青島幸男
極楽トンボ
目 次
極楽トンボ
鐘の鳴る岬
シャレディ壮観号
ア モ ス コ
あ と が き
[#改ページ]
極楽トンボ
1
頭の奥にワーンという騒音が、まだ耳鳴りのように響いている。あたりは正に落花|狼籍《ろうぜき》、呑《の》み残しの様々なグラスと、溢《あふ》れるほど吸い殻の入った灰皿、空瓶《あきびん》が立っていたり倒れて底を見せていたり、カウンターの上も、客席のテーブルも、散らかり放題に取り散らかされている。湿ったコンクリートの床には、クラッカーの紙筒と、こんがらがった紙テープ、紙の三角帽子に、つまみのグリーンピースやピーナッツが散乱していて足の踏み場もない。カウンターの奥に立った小さなクリスマスツリーの消し忘れた豆電球が、チカチカと点滅するのをボンヤリと見つめながら、ハムはスツールに腰かけて一人でタバコを喫《す》っていた。夕方から今しがたまで、クリスマスソングのLPをとっかえひっかえガンガン鳴らし続けたプレーヤーが、まだ余熱を持っていて、時々チリチリと音を立てる。天井といわず壁といわず、無茶苦茶にはりめぐらされた赤やブルーの銀紙のモールが、隅に置いてあるガスストーブの熱気でカサカサと小さく鳴っている。
どうしてこう何時《いつ》も俺は貧乏くじを引くような|はめ《ヽヽ》になるのかと、ハムはいぶかしく思った。
「いいよ、いいよ、今夜はイブだ、片付けるのは明日にして皆でブワーッとどっか行ってもり上ろう」
とこのトリスバーのオーナーである幸二がそう言った時は、ハムもそのつもりでいた。閉店時間の二時を過ぎる頃は、客も気のおけない常連ばかり三人が残り、一緒に遊んでいるのか商売してるのかわからない状態で、バーテンの宮下までが、すっかり出来上っていて「おい西田、お前、俺の注ぐ酒が呑めねえってのか」とふざけて客にからむ始末だった。
「いや、俺やっぱり店に残ってあと片付けしとくよ」
その時ごく自然にハムはそう言ってしまった。とりたてて深い意味や、前々からそう決心していて、どうしてもそう言わなければならないと思っていたわけではない。
「また、どうしてそういうこと言うの、皆でブワーッと行こうって時に、|しらける《ヽヽヽヽ》じゃないよ、いきましょ、いきましょう……。何が気に入らないの」
宮下がかじりついて来た。
「いや別に何が気に入らないってわけじゃないんだけど……」
とハムがぐずぐず言いかけると、
「いいよ、こいつはいつだってそうなんだから、置いてこう、置いてこう、ガキの頃からそうなんだから、放っとけよ、さあ行くぞ」
幸二はそう怒鳴りながら、オーバーをひっかけた肩でドアーを押し、どんどん先に立って出て行った。宮下が最後までしつこく腕をからませていたが、客にうながされて、
「じゃ行った先から電話するからね」
とハムの背中をポンとたたいて泳ぐように四人のあとを追っていった。
箱型の看板を引き入れ、カーテンを閉め、レコードを止めると、さっきまでの騒ぎが嘘《うそ》のように、店の中はシンと静まりかえって、足もとから寒さが忍び上って来る。ハムは残っていてよかったと思った。連中と一緒に行けば、又したたかに呑んでグズグズになってしまうに違いない。明け方に八重洲口構内にある銭湯へ行って、熱い湯で酒っ気を抜いて、出勤して来る堅気のサラリーマンにまじって電車に乗り、吉祥寺の家へ帰って昼過ぎまで寝ていることになるに決ってる、そうなればまた夕方にはこの店へ出て来て、ズルズルベッタリにバーテンの真似事《まねごと》、きりがつかない、きりがつかないと思いながら、この先また三月《みつき》でも半年でも平気で過ごすことになるだろう。
ハムはタバコを深々と喫い、呑んでいるブランデーグラスの中に吸い殻を投げこむと、
「今日かぎり、もうこの店やめよう」
とはっきり口に出しそう言ってはずみをつけるようにスツールをすべり降り、客席の空瓶を集めはじめた。灰皿やグラスを全部カウンターの上にあげ、下のくぐりを抜け、スノコ板を鳴らして洗い場に立つと、儀式でも取り行いそうな手つきで、丹念にワイシャツの袖《そで》を折り上げ、ゆっくりとグラスを洗いはじめた。
四月の初めからクリスマスイブの今日まで毎日この店に通って来て九カ月、長いといえば長い、短いといえば短い九カ月だった。
2
高校一年の時にたまたま席が並んでいたせいでそれ以来仲良く付き合ってきている幸二から新宿のバーへ呼び出されたのは二月の末だった。前の年に不人気の鳩山内閣がつぶれて、代った石橋首相が病気のため退き、岸信介内閣が成立した昭和三十二年、折から神武景気の延長で、盛り場はどこも活気に満ちていた。
「親父《おやじ》がさ、金貸してやるから何か商売しろってんだよな、何かったって別に手に職があるわけじゃなしさ」
逢《あ》うといきなり幸二は、待ちかねていたように話しはじめた。
「こういうトリスバーってのさ、俺達毎晩みたいに呑み歩いてるけど、これ水売ってるみたいで、なんかすごく手軽に儲《もう》かりそうな気がするんだけど、どうかね」
相変らず気楽なことを言っている。この男、一昨年大学は卒業した筈《はず》だが、学校に残って、末は教授をめざすんだと大学院に籍は置いているが、その実は卒業就職の時期に肋膜《ろくまく》炎を患って、家でブラブラ療養生活を送っていた。何でも投稿した漫才原稿が縁でラジオライターのような仕事もしていると聞いたが、どうも今の様子ではそれもパッとしないようだ。
多分に躁鬱《そううつ》症的で、感情の起伏、振幅が大きい。何か一つのことに熱中すると、異常に饒舌《じようぜつ》になり、何が何でも相手を説得しなきゃ気がすまないという性質《たち》で、そのためにハムはいつでも、ついつい幸二のペースに乗せられその挙句《あげく》はお守り役で、最後にはきまって苦汁をなめさせられている。ハムの方はどっちかというと生真面目《きまじめ》で、何でもお座成りには出来ない几帳面《きちようめん》な性分、幸二に言わせれば野暮で偏屈で優柔不断、どの道幸二と一緒にいれば、割を喰《く》うのは自分と十分承知はしているのに離れることが出来ない、因果なことだといつも思っている。
「俺は本当は将来は何かもの書いて生活するようになりたいと思ってるんだけど、親父はな、作家なんてお前には無理だよ、出来もしねえヤクザな夢を追ってねえで商売でもやれってんだよ、ひでえこと言うじゃねえか、そいでおれトリスバーくらいなら出来そうだっていったんだよな」
とそこまで言うと幸二は、もったいをつけるようにグラスに手をのばした。
「親父さん何ていったんだい」
ハムはついつられて先をうながした。
「そう、そういうまともな商売の方がずうっといい、ってそう言いやがんの」
とニタニタしている。息子が息子なら親も親だ、この親子はどうかしてるんじゃないかとハムは思った。
幸二の父親は、根っからの江戸っ子で落語に出て来る人物のような人、善人だが短気で手前勝手、まあよく似た親子で、幸二と瓜《うり》二つだ。互に認めあってはいるんだろうが、二人共強情張りだから喧嘩《けんか》がたえない、いまだに幸二は拳骨《げんこつ》をくらうことがあるという。おやじさんは、都内に旅館を二軒持っていて、それほど商売熱心とは思えないが呑気《のんき》な身分、普請《ふしん》道楽でしょっちゅう砥《と》の粉《こ》のついた半纏《はんてん》を着て飛び廻ってる。まあ、あのおやじさんなら、作家志望よりバーのマスターの方がずっと健全だと思ったとしても不思議はないと、ハムはあらためて納得した。
「第一さ、自分で酒場やってたら、いつだってただで呑めるしな」
ハムがあきれて黙っていると、ちらっとたしかめる眼つきでのぞき込み、
「なあ、一緒にやってみねえか、手伝ってくれよ」
と笑いかけて来た。これがくせもの、いつもこの手で振り廻されているから、ハムもここが正念場《しようねんば》とじっくり腰をすえてこの話をはねつけてやろうと身がまえ、
「馬鹿なこと言っちゃいけないよ、誰でも簡単に出来るようで一番難しいのが、水商売だっていうぜ、二十三や四の若造が無理なことしたって元手をなくすだけだ、やめとけよ」
とにべもない言葉遣いで、ぷいと横をむいた。
「だからってお前、四十五十になってから赤いチョッキ着て、カウンターの中に立ってるのもしまらねえぜ、若いから出来るんじゃねえかなあ、若い女の娘《こ》のグループが常連になったりして、毎晩キャーキャーやってたら、面白いだろなあ」
幸二の方は少しもひるむ様子を見せず、隅のテーブルに陣どっている女性グループを目で追っている。
「女? お前そんな考えで商売しようとするならそりゃ絶対やめた方がいいぞ、悪いことはいわないよ、第一動機が不純だよ」
ハムは何となくひきこまれそうな気がしたのか少し語気を強めた。
「ちょっと待てよ、俺は慈善事業や共同募金をやろうっていってるわけじゃないぞ、たかだかトリスバーをやろうっていってんだよ、不純も不謹慎もあるもんか」
言われてみればもっともな話だ。さらに幸二は続けて、
「本当のこと言えば、体もボチボチ良くなってきてるし、昼間はブラブラして夜になるとこうやって酒ばかり呑んで歩いてるんじゃ仕様がねえからさ、まあバーでもやって見ようと思っただけで、何もお前に出資しろとか言ってるわけじゃなし、手伝ってくれれば、それ相当に給料も出そうと思ってるんだぜ、お前がどうしてもやめろというなら、また別のことを考えてもいいけど」
そう言うとゆっくりタバコに火をつけ、
「お前だってあんまりえらそうなことは言えないだろ、いまだにデパートの婦人服売り場で値札つけやってるんじゃねえのか、そのくらいならトリスバーのマネージャーやったって別に経歴に疵《きず》がつくってもんでもねえだろう」
と今度は妙に気に障《さわ》るようなことをずけずけと言ってきた。ハムは、こっちだって好きでやってるわけじゃないと言いたかったが、何ともならずにもてあましている情けない今日此頃の日常を、すっかり見透《みす》かされているようで落着かなかった。ハムは、いつもそうなんだ、いつもこの手でこいつにたぶらかされるんだと、屈辱的な思いをかみしめていた。
そのうちに、七百二十ml入りの一本のウイスキーのボトルから、何杯のシングルがとれる、ハイボールにすると何杯、金額に直すといくらになるとか、おつまみなんてものはほぼ仕入れの何倍くらいになるとか、幸二はとうとうと説明しはじめた。はじめのうちこそ批判的だったハムも、いつの間にかすっかり乗せられて、一緒に皮算用をはじめるハメになっていた。
「調査、調査ですよ。マーケットリサーチが先ず第一、もう一軒行ってみましょう」
と勝手な理由をつけて、次から次と|はしご《ヽヽヽ》をして歩き、二人共すっかり酔っぱらってしまった。
ハムはもう完全に幸二のペースに乗せられてしまって、
「いいの考えたぞ、これはどうだ、ええッ」
と店の名前の候補をあげては、胸のポケットからとり出したパーカーの万年筆で、ナプキンにインクがにじむのも気にせず、それらしい名を次々と書きつらねていた。
やがて話はどんどんエスカレートして、二人の店は、渋谷、新宿にも進出して、ついにチェーン店の輪は日本全国にひろがり、店の名を冠した競走馬の馬主になるところまでいった頃には、もう完全にベロベロといってよかった。普通に考えればこの計画は杜撰《ずさん》に過ぎ、このまま行ったら前途多難、というか成功率ゼロ、もう少し冷静に考えなおすべきはずのものだった、とハムは今でも思っている。
それからしばらくは幸二から何の音沙汰《おとさた》もなかったが、三月になると、人形町の交差点近くのちょっと奥まった所に手頃な貸店舗があったのを幸い、早速借りうけて実際に店作りをはじめてしまったのだから驚いた。
前々から幸二は、普請道楽の父親について歩いていたおかげか、木場《きば》で材木を買うすべも知っていたし、建築材料屋にも顔がきいた。知りあいの職人も多かったから、手のあいてる人に来てもらうことにすぐに話もきまったようだ。
幸二は変に器用で、図面も引いたし、見取図も書く、てきぱきと職人に指図して、インテリヤの一切も自分でやった。途中で暇を持てあましてる幸二のおやじさんがやって来て、ああだこうだと注文をつけるので、いらいらした幸二とぶつかり、あわや親子で大立廻りという一幕もあったが、幸二の大ヒステリーに、おやじさんもあきれて、口出しをしなくなった。幸二は大工顔まけの腕だから仕事が面白く、うれしくて仕方がない。毎日毎日、朝六時起きして食事もそこそこに現場へかけつけて来る。ハムもこんなことがきらいな方じゃないから、デパートで女の洋服の正札つけの仕事をおっぽり出して、もっとも、むこうでもハムのことなんかたいして当てにしてるわけじゃない、だらしのない話だが、いつの間にか幸二の助手のようなかたちでいろいろと手伝っている。モルタルを運んだり、防腐剤を塗ったり、木屑《きくず》を集めたり、たいした事するわけじゃないが、着々と工事が進んで行く毎日が楽しくてたまらなくなってしまっていた。建具の吊《つ》り込みや細部のまとめまで、何でもこなす幸二のようにはいかなかったが、下地《したじ》が出来た上に、波型に機械加工されたはめ板を、ズラーッと並べて打って行くような仕事させてもらうと、このまま永久にこの作業が続けばいいと酔ってしまうような一瞬さえあった。現場で三時に職人たちと一緒に喰うキツネうどんもうまかったが、五時に仕事が終ってから皆で銭湯へ行ったあとのビールの一杯もかかせなくなった。
一カ月ばかりかかって、やっとトリスバー・カランタスは出来上った。カランタスというのはラワン材の一種、木質がきれいで、塗り上げるとチーク材のようになる。メインの酒棚まわりにこの木を使ったのと、「カランタスというこの響きがいいんじゃねえか、それに何のことかよくわかんない所が実にいい」ということで、関係者一同、衆議一決してこれにきめてしまった。幸二は無論のことだろうが、ハムにとっても、その一カ月間は、今までの二十四年の生涯の中で一番充実した日々であったような気がした。
幸二の話によれば、職人の手間から材料費、家主への敷金まで払い、什器《じゆうき》備品いっさいそろえて、かかった費用が、八十万円とのこと。親父から借りた金が百万だったから、当初の運転資金として二十万円を残す所なんてのがどうにも憎いと、自画自賛していた。
かくて店舗面積十坪、カウンタースツール十二、四人がけのテーブル席三つのトリスバー・カランタスは完成した。
「どうだいおい、すばらしいじゃないか、たいしたもんだぜ」
幸二は完成したばかりの店の前に立つと、一人で上機嫌だった。約一カ月間、一緒に汗水たらしてこしらえ上げたと思えば、ハムにしても満更悪い気分ではなかった。
見上げればトリスバー・カランタスの大看板、乳白色の地に洒落《しやれ》たレタリングの黒文字がくっきりと浮んでいる。ゴムの鉢植を配した入口のドアーは少し斜めに切れ込んでいて、一枚ガラスに店名が金文字で書かれ唐草でふちどりされている。スウィングドアーを押して一歩中に入れば低音のよく出るスピーカーから、ペレス・プラドの、チェリーピンク・マンボがきこえて来る。右手の壁面は、黒とベージュの思い切った一メートル間隔の縦縞《たてじま》、この大きな縞模様だけはハムは気に入らなかった。何かこけおどかしで安っぽいと、作る前からもめていたものだが出来てしまえば仕方がない。ベージュのテーブルに黒の椅子、左手はラワンながら五センチ厚のむくの一枚板のカウンター、黒のスツール、中央に水とソーダのドラフトが並んで立っている。酒棚のバックは荒くあんだ麦ワラのマット、ガラス棚にそろいの矢来柄《やらいがら》の様々なグラスが並んで天井からの間接照明にキラキラかがやき、ピカピカのシェーカーが眼を射る。皆何度も出たり入ったりしてうれしがっていた。ニスのにおいがたちこめる中で、一緒に働いてくれた人達とビールを呑んだ。幸二も何かひどく感激している様子で、だまって胸の内の喜びをかみしめているようだった。ハムはそんな幸二を見ながら、出来の悪い生徒のカンニング手伝ってやったような感じで、うしろめたいような、損をしたような妙な気分になっていた。
「どうだい、どうせなら四月一日オープンってのは冗談ぽくて面白いじゃねえか」
と幸二が言い出し、いよいよエイプリルフールの日が開店ときまった。
一週間前に出した新聞の求人広告でやって来たのがバーテンダーの宮下だった。グレーのジャンパーを着た小柄な男で、油っ気のない髪を七三に分けて、濃い一文字|眉《まゆ》の下にひっこんだ小さな眼が人のよさそうな感じに笑っている。そぎ落したようなこけた頬《ほお》にはヒゲのそりあとも見当らない、無口で実直そうな二十一歳の青年だった。三人くらいの応募者が来たが、宮下だけ、立教大学中退の履歴書を持参し、聞けば練馬に保証人の叔父《おじ》がいて、明日にでも挨拶《あいさつ》に来るという話。在学中のアルバイトも入れると、通算バーテンダーの経験が三年あるという。これから見ると他はいずれも見おとりがして、面接をまかされていたハムは即座に宮下を採用ときめた。ところがこれがとんだ喰わせもので、あとでわかったことだが、履歴書にあった立教中退も、保証人の叔父さんもまるで嘘《うそ》だった。後日、そのことでハムが宮下をなじったが、
「もういいじゃないですか、そんな堅いこといわなくたって」
と本人平然としていた。
その宮下の提案で、開店の前に前夜祭をやろうということになった。幸二も勿論《もちろん》そうだろうが、ハムもカウンターの中に入るのは生れてはじめて。のりのきいたワイシャツに黒の蝶《ちよう》ネクタイを結び、白のバージャケットを着て立って見たが、学芸会で無理やり少年Bをやらされた時のように膝《ひざ》がふるえた。
「立派なもんじゃねえかお前、ハムは変にハンサムだから黙って立ってる分にはどうしてどうしてとてもトリスバーのバーテンには見えねえよ、クインエリザベス号のメインバーにいたっておかしかねえぞ」
などと幸二がひやかした。ハムはすっかり舞い上って手のやり場がない。見てくれだけはどうにかなっても、実は何も出来ない。宮下がアイスピックの使い方からあれこれ手ほどきをしてくれるが、幸二ともども、やたらに気分ばかりたかぶって、ギクシャクして足が地につかない。そのうちにシェーカーを持ち出すと見よう見まねで、大袈裟《おおげさ》な身振りで振って見る。
「どうもなあ。やっぱり本ものが入ってねえと気分が出ねえよなあ」
と幸二が言い出した。酒は売るほどあるしチェリーもオリーブも本ものがそろっているからたまらない、マンハッタンがどうのマテニーがどうのと、面白がって次から次から、実験しては皆で味を見る。きき酒なんだから味を見たらはき出せばいいのに、もったいないとばかりに全部呑んじまうから、一時間もしないうちに三人共すっかり酔っぱらってしまった。
最初蝶ネクタイをしめて勢揃《せいぞろ》いした時には、幸二がマスター、ハムがマネージャー、宮下がバーテンダー、と役柄もきめ、これからは店内では互にそう呼び合うようにしようなどととりきめていたはずだったが、もうこうなれば無礼講で、マスターもヘッタクレもあるもんかと、陽気に肩をたたきあって放歌|高吟《こうぎん》、はては銭湯帰りの通行人にまで声をかけ、
「今日は前夜祭だからゼニはとらない、いいからいらっしゃい、はいんなさいったら」
と三人で手をとり、背中を押して引きずり込んで皆でメタメタに酔っぱらってしまった。
翌日はいよいよ本格的なオープン、メンバー一同、といっても三人きり、顔はそろったが、全員二日酔いでマッツァオ、もう酒なんか見るのもいやだって気分でむすっとしている。それでも不思議なもんで時間がたてば結構元気が出て来て、あらかじめ通知しておいた友人達がボチボチ押しかけて来るころには、宮下のすすめで無理に流し込んだむかえ酒のアブサンの効果もあったのか、かっこうだけはついてきた。幸二は土地っ子だから、小学校時代の同級生が久しぶりに来たり、大学の友達なんかも顔を出してくれたので本人はやたらうれしがっている。性来のオッチョコチョイが、二日酔いの下地の上に、祝い酒をガブ呑みするから、すっかり気が大きくなり、カウンターの中で客より大きな声を出したり、客席を廻って酌をして歩く、なんだか大宴会みたいな雰囲気になってしまった。
宮下はさすが不安気に、時々ハムの方を見るが、もうこうなったら、誰にも止められやしない。
友人達の中に「それじゃこれで」と金を払って帰ろうとするのがいると、
「何だいお前もう帰るのか、つめてえじゃねえかもう少しいろよ、えーっ、金、よせよお前、俺とお前の仲で水臭えこと言うなよ、アハハハハッ」
と馬鹿なことを言ってる。ハムと宮下にして見れば何が水臭えもんか、こっちは商売でやってるんだと言いたいが、マスターがいうんじゃ仕様がない。そのうちに幸二はいつものハシゴの|くせ《ヽヽ》を出して、
「おーいみんな、気分かえて飲み直そうぜ、俺がおごるからもう一軒つき合え」
と言ったかと思うと、ハムと宮下でせっせとレジへ入れた売り上げをひっ掴《つか》み、大勢の客をつれてワーッと出ていってしまった。
気がついてみれば、ハムと宮下だけが取り残されていた。こんなことでこれから先どうなるのかと思えば、ハムは早くも重苦しい気分にさせられていた。幸二とのつき合いは昨日今日じゃない、あいつの性格からすればこんなことは当り前、とっくに解っているから今更怒ってもはじまらないが、解っていながらずるずると引っぱって来られてしまった己れの不甲斐《ふがい》なさが、毎度のことながら情けなかった。
3
「ジングルベル、ジングルベル、ジングルオールザウェー」と大声で歌いながら二、三人の酔っ払いが店の前を通り過ぎて行った。
しばらくすると入り口のドアーが、ガタガタと鳴った。誰かが外から叩《たた》いているらしい。ハムはコップ洗いに没頭していて、ちょうど気分が乗って来ている所だったから、わざと知らん顔をしていることにした。そのうちにコインか靴ベラか、何か小さな金属でガラスをたたいている音に変った。
「おーいあけろよ、いるのはわかっているんだぞーう」
ドアーの外で怒鳴る声がして、カチカチとガラスを叩く音がいっそうはげしくなった。ガラスを割られるのも面倒と思って、ハムはカウンターの下をくぐってフロアに出ると、カーテンをずらして外を窺《うかが》った。これ又高校の時の同級生で、たいして気が合うというのでもないのにぐずぐずと付き合っている洋祐《ようすけ》がライターを振り廻していた。
「もう店は終りだよ。帰ってくれ」
やりかけの仕事を中断させられたのもあって、中《ちゆう》っ腹《ぱら》で怒鳴り返した。
「おいハム、それはないだろうおい、せっかく来たのになんてこったい、ちょっとでいいから開けてくれよ」
とまたガラスを叩いた。仕方なくハムが錠をはずすと、そうとう酔っているらしい洋祐が、ふらふらしながら入って来た。
ポマードでテカテカになでつけたリーゼントヘヤー、真四角な童顔を真赤にして、黒のオーバーの前をはだけ白い絹の丈の長いマフラーをのぞかせている。よく見るとうしろに立った小柄な若い女と手をつないでいる。ハムをはらいのけるようにずかずかとカウンターに近づくと、女をうながして自分もスツールに腰かけた。
「もう店は終ったんだよ」
もう一度ハムは言った。
「いいじゃねえか、一杯ぐらい呑ましたって、ハイボール、な、こちらのお嬢さんにはコークハイたのむよ」
ハムはぶすっとした顔でいわれたものを出してやった。女は鼻のひくい、平べったい印象の顔立で、二十歳《はたち》くらいか、チリチリに縮らした髪を真中からわけ、一重瞼《ひとえまぶた》の小さな眼、厚い口唇《くちびる》が少しひらいている。襟《えり》に兎《うさぎ》の毛皮のついたコートを着ていて、ハムを見てニコニコしていた。ハムはあきらかにいやな顔をして見せながら、せっせとコップ洗いにせいを出した。
「おい幸二と宮下はどうしたの、もう帰っちゃったの……。おいそんな不景気なつらするなよ、せっかくの色男がだいなしだぜ、こいつハムっていうんだけどな、ちょっと男前だろ、自分じやケリー・グラントに似てるつもりでいるらしいんだけどよ、俺達は汚なグラント、不潔グラントっていってるんだけどさあ」
洋祐は女の肩に手を廻した。
「こいつこれでも明治大学を優等生で卒業してるんだぜ、そいで就職もしねえで、この間まで俺んとこの会社で安売りの値札つけやってやんの、ははは……それが今じゃここのバーテンさんだよ、出世したもんだよな」
ハムはだまって洗いものを続けている、洋祐は益々《ますます》調子づいて、
「こいつなんでハムっていうか知ってるか、ツービー・オア・ナット・ツービーのハムレット、悩み多き永遠の青年ハムレット、ハハ……、それがいつしかつまってハム。なハムさんよ、おいそんな仏頂面《ぶつちようづら》してねえでお前も呑みなよ、おいハム」
とハムの顔をのぞき込んだ。
「もう店は終ったんだよ、帰ってくれよ」
ハムは静かに更にもう一度言った。
「ちぇっ、せっかく来てやったのに、何でえこんな奴《やつ》のふくれっ面《つら》見てても面白くもおかしくもねえや、帰ろう帰ろう、いわれなくたって帰りますよ、いこいこ」
洋祐は、さっさとスツールをすべり降りると女の腰をだくようにしてうながし、ふらふらしながら出て行った。ハムは知らず知らずかたく噛《か》んでいた口唇をゆるめた。腹が立っても喧嘩も出来ないおのれがうとましく、ひどくみじめだった。
洋祐のうちはじいさんの代から、婦人服を作る会社を経営していた。洋祐は法政大学を出るとすぐ、おやじのやっていた会社に入り、日本橋のデパートの中へ手伝いにやらされた。洋祐にも不満はあったらしいが、なにしろ若い女の娘《こ》がワンサといるデパートということで、結構気をまぎらわしてるふうでもあった。次から次と女の娘《こ》に手を出して、その都度《つど》ハムに戦果を報告しては悦に入っていた。今日連れていたのも大方そんな女の一人なんだろうとハムは思った。
ハムのおやじは、おふくろと一緒に吉祥寺で美容院をやっていたが、戦争中に沖縄で戦死した。おやじがまた馬鹿に堅い真正直な人で、応召で陸軍にもっていかれたが、内地勤務の主計曹長で、上手に立ち廻れば安全で役得の多い立場にいながら、上官の不正を見るのがいやで、わざわざ第一線への転属願いを出して、自ら死地におもむいた。ハムもその血をひいているに違いない、何につけても損な役廻りで、貧乏くじばかり引かされる。そのたびにおやじのことを思い出した。はたらきもののおふくろが、女ばかりの従業員を従え一人であとを引きついでいるから、手伝ってやりたくともハムの出る幕がない。
おふくろは結婚して以来、家と美容院を往復するだけで、外に出たことがない。ひたすら、クシを片手に、パーマをかけたり、セットをしたりする毎日で、働くことだけが生き甲斐みたいな女。大勢の女達を指図してガチャガチャ働いているおふくろを見ると、ハムはそれだけで気おくれして胸がくるしくなった。
戦争中、幸二の家が中野の鷺宮へ疎開した。ハムの家でもたまたまその、近くに家を借りて子供達二人、それにばあやというかたちで、母親とは別に住むようになった。ハムの家の住居《すまい》も店も人家の密集地にあったので母親が空襲をおそれていたのだ。その頃から幸二と一緒に近所の中学へ通っていたが、戦後になって吉祥寺に戻っても人見知りのはげしいハムは転校する気になれなかった。六・三・三に学制が変って、その中学が新制高校の内容で新発足してもそのまま、吉祥寺から一時間半もかかるのも苦にせず通いつづけていた。高校二年生へ進級する時期に、早稲田大学附属の高等学院が新学制のもとに再発足することになり、新入生のほかに、二、三年への編入生も募集した。卒業さえすれば早大への進学は無試験ときけば、誰にとっても少なからず魅力的に思えた。
「退学の手続きはしなくても試験だけはうけられるらしいぞ、駄目でもともと、今の所へ帰ってこられるんなら、こりゃやるだけやってみなきゃ損だよ、お前」
幸二はすぐにその気になり、早速願書を二通とって来るとハムにも受験をすすめた。ハムは字の下手な幸二に代って願書を書いてやった。幸二はクラスでも下から数えた方が早いくらい成績が悪いから、何としても安全確実に進学したかったし、手だては容易なほど結構と思っていたに違いない。この時ハムも実は願書を出していた。ハムは小学校に入った時から、成績はきまっていつも一番、二番と下ったことがない。中学でも、高校でも、たいがい学年で十番以内にいたから早稲田くらいならいつでも入れるという自信があった。二人して受験し、二人共見事に受かった。幸二は有頂天《うちようてん》になっていたが、ハムは何となく釈然としなかった。ハムにしてみれば、いまこのまま学院に進めば、附属校の常で、他の進学校とは授業内容も違うだろうし、別の大学、たとえば、国立を受けるというわけにはいかなくなる。つまりこの時点で、履歴書の最終学歴は、早稲田大学卒業と書くことに決ってしまうわけで、これが耐えられなかった。俺の学力なら、東大や一橋も無理ではないという、夢を捨てきれなかった。今にして思えば、俺の挫折《ざせつ》はこの時にはじまったと悔《くや》まれてならないが、ハムはせっかく受かった学院を捨てて、東大、外語大、一橋大への合格率を誇る進学名門校へ転校したわけだ。
万事に呑気で、悠長だった鷺宮の高校に較《くら》べれば、一点一点がおろそかには出来ない無機質な雰囲気を持った教室で、隣り同士は皆ライバル、気易《きやす》く声もかけられない中で、友達一人出来るわけでもなく、ただただ、受験参考書を抱えておろおろしていた。三月《みつき》もしないうちにおのれの実力のなさは明白になり、田舎《いなか》の優等生はここでは最下位、徹底的に打ちのめされてしまった。幸二の方は、進学の不安の全くない、自由な気風の学院で、すっかり大学生にでもなったつもりか、チャラチャラ遊びほうけている。来年受験の弟は、これが又誰に似たのか特待生でめきめき実力つけて来ているのがわかる。
いずこも同じ受験生の生活、御多分にもれずハムもその一年は鬱々として楽しまず、不安と絶望に打ちひしがれ、灰色の日々をもんもんと過ごして、結局は、どこも受験せずに、高校だけ卒業して浪人生活に入った。
幸二は学院をどうやら卒業して、おもわく通り就職率が一番高いといわれている商学部へちゃっかり無試験で入学した。
あても限りもない浪人生活は、朝のこない夜、明けることのない雨期の中にとじこめられているようで出口がない。あせればあせるほどものは憶えられない、ええいままよとひらき直って見れば、せっかく頭におさまったものがはじから出て行ってしまうようでおそろしい。弟の英語のノートを、おそるおそるのぞいて見ると、「鶴首《かくしゆ》して吉報を待つ」なんて高校生ばなれした、洒落た訳文が書かれているのを見つけてびっくり仰天、とてもかなわないと舌をまき、ますます自信をなくして落ち込んで行くばかりだった。
又一年、空白の時が流れた。正に空白で、映画一本見るでなし、スキーシーズンになっても、自分には関係ない話と、駅のポスターからも目をそらす。夏場の海水浴場なんて、ビキニの女がいると思うだけで空恐ろしくて近づきもしない。どこにも出かけずに、家にこもっているからといってその分勉強がはかどるわけじゃない。むしろ時には気ばらしも必要と、おふくろはまた心配して余分な小遣いを押しつけるが、勉強部屋からはなれれば罰《ばち》でも当るような気がしてならない。たまに出かけても本屋へ入るぐらい、受験参考書ばかり山と積んでも頭に入らなければ何にもならないと思いつつも、つい新しいのを見れば買わずにはいられない。だんだんノイローゼ風になって、ラジオから流れる受験講座のテーマ音楽聞くだけで、喰ったものをもどすようになってしまった。頭のモヤモヤを払拭《ふつしよく》し、新たな気分でとりくもうと、最大限の勇気ふりしぼり自らに至上命令下して、新宿二丁目のあたり徘徊《はいかい》して見るが、どこへどう行っていいのかわからず、というより結局は意気地がなくて、気の抜けたストリップ見て帰って来る。前よりもいっそう切ない気分になるだけで、夜中にプレーヤーのボリューム一ぱいにあげ、ワーグナーなど鳴らしてビスビス泣いている。おかげで近所の人からもいぶかられ、顔合せてもいやな眼つきで窺われる。
弟と同じ時期に大学受験というのも過酷なもの、まして格段に実力はむこうが上となればことさらで、弟は強気に東京大学一本で行くとのこと。ハムはごくひかえ目に、ランクを下げて明治大学の商学部だけを受けることにした。うまく入れても幸二から馬鹿にされて、又いろいろいわれるという屈辱はさけられないわけだが、あの時一緒に学院に入ってさえいれば、何の苦労もせずにすんだ筈なのにと思うとよけいに腹もたって、ヤケッパチのようにわざわざマゾヒスティックにそうなる道をえらんだふしもある。
神様は時にひどいいたずらをなさるもので、ハムは明大の入試に落ちた。
弟も東大の入試に落ちた。奴は出来るから絶対に受かると確信していただけにショックだったが、正直にいえばホッとした気もしなくはなかった。いくら優秀でもそう簡単にすいすい追いぬかれたんじゃたまったもんじゃないと思う気持がどっかにあったのかも知れない。弟は早生れだし若い時の苦労は買ってもしろだ。一年間位浪人生活もいいもんだ、ハムはその時そう思った。そして実にいい気なもんだとわれながらゾッとした。
ハムはもう何をする気もなくなった。幸二の兄にすすめられて同じ明大の第二商学部、つまりは夜間部だが、そこに入れといわれ、反対する気力も意地も失って、自分でも不思議なくらい、ごく素直な気持でこの忠告に従った。これはかろうじてかどうかはわからぬが兎《と》に角《かく》合格した。それからの一年間は昼間仕事があるわけでもないのに、夜になってから大学に行った。昼間の授業を全くとらないわけではなかったが、何だか場違いな場所にいるようでかえって落着かなかった。第二学部といっても、内容にそう差があるわけでなし、すねたりひがんだりする必要はないはずなんだが、学生達もみんなどこか屈折していて、聞いてはいけない影引きずっているようで、友達も出来なかった。きっと心の隅のどこかに、見返してやりたい思いがあったのかも知れない、授業もせっせと出たし、それなりに勉強もした。おかげで成績表には全部優が並んだ。クラスで一番か二番だったと思う、一年の終りに昼間部への転部試験があり、これに見事に受かって晴れて第一商学部の学生になれた。弟も今度は見事に東京大学に入学し、先ずはめでたしめでたしだった。
ハムは明治大学第一商学部を優等生で卒業した。幸二は「今時大学を優等で卒業するなんて馬鹿はめったに見たことないけど、全優の成績表持ってて、学校推薦まですべて振って、就職試験を一つも受けないって馬鹿もいねえんじゃねえか」と言っていた。ハムはどっかへ就職したら、又それなりに優等生の社員になって、人並にやって行けるだろうと自信はあったが、何をやりたいって希望も方向も定まらないから、それが幸せにつながるとは思えなかった。幸か不幸か、明日から家の為に稼《かせ》がなきゃならないってわけじゃないから、優雅なことが言ってられるわけだが、何でもいいから、とにかく世間体よく、糊口《ここう》のメドさえ立てばそれでいいという気には正直どうしてもなれなかった。大新聞社や、保険会社、商社もメーカーにも行きたいとは思わなかったし、入った友人達をうらやましいとも感じなかった。幸二は、
「ハムよ、お前はな、きめられたことしか出来ねえんだよ、だから優等生ってものはだめなんだ、お前さんは、現代の教育制度の欠陥を如実に示す生きた証しだよ、自分で考えたり、自分で行動したりが一切だめなんだ」
と言った。そういわれて見るとまんざら当ってないわけでもないような気がしたが、ハムは一切の就職試験を受けなかったことも、自分の考えと、行動の表わし方だとも思っていた。弟は、東京大学へ入ってすぐボート部に入り、今ではキャプテンになっている。彼はもうすでに日本でも有数の鉄鋼会社へ入るつもりでいて、先輩達の引きもあり、恐らく間違いはないだろうし、本人もそう決めていて毫《ごう》も疑いを持たない、それはそれでいいだろうが、ハムは自分なりの考えをつらぬき通したかった。
かっこうのいいこと言ってるようだが、実際やってるのは、洋祐の所のデパートの婦人服売り場で、この二月まで朝から晩まで、値札つけだったのだ。それでも不満はなかった。どうかすると、永遠にこの仕事が続いても、これで喰っていけるならそれで幸せだとしんから思ったりする時もあった。
洋祐にして見れば、踏みつけにしても突きはなしても、コンニャクみたいに手ごたえなく、だまってこの屈辱的な仕事に耐えているハムが目ざわりでうとましかったのかも知れない。一緒に呑みに行ったり、女を紹介したりもしなくなった。父親のあとつぎといっても、婦人服の会社も従来のように自主的に営業が出来なくなり、幹部をすっかりデパート側の人間でおさえられた子会社の直営の色彩が濃くなり、いくら一所懸命やっても、その分だけは着実に報いられるという実状でなくなっていることもあってか洋祐も半分はやけで遊び呆《ほう》けているのだろう。つまりはハムと同じように、先に光明のほの見えるでもないお先真暗の毎日を、鬱屈した気分押しかくして陽気にふるまっているのかも知れない。只《ただ》ハムのように、馬鹿げて優雅な境遇にいるわけじゃないから、あからさまに挫折《ざせつ》を看板にかかげて、われこそ青春の苦悩の代表選手とばかり、ことさらに渋面さらして安売りの値札のつけかえに憂き身をやつしてはいられないだけかも、と思えばハムは背中まで真赤になるほど恥ずかしかった。そういえば洋祐はハムにこんなことを言ったことがある。
「一度や二度、受験で挫折したからつて、人生の苦労すべて解ったような顔《つら》するな、はたから見てりゃどんな極楽トンボでも、皆それぞれに、けっこう人に言えない悩み持ってるもんさ」
4
「今晩はーッ」
と入り口で声がして、ドアーがあいた。半開きのすき間からからだ半分だけのぞかせて、
「もう終っちゃったの、ちょっといいかな」
と声をかけて来たのは、馴染《なじ》み客の西田さんだった。洋祐が出て行ったあと鍵をかけ忘れていたらしい。
「いらっしゃい、いいですよ、どうぞどうぞ」
ハムはこの客が好きだったし、洋祐が来て嫌な思いをさせられたあとだったので、救われるような気がした。
「外を通ったら明りが見えたんでね、押してみたらドアーがあくしさ、ハムさん一人なの」
いいながらハムの前まで来て、土産物《みやげもの》らしい紙包みをカウンターに置いて、スツールに腰かけた。
「いつものでいいですか」
ハムもサントリーホワイトのオンザロックを押し出すように置いた。
「ハムさんも呑みなよ、俺がおごるから」
「いやあもう閉店しましたから、こいつはサービスですよ。そうですね、ちょっとつきあいましょうか」
ハムも自分でファッショングラスを出して、少しウイスキーを注いだ。
「残念だけどね、こうやってハムさんと呑むのも今夜かぎりで、明日っからここへ来られなくなるよ」
西田はしんみりした口調でそう言いながらグラスをとり上げた。
「どうしてですか」
ハムもグラスをとって、乾杯の型でコチンとふちを合せた。
「すまじきものは宮づかえかね、急に静岡へ転勤を命じられてさ」
「へーえ静岡ね、そりゃ残念だな」
実は私も今日かぎりでここをやめようと思ってるんですと口まで出かかったが、転勤して行く相手に言った所で詮《せん》ないことと、ぐっと胸の奥に押しとどめた。西田もハムとたいして歳は変らない筈で、大手の商事会社に勤めているときいていた。
「サラリーマンも楽じゃないぜ、辞令一つであっちこっちへ回されてさ、さしずめ将棋の駒だよ、この暮へ来て、いやもおうもねえんだから、おふくろなんて泣いてやんの、本当は俺の方が泣きたいよ」
口もとにニガ笑いをうかべているが眼は笑っていなかった。ハムはまともな所へ勤めた事がないからよくは判らなかったが、西田の様子見てると堅気の月給とりも楽でないらしいのはうかがえる。会社が大きければ大きいなりに身の安全は保証されるだろうが、その分、しめつけはきびしく、出世のチャンスは少なくなる。四六時中、先輩同僚の顔色うかがい、休まず、遅れず、ぬかりなく、神経すりへらして、つつがなくガンバリ通しても、せいぜいいって部長どまりで、定年で追い出される。これじゃ人の思惑《おもわく》気にして、一生棒に振るようで、たまらない気もして来る。だからといって、ハムの様にいつまでもおふくろ当てにして、ぐずぐずいってもいられない。それやこれや考えても、またしても堂々めぐりで解決の糸口みあたらない。
「人間到る所に青山《せいざん》ありって言いますよ、静岡に行けば行ったで、また色々と面白い事もありますよ」
なぐさめにもならないと承知しつつもほかにかける言葉が見当らなかった。
「そうだね、そうでも思うより仕様がねえや、それにしてもここの店へ来てて色々と面白かったよ、ハムさんも元気でやってちょうだい、宮下君やマスターにもよろしく言ってよ」
そう言うと西田は土産物のクリスマス・ケーキを置いて帰っていった。
西田は面白い客だった。金ばらいもよく、別にいばるわけでもなく、酔っても乱れず、いつも変らずニコニコしていた。雨でも降って客足もぱったりとなく、空しく響くレコードに所在なくカウンターに立っている時、いつの間にか西田を心待ちしたりしたものだった。馬鹿な冗談を言いあったり、ダイスゲームに打ち興じたりして、看板まで遊んでいる西田をさそって、よく寿司屋なんかへ皆で出かけた事も思い出される。そんな時はたいてい幸二がもうそうとう出来上っていて、一人で上機嫌になっている。きまって寿司ネタを上手に洒落たものから順に喰うことにしようなんて遊びをはじめる。
「本日はお日柄もよくておめで|タイ《ヽヽ》で先ずタイからいただきましょう」
と宮下がそんな所からはじめる。西田が、
「そんなんでいいのかい、いっ|タイ《ヽヽ》ぜん|タイ《ヽヽ》何|ダイ《ヽヽ》ってんで、俺はタイ三つだね」
とつづける。こんな時たいてい一緒にいる洋祐はさすがに下町育ちで、
「|ウニ《ヽヽ》の親より|ホタテ《ヽヽヽ》の親ってんでウニとホタテだな」
小鼻をひろげる。宮下が突然|唄《うた》い出し、
「|マグロ《ヽヽヽ》も攻めるもくろがねの、でマグロだ」
強引にこじつけて一同大笑い、すかさず幸二が『別れの一本杉』の「あの娘《こ》はいくつ、とうに二十《はたち》はよ、過ぎたろうに」の所を唄い、
「|アナゴ《ヽヽヽ》は|イクラ《ヽヽヽ》、|トロ《ヽヽ》に|ハマチ《ヽヽヽ》も|スミイカ《ヽヽヽヽ》だろ、チャチャンチャンってんで、アナゴとイクラとトロとハマチにスミイカだ」
とやり返す。幸二はさすがにラジオライターなんかやろうというだけにこんな時は抜群の能力を発揮する。洋祐が歌舞伎の声色《こわいろ》で、
「|タマゴー《ヽヽヽヽ》、ちと|アカガイ《ヽヽヽヽ》申し上げる」
とやればすぐ幸二が、これも声色で、
「それは端《は》しぢか、いざまず|カレー《ヽヽヽ》へ、お|サシミ《ヽヽヽ》下さい」
とうける。この調子で延々とやりあうからカウンターに同席している見知らぬ客まで笑いころげる。次々にはしごをして歩き、行った先でまたはじめる。
何軒目かのバーへ行った時、洋酒の棚を前にして、
「さあ困ったぞ、ジョニーウォーカーって酒は洒落にくいぞ、カティサークも、ホワイトホースもだめだなこりゃ、とても洒落になる名じゃねえぞ」
洋祐も宮下も西田も首をひねる。幸二が口をもぞもぞさせてからやおら、
「もう|ジョニアカ《ヽヽヽヽヽ》だな、そろそろ|ジョニクロ《ヽヽヽヽヽ》じゃねえか、俺カティサーク帰るけど、ホワイトホースるってのはどうだ」
と言った。一同大笑いしたが、ハムには何の事かよくわからず、曖昧《あいまい》に笑っていると、
「ハムお前|いも《ヽヽ》だからわかんねえんだろ、駄洒落の説明させる気かよ、もうジョニアカつまりジョニーウォーカーの赤で、ジョニアカ、夜中だな、ジョニクロは十二時頃で、俺は勝手に先に帰るけど、カティサーク帰るけど、ホワイトホースるは、お前どうするっての、やだなあもう」
ハムはこんな時、何一つ気のきいた事が言えず、ただ幸二達のやりとりきいて、笑っているだけの自分が情けなかった。酒の勢いかりて自分も何とかとあせるのだが、やっと思いついた時は、一足違いで宮下に言われ、いいのが浮んだと口にしようとすると、もう話題はとうに変っていて、お前今頃なに言ってるのと失笑をかった。こればかりは何か特別の才能がいるのか、ハムだけ頭の中の回路が一つ違った所に結びついている感じがして、いつもくやしい思いをしたものだった。
5
六月になると幸二はぱったり店へ顔を出さなくなった。二月《ふたつき》もやれば大体店の事はわかってくる。場所のせいもあるのか、フリの客はめったに入って来ないし、馴染みの客は現金で払う方が少ない。つけが大きくたまればそのまま来なくなるし、はじめに思ったほどは儲からないこともよくわかって来た。可成り調子よく行ったと思っても、酒屋や乾物屋に支払をし、家賃光熱費その他、ハムと宮下の給料を引くと、幸二の手には親父さんに月々返済する分くらいの金しか残らない。その金もそっくり返すと幸二の取り分はなく、まあ、これじゃ幸二がやる気をなくすのもわからなくはない。それにしても所詮《しよせん》は坊やの商売、まだまだ大様《おおよう》なもので、無駄も多い。話の通りに水でも売るように安直に儲かるはずもないが、何とかやりようでもう少しはいけそうなもんだとハムは思っていた。
また幸二は身体の具合が悪くなったともきいたが、彼が出て来ないおかげで、仕入れから集金まで一切押しつけられてハムは迷惑だった。幸二のおふくろさんから電話があって、どうも幸二の様子がおかしいから鷺宮へ見舞に行ってやってくれないかとたのまれた。その時の話しぶりからどうも肋膜炎の再発の問題だけではなさそうだと予感がしてはいたが、どうせ奴のことだから、針ほどのことを棒大にさわぎたてておふくろさんの手をやかせているに違いないと、放ったらかしにしておいたが、どっからか洋祐がこの話をききつけて、
「面白そうじゃねえか、幸二の奴が、睡眠薬を集めたり、部屋に目張りをしてガス管引きこむようなことしているらしいってよ、いってみようぜ」
とハムをつかまえるとワクワクしてるような眼つきでさそって来た。ハムは洋祐の趣味の悪さにちょっと反発も感じたが、気にもなっていた。恰度《ちようど》洋祐の方も休みだというし、その日のうちに菓子折を持って鷺宮のうちをたずねた。玄関をあけると、面倒見てくれているおばさんが出て来て、たった今帰って来た所ですといって奥へ案内してくれた。
ハム達は部屋に入って、アッと息を呑んだ。
その時の幸二の格好は、正に常軌を逸していた。髪の毛をどうしたものか、大きなたちバサミででも無茶苦茶に切ったのか、長い短いが極端に違う虎刈りとでもいえばいいか、とにかくジャギ、ジャギにして、不精ヒゲをはやし、明らかに眉の片方をそり落している。縞のパジャマの上に、グリーンのセーターを着て、その上に緋鹿子《ひかのこ》の女ものの長じゅばんひっかけて、テーブルの上に大きな紫の座布団《ざぶとん》を敷いて、大《おお》胡座《あぐら》をかいていた。
「いやあ久しぶりだなあ」
と洋祐は曖昧に挨拶をしたが、そのあと言葉のつぎようがない、眼のやり場にも困った様子でハムの方を盗み見ている。
「おおよく来たな、まあ入れ入れ」
幸二は何時もと変らぬ口調で招じ入れたが、六畳ほどのテラス風のその部屋は、新聞、雑誌、本、レコードの類が、乱雑にまき散らかされていて、坐る場所もない。仕方なくおずおずとベッドの方へにじり寄ると、
「そこへ坐れよ」
と幸二がアゴをしゃくった。いわれるままにハムと洋祐は、そのベッドに浅く腰かけた。
「いまなあ、このままのナリで、バスにのって阿佐ヶ谷までいってさ、そいから中央線で東京駅までいってな、山手線一周して帰って来たんだけど、面白かったぞ」
とアゴをなでてニヤニヤしている。二人共あっけにとられていると、
「いや、世間ってのはいったいどういうものかと思ってさ、電車のドアーがスーッと開くだろ。『オーッス』なんてって乗り込んでいくとな、まわりの乗客は一瞬俺の方見るけどすぐ新聞に視線をもどすか、知らんふりするかだね、中々こっち見て驚いてなんてくれないよ、かかわりあっちゃまずいと思ったりするのかね、なんか逆に情けなくなってな、演説なんかしてやったよ。『なんだいお前等、体裁作ってビスビス生きてやがって、死んじまったらちょっとでも気にかけてくれる奴は、たかだか五人くらいしかいねえんだぞ。世間様がどうとかこうとか言ったって、つきつめてみりゃその五人のために生きてるんじゃねえか』ってな、たとえばさあ、岩手の田舎で、村八分《むらはちぶ》にあって首くくった人がいたとしよう。その人にとっては、東京も大阪も、ニューヨークも火星も同じなんだ、はるかに遠い意味もない存在なんだよ、その人にとっては世間ってのは、世界でも、東京でも、盛岡でもなく、向う三軒両隣りの、田吾作《たごさく》であり、治平さんであり、ミヨちゃんなんだろう、その誰でもが口きいてくれないから、全世界中から疎外されたと感じるわけだ。おもいきって汽車に乗って一駅違った場所にいけば、まったく新しい世界がそこにあるのに、そんなこと夢にも思わず死んじまうわけ、でもお前等だって誰だってそれを笑うわけにはいかないんだ、みんな同じように、制約されたそれぞれの小さな世界の中に住んでるわけだ、身のまわりのたった五人の思惑の中から出られない、その五人のために体裁とりつくろって生きてるんだ、馬鹿な話だよ、死ぬほどの無理して家建てたって、車買ったって、本当に見せたい奴はその五人だろ、やめようじゃねえかそんなけちなことは、と言いたいんだ俺は」
酒を呑んでるようにも思えないが、まだ興奮がおさまってないようで、幸二はその虎刈り頭を振り振り話をつづける。ハムと洋祐は顔を見合せた。
「今だってさ、このなりで電車に乗って帰って来たけど、別にどうってえことはないよな、みっともないも、いいも、しょせん電車の乗客は赤の他人で火星人と同じ、なんとなくデッカイ世間≠チていうような観念はあるけど、それは観念だけの問題で、現実の場合俺達にとって世間ってのは、親類とか知りあいとかたかだか十人くらいなんだな、そんな小さな世界はかなぐり捨てて、もっと自由に、伸び伸び生きたいな、俺は今日本当に自らを馬鹿げた制約から解き放つことが出来た。眼の前に突如青空がひろがったようだよ」
益々酔ったように大袈裟な身ぶり手ぶりでまくしたてた。ハム達は早々に引き上げたが、幸二はしつこく引き止めることもしなかった。ただやっぱり眼の色がいつもと相当違ってるようにハムには思えた。帰りの電車の中では洋祐も悪夢から覚めたような顔つきでしばらくは口もきかなかった。ハムは、幸二はやっぱり相当思いつめてるなと感じ、ちょっとあぶないとも思った。それにしてもいつものことだが、思いつめると極端に一気に突っ走る幸二の気性と行動力には、辟易《へきえき》しながらもある種の羨望《せんぼう》と驚きを感じないわけにはいかなかった。
「あのなあ、ハムよ」
洋祐が困ったようにハムを見つめて、
「ああいうのが友達にいると困るんだよな、結婚話なんか出た時、相手方に知られるとまずいんだよ、まとまる話も、まとまんなくなっちゃうもんな、世間に目立たないうちに、病院にでもとじこめといてくれるといいんだけどなあ」
と深刻な顔つきでささやいた。何だか洋祐もその日はそのまま帰る気にもならなかったらしく、ハムと一緒に人形町の店まで来てしまった。宮下がすっかり掃除をすませ、店の前に水を打って、看板に灯を入れた所だった。ハムがバージャケットに着がえてロッカーから出て来ると、洋祐は宮下を相手にもう呑みはじめていた。
「そうですが、マスターやっぱり相当おかしいですかねえ」
宮下は何故かうれしそうに、カウンターに両手を突っ張ってニヤニヤして聞いていた。
「おかしいよ、どう見たって普通の眼つきじゃなかったね、妙に潤んでるっていうかトロンとしちゃって、狂犬病の犬みたいなんだよ、今にもウル……ってうなりそうだったぜ。第一あんまり瞬《まばた》きってものをしなかったんじゃねえか、なあハムよ」
洋祐が上ずった眼つきを真似《まね》て見せた。
「そういえばあの人は普段からちょっとおかしかったですからね、やっぱり陽気のせいかな」
宮下はさかんに首を振っている。
「やつは本当に死ぬ気かな」
ハムも気味が悪かったことはたしかだった。
「人間ああいう時やるんじゃないの、まともじゃ考えらんないものな、もっとも、やるなら早くやってくれた方がいいんだよ、そりゃ通夜だの葬式だのってちょっと面倒だけどさ、死んじまえば三日で済むものな。生きてられちゃ生涯ずうっと面倒くせえからな」
洋祐のこともなげな口ぶりに、ハムもちょっとたじろいだが、腹の中ではまさかそんなことにはなるもんかと思っていた。
「デーオ、デエエオオッ」と独特なハスキーな声で、唄い出す、浜村美智子のバナナボートソングが大ヒットした狂気のような夏。店でも客のリクエストで、くり返しくり返しこのレコードがかかっていた。ねっとりと汗まみれでからみついてくるような、この声とメロディが耳について、いっそう暑くるしい夏だった。この夏の間もとうとう幸二は一日も店に顔を出さなかった。
秋口になって判ったことだが、幸二があの時身も世もないほど悩んでいたのは、柄にもない古風な恋患《こいわずら》いで、はた目には滑稽《こつけい》だが、本人は大深刻で、当時は日夜|悶々《もんもん》としてもだえ苦しんでいたらしい。相手の女性はこれまた、知れてしまえば何ということもない、ごくお手近な親戚筋の娘、十三歳位の時から養女みたいなかたちで、幸二の家に来ていた美子ちゃんだった。一時は鷺宮の家に一緒にいて、幸二が宿題見てやったり、朝連れだって学校へ出かけたり、幸二のことをお兄ちゃんと呼ぶあいだがらだった。そのうち美子は幸二の両親と一緒に日本橋に、幸二は鷺宮で肋膜炎の自宅療養と別れ別れに生活するようになった。四、五年たって、美子も十八歳、鬼も十八とはよく言ったもので、ポチャッとした中々雰囲気のある娘に成長した。そのうちに幸二の兄の謙一が、
「俺、美子を女房にしようと思うんだがどうだろう」
と相談して来た。この時は幸二も、気心は知れてるし、健康だし、親たちにもいなやはないだろうし、結構な話じゃないかと賛成していたらしい。そのうちに、美子が鷺宮へチョクチョク遊びに来るようになる、もとより遠慮する間じゃないから、かいがいしく幸二の身の廻りの世話をやいたりする。それはいいんだが、彼女の方も平気で、湯上りのスリップ一枚の姿で廻りをうろちょろするから幸二には目の毒だ。堅い勤めがあるわけじゃない、朝から旨《うま》いものを喰ってボヤーッとしていて売れもしない原稿書き、夕方になると行っても行かなくてもいいようなトリスバー稼業で退屈しきってる二十四歳の男の所へ、健康で明るい十八の娘がチラチラするわけだから幸二がおかしくなっても不思議はない。
「ああこれはまずいことになった、この人は兄嫁になる筈の人だからそういう眼で見てはいけないんだ、と思いはじめたのが運の尽き、ダメだダメだと思えば思うほど、想いがつのるばかりでどうあせっても抜けだせなかった」
とあとで幸二も告白していた。ついには兄貴さえいなければ、あの女と一緒になれると兄謙一の死をさえひそかに願うようになった。こうなるといかに身勝手な幸二でもさすがに自己嫌悪に耐えられなくなり、女のために二人しかいない兄弟で弟が実の兄貴の死を願うのはあさましすぎる、そんなくらいならいっそ手前が死んだ方がよっぽどいいと、ガス管引き込んだのも本当らしい。
「部屋の隅々をテープで目張りしてな、フスマに穴あけてガス管を通して、栓《せん》をひねるんだよ。サーッとガスが流れ出る、下の方からぷーんと臭《にお》って来る、うんこれで死ねる、死ねるぞ、死ねることはよくわかった、今日でなくてもいいやってんで栓をしめると、いそいでガラガラ戸をあけて、窓から首出してハーッハーッなんてやってんだよ、意気地がねえんだね、中々死ねるもんじゃないよ」
とこれも幸二が笑いながら後で話していた。
おそらく自分もこのシチュエイションにおかれたら、同じような轍《てつ》踏んだに違いはなかろうと、ハムも幸二の苦しみはそれはそれとして理解したが、幸二のようにいちずにおのれをつきつめていっただろうかと、何とも心もとない気がした。ハムの眼から見ると、幸二は性格的に大いに|偏 執 狂《へんしゆうきよう》じみているから、自分でもそれと気づかず芝居がかった恋患いにも、いとも簡単に燃え上ってしまえるし、自己嫌悪だの、自己|抹殺《まつさつ》だのにもたちまち没頭してたとえまねごとにしろすぐにとりかかれる。本人は多分に内省的に自己追求型と思っているらしいが、やることはやっぱりこれみよがしで、何によらずオーバーにうつる。それにしてもハムは、この歳まで死ぬの生きるのとさわぎたてる程女に惚れたこともなし、生きるのがつらいからといって、洗面器の水で息をつめて見たこともない。
やっぱり幸二の方が充実して生きてるように思えて来る。内的矛盾の究明だの内なる不条理との葛藤《かつとう》だのといって見たって、早くいえば下手《へた》の考え休むに似たりで、ニガ虫かみつぶした顔つきで瞑想《めいそう》しても何の結論も出て来ない。やっぱり緋鹿子の長じゅばん着て電車の中で演説した方がはるかに得るものがあるような気がしてならない。
結局は幸二の襖悩《おうのう》の原因は美子への横恋慕と判明し、兄の謙一が、
「どうもお前のやってることは半狂人でよくわからないが、遊び半分でなく、生涯女房として大事にする気があるなら、美子と結婚したらいいじゃないか、俺の方はずっと健全だしまだまだチャンスはあるから……」
ときれいにゆずったのでこの問題はけりがついたが、それにしても幸二はそのあとでハムに、
「人間って恐ろしいもんだな、あんなに死ぬほどこいこがれていた女なのに、いざやると言われると、いやこりゃ困ったな、他にもっといいのが見つかったらどうしようと正直思ったぜ」
と言った。美子がどう思っているかという事を少しも考えずに、勝手に兄弟でやったのもらったのといっているその無神経さがハムにはわからない。ハムはそういう幸二の考え方の方がよっぽど恐ろしいと思った。
6
電話のベルが鳴った。ガランとした静かな店の中にその音がよく響いた。濡《ぬ》れたままの手で受話器をとって見ると宮下だった。
「いま錦糸町のシャルムにいるんですけどね、マスターがハム呼べってきかないんです、来ませんか」
音楽だの矯声《きようせい》だのに混じってたしかに幸二と思われる大笑いしている声がきこえて来た。
「今日はやめとくよ」
ハムには全く行く気はなかった。
「いい娘《こ》がいるしね、何とかいう相撲取りも来てて|もり《ヽヽ》上ってますよ、来なさいよ」
「今日はやめとくよ」
ハムは同じことを言うと受話器を静かに置いた。宮下が「もしもし、もしもし」となおも呼びつづけているに違いないとは思ったが、そのうち「チェッ」とか何とかいって諦《あきら》めるだろう、どうしても用事があるなら又かけてくるさ、とそのままほっておいて洗い場にもどった。カウンターの上にタオルを敷き、その上に逆さに立てて水を切っておいたグラスを、乾いた布でふいて行く、矢来の柄がキラキラと輝く、グラス洗いもおしまいに近づいていた。
宮下は来た時から調子のいい奴だった。呑んべえで、助べえで、ぞろっぺえで、平気で予告もなしに店を休んだ。はじめの頃は幸二もハムも格好ばかりのバーテンだから、あわてふためいて、「素人うなぎ」じゃないが、ただひたすら心の中で客が来ないように祈っていた。そんな時にかぎって、妙に通《つう》ぶったのがやってくる。それニューヨーカーだ、サイドカーだ、アースクイックだと、こむずかしいカクテルの注文を次々に出す。
幸二はカウンターの中にしゃがみ込んで「カクテルの作り方」なんて本の中に顔を突込んで、カンニングしている。仕方がないからこっちもせい一杯自信に満ちた顔つきをして、出来上ったやつをサッと客の前につきつける。
「心配することはねえよハム、通ぶった奴にかぎって何も知っちゃいねえんだから」
と幸二は平気な顔をしていたが、そんな時は必ず客が帰ったあとで汗をふいていた。宮下のやり方はもっと陰険だ、酔いにまかせてからんでくるような客がいると、暗いのを幸いおしぼり代りに雑巾を出して顔をふかせてしまったり、ひどい時には、古くなって少し臭みの出たような、さわるとちょっとべとべとして糸を引くみたいになったウインナーなんかを、器用にさっといためて、サービスしちまう、ハムも気が気じゃないから、
「おいそんなことして大丈夫か」
ときけば、宮下は、
「ヘーキ、ヘーキ、明日になれば結構また元気な顔してやって来るから、ケケケケケ」
と笑っている。女にも手が早く、いつの間にそうなるのか、閉店時間近く妙に落着かないなと思うと、必ず前借りをといってくる。ハムも別にあとをつけるわけじゃないが、ちらっとのぞくと必ず裏に何時《いつ》も違った女が待っている。しまいには客の連れの女にまで手を出して、ちょっとしたトラブルになり、幸二も仲に入っていやな思いをしていたようだった。さすがにその時は神妙な顔をしていたが、あとになると、
「据《す》え膳《ぜん》喰わぬは何とやらって、ありゃむこうから先に手出して来たんですよ。淫乱《いんらん》な女でね、もう参っちゃったエヘヘヘ」
なぞとシレッとしている。
一月《ひとつき》ほど前からその宮下が結婚するといい出した。ひろ子という名のその相手は三つ年上で二十四歳、幼稚園に行ってる子供がいるともきいた。細い女で髪をアップにして、眼鼻も口もすべて小さく可愛い感じだが、いつも着物を着ていてどっかくずれた雰囲気もうかがえる。この女がいつの間にか店を手伝うようになっていた。客あしらいも上手で、変に出しゃばっても来ないし、ハムも何かと心強く思ってはいた。どうしたことか、宮下はほかの女には見むきもしなくなり、その女を大事に可愛がっているように見えた。女も宮下をたてて、甘えるでもなく、といってそっけなくもなく、まあ似合いの夫婦に見えなくもなかった。
「休みの時に撮ったんだけど」
とニヤニヤしながら宮下がハムに何枚かの写真を見せた。どれにもどこかデパートの屋上か、遊園地ででもあろうか、メリーゴーラウンドなんかをバックにして、宮下が女と三つか四つの子供の肩に手をおき父親然とうつっていた。ハムは四つも自分より年下の宮下が、本気で子持ちの女と結婚すると知って何か空恐ろしさを感じた。こいつら、これでちゃんとやっていけるのかなあと他人事ながら先のこと思うと気が気じゃなかった。
「結婚もいいけどお前、二十一やそこらじゃまだちょっと若すぎるんじゃないのかなあ」
とハムが言わずもがなのこと口にすると、
「また、また、まだいってなかったっけ、本当は俺あんたと同じ二十五よ」
とぬかしやがった。
ハムにだって全然女が出来なかったわけじゃない、去年の暮に日比谷公会堂へ第九を聴きに行った晩だった。帰りに雨が降り出した。霙《みぞれ》まじりの冷たい雨で、雨具を持たない聴衆が出るに出られず、会場の出口が一時大変な混雑を見せた。ハムも舌うちしながら隅に立ち、オーバーの襟をたててボンヤリ雨足を見ていた、その時、
「よろしかったらお入りになりません」
と声をかけて来た女がいた。
見るとさっきまで隣り合せの客席にいたはずの女が、ブルーの水玉模様の傘をちょっと上げて見せた。真直ぐな長い髪を肩までたらした、細面《ほそおもて》の陰気な感じの二十歳《はたち》位の娘で、ブルーのレインコートを着ていた。
「ええ、どうも有難う」
ハムがピョコンと頭を下げると、女はもう傘を開いて先に歩き出していた。ハムは追いすがるように小柄な女のさす傘の中に、背をまるめて入れてもらうと、並んで歩きはじめた。
「どちらまでおいでになりますか」
女は真直ぐ前を見たままきいた。
「有楽町までいけばいいんですが」
ハムが答えると、女はだまってうなずく。ハムはとてもロマンティックな気分になっていた。途中ポツリポツリと交す話の中で、女は、友達から券を押しつけられ、初めてクラシックのコンサートを聴きに来たが、正直馴染めないといっていた。ハムはその素直さに好感を持った。女の娘《こ》の扱いなんかに不なれで不器用なハムだったが、有楽町の駅についた時には、自然に喫茶店にさそうことが出来た。女は名を松野久子といい二十二歳で、知りあいの美容院に美容師の見習いとして住込みで働いているといった。ハムはちょっとびっくりした。まさか家も美容院だよともいえず、美容師じゃ困るという理由も別になかったが、照れくさく、罪深いような気もした。コートをぬぐと意外にがっちりした体つきをしていた。その晩は互の電話番号を教えあっただけで、ハムは山手線で品川まで一緒にいった。
向いあっている時は、さしていい女とも思えなかったが、二日三日とたつうちに、頭の中で勝手にイメージがふくれ上るのか、すばらしい女だったような気がして逢いたくなって来る。
ふとした動きの中で見せた太股《ふともも》の重そうな厚みなどが、鮮烈によみがえってどうしても電話をかけずにいられなくなった。電話でデートの約束が出来ると先ずどこへ行って何の映画を見て、どこで食事をしてと、綿密に計画をたてる。期待に胸をはずませて逢って見ると、久子はさしていい女ではなかった。色の浅黒いのはいいとしても肌が荒れている感じで、うるおいがない、三日月型にくっきりとそって整えた眉も不自然だったし、小さな一重の眼に黒々とアイシャドーを入れているのも気に入らなかった。笑った時に、歯並びが悪いのも目立ったし、紫色のアンゴラのカーディガンに、まがいものの真珠のかざりをつけているのもいやだった。
話をして見ると、もっぱら興味は、娯楽雑誌の見出しになってるようなことばかりで、今人気の若いアイドル歌手の大ファンだという、その歌手の名を呼び捨てにして、胸をかきむしるような身振りをするのもたまらない。喫茶店に入れば、コーヒーに三杯も四杯も砂糖を入れる、まあ好みだからいいとしても、スプーンをペロッとなめてから戻すのがいやだった。喰いもの屋へ入れば、ハシの使い方がなってない。隣りに坐った外人の方がよっぽどうまい、まるで赤ん坊のようにわし掴みにして喰べている。そのくせ好き嫌いがはげしく、ピーマン、ニンジン、ネギ、ニラ、ラッキョウ、香りの強い野菜がすべてだめ、肉も脂肪《あぶら》がいやで、生魚は嫌いだと言った。時間がたてばたつほど、だんだんとハムも気が滅入《めい》って来る。それでも外を歩いていて、平気でさっと腕を組んで来たりされるとそう悪い気もせず、どうかしてひじが胸のふくらみなんかに当れば、その度にドギマギもした。
とても好きになれそうにない女とわかっていながら、意馬心猿《いばしんえん》で機嫌をとっている自分が情けなく、別れることばかりを考えている。また一週間もたつと、もう何でもいい、どっかへ連れていって何とかしてしまおうと電話をかけている。次に逢った時は意を決して、それらしい旅館が軒を連ねている場所へ行って見る。久子ももう二十二だ、ここがどんな所かうすうすはわかっている筈、なのにいやがりもしないのは、恐らく内心同意の気持があるに違いないと、胸の内推しはかっては見るが、ハムに度胸がない。せっかく来たんだからとは思うが、旅館の看板に大きな逆さクラゲのマークが麗々しく掲げてあり、切れかかったネオンがジージー音をたてているの見れば、決心もにぶり勝ち。ええい、ままよ、レインコートのポケットの中でからめている久子の手をぐっと握り直して、思い切って玄関に突き進んだ。入ってしまえばどうという事もない、久子はわりと馴れている感じで、さっさと先に風呂に入った。
事が終ればもう、顔を見るのもいや、我ながらどうしてこうも現金に、手のひらかえすように心変り出来るのかといぶかしく思うほど鼻白む。逢う度にいやな思い重ねて、もうこれっきり、これっきりと密《ひそ》かに誓うが、一週間もすれば又知らずに電話しているおのれがおぞましい。何回目かに寝たあとに、
「これは前の人が三回目のデイトの時買ってくれたのよ」
とハンドバッグ眼の前で振って謎《なぞ》かけられた時、さっとつきものでも落ちたようにいやになり、久子とのつきあいはそれっきりになった。
この話あとになって洋祐にしたら、洋祐はたった一言、
「そりゃケチなんだよお前」
と言った。
7
また電話のベルが鳴った。こんどは幸二からだった。
「何やってんだよハム、掃除なんか明日やりゃいいって言っただろ、お前はいつだってそうなんだから、このドジが」
幸二はもう相当酔っぱらっていた。前後不覚に酔いつぶれてしまうのはもう時間の問題だ、長年一緒に呑んでるハムにはよくわかっていた。
「俺は行かれないけど宮下はまだ一緒にいるのか」
ハムはこれから先の幸二のことがちょっと気になってきいてみた。
「俺のことなんて心配しなくていいよ、来るか来ないかはっきりしろ、馬鹿」
大声で勝手にわめきちらすと、
「あのなあ……」
とハムが言いかけているのに、かまわず乱暴に受話器を置いた。
「チェッ、いい気なもんだよ」
と今度はハムが口の中で呟《つぶや》いた。
幸二は、もともと我がままで思いこんだらもう遮眼帯かけられた馬みたいに先しかみない男だから、はじめのうちはやみくもに夢中で突っ走る。
その時は正に破竹の勢いで、当るべからざるファイトを見せるが、いつだって長続きはしない。この店だって、開店まではすごい馬力で頑張ったが、店をはじめて、ままごとみたいにビクビクしながらやっていた一カ月が過ぎれば、子供があきた玩具《おもちや》放り出すように、見むきもしなくなった。
「おれってさあ、何か作るのはむいてるようだけど、管理運営ってのは駄目みたいだなあ、その点ハムは、マネージメントってのうまいもんな」
と勝手なごたくを並べて、店へもめったに出てこない。
どうしても幸二は、ラジオライターの夢を捨て切れないらしくて、店にいても腰が据わらない。酔った客にちょっとふざけて豆でもぶつけられようものなら、ぷっとふくれて出て行って、どっかで一杯やってくる。そして必ず、
「冗談じゃねえや、店に立ってりゃバーテンにしか見えねえだろうが、これだって俺はちゃんとした作家として、原稿料でメシが喰えるんだ、ふざけんじゃねえや」
と一念発起するのかどうかはしらないが、とにかく一週間くらいは作家として執筆の方にとりついているらしい。単発のラジオドラマの台本を書いたと、原稿を持って来ては読んで聞かせて、
「なっ、うまいだろ、おかしいだろ」
と一人でうけている。しばらく上機嫌でいたかと思うと、或る日突然、新しい蝶ネクタイなんかして、ぶすっと店へ帰って来てる。そしていそいそとカウンターに立つ。思い出したように放送局なんかへ出かけても、プロデューサーもいい顔しないらしいし、二、三回駄目出されたり、書き直しをくったりするともう腹をたてて、
「冗談じゃねえや、こんなケチなラジオの台本なんて書かなくたって、おれはチャンとしたバーのマスターでメシが喰えるんだい、ふざけんじゃねえや」
と喧嘩してくるらしい。誰もふざけてやしない、テメエが一番ふざけてるってことにいっこうに気がつかない所が幸二の馬鹿な所だ、いつもハムは哀れに思っていた。
つい昨日の話だった。
「俺さ、やっぱりこの店から手引くことにしたよ」
と幸二が例によって唐突に切り出した。
「こっちの店で豆ぶつけられて尻《けつ》まくって今度は放送局へ行って喧嘩してきて、けっきょくこのままつづけてりゃ、あっちもこっちもうまくなくなって、しまいにゃ行くとこなくなるような状態になるのきまってるもんな」
そりゃその通りで気がつくのが遅すぎるよ、とハムは思ったが口には出さなかった。
「そいでさあ、宮下があの女と結婚して、この店つぎたいって言うんだよな、俺もこいつに店をまかせ、いちいち酒の減りよう見に来て、おいこの売上げ少しすくないんじゃないか、とかそんなこと言ってるのやだから、月々いくらと決めた額だけ入れてもらうことにして、全面的に譲っちまうことにしたんだよ」
ほらこれだ、じゃあ俺はどうすりゃいいんだ、また身勝手なことを平気で言う男だと頭に来たが、毎度のことで情けないけどハムは怒る気にもなれなかった。昔からひとをおだてて二階へ上げておいて、いきなりさっとハシゴをはずすような、酷なことを何とも思わずやってしまい、そのために誰かがどんなに傷つくかなんて考えもしない。本人は悪気でやってるわけじゃないだろうが、それにしても、はじめっからこうなることが半ばわかっていながら、オメオメとついて来る俺もよくせきの馬鹿だときえ入りたい思いだった。
「そいでさあ、これを潮に、俺も結婚して作家生活オンリーにふみ切って見たいんだよなあ」
と遠くを見る眼でこともなげに言う。結婚でも何でも勝手にするがいいじゃねえか、ハムはもう言うことはなかった。その時宮下が、
「ねえハムさん、そいで、ものは相談だけどさ、いずれにしても俺とひろ子と二人じゃ、ちょっと淋しいから、よかったらこの先もマネージャーってことで今まで通り手伝ってくれないかなあ」
もうこうまで|コケ《ヽヽ》にされれば言うことはなかった。
それにしても、宮下は宮下なりに、実にうまく現実と折合いをつけて行く、実にあざやかな身の振り方するもんだとハムはあきれるばかり。幸二の方は、これからまあ、作家生活の方も、どうなって行くものやらあまり希望はもてそうにないが、だめならだめで、また、吾、他人《ひと》ともに煙《けむ》に巻くうまい理屈次々に並べたてて、その時その時、それなりになりわいたてて行くだろう。
それにひきかえこの俺はと、考えて見ても、今更何一つ言いたてることも思いつかず、すべては引きずり廻されて来たおのれが馬鹿だった、ただそれだけのこと、まぜっかえしてやる言葉あたふたと考えても何一つ出ず、
「うん、まあけっこうなことじゃないの」
とニタニタしているしかない自分がつくづくみじめだった。
ハムは世間並にいえば、裕福に育ったほうといっていいだろう。家に二人もいる女中の一人は、家にいればいつもつきっきりで、身のまわりのことはやってくれる。おふくろは働きものの気がいいだけの女だから、何をやっていようと文句一ついわず、小遣いもねだればいつでもいくらでもくれる。幸二はふざけて座敷|牢《ろう》と呼ぶが、あてがわれた十二畳の離れはベッド付きの書斎、壁面一杯の書棚に好きで集めた本がびっしり、山と積んだレコードの中から、好きなのを引っぱり出して、一日中遊んでいようとかまわない、誠に結構な御身分。
身長一メーター八十三センチ、体重七十五キロ、聴力優、視力両眼一・二、色弱なし、未処置虫歯なし、胸部疾患、既往症なし、快食快便、健康状態極めて良好、悩んでる悩んでるといってる割合にはよく眠るし、女好きであきれるほど性慾も旺盛、容姿端麗、学術優秀、特技なし、ありていに言えば、生きる甲斐もなきむだめし喰いの大馬鹿野郎、満二十五歳にもなって誇るべき何ものもない。
幸二のように、どこか病んででもいれば、それを言い訳にも出来ようが、因果と丈夫に生れついていて、昔から馬鹿は風邪をひかないのたとえのとおり、微熱も出ない。
家では自分の茶碗さえ洗ったことがないのに、クリスマスイブの真夜中にチャチなトリスバーでたった一人、サンタもどきの赤いチョッキでシャンペングラスを洗っている。次から次とせっせと注意深くグラスをこすっているうちに、気分もいつのまにか透明にすき透っていくようで、ハムはまたぞろ自分が酔ったようにこの単純な作業にのめり込んでいっているのがわかった。もしかしたら俺は生涯こんなことやって行くように生れついているのかもしれないとも思えて来る。ピカピカに磨き上げられた、グラスや灰皿を、整然と並べ上げて行くのがたまらなく気分がいい。
カウンターも酒棚も、すっかりなめたようにきれいにして、しまいには靴下まで濡らして、コンクリートの床をデッキブラシで洗い上げ、隅から隅まで開店当時みたいにしてしまった。
ガスの元栓、水道のコック、すべての電気のスウィッチを、馬鹿馬鹿しい位に確認する。毎晩やって来たことなのに、いまだに自信が持てなくて、いつでも何か重大なミスを気づかずにおかしているような気がして仕方がない。どうせ幸二の店だ、一回くらい店中水びたしなんてことがあってもいいじゃねえか、宮下のように、さっと見廻しただけで、口笛でも吹きながら、気楽に外へ出りゃいいのにと思うが、持って生れた性分か、ハムにはそれが出来ない。入念にドアーに鍵をかけると、トレンチコートの襟をたてて背をまるめて歩きはじめた。濡れた靴下が靴の中でグジュ、グジュと音をたてている。
幸二の馬鹿野郎、あのオッチョコチョイも、
「結婚でもすれば、それがまた枷《かせ》にも励みにもなって、何とか違った生き方をするようになるかも知れねえと思ってさ」
なんて呑気なことを言っていたが、それも案外当っているかも知れないとハムは思った。俺もあいつも、どの道たいして才能があるわけじゃなし、思い入れと自惚《うぬぼ》れだけが先走って、前のめりに蹴《け》つまずいてばかりいるんだから、溺《おぼ》れるもの藁《わら》で何にでもしがみ付いて見るがいい、こっちは暗闇《くらやみ》の中で、狐《きつね》にでもだまされたように同じ道ばかりぐるぐると廻っていて、毛筋ほどの光明も見いだせないままのたうち廻ってばかり、さし当たって明日からのあてもない。
いっそ死んでしまった方が……などと、軽々しく思ったり、またおそれ気もなく口に出したりしてみるが、吐き出した痰《たん》に何かの拍子で絹糸ほどの血でも混じっていようものなら、肺ガンじゃないかと震え上って、タバコに出す手をひかえる始末。二日酔いが二、三日続いて肝臓のあたりちょっと押して見て、異物感あればいそいでグロンサンの錠剤をほおばる有様。馬鹿も意気地なしもここまで極まれば、かなしさ通り越していっそ滑稽《こつけい》と力なく笑って見ても、腹の底にスースー風の通るおもいでたよりないったらありゃしない。
ハムは、とりあえずはいつものように、八重洲口の構内にある銭湯へ行って、熱い湯につかって見ようと思う。あとは早出のサラリーマンの群にまぎれこんで、電車に乗っちまえばこっちのもんと、何一つ法にふれるようなことはしてないのに、オドオドとおびえているのもわれながら情けない。
ぶつくさいいながら、ひとっ子一人いない昭和通りを渡って、「にんべん」の前を通る頃は、山なみのように東の空にひくくたなびいていた雲が、パッと割れ目を見せ、折からギンギラギンの朝日が燦然《さんぜん》と光りかがやいて昇って来た。日本橋の上にさしかかった時には、あたり一面光の海、場違いな所にいきなり突き出された感じで落着きをうしない、思わずキョトキョトとあたりを見まわした。
ふと思いついたようにハムは、ポケットからキーホールダーをとり出し、鍵の束から店のキーを探し出して、フックからはずすと、大きなモーションで、欄干《らんかん》越しに川面《かわも》にむかって投げた。鍵は朝日の中にキラキラ光りながら落ちていって、一瞬波紋の中に消えていった。
ハムは欄干に両手をついてしばらく朝日のあふれる川面をみつめていたが、芝居がかったことしてるなあと勝手に照れて、いそいで手をはなし、さっさと歩きはじめた。その時、急に胃の中から何かこみ上げて来て、立ち止ってうつむくとベチャッと道路に少し嘔吐《おうと》した。店を出る時につまんだサラミが未消化のまま朝日の中に光っていた。
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鐘の鳴る岬
1
ニースの空港に着いてタラップに足を踏み出すと、五月の爽《さわ》やかな風が、美子のリバーシブルの巻きスカートのすそをはね上げた。顔にかかる髪をかき上げながら見上げると、明るく澄んだ青空には雲一つなく、肌を刺すように太陽が照りつけている。伊豆とも湘南とも違う、日本では味わったことのない陽ざしだと美子は思った。やっとたどりついたという実感がこみ上げてきて、大きく伸びをするように胸一杯に空気を吸い込み、すぐ後についてきている夫の幸二を振りかえった。濃い色のサングラスがまぶしく光っていたが緊張しているのだろう、真直ぐ前を見て不機嫌そうな顔をしていた。
小ぢんまりとした瀟洒《しようしや》な空港ビルのロビーに出ると映画祭の事務局のお嬢さん達が、ユニフォーム姿で出迎えてくれた。幸二が招待状を示すと、にこやかに応じてすぐポーターに命じ荷物を持たせ先に立って歩きはじめた。外には大きなリムジンが待っていた。
うながされて美子が先に乗りこみ、つづいて幸二が車の中に足を踏み入れようとした時、別のユニフォームのお嬢さんがあわただしく走りよって何ごとかささやいている、幸二は了解したらしくニヤニヤ笑いながら、
「先に送りたい人がいるんだけど代ってくれないかって言うんだよ」
と言って手を差し出した。仕方なく美子がその手に引っぱられるように車の外に出ると、黒のサテンのマントをはおった大柄な白人の女が、二、三人のダークスーツの男達を従えてやってくるのが見えた。美子もよく見たことのある世界的な大女優だった。彼女はニッコリと笑うとさっさと車に乗りこんだ。
いかにもこんなことは馴《な》れきっているという態度だった。排気音を響かせてスタートした車を見送りながら、
「へーえ、ジーナ・ロロブリジーダじゃねえか、実に堂々としたもんだ、出来上ってやがんなあ」
と幸二は笑った。すぐあとから別の車が来たが、これはさき程のから見ると、ずっと小さくて貧弱だった。
「差つけてくれるな、やっぱり世界的にならなきゃだめだよ、こりゃ」
ぶつぶつ言いながらも幸二は面白そうにしていた。
車はコートダジュールの海岸沿いの道路をカンヌへ向ってひた走った。時々海が見えた。その紺碧《こんぺき》の色は実にあざやかで幸二も、
「セザンヌやデュフィの描いた水の色が決して誇張じゃないってきいたことあるけど、本当だな」
と感心していた。
やがて車は映画で見たことのあるカンヌの海岸通りに入って行った。道路の中央、あるいは両側に、背の高い南国的な樹がずらーっと立ち並び、左が海、右側には立派なホテルがビッシリとそびえ立っている。
「車のナンバープレートを見てみろ、世界中から集ってきてるって感じだね。金と暇のある奴《やつ》が多いもんだな、それにどうだいおい、ロールスロイスがこんなにゴロゴロいるの見たことあるかい」
幸二がはずんだ声でまくしたてるので、美子は運転手を気にして眼でたしなめた。
「大丈夫だよ、気にしなくたって。こいつは日本語なんてわかりゃしねえんだから、なあ運ちゃんよ」
と幸二は少しも気にしない。運転手は首を少しひねって、
「パルドン」
と言った。
そしてそのすぐあとで真白い大きな格調の高そうなホテルの前に車を止めると、乗り出すように振りかえった。
美子は運転手が怒ったのかと思って一瞬はっとしたが、
「ホテル・マルチネーズ、ムッシュー」
と言ったのでほっとして、かねていわれていた通りに、
「メルシ」
と答えてチップをわたした。運転手は、
「メルシ、マダム」
と見る間に表情をかえ、ニッコリして札をわし掴《づか》みにすると身をひるがえして外へ出て、車のドアーをあけた。それからこまめに荷物をはこび出して、どんどんホテルのロビーへ運んで行った。ごてごてした装飾から見てかなり古い建物なのだろうが、どっしりとした風格が伝統を感じさせる。
入り口に万国旗と映画祭のマークが飾られていた。
型通りチェックインの手続きをすませ、室に入って見ると、すべて白っぽいベージュで統一された古風だが落ち着いた雰囲気の、明るいひろびろとした作りだった。小さなテラスに出ると左に海が広がっていた。
去年の五月のことだった、幸二が突然映画を作ると言い出した。その前の年にはゲーム機械を作る会社を設立して、その借金がまだ二千万円近く残っている。この時もまた憑《つ》きものでもついたようにもう無我夢中で、はたのものの言うことなんかまるで受けつけなかった。毎日のように設計図に取り組んで、特許もいくつか取っている。スロットマシンのようなゲーム機で賭博《とばく》性はひくいが必ず受けると本人は一所懸命、はじめの百台がアッという間にさばけたのに気をよくして、すぐに三百台も追加製作したのがまずかった、返品と在庫でやり繰りがつかなくなってしまった。毎週のように手形の決済日に追いまくられて、美子も大変な苦労をさせられた。
もともと幸二は父親ゆずりの凝《こ》り性《しよう》で、頑固で一本気の上に思い込みがはげしい性分で、しかもいつもその情熱が急激にふくれ上るので一緒にいる美子は、おろおろするばかりである。幸二はもともとは放送作家としてスタートしたが、テレビのライターとして少し名が出ると、今度は作詞を手がける。持ち前の気性で頑張るから、たちまちのうちに一世を風靡《ふうび》してしまう。そのうちに作曲にも手を出し、遂にはタレントとしてテレビの画面に現れて、馬鹿馬鹿しいほどの人気者になってしまう。本人の言によれば、何にしても職業的に定着して、何の不安もときめきもなく、日常化してただ口を糊《のり》するためだけに仕事としてやるのはいやだ、何でもやみくもに夢中になって面白がっているうちに、自然とあとからそれが金になって廻ってきて、生活も支えてくれる、そういう生き方が理想だと言っている。
家や子供をあずかっている美子にして見れば、あぶなっかしくて見ていられない。なーにいざとなったら家も何もかも売っ払ってお前と二人、屋台を引いたって子供等を飢えさせるようなことはないと胸を張っているが、美子にすれば屋台の手伝いをさせられるのはあんまりうれしくない。美子は着実に収入があり、それが世間並の割合で増えて行き、将来にそなえて少しずつでも貯金ができる位でいいと考えている。飛躍的な収入増なんか期待しないかわり、手形の苦労も願い下げだ、といつも幸二に言うが、その度に幸二は、そんな夢のない生活なら死んだ方がましだと怒り出す。もう近頃では持って生れた性質だから直りっこないし、好きなようにさせておくしか仕方ないとすっかりあきらめている。苦労知らずのボンボンで育っているはずなのに、大学卒業の時期に結核で二年ばかり寝たのがこたえたのか、出来得るかぎり率直に自分の欲求をあからさまに打ち出して、せい一ぱい素直に生きたいという信念みたいなものを腹の底に据えているように見える。それが時々世間からは、ふてくされて開き直っていると見られるのか、かなり風当りの強い立場に立たされたりもする。
臆面《おくめん》もなく「俺は何でもいいから有名になりたい」とか、「いつでも世間から喝采《かつさい》をうけていたい」などと破廉恥《はれんち》なことを公言するから、軽佻浮薄《けいちようふはく》なこざかしい奴とののしられる。そうすると又、「軽薄けっこう、軽薄は美徳と心得ている」と|そしり《ヽヽヽ》を逆手にとって自分を売りこむことに躊躇《ちゆうちよ》しない。
従来の世間の道徳とか秩序にしばられない発想で作詞にも台本にも取りくむから、一部の人々から熱狂的に支持されるのかもしれない。そんなことから考えれば、あるいは今度の映画作りもさして唐突ではないと納得できるところもある。前からテレビの放送台本を書くとか流行歌の作詞をするという仕事は、完成作品のほんの一部にしか関与出来ない。たとえそれが成功しても、役者が良かったのかもしれないし、唄《うた》い手《て》がうまかったのかもしれない。完全に自分の作品といえるものを作るとすれば自分で脚本を書き、監督して、主演する、自分自身の映画を作るしかないと思ったに違いない。
たまたまこの時期に幸二が台本を書いていた風刺番組が一つつぶれたのもよくなかった。それはある大家電メーカーが提供する三十分のシリーズものだったが、幸二も大いにはりきっていて、視聴率も常に三十五パーセント以上と好調だったのに、公序良俗に反するという理由でスポンサーからいきなり打ち切りの通告が出た。
このことが又、幸二の映画への執念をいやがうえにも燃え上らせた理由の一つになったのだろう。
毎晩のように幸二は執拗《しつよう》に美子に映画製作への情熱を語りつづけた。そのうちにテレビ映画を通じて知りあった青柳さんを家へ連れてくるようになった。通称ヤギさんというこの人は大学を出てからすぐに大手の映画会社に入り、文芸部から助監督になり、いくつもの大作にかかわり、テレビ映画にかわってからは製作も監督も経験しているベテランだった。どういうわけか幸二とは馬鹿にうまがあい、いつしか二人は企業の論理にしばられない自由な映画を作ろうと意気投合していた。
もうこうなっては幸二の気性からいってあとへは退かない、いよいよ美子は金の工面をしなければならなくなった。最後までそれだけはしたくないと思っていた家を抵当に入れた。今度こそ、本当に一家で四畳半へ越して、屋台を引かなければならなくなるかと思うとやっぱり気が滅入《めい》る。
夜中に一人起きて子供達の寝顔を見ていると不安で胸がしめつけられるようになることもしばしばだった。
幸二はヤギさんと毎晩のように議論しあって脚本書きをはじめていた。
「高度な芸術性と、辛辣《しんらつ》な風刺を、抱腹絶倒の笑いのうちに表現して、未曾有《みぞう》の高収益をもたらす映画、批評家ベタ惚《ぼ》れ、映画館主大笑い、五社の監督カリカリ」これが幸二の映画の宣伝文句だそうだ。
作品は白黒、しかもスタンダードサイズだという。
経費の面でカラー、ワイドスクリーンは負担が多いせいかと美子がきくと、幸二は、
「もっとも映画らしい映画にしたいからだ」
と答えた。しかも海外へも売ることを考えてセリフは一言もなしにきめた。
幸二はよく放送作家の仕事にしても英語圏で活躍が出来ないのが残念だと言い暮していた、そのことを思えばいっそセリフのない方が国際的にはハンディキャップがなくていいのかも知れないと美子も思った。それにしても不思議だったのはオールロケーションでセットでの撮影が一切なしとのこと、これで映画が出来るものだろうかと美子は最後まで納得出来なかった。
うったえるテーマは現代の若者の虚無と頽廃《たいはい》だという、しかも酒や薬《ヤク》や肉欲とは関係なく、汗と体と創作の喜びでそれを表現したいのだそうだ。
現代社会の与えるものはただ絶望感と虚脱感だけだ、その中で命を賭《か》ける無償の行為のみが救いであり、善ではないかと問いたいともいう。
ヤギさんとの話はいつも抽象的な芸術論ではたして思惑《おもわく》通りのものが出来るのかすこぶる不安だったが、現実に金だけはどんどん出ていった。
カメラマンや、照明の技術者達に前金を払う、カメラ照明具のレンタル料、車を探す、道具を発注する。
出演者も幸二の他は皆|素人《しろうと》で、したがって出演料は出さない、正に無償の行為で、もしこの映画から収益が上ったら貢献度に応じて配分するという約束になっていたからこちらは出費がない、しかしそれでよく人が集ってくるものだと、美子は男がものを創《つく》る気概といったものをよく理解できなかった。いよいよクランクインとなると、大挙して三浦半島の城ヶ島のユースホステルへ出かけていってしまった。
美子は昭和三十三年の二月に幸二と結婚しているから、来年の二月でちょうど十年になる、八歳の娘と六歳の男の子がいる、子供達は有難いことに丈夫に育っていて、もう手がかからない。美子の実の母親が山形から出て来ていて家事も手伝ってくれているから、毎日がそう忙しいわけではない、ただ幸二が駄々っ子で一番やっかいだ。本人は自分位手のかからない亭主はないと思い込んでいるらしいが、いつ怒り出すかわからないから付き合ってる方は気骨が折れてかなわない。
何か気に入らなければ、膳《ぜん》はひっくり返すし、ものは投げつける、美子も医者へ通うほどなぐりつけられたことが何度もある。
普段から双方に根に持つはっきりした原因があって、夫婦仲がいつも何となくしっくりいかない、それが何かをきっかけに爆発して、というのならなんとか対応の仕様もあろうが、近頃はなごやかで家の中も明るくていいなあと安心していると、突然雷が落ちるように癇癪《かんしやく》を起す、美子にして見れば理由もさだかに解らないからただひたすらあやまりに、あやまるだけ、その態度が又ひとを馬鹿にしてるといって怒鳴られる。そんな時は正に理不尽で手がつけられない、狂ったように暴力をふるうから相手の仕様がない。
よく世間でつかみあいの夫婦|喧嘩《げんか》などという言葉をきくが、もし美子が幸二の暴力に少しでも逆らえば殺されかねない、いつも一方的に踏み倒され、打ちすえられるだけ。
幸二も激情がおさまれば、よく恥ずかしげもなくそう変れるもんだと思うほど、手のひらかえすように、やさしくなって、怒り狂った原因をあれこれ分析して美子に説明したりする、たいていはセックスに関するトラブルだった。
「おい、今夜は迫るからな」
などと幸二は大声で言って美子の尻をぽんとたたいて上機嫌で出かけていき、美子もそのつもりでいると、その晩はベロベロに酔っぱらって帰って来て風呂にも入らず高いびきでひっくり返ってしまう。翌日は早々と帰って来るが、そんな日は運悪く子供が熱を出したりして大騒ぎでそれどころではなく、翌晩は仕事の仲間を家へ連れて来て明方近くまで呑《の》んでいる。次の日は美子もつかれきって幸二の帰りを待たずにさっさと寝てしまう。
こんなことが、一週間も続くと、いらいらがこうじてか味噌汁がぬるいと膳を蹴って怒り出す。
「結局、そのことのために寝ているお前を起すことに照れたり、恥じたりしていた俺が悪い、お前にだけは軽蔑されるのがいやだからはっきりさしておくが、原因は簡単でお前と寝られなかったから怒ったんで、ほかに理由はない」
体裁を捨てて率直に詫《わ》びる幸二に美子は好感は持ったが、納得は出来なかった。反省がすめば、「俺が悪かった、もう手を挙げるようなことは絶対にしないから勘弁してくれ」と詫びを言ってシレッとしている。美子の方は方々ぶたれたりしているから、「御免ですめば警察はいらない」とばかりに多少ふくれていたってあたり前、そうすると「俺があやまってるのにいつまでふくれてやがる」と又々あばれ出す、近頃では美子の方も馴れてきて、すぐにニコニコするようになった。
もっともこんなことが始終あるわけじゃない。何年かに一度だが、いつも気が気じゃない、ついつい幸二の顔色を見るようになってしまいそれが又|哀《かな》しくなってくる。
自分はひどいやきもちやきのくせに浮気っぽいのも美子は気に入らない。次々と新しい女を作ってしかも恬《てん》として恥じない。
「向うの家の都合もあるから、女の声じゃなきゃまずいんだよ、お前かけてくれよ」
と図々しく美子にデートの電話をかけさせたこともあった。
「俺はお前を一番愛しているから、新しい女が出来てもお前と離婚して、その女と一緒になるなんてことは死んでもしないから心配するな」
と真顔で言う、そして、
「女にも俺は嘘《うそ》をつかない、どの女とも、お互の生活の中へ割り込んだり、干渉したりすることはしないと約束しているから安心しろ」
と威張ってみせたりする。美子はよく平気で幸二のような男とそんな約束までしてつきあう女がいるもんだと、女の気持がはかり知れない。幸二がどこでどんなことをしているのかは知るよしもないが、感心に幸二は家を空けたことはない、朝四時でも五時でも必ず家に帰って来る、本当は我《わ》が儘《まま》だから朝まで女と一緒にいられないんだろうと美子は思っている。そう思えばますます相手の女の考えがわからない。
この問題についてはもう何年も議論し続けて来ているので美子はあきれかえって何も言わなくなっている。
近頃ではたしかに幸二の言うようにこれは一種の病気で仕方がないんだと思えるようになってきている。
「高い薬を呑んだり、入院したり、命がけの手術をしたりしないでいいだけ有難いじゃないか、俺も生身だ、いつそうなったって文句はいえない、その点この浮気病ってやつは、時々出かけて行くだけで、本人がよろこんでるんだから結構なもんだ」
これが幸二の口ぐせだ。この上美子がぐずぐずさからえば、
「俺が養ってるんだから文句を言うな、サラリーマンだって商店のおやじだって、みんな金のために屈辱に耐えているんだ、これだけ噛《か》んでふくめるように言っても解んねえんなら仕方ない、即座に離婚だ」
ときまり文句を並べたてる。心底憎らしくて、夜中に幸二の寝顔見つめて「この人を殺してあたしも死のうか」と真剣に考えたこともあるが、朝になって馬鹿陽気で子|煩悩《ぼんのう》な幸二が、二人の子供と面白そうにしているのを見るとすぐ忘れてしまう、美子もそんな時は「この人のアホがうつったのかしら」と馬鹿馬鹿しくなったりする。
いつものことだがこの時期には幸二は映画製作に我を忘れているから、あけても暮れても美子の顔さえ見れば映画の話、ゴダールがどうのポランスキーがどうのと議論を吹っかけ、あげくは、時期はずれの映画や、古い名画を追いかけて、池袋から大森、八王子の方まで二人で出かけて行った。
フェリーニの映画だったか、気に入った一本に大いに執着して、何度も見に行って遂にすべてのシーンをメモして来て、完全に近いカット割り台本を作ってしまった。美子も幸二の熱心さと馬鹿げた執念にはついに舌をまいてしまった。これも又いつものことだが、美子は幸二にああだこうだと引きずり廻されているうちに、いつの間にかすっかりその気にさせられてしまっていて、もうすでに何としても幸二にすばらしいものを作らせたいと願うようになっていた。
先ず必要なのは五百万円の製作費だった。幸二は躊躇せず車を売った。
うちのガレージには、オースチンケンブリッジと、52年製のMGのTD、それに63年のジャガーマークUと三台が並んでいる。
これも又幸二の道楽のたまものだった。
自動車好きはもうかなり前からで、一旦凝り出したらとまらない幸二の性質がここにも現れている、イギリス製の車を同時に三台も持つ異常さは、美子に全く理解出来なかった。
空恐ろしいと感じたのは、あれだけ大事にしていた愛車を、気持が変れば何の未練もなくたたき売る変りようだった。MGとジャガーを処分すると二百三十万円位になった。ジャガーはまあいいとしても、MGには美子も懐しい思い出がいっぱいあって、そう簡単には思い切れなかった。
三年位前だったろうか、ちょうどこのMGを買った時、下の男の子が体を悪くして一家中で心配したことがあった。小児結核と診断されて、幸二は自分も結核で苦しんでいるせいか、大変な嘆きようで、
「俺がいい気になってMGなんか乗り廻してるからこんなことになったのかなあ、こんなもの売っちゃおうか」
といつになく弱気になっていた。その時美子は、
「パパは長年ほしいほしいといっていた車を買っただけで、そのことと息子の病気とは関係ありません、息子の病気には私が万全の手当てをします、パパは堂々とMGを乗り廻していて下さい」
と言ってそれまで息子がかかっていた医者をやめ、他の病院に連れて行って精密検査を受けさせた。抗生物質の使い過ぎと言われ、処方を変えたらすぐに元気になった。その時幸二と手をとりあって喜び、子供達を乗せてそのMGでドライブに出かけたものだった。
ちょうどこの頃、九州の方の即席メンのメーカーからCMへの出演依頼があった。幸二はそれまで即席ラーメンのCMに馬鹿|面《づら》さらすのだけはやりたくないといっていたが、これも躊躇せずに引き受けた。
「もうこうなったら裸踊りでも何でもやってやる」
とやけっぱちで笑っていたら、本当に男ものの下着メーカーからCMの話が持ちこまれ、幸二は言葉通り引き受けて、裸に近い恰好《かつこう》でCMに出た。
どうやら製作費のメドはついたようだった。
この映画は八月にとにかく完成した。もともと一種の前衛映画なので商業ベースに乗るはずもなく幸二とヤギさんは何度か知りあいを通じて大手の映画会社に持ち込んでも見たが、とうとう買い手はつかなかった。幸二にとってもショックの筈《はず》だったが、幸二はもともと、ものを創る時はやたらと熱心だが、完成させてしまえばもう興味を示さないみたいな所があるので、案外アッケラカンとしている。美子とヤギさんはそうはいかない。特に美子は、好むと好まざるにかかわらず、この映画作りに引きずりこまれ、金の工面に走り廻ったり、事務連絡から経理まで手伝わされてきているからとてもあきらめられない。しかも家計は火の車ときている。この映画を公開出来ずにお蔵にするのはあまりにもくやしいから、どっか劇場を借りて自主上映しようかという話が出た時、
「あたしが死にもの狂いで切符を売ります」
と美子は一番積極的に賛成した。幸いにこの作品の中に二社の既存のCMをそのまま挿入するという思い切った試みを行っていたので、そのCMの会社《スポンサー》の援助も得られて、盛大にロードショウ形式で公開することが出来た。勿論《もちろん》その挿入したCMについての代金もちゃっかりと戴《いただ》いて製作費の足しにさせていただいている。
さてこの映画の評判だが、ユニークだ、才気あふれると、おほめの言葉もあったが、中にはひどいことを書いてくれた雑誌もあった。
「大手映画社の監督はイモばかり、と放言した青山幸二のワンマン映画、自信満々試写会を行ったが結果は惨憺《さんたん》たる有様、ストーリーはつまらないし、アングルもカットもまるでなってない、支離滅裂どころか、支離拙劣、わずかに評判のよかったのは、有名CMをそのママぶち込んでいたこと、たしかに型破りという印象をあたえた。もっともこの部分は彼の演出とは関係ないので面白いのがあたり前、フィルムかついで外国まで売り歩くと悲壮な決心をしているそうだが、さあどうなるか……」と冷淡なものだ。
幸二はサンケイホールでの初公開の時こそ熱心に動きまわったが、ここでも又例の熱し易《やす》く冷め易い性質まるだしにして、それが終ればもうほうりっぱなし、まだいくつかの劇場で公開する予定があるのに、切符が売れようが、売れなかろうが、お前にまかすよと、面倒な仕事は全部美子に押しつけて知らん顔をしている。これには美子も参った。いくら一所懸命やっても使った金の半分も回収出来ない、入ったCM料で一息はついているものの、家の中は依然として火の車、それでも幸二は、
「そのうちなんとかなるだろう」
といっこうに心配する気配もみせない。
四月になって突如カンヌ映画祭から招待状が舞い込み、幸二は飛び上って喜んだ。
「いつか必ず国際的な評価をうけて映画のわからない奴等を見返してやるぞ」
と口グセのように言っていて、プリントしたフィルムをカンヌ映画祭へ送っておいたのだ。
この作品は、「批評家週間《スメーヌ・クリテイツク》」の入選作となり、ジャン・コクトー・シアターで上映されることになった。世界中から集った若手の野心的な監督の作品、百二十本のうちの七本に選ばれたのだそうだ。
招待状には、製作者お二人の映画祭期間中の滞在費を当方で負担致しますとかいてあった。
「すばらしいじゃねえか、おいママ、行こうぜ、おれが監督でお前はプロデューサーってことで乗り込もうじゃねえか、俺二十八でお前は二十三位のこといって、紋付羽織袴《もんつきはおりはかま》に振り袖、そう、お前振り袖を持っていけ、せいぜいはったりかまして、売り込んでこようぜ」
と幸二は大はしゃぎで、美子も海外旅行はしたことがないし、只の観光ツアーよりはよっぽど意義があると、うれしがってついて来てしまったのだ。
2
ホテル・マルチネーズでスーツケースを開いて荷物の整理をしていると、今度のことですっかり世話になっているカオリさんが室をたずねてくれた。一別以来の挨拶《あいさつ》をすますと幸二は映画祭への参加の手続きからフィルムの発送まで面倒見てもらった礼をした。
ホテルを出て三人で海岸沿いのはなやかな道路を四、五十メートルほど歩いた。そこにカンヌ映画祭の事務局がある、早速カオリさんにたのんで手続きをすませた。彼女はたしか三十位のはずだがたしかな年齢はわからない、留学生として早くからパリに学んでいてソルボンヌに通っていたこともあると聞いた、たしかにフランス語も達者で、この映画祭にも何度も来ているらしくて、顔|馴染《なじ》みが何人もいるようだった。
美子は映画祭の招待客であることを示す|参 加 証《ネーム・プレート》だの、様々なパンフレットに記念絵葉書の類でひとかかえほどもある荷物をわたされてドギマギしていた。方々案内してもらったが、報道関係者の部屋では、各国の記者達がワイシャツの腕をまくり上げてタイプライターをたたき続けていたり、サスペンダーの片方を親指ではじきながらさかんに議論をしたりしていた。
その仲間に引きこまれてしまったカオリさんを残して幸二と美子は外へ出た。そこここに万国旗と映画祭のシンボルマークをあしらった飾りが目立つカンヌの大通りを歩いていると、ああ今カンヌにいるんだなあという実感が堅い道路から一足ごとに突き上げて来るようだった。
今度の旅行でも幸二は持ち前の身勝手で美子をあきれさせている。映画祭への入選で有頂天《うちようてん》の時には、スペインを廻ってイギリスへ行って帰りはオランダからドイツへと世界一周でもしそうな気の入れよう、大きな世界地図やら様々な旅行案内書を買い集め、暇さえあればながめ入ってあきることを知らない。美子にもフランス語を憶えさせようと、会話の本やテープを集めて来て、朝から「ボンジュール、マダム」とつきっきりでがなりたてる、にわか仕込みでも知らないよりはましだろうと美子も頑張っては見たが、英語の挨拶もろくすっぽ出来ない有様だから数え方さえおぼつかない。それでもなんとか、美容室とかトイレとかどうしても一人で行かなければならない場所でのいくつかの基本的な言い方は丸暗記した。
突然思い出したように、身なりのことでいやな思いをするのはつまらないからと、幸二は洋服屋さんを家へ呼びつけてタキシードを新調し、エナメルの靴を誂《あつら》える、美子にも本格的なイブニングなんか着て歩くチャンスはこれからの一生にも、そうはないだろうと、好きなものを作らせてくれた。
美子はこれだけは嬉しかった。普段ほしいと思っていたものをいくつか買ったり、作ったりした。幸二にとってもはじめての外国旅行、それもはれがましい目的を持った旅だから、少しぐらいはしゃいでいても仕方がないと美子もゆるす気でいたが、いよいよ出発の日が近くなる頃には、もうすっかり熱がさめていてどうでもいいようなことを言いはじめる。そしてスケジュールからイギリスとスペインを勝手に削って日程も一週間ほど切りつめてしまった。
いよいよ羽田を出発すると、飛行機の車輪が滑走路を離れた時からもう愚痴《ぐち》りはじめた。
「何も俺たちが出かけなくたってよかったんじゃねーか、カンヌで上映されることはきまってるんだし、売れる売れないは誰がやったって同じなんじゃねえかな」
美子は寝たふりをして取りあわなかった。南回りで先ず最初の目的地ローマまで三十六時間というのも幸二には耐えられないらしい、何より家が好きでどこへ行っても三日とあけられない性格も父親ゆずりで、今更とりかえしはつかないが、自分で勝手に言い出した海外旅行にひとをひっぱり出しておいて、と美子も腹が立ってつい、
「途中で飛び降りるか、飛行機|停《と》めてもらうかしたらどうですか」
とふくれてしまった。幸二はそれっきり何も言わなくなったが、美子はこの調子じゃ先々大変なことになりそうだと不吉な予感がして思わず首をちぢめた。
案の定それからも何か喰べている時と寝ている時以外は、ブツクサ文句ばかり並べていた。
ローマに着くとさすがに幸二も感激して、早速留学生の通訳をやとって、コロセオ、カラカラ浴場、トレビの泉と走り廻った。
翌日はバスで太陽道路をナポリまで南下してポンペイを見物した。
イタリーは泥棒が多いからくれぐれも気をつけるようにと聞いてはいたが、バスの運転手まで釣り銭を胡魔化《ごまか》すのには驚いた、美子も見ていたが、幸二の受けとった金額は少な過ぎた。幸二はいきなり、
「この野郎、ふざけやがって、なめたまねすんなよ、先祖の遺産をうりものにして喰ってやがるくせに、その上客の金をふんだくろうなんてとんでもねえ、このクソイタ公め」
と、はっきりと相手の眼を直視してまくしたてた。運転手は肩をすくめると、ニヤニヤして胡魔化した分の釣り銭を返してよこした。バスを降りてから幸二はちょっと得意そうに、
「何語で話しても気魄《きはく》だけは通じるのかな」
と笑っていた。
ミラノ、ベニスと大きな荷物を持って歩くのはたしかに相当しんどいことには違いなかった。美子には胸の躍る旅だったが、幸二は帰りたいと言い通しだった。
美子は珍しい喰べものに眼がない方だから、ホテルの食堂でも、レストランでも、まわりの人の喰べているものに興味を引かれ、あれが欲しい、これも喰べたいとつい甘えてしまう、幸二は言葉が通じないのと、変に見栄を張るせいか注文してくれない。美子がさいそくすると、じれて怒り出す。おかげで食事の度に、
「てめえの喰いもんのために亭主に恥をかかすのがそんなに面白えか、馬鹿野郎」
と喧嘩がたえない。
ホテルへ帰ると幸二は、子供達へあてて毎晩絵葉書を書いたが、馬鹿馬鹿しいことに八歳と六歳の子供に美子は悪いママですと愚痴っていた。
こんな風だから、きっと映画を作るのに何日も家をあけたのはかなりつらかったのだろうと、美子は半分ザマァー見ろという気持で城ヶ島のロケ現場へ出かけて行った時のことを思い浮べた。
昼少し前にロケ隊が泊っている城ヶ島のユースホステルに美子が着くと、その日もスタッフは早朝から撮影に出かけているとのことで、建物の中はガランとしていた。ロビー、食堂、二段ベッドが四つずつ寝台車のように並んでいる寝室等、ホステルの人に案内してもらったがどこも簡素で清潔な感じがした。
十二時になるとドカドカと三十人位の男達が食堂へ入って来た。どれも皆真黒に陽《ひ》やけして、赤いポロシャツに膝下《ひざした》を切り捨てたジーンズという妙な風態《ふうてい》で、一眼《ひとめ》で活動屋さんとわかる。
口々に「腹へったあー」とか「メシだメシだ」とか大声をあげて、セルフサービスのカウンターに殺到する。少しおくれてヤギさんと幸二が連れ立って入って来た。
「おお、ママ来てたのか」
と幸二が美子を見つけるとすぐはしり寄ってきて、
「おーい、みんなきいてくれ、これがうちの自慢のおかみさんだ、よろしくたのむぜー」
と大声を上げた、美子が頭を下げると、
「うおーっ」と歓声が上ってそれだけだった。
隅のテーブルにつくとヤギさんが食事をはこんできてくれた。サバのミソ煮に豚汁がいいにおいをさせている。
「どうですか撮影は順調ですか」
と美子がきくと、ヤギさんが、
「ええまあ何とか……」
とニコニコ答えた。幸二は、
「いやもう大変、監督なんてのは楽じゃないよ、映画作ろうなんていったのは冗談、もう全部冗談だから、銭払うから皆さんお引取り下さいって言いたいよ」
と本当に少しやつれて見える。陽やけしてビールビンみたいな色になっているが、相当まいっているみたいだった。
「二年も三年もかけて、大スペクタクル映画撮るなんて奴はえらいんだねえ、信じられないよ、俺とは体質が違うんだな、きっと……」
と幸二は喰べながらさかんにまくしたてる。
「レンズを選ぶにしたってさ、標準から七二〇ミリまでそろえてるけど、同じ絵とっててもまるで感じが違うし、俺は長い玉使うのが好きなんだけど長いの持ってりゃ偉いってわけじゃねえんだよな、やくざの喧嘩じゃねえんだからな」
「カミさんが来ると急に元気が出るんだね」
とヤギさんが横からひやかした、幸二はかまわず、
「午後からは漁師町の方へ出かけていって面白い場面とるから一緒にこいよ」
といたずらっぽく笑った。
その時のサバと豚汁はとても美味《おい》しくて美子にはどうして家でこんな風に出来ないのか不思議に思えるほどだった。食事が終ると全員各自の膳を持って、大きな流しの所へ行って、自分の使った食器を洗っている、美子はそれがめずらしくて、
「へーえ、ここでは食器洗いもセルフサービスなの」
と感心していると、
「おお、はじめは俺もおやっと思ったけど慣れるとかえって気持いいよ」
そう言いながらさっさと幸二も膳を持って立っていった。
大型のワゴン、真白に塗ったジープと乗用車三台に、スタッフが分乗して、次々に出発して行く様は、ちょっと戦争ごっこのようで美子も胸が高なった。ロケ隊は城ヶ島大橋をわたって三崎へは下りずに、三戸浜の方へ向う、西瓜畠《すいかばたけ》の中を通ってうねうねした道をすすんで、鄙《ひな》びた漁師町へついた。
ここで撮るのは出演者の一人である勝ちゃんが、ロープを探し歩くシーンだとのこと、勝ちゃんは若い人向きのファッショナブルな既製服を出している大メーカーの息子で、勿論俳優さんではないが、スポーツ万能の好青年で、育ちの好さそうな甘い雰囲気を持っている。この勝ちゃんが大きく起伏した岩場を歩いて来る、ロープを探す勝ちゃんの姿が岩から出たり入ったり見えかくれするのを遠くからカメラにおさめるわけで、この時美子ははじめて幸二のかけ声をきいた。
「よーい、スタート」
同時録音でもないのにカチンコが鳴った、あとできいて見ると、
「やっぱりあのカチーンって音がしないと気合が入らねえし、芝居してるような気がしねえんだよな」
幸二はそういって笑った。
「カット、OK、カメラさんどうだい」
そういいながらカメラマンの顔をのぞきこむ幸二は、中々どうして立派なもんでいっぱしの監督さんのように美子には見えた。
次のシーンは、勝ちゃんがまだロープを探している、浜べから沖の方へ長々と伸びているロープを見つける、勝ちゃんがこのロープを引っぱる、どんどん引っ張っていると、どういうわけか女学生の一団がワーッとやって来て一緒になって引っ張る、勝ちゃんがどぎまぎしていると、沖に繋《つな》がれていた大きな船が沈没してしまう、という場面だそうだ。
そういえば小道具係りの|アニイ《ヽヽヽ》が三、四十人の娘さん達を農協のバスを借りて連れて来ていた。この|アニイ《ヽヽヽ》はテレビ映画の時から幸二達の仲間だそうだが、本人は生真面目《きまじめ》なんだろうが剽軽《ひようきん》な男で、スットンキョウな話がつきない。
ヤギさんが助監督をしていた時の話、ある大監督が、白い馬を連れてこいと命じた、|アニイ《ヽヽヽ》がこの時もやはり小道具の係り、「あいよ」と安受けあいしたが、その晩呑んだくれてコロッと忘れてしまった。朝になって気がついたが、真白い馬なんてそうすぐには間にあわない、仕方がないので近所の乗馬クラブから黒い馬を連れてきた。大監督が烈火の如く怒って、
「馬鹿、馬なら何でもいいと思ってんだろう貴様、俺は白い馬とわざわざ注文つけておいたじゃないか」
と|アニイ《ヽヽヽ》を怒鳴りつけた。すごすごと引き下った|アニイ《ヽヽヽ》、昼休みの間にスプレーで馬を真白に塗り上げたという。
|アニイ《ヽヽヽ》の調達してきたお嬢さん達は近くの洋裁学校の生徒さんで、地引網を引くシーンだというので中にはブルマーとTシャツ姿の娘《こ》もいた。わーわーきゃーきゃー、大さわぎのうちに一時間位でこのシーンも撮り上げた。
「次はいよいよこの映画最大のスペクタクルシーンだ、皆はりきってちょうだい」
と幸二はまず気合を入れ、このシーンの説明をした。
はじめ勝ちゃんが一人でロープを探していたが、なかなか適当なのが見つからないので仲間が二人ジープに乗ってやって来る。このうちの一人が主演者でもある幸二で、運転している男が幸二の知りあいのガソリンスタンドの若|旦那《だんな》、この人はカーキチでF1レースにもよく出るときいた、八十キロはある大柄な体に子供のような童顔をのせている。
勝ちゃんが一人ロープを探しながら歩き、そのうしろから二人の乗った真白のジープが静かについてくる。やがて舟小屋の裏手に丈夫そうなロープが大きな束になって置いてあるのを勝ちゃんが見つけ、眼で合図する、幸二が降りてきて、二人口笛なんか吹きながらあたりを見まわし、いきなりそのロープをジープの後ろにほうり上げると、そのまま座席に飛び乗りあとをも見ずに走り出す。
ロープの一方の端は、舟を繋留《けいりゆう》する杭《くい》にしっかりと結びつけられている、うねうねとした小道をジープが走ると、ロープは道なりに敷いたように車から落ちて行く、ロープのもう一方の端の結び玉がジープに引っかかる。三人は何も気づかずジープはスピードを上げる、ロープはぴんと張ってしまい、先ず山のように積み上げられていた樽《たる》がガラガラとくずれ落ち道に散乱する、網小屋がはじき飛ばされると半裸のアベックが中から大あわてで飛び出してくる。鶏小屋がメリメリとこわれて中から鶏がパアーッと飛び立つ、というわけだ。
手ぎわよく快調にとり進んでいったが、つまずいたのは鶏小屋だった。鶏小屋がロープに引きずり倒されるのだが、思ったように鶏がパアーッと派手に舞い上ってくれない、|アニイ《ヽヽヽ》が手を抜いて養鶏場のとりを借りてきたからだそうだ。
「|アニイ《ヽヽヽ》、だめだよお前、お前の家だって百姓なんだから鶏のこと位子供の頃から知ってるだろ、元気のいい地鳥《じどり》じゃなきゃ飛ばないよ」
とヤギさんが文句をいっている。
「そりゃそうだけど庭にかってる奴はすばしこくってつかまえにくいし、第一追っかけ廻すと卵産まなくなっちまうぜ」
「卵のことなんてお前が心配しなくたっていいんだよ馬鹿、いいから鶏をぱあっと飛ばして見ろ」
|アニイ《ヽヽヽ》は頬《ほ》っぺたふくらまして鶏を追いたてるが養鶏場のケージの中で育ったとりは追った位では飛ばないどころか鳴きもしないのを見て美子もそういうものかとあらためて感心した。|アニイ《ヽヽヽ》も業《ごう》を煮やして、足を持って上下にゆすったり、しまいにはやけになって振り回したりしてる。
「じゃいいよ、空むけてカメラかまえてるから、そこへ鶏をポンと放って見ろ、パタパタと羽ばたけば、アップでおさえてるし、一瞬だから大丈夫だ」
とヤギさんが言い出した。|アニイ《ヽヽヽ》が元気のよさそうなのをつかまえて待機する。
「いいかカメラスタート、よし|アニイ《ヽヽヽ》放れ」
幸二が声をかける。
「カットカット、全然だめだなこりゃ」
見ていた全員が腹をかかえて笑い出した。鶏は羽をぴったり体にくっつけたまま、足と首を伸ばしたまんま、ラグビーのボールのように斜めになってすーっと飛んでいって、そのままの形で道路へぱたんと落ちた。
何回やっても同じことで、しまいには皆あきれかえってしまった。|アニイ《ヽヽヽ》はいくらか責任感じたのか、鶏の足を止り木につかまった形で棒にしばりつけ、その棒を少しずつ前後に廻して、いくらか羽ばたかせることに成功した。様々の角度からアップで羽ばたきをとり、編集と音響効果で何とかまとめようということだった。
「それにしても馬鹿にしてるよなあの鶏は、洋裁学校のおねえちゃん達よりいい金取りやがってちっとも芝居しねえんだから」
と|アニイ《ヽヽヽ》はいつまでもぶつぶついっていた。
美子は前に幸二が主演したテレビ映画のロケーションも見にいっているので、さして驚きはなかった、ただ幸二がこんなに頼もしげに監督が出来るとは思っていなかったので、ひとまず安心した。
それにしても映画作りというのは、はたから見てると実に馬鹿げたもので、子供が砂場で夢中で遊んでいるのを見るのと少しも違わない。いい年をした人達が一緒になってあんなに一所懸命になれるのは、何としてもすばらしいことだとうらやましくも思った。
活動屋三日やったらやめられないと聞いたことはあるが、皆うれしそうに実によく働く、でも美子は一緒になって手伝ってみようとは夢にも思わなかった。
ユースホステルは酒を呑んではいけないことになっているので、いつもは夕食が済んでしまうともうやることがなくて、一同手もちぶさたで身を持てあますときいていた。
門限も九時だから町へ出かけていって一杯やって来るというわけにもいかない。ところが今日は、なんだか皆うきうきしているように見えた。美子がヤギさんにきいて見ると、
「えー、今日は現像所から上って来てるラッシュを見にいくんですよ、ここにはプロジェクターがありませんからね、町の映画館へ行って、映写技師さんに一升持ってって廻してもらうんですがね、なにしろ映画館がはねてからじゃなきゃだめだから、今日は特別に門限をのばしてもらってるんですよ」
とうれしそうにしていた。
八時になると車に分乗して、スタッフ一同そろって出発した。目的地は三崎の町だった。幸二が皆に生ビールをおごって、あとは自由時間、パチンコに行くものもあれば呑み続ける人もいる。はねる時間に映画館に集ればよいわけだ。
今まで撮り上げた分を今日はじめて見る幸二はさすがに落ちつかないらしく、神経質そうにピーナッツをかじったり、頭をかきむしったりしていた。美子もどんなものがとれているのか心配はしたが、いずれにしても監督の幸二が気に入るように上っていることだけを祈っていた。
映画館に行って見ると、いかにも田舎《いなか》くさい何となく便所の臭気がただよっているような、うらぶれた感じの小さな小屋だった。ドヤドヤと皆で入って見ると、酔っぱらいが二人ばかり客席で眠りこけていた。
「おじさんもう映画は終りましたよ、さあ、おうちへ帰って寝ましょうね」
と|アニイ《ヽヽヽ》が起して歩いている。
「それでは廻してもらいましょうか」
とヤギさんはあたりを見廻してスタッフの頭かずをかぞえてから幸二にいい、幸二がうなずくのを見ると、大声で、
「映写技師さーん、おねがい致します、廻して下さーい」
とどなった。
すると本物の映画が始まるように、徐々に暗くなって、スクリーン前のうすいカーテンが開き、サーッと真白い色がうつりはじめた。フィルムのリーダーの部分で白実《しろみ》と言っているとヤギさんが説明してくれるその白実が終るとすぐに、この映画の中に出てくるたった一人の女、モデルが本業の紅エリカさんの水着姿が映った。磯《いそ》の平たい岩の上に海をバックにビキニで坐っている、やがてけだるそうに、オイルを体にぬり始める、たんねんに足から腕と塗って行き、しまいにビキニのブラジャーをはずしてわき腹から胸へ塗って行く、長い長いワンカット、次にはエリカさんが岩の上に長々と寝ている、その横になぜか生きたタコがベチャッとなげつけたように置いてあり、このタコがグニャグニャと動いて海の方へ逃げて行く、エリカさんは身じろぎもしない、そのあとは夜空にこうこうとかがやく、大きかったり小さかったり、月ばかり長々とうつって三、四分もあっただろうか、その他にもいくつかのカットがあったが、美子はどれも美しく、きれいなユニークな画面に思えた。
ほんの十分位の時間だったろうか、美子にはものすごく長く感じられた。あたりが明るくなって皆立ちはじめたが幸二は一人頭をかかえてうずくまっていた。そのうち気がついたように起き上るとヤギさんに、
「皆先に帰してくれ、俺は少し町に残るから」
と言い、痛みでもこらえているような沈痛な面持で静かに立って行った。美子は気になって追いかけ、寄りそうように並んで歩きながら、
「どうだったんですか」
と声をかけた。幸二は振りむきもせず、
「だめだよ、なってないよ、どれもこれも皆ガキのとった記念写真みたいで、全部撮り直しだ」
と小さな声で押し出すように言うと額《ひたい》に手を当てた。
3
カンヌのホテル暮しも三日目となっていくらか馴れて来た。美子も平気で一人で出歩けるようになった。幸二はショートパンツにTシャツ姿で、ホテル専用のビーチでデッキチェアーにひっくり返ってビールを呑んでいる。そんな時呑めない美子は一人でウインドウショッピングを楽しんだ。有名なブランドのバッグやドレスを扱う洒落《しやれ》たブティックが軒を並べていて、買う気さえ起さなければ良い気分で時が過ごせた。一人でこっそり中華料理屋へ行って、もやしいためと茘子《ライチー》だけつまんでくるなんてこともやって見た、言葉が通じないのは何とも腹立たしく、いらいらするが、度胸さえきめてしまえばけっこう手まねで通じる。もやしいためは、ギャルソンからメモ用紙と鉛筆とかりて、もやしの絵をかいて、あとはジャージャー言いながら両手でいためる手つきをして見せる、これでちゃんと通じるから面白い。幸二はあとで、
「へーえ図々しいもんだね、第一お前の絵でよくもやしとわかったなあ」
とあきれかえっていた。美子はピッツァハウスのコックとも仲良くなっていて、色々と好みの具を指定して、特製の大きなかまどで眼の前で焼いてもらえるのをうれしがった。おかげで幸二は毎日ピッツァを喰べさせられた。夕方になるとカオリさんがむかえに来てくれて、三人で連れ立って映画を見に行く、女はイブニング男はタキシードの正装を強《し》いられる。
「映画を見るのにいちいちタキシードなんか着ていかれるかよ馬鹿馬鹿しい」
と幸二は二日目に普通のネクタイを締めていったが、入り口で形ばかりの蝶《ちよう》タイを買わされてふくれていた。グランプリ受賞の呼び声が高い、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の『ブロウ・アップ』を上映する劇場の正面には時間前から大群衆が集っていた。入り口中央には道路までロープが張られ警官が整理にあたっている。ロープに沿ってカメラマンが重なりあってひしめいている。大型のライトがこうこうとあてられていて、どうにもはれがましくて入りにくい。しばらく人々のうしろから見ていると、きらびやかな衣装でスターが現れる度に大勢の人々の間から拍手や、どよめきが起った。白のレースのマントでジーナ・ロロブリジーダが堂々と車から降りたった時、幸二が美子のわき腹をつついた。
「あのおねえさんにははじめからいやな思いをさせられてるなあ」
美子もあんなことがあったせいか、なんだか身近に感じられて、少しうれしくなった。
やがてカオリさんに押されて幸二達もこの入り口から入った。いくつかのカメラのフラッシュがたかれたので、美子はドギマギしてしまった。
「入り口で撮った写真はあとで事務局へ行くと売ってくれるのよ」
とカオリさんが教えてくれて、美子はなんでも商売にするもんだとあらためて感心した。
場内は大変な混雑で、結局美子達は二階の奥の階段に坐らせられてしまった。
「何てこったいおい、イブニングにタキシードでバッチリきめて来てこのざまかい、洒落にもなんねえや」と幸二はいつまでも一人で笑っていた。
映画が終って外に出て見ると、大きな観光バスが何台も止っていて、劇場から出て来る人をどんどん招じ入れていた。
「これは『ブロウ・アップ』の製作会社の『メトロ』の招待なのよ、いろんな人が来るから面白いわよ、行って見ましょう」
カオリさんは幸二達にそう言うともうさっさと乗り込んでいた。美子達も何もわからずあとにつづいた。
バスはうねうねした道を山側へグングン登って行き、着いた所はコートダジュールをはるかに見わたせる中腹の城のような別荘だった。よくハリウッドの映画で見るような宏大《こうだい》な敷地の中央にプールをかこむようにしつらえられた広々としたテラスに案内された。片隅にはバーベキュー用の大きなレンガ造りの|いろり《ヽヽヽ》があり、白衣を着た大きな体のコックが、金網の上の何十というステーキを、長い柄《え》のフォークでひっくり返していた。少しはなれた男達がワインを呑んでいたが、見れば大きな樽が横だおしに据えられていて、樽の栓からジョッキのように大きなグラスに受けている。
建物の中はこれも大袈裟《おおげさ》なシャンデリヤが輝き、中央の階段の下にバンドの連中が演奏していた。
美子達がやっと雰囲気になれて、喰べものや呑みものが楽しめるようになった頃、カオリさんがニコニコしながらやって来て、ジャン・リュック・ゴダールとクロード・ルルーシュ、フランソワ・トリュフォー達のいる所へ二人を案内していって、紹介してくれた。彼等が乾盃《かんぱい》の度にシャンパングラスを暖炉の中にたたきつけているのがめずらしく、美子もうながされて恐る恐るやってみた。胸がすっとするかと思いきや何だか勿体《もつたい》ない気がした。
幸二は少しかたくなって握手してるようだったが、うれしそうに見えた。
でもその場をはなれるとすぐ怒ったような顔をして、
「あんな奴等たいしたことないよ、そのうち俺だってお前……」
と唇を噛みしめていた。美子は、すぐ又世界の一流監督と肩を並べる気になってと、ついていけない気分だった。
翌日になるともう幸二はじっとしていられなくなっていた。元来|まめ《ヽヽ》な人だから、三日とぼんやり休んでいられない、看板を作って町をねり歩くんだと言い出して、さっさと出かけていった。しばらくすると大きなダンボール箱を抱えて帰って来て、
「文房具屋へ行ってカッターとノリを買ってついでにこいつをもらってきたんだけど、言葉が通じねえんでもういらいらしたよ、しかし日本の語学教育ってのはなってねえなあ、俺なんか高校から大学院まで、考えて見りゃ七年もフランス語やってて、フランスへ来て見りゃ何一つ解らねえんだもんな、やんなっちゃうよ、もっとも試験さえ通りゃいいって本気でやんなかったもんな」
そういいながらもう手を動かして、ダンボールの箱をばらしている。
幅三十センチ、長さ四十センチほどのボール板を四枚作り、東京からスーツケースに入れて大事に持って来たポスターを貼《は》り、五月○日○時ジャン・コクトー・シアターと書き込み、これをひもで二枚ずつ身体の前後に振り分けに下げられるように作り上げた。
「さあどうだい、これで外の通りを歩くんだ」
と自分でまず首から下げ、
「お前にも手伝ってもらうぞ、はずかしいもなにもないよ、ここはカンヌだ、知ってる奴は少ししかいねえし、シャレ、シャレ、冗談のつもりでやろうよ」
又々持ち前のバイタリティで強引に押しつけられて美子はもてあました。
「映画祭ってのは来て見てわかったけど、ただのお祭りじゃねえんだよな。早く言えば映画の見本市、世界中の業者がフィルムを買いに来てるんだ、そこで上映するチャンスを俺達は持ってるんだぞ、一人でも多くの奴等に見てもらえばそれだけ売れる可能性があるんだぜ」
たしかにそうには違いないが、外国まで来てチンドン屋の真似をさせられるかと思うと美子も気がめいる。
「さあいこういこう、平気、平気、だれはばかることがあるもんか、映画祭なんだよ、お祭りなんだから」
と美子の首にもその看板を下げさせると先に立ってどんどん出て行った。もうこうなったらどう仕様もない、美子も腹を決めて連れ立っておもてへ出て見た。道行く人はたしかに看板にチラッと眼をやるが、当然といった顔ですれ違っていく。はじめはあたらしいことに挑戦する興奮でうれしがっていた幸二もメインストリートを一往復するとだれて来て、
「だめだこりゃ、どうせならもっとガーッと目立つことやんなきゃだめ、そうだ紋付に羽織袴出せ、あれ着てやろう、お前も振《ふ》り袖《そで》を着ろ」
といい出した、いつものことでもう少し眼つきがおかしくなっているのが美子にはわかる。仕方なく言われた通りに幸二に紋服を着せ、美子も振り袖を着た。
「どうだいおい、これなら目立つぞ、それにしてもカンヌまで来て、こんな姿で歩こうとは思わなかったな、漫才だねまるで……」
と笑いながら看板をつけてはしゃいでいる。
そのままの姿でおもて通りへ出ると、さっきとはまるで違っていた。嘘のように人がどんどん集って来て、熱心に看板に見入っている。
歩道のすぐそばまでテーブルを並べたカフェテラスの前に立ったりすると、ワイングラスを持ち上げてウインクする人や、わざわざ立って来て幸二に握手を求めてくる人もいる。そのうちに新聞社のカメラマンが三、四人集って来てパチパチ写真がとられ、テレビカメラまでインタビューを求めて来た。幸二は得意になって英語でインタビューに答えていた。
美子は少しはなれて、めずらしい動物でも見るような眼で幸二をながめていた。たしかにこの意欲と行動力はたいしたもんだが、これが自分の亭主で、まだまだこの先何年も一緒に暮して行かなければならないのかと思うとやりきれない気もした。この先何をやり出すことやら予測がつかないのも空恐ろしい、一旦こうときめたらお金のことも家のことも眼中になく、ただ闇《やみ》くもに突っ走り、走り出したらもう誰にも止められない。ほかの人のように、マージャンかゴルフにでも凝って、眼のとどく所にいてくれればありがたいのにと、美子もつい愚痴をいいたくなるが、一方では何がいったいこの人をこう駆りたてるのか、不思議でもあり気の毒にも思った。
今度のこの映画にしても、正直言ってどうやらこの映画祭で入選したからこそ少しはかっこうがついたようなものの、選にもれてでもいればと思うと胃のあたりさしこみでもきそうなおもいがする。
いくつかの劇場での自主上映の収入と挿入したCMの会社《スポンサー》から入った分で、どうやら収支は相償《あいつぐな》ったかっこうだが、綿密に計算すれば大赤字だ。大勢の人達に入場券の販売をお願いしているが、売上げの回収は半分も行っていない、お手伝いしましょうと、入場券を持って行ってくれる人は多いが、はいこれだけ売れました、と金を持って来てくれる人は少ない。どこでどうなるのかいつでも勘定合って銭足らず、わずかに助かったのは製作費の大幅な超過がなかったこと位で美子にしてみれば身も細る。その上「どうせカンヌまで行くんならついでにヨーロッパ一廻りしてこようぜ」と幸二らしく大袈裟なことになったのでその旅費の捻出《ねんしゆつ》だって大変だった。
もともと幸二はボンボンだからか、金のことにはあまり拘泥《こだ》わらない、印形《はん》も通帳もすべて美子に持たせて、どこにどんな形で貯金があるのか、借金があるのかまるで知らない。自分の収入がいくらあるのかさえ知ろうとしない、なんでも美子にまかせっきりだった。幸二は自分の体力と能力によほど自信があるのかもしれない、とにかくこの一年間よく働いて、よく稼いだ。前からの借金も返済のメドだけはついて美子もほっと一息ついてはいた。幸二は、
「金を稼ぐためだけに仕事するのはいやだが、先に自分が好き勝手なことをしちまったんだからその後始末をするのは仕方がねえ」
といっていた。それにしてもハードなスケジュールに泣きごとも言わず働き通した幸二を、美子も時々は可哀そうだと思っていた。
幸二にしたって思いつきではじめるのはいと易いが、実際に製作にかかったら逃げ出したい程の苦労をしているのを美子も知ってる、幸二の為にもこの映画がいくらででもいいから外国に売れることを祈った。外国に売れればお金の問題とは別に、この映画が、外国ではちゃんと評価されたんだということがもっとも具体的な形で表れる、幸二が胸を張って日本に帰れるようにしてやりたいと願っていた。
城ヶ島へロケに出発してから五日目に幸二は鷺宮の家へ帰ってきた。相変らず真黒けに陽やけしてはいたが、一まわり小さくなったほどやつれて見えた。
「いやもう参ったぜ、映画を作るって作業はこりゃ大変なもんだよ、俺はもう監督はやめたよ。役者はいいね、言われたことやってりゃいいんだから、生涯役者がいいね、脚本《ほん》書きもつらいけど、監督よりはまだ楽だ、とくに自分の金で、自分の好きなもの作るってのはきびしいよ、言い訳の仕様がねえもんな」
と好きなビールをガブガブ呑みながらこぼしていた。
「大勢でやる仕事だから又困るんだよ、準備が全部整って、さあ行こうかあってことになると役者が来ないとかね、役者が全員|揃《そろ》うと今度は、乗って走るジープが警察に捕っちゃって来ないとかさ、やっと全部OKで、今度こそ行くぞっと思うと雨がザーザー降って来る、もうやんなっちゃったよ」
幸二はさかんに苦労ばなしをきかせるが、撮影は進んでいるし、幸二も少しは監督業にも馴れて多少自信を持てるようになってきていると美子は思った、長年一緒に生活してきているから、話しぶりや表情でその位のことはすぐに判る。本当にきびしい時は幸二は何も言わなくなってしまい、酒さえ口にしない。
「とにかく朝が早いだろ、ここんとこ毎日五時起きだよ、夜が又寝られねえんだよな、毎晩翌日撮るシーンのコンテ作りで二時、三時まで頑張ってるからな、睡眠時間なんて三時間位よ、そいで上ってきたラッシュ見て出来が悪い時なんか死にたくなるな。自分で自分が嫌になって、冗談じゃなく一人で布団《ふとん》の襟《えり》を噛んで泣いたよ」
と泣顔をして見せる、美子はきっと本当だろうと思った、生れついての感情的な上に変に生真面目な所があるから辛抱出来なくなるに違いない。
前にもテレビドラマの台本が書けないといってポロポロ涙をこぼしていたのを美子は見たことがある。
「それにロケ現場が高い崖《がけ》の上だろ、危ねえんだよな、いちばん高い所は二、三十メートルはあるから足でも踏みはずしたら大変だよ、スタッフが死んだりしたら道楽や冗談じゃすまねえもん、俺はもう心配でしょうがねんだ、|アニイ《ヽヽヽ》なんて命綱もつけないでぴょんぴょん飛んで歩くから、俺が始終追っかけまわしてロープ結びつけてるんだぜえ、監督がそんなことしてちゃ仕様がねえって他のスタッフから怒られるんだ。しかし活動屋ってのは面白いね、皆仕事が好きなんだよ、楽しんでやってるんだな、この映画のテーマそのものだよ、苦しいけど俺はこの映画はやってよかったと思ってるんだ」
美子はやはり自分の感じたことが間違っていなかったと思った。幸二はきっとこの仕事を立派にやりとげるに違いないと確信のようなものがこみ上げて来て、心の中で「パパ頑張って」と、叫んでいた。
道楽として幸二と同じ考え方で参加してくれた仲間達はいいとしても、それを職業とし生活の糧にしているカメラの人や照明さん達には特にこの映画作りの意義をよく納得してもらわなければならないと、幸二は一人一人と熱心に話し合った。結局通常の金額の八割で全員気持よく協力してくれることになった。仕事がスタートする前に三分の一、途中で三分の一、終了した時点で三分の一というこの世界の通例に従って間違いなく支払われるように、美子はヤギさんと二人で早くから手配しておいた。幸二はいつも、
「この映画は俺の三十三歳のモニュメントにするつもりだ、その上もし願わくば、協力してくれている人達にとってもそれがそれぞれのモニュメントになるようだったらなあ……」
と誰かれなく話していた。
素直で、自分で口にしたことはすぐに信念みたいに思いこんでしまう、おっちょこちょいだから、幸二はすでにその気になってしまっていたのだろう、だから、この映画の出来上りについては、自分のことばかりでなく、スタッフ一同にとっても満足の行くものにしなければならないと思い、それが一そう負担になっていたのかもしれない。
今夜は家に泊って明日の朝早く又城ヶ島へ帰って行くという幸二のために、美子はせい一ぱいの御馳走を喰べさせるつもりで台所へ立った。
4
その日、美子は朝早くから落着かなかった。いよいよ、六時からジャン・コクトー・シアターでうちの映画が上映されることになっている。映写に先立って五時半から記者会見があるそうだ。カオリさんが通訳も引きうけてくれるというのが救いだが、美子はどうなることか心配でならなかった。幸二は、
「記者会見なんてさんざ日本でやって来ちゃってるから、どうってことないよ、言う事は同じだし、第一記者会見でいくら大きなこと言ったって映画見りゃすぐばれるし、逆に記者会見でどんな失言をしようと|へま《ヽヽ》やろうと、映画はもう出来上っちゃってるんだから大丈夫だよ」
とわりとアッケラカンとしていた。
「それより俺は、頭の出し方と、フィルムがうまくナンバー通り出てくれるかどうかそっちの方が心配だよ」
という、そんなことをきけば又美子も気苦労がふえる。
「何でもいいから出来るだけ早くいって、準備だけはきちんとしておこうぜ」ということでカオリさんをさそって、例のピッツァハウスでおそい昼食をとると早速出かけていった。
劇場の前にはもううちの映画が今日上映されることが示された看板が出ていた。
映写室へ入れてもらってフィルムを点検すると日本から発送した時の、大きな木綿の丸い袋がそのままころがっていて、なんだかとても懐しかった。
技師がフィルムの缶を袋から出して横の枠の上に順序通り並べて、大丈夫俺がちゃんと写してやるから心配するなという顔つきで、片眼をつぶってウインクをして見せた。
幸二は、一番はじめに長い長い白いリーダーがついているが、途中から音が出るので、そのリーダーの頭にマークがある、そのマークから写してくれるようにとしつこくたのんでいた。
五時十五分頃から二人三人と記者や業者らしい人達が集って来たが、四百人位は入れるのだろうか、さしてひろくもない場内だが、ちらほらしか人がいないとやたらと広々と感じる、はじまってももしこんな風にガラガラだったらどうしようと胸がどきどきして来た。
カオリさんに聞いて見ると、いままでも若い監督の作品、ことに前衛的なものには人があまり集らないことが多かったと、美子の不安に輪をかけるようなことをいった。
でも二人で和服で馬鹿馬鹿しく喧伝《けんでん》して歩いたのが効果があったらしく、五時半にはもう半分位の席がうまっていた。
いよいよ時間がきた。劇場の人にうながされてカオリさんと幸二がステージに上り、中央に二つ用意された椅子《いす》にすわった。まばらな拍手が冷たい感じで起った。美子は中央の通路に近い一番前の客席でとなりにハンドバッグを置いて呼吸《いき》のつまるおもいでステージを見上げていた。
先ずカオリさんが立ってフランス語で幸二を紹介した、幸二も立ってペコリと日本式に頭を下げ「私の映画を見によくおいで下さいました」というようなことを英語で言って最後に「メルシボークー」と結んで坐った。
記者達からは、作品のテーマとか、作った動機とか、製作費とか、その調達の仕方などについて質問があった。製作費の所で全額自分が俳優をして稼いだ金だと幸二が答えた時、方々から少し笑い声が起った。
アルベール・カミュの作品に「シジュフォスの神話」というのがある、シジュフォスが神の怒りにふれ、大きな岩山の頂上に大石を運ぶ罰をうける、やっとの思いで運び上げた大石はすぐにゴロゴロところがり落ちてしまう、何度やっても落ちてしまい、シジュフォスは未来|永劫《えいごう》石をかつぎ上げなければならないという話だが、人の生涯もそれに似ているという寓意《ぐうい》だろうが、それがヒントになり、又、ドビッシーに「沈める寺」という曲があり、海の中で鐘が鳴る、これにイマジネーションをかきたてられた、と幸二が話し出すと、記者さん達も熱心にきいているようだった。
幸二は続ける。この映画にはストーリーはない、都会でこれといった希望も目標もないままアンニュイに暮している四人の青年が、一人の女を誘って、真白いジープに乗って海へ行く、海で遊んでいるうちにメンバーの一人が海中に大きな吊《つ》り鐘《がね》が沈んでいるのを見つける。この男が何とか一人でこの鐘を引き上げて見ようと努力している、これを見たほかの三人の若者もつぎつぎに「なんとなく」これに協力するようになり、遂に鐘を浜辺に引き上げてしまう、見上げるとうしろの崖の上に朽ちかけた鐘楼《しようろう》がある。彼等は暗黙のうちに鐘を鐘楼へ上げようと考える。クレーンもワイヤーもなしに、動力といえばたった一台のジープで、彼等は様々な工夫をこらして命がけでこの作業に没頭する。やがて鐘は鐘楼に引き上げられ、若者たちによって打ち鳴らされる。鐘の音は、朝やけの中を雲のはてまで響きわたって行く、何度も打ち鳴らしているうちに綱が切れ、鐘は又海の中へ落ちてしまう。男達は何事もなかったように乗って来たジープで都会へ帰って行く、ただこれだけの話です。
これをコメディタッチで底抜けに面白く表現出来ればと思って作ってみましたが気に入っていただけるかどうか、それは見てのお楽しみですと、ちょうど話が終った所で六時になった。又ぱらぱらと拍手があって、幸二とカオリさんはステージを降りた、係員が椅子を引きずって舞台からきえると、それを合図のようにベルが鳴った。
場内が暗くなる、いきなり真白い光がスクリーン一ぱいにひろがり、猛烈なレースカーのエンジン音が響きわたる、通常はスクリーンに写ることのないリーダーが延々と続く、やがて音がとぎれると自動車レース場のピットが写り、テーマ音楽がはじまる、同時にうすいカーテンがスーッと開きはじめた。
幸二がそっと美子の手を握って、
「スタートはイメージ通りに出たね」
とささやきかけて来た。
五人が乗ったジープがハイウェーを走り出し、途中ダンプの運転手と抜きつ抜かれつのせり合いから、喧嘩になり、運ちゃんが立小便しているうちに、若者の一人がダンプカーに忍びこんで荷台を上げ、道路一杯に積荷をぶちまけてしまう所では大きな笑いが起った。
「やっぱりサイレントにしておいてよかったろ、ダイヤローグの吹き替えや、字幕スーパーはわずらわしい上に金がかかる、これなら世界中どの人間にもわかるもんな」
と幸二は美子の手に力をこめて来た。
広々とした砂浜の中に、真白なテラスセットを置いて勝ちゃんをのぞいた四人が食事をしている、そこへ勝ちゃんが大きなゴムの足ビレをペタペタさせながらせわしなく歩く所ではそこここからしのび笑いがきこえた。
ロープを探して歩くシーンでは、船の突然の沈没がおかしいらしくかなりうけていた。
例の鶏小屋のこわれるシーンでは、鶏の動きがおかしいので腹をかかえている人が多かった。
そのあと積み上げてある樽がガラガラとくずれその樽が坂道をころげ落ちる所では、全員がお腹《なか》をよじって大笑いしているようだった。
老婆《ろうば》が一人せまい坂道を歩いていると、うしろからガラガラという音がきこえて来る、だんだん音が大きくなって来る、と見るまに坂の上から樽がころがり落ちてくる、道はせまいし老婆は逃げ場がない、そのうちに坂の上から何十何百というたくさんの樽がころがって来る、突然老婆がものすごいスピードではしり出す、どんどん坂を下って下の広い所へ出ると老婆は横へそれてあやうく難をのがれる、と最後の一つの樽が老婆の行く方へ行く方へと追いかけて来る、老婆は桟橋の先端まで追いつめられ、ついには観念して、耳につばきをつめて、ドブーンと海に自らとび込んでしまう、すると樽は桟橋の先で静かに向きをかえるというわけだ。
いよいよ鐘を上げる所では、崖の上にやぐらを組んで、その上に滑車をつけ、鐘をむすんだロープをその滑車に通し、その先をやぐらの下に敷いた大きなネットに結び、そのネットに下からえっちらおっちら運び上げた石をたくさん置き、石のたくさんつまったネットを崖下におとせば、ツルベ井戸のように鐘が上って来るという設定で作業が進み、いよいよネットを崖下に落すと、ネットがやぶれて石だけ落ちてしまう、そこで拍手をして笑っている人がかなりいた。
エリカが岩の上にじっと寝そべっているシーンが現れた。
男達が鐘を引き上げる作業に一人ずつ魅《ひ》かれて行く過程でも、はた目には滑稽《こつけい》だが本人達は命がけでロープに取り組んでいる時でも、鐘には何の興味も示さない。このグループの中のたった一人の女は、とても気になる存在で、この女を通じて作者が何を言おうとしているのか誰もがつい考えてしまう。エリカは、ある時はグラスのふちに指を押しつけて、ピーンという金属音をいつまでも響かせていたり、岩の上に腹ばいになってマッチ棒で遊んでいたり、渚《なぎさ》でアイスクリームを喰べていたり、時おり観客に心理的に挑戦するような長い退屈なカットで現れる。望遠レンズでねらったタイトなアップが城ヶ島で最初に見たラッシュのロングとはまるで違った緊張感で迫ってきた。
試写会のあとでも、あれは幸二の女性|蔑視《べつし》の考えが出ているとか、女はいつでも無償では動かないという意味か、などと批評されていたが、美子がきいて見ると、幸二は、
「それほどの意味はないさ、ただどんなことにも参加しないって人聞はいつもいるし、誰にでもそんな気分の時ってあるもんだ、それがたまたま女であったというだけだよ」
と言っていたが、美子にはこの言葉は信じられなかった。幸二は腹の底では、女には創造の喜びは判らないときめてかかっているに違いないと思っていた。
鐘が鐘楼に上げられゴーンと打ちならされる場面では、朝やけの中、鐘楼と鐘と四人の男が黒々とシルエットでうつるシーンが美しく、幸二が頑《かたく》なに白黒でとりたいといった気持がよくわかった。
鐘の音が朝やけの空に響きわたるのを見た時は、何度も見ているのに、とてもすがすがしい荘厳な気持になって美子は思わず涙を浮べてしまった。大笑いのギャグが連続したあとなのでひときわこのシーンは美しく見えた。
やがて鐘を吊ってあるロープが切れて鐘は海中に落下してしまい、むなしく立ちつくす四人、それぞれのアップがとてもいい顔にうつっていると美子は思った。
いよいよラストシーン、何ごともなかったようにジープに荷物を積みこんでいる男たち、すっかり積み終って、エンジンをスタートさせてから、さすがに立ち去り難く鐘に思いをはせている男たち、エリカは無心に手鏡で化粧を直している、土地の子供がゴム風船の糸を握って走って来る、ジープの車体の下にカメラをかまえて、ジープの底なめの遠景のこのショットが幸二はとても気に入っているようだった。
子供が何げなくジープに近づいて来る、勝ちゃんが吸っていたタバコの火を子供の風船に押しつける、風船がパチンと破れる、その音を合図のようにジープは走り出し、長い長い砂浜を一直線に走り去っていく、そこでテーマ音楽が入ってくる。
FINのマークが出た時、パチパチと拍手が起り、やがて拍手の音が場内にわれるように響きわたった、幸二は起ってうしろむきになって、
「どうも有難う、どうも有難う」
と何度もはっきりと日本語でいって頭を下げた。美子もふりかえって見ると、いつの間に入ったのか客席は満員でうしろの方に立って見ている人もいた。美子は急に胸に熱いものがこみ上げて来て、すがるように幸二を見た。幸二の眼には明らかに涙が光っていた。
翌日は朝早くカオリさんのノックで起された、寝ぼけまなこでボンヤリしている二人にカオリさんは新聞の評を読んで訳してくれた。
「『彼は彼自身の鐘を崖の上の鐘楼におし上げるためにせっせと金をため、そして打ちならした。そしてそれがもろくも崩れることに対しても少しも悔ゆることをしない、彼は現代の虚無と孤独を堅実きわまりない精神で、実に健康に描き上げた』って書いてあるわよ」
とニコニコ笑って見せた。幸二は、
「ちょっとほめすぎじゃねえのかなあ、そんなにほめる位なら買ってくれてもよさそうなもんだけどな」
と笑っている。
「そう言えばゆうべベネチアの映画祭の関係者にあったら、あの写真をぜひ出品していただきたいっていってたわよ」
とカオリさんがつけ加えた。
美子は眼の前がぼんやりとかすんで来た。
このことをきいたらスタッフはどう思うだろう、ヤギさんや|アニイ《ヽヽヽ》、城ヶ島で真黒になって汗みずくで動き廻っていた人達の顔が思い出された。
銭になんかなんなくともいい、とにかく皆で何かやって見よう、何か気を揃えて作ってさえいれば第一面白いじゃねーか、そう言って集ってくれた皆に、鐘が見事に上ったことを一刻も早く知らせてやりたいと思った。
[#改ページ]
シャレディ壮観号
「告《こく》、春夏秋冬、貴下益々御繁栄の事と拝察致します。陳者《のぶれば》、今般私共シャレディ社なる出版社を創設致し、世界文化発展の一翼を担う事と相成りました。先ずその手付として、ここに季刊雑誌『シャレディ』発刊の一大壮挙を遂行出来ました事は、誠にもって御同慶の極みと心よりお慶び申し上げます」
心もち緊張ぎみのチコが、高いよく通る声で社長|挨拶《あいさつ》をはじめた。ポニーテイルの髪をゆらしながら、ゆっくりと捧げ持った表彰状のような大きい紙の文字を読み上げている。
はっきりした眼鼻立ちの上に、今日はいつもより化粧が濃いのか、口紅の赤がいやに眼立つ。
パーティ会場のあちこちから苦笑が聞こえてくる。
「尚、当社は之に引続き、深遠なる哲理の解明或は驚天動地、支離滅裂独創的古今|未曾有《みぞう》の大アイデアによる刊行物を陸続刊行、汚濁《おじよく》混迷の世に警鐘乱打、以《もつ》て昇る朝日の至福に万民をして浴せしめ、狂喜乱舞、欣喜雀躍《きんきじやくやく》腹上死に価する倖《しあわ》せを与えんとして寝食を忘れ刻苦勉励、粉骨砕身、鋭意努力する所存で居りますれば、各位におかれましても、猶《なお》一層の御指導|御鞭撻《ごべんたつ》は当然の事として、願わくは親類縁者友人知人愛人、情婦の類も網羅し、叱咤《しつた》激励、媚《こ》びへつらい、或は強要強迫を以て一冊でも多くお買い上げ戴《いただ》けますよう、隅から隅まで、ずずずいーっと乞《こ》い願い上げ奉ります。シャレディ社社長 佐賀千枝子」
会場からいっせいに盛大な拍手と笑い声が起った。もっともテレビ局のフロア・マネージャーが、盛んに画面の外で腕をまわしている。
有楽町のデパートの七階にあるホールからの生中継で、青山幸二の「昼のひととき」というショー番組が今はじまったところだ。この番組は俳優の青山幸二が中心になって、男女二人のアシスタントと、その時々の事件や風俗、はやりの音楽や芸能の話題、評判の人物などにスポットをあてて、面白|可笑《おか》しく見せようとするもっぱら主婦むけの、昼の一時間のショーである。
月曜から金曜まで通して放送されるが、曜日によってそれぞれ異った内容が組まれている。このところ一カ月ほど、水曜日はパーティの会場からの生中継という趣向で、実際パーティなどとあまりかかわりを持つことがない主婦層に、その雰囲気を味わわせ好奇の眼をそばだたせようとするのが番組の意図なのだろう。
青山幸二が事実上のオーナーであるシャレディ社が発足し、第一号の刊行物が「シャレディ」で、今日はその出版記念パーティというわけだ。
自分がメインの番組に、臆面《おくめん》もなく自分の出版物の宣伝を押し込むようで気が引けるといつになく弱気になっている青山に、「そんな暢気《のんき》な事言っている場合じゃありませんよ」とけしかけたのは高田だった。
高田公一、年齢は年が明けると三十一歳になる。一メーター七十五センチの七十キロ、スポーツで鍛えたような立派な体つきをしているが実は柔弱で、お前の身体なら立っているだけで初段は堅いなどとおだてられるが、柔道着もつけたことはないし、相撲も取ったことはない。酒もさぞ強かろうと、無理にすすめられることは多いが、すぐに真赤になるたちで銚子三本が限度、見かけ倒しだの、独活《うど》の大木などとからかわれるが、本人はいっこうに気にしてはいない。
高田は「シャレディ」の編集者で、ここ一カ月ばかりは付きっきりでこの本作りに骨を折ってきたわけだから、番組の本番がスタートする前から、酔ったように興奮していた。
社長挨拶のあと、はなやかなテーマ音楽が流れ出し、画面にはパーティ会場のあちこちが写る。司会者たちが談笑していたり、中央にしつらえられたビュッフェスタイルの大テーブルの上に盛大に飾りつけられた料理の数々、贈られた花輪や酒樽《さかだる》、グラスを合せて笑いあっているゲスト出演者や、美しく着飾った歌手たち、その上に番組のタイトルや出演者の名前が白い文字で流れる。つづいてすぐにCMフィルムに入った。
高田が青山と付きあうようになったのは三年ほど前のこと、当時、月刊雑誌「ロマン」の編集部員として、青山にグラビアの企画ものを依頼したのがはじまりだった。「ロマン」はちょっとくだけた総合月刊誌で、社会種の特集や、潜入ルポ、推理小説などがメインで、車の情報から穴場の紹介、きわどいヌードも売りものだった。
高田は巻頭のグラビアを担当していたが、観光地の案内や有名人のお宅拝見みたいなものにもうあきあきして、何かもっとやっていてワクワクするような面白いものを取り上げてみたいと思っていた。そこで、以前にテレビの風刺番組のライターとして人気者だったことのある、青山幸二のところへ協力を求めていったのだ。
青山もすぐその企画に乗ってきて、以来毎月馬鹿気たことを論じあっては「青山幸二のシャレディ」と題して巻頭グラビアを飾ってきた。出来上りについては高田は自分でも面白いと思えたし、社内での評判も上々、読者の反響もうなぎ登りで月を追うごとに人気が出た。
青山という男は、自分勝手で一人よがりのところはあるが、馬鹿なことに異常に情熱を持っていて、それだけに古今のギャグや小話、落語が大好きで、くだらないことを面白がり、高田たちがあきれるほど、いつまでも可笑しがって笑っているようなところがある。
アイデアもポンポン出て、高田たちがそれに応ずると、次々にそれを発展させて、はてしもなく馬鹿馬鹿しい冗談話が続いてしまう。
酒が入るとますますもって可笑しくなる。上機嫌で水割りでもビールでもピッチがどんどん上ってたて続けに呑《の》みまくってはまくしたて、一人でしゃべっては一人で大笑いしている。もともとあまり強い方じゃないから、すぐ出来上ってしまい、ベロベロになるともう使いものにならない。高田にもだんだんわかってきたことだが、青山と仕事で付き合う場合、どこまで呑ませて、どこで切り上げさせるかが大問題だ。
まあ泥酔しても別にあばれるわけではないが、あたりかまわず大きな声を出すんで困ることはある。でもほっておけば何とか自分で家へは帰るから大丈夫、本人の二日酔いは相当なものらしいが、別に他の人に実害は及ばない。
高田が最初の打ち合せに行って、小一時間ですぐにまとまったのは、「便器の変った使用法」というタイトルの一連の組写真だった。
社内のスタジオにトイレのセットを組み、洋式便器の新品を一個借りてきて中央に置いた。高田がアシスタントと一緒に準備を完了した頃、契約で社に出入りしているカメラマンの石塚がやって来た。石塚は高田の高校時代の同級生で、まあそれが縁で何かあると二人で組んでは仕事をした。間もなく青山幸二が、自分のプロダクションのマネージャー佐賀千枝子と一緒に、堺とかいう若手の新劇の俳優を一人連れてやって来た。
第一カットは合格と書いた鉢巻をしめた学生服姿の若者が、机のかわりに洋式便器をかかえる姿勢で坐り受験勉強をしている情景、勿論《もちろん》まわりの壁には「必勝」とか「東大突入」などの張り紙があり、学生はその若手の俳優が演じるわけだ。
次は便器に大きな氷の塊《かたまり》を入れてビールを冷やしているランニング姿の若者のカット。それから便器に水を張って、その前に浴衣《ゆかた》を着た若者がきちんと坐って、左手に|そばぢょこ《ヽヽヽヽヽ》、右手に|はし《ヽヽ》を持って便器から冷そうめんをすずしげに喰っている。まあそのような馬鹿なカットをいくつもいくつも撮って、最後に青山はその場の即興で、トイレットペーパーを全部引き出して体にぐるぐる巻きに巻きつけた男が、どういうわけか、ペーパーの巻き芯《しん》のボール紙の筒をのぞいているポーズを撮らせた。
本人はこのカットがよっぽど気に入ったらしく、いつまでも面白がって笑っていた。
高田はあんまり乗らなかったが、写真が出来上って見ると何ともこれが可笑しく、編集部中の人間が大笑いした。
「このカットがなかったら、この企画はボツになってたかも知れないな」
と大笑いしたあとで編集長は眼尻《めじり》をおさえながらそう言っていた。
CMフィルムが終ると中央ステージに青山を中心として並んだ三人の司会者が写った。
「皆さん今日は。御機嫌いかがですか。『昼のひととき』です」
とまず青山が挨拶をする。すぐ男性のアシスタントが、
「さて水曜日は毎週ご家庭の奥様方を、盛大なパーティへお誘いして、御一緒にこの楽しさを満喫していただこうというわけでございまして、今日もこの会場準備万端整ったところでございます。さて今日はどんなパーティへ皆様をおつれ出来るでしょうか」
とそこまで言って女性アシスタントをうながす。
「今日はなんとこの番組の司会者をしております青山さんが今度『シャレディ』という雑誌のようなもの、この、|ようなもの《ヽヽヽヽヽ》のところが肝心なんですが、これをお出しになりましたので、その出版記念パーティというわけでございまして、どんなことに相成りましょうか。それはまあ見てのお楽しみでございます。このところ『お前と呼んで』で大人気の南湘子さんが早速お祝いにかけつけて下さいました。それではまずはなやかな唄《うた》からパーティを進めて参りましょう。南さんどうぞ」
左奥のバンドの前に飾られたセットに、短いスカートの若手の女性歌手がマイクを持って立っていた。軽やかなテンポの明るいイントロに乗せて、
「シャレディ社のスタートを心よりお喜び申し上げます。また『シャレディ』が洒落《しやれ》でなく、本当にベストセラーになりますように……」
と甘い声で言ってから唄いはじめた。
高田が若いのに気のきいたことを言う娘《こ》だなあと感心しながらながめていると、グラスを二つ持った佐賀千枝子がおどけた足どりで近づいてきて、だまって高田の前に水割りを突き出してきた。
「洒落たことを言うねあの娘」
と言って高田がコップを口に運ぶと、
「あたしがそう言ってって頼んだの」
とチコは片眼をつぶって見せ、
「最初のあたしの挨拶どうだった。テレビに出るなんて初めてだからガタガタに上っちゃって、何読んでるか途中で判らなくなっちゃってさ、心配なの」
肩をすり寄せるようにして耳もとでそう言った。
「ちっともアガッてるようには見えなかったよ、立派なもんだ。さすが社長の貫禄だよ」
高田は歌手の唄に聴き惚《ほ》れているふりでチコに背中をむけた。
「何さ、ひとをおだて上げて面倒なことはみんなあたしに押しつけといて」
チコは高田の腕をぎゅうとつねるとパーティの人混みの中へまぎれ込んでいった。
本当のところ、高田はチコに逢《あ》うのは怖いのだ。気持が日を追ってチコに引っ張られて行くのがわかる。チコが高田の頭の中で勝手に日に日に大きくなって今ではもう抗しきれないほどになっている。高田も三十になる。今までにも好きだの惚れたのと親しく付き合った女性はいたが、今のチコへの気持にくらべたらみんな|ママゴト《ヽヽヽヽ》みたいなものだった。
実際、高田は、奥手と言おうか同棲《どうせい》はおろか女の部屋へ泊ったこともない。まして真面目に結婚してもいいなあなどと思った女はいなかった。チコとのことにしてもそうだ。もう親しくなって一年になるのに、未だにチコが高田のことをどう思ってくれているのかがつかめずにいる。好きだとか愛しているなどと言ったことはないし、これからも言えないだろう。それほど惚れていて手も握ったことがないのだ。愛だの恋だのと言う前に、冗談とイビリが先走り、すっかり馴《な》れ合って、互に男と女であることを忘れてしまっているようなところがあった。
照れ屋の高田はむしろそうなるように努めていたのかもしれない。不器用な男の常で、うまくチコを誘い出して気のきいたクラブへでも連れて行って、やさしい言葉をかけることなどはじめから出来ない性格だし、また、もしそんな機会があったとしても、きわどい冗談口をたたきあってしまいには怒らしてしまうのがオチだと自分でも判っている。それがまたいっそう腹立たしかった。
チコは近頃ますます明るくて賢い女のように高田には見える。姿もいいし、着ているもののセンスもいい。立居振舞い、人との応対がいちいち洗練されていて、どこへ行っても誰に逢ってもイケシャーシャーとしていて物おじしない。
高田はチコと一緒にいるとどうしても自分がドジで不粋な男に見られていやしないかと妙にかまえてしまうところがあり、チコの根っからの都会人らしい気負いのない自然さが心底憎らしいと感じることがある。
現に今もチコは水割りのグラスを片手に、高名な中年の作家と話をしているが、その腕に手を廻し、何事かかわるがわる耳もとへ口を寄せて囁《ささや》き合っては面白そうに笑っている。
こんなところを見ると自然に怒りが湧《わ》いてきて不愉快な気分になるが、嫉妬《しつと》と判っていながらそれが不思議だった。こんな気持はもう自分の中にはないものだと思っていただけにやり場がなかった。
何度も諦《あきら》めようと努力したこともある。チコの髪の毛の色は赤茶けていて決して美しいとは言えない、八重歯が眼障《めざわ》りだ、胸なんか貧弱と言うより無いじゃないか、少し猫背だ、つま先をひろげて歩く癖は何とかならないのか、などと、欠点を探したてて見るが、いつかそれがみんないとしさに変ったりするのがやり切れないのだ。
ファンファーレが高らかに鳴って、場内が一瞬暗くなると中央ステージにスポットライトが当り、白のタキシードの見馴れた顔のコメディアンが現れた。短く祝いの言葉をのべて祝電の紹介をはじめた。いくつか本ものの電文を読み上げると、あとは世界各国の名士からのメッセージを、デタラメの外国語で読みはじめた。これは又いつもながら堂に入ったもので、場内大笑いで拍手|喝采《かつさい》が続き、そのままCMフィルムになった。パーティ会場には笑いの余韻がいつまでも残っていた。高田はあのタレントを見ているうちに、この春伊豆へ青山やチコたちと一緒に取材ロケに行った時のことを思い出した。ロケ先で彼に逢ったのだ。
高田が担当していた巻頭グラビア「青山幸二のシャレディ」は「ロマン」の人気頁になっていたので、予算も多く取れ少しは贅沢《ぜいたく》な仕事が出来るようになっていた。「そのうちに豪勢にロケーションにでも出かけて見ようか」などと言っているところへ、チコが知りあいのホテルとタイアップの話をまとめてきた。
早速高田は、青山とチコ、レギュラーでモデルをやってくれている堺君、それに今度は二十歳《はたち》くらいの可愛《かわ》い娘《こ》ちゃんのモデル二人を加え、カメラの石塚とその助手総勢八人で、南伊豆へ行くスケジュールをたてた。
半分は遊びみたいなもので、ピクニックかドライブにでも行く気分、出発の時からみんなうかれていて、目的のホテルにつくとすぐに風呂に飛びこみ、上れば早速宴会というはしゃぎようだった。
その席でいままで連載してきた「青山幸二のシャレディ」だけを集めたスクラップブックを見ていたチコが、突然、
「ねえ、これとっても面白いけど、このままにしとくのもったいないじゃない。もう少し続けて分量がまとまったら『シャレディ』だけの特集号なんての別に出さない」
といい出した。高田もそれは面白い考えだと思った。
「そうね、でも一冊特集号となると、相当の頁数がほしいからな、この調子でいったらまだ十年くらいはかかっちゃうぜ。チコなんか|ババア《ヽヽヽ》になっちゃうよ」
石塚がそういって笑った。
「それじゃ、その特集号むけに別にバーッと面白いやつをオリジナルで撮りゃいいじゃねえか」
青山も話に加わってきた。
「それならいけますね。そうなればグラビアだけじゃなく、パロディタッチの記事なんかも入れて」
高田もいけそうな気がしてくる。
「そうだなあ、そういう冗談ぽいこと好きな人多いからね、漫画家とかジャズやってる連中なんて喜んでモデルになってくれるんじゃねえかなあ」
石塚は商売柄そんな連中とも付き合いが多いらしい。
「そうだなあ、忘年会でもないのに、乗るとすぐに素っ裸になって尻《けつ》へローソク立ててはって歩くなんてこと平気でやるやつはいっぱいいるからな。そうそう、可笑しいこと考えたぞ。わりと売れてておかしい奴《やつ》をいっぱい集めて、顔と|モノ《ヽヽ》と別々に撮っといて、上下にずらーっとランダムに並べて、よく試験問題であるじゃない、関係のあるものを線で結べっての、あれで全問正解の方トルコへ御招待なんてのだめかなあ」
青山はもう少し酔ってるみたいだ。
「|ヘソ《ヽヽ》なら出来ますよ。もっとも|ヘソ《ヽヽ》や足の裏じゃつまんねえかな、アッハッハ……」
さんざ笑ったあとで石塚がまた馬鹿な提案をした。
「別冊ロマン、シャレディ特集号、なんていいなあ、なんかうけそうじゃない。編集会議に出してみたら、ねえ、高田ちゃん」
チコはすっかりその気になってる。
「そいでさあ、もしかしてこれが当っちゃってさあ、増刷増刷で本誌の『ロマン』より売れたりして。えっへっへ……」
「そうなったら季刊で年四本頑張るか、いそがしくなるなあ」
石塚もついつられてか真顔で相槌《あいづち》を打つ。
「そうなったら当然高田ちゃんは別冊の編集長ね。あたしお嫁にもらってえ。編集長夫人なんてかっこいいもんねえ」
チコは高田の腕にぶらさがってゆすりたてる。
「そしたらお前別冊だけ分離独立して別会社にして社長になれ。チコ一挙に社長夫人ってのはもっとかっこいいぞ。どうです社長まあ一杯いきましょうか」
青山は高田の持っているグラスにビールを注いだ。
「冗談じゃありませんよ。この世界はそんなに甘くありませんよ」
高田は半分は照れでクールにはずして見せ、
「それより青山さん自分でやったらどうです出版社起して……」
と青山に切り返した。
「うーん、そうだなあ、それも、面白そうだなあ。株式会社シャレディ社か。シャレディなんていうパロディ専門の馬鹿雑誌いいなあ。これいいなあ。内閣が変ろうと、地震が来ようと、真面目な内容は一つものせないの。もっぱら洒落と冗談だけ。たまに記事があっても人を馬鹿にしたような大|デタラメ《ヽヽヽヽ》の嘘《うそ》っぱちばっかりなのな。いいなあ面白いなあ。今の若い奴ら冗談好きだから売れるかもしれないよ」
青山が変に悪乗りしてきた。
「でもそんな|デタラメ《ヽヽヽヽ》な雑誌で広告とれるかなあ」
高田はわざと意地悪く水をさす。
「けちなこと言うなあお前、広告なんか取んなくたってやってけるだけ部数を伸ばすよ、部数を」
青山は今度は自分でグラスにウイスキーを注いで水割りを作り出した。
「そうだなあ、とりあえずは季刊誌ってことにして、二万部くらいからはじめてさ、五万いくようになったら月刊にして二十万部……と。そうだおい、お前んとこの『ロマン』何万くらい出てるの」
何だか青山はもうすっかり出版社のオーナーのような口ぶりになってきた。
「うちはそんなに出てないですよ。十五万くらいじゃないかなあ」
高田も実数はよく知らなかった。
「週刊に踏み切って二十万部なんて出たらすごいな。六本木あたりに新社屋を建てて、アメリカの『マッド』って雑誌あるだろ、あすこみたいにマスコットのネオンをかかげて、そう、うちのマークはこれにしたぞ。どうだいいだろう」
そう言うと青山は、握ったゲンコツを皆の前に突き出して見せた。見るとひとさし指と中指の間に親指の先をのぞかせていた。それを見て石塚が笑いころげた。
「そうなったら高田ちゃん、お前もう『ロマン』なんかやめろ。やめてウチへ来い。役員待遇の編集長にしてやるぞ。チコは営業担当常務、石塚君、あんたウチの専属で顧問、仕事なんかしなくてもメシ喰えるぞ」
酒の上とはいえそれからもどんどん話はふくれ上って遂には、五十フィート級の大型のクルーザーを会社の厚生費で買って、シャレディ二世号と名づけ、どういうわけか二世号なのがおかしいが、これに皆で乗って国際レースに参加する、というところまでいってしまった。
頭の上のモニターテレビには、今全国に送られているものと全く同じ画面が写っている。
パーティ会場の中のテーブルの一つで、先ほどチコと話していた高名な作家が、アシスタントの司会者のインタビューをうけている。
「なかなか面白くは出来てるわな。全体を通じてたしかにパロディ精神は貫かれているが、はたしてこんなもの買う奴ぁいるのかね。まあ三号まで持ちゃ立派なもんだが、それまでにつぶれちゃうんじゃないの、ハッハッハッ……」
普段あまり笑ったことがないといわれているこの作家、今日は馬鹿に上機嫌で笑っている。高田は今はもうある意味では自分の生涯をこの「シャレディ」の成否にかけている。前からこの作家には好意を持っていたのだが、今こんな言い方をされるのには腹が立った。
うしろから背中を突つかれて振りむくと、写真家の石塚がビールのグラスを片手に笑いながら耳もとへ口を寄せてきて、
「なかなか盛大なもんじゃないの。瓢箪《ひようたん》から駒とはこのことかね。冗談がそのまま本当になって、しかも全国ネットのテレビで出版記念会を放送しちゃうってんだから、お前らの図々しさには驚いたな」
といった。
「出だしはやたらに華々しいけど、これからどうなるかね」
高田も先々が不安だった。
「しかし驚いたね。見本見たら本当にお前が編集長になってるんだもんな。びっくりしたよ」
石塚はあの時一緒に居合せただけに驚いているのだろう。
「洒落だよ、洒落」
高田も本当に半分は洒落だった。
「そりゃいいけどさ、『ロマン』の方はどうなってんの、解決つくあてはあるのかね」
高田にもそれが全くわからなくて、今どうしていいか身の置きどころに窮しているのが実状なのだ。
去年の暮に始まったストライキがもとで、労使が激突し、相方全く相ゆずらず、訴訟事件にまで発展して争議は泥沼状態、いつ解決が見られるか全く予想がたたない有様で、「ロマン」は実は大変なことになっていたのだ。最初のうちは急|先鋒《せんぽう》で威勢よく赤旗振っていた奴がいつの間にか会社側へ寝返って、率先第二組合のリーダーとなって高田たちの属している第一組合側の突き崩しに動き廻った。会社にまるめ込まれた連中と、他の部署から入った応援とで何とか毎月穴をあけずに雑誌は出しているが、今まで一所懸命やってきた高田たちにして見ればあぶなっかしくて見ていられない。最後まで頑張った編集長の橋口幹夫とサブの日下秀明、それに高田と若手の坂田は事実上会社からはほうり出された形のままで闘争を続けるより仕様がない立場に立たされていた。
「ロマン」を出している創話社というのは、もともとは先代ワンマン社長の独裁運営で、童話や絵本を扱って細々と続いてきた小さな出版社だったのだが、昭和三十七、八年の超好景気時代に出したハウツウものが次々に馬鹿当りして急速に伸びた会社だった。役員はすべて先代の縁者で占められた同族会社で、言わば素人の集り、労務対策など無きに等しく、会社にたてつく組合員は全員|馘《くび》だなどと平気で発言する社長もどうかと思うが、組合員の方も争議だの訴訟だのははじめてのこと、双方の不馴れが不信感を生み、高ぶった感情が収拾のつかない混乱を助長する。
会社側の一方的な不当解雇がもとではじまった争議だったが、暴力団が介入した突然のロックアウトで、入り口でもめた編集長と新人の女子が怪我をしてから、急速に深刻化してしまった。
支援してくれる革新団体や、出版関係の他の労働組合からのカンパもあったが、そればかりに頼ってもいられない。失業したわけじゃないから保険も下りない。裁判のかたがつくまで高田達は全く中途半ぱで収入のあてもなくなってしまった。仕方なく組合員はそれぞれが各自に知りあいをたよって、他社の原稿を書かしてもらったりしてのアルバイトで組合へ金を入れ、改めてそこから配分してもらうという実に情けないやり方で当座をしのいでいた。
面白いのは坂田の立場で、元来坂田は社員ではないので組合に付き合って苦労することはない筈《はず》なのに、勝手に闘争の仲間入りをして自分で稼いだ金を組合に入れている。
もっとも実家が裕福で喰う心配がないこともあるのだろうが、方々へ変に顔がひろくてアルバイト探しの時には一番頼りになったりする。
またファンファーレが鳴って、ステージには若手の人気漫才師がかけ出してきた。のっけから近頃の出版物をタネにした漫才がはじまった。すごいスピードでギャグがポンポン飛び出し、会場は笑いのうず。チコは中央に近いメインのテーブルで例の作家先生と一緒だが、面白そうにステージを見つめている。
「青山さんが今度この雑誌を出した本当の理由、知ってるか」
「そら自分のものやったらどんな記事でも載せられるからやろ」
「そら違うわ。あの人今までに雑誌の表紙に載ったことないねん。いっぺん表紙に載りたいなあと前から思うてたんやて」
「ほな表紙に載りたいためだけに雑誌出したんか」
「そやねん。そやさかい表紙に出たらそれでもうええねんやから、中味は何でもよろしい。本当は表紙だけの方がよーけ売れるんと違うか」
「やめとけ、おこられるで、しまいには」
「だいたいシャレディってな名前がおかしいわ」
「何でや、パロディとシャレをたして二で割ったらシャレディやないけ」
「それが可笑しいわ。パロディとシャレやったら、パロレが本当やぞ」
「パロレか」
「おお、パロレやなかったらパシャレやな」
「何やお菓子か石鹸みたようやないけ、やめとけ」
漫才が終るとCMフィルムが流れ、画面には偶然にも菓子のアップがうつっていた。
伊豆のロケ先での冗談話が一挙に現実的なものになったのはこの十一月だった。争議になって高田たち第一組合のメンバーが「ロマン」を追われてからは、当然グラビア企画の「青山幸二のシャレディ」は打ち切りになり、代って陳腐なヌードが紙面をかざっていた。その後「ロマン」の争議の内容を知った青山は、高田たちに同情して、ポケットマネーをはたいては、時々一同を中華料理屋などに招いて激励したりしていた。
そんなある日、またまた酒の上の冗談から、同情のカンパなんて意味ねえことはやめにしたい、いっそのこと皆で新しい出版社を作って、「ロマン」を見返してやろうじゃねえか、二百や三百の金なら俺が出すと、勢いに乗った青山が言い出した。寄るとさわると口ばかり、「最後の勝利は我にあり」とか、「断乎《だんこ》闘争」「徹底抗戦あるのみ」などと、カラ元気でこぶし振り上げてはいたが、内心はびくびくもので先行きの不安に肩寄せあい、大声あげて胡魔化《ごまか》してきていた一同は、ひさしぶりの景気のいい話にたちまち期待と希望にふくれ上らせてしまった。
結局は青山がシャレディ社という会社を新たに作り、雑誌の体裁でタイトルは「シャレディ」、これをまず作ってみることになった。うまく行けば、季刊にして年四回、行く行くは月刊誌にする気がまえでやって行こうと話はきまった。「ロマン」にまだ籍のある高田たちは、組合ぐるみで、シャレディ社から「シャレディ」製作を請け負い、その金は勿論組合へ入れるわけだ。「シャレディ」が順調に発展して行けば、改めて「ロマン」と訣別《けつべつ》して今度は正式にシャレディ社へ社員として入ることにする。何とも都合のいい話だ。
こうしてシャレディ社はスタートした。
青山はやると決ると動くのは早かった。すぐに自分の住んでいるマンションの中に、別に二DKの部屋を借り、電話をつけて事務所にした。そこに、出入りの会計士を呼んで会社設立の手続きをやらせ、かたわら、八方へ手をまわして書籍取次店と取引が出来るようにアプローチをはじめた。銀行にシャレディ名義の口座が開かれ、社印が作られ、社名入りの封筒や、各人の名刺まで整った。
一同新たな夢に胸をふくらましてこの事務所に集って、本作りに没頭しはじめた。
パーティ会場では、女性の司会者が、取次店の代表者にインタビューをはじめた。西販、月販、柿田書店のそれぞれ、営業とか広報担当者がパーティ会場に招かれていた。
「え、私どももこういう出版社とお取引きいただくのははじめての経験でして、どういうことに相成りますかその……本当のところ、実は戸惑っておりまして、え、商品自体は大変面白いと思いますが、はたしてどういう客層にうけるのかそれもちょっと予想がつきませんので、ええッ、部数ですか、さあそれもどこまで伸びますものか……ちょっとその……」
要するに誰もはっきりしたことは言わなかった。なにしろテレビで出版記念パーティをやるなんてことも前例のないことだし、俳優がいきなり出版社を作って、取次店を通して堂々と正規のルートで一万部以上の部数をさばこうとするのもはじめてのことだ。テレビの効果が書籍の売り上げにどの程度影響するのかなんて誰にもわかりゃしないから、その意味では誰の発言も的を射たことになっているのかも知れないと高田も思った。
そのあとで書店の店主という人が出たが、これが印象に残る発言をしていた。
「あたしらにはよくわかりませんがねえ、何でもいろんなもんが、いろんなやり方で出てくる方が面白いんじゃないですか。今の若い人たちは本を読まなくなっちまってるし、あたしゃこれからは、この『シャレディ』みたいなわけのわかんないような本がどんどん出てくるんじゃないかと思いますね」
まあテレビ局のディレクターが前もって仕組んでおいた|やらせ《ヽヽヽ》かも知れないが、高田は何か先駆者めいた誇りみたいなものにくすぐられるような気がした。
女性司会者は、「シャレディ」が山積みしてあるコーナーに移って、その一冊を取り上げ「それではいよいよ、この『シャレディ』の御紹介をさせていただきますが、勿論一頁ごとにいちいち説明してしまいますと、テレビを御覧の皆様が、もうすっかり読んだような気になってしまって、お買い上げ下さらなくなるといけませんから、ちょっとだけ気を持たせるようにお見せしましょう。本当は当人の青山さんが説明すれば一番よろしいんですが、本人照れておりますので私がやらせていただきます。まずこれが表紙でございます。ヌード美人にかこまれて馬鹿な顔をしておりますのが御本人で、さっきも漫才の方がおっしゃってましたが、本人はこれがやりたかったんだろうと私も思います。どうですこの鼻の下を伸ばしたデレッとした顔つきは、『シャレディ』壮観号としてありますが、これが|ミソ《ヽヽ》だそうで、|ソウカン《ヽヽヽヽ》は刊行する方ではなくてすばらしい景色の方の|ソウカン《ヽヽヽヽ》でございまして、こうしておけば一号だけで|ぽしゃっ《ヽヽヽヽ》てもみっともなくないだろうと、これも御本人の言でございます」
「シャレディ」の事務所に集った高田たちは、まず各々の立場を確認し合うことからはじめた。
今までのいきさつから高田が編集長に推され、橋口がサブに廻って「ロマン」の時とは立場が逆になった。日下は営業と経理で、坂田が渉外、青山のマネージャーのチコが社長ということに決った。
チコを社長に据えたのもいかにも青山らしい発想で「ワイセツ図書出版なんてことで俺が当局に逮捕されたりすると人気商売だけに具合がわるいからな。身替りを社長にしておいて、そいつに責任もってもらうことにしよう。誰か社長になれ」と無茶なことを言い出した。一瞬全員ひるんで押し黙り、互に顔色うかがいあった。その時チコが「いいよ、あたしなってあげる。一回嘘でもいいから社長ってのやってみたかったし、ワイセツ容疑なんて名誉なことだよ。どこへでも出てってやるわ。第一裁判|沙汰《ざた》になるくらいのことはじめから覚悟してなきゃ、出版社なんてやってかれないよ」と威勢のいいことを言いだしてそのまま異議なくきまってしまった。
まずどんなサイズで、どんな体裁の本にするか、紙質はどうする、からはじめて会議はえんえんと続いた。自分たちだけで自由に考えて一冊作れるということで、各自普段から腹におさめていたことを一斉にしゃべりまくるのできりがない、それでも不愉快な話しあいではなかった。こんな日が二日も三日も続いた。はてしもない小田原|評定《ひようじよう》のようなやりとりの中から、次々に新しいアイデアも生れ、全員一致でうれしがるような決定事項もいくつも出た。
「目次ですけどねえ、ただ見出しと頁数を機械的に点線で結んであるのなんてつまんないから、|アミダ《ヽヽヽ》にしようと思うんですけど、どうでしょうか」
坂田が便箋《びんせん》にとびとびに横線を入れたものをひらひらさせながらみんなの顔を窺《うかが》う。
「うんそりゃいいよ。面白いけど読者は面倒《めんど》くせえだろうなあ」
橋口はアミダの線をたどる手つきをしている。
「いいよいいよ。読者にそのくらいの労力を強いるものがあってもいいよ。それも面白ければサービスよ」
チコが馬鹿に気に入って、これは即座に決定した。
「見返しね、表紙の裏のところだけどね、あれへ|こよみ《ヽヽヽ》を入れとくのどうかね」
とこれは橋口が言い出した。
「手帖じゃないんですから、カレンダーってのはそりゃつまんないなあ。もっともほかのより日曜が多いとかいうんならいいけど」
坂田が不満そうだ。
「いやカレンダーじゃないんだよ、暦だよ、僕が言ってるのは。友引とか赤口とか大安とかってのあるだろう。あれをそのまま書くのもつまんないから、禁慾とか催淫《さいいん》、腎虚《じんきよ》、萎茎《いけい》なんてのを、もっともらしく書きこんであるやつなんだがだめかなあ」
「そりゃいいかも知れないな。でも見返しだけじゃやっぱりだめですよ。何とか易断とか何とか神宮なんてところで毎年出してるのあるでしょう。あれと全く同じ作りで、分量もあれと同じくらいあって全部パロディで出来てて、ほかのもの一切入ってないってのやったらすごいなあ、はじめて見る人が、よーくこんなの出来たもんだなんて驚くようなの、いいなあ」
青山はまた別なことを考えているようだ。
「別冊のアイデアばっかり出してもだめよ。見返しはやっぱりおとなしく広告でかざりますか日下さん」
チコは社長に決ってから急に現実的になっている。となりの日下の同意を求めた。日下はあいまいに笑っている。つまりは広告を付き合ってくれるスポンサーがいるかどうかをシビアに考えているのだろうと高田は思った。
「そんなミミッチイのはやめろよ。もっと格調高くいこう、格調高く。そこは四十八手の細密画でいこう」
またまた青山が、突拍子《とつぴようし》もないことを言い出した。
「それいいや、ちょっと見ると品のいい小紋の柄みたいでよく見るといろんな体位になってるってんでしょう」
坂田はこのアイデアが気に入ったようだ。長い髪をかき上げてその手でちょっと眼鏡のふちを押さえて大きな口で笑っている。
「どうも君の好みは片寄っているようですね。温泉場のお土産《みやげ》のネクタイじゃないんだから、様々なラーゲというのはどうも」
橋口ははげ上った額を鉛筆のしりでたたきながら、それでなくてもふっくらした頬《ほお》をふくらましている。
「温泉場のネクタイっての気に入ったねえ。冗談ぽいし、|インチキ《ヽヽヽヽ》臭いところがたまんないなあ。これいきましょうよ、いきましょうよ」
青山がやたらにうれしがって、これも採用になった。
時を追い日を追うに従って内容はだんだんかたまってきて、真白な見本が出来上って来る頃には、各自の頭の中に本の出来上りのイメージも定着し、それぞれ張り合いが生れたのか眼つきも違ってきたように感じられて高田は毎日がうれしかった。
スタジオでは女性司会者の「シャレディ」壮観号の紹介が続いている。
「普通の雑誌ですとはじめに、ピラピラと折りたたんだ横長の目次が現れまして、とりあえずは内容紹介となるわけですが、これはちょっと違っておりまして、最初に現れますのはこれこの通り、手漉《てす》きの和紙で保護されました、奈良時代あたりのものと思われます古色|蒼然《そうぜん》たるポルノ絵巻でありまして、題して青山家三十三代、『権兵衛幸実性生活之図』、つまり青山さんの遠き御先祖様のありし日の寝室《ねや》の有様がつまびらかにされているわけでありますが、これがまた青山さんの御先祖ですから普通じゃないんですね、ぶらんこに乗ったり、竹馬に乗ったり、滑車を使ったり、まあここでの御紹介はこのくらいにして、あとはお買い上げの上とくと御覧戴きたいと思います。
あとは青山さん御自身がお撮りになりましたヌード写真集ですが、たしかに女性が裸で映っておりますが、馬鹿馬鹿しいことにすべて銭湯でのロケでありまして、これなら女が裸でいてもちっとも不自然ではありませんが、他にも場所があるだろうに、なぜわざわざ銭湯で撮ったのか、このへんが我々普通人には理解し難いところであります。一応きれいに映っておりますが、そのキャプションが面白いのでちょっと読んで見ますが、タイトルがいさましい。『嗚呼《ああ》!! 銭湯的|裸婦《ヌード》』となっておりまして、『美麗的銭湯可愛的純日本的平均的娘子三人既成的有名写真家驚愕的卒倒失神的総天然色的必見的写影』と何だかよくわからないことが大オーバーに書いてあります。どうなってるんでしょうねえ、もう」
ヌード写真についても高田は随分と苦労をした。青山がどうしても自分で撮るといいだしたのだ。
「普通のヌードじゃつまんないよな。今まであんまり見たことないのでいきたいね。どうだろうねえ、うんと肥《ふと》ってる娘ばっかりっての」
「そりゃ肥ってる娘探せっていえば見つけてはきますけど、ヌードになってくれるかどうか。肥ってるのが自慢で、撮ってもらいたいなんて女がいますかね」
坂田にも出来ない相談ってものはある。
「じゃやせてるの、うんとやせて、胸なんかぺったんこで、もうほとんどないというような娘のヌードはどうだ」
一同は相手にしていられないといった感じでだまっていた。チコが髪をかき上げる動作をしたので、高田がちらとチコを振りかえると、
「何よ、何であたしのこと見るのよ。皆であたしのこと馬鹿にしてんだな」
チコがそう言ってほっぺたをふくらました。
「そうだ、いよいよとなったらお前でガマンする。チコお前覚悟しろ。ぬげ」
また青山が無茶苦茶なことを言っていびる。
「じゃ場所とか、背景で新鮮味を出すってのはどうです。今まであんまりみんながやってないところ」
坂田が新たな提案をしてチコを救った。
「例えば、機関車とヌードとか、鉄工場でロケとか」
「うーん、面白くねーなあ。本因坊戦みたいな格式ばったところで裸の女が対局してるってのはどうだい」
青山もねばる。
「スケートリンクを夜中に借りられねえかなあ。ヌードのフィギュアスケートってのいいんだけどなあ。俺一回見たいと思ってるんだけど、スケートやる娘《こ》で裸になってくれるなんてのいるわけはないわなあ。こりゃだめか」
今度は自分で言いだして、自分で駄目をだしている。
「真昼間の遊園地なんてのもいいなあ。メリーゴーラウンドに子供がいっぱい乗ってて、見ると中にヌードの女が平気な顔して白馬に乗ってるなんてのいいけどなあ」
「そりゃロケが大変だよ。人が集っちゃって、ふと見るとまわりに乗ってるのがみんな大人だったりして。ヘッヘッヘ……」
日下も冗談にしている。
「ローラーコースターもいいなあ。どうせなら百人くらいヌードの娘《こ》集めて、ガーッと降ってきてキャーなんて言ってるのがみんなヌードなんての撮りてえなあ」
青山はまだヌードにこだわっている。
「チビッたりする娘がいたら可哀そうですね。そりゃ、じかにシートにもらしちゃったらかくしようがないもんね。ヘッヘッヘ……」
坂田もこんな話が大好きで二人でやりとりさせていたらきりがないと高田はなかばあきれていた。新しい背景の話がそれからしばらくは続いたが、どうもこれも誰かがすでにやっているように思えたし、あまり飛んでるアイデアは実行不可能だ。とうとう、チコがしびれを切らして、
「不自然な所に裸が居るっていう設定ばかり考えてるから行きづまるのよ。もっと気楽にごく自然に裸が似合う所考えて見れば……。例えばお風呂屋さんとかさ」
といったとたんに青山が前に乗り出して、
「いいね、それいいね。銭湯ならどこにでもあるし、昼間なら借りられるよ。なるべくあのバックに馬鹿馬鹿しい絵が描いてあるうちがいいなあ。富士山があって松があってさ、帆かけ舟が二隻くらい手前にあるやつ。な、これできまりといこう」
こんな風にしてやっと場所がきまったのが銭湯的ヌードだった。
それにしてもあのヌードモデル探しの一件にしても坂田の要領のよさに高田はあきれさせられた。
「そりゃ仕事のだんどりと、脱ぎっぷりはいいかも知れないけど、どうも商売人《くろうと》ってのは新鮮さが出ないんですよね。ちょっとくらい手間くっても、素人《しろうと》の娘で、いかにもういういしいって感じの出せるモデルがいいんですよね。ちょっと金がかかるかも知れませんけど、僕こころあたりがありますから」
などとわけ知り顔で高田から取材費を持っていって、撮影当日、現場の風呂屋へ、二十二、三の陰気な女を連れて来た。
ほかにプロの娘《こ》もいたので撮影は済ましたが、その娘は坂田が言うほど新鮮でもういういしくもなかった。あとできいてみると坂田の行きつけのバーの女で、かねてから一回ヌード写真を撮ってもらいたいといっていたとかで、その娘に支払う金と高田から持っていったくどき料でそのバーの勘定をすませ、いまでもそこの常連で大きな顔して呑んでいるということだ。近頃ではあのことが縁でもっと深い間柄になっているともきいた。
裏表紙、つまりは表紙の反対側をどうするかというときも坂田は大いに活躍した。
「そりゃやっぱりヌードでいきましょうよ」
坂田は何かというとヌードだ。
「裏表紙ってのも普通広告を入れてるけどね」
日下はどうしても営業面のことを最優先に考えるようだ。
「客が手に取った時に何となく買いたくなるようないいヌードがありゃ別だけど」
もう時間の余裕もないし、有りもので間にあえばそれに越したことはないと高田も少しあせっていたことも事実だ。
「いいのあるんです。あてがなきゃこんなこといい出しませんよ。この間女優のほら、夏海涼子《なつうみりようこ》のところへ取材に行った時見せてもらったんですけどね、いいのがあったんですよ。どっか雑誌社で買ってくれるとこないかしらなんていってましたんでね、使う使わないは別にして貸して下さいって、借りて来ちゃったんですよ。まあ見て下さい」
そういいながら坂田は、いつものショルダーバッグから茶封筒を出すと、宝ものでもあつかうように、トレーシングペーパーで丁寧に包まれた六・六のフレーム付きのポジフィルムを指先につまんで、得意そうに皆の前にヒラつかせた。
「借りものですからね、ツバなんか飛ばさないで下さいよ」
といって高田にわたした。ポジは三カットあって天井の螢光灯にすかして見ると、海辺の磯をバックに大胆なポーズをとったきれいなヌードだった。
「どれどれ、早く見せて、見せて」
チコがせわしなく腕を引っぱる。みんな「うーん悪くないね」とか「いいじゃねーか」などといいながら次々にすかして見ては隣りへ廻す。
「ねーっ、どうです」
坂田は胸をそらして一同を見まわした。
「いいよこれ、使わしてくれるんならこれでいきたいな。やっぱりこの正面むいてるのが一番いいけどこれ困ったね。どうだろう」
青山は早くも乗り気になったようだ。
「そうだな、変に横むいたり、手でおさえたりしてるのやだよな。使うんなら俺も正面のがいいと思うけど、あまりといえばモロだもんな」
日下は首をひねっている。高田も同感だった。
「こっちで率先して黒丸で塗りつぶすなんてのやりたくないしね」
「じゃどうかね。真赤っかのハートちゃんか何かバチーッとつけちゃうの」
両手の親指とひとさし指でハートの型を作って自分の前へポーンと当てチコがそういった。
「だめですよそりゃ、この写真のムードがぶちこわしになっちゃうよ」
坂田はちょっとふくれている。
「あのねーっ、そこへ切手みたいなものを貼《は》りつけちゃうってのはどうかね」
突然青山が妙な提案をした。
「一冊一冊に貼るの、大変な手間だよそりゃ」
日下が親指の腹をなめて切手を貼るような手つきをして見せる。
「手間はどうでもいいけど、ただ可笑しいんじゃねえかと思ってさ。なっ、ハッハッハ……なかには一所懸命|剥《は》がそうとする奴やなんかいてさ」
青山も爪の先でひっかく真似をしている。
「面白い面白い。そいでさ、剥がしても別になんにもないんでしょう」
チコが体をゆすり立てて面白がっている。
「そうな、やっぱりヘアーがバッチリなんてのはまずいだろうなあ。何も貼んないよりもまずいだろうなあ。故意に劣情を催せしむる手段であるってなこと当局は言うかも」
日下は発売禁止が気にかかるのだろう。
「じゃあさあ、その切手みたいの剥がすと、そこは黒で四角くつぶしてあってさ、そこに『ミカンの汁でこすると見えることもあります』なんて書いてあるのはどうだい。実はどうやっても何も見えないんだけど。ハッハッハ……」
青山は自分で言って今度は大笑いをしている。
「あたしいいこと考えた。そこに収入印紙みたいなお役所風の証紙が貼ってあってさ、そこに『みだりに剥がすと罰せられることもあります』なんて書いてあるのね。ヒッヒッヒ……」
これまた自分で喜んでいる。
「そう、それいい、それいいなあ。小さく警視庁なんて書いてあんだろ。いいなあ、ハッハッハ……」
青山がそこまで言った時、また大笑いになった。結局このアイデアは満場一致で採用されたが、日下の提案で警視庁のところを警親庁とすることに決った。
「これに決ったのはいいんですがね、最初に決めた製本料にこのことは入ってませんからね。今の話だと製本料は少し金額の張った追加となりそうですね」
と坂田が上眼《うわめ》づかいに高田を見た。
「ああいいとも。あらためてロケすること考えたら大変だ。でも出来るだけ値切れよ」
と青山は上機嫌でいった。
高田はちょっと心配になった。坂田がまた何かたくらんでいるような気がして仕方がないのだ。
「やだなあ高田さん。またそんな眼で見ないで下さいよ。バッチリ値切ってきますから大丈夫ですよ」
無邪気な顔でにっこり笑って見つめられると高田はもう何も言う気になれなかった。
今となってはどうでもいいことだが、高田はそんな坂田が憎めない。平気ですぐ底の割れるような嘘をついても、誰からも深くうらまれたり、憎まれたりしない坂田が、ねたましくさえ見えた。何をやるにしても、丹念で、人一倍の労力を費し、骨身おしまずやるのだが、その割に出来上りが不細工で、人の評価はどうでもいいが、なかなか自分で納得のいく結果に結びつかず、自分の不器用さをもてあましている高田は、坂田や青山のような人間は理解し難かった。
現に坂田は「ロマン」の社員でもないのに争議の渦中に飛び込んで、高田たちと一緒に「シャレディ」作りを手伝っている。置かれている状況がどう変ろうと、変り身早く、何でもいち早く順応して、しかもエンジョイして何とか己れの生き方の一部に組み込んでいってしまうようで、矛盾や戸惑いを見せない。
高田は今こうして「シャレディ」の編集長をまかされていながら、どうしてもその椅子《いす》に落ちついていられない。「ロマン」の争議は何年続くかわからないし、苦労して闘い続けても勝つと決ったわけじゃない。たとえ勝ったとしても、「ロマン」の編集部へ戻って第二組合の連中と、いままでのいきさつ、さっと水に流して忘れたようなふりして付き合って行ける自信はない。
まわりの同僚の顔色うかがいながら、借りてきた猫よろしくびくびく会社へ通う屈辱には耐えられそうにない。橋口は、はっきりと、「俺たちは間違っていなかったと胸を張って会社へ帰りたい。帰ったら前の通りに堂々と仕事を続けたい」と常々口にしているし、信念みたいなものを持ってるから、もしうまく行かなくとも自ら傷つくことなく誇りだけは持ちつづけることが出来るだろう。日下は、もうはじめから「ロマン」へは帰らないと決めている。これまた背水の陣で立派なものだと感心する。
高田は本当は小説を書いていきたいと思っているが、この世界へなまじ足を突込んで、実状知っているだけに、ついつい二の足踏んで遮二無二《しやにむに》のめり込んでいけない。いつでも肝心な時にぐずぐず思い患《わずら》って、煮えきらないでいる自分を腹立たしく思っているがどうにもならない。
チコのことにしたって、はっきり気持をうちあけて、振られたら振られた時のこと、と男らしく決断すればいいとわかっていながらそれが出来ない。かといって振られることを恐れているかといえばそうでもない。親しく付き合ってきているだけに、もしそんな野暮なことを言い出して、チコに気がなかったらチコに迷惑がかかるんじゃないかなどと、要《い》りもせぬ心配を先に考えてしまう。
また、あっさり振られても「そうですか、それじゃ従来どおり気のおけない友達ということで末長くよろしく」などとは言えそうにないし、言ったところで、そのあとは頬《ほお》が引きつるほど意識して、冗談口のひとつもたたけず、顔を合せることすら出来ないだろう。ましてそのことがまわりに知れて、坂田や青山ら遠慮のない連中に肴《さかな》にされたらと思うともう、頭の中が熱くなってきて、その先へはとても思いが及ばない。
たまに同窓会へ出かけて、旧友たちにあえばすでにみなそれぞれに一家をなし、子供の一人や二人居るのは常識で、それなりに年齢重ねて風格を増しているように見える。高田はこの世界にいるせいかなるほど外見は一番若くは見えるが、その分軽薄に見られそうで気がひける。いまだに一人でいるのもいぶかられ、大事なものが何か一つ欠落しているようで不安で仕方がない。
女性司会者が一人で「シャレディ」の紹介を続けている所へ、剽軽《ひようきん》な感じの男性司会者が入ってきて、
「いやー、お話の途中で申しわけないんですが、実になんともけしからん記事が載っているもんですな。ここを見ましたか。これは一体何ですか。『俺のメカケだ全員集合』ってタイトルで、若い娘《こ》が十五、六人もうつってるんですよ。これどう思います」
「普段のあこがれがこういうところへ出るんじゃないですか。潜在的な願望がこれだとすると、青山さん現実にはいつも言うほどもててないってことですかね。その辺のところを本人をここへ呼んで釈明させましょう。青山さん、どこへ行きました青山さん」
ノーベル文学賞の候補者としてその名がとりざたされるほどの高名な作家が、仲間を集めて「日の丸の会」という団体を作っていた。
この「日の丸の会」のパロディ版で「赤丸の会」という架空の団体を作ってグラビアをにぎやかにしようと坂田が言い出し、若い女性ばかりを集めて、揃《そろ》いの柔道着を着せて、会長に扮《ふん》した青山が竹刀《しない》片手に会員を訓練している場面を何カットか撮った。うしろ向きに整列して尻を突きだした女たちに、大きな軍帽をあみだにかぶった青山が、カイゼルひげをつけて柔道着のはだけた衿《えり》もとに勲章をいくつも吊《つ》り下げ、黒の長靴をはき竹刀をふるって気合を入れているところとか、自転車に打ちまたがった青山が閲兵《えつぺい》しているカット、訓示をたれている様子など、出来上ったものは実にナンセンスな雰囲気に満ちたものでみんなにも評判がよかった。ところがこの写真が出来上って来た翌日に、その高名な作家が不可解な自殺をしてしまった。
こんないきさつがあって、「赤丸の会」はパロディとしての意味を失ってしまい、あれこれ考えたすえに結局、メカケ全員集合にタイトルを変えてしまった。そして、
「ここに整列しておるのは、他でもない全員|我輩《わがはい》の妾《めかけ》である。見よ見よこの壮観! 妾ちゅーもんは何人おってもエエもんや。それを何をか言わんや、近頃ウーマン・リブなどと馬鹿な女どもが、身のほどもわきまえず血迷ったこと言っておるのは片腹痛い。あまつさえこれを容認するが如きインポ的風潮が蔓延《まんえん》しておるのは笑止千万《しようしせんばん》、そもそも君子たるものは我輩がここに公開するが如く、蓄妾《ちくしよう》三千、夜毎これを感泣せしめてなおギンギンたらざるべからず」
とキャプションを付して載せたのだった。
あの作家の自殺は誰にとってもショックだった。多少とも文学をかじったことがある者ならなおさらで、その死の謎《なぞ》も、芥川龍之介、太宰治のそれよりも深いと感じた人は多かっただろうと高田もいぶかしく思った。
そのことがあってから、事務所でも仕事にならず、誰かが何かひと言いい出す度に全員何度も首をかしげている。夜になっても誰一人先に帰るものも出ず、自然と酒になった。
「よーし今夜は俺がおごろう。皆であの人の追悼会をやろう」
青山がそう言って、全員を近所の料亭へ連れて行った。かなりの出費になりそうだったが青山は意に介する風もなく、先に立って入っていった。青山は若い頃からその人に傾倒していて、すべての作品を読んでいるといっていた。面識はあったらしいが、そのことを自慢げに話す様子は見せなかったものの、相当大きな衝撃を受けたらしく、紙のように白い顔をこわばらせてうろたえている様子はかくしようもなかった。
テレビの画面には、パーティ会場の全景が映り、女性、男性の両司会者があちこちと青山を探して歩くのをスポットライトが追いかける。二人の動きにつれて会場のはなやいだ雰囲気をカメラがとらえて行く。出演のゲストたちがおもいおもいにテーブルをかこんで歓談してる中を、青山が逃げ廻る。二人の司会者が追う。それをまたバンドの演奏がもりたてる。ついに中央ステージのまん中で、二人にはさみ打ちにあった形で青山がとらえられてしまう。
「さあつかまえました。もう、どこへも逃がしはしませんよ。さあどうなんです、この『俺のメカケだ全員集合』の部分の真実を語ってもらいましょう。この娘たちはいったい何なんです」
男性司会者が本を片手につめよる。
「ここで青山さんを徹底的に吊るし上げて事の真相を明らかにしたいと思いますが、御賛同いただけましたら盛大な拍手をお願いいたします」
女性司会者が会場に同意を求めると一斉に拍手が起った。いよいよ窮地に追いこまれた感じの青山、観念した態《てい》で、
「わかりました。もうこうなったら逃げかくれはいたしません。今こそ真実を告白いたします」
とやけくそのように宣言する。バンドが明るいファンファーレを演奏し、ドラムロールがややあって、シーンと会場がしずまりかえった。青山はここでまた一つ勿体《もつたい》をつけて大きく息をすい込むと、
「ちょうどお時間が参りました。これにてこのパーティはおひらきにさせていただきます。なおこの先をお知りになりたい方は、ぜひ『シャレディ』をお買い上げ下さい。有難うございました」
といって深々と頭を下げた。そこでテーマが高らかに鳴りわたり、画面は会場のあちこちをスナップする感じのショットが続き、その上にタイトル、出演者の名前がスーパーでうつしだされ、てんやわんやのうちににぎやかに番組は終了した。
高田もチコも青山も番組が終ってからの方がいそがしかった。特に青山は、今日出演してくれた高名な作家や、取次店の人たちに丁重に礼を言うやら、今後のことを頼むやら大勢の人たちをエレベーターまで送って、何度も何度も頭を下げていた。
内々《うちうち》の人間たちが、デパートの特別食堂の一隅に顔をそろえて、やれやれとビールで乾盃《かんぱい》をしたのは、エンドテーマが流れてから三十分もたってからだった。
「とにかく番組は思ったよりうまくいったんじゃないですか、僕なんか一観客として客席にいて、会場とモニターをずうーっと見てましたけど、実に面白かったですよ」
坂田がまず口をひらいた。
「そう、やたら雰囲気はもり上ったし、なによりよかったのは、このパーティの趣旨がはっきりわかったこと、何となくあの本に気が残って、どんな本か見てみたいという興味と欲望を見た人に残したということだと思うわ」
チコも生れてはじめてのテレビ出演がすんでほっとしたのだろうか、もう赤い顔をして胸の前でハンケチをひらひらさせて風を送っている。
「そうかね、その興味と欲望が、本当に本を買うという行為と結びついてくれるといいんだけど、どうもテレビを見る人ってのは、本を買ったり、読んだりしない人のような気がするんだよな。テレビの視聴者層ってのは本も新聞も読まねえ連中なんじゃないかと俺は常々思ってるんだ。映画や雑誌のテレビCMってのは多いけど、純粋に書籍のコマーシャルってのはテレビではあんまり見たことねえもんな。出版社ってのは実はそのへんのことをよく知ってんじゃねえかなあ」
青山はなかなかさめた見方をしていると高田も思った。
「そうね。テレビ視聴者とスポーツ新聞の読者ってのはつながっているように思うけど、そう言えば書籍のCMってのあんまり見ませんね。だけどこの『シャレディ』にかぎって言えば、傾向からするとテレビをよく見る人たちにうけるような気がするけどな」
坂田は実に楽観的で、ものを自分たちに都合のいいように、いいように見ているような気がする。
「それだよ、だから受けるのと買ってくれるのとは違うってんだよ。とにかく一万部を売るってのは、蔵前国技館に一杯入った客が、全員一冊ずつ買うってことだから大変なことだぞ、お前」
日下は何よりも部数が伸びることを願っている。
「店頭での売れ方はどうなの」
青山が高田を真すぐ見つめてきいてきた。
「ええ、これが案外にいいんですよ。きのうから方々の書店歩いてますけどね、どうも書店の方も扱いに戸惑《とまど》ってる感じでしてね、雑誌の棚に並べているうちもあるし、レジのテーブルの横にドンと二十冊くらい積んでるところもあるし、出るのは出てます。新宿の一番大きい本屋で、昨日一日で四十冊はさばけてますから」
高田も取次店へ本が出てからそのことばかりが気になって、暇さえあれば本屋廻りをしている。
「ああそうそう、面白い話しましょうか」
坂田が急に前に乗り出すように、皆に気をもたせて話しだした。
「あの巻頭のポルノ絵巻ですがね、全部あぶないところは白丸か黒丸でつぶしてあったはずでしょ。ところが一カ所誰も気付かなかったんですが、ちゃんと|もの《ヽヽ》が出ちゃってるのがあるんですよ。もう大笑い」
と一人ではしゃいでいる。日下は、
「おいおい、笑ってる場合じゃないぞ。そんなことで不愉快な思いするのいやだからな。どこだいどこだい」
と早速「シャレディ」をひろげて見ている。
「ここですよここ、ほら」
一同|額《ひたい》を付き合せるように頭を寄せ合って一冊の「シャレディ」のそのぺージをのぞきこんだ。
見開きの一番大きなサイズの絵がのせてある場所だった。左側に位の高そうな烏帽子《えぼし》をつけた男が、裸で、これまた裸の髪の長い女の上に重なっている。その男の腹には太い赤い紐《ひも》が結んであり、その紐は天井の滑車を通して屏風《びようぶ》をへだてた隣りの部屋までとどいている。そこには太郎|冠者《かじや》といった感じの間の抜けた風貌《ふうぼう》の男が背をむけて、その紐を引いたりゆるめたりして、殿様の行為の手助けをしているという図である。交わっている男女のその部分はたしかに黒丸で完全につぶしてあり、どう見ても見落しはないように思える。ところが坂田が笑いながら指した所を見て一同驚いた。その紐を持っている太郎冠者然とした男の股間《こかん》のものは、正に足並の大きさで屹立《きつりつ》していたのである。
一同顔を見合せて笑い合った。足と同じ色であまりにもぶこつであったために、足と区別がつかなかったのに違いない。高田もびっくりしたが何とも可笑しくもまた悲しい絵であったものだと、今更のように絵そのものを見直してしまった。
「まあこれは問題にはならないだろうが、気がつかなかったね。しかしどうも改めて見てみると泣けてくるねこりゃ、ヘッヘッヘ……」
日下もいつまでも可笑しそうにせきこむような声を上げて笑っていた。
「本当のこと言うとね、あたしははじめっからわかってたよ。でもさあ、皆がこれでいいって言ってるからそういうものかなあって思って黙ってたけどさあ」
みんなが笑いくたびれた頃、むしろ不思議そうな顔でチコがそう言った。
「へーえ、お前はじめっからわかってたの、これが足じゃないって」
青山がかさねてきいた。
「うん。はじめっから、だってこんな変なかっこうの足ないじゃない。やっぱり皆と違った見方してたのかなあ」
チコはポカンとした顔をしていた。
「お前早く結婚した方がいいよ。この絵の中からそれを見つけ出すなんて欲求不満の証拠だぞ」
青山がそういって大笑いした。
「ああそれから申しおくれましたけど、日東航空の方が今日見えて、花輪を贈ってくれたんですが、青山さんによろしくっていってました」
坂田が封筒に入ったカードを青山にわたした。
「へーえ、そりゃ御丁寧なことだな。広告を載せさせてもらっただけでも有難いのに花輪までとはなあ。チコ、メモしといてくれ。あとで改めて礼しとかなきゃ」
青山は編集の最終段階で、八方飛び廻って広告を集めて来た。その熱の入れようと実際に集った広告を見て、高田は舌を捲《ま》いた。
航空会社をはじめ、家庭用電気器具メーカー、婦人服メーカー、製薬会社、デパート、フィルムのメーカー、皆一流の企業の一頁ずつの広告を入れることが出来た。どれも青山がタレントとして、あるいはテレビ作家として、今まで協力してきた会社だといった。
広告入れてもらうのは有難いが、ものが「シャレディ」だけに、どこからどこまでが冗談で、どこが本気だか区別がつきにくいのが難点だった。適当に挿入してしまうと、せっかく広告料を払っていただいているのに、冗談にまぎれてしまって効果が現れない。それだけならまだしも、つながり方によっては、いたく企業イメージをそこねてしまう結果にもなりかねない。そこで皆でよりより協議の末、広告全部まとめて最後に載せさせていただき、その前に、「ここから先は洒落《しやれ》でもパロディでもありません。ごく真面目な広告です。そのおつもりで御覧下さい」と注釈をつけることにした。
「とにかくみんなのおかげで当初の目的のとおりに『シャレディ』壮観号が出版できて、今日また記念パーティまでやっちゃってさ、俺もものすごく嬉しいんだ。まがりなりにもシャレディ社は正規の出版社として発足出来たし、あとは資金とアイデアがありさえすれば、どんな本でも出して行けるってわけで実に嬉しい。皆よくやってくれて、本当に有難う」
酒のせいか、それでなくても感激屋の青山がうっすら眼のふちをそめて、深々と頭を下げたので高田もちょっとじんとして、皆の顔を見廻した。だれもが嬉しそうに口元をほころばせて、うなずきあっていた。
「ではあらためまして諸君の健康と、シャレディ社の発展のために乾盃したいと思います。カンパイッ!」
チコはそう言うと、グラスを高々と上げて一同を見わたした。
「カンパイッ!」
みんな一斉にグラスを上げる。チコは一気にビールを呑みほした。「よーっ、すごいよ、さすが社長」とか「かけつけ三杯」などと口々にはやしながら拍手した。
出版記念パーティからちょうど一週間たったが、テレビ中継の効果かどうかは判らないが、あれ以来「シャレディ」壮観号は順調に売れ続けていた。折からクリスマスを明後日にひかえて、忘年会をひらこうと一同打ちそろって新宿のふぐ料理屋へ集ったところだった。
今日も取次店、書店から注文の電話が次々に入り、事務所の雰囲気も活気づいてチコをはじめ全員が一日中生き生きと立ち働いた。
高田は、グラビア頁のネガの整理、原稿の返送、著作者、製本屋、印刷屋への支払い、広告料金の請求などこまごまとした事務処理に忙殺されていた。「ロマン」にいた時はこんなことはひとまかせで一切知らなかった。
本を一冊出すことがどんなに面倒なことかはじめて思い知らされていた。坂田や日下は朝から取次店、書店へ走り廻っていたらしいが、暮のこととて外へ出れば街はせわしげに歩く人々であふれ、道路はどこも渋滞して、どこへ出かけるのにも普段の日の倍は時間がかかる。それでも二人は出先から、「配本が間にあわない」とか「どんどん売れているようです」等と景気のいい話を電話でかわるがわる報告してきていた。
「この調子じゃすぐに次号にとりかからなきゃいけないわね」
チコがはしゃいだ声を上げる。
「それなんだけどねえ、今日も俺考えてたんだけど、最初の計画の通り季刊でいくとすると次に出るのは三月だよね。二カ月も間をあけると読者に忘れられちゃうんじゃねーかなあ。せっかくテレビでやったりしたのが何にもならなくなっちゃうような気がするんだ」
日下がつき出しの巻き貝の身を楊子《ようじ》でほじくりながらそういって一同を見廻した。
「そうですね。調子に乗ってるうちに次々に決め玉をたたき込んで行ければいいんですが、でも毎月となったらもう間にあいませんよ」
坂田も前へ乗り出してくる。
「隔月なら何とかなるかねえ。しかし雑誌作りってのはせわしねえもんだねえ。一つ終ったらすぐ次へかかんなきゃなんねえんだなあ」
青山はもうヒレ酒にしたようだ。そう言いながら、熱そうに指先でつまんで青磁の茶わんをゆすっている。
「そりゃそうですよ。これが店頭へ出たのが十三日だったでしょう。今日は二十三日ですから来月十三日に次号を出すんだったら、もう明日か明後日がぎりぎりの〆切ですよ。特に今度は暮正月が入ってますからね、完全に無理ですね。隔月にしても、『シャレディ』みたいに手間のかかる企画が多いものは、今日明日にでも手を廻しとかなきゃ間にあいませんよ」
坂田は青山に得意げに説明してきかせている。
「じゃ隔月もはっきり言えばだめってことか。それにしても、季刊にしてまる二カ月もブランクが出来るのは気のきかねえ話だなあ」
青山は不満げにヒレ酒を吹いている。
「いいじゃない。その間に何かまた変ったことを考えて、マスコミに売り込んで派手に書きたててもらうとかね。ヒレ酒もらう人いない」
チコがこまめに気を遣って動き廻る。
「それよりもっと緊急な問題として、今の『シャレディ』壮観号を増刷するかどうかってことですが、初版の一万はもうだいたい店頭へ出ちゃってるんですがねえ。これがどのくらいの率で返って来るか、予測がつきませんから……。あんまり冒険は出来ないし、かといって売れるものをみすみす見逃すのもしゃくですし……」
いままであまり口をきかなかった橋口が、おもむろに言い出した。
「そうだなあ、今日廻ってきた感じでは、今店頭にある分は八十パーセントくらいは売れると考えて間違いないですよ。なあ坂田」
日下が坂田に同意を求める。
「ええ、まあ返って来ても十五パーセントくらいだと思いますよ。発売十日で実数で六十パーセントくらいはすでに売れてることは確実ですから」
坂田もたしかな手ごたえを感じているといった顔であいづちを打った。
「手堅く二千くらい追加して見ますか。そいでもう少し様子を見て、よければまた出すってことにして」
橋口はもともと慎重な男だが、ちょっと消極的に過ぎるんではないかと高田は思った。
「編集長はどうなの。ねえ高田ちゃんよ」
青山が上眼づかいにきいてきた。高田もこの頃になってやっと「シャレディ」が軌道に乗ってきたと確信がもてるようになってきていたところだったので、
「そう二千くらいずつで様子を見るってのがいいと思いますが……」
と答えた。
「ちょっと待てよ。初版の一万が全部出たとするとその利益だけで次の一万刷れるわけじゃねえか。あとから出した一万がそっくりもどってももともとで、もし増刷の一万も完売ってなことになれば、最初に俺が出資した分が返ってきて、まだ次の号を一万部出せる金が会社に残るわけだろ。こりゃ賭《かけ》だな」
といきなり青山が無茶をいい出した。
「いきなりそんなに結論をいそがなくたっていいじゃない。ほらほら|ふぐさし《ヽヽヽヽ》も来てるしお鍋《なべ》の用意も出来てるんだから、夜はまだ長いし、はい、ヒレ酒たのんだ人誰なの」
ちょうど女中さんが二人大きな盆をささげ持って入ってきて、チコが手伝いながら大声をあげる。それからまた話があらぬ方へ飛んだり横道へはしったり、全員うかれ調子で、呑みかつ喰って、冗談や洒落がとびかい、いつもの馬鹿騒ぎになった。酒が入るにしたがって全員気が大きくなって、いつの間にか増刷の話は万の大台に乗ってしまった。一時は青山がいっきに三万も刷ろうかなどと非常識な数字をあげたが、賛成者も出る始末で、高田は気が気ではなかった。結局一月の十日発行を|めど《ヽヽ》に初版と同数一万部を増刷することに決定した。
「ところでおい高田ちゃん、お前チコのことどう思ってんの、おい」
|ふぐちり《ヽヽヽヽ》の鍋もすっかり身がなくなって、女中さんが雑炊の仕度にとりかかった頃突然青山が言い出して高田はドキッとした。
「どうって別に……」
何かかたいものでも呑みこむようにヒレ酒を呑み下して、うろたえてしまった。
「年まわりもちょうどいいし、一緒になっちゃったらどうだい。なあみんな」
「ヨオヨオッ御両人」と坂田が手を打ってどなった。
かっこうの肴が見つかったという感じで舌なめずりでもしそうな顔で青山はなおも続ける。
「ははーあ、鳴かぬ猫鼠獲《ねこねずみと》るなんて言うから、も早二人は何とかなったのか。余計なこといっちゃったかなあ」
「そんなんじゃありませんよ」
高田はそう言いながら自分の顔がちょっとこわばってひきつれているような気がした。
「おい、むきになるとこ見ると、なおあやしいなあ。そんなんじゃないっていうのは、どんなんだい」
「どんなんでもありませんよ、別に」
高田はいそいでタバコを取り出すとふるえる手をごまかしながら火をつけた。
「チコはどうなんだい、おいチコは」
青山は今度はチコに矛先《ほこさき》をむけた。
「あたしはいいよ。高田ちゃんさえもらってくれるっていえばね」
チコは全く動じている風もなくさらりといった。また一同が「ヨオヨオッ」とか「ちっとも知らなかったね」などとはやしたてた。
あんまりチコがはっきりと言ったので、青山も拍子抜けしたのか、あとはしつこく追求することもなく、なんとなくほかの話にとりまぎれてしまった。高田はチコの言った一言がいつまでも耳に残って、忘れることが出来なかった。即座には信じられないが、嘘でも冗談でもチコがああ言ってくれたのが嬉しかった。高田は、仲間の話が耳に入らず、ただあいまいにあいづちを打っているだけで、頭の中でしきりにあの言葉の本当の意味を探りつづけていた。チコの性格からあの場合心にもないことを平気で口にすることもありうるし、と思えば、ぬけぬけと言ってのけたあの態度は冗談にきまっているようにも思える。それにしてはあの時一瞬高田の方を見た眼はたしかにあまりにも意味ありげであったようにも思える。
高田は思い迷っているうちについつい酒に手が出て、しびれるような甘さの中で酔っていた。でもまだかろうじて、危険を感じる理性が少しは残っていて、いまこの調子で呑み続けていれば、やがては大声で「チコさん、僕は君が大好きです。結婚して下さい」などと叫んでしまうに違いない。適当なところで切り上げようと、そればかりくり返し口の中でいいつつグラスをあけていた。何だか今日はいくら呑んでも大丈夫なような気もしていた。
タやみせまる町並が見おろせる事務所の窓ぎわのデスクで、高田はまた新しいタバコに火をつけた。今日ここへ来てからもう何本タバコを喫《す》ったのだろう。昼からほとんど何もせずにタバコばかり喫って、あたりを見まわして深々とため息をついていた。
一万冊の本の嵩《かさ》は相当なものだ。一冊は縦横ともに二十センチの変型サイズで、厚さが一センチほどだが、きちんと積み上げても、普通の家の六尺の押入れ上下二段ではおさまらない位だ。
これが返本として送りかえされてくる時は、十冊二十冊と紐でくくられて、角々がそったり、丸くつぶされたりして、見るかげもない姿で返ってくる。面白いのは、どの本も裏表紙の例の証紙ははがされていて、その上半数くらいは何でこすったのか、きたならしく汚されている。中には穴のあいているものさえあった。事務所の入口から、廊下、机の上、ロッカーの横と、これが乱雑に所せましと積み上げられている。
何とも心のいたむ光景で、高田は胸のつぶれるおもいでただ呆然《ぼうぜん》とながめている。時々チャイムが鳴って出て見るとまた返本である。
初版の一万はほぼ完売に近かったが、あとから出した一万がそっくり返本になって返って来た。取次も書店も、「シャレディ」の壮観号がなまじ雑誌の体裁をしているので季刊誌のつもりで扱っているらしく、発行一カ月後から続々と返りはじめて、今日は二月十三日、発行二カ月目にして返ってきた追加増刷分で事務所は埋まり、床《ゆか》が抜けるのがあやぶまれるほどのていたらくとなってしまったのだ。
青山はもうすっかりやる気をなくし、ここ十日ほどは事務所にも出て来ない。
「やーっ、まいったまいった。賭はすっかり裏目と出て完全な失敗ですな。はじめの一万でやめとけば、まだ次がいけたのに……なんて言っても愚痴《ぐち》だね。それにしてもまあ、はじめっから洒落でスタートしたんだから、他人様に迷惑をかけずにすんだのがめっけもんですよ」
と口では強がりを言っているが、内心では相当なショックを受けてるには違いないと高田は思った。坂田はまた新しいバイトの口を探しに行くと言って出ていったきりもう一週間も連絡をしてこない。橋口は痔《じ》の手術を受けると言っていた。これも十日も音沙汰なしだ。
日下は友人とこりもせず新しい出版社をはじめるのだと意気込んで、正式に会社へ辞表を出してしまった。だから当然「ロマン」の第一組合の人間でもなくなったわけで、シャレディ社とはもはや縁はない。高田にしてももともと「ロマン」の組合員として「シャレディ」壮観号の製作を手伝ったわけだから、当の青山が、もう次号を出さないとなれば、ここに居る必要もないわけだった。理屈はそうでも高田はここに来ずにはいられなかった。チコ一人に残務整理をさせるのは可哀そうだと思ったこともあったが、夢と期待、大袈裟《おおげさ》に言えば青春の生きがいを賭けてきたといってもいいこの事務所にぱっと背をむけて、明日からまた組合費稼ぎに、全く違った仕事を手の平かえすようにやれるほど器用な男ではなかった。
一時は「シャレディ」も調子よく行き、暗夜の山道で人里の灯り見つけた心持で、これをよりどころにやがてはチコともなんて、心はずむ夢を現実のものとしかかった実感があるだけに、手もとの|タモ《ヽヽ》へたぐり寄せてあとひと息というところで大魚を釣り落した心境とでも言おうか、どうしても簡単にあきらめてしまう気になれなかった。
チコとのこともあれっきりで、ふぐ屋の二階での忘年会でもどうやら失態をやらかさずにお開きまで頑張れた。二次会のバーでもチコとせっかく隣り合せになりながら何も言えず、結果はベロベロになって坂田の家へ連れて行かれてやっかいになってしまった。
「シャレディ」もだめ、「ロマン」へも帰れないとなれば喰うすべさえない有様、実家の母親から援助はうけられるが、他の兄弟たちの手前もありいつまでも無職で遊んでもいられない。
職もない男が結婚なぞ望むのは笑止のかぎりと百も承知だが、チコと一緒になれないくらいなら死んだ方がまし、と職探しにも熱が入らず悪循環でかぎりが見えない。
「あらまだいてくれたの」
頭の上からネッカチーフをかぶったチコがオーバーの衿を立てて、頬を真赤にして入って来た。
「外ものすごく寒いの、雪になるかも知れないよ」
そう言われてあらためて窓の外を見れば、もうすっかり暗くなっていた。
「高田ちゃん元気出しなよ。お腹《なか》へってるでしょう。寒いからおでんで一杯なんてのいいよ。一緒に行こう。あたしおごるから、ねっ」
言われて見れば高田は朝から食事をしていないのを思い出した。
外へ出るとなるほど頬《ほ》っぺたへ氷をぶっつけられるような冷たい風がふきあれていた。
「高田ちゃん、やっぱり腰すえて小説書いた方がいいんじゃないのかなあ。変にさし出がましいこと言って悪いけどね。高田ちゃんが『シャレディ』壮観号に書いた百枚くらいの小説あったでしょう。出版記念パーティの時に居たあのあなたが好きだっていってた作家の先生、とてもいいってすごくほめてたよ。本格的にやり出したらこわい奴だって」
高田がちょっとたじろいだ感じで立ち止った。思いもよらぬことだった。嬉しいのとも違う、驚きとも違う、何か暖い甘いものが急に胸の中にひろがってくるような気がした。さきに立って歩いていったチコが、立ち止った高田に気づいて、小走りにもどってくると、高田の腕にぶら下るようにしてぴったり体をすり寄せて来て、
「ねっ、頑張ろうね」
と言うと高田を引きずるように歩き出した。
高田は急に頬っぺたに冷気を感じて、ふりあおぐと雪だった。
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ア モ ス コ
1
ボールが転がる音、ピンが倒れる音、若い女達の矯声《きようせい》、あちこちで起る拍手、それらの音が幾重にも重なりあって、高くもない天井と床《ゆか》に響きあっている。ボウリング場特有の喧騒《けんそう》の中で綾子はもう二十分もひえたコーヒーを前にぼんやりしている。
大きなガラスが張った正面入り口から、外の明るい陽《ひ》ざしとかがやく植込みの緑が見える。入ってすぐロビーがひろがり、右手が受け付けのカウンター、左手の奥が喫茶と軽食のコーナーになっている。観葉植物の鉢を並べた飾り棚のむこうは一段ひくくなっていて二十五フレイムのフロアに連なっている。
高校生の頃は、毎日のように通ってきていたこのボウリング場、当時は遊び好きな大学生や、暇なおじ様達といった常連にかこまれて、結構突っ張ってわがもの顔にチャラチャラしていたものだが、今の綾子には場違いなところへほうり出されたような感じしかしない。今では知った顔に出逢《であ》うのがめずらしい。
綾子はカウンターに置かれたタバコに手を伸ばすと、新しい一本に火をつけた。灰皿にはすでに四本ものラークの喫《す》い殻《がら》がくの字になってころがっている。去年の七月一日、幸二の誕生日に二人で一緒に禁煙を誓いあって以来手にすることがなかった筈《はず》のタバコだったが、いつの間にか又喫いはじめていて、なんだか近頃の方が量も多くなったような気がしていた。
綾子は無意識に手の中で玩具《おもちや》にしていたマッチ箱に眼をおとした。それは白地に黒文字でアモスコと簡潔に描かれているだけの洒落《しやれ》たこしらえで、幸二の自慢のデザインの一つだった。二人で忙しくゲーム機のセールスに飛び廻っていた頃のことが思いだされる。毎日がせわしなく、次から次とやらなければならないことが山積し、追いまくられているような時は、人はタバコなんか喫わないものなんだろうか、とあらためてあの頃のことを振りかえっていた。
時間厳守がモットーで、約束に遅れることを嫌い、いつでも遅刻しがちな綾子に、腕の時計を指先でつつきながら文句をいっていた幸二が、今日はまだこない。いっそこないならこないでその方がいいかも、と綾子は思った。
去年幸二にはじめて逢ったのもこのボウリング場だった。
短大を出たての綾子は、遊び仲間のTVディレクターのすすめで、アルバイトに中継番組のアシスタントをしていた。五月の連休中に、場所も同じここでタレント連中のボウリング大会が行われ、これに幸二も出場していた。
当日幸二とペアーを組むはずだった若手の歌手が飛行機の遅れで出られなくなり、いきなり幸二が綾子をパートナーに指名した。綾子は各出場者にインタビューの際にマイクをセットしたり、賞品を運んだり、説明したりするのが主な役目で、いきなりタレント連中にまじってプレーをするようにいわれて戸惑《とまど》ってしまった。綾子はボウリングについては多少とも自信はあったし、日頃から馴れ親しんでいるここのレーンでのことでもあり、プレーすること自体には恐ろしさはなかったが、アシスタントの立場を考えるとしりごみしないわけにいかなかった。
「いいじゃねえか、番組の中で歌手の加奈子が出られなくなりましたので、アシスタントのお嬢ちゃんに手伝ってもらいますって俺がいっちゃうから。ボウリングの腕なんて関係ないよ、どうせ愛嬌《あいきよう》なんだから、な、アシスタントの仕事は俺も手伝うから大丈夫、その方が面白い、いや面白くするから心配すんな」
幸二がディレクターに強引にまくしたてた。ディレクターも仕方なしに、
「君ボウリングできるの、アベレージは」
と綾子にきいた。
「百八十位です」
綾子がひかえめにいうと、
「ほーお、そりゃたのもしい、うまくいけば優勝もあるぞ、は……」
眼を丸くして嬉しがっていたのは幸二の方だった。ディレクターもしまいには納得して綾子が幸二と組んでプレーをすることに決った。
自分の靴もボールもロッカーに置いてあったし、同じアホなら踊らなそんそんの文句の通り、綾子にしてもアシスタントとして、チョコマカしているよりプレーをしている方が面白いに違いなかった。ただ網タイツに白のレオタード、金ラメ入りの短いチョッキを着て、お尻に毛玉をつけ、大きな兎《うさぎ》の耳を形どった帽子を頭にのせている、このバニーガールのスタイルがプレーをするのにどうにも不似合いに思えて気がひけた。
「それがいいんだよ、そのスタイルでやるのが面白い」
幸二は何でも面白いで|かた《ヽヽ》をつけるようだった。
幸二のいったとおりにことは進み、アシスタントがバニーガールのスタイルのまま、突如起用されてプレーをするという意外性がうけたのか、綾子は予想外にみんなの注目をあびてしまった。
綾子も一所懸命に投げ、いつもよりスコアーを伸ばしたが、幸二にまぐれ当りのストライクが続出したりして、結局二人は冗談のような好スコアーで二位に大差をつけて優勝してしまった。順位の発表、賞品の授与等が行われる度に、
「アシスタントが優勝すると忙しくてかなわねえよ、手前で運んで手前が受けとるってのも妙なもんだね」
幸二がおどけて走り廻るのも大受けして、綾子も誇らしく嬉しかった。
たとえ一時の冗談めいた組み合せにしろ、パートナーとして、互に励ましあい、喜びあい遂には優勝までしてしまった男女だ、二人の仲が急速に進んでもおかしくはなかった。その夜二人は遅くまで一緒にいた。綾子は幸二がゲーム中、他のタレント達と区別なく大切に扱ってくれたこと、外へ飲みに出てからも、何処《どこ》へ行くか、何を喰べるか、先ず綾子にきき、いつでも綾子の好みを優先させてくれたことがうれしかった。
「どうして急にあたしをパートナーに選んだりしたの」
何軒目かのバーで、もうすっかり打ちとけた綾子が幸二にきいてみた。
「はじめっから眼をつけてたのさ、この娘《こ》タイプだなあ、何とかきっかけ掴《つか》めないかなあって。そしたらあんなことがあったもんで、すかさずこれ幸いとばかりに声をかけたんだよ」
と幸二は笑顔で真直ぐ綾子を見つめている。
「どうしてあたしが好みのタイプなの、皆にそんなこといって歩いてるんでしょ」
綾子は眼をそらしてちょっとすねた風を見せた。
「まあ正直いうとそれもあるね、へたな鉄砲も数打ちゃのくちだよ、でも今日はすごいのに当ったよ、俺はすごく幸せ」
幸二はまだ綾子を見つめている。
「俺が今まで逢った女の中で、綾子は一番いいね、きれいでスタイルが好くて、第一上品なのがいい、いい女ってのはえてして馬鹿なもんだが、綾子は賢いもんね、これが凄《すご》い、綾子と何とかなれたら俺はもう死んでもいい、ねえどうかね」
幸二は大きな声であたりをはばからない、綾子はニヤニヤしているバーテンと眼があってしまい、吹き出すのをこらえるように背をむけた。幸二はなおもしつこく綾子の顔をのぞきこむように様子をうかがっていた。
幸二がもと放送作家で、綾子も毎週かかさず見ていたショー番組の構成者であることも知っていたが、近くであってみれば軽薄が売り物の|がさつ《ヽヽヽ》なタレントと少しも違わず、綾子は鼻白むおもいがしないでもなかった。
ただ幸二は、えげつないことを平気でずけずけという口とはうらはらに、そっけないほど淡泊な一面もあった。綾子の経験によればこんな時は、酒の酔いにまぎらして、肩に手をまわしたり太《ふと》ももの上に手を置いてきたりする男達が多かったが、幸二はいっさいそれをしなかった。むしろ偶然に足がふれ合ったりした時いそいで身を引くほどで、綾子は馬鹿にされているのではなかろうかといぶかしく思ったりもした。突然、妙に真剣な顔で、
「男ってのはさ、いや女もそうかなあ、こうやって酒を飲んだり話をしてたりして楽しいなあなんて思うのは、窮極は一緒に寝たいって願望をなしくずしに消化してるんじゃないのかなあ、互の育ってきた環境とか、世間体とか、利害得失考えながら……、いまだってさあ、体面を気にして小当りに当ってるわけだよ、この俺が、たとえばね、まなじり決していきなり寝ようぜなんてきり出して、綾子にいやですってはっきり断られたら、もっともはいどうぞっていわれるのも困るけど、あと持っていきようがねえもんな、なんか上澄《うわず》みのところでスリル味わってるみたいなこんなことしてるのが俺好きなんだよなあ」
などと一人で感じいったりしている。また、
「俺には女房と二人の子供いるけど、まあ世間並に円満で、別に問題はない、家の中へトラブルを持ちこまなければ、浮気なんて大いに結構だと思ってるの、ただし、相手がいねえんだよな、一人でできるもんじゃないからこりゃきびしいよな、は……」
と無邪気に笑っていたりする。綾子も返事のしように困ってあいまいな気持でつまみに手を出していた。
「どうもさっきから気になって仕方がなかったんだけど、綾子の箸《はし》の持ち方はおかしいね」
綾子が小鉢の豆を箸先でつまむのに骨を折っているのを見て、ずばりと指摘してくる。綾子は前から自分でもそれはわかっていて、人前で箸を使うことが億劫《おつくう》で仕方がなかったのだ。
「そうなの、あたしって不器用で直らないみたいなの」
いそいで箸を揃《そろ》えてカウンターの上におくと綾子は手を引っこめた。
「本当に近頃の若い娘は箸がきちんと使えないの多いね、親いるのかお前、みっともないぞ、すぐに直しなさい、さあ手を出して」
そういうとさっと綾子の手をとって、一から握り方を指導しはじめる。
「はじめちょっと、いらいらするけどね、こうして使えば楽だから、すぐに直るよ、ひとと食事するときに、いつでも変に気を使ったりしてなきやならないのは損だぞ、旨《うま》いもんもおいしく喰べられないじゃないか」
こんな時の幸二は相手に否やをいわせない押しの強さがあって、綾子も照れながらいわれた通りにやってみた。なるほど、教えられたやり方は合理的に思えた。
綾子も実は何とかならないものかと、一時は真剣にとり組んでもいたのだ。本当の所、父親も箸の使い方がおかしくて、そんな父の手前、子供の頃から母もきびしくはいえなかったのかも知れない。だからといっていい年をして誰かに箸の使い方を習うという気にもならなかったのだ。そのせいだろう、姉も妹もおかしな握り方で、ナメコだの豆腐だのは敬遠しがちだし、小魚の骨などは大の難物で、自然と喰べるのが面倒臭くなっている。
綾子は妙に素直な気持になって、一所懸命習ってみた。簡単な|コツ《ヽヽ》を会得することができると、すぐにうまく扱えるようになってきてちょっとの間夢中になった。
「素晴らしい、そうやって素直に、すぐにとりくんじゃうところなんていいなあ」
と幸二はいままでのきびしい教師の顔をかなぐりすてて、
「なあ、たのむよ、絶対いやなおもいはさせないから深くつきあってくれよ、なッ」
と泣きだしそうな眼で哀願して見せたりもした。綾子がきわめて面白いと感じたのは、今そんなやりとりをしていたはずなのに、今度はいきなり映画の話になり、そうなると手の平かえしたように夢中になって、今までのことをすっかり忘れてこれから自分が演出することになったテレビ映画のシリーズものの一編について熱心に語りはじめることだった。
「今撮ってるテレビ、あとワンクールのびることになってね、この間二本ばかり脚本書いたんだけど、これが評判よくて、次は演出もやらしてもらえることになってね、今面白くて仕様がねえんだ」
幸二が熱を入れてしゃべっているシリーズは綾子も見ていた。
「愚痴《ぐち》はよそうぜ」というタイトルの現代もの、一時間の一話完結のテレビ映画で、新聞広告の見出しによれば「三十男の夢と哀歓を笑いと涙でえがくヒューマンタッチのホームコメディ」というわけで、視聴率もいいし、人気もあった。
「俺ね、ただの役者とか、タレントとかってので終るのいやなんだな、テレビの演出やっててもさ、それはあくまで手段で、テレビで一応のことは身につけといてさ、先々は劇場用の本編を撮りたいんだよな、でっかいクレーンなんか持ちだしてさ、ついには『ベンハー』みたいな世界的な映画を作るようになりたい」
正直いってこの幸二という男は、綾子が今まで、身内もふくめて付きあってきたどのタイプとも違う変った男だった。
幸二の話には、時に見えすいた嘘《うそ》があり、ビックリするほどの率直さがあり、駄洒落があり逆説があり、辛辣《しんらつ》な皮肉があり、酒が入ってくると益々面白く、綾子は笑い通しだった。
「面白いだろ俺の話、ある女の実感、『あの人といたら笑ってるうちにパンティ取られてた』ってのがあるくらいだから気をつけた方がいいよ」
二人はあたりがほの明るくなる頃、やっと外に出て、世田谷の綾子の家まで幸二が送ってくれた。
2
「綾子じゃない、久しぶりねえ」
うしろから急に声をかけられて驚いてふりむくと、高校の頃のクラスメートの良江が立っていた。眼の覚めるような黄色の薄地のカーディガンに白のコットンパンツという身なりで明るく笑っている。
「元気そうじゃない」
綾子はまぶしそうな顔で良江をあおぎ見た。
「主人なのよ」
良江はうしろに大きな乳母車《うばぐるま》をおさえて立っている二十七、八の男を紹介した。
「高校の頃のお友達、綾子さんよ」
男はだまってかるく頭を下げた。
「はじめまして、どうぞよろしく」
綾子はこの時立って挨拶《あいさつ》をした。すぐに乳母車の中をのぞいて見ると、小さな子供が、白いタオルに包まれて眠っていた。
「まあ良江の赤ちゃんなの、あなたもうお母さん」
綾子は良江が結婚したなんて話はきいていなかった。
「うん、おととし結婚してすぐ出来ちゃったの、もう大変よ、綾子は……まだ一人なの」
良江が何だか落着き払っているように綾子には見えて気おくれし、
「一人よ、もらってくれる人がいないもん」
と月並ないい方しかできなかった。
「一人の方がいいわよ、結婚っていろいろと面倒なものよ」
そういいながら良江はちらっと亭主《ていしゆ》の方を見た。
「ボウリングをしにきたの」
綾子も半分御亭主の方を見ながらきいてみた。
「とんでもない、そこまできたからなつかしくて寄ってみたの、そんなことしてたらおばあちゃんに怒られちゃう、さあいきましょう、あなた」
良江は男をうながしてもう車を押していた。
「さよなら、ごきげんよう」
二人を見送ってから、綾子はカウンターにむかうと、時計を見た。あれから又十五分たっていた。綾子はもう一度タバコに火をつけた。
自分も結婚したらあんな夫婦になるのだろうか、いつの間にか石田をあの良江の亭主に置きかえて考えていた。
姉の結婚を眼《ま》のあたりにしているし、出産の手伝いもした。良江にいわれなくても結婚がそれほどロマンチックなものでないことは綾子もよく承知している。妹の順子にもこの頃恋人ができたらしい。ちょくちょく帰りが遅いし、男との長電話が多くなっている。
「お姉ちゃん、お嫁にいく気ないの」
と何となくあとがつかえているといわんばかりに上眼《うわめ》づかいでいわれるのにも気がひける思いをしていた。綾子の家は世田谷の三軒茶屋にあり、父親は会計士だった。昔は税務署に勤めていたこともあったらしいが、綾子がもの心ついた頃には会計事務所を開いていて、四、五人の事務員を置いて安定した経営が続いているようだった。綾子も短大へ行っていつも友達と比較してそうひがんだりしないでもすむ程度の生活は保証されていた。むしろ随分と我《わ》がままに過ごさしてもらっている方だったろう。
高校時代の二度の停学と、短大時代のスキャンダル、綾子にしてみればたいしたことない事件だったが両親にとってはショックだったに違いない。
一度目の停学は、おかたい女子高によくあるケースで、授業時間中の飲食だった。
美術の時間だったが、もう昼に近く、教師が教室を留守にしたのをいいことに、綾子達三人のおちゃっぴいが教室を抜けでて、近くのパン屋さんへ昼食を仕入れに行ってしまった。そのパン屋は店内に喫茶室があり、ちらっとのぞいたテレビが面白くて、ついついその場へ腰を据えてしまったのだ。折悪しく一番やかましいオールドミスの教師に見つかってしまい、問題になった。ほかの娘《こ》達は調子よくあやまったので何でもなかったが、綾子の場合、平素からスカートの丈が長いのパーマをかけたのと、関係ないことまであげつらって文句をいわれ、今度はそれに腹をたてて一言も口をきかなくなった。子供の頃から綾子は怒ると口をきかないという性癖を身につけていた。この反抗的態度の故に、一週間ほど自宅で反省しなさいとばかり停学の処分を受けた。
二度目の時は、校内でダンスパーティの券を売ったの買ったのという問題だったが、これこそ全くの濡衣《ぬれぎぬ》で綾子は関知しなかったが、一連のグループの一員とみなされ否やをいわせず停学組に入れられてしまった。綾子は頭から反論する気にならず、教師から何をいわれても強情を張りとおしてついに一言も口をきかずに処分に甘んじた。もっともこの時は仲間が二百人もいたので、気が楽なもの、思わぬ長期休暇をもらった気分で皆はしゃいでいたものだった。
短大での事件は、若手のロック歌手と一緒に乗っていた車の事故で、週刊誌に顔写真と学校名が大きく出て問題にされた。これも綾子にしてみれば、たまたまめぐり合せが悪かっただけで、自ら恥じることはなかったが一言の弁解もせず自分に怪我がなかったのをなによりと思っていた。はたの眼から見るとこんな綾子が度胸のいい突っ張りにうつるのかも知れないが、綾子はただ言いあいをするのがいやなだけで、処分は停学でも退学でもどっちでもいいと思っていた。もともと短大にいること自体にそれほどの意味も感じているわけでもなかった、ただ学生という身分が親の金で遊んでいられる都合のいい隠れ蓑《みの》であることはたしかだった。この事件はいつの間にかうやむやになり綾子は別に何の科《とが》もうけなかった。
一連のこんなトラブルについての両親の反応はかなり違ったものだった。母親は何でも素直にありのままを話してしまう綾子を信じてるふうで、「そうよ、あんたが悪いわけじゃないわよね」と平気な顔をしていた。父親は綾子に直接いうわけではなかったが、母親の口を通じて、「本人が良くても悪くても、そういう事件を起せば、まわりの人達は事件を通じてしかものが判断できないのだから、綾子は自ら世間をせまくするだけだ」という意味のことをいいたいらしかった。
堅物の父親から見ると、綾子のやってることはチャランポランで、あぶなっかしくて見ていられない、このままほっておいたら碌《ろく》なことにはならない、早めに気心の知れた男と結婚さしてしっかり監督していかなければとでも思ったのだろう。去年からそれとなく事務所で働いている石田との結婚をほのめかすようになっていた。
石田は二十七、父親の取引先の建材の会社の三男坊で、長兄が社長を継いでいて、行く行くは経理担当の役員になるはずの人だという。学生気分の抜けない好青年で、綾子に好意を持ってくれているらしいが綾子の方はどうも好きになれなかった。
「どうですか、コーヒーもう一杯入れましょうか」
スナックのウェイターの淳ちゃんが、空《から》のグラスやコーヒーカップをいくつものせた銀盆を持って近づいてきた。
「ええ、いただくわ」
綾子はちょっと戸惑《とまど》って、とりつくろうようにそういった。
「元気ないみたいですね、いつもの綾子さんと違うなあ、今熱いコーヒーを入れてあげますからね」
もう三年位になるだろうか、一番古くからいる淳ちゃんがウインクをしてカウンターの中へ入って行った。カウンターのくぐりの上の壁に観光地の大きなポスターがはってあるのが眼についた。シュロの木の先に海が広がっている写真だった。
綾子はその海を見ていて、幸二とはじめて結ばれた頃のことを思い出していた。たしか三度目のデイトの時、あれは六本木のバーだった。
ブランデーのグラスを両手の中で廻しながら、酒棚に眼をやって綾子がぽつりといった。
「あたし新婚旅行ってのだけはやって見たいなあ」
幸二はしばらく考えこんでいる風だったが、急に、
「そんなの簡単じゃねえか、旅行だけしようよ、全く新婚旅行風にやるの、俺、紺の三つ揃いで行くから綾子は白のスーツにしてよ、お帽子、お帽子も忘れないで。持ってなかったら買ってやるぜ」
「本当にそんなことできるわけないわよ」
綾子は幸二から少しはなれるようにして、横眼で見た。
「できるよ、金土日、二泊三日位で何処かへ行こう、ハネムーンのメッカというと、そう宮崎だ、日南海岸なんていいね、どうだい」
「だめよ、すぐばれるわ」
「大丈夫変装していくから」
「本当かしら」
「新婚旅行コースで、ホテルもきちんと予約してスケジュール立てるから、行こう、行こう、綾子も家の方うまくごまかすこと考えといて」
こんな馬鹿馬鹿しいやりとりで、本当に二人は旅行に行く約束をしてしまった。
当日まだ半信半疑ながら綾子は約束通りのスタイルでブーケまで持って、幸二にいわれた時間に羽田の国内線のロビーにいた。
うしろから肩をたたかれて振りかえると、ふとい黒ぶちの眼鏡をかけた長髪の男が立っていた。気味の悪い思いであとずさりしながらニヤついてぐんぐん近づいてくるその男をよく見ると幸二だった。綾子は思わず吹き出した。
飛行機の中は、予想通り、そこら中に新婚さんがいて、綾子は落着かない気分になっていた。自分だけ嘘をついているような罪悪感がそうさせるのかもしれないと思った。
幸二があたりを見ながら綾子の耳もとに口をよせると、
「今考えたんだけどさあ、俺達今までに三回しか逢ってないじゃない、それでもう今夜は一緒に泊るつもりでいるんだろ、本当の新婚さんの中にも見合いなんかだったら、そんなカップルいるかもしれないよな、なんだか俺ドキドキしてきちゃった」
とささやきかけてきた。綾子はそれをきくと一そう落着かない気持になってきた。
「朝起きて、カーテンをあけるとさっと明るい光がさし込んできてさ、外は一望千里の海、窓から潮風が吹きぬけるようなスウィートで二人は結ばれる、そういうのいいだろ」
と幸二がいっていた言葉通りの新婚さん用の豪華なスウィートルームで、綾子ははじめての体験をした。
綾子の言動からもうすでに何人もの男と経験があっても不思議はないと思っていたらしい幸二の方が、やたらにドキマギするようなあわてぶりだった。
幸二の綾子との付き合い方は実に丹念で|まめ《ヽヽ》だった。多忙なはずの日程の中から、どうやって二泊三日の空白を作り出したのか、綾子には不思議でならなかったし、旅のスケジュールも実に綿密に作られていて、旨《うま》いものを喰べさせてくれる料理屋や、土地の人しか知らないような珍しい店まで調べてあった。レンタカーで走り廻る行く先々の名所やレストランも、何度もきたことのある所のように知っていた。幸二は常日頃から女性とつきあうのも創作欲のうちだといっている、どういう手だてで、どうしたら手中におさめることができるかその過程が面白くてしようがないともいっていた。
熱心に手だてをつくして、熟れた果実が時を得て待ちかまえている手の中へストンと落ちてくるのをうけとめる、この経過が何とも素晴らしいとしつこくいっている。果実の方の綾子にしてみれば、その過程がいいのなら誰でもいい、あたしじゃなくてもいいんでしょといいたいところだ。
綾子は綾子で、幸二が次々にくり出してくる様々の手だてを、今度はどんなこといってくるのかと待ちかまえる面白さがあり、誘惑されているんだということは百も承知でいながら、次々にその手に乗っていくたのしみだってあるのだぞと思っていた。
もっとも二回目のデイトの時から、幸二とは最後のところまでいってしまいそうだという予感はあったのだが……。
3
耳障《みみざわ》りな連続した金属音が、すぐうしろのゲーム機のコーナーで鳴り出した。ピンボールマシンの、ピンポンという音とは又違ったやかましさで、頭の中までかきみだされるようだ。首を押しまげるようにしてのぞいて見ると、レーンの空くのを待っているらしい学生風の若者達が、アモスコのまわりにむらがっていた。
あのゲーム機械をこのボウリング場の遊技機コーナーに持ちこんだのも実は綾子だった。
幸二が作ったもので、淳ちゃんを通じておかしてもらっているのだ。音がうるさいと苦情が出たのは持ちこんだ時からだった。
淳ちゃんが新しく入れてくれたコーヒーも三分の一ほどはすっかり冷えてしまっている。幸二はくるといってきた約束の時間をもう一時間も遅れている。
宮崎から帰って二週間ほどたってから、綾子は突然幸二から電話で新宿へ呼び出された。
幸二の申し出はいつでも唐突だった。行きつけのバーに待ちうけていた幸二は、もう相当に飲んでいて、綾子が階段を降りて行くとバーテンダーと声高《こわだか》に話している声がきこえてきた。
綾子がカウンターのスツールに腰をかけ、おしぼりを使って、何を頼もうか一息ついた時、幸二はもう、今まで見ていた図面のようなものを綾子の前に突き出してきた。
「ねえ、俺は今度これを作ることにしたんだよ、わかるか、ゲーム機械だよ、アモスコ」
幸二はいつでも逢う度に何か新しいことに夢中になっているように思える、綾子はちょっとついていけない気もしたが、幸二のことだ、いやもおうもない。図面にえがかれたものはどうやら幸二の考案したゲーム機械のようであり、すごい熱の入れ方でいっきに説明をした。
その機械は、アメリカのラスベガスなどによくある、スロットマシンに似たようなものだった。大型のレジスターのような外見で、左にコインの投入口があり、右側面にハンドルがついている。
中央の回転している絵が見える窓口がスロットマシンのは三つだが、幸二の図面のものには五つあり、その五つの窓の中には、サイコロの目がそれぞれ五つえがいてある。
「この五つのサイの目でさ、ポーカーダイスができるんだよ、つまり、同じ目が一つあれば、ワンペヤー、二つあればツウペヤー、三個の同じ目がそろえばスリーダイス、これがペヤーと同時にあるとフルハウス、その他、フォーダイスに、オールと、それぞれの役で勝負ができるわけだし、一人で遊ぶ時は、一分以内にオール一《ピン》に揃えると、さらにもう一分遊べるリプレーの装置が働くの、どうだい面白そうだろ、今度この機械のための会社を作ったんだ、アモスコってんだけどね」
アミューズメント・マシン・オペレイティング・アンド・サービス・カンパニー、これらの頭文字を並べてAMOSCO、つまりこれが社名であり、商品名でもあるというわけだ。幸二の説明によれば、ゲームマシンというものは、それが適当な場所に置いてありさえすれば、人々が勝手に金を入れて遊んで行く、手間も人手もかからず確実に現金が入り、しかも何も売るわけではないので|もとで《ヽヽヽ》がかからない、わずかな維持費、つまり少額の電気代だけですむ、だからうまく当れば丸儲《まるもう》けだという。
一九二〇年代の禁酒法の頃に、シカゴ、ニューヨークのスピークイージイと呼ばれたもぐり酒場の収入のかなりの部分をささえていたのが実はこのゲーム機械で、もっとも当時のスロットマシンは現金をそのまま使用するもので、賭博《とばく》性も格段に高く儲けも大きかったということだ、我が国の現行法では、景品もしくはそれに代るものが一度に十五倍の限度を越えてはならないことになっており、しかも通貨の直接の使用は禁じられている。
映画や雑誌等でよく知られているこのスロットマシンに似たものを作れば、人々はすぐに飛びつく、しかも景品は出さないがリプレーがきき、上手にあつかえば、一度のコインの投入で何分でも楽しめるこの機械は必ず当ると幸二は確信しているようだった。
スロットマシンは、コインを入れて一度ハンドルを引けば、絵のついた三つのドラムが回転して、勝手に止って窓口にそれぞれの組み合せのパターンを示す、止ってしまえば客はもう一度コインを入れないかぎり、そのパターンを動かすことは出来ない、アモスコはそれが出来る、任意の窓の下のボタンを押せば、一分間以内ではあるが、その組み合せが変えられ、様々の楽しみ方が生れる、これがうけないはずはないと幸二はいう。
ゲーム場で遊ぶ人間の立場に立ってみると、たしかに一つことに夢中になるタイプの人も居るが、あれこれとひとわたり試して見るといったパターンが通例で、その上ゲーム場の雰囲気をもり上げて、人々が自然に寄ってきて、お祭り気分で散財するムードを作り上げるためには必然的に異った種類のゲーム機が必要になってくる。その上長年同じものでは客があきてしまうので、常に新しいものが求められている。アモスコにしてもこれは一つの過程であり、試作であり、幸二はこれを足がかりに次々に新しいものを考案して、やがては遊技機業界に君臨してやるのだといっている。
この間、幸二は水割りを何杯もおかわりし、鶏の唐揚げだのピッツァパイだのを、どんどん喰べている。綾子の飲みものについても時々は気を遣ってくれるが、話の方に重点が置かれていて、それ以外のことはほとんど上《うわ》の空といった按配《あんばい》だった。
幸二はそのバーを出ると、ただ説明しているだけでは気がすまないのか、綾子をつれてあちこちのゲーム場をのぞいて歩き、あれこれと実際に自分で試して見たり、綾子にもやらせて、あきることを知らないようだった。
「ゲーム機械の製造販売とリースをやるが、これは決して金儲けのためだけにやるんじゃない、世界的な映画を作るための資金作りなのさ、いまに見ていろ……」
と幸二はさかんにそのことを力説していた。
綾子は、とてもそんなことが実現するとは思えなかったが、鬼神もこれを避くばかりの幸二の熱の入れようにあたふたとついて行くのがやっとだった。
こんな夢を語っている時の幸二は、眼つきもいつもと違って見え、綾子は恐《こわ》いとさえ思った。その晩は赤坂のホテルに泊ったが、ホテルのバーでも、もうすっかりもくろみが成功したような気分で、シャンペンを抜き、キャビアを注文して、二時近くなってから四百グラムもあるステーキを喰べて、平気な顔をしていた。
その晩幸二はベッドの中では、口ほどにもなく綾子がシャワーをあびているうちに、もうすっかり大いびきで寝込んでいた。
うしろのゲームコーナーではまだ学生達がさわいでいる。断続的な金属音がせわしなく鳴りひびいている。
「だめだよこりゃ、一分間なんてあっというまにたつし、これじゃリプレーなんてできっこねえや」
学生の中の一人がそう大きな声で怒鳴るとやけくそのようにゲーム機をこぶしの腹でドンドンとたたいていた。
綾子は立って行くと、だまって学生達を押しのけて、アモスコの前に立ちコインを入れ、ハンドルを引いた。窓の中のドラムが回転しはじめた。
学生達は突然の飛び入りに驚いた様子で綾子と機械を遠巻きにするかっこうで、ながめていた。綾子は素早くボタンを操作して、サイコロの目をはじから一《ピン》に揃えて行き、右上の時間表示の針が四十秒を少し廻った位のところで、全部の窓にサイコロの一《ピン》を揃えてしまった。小さくブザーが鳴ってリプレーを知らせる赤いランプがついた。
綾子は黙って二回目のハンドルを引いた。同じように時間内に、一《ピン》の目を揃え、またもやリプレーのブザーを鳴らして、
「上手に扱えば、できるのよ、女と同じ、さあやってごらんなさい」
綾子はそういうと、くるりと振りむいて、もとのカウンターのところへもどってきてしまった。
学生達はあきれかえったといった様子で、綾子をしばらく見つめていた。
「すげえーっ、プロ」とか「びっくり」、「やるもんだねえ」などと、しばらくささやきあっていた。
綾子にしてみればあたり前だった、幸二に手伝わされて、あちこちのゲーム場に説明に行ったり、修理の下見にいったりさせられている、この機械は扱いなれていた。
アモスコの試作品が出来上った時も、第一番に市場テストに持ちこんだのがこのボウリング場だった、勿論《もちろん》綾子がマネージャーにわたりをつけたのだった。
幸二はもう有頂天《うちようてん》だった。自分で書き上げた図面の通りのゲーム機が出来上り、しかもこれを見た一部の業者から早速引きあいがあり、ディーラーとしての販売契約を申し込んできたことだ。
綾子は幸二の車の運転手として、あっちこっちの代理店へ幸二と一緒に走り廻り、それはそれで面白かった。
幸二が並行して作っていたカタログの出来も出色《しゆつしよく》だった。先ず試作品をスタジオに持ち込んで写真をとり、サイズを明記した三図面をあらたに書き上げ、解説、仕様等の文章を作り、こまかな指定をつけ加えて印刷所へまわした。もとより幸二はこれにばかりかかわりあってはいられない、テレビ映画のスタジオやロケ地でいつもの通り俳優稼業も続けているわけで、綾子は自然、工場、印刷所、ディーラーの事務所と、幸二の間を飛び廻らなければならなくなり、眼の廻るほどの忙しさだった。
はじめのうちは乗り気薄だった綾子も、いつの間にか深みにはまって、幸二の仕事を手伝うのが生き甲斐《がい》のようになっていた。
乗用車の後部座席に見本のアモスコを二台積みこみ、西伊豆へドライブしたのが綾子にとっては最も印象的だった。
商談もうまくまとまって、昼過ぎに堂ヶ島のホテルに着いた、折から八月の最中《さいちゆう》、食事のあとすぐ水着に着がえて海へとび出した。
沖合に少しはなれた小島があり、その島から岸まで、潮の加減だろうか、|ゴロタ《ヽヽヽ》石が連なって浅瀬になっている所があった。そこに立って見ると、ちょうどホテルの今夜泊る部屋から望める場所だった。何を思ったか幸二はいきなり、そのゴロタ石を積み上げはじめた、どうせ潮が上ってくればくずれてしまうに違いないのに、自分がここに立ったことをホテルの窓から確認したいと馬鹿なことをいい出した。綾子は気乗りしなかったが幸二に怒鳴られ、指先のマニキュアを気にしながら膝《ひざ》までつかる海水の中から、幸二にいわれるままに、適当な大きさの石を拾い上げては運んだ。二時間近くもかかっただろうか、とにかく綾子にはとても長い時間に思われた、やっと一メーターほど水面から頭を出すケルンが出来上った。
「意味ないことに労力を使うってことの面白さがいまに解るよ」
勝手に自分だけやたらにストイックな気分にひたって、黙々とこの作業にとりくんでいた幸二はしらず、無理やり手伝わされた綾子は納得いかない感じだった。
ホテルに帰って、風呂に入り、タ食前にビールをあけて、二人|窓辺《まどべ》に立って見ると、今海面を真赤に染めて沈もうとする夕陽に映えて二人の積み上げた小さなケルンが、燦然《さんぜん》と輝いていた。綾子は思わず飛び上りたいような気持になった。
その頃から綾子は本格的な肉体の喜びを知るようになっていた。
4
綾子は振りあおいでロビーの壁の時計を見た、そしてあらためて自分の腕時計の文字盤をたしかめた。あれから一時間四十五分たっていた。幸二からは何の連絡も入ってこなかった、きっと忙しさにとりまぎれているのだろう、幸二が今大変なこともわかっていた。アモスコが大ピンチになっているのだ、最初に作った百台は、予想をはるかに上まわって売れて行き、三十台作ればその日のうちに、又三十台が出来上ると、待っていたように工場に引き取りのためのトラックがやってくるという調子で、中にはプレミアムをつけてもこっちへ廻してもらいたいという注文さえあった。
暮近くなって、幸二は新たな三百台を工場へ発注した。
アモスコの売れ行きがぱったり止ったのもちょうどそのころからだった。ハンドルの強度に欠陥があり、よく根本《ねもと》から折れるという事故が続いた。これは何とかとりかえしがついたが、子供の客がつかないという重大な難点が問題になってきた。ゲーム機業界というところは幸二達が考えたほど大きくはなかった。百台という数は、関東近辺の主だった業者にひとわたりするという限度だった。追加の三百台のアモスコは、そっくりそのままむなしく工場の倉庫にほこりをかぶっていることになってしまった。幸二は金繰りにきりきり舞いしはじめていた。
総額で二千万円ほどだったが、悪質な借入金があるわけじゃないといっていたので、幸二のことだ、このままつぶれてしまうとは思えなかったが、少なからぬ痛手であったのには違いない。
これっきり幸二はもう来ないのではないかと綾子は思った。
「俺はどうせ最後までお前の責任はもてないんだし、その石田さんって人の話、お父さんに進めてもらった方がいいんじゃないのかい、もっともお前の自由だけど」
この前逢った時そんなことを幸二はいっていた。アモスコを作るのと同じ気持で、浮気の相手として幸二は綾子を自分の中に作り上げていたのに違いない。
アモスコにかけた夢が、薄れ消えて行くのと同時に、幸二の綾子への興味も薄れていったのかも知れない。
荒唐無稽《こうとうむけい》なホラ話に夢中になって、夢を語り、創意工夫を凝らす時の幸二は、正にエネルギーとアイディアにあふれ、その可能性は無限にさえ思え、誰の眼にもすばらしく魅力的に見える。ところがいったん、小さな現実のネックにつまずくと、別人のように力を失い、すぐに意気消沈してしまう。腰を据えてあらたな困難に立ちむかって行く意欲と情熱を持続させることができない。自分でもこの性格を知っていて、これが又自己嫌悪のもとになり、自《みずか》らを徹底的に打ちのめしてしまうのだ。
いったん絶望への坂をころがりはじめるとそれまで一緒に手をたずさえてきたものにまで興味を感じなくなってしまうのだろう。
幸二にとっては一つの仕事に、一人の女が必要なのかもしれない。根は底抜けの楽天家の幸二のこと、又日ならずして新たな夢を育て上げるに違いない。その時又、私とは別な新しい女が幸二と共にいる筈《はず》だ。
いずれにしても幸二にとって綾子は、ただの遊び相手であったのだろう。私にとってもそれは同じことだったと綾子は思った。
幸二はたしかに一緒にいて面白い男ではあったが所詮《しよせん》は妻子持ち、たとえ妻子がなかったとしても綾子は結婚の相手としては幸二を考えたことはなかった。
幸二へのいとおしさをここのところ感じなくなってしまったのは、綾子もアモスコを作ることに賭《か》けていた部分があったのではないかとふと感じたことがある。そのせいかどうか、綾子はだんだんと自分が無気力になってきているのを知っていた。
もうあれこれ考えるのはよそう、あたしはまだ若いんだと思った。そしてとにかく石田との話だけははっきりお断りすることにしようと心に決めた。
綾子はカウンターに料金だけ置くと未練なく立ち上って、確乎《かつこ》とした足どりで出て行った。
[#地付き]〈了〉
[#改ページ]
あ と が き
ここに御紹介する四編は、いずれも私にとって忘れ難い思い出をベースにして書いたものです。本気で小説にとりくむようになって初めて出しました「人間万事塞翁が丙午」(新潮社刊)では生家を舞台に雑駁《ざつぱく》な生い立ちを書き、続けて出した「蒼天に翔る」(新潮社刊)ではラジオ・テレビの世界に首を突っこみ、暗中模索で夢中で過ごして来た青年時代を書いております。
私は元来|躁鬱《そううつ》症的な性格でありまして、不規則な周期で、やたらにうれしくなり自信に満ちて病的なほど行動的になる時と、打ち沈んで何もかも嫌になり、極端に内省的になってしまう時が交互にやってまいります。ここに挙げました四編は、その青春時代の突出した正に躁状態の中にあったと思われる時の馬鹿げたエピソードがもとになっております。
それでなくとも身近なことというのは、一人称で書くとどうしても一人よがりのたわごとになってしまいそうで気恥かしく、素直な気持で筆を進めにくいものでしょうが、ことにむやみと頑張っているところを書くので、それぞれ親しい友人や、女房の立場を借りて語ってみました。とはいってもこれはあくまでも小説でありまして、登場する人物もすべて創作によるものでモデルはおりません。
精一杯己れを批判的に突っぱなして見たつもりですが、結果はやはり甘っちょろいものになってしまって残念に思っています。
実際そのように過ごしてきてしまっているし、またこんな風にしか表現出来なかったのもいたし方のないこととも思っています。
「極楽トンボ」は作中にもありますが、「デーオ、デエエオオッ」という浜村美智子のバナナボートソングが大ヒットした昭和三十二年の話で、私は二十五歳、流行のトリスバーでハイボールが五十円、ストレート四十円の頃でした。
放送作家でも何でもいい、兎に角もの書いて生活してゆけるようになりたいと、なりふりかまわず突き進み、三十四年フジテレビの開局とともにクレイジーキャッツの「おとなの漫画」の作者となり、三十六年日本テレビの「シャボン玉ホリディ」も手がけるようになりました。「スーダラ節」をはじめとする一連の植木等のコミックソングの作詞をし、無責任ブームに手をかし、かたわら「青島だあーっ」などという破廉恥な流行語を発明してタレントとしても売り出し、三十九年には遂に当時TBSで活躍中だった丹谷一さんに見出されて、「今に見ておれ」という鉄道に惚《ほ》れた男のドラマに主演するようになりました。翌年にフジテレビで五社英雄さんの「ども安」に出演してすっかりテレビタレントになってしまいました。
ゲーム機械「アモスコ」に夢中になったのはちょうどこの頃でした。
翌四十一年|憑《つ》かれたように映画「鐘」の製作にうつつをぬかします、七月にサンケイホールで自主上映をしたそのすぐあと、テレビの連続ドラマ「意地悪ばあさん」の第一回目をはじめています。このドラマの放映中に「鐘」がカンヌで入選した報せをうけ、四十二年にカンヌ映画祭へ出かけて行きました、このいきさつを書いたのが「鐘の鳴る岬」です。(編集部注・映画「鐘」は'85年夏、ビデオ化された)
翌四十三年にはじめて参議院議員の選挙に出て当選、議員になって二年目の四十五年に「シャレディ」にありますとおり「パロディ社」をはじめました。
とにかくめまぐるしいような年月を過ごしてまいりましたが、持って生れた性分でしょうか、これからまたどんなことで世間様に御迷惑をおかけすることか、自分でも判りません、実に困ったものだと吾ながらもてあましております。御読了いただきまして有難うございました、感謝致します。
この本の出版に御助力戴きました各位に厚く御礼申し上げます。
一九八二年九月
[#地付き]青 島 幸 男
初出誌
極楽トンボ オール讀物/昭和五十六年六月号
鐘の鳴る岬 別冊文藝春秋/昭和五十七年秋号
シャレディ壮観号 オール讀物/昭和五十七年三月号
アモスコ 別冊文藝春秋/昭和五十七年夏号
単行本
昭和五十七年十月文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 昭和六十一年二月二十五日刊