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ピーターとペーターの狭間で
青山 南
目 次
翻訳うらばなし[#「翻訳うらばなし」はゴシック体]
失語症で何が悪い
ガープ戦史
不妊の星々の伝説
一百年の孤独
本屋と棺桶
ブローティガン釣り
リタの片想い
ロスのある生活
ピーターとペーター
翻訳書のタイトルについて
なんでい・ヴォネガット
キール切り切り舞い
南部の東北弁
ニューヨークの文芸誌
特殊浴場異聞
ヴェトナムのゴム判
おぞましい言葉
訳者不在と著者不在
訳注の傾向と対策
江戸川橋の本の虫
ミス・グッバイを探して
カタカナの魔術師
ミスター・よしきた
長谷川四郎の教え
フォークナーを食う
アコガレの英会話の先生
終りを待ちながら
小判鮫の反乱
ピクニックはイン≠セな
ピュアでレイジー
いまは早くも死語なれど[#「いまは早くも死語なれど」はゴシック体]
ハイテク
フリーク
ゲイ
ソフィスティケイテッド
フェミニスト
ディグ
パフォーマンス
ブルシット
ナード
スノッブ
コンセプト
シミュレーション
ヘヴィメタル
エグゼクティヴ
スタンス
オーセンティック
コンテンポラリー
フリー
ピーターとペーターの狭間で[#「ピーターとペーターの狭間で」はゴシック体]
ピーターとペーターの狭間で
あとがき
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ピーターとペーターの狭間で
関口苑生&田原孝司に
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翻訳うらばなし[#「翻訳うらばなし」はゴシック体]
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失語症で何が悪い[#「失語症で何が悪い」はゴシック体]
つまらない言葉にこだわっては自分でも呆れることしきりだが、
Hi
なる文字につまずいて、さてどう訳したものかと苦渋したことがある。やあ、でいこうか、よお、でいこうか、こんにちは、でいこうか、はたまた夜だから、こんばんは、でいこうか、とずいぶん考えた。いっそ、ハイッ、ですまそうかともおもった。しかし、そのときのテクストは少々始末が悪かった。もし、ハイッでやるとすれば、ハイッ、ハイッ、ハイッ、ハイッ、と四つばかりつづく。いや、五つか六つだったかな。ともかく、登場人物たちのボキャブラリーは貧困そのもので、失語症のやつらはじつにもって、挨拶の言葉としては、Hi しか知らない始末。コーヒー・ショップに入るとそこに友人がいて、Hi。それに答えて、Hi。するとまたひとりドアを開けて入ってきて、Hi。それに答えて、Hi, Hi。やがてまたひとり現われて、Hi。先客いっせいに振り返って、Hi, Hi, Hi、てな具合。これを全部おなじ言葉に統一するのもひとつの方法だが、なんか味気ないなとおもって、Hi を先着順に「やあ」「おやっ」「なんだい」「よお」「へえ」「ケェッ」とし、最後の合唱はみんなまとめて「参ったね」にした。正直なところ、参ったのはこっちだった。
で、その失語症のやつらがコーヒーをはさんでなにを話すかというと、これがまたひどい。なんと、驚くなかれ、how are you? なのだ。そして、fine なのだ。「御機嫌いかが」「元気です」とやるわけにもゆかず、「どうお」「まあね」とまずは陳腐に処理したものの、それが連発されるからたまらない。and you? fine の尻取りゲームはかくしてこちらには地獄の責め苦ともなり、最後の fine はおもいきって「ひでえよ、まったく」と、やけくその意訳をやった。
失語症のやつらは、やたら、great やら weird も使っていた。いや、それしか使ってなかった。Wow, it's great. Really, weird. Phew, great そんな文句の繰り返しだ。まるで、風の音でも相手にしているみたいで、しだいに悲しい気分にもなった。風の歌を聴け、とは村上春樹氏の提言だけれど、聴くだけならともかく、つかまえてなにかの形に定着させるは厄介きわまる。
そういえば、最近、デレク・ハートフィールドの本を見つけた。春樹氏があの小説で引用している、あれ、である。郊外の、目白通りが目白通りでなくなるどんづまりの汚ない古本屋に、その本 "I Feel Fine" は、アン・ビーティの "Secrets and Surprises" とテリー・サザンの "Blue Movie" にはさまれて、あった。記憶ちがいでなければ、春樹氏は「気分がよくて何が悪い」と訳していたはずだ。けだし名訳だ、とおもった。Wow, it's great もなんとかそんなふうにうまく訳せないものか。
失語症のやつらの言葉をののしりながら訳していたときだったか、ある特派員の書いたおもしろい文章を読んだ。いずこも同じく、いまどきの若い者はボキャブラリーが貧困であるらしく、あちらの若い者もなにかというと you know と言いたがるらしい。そこで、その失語症児の母親は、息子が you know と言うたびに No, I don't know と答えているという話。事態は深刻である。No, I don't know ですめばまだしも楽だが、そんな戯言とマジメに付き合わなくちゃいけない訳者は、さてどうしたらいいか。
翻訳の良し悪しを測るとき、よく、会話がうまく訳されているか、が規準になるらしい。とりわけ女の発した言葉が、それらしい、いい日本語になっているか、が、ハカリにかけられる。なにがそれらしくて、なにがいい日本語なのかは生憎知らないけれど、ともかくそんな風潮がある。女、と限るあたりは、いぜんとして男の見果てぬ夢がすべてを制しているふうで傑作だが、いまや、敵は失語症のやつらである。失語症のやつらが小説のなかでぼそぼそ語りだしている。だから、今後の課題は、失語症児の発した言葉をいかにそれらしい、いい日本語におきかえるか、に変わるにちがいない。
Hi の呼びかけにムッとせずにどこまで応えられるか。訳者も臆せずに、とりあえずは Hi とでも言って、かれらとコーヒーを飲む必要がありそうだ。
しかし、待てよ、かれらはほんとうに失語症児なのだろうか。おなじ言葉しか言わないこと、しょっちゅう you know を口にすること、それだけで、失語症と決めつけてもはたしてかまわないのか、どうか。
多分、かまわないのだ。かれらはまちがいなく失語症児なのだ。でも、だから、どうだっていうんだろう。失語症のどこが悪いのか。ボキャブラリーも豊かにさまざまな言葉を色あざやかに使うのも結構だけれど、わずかな言葉をいとおしげに大事に使っているとすれば、よほどやつらの方がいっそう魅力的ではないか。Wow, it's great を繰り返すのは、その言葉がいい感じだからだ。その言葉がやつのいまの気分を的確に言いあらわしてくれるからだ。もしそれで言い足りなければ、やつは、really terrific とでもつけ加えるだろう。この二つの言葉の間のズレ、ズレによって生じる意味の広がり。おおげさに言えば、失語症のやつらはそれにすべてを賭けている。
失語症で何が悪い?
あらゆる言語表現は失語症から生まれる、というわりと高尚な議論がある。どもり[#「どもり」に傍点]やおし[#「おし」に傍点]こそが最高の表現者だ、という逆説もある。涙なくしては読むことのできない、ジョン・アーヴィングの大傑作『ガープの世界』を読むと、そのなかには、
「ガープ」
という言葉しか言えない男がでてくる。なにを言われても「ガープ」、なにを聞かれても「ガープ」、What do you mean? と問われても、むろん、「ガープ」だ。もっとも、その男はやがて「アープ」としか言えなくなり、ついには「アー」という言葉を残して死んでゆくのだが。
そいつばかりじゃない。あの大小説には、どもり[#「どもり」に傍点]やおし[#「おし」に傍点]もどしどし出てくる。どもり[#「どもり」に傍点]は「き・き・きみはぼ・ぼ・ぼ・ぼくの言・言って・て・てる意・意・意味がわ・わ・わわわわわ」と語りだしているし、おし[#「おし」に傍点]はおし[#「おし」に傍点]でいつもメモ用紙片手に I feel fine としゃべっている。
失語症で何が悪い?
いつだったか、トミー・トランティーノという無期懲役囚の書いた文章を読んだ。まったくとりとめのない、いうなれば手記だが、かれは、「自分で感じているように、ものを考えることができないから、ものを書いてみる」といって、文章を書いた。にもかかわらず、書かれた言葉はどれも、
「ぼくが生きる糧にしてるものより、ずっと小さい」
と嘆いていた。表現力不足、とかたづけるのもいいだろう。そういう諸姉兄は you know という合図に No, I don't know と答えていればいい。詩人のギンズバーグは、トランティーノの言葉を、
「息」
と評して、絶賛したが、そう、息、なのだ。Wow, it's great も Hi も Phew, weird も terrific も、全部が息。だから、訳者は息を訳そうとしている。Wow, it's terrific!
ときどき、原著書のすべてに主題歌なりテーマ・ソングなりイメージ・ソングがあればいいな、と切実におもう。そういうものがあれば、やつらの息がこちらにも吹きかかってきて、ひょっと的確な訳語が浮かぶのじゃないか、と考えたりする。でも、たいがいは、ない。だから、やむなく、自分でそれらしきものを探してきては繰り返し聴く。ピーター・マシーセンの『遥かな海亀の島』を訳していたときは、ハービー・ハンコックの『処女航海』、ボブ・マーレー、ジミー・クリフをずいぶん聴いた。こちらだって相当に重症な失語症患者なのだから、you know といわれると、つい、yeah と答えて、さてどうしたものかとおおいにとまどう。だから、音楽は助かる。それらしき音楽をみつけると、原著書の大筋はつかまえたような気分にすらなる。
Hi
と言って一緒にコーヒーを飲むのはムリな望みなのだし、とりあえずは、主題歌探しが大事な作業だ。
[#地付き]翻訳の世界 1981年2月
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ガープ戦史[#「ガープ戦史」はゴシック体]
翻訳の作業をやっていると訳しづらいことばなり文章にでくわすのは日常茶飯事だが、なにより困るのは、本のタイトルそのものが訳しにくいときだ。いや、べつに翻訳の作業でなくてアチラで話題になっている本を書名だけでも紹介してツバをつけとこうというときでも、おなじ困難は生じる。まあ、ヘミングウェイの、
"The Old Man and the Sea"
程度なら「年寄り」にするか「老人」にするか、はたまた「じいさん」にするかぐらいで迷えばすむ。そんなの、どうでもいいじゃないか、と言っちゃいけない。もしかしたら、いかなる訳をするかひとつで、外国文学の日本での受容の歴史がおおきく左右されるかもしれないのだ。ぜひ、考えてほしい。もしも『老人と海』が『老人と海』じゃなくて『じいさんと海』ないしは『年寄りと海』だったら、どうだろう?……ほら見ろ、なんか困るだろう、なんかシックリこないだろう、きみの頭のなかのアメリカ文学史の常識がガラガラと音をたてて崩れてゆくのが聞こえるだろう?……そういうことなのだ。『老人と海』は『老人と海』でなくちゃ困る。これをいま変えることは国体の土台骨を揺るがすに等しい暴挙である。
こういうのを、俗に、定訳、という。ま、『老人と海』はさておくとしても、いまさらいったいだれが『風と共に去りぬ』を敢えて『風が吹いて飛んでった』と訳し直すか? あるいは、『白鯨』を『白鯨』と呼ぶのが許せず『白い鯨』と直す輩がどこにいる? 『ハクゲイ』だからこそメルヴィルなのであり、『シロイクジラ』では断じてメルヴィルではありえない。もうすでにお分りいただけたこととおもうが、定訳をいじくることは外国文学の受容の歴史の股座をまさぐるとっても楽しい、じゃなかった、不謹慎な行為なのだ。
しかし、定訳は一朝一夕にして生まれるものではない。定訳誕生までには血みどろの前史があり、輝ける定訳の足元にはいくつもの訳題の屍が埋まっている。
さて、長くなったがここまでが前書きで、以下が本論である。これから書き記すことは、もしやすると、アメリカ文学の受容の歴史の貴重な証言として将来は重要視されるかもしれない。「そうか、そうだったのか?!」と驚嘆の声をあげる未来の若き研究者の顔が目に見えるようだが、先へすすもう。
時は一九七八年にさかのぼるが、この年、ジョン・アーヴィングというアメリカ作家が一冊の分厚い本を刊行した。この本、ならびにこの作家の途方もない重要性はいまは二点を指摘するにとどめておく。
(1)アーヴィングは少々ゆきづまり気味だったヴォネガットの思想を発展的に継承した。
(2)この本の刊行とアーヴィングの出現によって、アメリカの若手作家がアメリカ小説界に登場しやすくなった。
相当におおざっぱだが、アーヴィングの意味を論じるのが本稿の趣旨ではないので、御勘弁いただきたい。
さて、この本の訳題をめぐるたたかいが苛烈をきわめたのである。これだけ重要な本だから、アメリカ小説に多少なりとも関心をもっている諸氏はどうしても日本の読書界に紹介しないわけにはゆかず、当然、小説の題名をあげた。
"The World According to Garp"
これが、その小説の題だ。まず、この本がアメリカでベストセラーになったとき、どこやらの雑誌に最初の訳題があらわれた。
『ガープの世界』
念のために断わっておくが、ガープとはヒーローの名前だ。そして、内容を論じつつ、具体的にこの本を最初に紹介したのは村上春樹で、一九八〇年八月のことだった。
『ガープ的世界の成り立ち』
ちなみに、村上の『羊をめぐる冒険』には「誰とでも寝る女の子」のつぎのような告白がある。――「もちろん誰とでもいいってわけじゃないのよ。嫌だなって思う時もあるわ。でもね、結局のところ私はいろんな人を知りたいのかもしれない。あるいは、私にとっての世界の成り立ちかた[#「世界の成り立ちかた」に傍点]のようなものをね」――傍点は引用者だが、これは単なる偶然ではなく、「世界の成り立ちかた」ということばに村上がこだわっている証拠といえる。
村上に数カ月遅れて、青山南がさる紹介欄でこの本を取りあげて、
『ガープが世界を見れば』
と訳した。その時点(一九八〇年暮)までにこれで三つの訳題が並んだ恰好だが、まだ、アーヴィングといってもピンと来る人間が非常に少なかった時期だから、この対立にムムムと気づいたのは気弱な青山ひとり位だった。
そして一九八一年七月、『キップル』というミニコミが日本で最初にして本格的な「ガープ特集」を組んだ。ここに収められた斎藤英治の「ガープ論」は相当の力作で、この誌面の末席を汚していた青山は斎藤におおいに嫉妬したらしい。しかし、それはそれとして、この一冊のミニコミのなかですら、二つの訳題が対立していた。青山は頑として自説を譲らなかったが、斎藤は、
『ガープ的世界』
と訳し、村上寄りの姿勢を示していた。このあたりからアーヴィングの名は徐々に知られはじめてきて、大江健三郎や佐伯彰一や池澤夏樹らもこの本にあちこちで言及、
『世界、ガープ発』
とか、
『ガープによる世界』
とか、
『ガープによる世界解釈』
が続々登場し、静かだが苛烈なる戦いが展開されつづけながら一九八二年のいまに至っている。
この小説は十二月にサンリオから翻訳がでる。そして、ジョージ・ロイ・ヒルによる映画は来年二月に公開されるらしい。筆者は、サンリオがいかなる訳題で出版するか、また、映画がどんな題になるか、はいまのところ知らない。サンリオの訳題が定訳になるか、それともその後も諸訳題のパルチザン活動がつづくのか、も予想できない。ともあれ以上が、ガープ訳題の血みどろの戦史である。
[#地付き]本の雑誌28号 1982年12月
そしていま、一九八六年末の現在、本屋には『ガープの世界』があり、ヴィデオ屋には『ガープの世界』がある。健忘症のぼくは、右の古原稿を読みながら、「そうだ、そうだったのだ!」と、ひとり、膝をたたいている。
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不妊の星々の伝説[#「不妊の星々の伝説」はゴシック体]
「前にも日本人からハートフィールドについて手紙をもらった。だから、ハートフィールドのことでぼくを訪ねてきたのはきみで二人目ってことになるね。ハルキ・ムラカミって名前だったけど、知ってるかね」
と、トマス・マックルーアに言われたときは、村上春樹なる人物の存在は知らなかった。かれが『風の歌を聴け』でハートフィールドを紹介したのは、ぼくがマックルーアを訪ねてから数年後のことだったから、知るわけがない。ぼくは当時オハイオ州の小さな町の大学に留学中で(ウソですけどね)、マックルーアのハートフィールド伝をたまたま読んで感激し、かれを訪ねて、ハートフィールドのことをいろいろ訊いた。
ハートフィールドというアメリカ作家については『風の歌を聴け』にくわしく書いてある。一九〇九年にオハイオ州の小さな町に生まれ、一九三八年にエンパイア・ステイト・ビルから飛び下り自殺した。享年二十九歳。冒険小説と怪奇物をもっぱら得意とし、朝から晩までタイプを打ちつづけた多産な作家だったが、ヒットしたのは『冒険児ウォルド』シリーズだけ。村上によれば、そのいくつかは翻訳されてるとのことだが、生憎、ぼくは手にしたことがない。
ぼくがハートフィールドのことを知ったのはマックルーアのハートフィールド伝『不妊の星々の伝説』(これも『風の歌を聴け』で紹介されている)を通してだったが、この本もいまでは絶版になっている。ハートフィールドをめぐってのエピソードを並べて、その合間に作品からの引用をはさんでゆくという、一風変わったスタイルの伝記で、本そのものの評判はよくなかった。「マックルーアの本はハートフィールドの人生に負けず劣らず未整理な仕上がりである。シャッフルし直す必要がある」という書評が『ミドルウエスト・レヴュー・オブ・ブックス』にでた。無署名の短い書評だった。
「がっくりきたよ。だから、ハートフィールドのあの名文句 "There's no ultimate expression, you know, there's no ultimate desperation"(「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」村上春樹訳)を、毎日、呪文のように唱えている。おかげで、少しばかり元気がでてきた」
と、マックルーアはぼくに言った。かれはハートフィールドについてじつにいろいろなことを話してくれた。『不妊の星々の伝説』はエピソードと作品からの引用だけでできあがっている本で、マックルーア自身のハートフィールド観は直接には書かれていない。かれを訪ねたおかげで、それが聞けた。『風の歌を聴け』では洩れ落ちているハートフィールドにかんするいくつかの事実を次に記し、それにマックルーアの意見を添えておこう。
ハートフィールドは「デレク・ハートフィールド」という名前で俗に知られているが、じつは名前はいくつもあった。
Derek Hartfield
というのが本名だが、この名前を使用したのは『冒険児ウォルド』シリーズとその他数冊にだけである。本によっては、
Heartfield(心の平原)
だったり、
Hurtfield(傷ついた平原)
だったりとさまざまで、それがこの作家の書誌の作成を困難にしている。おまけに、姓のみならず名前の方にいたずらを加えたこともあり、Derek の代わりに、
Dreg(クズ・カス)
を使ったこともかなりある。作品の出来が悪いと Dreg をつかっていた、という一説もあるが、マックルーアに言わせると、その説はでたらめである。なぜなら、「かれの作品はどれもこれも出来が悪かった」。
heart や hurt を姓のなかにひそませたのはかれのセンチメンタルさの現われだった、とも言われている。少なくとも『不妊の星々の伝説』を書評した『ミドルウエスト・レヴュー・オブ・ブックス』の評者は、ちゃちなセンチメンタリズムから脱却できなかったところにハートフィールドの弱さがあった、と書いていた。しかし、マックルーアは「センチメンタルで何が悪い?」と言い、姓の表記については大胆な推論をしてみせた。「かれは自分の名前を音で覚えていたんだと思う。だから、かれには完璧な表記などありえなかった。歌は終わったが、メロディはまだ鳴り響いている……名前とその表記にたいするかれの態度はちょうどそんなかんじじゃないかと思うね」
ハートフィールドが『ジャン・クリストフ』をこよなく愛していたことは『風の歌を聴け』にも書いてある。
「人生は空っぽである、と。しかし、もちろん救いはある。というのは、そもそもの始まりにおいては、それはまるっきりの空っぽではなかったからだ。私たちは実に苦労に苦労を重ね、一生懸命努力してそれをすり減らし、空っぽにしてしまったのだ。どんな風に苦労し、どんな風にすり減らしてきたかはいちいちここには書かない。面倒だからだ。どうしても知りたい方はロマン・ロラン著『ジャン・クリストフ』を読んでいただきたい。そこに全部書かれている。」(村上春樹訳)
とは、ハートフィールドの自伝的作品のなかの一節だが、マックルーアによれば、『ジャン・クリストフ』についての断片的文章はもうひとつあって、それはその本の翻訳者を讃えたものだ。
「『ジャン・クリストフ』を読もうとしない人間はバカだ。しかし、最後まで読み通す人間はもっとバカだ。しかし、翻訳者G・カナーンにはいかなる形容が可能だろうか。読むこと≠ニ書くこと≠アウフヘーベン[#「アウフヘーベン」に傍点]した行為が翻訳というものなのだから」
ハートフィールドはドイツ語を使ってみたかったんでしょ、とマックルーアは言った。
[#地付き]本の雑誌29号 1983年2月
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一百年の孤独[#「一百年の孤独」はゴシック体]
古新聞の整理をしている。カッターを片手に、おもしろそうな記事、資料になりそうな記事はシャーッと軽快な音をたてて切りとる。ただ、あちら産の新聞記事は素直に次のページにつながってゆくわけでは必ずしもないので、手間と時間がかかってしようがない。何度も何度もつづきを探してぺらぺら、というかパシャパシャめくってるうちに、指はインクで真黒になる。白いクモがページの間からすたこら逃げだすこともよくあって、となると、エイヤーッとばかりに指でつぶす。そしてその瞬間、クモは殺しちゃいけなかったんだなあ、と思いだすのだが、時すでに遅しで、白いクモは黒くプレスされてしまっている。
なにしろ、新聞は十年分たまっている。一九七〇年代の十年間にアメリカででた本という本がこの新聞(書評紙である)に紹介されている恰好で、なかなか捨てがたく、
「これは宝である!」
と同居人を納得させてきた。というか、納得してもらってきた。というか、納得していただいている、とおもってきた。だけど、ぼくがあまりに宝を大事にして、宝に絶対に手をふれようとしない、つまり、ぜんぜん資料として使おうとしないので、とうとう、
「これは宝の持ち腐れである!」
との宣告を最近うけた。
「仕事がいやになったときに気分転換に少しずつ片付ければいいのよ。そうすりゃ、ついでに頭の整理もつくんじゃない?」
なるほど、それは名案、と納得して早速作業にとりかかった。「仕事がいやになったら」というのが条件なら、即実行可能なのである。古新聞の山は、この一カ月で、みるみる低くなってきた。ウォーターゲートも起こり、もうすぐヴェトナム戦争が終わるというところまで来ている。ざまあみろ、おれの整理能力だってたいしたもんなんよ、と同居人に自慢した。しかし、彼女、あわれむようにぼくを見て、こうのたまった。
「ホントに仕事がいやなのね」
まあ、それはともかく、そうこう仕事を犠牲にして新聞とクモと戯れているとき、タイトルの翻訳をめぐってのちょっとした論争記事をみかけた。ジョン・アーヴィングの日本での『ガープ』タイトル戦争については前に書いたとおりだが、アメリカでも似たようなことがあったのを知った。モノはガブリエル・ガルシア・マルケスの『百年の孤独』。この「百」の処理にかんして、訳者と批評家がけんかしていた。
アメリカで『百年の孤独』の英訳がでたのは一九七〇年である。ペーパーバック版は翌年の七一年にでて、一九八三年現在すでに八十六万九千部はけている。ハードカバーがどの位売れてるかは知らないが、いずれにせよ、マルケスのアメリカでの人気は根強く、かつ広大なのだ。訳者はグレゴリー・ラバッサ。現在ラテン・アメリカ小説の英訳を相当数手がけている、エラい翻訳者だ。
そのラバッサが、ぼくの宝の黄ばんだ新聞の投書欄で、おおむね、つぎのようなことを書いていた。
「こないだマイケル・ウッド教授が『百年の孤独』に言及した文章を書いていた。その内容を云々する気はない。ただ、どうしても気になったことがあるので、それを書く。ウッド教授よ、あなたはなぜ、
"A Hundred Years of Solitude"
と表記するのかね。わたしは、
"One Hundred Years of Solitude"
と訳したはずだ。たしかに、原題は、
"Cien a撲s de soledad"
であるからして、数字の意味はアイマイである。しかし、この小説の結末を読んだとき、これは "one" であって "a" ではない、とわたしは確信した。ガボ(マルケスの愛称)にも問い合わせてみたが、ガボも、その通り、と言ってましたよ。"one" こそ、自分の考えを体現している、とね。ウッド教授よ、答えなさい! さあ、どうだ」
ウッド教授はこう答えていた。
「悪気はなかったですよ。ただ、わたしはあなたの翻訳であの小説を読んだわけじゃないので、つい、"a" とやっちゃったってことです。ほら、"one" だとなんかおおげさで、いばってるかんじがしますでしょ。だから、もっとカジュアルな "a" を採りました。でも、こんなことを言ってたら、ラバッサさんも御存知のとおり、翻訳なんてできゃしません。あなたはえらいよ。なにしろ、できないことをやってるんだから」
このイヤミの果し合いのつづきは、新聞の整理がまだその先までいってないので、ぼくは知らない。"a" と "one" のちがいも、ぼくの語学力じゃとても歯が立たない。マルケスの最新作『予告された殺人の記録』の英訳もやはりラバッサが手掛けているが、最近の『タイム』にマルケス自身のラバッサ観がでていた。マルケス曰く、
「ラバッサの『百年の孤独』は原作を改良(improve)してくれました」
原作をしのぐ翻訳、て意味なのでしょうね、これは。
[#地付き]本の雑誌30号 1983年4月
そしていま、一九九一年夏の現在、ある日、偶然、洋書店の棚にウッド教授が書いた『「百年の孤独」論』を見つけた。表紙には、"100 Years of Solitude" と、なんと、数字で表記してあった。笑ってしまいました。中身はどんなもんだろう、とおもって、ページをめくると、まいったね、今度は「翻訳と引用についてのノート」てのがあって……なるたけラバッサの翻訳をつかったが、「正確じゃないところ」とか「わたしがスペイン語で理解していたのととかんじがちがうところ」は「ちょっと直した」り、「じぶんの訳をつけた」りした……だって。この本がでたのは一九九〇年だけど、なるほど、こういうたたかいって、深く静かに長くつづくもんなんだ。
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本屋と棺桶[#「本屋と棺桶」はゴシック体]
マレーシアのペナン島で『新潮』を買った。朝市の真最中の村の雑貨屋だかタバコ屋だか干物屋だか、要するにキオスクみたいな店の店先に魚でも干すように薄っぺらな雑誌が洗濯バサミに噛みつかれてどっさりぶら下がっていて、そこから『新潮』を引っこ抜いたのだ。大判で、『ブルータス』とちょうど同じ大きさで、
「青春活力的標誌」
という謳い文句が付いていた。一・八〇マレーシアドルを払って、朝だっつうのにクソ暑いなあ(三十五度だった)、と思いつつ隣りの魚屋にゆきかけると、キオスクの中国人のオヤジが追いかけてきて、じつにきれいな四色刷りの紙っ切れを無言でよこした。附録の便箋で、そりゃもう爽朗的なまでに美しいイチゴと虹とハートの絵が描いてあった。
『新潮』は『週刊平凡』(そういえば、これに載ってた田中康夫の「文壇交遊録」はおもしろかったなあ)と女性週刊誌をミックスしたような雑誌で、漢字ばかりだからいまいち見当はつかないが、レイアウトもわりあい良くて、いかにも「青春活力的」だった。スペイン語の本でもあるまいにやたら「!」が頻出して、活力してます、といった気迫がびんびん伝わってきた。海外の動きにもかなり敏感なようで、ライオネル・リッチー、ダイアナ王妃のことも写真入りでなにか細かく書いてあったみたいだ。三原順子、早見優、郷裕美(ひろみじゃないよ)たちのニコニコ笑ってる写真のそばにはでかでかと、
「天皇巨星的夢終於實現了」
と見出しが打ってあったので、ぼくは一瞬勘違いして、そうか、日本ではついに天皇制は終わっちゃったのか、三原順子や早見優や郷裕美はそれでニコニコ笑ってるのか、と思ってしまったが、ホテルに戻ってから日本にコレクトコールしてみたら、天皇制は不滅だ、と教えられた。この確認に要した費用は三千九百円だったことは、後にとどいたKDDからの請求書で知った。「どうなってる?」「天皇陛下はお元気よ」「そうか。むにゃむにゃ」「むにゃむにゃ」。これで三千九百円。
ホテルでもらった「ペナン・ツーリスティプス」なる観光案内書に、なぜか、本屋街のことが紹介してあったので、ガイドに頼んでそのカーナヴォン通りまで連れていってもらった。考えてみれば、じつに薄っぺらい観光パンフレットにわざわざ本屋街のことが書いてあるのも珍しい。ホテルのマネージャーに、カーナヴォン通りってどんなとこ? と訊くと、本屋ばっかりね、本を買うときは私もそこへでかけるよ、と教えてくれた。なんだか、とても嬉しそうな顔つきでそう言うので、よほどの本好きなのか、ペナン島にも立派な文化地域がありますよという観光業者のデモンストレーションなのか、よく分らないが、ともかくでかけた。
カーナヴォン通りはペナン島随一の都市ジョージタウンの一画にあって、たしかにパンフレットにあったとおりの本屋街だった。神田ほどの大きさではないが、島の大きさとジョージタウンの規模を考えると、相当に大きいといっていいだろう。「中華書房」「ユナイテッド・ブックストア」「南洋出版社」「世界書局有限公司」といった看板が全長一キロほどのカーナヴォン通りにびっしり並んでいて、正直、ぼくは自分の目を疑ぐった。こんなところに(ハイ、ぼくは東南アジアには偏見をもってました)こんなにたくさんの本屋が軒を並べてるとは考えてもいなかったからだ。何軒かのぞいたが、中国語の本、マレー語の本がもちろん圧倒的だからチンプンカンプン。それでも、教科書の類いがかなり多い、ということだけは分った。文房具や事務用品をいっしょに売っている店も多かったから、ここは学習者のための通りということになるのだろうか。子供の学習者専用らしい「児童世界有限公司」なる店もあって、入口にはマンガの本がきれいに並べてあった。ただ、横書きのタイトルを右から読ませたり左から読ませたりと漢字の処理は不統一みたいで、「電流人」(これは右から左)はやっぱ「人流電」じゃないだろうな、「望願女孤」(左から右)は「孤女願望」かな、としばし迷った。そして「堂満玉金」(左から右)に遭遇したときは完全に絶句するに至った。
カーナヴォン通りは本屋の街であるばかりか、棺桶屋の街でもあった。みごとに向かい合ってるわけでもないが、通りの片側はずらっと本屋で、反対側はずらっと棺桶屋。まったく文字通り、棺桶を作って売っている店である。ウッソォ、とまたしても目を丸くしていたぼくを見て(これは東南アジアへの偏見にははいらないでしょうね)、タイ人と中国人の混血のガイドは、
「ペナンのひと、よく本を読むね。死ぬまで、本、読んでる」
と、日本語で冗談をとばしたが、そう言われてぼくがとっさに想いだしたのはチェスター・ハイムズの棺桶エドと墓掘りジョーンズのことじゃなく、一コのラテン語だった。(おお、ガクがある!)
memento mori
これである。(たいしたことないか)「死を忘れるな」である。なーるほど、なるほどと、なにがなるほどなのかは自分でもよく分らぬまま、本屋と棺桶屋の取り合わせはぜんぜんシュールなことではないんだな、と納得した。
ペナン島のジョージタウンには、じつは、もうひとつ本屋街がある。チュリア通りというところで、観光パンフレットによれば、
「古本、おもに小説の貸出しと販売をおこなっている。ときどき、掘出物の小説が見つかることがある」
ということなのだが、ガイドが「蛇寺、極楽寺、ねはん寺に行かなくてはいけません」と頑迷なので、案内してもらえなかった。そこにもはて棺桶屋が居並んでるのか(まさか)、また、掘出物の小説とはいかなるものを指すのか、はぜひこの目で知りたかったから残念だ。
しかし、それにしても、小さな島の小さな町に大きな本屋街が二つもあるなんて凄いと思いませんか。それから、『新潮』と「青春活力的」が結びつくなんて、あなた、信じられる?
[#地付き]本の雑誌31号 1983年7月
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ブローティガン釣り[#「ブローティガン釣り」はゴシック体]
どういう因果か、ミスター・リチャード・ブローティガンに二日つづけて会った。初日はミスター・川本三郎が、二日目はミスター・石上三登志が一緒だった。
「ハイ、リチャード!」
とか、
「ヘイ、ディック!」
と呼べるほど親密じゃないので、というかまったくの初対面なので、おずおずとブローティガン釣りにでかけた。
巨体であった。ぼくは『アメリカの鱒釣り』の表紙に写っているかれの姿しかそれまで知らず、わけもなく、小柄な人間、と勝手に思いこんでいたので、ちょいと驚いた。それに、『アメリカの鱒釣り』の表紙のブローティガンはどこかエコロジー時代のビリー・ザ・キッド≠ニいった風貌なのに、釣竿も鱒一匹ももたずに現われた一九八三年春の宵のブローティガンは、なにかしら、孤独なパット・ギャレットといった雰囲気をひきずっていた。『アメリカの鱒釣り』の表紙のブローティガンはしゃれた帽子をかぶっていたが、会ったブローティガンの頭には帽子がなく、わりあい禿げ。ちょうど侍がチョンマゲを切り落としたときみたいなかんじで、ぼくはとっさに、「わ、楽聖!」と、頭の中で叫んだ。
おなかがぷっくり突きでていた。シェイプアップなど気にしてない様子で、グビグビと酒を呑んだ。チビリチビリ、しみじみと酒をなめるといった風ではなく、ストレートを一気にぐいっとあおり、ほんのしばらく一休みすると、新たに満たしたグラスを一瞬のうちに空けた。料理にはほとんど手をつけず、グビリ→一休み→グビリ、の繰り返しである。だいじょうぶかな、と酒にめっぽう弱いぼくは、ポルトワインを飲まされて死んじゃった鱒みたいなトロンとした目で、いささか心配したが、それはまったくの杞憂で、楽聖ブローティガンは鱒腹ならぬ樽腹をしゃきっと突きだしながら、ぼくたちの相手をこれつとめた。
「スミマセン……」というかれの発する日本語がなにより印象的だった。文字通り、I'm sorry. の意味にもつかったし、well と話題を変えたくなったときにもつかっていた。その口調がなんともソフトで、「ミ」を「イ」でごまかさず、はっきり「ミ」と発音する分、じつに美しく聞こえた。
「きのう、六本木のバーでおまえを知ってるっていうアメリカ人に会ったヨ。ほら、やたらスミマセン≠チていう、なんか詩人みたいな、おかしい男……」
と、後日、テレビ局に勤める兄貴からとつぜん電話があったが、やっぱし、楽聖ブローティガンの「スミマセン」はだれにでも忘れがたい印象を残すようである。
どういうわけでかリリアン・ヘルマンの話になったときも、ブローティガンは「スミマセン」と言った。大変なヘミングウェイ好きのかれは、ヘミングウェイの話からしだいにヘミングウェイの女たちへと話題を変えてゆき、最終的には現代アメリカ作家たち、その妻たち、ハリウッドの俳優たちの愛欲相姦図を、「ヒッヒッヒ」とグビリグビリ喉をうるおしながら、ニュー・ジャーナリズム的に(つまり、いかにもその目で現場を見てきたかのごとく)楽しく話していた。oh, no(「ウッソォ」)とか、can't believe it(「またそんなこと言って」)とか、really(「ホントニー」)といっちょまいに英語で驚いていたのはぼくたちの方だったが、そんな反応が景気づけになったのか、それともネがゴシップ好きなのか(そうなのである)、ついには、
「わたしは情事評論家である」
と、楽聖は言い放った。多分、そのときだった。ぼくだかミスター・川本だかが、作家とその女という連想から、ダシール・ハメットとリリアン・ヘルマンの関係を話題にした。ところが、ヘルマンと聞いたとたん、楽聖兼情事評論家はピタリと口を閉ざし、ぐいっとストレートを飲み干し、しばしうつむいた。
「Hellman?」(「ヘルマン?」)
とつぶやいた声が、
「Hell, man?」(「まいったネ」)
に聞こえたのは、もちろんこちらの錯覚である。なんかまずいこと言ったかな、とミスター・川本と顔を見合わせていると、
「スミマセン……」
と、ブローティガンが言った。
「スミマセン……ヘルマンですか……これはぼくの友人から聞いた話ですが、ヘルマンは信用できません。あのヒト、ダシール・ハメットの想い出を歪めてるって、友人は言ってました。その友人はとっても怒ってたけれど、ハメットの作品にまで手を加え、字句を変えたりして、それを決定版にしようとしているんだそうです……スミマセン」
「というとヴィンテージ版のハメットの本に付いてるヘルマンの序文なんかは?」
「そう、友人が怒ってたのはとりわけあの本でしたね、スミマセン」
「それから、もうじきでるダイアン・ジョンソンのハメット伝は相当ヘルマンに協力を仰いだって聞いてるけど、こっちは?」
「そのダイアン・ナントカは知りませんが、そういうことならそういうことじゃないですか。スミマセン」
とまあ、華々しい愛欲相姦図話はここでちょっと暗くなった。
「スミマセン、これは苦手です」
と情事評論家が料理のニコゴリを指さしたときも、まだ雰囲気は沈んでいた。
念のために書いておくと、ヘルマンを嫌う人物はアメリカに多いのである。とりわけ、左翼的立場にいる(いた)人間たちには、スターリニスト・ロシアに好かれていたヘルマンという印象がずっと尾を引いていて、信用できない、と言う者も多い。三年前には、メアリー・マッカーシーが、
「ヘルマンの書く文章は、"and" も "the" もすべて嘘よッ!」
とテレビでしゃべって、ヘルマンに訴えられている。それにしても、なんというか、一九八三年の春の宵の東京にスターリンの亡霊がでてくるなんて、驚きました。スミマセン。
[#地付き]本の雑誌32号 1983年9月
そしていま、一九八六年末の現在、ブローティガンはこの世にいない。西海岸の山の奥で、ヘミングウェイにならって、鉄砲自殺をしたのである。まったく、「Hell, man」であるよ。
さらにいま、一九九一年夏の現在、リリアン・ヘルマンもメアリー・マッカーシーも故人となった。
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リタの片想い[#「リタの片想い」はゴシック体]
翻訳をしているとき、原文のなかにたとえば「ダイアン・キートン」なるヒトの名前がでてきた場合、その人間の風貌なり経歴なり人柄がぼんやりとでも分ってた方が訳しやすい。ヒトの名前なのだから、なんにも知らなくとも「ダイアン・キートン」と片仮名で片付ければ済むわけで、べつに「代案妓豚」にするか「大安貴頓」にしようかと迷う必要は一切ないのが、筋だ。でも、ぜんぜん聞いたこともない名前だと、どうしてもつい、その名前の前で立ち止まり、エッサコッサと調べ始める。「人名事典」をぱらぱらめくり、「有名人雑学事典」を引っぱりだし、「全テレビ番組大成」やら「映画人名鑑」やら「スポーツ事典」「少数民族紳士録」「ガラクタ事典」……それでもダメだと、部屋のあちこちに転がってるいろんな雑誌を次から次へとながめ、当の謎の人名がどこかにチラリとでもでてないものか、と探しまわる。
じつは、翻訳をやってて一番楽しい時間はこの調べのひとときだ。頭の中では「ダイアン、ダイアン、ダイアン……」なり「キートン、キートン、キートン……」という言葉がリズミカルに跳ね踊っていて、調べの時間が長びくにつれて、「ダイアン・キートン」が「ダイアン・レイン」や「ダイアン・アーバス」や「マスダ・キートン」や「バスター・キートン」に変奏していったりする。これがたまらなくスリリングだ。だから、
「あった!」
と叫び声をあげるときの喜び(じっさい、あげるんです)は、風呂場でアリストテレスだかピタゴラスだかピテカントロプスが、
「ユリイカ!」
と大声を発したときの喜びもさぞや、といったぐらい、大変なものである。もっとも、調べがつく頃までには精根尽き果ててることもざらで、肝心の翻訳をする元気はなくなっている。だから、今日もひとつ利口になった、有意義な一日だった、と自分を説得して、明日の翻訳にそなえて十分に休養をとることにしている。
翻訳の最中でこそなかったが、「リタ・ライト」というヒトの名前にぶつかって、先日、有意義な一日を過した。あちらの書評紙を読んでいたら、ソーントン・ニーヴン・ワイルダー賞の今年の受賞者が「リタ・ライト」という名前の八十五歳のソヴィエトの婆さんに決まった、という記事にぶつかった。ソーントン・ニーヴン・ワイルダー賞なんて、初めて聞いたが、アメリカはコロンビア大学の翻訳センターがアメリカ小説の外国の秀れた翻訳者に与えてる賞なんだそうだ。権威ある賞なのかどうか、は知らない。翻訳センターとかいっても、もしかすると、主任がひとりで、あとはパートタイムのゲイの男の子がひとりいる程度なのかもしれない。でも、まあ、翻訳者のはしくれとしては、遠い将来、突如、国際電話がかかってきて、「おめでとうございます。今年のソーントン・ニーヴン・ワイルダー賞はあなたに決まりました。よかったわネェ……」と言われるかもしれず、そのとき「はあ?」と答えるわけにもゆくまいと思い、記事を念入りに読んだ。ついこないだも、突如、電話がかかってきて、「おめでとうございます。あなたは当社の今月の栄えあるモニターに選ばれました。これはセールスではありません。あなたはエリートなのです」と言われたばかりだ。なんのことやら分らず「はあ?」を四、五回繰り返してると、電話の向うの女の子は不意に語調を変えて、「あんた、バカなんじゃないの?」と早口でどなって一方的に電話を切った。コロンビア大学翻訳センターのゲイのパートタイマーには「あんた、バカなんじゃないの?」とは言われたくない。そう思って記事を読み、「リタ・ライト」を調べてるうちに、ぼくは人生の苛酷な真実を発見した。
リタ・ライトはソヴィエトでは途方もなく偉い、翻訳界の大物だった。マーク・トウェイン、フォークナー、ヘミングウェイ、シンクレア・ルイス、ジョン・アップダイク、J・D・サリンジャー(この婆さんの訳した『ライ麦畑でつかまえて』はソヴィエトでもロング・ベストセラーなんだそうだ)、ヴォネガット……と彼女が手掛けたアメリカ小説の数は限りなく多く、しかも、英語を相手にするばかりじゃなく、フランスのヌーヴォ・ロマンやドイツ語のカフカを訳しちゃったりもしてるという大変な傑物のようだ。記事によれば、ヴォネガットは彼女にすっかり惚れこんで、十年前には「リタ・ライトをアメリカへ招待しよう!」というアピールを発表したこともあるという。だけど、婆さんのアメリカ旅行は、ソヴィエト当局筋の許可がおりず、ついに実現しなかったらしい。
当たりをつけて、ヴォネガット関係の参考書を漁ってみたら、かれと彼女が二人並んだ写真があった。それから、彼女自身についての詳しい文章もあった。そして、そのなかにはなんと、
"falling in love with the young poet Boris Pasternak"
という文章があった。調べのひとときががぜん色めきたつのは、こういうのを見つけたときだ。『ドクトル・ジバゴ』のパステルナークと恋をしただと?! ぼくはウラをとるべく、パステルナークの自伝やら伝記やらを引っ張りだしてきて、「リタ、リタ……」「ライト、ライト……」とつぶやきつつ、猛烈な勢いで斜め読みした。「リタ、リタ……」が頭の中でなぜか「マタハリ」になったり、「ライト、ライト……」が「オール・ライト」と混線したりしたが、肝心のリタ・ライトの名前はパステルナークの伝記類にはついぞ姿を見せなかった。
「そうか、片想いだったんだ!」
とハッと気づいたのは、斜め読みを三回ほど繰り返したときだったろうか。その一瞬、ぼくは人生の苛酷な真実を知った。そうなのだ。リタ・ライトの片想いにパステルナークはついに気がつかなかったのだ。パステルナークの記憶にリタ・ライトは残らなかった。ああ、片想いはつらいなあ。酷すぎるよ。
パステルナークの文献を漁ってるうち、かれの詩にこんなのを見つけた――「ぼくといっしょなのは、名のない人たち、/樹木、子どもら、外出せぬ人たち、/ぼくはかれらすべてに征服された、/ただそのことにのみ、ぼくの勝利がある」(江川卓訳)
ああ、名のない人、リタ・ライトよ!
[#地付き]本の雑誌33号 1983年12月
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ロスのある生活[#「ロスのある生活」はゴシック体]
終わった! 終わった! と欣喜雀躍した。欣喜雀躍なんて死語同然のことばを想いだしたのも、終わったのがいかに嬉しかったかの証拠で、ようやく終わったのだ。死語を想いだしたついでに、そのことばの通り、ランランランと家中をスキップして回ったが、あいにく、欣喜雀躍するにはわが家は小さすぎた。テーブルに脛をぶつけ、思いきり振りあげた手は電球にぶつかった。やはり、欣喜雀躍なんて、死語だ。
なにが終わったのかというと、翻訳が終わったのである。あの憎らしいフィリップ・ロスの、あのケタクソ悪い『ゴースト・ライター』の翻訳が終わったのだ。ロス、おまえなんか、死んじまえ! 『ゴースト・ライター』なんかウンコだ、クソだ! と、ぼくは何度叫びまわったことか。
翻訳をしていると、訳しているうちに、その相手の作家にますます惚れていく場合と、どんどん嫌いになって、ついには憎悪すら抱くケースの、ふたつがある。アメリカ作家のロスの場合、少なくともぼくに限っていうなら、明らかに後者だった。いや、ぼくだけじゃない。証拠をあげよう。まず、ロスの『素晴らしいアメリカ野球』を訳した常盤新平さんは、その「あとがき」でこう書いている。
「『素晴らしいアメリカ野球』は訳者にとって悪夢であり、強烈な「毒」だったし、私はその毒にやられてしまった。二年以上も経過した現在も、あの悪夢と毒から逃れられないでいる」
どうです、凄いもんでしょう? 毒なのですよ、ロスは。毒が好きになれますか?
もうひとつ、証拠をあげよう。『欲望学教授』を訳した佐伯泰樹さんも、その「あとがき」で、疼痛を訴えている。
「中途で投げ出したくなったことは数知れず、それこそ訳者自身何ものかに変身しそうなほど辛い作業だっただけに、まがりなりにも訳し了えて刊行にまでこぎつけたことは大きな喜びである」
何ものかに変身しそう≠ニ書いてらっしゃるのは、この小説が乳房に変身した男の昔話だからだ。一面識もないのでこんなことを言っちゃ失礼だが、佐伯さんはきっといまごろ徐々に変身している、とぼくは確信する。なにしろ、ロスの毒は何年もつづくからだ。
まあ、例はふたつもあれば十分だろう。御二方が、ロスを訳しながら、ロスにいっそう惚れていった形跡は、以上の文章からは想像不可能である。十度や二十度は、ロス、おまえなんか死んじまえ! と叫ばれたことと思う。いずれ、訳者連名で、ずたずたに切り刻まれたワラ人形がロスのもとに届くことだろう。ロスよ、そのときになって泣くな。日本人の怨念は恐いぞ。
どうしてロスが訳者の恨みを買うかは、もちろん、このなんともチンチクリンな文体とことばづかいのせいである。ぼくは一度その文体を生意気にもブンセキしてみたことがあるが、なんだか、要するに自分に英語力がないだけの話じゃないかしら、とひたすら内向するばかりでますますロスが憎たらしくなったものだ。あら、ロスって『さようなら、コロンバス』の作者でしょ? あの青春小説、さわやかですてきじゃないこと?……とおっしゃれる方は、まあ、なんというか、チクショー、幸せだよ。
ぼくは、『ゴースト・ライター』を翻訳しながら、ついに風邪から回復しなかった。去年の夏頃はせっせとプールに通って体調を整え、ロス、さあ来い! と挑み、それでしばしはもった。ところが、仕事でバンコクにでかけて洪水に遭い、クーラーのつけすぎで軽い風邪をひいて帰ってきた十月下旬から、ずっと風邪をひきっぱなしだった。ときどき、すうっと気分が良くなって、あ、治るかな、と思ったときも何度かあったが、机の前にすわると、というか、正確には『ゴースト・ライター』のページを開くと、喉が急につまって、痰がでて、熱がでて、全身がしびれてくるようなかんじになった。だから、すわるとすぐ休憩し、休憩するとすぐ回復するのでまたまた机に向かったが、するとまた全身ガタガタになり、「これじゃ、進むわけないよ」と、ひとり嘆いた。
風邪ばかりじゃなかった。下半身のあの辺の具合が、十一月下旬頃から、おかしくなり、もしかすると『乳房になった男』のケペシュみたいに、ぼくも一個のオッパイに変身してしまうのだろうか、と思った。でも、じっさいはそうではなく、一種の尿道炎である、と医者から診断された。だけど、病気になったことに変わりはない。それもぜんぶロスのせいであるのは明らかで、じじつ、翻訳が終わると、その数日後から体はめきめき回復してきた。
「すっかり良くなったじゃないですか」
と、医者は言った。
「ええ、すべてロスのせいなんです」
と、ぼくは答えた。
「ロスね。あれはいけない。なるたけロスのない生活をしなさい。ストレスのもとですから」
と、医者は言ったが、ぼくの苦痛をほんとに分ってくれたのかどうかは知らない。
終わった! 終わった! と叫ぶので、それを聞いたひとはみんな、なにかぼくがものすごい大作を翻訳したかのように勘違いして、
「分厚いの?」
と訊く。でも、じつは二百ページもない中篇なのだ。だから、返答に窮する。だけど、これほどロスのある生活は、前に五百ページ訳したときだって体験したことがなかった。
「そうだ、結婚しよう、アンネ・フランク」という文字が表紙に刷られるはずだけどアンネのファンの方、『ゴースト・ライター』読んでください。
[#地付き]本の雑誌34号 1984年2月
そしていま、一九八六年末の現在、『アンネの日記』が深町真理子さんの新訳でとつぜん書店にあらわれた。『ゴースト・ライター』は、生きていたアンネ、の凄いお話でもありますから、ついでに読んでください。しつこいか。
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ピーターとペーター[#「ピーターとペーター」はゴシック体]
先日、ある翻訳書を読んでいたとき、
「ジョージ・グロッシのような諷刺家の手にかかると……」
という一節にぶつかり、ヒヒヒとほくそえむと同時に、あーあ、意地悪な書評家に摘発されませんように、とその翻訳家を思いやった。このときのぼくの微妙な心の動きが分りますか? 分らなければけっこうだが、分っちゃったひとも、あまり騒がないでもらいたいものだ。でも、翻訳家のひとしれぬ苦労を知ってもらうために、あえて種明かしをしてしまうと、最初の文章は、
「ゲオルグ・グロッスのような諷刺家の手にかかると……」
とするのが正しいのである。というか、そういうふうにするのが、日本での慣習となっている。ぼくはこの慣習に「悪しき」という形容詞をつけたい気持があるが、いちがいにそうとも言いきれないところもあるので「厄介な」という形容詞をつけるぐらいでとどめておこう。
この悪しき、じゃなかった、厄介な慣習は俗に「原音主義」と呼ばれるもので、各国の固有名詞は各国の発音通りに発音し、かつ表記しましょう、というやつである。George という名前の男がイギリス人ないしはアメリカ人なら「ジョージ」とやり、フランス人なら「ジョルジュ」、ドイツ人なら「ゲオルグ」とするのが、この主義の原則だ。
で、前にあげたゲオルグ・グロッスはドイツ系の諷刺画家であるために「ジョージ・グロッシ」ではちょっとまずいということになるのである。だけど、「グロッシ」が登場してきた翻訳書はあるアメリカ人作家の伝記で、しかも「グロッシ」の名前の近辺にはドイツのドの字もでてこないので、「ジョージ・グロッシ」と訳しちゃうのはいうなればやむをえないことなのだ。ぼくがたまたま気がついたのも、教養にあふれてたからではなく、その画家がぼくの大のお気に入りだったからにすぎない。でも、これが意地悪な知識人に発見されでもすると、『朝日ジャーナル』あたりの書評欄に、こう書かれる。
「なお、最後に一言。小さなことではあるが、×ページのジョージ・グロッシのような諷刺家≠ヘゲオルグ・グロッス≠フ誤りであろう」
なにが「小さなこと」だ、「であろう」だ、ほんとうは嬉しくて仕方ないくせに、このヤロー!……と、ぼくはこういう書評を見るたびに頭に来る。けっこうあるのである、こういう書評。注意して御覧下さいませ。これをぼくは、入国管理局的小役人的書評、とひそかに呼んでいる。
原音主義が日本独自のものだと言い切る勇気も証拠もないが、アメリカだと、その点、そうとうにいいかげんじゃないかという気がする。なんてったって、あっちこっちの国からやって来た移民どもが群らがってできあがった国だから、「えーと、おたくの祖国ではおたくはジョルジュでしたっけ、ゲオルグでしたっけ?」てなこと言ってたら、話がなかなかはじまらないだろうからだ。ずいぶん前、多分『マンハッタン』って映画のなかでだったと思うが、ダイアン・キートンが、
「これからボージェスにインタヴューにゆくのよ」
とかなんとか、そんなことを言っていた。字幕にも「ボージェス」とでた。だけど、これは、「ボルヘス」なのである。なるほど、Borges というつづりは英語風に読んじゃえば「ボージェス」だ。
「なお、最後に一言。小さなことではあるが、ダイアン・キートンの言うボージェス≠ヘボルヘス≠フ誤りであろう」
こんな映画評が、あちらの国の『朝日ジャーナル』にでたかどうかは知らないが、まあ、日本だったらでちゃうだろうと思う。
ぼく自身も、アメリカ人のこの素晴らしきいいかげんさを、じっさいに味わったことがある。十年前、フィラデルフィアの美術館にマルセル・デュシャンの作品を見に行ったときだ。そこにかれの作品が多く常設されているという話だったのだが、それがぜんぜんない。そこで、美術館の係官らしい人物に、
「デュシャンはどこへ消えた?」
と訊いた。ところが、まるで通じない。いろいろと発音を工夫して、「ドシャン」とか「デチャン」とか小細工を弄してみたが、それもダメ。まったく、アメリカ人って野郎は教養がねえ、アンタんとこの美術館にあるのにそれぐらいも分んねえのかよお、といいかげん膨れっ面になった拍子に、「プッ」という音が口から洩れた。と、そのとたん、
「おお、デュシャンプ、ね。いまは展覧会でニューヨークへ送ってある」
と、係員が答えた。デュシャンプ? そうじゃない、デュシャンだ、と言いかけて、そうか、デュシャンって Duchamp だったっけ、と気がついた。敵はきちんとpを発音してたというわけだ。いうまでもなく、日本の原音主義に従えば、デュシャンはデュシャンであってデュシャンプではない。まあ、思うに、「デュシャン」なんて発音するアメリカ人はそうとうにスノッブな連中で、普通には「デュシャンプ」なのだろう。
原音主義は厄介である。ついこないだも、ある小説の登場人物を「ピーター」と訳していたら、途中でドイツ人だということがとつぜん判明してあわてて「ペーター」と訳し直した。ロシア人だと分ってたら「ピョートル」とでもしなけりゃまずいのだろう。
最後にクイズをひとつ。「Walter Benjamin のような批評家の手にかかると……」という文章のなかの人名の表記は次の三つのうちのどれが正しいでしょう。
(1)ワルテル・バンジャマン(フランス人ならこうなる)
(2)ウォルター・ベンジャミン(英米系人ならこうなる)
(3)ヴァルター・ベンヤミン(ドイツ人ならこうなる)
じつは、答えは無限にある。実在したかの有名な批評家のことをいってるのなら(3)、架空の人物だというのなら(1)でも(2)でも(3)でもこの他でも可……どうだ、翻訳の細かな気苦労が分ったか。原音主義なんて面倒なんだよ、厄介なんだよ、まったくもう。
[#地付き]本の雑誌35号 1984年4月
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翻訳書のタイトルについて[#「翻訳書のタイトルについて」はゴシック体]
リチャード・ブローティガンの傑作駄作入り乱れる作品群のなかで、ぼくがダントツに気に入ってるのは『愛のゆくえ』である。だから、訊かれることはめったにないけれど、たまに「ブローティガンっておもしろい?」と質問されると、一応考えるふりをしてみせた後で、この本の名前をあげる。だけど、その後がいけない。「わッ、おもしろそう」というひとは皆無に近く、たいていは気の毒そうな顔で、ぼくの顔を見つめる。ぼくも、なんかつまんないことを口走ったような気持になって、あわてて早口で「いやその……図書館の話で……これがまた一風も二風も変わった図書館で……世界に一冊しかない本だけを集めた……」とかなんとかしゃべりだし、そのうち気が滅入ってくる。相手も一応は気をつかってくれて、「ふーん、なんかおもしろそうね」と言ってくれるが、すでに会話はぎこちなくなっている。
どうしてそうなってしまうのか? それは、いうまでもなく、タイトルのせいだ。『愛のゆくえ』なんてタイトルがついてるばっかりに、口にするのがなんかシラジラしい、あるいはハズカしいかんじになってしまう。
「あーら、『愛のゆくえ』だなんて、まるでショーペンハウエルみたいね」
「いいや、それをいうなら、山川方夫さ、ほら、『愛のごとく』なんてのがあったじゃないの」
という風に会話が表層的にすすんでゆくのは稀で、たいがいは「愛」という言葉だけでドドッとしらけてしまう。まして「のゆくえ」ときたらなおさらだ。「あーあ、ハズカしいったらありゃしない。愛、だって。わあ、愛、だって。バカ」。深層意識では、そんなふうにテレている。
しかし、ブローティガンの傑作『愛のゆくえ』がひとにすすめにくいのは、じつはブローティガンのせいじゃなく、これを文庫に入れた新潮社のせいなのだ。というか、こういうテレ臭いタイトルにしたのはブローティガンではなく新潮社だということだ。ブローティガンがこの本につけたタイトルは、
"The Abortion: An Historical Romance 1966"
そのまま訳せば、
『堕胎、一九六六年のある歴史ロマンス』
である。これがどうしてこうして、
『愛のゆくえ』
になったのかは知る由もないが、きっと、「堕胎」ないしは「中絶」では過激すぎる、とでも判断されたのだろう。でも、オリアナ・ファラーチの『生れなかった子の手紙』という本がひそかに驚異的ロングセラーをつづけている今、ぼくの考えでは、『堕胎』云々の方がもっとよく売れただろうに、と残念でたまらない。それに、ブローティガンのつけたタイトルには「一九六六年の」という、いかにも意味ありげな、なにかシンボリックな雰囲気の言葉も盛りこんである。絶対、『愛のゆくえ』よりも『堕胎』云々の方が良かった、とぼくは確信する。「ブローティガンっておもしろい?」って訊かれたとき、もし『堕胎』云々の方のタイトルが言えたら、
「えッ?! ダタイ? 一九六六年?」
と、相手の反応もかなりちがってくることだろう。
翻訳書は、こんな具合に、読者のあずかり知らないところでよくタイトルが改変される。ぼくが訳した数少ない本も、数冊、みごとにタイトルが変わっている。『ワルツは私と』は『こわれる』に変わり、『私自身と他人を読む』は『素晴らしいアメリカ作家』になり、『仕事を探す』は『パーソナル・ニューヨーク』に変貌した。もちろん、訳者であるぼく自身もこれらの改変劇にはかかわってるので、場合によっては「スミマセン」を言わなければならない立場にあるが、翻訳書のタイトルは、洋画の邦題に勝るとも劣らず、基本的には疑ぐってかかった方がいい。翻訳書にはたいてい最初か最後のページに横文字でチャチャチャと原タイトルが記してあるが、翻訳書のタイトルと著しくちがってるときは、なぜこのようなタイトルに変わったのか、と推理してみるのも一興だろう。されば、日本側出版社と翻訳者の「売れるといいなあ……」というささやかな夢のひとかけらがほの見えるはずだ。
「まあ、ともかく訳して下さい。タイトルのことは最後で考えましょう」
「そうですね、そうしましょう」
これが編集者と翻訳者のごく日常的な会話である。「タイトルのことが気になってて、翻訳がすすまないんですヨ」てなことを翻訳者が言おうものなら、「そんなのはずっと先の問題です」と叱られてしまう。
古典としてすでに名前の知られてる本の場合、こういう改変劇はめったに起こらない。だから、いずれ古典の仲間入りをしそうな本も、改変劇とは縁がない。いまじゃすっかり出版の主流から外れてしまったが、一昔前に流行った「世界文学全集」「世界の文学」等に収められた作品群は、たとえ本邦初訳のものであれ、原タイトルに忠実なのが普通だった。「これは古典だ!」あるいは「これは古典たるべく運命づけられてる!」という強い自信があるので、タイトル改変といった小手先芸で目立たせる必要がない。『鐘』とか『風』とか『公園』とか『脱皮』とか……なにがなにやらちんぷんかんぷんでも、古典(になるもの)であるかぎりは、そのままでゴーだ。
あれあれ、この本、古典らしくなってきたな、ということで、工夫を凝らした、ときには考えすぎの邦タイトルが途中から原タイトルに戻される場合もある。
『危険な年齢』という本の原タイトルは想像がつきますか? この本は昔に橋本福夫さんの訳ででたときはこのタイトルで、後、野崎孝さんの訳で別な出版社からでたときは、新しい、というか原タイトルに忠実なものになった。はい、正解です。答えは『ライ麦畑でつかまえて』。
他にもこのての例はいくつかあると思うのだが、どうもいますぐには思いつかない。グリーンの『不良少年』って『ブライトン・ロック』のことだったかな、待てよ、『ブライトン・ロック』ってのは昔からあったような気がするし、この二冊は別な本だったかな……といったん邦タイトルを疑いだすと、きりがない。でも、こうやって考えてくると、原タイトルを無視して小手先芸に終始するよりは原タイトルに忠実な方がよさそうな気はしてくる。そりゃそうだろう、原タイトルとは別な邦タイトルを決めるさい、なにが決定要因になってくるかというと、アピールすること、だからである。しかも、その時代の雰囲気のなかでアピールすること、が肝心なのだから、時代が変わってしまったらゆっくり色褪せてしまうのは当然なのだ。
したがって、その時代に売ってしまいたいような本を除くと、このところ、原タイトルをそのまま使ってしまうのが多くなってきたように思う。だけど、これにも、多少の問題がある。横文字をカタカナにしてしまうのならともかく、なまじ忠実に訳そうとしても、訳しにくい言葉の場合などがそうだ。たとえば、ロスの、
"The Great American Novel"
が、
『素晴らしいアメリカ野球』
に至りつくまでの経緯は、伝聞をもとにして再構成するなら、つぎのような具合だった。タイトル付けの名人たち数人が議論に議論を重ねて数時間、集英社の会議室にはタバコの煙がたれこめていた。
「だからネ、『偉大なアメリカ小説』で行こうよ。予告にもそう出してたわけだし、いいんだ、原タイトルに忠実な方が……」
「それを言うなら、その訳は良くない。そうだね、great は大≠セろ、novel は小説≠セろ。だったら、直訳はどうなる? 『アメリカ大小説』だ。これで決まり」
「『大小説』ね。なんだか、アメリカはでかいか小さいかってかんじになってきやしまいかね? 『地球空洞説』みたいな。要するに、説≠ェ浮きあがっちゃう」
「いいや。この本はパロディなんだから、かえってその方がおもしろい。いやだっていうなら、『アメリカ大小便』でもかまわんよ。ふーむ。これも悪くない。ちょっとトイレ行ってくる」
「偉大な≠チてのがいまひとつ良くない。どうだろう、これを素晴らしい≠ニ訳してみたら。『素晴らしいアメリカ小説』。まあ深読みしてもらえれば、素晴らしい≠ノパロディの臭いを嗅ぎとってくれるだろうしな」
「読者はそこまで親切かな?」
「そう願いたい」
「『アメリカ大小便』はどうなった? トイレに行ってる間にいい案が浮かんだかな?」
「『素晴らしいアメリカ小説』」
「ふーむ……ところで、どういう話でしたっけ?」
「野球。架空球団」
「なるほど。アメリカ野球、か。お。お。お。!!! 『素晴らしいアメリカ野球』」
……かくて、こうして名作の日本語版が登場し、この邦タイトルは『輝けるアメリカ野球』『素晴らしいアメリカ作家』という別な二冊の本の邦タイトルにヒントを与えることになった。原タイトルに忠実、と一言で言っても、いざ実践となると、至難をきわめるのである。
原タイトルに忠実、というのには、もうひとつ問題がある。「本邦初訳! 版権独占!」と謳ってるものならあまり問題ないが(まあ、この版権≠チてやつがまたじつにややこしいので、ほんとうのところは問題なきにしもあらずだが、このさいはそれには言及しません)、そうでない本になると、読者を混乱させる事態が生じかねない。つまり、いくつかの出版社が同じ本をべつな邦タイトルでだしてしまうケースが、それだ。
『日々の泡』
『うたかたの日々』
これなど、おもわず、「うーん」と唸ってしまったケースだ。原タイトルはフランス語で、
"L'Ecume des jours"
だが、Ecume は泡=Ajours は日々≠セから、前者はそのままの訳である。で、「うたかた」という日本語は泡≠ニいう意味で、そうなると、これも、ほぼそのままの訳である。でも、なんとなくニュアンスがちがう。前者には悲しみがただよってるのにたいし、後者には、どうでもいいや、といった無常観がある。ぼくは前者の方が好きだが、後者がいいというひともいるだろう。いや、ひょっとしたら、巷ではつぎのような会話がひそかにおこなわれている可能性だってある。
「ぼく、ヴィアン、好きなんだよネ。特に、あの『日々の泡』。あれ、いいなあ」
「えッ、ホント。あたしもヴィアン好きなのよ。あたしは『うたかたの日々』だけど。でも、ヴィアンって、泡っぽいのが好きだったのね。だって、タイトル、なんとなく似てるじゃない?」
「そりゃそうさ。作家って人種はひとつのテーマを、分るまで徹底的に追及してくもんなんだよ。ヴィアンの場合、きっと、泡≠ェテーマだったんだ。泡≠ェかれのオブセッションだったんだ。だって、ほら、考えてみりゃ、ヴィアンの人生って泡沫的人生だったじゃないか。いろんなことに手をだしたけど、けっして当選はしない泡沫候補みたいな人生……」
「ねえねえ、『日々の泡』ってどんな話? 教えて教えて」
「だめだよ。それはいけないよ。やっぱり、自分で読まなきゃ。ぼくも、その『うたかたの日々』って読んでみるからさ」
……そして、数日後、『日々の泡』好きは『うたかたの日々』を読んで、『うたかたの日々』好きは『日々の泡』を読んで、ともに泡を食うのである。
つまり、どんなふうにやっても、翻訳書には幾多の問題が待ち構えているというわけだ。タイトルの問題は、翻訳問題の氷山のほんのほんの一角の泡みたいなものである。
それにしても、古典になって当然の『泡』の本は、はたして、遠い将来、どっちの邦タイトルに落ち着くのでしょうね。
[#地付き]別冊・本の雑誌「活字中毒者読本」 1984年6月
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なんでい・ヴォネガット[#「なんでい・ヴォネガット」はゴシック体]
「日取りも決まってないし、もしかすると、実現不可能かもしれないんですが、そういう前提でヴォネガット・インタヴューを引き受けてくれませんか」
「それはつまり、前提なにもなしってことですね」
「そうなりますか。なにしろあの日本ペンクラブがうるさくて……もぐもぐもぐ」
そういう前提でカート・ヴォネガットをインタヴューすることを引き受けた。「通訳、付けて下さいネ」とこっちももぐもぐ言いながら、とっさに頭をよぎったのは「なんでいまどき、ヴォネガット?」という想いだった。会うひとごとに、「ねねね。今度、ぼく、ヴォネガットにインタヴューするの……おい、聞いてんのか、するんだぞッ!」と言ってまわったが、数々の相手の反応もたいがい似たりよったりで、「ふーん。それにしても、なんでいまどき、ヴォネガット?」と、軽く片付けられた。「そんなことやってるから、翻訳がすすまないんですヨ」と言うひともいて、そうか、ヴォネガットとはいまや要するに「なんでいまどき」であり、「そんなこと」なのか、と痛感した。
ヴォネガットにインタヴューしなさい、と言われたときにぼくが「なんでいまどき?」と思い、また、知り合いのほとんども「?」という反応を返してよこしたのは、一言、いまのヴォネガットにはパワーがなくなってるからだ。『チャンピオンたちの朝食』を最後にかれの名前からは「ジュニア」が消えて、「カート・ヴォネガット」になったのは御承知の通りだが、この名前の変化から受ける印象は、すっきりした、というよりは、間が抜けた、というかんじだ。まるで、「快傑ゾロ」が、「わたし変わります」(このCF、好きだったなあ)、とか言って、「快傑ゾ」に名前を変えた、そんなかんじ。「あ、ゾロ様だ!」「ちがう、わたしはゾ。ゾであるぞ!」
思うに、さまにならない。どこか空気が抜けている。「カート・ヴォネガット」になってからの第一作『スラップスティック』の冒頭部にはローレル&ハーディの漫画があって、みごとに頭から空気の抜けてゆくありさまが描かれていたが、最近のかれのパワーのなさを考えると、あれはシンボリックだった。本文に頻出する「ハイホー」など、『スローターハウス5』の「そういうものだ」と比べると、パワー・ゼロ。かれの一連の作品のパワー度を図示すると、下のようなものになる。
[#挿絵(img/fig1.jpg、横178×縦134)]
ミスター・「なんでいまどき」・ヴォネガット(以下、「なんでい・ヴォネガット」と略)とは、結局、新宿は京王プラザ・ホテルの廊下で会った。驚くべきことに、あんなにでかいのに部屋は満室で、空いているのは廊下しかないという。「そういうものか」「そういうものだ」というわけで、じゃあ廊下でひとつ、とも考えたが、そういうわけにもいかないんでねえの、という中村さん(発作的躍進ぶりの『朝日ジャーナル』の編集者である)の発案で、六本木に向かった。ぼくの胸は早くもドッキンドッキンしていたが、それは生身の「なんでい・ヴォネガット」ととうとう会ってしまったからというより、通訳として現われたミッキーこと水島なおみさんが more than cute な女性だったからだ。インタヴューの場所を京王プラザの廊下から六本木に移せたのも、日系アメリカ人の彼女がプレイボーイ・クラブ・オブ・ジャパンのバニー、じゃなかった、PR担当マネージャーだったからで、彼女がいなかったら、多分、京王プラザ満室廊下突撃インタヴューになっていたことだろう。
「なんでい・ヴォネガット」の話は、ぼくにはぼくなりに楽しかった。話をはぐらかすのが得意、というか習性になってるようで、
「あなたが『猫のゆりかご』で提出したカラース≠ニいう独特な家族論についておうかがいしたいのですが……もごもごもご」
とぼくがヨタヨタ・イングリッシュで訊くと、
「ああ、あれはケープ・コッドをドライヴしてたとき、だれかの家のメイル・ボックスに書いてあった名前ですヨ。それを拝借した。ハハハ」
と答えてきた。また、
「あなたの『スローターハウス5』も、ジョン・アーヴィングの『ガープの世界』も、ジョージ・ロイ・ヒルが映画化しましたが、前者は六〇年代、後者は七〇年代の重要な本ですね。そういうのに注目するロイ・ヒルとはどういう人物なのでしょう……もごもご」
という質問には、
「まあ、ジョージはハリウッド人とは付き合いたがらない、いつも片隅でひとりじっとものを考えてる男です。わたしとジョンのを映画化したのは、金、が欲しかったんでしょ。結局はそんなに当たりませんでしたがね」
との返事が返ってきた。「『チャンピオンたちの朝食』をきっかけにしてあなたは変わりましたね」と言えば、「うん。右利きが左利きになった」という返答で迎えられたし、万事がそんなこんなで、ぼくはとつぜん梨元某氏のファイトを尊敬した。もっとも、話をひょいとかわす習性は「なんでい・ヴォネガット」自身がよく承知してるようで、それは、名エッセイ「ビアフラ、裏切られた人々」のなかの「わたしにはどんな事態をも冗談ですませてしまおうという傾向があるらしい」という文章にうかがえる。(ちがったかな)
ヴォネガットのシワをしっかり見てくることだね、という知り合いの励ましの言葉にもかかわらず、ぼくはかれのシワ顔じゃなく、シワひとつない美しいミッキーの顔ばかり見ていた。「なんでい・ヴォネガット」と別れた後は、なんでえなんでえ、とばかりに中村さんとミッキーと三人でディスコにでかけた。六本木名物の不良外人どもが続々とミッキーに言い寄ったが、彼女はそのたびに「ノー・スピーク・イングリッシュ」とあざやかにかわしていた。日本人のふりをしていたわけである。
[#地付き]本の雑誌36号 1984年6月
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キール切り切り舞い[#「キール切り切り舞い」はゴシック体]
字幕翻訳家の戸田奈津子さんと対談する機会があったので、そのとき、初対面の失礼も顧みず、「つぎのような台詞がでてきたら、どのように訳しますか」とたずねた。
「彼女はブルーミングデイルで買物できるヒトだけど、あたしはしょせんメイシーでしか買えない。ホント、頭に来る。ひがんじゃう」
戸田さんは、答えはどうせ御存知なんでしょう、という顔をなさったので、ぼくは自分で答えを言った。
「ブルーミングデイルは高級デパート≠ノ、メイシーは大衆デパート≠ノでもするんでしょうか、やっぱり」
「そうでしょうね。ホントに困りますよ、そういう言葉は」
戸田さんとの話で知ったことだけれど、字幕は観客に考えさせてはいけないのだ。「あれ、いまのブルーミングデイル≠チてなんだ?」とか「メイシー≠チてなんのこっちゃ?」と観客が考えてしまったら、字幕としてはバツなのである。昔、ある字幕翻訳家(名前は失念した)が、良家の子女の多いヴァサー女子大≠聖心女子大≠ニ訳した、というのはあまりにも有名な話だが、これはいかに考えさせない≠ゥ、という制限から生まれた秀逸の訳である。
でも、活字の翻訳となると、そういう具合にはゆかない。ブルーミングデイルはブルーミングデイル≠ニ訳す(?)しかなく、高級デパート≠ニ訳して(?)名前そのものは消去、といった大胆なことはできないのだ。だけど、なにか説明を加えといた方が分りやすいと判断したときは(最初の例文はその一例といえるが)、たいがいつぎの三つの方法のいずれかを採ってるのが普通だ。
(1)高級デパートであることを、なんらかの言葉を補ってほのめかす。例えば、「彼女はブルーミングデイルのような御立派なデパート[#「のような御立派なデパート」に傍点]で買物できるヒトだけど」。
(2)御存知、( )に括られたスペースで、小さな文字で説明する。いわゆる「訳注」というやつだが、これには長いのもあれば短いのもある。極端に長い訳注にぶつかると、ぼくはいつも、「お、調べましたネ」と共感する。もっとも、ときどき出現する訳注の傑作――(不詳)ににじみでている翻訳者の苛立ちと悲しみほど、ぼくを共感させるものはない。
(3)テメエら、こんなことも分らんのか! と見えない読者に叫びつつ、なんの説明をも加えない。ただし、この場合、翻訳者がほんとうに承知してるのかどうかは、当の翻訳者以外、だれも知らない。
しかし、こういうことができるのは、分ってる場合、ないしは調べがついた場合だ。いまから三年ほど前に、スノッブな女をヒロインにした小説『パーソナル・ニューヨーク』を訳していたとき、つぎのような文章にでくわした。
「わたしは年代物のカシスを抜いて Kir をつくる」
この Kir が、分らなかった。カシス≠フ方は辞書に黒すぐり酒≠ニ書いてあったのでただちに了解したが(といっても、味はもちろんのこと、黒すぐりとふぐりの区別も、じつは分ってない)、Kir はどこを探してもでてなかった。しゃあない、ここは「テメエら、こんなことも分らんのか!」というふりをして片仮名でかたづけようか、とも思ったが、いざそうしようとしたら、はてキル≠ニすべきか、キール≠ニすべきか、という大障害にでくわした。そうなのですヨ、たかがー≠ニいう棒一本に、一九八〇年の冬、ぼくはつまずいた。
本屋にすっとんでって、酒の辞書を買いこんできた。高い本だったから、立ち読みならぬ立ち調べですませるのならすましたかったところだが、インデックスを見たら、肝心の Kir こそ見当たらないものの、ちょいと気になるかんじの言葉がズラリ並んでいる。
Kirchenberg――Kirchenpfad――Kirchenstek――Kirchheim――Kirchhofen――Kirin Beer――Kirin-Seagram――Kirrweiler――Kirsch Commerce――Kirschley――Kirsch Likor――Kirsch of Eger――Kirsch Rouge――Kirschwasser――Kirwan......
こんなにも Kir っぽい言葉がある以上、とても立ち調べするわけにもゆかず、「チクショー、高エなあ」とののしりながら買ってきたのである。そして、Kirin Beer と Kirin-Seagram こそ省略したものの、右の Kir の親族一同をいちいち調べていった。ところが、なんということか、大枚を投じて購入してやったというのに、どの言葉も、ぼくが探してる Kir にヒントひとつ与えてくれないし、まるで関係もなさそうなのだ。だから、その晩は酒をかっ喰らって寝た。頭に来た。
Kir の意味をついにつきとめたのは、訳していた当の本の校了後である。責了紙には、高価で役に立たない辞書へのウラミを溜めつつ、キル≠ニした。もちろん、殺せ!≠フ意味の "kill" をかぶせて、ひとりひそかに悲しくほくそえんでの処理である。しかし、キール≠セった。というか、松山猛さんはキール≠ニいう具合に紹介していた。なんの雑誌だったかは忘れたが、「アメリカのスノッブな連中の間では、いま、キールというカクテルが流行っている」と松山さんは書いていたのである。本屋でいろんな雑誌を立ち読みしてる最中にこれを見つけたときは、おおげさじゃなく、目がくらんだ。
本がでた記念に三軒茶屋の地中海料理店にでかけると、驚きがまた待っていた。酒のメニューに、なんと、Kir が載っているではないか。
「ボーイさん、このキールってやつ、アメリカで流行ってんだってね」(と、すでに知ったかぶりをしている)
「そうなんですヨ。黒すぐりの酒に白ワインを混ぜたカクテルなんですが、さっぱりしてておいしいです。発明したのはフランスはディジョンの町の市長でしてね。そのヒトの名前がキールなんですって」
もちろん、飲んだ。その晩以来、ぼくはキール≠ニいう酒を知らないヒトに会うと、
「えッ、知らないの!」
とオーバーに驚いて軽く説明を加え、
「でも、もう流行は終わってるのよネ」
と冷たく締めくくることにしている。関係ないけど、いまはバラライカがおいしいです。
[#地付き]本の雑誌37号 1984年8月
そしていま、一九八六年末の現在……バラライカ≠チてなんだっけ?
さらにいま、一九九一年夏の現在、キール≠ヘ、瓶入りだか缶入りだかのが売りだされている。
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南部の東北弁[#「南部の東北弁」はゴシック体]
フィリピン人で、後にアメリカに渡って小説を書いたカルロス・ブロサンの自伝『我が心のアメリカ』の翻訳本を読んでいたら、気分が「だべだべさ」になってきた。なにしろ登場人物たちのしゃべる言葉が凄じいのである。たとえば、
「んだべさ。鳥っこも人間と同じだべなや。死ぬのはやっぱり、おっかねえし、生きてべね。さあて家さ、入《へえ》ってバナナでもやっぺや」
こういうのが次から次へとでてくるのだ。ナニ弁だか、分りますか? ぼくには「訳者あとがき」を読むまで分らなかった。ぼくは福島の生まれだが、十歳のときに東京に来てしまっているので、福島弁の記憶もすでにぼやけている。だけど、『我が心のアメリカ』の言葉にはどこかなつかしさがあった。福島弁でないとしても、東北のどこかの土地の言葉だろうと思った。
「訳者あとがき」によると、正解は仙台弁である。訳者の井田節子さんは、仙台弁の監修をしてくれた先生に謝辞をささげていた。なるほど、監修者がきちんとしたのか、とぼくは、自分になつかしさがこみあげてきた理由が分った。読んでもらえば分るが(勁草書房刊の「東南アジアブックス」の一冊)、仙台弁の件りはそりゃもうじつに美しい日本語である。共通語だか標準語だか知らないが、そんなものではとても味わえない、音楽的にも美しい言葉のオンパレードだ。
だけど、それはそれとして、あーら、またやってるな、とぼくは思った。察しのいいヒトならすでに気がついたと思うが、翻訳書にはなぜかしょっちゅう東北弁が登場してくるからである。最近の新訳は知らないが、ちょっと前のフォークナーの小説では黒人たちは東北弁をしゃべっていたし、他の小説でも、黒人でなくても田舎モンとなると、かならず東北弁になった。しかも、『我が心のアメリカ』のようなケースは稀で、たいがいは監修者などいない、要するに、「こんなモンでいがっぺや」的な、いかにもいいかげんな東北弁が多かった。以前どこかで井上ひさしさんが話してた通り、翻訳本に登場する東北弁は東北地方のどこでも使われていない独特の東北弁なのだ。
この世に存在していない架空の東北弁が翻訳本で使われているという点については、まあ百歩ゆずって、それはそれでよしとしよう。しかし、なんで東北弁なのだ、と、福島弁の元スピーカーとしては、かなり腑に落ちない。フォークナーのミシシッピー州の黒人がなんで東北弁をしゃべらなければならないのか、それが分らない。絶対に分らないし、分ってやるものか! だいたい、ミシシッピー州はアメリカの南部だし、アメリカで「田舎モン」ときたらたいがいは中西部、ないしは南西部、と相場は決まってるのだ。「南部」「中西部」「南西部」のどこに、「東」なり「北」の字が入っているか! 単純に考えたら、九州のナントカ弁、ないしは中国・四国地方のナントカ弁を使うのが筋じゃねえかよお!
じっさい、これは又聞きの又聞きで信憑性はゼロに近いが、日本人のアメリカ文学者か言語学者が、
「アメリカ南部の黒人がしゃべる英語は、構造的に、九州のナントカ弁に近い」
という画期的で、発作的な大理論を発表したことがあるのだそうだ。こうまで言われると、ホントかね、とかえって困ってしまうが、でもまあ傾聴するに値する話ではあろう。もしもこの理論の正しさが立証された暁には、これまでは、
「んだけどもさ」
としゃべっていた黒人たちが、
「ばってん」
と口調もあらたに生まれ変わることになるわけだ。翻訳本を通してのみフォークナーを研究していた日本人読者は、脳ミソのコペルニクス的転回を強いられるに決まっている。じじつ、以前にある翻訳本を読んでいたとき、とつぜん関西弁にでくわしたことがあって、あのときは驚いた。いやあ、翻訳も変わりつつあるなあ、と実感したのもそのときである。
南部の黒人たちが長いこと東北弁を、遠い将来は九州弁をしゃべらなければならない理由は、念のために言っとくと、かれらの英語が変ちくりんだからだ。
They did these things.
と言うのが普通であるところを、かれらはたとえば、
Dey done dem things.
と言う。だから、翻訳するときはこの語感の奇異さをなんとか日本語に再現しようとして、ああなるということである。
ぼくはフォークナーこそ翻訳したことはないが、ピーター・マシーセンの『遥かな海亀の島』で、このての奇異英語とうんざりするほど付き合った。五百ページ近い本の九十パーセントがそのての英語で埋められてたから、ありゃ、たまんなかった。まるで呪文そのもので、意味をつかまえるのすら時間がかかった。
「どう、翻訳してみますか?」
と、講談社の徳島さんに訊かれた日のことはよく覚えている。
「でも、その、英語がじつに変な英語で、あの語感の再現はむずかしそうですねえ……ぼくにはとてもできそうも……」
「じゃあ、そこのところをだれかにチェックしてもらうというのはどう?」
「うーむ。漁師のおじさんに訊きますか……一応、素っ気ない日本語にだけ直しといて、それを添削してもらうというふうな。でも、どこの土地がいいんだろう……」
そして結局、小川国夫さんに共訳をお願いした。小説家の小川さんは藤枝に住んでいてそこの漁師たちとも親しいし、それにこの小説には興味をもちそうだ、という判断からだった。案の定、小川さんは関心を示し、というか、すっかり夢中になり、マシーセンにいれこんだ。かくして、カリブ海の海亀漁に藤枝の漁師たちが出漁することになった。
なぜ藤枝であって気仙沼じゃないのかというと、それはさる言語学者の説によれば、カリブの英語は構造的に藤枝弁に近い、なんていうのはウソで、要するに思いつき、ただの思いつきでした。
[#地付き]本の雑誌38号 1984年10月
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ニューヨークの文芸誌[#「ニューヨークの文芸誌」はゴシック体]
ニューヨークで二冊の文芸誌を買った。現地で知り合った二人の若い作家に、「なにかおもしろい雑誌はないかい?」と訊くと、二人はそれぞれ、自分たちが寄稿している雑誌を即座に推薦したのだった。おたがい、「これっきゃないヨ」といった自信満々たる態度でぼくを本屋に連れてゆき、ひとりなどは、道々『ニューヨーカー』を罵倒した。
「あんなのは中産階級の人間が、中産階級の人間のために、中産階級意識まるだしで書いた文章を集めたものさ」
ぼくは『ニューヨーカー』にべつにウラミもなにもないので、ふむふむと受け流した。それに、「そうかなあ?」てな疑問を呈しようものなら、かれの反問にしんどい英語で答えなくちゃいけないから、会話の苦労を考えてちょっと手を抜いたのである。かれは「いま大江健三郎の『個人的な体験』を読んでるけどおもしろい」と言い、「三島由紀夫の『宴のあと』はつまんなかった」とも言った。かれはちょうどビルマに関する小説を執筆中で、「資料として『ビルマの竪琴』も読んだよ」と話した。ぼくはまたしてもふむふむと受け流したが、それは『ビルマの竪琴』なんて読んだこともないからだった。しかし、正直言ってびっくりしました。華のニューヨークで『ビルマの竪琴』なんて地味な名前を耳にするとは思わなかったです。
二人の若い作家がそれぞれにすすめてくれた雑誌は、たしかに『ニューヨーカー』とはまるで程遠いかんじの、一風変わった代物だった。「これが雑誌?」とおもわず口にしてしまったぐらい、そのスタイルには意表をつかれた。ふつう雑誌といったら、それも文芸誌といったら、整然とした造りの一冊の本を想い描くものだが(とりわけ日本の文芸誌に見慣れてると、そうだ)、それがぜんぜんちがう。
まず、『ウェッジ』特別合併号。これは、ひとつの紙の箱だった。そして表の面に『ウェッジ』とあり、その下に謳い文句としてか、「不完全な文章群・エッセイと小説」と刷り込んであった。編集後記と目次は裏の面にあって、それがフタになっていて、そこを開けると、本文が始まった。というか、本文群が飛びだしてきた。というか、十四冊の薄い本たちが滑りでてきた。手っ取り早く言うと、紙の箱に入ったマクドナルドのフライド・ポテトにフタが付いたようなもので、ポテトの一本一本が、『ウェッジ』の場合、一冊一冊になってるのである。こういうスタイルを「ポートフォリオ」と言う、とその作家は教えてくれた。ちなみに、この言葉を辞書で引くと、「紙ばさみ、折りかばん、書類入れ」とあるが、まあ、訳語としてはどれもこれも、雰囲気を伝えてないので、バツだ。
十四冊の薄い本(「ウェッジ・パンフレット」と銘打ってあった)が、それぞれ、十四人の著者の本だった。小説本だったり、絵本だったり、写真集だったりとさまざまで、分厚い箱のフタを開けたら、あとは好き勝手に薄い一冊を取りだして読むなり、ながめるなりすればよいという仕掛けである。全部まとめて十五ドルだから、パンフレット一冊は一ドルちょっと。じつに安いものだ。
「十五ドルとちょいと高いけど……」
と、反『ニューヨーカー』の作家は言ったが、ぼくは、最近の円安傾向も忘れて、「高くない、高くない」と答えた。
もうひとりの作家がすすめてくれた本は、『ビトウィーンC&D』という、これまた珍妙な文芸誌だった。「ローア・イースト・サイドのポスト・モダン・フィクション・マガジン」と副題が打ってあり、ビニールの袋に入っていて、要するに、ポスト・モダンのビニ本。
だけど、ビニール袋を開けて、本を取りだしたら、驚いた。『ウェッジ』の場合はフタを開けると同時にバサバサッと十四冊のパンフレットが転がりでてきたが、『ビトウィーンC&D』の場合は、ズルズルっと伸びた。まるでろくろ首みたいにそれはどんどん伸びて、全長十メートルを越えた。
「ほお、プリンタ用紙をそのまま使ってるわけ」
と言うと、この雑誌の編集者でもあるその作家は、
「そう。ワード・プロセッサーだよ」
とにっこり笑った。えんえんと打ちだされてくるテレックスのあの長い紙を想像してもらえば、まあ、アタリである。それをこねこねと折って適度な大きさにし、ビニール袋に押しこんだのが、この雑誌だ。したがって、ページを繰るときは右から左へではなく、下から上へと指を動かす。ちなみに、誌名のCとDは、アルファベット街と呼ばれるイースト・ヴィレッジのC街とD街から採っており、なぜ「CとDの間」かといえば、この雑誌の編集長がそこに暮してるから。そういう点は、責任感旺盛というか、いいかげん。表紙のカットは手描きのカラー。定価は四ドル。
ろくろ首的ワード・プロセッサー文芸誌の編集者兼作家は、このての文芸誌はこれしかいまのところニューヨークにはない、と言った。ぼくの推論では、『ウェッジ』のようなポートフォリオ・スタイルも、文芸誌というジャンルでは珍しいものではないかと思う。たんなるアイディアにすぎない、とか、前衛気取り、と片付けるのは簡単だが、多分、それだけのものではあるまい。『ウェッジ』の箱に書いてあった編集後記には、ウィリアム・バロウズのつぎのような文章が引用してあった。
「出版活動とは、イメージと言葉を道具として、人心を支配する行動である。しかし、この道具がそもそもどういうものであったか、どういう性質のものであったか、を考えずに、無意識にやっている例が多い。どういうものであったかを知るためには、道具そのもの、すなわち、イメージと言葉を検討し直す必要がある。こういう作業は、人心を支配する道具としてイメージと言葉を使っている人間には脅威となるはずである……」
なにを御大層な、と言っちゃミもフタもない。スタイルの変化は内容を大きく左右するのである。二人の作家には、ともに元気があった。
[#地付き]本の雑誌39号 1984年12月
そしていま、一九八六年末の現在、一九八四年末当時の円安などどこ吹く風で、円高が定着した。『ビトウィーンC&D』はその後もゆっくりしたペースで刊行されつづけているが、『ウェッジ』の方はその後姿を見かけない。
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特殊浴場異聞[#「特殊浴場異聞」はゴシック体]
和製英語という厄介な英語がある。日本人が勝手に作った英語で、日本人の間でしか通用しない英語だ。だから、その意味では、和製英語は日本語の一部ということになる。ぼくはそういう傾向はべつに悪いとも思わないし、外国語をおもちゃにしちゃう心意気は愉快だとも思う。
だけど、英語を和製英語という日本語に翻訳するときは、さすがに妙な気分になる。たとえば、「ウィール」ないしは「スティアリング・ウィール」は「ハンドル」という和製英語に訳す。車好きの間では「ウィール」でも通用するだろうけれど、日本語としては「ハンドル」の方がやっぱし一般的なので、そう訳す。「ガス・ステーション」も、同じ理由で、「ガソリン・スタンド」、ないしは、時と場合で、「スタンド」、と訳す。いますぐには思いつかないが、こういう例はけっこうある。一度やってみればだれにでも分っていただけるでしょうが、いったいおれはなにをやってるんだ、という不思議な気分になること請け合いである。
ところで、はたして定着するのかどうかは予測できないが、最近、「ソープランド」という和製英語が誕生した。御存知の通り、「祖国の名前がイヤらしく使われているのはとても耐えがたいことです」と訴えでた一トルコ人青年の言葉にトルコ風呂業界が応じ、それじゃあ、それに代わる名称を、と一般公募した結果、この「ソープランド」が選ばれたのである。詳しいことは知らないが、トルコの国情に詳しい友人が、そういういきさつを話してくれた。「清潔なかんじがしていいじゃないか、てなことで採用になったらしいヨ」。「ソープ」は「石けん」。なるほど、清潔だといえば清潔だといえないこともない。
でも、翻訳者のはしくれとして、これが定着するとますます厄介なことになるな、と思った。なぜかといえば、「ソープランド」という言葉はすでに英語にもある言葉だからである。辞書にこそ載っちゃいないが、しゃれた造語としてそれなりに英語のなかに定着してるのである。そして、生憎、その意味は「特殊浴場」ではない。
いまさらこんなことをお話しするのも少々テレ臭いが、アメリカのテレビ(この「テレビ」も和製英語なのは御存知ですネ)には「ソープ・オペラ」と呼ばれる番組のジャンルがあり、たいそう人気がある。「昼メロ」と訳す翻訳者もいるが、ウィーク・デイの昼間に流されている、まあ、日本の「昼メロ」みたいなものだ。ただ、日本の「昼メロ」とちがうのは、話が愛欲だけに片寄ってないこと、どっちかというと家庭劇ないしは人生劇臭いことで、どの番組も長寿番組である。十年以上もえんえんと続いているものなどざらで、二十年以上のもある。なぜ、「ソープ」かは、お風呂のシーンが毎回かならずでてくるからではなく、このての番組の提供会社が昔は主に石けん会社だったからだ。
「ソープランド」という言葉の意味は、いうなれば、「ソープ・オペラの世界」である。ソープ・オペラはテレビが出現する以前のラジオの時代からもあったが、ラジオ・ソープの構造をユーモア作家のジェームズ・サーバーが分析したさい、かれがこの言葉を使った。かれが発明した造語かどうかは分らないが、ともかく、「ソープランド」という言葉はこういう具合に英語のなかにしっかり存在している。
ゆえに、困る。翻訳者のひとりとしては、「ソープランド=特殊浴場」説が一般化してしまうと、はなはだやりにくいのだ。それにぼくは、ソープ・オペラという代物をアメリカ文化の重要なキー・ワードと考えてるので「昼メロ」と訳すのは好きじゃない。どうしても「ソープ・オペラ」と訳したいし、「ハンバーガー」のように片仮名言葉としてそのまま輸入したい。その意味で、サーバーが使った「ソープランド」も「特殊浴場」にゆずりたくないのである。おまけに、ある意味では、日本の「特殊浴場」も日本文化の重要なキー・ワードかもしれないのだから、ここで「ソープランド」をゆずると、話が複雑になること、必至だ。遠い将来、日本語を解さないアメリカ人と英語を解さない日本人がこの言葉においてのみ意見が一致し、
「そうか、おたくの国でも、ソープランドが文化の核になっとるわけですか!」
と握手したりしたって、ぼくは知りませんからネ。
トルコ風呂の新名称としてソープランドが定着したとしたら、『週刊現代』あたりの特集ページも、「日本ソープランドの穴場巡り」に変わることだろう。そればかりか、和製英語造りに熱心な週刊誌のことだから「トルコ嬢」もきっと「ソープ・ギャル」ないしは「ソープ・スター」に代わるにちがいない。でも、でも、しつこいようですけど、「ソープ・ギャル」はともかく、「ソープ・スター」も英語のなかにきちんと存在していて、「ソープ・オペラの俳優たち」という意味だ。だから、遠い将来、アメリカのソープ・スター・ユニオンあたりから「私たちの職業名がイヤらしく使われているのはとても耐えがたいことです」と訴えられたって、ぼくは知りませんからネ。
それに、ソープランドが定着したら、ソープランドの現場があの手この手でこの新和製英語を使いまくるのも目に見えている。「ソープ・オペラ」というソープランドの源の言葉も、さぞや過激に使われて、
「ソープ・オペラ・スペシャル! 一時間二枚こっきり!」
とか、
「ソープ・オペラ・ミッドナイト・スーパー・スペシャル・デラックス! 四枚!」
といったきらびやかな看板も出現するだろう。遠い将来、アメリカのソープ・オペラ製作者ユニオンから訴えられたって、ぼくは知りませんからネ。
それにしても、和製英語にはどれにもいわくいいがたい凄じい勢いがあり、翻訳者はおもわず辞書を引き直すこと、しきりなのである。特殊浴場ついでにひとつ質問がありますが、「リップ・サーヴィス」という英語はそのまま片仮名で表記しても誤解される心配はないものなのでしょうか? だんだん不安になってきました。
[#地付き]本の雑誌40号 1985年2月
[#改ページ]
ヴェトナムのゴム判[#「ヴェトナムのゴム判」はゴシック体]
筑摩書房の森本さんはぼくとひょっこり顔を合わせることがあっても、「よろしくネ」としか言わなくなった。まずいなあ、と思いつつも、はあ、ぐらいしかぼくも言えず、サイゴン陥落からもう十年もたってしまったのか、と我が身の怠惰と無能を呪っている。
翻訳が遅れてるのである。メチャクチャ遅れてるのである。いったいどうなっちゃってるのかさっぱり分らない昨今のヴェトナム軍の動きと同様に(正反対に?)、森本さんと約束した翻訳が路頭に迷っている。モノはマイケル・ハーの『ディスパッチズ』。ジョン・ル・カレが「男と戦争について書かれた最高の本」と手放しで絶賛し、マリオ・プーゾが「凄い本だ。おれはノック・アウトされた」と率直に敗北宣言をしたヴェトナム戦記である。プーゾみたいなデブがノック・アウトされるぐらいだから、ぼくみたいなチャチな男がノック・アウトされ、完全にへばってしまうのは当然といえば当然なのだが、やっぱ、まずいことはまずい。なんとかせねば、と思いながらも、時は無情に流れ、セーヌ河も流れ、ぼくの恋も流れ、『ディア・ハンター』も終わり、『地獄の黙示録』も終わってしまった。思えば、ずいぶん昔、ぼくはのん気なことを森本さんに言ったものだった。
「『地獄の黙示録』も完成までなんだか手間取ってるみたいですね。この調子だと、公開といっしょに翻訳本もだせるかもしれませんよ」
なにが「公開といっしょ」だ! いまじゃもう『地獄の黙示録』は名画座ですらめったにかからなくなってしまったではないか。おお、恥ずかしい。筑摩書房そのものだって、翻訳の話が決まったときは倒産直後の注目の会社だったが、いまはみごとに立ち直った注目の会社へと変貌しているではないか。ああ、わなわなわな、ぼくは恥ずかしい。
翻訳の打ち合わせをしていた、いまは遠い昔のこと、森本さんはぼくにゴム判を一コ、進呈してくれた。ぼくがマイケル・ハーの文章の厄介さをとうとうとまくしたて、だからできないんですヨ、と泣き言を並べると、かれは、ヨシ、それならハンコを作りましょう、と言い、ぼくが、どうせ冗談だろ、と思ってるまもなく、一週間後にそのハンコが郵便で届いたのだった。きちんとハンコ屋に頼んで作られたらしいそのハンコは、「速達」なんかのハンコと同じ形の四角いゴム判だった。
「字間も原稿用紙にぴたりと合うように作らせますからね」
と森本さんは言っていたが(ぼくは本気にしてなかったが)、届いた新品のピッカピカのハンコはたしかに原稿用紙のます目にぴたりとはまった。
「オマンコ」
これがゴム判に刻まれていた文字である。シャチハタのスタンプ台で赤インクをつけてぺたりと押すと、このカタカナの四文字は赤々とまっさらな原稿用紙の上に輝いた。
「いただきました。凄いです。大変な迫力ですよ」
と電話で感動を伝えると、森本さんはなにごともなかったかのごとく、落ち着いた声で言った。
「それで準備は完了しましたね。さあ、始めてください」
しかし、始まらなかったのである。世にも稀なそんなハンコを持ってしまったのが嬉しくてたまらず、原稿用紙いっぱいに、アンディ・ウォーホルさながらに色ちがいでぺたぺたと押しまくり、うむ、アートだ! と遊んでばかりいた。手に馴染みすぎて、ときには「速達」のハンコと間違えて封筒に押したりもした。
なぜ、マイケル・ハーから「オマンコ」判が誕生してしまったかというと、fuck というアメリカ英語のせいである。この、いわゆる四文字言葉がハーの本に頻出するので、それじゃあというわけで、これが生まれた。いまこの言葉はアメリカではほとんど日常語化していて、お尻に ing のくっついた fucking に至っては、いろんな連中が呼吸のように発している。たいして意味もなく、ほとんど勢いみたいなものだ。だから、翻訳していてこの四文字言葉にでくわしたときも、よほどのことがないかぎりは、わざわざ訳さず、無視する、というか、なんらかのかたちで文章全体に勢いをつけ、それで訳したことにする。他の翻訳者の方々も、まあ、そんな具合に処理しているようだ。
だけど、ハーのヴェトナム戦記の場合はちょっとちがうのである。ハーの本のなかでこの言葉を発するのはもっぱら米兵たちだが、かれらにとってはこの言葉を使うのが、いうなれば、生きがいみたいなものになっている。元気回復剤みたいなものになっている。いまよりははるかにタブーの多かった一九六〇年代のことだから、この言葉を発するには少々勇気が要った。だからこそ、この言葉を発すると、「おれ、言っちゃったもんネ」というふうにみるみる元気がでた。そして、元気一杯になって戦闘に参加した。言葉そのものにほとんど意味がないのはいまと同じだが、それを口にすることには大きな意味があったというわけである。だから、それを訳したい、でもうまく訳せない、困った、困った、と愚痴をこぼしてたら、それじゃあ、ハンコを作りましょう、と森本さんが提案したのである。
「それがでてきたら機械的にぺたりと押していけばいい。ふむ。なかなかにおもしろい効果がでるかもしれないですよ。革命的な翻訳になるぞ、これは」
でも、まだ、革命的な翻訳は終わってないのである。さんざ待ちぼうけを喰わせている間に、「オマンコ」判の産みの親は中学校用国語教科書の編集で忙しくなり、ぼくもそれをいいことにして逃げまわっている。
ところで、筑摩書房版の国語教科書ってどういうものなんだろう? もしかしたら……と、一度のぞいてみたくてたまらない。「凄い教科書だ。おれはノック・アウトされた」とプーゾも腰を抜かすような本なのだろうか。
……はいッ、がんばります。コオマンな態度は捨てて、翻訳完成させます。
[#地付き]本の雑誌41号 1985年4月
そしていま、一九八六年末の現在……まだ完成していない。
さらにいま、一九九一年夏の現在、『ディスパッチズ』は筑摩書房からめでたく刊行されている……でも、訳者はぼくじゃないのね。いろいろあった。そうでもないか。ともかく、セラヴィだ、セラヴィ。ぜひ読んでください。
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おぞましい言葉[#「おぞましい言葉」はゴシック体]
まず、前回の原稿に事実の誤りがあったので訂正します。
誤→「オマンコ」判の産みの親は中[#「中」に傍点]学校用国語教科書の編集で忙しくなり……
正→「オマンコ」判の産みの親は高等[#「高等」に傍点]学校用国語教科書の編集で忙しくなり……
以上のように訂正しますので、御注意下さい。誤りの指摘者はモチロン「オマンコ」判の産みの親本人で、「筑摩でこっそり中学校の教科書を作ってるなんて文部省に思われたらえらいことになるからネ」とおっしゃってました。でも、「オマンコ」判と国語教科書が劇的に出会っているという事実にはまるで無自覚のようでしたから、やっぱ、筑摩の教科書はマリオ・プーゾも驚くようなものなのかもしれねえぞ。
ところで、今回は「オマンコ」じゃなく、「おぞましい」である。この言葉を見ただけで、「!」とくるヒトがいたら、翻訳について相当詳しいヒトだろう。翻訳を読んでてこの言葉を発見すると、ぼくはおもわずほほえましい気持になり、そのように訳した翻訳者に好感をもってしまうが、そのぐらい、この言葉はひとつのハカリになっている。誤訳とか悪訳を測るハカリではなく、翻訳者の日本語コンプレックスを測るハカリである。
およそ十年ほど前、ぼくのある翻訳をさる先生が見てくれた。その先生の下訳をやっていたわけじゃなく、先生がほとんど好意で、ぼくの訳を点検してくれたのである。原文の英語が難解な上に、ぼくの英語力も奇怪なので、先生は心配でたまらず、おまえ、英語、できないねえ、と毒舌を吐きつつ、そのくせいとも優しく熱心に見てくだすった。おまえ、これ、違うんじゃない、と言われると、ドキッとし、もとより英語には自信はないから、「ええまあ、多分、違うと思います」と謙虚に受けたし、じっさい違っていた。もちろん、内心ではカッカ来ていて、るせェ、るせェ、誤読してなにが悪いか、誤読こそ批評の出発点じゃないか、と意気がっていたが、先生が「うーむ」と唸るとビクッとして、あーあ、翻訳なんて損だなあ、とこっそり嘆いていた。
「あ。おまえもやってるのか! この、お、ぞ、ま、し、い」
とこの先生が言ったときが、ぼくの「おぞましい」体験の最初だった。
「おぞましい≠使いたがるやつがなぜか多いんだよ。これ、原語は××か△△だろう?」
「はい。△△です……ね」
「やっぱ、そうか。△△ねえ。なんでなんだろうね。なんでおぞましい≠ネのかねえ」
先生が言ってたことは、××とか△△という言葉がでてくるとおぞましい≠ニしか訳せない連中が多い、ということではなかった。おぞましい≠ニいう言葉を思い入れたっぷりに使いたがる翻訳者が多い、ということなのだった。この言葉を使うだけで日本語の深い味わいのなかに入りこんだと思い込む翻訳者が多い、ということだった。
「でもネ、おぞましい≠ヘおぞましいんだ。おまえもおぞましい≠チて使ってるが、これ、どういう意味?」
「ええ。なんつーか……おぞましいは……おぞましい」
「だろ? 分ってないんだよ。おぞましい≠ヘ気色悪い∞ケタクソ悪い=Bそれだけの意味だよ。なんかこう、ちょっと神秘的というか、霊的なニュアンスを感じるから使いたがる連中が多いが、おれに言わせりゃ、おぞましい≠ヘおぞましい≠フ。それだけ」
言われてみりゃもっともだった。辞書を引いてもたしかに先生の言ったような意味しかなかったのだが、そのときは、まだおぞましい≠ノこだわって、これを消そうとする先生の赤鉛筆に抵抗した。なんとなく、この言葉には気色悪い∞ケタクソ悪い≠超えるなにかがあるように思えたのである。
それからしばらく、他人の訳した翻訳を注意して読んでると、たしかに先生の言った通り、おぞましい≠ェ気色悪い≠竍ケタクソ悪い≠フ意味じゃない意味で使われている例にいくつもぶつかった。そのたびに、どうしてそうなるのかが不思議でたまらなかったし、そればかりか、いったん指摘されてしまったせいだろうか、おぞましい≠ェなんか浮き立って見えてしかたなく、心落ち着かなくなった。だから、自分から使うことはとてもできなくなり、ひょいとおぞましい≠ニでも書こうものなら、待てよ、とブレーキが働くようになった。そのうち、知らぬ間に使わなくなっていて、いまでは原語がなんだったか、××や△△が想いだせないぐらい、おぞましい≠ニは縁がなくなった。
多分、この言葉が翻訳者の心を惹くのは、なんとなくいかにも日本語っぽいからだろう。通人ぶった連中がよく言ってることだが、翻訳者たらんとする者は日本語を知るべし、という固定観念がすっかり普及していて、古文のひとつも読んだことのないぼくなど、それにびくびくしている。まあ、いいや、と居直っちゃうこともしょっちゅうだが、「日本語」ないしは「古語」という言葉はじつにじつに翻訳者を苦しめているのである。だから、そういう状況のなかに現われたおぞましい≠ヘ、
(1)なんか民俗的→古語っぽい
(2)なんか霊的→古語っぽい
(3)なんかよく分んない→古語っぽい
というようなわけで偏好されたし、されているのではないか。もっとも、流行というものもあったようなかんじで、ぼくの無責任な記憶では、おぞましい≠ェ一番流行していた時期は一九六八、九年から一九七五年頃までである。ちょうど中上健次のデビューの頃が、おぞましい≠フ絶頂期だったように思う。これ、関係なきにしもあらず、だろう。中上健次の小説っておぞましいネ。そんな言い方が、一時期、 &tきのおぞましいの意味で、あったように記憶している。なかったら、ごめんネ。
[#地付き]本の雑誌42号 1985年6月
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訳者不在と著者不在[#「訳者不在と著者不在」はゴシック体]
オリアーナ・ファラーチの『ひとりの男』はぼくはまだ読んでないが、本好きの信頼できる友人たちはみな口を揃えて、凄い、と言う。あれは凄い、あんな凄い本には初めて会った、という風に。もちろん、本の内容、壮絶なラブ・ストーリーのことを、友人たちは、凄い、と言っている。
でも、読んでないぼくも、この本は凄い、と思う。内容のことは言えるわけないから内容のことじゃなくて、本そのもの、造りというか体裁というかフォーマットというか、要するに見てくれのことを指して、ぼくは、凄い、と言っている。
カバーの表紙はクリーム色っぽい白。そしてその上に「オリアーナ・ファラーチ」とあり、「ひとりの男」とあり、ぼやーっと un uomo という原題が純白で描かれている。
背中は「ひとりの男」「オリアーナ・ファラーチ」「講談社」で、表紙同様に白地である。
裏表紙はほぼ全面がファラーチのモノクロの写真で、一番下の一センチほどの余白に「2253ISBN4―06―113307―IC0097*定価2900円」と小さな字がみみずのように這っている。
帯は、そもそもの初めから、なかった。だから、白い表紙の分厚い本(ページ数は五百三十六ページ)という印象がつよく、じっさい、この本が本屋に平積みされたときは、このあまりの素っ気なさがかえって目を惹いた。
しかし、凄い、とぼくがびっくりしたのはこのデザイン、この素っ気なさではなく、表紙のどこにも翻訳者の名前が銘記されてなかったことだ。訳者が望月紀子さんであるのを知るには本を手に取ってページをめくって扉まで到達するか、一気に進んで奥付けを見てしまうか、のどちらかしかない。どっちにしても、そりゃもう目立たぬよう、目立たぬよう小さな字で望月さんの名前は印刷してあるから、訳者のことなど気にしないヒトは気づかずに終わってしまうていのものだ。
おまけに、この本には、「訳者あとがき」なるものがなかった。いまどき日本で出版される翻訳書で「訳者あとがき」の付いてない本はハーレクインやシルエットのロマンス本ぐらいで、たいがい付いている。「訳者あとがき」を書きたいために翻訳するヒトもいるし、「訳者あとがき」を読めば本文の翻訳の程度が分ると断言する翻訳者の方もいるし、いずれにせよ、これは日本の翻訳書にはつきものなのである。ところが、それが『ひとりの男』にはまったくなかった。したがって、ファラーチの名前など見たことも聞いたこともないヒトは、普通だったら「訳者あとがき」が提供してくる情報――いつどこで生まれ、なにをして食ってきたかetc――がないので、ひたすらファラーチの巨大な写真をながめて、
「なーるほど、女か」
と納得するぐらいしかできないのである。訳者の望月さんは怠惰なのであろうか? そんなことはあるまい。怠惰な人間に8ポ二段組五百三十六ページの翻訳はできっこない。じゃあ、へばっちまったのか? かもしれませんなあ。
「あれはいったい何ですか?」
この本の凄さに驚いたので、あるとき、講談社の徳島さんに訊いた。この本を作ったヒトである。
徳島さんの話では、ああいう素っ気ない本にできあがったのは、ああいう素っ気ない本に仕上げよ、とファラーチ御自身が指令を下したからだった。原著がああいうかんじで(白地に文字だけ)、それをファラーチが気に入っていて、それゆえ、ああなった。
「原著のイメージを損うべからず。余計なものは一切付けるべからず。そう言われましてね。だから、訳者あとがきもなくなったし、訳者名も表紙から消した。ファラーチの方には日本の出版事情をいろいろ説明したんだがダメだった」
そんなようなことを徳島さんは言った。契約書を見せてもらったわけじゃないから詳しいところまでは知らないが、ファラーチのモノクロ写真を見てると、うん、なるほど頑固そうで、そのぐらいは言いそうではある。いやだっていったらいやなんです、あたくし……そんなかんじである。
でも、ファラーチの性格はともかくとして、日本の翻訳界の事情があちらさんになかなか分ってもらえないのは、事実のようだ。たしかにあちらでだされる翻訳書を見てても、「訳者あとがき」など付いてるのは「新発見未発表作品!」「発禁の書!!!」といった「!」がたくさんくっつくいわくつきのものか、古典中の古典か、のどっちかに決まってる。普通の翻訳書は前か後ろに簡単に著者紹介が載ってる程度で、翻訳者の名前が表紙に著者と並んで印刷されることは皆無に等しい。まして、著者の名前がまるでサブタイトルみたいに小さな文字で印刷されたりすることはない。
『シンデレラ・コンプレックス――コレット・ダウリング 木村治美著』
『夜になると鮭は……――レイモンド・カーヴァー 村上春樹著』
『かものファップは知っている――ジム・ダッジ 赤川次郎著』
こんな風にも誤解されかねない、というか誤解されることを計算した扱いかたは、まあ、あっちのヒトの翻訳常識では考えられないのだ。だから、ファラーチが望月さんの膨大な努力を無視してまで自己主張したのは、多分、その我の強さのせいだけではなかったろう。
宣伝にもなっちゃうけれど、もうじき翻訳がでる。モノはトム・ウルフの『そしてみんな軽くなった』で、一九七〇年代の風俗をネタにして、いやあ一九七〇年代ってのは大変な時代だったのだヨ! と講釈してくれる本だ。いろいろ固有名詞がでてくる。いろいろ説明の必要なイラストがでてくる。だから、できあがった本は翻訳というよりは翻案に近いものになった。
「翻訳書というよりはぼくが書いた本みたいになっちゃったネ」とぼくが言うと、
「よし。それじゃ、青山南《トム・ウルフ》著≠ニやろうか」
と大和書房の刈谷さんが言った。
そんな無茶な! トム・ウルフ、怒るでェ。
[#地付き]本の雑誌43号 1985年8月
そしていま、一九九一年夏の現在、刈谷さんは別な会社に、『そしてみんな軽くなった』はちくま文庫に、それぞれ移籍した。腰も、尻も、足も、みんな軽くなった。
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訳注の傾向と対策[#「訳注の傾向と対策」はゴシック体]
いまになってみて初めて名雑誌だったことが分る『ハッピーエンド通信』を加賀山弘さんが編集していた頃、毎号、最終ページで常盤新平さんと川本三郎さんとぼくと三人で小さな座談をやった。テーマは毎回ちがったが、だいたいは本の話で、いろいろとテーマを決めて、そのテーマに合った本について話した。そんなある日、三人のだれからともなく、「次回は訳注についてやりません?」という意見がでて、全員、乗った。「そう、そう。訳注はおもしろい。ときにはまるでデタラメなのもあったりして、それがおかしい。やりましょ、やりましょ。次回のテーマは訳注≠ナゆきましょ」。だけど、その次回となるべき号がとつぜんの休刊で出現せず、訳注≠ノついての井戸端会議も実現しなかった。
訳注は、たしかにおもしろい。ぼくは、かなり多くのことを、訳注を読むことで学んだ。たとえば、フランス語を習いたての高校生の頃は、米川正夫のドストエフスキーを読むのが好きだったが、それは小説の登場人物たちがフランス語を話す段になると、米川はフランス語をそのままの形で提出し、カッコのなかでそれを和訳してみせてたからである。これはフランス語入門者にはいい学習材料になった。
それから、ジャズを聴き始めた頃に読んだナット・ヘントフの『ジャズ・カントリー』。訳者の木島始が付けた訳注はそれ自体が立派なディスコグラフィになっていて、例えば、「ジョン・コルトレーン」という項目の注にはかれの代表的なレコードがレコード番号付きで紹介してあった。ジャズ喫茶にでかけるたびに、今日はこれを聴いたな、とぼくは鉛筆でチェックしていった。
あるいは、野村修がてがけたブレヒトの一連の詩集ならびにエッセイ。随所で野村が訳注の形を借りて展開するブレヒト賛歌はぼくの心を打ち、ぼくのブレヒトへの最良のパイロットとなった。一番好きなブレヒトの詩一篇は、なんと、野村が訳注のなかで引用していた一篇である。
あるいは……と、その他いくらでも、訳注への感謝は捧げることができる。簡潔に要領良くまとめられた訳注はそれだけですぐれた情報であり、百科事典の説明にも負けないものだ。訳注そのものが一つの作品になっている場合もあって、それは、ぼくにはあまり有難味はかんじられなかったが、渡辺一夫のラブレーなどはその一例ということになっている。訳注というものが日本独特のものかどうかはなんともいいがたいが、ときたまいろんな本の英訳をぱらぱら見ることがあってもあまり訳注らしきものにはぶつからないから、これはやはり海外文化の摂取に熱心な日本ならではの文化現象なのかもしれない。田中康夫の『なんとなく、クリスタル』や関川夏央の『ソウルの練習問題』の膨大な注も、ぼくには、訳注からヒントを得たものに思えてならない。
訳注のスタイルにもハヤリスタリがある。訳注のスタイルはだいたい二つあって、ひとつは文章の間にカッコでくくって注を挿入する割注。もうひとつは、文章の脇に番号を付けておいて、本の最後にまとめて注を置くやり方である。それぞれの長所と短所は次のようなものだ。
割注の場合[#「割注の場合」はゴシック体]――すぐに了解できるのは良い。しかし、長い注はいかにもわずらわしいかんじを与えるし、見た目にもきれいでない。ページの一部が悪性腫瘍におかされた風になる。
後注の場合[#「後注の場合」はゴシック体]――いちいちページをめくって参照しなければならないのが面倒。しかし、書きたいだけ書けるスペースがあるので、内容充実した注も多い。
ぼくの印象では、一九六〇年代から現在にかけて、本を作る側、つまり編集者たちの間での訳注にたいする気分の変化は次の図のようなものであった。
[#挿絵(img/fig2.jpg)]
割注がいいか、後注がいいか、と悩む編集者たちの気分の図である。六〇年代半ば頃まではだいたい割注が多かったのだが、六〇年代後半頃から後注が目立つようになり、七〇年代も半ばになってくると、「どっちも要らないかなあ……やっぱ、なんかあった方がいいかなあ」と思いまどい、現在の八〇年代はふたたび後注の方へ向かいだしているということである。
割注[#「割注」はゴシック体]――簡潔。詩的。
後注[#「後注」はゴシック体]――饒舌。散文的。
ふたつの注には上記のような性格があるので、図の注意識の変遷は時代相をそのまま映しとっていることは明瞭だろう。
以上が冗談で、以下はヨタ。割注と後注もひっくるめて、もろもろ思いついたことを列記してゆく。
(1)現在、訳注の一番充実している本は東南アジア関係のものである。井村文化事業社刊、勁草書房発売、というスタイルをとっている「東南アジアブックス」のシリーズものには、ばらつきはあるが、おおむね充実した注が多い。例えば、カムプーン・ブンタヴィーの『東北タイの子』という自伝的小説は、本文も最高だが、訳注も抜群に良い。本文を読みたくないひとには、訳注だけでも読むことをおすすめする。タイの歴史と生活と文化が、訳注を読了すると、頭のなかに入ってくる。「塩辛」とか「桶」とか「鯰」といったものに詳細なる注が付いている。「タイ風塩辛」「タイ風桶」「タイ風鯰」という具合にいい加減に片付けちゃいない。タイの文化に興味がなくとも、バンコクに買春ツアーにでかけるひとでも、この程度のタイへの知識は頭に入れとくのが礼儀だろう。
このシリーズでは、他にも、フィリピン、ビルマ、インドネシア等々があり、訳注はどれもまあいい。旅行ガイド・ブックを読むくらいなら、こちらの方がもっと役に立つ。たいがい後注のスタイルをとってるので、訳注ページだけを切り取ってでかけるのも一興。
(2)一番しらける訳注は、「これは言葉をシャレて使っている」と説明した注。ダジャレや言葉遊びが翻訳しにくいのは承知しているが、訳しあぐねた末に、こういう注が登場するのではあまりにお粗末。昨今の下手な漫才師や落語家の「ねえ、笑ってよ」みたいで、悲しい。もっとも、凝りに凝って訳しても読者が気がついてくれないケースもかなりあるので、これは、訳者のみならず、読者の頭の程度が低いのも一因になっているとはいえる。
(3)そうなのである。(2)に関連するが、読者の頭の程度が訳者にははっきりつかめないところから、「これは注を付けるべきか否か」という大問題がつねに訳者を悩ませる。永井淳のタンパックスの扱いにおおいに困ったという話はすでによく知られているが、
a タンパックスは読者はすでに知ってるのであろうか?
b わたしだけが知らなかったのであろうか?
c フィンガー・タイプとかobとか、こういう言葉も読者には説明不要だろうか?
d いっそ、アンネと訳してしまおうか?
といった悩みは訳者にはつきものなのだ。そして、いざ注をつけることに決めても、今度は「女性の生理用品」とするか、「女性の生理用品としてこれまではナプキンに黒のゴムパンツが主流だったが、これは、ひょいと挿入するだけで済む、便利な道具として歓迎された。ただし、ぶらりと下がったヒモを気色悪いという男性もいるし、また、入れっぱなしは不潔だと言う女性たちの不満もある」とするか、説明に困る。それにそもそも、「生理用品」という言葉自体、曖昧といえば曖昧である。
(4)最高に傑作な訳注は「不詳」。一生懸命に調べてみたけれど結局分りませんでした、ということなのだが、割注ならともかく(でもないが)、後注でこれにでくわすと、ページをめくった指の労力がもったいなくてたまらない。分んないなら書くな! とついどなりつけたくなるが、訳者の方の気持も分らないではない。一生懸命に翻訳やったんだヨ、お願い、認めて! という声が聞こえてくるのである。だから、「不詳」という簡潔な訳注は、じつは、訳者の切ない自己主張とみるべきである。
(5)立派、立派、あなたはガクがある、と思わせる訳注は、聖書の一句を引き合いにだしてくる注である。なんでもない(と無学な読者には思える)文章のつぎに突然カッコの割注が出現してきて、「ヨハネ伝三章八節」とやられると、驚く。こういうのにぶつかると、ぼくは、フム、この本はキリスト教的色合いの濃いものなのだな、と納得するが、それだけだ。今後はメタフィクションがどんどん登場するだろうから、いずれは「メルヴィル『白鯨』第五章」とかなにやかやと注もにぎやかになるだろう。うんざりである。
ぼくは注はあまりつけない。面倒くさいし、それに読者の頭の程度がよく分らないからだ。そのかわり、本文に組み入れる方法をとっている。でも、このやりかたにもおのずと限界があるので、一度本文より数倍も量の多い訳注を付けてみたい気がしている。
[#地付き]別冊・翻訳の世界「翻訳読本」 1985年10月
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江戸川橋の本の虫[#「江戸川橋の本の虫」はゴシック体]
埃りと排気ガスの江戸川橋の交差点から歩いて数分のところに、仕事部屋を借りた。さあ、働くでよッ、というガッツが噴出してきたからというよりは、シミと臭いの古本やら古雑誌に囲まれてるのがいやになり、そういうものとしばし別居したい、と考えたからである。なぜ、環境劣悪の地を選んだかといえば、自宅から近かったから。それだけだ。
江戸川橋は神田川をまたぐ橋だが、神田川のやや上流に長らく住んでいる友人が、神田川沿いに家を探すさいのポイントを話してくれた。ポイントはたったひとつ。
「一階はいけません」
すなわち、ひどい台風が来ると、神田川があふれるというわけで、じじつ、かれは、数年前、新宿で泥酔して帰ってくると、神田川がミシシッピ川に変貌しているのに呆然とした。早稲田から江戸川橋にかけての神田川沿いに暮そうとする場合、一階は鬼門なのである。
「ぴちぴち、ちゃぷちゃぷ、らんらんらんって歌も、台風の被害の現実を前にしたら、たまんないよ。あのときはじっさいにぴちぴちちゃぷちゃぷって家に帰ったけどネ、なんつーか、凄い酔いざましだったなあ」
だから、不動産屋で、条件は、と訊かれると、即座に、一階はダメ、と断わった。不動産屋は、江戸川橋あたりには不似合いなしゃれたカタカナ名前の店で「クロストン」といったが、社長が物件リストをぱらぱらめくってる間に店内を見まわしていたら、営業許可証に「石渡」という名前があった。石=ストン、渡る=クロス……なーるほど、それでクロストンか、と感心したが、「渡る」→「神田川を」→「流れの中」という連想が頭に浮かび、大丈夫かな、と少々心配になった。
江戸川橋の近辺にはこんな具合にかなりいいかげんに、というか、身近なところでちょいとひとひねりして名前を付けただけの店があるようで、仕事部屋のそばの定食屋の「ヨッチ」など、この典型だろう。「キッチン、ヨッチ」と看板がでていたので、ふーむ、韻を踏んでる、と感心しながらも、その由来はなんなんだろうと思いつつ、カレーを頼んだ。すぐ近くには「異邦人」という名前の喫茶店、「シロ」なるスナック、「宝来湯」という風呂屋があって、そういうなかでも、この「ヨッチ」という名前は、その素頓狂なひびきゆえ、がぜん光っていた。ところが、カレーを喰うぼくの耳に、とつぜん、
「ヨッチ! だめヨ! 手、洗いなさい!」
と怒鳴る声が聞こえ、キッチンの奥からマルコメ味噌、じゃなかった、坊主頭のガキがニコニコ笑いながら駆けだしてきた。そう、分ってみりゃ、なーんだ、なのだけれど、息子の愛称を拝借した名前だったのである。メニューには「ヨッチ・ライス(しょうが焼き)六百円」という一行もあったが、そういうのって、ヨッチ本人にはどんなかんじなんでしょうか。はて。
石を渡る不動産屋は、他に条件は、と訊ねてきたので、天井までの高さが二百三十センチ以上欲しい、と伝えた。本棚がその高さなので、それ以上なくては困るのである。目的は、という質問には、倉庫、というわけにもゆかないから、仕事部屋、と答えた。
「翻訳やってるんですよ」
「ほお。つまり、書くお仕事だ」
「それはそうだけど、べつに、閑静な場所を望んでるわけじゃありませんから」
「カ、ン、セ、イ……?」
「静かな……」
「ああ。閑静、ね……お客さん、あのね、ここは江戸川橋ですよ。江戸川橋に、閑静を求められても困るんだなあ」
「だから、閑静は望んでません」
「そうです。そうです」
そうなのだ。埃りと排気ガスの江戸川橋では、「閑静」は死語だった。そして結局、一階でないこと、天井までが二百三十センチ以上あること、という二つの条件をかろうじてクリアした部屋で手を打った。
まもなくして気づいたことだが、江戸川橋は埃りと排気ガスの交差点であるばかりか、出版関係の会社がひしめき合ってる地域だった。出版社もけっこうあるみたいだが、なによりも、印刷屋とか校正屋とか製本屋とか、要するに、本を一つのモノとしてあつかう業者たちがごっちゃりこんといた。製本屋に送られるべくスノコの上で待っている紙の山には書名がマジックで殴り書きしてあり、そういうのがいくつも路地の行く手をふさいでる姿を見ると、あーあ、本ってホント邪魔だなあ、と思えてくる。毎日、こういう紙の山を相手にしてフォークリフトをえんやこら動かしてるひとたちには、本はホント、ゴミみたいなもんだろ、と、実感される風景だ。
「本って、虫がいるからねー」
と、大家は言ったものだった。今度階下の部屋を借りることになりました、よろしくお願いしまーす、とあいさつにいき、家具といっても本ぐらいしかないんです、と言うと、そう応じたのだった。「本って重いからねー」といやな顔をする大家とか不動産屋には何人か会ったことがあるし、じじつ、重いのはこっちの悩みでもあるのだけれど、「虫がいるからねー」と言われたのは初めてだった。
「虫?」
「そう、虫」
「……よろしくお願いしまーす」
部屋に戻って古雑誌、古新聞の整理をしながら、虫について考えた。たしかに、いわゆる紙魚っつう虫はいるし、クモなんかもいたりするが、大家はそのことを言ってるのだろうか。紙魚とかクモが本の間に群棲していて、夜ともなると本棚からゾロゾロはいだしてくるとでも思ってるのだろうか。階上の自分の部屋にそれらが侵入してくるとでも心配してるのだろうか……
と、そこまで考えて、はッと気づいた。そうだ、あの大家、「本の虫」という言葉をきっと勘違いしてるんだゾ。「本の虫」を、あの大家は、文字通りの虫として理解している。だから、
「本って、虫がいるからねー」
と言ったにちがいない……本が、メタフォーじゃなくて、一コのモノとしてしか存在していない江戸川橋では、「本の虫」もまた、メタフォーにはなりえないということだ。江戸川橋には本の虫がいます。
[#地付き]本の雑誌44号 1985年10月
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ミス・グッバイを探して[#「ミス・グッバイを探して」はゴシック体]
あんたはネ、だいたい幸せすぎるヨ、こんなところで女房と飲んでられるなんて。
そんな言葉が発せられるのとほとんど同時に、ひゅッッッッと風が吹いて、頬に痛みが走った。
なんでぶたれなきゃいけないわけ? 夜の夜中に電話をかけてきて、「奥さんと一緒なのヨ、これから新宿にでてきなさい」と言ったのはそっちじゃありませんか。ぼかあ、べつにカミさんと飲みまわっちゃいませんよ。勝手だなあ。
ぼくは頬っぺたをさすりながら、小泉さんを見て、そんな言葉をぼそぼそと言った。小泉さんは、しかし、ぼくをぶった瞬間からぼくをぶったことなど忘れたかのような顔で、「それに比べると、モトテイは」と酒のグラスに話しかけていた。無視されてくやしいので、「痛かったですヨ」と少し声を大きくして言うと、「幸せなんだ。そのぐらいはがまんなさい!」と叱られたっけ。
「小泉喜美子さん[#「小泉喜美子さん」に傍線](こいずみ・きみこ、本名・杉山喜美子=すぎやま・きみこ、推理作家)
7日午前11時17分、外傷性硬膜下血腫(しゅ)のため東京都渋谷区の都立広尾病院で死去、51歳。自宅は東京都中央区明石町一―三―四〇八。告別式の日取り、喪主は未定。作品には『弁護側の証人』『ミステリーは私の香水』などのほか『ミスター・グッドバーを探して』など多数の翻訳がある。二日夜、東京・新宿のビルの階段から酔って転落、病院に収容されたが、意識不明の状態が続いていた」(日本経済新聞1985年11月8日朝刊)
小泉さんの突然の死は、新聞に載る一日前に知ったのだったが、階段から酔って転落≠ニいうところに小泉さんの無頼ぶりというか、粋さをかんじた。小泉さんと知り合っておよそ七年だが、その間に会ったのはせいぜい四、五回。それなのに、奇妙に親しみを覚えてきたのは深夜のゴールデン街でとつぜん、予告もなく、不条理に殴られるという第三次接近遭遇体験のせいというのが一番大きかった。殴られた後、ぼくとカミさんとその友人は酔いつぶれた小泉さんを赤坂の自宅まで送ってって、あの、知る人ぞ知る、エントロピー増大的ゴキブリホイホイ出前一丁風の部屋に足を踏みいれ、きれい好きなカミさんの友人がせっせと掃除に精出した。「いいわよお、片付けなくてもお」とぶつぶつ言いながら、小泉さんは寝てしまったっけ。
『早稲田文学』の編集の仕事をしていたとき、女から見た文学のなかの女≠ニいう特集企画をたて、そのなかに小泉さんに執筆してもらったのが、ぼくが小泉さんと出会った最初だった。真昼間に赤坂の自宅のそばの喫茶店に原稿をいただきにあがると、「ごめんなさいね」と言いながら、小泉さんはビールを飲んで、すすめられるままぼくも昼ビールとなった。小泉さんの原稿はクレイグ・ライスのヘレン・ジャスタス論で、ヘレンについて書きますヨ、と電話で前もって聞いていたので、ぼくは『大あたり殺人事件』と『大はずれ殺人事件』、それと『弁護側の証人』を読んでいった。ミステリーは昔も今も喰わず嫌いだから、『弁護側の証人』がミステリー通の間でどういう位置付けがされてるかはまるで知らないが、ぼくはいたく感心したので、ずいぶん熱狂して、小泉さんに感想を言った。多分、それにおおいに気を良くしたのだろう、小泉さんはばんばんビールを注文して(あっち産のビールだった)、初対面という事実もどっかに消えて、宴会になった。
『早稲田文学』ということで当然、早稲田が話題になり、いきおい、早稲田出身のモトテイが何度も話にでてきた。モトテイ≠ニは漢字に直すと元亭≠ナ、昔はミスター・ハードボイルド、現在はミスター・片翼のヒトだ。小泉さんのモトテイ固着症はつとに知られていたことで、ぼくも話には聞いていたが、じっさい目の前でモトテイ固着症を披露されると、対応に困った。なにしろモトテイ氏の本は一冊も読んだこともないし、はなから興味もないので、返事のしようがなかった。「モトテイはねー」なる語が発されるたびに、あー、とか、うー、とか言って逃げ、そうこうしてるうちに夕方になっていた。
小泉さんに、駈けだし翻訳者のぼくは、翻訳作法について訊いた。いや、作法というよりか、なにごとにつけ面倒臭がり屋のぼくは、翻訳の基本とされている「翻訳する前に最低三回は読みなさい」精神はホントにみんな実践してるんですか、と訊いたのだった。一回目はただの読書で、二回目はどう訳すかを考えながらの読書で、三回目は仕上げの読書、という三回読書はぼくには面倒臭いこときわまりなくて、せいぜい一・五回しか読まなかったからだ。
「読むもんですか。あたしは一回も読まずにぶっつけ本番よ。だって、読んじゃったらおもしろくないし、おもしろくなかったらどんどん訳していこうって気持になれないでしょ」
なんてバカなことを訊くの、というかんじの毅然たる口調だったが、ぼくの内心を察知したのか、
「三回読めってよく言うけどネ、そんなに読んでつまらなくならないのが、あたしに言わせりゃ不思議でならないわよ」
とも言い添えたっけ。しかし、である。「一回も読まずにぶっつけ本番で訳しますよ!」と言った翻訳者には、小泉喜美子以外、後にも先にも、会ったことがないのである。どんなに気さくな翻訳者も、「訳す前に読む?」と訊くと、一瞬「おっ」とした顔になって、「当たり前だよ。最低……まあ……二……そう、二回は読むな」と言うものだ。
一回も読まずにどうしておもしろいかどうかが分る? おもしろくなかったら訳していてもつまらないんじゃないか? そういう議論もあるだろう。だから、そういうことを考慮に入れると、小泉喜美子の「読まずに訳す」はスリリングで、無頼で、粋な冒険だったのだ。つまらなくてもおもしろがってみせる。おもしろくなるのを期待しつつひたすら前進する。小泉喜美子は翻訳という仕事を、無頼で粋な小泉喜美子的にやっていたのだった。
ところで、ハードボイルド小説は都市小説である、とかなり昔から言っていたのは、築地生まれのこの小泉さんである。「明石町に戻って来たわよ」。今年の夏、小泉さんはとつぜんぼくに電話をかけてきたものだった。でもさ、小泉さん、ぼくはなんでぶたれたんですか?
[#地付き]本の雑誌45号 1985年12月
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カタカナの魔術師[#「カタカナの魔術師」はゴシック体]
翻訳をやっていてわりあい気を使うのは、カタカナの使い方である。トムとかスージーとかシボレーとかベンツといった固有名詞はカタカナで表記するしかないから問題ないが、ごく普通の言葉が日本語に直しにくいとき、カタカナ表記でいっちゃおうか、日本語でごまかせないか、とおおいに迷う。カタカナを乱用しすぎるとファッション業界の得体の知れない怪文書みたいなものになってしまうし、かといって、なんでもかんでも日本語にしてたらどうしても変な文章になりかねないからだ。たとえば、
「パフォーマンス」
「アート」
「エンタテインメント」
いまでこそ、これらの言葉はかなりポピュラーになり、猫も杓子もパフォーマンスだ、アートだ、になってきたが、これはじつにこの数年間の急激な変化である。「エンタテインメントはエンタテイン[#「ン」に傍点]メントが正しく、エンタテイメントではない!」てな意見を武市好古さんが吐けるようになったのもここ数年間の大変化のおかげで、それ以前は「ン」があろうがなかろうが、そんな話題、しょせん「ん?」だった。
いまでもはっきりと覚えてるけれど、ジョン・レノンの『ビートルズ革命』の翻訳を初めて読んだ一九七〇年代の半ば頃、びっくり仰天した。というか、もっとはっきり言っちゃうと、「きったねえ!」と思った。ぼくはまだ翻訳の真似事を始めたばかりの頃で、どんな英語もぜんぶ訳しにくかったのではあるが、ぼくにとっての訳しにくい言葉リストのなかにあった「パフォーム」が、『ビートルズ革命』ではいとも軽々と処理されていたのである。
「私は自分がアーティストであることに憤慨していますし、そういうような意味では、なにも知らない馬鹿な人たちのためにパフォームすることに憤りを覚えます」
この訳文に「きったねえ!」と憤りを覚えちゃったのである。だって、そうでしょ、「パフォーム」をどう訳すべきか、いろいろ考えたりもしてるというのに、この本は、な、な、なんと、その言葉をそのままカタカナで書いてたのだ。まるで、
「私は自分がトランスレイターであることに憤慨していますし、そういうような意味では、なにも知らない馬鹿な人たちのためにトランスレイトすることに憤りを覚えます」
とでも言いたいかのような、それは軽業だった。念のために言っとくと、『ビートルズ革命』の翻訳の初版は一九七二年の春である。まだレノンも暗殺されていないし、アップル≠ニいったらビートルズのレコード会社のことであって、パソコンの会社の名前なんかじゃなかった頃だ。日本のどこを見渡しても、パフォーマンスのパの字もなかったし、『ポパイ』のポの字も創刊されてなかった。そういうときに、『ビートルズ革命』ではいけしゃあしゃあと「パフォーム」と翻訳されちゃってたのである。
いまあらためて『ビートルズ革命』を取りだしてぱらぱらと見ているが、驚異の軽業は「パフォーム」だけじゃなくて他にもあり、なんと、「イヴェント」が見つかった。こんな風にトランスレイトされている。
「私たちがイヴェントをやりはじめたのは、そのときからです。私は、ヨーコから、イヴェントをおそわりました。たしかに、私たちは、イヴェントをおこないましたね――それ以来、私たちは、なんでもイヴェントにしてしまい、それでかたづけてきました。(中略)つまり、私たちがイヴェントをやっていたころには、いつも、人々が私たちのイヴェントを、いまかいまかと待機しているようなところがあったのです」
またまた念のために言っときますが、「イヴェント」なる言葉がそこいらじゅうに月水金の生ゴミみたいに氾濫しだしたのもここ数年、せいぜい一九八〇年代に入ってからのことで、それ以前は「擬似イヴェント」といった社会学用語としてわずかに普及してただけである。だから、イヴェント満載の『ぴあ』なんかが創刊されるよりもずっとずっと昔の一九七二年に「イヴェント」が翻訳書のなかでこんなにもしつこく連呼されてたという事実は、よおく考えると、凄い、というか、恐しい。
では、当時の読者はそういうカタカナ言葉にとまどわなかったのだろうか? 意味が分らなくて苛立たなかったのだろうか? まあ、多分、なんとなく分ってたんじゃないか、とぼくは思う。いうまでもなく、文章を読むとき、われわれは単語を読んでるのではなく、文章全体を読んでるのだから、ひとつやふたつ聞き馴れない言葉があっても前後関係で分ってしまう。おそらく、『ビートルズ革命』の読者はそのようにして「イヴェント」や「パフォーム」をなんとなく理解していったのだと思う。
そうだとすると、というか、そうに決まっているが、そうなると、この本の翻訳者の芸当は第一級ということになる。なにしろ、あちらの言葉をカタカナのまま移入して、それをともかくも理解させてしまうのだから。いや、こういう芸はひょっとすると「翻訳」とは呼べないのかもしれない。少なくとも、「なんてったって翻訳は日本語が問題」を至上の美徳とする日本の「翻訳」風土では、とても「翻訳」と呼べるしろものではないだろう。
「片岡義男の翻訳は画期的だったヨ。あれはほとんど翻訳の革命だ」
翻訳家の小林宏明さんと話していたとき、ぼくとかれはこの点で話が一致した。酔っ払って話をしたときも、しらふで話したときも同様に一致したから、ほんとうに意見が一致したのである。小林さんは一度、片岡義男の翻訳を一語一句原文と照合してみたことがあるという。
「負けたネ」
とかれは言った。
『ビートルズ革命』の翻訳者は、片岡義男である。驚くのは、いまぱらぱらとめくっても、カタカナががぜん新鮮に見えることだ。ファッション業界のカタカナ怪文書の寿命の短さなど比較にならない。どういう配慮でこういうカタカナが訳語(!)として選ばれたのか、おおいに興味をそそる。結局は感性の問題なのだろうか。「おれはネ、片岡さんの感性を盗んでやろうと思ったことがあるんだ」と、そういえば、小林さんは言った。
[#地付き]本の雑誌46号 1986年2月
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ミスター・よしきた[#「ミスター・よしきた」はゴシック体]
本誌前号に無署名でつぎのような記事、というか意見が載っていた。大変な文章なので、長いけど全文を引用する。
☆翻訳本は訳しすぎなのではなかろうか。友人の一人は「YES」は訳してもらいたくないと言う。「イエ」か「イエップ」か「イエス・サー」か、どれも「ハイ」ではうかがい知れないニュアンスを伝えてくれるからと言うのだ。
そこまで極端ではないが「ミスター」なども一律に「さん」とはしてほしくない。そのまま「ミスター・ナニナニ」でいいのではないか。軽蔑で「ミスター」を使うことだってあるのだし。
ことに気になるのは食べ物である。「自家製詰物料理」と書かれてもなんだかわからない。「レバーウルスト」という名前のソーセージが「レバー入りソーセージ」、「バジリコ・ペースト」が「めぼうきのペースト」とわかりにくく訳されるのはどういうものか。
少なくとも食べ物、曲名と音楽用語、スポーツ用語などは訳さない方が通り良くなっているのだ。
どうです、大変な御意見でしょ? これは、突きつめると、翻訳者は翻訳するな! ということであって、ひたすらカタカナ書きに、発音表記に専念せよ! という御託宣なのだ。たしかに、「バジリコ・ペースト」が「めぼうきのペースト」じゃ、なんだか小型のほうき、畳の目詰まりをきれいに掃きとれるハンディでパワフルな新型ほうきを連想させて、なんのことやらまるで分らない。でも、この世には「バジリコ」と「トノコ」の区別のつかないひとだっているはずで、そういうひとにとっては「トノコのペースト」の方がすんなり来るってこともありうるわけです。えっと、トノコは砥の粉ですよ、念のため。
でも、匿名氏の御意見にはごもっともなところもあって、英語を習いたての中学一年のとき、pear を辞書で「西洋梨」と教わって、ぼくはいわくいいがたいショックを受けたものだ。なあんだ、そういうことなら、「西洋いちじく」とか「西洋甘夏」とか「西洋夏みかん」とか、要するに「西洋」を付けりゃあいいんじゃないか。たまには「アメリカ・ザボン」なんてのもあるかもしれないが、なあんだ、翻訳っていいかげんなもんだなあ。
いや、翻訳っていいかげんだなあ、と思ったのじゃなく、辞書っていいかげんだなあ、と思ったのである。
「イエ」とか「イエップ」とか「イエス・サー」のニュアンスの微妙なちがいについての匿名氏の言及だが、正直言って、こういうインテリ読者は嫌いだ。だいたい「イエップ」なんて言葉を知ってるなら、はじめっから原書で読みなさい、原書で。ニュアンスまで分っちゃうぐらいなら、なおさら、危っかしい翻訳書なんぞ相手にしなけりゃいい。常日頃から不快かつ不思議な気分でながめている本屋の風景なのだが、ある本が、たとえば『アイアコッカ』の翻訳がベストセラーになると、それに合わせて洋書店だけじゃなく一般書店にも『アイアコッカ』の原書が平積みにされたりする。あれはなんなんですか。
(1)翻訳を読んでから読むため?
(2)翻訳を読みながら読むため?
このふたつのいずれでもないことを願うばかりである。まあ、このふたつのいずれかであるとすれば、それはいわゆる訳本≠ネしでは成立しないかのごとき、あの、ぶったらけた大学の英語の授業の気分から脱皮していないということだ。ああ、やだやだ。
ひとから聞いた話で、未確認情報だが、「YES」をいろいろ訳し分けている翻訳書もあるそうだ。
「よしきた」
「がってん承知の助」
「がってんだ」
てな具合らしいのだが、あまりにも大胆な訳しかたで、初めてこの話を聞いたときは耳を疑ぐった。まるで一心太助じゃないですか、と言うと、その情報提供者も、そうなんだよねえ、でも、本当なの、とおもしろがっていた。もっとも、よくよく聞いてみると、かなり古い時期の(といっても第二次大戦後です)翻訳書のようで、なあるほど、昔だから可能だったわけね、と納得した。いま「がってん承知の助」なんて訳そうものなら、読者の目にふれる前に、まず編集者のチェックの段階で叱られるのは目に見えていて、「ふざけちゃ困ります」と軽く却下されてしまうだろう。言葉遊びの本とかパロディの本といった場合なら容認されることもあるだろうけれど、それ以外はまず無理だ。
匿名氏が挙げていたもうひとつ、「ミスター」については、おっしゃる通りだ。でも、敢えて文句をつけるとすれば、「軽蔑で『ミスター』を使うことだってある」ように、軽蔑で「さん」を使うことだってあるわけだから、結局は同じことじゃありません? まあ、ミスター・チャーリーとかミスター・ジョーンズといった、ほとんど普通名詞化してるような場合は「さん」ではおかしいですけどね。
翻訳本は訳しすぎなのではなかろうか、という御意見は、思うに、逐語訳はやめよ、というのが真意なのだろう。「YES」が目に入ったら「はい」と書き、「ミスター」とあったら「さん」と片付けてゆく、そのオートマチック的なやりかたが気に入らんということだろう。それはよく分る。翻訳をやっていて、「と言った」と訳していくとき、ああオートマチックだなあ、と悲しくなることしきりだ。「と言った」「と言った」「と言った」「と言った」とたてつづけにオートマチック銃を連発するときなど、これじゃコメディになっちゃうと心配になったりもする。だけど、つい逐語訳に走ってしまうのは、一語たりとも訳し忘れてはいけないという恐怖のようなものが、翻訳する人間にはつきまとうからである。脱字ならぬ脱訳は、心配すればキリがないだけに、始末の悪い悩みのタネなのだ。なにしろ、ほれ、翻訳を読みながら原書を読むひとたちもいるわけでしょ、そういうひとたちに脱訳を見つけられたら、たまりませんもの。
ミスター匿名氏。以上は愚痴でありまして、言い掛かりではありません。反論なんかしないで下さいね。
[#地付き]本の雑誌47号 1986年4月
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長谷川四郎の教え[#「長谷川四郎の教え」はゴシック体]
いつだったか、多分昔の『宝島』で、長谷川四郎が片岡義男に、ミカン箱二ケを前にして、おしゃべりしていた。
「これだけ。これだけ」
蔵書はこれだけ、という意味のこれだけ≠ナある。もしかすると三ケか四ケだったかもしれないが、十ケはなかったように思う。引越しをするたびに本を処分するようにしているそうで、どんなにたくさんの蔵書があっても、ミカン箱二ケ(あるいは三ケか四ケ)に収まるまで片付け、収まったところで引越してゆくという。
ふーん、と感心したのを覚えている。おのが蔵書が増えてゆく一方だったし、しかもそのほとんどは積ん読だったので、当時、長谷川四郎のこれだけ#ュ言はぼくには大変な衝撃だった。なにしろ長谷川四郎といや、知的風来坊の権化で、いろんなことを知ってるばかりか、ロルカを訳したり、ブレヒトを訳したり、その他なんでも気に入っちゃえば翻訳しちゃうという、いうなれば翻訳の怪物で、「いやあ、きみ、スペイン語が分ったら、ロルカなんか訳せんヨ。アッハッハッハ」と豪快に笑いとばすヒトだった。面識はなかったからいまの言葉は人伝てに聞いたものだが、間違いはないはずだ。植草甚一も、どこかの文章で、長谷川四郎はエライ、スペイン語を知らずしてロルカを訳すのだから、と書いていたように思う。(ロルカはスペイン語で詩を書いていました。念のため)
長谷川四郎は、多分、ロシア語からの翻訳もやっていた。そしてもちろん英語もやっていた。そのほとんどは詩の翻訳で、怪物自身も、詩は短いからできるのだヨ、と言ったことがある。短けりゃどんな国の言葉でも日本語に翻訳できまっせ、とでも言いたげな口調で、俳句でもひねるような気分で縁側で翻訳している姿が目に浮かんだ。
それにしても、ミカン箱二ケ、は凄い。いや、それを言うなら、ミカン箱二ケにまとめてしまう心意気があるからこそ、どんなものだって翻訳できるということなのかもしれない。当時ぼくは一日に三行か四行しか訳さない、いやちがった、訳せない孤高の翻訳者で、翻訳者の使命なるものを真剣に考えていた。じっさいに鉛筆をもって翻訳している時間よりも、「使命……」と沈思黙考している時間の方が長く、省察に疲れるとゴロリと横になり、気がつくと夕方になっていた。スーパーにでかけて夕食の材料を買ってきて流しに立っていると、同居人の女性が会社から戻ってきて、ちらりと机の上の原書に目をやり、
「なによ。朝とおんなじページじゃない!」
と言ったものだ。おんなじページでなにが悪いか、四行進んだのだから進んだことには変わりないではないか、と孤高の人物らしく反論したかったが、相手がいつも機先を制した。
「昨日もおとといもその前の日もずっとずっとおんなじページよ!」
ひとの仕事をのぞき見する態度には頭に来たが、よくよく考えると「これが仕事?」と懐疑的にならざるをえないところもあり、
「まあ、一生懸命やってるんだけどネ」
と甘い声で言い、
「なにしろ、英語、できないから」
と卑屈にでた。しかし、そんなことを言っても「できないのは今日に始まったことじゃないんだし」と理論的に打ち負かされ、ぼくは、チクショー、本にはなんでページ数なんか印刷してあるのだ! と八つ当たりした。
そういう苦悶の真只中にいるときに、長谷川四郎が、
「これだけ。これだけ」
と発言し、
「スペイン語が分ったら、ロルカなんて訳せんヨ。アッハッハッハ」
と笑ってみせたのだから、衝撃だったのだ。長谷川四郎はどのぐらいできないんだろう、どのぐらいできないと翻訳ができるのだろう、と考えたが、答えはでるわけもなかった。当時、やはり人伝てに聞いた話だったが、ぼくのお気に入りのある翻訳家の口癖も「英語ができたら翻訳なんかできません」というもので、「どのくらいできないとできるのか?」という謎めいた疑問はわりと真剣に考えた。もしかしたらおれは英語ができて、だから、翻訳ができないんじゃないか、とも一回だけ考えたことがあるが、あくまでも一回だけである。その程度の分別はある。
「翻訳上の問題について最後に二つ。まず、正確さについては、今後、さらに慎重さを要するように思われる。また、いっさい注を省くというのは一つの見識ではあるが、ボルシチ・ベルトのようなふつうの英語辞典にはでていないイーディッシュ語、ホレーショ・アルジャーのようなアメリカ人なら特別な連想をもつ固有名詞には、説明があってもよかったのではあるまいか」
よし、翻訳家になれそうだ、と思ったのは、翻訳家の使命を考えつつ、一日に三、四行ずつ訳した本が、右に引いたような書評で迎えられたときだった。掲載誌は天下の『朝日ジャーナル』(筑紫以前の)で、評者も天下の東大助教授だったから、条件は悪くない。はじめに読んだときは「さらに慎重さを要する」「一つの見識ではあるが」に引っかかって目の前が一瞬暗くなったが、しだいに明るくなってくると、「さらに慎重さを要する」ってことは、要するに、「わりあい慎重にやってる」ってことで、「一つの見識ではあるが」ってのは、要するに、「それなりの見識の持主である」ってことなのだ、と強引に理解し直していた。というか、翻訳していた。
その東大助教授は、ぼくの翻訳がよほど気に入ったのか、別の雑誌のなにかの放談の場で、ぼくの訳を今度は、
「悪達者」
と言っていた。これには、正直、一瞬どころか一日近く、目の前が暗くなったが、明るくなってきたときにはぼくは、
「※[#「悪」に「×」]達者」
と読み直していた。悪達者も達者のひとつだわい、と自分を激励してるうちに、ぼくの英語力は翻訳するのにちょうどいい程度の力なのではあるまいか、と考えていた。もうすこしで長谷川四郎になれるぞ、とも。
長谷川四郎のロルカ訳は最高です。
[#地付き]本の雑誌48号 1986年6月
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フォークナーを食う[#「フォークナーを食う」はゴシック体]
ロサンジェルスのヴェニス・ビーチで、ティモシー・リアリーを食った。リアリーといっても知らないヒトもどっさりいるだろうが、一九六〇年代後半のサイケデリック・キングで、LSDは世界を変える、と主張かつみずから実践し、ハーヴァードから叩きだされた御仁だ。いまはコンピュータ・ゲームのデザイナーをやって食ってるらしいのだが、ぼくはそいつをヴェニス・ビーチで食った。うまくもなんともなかった。
カート・ヴォネガットを食うことも可能だったのだが、前に一回インタヴューでお会いしたこともあったので少々気がひけ、やめた。マルセル・プルーストもメニューには載っていたが、なんだかいつまでも食い終えられそうになかったので、急ぐ旅行者としては遠慮した。ジェーン・フォンダもあったけれど、どうも『獲物の分け前』ないしは『バーバレラ』風味じゃなくて『チャイナ・シンドローム』風味のようなので、頭はともかく、ぼくの舌がいやがった。
ヴェニス・ビーチのいかにもカリフォルニア・ドリーミング的な風景をながめながら、ガイドブックに書いてあったヴェニス名物の巨大壁画を探しているうちにお昼になり、じゃあ、飯でも食おうかな、とビーチの真ん前にあるサイドウォーク・カフェという名前のレストランに入ったのだった。ローラースケートをはいたウェイターがやって来て、「ハウメニー?」と訊き、「ツー」と答えると、「OK、カモン」と言ってテーブルまで案内し、ほれッとばかりにでかいメニューを置いていった。それがなんとも文学的な、というか本屋的な構造のメニューだったのである。
まずオムレツの項は「偉大なアメリカ・オムレツ」という名前になっていて、そこに並んでたのはエミリー・ディッキンソン、ウィリアム・フォークナー、ウォルト・ホイットマン、ガートルード・スタイン、ジャック・ケルアック、カルロス・カスタネダ、ジョージア・オキーフ、マーク・トウェインetcである。そしてフォークナーはハムで、スタインはほうれん草で、マーク・トウェインはベーコン&クリーム・チーズ&黒オリーブであることが併記してあった。
ティモシー・リアリーやヴォネガットが並んでたのは「当店ベストセラー」という名前の項目のところで、他にはパブロ・ネルーダ、チャールズ・ディケンズ、ディラン・トマス、ジェームズ・ミッチェナー、ハロルド・ロビンズ、フェデリコ・フェリーニetcがいた。どういう内容かというと、
カート・ヴォネガット――チーズバーガー、チリ・ソースとオニオン添え
マルセル・プルースト――ハンバーガー、ハムとスイス・チーズ添え
ハロルド・ロビンズ――チーズバーガー、特製チリ・ソースとアボカド添え
フェデリコ・フェリーニ――ハンバーガー、イタリア・チーズとミート・ソースと黒オリーブ添え
ティモシー・リアリー――チーズバーガー、マッシュルーム炒めとアボカド添え
そしてサンドウィッチの項目は「サンドウィッチの本棚」となっていて、そこにいた作家はマリオ・プーゾただひとりで(フランス・パンにイタリア・チーズとサラミとオニオンとトマトとイタリアン・ドレッシング)、あとは画家のルーベンス(ライ麦パンにコンビーフとスイス・チーズとザウアクラウト)がいたぐらい。その他は「百科辞典」とか「類語辞典」とか「図書館」とか「三部作」とか、普通名詞の行列だった。
ティモシー・リアリーを食いつつメニューをながめながら、ぼくは、フォークナーがなぜハムで、ホイットマンがなぜベーコンで、スタインはどうしてほうれん草なのか、をおのが文学的教養を四輪駆動させて懸命に考えた。もとより文学史には弱いうえに、大学院の授業をさぼりつづけていた身ではあったが、皆目見当がつかないのにはほとほと頭に来た。もっとも自分の食ってる「チーズバーガー、マッシュルーム炒めとアボカド添え」の「ティモシー・リアリー」は分らないわけでもなく、リアリー→LSD→幻覚→マッシュルームという図式なのであろう、と理解した。
しかしそのうち、リアリーをたいらげて南カリフォルニアの風の吹くヴェニス・ビーチをながめ、バカでかいラジカセのバカでかい音楽を聞くともなく聞いてるうちに、こいつら、なにも分ってないんじゃないのかなあ、という気持になってきた。こいつら、とは、ヴォネガットのチーズバーガーやスタインのオムレツにぱくついてるよく陽焼けした連中だ。なにしろ、カリフォルニアのサーファーやヒッピーは本を読まない、というのが昔からの定説なのだから、そんな連中にフォークナーがなぜハムなのか、分るわけがない。分ってたまるか。一年間、大学院のゼミでフォークナーをみっちり読まされたぼくにも解けない難問が、あっぱらぱあのサーファーどもに分ってたまるものか……とまあ、そこまでむきにはならないまでも、そう思ったのである。ともかくメニューを土産にもらうと勘定を済ませて、退散した。
そのとき、レストランの脇に「ブック」という字の入った看板が目に入った。しかし、ここは本とは縁のないヴェニス・ビーチなのだから、この「ブック」も、ラスヴェガスの街に多く見られる「ブック」の看板同様、競馬賭博かスポーツ賭博のノミヤかなんかだろうと思い、無視しかけたが、万が一と思ってのぞくと、これはまたなんとも品の良い本屋だった。スモール・ワールド・ブックスという名前で、文学書中心のなんとも落ち着いた店だったのである。そして驚いたことには、あっぱらぱあであるはずのサーファー・ガールが水着の裸足姿で床にすわり、本を読んでいた。ヴェニス・ビーチのカリフォルニア・ガールは本など読まないはずなのに、である。この娘はひょっとするとフォークナーがどうしてハムなのかを知ってるかもしれないぞ、とも思ったが、「ハムが好物だったのよ。エッ、知らないのお」と言われたらくやしいので、彼女をちらちらながめながら、ぼくはフォークナーの著作の並ぶ書棚の方に向かった。
それにしても、あのマドレーヌの優雅なマルセル・プルーストをハンバーガーにしちゃうなんて、凄い話だ。
[#地付き]本の雑誌49号 1986年8月
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アコガレの英会話の先生[#「アコガレの英会話の先生」はゴシック体]
英会話は日本の大衆文化である、と喝破したのは富岡多恵子だが、最近またしても英会話熱が蔓延しているようだ。こないだ読んだ新聞にも、某商社では二人一組で街角の外人に話しかけるのを義務にしている、という記事がでていて、凄いもんだとおどろいた。二人一組≠ニいうところがいかにもリアルで、ニッポン人だなあ、と呆れると同時に、かわいそうに、相互監視か、と気の毒にもおもえた。
二人一組の外人アタック、にはぼくにも覚えがある。なにを隠そう、高校時代、ぼくはそこそこに熱心な英会話少年で、英語を外人と話す機会があるならどこへでも出かけていった。というか、どこへでも出かけていくかなり熱心な友人たちに誘いだされて、その結果、あちこちへおもむくことになった。
高校生の分際で有楽町の外国人記者クラブに出かけていき、シカゴの新聞の特派員に昼飯をおごってもらったのも、英会話のためである。なんか用事があったのかも、なにか訊きたいことがあったのかもしれないが、まあ、主な目的は英会話だ。目の前に外人がいて、そいつと言葉を交わし、一言でも二言でも自分の言ったことが通じれば、ないしは相手の言ったことが分れば、「やった!」なのである。
池袋に英会話喫茶ができたと聞けば、そこにも出かけていった。「いつでもアメリカ人が話相手になります」というのが売りのその喫茶店はなんだか薄暗くて、お客はぼくら二人だけ。窓らしい窓もないし、テーブルもちゃちで、カーテンもどこか汚れていて、ぼくらは、ヤバイ! と思ったものだ。「帰ろうか?」「どうする?」とつぶやき合ってるうちにようやく「お待たせ!」とばかりに外人が登場したが、あの構図は、いま思うと、風俗営業のそれである。なーるほど、英会話は立派に大衆文化である。
朝霞のグランド・ハイツとかいうところにも、英会話を求めて出かけていった。米兵の家族たちが群れ固まって暮しているそこは、年に一回、お祭りみたいなのを催し、そのときは日本国民の立ち入りも歓迎となっていた。西武線か東上線の最寄駅からバスでそこへ向かうと、バスの中は同好の士で満員で、みながみな、「よっし! 英会話だ!」と張り切ってるのが一目瞭然だった。ふだんは日本国民を閉め出しているはずの金網の柵も、その日は大きく門が開いていて、一歩中に入ると、なんとも美しい緑の芝生……
特別割引のコーラを飲みつつ、ぼくらは外人を物色したものである。あそこでポプコーンを食べてる女のコに話しかけようか、あのバスケット・シューズの女のコにしようか、こっちへ歩いてくる水玉スカートのあのコにしようか……しかし、いざ出陣の段になると、「でもさ、ハウアーユーかな。やっぱ、ハーイ、じゃないの」といった根源的な疑問で意志薄弱になり、討論しているうちに機会を逸した。まあ、日本語ででもろくに女の子に声を掛けたことないんだもの、しょせん無理な話なのである。結局、朝霞の緑の芝生でぼくらが英会話した相手はいかにも生意気そうなガキンチョ二人だけだった。「ハーイ!」とぼくらがニコッとして声を掛けると、そのガキタレ二名は「なんだよ?」(ホワット)と応じやがった。
これらの話はぜんぶ一九六〇年代半ばのことで、あの頃はいわゆる会話学校はそんなに多くなかったように思う。四谷の日米会話学院がその名を轟かせていて、ぼくも、通おうかなと思いつつ、入学のための試験があると聞いてやめた記憶がある。それと比べると、いまは凄い。英会話という大衆文化がさらにいっそう大衆化したのか、はたまた分衆化したのか、やたらに増えている。普通の新聞雑誌でもその気配はかんじとれるが、いわゆる英語雑誌の類いを見ると、その膨大な数に腰を抜かす。宣伝もあの手この手で、いかにも過当競争である。
それらの広告ラッシュのなかで、ぼくがひそかに心を寄せている広告がある。「ジャニス先生」だ。「!」と思ったひとがいるとしたら、そのひとはかなりの大衆文化としての英会話£ハと言えるが、一般の新聞雑誌にもわりあい頻繁に登場する広告だから、言われれば知ってるひとも少なくはあるまい。しかし、ぼくほど、この広告に関心を持ちつづけてきた人間は(当の会話学校関係者を除くと)いるまい、と自負している。
この広告は、宣伝文句等はたいして珍しくない。「予約なしでいつでも学べるフリータイム制」とか「中途挫折の心配は全くない独特の方式」とか「従来の学習方法の三倍のスピード上達」とか、惹句は、ああ、そうですか、の類いである。しかし、この広告には、ひとつ、英会話学校広告史上、画期的な点があり、それが「ジャニス先生」なのである。
つまり、この学校の広告にはかならずブロンドのロングヘアの若い女性の写真が添えてあり、それには「ジャニス先生」とキャプションが付いているのだ。たしかに、これまでも、英会話学校の広告にはかならずといっていいぐらい、外人のニコニコ顔やローラースケートを楽しむ外人のサーファー・ギャルや外人学生がたむろするどこかのキャンパスの風景の写真が付いていたものだが、それらの写真はイメージ写真の域を越えず、「さあ外人だぞお!」とあおってるだけだった。そこに初めて「ジャニス先生」と具体的な名前のついた写真が登場したのである。これは画期的だ。
それに、この学校の宣伝文句には、つぎのような一文もあるのである――「一人の生徒を六名の講師が指導する独特の個人レッスン方式を開発!!」なんだとお……ブロンドが六人、寄ってたかって、だとお……そのように早トチリする英会話中年もいないとは言えない。
この広告を熱心に観察していたぼくだからこそ言えることだが、ほんの短期間、「レベッカ先生」も広告に姿を見せた。彼女は「ジャニス先生」とはまたちがうタイプの美人で、その広告を見たときは、この後は「キャサリン先生」「スカーレット先生」……と続くのだろうかとも期待したが、あいにくとそうはならず、その後は「ジャニス先生」の続投となった。最近は、この広告を見るたびに「ジャニス先生、御苦労さま」とぼくは声を掛けるようになっている。ホント、出ずっぱりなんだもの、気の毒だヨ。
それにしても、「レベッカ先生」のことを覚えてるのは多分ぼくぐらいだろう。さきほどの自負表明は、それゆえである。
[#地付き]本の雑誌50号 1986年10月
そしていま、一九九一年夏の現在、この学校の広告から「ジャニス先生」の姿は消えた。代わって登場したのは、またちがうタイプの美人の「クリスティン先生」。今度は「(ケンブリッジ大卒)」という肩書までついている。英会話学校も、顔(だけ)じゃない、学歴だ、の時代になってきたんだろうか。
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終りを待ちながら[#「終りを待ちながら」はゴシック体]
レスリー・フィードラーの『フリークス』の翻訳がでた。おかげで長らく積ん読にしておいた原書の方は読まずに済みそうになったので、いま、本棚の奥からそれを引っぱりだしてきて、ながめている。この本のソフトカバー版はペンギンからもでたはずだが、ぼくの持ってるのはアメリカのサイモン&シュスター社のタッチストーン・ブック・シリーズの一冊で、表紙がとてもいい。ガリヴァーのような男が腰に手を当ててドアの脇に立っていると、カスパー・ハウザーのような少年がドアから入ってきて、「あッ!」とばかりにガリヴァー男を見上げているのだ。この対照がいい。
裏表紙にはフィードラーの紹介があり、『タイム』にはつぎのように書いてあった、と引用してあった。
「アメリカの文芸・社会批評界をフリチンで泳ぐ勇敢な男」
へえ、『タイム』って意外と凄いことを平気で言っちゃうもんだなあ、と感心したが、「フリチンで泳ぐ」とは、この場合、余計な知識と情報に身を固めていないという意味で、批評界のやんちゃ坊主ということだろう。そういえば、フィードラーのことを、「サムライ」と呼んだ批評文を昔に読んだ記憶もある。サムライなら「アメリカの文芸・社会批評界を赤フン一丁で泳ぐ勇敢な男」でもいいのかもしれない。
表紙のガリヴァーの男の横には『フリークス』の評判も書いてあったが、ハードカバーでなくペーパーバックだとそういう情報がやたら詰まっていてありがたい。ハードカバーで出たときの書評等の反響が誇大宣伝的に引用されていて、本選びのいいガイドになる。
ガリヴァー男の脇には『ニューヨーク・タイムズ・ブック・レヴュー』の書評の一部が載っていた。
「『アメリカ小説における愛と死』以来のフィードラーの最高傑作」
これを見たとき、ぼくは、表紙のカスパー・ハウザー少年みたいに、「あッ!」と叫んだ。はるかにもっと長いはずの書評文のなかからたったこれだけを引用してしまう図々しさにおどろいたのではなく(それにはすっかり慣れた)、『アメリカ小説における愛と死』の翻訳書はどうなってしまってるのだろうな、と思いだしたのである。あれはいったいどうなっちまったんだろう。
なんのことだかちんぷんかんぷんのひとが圧倒的多数だろうから、すこし説明をする。
いまから十五年ほど前の、遠い遠い昔のことだ。『フォーカス』なんつうけったいな写真週刊誌などまだだしてなくて、けったいさはせいぜい『週刊新潮』程度にとどめていた文芸出版の新潮社が、レスリー・フィードラーの著作の翻訳をたてつづけにだした。
『終りを待ちながら――アメリカ文学の原型U』
『消えゆくアメリカ人の帰還――アメリカ文学の原型V』
この二冊だ。両方ともフリチンのサムライの勇敢さと大胆さとはったりに満ちあふれた快著で、翻訳があるならなるたけ翻訳で読むことを旨としていた若きアメリカ小説好きのぼくは、ありがてエ、とばかりに買い求めたものだ。この二冊の原書はたいして厚いものではなくてむしろ薄いが、でも、なんてったって翻訳の方が速く読めるものね。
さて、敏感なひとはとっくに気づいたろうけれど、新潮社のフィードラーの二著はかれの「アメリカ文学の原型」と題されたひとつながりの研究のUとVなのである。つまり、Tの翻訳の刊行が後回しにされて、UとVが先にでたという恰好だ。そして、その「T」こそ、十五年たったいまもなお未刊行の『アメリカ小説における愛と死』なのである。
『消えゆくアメリカ人の帰還』の翻訳本の渥美昭夫氏の「解説」にはつぎのようにある。
「本書はレスリー・A・フィードラーの三部作から成るアメリカ文学論ないし文学的文明批評『アメリカ小説における愛と死』(1960:改訂版 1966)、『終りを待ちながら』(1964)、『消えゆくアメリカ人の帰還』(1968)の第三部にあたり、完結篇である。(もっとも、三部作といっても、これらの三冊はそれぞれに独立したテーマをあつかっているので、これだけ切りはなして読むことも十分に可能である)著者のフィードラーはユダヤ系の批評家として、現在、アメリカの文壇で大活躍をしているが、この三部作はこれまでのところ、彼の代表作であるといってよい。彼自身はこれを『文学的人類学』とよんでいるが、一般の文学論とは、けたはずれに異なるなにものかであることは一読して明らかであろう。」
さあ、どうだろう。もしも『消えゆくアメリカ人の帰還』の翻訳本を古本屋でなにげなく手にとっただれかがこの解説を読んだらどのように思うだろうか。そうです、三冊ともぜんぶ翻訳されていると思うはずである。もしそのだれかがフィードラーに魅了されて三部作ぜんぶの翻訳を揃えようとしたら、ホント、そりゃもう悲惨なものですよ。遠い遠い遠い昔、ぼくは書肆パトリアというところから出たラルフ・エリスンの『見えない人間T』を古本屋で手に入れた後、Uを探したが、ついぞ見つからなかった。後でひとに聞いたところでは、なんのことはない、その出版社はつぶれていて、Uはついに刊行されずに終わったということだった。フィードラーの三部作にもそういう犠牲者がでてくるかもしれない。もうでてるかな。
後世のそういう探索者の心をかき乱すにちがいない本は他にもどっさりある。ぼくが気になってるところでは、エッと――
(1)冨山房の『フォークナー全集』は完結したんだろうか?
(2)岩波文庫の新訳ドス・パソス『USA』は完結したんだろうか?
(3)晶文社の『パヴェーゼ全集』は完結したんだろうか?
………
先日、晶文社の編集のひとに会う機会があったので、(3)の件を尋ねた。相手は、ハハハ、と空しく笑い、「来週、その翻訳の原稿をいただきにあがることになってます」と答えた。
親子二世代ローンのようなシステムが翻訳にも訪れる日が来るのかもしれません。他人事ではないけどね。
[#地付き]本の雑誌51号 1986年12月
そしていま、一九九一年夏の現在、(1)(2)(3)の謎をめぐる状況には大きな変化はない。まあ、(1)に若干の動きがでてきたけれど。
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小判鮫の反乱[#「小判鮫の反乱」はゴシック体]
スティーヴン・シュネックの『幻想ホテル』の翻訳本は愉快だ。話そのものはポルノチックでいかにも一九六〇年代後半的頽廃気分にあふれていて、好きなひとにはたまらないし、嫌いなひとには反対の意味でまたたまらない小説世界が展開されているが、そういったことをぜんぶ捨象して純粋に翻訳本として見ても(こんなこと、無理にきまってるけど)、なんとも愉快なのだ。
俗に「ルビ」と呼ばれる、要するに「フリガナ」が、おっかしいのである。以下、かたっぱしから抜き書きしていくから、じっくりと鑑賞してほしい。
斜視《やぶにらみ》の軽騎兵《ほうろうしや》。二枚舌《ふたまたじた》。計数器《メジヤー》。建物《かんがえ》を|外側から内側《はんたいほうこう》へ。|残り香《エツセンス》。影《ぼうれい》の群れ。|動物の夜《らんちきパーテイー》。冗談《ギヤグ》。怪魚《ホモ》。吸盤魚《おひとよし》。河豚《ほらふき》。|背徳の花《ばいしゆんふ》。軟体動物《いか》。|靴下どめ《ガーター》。動物《けだもの》。聖人《しにん》。幻視者《よげんしや》。犯罪的《とほうもない》攪乱。|幻想と幻視《しんぴ》。絵空事《ドリーム》。魔術師《ひようろんか》。|セックスの両刀使い《けいさつ》。亡霊《こえ》たち。慈善《ほどこし》。裏側《おしり》よりむしろ表側《かお》。非現実的《アカデミツク》。裏切行為《うそ》。悪臭を放つ秘密《おぶつ》。彼女の秘密《いんぶ》もこぼれだし。税金《わいろ》。落伍者《まよいどり》。金星《おおめだま》。強姦者《ゆうわくしや》。雌馬《いんばい》。犠牲者《かも》。未熟《やわらか》な太もも。未成熟《てつかず》な少女。……
これらはほんの一例。こういうかんじの言葉の群れがつぎつぎと手を変え、品を変え、登場する。なにも考えずに虚心に読み始めたのだが、最初に「?」と思ったのが「軽騎兵」に「ほうろうしゃ」なる小判鮫《フリガナ》(つい真似したくなるネ)のついてるのを見たときで、それから後は、「!」「!」「!!」「!」「!」と反応しっぱなしだった。たまに数ページ小判鮫《フリガナ》の姿が見えないと淋しくなって読み飛ばし、ようやくつかまえると、ほおッと安堵の溜息がでた。おかげで、話そのものの展開などそのうちどうでもよくなってきて、おもしろいんだか、つまんないんだか、よく分らなくなった。
翻訳本の場合、ルビはたいていカタカナである。原語の発音を表記して読者の注意を喚起するのがルビの本来の役割だからだ。
おおまかに分けると、カタカナのルビには二種類ある。
(1)日本語になりにくい、ないしは日本語に該当するものが見当たらないとき、「まあ、こんなもんかな。分るやつは分るだろ」という気分でくっつける。「ミネストローネ」を「|野菜スープ《ミネストローネ》」とやるようなやりかたがこれで、さっきの『幻想ホテル』小判鮫群のなかから選ぶと、「冗談《ギヤグ》」「計数器《メジヤー》」「|靴下どめ《ガーター》」。
(2)翻訳者がひそかに自慢にしている訳語で、「やったネ!」という歓びがこめられている。ほんとうはルビなど付けずにカッコ良く行きたいのだが、やっぱり少し自慢してもみたいという種類のものだ。なにしろ、この世界には辞書に載ってない訳語は訳語ではないと考える石頭もけっこう存在するので、そういう手合いに向けて、このてのルビは、えへん、と胸を張る。『幻想ホテル』から選ぶと、「|残り香《エツセンス》」「絵空事《ドリーム》」「非現実的《アカデミツク》」あたり。
翻訳の最中、覚え書のつもりでとりあえずふっておいたルビ、あとで訳語を練り直そうと考えてとりあえず付けておいたルビが、締切りその他のやんごとなき事情のせいで、そのまま印刷されちゃう場合もある。ぼくなんか、それをやったばっかりに、堂々とみずから誤訳を御披露したこともある。「あとで」はやはりいけないなあ、とあのときは反省した。
よその言語が忍びこんで来たときも、ルビがよく登場する。英語の文章のなかに英語以外の言語がとつぜん姿を見せたときなど、ルビでその登場の事実を示す。だけど、ルビをふられたってどうせラテン語だかドイツ語だか分りゃしないのになあ、と、ぼくは思うんですけどね。
最近は、ごく一部の気取った翻訳文のなかでしか見かけなくなったが、一昔前は、「|根源的=急進的《ラデイカル》」とか「|危機的=批評的《クリテイーク》」といったイコールもの≠ェ流行った。流行を仕掛けたのはフランス文学の翻訳者あたりだが、初めて見たときは、カッコいい! と感激したものである。だって、ほら、文字の中にとつぜん数式の「=」が登場するなんて、なんかクールなかんじじゃありません? もっとも、そのうち、なーんだ、要するに適切な訳語が見つけられないだけのことじゃないか、と思うようになったが、初めは魅了された。
しかし、いずれにせよ、カタカナのルビは、原語の知識を多少なりとも持っている読者を想定して、訳者が付ける代物である。そういう読者への恐怖、遠慮、自慢、提案がカタカナのルビというかたちになって現われてくる。だから、これは裏返すと、原語の知識を多少なりとも持っている読者には、カタカナのルビは貴重な情報源になることもあるというわけだ。こういう読者は、ルビを見ながら、原語の勉強もしている。
さて、『幻想ホテル』の小判鮫に戻るが、これらの小判鮫が翻訳本のそれとしてはいかにユニークなものであるかは、お分りいただけたことと思う。この小説は英語で書かれたものだから、ぼく風情も原語の知識を多少なりとも持っている読者≠ノ入るが、カタカナのルビのはともかく、ヒラガナのルビのでは原語の勉強はできそうにない。だいたい、もとの言葉がとんと見当がつきません。「|動物の夜《らんちきパーテイー》」→アニマル・ナイト……どうもちがうなあ。「未熟《やわらか》な太もも」→ソフトボイルド太もも……おッ、当たりか……といまひとつ、というか、ぜんぜん分りません。
栗原行雄さん(この方が不気味小判鮫の生みの親)、これはいったいなんなんですか? どういういたずらなんですか?
「この作品でシュネックは、現実と非現実のはざまに、秩序や形式の支配がおよばない、言葉とイメージの遊技場を作り、読者を遊びに誘いこもうとする。言葉の多義的な性格を利用してイメージの玉つきをするかと思うと、平叙文を寸断して、上と下の両方にまたがらせてみたり、あるいは言葉を幾何学的に並べたり、逆転させたり、記号化したりして、彼自身が無心に楽しんでいるのだと言ったらいいだろうか。訳者の力量不足で効果的に訳し分けられなかったけれども、あるときは論文調であったり、ドタバタ喜劇調であったり、ときには哀調を帯びたりといったぐあいで、文体もさまざまなヴァリエイションを楽しんでいる」
なるほど。訳者の力量不足だなんてとんでもござんせん。小判鮫にはすっかり楽しませてもらいました。
では、みなさん、最後に問題です。上の小判鮫を下の魚に正しく吸いつかせなさい。出典は、もちろん、『幻想ホテル』日本語版。
aはじしらず  1駄馬
bだいほん   2歓楽街
cテンダロイン 3好色漢
dコンドーム  4卑劣漢
eやぎ     5夢想
fタルト    6売春婦
gいんばい   7小羊の腸皮
[#挿絵(img/fig3.jpg、横53×縦152)、下寄せ]
[#地付き]本書初登場
[#改ページ]
ピクニックはイン≠セな[#「ピクニックはイン≠セな」はゴシック体]
ニューヨークのヤッピーのお弁当、というテーマで原稿を書いていただきたい、というのがその雑誌の編集部からの依頼だった。ヤッピー(ヤング・アーバン・プロフェッショナル=頑張り屋で高級志向の若い専門職)なる言葉が耳新しい言葉として輸入されたばかりのころで、『ヤッピー・ハンドブック』なる本も超スピードで翻訳されたところだった。一九八四年の夏、ぼくは、はい、承知いたしました、と快諾したものである。
とはいえ、ヤッピーのお弁当の中身なぞ知るわけなかったし、そんなこと、どうだっていいじゃないの、というのが正直なところで、まあ『ヤッピー・ハンドブック』でも読んでヒントをいただこうか、と決め、本を買ってくると一安心して、どっかへ放っぽり投げ、そのまま月日がたった。
まもなく、当然、催促が来た。なにも決まってないし、なんのプランも練ってないので気恥ずかしいことこのうえなかったが、うぐむぐ言ってともかくその場を切り抜けた。電話の向こうの編集者は、こっちの情勢を察知したのか、「二、三日後にまたお電話しますが、原稿はともかく、メニューぐらいは考えといて下さい」と言って、電話を切った。
そして二、三日後≠ェ来て、催促が来た。『ヤッピー・ハンドブック』こそ読み終えていたが、弁当の中身はなにひとつ思い浮かんでない。
「弁当、いかがでしょう?」と編集者は駅弁売りのように切りだした。
「……」とぼく。
「せめてメニューぐらいは?」
「……」とぼく。
「……やはり、ヤッピーとはいえ、ハンバーガーなんでしょうかね。忙しく働いてるわけですから」
なんだ、分ってんじゃないか。「そうかもしれません、その線でちょっと考えてみます。だから……あと二日」
「じゃあ、メニューだけは決めといて下さいヨ」と編集者は忙しいウェイターのように電話を切った。ハンバーガーか……とぼくはひとりごちて、そうしてるうちにあと二日≠ェ来て、催促が来、むにゃむにゃほざいてるうちにさらに数日が過ぎ、催促が来、冷や汗垂らしてる間にさらに数日がたち、地球は回り、風が流れ、催促が来、陽が沈み、雨が降り、いよいよ宣告の時が来た。もう原稿はもちろん、メニューも待っていられません……こないだのハンバーガーの線で、失礼とは存じましたが、撮影を済ませました……すみませんが、雑誌には締切りがあるのです。
「はあ……悪いのはこっちです。すみません……で、どんな写真?」
「写っている食品はハンバーガーとフライド・ポテトとフライド・チキンとバナナと缶ビール。この五点です。このメニューでよろしくお願いします」と編集者は低予算忘年会の幹事のように言い、電話を切った。地球の自転に身を任すのももういいかげんにしなくちゃいけなくなってるのに気がつき、えいやッとばかりに書きだしたものである。バナナ……ハンバーガー……フライド・チキン……缶ビール……フライド・ポテト……と念仏を唱えながら。
以下が、三題噺ならぬ、その五題噺の全文。出来あがりはわりあい気に入っている。すてきな題をつけてくれたのも編集部の方だったから、はて、ぼくはいったいなにをやっていたのか。
ともかく。
[#ここから2字下げ]
ピクニックはイン≠セな[#「ピクニックはイン≠セな」はゴシック体]
ウディ・アレンの新作短篇集を二十ページ読んだところで、トムがおおきなあくびをした。すると、それがうつったのか、『アーキテクチュラル・ダイジェスト』をぱらぱらと拾い読みしていたジュディが途方もなくおおきなあくびをした。すると、二人のそばにすわって『ヤッピー・ハンドブック』をなめまわしていた秋田犬のイッセイが、赤い舌もあらわに、キバをむいておおあくびをした。
トムとジュディとイッセイにとっては本当に久し振りの休日だった。働きずくめで、残業につぐ残業の、自他共に認めるヤング・アーバン・プロフェッショナル、すなわちヤッピー的日常を送ってきた二人と一匹は、あくびの一致で、顔を見合わせた。
「ウディ・アレンもそろそろアウトじゃないかな」とトムが言った。
「『アーキテクチュラル・ダイジェスト』もそろそろアウトなかんじよ」とジュディが言った。
秋田犬のイッセイは黙ってもう一度おおあくびをして、デイヴィッド・ヒックスのカーペットに背中をこすりつけた。
「どうしようか。家でゴロゴロして、アウトになりかけた本を読んでるなんて不健康だよ。どっかにピクニックにでも行かないか」
「また、ハンプトン? それとも、ゲイのジョヴァンニとケネスを誘って、またまたファイア・アイランド? もう飽きたわ」
「でも、いまさらセントラル・パークってわけにもいかないだろう」
「そうね。いったいどこへ行ったらいいのかしらね。まさかコニー・アイランドってわけにもいかないし……」
そのとき、電話が鳴って、トムが受話器を取ると、ゲイのケネスだった。ケネスとそのルームメイトのジョヴァンニもトムとジュディ同様にワーカホリックのヤッピーだったが、たまたまその日は、トムとジュディ同様、久し振りの休日を迎えてとまどっていたのだった。
ケネスもまたトムと同じくウディ・アレンの新作短篇集を二十ページほど読んだらしかったが、「なんだかアウトのような気がしたんで、やめたよ」と言った。そして「ピクニックに行かないか」と誘ってきた。
「いまちょうどその話をしてたところだったんだ」とトムは言い、「でも、場所が決まんなくてね」
すると、ケネスは思いがけないことを言った。「サウス・ブロンクスだよ。これからはサウス・ブロンクスがインなんだってさ」
「サウス・ブロンクスって……あのニューヨーク随一の廃墟のこと? テレビで見たことがあるけど、殺人と強姦の王国じゃないか」
ケネスの話では、「サウス・ブロンクスこそイン」という指示を与えたのはアップル社の新パソコンマッキントッシュ≠セった。システム・エンジニアであるケネスは『ヤッピー・ハンドブック』等々を参考にして、「アーバン・サヴァイヴァル・ガイド」なるヤッピーの行動マニュアルを自分でプログラムしておいたのだったが、それが「ピクニックにはサウス・ブロンクスこそイン」との答えをだしたということだった。
「自分でプログラムしたとはいえ、自分でも驚いてる。(1)ウディ・アレンが退屈に思えてきた、(2)『アーキテクチュラル・ダイジェスト』がつまらなくなってきた、(3)カプチーノにも飽きてきた……とつぎつぎと指令をだして、さて、休日のピクニックはどこでどうすべきか≠ニ訊いたら、サウス・ブロンクス≠ニ答えが返ってきたんだからね。そればかりじゃない。サウス・ブロンクスへのピクニックには次のものを持参せよ、とこれまたむずかしい返事が現われたんだ」
ケネスによれば、それは次のようなものだった。
(1)バナナ。東南アジア、とりわけ王国として由緒正しいタイ産のものがよい。
(2)フライド・ポテト。アメリカ最初のポテト栽培地であるロング・アイランドのブリッジ・ハンプトン・ローム層で採れたものに限る。
(3)ハンバーガー。シカゴ郊外のマクドナルド第一号店で購入したもの。ただし、ビッグ・マックは不可。
(4)フライド・チキン。ケンタッキー・フライド・チキン第一号店で購入したもの。
(5)ビール。ビールの王≠ネる王朝貴族的な称号をもつバドワイザーが妥当。
………
トムとジュディとイッセイとケネスとジョヴァンニは、その日は結局、条件が満たせないのでサウス・ブロンクスへのピクニックはあきらめた。ヤッピーとしては不本意ではあったが、家でゴロゴロして過した。しかし、それでよかったのかもしれない。
その日サウス・ブロンクスでは殺人が十件、強姦が六十九件、放火が百十九件起きていた。
[#地付き]リカー・ショップ 1984年11月改稿
[#ここで字下げ終わり]
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ピュアでレイジー[#「ピュアでレイジー」はゴシック体]
ホーボケンからジョン・セイルズという名前の三十六歳の男が来た。小説家でもあれば映画作家でもあって、今回は『ぴあ』映画祭でかれの映画が上映されることになって、前夜祭に参加するために東京から来たのである。一九八六年四月十一日のその前夜祭の晩、かれは自作の『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』の上映に先立って、渋谷東映の舞台からあいさつしていた。
ありゃあ、昼間とおんなじ恰好してるぞッ、と舞台の下でぼくは少々びっくりしたものだ。昼間、ぼくはかれにインタヴューしに出かけていったのだが、そのときの出立ちはヨレヨレの綿パンにヨレヨレのトレーナーで、足元は四足千円クラスの例の白い靴下に薄汚れたスニーカー。昨日ホーボケンの我が家で着ていたものとまったく同じものに、それはちがいなかった。
そういう恰好も昼間なら分る。インタヴュー等で会わなくちゃいけない人間もせいぜい三、四人だろうし、気楽にも臨みたいだろうから、ふだんと同じ恰好でリラックスしていたいという気持は分らないでない。だけど、渋谷東映の舞台あいさつは『ぴあ』映画祭の皮切りのイヴェントで、しかもかれはすこぶる付きの特別ゲストなのだから、もすこしおしゃれしてくればいいじゃないのさ、とぼくは、他人事ながら、たまげてしまった。べつにフォーマルでなくてもいいけどさ、ヨレヨレである必要もないでしょうに。
さらに股間部を見て、たまげた。舞台の下からだと角度の関係でついついそのあたりに目が行ってしまうのだが、セイルズのそこは、なんと、もっこり膨らんでいたのである。あッ、起ってる、と、これまた他人事ながら、息を呑んだ。
見間違いだった。照明のいたずらで、ポケットのなかの分厚い財布かなにかがセイルズのそのあたりを異常に膨らませているように見えていただけのことだった。しかし、それにしても、舞台に立つのにズボンのポケットにたっぷり物を詰めこんでくることもないんじゃないの。ミスター・ジョン・セイルズ、あんたはスターなんだよ、分ってるのですかッ、いったい!
セイルズはホーボケンの、いまやスターである。それまではホーボケンのスターといえばフランク・シナトラひとりだったが、四年前の三十二歳のときにマッカーサー財団なるところから巨額の奨学金授与の通知をとつぜん受けとって以来、ゴールデン・ボーイ、とホーボケンで評判になった。といっても、ホーボケンの人々はセイルズがなにをやってる人間なのかは皆目知らず、途方もない額の金を当てたラッキーな男という風に理解していたようである。
マッカーサー財団は、あの「アイ・シャル・リターン」のマッカーサー元帥とはぜんぜん関係なくて、大金持ちの保険屋で、死んだときは、アメリカで第三位の金持ちだったらしい。ところが、この男、税金を払うのが大嫌いで、そこで、節税対策としては一番ポピュラーな「財団」を作ると、アメリカ各地に病院や施設を建て、さらに奨学金を毎年二十人の人間に与えることにした。さまざまな分野から学者や芸術家を選びだして、かれらが生活費を気にせずにそれぞれの研究に専念できるようにと無条件で五年間お金を支給することにした。それをセイルズは手中にしたというわけである。かれが受け取る額は年間三万二千ドルで、月の初めにその十二分の一の額の小切手が届くというシステムなんだそうだ。なぜ三万二千ドルかといえば、授与が決まったときのセイルズの年齢が三十二歳だったからで、要するにそういうことなのである。
「ほんとうに?」
「そう、単純なの。でも、こっちから応募はできないのよ。向こうが勝手に調査して決める。ジョンのことをいろいろ訊き回ってる人間がいるって聞いたときは、CIAかと思ったわ。でも、分ってみればこれだったから、グッド・リザルトね」
昼間のインタヴューのとき、セイルズの恋人のマギー・レンツィが、セイルズに代わって、そう言い、笑った。マギーはセイルズの映画のプロデューサーでもあるが、なによりもまず、長年一緒に暮している恋人だ。セイルズをめぐってこの四、五年の大変化に一番驚き、張り切っているのは、多分、セイルズ本人よりもマギーだろう。じっさい、インタヴューでも、しきりに口をはさんだし、そのはさみかたも要領を得ていて、なかなかの遣り手と、ぼくは見た。渋谷東映の舞台の上にはマギーもプロデューサーとして姿を見せたが、セイルズとはちがい、きちんと着替えて登場してきた。服のこと、セイルズにも注意してやればいいのに、とぼくは舞台の下からマギーをうらんだが、舞台の二人を見ているうちに、昼間にマギーの言った言葉を思いだし、思い遣りなのかな、と了解した。
「かれはとってもピュアなのよ!」とマギーは、昼間に一緒に昼食をとってるとき、言ったのだった。
「タバコも吸わないし、コーヒーも飲まないの。だから、さっきインタヴューの最中にかれがコーヒーを飲んだのにはびっくりした。何カ月ぶりかしら」
「昔からタバコもコーヒーもやらない?」と、ぼく。
「そう、昔から。とってもピュアなのよ!」
そして、そうよねえ、という顔でマギーがセイルズの方を見ると、セイルズは優しげににっこりした。イノセントな笑い顔とはこの顔なり、とでも言えそうな、それはそれは美しく澄んだ笑い顔だった。
「でもネ、チョコレートのひどい中毒なの。小さなチョコレートをいつもぽりぽりとかじってる」
「じゃあ、歯は全滅だ」
「数本、大丈夫なのもある」とここでセイルズが口をだした。
ジョン・セイルズは一九七〇年代に中篇一冊、長篇一冊、短篇集一冊、の計三冊の小説を発表し、どれもかなり高い評価を得ていたが、一九八〇年代に入ると、小説よりも映画作りに熱心になり、低予算の自主製作を始めた。『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』はその四作目で、ハーレムが舞台の『ET』黒人版の大爆笑コメディ。登場人物は、ETもふくめ、ほとんど黒人である。ただし、セイルズは黒人ではなく白人だ。なんで黒人なの、と訊くと、「みんなが考えてる以上にアメリカには黒人がたくさんいるのに、いつも脇に追いやられてるからさ。黒人は、ほら、こんなにたくさんいるって伝えたかった」。
ところで、かれとマギーが暮すホーボケンとは、マンハッタンから車で十分そこそこの、ハドソン河の向こうの港町だ。マーロン・ブランドが若かった頃の『波止場』の舞台だが、いまもあの当時とまるで変わらないたたずまいなんだそうだ。ホテルもなければ、本屋もゼロというさびれた町で、ホーボケンの映画館にかかる映画はスペイン語のものとカンフーものだけ。セイルズはそこに長く住みついていて、外国映画を観るときぐらいしか、マンハッタンには出かけないらしい。
「レイジーなのよ」とマギーは言った。そういえば、マンハッタンまでマギーは「車で十分」と言ったのにたいし、セイルズは「バスで十五分」と言ってたっけ。この差がレイジー≠フゆえんなのかね。
[#地付き]別冊・小説現代「短篇&コラム特集号」 1986年夏号改稿
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いまは早くも死語なれど[#「いまは早くも死語なれど」はゴシック体]
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警告![#「警告!」はゴシック体] 以下の論考は、「英語塾」という看板の下で、一九八四年四月から二年間にわたって『てんとう虫』の誌上でひねりだされた。言葉は時代の産物ゆえ、時代のわずかなズレが言葉の生気と意味をがらりと変えてしまうことがある。以下の論考そのものもきびしく時代の産物である。
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ハイテク(high-tech)[#「ハイテク(high-tech)」はゴシック体]
なんとなく分ってはいるけれど、いざ詳しく説明しようとすると「?」という気分に落ち込む英語が、いくつかある。このところ、かなり普及したかにみえる high-tech など、その一例だろう。
バカ! high-tech なんか high-technology を短くした言葉に決まってるじゃないの。コンピュータとかその他なんやかんやの「高度技術」「先端技術」を指す、じつにもって明解な言葉だよ……ごもっとも、ごもっとも。まったくもってその通りである。「ハイテク産業」といえば「コンピュータ関連産業」のことで、「ハイテク・ライフ」といえば「コンピュータのある生活」のことだ。
しかし、なんとなく分っているようでいてじつはよく分らない英語の一例として high-tech を最初にあげたのは、コンピュータにぜんぜん関係なくてもこの言葉を使うことがしょっちゅうあるからだ。
「へえ。なかなかにハイテクな生活をしてるじゃないの」と、きみの部屋を訪ねてきただれかが言ったとする。この場合、きみの部屋はつぎの三つのいずれかの特長をもっているはずである。
(1)机の上にパソコンがある。部屋が三畳間でも四畳半でも、パソコンがあれば、ハイテクである。納豆の食べ残しがぷんぷんと悪臭を放ち、万年床からはいいしれぬ異臭がただよっていても、パソコンがあれば、「なかなかにハイテクな生活」を営んでいることになる。
(2)部屋が白い壁で囲まれている、床は板張りかコンクリで、畳は一切敷いていない。机の上にはパソコンはもちろん、ゴミひとつホコリひとつない。部屋を掃除するときはホウキも掃除機も使わず、ビャーッとホースで水をぶっかければすべてコトが済む。要するに、空っぽな倉庫みたいな、なにもない空間で暮しているなら、「なかなかにハイテクな生活」ということなのだ。
(3)部屋は、じつは、病院の病室である。ただし、この場合の病院は途方もなく大きな総合病院で、病室も個室でなけりゃならない。長らく風呂に入ってないからといって妙な体臭を発散させてはならず、病室にただよう臭いはあくまでも薬だけの臭いにとどめる。最大のポイントは注射で、とびきりきつい薬液が注射される瞬間など「なかなかにハイテクな生活」のクライマックスである。
他にも、ハイテクな生活のしかたはあるが、まあ、だいたい上の三つのヴァリエーションだ。(1)は、パソコンをもつ、という最低条件さえ満たせば十分なのだから、舞台はどこだってかまわない。(2)も、ポイントはビャーッとホースで水をぶっかけて掃除をすます点にあるのだから、水をかぶっても被害のない品物、たとえばプラスチックやガラスやステンレスの製品なら、ひとつやふたつ置いといてもいい。ただし、(3)にはあまりヴァリエーションはない。こっそり漢方薬をのむなどもっての他で、ひたすら新薬、それも開発されたばかりの薬をモルモットになったような覚悟で愛好する必要がある。どうしても漢方が欲しい場合は、看護婦に頼んでカプセルに入れてもらってから飲む。
どうです? これが high-tech の具体的な意味なのです。これだけ多様な意味があるんだもの、説明困難は当然です。
フリーク(freak)[#「フリーク(freak)」はゴシック体]
freak という言葉は、使いかたが厄介だ。なぜ厄介なのかというと、この言葉にはみごとに対立する二つの使いかたがあるからである。
freak の意味は、「奇型人」「奇怪人」というもので、肉体的に奇型な人、精神的・情緒的に奇怪な人、を指す。だから、基本的には、差別語なのだ。ところが、差別語であるがために、まったく対立する二つの使いかたができあがった。
(1)正統的な使いかた――「テメエ、この、freak のくせに人間ヅラすんじゃねえ。freak はお化けなんだ、ああ、気持悪い。消えろ! 死ね!」……とまあ、はなはだ差別的なのである。『エレファント・マン』という映画を見たひとなら御記憶だろうが、あの freak の雄たる「象男」は、町の群衆に追いつめられて醜い顔をむりやり暴かれたとき、涙を流して、「わたしは人間だ!」と叫んでいた。これは、freak という言葉がいかに差別的であるかの証拠である。ちなみに、象男や人魚やシャム双生児や狼男や一寸法師……等の奇型人たちを見世物にさらすのを freak show という。
(2)居直り的な使い方――「テメエ、ガタガタ言うんじゃねえ。なんで freak がいけねえんだよお? え、freak のなにが悪い? ほれッ、どうだ、気持悪いか? 消えろ、とっとと失せろ!」……とまあ、みごとに居直ってるというか、カウンター・パンチを喰わしているのである。(1)の使いかたとは正反対で、「奇型でなにが悪い?」という、いうなれば力強い反撃の言葉である。こういう使いかたの裏には、「どういう人間がまともだっていうんだよお?」という、「奇型」の反対語というべき「まとも」という言葉への異議申し立ての姿勢があり、じっさい、この居直り的な使いかたががぜん流行したのは一九六〇年代という異議申し立ての時代だった。
だから、一九六〇年代に流行った言いかたでいうなら、(1)は体制的使いかた、(2)は反体制的使いかた、ということもできる。ただし、(2)の方の使いかたはまだまだ歴史が浅いから、(1)の方の意味がまだ一般的だと考えた方が無難だ。
freak というと、tennis freak とか rock freak という使いかたがあり、「テニス好き」「ロック好き」といった意味になっているが、あまり能天気に使わない方がいい。なにしろ、freak という言葉は、前に書いたとおり、二通りの意味があるからだ。"He's a tennis freak" という文章を、(1)と(2)のそれぞれの使いかたにしたがって訳し分けると、次のようになる。
(1)あいつはテニスばっかやってるバカでね、どっか精神に欠陥があるんだと思うよ。まともじゃないネ。
(2)あいつは、ホント、テニスが好きでネ、暇さえありゃあ、テニスをやってる。なにかに打ちこめるってのは美しいヨ。
だから、もしも、だれかから「あなたって tennis freak ね」と言われた場合は、相手の顔をじっと見て、(1)の側の人間か、(2)の側の人間なのかを見きれないと、バカにされてるのか、ほめられているのか、分らないということになる。きょとんとして、えへらえへら笑っていたら、多分、相手は、(1)のひとだろうが、(2)のひとだろうが、「あなたって freak ね」と言い換えるだろう。
ゲイ(gay)[#「ゲイ(gay)」はゴシック体]
「授業の最初の日に自己紹介をするでしょ。すると、学生がみんな、クスッ、とか、プスッて笑うんですよ。いやあ、ぼくの名前は全世界でよく知られてますからね」
と、あるアメリカ人の大学教師がにこにこ笑って言った。かれの名前は "Gay" で、ぼくたちはかれを "Mr Gay" と呼んでいる。「ゲイ先生」「ゲイさん」という、たったそれだけの意味であるのはいうまでもない。
ゲイ先生の学生たちが、かれの名前を初めて耳にすると、なぜ笑うか? この理由もいまさらいうまでもあるまい。"Gay" という言葉は、べつなイメージ、つまり "gay boy" の "gay" を連想させるので、ついクスッと笑ってしまうのだ。
ところで、この言葉、あなたは正しく理解してるだろうか? "gay boy" の心理を正しく理解してるかどうか、"gay boy" をいわれなく差別してはいないか……という大問題はこのさい置いといて、言葉そのものの意味をきちんと頭に入れておこう。意味は簡単明瞭で、"gay" とは「同性愛のヒト」である。
なあーんだ、そんなの、分ってるヨ、というヒトは、それでけっこう。だけど、つぎのことだけは頭のなかにきちんと叩きこんでおいてもらいたい。
(1)gay とは同性愛のヒトで、男同士のヒトたちはもちろん、女同士のヒトたちの場合にもつかう。ゆえに、"gay boy" のみならず、"gay girl" もいる。
(2)同性愛は "homosexual" という英語になり、日本では「ホモ」と略称されているが、これも、gay 同様、男同士のヒトたちのみならず、女同士のヒトたちの場合にも使う。ゆえに、She is homosexual という言いかたはごく一般的。
しかし、それにしても、gay が(1)や(2)のような意味として定着してきたために、最近はこの言葉がはなはだ使いにくくなってきた。gay の本来の意味は「陽気な」「にぎやかな」「楽しい」というものだから "They are gay people" という言葉をきくと、つぎの二つのいずれの意味なのか、どうしても迷ってしまうからだ。
(1)あのヒトたちは同性愛のヒトたちである。
(2)あのヒトたちは陽気で楽しいヒトたちである。
はて、このどっちかな、と迷うのである。区別する手掛かりはゼロで、実物に会うしか方法はないということになるが、最近は実物に会ってもすぐそれと分るほどあの世界は単純ではなくなってきたらしいから、やっぱり区別の手掛かりはゼロなのだ。「陽気なヒトを見たら同性愛と思え」と言っちゃうのもナンだし、いやはや、困ったものだ。gay の台頭は英語の危機を招来させたのである。ハハハ、冗談、冗談です。
でも、きっと、元始、gay people は「陽気で楽しい」ヒトたちで、だから、そういう言葉が使われるようになったのだろう。gay じゃないヒトたちのことは "straight" というが、「まっすぐ」だなんて、考えるまでもなく、つまらないし、味気ない。人生はなんてったって、gay なものにかぎります。なんか、ややこしく、分んなくなってきたけど、まあ、そういうことなのですよ。
ソフィスティケイテッド(sophisticated)[#「ソフィスティケイテッド(sophisticated)」はゴシック体]
どんなものにも限度というものがあって、ある一線を越えると、いいものも悪いものに、かんじのいいものもかんじの悪いものに変わってしまうものだ。なにごとも程度が肝心で、過ぎたるは及ばざるがごとし、なのである。英語の sophisticated なんてことばは、その意味では、要注意のことばだ。
sophisticated は sophisticate の過去分詞(お、いかにも英語塾的雰囲気だな)で、形容詞のように使われる。"sophisticated lady" というデューク・エリントンの名曲があるけれど、"She is a sophisticated lady" と言った場合、この意味は三つある。
(1)じつに洗練された、いい女だ。
(2)気取りがちょっと鼻につくけど、まあ、いい女だ。
(3)どうしようもない、すれっからしの、理屈の多い、いやな女だ。
そういうことなのである。(1)がいい意味、(3)が悪い意味、そして(2)がいい意味と悪い意味の分岐点だ。
なんでこんなふうに意味が広がってしまったかというと、大昔のギリシャ人がいけない。sophisticate の語源は sophist と呼ばれた大昔の一部ギリシャ人たちで、こいつらが問題児だったおかげで、sophisticate が厄介なことばになってしまった。こいつらはもっぱら弁論術を教える教師で、教養の大事さを強調していた。そこまではいい。ところが、教養と弁論の大事さを主張するあまり、なんのための弁論か、なんのための教養か、が分らなくなり、ついには弁論のための弁論、教養のための教養の泥沼におちこんだ。要するに、知的すれっからしになったのである。
「昔はいい先生だったんだけどネエ……いまじゃ、気取っちゃって知識をひけらかして、ほんと、ヤーな先生」
そういうことなのである。ギリシャ人が悪いのだ。でも、いまのギリシャ人は大昔のギリシャ人とはまったく別人種だから、街でギリシャ人を見かけても「おまえが悪い!」なんて言っちゃいけません。
では、"She is a sophisticated lady" の(1)(2)(3)の意味を区別する手掛かりはあるか? 残念ながら、ない。だれかがそういうことばを言った場合、その意味は、(1)かも(2)かも(3)かもしれないということだ。ほめてるのか、バカにしてるのか、の手掛かりはゼロ同然である。どういう状況でそのことばが言われたか、が唯一の手掛かりになるというわけで、まさに要注意のことばだ。
もっとも(3)の女が別な女を指してこのことばを言った場合、その意味は(3)に決まっているし、(1)の女が別な女にこのことばをつかったときは、(1)の意味に決まっている。つまり、sophisticated の限度を越えてしまった人間は、このことばをいい意味には絶対につかわないということで、いい意味につかえる人間は限度を越えてない人間だけなのである。たとえば、ウディ・アレンあたりは明らかに(3)の意味での "sophisticated man" だから、かれがだれかにこのことばをつかったときは(3)の意味でつかっているというわけだ。
"You are sophisticated" と言われたとき、素直に喜べるか、複雑な気分に陥るか、で、あなたの sophisticated の程度が分るってこと。
フェミニスト(feminist)[#「フェミニスト(feminist)」はゴシック体]
「あいつは、いつも、待ち合わせに遅れてくる。そりゃ、いいよ、電話の一本でもいれて、遅れます、の一言でも言ってくれりゃあさ。だけど、そんなこともしないし、よしゃあいいのに、タクシーなんか飛ばしてくる。急ぐときはタクシーに乗っちゃいけないのに、女ってやつは、それが分らない」
「でも、待ってるんだろ? 惚れてる男の弱味だ」
「だって、おれはフェミニストだもん」
「?」
「でも、これからはさ、さっと帰っちゃおうかと思ってる。そういう毅然たる態度こそ、これからのフェミニストがとるべき姿勢だと思いはじめた」
「?」
先日、こんな会話を友人とした。「でも、惚れてんじゃない?」と茶化してるのも、話を聞きながら「?」と首を傾げてるのも、ぼくだ。しょせん、女には負けるヨ、という気持で「?」の気分になったのではなくて、「フェミニスト」という言葉の使いかたが変だったので、「?」になった。ぼくは話題を変えて、友人に言った。
「おまえ、ウーマン・リブって運動、覚えてるだろ。一九七〇年代にとりわけ盛んだった、あれ」
「ああ。イヤだね、ああいうの。うるさいヨ。おれみたいなフェミニストでも、女のああいうのだけはさすがにイヤだ」
「そうかい。でも、女のああいうのを、本当はフェミニストっていうんだぜ。そして、ウーマン・リブの運動はフェミニストの運動ともいう。ゆえに、おまえの発言は矛盾してるわけだ。ハハハ」
「?」
首を傾げたのは、今度は友人の方である。そうなのだ。勘違いされている英語、意味をとり違えられている英語は日本のなかにどっさりあるが、feminist もそのひとつだ。女がとにもかくにも力を得てきている現在、この言葉の意味はしっかり頭に入れておく必要がある。「ウーマン・リブ」も、正しくは、「ウーメンズ・リブ」で、women's liberation の略である。簡単に言っちゃおう。
(1)feminist は feminism の考えかたに共感するヒトのことで、feminism とは、要するに、ウーメンズ・リブである。
(2)feminist は、したがって、圧倒的に女である。だけど、要は feminism の考えかたに共感するかどうかなのだから、男の feminist もいる。
しかし、このての -ist とか -ism、がお尻にくっつく言葉は、扱いがそもそも厄介なのだ。たとえば、社会主義という意味の socialism、社会主義者の socialist にしても、ほら、「テメエなんざ、社会主義者じゃない!」とかいって大議論が始まったりするでしょう? 議論百出、多種多様が -ismの実体だから、意味もどんどん広がるんです。「女の解放は夫に心から尽くすところから始まるの」という feminist もいるだろうし、「女とみるとお茶!≠ホかりで、男なんてだめよ。殺せ、殺せ」と主張する feminist もいるだろう。広いのである。 -ismの山の裾野はかぎりなく伸びている。
ぼく、ですか? もちろん、feminist です。そうですねえ、富士山の六合目あたりの feminist かなあ。
ディグ(dig)[#「ディグ(dig)」はゴシック体]
大和市の佐藤知明さんから質問のお葉書をいただきました。アメリカのロック・グループシカゴ≠フ古い曲に "Saturday in the Park" というのがあって、そのなかに、
Will you help him change the world?
Can you dig it?(Yes, I can)
という一節があるけれど、dig とはなんであるのか、という御質問です。
うーむ。なんなんでしょうネ、これは。dig というと、ぼくの頭に真っ先に浮かんでくるのは「ディグ」という名前の新宿のジャズ喫茶で、六〇年代末から七〇年代初めにかけての学生時代はそこにしょっちゅうでかけました。お客は、ぼくを含めてみんな、「うーむ」といった顔付きでジャズに聴き入り、壁には「おしゃべりを禁ずる」と書いた貼り紙があったっけ。ああ、なつかしい。池袋の「ファニー」、有楽町の「ママ」、渋谷の「サブ」、早稲田の「フォー・ビート」……ぼくはジャズ喫茶特有の沈黙が好きでした。
おっと、感傷的になっちゃいけない。dig という言葉だが、これは「掘る」という意味である。地面を掘り返すということで、この場合の「掘る」目的は、なにかを見つけること。宝物でもいいし、ジャガイモでもいいし、白骨体でもいい。要するに、この地面の下にはなにかがあるんじゃないかな、と思って掘るのが、dig なのである。
だから、なつかしのジャズ喫茶「ディグ」で、お客がみんな「うーむ」と深刻に聴き入ってる姿も、dig してる姿ということになる。流れてくる音楽という「地面」を、みんながそれなりのやりかたで掘っているというわけだ。そして、みんながそれぞれ勝手に宝物かジャガイモか白骨体を掘り当てる。いまは亡き植草甚一さんはエリック・ドルフィーの「あなたは愛が分ってない」を聴いてたとき、突然、はっと起ちあがってしまったというが、これぞまさしくなにかを掘り当てた、悦楽と感動の一瞬だ。
なにかを見つけたら、さらにもっと掘りたくなるのが人情だし、掘るのもいっそう楽しくなる。だから、dig するという行為にはいろんなニュアンスがくっついてくる。
(1)掘り当てる→分った気持になる。
(2)さらに掘る→どんどん分ってくるかんじが楽しい。
(3)もっと掘る→すっかり気に入っちゃう。
いうなれば、(1)は発見、(2)は悦楽、(3)は共感の状態で、dig という言葉はこの三段階のいずれかの意味でつかわれている。
シカゴ≠フ歌詞の dig がどういう意味かは、曲の全体の気分をつかまえてないぼくにはなんとも言いがたいが、きっと(3)だろうとは思う。「世界を変えようというかれに手を貸してやる気はあるかい?」という質問を、端的に言い直したのが Can you dig it? だ。つまり、「かれの気持が分るかい?」→「かれに共感できるかい?」というプロセスを経て、「手を貸すつもりはあるかい?(ぼくはあるヨ)」
これじゃないかね。間違ってたら、ゴメン。そのうち "Saturday in the Park" をきちんと聴いてみます。なかなか、良さそうな曲ですね。ところで、最後はぼくから質問――
Will you help him change the world?
Can you dig it?
パフォーマンス(performance)[#「パフォーマンス(performance)」はゴシック体]
べつだん新しくもなんともないものが、化粧や衣装をちょっと変えたおかげで、がぜん新しく見えてくるということがこの世にはけっこうある。言葉の場合でも、そういうことはしょっちゅう起こっていて、最近の例では、たとえば performance という言葉あたりがそれに当たるだろう。この言葉、一見すると新しそうだが、じつは昔からある古い、古い言葉なのだ。
たとえば、ローレンス・オリヴィエがハムレットの役をみごとに演じると、
He did a good performance.
といったし、歌舞伎に感激した外国人は、
What a wonderful performance!
と叫んでいた。要するに、演技、というか、演技をしている姿を performance というのである。ただし、この場合の「演技」は、原則として、目の前で、生身でおこなわれている「演技」を指すことになっていたから、映画やテレビ・ドラマのなかの「演技」はこの言葉には入ってこなかった。performance には、かならず「ステージ」という前提がついてまわったということである。
(1)ステージで上演されている。
(2)ゆえに、観るたびに、微妙にちがっている。
このふたつの性質が、performance が映画やテレビでの「演技」とちがっていた点だ。やり直しのきかない、一回一回が勝負の演技である、といってもかまわないだろう。バレエやダンスのことを performing arts と呼んできたのも、それらはいつもステージの上で上演されてきたからである。
performance という古い、古い言葉ががぜん新しいかんじに見えはじめてきたのは、前提の意味が衣替えしたからである。(1)の前提がおおきく揺らいできたおかげで、なんだか妙な具合になってきた。
「そうかい、そうかい。ステージで上演されるのが performance ってわけなのね。それじゃあ訊くが、ステージってのはどこを指してステージっていうのかね? 劇場やコンサート・ホールのステージだけがステージかね。そこいらの広場だって、そこいらの街角だって、ステージじゃないかね? ほら、シェークスピアだって言ってるじゃないの、世界は劇場である≠チてさ!」
そうなのである。こういう考え方が台頭してきたために performance も変わっちゃったのだ。どこもかしこも「ステージ」ということになり、だれもかれもが performance するヒトになってきた。「ここがステージだ。これから performance をやるぞ!」と宣言しさえすれば、performance が始められた。うまい、へた、はともかく、なにかをすれば、performance ということになった。だれでも、気分はローレンス・オリヴィエになれるようになったというわけだ。だから、前提もおのずと変わってきて、
(1)どこでもいい。
(2)毎回、微妙にちがって当然で、一回きりの上演(!)も可。
という具合になってきた。観客はたとえひとりでもいるに越したことはないが、なーに、本人が「これは performance だ!」と思っていれば、それでもう十分にもなった。おかげで、なんじゃらほい、といったたぐいの performance が増えてきたこのごろである。
ブルシット(bullshit)[#「ブルシット(bullshit)」はゴシック体]
使ってみたいとは思いながらも、なかなか使えない英語というのがある。それが使えれば、いっぱしの英語のスピーカーになれるのじゃないかとは思いつつも、どうしてもうまく使えない、そういう類いの英語だ。
じつは、この十月、ニューヨークに行ってきた。そしてそこで、そういう、ぼくにはとても使えない英語が目の前でびんびん使われるのを目撃して、興奮した。チクショー、おれも使いてえなあ、と何度も地団駄を踏んだが、なんのことはない、ぼくが使ってみたくてたまらない英語とは「チクショー」の類いの言葉なのだ。
(1)bullshit――日本ではほとんど知られていない若い作家と話をしていたときだった。ぼくがかれに「××という作家はお好きですか?」ときくと、かれは即座に「××はbullshitだ!」と答えた。こう言われると、二の句がつげない。ぼくは、なるほどお、という顔で、小声で「bullshitネ」とつぶやいてみた。
(2)fucking――レストランで注文を待っていたときだった。ウェイターはスペイン系で、怠慢でなかなか注文を取りに来ない。いいかげんイライラしていると、別なテーブルでやはりイライラしていた白人が、ぼくの方を見て、「困ったもんだな」と言い、つづけて、「that fucking Spanish!」と吐き捨てるように言った。「ほんと、ほんと、fucking Spanish ですネ」とぼくも小声でつぶやいてみた。
(3)son of a bitch――日本でもわりあい人気の高い中年の作家の運転する車で夜のマンハッタンを走ってたときだった。ぼくらの車の前にとつぜん車が割りこんできた。一日中運転のし通しですっかり疲労していたその中年作家は、がぜん目を大きく開いて、叫んだ。「son of a bitch!」ぼくもしゃきっと眼を張って、「まったくもう son of a bitch ネ」と小声で唱和してやった。
(4)Jesus Christ――その中年作家の弟の家に訪ねていったときだった。弟は前の晩に徹夜で酒を飲んでいたので、ソファで裸でぐっすり寝込んでいた。「起こしちゃっていいんですか?」と言うぼくに「かまわん、かまわん」と作家は弟の裸の肩をゆすった。「おい、お客さんだぞ!」いかにも眠たげな目でぼくらを見上げた弟は、渋い顔で、「Jesus Christ!」と言った。「Jesus Christ ネ」とぼくはそれはもう小さな声で復唱した。
(1)の意味は「クズ」「ゴミ」。もともとは「牛のウンコ」だけれど、箸にも棒にもかからないどうでもいいものを罵倒するときに使う。
(2)には、あまり意味がない。ただなにかに頭に来たとき、そのなにかを罵倒するために、そのなにかの前にくっつける言葉だ。
(3)も、罵倒語。「売女の息子」と直訳してみるとなんだか差別語臭いが、罵倒語としてはクラシック。
(4)も罵倒語のひとつだが、ただの叫び声に近い。窮地に追いつめられて、やけのやんぱちになって、だれにということもなく罵倒する言葉だ。
要するに、罵倒語の類いはなかなか使いにくいのである。罵倒とは一瞬の感情の爆発なのだから、「えーと」と考えながら英語をしゃべるスピーカーの口からは出にくいのである。だから、ニューヨークでどうしても相手を罵倒したくなったときは、ぼくは「なんだよ、このヤロー」と日本語でつぶやいて心を落ち着かせてから、おもむろに怒りの文章を組み立ててました。(1)(2)(3)(4)の言葉は使わずに。
ナード(nerd)[#「ナード(nerd)」はゴシック体]
田無市の山田裕子さんから、「nerd って何」という質問の御葉書をいただきました。アメリカに留学なさってた折、お友達がコンピュータ狂の学生を指して「He is a computer nerd」と言ってたとのことで、これはなんであるか、という御葉書でした。留学体験のある方に質問なんかされちゃって、ぼくの小さな胸はおもわずドッキンと鳴り響いちゃいました。あ、いまもまだ鳴ってる。ドッキン、ドッキン。
一言で言うと、この言葉は差別語です。だから、あまり使ってはいけません。でも、使うときは思いきりイヤらしく発音してください。口はほとんど閉じたままにして、下唇だけを下品に突きだし、いかにも軽蔑的に「ナード」とやる。これがコツ。バカにしたい相手が目の前にいるときは、舌でもべーとだすように下唇を突きだすといっそう効果てきめんで、相手は泣きだすか、殴りかかってくるかのどちらかでしょう。もっぱらティーンエイジャーの間で使われてる差別語です。
さて、どういう人間を差別して使う言葉かというと、つぎのような条件を満たしている連中に対してである。
(1)体型も悪い、姿勢も悪い。
(2)厚い眼鏡をかけている。
(3)プラスチックの筆入れにペンを十本入れていて、それをシャツの胸ポケットに差している。
(4)シャツはポリエステル。
要するに、なりふりかまわず勉強ばかりしているバカが nerd というわけだ。世間の流行がどうなっていようが目もくれず、ひたすら勉強に励むバカ、が nerd なのである。そして昔から文科系の人間よりも理科系の人間の方がよく勉強してたので、理科系のバカ、という意味で使う例が多かった。いうなれば、怠け者の文科系人間が勤勉な理科系人間をやっかんで使った言葉なのだ。
ところが、流行とは無縁なはずの理科系のバカが、このところ、世界の流行の先端に立ちはじめたので、いきおい nerd という言葉もがぜん注目されはじめた。コンピュータの猛威。これである。コンピュータのせいで、被差別者 nerd たちの逆襲が始まった。注意してると分るが、この言葉は最近よく耳にするし、目にもとまる。いまをときめくパソコンの雄アップル社の創立者のひとりスティーヴン・ウォズニャックは弱冠三十四歳の(バカと紙一重の)天才だが、ある雑誌でウォズを特集したときの記事のタイトルは、そのものずばり、「nerd の逆襲」だった。記事を書いてたのはもちろん文科系の人間で、そりゃもうくやしそうに書いてましたよ。
nerd どもが今後もどしどし台頭してくる気配は濃厚だから、もしかすると、この言葉もいい意味に変化してくるかもしれない。なにしろ、言葉なんか、それぞれの時代の気分と力関係に左右される生き物だから、その辺は予想がつかない。でも、いまのところはまだ差別語だ。nerd と発音するアメリカ人たちの下唇の突きだし具合に変化がみられはじめたら、要注意。べーというかんじがなくなったら、意味が変わりそうだな、と判断してかまわない。
ぼくですか? ぼくは体型も姿勢も悪いし、眼鏡もかけてますが、シャツはポリエステルじゃありません。でも、nerd の意味が変わった暁には、そりゃ喜んで、ポリエステルだろうがポリバケツだろうが着ちゃいますヨ。
スノッブ(snob)[#「スノッブ(snob)」はゴシック体]
このところ、流行のテンポが速い。たとえば、カフェ・バー。一九八四年の前半頃までは乱立気味といえるぐらい、あちこちにそのての店を見かけたものだが、いまはすっかり影をひそめた。ついこないだも、わりあい気に入っていたカフェ・バーに久し振りにでかけていったら、閉店の時刻が二時間も早まっていて、入れなかった。「すみません、閉店です」というウェイターの言葉がどことなく力なくて、なんだか「閉店」が「永久的閉店」の意味に聞こえた。古い古いジャズを聞かせるいい店なので、ぼくとしてはつぶれてほしくないが、あの調子だとつぶれるだろうな。なにしろ、閉店間際の時刻にそこにいた客はわずか二人だったのだから。
カフェ・バーが全盛の頃、snob という言葉をあちこちで耳にした。もちろん、カタカナ言葉として使われていた「スノッブ」だ。「ね、最近おしゃれなことしてる?」という台詞を合言葉のようにしていた女性たちが当時のカフェ・バー人気を支えていたが、この「スノッブ」という言葉も「おしゃれなこと」といったような意味で使われていた。「たまにはスノッブな気分になってみませんか」とか「スノッブな気分のすてきなカフェ・バーです」という風な文章もずいぶん見かけたから、ちょっとアコガレのこもった、小さな夢のような言葉として「スノッブ」はあったのだろう。だけど、あいにく、英語の snob にそういう意味はないのである。snob とは、
(1)貧乏人のくせに金持ちのふりをするヒト。
(2)無学で教養もないのに偉そげな口をきくヒト。
である。だから、snob が肯定的な意味で使われることは本来なく、「あいつは snob なんだよなあ」とバカにするように、否定的な意味で使うのが普通なのだ。「snob な気分でおしゃれしませんか」と言われたら「冗談じゃない!」と一蹴するのが、この言葉にたいする正しい態度なのである。「あなたって snob ね」と言われて、ニコニコ笑ってられるヒトは、要するに、マゾ趣味である。
どうしてこういう間違いが生まれたのかといえば、snob は、いうなれば、「灰色」の言葉っぽく見えるからだろう。(1)と(2)は、たとえば、つぎのような図式的言葉に変えることもできる。
「白のくせに黒のふりをするヒト。ないしは、その逆」
だから、そうやってできあがった sonb という「灰色」を「白に近い色」と見るか、「黒に近い色」と見るかで、違いが生まれ、誤解が生じたということだろう。
カフェ・バーの衰退とともにカタカナ言葉の「スノッブ」も鳴りをひそめたが、今後、それが本来の英語の意味に戻るかどうかは分らない。でも、もしも戻ったとしたら、この言葉をどういうニュアンスで使っているかでそのヒトがどういう時代を生きていた日本人であるかが判断できるようになるだろう。
(1)カフェ・バー時代のヒト――「いやあ、近頃の人間は困るヨ。スノッブな心意気というものがないんだ」
(2)ポスト・カフェ・バー時代のヒト――「いやあ、近頃の人間は困るヨ。スノッブな心意気しかないんだ」
もちろん、判断のためには、英語の本来の意味をよおく頭に入れとかなくちゃいけません。もっとも、英語の方も変わっちゃうかもしれないけどね。責任はもちません。
コンセプト(concept)[#「コンセプト(concept)」はゴシック体]
「コンセプト」と「ポリシー」という二つの言葉がほとんど同じ意味で使われている、との話をひとから聞いた。「まさか。嘘でしょ?」と訊くと、「いや、そうみたいだよ」との返事が来た。「たとえば、上司が部下を怒鳴るとき、おまえにはポリシーがあるのか≠ニかどういうコンセプトでその仕事をやってるんだ≠ニか、そう言うわけ。ほとんど代替可能ってかんじ。気分次第で二つのどっちかを使ってる風だね」
多分、「方針」とか「考えかた」とか、そういう意味でこの二つの言葉を使ってるのだろうと思う。まあ、間違ってはいない。でも、このさいだから、両者のちがいをはっきりさせておこう。とりわけ、コンセプト≠ヘ最近めきめき浮上してきた気配だから、ここでちがいを明確にしておくのも無駄じゃあるまい。
(1)コンセプト、すなわち concept とは「夢」である。
(2)ポリシー、すなわち policy とは「現実」である。
どうです、分りましたか? 早トチリしてもらっちゃ困るが、もちろん、それぞれの英語が「夢」「現実」という意味じゃない。両者のちがいは「夢」と「現実」のちがいに匹敵するということである。具体的に言おう。
(1)concept とは、ある考えがひらめいて、それが頭のなかでどんどん膨らみ、徐々に形をなしてくること。というか、形をなしてきた考えそのものを concept と呼ぶ。concept が形容詞になると conceptual になるが、きわめて素頓狂な芸術 conceptual art を思いだせば、concept の意味もすんなり分るだろう。これは、なんと、「かくかくしかじかこんな風な芸術作品を作りたい!」となんらかの形で意思表明さえすれば、じっさいに作品を作らなくとも、「お! 傑作」という扱いをうける、素晴らしい芸術なのである。こういうのはちょっと製作不可能なんじゃないの、といったような代物も、この分野では、なにしろ頭のなかの産物なのだから、製作可能だ。
(2)policy は、その点、きわめて現実的。「方針」というと聞こえがいいが、要するに、「戦略」である。「現実的な知恵」である。夢もへったくれもこの言葉にはなく、もっぱら「作戦」しかない。
どうです、これではっきりと分りましたか? ある concept を実現するためにはある種の policy が必要かもしれないということはあるだろうけれど、二つの言葉はまるで別種の言葉なのである。よって、代替は不可能。気分次第でどっちかを使うというわけにはいきません。だから、無知な上司がこれらの言葉をいいかげんに使って怒鳴りつけてきたときは、これからは清く正しく反論しましょう。
「おまえにはポリシーというものがあるのか!」と言われたら、
「はあ。コンセプトならありますけど……」と答え、
「どういうコンセプトでこの仕事をやってるんだ!」
と言われたら、
「そんなことより、仕事にはポリシーの方が大事ですよ」
と答えましょう。「ふざけるな」と怒られますけどね。
シミュレーション(simulation)[#「シミュレーション(simulation)」はゴシック体]
simulation という言葉の意味は簡単で、「予行演習」である。たとえば、火災避難訓練などもそのひとつで、小学校や中学校でやったあれほど楽しいものはなかった。授業の最中にとつぜんリンリンリンとベルが鳴り、「そら来た!」とばかりに校庭に駆けだす。「おい、こら、走るな! 落ち着いて、落ち着いて!」としらじらしく怒鳴る先生の声を無視して、ニコニコ顔で校庭に整列する。よく見ると理科室あたりから煙がでていて、それは発煙筒だ。「よく、できました。本当に火事になったときも今日みたいに落ち着いて行動しましょう」と校長先生が言い、ぼくらは授業がつぶれたのを喜ぶ。
simulation とはこれだけのことである。なにかの事態が起こったときにあせらないように、その「なにかの事態」に似たような状況を作りだし、「そのときの行動のしかた」を練習することだ。
ただ、simulation という言葉がこのところ注目されはじめたのは、ニセモノの「なにかの事態」がホンモノの「なにかの事態」とそっくりになってきたからである。極端な話、理科室で発煙筒を燃やしてる程度の simulation は遠い昔の話となり、いまは、試しに学校全体を燃やしちゃったりするのである。ちょっと極端すぎたか。
世界最初の宇宙飛行士のひとりであるアラン・シェパードは、宇宙船で宇宙に飛びだしたとき、まるで感激しなかった。「いやあ、宇宙の風景は素晴らしい」などと御挨拶のひとつやふたつは言ったかもしれないが、内心ではぜんぜん感動してなかった。つまんなかったからではない。そんな風景は、地球上で訓練されている間に何百回も見てきたからである。「よし、訓練のときと同じだ」と、落ち着いたものだった。この話はトム・ウルフの傑作ドキュメント『ライト・スタッフ』に載っているが、宇宙時代のスタートとともに、simulation はかようにますます過激に、精緻になってきたのである。だから、宇宙時代以前のヒトと以後のヒトとの間には、当然、ホンモノの「なにかの事態」にたいする反応のしかたにおおきな開きがでてきた。
(1)以前のヒト――「あ、火事だ!」
(2)以後のヒト――「あ、あれが火事なんですか!」
simulation は、本来、「なにかの事態」に似たような状況を作りだして「そのときの行動のしかた」を練習するものだったのだが、これをやりすぎた結果、(2)のような反応の悠長なヒトが誕生してしまったのである。それどころか、「ほんとにあれが火事? 嘘だろ? 練習のときの火事はああじゃなかったぞ。まじめにやれよ、まじめに。こんなじゃほんとの火事になったとき困るじゃない」とも言いかねないのである。simulation 中毒者には、「ほんとの火事」は永遠に来ないのだ。
ヘヴィメタル(heavymetal)[#「ヘヴィメタル(heavymetal)」はゴシック体]
新しいジャンルは新しい言葉を引っさげて登場するのが、歴史の教えるところである。もっとも、新しい言葉があって新しいジャンルが生まれるのか、新しいジャンルがあって新しい言葉が誕生するのか、その辺は鶏が先か、卵が先か、にも似ているが、ロック音楽の新ジャンル(でもないかな)、ヘヴィメタルなど、その一例だろう。日本人の間では「ヘヴィメタ」と略される、あのギーン、ギーンの音楽の名称だ。
ところが、このヘヴィメタル、すなわち、heavymetal は、多くの新しい言葉の例にもれず、きわめて定義があいまい。新語辞典を引いても、いくつかのロック・グループの名前が並べてある程度で、要するに、よく分らない。「強烈なビートに金属音を強く響かせたサウンドが特徴」と説明してある辞書もあるが、こんな説明では、じゃあ、ステンレス鋼板をビーンビーンぶっ叩きゃヘヴィメタになるわけ? といった疑問もでてくるだろう。じっさい、ぼくはロック好きの多くの友人たちに「ヘヴィメタって何?」と一時期訊いてまわったことがあるが、だれひとり、明解な説明を加えてくれなかった。
「なんとなく分んない? ほら、その、heavy でさ、metallic なんだよ。うるさくってさ……」これじゃ、分るわけがない。
以下は、したがって、ぼくの試論。ミュージック・ヴィデオをじっくりながめ、ヘヴィメタルと称されるロック・グループをじっくり観察した結果、つぎのような定義をついに発見した。いまのぼくの気分は、かの辞書の王様ノア・ウェブスターの心境にほとんど近い。
ヘヴィメタルとは、
(1)モーツァルトのように髪の長いヒトが集まってやる音楽である。
(2)そのヒトたちの上半身は裸同然で、皮革ジャンを素肌にはおっている。
(3)演奏につかうギターはあの女体の形をした昔ながらのものとは程遠く、鋭角を基調にして造られたものが多い。くさび型、星型etcで、材質はもちろん metal、すなわち金属である。
(4)ギターは楽器というよりは刃物で、その鋭角を十二分に駆使すれば、敵の首根っ子も抑えられるし、ぐいと突き刺すことも可能である。
まあ、ざっとこんなところ。ヴォリュームが高いといった音響的な面、ブルースっぽいところがあるといった芸術的な面は、このさい無視したが、それというのも、右の四つのスタイルをこなさねばとても heavymetal とはいいがたいからである。その意味で、このジャンルの音楽人はスタイリストである。
もちろん、ケタクソ悪い! と言って水でもぶっかけてしまいたいヒトたちも多くいるにちがいない。しかし、このスタイリストたちのスタイルは、少々水をかけられようがすぐに乾くていのものなのである。もいちど、右の四つを御覧あれ。
エグゼクティヴ(executive)[#「エグゼクティヴ(executive)」はゴシック体]
響きが良くて立派そうな言葉も、乱用されると、ぐーんと質が落ちる。というか、響きが良くて立派そうな言葉はいずれ乱用されることになるのでもとから質が落ちる運命にある、というべきか。言葉は変わるのである。意味も、質も、格も。昨日の栄光の言葉も、今日はタダの言葉になってることもある。
executive という言葉は、昔は多分、品格あふれた立派な言葉だったのだろうと思う。多分、と書いたわけは、いうまでもなく、その品位もいまじゃすっかり地に落ちたからだ。日本航空が無節操に executive を乱発したからだとは言うまい。航空会社のみならず、あっちでもこっちでもこの言葉はやたらめったら使われたのだから。
executive は、本来、エリートにだけ使われた言葉であり、いうなれば、栄えある階級章だった。高貴な生まれとは縁のない平民が努力に努力を重ねてとうとう手に入れるエリートの証し、それが executive だった。貴族出身ではなく平民であるところがミソで、努力すればだれでも、というわけではないが、原則としてはだれでもこれになれた。executive は、一言で言えば、「権力者」だが、その権力を支えるのはかれ、ないしは彼女自身の実力と努力であり、生まれは関係なかった。
(1)平民
(2)努力
(3)権力
この三つが executive の構成要素というべきだろう。アメリカの大統領がときどき the Executive と言われるのをみれば、上の要素の正しさが分るはずだ。
executive と親類関係にある言葉に executioner がある。これはずばり、死刑執行人、の意味である。だから、executive たる人物には他人のクビをはねる力が少しはある、と考えていいだろう。凄い executive になると、皇帝ネロのごとく、executioner でもあった。
しかし、こういったことはすべて過去の話で、executive の現在はといえば、惨々たるものだ。前にあげた三つの要素のうち、残っているのは(1)と(2)で、(3)などどこかへ消えてしまった。したがって、
(1)努力する平民ビジネスマン
(2)権力はない
というのが、現在の executive である。よくもまあ、ここまで落ちてくれた。
しかし、言葉というのは不思議なものだから、内実がどんなに悲惨に変わっていようが、響きが良ければそれでいい、となんとしてでも使いたがるヒトたちがどっさりいる。かくして、executive は乱用に乱用をされつづけた結果、いっそうタダの言葉になった。日本の会社での「主任」がなんの意味もないように、executive もいまじゃほとんど実力がない。みずから、executive を名乗るようなヒトに出会ったら、まあ、バカなんじゃないの、と判断して間違いない。保証する。
スタンス(stance)[#「スタンス(stance)」はゴシック体]
エッ?! と驚いた。stance が、「その件につきましてはウチはかようなスタンスで臨んどります。はい」といった具合に使われてる、と聞いたのである。「つまり、態度≠ニか姿勢≠チてことかな……」と訊きかえしながら、ぼくは、吉行淳之介が昔にどこかで書いてたことを想いだしていた。吉行という作家は姿勢≠ニいう言葉が大好きで、態度≠ニ使った方が普通のときでもかならず姿勢≠使ったのだが、その理由を吉行が書いてるのをどこかで読んだのを想いだしたのである。
……姿勢≠ヘ性を連想させるので気に入っている。体≠ニ書かずに躯≠ニ書くのも同じ理由。……
ひょっとすると、ぼくの勘違いで、吉行の文章じゃなく、だれかの吉行淳之介論にそう書いてあったのかもしれないが、まあいい。ともかく、ヒトは自分の気に入った言葉を知らず知らず、ないしは故意に使うものなのだ。
さて、stance だが、たしかにこの言葉には姿勢∞態度≠ニいった意味がある。でも、おなじく姿勢∞態度≠ニいった意味の attitude と比べると、ちょっとかんじがちがう。辞書を引くと、それぞれがそれぞれの類義語になってるけれど、stance の方が、吉行流に言うなら、体位っぽい。とつぜん、体位、なんて言葉を使って恐縮だが、まあ、言っちゃった以上は、 stance と attitude をそれで区別してみようか。
(1)stance は体位の物理的効果を重視。
(2)attitude は体位の心理的効果を重視。
あーら、困っちゃった。今度は体位における物理≠ニ心理≠フ相関関係を論じなくちゃならなくなったが、紙数もないし知恵もないからそれは割愛。具体的に言い直す。
(1)性交のさい、なによりも形を重視するヒトは、stance のヒト。
(2)性交のさい、形は尊重するけれど、まあ、この程度でもいいんじゃないの、と妥協するヒトは、attitude のヒト。
しょせん類義語同士の言葉を分別するというのはなかなかに厄介だな。
ところで、stance がもしも日本でかなり普及してきているとしたら、それはほぼ間違いなく、ゴルフの普及のおかげだろう。スタンスのとりかたがいまひとつだ、とコーチに叱られてきたゴルフ愛好者たちが、そうだ、スタンスだ、足の構えがいまひとつだからウチの会社は伸びんのだ、と使うようになり、現在に至った。形さえピシッと決めればあとはうまくゆく、という異常なまでの楽天性に支えられた言葉。それが日本語における stance だ。
オーセンティック(authentic)[#「オーセンティック(authentic)」はゴシック体]
この言葉 authentic が使われだしたのは、一九七〇年代後半、ブランド物がもてはやされるようになった頃からである。「ルイ・ヴィトンのバッグはやはりちがう。歴史を生き抜いてきたホンモノは一味も二味もちがうもんだねえ〜」という具合に。(べつにCMじゃありません)「ホンモノだ!」という感動の溜息とともに使われた。これが authentic のいうなれば第一期だった。
ブランド物の人気が高まってくるにつれてじわじわとどこからかニセモノのルイ・ヴィトンやニセモノのグッチが姿を現わしたのは御承知の通りだが、こうなると、「ホンモノだ!」と溜息をついてホンモノを愛用していたヒトたちが、「なにヨッ、あたしのはネ、ホンモノのルイ・ヴィトンよ!」と怒りの叫び声をあげるようになった。authentic は、こうして第二期に入った。
やがて、利にさとい新進デザイナーたちが「なにも世の中、ルイ・ヴィトンだけじゃないさ」とばかりに自分たちのブランドを作り、それはそれなりにカッコも良く、モノも悪くない品物を売り出した。こうなると、昔は「ホンモノだ!」と溜息をついてルイ・ヴィトンを使っていたヒトたち、ちょっと前は「なにヨッ。あたしのはネ、ホンモノのルイ・ヴィトンよ!」と怒りの叫び声をあげていたヒトたちが、「ケッ、成上がりのくせして。ホンモノはそういうもんじゃないのよ!」と、ルイ・ヴィトンのバッグをひしと胸に抱きしめ、新進ブランドに軽蔑の視線を投げるようになった。これが、authentic の第三期で、まあ、いまはこの時期に当たる。
整理しよう。
(1)第一期――幸せな幼年期にも似て、なんのてらいも気取りもなく、「ホンモノ」という意味で使っている。
(2)第二期――多感な思春期にも似て、自己主張が強い。「ひょっとしたら、あたしのもニセモノなのかしら」という内心の不安を秘めてるあたりも思春期そっくりで、「ホンモノよ!」はほとんど祈りである。
(3)第三期――不惑の中年期にも似て、他のものに耳を傾ける用意がない。「ホンモノはホンモノでホンモノだから、したがってホンモノだ」と奇妙奇天烈な論理である。
authentic は、「ホンモノ」という意味だがその使われ方にはかようなまでの微妙な違いがあるということである。「ホンモノ」という意味の別の言葉に genuine というのがあるが、これはどっちかというと「純度」をハカリにする「ホンモノ」なので、まあ、ある程度は客観的判断も可能である。だが、authentic は、「信頼」がハカリなので、客観的測定は不可能といっていい。信じるか信じないかが問題だから、だれがなんと言おうとも「これはホンモノなのだ!!!」と思いこみさえすれば、だれでもルイ・ヴィトンの authentic なバッグは持てるというわけだ。気分の言葉の、これは代表格である。
コンテンポラリー(contemporary)[#「コンテンポラリー(contemporary)」はゴシック体]
contemporary とは「同じ時代を生きている」という意味で、夏目漱石と森鴎外はコンテンポラリーだった、という具合に使うのが昔ながらのやりかたである。歴史的にみて同じ時代、同じ時間帯のなかに生きていた、というのがこの言葉のもともとの意味だ。
ところが、このところ、この「コンテンポラリー」の使われかたに微妙な変化が生じてきたようで、
「漱石と鴎外はコンテンポラリーだよ」
とでも言おうものなら、
「エッ、ホント? 村上春樹なんかと同じくらいにコンテンポラリー?」
といった返事が戻ってきて、一瞬、「?」となったりするのである。「コンテンポラリー」なる言葉が、現代感覚あふるる、といった意味で使われている。
音楽の方にも「ブラック・コンテンポラリー」というジャンル(のようなもの)がしばらく前から登場してきているようで、これは、音楽好きの友人の話では、ブルースでもダンス・ミュージックでもソウルでもない黒人の音楽なのだそうだ。「なんかよく分んないね」と言うと、友人は、まあ現代感覚あふるる黒人の軽快な曲ってこと、と説明にならない説明を加えた。そして最後に一言、都会的なんだよ、と。
だから、いまの「コンテンポラリー」は、
(1)現代感覚あふるる
(2)都会的
ということになり、「漱石と鴎外はコンテンポラリーだよ」という言葉も、この二人がともに明治の人間だということを知らないヒトには、「漱石と鴎外は現代感覚あふれた、都会的な作家である」という具合に聞こえてしまうこともありうるわけだ。(じっさい、その通りだったのがおかしいけどネ)
こういう意味の「コンテンポラリー」ときわめて近い意味の言葉に「モダン」があるが、両者の違いは、
(1)コンテンポラリーは、「いま現在」という点
(2)モダンは「現代」という線
といったところにあり、「コンテンポラリー」は「モダン」に含まれることもあるが、その逆はありえない。「モダン」よりもはるかに短い時間帯を指して使うのが「コンテンポラリー」である。発音のよく似た言葉に「テンポラリー」というのがあり、それは「つかの間の」とか「はかない」という意味だが、このふたつは意味もよく似ている。考えてみれば、
(1)現代感覚あふるる→つかの間の
(2)都会的→はかない
と言えないこともないから、きっと、語源は近いところにあるのだろう。いずれにせよ、モダンたらんとするならまだしも、つねにコンテンポラリーたらんとすると、心身ともに疲れ果てること必至である。
フリー(free)[#「フリー(free)」はゴシック体]
新聞や雑誌で原稿を書くと、書いたヒトの肩書きが原稿の末尾なり最初に載ることがある。「東大教授」とか「映画評論家」とか「翻訳家」とかだ。そういう箇所を注意してみていると、このところ、「フリーライター」なるものが目につくようになった。以前からももちろん巷でその言葉は口にされていたが、活字として公にするには、どこかうさんくさいかんじがするので、一般には避けられていた。そりゃそうだろう、どこの馬の骨とも知れない奴がコネを駆使して新聞や雑誌に記事を書き、雀の涙ほどのお金を手にするのが、この「フリーライター」だからである。
そういう日陰者どもがこのところ朝日やら日経といった大新聞に堂々と登場するようになったのは、むろん、市民権を得たからだ。フリーライターの力なしではこれだけ多くの新聞雑誌の文章が埋まるわけはないし、それに、はいッ、なんでも書きまっせッ、という身の軽さが、結局は、腰の重い大学の先生やら作家たちの書くものよりも読みでのあるものを生みだした。まあ、ぼくもフリーライターのはしくれだから、まずは万才、である。
でも、翻訳家のはしくれとしては、「フリーライター」という言いかたには抵抗がある。これが free writer なのか freewriter なのかは多分だれにも分るまいが、どっちにしても、こんな言葉、英語にはないのだ。いや、通じないこともないが、その場合、意味はこうなる。
(1)ひまな物書き
(2)無料《ただ》で書く物書き
これはまずいと思うのですよ、フリーライターのはしくれとしては。フリーライターの地位も向上したことだし、昔のなんとなく蔑称っぽい和製英語とはそろそろおさらばしたいものです。
"freelance writer" ないしは "independent writer"。これが誤解されない言いかたである。それぞれ「自由契約の物書き」「独立した物書き」ということになるが、まあ、前者の方が一般的だ。"freelancer" という風にしてしまえば、仕事が物書きでもカメラマンでもイラストレイターでもなんにでも使える。
たしかに、和製英語の free writer には、
(3)自由な発想で物が書ける物書き
といった素晴らしい意味も読みとれないこともないが、これは相当に深読みの解釈である。やはり「あいつは(1)だから(2)だよ」といった差別(おっと言っちゃった!)の産物だろう。
朝日その他の大メディアにお願いしたい。肩書きの「フリーライター」は「フリーランス・ライター」に、即刻、変更して下さい。一夜にして「リーガン」を「レーガン」に変更させたあの力量をもってすりゃあ、朝飯前でしょう。それとも、馬の骨的遊民どもなぞ、かまっちゃいられませんか。
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ピーターとペーターの狭間で[#「ピーターとペーターの狭間で」はゴシック体]
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ピーターとペーターの狭間で[#「ピーターとペーターの狭間で」はゴシック体]
USAの第四十代大統領は、最初は「ロナルド・リーガン」として日本のマスコミにデビューした。(元映画俳優で、昔にすでにデビューしていたのだから、再デビューかな、カムバックかな?)ところが、いまではだれもが「ロナルド・レーガン」と言う。だれもが、がおおげさなら、マスコミは少なくとも「レーガン」と言い、「リーガン」とは言わなくなっている。
なぜか……というか、みなさん、覚えていますか?
ロナルド・Rが大統領に就任してまもなくだったか、その直前だったか、マスコミはこう宣言した。「今日からUSAの大統領はリーガン≠ナはなくレーガン≠ナす。そのように表記します。そういう発音が正しいとの通達がありました」
最初は冗談だと思い、バカな、昨日まで「リーガン」だったものが今日から「レーガン」にすぐ変わったりするものか、と笑い飛ばし、友人たちに言った。
「だろ? 長年つづいてきた訳語が一晩で変わってたまるかよお」
ところが、変わっちゃった。マスコミの共同声明以降、マスコミからは「リーガン」はすっかり消え失せた。
ジョージ・オーウェルの『一九八四年』で「メモリー・ホール」という珍奇な機械が幅をきかせていたのを覚えてますか? 現在の事情に合わせて過去の記憶を修正していくという、なんとも空恐ろしい、画期的な機械。
はて、古い映画プログラムの「ロナルド・リーガン」は「ロナルド・レーガン」に、「リ」から「レ」に見えざる手によって差し換えられてるのだろうか? もしも、昔のままなら、遠い将来、小心でマニアックなまでに調査好きな翻訳者は、ロナルド・Rの人名表記に頭を悩ますにちがいない。
「同じ人物が、昔はリ≠ナ、大統領になってからはレ≠ノなってるぞ。なんじゃい、これは。どっちが正しい?」
遠い将来、若き歴史学徒はつぎのようなテーマで論文をものするかもしれない――『二十世紀末日本のリレ=Eシンドローム、あるいはふがいない日本マスコミ』。
もっとも、いま、ロナルド・Rの名前がテクストにでてきたら、ぼくはためらわず「レーガン」と訳すだろう。翻訳者なんざ、大勢に順応する生き物なのだよ。明日から「ローガン」ってことになったら、そりゃあもちろん、「ローガン」にするだろう。大勢の様子をうかがいながら翻訳者は生きる。翻訳者は卑屈な生き物である。
それにしても、『一九八四年』は一九八四年以降、さっぱり噂を聞かなくなった。
『一九八四年』は、一九八四年、売れに売れ、その訳者は翌年、税金に悩んだが、まあ、基本的には喜んだ。
『二〇〇一年』の訳者は、二〇〇二年の税金のことを心配しながらも、二〇〇一年の到来を首を長くして待っている。
これはひとから聞いたお話だけれど、説得力のある話ではある。アーサー・C・クラークはジョージ・オーウェルのようにうまくいくだろうか? 新庄哲夫さん、おめでとう。伊藤典夫さん、うまくいくといいですね。
翻訳は儲からないという話を『翻訳の世界』で小沢瑞穂さんとした。
[#ここから2字下げ]
小沢[#「小沢」はゴシック体] 青山さんは翻訳で食べていけて何年ですか。
青山[#「青山」はゴシック体] 翻訳じゃ食べていけてないですよっ、ぼくは(笑)。
小沢[#「小沢」はゴシック体] 食べていくのは本当に大変。私、翻訳はだれでもできるって言ってるの。好きな本みつけて、コツコツ自分の家でやるのならだれにでもできるでしょ。でも、翻訳で食べていくっていうのは全く別のものだと。だから翻訳をしてみたいという人に「翻訳をしてみたいの、それとも食べていきたいの」って聞くことにしてるの。
でも、翻訳で食べているという言い方にも二種類あると思いません? まず印税だけで食べている人。日本では二十人もいないんじゃないかしら。
青山[#「青山」はゴシック体] 少ないですね。
小沢[#「小沢」はゴシック体] 次に翻訳をしながら原稿料生活っていうか。
青山[#「青山」はゴシック体] 割合として多いでしょう。しかし、印税だけで食べるっていうのは、増刷されなければダメでしょ。
小沢[#「小沢」はゴシック体] 印税で一千万とか、そういう本、一度でいいから、やってみたいですね。
青山[#「青山」はゴシック体] いりません、ぼくは。
小沢[#「小沢」はゴシック体] でも、宝くじみたいに一回くらいそういう経験してみてもいいと思いません?
青山[#「青山」はゴシック体] そうだね。そして「くだらんもんだよ、ベストセラーは」なんて言ってみたいね(笑)。でも、売れて増刷を重ねる本てのは限られてきますからね。いい本が増刷されるわけでもないし。
[#ここで字下げ終わり]
ぼくが言ってる最後の一句――「いい本が増刷されるわけでもないし」――は、捨て台詞だ。売れない翻訳やってるんだもん、このぐらい言わしてもらわなきゃ。でも、この場合の「いい本」は、せいぜい、「いいひとなんだけどねえ」の、あの「いい」と大差ないのが実状なのである。
小林宏明さんに『イングリッシュ・ジャーナル』でインタヴュー。「翻訳は完璧な肉体労働だ」と言いきったかれはいかにも屈強な体躯で、しかも長身。ぼくは見上げながら話をした。
[#ここから2字下げ]
青山[#「青山」はゴシック体] ロックというと、とにかく小林さんがいいと、みんな頼んできますね。
小林[#「小林」はゴシック体] そうですか。でも、ぼくはアメリカのヒッピー文化のようなものが好きで、そのなかのひとつにロックがあったわけだよ。メチャクチャ、ロックが好きで、というわけではなかったけど、一九六〇年代の終わりころ、ロック関係の本をたくさん読みましたね。レコードもかなり聞いた。アンダーグラウンド・カルチャーのことを知るには、ロックは欠かせないものだし、キワモノ的な伝記とかいうんじゃなくて、わりあい社会学的にとらえたものを読んでいました。だから身体で体験するロックよりも、文字から体験するロックが多いかもしれない。
青山[#「青山」はゴシック体] 最初の翻訳は『ボブ・ディラン』ですか?
小林[#「小林」はゴシック体] そう。本としてはね。でもその前に、ロックについての論文を訳していた。
青山[#「青山」はゴシック体] 日本版『ローリング・ストーン』は創刊から休刊までつき合ってましたね。あれは七〇年代半ば。
小林[#「小林」はゴシック体] 創刊からじゃないけど、途中からはほぼ全部つき合った。
青山[#「青山」はゴシック体] 『ローリング・ストーン』の執筆、年に一、二冊の翻訳だけじゃ、生活がたいへんだったんじゃないんですか。
小林[#「小林」はゴシック体] できなかったね。だから塾をやっていた。
青山[#「青山」はゴシック体] 塾で教えていた? いつごろですか?
小林[#「小林」はゴシック体] 一九七二、三年から一九八〇年ぐらいまでかな。昼間は書くほうを一生懸命やって、夜は塾。
青山[#「青山」はゴシック体] 収入はどっちが……。
小林[#「小林」はゴシック体] とうぜん、塾のほうが多かった。ただ『ローリング・ストーン』の仕事を定期的にやるようになってからは、翻訳のほうの収入もまあまあだった。かなり枚数が多かったし、四百字詰原稿用紙一枚千円で、当時の原稿料としてはわりに高かった。
青山[#「青山」はゴシック体] 塾はひとりでやってたんですか。
小林[#「小林」はゴシック体] うん。一時は分校まで持っていて。そっちは人にまかせていた。そのころは裕福だったですよ。だけど子ども相手に、カードを作ってカルタをやらせたり、夏休みにどこかへ連れていったり、教えるってたいへんなんです。気がつくと書くほうがぜんぜん駄目になってる。これではいけないとそっちに力を入れると、教えるほうがなおざりになる。そうすると、やめていく生徒も多くなっていく。それじゃあ、もう書くほうでやっていこう、と思ったわけです。
青山[#「青山」はゴシック体] 書くほうが好きだった?
小林[#「小林」はゴシック体] 損得勘定もあったね。翻訳で生活できるメドも立ったし、それに上の子が学校に上がったので、そろそろよいものを書かなくちゃいかんし、と思ってね。
青山[#「青山」はゴシック体] 塾をやめた時点で、年に五冊ぐらいのペースで翻訳するようになったんですね。ボブ・ディランにしても、ローリング・ストーンズにしても、スプリングスティーンにしても、ビートルズにしろ、ロックのスーパースターというと、ほとんどやってきたんじゃないですか。
小林[#「小林」はゴシック体] そうねえ、かなり訳しているけど、ちっとも売れないねえ。
青山[#「青山」はゴシック体] 売れない?
小林[#「小林」はゴシック体] 売れないねえ。ジェームズ・ディーンなんて、もっと売れるかもしれないけどね。
青山[#「青山」はゴシック体] ぜんぶ、全訳ですね。
小林[#「小林」はゴシック体] 全訳です。主義としてあるかなあ。
青山[#「青山」はゴシック体] そうなんだ。ロックに関した本って、ひどい抄訳が多いから、そのなかで、小林さんのやり方はがぜん光るんだよ。ところで、来る仕事は電話待ちですか?
小林[#「小林」はゴシック体] そうですね。
青山[#「青山」はゴシック体] 自分から、この作品をやらせてくれ、といったようなセールスマン的なやり方は?
小林[#「小林」はゴシック体] いまはぜんぜんやっていない。むかし、ちょっとやったことはあるけど。でもどうも、ぼくが選ぶ本というのはクセがけっこう強いのね。売れ筋のものじゃないんですよね。で、いまはやっていない。
青山[#「青山」はゴシック体] 出版社のほうから訳してほしいという本を送ってきますね。どのくらいでとりかかるんですか?
小林[#「小林」はゴシック体] まず、本を読んで、返事をするときに、いまこれだけ仕事を抱えているから、この本にとりかかれるのが、いついつになる。それでもいいですか、と訊いて、いい、といわれたら、そのときかかえている仕事が終わったら、すぐにとりかかる。
青山[#「青山」はゴシック体] 仕事の時間帯は?
小林[#「小林」はゴシック体] ぼく、朝に仕事をするのね。きょうも四時に起きた。忙しいときは三時半に起きてる。というのは、むかし、身体をこわしたことがあったんだ。それと塾をやっていたせいもある。塾が終わるのが九時か十時、下手すると十一時になる。それから仕事にかかるのはちょっと無理なんだ。十一時にスパッと終わって飲んで寝る。四時に起きて、朝早く六時か七時ころまでやる。飯食って十二時ころまでやって、二時間ぐらい休む。それからまた夕方五時ころまでやる。
青山[#「青山」はゴシック体] じゃあ、朝早く起きて、夕方までやってるわけだ。
小林[#「小林」はゴシック体] そうしないと追っつかないよ。でもね、変な話なのだけれど、年をとったなあと思うのは、むかしなら、三時半とか四時に起きて、コーヒーとペストリーを一個、かならず平らげていたのだけれど、今はまったく食べられなくなった。
青山[#「青山」はゴシック体] それは、絵に書いたような情景だね。ほとんど『モア』の世界、朝もやのなか、一杯のコーヒーとペストリー……(笑)。塾のころからずっと?
小林[#「小林」はゴシック体] そうね。最初は身体をこわしたことがきっかけなんだけど、生活はひじょうに真面目というか、規則正しいですよ。
青山[#「青山」はゴシック体] 仕事をたくさんしている人は、規則的にやっていますね。
小林[#「小林」はゴシック体] 仕事をたくさんやる人は朝早いんだって知ってね。じゃあ朝やろうと……。
青山[#「青山」はゴシック体] 一日十ページぐらいの量?
小林[#「小林」はゴシック体] いや、最初は七ページぐらいから始まって、後半にかけてスピードアップして、十、十一、十二ページ。
青山[#「青山」はゴシック体] そうするとやむをえない用事で、できなかったりするときは、次の日、そのぶん加算するんですか。
小林[#「小林」はゴシック体] というか逆だね。次の日に予定があるときは先に多くやってしまう。七ページ予定していたときに、次の日午前中どうしてもつぶれちゃうとわかっているときには、十二、三ページやってしまう。だから、夕方、グテッとする。これは完璧な肉体労働だね。翻訳業一本でやってゆくとなると本当にね。マイナス面になると、コンサートに行こうとか自分の糧になるような動きとかできにくくなる。
[#ここで字下げ終わり]
プルーストの大作『失われた時を求めて』をドイツ語に翻訳したヴァルター・ベンヤミンも仕事は朝にした、という話をどこかで読んだことがある。ベッドから起きるとコーヒーを持って机にむかい、午前中ずっと、パジャマ姿のままでプルーストを翻訳していたのだそうだ。なにも食べずに、コーヒー一杯だけで。
ベンヤミンは「翻訳者の使命」という題のエッセイも書いていて、そこにこうある。
[#2字下げ] ひとつの器の破片が組み合せられるためには、二つの破片は微細な点にいたるまで合致しなければならないが、その二つが同じ形である必要はないように、翻訳は、原作の意味におのれを似せるのではなくて、むしろ愛を籠めて微細な細部にいたるまで原作の言い方を翻訳の言語のなかに形成し、そうすることによってその二つが、ひとつの器の破片のように、ひとつのより大いなる言語の破片として認識されるのでなければならない。(円子修平訳)
とてもいいエッセイのようなのだけれど、何度読んでも意味がいまひとつつかめないのが苛立たしい。
ベンヤミンはボードレールの詩をドイツ語に翻訳したりもしたが、ボードレールもじつはエドガー・アラン・ポオの作品をフランス語に翻訳したりした。
ところが、このボードレールのポオの訳ってのが、ちょいと御立派で、その離れ業に、後年フランソワ・トリュフォーがまんまと引っかかっている。映画『華氏四五一』撮影中の出来事で、その撮影日誌『ある映画の物語』にその記録がある。
[#2字下げ] 「私がこれから語ろうとするのは、一つの恐怖にみちた物語である。もしこれが事実の記録よりも、感覚の記録でなかったら、やめてしまいたいところだ」――これはボードレール訳によるエドガー・アラン・ポオの『新不思議物語』のなかの一文で、映画のラスト・シーンで画面の手前を横切っていくときのオスカー・ウェルナーに読ませるために引用したのだが、どの英語版にもこれに相当する文章がないのである。フランス語版では『ベレニス』と題された物語の冒頭の第二節にあたる。ボードレールの翻訳はポオの加筆も削除も全部とり入れた独特の混合体で、その結果、ポオのどの原語版にもない文章が入っているということがわかった。
どうです、すごいでしょ。翻訳の楽しみはこれに尽きる。原文にはない、あるいは、はっきりとは書かれていない文章をドバッと、思いきって翻訳(?)し、その翻訳文で読者の心をつかまえ、振りまわすといういたずらの楽しみだ。
ボードレールほど大胆なものじゃないけれど、ずいぶん昔、フィリップ・ロスのぼくの翻訳文のいたずらに中上健次さんが引っかかってくれた。
[#2字下げ] アメリカの現実は私たちを眩惑し、不快にし、怒りに駈りたてている、そして終いにそれは、私たちのちっぽけな想像力では処置しがたいような不可思議なものにまでなる。現に起こっている事柄の方がたえず私たちの才能を追い越し、社会は、ほとんど毎日、作家ならよだれのでそうな現実をほいほいと見せつけるのだ。(『素晴らしいアメリカ作家』)
この「作家ならよだれのでそうな現実」という文章を引いて、中上さんは、「冗談じゃねえ、おれはツバを吐きかけてやらあ」てな意味のことをあるエッセイで書いたのである。「よだれ」に対する「ツバ」なのは明らかだが、じつは原文のどこにも「よだれ」なる言葉はなく、それに相当する語は「羨望」(envy)なのだ。へへ。
翻訳者の喜びなぞ、まあ、ちっぽけなものなんですよ、どうせ。
ところで、ポオの原文にない文章につまずいたトリュフォーはそれからどうしたか。
[#2字下げ] というわけで、ここはエドガー・アラン・ポオの原文のかわりに、ボードレールのフランス語訳をヘレン・スコット女史がさらに英訳したものをモンターグが読むことになった次第だ!(山田宏一訳)
やったネ、である。世の翻訳者はすべからくボードレールを見習うべし。
原著の存在しない翻訳というのもあり、このてのもので真っ先に頭に浮かぶのは「ヴァーノン・サリヴァン著 ボリス・ヴィアン訳『墓に唾をかけろ』」だ。つまり、ヴァーノン・サリヴァンなる男も存在しなければ、その著者の『墓に唾をかけろ』なる本も存在せず、存在するのはただただ訳者のボリス・ヴィアンとその訳書の『墓に唾をかけろ』だけ。
一九四六年、『日々の泡』(あるいは『うたかたの日々』)を書き終えたヴィアンはおもしろい話を知り合いから持ちかけられた。
『日々の泡』の訳者の曽根元吉さんの「訳者あとがき」から引こう。
[#2字下げ] スコルピオン出版社を創設したばかりのジャン・ダルュアンと知りあい、なにかベストセラーになるようなアメリカもどきの小説はできないかと持ちかけられた彼は、注文におうじて八月の五日から二十日まで僅々二週間で、ヴァーノン・サリヴァン作を書きあげた。≪アメリカもどきの≫と言うのは、当時最高の売行をみせていたのがアメリカを見たこともないイギリス人のハドリー・チェイスの『ミス・ブランディッシュに蘭の花はない』だったからであり、ボリス・ヴィアンはその作風をふまえてアメリカンスタイルの贋作を仕上げたのである。ただちに十月に刊行されると、ねらいはあやまたず部数はぐんぐん伸びて翌年二月には早くも三十万部に達したが、良俗を害するものとして〈訳者〉は告発され、さらに四月に入るとモンパルナスのホテルの一室にたまたま起った情婦殺しの現場にこの本がころがっていたという偶発事が発生して、汚名はひとしお高くなった。一九四八年には、作者ヴァーノン・サリヴァンなる人物は実在せず、訳者すなわち作者であることを、法廷で自認する結果になるのだが、このスキャンダルが、ボリス・ヴィアンという人物に疑わしい存在として烙印を押すことになったのは否めない事実であり、彼がヴィアンの名で発表する文学作品もまた当てこみ本位のきわもの作者のものとしてまじめにあつかわれなくなった。彼の作品は徹底的に≪まとも[#「まとも」に傍点]に受けとられ≫なくなったのである。
ヴィアンは原著のある翻訳もしている。その売行、その仕上がり具合は分らないが、つぎのようなアメリカ小説の類いだ。
レイモンド・チャンドラー『湖中の女』。
レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』。
ジェームズ・ケイン『愛らしい、まがいものの愛』。
ネルソン・アルグレン『黄金の腕』。
ヴァン・ヴォークト『Aの冒険』。
ヴァン・ヴォークト『Aの世界』。
ドロシー・ベイカー『トランペットを吹く青年』。
ずいぶん前のことになるが、右のリストの一番最後の本を訳してみたいと思ったことがあった。ジャズ小説のようだという点以外、内容についての知識はゼロだったが、ヴィアンがそれを翻訳したのならぼくも翻訳してみたい、同じ本を翻訳することでヴィアンとつながってみたい、と思ったのである。ぼくもまたヴィアンのかなり熱烈なファンだったのだ。
ヴィアンのフランス語の著作は、読まないだろうとは確信しながらも、手に入るかぎりすべて購入した。その後、ヴィアンの翻訳が著作集となって出版されたが、それらの翻訳はどれもぼくには仮りのものである。訳の良し悪しの問題ではなく、ヴィアンはぼく自身が翻訳しなければぼくのものにはならない、という思い込みがある。ぼくにフランス語の力があるかないか、とはこれはまるで別な問題である。
翻訳者の陥りやすい誤謬としてよく指摘されてきたのは、翻訳者は自分を原著者と勘違いすることがある、という点だ。「ぼくはフィリップ・ロスを翻訳した」がいつのまにか「ぼくはフィリップ・ロスだ」に変化してしまう、そういう現象。サルトルの翻訳者がサルトルになったり、フォークナーの翻訳者がフォークナーになったり(この例はあくまでも喩えで、根拠はない)、けっこうこのての例は多い。そりゃ当然だろう。なにしろ、翻訳というのは他人の文章という、いわば他人の脳の回路のごちゃごちゃに徹底的に付き合う作業なのだから、終わったときに変身していてもおかしくない。
作家の古井由吉さんは、作家になる前、翻訳家でもあったが、作家としてデビューすると、かれの翻訳したドイツの作家たちの作風との類似ないしは影響を云々された。ヘルマン・ブロッホだったかロベルト・ムシルだったか、ともあれ古井さんのデビューはかなりセンセーショナルだったものだから、古井さんの勢いに乗せられてブロッホやムシルに向かった日本人の読者も少なくなかった。ぼくもいくつか読んだが、もちろん翻訳でである。翻訳ででも精読すれば原著者の脳回路に入りこむこともできないわけじゃないが、まあ、翻訳者のが『ミクロの決死圏』的な、いうなれば我が身を賭けての(ちと、おおげさか)侵入だとすれば、訳書を通しての侵入はせいぜいスキャナーを使っての侵入ごっこの域をでないから、ブロッホ=古井=ムシルのトライアングルの秘密はぼくには分らなかった。翻訳者の侵入はきわめて intimate なもので、微妙きわまりない。おっと、つい横文字がでたが、これは翻訳しにくいからで御勘弁を。この横文字の意味は、小学館版英和中辞典によれば、つぎのような具合になっている。
親密な関係にある。親交のある。親しみのある。心のこもった。友情あふれる。懇意な。私事〔一身上〕の。個人的な。〈連想・理解などが〉直接的な。個人的な体験に基づく。〈日記などが〉内心を吐露した。人目につかない。くつろげる。親しめる。居ごこちのよい。詳細な。深い。〈男女が〉性的関係にある。(…と)ねんごろな。内奥の。奥深い。内心の。衷心の。本質的〔根本的〕な……
というようなわけで、翻訳者の変身を誤謬と呼ぶのは一面的である。もちろん、そう言うひとたちの真意がどこにあるかはぼくにも分らないわけではなく、要するに、「ロスを訳したおまえがエラいんじゃなくて、ロスがエラいんだ。それを忘れるな」という風なことをかれらは言いたがっている。それには、はい、異論ありません。
もう十数年前のことになったが、ニューヨークにフィリップ・ロスを訪ねたことがある。ロスの本を出している出版社に電話し、かれの作品の日本の翻訳者である、と名乗り、連絡をとってもらった。多分、「ぼく、ロスさんの小説、大好きなんです!」といきなり電話しても、会うのはむずかしかったろう。翻訳者≠ニいう言葉があのとき威光を放ったのは明らかで、じっさい、自分の小説の日本語の翻訳者≠目の当たりにしたとき、ロスはおどろきの表情を浮かべた。一瞬だったが、ぼくは見逃しませんでしたよ。
こんな小僧が?! ホントに翻訳者なのか、おい……
そんなおどろきがロスの目に、一瞬、あらわれた。当時ぼくは二十代半ばの、いかにも世間知らずのペエペエだったから、かれにそう見られてもやむをえない。それに、話す英語もお粗末きわまりなく、というか、ろくにしゃべれないし、相手の言うこともなかなか分らなくて、しつこく「パードン? パードン? パードン?」と訊き直していた。ロスが、不安に駆られて、こいつ、じつはパーなんじゃないか、と思っても致しかたない雰囲気だった。しまいにロスは、「あなた、わたしの話、分ってますか?」と訊きながら、話をしたものだ。
別れ際、ロスは「翻訳、がんばってください。成功を祈ります」とにっこり笑い、つづけて急に真顔になってこう言った。
「翻訳していて分らないことがあったらどんなことでも質問してください。どんなに小さな、ささいなことでも……」
「はい、そうします。ありがとうございました。さようなら」
しかし、結局一度も質問しなかった。何度か手紙は書いたが、質問の手紙ではなかった。分らないことがひとつもなかったというわけではむろんなく、訊くよりは自分で調べて考える方が楽しかったからである。どうにも調べのつかないものもあったし、どうにも意味のつかめない文章もいくつかあったが、そこはそれ、なけなしの想像力でカヴァーした。いちいち訊いて返事を待って、ああ、そうですか、なんて作業はまどろっこしくてやってられなかった。
意味不明な文章にぶつかるたびに(ロスの文章に限ったことじゃないが)、ぼくはあるひとつの疑問を持ち始め、それはそのうち、信念に変わった。
(1)原著者は自分の書いた文章の意味をすべて心得ているのか?
(2)原著者が自分の書いた文章の意味をすべて心得ているはずはない!
(1)が疑問で、(2)が信念。十数年前ロスはぼくに「質問してください。どんなに小さな、ささいなことでも」と言ったけれど、たとえば、
「この文章であなたが言わんとしてることはどういうことか?」
とか、
「この文章はいくつもの意味にとれるが、それはあなたの意図か、それとも偶然か?」
といった質問にも答える用意があったのだろうか。まあ、なかったろうし、翻訳する人間がそんな考えを抱くなどとは思いもしなかったろう。かれはたんに、目の前のなんとも英語の危なっかしいジャップへの不安を、ああいう言葉で表明しただけなのだ。
しかし、それはそれとして、原著者が自分の書いた文章の意味をすべて心得てるはずはない、と信じている。翻訳者よ、原著者崇拝はやめよう。無益だ。
ネイティヴ≠ニいう言葉があり、翻訳者はときどきこの言葉を使う。
「分んないときはネイティヴの友人に訊くことにしてる。手っ取り早いからね」
こんな具合に使う。つまり、英語なら英語を母国語とするひと、フランス語ならフランス語を母国語とするひと、のことをネイティヴ≠ニいう。
一昔前は、ネイティヴ信仰があった。ネイティヴに訊けばなんでもただちに解決する、という考えかたが支配的で、翻訳上の疑問はぜんぶネイティヴが解いてくれる、と多くのひとは考えた。
「ネイティヴに訊いてみれば?」
「ネイティヴに訊いた?」
翻訳に疑問点が生じ、いろんなひとに訊いても分らないと、そういう台詞がでてきた。
でも、このところ、ネイティヴ信仰はおおいに薄れてきている。
「ネイティヴも分んないみたい……」
こういう台詞をいまはよく耳にする。ぼくもネイティヴの知り合い数人にいくつか質問をしてみたことがあるが、自信たっぷりの返事をもらったことは一度もない。こっちだって、それなりにたっぷり考えた末に質問しているのだから、そう簡単に答えられてはたまりませんのだが、案の定、いつもダメだった。
トム・ウルフの『そしてみんな軽くなった』を翻訳していたとき、日本語の達者な才人のネイティヴに質問を持っていった。すると、かれはテクストをちらりと見るや、「こんなの、分んないよ。あのトム・ウルフでしょ? あのひとの英語、めちゃくちゃなんだもの」と言った。
「でも、なんか、意味はあるんじゃないの?」
ぼくの分んなかった英語とはニューヨークのチンピラの会話で、それがウルフ自身が描いたイラストレーションに字幕のようにして付いていた。
「どうお?」
しつこく喰い下がるぼくに、相手は下唇を突きだして「ゲェーッ」といった顔で、つぎのように言った。
「要するにさ、ニューヨークのチンピラのでたらめなしゃべりかたを再現してるんじゃないの? それだけのこと。意味は二の次だと思うけど」
ネイティヴがこれほど有益な助言をしてくれたことはなかった。意味は二の次、か! この助言にはおおいに元気づけられ、その晩、あっという間にその謎の文章を翻訳してしまった。意味は二の次、意味は二の次、とつぶやきながら。
畑中佳樹さんと斎藤英治さんがわが家に遊びに来ていた。ぼくのところは子供が生まれてまもなくてなにかとあたふたしており、その日はおばあちゃんが手伝いに来てくれていた。
なにかの拍子で、紙オムツが話題になった。いや、なにかの拍子もクソもなく、要するにクソかオシッコを赤んぼがしたので、オムツを替えようということになり、そのあたりから紙オムツが話題になったのだろう。
「最近の紙オムツ業界は凄いのヨ……」と、ぼくとカミさんは競うようにして昨今の紙オムツ事情を畑中・斎藤の両氏に話し、ようやく一般化して普及するとともにいよいよ競争が激しくなってきた紙オムツ業界のことを、まるで業界通のごとく、しゃべった。
「昔と比べたら、ホント、楽になったもんネ」とおばあちゃんは言った。
「布オムツの方がやっぱりかぶれなくていいんで、そっちは貸オムツでやってるんだけどネ、貸オムツの回収のお兄さんの話でも、最近はもう紙オムツに押されっぱなしなんだって……」
と、なぜか嬉々としてぼくは言った。
「ホント、凄いわよねえ。ムーニーとかマミー・ポコとかメリーズとか、いろんな名前のが並んでて。前はパンパースぐらいしかなかったわけでしょ、凄い変化よ」と、カミさんが言った。
そのときだった。なんでオムツの話を聞かなきゃいけないわけ? と、いかにもつまんなそうな顔をしていた畑中さんが目をキラリと輝かせて、
「パンパース?」
とつぶやき、
「いま、パンパースって言いました?」
とカミさんをにらんだ。
「言いましたけど」と、カミさん。
「紙オムツの名門さ」と、ぼく。
畑中さんはなにやら興奮してきた模様で、そうかそうか、とひとりで納得していたかと思うと、つづけて、期待のこもった眼差しでぼくとカミさんを見、
「あの……アダルト・パンパースって知ってますか?」
と訊いてきた。かれの話だと、かれが翻訳している最中のサム・シェパードの本にこのアダルト・パンパース≠ェ出てきていて、その言葉の意味が分らず、困っていたそうなのである。
「うーむ。ニュー・パンパースなら多分聞いたことあるけれど、アダルトはねえ……。ひょっとして、大人のおもちゃ的な、SM的なオムツかしら」と、ぼくはいいかげんなことを言った。
「やっぱりダメか。でも、パンパースって固有名詞かもしれないって分っただけでも大収穫です」と、畑中さんは明らかにしょげかえっていた。
と、そのとき、おばあちゃんが「アダルトってどういう意味?」と訊いてきた。「大人、ですよ。だから、そのまま訳せば、大人のパンパースってことかな」とぼくは答えた。やにわに闇が明るくなった。
「それじゃあ、お年寄り用のオムツじゃないのかしらねえ。近所の××さんのところでもおじいちゃんが寝たきりで紙オムツを使ってるって話だけど、あれがそれなんじゃないの?」と、おばあちゃんが言ったのである。
「どお、畑中さん」と、カミさんが訊くまでもなく、かれの目はふたたび輝いていた。今度はテーブルをつかんでもいた。
「そ、それだ! 年寄りのオムツだ! 話の辻褄も合いますよッ!」
後日、興奮も醒めて落ち着いたかれは、この件にふれてこう言った。
「人間ひとりひとりが辞書です」
『ブルータス』の編集部を引退して休息と充電の日々を過している都築響一さんを訪ねていき、雑談。と、休息宣言をしてもなにかとかれに協力を仰ぐ人々もいるようで、その関係から話は翻訳のことになり、アメリカのおもしろそうな作家に小説の執筆を依頼したいんだけれどネ、という話題になった。都築さんの凄いところはいつもそういう発想をする点で、おもしろそうな作家のおもしろそうな作品を見つけて翻訳しようというのじゃなく、直接頼んじゃおう、と思考する。
たしかに、こちら側(というのは日本)の雑誌にページがふんだんにある場合は、おもしろそうな作品を見つけてきて訳すのが手っ取り早い。でも、最近の日本の雑誌の場合、ページ数があらかじめ決まってるケースが多く、その範囲のなかで選ぶ必要が出てくる。ゆえに選びにくい、というか、探すのがむずかしい。かくして、字数を決めて頼んじゃおうか、という発想が出てくる。いや、いよいよ出てきはじめた、というところで、都築さんあたりがその先駆者のひとりである。
「でも、そういう場合、ハズれるとエラいことになるんだ」とぼくは言った。「おもしろい作品に仕上がってりゃいいよ。だけど、もしもひでえ出来だったりすると、困る。締切りの間際にようやく届いた原稿がつまんなかったら、どうします?」
かれの返事は美事だった。なんとも飄々とした顔でつぎのように答えた。
「そこは翻訳でカヴァーしなきゃ」
ここで、話はとつぜん変わるが、『翻訳の世界』で宮脇孝雄さんが編集部のインタヴューに答えて、翻訳の裏話をもろもろしゃべっていた。かれとは二、三回ぐらいしか会ったことないが、それというのも、仕事の速い宮脇さんには仕事の超遅いぼくなど、畏れ多くて近寄れないのだ。
「最初の頃は食えなかったですよ。毎月一冊、年間十二冊やろうとして、九冊で引っくり返っちゃいまして、肝臓やられて三カ月入院しました」といった発言なんか、ぼくは読んだだけで横っ腹を押えてしまった。編集部の紹介文には「目下、年末を目標に千三百枚と千五百枚のミステリーの大作が一日十〜二十枚のペースで根気よく進行中」とあったが、こういうのを見ると、ぼくなぞ恥ずかしく「翻訳家」を名乗る勇気がなくなる。
そのインタヴューで、アメリカの若い作家パジェット・パウエルの『エディスト物語』の翻訳について、宮脇さんが話していた。翻訳したのは宮脇さん本人で、ちょいと愉快な発言だ。
「この『エディスト物語』がまた、ものすごく読みにくい、飛躍の多い文章で、翻訳読んでも皆三十ページで落っこってしまう。最後まで読めなかったという人が多いんです。原文のほうは十ページも読んだらやめたくなるんで、三十ページまで読ませてしまうというのは翻訳がまだ未熟ではないかと反省している」
どうです? この発言の愉快さ、この発言にこめられた翻訳者の怒りと誇りがお分りになります? 分んねえだろうなあ。
宮脇さんは、つまんないものをおもしろくしたぞ! と言っているのである。十ページしか読めない代物を三十ページまで読ませたのだから、三倍おもしろくした、と。
「そこは翻訳でカヴァーしなきゃ」という都築さん的な要求に、どうだ、翻訳者は応えつつあるのである。話がつながった。
ちなみに、『エディスト物語』は原文と翻訳の双方をぼくは読んだ。原文は十二ページ目で落っこち、翻訳は最後まで読んだ。書評しなきゃならなかったんだもの、そりゃあ、最後まで読むよ。書評の用事がなかったら?……うーむ、原文でつまんなかったんだから、多分、ぜんぜん読まなかったね。
翻訳、なにぶんにも不利な場所にいるのですよ。
「悪文」と呼ばれるものがある。文章になってないひどい言葉の群れを指してそう呼ぶ場合もあるが、そういう否定的な使われかたは稀で、たいていは肯定的な意味合いをこめて使う。なんだか読みづらいが、我慢して読んでいくとひとつの味わいがでてくる、そういう種類の読みづらい文章を、「悪文」と言う。言い換えると、一個の文体になっているのだ。日本の悪文家として定評のあるところでは大江健三郎がいるし、ぼくなんかには、金井美恵子もそのひとりに見える。吉田健一や蓮實重彦や野坂昭如のことを悪文家だと言うひともいたし、いまもけっこういるだろう。
読みづらい文章を我慢して読むとはなんて物好きな、といった考えかたもあるが、この味は、いったん覚えると、ちょいと止められない。読みやすい文章は、その読みやすさゆえに、つるんとした印象しか、というか、鮮やかな印象を残していかないが、読みづらい文章は、読みづらいがゆえに、印象を否応なく残していく。そんな手応え、というか、引っ掛かり、そういうものが悪文の魅力である。
さて、金井美恵子や大江健三郎の文章が読みづらいのと同様、あちらの国々にも当然あちらの読者にとって読みづらい作家、悪文家がいるはずである。そういう作家の文章を翻訳する場合、どうするのか。原文を尊重して読みづらく訳すのか、はたまた、翻訳の読者を尊重して読みやすく訳すのか。
いや、それ以前にもうひとつの問題が横たわっているから、悪文の翻訳はなおさら厄介である。すなわち、これはホントに悪文と見なしていいんだろうか……ひょっとしたらおいらに語学力が足りないだけの話じゃないかな……と悩んでしまうのだ。
つぎに引用するのは生田耕作さんの『るさんちまん』からの文章。シュルレアリスムの親分のアンドレ・ブルトンは悪文家であったのかどうか、という判定についての意見だ。
[#ここから2字下げ]
雑誌『美術手帖』の〈シュルレアリスム特集号〉(昭和四十五年十二月増刊号)に大岡信氏が「埃が笑うまで」という文章を寄せているのが偶々目についた。そのなかで大岡氏は、拙訳『シュルレアリスム宣言』(人文書院版)の一節を引用し、ブルトンの原文と生田訳との間に横たわる、大岡流に言えばニュアンスの違いを指摘したうえで次のように結論する。「それら(ブルトンの原文)はフランス語としてさえ、ブルトン自身認めるように、頭がヘンになる文章なのだ。それを日本語に移そうとすれば、多かれ少なかれ、ブルトンが明らかに薄闇の中、薄明の中にぼかして用いている言葉の意味を、訳者の決断によって、明るみに出してしまわねばならなくなる。それに、その方が何だか意味も通りやすく思われるのだ。」
右の大岡説のなかで、私がまず第一に承服しかねるのは、「ブルトンが明らかに薄闇の中、薄明の中にぼかして用いている言葉」という断言である(同じ文章のなかで繰り返し述べているところによれば、大岡氏は明確な断言がお嫌いのはずだが)。すくなくとも『シュルレアリスム宣言』にかんするかぎり、著者が言葉をぼかして用いている個所は皆無であると私は断言してはばからない[#「私は断言してはばからない」に傍点]。大岡氏がブルトンの語法のなかに大量に含まれているという「仄めかし、暗示、省略」と、「ぼかし」とはこの場合まったく別物であることはいうまでもない。
(中略)
きたんなく申せば、フランス語という外国語を媒介にするときは、大岡にとってぼやけて見えるものが、生田にとってはより明瞭にうつることもありうる[#「ありうる」に傍点]、というしごく簡単な、語学能力の差異に起因しているといえるだろう。『シュルレアリスム宣言』ほど明晰な論理でつらぬかれ、厳密な用語使用を模索した[#「模索した」に傍点]著作はほかに見当らず、著者が言葉をぼかして用いている部分などは一個所もないというのが、私のゆるがぬ意見である。
[#ここで字下げ終わり]
この文章は前衛文学≠やたらと難解に(読みづらく?)訳したがる「しょうことなし」難解派翻訳家たちを批判した文章だが、フランス語の読解力が皆無同然ゆえ、ぼくには判定能力はない。でも、大岡信さんが言っていること(「それらはフランス語としてさえ、ブルトン自身認めるように、頭がヘンになる文章なのだ」)には、そうかもしれませんネ、と同意したい気持が働く。そういうことはありうるんじゃないか、と思う。生田耕作訳のセリーヌ『夜の果ての旅』に熱狂した数多くの日本人どものひとりであるぼくだが、この点については、大岡さんの意見が当たっていてほしい、と願う。大岡さんの語学能力とは関係なく、にである。だって、生田さんの論は、外国語のまるきしダメな読者たちに、外国語で書かれた文章はすべて明晰なものなんだ、という誤解を与えかねないもの。よく読めば生田さんはそんなことは書いちゃいないのだが、読むひとがよく読むとは限らない。
ともあれ、魅力ある悪文はすでに名文でもあるというところに、諸困難の原因が存するのは、まちがいない。
ジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』は愉快な映画で、いたるところに「ぷふ」と吹きださせる仕掛けがほどこしてある。この映画について、ぼくは『てんとう虫』につぎのような紹介文を書いたことがある。
[#ここから2字下げ]
この映画は、一言、基礎英語講座映画である。英語学習者は必見の映画である。その証拠に、主要登場人物四人のうち三人がハンガリー人で、その三人が、ハンガリー語で話せばいいものを、なんと英語でおしゃべりしている。ただひとり、婆さんだけは意地でもハンガリー語をしゃべりつづけるが、それを受ける若者二人は英語で答え、婆さんはしまいに "son of a bitch" と英語で罵倒する始末。いやはや複雑、というかへんちくりん。婆さんの「タンキューベリマッチ」(この片仮名通りの発音だぜ、おい)の繰り返しには、英語学習者を励ますものが力強くあった。おっと念のために講義しときますが、"son of a bitch" は汚ない言葉の白眉ですから御使用のさいはくれぐれも御注意の程。
[#ここで字下げ終わり]
舞台はハンガリーじゃなく、アメリカだ。ニューヨーク→クリーヴランド→フロリダということになってるが、主要人物の四分の三がハンガリー人だというのがひとつ、かれら以外の登場人物はほとんどゼロだというのがもうひとつの理由で、まるでアメリカってかんじはしない。タイトルの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』は、いろんな意味にもとれるけれど、「パラダイスってかんじがしない」というような意味合いもある。パラダイスってかんじがしない、アメリカってかんじがしない、なんか変だな、というのがこの映画全体のトーンで、「!」と「?」に支えられていると言っても言い過ぎじゃないだろう。間《ま》のとりかたが絶妙だから笑っちゃうのだ、と映画通の友人は講釈してくれた。
ところで、この映画で教わった英語表現のとっておきは "I am choking the alligator"(直訳は「ワニの首を締める」)。ニューヨークでは「部屋を掃除機で掃除する」という意味で使うのだと、ハンガリー人Aがハンガリー人Bに教えていたものだが、わたし、こんなの、初めて聞きましたし、俗語辞典にも載っとらんでした。ニューヨークの下水道にはワニが繁殖してるとの噂はかねてからありますけどね。
そしてこないだ、ジャームッシュの新作『ダウン・バイ・ロー』を見て、今度は、これは翻訳家および翻訳愛好家必見の映画である、と実感して帰ってきた。ロベルト・ベニーニというイタリアの名コメディアンがイタリア人旅行者として登場するのだが、こいつが無類のアメリカ詩の愛好家で、やたらとアメリカ詩を朗唱する。とりわけウォルト・ホイットマンとロバート・フロストという国民詩人ともいえる二人の作品が大好きで、アメリカ人の前で、アメリカは素晴らしい国だとばかりに、朗唱するのである。しかし、それを聞かされるアメリカ人の方は、キョトンとしている。詩への興味がゼロだからとか、無関心だからとかいうのじゃなく、たんに分らないのだ。なぜ分らないのかというと、その詩はイタリア語なのだ。イタリア語で発されているのである。イタリア人のアメリカ詩愛好家はイタリア語に翻訳されたホイットマンなりフロストを朗唱していた。
イタリア語のフロストを聞かされたアメリカ人トム・ウェイツは「フロストね……イタリア語の……」とぼそりとつぶやいて、まいったネとばかりに首を振っていたが、ベニーニはいかにもうっとり顔でフロストを朗唱しつづけた。マカロニ・ウエスタンならぬマカロニ・フロストないしはマカロニ・ホイットマンが出現するこの朗唱の場面は、ぼくには『ダウン・バイ・ロー』のどの場面よりも印象強烈だったし、おかしかった。そして、ぼく自身の頭の隅っこには日本語のホイットマンが、だれかのホイットマンの日本語訳がちょっぴり浮かびあがってきたものである。
英語が完全に話せないアメリカ人でない人間を映画によく登場させるのはなぜか、とインタヴューで訊かれたとき、ジャームッシュはつぎのように答えた。
「自分がいる場所の文化に対してエーリアンであるような人間にぼくは関心がある。彼らは意味をとり違えるが、別なものの見方をするから。同じストーリーや同じテーマをくり返すつもりはなかったが、ぼくの映画は三本ともアメリカについての映画だ。だから旅行することがぼくには大事だ。意味をとり違えることが、イマジネーションをひろめ高めてくれるから好きなのだ」
翻訳にもこれと似たようなことが言える。マカロニ・ホイットマンはイタリア人でもないし、アメリカ人でもない。日本語訳のホイットマンは日本人でもないし、アメリカ人でもない。それらはどちらにたいしてもエイリアンで、ゆえにどちらにたいしても「意味をとり違え」、「別なものの見方をする」のだ、と。これほどおもしろいもの、ないんじゃないですか。
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あとがき
翻訳を始めてから年数ばかりはずいぶん経ったが、翻訳書の冊数はたいしたことない。いまでも翻訳家≠名乗るのにはためらいがあり、自己紹介をせまられると、「翻訳なんかとかいろいろやってます」と曖昧な言いかたで逃げる。翻訳だけじゃなくていろいろやってんだぞ、という見栄も多少ここにはあるが、ためらいの方が大きい。
でも、翻訳本への興味は人並み以上にあり、ぼくの本棚にある日本語の本の大半は翻訳本だ。ヘルマン・ヘッセの『郷愁』を読んだのが中学二、三年のときで、これが初めて読んだ文庫本だったが、以来、翻訳本にどっぷりつかって生きてきた。アンドレ・ジッドの『贋金つくり』に大衝撃を受けたのが高校一年のとき、あの頃から完璧にぼくは文学少年、というよりは翻訳少年になった。なにかを書きたいという想いもこの頃から芽生えたが、ジッドをいつの日か自分で翻訳してみたい、と考えたこともある。翻訳するということがどういう作業なのか、当時のぼくには分らなかったろうが、膝を突き合わせてじっくり対話するということがどうやら翻訳であるらしい、とだけは承知してたようだ。
翻訳は言葉をいじくる。原文から伝わってくるなにやらもやもやしたものを、あれでもないし、これでもないし、と考えながら、いろんな言葉で探していく。このもやもや≠ニの付き合いが翻訳という作業の醍醐味だ。言葉は曖昧なものである。多義的なものである。という簡潔な真実は、翻訳をやっていると嫌というほど実感させられる。まあ、それが嫌どころか、快感なんですけどね。
神保町界隈で知り合った田原孝司さんに関口苑生さんを紹介され、そのまた紹介で『本の雑誌』に「ガープ戦史」を書いたのが一九八二年の冬。雑誌が出来あがってきたのを見たら、「翻訳うらばなし@」と銘打ってあり、仰天した。社長の目黒考二さんに電話し、「あの@って何ですか」と訊くと、「@の次にはAが来ます。よろしく」と言われた。なるほど、これが『本の雑誌』の気分なのだな、といたく感じ入ったものである。@の次にAが来てBが来て、結局、ずいぶん書かせていただいた。初めのパートのほとんどがそれに当たる。
二番目のパートは、その冒頭に警告した通りのものだ。今月はこの言葉でどうですか、と渡辺久雄さんが助言してくれたおかげでつづけられた。言葉の説明というよりも、さっき書いたもやもや≠ニの格闘の一例である。そう思って読んでいただきたい。
最後のパートは、既発表のを切り貼りしたり、他人の文章を大幅引用したり、あらたに書いたりしてこの本のために作りあげた。ピーターとペーターという名前はメタフォーであって、特定のだれかを指してるわけではないが、後で考えたら、偶然にもぼくの好きな作家二人の名前に合致していた。ピーターの方はピーター・マシーセンで、ペーターの方はペーター・シュナイダー。前者についてはこの本でも何度も言及してるから説明は省くが、後者は西ドイツの作家で、ベルリンの壁をネタにした『壁を跳ぶ男』は抜群に愉快である。一読激薦。
最後に、この本を作ってくれた上原善二さんと辻勝博さん、ありがとう。おかげさまでようやく出来あがりました。
一九八七年一月
[#地付き]青山 南
文庫版へのあとがき
そしていま、一九九一年夏の現在、ペーター・シュナイダーが『壁を跳ぶ男』のネタにしたベルリンの壁は撤去されてしまった。いやはや時代は変わる。文庫版の刊行にあたっては、そのあたりの変化を報告するべく、いくつか書き加えた。
一九九一年六月
[#地付き]青山 南
青山南(あおやま・みなみ)
一九四九年、福島県に生まれる。早稲田大学卒業。翻訳家・エッセイスト。著書に『眺めたり触ったり』『英語になったニッポン小説』『南の話』など、翻訳にはT・コラゲッサン・ボイル、アン・ビーティ、ジョーン・ディディオン、ゼルダ・フィッツジェラルド、フィリップ・ロス、トム・ウルフ、ピーター・マシーセンなどがある。
本作品は一九八七年二月、本の雑誌社より刊行され、一九九一年八月にちくま文庫に収録された。