わかっちゃいるけど… シャボン玉の頃
〈底 本〉文春文庫 平成三年九月十日刊
(C) Yukio Aosima 2000
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わかっちゃいるけど…
シャボン玉の頃

その1
シャボン玉 ルルルルルルル
シャボン玉 ラララララララ
ロマンチックな夢ね
丸いすてきな夢ね
リズムにのせて
はこんでくるのね
ホリデー ホリデー
シャボン玉
シャボン玉 ホリデー――
これを読んで、おや、どこかで聞いたことがあるぞとお思いになる方が居たら、確実に二十五歳以上のはずで、メロディまで憶えていて思わず唄ったりしたら三十歳以上の方々に違いない。
「シャボン玉の頃」なんていうサブタイトルを見て若い人達は、いったい何のことだと戸惑われたと思うけど、実は、昭和三十六年六月から始まった日本テレビの人気番組に「シャボン玉ホリデー」というのがありまして、これに私が深くかかわりあっておりましたので、その頃のお話をしようというわけであります。
冒頭にかかげましたのはそのショー番組のテーマソングで、さだかには判りませんが、第一回目の台本を書いた前田武彦氏の作になるときいております。
レギュラー出演者は、ザ・ピーナッツにクレージーキャッツ、それにそのつど人気タレントが多数ゲスト出演するというわけで、一時はかく申す青島幸男も準レギという感じで顔を出しておりました。
このショーは延々と続きまして昭和四十七年十月に終わったんですが、一番盛り上がったのはなんといっても三十七年、三十八年、三十九年、
「いやその面白さといったら他に類を見ないね。日曜日の六時半には何が何でも家へすっとんで帰ったもんね」
と有識者が異口同音に叫ぶほどの評判でありまして、老いも若きも猫も|杓子《しやくし》も皆見たという驚くべきもので、その頃の平均視聴率はなんと三十数パーセントでありました。実はこの最盛期に私が台本を書き出演していたのであります。
(SE)  ジャン[ディスク]
PA 牛乳石鹸提供!
PB シャボン玉ホリデー!
入江美樹シャボン玉をふくらませている。
(M)  ハープの音[テープ]
田舎の高校の教師ハナ肇とシャボン玉高校と書いた旗を持って並んで立っている学生服姿の谷啓、|下手《しもて》に学生多数(出演者一同)。
ハナ(東北なまり少しあり)静かに、皆静かにしなさい。只今より待ちに待った修学旅行に出かける。先生の言いつけを良く守って、まちがいのないように、いいな、では出発する。谷君。
谷、胸の所に下げていた笛をくわえて吹くが、音が出ない。あれっといった感じで、笛をたたいたりする。
一同谷をじっと見ている。
谷、少しあわてて、笛を吹くが音が出ない。真剣な顔つきになって、一つ大きく息を吸い込んで力まかせに笛を吹く。
(SE)  突如として牛の鳴き声 モーッ[ディスク]
学生達も教師も全員いっせいにこける。
(M)  ファンファーレ[テープ]
盛大に舞い上るシャボン玉にダブッてピーナッツ。
PA シャボン玉ホリデー
PB 修学旅行だ
PA PB ピーナッツ![生音]
(M)  テーマソング
シャボン玉 ルルルルルルル
シャボン玉 ラララララララ
とまあ、突如として台本の形式で書き出したので驚かれたかも知れないが、突如として何か起こるのがこのショー番組の特色でもあったのであえて強行してみました。
カッコしてSEとあるのは、サウンドエフェクト、つまりは効果音のことであり、Mは音楽、[ ]でかこってあるのは出す音の種類であります。台本を書いていて乗って来ると、「ポンカラキンコンカン」とか「ハラホレヒレホ」なんてわけのわからんこと書く作家もいたりしてディレクターもびっくりでした。
PA、PB、と書いてあるのは、勿論ピーナッツ姉妹のことで、ヒデちゃん、ツキちゃんと、ちゃんと名前はあるわけだけど、なにしろこの双児の姉妹がそっくりだから、相当親しく付き合ってても、いつでも、どっちがどっちかわかんなくなっちゃう。すっぴん(素顔)の時に見るとホクロの位置が違うし、たしかに区別はつくんだが、化粧をすると二人とも同じところにホクロを書き込んじまったりするから余計にまぎらわしい。
体つきから声まで似てる二人が、まったく同じ衣装を着てるんだから困ってしまうわけだ。
あの当時のピーナッツは十八歳くらいだったんじゃないかな……、なにしろ可愛らしくてキレイだった。セットの高い所へ上がったりする時スタジオに居た男どもは、先を争って手をかしたり、図々しい奴は抱きかかえて、もう大丈夫だって言うのになかなかはなさないなんてこともありました。
二人揃って唄はうまいし踊りも抜群で、第一熱心だった。今考えてもすばらしいタレントでした。
以上の理由でPA、PBと書いてたわけだけど、あとになって引きついで「シャボン玉……」の台本を書いていた弟子どもの原稿を見たら、やっぱりPA、PBとやっていたんでおかしくなりました。
シャボン玉をふくらませている入江美樹と書いたが、その入江さんこそ、今をときめく世界的指揮者、小沢征爾氏の奥さんです。
彼女も当時は二十歳前後で、超一流のファッションモデルだった。これまた実に美しく性格も明るく無邪気でスタジオの人気者だった。ベラ、ベラと愛称で呼んでいたが、どこに居ても彼女のまわりには後光がさしてるようで、あたりを明るく照らしているようでした。
あどけなくて、当時大きなセルロイドのアヒルと一緒じゃないとお風呂に入らないという噂が信じられていました。
一度私が一計を案じて、海辺を舞台にした台本を書いて、全員が水着にならなきゃならないように仕組んだ。当然ディレクターはベラにも水着で出るように要求します。彼女はいやだいやだといって、大きなタオルで身をかくしていたが、いよいよ本番ということになって、ライトの下に水着姿をさらすことになりました……。いやーこの姿の美しいことといったら、カメラマンも照明さんも出演者一同も、あっといってしばらく息を呑んだものでした。
台本の話にもどりますが、この番組では、いつでもショッパナに、本日お送りするテーマを象徴する一場面があり、必ずモーッというとてつもなく大きな牛の鳴き声が出るというのがきまりになっております。これも最初の頃書いていた前田武彦君のアイデアときいたことがあります。なにしろ私はこのシリーズには途中参加したので初めの頃のことはよくわからない。参加のいきさつについてはまたあとで書きますが……。
牛の声が出るのは、スポンサーが牛乳石鹸だからでありまして、あまり深い意味はない。なんでもいいんですが、きまりがあるってことはシリーズを続けて見ていてくれる視聴者にとっても親しみの増すことでありまして、これもあとで書きますが、有名な「お呼びでない」とか「お|父《と》っつぁん、おかゆが出来たわよ」などに見るとおりであります。
この出だしの場面も、必ずいまに牛の鳴き声が出るぞ、出るぞ、出るぞと思いながら茶の間の皆さんは、見ていてくれるわけですから、書いているこっちも気を使うわけです。
いかにその回のテーマを簡潔に陽気に面白く見ていただけるか、そこで無い知恵をしぼることになるんであります。これがうまくいけばもうこっちのもの、あとには楽しい唄も踊りもそろっていますから、もう見る人にチャンネルは変えさせません。
例えば「西部へ行こうピーナッツ」なんてことになると、当時の台本によれば、
ハナ肇、西部劇のスタイルで馬にまたがっている。大平原をバックにして、(クロマキー使用)ローハイドの、ギル・ヘイバー風に大いにイキがる。
ハナ、馬上で背すじをのばして振り返り、
ハナ さあ行くぞ、シュッパーツ。
ハナ、手綱のはじで勢いよく馬の尻を打つ。
馬、首を振り上げていななこうとする。
(SE)  突如牛の鳴き声 モーッ[ディスク]
ハナ、驚いて馬からころげ落ちる。
とこうなるわけであります。途中カッコ内にクロマキー使用と書いてありますが、私にもよく判らないんですが、電気的なフィルターの操作によるものらしく、ブルーの色だけ抜けるようになっていて、ブルーのカーテンの前に居るハナちゃんが、別のカメラで撮った大平原の景色に重なってうつると、まさにそこに居るかの如く見えるわけであります。
次に出てくる、ローハイドってえのは、当時人気の高かったアメリカ製の西部劇で、ギル・ヘイバーという名の牧童頭が、いく人かのカウボーイとともに、何千頭もの牛を追って西部の荒野を何百キロも旅して行くというシリーズで、フランキー・レインの唄う、ローレン、ロレン、ローハイドというテーマソングとともに茶の間を|席巻《せつけん》していたものです。
なんとなんとそこにですよ、バート・レイノルズと並んで今アメリカの映画界で、最も動員力があるといわれている大スター、ダーティハリーのクリント・イーストウッドが、純情なカウボーイとして出ていたんですよねー、驚くじゃありませんか。なつかしいですね。こわいですねえ……。思わず淀川さん調になりましたがまさにその通り。
またしても話をもとに戻しますが、この時の牛の声は、勿論馬が牛の声で鳴くところがミソなんですが、どうもディレクターの秋チンはあんまり気に入ってないみたいでした。
秋チンなんて名前が突如飛び出したんで驚いている人もいるだろうけど、これがレッキとした日本テレビのディレクターで私と同い年だから当時三十ちょうどぐらいのいい大人。本名は秋元近史ってんだけど誰も本名なんて呼ばない。日本テレビはおかしなところで、名前の呼び方が馬鹿げています。顔がギニョール人形に似てるから「ギニョ」とか「ハラックス」「エンチ」「ターサマ」なんてわけ判んない名が今でも通用しています。秋チンはいった。
「青ちゃんさあ、そりゃ馬が牛の声で鳴くってのも面白いけどさあ……」
この青ちゃんと呼ばれてる男は勿論私のこと。
「馬が気に入らないんだよなあ。いくら高津に細かくいったって、もって来るのは芝居で使ういかにも作りものって感じの馬だろ、あれがいやなんだよなあ。すぐ底がわれちゃうもんなあ……」
といった。高津というのは映画の撮影所やテレビ局へ、さまざまなものを貸し出している道具のリース業者のことであります。
「少しくらい金や手間がかかってもいいから、本物の馬連れてこようかスタジオへさ、本物の馬」
「そりゃ本物にまさるものはないけど、とりあえずモーッて鳴かせなきゃ|さげ《ヽヽ》にならないぜ」
これは私。
「だからヒヒーンでもいいんだよ。そこはタイミングよく、スタジオの|生音《なまおと》を切って、ディスクで入れかえるからさあ」
「そりゃいいけど、そんなに都合よく鳴いてくれる馬いるかね」
「そこだよ、なんとかなんない、ねえ青ちゃん。そういう馬さがしてよ」
平気でこんな無理なことを言う、私にそんなの探せるわけない。第一ハナが馬に乗れるかどうかだってわかりゃしない。
「じゃさあ、こういうのどう思う、牛を連れて来るのよ、牛を」
「そいでどうすんの」
「そいでさあ、谷啓がさあ、おい牛、モーッて鳴いてみろ、ホレ、モーッて鳴けっ、ってけしかけるのね」
「そこで牛がうまく鳴くかね」
「そりゃ鳴いてくれればめっけもんよ。谷啓が、ハレホレ、ハレホレって逃げてっちゃえばいいんだよ」
「鳴かないと思うなあ、おれ……」
「鳴かなかったらさ、けしかけてる方の谷啓の方がカメラ見て、|一拍《いつぱく》あってさあ、モーッて鳴くの、これどう、そうすると牛があわてて逃げてっちゃうっての、これ面白いなあ、ねッ、ねッ、これいこうよ」
「そんな芝居出来る牛いるかなあ」
「だからさあ、それ青ちゃん探してよ」
とまあこんなやりとりがあって、そしてやっとさきほどお示ししたところに落ち着くのであります。放送作家も楽じゃなかったです。
イントロの部分ではいろいろと面白い仕掛けを考えましたなあ。なにしろ私が書いたものだけでも二百本くらいはあったんでしょうからね。
忘れましたねえ。台本を保存しとけばよかったんですが、手元にあるのは十本たらずで今考えるとまことにもったいないことをしたもんです。当時は生放送ですから、放送が終了すると台本なんかポーンとおっぽり出してどっかへ酒を呑みに行っちまうわけですから、よっぽど几帳面な奴じゃなきゃ整理して取って置くなんてことしません。
そういえば神田の古本屋で昔の「シャボン玉……」の台本二十冊くらい束にして売ってたって話をききましたが、五十万円って値がついてたそうです。持ってりゃ良かったと思うけど仕方ありません。もっとも当時はアイデアなんていくらでも湧いてくると思ってましたから何のこだわりも持ちませんでした。
思い出しながらいくつか書いてみましょうか。まず受験シーズンをテーマにした時のヤツ。
神社の前、書き割りの前に、|賽銭箱《さいせんばこ》があり、上から紅白のひもがついた鈴が下がっている。
植木の受験浪人、ブックバンドでしばった二、三冊のノートや本を持ち、くたびれた学生服姿で怒っている。
植木 神様よーっ、あんまりじゃないの。
今年で三回目よ、一回くらい願いかなえてくれてもいいでしょう。二回目からは国立やめにしてランク下げてるのよ、入学祈願の絵馬だっておさめたし、賽銭だって随分出しましたよ、これじゃまるで詐欺じゃないの、泥棒だよ、えーっ、くやしかったらなんとか言ってみろよ、えーおい、なんとか言え!
(SE)  突如牛の声 モーッ[ディスク]
植木、びっくりして腰を抜かし、はいずりながら逃げて行く。
続いては「気軽に殺そうピーナッツ」というタイトルで、これも当時大いに受けていた「アンタッチャブル」のパロディをやった時のもの。
(クレーンローアングル)
クレーン前、手を挙げて並んでいるギャング姿のクレージー一同。
(クレーン上がる)
スリーファンキーズの扮する別のギャングの一派がピストルをかまえている。
谷のギャング現われる。谷、持っているギターケースの中から機関銃を取り出してかまえる。
谷 むこうを向け。
クレージー一同カメラに振りむく。
ハナの親分一人だけ谷の方をむく。
ハナ おいやめてくれ、射つな助けてくれ頼む。
縄張りはかえす。金ならいくらでも払う。
谷 うるせえ、むこうをむけ。
ハナ やめてくれ、たのむ……。
ハナ、ひざまずいて谷ににじり寄りゆるしを乞う。
谷、ハナの肩口をつめたくけとばす。
谷、いきなり機関銃を掃射する。
クレージー一同のたうちまわって倒れる。
谷、ニヤッと笑って、キザに機関銃をなで、銃口をふっと吹く。
(SE)  突如牛の鳴き声 モーッ[ディスク]
谷、大いにうろたえて銃口をのぞいたりする。
ファンキーズ、互いに抱き合う。
ってなもので……。そういえばスリーファンキーズってのも当時はたいへんな人気トリオで、若い|娘《こ》にキャーキャーいわれておりました。あの頃親衛隊だったギャルも今はもう皆いいおばさんになってるんだろうなあ。もっともこっちも結構いいおじさんになったもんね。
それにしても相変わらず馬鹿なこと書いてて困ったもんだね。
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その2
キョン おとなの漫画
キョン 出演・ハナ肇とクレージーキャッツ
キョン 作・青島幸男
(キョンはピアノの音。当然スタジオにはグランドピアノはあったが、これを使うと千五百円の使用料をとられた。それがくやしいとわざとおもちゃのピアノを使っていた)
昭和三十四年、フジテレビ開局と同時にスタートした名物番組「おとなの漫画」はこんな出だしで始まった。前章でお話しした「シャボン玉ホリデー」に私が作者として参加するおよそ二年前のことであります。なにしろ昼の十二時五十分からの毎日休みなく放送する生番組だったから関係者は大変でした。
今や作曲家として一家をなしている|椙山《すぎやま》浩一がフジテレビへ入社したばかりの新米ディレクターだった頃のお話……、今考えると無茶なことをしたもんだとつくづく思うが、当時だって相当思い切った企画だった。
出演するクレージーキャッツってチームも、まだ海のものとも山のものとも判らず、時々、テレビで見る程度、当時|流行《はやり》のジャズ喫茶ではそこそこの人気を得ていたにしろ、無名に近いものでした。
現に私はこの番組を通してお初にお目にかかったわけですからして……。
作者としてむかえたのは、売れっこのライター、キノトール、三木鮎郎、永六輔の三氏、私はといえばかけ出しの放送作家で、多忙な三人に何か不都合なことが起こった時の穴埋めのための要員、つまり補欠ということで呼ばれたのでありました。
|椙《すぎ》さんも若気のいたりで、一発ぶち当てようと気負い込んで企画は出したものの一体どんなものが出来るのか自分でも判ってないみたいでした。
実際に放送が始まってるのにまだ基本路線がきまらないという有様でありました。
そのうち作家のお三方はあきれかえって逃げ出してしまい、補欠の私がキリキリ舞いをさせられるはめになったのであります。
いずれにしてもこれが、青島幸男がテレビライターとして世に出るキッカケであったわけです。
初めて逢ったクレージーの面々というのは実に恐ろしげな男達に見えましたなあ、ハナ肇は黒の革ジャンパーか何かで、こわい眼つきで鼻の頭に汗を光らせていて、谷啓は真黒なサングラスをかけていたようです。植木屋(植木等のことを私たちはそう呼んでいた)はオープンシャツに派手な背広をひっかけて、スパスパ煙草を喫っていたし、|剽軽《ひようきん》なエータロー(石橋暎太郎)や、人のいい、ワンちゃん(犬塚弘)や安さん(安田伸)まで、妙に押しだまっていて、まるでギャングの集団のようでした。
この人達が何かおかしなことをやるんだとは夢にも思えませんでしたなあ。
そのうちにだんだん気心が知れてくると、番組も軌道にのってきた。視聴率もグングン昇り、フジテレビの人気番組の一つにのし上がりました。
それにしても作る方は大変で、前日の夕刊からネタを拾い、ウンウンうなってもアイデアがまとまらないなんて時は死ぬ思いだ。
「えーい今夜は酒呑んで寝ちゃって明日の朝刊から何か|掴《つか》もう……」なんてやけ起こしたら翌日また大変、メシ抜きで書き続けて、大あわてで車に飛び乗りテレビ局へつっ走る。
ひどい時は、本番までにあと一時間もないなんてこともありました。
出演者もスタッフも玄関で待ってて、順番に生原稿を廻し読みして、その時はじめて今日何をやるかが判るって寸法だ。
「セットはどうなるんですか」
フロアマネージャーが真青な顔つきでききにくる。
「街路と、喫茶店と、交番、むろん抽象的なやつでいいのよ」
私もあわてて答える。
街路ったってホリゾント前に電柱が一本立ってるだけ。喫茶店は、テーブルのセットに大きめの鉢植えが置いてあるきり、交番はスチールデスクに電話がのせてあるといった具合。
出演者もそれぞれ巡査とか、学生とか母親なんて指示してスタジオに入る。
照明さんがあかりを仕込み、音声がブームを振りまわし、やっとカメリハ(カメラリハーサル)が始まるのが五分前、途中で時間がなくなって最後まで行かないうちに生本番に突入するってなこともちょくちょくありました。
これでよくまあたいした事故も起こさずにやってきたものですなあ。
神経がすりへって胃が悪くなったって当り前なのにみんな元気でやってきたってのは、どっか馬鹿なのかなあ……。
そういえばおかしなことがありましたなあ。
谷啓がヤクザに扮して出てきた時に、頬の刃キズに地図に書いてあるみたいな電車の線路をかき、駅まで入れてきたことがあった。
生本番ではじめてそれを見た植木屋が笑い出してしまい、おさまりがつきません。
仕方なくハナが画面に入って収拾しようとしたがこれがまた吹き出してしまい、安さん、|犬《ワン》ちゃんと波及して、不思議なもので、笑っちゃいけない時って、やたらおかしいものでカメラマンまで笑い出し、モニターの画面までこまかくふるえている。それがまたおかしいと、全員がケッケ、ケッケとただひたすら笑ってるだけで放送時間がお|終《しま》いになっちゃった。
あとで、この日のが今までの中で一番面白かったなんて投書が来たりして作者としてはひどくげんなりしたのを憶えています。
四月一日のエープリルフールも面白かった。冒頭のタイトルが終わるとすぐにテレビの画面に横線の|縞《しま》模様が走り、放送が中断した感じになる。見ている方が「おやっ」と思って調整つまみに手を出しかけると、いきなり横線がなくなり、植木が例の人を喰ったような笑い方で画面一ぱいに顔を出す。
「ケッケッケッ、お宅、いまこれやったでしょう、これ、ねっ」
といいながら受像機のつまみを調整する手つきをする。
「ケッケッケッ、エープリルフールのいたずら、ケッケッ、こりゃシャクだったねーっ」
と今までカメラの前でゆすっていた、横線入りのボール紙をあらためてこまかく揺すって見せる。スタジオの中は大|うけ《ヽヽ》に|うけ《ヽヽ》て大爆笑。
ところがこのギャグのおかげで、椙さんはとんだ大目玉を喰らわされることになった。
つまり技術室の連中がすわ事故発生と大慌てにあわて、マスター室の技師も仰天、中継室も中継を受けている局の技術者達も一時は一斉にぶっ飛んで、やがてカンカンに怒り出し、ディレクターに抗議が殺到したというわけであります。
これにこりずにハナちゃんが、エータローとしめし合わせてまたこのいたずらをやった。
冒頭に示したタイトルのところで、まずエータローが、ピアノの鍵盤をたたくふりをする。ハナが口だけうごかして声を出さない、これをシレッとした顔で生本番で打合わせなしにやったから、今度は音声の係がぶっ飛んだ。コマーシャルの間にスタジオへすっとんできて、マイクやコードを慌てて点検しはじめた。
この時もマスター室や中継の技術者達が大騒ぎになって、椙さんはまたしても、
「以後この種のギャグを行なう時は、事前に左記へ連絡して了解をとり……」
という趣旨の始末書を書かされたときいています。
クレージーキャッツの面々は皆|一《ひと》くせも|二《ふた》くせもある連中だが、中でも初対面の時からひとに最も強烈な印象をあたえるのが植木屋で、あのなんともすっとぼけた顔つきと、人を喰った態度には誰でもびっくりさせられる。
病弱な母親を踏みつけ、泣いてすがりつく妹を張り倒して、大事にしている婚礼衣裳をむしり取り、酒代に替えてあばれ廻ってテンとして恥じない、なんて役どころがぴったりに見えます。
ところが実際の植木屋は、酒は一滴も呑まない堅物で、律義で実直そのもの、まったく人は見かけによらぬものとはよく言った。
こっちは面白がって植木屋に無責任な役ばっかり当てるから、世間にはますますそのイメージが定着していきました。
チョイと一杯のつもりで呑んで
いつの間にやらはしご酒
気が付きゃホームのベンチでごろ寝
これで体に良いわけゃないよ
わかっちゃいるけどやめられない
アホレ、スイスイスーダララッタ
スラスラスイスイスイ
スイラスーダララッタ
スラスラスイスイスイ
スイスイスーダララッタ
スラスラスイスイスイ
スイスイスーダララッタ
スーダララッタ スーイ スイ
突然歌詞が出てきてびっくりしたかも知れませんが、これがかの有名な「スーダラ節」という奴で、青島幸男一代の傑作ともいわれ、一時は日本国中|烏《からす》の鳴かない日はあっても、スーダラ節をきかぬ日はないとまで|喧伝《けんでん》されたヒットソングなのであります。
時あたかも我が国は高度経済成長期へむかって|驀進《ばくしん》を開始した時期であり、学歴も年功もあるものか、実力第一主義、能率最優先、義理も人情もおかまいなく、図々しい奴が勝ちというような風潮が|横溢《おういつ》していて、明日は明日でなんとかなるさと誰もが浮かれていました。
このムードに乗って、「スーダラ節」はグングン売り上げを伸ばし、スーダラ社長、スーダラ社員などというわけの判らん言葉も出てきて、世はまさに無責任時代と呼ばれ、明白に一つの社会現象になってしまったのであります。
ひと眼見た|娘《こ》にたちまち惚れて
よせばいいのにすぐ手を出して
だましたつもりがチョイとだまされた
俺がそんなにもてるわけゃないよ
わかっちゃいるけどやめられない
*(くりかえし)
ついでだから三番も書いちまおう。
ねらった大穴見事にはずれ
頭かっとくる最終レース
気が付きゃボーナスはスッカラカンのカラカラ
馬で金儲けした奴はないよ
わかっちゃいるけどやめられない
*(くりかえし)
とこうなる。
「まさに呑む打つ買うの人間の三大|煩悩《ぼんのう》を平易にとり上げ、しかもこれを『わかっちゃいるけどやめられない』と愚かしさとともに肯定的に唄い上げたところが新しい」などと持ち上げてくれた評論家もいたし、なかには「スーダラ」とは|梵語《ぼんご》で煩悩を表わす言葉であると解説してあるのまでありました。
脱線のついでにスーイスイスーダララッタの発生の起源を御披露してしまおう。
ある晩植木屋の家で突如電灯が消えた。一家|団欒《だんらん》を中断されて一同大騒ぎ。植木屋はここで父親の威厳の見せどころと、「あわてないあわてない……」ってなことを言って立ち上がり、
「ドライバーを持ってきなさい」
とか、
「ホレ、その懐中電灯でもっと上を照らしなさい、やっぱり踏み台がいるなあ……」
などと女房子供達を騒動員してことに当ったがどうしても直らない。とうとうかみさんが|業《ごう》をにやして近所の電気屋へ電話をした。
電気屋はきてくれたがこれが十六、七の坊や、一同不安気に見守るうちに、ズカズカ家の中へ上がりこんでチョコチョコと直しちゃった。
明るくなった電灯の下で一家の|主《あるじ》植木屋は立場を失った。バツが悪いもんで帰りかける坊やの後をノコノコと歩いてさかんにおせじなんか言ってた。
坊やはすっかりその気になって、植木屋にはわざと鼻もひっかけないといった感じで、得意満面、道具をしまいながら小鼻をふくらまして、
「ススラ、スーララッタ、スラスラスイスイスーイときたか……」
ってなことを鼻唄まじりに歌いながら肩をゆすって帰っていった。
植木屋が翌日さっそくメンパーの前でこの一件を得意の仕方ばなしで語ってきかせてくれました。
一同大ウケにウケた。
特にこの「ススラ、スーララッタ」の所がやたらにおかしいというので、これから仲間うちの流行になり、何か得意になるようなことがあると皆でこれをやりました。
マージャンで役満上がった時なんか、この「ススラ……」をやりながら点棒をこれ見よがしに集めるなんてのが馬鹿に面白かったのであります。
それでこの「ススラ……」をそのまま歌詞のうしろへくっつけちまおうということで出来上がったのが「スーダラ節」、実に何とも無責任というかC調というか、とかく当る時なんてのは何がきっかけになるかわからない。
この原稿を書くにあたって、あらためてレコードを聴いてみたが、植木屋の唄は勿論いいけど、実にすがすがしく、カラッと抜けてるメロディをつけ、馬鹿陽気な奇妙|奇天烈《きてれつ》なアレンジをしたデクさん(|萩原《はぎわら》哲晶)の偉大さにあらためて感心させられました。
嘘だと思ったら聴いてごらん、実になんとも驚きでありますぞ。
この録音の時がまた面白かった。えー私も一応作詞家として立会ったのでありますが、いつもの雰囲気とまるで違うのです。はじめから終わりまで笑いっぱなし、どうやら録音を終了した時は予定の時間を二時間もオーバーしておりました。
演奏はたしかニュー・ハード・オーケストラだったと思うけど、フル編成のジャズバンド。
ピアノ、ギター、ベースにドラムス、パーカッションを加えたリズムセクション、それに四本のトロンボーンと、四本のトランペット、サキソホンは、アルト二本、テナー二本、バリトン一本と五人が揃い、その上八人の弦と、ファゴットにジューイッシュ・ハープ、特殊楽器を入れると総勢三十人近いメンバー、豪勢なもんだ。
中央の指揮台の上にデクさんが譜面台を前にゆったりと椅子に腰かけていて、
「じゃいってみましょうか。スーダラ節テイク・ワン」
とのんびりした声でクレジットを叫び、メンバーをひとわたり見わたして、
「ワン・ツウ ワン・ツウ・スリー」
と指揮棒を振りはじめる。
派手なブラスセクションの音が間のびしたファンファーレのように素頓狂にひびき、イントロがはじまった。まるでフルオーケストラのチンドン屋といった音だ。
それだけでもかなりおかしいのに、植木屋がまた親不孝声というか、例のわし鼻にかかった胴間声を張り上げて唄い出すからなんとも素頓狂でもう耐えられない。
植木屋は自分が笑い上戸だから、乗ってくると勝手に吹き出しちゃって、
「ケッ、ケッ、ケッ」
例のごとく笑いころげる。何回もごめんなさいが出て、真面目な顔で初めっから唄い直す。(当時は何故かカラオケを別取りせず同録でやった)
今度はうまくいくかなと思ってると、バンドのメンバーの一人が吹き出し、またいっせいにつられて笑い出す。
ひどかったのは、特殊楽器の演奏できてくれていた音大のお嬢さん。しまいには、植木がマイクの前に立っただけでもう我慢出来ない、ついには顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまい、スタジオから飛び出してしまいました。
正直言ってはじめの頃はこの唄がこんなに売れるとは思いませんでした。もともとコミックソングってものは、一時面白がられるけどレコードの売り上げはそんなに伸びないといわれていた、ところが「スーダラ節」は一カ月もしないうちに、十万枚を超え、二十万四十万と伸び続け、ついには六十万枚の大台を超えてしまいました。
レコードは水ものとききますが、実はこの唄はB面として作られたもので、A面、つまり表の売りものは「こりゃシャクだった」という曲で、これも植木が唄っているのですが、こっちはあまり話題にならなかった。
ついでにこのいきさつもお教えしちゃおう。
「おとなの漫画」が大当りして半年くらいたつと、お昼に見られない人々から、夜再放送してくれないかという希望が局へ殺到した。
気をよくしたフジテレビは、夜あらたにクレージーの番組を一本作ろうということになり、折からの週刊誌ブームに乗って「週刊クレージー」という十五分ものを発足させました。
場面転換のブリッジに妙な女がタイツで踊り、このパントマイムが大評判になったりしたの憶えておいででしょうか。そうこれがヨネヤマ・ママコで、結局この番組は政治風刺が強過ぎるというので二年くらいで中止のやむなきにいたりましたが、私らおおいに頑張ったものでした。
この中に「読切りスリラー」というコーナーがあり、これは毎週谷啓の一人芝居で、おしまいに必ず「こりゃシャクだった」というのがきまりになっていて、この言葉がクレージーの流行語の一番手として大いにはやったもんでした。
(M)  不安な音[テープ]
アナ 読切りスリラー――現代の恐怖
(M) (戦慄の旋律)
下から照明をあてた谷の顔のアップ
谷 私がその室へ一歩足を踏み込んだ時、背後で部厚い鉄のトビラが不気味な音をたてて閉った。このトビラはもう二度と開かれないのかも知れないという恐怖に私はおそわれた。外界から完全に遮断され全身の血が逆流するような不快感はぬぐいようがなかった。
私は壁に身をもたせかけて辛うじて不安に耐えた。しかし忍耐にも勇気にも限度がある。ついに私は叫んだ。
「出してくれーっ」
アナ お待たせいたしました。六階、特売場と食堂街でございます。
谷(大いに照れて)こりゃシャクだったなあーっ。
というようなもんでありました。おかげでこのフレーズは全国津々浦々にまで広がってしまい、この言葉をうまくはめこんだ流行歌を作れば当ること間違いなしと誰言うとなく皆その気になって、大いに張り切ったのですが、結果は御承知の通り。
それに反して、どうせ裏だから何でもいいんだと、たった二、三十分で書き上げた「スーダラ節」が大ヒットとなるんですから、本当に世の中わからない。
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その3
昭和三十四年、フジテレビ開局と同時に始まった「おとなの漫画」の成功から、放送作家として着々とポイントをあげた私は、三十六年十月十五日日曜放送の「ウェディングベルを鳴らそうピーナッツ」で、作家として「シャボン玉ホリデー」に参加することになった。
「おとなの漫画」を通じて気心を知り合ったクレージーキャッツが、日本テレビでしゃれた番組に出ているのは知っていたので、なんとかこれに加わりたいもんだと、ハナ肇に口添えを頼むと、
「青ちゃんが書けばもっと面白くなるかもしれないよ」
と、いとも簡単に、秋元近史ディレクターにひき合わせてくれた。
秋チンと呼ばれていたこの男は、ハニカミ屋でとっつきは悪かったが、親しみやすいいい奴で、初対面からすぐに親密につき合うようになった。同じ昭和七年生まれという気安さもあったが、オッチョコチョイで酒好きという共通点がいっそう二人を近づけたのだろう。
一本目の台本にしても、簡単な打合わせで書いた第一稿に即座にOKをだした。
この記念すべき台本が、今、手許にあるので、ついでのことに一部ご紹介申し上げましょう。
(SE)  ジャン[ディスク]
PA 牛乳石鹸提供!
PB シャボン玉ホリデー!
入江美樹シャボン玉をふくらませている
(M)  ハープの音[テープ]
の札の下がったドアがある。
犬塚の牛乳屋来て、あたりを見廻し、鍵穴からのぞく。何も見えないという感じであらためてドアをノックする。
中からパジャマ姿のハナが現われてニヤッとうつろに笑って犬塚の腕の中へヘタヘタとくずれるように倒れる。
犬塚 もしもしどうしたんですね、もし……。
ハナ ……(何か言いかけて……口を開く)
(SE)  突如牛の鳴き声 モーッ[ディスク]
犬塚、大いにうろたえる。
(M)  ファンファーレ[テープ]
盛大に舞い上るシャボン玉にダブってピーナッツ。
PA シャボン玉ホリデー
PB ウェディングベルを鳴らそう
PA PA ピーナッツ![生音]
(M)  テーマソング

結婚披露宴会場の看板(UP)、クレーン前、クレーン上がる。花嫁花婿を中心に、テーブルに着いている祝い客一同。ハナがスピーチを始める。
それに出演その他のテロップがダブる。
(CM)  生

(M)  おてもやん[テープ]
[#地付き]唄 ピーナッツ

結婚式場の|御簾《みす》の前を謹厳な顔をした植木の神主と、石橋、桜井の|巫女《みこ》が通る。三人、引き戸を開けて部屋に入り、突如無作法に涼をとる。
植木は|双肌《もろはだ》をぬぎ、尻をはしょる。
植木 ウー、アチイ、何だってこう忙しいんだろうなー。このくそ 暑いのに、次から次へと来やがって息つくヒマもありゃしねえや。
石橋 何だってネコもシャクシもこう結婚したがるのかしら。
桜井 あ、私、お腹へっちゃってもうダメ。ラーメン来てるわ。
植木 おー、喰おう喰おう。
三人、ズルズルと音たてて下品にラーメン喰い始める。
石橋 まあイヤだ、大きなハエ。
(SE)  ブーン(ハエの羽音)[ディスク]
植木 あっ、ちくしょう、この野郎。
植木、|御幣《ごへい》を振ってあちらこちらとハエを追いかけ廻す。
(SE)  バチーン[ディスク]

(M)  ウェディングベルを盗まれた[テープ]
[#地付き]唄 藤木 孝

教会のステンドグラスからパンダウン。
ハナの牧師の前に犬塚の花婿と入江の花嫁いる。
ハナ(厳そかに)汝はこの者を夫として苦しみも楽しみも共に分ち合い、終生変わらぬ愛を誓いますか?
入江 誓います。
ハナ では花婿は花嫁の指に指輪をどうぞ。
犬塚 え!? あ指輪ね、指輪はと……。
犬塚、もたもたとポケットをさぐる。
ハナ 早く!
犬塚 えーと、どこやったかなー。
ハナ 早く!
犬塚 あ、ありました。
犬塚、入江の指に指輪をはめる。
ハナ では花婿は花嫁にキスをして下さい。
犬塚 え?
ハナ キスをするんです。
犬塚 キスを? 今ですか?
ハナ そうです!
犬塚 いや、しかし、みんな見てるし……。
ハナ 早くする!
犬塚 でも、僕はずかしいなー。
ハナ 早く!
犬塚 いやー(と、ますますテレる)。
ハナ、じれて聖書で犬塚を張り倒し、
ハナ 早くしろこの野郎! 後がつかえてんだから。
犬塚、目を廻す。
(SE)  バチーン!![ディスク]
というようなもんで、秋の結婚シーズンにあたって、三十四年の皇太子の結婚以来、年々はなやかになる結婚式や披露宴の空疎なバカ騒ぎに水をさしてやろうという意図で書かれたものにちがいない。
後年、秋チンが、
「青ちゃんが加わってから、クレージーの笑いが変わった」
と、何かの雑誌に書いていたのを見たことがあるが、たしかに、それまでの「シャボン玉ホリデー」のコントはナンセンスものが主流だった。
私もナンセンスも書かないことはないが、「おとなの漫画」と合わせて日に何本ものコントを生産しなくてはならなかったので、そうそう抱腹絶倒のナンセンスはうみだせず、自然に世相批判、社会風刺ふうのものに行かざるをえなかったのだと思う。
元来、資質として、権力を批判したり、常識をくつがえしたりすることに異常な喜びをもつタチなのでありまして、こういう傾向の作品が多くなってくるのも、当然だったのかもしれません。
根底には、こういう考え方があるんだ、こういうことをオレは主張したいんだ、という明確な目的があればどんなことをやっても許される、という自信があったこともたしかでありました。
コントばかりでなく、作詞家としても、基本にこうした考え方があったのは同様で、本人はその時それほど意識はしていなくても、あとで、出来あがった一連の作品をとおして眺めると、一貫して明確な主張に貫かれていた、ということをわかっていただけるでありましょう。
ことのついでに、私の作詞した唄について話を続けましょう。
スーイスイ、スーララッタと、「スーダラ節」が爆発的に大ヒットしたところまで前章では書きましたが、レコード会社やテレビ局から是非とも第二弾を、という要望があり、元来、乗りやすいタイプの我々といたしましては、すっかり気を良くして、「もういっちょう行こうじゃないか」ってなもんで、作り上げましたのが、「ドント節」です。
タイトルだけ見ても、どんな唄かピンとこないかも知れないけど、メロディを聞けば、|おじん《ヽヽヽ》連中、もしくはこれから|おじん《ヽヽヽ》の仲間に入ろうとする人達なら誰でも知っている、例のこの唄です。
サラリーマンは
気楽な稼業ときたもんだ
二日酔いでも寝ぼけていても
タイムレコーダー ガチャンと押せば
どうにか格好がつくものさ
チョックラ チョット
パアにはなりゃしねェ アッソレ
ドンと行こうぜ ドンとね
ア ドンガラガッタ
ドンとドンと行きましょう
どうです、歌えるでしょう。この唄もヒットしましたなあ、何枚くらい売れたか知らないけど、またたくまに人口に|膾炙《かいしや》したといっても過言じゃないほどでありました。
植木等がソフトの帽子をアミダにかぶり、チョビヒゲをつけ、ヨレヨレの三つ揃を着て、片手に寿司の折かなんかぶらさげた例のスタイルでテレビの画面に現われ、「サラリーマンは……」とやるわけだから、面白いんだけど妙に切実に、実際問題として、サラリーマンにとってはあまり愉快な唄ではなかったに違いない。
批判めいたことをいえば、洒落の判らない野暮な奴といわれそうだし、かといって率先して宴会で唄う気にはなれない、なんとか流行が下火になるのを待つしかない、なんて思ってた人も多いと思う。
現に「あの唄をテレビでやるのやめてくれ、俺は一所懸命やってるし、子供の手前もやりきれない……」といった苦情とも哀願ともつかない葉書がテレビ局に殺到したのも事実だった。
書いた私としては本当のところ会心の作とひそかにほほえんでいたのだ。
卒業、就職の時期に結核を患い、やむなく大学院に籍を置いて、療養生活を余儀なくされ、身の保証の何一つないヤクザな稼業に追いやられた私としては、「サラリーマンがナンボのもんじゃい」とうらみがましく思っていたのも本音だったのだから。
さっきの唄の六節目、「チョックラ チョット パアにはなりゃしねェ」となっているけど、最初は、もうちょっと強力に、「首にはなりゃしねェ」と書いたんですが、渡辺プロ社長の渡辺晋氏が、
「青ちゃん、ちょっとキツイんじゃないか……」
というんで、「パア」に直したいきさつがあります。
当時は、新番組を企画したり、新しい曲を作ろうなんて時は、たいてい上大崎の|ナベシン《ヽヽヽヽ》さんの家にみんなで集まってワイワイガヤガヤやったものでした。
ことのついでに二番も書いてみよう。
サラリーマンは
気楽な稼業ときたもんだ
酒を呑んでもデイトをしても
三度に一度はおやじのツケさ
遠慮するなよグッとあけろ
ツケのきく店また探そ アッソレ
*(くりかえし)
これも四節目の「三度に一度はおやじのツケさ」のところも本来は、「会社のツケさ」でしたが、これまた、
「青ちゃん、これもキツイよ」
という渡辺社長の意見で、すこしおだやかにしたわけでありまして、あのままにしていたらいっそうヒンシュクを買ったのかもしれない。
どだい、歌の作り方からしてイージーなもんで、
「じゃ青ちゃんまかせるから、またなんか面白い詞を書いて」
「まっかせなさい。デクさんと一緒に何かデッチあげてみるよ」
といとも簡単に打合わせを終了して、あとは銀座で呑み合わせ……。
二、三日すると、デクさんから電話がかかってくる。独得なノンビリした口調で、
「どうです、青島さん、できましたかね」
「おおやってるやってる。すぐ終わるよ」
と調子よく答えるが、実は何にもできちゃいない。
それでも慌てず酒を呑みはじめて、ボトル三分の一もあくころには、なんとか恰好がつく。
女房や子供を集めて、勝手なメロディをつけてうたってきかせて、
「どうだ、おい、いいだろう、いいだろッ」
と一人、悦に入っている。
今、考えるとカミさんにとってはいい迷惑だったにちがいない。
それにしても人間クセというものは抜けないもので、いまだに書きあげた原稿を即座に読んできかせているんだから……。
酒の勢いで、夜中に電話してデクさんを叩き起こし、書いた詩を読みあげる。
毎度のことで、デクさんは文句もいわずに電話の向こうで歌詞を書きとめ、ゆっくり読みあげると、
「なかなか面白いじゃないの。ご苦労さんでした。ハイ、お休みなさい」
と、少しも動じた様子がない。
もはや約束の期日はギリギリなので、デクさんは大急ぎで譜面書きにとりくんでいたにちがいない。なにしろ翌日の夕方、ナベシンさんのうちの会合に、二、三曲書いてくるのだから、たいしたもんだ。
さて、ナベシンさんをはじめ、ハナ肇、植木屋、かく申す私、青島幸男とメンバーが揃うと、デクさんは悠然とピアノに向かって、
「では、まず、A案」
とか言って、ゆうべ渡したばかりの詞を、独得の胴間声で朗々とうたいはじめる。
つづいて、B案、C案と三曲うたうのをみんなして拝聴しているわけだが、時にはあんまりバカバカしいので笑いころげることもある。
それからは、先ほど書いたように、カンカンガクガク……。
「A案の前半とB案の後半をつなげるといいんじゃないかな」
とか、
「オレは絶対、C案そのままがいいと思うな。ただ最後にバカバカしいはやし言葉がほしいね」
などといろいろ意見がでて、ついに植木屋がうたいはじめる。
「ここんとこ、うたいにくいんだよなあ。こうやってみたらどうかねデクさん」
と、植木屋が乗ってきていろんなことを言う。
さまざまなアイデアがもりこまれて、一曲ができあがるという寸法だ。
こう書くといかにもスムーズにことがはこんだように聞こえるが、植木屋をのぞいて、全員酒呑んでいるから、関係のないバカ話やワイ談がわりこんできて、話がトッチラかるから、たいてい暁方までかかる。
時には、社長夫人の美佐副社長がわりこんできて話がふりだしに戻ったりすることもあって、なにしろ大変だった。
そういえば面白い話を思い出した。
「二十年くらいあとのことだけどな……、俺が大政治家になっていて、永田町に事務所をかまえているんだ、そこへ晋さんが金借りに来るわけよ」
こういう出だしの馬鹿|咄《ばなし》が受けて、いつも一同ころげ廻って大爆笑だった。
「そいでそいで、どうなんの青ちゃん……」
美佐副社長が、口唇の皮をむしりながら前へ乗り出してくる。
「そいでさあ、俺の秘書に社長が頭を下げて『昔青島先生に|昵懇《じつこん》にしていただいていた渡辺ですが……』ってペコペコしている。俺はそれきいて、判ってるくせに、『どちらの渡辺さん』なんていいながら、ゴルフのパターの練習をしてるんだよ。コロコロってコロがったボールを拾って、社長が卑屈に愛想笑いしながら俺に近づいてくる、なっ」
この辺までくるともう美佐さんすでにふくれっつらをしている。
「ふーん、そいでどうなんの」
「なんだシンさんじゃないの……、えーっ、何、金? 金で済むことなら簡単だよ。これに必要なだけ書いてどうぞ使って下さい、と金額を書かない小切手を渡すわけよ。そうするとな、よせばいいのにシンさんが泣くわけよ。『有難う御座居ます。助かります。うわー』なんてな」
ここまでくると、もう美佐さんは怒り心頭に発して、
「冗談やめてよね。あんたが政治家になってる頃は、うちのは総理になってるわよーだ」
と本気で怒鳴る。一同もうころげ廻って大笑い。
ハナはこの話が大好きで、美佐副社長が来ると、
「おい青島、あの話やれよ、例の奴な……」
と何回でもやらせたがった。
その晋社長もつい先年鬼籍に入ってしまわれた。冥福を祈りたい。祈るついでに、「ドント節」の三番を紹介しておこう。
サラリーマンは
気楽な稼業ときたもんだ
社長や部長にゃなれそうもねえが
停年なんてのァまだ先のこと
競輪競馬にパチンコ、マージャン
負けりゃやけ酒また借金、アッソレ
*(くり返し)
なんとも景気のいい歌で、当時の時代背景をそのまま物語っているようだ。
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その4
なんだか良く判らないけど、只今第二期放送作家黄金時代が到来してきつつあるらしい。
もっともこれは景山民夫とか、高田文夫なんて近頃ちょくちょくテレビに顔を出している若手の連中が勝手に言いふらしているだけの話らしいが、もっとも若手といったって彼らもとうに三十を越えているはずだ。
看板なんかどうでもいい、なんでも図々しくにぎやかにやってもらうのは結構だと思う。
彼らが第一期と呼んでいるのは我々の世代のことを指しているらしいが、たしかに、テレビ時代の幕あけの頃に団子になって輩出した人達がいた。
どこの世界にも、御三家とか三羽烏、四天王なんて呼ばれる連中がいるもんだが、あの頃はいやに数が多かったなあ。
かく言う私の他に、永六輔、前田武彦、中原弓彦(今は小林信彦という名前の方が通りがいいが同一人物)、大橋巨泉、野坂昭如、井上ひさし、五木寛之、藤本義一、神吉拓郎、といったほぼ同世代の若者が(当時はまさに若者だった)、何らかの形でテレビにかかわりあって|飯《めし》を喰っていたんだからにぎやかなわけだ。
あんまりニギヤカにやり過ぎて、柴田錬三郎先生に新聞でこっぴどくやっつけられたことがある。|曰《いわ》く、
「最近、テレビ等に、臆面もなくチャラチャラと間抜け顔をさらしてうかれている放送作家等と称する者共が|跋扈《ばつこ》しているようだが、もとより軽薄子、認めるべき才も芸もなく、愚かしきかぎり、恥を知るべし」
もっぱらあてこすられたのは私と野坂。
「ええ、ごもっともでございます、私どもは軽薄こそ美徳と心得ておりますんで、はい……」
とひらき直って、堂々と雑誌での対談を申し込み、そこはそれ、持ち前の調子の良さですっかり取り入ってしまい、遂には|おとうさん《ヽヽヽヽヽ》とお呼びするまでになれなれしくなった。
柴田先生、はじめはあきれかえっておられたが、後年非常に可愛がって下さった。
野坂は早くから文壇に色気があったようだから、お近づきになりたかったに違いない。
そういえば昔、野坂が、三島由紀夫、吉行淳之介、五木寛之、野坂昭如、と名前の中にユキという音が入っている人間は文筆家として成功するんだと自慢気に私にいったことがある。
私は何の気なしに、
「俺も青島幸男で、ユキが入ってるけどね」
というとあの男は、
「ああそうか、お前もユキがついてたか。じゃこの話は聞かなかったことにしておけ」
といとも簡単に言いやがった。
一度だけだったと思うが野坂氏が「シャボン玉」の台本を書いたことがある。
「女は人類じゃない」などと今考えるととても恐ろしくて口に出来ないことをテレビで堂々と放言して一躍プレーボーイで名を売った頃、秋チンが試みに一本お願いしたのだ。
私もその場に居たが、例によってヘロヘロに酔っぱらってやってきた。台本を見てびっくりしたのは、いくつかの歌の曲名と、駄洒落めいたギャグらしきものが三つ四つ書いてあるだけ、使いもんにも何もなりやしない。
中の一つを今でも憶えているが、野坂氏、
「板がこうズラーッと並べてある。これが何だかわかりますか、秋元さん」
「いいえぜんぜん」
秋チンがまともに答えると、彼平気な顔で、
「これが本当の|イタズラ《ヽヽヽヽ》、面白いでしょ」
といってひとりでケッケッと笑っていた。
こいつは馬鹿かとその時本当に思った。
今や文豪の名をほしいままにしている大先生だが、コントを書くのは実に下手だった。
仕方なく秋チンと私と二人で全部書き直したものです。
神吉さんとはNHKで一緒にミュージカル台本を書いたことがある。悠揚たる風格があり当時からおじさんみたいだったなあ。
井上ひさしさんもNHKで長いこと「ひょっこりひょうたん島」を書いていて、私も声の出演をしたことがある。トンカチーフとかいう名の変な役だったが、珍優の藤村有弘君なんかと一緒にやったあのスタジオは実に楽しかった。あの時主役の博士をやっていた十四、五歳のまったく眼から鼻へ抜けるような天才的な少女が居ましたが、それが中山千夏嬢でありました。
井上さんは妙なくせがあって、〆切になっても原稿が書けないと表紙だけ届けて、どっかへ行方をくらましてしまうという噂をよく耳にしました。その表紙がまたすごくて、タイトル文字を中央に大書し、そのまわりを額縁で飾って、唐草をめぐらし、なおかつ、うしろに昇る朝日と大海原が細密に二十四色のフェルトペンで書いてある。
ちょっと見ると一時期の横尾忠則の極彩色のポップアートみたいだ。
これを前の晩の九時から翌朝の五時まで八時間もかけて書き上げ、そのまま居なくなっちゃう。ディレクター連中は、
「俺はポスターを注文した憶えはない、こんなもの画く間になんで原稿仕上げねえんだ」
とあきれかえっていたという。
中原弓彦ともNHKかなんかで一緒になったことがあるが、大変なメモ魔で、映画、演劇、テレビのことなら何でもかでもいろんなことをよく知っていてとてもかなわない。
青島幸男のことだって本人の私よりよく知ってるくらいのもんだ。
こうして書いてくるとやっぱり第一期黄金時代の方が、ユニークな大物がそろっていたように思う。あらためて第二期の連中の躍進を期待したい。
こんな商売をやってきたおかげで、今まで随分とおかしな人達にめぐり逢ってきたけど、なんといっても抜群におかしい、もはや感動的といってもいいくらい、ユニークなのは谷啓をおいてほかに居ない。
彼と居られるだけで、スタジオへ出かけて行くのが楽しみだった。
谷啓って人には本当に参る。
一面実に純情で心やさしく、小心で照れ屋、空想家で|几帳面《きちようめん》、まったく愛すべき人物なんでありますが、時として驚くほど図々しく、また非常識であり、こんな馬鹿げたことを考えたり、実行したりする人に私はいまだに逢ったことはありません。
自分の家が全焼したのにその焼け跡にテントを張って、友達を集めてマージャンをやってたなんて有名なはなしもあるけど、書き出したらきりがない。
最初に驚いたのは怪獣カタログであります。
「おとなの漫画」が始まってまだ間もない頃、谷啓と私はともに昭和七年生まれで当り前ですが同い年、すぐに気が合って親しくなりました。
「ねえ青ちゃんちょっと面白いもの見せるから、こっちきてよね、ねえ」
彼が私をかたわらへ誘うんであります。ついて行くと、一瞬あたりを見廻し「実は誰にも見せたことないんだけどね」と声をひそめてもったいをつけたあとでそっと見せてくれたのは一冊の大学ノートで、眼を通して驚きましたなあ。どのページにも怪奇映画に出て来るエイリアンみたいな気持の悪い怪獣が丹念に画いてありまして、しかも寸法と重量と特徴が明記してあり、二百五十万円などと値段も入っているんであります。
聞いてみると、昔からドラキュラとか、フランケンシュタイン、満月の夜に毛むくじゃらに化身する狼男なんてのが大好きなんだそうでありまして、実に満足げによだれを垂らさんばかりにそのカタログを見ているんであります。私は本当のことを言って、その時、この男とはあんまり深くつきあわない方がいいんじゃないかと一瞬思いましたね。
また当時の谷啓は、ものを喰ったり、排泄をしたりする行為は実にあさましいことと考えていたようで、気軽にこれを行なおうとしません。どうも他人の眼をさけるように、さけるようにするんであります。
例えばリハーサル中にトイレへ行く時などはひと知れず立って、|別棟《べつむね》へ行ったり、わざわざエレベーターに乗って何階も離れた所へ出かけて行き、何くわぬ顔で戻ってきたりするわけです。
そんな時は谷啓のこんな癖を知りつくしているハナがきまってからかいます。
「おい谷啓、お前今どこへ行ってたんだ。あーあそうか、知ってるぞ。また三階の奥のトイレへ行ってデカイウンコしてきたんだろう、この野郎」
すると谷啓はいつも、ちょっといやな顔をしてから、
「冗談じゃねーよ、そんなわけねーだろ。第一今時大学出ててまだそんなことしてる奴居るのか」
とこういうのであります。まったく参ってしまいますなあ。
初めての海外旅行で香港へ行った時、ベタ金の腕時計を買ってきて、本人はこれが嬉しくて仕様がない。私のそばへ来ていきなり、
「青ちゃん、ちょっと俺に時間きいてみてよ」
といいます。こっちも意地悪をして、スタジオの大時計を見上げて、
「あれ見りゃ判るからいいよ」
とわざとそっけなくする。
「お願い、一回でいい。今何時ってきいてよ」
こんな時の彼の眼はすごく可愛い。仕方なく、
「おい谷啓、今何時だい」
とやると、彼は服の袖をさっとたくし上げて時計を顔の前へ持ってくる。
「あーっまぶしい、時計の光で眼がつぶれた、青ちゃんどうしよう、どうしよう」
とすがりついて来るのであります。
馬鹿かこれは、もうどうしようもない……。
谷啓は小学校の頃、横浜の金沢文庫あたりに住んでいたことがあるらしい。
「土地の漁師がねえ、何かっていうと、『ワーレヤ、アンセッタッテ、サーラバ、トロイトモエ』って言うんだけどこれなんのことだと思う青ちゃん」
スタジオで休憩時間をもてあましていると谷啓はニコニコと近づいてきて、よくこんなことをいうんです。
当時私はギンギンにギン張っていて、知らねえこと、判らねえことは何も無いって顔してたから、即座に出まかせの解説をします。
「ワーレヤってのはつまり、お前は、二人称単数の呼びかけだな。アンセッタッテは、なんてったってだろう。英語で言えば、Whatever you may say ってなとこだな」
「へーえ」
と谷啓は感心して、
「じゃそのあとの『サーラバ、トロイトモエ』ってのは何だい」
としつこく聞いてくる。
「そりゃつまり、サーラバってのは、古い言いまわしで、さあらば、もしもそのようであるならば、If it were the case だ、トロイトモエは、|とろい《ヽヽヽ》と思え、下らんことであるという意味さ、It would be so ridiculous ってなもんだなあ。
つまり、『おめえ、なんたってそんな馬鹿なことはあるわけねえべ』ってとこか……。
これを英語で言うと、It would be so ridiculous if it were the case, whatever you may say. とこうなるなあ……」
ともっともらしく言ってふんぞり返ってやりました。
谷啓はこれが気に入ったらしく、それからは顔を合わせるたびに、小松政夫やなべおさみを集めてきて、
「青ちゃん、例のサーラバの解説やってみてね、ねッ」
とせがむ。そしてきまって、
「本格的な正しい言い方で土地の方に発音していただきます。谷先生どうぞ」
とつけ加えてくれという。
仕方なく谷啓の希望通りにやると、彼はカーテンのかげからふんどし一本で現われ、
「ワーレヤ、アンセッタッテ……」
と重々しくやって見せる。
今考えてみると何を馬鹿なことをやっていたのかと思うが、当時はこれが面白くて面白くて仕方がなかった。
この谷啓の当り役は、馬鹿図々しいのと、気弱な小心者が入れかわる設定で、例えば、
教室の中、ハナの教師、生徒の谷をしかっている。他に生徒多数。
ハナ 谷、何度言ったら判るんだ。|昨日《きのう》も|一昨日《おととい》も宿題をやって来ないで、今日はゆるさん。立って教科書読んでろ。他の者はそれぞれ自習。
ハナの教師出て行く。生徒達谷の方を指してひそひそ話をする。
谷 チェッ、なんでいなんでい、宿題くらい忘れたってどうってことねえじゃねえか。チェッ、おかしくてこんなもの読めるかい。
谷、ぶつぶつ言いながら、教科書の頁を一枚一枚やぶって捨てている。
いつの間にかハナの教師もどって来て、谷のうしろに立っている。
谷、気づかず教科書をやぶり続けているが、あたりの様子から不安になり背後を見る。ハナに気づくが、なぜか急にやめるわけに行かず、教科書をやぶり続けている。
ハナじっと見ている。谷泣き出すがまだやぶり続けている。
谷 ピ――ッ。
ハナ 何やってんだお前。
ハナが谷を張り倒す。
谷 ピ――ッ(といっそうオーバーに泣く)。
(SE)  パチ――ン!![ディスク]
昔からよく、ローレル・ハーディなんかがやった手だが、谷啓がやるとすこぶるおかしかった。こんなのもある。
谷、庭で障子の紙を張りかえている。植木、安田、犬塚の子供達やってきて、そばでチャンバラ遊びをはじめる。
谷 だめだめ、むこうでやんなさい。
子供達言うことをきかない。子供の棒きれが張りかえたばかりの障子紙をやぶる。
谷 あーあ、ほら見ろ、言わないこっちゃないじゃないか。あっち行きなさい。
谷、仕方なくやぶれたところを張りかえる。
子供達またやってきて、同じように障子紙をやふる。
谷、ブツブツいいながらまた張りかえる。
また子供達がやってくる。谷、やけになって自分でどんどん障子をやぶいてしまう。
子供達何もせず、不思議そうに谷を見ている。
谷、なおもゆっくりと障子紙に二つ三つ穴をあけてから、
谷 何か文句あっか。
といって子供達をにらみつけてから急に、
谷 ピ――ッ(と泣きくずれる)。
(SE)  ドヒャーン[ディスク]
ってな具合にこんなコントばっかりやってたら、谷啓が、
「青ちゃん、あのピーッと泣くやつもうやめようよ。この間近所の子供が俺のこと指して『あーっ、いつもピーッて泣くおじさんだ』なんて言うんだよ、弱ったぜ」
と文句をいってきた。
「結構なことじゃないの、子供にそれだけ強い印象をあたえてるんだから立派なものだよ。これからもドンドン行くぞ」
と私はとりあわなかった。すると谷啓はいきなり本番でピーッと泣くはずのところで、
「今日は泣かないよーッ」
とやってしまい、これはこれでまたとても面白かった。
でもこればっかりやってるわけにもいかない、こんな悩みが「ガチョーン」を生んだのかも知れない。
京都の神社の境内、夕闇せまる頃……。
ハナの近藤勇、しばり上げられた杉作の胸元に刃を当てている。
ハナ 鞍馬天狗、その短筒を捨てろ。さもないと子供の命はないぞ。
谷の天狗、杉作を見てたじろぐ。
ハナ 短筒を捨てるか、子供を見殺しにするか、二つに一つだ。どうする天狗。
谷 うーん卑怯者め。
ハナ さあどうする。
谷 うーん。
新撰組の連中口をそろえて、
新撰組 さあ、どうする、どうする。
谷 (|切羽詰《せつぱつま》って突如)ガチョーン!
一同、ドッとばかりにズッコケル。
(SE)  ズドドビョ――ン[ディスク]
とまあこれがガチョーンの原型みたいのものだが、これも他の人がやってもあんまり面白くない、谷啓がやるから何故か馬鹿おかしい。
やっぱり谷啓のあのえもいわれぬ人柄がかもし出す雰囲気というか、人間性、こりゃもう個人的資質というほかはない。
もうここまできたから、谷啓の人柄をよく現わしてる話があるからこれも書いちゃおう。
「青ちゃん、俺今度さあ、アメリカもんのデカイ外車に乗ろうと思うんだけどどうかね」
ある日いつものように突然こんなことを相談してきた。
「いいじゃないの、どうせならうんとデカイのにしろよ」
と私は答えた。
「でもさ分不相応に|出来上がってる《ヽヽヽヽヽヽヽ》と思われやしないかね。総理大臣じゃないんだから」
「かまうもんか総理だって人間だよ。車くらい好きなのに乗れよ。ウジウジするなよ」
それ以来谷啓はフルサイズのサンダーバードに乗ってる。
「おいデッカイアメ車の乗り心地はどうだい」
と私がからかうと、
「時々、困っちゃうんだよね。交差点で止まってる所へ賃上げ闘争のデモ行進の列が来たりするとさ、とくにこっちが横断歩道へはみ出したりしてるとね、『なんだよ省エネの時代にこんな車に乗りやがって。とんでもねえ野郎だ』と皆で言いながら歩いてるような気がしてさ。そんな時、こっちもこっそり降りてって、バンパーかなんか蹴とばしながら、『いい気になんなよこの野郎。こんなものに乗りやがって』なんて言いたくなっちゃってさ」
だから私は言ってやる。
「考え過ぎだよ。誰もお前のことなんてそんなに気にかけちゃいないよ」
しばらくたつとまたやってきて、
「今度さあ、家の庭にプール作ろうと思うんだけどさ、近所で|出来上がってる《ヽヽヽヽヽヽヽ》なんて思われやしないかと思ってさ……」
だからまたしても私は、
「いいじゃねえか。近所の奴らが何て言ったって、金出してもらうんじゃねえんだから。人間|出来上がってる《ヽヽヽヽヽヽヽ》くらいじゃなきゃ先へ進まねーぞ。デカイプール作れ、デカクって深いの。どうせなら子供が溺れるくらいのやつがいいぞ」
といってやったことなどもありましたなあ。
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その5
先日、電車の中で突然同年輩の人から声をかけられて驚いた。
「オール讀物の連載、拝見してますよ。面白いですね。そろそろお呼びでないの話が出て来る頃じゃないんですか、あれお願いしますよ、私好きだったんだ」
といってその男は私の脇腹をチョコンと突っついた。あまり急なことだったので、私もついキョトンとしていると、
「あれ、お呼びじゃなかったかな、お呼びでないよね、こりゃまた失礼いたしヤシターッ」
と言ってニッコり笑い、プスーッ、バンとちょうど開いたドアからスーッと降りて行った。
いやーそのタイミング、間の取り方が良くて思わず大声で笑い出してしまい、こっちは一人だったし、まわりの人から変な目で見られてあとあとちょっと具合が悪かった。
その男相当に年季が入ってる感じで只者ではないと睨んだがひが眼か……。好きだったんだよなあきっと。毎回楽しみに見ていてくれて、宴会なんかでかなり|場数《ばかず》踏んだんだと思い懐かしさで嬉しくなった。
この間クレージーのメンバーたちに逢った時に皆に聞いてみたが、「お呼び……」が|何時《いつ》どうして始まったのか、連中もはっきり憶えてはいないみたいでした。植木屋は、
「多分俺がどこかで出を|トチリ《ヽヽヽ》、当時生放送だったから、御免なさいってわけにもいかねえんで開き直って、笑って|胡麻化《ごまか》したのがはじまりだと思う」
と言っていた。植木屋ならやりそうなことだ。
前田武彦君に聞いた話だと、これが違うんだ、忠臣蔵をやった時が起源だという。つまり彼の話を台本風にすると……。
赤穂浪人の面々、それぞれいかめしい火事装束で並んでいる。カメラパンして行く。浪士一人ずつ名をなのる。
A 赤垣源蔵。
B 大石|主税《ちから》。
C 堀部安兵衛。
D 神崎与五郎。
E 板垣退助。
関係ないのが一人入っているので一同ウッとなる。全員でEを見る。
E (大いに照れて)あれ、関係ないところへ出てきてしまったかな、こりゃまた失礼いたしましたーッ(といって逃げる)。
(SE)  ドカーン[ディスク]
一同ズッコケる。
と、こういうことになる。これが起こりだというんだがさだかではない。でも面白いよ、ねッ。
|出トチリ《ヽヽヽヽ》では面白い話がいっぱいあるが、中でも傑作を御披露しよう。
日劇の舞台でのこと、NDT(日劇ダンシングチーム)はなやかなりし頃、「春の踊り」かなんかで、中央花道でスターダンサーがスポットライトをあびてデュエットを踊っている。踊り終わって二人左右へはけ、暗転、一瞬舞台は真暗闇、やや間があって、チョーンと|柝《き》が入る。ぱっと明るくなったステージの奥には、大きな太鼓橋がかかっている。そこに|矢絣《やがすり》の着物を着た娘三十人くらいが桜の枝を持って踊っている。曲は元禄花見踊り、実にきらびやかで美しい、よく見ると中央に一人一休さんみたいな小坊主姿の踊り手がいて、変にギコチなく踊っている。
曲が終わってまた暗転、一瞬真暗闇になって、次に明りが入ると、太鼓橋の上には小坊主姿の踊り手が三十人くらい「山寺のお尚さん」の曲に乗って馬鹿陽気に踊りまくる。
よく見ると中央にさっきの小坊主がいて照れ臭そうに踊っている。
やがてあちこちの客が、彼女の出トチリに気づきはじめて、大笑いになる。
なんで笑っているのか判らない客も、まわりに教えられたり、気づいたりして笑いの波はだんだんと大きくなり、ついには客席は笑いの渦……
緊張のあまり自分の出番より一つ早く太鼓橋の上へ並んでしまった彼女、明るくなってからさぞ驚いたろうと思うと気の毒やらおかしいやら、やっぱりこりゃ相当おかしい。
「シャボン玉ホリデー」の中の「お呼びでない」はもっぱら見る人の意表をつく意外性の面白さをねらったもので、思いも寄らないところへ想像を絶する人物が突如として現われるというのが基本的な設定になっている。これだけでも相当おかしいものが出来るはずだが、その上に、その場に居合わせた人達の驚きと戸惑いを、失礼イタシヤシターッと笑いとばして、イケシャーシャーと去って行く植木等の野放図な持ち味が、またなんともたまらなかった。
思い出すままに、ここにいくつか再現してみよう。
河野洋が書いた「コーラスばんざいピーナッツ」の中の一コマ、この回は「ダークダックス」がゲストで、世界中の有名なコーラスグループのパロディが次々に出て来るという楽しいものだった。
黒熊皮の帽子にルパシカ姿の御存知「ドン・コサック合唱団」風のヒゲ男達ズラリと並んで重々しく唄う。
(M)  ボルガの船唄
コーラス エイコーラ
エイコーラ
もうひとつエイコーラ
曳けや 綱を 力をあわせ
曳けや 綱を 力をあわせ
すべるぞ舟は 動くぞ舟は
アイダダアイダ アイダダアイダ
力をあわせ
エイコーラ
エイコーラ
もうひとつエイコーラ
突然労務者スタイルの植木現われ、
植木 ハッ カアチャンのためなら
エンヤコーラ
もう一つおまけだ エンヤコーラ
コーラスの一同、あまりのことにボンヤリしている。
植木 どうしたのほら、黙ってたんじゃ仕事になんないじゃない。
さあ腹へ力入れて、声をそろえていくぞ、ほれ。
セーノッ カアチャンのためなら
エンヤコーラ(植木気づいて)
あれ、こりゃまたお呼びでなかったみたいだね、
ウッシッシッシ お呼びでない! こりゃまた失礼イタシヤシターッ。
(SE)  ズダーン[ディスク]
一同盛大にずっこける。
ついでながら面白いエピソードをひとつ。「シャボン玉ホリデー」は、三十六年六月四日から始まって、何と四十七年十月一日まで続いたわけだから、実にまる十一年と四カ月放送したことになり回数にして六百回、よくやったもんです。もっとも私は四十年の十月から書かなくなってるから、それからあとのことはよく知らないが……。
この「コーラスばんざいピーナッツ」は唯一再放送された作品だったと憶えている。読者からの投書で思い出したが、御指摘の通り、その理由は係の者が誤って収録した次回放送分のヴィデオを消してしまったためだったと聞いたことがある。ちょっと考えられないことだけれど永い間にゃいろんなことが起こるもんですな。
「シャボン玉」の作家連中に通称「ツンベ」という優秀な男がいた。津瀬宏がフルネームで、ドラマでもショー構成でもなんでもうまかった。
今も評判のラジオ番組「小沢昭一的こころ」を書いて人気を定着させたのもこの人といわれている。酒呑みだが気っぷのいい面白い人だった。
「谷さんも甲州街道、あ、そう俺もそっちだから途中の都合のいい所まで乗せてってよ」
と言われて、あーいいですよと谷啓、パーティの帰りかなにかに気軽に|ツンベ《ヽヽヽ》を自分の車に乗せた。
「それからだよ青ちゃん大変だったのは……」と谷啓があとで私にこぼしていた。
「『あーちょっと、そこのスタンドを左へ行ってくれない。そう、そのタバコ屋を右だ、その一方通行を左へ回って』なんていってね、延々と我が家の方角とは関係ない方へどんどん連れてかれちゃって、最後に、『あ、そこが俺の家なんだ有難うよ』なんて降りられちゃってさ、参ったなあ、それが世田谷の奥の方で帰りの道が判んなくって、家へついたら朝だったぜ」
それからしばらく谷啓は|ツンベ《ヽヽヽ》のそばへ寄らないようにしていた。
次にその|ツンベ《ヽヽヽ》の書いたのを紹介しよう。当時オリンピック前の建設ラッシュで、ジャリトラやダンプがむやみと走り回り事故が相ついでいた。
犬塚の父親、桜井の母親、安田とピーナッツの子供達、朝食の膳をかこんでいる。犬塚、先に食事をすまして新聞を見ている。
犬塚 ほーっ交通事故発生件数、すでに去年を大幅に上まわるか。気をつけなきゃねえ。
桜井 角の八百屋さんへ、またダンプカー飛び込んだんですって。家でこうやって食事してても交通事故にあうんですから、いやですねえ。
犬塚 まったくだなあ、世の中どうかしてるんだ。
安田 あーっもう遅刻だ大変だ、行ってきまーす。
安田、ランドセルを持って立って行く。
犬塚 おい伸、車に気をつけるんだぞ、こらきいてるのか。オーイ。
突如メリメリと壁をブチ抜いて舟の|へさき《ヽヽヽ》が部屋の中へ突っ込んで来る。植木船頭姿でその舟に乗っている。
植木(唄う)オーイ 舟方さん、舟方さんよお〜〜と、土手で呼ぶ声きこえーる〜〜か。
食卓にむかった一同茫然としている。
植木 土手で呼ぶ声――ッ あれ、お呼びでなかったかな。ケッケッケッお呼びでないね。こりゃまた失礼イタシヤシターッ。
(SE)  ダ――ン[ディスク]
犬塚達一家完全に|のけぞる《ヽヽヽヽ》。
もうここまできたからドンドン行っちゃおうか、次は私、青島幸男の傑作、停電のお話、今はそんなことないけど、昔はよく停電したんだよね、雨が降っちゃ停電、雷が落ちちゃ停電、電気器具もインチキなもの乱暴に使ってたから、ヒューズが飛んじゃ停電だった。
ハナの父親を中心に、桜井の母親、安田、犬塚、ピーナッツABの子供達、典型的ホームドラマ風に夕食の膳をかこんでいる。
一同(笑い声)ハハハハ。
ハナ そりゃ先生も驚くよね母さん。
桜井 そうですねえ。そいで伸ちゃんの方はどうなの。
安田 僕の方はもっと面白いよ。あのね。
突然停電になり、真暗闇となる。
犬塚 あーっ、また停電だ、やだなあ。
ハナ ローソクがあったはずだぞ。誰か早くつけなさい。
安田 ちょっと待って。
桜井 気をつけなさいよ。
子供達皆それぞれにローソクに灯をつける。
ハナ おっ、ついたなよしよし。おいそうやってあっちこっちに置いても仕様がない。お膳の真中へ皆置きなさい。
膳の中央に何本かのローソクが立つ。
PA たまにはこんなお食事もいいわ。
PB ロマンチックね。キレイーッ。
タキシード姿の植木突如唄いながら入ってくる。
植木 キレイでしょう、ねっ、ケッケッケッ。
ハッピーバースデー、ツウユー
ハッピーパースデー、ツウユー
ハッピーバースデー、ツウお嬢さん
ハッピーバースデーツウユー
さあ早くフーッと一息で吹き消す。
そう、心に願いごと念じて。
一息で、フーッと、さあ吹き消して。
PA、PBいぶかしげに互いに顔を合わせるが、つい植木につられて、二人一緒にローソクを吹き消してしまう。
真暗闇の中で、
植木 あーっ、もしかしたらお呼びでなかったんじゃない。いやそうだよね、ケッケッケ お呼びでなかったんだ。こりゃまた失礼イタシヤシターッ。
(SE)  ズダーン[ディスク]
一同 ハレホレヒレホ、ヒレホレハ
視聴者はもう毎回見ていてすでにお馴染みだから、暗闇の中でどんなことが起こっているか、明確に想像がつく。勝手にイメージをふくらませて大笑いをする、とこういうわけだ。
三十年代のビッグイベントといえばなんといってもオリンピック、特に大活躍をしたバレーボールチームと、名監督の大松さんは話題になり根性ものの元祖として映画にもなった。
誰が書いたのかさだかでないが、めずらしいスポーツものを紹介しよう。
バレーボールのコート、ハナの監督(これがまた扮装に凝ったので大松さんにそっくり)が選手達をしごいている。
ハナ いいかバレーってのはそんな生やさしいもんじゃない。もっとしっかりと|性根《しようね》をすえてかかれ。
こっちが苦しい時は、敵も苦しいんだ。いいか、コートの上の勝負は日頃どれだけ熱い涙を流したかどれだけつらい汗を流したかで決まるんだ。
(SE)  ものかなしげな曲[テープ]
ハナ 俺はお前達を信頼している。
(涙声になって)俺の信頼に応えてくれ。
一同 監督(涙声で)ガンバリマース(泣く)。
ハナ 晴れのコートで思いきり舞ってくれ踊ってくれ。
(SE)  いつの間にか白鳥の湖になっている。
植木バレエの白鳥の湖の扮装で踊りながら現われ、一同の前で優雅にバレエを踊る。
一同唖然として見ている。植木気付くと音楽突然としてやむ。
植木 あれーっ、何か雰囲気が違うね。
もしかしたらお呼びでないんだねケッケッケッ、そうだ、お呼びでなかったんだ、こりゃまた失礼イタシヤシターッ。
(SE)  ザザザ――ン[ディスク]
一同オーバーにずっこける。
ちょっとしつこいかも知れないけど、もうここまできたら仕様がねえ、もう一つ行こう。これも誰の作か判らないがなんでもいいや。
吉良上野介の|邸《やしき》、赤穂の浪士、上野介の姿を求めて走り回っている。
A どうした上野介は……。
B いえまだいっこうに……。
C 必ず屋敷内に居るはずだ探せ。
D この炭小屋が怪しい。
一人が身構えて、さっと戸を引き開ける。中から白衣を着た植木フィルム片手にのっそりと出てきて、
植木 だめだなあ、現像中に開けちゃだめだっていつも言ってるだろ。またフィルムだめにしちゃったじゃねーの。現像中ってランプ|点《つ》いてるの見えねーの。(とふりむき、ランプのないのに気づき)
あれ、なんだ、お呼びでないんでないの。やだねーっ、ケッケッケッ。お呼びでないね。こりゃまた失礼イタシヤシターッ。
(SE)  ボワッ[ディスク]
全員とっちらかって上を下への大騒ぎ。
ざっと、今御紹介したような次第――
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その6
オーレはこの世で一番
無責任と言われた男
ガキの頃から調子よく
楽してもうけるスタイル
という出だしで始まるこの唄のタイトルは、御存知「無責任一代男」。
「スーダラ節」の大ヒットで一躍時の人となった植木等を映画界が|放《ほ》っとくわけがない。早速東宝で主演作品を作ろうということになり、ついては主題歌を作りたいと私に御指名があった。時に三十七年風薫る頃であった……と思う。
場所はどこだったか憶えていないが、神楽坂あたりの料亭だったろう。ナベプロ社長の渡辺晋さんとともに出かけて行ってみると、プロデューサーの安達英三朗氏が待っていた。たしか脚本を書いた松木ひろしさんと、田波靖夫さんも同席していたような気がする。
そこで見せられた映画の台本を見て驚いた。
そのタイトルがなんと「ニッポン無責任時代」、無責任時代はまあいい、その風潮を盛り上げた人間の一人として責任の一端は感じていた、しかしその上についている「ニッポン」というのはいったいなんなのだ……と驚いてしまった。
私も随分と無責任なギャグやコントを書いてきたが、こんな無責任なタイトルを考えた奴は誰だ……、発案者は誰だかいまだに知らないが、いや本当にこれにはまいった。
この「|ニッポン《ヽヽヽヽ》……」というなんともデカくて、馬鹿馬鹿しくて、不謹慎で、おかしいタイトルにいたく感動して、ものすごく創作欲を刺激されたのを憶えている。
学校に入ってからも
ヨウリョウは クラスで一番
月謝はいらない特待生
コネで就職は オーケー
高校生の頃の私は結構ヨウリョウは良かった。ある時試験の成績が急上昇して、クラスで六番になったことがある。いつも最下位近くでヘラヘラしているのを知っていた|母親《おふくろ》が、成績表を見てびっくりしていたので、
「ヘッヘ……、今度クラス替えがあってね、俺の席の右隣の奴が二番、左隣のが三番なんだよ」
といってウインクしてみせた、すると|母親《おふくろ》は
「へーえ、二番と三番の間にいてどうして一番になれないんだろうねえ……」
と本当にいぶかしそうな顔をしていたのでこっちがうろたえた。
会社に入ってからは
上役に毎日ゴマスリ
ゴルフに小唄に ゴの相手
なんとか課長になった
「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだーッ……」をはじめ、私はサラリーマンものの唄をたくさん書いているので、よく人から「サラリーマン生活は長いんですか……」なんてきかれるけど、実際にはまったく経験がない、まあ無いから書けたのかも知れないけど……。
この唄の三行目「ゴルフに小唄」とあるけど今ならさしずめ「ゴルフにカラオケ」とくるところでしょうなあ、小唄にこってる人なんて近頃とんとお眼にかからないもんね。
いかした女を見れば
手当り次第に口説き
結婚の約束は口だけさ
もともとその気はない
毎日会社に来ても
デスクに じっとしてるだけ
いねむりしながら判を押す
それでも社長になった
人生で大事なことは
タイミングにC調に無責任
とかくこの世は無責任
こつこつやる奴は ごくろうさん
ハイ ごくろうさん
もともと私は苦節十年とか、この道一筋とかいうのは好きじゃなかった。少なくともそんな言葉を自慢気に使う奴は、馬鹿で不器用でそれしか出来ねえからに違いないと思っていた。
棟方志功さんみたいにさわやかに、
「わたスは何も苦労したことねえス、ただ好きだったもんで夢中でやってきただけス」
と言われれば真底頭が下がるが、
「長年月にわたって、一途に地道な労苦を積み重ねてきたおかげで、|今日《こんにち》の私があります」
なんて言われると、たいしたこと成し遂げたわけじゃあるまいし、偉そうにしなさんなといいたくなる。
誠心誠意とか、不言実行、刻苦勉励、|研鑽《けんさん》努力なんて四文字を、お説教の中でくりかえし聞かされ続け、しかつめらしくそれを口にしていた大人たちの不誠実さも|反吐《へど》が出るほど見せられてきた戦後の若い世代には、この唄は我が意を得たりとばかり受け入れられたに違いない。
時代背景もまたよろしきを得た。三十四年以来の史上まれな長期繁栄期にあり、おりからオリンピックにむけての建設ブーム。産業各界の設備投資は神武景気以来の活発さを見せ、輸出も好調、個人消費も伸び、需要はますます多様化していた。
人手不足で仕事はいくらでもあり、|生《お》いたちや学歴より実力が重視され、年功序列は軽んじられ、誰もが明日にでも社長になれるような気がしていたのでこの唄も大いにもてはやされたわけだ。
歌詞の最後の行「こつこつやる奴は」のあと「ごくろうさん」となっているが、私の第一稿では「馬鹿」としていた。例によってこの唄を作る段階で立ち合っていた渡辺晋さんが、
「バカってのもちょっとストレート過ぎてきついんじゃないの、それに面白味がないよ」
とクレームをつけてきた。それじゃどうしようと、植木等やハナ肇と、アレコレ勝手なことを言い合っていると作曲家のデクさんが、いつものように、眼をギョロギョロさせながらのんびりした声で、
「ちょっと的はずれかも知れないけど、ゴクロウさんってのはどうですか」
と言った。これを聞いて一同ひっくり返って大受けに受け、即座にゴクロウさんに決めた。
映画の封切りに先がけて「シャボン玉ホリデー」の中で植木がこの唄を唄うと大評判になった。
なにしろこれを見て、タモリはこの唄を座右の銘としたというし、たけしは人生観を変えたと言っている。これを見て変えるようじゃもともとたいした人生観を持ってたとも思えないが……。
当時小学校だった高田文夫はこの放送を見たショックで、将来は絶対放送作家になるんだと堅く決意し、以来いまだにそのショックから立ち直れないまんまでいるという。
あの時のまた|なり《ヽヽ》が良かった、コントの役柄のつながりだったのか、本当のところはいまだに不明だが、例のカンカン帽にダボシャツ、ステテコ、その上にズン胴の毛糸の腹巻きをして下駄ばきというスタイル、鼻の下にチョビヒゲをつけて踊りながら唄ったからおかしかった。
終わりの所「こつこつやる奴はごくろうさん」と唄いながらホリゾントの奥の方へ遠ざかり、最後にくるりとこっちへ振りむいて、
「ハイ、ごくろうさん、ケッケッケッ」
と笑いながら去る。植木屋の持ち前の馬鹿陽気な図々しさがピタリと決まっておかしいというより、むしろ爽快であった。
まさに人生観を変えるくらいの奴が出ても不思議ではないと思わせるほどショッキングであったことも事実だった。
レコードも売れて「スーダラ節」におとらないヒットとなり、映画も大当りで植木屋はこれで完全にスターの座についた。
話がここまでくるとどうしても映画の内容にまでふれないと落着かなくなってくる。ここに当時の小林信彦君の文章があるので、これを引用さしていただいて説明にかえよう。
「オレはこの世で一番、無責任といわれた男」
才人・青島幸男つくるところの「無責任一代男」のメロディにはじまる『ニッポン無責任時代』(東宝・目下上映中)は、型破りのサラリーマン喜劇だ。
まず新鮮なのは、主人公平均(たいら・ひとし)の性格。
いつもの東宝サラリーマン喜劇には、適度に会社に忠実、適度に自嘲的なホワイト・カラーがあらわれるのだが、平均クンには自嘲的なところはミジンもない。
カラリと明るく、行動的で、しかも自分のことしかアタマになく、他人に迷惑をかけるなんざヘッチャラという快男子。目的のためには手段をえらばず、香典ドロボーを手はじめに、イカサマのアノ手コノ手を使って、あっという間に成り上がる。悪漢小説の主人公(ピカロ)そっくりである。
上役にこびへつらうことなどカルくやってのけるから、同僚のウケはよろしくない。このへんは、いつものサラリーマン物の完全な裏返しである。
この平均クンに扮する植木等の個性が、作品の成功の原因である。見るからに無責任そうな面構えとオトボケぶり、ガニ股のシーチョーな歩き方、「いいからいいから」とか「そうカタいこといわないで……」という口癖。
これはテレビでは、もうとっくにオナジミのものだが、大型画面にカラーであらわれた彼がノビノビと歌い踊るのは、また格別の跳めだ。(後略)
(「週刊アサヒ芸能」昭和三十七年八月十二日号)
というようなわけで当時一大センセーションというとオーバーだが、学校や職場、呑み屋での話題を独占し、無責任は時代の風潮となり、完全に社会現象になってしまった。
この映画のヒットの原因の一つとして忘れてならないのは、監督に当った、実に変わった経歴を持つ古沢憲吾(通称パレさん)の資質である。第二次大戦勃発当時、落下傘部隊の一員としてパレンバンに降下して大活躍をしたという、まさにアクション映画に出てくる主人公のような人物。何かというと「俺がパレンバンに降下した時は……」とその武勇伝を|披瀝《ひれき》するのでいつのまにかパレさんというアダ名がついたくらいで、さしずめ今でいえば、シルベスター・スタローン演じるランボーそのもの、と自分で思ってるようなところがある。
撮影所へ来る時は、白帽子に白シャツ、白ジャンパーに白ズボン、白のソックスに白靴、万年筆の|軸《じく》まで白いというオール白ずくめのスタイルをくずしたことがない。電車がストライキで止まった時、白い馬に乗ってやってきたという伝説がある。
声がでかくて、セッカチで、セットでもロケでも白のメガホンを振り廻し、
「さーあ、行ってみよう、少々のことは我慢して眼をつぶって行こう、シュート――」
と理不尽と思われるほど怒鳴りまくる。
照明が手間どったり、小道具が揃わなかったりするともうジレて頭から湯気を立てて、
「シュートするーッ、シュートするーッ」
とわめきたてる。ある時、
「監督、まだフィルムが入っていませんが」
とカメラマンが言うのに、
「いい、フィルムなんかいいからシュートーッ」
と叫んだという有名な話がある。
後年私もクレージーキャッツ総出の映画「ホラ吹き太閤記」に出演する機会を得て、この古沢監督の指揮を受けたが、聞きしにまさる激しさにびっくりしたのを憶えている。
「シャボン玉ホリデー」の中の名場面の一つに「キントト映画撮影所風景」という、なべおさみが「安田ーっ」と怒鳴って助監督役の安さんをなぐりまくるコントがあるが、あの理不尽監督のモデルが何をかくそうこのパレさんである。
シナリオの打合わせとか、主題歌の相談などで、バーや料理屋で会う時は、さして驚くような言動はないのだが、一たん撮影に入るとまるで酒乱の奴がヨッパラッたみたいに人が変わっちまうから恐ろしい。
この監督と一緒に十数本の映画を撮っているんだから、今にして思えば植木屋は相当大変だったに違いない。
唄の話にもどると、この「無責任一代男」のB面にカップリングされていたのが「ハイそれまでヨ」でこれもまた評判になった。
あなただけが生きがいなの
お願い お願い 捨てないで
テナコト言われて ソノ気になって
三日とあけずにキャバレーへ
金のなる木があるじゃなし
質屋通いは序の口で
退職金まで前借りし
貢いだあげくがハイ それまでよ
フザケヤガッテ フザケヤガッテ
フザケヤガッテ コノヤロー
御存知の通り、この唄はイントロから甘いラブソングの雰囲気で、二行目まではフランク永井かと思わせるような二枚目風の唄い方で迫る、植木屋の唄は本物で声は響くしうまいから聞く人はスーッと引きこまれて、オーッなかなかいいじゃねーか誰だこれは……、と思う。
三行目の「テナコト言われて」の所からガラッと曲調が変わり、はやりのツウィストのリズムでいつものコミックソングに変わる。アーッ何だ植木だと気づいたトタンにもう笑っているといった具合で、意表をつくアイデアが受けた。
この車は 掘り出しもの
絶対買物 大丈夫
テナコト言われて ソノ気になって
せっかくためた へそくりを
すっかりはたいて かってみりゃ
みてくればかりの ポンコツで
ガタンと止って
ハイ それまでヨ
*(くりかえし)
おりからのモータリゼーションの波に乗ってブアーッと行くんじゃないかと思ったが、正直いってこれは失敗だったと思う。頭の出だしがロマンチックムードで行くところが受けてるのに「この車は……」と妙に具体的に始まるんだからはじめからネタ割れして聞く方がシラけてしまう、もっと抽象的な文句でリリックに行くべきだった。今更こんなこといってもはじまらないが……。
それが証拠にこの唄はラジオでもテレビでもいつも二番だけは流れたことがない。
モータリゼーションといえばこの頃私もはじめて車を持った。
中古のルノーだったが、嬉しかったなあ、その後、ジャガーやMG、遂にはインペリアルのリムジンにまで乗ったが、この時買ったルノーが一番思い出深い。
当時中野の鷺宮に住んでいて少しばかりの庭があった。買ったばかりのこの車を庭に止めておいたのだが、夜中にむっくり起きて、雨戸をあけて、本当にそこにあるかどうかそっとのぞいて「いやーッ、あるあるウッシッシ……」なんて改めて嬉しがったりしたもんなあ。
いやそれまでにも、何度も、実にリアルに車を買った夢を見たりしてるもんだから、夜中に眼を覚まして、
「あれーっ、俺今日車買ったはずだったけど、あるいは夢だったのかなあー」
なんて不安になっちゃって、馬鹿だなあもう……。
何でもフザケたことが好きだった私はこのルノーの背中にゼンマイのハンドルの大きなのを取りつけて、得意になって乗り廻していた。
このルノーという車はおかしな車で、今の人達は知らないかも知れないが、当時タクシーなんかでも大いにもてはやされた。
リヤエンジンでちょうど背中のところにラジエーターの水の注入口があり、そのキャップのところを上手に工夫して例のものをくっつけた。
車の形状がもともとオモチャみたいなフザけた格好をしているのでこれがよく似合い、みんなとても面白がり、私も悦に入っていた。
ちなみに申し上げると、このルノーという車は、フォルクスワーゲンの生みの親、フェルディナンド・ポルシェ博士が、戦争犯罪人としてフランスへ|拉致《らち》された時、フランス政府の求めに応じて獄中で設計したという由緒ある車だったのでありますぞ。
これに乗って走っていると、バーバー、クラクションを鳴らして追いかけてきて、
「ちょっとすいませんが、その車本当にゼンマイで動いてるんですかーッ」
なんてきく馬鹿が何人もいた。
私はそんな時いつもこういってやった。
「まさか、いくらなんでもゼンマイで動く自動車なんてありませんよ。ただね、バッテリーが上がった時、ゼンマイでエンジンをかけることが出来るだけです」
と、するとたいてい相手は、
「なーるほどねえーッ」
なんて感心してた。その時は馬鹿かと思っていたが、最近のバイクにはゼンマイ仕掛けでスタートするの実際にあるもんねえ、世の中の進歩は恐ろしい。
ついでに三番も書いてしまおうか。
私だけが あなたの妻
丈夫で長持ち 致します
テナコト言われて ソノ気になって
女房にしたのが大まちがい
炊事せんたく まるでダメ
食べることだけ 三人前
ひとこと小言を 言ったらば
プイと出たきり
ハイ それまでよ
フザケヤガッテ フザケヤガッテ
フザケヤガッテ コノヤロー
泣けてくる
植木屋は持ち唄のメドレーの中でこの唄を唄うことがあるが、もっぱら三番の文句だけを使う、しかも頭の二行を一番の歌詞と勝手に入れかえているが、これは正解だと思う。
しかけの面白さできかせるこの手のものはそう何回も唄うもんじゃないもんね。
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その7
前々章、例の「お呼びでない」の起源について書いた時、「忠臣蔵」の話が出てきたが、今でも相変わらず、暮になるといろいろな番組が、競い合うように四十七士をテーマに取り上げる。
なにしろこの驚嘆すべき出来事は実際に起こった事件で、それだけに昔から芝居になり物語になり、映画になりテレビドラマになり、くり返しくり返し語られ、日本人なら誰一人として知らぬ人はないというくらい有名な話だ。ためにパロディのネタとしてさまざまな形でショー番組やコントで扱われてもきた。
「忠臣蔵」をテーマにしたギャグの中で、いまだにこれが越えられないというほど面白いやつを一つ御紹介します。
なんの番組だったかさだかではないが、永六輔君が書いたもので、演じてたのはダークダックスだったと思う。これを台本風に再現してみるとこうなる。
吉良上野介の寝所とおぼしき部屋、中央に絹布の夜具が敷いてあり枕元に|行灯《あんどん》一つ。下手の襖がさっと引き開けられ、火事装束の赤穂の浪士四人が飛び込んで来る。
浪士A おーっ、ここだ、ここが上野介殿の寝所に違いないぞ。
浪士B 誰も居らんではないか。
浪士C さては早くもそれと知って逃げうせたか。
浪士D 待て待てあわてることはない。
浪士D落着いた仕草で寝床に近づき、膝をついて寝具の中へ手を入れる。
浪士D ややっ、寝床の中はまだ温かいぞ。
と少し考えるような間があり、
浪士D こいつは有難い。
といって浪士Dいきなり寝床の中へもぐり込んでしまう。
他の三人の浪士呆然として顔を見合わせている。
改めて説明するまでもないが、浪士が吉良邸へ討ち入ったのは|極月《ごくげつ》の十四日、おりから雪が降りしきり、凍てつくような寒い夜だったはず、四十七人もいたんだから中には、あるいはそういう気分を起こした奴も居たかも知れないなどと思うとこれは馬鹿おかしい。人情としてよく判るもんね。
ましてあすこは映画や講談では最もスリリングな名場面として誰でも知ってる、あのあとは本当は、
「ややッ、寝床の中はまだ温かいぞ、そう遠くへは逃げていない」といって浪士があたりを見廻す。すると風もないのに床の間の掛け軸がゆれている。「さてはッ」と掛け軸をはね上げるとそこにはぽっかりと抜け穴があり、上野介はそこから既に炭小屋へ逃れていた。
という、まあこれ常識! この常識が見事にひっくり返されているから面白い。
ところが近頃では、この常識がどうも様変わりしてきているのでやりにくいったってありゃしない。先日もあるテレビ局で「忠臣蔵」をやったが、大石主税を演じた若手の歌手が「忠臣蔵」のなんたるかをまったく知らず、テレビ台本を読んではじめて理解したという記事を見て、なるほどなあ……と或る種の感慨にひたらざるを得なかった。
「シャボン玉ホリデー」でも暮になるとよく「忠臣蔵」をやり、後年恒例のように定着してしまった。
昭和三十七年十二月十六日の放送分は私が担当している。こんなことがはっきり書けるのは、奇跡的に残っていたその時の放送台本が今手元にあるからで、この場をかりてその概要を御披露申し上げましょう。
この本の中で私は重要な狂言廻しの役として登場している。当時はすでに紹介した津瀬宏と交互に書いているような状態だったはずだが、出たがり屋の私はもうどんどん画面に飛び出していたようだ。
これも起源がわからないが、「青島ダア!」という、最も簡潔にして効果的、かつ人を喰ったようなキャッチフレーズを自ら発明して既にブラウン管に|跳梁跋扈《ちようりようばつこ》をはじめていたらしい。
この番組に参加したのが前の年三十六年の十月だったから、今考えてもかなり図々しいんじゃないかと吾ながら驚いている。
(M)  ジャン[テープ]
PA 牛乳石鹸提供!
PB シャボン玉ホリデー!
入江美樹シャボン玉をふくらませている。
(M)  ハープの音[テープ]
画面ワイプして、松の廊下、植木の浅野|内匠頭《たくみのかみ》酔っぱらってふらふらしている。
(SE)  ドンドンドン(太鼓の音)[テープ]
声 吉良上野介様お成り。
谷幹一の上野介が下手より来る。
吉良 おやこれは浅野殿、いかがなされた。
浅野 いやーこれは誰かと思ったら、上野介殿ではないか、ハッハッハッ。
吉良 ややッ、昼日中より酒に酔って殿中へ現われるとは何としたこと。すぐにお引取り下され、誰かに見られたら一大事。
浅野 いいじゃないの自分の金で呑んだ酒だ。カタいこと言うない。
吉良 殿中でござるぞ。
浅野 うるせーんだよ。ガタガタ言うとたたっ切るぞ。
浅野刀を抜く。
吉良 これこれ刀をしまいなさいったら困ったな。これ刀をしまって。
浅野 うるせーんだよ。
浅野なおも刀を振り廻す。
吉良 あぶない、あぶない、誰かある。
浅野 ウヒ……ホレホレ。
安田の武士下手より現われ、
安田 何という事、乱心めされたか。
と浅野をはがいじめにする。浅野もだえながら口を開いて、
(SE)  突如牛の声[ディスク]
安田の武士、上野介おおいにうろたえる。
上から何か物が落ちたり柱が倒れたりする。
というような形で始まっている。このあとテーマ音楽が続いて番組が進行して行くわけだが、この台本では従来いわれていた「忠臣蔵」とはまるで話が違っているところがミソだった。
つまりことの起こりは、酒に酔ったあげくの殿中での抜刀であり、一方的に悪いのは浅野内匠頭、上野介はむしろ話のわかる苦労人で、主家お取りつぶしの為に職を失った浪士達の面倒まで見ようという善意の人だったという設定になっている。
さてそれから先は、品田雄吉氏が当時の「ヒッチコックマガジン」に書かれた文章を引用させていただいて説明にかえよう。
このあいだの放送では、「忠臣蔵」の“真相はこうだ”版をやっていた。青島が、あるときは講釈師風に、あるときはハナシ家風に、そしてあるときは両方まざってしまったような口調で、“解説”をつける。それにつれて「忠臣蔵」の真相が暴露されていく趣向。これによると、四十七士の義挙なんてのはデッチ上げもイイトコで、大石(ハナ肇)以下が吉良上野介邸に押しかけたところ、上野介が忘年会をやろうなんていい出し、アッという間に脳イッ血かなんかで死んでしまう。そこで四十七士は、せっかく死んだんだから、オレタチが討ちとったことにしちまおう、ということになった。
テナぐあいである。まさにこれ無責任の精神にほかならぬ。だから赤垣源蔵徳利の別れなども、赤垣(植木等)が兄キの家に行くと、のんべえまた来たかといった調子で、兄嫁から玄関払いをくわされる。しょうがない、出直すとするかとつぶやく源蔵、ふと|衝立《ついたて》にかかった羽織に目をとめ、「おや、これ、わりといいモンじゃない」といただいていってしまう。こういう新解釈はまことに爽快なものである。ここにみられる“無責任な新解釈”の精神はカタ苦しくいうと、常識的な価値体系に対する破壊行為であり、またそれは、偶像破壊の態度でもあるわけだ。
ここに“無責任―植木等―青島幸男―「シャボン玉ホリデー」”の根本技術がある、といってよろしかろう。
やっぱり世の中には見るべき所を見ている人がいるもんだと、その|慧眼《けいがん》に感服し、かつ喜んだ。よっぽど気をよくしてたんだろう、めったにスクラップなんてしない私が、この文章はちゃんと取ってあったんだから。前の方にはまたこんな記述もある、ついでだからこれも引用しちまおう。
ところで、この“無責任”野郎をつくり出したのは、やはり、青島幸男なのである。植木等によって代表される、底抜けに陽気で、おそろしく現実肯定的で、しかも妙に抜け目のない処世法とでもいおうか……これはハナ肇とクレージーキャッツがテレビでずっとやっている社会時評的コント集「おとなの漫画」において、もうすでに歴然と現れていたのだが、この作者が青島幸男だったのである。
てな具合だ。さて「シャボン玉」の方だが、この時の「お呼びでない」はゲスト出演した九ちゃん(坂本九)がやっていた。
(M)  琴の音[ディスク]
満開の桜の木の下、白い幕を張りめぐらした所に、白布でおおった畳が一枚、|三方《さんぽう》に乗せた小刀を前に、浅野内匠頭が白装束で坐っている。
浅野 あーあ弱っちゃったなあ、えらいことになっちゃったなあ。
力弥、力弥はいないか。
犬塚の力弥が下手から来る。
力弥 おん前に。
浅野 どうしよう。おい切腹なんていたいだろうなあ。
力弥 そりゃ多少はいたいでしょう。
浅野 赤穂へ連絡はしたか、大石の奴早くきてなんとかしてくれねえかなあ。
力弥 見て参ります。
力弥下手へ去り、すぐ戻ってきて、
力弥 いまだ参上つかまつりませぬ。
浅野 遅いなあ(とじれる)。
力弥またすぐ下手へ去る。
浅野 力弥、力弥、内蔵助は……。
力弥出て来て浅野の前にひざまずき、
力弥 いまだ参上つかまつりません。
浅野 おそいなあ、何やってんだろうなあ。
坂本九のそば屋の出前持ちが突如出て来て、
坂本 どうもお待たせいたしました。なにしろ手が足りないもんで。それに道路が混んでましてね……。はい、では天ぷらそばと鍋焼きでしたね。
坂本九二人の前へかまわず器を並べる。
浅野と力弥呆然と見ている。
坂本 (気づいた感じで)あれ……お呼びでなかったんだ、ねッ。
お呼びでない、こりゃまた失礼いたしましたーッ。
浅野 無礼者ーッ。
浅野刀をとって坂本に切りつける。
坂本 ウオァーッ(とオーバーに|悶絶《もんぜつ》する)。
(SE)  ドカーン[ディスク]
浅野と力弥ウロタエ廻る。
こまかく書いてるときりがないし紙数がつきるから次の機会にゆずるとして、面白いのはこの時、新曲が二曲(一つは替え唄の形で)挿入されていることだ。
前章で書いたように、この年の夏に映画「ニッポン無責任時代」が大ヒットしたので、東宝ではすぐに第二作をやろうという話になり、同じくパレさんで「ニッポン無責任野郎」の製作を企画し、またまた私の所へ新しい主題歌の注文がきた。そして作ったのが「これが男の生きる道」と「ショボクレ人生」だった。
この時の「忠臣蔵」の中では、永い浪人生活に尾羽打ち枯らした赤穂浪士に扮したスリーファンキーズが次のように唄っている。
茶屋や飲み屋じゃオチョーシ盗み
人の残したサシミは食うし
マンジュー喰べれば数ごまかして
あげくが呑み逃げまた借金
みっともないからおよしなさい
もっとデカイことなぜ出来ぬ
ショボクレタことすんなこのヤローッ
やっぱりこの際討入りやんなきゃだめだな!
ついでのことだから「ショボクレ人生」の歌詞を書くから、メロディを憶えてる人は一緒に唄ってみてちょーだい。
バーやキャバレーじゃ灰皿盗み
他人の残したビールは呑むし
焼鳥食べれば数ごまかして
そのくせ勘定は人まかせ
*(くりかえし)
借りた定期券でビクビク乗って
隣の新聞横からのぞき
混むのを幸い女の|娘《こ》にさわり
他人のズボンで靴みがく
*(くりかえし)
会社終ればパチンコ通い
血走りまなこで落ちてる玉ひろい
入りもしないのにオーイ出ないぞ
怒鳴る声だけ一人前
*(くりかえし)
イヤ ドウモ!
なんだか懐かしさがこみ上げてくるでしょう、特に三番の歌詞を見ると隔世の感があるね、この唄作ったのはもう二十年以上前だから。パチンコ屋も変わりましたよ。あの頃はまだ一発一発指で弾じいてたんだ。チューリップなんてのはもう出来てたのかな? 背中合わせになってるパチンコ台の間に人間がやっと通れるくらいの通路があって、台をたたくと、おねえちゃんがやって来て上から首だけ出して、
「たたかないでよねーッ、今出すからさあーッ」
なんてやってたもんだよね。今は全部コンピューターで管理されてるってんでしょ、文明の変転は早いけど文化の歩みはのろいって本当だね、一番二番なんてのは今でも通用するし、やってる人も居るんじゃないの。
もう一曲の方の「これが男の生きる道」は替え唄じゃなく元のまま、浪人姿の植木が唄った。
帰りに買った福神漬で
一人淋しく冷飯喰えば
古い虫歯がまたまたうずく
*ぐちは言うまいこぼすまい
*これが男の生きる道
あーあわびしいなあ
毎日もまれる満員電車
いやな課長に頭を下げて
貰う月給は一万何ぼ
*(くりかえし)
何とかしなくちゃナー
やっともらったボーナス袋
飲んでさわいでラーメン喰って
毎日こうだとこりゃ泣けてくる
*(くりかえし)
バッチリ行きてエーナー
冗談じゃないよ、こんなのが男の生きる道だったら死んだ方がましだと思って逆説のつもりで書いたのに、まともにそう思い込んじまった人がいるときいてこっちが驚いた。
「ショボクレ人生」の馬鹿陽気な調子とはうって変わって「これが男の……」の方は哀調をおびた軍歌風のメロディがついている。
この二曲がシングルの両面に対照的にうまくおさまって結構なもんだと、作った我々はエツに入っていたが、打合わせの場でこれを聴いた監督のパレさんはいい顔をしなかった。
「軍歌調で行くって聞いたから期待してたのにどうも陰気で気に入らん。軍歌ってものはもっと雄々しく勇ましく華やかで、聞いていると血が熱くなって勇気が出るようじゃなきゃだめなんだ」
とこれだもんなあ。
「この歌詞でそんなメロディが出来るわけないじゃないよね、そんなに勇ましいのが好きなら軍艦マーチのメロディでこの|詞《うた》唄ってみればいいんだ」
と作曲家のデクさんは悩んでしまった。
ところで二匹目のドジョウをねらったこの映画も前作ほどではなかったが、そこそこに当った。それにしても若き日の我々は短期間によく歌を書いて、よく当てたと今更のように驚いてしまう。
三十六年八月から翌三十七年の十二月までの一年四カ月の間に、「スーダラ節」「こりゃシャクだった」「ドント節」「五万節」「無責任一代男」「ハイそれまでヨ」「これが男の生きる道」「ショボクレ人生」と矢継ぎばやに八曲書いている。
最後に再び品田雄吉氏の言葉を引用させてもらう。
植木等が現代の“のんき節うたい”になることは、私はゼッタイ反対。彼の個性と、そして青島幸男の性根は、のんき節的な落首精神をすら笑いとばしているからこそ、途方もなく愉快なんだと思っている。(後略)
なんだかこの章は手前味噌が過ぎたような気がするが、まあそれも洒落のうちだ。
「何か文句あっか、青島ダア!」
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その8
前章、「忠臣蔵」のお話をいたしましたが、その中で昭和三十七年十二月十六日放送分の「シャボン玉ホリデー」の台本が奇跡的に私の手元にあると書きましたが読み返してみると、我ながら傑作、死蔵するのはもったいないので、ここであらためて、補足公開をすることにいたします。
すでにこの前書きました通り、番組は有名な松の廊下のシーンから始まります。植木等の扮する浅野内匠頭が、酒に酔ってあばれまわり、温厚な吉良上野介にたしなめられるというのがファーストシーン。そのあとコマーシャル明けから順次抜粋して参りましょう。
高座のようなところ、青島|羽織袴《はおりはかま》で正座してる。
青島 酒の上のこととはいいながら殿中松の廊下で刀を抜けば、これはとがめを受けるのが当然。ついに内匠頭は切腹、浅野家はお取りつぶしということになってしまいました。すわ一大事とバン州赤穂の城へ|早駕籠《はやかご》が飛んだ。

(M)  何かそれらしいBG[ディスク]
クロマキー前、スリーファンキーズの長沢と高倉駕籠をかついでいる。浅野家の武士安田が乗っているが、すでに駕籠の底が抜けていて中で走っている。
長沢 えいほ、えいほ。
高倉 えいさ、ほいさ。
安田 えーい、もっと早く走らんのか、とばせとばせ。
長沢 むりですよ旦那、これ以上は。
安田 お家の一大事だ。一刻も猶予はならん早く早く、いそげ、とばせ。
駕籠すごく早くなる。
(SE)  サイレン[ディスク]
白バイに乗った犬塚の警官が追い越して止まる。駕籠も止まる。
犬塚 こらーっ、スピード違反だ。なんでそんなにとばすんだお前ら。
安田 やーこれはポリス殿。実はかくかくしかじかのしだい。お家の一大事なればお見のがし下さい。
犬塚 なるほどそりゃ大変ですな。しかし当方としてはですね。理由の|如何《いかん》にかかわらず、違反は違反として――。
安田 この通りでござる。お願い申す。
安田、地べたに手をついてたのむ。
犬塚 だめですなあ。
安田 武士の情をもって……。
犬塚 くどい、駕籠屋免許証を出しなさい。
長沢 だから言ったんだよ。ねえお巡りさん。
犬塚 くどい。
安田 あーあ、武士道も地に落ちた。
とオーバーに泣き崩れる。
(SE)  ガガーン[ディスク]

(このあと前章書いた「お呼びでない」が入る)

|上手《かみて》セット高座のようなところ、青島居る。
青島 切腹した殿様は自業自得だが、あわれをとどめたのはあとに残った浅野の家臣達、年の瀬をひかえて職を失ってしまいました。

城内(座敷のセット)。ハナ、安田、犬塚らとともにワゴンスターズの面々もいる。
ハナ 困っちゃうよなあ、なんだって殿中で刀なんか抜いちゃったんだろうなあ、うちの大将は。
安田 馬鹿なんじゃないの。殿様なんてのはガキの頃から苦労したことねーからだめだね。
犬塚 年の暮だってえのによ、今年はモチも買えないよ。
辻本 あてにしていたボーナスもだめか。
一同 困ったなあ。
ハナ おいおい、ぐちばかり言ってても仕方がねえ。まだ|つけ《ヽヽ》のきく家あるから景気直しに祗園へでもくり込んで大いに騒ごうじゃねえか。
一同 お〜っ、いいね。いこういこう。
エイ、エイ、オーッ。

上手セットに青島居て、
青島 どうにもヒデー奴らですなまったく。

祗園の茶屋のセット、舞子姿のピーナッツ唄っている。
(M)  祗園小唄 テープ
ハナ達すでに座敷に居並んで調子よく飲んでいる。
(パントマイム)
ピーナッツ唄い終わる。ハナ達拍手する。
一同 ヤンヤ、ヤンヤ。
石橋の|女将《おかみ》入ってくる。
石橋 今晩は。皆さんよくいらっしゃってくださいましたね。
ハナ いやーおかみ、いつも世話になるな。
石橋 世話はいいんですけど、お勘定の方を少しは入れて下さらないと。
ハナ 勘定のことは心配いたすな。ちと耳をかせ、いいか、我々は近々御主君浅野内匠頭様の仇を討つ。めでたく本懐をとげたあかつきには……。
石橋 もうその手には乗りませんよ。仇討ち仇討ちっていつまでたってもやりゃしないじゃないですか。
ハナ まあそうとんがるなよ。
あーそうだ、鬼ごっこを始めようではないか、今度は女達が鬼だ、さあ目かくしをしろ、そーれ。
女三人に目かくしをして、一同立ち上がる。
一同 鬼さんこちら手の鳴る方へ。
ハナの合図で一同窓や縁側からどんどん逃げ出してしまう。中には徳利や皿を持って行く奴も居る。石橋、ピーナッツと抱き合い、
石橋 さーあつかまえた。
PA もうはなしません。
三人目かくしを取ってあたりを見廻す。
石橋 あらオーさん、オーさん、どこへ行ったの。あらーっまた逃げられちゃった。クヤシーッ。
PA PB ドロボーッ、サギシーッ。
(SE)  キキキッ

上手、天水|桶《おけ》などある町のかたすみ、スリーファンキーズ「ショボくれ人生」のかえ歌を唄う。
(このところも前章紹介した通り)

突然、ワゴンスターズなんて名前が出てきて戸惑っている方もいるかも知れないが、当時ちょっと人気のあったウエスタンのグループで、チョクチョク「シャボン玉」に出演していた。浪士の中に辻本ってのが出てきたがこの人物は何をかくそう、今や自動車レース界にその人ありと言われている、日産レーシングスクールの校長、辻本征一郎氏であります。そういえば彼はあの頃からスタジオでも控え室でも、近所のレストランでも自動車の話ばかりしていたのを憶えている。
再びシャボン玉の忠臣蔵へもどろう。
女が駕籠にゆられて行く影絵がうつる。
青島(ナレーション)駕籠で行くのはお軽じゃないか、私しゃうられて行くわいなあ、ととさん御無事で、あのかかさんも、(途中から唄になり)勘平さんも折々は、便り聞いたり、聞かせたーり、ドン、ドン。

高座風のところ、青島居てナレーションを続ける。
青島 芝居に出て来るといい男だけど、この早野勘平ってのがまた悪いヤツ、実にひどいの。

坂本九の勘平と、桜井センリのお軽、天水桶のところに居る。
(M)  明治一代女(カエ歌)[テープ]
[#地付き]唄 坂本 九
九 ういた、ういたの祗園の茶屋で、しだれ柳のはずかしさ、人目しのんであいびきすれば、すねた夜風がじゃまをする。
(M)  新内(三味線の音)[テープ]
勘平(うんと臭く)おかる。
お軽 あい。
勘平 拙者は御主君浅野様の仇を討つため江戸表へ旅立たねばならない。
お軽 やっぱり。たのもしいお方。
勘平 ついては少々金がいる。すまないがお前、俺のためにしばらく|苦界《くがい》に奉公してくれないか。
お軽 えーっ。
勘平 見事本懐をとげたら、きっとまた一緒にくらせるよーにするから。
お軽 勘平さま。
勘平 拙者とてお前と別れたくはないが、ここが男の……武士のつらいところだ。
お軽 わかって居ります。お軽はよろこんで参ります。
勘平 ではそこの方、お願いします。
男現われて金を勘平に渡し、お軽の手をとる。
勘平 おかる。
お軽 勘平様。
勘平 随分とたっしゃでなあ。
勘平涙をこらえてお軽を見送り、もう見えないとわかると、けろっとして、
勘平 おい、行っちゃったよ、ハハハハ。
江美京子、舞子姿で出てくる。
江美 本当に行っちゃったの。
勘平 ああ、意外と高く売れたぜ、あのおかちめんこ。
江美 やっと二人切りになれるわね。
勘平 うん、じゃいこうか。
二人寄りそって歩き出す。お軽もどって来て、
お軽 調子づかないでよねーッ。
二人をハリ倒す。
(SE)  ドカーン[ディスク]

高座のようなところに青島居る。
青島 皆それぞれにしたい放題のことをしているから、とうとう喰いつめて土地にもいられなくなった。

途中神崎与五郎の話など入り、つづいて植木の唄う「これが男の生きる道」になる。尾羽打ち枯らした浪人姿の植木が唄い終わって、
植木 あーあなんとかしなきゃなあ浪人はつらいなあー、トホホホ(となげく)。
長沢純の学帽姿の受験浪人がやってきて、
学生 あんたも浪人なの、いやだね浪人は、僕もうあきあきしたよ、お互いにつらいね。(とすがりつき、ふと気づいて)あれお呼びでなかったね。お呼びでない、こりゃまた失礼いたしヤシターッ。
植木 ったく、やりにくいなあ(とくさる)。
(SE)  ダーン[ディスク]

坂本九、「カマカマベイビイ」を唄う。

玄関の小座敷、ビョウブが立ててある。上がり|框《がまち》のところに植木の赤垣がやってくる。
植木 たのもーッ、今日は、赤垣源蔵です。
石橋の兄嫁出て来る、ふくれている。
植木 やーっこれは姉上、御無沙汰してます。
石橋 今日は何の用ですか。
植木 いやーそんなにつんつんしなくてもいいでしょう、兄上は。
石橋 いません。
植木 そこに羽織がかかってるじゃありませんか。
石橋 いませんっていったらいません。
植木 本日この赤垣はいよいよ御主君の仇を討つことになりました……。
石橋 へーえ。
植木 いや今度は本当なんですよ。少し金かして下さい。
石橋 もうその手には乗りませんよ。おかえり下さい。
石橋冷たく立ち去ってしまう。
植木 ちぇっ、もうこの手じゃ人は同情してくれねーや、やんなっちゃうなあ。
植木、ビョウブにかかった羽織に向かい、
植木 兄上、源蔵は、この源蔵は。
植木、羽織のすそを持ちあたりを見廻し、
植木 うーんこりゃかなりいい布地だね。これ持ってって呑んじゃおうっと。
植木、羽織を持って逃げて行っちゃう。
このくだりが前章、品田雄吉さんの文章で紹介した源蔵羽織の別れで、本来芝居でやると、死を覚悟した源蔵が人知れず兄に別れを告げに来て、羽織のすそにとりすがって泣くという見せ場。観客の涙をさそう名場面なんですが、無責任男の植木がやるとこうなるという典型的なぶちこわしでありました。
日本座敷、そば屋の二階で浪士達呑んでる。
安田 ねー大石さん、景気はどうです。
ハナ 全くだめ。赤穂浪士だなんて同情されたのはほんの半年、もうひどいよ。
犬塚 なんとかなりませんかねえ。
植木 よーし、こうしよう。皆でそろって吉良の|邸《やしき》へゆすりに行こう。
ハナ 大丈夫か、そんなことして。
植木 大丈夫だよ、もとはといえばお前が悪いんだ。なんとか小遣いくらいよこせって。
安田 くれなかったらどうする。
植木 そうなったら居直り強盗だ。皆であばれて金めのもの皆かっぱらってきちゃう。
ハナ そんなことしたら世間がうるさいぞ。
植木 世間の奴がガタガタいったら、御主君の仇討ちだくらいの調子いいこといっちゃおう。
犬塚 なるほどそいつぁいい。出かけようぜ。
一同 エイエイオーッ、エイエイオーッ。
桜井の女中が突如出てきて、
女中 うるさいわよ大きな声だして馬鹿!
一同 すいません。(シュンとなる)

(SE)  ボーン(鐘の音)[ディスク]
青島 時は元禄十四年、極月の十四日大石内蔵助以下四十七人の赤穂の浪士は、おりから降りしきる雪の中、本所松坂町吉良の邸へ乗り込んだり。というと恰好はいいけど、水鼻すすりながらお勝手からしのび込んだ。

ドロボーの集団のような姿で一同来る。邸の中庭で松崎まことの清水一角に見つかる。
清水 お出合い下され。くせものでござる。
ハナ いけねーっ、ばれたぞやっちまえ。
全員チャンバラになるが一同ひきすえられてしまう。吉良上野介出てきて、
吉良 赤穂の浪士達か、長い浪々の生活さぞつらかったであろう。そち達も正業につけるよう取りはからうぞ。
一同 うへーっ(と平伏する)。
吉良 皆のもの今夜は存分にくつろぐがいいぞ、遠慮いたすな、ささ、あッウーン。
上野介突然ひっくり返る。
清水 殿、殿、いかがなされました、医者だ。
医者現われて脈を取る。
医者 こりゃだめだ。卒中で御臨終です。
清水 なにっ、なくなられたかっ、うーん。
植木 おっ、こりゃちょうどいいじゃねェか。仇討ちをしたことにしちまおうぜ。
犬塚 いや、そりゃちょっとひどいんじゃない。
ハナ カタいこと言うな仇討ちだ。
一同 仇討ちだ、エイエイオーッ。

青島 というようなわけで、偶然のことから仇討ちが出来てしまったのであります。どうしたわけかこれが忠臣蔵として人の鏡、武人の誉れだなぞと昭和の現在まであやまり伝えられているのであります。実説忠臣蔵はこの辺でおしまいです。
出演者一同いつの間にか青島を取りかこんでいる。
青島 なんですか皆さん、どうしたの。フィナーレ行きましょうよ。
一同 ふざけんなーっ。
青島皆にメタメタに張り倒されて伸びる。全員フィナーレで元気に唄い踊る。
以上が当時の台本の抜粋ですが、これが放送されますと、日本テレビへ批難の電話が殺到して、四谷局の交換機が一時パンク状態となり、翌日からは投書の葉書が山のように参りました。担当者の秋チンは「青ちゃんどうしよう、どうしよう」と青くなっていましたが、私はしてやったりとオーソン・ウエルズを気取って一人ほくそえんで居たのでありました。
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その9
死ぬのーっ 生きるのとーお
さんざんーん もめてーえーえ
と、ここまで詩吟調で唄い上げて、ここからインテンポで調子よく、
三月で別れる奴もありゃ
いやだいやだといいながら
五十年添ってる人もいる
いろいろあるよ いろいろね
アッそんなこたどうでもいいーじゃねーか
昭和三十八年の四月に、この歌は発売になった。「シャボン玉」のファンだった人々はきっと憶えていると思うけど、これもデクさんの作曲で私としては好きな文句だった。
二番三番がどんな詞だったか記憶にないけど、タイトルの「いろいろ節」のいわくだけは忘れない。
「なァ青ちゃんよ、人生にはな、|いろいろ《ヽヽヽヽ》あるんだよ、|いろいろ《ヽヽヽヽ》、な……」
というのが当時の渡辺晋ナベプロ社長の口癖でありまして、タレントに説教を垂れる時も、何か言い訳をする時も必ずこの|いろいろ《ヽヽヽヽ》が出た。
別にたいして説得力のある言葉とも思えないし、納得するに足る合理的理由がそこにあるわけじゃないけど、ナベシンが眼をシバシバさせながらこの言葉を口にすると、たいていの人間は、
「なるほどそういうもんかなあ……」
となんとなく反論出来ないような雰囲気にさせられてしまう。いま考えると一種のまやかしみたいなもんじゃなかったのかなあ……。
彼のこの口癖が仲間うちで変にもてはやされ、借金の返済をせまられた時なぞ、
「だからさ、|いろいろ《ヽヽヽヽ》あるのよ、ね、もう少し待ってよ、実に|いろいろ《ヽヽヽヽ》あるの、ね……」
なんてやるわけで、これじゃ文句をいってる方が拍子抜けする。
この|いろいろ《ヽヽヽヽ》をそのまま歌にしてしまおうというのでこの歌が出来た。
まあ実にいい加減というか、雑というか鋭いというべきか……、それでもヒットしたんだから文句はいわせない。
このレコードのB面に入っているのが、実は私としては一番好きな歌で、その名を「ホンダラ行進曲」といいます。
一つ山越しゃ
ホンダラダホイホイ
もう一つ越しても
ホンダラダホイホイ
越しても越しても
ホンダラダホイホイ
どうせこの世は
ホンダラダホイホイ
だからみんなで
ホンダラダホイホイ
ホンダラダ ホンダラダ
ホンダラホダラダホイホイ
ホンダラホダラダ
ホンダラホダラダ
ホンダラホダラダホイホイ
ホンダララッタ
ホンダララッタ
ホンダラホダラダホイホイ
あの|娘《こ》と会ったら
ホンダラダホイホイ
この娘と会っても
ホンダラダホイホイ
会っても会っても
ホンダラダホイホイ
どうせ女は
ホンダラダホイホイ
だから男は
ホンダラダホイホイ
*(繰り返し)
あっちへ行っても
ホンダラダホイホイ
こっちへ行っても
ホンダラダホイホイ
行っても行っても
ホンダラダホイホイ
どうせどこでも
ホンダラダホイホイ
だから行かずに
ホンダラダホイホイ
*(繰り返し)
あれをやっても
ホンダラダホイホイ
これをやっても
ホンダラダホイホイ
やってもやっても
ホンダラダホイホイ
何をやっても
ホンダラダホイホイ
だからやらずに
ホンダラダホイホイ
*(繰り返し)
この歌には柄にもなく虚無的なムードがある。実際この時は落ちこんでいた時期で、これ以後一年と少しクレージーの歌を書くのをやめている。
三十六年にスーダラ節がヒットしたおかげで東芝ヒット賞を受けた。その時は上位に先輩諸氏がひしめいていて、売り上げ順位が十何位かだった。やる気十分の当時の私としてはこれが不満で、「よーし来年は一位におどり上がってやるぞ」と|不遜《ふそん》にも秘かに決意した。
三十七年にはいままでこの原稿の中で書いて来たように、次々とヒットが出て、たしか売り上げ三万枚以上に与えられることになっていたと思うが、東芝ヒット賞を総ナメにした。
思惑通りになったことが嬉しくないことはなかったが、ヒット賞がとてもチャチなものに思え、こんなもののために一年間苦心してきたのかと砂を噛む思いがしたのも事実だった。もうこの歌をかぎり流行歌の作詞はやめにしようと、最後の一曲のつもりで書いたのがこの「ホンダラ行進曲」だった。
資料によると、再び歌を書きはじめているのが昭和三十九年の六月で、「ホラ吹き節」というのが出て来るが、これがどんな歌だったのかまるで憶えがない。憶えていないところを見るとどうもあんまり印象に残るようなものではなかったのだろう。数のうちだから駄作があっても仕方がない。
この時期に「日本一のホラ吹き男」という東宝作品が封切りになっているから、きっとこの映画の主題歌として書かされたものに違いない。乗ってない時ってのはいいものは出来ないよね。
ここまできたらもうとまらない、歌の話でどんどん行っちゃおう。
このあとで作ったのが「だまって俺についてこい」で、これはたしかTBSかなんかで、植木等がドラマを始めて、そのテーマに書いたものだったと思うけど、これも好きな歌だった。
ゼニのない奴は
俺んとこへ来い
俺もないけど心配すんな
見ろよ青い空白い雲
そのうちなんとかなるだろう
彼女のない奴は
俺んとこへ来い
俺もないけど心配すんな
見ろよ燃えている|茜雲《あかねぐも》
そのうちなんとかなるだろう
仕事のない奴は
俺んとこへ来い
俺もないけど心配すんな
見ろよ青い海白い波
そのうちなんとかなるだろう
この歌もメロディ、曲調、の途中の急変が面白くて、聞いた人は誰でも笑い出す。
御存知の方には言うまでもないが、はじめの三行は文字通り元気よくC調でたたみかけ、四行目が突如イタリヤ歌曲風というか、シャンソン風というか、やたらロマンチックに大らかに唄い上げ、五行目をもとの無責任調で突きはなすという仕掛けだ。
「ゼニのない奴は俺んとこへ来い」と大きくでるから、それではと、わざわざ相談に出かけたら「俺もないけど心配すんな」と胸をはり、「見ろよ青い空白い雲」とかわされ、あげくのはてに「そのうちなんとかなるだろう」ととぼけられたんじゃかなわない……。
そりゃそのうち|なんとか《ヽヽヽヽ》はなるだろうけど、その|なんとか《ヽヽヽヽ》の内容が問題なのであって、えらい所へ相談に来てしまったなあ……、という気分になる。
これも植木等のあの無責任を絵に書いたような風貌とスットボケた持ち味なくしては成功はあり得なかっただろう。
実はこの歌にはモデルがある。クレージーの知りあいに|アベ《ヽヽ》先生という得体の知れない人物が居て、私は幸か不幸か会ったことはないが、みんなの話から想像するとどうも総会屋かなんかやってた人らしい。
年の頃は六十前後、眼光鋭く容貌怪異、|恰幅《かつぷく》がよくやたらと胸が厚い。立派なカイゼル|髭《ひげ》をはやし、いつも黒のドスキンのダブルを着ていて、態度はきわめて横柄、何となくおかしがたい威厳がある、昔風に言うと壮士というタイプ。
バーやクラブでは、女を膝の上に乗せてブランデーをかたむけながら、大臣クラスの著名な政治家の名を呼び捨てにあげつらい、有名女優ははじめから「やった」と|鷹揚《おうよう》にのたまう、決して勘定を払わないが誰も文句がいえないという人物。
ハナ肇達が先生をかこんで|のせ《ヽヽ》まくり、
「先生、岸恵子なんて女優がいますが御存知ですか……」
と水をむけると、
「うん、お|ケイ《ヽヽ》か、あれもやった、たしかあれは上野の豆腐屋の二階だったが、あんまり大きな声を出すんでしらけたなあ……」
などとアゴをなでているという。
またこんなこともきいた。例によって|アベ《ヽヽ》先生ともども三、四人が銀座のクラブを呑み歩いて、帰りに仲間の運転する車に乗り込み、ヨタヨタと日比谷公園のわきあたりを通りかかると、おりあしく酔っぱらい運転の検問にひっかかってしまった。
「いやーっ、相当飲んでおられるようですなあ。失礼ですが免許証を拝見致します」
当然警官が窓から首を突っ込むようにして車中を見回す、後部座席にふんぞり返っている|アベ《ヽヽ》先生少しも騒がず、
「いやー勤務御苦労、君はどこの署の人かね」
あんまり態度がデカイので警官もつい、
「はあっ、丸の内署であります」
「丸の内か、今署長は誰だったかな」
「はあ、○○であります」
「おーっ、○○君か、本庁のアベだが、たまには遊びに来るように言ってくれ」
「はあーっ?」
警官がドギマギしているうちに、
「運転手君、やってくれ給え……」
「……?」
そのままずらかってきちまったという。
この人の真似をハナ肇がやるんで、いっとき控室に笑いが絶えなかった。
今こういう人あんまり見かけないけど、どっかにいるのかなあ。
話が前後して申しわけないが、三十七年に出た「ドント節」(サラリーマンは……で始まるヤツ)のB面に「五万節」が入っていたのを忘れていた。
これがまた馬鹿な歌だがどうしてもはずしたくないので入れておく。
学校出てから十余年
今じゃ会社の大社長
キャバレーがよいのつれづれに
読まれた鼻毛が五万本
サバ言うなこのヤロー
学校出てから十余年
今じゃ無職の風来坊
かよい慣れたるパチンコで
取ったピースが五万箱
サバ言うなこのヤロー
どうでもいいことだけど、クレージー全員がステージに並んで踊りながらこれを唄うんだが、ハナだけ「十余年」のとき、指で十四を示すのがおかしくて仕方がない。
学校出てから十余年
今じゃテレビのタレントさ
御用御用の明けくれで
切られて死んだの五万回
サバ言うなこのヤロー
この歌が出てから随分あとの話だが、フジテレビで私が時代劇「俺はども安」に出た時、|殺陣《たて》に出演してくれた役者さん達から、
「あの歌どうしても好きになれなかったス」
といわれて汗をかいたのを憶えている。
学校出てから十余年
今じゃヤクザの大幹部
喧嘩出入りの明けくれで
呼んだパトカー五万台
サバ言うなこのヤロー
この文句は残念ながらだめ、ボツになった。ヤクザ礼賛になっちまうと、クレームがつくに違いないと東芝のディレクターから泣きが入った。
学校出てから十余年
今じゃ立派な恐妻家
飲んで帰って締め出され
雨戸におじぎを五万回
サバ言うなこのヤロー
サバ言うなこのヤローの、|サバ《ヽヽ》とは、バンド言葉でインチキのこと、もとはといえばサバを読むという古い隠語からきているのだろうが、特に「イモサバ三流……」なんて|罵倒《ばとう》する時に使う用語として有効。
学校出てから十余年
今日は我等がクラス会
思い出話に花が咲き
飲んだビールが五万本
サバ言うなこのヤロー
どうして「五万○」という文句が出てきたのかさだかではないが、どうも旧制高校の寮歌の替え唄かなんかに原型があったような気がする。
あの頃の歌には、「天から降ってるこの雨がもしもインクだったらどうしよう……」なんて馬鹿馬鹿しくもまた、奇想天外なフレーズがあったもんなあ……。
この章ははからずも歌つなぎで書いてきてしまった。ついでのことにもう一曲披露してとどめとしよう。
ゴマをすりましょ
元気にゴマをね(アースレスレ)
口から出まかせ 出放題
手間もかからず 元手もいらず
すればこの世に チョイとチョイとチョイと
チョイと春が来る
ハアーエライヤツはおだてろ
ゴマすってのせろい
それ スレスレ ゴマすれ ホイホイ
これが「ゴマスリ行進曲」、昭和四十年の五月に封切りになった東宝作品、「日本一のゴマスリ男」の主題歌でありました。
ある歌が大ヒットすると、その歌を主題歌にして歌の内容に合わせたストーリーを作って映画化する、というやり方はよくあるが、これもまさしくその一つ。
もともと「上位の人間にゴマをする」という行為はあんまり賞められたことじゃない、むしろ卑劣な恥ずべき行ないであるとされてきた。
昔から|媚《こ》びへつらいは|忌《い》むべきもの、茶坊主とかイエスマンなどと|蔑《さげす》まれ、男の風上にも置けない存在とすこぶる信用がなかった。
多くの人々の心の中に、この美風がまだ深く抜きがたく定着していた時期にこの歌が出たから、これはかなりセンセイショナルなものでありましたぞ。
しかも歌の前に、
「サアーみんなそろって楽しく元気にゴマをすりましょう」
という盛大な|ガナリ《ヽヽヽ》が入り、例のデクさん一流の馬鹿陽気なメロディが行進曲のリズムで流れ出すのだからたまらない。
ただそこに居るだけで不謹慎な感じをぷんぷんただよわせていた、当時の|いき《ヽヽ》のいい植木等があっけらかんと唄い上げたから、むしろ爽快でありました。
「ゴマスリという、どっちかっつーとあんまり自慢にならないことを盛大に唄い上げるような歌ってのがあってもいいような気がするんですよね、特に植木さんの場合なんか……」
と、何かの打合わせの時、デクさんが言いだして、「うんそれいただき」と、即座にそのアイデアに乗っかって書いたのがこの歌でありまして、デクさんという人は、時として突拍子もないことを言いだす実におかしな男でありましたなあ。
たしかに「ゴマスリ」ってのは、あんまりすすめられたことじゃないけど、現実にはしばしば行なわれることであって、むしろ適度のそれは人間関係の潤滑剤として大いに有益である場合もあります。
誰だって面とむかって罵倒されるより、上手にお世辞言われてる方が気持がいいに違いない。
「あの野郎おべっかばっかり使いやがって、一番先に課長になんかなりやがって見下げはてた奴だ……」
なんて飲み屋で愚痴ってるのは、「|巧言令色《こうげんれいしよく》 |鮮《すくな》し|仁《じん》」なんてカビが生えた|諺《ことわざ》を後生大事にして|寡黙《かもく》と|朴訥《ぼくとつ》を売りものにしている古めかしい連中で、むしろ自分の不器用さと無能力を恥じた方がいい、と私なんか思いますね。それでなきゃ飲み屋なんかで泣くなっつーの。
うまく世辞を使ってことをスムーズに運ぶのも能力のうちだ。
「豚もおだてりゃ木に登る」の|譬《たと》えの通り、やたら乗せられてその気になって、自分でも思ってもみなかった成果を上げちまったなんてこともある。なんたって人間気の持ちようみたいなとこ誰にもあるもんね。ゴマスリにも意外な効用があるもんだ。
二番をとばして三番を御紹介しましょう。
ゴマをすりましょ
皆でゴマをね(アースレスレ)
朝も早よから 夜中まで
身ぶるいするよな うまいこといおう
運が良けりゃ チョイとチョイとチョイと
チョイと福が来る
*(くりかえし)
この歌があんまり調子よく出来上がってしまったので、次回作のテーマが決まらずにイライラしていた映画製作のスタッフがすぐに飛びついたという次第でありました。
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その10
昭和六十一年三月六日、日本テレビの木曜スペシャルでクレージーキャッツ三十周年記念番組として特番「シャボン玉ホリデー」をやりましたが、御覧になった方々も多いと思う。
久々に私も引っぱり出されて、台本を書かされたり、コントを演じたりして、懐かしいやら照れくさいやら、大汗をかきました。
なにより嬉しかったのは、クレージーの連中が全員元気で出てきて昔と少しも変わらず、馬鹿を言いあっていられたことだ。中尾ミエちゃんも出演者として顔を見せ、
「ズーッとレギュラーで昨日までやってたって感じね」
としきりに感心していた。
演出に当った斎藤太朗をはじめ、照明さんや、小道具、結髪のスタッフにも二十ウン年以前からの仲間が居て、全くタイムマシンで往時へスリップした感じがしたもんです。
特に植木等が、|襟《えり》が高く、やたら|丈《たけ》の長いツッパリ学生が着る学生服を着て、リーゼントのカツラを乗っけて化粧室から出てきたのを見てびっくりした。太い眉といい、ふてぶてしい笑い顔といい、まさに昔のままの悪学生で、
「そのまんまで、ビーバップ・ハイスクール(近頃若者の間で受けている学園ものの漫画)に出ても大丈夫レギュラーになれるぜ」
とみんなで腹が痛くなるほど笑いこけました。
この時放送した番組の内容は二時間ほどの長さで、昔の数少ないフィルムから編集した懐かしの名場面集と、新たにスタジオで収録したものからなっていて、かなり面白い出来上がりだったはずです。
そのうちのワンブロックは、季節もちょうどいいというので修学旅行をテーマにしたかつての名作の復刻版といったようなもので、昔の台本を下敷にして構成しました。なんと昭和三十六年の十一月十二日に放送した、第二十四回目の「シャボン玉ホリデー」「修学旅行だピーナッツ」の台本が私の手元にあったのだ。
表紙はめくれ返り、紙はすっかり黄色くなっているが、中味は健在でした。
ここまで書いてきたので昔の台本について少し紹介してみよう。
前にも明らかにしたように、私が「シャボン玉」を書くようになったのが昭和三十六年の十月十五日、「ウェディングベルを鳴らそうピーナッツ」というタイトルのものからで、これが番組の通し番号でいうと第二十回、そのあと第二十一回、二十二回と津瀬宏が担当して、二十三回目を前田武彦が書いている。してみると二十四回目の「修学旅行……」は私としては二回目の作品だったことになる。
この年私は二十九歳で、スーダラ節をヒットさせておりました。十二月になって二本書いているがこの台本はない。
昭和三十七年に二十二本、翌三十八年と三十九年の前半までで十八本、この時点で合計四十数本書いているが、そのうちなんと二十七、八本は昔の台本がそのままの姿で今手元にある。何をかくそうこれは「シャボン玉」の生みの親、秋元近史ディレクターの未亡人が、大切に保存していてくれたからで、私にとってはまことに有難いことでありました。
話をもとに戻しましょう。お互いに孫が居てもおかしくないような|年齢《とし》になって、学生服を着て二十五年前と同じ台本で修学旅行のコントをやるのはなんとも感慨深いものでありまして、ただ顔を見合わせているだけで変におかしなもんですよ。ましてやセーラー服を着た現役の高校生のお嬢ちゃんがいっぱい出てきて、その|娘《こ》達と皆で腕を組んで踊るなんてことしてごらんなさい、あなた、もうなんとも晴れがましいというか、情けないというか嬉しいというか実に妙なもので、谷啓なんか、
「ねえ、青ちゃん俺|くせ《ヽヽ》になっちゃいそーッ」
なんて私の耳もとで息をはずませておりました。
毎度のことで恐縮ですが、この谷啓さんという人はまことにおかしな男でありまして、まだクレージーがそんなに売れてない頃の話ときいておりますが、例によって旅に出た時のことであります。
たまたま部屋で札束の話をしておりまして、いくらくらいだとどのくらいの|カサ《ヽヽ》になるというのがホッタン。ついには新聞や雑誌を札の大きさに切って、これをテープで束ねて並べてみた。そのうちに一番上だけ本物を入れたアンコ入りの札束をたくさん|拵《こしら》えてしまった。
「このままにしとくのはおしいじゃねーか」
ということで、谷さん、自分のアタッシェケースをひらき、シャツや下着を平らにした上にこれをびっしりと並べ、その上に精巧に出来たモデルガンを置いた。
谷啓さんこのケースを床の間に置いてなにくわぬ顔で仲間とマージャンをはじめた。
やがて女中さんがやって来たのを見すまして、
「ねえさん、すまねえけど、その床の間のカバンからタバコ取ってくんねえか」
と、もの凄いドスのきいた声をかける。女中さんは、
「はいはい、このカバンですか」
と手をかける。谷啓さんはわざと視線をそらして、面倒くさそうに、
「そうだよ、早くしてくれよ」
という。女中さんは気軽に|蓋《ふた》をあけて、中を見て驚いたんでしょう。さっと顔色をかえてパタンと蓋をした。
「おーっと、ねえさんそいつを見たね」
谷啓がギロッと睨むと、女中さんは、
「見ません、あたし何も見ませんでした。知りません」
と真っ青になってあとずさりして、ガタガタふるえながら逃げて行ってしまったという。
谷啓と仲間はそれを見てひっくり返って大笑いだ。
それにしてもこの一瞬の冗談のために、彼はわざわざ両眼の下に|隈《くま》どりをし、むろん頬にキズ跡までつけていたというから手がこんでいる。
「シャボン玉」をはじめてから三年くらいたってからのことだろうか、私はもうすっかり台本を書かなくなって、「青島ダア!」という当時馬鹿うけした流行語を自ら発明して、もっぱら出演者としてスタジオへ出入りしていた。台本作りは大変な作業で、出る方は、|身体《からだ》さえ持って行けばノーアイデアでもなんでもいいんだからうんと楽だ。
「本屋から|比較《くら》べると、タレントは収入三倍、|余暇《ひま》三倍で、ずーっと率がいい」
当時、同じような放送作家からタレントへ転向しつつあった前田武彦がいみじくもそう言っていた。
私の方もその頃、
「テレビは出るもの、金もうけは歌で、いいたいことをいうのは活字」
とはっきり割りきっていて、といっても別に活字に組んでもらって発表するほどのものは何も書いちゃいなかったが、ただ放送が終わるとすぐ|紙屑籠《かみくずかご》へ放り込まれてしまうガリ版刷りの台本作りに嫌気がさしていたのは事実で、半分はちゃんとした小説家になりたいという憧れでそんなことをいってたんだと思う。
まあいずれにしてもその頃の話で、ある時谷啓が自分の自動車を車検に出してしまい、たまたま日本テレビの玄関口で、同じようにフジテレビへ向かおうとしていた私を見つけて、
「青ちゃんもフジテレビ? 一緒に乗せてってよ」
と声をかけてきた。
私がまたそんな時悪い癖で、
「タクシーで行けよ、タクシーで。俺の車はタクシーじゃねえんだから」
と|にべ《ヽヽ》もなく答えて、荒々しくドアを閉めて車を発車させてしまった。私としては、あくまでも軽い冗談のつもりだった。正面玄関で車を止めて、バックミラーで様子をうかがっていると、谷啓はしばらく玄関前に呆然としていたが、そのうちに姿が見えなくなった。しばらく待っていたが、こっちも時間に限りがあったのでそのまま一人でフジテレビへ行ってしまった。この時も、
「谷啓っておかしな男だなあ」
とは思ったが、いつの間にか彼もフジテレビへやってきていて、いつも通りなんのわだかまりもなく一緒に番組に出演して、その日はそのまま別れた。
それからまた半年ぐらいたった頃だろうか、今度は私の車が車検でガレージに入ってしまい、フジテレビから皆で日本テレビに移動する時に、玄関前に止まっている谷啓の車を見つけた。
こりゃちょうどいいやとばかりに私が、
「おい、谷啓、一緒にたのむぜ」
と、彼の車のドアに手をかけようとすると、
「冗談じゃねーよ、タクシーで行けよ、タクシーで。俺の車はタクシーじゃねえんだから」
と谷啓は世にも憎たらしい顔つきで、噛んではき出すように怒鳴って、悪鬼のような表情のまま振りむきもせずに走り去ってしまった。
私は本当に腹を立ててタクシーで追っかけると日本テレビの玄関で谷啓をつかまえ、
「お前|見損《みそこな》ったぜ、何であんないやなことするんだよ、いままでみたいな付き合いは今日限りだと思え、馬鹿野郎!」
と大声でわめきちらした。
すると谷啓は実に嬉しそうな顔をして、
「またまた、青ちゃん落着いてよ。半年前の仇討ちだよ、悪く思いなさんな」
とニコニコしていた。
半年前のあの時、谷啓は口惜しくて口惜しくてたまらず、いつかこの仇は討ってやるぞと堅く心に念じていたに違いない。その甲斐あってか、はからずも今度は私の車が車検だと知り、まさに千載一遇のチャンスとばかり、谷啓の奴はフジテレビの玄関の前で私を待ちうけていたわけだ。
「あの時さ、『タクシーで行けよ、タクシーで』って怒鳴って、青ちゃんのビックリしてる顔を見て車をスタートさせた時の気分ってのはなんとも言えなかったねえ。えっ、ウッヒヒヒヒヒ」
とあとになって告白して、いつまでも喜んでいた。
いやまったく実になんとも、半年も前のちょっとした冗談を根に待って、しかも、そのことは|おくび《ヽヽヽ》にも出さずに付き合っていて、その間中|虎視眈々《こしたんたん》として復讐のチャンスを狙っていたってんだから、執念深いというか、冗談きついというか、こんな男に遭ったことないとあらためて驚かされた。
例の「青島ダア!」の話が出てきたのでついでにそのことにふれてみよう。実のところこの起源がいまもってはっきりしないんだが、ここに小林信彦氏が「サンデー毎日」三十八年八月十八日号に書いた記事があるので、これをまず手がかりとしてみよう。
今から三年前、日本中が安保問題でわき立っていた六月のある夜、都市センターホールで“若い日本の会”を中心にした集会が開かれた。主催者に江藤淳、石原慎太郎、客席には水上勉からヨネヤマ・ママコまでいたが、極左分子のアジで、アワヤ全員が国会にデモるところまで行きかけた。司会の羽仁進らは、あわてて、クレージーキャッツを舞台にあげた。異常にコーフンした空気を緩和させるためだ。
この時、クレージーといっしょに舞台に日吉丸みたいなへんな男が現れ、開口一番、
「フジテレビの“おとなの漫画”で、政治的圧力と|日夜戦っている《ヽヽヽヽヽヽヽ》青島幸男です」
これには満場爆笑、会場の空気はかわってしまい、デモは不発に終った。
集っただれもが、悲壮がっている時、無名の青年が、自分で「ニチヤタタカッテイル」なんていったため、すべてがドタバタ喜劇のように見えてきちまったのだ。
なんたる不謹慎! と私は立腹したが、時がたつにつれて、異常だったのはコッチであり、青島幸男はごくフツウに精神のバランスを保っていたのだということがわかってきた。闘争的な青年の集りの中で“闘争的な青年”のパロディを演じてみせるというのは、なみなみならぬ平衡感覚の持ち主だ。
彼を一躍茶の間の人気者にした、例の「青島ダア!」にしても、そうだ。
そもそもは、昨年の暮れの「シャボン玉ホリデー」(NTV)で「金色夜叉」のパロディをやった時、彼みずからが尾崎紅葉の扮装で登場し、解説にあたったが、その時、およそ世の中にこれ以上の重々しさはないというような調子で、
「エヘン、青島だア!」
とやった。この世のもっともらしいもの、重々しく見えても実は空疎なものへの、下町っ子アオシマの痛烈な批評がそこにあった。(後略)
いろいろと資料を当ってみると、たしかに三十七年の暮に、「演劇研究ピーナッツ」というのを私が書いて出演している。台本が残ってないのでどんなことをやったのかさだかではないが、恐らく小林氏の指摘に間違いはないだろうと思う。
正直言って、この「青島だア!」が何であんなに受けたのか今もってわからないが、きっと、まったく権威を感じさせない軽薄な男が、人を説得するに足る合理的理由も何もなしに、ただ威圧的に、目いっぱい出来上がって押しかぶせるようにこの言葉を発するので、これが馬鹿馬鹿しくて滑稽に見えたのだろう。
このあとにすぐ「谷だア!」が続くのだが、谷啓の方もこれまた、
「なーにそんなことくらいで驚くものか」
とばかり、やせ犬のから元気みたいな雰囲気で出来得るかぎり横柄にやったのが受けたんじゃないかと思う。
このシリーズでこんなことがあったのを憶えている。台本風に再現してみるとこうなる。
谷啓の大作家の先生、書斎でイバッている。他に編集者A、B、カメラマンCなどいる。
A 先生私どもでお願いしているお原稿は、まだでしょうか。
谷 まだだよ。私の書くものはそこらの三文小説とは違う。おいそれとは出来ないの。私を誰だと思ってんの。
谷だア!
A ウヘーッ。
B 先生、あの先日の原稿料をお持ちしましたがお納め下さい。
谷 ほーお、どれどれ。
谷啓、わたされた封筒の中をのぞき、
谷 だめだよこんなもんじゃ君、話にならん。編集長にいって三倍は持って来いって。
B でもあの。
谷 谷だア!
B ウヘーッ。
C 先生すみませんお写真を一枚いただきます。
谷 今いそがしいあとだ、あと。
C でも〆切りがせまってまして。
谷 うるせーっ、谷だア! 何か文句あっか。
いつの間にかうしろに、谷啓よりもっと尊大な感じの和服姿の青島がいて、ただ睨んでいる。谷、青島に気づき、ちょっと照れるが、すぐ思い直したように虚勢を張る。やがて泣き出す。
谷 ピーッ。
(SE)  ドカーン[ディスク]
これなどは、もう「シャボン玉」の中で何回も、谷だア! 青島だア! のやりとりがあって、視聴者の中に、あるイメージが定着していたので出来たわけで、今これだけやってもなんのことかわからないだろう。当時は私の方が何にも言わないところが受けるほどこのギャグは普遍的なものでありました。
この頃よくやった得意なレパートリーを思い出したので忘れないうちに書いてしまおう。
「青ちゃん、俺んちへ高校生からファンレターがいっぱいきてね、あれは何回見ても面白いからどんどんやってくれって書いてあったぜ」
と谷啓がうれしそうに、私にささやいたことがある。主体性皆無の人間達が出てくる例のパターンだが、昔のファンは思い出してもらいたい。
青島、谷、中尾ミエ、三人居る。
青島 どうだいおい、いい陽気じゃねーか。こういう時はパーツとどっかへドライブなんて行きたいね。
谷 それだよね。ドライブいいね。ラジオの音楽ききながら、海岸沿いの道路を飛ばして行く、いいよね。
中尾 道路が混んでるのよね。
青島 混んでるんだよ、前がつかえてて、進みやしないんだから面白くもなんともないんだよ。車はだめ、歩いた方がましだよ。
谷 歩くのいいよね、ピクニックなんて最高。お弁当なんて持ってねえ。
中尾 つかれるのよね。
青島 つかれるんだよ馬鹿、弁当持って歩き廻ってて何が面白いんだよ。歩かないの、映画見に行く方がいいな。
谷 映画、それですよ。手に汗握るサスペンス、身も心もとろけるような甘いラブロマンス、ねえ、何がいい。
中尾 面白いのやってないのよね。
青島 やってないんだよ、さっきから何言ってんだよお前。こういう時は家にいてマージャンでもやってるのが一番いいの。
谷 マージャンいいね。今それ言おうと思ってたんだよ。出たーっ、それいただき、メンタンピンのドラドラ。わーっ満貫だーっなんちゃって。
中尾 あたし出来ないのよね。
青島 出来ないんだよ。出来ない奴をマージャンにさそってどうしようってんだよ。こういう時は寝るのが一番。
谷 それっ、もうこれできまりだ。健康によくて、金がかからない。これがなんたって一番だ。
中尾 そうねえ、寝るのいいわね。
青島 なーっ、だからいったじゃねーか。寝るほど楽はなかりけりってね。じゃ三人で|雑魚寝《ざこね》しちゃおうか。
中尾 いいわね。
青島 谷 本当にいいの?
中尾 いいわけねぇじゃねーか。
中尾、二人をはり倒す。
二人 ハレハレハレハレハレ
(SE)  ズドーン[ディスク]
昔はこれがおかしかったんだよね。
なにしろ谷啓の間が良かったから……、なッ。
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その11
「三月六日のシャボン玉ホリデー、大変面白く拝見致しました。青春の一時期夢中でテレビにかじりついていた頃のことを思い出して懐かしく、明るく健康な笑いで二時間たっぷり楽しませていただきました。有難う」(四十九歳サラリーマン、同様内容のもの多数)
というような記事が、三大新聞のラジオテレビ面の投書欄にのっておりました。視聴者の番組に対する批判を書き送る|かこみ《ヽヽヽ》ですが、これを見て私も大変嬉しく思いました。視聴率調査の結果も、平均で十五パーセント以上とまあまあの数字が出ていたそうです。
この木曜スペシャルのヴィデオ取りの時、三日間ばかりクレージーの連中と久しぶりにスタジオに一緒に居ましたが、みんな昔と少しも変わってないのに驚かされました。
この番組の他にも、このところ、なんだかんだと一緒になる機会が多くて、なにしろ今年はクレージーキャッツ結成三十周年だそうですから大変なもんだ。
ハナちゃんがやたら乗りまくっちゃって、例の如く鼻の頭に大粒の汗をかいての大熱演、
「ハナのやつ、これ終わったら死んじゃうんじゃねーかなアー」
なんて植木等が心配するほどだった。
そういえば植木屋も今年日本アカデミー賞で助演男優賞なんか取っちゃって大当り、|椿山荘《ちんざんそう》で盛大なパーティを開いた。私も女房と娘の美幸を連れてはせ参じたが、植木屋の古い馴染みの人達が大勢集まってなかなか実のあるいいパーティでした。
こんな時には、プロダクションとかレコード会社ってのは必ず何かやりたがるもので、久々に植木とクレージーキャッツで昔のようにレコードを出しましょうなんて言い出してくる。唄となりゃ、やっぱり青ちゃんに頼もうよってなことになりまたまた私が引っぱり出された。
打合わせに出かけて行って大収穫だったのは大瀧詠一という才人にめぐり逢ったことだ。
この男は年は若いが優秀な音楽屋で、息子にきいたところによると一時ははっぴいえんどとかナイヤガラなどというバンドを|率《ひき》いてニューミュージックの世界で教祖的な地位をしめていたという。この人が昔からのクレージーの大ファン、いやクレージーの研究家といった方がいいようなマニアで、クレージーキャッツのことなら何でも知ってるといって過言ではないという人物。
先日池袋の西武で、これまたクレージーキャッツのことにくわしい小林信彦氏の主催する会合に出て|鼎談《ていだん》みたいな形で話をする機会はあったのだが、なんせこっちは照れ屋だし、彼は酒を呑まないから、なかなか打ちとけあうチャンスがなかった。あとで判ったことだが、この男は、スーダラ節以来の植木の一連の唄を作曲、編曲した萩原哲晶さんとも面識があり、無責任ソングのノウハウをすっかり身につけていて、いつかその腕前のほどを見せたいものだと機会を待っていたというわけだ。
大瀧氏はなにしろソノシートから、シングル、LPはいうに及ばず、クレージーの出演した映画のチラシからパンフレット、雑誌、新聞にのった|諸々《もろもろ》の記事を細大もらさずそのコレクションに収めているという凝りよう、だから私のことなんかも、私よりよく知っているというくらいだ。
この男なら私も相棒として組んでみるのも悪くないとすぐ話に乗ってしまった。
まず昔の唄でも面白いものはそのまま使おうよというイージーな案から出発した。
「ホンダラ行進曲」は、普遍的な内容だし、もはや古典として扱ってもいいほどだから、これはこのままLPに入れようということになり、ついで「五万節」の検討に入ったが、なにさま風俗ネタなので、内容が少し古くなっているからこれを改めようと、即座に「新五万節」の作詞にとりかかった。次に挙げるのがそれである。
学校出てからウン十年
今じゃ会社の大社長
キャバクラ通いの明けくれに
口説いた女が五万人
サバ言うなこの野郎(セリフ)
学校出てからウン十年
今じゃ議会の大物で
あっちゃこっちゃと口きいて
取ったワイロが五万円
ワーッセコイなあ(セリフ)
学校出てからウン十年
決死の覚悟で脱サラし
|一攫《いつかく》千金夢に見て
引いた屋台が五万台
大丈夫かねおい、ガンバッてね〜ッ(セリフ)
学校出てからウン十年
今じゃゴルフの大ベテラン
フック、スライス、天プラで
なくしたボールが五万箱
むいてないんじゃないの(セリフ)
学校出てからウン十年
今じゃ芸能レポーター
しつこくスターを追い廻し
張り倒されたの五万回
命かけてんのねーっ(セリフ)
学校出てからウン十年
今も無職の風来坊
競輪競馬に パチンコマージャン
つぶしたサラ金五万軒
しまいに殺されるぞ(セリフ)
学校出てからウン十年
今じゃテレビのプロデューサー
やらせやらせの明けくれで
書いた始末書五万枚
ずーっと書いてる(セリフ)
学校出てからウン十年
今じゃ医学の大権威
体に悪いと知りながら
誓った禁煙五万回
喫った方がいいよ死ぬまで喫えば(セリフ)
学校出てからウン十年
今じゃ世紀の芸術家
ロンドン パリーを股にかけ
爆発したのが五万回
すばらしいもんですね(セリフ)
学校出てから三千年
今日は仙人のクラス会
死んだり生きたり入れかわり
あきれた神様五万体
バンザーイ(セリフ)
ついにここに至って三千年という、西暦を越える時間を|飛翔《ひしよう》し、哲学を|凌駕《りようが》し神々をしてあきれせしむるという想像を絶する境地に到達したと、「新五万節」を作った一同は、大声を発してバンザイを三唱したのであります。
昔のものの焼き直しもいいけど、やっぱりLPを出すとなれば、何か刺激的な派手な新曲が一発いるだろうということになり、早速とりかかったが、昔いいの作ってるからなかなか図抜けたアイデアは湧いてこない。
いろいろ議論の末、クレージーキャッツのメンバーも皆もう若いとは言えない。それじゃ実態にあった等身大の立場で開き直ったやつがいいと衆議一決。
「実年行進曲」というタイトルが決まった。
「実年」というのは誰が言い出した言葉か知らないが、実に|曖昧《あいまい》で、何歳から何歳くらいまでのことなのかもさだかでない、まあ漠然と中年と老年の間くらいかなあってな認識で行くことにした。年でいうと、四十七、八から、五十七、八までかな。してみるとちょうど冒頭にかかげた、投書者の年代からで、あえてこれをシャボン玉世代と呼ばせていただこう。この世代は戦後の混乱期の中で学生生活を送り、社会に出る時は就職難で、会社に入ればモーレツ社員、オイルショックでキリキリ舞いをさせられ、今また高齢化社会の浪をまともにくらっている。今の状態じゃ年取ってからとても年金くらいじゃ暮らしていけないんじゃないかな。
なにかといえば「俺の人生は余生だ」という大正生まれの先輩達から義理と人情を押しつけられ、「そんな不合理な命令はきけません」と合理主義、実利主義一辺倒の後輩達から突き上げられ続けてきている。
しかしこの人達こそが、戦後の焼跡の中から今日の我が国の繁栄を築き上げているのでありますぞーッ。
そこで、この世代の特色をあげつらい、応援歌風の「元気の出る行進曲」ってやつをめざすことにした。
つまり、「話がくどい」とか「泣き上戸」が多いとか、きわ立って「助平だ」などと、思いつくまま勝手にわめき立てているうちに、例によって焼酎のお湯割り六杯目くらいまで行って次の唄が出来上がったのであります。
少々のことは気にしない、ただ前進あるのみ、行くぞーっ(怒鳴り)
俺達ゃ実年 文句があるか
背は低いが 血圧は高い
機械にゃ弱いが 女にゃ強い
ガンガン行こうぜ まだこれからさ
毎晩行っても 大丈夫 大丈夫
俺達ゃ実年 文句があるか
頭は薄いが 小便は濃いぞ
気が短い分 説教は長い
馬鹿にすんなよ まだこれからさ
毎晩行っても 大丈夫 大丈夫
俺達ゃ実年 文句があるか
財布は薄いが 脂肪は厚い
英語だめでも ワイ談は得意
止めてくれるな まだこれからさ
毎晩行っても 大丈夫 大丈夫
この調子で百まで行こうーッ(怒鳴り)
この文句からなんとなくおわかりいただけると思うけど、身長一メートル六十弱で体重六十キロ、半白の中曾根頭にベッコウ|縁《ぶち》の眼鏡をかけ、肩にいつもフケを乗っけて、ぶ厚い黒革カバンを抱いている。そう、お宅の部長さん。
よくいるタイプだよね、会社のエレベーターに乗ると必ず若い娘のオッパイをむんずとつかんだりする。そして、
「これも愛キョウでね、みんな平等にあれやらないと、部長さんエコヒーキしてるなんてひがむ奴が出てきたりしてね、これでなかなか気を使うんだよ、アハハハ」
なんて大声で笑ってる。
本人けっこう健康に気を使ってて、食事のあとっていうと、ひとつかみも薬を呑んでむせかえったりしてるくせにタフなんで困る。「毎晩行っても大丈夫」ってトメの一行が|ミソ《ヽヽ》で、これが一体何を言わんとしているのか意味不明のところが好きなんだが、どうだろう。
一気に書き上げて、天才青島健在なりと、大いに気を良くしてその晩ヘロヘロに酔っぱらって大御機嫌で帰ったのでありますが、日ならずしてクレームが付いてきました。
つまりこの唄の企画のバックには、さる酒屋さんがついておりまして、行く行くはコマーシャルにも使いたいという意向、「血圧が高い」とか「小便が濃い」「脂肪が厚い」なんて言葉は絶対に禁句なんでありますといってきた。
こっちも|中腹《ちゆうつぱら》になって、冗談じゃねえや、そのフレーズが面白いから書く気になったんだ、それがいやならヤメてくれとケツをまくってやろうと思ったんだが、間に入った連中が「そこをなんとか……」と頭を下げてきたので仕方なく書き直したが、あんまり面白くない。
「小便濃いぞ」なんてところ好きなんだよね。「つまりこのおとうさん糖尿の気があるんだよな、最後のひとったらしなんか、すうーっと糸引くんだよ、あとで|蟻《あり》が寄ってきて仕様がねえんだ」
なんてことをいってウケまくってたからとても残念だった。
でもスポンサーと泣く子には勝てない、仕方なく、あすこのところはそれぞれ、
「背は低いが プライドは高い」
「体も堅いが 頭もかたい」
「財布は薄いが 人情は厚い」
とそれぞれ書き直した。
まあこの年になって、また植木屋の唄を書こうとは思わなかった。文句はあったけど道楽としちゃ面白い。
録音の時にスタジオへ顔を出したが、前出の大瀧詠一君の作曲、編曲による音楽が面白くてぶっとんだ。
デクさんが生きかえって、手伝いに来てるんじゃないかと思わせるような雰囲気で、もう一つオーバーで馬鹿馬鹿しく、陽気で予定通り「元気が出る行進曲」に文字通り仕上がっていた。
植木屋がまた、昔と少しも変わらず胴間声を張り上げて調子良く唄い上げたので、出来上がりは非常にいい、私とても気に入っている、そのうちに読者の皆さんのお耳にもとどくと思うが、楽しみにしていてもらいたい。
この唄の中にあるような、なんとかはなんとかだが……という言いまわしは、実は昔よく「シャボン玉」の中で使ったフレーズでありまして例えば、
「家の女房ねえ、少し眼が近いんで失礼することもあるんだ。でも良くしたもんでね、その分耳が遠いの、そのかわり小便は近いぜ」
というたぐいでいくらでも続く。
「背は低いんだけど、横幅が広いのよ、そのかわり目方は重いぜ。そのくせ尻は軽いの、気は小さいわりには態度はでかいな。自慢じゃないけど口数は多いぜ。そのかわりよく喰うの。低血圧なのかね、朝は遅いのよ、でもその分夜は早いぜ。寝つきはいい方だけど、熟睡するのね。ケットばしても起きないよ、そのかわり起きると|した《ヽヽ》がるのよ。でもよくしたもんで|する《ヽヽ》とすぐ子供が出来ちゃうの……」
ちっともよくしたもんじゃないところが面白い。
これの変型で「訪ねてきた男」ってのがあった。これもおかしい。なべおさみと谷啓のやりとりでやってみよう。
なべ 今日は……
谷 あーいらっしゃい、まあおかけ下さい。
なべ それがそのケツに|おでき《ヽヽヽ》が出来てて坐れないんですよ。
谷 それはお気の毒、コーヒーでも入れましょうか。
なべ コーヒーだめ、夜寝らんなくなっちゃうから。
谷 あーそうですか、じゃお菓子でもどうです。
なべ 甘いもんだめなんですよ、今歯の治療してるもんで。
谷 じゃどうです一杯やりますか。
なべ 酒ですか、酒受けつけない|性《たち》なんです。
谷 じゃメシでも喰いましょうか。
なべ それがね、胃が悪くてね。
谷 お茶でも入れますか。
なべ お|腹《なか》こわしてるもんで。
谷 じゃ黙ってそこに立ってなさいな。
なべ |脚気《かつけ》で立ってんのがつらいんですよ。
谷 じゃどうすりゃいいんです。
なべ さあ、どうしたもんでしょう。
谷 さあ、どうしたもんでしょうね。
なべ いいかげんにしろよ、この野郎。
なべが谷啓を張り倒す。谷啓その理不尽さにあきれて一瞬戸惑うが、思い直したように泣き出す。
谷 ピ――ッ。
(SE)  ドカ――ン[ディスク]
私は谷啓の一瞬戸惑うこの間が好きだ。
あ、今思い出した。先日、谷啓と一緒に相模湖カントリークラブに行った時、一つだけ馬鹿おかしいことがあったから書いてしまいましょう。
午後のハーフでのこと、七ホール目か八ホール目だったかは忘れたが、えらい打ちおろしのパー・フォーで、フェアウェイの真ん中に大きな池が待ちかまえていて、ドライバーでナイスショットすると、いきなり池へころがり込む危険があるし、一打を短くきざめば、池越えのツーオンの可能性がなくなるというちょっと面倒なホール。
ティーグランドに立った谷啓、ボールをティーアップしてから言うことが良かった。
「ここでまあチョロするとするでしょう。今は芝が枯れてますから場合によっちゃ池まで行くこともありますよね。まあ一発御愛嬌でチョロをやって見ましょうか」
などといいながら、ビュン、ビュン、素振りして、結果はチョロ。
でもボールはどんどん転がって行って、言葉通り、池のふち、すごくいいポジションまで到達してしまった。
そこで谷啓照れながらいつもの笑顔でひとこと、
「ねッ」
と言ったんで一緒にいた一同唖然として言葉もなかった。
おかげで私はボロボロになりました。
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その12
六十一年四月七日、フジテレビの月曜ドラマランドで「意地悪婆さん」を久々にやりましたが、相変わらず面白いとなかなかの評判で、私どももスタッフもちっとばかり気を良くしております。
永年一緒にやってきている気心の知れた仲間一同が、初の沖縄ロケというので大張りきりで出かけて行きました。幸い一月というのに暖く好天気に恵まれまして、例によって和気アイアイのうちに撮影は完了したのでありますが、和気アイアイにいっそうの拍車をかけたのがロケに参加した小松政夫の存在でありました。
今やコメディアンとして特異な風格をそなえて、テレビにステージに大活躍をして居りますが、この男のタレントとしてのデビューは、実は何をかくそう「シャボン玉ホリデー」であったのだ。
「シャボン玉……」から多くの有能なタレントが育ちました。まあその辺のところは、|逐次《ちくじ》紹介して参りますが、まずは小松政夫に登場してもらいましょう。
小松は九州博多の生まれで、きくところによると生家の前の空地が、|香《や》具|師《し》のショバ(営業用地)にもちいられていて、始終バナナの「たたき売り」だの「ヘビ使い」などのダミ声が流れていたということです。
子供の頃からひと一倍好奇心の強い彼がこれに関心を持たぬはずがない。ひがな一日ながめていて、すっかりその口上と間を憶えてしまい、学校へ行くと教室でこれをやって大人気を博したという。
「さあどうだ、いいバナナだろう、えーっ、香りが良くて色つやがいい、喰って|旨《うま》くて値段が安い、ほら見てくれこの通りだ、表がバナナで裏がバナナ、なっ、はるか南は台湾の生まれだ、まだ青いうちにモギ取られ、|籠《かご》につめられ船倉へ、金波銀波の海を越え、ゆられゆられて甘くなるってねッ、皮をむいて見せてやろうかほら、おいそこの姉ちゃん、いいから喰べてごらん、遠慮はいらないよ、いい形だろ、ほら、あんまり気に入ったからって変なところへ押し込んだりしちゃだめだぜ……」
ってなことを小学生の頃からやってたというから、あんまりほめられた子供じゃなかったに違いない。ともあれ、人の前で何か面白いことをやって笑わせるのが大好きな人間で、成長するにしたがってこの病いが重症になってきた。
それにしても本人もまさかそれが商売になるとは思ってなかったので、生活のためにいろいろなことをやったらしい。東京へ出てきて最後にたどりついたのが自動車のセールスマン。
持って生まれた調子の良さと、外見に似合わぬ律義さが認められたのか、見る見る頭角を現わして販売台数で常時社内ベストスリーに入るようになってしまった。
特に注目をあびるようになったのが宴会芸。
子供の頃から年季が入ってるし、物おじしないから彼が居ると一座が陽気になって、笑いが絶えない。
乗ってくるとすぐすっ裸になって尻へローソクを立ててはい廻るなんてこと平気でやる。
後年タモりの得意芸になったイグアナだの製材所だの、新幹線のスレ違いなんて突拍子もない芸は小松の家の宴会から生まれたんだそうだ。
そういえば昔テレビ朝日で電線音頭なんて馬鹿馬鹿しい唄が流行したことがあった。
小松がピカピカのタキシード着ていきなり|卓袱台《ちやぶだい》の上へ飛び上がって、
「永らくお待たせをいたしました……」
なんてはじめるヤツ、あれなどまさに宴会芸そのもので、あのセンスでハシャギ廻って座を盛り上げるから、宴会といえば彼が呼ばれ、彼が現われると宴会となり、方々から引っぱりだこになったというのもうなずける。
新年会からお花見の会、ゴールデンウィークの社員旅行に研修会、|紅葉《もみじ》|狩《が》りから忘年会まで、とにかく自社のすべての宴会から声がかかり、しまいには取引先の親会社の宴席にまで引っぱり出される人気者になった。
こうなるともうセールスマンというより宴会係といった方がいいんじゃないか。話をきいてるとまさに、無責任時代の映画の主人公・植木等扮するところの|平均《たいらひとし》そっくりに思えてくる。
しまいには本人もその気になってしまったのかどうかしらないが、植木の所へ車を売りに来た。私もこの頃セールスマンとして紹介された憶えがある。当時の小松はキチンとした三つ揃いに地味なネクタイをしめて、フジテレビの「おとなの漫画」のスタジオの隅で、場違いなおのれをもてあましているようだった。
そういえば私、あの頃小松が連れてきたセールスマンの口車に乗せられて、ポンコツのMGを買わされたの憶えてる。
余談になるが車も古くなると思わぬところが壊れるもんで、ワイパーが動かない、ライトが|点《つ》かないなんてのは当り前で、子供がぶら下がっただけでドアが取れたり、走ってる最中に車輪がはずれたこともある。シートの背もたれが突然うしろへ倒れたのにも驚いたが、足元の床が抜けて道路の路面がサーッと流れて行くのが見えた時もゾッとした。それでも当時はみんなそんなものだと思っていたからミカン箱の蓋なんかを置いて平気で乗ってたもんだ、いつ何処でどこが壊れるのか判らない車にビクビク乗ってるのもシャレたものよ、壊れない車なんて面白くもなんともない、なんて|いき《ヽヽ》がっていたものだ。
やっとの思いでお眼当ての女の|娘《こ》をドライブにさそい、高速に乗った途端にガタンと止まっちゃって、降りて調べてみたらあろうことかプロペラシャフトが折れてた、さすがにこの時は売りとばしたい気になった。
小松ちゃんのことに話を戻そう。彼ははじめ車のセールスのためにクレージーのメンバーに近づいたようだが、何度かスタジオやジャズ喫茶に足を運んでるうちに、根っからの目立ちたがりやの虫が起こってきたらしい。
そりゃそうだろう。クレージーは売れてる最中で、何をやっても受ける。毎日宴会やってるようなもんで、これがテレビを通じて日本中の茶の間に入り込んでその上金になるってんだから、こんな|暢気《のんき》な商売はない。車のセールスなんていつまでやってても先は見えてるし、俺は元来こっちの方がむいてるんだ、この際なんとかタレントになれないもんだろうか……。
と彼が悩みだしても不思議ではない。
当時彼はセールスマンとして、本俸と売り上げ歩合を合わせて、一流会社の部長クラスの収入があったそうだが、これをおしげもなく棒に振って、植木等の運転手兼付き人になってしまった。
まだ若かったとはいいながら、この決断には勇気がいったと思う。
タレントの付き人なんてのは、半分は弟子入りみたいなもんだから給料なんか無いにも等しい、ほんの小遣い程度がどこでも当り前。
特に当時の植木屋は忙しい盛りで、朝早くから夜中まで、寝る間もないほど動き廻っていたからその付き人も大変だったろう。
それでも小松はよくつとめた。クレージーのメンバーからもだんだん信頼されるようになってきた。
私と谷啓がスタジオの隅でケッケ、ケッケと冗談ばなしに興じていると、必ず遠くの方からうらやましそうに見ていたのを憶えている。
そのうちに通行人や、その他大勢でうしろ姿を見せ、学生やギャングの手下なんかでちょくちょく画面にうつるようになってきた。
これが秋チンの眼にとまり、
「青ちゃん、あの小松っての面白いじゃないの、何かやらしてみようよ」
ってなことになって、私が台本の中に役を作るようになった。
最初にやったのがなんだったのか忘れたが、石川五右衛門の姿で出てきたのを憶えている。
百日かずらという、例の大きなかつらを頭にのせて、|掻巻《かいまき》みたいな衣装を着て、|山門《さんもん》の上で朱塗りの|欄干《らんかん》に足をかけ、
「イヤーッ、絶景かな、絶景かなーッ」
と大|ミエ《ヽヽ》を切るお馴染みの名場面だ。
「この景色が|値《あたい》千金たあ、ちいせえ、ちいせえ、この五右衛門の眼から見りゃあーッ」
とここまで言うと突如欄干が前へ倒れて、小松は欄干と一緒に山門から転がり落ちてしまう。すると小松急に|女形《おやま》風に横ずわりの姿になって、色っぽく、
「ドウシテ……、ドウシテコウナルノ……、シラナイ、シラナイ、シラナイカラモウ……」
と泣き出してしまう。
これが前から想定してあったギャグだったのか、偶然欄干が倒れた結果のアドリブだったのかさだかには憶えていないが、この場面が馬鹿おかしくっていまだに忘れられない。
このシーンが大いに受けて「ドウシテコウナルノ」と「シラナイ、シラナイ」が流行語になってしまい、これから小松はタレントとしてスタートすることになってしまった。人生ってのは何がキッカケで狂ってくるか判らない。
その後の小松の活躍ぶりは、皆さん御存知の通りだ。
博多の人間というのは、もともと芸事にむいてるのか、土地柄がそういうセンスを大事にしてるせいか、芸能人として名をなしてる人が多いように思える。タモリも武田鉄矢もそうだし、「シャボン玉」に縁のある中尾ミエ、小柳ルミ子、梓みちよなんてやっぱり福岡出身ときいている。
高倉健も同じく福岡じゃなかったかな。そういえば小松は映画で一緒だったとかで、健さんの声色がうまい。
「小松チャン、豆だいふく喰いますか」
というせりふがやたら似ていておかしい。
私も声の出し方の手ほどきを受けて真似してみたが結構うまくいく。「意地悪婆さん」の撮影のあいまに、小松と一緒にゴルフをやったが、ラウンドの間中二人とも健さんの声で通した。
「左へ行くとOBっすよ」
「ナイスショットっすね」
「何か間違ったことやったっすか」
ってなもんで、おかげで二人ともあとあとまでノドが痛くて困ったっすよ。
理由はどういうことか知らないが、小松は年に一回は必ず家族連れで沖縄へ出かけているらしく、変に土地の事情に詳しくて、ロケの期間中随分いろんなことを教わった。
「沖縄の地名ってのは変わったのが多くてね、むずかしいんですよ。たとえばこの先にオンナって村があるんですがね、|恩《おん》に|納《おさ》めると書いて|恩納《おんな》って読むんです。そこにインブって所がありましてね、え、|伊勢《いせ》の|伊《い》に|武者《むしや》の|武《む》、一部の|部《ぶ》、と書いて|伊武部《いむぶ》ってんです。昔のことですが、そこの土手が崩れましてね、土地の人が『|オンナ《ヽヽヽ》ノ|インブ《ヽヽヽ》ノドテクズレタ』って救援の電報を打ったら、すぐに婦人科の医者が飛んできたってんですが、おかしいでしょこれ、でも本当にあった話なんですよ」
といったようなことで、どれもあんまり信用出来るようなもんじゃなかった。
我々ロケ隊が世話になっていたのが全日空の経営する「万座ビーチホテル」。これがなんと岬の先端に立っている超モダンな建物で、全室が海に面しているというスゴイ設計、中央の巨大な吹き抜けにガラス張りのエレベーターが上下し、一階はハワイへ行っても、あんまり見ないんじゃないかと思われるようなカフェバー風の作りになっている。
意地悪婆さんの扮装をしたままの私と、インチキ出版社の編集長役の小松の二人は、撮影の待ち時間の間中、朝からそこに陣どってマテニーを呑んでいたのであります。
おかげであとで放送になった画面を見ても、どのシーンも自分が写っているのにほとんど憶えがありませんでした。
ショーガネーナー本当にもう。
この時に小松から聞いた話を一つ御披露しましょう。酔っぱらっててもこういうことはよく憶えてるんだから困っちゃう。
「ええ、何かのパーティで勝新さん(勝新太郎氏のこと)にお目にかかって、帰りが一緒になっちゃって、『家へ来いよ』とお招きをうけましてね、お宅へおじゃましたんですよ。そいでウイスキーなんか御馳走になってると、勝さんが『おい小松ちゃん、あんた達シャボン玉の中なんかで、洗面器で頭をバンバン張り倒されてるけどあれ痛くないのかい』ってきいてきたんですよね。そいで私が、『あれはコツがあるんです。なまじ手加減すると音が悪いしなぐられた方が痛いんですよ。思いっきりやればいいんです』っていってね、例えばって|穿《は》いていたスリッパを脱いで『いいですか、いきますよ』って勝さんの頭を思いっきりはり倒しちゃったんですよ。こっちも呑んでたから『ほらね、痛くないもんでしょ』ってなこといって、パカスカ、パカスカ何度も何度も張り倒しちゃったらしいんです……。その時はそのまま帰ってきちゃったんですがね、まわりの人はひやひやしてたって言うんですよね。私もあとでそれきいてゾーッとしましたよ。勝さん本人もあとでゆっくり考えてみると『どうして俺が小松に張り倒されなきゃなんねーんだ』って気がついちゃって、怒ってるらしいんですよね。だから私それっきり勝さんに逢わないように気をつけてるんですよ」
といってまわりを見廻す眼つきをしていた。
勝ちゃんは相当迫力あるから、今度あった時小松がどうなるのかと思うと楽しみだ、ヒッヒッ……。
沖縄へロケに行ってるんだから、当然のことに美しい|珊瑚礁《さんごしよう》とかそこを泳ぎ廻る熱帯魚の群なんてのが出てくるわけだ。ロケ隊の一行もグラスボートをチャーターして沖へくり出して行った。
御存知かも知れないがグラスボートっていうのは平底の船の船底がガラス張りになっていて、乗客達はそのガラス窓ごしに居ながらにして珊瑚を敷きつめたような海底が見られるというわけ。カメラマンや監督はロケハン(ロケーション・ハンティング、つまりロケ現場の下見)に来ているから、何回も見ているだろうが、大多数のスタッフは生まれてはじめての経験だ。みんな仕事を忘れて船底のガラス窓をのぞいていた。
特に海の中へ|潜《もぐ》ったことがない女性達はキャーキャーいって喜んでいる。
化粧係や記録の女性、女優さん達にそのマネージャーから付き人まで夢中になっていた。
するとどうだ、突如スッポンポンの男性がそのガラスの窓の中に現われて、人魚のように身をくねらせるとVサインまでして消えていった。一同ギャーッといって驚いて、今見たものが信じられないといった|面持《おもも》ちでしばらく顔を見合わせていた。
そう何をかくそうそれは小松政夫その人でありました。前に何回も乗ったことのある彼は、人知れず船尾へ行くと着ているものをみな脱ぎすてて、船べりから静かに海中へ身をおどらせると、潜水して船底へ現われたのでありました。
いくら沖縄とはいっても一月でまだ肌寒い、決して水温も高くはないのに、みんなを喜ばせるためとはいいながら、驚くべきサービス精神というべきか、あきれた目立ちたがりというべきか、いやまったくこの時は私も本当に驚いてしまいました。
そういえばこれも二十年前の「意地悪婆さん」の撮影の時の話ですが、三重県の湯の山温泉へロケーションに出かけて行きました。そこの観光名物にロープウェーがあって、これがかなり深い谷を越えて行き来している。これをドラマの中に組み込もうということになったんですが、ただゴンドラに乗って、ユラリユラリと昇り降りしてあたりの景色を見せるだけでは面白くない。そこで何かの都合でロープウェーが途中で止まってしまい、中に乗ってる乗客が命綱一本で、緊急脱出をするって話をこしらえて、この役を小松政夫がやることになった。
最初のうちは鼻唄まじりにゴンドラに乗っていた小松、だんだん谷が深くなるにしたがって顔色が変わってきた。そのうちに予定された現場へ到着して|グルン《ヽヽヽ》とゴンドラが止まって下を見て驚いた。左右の山が深く切れ込んではるか三、四十メートル下に、とうとうとした流れが霧にかすんでいる。
「えーっ、まさか、ここでやるんですかッ、マジッ、本当ッ」
ゴンドラの床の中央には本物の緊急脱出用の穴があいていて、布製のかごとロープが用意してある。
この時の小松の役がなんだったのか忘れたが、つまりものすごく臆病な青年が、ゆきがかり上仕方なくロープで脱出をするという設定だった。
小松は腹をきめたのか、布製のたよりなげな袋に入ってロープ一本で谷底へむけてブラリブラリと吊り下げられた。
言うべきセリフは、
「恐いよーっ、助けてーっ、やめてーっ、ドウシテ、ドウシテコウナルノ、助けてーっ」
この時の小松の芝居は絶品で、まさに真に迫る迫力に満ちていたとあとでカメラマンが驚いて、
「本当ですよ、とても演技とは思えませんでしたねえ、とにかく顔面|蒼白《そうはく》になってガタガタ震えて、本ものの涙をぼろぼろ流すんだもん、小松さんってのはすごい役者ですね。コメディでも手を抜かないんですね」
としきりに感嘆していた。
あとで本人にそのことを言うと、
「いやー參りました、冗談じゃありませんよ、あたし本当は高所恐怖症で、あれはマジ。芝居じゃありません。恐ろしいのなんのって大変、おかげで小便チビッちゃいましたよ。もういやです、二度と意地悪婆さんには出ません」
とこぼすことしきりだった。
「そうかあ、そりゃ知らなかったなあ。だって台本にちゃんと書いてあっただろう、いやならはじめから断わりゃよかったんだよ」
と私が言うと、
「だからさ、あの吊り下げられるところは、誰かほかの人がやってくれるんだと思ってましたよ、|ふきかえで《ヽヽヽヽヽ》」
「冗談じゃないよ、|ふきかえ《ヽヽヽヽ》なんて十年早いよお前」
と私がいびりにかかると、
「ね、そう言われると思ったからやりましたよ死んだ気になって。ええ、私もいっぱし役者のつもりでいますし、引き受けたからにゃやらなくちゃと思ったんです」
小松は変に義理堅くて|依怙地《いこじ》な面もある。こんなところが人気の秘密かも知れない。
ついこの間小松に逢ったら、
「昔植木さんの運転手してた頃ね、正月に局の前でほかの坊や達と待ってると、青島さんが来て、『寒いのに御苦労だね、少ねえがお年玉だよ』って、二、三千円かなあ、くれたことあるんですよ。あの頃金がなかったから嬉しくってねえ、一生忘れられませんよ」
なんて嬉しいこといってくれた。残念なことをした。どうせなら一万円くらいやっとけばよかった。
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その13
「シャボン玉ホリデー」から多くの有能なタレントが育ちました……。そしてまず前章小松政夫君に登場してもらいましたが、今回はいまやこれもユニークな俳優として人気が定着している「なべおさみ」をメインに据えて話を進めて参りましょう。
私がなべに会ったのは「シャボン玉」をはじめた頃だったと思う。ハナ肇の付き人として、チョコマカとスタジオを走り廻っていた彼は、よく気がつく明るい青年だった。
実に意欲的な一面もあって、通行人や、ガヤ(その他大勢の出演者)の役も率先かって出た。そればかりでなく、何かと工夫をこらして一秒でも余計に画面に写っていようとか、その場をもり上げる役に立ちたいとか願っているようだった。つまりは少しでも早く世間に認められるようになりたいという、実に野心的な若者でもあったわけだ。
台本には「通行人が通って行く」とだけしか書いてないのに、本番になると、トレーナーに身をかためて、首っ玉にタオルを巻いた若者が、しきりに画面の隅でシャドウボクシングをしている。芝居の邪魔にはなるけど、これが変に面白い。なんだあいつは? ということで注意を引くわけだが、これがなべだった。
こんなことをくりかえしているうちに「あの変なの面白いんじゃない」ってなことになって、だんだんと画面に出てくるようになってしまったから目立ちたがりは恐ろしい。
ギャングの子分になって射たれて死ぬ役をやらせると、「ウワーッ」なんて苦しみながらカメラの方へスッ飛んできて大アップになるとか、プールの場面になると一人だけ|褌《ふんどし》でいるなど数えあげたらきりがない。
ケーキやパイを顔にぶつけられる役、切られて池へ落ちる役、ビールびんで頭を割られる役なんかどんどんかって出た。御存知の方もありましょうが、スタジオで使うビールびんは|松ヤニ《ヽヽヽ》で出来ているから心配はいらないんですが、痛いことはかなり痛いです。
当時植木屋と谷啓のコンビがペンキ塗りの職人に扮して、板塀の前でペンキをぶっかけっこするなんてパントマイムが大いに受けていた。
まず職人に扮した二人が口笛なんか吹きながら、調子よく塀にペンキを塗っている。そのうち植木が間違ってほんの少し谷啓にペンキをひっかけてしまう。谷啓少しむっとなるが、にこやかに仕事を続ける。植木がまたかける。谷我慢をしている。植木またかける。谷いきなり植木の胸もとにベタッとペンキを塗る。植木ちょっと驚くが、悠然と筆を持ち直して谷の胸にペンキをつける。谷、植木の頬っぺたにペンキをつける。植木も谷におかえしをする。そこへハナの通行人が来て二人をなだめる。谷、植木、二人で通行人にベタベタとペンキを塗る。犬塚の巡査がかけつけてきて中に割って入る。谷、植木、今度はどういうわけかハナも一緒になって巡査をペンキ塗りにしてしまう。そこへもう一人通行人が来る。植木、谷、ハナ、犬塚の四人がこの通行人をとりかこむ。通行人、いち早く状況を判断して、自らペンキの缶を頭からかぶってしまう。
というようなコントだが、このペンキをかぶる通行人なんて役は、当然なべと台本に指定がつくようになってしまった。
なべは演技者としてばかりではなく、台本作りの分野にまで時として首を突込んで来ることがあった。
元来テレビのコントの傑作なんてものは、書斎で原稿用紙に難しい顔をしてむかっていてもなかなか出来るもんじゃない。気の合った連中と馬鹿話をしているうちにヒョッと出たりすることが多い。
私の場合、谷啓と二人で冗談のやりとりをしているうちにいつしか台本一本出来上がりなんてことがよくあった。
忘れもしない「ローリエ」でのこと、そう、その頃日本テレビの前に、その名のレストランがあって、一時期日本テレビの関係者の控え室みたいな観を呈したことがある。
例によって私がビールを呑みながら、谷啓と話しこんでいるところへなべが割り込んできて出来たのが、弁当のコントだ。いつものように台本風に再現すると、
列車の中、大勢の乗客が居る。青島と谷、隣りあって坐っている。
青島 さーて|メシ《ヽヽ》にしよう。列車の中で喰う弁当の味ってものはまた格別でね。
谷 そうね。
青島 あれっ、お前弁当持ってないの。
谷 うん、俺すましてきたから。
青島 そうか。じゃ失礼して。
青島弁当を開く。谷チロチロ盗み見る。
青島 おーこりゃなかなかいいや。カマボコか。カマボコお前好きかい。
谷 うん好きだよ大好き。
青島 そうか、カマボコ好きか。変わってるな。俺も好きなんだ。
青島さっと自分の口へ入れる。谷残念そうに見ている。
青島 こりゃなんだ。エビフライか、エビフライお前好きかい。
谷 エビフライ好きなんだよ。
青島 俺も好きなんだよ本当は。
青島さっと自分で喰べてしまい、谷にくれそうで、なかなかくれない、谷がっかり。
青島 お次はと……なんだ、トリの唐揚げだ。お前唐揚げ好きかい。
谷ついにむかっ腹立てて、
谷 嫌いだよ、唐揚げなんて。
青島 あーっ、嫌いなの。俺も嫌いなんだよ。
青島ハシでつまみ上げた唐揚げを足もとに落す。谷ついそれを拾いそうになる。青島いきなり足で踏みつぶしてしまう。
谷 ピーッ。
(SE)  ダーン[ディスク]
実際にスタジオでこのコントを私と谷啓が演じている時、なべは乗客の一人として、例によって、足を折ったスキー客といった凝った扮装で、なすこともなく見ていたそうで、あとになって「あの時はくやしかったですよ」とこぼしていた。
ついでのことにその時作った弁当のコントをもう一つ。
列車の中、大勢の乗客が居る。植木と谷、隣りあって坐っている。
植木 さーて|メシ《ヽヽ》にしよう。列車の中で喰う弁当の味ってものはまた格別でね。
谷 いや本当。私なんかこれが楽しみで旅行に出るくらいでしてね。
植木と谷そろって弁当をひろげる。
植木 おーっ、こりゃなかなかいいですな。あれっ、ラッキョウが入ってるな、私ラッキョウが子供の頃からだめなんですよ。これそちらへあげましょう。
植木ラッキョウをとって谷の弁当箱へ移す。
谷 こりゃどうもすいませんねえ。
植木 そのかわりこのシューマイ下さい。
植木シューマイを取る。
植木 あれ、タクアンも私だめなんです。これあげますから、このエビフライ下さいね。それと、ウメボシあげますから、唐揚げもらいますよ。コンニャクあげて、そのかわり肉をもらってと……。
谷ふくれてじっと見ているが、しまいに怒り出して、
谷 いい加減にしろッ、この野郎。
谷、植木を張り倒す。
(SE)  ズダーン[ディスク]
弁当で有名な話を思い出した。これも主人公はなべおさみ。二十数年も前のことです。
クレイジーキャッツの一団が東北地方へ演奏旅行に出かけることになり、四時に上野をたった。面倒見のいいリーダーのハナ肇はおふくろさんとおかみさんに一同の弁当を作らせた。
「おい今日はな、腹へっても|メシ《ヽヽ》喰ってくんなよな、うまい握り|メシ《ヽヽ》喰わすからさ」
メンバーは言われた通り、すきっ腹をかかえて列車に乗り込んだ。
荷物をかたづけ、それぞれ座席に落ち着いて、「それではそろそろ弁当などいただきますか」ってなことになった。
待ってましたとばかり、なべが飛び出して「はいはい只今、只今……」と網棚を見渡したが弁当の包みが見当らない。懸命に探したがどこにもない。そこで|はた《ヽヽ》とハナの家の玄関に忘れてきたことを思い出した。なべ|マッツァオ《ヽヽヽヽヽ》になったがどうにもならない。当然のことながらハナに張り倒されたが、その痛みより皆の冷たい視線がつらかった。いくら謝っても詫びても誰一人口さえきいてくれない。列車が大宮の駅へ着くやいなや飛び降り、奮発して百五十円の駅弁を十個買ってきてメンバーに配ろうとしたが、それさえ受けとってくれない。もう悲しくて情けなくて、吹きっさらしのデッキへ出て、一晩中泣いていたという。
「当時月給二千円くらいでしたかねえ、つらかったですよ。いいえ金はどうでもいいんですけどね、あのやさしい谷さんまで口きいてくれないんだもの、情けなくて……」
と後年つくづくこぼしていた。
三十六、七年頃のクレージーキャッツはまだそれほど売れてなくて、地方公演なんかへ出かけて行くと、「植木等とクレ|ジット《ヽヽヽ》キャッツ来る」なんてポスターが出ていたそうだ。
「スーダラ節」のヒットで植木屋の名前の方が先に有名になってしまっていたわけだ。このポスターがハナの眼にふれると、それでなくても機嫌が悪いのに、またゲンコツの数がふえるに違いないと、なべは「ハナ肇とクレージーキャッツ来る」と手書きした紙を先のポスターの上にはって歩いたという。
なべの父親という人は新潟の出身で、煙突専門のメーカーをやっていて、方々に工場や営業所を持ってかなり手広くやっていたらしい。なべは高校を卒業するとすぐ明治大学に入ったが、半年もしないうちに家を飛び出してしまった。
真面目に大学を卒業しても、親父につかまって煙突屋の跡継ぎにさせられるのは、兄貴を見て判っていた。実はその頃もう自分は役者として身を立てたいと深く腹にきめていたという。
子供の頃から目立ちたがりやのヤンチャ坊主で、学校でも体育の時間に雨が降り、お話の時間にしましょうなんてことになると、一番先に手を挙げ、教壇に上って「金馬」や「志ん生」の落語を一席うかがって大いに受けていたというから、素質はあったのかも知れない。
当時NHKラジオの「冗談音楽」で人気があった三木鶏郎さんのところへ、紹介もなしにいきなり押しかけていって役者にして下さいと頼んだってんだからずうずうしい。その頃は三木のり平さんをはじめ、丹下キヨ子さん、河合坊茶さんなんてソウソウたる人達が居たわけだから、とても無名の学生が入りこむ余地はない。「どうしてもというんなら、コントでも書きなさい」と言われてしぶしぶ放送作家の真似事をはじめ、当時「小えん」といっていた今の「談志」のラジオ台本なんか書いていたらしい。その時「阿木ゆきお」という気味の悪い変な男がいていろいろと面倒を見てくれた。この変な男が今や文豪の野坂昭如であったという話だ。
どうしても役者になりたいという夢を捨てきれないなべは、その後縁あって「黒い花びら」で一世を|風靡《ふうび》した歌手の水原弘の付き人になった。
「なあなべちゃん、青雲の志は俺と一緒に|遂《と》げようぜ」なんて調子のいいこといわれてついて行ったが、この|おみず《ヽヽヽ》(水原弘のことを仲間うちではこう呼んでいた)がなかなか大変な人で、手間のかかることおびただしい。
三度の食事のことはいうに及ばず、仕事のスケジュールの調整から引っ越しの段取り、金の工面に借金のいいわけ、新しい女の調達から、前の女とのトラブルの解決と、何から何までやらされた。よっぽど|うま《ヽヽ》が合ったのか、|おみず《ヽヽヽ》もなべに甘え、なべもよくつくした。この|おみず《ヽヽヽ》、人はいいんだが気に入らないとすぐ殴るという悪いくせがある。
|他人前《ひとまえ》でもなんでもガンガン殴る。なべはいつでも頭中コブだらけ、ついに辛抱たまんなくなってある提案をした。
文句なんかいおうもんならまた殴られるからやんわりと、
「おやじさん(どういうわけかこの世界では、付き人は師匠、主人のことをそう呼ぶ習慣があるみたい)、頭をポカポカ殴るのはアブナイッスよ、この前○○のとこの坊やなんか、一週間も意識が戻らなかったっていいますし、間違って殺したりしたらことですもんね。殺人事件なんてヤバイッスよ」
ともちかけた。すると|おみず《ヽヽヽ》、
「じゃどうすりゃいいってんだよこの野郎」
ドスのきいた声できき返してきた。
「ツネるってのどうです、あれでけっこう痛いし、ききめは変わりませんから」
「よし、じゃ今度っからツネるぞーっ」
それからは殴られなくなったが、車を運転して道を間違えたりすると、
「右だ馬鹿野郎、右つってんのがわかんねーのか、まぬけーっ」
と助手席にふんぞりかえってる|おみず《ヽヽヽ》がなべの腕をギューっとツネる。なべは筋肉質の体をしているから、ちょっとずらすとすぐに指先がはずれる。すると|おみず《ヽヽヽ》がいっそうジレて、「イーッ」とヒステリーを起こす。
そういうわけで三日目くらいでまたもとにもどったそうだ。
いつも殴られていたなべが一回だけ|おみず《ヽヽヽ》に仕返しをしたことがある。
当時の|おみず《ヽヽヽ》の人気は大変なもので、日劇でも国際劇場でもいつでも満員御礼、ファンの女の子がキャーキャーいって押しかけていた。ある夏の日のこと、プロダクション主催で、ファンクラブのメンバーを二百人も集めてバスを|連《つら》ね、湘南の海へ海水浴に出かけた。
早速砂浜でスイカ割りや、ドッジボールがはじまり、ついにはロープで土俵を作っての相撲大会を開いた。
|おみず《ヽヽヽ》が一番に名乗りをあげて、土俵の中央に立って、
「おいなべ、むかってこい」
と大手をひろげた。なべは「ハッ」といって飛びつくと同時に、首っ玉へ腕を廻して、腰を|おみず《ヽヽヽ》の体の下へすべり込ませると、ハデな首なげで、ズデンドウとばかりに投げとばしてしまった。普段いためつけられているからつい力が入ったのか、|おみず《ヽヽヽ》は|無様《ぶざま》に砂の上にひっくり返った。
「よーし、もう一番だ。今度こそ負けないぞ」
と腰をさすりながら立ち上がった|おみず《ヽヽヽ》、なべと四つに組むと、耳もとへ口を寄せて、
「ファンの前だぞ、馬鹿野郎、マケローッ」
といって耳タブに噛みついたという。
そういえばなべがやたらに腕力があることは私も知っている。
「シャボン玉」のはじまった頃、スタジオの中で変な|カケ《ヽヽ》が|流行《はや》ったことがある。十円玉でも百円玉でもいいんだが、十枚ほど持ってお互いに手の中でジャラジャラさせてからキチンと揃えて、合ってるか合ってないかを宣言して、コインの面を見せあう。宣言した通りに当った方が取る権利を持つ。こうして次々にめくって行って勝負をあらそうわけで、単純だが意外に面白い。
このゲームである時私がつきまくり、なべのなけなしの持金を全部巻き上げてしまった。よせばいいのにその上、
「ははは、これでお前|メシ《ヽヽ》代もなしか、哀れだなあ。おかげで俺はカツ丼にビールつきだ、悪いねえどうも御馳走になって、ヘヘヘくやしいか、おーっ、ふくれたふくれた……」
といびり倒した。なべはくやしがって、「イーッ」と歯がみをして私に抱きついてしめ上げてきた。いやーその力のあること、実にどうも万力みたいな腕力に驚いたもんだ。
やがて|おみず《ヽヽヽ》がマナセプロからナベプロへ移り、その時からなべもナベプロに縁がつながった。
たまたま社長の渡辺晋さんと旅先で一緒になったりすると、
「ねえ社長、うちも演技部を作りましょうよ、そいでまず第一に私を所属演技者にする、ね、これでいいでしょう」
ってなことばっかりいって社長を|辟易《へきえき》させたという。
その後もあんまりしつこいので社長もとうとう折れて、演技者見習いということで、ハナ肇の付き人にしたというわけだ。
その後のことはもう読者の皆さんもよく御存知だと思う。
テナーの安田伸扮する助監督と組んで、理不尽に怒鳴りまくる映画監督の役で人気を博した。
キントト映画撮影風景など、毎週のように「シャボン玉」に現われ、いつの間にか押しも押されもせぬ、ひとかどの演技者になってしまった。
なべも変に一途なところがあり、森繁久弥さんをものすごく尊敬していて、森繁さんが、「屋根の上のヴァイオリン弾き」を|演《や》っていた一時期、お願いして付き人としてかしずいて勉強させてもらう、なんて殊勝なことをやってのけた。
いっぱし役者として、大型のテレビシリーズの主役を張れる男が、初心忘るるべからずとはいうものの、なまなかな気概では出来るもんじゃない。
なべおさみ頑張れ!
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その14
前章、前々章と続けて、小松政夫、なべおさみと「シャボン玉ホリデー」から巣立って行った大タレントについて書いてきたので、今度は「シャボン玉」でデビューした、大放送作家の方々を御紹介申し上げることにする。
つまりはっきり言うと、私の弟子どもということになるわけだが、これがどれもこれもなかなかに面白い人物が揃っているので書くのが楽しみだ。
自分で言うのもなんだが、三十八年当時の青島幸男の売れようは大変なもので、「スーダラ節」以後書く唄はすべて大ヒット、「シャボン玉」は、常に四十パーセントに近い視聴率で、毎週のように台本を書き、自ら|傍若無人《ぼうじやくぶじん》に画面に飛び出してあばれまくる、「青島ダア!」は流行語となって全国津々浦々の少年達が真似をする。
すでに社会現象となっていた無責任時代の推進者として、時代の風俗の代表と目され、今のたけしやタモリにも負けないくらいのもて方だった。
「いつか青島のように放送作家になって、自分で画面に出て売り出そう……」なんて思う若者が大勢出ても当り前、最近とみに売り出している放送作家の景山民夫なんて不届きな奴は、「娘の美幸をレイプして無理矢理青島家に婿入りしてやろうなんてことを、一時真面目に考えてました」ととんでもないことを告白している。誰があんな|ウスラ《ヽヽヽ》でかい気味の悪い男を|婿《むこ》なんかにするかっての……。
「シャボン玉」のほかにもいろいろとやっていたし一人じゃとても手が廻らない、それに、テレビの台本というようなものは、書斎で一人コツコツ書いているより、酒でもくらって言いたい放題に思いつくことしゃべりまくってるスタイルの方が能率がいいし、面白いものが書ける。だから自然と、放送作家志望の若者がまわりに次から次と集まってきた。
軍団というほどの数ではないが、最盛期は家に十人くらいは出入りしていたと思う。
一番先に弟子入り志願してきたのが河野洋で、「シャボン玉」が始まったばかりのころだった。
その頃私はヒョンなことから美容師の免許を取るべく恵比寿の美容学校へ通っていた。といっても美容院の経営者になりたいとか、美容師でメシを喰おうと思っていたわけではなく、近い将来ヘヤーデザイナーとして世界へ雄飛しようと考えていたからだ。放送作家をいつまでやってても仕方がないし、何かうまい|手段《てだて》はないかと思っていた矢先、野心的な若者が美容の業界で成り上がって行くというサクセスストーリーをテレビドラマに仕立て上げたんだが、これがわりと良く出来て、なんだかその通りにやればうまく行くような気がしてきた。そこんところがオッチョコチョイなんだなあ、テレビの台本を焼き捨てるとすぐその足でさきの美容学校へ入学してしまったのだ。その学校で知りあったのが河野洋で、彼の母親が美容院を経営していて行く行くはあとを継ぐつもりででもいたんだろう。早稲田を途中で止めてその学校へ入ってきていた。
一緒に食事をしたり酒を呑んだりしているうちに、私の仕事に興味を持ち出し、テレビの分野に入り込みたいと思うようになったらしい。
或る日、新宿のトリスバーに呼び出されて行ってみると奴が先に来ていて、何かぐずぐずいっているが、なかなか要領を得ない。こっちもうすうす気付いてはいたんだが、
「いったい何がいいたいんだ、はっきりしろ」
というと、
「弟子にして下さい、お願いします」
とペコリと頭を下げた。当時彼は二十一か二くらいだったんじゃないか。
「よーし。面倒見てやろうじゃねーか、なあ洋坊(当時そう呼んでいた)俺が絶対にお前を一人前の放送作家にしてやるから安心しろ」
と大きく胸をたたいてみせた私は、二十七歳ぐらいだったはず、今考えると馬鹿におかしいね……。でもその時は二人とも大真面目で、美容学校へ通いながら、せっせと台本書きにはげんでいた。念のために申しそえると、そのクラスは女子が六十人、男子は、私と洋坊を含めて十人くらいいたが男の中で国家試験まで通ったのは私だけだった。
正直言って当初洋坊みたいに役に立たない奴はいなかった。結構古典落語なんかに詳しくて、志ん生や文楽の|咄《はなし》なんか知ってるくせに、|駄洒落《だじやれ》一つ言えず、何か面白いアイデア出せよ、なんて言っても、ただ「ウヘ……」と笑ってるだけのどうにもならないイモ少年だった。
ノーアイデアのくせに、態度はデカクて車の運転が出来ない。
弟子が助手席でふんぞり返ってて、右だ左だってアゴで指図するなんてどう考えてもおかしい。その上、こっちが間違ったりすると、はっきり言えばいいのに、窓の外へむかってはき出すように、
「あーあ、右だっていっているのにどうして左へ行くのかなあ、ハシ持つ方なんだよなあ……」
とこうだもん、やってられませんよ。
今でこそどこの放送局へ行っても知らない人はいないくらいのいっぱしの放送作家になってるけど当時はどうにもならなかった。
前に「蒼天に|翔《かけ》る」(拙著の小説)にも書いたが最初フジテレビでやっていた「おとなの漫画」の台本を書かせようとしたんだが、たった五分の番組なのにいつまでたっても出来ない。
ある時適当なテーマを与えて今日中に書かなきゃ家へ帰さない、何時までかかってもいい、徹夜になってもいいから絶対に一本書き上げろ、明日の生放送の分だから穴があいても俺は知らないぞといって、書斎のテーブルをあてがって|放《ほ》っておいた。
こっちは女房子供相手に酒を呑みはじめて、そのうち洋坊のことすっかり忘れて寝てしまった。
夜中に女房に起こされて、書斎へ見に行くと、彼は原稿用紙を前にじっと坐ったまま、ボロボロ涙を流して泣いていた。
「ホーッどうしたのお前、泣いてるのか、偉いねえ自分で感激して嬉し泣きするほどいい台本が書けたのか、そいつぁスゲーや、前から俺はお前は普通の人とはどこか違って見どころがあると思ってたんだ。実に偉いなあ、どれ見せてみろ」
ってのぞき込もうとすると、彼はガバッと原稿用紙の上に身を伏せて、
「出来ないんです、どうしても出来ないんです、もうカンベンして下さい」
と本格的に泣き出してしまった。当時の私は迫力があったからイビリも激しい。
「ホーッ出来ない、出来ないって泣いてるところが実に偉いよ、余裕あるねえお前、泣いててすむんだったら俺なんか毎日泣いてるね、まだ朝までにゃ時間はあるから頑張って書いてよ、俺は疲れたからもう寝るけど、明日の生本番穴あけないようにな、ああそうだ、泣くのはいくら泣いてもかまわねーけど、声を出すなよ、子供が眼を覚ますとうるせーからな」
といってドアを閉めちまった。女房は可哀そうだからなんとかしてやってといっていたが、
「癖になるから放っときゃいいんだ」
と本当に寝てしまった。もっとも前に書いておいたストックの台本が一回分あったから別に心配はいらなかった。
朝になって書斎をのぞきに行ってみると、案の定書斎はもぬけのから、洋坊は逃げ出してしまっていた。
あの頃のお弟子さん達はまったく自由気ままなもんで、来たり来なかったり、こっちもたいして当てにはしていなかったから、何を手伝わせても一切手当てというようなものは払わなかった。そのかわり飲み喰いの費用はすべて私が払っていたし、自分で一本でも書けるようになれば、早速局にランクを申請して、台本料はすべて本人に直接支払われるようにし、一銭だって|ピン《ヽヽ》こいたことはなかった。
局にランクを申請するというのは、つまりその局の制作する番組に放送作家として参画することを認めてもらい、原稿料の支払い条件を定めてもらうことをいうわけだ。
つまりは私の仕事を手伝うというのは修業の一部であるから金は払わない。そのかわり彼らにチャンスを与え、彼らの書いたものは彼らの名において放送してもらうということで、このやり方が一番|励《はげ》みになるし、やりがいが得られるからだ。この世界に入ってくる奴は誰でも人一倍功名心が強く、ただ金にさえなればいいという者はいないはずだと思っていた。
もう一つ「|ピン《ヽヽ》をこく」という言葉が出てきたが、ピンというのは数字の|いち《ヽヽ》を意味する隠語で、つまりは一割の上前をはねるというのが本来の使い方なんだろうが、芸能界ではもっぱら手数料をとるとか、マネージメント料のことをいうようになっている。中にはピンを支払ってあとの九割をくすねちまうなんてマネージャーもいるからあぶなくて仕様がない。
その河野洋も「シャボン玉」以来、「ゲバゲバ90分」というNTVの歴史的な大ヒット番組の代表的な構成者をやったりして、今では「仮装大賞」なんかで気をはいている。
二番手に弟子入りしてきたのは、たしか田村隆のはずだったと思うが、なにしろ古いはなしなので……。
田村は今一番の稼ぎ手なんじゃないか、なにしろあのドリフターズの作者として長いこと大人気を支え続けてきたんだからたいしたもんだ。今や|タムセン《ヽヽヽヽ》(田村センセイの略か)といえば高視聴率というくらいで泣く子もスポンサーも声を出さないというそうだからスゴイもんだ。
今でも憶えているが、「シャボン玉」をはじめて二年目くらいの頃か、ディレクターの秋チンが、
「ねえ青ちゃん、近頃俺のところへ変な|台本《ほん》送ってくる奴がいるんだよね、ちょっと面白いから見てやってくれる、まだ若い学生らしいんだけどね」
といわれてその原稿を見せてもらった。
広々とした庭に面した立派な日本座敷、羽織|袴《はかま》で正装した二人の男が将棋盤をはさんで対峙している。長考の末に一人の男駒を動かす。
男A こういきますか。
男B う――ん。
ややあってもう一人の男も駒を動かす。
男B こう取って、王手といきましょう。
男A あッそれだ、出た、ロンです。
男B うーん、やっぱりそれでしたか。
二人の男、盤上の駒をガラガラとかきまぜる。
もう皆さんおわかりと思うが、クレイジーキャッツも、ドリフのメンバー達もさんざんやった名人戦のパロディだが、当時は新しく感じられ、面白いじゃないのと早速どこかへ取り入れたの憶えている。もっともこの時の田村の台本でおかしかったのはこれだけで、あとは全然ダメだった。
田村と前後して滝沢ふじおってのが入ってきた。もうこれはほとんど押しかけ弟子というべきで、もともとは渡辺プロダクションがはじめて大卒を新規採用した頃に、試験を受けて正式に入社した男だが、クレイジーキャッツの担当になっていたので始終我々と一緒にいた。
「青島さん僕マネージャーより作家の方がむいてると思うんですが、会社やめたら弟子にしてくれますか」
というから、こっちも酒の上の冗談ばなしのつもりで、
「いいとも、いいともいつでもおいで……」
ってなこといってたら、或る日本当に荷物まとめて家へやってきて、それっきり居ついちまったという変な奴。
当時私は中野の鷺宮でたいしたこたあないが、七十坪以上の土地に三十坪以上の平屋作りのなかなかしゃれた家に住んでいた。敷地のぐるりに大谷石の塀をめぐらし鉄格子の|門扉《もんぴ》を開けば、シュロの木越しに鋼鋲を打った大きなドアが見えるという|拵《こしら》え、普請道楽の親父が凝って建てた洒落た作りの住いだった。
滝沢先生は文字通り三食昼寝つきの居候といったところで、毎日ゴロゴロしてるばかり。それどころか、夕食時に私が家へ帰ると、床の間をしょったいつもの私の場所で、下の子供を膝に乗せて、女房を相手に晩シャクなんかやってる。
帰った私の方が場違いなところへ踏みこんだような気がして妙なものだった。
滝沢君もやっぱり相当キビシイいびりに会っていた。米屋さんが家に来たりすると、
「えーっ、また米屋さん配達かい。早いねえ、この間来たばかりじゃねーの。あーそうか滝沢さんが居るもんな。米の減りも早いわけだよな。なあママ」
なんて私にいわれる。
「当時は平気な顔して、ヘラヘラしてましたけど、喰いもんのこと言われるといやでした。よーしもう絶対に青島さんところでもの喰うのやめようなんて、何度も決心しましたもんねえ」
なんてあとで述懐していた。
その頃は家にお手伝いさんが二人居て、弟子も二人、ガレージに車が二台、家にテレビが二台、子供が二人、「これじゃどうしたって女房も二人居なきゃ不自然だ」なんてことを言っていばってたんだから暢気なものだ。
どうして二人もお手伝いさんがいたかというとこれが馬鹿馬鹿しい。女房の実家の山形へ頼んだら、姉妹二人で東京へ出てきたいといってる|娘《こ》がいるんだが、という返事だったので、兄貴の家でもお手伝いさんを欲しがってるからちょうどいいんじゃないのとばかり、早速お願いしますと電話をかけた。たしかに二人で出てきたんだが、姉妹が別れ別れになるんなら田舎へ帰らしてもらいますと泣き出されて、えーい一人も二人もたいして変わらない、面倒臭えから一緒にいなさいということになり、それから三年も家にいてもらうことになっちまった。
我々の生活は不規則だし、いろんな人間が出入りしてるし、結局二人いてもらって好都合だったわけだ。
女房は時間が出来たとばかり、車の運転は習いに行く、社交ダンスは始める。活け花の先生につくと大いそがし、そのうちに大学へ入りたいなんていい出して、幼稚園へ行ってる子供が二人もいるのに、立教大学へ、早稲田へと聴講生ではあったが、二つの大学へ四年も通ってたんだからあきれかえる。
その時早稲田の映研(映画研究会)で女房と一緒だった学生が村川克信で、この男も何となく家へ出入りしてるうちに放送作家になってしまい、今では方々の局で構成ものに腕をふるっている。
今、艶歌の作詞で売れに売れてる、たか・たかし先生もその頃家へ来ていた一人で、彼は当時からコントや構成より、作詞が得意だった。
何かコマーシャルソングの仕事を頼まれてた時、私は書くのがおっくうだったので彼に書かせてみた。
出来上がってきたのを見て、
「馬鹿だねお前、こんなもの書いてきて、これで金が取れると思ってんのか、やっぱり俺が書くからいいや」
と怒鳴りつけて、私が三本ばかりあらためて作り、
「どうせこの中の一本が採用になるに決まっているが、せっかくお前も書いてきたんだからこれも|アテ《ヽヽ》馬として一緒に出してみろ。その結果を見てよく反省しなさい」
といってやった。結果を見たら私の作ったのは全部だめで、たか・たかしの作品が採用ときまってしまった。
「まあ、時として世の中にはこういうことも起こり得るということだなあ……」
てなことをいっておいたが、本当のところ、師匠の私としては立場がなかったのを憶えている。
やっぱりあいつは、あの頃から作詞家としての才能あったのかなあ……。
「世界まるごとHOW・マッチ」なんて番組の構成者として名を売ってる奥山伸って作家がいるのを読者は御存知かな。この男も私のところの弟子だった人で、北海道の出身、誰にでも当りがやわらかくて、やさしい感じを与えるんで、妙に女にもてる。
芸能プロダクションのマネージャーを振り出しにこの世界に入ってきた。一時前田武彦氏の付き人をやっていたことがある。
私の方もその頃から書くことより、タレントとしての仕事の方が多くなってきて、一時期、芸能事務所に所属したことがあり、その時付き人として私の所へきたのが奥チャン(今もこう呼んでいる)だ。
私はもともと、誰かにいつも|傅《かしず》かれているなんてのが嫌いな性分なので付き人なんかいらないといったのだが、奥チャンも放送作家志望で、どうしてもこの分野で一本立ちになりたいと強い希望を持っていて始終私にくっついて歩いていた。
希望を持つということと、仕事が出来るということはいつも必ずしも一致しない。この奥チャンもはじめの頃は何を書いても面白くも何ともないのでいつも私にいびられた。せっかく書いてきた原稿用紙を眼の前でゆっくりとビリビリ引きさいてくず籠へ放り込まれるなんてこともめずらしくない。
「なんなのこれお前、原稿用紙のマス目が字で埋まってさえいればいいと思ってんじゃないの。そうでなきゃよっぽど馬鹿だな。俺がお前みたいに無能力な人間だったら、生きていることを恥じてその窓から外へ飛ぶね。よくお前そんな馬鹿で平気で空気を吸ったり吐いたりしていられるね。はるばる北海道から出てくることなかったんだよ、作家になるなんて到底無理よ。今日中に荷物まとめて田舎へ帰りな。そいで北海道の大地で馬の糞をさらうとか、トウモロコシの毛ばでも|毟《むし》ってた方がいいのよ」
と女房や子供の前でもかまわずガンガン怒嗚った。
奥チャンもしまいには涙顔になってしまう。
「ホーッ、お前でも泣くことあるんだね。馬鹿にも涙はあるもんなんだ。そんなに無能力が情けないか、見上げたもんだ。おいママ、奥山が田舎へ帰るっていうから|餞別《せんべつ》を出してやんな……」
なんて、今考えるとひどいこといったもんだなあ……。奥チャンさんざんいびられて一人とぼとぼ歩いて帰る道すがら、口惜しくて仕方なく、
「よーしいまからとって返して、あいつ殺して俺も死のう」
と穏やかでないこと考えたらしい。あのやさしい奥チャンがそう思ったというから恐ろしい。
今では奥チャンにも十人以上弟子がいるらしいんだが、
「弟子を怒鳴ってる時、ああ、これどっかできいたセリフだなあと思って気がつくと、青島さんにいわれたと同じことを同じ口調でいってるんですよね」
と笑っていた。
いびりってのもうつるのかなあ。
いややっぱり創造力の問題で、ここらが師匠と弟子の違いなんだろうね……サスガッ。
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その15
早いもので日航機の大事故があってからもう随分になる。いまだにショックであの時のことは思い出したくないし書くのも気が重い。
ものすごく暑い日が何日も続いて、汗を流しながら毎日テレビのニュースにクギづけになっていたものだ。
数多くの方々が亡くなられたが、我々にとって大きな打撃だったのはなんといっても坂本九ちゃんを失ったことだった。
私が作詞家としてデビューしたのが九ちゃんの唄だったのも忘れ難い。
昭和三十六年、「シャボン玉」に参加した頃だったと思う。
憶えている人もいるはずだが「悲しき六十歳」というタイトルの曲がそれである。
当時「スウィート・シックスティーン」、日本語の訳は「悲しき十六歳」という曲が大ヒットしていた。「ダイアナ」だの「月影のナポリ」「カラーに口紅」とかいうような女学生好みの一連の甘いポップスが大流行で、これもそんな曲だった。
このヒットに便乗して売ってしまおうといういい加減な精神で「悲しき六十歳」というタイトルをつけたんだと思うんだが、これが思いもかけず大ヒットとなってしまったのだから世の中わからない。
東芝レコードに入社したてのピカピカの新人ディレクターが、或る日私の所へ変なテープを持ちこんで、これに詞をつけてくれといってきた。
なんでもトルコでやたらと|流行《はや》っている曲だというんだが、なにせトルコ語で唄ってるらしくて、たしかにエキゾチックで、一風変わっていて面白いんだが、何のことだかさっぱり判らない。
「やっぱりさあ、一応トルコ大使館とか、トルコ料理屋とかへ行ってさ、トルコ語の判る奴に聞かせて、何いってるのかぐらいは調べといた方がいいんじゃないの?」
私としてもあんまり見当違いの詞を書いちまうのもどうかと思ったので、一応そういってみたんだが、この新人ディレクターってのがまた、いい加減というか、図太いというか、
「いやそりゃ別に問題ないんじゃないの。よしんば意味が判ったとしても、それが我が国で受けるかどうかはわかりゃしねえんだし、それより青ちゃんが感じたままを、適当に詞にして、メロディの中に押し込んじまえばいいんじゃないの」
と相当の度胸で迫ってきた。
「よーしそんじゃアバウトでやってみっか」
こっちも無責任に引き受けてしまった。
渡された譜面を持って東海道線に飛び乗って、熱海まで行く間に書き上げちまったのがあの唄だ。その日はたしか名古屋へ行くことになっていた。
その頃はまだ新幹線がなくて、缶ビールを呑みながらガタガタゆれる列車の中で譜面と首っ引きのしんどい作業だった。
こっちだって|初見《しよけん》でスラスラ唄えるってほどの力はないんだが、二、三度テープを聞かされてるから、なんとかメロディはつかまえられる。テープできくと何度もはっきり「ムースターファー」といってるので、これはきっと男の名前に違いないと当りをつけて書き出した。
ヤ ムースターファー ヤ ムースターファー
遠い昔のトルコの国の
悲しい恋の物語
純情かれんなやさしい男
それが主人公ムースターファー
ヤ ムースターファー ヤ ムースターファー
純情かれんなムースターファー
ヤ ムースターファー ヤ ムースターファー
やさしい男ムースターファー
見染めた彼女は奴隷の身
ところが僕には金がない
どうにもならない 諦められない
どうしたらいいんだろ 諦めきれない
ヤ ムースターファー ヤ ムースターファー
諦められないムースターファー
ヤ ムースターファー ヤ ムースターファー
みれんな男ムースターファー
金さえあればこの世では
思いのかなわぬことはない
そこで僕は考えて
一念発起でマネービル
ヤ ムースターファー ヤ ムースターファー
金の亡者のムースターファー
ヤ ムースターファー ヤ ムースターファー
がっちりかせいだムースターファー
トルコで一の金持ちに
なってしまったムースターファー
いそいで彼女をたずねたら
今や悲しき六十歳
ヤ ムースターファー ヤ ムースターファー
夢のやぶれたムースターファー
ヤ ムースターファー ヤ ムースターファー
泣くに泣かれぬムースターファー
ヤ ムースターファー ヤ ムースターファー
時のたつのを忘れてた
ヤ ムースターファー ヤ ムースターファー
なげきの爺さんムースターファー
ナキッチャーネ この話
これがいきなり三十万枚突破の大ヒットになってしまったのだから驚きだ。しばらくしてから、ラジオを聞いていたらどこかのディスクジョッキーが例の曲のトルコ語のオリジナルのレコードをかけていたが、
「女奴隷に惚れた、ムスターファーという青年がこの奴隷を手に入れようと一念発起して、金を稼ぎまくり、ついにトルコで一の金持ちになってしまうんですが、月日のたつのは早いもの、はたと気がついてみるととうに六十を越えてしまっておりました、という実にたわいのない内容の唄なのであります」
なんて偉そうに解説していたのを聞いて、ひっくり返って笑ったのを憶えている。
ちょうどその頃、坂本九ちゃんが、「ダニー飯田とパラダイスキング」というバンドの坊やから唄い手でデビューし、「オー ユー ニード タイミング この世で一番かんじんなのは、ステキなタイミング……」なんて唄で人気者になり、あの独特の誰からも親しまれるキャラクターで売れ出すところだったので、潮に乗ってしまったに違いない。
つづいて「九ちゃんのズンタタッタ」というのを出した。これは作曲まで手がけるというはしゃぎよう。
作詞の方は、鉛筆なめなめでもとにかく字が書けりゃ出来るわけで、小学生だってその気になりゃ一つや二つはなんとかなる。そこへいくと作曲とくりゃ、こりゃ何か偉そうに見える。スタジオで録音してる時でも、恰好がいい。指揮台に立って棒を振れるし、
「頭から全体にはずんだ感じで行って下さい。それと四小節目ジーセブンになってますが、ミスプリでシーセブンの間違いですから……」
とかなんとかいってより専門家風に見えるところがいい。
なーに作曲といったってたいしたことやるわけじゃない。四つの循環コードをそのままメロディにして、「ズンタタッタズンタタッタ」と、はやしことばにして、あとは出まかせのメロディをコードに乗っけて唄っていけば自然に出来ちまう。
聞いてくれ聞いてくれ
話さなきゃいられねーんだ
すばらしいんだ 素敵なのさ
丘の上の白い家の あの娘は素敵なんだ
十七歳なのさ
それが何だ それがどした それが何だよ
聞いちゃいけないよ 僕はね
僕は彼女が 好きになったのさ
ヤハハの ヤハハの ヤハハのハ
ヤハハの ヤハハの ヤハハのハ
親父にねだってコリーを飼って
毎日三時か四時 散歩したのさ
その頃きまって あの娘も
犬連れてるのさ
それでどした それが何だ それでどしたの
聞いちゃいけないよ 犬のね
犬の畜生め 知らん顔してんのさ
ヤハハの ヤハハの ヤハハのハ
ヤハハの ヤハハの ヤハハのハ
ロードショウの切符買って
彼女に贈ったのさ
勿論となりへ 僕が行く
帰りにお茶に さそって
すべてOKさ
それでどした それでどした 彼女は来たのか
聞いちゃいけないよ 来たことはね
来たけど 一言もしゃべれなかったのさ
ヤハハの ヤハハの ヤハハのハ
ヤハハの ヤハハの ヤハハのハ
聞いてくれ聞いてくれ
話さなきゃいられねーんだ
すばらしいんだ 素敵なのさ
丘の上の あの娘の家へ
やむにやまれず 手紙出したのさ
それでどした それでどした 返事は来たのか
聞いちゃいけないよ あの娘はね
前から僕のこと 好きだったんだってさ
ズンタタッタ ズンタタッタ ズンタタッタズン
あの頃乗りまくってた「ダニー飯田とパラダイスキング」の連中が面白おかしくあいの手を入れて、はしゃぎまくったから、若い娘達は文字通りキャーキャーいったものだった。裏面はキューピーのニックネームで人気のあった石川進君が唄ってたはずで、これも小生の作詞・作曲、タイトルはたしか「それが悩みさ」だったと思う。
ピカピカ新車のキャディラック
買ってみたのはいいけれど
図体がデカクて掃除が大変
それが悩みさ
というような文句だったような気がする。株券を買っときゃ値が上がる。銀行へ入れときゃ利子がつく、あんまり儲かって金の勘定が大変でそれが悩みだ、とか、女に惚れられ過ぎて身が持たなくて、それが悩みだなどというナンセンスソングで、これも結構うけてたようだったなあ……。
まあなんといっても坂本九の人気を不動のものにしたのは、「上を向いて歩こう」という名曲だったと思う。中村八大さんの曲も素晴らしいが永六輔さんの詞もいい。
これにはとてもかなわないが、中村八大さんと組んで作った曲が私にもある。
「|明日《あした》があるさ」
いつもの駅で いつも逢う
セーラー服の お下げ髪
もう来る頃 もう来る頃
今日も待ちぼうけ
明日がある 明日がある
明日があるさ
ぬれてるあの娘 コウモリへ
さそってあげようと 待っている
声かけよう 声かけよう
だまって見てる僕
明日がある 明日がある
明日があるさ
今日こそはと 待ちうけて
うしろ姿を つけて行く
あの角まで あの角まで
今日はもうやめた
明日がある 明日がある
明日があるさ
思い切って ダイヤルを
ふるえる指で 回したよ
ベルが鳴るよ ベルが鳴るよ
出るまで待てぬ僕
明日がある 明日がある
明日があるさ
はじめて行った 喫茶店
たった一言 好きですと
ここまで出て ここまで出て
とうとう言えぬ僕
明日がある 明日がある
明日があるさ
明日があるさ 明日がある
若い僕には 夢がある
いつかきっと いつかきっと
わかってくれるだろう
明日がある 明日がある
明日があるさ
この曲も当時は随分人気があって、たしか番組のタイトルにもなったことがあったように思う。坂本九が中心になって、出演者一同がユニホーム姿でホリゾントをバックに踊りながら唄う。
踊りはきまってボックスだった。左右の足を前でクロスさせて、後ろに開く。なつかしいなあ、中学高校時代にまねした憶えがある人が多いはずだと思うがどうだろうか……。
ここまで唄にこだわって書いてきちまったんだから、この章はもうとことん唄でいくことにしよう。
「九ちゃん音頭」という実になんともスゴイのがあるから紹介しちゃおう。
九ちゃんが売れはじめると、テレビだ映画だ劇場だと引っぱりだこで、えらい忙しくなった。おかげでこっちもショー番組の構成の仕事だの映画のシナリオだのとやたら引っぱり出されるようになった。
今でもそうだが、日本の映画屋さんはせわしなくて、今日たのんで明日出来ないと気がすまないなんて|せっかち《ヽヽヽヽ》が多い。大映かなんかの仕事だったと思うが、私と前章弟子どもの紹介の時に書いた河野洋と
人が取っつかまって渋谷のおかしげなホテルに缶詰めにされてしまって、
「今、坂本九の映画を撮ってるんだけど、主題歌がないのよね。なんでもいいんだけど、パーッとこう派手なやつを書いて下さいよ」
と、プロデューサーに迫られた。
「パーッとっていってもなあ……。だいたいどういう写真なんですか……」
こっちもやりようがないから、一応きいてみると、
「内容はごくたわいのないあれでしてね。だから派手ならなんでもいいんです。九ちゃんさえ出てれば、客は入るんですから」
相当無責任なことを言ってくる。こっちもやけになって、
「じゃ音頭なんてのどうです。夏場へむかって景気よくていいんじゃないかな」
と負けないでまくしたてると、
「音頭ですか、少し古いんじゃないかな」
となかなかしぶとい。河野洋も悪のりして、
「古いも新しいもありませんよ。音頭は常に民衆のふる里ですよ。ヤグラをかこんで揃いの浴衣で、ドンドンドンガラガッタ、ヨヨイのヨイってね。第一絵になりますよ。時期もちょうどいいし、ねえ青島さん」
と乗せにかかる。こっちもかさにかかって、
「そう音頭。誰がなんてったって音頭にきまり。タイトルも出来たよ。九ちゃん音頭、いいなあ、これでいきましょう」
プロデューサーも、その気になってきて、
「ではひとつ明日の朝までに、作曲のダニーさんはここで待ってますから」
と電話番号をおいて帰って行っちゃった。
さーて、あとで二人切りになって考えてみると、音頭なんて書いたことないし、どっから手をつけていいか判らない。
第一、二人ともどっかへ缶詰めになって仕事したことないから勝手が違っちゃって、座敷の広さを持てあましてるだけ。
そのうち洋坊が、
「青島さん缶詰めってことは、このホテルで何か呑んだり喰ったりしても、勘定はむこうが持つってことなんでしょう」
と図々しいこといい出した。
「多分そうだろうなあ。まあ誰が払うにしても|素面《しらふ》じゃ仕事になんねえから、まずビールでも呑もうか……」
ってなことになり、女中さんを呼ぶと酒の仕度をさせ、さああとは二人で、やったりとったり、いいように酔っぱらってしまった。
「|他人《ひと》の金で酒呑むってのはいいねえおい、二人でやってても仕方がねえ、誰か女を呼ぼうか」
ひどい奴があるもんで、方々へ電話をかけるが皆いそがしくって出て来ない。
「ちぇっ、どいつもこいつも何がいそがしいんだか、金がある時ゃひまがない、ひまな時にゃ金がねえと……」
ぽろっと愚痴を言って、
「あれっ……出来たんじゃないの……これで。おい洋坊鉛筆持て、忘れねえうちに書けよ」
というようなことで出来上がったのが、この唄だった。
花が咲く時ゃ 風が吹く
月が出てくりゃ 雲が出る
とかくこの世は ままならぬ
愚痴はよそうぜ 歌でも唄おう
それがね それが浮世というものさ
キタサ ホイサッサ
好きなあの娘にゃ ひじ鉄くらい
きらいな娘にゃ 惚れられる
とかくこの世は ままならぬ
愚痴はよそうぜ 陽気にやろう
それがね それが浮世というものさ
キタサ ホイサッサ
金がある時ゃ ひまがない
ひまがある時ゃ 金がない
とかくこの世は ままならぬ
愚痴はよそうぜ 元気で行こう
それがね それが浮世というものさ
キタサ ホイサッサ
どうにも暢気なもんだ。それからすぐにダニーのところへ電話で送稿して、あとはもうメタメタに酔っぱらってしまった。若気のいたりとはいうものの、まったく実にどうも面目ない。
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その16
この広い世界の
どこかにたった一人
ぼくのお嫁さんになる人がいる
あの|娘《こ》かな この娘かな
あれもちがうかな かな かな
カナカナカナカナカナカ見つからない
銀座で買いものしてるかな
それともどっかで待ってるかな
カナカナカナカ見つからない
今どこにいるのかな
夢に見るだけで
ぼんやりしちゃうのさ
早くあいたいな
神様のきめた人に
あの娘かな この娘かな
あれちがうかな かな かな
カナカナカナカナカナカ見つからない
カナカナカナと、ちょっと読んでると面倒くさくなってくるが、これが唄うと調子がよくて、楽しい雰囲気を持った曲に仕上がっている。
詞の方は柄にもなく私だが、メロディはクレージーキャッツのメンバーの桜井センリさんだ。
センリさんは近年山田洋次監督の映画には必ずといっていいほど出演していて、味のある芝居を見せてくれている。
唄ったのはスリーファンキーズ。
発足時から「シャボン玉」のレギュラーで、当時大変な人気だった。今のチェッカーズといったようなものだろうが、皆十代の若者だったんじゃないかな。
リーダー格の長沢純は、甘い二枚目で、なかなか根性もあった。今は長沢企画なんて会社を作って頑張ってるようだが、
「『ナカナカ見つからない』、年に一度くらいは今でも唄わしてもらってますよ」
と、この間どこかで会った時声をかけてきてくれた。
最初のメンバーには高橋|元太郎《げんたろう》がいた。今も根強い人気を持っているテレビドラマ水戸黄門に、八兵衛の役で活躍している。あの丸頭の小柄な俳優さんの若き日の姿だ。
この人が抜けたあと「矢車剣之助」をやっていた手塚しげおが入り、藤健次と三人、抜群のハーモニーでとはいいがたいが、とにかく若い娘に追いまわされていた。
こんなに好きなのに
ふり向いてもくれない
知ってるはずなのに
ふり向いてもくれない
死ぬほどせつなくて
涙もかれはてた
どうしたらいいの
どうしたらいいの
知ってるはずなのに
ふり向いてもくれない
忘れられないのに
ふり向いてもくれない
にくらしいあの人
ふり向いてもくれない
死ぬほど悲しくて
毎日がみじめなの
どうしたらいいの
どうしたらいいの
にくらしいあの人
ふり向いてもくれない
死ぬほどつらいのよ
そっと名を呼んでみる
どうしたらいいの
どうしたらいいの
笑顔がみたいのに
ふり向いてもくれない
突如として甘っちょろい歌詞が続けて現われたのでみなさん驚いたかも知れないが、これがまた小生の作で、タイトルが「ふり向いてもくれない」、朝丘雪路さんがクラウンレコードに入って吹き込みをした第一作だった。
これを書いたのが三十九年か四十年頃だったと思う……。なにしろ年の暮で、その時ちょうど大川橋蔵さんの映画に出ないかと声がかかり、なんだか変な時代劇で、当てられたのもヤクザの三下みたいなどうでもいいような役で、あまり気乗りはしなかったが京都まで出かけて行った。
撮影所で控室が一緒だったのが新劇俳優の近藤洋介君、役どころも私の兄弟分で、二人ともひどく場違いな感じがした。
「どうしてこんなとこで、こんなことしてるんですか」
と彼がきいてきたから、
「年も押しつまって何かとあれでしょう……ギャラにつられてね……あんたは……」
といったら、
「いずこも同じ秋のなんとやらですね」
とウインクをしてみせた。
その時が初対面だったが、それからすっかり仲良しになって、毎晩連れだってあっちこっち呑んで歩いてた。
十年くらいたってから、この時撮った映画をテレビで見たけど、なんだかやたらとはずかしかったのを憶えている。
この時の交流が縁で後年「鐘」という自主映画を撮った時、近藤洋介さんに出演してもらうことになった。
余談だが、この「鐘」をカンヌ映画祭に送ったら批評家週間の入選作に選ばれ、ベネチヤ映画祭の招待作品になったり、フランス、カナダ、アメリカのバイヤーに買われ、大いに面目をほどこすことになった。
「鐘」はヴィデオカセットになって発売されているから、興味のある方はぜひ見てもらいたい。
あらためて見てみたけど、自分でいうのもなんだが、実にミズミズしい素晴らしい映画だと思った。私の大自慢である。
当時私はクラウンレコードに所属していた。ひとは信じないかも知れないが、歌手としてむかえられていたわけで、現にレコードも出している。
もっともクラウンレコードも新発足したばかりでテンテコ舞い、会社自体も何をやってるのかよく判らない状態だったに違いない。
親しくしていたディレクターから、
「なにしろ名前はきかないで下さい。なかなかの大ものです。女です。うちの看板になる人です。何でもいいですから、しっとりとしたロマンチックな歌を書いて下さい」
と手を合わせんばかりに頼まれた。
「まあなんとかやってみましょう」
とこっちも安直に引き受けてしまった。
御存知の通り映画の撮影ってのは手間のかかるものでやたらに待ち時間が長い、この待ち時間にやっちまおうというわけで、例の通り弟子の奥山君に原稿用紙を持たして一緒に連れていったんだが……。
簡単に書けると思ったのにこれがまるで出来ない。毎日二人で顔見合わせてはタメ息をついていた。
前にも書いたが、この奥山君というのは、面白い人物で、気が小さいかと思うと突如態度がデカクなる。
もともと家の弟子どもには、
「お前ら出世前の身なんだから、ほかの坊やみたいに、履き物揃えたり、タバコに火をつけたりなんてみっともねえことしなくていい」
といってあったが、それをまともに受けたのか、横のものを縦にもしない。|横柄《おうへい》な顔してタバコばかり喫ってる。
勿論朝だって私の方が先に起きて、一人でさっさと飯を喰って出てきてしまう。彼は昼近くまで寝ている。何か用事があって旅館へ電話すると女中さんが出てきて、
「先生はまだお休みです」
なんていう、これじゃどっちが弟子だがわかんない。
「あれ以来ダメです。僕の方が偉いと思われてたんで毎日食後にコーヒーなんか入れてくれてたのに、こっちが弟子とわかっちゃったら、あの女中、呼んでもふり向いてもくれないんです」
とこぼしていた。
「あ、それでいいじゃないの。『ふり向いてもくれない』、それいただきで歌にしちまおう」
というわけでアッという間に出来上がったのがこの詞でありました。何が幸いするか判んない。
奥山君の出来上がり話を一つ二つ。
あの頃私はオースチン・ケンブリッジという車に乗っていた。もうかなりくたびれていて、そろそろ取り替えようかと自動車屋へ持ってって、下取りの値をきいてびっくりした。
「一万五千円だったらいただきます」
当時の値段にしてもかなり安い。
「冗談じゃないよ、ちゃんと車も四つついてて良く走るし、ラジオもヒーターもきくんだぜ、ラジオだけだってそのくらいするよ、お前」
と私も腹を立てそのまま帰ってきた。
帰り道ずうーっと運転していた奥チャンもさかんに憤慨していた。
そのうち馬鹿に道のせまいところへ入ってきて左へ曲がろうとすると、車の左のモールが電柱に当って、ガクガク音がしはじめた。私は驚いて、思わず、
「おいダメだよ奥ちゃん、左|コスッテ《ヽヽヽヽ》るよ、おい、当ってるよ。少し車を戻して、ハンドル切り直せよ……」
などと、ガンガン怒鳴った。するとどうだ、奥ちゃん、
「そんなに怒鳴んないで下さいよ。こんな車なんだい、買やいいんでしょ、買やあ……」
とこれだもんね。ビックリしたなもう……。
だいたい一番はじめにあの男に運転させた時から間違ってた。
「もうこの車だめですね。クラッチが滑っちゃって出足が悪くて……」
と文句をいうので、よく見ると、あの野郎サイドブレーキ引きっぱなしで、しかもサードギヤーで発進しようとしてた。
「馬鹿お前これじゃクラッチが減っちゃうじゃねーか」
っていったら、あいつ平気な顔で、
「クラッチって消耗品でしょ」
とぬかしやがった。
またある時、
「ちょっといい女が出来たんですね。連れ込みとか、温泉マークへ行くのやなんですよ。赤坂あたりの一流ホテルへ行きたいんですが、なかなか入り難くてね。いやでしょ、あのフロントってのなんだか気取ってるみたいで……」
というので私が、
「○○なら始終使ってるから俺の名前出せばよくしてくれるはずだ。青島のところの者ですけどって……ビクビクしないで行ってこい」
といってやった。すると彼、
「本当に大丈夫ですか」
「大丈夫だよ。でも勘定はお前がちゃんと払ってくるんだぞ」
というと、奴は、
「キタネーッなあ」
別にキタなかない。どっちがキタネーんだ。当り前の話なのに、平気でこういうことをいう。
またある時は皆で海水浴に行くことになって、
「電車で行こうぜ。車だと道路が混んで帰りが大変だから。一日中陽に当ってて、その上泳いだあとは疲れてっから運転がつらいよ」
と私が思い遣りからそういうと、
「いややっぱり車で行った方がいいですよ。すし詰めの電車ってのはもっと疲れますよ。いいじゃないですか。僕が運転していきますから。隣でひっくり返ってりゃ楽なもんです。そのかわり帰りは運転して下さい」
なんだこれは。帰り道主人に運転させる運転手がどこの世界にいるもんか。まったくふざけやがって……。
このどうしようもない奥山伸がいまや大先生になって、多くの弟子をしたがえて、本なんか出してるってんだから驚くばかりだ。
この男変にラーメンが好きで、ラーメンの本まで出してる。そういえばラーメンで女をくどくのもこの男くらいのものだろう。
たまたま、お目当ての女性と仕事をすませて一緒に外へ出るようなことになったとする。すかさず、
「お送りしますよ」
と声をかけて車に乗せる。頃あいを見はからって、
「お腹すいてません。おいしいラーメン屋知ってるんですけど、行ってみませんか」
こういわれればどんな女性でも、まさかラーメンでくどかれるとは思わないし、たいていの女性はまたおいしいラーメンに弱いときてる。
「そうね、ラーメンとお寿司は入るところが違うっていうし……」
ってなことで誘いにのる。
「ちょっと遠いんですけど、かまいませんか」
「ええ」
こうなればしめたもの。そのまま高速に乗って熱海まで連れてっちゃう。
熱海までラーメン喰いに行くってのが味噌で、
「たいてい帰り道に、横浜あたりのモーテルでOKです」
なんていってる。やっぱり女をものにするのは|マメ《ヽヽ》じゃなきゃだめだなあ……。
こっちは中野から荻窪まで行くのだって|億劫《おつくう》だ。でも彼は、
「本当はいきなり羽田まで飛ばして、あすこからジャンボで北海道まで行って、|薄野《すすきの》まで連れてって、バターラーメンかなんか喰って帰ってくればいんですけどね。このコースだとたいていの女は大丈夫です」
いや参りました。
実に立派なもんです。
ラーメンといえばハナ肇も一時凝るだけ凝って、会えばラーメンの話しかしなかった時期がある。
「牛骨をね青ちゃん、一回湯引きしてね、きれいに洗ってでかいズンドーで半日くらい野菜と一緒に煮てな、そうすりゃーダシがにごらないからさあ、そいで……」
とかなんとかまあ大変なさわぎだ。
実際大勢友達を自宅へ呼んでラーメンパーティをやるわけだから、家族が大迷惑だったと思う。
そういえばメンバーの石橋エータロー君もその頃から料理が大好きで、皆が集まると必ず彼がコックをかって出ていた。とうとう好きがこうじて料理の専門家になってしまった。
ハナ肇は演説が大好きで、人が集まると黙っていられないたちで、延々と長ばなしが始まる。ラーメンも結構だが、話が長いのでさぞかしまねかれた連中は伸びたソバを喰わされたに違いない。
昔クレージー一同が旅に出た。とあるあまり大きくない町での話。
クレージーキャッツが泊っているという話がすぐに町中に知れわたったので、朝のうちから旅館の前には大勢の人達が集まった。人が集まると虫がおこるハナ、これを見ては黙っていられない。
すぐにテラスみたいな所に立ち上がって、お話をはじめた。真夏のこととて、縞のパンツ一ちょう。
当時はブリーフなんてのはなかったから、皆トランクスみたいな型のパンツってやつを愛用していた。
これを見たメンバーの一人、多分植木屋だと思うが、気づかれないようにうしろからそっと近づいて、いきなりハナのパンツのスソを握って、さっと引き下ろしてしまった。
パンツはストンと落ちて、ハナは真っ裸になった。
それでもまだハナは自分のいちもつを手でにぎりしめて話を続けていたというから驚きだ。
ハナの下半身で思い出したが、極めつきの面白い話があるので御紹介しよう。
クレージーキャッツの一同そろってどこかのプロダクション主催のゴルフコンペに出場した。
皆けっこうやるけど、安田伸とハナが上手な方で、その日も、安さんが優勝者ときまった。
ひそかに一発をねらっていたハナ、その日も好調だったのだが、|僅差《きんさ》で安さんに持っていかれて面白くなかった。
|憤懣《ふんまん》やるかたない思いで風呂に入り、汗と一緒にくやしさを洗い流していると、何ということ、眼の前でむこう向きで中腰になってかがみこんで頭を洗っている男が、まぎれもなく本日のコンペの優勝者安田伸ではないか。
こいつはいっちょうからかってやろうとばかり、いたずら心から、うしろから股倉へ手をいれて眼の前にブラブラとブラ下がっている安さんのキンタマを、手の平ですくい上げるようにして、
「この野郎、ふてえ野郎だ優勝なんかしやがって、この野郎め、この野郎め……」
とあきずになで上げていた。
あまりのことに驚いて、|件《くだん》の男、お湯をバサーッとかけて頭の泡を洗い流してふり向いた。ハナは一瞬眼を疑った。安さんだとばかり思っていたのに、ふりむけば似ても似つかぬあかの他人でありました。
こりゃ、やられた方も驚いたには違いないが、やった方がもっとびっくりしたと思う。
そりゃ世間によく人違いということはある。いきなり肩をたたいて、
「よっ!」
てな声をかけて、
「あっ、ごめんなさい、人違いでした失礼しました。あんまりよく似てたもんで……」
なんてことは誰でも一度や二度は経験している。
馴染みのバーなんかへ出かけて、カウンターに坐ってる客に、後ろから近づいて両手でさっと眼かくしをして、
「だーれだッ」
なんてやっちゃって、こっちむかれたらまるで知らない人で赤っ恥をかいたなんてのもたまにはある。
しかし、人が頭を洗ってるのに下からキンタマなで上げといて、人違いってのはあんまりないんじゃないか。
ハナはそのまんまあとをも見ずに逃げ帰って、二、三日落ち込んでいたというが、さもありなんていう感じだ。
しかしまあ、よく考えるとおかしな話だね。
これからも|他人《ひと》のキンタマをなで上げる時は、よくその人物をたしかめてからするように、特に御忠告申し上げたい。
[#地付き]〈了〉
初出誌
オール讀物/昭和六十年八月号〜
昭和六十一年十一月
単行本
昭和六十三年九月文藝春秋刊
[#改ページ]
文春ウェブ文庫版
わかっちゃいるけど…
シャボン玉の頃
二〇〇〇年七月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版
著 者 青島幸男
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
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