを見上げる。
視線が絡んだ。どちらからともなく、息を抜く。
いかんな、これじゃらしくない。
「捕まえてみな」
軽く笑って、階段の方に身を翻《ひるがえ》す。彼女が同時に唇を吊り上げて愉快そうに笑う。
「手加減しないわよ!」
「ああ、望むところだ!」
そうでなければ、つまらない。
∫ ∫ ∫
さあ、ここまで追い詰めた。今度は私の番。
お互いに良い感じのテンションになってきた。ただ純粋に、今自分が成すべきことに集中している。
子供のようにただ無邪気に、相手を捕まえる。
子供のようにただ無邪気に、相手から逃げる。
二人とももう結構な年齢なのに、幼すぎる戯《たわむ》れにここまで本気になっている。
結構なことだ。何故って、この時間はなかなか悪くない、そう思えるから。
懐かしい。姉貴と二人で、日が暮れるまで追いかけっこをした。
一緒に笑って、一緒に走り回った。ああ、そんな日々が確かにあった。
私たちがまだ仲良くやっていた頃の、そんな幼い記憶。
もしも彼女が今私を思うとしたら、一体何を思うのだろう。
そして、彼もまた、こんな想いに駆られていたのだろうか。
「……今は、集中しないとね」
呟き、頭を切り替える。
目の前のエレベーターと階段。エレベーターのランプは三階から二階に下りてくる途中のようだ。
だがここはマンションだし、住人が使っている場合だってあるだろう。彼がボタンだけ押したという可能性もある。
逆もまた然りで、階段から足音がしたからといって、彼とは限らない訳だ。
あとは非常口、か。
試しに開いてみる。金属製の扉は、かなり大きな音を立てて軋む。開閉に伴う音がかなり大きく、反響もかなりのものだ。
これなら、彼が非常口を使えばすぐに解るだろう。
となると、選択肢は二つに絞られる。
いきなりマンションに入っていくから何かと思ったけれど、これが目的かしら? まあ、迷いを誘うのは確かなんだけど。
しかし、このどうにも納得いかない感じは何だろう。
迷いや躊躇いが失敗を生むのは確かだが、かといってわざわざ私の選択肢を狭める必要は無い。
絶対に捕まらない、というのならともかく、入り口が一つしか無い所でやっても追い詰められるだけだ。リスクとしては大きすぎる。
「どう来る、かしら……」
結局のところ、毎度のように彼らしく色々と考えている、ということか。
ああもう、迷っていても仕方が無い!
移動の手軽さとお互いの疲労度を考えて、エレベーターに的を絞る。
追い詰めているのに、悩まされているのがこっちだというのは癪に障る。
だから、今度こそはやり返す。やられっ放しは何より私のスタイルじゃない。
そう、今度は私の番なのだ。
覚悟を決める。エレベーターの表示が一階に切り替わる。
どうせ馬鹿正直に下りてくるとは思っていないので、出てきたのがまるで違う人でも落胆は無い。
入れ替わるようにエレベーターの中に滑り込み、即座に全ての階のボタンを押す。
エレベーターと階段の位置は近いし、首を出せば廊下の様子も探れる。
結果がどう出るか読めないのなら、より確かな方法を取るだけ。
どうせ顔を突き合わせるまで、お互いの姿なんて見えはしないのだから。
低い唸りを上げて、エレベーターが二階に上がる。開くと同時に一度出て、階段と廊下を確認する。物音も無く、人影も無く。
まあいい、こうやって一階ずつ潰していこう。どんなに地味な作業でも、積み重ねることでいつか結果は出せる。
エレベーターのドアが閉まる前に戻る。次は三階。
先程彼がいたのは確かこの階だったはずだが、まだ残っているということは、きっと無いと思う。
しかし、裏をかかれてはいけない。私は三階でも二階と同じ行為を繰り返す。
廊下に三人ほどたむろしているのが見えたが、別に用は無い。黙殺して、また戻る。
このマンションは七階建てだ。単純作業を繰り返すのは好きになれないが、ここで意思を曲げれば、それこそ相手の思うツボ。
最後まで、曲げない。
再開だ、続けよう。
……四階、いない。
………五階、いない。
…………六階、いない。
残るは七階だけ。ここまで見つからないと、本当に自分の行動が正しいのか疑問が芽生えてしまう。
知らず、焦りで手に汗を握っている。
大丈夫、見落としはないはずだ。
私は間違っていない。足音を殺すなんて基本的なことを怠ったつもりは無いし、まして集中力を切らしてもいない。
エレベーター内にいる時間はそう長くないし、こちらの移動に合わせて彼が移動しているとしても、階段の残響を逃すほど錆《さび》付いてはいない。
だから、そうだからこそ、七階に必ずいるはずなのだ。
そこで追い詰めれば私の勝ち。それでも逃げられるとしたら、私が何かとんでもない過ちを犯した場合だけ。
でも、今しがた一つ一つ確認しても思い当たらないのだから、ミスは無い……はず。
うん、逃がす要因は無い。
―――なのに、この期待感は何なんだろう?
期待というのは間違っているかもしれない。万一ここで逃げられれば、やっぱり私は悔しく思うだろう。
でも、彼なら何かやらかしてくれそうな気もする。
『捕まえてやる』と『今度はどう来る』、その感情が奥底で責めぎ合っている。
沸き立つような感覚が、酷く心地良い。それを素直に自覚する。
唇を湿らせる。さあ、最後の階だ。今度の出し物は何?
エレベーターが開く。ここまではお定まりの展開。
あって然るべき結果、それを求めて飛び出す。
「……え? いない?」
しかし、私を迎えたのは、閑散とした廊下だった。
誰も、いない。
見ての通りだ、一直線の廊下に隠れる場所など無い。
「どうして……?」
そんな馬鹿な。きちんと一階から、用心深く調べてきたのに。
階段、廊下、非常口。全て意識して上ってきたのだ、見逃した場所は無い。
でも、いない。
「どうやって―――」
何で? どうやって?
自問が回る。解らない。無人の廊下を進む。どこをどう見ても、何の手掛かりも無いことは解る。
でも、納得がいかない。私は何を見逃した?
頭が、こんがらがってきた。
冷えた夜気になびく髪の毛を抑える。考える。どうやって、私の目から逃れたのか。
まさか、と思いつつ、突き当たりの壁を叩いてみる。当然だが、隠し扉がある訳もなかった。
「んん……?」
ますます解らない。いや、今の自分の行動に意味があるとは思わないけれど。
その場にしゃがみ込んで、額を壁に押し当てた。頭を冷やす。
集中力が切れて、溜息が漏れた。とにかく下に戻ろう。
エレベーターに向かおうと、私は身を翻した。
―――やってみれば解るのだが、誰しも振り返る為には、身を反転させて向きを直さなければならない。
例に漏れず私もそうする訳だが、この時私は外の風景をみる形で振り返った。
運が良かったのだろうか? ……いや、いまいち判断出来ないところだ。
俯《ふつむ》き加減だった。普通ならば一瞬で流れる風景に違和感など覚えようもない。
だが、何かおかしい気がする。
外を見た。
いた。
先程の立ち位置を逆転させた感じで、彼が私を見上げている。
気の所為か、ちょっと飄々《ひょうひょう》としている。
「なっ、なっ」
スタッカートの驚き。
「涼しいかー? 上の方はー」
距離がある為だろう、呼びかける声は間延びして聞こえる。
正直、馬鹿にしてるようにしか思えなかった。
「何でそんなとこにいるのよ!!」
場所も弁《わきま》えず、大声を上げた。彼は一言、
「内緒ー」
と私に手招きして見せる。そのまま悠々と歩いていく。
走りもせず。余裕だ。
色々込みでしっちゃかめっちゃかになった。
ああああもう、何がどうして!?
自分でも意味不明。とにかくがむしゃらに走る。
エレベーターも使わず、階段を一気に駆け下りる。けたたましい音と共に、階数表示が目まぐるしく切り替わる。
「ちょっと待ちなさいよー!」
彼に届くはずも無い悲鳴は、マンション中にとてもよく響いた。
∫ ∫ ∫
マンションの外。時間が経つのにつれて、温度は徐々に下がっている。
この寒さの中、ジャケットを着た女性が一人、身じろぎもせずこの騒ぎを眺めていた。
今の彼女を見ても、誰も何とも思わないだろう。それくらい印象は弱い。
だが、眼鏡の奥の鋭い視線、煙草《た ば こ》を咥《くわ》える歪んだ唇を見れば、その弱さが虚偽だと解る人間もいたかもしれない。
電柱にもたれたまま、彼女は静かに煙草を吹かす。周りには誰もいないというのに、慎重に人目に気を配っている。
煙草の煙が空気に溶ける。
「……ふむ」
眼前のマンションを見詰める。彼女の目にはつまらないデザインに映るが、今は別にそんなことは関係が無い。
彼女の興味はただ一つ。
この内部で行われている、ちょっとした騒ぎのことだ。彼女が威勢良くマンションに侵入して、まだ一分未満。
あの青年がどれだけ青子を虚仮に出来るのか、それがどうにも彼女の興味を引く。
やり方次第で、一般人でも魔術師・魔法使いを相手にすることは可能だ。だが、あの青子をここまで翻弄する人間はいなかった。
本来の目的を忘れ、しばし行く末を見守ろうかという感情が、彼女の内部で湧き上がる。
「ん―――?」
灰を落としかけた時、彼女はそんな声を上げた。一度は中に戻ったと思われた青年が、再び姿を現したからだ。
何をするのか、と注視する。
彼は廊下の手すりにおもむろに手をかけると、そのまま外に飛び出した。着地の際に、コンクリートが固い振動を伝える。
「成程」
首肯、感嘆。彼女は煙草を道路に捨て、踵で踏み躙《にじ》った。
一旦中に逃げると見せかけて、相手が踏み込んだ頃に廊下から脱出する。
中に入るのを自分で確認してしまえば、その先入観は拭《ぬぐ》いにくい。
それを踏まえた上で、正規のルートを使わずマンションから出るのだ、青子が引っ掛かってもおかしくはない。
単純なフェイントではあるが、冷静で勝算の高いやり方だろう。
新しい煙草に火を点け、大したものね、と口の中で呟く。
次はどう出るつもりなのか、彼女は見守る。予想では、青年がすぐに逃げ去ると思っていたのだが、彼はそれを是としなかった。
そのまま道路に腰を下ろすと、動く気配も見せず、じっとマンションを見詰めている。
一体何のつもりなのか? ここに来て、彼女はついに好奇心を抑えきれなくなった。
一際大きく踵を鳴らし、存在をアピール。彼に近づく。
「どうかしましたか?」
道端にへたり込んだ男を心配する住人、そんな風を装って、彼女は気遣わしげな声を出す。
そこに先の鋭さは無く、柔らかさすら感じさせる。
青年はいきなり話し掛けられた所為でたじろいでいたが、すぐさま気を取り直した。
「いや、何でもない。ちょっと人を待っているだけだ」
科白に、思わず彼女は訝《いぶか》った。現状を知っている人間ならば、誰だってそんな反応をしただろう。
だがそれは、現状を知らない人間を装った彼女には、無用の反応でもあった。
「……何かおかしいか?」
「いえ、別にそんなことは……」
敏感にそれを悟り、彼は問い掛けた。彼女は内心舌を巻く。
油断ならない。青子に対しての奔放な態度ばかりが目につくが、彼の本当の脅威はそんなものではない。
状況だけではなく人間の内面にまで及ぶ、緻密な分析と判断。それこそが彼の武器だ。
迂闊に尻尾を出そうものなら、あっという間に彼はそれに食いつく。しかも、本当のミスにだけ食いつくだろう。
嘆息して、煙草を消した。眼鏡を外す。
「予定外だが……この際だ。誤魔化しは無しにしようか」
「……? 何の話だ?」
彼が疑問を浮かべる。彼女は鼻を鳴らして、悠然と構えた。
「私は蒼崎橙子《あおさきとうこ 》と言う。……アイツの姉だ」
は、と口を開けて、青年は呆然としていた。
「アイツの……?」
「ああ。全く、癪《しゃく》な話だがね」
お互い、眉間に皺《しわ》を寄せて話している。一方は不快、一方は疑問。
「で、その橙子さんが、オレに何の用だ」
敵の関係者を前にして、物怖《ものお 》じの一つも見せない。しかし、油断も無い。
慎重と大胆が最善の形を成している人間、そのバランスに彼女は魅せられる。
そして思う。敵対してはならない、と。
考えてしている訳ではないにせよ、自身が巻きこまれた事態を何一つ間違えず、彼は処理していく。
この件に関わらざるを得ない彼女にすれば、少なくとも敵に回したくない類の相手。
今殺すのも手ではあるが、そうすると青子に存在が知れる。
ならば、取り敢えずは利用するしかない。
「単刀直入に言おう、私はアイツに用がある。手を組まないか?」
「アンタと? は、悪くない話だが、信用は出来ないな」
あからさまな不審。ならば、と彼女は事前に手札を晒す。
「私の要求は一つだ。後はオマエの好きにしていい」
「ふむ?」
青子が中に入って、もうかなり時間が経っている。長話している暇は無い。橙子は必要なことだけを端的に述べた。
「こっちの条件はこれだけだ。どうする?」
「どうする、か」
問いかけに、彼は薄い喜色を浮かべて見せた。
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走る。
先程の女――蒼崎橙子といったか――の言葉は、どこまで信じていいものか解ったものではない。
用があるというのは流石に本当だろうが、姉妹だというのは嘘かもしれない。
見た目が似ていないというのも要因ではあるが、何より、姉妹ならば普通に会えばいいのだ。
それをしないで、こんなに回りくどい方法を取っている辺り、何かきな臭いものを感じる。
まあ面白そうではあるし、半分くらいなら乗ってやるのもいいだろう。完全には鵜呑《うの》みにせんがな。
遊びは当事者間で決着をつけるものだ。だから、あの女が何を企んでいるのかは知らないが、場が白けるようなら速やかに退場してもらう。
……走る。
予定よりも長居してしまった。
もともと彼女を引きつける為に逃げなかった訳だが、あの話に乗ったと見せかける為に、時間的な余裕を更に消す羽目になってしまった。
クソ、芝居は不得手だというのに。
適度な距離を保っているか確かめつつ、橙子からもらった地図を眺める。もうすぐ目的地に着くようだ。
……考える。
橙子は、妹に会いに来た、という割には些か不穏な空気を纏っていた。
不仲だけの姉妹ならまだいいのだが、そんな次元の話ではない。彼女の顔から覗いた感情は、どうにも黒いものを感じさせた。
走れ、考えろ。
ああいう手合いがいると、遊びはあっという間に興醒めしてしまう。険悪さで場が冷えるのは御免だ。
だから、考えろ。
人間関係、現状、諸々をひっくるめて今を楽しむ為に、オレはどうやって場を乱すべきか?
オレは、どう動くべきなのか?
どうやら、この遊びは相当に奥が深いようだ。
橙子の条件とやらに、ようやく行き着いた。
アイツの提示は簡単。地図で指定した場所を舞台にしてほしい、それだけだった。
で、その条件の前に立っている訳だが……。
「何だここ?」
いやまあ言ってしまえば、どこを設定されようとオレには何一つ解りはしないのだが、ここは今まで使ってきたどの場所とも趣《おもむき》が違う。
ガラスで出来た入り口は広く作られており、同時に多人数が出入り出来るようになっている。それはいい。
だが、その入り口が開いていない場合、オレはどうすればいいのだろうか。
割れってことなのか?
もう一度地図を見る。いつ彼女が追ってくるのかと内心穏やかではないのだが、ここまで来て場所が違います、なんて馬鹿はしたくない。
確認。地図の隅っこに、『西側の非常口から入れ』と一言書かれている。
そういうことか。
しかし、字小せえな……。大雑把な性格に見えたが、気の所為か?
考えたところで埒《らち》も無いな。取り敢えず入ろう。
大きく迂回するようにして、移動。程無くして非常口は見つかった。
「さて……」
明かりがほとんど無いので、中は暗い。だが、オレの真上の非常口の緑だとか、いかにも危ないよ、
と言いたげな赤い光などが点々としているので、別に見ることに支障は無い。
というか、今は夜なのだ、暗いのが当たり前である。今までが明るすぎたくらいだ。
「気楽なもんだね……」
大雑把に見渡す。階段脇に立て札のようなものがあった。見ると、階層毎に何やら分けられている。
地下一階が食料品、一階が生活用品、二階が女性衣類……と。成程、ここは総合店といったところか。
これを見た時点で最初に行くべき場所が決定。勿論、地下一階だ。
今のうちに食うべきモノを食ってしまえればそれが良い。時間がある今じゃなければ無理だろうから。
階段を軽快に下りる。彼女等のことを考えれば先行き不安としか言いようも無いが、ここならば何とかなるかもしれない。
これだけ物に溢れていれば、幾らでも罠は作れる。困るのは、何を仕掛けるのかという選択肢が多すぎるくらいだ。
橙子がどう動くつもりかは知らないが、もしかしたらアイツは自分で自分の首を締めることになるかもしれないな。
それくらい、ここは具合が良いのだから。
「うわ……」
地下に到着した。
見渡す限りの食料品に気圧される。手を出すのが憚《はばか》られるだけの食料というのを見るのは初めてだ。
ともかく、適当に見繕《みつくろ》うとするか……。
棚に綺麗に陳列されている商品の数々から、食べるのに手間取らなさそうなモノを選んでいく。
物珍しさという観点から、パンを二三個失敬する。
「飲み物飲み物、と」
飲料水コーナーと書かれた一角に向かう。結構距離があったが、案外すんなり文字が読めた。
オレは夜目が利く方なのかもしれない。
瓶の牛乳を発見し、これまた失敬する。黙々と食事を始めた。
「……そういや」
ふと、あることに思い至る。
こっちの人間は、日々明かりに囲まれて生きている。
そして、実家の方からこっちに出てきた親戚は、都会暮らしで視力が下がったとぼやいていなかったか。
つまり、全員とは言わないまでも、こっちの連中はあまり暗い環境に慣れていないのではないだろうか。
オレはこの状況に何ら不都合を感じていない。だが、彼女等はどう思うだろう?
「……ふむ」
確認する必要があるな。予想通りなら、色々と面白いことが出来そうだ。
貰い物の白いジャンパーを見る。これならこの暗さでも目立つだろう。
どれくらいの距離なら、相手は反応を示すか。彼我の差が解れば、それは戦局にかなりの影響を及ぼすはず。
さて、そうと解ったら、準備に入らなければならない。
実行に必要なものはどこにある?
∫ ∫ ∫
蒼崎青子が件のデパートに入るのを、久遠寺有珠は例の如く高みから眺めていた。
彼女にしてみれば、事態は傍観に徹していればそれで済むものである。
だから差し当たっての問題は、これからどうやって見物しようか、という程度であった。
彼女が執着しているのは、青子が青年を始末する過程においてどんな顔を見せてくれるか、それだけである。
彼女は青子しか目に映してはいない。
そんな折、彼女の顔に僅かながら狼狽が浮かぶこととなった。
気付くのが遅いと言えば、それは確かに遅かった。だが、気付くはずが無いと言えば、それも然り。
青年はただの一般人であり、青子の身に何か起こることなどあろうはずもない。青年に青子を劣勢に追い込むだけの力は無い。
―――そのはずだ。
アリスは眉根を下げて、困惑を漏らした。青子が非常口の扉を開け、デパートに侵入した瞬間、異変が起きたからだ。
非常口の辺りが淡い光を帯びている。最初、アリスは中の非常口の光が隙間から差し込んでいるかと思ったが、
どうもそうではないようだ。アレは緑というよりは青に近く、何より彼女に馴染みのある気配を感じさせた。
光には指向性があった。普通光源というものは、周囲に散漫な光を与えるものである。だがそれは、はっきりとした形を持っていた。
見た感じでは、文字に近い。
光。文字。気配。
そして、彼女の中の馴染んだ感覚。
断片的だった情報が次第にまとまり、導き出された結論にアリスは愕然とする。
「ルーン……!?」
認識が確信に変わる。誤認させるだけの要因はあったにせよ、遅い。
確かに青年は普通の人間だ。それを見ぬいていてなお、アリスは青子に殺せと嗾《けしか》けた。
そして、最初に青子が処理したトラップに関して、アリスは奇しくも青子と同じ認識を抱いていた。
つまり、凡百な魔術師がスカウトにでも来たのだろうと。
まあ青年が当事者だった場合、初見で青子を誘うはずであるから、アレを別件だと考えるのは間違っていない。
だが、時間の進行に従って、状況が変わることなどよくある話だ。
決め付けがあったアリスは、無意識に可能性の幾つかを除外していた。その結果がこれである。
「しまった……!」
今更のように焦りが噴き出す。
一刻も早く、青子の元に向かわなければならない。何をしても失う訳にはいかない。そうした動きが、偶然にも彼女を救った。
デパートへと飛び出そうとした瞬間、彼女の顔の脇を黒い影が薙いだ。風と音を感じる間も無く、右耳が爆散する。
「っくあぁっ!」
衝撃に、彼女は屋上を転がる。天を仰ぎ見る形で止まった刹那《せつな 》、被さるように黒影が視界に広がる。
アリスの体が本能に従い、退避行動を取る。自身に一番馴染んだ手段が、一番適切な形で発動。
屋上の風景にアリスの姿が溶け落ちる。
一瞬後に、アリスは影から離れた場所で大きく息を荒げていた。
「……ふむ、それが久遠寺有珠の空間転移という訳か」
冷たく、それでいて皮肉な声。
屋上の隅。
そこには、紫煙を夜にたなびかせた蒼崎橙子がいる。
「私も鈍ったもんだ、初撃で仕留められんとはな」
「ただの魔術師が、吠えないで」
少し遅れて血を吹き始めた耳を抑え、アリスは橙子に向き直る。
その態度に、橙子はつまらなさそうに笑うと、煙草を投げ捨てた。
「血を出しながら言う科白じゃないな。滑稽を通り越して無様だよ、その姿は」
嘲《あざけ》って、彼女は影を自分の元に戻した。内心歯噛みしつつ、アリスは橙子を眺めているしかない。
アリスの前にいるのは、協会に赤という最高位を賜《たまわ》った、封印指定の魔術師だ。
手強いだとか、そんな簡単な言葉で片付けられる相手ではない。
状況は明確。
お互い真正面から対峙しており、傷の有無はあるものの、戦闘に支障は無し。戦意も充分。先のような奇襲は成功しないと見ていい。
「貴方が黒幕だったなんてね」
「気付いていなかったのか? わざわざ程度を落としたのは事実だが、まさかオマエ等、二人揃って草十郎が主犯だとでも思っていたのか」
「そんなはずないでしょう」
アリスとて、青年が黒だとは思っていない。ただ、橙子にまでは至らなかっただけの話。
そしてそれが、致命的だったというだけの話。
「―――目的は青子ね」
「まさしく。それにはオマエが邪魔なもんでね」
お互いに解り切ったことを口にする。彼我の差を計り兼ねている。相手の全力を知らず、仕掛けるきっかけすら掴めない。
故にアリスは揺さぶりをかける。
「ただの魔術師が、魔法使いに勝てると思う?」
問いかけに、橙子はただ無言で応える。その面に貼り付いている感情に不吉なものを感じ、アリスは知らず早口になる。
「青子と同じだと、思わないことね」
破壊に関することしか秀でていない青子とは違う、そう強調する。確かにアリスは魔術に秀でている。
それに加え、自分は魔法が使えるのだ、という自負があった。
だから、例え橙子がどれだけ優れた魔術師であろうと、それは彼女にとって確固たるアドバンテージのはずだった。
「ククッ、随分と強がるじゃないか。オマエが私と同じ水準の魔術を使えると決まった訳でもあるまい?」
「強がっているのは貴方よ」
魔術師は感極まったように喉を鳴らす。愉快で堪らない、そういった風情であった。
戦闘が単純な算数でないことは解っている。だが、魔法という差を前にして、橙子が笑う理由がアリスには解らない。
橙子が新しい煙草に火を点けた。
「―――知っているんだろう?」
「何の話?」
唐突に切り出される。
「スウェーデンの魔術師の話だよ。いくら情報から遠い生活でも、これくらいは知っているだろう」
その言葉で、アリスの表情が抜け落ちた。
「それがどうしたと言うの?」
外面《そとづら》の崩れを隠そうと、抑揚《よくよう》の無い声を上げる。しかし、それは乱されまいということに、逆に囚われているということ。
アリスは無反応ということで、橙子に誤魔化しようの無い答えを与えてしまった。橙子は我が意を得たり、とばかりに唇を吊り上げる。
更なる満足を求め、魔術師は高らかに謳《うた》い上げる。
「ふむ、知らないというのなら教えてやろう。彼は最近まである研究をしていたんだが……」
不覚を取った、そうアリスは感じている。どす黒い感情が蠢いた。
口にさせてはならない。
殺さなければならない。
それは、知られてはならない。
橙子は話に夢中で気が緩んでいた。その隙を突かねば、アリスに先は無い。
「へえ……」
相槌《あいづち》を打つ。
彼女は隠し持っていたナイフを取り出すと、軽く膝を曲げた。
会話を完全にシャットアウト。
「それは、結構!」
全力で前に出た。
不満げに唇を歪めた橙子が、足元の影を展開する。姿勢は防御。それを見て、アリスは攻撃に集中する。
影の間合いに入る直前、空間にナイフを突き立てる。音も無く腕は宙に飲み込まれ、刃先は魔術師の喉笛に食らい付かんとした。
「チッ!」
橙子が苛立たしげに首を捻り、ナイフを影で叩き潰す。真正面からの奇襲は見事に避けられた。
舌打ち一つでアリスが後退。だが、漆黒はそれよりも早くついて来る。
心臓を貫かんと影が肉薄した。後ろに倒れ込むことで、アリスはそれを遣り過ごす。
回避後、迅速に身を起こそうとしたアリスの体が止まる。使い魔たる影ではなく、使役者《し えきしゃ》本人がアリスを見下ろしている。
転移が間に合わない。
腕を十字にし、顔の前へ。狙いすましたように、橙子がヒールの踵を叩き込んだ。垂直に落下した先端が腕を穿《うが》つ。
折れた。
痛みと衝撃が体を縛りつけようとする。悲鳴を上げる暇も無い。
だが、アリスは悲鳴の変わりに呪を叫ぶ。
「水よ!」
小指の先くらいの大きさの水が、四つ生じた。もう一度踏みつけようとして足を上げていた橙子は、その所為で退避が遅れる。
水弾が音速もかくや、という勢いで走った。影を戻すことも出来ない。橙子はただ無理矢理に体を倒し、直撃を避けようとする。
三発が皮膚を抉《えぐ》り、一発が脇腹を貫く。
「やってくれる!」
「しつこいのよ!」
橙子が嗤《わら》う。アリスが吠える。
アリスは橙子を蹴り飛ばしてから転移。充分に距離を取った。
一方、戦闘中だというのに橙子は煙草に火を点け、影を伸ばす。
「芸の無い―――!」
アリスは手を大きく前に差し出し、意識を集中させた。
影を飲み込めるだけの規模の水を一瞬で召喚する。急激に水分を集められた所為で、周囲の気圧やら何やらが著しく変化する。
巻き起こった風がネオンの配線を絡ませ、火花が散った。
「「―――行け!!」」
発動は奇しくも同じ言葉。
青と黒が接触する。
アリスは己が生み出した水塊が影を覆い尽くす瞬間を捉えた。
殺った。目にしたその結果にどうしようもない愉悦《ゆ えつ》が込み上げ、彼女は美しく頬を歪める。
後はこのまま橙子ごと押し潰せばそれで終わり。
やはり、私は橙子よりも上だ。
―――そんな幻想に酔っていた。
拮抗《きっこう》の中に、僅かに眩《まばゆ》いモノが生まれる。描かれた光は、丁度アリスと橙子を結んでいる。
意図に気付く。射線から逃れようとする。
「遅い」
冷淡な声。
回避は間に合うはずであったが、折れた右腕は彼女の意思に従ってはくれない。急な回避についてこれなかった右腕に、光が纏わりつく。
音も無く右腕が焼失。声ならぬ声を上げ、アリスは無様に身悶えた。
両者の攻撃を隠れ蓑として、裏からルーンで直接アリスを狙う。
早々に勝利を確信したアリスとは対照的に、橙子は冷静に勝負を見据えていた。
その差が如実に表れる。
「―――っ」
覚悟が、準備が、戦闘に必要な何もかもが足りていなかった。右腕と引き換えに、アリスはそれを悟る。
だが、悔やんでいる暇も無い。体勢を立て直すべく、アリスは屋上から飛び降りる。
空中でその姿を消した。
後に残されたのは、橙子ただ一人。
「……逃げられたか」
つまらなさそうに呟き、煙草を口から落とす。事前に張っておいた結界に、アリスの気配は引っ掛からない。
ふむ、と一つ頷いて、彼女は彼女は屋上のコンクリートを蹴り剥がした。
そこにびっしりと刻まれた光る文字の群れをしばし見詰めてから、指を鳴らす。
ルーンがその効力を失い、無に帰す。
「手駒が無駄にならなかっただけ、マシか」
切れかけたネオンを背に、彼女もまた屋上から立ち去った。
∫ ∫ ∫
一体、彼は何者だろう。
閉店後のデパートに侵入出来るということは、ここの関係者だろうか。
非常口脇に仕掛けてあった消火器にいきなり脛をぶつけ、蹲《うずくま》りながらそんなことを考えた。
「くぅ……」
痛い。弁慶の泣き所は、普通に痛い。
初歩的なトラップに顔を顰《しか》めつつ、私は警戒心を強めた。どうもいけない。動きが短調になりがちだ。
彼のペースに巻きこまれているのか、それとも単に焦っているのか。
……冷静に、ならないと。
まだ暗さに目が慣れていないので、手探りで慎重に進む。非常口特有の緑が、行く先にぼんやりとした影を作っている。
明かりの所為で周囲が見難いというのは皮肉な話だ。
出来るだけ、気を緩めない程度に階段へと急ぐ。彼はどこにいるだろう?
実を言うと、私は彼を一度見失っていた。どれくらいこのデパートの近くをうろうろしていたのか解らないが、
ともかく、また彼が余計な色気を出して私に呼び掛けたりしたので、ここに飛び込んだという訳だ。
結果、蹲る羽目になったけれど。
「………参ったな」
見回す。自分から誘いに乗ったのだが、ここはどうにも不味い。
よりにもよって、デパートなんて。
幾ら何でも、これ程罠が仕掛けやすい環境も無いだろう。私も罠を仕掛けることは出来るけれど、それの準備中に罠に嵌りそうだし……。
何だか、圧倒的に不利。
ただ、不利に気付くのが遅かったのは確かだけれど、結局中に入らなければ彼には近づけない。
……全く、何だってこう選択肢を潰すのが巧いんだろうか。
溜息がこぼれる。
仕方が無い。物事は前向きに考えよう。
わざわざ相手の領域に乗りこんだのだから、全てを突破して彼を捕まえる。うん、これで行こう。
「見てて飽きないな、オマエ」
不意に声が響く。少しだけ笑いを滲ませた、聞き慣れた彼の声。
正直、少し予想外ではあった。
今まで彼は、安全な状況でしか私に接触しようとしなかった。だからまた、私が探して彼が逃げてを繰り返すのだと思っていた。
まあ、考えてみればここは彼の領域なのだ、余裕があるのは頷ける。
「覚悟しなさいよ」
その傲慢さをどう砕いてやろうかと、私は視線を巡らせる。見当たらない。ということは、どこかの陰にいるのだろう。
足音を殺し、探索開始。暗闇に目を凝らしつつ、移動する。
「一応言っておくが、色々あるから危ないぞ」
左側から警句が飛んだ。私だってそれくらい解っている。でも、貴方がそっちにいるんじゃ、危なくても行くしかないでしょうに。
手近な棚に手を伸ばす。食器のコーナーだったらしく、小皿が指に触れた。用心の為に、数枚前方に放ってみる。
喧しい音を立てて、皿が割れる。だが、それ以外の異変は無い。
大丈夫…だろうか。取り敢えず、足元にロープとかが張っていないかは気を付けなければ。
俯いて歩き出した。
と。
パン!
「うひゃあ!?」
いきなりの出来事に、思い切り叫んでしまう。最初何が起きたか解らなかったが、どうやら上から水が降ってきたらしい。
そして、顔にへばり付いたゴムの切れ端。
「水、風船?」
そのようだ。その証拠に、今手にしているのは結び目の部分。
…………ああ、そうか。
解し難い感情が湧き上がる。何だか見えてきた。ここは確かに彼の領域だ。
そう、まるで、お化け屋敷みたいな。
「…………」
無言でゴムの切れ端を叩き捨てる。
頭に、来た。
肩を怒らせて、声のした方に向かう。この調子では、大した罠も仕掛けてはいないだろう。
どうせ大半が人を馬鹿にしたようなものに決まっている。
大したことがないと解り切っているのなら、無視してしまえばいい。
目の前にある、私は罠ですよ、なんて自己主張の強い紐《ひも》を蹴り飛ばした。
これで転んだりすると思ったら、大間違いだ。
「あ、それは―――」
また声。近い。
しかし図に乗ってよく喋る。私を侮《あなど》っているのだろうか。
だが、今度は私が大間違いだったらしい。
「っ!」
両脇の棚から、フライパンやら鍋やらが落ちて来る。
それも大型のもの。
馬鹿にしていたのは私の方だった。単純だが、ちゃんとした罠も混じっているらしい。
苛立ちを吐き出して、勢いがつく前に落下地点を駆け抜ける。抜けた時点で制動をかけ、体が前に出過ぎないようにする。
目の前には二本目の紐が張ってあり、かなりギリギリの位置で私は止まった。なかなかにシビアなタイミングだった。
冷や汗が出る。
そして私は、手玉に取られている自分に気付いた。
何をどうすれば私がどう動くかを読まれている。そうでなければ、威力のあるトラップをあんなあからさまな場所に配置しないだろう。
随分なゲームマスターもいたものである。
切り替えなければ、ならない。
普段しないような行為を重ねて、セオリーを崩さなければならない。そうじゃなければ近づけない。
彼の読みの上を行くのではなく、彼の読みの裏を行かないと。
悔しいが、一旦戻って体勢を立て直そう。痺れを切らした彼が姿を現すまで、体を休めるのも悪くない。
かなり近くまで来ているのに、自分から離れるという事実に後ろ髪を引かれる。
でも、今の混乱している私では、きっと煙に巻かれて終わりだ。
不甲斐無い自分が嫌になる。振り返り、調理器具の山を飛び越える。
着地して、固まった。
セオリーを崩そうと決めたのは自分だけれど。
一旦戻ると決めたのも私なのだけれど。
だからって、こんなにすぐに結果が出るのはいかがなものか。
馬鹿らしいことに。
―――彼は私の目の前で、しまった、という顔をしていた。
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調子に、乗り過ぎた。
オレは今、かなりみっともない表情になっていることだろう。
もう少し余裕があると思っていたので、心の準備が出来ていなかった。
今まで彼女の後ろで水風船を割ったりと、かなり至近距離で色々やらかしていたのだが、正直気が緩んでいたようだ。
進退の境界を見極められなかったオレの所為なのだが、振り向くのではなくこっちに跳んでこられたので、
距離が詰まってしまった。あの場でオレに気付いたのなら全力で逃げれば間に合ったのだが、残念ながらそう上手く行くはずもない。
不覚にも呆気に取られたオレと違い、彼女の行動は迅速だった。
もともとそう離れてはいないのだ、オレが身を翻すよりも、彼女の腕の方が早い。
背を向けた時点で襟首を掴まれ、喉を詰まらせる。
やたらと細い息が口から漏れたと意識した直後、オレの体は床に叩き付けられた。
衝撃を予想して咄嗟《とっさ 》に目を閉じ、歯を食い縛る。
思ったよりも軽い鈍痛。
……しかし、こういう時に体は慌てているのに頭は妙に冷静なのは何故だろう。
オレが彼女ならこうする、という具体的な未来が浮かび、肘を立てて這いずろうとする。
間に合わないことは、重々承知しているというのに。
目を開き、そして見る。
彼女の脚がぶれて、オレの体が右に傾く。肘を払われた。次いで左も同じ憂き目に遭い、完全に仰向けになる。
……ああ、これで手詰まりか?
冷静に、だが胡乱《う らん》に頭が呟く。
彼女が身を沈めて、オレの両肩に膝を添えた。
「さて…、ようやく捕まえたわよ」
「ああ…、捕まったな」
馬乗りになったまま、彼女が笑う。
人一人の重さの平均がどれだけかなんて知らないが、彼女は多分軽い方だと思う。
何故なら、膝なんて固い部位で抑え込まれているのに、あまり傷みがないからだ。
これくらいなら、跳ね除けられないか……?
勢いをつけて、上半身を動かそうとした。しかし、全力でもがいているというのに、全く体は動かない。
「どうなってんだ……?」
「これでも一応、逃げられないように気を遣ってるのよ。点で抑えてるんだから、抜け出せるはずないわ」
どういう原理なのやらさっぱりだが、簡単に言えばしっかり抑えてるから無理、ってことか。
女に体術で負けるとは思わなんだなあ……。
ともあれ無理だと解ったので、オレは無駄に体力を使わず、機会を窺《うかが》うことにした。
動けないことにもどかしさを感じるが、オレも男だしこの状況にそう悪いものを感じられない、というのも本音にはある。
緊迫した状況ではある。
直接攻撃を受けたりしているのだ、五体満足で彼女がオレを帰すというのはまず無い。
だが、彼女の長い髪の毛から漂う薄い香りや、彼女の柔らかさなどを感じていると、どうにも気が抜ける。
こういう状況に慣れていない所為か、意識しだすとそっちにばかり気が回ってしまうのだ。
……いや、単にオレが女慣れしていないだけの話だな。
「どうしたもんかな……」
「これ以上何か出来るとでも思っているの? ……貴方はここで終わりよ」
終わりと来たか。また随分と現実味の無い言葉だ。
具体性の無い、どこか遠い言葉。事実オレが捕まった時点で鬼ごっこはもう終わりだが、遊びの決着にしては素っ気無さすぎる。
だが、彼女の目に浮かんでいるものは、あまり穏やかとは言えないものだ。その所為か、背筋に伝う感覚がどこか寒々しい。
軽い悪寒。
「一つ訊きたい」
「何?」
「何でオレは追われる羽目になったんだ?」
結果はこうしてここにある。だが、原因は何だ。
オレは根幹を求めた。
しかし、彼女は言おうかどうしようか迷う素振りを見せただけで、結局かぶりを振った。
「言っても無駄なことだわ。それに、知られない為に貴方をこうして追って来たんだしね」
「身勝手だな」
運命が相手に握られているのはどうやら確からしいが、こちらが何一つ掴めないままに決着を迎えろと言うのか。
そんなことは歓迎出来ない。
行き場の無い不満が募《つの》る。そして、止まない悪寒、これはオレが彼女に対して不安を抱いているということなのか。
彼女は何も言わない。
自分が、必死で強がっているような錯覚に囚われた。
「どうするつもりだ?」
彼女への不安を誤魔化すように、言葉を出す。
原因は得られない。だから結果の先を求める。仕方が無い話だ、オレは彼女の内にある結論を知らないのだから。
「どうすると思う?」
返答に、微かな苛立ちが芽生える。
―――ああ、何だってこんな、訳の解らないことになっているんだ。
頭と心が齟齬《そご》を生じている。幸い頭の方はまともに働いているが、心の方が引っ切り無しに本能を伝えてくる。
まずい状況だってことくらい解っている。だから今は邪魔をするな。
自分自身を宥めすかす。如何にしてオレは現状を脱するべきだ。
「オレがオマエなら――どうするだろうな。解らん。目的も教えてもらえないしな」
時間稼ぎに過ぎない、ただの軽口。律儀な彼女のことだ、多少は取り合ってくれるだろう。
視線を揺らすな、強く見据えろ、頭を動かせ。
この状況を引っくり返す切り札が、何かあるはずだ。
絡んだ視線の中、彼女の唇が開く。
「すぐに終わるわ。……怖いなら、目を閉じていればいい」
怖い?
……そうだな、確かに怖い。
何故怖い? 彼女が怖いのか? それとも、何が起こるか解らないから?
しかし、そこに考えを至らせる必要は無い。
彼女の手がオレに伸びる。
刹那の焦燥、しかしそれは酷く長く感じる。凝然としてただ近づく手を見詰めつつ、
頭は目まぐるしく記憶を漁っている。彼女とオレとの接点はある。きっかけに成り得る可能性を、オレは知っている。
しかしそれは本物の情報なのか。そして、それを持ち出すことに意味はあるのか。
もしも何の結果も引き出せなかったら。そう思うと、すぐには実行に移せない。だが時間も無い。
触れるか触れないかの距離までそれが近づく。オレの中で判断が下る。
潮時《しおどき》だ。
ただ一言を以って、予測不能な賭けをしよう。
「―――蒼崎橙子」
それはただの名前。
そこに込められた意味など知らない、オレにとってはただの単語。
妙に静かに響いたその言葉は、彼女の動きを止めるには充分だった。
腕を伸ばしている所為で、彼女の体は前傾している。目は見開かれたままだ。
……ここしかあるまいよ!
自由に動く下半身に力を込め、脚を跳ね上げる。そのまま膝で彼女の背中を蹴りつけ、姿勢を崩す。
手荒い真似はあまり好きではないが、この際文句は言ってられない。
「っぐ?!」
いきなり背中を強打され、彼女が息を詰まらせる。構っていられない。
逃げるか、抑えるか――一瞬で抑える方を選択。あの姿勢では大した力は入れられない。
立ち直った彼女に後ろからやられる可能性の方が高いだろう。
彼女ほど上手く抑えられはしないが、そこは男だ、力で抑えつければいい。
両肘に膝を乗せ、肩を手で掴む。
「……形成逆転、か?」
「どうして貴方が姉貴のことを知ってるの」
刺すような視線。先程とは段違いの悪寒が身を貫いた。
……何かおかしな関係ではありそうだと当たりはつけていたが、まさかここまでのものだとは思わなかった。
何もかもが平坦で、感情がろくに見えやしない。
彼女らの心情なんかを知らなかったからこその発言だったが、オレはもしかしたら事を急いたのか。
尋常ならざる気配。自分の下にいる存在は、オレの手に余る。遅まきながらそれに気付いた。小さく舌打ち。
忌避感ばかりが募っていく。今は保身に走らねば。
「……どういう関係なのか、聞いていいのか?」
「質問しているのはこっちよ」
一体どちらが優位に立っているのか、まるで解らない。いや、惑わされるな。
少なくとも、対等に会話を続けられるだけの立場にはいるはずだ。
酷い迷いが生じる。何もかも投げ出して、ここから走り去りたくなるような衝動。体中に嫌な汗が滲んでいる。
……迷うな、自分を保て。
土壇場で弱腰になりつつある自分を鼓舞する。彼女を真っ直ぐに見据えた。
「答えは?」
「オレが話せば、オマエにオレも答えをもらえるのか?」
「止めておきなさい。死にたい訳じゃないんでしょ」
「当たり前だ。だから訊いてる」
彼女は怪訝《け げん》そうな表情を見せた。オレに強がりだとかそうしたものが無かったからだろう。
彼女は危険だし話す気は無いと言っている。オレはその話を死にたくないから訊きたいと言っている。
その矛盾《むじゅん》の意味に彼女は気付いていないらしい。
実際は簡単な話だ。何も解っちゃいないのに、危険か危険じゃないかを判断なんて出来る訳がない。
今オレにとって危険なのは彼女の実力行使、これだけで、彼女らの姉妹関係がどうあるのかの危険は二の次だ。
「……訳の解らない男ね。しかも融通《ゆうずう》が効かない。貴方、早死にするわよ?」
「残念ながら運は良い方なんでね。……もう一度訊こう。オマエら姉妹はどうなってるんだ?
言いたくないならもう訊かないがな」
無理強いは好きではない、だからしない。あまりくどい訊き方をしたところで、事実の歪曲が酷くなって終わりだ。
まあそもそも、答えを知ったところでオレには最初から関係が無かったりもするのだが。
ただ……自分が進むか退くか、その判断材料が欲しい。
「……先にオレから言おうか? どうせ言おうとは思っていたしな」
「私に? 何故?」
「橙子を信用していいのか解らん。今の所お互いに不都合の無い取引ではあったが、何かしっくり来ない。
橙子からは、オマエに用があるからここに連れて来い、としか言われていないが、
だったら鬼ごっこの最中にでもオマエを捕まえれば良かったはずだ。だから正直……計りかねている」
オレと橙子の間にあったことはこれが全てだが、彼女はこれで信用するだろうか。
彼女は数秒ほどオレの言葉を吟味すると、不意に全身の険を抜いた。
「多分、言う通りなんでしょうね。……貴方、単に利用されただけなんじゃない?」
「だろうな」
それくらいは解っている。
「それの仕返しでもするつもり? そんな話が通用する相手じゃないわよ、姉貴は」
「それも解ってる。ただな」
「?」
「それでもやってのけるからこそ、熱《アツ》いんじゃないか?」
やられたらやり返せ、という訳でもないが、どうでもいい人間の葬式なんて退屈なモノで時間を潰すよりは、
折角だし自分のやりたいことをしていたい。しかしその希望を果たすのにどれだけの危険が潜んでいるのか、
それを知らずに動くのは避けたい。何てことはない、ただそれだけの話である。我ながら馬鹿げた固執だとは思うがね。
彼女は無言でたっぷりと間を取ると、心底呆れたとばかりに息を吐き出した。
「……馬鹿ね、やっぱり死ぬわ」
「殺すのはオマエか? 橙子か?」
ひたすらにオレの死を主張する会話に、不安と辟易《へきえき》を覚える。実感が湧かないが、可能性は考慮して然るべきなんだろう、きっと。
だからこそこんな状況にいる訳だしな。
「やるとしたら姉貴でしょうよ。こっちは馬鹿らしくって、貴方の相手なんてしてられないわ。邪魔しない限りは放って置く。
……もういいでしょ、降りてよ」
「だな」
どうこうする気が無いのが解ったので、オレは大人しく彼女の言葉に従う。
見れば彼女の服は今までの争いですっかり皺が寄ってしまっていた。……不可抗力だし、謝る必要も無いが。
彼女は体を起こすと、床に腰を下ろしているオレに向き直った。
耳元で風を感じた直後、油断していたことを悟る。思いきり派手な音を立てて、頬を張り飛ばされた。
「痛ってえ! さっきまでの話はどこにいったんだ!」
「それはそれ、これはこれ。殴らないなんて言ってないわよ。私はやられたらやり返すわ」
あっさりぬかしやがった。
オレなんて知ったことかと言わんばかりの振る舞いに、コイツの地はやっぱりこれだと、何故か笑いが出て来た。
別に付き合いが長い訳ではないが、こういう荒っぽい一面があまりにもらしくて仕方が無い。
頬を撫でながら、にやける口元を隠す。やれやれ、コイツに見られたら何て言われたもんだか。
取り敢えず笑いが収まるまで一頻り待ってから、オレは次の話を促す。
「で、そっちは話す気があるのか?」
「まあ、この際だし構わないけどね……。聞いたら後悔するかもよ?」
「さっきから随分と脅すな。取り敢えず聞いてから後悔するさ」
実は先程から、聞かなければまだ戻れる、と頭の中で警鐘が鳴っているのだが、ここまで来ると好奇心の方が強くなってしまって抑えようにも無理がある。
……さて、鬼が出るか蛇が出るか。オレは身を傾けてこれからの内容に備えた。
「別にこっちもろくに話すようなことはないけどね。
単に遺産相続で、遺産が私に来た。で、姉貴はそれをやっかんでる、これだけよ」
素っ気無さすら漂わせ、彼女はそう言い放った。あまりに端的な説明に、一瞬思考が止まる。
「……もしかしてそれだけで、殺す殺されるの話が出てるのか?」
「それだけの価値があるんでしょ。まあ、そういう世界だと思って諦めて頂戴。
ほら、貴方も早いとこ逃げないと、巻き添えくって死ぬわよ」
何とまあ……生臭い話だ。妙に浮世離れした雰囲気の姉妹だと思っていたが、こういうところで俗っぽいと逆に反応に困るな。
どうしたものか、と腕を組む。
諍《いさか》いが起こるだろうことは予想していたが、話がそれの斜め上を飛んでいる。
……殺し合い? 本当に?
何だってそんなことをさらりと口に出来る?
自分が何を基準に物事を進めるべきなのか、だんだん解らなくなっていく。
そんなこと実際に起こるはずはない、とは思うのだが、彼女と橙子を見る限り実際にやるかもしれないとも思う。
矛盾している。性質《たち》の悪い冗談。
「オレは―――――」
つい口が開いたが、言うべきことが曖昧《あいまい》でまとまってくれない。
でも、ただ。
「オレは、殺し合いは御免だ」
「でしょ。解ったらさっさとここを出なさい」
「いや、オマエは何も解っちゃいない」
そうだ、彼女は何も解っちゃいない。
「オレはな、オマエらが殺し合うのが御免だって言ってるんだ。なのにそれを放って置く馬鹿がどこにいる。
生憎《あいにく》オマエらと違って殺す殺されるを見過ごすような生き方はしてないんだよ」
当たり前の話だ、見知った人間が目の前で殺されて、良い顔なんて出来る訳がない。何よりオレ自身がその事実に耐えられないだろう。
だから、殺し合いは御免なんだ。
「ふむ……。口上は立派だが、オマエに何が出来る?」
彼女ではない声。
一瞬遅れて衝撃。
腹部に重い鈍痛を浴びて、オレの意識は落ちた。
∫ ∫ ∫
ギリギリで反応出来たが、彼を守る余裕はこっちには無かった。
見覚えのある緑色の四面体、それが彼の腹部に突き刺さったのが見えた。声も無く吹き飛ばされ、彼が床に転がる。
次いで、暗がりからその当事者が姿を現した。
「良い反応だ。そのお陰で、今日は自分の手際の悪さが目立って仕方が無いな」
紫煙を燻《くすぶ》らせて、苦い顔をしたあの女が歩み寄ってくる。
蒼崎橙子――私の姉が。
姉貴は倒れ伏している彼に目を向けると、鼻を鳴らした。
「しかし……口の軽い男だな。折角こっちが段取りを作ってきたというのに、予定が狂ってしまったよ。
もっと円満に会話の場を用意するつもりだったんだがね」
「減らず口を」
彼は大丈夫だろうか。下手をするともう死んでいるかもしれないが、
運が良ければ内臓をこっ酷く痛めた程度で済んでいるかもしれない。
だが、姉貴を前にして彼に駆け寄るだけの隙があるはずもない。
自分の安全すら確保出来ていないのに、彼に構っている余裕なんてない。
せめてアリスがいれば、まだマシな状況に持って行けるのに。
内心歯噛みしつつ、会話を続ける。
「何故、彼に手を出す必要があったの」
「解らないか?」
「姉貴の考えなんて知る訳ないでしょ」
どうする。
いつ動く。
正四面体は私を左右から挟むように二つ、姉貴の周りに三つ。少なくともこっちの二つをどうにかしなければ、まともに動けない。
私の口を割るまでは、姉貴は迂闊に私を殺せない。決定打が来るまでに何とか対等な立場を作り出さなければならない。
油断無く姉貴を見据える。彼女は自分自身ではなく、生み出したものを使役する方法を好む人間だ。
その所為か悠然と構えた彼女は隙だらけに見えても、その実これ以上も無いほど堅牢な砦でもある。
矛盾したその姿が私の不利と相俟って、酷く癇に障る。
姉貴は咥えていた煙草を吸い切ると、床に落とした。
「無駄な時間ではあるが、まあついでだ。オマエのリクエストに応えるのも悪くはない。
―――率直に言えばな、私はそいつが怖かったんだよ」
微かな含み笑いで、彼女は意外なことを口にした。協会で最高位を賜った魔術師らしからぬ意見だ。
姉貴が普通の人間を、恐れる……?
「怖い? 彼が?」
「ああ。オマエがそれを実感することは最早《も はや》無いにせよ、な。だから私は彼に最大限の敬意を払った。
いや、払わざるを得なかった。その結果がそれだ」
姉貴から目を逸らすのは自殺行為ではあったが、振り返ることを促すその指先に、私は大人しく従った。
暗くて顔は見えないが、先程と同じ姿で動かない姿に、倒れてからの時間の経過を考えた。
気絶しているのだろう。だが、それは私の希望ではないのか?
第一、最低でも内臓を酷く痛めている、と推察したのは他ならぬ私ではなかったか。
それで数分放置されて問題無いと言えるだけ、人間の体は大丈夫に出来ていたか?
唾を飲み込んだ。
せめて呻き声の一つでも聞こえれば生きていると解るのに、この沈黙は耳に刺さりすぎる。だから嫌でも理解してしまう。
彼はもう死んでいるのだ、と。
訳の解らない嘆息が一つ漏れた。だから言ったのに。あんなに言ったのに。
死ぬ前に逃げろと。人の忠告に従わないから。
だから、こんな所で死ぬことになる。
「…………」
「どうした? まさか、情でも湧いたか?」
姉貴の声は酷く耳障りだ。
立ち上がる。振り向く。唇を吊り上げた顔がまた頗《すこぶ》る不快感を誘う。
「…………」
何がどうということでもない。別に彼とは深い関係という訳でもないし、恋愛感情を抱いていた訳でもないし。
でも嫌いではなかった。あの飄々としているクセに破天荒《は てんこう》な性格は、気に入っていたと、そう言えるだろう。
だから、目の前で彼が殺されて――しかも相手が姉貴で――私は酷い苛立ちを覚えているのだ。
会話中の彼の顔。
苦悶とともに流れた彼の顔。
焼きついている。
彼の声。
姉貴の声。
耳から離れない。
情報の奔流。
そして、目も眩《くら》む程の感情。
「…姉貴」
「…青子」
そう、
「……姉貴」
「……青子」
それこそ、
「……調子に乗らないでよ!!」「……オマエ邪魔なんだよ!!」
殺してしまいたいくらいの―――――。
腹の底から吠えた。
大きく両手を振るい、視界全てを炎で埋める。左右から迫る緑を一歩前進して避け、確認せずしゃがむ。
一瞬遅れて緑が頭上を抜けた。次いで、目の前の炎を穿って私に向かうものが三つ。
……しつこい!!
激情と裏腹に体は冷静に動く。高速で動いているはずのそれが、むしろスローモーションに見えた。
左手側に食らいつこうとした四面体を半身で避ける。そして残る二つのうち、近い方の側面に手の甲を添えて押す。
射線をずらされすぐ脇を行く緑を尻目に、最後の一つを右足で蹴り飛ばした。
全て回避。目隠しの為の炎だったが、四面体の狙いは正確だった。
ということは、炎の無い場所にいるということ。
「そこ!」
振り向くより先に、後方へ赤を飛ばす。感心したような姉貴の声。その無事を知り舌打ちをする。
初撃を道具ではなく自分で避けたか。らしくはないが、悪くもない。
「いつからそんなに活発になったのかしら?」
「オマエの知らないうちにな」
「なら、ただの付け焼刃じゃない」
嘲笑。
体術をこなせるというのは意外だが、だからって私に体術で勝てると思ったのなら大間違いだ。
強く床を蹴る。躊躇い無く、真正面から間合いに踏み込んだ。時を同じくして、姉貴も大きく踏み込んで来る。
姉貴の拳が走る。避けるべく右に体を傾けたが、拳は遅れずついてきた。
躱せない。予想外。ならば受けるのみ。
掌で拳を受け止め、かつ、後ろに飛んで衝撃を逃がす。綺麗にダメージを流しながら、私は宙を舞う。
飛びながら考える。まさか姉貴が体術の修練を積んだとは思えない。
ルーンによる補助か、或いは強い肉体を創ったのか――いずれにせよ、楽ではない。
ああ、何から何まで、腹立たしい。
立ちはだかるかのように、緑が姉貴の周囲に浮かぶ。
炎の温度を上げなければ、アレを黙らせられない。だが建物の耐久力を考えれば、これ以上炎の温度を上げるのは厳しい。
……系統を変えよう。
着地と同時、衝撃を放つ。範囲は狭いが、集約された力は炎よりも遥かに上。
これならどうする?
「ほう」
姉貴が眉を跳ね上げたと刹那、全ての四面体が密集した。振動と音を撒き散らし、衝撃が防がれる。
しかし、一番最初に触れたものに罅《ひび》が入ったという事実、私はそれを見逃さない。
「案外|脆《もろ》いわね……。いつまで保つかしら?」
「オマエが死ぬ頃だろうさ」
「楽しみね」
お互いまだ声に余裕がある。なら、もっと揺さぶるとしよう。
姉貴の足元と天井へと向けてきっちり二発撃ち込む。上下から襲い来る破片を防ぐ為、慌しい動きを見せる四面体。
その隙間を縫うように三発目を放つ。
主を守る為飛び出した一つの緑が、衝撃に耐え切れず砕けた。
「なかなかやる」
「あと四つ」
チッ、まだ痛手にはならないか。
目くらましとして、もう一度炎をばら撒く。
「芸の無い」
それくらい自覚している。だが、ここからだ。
物陰に身を隠してから、出した炎を消す。私を狙って飛び出した緑が目標を失い、空中で一瞬停滞を見せた。
すかさずそこに衝撃を叩き込み、霧散させる。微かに光を反射して、粉塵が舞い上がる。
残るは三つ。粉塵が床に落ちる前に、その中を疾駆。
繊細に、より大胆に。
余裕を持って構える姉貴が、その指を私に向ける。残る四面体が旋回しながら私を取り囲む。
頬が裂けんばかりの会心の笑みを浮かべ、姉貴が命じる。
「行け!」
「ああぁっ!」
後ろの緑に、躊躇わず拳を突き入れる。接触と同時、衝撃で粉砕する。
一つ。
左から迫るものに対して、肘を曲げて対処。魔術効果を乗せた堅い肘は容易くそれを貫く。
二つ。
最後、私の頭部を撃ち抜かんとするべく、緑の直線は高速で飛来する。
駆けている脚に対処法は無い。使い切った両腕では間に合わない。
ならば。
迷わず気持ちを一点に集中させ、額で真っ向から受ける。一瞬目の前が白くフラッシュするが、構わず押し切った。
額から一筋血が流れ出たが、それと引き換えに四面体を破壊する。このくらいのダメージ、どうとでもなる。
全て仕留めた。
「……出鱈目《で たらめ 》な女だな、オマエは」
苦笑すら含んで、姉貴は呆れる。
「姉貴には言われたくないわね」
まさか手駒があの四面体だけということもないだろう。私は気を緩めず、彼女との距離を縮める。
と、その時、奥の暗がりから小さく足音が聞こえた。
ゆっくりと陰から顔を覗かせる姿が姉貴に緊張を、私に安堵を与える。
「何その姿、ぼろぼろじゃない」
「貴方こそ。まあ、この調子ならお互い問題は無さそうだけれど」
何事も無かったかのように彼女は言う。事実その足取りは力強く、揺らぎが無い。
たとえ、数時間前まであったはずの腕が、そこに無いとしても。
「……何だ、尻尾巻いて逃げたんじゃなかったのか?」
「冗談にもならないわね。……さて、今度は二人よ。私達をどう楽しませてくれるのかしら?」
「心配するな、出し物には事欠かないさ」
「嬉しいことを言ってくれるわね」
嫣然とした笑みを浮かべ、久遠寺有珠が牙を剥く。
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上から下へと静かに流れるように、感覚が体内を巡っている。
閉じたままの瞼、その裏に輪郭のはっきりしない人の顔が浮かんでいる。水の中でモノを見ているような気分になる。
その顔が誰かは解っている。
オレが尊敬していた人間、そう、それはオレの叔父の顔だ。
オレにはいまいち掴めない人柄ではあったが……彼は物事をよく見ている人間だった。
その場に合わせて的確に動き、そして誰もが最善と疑わないような結果を導く。
その反面、自由奔放で誰も認めてはくれないような、身勝手な行動を取ったりもする。
まあ、そんな行動を取る時、得てして彼はその責任の全てを一手に引き受けていたのだが。
子供の目で見ていたのだ、もしかしたら彼は周囲の人間に煙たがられていたのかもしれない。でもオレは彼が好きだった。
オレがまだそこらを走り回っているガキだった時分、彼に問うたことがある。
「なあ叔父さん、どうしたら叔父さんみたいになれる!?」
叔父は一瞬目を見開いて、それから苦笑を浮かべて見せた。何を思ったのかは未だに解らない。解るはずもない。
だが彼はこう言った。
「オレになったってどうしようもなさそうなもんだが……。
まあ取り敢えず、オマエもうちょっと落ち着いて腰を据えたらどうだ? 見てると危なっかしくて仕方が無いからな。
あと、よく考えてから動けよ。そうしないと、いつか偉い目に遭うぞ」
それは、しょっちゅう近所の岩山に遊びに行くオレに対する揶揄《やゆ》だったのかもしれない。
はたまた、純粋に教訓として出たものなのかもしれない。
どうでもいいことだ。重要なのは、オレがその言葉を額面通りに受け取ったということ。
つまり、いざとなったら、落ち着いてよく考えるようになったということ。
それはオレの名前に酷く相応《ふ さ わ》しい気がした。
静希。希望を静める。鎮める。楽観視せず、冷静に物事を見詰める。
草十郎。根を張った草のように、揺らがぬモノを自身の内に持つ。
これを体現出来れば、彼に近づける気がした。
言い換えるなら、尊重と勝手を巧く併せ持つことが出来るような、そんな気がした。
あの時の言葉はオレの血肉となっている。だからオレは彼を尊敬している。
過日の幻が姿を消す。最早視界には黒しか残されていない。
今を逃しては、名を体現することも出来まい。
―――さあ、いい加減起きる時間だ。
目覚めれば熱を感じる。何が何やら、といったところだが、そこかしこが燃えている点から考えて誰かが火でも放ったのだろう。
本気なのは充分解ったが、やりすぎだ。
不意に腹部が鈍痛を訴える。顔を顰《しか》めた。
「念の為、だったんだがな」
ジャンパーの前を開き、腹に仕込んでいた鉄板を外す。
『キャンプ用品』と書かれていた場所から勝手に持って来たものだが、充分過ぎるくらいに役に立った。
外すのは正直|心許無《こころもとな》いが、ひしゃげてしまって動きの邪魔になる。ただでさえ重いのに、これ以上の足手まといは御免だ。
盾、或いは投げつけられるように、脇に携える。
さて、行くか。音からしてあっちだろう。
火災を考慮しないやり方を取るのなら、こちらに対する容赦は無いと見て間違いあるまい。慎重に動くが吉、か。
争いを覗ける位置に辿り着く。
そしてオレは、心底自分の幸運に感謝した。
「アリス!!」
「死になさい!!」
アリス、と呼ばれた少女――何故か片腕が無い――が橙子を指差す。後ろに飛んだ橙子の足元が突如として爆《は》ぜ、瓦解《が かい》する。
そして陥没した床の間を縫うように駆ける彼女が、これまたどうしたことか手から炎を吹き出しつつ、橙子に襲い掛かった。
炎など意に介さず、橙子が彼女の足を掬《すく》う。空中で身を捻りながら彼女が蹴りを放つ。
姿勢の崩れた彼女を狙おうとした橙子に、いつの間にやらアリスが背後から接近していた。
振り抜かれた拳を容易く避けると、橙子は二人と距離を置く。
自分が気絶している間に死ななかったことは、奇跡だ。
―――目の前で起こっていることに、まるでついていけない。
全てをこの目で捉えているはずなのに、何もかもがオレの範疇《はんちゅう》を超えている。
オレが知っている人間というヤツは、手から炎を出したりいきなり後ろから現れたりしなかったはずだ。
自分の知識不足が恨めしい。こっちの人間は出来ることが多すぎる。圧倒的に少ない手駒で、オレは動かなければならないらしい。
しかし今更泣き言を言っても、彼女等のようにはなれない。
ならばどうするか。決まっている、オレはオレに出来ることをやるしかないだろう。
ともかく現状を確認。今この場にいるのは、オレを含めて恐らく四人。アリスはどうやら彼女の味方で、対するは橙子一人か。
でまあ、各々がオレより数段争い事が上手、と。 ……絶望的だな。
いや、でもやるしかあるまい。目の前で知人が死ぬのは避けたい。この事態を放置して逃げるのは、避けたい。
怖い。恐い。でも、逃げられない。
考える。考えろ。どうしたら、この状況を収められる。
この階層に仕掛けた罠は残っている。頼り無いが盾はある。
『スポーツ用品』という場所から、事前にゴルフボールを盗んできてあるので、飛び道具もある。
逆に考えれば、これ以外には自分しかない。手駒が圧倒的に不足している。
如何にして収める。如何にして止める。
時間は無い。余裕も無い。それでも可能性があるはずだ。
探せ。
見つけろ。
オレの存在に気付いたら、彼女等がオレを殺すことは必然だ。
邪魔になるなら殺す、と明言されているし、何より橙子はオレに手を出している。
だから、安全を保てるうちに考えなければならない。
オレ一人で三人を制することは不可能だ。なので、一人ずつ相手にするのが望ましい。それはまあ確かだろう。
だがその場合、誰を先にするべきなのか。真っ向勝負で何とか出来る相手は一人もいない、ということを考えれば、
搦《から》め手が通じる相手で行くべきなのだろう。そうなると彼女が狙い目だが、その場合アリスとやらが黙ってはおるまい。
アリスは全く知らないので不確定要素が多すぎる。ならば橙子ではどうか。
状況を利用すれば三対一だが、その後オレは二人をどう対処すればいい。
複雑化した思考が先へ先へと伸びて行く。進めど目的地が見えてこない。
いや、違う。オレは何かを見逃している。
誰かに手を出した後の勢力を考えると、どうしてもオレの死が確定してしまう。
オレが橙子の側に加われば、二対二。彼女の側なら三対一。でもこれはあくまで希望的観測であり、現状は二対一対一なのだ。
オレは誰からも敵視されると見た方がいい。彼女等の敵対関係と、オレの介入が即味方というのは早計が過ぎる。
ならば、どうするべきなのか。
焦りで考えが巧くまとまってくれない。時は待ってはくれない。
落ち着け。己が名を思い出せ。
まず自分は彼女等の敵と成り得るか。是。オレに意識を向ければ誰かに狙われる。気にしないのならオレが狙える。
……ん? 待てよ、敵と、成り得る……?
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、思わず意識が白みそうになった。今まで引っ掛かっていた感覚が、滞《とどこお》り無く消え失せて行く。
……これなら。
閃光。天啓《てんけい》。もはや名前などどうでもいい。圧倒的劣勢の中に生まれた光明に、体が震えた。確かな歓喜が押し寄せる。
行ける。これで、行ける。
細糸の上での綱渡り。けれども、それは可能性の存在の裏付けでもある。
どれだけちっぽけでも。
どれだけ頼り無くても。
可能性はある。オレはそれを見出した。
後は一つの失敗も無く事を進めていくだけだ。
心配せずとも全員格上なんだ、油断の心配が無いのは僥倖《ぎょうこう》だろう。そう思うと、強張った顔も緩んでくれた。
思考は冷静に、肉体は澱《よど》み無く。充分だ。この緊張感は適度と言えよう。
「あの馬鹿共を、止めないとな」
小さく口にして、オレはそれを誓いとする。
棚から棚へと、彼女等の死角を動く。相変わらず激しい戦闘は続いている。まずは情報を集める。
自分の命を脅かすもの、その詳細が少しでも多くなればいい。
橙子は煙草を取り出すと、その先端に悠長にも火を灯した。移動と共に、暗闇に赤い軌跡が残る。不思議とその帯は消えていない。
何となくにすぎない勘で、アレは恐らく熱を持ったまま宙に留まっているんだろう、と推測。
器用にその赤を避ける彼女とアリスに、やはり触れてはいけないのだと悟る。
持続時間も知りたい……と思っていると、間も無く軌跡は消失した。そう長く保つものでもないらしい。
時間にして数秒か、だが邪魔になるのは疑いようも無い。
ともかく、今は身に危険の迫らない範囲で情報をかき集めるしかないな。両者の差異を消して、なるべく平にする。
その為に、まずどちらが優勢で誰を狙うのかをはっきりさせねばならない。
現段階でどちらが押しているかは判断しかねる。
彼女とアリスは攻めてはいるが決定打が無く、橙子も全て捌《さば》いてはいるが手は出ていない。
そもそも、連中の表情からすると、誰も彼もが本気とは思えないのだが。
状況を一変させる、つまり、誰かが勝負に出るまで、こちらはじっと待機の方がいいか……。
もどかしい状況だ。動かす手段はあるが、そうするべきだろうか。
不利を演じている橙子に見せかけて、彼女とアリスに手を出せば恐らく場が動くだろう。
ただ、それで橙子がどうするかは解らないし、何よりオレのちょっかいに気を取られて誰かが死んだ、
となればそれは本末転倒もいいところだ。
焦らず待つのが最善なのかもしれない。
だが、二人への手出しによって、攻撃されたがオレは橙子の味方なのだ、と主張出来れば後の展開を楽に出来る。
ふむ……やはりこれだけの力量差があると、流石に楽な進行は望めないな。
仕方が無い、自分の安全を確保しつつ動くとするか。
場を動かすことにする。だが、自分の存在は主張しない。あくまで偶然を装い、あの拮抗を乱す。取り敢えずこれで様子見としよう。
脇を見る。ここの人間が使っていると思しき机に、筆立てが置いてあった。
ここは商品の受け渡し場所なのだろうと推測するが、それはまあどうでもいい。ともかく、この筆立ての中身に用がある。
オレは争い合う三人の動きを注視する。
橙子が下がる。彼女が踏み込む。アリスが追う。その三人の挙動に合わせ、オレは筆立ての中身を静かに転がしてやった。
陳列棚にぶつかったりしているのだ、床に何かが散らばっていても不自然ではあるまい。
ただ問題は、それのお陰でどうしようもない状況が生まれる、ということ。
床を転がる鉛筆などの群れ。それは恐らく、この場で最も地味で、最も滑稽な攻撃であろう。
だが同時に、最も効果的な罠としての意味も持っていた。
意図的に橙子を避けるように転がす。彼女かアリスがかかればそれでいい。
橙子がかかるとあの二人に絶好の機会を与えることになるが、彼女かアリスなら片方が動ける為に大事には至るまい。
結果として、罠にかかったのはアリスだった。
追撃をしようとしたアリスの三歩目、そこにあるのは丸い鉛筆だった。
ただ全力で走ればいいのなら、恐らく鉛筆は踏み潰されて終わりだったろう。
だが、今アリスに求められているのは回避を念頭に入れた、繊細で複雑な移動だった。
加えて後方支援なのだから、思い切った前進を必要としなかった。だから自由度の高い、軽い移動を主としていた。
戦闘において間違った行動ではない。ただそういう動きをしていたから、彼女は不幸にも派手に転んだ、それだけである。
確かに地を踏むはずだった足が流れ、アリスの身が宙で傾く。
橙子がそれを見逃すはずもなく、彼女がそれを黙って見ているはずもない。
橙子が走る。彼女が阻む。アリスの姿が溶け落ちる。
……消え、た?
橙子の拳を彼女が手で受け止める。その背後に何事も無かったかのようにアリスが現れ、橙子に突きを入れる。
橙子は左腕でそれを払うと、息を抜いて唇を歪めた。
「埒《らち》が開かんな」
「遊んでるからでしょう?」
「そっちもな」
一瞬で間合いを取り、彼女らは声を飛ばす。
今の遣り取りで解ったこと、アリスは妙な移動が可能である。
それなりに危険の多いことをしたんだが……クソッ、まだ情報が不足している。もう少しかかるか。
オレの常識と認識が追いつくまで、迂闊に勝負に出る訳にもいかない。
なら、アイツらが遊んでる間にこっちはやれることをやるだけだ。
腹を括《くく》る。いいだろう、解るまで、幾らでも手を出してやろうじゃないか。
∫ ∫ ∫
お互いに奇襲というものが出来ない以上、腹の探り合いは仕方が無い。
ただそれが余りにも小賢《こざか》しいので、辟易してしまうのは否めないとしても。
砕いた床、散乱した品物などで、足場がどんどん悪くなっていく。
原因は私達に他ならないが、これが姉貴の作戦だということはまず無いだろう。
流石にまだ本腰を入れてないにせよ、体一つで様子見しているのに足場が悪いのは自らの不利を招く。
そう、丁度先程のアリスのように。
……アレを使おうか……。
ほんの少しだけ迷う。ダメだ、この距離で使えば、私達が巻き添えを食らう。
折角こっちは二人なのだし、今は手数で押し切るのが正解だろう。
一向に進展を見せない戦況に、段々とじれったさを感じ始める。
もう何度目か解らない拳打、そしてそれを弾く姉貴。先程の転倒で吹っ切れたのか、アリスも転移を多用して迫る。
閉じた左手が五指を一気に伸ばす。
指先から飛び出した水飛沫《みずし ぶ き》が細かな穴を壁に穿つが、肝心の姉貴には一発も当たってはくれない。
酷い違和感。
現に私達に通じているのだし、有効性は認めよう。
だが、何故……姉貴はこんな泥臭い戦法を取っているのか。それが釈然としない。
常ならば何らかのトラップ、或いは得意の魔術なり何なりで一気に勝負を決めにくるはずなのに、
それが何故本人直々に肉弾戦など繰り広げているのか。そうするだけの理由も無いはずだ。
まるで小さな刺にも似た、ささやかな疑念が心中にある。戦闘においては邪魔以外の何物でもない。
だが、この疑念がこの上無く重要なファクターである気がする。
それが何かはまだ解らない。自然に任せて解る頃には……遅いのかもしれない。
だから戦闘中だというのに、考え事に耽《ふけ》る羽目になっている。
戦闘、思考どちらともがあまりに半端で、結局どちらも大してはかどらずに難儀している。
どちらかに集中出来れば、まだマシにもなるだろう。だがこの状況下では望むべくもない。
もどかしさを振り払おうと、必死で体を動かす。
シンプルに。
ストレートに。
理論的な体術展開など望まない。伸びやかに、思うがままに体を動かす。
二の足を考えず、大きく踏み込む。真っ直ぐに伸ばした胸でさえ、姉貴の太腿の辺りという低姿勢。
そのまま腰、肩、腕と捻りを伝播《でんぱ 》させ、一切の破壊力を殺さず打ち抜く。風を切る一瞬の鋭音、それを空気に響かせる。
脛で受け止めた姉貴を勢いのままに吹き飛ばす。
大きく離れた姉貴を追って、アリスが舞う。床に寝転んだままの姉貴の上に転移し、踵で踏み抜こうと動く。
余裕と憤怒《ふんぬ 》が入り混じり、彼女の顔は奇怪な歪みを帯びていた。
一度やられた相手だから、ということなのだろうが、それにしたって腕を自由に使える相手に上から降りかかるのは少々浅はかだ。
事実姉貴は力任せに掌を踵に叩きつけ、アリスのバランスをいとも容易く崩す。
舌打ちを残し、またもアリスが消える。
転移の多用もまた浅はかではないかと思うが、押している状況で押し切った方が楽だ、と考えているのだろうか。
―――何を弱気な。アリスがミスを犯したのなら、それをフォローするのは私の役目だろう。
二対一ということの意味を、もっと生かせ。
思考を戦闘に切り替える。
やはり、違和感を捨て置けないのは確かだが、先行し過ぎているアリスを止める方がより重大な命題であろう。
アリスが私に合わせるのではなく、私がアリスに合わせる。それである程度はミスも帳消しに出来よう。
アリスが小さな水塊を宙に浮かべる。その数三つ。付き合いの無い姉貴にその軌道は読めないだろうが、私には読める。
姉貴目掛けて疾駆するその三つに、私は電気を乗せてやる。
姉貴は三つの間を縫うように、ゆらりと身を滑らせる。
どういう避け方をするつもりかは知らない。だがその避け方が拙いと―――
「っぐ!?」
三つを結ぶ雷の線に、身を晒すことになる。タイミングが早いと、この暗闇に光が浮かび上がるので呆気無くばれるのだが、
今回は細心の注意を払っているのでその心配も無い。
姉貴は私の性格を考慮に入れた動きをしているのだろうが、私とて他人に足並みを合わせることくらい可能だ。
甘く、見るな。
息もつかせず距離を詰める。
電撃は体に走ると、一時的とはいえ体の自由を奪う。弱い流れ、或いは刺激に馴れていればそれほどでもないのだが、
高圧電流を長時間浴びなければならない、なんて剣呑な境遇で私達は生きてはいない。そうする前に死ぬか殺すかしてしまうから。
だから、姉貴が動けないのは必定。連続的な転移に加え、魔術行使で充分な時間が作れないアリスが動かないのも必定。
自らが生み出した空白を生かすのは、また自らであるべきだ。
視界の中、よろけた姉貴が一歩後ろに下がる。緩慢な後退だ。それで逃げられると思ったのなら、随分と甘美な幻想に塗《まみ》れている。
逃がさない。私は甘くはない。
「これは、感謝、だな」
途切れがちに姉貴が嘯《うそぶ》く。
感謝? 何が感謝だと言う?
私に殺されたいなんて自殺願望は、どこから引出してきた?
「良かったわね、これで終わりよ」
「まだ、続くさ」
その余裕を潰す。
しかし、やはり私は絶好の機会というものに、目を奪われ過ぎていたらしい。
残すは数歩という所で私に絡みついたのは、忌まわしくも最早懐かしい、一本の紐だった。
彼の、トラップ。
彼は殺害を目的としない為に、威力を抑えてあったという事実は知っている。
実際刃物が降ってくるというようなこともなく、単にそれは足を引っ掛けて転ばせる為だけの、些細なものであった。
だが、思いきり転倒はしてしまう。その先にいるのは敵対する当の本人だ。
右の爪先が一気にアップになる。床に転がって、腕を用いて受身を取る…ダメだ、それよりも遥かに早い。
一瞬にも遠く及ばない思考の中で、結論を出す。受身は捨てる。腕を持ち上げて、歯を食い縛った。
体が面白いように後ろに飛んだ。
あの馬鹿は、魔術師のクセになんて足癖が悪い……!!
どうでもいいような恨み言が胸中で軋る。
頭に血が上った。冷静さに欠くことは無論賢明ではないが、戦闘時における高揚はまた侮れない。
要は、何処に冷静と興奮の分水嶺を定めるか、ということだ。
力み過ぎず、だが意識をクリアーにする割合、そこが定点だ。今はそこに近いと言える。
間違わない。焦らない。
両踵が接地、なるべく衝撃を分散出来るように、順次体を床に触れさせていき、面積を増やす。
後頭部を打ちつけないよう顎を引く。腕を伸ばし、掌で床を叩く。完璧な後ろ受身で、ダメージの大半を殺す。
よし、動ける。まだ行ける。
身を起こし、姉貴を睨み付ける。
私への追い討ちを消す為か、はたまた別の理由があるのか、アリスは転移で姉貴の周囲を忙しなく移動している。
舌打ち。
姉貴を凌駕《りょうが》する為には、魔法の考慮もしなければならないようだ。長引き過ぎると、後々厄介になるのが目に見えてきた。
人目というのもある。だがそれ以前、アリスに危うい兆候が出ている。
やられたのだという記憶が彼女の頭にある所為で、自らの手で姉貴を殺そう、と逸《はや》っているのがありありと見て取れる。
自分では解っていないだろうが、あれでなかなか激情家な所があるし、私がやるから退がれと言っても、まず聞かないだろう。
アリスは退くまい。だが、あのままではアリスを巻き込む。
どうするか………。
「馬鹿のお守りも大変だな」
見透かしたように、姉貴は私に微笑みかける。激昂したアリスが躍りかかった。
拙い。私は少しでもマシな状況にしようと、走る。
瞬間、姉貴が優雅に指を鳴らした。
「!?」
商品棚の中の何かが爆《は》ぜ、眩《まばゆ》い光を上げて飛び交う。燃えて炎を上げる紙束、鋭利な破片を晒すガラス製品。
無視すれば姉貴に近づけるが、いきなりの光に、視界は正常に機能していない。
逡巡《しゅんじゅん》する。
アリスが転移で距離を取るのが見えた。それを契機に、防御に徹することを決定。
左右に体を泳がせ破片を避け、燃えた紙は素早く払い除ける。
これ自体は大した問題ではない。ただ、これに乗じて姉貴がどう動くのかが、余りにも大きい。
閃光が、静かに収まりを見せる。
「しまった………!」
いない。
姉貴が、姿を消した。間違っても逃げた訳ではない。潜《ひそ》んだのだ。
危険が増した。
鼓動が否が応にも跳ね上がる。
「必死だな、久遠寺有珠」
暗闇に反響を帯びた余韻が広がる。場所の特定が出来ない。声が四方から、私達目掛けて飛んでくる。
侮蔑を滲ませた姉貴の科白に、嫌な予感が急速に膨れ上がった。
いけない、この挑発だ、アリスは乗る。
「臆病者が、随分と吹くのね」
「アリス、抑えなさい」
アリスが一歩踏み出す。腕を横に薙ぐと、先程の残滓《ざんし 》が舞い上がった。
堅い破片が地を這い、紙切れは灰を纏って宙を踊る。
「臆病? ふむ……まあ、否定はせんよ。ああ恐い恐い、恐くて溜まらないな」
くすくすと軽妙な笑い声が聞こえる。殺気だった空間に、華やいだ異様な空気。
アリスが止まらない。
緊張と弛緩の混在の中、水は縦横無尽に走る。
削られて行く。
「アリス!!」
「ふざけた真似を……」
姉貴の気配はどこにある。元より視界の中にいるのかは解らない。
音を頼りにしようにも、アリスが邪魔で聞き分けられない。
「アリス、落ち着きなさい!!」
「私は冷静よ」
今まで見たこともないような形相で、彼女は振り返った。
目は血走り、髪の毛は汗で張り付き、指先からは生み出した水分が垂れ落ちている。
床が水滴に濡れる。
おかしい。
何故、こんなにアリスは乱れている?
拮抗状態だったとはいえ、どちらかというと追い詰めていたのはこちらだ。なのに何故、こんなにも余裕が無い?
「何をそんなに怯えているんだ? 冷静なんて、本当にそう思っているのか?」
むしろ穏やかに。
むしろ優しげに。
綴《つづ》られる言葉に、アリスは上り詰めて行く。
「我を忘れている。解らないか?」
敵方からの正直な指摘。本来ならば、アリスも自覚しておかしくない頃合だ。
だが、私にも不可解な切迫感に後押しされているこの現状では、全くの逆効果であろう。
不覚だった。人間心理の負の面において、姉貴以上に賢《さか》しい人間はそういない。
ああ、もう、遅い。
「我を忘れている、ですって? よく言えたものね」
「止まりなさい、アリス!!」
喉が痛む程に叫ぶ。私がどれだけ声を張り上げても、彼女は進むだろう。
何故。私は焦燥の理由を知らない。
何故。私は挑発の真価を知らない。
アリスを乱すことはそのまま連携の乱れに繋がる。それは理解出来る。
でもこれは予想外だ。常ならば有り得ない。こんなにも容易くアリスを駆り立てるものは、何?
「強情だな。まあそこまで言うのなら、そういうことにしておいてもいい」
あっさりと翻《ひるがえ》る。
「じゃあ、そんな冷静なお嬢さんに、物語を一つ差し上げるとしようか」
まるで脈絡の無い、唐突な切り口に思えた。アリスが全身を強張らせる。
私には意味を成さない言葉。アリスには絶大な言葉。
長期に渡って行動を共にしているのに、アリスしか知らない情報が目の前に横たわっている―――らしい。
「…………出て、来なさい」
追求は静かに。棚に突き入れた抜き手が、派手に枠を引き裂く。
ガラスの陳列棚は脆くも穴を開き、篭った空気を漏れ出させる。
透明な破片の中に埋もれた商品が……闇の中もがくアリスの姿と、被《かぶ》る。
不吉なフラッシュバック。
倒れ伏した彼の肉体。
「さっきの続き、スウェーデンの魔術師の話だ。彼は才気に溢れた、孤高の研究者だった。名を知られてはいなかったがな」
「どこよ……」
アリスが、より一層の狂気を帯び始める。見開かれた目は既に現《うつつ》を見ていない。
私は事態に置いていかれ、動けずにいる。我が身の警戒を怠らないことしか、出来ずにいる。
姉貴は構わない。物語は紡《つむ》がれる。
「彼は、とある研究をしていた。遠大な研究だった、素直に認めよう。私は彼に賛辞を惜しむまい」
感嘆の溜息すら含み、浮かされたように語られる、魔術師。
超一流と冠して差し支えない姉貴が、認めるだけの。
だが、それが何だというのだ?
「どこにいるのよ!」
建物全体を軋ませるような衝撃が、絶え間無く感じられる。ただ狂の一字に魅せられたアリス、その暴力が姉貴に届かない。
昔語りと暴走はいつ終わるとも知れない。最中《さ なか》に佇《たたず》む私は、最早傍観者の一人でしかなかった。
不意に思った。きっと、彼に続きアリスも消えるだろう。
理由は簡単、私の力不足だ。
私は破壊を旨とする。
だから守れるはずもない。
つまりはそういうことでしょう?
単純な公式であるような気がする。
思い上がっていたのかもしれない。
無力。
諦観。
空虚な感情に限って、どうして立て続けに訪れるのだろう。
「彼は自身の生涯を賭けて、己が研究をついに成功させた。結果彼の命は失われたが――今際に悲願は果たされた」
「どこよ、どこよ……!!」
喩《たと》えれば、壊れたCD。
同じ所でループする。同じ所しか聞けない。
何処。何処。何処。
本当、何処なんだろう。
しかし何処にあるのか知りたい、『何』という質問の根本が、私には無い。
私だって、失いたくはないのだけれど。
そして、姉貴は決定打を放つ。
「彼の研究は、空間転移だった。
――――――――おめでとう、久遠寺有珠。君も立派な魔術師[#「魔術師」に傍点]だ」
「―――――――――――――!!」
無音で、ただアリスはこの上も無い絶叫を迸《ほとばし》らせた。
床に叩きつけた水の塊が、フロアを揺らす。伝播した力は積もった灰を、紙を、諸々を高く吹き上げる。
僅かに項垂《うなだ 》れたアリスが、すっと顔を上げる。
それを合図に、近くの影が解け、姉貴が顔を覗かせる。
両者の視線が絡んだ。
「殺すわ」
「やってみな、小娘」
一拍遅れて降る塵《ちり》。
白と透明の夜が、舞い降りて来る―――。
[#改ページ]
機を狙っていた。
少なくともオレはそのつもりだった。
しかし、オレの甘ったれた目論《もくろ 》みはもしかしたら霧散する為に生まれたのかもしれなかった。
……塵で出来た雪が、澱《おり》のようにゆらゆらと降りて来る。
真夜中の闇の中、微かな光すら反射し得ない、そんな泡沫《うたかた》の幽玄。
アリスとやらは茫洋としつつも、瞳に確かな殺意と狂気を湛えて、笑っている。
足元で渦を巻いた何かが、静かに空気を掻き混ぜている。今にも橙子に向けて飛び出しそうな、攻撃的な流れが見て取れる。
一方で橙子は、その気配を冷然と受け止めて、煙草の煙を吹かしている。
纏わりついた黒い物体――オレには影に見える――を傘のように頭上に翳し、一時の雪宿りを楽しんでいるような風情だ。
先の発言が何の意味を持つのかは知らないが、決定的なものではあるらしい。
彼女等の確執は間違いようも無く、収束へと向かっている。
「…………」
場は停滞している。先程から動きを見せない彼女、そして、対峙する二人。
乗ってしまえよ、と囁く声が聞こえた。
―――乗ってしまえよ。ここからは、本当の殺し合いだぞ?
そんなことは解っている。
―――逃げてしまえよ。殺させないなんて言ってたら、生き残れないぞ?
そんなことは、解っている。
解り切った事実の確認に過ぎない。
最早彼女らのうちの誰も、手加減など考えまい。
その力に晒されてオレが生き延びる可能性など、そこらに転がる紙の切れ端よりもちっぽけだ。
足が戦慄《お の の》いている。
無理をしてどうするんだ? 何も出来ないクセに。覚悟を決めたくらいで何かが成せるなら、誰も苦労なんてしないぞ?
先程から聞こえる声は、どこまでも耳に痛い。頭の片隅の冷静さが、まるで他人のようにオレを罵《ののし》る。
癪《しゃく》な話だが、声は間違いを口にしている訳ではない。
人は急には変われない。たとえ策が浮かんでも、オレが急に強くなる訳ではないのだ。
まして、実行が即座に成功と繋がっている訳でもない。
それはそうだ。元より博打《ばくち 》なのだから。
でも、退けない。何故なら。
「オレは頑固なんだよ……」
小さく呟いた。立場の確認、目的の再認。
後でするから後悔なんだ、とかいう決り文句を吐けるのは、受け入れられる程度の失敗をした時だけだ。
許容範囲を超えていれば、重苦しい事実をずっと抱えて、ただ底辺でさ迷うことになる。
妥協が悪いとは言わない。しかしここで妥協は出来ない。
腹は決まっている。本懐を果たす為には、今この時に動かなければならない。
大きく深呼吸し、ともすれば逸《はや》りかねない自分を鎮める。
やれやれ。
真面目に、気張りますか。
棚の間の死角を縫って、オレは疾走する。足音は殺す。攻撃の対象にされないこと、これがまず前提だ。
甲高い哄笑を放ち、アリスが消える。漆黒の闇の中、余韻が酷く不気味に残る。
橙子は四方に柱のように影を立て、我が身を囲んだ。足元から伸びた四柱は各々を細い影で結び、繋ぐ。
注連縄《し め なわ》を思わせる。橙子を守る、禍禍《まがまが》しい結界。狭世界の神の守護。
「寄るな触れるな、ってか……」
口に出してはみたものの、見た目で考えた、自分勝手な推察に過ぎない。
あの影に関する疑問は尽きないが、今は構わないか。
手出しするつもりもないのだから、客観的な立場から、少しでも解ることがあれば儲けものだ。
今はアリスと橙子が、死なない程度に潰し合いをしていればそれでいい。
もっと言うなら、オレが彼女の所に辿り着くまで、とばっちりが来なければいいのだ。
橙子は油断無く索敵を続けている。彼女らの視線を気にしなければいけない為、どうしても思い切って進むことが出来ない。
進んでは止まり、止まっては走る。
「あは……」
単音の奇声。空中からアリスが舞い降りる。腕を薙ぎ、身を捻り蹴りを繰り出し、柱を圧し折りつつ下へ。
床に足がつく前に、転移でまた上に。上昇という途中経過の無い落下の連続。影糸がぞんざいに引き千切られていく。
超近距離の高速移動についていけず、影は領土を削られる。
狂って、箍《たが》が外れたか。より伸びやかに、暴力的に彼女は凶手を踊らせる。
「ほう」
感嘆符一つで橙子が旋回する。柱の中から抜けると、柱は牙に変じ、アリスを空間|毎《ごと》飲み込もうとする。
結界は醜悪な魔物に変じた。
魔物の顎がアリスの服の裾に噛み付く。躊躇い無く裾を切り裂いて、彼女は生白い足を晒した。凶的なまでの美しさ。
官能ではなく、不吉で心臓が跳ねる。
怯えるな。
どうせやれることなんて限られているんだから。
体と心が乖離《かいり 》しそうだ。融通の利かないことこの上無い。重圧がうざったらしい。身を縛るな。
「―――っ!」
下唇を噛み破る。口の中に広がる味と、軽いがはっきりした痛みが、正気を教えてくれる。
これすら解らなくなったら、精神が折れたと取っていいだろうな。
……らしくもない皮肉だ。折れる前提など設ける必要も無かろう。
二人の争いの余波で、小さな破片が飛んで来て、其処彼処《そ こ か し こ》に刺さるのが鬱陶《うっとう》しい。
服はどうでもいいが、顔は守らなければな。顔は怪我をすると、著《いちじる》しく動きが鈍る場所が多いのが厄介だ。
棚二つ分前進する。ようやく、彼女の姿が見える所まで来た。
何を考えているのやら不明だが、身じろぎもせずただ二人を眺めている。こんな時に呆けている場合じゃないだろうに。
狙われているのはアリスだけではない。彼女とて当然橙子の相手の範疇内だ。
言うまでもなく、拙い。アリスの手が途切れたら、彼女が真っ先に殺される。
時間的な余裕は思ったよりも無いと知る。
「チッ、ちょこまかと」
橙子が指を鳴らした。蛇のようにのたくった長い闇が、天井を突き破り、それからまた降って来る。
階上のどこから来るのかは当然見えない。が、一発目は難無く回避される。
しかしアリスを狙うと思われた二発目は、予想以上に大雑把な方法を取った。
天井を崩す。鉄筋はかろうじて姿を留めるが、鉄筋を覆っていたモノはそうは行かなかった。
重量過多の雨霰《あめあられ》が、アリス目掛けて襲い掛かる。一定以上の距離を稼がないと、どうしても避けられない。
橙子の唇が歪む。悔恨からではない。アレは歪《いびつ》な喜びから来るものだ。
何故? ……待て、距離を、稼ぐ?
気付いた。
いかん!
橙子を殺すことしか頭に無いアリスに、彼女の守りを望むのは不可能だろう。
そもそも、アリス自身が防御と回避に専念しなければならないのだから。
心細くはあるが鉄板を放り出し、物陰から飛び出した。視線など気にせず走る。
アリスの攻めが途切れた。まさか橙子がこんなに早く、しかも容易く、アリスを遮ることが出来るとは思っていなかった。
予想出来る材料が無かったとはいえ、言い訳にもならない。
橙子が彼女へと向き直る。愛《め》でるように伸びた指先は、彼女を真正面から捉えている。
彼女も意図に気付いたようだが、いくら何でも反応が遅い。そして、アリスはアリスで余裕があるまい。
回避直後なのだから。つまり、止められるのはオレだけだ。
何て時に何て責任を持って来るんだ、クソ!!
毒づいても始まらない。最低だ。それくらいの時間寄越しやがれ、橙子!
漆黒が地を駆ける。距離的にはこちらに部があるとはいえ、速度はあちらが圧倒的だ。
影の通った後の床は、罅割《ひびわ 》れて惨憺《さんたん》たる様子だけが残っている。速さに見合った威力といったところか。
ろくでもない。オレがより死にやすいと解っただけだ。
少しの距離が遠い。彼女は影に手一杯で、オレに気付いていない。
急に近づいた為に、勘違いで殺されやしないかと、違う不安まで込み上げる。
彼女が橙子に合わせるように、腕を伸ばした。
床が削れてる辺り触れられると見ていいだろうから、何かしらで止めようと思っているのかもしれない。
しかしオレの目算では、彼女よりも影の方が速そうに見える。
……いや、本人の対処を待っている場合ではない。そんな呑気にしていたら、目の前に死体が転がって終わりだ。
嫌な想像が浮かぶ。背筋が冷える。
馬鹿な。させるかよ。
予感も、想像も――後ろ向きなものの何もかもを振り切って、ひた走る。
彼女の目の前で、影が広がる。爆発と見紛《み まが》うかのような、黒い猛威。彼女の繊手が閃き、一部だけが弾ける。
だから、
「させねえって、言ってんだろうが……!!」
迷わない。躊躇わない。そんな暇は無い。
脚に力を込める。飛ぶ。
横抱きに、彼女をかっ攫《さら》った。
「っ!」
右肩を掠めた。骨に影響は無いが、摘《つま》めるくらいの肉はごっそり削られた。
利き腕の動きが鈍い。
左側に彼女を抱え、物陰に飛び込んだ。流石に鉄板よりは嵩張《かさば 》ってしまうか。
正直走りにくくて仕方が無いのだが、今この状況でそんな悠長なことを言ってはいられない。
彼女はようやく、自分が誰の腕の中かを見て取った。
「な、貴方、生きてたの……!?」
驚愕を隠しもしない。随分とまた素直なものだ。
「言ったろ、残念ながら運は良いんだ」
気持ちは解らんでもないが、勝手に殺すなよ。
彼女の早とちりに、痛みすら忘れて苦笑する。弱々しさを見せていた彼女の瞳に、力が戻ってくる。
全くこの馬鹿は、確かめもしないでへこたれてる場合じゃなかろうに。
呆れが来た。ここぞとばかりに、嫌味ったらしく言ってやる。
「オマエ、重いぞ。この非常時に、こんな荷物持つことになるとは思わなかった」
恐らく彼女を重いと感じるのは、腕に力が入らないからだ。まあそんなことを言ってやるつもりなど、最初から無いのだが。
罵声を待つ。案の定、彼女は食いついてきた。
「馬鹿! 誰が重いのよ!」
「オマエだオマエ。オマエが重いのは仕方が無いから、取り敢えず黙ってろ」
彼女は顔を朱に染めて反論しかけたが、その前にすぐ後ろの棚が抉《えぐ》られたので、押し黙った。オレもつられて少々胆を冷やす。
そう。
和やかなのは結構だが、騒いでると見付かるんだな、これが。
的確な状況把握をしてくれたらしく、彼女はしっかりとオレにしがみ付いた。多少動きやすくなる。
実際は彼女に走ってもらった方が楽なのだが、次々と近くに攻撃が飛んできている為、下ろしている間にやられかねない。
呑気な口調で遣り取りしていたものの、実はオレはかなり必死だった。彼女を助けられたからといって、気を緩めていい時ではない。
「何を考えてるの」
余程《よ ほど》妙な顔でもしてしまったのだろうか、彼女が緊張した面持ちで尋ねる。オレは曖昧に誤魔化す。
「必死って、必ず死ぬって書くよな」
「嫌なこと言わないでくれない!?」
こちらの冗談にいちいち付き合ってくれるのはありがたいが、だからって大声を出さないでくれ。
彼女の唇を、右手で塞いだ。何やら不平を漏らしている気配があるが、聞こえないので知らないフリをする。
棚を盾に逃げ続ける。時間にして十数秒後、攻撃の矛先が離れ始めた。多分、アリスが近距離戦でも挑んでいるのだろう。
ようやく一息つけるな。今のうちか。本題に入るとしよう。
彼女を床に下ろし、問うた。
「……オレはあの二人を止める。オレに乗るか?」
視線を外さず、意思の有無を求める。彼女は僅かに呆れを覗かせたが、次いで殊更《ことさら》に顔を神妙にしてみせた。
「貴方に何が出来るの」
「何が、か」
聞き覚えのある問いかけだ。ほんの少し前にも、誰かからそんなことを訊かれた気がする。
いつだったかと考え、ああ、と納得する。……そうか、橙子から一発もらった時だったな。
苦笑じみた、だが、悪くはない感情が込み上げる。
自分の浅はかさを知る。
思い違いだった。見た目が似てないから本当に姉妹か疑わしいなんて、とんでもない話である。
間違い無く、彼女等は似た者同士の姉妹だ。そう、発言から、どこまでも手を焼かせてくれる所まで。
感嘆と目算で思考が埋まる。似ているのならばきっと、彼女を流れに乗せることで、橙子を同じく乗せることも出来るだろう。
だから、まずは彼女だ。
目を閉じて、息を吸った。最初の切っ掛けとして、彼女の信用が必要だ。
得られなければ、何もかもが無に帰す。だから、この質問への解答は、至極《し ごく》重要である。
息を吐く。あれこれと、どう言えば彼女を頷かせられるのかと考えてみる。数秒で考えることを放棄した。
今更、だな。やはり、オレはオレでしかない。
欺いても仕方が無いのだ。ならば酷く正直に。
「オレなら―――場を乱せる」
橙子の影を潰す為の策を、オレは彼女に告げる。誘いに乗せるなら、利点となる札は晒さなければならない。
一切の説明を終える。オレの考えに、彼女は苦虫を噛み潰したような顔を向けた。気が進まないのだろう、しばし逡巡する。
「……いいわ、乗ってあげる。でも、アリスはどうするの。言っておくけど、私はアリスに手を出す気は無いわよ」
「そりゃそうだろうな。そっちは何とかするさ」
……良し、契約は取り付けた。返答は予想通り。
実の所、可能性は低いにせよ、アリスを制する取っ掛かりはある。
一つ一つを丁寧に積み重ねれば、決して不可能ではない範囲だ。
切り札を仕込んだ場所はここから近いし、あそこはまだ無事だ。急いで回収すれば間に合う。
ただ、切り札を使うのは構わないのだが、諸事情による不安要素を消しておきたい。
使用を前提とするなら、知らなければならないことが一つあるのだ。
「なあ、アリスって、普通の水を飛ばしてるのか?」
少し前に、アリスは宙に水の玉を浮かべていた。アレは何なのか。
彼女は怪訝そうに、形良い眉を跳ね上げた。質問の意図が理解出来なかったのだろう。しかし、取り敢えず内容には頷いてくれた。
「ふむ、成程な」
それだけ解れば充分。淡々と返しはしたが、内心穏やかではなかった。元より少ない可能性が、これで倍にはなってくれるのだから。
オレは彼女に背を向けた。後ろからやられるなんて考えない。ここからは別行動だ、言ったことくらいきっちりこなさなければ。
「……頼んだぞ」
「頼まれてあげる」
彼女らしい返事に、笑いが込み上げた。
―――さあ、命懸けの馬鹿をしようか。
「ここから、だな……」
偉そうに口上を垂れ流したものの、策なんて酷く簡単なものである。
オレが囮《おとり》になって橙子の攻撃を引き付け、彼女が仕留める。何の捻りも無い。
だが、あの影をどうにかしようにも、オレでは問題外なのだ。
アリスは橙子を殺せる可能性はあっても、影は殺せないだろうと思う。
事実、あれだけの攻撃を叩き込んでも、影には何の影響も及ぼせていない。
しかし。
彼女なら、恐らく可能だ。
初めて逢った時の、あの光景。あの時は規模が小さかった為にどうとも思わなかったが、アレなら影を処理出来るだろう。
問題は、反動が大きすぎて、近くにいると余波だけで死ねるということ。
オレにも出来ればいいのだが、彼女がどうやってあんな真似をしているのかなんて解らない。
アリスも橙子も同様だ。最初から知識が無いのだし、仕方が無いことだ。都会の連中の技能なんて、こっちには欠片も無いのだから。
でも、それでいい。余分は不要だ。
今オレに必要とされていることは、巧く誘導して、死なずに逃げること。
それだけを、きっちりこなせばいい。相手が自分より遥かに早くて、凶暴なだけの鬼ごっこだ。
こっちに来てから走ってばかりの気もするが、その分だけ走り慣れてもいる。
………行くか。
ポケットからゴルフボールを取り出す。数に限りのある武器だ、せいぜい有効に役立てるとしよう。
呼吸を止めた。物陰から飛び出す。
黒を纏った橙子の姿を確認。全力で白球を投擲する。子供の頃に散々石を投げて遊んだ甲斐もあり、
狙い違わず橙子へとボールは突き進んだ。帯のように影が解け、ボールは叩き落とされる。
これでいい。
橙子に意外そうな色が浮かぶ。反面、アリスの表情は喜悦に引き歪む。
気持ちは解るし、どう取ろうとも結構だが、オレはどちらの望み通りにも動いてやる気がない。
先程、オレは橙子の攻撃から彼女を救った。そして、今度は橙子に向かってボールで仕掛けた。
これで橙子はオレが敵だと認識してくれただろう。アリスがオレをどう判断したかは解らないが、ここでは問題ではない。
ともかく、目的に一歩近づいた。
よくもやりやがったな、という憎々しい表情でも出せれば完璧だったかもしれんが、演技が出来るほど器用でもない。
……それこそ、どうでもいいことか。
立て続けに、腰を捻り水平に一発打ち出す。顔面狙いの一撃だ。
どうせあの妙な影が防いでくれるだろうし、上っ面の宣戦布告に念を押すのも悪くない。
オレは非力だ。だが、敵と成り得る。
オレに大した脅威などありはしない。
でも、オレがいて、手を出してくるということは、力量の全てをアリスに費やせないということを意味している。
自分の力量くらい承知している。オレは、場を乱すことしか出来ないと。
身の丈にあったことしか出来ない、故にそれしかしない。
それで充分だ。
ボールを遮ろうと、橙子の眼前に影が広がる。手薄になった部位を通すように、小さな水滴が飛ぶ。
白球は弾かれたが、水弾は橙子の鼻先を掠めた。鼻頭から血を滲ませて、橙子は瞳を爛々と輝かせる。
「あらあら……どうしたのかしら……?」
アリスの蕩けた声が聞こえる。際限無く意識が高揚しているのか、先程までの分別を感じさせない、絡みつくような声で嘲る。
怖気《おぞけ 》が走る。
橙子がオレとアリスに素早く視線を巡らせ、軽く言い放つ。
「鬱陶しい」
同時、床を黒い長針が埋め尽くした。橙子を中心に、尖った花弁が大きく花開く。
剥き出しの生存本能が、体に回避を命じた。言われるまでもない、大きく後ろへ跳躍する。
脹脛《ふくらはぎ》の辺りを一本掠めた。貫かれてはいない為、動作に支障は無いようだ。
ならばまだ全力で走れる。多少の痛みや出血なんざ無視出来る。
アリスにどうしても重点は行くだろうが、これでこちらにもある程度注意を払ってくれるだろう。
まとまった攻撃がこっちに来たら、それが勝機だ。
オレは彼女の癇に障ったか?
オレは彼女の脅威になれたか?
攻撃するに足る、存在か?
今だ誰も知らない、殺傷力の高い方の罠を駆使する時が来ている。
我ながら苦笑を禁じ得ないような、稚拙な武器の群れではあるが、道具は扱ってこそ華だ。
折角仕掛けたのだから、しっかり活用するとしようか。
すぐ脇の棚に足を掛け、上によじ登る。この建物の棚は、支えの部分に金具がついており、しっかり固定されている。
強く蹴りつけても揺らがない為、足場としては充分である。
誰よりも高い目線を、遮蔽物《しゃへいぶつ》の無い世界を、自在に飛び回る。川べりから顔を覗かせた石を飛ぶよりは、余程安定感があって楽だ。
「山猿か、オマエは」
縦にオレを刺し殺そうと、針が狙う。
……造作も無い。
「オマエもそういう冗談を言う性質だったのか?」
停滞無くオレは右に飛ぶ。
自分を、いや、橙子を偽れ。余裕なんて無くても、あるように見せろ。
宙を駆け、橙子に迫る。目的地まで後少し。偶然とはいえ運の悪い橙子に、底辺の人間の抵抗を見せつけるとしよう。
呼吸を止めて、前に出る。
橙子は退屈そうにオレを見詰める。気怠《け だる》げとも取れる動きで腕を持ち上げ、指をオレに向ける。
瞬間、視界に黒が広がった。体を横倒しにして、顔を限界まで仰《の》け反《ぞ》らせる。嫌悪と恐怖を引き摺り出す塊が、勢い良く吹き抜けていく。
「………っく!」
遣り過ごした。だが、回避を喜んでいる場合ではない。まだやるべきことがある。
オレは空中で姿勢も考えずに、橙子のすぐ近くの棚を蹴りつけた。後ろに体を逃がす。
これではあまり距離を稼げない。では何故そんなことをするのか。理由は間も無く訪れる。
「……ちぃっ!」
棚が傾いで、商品ごと橙子へと向かって行く。散々オレが上を走り回ったのだ、動かないという先入観の刷り込みはあったろう。
甘い。何の為に人があんな場所を走ったと思っているのか。
いざという時にオレと彼女の間を阻む為、オレは棚の幾つかの留め金を外していた。
扱いを間違うと彼女を殺しかねないので使う気は無かったが、あんな物騒なもの扱っているのなら防ぐことは容易いはず。
橙子が仕掛けに近かったのは偶然だが、状況が味方してくれているとなれば、利用しない手は無い。
棚一つ分の重量は、罠としては申し分無いのだから。
下準備は万全だ。後は、戦意は萎えていないが、影に危険を感じて間合いを離そうとしている、と見せかければいい。
三十六計、逃げるが勝ちだ。
受身を取り、起き上がる。割り切り良く背を向けて、物陰に飛び込んだ。
この機を逃すアリスではないし、ましてアリスを退けられない橙子でもない。
結果は見ずとも一目瞭然。数秒は自由に逃げられる。
玄人ならばアリスと一緒に追撃するのだろうが、オレの目的は橙子を殺すことではない。
第一、素人が下手に混じってもやられて終わりだ。素直に安全を確保する。
鬼ごっこの鬼を作る為に、鬼役に近づくか。生きるか死ぬかの瀬戸際《せ と ぎわ》で取る方法としては穏やかじゃない。
まあ、生き甲斐を持たない人間がいかにも好みそうな手段ではあるが、有効だとは信じられる。
破砕音、怒号、哄笑。
綯《な》い交ぜになったそれらは、どれが誰のものなのかを聞いただけで判断するのは難しい程に入り組んでいる。
恐ろしいまでに狂的な場だ。今の所、自分の思い通りに場が動いているから、かろうじて自分を保てている。
彼女に目配せする。彼女は酷く堅い表情で頷いて見せる。
あまり真面目な顔をされると、不安が出て気分が萎えてしまうんだがな……。
詰めていた息を、肺腑《はいふ 》の底から引き摺り出す。重苦しい緊張の塊が口から漏れるが、身動きが取れなくなるにはまだ早い。
予定としては、全て遣り遂げてからくたびれて動けなくなるはずなのだから。
オレは次なる目的地へと駆ける。安全な数秒はもう使い果たしているはずだ。
知らず、息が上がっている。死という名の熱が、背中を焦がし続けている。消耗が激しい。
……何だってんだ。
「チッ」
舌打ち一つで遮断する。意識すると、体が鈍くなるのはハッキリしている。だから意識しない。
思考の流れを円滑に、目標を見据えて。
不意に、アリスの声が遠ざかっているのに気付いた。喧騒から勢いが欠けている。
ということは……来る!
振り向く暇は無い。背に棚を背負うような位置取りで、盾にしながら走る。棚で影の勢いを弱めるのは流石に無理だ。
ならば、橙子に標的の位置を悟らせないようにするしかない。
しくじれば、死ぬ。自覚は薄いくせに、危機感だけが強くて不愉快になる。
「邪魔だな……」
爪など刺さってしまえ、というくらいに強く拳を握る。
自分を動かす為に必要な、自分がという存在が邪魔。予定された通りに几帳面さ、状況に応じる柔軟さの折り合いがつかない。
そして、そんなことを考えている場合ではないのに、考えてしまっている自分がやはり邪魔。
足に力を込める。進む。到達への過程にある景色など、後ろに流してしまえ。
右に曲がる。近くの床に影が叩き付けられたのか、足元に強い衝撃を感じる。姿勢を崩しかける。転ぶな、耐えろ。
端的に流麗に。ともすれば散漫な精神と肉体を、一にしろ。
出来ないというのならいっそ――ここで死んでしまえ。
結果が伴わないのなら、オレが汗水垂らす意味など無い。だから、死んでしまえ。死ぬ覚悟で、なお生きろ。
これくらいの矛盾が、今のオレには丁度良い。
低い姿勢を保ちつつ、駆ける。どさくさに紛れて、目的の一つである切り札を見えないように入手する。
何の変哲も無い、瓶詰めの粉。割れないように懐に仕舞い込んだ。
命綱にしては頼り無く見えるが、役割としては重要だ。
丁寧に、大胆に。可能性を一つずつ積み上げて行く。途方も無い作業、しかし終わりはある。
嫌な予感に促され、前方に飛ぶ。先程まで立っていた場所で、黒が咆哮している。
獲物を狩ろうと、しなやかに身を沈める肉食獣。その動きでは飛びかかることしか出来ないだろう。
理を以って理外を制する。予想以上の速さがあろうと、最初からその場にいなければ無意味だ。
近距離戦であっても、オレが素人であっても、対処の仕方は転がっている。
来た。
黒い塊から一本腕が伸びる。腹を横に薙ぐ一撃。半歩下がって避けた。
人間らしくない存在であっても、橙子の意思で動くのならば、やはりその行動は人間味を帯びる。
簡単だ。何度も繰り返されてきたことだから。鬼ごっこで、鬼は相手を追い詰めると無闇に手を出すことがある。
手を出してもダメだ、体ごと動かなければならない。遊びで巧く立ち回るコツである。
そしてもう一つの鉄則。腕を伸ばして避けられたら、
「逃げられるんだよ」
端的に呟いて、弾かれるように距離を置いた。もうすぐだ。
彼女とオレと影が、一本の直線で結ばれる位置に、もうすぐ辿り着く。
多分橙子には、オレが追い詰められているように見えているはずだ。
半分とは言わないまでも、四割くらいはこちらに向かってきているということは、オレを消す気は充分と見ていい。
確かに追い詰められている。でも、橙子はオレに味方がいることは知るまい。
ただの情報不足。だがそれは、致命的な隙だ。
覚悟を決める。澱み無く、目的を果たす。さあ、前半戦最後の山場と洒落込もうか。
残すは三歩。オレは彼女を見る。同調するように、彼女は腕を上げる。緊張感を伴う一動作に、顔を殊更引き締めた。
残すは二歩。陳列棚に左右を挟まれて、ろくな逃げ場は無くなっている。……と、誰もが思うのだろう。彼女ですらも。
残すは一歩。背後に肉迫する黒に、唾を飲み込む。大胆に魅せるとしよう。
棚の一番低い所に足を掛ける。力を込め、上に跳ぶ。解っているとばかりに、影はオレを狙った。
事実橙子にとっては予想通りなのだろう。
オレにも、予想通りだ。
棚を水平に蹴りつける。空中で縦から横に移動する。逆方向にある棚に足を掛け、再び上へ。
しかし、これで棚を利用することはもう出来ない。左右に足場はもう無い訳だ。
ほくそ笑む橙子が脳裏に浮かんだ。全くもってその通りだよ、橙子。
左右には、動けないんだ。
ならば。
ここしか、あるまい!
宙で身を捩り、体を反転させる。
「悪いな、化け物!」
追いかけて来た影を足場に、文字通り踏み越えた。
形容し難い感触を足の裏に受けつつ、全力で飛ぶ。
「今だ、やれ!!」
声を張り上げる。彼女、影、オレの順番で、一本の直線が描かれる。目を見開いて、彼女が獰猛《どうもう》な視線で射抜く。
水平に伸ばされた腕、軽く握られた拳《こぶし》。そこから親指と人差し指だけを伸ばして、彼女は黒を指差した。
彼女の手が、幼い戯れの銃を象《かたど》る。慈しむような指先とは対照的に、感情はどこまでも苛烈。
悪寒でも覚えたのか、抗《あらが》うように影がうねる。
嘲るように、手首が軽く跳ねる。
知っている。無意味だ。
瞬《まばた》き一つの間すら要さない。
知らず呼吸は止まっている。
刹那、音も光も無く、一切は粉々に。
―――――――――破壊された。
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酷く手馴れた一連の動作で、一切を打ち砕いた。肘の辺りにぶつかる反動で、高揚から我に返る。
彼が影を遣り過ごして、ほんの一瞬後、私は躊躇い無く姉貴の使い魔を破壊した。
罅《ひび》割れ、瓦解する空間。
空気ではなく、空間そのものが、何かしらの固体であるかのように床に零れ落ちる。
空間の裂け目から広がる虚無、何度見ても現実感に乏しい世界。
光も音も、一切魔法らしさを知らしめるものは無く、しかし強烈な衝撃が一拍遅れで自己主張を開始する。
視界が撓んで、余波がそこら中に舞い散った。
「っあああ!!」
中空で彼が悲鳴を上げる。逃げ場も無しに、ただ全身で破壊の残滓を受け止め、彼は大きく投げ出された。
この暗がりの中、白いジャンパーを着ている彼の姿は、嫌味なくらいによく目立つ。私には瞬間流れる景色が、容易に固定出来た。
まるで余裕の無い、恐怖に顔を引き歪めた彼の顔。歯を食い縛り、噛み合わない歯の根を無理矢理に抑え込もうとする、その顔。
私が引き摺り出した、彼の生の感情。恐怖。
今更のように認識する。
ああ、彼はただの人間なんだ。
私を体良くあしらえても、姉貴をまんまと騙せても、アリスをこれから制しようとも、腰が抜けて逃げようとも。
たとえどんなに情けないことをしようとも、奇跡的なことをしようとも。
彼は、魔術師でも魔法使いでもない。異能を持っている訳でもない。ただの人間なのだ。
その彼が、何をどう間違ったのか、ここまでやっている。
逃げればこんな危ない真似をせずとも済んだのに、納得出来ないから、というだけの理由で命を晒している。
彼の科白は正しい。オレは場を乱せる。充分なまでに、私達は翻弄されている。
私は何が出来た? 使い魔の何割かを破壊した? 彼の先導があってこそだろう。
私は何をした? 勝手に諦めて、事態を傍観していただけだ。やれることくらいあっただろう。
今からでは遅いのか?
いや。
いや。
違うはずだ、蒼崎青子。
私は何もしていない。自分で何もしていない。
今からでもやれることはあるはずだ。私の身の丈にあった、私らしいやり方で。
足踏みはしない。もう迷わない。
少し癪ではあるけれど、目的は一致している。気付かせてくれたお礼もある。
だから。
私なりに、協力してあげるわ。
力の一部をあっという間に失って、流石に姉貴もたじろいでいた。
「な――――――」
口を開いたまま呆けている。私の魔法を知るアリスは、それほどまでには驚かない。
一瞬は明暗を分ける。しかし、姉貴の心臓を穿つと思われたアリスの手刀は、虚しく空を切った。
彼が横合いからゴルフボールをぶつけたのだ。この緊張下で、驚く程のコントロールを見せる。
彼は大きく手を横に振る。意図に気付いて姉貴はすぐさま手の示す方向に転がる。追撃も宙を切り裂くに留まった。彼も次いで物陰へと体を投げ出す。
推測。同じ方向にわざわざ逃げたということは、先の私の言葉を信用して、協力は仰げないと判断したのだろう。
だから今度は姉貴の手を借りようという訳だ。
節操が無いとは言えない。むしろ適切で賢い。ならば私は良い意味で彼を裏切ろう。
「やられてばかりは腹が立つのよね」
アリスは障害になった彼を消そうと、小さな水滴を飛ばす。彼を行動不能にするにはそれで充分だろう。
しかし、私の炎なら別問題だ。
彼とアリスを隔てるように、高密度の陽炎《かげろう》が生まれる。熱の断層に触れた途端、水はただの蒸気と化した。
驚いた彼がこちらを向く。私は片目を閉じて、ウインクを一つ返す。口元の苦笑は隠さない。
彼に毒されたのは事実だし、そう悪い気分でもない。らしさを取り戻せたのは、他ならぬ彼のお陰だしね。
一方アリスは、予想しない相手からの邪魔が入り、目に見えて取り乱している。
強い怒りと、混乱とでまともな表情をしていない。狂気はかなりの所まで進行していた。
アリスの、全てを飲み込まんとする感情の渦は、逆に私を冷静にする。
「どういうつもり?」
アクセントが上下にふらついて、最初何を言っているのか理解出来なかった。私はただアリスを見詰め、心情を吐露《とろ》するだけ。
「終わりよ。少なくとも、今のアリスじゃ無理だわ」
「自分は出来るとでもいいたげね」
アリスが速やかに構える。目を細め腕を曲げ、貫手《ぬきて 》を左耳の脇に。彼女の『魔術』の特徴上、間合いという概念は存在しない。
だから、対処を誤ればどこからでも貫かれる。堕した彼女の能力が変わった訳ではない。意味合いが変われど、性能に変化は無い。
こうして向かい合って、充分過ぎる脅威だと実感する。
「一応言っておくけど、私にも無理だから。たとえ姉貴には勝てても、私はあの男には勝てない」
「どうして? 貴方ほどの力を持った者が? ふざけないでちょうだい」
首を横に振った。ふざけてなどいない。素直に、心からそう思う。
今の私に、彼を殺す力はあっても、勝利する力は無い。はっきりと器が違う。殺すことは確かに終わりではある。
しかし、自己の貫徹を旨とする魔術師・魔法使いが、自己を保てていない時点で、当事者に勝ちは有り得ないのだ。
理屈にならない理屈かもしれないが、他ならぬ私が負けを認めている以上、他人には揺るがせない事実でもある。
曲げていた自分というものを、自力で修正することは叶わなかった。彼は最初から曲げていない上に、他人の歪みまで修正してしまった。
今なら姉貴の言葉も頷ける。彼が怖かった、というのは実に言い得ている。
彼に最大限の敬意を払ったことは、彼の重みを知る者なら感嘆して然るべきだろう。
「アリス、一つ言わせてもらうわ」
唾を飲み込む。アリスは顎をしゃくって促した。
「殺し合いで彼に勝てない人間はこの場にいないわ。でも、己の存在という戦いにおいては、誰も彼に勝てない」
はっきりと口にした。柔軟性に欠ける足の緊張を解いて、いつでも跳べるようにした。拳を軽く握る。
「貴方と彼じゃ勝負にすらなっていない」
アリスの顔色が変わったように見えた。認識する前に姿は消えていた。
私は一歩引いた左足を軸に、身を翻す。回転の勢いをそのまま乗せて、裏拳で後方を力任せに薙いだ。
腕を伸ばすとどうしても大振りになってしまうが、リーチを稼ぐ為にはそれなりに有用である。
アリスは人の背後を取る悪癖がある。
予想に違わず、アリスは背後から迫ろうとしたが、拳に阻まれて半端な突きにしかならない。悠々と回避した。
気を緩めなければ、行ける。ダメージなど不要、彼女の意識が防御に一部でも傾けばいいのだ。
気の抜けた打突ならば、どうとでも対処出来る。元々アリスよりも私の方が体術には秀でているのだから。
「舐めた真似するじゃない? 調子に乗ってる? 楽しい? 本気は出さないの? 殺されたい?
私は殺すわよ? 殺せるわよ? 何故? どうして?」
矢継ぎ早な問い、されど理由は簡単だ。先程彼に言ったこと、私はアリスに手は出さない。
危害を加えるつもりなど無い。それだけだ。問いの答えは、案外ありふれている。
勿論、その理由には仲間だからというのもある。
しかし正直な所、私はアリスとの決着云々よりも、彼がアリスをどうするつもりなのかが気になっていた。
大体にして、私達が争っているのはアリスの先走りであって、アリスと敵対関係にあるのは本当は私ではないのだ。
要するに、彼女は何もかもを見失っている。今の彼女には怖れるだけの価値が無い。
考えてみる。彼が姉貴を説得するのにどれくらいかかるか。作戦を実行に移すまでの時間はどれだけ必要か。
―――考えるまでもない。必要なだけ私が働けばいい。どうせ、途中からは嫌でも彼が請け負ってくれるだろう。
「アリス、もう止めない?」
もう一度問いかける。止めるならここで終わり、止めないなら問いかけは数秒の停滞を生む。
無視すれば済むことを無視出来るだけの冷静さは、今の彼女には無い。いずれにせよ私には得な話。
「止めない」
端的な言葉。成程、やはりどうあっても聞かないか。
「勘違い馬鹿女」
嘲りではなく、どうしようもない呆れ。しかしアリスはそう取らない。
「言ってくれるわね、魔法使い」
忌々しげに顔を歪めて、彼女は姿を消す。今度は真正面から来た。
また性懲りも無く後ろで来るのではないか、と予想していたので、体の動きは無意識に頼ったものになる。
顔面目掛けて伸びる拳を、仰け反って躱《かわ》す。倒れながら彼女の腕を取り、鳩尾《みぞおち》に爪先を捩《ね》じ込みながら、後ろに投げ飛ばした。
巴《ともえ》投げの変形をといえば聞こえは良いが、えげつなさは増している。
……普通に攻撃してしまった。見ればアリスは、苦しげに咳き込みつつ、腹部を抑えていた。
痛みに尻込みするくらいなら接近戦に出なければいいのに、とも思ったが、
それ以前に、全力で反応してしまうくらいアリスの挙動が鋭くなっていた。
姉貴の時もそうだった。アリスは怒りで箍《たが》が外れると、暴力性が増して、攻めがどんどん苛烈になるらしい。
傷付けない、なんて綺麗言を言えない所まで来ているようだ。
なるべくなら傷付けたくないのは変わらないが、かといって、それでこちらが殺されては笑い話にもならない。
攻撃に回るのではなく、全力で守りに入った方が無難であるかもしれない。
炎を周囲に広げる。威力を上げるとアリスを燃え滓《かす》にしてしまうので、制御が容易な程度に抑える。
精度を重視するのは苦手だが、これならお互い迂闊には近づけない。
姉貴の使い魔を、そっくり炎に置き換えたような感じがするのが、幾分癪ではあるけれど。
炎の頂点、陽炎の向こうで、アリスの姿が揺れている。唇が微かに開いた。聞こえない。
僅かに首を傾げる。あれ程までに饒舌《じょうぜつ》だったアリスが、声を抑える必要が見当たらなかったからだ。
しかしそんな冷静さが、戦慄の事実を気付かせる。何度もループする唇の開閉に注視する。読み取った言葉は。
ソンナカオヲ、ミセテクレタノハ、ハジメテネ。
笑っている。
嫌悪感。不快感。忌避感。
強烈な恐怖。背筋を嫌なものが駆けた。
多分、私は、私の知らない彼女を見てしまった。
瞼《まぶた》に焼き付いた表情があまりに鮮烈だったので、私は刹那アリスを意識から外してしまった。
視界の中の彼女が消えている。まるで蜃気楼《しんき ろう》。
私は腕で顔を覆い、迷わず炎の中に飛び込んだ。
高速で体を移動させる途中、髪の毛の焼ける嫌な匂いを、鼻が敏感に嗅いで取った。そう厚くもない炎の壁を抜ける。腕を戻す。
肺を焼かないように止めていた呼吸を再開させた。顔を上げる。
そして、そこにアリスがいて、愕然とした。裏を取られた。
「良い顔ね」
妙にゆっくりと腕が上がった……ように見えた。私の体の動きも遅かった……ように思う。
息を飲む。失着だ。
拙い。
殺される。
死ぬ。
ネガティブの乱流が脳髄に流れ込む。
どうする、どうすれば、どうやって、どのように――死を、避ける。
こんな所で死ぬ気は無い。本懐を遂げていない。私は何も出来ていない。
ここで死んだら、今しがたまでの私と、何が違うと言えるのか。
振り下ろされた凶手が私の頭蓋を叩き割り、赤桃色の塊を引き摺り出すイメージが浮かぶ。
頭の中身を花弁のように踊らせて、崩れ落ちる私。衝撃で床に飛び出す私の中身。
鼻腔《び こう》から脳漿《のうしょう》を滴《したた》らせて、虚ろに視線をさ迷わせる私。透明な唾液を口の端から垂らす私。
首から上だけが別のものに挿《す》げ替えられた私。
絶息、喀血《かっけつ》、死亡、殺害。
違う、違う、違う! 肉体が殺される前に、心を殺されてなどやるものか!
一秒を数限り無く分断した時間に置ける、ほんの数コマの思考、決断。自らの死の一切を否定して、私は動き出す。
流れは須《すべか》らく緩慢であるのに関わらず、最中の私だけは常を行く。
腕を曲げ、左肩を無理矢理前に押し出す。右肩口を切り落とさんばかりの素手の斬撃を、掌でそっと掴んだ。
手首を取る。捻る。同時、脚を水平に刈り取る。
世界に真っ向から矛盾を叩き付けるような、早さの境地を垣間見る。
肘を圧し折りつつ、投げた。
「……っはあ!」
呼吸音が、ようやく認識に追いついた。
「あのタイミングで抜けられるとはな。オマエ、格闘家にでも鞍替えしたらどうだ?」
振り向けば、姉貴が呆れたような瞳でこちらを睥睨《へいげい》している。
一難去って……と身構えたが、姉貴が私を攻撃する気配は見られなかった。
「あの馬鹿が五月蝿《うるさ》いんでな、今はやらんよ。私は見世物が楽しみなだけだ」
「見世物?」
ああ、と軽く唇を曲げて、姉貴はアリスに言い放つ。
「久遠寺有珠、伝言だ。アイツはオマエをこれで倒すとさ」
そうして姉貴は指を一本立てて見せる。その仕草は、どう考えても、指一本で倒すと喧伝《けんでん》しているようにしか見えない。
しかし、まさかそれが可能とは思えない。となれば、指一本で作動出来るトラップか。
いずれにせよ、この土壇場《ど たんば 》でとんでもない大仕掛けをやらかすつもりらしい。
馬鹿げた、なんてレベルを遥かに超える挑戦状に、アリスは心底楽しそうに嬌声を上げた。
「……くくっ、あはははっ、あの坊やもなかなか粋《いき》なことを言ってくれるのね。殺される前の啖呵《たんか 》としては、一流だわ」
折れた腕をだらりと垂らしたまま、彼女は大声で笑っている。
「……で? 使い魔を半ば失った道化として、蒼崎橙子はどんなお役目を見せてくれるの?」
「決まってる」
かなり小さくなった影を半身に纏わせる。指を立てたまま手首を反転させ、姉貴はその指を曲げた。
来いよ、と挑発している。
「道化は道化らしく、メインの前座を務めるまでだ」
細く伸びた黒が、鞭のように床を打ち据えた。瓦礫《が れき》を飛び道具代わりに、活かさず殺さずの攻めが始まる。
アリスは素早く水球を浮かべ、応じる。親指大の水球四つが、飛来する物質の尽くを弾き飛ばす。
一発が姉貴に向かって疾走《はし》る。
舌打ち一つで、私は熱波を展開。蒸発を持ってそれを遮る。
「意外だな。オマエが私を守るかね?」
「あの馬鹿が五月蝿いからね」
唇が吊り上がる。まさか、姉貴と共同作業なんて日が来るとは思わなかった。
どうしようもない皮肉な状況だが、まあ仕方が無いことにしておこう。
どちらが攻撃でどちらが防御を担当するべきか、と過ぎったが、
こだわって臨機応変に行けなくなるのも困りものか、と結論付ける。どうせ、お互い好き勝手やるのは目に見えている。
「随分仲が良いのねえ!?」
「妹の出来が悪いもんでね!」
頭上で旋回しつつの浴びせ蹴りが、姉貴の脳天を狙う。姉貴の肩を掴んでしゃがませた。
薄皮一枚の差で吹き抜ける蹴り足を見送り、姉貴と場所を入れ替える。
再び飛びかかろうとするアリスを牽制するように、衝撃を乗せた拳を下から上に振り上げた。
床を削り天井を穿つ、見えざる風が暴れる。
「どっちの出来が悪いって?」
反論する時間なんて、姉貴にはあるまい。舌打ちは聞き流してやろう。
予測する。どちらから来る。
背中合わせの姉貴が背を丸める。意見は一致したらしい。床を蹴り、私は姉貴の背の上を後転で移動する。
お返しとばかりに足を振り下ろした。
果たして、そこにアリスはいた。歯を食い縛って彼女は蹴りを受け止める。
多少の手心はあったものの、片手で受けるとは、驚嘆に値する。
しかし何とも――拙い対処を。
私の体を目隠しに、細い糸状の使い魔がアリスを絡め取ろうと迫る。この暗闇に加え、元より視認が難しい攻め手だ。
コレは見えまい。しかし、避けなければアリスに次は無い。
如何に魅せる、久遠寺有珠?
「あはははははっ!」
哄笑と同時、アリスは私の眼前に水塊を残し姿を消した。拳大の水が、どんどん膨れ上がって行く。
「ちぃっ!!」
黒糸が膜に変じる。一瞬遅れて、水塊は文字通り爆散した。身を縮めて、衝撃を幾分遣り過ごす。
なかなかに、やってくれる。
唇を軽く湿らせた。姿を消したアリスの現在地を、視線を巡らせて探る。……身を潜められたか。
さてはて、本腰を入れなければこっちが拙いのだが、彼の下準備は一体どうなっているのだろう。
こちらの所在は知れているし、膠着状態を続けるのはあまり好きじゃない。逸る気を抑えるのがもどかしい。
「防御くらい自分でやれ。それと、いちいち焦るな」
姉貴が背後で囁く。未だ私の気質を把握しているのが、どことなく腑に落ちない。
まあ私も姉貴が回りくどい手段を好むことは覚えているので、ある意味ではおあいこなのだろうか。
「そうだ、焦るな。もうすぐだから」
少し離れた場所から、唐突に彼の声が聞こえた。不意を突かれる。
「!?」
方向は恐らく前方。それは把握出来た。しかし、彼の姿が見えない。
今まで散々私が物質を吹き飛ばしまくった所為で、遮蔽物なんてほとんど無くなっている。
なのにも関わらず、あんなに目立つ白いジャンパーが、視界に映らない。
「成程……」
根拠も無しに無茶をするとは思っていなかったけど……。どういう手段なのか、またしてやられたらしい。
「……この後に及んで、まだこんな手札があったのね……」
「馬鹿が、無いのにあの男が動く訳あるまい。……まあ、呆れる手ではあるがな」
事実呆れているらしく、姉貴はだらしなく煙草に火を点けた。
「そう言うなよ。……後は手筈通りよろしく」
「はいはい」
紫煙が空気に溶けていく。小さく足音がして、それきり彼の声は聞こえなくなった。
「手筈?」
「ああ、単なる後方支援だ。……やれやれ、もう一頑張りか。他力本願が過ぎるな、あの男は」
「……全く」
とことんまで、私達に前座をやらせるつもりらしい。幾ら何でも、図々しいことこの上無い。
最初に私の手を煩わせないようなことを言っていたクセに、現場の放棄も出来ない状況に置かれてしまった。
「ねえ、あの男、どうやって姿隠してるの?」
「話す気にもならん。後で見て、思い切り馬鹿にしてやることだな」
「はあ……?」
結局、よく解らないまま話は打ち切られた。つまり、こうなるとどうしても、彼を生かさなければならない。
疑問には、まとめて答えてもらわなければ。
やれやれ、と鋭く息を吐いて、後ろ髪を乱暴に跳ね上げた。
「美味しい所を上げるんだから、美味しい所を見せてもらわないとね」
そうして、各々が定位置についた。
「……クライマックスも間近ね」
瓦礫の山の上に、アリスが忽然と姿を現す。破れて所々穴の開いた衣服、血に塗れた骨が覗く腕。
満身創痍でありながら、未だアリスの気力は萎えることを知らなかった。
姿を晒したということは、彼の動向を待っていたのだろう。
彼女は誰よりも高い所に座し、そして高らかに謳い上げる。
「御三方、準備はよろしいかしら?」
微かに声を弾ませて、アリスは手を口元へ運んだ。指先を舐め上げて、唇に唾液でルージュを引く。
常ならばただ汚らしいとしか思えないような所作も、この場に置いては狂的な淫靡でしかない。
ある意味で、彼女はとても美しく思えた。そしてまたある意味で、彼女はとても愚かしく思えた。
私は一度拳に力を込め、そして緩めた。体の力みを抜く。
姉貴が一歩前に出た。
「幕間《まくあい》も終わった。後は主役が舞台を湧かせるだけだな」
口上を述べ終えると、姉貴は使い魔を床に広げる。黒が割れ目から染み入り、姿を消す。
一体何を、と訝るが、姉貴は例の如く微笑したままで、煙草を吹かし続けていた。
「諦めたのかしら?」
「諦めるも何も、だいぶ前から私にとっては余興でしかない。そして、興である以上、楽しめなければならない」
語りつつ、姉貴は後ろで手を組む。そして私に見えるように、掌に文字を書く。
私はアリスを視界から外さないようにしながらも、その指の動きに注目した。
準備しろ。風。
端的な綴《つづ》りを見て、私は姉貴の思惑を知る。嫌っていてもやはり姉妹なのか、これだけで意図が通じてしまう。
だが、どれだけ腹立たしくても、今回ばかりは同意するしかない。
あの男、事が済んだら一体どうしてくれようか。
姉貴が面倒そうにしていたのも尤もな話だ。これでは後方支援なんて、名ばかりではないか。
「……やってらんないわね」
本音を漏らす。ただの愚痴に過ぎない。しかしアリスはきっと勘違いをする。
「その気にしてあげるわよ?」
ほら、乗った。こんなに簡単に。
何もかもが、彼の思惑通りなのだろうか。それともただの深読みだろうか。
いずれにせよ、最早私と姉貴はスタッフ兼観客に過ぎない。
「もう、私達の出番は無いのよ。後は彼の仕事だからね」
同時、姉貴が指揮者のように両手を上げる。仰々しい態度で四拍子が刻まれる。
それに合わせて私はつむじ風を空中に数個配置する。支援はこれだけで終わった。
攻撃力など欠片も持ち合わせていない、ただの渦巻き。そして、攻撃する気がさらさら無い姉貴の使い魔。
これだけ。全てはただのデコレーションに過ぎない。
舞台は整った。
後には簡単な決まり文句を。
「さあ、最後の幕開けだ!」
「さてさて皆様お立会い!」
苦笑を噛み殺しつつ、私達は声高に叫ぶ。もうどうしようもない。
演出はこれくらい馬鹿げているのが、きっと彼には丁度良いのだから。
壁、天井、床……諸々からルーンが、一気呵成に浮かび上がる。
元々この建物を構成していた物質に刻まれたルーンが、ほぼ同時に発光する。
先の使い魔の役目は、ルーン起動のスイッチに過ぎない。
そしてこのルーンは、今まで姉貴の補助をしていたもので、ほぼ全てが攻撃性を持たない。
なのにも関わらず、アリスは警戒心を露《あらわ》にする。
繰り返そう、攻撃性は無い。この場で有益な効果があるのはただ一つだ。
目隠しとしての役割を果たすもの。
つまりは、煙幕。
「しまっ……!」
アリスの狼狽が聞こえた。もう遅い。私は唇を吊り上げる。
回転、強弱など全てランダムで配置した渦が、煙に流れを持たせる。
完全に見えなくするのではなく、見える所と見えない所を生み出す。
そして、視界の効きが違うこと、それはそのまま迷いに直結する。
……どうする? アリス。彼は人の隙を突くのは得意よ?
私と姉貴は棚の上に駆け上がり、混乱の最中にあるアリスを眺める。
煙幕の生成と操作を受け持っているのだ、ある程度調節すれば、煙越しに人影を捉えることは出来る。
しかし、アリスはたとえ見えていても、私達に注意を払える立場にいない。
何故なら。
「くっ!」
声、一瞬遅れて快音。遠距離からゴルフボールで、彼がアリスを狙撃したようだ。
これがあるから、彼女は迂闊にこちらに動けない。そして、転移しないこともまた、劣勢に拍車をかけている。
プライドの高いアリスのことだ、単なる一般人相手に、かつて自分が誇った最大の手段を使おうとは思うまい。
それに転移しても、種々のルーンが発動されているのだ、姉貴には探知されてしまう。
そして場所が悟られれば、私の攻撃に狙われる。
今、アリスはこう思っているはずだ。
攻撃もせずに傍観なんて、馬鹿にしていると。よりにもよって一般人を当て馬にするなんて、ふざけていると。
だから彼女は意地でも転移をしないだろう。
すぐさま彼を殺して、それから私達に牙を剥こうと――彼女の言を借りるならば、その気にさせようと――するはずだ。
そんなこだわりが、最大の愚行だとも知らずに。
「アリスは気付けないか」
「……みたいね」
侮り過ぎだ。現存する『蒼崎』を手玉に取れる一般人を、軽く見ている時点で気構えが緩い。
翻って、彼は油断していないはずだ。自分よりも強大な相手だと知っているのに、優位を感じる余裕など無いだろうから。
「オマエといいアイツといい、どうしてこうも回転が鈍いかね」
「……否定はしないわよ」
敵を侮るという愚を犯していたことは、否定出来ない。しかし、彼を見ていると不思議な気分にさせられる。
やり方次第とはよく言ったものだ。
風の流れで、漠然とではあるが、彼の場所は把握出来ている。
ただそこに目を向けても、ただの暗がりが広がるだけで、彼の姿はやはり見えない。
時折、思い出したようにゴルフボールが空気を切り裂いて、アリスに襲いかかる。
苛立ったアリスが、その方向に向けて水を撒き散らす。
風で水が真っ直ぐ飛ばないとはいえ、彼が悲鳴一つ上げないということは、当たっていないのだろう。
視界が悪い上に、彼の影すら捉えられていないのだ、当たる方がおかしい。
「……また、かくれんぼ、ねえ」
本当に、彼は子供じみた遊びが巧い。生死を分かつ程に。
「やれることをやっているだけだろう。異常なまでに的確に、な」
姉貴はもう彼に対してどうこう突っ込む気も無いらしく、煙草を床に投げ落とした。
床で火花が散ると同時、一瞬煙を掻き混ぜる一陣の黒が私の目に飛び込む。アリス……いや、違う。
アリスの気配は別にある。ならば彼か、しかし、黒?
疑問符が飛び交う。着替えを持っている様子は無かった。それ以前、彼はろくにモノを持っていなかった。
どこかに隠していた? あの服装は確かに目立っていたし、命取りではあった。
だが、それだけではアリスには至らないことくらい、彼だって解っているはず。
大体、所持品をそっちに移す手間がかかる。それも仕込んでいた?
解らない。だが、アレは彼だ。結論はそうでしかない。
消えては現れ、黒はアリスを牽制する。だが次第に慣れ始めたのか、アリスは水壁を張って、攻撃を遮り始める。
あれでは、魔術を使えない彼の攻撃は届かない。
姉貴は彼の苦境だというのに、裂けるような笑みを浮かべた。
「……いやはや、ここまで読み通りか。恐ろしいな」
「何がよ、アレじゃ無理じゃない!」
「だから、いちいち焦るな。人の話を聞いてないのか?」
訓戒を身に止めておけなかったことに気付いて、私は歯噛みする。何もかもが解らない。彼の攻め手がまるで見えない。
「アリスを崩すには、水をどうにかしなければならない」
滔々と姉貴は語り出す。そんなこと、私だって解っている。だが魔術師でも何でもない彼に、それが出来るはずがない。
「私やオマエなら、火を起こせばそれで済む。だが、アイツならどうするか?」
「知らないわよ」
「簡単なことだ。考えればすぐに解る。大体にして、水なんて身近なものを、アイツがどうにか出来ないはずもない」
理屈はともかく、その言葉には納得が出来る。複雑な気分ではあるが、確かに何とかしそうではある。
ただ、どうやるのかが、私には浮かばない。
彼の影はかなりアリスに近づいている。姉貴はそれを見て一つ頷くと、指を鳴らした。あっという間に煙が晴れる。
私も彼を視認する為、風を止める。明るさに大した変化など表れていないが、それでも見易くなっている。
……いた。暗がりの中を、潜むように駆け抜ける彼。アリスは飛沫を彼へと弾けさせるが、動きが遅れている。
今まで白いジャンパーだったのが、気付けば黒になっているのだ。目が追いつけないのは当然だろう。
攻撃の手を止め、アリスは水壁を前方に生み出す。攻撃を止められれば、ろくに狙わずとも相手の隙を突ける。
これはセオリーだ。
だから、そう。それを彼がどう切り崩すかが、私は見たい。
低い姿勢で疾走しつつ、彼は懐から瓶を取り出した。何かの粉末がぎっしり詰まった、奇妙な瓶。その蓋を開けると、
彼は大きく手を横に薙ぎ払った。粉末が宙を飛び交い、アリスへと向かう。
「はっ、その程度!?」
アリスが目を剥いて哄笑を上げる。しかし、直後の変化は劇的だった。
水壁が、音を立てて、泡立っている。
「な!?」
驚愕の声が漏れる。それも尤《もっと》もだ、私とて驚きを隠せないでいる。
そして気付いた。
驚いた以上、集中は乱れている。それはつまり、魔術への意識が多少なりとも緩んでいるということだ。
粉末はただでさえ効果を上げているのに、ここに来て魔術までもが弱まっていく。
激しく沸騰しながら、水壁が揺れている。水分が蒸発していく。
壁が、薄くなっていく。意味を成さなくなっていく。
「この馬鹿が……!」
鋭い囁き。彼は手薄になった防御を易々と貫いて、アリスの鳩尾《みぞおち》に拳を見舞った。
勢いを殺されているが、それでも彼女の体はくの字に折れる。
「けほっ……!」
口の端から唾液を垂らしながら、アリスはなお彼を殺そうと腕を伸ばす。
そんな行動を見透かしていたかのように、彼は一歩下がってそれを流す。
怨嗟《えんさ 》に満ちた視線が、彼を射抜く。彼は渋面を僅かに覗かせると、アリスの細い顎を軽く打ち払った。
「頼むから、ちょっと黙っててくれ……」
アリスが膝から崩れ落ちる。脳震盪《のうしんとう》を引き起こされた。
「ふざけないで、このクズが……!」
うつ伏せに倒れたまま、呪いを吐きかけるアリスは、滑稽で、どうしようもない悲哀に満ちている。
―――無様《ぶ ざま》、そうとしか言い様が無い。
余りにも、耐え難かった。もう見ていられない。私は棚から降りると、真っ直ぐにアリスの元へ向かった。
彼が何をする気か、と視線を向ける。アリスもまた憎々しげに私を睨み付ける。
「貴方まで……貴方まで……!」
「勘違いしないで、だから言ったのよ。……なのに、どいつもこいつも」
馬鹿馬鹿しかった。続きを言う気にはなれなかった。誰も彼も自業自得だ。
ただ、それを跳ね返す気力があった人間がいた、というだけの話でしかない。そうして私は無言で手刀をアリスに落とす。
意識を断たれて、アリスは瞳と唇をただ閉ざした。
誰も身動きしない。ただ倒れ伏したアリスを中心に、皆立ち尽くしている。数秒後、控え目に彼が声を漏らした。
「終わった……のか?」
「ええ。アンタの狙い通りにね」
「そう、か……」
溜息と同時、彼が床に腰をかけた。緊張が途切れたのだろう。
気の無い様子で、姉貴が彼に拍手をくれてやる。彼はいよいよ寝転がると、軽く姉貴に手を挙げて応える。
呆れてしまった。彼にも、姉貴にも、私にも呆れてしまった。
何だかんだあったのに――結局彼は遣り遂げてしまったのだ。そしてそれは、私達には決して得られない結果だった。
清々しいまでの完敗。この場全員が、彼に完全にしてやられた。悔しさも浮かべられやしない。疲れが、全身に押し寄せている。
見れば姉貴も似たような表情を浮かべ、煙草を取り出す所だった。
無性に煙草が吸いたくなる。このだらしなく緩んだ男を、一度蹴っ飛ばしたいような衝動にかられた。
後で色々訊いてやろう。そう内心で誓う。
そんな彼が主役の舞台は、こうして幕を下ろしたのだった。
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あの後、アリスは逃げるように姿を消した。
オレの脇に橙子と彼女が控えていたことも要因だろうが、何よりアレでは彼女との関係を維持出来なかったのだろう。
そうした意味では、オレも悪いことをしたかもしれない。
ただ死ねば続きは無いのだから、と自分を落ち着かせる。詭弁だとは思った。
何となく晴れない気分を少しでも晴らす為に、オレは屋上に出た。良い風が吹いている。
白み始めた空を背景に、橙子は煙草を優雅に吹かしていた。
「まだいたのか」
「そっちこそ」
お互いに苦笑を漏らす。こんなに気兼ね無く話せるような間柄に、いつの間にやらなっていたらしい。
「吸うか?」
「いや、いい。煙草に関しては童貞なもんでね」
「経験豊富みたいな言い方をするじゃないか。私で試すか?」
さらりと言われてしまったが、心臓は発言を簡単に流してはくれなかった。息を飲み、オレは充分過ぎる逡巡をしてから、
「遠慮しとく」
と、ようやく搾り出した。オレの様子を見て、橙子は声を上げて笑う。
「残念だ」
「惜しい話だけどな」
「女に関しても童貞だからか」
自分で言って余程ツボに嵌まったらしく、橙子は笑い転げている。
オレは内心憮然としつつも、コイツはこういう女なんだろうなあ、と納得してもいた。
笑われ続けるのも癪なので、オレは橙子を遮断する。
「なあ」
「ん?」
「結局、オマエの目的ってなんだったんだ?」
興味半分、疑問半分の問い掛けだった。彼女は遺産相続を語ってはいたが、それは実際と違う気がしていた。
何故なら、橙子は遺産に関して何かしらの追及をしていない。
もしかしたら気絶中に遣り取りがあったのかもしれないが、少なくとも事後にそんな会話は一つも無かった。
遠回しな探りもしないということは、遺産は多分、彼女の思い込みではないだろうか。
「……アイツから聞いてないのか?」
「聞いた。でも違うと思う」
「成程。やはりオマエはオマエか」
溜息をついて、橙子は煙草を吐き捨てた。踵《かかと》で火を踏み消す。
そうして爪先で拍子を数回刻むと、仕方の無いヤツだ、と切り出した。
「アイツには黙ってろよ。私はな、アイツを丸裸に出来れば、それで良かったんだ」
「どういうことだ……?」
「遺産じゃなくて、手札を探りに来たんだよ」
単純な言葉だったのに、理解には数秒を要した。最初から事実を並べてみる。
屋外で煙草を吸ってる橙子との出逢いがあって、それから……とそこまで考えて、驚愕と呆れが一気に襲ってきた。
―――成程、な。しかし、それだけの為にあそこまでやるか。
馬鹿げてはいるが、認めなければならない。随分と回りくどい方法ではあるが、これ以上無いくらいには結果は出している。
彼女は切り札を晒してしまった。対して橙子は、まだ何か隠し持っているのだろう。
溜息の一言だった。
「やられたな……一人勝ちかよ」
「いや、勝ったのはオマエだよ。結果は得たが、私は負けた。誇って良いことだぞ?」
「ったく、精々自慢するさ」
「ああ」
朗《ほが》らかに――正直かなり意外だったが――微笑して、橙子は自分の懐に手を入れると、紙片を一枚取り出した。
そうしてから、苦笑するオレの唇に、それを差し入れる。仄《ほの》かに煙草の香が広がる。
何かと見返せば、名刺のようだ。
「くれてやる。何かあったら来ればいい」
「……どういうつもりだ?」
「さてね?」
返事も無く、彼女は身を翻す。取り縋ろうかとも思ったが、それは幾ら何でもらしくない、と気付く。
そういうことはしないに限る。しかしそのまま消えると思われた後ろ姿は、途中で歩みを止めた。
「ああ、そうそう。裏返しておけ。オマエに黒は似合わん」
そう言って橙子は、今度こそ去って行った。
「……何だかね」
取り敢えず言われた通りにする。ジャンパーを裏返しに。すると裏からは酷く見慣れた白が飛び込んで来た。
ほんのちょっとだけ便利な代物。
……命を守ったリバーシブル、ってか。
そのまま屋上でぼんやりしていると、数分遅れで入れ替わるように彼女が入ってきた。口元には見覚えのある煙草を咥えている。
「もらったのか?」
ただ首を縦に振り、彼女はオレの隣に並ぶ。何を言うかと思いきや、こちらを不躾《ぶしつけ》にも視線で舐め回した。そして、愕然と漏らす。
「……まさか、ただのリバーシブルなんて……」
前を大きく開いているオレのジャンパーは、風に揺れて表も裏も見えている。
橙子に言われたものの、まだ直していなかったので、彼女も流石に気付いたらしい。
だからといって、そんな反応をされても困るのだが。
「いや、待て。文明の利器だろう」
正直、これで助かった訳だし、持ち主のオレに文句は無い。
それに、いきなり咥え煙草で入ってくるような不良娘には言われたくない、というのが本音だったりもする。
煙がこちらに流れてくる。気付かないうちに顔を顰めていたのか、彼女が不意に訝しんだ。
「煙草苦手?」
「得意ではないな」
得意という表現もよく解らないが。
ともあれ消すのかと思いきや、彼女はオレの言葉に悪戯っぽい顔を見せると、顔に向かって煙を吐きかけてきた。
油断していたので、大量に顔に浴びる羽目になる。
「っ、けほっ! 何、するんだよ!」
「散々やられたお返しよ。これで済むだけ感謝しなさい」
「何だそりゃ……」
不満を呟きつつ、改めて思った。この姉妹は、やはり似ている。どこまでもオレはからかわれるらしい。
……だがそれって、かなり腑に落ちないな。
オレは何度目か知れない溜息を漏らす。そうして、気付かないうちに体に付着していた粉を、手で払い落とした。
外気に混じって、かつての切り札が宙を舞う。
さようなら、お世話になりました、と。
横を見れば、彼女が眉を跳ね上げて疑問を口にする所だった。
「……ねえ、アレって何? どうやってアリスの水壁を切り崩したの」
……ん? ああ、そうか。橙子には言ったが、彼女は仕掛けを知らないんだったか。別にそんな大したモノでもないんだがなあ。
オレは端的に説明してやる。
「アレは生石灰だよ。結構見ると思うんだが」
生石灰とは、乾燥剤、農業なんかで使われる薬品である。
水分に触れると高熱を放つ性質を持っており、取り扱いには注意が必要な薬品だったりする。
まあ、こちとら生活の為に使っているのだ、幸い扱いには慣れている。
こちらとしては丁寧な説明のつもりだったのだが、しかし彼女はまだ疑問が尽きないらしく、慌てた様子で続きをせがむ。
「じゃ、じゃあ、指一本って何よ!?」
「ああ、園芸コーナーで、千円しなかったんでな」
実はそれだけの話である。つまり、千円未満で倒してやる、という訳だ。
してやったり、という笑いが込み上げた。抑えようにも抑えられない笑い。
対照的に彼女は馬鹿みたいに大口を開けて、呆としている。
「――――――は」
長い時間をかけて、ようやく彼女はそれだけを口にする。そんなに予想外だったのだろうか。
オレとしてはそうなら願ったり叶ったりだが。
まあ結果としてこの間抜けな顔が拝めるなら、それで良いかと思う。……口にすれば、殴られそうだから言えないけれども。
「まあ、オレの忍術が冴え渡る一幕だったってことか……」
「え、何、アンタ忍者なの?」
「いいや?」
場を和ませるつもりの、口からでまかせである。というか流石に忍者は有り得ない。
「…………」
「…………」
間。
彼女の手がぶれた。頬を派手に引っ叩かれる。
「痛ってえ!」
「誰の所為《せい》よ!」
「人の所為にすんな!」
罵倒し合う。しかしこっちは余程のことでもない限り、女に手は上げられない。
ついさっきのアリスの件でも、結構気にしているというのに。クソ、卑怯者め……。
コイツをどうしてやろうかと、本気で頭を悩ませ始める。そこでようやく、オレは彼女の名前を知らないことに思い至った。
ならば、唐突に訊いてみよう。
「なあ」
「何よ」
「オマエの名前は?」
彼女が喉を詰まらせる。……そんなに変なことを訊いたつもりはないのだが、何か問題でもあったろうか。余程変な名前なのか?
「蒼崎青子よ」
「……ふむ?」
蒼崎青子、ねえ。何やら奇怪な名前が出て来たような気もするが……そんなこと言ってたら、オレも人のこと言えなくなるな。
まあ強いて仇名《アダな 》をつけるなら。
「あおあお?」
「もう一度、殴るわよ」
かなり本気の目をされたので、前言を速《すみ》やかに翻した。コイツ気性がかなり荒いぞ。おっかねえ。
彼女は目を吊り上げたまま、オレに言い返す。
「そんなに言うなら、アンタの名前は何なのよ」
「ん、オレか。静希草十郎」
「充分変な名前じゃない」
歯に衣着せぬ、とはこのことか。言葉が胸に刺さる。自分では気に入っているんだが、やはり変なのだろうか。
というか、そんなにはっきり言わなくても。
何だか泣きたくなってきた。叔父さん、どうしてアンタ女の扱い教えてくれなかったんだ。未婚だったことは関係あるのか。
そんなどうでもいいことが、頭の中を駆け巡る。
そしてどうでもいいで思い出す、オレはそういえばこっちに、葬式を挙げに来たような。
「うわ……面倒くせえ……」
本音が口から勝手に出た。考えてみれば、どうせ先方もこっちが都会に不慣れだって解ってるだろうし、
道に迷ったで済むだろう。それに、元より望んだ式ではない。折角こっちに来たんだから、観光に走るのも良いかもしれない。
「青子、今日暇か?」
「? 何よいきなり。別に用なんて特に無いけど」
重畳重畳。用事が無いなら構わないだろう。正直に答えてくれた青子に、心から感謝するとしようか。
「良し、なら決定だ。案内役やってくれ。オレ昨日ここに着いたばかりなんだよ」
「はあ!?」
「暇なんだろ?」
先程確認を取ったばかりの事実をぶつけてみる。ようやく自分の発言の意味に気付いたのか、青子は思い切り口篭もった。
コイツ、これで案外素直なんだよなあ。
「また、騙された……」
「人聞き悪いこと言うな。騙したんじゃなく、段取りを踏んだだけだ」
事実、何かしらの策を用いたつもりなどない。用事が無い、と言うから話を持ちかけただけで、断ろうと思えば出来るのだ。
彼女が深く考え過ぎているだけの話。
「で、どうする?」
きちんと相手の意思を尊重する形で、是非を問う。オレはあくまで訊いているだけ。決めるのは彼女だ。
「……仕方無いわね。暇つぶしにはなるでしょう」
渋々、といった雰囲気を前面に押し出して、彼女は嫌そうに言う。
そんなに嫌ならこのまま帰れば良いのに、そう告げてもきっと彼女はそうしないのだろう。
一度決めたら頑固だというのも、実は知っているのだが……そう思えば、負けず劣らずオレも卑怯かもしれない。
「何笑ってるのよ」
「いや、別に何でもない」
何だか知らないがおかしかった、というのが正しい。だから何故と訊かれてもどうしようもない。
そんなオレの反応が気に入らなかったのか、彼女は肩を怒らせて先へ先へと歩き出してしまった。オレは慌てて後を追う。
「ダラダラしない!」
「焦らない!」
心地良い軽口の応酬。笑えて仕方が無い。どこまで怒っているのかなんて、解りはしない。
どうせお互い、単なる冗談を口にしているだけの、本当に気軽な付き合いだ。そんな相手が一緒と来ている。
意地の張り合いが始まる。走りはしないが、何故だか必死で早歩きをしている。
多分オレ達は端から見てると凄い馬鹿に見えることだろう。ああそうだ、馬鹿で結構。
青子は振り返ることもなく、足早にオレを置いて行こうとする。飽きもせず再び鬼ごっこ。
我ながら子供じみていて、ますます笑いが込み上げてしまう。
ああ、全く。
今度はオレが鬼ってか?
[#地付き](了)
※ 本テキストは、Winny上に流れていたデータを再構成したものです。