青島幸男
人間万事塞翁が丙午
目 次
昭和十二年秋
待人来タラズ
勝利ノ日マデ
1949・夏
おしまいチャンチャン
昭和十二年秋
それは支那事変の始まった年の秋のことだった。いつものように親父橋《おやじばし》の停留所で、ハナは青バスを降りて、蓬莱屋《ほうらいや》の先の角を曲った時、あやうく自転車に乗った子供にぶつかりそうになった。もう、あたりはすっかり暗くなっていて無灯火の自転車乗りは無謀に思えた。
「あーっ、おばさん」
ハナは、坊ちゃん刈りのその子供に見憶《みおぼ》えがあった。たしか洋服屋の……とうかがいかけると、
「おじさんに召集令状が来たってよ」
と投げつけるように言った。
エッと絶句して立ちつくし、あわてて確かめようとしたが、子供はすでに体勢を立て直して走り去っていた。
ハナは、その子供の背中に疫病神《やくびようがみ》の姿を見たような気がした。体中から血の気が去り、膝頭《ひざがしら》から力がぬけて、ガクガクと音でも立てているようにふるえるのがわかった。「そんな馬鹿な、何かの間違いだ、あの子は誰かと見違えたにちがいない、そうでありますように」と心の中で祈りつつ足をふみしめながら前のめりに家へ急ぐ。
弁菊《べんぎく》のたたずまいは何時《いつ》もとちっとも変っていなかった。東京は日本橋堀留町、呉服問屋が軒をつらねる中に、御影石の砕片をふきつけたモルタル作りの二階建て、上も下も窓ばかりが目立つこけおどかしの角店《かどみせ》で、下が調理場、二階が住居《すまい》となっている。店内はあかあかと電灯がともり、ガチン、ガチンと井戸のポンプが音を立て、その日の洗いものと明日の仕込みで若い衆がいそがしげに立ち働いていた。
ハナはおそるおそる正面の入口に近づいて様子をうかがい、脇へまわって通用口から入って行った。うす汚れた白衣に向う鉢巻、飯釜《めしがま》の水加減を見ていたらしいメシ炊きのクニさんがハナを一瞥《いちべつ》して、けだるげに、
「おかえり」
と声をかけてきた。ハナはそれとなく板場《いたば》を見まわしたが、鼻唄まじりで野菜をきざむもの、山のように積み上げられた弁当箱にかこまれて、汗まみれでタワシをせっせと動かしているもの、神妙な顔で魚に鉄串《てつぐし》を打っている板前――、何時もと特別変った雰囲気《ふんいき》も見当らず、「ただいま」と、クニさんに答えたが、あの事を確かめるのもためらわれ、そのまま、二階へ上ってしまった。
茶の間へ行ってみると、ふだんなら、錦紗《きんしや》の羽織に竹割り縞のお召の着物を着て、ピンと背筋をのばして長火鉢の前に、はすっかいに坐り、居丈高に頑張っているはずのおばあちゃんが、電灯もつけずただ一人ポツネンと、煙管《きせる》で煙草をふかしていた。台所とつながっている次の間からもれてくる光で、その向うの布団におじいちゃんが寝ているのが見え、忽《たちま》ちハナはペタンとその場に坐りこんでしまった。
女中のラクが台所から前掛けで手をふきながら出て来て「おかみさん」とだけ言うと、その場に跪《ひざまず》いてクスンと鼻をならした。
「おじいちゃん、ハナが帰ったよ」
かなりの長い間の沈黙の末に、おばあちゃんがそう言うと、濡れタオルで顔をおおったままのおじいちゃんは、
「おお」
と、力なく答えた。
「やっぱりそうだったんですか」
訊《き》くともなくハナがそう呟《つぶや》くと、おばあちゃんは黙って仏壇へ顎《あご》をしゃくってみせた。
灯明をあげた仏壇の中央に赤い紙が立てられているのが見えた。ハナは立って、おそるおそるその赤紙に手をのばした。葉書大のその紙には、乱雑なペン字ながらまぎれもなく、青山次郎と書いてあり、「右召集ヲ命セラル依《より》テ左記日時|到著地《とうちやくち》ニ参著シ……」と冷たい活字が並んでいる。野球のバットみたいな重いものでドンとミズオチを突かれたような、嘔吐《おうと》に似た不快感がこみあげ、ハナは再びその場にへたりこんだ。
「ちょいとハナさん、いるの。お父ちゃんに赤紙が来ちゃったんだってえーッ」
「どうしたのよぉ、本当にこの家は……あかりもつけないで……」
口々に叫ぶようにけたたましく乾物屋と、筋向いの呉服屋のかみさんが上りこんできた。乾物屋の繁さんは次郎と同い年、呉服屋の山田さんは子供が長男の謙一と同級生で、共に十年来の往き来、そこは下町でつきあいもあけすけだった。
「本当にえらいことになったもんだね、あれっ、おじいちゃん、具合でも悪いのかえ」
山田のかみさんがのび上って電灯のスイッチを入れた。
「ここの家もまだ子供が小さいってのに大変だねえ」
繁さんちのかみさんはかたわらに積んであった座布団を勝手に引きずり出して、横坐りにドカンとその上に乗った。
「腹へったよーッ」
次男の幸二《こうじ》がドドドドッと階段をかけ上って来た。
「おかあちゃん、今日は勝ったぜーッ」
とジャリッパゲの目立つ丸坊主のクリクリ頭で、真黒けの顔に目ばかり光らせた幸二は、ボタンも引きちぎれて前も合わないジャンパーの裾をひるがえし、ピカピカに光らした袖で鼻汁を一つグイとこすり上げながら、ビー玉の入った缶《かん》をガチャガチャと誇らしげに振ってみせた。
追っかけるように長男の謙一が、「幸二、幸二」と叫びながら上って来て、ビー玉のうばいあいでもしているのか、二人は仔犬《こいぬ》のようにじゃれながら、自分たちの部屋へもつれこんでいった。
「さあ、ふざけてないでお風呂へ行ってお出で。御飯はあとあと。早く早く、ほら」
子供たちを風呂屋へ追い立てるハナは、もう何時もとちっとも変っていない風だった。
どこからどう知れたのか、おばあちゃんの花札仲間や、同業の弁当屋のおやじ連中が二人、三人と集って来て、長火鉢をかこみ出し、にわかに活気づいてきた。
駈けつけて来た町内の鳶《とび》の頭《かしら》の元《げん》さんが、
「この度はどうも……若旦那がとんだこったそうで……実に何とも……おめでとうございます」
と、何だか意味不明の挨拶をして話の中に入り、歓送会の段取りから、当日、送って行く人たちの人選までドンドン話が進み、やがては、
「通夜じゃねえんだから、しめっぽくしててもしようがねえや」
誰言うともなく酒になり、一升|瓶《びん》が林立し、そこは弁当屋でお手のもの、マグロのぶつだの、かまぼこだの、卵焼きだのが並び、あっちこっち車座になって酒盛りがはじまった。茶の間からあふれ出した連中は台所の隣りのラクの部屋まで占領している。
何のことかわからず、やたらハシャギまわる子供たちの食事も、勝手知ったる他人のうち、どこの戸棚に何が入ってるかハナよりもよく知ってる近所のかみさん連中が甲斐甲斐《かいがい》しくやってくれる。
おじいちゃんだけは、何があっても起きようとせず、ビロードをかけた布団の襟《えり》を顎まで引き上げて、濡れたタオルで顔をおおったまま動こうともしなかった。
十一時を過ぎてやっと子供たちも寝た頃、御当人の次郎が、ハーレー・ダヴィッドソンの空ぶかしを一つ高らかに鳴らして帰って来た。
飴色《あめいろ》の皮のコートを着、帽子をわしづかみにした次郎が埃《ほこり》っぽい顔で、「やあ、どうもみなさん」と挨拶しながら入って来た。どうやら下で若い衆から事情の説明を受けたらしく、流石《さすが》に緊張しているのか頬だけは少しひくつかせている。
一瞬、ハナと目を合わせたが、次郎はそのまま、車座に引きずりこまれた。
「よーっ大統領」「あとのことは心配ないよ」「なあに、人間一度死んだら二度は死なないよ」
みんなが口々に声をかけ、盃《さかずき》やコップが、次々と次郎に差し出された。
「あーあ、うちのおとうちゃん、酒は駄目なんだからいい加減にしてやってちょうだいよ」
とのハナの制止も聞かばこそ、おとうちゃんが、どんどん遠い人になって行く。
「どうでえ、今日のところはもうこのへんでお開きにしようじゃねえか」
と言う頭の一言がキッカケで、すべての人が帰り、ハナがほっと一息ついた時には、もうすでに二時をまわっていた。予想どおり次郎は酔いつぶれてすでに大|鼾《いびき》――。
さんざめきの後の静けさは、いっそ寂寞《せきばく》として空《むな》しさが一入《ひとしお》だった。
明日も早い。
やっと床についてもハナは寝つかれなかった。
おじいちゃん、おばあちゃんの強硬な反対を押し切り、弁菊へ嫁に来て十年。毎日毎日、忙しさに追われ、幸せなんてしみじみ味わったこともなかったが、とりわけ自分が不幸とも思わなかった。子供たちも丈夫に育ち、これが世間なみの暮しかと、じっくり考えて見たこともない。今、一挙にそのつけがまわってきたのか、今までの私の生きざまは何だったのだろうと振り返ってみないわけにはいかず、ハナは暗闇の中に目をすえていた。
翌朝は何時ものように下のポンプの音で起された。調理場では相変らず戦争騒ぎ。一斗ずつも入るような大釜が、三つ四つ並べられた大きなへっついにかけられ、モウモウと湯煙りが上り、クニさんが機関車の火夫のように動きまわっている。燠火《おきび》のぎっしりつまった一間もありそうな魚焼の上で、串を打たれた魚がズラーッと並んでジュージュー音を立て煙を舞い上げている。その前で向う鉢巻の板前が真赤になっていて、文字通り金時《きんとき》の火事見舞か、薬師様の仁王《におう》像といった風情。若い衆が、五、六本を束ねたタクアンを小口から輪切りにしている。味噌汁《みそしる》だって作るのはバケツですくうほどの量だ。煮炊きに質の悪いコークスを使うせいか、ガスが二階まで上ってきて、建てつけの悪い建て具の間からドンドン入りこむ。ここの家では誰もが朝は頭痛持ちだ。初めて弁菊に泊った人は、翌朝は大抵二日酔いのような顔をしているものだが、おとうちゃんは、これは本当に二日酔いの頭を気遣いながら朝湯へ出かけた。
おじいちゃんは、いったん四時起きして魚|市場《かし》へ出かけては行ったが、帰ってくるとまた、ラクに布団を敷かせて、顔にタオルをかぶって死んだように寝たふりをしている。
ハナは、ラクに子供たちのことを頼むと、着なれた白の富士絹のブラウスに、ツイードの上着と、共地のニッカーボッカーのズボンをはき、身づくろいも早々に家を出た。
バスで桜田門まで行って、そこから警視庁の六階の食堂まで五分ほど歩く。弁菊へ嫁に来たその翌日から、これがハナの日課だった。
食堂は百坪ほどのところで三軒の店が入っている。入口の取っつきにソバと丼物《どんぶりもの》を扱う店があり、カレーライスにトンカツ、オムレツを商う洋食屋が続き、一番奥は、喫茶と弁当を扱う弁菊の出張店だ。客はもっぱら警視庁の職員で、いわば全員が常連だから、オール伝票で現金はごくまれだ。相手がお巡りさんだから間違いはないだろうと思うとこれが大違い。結構ズルイのがいて勘定はごまかす、とぼける、払いが悪い、なかにはまるまる踏み倒して転勤というのがいる。来たばかりの頃のハナには信じられないことだった。馴れてくるとハナは、顔を一瞥して何課の誰と見分けるのも食堂の従業員が驚くくらい早く、それを自分でも苦労に思ったことがない。毎日毎日伝票を見るせいか、筆跡まで一人一人について記憶しているので客はまず逃げられない。注文欄にだけ書いてサインのないのまですぐ誰のものか解る。それでも数が多いから伝票の整理を怠ると散逸したり、日付けがとんだりして、結局は勘定を取りっぱぐれる。サービスして「ありがとうございます」と頭を下げ金が取れないなんて、うんと損なことだと、何時も店の女の子に言うのだが、彼女たちはなかなかハナのようにはやってくれない。自分の懐が痛むようでなければ、それだけの気働きは出来ないものかもしれないと半ば諦《あきら》めて、せっせと自分で励むほかはなかった。出前にサービスに洗いもの、その間に、仕込みに集金、伝票の集計、結構忙しく坐る間もない。初めのうちは一日中立っている、ただそのことだけでガックリと参ってしまったものだった。
やたらと忙しくはあっても、長年とりくんで馴れ切った作業であってみれば、ハナの不安や悲しみが取り紛れて消えてしまうわけでもなく、なればこそ胸の底に澱《よど》んだ不快感が時折、ダボンと音を立てて揺れかえり、背筋を風がぬける。その日もミスこそしないが、心ここにあらずで、そこは以心伝心というか心憎いまでこちらの心のありようを気取る人がいて、「どうかしたの、おばさん元気ないよ」と声をかけて行く。
明後日《あさつて》の朝にはもうおとうちゃんは入隊して、このあたしは「出征兵士の妻」「銃後の婦人」、新聞の見出しや、雑誌の広告ではよく見る言葉だが、まさか我が身のことになろうとは露知るよしもなく、ひたすら他人事《ひとごと》と深く考えたこともなかった。まかり間違えばおとうちゃんは名誉の戦死、靖国の英霊となって、おのれは戦争未亡人。未亡人とか後家って言葉も縁遠く自分にあてはめてみたことさえさらさらない。そんなことを考えると、ワーッと大声出したい衝動が身内に湧《わ》き立って、とうとう辛抱たまらず、店の忙しさが一段落ついた時、
「ナミちゃん、あたし帰るからあといつものように頼むよ」
唐突な言い方に店の子たちは戸惑うかと思いきや、むしろ待ちうけていたように、早退《はやび》けをすすめてくれた。
「こっちはいいですよ、安心して下さい。みんなでちゃんとやっときます」
「何でしたら、明日は休んでも大丈夫ですよ」
結構、気を遣ってくれていたのだ、と二人の心根に感謝して、つい涙がこぼれそうになった。
「明日の晩、お宅へ行きます、旦那に渡したいものもありますし……」
お守《まも》りでも持って来てくれるつもりなのだろうか、もうこの子たちのことを気がきかないなんて言うまい、とハナは思った。
男五人、女の子が四人もいる、みんな手なれた連中で、まずここはこのまままかせて大事ない。それぞれに言葉をかけるのももどかしく、ハナは警視庁を飛び出した。
帰れば弁菊は何時ものとおりで外目には何の変りもない。弁菊と金《きん》で大書した緑色の配達用の箱車がズラーッと道端に並び、せわしげに立ち働く店のものたちが見える。
ロクちゃんが四斗|樽《だる》のふちにゴム長で立ち上り、六尺丸太をぶっ違えにして下に五寸ほどの巾の板を打ちつけた芋洗い棒を樽の中にねじこんで、舟でも漕《こ》ぐようにして芋を洗っている。ロクちゃんと言ったって本名は他《ほか》の若い者も知りやしない。ハナも無論、知らない。五郎だか悟一だか、本来ならばゴーちゃんの筈が、前からゴーちゃんというのが一人いる、お前《めえ》、あとから来たんだからロクちゃんにおなり、といった実にいい加減な命名で、弁菊へ来たその日から足かけ六年、ロクちゃんはロクちゃんだ。他の若い衆にしてからが、本町方面を配達して歩くから「本町」、出身が越後だから「エチゴ」、暮れの餅つきの時に助《すけ》っ人《と》に来て、そのまま居ついてるというんで「助さん」、どれもこれもそれなりに曰《いわ》くはあるが、ほかじゃ通らない。出先で事故でも起して本名で連絡をうけたとしても、さて誰のことやら呼び名が出るまでわかるまい。
一事が万事こんな風で、弁菊の商売のやり方は、その日暮しのドンブリ勘定、足りなきゃ買って来い、余ったものは捨てちまえ、支払いも集金も、多かったのか少なかったのか、月末年末にならなきゃ明らかにならず、今月は忙しかったからさぞ業績も上ったろう、今月は暇だから悪いかなという按配《あんばい》。店の者は集金に出向いても半分しか店へ入れず、半分握って玉の井へ、支払いに行った奴は半分払ってあとの半金は懐へ、そのまま走って吉原へ捨ててくる。
流石のことに、こんなやり方じゃ商売やってても仕方がねえよと次郎が言えば、おじいちゃんは「俺《お》ら知らねえ、俺ら知らねえ」と二日も三日もふてくされて店の者に当りちらす。警視庁の食堂も、皇宮警察のまかないも、こんなおじいちゃんについて行けないと思った次郎が、自分だけでも納得のいくようにやろうじゃねえかと始めた仕事だった。
二階へ上ると清《せい》さんが紺のつむぎの着物に博多の帯で帳机を前にして鼻の頭に眼鏡をのせ墨をすっていた。
「おや、おかみさん、この度は大変なこって……」
清さんは若造りだがたしか四十は越えてるはず、何でも元、質屋の番頭をしていたとかで所帯を持つまで家で番頭をしていてくれたことがあるという、読み書き、そろばんはもとより何事につけても器用な男で、子供たちの模型飛行機でも竹馬でも凧《たこ》でも何でもこしらえちまう。
その清さんの屈託なさそうな顔を見て、ハナはちょっと安堵《あんど》する気分になった。
盆暮の挨拶から、祝儀不祝儀の一切、時には看板書きまで、何か事があれば清さんが呼ばれ、呼ばれれば早速やって来ていやな顔一つせず、駄《だ》洒落《じやれ》をとばしながらきちんとやってくれるのだ。ハナの小引き出しの中には、ここの家へ嫁に来た時の祝儀の控えも、謙一と幸二の出産の時のお祝いの帳面も、みんな大事にしまわれている。どれも清さんが作ってくれたもので、清さんはその都度、半紙を二つ折りにして紅白の水引で綴《と》じ、表紙に角樽《つのだる》を書いたり、デンデン太鼓をあしらったりして気のきいた大福帳を作り上げ、読み易い字で几帳面《きちようめん》に諸々《もろもろ》のことを書きこんでくれている。
帳机の上には、既に餞別《せんべつ》のノシ袋がうず高く積まれ、清さんの後ろには菰《こも》かぶりまで据えられていて、清さんは、お手のものの手造りの帳面に餞別を書きこんでいる。表紙には麗々しく「青山次郎出征御奉志控え」と墨痕《ぼつこん》鮮やかに書かれ、その上ごていねいに日の丸と旭日《きよくじつ》旗のぶっ違いの絵が添えられている。それを見てハナは、おとうちゃんがいよいよ兵隊に取られて行く、もうこれは逃れられないことなんだと念を押されているようで、何時もなら「あら清さん、よく出来たわねえ」という程の帳面の出来ようが、いっそ憎らしくさえ感じられた。
聞けば、おとうちゃんはよんどころない所へ挨拶に行くと出て行ったきりだという。おじいちゃんは相変らず顔にタオルをかぶってふせっている。おばあちゃんも何をやっても手につかず、一日中、立ったり坐ったりで、祝いにかけつけてくれた人たちへの応対もろくに出来ないでいるという。
「おかみさん、本当にいいんですかい?」
清さんはハサミを持ってからも何度も念を押した。
ハナは鏡台の前にキチンと坐って自分の顔をキッと見つめながら、といってもそれほど思いつめているわけでもなかったのだが、
「いいのよ、清さん、思い切り短くしちゃってちょうだい」
と鏡の中の清さんを見た。
「どうもねえ、……何だか巴御前《ともえごぜん》に立ち向って行くようでおそろしいね」
白ダスキで高々と袖をからめ上げた清さんは、まるで仇討《あだう》ちでもするような姿。若い時の道楽の名残りか貧弱な筋彫りが二の腕からチラッと見えた。俄仕立《にわかじたて》の髪結いさんにもってこいの清さんは、自信なさそうな口とは裏腹に少しずつだが大胆に、ジャキッ、ジャキッと音をさせてハナの髪を切っていった。
「あらあら、いやーだ、ねえさんどうしたの」
手伝いに来ている妹のハツがうしろから、裸のままの長ネギの束と竹の皮の包みを持って、あねさんかぶりで鏡の中へあばれこんできた。
「見ての通りでさあ、出陣する夫に操を立て、自慢の黒髪をバッサリ落して尼になっちまおうってえわけで……天晴《あつぱれ》武人の妻!」
清さんは、満更嘘でもなさそうに真面目な顔つきで、なおも切りつづける。
「嘘だよ、女の髪の毛が入った腹巻きをしてると弾丸《たま》が通らないって言うからね、おとうちゃんの腹掛けを作るんだよ」
ハナが苦笑しながら打ち消した。
「どうでえ、ハッちゃんのも入れてってもらっちゃあ、そうそう、縮れっ毛の方がいいってえから、俺が下の毛を切ってやるぜ」
「やーだよ清さん、馬鹿」
ハツは、清さんをちょっと睨《にら》んでからハナを見て、
「あらやーだ、ねえさんターキーみたいになっちゃった」
清さんは切り落した髪を揃《そろ》え、和紙にはさんで平らにならして四方を袋に閉じ、麻の葉にさしこに縫いとり、ちょうど尺二寸角ほどのものにこしらえてくれた。
ハナは、もう何年も針なんて持ったこともないし、もともと幾ら習っても浴衣も縫えない性格《たち》だから、とうにお針は諦めていたのだが、この腹掛けだけは自分で仕立て上げたかった。白地のネルで四角な、俗にいう金太郎さんだった。
秋の陽はつるべ落しとか、五時半になるともうすっかり暗くなる。知らせを受けた親類の者たちが続々集まって来て、又々、家の中はさわがしくなった。
初めに来たのは次郎の兄の太郎だった。ハナは、実はこの男が一番嫌いだった。コテで縮らした髪を油で七三にまとめ、妙にツンとした鼻に金縁の眼鏡をのせて、芸人みたいなゾロッとした鉄色の塩瀬に、凝った裏地もこれ見よがしな銀鼠《ぎんねず》の羽織、総絞りの兵児帯《へこおび》、これだってもとはといえば、ハナが次郎のためにこしらえたものだ。その帯にからめた金鎖が又うさんくさい。太郎は、来た時から酒くさい息をはいていた。
もともとこの家は、おばあちゃんの兄の汐見《しおみ》菊太郎が始めた弁当屋で、その名も菊太郎の一字をとって弁菊。その後、菊太郎夫婦が太郎、次郎を残して他界し、妹のこう、つまりおばあちゃんがおじいちゃんといっしょにこの店をついで、太郎に汐見の姓をつがせ次郎を自分たちの養子にした。
そのことが太郎をそうさせたのか、太郎がもともとそうなのか、何となく、世の中はすに見るようなすねた性格で、若い頃から書画|骨董《こつとう》をもてあそび、働いたことがない。出来の悪い子供ほど可愛いというが、それが当っているのか、あるいは何やら後ろめたいというか、太郎|不憫《ふびん》の気持があるのか、太郎が金をせびりに来ても、おばあちゃんは厭《いや》な顔一つしない。来れば二、三日は我物顔で逗留《とうりゆう》し、そこら中に誰が使ったかわからない怪しげな皿、小鉢を並べる。ハナはそれも気味が悪かった。
その太郎が腹掛けを見つけて、
「おお、ハナ、お前針が持てるのかい、へーえ、珍しいことがあるもんだね、天気が変りやしねえかい」
と、のぞきこんだ。
「あにさん、およしよ。ねえさんはおとうちゃんの弾丸《たま》よけの腹掛けを縫ってるんだから……」
と、ハツが救ってくれた。
そのうち、すき焼の鍋《なべ》が良い匂いを立てる頃、乾物屋の繁さんと幇間《たいこ》のちょっ平が、これも少し酔ってやって来た。
昨夜同様、あっちこっちに人が車座になって、てんでんに飲んだり喰ったりしているが、米寿を越した御隠居が妾《めかけ》の家で頓死したような感じで誰もが落ちつかない。ハナも、ちょっと身のおきどころがなかった。
ドドドドッと、一同が一瞬ハッと腰をうかすほどの音がして、みんな一斉に階段の方を見た。
「おかみさーん」
絶叫に近いほどの呼び声が下から聞えてきた。ロクちゃんの声だと思った時には、もうハナは宙をかけていた。
「医者だ」
と誰かが叫んだ。ふだんから階段の足元が暗くて、幸二が駈け上りはなに向う脛《ずね》をぶっつけ、「弁慶の泣き所を打ったッ――」とベソをかきかき上って来る度に何とかしなければと思っていた矢先だ。
落ちたのは謙一だった。ハナが駈けつけた時には、ロクちゃんの腕の中で、謙一は眼を半白にしてグダッとしていた。「謙一、謙一」と呼びつづけて額に手を当てると馬鹿に熱い。ハナは気も動顛《どうてん》して、ロクちゃんの手からうばいとるように抱きとった。謙一は息はしているようだが意識はおかしい。ハナは、なおも呼びつづけた。いきなり謙一がウッと大きなゲップをした。清さんが手足を調べ、そっと首を支えていたが、そのうち笑い出した。
「おかみさん大丈夫だよ、おどかしやがって……謙ん坊、酔っ払ってるよ、見てごらんよ、酒くせえったって……この野郎」
清さんに言われてみれば確かに謙一はヘベレケに酔っているみたいだった。
ロクちゃんの話だと、店の連中も上り框《かまち》で飲んでいたとのこと、その時、謙一は皆のうしろからそうっとまわって、茶碗の酒を盗み飲むのが面白くて、何時の間にかしたたかに飲んだらしいというのだ。謙一は変に調子者のところがあって、椙森《すぎのもり》神社の祭礼の折など、近所の子供に先走って御神酒《おみき》所で酒を飲んだりすることがあった。それにしても、おだてあげて飲ませる方もどうかと思うと、ハナは御神酒所に談じ込んだことがあるが、率先して飲ましているのがおじいちゃんとわかって、どうにも出るも引くもならず赤恥をかいたことがある。
環境がこんな風だから謙一は今年学校に入ったばかりだが出来は良くなく、素直なところはあるが人のいいオッチョコチョイで、先々がちょっと心配だった。おばあちゃんは甘やかすだけ甘やかして、
「なーに、弁当屋のガキが学者になるわけじゃあるまいし、丈夫が一番」
と、取り合わない。近頃では幸二までが、
「心配いらねえよ、そのうち慾が出れば出来るようになるさ」
と、うそぶく始末。
幸二の方は我が強く、年端《としは》もいかないくせに小生意気で、俗にいう目から鼻へぬける抜け目のない悪童で、やることが一々ふてぶてしい。仕置のためと押入れに閉じ込めれば、中で小便をまきちらして客用の上等の夜具を台無しにし、
「出してくれねえもの仕様がねえよ、出もの腫《は》れもの、ところかまわずだい」
と、小鼻をふくらませて泣きもしない。
おじいちゃんの言葉で言えば「畳屋の肘《ひじ》で、すれきっていやがるんだ、この野郎」
去年の十一月にも、お酉様《とりさま》の晩に、おじいちゃんが店の者をつれて、縁起ものの熊手を買いに行った。助さんの肩車で幸二もついていったが、おじいちゃんだけ撒《ま》かれて帰って来て、ついて行った若い衆はそのまま、明けんぼ。大の男がいっしょに居るんだ、大事なかろうとタカをくくっていると、翌日、幸二を吉原へ人質に置いて若い衆だけシレッとして帰って来た。おじいちゃんの怒るまいことか、いかな悪ガキとはいえ年端のいかないものを、こともあろうに吉原にと、青筋立てて地団太ふんだ。さあ、誰を迎えにやろうたって、場所が場所だけに、私が行きます、自分が参ります、と言ったってミイラ取りがミイラになることはわかりきっているから、オイソレと出すわけにいかない。本当のこと言っておじいちゃんだって当てにはならない。昔の馴染《なじ》みにひょいっと出くわさないとも限らない。とうとう頭《かしら》が呼び出されて使者となった。
「何てことしやがる、とんでもねえ野郎共だ」
と頭はあわてて迎えに行ったが、
「ふざけたガキだぜ幸ちゃんは……。ビスビス泣いてでもいるかと思いきや、花魁《おいらん》どもとキャッキャ、キャッキャ言って遊んでいやがって、俺の顔見るなり、どうせのことだ、もう一晩居続けだ、とぬかしやがった」
と呆《あき》れかえっていた。
店へかかってくる電話などにも前から幸二は平気でどんどん出て、
「渋谷商店さん、三本追加ですね、はい、承知しました、毎度ありーッ」
受け答えも見よう見真似で堂に入ったもの。頼もしいやら、末おそろしいやら、おかしな子供で、ハナも気が気じゃない。そのくせ甘ったれで、何時までもハナの懐をさぐるようなこともある。
何にしてもハナは、この二人の子供が心配で心配で仕方がなかった。おとうちゃんがいない間、この子たちはどう育って行くのだろう、近所で評判の腕白が、大病にもかからず怪我もせず、やっと丈夫に育っても、甲種合格でお国のため、いやもおうもなく入営させられる時、おとうちゃんはやっぱりタオルを顔にあてて寝てるのかしら……。やっと除隊で帰っても、何時の日か又、赤紙が来て、二人が二人とも持っていかれるようなことになるのだろうか、乃木大将の話じゃないが、二人が二人、取られた息子が戦死した家もある。
今更どうあがいても仕方がない、この上はおとうちゃんに何でもいいから無事帰って来てもらわなきゃと、ただ一心にハナは弾丸《たま》よけの腹掛け縫いに心をくだいた。
謙一は、その後ひとしきり唄をうたったり、馬鹿のように笑ったりしていたが、そのうちラクに背負われて寝床へ運ばれた。まわりの大人がそんな謙一を無責任に笑っているのを見てハナは腹を立てた。
「ちょっ平なんかが行きゃいいんだよ、お前みてえのに、この非常時にゴロゴロしてムダ飯喰ってられたんじゃたまんねえや」
乾物屋の繁さんが口をとがらせて、ちょっ平に唾をとばした。
「そうだよ、木樵《きこり》みてえな図体《ずうてえ》しやがって、下手なカッポレなんぞ踊ってねえで弾丸よけにでもなっちまえ」
太郎もかなり入ってる風な声でそう言った。
ハナは、太郎が酒の上が良くないことを知っているので、ちょっとハラハラした。
そういえばちょっ平は、御座敷がかかるより引越しの手伝いを頼まれる方が多いと聞かされている変な幇間《たいこ》だった。
「あたくしは大丈夫。ええ、間違っても兵隊になんぞ取られません。検査の時にそう言われましたよ」
派手な小紋の着流しのちょっ平が徳利《とつくり》を持ったまま前に乗り出してくる。
「ごらんなさいよ、この目……。ね、あたくしのこの右眼が子供ン時の怪我、ねッ、おかみさん、鉄砲をこうかまえて、左眼つぶってネライをつけようとする、するってえと全然見えないってヤツ、アハハハ」
ハナは思わず小壁に張りめぐらした額を見上げた。どれもこれも次郎の現役当時の射撃大会の賞状だった。
ちょっ平もこの額は何度も見ているが、あらためて立って見まわした。
「何たってたいしたもんだね。若旦那は鉄砲と銃剣術の名手だってね、馬鹿な上手《うま》さ、ねッ、だから真先に持っていかれちゃうんですよ」
次郎がどうしてそんなものが上手なのかハナには不思議だったが、近衛《このえ》歩兵第一|聯隊《れんたい》の代表として大活躍したというのが、おじいちゃん、おばあちゃんの自慢だった。
「今度どこかでしくじったらねッ、あたくしは小指つめないで、この人指し指をつめてもらいますからね、これがなきゃあなた、引き金が引こうにも引けないってヤツで……アハハ……ねッ、大将!」
ちょっ平は、もう足元がおかしかった。
「どのみち、兵隊ってものは粋《いき》なもんじゃありませんよ、重い荷物を背負《しよ》わされの、夏冬かまわず汚なずくめのなりをして、馬糞《まぐそ》まみれになってあちこち歩かされて、アルミのメンコで盛り切りメシ、勘弁してもらいやしょう、おう、いやだ、いやだ、兵隊さんはいやだ」
踊るような手つきでそういうと太郎のところへよろけこんだ。
太郎は、ちょっ平のツルツルに剃《そ》った頭が手元へ来るのを見定めて、いきなりピシャリと引っぱたいてから、
「馬鹿野郎、何てこと言いやがんだ、場所柄をわきまえろ、出征兵士を送るってえ家で何てこったい、ハナの縫ってるものを見てみろ、馬鹿!」
と、睨みつけた。
「まあまあ太郎さん、そんなに言わねえで……ちょっ平も悪気はねえんだ」
繁さんがとめに入った。
「悪気で言われてたまるけえッ」
太郎は、まだ気色ばんでいる。
ハナは縫っていた腹掛けを、さっと傍《そば》において、
「いいんだよ、あたしは気にしてやしないから……さあ、仲良く飲み直してちょうだい」
と徳利を探しかけると、ちょっ平がいきなりワーッと泣き出した。
「あっしの親父はね、長唄じゃ名手といわれた人だったんだ、それがね、兵隊に取られて死んじまったんだよ、名誉の戦死とか何とかいったって、無理矢理、連れて行かれて殺されちまったんだ……」
子供のような泣き顔だった。
ふだんの様子からしてこの人が戦争のおかげで苦労してるんだなんてとても奇妙に思え、いっそ哀れだった。
騒ぎを聞きつけたのか清さんが新しい銚子《ちようし》を何本か盆にのせて持って来てくれた。
「かなり派手な歓送会になってるようで……、しかし何です、先々のことを考えると何が幸せで何が不幸かわかりやしません」
その時、清さんの話の中で、ハナは、はじめて人間万事|塞翁《さいおう》が馬≠ニいう言葉の意味を教わった。
「そうかね、俺なんかも因果と丈夫だから何時お呼びがあるかわからねえし、まあ首を洗って待っていますか」
繁さんは首筋をピシャピシャ叩いて、
「でもなあ、出来ることなら行きたくねえやなあ」
と、しみじみ呟いた。
太郎がフンと一つ鼻先で笑うと、
「でえじょうぶだよ、前科のある奴を取るほど、まだ日本は困っちゃいねえやな」
と言った。
このあと、繁さんが「なにおーッ」と言って立ち上ったのは見えたが電気のソケットでも踏みつぶしたのか、コードでも引きちぎりでもしたのか、バチバチと音がすると家中停電して真暗闇になった。何だかまだ、ガチャガチャと音がし、大声が聞えていたが、ハナは腹掛けを抱えるようにして部屋の隅に逃げた。
騒ぎがおさまってしばらくして次郎が帰って来た。これは後で清さんから聞いた話だが、この日、朝から次郎は大どこの得意先から役所関係と飛び歩き、留守中のことをくれぐれもと頼んでまわっていたという。
主役が帰ったと、又家中が沸きかえり、酒だ肴《さかな》だと飲み直しになって、コップが飛びかって挙句は昨夜と同じ。
やっと二人きりになれた時には、次郎は正体もなく寝込んでいて、何を言っても高鼾《たかいびき》だけが返ってくる。
何時の間に床屋へ行ったのか刈りたての頭が青々として、撫《な》でるとブラシのようにザラザラしている。
こんなことってあるのだろうか、ハナは下町の暮しをこんなに疎《うと》ましく恨めしく思ったことはなかった。
これが今生の別れになるかも知れないせっぱつまった今日明日なのに、ゆっくり話もしていられない、もっともゆっくりした時間がたとえあっても、今更、何を語り合えばよいのか、それさえ定かでなく取りとめのない気持のまま、ハナは、ただイライラしていた。
明日からこの家はどうなって行くのだろう、陽気で人は好いが好色で、夕方になれば妾の家へ、刺身だ、卵だと店の物を持って出かけて行っては夜おそく帰り、朝一番で魚|市場《かし》へ行く働きもののおじいちゃん、丈夫で仕事好きは有難いが全くの文盲。
読み書きは達者でソロバン高く、社交家で商売上手だが、すべてドンブリ勘定で収支がわからず、夜になれば仲間を集めて花札賭博に熱中しているおばあちゃん。
頼りになる番頭とておらず、店の者は警察から押っつけられた行き場のない家出人みたいなのが大半で給料日の翌日には必ず二、三人が吉原で明けんぼ。検便の時に他人のものをもらって差し出して、自分が隔離病棟に入れられて理屈に合わぬとヘラヘラしているような手合いなのだ。
次郎がいなくなったからといって、手控えることも、止めることも出来ない弁当屋|稼業《かぎよう》。ハナは今更のように、大きすぎる荷物に吐息をついた。
堀留町から横山町にかけての呉服問屋二、三十軒の店員の三度の食事。堀留、久松、丸の内のそれぞれの警察署の留置人の弁当の配達。警視庁の食堂、皇宮警察の署員の三食分の賄《まかな》い。|〆《しめ》て千本以上、一年三百六十五日、毎日欠かすことの出来ない仕事だけに始末が悪い。
子供たちのこともある。あれもこれもと考えはじめると、体中がカーッと熱くなってきて、ハナは、眠るどころではなかった。
あくる日は朝から雨だった。煮えきらない天気で道路がぬれ、あちこちに水溜《みずたま》りが出来るくらいになると、サッと上って薄陽がさし、そのうちに又、霧のように細かい雨があたりをぬらしている。
こんな時には一体、何を着ればいいのか、一応は祝い事ではあるが、柄物のゾロゾロしたものを身につけるのは、ハシャギすぎのようだし、かといって法事にでも出向くようななりでは打ち沈んでいる風でいやだし第一縁起が悪い、ハナは散々迷った末に、大島の着物を着た。
頭《かしら》が来て、方々から届いた幟《のぼり》や旗を、家のまわりに飾りつけた。一丈もあるような幟が二十本も立てられ、窓の手摺《てす》りという手摺りには百本を越すほどの三尺の小旗が翻り、日の丸のいっぱいついた花輪が角店の店頭に並べ立てられた。
「どうにも派手なもんですな、店全体が満艦飾の軍艦みたいだね、それとも何ですかね、大漁船が一斉に港へ着いたってところですかね」
入ってくるなり清さんはこう言った。
ハナは暮れの餅つきを思い出して、ちょっとだけ華やいだ気分になった。
弁菊では毎年十二月の末、夜っぴて餅つきをやった。店の前に大きな臼《うす》を据えて、得意先からの注文のお鏡だの、なまこだのを何臼もつき出す。もうもうとせいろを蒸《ふ》かす湯気の中、裸電球を幾つも吊《つ》り下げ、店の若い衆が肌脱ぎになって、向う鉢巻でスッポン、スッポンと景気よく杵《きね》をふるう。大勢の見物が集まって「もっと腰を入れなきゃ……粘りが出ねえぞ」「この臼ァ、動きやがんねえから……」拍手や野次の応酬でドッと笑い声が起きる。近所の呉服屋の番頭さんが故郷を思い出して、それこそ昔取った杵柄《きねづか》で飛び入りし、鮮やかな腰つきで杵をふるって野次馬を喜ばす。子供たちに、つき立ての餅をふるまう。暮れの餅つきは堀留町|界隈《かいわい》での評判の行事になっていた。
「頭、何でもいいから、なるべく盛大に景気よくやっとくれ」
と、昨夜おばあちゃんが頭に頼んだという。何事につけても派手好みなおばあちゃんの開き直ったヤケクソ気分が、目一杯現われているように思えた。威勢良くといいたいが、しっとりと垂れ下ったそれらの旗には、どれも「祝出征、青山次郎君」と大書され、贈り主の名が記されていた。
三時から行われる筈の壮行会に来てくれる人たちのため、お握りや|煮〆《にしめ》の準備でみんなが慌ただしく立ち働いている最中に、ロクちゃんが顔色を変えて飛びこんで来た。
「おかみさん、大変だよ、乾物屋の繁さんとちょっ平が、ゆうべフグに当って死んだってよ」
「ほんとかい」
ハナには信じられなかった。
「人の生き死にじゃ、嘘はつかないよ」
とロクちゃんは口をとがらす。
居合わせたハツやラクも水を浴びせられたように立ちすくんだ。
「ゆんべ、あんなことがあったから二人で飲み直しに行ったんだなあ、ちょっ平の野郎、弾丸《たま》に当らねえでフグに当りやがって……」
清さんもそれっ切り言葉をつまらせた。
ちょっ平も繁さんも、あんなに兵隊に取られるのをおそれていたのに、フグで死ぬなんて……ハナにはまだ信じられなかった。それと、不思議に、何時《いつ》もほど可哀そうとか、気の毒にと思う実感が即座に湧いて来ず、人の訃報《ふほう》に接するにしても、こちらの立場で感じ方が違うものだと、いぶかしく思った。
もしかしたら、ゆうべのやり取りの中で、ちょっ平か繁さんにおとうちゃんと代ってもらいたいと願う気持があったのじゃないかとうしろめたい気持もあった。人間万事塞翁が馬か、明日の命は知れないもの、ちょっ平や繁さんの死んだのも大変なことには違いないが、正直言って、おとうちゃんの出征の方が、ハナにとっては、ぐんと切実な問題だった。
「ちょっ平は死ぬ前に、どこかで出逢った芸者衆に、うちの若旦那の千人針を頼んでたってよ」
ロクちゃんが、そう言った。
そういえば、おとうちゃんは羽織や帯をよくちょっ平にやったりして面倒をみていたのをハナも知っている。遊び好きのおじいちゃんおばあちゃんが、組合の連中と、それ大山参りだ、成田山だと出かけるたびにちょっ平をつけてやっていた。ちょっ平が又よく気をまわして我がままな二人の身のまわりを見ていたようだった。
そのちょっ平も、もういない。それにしても何もこの最中《さなか》に死ななくってもいいのにとハナは、理不尽にも独りつぶやいた。
昼もとっくに過ぎた頃になってやっと起き出して来たおじいちゃん。すぐそれとわかる、すっかり泣きはらした眼をしょぼしょぼさせて、自慢の結城《ゆうき》の着物も前下りでだらしなく、はだけた胸元もいとわず、対《つい》の羽織も曲っている。
ふだん諍《いさか》いばかりで、息子と碌《ろく》に話もしないおじいちゃんだが、後継ぎの次郎をどんなに頼りにしていたかがうかがわれ、哀れも一入《ひとしお》。誰に何を言われてもただ「ああ……」と白痴のように上《うわ》の空、素人相撲の大関でもはりそうないかつい身体《からだ》が一夜で十も歳を取ったように足元まで危うく見える。
おばあちゃんは「戦争に行ったからって、なにも死ぬと決ったわけじゃなし、えーえ、次郎はきっと元気で帰って来ますよ。そん時は一つ盛大にお祝いしますからね」とやけのように煙管《きせる》を叩きつけている。
学校を早退《はやび》けして来た謙一と幸二に服の着替えをさせる。謙一は慶応型の開襟《かいきん》の学生服、幸二は去年の七五三の祝いに着た海軍大将の服を着たがった。金モールの参謀肩章もいかめしく、腰に飾りのついた短剣を吊るのが腕白らしく嬉しいのだ。
おとうちゃんは、在郷軍人の制服に軍帽、「出征軍人」と書いたリボンのついた赤襷《あかだすき》をかけている。
二時に親類一同と出入りの職人まで打ち揃って幟を押し立てて椙森神社に出かけて武運長久の祈願、万歳を三唱して家に戻れば、国防婦人会、在郷軍人会、町内会、出入りの商人や得意先の人たちと、店の前に黒山のように集まってくれていて、いよいよ町内会長の開会の挨拶で壮行会は始まった。
在郷軍人地区代表、友人代表、婦人会代表と、かわるがわる祝詞が述べられるが、「名誉の応召」とか、「まったくもって喜ばしく」「お国の為に一同に代り」とか繰り返され、力説されるたびに、東洋平和とおとうちゃんのつながりがハナにはどうしても実感として理解出来なかった。
やがておとうちゃんが中央にすすんだ。
「本日は、御多忙中のところ、不肖、私のために、かくも盛大にお集まりいただきまして……」
型通りの挨拶だが、威風堂々、身ごなしも颯爽《さつそう》と若々しく、声も凛《りん》として通りがいい。見送る側の激励の言葉の方が、どれも貧弱に見えた。
最後に堀留警察署長の音頭で、万歳三唱。出征軍人、青山次郎君を送る壮行会はお開きとなった。
店に入れば内輪のものだけ集まって、太郎が菰かぶりの鏡を威勢よく打ち割り、皆で柄杓《ひしやく》と枡《ます》で乾盃《かんぱい》、頭の音頭で三本〆、もう凱旋《がいせん》したような騒ぎだった。
夜ともなると、それはもう本格的な大宴会で、二階の八畳と十畳の間の襖《ふすま》を取り払って、膳を並べ、床の間の前に次郎をすえて、宵の口から客がつめかけた。
魚|市場《かし》から届いた大鯛《おおだい》が早速、活作《いきづく》りにされ、料理が幾皿も並び、結婚式以来の忙しさだった。
あの知らせがあってから三晩もこの騒ぎ、足元から鳥が立つようなせわしなさ、誰が鳥やら猟師やら、集まって来てくれている人たちは、皆それぞれに良かれと思ってやってくれているんだろうから断わるわけにもいかず、ハナが今更どうしたいと思ったって、どうにもなるわけじゃなし、どうすればもっと気持がしっくりするのかさえ、想像もつかなかった。
今にして思えば婚礼の時だって同じようなものだった。ただ、あわただしく、何が何だかわからぬうちに時が過ぎ、気づいてみたら、弁菊の嫁だったというのが実感。世間並みの新婚旅行にも行かず、又、そのことに不満もなく、次郎といっしょに居られるその一事だけが目的でもあり、救いでもあった。
十六の時に次郎と出逢い、逢った途端、好いたらしいと思い、ただただ夢中だった四年間、板橋の駄菓子屋の娘と、弁菊の若旦那の恋だった。それから次郎の入営、金釘《かなくぎ》流の葉書で想いを伝えるもどかしさ、除隊を待って矢も楯《たて》もたまらず次郎を追って人形町の末広の隣りのカフエーへ住み込みで入り、他人目《ひとめ》を気にして重ねる逢瀬《おうせ》、末は夫婦《めおと》と勝手に誓い合っても、おじいちゃんおばあちゃんにしてみれば、目と鼻の先のカフエーの女を家に入れるわけにもいかず、スッタモンダの一年間、「次郎さん、どうするの」「仕様がねえから、上方《かみがた》へでも逃げ出すか」と次郎もやけになりかけた。
そのカフエーが又、堅い家で、店が終ってからどこかで逢うというわけにもいかず、蛇の生殺し、どっちつかずでただイライラ、痛いような切ないような、焙烙《ほうろく》で煎《い》られるような感じが又悪くなく、何時しか甘い喜びになっていた。
ハナの干支《えと》が丙午《ひのえうま》なのも大きな障害だった。どういうわけか、昔から丙午の女は亭主を喰い殺すだの、火事を招くだのと碌なことは言われない。同じ姉妹の中でもハナは子供の頃から父親にも別の目で見られていた。生まれ年ばかりは自分で決めるわけにもいかぬが道理、あたしばかりが何故と理不尽な差別に腹の立てつづけ、親を呪《のろ》った。
奉公先でもちょっと蓮っ葉な振舞いでもすれば、やれ丙午で気が強いの、大人しくしていれば気味が悪いのと、何につけてもいびられる。
ハナも何時しか、そのことを嘆いたり悲しんだりしなくなり、その分、向う気が強くなり、しぶとく開き直るようになっていた。
おじいちゃん、おばあちゃんも八方手をつくして、もっといい嫁を、次郎にふさわしい女をと見合い話もあれこれ当ったらしいが、いよいよ次郎の決意が堅いと見きわめをつけたか、不承不承少しずつ折れてくる気配を見せはじめた。
今考えると寄席での見合いも変なものだったが、末広の座席でおじいちゃん、おばあちゃんにはじめて逢って、いよいよ正式にハナの実家へ使者に来たのが、次郎より十一|年上《としうえ》の、その頃、弁菊の番頭をしていた清さんだった。
ハナは一旦実家へ帰され、白河のおじいちゃんの兄が仲人になって話がすすんだ。
それからが又大変で、二十二で嫁に来ると、二は荷をかつぐといって良くない、まして二が重なったらえらいことだ、二十一のうちに挙式をしないならこの話はなかったことにしてくれと無理難題、足元を見てのいやがらせだった。よくよく、おばあちゃんは二人をいっしょにさせたくなかったらしい。
もとよりハナの実家は楽じゃない。あたふたと準備にかかったが、弱り目に祟《たた》り目、泣きっ面に蜂《はち》とはこのことか、その年の暮れにハナの父親が死んだ。
ハナはもともとこの父親が好きじゃなかったから、死んだこと自体は悲しくも何ともなかったが、結婚話がこわれるのはつらかった。すぐ清さんがやって来て、一応、この話は御破算になった。
その後、次郎がヒョイと二、三日家を飛び出すと、急転直下話が元にもどり、なあに節分までは二十一だと何とも都合のいい勘定で一月二十一日にハナは二十一歳の花嫁で弁菊へ嫁いで来た。
その晩は、めずらしくハナも酔った。はじめのうちは幾ら飲んでもまわらぬ感じで、頬一つ火照るわけでなし、苦いだけの酒がますます気持を打ち沈ませて行くよう、むしろ早く酔いたいと願ったほどだった。あちこちでつがれる冷や酒が何時しか重なり、思わぬ量になって足元もおぼつかなくなってきた。そのうちに愚痴や憤りが一気にワッと噴き出してきそうでそれが恐ろしく、ラクに助けられて子供たちの部屋へ行って少し休んだ。
しばらく、うつらうつらしていたはずだが、急に胸が悪くなって洗面所で少し嘔吐《もど》した。水栓につかまって鏡を見ているうちに、何だかとても自分がみじめで、可哀そうに思えてきて急に涙があふれ出し、嗚咽《おえつ》をこらえて何度も何度も顔を洗うふりをして泣いた。
次の朝、ハナは自分でも驚くほどあっさりと次郎を送った。
店の前で家中のものと、そこに居合わせたみんなが思い思いに次郎に声をかけ、肩を叩いたり握手をしたり、それぞれに別れを惜しんだ。
次郎は写真にでもうつされる時のように腰をかがめて、両側に二人の子供たちを抱き、「こいつ等をどうか、ひとつよろしく」と軽く頭を下げた。
それから全員で景気よく万歳を三唱、次郎を衛門まで送るはずの太郎とおじいちゃんが待たせてあったタクシーに乗った。又、一斉に万歳、タクシーが萬橋《よろずばし》を渡って昭和通りへ曲るまで、みんな、そこで手をふった。
車が見えなくなると妹のハツが眼にいっぱい涙を浮べて、
「ねえさん、よく平気だね、どうしてあのタクシーにいっしょに乗ってかなかったのさあ」
と恨めしげにハナを見た。
「どこまで行ったって同じだよ、いっしょに戦地まで行けるわけじゃないんだから……」
ハナはさっさと家へ入りかけると、
「本当にねえさんたら薄情なんだから……ほんのちょっとだっていっしょにいたいのが人情だろうにねえ」
と、ハツは不満気に並んでいたラクをうかがった。ラクも黙ってうなずきながらハンカチでちょっと小鼻のわきをこすっていた。
その晩、ハナは繁さんの家へお悔みに行った。繁さんのおかみさんは、身も世もない取り乱しようで顔を合わせているのが辛かった。まだ子供も小さく、謙一と同年の男の子の下に、五つと三つの女の子がいる。なぐさめようにも言葉もない、ただ手をつかねているばかりだった。
一昨夜あんな騒ぎさえなければ、フグなんか喰べに行かなくともよかったのかもと、何だか家のせいで繁さんが死んだようでうしろめたく、そのことだけは口に出さずに帰って来た。
ちょっ平のところへは清さんに行ってもらったが、ただ一人、年老いたおふくろさんが愚痴めいたことも言わずに泣いていたということだった。
こんなにあっけない人の死を、こんなに慌ただしい中で、どう受けとめていいものか戸惑うばかりで、ひょっとしたらおとうちゃんも死ぬかも、と今まで考えても見なかった恐れに身をふるわせ、思わず口の中で「くわばら、くわばら……」と呟《つぶや》いてしまった。
次郎がいなくなったからといって、弁菊の忙しさは少しも変らなかった。
ポンプの音に起されて、警視庁の食堂から宮内省にまわり、伝票の整理、集金、支払いと何一つ手をぬけなかった。
何となく胸にポッカリ穴があいた感じで張り合いもなく、機械のようにただひたすら馴れで自動的に振舞っているより仕方なく、それが又、傍《はた》から見るとアッケラカンとうつるのかもしれない。「やっぱり若いおかみさんは、てえしたもんだよ、気丈だね」などと言われても、まるで他人事としか思えなかった。
おじいちゃんも、やっと濡れタオルは離したものの、気がぬけたように時々遠くを見つめる目つきでボンヤリしている。おばあちゃんは、やけのように毎晩、花札に熱中していた。花札といえば忘れもしない、去年の二月の選挙の時に、おばあちゃんをはじめ弁当屋仲間が、寿司屋の二階で盛大に花札を引いていて、一座十何人が一斉に近所の人にさされて久松署に挙げられた。名目は選挙違反、つまりは特定の候補の支持で人が集まるのが禁じられていたのだ。もとよりおばあちゃんたちのこと、花札以外には関心も情熱もあるわけはないが、時が時だけに警察も放ってもおけなかったのだろう。
取り調べの時に、
「何も選挙だからって集まったわけじゃねえ、毎晩やってんだから……」
と、おばあちゃんが、ふだんのつき合いもあるせいか、真向《まつこ》うから息まいたのもいけなかった。
現場にふみ込まれ、座布団の下からやりとりに使われた現金までガッチリ押えられている。
「だからそれが困るんだよ、おばあちゃん」
と、係り官も、もてあました。
「選挙に関係ないのはわかったけど、金をかけて花札をやるのもいけないんだよ」
おばあちゃんは頬をふくらませた。
「金をかけないでやって何が面白いもんかね、他人の金じゃない、自分の金を自分で使って何が悪いのさ」
こうまでおおっぴらにひらき直られれば、長年のつき合いでもどうにも仕方ない。
「泊ってもらうより仕様がねえなあ……まったく……」
と刑事も舌打ちしながら呆れた。
「留置場に泊って、手前《てめえ》んちの弁当喰ってりゃ世話ねえや」
挙句《あげく》の果て二晩泊められて帰って来て、
「うちの弁当はうまくも何ともねえ」
と、おばあちゃんは憮然《ぶぜん》としていた。
次郎が出征して一週間もたった頃だったろうか、皇宮警察の食堂で、ハナが何時もの通り洗いものを手伝っていると、弁菊から材料を届けに来たロクちゃんが、
「うちの若旦那たち、神戸へは着いたんだが船の準備が進まねえとかで、なんか普通の家へ分宿して待機してるんですってよ」
と言ってハナに書きつけみたいなものを渡した。
「これが、その家の所番地で、いっしょに出かけた人が届けてくれたんです」
「じゃ、まだおとうちゃん、神戸にいるの」
濡れた指先で、その紙片をつまんでハナは念を押した。
「ええ、何でもまだ二、三日は、そこにいるだろうって……届けるものでもあったら言ってくれって、その人、言ってましたよ」
そう言い残してロクちゃんは帰って行った。
「私も行こう」
ハナは突然、そう思った。途端、後先を考える余裕もなく自転車で夜の街に飛び出していた。飛び出した時から足が地につかず、「神戸、神戸、神戸」とうわごとのように呟いて、自分が今、何をどうしているのかすら定かにわからず、ちゃんとしなきゃ、ちゃんとしなきゃ、と自分自身に言い聞かせつづけている。
そのくせ、やることはやっぱりトンチンカンで、ライトもつけず平河門を駈けぬけてお堀に沿った大通りを斜めに横切り、丸ビルの横を抜けて大汗かいて漕《こ》ぎつづけて来た自転車はどうにもならず、ええ、ままよと東京駅前の植え込みの中へ押し倒して、そのまま乗車券売り場へ駈けつけた。
もとより何時発の何線に乗ってなどと考えてもいない。これまでハナは一人で汽車に乗ってどこかへ行ったなんて経験もないから、出札口で、ただ「神戸、神戸」と怒鳴り立てた。出札係もハナの見幕に驚いて乗車券を差し出した。
金を払うのも釣銭を受けとるのももどかしく、受けとった切符を口にくわえて小走りに走りながら財布に金を押し込んでいた。改札を通る時に東海道線と聞いたのを頼りに、切符を握りしめながら構内を走った。
やっと見つけてホームに上れば、ベルがジンジン鳴っていて、今しも発車寸前。なりふり構わず飛びのれば、それを待っていたかのようにボウッーと汽笛一声、列車は身をゆすって動き出した。
車内は、さして混《こ》んでいない。手近かな席に先ずは腰を下ろして、はずんだ息をととのえる。
何時も見馴れた筈の東京駅附近の景色もゆっくり走る列車の窓から見ると、何か違った場所に見え、いっそう落ち着かない気分にさせられた。
団体さんらしい一組は、もう弁当を拡げ、一升|瓶《びん》をあっちへやったりこっちへやったり、何やら騒がしい。
やがて日劇が見え、帝国ホテルが視界をかすめて行く。このまま新橋、品川と通過すれば間違いなく東海道線で少なくとも神戸の方へ近づいている筈だ、そのくらいはハナにもわかった。それでもちょっと不安になって、通りかかった車掌を呼びとめて確かめずにはいられなかった。
「この列車は熱海行きですから、熱海までしか行きませんよ」
と、期待外れの声が返ってきてハナはガッカリした。すぐに車掌は手帳を出して、
「神戸ですと、今からでは熱海で一時間ばかり待って八時二十分の岡山行きに乗りかえると明日の朝、七時七分に着きます。いや、九時三十七分までお待ちになって急行、神戸行きになされば、寝台も取れるかもしれませんし、この方がずうっと楽で、到着は七時二十分ですから十三分しか違いません」
と親切に教えてくれた。
熱海で酔っぱらった一団といっしょに降ろされ、みじめにも一人、待合室で襟《えり》をかき合わせているしかなかった。ゴム引きの前掛けこそはずしたが、何時ものくたびれたツイードの服にニッカーボッカーのズボン、魚のウロコのついたゴム長靴、肩から集金|鞄《かばん》を下げただけで、手には荷物一つない。
もとより化粧っ気のない顔に、ふりみだした断髪頭、自分の姿がガラス窓にうつるたびに、一人だけ場違いの感じも心もとなく、ただ立ったり坐ったりを繰り返すだけ。そう言えば何にも喰べていない、腹の空いてくるのも情なく、うさんくさげに覗《のぞ》きこんで行く酔っ払いの目にも故なくおびえる始末。
十月半ばとはいえ、海からの風がビュービュー吹き上げてくる高台のホーム、コートなしの熱海の夜は寒かった。体ばかりでなく、心までも寒々と冷たい風が吹きぬける心持で、特に行楽地の華やいだ人の群の中に一人いる思いが、いっそうせつない気分をつのらせた。時間があるからといって外に出る気にはならず、ただ気ばかりあせって、駅前の輝きを恨めしげに眺めるばかりだった。
結局、ハナは次の急行までの二時間ちょっとが待ち切れず、岡山行きのダラに乗り込んでしまった。この列車は又、しんと静まりかえり、そこここに鼾が聞えるだけ。時折り寝返りをうつ人のうめき声や咳払《せきばら》いに驚かされる。ハナは固く直立した椅子の背にもたれ、冷たい窓ガラスに額をあてていた。
遠く近く目の中にちらつく光を追っているうちに無性に情なくなってきて、涙がボロボロ頬をつたって落ちるのを拭きもせず、盛んに鼻をすすり上げていた。
列車の揺れに身をまかせているうちに、何時しか子供の頃のことが甦《よみがえ》ってくる。
ハナが物心ついた頃、家が困っている最中だった。二十歳をかしらに八人の子供、父親の道楽が一番はげしい時期でもあった。長女の春が嫁いだ時、姉の夏が十五歳、兄の安太郎がグレ始めて、ハナはろくに学校にも行けず、弟や妹と泣いて暮した毎日だった。父親はろくに家にも寄りつかないくせして子供ばかりは次々と生まれ、その名の付け方をみれば親の気持もすぐそれとわかる実にいい加減なもので、下の安次郎が生まれた後は、もう止めにしたいとトメとつけ、その下が生まれると、終り初物とハツときめ、その下が又生まれると、これが褥下《しとねさが》りとばかりにフジとつける、もっともこの子はすぐ死んだ。
れっきとしたお役人の親父は、三十の半ばを越してからの道楽で、飲む、打つはしないくせ、女狂いで買うばかり。
給料は一銭も家へは入れず、よく、ハナは母親に言われて茶屋の裏口へ父親を迎えに行かされた。
よんどころなく、おふくろが家の入口を店にして、夏は氷にトコロテン、冬は汁粉に甘酒と駄菓子並べての文字通りの小あきない。よくしたもので、子供は皆、結構丈夫で順ぐりに面倒を見て店番にも事欠かない。なさけないことに父親はその売り上げにまで手をつけた。
長女の春は評判の器量良しで、ハナが見てもビックリするようないい女、おかげで年頃になると、すぐに望まれて酒問屋へかたづいて行った。夏はこの家に見切りをつけて、さっさと飛び出して自慢の美貌で何とかやっている。不思議にこの家では下へ行くほど器量が下る。ハナはどうやら十人並み、癖のない黒々とした髪と襟足だけはよく他人に賞められたが、トメとハツに至っては、肌の白いのが唯一の取り得、といってもやっと七難がかくれるかどうかというところ。おかげでハナは十歳の時には近所の針工場へ女工に行かされた。その後も、あっちこっちと奉公に行かされたが何といってもまだ子供、子守っこもろくに勤まらず泣いて帰ってはドヤされていた。
十六になってやっと落ちついて家にいる頃、練馬へタクアンだの味噌醤油の仕入れに近くに来ていた次郎が寒さしのぎの甘酒を楽しみに、この店へたびたび寄るようになった。
店の者に大八車を引かせた弁菊の若旦那、といってもまだ十八、九。それでもいっぱしいなせに唐桟《とうざん》の半纏《はんてん》なんか引っかけ、絹の股引《ももひ》きに雪駄《せつた》ばき。いつしかハナの顔を見ると、そっと半襟なんか渡してくれるようになった。
急にあたりが明るくなって、うつらうつらしていたハナが、はっきり目をさますと三ノ宮だった。降りる人たちが身のまわりのものをかたづけ荷物を確かめたりしている。洗面具一つ持たないハナは、することもなく、次は神戸と聞いてドギマギするばかりだった。
神戸へ着いて、ガクガクする足をふみしめるように駅を出ると、すぐタクシーに乗った。人相の良くない運転手でハナの風態《ふうてい》のせいか、ろくに口もきいてくれない。ハナも、なまじ世辞などつかうまいと依怙地《いこじ》に黙っていた。
「このへんと違いまっか」
運転手にそう言われて放り出されたところは静かな住宅街だった。
やっと尋ねあてて行きついたその家は、港を見下ろす高台の豪勢な邸宅で、坂道の途中に白壁をめぐらした、まるでお城みたいなたたずまい、大きな鉄の門の前で、ハナはしばらく立ちすくんだ。とても中におとうちゃんがいるとは思えなかった。
ポケットの中でクチャクチャになった紙片の文字と、表札を何度も見くらべ、思い切って鉄の門を開け、中に入って玄関の呼びリンのボタンを押した。
やがて、キャンキャンと仔犬のなく声がして、黄八丈の着物を着た十八、九の女の子が玄関のドアを開けた。
「東京の青山というものですけど、こちらに主人が御厄介になっているとうかがって来たんですが……」
ハナが、まだ信じられずに恐る恐る尋ねると、玄関脇の階段から、何と次郎が白いスピッツを抱いてヒョイと顔を出した。何だか呑気《のんき》そうにしているのを見ると、腹立たしいやらなつかしいやらで足元からスーッと力がぬけた。
確信もないまま、やみくもに飛び出した初めての一人旅、夜汽車に乗って、はるばるやって来た侘《わ》びしさ切なさが瞬時に吹きとんだ。喜びがハナの身体の芯《しん》から滲《にじ》み出し、こらえようとしても頬がゆるみ、飛び跳ねたいような気持がどうにもならない。次郎に飛びつきたいのをやっとこらえて、胸をふるわせていた。
白の木綿の詰襟のシャツに軍袴《ぐんこ》の男たちが次々に顔を出してニコニコしている。次郎といっしょに応召した日本橋の近所の知り合いの顔も見える。
挨拶もそこそこに庭に面した十畳くらいの部屋に通されると、床の間に鉄砲と背嚢《はいのう》が整然と並べられ、衣桁《いこう》に五人分の軍服がきちんと掛けてあった。
「しかしハナさん、よくここまで来たね、いや、まったく驚いたよ」
人形町のガラス屋の旦那の松下さんが、そう言って感心したようにハナを眺めている。
「何しろ、俺たちの乗る筈の船がまだ着かねえんで、こうやってここでゴロゴロしてるんだけどね、どうにもしまらねえ話よ」
蠣殻町《かきがらちよう》の袋物屋の江藤さんが、出っぱった腹をゆすって笑っている。
「それにしても俺たちの嬶《かかあ》どもは一体どうしてるのかねえ、ハナさんだけスッ飛んで来るなんざあ、次郎さん、男|冥利《みようり》だね」
そう言われてみると、ハナも何だか気恥ずかしく、一人だけ出過ぎた真似をして、かえっておとうちゃんにも恥をかかしたようなバツの悪い思いがしてくる。
さっき、玄関で見た女の子と、年輩の女中さんが食事の用意に入って来た。ハナの分もちゃんと揃《そろ》えてくれていて、ますます身の置きどころがない。
見れば甘鯛《あまだい》の焼きものに、焼き海苔《のり》、卵、香の物、何より白味噌のお椀がいい香りをただよわせているのが嬉しい。ハナも早速食卓についたが、ずいぶん久しぶりの食事をするような気がして、涙が出るほど嬉しかった。
途中で、この家の主人という人が挨拶に見え、ハナも居ずまいを正して応じた。
「遠いところ、わざわざ御苦労さまでございます」
は有難かったが、
「立派な御子息が一日も早く元気で凱旋なさいますようお祈り申し上げています」
と言われてビックリしてしまった。
長旅の果てとはいうものの、母親と間違われるほど面やつれしているのかと、情なかった。
「いいえ、私は妻でございます」
とも言えず、ゴチャゴチャと自分でも訳のわからないようないい加減なことを言ってすませてしまった。
昼過ぎになってから、
「折角ハナさんも来たんだし、どうでえ、ひとつ今夜は有馬温泉へでも行ってみようじゃねえか」
と、誰かが言い出し、あまりといえば呑気らしいとは思ったが、ハナの知らない二人がどこかへ出て行き、どう取りつくろったのか、
「ここは俺たちが居るから大丈夫だよ」
本当に出かける算段をしてきてしまった。
家の前までハイヤーを呼びつけ、兵隊三人が後ろの座席に乗り、ハナはあり合わせのハンチングをかぶり、大きなマスクで顔をかくして助手席に乗る、という恰好。幾ら母親に見間違えられるにしても、明るいうちから兵隊が女連れの相乗りじゃあ具合が悪い。
それでもイタズラッ子が、悪さをするようで、みんな何となく浮き立った気分ではしゃいでいた。
あたりに湯の香が立ちこめ、あちこちに華やいだ街灯や看板が目立ち、土産物屋やゲーム場が明るく浮き出している。
ホテルや旅館がズラーッと並んで、そこここに丹前姿の客が、二人、三人とそぞろ歩いている。
車は、一軒の大きな旅館の前に止って、後の三人の兵隊が先ず降りた。ハナも素早く降りて、三人の中にかくれるようにして旅館の玄関へ駈けこんだ。
部屋に案内される間、三人の兵隊と思いもかけずに温泉に来たことが嘘のようで、戦争なんて本当にあるのだろうかというのが実感。それにしても日本の軍隊は、特に軍律が厳しいと聞いているから、何やら空恐ろしく、今にも憲兵がふみこんで来そうで、ハナはついキョトキョトあたりを見まわしてしまう。
「こんなところを見つかったらもうだめだよ、脱走罪で三人並べられてズドンと銃殺だね」
ハナの心配を見すかしてか、松下さんがそんな意地悪を言ってからかう。
「次郎さんだけ上等兵だからね、こりゃあもう特に重大な問題、逃げられっこなしだね」
言われてみれば、おとうちゃんの軍服だけ、肩章に星が一つ多い。
何時もおとうちゃんだけ間の悪い目にあうのはどういうわけだと冗談にしても腹立たしい。が、一方、星が多いと聞いて誇らしい気がするのも不思議だった。
脱いだ軍服を戸棚にしまいこみ、みんなが丹前姿になってくつろいだ時、はじめてハナはホッとした。浴場まで連れ立って歩いても、もう不安はなかった。温泉で手足をのばして部屋に帰れば、十二畳に二間《にけん》の床の間と違い棚、四尺の廊下を隔てて庭にのぞみ、折しも築山《つきやま》の松に月がかかっている。
「どうでえ次郎さん、いい風情だね、鐘でもボーンと聞えてきそうだぜ」
と、松下さんが言えば、すぐに続けて、
「人間は何故死ぬのでしょう、私、生きたいわ、千年も万年も生きたいわ」
と、江藤さんがしなを作って声色《こわいろ》をつかう。そこへ女中衆が酒を運んできた。
ハナは一人廊下へ立って、東京から後生大事に下げてきた集金鞄を開けてみた。中にギッシリ入っているのは伝票ばかりでゼニはない。帰りの汽車賃も危ういばかり。
そのまま帳場へ降りて番頭に事情を説明して、いずれにしても今夜かぎり、明日をも知れぬ命なら何とかして欲しいと懇願した。番頭もさあどうしたものかと戸惑うばかりだが、折よく六十がらみの女主人が現われて、委細承知と胸を叩いて引きうけてくれた。
次々に料理が運ばれ、酒がすすんだ。
「それにしても何だねおい、髪の毛入りの腹掛けはいいとしてもコンドームを一グロスも持たして寄越したってのはどういうわけだい」
と、松下さんが言う。
「だって、おとうちゃんが変な病気を持って帰って来たら困るもの」
と、ハナは真面目に答える。
「一グロスって言やあ、百四十四だぜ、週に三日としたって一年かかるぞ、そりゃあ確かに除隊までは持つだろうけどさ」
江藤さんが笑いながら、
「冗談じゃねえや、それじゃ弾丸《たま》に当るより、腎虚《じんきよ》で死ぬぜ、第一、俺たちゃ揃って女郎買いに行こうってわけじゃねえんだから」
と言って一同を笑わせた。
ここのおかみの好意か洒落《しやれ》か、そのうちに三味線が来る、太鼓が来る、芸者衆が次々に現われて一座はみるみる賑《にぎ》やかになった。
〓ナッチョラン、ナッチョラン
下士官のそば行きゃメンコ臭い
伍長勤務は生意気で
粋《いき》な上等兵にゃ金がない
可愛い新兵さんにゃ暇がない
ナッチョラン、ナッチョラン
ハナは、こんな唄は面白いとは思わなかったが、ここの芸者さんたちは、兵隊さんの宴会に馴れている様子で、次々にいっしょに手拍子を打てるような唄を歌ったり踊ったり、ついには全員、輪になって浮かれ出し、勿論《もちろん》、いやだ、いやだと言っていたハナも無理矢理手をとって立たされ、汗ばむほど踊らされてしまった。
最後は都々逸《どどいつ》の廻しっこになり、ここでもトリは次郎だった。
「こわれちゃまとまり、まとまりゃこわれ、こわれちゃまとまる水の月」
そのあと、「水の月……」と低く唄い出して、
「手にはとれぬと、そりゃ誰《た》が言うた、手に水下げれば、うつる月」
歌沢、常磐津《ときわず》、清元と、飽きっぽいくせに一時は熱心に通った下地のせいか、声も一段と冴《さ》えて色っぽい。
酒が駄目、照れ屋でつき合いが嫌い、他人《ひと》と逢うのが何より苦手のくせに、ここ一番という時には、ハナも呆《あき》れるほど図々しく、いけしゃあしゃあと何でもこなす。
「うち、こっちに惚《ほ》れたワ、もう支那でも満州でも一緒について行くワーッ」
と、芸者の一人が次郎にしなだれかかる。
「出来れば、あたしがついて行きたいよ」
言いながらハナは、自分が何も出来ないのが口惜《くや》しかった。
思えば十三の時に、長唄の家元の家に奉公していて、朝から晩まで内弟子、通い弟子の血の出るような稽古を見聞きしてきていながら、全く他人事、憶《おぼ》える気になりさえすれば、いくらでも身につけることが出来たのに、何一つたしなみにもならず、世にいう縁なき衆生《しゆじよう》、嫌いは下手のはじまりか、悔いてもはじまらぬ己れが口惜しかった。人には向き不向きがあるとは言え、酒の席で気の利いたこと一つ言えず、唄一つ歌えず、ただ馬鹿のように笑ってだけいる自分がみじめでうとましかった。酒が入れば気分だけは昂揚《こうよう》して、何でも出来そうな気がしてくるだけに、いっそ歯がゆい。
うわべは陽気で屈託なく羽目をはずして大騒ぎしているようだったが、次郎も仲間も、何時もとは、どこか違っていた。やっぱりこの人たちは兵隊さんなのだ、これが男なのか、とハナは思った。
たしかに三人共「気をつけーッ」と号令がかかれば、即座にバネ仕掛けのようにピンとなる何かを感じさせていた。
宴会がお開きになると、
「さあ、お二人さんは離れへ行っておやすみ、おやすみ」
何時の間にか、誰かがそんな手筈をつけていてくれたらしい。ハナもちょっと意外だったが好意は嬉しかった。でも素直にそれが言えず、
「いやよ、いやよ、そんなの、あたし、いやだ」
と、大げさに手をふっていやいやをした。
「なにもここへ来て照れることはねえよ、ハナさん。さあ、行った、行った」
「これが最後になるかも知れねえよ、しっかりくっついてな」
みんなに口々に言われて、廊下へ二人は追い出された。
女中に案内されて中庭へ降り、幾つかの踏み石を拾い、瓢箪《ひようたん》形の池のくびれたところにかかった石橋を渡ると、植え込みのはずれに小さな玄関、吊《つ》り灯籠《どうろう》が、かすかにゆれる離れがあった。
「ごゆっくりおやすみ下さい」
と女中が去り、その夜はじめてハナは次郎と二人きりになれた。
枕もとに小さな雪洞《ぼんぼり》があり、白の富士絹で縁取りした八端《はつたん》の夜具がのべられていた。夜具の裾に、ハナはペタンと坐った。
次郎は雪洞の横にあぐらをかいて、灰皿を引き寄せた。結婚してこの方、こんな恰好で水《みず》不入《いらず》になったこともなく、照れくさいやら切ないやら、ハナは気持ばかり妙に昂《たか》ぶって落ち着かなかった。今更別に改まった話とてなく、おとうちゃんがこのまま何処《どこ》とも知れぬ戦地とやらへ行ってしまうのが、今になってもまだ信じられない。今日まで十年二人で暮してきたことさえ実感がなく、指の間から水が漏れるように何一つしかと掴《つか》みとれるものがない。掴まえ処《どころ》のない不安が胸を締めつけて、何か言い出せば、それがきっかけになって、涙があふれて来そうで、ただ口唇《くちびる》をキュッと噛《か》みしめて黙っていた。
「ねえ、おとうちゃん」
やっと呼びかけたハナはもう涙声だった。
「きっと帰って来て」
そう言うと、もう次から次から涙が流れ出しておさえようがなかった。
次郎は相変らずニヤニヤしながら、俺だけじゃねえんだから仕方がねえとか、なーにきっと元気で帰って来るだろうとまるで他人事、気休めめいた慰めも、愚痴も言わずにアッケラカンとしている。ハナはその笑顔にたしかに、強がりとも、諦《あきら》めとも違う自信のようなものが感じられ頼もしく思えた。
翌朝は皆早く起き出し、ゆうべ騒いだ部屋で陽気に朝食をとった。
当然ながらハナの帰りのことが話題となり、何時《いつ》までいたって仕様がねえぜ、どうせ船を見送るったって、テープを引っぱりっこして、元気でねーッ、なんてやるわけにはいかねえんだから……と次郎が言い出し、
「第一、その船が何時出るかもわからねえんだ」
と、松下さんが後をつぐ。
家のことも子供のこともあるし……と次郎にそう言われなくても、ハナは今日、早く発つ気でいた。
取るものもとりあえず、やみくもに飛んで来て、次郎に逢うことが出来、その上、皆の好意でこんなに素晴らしい時が過ごせたのを真底から有難いと感謝していた。これ以上望んでも何もないことも、望んではいけないことも十分承知している。
早速、汽車の時間表だ、ハイヤーの手配だと番頭まで出て来て手廻し良く事が運び、食事の終る頃には、もうすっかり段取りはついていた。
わざわざ玄関まで見送りに出てくれた女主人に丁寧に礼を言い、深々と頭を下げたハナは、江藤さんと次郎にせき立てられてハイヤーに乗った。
神戸の駅では、やれ弁当だ、それお茶だと、雑誌までこまめに松下さんが気を配って持たせてくれて、戸惑うこともなく、東京行きの急行の二等車に乗せられた。
その列車の窓での別れが、今度こそ本当の別れになった。
発車のベルが鳴り、汽車が動き出した時、
「おとうちゃん、気をつけてね、江藤さん松下さんお元気で……皆さんにもよろしく」
ハナは泣いていなかった。次郎も松下さんも笑って手をふっている。
ハナは心の中で「どうぞみんな元気で帰って来られますように」と一心に祈りつづけていた。そして、次郎の今の姿を忘れないように、何時までも心にとどめておけるようにと、しっかり目をつむった。
それからしばらくは虚脱したようにぼんやりしていたが、やがて張りつめていたものが消え失せ、禊《みそぎ》をすましたようにスッキリ心が澄んで行き、後は運を天にまかせるだけと、諦めとも悟りともつかぬ、何か解き放たれて行くような気分になっていった。
その列車が東京へ着いたのは、予定通り、七時四十五分だった。ハナは何だかひどく疲れたような気がしてタクシーに乗って家へ帰った。
灯《あか》りをすっかり落してひっそりとした店は、気のせいか活気が感じられず、正面に弁菊商店と並んだ金色の文字看板の、商の字だけが右下りに傾いているのも、次郎が居る時には何とも思わなかったのに、妙に淋しげだった。
「おかえり」と言う店の若い衆の表情の中に何時もと違う何かがあり、そう言えば一昨日《おととい》出たっきり家へは何の断わりも連絡も入れてなかったのを思い出してバツの悪い思いで身がすくんだ。
そっと二階へ上って茶の間を覗くと、おばあちゃんと清さんがいて、無言でハナを見た。ただならぬ雰囲気《ふんいき》なのはすぐに感じて、廊下のふちに膝《ひざ》を折ると、
「ただいま帰りました」
と、ハナは小さな声。
「どこで何してたんだい、今まで」
老眼鏡の上から見据えるようにしながら、おばあちゃんが言った。
ハナは一昨日からのことを、かいつまんで説明した。
「電話の一本ぐらいかけるがいいじゃないか、おじいちゃんは寝こんじゃうし、子供等は遊び惚《ほう》けてるし、ちっとは後先きのこと考えたらどうなんだい、えッ、ハナ」
長火鉢の縁へ煙管《きせる》を叩きつけながら、おばあちゃんは凄《すご》い目でにらんだ。
煙管の雁首《がんくび》が飛んで来そうでハナは落ちつかなかったが、
「それがもう時間がなくて……」
気のきかない言い訳だとは思ったが、そうでも言うより仕方がない。
「まあいいじゃないですか、若旦那にも逢えたってこったし」
と、又呼びつけられたに違いない清さんが取りなしてくれ、
「でも、みんな心配しましたよ、若いおかみさん、気がふれてどっか行っちまったんじゃないかとかね、蒋介石《しようかいせき》のところへ直談判《じかだんぱん》に行ったんじゃねえかなんてね、ヘッヘヘ……」
と笑っている。
「笑いごとじゃねえや」
と言いながらのおばあちゃんの一撃で、今度こそは煙管が折れて、雁首が長火鉢の灰を捲き上げた。
おばあちゃんは荒々しく立ち上るとプイと出て行った。
ハナは、ここで「ごめんなさい」とか「すみません」とか言えばいいものをと、自分の無器用な強情さを持て余していたが、なに、あのさなかに電話なんか、かけられるものか、とも思っていた。
ハナはその日、何時もの通り、ニッカーボッカーに長靴という姿で警視庁の食堂へ向う青バスの中で、前に立っている人の新聞の記事に「皇軍、大挙して杭州湾に無血上陸」と大きな活字で出ているのを見つけた。
おとうちゃんが中支派遣軍の一員として杭州湾に上陸した、と思った。
その時、ハナは、自分の身内に新たな生命が宿っているのをしっかりと感じていた。
待人来タラズ
子供の頃から何ということなしに学校は苦手だったハナだが、息子の担任の教師に呼び出されて出向いて行くなど、殊更気が重かった。ふだんの幸二の行状からして間違っても賞められる話でないことも判っているし、何とか口実を設けて行かずに済ます方法はないものかとあれこれ考えてみたが、これが三度目の連絡とあってはどうにも逃れようがない。その朝、着て行く着物にまで気を遣って思案の末、紺の結城紬《ゆうきつむぎ》の袷《あわせ》に博多の帯、共色のお召の羽織と、せいぜい落ち着いた母親らしく見えるように粧《よそお》ったつもりだった。
羽織の躾糸《しつけいと》を引き抜くのももどかしげに、ハナは階下《した》へ降りた。丁度昼前で調理場は今が一番忙しい時間、「本町の山善さん、まだか、って催促だよーッ」「出た、出た、今出たところだってそう言っとけーッ」などと若い衆の大声が飛び交い、山積された塗り物の弁当箱が次々に運び出される。煮炊きする湯気と煙、揚げものの油の匂い、刻みものの気忙《きぜわ》しい音、毎日のこととは言いながら、まるで火事場の中へ踏みこんだようだ。
「行ってらっしゃーい」
若い衆の大声を背中に聞き流して、ハナはそそくさと外へ出た。
弁菊の前の通りを箱崎へ向っての一本道、途中日本橋から浜町へ抜ける大通りを渡り、澤の鶴の倉庫の前を通って、幸二たちが毎日通う同じ道を東華尋常小学校へ向った。
幸二の担任の古菅《こすげ》先生は年齢《とし》は三十七、八だろうか、でっぷりとした体つきに柔和な丸顔で、太い黒縁のロイド眼鏡の中に優しい目が光っていた。白いワイシャツに臙脂《えんじ》色のネクタイをゆったりと締めて、グレーのセーターを重ねている。
「おかあさん、まずちょっとこっちへ来て見て下さい」
先生はハナを促して先に立った。職員室を出ると、大股《おおまた》でさっさと歩いて廊下の曲り角まで行って立ち止り、振り向いて待った。ハナが恐る恐る近づいてみると、
「又、立たされてるんですよ、あそこで」
曲った廊下の突き当りで壁に向って両手にバケツを提げて立っている子供の後姿はまぎれもなく幸二だった。片方の靴下はずり落ちて足首のところに固まり、踏み潰《つぶ》したズック靴の踵《かかと》にかかっている。胸を張って細い首を上に向けてはいるが、バケツの重みに堪えているのか、しきりに肩を上下させていた。
ハナは、立たされている幸二の姿を見るのは初めてだし、ズブ濡れの足元も冷たそうで、ちょっと可哀そうな気がした。
「何をやったんだと思いますか」
職員室へ戻ると煙草に火をつけた先生はそう聞いた。
ハナにはもとより想像がつかない。黙って顔を上げると、
「屋上の花壇からね、昼休みで校庭で遊んでる子供たちにホースで水を撒《ま》いたんですよ。他の先生の手前もありましてねえ、ああして立たせてるんですが、どうにもその……」
と口ごもったがすぐ続けた。
「本人はカラッとしてて面白い子なんですがねえ」
ハナは何も言いようがなかった。
「それに……今日来ていただいたのはですね、おかあさん。そこのミルクホールで昼食をさせるのも何とかなりませんか。あそこで『キング』のような大人の雑誌なんか見ながらサンドイッチ喰べるのはどうも……。他の先生方の間でも問題になりましてね、やっぱり御面倒でも、みんなと同じように弁当を持たせて貰うようにした方が……」
おばあちゃんだ≠ニハナは咄嗟《とつさ》に思った。
「いいよ、いいよ、何でも幸二の好きなようにさせればいい、第一、子供のための弁当を別に作るなんて面倒臭くって駄目だよ、うちは忙しいんだから……」
そんなふうに言ったに違いない。女中のラクとのやりとりが手にとるように想像出来た。忙しさにとり紛れて任せっきりなのもこちらの落ち度、ハナは、早速弁当を持参させることを約束した。幸二の学校での腕白ぶりも色々と聞かされた。鶏小舎の上に登ってスレートの屋根を踏み抜いたり、日向《ひなた》へ並ばされている時に前の子供の頭をレンズで焼いたりする。廊下へ立たせておけば相棒と平気で綾取りなんかしていると言う。話して聞かせる先生も最後には、
「だけど、よくもまああんなに、次から次へやることがあるもんですなあ」
と呆れ顔で笑い出す始末だった。そんな古菅先生の態度に、気さくなこの先生が幸二のことを可愛がってくれている様子がよく窺《うかが》えた。幸二も先生に懐《なつ》いているようだし、先ずはホッとして肩の荷が降りた気分でハナは学校を出た。
帰る道々、何時でも行きあたりばったりで、好い加減なことばかり言うおばあちゃんのために学校から呼び出しを受けたのも業腹《ごうはら》だったが、学校も結構うるさいことを言うもんだ、ミルクホールでお昼を喰べたって、校庭へ水ぐらい撒いたってどうってことないじゃないかとも思っていた。
バス通りを渡って戻って来ると、弁菊の前に米屋の大八車が止めてあり、若い衆の助さんが前掛けを肩の上に撥《は》ね上げて米俵を運びこんでいた。ハナを見ると助さんは、
「おかみさん、清《せい》さんが来てますよ、何だか、若旦那のことで相談に来たとかって」
と肩に米俵を乗せたまま呼びかけた。
何か嬉しい事でも知らせに来てくれたのかと、華やいだ気分でハナは二階に上った。木綿の絣《かすり》の対《つい》を着た、写楽の絵にそっくりなとぼけた風貌《ふうぼう》の清さんが長火鉢を間にして、エノケンみたいな顔をしたおばあちゃんと向いあっていた。
清さんは若い頃グレた時期があり、両国から錦糸町あたりでちょっとした顔だったと聞いたことがある。それだけに訳知りで野暮《やぼ》なことは言わず何でも相談に乗ってくれると若い衆にも人気があった。読み書きは達者でソロバンも上手《うま》く、質屋の番頭をしていたというだけに何でもよく知っている。その質屋の家つきの娘と一緒にさせられそうになったのを何故か嫌って飛び出し、弁菊へ来た、と誰かが言っていたが、本当のことは判らない。ハナも嫁に来るまで清さんがこの家の番頭だったのはよく憶《おぼ》えている。とにかく重宝な人で、店の者のラヴレターの代筆とか、喧嘩《けんか》の仲裁、活動写真の解説まで、誰の頼みでも何でも「へい、承知しやした」と気軽にやってくれるので、おばあちゃんのお気に入り、いまだに弁菊へ出入りしている。
「お帰んなさい、早速ですがね――」
待ち兼ねていたように、ハナが坐りもしないうちから清さんは切り出した。
「若旦那と一緒に兵隊に行った人たちね、松下さんとか江藤さんとか、あすこらみんな、ゆんべ電報が入って、来月の一日に除隊になるってんで、もう大変な騒ぎなんですってよ」
次郎たちが南京《ナンキン》にいて出征以来二年半近くもたっているし、もうそろそろ除隊になってもいい頃だろうという話は、噂《うわさ》としてはハナも聞いていた。
「だからおかしいじゃねえか、何で次郎だけ知らして寄越さねえんだい」
隣りの部屋から次郎の兄の太郎が声をかけてきた。見れば群青《ぐんじよう》色の江戸小紋のお召の着流しで汚ならしい古物の皿小鉢を拡げて、いっぱし古物商のように膝に小布を置いてきちんと坐っている。
「何でも若旦那たちは南京に一旦集結して、そこで半分は北支、半分は帰還ってなことになってるらしいんですよ」
清さんがそう言うと、
「つまり南京が、モモシキの屁《へ》って言うやつで右と左へ泣き別れだ」
と、太郎が立って来て長火鉢の向うへ坐った。この太郎は大きな顔して居候をきめこんでいるが、どだい丙種で兵隊に行ったこともなけりゃ働いたことすらない。ハナは普段からこの気障《きざ》な男が大嫌いだったが、おとうちゃんの兄貴じゃ仕方がない。それにしても大事な時につまらないことを言う人だとハナは腹が立った。
「おかみさん、何かそれらしい便りはありませんでしたか、若旦那から」
「別に何とも言ってきてないみたいね。大体、うちのおとうちゃん、あんまり手紙なんか出さない人だから」
清さんの「半分は北支」と言ったのが胸にズンと痞《つか》えて落ち着かない気分になっている。
「すいませんけど、若旦那からの手紙、もう一回読んでみてくれませんか、何かわかるかも知れねえから」
ハナは立って行って、子供達のヘソの緒などがしまってある桐の小箪笥《こだんす》から次郎が寄越した手紙の束を持って来た。手紙といっても別に他人に見せるのを憚《はばか》るようなものはない。簡単な文句を連ねた葉書や写真が大部分だった。
「すいません、拝見します」
清さんが葉書に目を通していると、おばあちゃんが横から覗きこんで、
「次郎の奴は全くどういうつもりでいるのかねえ、人の気も知らねえで。あの馬鹿」
とふくれている。
「しかしまあ、呑気なもんですね、どれ見ても、元気でいるよ、しか書いてねえんだから」
清さんが苦笑した。
「おい、ちょっと見せとくれよ」
と太郎も手を出し、
「何でえ、こりゃ、次郎が支那人の恰好して写ってるぜおい、このクーニャンの服着てる気持悪いのは松下さんじゃないのかえ」
しげしげと眺め入って呆れている。
「こっちのはボートに乗ってるところだし、これは裸でマージャンやってますぜ」
清さんもとうとう笑い出した。
「どういう戦争に行ってんだい、あいつは。こりゃ駄目だよ、帰ってくる気はねえんじゃねえのか」
と太郎が無責任なことを言う。
結局、帰還の手がかりになるようなことは何も見つからなかった。
「ただ心配なのはね、写真で見てもわかるけど、若旦那だけ伍長になってますからね、兵隊は幾らでも補充はきくけど、兵隊ばかりじゃ戦争は出来ねえ。といって下士官はおいそれと作れねえからね」
清さんも、又、いやなことを言う。おとうちゃんもおとうちゃん。兵隊に行ってまで何もそんなに一所懸命になることはないのにと、ハナは恨めしくさえ思った。
「清さん、おじいちゃんにはそんなこと言うんじゃないよ。又、寝込まれちゃ面倒臭せえから」
おばあちゃんが釘《くぎ》をさした。
「電報が来ねえからって、うちの若旦那だけ帰って来ねえと決ったわけじゃなし、ここで心配しても始まらねえんじゃねえですかい」
清さんは、自分で散々気を揉《も》ませるようなことを言っておいて気楽に構えている。
「だからと言ってお前《めえ》、俺たちはこれから北支へ廻されますって電報打つ奴もねえもんだろう」
太郎は、おとうちゃんが北支へ行くと決めてかかっている様子で、一々、言うことがハナには気に入らない。
「三月一日って言やあ、まだ四日もある。おっつけ、報《しら》せが入るだろうよ」
おばあちゃんは今夜にでも電報が来るような口吻《くちぶり》だ。
結局、誰にもしかとしたことはわかる筈もなく、清さんはただ欅《けやき》の長火鉢をやたらとこすったり、灰をかきならしたりしているだけで何時になく頼りない。おばあちゃんは時折、びっくりするような大きな音で煙管を叩きつけては、スパスパ、煙草ばかり吸っている。太郎は盛んに金縁の眼鏡を押し上げながら手の中で汚ない古い茶碗を弄《もてあそ》んでいる。
次郎が出征してから二年半、長いといえば気の遠くなるほどの歳月のようにも感じられ、短いといえば呆《あ》っ気ないほどの日々だったとも思える。帰って来るか来ないかは所詮《しよせん》、お国の決めることで、幾ら祈っても気を揉んでもどうにもならぬのは承知の上だが、この先、何年待たされるのか、当ても期限もわからぬでは、待たされる一日一日の不安と苦労が拭いようもなくそのまま肩にのしかかり、生きて行く張り合いも自信も萎《な》える。何時いつ帰るとはっきりわかれば、たとえ半年一年先でも指折り数えて待つ楽しみも明日へつないで気も晴れよう。まして帰って来て元気な顔さえ見せてくれれば、どんな苦しみも忽《たちま》ち吹っ飛んで、二年半待ってたことさえ嘘のように感じられるに違いない。
ハナは急に水天宮さんのお神籤《みくじ》に「待人来タラズ」とあったのを思い出し、一瞬、体がジーンと痺《しび》れてくるような不安に襲われた。
一昨年《おととし》のことだった。
次郎が中支派遣軍の一員として出征して行ったすぐ後で、ハナは自分が妊《みごも》っていることを知った。三人目のこととて体調の変化ですぐそれとわかった。大黒柱のおとうちゃんが持って行かれたからってお得意さんは待っちゃくれない弁当屋|稼業《かぎよう》、毎日毎日千本からの食事を扱うこの店を切り盛りするだけでも大変だ。店の者だけでも常時二十五、六人は居る。もっとも、その半分は身元もはっきりしていないようなズボラな連中で、あまり当てにはならない。丈夫一筋で読み書き全く駄目なおじいちゃんと、遊び好きのおばあちゃんを頼りに二人の腕白を抱えて、よくまあ何とかやりくりがついて行くもんだと、ハナは自分でも呆れている。
その上に又、妊娠とくれば「まあ次郎さんも罪な人だよ、イタチの最後っ屁《ぺ》か猫の糞《ふん》ってやつで後足で砂かけて行くようなことするね」と言う人もいたが、ハナはむしろ喜んでいた。出かけて行ったおとうちゃんとの絆《きずな》が何時までも切れずに脈打っているかと思えば何やら嬉しく、お腹《なか》の子が真底いとおしく思えた。
どういう訳か、昔から妊婦は五カ月目の戌《いぬ》の日に腹帯をするのが慣わしだった。
一丈のさらし木綿を半幅に折って、間に安産のお守りを入れ、下腹を支えるような気持でしっかりと巻き上げる。謙一の時も幸二の時も、ハナは水天宮さんへお札《ふだ》を受けに行った。その日も、こんなことに細かく気を遣う清さんが昼過ぎから家に来て、ハナが仕事をすまして帰って来るのを待っていた。
「陽気も良くなったから、みんなでひとつ人形町をブラブラしましょうや」
清さんはとうに頭《かしら》にも声をかけてあったらしく、変に落ち着かなかった。「アンミツを奢《おご》るぜ」と女中のラクも誘った。ハナもちょっと浮いた気分で、黒繻子《くろじゆす》の襟《えり》をかけた黄八丈に博多の帯、妊婦とは見えない身形《みなり》に着替えて外へ出る。海老茶《えびちや》の紬にいなせな古渡《こわた》り唐桟《とうざん》の半纏《はんてん》を引っかけた頭が人待ち顔で立っていた。町内の雑用を一手に引き受ける鳶《とび》の頭の元さんは、何時でも床屋へ行きたてのようにキチッと角《かど》の立った角刈りの頭、白いものは混ってはいるが薄くはない。濃い一文字の眉とへの字に結んだ大きめの口、ちょっとした渋い二枚目で姿もいいし、なりの拵《こしら》えが洒落ているから可成り女の人にも人気があるらしいが、そこはよくしたもんでおかみさんが恐くてそっちの方はまるで駄目とか。
一同何となく浮いた気持で電車通りを渡り、寄席の末広亭の前を通って人形町の通りを水天宮さんの方へ向った。
五日ごとのお縁日には、ずらーっと露天商が並び、それこそ芋を洗うような賑わいで眼をチカチカさす裸電球の輝きとアセチレンガスの匂いに溢《あふ》れ、他人の肩に触れずに歩くのが難かしい。そんな日には決って謙一も幸二も夜遅くまで帰って来ない。屋台の焼きそば、ドンドン焼きを頬ばり、カルメ焼き、綿飴《わたあめ》で口のまわりをベタベタにしては、怪しげな万年筆や針の糸通しなんかを買ってくる。
幸二は香具師《やし》の口上を真似るのが上手く、謙一に乗せられるとどこでも得意になってやってみせた。
「みなさん御存知の先日の深川の火事、あの火事の際だ。有名な万年筆工場が丸焼けになった。その時、一名の勇敢な職工が紅蓮《ぐれん》の炎を掻《か》いくぐり、咄嗟の機転で製品の一部を傍らのドブに投げこんで火の手からこれを救った、その品がこれだ。ドブ泥にまみれて見てくれは良くないが、皆、これ、一級品だ。デパートで可愛いねえちゃんが、ありがとうございますと差し出せば、一本何円、何十円という品物だ。それが今日は水天宮さんご縁日に因《ちな》んで、ただの二十銭。どれでも二十銭だよ、ハイ、ありがとう」
とダミ声でやってみせる。そんな幸二を見るたびにハナは、よくこんなことが憶えられるもんだと感心したが、その分勉強でもしてくれたらと溜息《ためいき》をついた。
水天宮さんの境内は、戌の日のせいか、ずらっと並んだ提灯《ちようちん》に灯が入り、華やいだ光に充ちている。三人五人とお参りの人たちが社務所や手洗所《ちようずどころ》に幸せそうな姿を見せていた。
清さんがお賽銭《さいせん》をはずんで、四人でお祓《はら》いを受け、お札と腹帯をいただき、揃って拍手《かしわで》を打って安産を祈った。帰りがけに「こいつはおかみさんのですぜ」と言って頭《かしら》がお神籤を引いた。老眼のせいか拡げた小さな紙を腕一杯に伸ばして灯りにかざして見ていたが、
「チェッ、ふざけやがって冗談じゃねーや」
と舌を鳴らすと、その小さな紙片をまるめて肩越しに抛《ほう》り投げ、
「行こう、行こう」
と顎《あご》をしゃくってみんなを促し、さっさと石段に向った。少しおくれたハナは、石畳をはずれてギチッ、ギチッと鳴る玉砂利に気を遣いながら、頭の抛ったお神籤を拾った。石段にかかったところで、皺《しわ》を伸ばしたその紙を提灯の光にかざしてそっと見た。
「待人来タラズ」
と書いてある。
「おかみさん、気にするこたぁありませんよ」
肩口から覗《のぞ》いたラクが耳元でそう囁《ささや》いた。色白で大柄、少し動作はのろいが愛嬌《あいきよう》のある丸顔で歳は二十三、斜視ぎみの大きな眼がやさしく笑っていた。ハナはちょっと救われた思いだった。
帰りがけ、お約束で、ハナと頭が先に立ってアンミツ屋のみやぞの≠ノ入ろうとすると、入口で二人の芸者衆にぶつかりそうになった。
「おやっ、頭、お安くないよッ」
一人が頭の肩をポンと打つと、すれ違いに出て行った。
「てやんでえ馬鹿、お店《たな》のおかみさんだい」
頭が照れてる風なのがハナは面白かった。ハナとラクはアンミツを頼み、清さんと頭は板わさで熱燗《あつかん》の酒をやりとりしていた。
何気ない風を装ってはいたが、その時から五カ月ほど前、召集を受けて出て征《い》ったきり便りも寄越さぬおとうちゃんの身を思うと、ハナはあのお神籤の文句が気になって仕方がなかったのだ。
腹帯を締めて一週間もしないうちにハナはその子を流産した。警視庁の食堂のテケツの売り場に立っている時、下腹部に痛みが走り、それからそれが陣痛の時のように間をおいて繰り返され、しまいには居ても立ってもいられなくなった。盲腸の手術の時も、前二回のお産の時も医者が驚くほど我慢強くて看護婦さんたちから不死身《ふじみ》さん≠ニ呼ばれたほどのハナだったが、この時ばかりは身体《からだ》中に脂汗が流れ、自分で自分の顔から血の気が引いて行くのがわかるようだった。
「おかみさん、どうかしたの」
その時、従業員のナミちゃんが気づいて声をかけた。
「駄目じゃないの無理しちゃ……。普通の体じゃないんだから」
と言いながらも、ただならぬ様子に驚いてハナの妹のハツにも声をかけると、担架を手配するなどテキパキ動いてくれた。夥《おびただ》しい出血も感じられたのでハナは男の手を借りるのが嫌だったが、そうも言ってはいられない。厚い毛布にくるまれて担架に乗せられたのまでは憶えていたが、後はもう意識が朦朧《もうろう》として思い出しようもなかった。
無理と心労が祟《たた》っての流産、と医者に言われ、結局二週間も入院する羽目になってしまった。
謙一がお腹に宿った時は、初産のこととて、やれ肩から上へ腕を上げるなとか、重いものを持つな、腹這《はらば》いに寝てはいけないなどと言われたものだが、幸二の時には、すっかり慣れて産院へ駈けこむまで何時《いつ》も通りに働いていた。今度もあの時とさして変ったこともなかったように思えたが、おとうちゃんのいないのが心労といえばいえるのだろう。毎日毎日バスで親父橋から桜田門までガタガタゆすられてコンクリートの床に一日中立ち続け、階段の昇り降りにも別段気を遣う訳でもなく、又、そうそう気遣ってもいられぬ身すぎ世すぎ、よく幸二は無事に生まれて丈夫に育ってくれたものだ、と今更に奇蹟《きせき》のように思えてきた。
それにしてもこのことを戦地にいるおとうちゃんに知らせていいものか、二週間病院のベッドに寝ている間中、そればかりを考えていた。
申し訳のようにチラッと見舞いに寄ったおばあちゃんは、
「かえって良かったじゃないかお前、おデキが膿《う》んだようなもんだよ、せいせいしたろう」
と涼しい顔で帰って行った。自分の子供を生んだこともないくせに何言ってるんだと、ハナは何時までも頬をふくらませていたものだ。
もとより流産なんてハナにとっても初めての経験だが、生まれてきた子供を失うよりは痛手は軽かったのかもしれない。しかし、せっかく授かったものをと、当然のように待ちうけていたのに、突然あんなことになってしまい、とても辛かった。「まだ若いんだから、これからも機会はいくらもあります」と医者は言ってくれたが、おとうちゃんがいないんじゃ慰めにもならない。もう少し注意さえしていればと、あれこれ、それらしい原因をあげつらっては己れの軽率さを悔いていた。
気がつけばハナは数えの三十三歳で女の厄年、水天宮さんのお神籤にあった「待人来タラズ」とはこのことであったのかと背筋も凍り、愕然《がくぜん》として涙も出なかった。
二年前のお神籤の文句は生まれてくる筈の子供のことを意味しているものと解釈して、それはそれで哀《かな》しいことではあったが、もう済んでしまったこととその時は勝手にきめていたのに、今また、おとうちゃんの帰還にまでかかわってきているのかと思うと、呪《のろ》われてでもいるような身の置きどころのない不安に襲われ、あの文句が不吉な呪文《じゆもん》のように思えてきた。
「おかみさん、若いおかみさんちょっと来て下さい」
助さんが階段の下から怒鳴っている。店へ降りてみると入り口でジャンパーを着た男とおじいちゃんがやり合っていた。ランドセルを背負ったままの幸二が、おじいちゃんの後ろにへばりついている。
「全く仕様がねえガキだよ、お宅のは。何とか、きっちり仕置をして貰わなきゃあ俺たちは帰らねえぜ」
醤油で煮しめたような手拭を首っ玉へ捲《ま》きつけたのが凄みをきかせていた。
「何を言ってやんでえ、ベラボーめ、ションベンかけられるのがいやだったら船の上へ屋根でも何でもかけとけ。邪魔だい、帰《けえ》れ帰れ、塩まくぞ、コン畜生め」
おじいちゃんも負けていない。もっとも、入り口の鴨居《かもい》から大きなアンコウを吊り下げて特大の出刃をふるっている板前が後ろにいる。何か幸二に悪さをされて、腹に据えかねた人たちが家へ押しこんできたのはすぐわかった。ハナは、ぶら下ったアンコウの脇を、すりぬけるように前へ出ると、
「どうもすいません、又、うちの幸二が御迷惑をおかけしたようで」
と腰をかがめた。既に表の通りには二、三人の野次馬が立っていて面白そうに眺めている。
「あんたがあの坊主のおかあちゃんかい? 大体ね……」
まくし立てようとするのを遮《さえぎ》って、
「あのう、ここは店先ですし、お話はよく伺いますから」
ハナは三人を押し出すようにして前のミルクホールに入った。
聞いてみれば、この三人は堀留から堀を伝って往き来するゴミ運びの船の船頭さんで、この人たちが船の両脇の歩み板の上を長い棹《さお》を肩に当てて船を進めてくるところへ、幸二たち悪童どもが、橋の上から小便の雨を降らせたというのだ。
「何しろ、これっぱかりしかねえ歩み板の上だろ、逃げ場はねえしね、これ一回じゃねえんだよ、おかみさん。幾ら怒ったって聞きやしねえし、昨日は、爆弾だ爆弾だなんて練炭の燃えかすをボンボン落しやがるんだよ、冗談じゃねえよ全く」
これではこの人たちが怒るのはもっともで、「今後はそんなことはさせません」とハナは三拝九拝してお引き取りを願った。後でこの話をおばあちゃんにすると、おばあちゃんは面白そうに聞いていたが、すぐ助さんに上等の酒を五升持たせ、迷惑をかけた先へ詫《わ》びに行かせた。
「今度から橋の下へ入る時は傘をさしまさあ」
と船頭さんたちは笑っていたと聞いてハナもホッとしたが、今日ばかりは、少しキチッと仕置をしなければと決心した。ところがどうして、いち早くそれと察した幸二は、とうに逃げ出していて、夕食が過ぎても帰って来なかった。
想えば幸二は出産の時の様子からして謙一とは違っていた。謙一が生まれる時は、三月も前から産着《うぶぎ》の算段を始め、初孫が出来ると嬉しがって近所や仲間うちに触れまわり、それも理不尽に男の子と決めてかかったおばあちゃんは、後継《あとつ》ぎはおじいちゃんの謙の字を一字とって謙一だ、と次郎やハナには何の相談もなく名前まで勝手に決め、鯉幟《こいのぼり》や三輪車まで買い集めての有頂天ぶり。おじいちゃんまで特大のガラガラを届けさせて居間の天井から吊り下げて眺め上げては悦に入ってる始末。もう、こうなったら意地でも女の子を生んでやろうと、ハナは依怙地《いこじ》になって無理を承知の思い入れ、わざわざ水天宮さんへ出かけて行って願掛けまでした。
世の中皮肉なもので、月満ちて生まれ落ちたのは、玉のようかどうかは別にしても、まぎれもなく健康な男の子。ハナは無事出産の大役を果した安堵《あんど》と同時に、謙一の男のしるしを見て秘《ひそ》かに嫌な想いをしたものだった。
おじいちゃん、おばあちゃんは我が意を得たりで大喜び、その嬉しがりようは尋常ではなかった。子供を見に産院まで飛んで来たのはいいが、疲れ切ったハナを横目で見て、
「よく生んだ、よく生んだ、偉い、偉い」
と、まるで猫が鼠でも取ったような通り一遍の言い草も上の空、看護婦の制止も聞かばこそ、生まれたばかりの子供を抱き上げて、高い高いやベロベロバー、やりたいことだけやると、五分もいないで引き上げて行った。後で聞いた話では、その夜は知る限りの人々を集めての大宴会、芸者まで揚げての大騒ぎをしたそうだ。
打って変って幸二の時は、今度は女がいいよ、赤いもの着せたりお人形があったりで家の中が華やいでいいねと、おばあちゃんは、又々、手前勝手な望みをハナに押しつける。
臨月ではち切れそうなお腹を抱えて、生まれる日まで警視庁の食堂に通っていたハナは、胸の内でそうそう思い通りにさせてたまるものか、今度も絶対、男の子を生んでみせる≠ニ、腹の中で子供がゴロゴロ動くたびにそう念じた。
おばあちゃんは、飽きっぽいというか、物に動じないというか、二人目の子供の時はもう何の感動も示さず、生まれたのが女の子だったら知らせておくれ、とただそれだけ言うと仲間を打ち連れて、さっさと熱海へ花札をしに出かけて行った。ハナの想いが通じたのか、生まれたのは男の子だった。
その幸二は幼稚園の卒業式には代表でお話をし、父兄や先生もびっくりするほど上手にやってのけ、ハナも鼻が高かった。風呂屋なんかで近所のかみさん連中に逢うと、
「幸ちゃんは実にしっかりしてる、出来の良い子だから、きっと学校へ入ったって成績もいいに違いない」
などと言われたものだった。何時しかハナもその気になっていて、小学校の成績を見るのが楽しみだったが、一学期の通信簿は期待に反して惨憺《さんたん》たるもの。それを平気で差し出して成績のいいのが出世するとはかぎらないってよ、と幸二はおばあちゃんの口真似をする。口惜《くや》しいやら情ないやら親馬鹿を恥じて涙が出た。本人が又、何を言っても蛙《かえる》の面《つら》に何とやらでケロッとしているのも腹立たしいが、謙一がいつも、
「おい、お前ンちの弟、又、立たされてるぞ」
と言われるのが嫌で、学校を代りたいと愚痴っているのがよくわかった。
謙一が、又、おかしな子で、癇症《かんしよう》というか神経質というのか、お洒落《しやれ》で綺麗《きれい》好きなのはいいが、手ばかりまめに洗うので冬場はヒビでカサカサにしている。映画館の便所なんかに入ってもなかなか出て来ないのでハナがじれて尋ねると、ドアの把手《とつて》に触るのが嫌で誰か入って来るのを待って、さっとその横をすりぬけて来たなどと言う。火の元やガス水道の栓にもうるさく、何度も何度も確かめたり、ねじったり。その癖、変なところにだらしがない。
前の晩にラクに綺麗に削らせた鉛筆を丹念に揃《そろ》えて筆箱に入れ、宝物のように机の上においたものを、そのまま忘れて出て行ったりする。筆、墨、硯《すずり》は言うに及ばず、朝着て出た上着をどこかへ置いてきてまるで気がつかない。ランドセルを背負わずに学校へ出かけて、なくなったなくなったと慌てて帰って来ることもあった。慌て者でそそっかしいのは己れを省みてハナにも責められぬところがあり、嫌なところが似たものだとむしろ可哀そうにも思えたが、喰べものの好き嫌いが多いのには腹が立つ。特に漬けものの類いは一切、口にしない。そればかりか前に置いても嫌な顔をしてプッとふくれたりする。これは明らかにおばあちゃんがいけないので、ハナが窘《たしな》めようとすると、
「いいじゃないか、嫌なものは仕様がねえよ。シンコ喰わないからって死ぬわけじゃあるめえし、誰にだってひとつぐらいは苦手ってのはあるよ」
と逆に謙一の肩を持つ。謙一も図に乗ってか、近頃では鳥肉が嫌だ、人参《にんじん》が嫌いだ、と文句を並べ、ライスカレーの中から丹念に人参を拾い出す。もうハナも呆《あき》れて最近は何も言わなくなっている。
おじいちゃんもあの通りの人でお天気屋だから、機嫌が良ければ猫っ可愛がりして、謙一や幸二が十銭くれといえば二十銭、二十銭くれとねだれば五十銭、魚をおろしていようと何をしていようと、濡れた手を懐へねじ込んでビロードの三つ折りの財布を引きずり出しては、あいよ、あいよ、と使途も聞かずに渡してやる。虫の居所が悪ければ理由も言わずに怒鳴りつけたり追い立てたり。自然と子供たちは大人の顔色を読んで抜け目なく立ち廻る。謙一と幸二は、おばあちゃんの口癖を真似て、近所の菓子屋でも玩具屋《おもちやや》でも「お借り、お借り」と平気でアイスクリームを喰べたり三輪車を後払いで持って来たりしてしまう。近所で、あんなことしてたら今にロクなものにならない、きっと不良になってしまうと蔭口をきかれているのはハナも承知だが、今まで野放図にほったらかしてきたものを、昨日今日、ギャンギャン言ったところで変りようもないだろう。二人とも腕白には違いないが、結構シッカリしているし、まあ、おとうちゃんもこの家でグレもせず成人したことを思えば、何とか普通の男には育つだろうと高《たか》をくくって手をつかねているより仕方がない。所詮は、躾だの教育だの小難しいこと言ったところで子供は家族の中で勝手に育つので、ハナ一人がどうしたいと思ったところでどうにもなりやしない。
そんなことを想い出したり考えたりしているうち、ハナは幸二を怒る気も失せていた。
その夜、ハナは来る筈の報せがないのが気になって、次郎と一緒に応召した松下さんの家を尋ねてみた。人形町の通りに面したガラス屋で、既に店は閉っていたが、間口が二間もあろうか、入るとすぐ大きなテーブルが目につき、右側はガラス板がビッシリつまった棚、左手に鏡やガラス戸が乱雑に置いてある。自転車やリヤカーの間をすり抜けるようにしてハナは座敷に上った。
今、夕食をすましたばかりというところか、年寄り夫婦とおかみさんが置炬燵《おきごたつ》でくつろいでいた。家の中は明るさに溢れていて、誰もが晴れ晴れとした顔をしている。
ハナは家には報せが入っていないこと、そのために家中気を揉んでいることをあけすけに打ち明けると、日露戦争二〇三高地の生き残りというのが自慢のおじいちゃんが、
「ふざけやがってあの野郎、俺たちの若けえころのよ、あの二〇三高地にくらべりゃあ、こんだの戦《いくさ》なんて屁みてえなもんだ。蒋介石の首も取らねえで何が凱旋《がいせん》だよ、うすみっともねえ、よくおめおめ帰れるもんだよ、あいつは……」
と強がりを言っている。おかみさんが「おじいちゃん、又……」とたしなめて、ハナに電報を見せてくれた。それには確かに三月一日に品川へ着くと書いてあり、聞けば、みんな既に広島県の宇品《うじな》に上陸していて検疫を待つばかりだと言う。
「きっと色々と下の人の面倒を見なきゃならないから、お宅のおとうちゃんは電報打つ暇がないのよ」
と、おかみさんは慰めてくれるが、もう一人、この近所から出征した江藤さんのところにも同様の電報が入っていると聞けば、そんな気休めで納得出来るわけもなく、ハナは益々不安になって早々に帰って来た。
床についても気になって、眠るどころではない。
おとうちゃんが出征してすぐに南京が陥落。提灯行列や花電車を見に水天宮さんのところまで皆で行ったとき、
「南京が落ちりゃ、もう敵さんはお手上げだ、若旦那も、もうすぐ帰って来ますぜ」
と清さんに言われたことがある。
おじいちゃんはすぐその気になって、日の丸の提灯をちぎれるほどに振り廻し、あたりの人が「南京陥落万歳万歳」とか「帝国陸軍大勝利」とか叫んでいるのに、ひとり、
「次郎が帰る。もうすぐ帰る、次郎が帰る」
と怒鳴っていた。
「大旦那はあればっかりだよ、まるで紺屋高尾だね。来年三月高尾が来る、高尾が三月、三月高尾だ。本当に若旦那が帰って来たら嬉しがって坐りションベンして馬鹿になっちゃうんじゃねえかなあ」
助さんが呆れている。その助さんも、
「これで何でしょうね、日本が勝ったら支那から賠償金がガッポリ入るんでしょう。そうなったらあたしゃ吉原をもう二つ三つ作ってもらいてえね」
清さんまで調子づいて、
「そうよ、そいで記念の回数券なんてのを只でまいてもらって」
などと気楽なことを言っている。
あげくは、南京陥落も空手形、おとうちゃんは帰って来なかった。おじいちゃんはガッカリして、例によって濡れタオルを顔にかぶって寝込んでしまった。あれから徐州占領で、もう帰れる、武漢三鎮陥落でもう除隊、と何度もはぐらかされている。流石《さすが》におじいちゃんももう諦《あきら》めて提灯行列にも出かけない代り、濡れタオルもかぶらなくなった。
聞けばヨーロッパで大きな戦争も始まったというし、日本も呼応して南方へ進出する様子とか。やっぱりおとうちゃんは北支へ連れて行かれるのか。それにしては松下さんや江藤さんが日本に帰っているのはどういうことなのか、自分が忙しければ誰かに頼んだって電報ぐらい打てる筈。あれこれ考えても、どうにも辻褄《つじつま》の合う筋道が立たず、一体どうなっているのか皆目わからない。ハナは時計の時鐘を数えては、夜の寒さに震えながら何度も手洗いに立っていた。
翌朝は、どんよりとした鉛色の雲が重くのしかかるように垂れこめ、寒さが厳しくて店の前の道路の水溜りに薄い氷が張っていた。ハナは杉綾のウールのコートの襟を立て、両手をポケットの中で握りしめて警視庁へ行こうと足早にバス停に向ったが、寝不足のせいか、吹きつける風が何時もよりいっそう身に滲《し》みた。バス通りへ出ると浜町の方から兵隊が行進して来る。銃を肩に背嚢《はいのう》を背負って四列に並んで歩いてくる可成り長い列。間近かに通る兵隊を見ると、ついその中におとうちゃんの姿を探そうとしている自分が悲しかった。
大勢の兵隊が目の前にいるのを見て、四年前の二・二六事件の日の朝のことをハナは想い出していた。
その日も何時もの通り警視庁へ向ったが、どうした理由《わけ》か日比谷までしかバスが行かず、おかしなことといぶかりながら桜田門まで歩くと、いきなり兵隊に、ニュース映画でしか見たこともない機関銃をむけられ、「射つぞ」と怒鳴られた。慌てて取って返せば足元は雪、こけつまろびつ逃げ戻って日劇の前まで行ってもまだ胸の動悸《どうき》が収まらなかった。
翌日も又、おっかなびっくり出かけて見れば雪も兵隊も昨日のまんま、それでもこの日はすんなりと通してくれて、警視庁へ入って又びっくり。最近軍部の若手が不穏な動きをしているが一朝事あれば俺達が、などと威張っていた「警視庁新選組」の連中は雲を霞《かすみ》と逃げ出していて、残っているのは宿直の給仕と掃除のおばさんだけ。
おばあちゃんの言うケイシキチョウとかケッ、チキショウとはこのことか。食堂の品物はジャムから砂糖梅干まで、兵隊達が喰べあさったらしくスッカラカン。もっとも代金は常盤少尉とかいう将校が、十三円五十銭、手の切れるような札で払ってはくれた。食堂のおばさんは反乱軍からも金とったと後々武勇伝にはなったが、もとよりハナは仕事|一途《いちず》、一般職員の給与の支払日が毎月二十七日とあれば、その時は集金で頭が一杯で、この日何が起ったのか全く知らなかったし、反乱軍を恐いとも怖《おそ》ろしいとも少しも思わなかった。
警視庁の六階の食堂に着いて、十人近くいる店の従業員たちと仕入れや献立の打ち合わせを済ませると、伝票の束を握りしめて集金の残りを掻き集めに、保安だ、労働だ、特高だと、あちこちの部屋を歩き廻った。喫茶、弁当、そば、うどんの代金を懐の暖かいうちに支払ってもらわなければ、相手がお巡りさんだからといっても、一日延ばしにされているうちに、何時しか誤魔化されてしまう。
食堂を利用してくれてる人たちは二千人以上はいるだろう。女の子たちが集金に行ってもすぐに払ってくれるのが大部分だが、休みや出張でいなかった人、中には初めからとぼける気でいる人もある。広い建物のあっちこっちに散らばっているそんな人たちを尋ね歩いての集金だから、要領よく廻らなければラチがあかない。一番手馴れた従業員のナミちゃんと二人で、昼抜きで励んで二時までかかったが、半分もいかなかった。二人ともお腹が減って口もきけないほどだった。
それからハナは宮城へ向った。皇宮警察の署員の賄《まかな》いも、弁菊の業務の一つ。宮城の中へ入るのはなかなか面倒臭くて、宮内省|御用達《ごようたし》の会社や商店には門鑑が支給されていて、これのないものは通してもらえない。門鑑は赤茶色のベークライト製の二寸ぐらいの大きさの将棋の駒の形をしたもので、厳《いか》めしい字で「車馬ハ諸門通行ノ際必ズ徐行スベシ」と右に二行、真中には大きく宮内省と書いてある。何時か、おとうちゃんが門鑑を忘れて通してもらえず、家から「あの警士の奴、俺の顔知ってるくせに通しやがらねえんだよ」と怒って電話してきたことがある。そのおとうちゃんが二十一、二の頃、九段の近衛歩兵第一聯隊にいて、乾門《いぬいもん》と二重橋で警備をしていたことがあるというから変な因縁だと思った。
ハナは勿論《もちろん》顔パスで、何時でもお構いなしだった。坂下門を入ってすぐ左手に皇宮警察があり、蛤濠《はまぐりぼり》にそって暫《しばら》く行くと平河門のそばに鉄筋の二階建てのアパートのような寮がある。そこからずうっと奥の別棟の建物が、住み込みの従業員が寝泊り出来る八畳ばかりの座敷のついた調理場である。堀留の弁菊から出来上った料理を箱車でここへ運び、この調理場では飯炊きと味噌汁《みそしる》を作るぐらいの作業しかしない。もっぱら弁当箱への盛りつけと各部署への配達の段取りが主だ。ここから合宿所とか、大手門、平河門、坂下門等のそれぞれの警士の詰所へ弁当を届ける。
宮内省の調理場にはハナの長姉の、春の長男つまり甥《おい》の宗治と、おばあちゃんの親戚《しんせき》の近藤さんが住み込みで働いている。ここだけは、場所柄身元のはっきりした者をと特に次郎が二人に頼んだ。その近藤さんが急性の盲腸炎で入院してしまい、代りに小柄でチョコチョコよく動く、髭《ひげ》のないチャップリンという感じのロクちゃんが昨日から泊っていた。
ハナが着いた時は、もう殆どの作業が終り、宗治が最後の配達に出た後だった。しょっちゅう箱車を引いてここへ来ているロクちゃんは、仕事も手馴れていて洗いものをすっかり済ませ、大きな釜《かま》にのしかかるようにして明日の朝炊く米をといでいた。
ハナは座敷の方に上ると、
「オヤ?」
と言って鼻をクンクンさせながら、あたりを見廻した。
戸棚の隅から煙がうっすらと洩れているような気がして、ハナは立って行くと引戸に手をかけた。板戸が妙に熱を持っている気配で、ふと嫌な予感に襲われたが、構わず、さっと引き開ければ、ボッという音がして、真白な煙がワッと吹き出し、何のことかハナには咄嗟《とつさ》にわからない。すると突然、上段に重ねてある布団の隅からメラメラと炎が上ったのを見て、「火事!」と口の中で叫ぶのと同時に、その布団を引きずり降ろしていた。生きもののように畳の上に拡がった布団は濛々《もうもう》と煙を上げ、その中で仕掛花火のように火の糸が縦横に走るのが見える。ハナは飛びすさると、夢中でその上に卓袱台《ちやぶだい》を引っくり返してパタッと乗せた。
「ロクちゃん、ロクちゃん、大変、早く、早く」
叫びながら調理場に裸足《はだし》で飛び降り、味噌汁であろうと牛乳であろうと水気のものを手当り次第に投げた。叫び声に驚いたロクちゃんも、洗い場から飛んで来て、すぐにバケツで水を撒《ま》き散らした。どのぐらいの時間がたったか、二人はただ夢中だった。
すっかり火も消えて煙も薄れて来た時、二人とも口もきけぬほどにくたびれて、呆然と立ち尽していた。あたりには味噌の焦げた香ばしい匂いと、石鹸《せつけん》の香りが満ちている。見ればロクちゃんは漬けてあった洗濯ものごと石鹸水をぶちまけたらしく、シャツや股引《ももひ》きがあっちこっちに飛び散っていて、何とも滑稽だった。二人、顔を見合わせるとハナが先ずプッと吹き出し、ロクちゃんは大声を上げて笑った。幸い、建物がコンクリート造りだったので、戸棚の天井を少し焼いただけで済んだ。
「どうも来た時から、何だかキナ臭いから、変だ変だと思ってたけど、どうしたの、ロクちゃん」
ハナが詰問する口調で訊《き》いた。
「そう言えば朝ね、煙草の火で布団を少し焦がしちゃって……でも消してよく確かめて押し入れに入れたんだけどなあ」
ロクちゃんは盛んに首をかしげながら、手にした布でしきりに汗を拭いていた。
「ロクちゃん、もしかしたら、それ、褌《ふんどし》じゃないのかい」
ハナがロクちゃんの手元を見てそう言うと、ロクちゃんは手にしていたものを拡げ、
「いやぁ、違えねえや、こりゃ、まいったな、ヘッヘッヘ」
と紐《ひも》のついた部分を振りまわしている。ハナも笑った。そこへ、サーベルをガチャつかせて、ゲンコツが入って来た。本名は石毛さんだが、ちんちくりんのガニ股《また》で、眉毛が濃くゴツゴツした顔をして威張ってばかりいるので、ハナたちは勝手にゲンコツと呼んでいた。
「いやぁ、どげんこってすか、これは?」
一瞥《いちべつ》して事態を察知したらしいゲンコツはもう血相を変えていた。
「火事ば出したとですね、ここをどこだと思っちょるんですか」
一瞥すると、そのまま土足で部屋に上り、あちこち点検して火が確実に消えているのを確かめてから、
「こりゃ大変だ、すぐ上司に報告しますから……そのまま、そのまま、後をよく気をつけて」
命令すると飛び出して行った。二人はゲンコツの言葉で改めて事の重大さを悟り、青くなった。もし気がつくのがもう少し遅くて、もし、ここが火事になって、もし、裏の雑木林に火が燃え移っていたら……幾つかの「もし」が重なっていたらと思うと、恐ろしさに歯の根も合わぬほど震え出した。
やがてゲンコツを先頭に若い二人の部下を伴って部長のガマさんがやって来た。ガマも渾名《あだな》で、蟇目《ひきめ》さんが本当の姓だ。色白で細面だが、眼が変にギョロギョロしているのでそう呼んでいた。ガマさんは苦り切った面持で室内を一巡し、調理場に降りると腰のサーベルを鳴らして醤油|樽《だる》にどっかと坐り、しばらく間をおいて重々しく口を開いた。
「事情を説明してもらおうか」
ハナも気が動顛《どうてん》していて、とてもスラスラとはいかなかったが、ともかく事の成り行きだけは説明した。ガマさんはまるで大犯罪の調書でも取るように、部下に筆記を命じてあれこれとしつこく訊問《じんもん》する。その中でロクちゃんの本名が宇垣悟三郎という大層な名だと判ってハナは大いに驚いた。ガマさんはその間終始冷たく、極めて事務的で言葉遣いもよそよそしい。日頃親しくしていても役目となればこうも変るものか、ハナはお役人の正体見た感じで薄気味悪く、さむざむとした心持で質問に答えた。最後にガマさんは「処置については追って通知します」と釘《くぎ》でも打つような物の言いよう。ゲンコツまで「勝手に旅行などせんように」とロクちゃんに禁足を命じて、肩を聳《そびや》かして出て行った。
その後、配達に行っていた宗治が帰って来て、
「こんなに大袈裟《おおげさ》に取っ散らかさねえったってよかったのに……これっぱかりのボヤで、片付ける者の身になってくれよ」
呑気《のんき》なことを言ってふくれていた。三人とも、しばらくは口をきく気にならなかったが、そのうち宗治がゴソゴソと後片付けを始めた。足元のものを拾ってから真黒いモグサのようになった布団を外へ引きずり出すので、つられてハナとロクちゃんも泣きたいような惨めな気持で鍋《なべ》や洗面器、あちこち飛び散った洗濯ものを拾い始めた。
少なくとも、これで宮内省は出入り差し止めということになるに違いない。折角、おとうちゃんが始めたこの仕事も不名誉な理由でやめさせられるんだ。このことをおとうちゃんに知らせたものか、知らせるとすればどう書けばいいのか、知らせたらどう思うだろう、考えれば考えるほど情なくなってくる。
気がつけばロクさんは煤《すす》で真黒になった畳に雑巾をかけながら、ポタポタと大粒の涙を落している。可哀そうだとは思ったが、どうにもかける言葉が見つからない。ハナも唇をかんで指先の火傷《やけど》の痛みに堪えていた。
「後は俺がやっとくよ。どうせこれじゃあロクさんはここに泊れないし、今日はこのまま帰って下さい」
宗治にそう言われると、ロクちゃんもノロノロ帰り支度を始めた。
堀端の吹き曝《さら》しの坂道を、ロクちゃんとハナは震えながら歩いていた。ポケットの中で暖めると余計に痛い手の火傷は、時間がたつにつれてズキズキと万力で締め上げられるように疼《うず》いてきた。堪え切れずに街灯の灯りにかざしてみれば、思いの外、真赤に腫《は》れ上って曲げるのも辛いほど。
「こりゃ、医者へ行かなきゃ駄目ですよ、おかみさん」
ロクちゃんに連れられて、人形町の立花医院で手当をうけた。丁寧な治療は有難いが、包帯が大袈裟で、左手は大きな軍手をはめたよう、踏んだり蹴《け》ったりで泣くに泣けない。
帰ると、隣近所の問屋商店は軒並み表戸をぴしゃりと閉ざして静まりかえり、弁菊の前には配達用の箱車が黒々と影を並べている。通用口から店の中に入ると、もうひっそりしていて、流し場に一つ点《つ》いた裸電球の下で、本町が、といっても、もっぱら本町方面を配達して歩いているのでそう呼ぶだけだが、その本町が一人でポツンと夕食を喰べていた。一番長くうちにいる飯炊きのクニさんが、上り框《かまち》で湯呑みの酒を呑んでいる。
「ただいま」
小さな声で申し訳なさそうに言うと、ハナとロクちゃんは身を縮めるようにして二階へ上って行った。
昨日と同じように、おばあちゃんと太郎と清さんが長火鉢を囲み、頭《かしら》が一人ポツンと離れて黒檀《こくたん》のタバコ盆を膝元《ひざもと》へ引きつけて正座していた。二人は黙って部屋の隅へ並んで坐った。おじいちゃんは、女中のラクの部屋に布団を敷かせて濡れたタオルで顔を覆って寝込んでいる。
おとうちゃんの帰還については、あれから何の吉報もなく、幾ら焦《じ》れてもお国が相手、こちらから問い合わせて返事がもらえる訳もないとラチのあきようがない小田原評定で、みんな打ち沈んでいるのがすぐ解った。
こんな時に火事の話でもないだろうと思うと、益々心が萎《な》えて身の置きどころにも困ったが、大袈裟に手に巻いた包帯は隠しようもなく、ハナはどう切り出したものかと、そればかりを考えていた。
「ハナ、その手はどうしたんだい」
おばあちゃんが、ずり落した老眼鏡の上からギョロッとした大きな目玉でハナの手元を見た。もう、こうなったら仕方がないと、いっそ度胸を据えると、今日あった皇宮警察の調理場での一件を、かいつまんで一気に説明した。
「ふーん、そうかね、ふーん」
おばあちゃんは「ふーん」の所を馬鹿に長く引き伸ばしてさもさも感心したていで、
「昔の人は間違ったことは言わないね、丙午《ひのえうま》の女は火事を呼ぶってのは本当なんだね」
ここで又、丙午が出てこようとはハナは思ってもみなかった。やれ男を喰い殺すだの不吉を招くだのと、子供の頃から生まれ年のことで随分と嫌なおもいはさせられてきているが、時が時だけにこのおばあちゃんの一言は、グサリと胸に刺さって腹に据えかねた。
包帯だらけの指先を見つめているうちに、くやしさがこみ上げて体中が熱くなり、涙があふれて来て、グッと噛《か》みしめた唇のわきをつたってポタポタと流れ落ちた。
「そりゃだめ、そういうこと言っちゃいけませんよおばあちゃん。この際、丙午は関係ないんだから全く、言っていいことと悪いこととがありますよ」
清さんがちょっと気色ばんでハナをかばってくれた。
「あーあ、そうですか、そりゃあ悪うござんしたねえ」
おばあちゃんはプッとふくれて横をむくとやけのように煙草を吸って、まだ口の中で何かブツブツと呟《つぶや》いていた。
「で、どうなんですか、その手の具合は」
清さんが気を遣ってくれる。
「二、三日痛いのを我慢すれば、すぐ快《よ》くなるって。跡も残らないとお医者は言うんだけど」
ハナは大きく一つ鼻をすすり上げると、もう泣いてはいなかった。
「それもこれも、みんな、このあたしの不注意から起ったことで、どうも何とも申し訳ありません」
突然ロクちゃんが居ずまいを正し、キチンと畳に手をついて深々と頭を下げた。
「しかし、よく今日、帰してくれたもんだよ、それにしても、こりゃ、たたじゃ済まねえぞ」
太郎はコップの冷や酒を呷《あお》ると、舌なめずりをして、
「うちは営業停止なんてことになるかもしれねえし、まごまごすりゃロクは死刑だぞ」
と、押しかぶせるように詰《なじ》る。
「そりゃ大袈裟だよ。ロクだってワザとやった訳じゃなし、誰にだって間違いはある、それにボヤで済んだんだから」
清さんが怯《おび》えているロクちゃんに優しい眼を向けた。
「いやー、そうじゃねーよ、このクソ乾きの時期にあすこの森に火でも移ってみろ、忽《たちま》ち風が捲き起って、ボッボ、ボッボとくりゃもう大変だ、消防だって手なんかつきやしねえよ、なあ頭」
頭は、明らかに嫌な顔をして横を向いた。太郎は面白がってでもいるように調子づいて、
「そうなってたらどうすんだい、お前《めえ》、あすこにはどなたがお住まいになってるか知ってんだろ、偉《えれ》えことだぜ、こりゃあ。ま、死刑は免がれても満州は固いな」
ギョロッとした眼でロクちゃんを見すえた。
「満州ってのはどういうことですか」
ロクちゃんがキョトキョトと太郎を見た。
「満州へ持ってかれちゃうんだよ、お前が。鎖のついた鉄の輪っかなんかはめられて、地下何千尺って炭鉱の中で、お前、生涯、穴掘りだぞ、もう出て来らんねえッ。ざまあみやがれ」
「そんな……」
その後、ロクちゃんは言葉にならないことを口の中でブツブツ呟いていた、と、
「ワァー」
隣りの女中部屋で編物をしながら聞いていたラクが、いきなり泣き出した。
「何だい、何だい、どうしたんだい」
太郎が座布団の上でクルリと向きを変えた。
「だってロクさんが可哀そうで、ワァ……」
ラクが本格的に泣きはじめる。ロクちゃんは急にハナの前に居ずまいをただして、
「おかみさん、すいません、私のやったことで御迷惑をおかけして……。あたしはどうなってもいいんですが、ラクだけは一つ宜しくお願い致します。宇垣悟三郎、一生のお願いです」
と両手をついた。
ロクちゃんが何を言い出したのかと、みな一瞬とまどった。
「何だい、そのウガキ何とかってのは」
案の定、太郎が聞き咎《とが》めた。
「あたしの本名です。宇垣悟三郎」
「へーえ、こりゃ驚いた。えらそうな名だねえーっ、おい、ウガキゴサブローだってよ。ふてえ野郎だこんちきしょう」
太郎としてはどうにもその名とロクさんが結びつかないらしい。
「そりゃしどいよ太郎さん、皆ここんちみたいに、太郎とか次郎とかハナだなんて小学校の読本に出てくるような名ばかりじゃねえぜ、あっしだって本名は、武藤清之介。何時も買ってる練馬のタクアン屋は榎本金兵衛だし、第一、うちの飯炊きのクニだって、ありゃ祖父|江久仁和《えくにかず》ってんですぜ」
清さんはうちの番頭をしていたから何でもよく知ってる、胸をそらして得意そう。ロクちゃんはもじもじしていたがおそるおそる、
「あのうこの際、名前なんかどうだっていいですが、ラクのことをお願いしたいんです、この通りです」
と改めて頭を下げると、又、ラクが「ウワーッ」と声を上げた。
「何だい、こりゃ、どうなってんだい」
太郎が、みんなの顔を見廻した。
「すいません、実はラクとあたしは……そのつまり、約束をしておりまして……そのう、ラクのお腹《なか》には、もう三カ月の子供がいて……そのう……クウ……」
ロクちゃんも武骨な拳骨を眼にあてて、子供のように泣き出した。
「何ってこったいこりゃあ、この最中《さなか》に……油断も隙もありゃしねえや、おいこら、不義密通はお家の法度《はつと》ってこと知ってるか。それだけでも、お前は死刑に値するぞ、死刑だ、お前は……」
太郎は大分、酒が廻っているらしかった。ハナも当惑して、清さんと頭の表情を窺《うかが》った。何故か二人とも恥かしそうな顔をしている。
「どうもラクの様子がおかしいと思ってたんだ、まあ、何でもいいや、殖えるってのは結構なことだから」
おばあちゃんがポツリと言って、ピシッと長火鉢の縁に煙管《きせる》を打ちつけた。
その日も昨日からの続きで、気の重くなるような曇り空。ピューピュー足元から吹き上げる冷たい風が、やっと決心して出て来たハナの勇気を挫《くじ》けさせる。
「先ず真先に皇宮警察へ出かけて行って、先に詫びを入れちまうのが一番。うまく行ったらめっけもん、駄目で元々、なーに、あすこ失敗《しくじ》ったって死ぬことはない、追っての通知なんか待ってたら事態は悪くなるばっかりだ」とこれが昨夜の話し合いの結論で、清さんの書いてくれた出火を詫びる始末書を懐に、追い出されるような気分で出て来たのはいいが、実のところ、ハナにはどうなることやら皆目見当もつかない。こんないい加減な、出たとこ勝負みたいな了簡《りようけん》で本当に大丈夫だろうかと、ふと不安にもなったが、ほかに思い当る手だてもなければ、えーッままよ、成るように成れ、どうせおとうちゃんも帰って来ないしと、しまいには変なところへ理屈をつけて、半ば自棄《やけ》になって臍《ほぞ》をかためた。
先ずは調理場に行って心を落ち着けてと、ハナは殴り込みにでも行くようなつもりで、横手の通用口から「お早う」と、ワザと大きな声をかけて入って行った。今朝店を出る時の気分はどうだったろうと、推しはかるだけで胸が痛くなるロクちゃんがそこにいて、気の毒なほどの打ち萎《しお》れよう。
座敷の方を見ると、畳もすっかり取り替えられていて、新しい板戸も入り、どこもかしこも綺麗になっていて、まるで昨日のことが嘘のよう。何もかも信じられないまま立ち尽していると、砂利道を踏む靴音と、ガチャガチャというサーベルの音が近づいてきた。首をすくめる想いで、そっと振りかえれば、ガマさんが、ゲンコツを従えてニコニコして立っていた。
これから起るであろうことを想像すれば、それは嵐の前の静けさであり、残忍な処刑の前触れに違いなく、ロクちゃんは隠れるようにハナの後ろに廻りこんだ。
「やあ、お早う」
ガマさんは案に相違しての優しい声。ハナは早速、清さんの書いてくれた始末書を取り出すと、恐る恐る差し出して、しどろもどろに詫びをする。ガマさんは不機嫌な顔をしながら始末書に眼を通していたが、いきなりビリビリと引き裂いて、湯を沸かしていたコンロの火を移して手の中で焼いてしまった。ロクちゃんがハナの後ろにピッタリとくっついて震えているのがわかった。
ガマさんはパンパンと手を打って灰を払うと、最前の優しい調子に戻って、
「昨日は別に何も起りはしなかった、ね、そう、何もなかったんだよ、おかみさん。ただ油の強い魚などを焼く時は、排煙によく注意してもらわんと、ボヤなどと間違われ、非常に迷惑であるからして、エホン」
一つ咳払《せきばら》いをして、後ろに組んだ手を背中まで引き上げ、伸びをするように天井を仰いで、
「わかったね、何ごとも起らなかった、なーんにも起きなかった、綺麗なもんだ、なあ君」
とゲンコツを振り返った。ゲンコツは「ハッ」と小さく返事をすると今度はハナに、
「それでね、一応始末書だけは書いてもらうが、文書はもう出来ているからして、署名と捺印《なついん》だけしてちょうだい」
そう言いながら調理台の上に一枚の紙を拡げた。一行目に始末書とあり、文面は、
「鰊《にしん》等を焼く場合は、その排煙について深く考慮し、決して火災等非常事態と誤認されることのないよう厳重に注意致します……」
となっていた。勿論ハナはその始末書に、包帯だらけの手でもどかし気に名を書き印を押した。ロクちゃんも、どうやら事態を呑みこんだらしく、
「有難うございます、ガマさん、本当にすいません、この通りです」
と精一杯の誠意を表わして最敬礼した。ゲンコツが始末書をポケットに収めるのを見定めるとガマさんは、
「まッ、以後は厳重に注意して下さい。それにね。私はガマでなくて蟇目だからね、厳重に注意するように」
笑いながらロクちゃんの肩を叩いて出て行った。
「いやー、これはどうも失礼しまして」
ロクさんはカチカチに恐縮している。するとゲンコツも、
「俺はゲンコツではないぞ、石毛だ、ゲンコツなんぞと呼んだら承知せんぞ」
同じ様にロクちゃんの肩を叩いてガマさんの後を追った。二人が出て行ってしまうと、ハナもロクちゃんも拍子抜けしたのか、体中の力が消え失せて上り框へへたり込んでしまった。宗治は帰って来て事の顛末《てんまつ》を話されても別に驚く様子を見せず、
「だから俺もこんなことだろうと思ってたんだよ、あいつらだって我が身可愛さだよ、まごまごすりゃ、皇宮警察のお偉方から、場合によったら、もっと上までこれだもんな」
と、首に手を当てて見せ、事もなげに話を続けた。
「昨晩《ゆうべ》のうちに営繕が来てね、バタバタッとやっちゃったよ、早かったね、畳だって柔道場のだよ。見てみな、縁《へり》がねーし、処々《ところどころ》とめてあるだろ」
言われて見ればその通りで、何だか改めて宮内省というお役所の大きさとそのからくりがそらおそろしいような気がして、悪夢をみているようだった。
その夜もおばあちゃんの花札仲間で、広島屋だの伊勢屋だの手軽に出身地を屋号にしたような弁当屋の親父や魚|市場《かし》の親方、年だけは喰ってるくせに気は若い不良老年という、なにより花札がすきな気のいい連中が三、四人、遅くまで茶の間に集っていた。紫の縮緬《ちりめん》の大きな座布団を囲んで馬鹿っ花を引いている。おばあちゃんも何時になく気勢が上らず負けがこんでいるらしい。
「ちえっ、折角、親で赤短が出来ると思や桜の馬鹿がなめてやがるし、ざまーねえや」
などと口の中でブツブツ愚痴っている。太郎は清さんと二人、長火鉢の猫板の上に乗せた干し蛤《はまぐり》を、竹串《たけぐし》の先につけて炭火であぶって口に運んでは酒を飲んでいる。
おじいちゃんはいつもの通り妾《めかけ》のぼたんさんの家へ行ったっきり帰って来ない。ハナもよく知らないが、ぼたんさんは向島の芸者で、十七の時からおじいちゃんが面倒見てるという話。ハナとたいして年は変らぬというからもう三十四、五だろう。立てば芍薬《しやくやく》坐れば牡丹《ぼたん》というが、牡丹にしては色が黒く、襟白粉《えりおしろい》を塗ったところと肌の分れ目がはっきり線になっている。ベタッと平べったい顔が小柄の体に不似合いに大きい。変に掠《かす》れた低い声が色っぽいと言う人もいるが、あんまりいい女だとも思わない。おじいちゃんはおばあちゃんの前でも平気で、ぼたん、ぼたんと大事にしている。ハナは他人事《ひとごと》ながら面白くなかった。おばあちゃんに言わせると「ぼたんはぼたんでも、ありゃあエムボタンだ」てなもので、ぼたんさんがいることが少しも苦にならないらしい。というより歓迎してる風で、平気で熱海だ日光だと一緒に連れて歩いているのも可笑《おか》しいし、向うの家へ行って花札をやって泊って来たりするのもハナにはよくわからない。そのくせおばあちゃんは帰って来て、
「ハナ、この前、太郎が持って来たちょいといい花瓶《かびん》があっただろう、あれが見えなくなって、どこへやったかとしばらく探してたじゃないか、あれ、ぼたんの家にあったよ、なーに、じいさんが持ち出しやがったのさ」
などと言ったりもする。
そのおばあちゃんが又、変った人で、着物でも羽織でも、気に入ったものだと一月も二月も着ていて、飽きると長襦袢《ながじゆばん》から帯までそっくり他人にやって、翌日から仕立おろしの新品を一揃い身につける。このおばあちゃんのお下がりを、ぼたんさんのおっかさんがそっくり着ていたりするから又、魂消《たまげ》てしまう。おじいちゃんは今日も帰らないにきまってる、おばあちゃんの花札もキリが着きそうにない。ハナはとても付き合っちゃいられないと、勝負の切れ目を切っ掛けにと立ちかけたところへ、
「おかみさーん」
下からクニさんの眠そうな声が響いてきた。ハナが立って行って、階段の途中でクニさんから受け取った紙片は、
一ヒアサ九ジ シナガワニツク」ジロウ
という、おとうちゃんからの電報だった。
「気を持たせやがってちきしょう。真打《しんうち》は最後ってことはあるけどなあ、遅過ぎるよ、電報ぐらい早く打つがいいじゃねえか」
太郎は早くも台所から一升瓶を抱えて来る。
「若旦那は一番早く打ったんじゃねえかな、それから電報が上へ上へと重なって、結局は一番ケツに廻っちゃったにちげえねえ」
清さんも勝手なこと言ってるが、嬉しそう。おばあちゃんの仲間たちも、「こりゃ馬鹿っ花なんぞ引いてるばやいじゃありませんよ」「いやーッ実に何とも目出度い、祝杯です、祝杯」などと口々に言いながら、長火鉢をかこんで酒盛りをはじめる。さあそれからは、ぼたんさんの家をはじめ、知り合いへ電話をするやら使いを走らすやら、夜中の十二時を過ぎてから俄《にわ》かに活気づいて大忙し、ハナも眠けが一遍に吹き飛んで嬉しさに身が浮き立つようだった。
翌朝、目が覚めた途端、一瞬ハッとした。ハナは今までにも何度か、こんな夢を見ている。又、ヌカ喜びかと頬をつねる想いで、慌てて枕元に手を伸ばし、昨夜来た電報を確かめて、安堵《あんど》した。
今朝は階下から響いてくるポンプの音も心地良く、嬉しさが体中を駈け巡り、カーッと熱くなる想いで飛び起きた。窓が何となく白っぽく見える気がして、ガラス戸を開けてみると雪だった。もう既に三寸ほど積もり、見上げれば紙吹雪でも舞い落ちて来るように大きな牡丹雪がドンドン降ってくる。
左手の火傷をいたわりながら、身繕《みづくろ》いも早々に、お勝手を覗《のぞ》くと、
「お目出度うございます」
と言いつつ、ラクが炊き立ての赤飯をお鉢に移しながら、
「ウッフッフッ、又、お正月が戻ってきたみたいですね」
ラクもロクちゃんとのことが、ひょんな事情で表沙汰になって胸のつかえが降りたのか清々とした顔をしていた。ハナは、つと手を出すと、その赤飯を一摘み口に入れ、熱々《あつあつ》の幸せを味わうように噛みしめた。
「ちょいとハナさん、あたしも何だかじっとしていられなくってね、品川まで一緒に行くよ」
筋向いの呉服屋の山田のかみさんが、日の丸の小旗を持って上りこんできた。茶の間へ行ってみると、ゆうべから泊り込みの清さんが廊下一杯に新聞紙を拡げ、その上に真新しい晒《さらし》を伸ばして「祝凱旋 青山次郎」と書いた幟旗《のぼりばた》を拵《こしら》えていた。
何時《いつ》もこんな時間に起きたことがないおばあちゃんは、灯明をあげた仏壇の前で、ミカンを喰べながら、別に嬉しくもなさそうにそれを見ている。
起き出してきて、雪だ雪だとはしゃぐ謙一と幸二をまじえ、みんなでガチャガチャと赤飯と味噌汁をかっ込んだ。魚|市場《かし》から帰って来たおじいちゃんは、ただ嬉しがって、「早く、早く」と大声でせき立てるばかり。ラッコの襟のついた外套《がいとう》を着たり脱いだり、立ったり坐ったり、まるで足が地につかない。
清さんの拵えた幟を立てて、迎えの人数が揃《そろ》って弁菊を押し出したのが、恰度《ちようど》雪も上った八時ちょっと前。清さんに頭《かしら》、太郎におじいちゃんにハナ、山田のかみさんの六人で、お祭り騒ぎで出発した。おばあちゃんは、
「なあに、もう地続きのところにいるんだから心配ねえ。まして品川なら目と鼻の先、雪の中を出かけることもあるめえ」
と動こうとしない。
一同は、雪のためか掴《つか》まらないタクシーに業を煮やして市電で神田まで出て、後は省線で品川まで一直線。着いてみて驚いた。ホームは歓迎の人たちで、それこそ芋を洗う混雑、まだ何も見えないうちからあちこちで万歳、万歳と喚声があがる。やがて、アナウンスが列車の到着を知らせると、ワーッと言うどよめき、静かに入ってきた列車の窓という窓は嬉しそうに微笑《ほほえ》む兵隊の顔に溢《あふ》れていた。
ハナも胸がキューッと締って視界が涙で曇り、兵隊の顔の区別がつかない。おじいちゃんは、ぴょんぴょんと飛びはねるようにして大声で「次郎、次郎」と怒鳴っている。列車が停まると、もう迎えられる方も迎える方の人たちも、双方、互いに相手を見つけ出そうと目を血走らせている。
「いた、いた、あすこだ、大旦那。若旦那あすこだよ、ホラ」
全く運がいいというのか間がいいのか、ハナたちが立っている場所から二、三間先の窓に次郎がいるのを頭が目ざとく見つけた。嘘のような偶然にハナは立ちすくんだが、清さんに押されて眼をこすりこすり、人波を掻《か》き分けて頭の後を追った。そこには紛れもなく、なつかしいおとうちゃんの顔があった。陽やけして一層たくましくなって元気に笑っている。
「おとうちゃん」
ハナは、一言、呼んだきりだった。胸の奥から熱いものがこみ上げてきて堰《せき》を切ったように後から後から涙が溢れて、もう止めようがなく、その場から動くことさえ出来なかった。山田のかみさんが駈け寄ると、次郎の腕にしがみつき、
「おとうちゃん、よく帰ったね、よく帰ったね、よかったねー」
と顔をくちゃくちゃにして泣いている。おじいちゃんは、
「次郎、元気か、元気か、よかった、よかった」
と同じことばかり言っている。
太郎は流石に、
「家の者は皆、元気だよ。子供らもおばあちゃんも皆元気で、商売も上手《うま》く行ってるよ」
と、次郎の一番気にしている筈の近況を報告している。後はもうみんな万歳、万歳。次郎たちが列車を降りると、てんでに好きなことを言って、もう何が何だかわからなくなった。
帰還兵たちは品川駅前に一旦集結、整列して点呼を受け、そのまま、迎えに来た人たちが道路のふちに並んで旗を振る中を、九段の近衛歩兵第一|聯隊《れんたい》へ向って威風堂々と行進して行った。ハナは、帰りの電車が品川駅を出てしばらくしてから、おじいちゃんと清さんがいないのに気がついた。
「きっと清さんも一緒だから、一電車遅れて来るでしょう。しんぺえねえよ」
頭の言葉を信じて、そのまま家へ帰った。弁菊へ帰ると、もう祝いに駈けつけてくれた人たちがいて、おばあちゃんが一人で天手古舞いをしていた。
早速、太郎が二階の茶の間のとっつきに帳机を置いて、祝儀の控えを作り始めた。本来ならこんなことは清さんが打ってつけなのだが、太郎も書画|骨董《こつとう》を道楽にしているだけになかなかの達筆で手際もいい。そのうち角樽《つのだる》が届き、目の下一尺もある大鯛《おおだい》が魚|市場《かし》から持ちこまれ、飯台《はんだい》から溢れてギラギラ光っている。
よっぽど嬉しいと見えて、「明るいうちは、どうも落ち着かなくて」と、普段なら断わる筈の頭がコップ酒を呷っている。おばあちゃんの花札仲間や、同業の弁当屋の親父連中も二人三人と集ってきて、長火鉢のまわりが賑《にぎ》やかになる。
「今日は目出度いんだから、ひとつ盛大にやっとくれ」
おばあちゃんは上機嫌で、そっくり返っている。
得意先の人たちから出入りの職人、隣近所から警察の連中まで続々と祝いに来てくれて引きも切らない。「もう一杯」が「二杯」となり、間もなく御本人が弁菊に凱旋《がいせん》と聞けば元気な顔だけ見て帰ろうと、ちょっとの筈が長くなり、段々人数も殖えてきて、これじゃ駄目だと十畳と八畳の間の襖《ふすま》を取っ払って膳を並べて急拵えの宴会場。お手の物の刺身や卵焼きは言うに及ばず、寿司や田楽《でんがく》まで大きな器でジャンジャン配達されてきた。台所では、勝手知った近所のかみさん連中が、割烹着《かつぽうぎ》の袖をまくり上げて立ち働いてくれる。一人一人の気分が浮き立っているから、つまらぬ冗談にも辺りはばからぬ大笑い、酒がこぼれても、徳利《とつくり》が倒れても馬鹿な嬌声《きようせい》を張り上げる。お祭りか運動会、家の中を山車《だし》が通るような賑やかさ。
そこへ清さんが帰ってきた。
「おじいちゃんは品川駅から兵隊と一緒に九段まで行進するんだってきかねえんだから。どんどん行っちゃうから仕方がねえ、あたしも歩いちゃったよ」
清さんは、まだ体から湯気を立てているようだった。
「先ず泉岳寺の横を通って三田まで行って、赤羽橋から芝増上寺さんを右に見て、飯倉から愛宕《あたご》神社の脇を抜けて虎の門から霞ヶ関、国会議事堂の前を真っつぐ堀端へ下り、半蔵門から千鳥ヶ|淵《ふち》を通って着いたところが九段坂上の一聯隊、実に何ともくたびれたね」
一気に喋《しやべ》って一息ついて、
「冷《ひや》でいいから一杯おくれ」
「あいよ」
傍《そば》にいたハツが間をおかずに清さんにコップを差し出す。ぐびりと飲むと、清さんはみんなを見渡して再び語りだした。
「歩き出したのは芝高輪の泉岳寺だよ、お立ち合い、折りからの雪を踏みしめ朝日を浴びて隊伍を整え、えい、えい、おう。天晴《あつぱ》れ男の花道。道順はまるっきり逆だが、何だか忠臣蔵を地でいってるようで、何ともたまらねえ」
「よー、よー。さしずめ清さんは天野屋利兵衛ってとこかい」
頭が声をかける。一同が、ドッと受けた。
「するってえと、おじいちゃんは俵星玄蕃《たわらぼしげんば》かい、ちょっと汚ねえけど仕方がねえ」
太郎が半畳を入れると、又一同が大声で笑う。突然、階下《した》の調理場からワーッと上る喚声が二階へ筒抜けに響いてきた。口笛は吹くわ、奇声をあげるわ、バケツは叩くわ、家が揺れるほどのやかましさ。
「おっ、若旦那のお帰りだよ」
清さんがそう言いながら床柱の前に空席を作って座布団を裏返した。おとうちゃんは奉公袋一つ提げて、軍服のまま、二階へ上って来た。ゲートルを捲《ま》いてない足元が如何《いか》にも気楽そうで解き放たれた雰囲気《ふんいき》が溢れている。流石《さすが》にちょっと疲れたように面やつれして見えたが、出征して行った時より肥って一廻り大きくなっている。
ワーッと再び喚声が起り、口々に「お帰り」とか「お目出度う」とか叫び、握手をしたり、肩を叩いたり。
「おい、こう、こう。次郎が帰ったよ、次郎が帰ったよ」
おじいちゃんは着物の裾をドロドロに濡らして、雫《しずく》をふりまくのもいとわず、おばあちゃんにガナリ立ててる。
「わかってるよ、出たものは帰ってくるに決ってるよ」
口はそっけないが、やっぱりおばあちゃんも嬉しさに頬を濡らしている。頭がおとうちゃんを床の間の前に立たせると、
「若旦那の帰還を祝って万歳を三唱致しましょう。青山次郎君、バンザーイ」
と、音頭を取った。
万歳が終るとおとうちゃんが、
「みなさん、どうも有難うございます。青山次郎、只今、元気で帰って参りました」
と挨拶して、兵隊らしく角張ったお辞儀をした。それからはもう、盃《さかずき》やコップが殺到して、かわるがわるお祝いの言葉が述べられ、誰もが上機嫌。
思えば二年三カ月前、同じような騒ぎの中でおとうちゃんは出かけて行った。あの時は、壮行会だの歓送会だのと呼び名ばかり景気はいいが、目出度い、目出度いと口では言っていても、真底、目出度いと思っている人のいる筈もなく、明日は我が身とヤケのヤン八。なーに、生き死には寿命で畳の上でも死ぬ者は死ぬし、戦争に行ったって死ぬと決った訳じゃない。人間万事|塞翁《さいおう》が馬と誰もが納得出来るような出来ないような理屈で自分を押し殺して、バンザイ、バンザイと誤魔化してはいたが、家にいるより戦争に行く方が危険が多いのは子供でもわかる。白木の箱で戻っても文句をつけに行く場所がない。片手、片足失っても帰って来られればめっけもの、それが戦争、それが兵隊、誰にもそれがわかっているだけに、飲んでもガナッても上《うわ》の空。空元気だけが上滑りして、悪酔いばかりが堂々廻りするようだった。
ところが今日のこの騒ぎは、何のこだわりもないスッカラカンの五月空《さつきぞら》。「お目出度う」は腹から本当に「お目出度う」で、本音も世間態もない。皆、晴々とした顔で何度も何度も万歳で乾盃《かんぱい》している。
ハナは遠くにいる感じで、その有様を見ながら、今更のようにこの幸せに酔っていた。この戦争は何時までやるのやら、終るどころか、まだまだ続くという話。さあ、戦《たたかい》はこれからだ∞パーマネントはやめましょう≠ネどの標語が目立ち、指輪や毛皮は自然身につけるのも憚《はばか》られる。品物はなくなり、物価は上る。景気のいいのは軍需工場ばかりで、長者番付の上位に屑鉄《くずてつ》屋が並ぶのを見れば、ますますこの戦争は大がかりになって行くのは、ハナにもわかる。その最中《さなか》に、よくもまあ元気で帰って来てくれたものと夢見心地でボンヤリしていた。
誰が知らせてくれたのか、子供たちが帰って来た。足の踏み場もないような賑やかさに二人とも戸惑っていたようだが、流石に謙一は年嵩《としかさ》らしく、真直ぐおとうちゃんのところへ行くと「お帰りなさい」と挨拶した。次郎は謙一と幸二を並んで立たせると、「大きくなった、大きくなった」としきりに感心して二人の肩を叩いて学校のことを聞いたりしていた。毎日見ていれば気がつく筈もないが、この年頃の子供の二年半、きっと見違えるように変っている筈だ。それにしても幸二は法界坊みたいに髪を伸ばして、鼻の下と頬をヒビで真赤にし、目ばかりギョロギョロさせ、肘《ひじ》の抜けたセーターを着ている。見るからに腕白そうなその恰好が、ハナにはちょっと気がかりだった。幸二は、しばらくの間、おとうちゃんの胡坐《あぐら》の中におさまってニコニコしていたが、卵焼きだの金とんだの、目の前のものをサッと片付けると、表の雪の方に興味があるのか、謙一をさそって飛び出していった。男の子はそっけないもんだと、ハナは思った。
おじいちゃんの妾のぼたんさんが、母親と朋輩の芸者を一人連れてやって来た。どこからともなく三味線や太鼓が取り寄せられて、ドンチャカ、ドンチャカ、鳴り物が入るとこうも座が浮き立つものかとびっくりするほどの馬鹿騒ぎ。外の通りを歩く人たちが思わず二階を見上げて行くほどだ。酔っ払った頭《かしら》のカッポレも見ものだったが、ぼたんさんがやっぱり芸達者なもので、どうしてこの人がうちのおじいちゃんのお妾さんをしているのか皆、不思議でしようがない。
ひとしきり、さんざめきがおさまったところで、ハナは台所に立った。おじいちゃんは、酒は一滴も駄目なくせに、あまりのことに調子づいて盃に一杯ぐらいやったのか、気持が悪いと言って、ラクに布団を敷かせ、女中部屋の隅っこでタオルをかぶって寝込んでしまった。
手洗いに立った堀留警察の署長さんがそれを見て、
「ここの大旦那、何時来てもタオルかぶって寝てるね」
と笑っていた。
今度は次郎が歌っているのが聞える。相当酔っているらしいが、今日のところは仕方がない。ハナは何も言うまいと思った。
すべては出征の時と同じ。あの時も召集令状が届いたその日から三晩続けて、まるで蜂《はち》の巣をつついたような騒ぎ、もともと酒の強くないおとうちゃんは無理矢理飲まされ、やっと二人きりになる頃には正体もない高鼾《たかいびき》、ろくろく話もしないまま出かけて行ってしまった。善意でやってることとはいえ、夫婦の間にさえどんどん割り込んできて、勝手に泣いたり喚いたり、普段ならいざ知らず、これが互いの顔の見納めかと言う時くらい、もう少し何とかならないものかと、あの時はつくづく下町の暮しが疎《うと》ましく、近所の人たちを恨めしくさえ思ったものだった。多分、今夜もおとうちゃんは、ハナの手の届かないところで、ろくに言葉も交さないうちにへべれけになってしまい、朝までゲーゲーやるのかもしれない。明日は二日酔の頭を抱えて朝湯へ駈けこむことになりそうだが、なーに、二日酔で死ぬこともないだろう。それもいいかもしれない。おとうちゃんが家に帰ったという安心感でハナは何もかも許せる気になっていた。
この騒ぎの中に電報が来たのも、良くなかった。「宇垣悟三郎なんて家にはいねーや」と受け取った助さんがそれを突っ返したらしい。ロクちゃんの本名とは気づかなかったのだ。
改めて、清さんが局へ問い合わせてみると、ロクちゃんの里の岡山からの電報で、ロクちゃんに召集令状が来たという報《しら》せだった。
おとうちゃんがやっと帰って来れば、今度はロクちゃん。ロクちゃんはラクと近所に世帯を持って、弁菊へ二人で通ってくることに、つい昨日、話が決ったばかりだというのに……。
報せを受けて青ざめたラクの顔に、ハナは、一昨昨年《さきおととし》の自分を見る想いだった。
勝利ノ日マデ
助さんも別に悪気があって言ったわけではないんだろうが、ハナはどうしてもその一言が朝から気になっていて、喉《のど》の奥に魚の骨でも突き立てたようないやな気分で、思い出すたびにイライラして来るのがどうにもならなかった。
「ええ、それだったら若旦那が一昨日《おととい》どっかへ持って行きましたよ、又あの女《ひと》んとこじゃねえんですかい」
欅《けやき》作りの大きな姿見があったはずだがと、引越し荷物の中にそれが見当らないのを、ハナが気にして聞いてみたのだ。四辺を一寸近くもめん取りした厚い鏡入りの、ガッシリした拵えの素敵な鏡台だった。義兄の太郎が家へ持って来たものの中では一番まともな品物でハナも気に入っていた。助さんの言うようにおとうちゃんは、あれを又妾の千絵《ちえ》さんのところへ運んだに違いない。この暑いのに汗みずくになって担いで行ったのかと思うと余計に腹が立って、誰にでも当りたいようなトゲトゲした気持になってくる。
その次郎は、警防団の群長で、鉄カブト姿でメガホン片手に飛び廻っていて、今日も朝早くから連絡会議とかで出たっきり。女狂いもするなじゃないがこの戦争の最中に、チョロチョロとひと目を盗んでみっともないと、つい文句も言いたくなる。
それでなくても、長年この堀留で商売を続けてきた仕出し弁当屋の弁菊の店が、明日にも、強制疎開で取り壊されようとしているというのに――。さまざまな想い出がしみ込んでいるはずの二階の居間も、襖や障子を取り払って、家財道具もあらかた外へ運び出したあとは、さむざむとしてとても昨日まで人が住んでいたとは思えない。古新聞やボロのたぐいがあちらこちらに山積みにされ、花瓶だの焼物の火鉢だのがゴロゴロところがり、額や小箱が散乱して、大地震か爆撃のあとのようだ。
「こんなもの持ってったって仕様がねえと思うけど、いるんですかねえ本当に」
子供達のために、毎年五月に欠かさず飾ってきた武者人形の箱を眺めながら、清さんが声をかけてきた。
清さんは、昔この弁菊で番頭をしていた人でもう三十年の付き合いになるとか。花も生ければ茶もたてる、尺八も少々いけて、杉山流の按摩《あんま》の心得もあり、少々の頭痛ぐらいすぐに直してくれる。ただ難を言えば器用人の常で永続きがしない、チャランポランかと思うと変に律義で几帳面《きちようめん》、この家の事なら誰よりもよく知っていて、いまだに番頭役、何かあったら欠かせない人だ。大変なおしゃれでいつも角帯をキリッと締めて、着物姿のよく似合った清さんが、今はおとうちゃんの着古した縞のシャツを着、よれよれの戦闘帽の上から手拭で頬かぶりをして、引越しの手伝いをしているのが滑稽だった。
「いるんだよそれは、大事にしてるんだから、さっさと運んでちょうだい」
ハナはぶっきら棒にそう言うと、やけくそのようになって、めぼしいものを手当り次第にみかん箱に抛《ほう》り込んでいる。
「昔っから畳と女房は新しいのにかぎるってな、古畳なんぞ持ってったって仕方がねえ、古い方がいいのは梅ぼしと鉄瓶ぐれえのもんでえ」
と清さんがハナの気に障ることを言ったかと思うと、家の中を土足でズカズカと歩き出した。畳を地下足袋《じかたび》で踏んづけているその感じが、見ているハナの気持を一層|荒《すさ》ませる。
「おかみさん、こんなものどうしますかね」
古くから家にいる板前の助さんが、塗物の箱膳を持って来た。豆絞りの手拭を四枚はぎ合わせて拵えたシャツを着て、首にタオルを巻いている。
「そんなものはもう使うこともねえだろうなあ、捨てちまおう」
と清さんが横から言う。
「でもまだ新しいし、三、四十ありますぜ」
助さんは未練がすてきれない。
「店で使ってた弁当箱や、瀬戸物類と一緒に外へおっぽり出しといて、通りがかりの人でも何でも、使おうって人に持ってってもらいねえ」
二階を住居、下を調理場にして忙しい時は一日に千本からの弁当を商って三十年、いざ引越しとなると色々なものが出てきて、迷いはじめたらきりがない。自分でもけじめをつけるつもりか、清さんがきっぱりとそう言った。
その時ガラガラドシーンと遠くでものの壊れる音がした。三人いっせいに腰を浮かした。
「人形町の方ですぜ今の音は。そうだ、あすこらもう壊してるんだ」
清さんが綱を引っ張る手つきをした。
「ちょっと見て来ましょうよ」
言いおわらないうちに助さんはもう階段の方へ歩いていた。ハナも清さんと一緒にあとに続いた。
寄席の末広がある通りの、向う側の角の家がいま壊されたところだった。あたり一面巻き上るほこりでぼーっとかすんでいる。屋根瓦が四方に飛び散って、通りのこちら側までころがってきている。
まだほこりも鎮まらないうちに、大きな金槌《かなづち》や掛け矢を持った丸腰の兵隊が、すぐ隣りの家の隅の壁を打ち壊しにかかった。今度はノコギリで四隅の柱をゴリゴリと引き出す。そして二階の窓から太いロープを差し込み、天井裏の梁《はり》に結びつけると、二十人程の兵隊が、そのロープにとりついて、「セーノ」と掛け声をそろえて引っぱった。
「乱暴なことしやがるねえ、ええ、どうもこの頃風呂屋が毎日あけてると思ったらこれだよ、焚《た》きものがいくらもあらあ」
と清さんが言った。その家は嫌がってでもいるかのようになかなか壊れない。ノコギリを持った兵隊が何度か出たり入ったり、やがて何度目かの「セーノ」で、グラグラし始め、すぐにガラガラビシャンと引き倒された。弁菊ももうすぐこうして壊されるのかと思うとハナは何とも言えぬいやな気がした。
「簡単には倒れないもんだね、タンクが来てガリガリ踏み倒してるとこもあるんだってね、しかしここら一並びくらい壊したからって、ちったあ防火の役に立つのかね、この間の三月十日の空襲の時なんざ隅田川を火が越えたってんだから」
助さんが清さんを振りかえった。
「壊さねえでおいたってどうせ焼けちまうんだからおんなじこったよ」
「そりゃまあそうだろうけど、戦争ってのはもったいねえことするねえ、敵さんも大変だと思うよ、わざわざ遠くから爆弾運んで来て落すのだってえらい手間だもんね」
助さんは変な感心の仕方をしていた。
三月十日の大空襲でもせっかく焼けずに残ったのに、間引きで壊されるとは運が悪いとハナが口を尖《とが》らせると、おとうちゃんは、馬鹿なこと言うなよ、空襲はいきなり来るけど、強制疎開ってのは、壊す時はちゃんと断わってくれて、住んでる人間に怪我はさせねえよ、しかもわずかでも金を払ってくれるんだ、よっぽど有難えと思わなきゃ罰《ばち》が当るぜと言っていた。それはそうかも知れないが、焼けも壊されもしない家もあるかと思えばやっぱり損なことには違いない。
戦局は日増しに不利、東京が本格的に空襲をうけるのも時間の問題と、去年あたりから、どこも尻に火がついたように落ちつかず、疎開、転出とあわただしくなってきた。地方に実家や、親戚《しんせき》のある者は、衣類や家財道具をさっさと送り、あとは身一つでいつでも逃げ出せるようにと要領よく立廻る。おとうちゃんの兄の太郎がそれでそそくさと所帯をたたんで、女房の実家のある山形へいち早く疎開した。それにしても腹の立つのは事前に何のしらせもなく、山形へついてからも葉書一枚もよこさない。あとは野となれか、飛ぶ鳥があとを泥田とかき廻し、近所中へ不義理を残してそのまんま。途方に暮れた借金取りが家へ来たので、はじめてそのいきさつが知れて驚かされる有様だった。
ハナの実家は板橋だし、弁菊の方にもこんな時に頼りになるような田舎も親類もない。とりあえず子供と年寄りだけでも何とか気の休まりそうなところへうつしたいと、おとうちゃんが中野の鷺宮《さぎのみや》に手頃な家を一軒買った。七十坪ほどの土地に、下が三間、二階が二間の郊外によくある文化住宅。省線の高田馬場から二両連結の西武線で七つ目、駅から二十分も歩くような辺鄙《へんぴ》な場所だが、まだあたりは田圃《たんぼ》や畑がのどかに広がっていて、夜になればかえるの声がうるさいほど。直撃をくらっちゃ何処《どこ》に居ても同じだが、ここならまず類焼で死ぬことはないだろうとおとうちゃんは馬鹿に気に入っている様子だった。それにしても何でこんな縁もゆかりもないような所にきめたのか、それがハナにはいぶかしく、しつこく聞いてみると、易者に見てもらったらこの辺が一番方角がいいんだと言う。
あとでわかったことだが、易者も方角も嘘の皮、妾の千絵さんの家がこの沿線の上石神井《かみしやくじい》にあり、さすがにハナも嫌な気がした。
とりあえずこっちは鷺宮へ疎開するつもりで安心していたのに、その鷺宮の家を売った一家は仙台へ疎開して、行ったさきで焼け出されたとか、何がどうなるかわからぬものだ。
おじいちゃんおばあちゃんは、住みなれた堀留をはなれるのがいやで、どうせ先の知れた命、どこにいたって同じこと、同じことなら見知らぬ土地でいやな思いをするのはいやだと、悪強情を張ってなかなか鷺宮へは行きたがらない。
そのうちにおじいちゃんの妾のぼたんさんは、一家をあげて伊豆の修善寺へ知りあいを頼って疎開してしまい、おじいちゃんは体よくおいてけぼり。おばあちゃんも、花札仲間が二人へり三人へり、ついには一人ぽっちで相手がない、仕方なくしぶしぶ重い腰を上げて鷺宮へ移った。
そうこうしている内に、幸二の学校でも埼玉県への集団疎開が決り、担任の古菅《こすげ》先生が引率して、六年生のクラス半分以上が参加することになった。ハナは幸二を手ばなすのがいやで、鷺宮の学校へ転校させた。
幸二はクラスの皆と一緒に集団疎開に行く気になっていたようで、転校には不満だったらしい。じいさんばあさんと三人だけで鷺宮へ引っこんで、畑の中の道を三十分も歩いて通うような、見知らぬ田舎の学校へ行くのはつらかったのだろう。
それにしても、もし鷺宮の家がなかったら、この弁菊を壊されてもどこへも行き場がなかっただろう。そう考えると恐ろしい気がした。
日本橋堀留町|界隈《かいわい》は昔から呉服問屋の街、大小の店がびっしりと軒を連ねて何百軒、この戦争が始まる前までは、それは活気にあふれていたものだった。それがだんだんと品物がなくなり、繊維製品が配給制になってからガラリと様子が変った。特に衣料切符制が実施されてからは、卸問屋は商売が立ちゆかなくなって、櫛《くし》の歯が抜け落ちるようにバタバタと姿を消して行き、今ではひっそりとして昼間でも行き交う人影はまばら。多勢の奉公人たちが立ち働き、夜遅くまでコウコウと灯をつけていた大商店が店を閉め、戸は傾き、窓は破れてそのまんま、積みあげられてくさりかけた古畳がはみ出している。全盛の頃は間口|一間《いつけん》ソロバン一丁で年間何十万て売上げをあげたなんて自慢していた家も、軒並空家になって留守番もいない。つい五年前にあった二千六百年の祝典の大騒ぎが嘘のようだ。
あの頃の仕出し弁当屋弁菊商店は、堀留町から横山町へかけての呉服問屋三十軒ばかりの店員の三度の食事を引き受け、朝から晩まで戦争のような忙しさだった。
その他《ほか》にも、堀留、久松、丸の内のそれぞれの警察署の留置人への弁当の配達、警視庁の食堂、皇宮警察の署員の三食の賄《まかな》いと、毎日大変な繁盛ぶりだった。
ハナは二十二歳で弁菊へ嫁いだ翌日から警視庁の食堂へ通ったものだ。十人近くいる従業員の先に立って、仕入れから献立作り、配達、集金と、殊に次郎が兵隊に行っている間は目の廻る毎日だった。
次郎が兵隊から帰って来た頃から、そろそろお米がとぼしくなり、食堂や弁当屋も商売がやりにくくなってきた。特に警視庁の食堂では節米の手本を示せと、全然米飯なしのランチを作らされたりもした。玉ねぎ、じゃが芋、人参《にんじん》、昆布《こんぶ》等をメリケン粉で固めたものにお菜をつけたり、「幕の内」の御飯まで饅頭《まんじゆう》やパンになった。
次郎がせっかく作ったその代用食を、こんなもの喰えるかと床に投げた刑事がいた。ハナが怒って、あやうくつかみ合いの喧嘩《けんか》になりそうなこともあったりしてだんだん警視庁もいづらくなり、結局米が配給制になる前にやめてしまった。
いよいよ米が配給制になり、各家庭に米穀通帳が配布され、それがなければ米が買えないことになった。食堂や弁当屋も業務用米穀通帳が必要で、従来の営業実績にしたがって米が配給されるようになり、ますます商売が難かしくなって来た。
この戦争は長びきそうだし、こう何もかにも無くなって行くようじゃ、この堀留界隈、どの商いもなり立たない。特に弁菊のような喰べもの商売は先々ダメになるのはわかり切った話と、次郎は早くからこの店には見切りをつけていた。
ちょうどそんな時、向島《むこうじま》のベークライトの工場で従業員の食堂をやらないかというさそいがあり、わたりに船と出かけて行ったおとうちゃんは、業務用の米の配給の実績をすべて持ち込む約束でその日のうちにこの話を決めてきた。
日に日に物資が欠乏して行くなかで、業務用の米の配給をうけられるのが唯一命の綱と、これにしがみつくことしか考えてない弁当屋しか知らない頑固なおじいちゃんは、これをきいて納得するはずがなかった。
「俺が長年やって来た商売だ、おめえなんぞにそういいようにされてたまるか。弁当屋は弁当屋やってるから弁当屋なんだ、みんなそう言ってるぞ」
すっかり興奮して何だかよくわからなくなっていた。
若旦那がいくらめさきが利くか知らねえが、こればっかりは間違いだ、いくら戦争がはげしくなったって、人間三度のメシを二度につめても、まるっきり喰わずにはいられねえ。どうでも家庭で作る食事の出来ない人たちもいる筈、それでこそ俺たち弁当屋もオマンマが喰えるってえもんだ。業務用の米の配給の権利をわたすのは、首をあずけるのと同じ事だと、わけ知り顔の弁当屋仲間にたきつけられたのもあってか、おじいちゃんは頭から湯気たてんばかりにいきり立った。
「俺《お》ら知らねえ、俺ら知らねえ、工場の食堂なんてそんなものは料理じゃねえ、俺ら絶対いやだ、早く行ってこの話は断わって来い、米の実績を取り返して来い」
といきまいて、まわりに当り散らしてあげくはタオルを被《かぶ》ってふて寝をする。もとより理屈を言ってもわかる人じゃないと、おとうちゃんもひらき直って、あとはどこ吹く風と将棋盤に向ったきり、中に入ったおばあちゃんのとりなしにも、返答一つ咳《せき》一つしない。ハナも少々心配にはなったが、こんな時になまじ口出しをすれば巻き添えを喰って、頬げたの一つも張られるか、何かぶつけられるくらいがおちと、隣りの部屋の襖のかげで息を殺して必死でいないふりをしていた。おばあちゃんはと見れば、これもしたたかのタヌキ、いつのまにか長火鉢のかげで箱枕をかついでうす眼をあけてねていた。
あとで考えれば馬鹿のような話だが、はじめおとうちゃんを笑った連中も、結局お得意が焼けたり、疎開したり廃業したりで、後生大事にしてきた配給米の実績も役には立てられず、ほうり出して田舎へ逃げるか、果てはその権利を買ってくれと頼みに来たりする始末で、ハナは今更のようにやっぱりうちのおとうちゃんはえらいもんだと誇らしく思った。
向島の日本ベークライトの工場は、ハナにはよくわからないが飛行機のプロペラをはじめ、タンクや軍艦の部品を作っているとかで、日の丸鉢巻の工員さんたちが眼を血走らせ、残業残業と活気にあふれて月月火水木金金。体育館のような食堂で一度に五百人からの人々が三交替で食事をする。炊事場も弁菊の三倍はあろうか、一度に米の一俵も炊けそうな蒸気|釜《がま》が三基もあり、これが皆電気仕掛けで、スウィッチ一つでグーッと傾いたり蓋が上ったり、スコップのような大きなしゃもじで舟のようなおはちにごはんをうつす。大根おろしも、芋洗いもすべて機械でこなし、流しも調理場もオールステンレスの最新設備だ。使用済の器がベルトに乗ってすーっとはこばれるというまるで工場のような有様――。
家に古くから居る板前の鈴木さんがチーフになって助さんがこれを手伝い、徴用のがれに清さんが会計をかって出た。手の足りないところは工場から何人でも若い人を廻してくれる。
初めのうちこそおとうちゃんも何やかやと忙しかったが、一応体勢が整うと、あとは万事自然に流れるように事が運び、時々見廻るだけで面白いようにお金が入ってきた。
家賃、敷金、権利金がなしで、光熱費も水道料金も、人件費もむこう持ち、配達も集金の手間もなしで、親方は日の丸だから勘定の取りっぱぐれもなく、これでは損の出ようがない。
食堂やってるだけでこれだもの、軍関係の仕事をしてる所は儲《もう》かるんだなあ、としまいにはおとうちゃんも呆《あき》れていた。
儲かる奴がいるから戦争はなくならねえ、おかげで軍隊や工場へもってかれる方はいいつらのかわ。まして空襲で追い廻される女子供は可哀そうだと、いつも清さんは怒っている。
おとうちゃんもこの頃では、金なんぞいくら儲かったって使い道がねえんだから仕方がねえや、思えば間の悪い時に金運が廻ってきたもんだ、せめて職工さんたちに旨《うま》いものを喰わしてやろうぜ、と笑っている。
あながち次郎に欲がないわけでも、悟ってるわけでもない。何が欲しいっていったところで買うものはない。ダイヤモンドやプラチナで身を飾っても国民服じゃみっともないだけ。料亭はなし、競馬はなし、物見|遊山《ゆさん》は夢の又夢――。三日逢わずにいた人との挨拶が、「あらまだ生きてたの」。それが不思議でもおかしくもない。誰彼を問わず、本当に今日明日の命がわからない日常では、金の有難みも二の次三の次だ。ましてや十六になったばかりの息子の謙一が、勤労動員で八王子の方まで連れていかれてるから、不本意の職業戦士を見れば他人事《ひとごと》じゃないのがあたり前だろう。
皇宮警察の職員の食堂と、近所の警察署の留置人の弁当は、手が足りないから、材料がないからと何度も断わりを入れたが、替りがないからやってくれと止《や》めさせてもらえず、おかげで米の配給は優先的に受けられはしたが、留置人のはともかく皇宮警察の方は毎日毎日|切乾《きりぼ》し大根というわけにもいかず、随分おとうちゃんも苦労をした。家が強制疎開で取り壊されるとなれば、今度ばかりはむこうにも無理の押しつけようがなく、やっと止められることになったのだ。
「おかみさんこれはどうします」
と助さんが、どこからはずして来たのか、国防色の厚地のカーテンを体に巻きつけてハナの前に立った。
「どうするって」
「あっしにくれませんかね、布地も色も恰度《ちようど》いいから国民服にしちまおうと思うんですが」
「いいよ、でも仕立はどうするの」
「清さんのおかみさんにたのんで仕立ててもらいますよ、ねえ清さん」
助さんそのまま清さんの方へにじり寄っていった。
「駄目だよそりゃ、うちのは和服の仕立屋だから、鋳掛《いか》け屋に軍艦たのむようなもんで無理だよ」
と清さんは、すげなく断わった。
鋳掛け屋も仕立屋も、大工も靴屋も、もうこの近所にはいない。何か買おうにも直そうにも、まともにあいてる店は一軒もない。殊に口に入るものと言ったら、ソバ、ウドンはおろか糠《ぬか》もおからも爪楊枝《つまようじ》もない。
去年の二月に高級料理店への業務用の米の配給が停止になり、かわりに各地に雑炊食堂が許可になった。居残りの弁当屋仲間が、それぞれのわずかな業務用の配給米の実績を持ちよって、日本橋の橋ぎわの廃業した寿司屋を改造し、雑炊食堂を共同経営することになった。前の月に日本橋区の賄組合の組合長に推された次郎が、警察との話合いや店の選定、造作の手直し等に骨を折った。開店するとこれが大変な人気で、なにしろほかに喰べるものがないから、毎日店をあけるとすぐから行列が出来る忙しさだった。三月になると、料理屋、待合、カフエー、酒場が全部休業、又は閉店させられた。むこう一年間と期限つきだが、一年たったって、とても再び商売が出来るという期待は持てないから全廃と同じことだった。おかげで芸者や女給は勿論《もちろん》、女中さんたちまで、仕事も行き場もない女たちが大勢出来た。
そんな時、芳町《よしちよう》で芸者をしてた千絵さんが、おばあちゃんをたよって家に来た。
「恰度いいや、次郎お前んとこで使っておやりよ」
とおばあちゃんがよせばいいのに余計な世話をやいて、千絵さんが雑炊食堂で働くことになった。
千絵さんは色が白く、細面で、キリッとした粋《いき》な顔立ちで、ちょっと険があるが、話して見るときさくで面白い。姿もいいし、さすが芳町の売れっ妓《こ》芸者。その上、歳も女盛りで二十七とか八とか。母親がおばあちゃんの花札仲間で、しょっちゅう熱海だ箱根だと一緒に遊び歩いていたので、千絵さんも家へちょくちょく顔を出し、おばあちゃんは何かと面倒を見ていた。あんまり体の丈夫でないおふくろさんと、二人で芳町に住んでいるときいているから、ハナも気が付けば、ちょいちょい米だの味噌《みそ》だのをそっと持たしてやっていた。それが三月《みつき》もしないうちに雑炊食堂をやめて、おっかさんの知りあいのうちを頼って疎開したとかで、ぷっつり家へも寄りつかなくなった。
どうもこの時からおとうちゃんは千絵さんと怪しくなっていたらしい。あとで考えると実に間の抜けた話だが、疎開ときいてハナは、銘仙の布団と蚊帳《かや》まで持たしてやった。盗人《ぬすつと》に追い銭とはこのことか、あとであの蚊帳を吊《つ》って二人で寝たかと思うと腹の中が煮えくり返るようだった。
千絵さんと次郎がおかしいとはっきり判ったのは、去年の十二月の末になってからだった。正月が近いと言ったって近頃は昔のように弁菊の店の前の通りに、裸電球を祭のように幾つも吊り下げて、夜っぴて餅を搗《つ》くなんてことは考えられもせず、お鏡一つ門松一本用意出来ないなさけなさ。それでもお餅だけはどうしてもと、ハナは八方工面して形ばかりのノシ餅をこしらえた。
そのノシ餅の一枚にあろうことか助さんが手を出した。外套《がいとう》の下に隠して裏口からこっそり持ち出すところを清さんが見つけて、
「情|無《ね》えことしてくれるじゃねえか、見損なったぜ助さん」
と涙ながらになじり、騒ぎが大きくなった。ハナは、助さんの様子がいつもと違うので、清さんと二人でしつこく問いつめると、とうとうたまらず、次郎に頼まれたと白状した。
助さんはこの餅にかぎらず、今までにも、味噌だ、醤油だ、油だと、何回も家のものを持ち出しては裏のお稲荷《いなり》さんの前で千絵さんにわたしていたらしい。
しかし親子とは言うものの、どうしてやることがこうまでおじいちゃんに似ているのかと、ハナは腹がたつやら可笑《おか》しいやら、全くあきれかえって言葉もなかった。
同じ浮気をするにしても、何処か知らないところで、全く知らない女と知られないようには出来ないもんだろうか。それなら多少腹の立つことはあっても、見て見ないふり、知らないことにして平静を装う位の知恵と思い遣《や》りはハナにもある。それなのに相手が千絵さんで、ついこの間まで眼の前にいて、声も仕草も知りつくしている女ときているから、つとめて忘れていようと思ったってそれは無理。たしかに焼き餅には違いなかろうが、腹が立つより、何か心の底に穴でも空いたような情ない気持にハナはなっていた。
ハナはつくづくと考えこんでしまう。この家に嫁いで来てから無我夢中で働き通し、やっと二人の男の子にも恵まれて、世間並みの幸せ掴《つか》みかけたと思えば、命とも頼むおとうちゃんは戦争にとられ、今度は無事に帰還《かえ》るのだけをひたすら念じて二年半――。奇蹟のように帰還《かえ》ってくれてやれ嬉しやもつかの間、世の中の雲行きがますますおかしくなる。でもこれからは家族そろってと意気ごめば、こんな形でおとうちゃんに裏切られる。今まで何のために生きて来たのかとガッカリして、大袈裟《おおげさ》でなし明日からの生きる張りあい見失うおもいだった。
「どうでえ、でえぶかたづいたようじゃねーか」
と声をかけながら、鳶《とび》の頭《かしら》の元《げん》さんが上って来た。紺の鉄道員の着る作業服のような上着の背中に、鉄カブトをくくりつけ、下は紺木綿の股引《ももひ》きに黒のゲートルを巻いて地下足袋といういでたち。職業柄町内の警防団員で隣組の組長だが、気の毒なことに、頭の家も間引き疎開に半分ひっかかって取り壊されるのは明日か明後日だという。
「まあおかけなさいと言いたいところだが、この通りでとっちらかってるから、茶も入れらんねえや」
と清さんが言えば、
「なあにいいってことよ」
と窓の敷居に腰かけて、ポケットから煙草を出した。
「頭ンとこじゃこんなものいりませんかね」
助さんが箱膳をさし出した。
「ほかにも結構使える皿小鉢が山とありますが」
「有難てえけどいらねえね、中へ入《へえ》るもんがねえんだから、入れものばかりあったってしようがねえ。俺ンちにもまだ片付けようのねえものがわんさとあらあ」
「それで頭はこれからどうすんの」
清さんも手を休めて腰を伸ばした。
「どうったって、俺ンちは行く先が長岡だから、運びようがねえんだ、おっぽり出して行くよりしようがねえや」
「長岡ってのは伊豆の湯治場でしょ、昔っから花柳界がさかんで」
助さんが前へ乗り出す。
「おお、そうだよ」
「いいね、朝っぱらから温泉なんか入っちゃって……。あすこの芸者衆は今お茶ひいてるから、はじから口説《くど》こうなんて良くねえ了簡《りようけん》。憎いよ、色男、女殺し」
「馬鹿、冗談じゃねえよ、あすこも今は兵隊の服縫わされたりして大変だってよ」
「でもまだいいよ、頭ンとこは半分残るんだから」
と今度は清さん。
「よかねえよ、半チクなことしやがるじゃねえか。壊すならそっくり壊してもれえてえやな、台所と便所だけ残してどうしようてえんだい、ええ、言いたかねえけどよお、ゆんべも嬶《かかあ》が泣きやがってな」
「いや、ゆんべ酒くらって、神棚をはずしながら泣いたのは頭だってききましたぜ」
助さんが口をはさんだ。頭は苦笑いして、
「おきゃあがれ」
そして今度は真顔になって、
「おかみさん、あっしも敵にうしろを見せるようでくやしいけど、何しろ居るとこがねえんでしようがねえ。いったん長岡へひっこむことにしましたんで」
とハナに言った。以前頭の家で面倒を見ていた若い者の実家が伊豆の長岡にあって、そこに頭の一家がやっかいになることになったという話は、ハナもきいていた。その時長岡が修善寺の手前ときいて、それじゃ修善寺に居るぼたんを、よろしくたのむと、おじいちゃんが、自分の妾《めかけ》のことを頭に頼んでいた。いくつになっても、どんな時でも男はそんなものかとハナは呆れたものだ。頭はいつになくしんみり別れの挨拶をすると、
「それじゃな、おたげえに命があったら又逢おうぜ、アバヨッ」
とうしろも見ずに年に似合わぬ身軽さで、階段をかけ下りていった。
命があったら又逢おうなんて安手な時代劇のセリフのような言葉が、大仰でも気障《きざ》でもなくきこえる。親しくつきあってきた人とアッケなく別れてそれっきり、「彼奴《あいつ》は一昨日《おととい》死にました」なんてこともなげに言われて、いちいち驚いてもいられない昨日今日。今こうして頭と別れて、何時《いつ》又あえるやら。伊豆長岡なんて眼と鼻の先、ついこの間まではちょいと一泊、一風呂あびに行った場所なのに、もうこれっきりになるように思える。長年この日本橋で、毎日のように顔を合せ、親類同然、家族同様、勝手知ったる互いの家、双方ろくに声もかけずに上り込んで、一つ器で平気でものを喰べあって、嬉しさ悲しさわかち合ってきた人なのに、別れにあたって別に交す言葉もない。そのことを又、ハナは悲しいとも不思議とも思わなかった。頭同様気心の知れあった近所の人たちも、一人へり二人へり、皆散り散りに今は行方知れず、連絡取り合う手だても余裕もない。最後まで頑張っていた頭が今又出て行ってしまう。この戦争はいつまで続くだろうと、いくら考えてたところでラチのあけようのない疑問に、ハナは大きなため息をついた。
「ごめん下さい、お願い致しまーす」
と突然下から若い男の声が響いてきた。三人共ふっと顔を見合せたが、
「はーい」
とごく自然にハナが返事をしながら立ち上った。下に降りて見ると息子の謙一と同じ位の年頃の、十六、七の少年が、軍人のようにキリッとした姿で、入口に立っていた。
「警防団本部より参りました。明日十三時より、東華国民学校講堂で連絡会議がありますので、御出席下さるようお願い致します」
「はい、でもその連絡会議とかっていうのは今日じゃないんですか」
「はい、本日は何も行われておりません。ではよろしくお伝え下さい、失礼します」
言い終るとサッと敬礼し、身を翻して出て行った。ハナは何か堅いもので頭のうしろをガツンと打たれたようなショックを受けて立ちつくした。警防団の連絡会議だと言って朝から出ているおとうちゃんは、どこで何をしているのか……、行き先はわかっている。どうせ今日も、会議が遅くなったから日本橋の家に泊ったとか何とか言って鷺宮へは帰ってこないに決ってる。
引越しなんて面倒なことをひとに押しつけといて自分は、と思うともうハナは何をする気もなくなった。
「今日はもうこのくらいでやめとこう。あたし何だか具合が悪いから帰る。今日はもうやめやめ」
とツッケンドンに言うと、あとは馬鹿のように呆然と立ちつくしている清さんと助さんの二人をしりめに、さっさと鷺宮へ帰ってしまった。
思った通り、おとうちゃんはやっぱり昨夜《ゆうべ》鷺宮へ帰って来なかった。あれこれ考えるといちいち腹の立つことばかり思い当り、まんじりともせぬ一夜を過ごした。かと言っていつ壊されるとも知れぬこの家の引越しも猶予はならず、日本橋へ出て来ては見たが、何とも腹の虫の治まらぬおもいで、われ知らず清さん助さんに当りちらしてしまう。
「清さんだめだよ、そんなとこでサボってちゃ」
ハナは自分でもびっくりするほど大きな声で怒鳴った。
「いや別にサボってるわけじゃないんですよ」
そう言いながらも清さん、ミカン箱に腰かけて額に入った写真に見入っている。ハナものぞき込むと、それは次郎の出征の時の記念写真だった。満艦飾のように、「祝出征、青山次郎君」と書いた幟《のぼり》や旗がビッシリと飾られた弁菊の店の前で、襷《たすき》をかけたおとうちゃんを真中に、家族と親類、従業員一同が緊張した面持で並んで写っている。
「この時はおかみさんも、やつれたいやな顔してるね」
と清さんがその額をハナにわたした。
「そりゃそうだよ、おとうちゃんが兵隊に行っちゃうんだから嬉しがってるわけないだろ」
「ほーっ七、八年も前の写真だね、皆若けえなあ」
うしろからのぞき込んでそう言う助さんも、若々しい姿で写っている。一時は三十人近くも居た奉公人たちも、年々世の中住みにくくなって、兵隊にとられたり、郷里へ帰ったり、いつの間にか大方いなくなって、いまはもうどこにどうしているのやら、生死の確かめようもない。古くからいるのは助さんとベークライトの食堂にいる鈴木さんと二人だけになってしまった。
「こんなのもありますよ」
清さんが厚紙で裏打ちした写真をハナに見せた。おとうちゃんと謙一に幸二、それにハナと揃《そろ》いの浴衣を着て、床の間を背に、膳をかこんで嬉しそうに笑っている。
ハナははっきり憶《おぼ》えていた。おとうちゃんが還って来た年だ。四人揃いの浴衣を誂《あつら》え、それを着て浅草のほおずき市へ行き、帰りに天ぷら屋へ寄ったことがあった。その天ぷら屋の二階でとった写真だった。あの日おとうちゃんが呑めもしない酒を呑んで、子供たちにしつこくからんでいたのまで昨日のことのようにはっきり思い出した。あの頃は幸せだった。
ふり返って見ると、今までに幸せだなんて感じた日はいく日もなかったような気がする。
「ちょっと一休みしてお茶でも入れましょうよ」
と助さんが立ちあがった時、ブワーッと尻あがりにサイレンが鳴り響いた。遠くで「空襲警報発令 空襲警報発令」と誰か繰り返し怒鳴っているのがきこえた。
「どうせ又偵察機だろう、人騒がせな」
と清さんが言ったとたん、ドドドーッと家中がしびれるほど大きな音がした。ハナは腕で頭をかかえるようにして、その場に身を縮めた。
しばらくそのままにしていたが、すぐもと通り静かになって、飛行機の爆音もしない。
「日本橋の方だったね、ちきしょう気まぐれに爆弾なんぞ落して行きやがって、もうでえ丈夫だよ」
そう言いながらも清さんは耳をすましている。助さんはいつの間にか戸棚の中に入り込んで、頭《かしら》に教えられた通り、両方の親指を耳の穴に押し込み、残る指で眼と鼻をおさえる恰好で小さくなっていた。この頃すっかりおじけづいたようだ。十七年の帝都初空襲の時は、助さんは平気で空を見上げていて、
「見馴れねえ飛行機が来て何か落していきましたぜ。翼《はね》にサッポロビールのマークがついてました」
などと言ってあとでいつまでも皆に笑われていたもんだったが――。
近頃、南方の島に敵の飛行機の基地が出来たとかで、やたらに空襲が多くなり、その規模も大きくなってきた。とくにおそろしかったのは三月十日の大空襲で、あの夜は三百機からのB29が飛来し、二時間たらずの間に、何万、何十万という爆弾や焼夷弾《しよういだん》を落していった。浅草、小石川、本所、深川から赤坂、麻布、神田までひとなめに焼いて、十万とか二十万とかの人が死んだり怪我したりしたという。なにしろ肌寒い夜で、空襲警報が出た時にはもうすでに、超低空で空いっぱいにひろがったB29が翼を屋根に接するようにして、探照灯の光に堂々と身をさらして飛んでいた。
一機一機が手をいっぱいひろげたほどの大きさで、機体の下にある機銃座の米兵が見えるほどだった。ザーッとものすごい音がして爆弾や焼夷弾が降ってきた。方々で火の手が上ると強風が起って、火の粉が舞い散る。ハナはこの夜東華国民学校へ避難して、おとうちゃんの腕に掴まってガタガタ震えながら生きた心地もしなかった。浜町から隅田川にそった一帯は見る間に焦熱地獄、空は真赤で、入道雲のような黒煙が頭上を覆う。
この時深川の酒屋へ嫁いで行ったハナの一番上の姉の春が、連れあいと長女とともどもあの火の下で死んだ。
清さんの家もこの三月十日の空襲で焼かれた。翌日の十一日の夜、おかみさんと娘のやっちゃんを連れて、それこそ着のみ着のまま、三人とも気が抜けたようになって、ヨレヨレの姿で日本橋の弁菊へ逃げて来た。清さんの家は浜町だからもうてっきりだめと皆思っていたから、生きているだけでびっくりした。清さんの方も堀留も焼けたものと思っていたそうで、ハナたちに逢って涙を流した。
清さんはこれが又運の強い男で、しばらくあとになって滑稽な仕方ばなしできかしてくれた話だが、あの十日の日は、朝からおかみさんとやっちゃんを連れて、春日部《かすかべ》の方まで知りあいをたよって、買い出しに出かけていたそうだ。物々交換用に農家の喜ぶ実用むきの薩摩絣《さつまがすり》を持って芋や小麦粉を探したと言うが、実はお目当てが密造のいも焼酎《じようちゆう》。ゴムの水枕にこれをつめ、二つも並べて腹にしっかりかかえこんで、上からセーターを着る。取締りにあって米や芋はほうり出しても、こればっかりは命の次とはなさない。身体検査しても上から触るくらいじゃ絶対わかんねえぞ、とこれを自慢にしていた。この日も首尾よく、かねて手配の通りに、知りあいが品物をそろえてくれていた。それを持ってさっさと帰ってれば清さんは間違いなく死んでたはずだが、「詰められるもんならいっそのこと腹の中へもつめて行こう」と欲を出し、連れて行ったおかみさんとやっちゃんを待たせて、その知りあいの人と、シイタケの焼いたのを肴《さかな》に、ぶ厚い湯呑みでやったりとったり相当呑んだらしい。それから上機嫌でそこを出て、駅へついたとたんに突然の腹痛。便所へかけ込むやら、もどすやら。清さんの言い草によれば、
「三月十日、春とは言えど片田舎、木立の森もいと涼しいとこへもってきて、焼酎入りの水枕でタポンタポンと、近くて遠い田舎の道を小一時間も歩いたからたまらねえや。すっかり腹を冷やしちまってよ」
顔を真青にして脂汗かいて苦しがり、とうとう眼を廻してしまい、そのまま駅で一晩やっかいになった。翌日浜町へ帰って見れば、あのあたり一帯すでにすっかり焼野ヶ原で、自分の家、自分の町内がどこにあったのかすら見わけがつかないほどの惨状――。ガッカリとビックリでただただ足が震えて、どこをどう歩いたかもわからず堀留の弁菊へ、幽霊のようになってたどりついたというわけだ。
「俺のおかげでお前ら命びろいしたんだぞ、ちったあ有難いと思え」
と、いまだに清さんは威張って仕様がないとやっちゃんが言う。
清さんは今はおかみさんと娘のやっちゃんを連れて、ベークライト工場の寮にいる。もともとおかみさんはお針の方ではたいした腕で、一時はお弟子さんを五人も置いて、それでもさばききれないほどの注文があったときいている。だから清さんは髪結いの亭主ならぬ、仕立屋の亭主で、極楽トンボをきめこんでフラフラしていられた。だけど、そのうちに興亜奉公日なんてものが出来る頃になると、贅沢《ぜいたく》は敵だとばかり華美な着物がじゃらじゃらと着られなくなり、自然仕事もへる。清さんも「こう世の中|様変《さまがわ》りしちゃあ、嬶の腕にばかりたよっちゃいられねえ、あっしも何とか」なんて殊勝なことを口にするようになる。何をやっても器用な人だから喰うに困るようなことはないが、もともとひとつところで健気《けなげ》に勤めるなんて柄じゃないから、はたで見てる方が何故か気の毒に思えた。おかみさんは流石《さすが》にたいしたもんで、もんぺや標準服、防空頭巾の仕立てにいち早く手を染め、きれいに着やすく仕立ててくれるからこれ又注文殺到で、やっぱり清さんは気楽な身分。ところが時に利有らずか、疎にして漏らさずか、国民精神総動員とかで子供ですら勝利の日までのかけ声のもと国民学校を卒業すると、すべて勤労動員の対象になる。清さんとて徴用令にはさからえない。
「ブラブラしてるてえと何処へもってかれっちまうかわからねえ、ひとつそのベーク何とかってとこへ入れてもらいましょうか」
とそのまんま食堂の会計になった。女学生のやっちゃんは、学徒動員で有楽座へ通って風船爆弾作りをやっている。
夕方近くになってやっと顔を出したおとうちゃんは、どうやらここの家を壊すのは明日に決ったようだぜなどと言いながらシレッとしている。ハナはむしゃぶりついてひっかいてやりたい気分だったが、つとめて平気なふりをしていた。
「え、明日でも明後日《あさつて》でもいつでも結構ですよ。もうすっかり片づきましたし、明日一番で荷馬車が来ますから、そいつへ全部積み込んでオサラバ、あとは焼けようが壊されようがかまわねえ、あたしら今夜はどっか戸棚のすみへでも泊りますから」
と清さんが言うと、助さんは、
「いやだよ戸棚のすみは、油虫じゃねえんだから。あたしは布団袋を並べてこいつをベッドにして寝かしてもらいましょう」
もう寝る算段はつけている。どっちにしても二人は、今夜はここに泊り、明日の朝早く荷馬車に荷物を積み込んで、そのまま、その馬車に乗って鷺宮へ行くことになっていた。
あとを二人にまかせると、早々にハナはおとうちゃんと弁菊を出た。
さすがに次郎も、永年|馴染《なじ》んだこの弁菊の家が明日壊されるとなると、なかなかに去り難いらしく、通りのあっちこっちから感慨深げに眺めていた。ハナも角店の弁菊の建物がよく見える場所に立って見た。この家へ嫁に来て以来こんなにしげしげと見たことがなかった。
煤《すす》けた煙突、傾いた文字看板、子供たちがふざけて身を乗り出してはしかられていた二階の出窓、毎年陽よけに朝顔のつるをはわしていた東の窓、しみ一つ、きず一つに何かの想い出があり、御影石の砕片を吹きつけたモルタル造りの弁当屋は、まだガッシリしていて壊すのはとてももったいない。調理場からなつかしい電動のポンプの音がいまにも響いてきそうだった。
おとうちゃんは何を思ったか、ちょっと待ってろと言うと何処かへいなくなった。やがて長い梯子《はしご》を持って来ると、家の正面にたてかけて、外から大声で助さんと清さんを呼んだ。びっくりして顔を出した二人に手伝わせて、角店の正面にかかげてあった弁菊商店の金色の文字看板をはずしにかかった。
あっしは高いとこだめですから、と言って梯子をおさえていた助さんが、
「若旦那そんなものはずしてどうしようってんです」
と上に昇ったおとうちゃんに声をかけると、一緒に梯子をおさえていた清さんが、
「看板は商売人の命、軍隊で言えば聯隊旗みたいなもんだ」
助さんに教えるように言った。
おとうちゃんはニコニコしながら降りてきて、こいつは明日《あす》、おやじにやってくれよと言って清さんにわたした。
歩きはじめてからおとうちゃんは、何処から持って来たのか、魚の臭いのする小さな包みを抛《ほう》ってよこした。小田原からの土産だそうだ、と言った。
ハナはこれが見納めだと思えば未練がすて切れず、弁菊を振り返り振り返り歩いた。堀留を出るともうそこは焼跡、あちこちに焼け残りのビルが黒くすすけているが、三越からずうっと神田の駅まですっかり見通せる焼野ヶ原で、人っ子一人見当らない。所々の水道管の破れから、噴水のように水があふれている。
東京駅の方に又大空襲でもあったかのように、空を赤々と染めて夕陽が沈んで行く。その夕陽に見とれていてハナは瓦礫《がれき》にけつまずき、持っていた包みをなげ出した。すぐにおとうちゃんは気づいたようだが、ハナの身を気づかう風も見せず、その包みは久々の御馳走だから粗末にするな、とそれだけ言って手を差し出すでもなかった。なぜかハナはカーッと血が頭にのぼって来る感じがして、立ちあがるとモンペについた土ぼこりを払いもせず、足早に次郎に追いつくと、
「そんなに大事なもんだったら、千絵さんの所へでも持ってってあげれば」
ハナは昨日《きのう》からイライラしていたので、それをそう乱暴に扱うつもりはなかったが、思わぬ力が入ったものか、結果としては投げつけたようなことになってしまった。
受けとめようとした次郎の手の中ではずんだ包みがピシッとその頬に当った。顔色がさっと変ったような気がして、ああこれはいけないと思った時には、もうおとうちゃんの手がハナの頬に飛んで来た。めまいがするほどの衝撃があり、一瞬何も見えなくなった。
気がつけばハナはその場に尻もちをついて、打たれた頬をおさえて呆然としていた。
おとうちゃんは、もう背を見せてスタスタと駅の方へ足早に歩いていた。ハナは一旦四つんばいになって、ノロノロとした動作で魚の包みを拾い、立ち上って歩きはじめた。下駄の鼻緒が切れていた。口の中もどこか切れたのか、甘ずっぱいような血の味が口いっぱいにひろがっていた。
鼻緒の切れた下駄を持って、暮れなずむ見わたすかぎりの焼跡の中を、たった一人足を引きずりながら歩いているうちに、いいようもなく情ない気持になってきて、涙が滝のように流れてきた。ハナは大声で泣きながら歩いた。
今までも千絵さんのことでは何度かもめている。その度におとうちゃんは、あいつは身寄りがねえんだから可哀そうだ、俺が面倒見てやらなけりゃ死んじまう、別に浮いた話じゃねえ、と白々しくも馬鹿なことを言いつづける。ハナは冗談じゃないと思う。身寄りのない人は世間にはいくらでもいるし、いちいち面倒は見きれない。それに何もおとうちゃんが手を貸さなくたって、あの女狐が死ぬもんか、その上、あいつも午歳《うまどし》だから根はいい奴なんだが強情なところがあって、どういうもんか縁遠い、そこを考えてやんなくちゃと真顔で言う。この私が丙午《ひのえうま》なのを百も承知で女房にしておいて、午歳が強情で縁遠いもないもんだ。それにいままでまがりなりにも何とか夫婦が続いているのも、多少|歳《とし》まわりがいいせいなのかも知れない。そうなるとやっぱり次郎と午歳の女は易の上で相性がいいのかしら、と思えばよけいに気になる。
何もお前と別れてあの女と一緒になるとか、あの女のために家をどうこうするわけじゃねえとも言う。当り前だ、女が出来る度にいちいち離縁されたり、家を放り出されたりしてはたまるもんか。清さんや助さんは、
「いいじゃないの男の甲斐性《かいしよう》。ギャンギャン言いなさんな。あの千絵さんてのはなかなかいい女ですよ、若旦那はさすがに眼が高い、ちゃんとしたもんだ、エライッ」
とおとうちゃんの肩を持つ。このことを小耳にはさんだおばあちゃんは、
「へーえ、猫に鰹節《かつぶし》、手が出てあたりめえか、昔の人はうまいこと言うもんだね、次郎も男だから、こればっかりは仕方がねえ、ハッハッハッ」
と笑っていたときく。
ついでのことだ、どうせ私は丙午、火事でも空襲でも呼んでおとうちゃんを焼き殺してやろうかと、そんな気にもなる。それにしてもおとうちゃんは、重ね重ねやっかいな歳まわりの女とかかわりあいになったものだ。
神田駅につくと、おとうちゃんは自分だけ切符を買って、さっさと改札を抜けていった。ハナも次郎にかまわず勝手に一人で帰ろうと心にきめた。電車は相変らず寿司詰めだった。もみ合う人混《ひとご》みの中で、華奢《きやしや》な体つきのハナはあっちへ押され、こっちで足を踏まれ、泣きたいおもいをしているのに、次郎は知っていながら声一つかけず、他人のように素知らぬ顔、時々つめたい眼でさっと見るだけだった。
ハナも負けずに知らん顔をしていた。そして窓ガラスに映る次郎の顔を恨みをこめた眼で見つめていた。
いつも膨れ面をしているように見える頬、馬鹿大きな耳、どれ一つとって見ても憎らしく、疎《うと》ましく思えた。こんな野蛮で冷酷で、身勝手な男のどこが良くていままで一緒にいたのか、とても不思議な気がした。もうこの男のためには金輪際何もしてやるもんかと、ひどくひややかな気持で次郎を眺めていられる自分に満足して、ハナは頬の痛みもしばし忘れた。
こんな男はどんな無残な死にかたをしても当り前、下らぬ女にうつつをぬかして、女房子を顧みないから天罰|覿面《てきめん》、死ね死ね、早く死ね、今日明日のうちに死んでしまえ、いいきびだ、と腹の中でいいつづけていた。
電車に乗ってる間中、ハナは心の中で言いたい放題次郎を罵倒《ばとう》しつづけてきたせいか、西武線の鷺宮駅で降りた時はいくらか気分もすっきりしていた。おとうちゃんは相変らずさっさと降りると、振り返りもせず早足で先に行ってしまう。ハナは仕方なく下駄の鼻緒を直す余裕もなく、足袋《たび》裸足《はだし》ででこぼこのジャリ道を歩いた。歩いているうちに足の痛みで又腹が立ってきた。ハナが下駄を持って歩いているのはわかっているのだから、普通だったら、おとうちゃんは、どれ貸してみなとハンカチをビリビリとさいて器用に鼻緒をすげかえてくれる筈、そうまでしないまでも鼻緒を直す間ぐらい待っていてくれてもよさそうなもんだと思う。勝手にたちどまってもかまわずドンドン行ってしまうに決っているし、そうなると家まで街灯もない山の中みたいな田舎道を、二十分も一人で歩かなければならなくなる。それも恐いし、ええままよ、こうなったら親指の生爪でもはがしてやれ、それもこれもみなそっちのせいだぞ、とヤケになってさっさと歩いた。
家につくと先ず風呂場へ下りて泣きだしそうな気持をおさえて足を洗った。そして足袋を乱暴に洗濯ものの入ったタライにたたきつけて居間へ行くと、幸二とおとうちゃんと、おばあちゃんが、カバーを下ろしたうす暗い電灯の下で、打ち沈んだ様子で押し黙って卓袱台《ちやぶだい》をかこんでいる。中央に赤い葉書大の紙が置いてあるのが見え、ハナはその紙からなぜか視線をそらすことが出来なかった。何かの間違いだ、間違いに違いないと思いながらしずかにその場に坐った。
去年の十月に満十八歳以上が兵役に編入されることになったのをハナは知っていた。でも謙一はまだ十六歳、それとも勝手に予科練にでも志願したのか。幸二は十三だし、まさかおとうちゃんに又来るわけはないし、一瞬のうちにさまざまのことが頭の中を走った。
少し曲って置かれたその紙に合せて、首をねじまげるようにしてそこに書いてある文字をおそるおそる読んでみると、そのまさかと思ったおとうちゃんの名前が書いてあった。
ついこの間も、もう俺も四十過ぎだ、間違って徴用ってことはあっても、召集はねえだろう、俺がもってかれるようじゃ日本はおしめえだ、と話していた矢先だ。ついさっき死ねばいいんだと胸の中で言ったばかりだ。もう罰《ばち》が当ったのかと空恐ろしい気持で全身に水をあびたような思いでおとうちゃんを見ると、アッケラカンとマッチ棒で耳をほじっている。
「いつまで眺めててもしようがねえ、ご飯にしようじゃねえか」
そう言っておばあちゃんはかたわらの黒檀《こくたん》の煙草盆にパシリと煙管《きせる》を打ちつけた。なかばその場に居たたまれぬ想いもして、ハナはハイと言っていさぎよく台所へ立った。
七輪に火だねをうつして、炭をつぎ団扇《うちわ》を使うと、質の悪い炭がいやな煙を上げ、鼻の奥がツンとしびれてきて、涙が出た。
日本橋から下げて来た包みを開けると、ほどよく仕上った鰯《いわし》の丸干しと、鰺《あじ》のひらきが出てきた。魚を焼きながらハナは考えた。が、どう考えてもおとうちゃんの召集は納得出来なかった。何とか逃れる方法はないものだろうか、どうしてこうもうちのおとうちゃんだけ、何度もいやなおもいをしなければならないのだろうか、どうか行かずにすみますようにと秘《ひそ》かに胸の中で祈った。もう千絵さんのことなんてどうでもよかった。妾の一人や二人いるのはかまいませんから、どうか令状が間違いでありますように、おとうちゃんが丈夫で家に居てさえくれれば、何でもします、何でも耐えます、と本気で祈った。
ついさっきまで、死ねばいいと願うほど、おとうちゃんが憎らしかったことを思えば、われながらあまりの身勝手さにとまどう気持もなくはなかったが――。
いくらこちらが切羽詰まった、ぎりぎりの気持で神仏に祈っても、即座に御利益《ごりやく》のあったためしはない。祈る方の気持がこうもうつろいやすくては、あちら様も安直に果報を授けたり、罰を当てたりはしないわけだと、変な理屈を考えたりもした。
裏切られたくやしさも頬の痛みも、露ほどもなく消し飛んで、手の裏かえしたようにおとうちゃんのことが大切に思えるのもそこが夫婦。夫婦|喧嘩《げんか》は犬も喰わぬとはこのことか、自分でもおかしいほどの変りようだった。
いくら間違いと願っても、理不尽と怒っても、まぎれもない召集令状とあっては、捨てるもとぼけるも出来ない相談だった。
どうしても逃れられぬと諦《あきら》めたら、残り少ない時間を、少しでもいやなおもいをしないようにしてやりたいと思った。おたがい殺してやりたいと思うほどでないまでも、恨みや憎しみを少しでも残して別れるのはやり切れない。長の年月、まがりなりにもオシドリ夫婦と世辞にせよ世間で言われて、人並以上に円満な方ではと内心うれしく思って過ごして来たのに、とそう考えると、たわいのない夫婦喧嘩のつまらぬ意地をいつまでも張っているのが馬鹿らしくなってきた。
焼き上った魚を皿に盛り、汁と香のものがそろった頃には、ハナもすっかり腹がすわってきた。寝込んでいたおじいちゃんも起きて来て、ションボリしている。
「おじいちゃん、そんなにガッカリしなくていいよ、近頃はもう何処《どこ》にいたって同じなんだから」
ランニングシャツ一枚で、眼ばかり光らせた真黒けな幸二が元気な声をかけた。
「違えねえや、今日び、三度のおまんまに間違いなくありつけるだけ兵隊の方がましだって言う人もいるよ」
とおばあちゃんが言う。
久々の御馳走のせいか、こころもなごみ、家の中に少しずつだが明るさが蘇《よみがえ》って来る気がした。
ハナも食卓について次郎に向いあうと、何のこだわりもなく、
「おとうちゃん、さっきはごめんね」
とさらりと言うことが出来た。
次郎も図に乗ってか、おれのいない間千絵の面倒をたのむと言い出した。ハナは自分でも不思議に思ったが、おとうちゃんの召集を聞いたとたんに、恨みも嫉妬《しつと》も薄れている。千絵さん親子の面倒見るくらいたいした負担になるわけでなし、こっちで功徳をしておけば、おとうちゃんの身に降りかかる災難もいくらかは軽くなろうと、理屈ではない勝手な思い入れ、いと易いことと引きうけた。どうも幸二も一緒の食卓での話題としてはどうかと思う話だが、どういうつもりか、おとうちゃんは時々幸二を千絵さんの所へ連れて行っているらしいから、今さらどう隠しようもない。おじいちゃんもだんだんと元気が出て来たのか、
「ぼたんも知らねえ土地で苦労してると可哀そうだ、あれも何とかこっちへ呼んで……」
と、母親と一緒に修善寺へ疎開した自分の妾の面倒までハナに見させるつもりらしいが、
「おじいちゃんは兵隊へ行くわけじゃないんだから、一緒の気になんじゃないよ」
とぴしゃりとおばあちゃんにたしなめられた。
その晩は蛙《かえる》の声がひきもきらず、空襲のサイレンも珍しく鳴らなかった。だれもいなくなった居間では、雑音ばかりの不明瞭な音のラジオに耳を押しつけるようにして幸二が一人、一所懸命落語を聞いている。
今年は早くから梅雨が長びきそうだと言われていたのに、ここ一週間ばかりぽつりともこない空《から》梅雨で、せっかく咲きかけた庭の紫陽花《あじさい》も色を失って紙屑《かみくず》のように打ちしおれている。その日も妙にどんよりとした薄曇りで、じっとしていても汗ばむほど蒸し蒸しするいやなお天気だ。甚平《じんべい》姿のおじいちゃんが、米を詰めた一升|瓶《びん》を縁側へ持ち出して、上から棒を押し込んで米を搗《つ》いている。そのジャキジャキという音を聞きながら、ハナは紺紬《こんつむぎ》のモンペの尻をつき出して戸棚の中を掃除している。もうとっくに着いてていい筈の日本橋からの引越しの荷物をイライラしながら待っていた。
「としちゃん、そろそろおひるにしようかね」
奥の卓袱台代りの大きな空の掘炬燵《ほりごたつ》に坐っていたおばあちゃんが、読みさしの講談本をパタンととじて台所の方へ声をかけた。
近所の植木屋の娘としちゃんが通いで手伝いに来てくれている。眼と眼の間が少し広がりぎみの、ベタッとした愛嬌《あいきよう》のある顔のやさしい娘で年は二十六だと言った。
おばあちゃんは近頃ご飯ばかり喰べたがるような気がする。堀留にいた頃と違ってここには花札仲間がいるわけじゃなし、さりとて気のおけないおしゃべりをする相手もいない。となれば喰うことしか楽しみがないのも仕方のないことか。
おじいちゃんはこっちへ来てから文字通り御隠居さんで、はじめの頃は、やることがないもんで、毎日毎日早々と風呂へ井戸水を汲《く》み込んで、せっせと湯をわかして、入れ入れとやたらと近所へさそいに行く。さそわれた方にだって都合があろうと言うもの、毎度毎度そうおいそれと風呂に入るわけにも行かない。断わるとおじいちゃんは、
「何だい何だい、ひとがせっかく言ってるのに全く……」
とプンプン怒るんで近所中で大の迷惑。
近頃では庭を掘っくり返して野菜作りに夢中だ。こっちの方は実害はないが、時々、時間かまわずコイをまくのでおばあちゃんが災難、戸障子をぴっちりしめて近所へ避難する。
その日の朝、皆そろって早く朝食をとったあと、おとうちゃんは日本橋へ行って二、三挨拶に顔を出し、それからベークライト工場へ廻り、後々のことをきちんと始末をつけてくると言って、地元の中学校へむかう幸二と肩を並べて出かけて行った。幸二ももう十三、近頃では体つきもしっかりしてきて、おとうちゃんと並んでもそんなに見おとりはしない。成績の方は相変らずパッとしないが、体だけは丈夫でさすがに男の子、けっこう頼母《たのも》しいところもある。いつも陽気で毎日元気に出かけて行くから先ず問題はない。
とはいっても此頃《このごろ》では学校でも、軍事教練と畑作りと、防空|壕《ごう》掘りが主な日課とかで、毎日真黒になって帰って来る。日本橋の東華小学校へ入学した時から、担任の古菅先生も変らず、組替えもなしで、同じ仲間とずうっと過ごして来て、六年生になっていきなり転校させられたので、こっちへ来たての頃はかなりつらいおもいをしたようだった。
転校して五日目に、シャツを血だらけにして帰って来た。やっぱりこの辺の子供とどっか雰囲気《ふんいき》が違うらしく、幸二は日本橋から来た不良ということで、新しい友達に馴染めずイビられていたらしい。何も愚痴ったりはしなかったが、相当参ってる様子でハナも心配していた矢先だった。
イジメッ子の中に一人しつこいのがいて、五日間つきっきりでイビッたようだ。弁当を開けば上から消しゴムのカスを撒《ま》くし、鉛筆の芯《しん》を全部机に突きたてて折る。襟《えり》もとへチクチクする葉を押し込むといった具合――。この生徒がクラスの中でも人気がないとわかっていたので、幸二は何回目かに襟へ来た手をいきなり逆手にねじり上げて、そのまま教室の隅へ押しつけて、徹底的になぐりつけたらしい。
そのことがあってからあっけらかんと面白そうに学校へ行くようになった。
三学期になると先生が変り、年は四十位だろうか丸々と肥った剽軽《ひようきん》な人で、名は藤山さんときいた。
ある時クラスで何かおいしいものの話が出たらしい、なにしろこの頃は、大人でも寄るとさわると喰べものの話ばっかりしてるから、当然だろう。他《ほか》の子が、アンパンとか、羊羹《ようかん》とか言うのに、幸二が、鮪《まぐろ》の中トロとか、メゴチの天ぷらなんて言うもんだから先生も驚いて、
「君どっから来たの」
「日本橋です」
「さすが、でも中トロなんてお互い久しく喰べないね」
「家に来れば、御馳走しますよ」
「本当かい」
と変な話になって、本当にその週のうちに藤山先生が鷺宮の家へ訪ねて来た。
「先生も色々と大変だねえ、まあ今日は風呂へでもへえってゆっくりしてらっしゃい」
とおばあちゃんに気安くもてなされて、おじいちゃんが腕をふるった天ぷらに、お刺身で大満足。その晩おそくまで、おばあちゃんとさしでこいこいをしてお土産を持って大喜びで帰って行った。
三学期の終りになって、成績表をもらって来た幸二が浮かぬ顔をしている。見ると三学期はすべての科目が優になってるのはいいとしても、前の担任がつけた二学期の良だの可だのの上にも、べったり濃いインクで優のマークが重ねて押してあった。あれ以来幸二は、学校の成績に対して一層疑いを持つようになり全然勉強しなくなった。
学校の成績がいいからって世の中へ出て出世するとはかぎらねえ、優等生なんてみっともねえだけだ、なんておばあちゃんの言い草をそのまま真似ていた幸二も、それさえ口にしなくなった。
長男の謙一は本所の安田商業へ入り、四年になってやっと勉強に身《み》が入ってきたところなのに、勤労動員で近所の製缶《せいかん》工場へ行かされ、その工場が空襲で焼けると、八王子の先へクラス全員がもっていかれた。あれからもう二カ月になるが何のたよりもなく、ハナは謙一のことが気になって仕方がない。
「おかみさん馬車が来ましたよ」
食事がすんでかたづけに立ったとしちゃんが台所から声をかけてきた。ハナが立って行って勝手口の窓からのぞくと、すぐ眼の前に大きな馬の顔があり、ブルブルと鼻をならして首を振っている。びっくりして外へ廻ると、荷物を山積みにした荷馬車が止っていた。
「どうも遅くなりやして、只今到着致しました」
と縮みのシャツで汗びっしょりの清さんが挙手の礼をした。直立不動と言いたいがフラフラしている。よく見ると真赤な顔をして眼つきもおかしい。
「どうしたの清さん、酔っぱらってるの」
「酔っぱらっちゃった、えらい酔っぱらっちゃって大変すよ」
清さんはロレツもまわらない。
「いやあおかみさん、ワッハッハッハ、驚きましたねえーッ、日本橋から遠いねえどうも、ワッハッハッハ」
助さんも豆絞りの手拭で拵《こしら》えたシャツの前をはだけてベロベロな感じで立っている。
「馬車に乗って二人で来たんすよ、途中で荷物の中でタッポンタッポンて音がするんで清さんが見ますとね」
「おいひとのせいにするなよ助さん、封を切ったのはお前《めえ》じゃねえか」
「呑んだのは清さんがさき、少し位ならいいだろうってね、これがおかみさん驚いたね梅酒のカメ、温気《うんき》の時にゃサッパリしていいねえハッハッハッ、もう少し、もう少しってね、荷馬車にゆられて酒盛りをしてるうちにすっかりいい気持になっちゃってハッハッハッ、そうそう馬方も呑みましたよウマいウマいなんて言ってねヘッヘッヘッ、馬は呑まない、馬は呑まないからってんで中の梅の実を喰わしちゃってね、馬のやろうが馬力を出しやがってもうなあ清さんアッハッハッハッ」
これじゃどうにも話にならない、馬方は植込みの陰にかくれてフラフラしながら立小便をしている。見ればたしかに見憶えのある一斗入りの酒瓶《さかがめ》、おばあちゃんが大切にしていた梅焼酎だ。これから荷物下ろしてかたづけるといっても、二人ともとても使いものにはならない。
おじいちゃんがカンカンに怒って二人を風呂場へ押し込んで頭からザーザー、バケツで井戸水をぶっかけたが、二人ともただゲタゲタ笑ってるだけで正体もない。仕方なく二階の奥の六畳へ押さえつけるようにして寝かしつけた。
としちゃんの家からおじいさんや妹も手伝いに来てくれて何とか荷物はおろしたが、おばあちゃんは大事な梅酒をあらかた呑まれたせいもあってか、いつまでも口の中でぶつぶつ言いながらふくれている。
おじいちゃんは、店からはずして来た弁菊商店の金色の文字看板を、丹念に掃除して床の間に飾り、飽きもせずいつまでも眺めていた。
引越しの荷物をどうやら家の中に運び込んだのを合図のように、ポツリポツリと雨が降りはじめた。手伝ってくれたとしちゃんたちが帰ったあとは、ひとしきりすごい雷で、真夏の夕立を思わせる雲行き、やがて天の底がぬけたようなドシャ降りになった。荷物が片づいてからでよかったと口々に言っているところへ玄関の戸があく音がした。ハナが立って行って見ると、びしょ濡れの謙一が立っていた。左の肩から腕を吊《つ》って、濡れて動物の死骸のようになった防空頭巾を右手に下げている。人絹のナッパ服がよれよれに体にまとわりつき、華奢な素足にはいた泥だらけの手製のサンダルもみすぼらしい。
ゲッソリとやせて眼はくぼみ、頬もこけている。油染みた戦闘帽からしたたり落ちる滴が泣いているように見える。ハナも咄嗟《とつさ》には声も出なかった。たった二タ月ほど前に、あんなに颯爽《さつそう》としていた若者がこんなに惨めに憔悴《しようすい》するなんてことが信じられなかった。それでも謙一は明るく笑って見せると、
「ちょっと腕の骨を折りましたので、四、五日休暇がもらえました。皆はかわりありませんか」
と言葉つきも変に丁寧で、他人の家でも訪ねているようによそよそしい。寮でのきゅうくつな団体生活がもう身についてしまっているのか、おどおどとした眼つきが見ているのもつらい。ハナは気をとりなおしたように謙一を上げると早速風呂に入れた。謙一のぬいだものを見てハナはかなしくなった。いく日風呂に入らなかったのか、シャツもズボン下も真黒に汚れ、シラミもいるのか小さな茶色のしみがべったりとついている。あの神経質な清潔好きだった子が、さぞやつらい思いをしていたのだろうと胸がつまる。
謙一の着ていたものをまとめて洗いもののタライにうつす時、コツンと弁当箱の包みが落ちた。ついでに洗っておこうと勝手へ立って開けて見た時、ハナは思わず息をのんだ。蕨《わらび》とひじきを炊き込んだ麦メシだが、まだほかにも麩《ふすま》か何か混ざっているのか、ボロボロで少し饐《す》えた臭いがする。とても人間の喰べるものとは思えなかった。喰べものの好き嫌いの多い子だったのにと、じっとそれを見ているうちに眼の前がかすみ、弁当箱の中に涙の粒が音をたてて落ちた。
謙一が風呂から出て、のりのきいた浴衣に着がえると、肌のツヤも蘇り、さっき見た時ほどやつれた感じがなくなったのでハナはほっとした。おじいちゃんおばあちゃんも、突然何の予告もなしに帰って来た謙一を見て大喜びで、しきりに腕の骨折のことを気にしていたが、これは時間さえたてば直りそうと聞いて先ず安心したようだった。何がほしい、何が喰べたいとつきっきりで、とりあえずおじいちゃんが丹精した自家製野菜で精進揚げをつくろうと、二人で台所に立った。幸二が謙一を懐かしがり、さかんに勤労動員先の工場のことをきいていると、清さんと助さんが起きて来た。謙一を見てびっくりした様子だった。すぐ風呂に飛び込んでさっぱりとした二人は、さすがに面目なさそうに居間に出て来た。まだ酒が残っている様子の二人に、ハナはおとうちゃんに二度目の召集令状が来たことを告げた。謙一も愕然《がくぜん》とした面持で棒を呑んだようにハナを見つめ、清さんも助さんも色を失ってしばらく顔を見合せていた。
前の応召の時は、親類や知人、得意先から出入りの職人、隣近所の人たちまで集り、家中われかえるようなさわぎが三日もつづいて、ろくに言葉もかわさぬうちにおとうちゃんは出かけて行った。それにひきかえ今度は身内だけでしんみりと、威勢よく鏡を打ちわる菰《こも》かぶりも大鯛《おおだい》もない。日の丸の小旗一本打ち振るわけでなし、軍の機密がもれるからと駅頭での壮行会も出来ぬと言う。何だか日本の国の有りようをそのまま見る想いで、このままじり貧で降《くだ》り坂ころげ落ちて、はてはどこまでと考えれば悪い想像が次々と出て来て背すじも凍る。
「今度はもう外地へもってかれることはねえだろう。行こうたって船はねえし、沖縄ももうあぶねえってえから行く場所もねえや」
清さんの言う通り何とか外地へ出ないでもらいたいと思うが、内地にいたって危ないのは同じこと、今はこうしているもののいつ又ドカンと来るかわからず、眼の前であっけなく燃えたり、死んだり、吹き飛んだりするのを珍しくもなく見ているから、変に糞度胸《くそどきよう》もついている。兵隊に行ってるおとうちゃんが安全で、家に居る家族が全滅することもあると思えば少しは気も休まる。
「しかし日本の軍隊もしつこいね、うちの若旦那現役で二年、支那へもってかれて二年半もおつとめをして来てるんだぜ、四年半只同然でコキ使って、その上又来いってんだから、もう四十を過ぎてるってのに、てえげえにしてもらいてえよな」
清さんがふくれている。言われて見ればおとうちゃんは四十二の厄年《やくどし》だ。ハナが三人目の子供を流産したのが三十三の女の厄年で、ふといやなことがなければいいがと、普段あまり気にならないことまで妙に心の隅にひっかかる。
八時を少し廻った頃、次郎がずぶ濡れになって帰って来た。落雷のためか停電で電車が停り、ひどい目にあったと大声でこぼしながら風呂場へとび込んだ。
おじいちゃんの丹精の精進揚げと鰯の丸干し、取っておきのシャケの缶詰をあけて、次郎を待った。
「久々に家族が全員そろったし、明日は次郎もいなくなるから」
おばあちゃんがやけに水鼻をすすりながら、酒の入った一升瓶をどっからか出して来て、酒の仕度にかかる。
「こいつぁ豪勢だ、やっぱり梅酒より酒がいいすね」
助さんは酒瓶を見ただけでもう、トロンとしている。おじいちゃんはまるでだめだが、それでもてんでんに盃《さかずき》を持つと、
「若旦那の壮途と無事、それに皆さんの安全を祈って」
という清さんの音頭で乾盃《かんぱい》した。みんなが盃を置くか置かないかのうちに、雨音の中に空襲警報のサイレンが響いた。
「チェッ、又空襲かい、もう爆弾でも何でも落ちるがいいや、私は今夜は逃げないよ、誰がこんな雨の中を、防空壕なんかに入れるかい」
とおばあちゃんがふてくされている。
「そうです、いっそのことこうやって皆いる時にでっかい爆弾の直撃でもあればいいんですよ、アッと言う間に御一統様お揃《そろ》いで天国へお昇りってやつで、特にこう片手に徳利《とつくり》を持ったまま、なんてのが有難いね」
とか何とか言って助さんは徳利をはなさない。
「灯《あか》りだけ外へもらさないようにして今夜はこのままいきましょう」
清さんも動かない。そのうちにおじいちゃんが暇にあかして、瓶の中に入れてジャキジャキ搗いた真白の御飯が出る。
「うまいね、こんなうまいメシ久しぶりだもんね、泣けてくるよ」
謙一の眼に嘘でなく涙が光って頬を伝っている。ハナはさっき台所で見た謙一の弁当箱の中を思い出すと、鼻の中が熱くなってきて困った。軍需工場の食堂をやってたおかげで、有難いことにここの家では喰いものにはそう不自由はしなかった。あんまり白いメシを持ってくと友達の手前はずかしいから、少し何か入れてくれよと、幸二の注文で弁当の分だけは芋や麦を混ぜていたほどだ。
清さんと助さんは、梅焼酎の下地がまだぬけ切ってないせいか、酒のまわりが早く、もう真赤になって額や鼻の頭に汗の粒を光らせている。
久しぶりに大勢で食卓をかこんだせいで、だんだんと気分もほぐれて、活気に満ちてきた。
「ねー若旦那、今度はすぐ帰って来るような気がして仕様がねえんだけどね。何だか、ちっとも遠くへ行っちまうって感じがねえんだよな」
と助さんがさかんに頭をふりながらそう言う。ハナもそんな気がして仕方がない。御当人のおとうちゃんも、俺もどうもすぐけえって来られるような気がすると言っている。
「どの道この戦争はそう長く続きっこねーってこってすね、神風が吹くのを頼りに風船爆弾なんてものを飛ばしてるようじゃ先が見えてるよ」
清さんは、娘のやっちゃんが風船爆弾作りにとられているのも気に入らないらしい。
途中で手洗いにでも立ったのかと思ったおとうちゃんが、こんなことになるとは思わなかったが、いい折だ、こいつをやろうと手に紫の袋に入った長い棒のようなものを持って来て、きっちり正座して謙一にわたした。
一同ちょっとびっくりしたが、それが刀と気がついて、謙一も坐り直すと石膏でかためた不自由な左腕をそえて、
「有難く戴きます」
と押しいただくように受けとった。
「出陣に当り父が子に授ける形見の一刀、ようよう、これぞ正しく桜井の駅、楠公《なんこう》父子《おやこ》は涙の別れ」
と清さんがはやしたてた。
「何ですかそりゃ」
助さんがつめよると、
「青葉繁れるって歌知ってるだろ、あれだよ桜井の駅」
と清さんが馬鹿にしたように言った。
助さんがいきなり唄い出した。
「青葉繁れるしののめの 里のあたりの夕まぐれ」
「馬鹿、しののめじゃねえよ、しののめのーとくりゃ、ありゃ花魁《おいらん》のストライキじゃねえか」
「あれ違うんですか、でもあと里のあたりの夕まぐれってんだから」
「里ったって遊郭じゃねえんだよ、第一そんな唄、学校で教えるわけねえじゃねえか馬鹿。そう言やあ、謙ちゃん、もう十六だよなあ、昔で言えば元服だ、大人なんだ」
清さんが感心している。謙一はそばにいる幸二に手伝わせて刀を袋から出している。
「そうだよ、昔は十五からもう大人だから、十四と言えば助かるに十五と言ったばっかりにってね、おかげで八百屋お七は火あぶりになったってくれえのもんだからね」
助さんはむかえ酒が相当きいてきてるみたいだ。いつの間におとうちゃんがこんなものを買っていたのか、ハナも全く知らなかったが謙一の手には立派な軍刀があった。
ニヤニヤ笑いながらおとうちゃんそれを手にとって、いきなりスルリと引き抜いた。電灯にはえた刀身はドキドキする光にあふれ、皆一瞬ハッとした。
「やだ、こわいからしまって、しまって」
ハナは、抜きはなたれた本ものの刀をこんなに近くで見るのは初めてで、本当に恐ろしいと思った。
「どれ拝見しましょうか」
と清さんが言うと、おとうちゃんは刀を鞘《さや》におさめて清さんにわたした。
清さんは手なれた感じでうけとると、トントンとたたいて目釘《めくぎ》をぬいて柄をはずした。
「さすが質屋の番頭、うまいもんですね、いくら位貸しますかね、それで」
と助さんがからかう。
「馬鹿言うない、若旦那これはどこで……」
と助さんをさえぎって、おとうちゃんにきいた。おとうちゃんは、太郎兄きがカタに置いて行ったのを拵えだけ作り直したのだと、清さんに言った。清さんは銘のところを電灯にかざしてためつすがめつ見ている。
「悪いけどどうせてえしたもんじゃないよ、太郎さんがおいてったんじゃ」
助さんも何度も太郎にインチキなものを掴《つか》まされているから、まるで信用していない。
「よくわかんねえけど、備前何とか舟って書いてあるね、右舟か古舟か、吉舟だなこりゃ」
清さん老眼鏡を上げたり下げたりして、おとうちゃんにも見せている。
「吉舟、人形町にそんな名の家あったなあ、浪花節《なにわぶし》の寄席の裏に……何だか置屋《おきや》みてえな名の刀だね、あんまり切れそうじゃねえなあ、どれ、おれにもかして見ろ」
助さん泳ぐような手つきで前へ出かかる。
「およしよ、助さんが刀持ったんじゃガマの油売りだよ、ケガしねえうちにしまっちゃった方がいいよ」
とすかさず幸二が言って押しとどめた。
「違えねえや、こりゃまいった、幸ちゃんにやられた、アハハハハ」
それがきっかけで二人も食事をはじめ、やがて、眠そうな謙一を気づかって早々とおひらきにした。
次郎と二人きりになって、はげしく降り続く雨の音をじっと聞いていた。明日の準備といったところで、着のみ着のまま、身一つで行けばいいから、あれこれ揃える必要もない。次郎は夜具の上に胡坐《あぐら》をかいて旨《うま》そうにタバコを喫っている。
もう八年も前のことになるのか、最初の次郎の応召は昭和十二年、まだまだ物資《もの》も豊富にあったし、堀留|界隈《かいわい》も活気があって今考えると夢のようだった。入隊してからも外地への出航の準備で、神戸に待機中ときけば、矢も楯《たて》もたまらず追いすがるおもいでただ一人、その日のうちに夜行でとんで行った。ハナもやっと三十一になったばかりだった。
あの時の不安も切なさも、今となっては甘く懐かしい思い出で、よくまああんな無茶なことをと今さらのように恥ずかしい。運よく次郎に逢うことが出来、おもいもかけず一晩一緒にいられたのだったが――。
息せき切って駈けつけてみても、明日は別れのその晩は、これといってあらためて交す言葉もなかった。人間誰でもそんなものなのだろうか、いま又おとうちゃんと別れなければならないのに、元気でね、の他に言うことがない。万一の時に分け前でもめるほどの財産があるでなし、実はこれこれと隠し子の一件を打ち明けるでもない。ごく月並におせん泣かすな馬肥やせで、実にさばさばとしたもの。下町の喧騒《けんそう》の中で過ごして来たハナにしてみればこの静けさはもてあます。
我《われ》も他人《ひと》もないような下町の暮し方、これが今生の別れと涙ながらの水盃の場へ、ワイワイ他人が割り込んで、俺にも一杯と手を出す無遠慮さ、煩わしさ、それは又それで理に適《かな》った生き方なのかも知れない。いくらしんみり哀《かな》しんだところで、別れは別れ、きりのつけようがない。「花は盛りに月はくまなきをのみ見るものかは、雨にむかひて月をこひ」で、ないものねだりがあはれのきわみか、ええ、も少し静かに別れを惜しませてと言うくらいが一番しっくりくるのかも知れない。蒸し暑さのせいもあってか、その夜はなかなか寝つけなかった。
翌朝になっても昨夜からの雨は、いっこうに止《や》む様子もなく、雨足が少しも衰えをみせない。紫陽花も色こそ取り戻したものの、あまりの雨の勢いに首を落して震えている。壊れた雨樋《あまどい》の裂け目からポンプのように水が吹き上がり、庭中水があふれている。防空壕も水が入って当分は使えそうにない。
一同打ち揃って朝食の膳にむかったが、今日は久々に人数が多いせいか、心丈夫で、大事な人を失う日のような気がしない。そう感じるのはあながちハナばかりではないようで、皆元気よく食が進んだ。おじいちゃんも腹を決めたのか、ヤケクソなのか、案外シャキッとしている。
たしかにこれが今生の別れになるかも知れないのに、前の出征の時ほど、悲しみや不安が切実にこみ上げてこないのはどうしたものかと、ハナは思った。もっとも兵隊でなくとも、誰もが毎日|何時《いつ》死ぬか知れぬ身でいるから、煙草を買いに出ても何時も別れは今生の別れ、夫婦で一つ家に住んでいても、朝別れて夕方逢えるとはかぎらない。戦場も銃後も区別がない、皆がもう慣れっこになってるのか、諦めているのか考えてみれば恐ろしいことだ。
何時か清さんが、「幸ちゃんがね、庭でチュンチュン雀が鳴いてるのをじっと見ていて、清さん雀はいいねえ、戦争も空襲もないもんねってしみじみ言いやがんだよ。十二や十三の遊びたい盛りのガキが、心底、雀をうらやましがるようじゃしょうがねえや」とつくづくハナに言っていた。たしかにこの頃のような暮しがずっと続くんなら、いっそ死んでしまった方がましだと、誰もが知らず知らずのうちに考えているのかも知れない。本当に嫌な世の中だと思った。
「今ね、マッチ箱くらいのもの一つで丸ビルがふっとぶってえすげえ爆弾作ってるんだってよ、こいつが出来りゃあ、アメリカも一発でお手上げよ」
と清さんが陽気にしゃべっている。
新型のロケットがもうすぐ出来て、これがB29を追い散らすとか、「大和」が出れば沖縄も大丈夫とか、景気のいい話をポンポンして皆を笑わせていた。
九時丁度に、出征するおとうちゃんを皆で玄関で見送った。清さんだけが新宿まで送って行くことになった。謙一も幸二も、笑顔で握手をした。おじいちゃんだけはやっぱり泣いていた。ハナは泣き顔は見せたくなかった。おとうちゃんは最後に「じゃーな」と軽く片手をあげて、その手で玄関の戸を閉めた。曇りガラスにうつっていたおとうちゃんの影がすっと消えて行くと、ハナはその場に坐り込んでしまった。
昼前に清さんが足もとをずぶ濡れにして帰って来て、おとうちゃんは予定通り、十時十分新宿発の長野行きに乗って集合地の甲府へむかった、順調に列車が走れば、目的地へ十三時三十分に到着する、と報告した。
「なにしろ新宿駅の地下道に膝《ひざ》の上まで沈むほど水がたまってやがってね、往生しましたよ。長げえ時間汽車に乗るから、ズボン濡らさしちゃ可哀そうだからね、あすこを俺、若旦那おぶって歩いたよ」
清さんはそれがさもうれしいように、おばあちゃんに話した。
「そうかい、そりゃ御苦労だったね、まあ乾いたもんに着がえて一杯おやりよ」
とおばあちゃんはコップを突き出した。清さんは、それをうけとり、ちょっと口をつけて、
「ヘッヘッヘッ、梅酒ですかい、こりゃどうにも面目ねえ」
と肩を小さくすくめて、廊下にビタビタと大きな足跡をつけてそのまま風呂場へむかった。
おばあちゃんは面白そうに笑っている。おじいちゃんは、気分が悪いと言って、奥でタオルをかぶって寝ている。
八月六日、清さんの話していた新型の爆弾が広島上空で爆発し、ついで九日、長崎に落され、そして十五日には日本の無条件降伏で戦争は終った。
これでおとうちゃんも帰れると思えば、負けでも何でもいい、ただ戦争が終ったことがハナは心から嬉しかった。
1949・夏
「おお暑い暑い、何て暑さだろうね、まったく」
ハナはそう言いながら、開けっ放しの通用口の敷居をまたいだが、すぐに家に上る気にもなれず、上り框《かまち》に腰をおろして、ふうふうと頬を膨らまして大きな息をつき、手のハンカチを扇子《せんす》代りにして風を送っていた。
声をききつけたのか、清さんが縮みの七分袖のシャツに白の半ズボン、すっかり禿《は》げ上った額の汗を首から下げたタオルのはじでふきながら、帳場の方から出て来た。いなせな拵えを自慢にしていた清さんも年をとったものだ。
「おかえんなさい、御苦労さまでした」
と言いながら廊下に膝をついて、持っていた渋《しぶ》団扇《うちわ》で風を送ってくれる。清さんの娘のやっちゃんも顔を出して、
「暑かったでしょう、西瓜《すいか》の冷えてるの今切ったところですから」
湯上りみたいなつやつやした頬をひからせて笑いかけてくる。
ハナはヤッコラサッとかけ声をかけて板の間に上ると、すぐに調理場の暖簾《のれん》をくぐった。調理テーブルを囲む形で並んだ椅子に三人が腰かけると、
「恰度《ちようど》いいところでしたね」
ラクちゃんが、きれいに切った美味《うま》そうな西瓜を盆に盛ってハナの前においた。
「で、どうだったんです話の方は」
清さんがせっかちに訊《き》いてくる。
「それがね、一足違いでだめだったの」
ハナは西瓜の一切れに手を伸ばしながら、
「その人には逢ったんだよ、ちょいといい女だし、気さくで年恰好といい申し分ないんだけどね、姉さんが新橋で料理屋を始めるんで、そっちへどうしてもっていわれて昨日話がきまったんだってさ」
と清さんを見た。
「へーえ、そりゃ惜しいことをしましたね、あれなら家にぴったりだったんだけどなあ」
いかにも残念そうに言って清さんはプップッと西瓜の種を掌《てのひら》の中へ飛ばし、
「暑いところ無駄足させちゃってすいませんでした」
と軽く頭をさげた。
「いいんだよ別に。でも探すとなるとなかなかいい人っていないもんだねえ」
「だからぼたんがいまいましいじゃありませんか、忙しいのはわかってるんだから、あとが見つかってから罷《や》めるがいいじゃねえか、ねえ、藪《やぶ》から棒に袖を振り切るようにして出て行きやがって……。人の話だから当てにはならねえけど、ぼたんは修善寺へは帰ってないらしいんですよ、何だか人形町あたりで見かけたって言ってましたぜ」
ぼたんさんは元向島の芸者で、おじいちゃんのお妾《めかけ》さん、年頃はハナより一つ二つ下の筈だ。色の黒いベタッとした顔立の小柄な女で、洗いたての浴衣を着ても、どこかぐじゃっと着くずれした感じがつきまとう、そこが又男の目には色っぽくうつるらしい、芸事は何でも達者で、調子が良くてひとをそらさない。この間まで女中頭というか支配人格としてこの「花屋旅館」のすべてをとりしきっていた。
罷めていった人のことをどうこう言うつもりはないし、その人が何処《どこ》にいようと咎《とが》めだてする気もないが、清さんの話が本当なら随分ひとを馬鹿にしたやり方だと思う。
戦争中伊豆の修善寺へ疎開していた時に亡くしたお母《ふくろ》さんの菩提《ぼだい》をちゃんと弔ってやりたいし、昔の朋輩も呼んでくれていることでもあり、体の具合も良くないから、修善寺でのんびりと三味線でも教えて休養したいと、ぼたんさんはハナたちがいろいろ引きとめるのにも耳もかさずに、半月ほど前ばたばたとあわただしく罷めていってしまった。ぼたんさんが出て行った時、ハナは何となく不自然なものを感じて、誰かともめたのかな、何かいやなことでもあったのかなと、それとなくまわりに訊いてみたりもしたが、思い当ることはなにもなかった。ぼたんさんのことはあんまり好きではなかったが、なんといっても一番手馴れた人に急にいなくなられたのは商売にとっては痛手で、家の中のことが心棒のさだまらない車のように、ガラガラとせわしないばかりでちっとも捗《はかど》らないのにいらいらしていた。そのせいか週に二度、三度と来ていたお馴染《なじ》みさんが、このところ少しずつ顔を見せなくなっているような気もする。あるいは何か粗相でもありはしなかったか、宿帳を見る度に気になって仕方がなかった。
「ごめん下さい」
あらかた西瓜を喰べ終った頃、通用口で声がした。返事と一緒にやっちゃんがすぐ立って出ていった。
「新聞の求人広告を見て参りましたが」
その声が調理場へもきこえた。あんまり間がいいんで三人はたがいの顔を見合せた。たしかに女中募集の広告は出したことは出したのだが、それが新聞にのった日は朝から何本か問い合せの電話もかかったし、どんな人が来るのか期待も持ったが、結局三日目までに実際に訪ねて来たのは一人っきりで、しかも六十過ぎのおばあさんだった。あれからもう一週間にもなる。すっかり諦《あきら》めて広告を出したことすらもう皆忘れていた。ぞろぞろ立って行ってみると、髪をうしろへひっつめにして、色の白い明るい感じの丸顔、ペラペラの白いブラウス、下は絣《かすり》のモンペに下駄ばきの女が立っていた。年は二十七か八くらいだろうか。ハナは早速調理場へ上ってもらって話をきいた。
「今迄《いままで》は王子の伯母の家にやっかいになっていたんですけど、近々そこの息子が結婚することになりまして、それで家も狭いし女手もあまりますし」
「そう、それに何となくいづらいもんね」
清さんが横から話をとる。
「ええまあ、ですからそこを出て住み込みで働けるところをと思いまして……」
「うん、そいで今までに旅館とか食堂とか客商売やったことあるの」
「いいえ、田舎者で何の経験もありませんし……、だめでしょうか」
「いいや旅館の女中なんてあんた、こんなもの誰だって出来るから」
やっちゃんと、ラクちゃんがちらっと清さんを見据えた。清さんはオッホンと一つ咳払《せきばら》いをして、
「あ、そいであの、給料とかその、望みはあるの」
と女の顔をのぞきこんだ。
「いえ別に……、郷里《くに》の父親へ土産がわりに少しでも貯金《たくわえ》が出来ればと思いまして……、一所懸命やりますからどうぞよろしくお願いします」
とその女は殊勝気に手をついて頭を下げた。履歴書と伯母さんの身元保証みたいなものも持っているし、何となく感じがいいのでハナもうれしくなった。
「窮すれば通じるっていうか、棚からボタ餅ってのか、ねえ清さん、いい人が来てくれたじゃないか」
「まさにもう、手で蓋したようにぴったしって奴で……」
「じゃあ、あんたさえよければ、今日からでも早速いてもらうってことにして……、そうそう名前は何んての」
「はい石橋たか子です」
「ふーん、じゃ家じゃおタカさんだ、いいね、皆もいいね」
とハナは簡単に決めてしまった。
「それでは明日王子の家へ荷物を取りにやらしていただきます。皆さんもどうぞよろしくお願いいたします」
おタカさんは丁寧に頭を下げた。
「すぐに馴れるからね、そうすりゃもうぼたんさんなんかいなくったって大丈夫だから……、ああよかったよかった」
ハナは一人で喜んでいた。やっちゃんとのやりとり見ていても、立居振舞はテキパキしてるし、すぐに家にも馴染んでくれそうで安心した。一時は手が足りないのに業を煮やして、
「清さんところのおかみさんに、次の人が見つかるまで手伝ってもらうってわけにいかないかね」
と頼んでみたことがある。
「あれはだめ、客商売には向かないから」
向くも向かないもない、清さんは自分のおかみさんだけはどこにも出したくない、いつ家へ帰っても声のとどくところにいてもらわないとだめなのはハナもよく知ってる。清さんは浜町の家を三月十日の空襲で失って、しばらくは弁菊が食堂を請負っていたベークライト工場の寮にいたが、今は玄冶店《げんやだな》の裏に小ぢんまりした家をかりて、仕立物の上手なおかみさんとみず入らずで暮している。清さんはおかしな人で、他人の仕事は面白がって何にでも手を貸すが、自分ですることは長続きがしない、いまだに家へ来て半分番頭、半分は便利屋みたいなことをしている。
「それじゃあとをよろしく頼みますよ」
とハナはすっかり安心して、おもてへ出た。通用口からおもての道路、角店《かどみせ》の旅館の建物にそって玄関口まで、ずうっと清さんが打ち水をしている。花屋旅館と書いて大きく張り出したガラス行灯《あんどん》の看板にも灯が入り、その光が水たまりに映っているのも涼しげだった。すぐ前のおじいちゃん、おばあちゃんの住居《すまい》にもちょっと声をかけると、茅場町《かやばちよう》の都電の停留所へむかって歩きはじめた。東華小学校の裏を抜け、兜町《かぶとちよう》の証券取引所の前を通って行くのがいつものコースだ。すぐに来た十五番の早稲田《わせだ》車庫行きは、かなりの混雑だった。ハナは電車の隅に押しつけられ、すぐ前の復員兵らしい男の、ゴツゴツしたリュックサックでゆすり立てられるのが辛かったが、戦後四年もたった今頃まで帰れなかった不運な人もいるのかと、気の毒にもなり、うちのおとうちゃんは早く還って来られてよかったなあとしみじみ幸せを感じた。
終戦の年、九月に入って早々、ひょっこりおとうちゃんは鷺宮《さぎのみや》の家へ還って来た。行った先が千葉なのはわかっていたから、帰りが遅くてもさして心配はしていなかった。不精ヒゲをはやし、戦闘帽に、タオルで拵えた丸首のシャツを着て、膝から下を切り落した兵隊ズボンをはき、下駄ばきのおとうちゃんは、荒縄でしばった鰹節《かつぶし》を五本ばかり下げていた。きけば鰹節の乾くのを待ってて遅くなったと、馬鹿に呑気《のんき》なことを言っている。清さんの言によれば九十九里の浜辺に上陸を敢行しようとする米軍を、水際でむかえうってこれを撃退せしむ、と言うのがおとうちゃんの部隊の役割りだったそうだが、このノホホンとした様子からはとてもそんな任務についていたと思えない。
おとうちゃんは、だめだよ、行ってみて驚いた、鉄砲はない、弾丸《たま》はない、ゴボウ剣の代りに竹光を吊って穴ばかり掘ってんだよ、穴だけ掘っても戦争は勝てやしねえやと、あきれていた。
清さんがおとうちゃんから聞いた話では、兵隊は毎日穴掘りばかりさせられていたからけっこう大変だったが、おとうちゃんは炊事班長だったので呑気なもの、港へ魚買いに行ったり、在《ざい》へ芋買い出しに行ったり、まあ弁当屋やってるのと同じこと、上官は息子みたいな年の学生上りの中尉さんで、おとうちゃんが始終下駄ばきなもんで、しまらねえから点呼に出なくてもいいなんて言われたらしい。十四日の日には、馬鹿に鰹《かつお》が獲《と》れちまってしようがねえから毎日カツブシ作りをしてたってんだから気楽なもんですね、と清さんは笑っていた。
内地で除隊になった人は、てんでに軍隊の物資を山分けして、毛布を何十枚とか、罐詰が何箱とか、あるいは靴ばかり二十足も持って来たとかの話もきくし、ひどいのはトラックでごっそりと持ち出す人もいたという。それにひきかえ出来そこないの鰹節五本というのもおとうちゃんらしくていいとハナは思った。真黒に陽やけして、面やつれも見せず元気いっぱいニコニコ顔で還って来たのがなによりうれしい、もう二度と兵隊にとられることもないと思えばそれだけでとび上りたいほど幸せだった。
毎日毎日、次郎はどうした、次郎はまだかと言いくらしていたおじいちゃん、おばあちゃんは、おとうちゃんの顔を見ただけで何も言わず、ただただ咳き込むようにいつまでも泣いていた。おじいちゃんたち、年をとったなとハナは思った。次郎はそれからしばらくは何をする気も起きなかったのか、散歩もせず毎日家にゴロゴロして、ただボンヤリと過ごしていた。上石神井にいた妾の千絵さんが結婚してしまっていたこともかなりショックだったのかも知れないと、ハナはうすうす気がついてはいたが、ことさらふれないようにしていた。おとうちゃんが兵隊にとられている間、ハナが千絵さんの面倒を見ている約束だったが、戦争が終って十日もしないうちに、疎開先の地主の所へ後妻に行ってしまった。お手当を届けに行ってはじめて知ったが、正式に結婚するというので、ハナにはどうすることも出来なかった。この話をきいたおとうちゃんは、そうかそりゃよかったじゃねえかと、口では言っていたが、裏切られた腹だたしさか、失ったものへの未練か、時々遠くを見るような眼つきで淋しそうにしていた。ハナはわれにもなくちょっと可哀そうだなと思ったりもした。あとでわかったことだが、おとうちゃんはやっぱり上石神井へ一度様子を見に行ったらしい。息子の幸二を一緒に連れてというのが、どうもわからないが……。釣り道具を持って家を出たのに、いっこうに川のあるところへ行こうとしないんだぜ、おやじも純情なもんだよと、とっくに事情を読んでいた幸二は笑っていた。
戦争が終ったのは誰にとっても、突然のことのようでもあったし、当然そうなるべくしてなったようでもあった。いきなり足元の支えをはずされた感じで、驚きと当惑で何のよりどころもなく、くやしさや悲しさより、むしろ空《むな》しさと不安で身の置き場がない。理屈なしの滅私奉公、絶対服従に永年馴らされていて、急に掌《てのひら》かえして民主主義の自由主義のと言われても勝手がわからず、おずおずと遠くからさわって見てる感じ、そのうちに又手痛いしっぺ返し喰いそうで落ち着かない。男はみんな殺されるか重労働、女は取って喰われるとおどかされていた残虐非道な筈の進駐軍も、目の前に現われたのを見れば、栄養のいい無邪気な若者で、恐ろしさはまるでない。これからはもう空襲もない、憲兵も来ない、自由に手足のばして心配ないと、亀の子があたりの様子|窺《うかが》うように、誰もが少しずつだが、漠とした明るさと安らぎを実感するようになってきた。
そのうちに新橋、銀座、新宿、浅草と盛り場には露天の闇市が立ち、今までどこにこんなものがあったのかと驚くほどの品物があふれ、あちこちにばたばたとバラックが出来て、あやしげな飲食店も大声で呼び込みをはじめた。内装も座席もすっかり焼けて、倉庫のようになった映画館は、そのまま営業をはじめた。それでもお客は寿司詰めで、あとからあとから押しかけた。遠慮もやさしさもない、インチキやドロボーも天下御免だが、抑えつけられていたものがはじけたように、人々は闇市に集り、動きはじめた。
終戦の年も十一月になるとやっとおとうちゃんはショックから立ち直ったのか、強制疎開で壊された弁菊のあった場所の前に家を買って旅館をはじめた。
あの日堀留からもどって来たおとうちゃんがどうして突如旅館を始めようと言い出したのか、ハナにはいまだにわからないが、夜遅く鷺宮へ帰って来て、お前も知ってるだろうが、もとの弁菊の向う角の、高木医院を買うことにしてきた、あすこで旅館をやると言い出した。
なにしろ急な話だし、旅館という商売がどんなものなのか、ハナには皆目見当もつかなかった。あんまり泊ったこともないし、第一、駅前か観光地ならともかく、堀留のような街中に旅館があるもんだろうか、それすら知らなかった。ハナは気負い込んで熱っぽくしゃべるおとうちゃんの口元を見て、ただふんふんと聞いているだけだった。これからはますますインフレは進むし、銭なんかいくら持っててもしようがねえ、金の価値が下ったら、下った分だけ値上げで対抗出来るような商売の土台を作っておかなきゃだめだ、多分そんなことを言ってたような気がする。
次の朝、早速堀留へ一緒に出かけて行って、その家を見たが、二十年来、目と鼻の先で毎日見てきているから別に変りばえはしないが、この家を買うのかと思うと何とも妙な気分だった。たしか、高木さんは軍医の出、治療は荒っぽいが腕はたしかと評判で、幸二か謙一が頭のオデキかなんかで診てもらったことがある。縁なし眼鏡をかけた奥さんはちょっとインテリ風で、挨拶ていどしか付き合いがないから、家の中へ上げてもらうのもはじめてだった。敷地は六十坪ぐらいだろうか、総二階のグレーのモルタル作り、上下《うえした》で部屋数は十《とお》、二階にも下にも便所があり、ちいさいながら風呂場もついていて、なるほど小体《こてい》な旅館にはもってこいの作りだった。家そのものは気に入ったし、価格の方もそう無理な工面はしなくてすみそう。ただ旅館業が海のものとも山のものとも見当がつかず今一つ自信が持てなかったが、なあにだめなら下宿屋にしても、丸ごと誰かに貸しても損はねえさ、とおとうちゃんに言われて、ハナも帰りの電車が鷺宮へ着く頃にはもうすっかり腹がきまっていた。家へ帰っておじいちゃん、おばあちゃんに話すと、二人とも何とかして早く堀留へ帰りたいものだから、先の見通しも何もなく、ただ無責任に結構結構と大賛成。もう早速屋号の話まで持ち出した。
「そりゃ、やっぱりおめえ、長えこと堀留の土地で売り込んできた暖簾《のれん》だから、どうしたって看板は弁菊の名を残して、弁菊旅館がいい、なあ次郎」
「いいえ」
ハナはきかなかった。もうおじいちゃんたちの残したものは何もない、新しく次郎とハナが自分たちの手で一から築き上げる商売《あきない》だからと、どうしてもゆずらず半ば強引に「花屋旅館」で押し通してしまった。
世の中もすっかり変って、総ての人がそれなりの権利を言いたてることが出来るようになった。良いも悪いもなく、ただ昔からのしきたりだからと黙って耐えることが美徳であり、その人の力量や人柄に関係なく、生まれや育ちや、男か女かで生き方を決められるのを、屈辱とも恥とも考えないように教えられてきたおじいちゃんやおばあちゃんの時代はもう終ったことを、ハナも知らず知らずのうちに身につけていた。いつの時代でも嫁は嫁、姑《しゆうと》は姑に違いはなかろうが、そのことで理不尽な横車に屈することはないと思っていた。
それから二、三日は家の売買の手続きで色々と忙しかった。高木さんとの話は簡単だったが、土地が借地で、地主が向う隣りの山本さん、その山本さんもあの家が欲しかったらしい、値段が折り合わずにこじれていたのでちょっと面倒なことになりかけたが、山本さんの弁護士の石田さんが、どうしたわけか初対面のおとうちゃんが気に入って、仲に入ってうまくまとめてくれた。
すべての手続きがすんでからびっくりしたのは、戦争中高木さん一家が地方へ疎開したあと、三世帯六人の人たちが高木医院に住みついていて、この人たちがいすわったきり出てくれないという大問題。いずれも一癖も二癖もある連中でなまなかなことじゃ立ちのいてくれそうにない。今さら腹を立てても、夜店の買物あとの祭、でとりかえがきかないが、高木さんがさっさとこの家を手ばなしたのも、実はこの人たちにほとほと手を焼いていたからだったらしい。
二階のとっつきの部屋にはパンパンが頑張っていて、しかも平気で昼間っから客を連れ込んで商売をしている。二階にはほかに空部屋もあるのをいいことに、立てこんでくるとわがもの顔で廻しをとったりしてるとか、ガラガラ声のうす汚ない女で歌手の笠置《かさぎ》シズ子にちょっと似てるところから、誰言うとなくおシズさん。下の奥には刺青師《ほりものし》がいて、これが又青んぶくれの気持の悪い男で、年は五十五、六か。頭の真ん中まで禿げ上っていて、口のまわりは真黒けのモジャモジャヒゲ、いつでも胸もとまで薄汚れたサラシを巻いていて、首に手拭を下げ縮みのシャツの前をはだけ、下はステテコ。時々ヤクザ風の客が来るが、あとはのべつ酒びたりで、そのくせ先生って呼ばないと返事もしない。台所のわきの八畳にいるのはこれは堅気の洋服屋の職人一家で、身重のかみさんと学校前の女の子が二人、旦那は虚弱体質の見本みたいな人で、色が白くてやせていて、いつでもテリヤの犬みたいにびくびくしている感じ。目の廻るような度の強い金縁の眼鏡をかけて、蚊の鳴くほどのききとりにくい小さな声で話す。いじけた見てくれの割にびっくりするような胸毛がはえているのも気味が悪い。
はじめのうちはおとうちゃんも割と簡単に考えていて、なあに同じ日本人だ、誠意をつくして付き合えばきっとわかってくれるさ、なんていってたが、なかなかどうして、それぞれ居住権を主張して出てくれない。各個撃破で、それぞれに住みかえの場所も探して、法外な立ちのき料まで用意したが駄目。敵は結束してきて今度は団体交渉。やがてそれも分裂して、又個人折衝とめまぐるしい闘いが続く。清さん、それからこれも弁当屋をしていた頃の板前の助さん、ついでに伊豆長岡の疎開先から帰ったばかりの鳶《とび》の頭《かしら》の元さんまで動員して、入れかわり立ちかわり説得に当ったが、ことごとく効を奏せず、遂に闘いは長期戦にもつれ込んだ。おとうちゃんもこの人たちをなだめたりすかしたりしていたが、とうとうしびれをきらして職人を入れて旅館の営業許可基準に合うように家の改造に踏み切った。
こっちの強硬な手段が、むこうの神経にさわったのか、又々一層態度を硬化させ団結して実力行使に出た。職人さんたちが来ると、洋服屋の一家が台所を占拠してもたもたと食事をはじめる、便所を直そうとすると、パンパンと刺青の先生が、交代で雑誌や新聞をもって立てこもる、どうにも手がつけられない。仕方なく改造を一時断念して交渉を再開した。そして今度は隠密裏に開店のための準備工作を開始した。即ち、おとうちゃんは什器《じゆうき》備品等の調達、ハナは寝具の作成に当った。戦争中、軍の指定のベークライト工場の食堂をやっていたので、終戦時にそこから木綿の布地を支払いの代りに大量にもらっていた。これを清さんのおかみさんに縫わせて布団や枕を拵《こしら》える。あとできいた話だが、あの純綿の布地は、ベークライトをかためる時に芯《しん》にするためのものだったということだ。
争議が泥沼状態で長期化するにしたがって、それぞれ担当、役割りがおのずと決ってくる。助さんがパンパン対策、清さんが刺青の先生にもっぱら当り、ハナは洋服屋と交渉する。
付き合いが深まると自然人情もうつるのか、そろそろ四十の声をきこうというのにまだ独りもんの助さんは、いつの間にかパンパンと親しくなって、タバコやチョコレートをわけてもらい、これをよそへ流して暴利をむさぼる。あげく、
「あの女も根は淋しがり屋のいい人間だよ」
なんて言い出して、ミイラ取りが知らぬ間にミイラで恥ずべき癒着《ゆちやく》が起る。清さんは若い時の筋ぼりを目ざとく先生に見とがめられて、そういう中途半端なことしとくのが一番よくない、俺が仕上げしてやるなんて言われ、嫌もおうもなく電気針を打たれて、
「俺もこの年になって刺青の仕上げしようなんて思わなかった」
とぼやくこと、ぼやくこと、こっちは犠牲者か。ハナの担当の洋服屋は煮えきらない男で、今日これで話が決ったと手を打つところまで行っても、一晩たつと女房に入れ智恵されてくるのか、コロリと話が変ってもとのもくあみ、その時ヘラヘラして人の好さそうな笑顔を見せるだけに一層腹が立つ。一番いやなのは、女房は顔を合せてもニコニコするだけで、ハナには一切直接口をきかない、そのくせ亭主の口をかりてつぎつぎにずうずうしい条件をつけてくる。とうとうハナも堪忍袋の緒を切って、
「ああ、やめだやめだ、もう一切あんたたちとは話をしない、そこに住んでたけりゃ死ぬまで住んでりゃいいじゃないか、もうこっちから出て下さいなんて口がさけても頼まないから……。そのかわり一銭だって払わないよ、どいだけ憎しみあっていられるもんか生涯かけて試してみようじゃないか」
と交渉決裂。うちに帰ると、次郎に、喧嘩《けんか》はいつだって出来る、今までの苦労が水の泡《あわ》じゃないかと叱られたが、ハナは満足だった。刺し違えて死んだって本望だと思うくらいに、今までになくすっきりとした気分だった。翌日は、二月十七日。突如として金融緊急措置令が公布施行になり、新円切換え、預金封鎖で、日常の生活を維持するだけでせいいっぱいの金しか動かせなくなった。
早速洋服屋がやって来て、くどくどと詫《わ》びを入れ、例の蚊の鳴くような声で、
「あのう……、一番始めの時の条件で結構ですが……」
と申し入れたが、無論今更どうにもならない。
「だから言っただろう、大慾は無慾に似たり、今んなってそんなこと言ってきたってだめだよ、あんたたちが目の前でのたれ死にしたってあたしゃ何もしてやれないよ、いいキビだよ」
ハナは自分で言っておきながら、あたしも随分いびりの強い、はげしい言葉をあびせるもんだと内心びっくりしたが、実は胸がスーッとした。
突然刺青の先生が死んだ。
おシズさんが新しい客をつれて先生の部屋へ行って見ると、いつもの恰好のまま死んでいたと言うのだ。パンパンのおシズさんのところへ通って来る米兵の一人が、先生に刺青をしてもらい、それが縁で先生もGIの腕にいいかげんな刺青をすることで、けっこう小遣いをかせいでいたらしい。かけつけた医者の診断によればメチルアルコール中毒、そういえば新聞にも毎日のように出ている。
「酒かっくらって、いい気持で寝ちまって目が覚めたら死んでたってえやつで、いい往生だよ。どうせあんなものは生きてたって世の中の為になるってえ奴じゃないから、まあ結構なことだ、でも生きかえるといけねえからよく頭つぶしといた方が本当はいいんだ」
と頭は呑気なことを言っていた。ハナにとっても厄介払いには違いないけど、放っとくわけにもいかず、清さんに頼んで、形ばかりとはいえ野辺送りはしてやった。二、三日たつとハナのところへ三十五、六の見るからにヤクザ者然とした苦みばしった男が来て、きちんと両手をつき、
「あっしゃ、ここにいなすった刺青の先生と少しばかりゆかりの者でございますが、此《こ》の度は本当に残念なことをいたしやした、わずかばかりですが御霊前に……」
と言って香典を置いていった。ハナは本もののヤクザにキチンと挨拶をされたのもはじめてで、息が詰るようだった。すぐに助さんに聞いてみると、
「それそれ、知ってますよ、先生のところへ通ってきてたの、いえ、刺青するのはそいつじゃないの、一緒に来る二十歳《はたち》くらいの女、これが又いい女で、体がキレイ、餅肌ってんですかね、真白でツヤツヤしてんの、ええあたし見たんですよ、その女が太股《ふともも》にバラの刺青を入れてんですよ、先生もこれが来るといつもより熱心でね、で先生が死んだって言ったらこのヤクザが怒ってね、死んじゃだめじゃねえか、やりかけの仕事をどうしてくれんだって、怒ったって死んだものはしようがねえもんね、出来ることならあたしがかわりにほってやりたかったよ、あたし弟子ですかなんか言っちゃって、ヘヘ……、場所が太股ですからね、浴衣だけですよ、勿論《もちろん》、なんにもかくすものなしよ、もう大変なんだから……」
話をしてるだけで、よだれだか汗だか、顎《あご》からポタポタとしたたらせていた。
先生が死んだのをキッカケに洋服屋は、思いつめた顔をしてきて、
「ええやっと決心がつきました。家内のいなかへ帰って又仕立ての仕事をやろうと思いますんで」
負け犬のようにすごすごと越して行った。ハナも喧嘩は喧嘩、前の話ほどとはいかなかったが出来るだけのことをしてやった。
さてどうにも困ったのはあと一人残ったパンパンのおシズさん、助さんにはこの際おりてもらって、今度は、清さんと頭《かしら》とおとうちゃんの三人で集中攻撃をかけるがいっこうにひるまない。準備も整ってきたし営業許可はとうに取れてるし、ええもう仕方がないと、営業中のパンパンを家の中に抱え込んだまんま旅館を開業してしまった。
その時、女中頭にと家へ入れたのが、修善寺から帰ったばかりのぼたんさん。ぼたんさんは何と言っても元芸者、水商売の経験は長いから客扱いは堂に入ったもので、どこの誰さんか名前や商売《あきない》まですぐに憶《おぼ》えるし、喰べものの好き嫌いや、酒癖の良し悪しまで掌《たなごころ》を指すよう、誰彼の区別なく、気さくで面倒見がいいから客に人気がある。
弁菊の頃から家に居た女中のラクちゃんも岡山から戻ってきた。その時のラクちゃんは、すっかりやせて、色白でポッテリした丸顔だったのが嘘のよう、六年ぶりという時のへだたりだけでなく面ざしがすっかり変って「昔、お世話になったラクです」と言われても、ハナがすぐに思い出すことが出来ないほどの変りかただった。ラクちゃんはロクさんと一緒になって、ロクさんの郷里岡山へ行った筈だった。ロクさんは弁菊当時の若い衆の一人で、昭和十五年におとうちゃんが最初に兵隊から還って来たのと入れ代りに召集されて、何だか次郎の身代りになってくれたようで、ハナにとっても忘れられない人だった。召集の連絡がおくれて明日入隊と言う日に、ロクさんは親にも話していなかった三カ月の身重の女を女房として突然連れて帰ったわけだから、向うは驚いたに違いない。話を聞いてみると、向うの両親は世間体も考えてか、あわただしくその晩のうちに二人を祝言させ、翌日ロクさんはそのまま戦地へ、ラクは見知らぬ人たちばかりの嫁ぎ先へ残された。嫁とはいっても全くの他人、頼りに思う御亭主はいない。家は農家だし多勢の家族の中へ入って慣れぬ仕事は相当の苦労だったらしい。やがて生まれてきたのは男の子、この子のためにとひたすらつとめて耐えてきたが、ロクさんの戦死の公報が入るともう精も根もつきはてて、泣く泣く子供をおいて出てきたという。恰度、家でも旅館を始めたばかりで人手がなくて困っていたところ、これ幸いと手伝ってもらうことにした。相変らず少し動作はのろいが、よく気がつき、きれい好きで口数少なくこまめに働く。
戦争中は学徒動員で風船爆弾作りをさせられていた清さんの娘のやっちゃんは、終戦後は学校へ戻っていたが、去年の春、目出度く卒業。その後は家でブラブラしていたのを幸い、やっちゃんにも手伝ってもらうことにした。十九の筈だが、歳のわりには無邪気でちょっと小言を言われるとすぐプッとふくれるが、コロコロとよく笑う面白い娘《こ》で、このやっちゃんとぼたんさん、ラクちゃんが恰度いいトリオ、賑《にぎ》やかに動き廻る。
戦争中に強制疎開で取り壊された弁菊のあった向いの土地に、おじいちゃん、おばあちゃんたちの住居も建てた。旅館の方にぼたんさんがいて、住居は別といっても道一つへだてただけ、始終往き来しているところにおじいちゃん、おばあちゃんは寝起きしているわけだから、事情を知ってるものにはちょっと理解しがたいようだが、おばあちゃんは昔っからぼたんさんはおじいちゃんの棒休めと、いともすっきり割り切っている。おばあちゃんは昔通りにぼちぼち戻って来た花札仲間を集めて、昼間っから座布団を囲み、おじいちゃんは旅館の調理場に入り浸りで、誰彼なく女の尻にさわってはエヘラエヘラしていた。
土地柄がさすが日本橋、終戦直後なのに焼け残った一画から品物がすぐに動きはじめていて、近所に旅館がないから開業早々から押すな押すなの盛況だった。お勘定はすべて現金だったから、張りもあったし儲《もう》けも大きかった。別に宣伝するわけでもないのに、ジャンジャンお客がつめかけて、いつでも満員、新規のお客さんを断るのにも骨が折れる。中には戸棚でも廊下でもいいからなんて強引に押し入って来る馴染客もいる。
相部屋の相部屋でギューギュー詰め込み、十《とお》ばかりの部屋しかないのに一晩に四十人も泊めたことがある。週に一回、十日に一回と必ず来ている常連はもう家族同様、何処で飲んでいたのか夜中に帰ってくるなり、勝手に調理場に入りこんでお茶漬なんか喰べ、そのまま女中部屋へもぐり込んで寝ちまうなんて人もいた。お客は大半呉服関係の人だから、お馴染みさん同士で商売が成り立ったり、品物を融通しあったりは珍しくない、時には家に泊ってて外へ一歩も出ないで、客同士商売をすましてそのまま帰って行くなんてこともある。店が繁盛するのは有難いが、その分夜具だの什器だのを整えて行くのも容易じゃない、いくら物資《もの》のない時代だからといってもお金を戴いてお泊めするわけだからそれなりの用意はいる。ハナはそれらに追われて、のべつ目が廻るようだった。
商売がうまくいって客の出入りがはげしくなると、それだけパンパンのおシズさんが頑張っているのが目に立ってくる。
おシズさんはこっちの商売や思惑には関係なく、いつものように大きな顔でのさばっていた。真赤に染めた髪を、パーマネントでチリチリにして、黄色の鉢巻をしめ、赤い友禅のワンピースを着て、人でも喰ったような口にはいつでもチューインガムを含んでクチャクチャやっている。
表の通りにアメリカ兵のジープが来ると、窓から乗りだして大袈裟《おおげさ》に手を振り、
「ヘーイ、ジョージ、ジャストマッテテネーッ」
とあたりかまわぬ大声を出す。
「お客にタバコやチョコレートを売るんだよね、家で商売すんのやめてくれって言ったら、雲突くようなでっけえアメリカ兵を五、六人も連れてきて、ジャンジャン、レコードかけて夜っぴてパーティだよ、うちのお客も変だよね、そのパーティにへえりこんで、ヘイユードリンク、ハバハバ、なんてうれしがって、アメちゃんは気さくでいいね、なあんつってやんの、参るね」
と清さんも音をあげていた。
頭もよっぽどひどい目にあったのか相当腹を立てていて、
「ジャップは米ばかり喰ってるから、ガニ股《また》で頭が悪いんだなんてぬかしやがって、自由主義をはき違えてやがるんだよあのスットコドッコイ。てめえこそ何でえ、チンチクリンがけつをピッピピッピ振って歩きやがって家鴨《あひる》の火事見舞め」
と悪態をついていた。
そのくせおシズさんは妙に人なつっこいところがあって、銭湯の洗い場でたまたまあったりすると、
「ああおかみさん、そこはね、今までクロちゃん専門のパンパンがいたから汚ないよ、こっち来た方がいいよ」
なんて声をかけてきて、上り湯なんか汲《く》んでくれるからいっそ気味が悪い。ハナは口をきくのもいまいましいと思っているが、あまりのことについありがとうなんて言ってしまう。
翌年の春になって、おとうちゃんが、築地の方で米兵のいっぱいむらがるあたりに部屋を借りてやったら、やっとそこが気に入って移っていってくれた。おとうちゃんも肩の荷が降りたといった感じで久しぶりに晴れやかな顔をしていたが、どうも俺はやっぱりあのおシズさんの一件では、高木さんに一杯喰わされたような気がしてしようがねえと、あとあとまで首をひねっていた。
電車が終点の早稲田車庫で止った。あの復員兵はどこで降りたのか姿が見えなかったが、いっせいに降りる乗客と一緒に、ハナも押し出された。汗の上にほこりをかぶって、肌はザラついてはいたが、外の風が心地よかった。神田川にかかるゆたか橋をわたって、風呂屋の角を入ったところに「花屋旅館別館」がある。時代劇の旗本屋敷みたいな大きな門を入ると、鬱蒼《うつそう》と樹木が茂る中庭、その先に二階建ての母屋《おもや》が見える。中央の池をへだてて竹藪《たけやぶ》の中にポツンと建った茶室風の離れを入れて十一部屋。もともとこの家は堀留の高木さんの建物を買った時に、間に入ってくれた弁護士の石田さんが夫婦二人きりで住んでいたものだった。かねてから旅館をもう一軒と考えていたハナが一昨年の正月に石田さんを訪ねた折、鷺宮の家との交換を申し出て借り受け、その春にはすぐ許可をとって営業を始めた。次郎とハナ、謙一と幸二がここに移り住み、手伝いにハナの妹のハツ、それに女中が一人、はじめのうちは堀留の花屋旅館からまわされた客ばかりだったが、いつしかこちらにはこちらの客が馴染むようになっていた。
「お母さん、丸の内警察からだよ」
風呂から上って一休みしていたハナがいぶかりながら幸二に代って電話に出てみると、いきなり、
「お宅昔、弁当屋やってた弁菊さんかね」
とちょっとなまりがあるが、太い声でいやに馴れ馴れしく訊いてきた。そうですと答えると、
「お宅に謙一って息子さんおるかね」
と重ねて問いかけてきた。ハナは思わず受話器をかたく握りしめると、
「います、謙一が、謙一がどうかしましたか」
とせきこむように訊いた。
「いや本人が弁菊の息子だと言うもんでね、まあちょっと闇物資の運搬にかかわりあってね、事情がわかるまで……まあ今晩泊ってもらうかも知んねえから」
「あの謙一が……」
「いや明日は帰れると思うよ、たいしたことじゃねえから心配しねったって大丈夫だから」
それだけ言うとガチャンと切ってしまった。弁当屋をやっていた頃は、丸の内署ばかりでなく堀留署、久松署と留置人の弁当を、二十年も毎日配達して来ているから、警察だってただの得意先としか思っていなかったのだが、息子が捕っているとなると、それが変にいかめしく感じられて、顔から血の気がうせるのがわかった。
「兄きの奴、又何かやったのかな、どうせ度胸ねえからたいしたことじゃねえだろうけど警察に捕ってるなんてカッコいいじゃない」
このところ胸を悪くしてブラブラしている幸二は、半ば羨《うらや》ましげな調子で言った。
夜遅く帰って来たおとうちゃんに話しても、若い時はいろいろあるから、好きにやらせとけばいい、気になるんなら明日もらい下げに行って来いと、これも相手にならない。
謙一は終戦後、勤労動員から解放されて、安田商業にもどり、翌年、大学受験に失敗して一年間浪人した。おとうちゃんのお古のダブダブのコートをまとい、くたびれた野球帽をかぶって、駿河台《するがだい》の予備校へ通っていた一年間は、はたから見ててもみじめだった。翌る年、見事に立教大学の予科に合格はしたものの、堀留の幼な馴染みたちがすでに何人かそこに入っていたためか、あるいは浪人中に鬱積していたものが噴き出したのか、謙一はやたらにはしゃぎ廻っていたようだ。前髪だけパーマネントをかけて、額の上にチリチリに盛り上げ、左右の鬢《びん》の毛をポマードでコテコテに耳の上へなでつけて、これがはやりのリーゼントスタイルとか、染め直した進駐軍のズボンに底の厚いラバソールの靴をはいてうかれていた。近頃では何が面白いのか、毎日どこかへ出かけて夜遅くならなければ帰って来ない。いったい何をしでかしたのか、あれこれ思いめぐらすとハナはいつまでも眠れなかった。
急《せ》かすように鳴きたてる蝉《せみ》の声に朝早くから起されたが、ハナは丸の内署へ行く気になれず、清さんに電話して謙一をもらい下げに行ってくれるように頼んだ。
「へい、ようがすよ、どうせたいしたこっちゃねえって」
と気軽に引き受けてはくれたが、ハナは心配でいたたまれず早目に日本橋へ向った。
堀留には助さんが待ちうけていて、いきなり詫びを言ってきた。
「どうも御心配かけましてすいません。ええ謙ちゃんが泊められているのはあっしのせいで……、どうにも申しわけありません」
助さんはおじいちゃん、おばあちゃんの住居の二階にいて、オッチョコチョイだが人はいい。
「実は謙ちゃんに貸した携帯用のラジオ、あれが盗品でしてね、きっとそれで油しぼられてるんですよ、だからあたしも、あれをダンスパーティの景品なんかにしちゃだめだってそう言ったんですよ、第一中古なんだからって、そしたら謙ちゃんは、大丈夫だセロハンに包んで高いところへ置いとくんだって、でも当る奴がいたら困るでしょうってったら、はじめから当り券は入れねえんだって……、俺そりゃきたねえって言ったんだよね」
「どうもそんなんじゃないらしいよ」
ハナにもどうも助さんのいってることは見当違いに思えた。
「じゃあれだな、あれもまずいなあ」
「まだ何かあるのかい」
「あるんですよ、進駐軍の軍服、あれはまずいんですよ、軍用品だからね、まごまごすっと沖縄へもってかれちゃうからね、おかみさんも大変だね、旦那が帰ったと思ったら今度は息子をとられて、本当に申しわけない」
ハナはいらいらしてきた。そばできいていた頭《かしら》も業を煮やして、
「お前、詫びを入れてんのか心配させてんのか、どっちだこの馬鹿」
と怒鳴った。
「でもね、謙ちゃんが又けっこう悪いことしてんだよ、進駐軍のPXからコカ・コーラや、ポプコーンを持ち出さしたりしてね」
「嘘つけ、お前がそそのかして上前はねてんじゃねえか」
「そりゃないよ頭、ねえおかみさん」
ハナは何にも知らなかった。何不自由させてるわけでもないのに、謙一たちは何が面白いのか、若い人たちには若い人たちの楽しみがあるのか、どうせなら女の子の尻でも追っかけまわしててくれればいいものをと歯がみする思いだった。
やがて清さんに連れられて謙一が帰って来た。
「どうも狐につままれたような話でね、警察へ行ったら、もう帰っていい。理由も何もねえんですよ、さすが昔、皇宮警察の食堂までやった弁菊ですね、たいしたもんだ」
清さんは一人わかったようなことを言っていたが、ハナはもう金輪際警察に厄介かけるようなことをやってくれるなと泣くようにして謙一にたのんだ。
昼過ぎ、ハナが美容院から帰って来るとやっちゃんがいきなり飛び出して来て、
「おかみさん、聞きました」
と眼をまん丸に見開いている。
「昨日の人、ほらおタカさんとかいってた人、あの人お目見得なんですって」
「えッ」
と言ったっきりハナは口もきけなかった。この旅館をはじめてからもうかれこれ四年になるだろうか、ぼたんさんが急にいなくなるまでは人手には苦労しなかったからお目見得詐欺なんかにあうのははじめて。ひとの話にはよく聞くが、まさかうちにそんなものが来るなんて思いもよらず、ハナはまだ信じられなかった。
「まったく驚きましたよ、今警察の連中も帰ったとこですけどね、指紋とったりなんかしてもう大騒ぎ」
清さんも青い顔をしている。
「常習犯だったんですって、刑事さんが持って来た写真の中にもちゃんとありましたよ」
ちょっと斜視ぎみの眼をくるくる動かしながら、ラクちゃんもまだ胸の動悸《どうき》が治まってないようで荒い息をついている。
「そいで何か持っていかれたのかい」
ハナは先ずそれが気になった。
「ええ私がお客さんからあずかっていたお金なんですけど」
「いくらだい」
「一万円なんです」
ラクちゃんは急にベソをかきそうな顔になった。
「ほかには」
「お店の売り上げやなんかは住居の方へ持っていってあったもので……、ほかには別にたいして……」
清さんもショックだったらしく、
「ちょいと一晩で一万円の稼《かせ》ぎ、普通の人だったら三カ月分の給料だよ、やりやがったねえ、ふてえアマだよ」
とむやみと汗を拭いている。
それからラクちゃんは昨日からのいきさつを話した。
「あれからお掃除や洗いものを手伝ってくれて、お泊りのお客さんの夕食を出し、あとかたづけを済まして、夕食後一緒に銭湯に行き、帰って寝ました、そして今日になって昼食のあと、王子へ荷物を取りに行くと言って、来た時と同じように出て行きました」
ラクちゃんは刑事に何度も同じことを、言わされたに違いない、暗誦《あんしよう》するようによどみなく言った。おタカさんが出かけたあと、お客さんがあずけたお金を取りに戻ったのでラクちゃんが箪笥《たんす》を開け、はじめて金が無くなっているのに気がつき、あわてて警察へ電話をした。とこれがいままでのいきさつらしい。
「しかしいまいましい女だね、そうとう場馴れしてますぜありゃ、ふざけやがって……」
清さん、思い出すだに腹が立つのか、汗みずくの手拭を握りしめ、
「家のもんも人がいいねえ、おかみさん知ってるでしょう、あのラクちゃんの新しい蛇の目の柄の浴衣、あれが掛けてあったんだよね。とてもいいところに奉公することになったって伯母さんを安心させてやりたいの、これ借りてっていいかしらなんて言われて、いいわよってんで着て行かれちゃったよ、うちのやす子も又ドジですよ、そんならこれがいいわって、今はやりのナイロンの白いハンドバッグ持たしてやっちまいやがんの」
とくやしそう。
「そういうおとうさんも、伯母さんへのお土産だよなんて、チョコレート持たしてやったのよ」
やっちゃんも負けていない。
「馬鹿だね、みんなしてもう」
ハナもあんまり馬鹿馬鹿しいんで、しまいには可笑《おか》しくなった。
「そうそう、そういえばあいつね、『鰻《うなぎ》の幇間《たいこ》』じゃねえけど、出がけにおかみさんの一番いい下駄はいてっちゃったよ」
おちまでついていて、ハナは自分の間抜けさ加減に心底あきれかえり、情なくなった。清さんがどうせ当てにはならねえが、まあ調べるだけでもというので、身元保証人の伯母さんという人を警察で当ってもらったそうだ。
「ヘッ思った通りで、あの辺はまだ焼け野っ原で人一人居やしねえってよ。狐ですよありゃ、王子ってきいた時からおかしいと思ったんだ」
と何が可笑しいのかいつまでもクックッとひっつれたように笑っていた。
「あのー、盗《と》られた一万円ですけど、もどって来るでしょうか」
ラクちゃんが心配そうに小さな声できいた。
「そりゃ先ず戻っちゃこねえな、持ってった奴は貯金しとくなんて玉じゃねえからね。よしんば捕ったって、とうに使っちまってるよ」
清さんの言う通りかもしれないとハナも思った。
「あたしの不注意ですからあたし弁償します。お給料から引いて下さい」
ハナはラクちゃんの言うのを押しとどめて、
「そりゃいけないよ、ラクちゃんばっかりが背負《しよ》うことはないよ。じゃこうしよう、うちの帳場の金庫にちゃんとあずけなかったお客さんも迂闊《うかつ》、あのお目見得にだまされて雇ったあたしもいけない、盗られたラクちゃんも勿論迂闊、だから三方一両損で、三人で三分の一ずつ泣くことにしようよ」
と当り前のように言った。
「そりゃだめだよおかみさん、大岡裁きみたいなこといってもだめ。たとえラクちゃんが預かっても花屋旅館が預かったことになるから、お客さんに損かけるわけにはいかないよ」
清さんはハナをたしなめた。
「じゃ、あたしとラクちゃんとで折半かい」
「それじゃラクが可哀そうだよ」
「あたしだって可哀そうだよ、いいよ、あとでおとうちゃんに決めてもらうから」
と言ってからしまったと思った。次郎の答えはもうわかっている、税金だって何だって馬鹿みたいにちゃんと払うんだから、ラクちゃんに出させることはしないに違いない、して見ればハナにとって一万円は思わぬ出費だ。その上、また元通りの人手不足、ええ、それもこれも皆ぼたんさんが急に罷《や》めたせいだとハナは改めて恨めしく思った。
「その話は本当だよおかみさん、現に俺も引っぱられたよ」
と家の常連の客の一人から夕方になってそうきかされた時、ハナは、いきなり血がカーッと頭にかけのぼり、一瞬目がくらんだような気がした。やがて怒りが体中をかけ廻りオコリみたいにブルブル震えてきた。
修善寺へ帰ったはずのぼたんさんが、人形町で旅館をやっている、しかも家の常連客を、どんどん引っぱっていっているというのだ。そう言われてみるとぼたんさんについてハナは、何かおかしい、おかしいとは思っていたのだ、おもい当るふしがいくつかある。ついこの間まで面白そうに働いていたくせに、急に体の具合が悪いだの、おっかさんの供養をしに帰るだのと言いだしたが、だいたいあのぼたんさんが仏の供養をするなんて柄じゃない、第一、去年から帳簿もおかしなところが目立ってきていた。
あれこれ考えるともういても立ってもいられず、ハナは住居へ飛んで行くといきなりおじいちゃんをつかまえて、噛《か》みつくようになじった。
「ぼたんさんは修善寺へなんか帰ってないんでしょ、人形町にいるの、おじいちゃん知っててかくしてたんでしょう」
おじいちゃんはハナの見幕に驚いて、はじめ何のことかわからぬ様子でポカンとしていたが、やがて事態がのみこめてくると、
「知らねえ、知らねえ、俺《お》ら知らねえ」
と例によってアフアフ言ってるだけで全然要領を得ない。どうもおじいちゃんは本当に知らないらしい、というより一番先にだまされているのはおじいちゃんに違いないと思った。
ぼたんさんはお給金とチップを貯めて家を買ったと言ってたそうだが、そんなもの一年や二年ためたって、とても資金《もとで》のかかる旅館商売をやれるはずもない。ハナはラクちゃんとやっちゃんを、店の二階の八畳に呼んで訊《き》いてみた。
「どうなのぼたんさんがお帳場やってる時、変だなあと思ったことなんてなかったかい」
「ええ、そう言えば素泊りのお客さんなんかよくつけ忘れがあったりして……」
ラクちゃんは遠慮がちにポツリポツリと話してくれた。どうも相当やっていたらしい。
「チップなんかは、本当は誰が受けとっても、皆でわけられるように、ちゃんとお帳場の引き出しにためとくんですけど、ぼたんさんは、一人でもらった分はあれしてたみたい、だいたいぼたんさんがもらうことが多いし……」
とやっちゃんも不満はあったのだろう、仕入れの方でもおかしなことがあったが何だか陰口のようでいやだから黙っていてすいませんでしたと言った。信用しているからこそすべてまかしていたのにと思えば、きいているうちにハナは何だかとても淋しくなってきた。
ぼたんさんも家と往き来するようになって三十年、時にはいやなこともあったろうけど、家族同様に一つ釜《かま》の飯で過ごしてきたのにあまりにも人をふみつけにしたやり方、疎開先から無事東京へ帰ってくることの出来たのもおじいちゃんあってのこと、あの時のことを思うとハナはどうしてもぼたんさんを許せなかった。
戦争が終って間もなく頭《かしら》の元さんが疎開先の伊豆の長岡から帰って来た。その時長岡といくらも離れていない修善寺にいたぼたんさんの消息がわかった。
頭の話によれば、ぼたんさんも疎開先の修善寺では随分と苦労をしたらしい。頼って行ったのはおっかさんの知りあいの家だと言っていたが、たいした義理があるわけでもなく、「あたしいくとこがないんだよ」「じゃおいでよ」と安直なやりとりで訪ねてみれば、先方にも余裕があるわけじゃない。もともとは温泉芸者相手の五目《ごもく》の師匠だったのだが、それとて時節柄もはや生業《なりわい》にはならず、実家のミカン作りの農家へ帰っていた。そこの離れを借りてと言えばきこえはいいが実は物置、それでもあっちこっち手を入れて、やっと親子が手足を伸ばして落ち着けるだけの体裁は整えることが出来た。何もここだけに限った話じゃないが、はじめのうちはお客様、懐かしい昔話に花が咲いているうちはいいが、一ト月たち二タ月たち、日がたてばお互いに我が儘《まま》も出て、嫌味の一つも言うようになる。特に喰べもののことになると双方目の色が変る。しまいにはぼたんさんも食糧めあてで近所の農家へ手伝いに出る、三味線持つ手で鍬《くわ》の柄を握り、でこぼこの山道を堆肥《たいひ》をいっぱい積んだリヤカーを押して昇ったり降りたり、見かねて手を貸したおっかさんが馴れぬ仕事と気苦労で、どっと病いの床についた。もともとあんまり丈夫な方じゃないから、そのまんま長患い、東京から持っていった品物《もの》もすべて失って、その上|性《たち》の悪い借金まで背負《しよ》いこんだ。あげくおっかさんは、いまわのきわに、「ああ堀留の大旦那さえいてくれれば」と言ったっきりあの世とやらへ旅立ってしまった。今やぼたんさんは天涯孤独の身、知らぬ土地で、冷い浮世の風にさらされ、まさにその運命は風前の灯《ともしび》……デデンデンと太棹《ふとざお》の三味線でも入りそうな調子で頭《かしら》がまくしたてた。おじいちゃんはこれをきいたからもうたまらない、顔をくしゃくしゃにして滂沱《ぼうだ》と流れる涙をゲンコツで振り飛ばし「オーッ、オーッ」と声を上げて泣いた。
翌日、矢も楯《たて》もたまらずおじいちゃんは、なにがしかの金を用意して、助さんをお供に修善寺へぼたんを迎えに行くんだといってきかない、何とこの時七十三歳。乗物は混《こ》むし容易じゃないから家で待っていなさいとみんなでとめたが、
「行かしてやんなよ、たとえ死んだって好きで行くんだから本望だよ」
とおばあちゃんがぴしゃりと言った。この一言で衆議一決、おじいちゃんは勇躍出かけて行った。あとで助さんにきくと、往きも還りも列車の連結器の上にしがみついて行ったというからあきれかえる。
「みっともねえというか、うらやましいというか、実に何とも驚いたもんだ」
と助さんがつくづく感心していた。頭の話が大袈裟な割にはぼたんさんは、継ぎ棹の三味線の入ったトランク一つ持ってシレッとした感じで戻って来て、そのままこれもはじめたばかりの花屋旅館の女中頭におさまった。
夜になっても一向に涼しくならず軒先に吊《つる》した風鈴もチリともいわない。カラカラといやな音の出る扇風機を窓際において、清さん、助さん、ハナ、おじいちゃん、おばあちゃん、頭、それぞれ団扇《うちわ》を手にしたり首に手拭を下げたり、おじいちゃんは嘘でなく頭から湯気をたてている。
「だいたい頭《かしら》がいけねえんだよ、そもそもぼたんを家へ連れて来るからこういうことになるんだよ」
と助さんが先ず頭をなじった。
「冗談言っちゃいけねえや、俺は話をしただけで、お前と大旦那が連れて来たんじゃねえか」
「今さらそんなこと言ってたってだめですよ。しかしぼたんもぼたんだよな、何だって人形町でなきゃならねえんだろうね、これが修善寺とか何とかってんならまだ見逃そうって気にもなるけどね」
清さんも腑《ふ》におちない様子。
「あたしと清さんがぼたんの買った家を見て来ましたがね、人形町の瀬戸物屋の伊勢茂の横町を入ったところで、もとは待合かなんかだった家、作りは古いがかなりの大きさですよ、もしかしたら家より二間か三間多いかも知れないね、立派な家だよ、しかも驚くじゃねえかおかみさん、れいれいしく『ぼたん』って看板を上げてやがるんだぜ、図々しいったらありゃしねえや」
と助さんはぷりぷりしている。
「昨日今日の考えじゃねえぜ、ずうっと前からかなり計画的に犯行はたくらまれていましたよこりゃ……。それにこいつはぼたん一人でたくらんだんじゃない、きっと陰で糸を引いてる黒幕がいると見たねあたしゃ。あれだけのものになると、店の上りをドガチャガしたりチップをごまかしたりしたぐらいじゃ何とも出来ねえもの」
清さんはかなり確信がありそうだ。
「黒幕ってことは、つまり男だね、誰かとすでに出来てた、あッ、わかりました、家のお客ですよ、そう言えばここんところちっとも顔を見せないよ池田さん」
助さんがしたり顔で前へ乗り出す。
「池田さんてあの蒲郡《がまごおり》のかい、札ビラ切って嫌な男だよ」
ハナは宿帳をくりながらその男を思い出していた。
「やな男ったって、そこはそれ人は好き好き蓼《たで》喰う虫も何とやらって、あのタイプは一度寝たらもうはなれらんないって奴で、あっちの方が凄《すご》いのよ、ぼたんがほら又好きもんだから……、ねえおじいちゃん」
おじいちゃんはびっくりして、しきりに咳《せき》ばらいをしている。助さんはかまわず続ける。
「情慾の炎が一旦燃え上るともう義理も人情もなくなるって奴で、これは事件ですよ、最後はお定《さだ》、阿部定になっちゃって新聞にこんなにデッカク出ますよ」
「たしかに金儲けはうまいみたいだけど、どうも色恋とは関係ねえようだなあの人は。笑ったの見たことあるのかお前、総金歯でお獅子《しし》だよ」
清さんがさかんに団扇を使っている。
「そう、人は見かけによらないからね、第一ぼたんに唐《から》獅子ってくらいのもんで、ねえ清さん」
「黒幕ったって男とかぎったもんじゃねえと思うぜ俺は。例えばほら元弁当屋の甲州屋のおかみさん」
「おしかさんかい」
花札仲間だからおばあちゃんが口をはさんできた。
「ええ、旦那死んじゃったけど金は持ってるし、誰か気のきいた人がいたら、あたしも旅館なんかやりたいねってそう言ってましたぜ」
「ぼたんにしかとくりゃすごいね、いのししが入りゃ立派なもんだ」
「おい助さんお前さっきから何言ってんだよ」
清さんが少しむっとした顔をした。
「でもね清さん、おしかさんには娘がいたろ、あれに婿もらってあとまかせるんだって言ってたよ」
おばあちゃんはさすがに仲間のことにはくわしい。
「あたしはやっぱり家のお客だと思うねえ、原田さんじゃねえかな、あの人ならやりそうだな」
頭が隅から声をかけてきた。
「原田さんって、あの京都の帯屋さんですか、あの人はずっと若いですよ、三十になるかなんないくらいでしょう、ありゃ違うと思うなあ」
助さんがさかんに顔の前で手を振っている。
「いや若えから一途《いちず》になると恐ろしいんだよ」
「だってぼたんの方が十以上うえですよ。考えらんねえなあ」
「惚《ほ》れ合っちまえば年の差なんか関係ないの。男が年下じゃいけねえってことはねえんだぞ、なにしろ民主主義の世の中だからな、それによ、俺ぁ現に二人が三越の方から肩並べて歩いて来るの二度ばかり見てるもの」
「違うの、違うの、あれはね、あの原田さんは若えくせに腰が痛え、腰が痛えってね、ぼたんの知ってる指圧の先生んとこへ通ってんの」
清さんが笑いながら打ち消した。
「それが甘いんじゃねえのか、指圧だ指圧だって昼間っから二人で出歩いて、どこ指圧してるか知れたもんじゃねえぞ」
頭はまだこだわっている。
人間なんて疑いだしたらきりがない。そのつもりで見れば誰だって疑わしいし、理由なんかどうだってつく。さればとて人を見る度にはなっから泥棒ときめてかかるのは淋しすぎるが、今日も今日とてお目見得にまんまと欺されていやなおもいをさせられている。
ぼたんさんがどういうつもりでいるのか腹の中までは見すかせないが、やったことは明らかに裏切りには違いないから、こっちもそうそう人の良い顔はしていられない。いずれにしても、いままでの付き合いすっかり反故《ほご》にして、改めてこんな風に喧嘩《けんか》を売ってくるようなやり方をするにはそれなりの理由がある筈で、場合によっては黙って引き下ってはいられないとハナは思った。
うちのお馴染《なじ》みのお客さんたちに一番近いところにいた人間が、家より部屋数の多い設備を持って対抗してくるわけだから、うかうかしてはいられない。こんな大事な時なのに、この人たちはこんな呑気《のんき》そうにしててと、皆の顔を見廻しているうちにますますいら立ってくる。
なぜか一番腹立てていい筈のおじいちゃんは、ひたすら汗を拭っているだけだった。
翌日も朝からカンカン照りの太陽が容赦なく照りつけていて、じっとしていても汗がしたたる暑い日だった。
「チェッ、みんな海行ったり、プール行ったりしてるんだぜ、こんな日に病院行きなんて、つまんないね」
幸二は不服そうだが、青白く頬の肉の落ちた顔を見れば海水浴どころじゃない。ハナは白のパラソルを高く差し上げて並んでいる幸二を直射日光からかばうようにして歩いている。
謙一のように警察沙汰も心配だが、病院通いはもっとつらい。子供の頃から丈夫が一番となによりそれを念じて育ててきたのにと祈るような気持でいた。ぼたんさんの裏切りを腹に据えかねて、昨夜まんじりともしなかったせいか、アスファルトの道路からの照り返しに目もくらむ。この腹立たしい問題はどう結着をつけたらいいのか。相談すべき次郎は昨夜もまたヘボ将棋だったのか、とうとう帰ってこなかった。病院から帰ったら今日は何としてでもおとうちゃんを掴《つか》まえて堀留へ連れて行かねばならない、ハナはそれを考えると気ばかりあせった。
子供の頃は手のつけられない腕白で、すれっからしの悪ガキと、近所でも折紙つきだった幸二は、中学三年頃から、人が変ったように本にばかりかじりつくようになった。
その頃から少しずつ体の調子が悪かったのか、この春、早稲田高等学院の二年に編入して間もなく、体がだるいだるいと言い出し、本人も風邪が長びいているぐらいにしか感じていなかったらしいが、微熱が続き、盗汗《ねあせ》をかき、食慾もガクンと落ちてきた。ちょうどハナのすぐ下の妹のトメが昭和医大病院の食堂をやっていたのも好都合、早速診てもらうと右肺の上部に影があるとか、つまりは結核とのこと、これをきいた時ハナは目もくらむおもいがした。
担当の医者は五十五、六のデップリとした感じの立派な人で、
「なあにサツマイモにバターでもつけて、ドンドン喰って寝てれば、若いんだからすぐ直りますよ」
と気楽な話、ニキビが膿《う》んだくらいの口振りなのがかえってハナには空恐ろしい。肺病ときけばおだやかじゃない、子供の頃は、あすこの家は肺病やみがいるときけばわざわざ遠まわりをしたものだ。何で幸二がそんなものに、あたしはそんなに悪いことした憶《おぼ》えはないと、おもわずあたふたとわが身をふり返って見るほどのあわてよう。今は薬もいいのがあるし、治療の方法も進んでいるから心配はないとトメにはげまされて、やっといくらか落ち着きをとりもどした。それでも家族の前で、
「今日から幸二が良くなるまであたしゃ煙草を断つよ」
ときっぱりと宣言した。
幸二は上半身裸にされ、悪いといわれている方の胸を上にしてベッドに寝かされ、ちょっとぼたんさんに似た不潔ったらしい看護婦におさえつけられているのも気になる。医者はそのベッドに半分腰をかけるかっこうで、かたわらの木箱の器械から出ているゴム管を持って近づく、見れば管の先に畳針ほどの針がついている。いきなりこの針を幸二の胸にブスッと突きたてた。ハナは目の前が急に暗くなるような気がして、われしらず衝立《ついたて》の柱につかまった。これは人工気胸とかで何でも肋膜腔《ろくまくこう》に空気を入れて肺を押し縮めて、結核菌の活動を弱める療法だとか、投薬とこれを並行して行うのが今最も効果的と考えられております、と言われればやめて下さいとも言えないが、最初の診断の折のあのいとも簡単そうな口振りにはやっぱり裏があったかと、裏切られたようないやな気持だった。幸二は、
「不思議だぜ、あれやるとやっぱり肺が縮むのかね、片肺の肺活量が半分ぐらいになっちゃうんだぜ」
と割にアッケラカンとしていた。
「大丈夫だよ姉さん、心配しなくていいよ、半年もしないうちに皆元気になってるから……、あたしゃ患者さんいっぱい見てるんだから」
そう言って笑って送ってくれたトメの言葉が何よりの支えだった。
「どうしても今日は一緒に堀留へ行ってもらいますからね」
夕方、次郎が家に戻ったのをつかまえたハナは首へ縄でもつけそうな勢いできっぱりとそう言った。だいたい近頃のおとうちゃんは、旅館の旦那なんて、商売が軌道に乗ってれば、いてもいなくてもいいもんだ、なまじ手伝えば奉公人がやりにくいし、客に愛想ふりまいたところで煙ったがられるだけ、そう勝手にきめ込んで家にいてもただぶらぶらと何もしない。第一家にもめったにいないで、気のおけない近所のおやじ連中と、縁台将棋かマージャン、どっちにしても家によりつかない。
ぐずぐずする次郎をせきたてるようにして堀留の住居《すまい》の方につくと昨夜と同じように、皆集ってアイスキャンデーの大皿を前にしていた。
頭《かしら》の調べでやっとぼたんさんの黒幕がわかった、家によく来てくれていた常連客の一人で、ターさんと呼ばれていた紙屋さん、カストリ雑誌や業界紙の紙を扱う闇屋だと助さんが言っていたが、地味で目立たない人。厚い札束を無造作に黒いカバンから取り出して、これ見よがしにチップを振りまいたり、大盤振舞いをするといったタイプとは違う、背丈は五尺ちょっとで、小肥り、すそをきれいに刈り上げた半白の髪を七三に分け、鼈甲縁《べつこうぶち》の度の強い眼鏡をかけて、下ぶくれの顔が笑うと好色そうに見える人だった。山梨の生まれで元は警察官だったという。時にはぼたんさんもやっちゃんもラクちゃんも一緒に、浅草へ焼き鳥や、トンカツを喰べに連れて行ってもらったりしていた。戦争中に奥さんと子供をなくしたとか言っていたが、家へ来れば当然ぼたんさんが親身になって世話をやくわけだから、二人が親密になってもとりわけ不思議なことではなかった。それにしてもやっちゃんも、ラクちゃんも二人の仲には全然気がつかなかったというから、したたかなものだ。
「へーえあのターさんがね、ちっとも気がつきませんでしたね」
と助さんもあきれていた。頭が八方へ飛んで集めて来た情報によれば、ぼたんさんたちは二タ月も前からあの家を借りるだんどりをつけていて、夜具や什器《じゆうき》のたぐいもひそかに準備していたとか、つまり悠長に見える水鳥も足は水中ではげしく動いていて、革命の足どりは着実に進んでいたってわけだ。
ぼたんさんとターさんは、もうかなり前からわりない仲になっていて、俺もいつまで闇屋がやってられるかわからない、お前もこんなところで女中してたってしようがねえ、まとまった蓄えでもあるなら二人で力を合わせて旅館をやろうじゃねえか、旅館ならお前も勝手を知ってるし、間違いない、この際一緒になっちまって、末は夫婦養子でもむかえてのんびり余生を楽しもう、ってなこと言ったり思ったりしてたんじゃねえかと思ってね、と頭は言った。
「そりゃ完全な裏切りですよ、共同謀議、謀反《むほん》ですよ、天正十年本能寺の変ってやつで、大恩ある主君織田信長に弓を引いて首級《みしるし》上げ奉る、そう言うのはろくな死に方しませんよ、明智光秀の三日天下、ついには名もなき百姓に竹槍で刺されて、ううーッてんで無残な最期」
助さんは張り扇でもたたきそうな口ぶり。
「お前の講釈なんて聞いたってしようがねえんだよ。それよりぼたんを呼んで来いよぼたんを、はっきり白黒をつけようぜ」
清さんも腹にすえかねている様子。
「だめだよそりゃ、ぼたんを呼んで来てどうしようってんだい、さあ今まで帳面をドガチャガにしてた分をここへ出せって言うのかい、鵜《う》じゃねえんだからすんなり吐き出してゴメンなさいってなわけにはいかねえよ」
頭は腕組みをしたっきりだ。
「それにしても、うちのお客をどんどん持ってかれるのを指をくわえて見てるだけってのはくやしいじゃねえか、何とかしてやりてえなあ」
助さんなぐり込みにでも行きそうに噛んでいたキャンデーの箸《はし》をふりまわした。
「お客さんてのはなあ、何もここの家へ義理はたしに来るんじゃねえんだよ、それぞれ仕事かかえて忙しい人たちなんだから、少しでも気の安まる、のんびり出来るところへ泊りたいんだよ、ぼたんのところの方がいいってんじゃしようがねえじゃねえか」
「そりゃ頭の言う通りですけどね、二タ月も前からちゃんと計画を立てていて、修善寺へ行きますって嘘ついたのはどうするの」
「だからそうでも言わなきゃ暇はもらえねえと思ったんだろ」
「いやに頭、ぼたんの肩持つね、頭も気があったんじゃないの、どうも用もないのに家へちょくちょく来るし、変だと思ってたんだ、あわよくばなんてねらってるうちに、とんびに油揚げさらわれやがってざまあ見ろ」
「何を言ってやんでえ馬鹿野郎、俺ぁぼたんに手出すほど女日照りじゃねえや」
「ああ、そういうこと言っていいのおじいちゃんの前で、ここにれっきとした旦那がいるんだよ、ねえおじいちゃん、何とか言ってやんなよ」
おじいちゃんはしきりに汗を拭って眼を白黒させているだけ。
今まで黙ってニヤニヤしてきいていたおとうちゃんが、口を開いた。いくらか金の不正もあったかもしれないが、それはこっちがまかせっきりにしてたのが間違い、ぼたんはよくおじいちゃんの面倒を見てくれてたし、じいさんも七十七だ、何時《いつ》ポックリいっても不思議じゃねえ、あの通りであとあとのことなんか考えてくれる人じゃないし、働けるうちに手前の老後のことも何とかと思ったって当り前だ、ぼたんをうらんじゃいけねえよ、くやしかったら花屋旅館を「ぼたん」に負けねえようにきっちりやることだとさらりといった。聞きながらなるほどおとうちゃんの言うことももっともだとハナは思ったが、待てよ、おとうちゃん、もしかしたら自分のお妾《めかけ》さんの千絵さんがおとうちゃんを裏切って結婚した時、同じような理屈をつけて諦《あきら》めたのではないかしら、いい気なもんだ、きっと今も千絵さんのことをぼたんさんと重ねて考えているに違いない、と考え直したりもした。
いずれにしても、おとうちゃんは、朝五時に一番列車でついたお客に起されることもないし、酔ったお客の小間物屋のあと片付けもしたことない、夜中に居眠りしながら風呂場のタイル洗ったこともない、詰った便器に手を入れたこともない、折角大切に育ててきて、花だけ実だけ横から手折られるようなくやしさは、おとうちゃんには生涯わかんないだろう、せいぜい恰好の良いこと言ってるがいいやと、ハナはとても納得出来ない気分だった。おばあちゃんは、
「それも仕方ねえさ、なにしろ民主主義の世の中とかでみんな目覚めちまってるんだから」
とこともなげにいって、深々と煙管《きせる》の煙草を吸いこみ、下唇を突き出して、ぷーッと真直ぐ上に煙を吹き上げた。
清さんは腹の虫がおさまらないらしい。
「でもねえ、おばあちゃん、いくら世の中変ったってどうしても許せねえってこともありますぜ、ねえおかみさん、大体……」
「およしよ、もう忘れちまおう、あんたたちも褌《ふんどし》しめなおしてやっとくれ」
ハナは自分にも言いきかせるようにぴしゃりと言った。
あれから一カ月もたたないうちにぼたんさんは家へもどって来た。
「今度こそ、あたしは何もかもなくしたわ、どこへも行くところさえありません、今更こんなこと言えた義理じゃありませんが、出来たら又この家においてやってくれませんか」
少しやつれてはいたが、何かさばさばしたいっそ爽やかな面持で、うっすらと笑《え》みさえたたえている。せっかく開業した「ぼたん」が一ト月もしないうちに、つぶれて売りに出されたという話はハナもきいていた。因果応報悪の栄えたためしはない、いい気味だと家のものたちもひそかに喜んでいた。
「去年の暮からあたしターさんに惚れてました。あたしも一所懸命だったけど、あの人もつくしてくれました。二人とも本気だったんです、そうでなきゃあんなあと足で砂かけるようなこと出来ませんよ」
ターさんもあの家を買うについてはかなりの無理をしていたらしい。商売も軌道に乗り、この調子なら借金も近いうちにと胸をふくらませ、一時は希望と幸せに酔うことも出来た。好事魔多しとか、そんな時期に大きな賭《か》けのチャンスが廻ってきた。これ一回で、この潮に乗りさえすれば、とターさんは紙の闇取引で大バクチを打った、そして負けた、とぼたんさんはそこまで話した時はじめて涙をこぼした。
「愚痴ね、あーあ、やっぱりあたしあの男に騙《だま》されたのね、どこへ逃げてるのか、それっきりだもん、おかみさんゴメンネ、フフフッ」
と眼尻をひとさし指でなで上げながら力なく笑った。
「四十過ぎの女が柄にもなく夢なんか見ちゃってさ、馬鹿みたいね」
ぼたんさんも考えてみれば気の毒な人なのかも……。
子供の頃から花柳界でもまれ、芸事、色事こそが身を助けるすべ、良妻賢母ばかりが女の道じゃないとおちゃっぴいが言われた言葉真にうけて、ちょっと世間とは違った常識身につけて育った。あれもいけません、これははしたないと箱に入れられて花嫁修業、うまく縁づいたところで、夫に従い、姑《おや》に従い、あげくは老いて子に従い、従ってばかりでその上に、しち面倒な約束事にしばられて、上々の首尾でも亭主の浮気に気をもむか、姑の嫌味に袖を濡らすか、二つに一つじゃいずれも御免、結婚なんてまっぴらと、世間を茶にして太く短く面白く、とそう思ったって当り前。まあ若いうちはそれでもいい、何をするにもどっこいしょとかけ声かけるようになると、腰のあたりうっすら冷えこむ気配で、アリとキリギリスの譬《たと》え話も身にしみてくる、色恋ぬきで心底信じあえる相手がほしくなっても不思議ではない。
そう考えるとハナはあの時の怒りも忘れ、
「いいじゃないか、人生いろんなことがあるさ、ターさんだってそんなに悪い人じゃないよ、きっとぼたんさんに本当に惚れてたんだよ」
とぼたんさんをなぐさめ、いくつになったって夢ぐらい見たっていいじゃないか、出来ればかなう夢にしてやりたかったとさえ思った。四十を過ぎた女が亭主も子供もなく、住む家もない、先の希望をどこへ繋《つな》ぐ当てもない淋しさを思えば、一縷《いちる》の望みに義理を捨てたのがなぜ責められようか、とすべてをゆるす気になっていた。又同時に、おとうちゃんがいて、頼りがいはないが二人の息子にめぐまれている我が身の果報を空恐ろしいほど有難く思った。
「しかし驚きましたねおかみさん、うちの年寄りたちはしたたかなもんですぜ」
その晩、ハナと二人になった折、助さんはあきれかえったような口振りでこう切り出してきた。
「おばあちゃんの話によるとね、おじいちゃんは、はじめっからぼたん可愛さで、帳場のドガチャガは見て見ぬふり、お手当のつもりで、とぼけてたらしいんですよ」
「それじゃおじいちゃんも共犯じゃないか」
「そういうことになりますかね、しかもターさんと出来てるのも先刻承知で、あの人の人柄見込んで二人を一緒にさしてやるつもりでいたらしいって」
「へーえ、おじいちゃんにそんな器量があったかねえ」
ぼたんさんの裏切りを知って、ハナがくってかかった時、おじいちゃんは、ただアフアフ言ってるだけだったが、今思えばあれは芝居だったのか、芝居だったとすればたいした役者で、それが本当なら、なるほど亀の甲より年の功、無駄に年はとらないものとハナは感心した。
「謙ちゃんが闇物資の運搬手伝って、警察に捕ったことがあったでしょう、あれも実はターさんの紙でね、ターさんがすぐ手を打ったんで謙ちゃん早く帰されたんだって」
「どうして謙一が又そんなこと……」
「いい手間になるからって謙ちゃんは喜んでたんだってさ、それにあのターさんは何てったってほら元警察官だから、警察が闇取引の手助けしてるんだから、どうかと思うけどねえ」
「でもおばあちゃんは、そんなに何でもわかってて何で早く始末をつけなかったのかねえ」
「それですよ、俺もそいつを訊いて見たんですよ、そしたら言い草がいいじゃありませんか、何て言ったと思います」
「…………」
「そんな差し出たまねは出来ねえよ、どうせあたしらは厄介者で、花屋旅館はハナたちの身上《しんしよう》だろ」
相変らずおばあちゃんは意地が悪いし、助さんも言わずもがなのことを言うもんだと、ハナは少々腹が立った。
それからこれもあとでわかったことだが、ぼたんさんは年齢《とし》をさば読んでいて本当はハナと同い年の丙午《ひのえうま》だったとか。
おしまいチャンチャン
船の中は隣りの人と肩をぶつけあうほど混みあっている。天井が低く窓も小さく、狭い出入り口からは風も入ってこない。息ぐるしさがいっそう不安をつのらせるのか、誰もが恐ろしさに押し黙り、おどおどした目つきで、お互いをぬすみ見ている。人々はまだ後から後から乗り込んでくる。「もうだめだ、これ以上は無理だ」「もっとつめろ」などと怒鳴りあっている声が上から聞える。カンカンカンと耳障りな鐘の音がすると、一段とエンジンの響きが大きくなって、遊覧船は身を震わせながら桟橋をはなれた。ガチャンとガラスの割れる音がした。うしろの方の人たちが総立ちになった。何が起ったのかわからないが、大声で子供が泣き出したのをきっかけに大騒ぎになった。天井が傾いたかなと思うと窓を波頭が通り過ぎた。と窓が枠《わく》ごと内側へ倒れ込んで、湧《わ》き上るように水があふれ出してきた。今はなれたばかりの桟橋に多勢の人が立ち並んでこちらを見ているのがわかる。足もとへどんどん水が流れこんでくる。急速に船が沈んで行く。「おとうちゃん、おとうちゃん」隣りにいた筈の次郎を必死で探したが見当らない。身動きは出来ないし水は入ってくる。「ああ、もうだめだ」と思った時、目が覚めた。
夢でよかったと、ハナは胸をなでおろす気持だったが、動悸《どうき》が激しく、恐ろしさに身もすくみ、じっとりと汗をかいているのがわかった。何でこんな夢を見たのだろうと訝《いぶか》りながらうすく目をあけると、先に起きていたおとうちゃんが、朝の陽ざしの中で、いつものように棋譜《きふ》を片手に将棋盤にむかって丹前の背を丸くしているのが見えた。レースのカーテンを通して忍び込んでくる柔らかな春の光が、八畳の間いっぱいに満ちあふれ、窓のすぐ下の道路を往き交う自動車の音も、今日は何故か静かだった。ハナは安心してもう少し眠ろうと思った。布団の襟《えり》を引き上げ、身を縮めると、温く包み込んでくれる床の中の心地良さをむさぼるように堅く目を閉じた。春眠暁を覚えずとか、おとうちゃんももう少し寝ててくれればいいものをと、暇人のいらぬ早起きがうらめしく、どうぞもう少しだけそっとしておいてくれますようにと念じつつ、とろけるやすらぎに身をゆだねていた。
うつらうつらとしていて、それからどれくらいの時がたったのかわからなかったが、やがて「ハナ、ハナ」と呼ばれた。うるさいなあ、又御飯の催促かと、ハナはうんざりする気分でたぬきをきめこんでいた。「ハナ、ハナ」と又呼ばれて仕方なく返事のかわりに寝返りを打った。見るとおとうちゃんが将棋盤に突っ伏すように両肘《りようひじ》をついて、片方の手で頭をおさえている。どうもいつもと様子が違うと思うとハッとした。
「どうしたの、どうしたのおとうちゃん」
ハナはおもわず身を起して声をかけた。
「なんだか……、気持が悪いよ」
おとうちゃんは、そのままの姿勢で呻吟《うめ》くように言った。ハナは飛び起きると、次郎のうしろへまわって、
「横になって少し休んだら」
と抱くように手を廻した。
おとうちゃんはそのまま横にくずれ落ちるように将棋盤からはなれると、這《は》うようにしてさっきまで寝ていた布団ににじり寄った。ハナが掛布団をはねのけると、そのままそこへころがり込む。そっと布団をかけながらハナは、おとうちゃんの言葉がちょっとロレツがおかしいようで気になった。台所へ立って行き、水枕を探すと、氷を入れ新しいタオルを巻きつけた。もどってみると、次郎はもう、大鼾《いびき》をかいて寝こんでいる。額に手を当ててみると、別に熱があるとも思えないが、頭をひやした方が気持がいいだろうと、そっと頭を持ち上げて水枕をさしこんでやった。おとうちゃんは何も気づかぬ風で、気持よさそうに大きな鼾をかきながら眠りつづけている。ハナは布団の横に坐ってしばらくぼんやりと寝顔に見入っていた。ふとこげくさい臭いに気がつき、あたりに目をはしらせると、部屋のすみに火のついたままのタバコがころがっていて、畳に大きな焦跡を作りくすぶっていた。おとうちゃんは多分、タバコに火をつけるとすぐに気分が悪くなり、灰皿に置くのもままならなかったに違いない。ハナはくすぶっているタバコの始末をしながら、ふっといやな予感に襲われ、怖気《おぞけ》をふるった。
怖《おそ》る怖る次郎の枕元ににじりよると、
「おとうちゃん、おとうちゃん、起きてよ」
声をかけてみた。
「おとうちゃん、ちょっと起きてよ、おとうちゃん」
肩を押したり、たたいたりしてみたが、いっこうに気づく様子もない。ただゴーゴーと大きな鼾をかいているだけだった。たしかおじいちゃんの時もこんなふうではなかったか、といやな思い出が頭の中を走った。すると急に体から力が抜けて行き、手先がぶるぶるふるえ、胸の動悸が痛いほど激しくなって、口の中が乾いて行くのがはっきりとわかった。
「おとうちゃん、おとうちゃん」
ハナは今度は思いきり大きな声で呼んでみた。近頃ついぞ出したことがないほどの大声で力いっぱい何度も、何度も、次郎の耳もとで怒鳴り続けた。頭の中が空になったようで何も思いつかない。ただ息ぐるしさと闘うように叫び続けた。次郎は相変らず、平和な顔で鼾をかき続けているだけだった。
いざるようにしてハナは居間へ行き、ダイヤルを廻すのももどかしく向いの店へ電話をした。すぐに昔からいる女中のラクちゃんが出た。
「おとうちゃんの様子がおかしいから、すぐに中津さんを呼びにやって……。ラクちゃんこっちへ来ておくれ」
言いながら自分で声がふるえているのがわかった。
中津先生は、戦前からこの界隈《かいわい》では指折りのお医者さんだった。応対はぶっきら棒だが診断《みたて》はたしか、処置が早く親切だと患者たちから信頼されている。中津さんは来るとすぐ次郎の目に小さな懐中電灯をあててのぞき込み、大きなためいきをついた。それからあわてた風で何本も注射を打ったり聴診器をあてたりしたあと、
「残念ながらだめかもしれない。近しい人たちに連絡をした方がいいですね」
と苦しそうに言った。
「容態が変ったらすぐ報《しら》せて下さい。それから病人を絶対に動かさないように」
事務的につけ加えると一緒に連れて来ていた看護婦をうながして帰って行った。
それまであまりの驚きで血の気を失い、白紙のような顔をしてただおろおろしていたラクちゃんが、急に、
「おかみさん」
とそれだけ言うと、廊下にペタンと坐って声を上げて泣き出した。ハナはもう何をどうしていいのか、何の考えも浮ばず、ただ茫然と次郎の枕元に坐り続けていた。
ハナは医者の言葉がどうしても信じられなかった、ついいましがたまで、将棋盤にむかって一人で棋譜と首っ引きで駒をもてあそんでいたおとうちゃんが、もうだめだなんて、そんなことがあるわけがない、現に今だっていつもと同じように大鼾をかいている、今にも大きく寝返りを打って、「あーあ、腹へったぞ」と起き上ってくるに違いないと思えた。日頃めったに病気なんてしたこともないし、ましてや脳溢血《のういつけつ》とか卒中なんて、まだまだおとうちゃんには縁のない話と、結びつけて考えたこともない。五尺六寸十八貫、若い頃から相撲や銃剣術では他人《ひと》にひけはとらなかったと丈夫な体を自慢にしていて、つい一昨日《おととい》も、近頃運動不足だからと、近所の公園で懸垂を五回もしてきたと話していた。第一まだ五十二になったばかり、世間には七十、八十の人がざらにいるのに、おとうちゃんが何故……、と、どうしても事態が納得出来なかった。医者にも診《み》間違いってことがある、どうぞ誤診でありますようにと一所懸命胸のうちで祈った。それにしても体中大風が吹きぬけるように、ゾーッとした気分で手足がワナワナとこきざみに震えるのはとどめようがない。
「おかみさん、旦那が具合悪いんだって……、どうしたんですか」
階段の途中から大声でそういいながら助さんが上ってきた。山道《やまみち》の柄の手拭で鉢巻をしめ、襟のない半袖の白シャツを着て、前かけでしきりに手をふいている。廊下で泣いているラクちゃんに気づくと、ギョッとなった様子で恐る恐る近づき、部屋の様子をうかがった。いつものように大鼾で寝ているおとうちゃんを見ると、けげんな顔をして跪《ひざまず》き、
「そんなにいけねえんですか」
と小声でハナに訊《き》いた。
「このまんま、もうだめだろうって……」
「だめって……、どうだめなんです、医者がそう言ったんですか」
ハナがだまってうなずくと、
「そんな……まさか」
と言って口をあけたままじっとおとうちゃんを見つめていた。
「ついこのあいだ、大旦那が亡くなったばっかりだってえのに……」
助さんはしずかに腰を落すと、頭から鉢巻をはずして口もとにあて、声をころして泣き出した。
おじいちゃんの時はもっとあっけなかった。前の晩にお風呂から出てくると、湯あたりしたらしいといって、早々と寝床に入り、食事もせずに大鼾で眠ってしまい、翌朝ラクちゃんが起しに行ってみるともうすでにこときれていた。八十歳という年からいえば不満はないが、永年連れそったおばあちゃんが死に目に逢えなかったのを、いつまでも悔んでいた。その二年ばかり前、人手のないことから、早稲田にあった花屋旅館の別館をたたんで、ハナたちが日本橋へかえってくるようになった。おじいちゃん、おばあちゃんは元どおり幸二と一緒に鷺宮《さぎのみや》へ引っ込むはずだったが、おじいちゃんだけどうしても堀留をはなれようとしなかったのだ。おじいちゃんは、通りをへだてて、向い合って建っている旅館と住居を、客の立て混《こ》み具合や、気まぐれから、あっちへ寝たり、こっちへ泊ったり気ままにしていた。さすがにもう年のせいか、女の娘《こ》の尻をさわりまくるのも億劫《おつくう》のようだったが、口だけは達者で、若い娘《こ》をつかまえては「おい、ねえちゃん、毛ははえたかい」などと露骨な冗談口をたたいては、一人で喜んでいた。
八十歳という年齢と、まさにポックリとしかいいようのないその死に方から、通夜も葬式もじめじめせず、実に陽気なものだった。おばあちゃんももう達観した境地に至ったのか、「あたしもすぐ追いつくんだから、出来るだけ派手に賑《にぎ》やかに送ってやっとくれ」と言い出し、お祭り好きだったおじいちゃんにふさわしく、ドンチャン騒ぎに近かった。すでに旅館の常連の客と正式に結婚していた、十八の時からおじいちゃんの妾だったぼたんさんも御亭主と一緒にやって来て、三味線をひくやら踊るやら、まわりのものがちょっとはらはらするような一幕もあった。あの頃は世の中もまだ落ちつきがなく、その幾日か前にはロシヤのスターリンが死んで、そのおかげで株が大暴落したとかで兜町《かぶとちよう》は大騒ぎ、葬式の当日は、総理大臣が「バカヤロー」といったのが原因で国会が解散した日だった。
終戦の年から、ここ日本橋の堀留町で、ハナたちがないないづくしの中で始めた旅館業も、今ではすっかり落ちついて馴染みの客ばかりであぶなげがない。もともと堀留町は江戸の昔から呉服問屋の町として栄えた所、空襲で焼け残ったのも幸いして、いち早く復興し、二十五年の朝鮮戦争の勃発《ぼつぱつ》をきっかけにした糸ヘンブームでいっきょに戦前の賑いをとりもどした。そのあと一時ゆり返しのように振わぬ時期もあったが、おいおい贅沢《ぜいたく》な品物も動くようになって、町全体が活気に満ち、かつてこの土地で、おじいちゃん、おばあちゃんたちが、弁菊の屋号で盛大に弁当屋をやっていた頃を思い出させる。ただその頃と違うのは、大きく屋号を染めぬいたノレンがかげをひそめ、建物は次々にコンクリートのビルになり、軒なみ株式会社の看板を上げ、住み込みの丁稚《でつち》、小僧はネクタイをしめて通勤してくるようになったことである。
弁菊の頃から家にいる女中のラクちゃんは、戦死したロクさんの思い出から脱け出したのか、板前の助さんと自然の成り行きのように結婚した。仲人をつとめたおとうちゃんが、旅館の三階へ二人のために一部屋建て増ししてやり、それ以来仲よく働いてくれている。清《せい》さんも、いまだに家に出入りしていて何につけても器用な人、番頭役で重宝をしている。娘のやっちゃんは、近頃、恋人も出来たらしいが、相変らずこまめに手伝っていてくれる。おとうちゃんは文字通り楽隠居といった身分だったが、ぼんやりひなたぼっこして盆栽いじりをするにしては年が若すぎる。考えようによっては気の毒なほどなまなかな毎日だった。
あわててかけつけて来た清さんは、事態を知ると、それっきり怒ったように口をきかなくなり、がっくりと肩を落して、猛烈な痛みに耐えている顔つきで口をへの字にむすんだきりだった。自分よりひと廻り近くも若く、体力もうんと優れているようにみえたおとうちゃんが、急にいけなくなったのが、ひどく理不尽に思え、腹立たしかったに違いない。次郎が腕白盛りの頃から、後見人のように、時には兄のように見守ってきた清さんにしては、耐え難い苦しみだったのだろう。やがて清さんは、茶の間の隅へ小さな帳机を出して、手暗《てくら》がりも気にしない風で、黙って墨をすりはじめた。若い時からお洒落《しやれ》だった清さん、今日も紺の紬《つむぎ》に博多の帯をきちっとしめているが、うしろ姿にはりがなく影さえ薄く見えた。清さんは身内のものから、親戚《しんせき》知人、日頃親しくお付合いいただいている人々まで、手落ちのないようにすっかり書き出して、報せるべきところへは間違いなく人を走らせ、電話、電報で手配をした。
どこからどう伝わるのか、近所の人たちは、矢つぎ早につめかけて来ておとうちゃんの部屋をのぞいて行く。
「おかみさん大丈夫だよ、しばらくして意識さえ戻れば、後でちょっと口が廻らなかったりはするけど、それも癒《なお》るから心配ないよ、俺の親父《おやじ》の時とおんなじだ」
なんて言ってくれる人もいる。ハナもそれを信じたかった。カーテンをしめた暗い部屋で、相変らず次郎は鼾をかいて寝ているようだった。
十時頃になって謙一が嫁の槇子《まきこ》と、双児の子供たちを連れてやって来た。謙一たちは、おとうちゃんがまさかこんなことになっているとは少しも知らず、天気がいいからたまには子供も一緒につれてと、呑気な気持で出かけて来たらしい。謙一も槇子も事情を知ると色を失って、おとうちゃんの枕元にすわったきり、じっと様子を窺《うかが》っているだけだった。
まだ何もわからない孫たちは、相変らず手がはなせない。なんの恐れげもなく、おとうちゃんの布団によじのぼろうとする。槇子が鼻をすすりながら、馴れた手つきで、子供たちを両方に横だきにして立っていった。
満一歳の子供がこんなに手がかかるものだったろうかと、ハナも自分で二人の子供を育てているのに思い出しようもない。目覚めていればそこいら中はって廻り、何でもかまわず口に押し込み、お腹をへらしては泣き、おむつを濡らしてはむずかる。全く同じようなのが二ついるんだから双児は大変。
この子供たちが生まれた時も一番喜んだのはおとうちゃんだった。初孫が双児とわかった時の驚きようも大変なものだった。謙一が産院から帰って来て、どうも双児らしいというと、目を丸くして、「そりゃ世間にゃ双児は多いさ、別にたいしてめずらしかねえけど、俺の孫に双児が出来ようとは夢にも思わなかった」と言いながら、家の中で立ったり坐ったり、さかんに首をふりながらぐるぐる廻っていた。そのうち「双児ってものはどういうものか、よくわかんないから双児のいるうちへいってきいてこよう」なんて真面目な顔で言い出し、助さんに近頃近所に双児が生まれた家がないかしらべて来いといいつけた。すると助さんが「双児が一等育てやすいんですよ、うちの田舎の隣りは双児でしたけど、二人で勝手に遊んでたりしてまるで手がかかんないの、どうせ子供二人生むならいっぺんの方がいいやね、面倒臭くなくて……、あたしももし子供持つなら双児がいいなあ、第一何か買うにしても二つの方が値切りいいしね」と苦しまぎれにいいかげんなことを言った。それで納得したのかおとうちゃんは、上ずった声で照れながら方々へ電話で知らせていた。そのあとも「ふーん、謙一が人の子の親になるかね。ふーん、そいで俺がおじいちゃんとはねえ、ふーん」とあたり前のことを何度も感に耐えぬ風で呟《つぶや》いてたものだった。
謙一は大学を卒業するとすぐ先輩の経営する特殊ガラスの会社へ手伝いに行った。長男だから家業を継ぐの、跡取りだのといったところでこんな小さな旅館ではすることがない。若旦那然と帳場に坐ってても退屈なばかり。おとうちゃんが体のやり場がなくて困ってるのを見てるから、早くから自分の仕事を見つけたかったらしい。一年もしないうちに独立して、住居の方の一階を事務所に改造して商売をはじめた。あれから三年もたってるが、何を扱う仕事なのかハナにはいまだにわからない。小さなレンズみたいなものとか、クネクネ曲ったガラスのパイプとか、どんなところで何に使うものやらきいたこともないが、折から世間は神武以来の好景気とかで何商売も上げ潮ムード、いつの間にか従業員も四人に殖え、結構忙しいらしい。
謙一は独立して間もなく、一昨年《おととし》の四月に結婚した。学校は出たし仕事もきまったし、こうなったら早く嫁さんを持たせようと、おとうちゃんはせっかちに一人で勝手にきめて、八方へ声をかけたが謙一は当時二十四、結婚なんてまださしせまって考えてもいない様子だった。昔おじいちゃんたち夫婦が仲人をした魚|市場《かし》の魚屋にちょうどいい娘がいると、おとうちゃんが白羽の矢をたてて、むりやりに見合いをさせた。ところがまことにもって縁は異なものか、一番気のりがしてないはずの謙一がすっかり相手を気に入ってしまい、すぐにでも結婚したいと言い出した。その相手というのは高校を出てすぐ役所へつとめて一年目の十九歳、名が槇子、きわだって色の白い、きりっとした顔立のなかなかの美人、健康そうなしっかりした娘だった。双方とも親の代からのつきあいだからお互いに家の事は知りつくしてるし、本人同士がその気にさえなればまずは問題はなかった。三月ほどの交際の後、話が本ぎまりになって、寿司屋や小料理屋の使うたまご焼きをもっぱら扱っている魚市場の卵屋、玉六の主人夫婦を仲人にたてて、桜の満開の時期に目出度く結婚式をあげた。披露宴の司会者が助さんで、カチンカチンにのぼせ上った紋服姿の助さんを見てるだけでもおかしかったが、出席者が全員下町の人間だから、野次が飛ぶやら盃《さかずき》が舞うやら、しまいには裸踊りまでが出る始末、会場のホテルの従業員たちもびっくりするような馬鹿騒ぎになった。すっかり年をとったおばあちゃんが、その騒ぎの中で、死んだおじいちゃんがこの席にいないのが残念だ、謙一の花婿姿だけでも見せてやりたかったと、隅の方で泣いているのがあわれだった。
謙一たち若夫婦は、おとうちゃんが建て増しした住居の三階に寝起きすることになった。一人でも家族が殖えると又ちがった賑やかさが加わるもので、家の中に活気が満ち、はなやかさが生まれた。特におとうちゃんは、ぶっきら棒な息子二人で、娘を持った経験がないから、槇子、槇子と嫁をかわいがった。やがて槇子が旅館の帳場を一人できりもりするようになり、ハナもすっかりまかせて肩の荷をおろした気分だった。
ところがつい一カ月ほど前、突然謙一たち夫婦が、家を出て、滝野川でアパート生活をはじめた。まだお誕生をむかえたばかりの、手のはなせない双児をかかえて、嫁の槇子はどうして暮して行くつもりだろうと孫たちのことを考えると、ハナもその気ままさに腹を立てた。それもこれも、おとうちゃんが発明に凝ったのが原因といえばいえなくもなかった。
おとうちゃんの発明は料理人らしく、普通の家庭用のガスコンロで上手に魚が焼けるという道具で、穴のあいたさしわたし五寸くらいの丸い鉄板と、魚焼きの鉄串《てつぐし》を支える受け金とで出来ている。つまりコンロの上に穴あきの鉄板を乗せるとこれが焼けて炭火のように赤くなる、その上に鉄串を打った魚がほどよくかざされるように前後に受け金がついたもので、なるほど扱いは簡単で、誰にでも上手に魚が焼けるように出来ている。自分で魚を焼いて楽しんでいるうちはよかったが、これを量産して売り出すといい出してからが大変だった。蠣殻《かきがら》町の将棋仲間の工場を借りて、この道具を作りはじめた。むりやり手伝わされている助さんが、「この年になって鉄工場の職工をやらされるとは思わなかった」とこぼしこぼし出かけていった。
出来上った製品をどこかへ運ぶのに謙一の会社のライトバンを使おうとしたのがそもそもの間違いだった。おとうちゃんにしてみれば、車はあいてるし、運転手はラジオで流行歌なんか聞いてるんだから、その間にちょっとやってくれてもよさそうなもんだと思ったに違いない。ちょうど食事に上ってきていた謙一をつかまえて、「すまねえが、少しばかりの荷物をはこぶのに、お前んところの自動車をちょいと貸してくんねえか」と頼んだ。謙一は時間外に会社の者をよその仕事に使うのはかわいそうだとでも思ったのか、「そりゃ困るよおとうさん、うちのものは皆それぞれ忙しいんだから」と、にべもなく断ると爪楊枝《つまようじ》を使いながら立って出て行った。「ふーん、そりゃ悪かったなあ」とおとうちゃんは、プーッとふくれた顔で謙一を見送っていたが、ほんの一瞬の間があってから「ふざけやがって馬鹿野郎が……、何のつもりでいやがる、もう頼まねえや、ぶっ殺してやる」と言うが早いか、さっと立ち上って謙一を追いかけた。ハナも箸と茶碗をほうり出して後を追った。おとうちゃんはタタタ……と階段をかけおりると、入口においてある傘立てから、野球のバットを引き出そうとしていた。もうこの時、おとうちゃんは憑《つ》きものでもついたような凄《すご》い目つきになって、すっかり血相が変っていた。ハナは夢中でかけ降りて背中にむしゃぶりつき、「おとうちゃん、やめて、やめて」と怒鳴ったが、おとうちゃんは、びっくりするような力で、肩をゆすり、ハナを振りとばそうとした。ハナは「謙ちゃーん、逃げて逃げてー」とおとうちゃんに引きずられながら泣きわめいた。目のすみに、謙一がすっ飛んで逃げて行くのが見えた。そう思った時、ハナは玄関にはじき飛ばされていた。外からガンガン物が壊れる音が響いてきた。恐る恐るのぞいて見ると、表に止めてあった謙一のライトバンに、おとうちゃんがバットを振るっていた。フロントガラスはすでに真白に霞《かすみ》がかかったようにひびが入り、真中に大きな穴があいていた。ドアーからライトから、デコボコにたたき壊されていて、おとうちゃんはまだ満足しないのか、ピョンピョン飛び上りながら、折れたバットで屋根をなぐっていた。
あとで自動車の修理屋から、「新しく買った方が安いかも知れませんよ」と言われたほどの壊れ方だった。これがきっかけになって謙一は、「おやじとは一緒に住めないよ」と言い出し、勝手に滝野川の方にアパートを借りて出て行ってしまった。謙一は相変らず下の事務所は使っていたので、毎日通って来るようになり、嫁の槇子も二日に一度くらいのわりで妹に子供たちをあずけて、旅館の帳面つけに出かけて来てはいた。
おとうちゃんはそれっきり発明も沙汰やみにして、毎日ぶすっとしていた。二人の孫と息子夫婦がガチャガチャと賑やかに一緒に暮していたのに、急にハナと二人っきりになって火の消えたようになった家の中はひどく味けないものになった。とりわけ、目の中へ入れても痛くないほどに可愛がっていた孫とはなれたのはつらかったらしく、時々食事のあとなど、どこを見るでもないうつろな目でぼんやりしていることがある。ハナはそんなおとうちゃんを見ると可哀そうになった。
おとうちゃん自身も若い時、この間死んだおじいちゃんと一緒には商売が出来なくて、結局なかば喧嘩《けんか》のようにして独自の仕事へ走ったのを考えると、世の中順ぐりにいくものなのかと思った。
昼前になって幸二がおばあちゃんと一緒にやって来た。幸二は部屋に入ってくるなり、居並ぶ人たちに目で挨拶をすると、いきなりおとうちゃんの横にどっかりと胡坐《あぐら》をかいて、
「何でえ、おやじおどかしやがって……。冗談うまいねえ、寝てるだけじゃないの……、起せばいいのにさあ」
とハナを見た。そして、
「起きなさいよ、おとうさん、おとうさん」
肩を軽くゆすった。
「幸二」
謙一が声をかけて、幸二に小さく首を振ってみせた。
それでも幸二は、
「だってさあ、どう見たっておやじ寝てるだけじゃねえかよう」
と言っておとうちゃんの足元へ廻った。そして、いきなり布団を持ち上げ、おとうちゃんの足をぴしゃぴしゃたたきながら、
「おいおやじ、いいかげんに起きろよ、起きろよ」
と呼び続けていた。
このところすっかり年をとったおばあちゃんは、かけつけた近所のおかみさんに手をとられて上ってきて、すぐにハナの隣りへ坐った。
「ついこの前、おじいちゃんが逝《い》ったばっかりだっていうのにねえ。ハナ、お前も可哀そうだねえ」
と鼻をすすった。
「何言ってんだよおばあちゃん、おやじはそんなにあっさり死にゃしねえよ」
幸二はまだおとうちゃんの臑《すね》をさすり続けている。一緒にいれば、いつでもはげしくいがみあい、しょっちゅう喧嘩しているくせに、幸二はおとうちゃんと一番うまがあうらしかった。血液型も共にABで、性格も仕草もそっくりだった。お互い信頼しあってるくせに、あまりよく似ているので、腹の立つことも多かったのだろう。
去年の夏のことだった。
幸二は大学を卒業したのに、就職も仕事もせず、おばあちゃんの隠居所の鷺宮で、のそのそしていた。それがどうしてもおとうちゃんには気に入らない。幸二は何かものを書いて生活をするようになりたいというのが夢らしいが、これもおとうちゃんには面白くない。そりゃ作家はいいさ、もとはただみたいな原稿用紙で、一枚何百円って金を取る人もいるそうだが、そんな人は何万人に一人って天才だ、子を見ること親にしかず、あいつのことは俺が一番良く知ってる、あれはとてもそんな万に一人って人間じゃねえ、第一俺の子にそんなものが生まれるわけがない、身の程知らずの大風呂敷のウスラトンカチめ、と真面目に怒っていた。なまけぐせと、インチキなところは太郎兄きの血を引いたに違いねえ、困ったもんだと嘆いてもいた。たまたま幸二がおばあちゃんの使いで日本橋に来た時、いい機会だとばかり前に引き据えて、延々と説教をした。幸二はこの時はめずらしく黙って聞いていた。そして、「自分でももう少しシャキッとしたいと思ってるんだけど、どうも体の調子も変なんだよ。もう一回ちゃんと診察をうけてみるから……」というと悲しそうに笑って帰っていった。
四、五日たって幸二から電話があった。馬鹿に暑い日でたしか土用の丑《うし》の日の前後、おとうちゃんと二人近所のうなぎ屋からうな重を取っていた時だった。病院で診てもらったところ、膿胸《のうきよう》とやらで、一年くらいは療養が必要だとのこと、ハナもこれを聞いた時、一瞬息のつまるおもいがした。受話器を持ったまんま、おとうちゃんにこのことを告げると、おとうちゃんは、フラフラッと立ち上ってそのまま廊下へ出て行ってしまった。ハナは続けて、病気についてもっとくわしく訊いた。どうやら安静が保てれば自宅療養でもいいそうだが、結核はもうとっくに癒っていたはずと思っていたので驚いた、どうも高校二年生の時の、気胸療法とやらが悪かったらしいという。思いもしなかったことだけに体中から血の気が引いた感じで、出るのはただ大きなため息だけ、でも命には別条なさそうと気をとり直しておとうちゃんを探した。洋間のドアーを開けると、部屋の真中におとうちゃんは仁王立《におうだ》ちになって、うなぎの重箱と箸《はし》を持ったまま、顔中涙でベタベタにしていた。「どうしたのおとうちゃん、泣いてんの」ハナが声をかけると「見りゃわかるだろ馬鹿野郎、閉めとけーッ」怒鳴るなり重箱を投げつけてきた。ハナはびっくりしてドアーを閉めて飛びすさった。
あとで訊いてみると、あいつは病気だったのに、無気力だの自堕落だのと責めたのは悪かった、かわいそうなことをしたと悔んでいた。あの時おとうちゃんはノウキョウときいて脳がおかしくなったと思ったらしい。そういえば立って行く時に「そうかとうとうノウへきたか」と呟《つぶや》いていたような気もした。
幸二は週に一度病院に通いながら、家で療養生活をおくるようになった。肋膜《ろくまく》に膿《うみ》がたまっているとかで本人も大分気落ちしてる風だった。早速おとうちゃんはハナを促して鷺宮へ見舞いに行った。じとじとと梅雨のような厭《いや》な雨の降る日だった。おとうちゃんは自ら台所に立つと、土産に持って行った生きたどじょうをさいて柳川《やながわ》なべを作りだし、精がついて病人にはこれが一番いいんだと一人ではり切っていた。食卓でも幸二につきっきりで、病は気からといって気の持ちようでどうにでもなる、病に負けるなよ、ハッハッハッなんて時にひきつった笑いをまじえて精いっぱい励ましていた。お前が作家になりたいならそれもいいだろう、反対はしない、丈夫になったらしかるべき先生を探してやる、そこでカバン持ちでも何でもして、場合によっちゃ、内弟子にしてもらって、拭き掃除でも何でもやって一人前になれといいだした。幸二は柳川に箸もつけずにだまってうなだれて聞いていたが、唇を噛《か》んでふるえ出すと、いきなり卓袱台《ちやぶだい》ごとひっくり返した。
「もういいよ、ほっといてくれよーッ」
泣きながらそういって、窓の網戸を突きやぶって庭に飛び出し、そのまま雨の中を突走って行ってキャベツ畠《ばたけ》の中に大の字にひっくり返ってしまった。おとうちゃんは何もいわず茫然としていた。ハナはあとを女中に頼んでおとうちゃんの手を引くようにして家を出た。
雨の中を鷺宮の駅まで二十分ほど歩いたが、その間もおとうちゃんは一言も口をきかなかった。電車に乗ってから、俺、なんか幸二の気に入らねえようなこといったかなあ、とハナの方を見ずにポツリといった。ハナにも今日の出来事はよく理解出来なかったが、よく似た親子だと思った。あとで知ったことだが、幸二のあの時の病状は、とても「旨《うま》いもの喰って寝てりゃすぐ癒る」という程度のものではなく、相当深刻で、本人は先々のなりわいどころか、三月先、半年先の命を考えて、部屋の隅々に目張りしてガス管引きこむ用意をするほどだったらしい。こんな病状になるまでほっといたのはハナにしてみれば迂闊《うかつ》な話だが、幸二はこのところ鷺宮に引きこもったきりで、たまに顔を見せた時、色々にいうのだが、いつも面倒臭そうに、「ああ」とか「うん」としか答えない。それでもハナは幸二の顔色や体つきなどについては、いつも精いっぱい気は遣っていたつもりだった。
ハナは幸二の体のことが気になって、思いあまって北千住の占いの先生を訪ねた。いつもなら笑って相手にしないおとうちゃんが、俺も行くといってついてきた。デパートへ行くのでも何でも一緒についてくるおとうちゃんがわずらわしく、近頃は逃げるようにしていたが、仕方なく連れだって出かけた。もともとおじいちゃんのお妾《めかけ》さんだったぼたんさんが、よく見てもらう占師で、何でも良く当るということだった。先方では、先ず幸二の名前生年月日を書かされ一時間ほど混雑する待合室で待たされた。
「先ず家相が悪い。この家の形からすると、主婦が足もとをおかされる。それにもしかして御子息は床より一段低い所にお休みじゃないかな、これがいけない」
面談室へ通されて二、三の質問のあといきなりこう言われた。鷺宮の家で主婦といえば、おばあちゃんと幸二の面倒を見てくれている女中のとしちゃんがそれにあたるが、としちゃんは去年から若いくせに神経痛だといって足を引きずっている。なるほど幸二は、床が一段低くなっているサンルーム風の六畳に寝起きしている。変に暗合するのでハナも気味が悪くなってきて、その先をうかがうと、
「息子さんは死ぬようなことはないが、二十五歳まではまずだめだ。二十五歳から先は、元気に活躍するようになる」
あまりキッパリと言われたので、二の句がつげず、見料を払うと早々に引き上げてきた。帰りがけにおとうちゃんは「いやなことを聞いたなあ、知らなきゃそれまでなのに……、聞けば気になるもんなあ」といつになく沈痛な面持だったが、やがて「そうだ、鷺宮の家は相当古くなってるからこれを潮《しお》に建て直そうじゃねえか、なッ、これ以上いい家相はねえって家建ててやらあ、ちきしょう」といつもの照れ笑いをうかべながら明るい調子で言った。そして「家相が悪いって占師にいわれたから建て直すなんて幸二には絶対いうな」と真顔でつけたした。
ゴーゴーという鼾が、だんだんと不規則になってきた。時折り、はたっと止り、しばらくしてキューッと動物の鳴き声のような音をさせると、やがて思い出したように、又ゴーゴーと深い呼吸をはじめる。おとうちゃんは普段からよくこんな息づかいをしていた。いやな声を出すと、きっと大きく寝返りを打って姿勢を変える。肥満《ふと》り過ぎてるから自分で自分の息をつめてるんだぜ、とよくおとうちゃんの昼寝の姿を見て謙一が苦笑していた。ハナは鼾の調子が変る度に、今度こそ、今度こそと思った。寝返りを打って、うーんと大きく伸びをして目を覚ますような気がして仕方なかった。それなのに鼾の音は気のせいか、少しずつ力がなくなって行くようだったし、止っている間も長くなって行くみたいだった。おとうちゃんのまわりでじっと見つめている人たちも、息のつまるおもいで膝の上でゲンコツを握りしめたり、ハンカチをかみしめたりしている。ハナは胸をかきむしりたいほど息ぐるしくなり、動悸が高鳴り、歯の根がガチガチと音をたてているのがわかった。おばあちゃんが泣きながら割り箸の先につけた脱脂綿で、おとうちゃんの唇をぬらしてやっている。
「ああ、いやだよう、もうだめだよう、もうだめだよう」
と山田のかみさんがびっくりするような大声をあげた。おとうちゃんはすっかり弱々しくなった呼吸をぴたっと止めるとしばらくして、フーッと一つ大きく息をはき出し、それっきり静かになった。山田のかみさんが、
「おとうちゃーん」
と言って泣きながらおとうちゃんの胸の上に突っ伏した。まわりからいっせいに泣き声がおこった。目の前で助さんがゲンコツをくわえるようにして声を押しころして泣いているのが見えた。ハナは目のくらむような思いを、じっとしていることでやっと耐えていた。誰が知らせたのか中津先生が、そっと人々の肩をわけるようにして入ってくると、おとうちゃんのわきに坐り、聴診器を取り出して胸に当てた。やがて小さな懐中電灯で目の中をのぞき込んだ先生は、さっと腕時計に視線をはしらせた。ゆっくりとおとうちゃんのはだけた襟元をととのえると、重々しい調子で誰にともなく、
「御臨終です」
と言って首から聴診器をはずして、おとうちゃんに手をあわせた。うしろで又一段と泣き声が大きくなった。
「有難うございました」
と言うハナに、中津先生は無言で深々と頭を下げ、静かに立って行った。
八百正のおやじが、
「さあ、おかみさん、仏を北枕にしてやんなきゃ、成仏出来ないよ。おい誰か手をかしてくんな」
と立ちあがった。つられて助さんが布団のすそへまわると、
「北ってえことは、そっちが東だから、こっちだこっちだ。おう助さん、もうちっとこっちへ廻してくれや」
と顎《あご》をふる。
伊勢屋のおやじは、すぐそばに立っていた小さな枕屏風《まくらびようぶ》を逆さに立て直すと、
「おい助さん、お前すぐに忌中の札を入口にはらなくちゃだめだぜ。すだれを裏がえしにしてな、上下のあるやつだったら逆さにするんだぜ。そいからおかみさん、早えとこ仏の体を清めて合掌させといてやんなきゃ、あとんなるとかたくなっちまうから」
ともう布団に手をかける。
「茣蓙《ござ》持ってこなきゃだめだよ、いつまでも布団に寝かしといちゃなかなか浮かばれないってうちの方じゃ言うよ」
山田のかみさんもさっきとは打って変って甲斐甲斐《かいがい》しく、さっさと敷布団まではがしにかかる。
「おばあちゃん、泣くのはあとでゆっくり泣けるからちょっとそこどいて。誰か早く湯灌《ゆかん》をするから湯を沸せ」
伊勢屋のおやじが大声を出す。山田のかみさんは、
「湯灌なんてお棺に入れる時だよ、今はさっとアルコールで拭いとけばいいんだよ。アルコール、ハナさん、アルコールあるかい」
バタバタとせわしなく立ち騒ぐ。そのうち誰か袖でも引っかけたのか、茶箪笥《ちやだんす》の上から将棋の駒の箱を落した。ちょうど下に盤があったので、カシャーンと音がして蓋がはずれると駒があたりに飛び散った。
「うるせえなあ、おやじにさわるな。人が死んだ時ぐらい、静かにしてくれ。おふくろの気持も少しは考えてやったらどうだい。皆この部屋から出てってくれ」
とたまりかねた謙一が大きな声を出した。その声に皆一瞬驚いて立ちすくんだ。すると、
「あたしが代ればよかったんだ、この年になって逆さ見ようとは思わなかったよ」
とおばあちゃんがいたたまれないようすで、よろよろと立ち上った。槇子がすぐに抱きかかえるようにしてささえると、目で一同をうながして連れ出した。何か口の中でぶつぶつ言うのもきこえたが、皆仕方なくぞろぞろと部屋から出て行った。
下の玄関から真直ぐ三尺のはしご段を上ると、一間《いつけん》の廊下があり、つきあたりの奥が便所、右手へ廻るとお勝手、その手前が居間、階段の降り口をかこむように手すりをめぐらした広い廊下が各部屋の出入り口に接している。「待合みたいな作りだね、相当方々で遊んでなきゃ、こんな設計は出来ませんよ」とこの家が出来た時、頭《かしら》がらそっとハナにいったことがある。おとうちゃんとハナがいつも寝室に使っていたこの八畳の間は、台所から一番はなれた東側の隅になっていた。しぶしぶ出て行った人たちは廊下や居間で、落ち着かずにうろうろしているらしく、「せっかく人が……」とか「早くしてやんなきゃ……」などとまだ大声で話しあっているのが聞える。親切ごころからには違いなかろうが、山田のかみさんは無遠慮に襖《ふすま》をあけて覗《のぞ》きこんだりしている。
「すいませんが、少しの間だけ静かにしてやってくれませんか」
と有無をいわせぬ感じで、謙一はピシャリと襖をしめ、ハナと幸二の間にしずかに坐った。三人ともしばらくは何も言わなかった。さすがに外もしずかになった。
「ねえ、おかあさん」
幸二がおだやかな声でハナに言った。
「考えて見ればおやじは幸せもんなんじゃないかね。そりゃ年のことをいえば残念だけど、我が儘《まま》いっぱいに生きて、ハナハナって、ハナが居なけりゃ夜も日もあけないようにしてきて、最後もハナって呼びながらだろ、しかも三度のメシより好きだっていってた将棋盤にむかっててだもの。人間いつか必ず死ぬんだ、願ったってなかなかこんな死に方は出来ないぜ、俺なんかうらやましいと思うね」
そういえば幸二は、おとうちゃんが一番好きだったくせに、朝から涙一つ見せてないとハナは思った。
「おやじはね、孫も二人見てるし、人間としちゃやるだけのことはやってるんじゃないかな、おかあさんとずーっと一緒にいて、幸せだったよ」
謙一も泣いてはいなかった。
「そうかね、あたしにはよくわかんないよ。なにしろあんまり急だったからね」
ハナはそう言いながら、飛び散った将棋の駒をしらずしらず拾い集めていた。
「おやじは何時《いつ》だって、何やるんだってせっかちだったからね、死に方までおやじらしくていいよ、なッ」
幸二はそう言ってクスリと苦笑すら見せた。
「ものは考えようでね、下の世話までひとに見てもらっての長患いってのは、まわりもきびしいけど本人もつらいぜ」
と謙一はハナを見た。
「そうだね、おとうちゃんああいう人だからそれだけはさしたくなかったね」
ハナもつくづくそう思った。ハナは拾い集めた駒を桐の箱にもどして、駒台の上に置いた。それを見ていた幸二が箱をとり上げ、
「これかい、おやじが最後までいじってた駒は」
と無造作に厚い将棋盤の上にカラカラと音をさせて駒をあけた。
「おやじ何組も駒持ってたけど、これが一番気に入ってたみたいだね。子供の頃よく棋譜よまされてやだったなあ……」
急に幸二が声をつまらせ、なつかしそうに駒をつまみ上げて見入っている。
「鼻の脂をつけちゃみがき込んでたからね、おやじがしみ込んで色が変ってやんの」
目にはいっぱいの涙が浮んでいた。
ハナも何か大きな力でこづき廻されるような悲しみにおそわれ、暗闇の底へ引きずりこまれるようだった。
しばらくたって、謙一がハンカチで鼻をこすり上げながら、
「この駒を棺に一緒に入れてやろうぜ、幸二駒をしらべてみろ、数が足りねえとおやじ又おこるからな」
と言った。幸二は黙って駒を数えて、
「揃《そろ》ってるぜ」
と謙一に答えた。謙一は盤に手をかけて、
「ちょっとでかいけど、この盤も一緒に入れちゃおう、そうだ、この歩を一枚おかあさん遺品《かたみ》に持ってなよ」
言いながら小さな駒を一つハナに渡した。ハナがだまって掌《てのひら》に受けると、
「いいんだよ、歩ってのはどうせ一個余ってるんだから……、それにね、歩ってのは何でもない駒みたいだけど、一番大事なんだってさ、おかあさんはおやじにとっちゃ、歩みたいなもんじゃなかったのかね。そうだ俺たちも一個ずつもらおう、俺が長男だから、王様だ。お前次男だから玉《ギヨク》の方にしろ、な、王様がねえほうがいいよ、勝負がつかなくて……、もめごとはねえ方がしずかでいいや」
そう言って自分も一つ駒をとり、幸二にも渡した。幸二は大事そうに受けとると、じっと見つめていた。謙一は将棋盤の真中にきちんと駒の箱を置き、駒台もその上にかさね、しずかに部屋の隅になおすと、はればれとした顔でハナと幸二を見て、立ちあがった。そして襖をあけ廊下へ出ていった。
「どうも皆さん失礼致しました、お別れをしてやって下さい」
と言っているのが聞えた。
夜になって、おとうちゃんの兄の太郎が来た。太郎は戦争中いち早く女房の里の山形へ疎開して、それっきり山形にいついて何をしているのか、金の無心の時以外は便りもないから見当もつけ難いが、大方は芸術家気取りで大風呂敷をひろげているに違いない。その実は古着の売買に飛び廻っている女房の稼《かせ》ぎにおぶさってでもいるのだろう、おじいちゃんの葬式の時にもやって来たが、何がしかの金を持たなきゃ帰らなかった。あとで香典が足りなくなって一|悶着《もんちやく》あったが、「太郎兄きに間違いないから騒がねえでくれ」とおとうちゃんにいわれたことがあった。聞いてみると、おばあちゃんの虎の子からも、いくらか巻き上げて行ったとのこと、ハナはどうしてもこの太郎のことが好きになれなかった。列車の中で呑んででもいたのか、入って来た時から足もとが定まらず、もともと斜視ぎみの目の焦点もあってない。由比正雪《ゆいしようせつ》みたいな肩までかかる総髪に臙脂《えんじ》色のベレー帽をのせ、同色の油じみた絹のリボンを首に結び、黄色のふちどりのついたビロードのルパシカを着ていた。あとで助さんが、「近頃じゃ大道の似顔画描きだってもっと気のきいたなりしてますぜ。あれじゃまるでペラゴロだもん、やんなっちゃうよ」と言っていた。
すぐに二階に上ってきた太郎は、浴衣一枚で茣蓙の上に寝かしてあるおとうちゃんを見ると大きな声でわめいた。
「何だいこりゃ、どうしてこんなことしとくんだ、お前らよくこんなことしといて平気だな。何か掛けてやれ、馬鹿野郎」
助さんがボソボソと説明しかかると、
「どこのド田舎のしきたりか知らねえが、寒そうで、可哀そうで見ていられねえじゃねえか」
と涙声になった。
ハナは早速一番上等な、縮緬《ちりめん》の紫の鹿《か》の子《こ》の柄の布団を出して冷たくなったおとうちゃんに、そっとかけてやった。太郎はおとうちゃんの横に静かに坐った。
「しばらくそっとしといてくれ」
目で人々を追い出して、長い間その部屋から出てこなかった。ハナが嫌おうがどうしようが、やっぱりそこは血を分けた実の兄弟、余人には立ち入り出来ない深いつながりがあるのか、柄にもないやさしさ見せられた感じで今さらのように驚いた。
子供の頃のいきさつが、太郎、次郎、たった二人の兄弟の生き方をわけてきたのだろうか、兄夫婦の遺した子とはいえ、本来ならば長男で店を継ぐ筈だった太郎が、どうしてもおじいちゃんとうまがあわず、なかば追い出される恰好で家を出た。もともとひねくれた性格だったのか、そのことが輪をかけて、以来すねたような世渡りが身上となったのか、人生も終りに近づいているのに、いまだに生活が定まらない風で、思えば気の毒でもある。今また弟に先立たれて、喧嘩売ろうにも、恨み並べようにもとりつくしまのないたよりなさ。弟が死んだ報《しら》せうけて、かけつけるのにも素面《しらふ》で敷居またげない心情をおもえば、今までつれなく当ってきたのが申しわけなく、かげから手をあわせるおもいだった。
やがて太郎は蒼白《そうはく》な顔で居間の方へやってきた。そこにはもうお|煮〆《にしめ》や酒も用意されていて、助さんや頭《かしら》をはじめ何人かの人たちが、酒を呑みながら、おとうちゃんの急な旅立ちについてあれこれと話をしていた。ふらっとそこへ入って来て酒を呑みはじめてからの太郎は例の如く、上目づかいに人を見ては憎まれ口をきいていた。こんな太郎なのに、子供たちは小さい時からこの風変りなおじが好きらしく、おじさん、おじさんと面白がってそばにいたがった。ハナはそれも血のせいかと訝《いぶか》しく思っていた。相変らず、ピカソを凌駕《りようが》したとか、山形のアンデパンダン展の審査員に推されたが断ったとか、狐を馬に乗せたような話をつぎからつぎとして、まわりの者を煙《けむ》にまいている。そうかと思うと、本来ならばここの家の洗いざらい、釜《かま》の下の灰までも俺のものだなどと、妙に時代がかったセリフを口にする。ハナはもうなるべく近づかないようにしていた。ただおばあちゃんだけが、「そうだね、本当だね」とあきずに相槌《あいづち》を打っていた。
ハナが嫁に来た頃のおばあちゃんは、髪を二〇三高地に高々と結い上げ、錦紗《きんしや》の羽織にお召の着物で、凝った拵《こしらえ》の銀《ぎん》煙管《ぎせる》を器用に扱って、物腰、口のききようが居丈高、あたりを払う勢いがあり、ちょっと近より難いおっかないお姑《しゆうとめ》さんだった。昔は長火鉢の前に斜めに坐ってピンと突っ張らかるように伸ばしていた背筋も、すっかり丸くなって、嫌味や毒舌にも迫力がなくなった。目もとからもギラギラした光が失せ、おだやかな慈味をすらただよわせて、変に涙もろくなり、謙一が嫁を貰うといっては泣き、曾孫《ひまご》が出来たといっては泣き、何につけても有難い有難いが口ぐせになっている。時にはこれでも夫婦かと思うほど冷淡に、ないがしろにしていたように見えたのに、おじいちゃんが死んでからは、急にガックリと年をとった感じで、はたで見ていてもいたいたしい。たしか来年は八十歳になるはずだ。「おばあちゃん死ぬの忘れたんじゃないの、もうじき化けるよ」なんて口ではぞんざいにののしるが、ハナはおばあちゃんには長生きしてほしいと心から願っていた。おばあちゃんにとっては、やさしい孝行息子だったに違いない次郎が、こんなにあっけなく逝《い》ってしまったのはさぞつらいことだろう、この年になって逆さを見たおばあちゃんの身の置きどころのない切なさ思うと、からんでいる太郎がつくづく愚かしく思えたが、しばらく見ているうちに、これが又この親子独特のいたわり方かと不思議なやさしさの通っているのがうかがえ、嫉妬《しつと》する気持さえ起るのを奇妙に思っていた。
その晩ハナはすっかり冷たくなったおとうちゃんの隣りに、普段ずっとそうしてきたように、布団を敷いて寝ることにした。外の灯《あか》りでぼんやりと見えるおとうちゃんの横貌《よこがお》に「おやすみ」といい、どうしてこんなことになってしまったのかとそればかりを考えてまんじりともしなかった。
「もしかしてあたしが丙午《ひのえうま》のせいかも」
と今さらのように自分の生まれ年をうらめしく思っていた。
その日は、朝からからりと晴れて春らしいおだやかな光があふれていた。風もなく、陽なたにいると居眠りの出そうな花見にこそふさわしいさわやかな明るさの中で、通夜の準備がすすめられた。住居《すまい》の一階にある謙一の会社の事務所を早じまいにして中をすっかり片付けると、やがて葬儀屋がきて鯨幕《くじらまく》を張りめぐらし、うすべりを敷きつめて奥に祭壇を飾った。清さんの手配してくれたおとうちゃんの写真も出来てきて、黒のリボンの中でにこやかに笑っていた。次から次と花輪がとどいて、とても家の前だけでは並べ切れず、助さんが近所にことわりを入れて歩いた。「ざっと四十を越えましたよ、実に盛大なもんだ、ちょっとしたヤクザの親分の葬式よりハデですぜ」と助さんがいっていた。頭《かしら》は昔家が弁当屋だった頃の弁菊と染め抜いた法被《はつぴ》を着て、どんぶりにもも引きといういなせな姿でまめに手伝っていてくれる。おとうちゃんの体を棺に納め下へ降ろしたが、「階段がせまいところへもってきて、旦那は十八貫もあるし、その上でっけえ将棋盤なんか入れちゃったから、重いのなんのって大変な騒ぎ」と頭がこぼしていた。方々から生花も飾り切れないほどとどいて、見事に出来上った祭壇のまわりにあふれていた。ハナは兄弟が多いので、親類がそろうとそれだけでも大変な人数になる。謙一たちの従兄弟《いとこ》を入れると三十人を越えた。隣り近所からおばあちゃんの知りあいまで、通夜に来てくれる人たちのことを思うとちょっと勘定が出来ない。大勢の人たちからささやきかけられる、悔みとなぐさめの言葉に、いちいちうけ答えすることを思うと、身勝手なようだが気が重かった。三時を過ぎる頃からもう大方の親類が顔をそろえ、こんな時でもなけりゃ、互いに会う機会がないせいか、それぞれ一別以来の話に花がさいていた。謙一が長男らしく采配《さいはい》を振るって、ハナがよけいな神経を遣わなくてすむように気を配ってくれているのが頼母《たのも》しく思えた。何故か幸二は顔を出さない。昨夜《ゆうべ》は旅館の方に泊ったはずなのにと思うと気になって仕方がなかった。
おばあちゃんの着付けを手伝って、全員喪服に着がえを済すと、お坊さんが着きましたと迎えに行ってくれた助さんが知らせてきた。一同が祭壇の前に居並ぶと、重々しい声で読経がはじまった。むせかえるような焼香の香りの中で目を閉じていると、おとうちゃんと過ごしてきた長かった日々が思い出されてきた。不思議なものでまとまった出来事があからさまによみがえるわけでなく、古いアルバム繰るように、何度も見てよく憶《おぼ》えている写真の一コマ一コマが、とりとめもなく幻灯でも見る感じで頭の中を過ぎてゆく。昨日までしっかりと積み重ねてきたなんでもない日常が嘘のようでもあるし、今こうしておとうちゃんのお通夜をしているのがうつろのようでもある。二度の応召で出ていったのをのぞけば、家が好きでどこへ出かけていっても二日と家を空けることが出来ず、ハナ、ハナと子供のようにつきまとって、うとましいほど手のかかったおとうちゃんが、明日からいないと思うと、片手片足もぎとられた感じで、あても張りあいもなく、息をするのすら億劫《おつくう》な心持で、どうして生きていったらいいのか、考えるすら空恐ろしい。やがてとなりの謙一にそっとこづかれて気がつけば、焼香を、と促がされた。祭壇ににじり寄って正面に坐り直し、仰ぎ見ればいつもの半分照れた笑いを浮べたおとうちゃんの写真がある。型通り掌をあわせて目をつぶると、何やら他人行儀で照れくさく、他《ほか》の人ならいざ知らず、おとうちゃんにむかって焼香をするのが、子供のままごとじみてうしろめたい感じさえするのが不思議だった。
弁当屋をやってた頃の同業者、おばあちゃんの花札仲間、おとうちゃんの軍隊時代の友達、将棋相手、昔の得意先から、謙一の取引先、幸二の小学校の先生まで、次から次とひきもきらずつめかける客に礼を言っているおばあちゃんは泣きづめで、着くずれてはだけた襟《えり》に気遣いもしない。おじいちゃんの時より、打ちしおれているように見える。謙一は喪主らしく、きちんと来客に応対していた。
二階に上ると、六畳と八畳をつないで、中央に白布でおおった大きなテーブルがしつらえられていて、精進料理の大皿がいくつも並べられていた。早速徳利が運ばれ、ビールの栓が抜かれ、そこここで「まずおひとつ」と盃やコップが手渡された。ぞくぞくと人が集って来て、その部屋に入りきれない人たちが奥の居間にまであふれた。はじめのうちこそしめやかにかわされていた言葉も、酒が入ればもういつもの通り大宴会、唄こそうたわないが、無遠慮な大声が飛びかい一挙ににぎやかになった。とはいうものの、誰もが突然逝ったおとうちゃんのことを話題にし、その若さをおしんだ。誰にでも必ずやってくる死からは逃れられよう筈もなく、明日は我が身の恐れもあるから、前の晩まであんなに元気だったおとうちゃんを知っていればこそ、我が身におきかえて空恐ろしいのか、人の命はわからぬものと今さらのように死を身近かにしていた。特におとうちゃんと同年輩の人たちは、おだやかならざる表情で、おとうちゃんの日頃の健康状態や、日常の食事のことなどこまかにきいていた。
次から次へと人が来て、入れかわり立ちかわり言葉をかわしてやっと十一時を過ぎて、弔問客がひとしきり途絶えた頃、何となくおかしな雰囲気《ふんいき》で、清さんや助さんが次々に、出たり入ったりした。何のことかと気にしていると、太郎が千絵さんを連れて上って来た。千絵さんは昔、おとうちゃんが面倒を見ていた女で、とうに切れてはいたが、一時はハナも随分と厭な思いをさせられていた。
「此度《このたび》はとんだことで、心からお悔み申し上げます。そっとお焼香だけでもさせていただこうと思いまして……」
と千絵さんはハナの前に手をついて殊勝らしく挨拶をした。きちんと喪服を着て、珠数を持ち、化粧っけのない顔は、少しやつれて見えたが相変らずいい女だった。ハナは、
「有難う、よく来てくれたわね」
とは言ったが、突然のことでもあり、正直とまどった。
たしかに面白くはなかったが、今さら腹を立てる筋合いでもなく、むしろ懐かしさもあったが、わざわざ手をひかんばかりにして連れて来た太郎の無神経さを思うと怒りがこみ上げ、それ以上口をきく気にもならなかった。
「まあひとつ、何もないけどもゆっくりしてって下さい」
ロレツのあやしい口で太郎が酒をすすめた。千絵さんは、
「後日改めて、御挨拶に上ります。失礼しました」
と言ってさっさと引き上げていった。とすぐ、
「まずいよなあ、余計なことして」
助さんが口をとがらして太郎をなじった。
「何いってやんでえお前《めえ》、一度は故人が情をかけた女だってえじゃねえか、酒ぐらいすすめたってあたり前だろう、なあ清さんよ」
清さんは明らさまに厭な顔をしてぷいと横をむいてしまった。ハナはやっぱりこの男は好きになれないと吐き気のする思いだった。
気まずい空気が部屋に澱《よど》んで、重くるしい沈黙に一同がやりきれない気分になっているところへ幸二が入って来た。相当に酔っているのがすぐにわかった。
「おい幸二、親父が死んだってえのに、通夜にも出ねえでどこをほっつき歩いてたんでえ」
太郎は矛先を幸二にむけた。
「アルサロだよ、アルサロ。銀座で呑んでたの、悪いかい」
幸二は笑っている。
「線香の一本も上げず、呑んだくれてやがってこの親不孝者が」
太郎がますます居丈高になった。
「冗談じゃないよ、親父に焼香したり手をあわせたり出来るかい。俺がそんなことしてみろ、他人行儀なことはやめてくれって親父が怒るぜ」
そういえば幸二はまだおとうちゃんに、線香ひとつ上げたとこを見てないとハナは思った。このところせっかく体の調子もいくらか良くなっているらしいのに、酒を呑んで大丈夫なのかしらと、むしろハナはそのことの方が気になっていた。
太郎がよろよろして立って出て行ったあとは、居間に、清さんと助さんに頭《かしら》、謙一と幸二がハナをかこむ形でのこり、落ちついた気分が戻って、誰からともなく、ゆっくりと呑み直す気分になったようだった。
「旦那が死んだなんて信じられねえよねえ」
助さんが手酌でコップに酒をつぎながら首を振り振り話しだした。
「ついさきおとといの話だぜ、旦那と喧嘩《けんか》しちゃってさ、調理場の壁にペンキ塗ったんだけどね、先ず掃除して下塗りをしたのはいいんだけど、せっかちだから、それが乾くのが待てねえんだよな、下塗りが乾かなきゃだめだってのにきくんじゃねえんだよ、もういい、もういい早く塗れって、それも何度もやんのは面倒だから思いきって厚くいけってんだよ、下が乾いてないのにごてごてやるからほら、女郎の厚化粧みてえにまだらになって、結局は手がつけらんなくなっちゃってさ、そうしたらハケおっぽり出して、ペンキ屋呼んで来い、だよ。ペンキ屋呼ぶんなら、はなっからペンキ屋にやらすがいいじゃねえか、なあ、ひとのことをさんざドジだのバカだのっていっといてさ。あとでこういう仕事が一番困るんですって俺がペンキ屋にもおこられちゃったよ、かんべんしてもらいたいよもう。なんかやんなきゃいい旦那なんだよ、ものわかりがよくてさあ、夢中になるとわけわかんなくなるんだよ、なあ」
「それそれ、まるで『寝床』の旦那と同じなんだよ、そういやあいつか小唄に凝ったことあんなあ、あん時も困ったよ」
清さんが目をパチパチさせながら今も困ってるふうに相槌を打った。
「俺んちの嬶《かかあ》がほら三味線をちょっとやるもんだから始終呼び出しがかかってな、しまいにゃ嬶も相当まいってたぜ」
頭の元さんの家へも迷惑をかけていたらしい、結局ものにはならなかったが、ハナも無理やり三味線を習わされたのを懐かしく思いだした。
「御苦労様でございました。本当に申しわけないねえ」
助さんが柄にもなく詫《わ》びながら隣りの頭のコップに酒を注いで、
「旦那の普請道楽ですよ、参ったのは……。木場でも何処《どこ》でも一人で行かねえんだよね、いつでも俺がお供させられるんだよ、旦那は頭はいいよ、材木なんか石《こく》で買うんだからね、この材木が石いくらだから、どう木取りすると柱が一本いくらについて、板が一枚いくらにつくなんて、計算尺なんてのだして、さっさと計算しちゃうんだからね。そこまではいいんだけど、いそぎだから助、お前この板を運んでけって、材木屋のリヤカーなんかかりて俺にはこばせるんだぜ、そいで、自分はさっさとタクシーに乗って帰っちゃうんだよ、永代橋のところの坂なんかきつくて……、もうこんな家に誰がいてやるもんかと思ってね、逃げだすことばっかり考えてたよ」
しゃべりながら助さんは、額から首すじにしたたる汗をさかんに拭っている。
「そいから砥《と》の粉《こ》塗りと、紙はりだよ、よくやらされたね」
「俺もやらされたよ、しかし何でおやじは家のもんにあれやらせるのかね、よその家の普請の時は、その家のもんにやらせりゃいいのになあ」
と幸二も当然のようにコップで酒を呑んでいる。助さんは我が意を得たりとばかり、
「それだよ、神楽坂《かぐらざか》のほら旦那の友達の料理屋の家を建てた時、俺とやっちゃんが連れてかれて、大工が柱をけずるそばから砥の粉を塗らされて、その上、建て前の時なんかに柱が汚れるからってんで、それに紙をはるんだよな。なんで俺が、神楽坂まで来て、しかもあかの他人のうちのために、ただでこんなことさせられるのかと思うとなさけなくなってな、職人なんかとうに帰っちゃってるのに、腹はへるし手もとは暗くなるし、泣きたくなるよ、やっと終ると旦那は、ハイ、おしまいチャンチャンなんていって手をはたいて、さっさとてめえだけ帰っちゃうんだよな、冗談じゃねえよ、何がおしまいチャンチャンだってんだよ、ふざけやがって、ねえ」
と手をはたいてみせる。
「くせなんだよ、おやじ、どっから来たのかねあのおしまいチャンチャンってやつ」
幸二も憶えがあるらしく、苦笑いしている。
おとうちゃんの普請道楽には、ハナもほとほと困った。旅館の旦那なんてそれこそすることがなくて、暇を持てあましてうろうろしてるの見れば、可哀そうとも思うが、碁将棋と違って金がかかる。時には先行きが不安になるほど思い切った出費になることがある。本人もつかれるのか、一段落すると、もういやだもういやだといっているが、半年か一年すると必ず又虫を起す。鷺宮の家を全部取り壊して建て直しがすむと、今度は日本橋の住居を直す、半年もしないうちに又、旅館の建て増しをする。ハナはその度に金策に苦労をする。自分の家をすっかりいじって手を入れるところがなくなると、他処《よそ》の家の分まで引きうけてくるから始末が悪い。知り合いの家の新築改築を請け負うのはいいが、必ず足が出て、家からの持ち出しになる。この金額が馬鹿にならない。いいじゃねえか元々商売でやってるわけじゃねえ、向こう様があんなに喜んでるんだから、と嬉しがってる。誰が喜んでもハナはちっとも嬉しくない。そのくせ引き受けた時には、今度はちょっとばかりいい手間になりそうだぞ、予算にゆとりがあるからな、なんていう、そんな時はその分材料に凝ったりするからやっぱり儲《もう》かったためしがない。頭っから手間の話なんかしないがいいとハナも腹が立ってくる。
もともとが弁当屋のくせに、いつ憶えたのか、敷地の整備から、土台作り、上下水道の按配《あんばい》、建築材料の選定買いつけ、設計施工、建具のデザインまで出来る。お気に入りの職人連中がいて、いつでも声をかけると集って来る。まるで工務店なみ、ただただ工務店でないのはまるで儲からないのとあきっぽいこと、続けて二軒は出来ない。その代り夢中になってる時は大変、朝から晩まで家中に図面をひろげて、ああでもないこうでもない、不思議なことに一人で黙って出来ない。出来上った分から、すぐひとに見せて説明をする。相手は誰彼の区別がないから、その時捕った人が災難、ハナはもう慣れているから、「ああやだやだ、あたしはわかんないよ」とさっさと逃げることにしているがそれでも時には捕まる。洋服屋だろうが、保険屋だろうが、犠牲者は、その設計した家が、いかに見た目美しく、丈夫で住みやすく、合理的に出来ているかについて詳細に説明されて意見を求められる。生半可に聞いてるとおこられる。こんな時にいいかげんな返事をすると、ひとがせっかく一所懸命説明しているのに、ちゃんと聞いてないってのはどういうことだ、そんな不誠実な人には今後一切ものは頼めない、あんたとの縁も今日までと思ってもらいたい、さっさと帰ってくれ、と理不尽なことをいって追い帰す。ハナもどれだけ尻ぬぐいに骨を折ったことか。
急に頭《かしら》が大きな声でいい出した。
「俺あ喧嘩になるのがわかってるから、指したことはねえけどな、旦那あ将棋はつおかったのかい」
頭は、真赤な顔をしている。清さんがすぐ答えて、
「いいえ、もうからっきし。へたの横好きってやつでね、そりゃあっしらよりはちっとは強いけど、元来軒ってソバ屋あるでしょ、あすこのあんちゃんに香落ちで負けてるんだから、なんでもはじめは、旦那が香を落して教えてたらしいんだけど、そのうちむこうが段々手を上げて来て、しまいには、アベコベになっちゃってあんちゃんが香を落してふんぞり返《けえ》ってんだってんだから、旦那くやしくて仕様がねえんだね、まあどっちにしろたいした腕じゃねえんだよ、相手がなくて暇もてあましてると、あすこから五目チャーハンなんかとるんだよ、そいでそのあんちゃんが出前に来ると、もうつかまいちゃってはなさないんだよね、元来軒の親父がこぼしてるんだよ、あすこへ出前に出すと帰ってこねえってね、碁敵は憎さも憎しってけど、気があうってのがいるんだね、二人が指してるの見てると面白いよ、口汚なくののしり合ってて、たいてい旦那が負けて怒っちゃうんだよ、手前なんぞつらも見たくねえやなんて……。あのあんちゃんが又きかねえんだよ、こっちこそだ、今度っから出前なんかしてやんねえぞなんてぬかしやがんだよ、そのくせしばらくすると又旦那が呼ぶんだ、するとそのあんちゃんも又来るからいいよハッハッハ」
と肩をゆする。助さんがのり出して話しはじめた。
「あの将棋盤ね、謙ちゃんの話だと棺の中へ入れてやっちまったってことだけど、あれは高いんだぜ、何でも相当いいものらしいよ、榧《かや》の六寸もので時代がついてるからね。あれ買った時俺が一緒にいたんだよ、木場の近所の古道具屋で何の気なしに見つけたんですよ、旦那がそこの親父に値段きいたね、そしたら古手の咄家《はなしか》みてえなその親父が因業なんだよ、言うことがにくらしいや、値なんぞきいたって仕様がねえだろ、おめえらに手のとどく品物じゃねえってこういいやがんの、もっともそん時俺たちは砥の粉だらけのジャンパー姿だったからね、そしたら旦那が怒ってね、なり見て人をきめつけるねえ、言い値で買ってやるから家へとどけろってタンカ切っちゃって、そしたらなるほどたけえんだよ、八万円だっていいやがんの、俺なんかだとよ、目一杯半年は飲まず喰わずでいなきゃなんねえ金だぜ、旦那もえれえものを買っちゃったとびっくりして内心面白くねえんだけど、よく見ると値段だけのことはある、いい買いものをしたなんて負けおしみいってやんの」
この話でも又みんな笑った。この人たちはおとうちゃんのことが大好きで、大事に思っていたからこそ、淋しくて残念でたまらず、当りどころのない腹だたしさを、馬鹿笑いでごまかし、酒で薄めでもするように、コップをあおっているんだとハナは思った。痛みがうすれるなら呑むがいい、くやしさがまぎれるなら笑えばいい、ハナは皆のやりとりを遠くの景色でも眺めるように見ていた。おとうちゃんがいなくなった気は少しもしないが、いつまでもこうしておとうちゃんの話をしていてほしいと願っていた。
ハナは、おとうちゃんが一緒に旅行に行きたがっていたことを突然思い出した。水戸の偕楽園《かいらくえん》へ梅見にいこうとか、日光の紅葉は今が盛りだそうだ、一度、伊豆へみかん狩りに出かけようなどと、しきりにさそった。その度にハナはふんふんといい加減な返事をしていて、いつでも前の日になって断り、おとうちゃんをしらけさせていた。どれ一つとして行かなかったことがいまさらのように悔まれた。行けば行ったで、又、乗りものの乗りつぎはせわしないし、旅館では変に気を使うし、食事の時に文句が出る、しまいには喧嘩になって、来たことを悔みながら、背中合せで帰って来たに違いなかった。それでも今にして思えば、それも忘れ難い思い出になった筈、せめて一度ぐらいつきあっておけばよかったと思った。
「そういえばハゼ釣りのあの新兵器にも参ったね、謙ちゃん」
助さんが謙一に話しかける。
「そうそうあれも笑っちゃったねえ」
謙一があとを続けた。
「なにしろおやじにいわせるとね、ハゼなんてものは湧《わ》く時は東京湾の底にベッタリといるんだから、一匹一匹釣ってるなんて面倒臭えってんだよ、俺が新兵器を作ったってんで見せるんだけど、これが何ともおかしなしろもので、この煙草の箱ぐらいのでっけえ鉛の塊に、一尺ばかりのピアノ線が十本ぐらいはえてるんだよ、コウモリ傘のこわれたのみたいのもんと思えばいいや、そのピアノ線の先にハリスと針がついてるんだなあ、でこれにそれぞれ餌《えさ》をつけてぶっ込んどけば、ハゼがシャンデリヤみたいにワーッと鈴なりになって釣れてくるに違えねえってんだよ、ねッ助さん」
「そう、これを徹夜で作ってね、活花の剣山を二つも壊しちゃったよ」
「へーえ、そいつぁ面白そうじゃねえか、そいでどうなったい」
頭《かしら》もあとをせっつくように前へ乗り出した。助さんが笑いながら続けた。
「ハッハッハッこれが大笑い。早速出かけようって、まだ暗いうちから謙一起せ、謙一起せってきかねえんだよ、で仕様がねえから謙ちゃんを起して、自転車ひっぱり出して三人で家を出たのは、三時か四時だったなあ、十一月のはじめだもん、朝は寒いんだよな、ジャンパーの上に半纏《はんてん》を重ねて着て、妙なかっこで八丁堀から勝鬨橋《かちどきばし》渡って月島まで行ったんだけど、やっぱり馬鹿がいるんだよね、もう先に来て釣ってやんの、で、そこへ割込んで例の新兵器ってやつを出して餌をつけてさ、旦那得意んなってほうり込んだけどね、なにしろデカイから、ドボーンって『野ざらし』じゃねえけど、まわりにいた奴は変な顔してやんの、ハッハッハッ、でどうなったと思います頭」
「ええもう、じれってえなあ、――笑ってねえで先へ進め、そいで釣れたのかどうなんでえ」
頭は気をもたされてじりじりしていた。
「頃あいもよしってんで、旦那ニコニコして引っぱったんだけど、新兵器が上ってこねえんだよ、そりゃそうだ、考えて見りゃ真中のピアノ線に糸が結んであるんだもん、底でひっくり返っちゃったらまるで錨《いかり》だ、砂地の中へ傘になってひろがっちゃって出てこやしねえや、引っぱったって何したって、嬶の褌《ふんどし》くい込む一方って奴で、とうとう糸が引っちぎれて、一回でおじゃんよ、そいで俺が、はいおしまいチャンチャンって言ったらもう旦那が怒ってね、お前ら飛び込んで取って来いってやんの、冗談じゃないよ」
謙一がすぐ続けて、
「そういえばあれっきりおやじ釣りのこといわなくなっちゃったよね、とにかくおかしい人だよ」
とぐいと一息、酒をあおった。
おとうちゃんには昔からそういうところがあった。はたの人間の思惑など一切意にかけず、気まぐれに思いつくままに突如何かをはじめるから、これがそばにいるものにとってはいつでも大迷惑。ある日突然、ポタポタと水のしたたる大きな紙包みを高々とささげ持って、勢い込んで玄関を突き抜けてくると、
「通りの魚屋の店っつぁきで活きのいい牡蠣《かき》を見つけたから買って来た、今からカキフライと、カキのクリームシチューを作るぞ」とたからかに宣言して台所へ入る。まわりの者があっけにとられていると、そこらにある赤いフリルのついた女中のエプロンなんか平気でかけて、うしろに大きなリボン結んで、ヒューヒュー口笛吹きながら、その辺のものをガラガラと押しのけてカキをむきはじめる。昔修業しているからたしかに手ぎわはいいが、「おい笊《ざる》はどこだ」「ボウルを探せ」「こんなナイフがあったはずだ」と矢つぎ早にいろいろ注文を出すから、こうなったらもう誰か一人、付きっきりでいなきゃならない。こんな時にさからおうものなら、又大変、「ああそうか、そりゃ悪かったなあ」とカキでも蝦《えび》でも平気でその辺にぶちまけてしまう。ハナが一番困ったのはトロロだ。幸二か謙一が何かさからったようだったが、いきなり大きな摺鉢《すりばち》一ぱいのトロロを部屋中にまき散らされてあとあとまで往生したことがある。くだけたカキ殻《がら》をあたり一面にまきちらしてカキがむき身になると、「こんなパン粉じゃだめだ、すぐにパン粉を買って来い」と、やっちゃんを走らす。やっとパン粉がとどくと「おそいから前のでやったからもういい、それより今度はシチューに入れるベーコンを買って来い」、ベーコンが来ると、「ホウレン草がいる」「レモンがいる」「ローリエがいる」「シナモンがほしい」と、次から次へと一つずついいつけるからやっちゃんがテンテコまいする。さきにカキフライが出来上ると、「さあ喰おう喰おう」と、さっさと居間へはこんで喰べはじめるが、こんな時はきっとご飯を持って来いという、ない時はすぐに借りに走るが、あればもうそれだけで腹いっぱいになるまでつめこんでしまい、そうなると作りかけのシチューの方はすっかり忘れて、「喰いたいものを喰いたい時に喰うのが一番だな」などといって爪楊枝《つまようじ》をくわえてどっかへ出かけてしまう。全くいい気なもんで、台所は台風が通ったあとのように、手もつけられない有様、やっちゃんが手をつかねてベソかいて立ちすくんでいる。
くっくっくっと一人で思い出し笑いをしていた清さんがたまらなくなったといった顔つきで、
「そういやあ助さんがラクちゃんと一緒になる時もおかしかったなあ、なあおい」
助さんに顎《あご》をしゃくってみせた。
「ああ、あん時ゃ驚いた、本当に殺されると思った」
助さんは、思い出すだに恐ろしいといったていで首をすくめた。清さんは坐り直して頭《かしら》にいった。
「頭きいてよ、この助の奴いつの間にかラクちゃんと出来ちまいやがってね、そりゃいいんだけど、頭んちの先のやまよしって帯屋があったでしょ、あすこにちょっと色っぽい年増の事務員がいたんだけど、これともいつの間にかおかしくなってね」
「おお知ってるよ、あの色の白いちょいと目立つ女だ、この野郎あれにもちょっかい出してたのか、あきれけえったもんだ」
頭は助さんの肩をゲンコツでこづいた。
「どうも面目ねえ、色男はつらいよ、女がほっとかねってえやつでね」
と助さんもニヤついている。清さんはかまわず、
「ラクちゃんが気が気じゃねえんだよ、こいつがはっきりしねえからね、ちゃんと一緒になってくれるんなら浮気もゆるすけど、どっちつかずじゃなさけないって、もっともな話だけど、まあ焼き餅だね、ビスビスしてるところを旦那に見つかって、言いつけちゃったんだよ、そしたら旦那が怒って、助の野郎とんでもねえって、そこへ又この馬鹿が、いい間《ま》の振りして濡れ手拭を肩にひっかけ、クリームなんぞぬたくりやがって、湯からけえって来たんだよ」
と助さんを指さす。助さんはすぐに引きついで、
「旦那がね、いきなり台所から柳刃を持ち出して、ぶっ殺してやるって、こうだもの、俺はもうびっくりしてあわててはばかりへ逃げ込んで中から鍵《かぎ》かってふるえてたよ、旦那は助、あけろって、ガンガン戸をたたいて、そのうち板戸の隙間から包丁を押しこんでギシギシやるんだよ、おさえてる手のところへ刃がとび出して来るからもう、胆をつぶして窓から飛び出しちゃったよ」
と汗をふきふき大きな身振りで話す。頭も謙一も幸二も腹をよじった。清さんが引きとった。
「この野郎、あの狭い露路をどうやって抜けたのか、裸足《はだし》で水天宮まで逃げてっちゃったってんだよ、あげく家へ来たんだけど、寒空に素あわせ一枚で、方々傷だらけ、与三郎みてえなかっこうで飛び込んで来たってうちの嬶が驚いてやんの」
「そういやあ清さんちは玄冶店《げんやだな》だなあ、舞台もきまってるじゃねえか」
頭があいの手を入れる。
「あん時は、旦那の茶目っ気で、前からちゃんと事情はわかってたんだぜ」
と清さんがニヤッとする。
助さんがあわてて、
「いやそれがね、冗談とは思えなかったんだよ、普段が普段だからほら、普通の人と違ってわからなくなると本当にわかんなくなっちゃう人だったからね、あの人は」
と言い、それで一同大笑いしたが、ハナは「……人だった」という言い方にあらためて胸を突きさされたような痛みをおぼえた。
翌日は朝から花ぐもりとでもいうのか、かすみがかかったようなうそ寒いいやな天気で、今にも雨が降りそうだった。気の重くなるうっとうしさの中で葬式のしたくをした。告別式は一時からで二時に出棺ということだった。腹にひびくような読経の中で、弔問客にむかってハナは、家族や親類と共に頭を下げていた。不思議に哀《かな》しさは感じられずただ空《むな》しくうつろで、ハナ自身がぬけがらになったように喪服だけがハナの形でそこにいるといった感じだった。やがて出棺になり、家族一同で祭壇から棺をおろして、おとうちゃんに最後のお別れをして、棺に釘《くぎ》を打つ時がきた。おとうちゃんの顔は昨日よりやや黒っぽくなったように思えた。静かな死に顔だった。妹のハツが声を上げて泣いた。
「棺の中に涙を落しちゃいけないよ、仏が浮かばれないというから」
と清さんがいった。ハナは落ちついているつもりだったが、膝《ひざ》がしびれたようにガクガクして、石を持つ手がワナワナと震えてとどめようがなかった。みんなの手で棺が表に止っている自動車に運ばれた。大勢の会葬者で道路はうまっていた。制服の巡査にまじって、例の半纏姿で頭が交通整理をしていた。棺を車に納めると、謙一が挨拶をした。
「本日は故青山次郎のために御会葬下さいまして誠に有難うございました……」
途中から雨が降り出した。いつ降り出したかもさだかでない細かい霧のような雨だった。嫁の槇子にうながされてハナは車に乗ったが、ふりかえると窓の中に、雨にうたれて小さくなって手をあわせているおばあちゃんの姿が見えた。どういうものか息子に先立たれた時は、年寄りは焼場までついていかないもんだとのこと、今にも消えいりそうなおばあちゃんが肩を落して佇《たたず》んでいる姿が何時《いつ》までも目の中に残っていた。
大きく重そうな鉄の扉が閉められ、止金がおとされた。ガチーンとその音があたりにつめたくひびいた。グレーの作業衣を着た白髪の男が扉にむかって軍手の手をあわせて一礼すると、ハナたちの方にむき直って、
「しばらくの間、あちらの控室でお待ち下さい」
と小さな声で、ぼそぼそと呟《つぶや》くように言った。ハナたちは、もう一度扉に手をあわせた。ハナはこれでもう本当におとうちゃんの顔は二度と見ることが出来ないんだと自分にいいきかせた。今度この扉をあけた時には、おとうちゃんはうすく煙の立つ白い骨になって出てくる。つい三年前に同じようにして送ったおじいちゃんのことを随分昔のことのように思い出した。
謙一たちに従ってかざりけのないコンクリートの廊下を指し示された控室の方へ歩いた。謙一に嫁の槇子、槇子の母親と妹が、孫を一人ずつ抱いている。幸二に、清さん、助さん、頭《かしら》もいる、太郎もハナの親類もみんな肩を落して歩いて行く。渡り廊下へ出ると山吹の花のあざやかな黄色が、場所に不似合な華やかさであふれていた。ハナは広い中庭に突き出た軒の下に出て、ぼんやり立ち止ると、雨足をすかすように眺めていた。
おおいかぶさるように低くたれこめた灰色の空から、絹糸の雨が音もたてずに降り続いている。目の前に桜の木が一本、散り遅れた花が寒そうに震えている。足もとには、花ビラが敷きつめられたように残り雪の風情で地面にはりついている。時々はらりとピンクの小片が舞うでもなくしたたり落ちる。
花は散るもの、人は死ぬもの、生者必滅のことわり知らぬわけではないが、あまりといえばおとうちゃんの死は唐突だった。前の晩大好きなトンカツをたら腹喰べ、テレビを見てニコニコしていた男が、翌日あんなに簡単にポックリ死ぬものだろうか、いまだにハナには信じられない。いい死に方だの、うらやましいだのと、いくら言われてもあきらめはつかない、死んだことには変りはない。三十年も一緒に暮してきて、おとうちゃんが手足や影と同じように自分にくっついているのがごく当り前、何の不思議も感じなくなっていたものを、急に身ぐるみはがれた心持で、たよりないやらうそ寒いやら、どこにすがろうにも手がかりがなく、いやな夢にうなされているおもいで胸が悪くなる。おとうちゃんと一緒にいればたとえうとましくとも嬉しくとも、とにかく押せば返ってくる手ざわりがあった、それが無くなれば自分が生きてるのすらたしかめようがない。「おいハナ帰ろうぜ」と今にもうしろから声かけられそうで、ハナは立ちすくんだまま振りむくことも出来なかった。あらためて流れ落ちる涙を拭おうと、ハンカチを持ち直すと、われ知らず握りしめていた将棋の駒が、手の中でじっとりと汗ばんでしめっている。
「おとうちゃんあたしと一緒にいて幸せだったの」
声に出さず胸の中で問うて見ても、いまさらたしかめるすべもないのがつくづく切なく、何の挨拶もなくせっかちに死に急いだおとうちゃんが憎らしく思えてきた。
でも面白い人だった……。
最後まで自分勝手だったおとうちゃん、今頃は彼《か》の地で、手をポンポンとはらって、ニコニコしながら「おしまいチャンチャン」と言っているかも……。
ハナははてしもなくあふれ出る涙をもてあまして立ちつくしていた。
この作品は昭和五十六年四月新潮社より刊行され、昭和五十九年八月新潮文庫版が刊行された。