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ことわざ雨彦流
青木 雨彦 著
目 次
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始め半分
ああ言えばこう言う
会うは別れの初め
赤きは酒の咎《とが》
空樽《あきだる》は音が高い
秋|茄子《なすび》嫁に食わすな
悪女の深情け
朝雨は女の腕まくり
明日《あした》は明日の風が吹く
東男《あずまおとこ》に 京女《きようおんな》
頭隠して尻隠さず
あちら立てればこちらが立たぬ
在っての厭《いと》い無くての偲《しの》び
あつものに懲《こ》りて膾《なます》を吹く
アバタもエクボ
雨が降る日は天気が悪い
雨降って地固まる
有りそうで無いのが金
無さそうで有るのも金
案ずるより産むが易《やす》い
言いたいことは明日言え
石に漱《くちすす》ぎ流れに枕す
石橋を叩《たた》いて渡る
以心伝心
居ずば出会え
痛くもない腹をさぐられる
一押し二金三男
一か八か
一事が万事
一の裏は六
一年の計は元旦にあり
一姫二太郎
一富士 二鷹 三茄子
一宿一飯
一寸の虫にも五分の魂
いつまでもあると思うな親とカネ
命あっての物種
芋の煮えたも御存じない
いやいや三杯
いやと頭《かぶり》を縦に振る
色の白いは七難かくす
言わぬが花
言わねば腹ふくる
魚心あれば水心
氏より育ち
嘘つきは泥棒のはじまり
嘘の世の中
嘘も方便
鵜《う》のまねをする烏
馬には乗ってみよ 人には添うてみよ
裏には裏がある
噂をすれば影
縁なき衆生《しゆじよう》は度し難し
縁は異なもの
負うた子に浅瀬を教えられる
岡目八目
男やもめに蛆《うじ》がわき 女やもめに花が咲く
同じ穴のムジナ
帯に短し襷《たすき》に長し
思うに添わで思わぬに添う
思えば思わるる
親ずれより友ずれ
親の心子知らず
親馬鹿子馬鹿
親はなくとも子は育つ
女心と秋の空
女 三界に家なし
女の情けに蛇が住む
負んぶすれば抱っこ
蛙の子は蛙
蛙の面に小便
蛙の頬冠《ほおかぶ》り
かがみ女にそり男
隠すより現る
傘と提灯は戻らぬつもりで貸せ
風が吹けば桶屋が儲かる
風邪《かぜ》は万病のもと
火中の栗を拾う
金がかたき
金と塵は積もるほど汚い
金の切れ目が縁の切れ目
金は天下の回りもの
壁に耳あり障子に目あり
果報は寝て待て
カモがねぎを背負ってくる
烏を鷺
枯れ木も山の賑《にぎ》わい
彼は昔の彼ならず
可愛い子には旅をさせよ
聞いて極楽 見て地獄
聞くは一時《いつとき》の恥
聞くは気の毒 見るは目の毒
気は心
腐っても鯛
下さる物なら夏も小袖
口は口 心は心
口は禍《わざわ》いの門
口も八丁 手も八丁
芸術は長し人生は短し
芸は身の仇
芸は身を助ける
怪我の功名
下衆《げす》の後知恵
喧嘩に負けて妻の面《つら》を張る
喧嘩両成敗
健全なる精神は健全なる身体に宿る
恋は思案の外
後悔さきに立たず
虎穴に入らずんば虎子を得ず
粉糠《こぬか》三合あったら婿養子に行くな
子は鎹《かすがい》
ごまめの歯ぎしり
転ばぬ先の杖
子を持って知る親の恩
紺屋《こんや》の明後日《あさつて》
紺屋の白袴《しろばかま》
酒はやめても酔いざめの水はやめられぬ
雑魚《ざこ》の魚《とと》まじり
触らぬ神に祟《たた》りなし
三度目の正直
地獄の沙汰も金次第
四十にして惑わず
失敗は成功のもと
死人に口なし
死ぬ者貧乏
四の五の言うな
釈迦に説法
蛇の道はへび
姑の文《ふみ》で嫁憎い
重箱の隅は杓子《しやくし》で払え
朱に交われば赤くなる
正月小なし二月大なし
正直者が馬鹿をみる
冗談にも程がある
知らぬが仏
据え膳食わぬは男の恥
雀百まで踊り忘れぬ
すまじきものは宮仕え
住めば都
背に腹は代えられぬ
善は急げ悪は延べよ
千慮の一失
袖振り合うも他生の縁
損して得取れ
大は小を兼ねる
宝の持ち腐れ
立つ鳥跡を濁さず
蓼《たで》食う虫も好き好き
他人は時の花
旅の恥はかきすて
たらしがたらしにたらされる
追従《ついしよう》も世渡り
月に叢雲《むらくも》 花に風
妻の恥は夫の恥
罪を憎んで人を憎まず
亭主の好きな赤|烏帽子《えぼし》
亭主の好きなことを女房は嫌う
亭主は達者で留守がよい
出る杭《くい》は打たれる
冬至冬なか冬はじめ
蟷螂《とうろう》の斧《おの》
遠くて近きは男女の仲
時は金なり
毒食わば皿まで
所変われば品変わる
年寄りの冷や汗
年寄りの冷や水
捕らぬ狸の皮算用
虎の尾を踏む
ドングリの背くらべ
飛んで火に入る夏の虫
無い袖は振られぬ
長い物には巻かれろ
泣く子と地頭には勝てぬ
無くて七癖
情けは人の為ならず
夏の伊達《だて》は貧者もする
七転び八起き
七つ下がりの雨
生兵法《なまびようほう》は大怪我のもと
生酔い本性|違《たが》わず
ならぬ堪忍するが堪忍
似合う夫婦の鍋の蓋
二階から目薬
逃がした魚は大きい
憎まれっ子世にはばかる
二度あることは三度ある
二兎を追うもの一兎を得ず
濡《ぬ》れ手で粟《あわ》
濡れぬ先こそ露をも厭え
猫は三年の恩を三日で忘れる
能ある鷹は爪を隠す
残りものには福がある
喉《のど》元過ぎれば熱さを忘れる
飲む打つ買う
乗りかかった舟
ノレンに腕押し ヌカに釘
馬鹿と鋏《はさみ》は使いよう
馬鹿の一つ覚え
馬鹿は死ななきゃなおらない
這《は》っても黒豆
話し上手は聞き上手
早く咲けば早く散る
腹がへっては戦ができぬ
腹も身のうち
万婦これ小町
日陰の豆も時が来れば爆《は》ぜる
日がさ雨がさ月がさ日がさ
美女は悪女の敵
美人というも皮一重
人の噂も七十五日
人の女房と枯れ木の枝は上るほど危ない
人の女房と枯れ木の枝ぶり
人の褌で相撲をとる
人を呪わば穴二つ
夫婦げんかと北風は夜凪がする
夫婦げんかに猿の割り膝
夫婦げんかは犬も食わない
夫婦は従兄弟《いとこ》ほど似る
覆水盆に返らず
フグは食いたし命は惜しし
冬来たりなば春遠からじ
踏んだり蹴ったり
下手な鉄砲も数うちゃ当たる
下手の考え休むに似たり
下手の横好き
仏造って魂入れず
仏の顔も三度
惚れたが因果
負けるが勝ち
まだはもうなり もうはまだなり
木乃伊《ミイラ》取りが木乃伊になる
身から出た錆《さび》
見ざる聞かざる言わざる
水の泡
見たら見流し 聞いたら聞き流し
三つ子の魂百まで
見ると聞くとは大違い
昔は昔 今は今
娘見るより母を見よ
無理が通れば道理ひっこむ
目から鼻へ抜ける
餅は餅屋
持つべきものは友
持つべきものは女房
元の鞘《さや》に収まる
物は言いよう
物は考えよう
物ははずみ
桃栗三年柿八年
焼けぼっくいには火がつき易い
安請け合いは当てにならぬ
安物買いの銭失い
病上手に死に下手
病は気から
養生に身が痩せる
葦《よし》の髄から天井のぞく
夜目遠目笠の内
来年の事を言えば鬼が笑う
楽は苦の種 苦は楽の種
両手に花
良薬は口に苦し
論語読みの論語知らず
論より証拠
我が身をつねって人の痛さを知れ
忘れたと知らぬは手が付かぬ
渡りに舟
渡る世間に鬼はない
割《わ》れ鍋に綴《と》じ蓋
終わりよければすべてよし
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始め半分
ことわざに、
「始め半分」
というのがある。物事は始めさえしっかりしていれば、もう半分は仕遂げたようなものだ――といった意味である。
東京新聞の日曜版など数紙に五年にわたって連載した「新ことわざ百科」や雑誌『さんぽみち』『Something』その他に書いたものを全面的に書き直し、あいうえお順に並べて一冊を編むに当たり、
「さて、題名をどうしよう?」
と、頭を悩ました。題名が決まれば、それこそ「始め半分」の半分くらいは仕上がったようなものだからだ。
すると、装幀の菊地信義さんがクスリと笑って、
「たとえば『ことわざ雨彦流』というのは、どうですか?」
と言ってくださった。言っちゃナンだが、これでキマリである。
この本は、コラムでもなければ、エッセイでもない。まして読みものでも「ことわざの解説書」でもない。そのくせ、その全部を兼ね備えている。そういう本に、この題名はいかにもピッタリではないか。
「話半分」
という。真実半分でもあるわけだ。この文章を書くに際しては、つとめて真実半分であるように心がけた。
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ああ言えばこう言う
「つうと言えばかあ」
というのは、おたがいに気心を知りつくしていて、一言いえばすぐに通じることなのに、
「ああ言えばこう言う」
というのは、あれこれ言を左右にし、ちっとも話が通じないことだ。これだから、日本語は面白い。
「ああ言えばこう言う」
と言ったら、
「それは、こう言えばああ言う≠フまちがいじゃないの?」
と言われた。要するに、同じことである。
右と言えば左
山と言えば川
しかし、
「山」
と言って、
「川」
と答えるのは、赤穂浪士の合言葉で、これが通じなかった日には討ち入りなんてできっこない。通じないのを無理に通じさせることを、
「有無相通ずる」
という。ウム、ホントかね?
「ああ」
と言えば、
「うー」
と言ったのは、いまは亡き大平正芳元首相だ。彼は「うー」と言いながら、次に何を言おうか、考えていたらしい。
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会うは別れの初め
「相逢った時のよろこびは、つかのまに消えるものだけれども、別離の傷心は深く、私たちは常に惜別の情の中に生きているといっても過言ではあるまい」
と言ったのは、太宰治だ。絶筆となった小説『グッド・バイ』の作者の言葉の一節である。新聞や週刊誌に、
「増える妻の離婚宣言」
「流行? 妻からの三下り半」
といった見出しが並ぶもんだから、つい、その気になってしまった女性がいる。彼女、どうやら流行にはヨワいみたいだ。
理由は、性格の不一致でも、人生観の相違でも、なんでもいい。わたしなんぞは「夫婦で性格が一致していたら、キモチわるい。性格が一致していないから、夫婦でいられるんじゃないか」と思っているほうだが、ご当人は「性格の不一致っていうと、別れるのに、なにか問答無用みたいなところがあるでしょ?そこが気に入ってんだ」ということだった。
要するに、なにがなんでも離婚したいらしいのである。失礼ながら、亭主こそいい面の皮≠セろう。
そこで、
「そんなに別れたかったら、はじめっから結婚なんかしなきゃよかったのに……」
と言ったら、笑われた。
「バカねぇ、結婚しなきゃ、離婚できないじゃないの!」
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赤きは酒の咎《とが》
飲むと、すぐに赤くなる。そこで、自己紹介をしなければならないときなどは、
「顔は赤き[#「赤き」に傍点]ですが、姓は青木[#「青木」に傍点]です」
とやる。そうして「その代わり、腹は黒き[#「黒き」に傍点]です」と、つけ加える。ちゃんと平仄《ひようそく》は合っている。
「赤きは酒の咎」
ということわざは、
「顔の色が赤いのは、酒のせいで、飲んだ私のせいではありません」
といった意味である。ま、酒の上の軽口――減らず口だね。
これが、酒飲みの言いわけに使われるようになると、あぶない。転じて、自分の過ちを認めず、責任のがれをすることに言う。
「子供が道で転んだのは、そこに石があったからだ」
「学校が面白くないのは、先生が若いからだ」
「うちの子がグレたのは、友達に誘われたからだ」
昔は、
※[#歌記号、unicode303d]電信柱が高いのも 郵便ポストが赤いのもみんな あたしが悪いのよ
と歌ったものだ。いまは、生活が苦しいのも、夫(あるいは妻)が浮気に走るのも、ヘンな病気が流行《はや》るのも「みんな、政治が悪い。社会が悪い。他人が悪い」ということになっている。それもこれも、飲んで赤くなるのを、酒のせいにしたためか?
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空樽《あきだる》は音が高い
他人の言うことを封じようとして、無闇矢鱈《むやみやたら》に大きな声を出す人がいる。そういう人の反論は、えてして内容のないことが多い。
サラリーマン時代に、なにかというと、
「それでも貴様は社員か!」
と言う男がいた。会議などで、ちょっと会社の非に触れると、とたんに居丈高になって、テーブルを叩《たた》いたりするのである。
「社員かどうか、人事部に行って聞いてこい」
ときには腹に据えかね、からかってやることもある。こういう人は、フシギに自分がからかわれたことについては敏感だから、ますます声が大きくなる。
「空樽は音が高い」
ということわざは、なんにも詰まっていない樽を叩くと高い音が出るところから、無意味なことをエラそうに喋《しやべ》ったりする人間のことをあてこすっている。考えてみたら、彼は、会議でいちども自分の意見を発表したことはなかった。
自分の意見も発表せずに、誰かが何かを言うのを待って「それでも貴様は社員か!」と怒鳴っていれば、いかにも自分は会社に忠実な人間であるかのようにみえる。その声が大きければ大きいほど、会社に対する忠誠度も高いようにみえる。
中身ある人は慎ましく、また言葉少なにモノを言う。そういう人間に、わたしは、なりたい。
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秋|茄子《なすび》嫁に食わすな
古歌に、
秋なすび早酒《わささ》の粕につきまぜて棚に置くとも嫁に食はすな
というのがあるそうな。訳せば「せっかくの秋茄子を、嫁に食われてなるものか。ひとまず新酒の粕に漬けて、棚の上にでも置いておこう」といったところか。
これが「秋茄子嫁に食わすな」ということわざの典拠だ――といわれている。ただし、この場合の嫁は、嫁が君、すなわちネズミのことである。
それが、いつのまにか、嫁、すなわち息子の細君のことになっている。この国の嫁と姑の関係が目にみえるようだ。
もっともらしく、
「身体を冷やして毒だから」
「種子《たね》が少なく、子種が減ると困るから」
と言う人もいるが、ホンネは、やはり、
「こんなにうまいのだから」
といったところだろう。母親にとって、息子の細君はそれほど憎いものらしい。
それにしても、
「身体を冷やして毒だから」
「種子が少なく、子種が減ると困るから」
とは、言いも言ったり。こういうのをオタメゴカシと称するのではなかろうか。
皆川白陀というひとの句に、
秋茄子や邪魔にされつつ婆達者
いいねぇ!
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悪女の深情け
ことわざで、
「悪女の深情け」
という場合の「悪」は「醜悪」の「悪」だ。
悪女すなわち醜女《しこめ》、つまりブスなり。
そこで、
「美人は多くは情《じよう》が薄いが、醜い女は情も濃い代わりに、嫉妬心も強い」
ということになる。転じて「ありがた迷惑」の意味だ。
ところで、
「バカをバカと言って、どこが悪い?」
という冗談は許せるが、
「ブスをブスと言って、どこが悪い?」
という冗談は許せない――というのが、憚《はばか》りながら、わたしの持論だ。わたくし、幼少の頃から、
「おまえは器量が悪いから……」
と言われて育ってきたので、醜女の哀しみが他人事《ひとごと》ではない。
だいたいが、何を基準に美醜を問うつもりか? もし、女性で容貌に自信がなかったり、容貌のまずいことを自覚しているひとがいたら、わたしなんぞは、その心根だけで「美しい」と思ってしまう。
ブスが、
「ブスッとしているから、ブスだ」
というんなら、わかる。が、そういうのは深情け≠ネらぬ浅情け≠セろう。できることなら、おつきあいしたくない。
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朝雨は女の腕まくり
「朝雨は女の腕まくり」
ということわざは「女は弱い」と考えられていたフルーい時代の所産だ。朝の雨はすぐに晴れるものだから、弱い女の腕まくりと同じように「少しもこわくない」というんだから、コワい。
しかし、この世は、
「誤解に満ちているからこそ楽しい」
ということもある。かのシェイクスピアだって、
「弱き者よ、汝の名は女なり」
と言っている。
「女の腕まくり」
というと、わたしは、つい小説家の佐藤愛子さんを思い出してしまう。佐藤さんに『朝雨女のうでまくり』(角川文庫)というエッセイ集があるからだが、彼女の腕っぷし(?)の強さも、また定評のあるところだ。
「朝雨は女の腕まくり」
ということわざは、
「朝雨と女の腕まくり」
ともいう。このちがいについては、故金子武雄博士の解釈が、じつに単純明快だ。金子さんは『日本のことわざ』(朝日文庫)のなかで、こうおっしゃっている。
「前者は天候の予測であり、後者は女の弱さに対する嘲笑である。朝雨にも女にも、もちろん例外はあろう。しかし、諺というものは原則だけを言うものなのである」
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明日《あした》は明日の風が吹く
川柳に、
足腰を鍛え鍛えてガンになり
というのがある。いっしょうけんめい運動をやったものの「気がついたら、ガンになっていた」というのだ。
今日は健康でも、明日は病気になるかも知れない。いまはピンピンしていても、いつガックリくるかも知れぬ。まさに、この世の「一寸先は闇」なのである。
世の中のこと、いや、自分のことでさえ、これからどうなるか、見当もつかない。オッカナビックリ歩いていくよりほかにしょうがあるまい。
しかし、明日のことは、誰にもわからないのだ。いくら心配したところで、なるようにしかならないのだから、くよくよしたところではじまらない。
それこそ「明日は明日の風が吹く」だろう。
明日のことは明日になったら考えればいいし、一寸先のことも一寸先に案じればいいのではないか。
だいたいが、この項「一寸先は闇」ということわざについて書くつもりだった。それが、書いているうちに、なんとなく「明日は明日の風が吹く」ということわざについて書いたほうがいいような気がしてきて、こんな原稿になってしまった。
楽屋裏をさらすようで恥ずかしいが、まこと「一寸先は闇」である。
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東男《あずまおとこ》 に京女《きようおんな》
「幹竹《からたけ》を割ったような」
という。さっぱりしていて、くよくよしない性格のことである。
「いかにも男らしい」
と感じるのは、単純な男の単純な解釈にすぎない。言っちゃナンだが、ホンモノの男は、もう少し屈折しているのではないか。
江戸っ子は、昔っから五月の鯉の吹き流しにたとえられるように、気持ちはさっぱりしていて、物事にこだわらない。腹に含むところがなくて、単純である。
そんな江戸っ子に代表される東男に配するに、一見|嫋々《じようじよう》たる京女をもってきたところなんざ、誰が言い出したのかは知らないが、このことわざを作ったひとは、かなり人が悪い。京都の女性は、けっして優しくない。
「東男に京女」
ということわざは、
「男は、たくましく、きっぷのいい江戸の男がよく、女は、美しくて、優しい京の女がよい」といった意味だろう。たくましく、きっぷのいいことが「男らしさ」と考えられ、美しくて、優しいことが「女らしさ」と考えられていたフルーい時代のことわざだ。
その証拠に、京都の女性に、
「幹竹を割ったような性格の男を、どう思う?」
と訊いてごらん。彼女たちはニッコリ笑って言うだろう。
「へェ、そんなん、つまらんわァ」
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頭隠して尻隠さず
「もういいかい」「まあだだよ」
子供のときに、よく隠れんぼをして遊んだものだ。いまの子供たちだって、隠れんぼぐらいはするだろう。
「もういいかい」「もういいよ」
自分ではちゃんと隠れているはずだが、隠れているのは頭だけで、お尻が出ていたりする。たちまち鬼さんにみつかって、ホント、穴でもあったら入りたい気持ちだよ。
キジには草の中に首だけ隠す習性があるみたいだ。気の毒に、尾が出ていることには気がつかないらしいのである。
そんなところから、悪事を働いた者が、その悪事をうまく隠したつもりでも、思いがけないところでシッポを出しているさまをからかい、
「頭隠して尻隠さず」
ということわざができた。キジは、悪事を働いたわけでもないのに、バカな話だ。
ときに、ヘマをすることがある。そんなとき、わたしたちは、とにかくゴマカそうとして、あれこれ細工をする。
細工をすればするほどボロが出るのだが、それでも細工をしようとするところが、凡人の凡人たる所以《ゆえん》だろう。ヘマをやらかした以上は、素直に、
「ごめんなさい」
と謝るに限る。
頭も尻も丸出しにして、頭を下げるのだ。
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あちら立てれば こちらが立たぬ
戯《ざ》れ歌に、
※[#歌記号、unicode303d]あちら立てればこちらが立たぬ 両方たてれば身が立たぬ
というのがあるのを、ご存じか? この歌、
※[#歌記号、unicode303d]いちばんよいのが頬《ほ》っかむり
と、つづくのである。
「事|勿《なか》れ主義」
という。なにごとも平穏無事にいくことを望んで「まあまあ、まあまあ」と、世を渡ることである。
どちらかといえば、そんな生き方をしてきた。すべてに消極的で、争いを好まなかった。
早い話が、酒を飲んでいても、争いが始まりそうになると、仲裁にまわるか、席を立ってしまうかの、どちらかだった。一方に非のあることがわかっているときも、いや、一方に非のあることがわかっているときのほうが、席を立つ場合が多かった。
しかし、三十歳を過ぎて二十年以上もたつと、だんだんそういう生き方がバカらしくなってきた。ホントのことを言って、
「たまには、徹底的に一方を庇ってみようかな?」と考える。もちろん、酒を飲んでいて、争いが始まりそうになったときに限るが……。
「頬っかむり」
というのは、なんとなくみんな背負い込むみたいで、イヤだ。実際にはそうじゃないかも知れないが、そんな気がするところが、バカらしいのである。
[#改ページ]
在っての厭《いと》い無くての偲《しの》び
「老後」
というと、女房たちは、なぜか亭主が死んでからのことを考えている。この国の女房たちは、どうやら、
「亭主のほうが先に死ぬ」
とキメているらしい。
「どっこい、そうはいかない」
と気張ったところで、
「だって、統計が証明してるでしょ?」
と、彼女たちは言うだろう。たしかに、この国では女房のほうが長生きしている。
生きているうちは、粗大ゴミだの、産業廃棄物だのと、亭主をバカにしていたのに、イザ死なれてみると、掌《てのひら》を返したように、
「あの人は、ホントにいい人だった」
と言い出す。まさに「在っての厭い無くての偲び」だ。
「どうせそうなるんだから、生きているうちに、もうちょっと優しくしたら、どうだ?」
と言っても、
「生きてるうちは、生きているうち」
と、つれない。とにかく死んでくれないことには「楽しかったことなんか思い出せない」と言うんだから、どうにもならぬ。
そこで、
「死んでから偲ばれたって遅い」
とばかり、勝手なことをしようとするのも、この国の亭主たちの悪いクセだ。そんな亭主だから、粗略に扱われるのだろう。
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あつものに懲《こ》りて膾《なます》を吹く
採用試験で、
「きみのお父さんの職業は?」
と訊こうとしたら、
「そんなこと訊いてはイケナイ」
と、隣の試験官に窘《たしな》められた。彼によると、
「受験生の親の職業を訊くことは差別になりますよ」
というのである。
こっちは、微塵もそんなつもりがなかったから、ビックリした。わたしとしては「きみのお父さんの職業は?」と訊かれて、受験生が「ハイ、お父さんの職業は……」というふうにオウム返しで答えるか「ハイ、父の職業は……」というふうにちゃんと言い直すかどうかを知りたかったのである。もちろん、言い直すほうが、正解だが……。
それにしても、なにか言いかけると、
「それは、差別だ」
と言い出す連中が輩出してきて、なかなかもの[#「もの」に傍点]が言いにくい。なかには、なんの根拠もなしに「それは、差別だ」と言い張って、相手の発言を封じようとする向きもあるみたいである。
「あつものに懲りて膾を吹く」
ということわざは、熱い吸いものにやけどした者がそれに懲りて、次からは冷たい料理も吹いてさます意から、前の失敗に懲りて必要以上の用心をすることだ。非難を恐れて言いたいことも言えなくなる風潮のほうがコワい。
[#改ページ]
アバタもエクボ
織田作之助の小説『猿飛佐助』の主人公は、
「笑えば笑窪がアバタにかくれる」
と名乗るほどのアバタ面である。そんな醜男《ぶおとこ》に絶世の美女・楓が心を寄せるのだから、世の中、いや、小説は楽しい。
わたしも醜男だったので、
「もし佐助がアバタ面でなかったら……」
と思いながら、この小説を読んだものだ。もし佐助がアバタ面でなかったら、この小説は少しも面白くなかったにちがいない。
「アバタもエクボ」
ということわざは、
「愛する者の目には、短所も長所に見える。ヒイキ目でみれば、醜いところも美しく思える」
という意味であろう。ヒイキ目を戒めているようでもある。
しかし、わたしがカルチャーセンターの講師をやっていた頃、開講の際に必ず言うセリフは、
「カルチャーセンターの講師は、学校の先生とちがって、エコヒイキができるのです。だから、みなさんも、わたしが誰かをエコヒイキしたからって、文句を言わないでください」
というものだった。もちろん、冗談である。
でも、誰かをエコヒイキできない人生なんて、寂しい。いちどでいいから、誰かをエコヒイキし、
「惚《ほ》れたが、悪いか!」
と叫んでみたい。
[#改ページ]
雨が降る日は天気が悪い
「いや、よして」
というのは、
「いやよ、して」
ということだそうな。ホント、読点ひとつで、どうにでもなってしまう。
「雨が降る天気じゃない」
という言い方も、雨が降るのか、降らないのか、もうひとつハッキリしない。早い話が、
「雨が降る天気じゃない」
とつづければ降らないし、
「雨が降る、天気じゃない」
と、読点で切れば降るのである。
「雨が降る日は天気が悪い」
ということわざは、ごくアタリマエのことのたとえだ。同じようなことわざに、
「犬が西向きゃ尾は東」
というのがある。
そういえば、佐藤愛子さんに『犬が西向いても……おかしくない本』(KKベストセラーズ刊)という題のエッセイ集があった。これは、
「犬が西向きゃ尾は東」
ということわざと、
「白い犬で、尾も白い[#「尾も白い」に傍点]」
というシャレをドッキングさせたうえで、もう一ひねりしたものだろう。
ついでに、
「石が流れて木の葉が沈む」
というのは、アタリマエならざることのたとえである。
[#改ページ]
雨降って地固まる
「決まり文句」
というのがある。いつも決まって言う同じ文句、型にはまった新鮮みのない表現のことだ。早い話が、国会の答弁で、所管の大臣が、
「前向きに検討いたします」
という、アレである。テレビで国会中継を見ているときにアレをやられると「たまにはうしろ向きに検討する≠ニ言ってみろ!」と怒鳴りたくなる。
しかし、手紙を書くときは、この決まり文句があるおかげで、ずいぶん助かる。べつに大慶≠ニも小慶≠ニも思ってないが、
「時下ますますご清栄のこと、大慶に存じます」
と書き出せば、なんとなく最後まで書けるような気がするから、ありがたい。
そんな決まり文句の一つに、
「雨降って地固まると申しますが……」
というのがある。雨の日の結婚披露宴の来賓挨拶には、かならずコレが飛び出してくる。
雨降って地固まる――
「雨が降ったあと地面が固まるように、困難なことや悪いことがあったあとは、その試練に耐えて、かえってうまく治まる」
というほどの意味である。年寄りたちが新婚さんに夫婦ゲンカをすすめて、こう言うのである。
「なぜ夫婦ゲンカをすすめるかって? そりゃあ、トシとると、他人の夫婦ゲンカを眺める以外に楽しみがないもの」
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有りそうで無いのが金 無さそうで有るのも金
おカネにかんすることわざでは、
「有りそうで無いのが金 無さそうで有るのも金」
というのが好きである。言っちゃナンだが、これなら、わたしも安心してつましく[#「つましく」に傍点]身を処することができる。
根が貧乏性だから、貧乏であることは一向に苦にならない。それは、まあ、たまたま金持ちではないだけのことであって、いわば天の配剤である。
しかし、貧乏ったらしいのだけは、ゴメンだ。歌の文句に、
※[#歌記号、unicode303d]ボロは着てても 心は錦
というのがあるから言うわけじゃないが、
「出すのは、舌を出すのも惜しい」
といった生活には、耐えられぬ。
えてして金持ちは、ケチらしい。幸せなことに、こっちはケチになれるほど金持ちじゃないから、舌ぐらいなら、二枚でも三枚でも出してみせる。
それにしても、
「有りそうで無いのが金 無さそうで有るのも金」
ということわざは、時と場合によっては、
「有りそうで無いのが金 無さそうで有るのが借金」
と言い換えられるので、やりにくい。そういうときは、仕方がないから「借金も財産のうち」と居直るか……。
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案ずるより産むが易《やす》い
小田島雄志さんの『シェイクスピア名言集』(岩波ジュニア新書)に、こんなエピソードが紹介されていた。Kという女優が、結婚後七年目で初めて赤ん坊を産むことになったときの話である。
かなりの難産で、苦痛のあまりKが泣きそうになると、お医者さんは「泣いたって痛みはやわらぎませんよ」と言ったらしい。やっと玉のような男の子が産まれたが、なかなか産声をあげないので、看護婦が赤ん坊に「さあ、泣きなさい」と言ったとたん、自分が言われたと思ったのだろう、Kが「ワーッ」。
それで、思い出した。ある産院で、陣痛のたびに泣きわめく妊婦に、とうとう我慢できなくなった医師が彼女の耳元で囁いた。
「あんまり騒ぐと、入院費が高くなるんだぞ」
彼女、二度と泣かなかったそうだ。
「案ずるより産むが易い」
ということわざは、出産が心配していたよりも容易にすむことから、
「前もって気を遣うよりも、実際に事に当たってみれば、案外たやすいものだ」
といった意味である。
ところで、いわゆる知識人のテレビ出演と出産とは、よく似ている。苦しんで「もう産みたくない」と言う女性に限ってすぐに孕《はら》むし、同様に「二度とテレビに出ない」と言う知識人に限って、テレビ局が声をかけると、すぐに出演する。
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言いたいことは明日言え
評論家の扇谷正造先生に、
「怒った手紙は一日寝かせろ」
ということを教わった。相手に抗議する手紙は、とかく興奮が先に立ち、客観性に欠けることがあるから、すぐに投函せず、せめて一夜だけでも手元におき、
「翌日になって、もういちど読み直してみよう」
というのだ。
これは、怒った手紙だけのことではない。たとえばわたしのように売文を業とする者は、ホントウは締め切りの前の日に書きあげ、当日になって読み直したうえで編集者に手渡すのが理想である。
しかし、理想はあくまでも理想であって、現実ではない。現実は締め切りに追われ、あたふたと書きあげては、書きあげるそばから編集者に渡している。
言っちゃナンだが、世の中、腹の立つことが多い。そいつを押さえているうちに気がムシャクシャしてきて、つい手近な人間に八つ当たりする。
「言いたいことは明日言え」
ということわざには、そのへんの事情がちゃんと踏まえてあるようで、くすぐったい。わたしたちは、とかく興奮すると、言いたいことばかりか、言わでものことまで口走ってしまうようである。
「言いたいことは明日言え」
ということも、明日いわねばなるまいか?
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石に漱《くちすす》ぎ流れに枕す
エチケットを、
「エケチット」
と言ったひとがいた。時の総理大臣である。
スリルを、
「スルリ」
と言ったひともいる。世界的な映画俳優だ。
映画俳優は、新聞記者に、
「スリルじゃないんですか?」
と指摘されると「スルリとも言うんだ」と、肩を怒らしたそうな。それでこそ世界的な映画俳優だろう。
負け惜しみのたとえに、
「石に漱ぎ流れに枕す」
ということわざがある。ホントは、
「流れに漱ぎ石に枕す」
と言うべきところを、晋の孫楚がまちがえたのだ。まちがいを指摘されて、孫楚は答えた。
「なーに、石で口をすすぐのは歯をみがくためであり、水の流れを枕にするのは耳を洗うためじゃ」
ちなみに、明治の文豪・夏目漱石のペンネームは、中国の故事に拠《よ》っている。漱石先生も、相当にひねくれ者だ。
余談だが、
「流石」
と書いて「さすが」と読ませるのも、中国の故事に由来している。当て字である。
言いまちがいのことわざを自分のペンネームにしちゃうんだから、さすが漱石だ。
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石橋を叩《たた》いて渡る
第一次南極観測越冬隊長をつとめた西堀栄三郎さんに『石橋を叩けば渡れない』(日本生産性本部刊)という本がある。書名の『石橋を叩けば渡れない』は、もちろん、
「石橋を叩いて渡る」
ということわざのもじり[#「もじり」に傍点]である。
このことわざは、
「乗って壊れるはずもない石橋を杖《つえ》で叩き、安全を確かめたうえで渡る」
という意味から、ふつうは用心深すぎる人物を軽蔑する場合に使うが、ときに「念には念を入れ」というふうに用いることもあるようだ。石橋を叩いて、渡らない人が出てきたからだろうか。なかには、石橋を叩いて壊しちゃったりする人もいて……。
西堀さんは『石橋を叩けば渡れない』に、
「探検家は、まず第一に、やるかやらないかという決心をする前に調査するよりも、やるという決心をしてから調査をします。決心をしてから後にやる調査というのは、いかにして失敗のリスクを減らすかということに専心することになるわけです」
と書いていらっしゃる。やる前に考えるのではなくて、やってから考えるのだろう。なにごとも、考えていたら、やれっこない。
なお、西堀さんは、
※[#歌記号、unicode303d]雪よ 岩よ
という、あの『雪山讃歌』の作詞者でもある。日本山岳会の会長でもあった。
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以心伝心
「ディレクティブ」
という。英語でほのめかし≠フ意味だ。
わざわざ口で説明しなくても、自然に心が通じ合うことだろう。あちらにも、
「以心伝心」
といった心づもりがあるのだろうか。
――好きだった。向こうも好いてくれている≠ニばかり思っていた。
ところが、愛ちゃんは太郎の嫁になってしまうのである。いまさらのように、
「そんなの、ないよ」
と言ったところで、間に合わない。
詰《なじ》ると、
「だったら、どうして言ってくれなかったの?」
と、こうである。こっちが、
「そんなこと、言わなくたってわかっているじゃないか」
と言えば、
「いいえ。言ってくれなければ、わからないわ」
と、悲しげに首を横に振るばかりだ。
なーに、愛ちゃんだって、じつはわかっていたのである。わかっていても言ってもらいたいのが、あるいは、言わそうとするのが、女心だろう。
なに、そんなこともわからなかったって?
そのくせ、
「言わなくたってわかっているじゃないか」
と言うの?
てんで、わかっちゃいねえなあ!
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居ずば出会え
電話の「もしもし」は「もうし、もうし」から転じたのではないか――と思われる。要するに「モノ申す」の「申す」である。
「もうし」
とくれば、
「どーれ」
と言う。講談などでおなじみ、道場破りの風景だ。
「拙者、○○藩浪人・何野誰兵衛と申すもの、当代の名人とお見受けした。ひとつ、お手合わせいただきたい」
とかナンとか名乗って試合に臨むわけだが、たまたま相手が留守だったりすると、
「出会え、出会え」
とたんに、声が大きくなる。相手がいないとわかっていれば、ぜったいに試合はおこなわれないし、試合さえおこなわれなければ負ける気遣いもないからだ。
「居ずば出会え」
ということわざは「いないんなら、出て来い」という意味である。もし、いるんだったら「三十六計逃げるにしかず」で、いちはやく逃げ帰る。
とかく卑怯な輩《やから》は、相手がいないときに限って、
「ああもしてやる、こうもしてやる」
と、言うことばかりデッカい。が、目の前に相手がいたりすると、そんなことはおくびにも出さない。
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痛くもない腹をさぐられる
「痛くもない腹をさぐられる」
ということわざは、
「腹痛でもないのに、痛い所はここか、いや、ここかと、腹を探りまわされる」
といった意味である。ひじょうに気色わるい。
転じて、
「何もしていないのに、あるいは何の関係もないのに、あれこれ疑われる」
という意味になった。迷惑も、いいところだ。
この世には、たしかに痛くもない腹をさぐろうとする人たちがいる。何もしていないのに、あるいは何の関係もないのに、いかにも何かしているように、あるいは何か関係でもあるかのように、他人の周辺を嗅《か》ぎまわる。
でも、こっちは、なにも疚《やま》しいことをしているわけではないから、安心である。うるさく、迷惑千万にはちがいないが、そのぶん、相手を軽蔑することで、なんとか心のバランスを図っている。
「この世に軽蔑することのできる相手がいる」
ということは、考えようによっては幸せなことだ。それだけ、こっちが高尚な人間のように錯覚することができる。
だから、ホントウに困るのは、痛くもない腹をさぐられることではなくて、痛い腹をさぐられることではなかろうか。疑いをかけられて、こっちには思い当たるフシがあるのである。ホント、これが困る。
そう、たとえば浮気のように。
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一押し二金三男
「一押し二金三男」
というのは、
「目ざす女を手に入れるには、押しの強さが第一で、それに金があること、男ぶりのよさは第三の条件にすぎない」
という意味なんだそうだ。ホ、ホントかね?
なんだか、いい[#「いい」に傍点]女を手に入れたいい[#「いい」に傍点]男じゃない奴がいい[#「いい」に傍点]男を見下しているようでもあり、いい[#「いい」に傍点]男じゃない奴にいい[#「いい」に傍点]女を奪われたいい[#「いい」に傍点]男がひがんでいるようでもあり、あんまりいい[#「いい」に傍点]ことわざじゃない。
それにしても、女の愛を得る条件に、
「第一に押しが強いこと、第二に金があること、第三に男ぶりがいいこと」
とは言ったものである。いかにも男ぶりなんてどうでもいいように聞こえるが、果たしてどんなものか。
ふつう、男ぶりを気にしている奴は気が弱いみたいだし、
色男金と力はなかりけり
という川柳もあるように、男ぶりのいい奴もまた、そんなに押しは強くなさそうだ。要するに、男はみんな、気が弱いのである。
女にしてみれば、だからこそ男の押しが問題になるのかな? 女は、ないものねだりで、やっぱり男に押しを求めているのかな?
されば「一押し二金……」ナンテ言わないで「一押し二押し」と言ったら、どうだ? そうして、三に押し倒す。
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一か八か
博打《ばくち》の、
「丁か半か」
というのは、
「偶数か奇数か」
ということである。サイコロ賭博《とばく》は、サイコロ二つを転がして、表になった数の合計が偶数であるか奇数であるかを当てっこするのだ。
「一か八か」
ということわざは、この「丁か半か」の丁の字の上部と半の字の上部をとったものだ。要するに、二者択一なのである。
勝つか、負けるか。成功するか、失敗するか。
結果はどうなるかわからないが、
「やるっきゃない」
といった感じだ。人間、ときには思いきって勝負に出ることも、大切である。
俗に、
「当たって砕けろ」
と言うではないか。なにごとも、ぶつかってみなけりゃ、わからない。
うまくいけばいったで面白いし、うまくいかなければいかなかったで、また面白い。ナマイキを言わせてもらうなら、どっちにしたって人生だ。ま、人生なんて、そんなものでしかないだろう。いや、それだけでじゅうぶんに楽しいではないか。
果たしてそんなものでしかないか、どうか。疑うんだったら、ひとつサイコロを転がしてみては……。
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一事が万事
「ちかごろの子供たちは、ナイフが使えない」
と言ったら、どこかの母親に、
「エンピツ削りがあるのに、エンピツ削りを使って、どこがいけないんですか?」
と抗議された。こちらは「ナイフが使えない」という事実≠述べただけなのに、あちらは非難≠ニ受けとめたようである。
ま、一事が万事だ。
「一事が万事」
という。一つのことがその調子なら、
「たぶんすべてのこともこの調子だろう」
と、一つの事例や一部分から他のことを推し測るたとえだ。あんまりいい[#「いい」に傍点]意味では使われない。
会社で、女子社員にホッチキスならホッチキスを買いにやらせ、帰ってきてから、
「このホッチキス、どこで買ってきた?」
と訊くと、たいがいの女子社員が、
「あら、どこか壊れてましたか?」
と訊き返す。こっちは、デパートで買ってきたのか、文房具屋で買ってきたのかを知りたかっただけなのに……。
夕飯のときに、女房が作った料理を指さし、
「これ、なんと言うの?」
と訊いてみる。とたんに、女房は、
「まずかったら、食べてくれなくても結構よ」
とフテクサれるだろう。
かくて一事が万事、いや、万事休す――である。
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一の裏は六
俗に、
「一天地六」
という。サイコロの目のことである。
サイコロは、西洋ではギリシャ神話に「パラメデスが発明した」とあるそうだが、古くからインド、中国にも存在していたらしい。日本には奈良時代に渡来した。
中国人によると、その目は、一が天、六が地、五が東、二が西、四が南、三が北をあらわし、対応する両面の数の和は七になる。サイコロの目が儘《まま》にならないところから、彼らはこれを宇宙の神秘になぞらえたみたいだ。
それにしても、最も小さい数である一の裏が、最も大きい数の六であることが、生きていることの面白さを感じさせて、何とも言えない。人間、悪いことの裏には、きっとよいことがある。
ところで、美容外科・高須クリニック院長の高須克弥さんが『美人とブスの定義』(エフエー出版刊)という本のなかで、
「ブスは、いったい何を支えに生きていけばいいんですか?」
という質問に、こんなふうに答えていた。
「自分の世界に閉じこもって自分だけの評価、判断で生きること。私は美人だと思って、周りの価値を全部捨ててしまう」
そういう強い生き方ができるのも、不美人だからこそだろう。ホント、この世は、一の裏は六だ――なんて、ロクデモナイ。
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一年の計は元旦にあり
このところ、正月が来るたびに心に誓うことは決まっている。自慢じゃないが、ここ十年くらい変わらない。
――ということは、
「いっこうに実現しない」
ということでもある。ことしもまた「ことしこそは……」と期している。
ことわざにも、
「一年の計は元旦にあり」
というではないか。いつものことながら、年頭所感こそ肝要である。
なに、わたしが年頭に思うことは、べつにたいしたことではない。ただただ気弱に「ことしこそ、仕事を減らして収入を増やしたい」と願うだけだ。
考えてみれば、働きづめに働いてきた。会社に勤めていたときもよく働いたが、会社をやめてからは、さらに働きつづけた。
それでも、会社に勤めていたときは仕事を怠ける楽しみがあったが、会社をやめたら、そういう楽しみもなくなった。そんなことをすれば、たちまち食いっぱぐれてしまう。
ふざけて、
「週休七日制です」
と言ったことがある。ホントに毎日が日曜なのだ。いいや、もっと正確には、
「自由業には、土曜も、日曜もない」
ということだ。もちろん、正月もなければ、盆もない。ホント、不自由なことである。
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一姫二太郎
自慢じゃないが、長女も、次女も、三女も娘だ。息子は、同い年の息子しかいない。
どういうわけか、長女が産まれたときに、
「世間では一姫二太郎≠ニ言うじゃないか」
と慰められた。こっちは、これっぽっちも「男の子が欲しい」なんて思っていなかったから、妙な気持ちだった。
本来は、女児のほうが育てやすいところから、
「最初に産む子は女がよく、二番めに男児を産むのがよい」
といった意味のようだ。が、これだって、
「女児のほうが育てやすい」
という先入観の上に成り立っている言葉で、
「ホントに男に比べて女のほうが育てやすいか?」
というと、こいつばかりは、男児を育てたことがないので、わたしには、わからない。
往年の大関・朝潮は、結婚披露宴で、
「(子供は)男ならどっち似でもいいが、女ならオレ似は困る」
と笑わせたそうな。気の毒だが、昔から、
「男児は母親に似て、女児は父親に似る」
と、相場はキマッテル。
そういえば、ひところ、
「1姫2太郎3サンシー」
というCMがあった。避妊薬サンシーゼリーの広告である。
いまは、これ「一姫二太郎三3P」というようだ。
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一富士 二鷹 三茄子
「なぜ正月がめでたいか?」
と言うと、
「年の初めだから」
という以外に理由が見当たらない。年の初めがめでたいんなら、年のなかばも、年の終わりもめでたくってもよかりそうなものを。
「一富士 二鷹 三茄子」
と言う。いやがうえにもめでたいのは、
「年の初めに、これらの夢をみることだ」
と伝えられている。
江戸時代からのことわざで、みんな将軍・徳川家康ゆかりの駿河の国に結びついているところなんぞ、なかなかのものだ。富士山は言うまでもなく、鷹も、茄子も、駿河の国の名産なんだそうである。
それは、まあ、それとして、富士の高嶺は高く大きい。鷹は猛禽《もうきん》で他の鳥を掴《つか》み取る。そして、茄子は「成す」に通じる。ホント、縁起がいいものばかりだ。
そして、江戸の狂歌に、
初夢まさに見し一富士二鷹三茄子夢ちがへして獏《ばく》に食はすな
バクは、想像上の動物で、形はクマ、尾はウシ、脚はトラ、鼻はゾウ、目はサイに似て、人の夢を食うと言われている。せっかく富士山に鷹が茄子をくわえて飛んでいった夢をみたところで、これをバクに食べられたんじゃ、どうにもならない。ユメユメ夢ちがえなど、なさらぬように。
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一宿一飯
帰りしなに、
「一宿二飯の恩義にあずかりました」
と挨拶した奴がいる。前の晩に泊まった若い友人である。思わず、
「それを言うなら、一宿一飯の恩義だろう」
と注意したら、
「だって、ゆうべも晩ご飯をゴチソウになり、けさも朝ご飯をいただきました」
と言う。それで「一宿二飯」なのだそうだ。
小学館の『ことわざ大辞典』に「一宿一飯」は、
「一晩泊めてもらい、一度の食事をふるまわれること。ちょっとした世話になること。博徒《ばくと》の間の仁義では、こうした恩恵を生涯の恩義とした」
と出ている。バクチ打ちは、泊まっても、朝飯を食べずに出ていったのだろうか。
マンガ家の福地泡介さんがエッセイ集『ホースケのまだ酔いの口』(実業之日本社刊)に「一宿一犯」という話を書いている。
――酔って、一人住まいの彼女のマンションへ泊まった。そうして、無理やり……。
それで、
「責任を感じて結婚しちゃった」
というのである。生涯の恩義ならぬ生涯の伴侶としたわけだ。
考えてみれば、結婚なんて、そんなものかも知れない。ホント、どっちがどっちを犯そうと……。
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一寸の虫にも五分の魂
「イッスンの虫にも」
というのを「チョットの虫にも」と読んでしまったばっかりに、笑われた男がいる。メートル法で言うなら、
「約三・〇三センチの虫にも約一・五一五センチの魂」
といったところか。
「一寸の虫にも五分の魂」
ということわざは、
「どんなに小さく弱い者でも、それなりの思慮や根性を持っているものだ」
という意味である。
東大名誉教授だった金子武雄さんが『日本のことわざ』に「この諺は、二様の意味に用いられているようである」と書いている。すなわち「一寸の虫にも五分の魂があるのだ」という認識の上に立ちながらも、
「(1) ましてや人間ならば、たといどんな小さな存在であっても、それ相応の魂をもっているものだ。
という意にも用いられるし、また、
(2) ましてや人間ならば、たといどんなに小さな存在であっても、それ相応の魂をもっていなければならない。
という意にも用いられる」
というのである。
いっぽうは「人間においての事実の指摘」で、いっぽうは「人間においての理想の強調」なんだそうだ。いやあ、ムズカシいもんである。
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いつまでもあると思うな 親とカネ
昔は、
「親孝行したいときには親はなし」
と言ったものだが、いまは、
「親孝行したくなくても親がいる」
と言うんだそうな。それだけ、親が長生きするようになったのだろうか。
いや、そればかりじゃあるまい? これは、それだけ親が子に邪険に扱われるようになったことをも語っているのだろう。
それなら、彼らが、
「いつまでもあると思うな親とカネ」
と、みずから戒めてくれているか――と言うと、そうじゃないから叶わない。ちかごろの子供たちは、いくつになっても親やカネに、いや、親のカネに頼ろうとしているようである。
「親孝行したいときには親はなし」
という言葉と、
「いつまでもあると思うな親とカネ」
という言葉は似ているようだが、微妙にちがう。前者は「親孝行は若いうちにしておけ」という意味であり、後者は人に頼る心を戒め、倹約の大切さを教える言葉である。後者には「親孝行したいと思っても」といったニュアンスはない。
親だって、子供に孝行してもらうことを期待しているわけじゃない。早く一人前になって親を頼らないでくれれば、それがいちばんの親孝行だ。
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命あっての物種
タバコの箱に、
「健康のため吸いすぎに注意しましょう」
と書いてあるのが、おかしい。タバコに限らず、酒だって、ゴチソウだって、あれだって、すぎれば健康にいいはずはない。
愛煙家に、
「タバコは健康に悪いからやめたほうがいい」
と言うのも、余計なお世話だろう。彼らは、タバコが体に悪いのを百も承知で吸っているのだ。
「体に悪い」
ということであれば、わたしにとって体にいちばん悪いのは仕事である。が、誰もわたしに、
「仕事は健康に悪いから、やめたほうがいい」
とは言ってくれない。もちろん、女房が言うはずもない。
ことわざにも、
「命あっての物種」
と言うではないか。どんなに仕事が大切かは知らないが、体をこわしてまでやったところで、なんにもならない。
わたしの仕事は、原稿を書くことだ。ときに気の進まない原稿を書かなければならないこともあるけれど、そんなときは、呪文《じゆもん》のように、
「原稿より健康だ」
と嘯《うそぶ》いている。
いや、やっぱり健康より原稿かな?
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芋の煮えたも御存じない
「芋の煮えたも御存じない」
ということわざは、
「芋の煮えたかどうかも判別できない」
という意味である。世間知らずのお嬢さま≠竍お坊っちゃま≠からかっている。
お嬢さまブームの次は、お坊っちゃまブームだそうである。が、当節のお嬢さま≠竍お坊っちゃま≠ヘ、テレビがつくったマヤカシだから、ホントウの意味での「箱入り娘」でも「箱入り息子」でもない。
言っちゃナンだが民主主義のありがたさ≠ナ、八百屋の娘もお嬢さま≠ネら、魚屋の息子もお坊っちゃま≠ネのである。トーゼンのことながら、大学教授の娘だってお嬢さま≠セ。
大学教授の娘はともかく、八百屋の娘が芋の煮えたのも判別できなかったら、どうにもならぬ。が、彼女に言わせると、
「あたし、焼き芋なら、知っているけど」
当節のお嬢さま≠竍お坊っちゃま≠ヘ、
「どのようにしたら芋が煮えるか」
ということはご存じないようだが、
「どのようにしたら子供ができるか」
といったことは知っているらしい。なんともマセたことである。
そういえば、
「芋 蛸《たこ》 南瓜《なんきん》」
ということわざもあった。女性の好きな食べものの一つ、いや、三つだ。
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いやいや三杯
両人対酌山花開
一杯一杯復一杯
我酔欲眠卿且去
明朝有意抱琴来
という李白の詩を、コラムニストとして知られた故高木健夫先生は、
差しで飲むうち開いた花じゃ
そこで一杯もう一杯じゃ
酔うた眠いぞバイバイじゃ
明日も来るなら琴持って来いや
というふうに訳された。けだし名訳であろう。
「いやいや三杯」
ということわざは、酒をすすめられて、
「いや、もうけっこう」
と辞退しながら、何杯も飲むさまを皮肉っている。口では遠慮しながら、実際は厚かましいことのたとえである。
「いやいや三杯十三杯」
とも言うし、
「いやいや三杯 逃げ逃げ五杯」
とも言う。そうして、ひどいのになると、
「いやいや八杯おお三杯」
というのもある。
ところで、わが悪友は、李白の「一杯一杯|復《また》一杯」を、
「一杯一杯腹一杯」
と読んだ。いや、もう一人の悪友は、
「一杯二杯また三杯」
とも読んだ。こうなると、底なしである。
[#改ページ]
いやと頭《かぶり》を縦に振る
俗謡に、
※[#歌記号、unicode303d]いやじゃいやじゃと畑の芋は
こうべ振りつつ子ができた
というのがある。その場になって「いやじゃ、いやじゃ」と騒ぐなんて、ホントにイモだ。
「いやじゃいやじゃは女の癖」
ということわざもある。女は、男に口説かれて、内心はイヤでもないのに、
「いやだ、いやだ」
というのが、口癖なんだそうだ。
正直な話、そんなことをしているから、世の中、ややこしくなるばかりだ。これからは、女のひとも、イヤでないときは「いやじゃない」と、ハッキリ言ってもらいたい。
「いや」
と言うから、口説くのをやめようとしたら、
「口説くのをやめちゃいや」
という意味だった――ナンテいうのは、ちっとも面白くない。
「いや、よして」
と言うから、ホントによそうと思ったら、
「いやよ、して」
という意味だった――という話は、前にも書いた。
女のひとの「いや」には、
「ここじゃ、いや」
というのもあるらしい。もっとキツいのでは、
「もっとしてくれなくちゃ、いや」
というのもあるそうだ。
[#改ページ]
色の白いは七難かくす
たとえば「観音義疏」では火難・水難・羅刹難・王難・鬼難・枷鎖難・怨賊難、たとえば「薬師経」では……と書きかけて、メンドくさくなってきた。岩波の『広辞苑』をまるうつしにしたところで、しょうがない。
もともとは仏教の言葉である。経典によって内容は多少異なるが、病気、火災、風害、水害、侵略、内乱、日・月食が「七難」で、生、老、病、死、愛別離、怨憎会、求不得、五陰盛が「八苦」だそうな。(ところで、五陰盛ってナンだ?)
要するに、みんなまとめて、あらゆる災難・苦労のことだろう。災いはともかく、仏教では生まれるのも死ぬのも苦しみ、会うのも別れるのも苦しみと考えているようだ。
その七難八苦を、
「我に与え給え」
と、三日月に祈った男がいる。戦国時代の武将・山中鹿之介幸盛だ。たしか太宰治だったと思うが、この故事を例にひいて、
「いくらナンでも七難八苦では多すぎる。せめて六難七苦ぐらいにならないか」
と書いていた。
ところで、
「色の白いは七難かくす」
ということわざに出てくる「七難」の「難」は「難点」すなわち「欠点」のことである。顔、とくに女性の顔の色が白ければ「ほかの欠点は苦にならぬ」という意味だ。
[#改ページ]
言わぬが花
「生まれ変わったら、もういちど現在の奥さんと結婚したいと思っていますか?」
と訊かれて、
「そんなの、愚問だ。誰だってタテマエはイエス、ホンネはノーにキマッテル」
と胸を張った男がいる。質問者がシラけて、
「いえ、だから、一般論じゃなくて、あなたのことを訊いているんです」
と言ったら、彼、細君の顔を見て、
「オレ? オレは、もちろん、イエスです」
さて、生まれ変わったら、果たして彼がもういちど現在の細君と結婚するか、どうか?
ま、こいつは「言わぬが花」だろう。なにごとも、ハッキリさせなきゃならない義理はない。
いつだったか、討論会に臨んだら、会場に、
「ホンネで語ろう!」
という垂れ幕が下がっているのをみつけ、思わず、
「こりゃあ、スゴいタテマエだ」
と口走ってヒンシュクを買ったことがある。
あ、これも言わないほうがよかったかも知れませんね。
「言わぬが花」
ということわざは、
「言わないところに味がある」
といったような意味だろう。あの『源氏物語』にも、
「言わぬは言うにまさる」
ということわざが出てくるそうな。
[#改ページ]
言わねば腹ふくる
「言わぬは言うにまさる」
というけれど、世の中には、
「言わねば腹ふくる」
ということだってある。わたしみたいに、思ったことを半分も口に出せない性分だと、ストレスが溜《た》まっちゃってしょうがない。
俗謡にも、
※[#歌記号、unicode303d]鳴く蝉よりも
鳴かぬ蛍が身を焦がす
というのがあるが、ひとり身を焦がしていたところで、相手に通じなきゃどうにもならぬ。
ノンキに、
「そのうち、わかってもらえるだろう」
と考えていると、焼け死んでしまう。
ナマイキなことを言わせてもらえば、黙っていてもわかるようになるには、黙っていたんじゃわからない。おたがいに、それなりの努力を重ねた末、やっと気心が通じあう。
そんなわけで、
「好きだよ」
という一言《ひとこと》が言えなかったばっかりに、トンビに油揚げをさらわれてしまったら、さらわれたほうが悪いのである。
もっとも、
「イヤです」
という一言が言えなかったばっかりに、女のひとのお腹が大きくなってしまったら、いったい、これは誰が悪いのだろう? ホントに「言わねば腹ふくる」とは、よく言った。
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魚心あれば水心
正確には、
「魚 心あれば 水 心あり」
と言うんだそうだ。ホントかね?
そういえば、
「月落烏啼霜満天(月落ち 烏啼《からすな》いて 霜天に満つ)」
という拓本を、
「月 烏啼《うてい》に落ち 霜 天に満つ」
と読んだ奴がいたっけ。烏啼をカラスが鳴くのではなくて「あれは、烏啼という山の名だ」と言い張ったのである。
ところで、中国は江南の寒山寺を訪れたとき、中国人の通訳に、
「来てみれば何ほどもなし寒山寺」
と言われたのには、ビックリした。なぜか伊藤博文が寄付した寒山寺の鐘は日本人観光客好みで、中国人通訳も気持ちよさそうに、その由来を説明してくれる。
それこそ、
「相手が好意をもってくれれば、こっちも好意をもって応じることができる」
といった風情だ。これが、ついでのことに、
「こちらが好意をもっていれば、相手もまた好意をもってくれるものである」
というふうに解釈できたら、どんなにいいことか。
たとえば、女の子に対して。
たとえば、先生に対して。
なに、水清ければ魚住まず?
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氏より育ち
「素質か教育か」
というので、ひどく悩んだ友人がいる。彼の経営する専門学校に、いわゆる進学校からの生徒がまぎれこんできたのだが、この子がまた、とてもよくできたのだ。
いまでこそ専門学校はそれぞれに特色をみせているけれど、スタートした当初は、なんとなく大学にも短大にも行けない子供たちが、職業的な技術を身につけるために通う学校≠ニいった印象が強かった。そこへ、家庭の事情とやらで、進学校出身のガリ勉クンが入ってきた。そうしてモーレツぶりを発揮し、たちまちのうちにいくつかの国家試験にもパスしたのだ。
「やっぱり進学校の子供はちがうのかなあ」
というのが、わが専門学校の校長の言葉であった。彼の疑問は、言ってみれば、
「氏か育ちか」
といったところであろう。
ことわざに、
「氏より育ち」
というのがある。これは「血統よりも境遇の影響のほうが大きい。素性のよさよりも育ち方のよいことのほうが大切である」という意味だ。
わがガリ勉クンも、なまじ普通の大学に進んでいたら、あんなに頑張らなかったかも知れない。そういう意味で、たしかに環境がモノを言ったような気がしている。
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嘘つきは泥棒のはじまり
いまさら、
「嘘つきは政治家のはじまり」
といったところで、アタリマエすぎて、シャレにもならない。どこかの国の総理大臣は「解散しません」と言っておきながら国会を解散し、選挙の結果、三百議席をこえる圧倒的な勝利を得た。
これを、
「三百代言」
というか、
「嘘から出た誠」
というかは、カラスの勝手だろう。その人の都合で、好きなほうを選べばいい。
「嘘つきは泥棒のはじまり」
ということわざは、
「嘘をつくと、この次は盗みを働くようになる」
という意味である。嘘をつく者は、盗みも恥じない。
だいたいが、盗みに嘘はつきものだ。盗もうと思ったら盗もうと思っているふりをしてはならないし、盗んでも盗んだふりをしてはならぬ。盗もうと思っているふりをしたり、盗んだふりをしたりしたら、何ひとつ盗むこともできない。
「嘘つきは政治家のはじまり」
というのも、似たようなものか? 悲しいことだが、政治家も嘘をつくのを恥じているようでは、たいした政治家ではないのかも知れぬ。
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嘘の世の中
言いも言ったり! 自分の顔を指さして、
「この顔が嘘をついている顔に見えますか」
だって……。
ホント、その場に居合わせたら、思わず「見えます」と叫んでいたにちがいない。
それでも選挙に勝ってしまったんだから、中曾根さんはエラかった。わたくし、これは、
「私は嘘を申しません」
という、あの池田さんの言葉に匹敵する名セリフだと思う。
されば、
「私は嘘つきだ」
と言うのが、いいかどうか。以下、雑学博士・増原良彦さんからの受け売りである。
もし、そう言った人が「嘘つきじゃなかった」としよう。すると、彼が「私は嘘つきだ」と言ったことはホントなんだから、彼が「嘘つきじゃなかった」ということは成立しなくなる。
もし、そう言った人が「嘘つきだった」としよう。すると、彼が「私は嘘つきだ」と言ったことはウソなんだから、彼が「嘘つきだった」ということも成立しなくなってしまう。
こんなふうに考えてくると、ワケがわからなくなってしまう。人間、ときに嘘をついたり、ホントのことを言ったりするから、人間なのだろう。
嘘の世の中[#「嘘の世の中」に傍点]。この世は嘘だらけだが、なかにはホントのこともあるから、ややこしい。
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嘘も方便
「この世に嘘というものは存在しない」
というのが、わたしの信念だ。嘘だとおっしゃるんなら、証明してみせよう。
だいたい、嘘には二種類ある。すぐにバレる嘘とぜったいにバレない嘘である。
たとえば、
「オレは富士山を動かすことができる」
といった嘘は、すぐにバレる嘘である。聞いているほうは、はじめっから嘘とわかっているので、騙《だま》される心配もない。
すぐにバレる嘘は、罪がない。みんな本気にしていないから、嘘のうちに入らない。
たとえば、
「オマエに惚《ほ》れた」
といった嘘は、ぜったいにバレない嘘である。聞いているほうは、はじめっから疑っていないので、
「あれは、嘘だ」
といっても信じてもらえない。
バーブ佐竹が歌った『女心の唄』(作詞山北由希夫・作曲吉田矢健治)にも、
※[#歌記号、unicode303d]どうせ私を だますなら
だまし続けて 欲しかった
という文句があったが、騙しつづけている限り、騙されているほうは本気にしているから、これも、やっぱり嘘ではない。
そんなわけで、この世に嘘というものは、存在しないのである。ホント、この嘘、嘘じゃない。すなわち「嘘も方便」だ。
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鵜《う》のまねをする烏
人間には、
「分相応」
というものがある。わたしがいくら逆立ちしたって――と、ここまで書きかけ、ハタと困った。トーゼンのことながら、この文章は、
「誰某《だれそれ》のようにはなれない」
とつづくのであるが、この誰某を誰にしたらいいか、悩んでいるのである。他愛もない人物を挙げた日には、わたし自身が可哀そうだ。
「鵜のまねをする烏」
ということわざは、自分の能力や身の程を顧みず、他人のマネをして失敗する者のたとえである。正確には「鵜のまねをする烏は水を呑む」というらしい。
前にも紹介した金子武雄さんは「善意に解すれば忠告であり、悪意に解すれば嘲笑である」とおっしゃっている。すなわち――
〈そんなこと,およしなさいよ。鵜のまねをする烏ですよ。
これは忠告である。この忠告が容れられるかどうかはわからないが、ことわざは相手の胸にただならず響くに違いない。
やっぱりしくじったか。自分の能力を考えてないのだからね。鵜のまねをする烏なんとやらさ。
これは嘲笑である。当人にとっては無念ながら是非もなかろう〉
一つの言葉が忠告にも、嘲笑にもなる。そこが、ことわざの面白いところだ。
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馬には乗ってみよ 人には添うてみよ
「カジュアル・セックス」
というんだそうな。愛のないセックス――その場限りの遊びである。それについて、
「モラリストが何と言おうと、それでも快感は得られる」
と言ったひとがいる。雑誌『コスモポリタン』の編集長だったヘレン・ブラウンだ。
ヘレンは『恋も仕事も思いのまま』(矢倉尚子・阿部行子訳、集英社刊)という本のなかで、
「どんなセックスであろうとないよりはまし、というのがわたしの意見だから」
と言っている。モラリストのわたしに言わせれば「そんなものかなあ」といったところである。
その場限りの遊びでも、そこに、そこはかとなき情緒が欲しい。それがなければ、いくらナンでも快感は得られまい――というのが、わたしの考えだが、そんなことばかり言っているから、わたしは女のひとにモテないのか。
「馬には乗ってみよ 人には添うてみよ」
ということわざは、そのへんのことを言っているのではなかろうか? 馬は乗ってみなければいい馬か悪い馬かわからないし、人も一緒になってみなければどんな人物かわからない。セックスだって……と書きかけたが、ヘレンのように言いきれるのは、人生の、よほどの達人でなければ、無理だろう。その場限りの遊びが、その場限りでなくなるんなら、わたくし、なにも言うことはない。
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裏には裏がある
女のひとに、
「イヤよ!」
と言われて、思わず手をひっこめたら、
「バカねぇ」
と笑われた。前にも書いたような気がするが、女のひとの「イヤよ!」には、
「もっと乱暴に扱ってくれなくちゃ、イヤッ」
という意味もあるんだそうだ。
「それなら、最初っからそう言えばいいじゃないか」
と言うと、こんどは、
「女心を知らない」
と詰《なじ》られた。それこそ男心を知らない仕打ちである。
女のひとには男心を弄んで楽しむようなところがある。どうも素直じゃないのだ。
「裏には裏がある」
ということわざは、そんな女心のヤヤコシさを語っているのだろうか? うまい話にワナがあるのはわかるけれど、ウラのウラならオモテじゃないか!
単に、
「裏がある」
ということであれば、
「オモテがある以上、ウラもあるだろうさ」
というふうに納得できる。それが「裏には裏がある」なんて言うからイケナイのだ。
「上には上がある」し、下には下がある。しかし、裏には裏などないほうがいい。
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噂をすれば影
「捨て耳」
という言葉を知った。シェイクスピア博士の小田島雄志さんが使っていた。
酒場などで、聞くともなしに周囲の話を聞いていると、知人の思いがけない噂を耳にしたりする。辞書には出ていないのでわからないが、聞くともなしに聞いている耳――といったところか。
立ち聞きや盗み聞きとは、ちがう。立ち聞きや盗み聞きには、少なくとも聞こうとする意志があるが、捨て耳にはそれがない。
喋《しやべ》っているほうも、そこに関係者がいるとは思わないから、無責任なものである。いい[#「いい」に傍点]気になって喋りつづける。
「噂をすれば影」
ということわざは、人の噂をすると、その人がたまたま現れることを言う。いかにもバツのわるい話で、だから、
「めったに人の噂などするもんじゃない」
ということになるのだが、捨て耳の場合は当人じゃないだけに、なんとも言えない。
酒場などで交わす人の噂は、じつに楽しい。酒の肴《さかな》にはやわらかいアタリメやタタミイワシも結構だが、人の噂のほうがもっと口に合う。それも、悪口なら最高である。
「呼ぶよりそしれ」
ということわざもある。誰かの悪口を言うと、テキメンにその人が現れる。あれは、テレパシーの一種だろうか。
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縁なき衆生《しゆじよう》は度し難し
開口一番「エー」とやる。結婚披露宴などで、来賓がスピーチをはじめるときである。
とたんに、
「長くなりそうだな」
という予感がする。案の定、長い。
そこで、
「このエー≠やめたら、どうだ?」
と考えた。このエー≠ウえなければ、来賓のスピーチも、かなり短縮されるのではなかろうか。
ところが、話術のプロである落語家に言わせると、このエー≠ェ大切なんだそうだ。落語家は、高座に上がって、
「エー、毎度バカバカしい……」
と喋り出す。この最初のエー≠ェ、客席の耳目を集め、ついでにざわめきも鎮めてしまう働きをするらしい。
それでも、聞く耳持たずに居眠りをしている人もいるようだ。そういう場合は、
「縁なき衆生は度し難し」
と諦める。
このことわざの「縁なき衆生」とは、仏教に関心のない人々のことである。仏教に関心のない人は仏教では救えない。
転じて、
「関心のない人を、いくら説得しても無駄だ」
という意味になった。スピーチの長い来賓に、いくら「スカートとスピーチは短いほうがよい」と忠告しても聞いてもらえないように。
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縁は異なもの
「結婚したくない」
という女性が増えているそうな。けっこうなことである。
それにひきかえ、若い男性たちの情けないことよ! 彼らは、真剣に「結婚したい」と考えているみたいだ。
「いつまでも独身だと、世間体が悪い」「周囲がうるさい」「身のまわりの世話をしてくれる人がいない」といったところが、どうやら結婚したい主な理由らしい。言っちゃナンだが、そんなことで結婚するんなら、結婚なんかしないほうがいい。
失礼ながら、結婚というものは、世間体が悪いからするものなのか? それとも周囲がうるさいからするものなのか? はたまた身のまわりの世話をしてくれる人がいないからするものなのか?
そうじゃないでしょう! 結婚なんて、結婚したくなったらすればいいのである。
相手が、
「あたし、結婚したくない」
と言ったら、こっちも、
「オレだって結婚したくない」
と言ってやれ。そうすると、相手も動揺し、
「あら、意外に意見が合うのね。ねえ、結婚しません?」
といったことにもなりかねない。ことわざに、
「縁は異なもの」
というのは、こんな場合である。
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負うた子に浅瀬を教えられる
三木露風作詞・山田耕筰作曲『赤蜻蛉』の、
※[#歌記号、unicode303d]負われて見たのは
というところを、
※[#歌記号、unicode303d]追われて見たのは
と覚えていた。負うたことも、負われたことも、とっくの昔に忘れてしまったのだろう。
「負うた子に浅瀬を教えられる」
ということわざは、
「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」
とも言い、
「背中におんぶした子に浅いところを教えられ、向こう岸に渡る」
といった意味だ。いつもはまるっきり相手にもしていないような年少者などから、ふとした機会に思いがけない知恵を授けられ、それが大いに役立ったりすることがある。
負うた子で思い出すのは、どうしたって板割の浅太郎だ。講談や浪曲でおなじみの侠客・国定忠治の子分である。
捕り手に追われた忠治は、目明かしの勘助に助けられたのを恩に着て、勘助の身内の浅太郎の縁を切り、堅気にしようとするが、なにをカンちがいしたか、浅太郎は勘助を斬り、その子の勘太郎を負うて忠治のもとに戻る。
それこそ「親の心子知らず」ならぬ「親分の心子分知らず」だろう。
忠治に諭された浅太郎の背中で頑是ない勘太郎が何を教えたか? その場にいなかったので、このわたしにはわからない。
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岡目八目
「幕の内弁当」
という。飯とオカズを詰め合わせた弁当のことである。なぜ、そういうか――というと、
「芝居の幕間《まくあい》に食べるから……」
という説がある。ホントは、あれ、芝居の幕間じゃなくって、芝居の最中に食べたほうがおいしいんですけど、ネ。
幕の内弁当の飯は、本来は俵の形をした握り飯、オムスビだ。それも、小さなムスビ、小結である。
「そこから幕の内弁当≠ニ呼ぶようになった」
という説もある。昔、将軍の相撲上覧の際、力士は、前頭以上でなければ、幔幕《まんまく》の内に伺候することができなかったので、その小結にひっかけた。
ソバ屋のオカメソバは、あれは、お多福のオカメではなくて、
「ことわざの岡目八目≠ノ由来している」
という説がある。オカメソバには、カマボコ、椎茸、湯葉、ホーレン草、タマゴ焼き、サヤインゲン、ナルト、ノリなど八品目が入って、
「中華ソバ屋の五目ソバより三目多いオカメソバ」
というわけだ。
岡目八目の岡目は傍目《はため》で、
「傍で囲碁を観ていると筋がよく読め、対局者よりは八目ぐらい強い」
ということから、局外に立ってみることの大切さを説いている。
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男やもめに蛆《うじ》がわき 女やもめに花が咲く
妻に死なれると、炊事、洗濯、掃除など、日常生活の面で、ずいぶん妻にオンブしていたことを思い知らされる。炊事は店屋もので済ませ、洗濯はクリーニング屋に任せ、掃除は掃除機を使っているのだが、どこか冴えない。掃除ひとつにしたって、妻はどこかで手を抜いているんだろう――と思う。さもなかったら、あんなふうに昼寝をする時間があるはずもない。
可哀そうに、夫のほうは手の抜き方を知らないから、ついマジメにやって、たちまち疲れ果ててしまう。自然に部屋の掃除も投げやりになる。男やもめにウジがわく所以《ゆえん》だ。
その点、夫に死なれた妻は、手抜きの仕方を知っているうえに、いままで夫のメンドウをみていたぶんラクになるのである。かりに外で働くようになっても、生き生きしている。
夫の存命中、ヨソの男に目を向ければ、それは不倫だったが、いまはヨソの男に目を向けても、これは晴れて恋愛だ。女やもめに花が咲く所以だろう。
性については、男やもめは、とくに辛い。男やもめが女のひとの目をじっとみて「好きだよ」と言ったところでソッポを向かれるのがオチだが、女やもめが男の目をじっと見て「好きよ」とでも言ってみろ! だいたいモノにすることができるはずである。
――男は、男やもめになりたくなくて結婚する。女は女やもめになりたくて結婚する。
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同じ穴のムジナ
「貴様なんか、やめちまえ!」
新聞記者時代は、よく部長に怒鳴られたものだ。部長もまた、よく怒鳴った。
とたんに、次長がノッソリとやってきて、
「まあ、まあ」
と、間に入る。
「ここは、まあ、ひとつ私に委せて……」
すると、
「うるせぇ!」
部長のホコ先は次長に向けられる。
「テメエなんか、ひっこんでろ」
そのたびに、
「でも、やめちまえッて、部長に人事権はないはずなんですが……」
と、アゴを撫でるのが、次長のクセだった。
これには、部長も苦笑して、
「わかったよ。こいつのことは、お前に委せるよ」
その結果、
「ダメじゃないか」
わたしたちは次長に諄々と諭されることになるのだが、いまにして思えば、どうも、あれ、お芝居だったような気がしてならない。部長と次長は、たぶん「同じ穴のムジナ」だったのだ――と書きかけ、一見別もののようにみえて実は同類であることをたとえる「同じ穴のムジナ(またはキツネ)」は、多く悪人に用いることに思い当たった。されば、部長と次長の場合は「同じ穴のタヌキ」かな?
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帯に短し襷《たすき》に長し
「軟派か?」
というと、そうでもない。ときには硬派の血が騒ぐ。
されば、
「硬派か?」
というと、これが、そうじゃない。われながら「スケベだな」と思う。
要するに「ハンパ」というわけだ。
みずから、
「コラムニスト」
と称して、短い文章を書いて世を渡っている。いわゆる売文の徒である。
売文業について言うなら、この国の原稿料は、どんなに長くても短くても、原則として、
「一枚につきイクラ」
という計算である。短い文章を書くには、削って削って削りまくるのだけれど、削ったぶんは原稿料に含まれない。
ときに、
「長い文章を書いたほうがトクかなあ」
と思う。が、くやしいことに、もはや長い文章は書けなくなっている。
これが、もっと短い文章を書くんなら、
「コピーライター」
とか称して、ずいぶんカネになるらしい。長さのほうも、中途半端なのである。
こういうのを、
「帯に短し襷に長し」
という。ホント、切ないもんである。
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思うに添わで思わぬに添う
「恋人」
というのは、もともとは、相手がどう思っていようと、こっちが恋しく思っている人のことを言うんだそうな。慶応義塾大学教授の井口樹生さんが『知ってるようで知らない日本語』(ゴマブックス)に、
「だから、勝手に恋人≠ネどにしてくれるなといっても恋人≠ノされたほうは文句が言えない」
と書いている。
しかし、そういうことならば、
「自分には、たくさんの恋人がいる」
と言うことは、
「自分には、相手がどう思っていようと、こっちが恋しく思っている人がたくさんいる」
ということになるのだろうか。なんだかバカらしくなってきた。
それにしても、こっちが恋しく思うたびに、相手からも恋しく思われたら、人生、どんなもんだろうな? 案外、面白くもナンともないかも知れぬ。
正直な話、いまみたいに、思う人とは一緒になれないで、何とも思わない人と結ばれたりしたほうが、紆余《うよ》曲折があっていいのではないか。男女の縁まで思うようになったんじゃ、ホント、神様に申しわけない。
思う人には思われず、思わぬ人に思われる。
それでこそ「ひとつ、やってやろう」という気になるのである。
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思えば思わるる
女のひとは、どんな女でも、好きな相手の目をじっとみつめて、
「好きよ」
と、たったひとこと言うだけで、たいがいモノにすることができるらしい。男はバカだから、ちょっと甘い声をかけられると、すぐその気になってしまう。
男はそういうわけにはいかない。男がいくら好きな相手の目をみつめて、
「好きだよ」
と言ったところで、
「あら、失礼ね」
と、軽くあしらわれるのがせいぜいだ。
そう言ったら、
「いえ、そんなことはない」
と抗議されたから、ビックリした。彼女に言わせると、女は望みが高いので、
「好きよ」
と、ひとこと言われただけで、すぐその気になるような、
「そんな程度の低い男には声をかけない」
というのである。
失礼ながら、
「そんなものかなあ」
と思った。言っちゃナンだが、女のひとは、女であることに自信があるから、
「こちらが思っていれば、相手からも思われるようになる」
と思っているのかもわからない。
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親ずれより友ずれ
「世間ずれがしている」
といえば、
「実社会で苦労を重ねたため、世間の裏を知っている」
ということだろう。すれているわけだ。
ところが、これを、
「世間の常識や基準から外れている」
というふうに解釈した奴がいる。ずれてしまったわけである。
「親ずれより友ずれ」
ということわざは、
「親から受ける感化や影響よりも、友達から受ける感化や影響のほうが大きい」
といった意味である。この場合の「ずれ」は「世間ずれ」の「ずれ」であって「旅は道づれ」の「づれ」ではない。
しかし、この「親ずれより友ずれ」ということわざを「親連れより友連れ」と解釈したら、どうだろう? すると、
「子供もいっぱし[#「いっぱし」に傍点]になると、親と連れ歩くよりは、友達と連れ歩きたがる」
というふうな意味になって「やっぱり同じだ」ということになりはしないか。
子供には「親から離れたい」という欲求が高まる時期がある。早い話が、思春期などがそうだ。
そんなとき、友達の存在は大きい。子供は親の意見よりも、とかく友達の意見を尊重したがる。成長の一過程である。
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親の心子知らず
親の八〇パーセントが、
「将来、子供に厄介をかけたくないから、一緒に住まない」
と言っているのに、子供の八〇パーセントが、
「将来は親の面倒をみたいから、一緒に住む」
と言っているんだそうな。どこの調査か忘れたが、おたがいに譲り、譲られ、うるわしい親子の情の発露ごっこをしているみたいで、なんかウソっぽい。
きのうまで、彼らは、
「親を見りゃボクの将来知れたもの」
と言っていたのである。そんな連中が、結婚する段になって、急にしおらしく「親の面倒をみたい」ナンテ言い出したって、誰がホントにするものか。
――とは思うけれど、親は馬鹿だから、たとえお世辞でも、子供たちに「親の面倒をみたい」と言ってもらえば、それだけで嬉しいのである。そうすりゃ「いいよ、いいよ」と、笑って断るはずである。
そう言ったら、
「そうか。お世辞でいいのか」
と言うから「そうさ。お世辞でいいんだ」
と、答えたら、
「これはお世辞だから、本気にされちゃ困るけど」
と前置きして、
「オレ、親の面倒をみるよ」
と言った奴がいる。ホント、面倒みきれない。
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親馬鹿子馬鹿
「結婚したくない」
と考えている若い女性たちの多くは、いわゆる親がかりである。たとえ勤めているにしても、親もとから会社に通っている人たちが多い。その月給のほとんどは、お洒落とか、レジャーとか、みんな自分の小遣いに化けてしまう。家に食費を入れるにしても、ほんのちょっぴりだ。
親たちが「それでいい」と言うから、いつまでも甘えている。日常生活はOLでも、気分は学生だ。上げ膳・据え膳どころか、風呂だって沸かしてもらっている。
父親がまた、だらしがない。娘を猫っ可愛がりに可愛がって、なかなか手放そうとしない。娘たちにしてみれば、かりに結婚したところで、いまよりラクな生活は望めない。娘たちが「それなら、いっそこのままで……」と、独身をキメこむのも無理はない。
こういう娘が、まちがって「あたし、結婚したい」と言おうものなら、大変だ。両親ともども涙して「イヤなことや辛いことがあったら、いつでも帰っておいで」ナンテ馬鹿なことを言う。
「お前の部屋は、いつ帰ってきてもいいように、このままにしておくからね」
これじゃ、いくつになっても娘が結婚できるわけがない。親が馬鹿だから、子も馬鹿なのか。子が馬鹿だから、親も馬鹿なのか。両方馬鹿で「親馬鹿子馬鹿」だ。
[#改ページ]
親はなくとも子は育つ
「親はなくとも子は育つ」
ということわざを、
「親があっても子は育つ」
と言い換えたのは、坂口安吾だ。彼は、僚友・太宰治の死を悼んだエッセイ『不良少年とキリスト』の中で、こう書いている。
「親がなくとも、子が育つ。ウソです。
親があっても、子が育つんだ。親なんて、バカな奴が、人間づらして、親づらして、腹がふくれて、にわかに慌てて、親らしくなりやがった出来損いが、動物とも人間ともつかない変テコリンな憐れみをかけて、陰にこもって子供を育てやがる。親がなきゃ、子供は、もっと、立派に育つよ」
それは、それとして、親になることは易しい。親になるだけなら、ナニさえすれば、誰にだってなれる。ま、なかには、ナニしたところで、親にさえなれない者もおりますが……。
ただ、むずかしいのは、親になることではなくて、親であろうとすることだろう。正直な話、親でありつづけようとすることは、誰にだってできる――というわけのものではない。
だったら、たまには気を抜こうよ。そんなふうに親であることにこだわりつづけるから、子供だって、なんかぎごちなくなってしまうのではないだろうか。
親離れより、子離れだ。わたしに言わせれば、上手に子離れできる親こそ、ホントの親だと思うが、どうだろう?
[#改ページ]
女心と秋の空
「女心と秋の空」
ということわざは、
「男心と秋の空」
とも言う。男心も女心も、ともに変わりやすいのだろう。
あるいは、
「女心と春の空」「男心と春の空」
とも言う。春の空も、秋の空と同じように変わりやすい。
そこで、
「どっちかを春の空にして、どっちかを秋の空にしたら?」
と考えた。トーゼンのことながら、春の空が男心で、秋の空が女心である。
なぜって? そのココロは「男心はだんだん熱く(暑く)なるが、女心はだんだん冷たくなる」というのは、どうだ!
事実、
「女の心と秋吹く風は夜に七へん変わる」
ということわざもあるのだ。が、これも女性に言わせれば「その逆だ」ということになるだろう。
げんに、
「男の心と川の瀬は夜に七たび変わる」
ということわざもあることはある。そういうことなら、いっそのこと、
「男心は上《うわ》の空」
と言おうか。いや、やっぱり「女心は上の空」だな。
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女 三界に家なし
誰かが、
「女は三界に家なしナンテ、昔の話。いまや、われら中年の男性がその嘆きをかこつゴ時世かも」
とボヤいているのを耳にして、
「なにを、いまさら……」
と思った。自慢じゃないが、わたくしなんぞは、とっくの昔にそうである。
本来の意味は、
「女は、若い時は父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うものであるから、全世界に定まった家というものがない」
という意味なんだそうだ。申しわけないけれど、
「ウソばっかり」
と言いたい気持ちである。
言っちゃナンだが、いまどきの女で「若い時は父に従い、嫁しては夫に従い」ナンテいう女がいるだろうか? 失礼ながら、いまどきの女は、若い時は父に従わず、嫁しても夫に従わず、
「そのくせ、老いては子に従う」
といったところではなかろうか?
経済評論家・高原須美子さんに『女は三度老いを生きる』(海竜社刊)という本がある。高原さんに言わせると、
「親の老後、夫の老後、自分の老後――女は三度老いに直面する」
というのだが……。
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女の情けに蛇が住む
「叱《おこ》りゃふくれる。撲《どづ》きゃ泣く。殺せば夜中に化けて出る」
というんだそうな。男にとって、女ほど始末に悪いものはない。
――といったところで、これは、わたしが言ったわけじゃない。わたしは、そう言われて、ただただ「そんなものかなあ」と感心しているだけのことである。
それでも、男は女の色香に迷う。それも、性懲りなく迷うのである。どこかの誰かが、
ワカッチャイルケド ヤメラレナイ
と言っていたけれど、まさにそんな境地だ。
「女の情けに蛇が住む」
ということわざは、
「女の情愛は蛇のように執念深く、深入りすれば恐ろしいものだ」
という意味である。女のひとに言わせれば、
「ナニイッテルノヨ」
ということになるかも知れぬ。
俗に、
「蛇蝎《だかつ》のごとく」
というように、ヘビやサソリは人に嫌われる。サソリには毒があるから嫌われるのはわかるが、
「毒があるとは限らないヘビが嫌われるのは、なぜだろう?」
ナンテ考えだしたら、もう、あぶない。完全に蛇に、いや、女の情念に魅入られている証拠である。
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負んぶすれば抱っこ
「負んぶに抱っこ」
というのは、背負ってもらったうえに抱いてもらうことから、すべて他人にメンドウをみてもらうことだ。ホント、図々しいにも程がある。
これでは、ヨメにきてもらったうえに持参金までいただくようなものではないか。それでは余りにも申しわけないから、わたくし、持参金をいただくだけでいい。
「負んぶすれば抱っこ」
ということわざは、それとはちょっと趣が異なる。子供が駄々をこねたので負んぶしてやると、こんどは「抱っこしてくれ」と言う。
やはり、図々しいにはちがいないが、人間の欲に限りのないことを皮肉っている。
自分で浮気して「離婚してくれ」と言うから、別れてやろうとすると、カサにかかって「慰謝料も払ってくれ」と言うようなものだろうか。
そこで「そんなバカな!」と怒鳴ったら、
「浮気されるほうが悪いんだから……」
と居直ったそうな。これでは「盗っ人に追い銭」である。
「負うた子より抱いた子」
ということわざもある。負んぶして育てた子より抱っこして育てた子のほうが可愛いそうな。
ホントかいな? わたしには、どっちも可愛いが……。
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蛙の子は蛙
東海林さだおさんの漫画『アサッテ君』で、お兄ちゃんが理科のテストで四十点しかとってこないのを、
「ママも理科ダメだったからなァ」
と、ママが嘆いている話が面白かった。ママが、
「カエルの子はカエルねぇ」
と呟いたのを聞き咎《とが》め、おシャマな妹が、
「ママ、それはちがうよ。カエルの子はオタマジャクシだよ」
と注意するのである。
とたんに、
※[#歌記号、unicode303d]オタマジャクシはカエルの子
ナマズの孫ではないわいな
といった歌を思い出すのが、わたしの悪いクセだ。なに、やがて手が出る、アシも出る。
ところで、この「蛙の子は蛙」ということわざは、
「子は親に似るものだ」
という意味にちがいないが、たとえば、
「あいつのおやじも芸はヘタだったけれど、カエルの子はカエルだなァ。やっぱり、あいつもヘタクソだ」
といったふうに、悪いところが似た場合に使うのである。まちがっても梨園《りえん》の御曹司とやらの演技を評するのに、
「さすが蛙の子は蛙だ」
と言ってはいけない――と書きかけて、
「そういやあ、先代もダイコンでしたなァ」
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蛙の面に小便
「屋根屋の褌、見上げたもんだ」
というのは、もちろん、シャレだ。似たような例では、
「蛙の小便、田へしたもんだ(たいしたもんだ)」
というのもある。
これは、
「蛙の小便で、池しゃあしゃあ(いけしゃあしゃあ)」
というふうに言いかえることもできる。いけしゃあしゃあ[#「いけしゃあしゃあ」に傍点]は、憎らしいほどに平気でいるサマである。
ところで、
「蛙の面に小便」
ということわざは、どんなことを言われても、されても、何も感じないでケロッとしていることのたとえだろう。蛙さんにはイイ面の皮だが、蛙そのものの小便ではなくて、蛙の面に小便をかけているところが、ミソだ。
それで、思い出した。
――牛が日向《ひなた》ぼっこしているところへ、ハエが飛んできて角に止まった。たまたま牛がモーと鳴いたら、ハエのやつ「そんなに重たきゃ、おりてやろうか」と嘯《うそぶ》いたそうな。
同じようなことわざに、
「牛(または鹿)の角を蜂が刺す」
というのがあるが、これは、こちらが害を加えようとしても「てんで歯が立たない」といった意味だ。
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蛙の頬冠《ほおかぶ》り
誰が言い出したのかは知らないが、
親を見りゃボクの将来知れたもの
という川柳だか戯《ざ》れ句だかが嫌いである。ここにはコマッシャクレた反抗心があるだけで、なんの向上心もない。
いまさらサクセス・ストーリーをもちだすまでもないだろうけれど、功成り名を遂げた人の親は、みんな貧しかった。そういう人たちが親の暮らしぶりをみて、
「オレの将来は知れたものだ」
と嘆いていたか、どうか?
親の暮らしぶりが、ヒドかったら、そこから抜け出そうとするのがアタリマエの感覚だろう。この句には、大向こうのウケばかり狙ったようなところがあって、そのアタリマエの感覚を大事にする気持ちがない。
かりに、こういう句をホントに子供が作った場合でも、ヘンにもてはやしたりしないことだ。もてはやされれば、子供は、つい調子にのる。
「蛙の頬冠り」
ということわざは、蛙が頬冠りをすると、目がかくれて前方が見えないことから、向こうが見えないこと、目先のきかないことのたとえである。コマッシャクレたことを言う子供たちを大人がヘタにおだてるのは、蛙に頬冠りをさせるようなものではないか。
ちかごろの大人たちは、子供に媚《こ》びすぎている。それは、一種の責任逃れだろう。
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かがみ女にそり男
いまどき、
「男は度胸 女は愛敬」
ということわざをまともに受け止めている人は少なかろう。世は、まさに「女は度胸 男は愛敬」の時代だ。
このあいだも、
「女は、男を振り返って見ようとは思わないのか」
ということが話題になった。いつものナワノレンである。
恥ずかしながら、男はすれちがった女を振り返って見る。未練がましく、うしろ姿を追う。
「男って、ホントにしょうがないんだから」
そう言う女たちに「じゃあ、きみたちは振り返らないか」と訊いたら「振り返らないわね」と言う。そうして「そういうときは、前へまわって、ちゃんと見るわ」
さて、そういうことなら、
「かがみ女にそり男」
ということわざも、すでに過去のものだろう。
女性はうつむき加減で、やや屈《かが》みがちのほうが美しくみえ、男性は胸を張って、やや反り気味のほうが立派にみえる――というのだ。
自慢じゃないが、いまは「かがみ男にそり女」なのではないか。男は生活に疲れて背を丸め、女は背筋を伸ばしてバストを誇示する。
男も背を丸めるのはやめよう。さもないと、女とすれちがったとき、前にもまわってもらえない。
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隠すより現る
披露宴の祝辞で、
「こんど[#「こんど」に傍点]はお幸せに」
と言ってしまった――という話を聞いて思い出したことがある。どこかの母親などは、娘の見合いの席で、
「ふつつかな娘ですが」
と言うべきところを、
「ふしだらな娘ですが」
と言ったらしいのである。
精神分析学者のフロイトによると、言いまちがいは往々にして当人の本音だそうだから、この母親は、たぶん日ごろから娘の行状に手を焼いていたにちがいない。それが、緊張のあまりバレてしまったのだろう。
「隠すより現る」
ということわざは、
「隠しごとは、隠そうとすればするほど、かえってバレてしまうものだ」
という意味だ。この母親も、娘の見合いの席では、娘が男にだらしがないことだけは口にすまいと自分に言い聞かせているうちに、言葉のほうで勝手に飛び出していったのではなかろうか。
ものごとは、ヘンに隠しだてしないほうがいい。とくに子供を相手に、
「誰にも言っちゃいけないよ」
ナンテ言おうものなら、子供は得意がって、
「あれ、誰にも言っちゃいけないんだよ、ね」
と、わざわざみんなの前で念を押したりする。
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傘と提灯は 戻らぬつもりで貸せ
日ごろから、
「万年筆と女房は、絶対に貸さない」
と言い張っている。うっかり他人に貸して、ヘンなクセをつけられたら困るからである。
この世には、貸していいものと、いけないものがある。傘やチョウチンなどは、貸してはならないものの典型だろう。
傘は急に雨が降り出したから借りてきたわけだが、返しにいくときは、たいがい晴れている。いい天気なのに、ひとり傘を持って歩くのはテレくさくて、つい返しそびれてしまう。チョウチンも、夜道が暗いから借りてきたのである。だけど、返しにいくときは、昼日中だ。外が明るいのに、チョウチンを下げて歩くのは、気がひける。
そんなわけで、傘やチョウチンを貸すときは、くれてやるぐらいのつもりで貸したほうがいい。だいたいが、モノを貸して返してもらおうなんて了見がまちがっている……。
そういうことであれば、おカネや本も同じだ。おカネや本も、借りていくときはニコニコ顔だが、久しぶりに会って、
「返してくれないか」
と言おうものなら、たちまち険悪な顔になる。それで、せっかくの友情にヒビが入る。
誰だ? 万年筆はともかく「女房のほうは、返すつもりがなかったら貸してもいい」ナンテ言っているのは! そういうことは、腹で思っても口に出すものではない。
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風が吹けば桶屋が儲かる
風が吹くと、なぜ桶屋が儲かるか?
――風が吹けば、砂ボコリが立つ。砂ボコリが立てば、ホコリが目に入って、目の不自由な人が増える。目の不自由な人が増えれば、三味線を習う人が増える。三味線を習う人が増えれば、三味線がよく売れ、猫の皮が不足し、多くの猫が殺される。猫が殺されれば鼠が増え、鼠はおおっぴらに桶をかじるので、桶屋の注文が増え、
「桶屋が儲かる」
というわけだ。
「大風が吹けば桶屋が喜ぶ」
ともいうが、
「風が吹けば桶屋が儲かる」
ということわざは、思いがけないところに影響が出てくることのたとえだ。同時に、
「ひょんなことをアテにしてはいけない」
といった教訓にもなる。
白状すると、わたしは、このことわざの由《よ》って来たる所≠十返舎一九の『東海道中膝栗毛』を読んで知ったのだ。例の弥次さん喜多さんの物語である。
一九の『東海道中膝栗毛』には、なんでも出てくる。湯がわくのではなくて「水がわく」ことも、飯をたくのではなくて「米をたく」ことも出てくるから、スゴい。
なに、わからないって! いやだなア、湯がわいたら蒸気になってしまうだろうし、飯をたいたらカユになってしまうだろうに……。
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風邪《かぜ》は万病のもと
カゼをひいて寝込んじゃった奥さんに向かって、
「こうこうこうすればカゼをひくことがわかっているのに、こうこうこうしてカゼをひいたのは、きみがカゼをひきたかっただけのことだ。べつに同情するほどのこともない」
と言い放った男がいる。とくに名を秘すが、わたしの友人である。
失礼ながら「冷たい奴だなあ」と思う。同時に「理屈だなあ」とも思う。コトの是非はともかく、わたしも、いちど女房に向かってこれくらいのことを言ってみたい。ウソでもこんなことが言えたら、さぞかし胸がスッとするだろう。
カゼについては、
「どんなに重いカゼでも、一週間あれば治してみせる。その代わり、どんなに軽いカゼでも、治すのに七日間はかかる」
と、医者が言った――という話が好きだ。たしかダレル・ハフの『統計でウソをつく法』(高木秀玄訳、講談社ブルーバックス)に出ていた。
カゼに二種あり。流行性感冒と風邪《ふうじや》だ。流行性感冒はヴィールスがもたらすが、風邪のほうは過労が原因のことが多い。
「風邪は万病のもと」
という、このことわざは、過労を戒めているのだろう。過労には、寝るのがいちばん。そこで、
「過労は寝て絶て」
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火中の栗を拾う
「火中の栗を拾う」
ということわざは、
「だれが猫の首に鈴をつけるのか?」
と言うようなときに使われるのだ――とばかり思っていた。要するに、人の利益のために、あえて危険を冒すことのすすめである。
ところが、ラ・フォンテーヌの『寓話』に、猫のラトンが猿のベルトランにおだてられ、囲炉裏の中の栗を拾ってやる話があり、それに由来しているんだそうな。猫のラトンは大ヤケドをし、猿のベルトランは労せずして栗を食べるところから、人の利益のために、みずからを危険にさらすことの愚を笑っている。
「だれが猫の首に鈴をつけるのか?」
という勇気ある話の主人公は、鼠である。
「ただ血気にはやるだけのこと」
というバカな話の主人公は、猫だ。
猫と鼠を比べれば、本来なら猫のほうが強いのに、こうしてエピソードを二つ並べてみると、強い者と弱い者が逆転してしまうところが、面白い。
――とはいうものの、先輩を性悪な女から引き離そうとして、みずから性悪な女に身も心も捧げるハメになってしまうようなケースも、やはり、
「火中の栗を拾う」
というのだろうか? あれ、ひょっとしたら、
「火中の栗と栗鼠[#「栗と栗鼠」に傍点]を拾う」
というのではないかいな?
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金がかたき
金物屋の息子だから、
「カネは売るほどある」
というのが、バカの一つ覚えみたいな、わたしの自己紹介だ。もちろん、サツはない。
「金がかたき」
ということわざには、
「人は、金銭のために悩まされ、苦しめられる。まるで金はかたきみたいだ」
といった意味もあれば、
「金は、尋ねるかたきのように、なかなかめぐりあえない。金を得るのは、いかにむずかしいことであるか」
といった意味もある。わたしなんぞは、たとえ悩まされ、苦しめられても、なんとかして(できればラクして)金を得たいくちだ。
金がないばっかりに、食事を抜いたこともある。金がないばっかりに、デートを諦めたこともある。金がないばっかりに、線路を歩いて帰ったこともある。
「金がものを言う」
とも言う。この世は、言葉や理屈で解決できないことでも、金があればナンとかなるみたいだ。マゴマゴすると、恋しい女まで金持ちに奪われてしまう。女にしてみれば、金のない奴よりは、ある奴のほうがいいだろう。
そこで、
「世の中は、金と女がかたきなり」
と嘆いた御仁がいる。そうして、
「早くかたきにめぐりあいたい」
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金と塵は積もるほど汚い
男の子たちは、
「金持ちだが心の汚い奴と、貧乏だが心のきれいな奴がいたら、きみはどっちをとる?」
といった質問を女の子にするのが、好きだ。
そうして、たいがいの男の子は、女の子が、
「貧乏だが心のきれいな人のほうが好きよ」
と答えてくれるだろうと期待している。
わたしに言わせると、そこが男の子たちの甘いところだ。たいがいの男の子は、自分が金持ちじゃないもんだから、
「金持ちは心が汚い」
とキメつけてしまいたいのだろう。
女の子にしてみれば、
「金持ちだって心のきれいな人はいるでしょ」
と言いたい。そうして、
「できれば、あたしは、そっちのほうがいい」
と答えたい。
しかし、まあ、この世には、
「金と塵は積もるほど汚い」
ということわざもある。金が塵みたいに汚いのは、金そのものが汚いわけではなく、金のあるところ、すなわち金を持っている奴が金に汚いんであって、だいたい汚いことをしなければ金持ちにはなれないし、それに金持ちはケチだ――というのも、わたし自身が金持ちじゃないから言えるのである。
もし、わたしが金持ちだったら、ぜったいにそんなことは言わないね。え、ウソだと思ったら、このオレに……。
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金の切れ目が縁の切れ目
「金が目当てなら金が目当てと、はじめっからそう言ってくれれば、なにもこんなに夢中にならなかったのに、たまに情などみせるもんだから……」
というのは、だいたいふられた側の言い草である。ふったほうといたしましては「金が目当てだった」なんて、そんなはした[#「はした」に傍点]ないこと、言えるわけがない。
そんなこと、おくびにでも出そうものなら、相手はテキメンに通ってこなくなるだろう。だから、そこのところは、金が目当てであるような、ないような……。
いや、ホントは金が目当てなんだけれども、いかにも金なんかどうでもいいようにみせかけて、
「好きよ」
と言ってみたり、
「好きだよ」
と言ってみたりするのである。言われて、相手はまた通う。
昔は、
「傾城《けいせい》の恋は誠の恋ならで、コイはコイでも金持ってコイ」
と言ったそうな。傾城すなわち遊女なり。
「金の切れ目が縁の切れ目」
ということわざは、
「金がなくなったときが関係のなくなるとき」
という意味で、旦那と遊女のような、金銭でつながった関係のはかなさを言っている。
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金は天下の回りもの
親父の商売は、金物屋だった。おかげで、こんな固い人間ができてしまったのかも知れぬ。
金物屋の倅《せがれ》のくせに、
「カネだけが人生じゃない」
と思っている。われながら、うすらトンカチみたいな奴である。
「金は天下の回りもの」
ということわざは、
「カネは、次から次へと人手に渡っていくものである」
といった意味だろう。カネは、流通してこそ価値があり、一人のところに死蔵されていたんでは、何の価値もない。
本来は、そういう意味なのに、いつのまにか、このことわざは、
「金銭は一人だけの専有物ではない。人手から人手へ次々に回りもちする共有物である」
という意味に変わり、これがまた、
「金銭は一ヵ所にばかりとどまっているものではないから、いつかは自分のところにも回ってくるにちがいない」
というふうに変わっていく。おカネにかんして、わたしたちは、どこか楽天的だ。
その代表が、
「江戸っ子は宵越しの銭は持たねぇ」
といったセリフだろう。これ、ホントのところは、
「江戸っ子は宵越しの銭は持てねぇ[#「持てねぇ」に傍点]」
というべきではなかったか?
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壁に耳あり障子に目あり
「壁に耳あり」
といえば、
「障子に目あり」
というふうにつづく。そうして、
「徳利に口あり」
といえば、
「鍋に耳あり」
というふうにつづく。要するに、鍋も壁も、わたしたちの話を盗み聞きしているわけだ。おたがい、めったなことでよからぬ相談≠ヘできない。
飲んで、上役の悪口を言う。サラリーマンの、ささやかな楽しみの一つである。
ところが、翌日もう、上役がそのことを知っていて、
「きみ、ゆうべ、オレの悪口を言っていたそうじゃないか?」
と、皮肉を言われる。きのう一緒に飲んでいた仲間の誰かが告げ口をしたにちがいない。
そこで、ちかごろは、サラリーマン諸氏も、飲んで上役の悪口なんか言わないそうだ。代わりに、女房の悪口を言う。
すると、翌日もう、女房がそのことを知っていて、
「あなた、ゆうべ、あたしの悪口を言っていたでしょう?」
と、イヤ味を言われる。きのう一緒に飲んでいた仲間の誰かが……と考えてきたら、オレ、なんだかコワくなってきた。
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果報は寝て待て
――与太郎が昼間っからゴロゴロしている。横町のゴ隠居がそれを叱って、
ゴ隠居「いい若いもんがなんだ! 起きて、働いたらどうだ?」
与太郎「働くと、どうなるんで?」
ゴ隠居「働けば、おカネがもらえるじゃないか」
与太郎「おカネがもらえると、どうなるんで?」
ゴ隠居「金持ちになれるじゃないか」
与太郎「金持ちになると、どうなるんで?」
ゴ隠居「金持ちになれば、つまり、寝て暮らせるじゃないか」
すると、与太郎のいわく、
「なら、もう寝て暮らしてます」
ちかごろ、こんなバカッ話がしきりに思い出される。たぶん、働きすぎて、いささか疲れてきたのだろう。働いても働いても、あんまり暮らしがラクにならないせいでもある。
「こんなことなら、いっそ怠けて、寝ててやろうか」
とも思うが、それもできない。落語の与太郎サンとちがって、貧乏性なのである。
でも、
「果報は寝て待て」
ということわざだって、与太郎みたいに「ただ寝て待てばいい」という意味ではなかろう。そこには「人事を尽くしたうえで」という意味が隠されているはずである。
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カモがねぎを背負ってくる
「カモねぎ」
という。カモの肉にネギまでついている。
言っちゃナンだが、こんなに都合のいいことはない。すぐにでもカモ鍋が楽しめそうだ。
「カモがねぎを背負ってくる」
ということわざは、
「お人好しが、こちらにとって利益になる話をもってやってくる」
ということのたとえである。カモ転じて「お人好し」の意味になった。
「いいカモ」
といった場合は、勝負ごとなどで、簡単にやっつけられてくれそうな相手のことだろう。負けるくせに好きなんだから、チョロい。
「カモにする」
といった場合は、そいつをチョロまかすことである。なんだか寄ってたかって一人から巻きあげている風情で、いけ好かない。
マージャンなどで「カモ」よりヘタな人間は「ウ」と呼ばれる。鵜飼いのウである。ネギどころか、アユまで運んできてくれる。
ひところ、そば屋の「カモなんばん」が、
「じつは、カモを使っていなくて、ニワトリだった」
というので、問題になったことがあった。カモになったのは、客のほうか。
しかし、そういうことなら、キツネうどん、タヌキそばは、どうする? カバ焼きだって、カバを焼いてるわけじゃない。
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烏を鷺
「烏を鷺」
ということわざは、黒い鳥を白い鳥と言いくるめるところから、非を理に、理を非に言いたてることのたとえだ。ま、詐欺みたいなもんだね。
「詐欺」
といえば結婚詐欺だが、こんなふうに結婚しない女≠ニ結婚したい男≠ェ増えてくると、だいぶ様子もちがってくるのではなかろうか。ふつう、結婚詐欺は、騙すのが男で、騙されるのが女と決まっていたものだけれど、どうやらそれが逆になる気配である。
結婚するようにみせかけ、ナニガシかの金品を貢がせて結婚しない。ホント、女に結婚願望がなければ、男もそれにつけこむ余地がなくなるわけだ。
それにしても、結婚しているのに「結婚していない」と言って相手を騙すのと、結婚していないのに「結婚している」と言って相手を騙すとでは、いったい、どっちのほうが罪が重いだろう? わたくし、これを考えはじめると、夜も眠れない。
あの島崎藤村がつくった『藤村かるた』に、
「賢い鴉は黒く化粧する」
というのがあるそうな。黒を白と言いくるめるのではなくて、黒を黒と言いくるめるのである。
黒いものは、いっそ黒くしてしまったほうが、黒さが目立たない――ということか。
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枯れ木も山の賑《にぎ》わい
ふざけて、
「枯れ木も山の賑わいゆえ、ぜひぜひ出席いただきたく」
と案内状に書いたら、ひどく叱られたことがある。マジメに受け取られてしまったのだ。
しかし、最近は、ジョウダンじゃなしに、
「枯れ木も山の賑わいゆえ、ぜひぜひ出席いただきたく」
と書く奴がいるらしい。ホント、ジョウダンじゃない!
「枯れ木も山の賑わい」
ということわざは、
「つまらぬものでも、ないよりはまし」
といった意味である。ふつうは、自分の参加を謙遜し、
「枯れ木も山の賑わいゆえ、出席させていただきました」
というふうに使うのだ。
白状すると、このわたしが案内状に「枯れ木も山の賑わいゆえ」と書いたときは、けっしてジョウダンで書いたわけではなかった。ただただ票決のために、
「員数を揃《そろ》える」
という意味もあって「枯れ木も山の賑わいゆえ」とふざけたのである。テキも、そのへんのところは見破って「ケシカラン」と怒ったのかもわからない。からかわれる人は、なぜか、からかわれていることがわかっているので、やりにくい。
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彼は昔の彼ならず
「不倫とは?」
と訊いたら、
「女の浮気」
と答えた先輩がいる。
「では、男の浮気は不倫≠カゃないのか?」
と問い詰めたら、
「不倫じゃない」
と答えたから、愉快だ。先輩に言わせれば、男の浮気は人の道にはずれてはいないんだそうである。西洋にも、
「夫の九〇パーセントは浮気を考え、一〇パーセントは嘘をついている」
といった格言があるそうな。誰ですか? じゃあ、オレは一〇パーセントのほうか――ナンテ、胸の底でブツブツ言っているのは。
それは、まあ、ともかく、彼の説に従うと、
「だから、亭主の浮気を恐れているような女は、結婚なんかしないほうがいい」
ということだ。要するに「亭主は浮気するもの」と、初めっからキメつけておいたほうがまちがいない――というのである。
こんなことをバラしたら彼に叱られるかもしれないが、先輩だって、結婚する前は、こんなふうじゃなかった。彼も、一途《いちず》な愛を奥さんに誓ったはずである。
されば、結婚生活が「彼は昔の彼ならず」としたのか? が、コッケイなことに、
「オレの女房だけは浮気しない」
という彼の信念は、少しも変わっていない。
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可愛い子には旅をさせよ
旅に二種類あり。ジャーニィとトラベルである。
どちらかといえば、ジャーニィは楽しい旅で、トラベルは辛い旅だろう。
昔の旅は、トラベルだった。憂《う》いもの、辛いものだった。
だから、
「可愛い子には旅をさせよ」
ということわざは、
「子を愛するなら、旅に出して苦労させたほうがいい」
という意味だった。旅は、故郷を離れることでもあった。
しかし、いまの旅は、ジャーニィだろう。憂くもなければ、辛くもない。むしろ、心|弾《はず》む楽しさに満ちている。
されば、
「可愛い子には旅をさせるな」
と言うか――と思ったら、そうではない。おおかたの親たちは「だからこそ、旅に出したい」と言うだろう。
――親馬鹿ちゃんりん、ソバ屋の風鈴。親が子に旅させたいばかりに苦労する。
かのキリスト教初代教父アウグスティヌスも言っている。
「世界は一冊の本にして、旅せざるひとびとは本を一ページしか読まざるなり」
そういえば、ちかごろのガキたちは、旅には出ても本なんか読まない。
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聞いて極楽 見て地獄
人生最大のジョークは、
〈女が男に「ねぇ、あたしのこと、愛してる?」と訊き、男が女に「うん、きみのこと、愛しているよ」と答えることではなかろうか〉
と、マジメに考えていた時期があった。ホントに、どうして女は男に「ねぇ、あたしのこと、愛してる?」と訊きたがり、どうして男は女に「うん、きみのこと、愛しているよ」と答えたがるんだろう。
その結果が「結婚」だなんて、あまりにもひどすぎる。言いたかないけど、冗談もホドホドにしてもらいたい。
「ねぇ、愛してる?」「うん、愛してるよ」
このジョークのコワいところはあとになって「あれは、ジョークだった」と言えないことだろう。わたしたちは、この世には、あとになって「あれは、ジョークだった」と言えるジョークと言えないジョークのあることぐらい弁《わきま》えていたほうがヨロシい。
結婚当初は、
「結婚て、なんていいんだろう」
と、男も女も思うらしい。そのうちに、いっぽうだけが、
「結婚て、なんていいんだろう」
と思うようになる。そのぶんだけ、もういっぽうは、
「結婚て、なんてつまらないんだろう」
と思うようになる。それこそ「聞いて極楽 見て地獄」だ。
[#改ページ]
聞くは一時《いつとき》の恥
面と向かって、
「あなた、浮気しましたか?」
と訊かれ、
「ハイ、しました」
と答える馬鹿はいない。まして妻(あるいは夫)が傍《そば》にいれば、なおさらだ。
それでも、インタビュアーがスターに、
「あなた、浮気しましたか?」
と訊くのは、
「いいえ、しませんでした」
と言うチャンスを与えてやりたいからである。そういう場合は、かりに彼女(あるいは彼)と関係があってもなくても、スターたるもの、断々固として「ありませんでした」と言い張らねばならぬ。
それが、いかにもシラジラしく、インタビュアーが、
「おい、イイ加減にしろよ。こっちはネタがあがってるんだ」
と怒鳴り出したくなるようなケースでも「ありません」と言いつづけることが大切だ。そのうちに訊いてるほうが恥ずかしくなって「オレ、やーめた」と言ってくれる。
ホント、こういうことは、訊かれるほうより、訊くほうが恥ずかしいもんです。訊くほうは、恥ずかしさ覚悟で訊いてくる。
ことわざにも、ちゃんと言うではないか。そう、聞くは一時に恥――と。
ああ、恥ずかしい。
[#改ページ]
聞くは気の毒 見るは目の毒
※[#歌記号、unicode303d]女房にゃ言えない 仏ができて
秋の彼岸の まわり道
という都々逸《どどいつ》があるそうな。わたくし、無学にして、こいつを、
※[#歌記号、unicode303d]女房にゃ言えない 仏のために
と覚えていた。
「女房にゃ言えない仏ができて」というのと「女房にゃ言えない仏のために」というのとでは、まるっきり趣がちがう。後者は歴然たる既成の事実だけれど、前者はそうはいかない。仏も、できたてのホヤホヤで、墓に参るにしても、まだ内心|忸怩《じくじ》たるものがある。
それに、こいつはどうしたって秋の彼岸でなければならぬ。これが、かりに春の彼岸だったら、いささか燥《はしや》ぎすぎではあるまいか。
さて、女房に言えない仏ができて、秋の彼岸にまわり道をしてきた。そこで、うまく女房をだましたつもりでいると、トンデモナイ。女房は、先刻承知なのである。
「それならなぜ追及しないか」というと「どうせ仏さまでしょ?」と、女房は答えるだろう。生き仏ならイザ知らず、いまさら死んだ女にヤキモチを焼いたところではじまるまい。追及すれば、いやでも知ることになる。そのときの心境は、
「聞くは気の毒 見るは目の毒」
といったところか。それならば、いっそ知らんぷりをして、じんわり亭主をいじめたほうがいい?
[#改ページ]
気は心
「目は人間の眼《まなこ》なり」
と言われて「そんなの、アタリマエじゃないか」と思った。根が単純なもんだから「目が人間の眼じゃなくって鼻だったりしたら、それこそ目も当てらンない」なんて息巻いた。
しかし、目と眼を比べて考えれば、眼は目の中心で、
「目は人間の眼なり」
という言葉には、
「目はその人の人柄を最もよくあらわす所だ」
といった意味もあるのですね。目が濁っている人は、やはり、心も濁っているように思われる。
されば、
「気は心」
という言葉も、気と心を比べて考えてみれば、心は気の中心で、
「気は心のあらわれ」
というふうにみることができる。気のいい人は、やはり、心がやさしいのである。
そこで、
「たとえ僅《わず》かでも気のすむようにすれば、心も落ちつく」
といった意味も出てくるのであろう。町内会のお祭りの寄付かなんか集めにくる人が、
「気は心ですから……」
と言うのは、そんなときである。でも、そういう場合は、お隣がいくら出したか気になって、ホント、気が気じゃない。
[#改ページ]
腐っても鯛
「腐っても台風」
という言葉をつくった。もちろん「腐っても鯛」のもじりである。
「腐っても鯛」
ということわざは、
「すぐれた価値のあるものは、いたんで駄目になったようなものでも、やはり価値を保つ」
というたとえだ。タイは、だからメデタイのだろう。
石原裕次郎主演の映画に、
「風速四十メートルが何だってんだ!」
というセリフがあったが、瞬間風速が四十メートルになると屋根の瓦《かわら》はいっせいに飛びはじめ、五十メートルになると家が倒れ出す。
瞬間風速は、ふつうの風速より五割ほど強いが、それでも立っているのは無理だ。
風速十五メートルで、さしている傘がこわれ、看板などが吹き飛ぶ。そうして、ついでに言うと、台風とは熱帯低気圧が南方海上で発達して、その中心付近の最大風速が十七メートル以上になったものをいうのである。
台風は遠くにいても、上陸しなくても、山の風上の斜面に二日も三日も大雨を降らす力を持っている。台風が遠ざかり、青空になってからも、川の下流の水位は上がりつづける。
「豆台風だから……」「小型の台風だから……」といっても、油断はできない。台風が弱い熱帯低気圧に変わっても、警戒を怠るわけにはいかない。腐っても台風なのである。
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下さる物なら夏も小袖
この世には、たしかに、
「くれるものなら、なんでも貰う」
という輩《やから》がいる。女の体でもなんでも、遠慮せずに貰っちゃう。
くやしいかな、わたしには、それができない。女のひとににじり寄られて、
「ねぇ、いいのよ」
と言われたところで、イヤなものはイヤだ。
「ヤセガマン」
と言いたい奴には言わせておけ! わたし自身は、
「据え膳食うは男の恥」
と、心得ている。
「下さる物なら夏も小袖」
ということわざの小袖≠ヘ、絹の綿入れのことで、夏には用がない。それでも「くれる」と言う以上は貰っておこう――というほどの意味である。
要りもしない小袖を貰って、どうするのか? 恥ずかしながら、女房以外に何人も女をつくるようなものだろう。
ホントに、一夫一婦制でよかった。これが、一夫多婦制だったり、多夫一婦制だったり、あるいは多夫多婦制だったりしたら、夏でも小袖を貰わなくちゃなるまい。
「女と火のそば夏でもいい」
ということわざもあることはあるが、わたしはイヤだ。なんたって暑苦しい。暑苦しいのは、苦手である。
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口は口 心は心
「愛しているか?」
と迫られれば、つい口ごもってしまう。男にとって、こういう質問に答えるのは、どうにも難儀である。
男が「愛している」という言葉を口にしたがらないのは、愛するということがよくわからないからだ。あるいは「自信がないからだ」と言ったほうが当たっているかも知れぬ。
それなのに、女のひとは、男に「愛している」と言わせたがる。女のなかには、男がそう言えなくて苦しむのを楽しんでいるひともいるみたいだ。
女のひとに、
「いちども愛している≠ニ言われたことがなかった」
と責められた男がいる。トーゼンのことながら、この恋は過去形である。
どうせ終わってしまった恋なんだから「愛していたよ」と、ひとこと言えばそれで相手の気も済むんだろうが、それが言えない。うっかりそんなことを言おうものなら、
「じゃあ、なぜ愛さなくなったのか?」
と問い詰められそうだからだ。
気楽に「愛している」と口に出せる男たちが羨《うらや》ましい。そういう男たちは、
「口は口 心は心」
と割り切っているのだろう。
それとも、なにかな? 彼らは「体は体、心は心」と割り切っているのかな?
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口は禍《わざわ》いの門
古川柳に、
させろとはあんまり俗な口説きよう
というのがあるそうな。言っちゃナンだが、情緒もへったくれもない。
そう言うと、
「しかし、することは同じじゃないか」
と居直る奴がいるから、憎らしい。失礼ながら、どうせ同じことをするのだから、せめてそこへ至るまでの過程を大事にしたいのである。
多少はメンドくさいかも知れないけれど、
「好きだよ」
「ホント?」
「ホントだとも」
「どれくらい?」
「これくらいさ」
といったヤリトリぐらい交わしたい。
それでも、
「ね、いいだろ?」
ということになると、きまって女のひとが言う言葉は、
「あたしたち、このままお友達でいましょうよ」
面白いことに、女から、
「このままお友達でいましょう」
と言われた男で、その女と友達でいる男なんて見たことがない。たいがいはケンカ別れになっている。
それもこれも、なまじ口説くからいけないのだ。まことに「口は禍いの門」である。
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口も八丁 手も八丁
「口は口 腹は腹」
ということわざもある。言うことと思っていることがちがう人間のことである。
口では、
「お気の毒です」
と言っておきながら、腹の中では「ザマミロ」と思っている。どうにもイヤな奴である。
「口も口 手も手」
ということわざになると、
「言うことも上手だが、やることも上手だ」
という意味になってくるから、面白い。口も達者なら手も達者な人間のことである。
それが、
「口も八丁 手も八丁」
ということわざになると、この「口も口 手も手」ということわざの意味のほかに、
「小器用だが、お喋り」
といった意味が加わることもあるから、ますます面白い。この場合の「八丁」は、江戸時代の八挺艪という舟が小回りもきき、便利だったため、人並み以上の「八挺」と多くの数を示す「八丁」が掛けられているのだろう。
そして、これが、
「口たたきの手足らず」
ということわざになると、
「言うことばかり達者だが、やることはお粗末だ」
という意味になる。わたしなんぞは、さしずめ、この「口たたきの手足らず」だ。
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芸術は長し人生は短し
小説家の直木三十五は、本名を植村宗一といった。三十一歳のときに、植村の「植」を旁《つくり》と偏《へん》に分けて「直木」とし、三十一歳だったから、
「直木三十一」
と名乗った。
以来、トシをとるたびに、ペンネームも「三十二」「三十三」と数がふえ「三十四」をとばし「三十五」で定着した。ホント、このままいったら、
「いま、ナンドキだあ」
ということになりかねない。
横浜の富岡にある住居跡には、石碑が建っていて、
「芸術は短く貧乏は長し」
と彫ってある。これは、もちろん、
「芸術は長し人生は短し」
という古代ギリシャの医者ヒポクラテスの言葉のもじりだ。
いま、直木三十五は、小説『南国太平記』の作者としてよりは、大衆文壇の登竜門である直木賞≠フほうで知られている。やっぱり、芸術は短いみたいである。
「帯に短し襷に長し」
ということわざを、
「命みじかし襷に長し」
と、もじったひともいる。べつに意味はないけれど、意味のないところが、語呂合わせである。
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芸は身の仇
「芸は身を助ける」
とはいうものの、なまじ余技を習い覚えたばっかりに、そっちのほうにウツツを抜かし、本業をホッタラカシにして、
「芸は身を滅ぼす」
ということだってあるだろう。そういうのを、
「芸は身の仇」
という。
しかし、裕福な暮らしをしていた時代に道楽で習い覚えた芸が、おちぶれた後の生活のタツキになるなんざあ、粋なもんじゃないか。なにやら歓楽尽きて哀切極まりない感じである。
俳聖・芭蕉に、
おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな
という句があるが、まさにそれだろう。芭蕉に詠まれた鵜舟の鵜は、
「芸が身を助けるほどのふしあわせ」
と、わが身をかこっているかも知れぬ。
それにしても、ちかごろのテレビタレントたちには、身を滅ぼすほどの芸もない。ヘンに芸があった日にはホサれてしまうんだそうで、タレントすなわち芸能人も大変である。
俗に、
「芸はなくても芸能人」
というけれど、芸能人から「芸」をとったら、ノージンだろう。そういうノージンに限って「ノーのないのを芸人≠ニ申します」なんて、くだらないシャレを言っている。
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芸は身を助ける
「趣味は?」
と訊かれたら、
「無趣味」
と答える。ホント、悪趣味である。
無趣味が趣味のうちなら、悪趣味も趣味のうちだろう。わたしの友人には「仕事が趣味」という奴もいるが、これがホントの悪趣味だ。趣味でおカネを稼いではいけない。またおカネになることを「趣味」と言ってはいけない。たとえば、われわれが「趣味は、野球です」と言うのは、構わない。おカネにならないからである。
しかし、プロ野球・読売巨人軍の桑田真澄投手が「趣味は、野球です」と言うのは、許されない。おカネになっているからだ。
もっとも、
「あいつの野球は、趣味みたいなもんだ」
という声も、なくはない。そう言うのも、やっぱり悪趣味だね。
いったん緩急あったときに、趣味が活きて、おカネになることもある。そういうのを、
「芸は身を助ける」
という。
もっとも、
茶は北千家
花はコイコイ
書は金釘《かなくぎ》流
というんじゃ、身の助けにもナンにもならないが……。
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怪我の功名
読者から手紙をいただいた。それには、こんなエピソードが紹介されていた。
――初夏。某ホテルでおこなわれた結婚披露宴でのことである。急に蒸し暑くなり、客の要望もあって、シーズンとしては初めてクーラーを入れた。とたんに、冷気と一緒に煤《すす》がテーブルの上に落ちてきたではないか。
そのテーブルに、客の立場でホテルの重役さんがついていたから、堪《たま》らない。彼の顔は真っ赤に、いや、真っ青になった。
時あたかも来賓挨拶。重役さんの隣に坐っていた某デパートの会長さんが指名され、
「本日はおめでとうございます」
と言ってから、
「ただいまは煤が舞い降りてまいりました」
とやったらしい。そうして、
「こんなおめでたいことはございません。なぜって煤は、寿々と書きますから……」
この手紙をくださった読者は、
「忘れられないジョークです」
と書いていたが、これこそちょっといい話≠セろう。聞けば、デパートの会長さんは、そのホテルの社外重役だったそうな。とっさの知恵で、身内の難儀を救ったわけだ。
「怪我の功名」
ということわざは、過失や災難と思われたことが、思いがけない好結果をもたらすことである。また、なにげなくしたことが、偶然に良い結果になることにも言う。
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下衆《げす》の後知恵
こんな原稿でも、あとから「ああ書けばよかった」「こう書けばよかった」と思い悩むのである。たとえば、
「腐っても鯛」
ということわざについては、なにも台風のことなんか持ち出さずに、
「鯛は腐ってからのほうがおいしい」
「腐っている鯛でも、もったいないから食べたほうがよい」
「イヤなことがあってクサッているときでも、鯛を食べれば元気になる」
といった珍解釈のあることを披露すべきだったかな――とも思う。
ことわざにも、
「下衆の後知恵」
という。わたしみたいに下賤な者、アタマの悪い人間は、その場ではよい知恵も浮かばず、コトが終わってから、いろいろ思いつく。
これは、トーゼンのことながら、
「ああすればよかった、こうすればよかった」
というふうに愚痴まじりとなる。自慢じゃないが、どうにも辛気くさい。
だから、書き損なったり、やり損なったりしたことにかんしては、黙っていればいいのである。ホント、黙っていれば誰にもわかりゃしないのに、わざわざ口に出すところが、下衆なのだろう。
下衆は身分の低い者、教育のない者、転じて「愚かな者」のことである。
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喧嘩に負けて妻の面《つら》を張る
「男は理性的で、女は感情的だ」
ナンテ、いったいどこのどいつが言ったんだろう? わたしに言わせれば、感情的なのは男で、理性的なのが女だ。
そんなこと、夫婦ゲンカひとつみても、すぐわかる。夫婦ゲンカの原因をつくるのはたいがい夫のほうだが、妻はそれをネタに、ネチネチと夫に迫る。
早い話が、前の晩に飲みすぎて二日酔いだった――としよう。頭を抱えている夫に向かって、妻は冷たく言い放つ。「なにも、そんなにまで飲まなくたっていいのに」
それにたいして、夫は答える。「だって、久しぶりに友達に会ったんだぜ」
それから、
「お友達に会うと、午前サマにならなければいけないんですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「じゃあ、どういうわけなんですか?」
と、あくまでも理性的な妻の追及があり、ついに夫は感情にかられて、
「うるさいっ!」
と、暴力を振るうことになる。
「喧嘩に負けて妻の面を張る」
ということわざは、本来は強い者に負けたウップンを弱い者を相手にはらすことのたとえだが、このわたしには、妻に言い負かされた夫が腕力に訴えていることのたとえに思えてならぬ。
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喧嘩両成敗
新聞記者時代の同僚に、たいへんな女好きがいた。おまけにちょっとハンサムなもんだから、モテるのである。
事件が起きて、いわゆる聞き込みに出かけたまま帰ってこない。心当たりを捜すと、案の定、女性と喋り込んでいる。
「いい加減にしないか」
と言ったら、
「バカだねぇ」
と逆に笑われた。
「こうやって、こんなふうに女性と喋ることができるなんて、それだけで幸せじゃないか」
そんな調子だから、すぐに女性問題を起こした。女房・子供がありながら、庶務課の若い女性に手をつけ、
「貴様なんかやめちまえ!」
と、総務部長に怒鳴られた。
「彼をやめさせるなら、彼女もやめさせるべきだ」
わたしはバカだから、彼をかばって総務部長に食ってかかった。
「彼女だって、庶務課の人間でしょう? 彼に妻子がいることぐらいわかっていたはずだ」
ことわざに、
「喧嘩両成敗」
というのがある。争いごとや揉《も》めごとは、どちらの言いぶんも認めず、同じような処分で、強引に一件落着させるのである。わたしは、それを主張したのだった。
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健全なる精神は 健全なる身体に宿る
訳せば、
「カラダが健康であれば、ココロもそれに伴って健康である」
ということにでもなるのだろうか? ローマの詩人ユーエナーリスの言葉だそうだ。
高校時代、体育の教師あたりにそう言われると、虚弱な――というより運動神経の鈍いわたしは、モーレツに腹が立った。ホントに、
「授業をサボって野球ばっかりやっているような奴らにココロがあるのか!」
といった気持ちだった。戦争中は何かというとわたしたちにビンタをくらわしていた体育の教師が、戦後はいちはやく野球部の顧問かなにかになってイイ気になっていたのが気に入らなかったのかも知れぬ。
のちになって、
「健全なる精神は健全なる身体に宿る」
という言葉が、
「身体が不健康であれば健康な精神の持ち主にはなれない」
といった程度のことであり、ひいては、
「健全なる精神が健全なる身体に宿ったら、なあ」
という願望につながることを知ったときの喜び! あの体育の教師は、身体こそ健全だったかも知れないが、
「精神は健全だったわけじゃないんだ」
と、わたしは、かなり健全じゃない身体で、健全じゃないことを考えていた。
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恋は思案の外
女の人たちは、
「浮気と不倫は、ちがう」
と考えているようだ。浮気はフワフワしている感じだが、不倫の場合はなんか一途《いちず》みたいである。
「不倫」
ということばを『広辞苑』で引いたら、
「人倫にはずれること。人道にそむくこと」
とあり、用例として「不倫の愛」と出ていた。いま、ふつうに使われているのは、この用例のことだろう。
それにしても、人の道にはずれている恋だ。
相手に女房や子供がいようといなかろうと、また自分に亭主や子供がいようといなかろうと、いや、だからこそ燃えるのか?
不倫の相手に、
「あたし、不倫ってことば[#「ことば」に傍点]、嫌いよ」
と囁いた女性がいるそうな。彼女にしてみれば、自分のやっていることが、
「人の道にはずれていること」
とは思いたくなかったのだろう。
彼女にとっては、たまたま相手に女房のいたことが、あるいは自分に亭主のいたことがまちがっていたのだ。ホント、女のひとが男を好きになってしまったら、理屈も常識も通用しない。
不倫も「フリン」と書かれると、ひどく軽くなる。それは、浮気というよりはファッションである。
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後悔さきに立たず
「いちばん最初に……」
と口に出してから、最初の最≠ノはいちばん≠ニいう意味がこめられているのに気づき、
「しまった! これは重ね言葉≠セ」
と、ホゾを噛《か》んだ。それこそ「後悔さきに立たず」を「あとの後悔さきに立たず」と言うようなもんである。
なにはともあれ、コトが終わってから、
「ああすればよかった、こうすればよかった」
と思ったところで、取り返しはつかない。
が、コトを起こす前には気がつかなかったことも、コトが終わってから、あれこれ気づくことが多いから、シャクにさわる。
このあいだも、テレビのクイズ番組の録画撮りに出演したけれど、アガッちゃって散々の成績だった。が、放映前、女房・子供に、
「いまなら、ぜんぶ当てることができるゾ」
と威張ったら、
「アタリマエでしょ?」
と笑われた。
ところで、重ね言葉の典型的な例は、
「往年の昔の武士のさむらいが、馬から落ちて落馬して、女の婦人に笑われて、真ッ赤になって赤面し、腹ァ切って切腹した」
というやつだろう。言っちゃナンだが、わたしたちが幼少の砌《みぎり》の小さい頃≠ノは、みんなして、こんな言葉遊びをして遊んだ――いや、楽しんだものである。
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虎穴に入らずんば虎子を得ず
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」
ということわざの出典は『後漢書』の「班超伝」だそうだ。諸橋轍次先生の『中国古典名言事典』(講談社学術文庫)にも、ちゃんとそう書いてある。
「虎児を得ず」
と覚えていたのが「虎子を得ず」というのが正しい――と知っただけでも『中国古典名言事典』をひっくり返した価値はあった。虎児だと、なんとなく「虎の子」という感じが出ないもんね。
虎の子――
もちろん、女房のヘソクリである。その虎の子をチョロマカすには、どうしたって、虎の住む洞穴に入って行くような危険を冒さなければならない。
「虎穴に入らずんば」
というところを、
「虎穴を探らざれば」
というひともいるらしいが、これは、あまり感心しない。わたくし、根がスケベなもんだから、どうしてもエロチックに考えちゃう。
いまや、ヘソクリは、女房じゃなくて、亭主がする時代なのである。月給なんか、みんな銀行振り込みで、家計は女房にガッチリ抑えられているから、たいへんである。
その間隙《かんげき》を縫ってヘソクッた虎の子は、トーゼン、麻雀に使われる。なにしろ、虎に雀はツキモノですから……。
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粉糠《こぬか》三合あったら 婿養子に行くな
ホントは、
「来ぬか来ぬかと三度言われても婿と養子には行くな」
と言うらしい。よくよくのことがない限り、婿養子になんかなるもんじゃない――という、ありがたーい教訓である。
婿養子は、舅姑《しゆうとしゆうとめ》に仕えるほか、家つき娘である妻にも気兼ねしなければならないので、心身の苦労が絶えない。もちろん、封建的な家族制度下での話だ。
しかし、いまは、どうだろう? 相手に、
「来ぬか来ぬか」
と二度も言われたら、二つ返事で、
「うん、行く」
と答える若者が多いのではなかろうか。
とにかく、結婚しない女が増えているのである。それなのに、なぜか男は結婚したがっている。
しかも、結婚したって住む家はない。ところが、相手は家つきだ――ときた日にゃ、
「ちっとやそっとの苦労はガマンする」
と言うのが、いまどきの若者の心情だろう。
そんなわけで、
「粉糠三合あったら婿養子に行くな」
と言うことわざは、いまや、
「粉糠三合あっても婿養子に行く」
と言うほうが正しいみたいだ。さて、こういうのを「男らしい」と言うべきか、それとも「男らしくない」と言うべきか。
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子は鎹《かすがい》
「釘」
と、大工さんや金物屋は書いた。わたくし、金物屋の倅だから、よーく知っている。
カスガイのことである。二つの材木をつなぎとめるために打ち込むコの字型のクギのことだ。
二つの材木は、カスガイを打ち込まなければ、つなぎとめておくことができない。ひょっとしたら、二世を誓った夫婦の仲だって、間に何かつなぎとめておくものがないと、いつかは別れてしまいかねないほど脆《もろ》いものなのかも知れぬ。
そんな夫婦の間にあって、カスガイの役を果たすのが、子供である。夫婦の縁は切ることができても、親子の縁は切ることができない。
世間には、
「この子の将来のことを思うと……」
というだけの理由で、辛うじて夫婦の体面を保っている細君も多いのではないか。言っちゃナンだが、そういう家庭の子は不幸だ。
ことあるたびに、
「お母さんがお父さんの冷たい仕打ちに耐えているのは、あなたのためなのよ」
と、愚痴を聞かされる。なんだか荷が重い感じで、
「オレなんか、どうだっていいじゃないか」
という気になってくる。
ホント、材木なんて、勝手なんだから……。
たまにはカスガイの身にもなってくれ。
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ごまめの歯ぎしり
俗に、
「カカア天下」
という。妻が夫をアゴで使い、夫の頭が上がらないことである。
「なんだ? オマエの家のことではないか」
などと言うなかれ。わが家がそんなふうにみられていることが女房に知れたら、それこそオレは叱られる。
キツい細君がいた。同僚が、酔っぱらった亭主を介抱して自宅まで送ってきたら、
「あなたたちが飲ますから、いけないんです」
と、同僚にまで噛みついたらしい。
翌日、会社で「スゲェなあ」と同僚たちからからかわれ、彼は言ったそうだ。
「オマエなんか、偶《たま》だから、いいよ。オレなんか、毎日だぜ」
ゴマメは、田作りともいって、カタクチイワシを干したものである。古くから祝いの魚として、正月などに用いられた。
「ごまめでも尾頭つき」
「ごまめのととまじり」
ということわざがあることからもわかるように、小さな魚の代表だ。転じて、非力の者を指す。
されば、
「ごまめの歯ぎしり」
というのは、
「いくら亭主が女房に気張っても、無駄だ」
ということにならないだろうか。
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転ばぬ先の杖
忘れられぬシャレがある。早川良一郎さんのエッセイ集『さみしいネコ』(潮出版社刊)でみつけた。いわく――
「モボとかモガとかいう言葉があった時代、モボはステッキをぶら下げて銀座へ現れたものである。ステッキがそんなに珍しいものでなかった証拠にステッキガールという言葉の職業があった。
銀座にはステッキ専門店があり、その頃あった夜店にもステッキばかり売っている店があった。専門店に並んでコロンバンがあった。それで、あのステッキ屋は、コロンバン先の杖だから、世界最高のステッキ屋だという人もあったのである」
失礼ながら、これだけのことだ。改めて説明するのはヤボというものであろう。
なにごとも、失敗してからでは遅いのである。失敗しないように、前から用心しておくことに越したことはない。
「転んでもただは起きぬ」
ということわざもあるけれど、
「転べば糞の上」
ということわざもある。前者は強欲な感じだし、後者は「泣きっ面に蜂」と同じ意味である。
それよりも、やはり、
「転ばぬ先の杖」
といきたい。早川さんの文章を急いで引用したのも、忘れぬうちに――と思ったからだ。
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子を持って知る親の恩
女のひとが、
「子育ても終わったので」
と喋っているのを耳にするたびに、いやーな感じになる。ホント、失礼も顧みずに、
「へー、子育てって終わるものなんですか?」
と訊いてやりたいような気分である。
「わたしたち夫婦には、さいわい子供がいないから……」
と言ったひとがいる。とくに名を秘すが、いまを時めく女性の放送作家である。
そういうひとが、嫁と姑の問題やら、子供の進学の問題やらを書いているんだから、テレビはコワい。子供を育てるのはたしかに厄介だが、子供を育てることで親も育っていくことだってある。
それにしても、わたくし、
「子を持って知る親の恩」
ということわざが、そんなに好きじゃない。
さっきの、
「わたしたち夫婦には、さいわい子供がいないから……」
と言った女流の放送作家の言葉とは違った意味で、どこかウサンくさいのだ。
「自分で子供を持ってみてはじめて、子供を育てることがどんなものであるかがわかる」
ということだが、さて、どんなものだろう? 子供のときに親のありがたさに思いがいかないような人間は、親になっても、親のありがたさなんてわからないんじゃなかろうか。
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紺屋《こんや》の明後日《あさつて》
そば屋に電話して、
「遅いけど、まだ?」
と催促すると、打てば響くように「ただいま出ました」という返事である。それが、出ていた験《ため》しはない。
それなのに、
「紺屋の明後日」
ということわざはあるのに、
「そば屋のただいま」
ということわざがないのは、なぜだろう?
「紺屋の明後日」
ということわざは、紺屋に染めものを誂《あつら》えて「いつできるか?」と訊くと、きまって「明後日」と答えるところから、アテにならないことのたとえとして使われている。約束の「明後日」に行ってみると、まだできてなくて、重ねて「いつできるんだ?」と訊くと、やはり「明後日」と答えるのである。
このことわざが生まれた背景には、紺屋が民衆の生活に密着していたこともあるけれど、紺屋の仕事が天候に左右されがちだったことも忘れてはならぬ。紺屋としては、ホントに明後日には仕上げるつもりだったのだが、急に天気がかわってしまって、どうにもならなかったにちがいない。
それに、わたくし、このことわざは「紺屋」と「今夜」がひっかけてあるような気がしてならぬ。今夜[#「今夜」に傍点]だから、明後日……。
要するに、駄洒落ですね。
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紺屋の白袴《しろばかま》
「紺屋の白袴」
ということわざが、
「医者の不養生」
「坊主の不信心」
「論語読みの論語知らず」
といったことわざと同じように「他人のためにばかり飛びまわって、自分の身がなおざりになること」や「他人に立派なことを教えても、わが身は何も実行できないこと」のたとえに拡大解釈されるようになったのは、いつごろからだろう? わたしとしては、このことわざは、
「昔、紺屋が多く白い袴をはいていたのは、染色の液を扱いながら、白い袴にシミひとつつけないという、職人の心意気をあらわしたものだ」
という説に与《くみ》したい。
紺屋といえば、落語の『紺屋高尾』を思い出す。あの円生が、
「昔ありまして、今とんと聞きませんのが、恋わずらいという」
とやったアレだ。円生は、紺屋のことを、
「上方へまいりますとあれをこんや[#「こんや」に傍点]といいますが、江戸ではこうや[#「こうや」に傍点]といいます」
と説明している。
言っちゃナンだが、晴れて三浦屋の高尾太夫と所帯をもった久蔵が、シミのついた袴なんざはいていた日にゃサマにならない。ここは、やっぱり白い袴をはかしたいところだ。
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酒はやめても 酔いざめの水はやめられぬ
「酒は、めったに飲まない。飲むのは、月・水・金と火・木・土だけだ」
というのが、バカの一つ覚えみたいな、わたしの冗談である。そう言うと「じゃあ、日曜は?」と訊くひとがいるが、日曜は、週にいっぺんしか飲まない。
酒についてのことわざは、
「酒は百薬の長」
ということわざに代表されるように、酒を愛し、讃《たた》えるものと、
「酒は百毒の長」
ということわざに代表されるように、酒の害を強調するものに大別できる。同じ酒が、飲む人によっては薬にもなり、毒にもなる。
わたしは「酒の上」のことは認めたくない。
女のひとのなかには、
「飲ませれば口説いてくれる」
とカンちがいして、無理やり飲ませようとするひともいるけれど、あれは、やめたほうがいい。わたくし、酒を飲むと、悪いクセがあって、酔うのである。酔うと、どうなるか――というと、
「女のひとが綺麗にみえてくる」
というのはウソで、女のひとなんかどうでもよくなってしまう。
酒は、ケンカを売ったり、女を口説いたりするために飲むものではない。そんなことをしたら、酒に申しわけない。あれは、あくまでも酔いざめの水を飲むために飲むものだ。
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雑魚《ざこ》の魚《とと》まじり
「カマトト」
というのは、
「カマボコって、おトトなの?」
と、女性が驚いてみせたことに由来している。わかりきったことを知らないふりして、いかにも初心《うぶ》らしく振る舞うことを指す。
「ぶりっコ」
というのは、ブリの子ではなくて、ぶる[#「ぶる」に傍点]子だ。たとえば「いい子ぶりっコ」「かわい子ぶりっコ」の類である。
ブリは「出世魚」といって、成長の過程で呼び名が変わる。それも、東京地方と大阪地方では異なっていて、東京地方ではワカシ→イナダ→ワラサ→ブリとなり、大阪地方ではツバス→ハマチ→メジロ→ブリとなる。
「ブリの大きいのを大ブリ≠ニ言い、小さいのを小ブリ≠ニ言う」
というのは冗談だ。こういう冗談は本気にするひとがいるから、困る。
「雑魚の魚まじり」
ということわざは、雑魚が大きな魚にまじっているように、弱小な者、身分や能力の不相応な者が強大な者や秀れた者のなかにまじっていることのたとえだ。べつに「目高も魚《とと》のうち」ともいう。
とかくメダカは群れたがる。弱小な者は、なにかというとグループをつくって、数の力でモノを言おうとする。
もっとも、クジラも群れたがるけど、ね。
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触らぬ神に祟《たた》りなし
みごとなヒップであった。こっちは根がスケベだから、つい見惚《みと》れた。
そういう気配は、いちはやく相手にもわかるらしい。振り返るとニッコリ笑って、
「触る?」
とおっしゃった。とたんにノドを鳴らしちゃったんだから、われながら、だらしがない。
すると、相手はこともなげに言ったのである。
「でも、すぐに孕《はら》むわよ」
みずから「評論家」と称する女性に会ったときのことだ。恥ずかしながら、クシュンとなった。
しかし、わたしは、この一言で、彼女が、
「結婚したい、結婚したい」
と言いながら、いつまでも独身でいる理由がわかったような気がした。
「触らぬ神に祟りなし」
ということわざは、本来は、
「なにごともかかわりさえもたなければ、害を受けることもない」
といった意味であろう。ものごとに積極的であることを諫《いさ》めているような、あんまり嬉しくないことわざである。
ところが、彼女にかんする限りは、
「出しかけた手を引っ込めて、正解だったな」
と思う。いくらナンでも、わたしは、その場になって「触る?」と、いちいち念を押すような女のひとの尻など触りたくない。
触らぬ尻に祟りなしだ。
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三度目の正直
子供の遊びのジャンケンをするにしても、大人の遊びでサイコロを振るにしても「三回勝負だぞ」ナンテことを言う。一度の勝負で決めずに、三回勝負して二回勝ったほうか、三度目の勝ちを「勝ち」とするのである。
占いごとや賭《か》けごとは、はじめの一回、二回はアテにならないが、三度目は確実だろう。そこから「ものごとは三度目が大切」「三度目こそ正念場である」といった意味で、
「三度目の正直」
ということわざが生まれた。
それにしても、
「二度あることは三度ある」
と言っておきながら、二度ないときも、三度目に期待している。人間なんて、勝手なものだ。
おみくじにしたって、悪い卦がでた場合は、一度や二度じゃやめない。三度目も悪い卦だったら、三度目はなかったことにして、もういちど引く。これが良かったら、こいつを三度目にする……。
彼女に、
「好きだよ」
と言って、嫌われる。それでもめげずに「好きだよ」と言って、また嫌われる。
ここで諦めてしまうようでは、恋などできない。もういちどしつこく迫って「好きだよ」と言ったら、案外……てなことはないだろうなあ。
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地獄の沙汰も金次第
「死んだら、極楽ではなくて、地獄へ行きたい」
と言ったひとがいる。わたしの師匠の高木健夫先生である。
新聞記者だった先生は、死ぬ間際になって、
「極楽へ行ったって、取り澄ました奴らばかりで退屈だろ? その点、地獄のほうには我利我利亡者やらスケコマシやらがいて、そいつらを取材して歩いたら面白いだろうなあ」
と言い出した。どこまでも洒脱《しやだつ》なひとで「たぶん大宅壮一もいるだろうから、いっしょに取材するか」ともおっしゃった。
ことわざに、
「地獄の沙汰も金次第」
という。悪業がたたって地獄へ行き、そこでエンマ大王の裁きを受けなければならなくなったとしても「金さえあれば、どうにかなる」という意味だ。
このことわざは、この世ばかりか、あの世までも金がものを言うことを教えていて、どぎつい。これでは、地獄の沙汰どころか、狂気の沙汰だ。
それにしても、清貧といってもいいくらい、高木先生には金がなかった。だから、せっかく地獄にたどりついても、
「金のない奴の希望を叶えてやるわけにはいかぬ」
と、エンマさまに極楽へ追っぱらわれてしまったのではないか――と、弟子のわたしは心配である。
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四十にして惑わず
「四十而不惑」
といったのは、あの孔子だ。とてもじゃないが、人生八十年時代には流行《はや》りそうもない。
もじって、
「四十而初惑」
と言った人がいる。いまは亡き小説家の吉川英治さんである。
考えてみれば、二十歳や三十歳で惑ったのは、あれは、児戯に等しかった。わたしたちの、ほんとうの惑いがはじまるのは、四十歳になってからである。
わたしなんぞは、二十歳にして初めて惑い、三十歳を過ぎて二十年以上たった現在も、いまだに惑いっぱなしだ。四十歳にして初めて惑うどころか、
「五十歳過ぎても惑いっぱなし」
といった感じである。
しかし、孔子が、
「三十而立、四十而不惑」
と言ったのは、あくまでも男の人生である。女のひとが立つ≠けも惑う≠けもない。
ちかごろの女優さんは、四十歳にして初めて脱いだりしている。もっとも、
「必然性があれば……」
という条件つきだが、なにが必然性なのかは、わしゃ知らぬ。
そこで、小説家の戸板康二さんが言うには、
「(女は)四十にしてマドモアゼル」
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失敗は成功のもと
冗談半分に、
「失恋したことがない」
と言ってきた。恋をしたことがないんだから、失恋するはずがない。
「冗談半分に」
ということは、
「真面目半分に」
ということだ。マジメな話、フラれるのがコワくて、惚れなかっただけのことだ。
何かやろうとしても、失敗を恐れて、積極的に行動することがない。何事も、行動せずに終わっている。
われながら「ダメだな」と思う。わたしにとって、失敗は「成功のもと」ではなくて「不成功のもと」だった。
誰だ? 「不性交のもとだろう」ナンテ言うのは!
ところで、
「失敗は、なるたけしない方がよいにきまっている。けれども、真にこわいのは失敗することではなく、いい加減にやって成功することだ」
と言ったひとがいる。詞集「たいまつ」のむの・たけじさんである。
失恋を恐れて、恋に臆病になっているうちは、いい。フラれ馴れ、やがてフラれるのがコワくなくなり、ヘンにチョッカイを出して、これがまたウマくいっちゃった日には、目も当てらンない。
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死人に口なし
前東京都監察医務院長・上野正彦さんが書いた『死体は語る』(時事通信社刊)に、
「糖尿病は電信柱ですからね」
という話が出てくる。若い女を伴ってホテルに入ったものの、心筋梗塞を起こして死んでしまった男の話である。
男の女房が訴えるには、彼は糖尿病で、ここ十年以上も夫婦生活がなかったそうな。捜査にあたった刑事に言わせれば「それなのに」といったところだ。そこで、上野さんは「糖尿病は電信柱だから」と言ったのである。
「電信柱は、家の中では立っていないが、外ではやたらに立っていますね」
ことわざに、
「死人に口なし」
というのがあって、死人に無実の罪を着せるような場合や、死人を証人に仕立てることの無理を諭すような場合に使われてきた。が、上野さんの『死体は語る』を読む限り、死体もまた、かなり雄弁なようだ。ひょっとしたら「死人は証言も弁明もできない」という、このことわざは、死んだ人間ならぬ生きている人間の、あえかな望みかもわからない。
ところで、
「死体は語るというが、何と語っているか知ってるか?」
と訊かれ「わからない」と答えたら、
「したい[#「したい」に傍点]と言っているのさ」
そう言って笑った奴がいた。
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死ぬ者貧乏
「死ぬ死ぬと言う者に死んだ験しがない」
という。ホントに死んでしまえば「死ぬ死ぬ」と言うこともできなくなる道理だ。
「死んで花実が咲くものか」
ということわざは、みずから死を選ぼうとしている者に、
「ここで、いっぺん死んだつもりになって、いっしょうけんめい働いてみてはどうか?」
と諭すときに使われる。それこそ死にもの狂いに生きれば、道は自然に開かれよう。
この場合「枯れ木には花も咲かず実もならないように」とつけ加えるのは、どんなものか。枯れ木のなかには、春がくれば、また芽ぐむものもあるだろう。
「死んだ子は賢い」
「死んだ子に阿呆はない」
「死んだ子の年を数える」
といって、死んだ子を懐かしむあまり、若くして死んだ者を美化するひとがいるが、わたしは反対だ。小説家の山川方夫が若くして死んだとき、数少ない女友達の一人である小泉喜美子さんが泣きながら「いい人は、早く死ぬのよ」と電話をかけてきたが、その小泉さんも死んでしまった。
「死ぬ者貧乏」
ということわざもある。生きていれば、どんないい[#「いい」に傍点]目に遭うことができたかもしれないのに、死んでしまってはそれも叶わない。死んだ者がいちばん損なのである。
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四の五の言うな
手紙の名文の例に、
「一筆啓上 火の用心 おせん泣かすな 馬肥やせ」
というのがあるのは、ご存じだろう。徳川家康の家臣・本多作左衛門が陣中から留守宅に宛《あ》てた手紙である。
されば、
「一金 三両
ただし馬代
右馬代 くすかくさぬかこりゃだうぢゃ くすといふならそれでよし くさぬといふならおれがゆく おれがゆくならただおかぬ かめのうでにはほねがある」
というのは、どうじゃ? 奥羽の博労の亀という男が書いたと伝えられる借金返済請求の手紙である。
「くす」は「返す」だ。人によっては「くす」を「貸す」と受け止めている人もいるが、それでは無心状になってしまう。この手紙、ちと乱暴だが「四の五の言わせぬ」といった気迫がいい。
「四の五の言うな」
ということわざの「四」「五」は、カルタ博打の三枚遊びに使う「四」と「五」の札のこと。この二つを合わせると、九すなわちカブで最高点となる。
つまり、四と五の札が出れば、この二枚で勝負がついたも同然で「人間、諦めが肝心ダゾ」という意味である。
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釈迦に説法
「おしゃかになる」
ということばがある。東京の鋳物《いもの》工場で、火が強すぎたためにできた不良品のことを言ったのが始まりらしい。
東京の職人は「ヒ」を「シ」と発音するので、
「火が強かった」
と言うつもりでも、
「シガツヨカッタ」
というふうに聞こえてしまう。これが縮まって「四月八日」となり、四月八日はお釈迦さまの誕生日なので、いつのまにか「おしゃかになる」が不良品のことになってしまった。
それこそ、
「お釈迦さまでも気がつくめェ」
と言いたいところだが、こっちのほうは歌舞伎『与話情浮名横櫛《よわなさけうきなのよこぐし》』で切られ与三が言うセリフだ。
「釈迦に説法」
ということわざは、仏教の祖であるお釈迦さまに説法をするところから、「身のほど知らず」のたとえである。専門家相手に素人があれこれ意見を述べるときに使われる。
うっかりエラそうなことを言ってしまった場合でも、
「いやあ、これは釈迦に説法≠ナした」
と言えば、たいがいの人は笑って許してくれるだろう。使いようによっては、たいへん便利なことわざだ。
これも、釈迦に説法かな?
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蛇の道はへび
一人が、
※[#歌記号、unicode303d]なったァ なったァ じゃ[#「じゃ」に傍点]になったァ
と囃《はや》し、一人が、
※[#歌記号、unicode303d]なーにじゃ[#「じゃ」に傍点]になられたァ
と問いかける。そうして、
※[#歌記号、unicode303d]長者になられたァ
と答えるところを、
※[#歌記号、unicode303d]大蛇になられたァ
と答えてしまうのも落語なればこそだろう。
もういちどやり直して、こんどは、
※[#歌記号、unicode303d]亡者になられたァ
「蛇の道はへび」
ということわざは、もとは「蛇の道はへびが知る」で、へびの通った道は、われわれ人間にはわからないが、へび同士にはわかっているらしいところから、
「仲間のことは、他人が口出しするまでもなく、仲間の者がよく知っている」
といった意味である。転じて「その道のことは、その道のものがいちばん知っている」という意味にもなる。
「餅は餅屋」
ということわざにも通じるが、それに比べて、なんとなくイメージが暗いのは、へびのせいだろうか。へびにはへびの人生、いや、蛇生があるはずである。それを傍らから眺めて、暗いだの、妖《あや》しいだのと言うのは、いかにも厳しい。
蛇の道はヘビイだ。
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姑の文《ふみ》で嫁憎い
昔っから、
「姑と嫁とは仲が悪い」
と、相場が決まっている。あれ、仲が悪いから、野郎どもも、
「いい加減にしてくれよ」
とかナンとか言って、表へ飛び出し、遊びに行くこともできるのだが、これが仲が良かった日にゃ、ろくに表へ飛び出すわけにもいかず、堪らないだろうなあ。
嫁は「姑にいびられた」と言い、姑は「嫁にいじめられた」と言う。いびられた奴がいて、いじめられた奴がいるんだから、いびった奴も、いじめた奴もいておかしくないのに「あたしは嫁をいびった」「わたしは姑をいじめました」と言う奴が一人もいないのは、不思議である。
誰か、ウソでもいいから「あたしは嫁をいびった」「わたしは姑をいじめました」と言ってみないかなあ。そうすれば、姑と嫁との関係も、もう少し明るくなるようにわたしには思えるが……。
「姑の文で嫁憎い」
ということわざは「嫁憎い」を「読みにくい」にかけたシャレで、
「姑という字は難しい。仮名で書いても難しい」といった意味だが、姑の手紙に嫁の悪口がいっぱい書いてあるサマを思わせる。
嫁はやがて姑になり、こんどは息子の嫁をいびる。悪循環だァ。
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重箱の隅は杓子《しやくし》で払え
重箱の隅は楊枝《ようじ》でほじくる≠烽フなのか、それとも突っつく≠烽フなのか。辞書で、
「重箱の隅を突っつく」
というのをひいたら、
「重箱の隅を楊枝でほじくる≠ノ同じ」
と出ていた。些細《ささい》な点まで干渉、穿鑿《せんさく》したり、どうでもよいような事柄にまでいちいち口出ししたりすることのたとえである。
東京工業大学教授・芳賀綏さんの『自己表現術』(カッパ・ブックス)に、こんな文章が載っている。
――いつか、日本学術会議の総会で、物理学者が、南極観測の必要を力説して、南極観測は、人間の体でいえばヘソにあたる大事な仕事だと言ったら、第七部(医学・薬学)の会員が立ちあがって、
「生理学ではヘソは、役に立たないものの代名詞[#「代名詞」に傍点]だ」
と、真顔で力んだといいます。
もし、このとき、第一部(文・史・哲学)に、言語学者か国語学者でもいて、
「ヘソは、名詞であって代名詞ではない」
と割ってはいったら、混乱にもうひとつ輪がかかります。
「重箱の隅は杓子で払え」
ということわざもある。あまり細かい点まで干渉しないで、大目に見るべきだ――という意味だ。なに、そんなことをしたら、滓《かす》が残る? ま、いいから、いいから。
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朱に交われば赤くなる
正直な話、マメな男とつきあっていると、
「オレも、あれくらいマメにならなきゃ」
と思う。それこそ彼だけがモテているのを、
「なにも指くわえて眺めていることはない」
といった気にもなってくる。
いわゆる非行少年に、
「なぜ非行に走ったのか?」
と訊いたところ、そのほとんどが、
「悪い友達に誘われて」
と答えている。誘われた連中ばかりで、誘った者が一人もいないのも、これまた不思議である。
「朱に交われば赤くなる」
ということわざは、顔料の朱の中に他の色をまぜると、その朱に染まって赤くなるように、
「人は交際する仲間によって、善くもなれば悪くもなる」
といった意味だ。ホント、人はつきあう相手に感化されやすい。
だから、
「友達を選べ」
ということにもなるのかも知れないが、子供にとっては、いや、大人にとっても「悪友のほうが面白い」ということもある。
それにしても、
「悪い友達に誘われたので、非行に走った」
と言うんでは、いかにも自主性がない。せめて悪いことをするときぐらいは、他人のせいではなくて、自分自身のせいにしたい。
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正月小なし二月大なし
「西向く士《さむらい》、小の月」
と覚えた。二月、四月、六月、九月、十一月は小の月である。
太陰暦(旧暦)では、
「正月小なし二月大なし」
と言うんだそうな。正月が小の月(二十九日)という例はなく、二月が大の月(三十日)という場合もないことを指す。
太陰暦は、月が地球を一周する時間を基にして作られている。人が胎内にいる期間である「十月十日」も、この太陰暦で計算しなければ、数が合わない。
「二月でただ一つ良いことは、他の月より短いことだ」
という言葉がイギリスにある。お天気博士の倉嶋厚さんが、
「二月の気候がよくないイギリスの季節ごよみに載っている」
と紹介していた。
トシをとってくると、一日一日は長いが、一年は短い。されば「一ヵ月は、どうか?」と言うと、長いような短いような。
そんな人生に、
「大の月もあれば、小の月もある」
ということは、言うに言えない人間の知恵だろう。毎日が幸せな人ならば、
「二月でただ一つ悪いことは、他の月より短いことだ」
と言うにちがいない。
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正直者が馬鹿をみる
いつも不思議に思うのだが、ホントに正直な人間が、こんなことを言うだろうか。ホントに正直な人間なら、こんなこと、言わないんじゃなかろうか。
わたくし思うに、
「正直者が馬鹿をみる」
という言葉の裏には「不正直者がトクをする」といった意味がこめられているような気がするけれど、どうだろう? 正直な人間が不正直な人間を羨んでいる気配である。
「正直である」
ということは「ズルくない」ということだろう。働かないくせに働いたようなフリをしたり、罪を犯しているくせに犯さないような顔をしたり……といったことができない。
だいたいが、
「働かないくせに働いたようなフリをしたり、罪を犯しているくせに犯さないような顔をしたり……」
といった考え方そのものがないにちがいない。とてもじゃないが、不正直者のわたしには、及びもつかぬ。
わたしは、根が不正直なもんだから、誰かがうまいことをやったり、要領よく立ちまわったりするのをみると、
「羨ましいな」
と思う。が、羨ましいと思うだけで、自分もそうしてみようとは思わない。だいいち、メンドくさいことでもありますし……。
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冗談にも程がある
何度でも書くけれど、
「バカをバカと言って、どこが悪い?」
というのまでが許せる冗談≠ナ、
「ブスをブスと言って、どこが悪い?」
というのが許せない冗談≠セ。冗談にも許せる冗談≠ニ許せない冗談≠ェある。その境目がむずかしい。
とにかく、人を傷つける冗談はよくない。なかでも、体の欠点や容貌をタネに他人をからかうのは、不愉快だ。
自慢じゃないが、ちいちゃいときから、みんなに、
「ブオトコ、ブオトコ」
とからかわれてきた。おかげで、トルストイの自叙伝に感激したりした。幼いトルストイは、実の母から、
「レオや、お前はいい子にならなきゃいけない。お前は顔が醜いから、顔では誰も可愛がってくれないよ」
と言われるのである。
「ブオトコ、ブオトコ」
と言われつづけてきて、気がついたことがある。このわたしをつかまえて、容貌をタネにからかおうとしている奴らの顔は、気の毒ながら、わたしとおっつかっつ[#「おっつかっつ」に傍点]だ。
「あいつらは、自分の顔に自信がないから、自分がからかわれるかも知れないことにおびえ、他人をからかおうとしているのだ」
そう考えたら、ずいぶん気がラクになった。
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知らぬが仏
知ればこそ腹も立つけれど、知らなければ腹も立たない。女房の浮気だって、知らなきゃ新橋ガーラガラだ。
書いているうちに、自分でもワケがわからなくなってきた。どうやら、
「知らぬが仏」
ということわざと、
「知らぬは亭主ばかりなり」
ということわざとをゴッチャにしちゃったようだ。
「知らぬは亭主ばかりなり」
というのは、もともとは「町内で知らぬは亭主ばかりなり」という川柳から出ている。女房が間男しているのを、近所の者はみんな知っているが、
「亭主だけが気づかない」
という意味である。
世の中、えてして当事者はウカツなのである。それで、近所の連中が集まって、
「注意してやろうか」
と、噂する。
「よせよ」
「だって、あんまりじゃないか」
「よせったら、よせ」
「どうして?」
「昔っから、言うだろ」
「なんて?」
「知らぬはホットケって……」
やっぱり「知らぬが仏」なのである。
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据え膳食わぬは男の恥
いわゆるワケ知りが、
「ヘソから下に人格はない」
ナンテ嘯《うそぶ》いているのを聞くと、それだけで相手を軽蔑したくなる。ヤボを承知で言わせてもらえば、わたくし、
「ヘソから下にこそ人格はある」
と信じている。
言っちゃナンなんだが、性についてのありようが、よくもわるくも、そのひとの人生をあらわしているのではなかろうか? 性に対してイイ加減なひとは、生きることにもイイ加減なひとにちがいない。
そんなわけで、
「据え膳食わぬは男の恥」
ということわざが嫌いだ。このことわざ、
「女のほうから持ちかけてきた情事に応じないのは、男らしくない。意気地なしだ」
といった意味のようだが、男らしくなくたって、意気地なしだって、わたくし、いっこうに構わない。
ときに「女のあたしにそこまで言わせるの」とか「女のあたしに恥をかかせるの」とか言われたこともないわけじゃないが、そのたびごとに「間に合ってますから」と申しあげてきた。
ホント、たとえウソでも、それくらいのことは言ってみたいものだ。そうして、心の内でつぶやく言葉は、
「据え膳食うは男の恥」
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雀百まで踊り忘れぬ
子供のころ、
※[#歌記号、unicode303d]一でもねぇ/二でもねぇ/三ペタ野郎/知りもしねぇで/ごたつくな/ロクデナシ/七面鳥/張っ倒されて/くやしいか/トボケ野郎
と歌ったものだ。わたくし、生まれも、育ちも、関東です。
しかし、これが関西では、
※[#歌記号、unicode303d]いちも/にもない/サンピンが/知りもせんこと/ゴチャゴチャと/ろくでもないこと/七面鳥/張ったろか/食うたろか/飛んで行け
と歌われている――と知って、ビックリした。世の中、広い。
失礼ながら、いまの子供たちは、こんな数え歌、知っているだろうか? 知らないだろうなあ。
なにごとも上品なのは結構だけれど、ちかごろの子供たちはあまりに上品すぎて、覇気《はき》がない。
ことわざに、
「雀百まで踊り忘れぬ」
というのがあって、
「雀は死ぬまで飛びはねるクセが抜けない」
という意味だ。若いときに身につけた習性は年をとっても治らないらしいけれど、子供のころに身につけ損なった覇気も同じように年をとったって身につかないと思うが、どうだろう?
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すまじきものは宮仕え
サラリーマンをやめて十五年近くになる。いわゆる「文筆業」という受注制の家内手工業を職業に選んでしまったばっかりに、
「注文がなかったら、どうしよう?」
と、毎日が不安である。
そのために、多少無理な仕事でも、たとえワリが合わない仕事でも、ニコニコしながら引き受けてしまう。とてもじゃないが、サラリーマン時代には考えられないことだった。
サラリーマン時代は、上役に向かって、できないことは「できない」とハッキリ言うことができた。それがまた、潔いことでもあった。
「すまじきものは宮仕え」
ということわざは、
「うっかりサラリーマンなんぞになろうものなら、上役の命令には従わなければならぬ。上役の機嫌もとらなければならぬ。じつにウットウしいものだ」
といった意味だろうが、上役の命令に従うことで、いや、上役の機嫌をとることで、なにがしかの報酬を得られるんなら、こんなに易しいことはない。サラリーマンをやめた場合は、そのうえに相手が喜ぶような仕事をしなければならないから、辛い。
このことわざには、そんな男たちの怨念がこもっているような気がしてならぬ。つまり、使われる身の切なさばかり強調して、世のサラリーマンたちを自分と同じ境遇にひきずりおろしてやろうというコンタンである。
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住めば都
「住めば都」
ということわざは、
「住み慣れれば、どんな辺鄙《へんぴ》な土地でも住みよくなる」
という意味である。転じて、
「物質的なわびしさも、慣れれば精神的な楽しさにつながる」
といったことにもなるようだ。なんだかヤセガマンのすすめ≠ンたいだね。
このことわざを、
「住むなら都」
というふうに受けとめている若者もいるらしい。これでは、まるっきり意味が逆になってしまう。
そりゃあ、住むには都会のほうが、なにかと便利だ。その代わり、誘惑もまた多い。
逆に言えば、都会には魅力がありすぎるから、都会の人口が増えるばかりなのである。都会から少しずつ魅力を減らせば、都会の人口もまた、減るだろう。
その一つの例が大学だ。都会から大学を地方に移せば、なんだかワケのわからんような若者も地方に散って、都会も、もうちょっと住みよくなるのではないか。
そう言ったら、学生たちから「困る」と抗議された。彼らに言わせると「そんなことになると、アルバイトができなくなっちゃう」ということだ。住むなら都は、アルバイト先のある都でもある。
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背に腹は代えられぬ
「背に腹は代えられぬ」
というのは、
「切羽詰まったときの形容だ」
とばかり思っていた。もちろん、切羽詰まったときの形容ではあるけれど、
「さしせまったことのためには、他を顧みるゆとりがない」
というのが、本来の意味のようだ。
背中と腹を比べれば、臓モツが詰まっているだけ、腹のほうが大事らしいのである。わたくし個人と致しましては、
「子は、父親の背中をみて育つ」
というくらいのもんだから、背中のほうが大事だとばかり思っていたのだが……。
だいたい、このことわざ、
「背に腹は代えられぬ」
と言うから、わかりにくいのである。ちょいとひっくり返して、
「腹は、背に代えられぬ」
と言えば、すぐにわかるではないか。いざとなれば、腹をかばって背を差しだす覚悟である。
ひどく腹がへったときなどは、
「腹の皮が背中につくようだ」
と表現することもある。いくら大事な腹でも、背中にくっつくような腹では、やはり、背中も泣きたくなるだろう。
これが「背《せな》で泣いてる唐獅子牡丹」だナンテ、もちろん、冗談です。
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善は急げ悪は延べよ
「善は急げ」
ということわざは「悪は延べよ」というふうにつづくのがホントらしい。よいことはためらわずに実行するばかりでなく、悪いことは延ばせるだけ延ばさなくてはいけないのである。
よいこと、悪いことのなかには、自分にとって都合のよいこと、都合の悪いことも含まれているのではないか。だったら、このことわざは、
「自分にとって都合のよいことはためらわずに実行する。その代わり、自分にとって都合の悪いことは延ばせるだけ延ばそう」
ということになってしまう。いやはや、まことに都合のよいことわざではある。
しかし、世間というものは、そんなに甘くない。おおむね自分にとって都合のよいことは世間的には悪いことだし、自分にとって都合の悪いことは世間的によいことだ――と、なぜか相場がキマッテル。
「善は急げ」
というのをもじって、
「電話急げ」
というのは、どうだろう? 電話のベルが鳴ったら、すぐに出るのである。いや、そうじゃなかった。最近の子供たちは長電話が好きだから、そういう子供たちに、
「長電話はやめよ」
という呼びかけだ。
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千慮の一失
思わず、
「やるもんだなあ」
と感心(?)した。神奈川県横須賀市内の別荘に冬休みで遊びに来ていた東京の小学六年の女の子と横浜の小学四年の男の子が、別荘近くにある神奈川県警の警部宅に、
「二百万円出さないと、浮気をばらすぞ。人に知られたくなかったら、坂の下のタバコ屋に現金で持ってこい」
といった内容の脅迫状を三通も投げ込んでいたんだそうな。
ふたりは、三通目の脅迫状を投げ込んだとき、郵便受けが開く音を聞きつけて表へ出てきた刑事に難なく捕まってしまったが、
「せっかく別荘に遊びに来たのに、親から勉強、勉強≠ニ口やかましく言われ、つまらなくなって気晴らしにやった」
と、動機を語り、
「相手は、誰でもよかった。でも、まさか刑事さんの家だとは思わなかった」
と白状したらしい。それこそ、いろいろ考えたんだろうが、肝心なところが抜けていて、まさに「千慮の一失」だった。
しかし、これを、
「しょせんはガキの知恵」
と笑えるか、どうか? 子供たちが、
「誰でも胸に覚えがあるだろう。だから、ひょっとしたら、ひょっとするかも知れぬ」
と考えていたところが、時代である。
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袖振り合うも他生の縁
「袖擦り合うも他生の縁」
と言うこともある。道を行くとき、おたがいに見知らぬ人と袖が触れ合うのも、前世からの約束ごとである。
「他生」は「今生」に対する「他生」で、前世のことでもあり、来世のことでもある。この「他生」を「多生」と書けば「何回も生まれ変わること」で、
「袖振り合うも多生の縁」
「袖擦り合うも多生の縁」
と書いたところで、べつに意味は変わらない。
ただし、
「多少の」
と書いたら、これは、やはり、まちがいだろう。そりゃあ、おたがいに見知らぬ人と袖が触れ合うのも、多少は縁あってのことにちがいないけれど、ひどく意味が軽くなる。
言っちゃナンだが、通勤電車の中で痴漢行為を働き、警察に突き出された男が居直ったようなときに口にしそうな感じである。頭かなんか掻《か》きながら、
「いえ、そのォ、あんまり女房に似ていたもんで、つい……」
バカバカしい。誰が通勤電車の中で自分の女房なんかに手を出すものか!
そういえば、東京は上野公園近くで、
「ここでは痴漢行為をしないでください」
という看板をみつけた。あれ、ここでしないで「どこでやれ」というのだろう?
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損して得取れ
商人の子だったから、
「目先の利益ばかり追いかけるな」
と教わりながら育った。それを言うとき、明治生まれの父親は、好んで、
「損して得取れ」
ということわざを口にした。
「たとえば、ここにタライいっぱいの水があるとする。この水を自分のほうに掻《か》い込もうとすると、ホラ、水はみんな、向こうに行ってしまう。逆に、向こうのほうに押しやれば、みろ、水はこっちに集まるじゃないか」
神奈川県の在にある五年制の尋常小学校を卒業して奉公に出され、いまでいう少年店員を経て金物屋になった父は、東京府立高等女学校中退の母と結婚して、それこそ爪に火をともすような生活をしながら、九人の子をつくり、八人を成人させた。何年か前に八十九歳で亡くなったが、
「働くということはハタをラクにすることだ」
というのも、父の口癖だった。
「目先だけのことを考えて利益を上げようとすると、かえって大きな損をすることがある。反対に、いまは多少の損をしても、長い目でみれば、得をすることもある」
父に言われて「けっきょくは得をしようと考えているわけじゃないか」と反発した日が懐かしい。が、父は、こんな生意気な倅《せがれ》を育てて「なんだか損したみたいだな」と考えていたのではないだろうか。
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大は小を兼ねる
明治生まれの父親は、横浜で金物屋だった。戦争中、空襲で焼け出されたとき、鉋《かんな》と鋸《のこぎり》を抱えて逃げた。
「どうして鉋と鋸なの?」
と訊いたら、
「だって、そうじゃねぇか」
と、鼻をうごめかした。そうして、自慢げに、
「家を建てるには、鉋と鋸が要る。横浜だって、いつまでも焼け跡のままじゃねぇや」
と言ったものだ。
その父親の口癖に、
「鑿《のみ》は、小が大を兼ねる」
というのがあった。断るまでもないけれど、
「大は小を兼ねる」
ということわざを洒落《しやれ》たつもりである。
このことわざは、大きいものは小さいものの役目をすることができるところから、
「大きいもののほうが、融通が利く」
といった意味でもあろうか。そういえば、
「大きいことは、いいことだ」
というCMもあったっけ。
しかし、父親に言わせれば、鑿だけは、そうはいかない。鑿は、小さいものが大きいものの役目をするのである。
たしかに子供に大人の靴は履けるけど、大人に子供の靴は履けないように、大が小を兼ねるものは、捜せばいろいろあるにちがいない。いかに大きいことがいいことであっても、電信柱じゃ爪楊枝の代わりにはなるまい。
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宝の持ち腐れ
飲めばオノレの不遇を嘆くことになる。サラリーマンの酒は、いつも悲しい。
だいたいが、適材適所でないことに対する怒りである。脇で聞いていると、この世は、実に才能ある人間に満ちていて、しかも、それがうまく使われていないみたいだ。
「見る目がない」
と言うべきか、
「見られる芽[#「芽」に傍点]がない」
と言うべきかは知らないが、ホントにモッタイナイことである。会社の人事は、すべからくナワノレンでやったら、どうだろう?
酔って「課長は無能だ」と怒鳴る奴がいる。すると、それに同調する奴がいる。いっせいに「そうだ、そうだ」と言っている。
脇で聞いているうちに、
「課長というのは、無能でなければつとまらないのかなあ」
と思えてくる。有能な[#「有能な」に傍点]人物は、なぜか、みんな、こうして飲んだくれている。
「宝の持ち腐れ」
ということわざは、
「役に立つものを持っているのに利用しないこと」
といった意味である。わが社なんか、まさにその典型ではあるまいか。
もちろん、飲んでオダをあげている連中の言うことがホントならば――の話だ。それがホントかどうかは、わたしにはわからない。
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立つ鳥跡を濁さず
「出処進退」
という。身の振り方や身の処し方のことである。たとえば、
「ある官職なら官職に、あるいは、ある地位なら地位にとどまっているべきか、やめて退くべきか」
といった問題は、おおげさに言えば人生の岐路だけに、誰しも迷う。
ところが、そうした迷いをふっきろうとするかのように、
「立つ鳥跡を濁さず」
という内心の声がする。自分で自分の未練に「みっともないぞ」と言い聞かせているのだ。
鷺《さぎ》などが飛び立ったあとの水辺は、不思議に清く澄んだままである。そんなところから、このことわざは、
「立ち去るものは、自分がいた場所を見苦しくないように始末しておけ」
という意味にも、
「人間、退《ひ》き際がカンジンだ。やめるときは、潔く、きれいに……」
という意味にもなった。
しかし、会社の都合で職場を去らねばならないようなときに、やめさせる側の人間が、このことわざを引用したりすると、無性に腹が立つ。わたしは、二つの会社に勤めて、二つの会社に「やめてくれないか」と頼まれたが、二度ともこのことわざを使われたのには、唖然《あぜん》とした。
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蓼《たで》食う虫も好き好き
蓼は、ハナタデ、イヌタデ、ヤナギタデなど、タデ科の一年草の総称である。蓼八百といわれるくらい種類がある。でも、ふつうタデと呼ばれているのは、刺し身のツマや吸いものにあしらうヤナギタデのことだ。人はこれを香辛料として食するが、とにかく辛い。
正直な話「こんな辛いものを好んで食べる虫などいるはずがない」と思いたいところだが、いるんですね、これが。人間、なにごともアタマだけで判断してはいけない。
そんなことから、
「蓼食う虫も好き好き」
ということわざが生まれた。ものの好き嫌いばっかりは、考慮の外だろう。
これは、男女のことについても言えそうだ。他人からみて「あんな男の(あるいは、あんな女の)どこがいいんだろう?」と思えるような仲でも、当人同士にしてみればピッタシ≠ニいうこともある。
似たようなことわざに、
「面々の楊貴妃」
というのもある。男は誰でも自分の恋人を美人だと思っているところから言うのだが、そういうことなら、
「面々の玄宗皇帝」
ということわざもあってよさそうなものだが、これは、ない。ひょっとしたら、女は必ずしも自分の恋人を好いたらしいとは思っていないのかも知れないぞ。
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他人は時の花
「兄弟は他人の始まり」
という。同じ血を引く兄弟だって、いずれは他人になるのである。
「夫婦は他人」
という。二世を誓った夫婦も、もともとは他人なのである。
したがって、他人が他人であることに不思議はない。他人が他人じゃなかったら、気持ちわるいみたいなもんだ。
「他人は時の花」
ということわざは、
「他人が見せてくれる好意は、一時咲いてすぐに散る花のようなもので、そう長くは続かない」
といった意味である。兄弟だって、夫婦だってアテにならない世の中だもの、他人がアテにならないのはアタリマエである。
他人が他人であることについては、映画『男はつらいよ』で、あの寅さんが言っている。
「俺とお前は違う人間に決まってるじゃねえか。早え話が、お前がイモ食ったって俺のケツから屁が出るか」
そう言えば、兄貴がイモを食ったって、わたしの尻から屁が出るわけじゃない。女房がイモを食ったって、わたしの尻から屁が出るわけでもない。
人間、どんなに親しくしていても、しょせんは他人同士なのである。他人同士だからこそ「仲よくしたい」という考えも成り立つ。
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旅の恥はかきすて
鶴田洋子さんの『おかあさんのことば教室』(筑摩書房刊)を読んでいたら、横浜市日吉南小学校の植垣先生が子供たちに創作コトワザ≠作らせている話が紹介されていた。
子供たちのいわく――
ハゲでなやめばまたハゲる
屁も健康の第一歩
旅のはじも大切
楽が苦になる
なかでも「旅のはじも大切」というのが、気に入った。これは、ひょっとしたら、
「旅の恥はかきすて」
という、もとのことわざよりも秀れているのではなかろうか?
もとのことわざは、良い意味に解釈すれば、
「かいてしまった恥は、仕方がない。旅先のことだから、そんなに気にかけることはない」
ということだ。が、悪い意味に解釈すれば、
「旅先での恥は、その場だけのものだ。だから、多少は恥ずかしいことをやったって構うものか」
ということになる。
良い意味と悪い意味があれば、とかく悪い意味に解釈したくなるのがわたしたちの悪いクセだが、
「旅のはじも大切」
というのには、それがない。恥に対する感覚が子供に及ばないとしたら……おお、恥ずかしい。
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たらしがたらしにたらされる
「すもももももももものうち」(李も桃も桃のうち)
という。言葉遊びのなかの重ね歌(畳語歌)である。ご同類に、
「月々に月見る月は多けれど 月見る月はこの月の月」
「瓜売りが瓜売りにきて瓜売れず 売り売り帰る瓜売りの声」
というのがある。
「たらしがたらしにたらされる」
という言葉も、この重ね歌の一つに数えられるかもしれないが、レッキとしたことわざである。この場合の「たらし」は漢字で書けば「蕩らし」だろう。
よく「女蕩らし」「男蕩らし」と言うではないか。それと同じように「人っ蕩らし」というのもあっていいように思う。相手が男であると、女であるとを問わず、他人を自家薬籠中のものにする。人徳である。
そういうひとには、はじめっから「相手をだまそう」なんてケチな了見はないにちがいない。かりに、そんな了見がチラッとでもみえようものなら、わたしたちは本能的に警戒するか、パタッと心を閉じてしまう。
だいたいが、相手をだまそうとする人間は、欲の皮かナンかが突っ張っていて、どうしたって隙《すき》ができる。その隙を突かれ、
「逆に、相手にだまされる」
ということもありうるのだ。
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追従《ついしよう》も世渡り
「ゴマひとつマトモにすれないような奴は、プロのサラリーマンではない」
というのが、憚《はばか》りながら、わたしの持論だ。
わたくし、サラリーマン生活は二十年しか経験していないが、けっこう上手にゴマをすってきたつもりだった。
だいたい、同僚なんぞに、
「あいつは、ゴマをすってる」
とわかってしまうようなゴマのすり方は、下の下である。ホントウのゴマすりは、ゴマをすられている人間にも、それがゴマすりであることがわからないようにすらなくてはならない。
しかし、まったくわからないような人間を相手にゴマをすったところで、なんの意味もない。わたしがゴマをするのをやめたのは、相手がボンクラで、わたしがゴマをすっているのがわからなかったこともある。
「追従も世渡り」
ということわざは、
「お世辞を言ってへつらうのも、世に処する一つの方便である」
という意味で、なんとなくゴマをすることをバカにしているニュアンスがあるが、さて、どんなものだろう? たしかに人間には、お世辞を言われると、それがお世辞であることがわかっていても喜ぶクセがあるが、そんな奴にお世辞を言ってもはじまるまい。
ゴマをすられるのも、世渡りだ。
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月に叢雲《むらくも》 花に風
「月」
といえば秋の月で、
「花」
といえば春の花、すなわち桜である。歳時記でも、そうなっている。
月については、
「よき月夜照ってや照ってよき月夜」
という回文もある。回文は上から読んでも下から読んでも同じ言葉だ。
花については、
「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」
という、梶井基次郎の文章が強烈である。桜の花があんなに見事に咲くのは、そのためなんだそうだ。
「月に叢雲 花に風」
ということわざは、月が出ると雲がおおい、花が咲くと風が散らすように、浮世のままならぬことのたとえである。同じ意味のことわざに、
「好事魔多し」
というのもあれば、
「花に嵐」
という言い方もある。
唐の于武陵に「勧酒」という詩があって、わが井伏鱒二さんは次のように訳した。
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
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妻の恥は夫の恥
冗談に、
「給与が銀行振り込みになってから、亭主の権威が落ちた。やはり、サラリーマンの女房には、月給日のありがたさを知ってもらわなければ……」
と言ったら、ある女のひとに「給与が銀行振り込みになったぐらいで落ちる亭主の権威なんて、はじめっから落ちたほうがいいのよ。そんなの、ホントの夫婦じゃないんだわ」と言われちゃった。モットモである。モットモすぎて、面白くも、ナンともない。
こっちは、もともと冗談を言っているのだ。ちょっぴりホンネがまじってはいるが、あくまでも冗談は冗談だ。また、ちょっぴりでもホンネがまじっていないような冗談は、冗談としても程度が高いものではない。
「妻の恥は夫の恥」
ということわざも、冗談としては、かなり高級なほうだろう。妻の恥が夫の恥だったら、夫の恥は妻の恥か?
妻に言わせれば、
「妻の恥は夫の恥かも知れないけれど、夫の恥は、やはり夫の恥だわ」
ということだ。よくわからないが、
「たとえやりくりが下手でも恥ずかしくないけれど、月給が安いのは恥ずかしいことだ」
というのである。
いやはや、こんな恥ずかしいことを言う女房を持ったのは、まさに亭主の恥だろう。
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罪を憎んで人を憎まず
「いいか、耳の穴かっぽじってよく聞け。小原の人権、人権というが、吉展ちゃんの人権はどうなるんだい!」
例の「吉展ちゃん事件」で、犯人・小原保の自白を引き出した警視庁捜査一課平塚八兵衛部長刑事(故人)の言葉である。鬼の八兵衛と異名をとった平塚さんは、小原を自白させたあとで、
「こんなオチぎわのいいホシに会ったことはなかった。罪を憎んで、人を憎まず。小原も、可哀そうな人間である」
と語っていたが、さて、どんなものか。
「罪を憎んで人を憎まず」
犯した罪は罪として憎むべきだが、その罪を犯した人間まで憎むべきではない。罪を犯したからといって、そのことだけで彼のすべてを評価してはならない――という意味だが、われわれ市民はともかく、犯人を追う刑事が犯人を憎まなくて犯人に迫ることができるものだろうか? わたしには「吉展ちゃんの人権はどうなるんだい!」と言ったときのほうが、ホントウの平塚さんらしく思える。
吉展ちゃん事件が起こったとき、その前の雅樹ちゃん事件が起こったとき、わたしは新聞記者で、警視庁担当だった。年端も行かぬ子どもが誘拐されて殺されたのである。とてもじゃないが「罪を憎んで人を憎まず」なんてきれいごと[#「きれいごと」に傍点]は、若いわたしには言えなかった。それだけに、このことわざは重い。
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亭主の好きな赤|烏帽子《えぼし》
ホントは一緒にいたいから、夫婦になったんだろう? べつに一緒にいたくなかったら、なにも夫婦になることはない。
亭主が「寒いな」と言えば、女房も「寒いわねぇ」と言う。女房が「暑いわね」と言えば、亭主も「暑いなあ」と言う。それで、いいのである。
ところが、亭主が「寒いな」と言うと、女房が「あたしのせいじゃありませんよ」と言う。女房が「暑いわね」と言うと、亭主が「オレの知ったことか」と言う。これじゃ、なんのために夫婦になったのか?
もっとも、亭主がカラスを見て「あれは、サギだ」と言ったからって、女房も「うん、サギだわ」と調子を合わせるのは、どんなものか。ひょっとしたら、亭主は女房を試しているのかも知れないではないか。
もっとも、亭主が「オレは、赤いカラスが好きだ」と言うぶんには、別である。この世に赤いカラスがいるかどうかは知らないが、彼の好みなんだから、仕方がない。そういえば、そんな彼を好きになった女房だって、ずいぶん物好きですね。
エボシは、ふつう黒いのに、彼は赤く塗ったエボシが好きなのである。認めてやれよ。
ほかに、
「亭主の好きな赤鰯」
という言い方もある。でも、赤鰯[#「赤鰯」に傍点]が好きなのは、女房のほうなんじゃないのかなあ。
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亭主の好きなことを女房は嫌う
たとえば亭主が「こうしよう」と思っているときなど、長年連れ添った女房なら「亭主がこうしよう≠ニ思っているだろう」と思うことぐらいできるだろう。逆に、女房が「ああしよう」と思っているときも、長年連れ添った亭主なら「女房がああしよう≠ニ思っているだろう」と思うことぐらいできる。
そこで、
「亭主がこうしよう≠ニ思っているんなら、ああしてやれ」
「女房がああしよう≠ニ思っているんなら、こうしてやれ」
と思うこともできるのである。そこは、やはり長年連れ添った成果(?)だ。
ことわざに、
「亭主の好きなことを女房は嫌う」
というのがあるが、こういう夫婦は、どんなカップルなんだろう? おたがいに相手の考え方を熟知しているうえに、おたがいにやること、なすこと、相手がイヤがるほうへイヤがるほうへ――と仕向けているところは、やっぱり似てるんだ。
言っちゃナンだが、こういうのもまた「似たもの夫婦」というのだろうか。
そういえば、トルストイが言っていた。
「幸福な家庭はみな似かよっているが、不幸な家庭はそれぞれにちがっている」
さて、わが家は、似てるかな? 似てないかな?
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亭主は達者で留守がよい
ときに、
「結婚というものは、しょっちゅう女房とツラつきあわせているから、飽きてしまうのだ」
と思うことがある。亭主と致しましては、
「これが、結婚前みたいに、たまに女房の顔をみるんだったら……」
と言いたいところだ。
しかし、そういうことなら、女房とて同じ気持ちだろう。女房だって、
「結婚というものは、しょっちゅう亭主とツラつきあわせているから、飽きてしまうのだ」
と思っているにちがいない。そうして、
「これが、結婚前みたいに、たまに亭主の顔をみるんだったら……」
と考えているかも知れないのである。
ただし、女房にしてみれば、結婚前みたいに、自分で働くのはゴメンだ。できることなら、亭主が稼いでくれて、それで「結婚前みたいに、たまに亭主の顔をみる」というのが、理想だろう。
そう言うと、
「そんなバカな!」
という、亭主の声が聞こえそうだが、現実にその理想を叶えている家庭は多い。オドロクなかれ、それも会社の都合で……。
そう、
「単身赴任」
というのが、それである。ホント、会社は女房とデキているのではなかろうか。
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出る杭《くい》は打たれる
その昔、
〈仲間に「野鴨」がいるのはタノシイものです〉
という広告があったのを覚えている。求人広告だった。
〈出る杭を求めます〉
という広告もあった。これまた求人広告だった。わたしなんざ、これらの広告を本気で信じて、
「甘いなあ」
と笑われた。
〈出る杭を求めます〉
といったキャッチフレーズは、
「出る杭は打たれる」
ということわざの逆を言おうとしたものだ。
能力を発揮して頭角を現す者は、とかく嫌われがちだが、
「わが社では、そういう人材こそ求めている」
というのである。いーい広告だった。
それにしても、杭を並べて立てるときは、たいがい高さを揃えようとするから、出すぎた杭は、ほかの杭と同じ高さになるまで打たれる。ときに打ちすぎて、そいつが、ほかの杭より引っ込んでしまうこともある。
そうすると、こんどは、ほかの杭がそいつと同じ高さになるまで打たれ、そのうちのどれか一本が、また引っ込みすぎると……。
世の中、出すぎた奴だけが叩かれるわけじゃない。引っ込みすぎた奴がいると、そいつのせいで、まわりが叩かれることもある。
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冬至冬なか冬はじめ
俳句で、
「彼岸」
というのは、春の季語である。秋分の日をはさんだほうの彼岸は、俳句では「秋彼岸」「後《あと》の彼岸」という。
正岡子規の、
毎年よ彼岸の入《いり》に寒いのは
という句は、だから春の俳句だが、この句には、
「母の詞《ことば》自ら句になりて」
といった前書きがついている。お母さんの呟いた言葉が、そっくりそのまま五・七・五になっていた――というわけだ。
「お彼岸の入りだというのに、まだ寒いなあ」
問うともなしに問うている子規に、
「毎年よ、彼岸の入りに寒いのは……」
と、お母さんが答える。春の彼岸は冬を、そして秋の彼岸は夏をひきずってやってくる。
暦の上では冬の真ん中になっているが、ほんとうに寒くなるのは、十二月二十二日か二十三日の冬至からだろう。そこで、
「冬至冬なか冬はじめ」
ということわざが生まれた。
冬至には、柚子《ゆず》湯に入る。柚子の皮を風呂に浮かべて入れば、体があたたまって風邪をひきにくい。これぞ庶民の知恵である。
「冬至に南瓜《かぼちや》を食べると中風が治る」
ともいうが、こっちは、べつに根拠はないらしい。
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蟷螂《とうろう》の斧《おの》
「恐妻」
という。断るまでもなく、いまは亡き評論家・大宅壮一さんの造語である。
昭和二十年代後半、群馬県の青年団幹部が講演依頼のため大宅邸を訪ねた際、
「群馬県を象徴するような観光名物を考えてくれませんか」
と頼んだ。とたんに、大宅さんは、カラッ風をカカア天下で有名な群馬県出身の元NHK会長・阿部真之助さんの名を挙げ、
「彼を会長に恐妻会を結成し、恐妻碑を建てて、そばで素焼きの皿を売ったら、どうだ?」
と提案した。「それで、日ごろから女房に痛めつけられている男どもは、皿に女房の名を書いて、この碑にぶっつけるんだ」
失礼ながら、
「蟷螂の斧」
ということわざを思い出した。弱者が自分の力をわきまえず、強者に刃向かうさまである。無謀で、身のほど知らずのおこないをすることのたとえでもある。
大宅さんの、せっかくの案も、実現はしなかった。地元の婦人会のモーレツな反対に遭ったのである。
新聞の投句欄で、
蟷螂の生くることとは怒ること
というのをみつけた。作者の名は忘れたが、選者の名は覚えている。鷹羽狩行さんである。鷹羽さんも、恐妻家なんだろうか?
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遠くて近きは男女の仲
山口瞳さんの短篇小説『窮すれば』に、
「そのあと、私たちは、夫婦ではあっても男女ではなくなった」
という文章がある。なにやらイミシンである。
これを読んで、
「夫婦なら、男女のはずじゃないか」
と言いきることができる人は、幸せなんだろう。人間、夫婦であっても男女でないことは、間々ある。
「だったら、夫婦の意味がないだろう」
と言うに至っては、どうにもならない。この世には、
「男女ではないから、夫婦でいられる」
という仲だってあるのだ。
ことわざに、
「遠くて近きは男女の仲」
という。男女の仲は「意外に結ばれやすい」ともとれるし、あるいは「遠いようにみえて、近い」ともとれる。
昔は、これに
「近くて遠きは田舎の道」
とつづけたものだ。ホント、あのころは、ものを思わなかった。
いまだったら、
「近くて遠きは夫婦の仲」
とつづけるだろう。夫婦の仲は「意外に結ばれにくい」ととってくれても結構だし、あるいは「近いようにみえて、遠い」ととってくださっても、構わない。
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時は金なり
「時は金なり」
ということわざの「時」は「疾《と》き」ではないか――といった説がある。あの「疾きこと風の如し」の「疾き」である。
されば、
「時は金なり」
ということわざは、
「疾きは金なり」
ということになって、おカネの逃げ足の早さを説明しているわけである。ホント、あいつら、いまフトコロに入ったと思ったら、あっというまに出ていってしまう。
それで「時は金なり」を英語で言うと「タイム イズ モウネェ」と言うんだな――というのは、あまりにもヘタなシャレだろう。
おカネは、有っても邪魔なものでは、けっしてない。そんなにたくさんは要らないけれど、少しは有ったほうがいい。
チャールズ・チャップリンの映画『ライム・ライト』のなかでも、貧しくて自殺を図ったバレリーナ志願の少女に、チャップリン扮する老芸人が、
「人生で必要なものは、勇気と想像力と、それからホンの少しのお金だ」
と言うではないか。それも、わがチャップリンは、ちょっぴり怒ったような口調で言うのである。
勇気と想像力に、カネはかからない。でも、少しのお金には、カネがかかりそうだ。
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毒食わば皿まで
「毒食わば皿まで」
ということわざは、
「毒食わば皿まで食え」
ということの略ではない。いくらナンでも皿は食えない。
これは、
「毒食わば皿までねぶれ」
ということの略である。いったん毒を食べたからには、
「その毒のついた皿までなめまわせ」
といった意味である。なんだか化けネコが舌なめずりしているみたいで、気色わるい。
「どうせ悪事を働いた以上は、やぶれかぶれだ。徹底的に悪事を働いてやれ」
という意味にもとれるし、
「やりかけたことは最後までやらなきゃ駄目じゃないか」
といった意味にもとれる。
「毒を以て毒を制す」
その毒を殺すには、それより強い毒を使うのも一つの方法だろう。悪を倒すに、悪を用いることのたとえだ。
シェイクスピアの『リチャード二世』に、
「毒を必要とするものも毒を愛しはせぬ」
というセリフが出てくる。のちのヘンリー王のために、リチャード二世を殺してきた家来のエクストンに向かって、ヘンリーが言うセリフである。やはり、毒食わば皿までねぶらねばなるまいか。
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所変われば品変わる
東京の友人に、
「おまえ、アホか」
と言ったら、ひどくイヤな顔をされた。彼に言わせると「おまえ、バカか」と言うんならトモカク「おまえ、アホか」とはナニゴトだ――というのだ。
これが、大阪で、
「おまえ、バカか」
と言おうもんなら、もっと大変である。それそこ色をなして怒られる。バカは、アホよりバカなんだそうだ。
ことわざに、
「所変われば品変わる」
というが、この場合の「品」は呼び名のことだ。土地によって、風俗、習慣が違うように、呼び名も、ことばの受け止め方も違う。
あまり大きな声では言えないが、女性の性器の呼称も、そうだろう。こっちがさりげなく使ったことばに、傍らの女性がすごくテレたので、改めて出身地を訊き出し、ナットクしたこともある。
古歌に、
草の名も所によりてかはるなり
なにはのあしは伊勢のはまをぎ
というのがあるように、難波で葦と呼ばれている植物は、伊勢では浜荻と称されている。このアシは、縁起をかついで、ヨシとも言う。悪し[#「悪し」に傍点]ではなくて、善し[#「善し」に傍点]なんだそうだ。
難波のボラは、伊勢のミョウギチでもある。
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年寄りの冷や汗
いいか、わるいかは別として、妻子のためにヤミクモに働いてきた。働くことが妻子の幸せに通じると信じて、いっしょうけんめい働いてきた。挙句の果てが定年で、なんと粗大ゴミ∴オいである。
そんなときだ。彼の心の底に「いっそボケることができたら」という気持ちが湧きあがるのは……。
「ボケは、神様がくれた贈り物」
と言ったひともいる。ボケてしまえば、会社で辛かったことも、妻子の冷たいことも、いっぺんに忘れてしまえるのではないか。
「女のひとに比べて、男のほうがボケ老人になる可能性が高い」
という話を聞くたびに、そんなことを考えてきた。わたしもまた、似たようなもんである。
「年寄りの冷や汗」
ということばを耳にした。もちろん「年寄りの冷や水」のもじりである。
「年寄りの冷や水」
というのは、老人が若者のように冷や水を飲んだり、浴びたりすることだ。どうしたって無理が生じる。その結果、冷や汗をかくのが「年寄りの冷や汗」だろう。
ボケてしまえば、冷や汗も冷や汗と感じない。若いときと同じように働けるつもりでいて、げんに働いてみせる。それが、残念ながらカラまわりとも知らずに……。
こういうのを「ボケの頑張り」という。
[#改ページ]
年寄りの冷や水
「実年」
と言うんだそうな。厚生省が音頭をとって決めた五十代、六十代の呼称である。とっさに、
※[#歌記号、unicode303d]あれは 虚年[#「虚年」に傍点]のことだった
という文句が思い浮かんだから、世話はない。わたしも、古いね。
「熟年」
というのは、たしかに熟柿に似て、落ちる寸前みたいだから、イヤがる気持ちはわかる。が、実年というのも、どうか。
「いっそのこと定年≠ナいいじゃないか」
と言ったのは、定年直前のサラリーマンである。トーゼンのことながら窓際族だ。
素直に、
「老年」
と言いたい。老年の「老」は、老酒の「老」で、ちょっぴり尊敬の念もこもっている。
俗に、
「成人病」
という。高血圧、心臓病、ガンなど、あれは、あきらかに老人病である。
しかし、
「老人病」
と呼ぶのは、いかにも曲がないので「成人病」とした。これも、厚生省あたりの知恵か。
されば、
「成人向き映画」
というのは、ホントは老人向き映画?
こういうのを「年寄りの冷や水」と申します。
[#改ページ]
捕らぬ狸の皮算用
タレントの山田邦子さんに、
「どんな男性と結婚したい?」
と訊いたことがある。そうしたら、
「いまはビンボーでも、いつか金持ちになることがわかっている人がいいですねぇ」
ということだった。
もちろん冗談だろうが、こっちは思わず「冗談じゃない!」と叫んでいた。
「結婚の相手なんて、海のものとも山のものともつかない奴がいいんだ。そういうのと一緒に苦労してこそ結婚じゃないか」
そして、つけ加えた。
「それに、いつか金持ちになることがわかっている人なんて、いるだろうか? かりにいたとしても、きみのところまでまわってくるだろうか?」
ちかごろの若い女性が望む結婚相手の像は、
「三高男」
といって、身長、学歴、年収が高いことなんだそうだ。ご自分はどんないい[#「いい」に傍点]女か知らないが、ずいぶん勝手なことを言うものだ。
ことわざにも、
「捕らぬ狸の皮算用」
という。まだタヌキを捕りもしないうちから、
「皮がいくらで売れる?」
と計算することである。若い女性たちの結婚の条件を聞いていると、なんだかタヌキが計算しているような気がして仕方がない。
(こんなこと書いて、タヌキに怒られないかな)
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虎の尾を踏む
一九八五年(昭和六十年)のプロ野球セ・リーグは、二十一年ぶりに阪神タイガースが優勝し、おまけにパ・リーグの西武ライオンズまでやっつけ、日本一になって、吉田采配の「放任野球」ということが話題になった。西武ライオンズ広岡達朗監督の「管理野球」に対する「放任野球」だった。
しかし、わたしに言わせれば、阪神タイガース吉田義男監督は、暴れモンの掛布や岡田を管理したくても、
「できなかったんだ」
という気がしてならぬ。それが、たまたまいい結果≠ノつながっただけのことではあるまいか。
ことわざに、
「虎の尾を踏む」
というのがある。非常な危険を冒すことのたとえだ。要するに、
「オッカナビックリ」
ということですね。見方によっては「屁っぴり腰」と言えないこともない。
だが、監督の逡巡のおかげで選手たちが伸び伸びやれたんだから、結構なことだ。それこそ、
「結構毛だらけトラ灰だらけ」
と言いたいくらいのものだ。
「ニッポン株式会社の管理職諸君! 逡巡もまた管理上の大切な才能ですゾ」
とは、ちと言い過ぎかな?
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ドングリの背くらべ
ルナールの『にんじん』(岸田国士訳、岩波文庫)が好きだ。とくに丈くらべのところが好きだ。
「子供たちは丈くらべをしている」
と、わがジュウル・ルナールは書いている。
「一と目見ただけで、兄貴のフェリックスが文句なしに首から上ほかのものより大きい。しかし、にんじんと姉のエルネスチイヌとは、一方がたかの知れた女の子だのに、これは肩と肩とを並べてみないとわからない。そこで、姉のエルネスチイヌは、爪先で背伸びをする。ところが、にんじんは、狡《ずる》いことをやる。誰にも逆らうまいとして、軽く腰をかがめるのである」
正直な話、子供のころに、はじめてここを読んだときは、それこそ頭から水をぶっかけられたような気持ちだった。学校で、それまで爪先で背伸びをするみたいな生活をしていた自分が恥ずかしくなったのだ。
それにしても、爪先で背伸びをすることを、
「狡いことをやる」
と言うんならイザ知らず、ルナールは、誰にも逆らうまいとして、軽く腰をかがめることを、
「狡いことをやる」
と言っているのである。ホントに驚いた。
ドングリの背くらべは可愛いが、にんじんの背くらべは可愛くない。ドングリの背くらべはどうってこともないが、にんじんの背くらべはコワい。
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飛んで火に入る夏の虫
「飛んで火に入る夏の虫」
ということわざに出てくる夏の虫≠ヘ、やはり蛾のことだろう。が、なぜ蛾が火の中に飛び込み、みずから焼け死んでしまうのかは、蛾に訊いてみなければわからない。
蛾で思い出すのは、女のひとの化粧している姿である。コンパクトを開いて、鼻のあたまのあたりをパフでパタパタやっているのをみると、
「女は蛾なんだな」
と思う。皮膚から鱗粉が飛び散るようだ。
蝶と蛾のちがいについて、
「蝶は翅を合わせて止まるけれど、蛾は翅を広げたまま止まる」
と言うひともいるが、これは、あんまりアテにならない。翅を合わせて止まる蛾もいれば、翅を広げたまま止まる蝶もいる。
「夜の蝶」
といえば、酒場の女性たちのことだ。川口松太郎さんに、銀座の酒場の女性たちの生態を描いた『夜の蝶』という小説がある。
されば、
「夜の蛾」
というのは、なんのことだろう? もしかすると、オフィス・ラブとやらにうつつを抜かしているOLのことか。
そういうことなら、このことわざがみずから進んで禍《わざわ》いに身を投じることのたとえである意味がよくわかる。
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無い袖は振られぬ
明治の文豪・夏目漱石が、東京帝国大学の講師だったときのことだ。講義中、いつでも懐手をして聴いている学生がいる。たまりかねて漱石が注意したところ、隣の席の学生に、
「先生! この人は小さいときにケガして、手がないんです」
と教えられ、漱石先生、とっさに、
「こっちも無い知恵≠絞って講義しているんだから、たまにはきみも無い腕≠ョらい出してくれたまえ」
と、やり返したそうな。
この話、最近、モデルが名乗り出たことですっかり有名になってしまったが、さて、当節だったら差別*竭閧ェからみ、果たして冗談(?)で済んだか、どうか?
ところで、漱石が、
「無い知恵を絞って」
と言ったのは、もちろん、
「なにかしようとしても、ものがなかったり、能力がなかったりしたら、どうにもならない」
といった意味の、
「無い袖は振られぬ」
ということわざをもじってのことである。言ってみれば、まあ、無いものねだりでもあるわけですね。
このことわざ、もとをただせば、別れに際し、名残を惜しんで袖を振ろうにも、その袖がなくて、振ることができぬ――という悲痛な意味ではなかったか?
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長い物には巻かれろ
「会社は選べても、上役や同僚は選べぬ」
というのが、サラリーマンの宿命である。とくに上役は選ぶことができない。
念願の会社に入って、希望に胸ふくらませたのはよいが、サテ、
「実際に配属されてみると、イヤーな上役だった」
といったようなことは、ま、サラリーマン社会なら日常茶飯事だろう。いや、お気の毒!しかし、サラリーマンにとって、果たしていい上役≠ネるものは存在するのだろうか? かりに上役と名がつけば、みんなイヤーな上役≠ノなってしまうのではなかろうか?
そういう場合は、オノレを殺し、ちいさくなっているに如《し》くはない。できることなら相手に摺《よ》り寄って、お世辞の一つも言うことだ。
「長い物には巻かれろ」
ということわざは、もともとは「長い物には巻かれる」という、ごくアタリマエのことを説明する言葉だったらしい。それが、長い年月のうちに、
「威勢の強いもの、権力のあるものには、おとなしくしていたほうがリコウだ」
といった庶民の知恵をあらわす意味で、命令形に変わってしまったのだろう。
なんとなく卑屈で、なんとなく諦めに似た境地を思わせ、開き直ったふてぶてしさが感じられないのが悲しい。とてもじゃないが、好きなことわざとは言えない。
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泣く子と地頭には勝てぬ
相手が捨てた牌がアタリだったので「ロン!」と宣告した。黙って満貫である。
すると、慌てて引っ込めたから、
「それは、ないだろう」
と、抗議した。が、相手はテンとして恥じぬ。
「汚え!」
思わず叫んだら、ギャーギャー泣き出した。
とたんに社長が飛んできて、
「どうした?」
と言うではないか。
そこで、
「カクカクシカジカです」
と説明したが、社長はニヤニヤ笑って「ま、カンベンしてやれ」と言うだけである。いくら社内のマージャン大会で、いくら相手が女の上役だからといって、こんなのは許せない。
「泣く子と地頭には勝てぬ」
ということわざは、こんなときのためにあるのだろうか? 地頭は、平安、鎌倉時代、荘園の管理をした者のことで、いまで言えば権力者に当たる。
わたしの場合は、子供どころか地頭、いや、上役に泣かれたんだから、どうにもならない。まして、彼女が後に社長夫人になるなんてことは、これっぽっちも知らなかったんだから、処置ナシだ。
以後、わたしは、どんなことがあっても社内のマージャン大会には参加しなかった。それが、せめてものわたしの抵抗だった。
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無くて七癖
1 ズボンをずり上げる
2 人前なのにハンカチで鼻をかむ
3 書類をめくるとき指にツバをつける
というのが、女性社員から嫌われる男性上司の三大クセだそうな。ベスト3ならぬワースト3である。
割り箸《ばし》を割って左右に持ち、チャッチャッチャッとやるのも、イヤなクセだ。おしぼりをビニールの袋から出すとき、ポンと音をさせるのも、好かない。ビールの栓を抜く前に、栓抜きで栓を叩くのも、耳ざわりである。
「無くて七癖」
ということわざは「有って四十八癖」とつづけて言う場合もある。人間、クセが一つもない者はいない。クセのない人でも七つくらいはあるし、多い人なら四十八くらいある――という意味である。
「それにしても無くて七癖≠ニきたら、七倍して有って四十九癖≠ニ言えばいいのに、なぜ四十八癖≠ネのか?」
と言ったりするのも、やはり、一言多いクセだ。これも、あんまりいいクセじゃない。
電車やエレベーターの中で髪を振るのも……と書きかけて、
「若い女の人は別だ」
という内心の声を抑えることができない。あれ、男の場合はホントにイヤだけれど、女のひとの場合は、そうでもない。
女のひとにとっては、どうなのだろうか。
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情けは人の為ならず
もともとは、
「他人に情けをかけておけば、それがめぐりめぐって必ず自分によい報いがくる」
といった意味だが、ちかごろは、
「なまじ他人に情けをかけると、甘える気持ちが生じて、その人のためにならない」
というふうに解釈する連中がふえてきた。なんとなく、わからないでもない。
――新聞記者時代、それもデスクをやっていたときだった。部下の細君がやってきて、
「亭主と別れたい」
と言う。
よせばいいのに、わたしは彼女に彼の嫌いなところを挙げさせ、それから好きなところを一つ一つ挙げさせた。すると、バカらしいことに、好きなところのほうが多いではないか。
「あら、あら!」
彼女は自分の意外な発見に、
「離婚は思いとどまります」
そう言って、帰って行った。わたしが胸を撫でおろしたのは、言うまでもない。
ところが、しばらくして部内でわたしに対する排斥運動が起こり、
「その急先鋒が彼だ」
と知ったときの驚き! わたしは、いまさらのように「あのとき、あいつを離婚させておけば……」と思ったものだ。
情けは、わたしのためにもならなかったのである。
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夏の伊達《だて》は貧者もする
「伊達の薄着」
という。見栄を張る者が、着ぶくれてカッコわるくなるのを嫌い、寒いときでも無理して薄着をすることである。
「伊達」は、現代風に言えばダンディだろう。ダンディであるのも、これで辛いものだ。
「伊達」が、NHKテレビでやっていた大河ドラマ『独眼竜政宗』にちなんでいる――ということについては異論がある。伊達政宗たちがハデな服装で人目を引いたことは事実だが、ことわざの「伊達」は、動詞立つ≠フ連用形の立て≠ェ濁ったものらしい。
言っちゃナンだが、冬の日に薄着をしてても、男が立たなきゃ伊達≠ニは言わないのである。ますます男は辛い。
しかし、夏の薄着なら、なにもダンディでなくったって、できる。そこで、
「夏の伊達は貧者もする」
ということわざが生まれた。この場合の「貧者」は、文字どおり貧乏人≠ニいうふうに解釈するのも構わないが、ちょっと気どって心貧しき者≠ニいうふうに解釈したら、どうか?
できる見栄なら、誰だって張る。できる我慢なら、誰だってする。見栄にしろ、我慢にしろ、並みの者にはできないことでなければ、価値がない。
わたしが据え膳食わないのも……なに、据え膳などにお目にかかれないからだ。
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七転び八起き
「七転び八起き」
ということわざは、
「七たび転びて八たび起きよ」
とも言う。七度転んで八度起きることだ。
「だから、結局は起きるのだ」
と教わったが、待て、しばし。どう考えても、計算が合わない。七回転んだのなら七回起きれば、それでいいではないか。
金子武雄さんの『日本のことわざ』によると、
〈「七」は例の通り、別に必然的な定数ではないが、この場合、多からず少なからず適度な数である。「八」はそれより一つだけ多いところに意義がある〉
ということだ。なんだか「一つだけ」なんてケチくさいような気もするが、要は、
「何度失敗しても、挫《くじ》けずに立ちあがれ」
という意味である。
それにしても、七難八苦、七転八倒、七縦八横、狐七化け狸は八化け、七細工八貧乏、七重の膝を八重に折る……といったふうに、この国のことわざは、なぜか「七」と「八」がセットだ。ホント、都々逸にも、
※[#歌記号、unicode303d]七つ八つからイロハを習い
イの字忘れてロハばかり
というのがある。
もっとも、これ、忘れたのがイの字だからいいが、
※[#歌記号、unicode303d]ハの字忘れてイロばかり
というんじゃあ……。
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七つ下がりの雨
「七つ下がりの雨」とは、夕方、四時すぎに降り出した雨のことである。こいつは、朝の雨とちがって、やみそうで、なかなかやまない。
そんなことから、四十歳すぎてからの浮気にたとえられ、
「七つ下がりの雨と四十過ぎての道楽はやまぬ」
と言われたり、
「四十過ぎての道楽と七つ下がって降る雨は止みそうでやまぬ」
と言われたりする。中年になってから覚えた浮気の味は、若いころのそれとは異なって、やめたくてもやめられないものらしい。
ちかごろ、
「熟年の離婚」
ということが言われる。熟年すなわち中年で、そのほとんどは、夫なり、妻なりが、妻以外、夫以外の異性に魅《ひ》かれてのことだ。
あるひとが当事者を窘《たしな》め、
「若いときの過ちは簡単に取り返しがつくが、分別ざかりの過ちはお互いに不幸じゃないか」
と言ったら、
「イエ、若いときに結婚したことが過ちだったんです」
という答えが返ってきたそうだから、処置ない。言っちゃナンだが、これは、かなりの重症である――と書きかけ、
「そういえば、そんな気がしないでもないなあ」
と思いはじめている。わたしもまた、中年である。
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生兵法《なまびようほう》は大怪我のもと
生兵法の「生」は「未熟」とか「不十分」という意味だろう。要するに、ナマなのである。
だから、
「生兵法は大怪我のもと」
ということわざは、
「なまじっか少しばかり武術を知っていると、それに頼ってしまって、大怪我の原因となる」
という意味だ。現代なら「運転未熟なドライバーは事故のもと」といったところか。
アメリカの男性が結婚相手の女性に求める条件の一つに、
「自動車の運転ができること」
というのがあるそうな。
「なぜ?」
と訊いたら、
「だって、夫婦ゲンカなんかやった場合、ヒステリーを起こし、ひとりでクルマに乗って突っ走り、事故を起こしてくれるじゃないか」
ということであった。もちろん冗談だが、生半可なことでは自動車の運転もできない。
この「生半可」は半可通の上に「生」がついたものだろう。半可通は、よく知らないのに知ったふりをすることで、その上に「生煮え」の「生」がつくんだから、はんか[#「はんか」に傍点]くさい。
「生兵法は大怪我のもと」
ということわざに似たのに、
「水を知る者は水に溺る」
というのがある。なまじ水に慣れるから溺れてしまうのだ。
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生酔い本性|違《たが》わず
「酒の上の過ち」
ということが許せない。酒を飲んで過ちを犯すような奴に、酒を飲む資格なんてない。
飲めば飲むほど、心が澄んでくる。わたくし思うに、わたしの胸の底には、ホントは、じつにきれいな心があって、そいつは、もっと飲まなければ顔を出してくれないのである。
「生酔い本性違わず」
ということわざは、
「たとえ酒に酔っていても、本来の性質は変わらない」
ということである。この「生酔い」の「生」は「少し」ということだが、転じて「ひどく」という意味にもなるらしい。
どうして「少し」が「ひどく」に転じるのかは、柴田武さんの『知ってるようで知らない日本語』(ゴマブックス)にも出ていない。
この「生」は生意気の「生」なのか。
とにかく、生酔いとは酔いつぶれない程度に酔うことだ。ホント、酔いつぶれてしまっては、本性も、なにもない。
いや、そうじゃなかった。わたしの本性は、それはきれいなものなのだが、こやつ、酔いつぶれない程度に酔っていたんでは、顔を出してくれないから困っていたんだった。
※[#歌記号、unicode303d]お酒のむ人 しんから可愛い
呑んでクダまきゃ なお可愛い
と都々逸にも言う。このクダは「くだらない」のクダか。
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ならぬ堪忍するが堪忍
「ならぬ堪忍するが堪忍」
ということわざを、
「奈良の観音、駿河の観音」
と覚えていた。そうして「どうして奈良の観音が駿河の観音なんだろう?」と悩んでいたんだから、世話はない。
「日本語に訳すと狡猾≠ニいう行為だ」
とも教わった。いわゆるカンニングだ。
そこで、試験前、英語の教師は言ったものだ。
「いいか、この狡猾≠ニいう行為をやってはイカンぞ」
しかし、わたしたちは、銘々腹の中で呟いていた。「なあに、ならぬカンニング、するがカンニングだ」
ところで、
「忍の一字」
という小噺があるのを、ご存じか? 一人が、
「忍の一字は……」
と言いかけたら、誰かが、
「ニンなら二字じゃないか」
と、まぜかえしたのである。やむをえず、
「忍は忍ぶ≠セ」
と説明すると「シノブなら」と、シ・ノ・ブと指を折ってみせ「三字だ」
しょうがなくて、
「堪忍の忍」
と言ったら、こんどは、
「カ・ン・ニ・ンなら、四字だ」
と笑ったので、堪忍できずに殴っちゃった。
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似合う夫婦の鍋の蓋
「手鍋提げても」
という。惚れた男が相手なら「つましい暮らしも厭わない」という女心を形容した言葉だ。
なぜか夫婦のことを言う場合にはナベが引き合いに出される。ナベは所帯道具の代表なのだろうか。
「割れ鍋に綴じ蓋」
というのも、似合いの夫婦のことだろう。ひびの入ったナベには、それにふさわしく修繕したフタがついていて、うまく調和がとれている。
夫婦だって、おたがいに欠点はある。その欠点を仲よく補い合って、はじめて夫婦は一人前になる。
これが、おたがいに欠点のない夫婦だったら面白くないだろうな。おたがい、欠点だらけで、よかったね。
それは、まあ、それとして、
「似合う夫婦の鍋の蓋」
ということわざは、そのナベにピッタリのフタがあるように、
「その夫には、ピッタリの妻がいる」
といった意味である。いや、この場合、ナベは妻で、フタは夫だから、
「その妻には、ピッタリの夫がいる」
と言うべきか。
「夫婦は従兄弟《いとこ》ほど似る」
ともいう。夫婦は一緒に暮らしているうちに、考えも、形も似てくるのだろうか。
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二階から目薬
いつも不思議に思うのは、目薬をさすとき、なぜか一緒に口をあける人がいることである。目薬が口に入ってしまわないかと、こっちは、よけいな心配をしている。
ことほど左様に、目薬をさすのは、自分でもむずかしく、もどかしいものだ。まして、二階から階下にいる人間に目薬をさすとなると、大変である。
「二階から目薬」
ということわざは、だから、できないこと、しても無駄なことのたとえだ。あるいは、迂遠で効果のないこと、または不適切なやり方のたとえでもある。
目薬で思い出すのは、例の落語だ。効能書きに「めじりにさす」とあるのを「女の尻にさす」と読み、わざわざ女房に尻を出させ、女房の尻に目薬をさす。あまりのこそばゆさに、思わず女房が一発放つと、目薬はみごとに亭主の目に入る……。
「隔靴掻痒」
という言葉も、これに近い意味だろうか? 靴を隔てて痒《かゆ》いところを掻《か》くのは、いかにももどかしく、じれったい。まして、水虫かナンかにかかっていれば、なおさらだろう。
「香港に、あの手塚治虫の海賊版が出まわっている」
というので、かの地の書店で「手塚治虫の本」と書いてみせたら「水虫が治る本」を持ってきたのにはビックリした。
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逃がした魚は大きい
「逃がした魚は大きい」
ということわざを聞くたびに、虫のオケラを思い浮かべる。子供のころ、わたしたちはオケラをつかまえては、
※[#歌記号、unicode303d]おまえのキンタマ どーんくらい?
と歌ったものだ。
すると、オケラのやつ、マジメな顔をして、前肢を一杯にひろげてみせる。それが、
「こーんくらい」
と答えているようで、ヘンにおかしかった。
このことわざは、
「釣り落とした魚は大きい」
とも言う。釣り上げた魚よりは、釣りそこなった魚のほうが大きく感じられる。
男と女のことだって、そうである。得た恋よりは、失った恋のほうが甘美に感じられる。得た恋はほとんどなくて、失った恋ばかりだから、なおさらそう感じられるのだろうか。
――女房とは、職場結婚である。なんだか釣り堀で釣ったみたいで、アホらしい。
女房にしてみれば、
「釣ったのは、あたしよ」
と考えているかもわからない。そうして、釣り落とした魚に思いを馳《は》せていたりして……。
「釣った魚にエサをやるバカはいない」
といった言い方もある。そういえば、結婚したとたんに、うちのカミさんは、わたしにロクなものを食わしてくれないようになったなあ!
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憎まれっ子世にはばかる
ふざけて、
「憎まれっ子世にはばかる」
というところを、
「憎まれっ子世にはびこる」
と言ったら、この「はばかる」には「はびこる」という意味があるんだそうだ。べつに、ふざけたことにはならなかったみたいで、拍子抜けした。
他人から憎まれるような奴が、かえって世間ではハバを利かしているようだ。また、そういうような奴でなければ、なかなか自分の意志は通せない。
そう言ったら、
「その点、オレなんざ気が弱いから駄目だなあ」
と呟いた男がいる。みんなの前で、こういうことが平気で言えるような男は、気が弱いどころか、ホントは気が強いんじゃないかしら。
それにしても、
「憎まれっ子世にはばかる」
という言葉のニュアンスは「憎まれっ子がデカい面をしている」というよりは「憎まれっ子がワンサカいる」というほうに近いんではなかろうか? なんだか、いじめっ子がいっぱいいるみたいで、おぞましい。
しかし、現実には、いじめっ子よりは、いじめられっ子のほうが多い。その証拠に「オレはいじめられた」と言う奴にはお目にかかるが「オレはいじめた」と言う奴には会ったことがない。
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二度あることは三度ある
「二度あることは三度ある」
という言葉は、文字通り解釈すれば、
「同じようなことが二度つづけてあったときは、必ずもういちど繰り返される」
ということだ。失礼ながら、これだけではことわざにはならぬ。そこに、
「したがって、悪いことは繰り返し起こるぞ」
といった意味が加わってはじめてことわざとなる。どちらかと言えば、悪いことが連続して起こることへの注意なのである。
ところが、若い人たちのなかには、これを誤解して、
「いいことは何度でも起きる」
というように受け止めているものもいるらしい。なんとも楽天的なことだ。
ホントに「二度あったことが三度ある」という保証はない。考えてみるまでもなく「二度あっても三度とない」ということのほうがはるかに多いだろう。
それでも、
「二度あることは三度ある」
と言うのは「これで二度もあった。さあ、もういちどあるぞ」というふうにも「二度つづいたと思ったら、ほら、もういちどあった」
というふうにも、自分に言い聞かすことができる。前のほうは予想で、あとは回顧か。
一つのことばが予想にもなり、回顧にもなるところに、ことわざの面白味があるのだろう。それが、人間の知恵だ。
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二兎を追うもの一兎を得ず
ちかごろは、ネコもシャクシも、
「一個二個」
と数える。失礼ながら、ネコは一匹二匹、シャクシは一本二本だ。
ウサギは、一羽二羽である。ウサギを一羽二羽と数えたことについては、
「ウサギの毛がフワフワしているから」
ということもあるが、ケモノを食べてはいけない時代にウサギだけは例外で、
「あれは、鳥なんだ」
と、自分にも、他人にも言い聞かせていたようなフシがある。
そうすれば、ウサギも食べることができたのだろう。ひょっとしたら、鹿だって、猪だって「一羽二羽」と数えていたのかもわからない。
そのウサギを捕まえるのに、
「あっちのウサギも、こっちのウサギも……」
というふうに追いかけていたんでは、結局、両方とも逃がしてしまうことになる。俗にいう「アブハチ取らず」である。
クモのやつ、巣にかかったアブも、ハチも取ろうとして糸を出しはじめるが、残念ながら、両方とも巻きそこなう。
いや、それだけではない。そうやってワッサワッサやっているところを鷹に狙われ、エサにされてしまう。
恋だって、そうだ。いっぺんに二人も三人も構うな! 一人ぐらい、こっちに廻せ。
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濡《ぬ》れ手で粟《あわ》
知り合った紳士に、
「どうです? ひとつ株でも買いませんか」
と誘われれば、彼のことだから、
「そんなカネはないよ」
と断ったろうと思う。とたんに、相手は、
「おカネなら、貸してあげますよ」
と言う。
しかも、この株は公開前で、まず値上がりはまちがいない。値上がりしたところで売れば、黙っていても儲《もう》かる仕組みだ。
そこで、
「そんな濡れ手で粟≠ンたいなこと!」
と、彼はことわざを使って尻込みをしたかも知れぬ。このことわざは、水に濡れた手で粟をつかめば、つかんだ以上にどっさりついてくるところから、何の苦労もなしに多くの利益を得ることのたとえである。
しかし、どうにも落ちつかないので、
「なんか法律に触れるんじゃないのか」
と念を押すだろう。すると、相手は、
「ぜったいに触れない」
と保証する。
そうまで言われて、この株を買わない人間がいたらお目にかかりたい。いわゆる「リクルート疑惑」は、こうして起こった。
その結果、司直に調べられた日には、政治家たるもの、慌《あわ》てざるをえまい。濡れ手で粟をつかもうとして、アワを食ったんでは、シャレにもならぬ。
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濡れぬ先こそ露をも厭え
「濡れごと」
という。芝居で演ずる情事の仕種《しぐさ》だ。
「濡れ場」
という。その濡れごとの場面、ベッドシーンである。
そして、
「濡れ師」
という。濡れごとを演ずる俳優、転じて情事に巧みな者、うまく女をたぶらかす男のことだ。いまは、男もすなることは女もするから、男をたぶらかす女のことも言う。
「濡れる」
という言葉には「ものに水がかかる。またはかかって滲み込む」という意味もあるが「男女が情を通ずる。いろごとをする」という意味もあるのである。このことわざの「濡れる」は、もちろん、両方にかけてある。
雨に濡れる前は、少しでも濡れるのを嫌って露も避けようとするが、いったん濡れてしまうと、露を避けるどころか、濡れることなど気にせず、雨の中をズブ濡れになって歩く。
それと同じように、あんなにカタかった人がいったん味を覚えてしまうと……。
それでも、濡れた相手と添い遂げられれば、いい。これが、たまたま相手に亭主がいたり、妻子があったりしたら?
よく知らないが、女のひとのほうが夢中になる度合いは強いらしい。しかし、ウンザリする度合いは、男のほうが強いみたいだ。
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猫は三年の恩を三日で忘れる
古来、男の詩人たちは、ネコを女性にたとえた。ヴェルレーヌもコクトオも、近寄ろうとすれば逃げてゆく女性をネコに見立てた。
「そのくせ用がないときは向こうからやってくる」
同じ愛玩動物でも、イヌのほうは人間に仕える動物として飼われているが、ネコは人間が仕える動物として飼われているみたいだ。いやいや、ネコには「飼われている」といった意識さえないのではないか。
ことわざでも、
「犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ」
というのに対し、
「猫は三年の恩を三日で忘れる」
といわれるように豪快だ。一年飼われたぐらいじゃ、一日で忘れてしまうかも知れぬ。
「犬は人に付き 猫は家に付く」
ともいう。イヌは飼い主になつくのだが、ネコは住居になつくのである。
そんなところも、男の詩人たちが、女性をネコに、いや、ネコを女性にたとえてきた理由だろう。ネコに、いや、女性に、オノレの人柄のよさを強調したところではじまらぬ。
イヌは忠実だが、ネコは驕慢《きようまん》だ。その驕慢さに憧れて、ネコと暮らす女性がいる。彼女たちには、男の優しさがもの足りない。
たとえば「犬死」とは言うが、まちがっても「猫死」とは言わない。そこも、イヌは男に似て、ネコは女に似ている。
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能ある鷹は爪を隠す
ふざけて、
「能ある鷹はヘソを隠す」
と言ったことがある。べつに意味なんかない。
ただ、テレビのCMに、
「おまえ、ヘソねえじゃねぇか」
というのが流れていたので、それをもじっただけだ。
そう言うと、
「いやあ、ゴケンソン、ゴケンソン。それこそ能ある鷹は……≠ナすヨ」
ともちあげられたのには、マイッた。ヨイショもここまでくると、芸である。
それは、まあ、それとして、
「能ある鷹は爪を隠す」
ということわざは、
「実力のあるものほど、それをひけらかさないものだ」
という意味だろう。はじめっから能ナシだったら、爪なんか隠したって、ムキダシにしたって、意味がない。
しかし、この世は、えてして能のない人間ほど爪を、いや、ヘソをみせたがるものだ。ホント、ちかごろの女性タレントたちのなかには、ヘソをみせるだけで能あるつもりのものがいるから、叶わない。
ヘソなんか見たって、しょうがないのである。わたしたちが見たいのは、ヘソじゃなくって――と書きかけたら「その下か!」という内心の声がした。
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残りものには福がある
悲しいかな、昭和ヒトケタ生まれの男たちは、食べものを残すことができない。もののない時代に育ったせいで、なんでも「モッタイナイ」と食べてしまう。
いじましい話だけれど、ラーメンの汁も、きれいに飲み干す。女房に「そんなに塩分をとったら、毒ですよ」と注意されると「こうすりゃ文句はなかろう」と、お湯を足して飲んでいる。
みんなで饅頭を食べるときなんかも大変だ。数が割り切れなくて一つ余ったような場合、誰が手を出すか、たがいに牽制している。
そんなとき、きまって誰かが呟くのが、
「残りものには福がある」
ということわざだ。そう呟きながら、さっと手を出す。
考えてみたら、このことわざ、もともとは余ったものを誰かに押しつけようとして言い出したのかも知れぬ。おかげで、残りものも、気持ちよく始末されることになった。
俗に、
「嫁《ゆ》き遅れ」
という。結婚したくとも、なかなか結婚できなかった女のひとのことである。
そんなひとが、ひょいと良縁に恵まれると「残りものに福だねぇ」と言われる。あくまでも良縁に恵まれたら――の話で、嫁き遅れたひとが必ずしも良縁に恵まれるという保証はできないけれど……。
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喉《のど》元過ぎれば熱さを忘れる
「災害は忘れた頃にやってくる」
と言ったひとがいる。科学者で随筆家の寺田寅彦だ。
――災害の直後は、その対策、心構えなどやかましいが、時がたつとケロリと忘れてしまう。その頃、なぜか再び災害は襲うのである。
熱いものを飲んでも、ノドもとを過ぎれば、なんでもない。辛かったこと、苦しかったことも、過ぎてしまえば、簡単に忘れる。
下世話に、
「女の失恋は悲劇だが、男の失恋は喜劇だ」
と言うそうだけれど、その悲劇や喜劇も、いつのまにかいい思い出≠ノ変わっている。ひょっとしたら「忘れる」ということは、一つの才能かも知れぬ。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」
というのは、そんな人間の才能を讃えたことわざでもあろうか。そんな才能に溺《おぼ》れて、身を滅ぼしてしまっては何にもならぬ。
それにしても、人間、ものを忘れることができなかったら、大変だろうなあ。嬉しかったことや楽しかったことはともかく、いつまでも辛かったこと、苦しかったことが忘れられなかったら……。
いや、嬉しかったことや楽しかったことだって、適当に忘れたほうがいい。それこそ、昔に経験した嬉しかったことや楽しかったことが、いつまでも忘れられないなんて、人間、惨めもいいとこだ。
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飲む打つ買う
「飲む 打つ 買う」
という。大酒を飲む、博打を打つ、そして女を買う。昔は、男の楽しみの代表だった。
いまは、まちがったって、楽しみなんかじゃない。わたしなんぞは、あの「打つ」は「鬱《うつ》」のことではないか――と考えているほどだ。
心の晴れないことがあって、大酒を飲む[#「飲む」に傍点]。翌日は二日酔いで、ユーウツ[#「ウツ」に傍点]である。当然のことながら頭は重く、仕事なんかできずに、
「女房の怒りを買う[#「買う」に傍点]」
と、こういうわけだ。
女房は「なにも、そんなにまで飲まなくったっていいじゃありませんか」と言うが、こっちだって飲みたくて飲んでいるわけじゃない。つい飲みすぎてしまうのだ。
失礼ながら、人生なんて、この「つい」で成り立っているようなものではないか。ホント、この「つい」がなかったら、だいたい女房と一緒になっていたかどうかもわからない。酒にかんしては、
「飲まぬ酒には酔わぬ」
ということわざもあれば、
「飲まぬ酒に酔う」
ということわざもある。前者は「原因がなければ、このような結果にはならない」といった意味だし、後者は「身に覚えのないことが原因で、不本意な結果になる」といった意味だ。どっちにしたって、酒飲みのわたしには嬉しくない。
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乗りかかった舟
原稿を書きはじめたら、途中でやめることができない。電話などで中断しようものなら、また最初から書きなおしである。
短い文章だから、
「一気に読んでもらいたい」
と思う。そのためには一気に書かねばならぬと信じている。一気に書くからには、
「前もって構想を練っておいたほうがよい」
ということも、わかっている。が、わかっているからといって、その通り実行しているわけではない。また、できるものでもない。そこが、理想と現実のちがいだ。
「乗りかかった舟」
ということわざは、いったん岸を離れたら、中途で下船できないところから、ものごとを始めた以上は、事情がどう変わろうと、行くところまで行こうとすることのたとえである。
トーゼンのことながら、
「何事も、最後までやり通せ」
という積極的な意味が隠されている。同時に、
「やりかけたことだから、しょうがない、最後までやるか」
といった消極的な意味もあるように、わたしには思える。
舟は、とかく女性にたとえられる。そういう方面から、
「乗りかかった舟」
という言葉を眺めたら、ガゼン、いろっぽくなる。もちろん、途中で下りてはならぬ。
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ノレンに腕押し ヌカに釘
「セクシャル・ハラスメント」
という。性的いやがらせのことである。会社で、男の同僚が「やあ」とかナンとか言いながら女のお尻を触っていくなどは、その最たる例だろう。
「会社で、お尻を触る」
ということで思い出した。いまでも時折テレビのCMでみかける女性タレントから聞いた話だ。
――彼女、十年ほど前に、あっちこっちのテレビ局に出演し、たとえばトーク番組のコーナーでエレクトーンを演奏してみせ、けっこう人気者だった。そこで「テレビ局にも、社風のちがいみたいなものはある?」と訊いたところ、当時はまだ社名のアタマに「教育」ということばがついている某民間放送局の名を挙げて、
「あそこの人たちは、お尻を触ってくれないわねぇ」
彼女の番組は、朝なのである。こっちは、ビックリして「だって、きみが出ているのは朝だろ?」と言うと、
「朝だってナンだって、ヨソの局の人たちは触ってくれるわ」
じつに爽やかに笑ったものだ。
こんなのを、
「ノレンに腕押し ヌカに釘」
と言うのではなかろうか。張り合いのないこと、おびただしい。
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馬鹿と鋏《はさみ》は使いよう
明治生まれの父親は、子供たちを叱るのに、
「この薄バカ!」
と言って、叱ったものだ。こっちは、叱られるたびに、腹の中で「醤油じゃあるまいし、バカに薄くち≠熈濃いくち≠烽るもんか」と呟いてきたけれど、濃いバカと薄バカを比べると、なんだか薄バカのほうが濃いバカよりバカに思えたから、不思議である。
「馬鹿と鋏は使いよう」
というのも、父親の口癖の一つだった。このことわざは、
「ハサミは使い方によって切れたり切れなかったりする。愚かな者でも使い方によっては役に立つ」
といった意味だが、わたしの父親は、これを自分の子供に向かって言うのである。父親にしてみれば、
「もっと頭を使え」
という意味で使っていたのかもわからない。
正直な話、人間なんて使い方ひとつで、どうにでもなる。人を使う場合は、ホントに使い方の上手下手がモノを言う。
これを逆に言うなら、人間なんて、使われ方ひとつで、どうにでもなるのである。どうせ使われるなら、気持ちよく使われたい。
「給料さえ払えば、それで文句はなかろう」
という使い方では、サラリーマンも、給料だけのことしかやらないだろう。給料以上のことをやらせたかったら、使い方を考えよ。
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馬鹿の一つ覚え
「馬鹿の一つ覚え」
ということわざで思い出すのは、火野葦平さんの小説『糞尿譚』だ。たしか、トラックの横っ腹かなんかに、片仮名で、
「エボオツトヒノカバ」
と書いてあって、これが「バカノヒトツオボエ」の逆だった――というシーンを、それこそバカの一つ覚えみたいに覚えている。
アタマの悪い人は、もの忘れがいいから、多くのことを覚えることができない。その代わり、一つのことを覚えると得意になって、いつまでも振りまわす。
典型的なのは、親会社から子会社に派遣されてきたバカな重役たちだろう。あいつらは、子会社が置かれている特別な事情など、まったく考慮せず、
「親会社でできたことが、子会社でできないはずはない」
と、子会社の従業員に無理難題を吹っかける。こういうのは「馬鹿の一つ覚え」と言うより、
「馬鹿の一念」
と言ったほうが適当かも知れない。ホント、子会社の従業員こそいい面の皮≠セ。
このことわざには、
「一つのことにこだわる人間は、アタマが悪いのだ」
といった意味があるが、一つことにこだわったために大成する人もいるのである。世の中、これだから、バカなわたしにゃ面白い。
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馬鹿は死ななきゃなおらない
うっかり、
「バカ!」
と言ったら、
「差別用語だ」
と叱られた。失礼ながら、こういう奴は、女のひとから、
「イヤーン、バカ!」
と言われたことがないのだろう。考えてみれば、可哀そうみたいなもんだ。
「バカ」は果たして差別用語か、どうか?
もし「バカ」が差別用語なら、わたしたちは、これから、たとえば森の石松さんみたいな人のことを、
「知能の発展途上の人」
と呼ばなければならぬ。ホント、バカバカしいことである。
「馬鹿は死ななきゃなおらない」
ということわざが人口に膾炙《かいしや》したのは、ひとえに浪曲師・広沢虎造さんのおかげだ。わたしも、ちいさいときからナニワブシを聴いて育った。
「江戸っ子だってねぇ」
「神田の生まれよ」
じつに、いい調子だった。
「馬鹿につける薬はない」
ということわざも、似たような意味だ。かりに、バカが自分のことを「バカだ」と気づいたら、彼はバカじゃない。つける薬は、いくらでもありそうな気がするが、どうだろう?
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這《は》っても黒豆
「ダンゴムシ」
というんだそうな。甲殻類等脚目ダンゴムシ科の虫である。
長さは一センチくらい、灰色ないしは暗褐色で足が多く、枯れ葉や朽ち木などの下に生息している。こいつにちょっと触ると、からだを曲げて黒豆のような玉になり、転がせば、ころころと転がる。しばらく放っておくと、背伸びでもするように玉が解けて這い出す。
そのダンゴムシが転がっているのを見て、
「豆だ」
「虫だ」
と、大の男が言い争っている。やがてノソノソ動き出したので「そら見たことか。やっぱり虫じゃないか」と言ったが「いいや、豆だ」と譲らない。彼に言わせると「たとえ這ってたところで、豆は豆だ」というのである。
言っちゃナンだが、強情もここまでくれば芸だろう。浮気の現場をみつかっても「いいえ、一つオフトンに入って、お話をしていただけなの」と言い張るようなもんだ。
それで、思い出した。
ある女性にインタビューして記事を書いたところ、
「あんなこと喋った覚えはない」
と抗議され、
「テープに入っていますが……」
と答えたら「テープに入っていても、あたしは喋っていないのよ」と叱られたことがある。
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話し上手は聞き上手
相槌は、
「フム、フム」
と打つだけじゃ、まずい。こいつを繰り返されると、喋っているほうは、なんとなくバカにされたような気分になってくる。
そこで「フーム」とか「ナルホド」とか、適当に相槌の打ち方を変える。すると、自然に相手の話にも熱が入ってくるから妙である。
自分で話すことが上手な人は、とかく聞くことが下手なものだ。それは、自分ばかり喋って、相手に話をさせないこともあるが、相手の話そうとすることがわかってしまって、相手の言うことを聞こうとしない場合もあるのではなかろうか? そういう場合は、どうしたって相槌も投げやりになる。
相手に思いの丈を言わせるために、ときに聞こえないフリをすることがある。言っちゃナンだが、女のひとたちの最も得意とするところだ。
たとえば、
「きれいだ」
と言ったりする。すると、きまって、
「エ?」
と聞き返す。
仕方がないから、もういちど、ハッキリと、
「きれいだよ」
と言わなければならないハメになる。
なーに、相手は、ちゃんと聞こえているのである。
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早く咲けば早く散る
ふざけて、若者たちに、
「せっかくハタチになったんだから、酒とタバコぐらいやめろ」
と言ったことがある。成人の日のことだ。
いまの子供たちは、ホントウに可哀そうだ。酒だって、タバコだって、ついでに不純異性交友だって、子供のうちに覚えてしまうから、大人になってからの楽しみがない。
昔の子供たちが、
「どうやったら赤ん坊ができるか知ってるぞ」
と威張っていたころ、いまの子供たちは、
「どうやったら赤ん坊ができないか知ってるぞ」
と威張っている。昔の子供たちのほうが、よっぽど可愛らしいみたいなもんだ。
俗に、
「減るもんじゃなし」
というけれど、わたしは減ると思う。なによりも、
「性を大切にしよう」
という情緒がすり減ってしまうような気がしてならない。
性は、基本的な人権に関わることだから、粗末に扱うべきではない。何度でも繰り返すが、性に対してイイ加減な人間は、人生に対してもイイ加減な人間だ。花は、早く咲けば、それだけ早く散るのである。性のことだって、早く知れば、それだけ早く飽きるだろう。
そういえば、中国の古い言葉にもあった。
「荒淫、矢の如し」
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腹がへっては戦ができぬ
「腹がすいてもひもじゅうない」
というのは、浄瑠璃『伽羅先代萩』で、乳母・政岡の子の千松が言うセリフである。幼君・鶴喜代の毒殺を恐れ、政岡が常の御膳を遠ざけているもんだから、鶴喜代につきあう千松も堪ったものじゃない。
腹がへっても、
「腹がへっては戦ができぬ」
と言うわけにはいかない。やせガマンして、
「武士は食わねど高楊枝」
と、ミエを張らねばならぬ。
しかし、まあ、常識で考えてみても、
「腹がすいてもひもじゅうない」
というのは、矛盾している。敵に襲われたら、いかに鶴喜代・千松とはいえ、空腹のままでは戦えまい。そこで、
「茶腹も一時」
というのは、どうだ? ホント、茶を飲むだけでも、しばらくの間はひもじさを防ぐことができるものだ。
戦争中、中学校には「教練」というものがあった。ロクなものも食ってないのに、銃をかついで、無闇矢鱈に歩かされたものだ。
腹がへっているから、すぐにへばる。アゴを出していると、教官がエラそうな顔をして、
「一歩も歩けない者は前へ出ろ」
と言う。
前へ出たら、殴られた。一歩も歩けない者が前へ出られるわけがない――というのである。
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腹も身のうち
「腹も身のうち」
という。あれだけ「背に腹は代えられぬ」と腹をかばっておきながら、いっぽうでは、
「腹も、体の一部であってみれば……」
と、なんとなく冷たい素振りである。
でも、まあ、
「大切にしよう!」
ということに変わりはないのだから、佳《よ》しとするか。ホント、胃腸も体の一部なのだから、むちゃな大食をしてはならぬ。
「グルメ」
というのは、もともとは「グルマン」で「大飯食らい」のことだ。食が細くっては、もののうまい、まずい≠ヘわかるまい?
それにしても、
「暴飲暴食」
というのは、よくない。孔子さまも「暴飲暴食|鮮《すくな》し仁」と言っておられる。
「腹も身のうち」
ということわざは、
「食傷も病のうち」
というふうに、つづけて言われることがある。食傷すなわち「食傷気味」の食傷で、食べすぎのことである。
昔は、飯を食うときに、
「あと一杯というところで、やめておけ」
と言われたものだ。それが「腹八分目」だった。いまの子供たちは、飯なんか一杯しか食べない。
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万婦これ小町
先輩に、
「十年早いぞ」
と笑われたことがある。十年ほど前、
「万婦これ小町」
と呟いたときだ。
こっちは女のひとにモテないもんだから、少しでも優しくされると、すぐにポーッとなってしまう。それで、
「少しでも優しくしてくれる女のひとは、みんな小野小町のように美しい」
というつもりで、そう言ったのだ。
ところが、この言葉には、もうちょっとエロチックな意味がこめられているみたいだ。よくわからないが、それこそ女遊びの限りを尽くしたうえで、はじめて悟ることができるような、そんな境地を言うらしい。
あれから十年たったが、依然としてモテないし、女遊びなんてトンデモナイ。どちらかといえば、適当に遊ばれたほうではないか。
おかげで、女のひとがホントはそんなに優しくないことも知った。どうも、女のひとの優しさには裏があるみたいだ。
とたんに、
「女のひとは、すべて妖婦だ」
という言葉が閃《ひらめ》いた。妖婦すなわちヴァンプである。
「万婦これ小町」
という言葉は「ヴァンプこれ小町」のまちがいではないか――と思っている。
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日陰の豆も時が来れば爆《は》ぜる
「日にち薬」
という言葉を聞いた。なにごとも「時間が解決してくれる」というのである。
悲しみも、怒りも、時がたてば忘れる。憎しみさえも、いつのまにか風化してしまう。まことに歳月こそは万能薬だ。
赤ん坊も、三年たてば三つになる。これだって、月日がモノ[#「モノ」に傍点]を言う例だろう。
「日陰の豆も時が来れば爆ぜる」
ということわざは、
「日の当たらぬ所に育った豆でも、時期が来れば自然にサヤが割れて、はじけるようになる」
という意味である。ここでも日にちが薬になっている。
もっとも、このことわざは、男女ともに時が来れば自然に色情にめざめることのたとえである。いつまでも「子供だ、子供だ」と思っていた娘が、ある日、突然婚約者を連れてくるようなものだ。この場合の日にちは、親にとっては劇薬に等しい。
そういえば、娘は「学校へ行く」とかナンとか言って、しょっちゅう出歩いていた。たぶん洋裁かナンか教わっているんだろうと思っていたら、なんと色恋にウツツを抜かしていたのか……。
思わず、カッとなって、
「そんなこと、どこで教わった?」
と怒鳴ったら、娘のいわく、
「教わらなくても、わかってる」
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日がさ雨がさ月がさ日がさ
「観天望気」
という。気象用語で、額に手をかざして空を眺めることである。どんなに気象衛星が雲の動きを送ってきても、天気予報で最後にモノを言うのは、予報官が空を眺めての判断だ。
ときに海辺の漁師たちが予報官より天気を当てたりするのも、この「観天望気」にくわしいからだ。漁師は、砂浜に干したフンドシの乾き具合、湿り具合で、晴れか雨かを占う。
農家の人たちだって、同じことだ。農家の人たちは、ネコが顔を洗ったり、太陽がカサをかぶったりしているのをみて「あしたは雨だ」と言う。
「日がさ雨がさ月がさ日がさ」
ということわざは、
「太陽が日暈《ひがさ》をかぶっているときは雨が降るし、月が月暈をかぶっているときは好天気がつづく」
という意味である。あとのほうの「日がさ」は「日暈」ではなくて「日傘」で「日傘が要るような良い天気」だ。
科学的根拠のほどは、わからない。が、こういった天気のことわざには、父祖からの伝統的な経験がもたらす知恵みたいなものが詰まっている。
「富士山が笠をかぶれば雨」
というのも、そんな天気のことわざの一つである。河口湖測候所の調べだと、七〇パーセントから七八パーセントの確率だそうだ。
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美女は悪女の敵
ことごとに他人の容貌をからかう奴がいる。
どんなにいい[#「いい」に傍点]男か知らないが、不愉快きわまりない。
失礼ながら、テメエだってドッコイドッコイじゃないか。いや、ドッコイドッコイの奴に限って、他人をからかうようだ。
前にも書いたが、あれ、テメエも容貌に自信がないもんだから、いつからかわれやしないか――と、不安で不安で、それで先に誰かをからかおうとしているんじゃなかろうか。
その証拠に、ホントにいい[#「いい」に傍点]男は、他人の容貌なんかからかわない。だいだい、気にもかけていないんじゃないか。
「美女は悪女の敵」
ということわざは、
「醜い女性は、世の中に美人がいるために肩身が狭く、不幸な目に遭うと思い込んで、勝手に美女を憎む」
という意味である。たまたま美人に生まれたものは、堪ったもんじゃない。
女性でありながら、自分で自分のことを醜いと思っているから、美人を見ると腹が立つのである。美人を見ても腹を立てないでいるには、自分のことを醜いと思わなければいい。
「醜い」
と言う奴には言わせておけ。そんなことを言う奴は、自分でも自分のことを醜いと思っているにちがいない。
気の毒な人間なのだ。
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美人というも皮一重
「女というものは、美人になるってえと、何もかも美人ですな。笑った顔がよくって、怒った顔がよくって、泣いた顔がまたいい。エ、美人が泣いたのは、海棠が雨に打たれてしおれたよう……と申します」
という。落語『姫かたり』のマクラである。
「美人というも皮一重」
ということわざは、
「容貌の美醜は、顔の皮一枚によってきまるだけのことだ」
という意味だとばかり思っていた。だから、人間として美しいかどうかは、深くその人の内面にかかわっている――と。が、いまは亡き金子武雄さんの解釈はちがう。金子さんは『日本のことわざ』のなかで、
「美人というものも、からだを包んでいる皮膚一重が美しいということにかかっている、という意である。言いかえると、美人であるか不美人であるかの違いは、肌が美しいか美しくないかということによるのだ、ということになる」
と書いたうえで、わたしのようなヤワな解釈に対しては「たぶん不美人か、あるいは美人をつかまえそこなった男の、負け惜しみのつぶやきのことばであろう」と言っている。
いやあ、恐れ入りました。言っちゃナンだが、わたくし、明治生まれの、たぶん美人をつかまえた日本男児の気概をここにみたような感じである。
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人の噂も七十五日
世間の口は、うるさい。噂は、またたくまに広がってしまう。それが、よくない噂であれば、なおさらだ。
言っちゃナンだが、これは、好奇心のなせる業だろう。世間は、好奇心に満ちている。
しかし、すぐに忘れてくれるのも、また世間だ。彼らの好奇心なんて、そんなに持続しない。世間の噂は、どんなにやかましくても、精々七十五日もたてば、収まってしまう。
したがって、
「たとえ噂をたてられたところで、しばらくじっとしていれば、やがて解放される」
というのが、このことわざの言わんとしているところだ。七十五日に、とくに意味はない。
どこかの宰相が、航空機の購入にからんで五億円もらったことも、もう忘れられようとしている。あれは、単なる噂ではなかったように思うが、それでも忘れてもらえる。
「七十五日」
ということについては、
「初ものを食えば七十五日寿命が延びる」
ということわざもあるように、一つの区切りというか、適当な数をあらわしているにすぎない。噂が立ってから、指折り数えて「七十三日。七十四日。さあ、七十五日だ。噂も消えたぞ」といったものではないことは、もちろんだ。
だいたい、いつをもって噂が立った日というのかね?
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人の女房と枯れ木の枝は 上るほど危ない
昔の人は、
「一盗二婢……」
とか言ったそうな。あの『広辞苑』にも『大辞林』にも出てないが、
「いちばんめは、他人の女房、次はお手伝いさん……」
といった意味らしい。
べつにぶりっこ≠キるわけではないけれど、まことにケシカラン。こう言う人たちは、まさか女房持ちではないだろうな?
かりに女房持ちだったら、ご自分の女房のことは、どんなふうに考えているんだろう? 言っちゃナンだが、ご自分の女房は、他人からみれば、それこそ他人の女房≠ナはないか。ご自分が他人の女房を追っかけているスキに、ご自分の女房は他人に追いかけられているかもわからないのである。ホント、そんなことになっても知らないからね。
「人の女房と枯れ木の枝は上るほど危ない」
ということわざもある。枯れ木の枝は上ってゆけばゆくほど危険なように、人妻との恋はのぼせればのぼせるほど、身の破滅に近づいてゆく。
もういちどぶりっこ≠キるみたいだが、そういうことは、ホドホドにしたほうがヨロシイ。それに、よけいなことを言うようだけれど、家にあるものは、できるだけ家にあるもので間に合わせておいたほうが、なにかと無難じゃないかしらん。
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人の女房と枯れ木の枝ぶり
「隣の花は赤い」
ということわざがある。くやしいけれど、
「隣の家に咲いている花は、自分の家に咲いている花よりも赤くて、きれいだ」
という意味である。
なんでも、ヨソのものは、自分んち[#「自分んち」に傍点]のものより、よくみえるものだ。それは、女房だって同じことだろう。
自慢じゃないが、他人の女房をホメることができない。ホメるたんびに、なんかもの[#「もの」に傍点]欲しそうで、自分がミジメになってくる。
しかし、世の中には平気で他人の女房をホメる奴がいる。それも、亭主の目の前でホメたりするのである。
よっぽど、
「そんなに欲しけりゃ、呉れてやろうか」
と言おう――とも思うが、そんなこと、口に出したら大変だ。人間、腹で思ったことは、あまり口に出さないほうがいい。
「人の女房と枯れ木の枝ぶり」
ということわざは、
「人の女房と枯れ木の枝ぶりは、あれこれ批評してもはじまらない」
といった意味である。ものごとには、とやかく言うべきでないものもある。
女房がいい女房か、悪い女房か――は、亭主でなければわからないことだろう。それに、枝ぶりがよくても悪くても、枯れ木では直しようがない。
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人の褌で相撲をとる
サラリーマン時代のことだ。みんなで飲むと「この場は任せておけ」と言う先輩がいた。
すっかりゴチソウになったつもりでいたら、表に出たとたん「さあ、割り勘だ」と、飲んだぶんだけ払わされた。
奴《やつこ》さん、飲み屋の女将に気があって、ちょっとばかりイイ顔をしたかったのだろう。
こういうのを、
「人の褌で相撲をとる」
と言う。言っちゃナンだが、あんまり好かれない。
相撲をとるのに、フンドシはなくてはならない。自分で持っていないなら、相撲などとらなければいいものを、他人のものを使ってとるのである。
フンドシなんか、貸したところで減るもんじゃない。だから、貸したって構わないようなものだけれど、なんか汚い気がして、イヤだ。それを「貸せ」と言う。なんとなく断りにくいこともまた、不愉快な感じをいっそう強くする。
こういうことは、女のひとにもあるのだろうか? 女のひとの場合は、なんと言うんだろう? やっぱり「人の褌で」と言うんだろうか?
「女のフンドシ」
とくれば、
「食い込むばっかり」
と答える。うーん、何の話?
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人を呪わば穴二つ
映画『危険な情事』を観た感想にかんしては、
「あんなしつこい女、どこにもいないわよ」
という女性の言葉も嬉しかったが、
「私が妻の立場だったら、最後は女を撃たずに、夫を撃つわ」
という別の言葉が面白かった。失礼ながら、
このひと、結婚したことが、いや、男を愛したことがないのではなかろうか。
ふつう女は、愛する男がヨソの女に気を移した場合、男を憎まずにヨソの女を憎む。女にしてみれば、男を奪っていったヨソの女が悪いのである。
これが男だったら、ちがう。かりに愛する女がヨソの男に気を移したような場合、ヨソの男に気を移した女を憎む。男にしてみれば、ヨソの男に気を移した女が悪いのだ。
どっちにしたって、女が悪い。よく知らないけれど、そういうものらしい。
だから、女よ! 言っちゃナンだが、めったなことでヨソの男に気を移したりしてはいけないぞ。ついでに言うなら、彼をしてヨソの女に気を移させてもいけません。
「人を呪わば穴二つ」
ということわざは、他人を呪って殺そうと墓穴を掘る者は、その報いが自分にも及び、自分が埋められる墓穴も掘らなければならなくなる――という意味だ。映画『危険な情事』の女主人公に、このことわざを教えてやりたかった。
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夫婦げんかと北風は 夜凪がする
「ツノ突きあうのも、つきあいのうちだ」
と思っている。夫婦も、夫婦ゲンカ一つやらないようになったらオシマイである。
「思う仲の夫婦げんか」
といって、仲のよい夫婦は、かえってケンカをするようだ。相手のことを思えばこそ、つい要らざる口出しもしたくなるのだろう。
亭主にとって、女房の口出しでいちばんシャクにさわるのは、友人のことをとやかく言われることだ。男には、悪友もまた必要なのである。
女房にとって、亭主の口出しでいちばん腹が立つのは、実家のことをあれこれ言われることだろう。なんだか自分の人格まで否定されたような気分になるらしい。
おたがいに、そんなつもりで言っているわけじゃない。そんなつもりで言っているわけじゃないことはわかっているのだが、それでもなおカチンとくるところが、夫婦、いや、人間だ。
もともとは、好いて好かれて一緒になった仲である。昼間は口汚く言い争っていても、北風が夕方になると収まってしまうように、夜になると不思議に仲直りしてしまう。ホントにイヤらしいったらありゃしない。
それも、夫婦だから許されることだろう。これが、夫婦じゃなかったら、いや、たとえ夫婦であっても夜の生活がなかったら……。
なんだか、わたくし、寒気がしてきた。
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夫婦げんかに猿の割り膝
ある家庭雑誌に、
「上手な夫婦げんかのための五ヵ条の守り」
というのが載っていたそうな。
一 相手の人格を傷つける発言をしない
二 言葉じりをとらえての議論は避ける
三 行動する意思のないことは口にしない
四 感情の吐露は、すぐに拒絶せず、一応受けとめる
五 相手の体に危害を与えてはならない
これを読んだ茨城県の主婦の反応が面白かった。彼女は「でも、この五つのうち、必ずどれかをやっているからこそ、けんかになるはず。ウチなんて、一から五まで、すべてやっています。夫もバカな文章だ≠ニ怒っていました。珍しく(?)夫婦で意気投合です」
と、ラジオに投書したのだ。
夫婦ゲンカについては、
「夫婦げんかは犬も食わない」
ということわざが有名だが、
「夫婦げんかに猿の割り膝」
ということわざもあるのである。割り膝は、両方の膝がしらを離して坐る礼儀正しい座り方のことだが、このことわざは、夫婦ゲンカの際に、妻が猿みたいに、とってつけたような居住まいをするさまをからかったものだ。
「切り口上」
という。改まったもの[#「もの」に傍点]の言い方だが、女房がこれをやるときが危ない。きっと何かを含んでいる。
[#改ページ]
夫婦げんかは犬も食わない
妻に、
「なぜ私と結婚したんですか?」
と訊かれて、
「あのころは、娯楽がなかったからなあ」
と答えた夫がいる。女優の中村メイコさんのダンナで、音楽家の神津善行さんである。
さて、そういうことなら、
「なぜ、そうやって夫婦ゲンカばかりしているのか?」
と訊かれたときに、
「なにしろ、娯楽がないもんですから」
と答えるのは、どうだろう? 夫婦ゲンカもまた、娯楽のうちである。
正直な話、そういうふうに考えたら、ずいぶん気がラクになるのではないか。どうせ娯楽なんだから、陰にこもるのは禁物である。精々派手にやってもらいたい。
「ヒマだなあ」
「ヒマねえ」
「ひとつヒマ潰しに夫婦ゲンカでもやるか」
「やりましょう、やりましょう」
なんだかバカらしくって、仲裁に入る気にもなれない。いっそ犬の餌にしてしまいたいくらいだが、犬だってアテられて、食べるかどうか。
それはそれとして、夫婦もケンカできるうちが花である。相手と別れたり、相手がボケたり、相手が死んだりしてしまっては、ケンカもできない。
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夫婦は従兄弟《いとこ》ほど似る
「似たもの夫婦」
という言葉がある。性質や趣味が似ている夫婦のことである。
夫婦を長いことやっていると、いつのまにか性格や好みが似てくる。これは、一緒に生活しているんだから、アタリマエといえばアタリマエのことだ。
たとえば亭主が「こうしよう」と思っているときなど、長年連れ添った女房なら、
「亭主がこうしよう≠ニ思っているだろう」
と思うことぐらいできるだろう。逆に、女房が「ああしよう」と思っているときも、長年連れ添った亭主なら、
「女房がああしよう≠ニ思っているだろう」
と思うことぐらいできる。
そのうちに、
「亭主がこうしよう≠ニ思っているだろう」
「女房がああしよう≠ニ思っているだろう」
といったふうには思わずに、それぞれ、いきなり、
「こうしよう」
といったふうに思うようになる。つまり、考えが似てくるのである。トーゼンのことながら、顔つきまで似てくる。
それが、
「どれくらい似るか?」
というと、イトコみたいに似てくる。それも、幸せな結婚生活を送った二人ほど似ているそうだから、面白い。
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覆水盆に返らず
のちに「太公望」と呼ばれた周の姜《きよう》太公は、若いとき、貧しかった。あまりの貧しさに、妻は耐えられず出ていってしまった。
しかし、太公が出世をとげると、妻は戻ってきて復縁を迫った。そんな妻に、壺の水をこぼし、すくわせてみたのが、
「覆水盆に返らず」
という格言の由来だそうな。転じて、
「いちどしてしまったことは、取り返しがつかない」
といった意味になるが、もともとは離婚した夫婦の間柄について言われた言葉なのである。太公にしても、妻の虫のよさが許せなかったにちがいない。
「辞表を懐に」
という。サラリーマンがカッコをつけて、
「いつでもやめてやる」
といったポーズをとってみせることである。
言っちゃナンだが、辞表ばかりは何枚懐に入れておいても構わないけれど、めったなことでは取り出したりしないように。うっかり上役の机に叩きつけると、
「そうか。ちょうどよかった」
と言われて、そのまま受理されてしまうこともあるからだ。
英語にも、
「こぼれたミルクの上で泣いてもはじまらない」
という言い方がある。それこそ受理された辞表を前に泣いてもはじまるまい。
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フグは食いたし命は惜しし
あの松尾芭蕉に、
あら何ともなきのふは過ぎて河豚《ふぐ》と汁
という句があるそうな。俳聖・芭蕉も、他愛もない句を詠むものである。
まさか「数うちゃ当たる」といった調子で作ったわけじゃあるまい。フグも、ヘタな鉄砲も当たることがあるから、コワい。
うまいフグは食いたいが、毒のことを思うと、手が出ない。それでも食べたいときは「宝クジ、宝クジ」と唱えながら食べると、当たらない――というけれど、これは、あんまりアテにならない。
人生には、ときに右せんか、左せんか、二者択一を迫られることがある。食うのか、食わないのかハッキリしないと食うか、食われるか≠フ修羅場はくぐり抜けられない。
フグは、刺身よし、チリよし、雑炊、煮こごりよし。それに、ヒレ酒もまたオツだ。
石田あき子の句に、
河豚を煮て生涯愚妻たらむかな
斎藤始子の句に、
河豚刺のしびれの少し残る唇
山田みづえの句に、
河豚鍋や憎むに足らぬことばかり
そして、小糸源太郎の句に、
ひれ酒にすこしみだれし女かな
フグは、おもしろい魚で、まばたきをするらしい。酔って、乱れて、まばたきして……。
あとは、やっぱり、当たりそう。
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冬来たりなば春遠からじ
小説家の吉川英治さんに、
「朝の来ない夜はない」
という言葉がある。どんなに暗い夜でも、やがては明るい朝になる。
そのことから、
「夜が暗ければ暗いほど、朝は明るい」
ということもできるだろう。人間、夜の暗いことを嘆いているだけでは、どうにもならぬ。
評論家の扇谷正造先生は、この言葉のアタマに「君よ」とつけ、
「君よ、朝の来ない夜はない」
と、励ましの言葉にした。若い人たちに対する呼びかけである。
「冬来たりなば春遠からじ」
ということわざも、
「冬が来れば、やがて春になる」
といった意味である。春になれば、しかし、やがて夏が来るだろうし、夏になれば間もなく秋が来て、秋になれば、もう冬だ。ホント、月日がたつのは早い。
――というのは、もちろん、冗談だ。こんなことマトモに考えていた日にゃ、夜もロクに眠れない。
それにしても、
「雪がとけたら、何になる?」
という謎々が好きだ。雪がとけたら、水ではなくて、春になるのである。
そうして、オビがとけたら女になる――というのは、うん、あんまり面白くないね。
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踏んだり蹴ったり
「寄らば斬るぞ」
と言うのを聞いて、
「ひゃあ、スゴい殺し文句!」
と叫んだ女性がいた。が、これ、斬られるほうからすれば、スゴい殺され文句だ。
「踏んだり蹴ったり」
という言葉は、たとえば『岩波国語辞典』などを引くと、
「つづけざまにひどい目にあうさま」
といったふうに出ている。ホント、こいつが、わたしにはわからない。
言っちゃナンだが、ひどい目にあうんなら、ホントは「踏んだり蹴ったり」じゃなくて「踏まれたり蹴られたり」と言うべきではなかろうか。
殺し文句の最たるものに、
「いつまで他人でいるの? つまんないわ」
というのがある――と書いていたのは、たしか劇作家の宇野信夫さんだった。女に言われて、宇野さんのお友達は、その晩から深い仲になったらしい。
深い仲になったために、さんざん揉《も》めて、やっとのことで女房と別れたら、彼女、
「他人さまのものでない男なんて、あたし、興味がない」
というので、さっさと去っていっちゃった――ナンテことは、よくあることだ。こういうのも、やっぱり「踏まれたり蹴られたり」というんだろうか。
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下手な鉄砲も数うちゃ当たる
「毛づくろい談話」
という言葉を知った。デズモンド・モリスの名著『裸のサル』(日高敏隆訳、河出書房新社刊)に出てくる。
毛づくろいとは、いわゆるサルがノミをとってやっている状態≠フことだ。あれ、べつにノミをとってやっているわけではなくて、ああやって親愛の情を示しているらしい。
そのことから、モリスは社交的な場で交わされる、意味のない、愛想のよいおしゃべり≠「毛づくろい談話」と名づけた。たとえば「いいお天気ですね」とか「最近は何かおもしろい本を読みましたか」という類いの挨拶がそれである。
そういえば、わたしの新聞記者時代にも、酔っては無闇矢鱈に女のひとに「結婚しよう」と言ってはベッドの中で毛づくろいしている先輩がいた。いつだったか、女房と飲んでいるうちに酔っぱらって「結婚しよう」と言っちゃったこともあるそうだ。
なにしろ、マメである。その相手も、老若はもちろん美醜を問わず、要するに「女でありさえすれば……」という感じだった。
いまにして思えば、ああいうのを、
「下手な鉄砲も数うちゃ当たる」
と言うのだろう。けっこうモテていたみたいだから、アホらしい。
彼に言わせると、けっしてまぐれ[#「まぐれ」に傍点]ではないそうな。あくまでも熱意の賜物だそうだ。
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下手の考え休むに似たり
舞台には「上手《かみて》、下手《しもて》」というものがある。舞台の向かって右のほうが上手で、左のほうが下手だ。
ある舞台で、二人の大物の男性歌手を競演させることになった。この二人、日ごろから犬猿の仲なので、演出家が大いに気を遣い、同時に登場させようとして「Aは上手、Bは下手」というシナリオをつくって渡したところ、Bが怒って、
「オレのほうがヘタとは、なにごとだ!」
と言った――という話がある。一人が三波春夫さんで、もう一人が村田英雄さんであることはわかっているが、どっちがAで、どっちがBかは、このわたしにはわからない。
「下手の考え休むに似たり」
ということわざを、
「下手な考え休むに似たり」
と言う人がいるが、これは、まちがいだ。前者は「いくら下手な者が考えたところで、休んでいるも同然で、時間の無駄だ」という意味だが、後者だと「いくら上手な人でも、たまには下手な考え方をすることがあって、それは休んでいるも同然だ」というような意味になってしまう。
ときに、わたしの文章を、
「下手な小説より面白い」
と評する人がいる。お世辞のつもりか知らないが、どうせホメるんなら「上手な小説より」と言ってもらいたいものだ。
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下手の横好き
いっぽうで、
「好きこそものの上手なれ」
と言うかと思えば、もういっぽうでは、
「下手の横好き」
と言う。マジメな話「いったい、どっちなんだ?」と言いたくなるが、そういうときには、
「言わぬが花」
と逃げる。まことに、ことわざというものは都合がいい。
ついでに、ここで、
「言わねば腹ふくる」
と言うのは、言うだけ野暮だ。それなら、
「言わぬは言うにまさる」
ということわざだってあるのである。
「好きこそものの上手なれ」
ということわざと、
「下手の横好き」
ということわざを比べたら、わたしは「下手の横好き」のほうが人間らしくて、好きだ。なんだか「好きこそものの上手なれ」には教訓めいた感じがあって、ウサンくさい。
「下手の横好きだ」
と思えば、カラオケバーにおける同僚の狂態も許せる。あいつら、調子っ外れで歌っているから、ご愛嬌なのである。
失礼ながら、オタマジャクシの通り歌うんなら、プロの歌手だって歌える。アマチュアの本領は、けっしてオタマジャクシの通りには歌わないところにあるとも思うが、どう?
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仏造って魂入れず
「開眼《かいげん》」
という。新しくできた仏像や仏画像を供養し、眼を入れて仏の霊を迎える儀式のことである。
眼すなわち魂だ。したがって、仏像や仏画像の眼は最後に入れる。眼のない仏像、仏画像は、魂のない仏像、仏画像も同然と考えられていた。だから、
「仏造って魂入れず」
ということわざは、
「仏造って眼入れず」
と言われることもある。いずれにせよ、
「仏像、仏画像をつくっておきながら、肝心な魂を入れない。物事をほとんど成し遂げながら、最も大切なことが抜け落ちている」
といった意味だ。
生きていくからには、
「神も仏もあるものか」
と言いたいときもあれば、
「仏ほっとけ 神かまうな」
と言いたいときもあろう。それも、これも、仏を造っても魂を入れないからではあるまいか。なにごとも、詰めに心したい。
仏についてのことわざでは、
「仏も昔は人なりき」
というのも捨てがたい。お釈迦さまも昔は人間だったのが、修行によって仏になったのである。
死ぬことを「成仏」と言うが、死ぬだけで、われわれ、果たして仏になれるか、どうか。
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仏の顔も三度
「仏の顔も三度撫づれば腹立つ」
というのが、もとの形である。まちがっちゃ困るが、腹を立てるのは、撫でている人間ではなくて、撫でられている仏さまのほうだ。
「顔を撫でられる」
というのは「バカにされる」ということだ。
映画なんかで、ヤクザが相手の顔を撫でてケンカを挑発しているシーンをみたことがあるだろう。
どんなにおとなしい人でも、悟った人でも、たびたび無法なことをやられれば、怒る。怒って、ケンカを買って、負けるかも知れないが、怒ることは怒る。このことわざは、
「だから、相手がおとなしくても、甘くみて増長しては行けない」
という意味にも、
「だから、他人の親切にすがるのも、一度か二度が限度だぞ」
という意味にもとれる。
女房の浮気だって、そうだろう。亭主にしても、一度や二度の浮気は大目にみてきたのである。それを、まあ、亭主が知らないと思っていい気になりやがって、亭主がまだ一回しか浮気してないのに、女房は三度も四度も……なんて、オット、そんな物騒な話はヤメにしよう。
それにしても、顔を撫でられると、頭にきて、頭にくると腹が立つ。顔から頭へ、頭から腹へ電流でも走るんだろうか。
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惚れたが因果
「恋人にするなら、人格がよくてフィーリングが合ったほうがいい。でも、結婚相手となると、健康で経済力がなけりゃ……」
というのが、現代女性の恋愛観、結婚観なんだそうな。東京都内の結婚情報サービス会社が、全国の独身女性五百人を対象におこなったアンケート調査の結果である。
この結果をみて「うん、そうだよ、な」と頷《うなず》く男は適当に遊んでいるんだろうし「なんだかシラけるな」と顔をしかめる男は、そんなに遊んでいないにちがいない。わたしなんぞは「どうでもいいや」と思っている。
それにしても、いまどきの若い女性たちが、
「恋愛は恋愛、結婚は結婚」
と分けて考えているのには、ビックリした。
誰かさんみたいに、
「恋愛から結婚へ」
ナンテ考えているのは、古いんだろうか?
あるいは、女性たちは、昔っから、
「恋愛は恋愛、結婚は結婚」
と分けて考えていたのかも知れぬ。さもなかったら、恋愛中と結婚後で、あんなふうにガラリとは変われまい。
それでも、男は女に惚れる。そうして、それだから、女は男に惚れる。こういうのを、
「惚れたが因果」
というのかな? それとも、
「惚れられたが因果」
というのかな?
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負けるが勝ち
「負けるが勝ち」
というのは、都合のいいことわざだ。負けが勝ちなら、この世に勝ち負けはない。
美空ひばりの『柔』(作詞関沢新一・作曲古賀政男)にも、
※[#歌記号、unicode303d]勝つと思うな 思えば負けよ
とあるが、はじめっから「負ける」と思って勝負する人はいない。みんな、自分が「勝つ」と思っているから勝負するのである。
しかし、まあ、映画の「寅さん」のセリフじゃないが、それを言っちゃあ、おしまいよ。それを言ってしまった日には、世の中、負け犬ばかりになっちまう。
「負けて勝つ」
という。いまは負けていても、いつかは勝つのである。ふつう、こういうのは「負け惜しみ」というのだが、ま、いいか!
かりに負けたところで、
「勝つも負けるも時の運」
と笑うこともできるし、
「勝てば官軍 負ければ賊軍」
と嘯《うそぶ》くこともできる。が、こういうふうにあげつらってくると、わたしたちは勝ち負けにこだわっているのか、いないのか、わからなくなってくる。案外、こだわっていないとみせかけて、こだわっているのかも知れぬ。
勝ったほうは、
「勝って兜《かぶと》の緒を締めよ」
という。勝っても負けても人気があったのは、お相撲の高見山だった。
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まだ[#「まだ」に傍点]はもう[#「もう」に傍点]なり もう[#「もう」に傍点]はまだ[#「まだ」に傍点]なり
コップの中に水が半分ほど入っているのを眺め、
「もう半分しか残っていない」
と考えるのも人間なら、
「まだ半分も残っている」
と考えるのも、同じ人間である。できることなら、後者でありたい。
年齢についても「わたしは、もう五十歳だ」というふうに考えるのと「わたしは、まだ五十歳だ」というふうに考えるのとでは、生きる姿勢にずいぶんちがいが出てくるだろう。かくいうわたしは、まだ三十歳を過ぎたばかりだ。うん、二十七、八年前に、ね。
妻が夫について、
「ホントにやんなっちゃう。うちの亭主ったら、いつまでも若いつもりでいるんだから……」
と嘆いているのを聞くたびに「けっこうなことではないか」と反発してきた。ホント、どうして世の妻たちは自分の夫を早く老けさせようとするのだろう? なに、早く未亡人になりたいから……だって!
そこで、
「まだ[#「まだ」に傍点]はもう[#「もう」に傍点]なり もう[#「もう」に傍点]はまだ[#「まだ」に傍点]なり」
というのも、ことわざに入れることにした。まだ[#「まだ」に傍点]も、もう[#「もう」に傍点]も、気の持ちよう一つだ。
しかし、いくらまだ[#「まだ」に傍点]がもう[#「もう」に傍点]で、もう[#「もう」に傍点]がまだ[#「まだ」に傍点]だから――とはいえ、相撲の行司が、
「見合って、見合って! もうよ、もうもう」
と言うのは、いくらナンでもまずかろう。
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木乃伊《ミイラ》取りが木乃伊になる
先輩が、
「悪い女にひっかかっている」
というので、彼は女のところへ行って「別れてくれないか」と、頭を下げたらしい。先輩の細君に頼まれてのことだった。
「いいわよ」
意外にあっさり承諾したので、思わず身を乗り出すと、
「ただし、あなたが代わりに可愛がってくれたら、ね」
でも、彼は先輩や先輩の細君のことを思って、彼女が出した条件を受け入れた。ミイラ取りがミイラになってしまったわけだ。
「木乃伊取りが木乃伊になる」
ということわざは、薬にするためミイラを取りに行ったものの、目的を果たさずに自分もミイラになってしまったことから、
「人を呼び戻しに行った者が、連れ戻すどころか、自分も帰れなくなる」
といった意味や、
「人を説き伏せようとした者が、かえって先方と同じ意見になる」
といった意味に使われている。彼の場合は、もうちょっと始末の悪いことに「先輩の女を奪った」という結果になり、先輩と仲たがいしてしまったそうだ。
先輩のためを思ってやったことが、身を滅ぼすもとになったばかりか、仇《あだ》にもなった。めったなことで、人の恋路はジャマできない。
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身から出た錆《さび》
「嘘から出た誠」
というのは、嘘をついたつもりが、結果としては本当になってしまうことである。ホント、うっかり嘘もつけない。
「身から出た錆」
というのは、自分が犯した過失や悪行のために、自分が苦しむことである。自分の過失や悪行の結果として自分が苦しむわけだから、誰のせいにもできない。そこで、
「身から出た錆は研ぐに砥《と》がない」
という言い方もある。砥は砥石である。言っちゃナンだが、こういうのを「身も蓋もない」というのではなかろうか。
ああいうことをすれば、
「こういったことになる」
というのは、わかっていたはずである。それなのに、この期に及んで「オレの子じゃない」ナンテ! そりゃ、聞こえません、伝兵衛さん。
ドイツの詩人ヴィルヘルム・ブッシュに、
「父親になるのはむずかしくはないが、父親であるのは非常にむずかしい」
というのがあるそうな。なる[#「なる」に傍点]とある[#「ある」に傍点]とのちがいである。
しかし、ああいうことをするのを過失≠ニか悪行≠ニか言うんだろうか。ま、過失みたいな気はしますけど、ネ。
されば、これを「蒔《ま》かぬ種は生えぬ」と言うか? それとも「自業自得」と言うか?
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見ざる聞かざる言わざる
「三猿の像」
というのがある。三匹の猿が、それぞれ両手で目、耳、口をふさいでいる姿を彫ったもので「見ざる 聞かざる 言わざる」のシャレである。
ところで、
「見ざる聞かざる言わざる」
というのは、ことわざだろうか。ことわざだったら、どんなふうに解釈すべきだろう?
さすがに、鈴木棠三・広田栄太郎編の『故事ことわざ辞典』(東京堂出版刊)には、
「人の短を見ない、人の非を聞かない、人のあやまちを言わないという戒め」
と出ていたが、わたしなんぞは性悪だから、
「人の長を見ない、人の是を聞かない、人の正当性を言わない」
と解釈したいところだ。が、こんなことを書いたって、あなたのことだから、見て見ぬふりをしてくれますよ、ね?
俗謡にも、
※[#歌記号、unicode303d]知っていながら 知らないそぶり
と言うではないか。宰相の色恋沙汰ぐらい知らぬ、存ぜぬ≠ナ通してやりたいところだが、やっぱり、そうはいかないなあ。
人間には、
「見たこと聞いたことを他人に話したい、知らせたい」
といった欲求がある。でも、そういう場合は、きちんと傍証《うら》をとってから喋りたい。
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水の泡
ふざけて、
「ユズよりスダチ」
という。徳島特産のスダチのCMだが、もちろん「氏より育ち」をもじっている。
「アンズよりウメが安い」
というのもある。これは「案ずるより産むが易い」のシャレだろう。
「濡《ぬ》れ手で粟《あわ》」
ということわざを「濡れ手で泡」と思い込んでいた男がいる。要するに「掴《つか》もうとしても掴めないこと、いくら努力しても無意味なこと」というふうに解釈していたらしいのだ。
そう言ったら、
「いや、そういう意味じゃない」
と、ガクをひけらかす奴が出てきた。彼に言わせると「これは、ソープランドのことじゃないか」ということだった。
「水泡に帰す」
というが、
「水の泡」
というのも立派なことわざである。くやしいけれど、努力しても甲斐ないことのたとえだ。
――肥満を防ぐために、ジョギングをはじめた男がいる。が、一向に効き目があらわれない。
聞けば、汗をかいたあと、ついビールを飲んでしまうらしい。せっかくやせようとしてはじめた努力も、水の泡ならぬビールの泡で消えていた。
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見たら見流し 聞いたら聞き流し
女房に、
「あなた、浮気したでしょ?」
と問い詰められて「ハイ、しました」と、白状した馬鹿がいる。彼に言わせると、
「あくまでも浮気で、本気じゃなかったんだからいいじゃないか」
ということだが、そんな理屈は女房の前じゃ通らない。
女房にしてみたら、ただただ否定してくれれば、それでいいのである。女房のやつ、その否定のしかたに何かを賭けているようなところがある。
オフィス・ラブの始末についても、同じことが言えるだろう。うっかり社内のカワイコちゃんに手をつけ、バレてしまったような場合でも、上司相手に「知らぬ、存ぜぬ」と言い張ることができるか、どうか。
それができないようだったら、失礼ながらオフィス・ラブなどやらんほうがよろしい。会社の上司があなたを呼びつけ「あの噂は、ホントウか?」と詰問するときは、噂の真偽なんか確かめていない。ただただあなたにシラを切り通すだけの才覚があるかどうかを調べているにすぎない。
世の中には、
「見たら見流し 聞いたら聞き流し」
ということもあるのである。さらに進んで
「見ても見ぬふり 聞いても聞かぬふり」ということだってあるにちがいない。
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三つ子の魂百まで
ひところ、ことわざや成句を言い換えて悦に入っていたことがある。早い話が、
「涙かくして尻かくさず」
「親子三人、猫いらず」
「暑さ寒さも胃ガンまで」
「知らぬは仏ばかりなり」
「子はカスがいい」
といったぐあいである。
こういうことを始めると、止まらなくなってしまうのが、わたしの悪いクセだ。たとえば、
「三尺下がって、六尺締めて」
「故郷は遠くにありて思うもの、近くば寄って目にも見よ」
「女房が病気で坊主の絵を上手に描いた」
「ハバカリで過ちて則ち改むこと勿《なか》れ」
というふうに次から次へと飛び出してくる。
これも、ちいちゃい時分から「知らなきゃ新橋ガーラガラ」とか「火事はどこだァ、牛込だ。牛のキンタマ丸焼けだ」とか囃《はや》して遊んだ名残りだろう。子供のときに身につけた性質は、大人になっても変わらない。それこそ、ことわざで言えば「三つ子の魂百まで」といったところか。人間、子供のときの生活が肝心だ。
ところで「こけしは、子消しだ」ということを聞いた。あの、ろくろ[#「ろくろ」に傍点]でひいた木製の人形は「水子供養のためのものだ」というのである。されば「水子の魂百まで」というのは、どう?
[#改ページ]
見ると聞くとは大違い
亭主に向かって、
「浮気をしてもいいから、ぜったいにバレないようにやってちょうだい」
と、いかにもモノわかりのいいようなことを言う女房がいる。言っちゃナンだが、こういうのがいちばんコワい。
その証拠に、そんなこと言われて、うっかり
「うん、じゃあ、そうする」と答えようものなら、大変だ。たちまち目尻は吊りあがって、
「あなたッ!」
と、こうなる。
「あなたは、バレなきゃ浮気をしてもいいと、そう思っているんですか?」
いや、この程度なら、まだいいほうだろう。
吊り上がった目で、こっちをハッタと睨《にら》み、
「そんなことを言うところをみると、いいひとがいるんでしょ? さっ、白状なさい」
と、こうきちゃう。まっこと、女房などに気を許してはならぬ。
ことわざに、
「見ると聞くとは大違い」
とあるのは、きっとこんな状態を言うのだろう。話で聞いていたことと実際に目で確かめたこととは、だいぶ食い違いがあるようだ。
外面如菩薩内心如夜叉?
だいたいが、女房に気を許そうとしたこと自体が、まちがっている。いやいや、もともとは女性を女房にしたことがまちがっているような気がするが、どうだろう?
[#改ページ]
昔は昔 今は今
女に、
「ゆうべどこにいたの?」
と訊かれて、
「そんなに昔のことは覚えていないね」
と答えたのは、映画『カサブランカ』で主人公に扮するハンフリー・ボガートだった。
「今夜、会ってくれる?」
「そんな先のことはわからない」
ひゃあ、カッコいい。男なら、一生に一度くらい、こんなセリフを吐いてみたいものだ。
昨日は昨日、今日は今日である。昨日あったことが、今日あるとは限らない。同じように、明日は明日、今日は今日だ。
そんなわけで、
「今夜、会ってくれる?」
と訊いたものの、
「そんな先のことはわからない」
と言われたから――といって、彼女が「じゃあ、明日は?」と訊かなかったのは、ちょっとマズかった。明日になれば、彼の心も、また変わっていたかも知れないではないか。
しかし、あえて彼女が訊かなかったのは、彼女にも自尊心があったからだろうし、それよりも何よりも、べつな女性の登場で、彼の心が彼女から離れてしまっていることに気づいたからにちがいない。わたしに言わせれば、彼女もまた、棄《す》て難い心根の持ち主のように思われる――ナーンテ考えていたのは、そう、ずいぶん昔のことだった。
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娘見るより母を見よ
ある作家の、ある推理小説は、いつのまにか、娘と母が入れ替わっている話である。探偵役は、その女性を背負うのだから、入れ替わっていることに気づきそうなものだが、気づかない。
ちかごろは、娘と母が仲のよいことを「きょうだいのように仲がよい」と形容するんだそうだ。なんだか、親子よりも兄弟、姉妹のほうが仲がよいみたいで、ヘンな感じである。
これは、おそらくは「少しでも若く見られたい」という母親の気持ちを慮《おもんばか》ってのことだろう。ときに、娘より母親のほうが若造りだったりする。
妻にしよう、あるいは息子の嫁にしよう――ということで、その娘さんがどんな娘さんであるかを知りたかったら、
「娘見るより母を見よ」
ということわざではないが、本人を見るよりも、母親のほうを観察したほうがよい。それこそ、
「母親の顔かたちが何年か先の娘さんの顔かたちだ」
ということもあるけれど、
「母親の人柄のよしあしが、そのまま娘さんの人柄のよしあしだ」
ということもあるのである。
それにしても、娘さんの母親があんまり若造りだと、花ムコ候補のほうも、娘さんより母親に惹かれてしまったりして……。
[#改ページ]
無理が通れば道理ひっこむ
冗談に、
「無理が通れば道路ひっこむ」
と言ったことがある。せっかくの都市計画が住民のエゴで潰れてしまったときのことだ。
「無理が通れば道理ひっこむ」
ということわざは、
「理に合わぬことが世に行われるときは、道理に叶ったことは行われなくなる」
といった意味である。だから、難を避けるためには「たとえ道理に叶ったことであっても、ひっこんでいたほうがいい」というふうに解釈することもできる。
東京都知事時代の美濃部亮吉さんは「対話知事」といわれたくらい、住民との対話が好きだった。都市計画を推進するについても、
「一人でも反対する者がいれば、川に橋をかけるべきではない」
という誰かの言葉を引用して、住民の説得につとめた。
おかげで、首都・東京の都市計画は大幅に遅れ、どうにもならなくなってしまったけれど、それは、たぶん美濃部さんの罪ではあるまい。説得に応じなかった住民が悪いのだろう。
ただ「一人でも反対する者がいれば、川に橋をかけるべきではない」という言葉には続きがあって、それは「その代わり、みんなで濡れて渡ろう」というのである。でも、住民を説得するにあたって、美濃部さんは、なぜかこの後半は一度も口にしたことがない。
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目から鼻へ抜ける
群ようこさんの『鞄に本だけつめこんで』(新潮社刊)を読んでいたら、面白い表現にぶつかった。当時中学生だった弟さんが群さんに向かって「おねえちゃんみたいに一見、本たくさん読んでるようにみえてそれが何の役にも立ってない人のこと、目から鼻の穴に抜けてるっていうんだよ!」と叫ぶのだ。
ふつうは、
「目から鼻へ抜ける」
という。あの『広辞苑』には「すぐれて賢いこと。また、ぬけ目がなく、敏捷なことの形容」と出ているが、
「目から鼻へ抜ける」
というのと、
「ぬけ目がない」
というのとでは、ちょっとちがうように思えるけれど、どうだろう? 早い話が「ぬけ目がない」にはズル賢いニュアンスがあるのに対して「目から鼻へ抜ける」のほうは、その利発さに、ただただ驚いている感じである。
それが「目から鼻の穴に抜けてる」というふうになると、俄然《がぜん》マイナス・イメージになってしまうから、不思議だ。なんだか、涙と洟水《はなみず》がいっぺんに出ているみたいではないか。
「目から入って耳から抜ける」
という言葉もある。こっちのほうは、たしかに「見たというだけで、何の知識にもなっていないこと」のたとえだろう。
鼻と耳とで、なぜこうちがう?
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餅は餅屋
「餅は餅屋」
ということわざは、
「餅は餅屋の搗《つ》いたものがいちばんうまい」
という意味である。転じて、
「その道のことは、やはり専門家に任すべきだ」
という意味になり、
「ものごとには、それぞれ専門家がいるものだ」
という意味にもなった。
トーゼンのことながら、
「酒は酒屋」「味噌は味噌屋」
ということになり、西鶴の『新永代蔵』には、
「刀は刀屋」
という言葉もみえるらしい。そういえば「戦争は軍人に任せておけ」といわれたイヤーな時代もありました。
いまは「パフォーマンスの時代」とかで、マルチ人間全盛である。餅は餅屋に任せておくわけにもいかないし、まして戦争なんか軍人に任せておくわけにはいかない。
だいたいが、戦争なんて、コピーライターの岩崎俊一さんのセリフじゃないけれど「行かない人がやりたがる」ようで、そう考えてくると、戦争で鍛えられた経験を懐かしみ、
「いまの若い人たちにそういう経験がないのは可哀そうだ」
といった某国の宰相の話がいかにバカげているか、わかろうというものだ。これまた、
「政治も政治家には任せておけない」
ということか。
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持つべきものは友
前に、
「岡目八目の岡目は傍目《はため》だ」
という説を紹介したら、友人から、
「岡目の岡≠ノは傍≠フほかに非公式の≠ニいう意味もあるように思う」
というハガキをもらった。友人は例として岡場所∞岡っ引き≠ニいった言葉を挙げ、
「どうでしょうか?」
と、ハガキを結んでいた。
どうも、こうもない。友人は、日本史の、それも江戸時代専攻の歴史学者なのである。
もっと白状させてもらえば、年齢も、わたしより五つか六つ上だ。だから、ホントウは「先輩」と呼ぶべきなのだろうが、成人後に知り合い、同じ時期、同じ師に学んだ関係もあって、なぜか「先輩」とは呼びにくい。
彼も「先輩」と呼んだら、イヤな顔をするのではなかろうか? 強いて言うなら、年長の友人である。
兼好法師の『徒然草』にも、
「よき友に三つあり、一つには物くるる友、二つには医師《くすし》、三つには知恵のある友」
と書いてある。わたしは、この「物くるる友」の「物」には、トーゼンのことながら「情報」というもの[#「もの」に傍点]も含まれている――と思っている。友人からのハガキは、まさに、その「情報」であった。
そこで、
「持つべきものは友」
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持つべきものは女房
じつは、東京堂出版の『故事ことわざ辞典』にも、小学館の『故事俗信ことわざ大辞典』にも「持つべきものは友」ということわざは載っていない。載っているのは、
「持つべきものは子」
あるいは、
「持つべきものは女房」
ということわざである。
「女房・子供のありがたさは、持ってみなけりゃわからない」
といった意味であろうが、さて、そういうことなら「持つべきものは親」や「持つべきものは亭主」ということわざも、あったっていいはずだ。それがないのは、親にしろ、亭主にしろ、ありがたいのがアタリマエすぎるから……か。アタリマエすぎて、ちかごろは等閑《なおざり》にされている感じである。
「持つべきものは女房」
ということについて言えば、女房がそんなにありがたいものなら、ホント、あと二、三人は欲しいところだ。そうすれば、女房のありがたさが、もっともっと身にしみてわかることだろう。
なに? 一人の女房でさえ持て余しているのに、あと、二、三人なんて、トンデモナイって! だいいち、身が保《も》たないって!
いやあ、おっしゃる通りだ。女房は、ときに「持つべきではなかった」と思うからこそ、女房にちがいない。
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元の鞘《さや》に収まる
それにしても、男と女のことはわからない。
新聞記者時代、女房がありながら、ヨソの女とデキてしまった同僚がいた。
「きょうこそ別れよう」
と、心に誓って彼女のアパートを訪れる。言い出せないまま何ヵ月か過ぎたが、そのうち、
「いわゆる体の関係さえ結ばなければ、彼女も諦めてくれるのではないか」
ということに気がついた。
ところが、テキもさるもの、ひっかくもの。ある日、彼に向かって、
「赤ちゃんができたらしい」
と訴えたから、堪らない。
「ホ、ホントウか?」
思わず彼女の腹に耳をあてたとたん、
「いわゆる体の関係さえ結ばなければ」
という決意は、すっかり忘れていたそうだ。
覆水盆に返って、元の鞘に収まった例である。
「元の鞘に収まる」
ということわざは、仲たがいした、あるいはいちど別れた男女が、ふたたび元の関係に戻ることだ。べつのことわざに、
「焼けぼっくいには火がつき易《やす》い」
というのもあるが、ま、それに火がついた状態でもあろうか。
かつて馴染《なじ》んだ仲だけに、情の交わりはいっそう濃《こま》やかになる。そうして、彼は、彼女が「赤ちゃんができた」という嘘をついたことさえ愛おしく思いはじめている。
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物は言いよう
俗謡に、
※[#歌記号、unicode303d]丸い卵も切りようで四角 物は言いようで角が立つ
というのがある。ホントに、うまいことを言うもんである。
たとえば、
「彼は仕事ができる。しかし、女好きだ」
と言った――としよう。いかにもスケベらしくて、マイナス・イメージだ。
ところが、これを引っくり返して、
「彼は女好きだ。しかし、仕事ができる」
と言ったら、どうか? なにやら利《き》け者みたいで、プラス・イメージである。
同じことでも、言いようによってはマイナス・イメージになったり、プラス・イメージになったりする。同じことが、接続詞の「しかし」の前にあるか、うしろにあるか――で、ずいぶんちがうものだ。
なろうことなら、
「彼は仕事ができる。しかし、女好きだ」
と言われるよりは、
「彼は女好きだ。しかし、仕事ができる」
と言われるような人間になりたい。が、そのためには、わたくし、まず女好きにならなければ……と考えたら、いささか自信がなくなってきた。
――と言うと、いかにも女好きじゃないみたいで、やはり「物は言いよう」ですね。いや、まったく!
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物は考えよう
女房に逃げられて、
「うーん、どうしよう?」
と頭を抱えるのも亭主なら、
「やれやれ、清々した」
と胸を撫《な》でおろすのも、亭主だろう。同じ亭主なら、
「やれやれ、清々した」
という亭主でありたい――と書きかけて、
「これは、まずい」
と考えなおした。
いかに「悪妻だった」とはいえ、女房が逃げたとたんに「やれやれ、清々した」と胸を撫でおろすのは、あまりにもネアカすぎて、同情を呼びにくい。ここはひとつ、心に思ったことは表情に出さずに「うーん、どうしよう?」と、頭を抱えてみせるべきではなかろうか。そうすれば、世の中には物好きな女性がいて、
「まあ、可愛そうに! ねえ、こんなあたしで、どう?」
と言ってくれないとも限らない――というのは、やっぱり、考え方としては甘いでしょうね?
「物は考えよう」
ということわざは、
「世の中の幸・不幸も、考え方次第で、最悪のケースを思えば諦めもつく」
といった意味で、前項の「物は言いよう」とは、ずいぶんちがう。
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物ははずみ
「なぜ結婚しないんですか?」
と質問して、
「してしまったことならイザ知らず、しないことに理由などあるもんか」
と叱られたことがある。そう言って叱ったのは、画家の岡本太郎さんである。
「ナルホド、理屈だ」
と感心していると、
「万引きだって、ナンだって、したら理由を訊かれる。しないのに、理由を訊かれるか!」
と目を剥いた。太郎さんにかかっちゃ、結婚も万引きも、次元は同じだ。
そういえば、結婚と万引きは似ていないこともない。わたしは、太郎さんに、
「きみこそ結婚しているんだろ? なぜ結婚したんだ?」
と問いつめられ、
「ついデキゴコロで」
と答えちゃった。なんだか申しわけないようなことをしたような気分で、
「もう、二度と致しません」
言っちゃナンだが、結婚なんて、いちいち考えていたら、できっこない。あんなもん、もののはずみでもなけりゃ、ホント、バカバカしくって……。
ま、若気の至りみたいなもんですね。ことわざの「物ははずみ」には「案ずるより産むが易い」といった意味もある。ついでに「思いがけないような大事になる」という意味も。
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桃栗三年柿八年
蒔《ま》かぬタネは生えないが、蒔いたタネなら生えてから実がなるまで、桃と栗は三年、柿は八年かかる。ヨソに産ませた子が二十年たって「お父さん」と言ってくることもある。
「桃と栗が三年で柿が八年なら、柚《ゆず》は何年か?」
というと、これがマチマチだ。所によっては、この「桃栗三年柿八年」につづけて、
「柚は九年」
「柚は遅くて十三年」
「柚のばかめは十八年」
と言ったりする。
ついでに「梅は? 枇杷は?」というと、やはり「桃栗三年柿八年」につづけて、
「梅は酸いとて十三年」
「梅は酸い酸い十三年」
と言ったり、
「枇杷は九年でなりかねる」
「枇杷は九年で登りかね、梅は酸い酸い十三年」
と言ったりする。いずれも、経験からの知識にちがいない。
されば、
「モモ尻三年膝八年」
と言ったのは、小説家の吉行淳之介さんだ。
酒場で女性に触ってイヤがられないようになるには「それだけの年季が要る」という意味である。これまた、経験からの知識か?
さて、そんなわけで、
「桃栗三年後家一年」
いまは、一年もつかなあ。
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焼けぼっくいには 火がつき易い
「同窓会シンドローム」
というのがあるそうな。
久しぶりに出席した高校かナンかの同窓会で、
「おやッ?」「あらッ!」
と初恋の君≠ノ再会する。おたがいに手をとって、
「あれから、どうした?」「あなたこそ」
と話が弾むうちに、それぞれ亭主持ちであり、女房持ちであることを知る。
しかし、まあ、そういうことは運命の悪戯《いたずら》のせいにして、
「好きだったのよ」「いやあ、オレだって」
ということになれば、話は早い。行きつくところは、キマッテル。
そこは、勝手知ったる仲だから、いや、あのころは、どこが玄関で、どこが勝手口だかわからない仲だったから、一気に燃える。かくて二人は、あらためて、
「焼けぼっくいには火がつき易い」
ということわざを思い出すことになる。
燃えさしの杭《くい》は火がつきやすいところから、いちど途絶えたことはすぐ元に戻ること、また戻りやすいことのたとえだ。男女の関係も、同じだろう。
それにしても、こっちは、
「男女七歳にして席を同じうせず」
という教育を受けた。同窓会を開いても、集まるのは野郎ばかりで、シンドロームになりようがない。
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安請け合いは当てにならぬ
「結婚したくない」
という女性たちが、
「経済的に自立できるなら、結婚なんかメンドくさくって……」
と言っているのを聞くたびに、
「なんてバカなことを言っているんだろう」
と思わざるをえない。このひとたちは、ちょいと見には新しそうにみえて、少しも新しくない。
それというのも、
「経済的に自立できるから、結婚しない」
ということは、
「経済的に自立できなかったら、結婚する」
ということだろう。このひとたちは、結婚というものを経済の面からしかみていない。失礼ながら、このひとたちが考えている結婚は、あくまでも食べるためのものだろう。言っちゃナンだが、結婚の相手こそ「いい面の皮」である。
昔は、
「一緒に苦労しよう」
と言って口説いたものだ。それが、ちかごろは
「幸せになろう」
ナンテ歯が浮くようなことを言って口説く。
わたしに言わせれば、そんなこと言うからバカにされるのだ。ことわざにも、
「安請け合いは当てにならぬ」
というではないか。
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安物買いの銭失い
「ここでナニガシかのカネをはずめば、もうちょっとマシなものが、買える」
ということは、わたしにもわかっているのである。が、実際には、このナニガシかのカネ≠ェ問題だ。
かりに、そのナニガシかのカネ≠ェ三千円なら三千円とする。それも、十万円なら十万円を使い果たしたうえでの三千円である。
「あと三千円出してくだされば、お譲りしましょう」
店の人に言われても、オイソレと出すわけにはいかない。涙をのんで一ランク下の品を買い求める。結果は、やはり失敗だった。
あと三千円出せば一年はもつものが買えたのに、わたしが三千円を惜しんで買ってきたものは半年でこわれてしまった。
――というような経験は、誰にでもあるにちがいない。こういうとき、わたしたちは、
「安物買いの銭失い」
と呟いて、みずからを慰める。
それにしてもわからないのは、ある種の主婦たちの買いものの仕方だ。新聞のチラシかナンかで果物なら果物の「バーゲンセール」をやっている店をみつけると、高いタクシー代を払って、駆けつける。
揚げ句に同じものを二つも買い込んできて、
「安い、安い」
と喜んでいる。そうして、一つは腐らせて捨ててしまうのだ。
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病上手に死に下手
いきなり私事を書かせてもらうが、父は病床で、
「くやしい」
と言って死んだ。うわごとのように「やり残したことがある」と呟いて死んでいった。
八十九歳だった。弔問にきてくれた方は、
「トシに不足はないですね」
と言ったけれど、さて、どんなものか。
いまさら父がやり残したことが何であるかは知る由もないが、父の胸中を思うと「トシに不足はない」という言葉は、慰めにならない。ホント、父は何をやりたかったのだろう?
「病上手に死に下手」
ということわざもある。人間は誰でも、病にかかるのは上手だが、死ぬのは下手なんじゃなかろうか。
人生八十年――
ある人から、
「八十年健康に生き、八日患って死ねたら幸せだ」
ということを聞いた。生涯を健康に生きるのも結構だが、健康のまま死んでしまうと、ものの哀れを知らずに終わることになる。そのためには、
「八日間ぐらいは病気になるのもよかろう」
というのである。
「それ以上患うと、周囲に迷惑をかけるから、ね」
人生、そんなにうまくいくものか、どうか。
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病は気から
「無病息災」
という。達者なこと、丈夫なこと、健康なこと、体の障りのないことだ。もしそうだったら、どんなにか素晴らしいことだろう。
もじって、
「一病息災」
と言うひともいる。なまじ壮健だと、ときに無茶して怪我《けが》しかねないけれど、ひとつくらい病気を持っていたほうが体を労《いたわ》るから、
「かえって無事に過ごすことができる」
というほどの意味だ。
しかし、
「病は気から」
ということわざもあるのである。なまじ、
「ひとつくらい病気を持っていたほうが……」
といった気持ちでいたために、思いがけない大病を患うことにならないとも限らない。
「無病にて呻吟す」
ということわざを初めて知った。病気でもないのに呻き声をあげる、何事もないのに苦痛を訴える、困ってもいないのに不満を鳴らす――といった意味だそうだ。
なにやら、オノレのことを言われているみたいで、テレくさい。
「持病は?」
と訊かれて、
「健康だ」
と答えたことがある。思えば、神をも恐れぬ態度であった。
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養生に身が痩せる
――毎朝、起き抜けに髪をシャンプーして、排便後はおしりを洗い、ウーロン茶を飲んでドリンク剤で元気をつけ、一日働いたら人工温泉浴剤入りの風呂に入って寝る。
これが、いわゆる健康生活の平均パターンだそうな。医事評論家の小山寿さんが『現代用語の基礎知識』のなかで解説していた。
世は、挙げて「健康」「健康」と騒いでいるが、健康づくりブームの実態なんて、こんなものらしい。ついでに、禁酒、禁煙、禁ナントカに心がけ、人心の退廃を憂えて、
「ホント、長生きなんかしたくない」
と嘆いてみせれば、ま、完璧だろう。
漫画家の福地泡介さんなら、
「健康のためには命も要らない」
と笑うところだ。でも、わたしに言わせれば、ちかごろのように、一億こぞって「健康」「健康」と躍起になっていることこそ不健康だと思うが、どうだろう?
「養生に身が痩せる」
ということわざは、
「健康に心がけるあまり、神経を遣ったり、金銭上の心配をしたりして、かえってやせてしまう」
といった意味である。とたんに、
「だったら、ダイエットにいいわね」
という声が聞こえてきそうだが、この「やせる」は、もちろんスマートになることではない、念のため。
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葦《よし》の髄から天井のぞく
江戸の「いろはかるた」には、
「よしのずゐから天井をみる」
とある。それが、ことわざでは、いつのまにか「天井のぞく」になっている。
「天井をみる」よりは「天井のぞく」のほうが言い易いのか? それとも、上方の「いろはかるた」の「針の穴から天のぞく」とゴチャマゼになったのか?
この天井≠セって、
「もともとは天上≠セったのではないか?」
という説がある。葦の茎の管を通して天をみ、天全体を云々した日にはトンデモナイコトになる。これは、オノレの狭い見識で大きな問題を判断しようとする愚を戒めているわけだ。
「管を用いて天を窺《うかが》う」
「管に因りて天をみる」
「かぎのあなから天をのぞく」
「竹の管から天をのぞく」
「火吹竹から天をみる」
というのも、みんな、同じ意味である。そうして、似たようなことわざに「井の中の蛙」というのがあって、これは「大海を知らず」というふうにつながっていく。
それは、まあ、それとして、印刷の誤植の例に、小説家の神吉拓郎氏がつくった傑作パロディーがある。わたくし、これを山口瞳さんの『私流頑固主義』(集英社文庫)で知ったのだが……。
いわく「よしのずいから天丼[#「丼」に傍点]のぞく」
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夜目遠目笠の内
「ダブル・ハット」
という。女の人を後ろから見たらハッとしたので、前にまわってみたら「やっぱりハッとした」というのである。
後ろから見たときの「ハッ」という感覚と前から見たときの「ハッ」という感覚は、ちょっぴりちがう。どうちがうかは、ご自分で考えていただきたい。
――人を暗いところで見たり、遠くから見たり、ものをへだてて見たりすると、実際より美しくみえることがある。とくに女のひとがそうだ。
夜目も遠目も、ものはハッキリ見えない。笠の内からも、ハッキリ見えない。あるいは、笠の内のひともハッキリ見えない。要するに、ハッキリ見えないものは、みんな美しい。
そういえば、
清水《きよみず》へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき
と詠んだひとがいる。情熱の歌人・与謝野晶子だが、あのひと、目が悪かったのかしらん――というのは、もちろん冗談だ。
どういうわけか、わたしたちには、すれちがうひとのことを、
「美しくあってもらいたい」
という期待がある。そのために、あれこれ想像を働かせ、実際以上に美しく見てしまう。
それが、いけないのだ。いや、それがあるから、わたしたちは思わぬ恋をしたりする。
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来年の事を言えば鬼が笑う
俗に、
「鬼のようだ」
という。無慈悲なことのたとえだ。
桃太郎の昔から鬼は恐ろしく、悪い者の代表だが、ホントに鬼はそんなに悪者だろうか?
器量が悪いことは悪いが、あれで、よくみれば愛嬌のある顔である。
来年のことを言うと、その鬼が笑う。おそらくは泣いたような顔で、
「そんなことがわかるものか」
と笑うのだろう。この笑いは、せせら笑いだな。あんまり好きな笑いじゃない。
歳も押し詰まってきて、
「ことしは、あれもやり残した。これもやり残した」
と、過去形で考える。これが、
「来年になったら、あれもやりたい[#「たい」に傍点]。これもやりたい[#「たい」に傍点]」
というふうに希望をあらわす助動詞に変わるのは、アッという間だ。
「来年の事」
というから、ずーっと先のことかと思っていたら、すぐ先のことだ。が、来年になってしまえば、来年の来年は、またずーっと先のことになる。
こんなバカなことばかり考えているから、鬼に笑われるのだろう。このことわざは「烏が笑う」とも言うが、カラスは、もちろん「アホウ、アホウ」と笑うのである。
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楽は苦の種 苦は楽の種
この項を書く段になって、
「楽あれば苦あり」
というのか、
「苦あれば楽あり」
というのか、わからなくなった。そこで、小学館の『ことわざ大辞典』をひいたら、両方出ていた。同辞典には「楽あれば苦あり」は、
「楽しいことがあれば、この後で苦しいことがある。苦楽は相伴うことをいう」
と書いてあり、また「苦あれば楽あり」は、
「苦しいことがあれば、その後では楽しいことがある。苦楽は相伴うことをいう」
と書いてある。要するに、同じ意味だ。
ついでに、
「楽の下には苦が付く」
「苦は楽しみの元」
「楽は苦の種 苦は楽の種」
ということわざがあるのも思い出した。やっぱり、苦労しても辞書はひいてみるものだ。
「楽は苦の種 苦は楽の種」
ということわざについては、
「楽は苦を生むもととなり、苦は楽を生むもととなる。楽をすると、あとで苦を味わわなくてはならないし、苦を忍べばあとで楽ができる。今の苦労は、将来の楽につながるのだから耐え忍ばなければいけないという戒め」
と、解説してあった。そんなわけで、この項は辞書を写すだけで紙数が尽きた。なんだかラクしたみたいで、あとがコワい。
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両手に花
たぶん、
「紅一点」
というのをもじったつもりなのだろうが「黒一点」と言うひとがいる。男性一人が大勢の女性に囲まれたときの形容である。
たとえば、このわたしをからかう際に使う。
私事で恐縮だが、わが家は子供が三人いて、長女も次女も三女も女だ。ついでに女房も女だから、
「すると、きみの家にあっては黒一点≠ネんだな」
というふうに言う。
しかし、これは、おかしい。もともと「紅一点」というのは、王安石の『石榴詩』に、
「万緑叢中紅一点」
とあったことから言われはじめたのだから、正しくは「黒一点」ではなくて「緑一点」と言うべきだろう。
それにしても、不思議だ。女性一人が大勢の男性に囲まれても生き生きしているのに、男性一人が大勢の女性に囲まれると、なぜかコチコチになって身動きがとれない。それだけ男性のほうが繊細なのだろうか? それとも、女性のほうが図々しいのか?
「両手に花」
ということわざは、それにもかかわらず、そんな男性が左右に女性を抱えてヤニさがっている図である。ま、花は花でも、ドライフラワーだったりして……。
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良薬は口に苦し
錠剤だった薬を顆粒《かりゆう》にしたら、かえって飲みにくくなった。水と一緒に飲み込もうとしても、ノドや舌の裏にくっついてしまう。
常識では、錠剤より顆粒、顆粒よりは粉末のほうが飲みやすそうだが、これが飲みづらい。薬を作る側にすれば、意外なことかもわからない。
これでは「薬づくりの薬知らず」ではないのか。薬は、やはり飲む側に立ってつくってもらいたい。
「良薬は口に苦し」
ということわざは、
「良い薬は苦くて飲みにくいが、病気のためには効きめがある」
と、昔は考えられていたことから、忠言、諫言《かんげん》は耳にして快いものではないけれど、その身のためになることにも臂《たと》えて言う。いま、おおかたの薬は砂糖でコーティングされているから、そんなに苦くはないが、このことわざは、他人に忠告するときによく使われる。
それにしても、
「良薬は苦い」
という考えが「苦いからこそ良薬だ」という考えに変わっていくのも、ことわざならではのことか? わたしたちは、ともすれば「過激な忠告をしてくれる人間のほうが、良い友達だ」なんて思いがちだ。
それにつけ込んで言いたい放題のことを言う奴もいる。くれぐれも注意したい。
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論語読みの論語知らず
中学の「漢文」の時間に、
「なぜ火の玉を食わなければいけないんだろう?」
と首をかしげたのも、遠い思い出だ。例の『論語』の「子|曰《のたまわ》く」というところを「火の玉食う」と聞きちがえていたのである。
『論語』は、孔子の考えを中心に、儒教が説かれている。もちろん道徳の書で、道徳は実践が伴わなければ何もならないが、道徳の書を読んでも実践が伴わない人は多いものだ。
「論語読みの論語知らず」
ということわざは、そこのところを皮肉っている。日本思想史学会会員・田丸武彦さんの『ことわざと人生』(行路社刊)という本には、このことわざの意を体したものとして、
いにしへの道を聞きても唱へても 我が行ひにせずばかひなし
という薩摩聖人・島津忠良の短歌が紹介されている。
それにしても、
※[#歌記号、unicode303d]論語孟子を読んではみたが
酒を飲むなと書いてない
ヨーイヨーイ デッカンショ
と歌ったのは、いつの日か。この「デッカンショ」は「デカルト、カント、ショーペンハウエルのことだ」というから、驚く。
酒は、いい酒を少し飲みたい。酒を飲んで蛮声をあげ、放吟するのは、あまりいい酒を飲んでいない証拠だ。道徳を語る資格はない。
[#改ページ]
論より証拠
「憎い相手を氷で殴り殺す」
というミステリーがあった。死体が発見され、刑事が現場に駆けつけたときには、凶器に使った氷は溶けてしまっており、
「証拠がない!」
というのである。
「論より証拠」
ということわざは、
「物事は、議論するより証拠によって明らかになる」
ということだ。いろいろ言いくるめようとしたところで、証拠がなければどうにもならぬ。
夫婦の間の「浮気したろう」「いや、していない」といった言い争いも、ホテルのマッチかナニか突きつけられ「これが証拠だ!」と言われれば「恐れ入りました」と、平伏せざるをえない。が、よく考えてみれば、ポケットにホテルのマッチが入っていたから――といって、そこに浮気の相手と泊まった証拠になるとは限らない。
そんなマッチ、誰かにもらったものかも知れないではないか。
「パンダのシッポは黒いか、白いか?」
という論争に、パンダのぬいぐるみを証拠として持ち出してきても、ダメだ。そういうときは、実際に動物園へ行って、自分の目で確かめることが肝心である。
パンダのぬいぐるみのシッポは、なぜか黒い。パンダのホンモノのシッポは白いのに。
[#改ページ]
我が身をつねって 人の痛さを知れ
ちかごろ、なにかというと傷つく人が多い。
こっちは、相手を傷つけるつもりで言ったわけではないのに、勝手に傷ついている。
なにげなしに、
「ご結婚は?」
と訊いて、
「失礼ね」
と恨まれたことがある。彼女に言わせると、
「どうせ婚期が遅れているのをからかっているんでしょ?」
ということだ。
てて「そんなつもりじゃない」と説明したが、いったん損ねた機嫌は、ついに直らなかった。人生、これで儘《まま》ならぬものだ。
つかこうへいさんに『傷つくことだけ上手になって』(角川書店刊)というエッセイ集があるが、ホント、みなさん、傷つくことが上手になっているような気がする。ときに、柄のないところに柄をすげてまで、傷ついている。
しかし、こっちが「相手を傷つけるつもりで言ったわけではないから」といって、シレッとしているのも、どんなものだろう? いくらこっちが傷つけるつもりでなくても、相手が傷つくような話題を選んだことは、ひょっとしたら、こっちの落ち度ではなかろうか?
「我が身をつねって人の痛さを知れ」
ということわざもある。相手の苦痛に気づかないのは、やはり、こっちに相手を思いやる心が足りないのかも知れぬ。
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忘れたと知らぬは手が付かぬ
「知りません」
「存じません」
「記憶にございません」
というのが、たとえば国会における証人喚問の際などの模範答弁(?)である。これほど国民をバカにしたモノの言い方もないが、それでも彼らがテンとして恥じないのは、
「忘れたと知らぬは手が付かぬ」
ということわざがあるからだろう。
――忘れた者には、怒ってみてもはじまらぬ。知らない者には、何を言っても無駄だ。
「だから、ここはトボケるだけトボケてしまえ」
というのが、証人側の論理みたいである。言っちゃナンだが、この国の政治は健忘症にかかった人たちの手に委ねられている。
「もの忘れがいい」
ということは、失礼ながら、ボケはじめた証拠ではないのか。ああいう場所でトボケるのも結構だが、トボケは、やがてボケに通じると思いたい。
「次の三つのことを忘れるようになったら、自分もトシをとったと思え」
と言ったひとがいる。彼が言うには「まず友人の名前だろ? こいつを忘れるようになったら、そろそろトシだな」と、指を折り、
「二番目に……、エー、二番めは何だったっけかな?」
と言ってから、
「あ、忘れた」
[#改ページ]
渡りに舟
重役に呼び出され、
「きみのおかげで、わが社の業績も軌道にのってきた」
と言われたときは、トーゼンのことながら昇進の内示だとばかり思っていた。
ところが、話はそれきりで、一向に進展しない。いい加減じれてきて「それで?」と促したが「いやあ、感謝しているよ」と、相変わらずである。
「じゃあ」と立ちかけたら、
「その才能を活《い》かすには、わが社の器は少し小さすぎやしないか」
ときた。要するに、婉曲《えんきよく》な退職勧告だった。
ここで、わたしは失敗した。つい、われを忘れて「なんだ、辞めてくれということか」と口走ってしまったのだ。
とたんに重役は、
「そうなんだ」
と大きく頷《うなず》き、
「さすがに呑《の》み込みが早いな」
と笑うではないか。重役にしてみれば、わたしの「なんだ、辞めてくれということか」という一言は渡りに舟≠セったにちがいない。
「渡りに舟」
ということわざは、困っているところへ好都合なことが起きることのたとえである。わたしは、言わでものことを言ったばっかりに敵にチャンスを与えちゃった。
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渡る世間に鬼はない
「赤信号、みんなで渡ればコワくない」
というセリフが、そんなに好きじゃない。なんだか衆をたのんでいるようで、潔い感じがしないのである。
どうせ無理をするなら、みんなを誘わないで、自分ひとりでやってみたい。その結果、クルマにはねられたら、それはそれで仕方がないことではあるまいか。
しかし、ホンネを言えば、ひとりで赤信号を渡っていても、クルマのほうで停《と》まってくれるような社会こそ望ましい。それが、ホントの歩行者優先だろう。
ところが、現実には歩道と車道の区別もない道路をクルマのほうがわがもの顔に走っていて、ひとりで信号のないところを横切ろうものなら、通りすがりのクルマの鬼みたいな運転手に「バカヤロウ」と怒鳴られる。
それで、腹いせに、
「赤信号、みんなで渡ればコワくない」
といったセリフが生まれたのだろうが、どう考えても、いじましい。
ことわざにも、
「渡る世間に鬼はない」
というくらいのものだ。せめて信号のないところを渡るときぐらいは「鬼はない」といった気分で渡りたい。
なに、このクルマ社会に、そんなの、無理だって?
あーあ、渡る世間は鬼ばかり。
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割《わ》れ鍋に綴《と》じ蓋
女房がホメられるたびに、
「女房がいいのは、亭主がいいからだ」
と言いつのってきた。ホント、そうとでも思わなきゃ、バカらしくって、夫婦ナンテやってらンない。
それと同じことで、女房が粗末なのは、亭主が粗末だからだろう。そして、そういうことなら、うっかり女房のことも悪く言えない道理である。
「割れ鍋に綴じ蓋」
ということわざには、
@粗末な人間には粗末な人間が適《ふさ》わしい。
Aどんな粗末な人間にも、それに適わしい人間がいるものだ。
といった二通りの意味がある。似た者同士の夫婦の機微を強調したものだが、どっちにしたって「だから、うまくやっていけ」というニュアンスがこめられているところが嬉しい。
漫画家の畑田国男さんも、
「われ鍋は汁をこぼし、とじ蓋は蒸気を吹きだす。そんな夫婦の方が長続きするものらしい」
と言っている。どうやら、おたがいに欠点があったほうが、埋め合わせが利くようだ。
「割れ鍋に綴じ蓋」
ということわざから「手鍋さげても」という言葉を連想するのは、このわたしだけだろうか? 昔は「手鍋さげても」といった気持ちがあったから、綴じ蓋でもよかったような気がするが……。
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終わりよければすべてよし
ことわざとは、
「言葉の業だ」
と考える。処世の知恵を伝える短いフレーズの中に、万感の思いがこめられている。
そういう意味では、かのシェイクスピアこそ、言葉の業師ではなかろうか? ちょいと思い浮かべただけでも、
「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ」
「ブルータス、おまえもか」
「弱き者よ、汝の名は女なり」
といったふうに、彼の作品にはそのままことわざとして通用しそうな語句が溢れている。
なかでも「弱き者よ、汝の名は女なり」は、ハムレットが母である王妃に対して、仇である叔父との不貞を責めて嘆いた言葉だ。ホントウなら「浮気者よ」と言うべきだろう。そこを「弱き者よ」としたところが、シェイクスピアの知恵だ。
彼の言葉のなかで、すでにことわざとして定着していると考えられるものに、
「終わりよければすべてよし」
というのがある。いっぽうでは、
「はじめが肝心」
とも言うが、画竜点睛を欠いては何もならない。言っちゃナンだが、
「細工は流々仕上げを御ろうじろ」
ということもある。
さて、この文章も、これで終わりである。果たして首尾よく参りましたか、どうか。