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彩雲国物語 2 黄金の約束
[#地から2字上げ]雪乃紗衣
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)六部《りくぶ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)四省|六部《りくぶ》
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(例)[#地から2字上げ]
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もくじ
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四省|六部《りくぶ》の長《おさ》が居並ぶなかで、いつもと同じように次々と議案が処理されていく。
「――今年はずいぶんな猛暑《もうしょ》で……」
本日の朝議進行役である戸部《こぶ》の景侍郎《けいじろう》は、いつも穏《おだ》やかな笑《え》みをたたえる好人物なのだが、今日は珍《めずら》しくもうあとがないといわんばかりのせっば詰《つ》まった顔をしていた。
「……特にこの紫《し》州がひどいということは、みなさまご存じのとおりです。紫州府が、先日取り決められた措置《そち》を適切に施行《しこう》しているため、州内の被害《ひがい》は最小限で食い止められると思われますが、問題は朝廷《ちょうてい》です。官吏《かんり》にも暑さで倒《たお》れて出仕|適《かな》わぬ者が続出しています。なかには人手が足りず、少ない官吏が過労で倒れてさらに人が足りなくなるという悪循環《あくじゅんかん》が起きている部署もあります。早急《さっきゅう》に手を打たねばなりません。どなたか良案はございませんか」
重臣一同は内心で進行役の彼に同情した。何せこの議題にいちばん関係があるのは景侍郎の在籍《ざいせき》する戸部だからだ。もともと官吏が少ないうえ、今夏の猛暑と、部下をこき使いまくることで有名な戸部|尚書《しょうしょ》のおかげで、現在戸部が空前絶後の危機的状況なのは周知の事実だった。
ちらり、と誰《だれ》もが件《くだん》の問題上司・戸部尚書を見やった。そして一様にふいと視線を逸《そ》らす。まるで見てはいけないものを見てしまったというように。
この朝議には王も出席していた。即位《そくい》して半年間ほとんど政事《まつりごと》を執《と》らず、後宮にこもりきりの昏君《ばかとの》と囁《ささや》かれていた彼であるが、ここ数ヶ月で見違《みちが》えるように変わったと最近ひそかに評判である。朝議には欠かさず出るようになり、政務態度も目に見えて改善した。朝廷百官の長、霄太師《しょうたいし》が画策したことが功を奏したらしいのだが、重臣でもごくわずかの者しか詳細《しょうさい》は知らされていないため、実際何があったか知る者は少ない。
やがてばらばらと、おざなりにいくつかの案が出される。しかしどれも決定打にはならなかった。こういう問題では、結局暑さが過ぎるのを待つしかないのである。
王はそのいずれにも頷《うなず》いたのち、ぐるりと一同を見回した。
「財政を預かる戸部が機能しなくなったら、国はもとよりみなも困るだろう。特に禄《ろく》が正常にふりわけられなくなったら、米でなく麦ご飯になるのだぞ。それは悲しいことだろう」
微妙《びみょう》に頓珍漢《とんちんかん》な台詞《せりふ》に、朝臣たちは目を点にした。……なぜ麦ご飯。
一人、吏部《りぶ》の紅《こう》尚書だけは笑いをこらえるかのように口許《くちもと》に手をやっている。
「緊急《きんきゅう》事態につき、できれば各省庁から適当な人材を戸部に貸し出してやってほしい」
うっと、各長官たちは顔を引きつらせた。……あの奇人《きじん》変人戸部尚書のもとに部下を?
「これは命令ではない。だが、困っているときはお互《たが》い様だ」
単純な言葉だからこそ、のらくらと言を左右して逃《のが》れることはできない。的を射ているから反駁《はんばく》するのも難しい。もし計算してやっているなら、彼は非常な明君といえた。朝廷|随一《ずいいち》の才人と名高い李《り》絳攸《こうゆう》が見放さず、そばにいつづける意味も大きい。
「どうだろうか?」
はっきりと問われ、各長官たちは空咳《からせき》をしながらも小さな声で是《ぜ》と答える。何より否《いな》と答えようものなら、自分が「困った」とき、あの戸部尚書に何をされるかわからない。……これから戸部へ志願してくれる者をさがすのがいちばんの難題になりそうだと、誰もがひそかに溜息《ためいき》をこぼす。
景侍郎は感謝の念を素直《すなお》に表し、礼を述べた。そして当の戸部尚書はといえば、相変わらずまったく表情は読めないながらもとりあえず頭は下げた。かなりわずかに、ではあったが。
「では、次の議題に移ります。これは軍関係になりますが、茶《さ》州から何やら賊《ぞく》が入り込むという情報が……」
そうしてつつがなく議案が処理されていき、議案がすべて消化されたころのこと。
終了《しゅうりょう》を告げようとする進行役の景侍郎を王が押しとどめた。
「最後に、余からひとつ聞いてほしいことがある。――考えていたことがあるのだ。国試《こくし》に関してなのだが」
顔を向けてくる朝臣一同に、若き王は臆《おく》さなかった。ひとつひとつ、言葉を句切るようにゆっくりという。
「何を突然《とつぜん》、と思われるかもしれない。だが、聞いてほしい。次の国試から、女人《にょにん》を受け入れようと思う」
目を瞬《またた》く朝臣たちに、王は辛抱《しんぼう》強く、かつ簡潔に繰《く》り返した。
「国試の、女人受験――これを導入したい」
***
じりじりと照りつける太陽を、その男はまぶしそうに手をかざして見上げた。伸《の》び放題の髪《かみ》と髭《ひげ》で男の顔ばかりか歳《とし》さえも判別できない。薄汚《うすよご》れた格好とあいまって一見|物乞《ものご》いのようななりだったが、むきだしの両腕《りょううで》は見る者が見れば感嘆《かんたん》したことだろう。鍛《きた》え抜《ぬ》かれ、見事に無駄《むだ》のない筋肉。決して太くはないが、しなやかな鞭《むち》のような腕だった。
今年の夏は――特に紫州では大変な猛暑と聞いていたが、それもあながち間違いではなかったらしい。紫州に近づくごとに、熱気は確実に増していた。男に気力と体力がなかったらとっくの昔に行き倒《だお》れてひからびていただろう。
右手に持つ長い棍《こん》を杖《つえ》がわりにして歩いていた男は、はあ、と溜息をついた。
疲《つか》れた。うだるような暑さと、滝《たき》のように流れる汗《あせ》に辟易《へきえき》していたせいもあるが、ここ数日ろくな飯にありつけなかったのが最大の敗因だ。水はなんとか補給していたが、肉類・魚類にはとんとお目にかかっていない。
「腹…へったー……」
今の彼の目には、鳥は鶏肉《とりにく》に、魚は焼き魚となって映るだろう。そして対象に遭遇《そうぐう》したが最後、雄叫《おたけ》びをあげて追っかけてとっつかまえて腹に入れる。もはや頭の中には肉・肉・肉、飯・飯・飯、の二文字しかなかった。
とはいえ、そんな極限の状態でも、傍目《はため》には彼はいかにも飄々《ひょうひょう》としていた。棒をついているとはいえ、足どりもしっかりしており、速度はいささかも落ちてはいない。長すぎる前髪に隠《かく》れがちな双眸《そうぼう》も、うんざりとした感じはあったがきちんと理性が宿っていた。常人|離《ばな》れした体力と精神力のなせる業《わざ》といえよう。
日が沈《しず》むころ、男は遥《はる》か遠くに連なる城壁《じょうへき》を見つけた。延々と、線のように横薙《よこな》ぎに走る壁《かべ》の向こうが、目指す終着点だった。
「……紫州州都、貴陽《きよう》」
それは王都を意味する。
「……やーっと、ついたか」
彼の足ならば、明日の昼過ぎには城門のなかへ入れるだろう。
とはいえ、彼の目的は王都にたどりつくことではない。貴陽に入ってからやらねばならないことがあり、それは今までの旅路よりも遥かに厄介《やっかい》なことだった。けれど男はたいして深く考え込まなかった。もともと楽観的な性格であり、思い悩《なや》むなどとは無縁《むえん》の性格なのだ。
「野宿は、今日で最後にしたいなー」
風がざぁっと吹《ふ》き、男の無造作に伸びた髪や髭をさらう。長い前髪の下から、左の頬骨《ほおぼね》のすぐ上を走る十字傷がのぞいた。それは風の吹いた一瞬《いっしゅん》のこと。
そして男は今日のねぐらを探そうと、再びのんびりとした足どりで歩き出したのだった。
***
同時刻――やや離れたところではあったが、やはり野宿の場所を探すべくうろうろさまよう妙な二人組があった。
「兄《にい》…じゃなかった、お頭《かしら》ー見えますかー、あの横に長く伸びてる線! 城壁ですー!」
嬉《うれ》しげに城壁を指さすのは、十歳ほどのひょろりと細身の少年だった。お頭と呼ばれたほうも、その少年とたいして歳が変わらないように見えたが、邪険《じゃけん》に手を振《ふ》るその態度はずいぶんと偉《えら》そうだった。
「線がなんだ。もう暑くて死にそうだ。早く木陰《こかげ》を見つけて休まないと、俺は倒れて死んでしまう。いや、倒れる。俺様は今すぐここで倒れるぞ!」
堂々と宣言すると、「お頭」はその場でばったりと前のめりに倒れた。
慌《あわ》てて少年が飛んできた。
「ええっ、じき貴陽につくっていうときに。超《ちょう》有名な山賊《さんぞく》団『茶州の禿鷹《ハゲタカ》』のお頭ともあろうものがこんなところで行き倒れなんて! しっかりしてくださいーお頭。貴陽の美人なお姉さんたちと僕だけ一人で遊んだってつまらないですよー。おいしいもの、たくさん食べるっていってたじゃないですか」
途端《とたん》、むくりとお頭は起きあがった。
「なんだと、もうすぐ着くのか! なぜさっさとそれをいわない。こんなところで行き倒れている場合じゃない。お姉さんたちに向かって…いや、輝《かがや》かしい明日に向かって歩かねばな!」
うってかわってきびきびとした足どりで歩き出す。
元気になったお頭のあとをホッとしたようについていきながら、少年がふと首をかしげた。
「……でも、僕たちって、綺麗《きれい》なお姉さんたちと遊ぶのが目的じゃなかったですよね」
ぴたり、とお頭の足が止まる。思い出したというように一拍《いっぱく》の間があり、彼は振り返った。
「……もちろんだ! 我が山賊団『茶州の禿鷹』は、逃《に》げ足の速いあやつ[#「あやつ」に傍点]を追っかけ、その佩《はい》…佩…なんだったかを奪《うば》い! あまつさえ命をも奪うという、実に残忍《ざんにん》な山賊らしい依頼《いらい》を実行するべくやってきたのだ!」
「わー、お頭かっこいい」
決めの姿勢をとるお頭に、少年はぱちぱちと惜《お》しみない拍手《はくしゅ》を送った。
「だが、せっかく王都へやってきたのだ。ついでに[#「ついでに」に傍点]綺麗なお姉さんたちと遊んでも構うまい」
「おいしいものもたくさん食べましょうね。紫州の名物とか、おみやげとか、たくさん買っていきましょうね」
「うむ。お城見物にも行かねはなー」
「七家の別宅がそろっているので有名な、彩《さい》七区にも足を運びましょう」
「よしよし。そう焦《あせ》るな。今夜一晩、ゆっくりと考えを決めようじゃないか」
「はい。明日が楽しみですね。僕王都になんて行ったことないです」
「ふっ、貴陽なんてたいしたことないさ」
妙なところで正直なお頭は、「俺様は行ったことがあるぞ。まあ、貴陽など俺の中庭みたいなものだ」などとホラを吹いたりはしなかった。
「そうだ、曜春《ようしゅん》、いいか、貴陽に入ってもきょろきょろしたりするんじゃないぞ。いかにもおのぼりさんという顔をしてると、俺たちを知らない奴《やつ》らになめられるからな。最初が肝心《かんじん》なんだ。貴陽なんて知り尽《つ》くしてるって顔をして歩くんだぞ」
「わー、お頭って、いろいろ考えてるんですねぇ。さすがです。僕|頑張《がんば》ります」
心から尊敬の視線を送る曜春、十一歳。そしてお頭、十二歳。
二人の「山賊」は野営の場所を決めるべく、再び勘《かん》を頼《たよ》りにさまよいはじめたのであった。
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きっかけはささいなひと言だった。
「秀麗《しゅうれい》ちゃんも年頃《としごろ》だねぇ。もうそろそろいい人見つけないとね」
豆腐《とうふ》屋の張《ちょう》おばさんの至極《しごく》当然という言葉に、秀麗はしばらく沈黙《ちんもく》した。
「……え?」
***
秀麗は照りつける熱い日差しをかきわけるように、家に向かって歩いていた。
そろそろ日が傾《かたむ》きはじめる時分だが、うだるような暑さはいささかも衰《おとろ》えてない。
ぎらぎら輝く夏の陽光を遮るように腕をかざしながら、秀麗はうんざりと溜息をついた。
「……まーた、今年もこの季節がきたのね……」
秀麗は夏があまり好きではなかった。もともといい思い出のない季節である。
特に今年はひどい。まだ夏も半ばながら、悪夢のような日々が続いている。――いろいろな意味で。
後宮を辞してからこっち、穏《おだ》やかに過ごせるはずだった[#「はずだった」に傍点]このふた月を思い返し、秀麗はぴきぴきとこめかみに青筋を浮《う》かべた。
金五百両につられてうっかり後宮に送られてしまったのは春だった。しかしなんとか「昏君《ばかとの》の根性《こんじょう》叩《たた》き直し」の仕事は完遂《かんすい》し、霄太師からもぎとった金五百両を手にホクホクと家路につき、あとはボロ邸《やしき》を修繕《しゅうぜん》して米を買って意気|揚々《ようよう》と夏を迎《むか》えるはずだった。のに。
「……ったく、どうにかなんないのかしらあのトンチンカン男」
最初は文《ふみ》だった。
高級な料紙で、毎日のようにバラバラと文が届きはじめたのである。差出人は「匿名《とくめい》希望」。しかも何がいいたいのかサッパリな内容であった。例えば左の一文。
『寂《さび》しいが余は一人で寝《ね》ている』
――だからなんなのか。意味不明である。このごろではたまりまくった高級料紙の裏を使って、道寺《てら》に集まる子供たちに書き取り練習をさせるという再利用法を思いついた。
次は贈《おく》り物|攻撃《こうげき》だった。しかもまたしても意味不明な。
まず氷が届いた。しかし大きすぎて門から先に入らず、届け人はその巨大《きょだい》な氷塊《ひょうかい》を門前に置きざりにした。塾《じゅく》から帰った秀麗は仰天《ぎょうてん》し、門前には何事かと人だかり。おまけに門ぎりぎりに置いていったので、秀麗はそれが溶《と》けきるまでの数日、バカバカしいことに塀《へい》に梯子《はしご》をかけて邸に入るしかなかった。ちなみにその氷は溶けるまで子供たちの格好の遊び場となった。
またあるときは大量の卵が届いた。生ならまだしも、ことごとくポクポクと湯気が立っていた。秀麗は近所のおばちゃんを招集して大至急山のようなゆで卵の処理にかかり、丸一日を無駄《むだ》にした。かなりの量を近所の人々におすそわけしたが追いつかず、丸二日卵のみの食生活を送るハメになったばかりか、真夏ということで三日目には腐って、すごい異臭に悩まされた。
そういえば花束も贈られてきた。「季節はずれで珍《めずら》しかったから」と一筆|添《そ》えられた真っ赤な花の名は曼珠沙華《まんじゅしゃげ》。別名|彼岸花《ひがんばな》。墓場によく咲《さ》いている。間違《まちが》っても人に贈る花ではない。
など、など。どうひいき目に見ても嫌《いや》がらせだ。気のいい街の人々もそう思ったらしく、
「……秀麗ちゃん、留守してた間に何やったんだい? よかったら相談にのるよ」
などと当初はひどく心配してくれたが、たいして害がないと知った近ごろでは、次に何がくるかと賭《かけ》まで始めているらしい。
贈り主の正体を知っている父の邵可《しょうか》と家人の静蘭《せいらん》は苦笑《くしょう》するだけだったが、この迷惑《めいわく》極《きわ》まりない親愛の情(?)を寄せられている当の本人は、笑うことなどできようはずもない。
(まったく、私が何をしたってのよ!)
顎《あご》を伝う汗《あせ》をぬぐいながら、何回か深呼吸する。――落ち着くのよ、むやみに怒《おこ》ったって暑さが増すだけ。水分の無駄。体力の無駄。めぐりめぐって家計に響《ひび》くわ。今日は絳攸様と藍《らん》将軍がいらっしゃる日なんだから、お夕飯の献立《こんだて》でも考えよう。
そんなことをつらつらと考えるうちに、邸の門が見えてきた。違和感《いわかん》に顔を上げた秀麗は、そこで思わず足を止めた。門前に転がったそれをまじまじと見つめ、ぽつりと呟《つぶや》く。
「……何、あれ」
***
久しぶりに現れた少女は、記憶《きおく》のなかにある面影《おもかげ》よりもずっと美しく大人びていた。
ああ――と彼は熱い吐息《といき》をもらした。
ようやく、この日がきた――待って待って、待ちつづけた。どのくらい待ちわびたろう。何年――いや、もう少し短い気がするが、そんなことはどうでもいい。
手を伸《の》ばす。少女は逃げなかった。頬《ほお》に触《ふ》れると、彼女はそっと目を閉じた。口づけを受けるかのように心もち顔を上向ける。
「秀麗……」
さらさらと類にかかる髪《かみ》を、そっとすきやり、劉輝《りゅうき》は愛《いと》おしげにうなじに手をかけた。優《やさ》しく腰《こし》をひきよせ、誘《さそ》うようにわずかにひらいたその唇《くちびる》に口づけを落とそうとする。
「……――いしている」
ごく自然に、その言葉がこぼれおちる。そう――そう言いたかったのだ。ずっと。
うなじにかけた指が震《ふる》える。心の奥に灯《ひ》がともったかのように熱い――慣れた仕草も、まるで初めてのようにぎこちなく。
ゆっくりと睫毛《まつげ》を伏《ふ》せる。そして唇が重なりかけたそのとき――。
「……何いってるのあなた」
不意に、腕《うで》のなかが空《から》になった。
目を開けると、今の今まで抱《だ》きしめていた愛しい人がいない。はっと顔を上げると、離《はな》れた場所に誰《だれ》かと二人で立っている。
「なんで、私があなたのものなのよ。私はこの人と結婚《けっこん》するの」
秀麗が愛しげに首に抱きつくその相手は――。
「あ、ああああ兄上っ!?」
今は静蘭という名の兄は、そっと秀麗を抱きあげると、視線だけで劉輝を見た。
「……と、いうことなんだ。悪いね、劉輝」
「静蘭のほうが、ずっと大人だし、優しいし、強いし、頼《たよ》りがいあるし、かっこいいし、お金|稼《かせ》いでくれるし、いつも私を守ってくれて、あなたより百倍|素敵《すてき》。もう十年以上も一緒《いっしょ》に暮らしてるし、そろそろ夫婦《めおと》になろうと思うの。あなたも祝福してくれるでしょう?」
秀麗は自分を抱く静蘭に甘えるように頬をすり寄せる。
「これからは、あなたのお義姉《ねえ》さんになるのね。よろしくね。ときどきお金借りにいくから、そのときは無担保無利子で貸してね」
「え!? いや、ちょ、ちょっと待《ま》」
「お前も早くいいお嫁《よめ》さんをもらうんだよ。草葉の陰《かげ》からお兄ちゃんは見守ってるからね」
にっこりと静蘭が笑う。それ使い方違う――とつっこむ隙《すき》も与《あた》えず、仲睦《なかむつ》まじい二人は急速に遠ざかっていく。
「ど、どこへ――ななななんでこんなことに――」
追いかけようとしても、根が生えたかのように足が動かなかった。足元を見ると、過去の愛人たちがしっかと足にからみついていた。しかもよりによってことごとく男なのである。
「う、うわー! ななな」
「劉輝、お前はお兄ちゃんが留守の間にずいぶんと遠い世界に行ってしまったんだね。お兄ちゃんは悲しいよ。お前に夜伽《よとぎ》命じられたときはちょっとどうしようと思ったしね。でもまあ未遂ですんだし、そっちはそっちでシアワセにおなり」
ばいばいと手を振《ふ》る静蘭と秀麗。あっというまに胡麻粒《ごまつぶ》のごとくなる二人に劉輝は手を伸ばした。
「ちょ、ちょっと待て――――――――――っっっ!!」
ゴン、と寝台《しんだい》から転がり落ちた劉輝は、おでこをぶつけて目を覚ました。
楸瑛《しゅうえい》は壁《かべ》に手を突《つ》いて静かに肩《かた》を震わせていた。もうかなり前からその姿勢のまま動こうとしない。
「――楸瑛」
絳攸は大量の書翰《しょかん》を手際《てぎわ》よく整理しながら、おもむろにいった。
「笑いすぎだ」
また笑いの発作《ほっさ》がぶり返したのか、楸瑛は腹を抱《かか》えて爆笑《ばくしょう》した。ばんばんと壁を叩《たた》く。
「……だ、だって……はははは! あっはははは!!」
おでこを冷やしながら決裁していた劉輝は、じろりと楸瑛を睨《にら》みつけた。
「でてけ」
「くっ、いや、すみません。あまりにも微笑《はほえ》ましい夢でつい」
「悪夢だ」
「ははははは!」
いつも底の見えない微笑《びしょう》を浮《う》かべる楸瑛だが、今日は珍しく心から馬鹿《ばか》笑いしていた。
「話さなければよかった」
劉輝は憮然《ぶぜん》と呟くと、苛立《いらだ》たしげに御璽《ぎょじ》を押していく。絳攸はいかにもバカバカしいといった様子で最初からとりあっていない。
この数ヶ月ですっかり執務室《しつむしつ》となった小さめの室《へや》には、この三人しかいなかった。
「いやー、でも現実味ありますねぇ、その夢」
「あ、あるわけあるか!」
「いやでも秀麗|殿《どの》がお年頃《としごろ》なのは確かですからね。相手が静蘭でなくとも、近々そういう話がきても全然おかしくないでしょうね。実際、秀麗殿|大人気《だいにんき》ですし」
劉輝の顔がみるみる青ざめる。
「……大人気……」
「元気で賢《かしこ》く働き者で器量よし。ぜひうちの嫁にほしいと近所の方々が口々に」
ちなみにそのあとにつづく言葉は大抵《たいてい》決まっていて、「でも静蘭がいるからねぇ」なのだが、そこまではいわないでおく。夢見がちな青年の心をあっさり打ち砕《くだ》いてはいけない。
「で、でも、余はこまめに文《ふみ》を送ってるし、言われたとおり贈《おく》り物もたくさん……」
「ちなみに、いちばん最近に送ったものは?」
「藁人形《わらにんぎょう》だ」
「……そのココロは」
「霄太師が、東の諸島では有名なまじない[#「まじない」に傍点]なのだと教えてくれて藁までくれたのだ。何だか手作り藁人形の腹に自分の髪を数本入れて、三晩かけて夜中に踊《おど》りながら念をこめたあとに相手に送ると熱い思いが伝わると」
そりゃ呪《のろ》いだろう、と絳攸は思った。隣《となり》の楸瑛は平然とした顔で「ほほう」などといっているが、内心爆笑寸前なのが見てとれた。肩が小刻みに震えている。
(まったく、素直《すなお》すぎるのはただのアホといういい見本だな)
これで何度霄太師に騙《だま》されていることか。どうせ今回も、いつぞやの詫《わ》びに、などとしおらしい言葉で藁でも渡《わた》されてあっさり丸めこまれたに違いないのだ。全然疑いもせずにやるのだから、かの海千山千老師も陰から眺《なが》めて大笑いしていることだろう。しかもこの王はまるで自分の行為《こうい》の頓珍漢《とんちんかん》さに気づかない。いじわる霄太師《じじい》はもちろん、楸瑛も笑うだけ笑って何もいわないし、絳攸にしたってあまりにバカバカしくてわざわざ助言してやる気にもならない。
「主上《しゅじょう》は大変|頑張《がんば》っているとは思いますが、でも一度も返事をもらえてないんでしょう?」
途端《とたん》、劉輝がしゅんと肩を落とした。心なしか判子《はんこ》の音も寂《さび》しげになる。
「……そうなのだ。やっぱり贈り主の名のところを『匿名《とくめい》希望』にしたのがまずかったのではないか。そうだ、きっと文の主が誰だかわからないのだ」
一喜|一憂《いちゆう》の言葉通り、パッと劉輝の顔が輝《かがや》く。
そんなわけあるか、と臣下二人は思ったがやはり口には出さない。
「ま、何はともあれ、このままだと道は遥《はる》か遠く険しいですねぇ」
「……う、わ、わかってる」
いくら頓珍漢男とはいえ、このふた月、さすがに自分が前にも右にも左にも(後退しているとは考えない)、さっぱり進んでないことぐらいは(なんとなく)理解していた。これではいけない。だからこそ劉輝は並行して別の手を打ち、実現に向けて準備を進めていた。のだが。
劉輝は手を休めると、机案《つくえ》の下から何やら大量の紙の束をとりだした。
「絳攸……これ、今日のぶん」
分厚い料紙を差し出された絳攸は、処理の終わった書翰をのけると、その場で無表情に目を通していく。
「――これは問題外。これはもっとよく練り直しなさい。この文面はここから半分書き直し。何ですかこれは。あんたやる気あるんですか。これはまあ基本形を残して良し。これは――」
『問題外』と『やる気ない』がばっさばっさと豪快《ごうかい》に床《ゆか》に捨てられる。劉輝は出来の悪い答案を見られてしまった子供のように、首を縮めて嵐が《あらし》過ぎ去るのをじっと待っていた。
「――と、まあこんなところですかね。指摘《してき》したところを明日までにちゃんと直すように」
「はい」
どちらが臣下だかよくわからないこの光景も、近頃《ちかごろ》ではすっかり日常になっていた。
「いっときますが、まだまだ及第点《きゅうだいてん》にはほど遠いですからね。こんなんじゃとても黄《こう》戸部《こぶ》尚書《しょうしょ》を納得《なっとく》させることはできません。何度もいいますが、あの案を今年中に通したいのなら最低限うちの上司とあのかたの賛意をとりつける必要があります。黄尚書はうちの上司と並んで次期宰相候補といわれる人物ですから、彼の攻略《こうりゃく》は必須《ひっす》と思っておきなさい」
「……黄尚書が……宰相か……」
劉輝はぼそぼそと呟《つぶや》いてみたが、絳攸はとりあわなかった。
「余計な想像しない。あの人は甘くありませんよ。こないだの朝議だって、あなたが唐突《とうとつ》にバカ発言かましたせいで、彼は無言で退席してしまったそうじゃないですか」
「……う、気持ちがはやって、つい……」
説得材料の準備も根回しも整わないうちに、劉輝がいきなり切り出してしまった「国試の女人《にょにん》登用」案は、外見[#「外見」に傍点]はともかく、施政《しせい》では見事な合理主義で文句なしに能吏《のうり》である黄戸部尚書から見事に無視を食《く》らった。無言で朝議を退席した黄尚書は、その後もそんな案など元からなかったとばかりの態度を貫《つらぬ》いている。反対意見を言われるよりなお悪い黙殺《もくさつ》というやつだ。
「このお子様が。おかげで余計な回り道するハメになったでしょう」
絳攸はビシバシと容赦《ようしゃ》がない。もしかして自分は王として敬われてないのかも、とこのごろ(ようやく)思いはじめた劉輝である。
「一度|却下《きゃっか》された案を再度通すのは至難の業《わざ》なんですよ。それでなくとも慎重《しんちょう》を期する必要のある議案だったってのにまったくあなたは――」
お小言の頃合いを見計らって、楸瑛が横から助け船を出した。
「さて、そろそろお茶にしましょうか?」
劉輝はパッと顔を輝かせた。絳攸は仕方ないとばかりに舌打ちし、最後にひとつだけ言った。
「――主上」
「ん?」
「必ず通しますよ、あの議案」
劉輝の表情が引き締《し》まる。「ああ」と彼は言い切った。
絳攸と楸瑛は年下の主《あるじ》に見られないように、微《かす》かに笑《え》みをかわした。
***
「静蘭」
夕刻――帰り支度《じたく》をしていた静蘭は、耳慣れた声に振《ふ》り向いた。そして軽く礼をとる。
「これは、藍将軍に絳攸殿」
「これから帰りなら、一緒《いっしょ》しないかい?」
楸瑛と絳攸がそろって大きな風呂敷《ふろしき》包みをかかげた。静蘭はすぐに察して頷《うなず》いた。
「ああ、今日はお夕飯の日でしたね」
「秀麗殿のご飯は本当においしくてやみつきになるね。今日は何かな」
楽しげな楸瑛に、静蘭がやはり笑って応じる。
「お二人の包みの中身|次第《しだい》ですね」
三人はそろって軒《くるま》宿りまでやってきた。すると目当ての軒にへンなものがぶらさがっている。静蘭はそれを見てやや沈黙《ちんもく》した。
「……絳攸殿、なんで鶏《にわとり》が吊《つる》されてるんです。しかも生きてますねこれ……」
軒の持ち主である絳攸はあっさり答えた。
「こないだの鶏肉《とりにく》と葱《ねぎ》の菜《りょうり》が美味《うま》かったんだ。風呂敷に葱も完備してある」
この炎天下《えんてんか》ずっと吊されていた鶏も不運だが、生きた鶏を軒にぶらさげたまま出仕した絳攸もすごい。きっと道行く人の目をひきまくったに違《ちが》いない。
「……なんかぐったりしてますけど……まあまだ生きてますし。問題ないでしょう。でもあれには生姜《しょうが》と山椒《さんしょう》が必要なんです。確か山椒をきらしたとお嬢様《じょうさま》がいっていたような……」
「おや、折良く私の包みに山椒が入っているよ」
「ほう。用意してくれたお前の家人に感謝だな」
「素直に私に礼をいったらどうだい」
すっかり恒例《こうれい》になりつつある紅家での「夕食の日」。四日にいっぺんのこの日は先に従僕《じゅうぼく》を帰らせて楸瑛か静蘭が馭者《ぎょしゃ》をすることになっている。
「お二人がいらしてから家計がずいぶん助かっているとお嬢様も喜んでますよ。今年の春は例の件で庭院《にわ》の畑に春蒔《はるま》き野菜の種を蒔けなくて、収穫《しゅうかく》がないと青くなってましたからね」
馭者台に座った静蘭は、巧《たく》みに軒をあやつりながら、どこかのんきにそう告げた。絳攸と楸瑛は黙《だま》ったまま視線を交《か》わした。
――秀麗の手料理をご馳走《ちそう》になりたいと最初に静蘭に告げたとき、まず返ってきたのが「手ぶらでいらっしゃいますか?」であった。「今年は猛暑《もうしょ》で、お野菜が高いそうです」とも。「お嬢様はお客様がいらしたときは家計を顧《かえり》みずご馳走をお出しするんですよ」とも。「教育係の報酬《ほうしゅう》で霄《しょう》太師から頂戴《ちょうだい》した金五百両は、お嬢様と旦那様《だんなさま》が豪快に使ってしまったので、あまりご無理はおっしゃらないでくださいね」とも。
名家でありながら貧乏《びんぼう》、もとい庶民《しょみん》派の紅家に仕えるこの静蘭という男、今は家人の立場を貫いているが、ひた隠《かく》しにするその正体は、かつて流罪《るざい》の憂《う》き目をみたこの彩雲国《さいうんこく》の第二公子である。つまりは現在の王――劉輝の異母兄《いぼけい》だったりする。世が世なら国主として立っていても おかしくはない。自称《じしょう》二十一のどこか少年めいた容姿をもちながら、武人としての腕《うで》は一流、しかも実は楸瑛や絳攸などより年上という、あなどれない男なのである。
紅家の経済状況と最近の物価事情を語る静蘭の口調は実に何気なく、表情も笑顔のままだった。しかし、わかる者にはわかるある特別な波長を出しまくっていた。絳攸と楸瑛は間違《まちが》いなくそのとき背筋が冷えた。そういえば彼がかつて清苑《せいえん》公子と呼ばれていたころ、その笑顔と穏《おだ》やかな言葉の裏の裏の表を読めるかどうかが一流と二流の岐《わか》れ道だったとか。
以後、二人は夕餉《ゆうげ》をご馳走になりに行くたびに、食材をもっていくようになったのである。
「ところで静蘭、もしかしたら近々異動になるかもしれないから、そのつもりで」
「いやです」
にべもない。上官に対する態度ではないが、楸瑛は気にせず続けた。
「……や、羽林《うりん》軍に入れっていうんじゃなくてね。臨時の仕事なんだ」
おや、と静蘭は後方を振り返った。
このふた月というもの、静蘭は左右羽林軍の両大将軍からの「戻《もど》ってこい!」説得の嵐に見舞《みま》われていた。しかし先だって一時羽林軍に籍《せき》を置いたのは、大切なお嬢様を護衛するために必要だったからであって、もともと出世欲のない静蘭に、軍部仕えは面倒《めんどう》なだけだった。そして彼は現在の門番という仕事を大いに気に入っていた。だが大将軍たちにこの地位がいかに暇《ひま》で楽で立ってるだけで給料もらえて定時に帰れる素敵《すてき》な仕事なのか、いくらいっても理解してくれない。三日に上げずやってくる将軍たちにはほとほと辟易《へきえき》していたので、またぞろその話かと思ったのだが。
「どうだい? 話聞く気になってくれたかな?」
「仕事内容と期間と収入によりますね。夏本番ですし、とりあえずお話は聞きましょう」
「……? 夏が何か関係するのかい?」
「そろそろ大風が吹《ふ》くころですからね」
さっぱりわからない絳攸と楸瑛に、もと公子様はきっぱりといった。
「葺《ふ》きかえた瓦《かわら》が飛ばされて、修理代が必要になる可能性が高いですから」
「邸《やしき》は修繕《しゅうぜん》したのに、庭院は相変わらず手つかずだね。……なんなら木の苗《なえ》を贈《おく》ろうか?」
緑が青々と茂《しげ》っているのにどこか殺風景なのは、夏の花をつけている木がないからだ。
「ありがとうございます。……でも多分お嬢様は…………おや?」
邵可|邸《てい》に帰ってきた静蘭は、ただよってくる匂《にお》いに首をかしげた。
「珍《めずら》しいですね。もうご飯をつくってるなんて」
いつもは二人が持参した食材を吟味《ぎんみ》したのちに調理に取りかかるのだが。
それに、誰《だれ》かがきている気配もする。
「おかしいですね。来客の予定はないはずなんですが。旦那様のお戻りもまだのはずですし」
静蘭の顔に不審《ふしん》の色が浮かぶ。それに来客ならお茶だけで夕餉まではご馳走しないだろう。時間が中途半端《ちゅうとはんぱ》すぎる。静蘭は眉《まゆ》を寄せながらいい匂いをたどっていくと、やはり来客用の室《へや》ではなく、普通《ふつう》に食事をする広間についた。
「……お嬢様? どなたかいらっしゃるんですか?」
扉《とびら》を開けた瞬間《しゅんかん》、目に入ってきた光景に静蘭は呆気《あっけ》にとられた。
髪《かみ》のび放題、髭《ひげ》のび放題、なりはボロボロのいかにもな不審人物が食卓《しょくたく》で猛然《もうぜん》とご飯をかきこんでいたのである。長すぎる前髪に隠れて男の顔はよく見えなかったが、まともな人物でないことだけは確かだった。秀麗はそのそばでせっせと飯櫃《めしびつ》からおかわりをよそっている。
「あ、静蘭。お帰りなさい。絳攸様も藍将軍もお出迎《でむか》えできなくてごめんなさい」
「……お嬢様……ダレですこの人」
「え? ああ、えーとね」
そのときである。今の今まで絳攸の手の中でぐったりとしていた鶏が、隙《すき》ありとばかりに猛然とバタつきはじめた。拍子《ひょうし》に思わず手を放した絳攸からまんまと逃《に》げおおせた鶏は、室のなかへ飛びこんだ。静蘭は反射的につかまえようと手を伸《の》ばし――何かを感じて本能的にその手をひいた。途端、微かに風を切る音がしたかと思うと鶏が宙を舞った。
「往生際《おうじょうぎわ》のわりーニワトリだなぁ」
耳慣れぬ声がのんびりと響《ひび》いた。落下してきた鶏が計ったように不審人物の左手におさまる。見ると鶏は気絶しており、男の右手にはいつのまにか長い棍《こん》が握《にぎ》られていた。
鶏の所有者の絳攸はもちろん、間近で見ていたはずの秀麗も、何が起こったのかよくわからなかったが、武官二人は目の前で起きた出来事に瞠目《どうもく》した。棍で鶏の足を払《はら》って宙へ投げ、滞空《たいくう》中に手首を返して殺さない程度に急所を打つ――その速さと正確さが尋常《じんじょう》ではなかった。
まったく無駄《むだ》のない動作をいとも簡単にやってのけた。並みの腕ではない。
強い――瞬時にそれを悟《さと》った静蘭は表情を険しくした。なぜこんな男がここにいる。
「――誰です、あなた」
「え、何そんな怖《こわ》い顔して。せっかくトリくんつかまえてやったのに。はい」
男が気楽に差し出した鶏を、静蘭は厳しい顔つきのまま受けとった。すると、男は何やらまじまじと静蘭をのぞきこんできた。
「……あれ? その顔、どっかで……」
「は?」
「あっ、……や、いやいやお前、もしかして『小旋風《しょうせんぷう》』……?」
途端《とたん》、静蘭の顔色が変わった。即座《そくざ》に鶏を楸瑛のほうへ投げ渡《わた》す。と同時に男の胸《むな》ぐらをつかみあげると、問答無用で室の外へ放《ほう》り出した。この間《かん》わずか三秒。
他《ほか》の三人を室に置き去りにしたまま、後ろ手に勢いよく扉を閉める。二人きりになると静蘭は男の長い前髪を乱暴にかきわけた。埃《ほこり》でややざらついた感触《かんしょく》のあと、その下から現れた左頼《ひだりほお》の十字傷に、過去の記憶《きおく》が瞬《またた》く間によみがえる。
――この傷跡《きずあと》。それにあの棍さばき――。
静蘭の目が昏《くら》い底光りを放った。
「……お前、もしかしなくても燕青《えんせい》か」
「当たり。やっぱお前かぁ。うわーマジ久しぶりだなー」
「――なんっっっで貴様がここにいる!!」
「いや、こりゃほんとに偶然《ぐうぜん》なんだって。貴陽に用事があってさ、でもここんところくに食べてなくてさすがの俺も限界でな。ご飯がありそうでしかも門番がいない邸をさがして門前で行き倒《だお》れてたら、あの姫《ひめ》さんが拾って食べさせてくれたんだよ」
嘘《うそ》だとは思わなかった。そういう男ではないことを静蘭は知っていた。しかしである。
なんでよりにもよってこいつが行き倒れの場所に選んだのがここだったのか――静蘭は目眩《めまい》がした。もう二度と会うことはないと思っていたのに。とっくの昔に過去の箱に放りこんで、鉄鋲《てつびょう》でガンガン打ちつけてしっかりと蓋《ふた》をしていたものを――。
「――今すぐ回れ右して出てけ」
「うお、なんて冷たい言葉。姫さんはあんなにいい娘《こ》なのに」
「別の邸でまた行き倒れろ。何なら紹介《しょうかい》状も書いてやる」
「うわーひでー」
そのとき、背にした扉がひらいて秀麗がひょっこり顔をのぞかせた。
「静蘭? どうしたの突然《とつぜん》」
「いいえ、なんでもありませんよお嬢様《じょうさま》」
静蘭は実に久しぶりに顔面の筋力を総結集させて笑顔《えがお》をつくった。
「まったく、こんなものをうかつに拾ってはだめでしょう。いくら落ちてたからといって」
「え、だってお腹空《なかす》いて今にも死にそうだっていうんだもの」
「はははは。死にませんよ。ええ保証します。ですから今すぐ捨ててきましょう。今すぐに」
なんだか笑顔がいつもと違《ちが》う。笑い声も棒読みだ。
「……えーと、でもお知り合いなんじゃないの?」
「ちが――」
「そーなんだよ。めちゃすごい偶然でお互《たが》いびっくり。いま旧交を温めてたとこでな。昔のダチなんだよなー。えーと、……静蘭[#「静蘭」に傍点]?」
静蘭が否定する前に男が早口で言う。その言葉に秀麗はホッと笑った。拾ったのが身許《みもと》不明のあやしい男ではなくて一安心したらしい。
「そうなの。すごい偶然ね。じゃ、ゆっくりしてって。もうすぐ父様も帰ってくるし、これからまたいろいろつくるから。あなた運がいいわよ。今日は四日に一度のご馳走《ちそう》の日なの」
「そりゃいーときに拾ってもらえたな。まだまだ入るから、遠慮《えんりょ》なく腕《うで》をふるってくれな」
そうして静蘭が何をいうまもなく、秀麗はまた室に引っ込んでしまったのだった。
静蘭はぶるぶると震《ふる》えた。
「え、燕青……お前というヤツは……」
「静蘭、か。いい名前、もらったじゃん」
にかっと燕青が笑う。悪びれない様子に静蘭は苦虫をかみつぶしたような顔をしたが、もう出てけとはいわなかった。
「……南《なん》老師は、お元気か」
「ん? ああ、めちゃめちゃ元気。全然変わってないぜ。少しは血い抜《ぬ》けよって感じ」
「……あのときは、何もいわずにでていって悪かったな」
燕青はぱちぱちと目を瞬《まばた》くと、いかにも嬉《うれ》しそうに破顔した。
「――いいとこに拾われたみたいだな、静蘭。お前が幸せそうでよかったよ」
ふん、と静蘭はそっぽを向いた。
「姫さんの飯、文句なくうまいし。マジでうらやましいぜ。飯代ないけど、かわりにお前の昔話でもしてやるかなー」
燕青の呟《つぶや》きに、室《へや》に入りかけていた静蘭は、すごい勢いで引き返した。首を絞《し》めかねない勢いで胸ぐらをつかみあげる。
「……貴様、昔のことをちらとでもいってみろ。その首カッ飛ばしてやる」
「じょーだんだって」
燕青は飄々《ひょうひょう》と笑ったのだった。
帰宅した邵可を加えて、その晩はずいぶんにぎやかな食卓になった。
この家の主《あるじ》である邵可は、見知らぬ客に目を丸くしたが、あっさり笑顔で受け入れた。
「燕青くん、といったね。貴陽にはどのようなご用で?」
「ええ、人に会いに。会うのがちょっと難しい相手なんで、しばらく滞在《たいざい》するつもりです」
「身分の高いかたなら、こちらのお二人に頼《たの》めばたいがいなんとかなるんじゃないかな? 彼らは主上のおそばにお仕えしていてね、とても有能で身分の高いかたたちだから」
掛《か》け値なしの褒《ほ》め言葉に、絳攸の頬が嬉しげに一瞬《いっしゅん》緩《ゆる》む。
燕青は前髪に隠《かく》れがちな日を輝《かがや》かせて、しげしげと若い二人を見やった。
「へええ。その若さで主上付きって、すごいなぁ。今の王様ってどんな人?」
「世間知らずでお子様で天然ボケの十九歳だ」
鶏を《にわとり》つつきながらドきっぱりと絳攸が断言する。
それではあんまりなので、一応楸瑛が補足した。
「それだけじゃないよ。うまく育てば案外大器じゃないかな? 今のところはね。真性の愚《おろ》か者というわけではないから、まあ見込みはあると思うけれど」
絳攸とたいして変わらない物言いに邵可は苦笑《くしょう》する。これが彼らなりの褒め言葉だとわかっていても、とんでもない暴言である。
けれど燕青はわかったらしい。面白《おもしろ》そうに目が輝く。そっか、と笑う。
「――尋《たず》ね人に関しては、どーしてもダメなときにはお願いしよーかなぁ。いちおう、内密の用事で来たからさ」
軽い調子はぜんぜん内密に聞こえない。
「ところで燕青|殿《どの》、茶《さ》州からきたとおっしゃっていたが、道中はいかがでした?」
楸瑛の丁寧《ていねい》な口調に、燕青はこそばゆいとでもいうように笑った。
「道中か。あんた武官さんみたいだし、山賊盗賊《さんぞくとうぞく》のことだよな? うん、めちゃめちゃ活発になってたぜ。この紫《し》州にもずいぶん入りこんできてるみたいだったし」
「……やっぱり、そうか」
楸瑛は溜息《ためいき》をつくと、ちらりと静蘭を見た。
「あの話、受けてもらいたいんだけどな、静蘭」
ご飯をよそっていた秀麗が目をまたたいた。
「何の話?」
「ああ、このごろ茶州から山賊が大量に流入してるっていう話が出ていてね、それが貴陽まで及《およ》びそうだというんで、市中の警護強化および賊退治に羽林《うりん》軍からも人数をさくことになったんだが、静蘭にも参加してもらおうと思ってね」
「賊退治!?」
秀麗と邵可は目を丸くした。次いで邵可は不思議そうに目をまたたく。
「……楸瑛殿、羽林軍は宮中警護が仕事でしょう。なぜ城外警備も行うんです?」
「邵可様もご存じだと思いますが、この猛暑《もうしょ》で官吏《かんり》が次々と床《とこ》について、宮城もめっきり人が少なくなっているんです。それで警備の規模が縮小されて、職にあぶれる武官が出てしまいまして。日頃《ひごろ》からよく体をきたえてますから、夏バテする者もあまりいないんですよ。特に羽林軍はね。いたらうちの大将二人に即刻《そっこく》指導≠ウれますから、死んでも倒れられません」
邵可は大将軍二人の人となりを知っていたので、何もいわなかった。
「で、体力のあまってるのをぶらぶらさせとくのももったいないってことで、城外警備のお手伝いをすることになったんです。実地訓練も兼《か》ねて。ちょうど茶州からやけにたくさん賊が入りこんでいるという情報が入っていて、紫州軍も対応に四苦八苦してると聞いたもので」
「で、でもなんで静蘭なんですか? 静蘭はもう羽林軍でも何でもない、ただの米倉門番なんですよ?・ ほかに腕の立つ人、いくらでもいるじゃないですか」
「うーん、そうなんだけど、うちの大将たちがぜひにっていってきかないんだよ。静蘭の腕にすっかり惚《ほ》れ込んじゃってるからねぇ。静蘭の腕は確かだし、それに臨時だから。そうかからずに元の部署へは戻《もど》れると思うんだが……」
「でも……」
くい下がろうとした秀麗の傍《かたわ》らで、静蘭がふと思いついたようにいった。
「藍将軍、私じゃなくて、この男はどうです」
指をさされ、せっせとご飯を食べていた燕青は手を止めた。
「え」
「この男なら腕は立ちますし体力も底なしですし、暑さでへばるようなかわいげもありませんし、お買い得ですよ。ばんばん使ってやってください」
「ええーちょっとちょっと俺にも用事がさー」
「うーん、でも大将たちは君にっていってるから、彼が入ってくれても君への勧誘《かんゆう》はやまないと思うよ」
「……そうですか。わかりました」
静蘭の決断は早かった。にっこり笑って秀麗を見る。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。ひと月まるまるいなくなるわけじゃありませんし、なるべく夕飯までに帰ってくるようにします。適当に手を抜いてやってきますし、危なくなったら近くの人を楯《たて》にしてでも逃《に》げますし、それに日当金五両でかなりの臨時収入になりますよ」
さらりと言われた言葉に、楸瑛は茶を吹《ふ》きそうになった。後半全部なにげにとんでもないが、なかでもとんでもないのが日当の額だった。
「金五両!?」
さっき彼が提示した額からいきなり二十倍にも跳《は》ねあがっている。
「でなければやりませんよ」
にっこり。
正体がバレてから、静蘭は時折|本性《ほんしょう》を見せるようになったと楸瑛は思う。
「……わ、わかった。無理をいっているのはこちらのほうだし。上の者にかけあってみょう」
一方、お金のためなら多少の理性はふっとばす秀麗であるが、この日は違った。日に金五両というおいしすぎる話を聞いてさえ、あまり色よい反応を示さなかった。
曇《くも》り顔のままの秀麗に、静蘭は笑ってみせた。
「私のかわりに燕青を置いていきますから」
いきなりのご指名に、頬《ほお》に飯粒《めしつぶ》をくっつけたままの燕青はまたしてもぽかんとした。
「へ?」
「ひと月くらいならなんとでもなるだろう? 文句あるか」
燕青はにかっと笑った。
「ない。実はいつ切り出そうかと迷ってたんだよ。居候《いそうろう》。いやー文無しでさー」
「……お嬢様《じょうさま》、こいつは外見からしてあやしすぎる男ですが、とりあえず人間は保証します。何かの役には立ちますし、嫌《いや》がる私をむりやり引き抜きたいとおっしゃる藍将軍が、この男のぶんの滞在費もご自分の懐《ふところ》から出してくださいますから、家計にも響《ひび》きません」
楸瑛はさらにぎょっとした。――なんだその滞在費というのは!
声を上げる前に、やや顔を明るくした秀麗にたたみかけられた。
「ほんとですか? 藍将軍。そんな、助かります」
「え、その……いや、いいんだよ」
楸瑛は頬を引きつらせつつもそういうしかなかった。なんと静蘭を借りるだけで思いもかけぬ出費の連続である。お金持ちの楸瑛にとっては微々《びび》たる金額であるが、問題はいつも丸めこむ側の自分が丸めこまれているという事実だ。
「……さすがだな。お前相手に次々先手を打ってくる。見事なもんだ」
絳攸が感心したように呟いた。公子一|優秀《ゆうしゅう》と謳《うた》われていた理由の一端《いったん》をかいま見た感じだ。
「あの甘ちゃん王に足りないのはこういうところなんだ。ちっとは見習わせないとな!」
しかし、先ほどから秀麗の様子がおかしい。絳攸はちらりとその横顔を見やった。
(金に反応しないとは……何かあったのか?)
楸瑛もそう思ったようである。
「秀麗殿、何か元気がないね。どうしたのかな? しおれた花のようで、とても気になるね。何か悩《なや》み事でも?」
「え? い、いえ、別に」
「静蘭なら、本当に心配ないよ。正直、羽林軍でも彼に勝てるのは五人といないと思う」
秀麗はどこかむりやりな笑《え》みを浮《う》かべた。楸瑛はわずかに首を傾《かたむ》けた。
「……もしお金の問題なら、いくらだってあげるよ。秀麗殿にならね」
霄太師からもぎとった金五百両は、邸《やしき》の修繕《しゅうぜん》と道寺塾の整備、米の備蓄《びちく》そして本代に、あっというまに費《つい》やされてしまい、今ではすっかり元の生活に逆戻りしていた。以前と違《ちが》うところといえば、雨漏《あまも》りがなくなったことと麦飯から米飯に変わったことぐらいである。
「いえ! そんなんじゃありません。本当になんでもないんです」
「……もしかして、主…あの人が最近|贈《おく》ったっていう藁人形《わらにんぎょう》が原因? 確かに抜《ぬ》きんでて突拍子《とっぴょうし》もない贈り物だけど、彼に悪気はなかったんだよ。ちょっと変な勘違《かんちが》いしてて」
客人をはばかって、とっさに贈り主の名を伏《ふ》せた楸瑛に、秀麗の顔が引きつった。思い出してしまった、という顔である。どうやら今の今まで記憶《きおく》の彼方《かなた》に葬《ほうむ》っていたらしい。
「……藍将軍……ちょっとなんとかならないんですかあの人……」
「まあまあ。寂《さび》しい彼のココロの慰《なぐき》めと思って」
絳攸も秀麗に話があったのだが、妙《みょう》に不安定な彼女に切り出そうかどうか迷う。後日にしようかとも思ったが、この件はなるべく早くしたかった。それにもし絳攸の考え通りなら――。
「――秀麗」
「はい? なんですか、緯紋様。おかわりですか?」
「……じゃ、もう一|膳《ぜん》頼《たの》む。それと、ちょっと頼みたいことがあるんだが……」
ご飯をよそいながら、秀麗は首をかしげた。
「なんでしょう?」
絳攸はもったいぶらなかった。
「ひと月ほど朝廷《ちょうてい》で働く気はないか。後宮じゃない――外朝[#「外朝」に傍点]で」
***
劉輝は遅《おそ》くまで執務《しつむ》室におり、机案《つくえ》で一人うんうんうなっていた。
何事か書き記したりバツ印をつけたりして料紙とにらめっこしていた彼は、室《へや》に入ってきた者の気配に気づかなかった。
「ふふふ、悩んでおるようじゃのう、若人《わこうど》よ」
突然《とつぜん》の老臣の声に、劉輝はむっと顔を上げた。
前王の時代は名|宰相《さいしょう》として辣腕《らつわん》をふるい、今はまた朝廷百官の長《おさ》として色濃《いろこ》く影響《えいきょう》力を残す霄太師は、とぼけたじじいを装《よそお》う一方でひどく酷薄《こくはく》な一面もあわせもつ。それを知る数少ない一人である劉輝も、今まで何回か痛い目を見てきた。特に前回はひどく、真面目《まじめ》に土に埋《う》あてやろうかとも思ったが、なんだか埋めてもひょっこり出てきそうなのでやめにした。というより――悔《くや》しいが――彼が今いなくなるのは痛かった。それに彼の冷酷さが発揮される条件は限られているので、自分がしっかり目を光らせていればいい、と心に決めた。
しかしくそじじいと思う気持ちはまったく変わらない。うっかり口に出しかける。
「くそじ……霄太師。なんでこんな時間までふらふらしてる」
「ふ…この城はわしの家のようなものですぞ」
「……余の家だ」
「過ごした時間はわしのほうが遥《はる》かに長いですじゃ。ほうほう、新国試案の草稿《そうこう》か」
霄太師はちょっとのぞきこんだだけでズバリ当てた。そしてわざとらしく首を横に振《ふ》る。
「はぁあ、これが不純な動機からきたものでなければ、素直《すなお》に賛辞を送るのじゃがのう」
「う、うるさいっ」
「朝議で唐突《とうとつ》に発言して黄|戸部尚書《こぶしょうしょ》から見事な無視を食《く》らったそうですの。ずいぶん焦《あせ》っておるようじゃが、まーさーか、今度の会試《かいし》までに間に合わせようと思うとるのですかのう」
「……じ、じじいはおとなしく邸に引っ込んで隠居《いんきょ》生活してろ。だいたいこの猛暑《もうしょ》でなんでそんなに元気なんだ。お前よりずっと若い者たちが次々とぶっ倒《たお》れてるっていうのに……お前もたまには普通《ふつう》のじじいらしくぶっ倒れてみたらどうなんだ。桃《もも》くらいなら送ってやる」
しかしその程度で撃退《げきたい》できるようなじじいではない。霄太師は大仰《おおぎょう》によよよと泣き崩《くず》れた。
「おお、これほどまでに有能で、しかも誠心誠意国家のために尽《つ》くしてきた老臣を邪険《じゃけん》になさるとは。何か主上の御為《おんため》になればと老骨にむち打ってここまできたけなげなじじいを。はぁ、秀麗|殿《どの》のところに行って愚痴《ぐち》でもこぼしてこようかのう」
「わああ、ちょ、ちょっと待て! くそっ、そんなことしてみろ……」
「なんですかのう? また秀麗殿に愚痴るネタを一つ増やしてくださるのですかのう」
「くっ……こ、この」
結局、劉輝はこうやって手のひらの上で転がされ、いいように遊ばれているのであった。
ふと、劉輝は霄太師が小脇《こわき》に抱《かか》えている壺《つぼ》に気づいて視線を落とした。片手で抱えられるくらいの中くらいの壺。模様などはなく、ただ素っ気ない茶色がつるつると輝《かがや》いている。
何だか妙だ、と劉輝は思ったが、どこが妙だかよくわからない。
「……なんだ、その瓶《かめ》は」
すると霄太師はわずかに沈黙《ちんもく》した。そしていつも通りの瓢々《ひょうひょう》とした口調で答える。
「これですかの? これは……東方諸島の名産、梅干しといって、青梅の干したのをよく漬《つ》け込んだものですじゃ。旧《ふる》い知り合いが送ってきましての」
梅干しの存在は劉輝も知っている。
「……ふーん。梅干しか。それは珍《めずら》しいな」
「ははは。欲しいとおっしゃってもあげませんぞ。これは大変貴重なものですのでな!」
劉輝の目が半眼になる。なんだろう、この奇妙《きみょう》な反応は。つねに泰然《たいぜん》と構える老太師のいつになく慌《あわ》てた口調は、それが本当に貴重な梅干しだからか。それとも。
「では、わしはこれで失礼いたす」
劉輝の視線から隠《かく》すように壺を抱《かか》えて、霄太師はそそくさと早足で室を出て行った。
バタン、と扉《とびら》が閉まると、劉輝はふたたび一人になった。
ふと、寂しさが胸に忍《しの》びよる。
近ごろよく襲《おそ》われるようになったこの感覚を、劉輝は不思議な思いで味わっていた。
独りで過ごしていた幼いころ、そして邵可と宋《そう》将軍がいればいいと思っていたころ――こんな感覚が自分の中にあっただろうか、と考えるのだ。
似たような感情はあったように思う。でも、決して同じではない。
劉輝は袷《あわせ》からそっと一枚の手巾《てぬぐい》を取り出した。きちんとたたまれたそれには、手縫《てぬ》いで桜模様がきれいに刺繍《ししゅう》されている。それを縫った少女の面影《おもかげ》がよぎって、病気でもないのに胸がじわりとしめつけられるように痛む。不快ではないのに、なぜか耐《た》えるのがつらい痛みだ。
寂しいと思うのは、本当は一人ではないからだ。いてほしいと思う人がそばにいないことに気づいてしまうから。
それはとても贅沢《ぜいたく》で、幸せなことだと今はわかる。
今までの彼には、そばにいて当然と思える人がいなかった。邵可にしても、宋|太傅《たいふ》にしても、優《やさ》しさからそばにいてくれた。自分はただそれに甘えていただけで、彼らにとって自分は絶対に必要な存在ではなかった。それを知っていたから、いつも不安だった。
秀麗とすごして、ようやくわかった。自分には「努力」が足りなかったのだと。
欲しいものをつかみたいのなら、努力をしなくてはならなかった。誰《だれ》かの優しさに甘え、しがみついているだけでなく、居場所を提供してくれるのを待つだけでなく。誰かに必要とされ、好かれたいのなら、そのための努力をしなくてはならなかったのだ。
たぶん、自分も遥か昔は何がしかの努力はしていたように思う。ただその努力は報《むく》いられなかった。そばにいてほしい人は、いつも指の間からすり抜けた。幼かった自分は求めることに疲《つか》れ果て、邵可と出会ったころにはもはや努力の仕方さえ忘れていた。
手巾の桜模様をそっとなぞる。
今は違う。誰かにとって自分は必要なのだと、少しだけ自信がもてる。絳攸と楸瑛は毎朝やってくるし、日に日に仕事は増えていく。不思議なほど不安はぬぐいさられ、ここにいていいんだという安堵《あんど》がある。
「いい王になってほしい」と秀麗はいった。だからそういう王になれたらいいと思った。その約束が、靄《もや》のかかった視界の先に黄金色《きんいろ》の道を拓《ひら》いてくれた。
見返りを求めて努力するのではないけれど、頑張《がんば》れば大切なものが自然と手のひらの上に落ちてくる。劉輝は秀麗にそれを教えてもらった。
あれほど嫌悪《けんお》した闇《やみ》さえも怖《こわ》くはなくなった。それでも、一人で眠《ねむ》るのはやはり「寂しい」。
いてほしい人がいない。その人でなければ意味がない。
自分は案外気が長いほうだと思う。待つ自信もある。それでも。
劉輝は桜の刺繍に口づけを落とした。きれいにたたんで袷にしまおうとして――ふとまじまじと手巾を見やる。
「……そうだ」
劉輝は何かを思いついたようにひとつ頷いた。
「今度の『贈り物』はこれにしよう」
すぐに探させよう――そう呟くと、彼は笑った。
そして筆を取ると、また草稿と向かい合ったのだった。
[#改ページ]
――城では、ある噂が《うわさ》急速に広まっていた。
曰《いわ》く。
『霄太師が、東方諸島の特産で夏バテのさい食欲増進にいいという梅干し=Aそのなかでも最高の効能をもつという超《ちょう》梅干し≠ひそかに所有しているらしい。それを口に含《ふく》むと、猛暑にやられた死者までもがたちどころに大復活するとかしないとか』
あまりにもアヤしすぎる噂である。
しかし噂の出所《でどころ》が珍しく高官のほうからということと、所有者が朝廷《ちょうてい》百官の長、霄太師といぅこと、そして実際、それらしき壺を小脇に抱えている霄太師本人の姿が見かけられていたことで、その噂は妙な真実味を帯びてしまった。
しかも今年の猛暑は見事に朝廷|中枢《ちゅうすう》を直撃《ちょくげき》していた。運動不足で体力のない文官から次々と暑さに倒れていき、すでに冗談《じょうだん》ではすまない域に入ってしまっていた。
そこで藁《わら》にもすがる思いで噂に飛びつく者が急増した。超梅干し≠ネどという名称《めいしょう》からして得体《えたい》の知れないものも、暑さで頭の中身が飛びかけていた官吏《かんり》たちにはすばらしい特効薬に思えたのである。結果、倒れた家族や友人を抱える官吏たちが、目の色を変えて超梅干し≠ノ殺到《さっとう》した。
仰天《ぎょうてん》したのは霄太師である。
「どうか超梅干し≠譲《ゆず》ってください!」「家内と娘《むすめ》が倒れたんです」「私にはもう超梅干し≠ノ頼《たよ》るしか」「お願いします私は母一人子一人でぇえ」などと、血走った目の官吏たちが、彼の官服に亡者《もうじゃ》のごとくしがみついてくるのだ。
「そ、そんなものはもっとらん! 誰じゃそんな根も葉もない噂を流したのは!」
霄太師が怒《おこ》っても、もはやそれは特効薬を独り占《じ》めする言葉にしか聞こえなかった。
だいたい、そうやって怒鳴《どな》っている最中も、霄太師は壺を手放さないのだ。どんなに頼《たの》んでも中身を見せてもくれなかった。おかげで余計に噂の真実味が増した。
そうして霄太師は、殺気だった官吏たちに朝廷中を追っかけられるハメになったのである。
「ふん、いい気味だ」
劉輝は書翰《しょかん》に署名をしていきながら、鼻で笑った。
「あのくそじじいも少しは困ればいいんだ。ざまーみろ」
――誰あろう超梅干し≠フ噂を流したのは劉輝であった。
いつも自分をいじめるお返しにちょっと困らせてやろうと思ったのだが、思いがけなくイイところをついていたらしい。これはもうけた。
「……うわー、すっかりささくれだってきたねぇ」
傍《はた》で見ていた楸瑛が絳攸に囁《ささや》いた。
「なんか、禁断症状がでてきたって感じだね。あれはそろそろ危険かな」
「まったく、たかが女一人に会えないからってなんだ! 情けない」
「いやいや初恋《はつこい》の根深さをバカにしてはいけないよ、絳攸。でもああいう一面を見ると、確かに某《ぼう》兄公子と血がつながってるなぁと思うよね」
「……そうだな」
「しかも同じ城内に特効薬がうろうろしてることを知らないでふてくされてるんだから、可哀想《かわいそう》というか哀《あわ》れというか面白《おもしろ》いというか」
楸瑛の顔つきからして、その感情構成比率は一対一対八くらいだろう。
「――言うなよ。ややこしいことになるのは秀麗も望んでない」
「はいはいわかってるよ。そういうところのけじめのつけかたも彼女らしいね。でも、意外だったね。日当の額を告げる前に引き受けてくれるなんて」
「そうか? 俺は別に意外でも何でもなかったが」
曇《くも》っていた顔がみるみる晴れた。それは傍目にもはっきりと、驚《おどろ》くほどの変わりようで。
具体的な仕事や報酬《ほうしゅう》を口にする前に、彼女はきっぱりといった。
『――やります。やらせてください』
その迷いのない表情を思いだし、絳攸は自然と微笑《びしょう》した。
「――そうでなくてはな」
「……まったく、秀麗|殿《どの》に対する君を見てると、君が女性|嫌《ぎら》いってことを忘れそうになるね」
「女と見てないからな。弟子《でし》みたいなもんだ」
「弟子ねぇ」
くすくすと楸瑛は笑った。
「で、君のかわいいお弟子さんの働きぶりはどう?」
「愚痴《ぐち》一ついわずに頑張ってくれて本当に助かると、景|侍郎《じろう》から礼をいわれた。まあ、今まで彼以外、黄|尚書《しょうしょ》のそばで三日ともったやつはいなかったからな。一緒《いっしょ》にくっついてった燕青殿も武官じゃないとわかった途端《とたん》、遠慮《えんりょ》なくこき使われているらしい」
楸瑛は吹《ふ》きだした。
「――君もすごいこと考えつくね。人手の足りない戸部《こぶ》に――しかも黄尚書個人の雑用係として秀麗殿を放《ほう》りこむなんて。前は貴妃《きひ》、今度は男の子のふりして侍僮《じどう》の真似事《まねごと》なんて、いやー充実《じゅうじつ》した人生を送ってるね。黄尚書付きじゃ、さぞかしこき使われてるだろうねぇ」
楸瑛は戸部とその長官である黄尚書の諸々《もろもろ》の話を思い浮《う》かべた。
「この上なく有能であるがこの上なく変人――そのあまりの奇っ怪ぶり、かつ人使いの荒《あら》さに高位の官になればなるほど退官を望む者が増加していくという魔《ま》の戸部。そしてすべてが謎《なぞ》に包まれてる黄戸部尚書――か」
ちらりと、やけくそのように料紙に落書きしている王を見やる。
「秀麗殿、今年は人生最大の厄年《やくどし》なのかもしれないね」
***
「――次、この書翰を日付順に並べろ。あそこの棚《たな》三つは片づけていい。そこの書翰入れからこの十本の巻書を探して早急《さっきゅう》に机案脇《つくえわき》に並べておけ。向こうに積んだ料紙は全部捨てろ。府庫《ふこ》に行ってこれとこれとこれを三冊借りてきてこっちの五冊を返してこい。ついでに鴻臚寺《こうろじ》へ行ってこの書翰を届けろ。その際長官に『こんなふざけた見積もり出すとは頭|腐《くさ》ってるのか貴様は』と一言一句|違《たが》えずに伝えてこい。――以上」
くぐもった声で一息に指示されて、秀麗は内心|盛大《せいだい》に顔を引きつらせながら、それをまったく面《おもて》に出すことなく。へこりと頭を下げた。
ここで働きはじめてはや十日、もうこれしきのことでは驚かなくなっていた。
景侍郎がすまなそうにちらちら秀麗を見やるが、彼のほうも盛大に仕事が積み重なっていてその処理に追われていた。ちなみに燕青も「立ってる者ならクマでも使え」とばかりに仕事を大量に任され、全然関係ないのにあっちこっちに飛び回らされていた。
まさしく、黄尚書は秀麗が今まで働いてきたなかでも最高級に人使いの荒い主人だった。ほんの少しだって暇《ひま》にさせてくれないのだ。次から次へと仕事がわいてくる。
(……でも、すごい人だわ。いろんな意味で)
秀麗はいわれた仕事をはじめながら、しみじみとそう思う。机案について膨大《ぼうだい》な量の書翰を処理していく黄尚書。彼は秀麗に指示を出すときも一度として顔を上げなかった。書翰を処理しながらあれだけのことを整然といってのけるのだから、並はずれて頭が良いのだ。
(仕事の采配《さいはい》も本当にお見事)
あちこちで多くの賃仕事をやってきた秀麗は、雇用《こよう》主としての黄尚書の能力の高さを正確に理解していた。彼はすぐに個々人の能力を見抜《みぬ》き、それに見合った仕事を的確にふりわけていく。厳しいように見えるが、絶対にできないことはいわない。その者が全力で働けばこなせる量を任せている。だがその見極《みきわ》めが非常にぎりぎりの線なので、使われるほうはこき使われてると思ってしまうのだ。むちゃくちゃだと思っても、一生|懸命《けんめい》働いてみたらなんとかできてしまった――そういう仕事の振《ふ》り分けをするのである。
確かに、高官になるほど辞職願いを出す人が多くなるという絳攸の言葉も納得《なっとく》できる。朝廷の高官にまでなる人が、ここまでこき使われることなどほとんどないだろう。今までゆったり構えて指示を出していたのが、いきなりあちこちを全速力で駆《か》け回るハメになるのだ。自尊心の高い人ならなおさらぷっつんといっても無理はあるまい。
(……しかも、相手がこの人だし)
この人にこき使われるのと霄太師などにこき使われるのとでは、おそらく配下の精神状態に大きな差がでるに違いない。
正直、秀麗も最初に会ったとき、しばらく何をいっていいかわからなかった。
(……私の今までの人生で一、二を争うヘンな人なのは確かだわ)
秀麗は十日前のことを思い返してつくづくとそう思った。
「こ、戸部尚書の雑用係!?」
仕事内容を告げられた秀麗は飛び上がった。
「ちょ、ちょちょちょっと待ってください! そんな重要なお仕事」
「心配するな。政事《まつりごと》に関《かか》わるような重要なものではない。本当に単なる雑用だ。書類を各省に届けたり、書翰の整理をしたりといったものだ」
「はあ……まあ、それなら……。で、格好はやっぱり……?」
「ああ。侍僮の格好をしてもらう」
絳攸は上から下まで秀麗を眺《なが》めた。そして表情一つ変えずに頷《うなず》いた。
「心配するな。女とは絶対[#「絶対」に傍点]気づかれない」
――秀麗は抗議《こうぎ》するべきか落ち込むべきか激しく迷った。
そして悲しいことに、髪《かみ》の結《ゆ》い方を変え、男物の衣服を身に着けた秀麗は、どこからどう見てもかわいらしい少年にしか見えなかった。出るべきところも引っ込むべきところも、年の割には未発達だったためにできた荒技《あらわざ》と思うと、ますます情けない気持ちになる。
「……それで、戸部尚書ってどんなかたなんですか?」
急遽《きゅうきょ》侍僮の格好に仕立てられた秀麗は、頭一つぶん背の高い絳攸のあとをてくてくとついていった。うしろには形《なり》だけはきちんと整っている髭《ひげ》もじゃ燕青が、長い棍《こん》片手に物珍《ものめずら》しそうにあちこちを眺めまわしている。彼は頑《がん》として髪も髭も切らなかったのだ。
「そうだな……簡潔に言えば有能、変人、謎な人だ」
「……は?」
「有能さは誰《だれ》もが認めるところだ。うちの上司と並んで未来の宰相《さいしょう》候補とまでいわれてる。実力、才能とも本物だ。少人数ながら見事に戸部を指揮|統率《とうそつ》し、彼が尚書となってからずいぶん経済的に助かっている」
「……うちは、戸部さんが禄《ろく》を規定どおりにくれないおかげでずいぶん苦労しましたけれど」
「それは多分、前の尚書だろうな。前任者はかなりいい加減で、おかげで国庫に穴があきかけてたそうだ。それを見事に立て直したのが黄尚書だ。ちなみに前任者はその懐《ふところ》が国庫と反比例してふくらんでたためクビになった。で、黄尚書に切り替《か》わったとき、前任者の書翰《しょかん》がそのまま黄尚書に受け継《つ》がれて、邵可様がなんの文句もいわなかったことから維持《いじ》されてしまったんだろう。少ないとはいえ、ちゃんと一定の禄が支払《しはら》われていたはずだが」
「……そういえば」
年々下降していた禄だが、考えてみればある時から平行線になった。下降が止まったと秀麗は単純に小躍《こおど》りして喜んだものだが、そういう事情があったのか。
「名前は黄|奇人《きじん》。黄家の人間だ。性別・男。年齢《ねんれい》、顔、声ともに不詳《ふしょう》だ」
「…………………は? い、今なんておっしゃいました?」
「黄奇人。黄家の人間。性別・男。年齢、顔、声ともに不詳」
絳攸はいたって淡々《たんたん》と繰《く》り返した。秀麗はどこからつっこむべきか悩《なや》んだ。きょろきょろと周囲を見回していた燕青も、その突拍子《とつぴょうし》もない情報に思わず振り返る。
「……えーと、キジンて、もしかしてあの奇人ですか? ヘンな人っていう意味の」
「そうだ。よくわかったな」
「……冗談《じょうだん》でいったんですけど」
「まぎれもなく事実だ。ただし、本名は別にあるらしいな。うちの上司に聞いたところによると、周りに奇人変人といわれつづけたため、ある日そんなら名前にしてやると、奇人と改名したそうだ。以後、署名でも判でも名を名乗るときでもすべて黄奇人で通してるから、今では彼の本名を覚えている者はほとんどいないそうだ。俺も知らん」
その話からしてすでに相当ヘンである。これ以上|訊《き》くのも怖《こわ》かったが、一応期限付きとはいえ主人になる人だ。秀麗はおそるおそるつづきを訊いてみた。
「……で、年齢、顔、声ともに不詳ってなんですか。ありえないじゃないですかそんなの」
絳攸は顎《あご》に手をやったが、ややあって首を振った。
「説明するより、実際会ったほうが早いだろう。会えばわかる」
「……???」
「へぇええ。なんか朝廷《ちょうてい》っておもしれー人がいるんだなぁ。で、李|侍郎《じろう》さん」
おとなしくくっついていた燕青がにかっと笑って訊いた。
「四半刻で戸部につくっていう話だったけど、そろそろ一刻になるぜ。まだつかねーの?」
――その日、絳攸の超絶《ちょうぜつ》方向|音痴《おんち》を知る者が新たに二人増えたのは、いうまでもなかった。
そして意地っ張りな道案内役のおかげで、不幸にも秀麗たちは約束の時間に大幅《おおはば》に遅《おく》れ、黄|尚書《しょうしょ》からこのうえなく冷ややかに迎《むか》えられることになったのであった。
「時間に遅れるなど問題外だ。今すぐ帰るがいい」
話は終わったとばかりにきびすを返す黄尚書を、秀麗は唖然《あぜん》として見つめた。必死でとりなす景侍郎と絳攸などすでに視界の外である。なにしろ。
(……こりゃ確かに変人だわ)
――彼は仮面をかぶっていた。
「そりゃー、確かに年齢、顔、声ともに不詳だわね」
秀麗は鴻臚寺《こうろじ》に書翰を届け、府庫で父から本を預かり、戸部への道をてくてく歩いていた。隣《となり》ではやはり燕青が何十本もの巻物を両手に抱《かか》えている。
「なんでも、黄尚書が人前で仮面を外すことは絶対ないらしいぜ。いつ頃《ごろ》からかはわからんけど気づいたらなんかかぶってて、誰もつっこめないままうやむやに時が過ぎて、今じゃ六部《りくぶ》の長の一人っていう高位とあいまって誰も仮面を外せなんていえなくなっちまったんだとさ」
「……つっこめない気持ちもわかるけど……にしたってどうなのそれ……」
仮面は少なくとも十年前から着けているのは確かなようで、以来彼は謎《なぞ》の人となった。
仮面着用以後の官吏《かんり》たちにとっては彼の年齢も顔も不詳で、声も仮面でこもるため、正確なところは不明。もちろん仮面をかぶる前の彼を知る者もちゃんといるのだが、彼の姿に関しては何故《なぜ》か絶対口をひらかないというのだ。誰もが一様に黙《もく》して語らずを貫《つらぬ》き、おかげで今や、彼の素顔《すがお》に言及《げんきゅう》することは朝廷全体で禁忌《きんき》となっているらしい。
「……私このごろ気づいちゃったんだけど、あの仮面、実は毎日|違《ちが》うわよね……」
「あ、俺の気のせいじゃなかったんだな。なんか微妙《びみょう》に模様とか違うよな。いくつもってんだろうな、あのテのヘンな仮面」
こと実害がない限り、他人の趣味《しゅみ》には寛容《かんよう》な秀麗だが、これに関しては好奇心《こうきしん》がうずく。
「……なんで仮面かぶってんのかしら」
深遠なる謎だと思っていたが、燕青はあっさりと答えた。
「なんか、顔のせいで女に振られたらしいぜ」
「ええ!?」
「や、俺も聞いた話だけどな。でもいまだに独身ってのは確かみたいだな」
いつのまに燕青がこんなに情報をつかんでいたのかも驚《おどろ》きだったが、それ以上に話の中身のほうが驚きだった。秀麗は一気に黄尚書に同情した。
「ええ……そ、それはかわいそう。だって顔はどうしようもないじゃないの。顔を理由に振《ふ》る女も女よ」
秀麗は黄尚書の仮面を思い浮《う》かべた。そうだったのか。あの仮面は趣味でもなんでもなく、世にも恐《おそ》ろしいご面相を隠《かく》すためだったのか……。でもでも。人間、顔じゃないわ。
「黄尚書、人使い荒いけど多分悪い人じゃないし、頭いいし、地位もお金もあって、奥さんになったら今頃|左団扇《ひだりうちわ》じゃないの」
「……最後が本音だろ」
「なんですって。お金は大事よ!」
からからと燕青が笑う。彼の眼差《まなざ》しは温かみのあるもので、会って十日ほどだったが、秀麗はなんだか歳《とし》の離《はな》れた兄をもったような気分だった。
「でも姫《ひめ》さん、よく頑張るなぁ。楽しい?」
「うん」
秀麗はいたずらっぽく燕青を見上げた。
「燕青だって、あっちこっち飛び回されてるけどちっともイヤそうじゃないわね」
「んー俺、昔|準試《じゅんし》受けようとしたことあるからな」
秀麗は目を見ひらいた。国試は国の中枢《ちゅうすう》機関に仕官するための試験だが、準試は地方勤め、つまり各州の官吏になるための登用試験だ。受かったら大概《たいがい》その州府で一生勤める。
「州官になりたかったの? しかも文官?」
「うん、まあ」
「受けるの、やめちゃったの?」
「いろいろあって、結局な」
「今からでも、受ければいいのに」
ぽつりと呟《つぶや》いた秀麗の頭を、何を思ったのか燕青はポンと叩《たた》いた。
「……そうだな。俺もそー思った。俺も姫さんと一緒《いっしょ》に勉強しようかな」
四日にいっぺんの夕餉《ゆうげ》のあと、秀麗は絳攸に師事して勉強を教わっていた。劉輝と一緒に勉強していた時の彼の講義の面白《おもしろ》さが忘れられず、ダメもとでいってみたのだが、絳攸は予想以上にしっかり、かつビシバシとやってくれた。
「……絳攸様、めちゃめちゃ厳しいわよ。山のように宿題出すもの」
「ははあ、姫さんの室《へや》、いつも遅《おそ》くまで明かりついてるのってその宿題のせいか」
「あら、見てたの?」
「静蘭から用心棒|仰《おお》せつかってますからな」
「昼間だけでしょ。……今日も無事で帰ってくるといいんだけど」
「あいつなら大丈夫《だいじょうぶ》だろ」
さらりという燕青を、上目遣《うわめづか》いに見やる。――蒸青みたいな男と静蘭が知り合いだったのは少し意外だった。どういう関係なのかは聞いてないが、親しそうなのはわかる。
静蘭は物腰《ものごし》はやわらかいが、人と一定の距離《きょり》を置く癖《くせ》がある。
(よかった……)
その線を越《こ》えるような友人が静蘭にいたことが、秀麗には嬉《うれ》しかった。
***
「……またか」
宋太傅はまとめて縛《しば》りあげられている男たちを見て眉《まゆ》をひそめた。
「これも茶《さ》州でお尋《たず》ね者になっている賊《ぞく》だなぁ」
右|羽林《うりん》軍を束ねる白《はく》大将軍が、まわってきている手配書を確認《かくにん》して渋面《じゅうめん》になる。
城下の警護強化に当たり始めた羽林軍と宋太傅だったが、ここ数日、先回りして賊をとっつかまえてくれる親切な何者かがいるらしく、毎朝必ずどこかの路地裏でこんな風に縛りあげられている男たちを発見する日がつづいている。
「俺らの手間が省けて嬉しいっつーのはあるんだが……なんか、こう」
「つまらん」
宋太傅はきっぱりといった。その眉間《みけん》には青筋が浮かんでいる。
「人の楽しみを邪魔《じゃま》するのはどこのどいつだ」
「そう! そーなんですよ! せっかく燃えてたのにまったくふてぇ野郎《やろう》だ。余計なことしやがってどこのどいつだくらぁ! って文句の一つもいいてぇっつーか」
品位に欠けた口調で意気投合する二人とは対照的に、静蘭はかなり冷めていた。
もともと賊退治なんて彼にはどうでもいいことだったし、それに少しばかり後悔《こうかい》してもいた。やはり、こんな役目は燕青にでも押しつけて、自分は何が何でもお嬢様《じょうさま》のそばにいればよかったと思う。
夜の団欒《だんらん》のひととき、秀麗は朝廷でのことを毎日生き生きと話す。それを見るのはとても嬉しかったが、相づちを打つのが自分でなく燕青というのが少し面白くなかった。
本来自分がいるはずの位置を、他《ほか》の誰《だれ》かにとられているというのは存外イヤな気分だった。ムッとするというか、妙に腹立たしいというか、心のどこかがいつもそわそわして、落ち着かない。劉輝の時はこんなことなどなかったのだが。
いろいろと思いをめぐらす自分に気づいて、静蘭は苦笑《くしょう》した。
(……私もずいぶん、『人並み』になったものだ)
不意に、照りつけていた日差しが翳《かげ》った。
見上げると、昊《そら》が急速に薄暗《うすぐら》くなりつつあった。遠雷《えんらい》の音が微《かす》かに耳に届く。
「っと、こりゃ一雨くるぞ」
白大将軍がどこかの軒下《のきした》でも借りようと首をめぐらす。
どんどん育っていく黒い雲から、ポツリと雫《しずく》が落ちてきた。瞬《またた》く間に桶《おけ》をひっくり返したような大雨になる。
昊が光る。目も眩《くら》むような一瞬《いっしゅん》の閃光《せんこう》。そして、轟音《ごうおん》――。
「静蘭! てめぇ何ボケッと突《つ》っ立ってやがるっ!! カミナリ様にぶっ殺されてぇのかッ!!」
ぐいと肩《かた》をひかれ、静蘭ははっと顔を上げた。
「……白大将軍……」
「おら来い! こねぇとむりやり右羽林軍に籍《せき》入れるぞ」
「あ、行きます」
「うわ、かわいくねーやつ。右羽林軍《おれんとこ》に入りてぇってやつぁ山ほどいんのによぉ」
「じゃ、そのかたたちに譲《ゆず》ります」
叩きつけるような雨粒《あまつぶ》にはりついた前髪《まえがみ》をかきあげながら、静蘭はスタスタと歩き出した。ここまで濡《ぬ》れてしまってはもはや急いでも無意味である。白大将軍もそう思ったのか、たいして急《せ》かさずうしろをくっついてきた。
「けっ、それっくらいであきらめると思ってんのかぁ? いーから一回俺と飲み明かそうぜ。したら次の日には俺の軍に入りたくってしょーがなくなるからよ」
「結構です」
「あ、まさか燿世《ようせい》のやつに惑《まど》わされてンじゃねーだろな。よせよせあんな年にひと言しゃべるかどーかわかんねぇような男。てんでつまんねーぜ。俺んとこなら損はさせねぇ」
近衛《このえ》である羽林軍は左右両軍にわかれており、左羽林軍の大将軍で楸瑛の上官にあたるのが黒《こく》燿世だった。対して右羽林軍大将軍がこの白|雪炎《らいえん》である。もともと七家でも白家と黒家は代々武将の家柄《いえがら》で、文官より武官を多く輩出《はいしゅつ》しているので有名だった。おかげでこの二家はことあるごとにヘンな対抗《たいこう》意識を燃やし、それを反映するかのように現両羽林軍の大将軍たちの性格も正反対で、ほとんど口をひらかない黒燿世と豪快《ごうかい》な白雷炎は何かというとすぐに剣《けん》を抜《ぬ》いて配下の者たちに迷惑《めいわく》をかけていた。もっとも左羽林軍に一時在籍していた静蘭から見れば、二人の関係は「喧嘩《けんか》するほど仲がいい」というもので、中身も似た者同士だと思っている。
「左羽林軍にも右羽林軍にも入る予定はありません」
落ちる気配のない静蘭に、白大将軍が舌打ちする。
「まったく、その腕《うで》で米倉番人なんぞに埋《う》もれてるのを見過ごせるかよ」
「見過ごしてください。私はこれで幸せなんです。昔よりずっとね」
静蘭のいう「昔」がどこに当たるのかを悟《さと》って白大将軍は押し黙《だま》る。彼は無論王家の剣筋を知っている。静蘭の素地になっている剣筋に気づかぬわけがなかった。そして羽林軍が精鋭《せいえい》であればこそ、気づかれる可能性は高い。だからこそ静蘭は入軍を断りつづけてきた。
けれどそれを知ったうえで、両大将軍も勧誘《かんゆう》しているのだ。
「……ちっ、また明日勧誘し直しかよ。早く落ちろっての」
「白大将軍」
「んん?」
「その髭《ひげ》、剃《そ》ったらどうです。全然似合ってませんよ。昔から童顔でしたけど、髭生やしたくらいでは隠《かく》せません。あきらめて受け入れたらどうですか」
ぴしっと白大将軍のこめかみに青筋が浮《う》かびあがる。土砂降《どしゃぶ》りに負けないくらいの大声で彼は叫《さけ》んだ。
「……てめぇにだけはいわれたかねぇっっっ!! 堂々と二十一なんてふかしこきやがる厚顔野郎がっっ!!」
「人聞きの悪いこといわないでください」
静蘭は涼《すず》しい顔で軒下《のきした》へと歩みよる。ふと昊を見上げて溜息《ためいき》をつく。
(……お嬢様は大丈夫だろうか)
大の雷嫌《かみなりぎら》いである秀麗を思って、静蘭は気遣《きづか》わしげに顔を曇《くも》らせたのだった。
***
秀麗は頼《たの》まれた本を抱《かか》えてえっちらおっちらと戸部《こぶ》に向かっていた。目的地の違《ちが》う燕青とは途中《とちゅう》で別れたため、今は一人だった。
「……お、重い……」
一冊の厚みが指四本ぶんはあるので、三冊といえどもかなりの重さだった。暑さとあいまって、秀麗の額からは滝《たき》のような汗《あせ》が幾筋《いくすじ》も流れ落ちる。
「ずいぶんと重そうだね。手伝おうか」
不意に横から手が伸《の》びてきたかと思うと、抱えていた三冊の本がふわりともちあがった。
「え」
秀麗が驚《おどろ》いて振《ふ》り返ると、見知らぬ男がにっこりと笑って立っていた。
「あ、あの……?」
格好からして文官のようだったが、秀麗の知った顔ではなかった。見たところ三十と少しほどの、まだ若い男性だった。
「黄|尚書《しょうしょ》のところへ運ぶんだね?」
「そ、そうですけれど……あの、大丈夫ですから」
「いいからいいから」
男は何やら上機嫌《じょうきげん》で歩き出してしまい、秀麗は慌《あわ》ててあとを追いかけた。
「あの、本当に」
「君は近ごろ黄尚書のところへ派遣《はけん》されたっていう子だろう?」
「あ、はい……」
「やっぱり。黄尚書のもとにくるくるとよく働く子がきたと各省で評判でね、名前は?」
絶妙《ぜつみょう》の間合いで質問することで、男は秀麗に本のことで有無《うむ》をいわせなくしてしまった。
「あ、紅……秀《しゅう》といいます」
この名をつけたのは絳攸である。わかりやすくていいだろう、といっていたが、単純すぎる命名に秀麗はがっくりとした。確かに名前を間違えることはなくていいのだけれど。
「そうか、秀君か。あの黄尚書のもとでよく働いてるみたいだね。厳しい人だから、いじめられたりしてないかい?」
「え? いいえ、まさか。確かに厳しいですけれど無茶はおっしゃらないかたですから、逆にやりがいがあります。もともと体を動かすのには慣れてますし」
男は端正《たんせい》な顔をほころばせると、くしゃくしゃと秀麗の頭をなでた。
「いい子だ。うんうん」
「あ、あの……?」
「ところで秀君、突然《とつぜん》だが私をどう思う」
本当に唐突《とうとつ》な質問に秀麗は目を点にした。
「……は?」
「その、好きになれそうだとか、……嫌いになりそうだとか、そういうことでいいのだが」
何やら咳払《せきばら》いを繰《く》り返す男。
「しょ、正直にいってくれて構わない。覚悟《かくご》はできている」
……なぜ初対面の人間にそんなことを訊かれるのか。秀麗はサッパリわからなかった。が、男がかなり真剣《しんけん》ということは理解できたので、とりあえず答えておいた。
「……そ、そうですね。いい人だと思います」
「本当に!?」
「……は、はい。本を運んでいただいてますし」
途端《とたん》に男はこのうえなく笑《え》み崩《くず》れた。頭は大丈夫《だいじょうぶ》かと訊《き》きたくなるくらいの笑顔である。
「そうか、それは良かった。なに、本くらいいつでも運ぼう。君のためならなんのその」
「はぁ……」
結局男は上磯嫌のまま戸部まで本を運んでくれ、名残惜《なごりお》しそうに何度も何度も振り返っては手を振って去っていったのだった。
秀麗も手を振り返しながら、真剣に首をひねった。
(……この暑さでヘンな人が増えてるのかしら)
霄太師の超《ちょう》梅干し≠求めて官人たちがかの老臣を追っかけ回すという、この数日で何度も見かけた光景も理解できた気がした。
朝廷《ちょうてい》はかなりやばいようだ、と秀麗は思った。
「紅秀です。入ります」
本を抱えながら室《へや》に入っていった秀麗だが、正面の机案《つくえ》にいつもいる人がいないのを見て目を丸くした。首をめぐらせると、黄尚書どころか景|侍郎《じろう》もいない。
珍《めずら》しく誰《だれ》もいない室に首をかしげつつも、奥の卓子に本を置いたときだった。
向かいの長椅子《ながいす》に仮面の主人が仰向《あおむ》けに横になっているのを発見してしまった。
いつも仕事をしている姿しか見たことのなかった秀麗は、もしや過労でぶっ倒《たお》れたのかと青くなった。慌ててすっ飛んでいく。
「黄……」
顔をのぞきこむと、規則正しい寝息《ねいき》が微《かす》かに聞こえてきた。単に眠《ねむ》っていただけと知り、秀麗はホッと胸をなでおろした。
「あー……びっくりした。死んでるのかと思った」
それにしても、と秀麗はまじまじと仮面を見た。
こんなところで寝入ってしまうとは、やっぱりずいぶん疲《つか》れているらしい。
「……無理もないわよね。普通《ふつう》あれだけ仕事してれば倒れるわよ」
彼は多くの仕事を配下にふるが、それ以上に自らに仕事をふっている。だからこそ秀麗は上司としての彼をすぐれていると心から思うし、無茶をいわれても文句なくやる気になるのだ。上の者がそれ以上の仕事をしているのを知って、愚痴《ぐち》などこぼせるはずもない。
確かに、仕事量に比べて戸部は人数が少ないと思う。けれど、雑用であちこち飛び回っている秀麗は、戸部には他の省庁より遥《はる》かにすぐれた人材が多く在籍《ざいせき》していることに気づいた。きっと、長官の采配《さいはい》と仕事ぶりをきちんと理解し、その上で彼について行こうと決めた人ばかりが残ったからだろう。もとより、毎日全開で仕事をしなければならない部署では、だらけていることなど到底《とうてい》できない。だからいつだって真剣に仕事をする人間だけが戸部《ここ》に残る。そういうことなのだろう。
「……少数精鋭を地で行ってるのよねぇ。だから一人一人の負担が大きいんだわ」
その負担をもっとも引き受けているのがこの仮面の長官だ。
特に今は猛暑《もうしょ》のせいで少ない人材がより減っていて、この人の仕事量は多分人の限界を超《こ》えているのではなかろうか。疲れて眠ってしまうのも当たり前だ。
秀麗は思いついて、隅《すみ》にある休憩《きゅうけい》用の一角に足を運んだ。
長官が長官なので滅多《めった》に使われることのない場所だが、一応きちんと茶器はそろっている。
秀麗は手早く湯を沸《わ》かすと、疲れに効く茶葉を選んでお茶の用意をした。それを黄尚書のそばに置くと、今度は室のなかをあちこち静かに片づけはじめる。
黄尚書にいわれた仕事は全部済んでいるが、雑用係なので仕事は探せばいくつもある。そうして墨《すみ》を足したり料紙を補充《ほじゅう》したりしていたのだが、いつもしている仕事なのですぐに終わってしまった。さすがの秀麗ももうやることが思いつかず、手持ちぶさたになってしまった。
(……景侍郎も燕青もまだ戻《もど》ってこないし……)
秀麗は長椅子に横たわっている黄尚書を見た。
椅子から、さらさらとした髪《かみ》がこぼれ落ちている。
仮面をかぶっているからなのか、彼は他《ほか》の宮人と違って髪を結うことなくそのままたらしている。仮面の印象が強すぎるので今まで気づかなかったが、よくよく見ればそこらの女顔負けにきれいな髪である。
そろそろと秀麗は黄尚書に近寄ってみた。無造作にこぼれおちる髪をじっと見る。……見れば見るほど見事な髪だった。うずうずとして、ちょっとだけと思いつつそっと触《ふ》れてみた。
(わ……すごいさらさら。何なのこの人!)
絹のようなという形容詞がまさにぴったりだ。すばらしい手ざわりである。
起きる気配もないので、秀麗はさらに大胆《だいたん》になった。床《ゆか》に座りこむと、そろりと一房《ひとふさ》すくいあげる。そしておもむろに編みこみはじめた。しかしさらさらすぎて、編むそばからほどけていく。ここにおいて秀麗は黄尚書の謎《なぞ》をひとつ解明した。
(……仮面をかぶってるからじゃなくて、単に髪がさらさらすぎて結べないんだ)
女ならうらやましすぎて刺《さ》し殺したくなるような悩《なや》みである。
こりずにさわったり結んだりしながら、秀麗はそれにしても、と溜息《ためいき》をついた。
(好きな女の人に顔が理由でふられちゃうほどなのに、髪だけはこんなに綺麗《きれい》なんて、逆にちょっと不幸かも)
何せ朝廷一丸となって黙《もく》して語らずを貫《つらぬ》くご面相である。あらゆる能力に秀《ひい》でている黄尚書だが、容姿の運だけはとんと恵《めぐ》まれなかったわけだ。天は二物を与《あた》えずということだろうか。
(そういえば、絳攸さまもすごい方向|音痴《おんち》だったしねぇ……)
しばらく髪で遊んでいると、不意に室全体が暗くなったような気がした。顔を上げる間もなく、雨音が聞こえ始める。
寸時にものすごい豪雨《ごうう》となり、立ち上がりかけていた秀麗は青くなった。
(……これってまさか)
嫌《いや》な汗《あせ》が背筋を伝う。夏。突然の豪雨。しかも遠雷《えんらい》の音まで聞こえてきた。
全開にしていた窓から、叩《たた》きつけるように雨が降り込んできた。すぐに床が水浸《みずびた》しになる。
窓を閉めなければ、と思いながらも、足がすくんで動けなかった。根が生えたような足を叱咤《しった》して、なんとか歩き出そうとした矢先、すっと脇《わき》を誰かが通りすぎた。
いつ起きたのか、開いていた窓を次々と手際《てぎわ》よく閉めながら、黄|尚書《しょうしょ》は振《ふ》り返った。
「何をぼうっとしている」
「あ……その」
がくがくと足が震《ふる》えた。恐《おそ》ろしい速さで心臓が鼓動《こどう》を打つのがわかる。急速に手足の先から冷たくなっていく。
「……紅秀? どうした」
その瞬間《しゅんかん》、まだ閉まっていなかった窓からカッと閃光《せんこう》が降りそそいだ。目が灼《や》かれそうなほど強烈《きょうれつ》な光が室を満たす。そして耳をつんざくすさまじい轟音《ごうおん》――。
秀麗の理性はここまでが限界だった。ぷっつん、と頭の隅で何かが切れたような音がした。
「……っっぎゃ――――――――っっっ!!」
秀麗はありったけの大声で叫ぶと、耳を押さえてうずくまった。
「いやぁあああああっっ!! ぎゃぁああああああああっっっ」
「しゅ、秀……?」
常に冷静な黄尚書も、さすがにこれには驚《おどろ》いたらしい。まだ開いていた窓を慌《あわ》てて閉める。
しかしひっきりなしに雷光《らいこう》が明滅《めいめつ》するし、雷鳴はもとよりどうしようもない。秀麗は昊《そら》が光るたび、音が鳴るたびに叫びまくっていた。
「いや――――――っっ!! 静蘭せいらぁああああんっっ!!」
混乱していた秀麗は、いつもの癖《くせ》で家人の名を叫んでいることにも気づかなかった。
だから、不意に肩《かた》に誰かの手がかかったとき、秀麗はその大きな手のひらを静蘭のものと勘違《かんちが》いした。そしていつものように思いっきり抱《だ》きついた。
不意をつかれた黄尚書はあっさり引き倒され、尻餅《しりもち》をついた。
「こ、こら」
ひときわまばゆい光が室を照らし、秀麗は絶叫《ぜっきょう》して静蘭[#「静蘭」に傍点]にしがみついた。
「うっぎゃぁあああああああああっっっ」
「お、落ち着け」
押し倒された形になった黄尚書は、なんとか言葉でなだめようとしたが、まったく効果はなかった。仕方なくそのままの格好で、途方《とほう》に暮れたようにそろそろと小さな頭や背をなでる。
さすがの彼もこういう場合の対処法は心得ていなかった。
それはいつもの静蘭[#「静蘭」に傍点]の仕草とはやや違っていたが、秀麗は少しだけ安心した。
――しばらくして戻ってきた景侍郎と燕青が見たのは、蝉《せみ》のように黄尚書にしがみついて悲鳴を上げる秀麗と、彼女にしがみつかれて身動きできないでいる黄尚書という、世にも珍しい図だった。
そして雷雲が去り、我に返った秀麗は、自分がしたことに青くなって再度悲鳴を上げたのだった――。
***
「ううむ、なかなかすごい雷《かみなり》だったな曜春!」
団子屋で雨宿りをしていた「お頭《かしら》」が茶をすすりながら昊を見上げた。
「そうですねぇ。でも雨が降ったおかげでちょっと涼《すず》しくなりましたね」
「うむ。じゃ、行くか」
「え? どこへですか?」
「ばかもの。お城見物に決まってるだろう。せっかく貴陽まできたんだからな」
「あ、いいですねー。僕見てみたかったんです。でもほんと貴陽っていいところですねー。お団子はおいしいし、道行く女の人も綺麗ですし。先代お頭がいってた通りですね」
少しだけしんみりとした空気が漂《ただよ》う。そして代金を払うと、二人して歩き始めた。
雨が上がって、途端《とたん》に顔を見せた太陽にじりじりと灼かれ、曜春はちょっと溜息をついた。
「それにしても暑いですね」
「暑さがなんだ! せっかくきたのだから、充分《じゅうぶん》堪能《たんのう》していかねばもったいたかろう」
「はい、頑張《がんば》りますー」
曜春は、前方を指し示してはしゃいだ声をあげた。
「うわぁ、お城が見えてきましたよー。うわぁすごい! あんなに大きいなんて僕思ってもみませんでした。すごいですねお頭!」
「ばかもの! そんなに騒《さわ》ぐな。城など我が家同然だという顔をして歩け」
「ええー、あんなに大きいところを家と思うんですか。……でもそういえば主上って、あんな広いとこに住んでいて迷わないんでしょうか」
「バカだな。毎日地図と磁石を持ち歩いてるに決まってるだろう」
「あ、そっかぁ。……でもほんとに立派ですね。見てると首が痛くなりますよ。あっ、ほら お頭見てください。城壁《じょうへき》も端《はし》が見えませんよ!」
「おお本当だ。すごいなー」
はしゃぐ自分たちを門衛が微笑《ほはえ》んで眺《なが》めていることなど、ちっとも気づかない二人である。
お頭はえへんと胸をそらして言った。
「門衛よ、中には入れないのか?」
「残念だが外からだけで満足しておいてくれ。官吏《かんり》でないと中には入れなくてな」
「そうか。残念だったな、曜春」
「仕方ないですね」
ややがっかりしながらきびすを返した二人に、思いついたように門衛が声をかけた。
「お前たち、あんまり危ないところをふらふらするなよ。今|茶《さ》州から名だたる山賊《さんぞく》たちが流れこんできているというんで、破落戸《ごろつき》どももずいぶんピリピリしているからな」
ぴたり、と二人の足が止まった。
「……名だたる山賊、だと?」
「ああ。ついに近衛《このえ》まで出払って賊|討伐《とうばつ》に乗りだしててな。気をつけろよ」
その言葉に、お頭と曜春は顔を見合わせたのだった。
***
「いやー今日は面白《おもしろ》いもん見せてもらったなー」
その夜、夕餉《ゆうげ》の席で燕青と秀麗は実に対照的だった。
「笑いごとじゃないわよ……」
秀麗は頭を抱《かか》えた。
「あああああよりによってあの怖《こわ》い黄尚書に! まだ景|侍郎《じろう》だったらよかったのにいいい」
「今日の雷は結構すごかったからね」
邵可が煮物《にもの》をつつきながらのほほんと頷《うなず》いた。
「でも別に黄尚書《かれ》、怒《おこ》ってなかったろう?」
「そうそう。そんなに心配しなくても大丈夫《だいじょうぶ》だって。あの後だっていつも通りだったろ?」
「仮面してるのになんだってそんなことわかるのよ。絶対内心|呆《あき》れられたぁああああ」
嘆《なげ》く秀麗に、邵可と静蘭は顔を見合わせた。
「――よかった」
「何がいいのよ父様。全然よくないわよ」
「いや、だってこの時期になるといつも秀麗は元気をなくすだろう」
「…………」
「外朝で働くのはいい気分|転換《てんかん》になったようだね」
「……でも、ひと月だけ、なのよね」
ポツリと呟《つぶや》いた秀麗に、少しだけ邵可の顔が曇《くも》る。
「秀麗……」
「いーの、わかってる。ひと月だっていいのよ。充分満足してるわ」
その夜|遅《おそ》く、秀麗の室《へや》の扉《とびら》が叩《たた》かれた。
「姫《ひめ》さん? 俺。夜食もってきた。あけて〜」
秀麗は驚いて机案《つくえ》から立ち上がった。扉を開けると、左手に茶器、右手におにぎりをいくつか皿にのせて燕青が立っていた。
「ほい、頑張る姫さんに差し入れ」
「……びっくりした。どうしたの、いきなり」
「だから、差し入れ」
皿を受けとった秀麗は、おにぎりを見てふと笑った。
「ありがとう。少し入らない? 一人で食べるのは寂《さび》しいし、食べてる間話相手になってよ」
「おや、淑女《しゅくじょ》の臥室《しんしつ》に夜中に入っていいの?」
「何かあったら叫《さけ》ぶもの。そしたら静蘭も父様もすっとんでくるわよ」
「……そりゃこえーわ。特に静蘭」
秀麗はくすくす笑った。本当に怖いのは実は邵可のほうなのだが、当然、秀麗も燕青もそんなことは知らない。
卓子《たくし》を片づけ、手早くお茶を滝《い》れる。秀麗はしばらく黙々《もくもく》とおにぎりを食べていた。燕青も何もいわず、お茶を飲む。その静かな時間は、妙《みょう》に居心地《いごこち》がよかった。
そうか、と秀麗は何となく理解した。蒸青はきっと、人の心を察する能力が高いのだ。
「……おにぎり、おいしいわ」
「え? ああ、そりゃよかった」
「……ねえ燕青。叶《かな》わない夢を見つづけるのって、バカだと思う?」
「叶わないって?」
燕青の口調は変わらなかった。ごく普通《ふつう》の会話の延長のように何気なく。それに背中を押されたように、秀麗は言葉をつむぐ。
「努力しても無駄《むだ》なことって、あるじゃない。努力が無駄っていってるんじゃなくて、努力じゃどうしようもない壁《かべ》があるっていうか。……それがわかってて未練たらしくいつまでもしがみついてるのって、バカだと思う?」
「姫さんの夢って、官吏になることか」
あまりにもさらりといわれたため、秀麗は何だかあっさり肯定《こうてい》する気になった。
「……そう。よくわかったわね」
「だって姫さん、毎晩こうして頑張ってるだろ。それに外朝での仕事、すげぇ生き生きやってるもんな。楽しくてしょーがないって感じでさ」
「でもだめなの。だっていくら頑張っても女の子は国試を受けられないんだもの」
「それをわかってて、それでもこうして頑張ってたんだろ? 今ごろになって未練たらしいとか、バカかもしれないとか思う別の要因でもできたのか?」
秀麗は少しく瞠目《どうもく》した。そうあざやかに切り返されるとは思ってなかった。
ぺろり、と指についた米粒《こめつぶ》をなめとる。少ししょっぱいその味が心にしみる。
「……そうね。わかってて、でもあきらめきれずにこっそり勉強してたわ。別によかったのよ。夢を追うのは勝手だもの。叶わないってわかってても、追うのは自由でしょ?」
燕青は言葉でなく微笑《びしょう》で肯定した。それは優《やさ》しく、包み込むような懐《ふところ》の大きい笑顔《えがお》で、秀麗はなんだかほっとした。
「でもねぇ、このごろちょっと『近い』んだもの」
「『近い』?」
「ここ半年で、朝廷《ちょうてい》の第一線で活躍《かつやく》してる人、いっぱい見たわ。……うらやましい、って思った。あんなふうになりたいって思った。夢と現実が近くになりすぎたのね。その境目にあった鉄の板が透明《とうめい》になったっていうか。透明になっても板はあるのに……気づかなくなりそうで」
夢との境目がひどく近くて。自分にも手が届くような気がしてしまう。
「……それだけじゃないだろ?」
「え?」
「それだけじゃ、今までとたいして変わらないだろ? 姫さんはちゃんと現実をわかってるから、透明になったって板の存在は忘れないだろ。今まで通り、『もしかしたら』って思って今まで通りこっそり頑張《がんば》ればいいだけの話だ」
今度こそ秀麗は目を丸くした。
「……燕青、あなた読心の術でも使えるの?」
「使えるわけないだろ。んなのできたら今ごろ一山あててるぞ」
「じゃ、年の功ね。伊達《だて》に歳《とし》くってないのね」
燕青はどこかきょとんとしたように秀麗を見た。
秀麗は自嘲《じちょう》気味にちいさく笑った。
「当たりよ、燕青。実はこないだ近所のおばさんに、『秀麗ちゃんもそろそろ結婚《けっこん》だねぇ』みたいなこといわれたのよ」
「……? まあ、姫さんの歳なら、おかしかないわな」
「それよ。おかしくなくなっちゃったのよ、結婚してお嫁《よめ》にいっても」
秀麗は最後のおにぎりにかじりついた。少し乱暴に。
「私の周りにいる入って、ほんとバカみたいに優しいのよ。優しすぎるわ。だから私がこうして勝手に頑張ってても、『無駄だ』とか『やめろ』なんて絶対いわないのよ。絳攸様だって忙《いそが》しいのに何もいわずにお相手してくださるわ。……だからバカみたいだけど今まで気づかなかったのよ。私がこんなふうに頑張れるのはこの家にいられるうちだってこと」
「……ああ。ま、そうだろうな」
「否定しないのね。正直な人ねぇ。そうよ、私はこの家から出たら『年頃《としごろ》の娘《むすめ》さん』 ってだけだわ。誰《だれ》もがいい人に嫁《とつ》いで、妻として母親として頑張るものだと思ってる。それを当然のものとして求められる。だってそれが普通だもの。どんなに理解のある旦那《だんな》さんに嫁いでも、勉強なんてつづけられないわ。周りがそれを許してくれない。変人だって思われるし、そうしたら旦那さんや子供だって絶対|肩身《かたみ》の狭《せま》い思いをする。多分お姑《しゅうとめ》さんとか親戚《しんせき》の人とかには絶対やめろっていわれるわね。そんなことする暇《ひま》があったら家事やれって。……でもそれが『普通』で、私のほうが『異常』なのよね」
最後のひとかけらを口に放《ほう》りこむ。
「……知らなかったわ。大人になると、夢を見つづけるのが難しくなるのね。どんなに強く思ってても、所詮《しょせん》現実の重みにあっさり負けそうになるわ」
「それは、姫さんがいろんなことを考えてるからだろ。姫さんは自分のことだけ考えてられる人間じゃないんだ。家のこととか、父ちゃんのこととか、嫁いだ家族のこととかいろいろ考えて、現実と比較《ひかく》して何がいいかもわかってて、それと自分の思いとを引き換《か》えにできない。だからいろいろ思い悩《なや》むし、迷うんだ。現実的ってやつだな」
「……そうね。だって現実は捨てられないわ。大切なものがたくさんあるもの」
「いいことじゃん。姫さんは大切なものをちゃんとわかってる。捨てられないものがどれだかな。だからきっと自分で納得《なっとく》する道を見つけるよ」
きれいごとではぐらかされたような気がして、不満げに翳《かげ》った秀麗の顔をのぞきこむと、燕青はあの温かい表情で笑った。
「……信じてないな? じゃ、仮定しよう。例えば邵可さんと静蘭と三人、どうにもこうにも食っていけなくなって、おまけに男衆は病に倒《たお》れて、そこへ金持ちの家から援助《えんじょ》つき嫁入り話がきたとする。相手は四十年上の脂《あぶら》ぎったオヤジでコブつき再々婚だ。姫さんはどうする?」
「嫁に行くわ」
きっぱりと言った秀麗に、燕青は頷《うなず》く。
「そう、そしてきっと後悔《こうかい》はしないだろ? ほら、姫さんはちゃんと大切なものを基準にして選ぶことができる。いま迷ってるのは、選べる道があるからさ。いくらだって迷えばいい」
目から少しだけ鱗《うろこ》が落ちたような気がした。
「……迷って……いいのかしら。欲張りにたくさんつかもうとしてるんだけど」
「姫さんは考え過ぎなんだよ。ぎりぎりまで先延ばしにすりゃいい。いずれ絶対選ばなくちゃならないときが来る。焦《あせ》ったっていいこたねーよ。迷うのは悪いことじゃない。それにな、迷って、手探《てさぐ》りで進んでるとな、外部要因がポンとすべてを変えちまうときもある。そのときまでちょっと待ってみるのもいいんじゃねーの。時機をうかがうっていうだろ。だいたい、嫁入り話がでたわけでも、なんでもないんだから、好きに過ごしたって誰も文句いわわーぞ」
ぽんぽん投げつけられた言葉を受け止めて、秀麗はくすりと笑った。
「燕青って、空気みたいな人ね」
「は?」
「会って十日ちょっとしか経《た》ってないのに、なんだかすごく自然なんだもの。……父様や静蘭があなたを寄越《よこ》したわけがなんとなくわかったわ」
燕青はぎくりと身をすくめた。秀麗の頭のよさはこういうところで顕《あらわ》れる。
「なんだ、気づいてたのか」
「おにぎりの握《にぎ》り方がね、父様と静蘭の握り方だもの。父様は絶対塩加減がおかしくて形が悪いのよね。静蘭は大きくて丸くて塩分|控《ひか》えめのおにぎり。お夕飯の時にヘンなこと言っちゃったから、気にしてたのね。もう大丈夫《だいじょうぶ》っていっといて」
「……姫《ひめ》さんてほんと鋭《するど》いよなぁ」
ぶつぶついいながら、燕青はカラの皿と茶器を手にとる。
室を出しなに、燕青はさらりといった。
「あ、そうだ。俺さ、姫さんて官吏《かんり》に向いてると思うぜ。だからあきらめて欲しくないな」
そのまま背を向け、来たときと同じ調子で去っていく燕青に、秀麗は溜息《ためいき》をつく。
「……ほんと、人をその気にさせるのがうまいわね」
くっと伸《の》びをすると、絳攸の「宿題」のつづきをするために、秀麗は室《へや》に入った。
「聞けた? お二人さん」
燕青に声をかけられて、今の今まで窓の外で聞き耳を立てていた関係者たちは、顔を見合わせホッと息をついた。
「旦那様、髪《かみ》に葉っぱがついてます」
「そういう静蘭こそ、耳に土がついてるよ。でも燕青くんに行ってもらってよかったね。私たちだと、きっと『何でもない』とかで終わりになってしまうから」
おっとりと微笑《ほほえ》む邵可に、燕青が頭を掻《か》く。
「でも、バレバレだったですよ」
「うーん、おにぎりでばれるとは思わなかったなぁ。うまく握れたと思ったんだけど」
邵可は燕青に笑いかけた。
「でも、本当にありがとう。ヘンなことを頼《たの》んですまなかったね」
「いえいえ」
「若いのに、君は本当に聞き上手だね。お皿と茶器は私が洗うから、先に休んでおいで」
そうして燕青の手から有無《うむ》をいわさず皿と茶器を受けとると、邵可は庖厨《だいどころ》へ姿を消した。
「……静蘭、邵可さんに俺の歳いった?」
静蘭が首を横に振《ふ》るのをみて、燕青は肩で息をついた。
「……あの人も奥が深いなぁ。姫さんなんてきっと俺のこと四十くらいだと思ってるぜ」
「燕青」
「ん?」
「今夜は出かけないのか?」
燕青は詰《つ》まった。ウロウロと視線をさまよわせたのち、あきらめたように溜息をつく。
「……バレた?」
「バレないとでも思ってたのか?」
「十年以上経ってるし、俺の棍《こん》の癖《くせ》なんかとうに忘れてるかなーと」
「お前の腕《うで》がなまってれば忘れてた。それに捕《つか》まえた連中、揃《そろ》いもそろってなんていったと思う。『左頬《ひだりほお》に十字傷のある男を捜《さが》してた』だ」
「……あちゃー」
「お前が夜中に賊《ぞく》退治なんぞしてる理由に興味はないし、なんであんな奴《やつ》らに追われてるのかも知らないが、今夜の功績に免《めん》じて黙《だま》っててやる。ただし旦那様とお嬢様《じょうさま》に迷惑《めいわく》をかけるな」
きっぱりいってのけた静蘭を、燕青は何かいいたげな満面の笑《え》みで眺《なが》めている。
「……気味悪いぞ。なんだ」
「や、お前ほんとイイとこに拾ってもらえたんだなーって思ってさ」
ふん、と苛立《いらだ》たしげに鼻を鳴らした静蘭に、
「な、姫さんの話だけどさ、四方丸くおさまる手があるよな」
途端《とたん》、静蘭はきびすを返して歩き出した。そのあとを燕青がくっついていく。
「お前も気づいてるだろ。お前と姫さんが夫婦《めおと》になればいーんだもんな」
にかっと燕青は笑った。
「姫さん、恋愛《れんあい》経験ないだろ。てかありゃ多分無意識に考えねーようにしてたんだな。恋愛すると結婚《けっこん》がもれなくくっついてくるし、そうすっと官吏になれないって思ってたんだろうな。恋愛より国試の勉強のほうが重大なんて、見上げたもんだ。そこらの男どもよりよっぽど気骨があるよなぁ。それにそばにはお前がいるし。まあ下手《へた》な男にゃ注意はむかねーわな」
立ち止まり、無言で睨《にら》みあげた静蘭の顎《あご》を、燕青は楽しげにつついた。
「お前だって姫さんのほかに大事な女なんていないだろ? いやいや、見てりゃわかるって」
「…………燕青」
殺気を帯びて低くなる声を無視して、燕青は言葉を継《つ》いだ。
「いやー姫さんイイ娘《こ》だし、似合いじゃん。きっと佳《い》い女になるぜ。つかまえとくなら今のうちだぞ? 大体、性格悪いお前が好いて一緒《いっしょ》にいたいと思う女なんて、そうそういないだろ」
「……やっぱり明日、白大将軍にお前の所業をこと細かに報告することにする」
「あッ、ごめんもういいません!」
「遅《おそ》い」
静蘭の口調は冷ややかこの上なかった。
[#改ページ]
「うーん。本当にこの鍵《かぎ》、どうなってんのかしら。毎日見てるけど不思議……」
秀麗はぶつぶつ言いながら手にした金色の「鍵」をこねくりまわした。一見して全然鍵に見えない。いくつもの関節がついていて折りたたむと手のひらにおさまるくらいになるが、あちこちいじると見当もつかないところから関節が飛びでて、最終的な大きさは不明である。何せ関節の先の形が鍵穴とあわないと、次の関節が伸びない仕組みになっていて、深く差し込むごとにより複雑な操作が必要となるらしいのだ。秀麗がこうして適当にいじっていても関節はいくつかでるが、最初の鍵を開ける関節は教えられない限り出すのはほとんど不可能らしい。
「面白《おもしろ》い形と構造でしょう? ちょっと鍵には見えませんよね。今は亡《な》き稀代《きたい》の鍵師がつくりあげた一世一代の大作だそうです。場所が場所なので、万一よこしまな誰《だれ》かが鍵を手にしても使い方がわからない構造にしようとしたらしいんですが……凝《こ》りすぎて、今では複製もつくれないそうです。その鍵師さんは製造方法も隠《かく》したままお亡くなりになってしまったらしくて」
整理する巻物を大量に抱《かか》えて、室の向こうから景|侍郎《じろう》がやってきた。秀麗は慌《あわ》てて立ち上がると、景侍郎を手伝う。
「あ、その鍵、私の腰《こし》のところにさしておいてください。今日は早めに点検に行くつもりですから。秀くんと燕青さんと一緒に護衛を兼《か》ねてまた来てくださいね」
「はい。……それにしても宝物庫って、毎日行っても相変わらず目がくらむんですよねぇ」
財政を司《つかさど》る戸部《こぶ》は、宝物庫の管理も任されている。秀麗と燕青は場所|柄《がら》、護衛を兼ねて毎日景侍郎のお供をしていた。本当は秀麗などなんの役にも立たないのだが、興味|津々《しんしん》の秀麗に気づいた景侍郎が連れて行ってくれたのである。十日以上通っていてもまだまだ全然すべて見終わらない。米だ麦だと走り回るのが遠い世界に感じる、宝物庫は怖《おそ》ろしい場所だった。
「それにしても秀くん、どんな仙術《せんじゅつ》を使ったんです?」
景侍郎は秀麗と一緒に巻物を整理しながら、驚《おどろ》き半分、喜色半分で訊《き》いた。
「一日一回お茶をするようになるなんて! 十年近くあの人と一緒にいますけれど、初めてですよ。もう青天《せいてん》の霹靂《へきれき》です」
そろそろ四十に手が届くかという歳《とし》だが、そのおっとりとした雰囲気《ふんいき》であまり歳は感じさせない。秀麗の父の邵可はどこか天然でズレたところがあるが、彼は正統派|穏《おだ》やかさんである。
「……えーと、さあ……? 疲《つか》れてお眠《ねむ》りになっていたので、あまり無理はしないほうがいいといっただけなんですけれど。さすがにご自分でも休息が必要だと思われたのでは」
そう。雷《かみなり》の翌日、黄|尚書《しょうしょ》に秀麗はおそるおそる言ってみたのだ。
『尚書がお倒《たお》れになっては元も子もないです。少しはお休みになったらいかがですか』
いつもバリバリ働く長官の寝姿《ねすがた》は、それくらい衝撃《しょうげき》的だったのだ。きっとものすごく疲れがたまっているに違《ちが》いなかった。せめて一日に四半刻でも休憩《きゅうけい》をとれば違うのに、と。
一蹴《いっしゅう》されるかと思ったのだが、意外にも彼は頷き、一日一回のお茶を承諾《しょうだく》したのだ。
ちなみに黄尚書はお茶を飲むときも仮面を外さない。仮面の口の部分が開閉可能であることがこの一件で明らかになったのだが……いったいあの仮面の構造はどうなっているのだろう。
「……眠っていた? あの人がですか?」
「ええ、そこの長椅子《ながいす》で」
景侍郎は考え込むように顎に手をやると、ちらりと秀麗を見やった。
「秀くん、そのとき何かしました?」
ぎくり、と秀麗は目をそらした。
「え。いえ、ベベベ別に」
しかしじーっと見下ろしてくる景侍郎に、根が正直な秀麗は負けた。
「あのー、えーと……髪の毛……いじってました」
その答えは景侍郎の意表をついたらしい。彼は目をぱちくりとさせた。
「……髪の毛、ですか?」
「だ、だってすごくさらさらで綺麗《きれい》だったんです。ちょっと、さわってみたいなーって」
途端、景侍郎は笑い出した。彼が声を出して大笑いするところを秀麗は初めて見たが、まったくわけがわからない。……笑われることをいっただろうか。
「あ、あのぅ」
「……す、すみません。いやでも……そうですか」
景侍郎はまだ笑いながら、優《やさ》しい目を秀麗に向けた。
「秀くん、あの人が寝てる隙《すき》に、あの仮面の下を見てみようって思わなかったんですか?」
「ええ? まさか!」
何せ顔が原因で女性に振られたうえ、そのせいで仮面をかぶったというのである。以来十年もひたかくしにし、今では朝廷《ちょうてい》全体で箝口令《かんこうれい》が敷《し》かれているほど彼の心の傷は深いのである。そもそも十年間誰にも素顔《すがお》を見せないなんて並々ならぬ根性《こんじょう》だ。
「人が嫌《いや》がることはするなって躾《しつけ》られてます。それに黄尚書があんなにまでして必死に隠してるものを引っぺがそうと思うほど、私は非道な人間じゃありませんよ!」
憤然《ふんぜん》と拳《こぶし》を握《にぎ》りしめる秀麗に、くすくすと景侍郎が温かい笑みを向ける。
「それに男は顔じゃありません! どれだけ稼《かせ》げるかですッ!!」
「おやおやー、秀くんは男らしい基準をもってますね」
「あ、でもこれは純粋《じゅんすい》な興味なんですが、景侍郎は黄尚書のお顔を見たことあるんですか?」
すると景侍郎は不自然に目を泳がせた。
「え? え〜……そうですねぇ。まあいいじゃありませんかそんなことは」
その様子に秀麗は顔を背《そむ》けると、そっと袖《そで》の端《はし》で目をぬぐった。
(……かわいそう黄尚書……このお優しい景侍郎も口をつぐむくらいのお顔なんだ……)
「でも、このごろあの人がやけに機嫌《きげん》がいい理由がわかりましたよ」
「え?」
「あなたを本当に気に入ったんですね。よく気がついて、文句もいわずにくるくる働いてくれて、おまけにとても良《い》い子で。紹介《しょうかい》してくれた李|侍郎《じろう》に感謝ですね」
「き、気に入った? 黄尚書が私をですか?」
「ええ。あなたは細々としたことを、こちらが指示する前にやってくれるでしょう? いつも硯《すずり》には墨《すみ》がたっぷり入っていて、先の割れた小筆はすぐに新品になっていて、料紙が尽《つ》きることもなくなったし、屑籠《くずかご》は一杯《いっぱい》になる前にちゃんと捨てられていて。室《へや》もいつも綺麗で、口には出しませんが、黄尚書は内心とても感心しているはずですよ。もちろん、私もです」
「は、はあ」
多くの賃仕事をこなしてきた秀麗にとって、それくらいはできて当たり前のことだった。いわれてからやるのではすぐ無能の烙印《らくいん》を押されてクビになってしまうのである。
「何より、怒鳴《どな》られてもめげずにちゃんと次には直すでしょう? 今ではあの人が怒《おこ》ることもすっかりなくなって。本当に臨時というのが惜《お》しいですね」
秀麗はてれてれと頬をかいた。褒《ほ》められるのは素直に嬉《うれ》しい。
「へへへー、ありがとうございます。私も景侍郎、大好きです」
そして書棚《しょだな》の上の巻物を片づけるべく、かたかたと梯子《はしご》をのぼる。
「でも、仮面をかぶっているのに、よく機嫌の良し悪《あ》しがわかりますね」
「機嫌はその日の仮面の種類を見ればわかるでしょう? ああ、足もとに気をつけて」
「……え?」
「おや、わかりませんか?」
……ものすごい観察眼である。それだからあの黄尚書とうまくやってこれたのだろう。副官の極意《ごくい》をかいま見た気がして、秀麗は感心した。ほとんど特技といっていいかもしれない。
と、不意にバキッと音がして、秀麗の右足が足場を失った。ぐらりと体がうしろに傾《かたむ》き、豪華《ごうか》な飾《かざ》り天井《てんじょう》が視界に入る。
(ええ――――――っっっ!!)
落ちる――と秀麗が目をつぶったとき、力強い腕《うで》に抱《だ》きとめられた。
(……ヘ?)
おそるおそる秀麗がうしろを振《ふ》り向くと、間近に見慣れた仮面があった。見慣れたとはいえ、いきなり間近にこられると心臓に悪い。
「う、うわー黄尚書! す、すいませんすいません、ああありがとうございましたっ!」
「……あぶないな、気をつけろ」
片手で秀麗を抱きとめているのに小揺《こゆ》るぎもしない。い、意外と肉体派? と秀麗が新たなる発見を黄尚書辞典に付け加えていると、黄尚書はやはり片手で軽々と秀麗を下ろし、折れた梯子を点検する。
「使いすぎで釘《くぎ》がゆるんでいたようだな。すぐに燕青に修理させよう」
「あれ、折れちまったのか。ちょっと遅かったな」
のんびりした声に振り向くと、大工道具一式を抱《かか》えた燕青がいた。
「落ちたの姫《ひめ》さ……秀? 悪《わり》かったな。怪我《けが》しなかったか?」
主に肉体労働でこき使われることの多い燕青であるが、彼も意外とよく気がつく。
黄尚書は景侍郎のほうへ歩みよった。そしてあっさりと、深刻な事実を伝えた。
「……柚梨《ゆうり》、高天凱《こうてんがい》と碧遜史《へきそんし》が倒《たお》れた」
「ええ!? あ、あのお二方まで!? ちょ…ええっ!?」
ばさり、と景侍郎の手から書翰《しょかん》が落ちた。みるみるうちにその顔が蒼白《そうはく》になる。
折れた梯子を直していた秀麗と燕青が顔を見合わせた。
「うわー、ついにあの二人まで倒れちまったのか」
「二人ともお歳を召《め》してらっしゃったものね。――でもこれで」
「ああ。……施政《しせい》官、こっちの二人だけになっちまったな……」
各省庁から人手がきていたとはいえ、門外漢に戸部の指揮までは任せられない。ゆえに高官の負担はほとんど減らず、ここ数日もばったばったと倒れていたのだが、ついに施政の要職は黄尚書と景侍郎だけになってしまったようだ。戸部、絶体絶命の危機である。
「じきに快復して人も戻《もど》ってくるはずだ。夏も過ぎる。あと五日六日ばかりの辛抱《しんぼう》だ」
仮面で相変わらず表情はわからないが、さすがの黄尚書もなんとなく疲れた声をしている。
「あ、ああああの!」
振り向いた黄尚書に、秀麗は一瞬《いっしゅん》いっていいものかどうか迷ってから、結局いう。
「その、私たち頑張《がんば》りますから! 一生|懸命《けんめい》お手伝いしますから! ね、燕青!」
「へ? ああ、まあ、できることなら」
カーンカーンと釘を打ちながら燕青が生返事で頷《うなず》く。何を思ったか仮面の尚書は秀麗に近寄ると、くしゃくしゃとその頭をなでた。珍《めずら》しい光景に景侍郎が目を瞬《またた》かせる。
「……そうか、じゃあ燕青」
「はいはいなんです」
「お前を今から臨時に戸部施政官に加える。高天凱と碧遜史の仕事を引き継《つ》げ。これが判子《はんこ》。筆。硯《すずり》。仕事はあそこの机案《つくえ》に積んである。即刻《そっこく》取りかかれ。わからないことがあれば訊《き》け。ああ、任命書はあとで適当につくっておく」
「……はい?」
コーンという音がやむ。秀麗も唖然《あぜん》とした。……今、何かすごいことを聞いたような。
「できることならやるといっただろう」
「そりゃ……いいましたけどね、でもちょっとそれはどうかと」
「お前ならできるだろう[#「お前ならできるだろう」に傍点]。浪《ろう》燕青」
すっと左頬の傷に手を伸《の》ばす。燕青はその指を避《さ》けるようにわずかに身を逸《そ》らした。そしてそんな自分に気づいて、しまった、という顔をする。
「……わかりましたよ。やりますよ。でもあとで後悔《こうかい》したって知りませんよ」
秀麗は仰天《ぎょうてん》した。
「えッ、ちょっと黄尚書、ほんとにいいんですか!? こんな髭《ひげ》もじゃ男にそんな」
「髭は関係ないだろー」
修理の終わった梯子を叩《たた》きながら、燕青は自分の髭をひっぱった。
「構わないな? 柚梨」
黄|尚書《しょうしょ》の問いかけに、何を思ったのか景侍郎もにっこりと頷いたのだった。
「……結構、黄尚書ってむちゃくちゃなことするのねぇ」
てくてくと回廊《かいろう》を歩きながら、秀麗は首を振った。両手には各省庁へ届ける大量の書翰がある。燕青のぶんも引き受けなくてはならなくなったので、雑用もかなり増えてしまった。
「ほ、本当に燕青に任せて大丈夫《だいじょうぶ》なのかしら」
能力がどうこう以前に、外見からして燕青は文官より武官に思えてしまうのである。いつも棍《こん》をたずさえているし、机案に真面目《まじめ》に向かっているのが非常に奇妙《きみょう》な感じなのだ。
(でもまあ州文官になりたかったっていってたし)
えっちらおっちら歩いていると、ふと誰かが回廊を曲がってくるのに気づいた。書翰の隙間《すきま》から彼の横顔を見た秀麗はぎょっとした。
とっさに近くの太い円柱に隠れたとき、久しぶりに聞く声が回廊に響《ひび》いた。
「――秀麗!?」
しかしどうやら姿を見られたわけではないらしく、すぐにしょぼんとした声に変わる。
「……いるわけないか……」
カツンカツンと遠ざかっていく沓音《くつおと》に、秀麗はそっと円柱から顔だけを出した。哀愁《あいしゅう》が漂《ただよ》い、がっくりとしていかにも寂《さび》しげな後ろ姿である。
(う、うわ――あ、危なかった)
秀麗が額に汗《あせ》したとき、急に「彼」が足を止め振り返った。同時に秀麗も顔を引っ込める。
「……いる……ような気がしたんだけどな……このごろ多いなこの感じ……」
子供がすねたような声。これでこの彩雲国の国主だというのだから、笑ってしまう。
だが笑いごとではなかった。――秀麗の心臓は只今《ただいま》の接近|遭遇《そうぐう》で、ばっくんばっくんと張り裂《さ》けんばかりに鼓動《こどう》を打っていた。
(――まったく、な、なんなのあの嗅覚《きゅうかく》は! 野生動物並じゃないのっ!!)
ふらふらと供も連れずに外朝をほっつき歩く劉輝と、あちこち駆《か》けずり回る秀麗とは、実はこの半月あまりで何度もでくわしかけていた。そのたびに秀麗は近くの室に飛びこんだり欄干《らんかん》の下に隠《かく》れたりしてやり過ごしていたのだが――劉輝の鼻はおそろしくよかった。
いつだって今みたいにすぐに気づくのだ。そのたびに秀麗は寿命《じゅみょう》が縮む思いをする。
『わかりました。でも絳攸様、ひとつだけお願いがあります――』
雑用係をすることを引き受けたとき、秀麗はひとつの条件を出した。
――絶対に、私のことを「彼」にはいわないでください。
それは秀麗なりのけじめだった。
後宮を辞した時点で、もう劉輝と自分をつなぐ糸はきれている。交叉《こうさ》した道も分かたれ、二度と交わることはない。下手に会おうものなら……それはきっと、想像以上にややこしいことになるだろう。
劉輝はおそらく以前のような気軽な関係を望む。けれどそれは一時的とはいえ、秀麗が貴妃《きひ》だったからこそできたことなのだ。身分がどうとかいう問題ではない。そういう関係になるのは、今度こそ劉輝のお后《きさき》となる人がふさわしく、またそうであるべきなのだ。
秀麗が後宮を退き、もう二度と入宮する気がない以上(というか、経済的にも政治的にもありえない)、いつまでも過去の立ち位置に甘えることは許されないし、自分に許すつもりもない。それがけじめというものだ。
以前のように振《ふ》る舞《ま》うことはきっと簡単だ。けれどそれではいつまでたっても彼は「秀麗|離《ばな》れ」しないだろう。もしよそよそしくすればきっと劉輝は悲しむし、傷つくこともわかる。それがつらいのなら、会わないほうがよっぽどいい。
(……早く新しい妃嬪《おくさん》を迎《むか》えてくれれば話は簡単なんだけどねぇ……)
とっとと妾妃《しょうひ》でも后妃《こうひ》でも迎えればいいのだ。そうすれば皆《みな》も喜ぶのに。なのに、秀麗が退出してこのかた、いまだ後宮は空っぽなままだというから、余計気を遣《つか》うのである。
(……餌《え》づけ……しすぎたのかしら……)
捨てられた仔犬《こいぬ》が、餌《えさ》をくれた人になついて離れなくなってしまった光景が頭に浮《う》かぶ。
「――おや? 秀君じゃないか。こんなところに座りこんでどうしたんだい?」
顔を上げると、今はもう見知った顔があった。
「あ――おじさん」
以前本を運んでもらってから、なぜか秀麗は頻繁《ひんぱん》に彼と遭遇するようになり、そのたびに彼は何くれと仕事を手伝ってくれていた。
名前は何とおっしゃるのですかと訊いたら、少し考えたあと「おじさんと呼んでくれ」というのである。そんなことをいう人を秀麗は初めて見た。だいたい「おじさん」というにはまだ彼は若く、しかも整って彫《ほ》りの深い容貌《ようぼう》をしていて、これほどそぐわない呼び方もない。
しかし妙《みょう》に彼がその呼び方にこだわるので、おそるおそる秀麗が一度そう呼んでみると、実に嬉《うれ》しそうな顔をするのである。なんだかこれもどっかであったような――と思いつつも、それから彼を「おじさん」と呼ぶことになった。しかしいまだに奇妙な感覚はぬぐえない。
「おやおや、また大荷物を抱《かか》えて。まったく黄尚書は人使いが荒《あら》いね」
彼はひょいと手を伸ばすと、書翰《しょかん》を残らず秀麗の手からとりあげた。
「あ――い、いいです! 自分で運びますから!」
「秀君も頑固《がんこ》だねぇ。何度同じことをいえばわかってくれるんだい。私は私のしたいことをするんだよ」
――彼は親切ではあったが、むちゃくちゃな持論の持ち主でもあった。
「まったく君みたいないたいけな少…年をこんなにこき使って。一度|直訴《じきそ》しに行くかな」
妙に本気っぽい口調に秀麗はぎょっとした。このちょっとヘンな人ならやりかねない。
「いえ、仕方ないんです。今日また二人が倒《たお》れてしまって。もうてんてこまいで」
「何?……まさか高|官吏《かんり》と碧官吏じゃないだろうね」
「え? ええ、そうです。よくご存じですね」
途端《とたん》、男は額に手を当てた。
「……なんてことだ。じゃあ今|施政《しせい》官は黄尚書と景侍郎だけになってしまったのか」
「はい……まあ」
本当は一人、臨時で追加されていたのだが、彼が戦力になるかどうかは甚《はなは》だ疑問である。
「まったく……あいつは加減という言葉を知らないからな」
溜息《ためいき》とともにぼやかれた言葉に、秀麗は目を丸くした。
「……黄尚書とお知り合い……なんですか?」
「ん? ああ、同期なんだよ。同じ年に国試に受かってね」
思わぬ話に秀麗は目を剥《む》いた。
「それは……ゆ、優秀な《ゆうしゅう》んですね」
少なくとも十年前には黄尚書は仕官していたのだから、同期というこの人は、逆算すると最低でも二十歳ちょっとで国試に受かっている計算になる。かなり若い。頭の良い証拠《しょうこ》だ。
そんな秀麗を見て男はにっこり笑い、いつものようにいろいろな話をしてくれたのだった。
***
「李|侍郎《じろう》」
背後から呼び止められた絳攸は、足を止めて振り返った。
「これは、景侍郎」
「ちょうどいいところで行き会いました。少々お時間よろしいですか? それほどお手間はとらせませんので」
「ええ、大丈夫《だいじょうぶ》です」
「実は、秀くんのことなのですが」
絳攸は内心ぎくりとした。……まさか女とバレたのだろうか。
「……何かご迷惑《めいわく》でもおかけしましたか?」
「いえいえ、その逆です。本当によく働いていただいて、とても感謝しています。彼は本当に利発な子ですね。それにときどきとてもうがったことをいうのです」
景侍郎がにこにこと目を細めた。
「この間、黄|尚書《しょうしょ》がふと余った予算の使い途《みち》を訊いてみたら、何と答えたと思います?」
「……貯金、でしょうか」
「いえいえ。それが、助産婦や妊婦《にんぷ》への補助金制度の確立や、貧しい志学者のための助成金、それに災害に強い穀物改良の研究費などにあてるべきだといったんです」
絳攸はわずかに目を見ひらいた。
「……なんですって? 秀がそんなことを?」
「ええ。必要経費以外に予算が余ったらできる限り有益に使うべきだと。使い途はいくらでもあるし、お金は残しておいてもいざというとき食べられないから、役に立つときに使うべきだと。あの歳《とし》で、とっさにそこまで出てくる子はちょっといないと思いませんか」
絳攸は驚《おどろ》いた。まさか、秀麗がそこまで考えていたとは思いもしなかったのだ。しかも彼女は無意識に私的と公的とで頭を切り換《か》えている。普段《ふだん》の彼女なら絶対に「金は使うべきだ」などとは口が裂《さ》けても言うまい。彼女にはすでに「公」《おおやけ》の部分があるのだ。
「……黄尚書はなんと?」
「やっぱり、驚いていたようですね。以来ときどきですが、秀くんの意見をさりげなく聞くようになりましたし」
絳攸は考え込むように顎《あご》に手をやった。
「あの子は官吏に向いていると思うんです。向学心も旺盛《おうせい》で、私にもいろいろ訊いてきますし、ちょっとやそっとじゃへこたれません。叱《しか》られてもすぐに直しますし、機転もききます。でも訊いたら、国試を受けたことがないというじゃありませんか。驚きました。あの歳なら試《ため》しに一回くらい受けてもいいと思ったんですが……受けられないというんです」
「…………」
「受けたくない、ではなくて、受けられない、です。それで、何か理由があるのかと思いまして。秀くんは紅|姓《せい》ですから、あなたの上司と何か複雑な事情があって受けられないのかと。七家でもない私が差し出がましいかとも思ったのですが、事情がおありなら、私が秀くんの後見についてもいいと思ったんです。あまりに惜《お》しい。秀くんさえよければ私の養子にして紅姓を抜《ぬ》けさせても構わないと思ってます。まあ私の姓なんて全然たいしたことありませんが」
苦笑《くしょう》しつつ、景侍郎はまっすぐに絳攸を見た。
「それであなたの意見を聞こうと思いまして。……どうでしょう?」
絳攸は笑った。それが滅多《めった》に見られない本心からの微笑《びしょう》だったので、景侍郎は少し驚いた。
「他《ほか》ならぬあなたにそこまでいって頂けるとほ、秀もなかなか見込みがあるらしい」
「ええ」
「ですがそのお申し出を秀は受けられません。残念ですが」
「……なぜです?」
「理由は、後でわかると思います。……あれが官吏になったときに」
「では秀くんは国試を?」
「そのときは、私か上司が後見を務めると思います。ご心配頂きありがとうございます、景侍郎。別に確執《かくしつ》などはありませんから安心なさってください」
景侍郎はわずかに顔を赤らめた。
「ああ、私の先走りだったようですね。お恥《は》ずかしいことを申しました。忘れてください」
「いいえ。お心遣《こころづか》いありがとうございます。あれを外朝に寄越《よこ》した甲斐《かい》があったようです」
絳攸の表情を見て、景侍郎はもう一度苦笑した。
「……あなたはいつも、人の五十歩先を見ているようですね、李侍郎」
「うちの上司には、百歩先を見ろといつもいわれてます」
「あの方の下で働くには、やっぱりそれくらいでないと務まらないんでしょうね」
「いえ……あの黄尚書のもとで何年も副官を務める自信は、私にはありませんが」
「あの仮面もなれると味があるんですよ。そうそう、吏部《りぶ》尚書には、秀くんが及第《きゅうだい》した暁《あかつき》にはぜひ戸部《こぶ》へ寄越してくださいと頼《たの》んでおいてくださいね」
吏部は国試に合格した進士たちを各部署へ振り分けるのが仕事なのである。
絳攸はやや顔つきを改めた。
「……どうでしょうね。うちの上司もかなり熱をあげてますから……ところで景侍郎」
「はい?」
「これからどこへ行かれる予定ですか」
「? 主上のところへ、急ぎの書翰を届けに行くつもりですが」
きらん、と絳攸の目が光った。おもむろにコホンとひとつ咳《せき》をする。
「それは奇遇ですね。実は私もなのです。ご一緒させてください」
――絳攸はここ半刻ばかり迷子になってうろうろしていたのであった。
「ああっ、こんなところにいたんですか霄太師!」
回廊《かいろう》を壺《つぼ》を抱《かか》えてこそこそ歩いていた霄太師は、ぎゅっと衣《ころも》の裾《すそ》を握《にぎ》られて跳《と》び上がった。
「捜《さが》しましたよぉおおお」
「くっ、しつこいヤツめが……って、おや、秀麗|殿《どの》ではないか」
「うわ! しーっしーっ、今は紅秀です!」
小声で必死に否定する秀麗をみて、霄太師もはたと気づく。
「ほうほう、そうじゃったな。聞くところによると黄尚書のもとでよく働いておるようじゃないか。どうじゃ、やりがいあるかのう」
「ええ、とても。って違《ちが》います。今日は霄太師のその壺に用があってきたんです」
「なっ、そなたもか!」
壺を抱《だ》き込んだ霄太師に、秀麗はなおもすがった。
「いま戸部全然人手が足りなくて、すんごい危機的|状況《じょうきょう》なんです! 施政《しせい》官が実質二人なんですっ!! だからお願いします、夏バテに効くっていうその超《ちょう》梅干し¥《ゆず》ってくださいっ」
そう、秀麗なりになんとか状況を改善しようと思い、休憩《きゅうけい》時間を利用して霄太師を捜していたのだ。たとえそれがうさんくさい超梅干し≠ナも、すがれるものならすがろうと思ったのだ。はっきりいって施政官が三人(うち一人は戦闘《せんとう》力不明)だけなんて、いかな素人《しろうと》の秀麗にだってどれほど危機的状況かわかる。前までだって目の回る忙《いそが》しさだったのだ。これ以上少なくなったら冗談《じょうだん》でなく戸部はつぶれてしまう。
「だから、この壺はそんなもんじゃないといっておるじゃろうが」
霄太師は疲《つか》れ果てたように額を押さえた。
「じゃ、中身はなんなんです」
「確かめてみい。――ただし落とすでないぞ」
渡《わた》された壺は、妙《みょう》な重さだった。軽いような重いような。……よくわからない。
蓋《ふた》を開けようとして、秀麗は眉《まゆ》をひそめた。
「……蓋が……ない?」
壺はつるつるしていて、継《つ》ぎ目も何もなかった。勿論《もちろん》蓋もない。塗《ぬ》り込められたのかと思ったが、どうもそういう痕《あと》もない。もとから蓋も何もない、形だけ壺のヘンな陶器《とうき》のようだった。
「わかったろう。梅干しも何も最初から入らん。なにしろ蓋がないのだからな」
「じゃ、超梅干し≠ヘ……」
「んなもんないわい。まったくどこの阿呆《あほう》がそんなこと言いだしたんだか」
一応壺をふってみたが、何の音もしない。秀麗は当てがはずれてがっかりした。
「なんでこんなもの後生大事に抱えてるんです?」
「こ、……こういう壺は何かと価値があるんじゃ。いろいろ調べてみようと思って持ち歩いてただけじゃ。暑さで頭がやられてる官吏《かんり》どもに叩《たた》き割られんように見せなかったんじゃ」
「なーんだぁ。じゃああとは頼みの綱《つな》は陶《とう》老師だけか……」
「陶老師なら夏バテでこないだ寝込《ねこ》んだと聞いたが」
「ええっ!?」
筆頭|侍医《じい》の陶老師までもが夏バテにやられてしまったとは計算外だった。なんとかツテを頼んで夏バテに効く薬をもらおうと思っていたのに。
「うそぉおおおお」
「……そんなに大変なら、わしの知り合いの医者を紹介《しょうかい》してやろう」
さすがに気の毒に思ったのか、霄太師がそんなことを申し出てくれた。
「城下の紅東《こうとう》区に小さな診療所《しんりょうじょ》をかまえている葉《よう》という医者がいるんじゃがな」
「え? もしかして数年前に越してきた葉|棕庚《しゅこう》先生のことですか?」
「なんじゃ。知っておるのか」
「よくお世話になってますもん。私の邸《いえ》は紅南《こうなん》区で近いですし。そっか、葉先生に頼んでみればいいんだ。腕《うで》のいい方だから、特効薬を知ってるかも」
そのとき、ゴーンと鐘《かね》の音が鳴り響《ひび》いた。時鐘《じしょう》の音に、秀麗は跳び上がった。
「いけない、休憩終わっちゃう。すみません霄太師、これで失礼します!」
そうして駆《か》けだした秀麗の後ろ姿を、霄太師はずっと見送っていた。――ただし、次の梅干し奪取《だっしゅ》の刺客《しかく》が襲《おそ》ってくるまでの間のことだったが。
***
「……なんかこのごろヘンだ」
彩雲国の王・紫劉輝は回廊を歩きながら首をかしげた。
「やけに『秀麗の気配』がする……はっ、もしやこれが世にいう虫の知らせだろうか。もしかしたら秀麗が余のことを呼んでいるのかもしれん」
パッと彼の顔が輝《かがや》く。彼はかなり自分勝手な解釈《かいしゃく》をした。
「もしそうだったら……こうしてはおれん。早急《さっきゅう》に手を打たなければ」
そうでなくとも会わなくなってそろそろ三月《みつき》が経《た》つ。ここらで一回会いに行っても怒《おこ》られはしまい。ちゃんと贈《おく》り物も文《ふみ》も欠かしていないし、たまには気分|転換《てんかん》も必要だと楸瑛もいっていた。
「……昼は政務があるから……行くとしたら夜か。そうか」
彼は納得《なっとく》したようにひとつ頷《うなず》いた。
「これが世にいう夜這《よば》いというものだな」
うるさい近衛《このえ》は山賊討伐《さんぞくとうばつ》とやらで半分に減っている。今なら城を抜け出すのもたやすいはずだ。ふんふんと鼻歌を歌いながら、劉輝は肝心《かんじん》なことに思い至った。
(そうだ。邵可に夜這いをする旨《むね》の手紙も書かないといかんな)
――彼は夜這いの意味をよくわかっていなかった。
その夜――邵可の自室を訪《おとず》れる人影《ひとかげ》があった。
「お入り」
すると、二十七、八ほどの美しい女性が音もなく邵可の背後に立った。
「……す、すみません、こんな夜分に」
あざやかな現れ方とは違い、おずおずと自信なげな小さな声である。
「そこの椅子《いす》にお座り。今、お茶を淹《い》れよう」
「はい。そ、その……お饅頭《まんじゅう》をつくってきたんです」
茶器を用意していた邵可は驚《おどろ》いたように振《ふ》り返った。
「お饅頭?」
「はい。秀靂様が後宮にいらっしゃったときに教わりまして……あ、あの、お嬢様《じょうさま》ほどおいしくはないと思いますけど」
顔を真っ赤にしてうろたえる珠翠《しゅすい》に、邵可は笑顔《えがお》のままつづける。
「そうか、それはいいものをもってきてくれたね。じゃ、お茶請《ちゃう》けにいただくことにしようか。そこの深皿にもりつけてくれるかい?」
珠翠はパッと顔を輝かせた。邵可は茶の用意をすすめながら、珠翠に微笑《ほほえ》みかけた。
「……わざわざ茶《さ》州までご苦労だったね。香鈴《こうりん》を送り届けてきてくれて」
「いいえ。そんな」
数ヶ月前、茶太保《さたいほ》のために秀麗を弑《しい》そうと謀《はか》った少女・香鈴は、体が快復したのち茶州にいる茶太保の奥方――縹英姫《ひょうえいき》という女性に預けられることになった。あの一件は未遂《みすい》ということと、霄太師のとりなしもあって公《おおやけ》にはされず、茶太保自身の死も原因不明の「頓死《とんし》」ということで片づけられていた。けれど内々にことの次第《しだい》を知らされた英姫が、香鈴の引き取りを申し出たのである。劉輝はそれを許し、そして珠翠が香鈴を茶州まで送り届けてきたのだった。
ふと珠翠は思い出し笑いをした。
「……なんというか、びっくりな大奥様でした」
七家ではないが、縹家も由緒《ゆいしょ》正しい名家である。それにあの茶太保の奥方なのだから、さぞや厳格で気品のある女性かと思いきや――。
「ああ。私もそう何度も会ったわけじゃないけれど、一度会ったら忘れられない印象的なかただろう?」
「はい。……あのかたのもとでなら、きっと香鈴も立ち直るでしょう。いえ、そう思いたいだけかもしれませんが」
「大丈夫《だいじょうぶ》だよ」
邵可は穏《おだ》やかな声でいい切った。
「香鈴と同じくらい――いや、もっともっと深く茶太保を愛し、愛されていた女性《ひと》だ。そして何よりとても強いかただ。あのかたのそばにあれば、きっと大丈夫だよ」
「はい……」
珠翠はそっと目を伏《ふ》せた。本当に、香鈴は何から何まで自分とそっくりだ。愛する人が、自分とは別の女性を心から愛していることまで同じ。
だから珠翠は願わずにはいられない。香鈴に――笑顔が戻《もど》る日を。
「……あの、それから、北斗《ほくと》さんのことなんですけれど」
「うん、どうだった?」
笑顔の邵可に、珠翠は顔をうつむけた。
「……亡《な》くなってました。病にかかって……幾月か前には、もう」
「――え……?」
初めて、邵可の顔から笑みが消えた。彼はのろのろと長椅子に腰《こし》を下ろした。
「……あれが…死んだ……?」
北斗という男は、邵可にとってかけがえのない仲間であり、友人だった。風の狼《おおかみ》≠ニして、ともにいくつもの暗い闇《やみ》を駆け抜け――互《たが》いの背中を、命を預けあったことは数知れない。
邵可が風の狼≠解散させたあと、北斗はどこか遠い目をして、そして風のように消えた。いつだって気まぐれな男だったから、少し寂《さび》しかったけれど、たいして気にしなかった。だいぶ時がたって、茶州のとある場所に落ち着いたと、一度だけ便りがきた。
珍《めずら》しい――と思った。あの男が便りを寄越《よこ》すなんて。『いつか会いに行くから、それまで来んな』という文面に笑ったものだ。それなら待とう――と思っていた。いつまでも。
両手を組み、何かに耐《た》えるように目を閉じる。それから苦笑《くしょう》を作ろうとして、失敗した。
「……病で、か。昔のあいつならありえないと笑っただろうな」
「お子さんたちに看取《みと》られて、最期《さいご》は静かに逝《い》ったと……」
わずかに震《ふる》えた珠翠の言葉に、邵可は少しく目を見ひらいた。
「――子供? 子供がいたのかい?」
「連れ子…さんだったみたいですけど、男の子が二人。奥様はお子さんが小さいときに亡くなったとか。ただその子たちも、北斗さんを埋葬《まいそう》したあと山を下りてしまっていて」
「そうか。あの北斗が……子供たちに看取られて……」
そうか、と邵可はもう一度口中で繰《く》り返した。
『俺はきっとロクでもない死にかたしかしねーよ。平穏《へいおん》な生活なんて無縁《むえん》だしよ、するつもりもねぇしな。殺して殺されて――それが俺の生き方だ』
それでいい、と刹那《せつな》的に笑っていた北斗。
いつだってどこか飢《かつ》えた目をしていた。ともに過ごしたなかで、邵可は友のその陰《かげ》りだけが心配だった。けれど多分――死に際《ぎわ》の彼の目は。
「年月は……本当に偉大《いだい》だね」
不意に、邵可は過ぎ去った時の重みを実感する。人が変われるくらいの長い時を、いつの間に過ごしてしまったのだろう。
「……もう、二十年近くなるんだね……風の狼≠解散してから」
邵可はその重みに苦笑した。――いつのまにか、自分もずいぶん歳《とし》をとったようだ。
「早いものだ……私ももうすぐ四十か。珠翠から見ればもうしなびたおじさんだね」
「そっ、そんなことはありませんっ! まだまだお若くて素敵《すてき》……い、いえ」
いいかけて口元に手をやる。耳まで赤く染めながら視線を泳がせて、珠翠は卓子《たくし》の隅《すみ》に無造作に放《ほう》られた書状に気づいた。
「邵可様……これ、大事なものじゃないんですか? すごく高価な料紙ですけれど」
「ん? ああいいんだよ。なんなら見てごらん」
頭の中を疑問符《ぎもんふ》でいっぱいにして、珠翠はかさかさと料紙を広げた。そして。
「……あのう……邵可様……」
「面白《おもしろ》いだろう?」
「……これ、私の目の錯覚《さっかく》でなければ、秀麗様への夜這《よば》い御免《ごめん》状と読めるんですが」
「うん、私もそう読めた。日付は四日後だね」
「あの、その、これ……い、いいんですか?」
「ただこっそり夕飯をご馳走《ちそう》になりにくるだけだろう」
「……確かにそう、書いてありますけど……」
「大丈夫だよ。あの主上と秀麗だからね。力関係はどっちに傾《かたむ》いているかは自明の理だろう」
「でも……ま、万が一ということが」
きらん、と邵可の目が光る。
「そのときは主上といえど叩《たた》き出す」
珠翠はこのとき黒狼《こくろう》≠フ姿をかいま見たと思った。早まったら王といえども五体満足では帰れないだろう。珠翠は内心冷や汗《あせ》をかいた。
「それに、今は静蘭のほかにもう一人用心棒がいるからね」
珠翠はくる途中《とちゅう》に天井《てんじょう》裏から見た男を思い出した。
「ああ、そういえばお一人見知らぬかたがいらっしゃいましたね」
「諸事情あって泊《と》まっているんだけどね。彼は間違《まちが》いなく静蘭より強い」
「何者ですか」
珠翠の目が険しくなる。――あの第二公子より強い者など、逆にあやしすぎる。
「それは君の話を聞けば確信がもてると思うから、さあ、お茶にしよう」
湯気の立つお茶を邵可は珠翠のほうへ押しやる。
「まあ、彼らがいるんだから、滅多《めった》なことにはならないよ。さて、珠翠、茶州の様子を教えてくれるかい」
珠翠ははい、と頷《うなず》くと、邵可の淹れてくれたお茶に手を伸《の》ばした。
その夜、珠翠は邵可への愛と気力のみで、実の娘すら裸足《はだし》で逃《に》げ出す「父茶《ちちちゃ》」を、何杯《なんばい》も飲み干したのだった。
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「――曜春、我らが茶州の禿鷹《ハゲタカ》≠ヘ、この王都でも超《ちょう》有名だということが判明した!」
茶店でまぐまぐと名物の紫《し》州|饅頭《まんじゅう》をほおばりながら「お頭《かしら》」が重々しく告げた。
相変わらず日差しは強く、往来に人通りはほとんどなかった。
「そうですね! すごいですねーお頭!」
同じくまったりとお茶をいただきながら曜春が頷く。
「なんと近衛《このえ》軍まで出動して我らを捜《さが》しているという。もはや我らはれっきとした大物だ」
「なんか、おそれおおいですね」
「ばかもの。我らの実力を思えば当然だ。ふ、近衛などにつかまってたまるものか。さて曜春、大物ならそれなりのことをしなくてはならん」
「それなりのことですか?」
ぱちくりと曜春が目をまたたく。
「そうだ、何もせずに王都見物だけしてのこのこ帰るなんて、有名人の名がすたる」
何もせず? いや、自分たちはそもそもれっきとした目的があって、この貴陽にやってきたのではなかっただろうか。しかし曜春がそれを思い出す前にお頭がつづけた。
「ここはひとつ、有名人にふさわしい大きなことをしようと思う。すでに計画はできている」
「ええっ、お頭いつの間に!」
「ふふふ、お頭たるもの、いつも一歩先を考えているのだ」
「さすがです。それで、何をするんですか」
この時点で、お頭と曜春の頭からは、すでになんのために貴陽にきたのか、きれいさっぱり抜《ぬ》け落ちていた。
お頭は饅頭で口をもこもこさせながら、自信満々に宣言した。
「ふっ。聞いて驚《おどろ》くなよ。――王宮に忍《しの》びこんで、お宝をガッポリ盗《ぬす》んでくるのだ!」
***
「燕青、ちょっといい?」
「んー……? アレーもう朝か」
振《ふ》り返った燕青はかなりやつれた顔をしていて、秀麗《しゅうれい》はぎょっとした。
「……もしかして、ね、寝《ね》てないの?」
「黄|尚書《しょうしょ》から『みやげだ』とかいって山ほど決裁の書翰《しょかん》を渡《わた》されて……くそぉ。休みなんて嘘《うそ》っぱちじゃねーか」
燕青は目をこすりつつあくびをかみ殺した。
秀麗も内心驚いていたのだが、燕青は文官としてもなかなか良い働きをしているようなのだ。
次々に机案《つくえ》に積まれていく仕事量がそれを物語っていた。黄尚書はできないことはやらせないので、かなりの戦力と見られているらしい。しかしますます摩訶《まか》不思議な髭《ひげ》男である。
今日は七日に一度の休日だった。人手が足りないのだから出仕すると秀麗はいったのだが、体を壊《こわ》しては何にもならんといったのはお前だろうと黄尚書に切り返され、結局燕青ともども休みをとらされてしまったのだ。
「ご飯運んできたけど……どうしよう。じゃ、今日はちょっと無理かしら」
「ん? ああ、あの約束な。行く行く。姫《ひめ》さん一人で外出させたら静蘭に殺されちまうもん」
「でも寝てていいのよ? ちょっとした山登りだし、きついわよ」
「一晩の徹夜《てつや》くらいどってことないって。結構よくやるし。朝飯食ったら元気になるから心配するなって。そいや邵可さんと静蘭は?」
「とっくに出仕したわ。いまは朝っていうより午《ひる》に近いわよ」
「げ。マジ? 全然気づかんかった。じゃ、早く食って出かけるか」
猫《ねこ》のように顔をこすると、秀麗が用意した膳《ぜん》と向かい合う。そして燕青は猛然《もうぜん》と食事を平らげはじめたのだった。
自分でいったとおり、燕青は朝ご飯を食べて顔を洗ったらまったくいつもの通りになった。徹夜の痕《あと》はややこけた頬《ほお》くらいしか残っていない。
「驚いた。でもあんまり無理しちゃだめよ。いい歳《とし》なんだから」
「……姫さんほんと、俺のこといくつだと思ってんだぁ?」
ぶつぶつぼやきながらも、燕青は掃除《そうじ》道具一式を片手で担《かつ》いで軽々と山道を登る。
「墓掃除かー。でもそろそろ墓参りの時期も終わりごろじゃねぇ? あ、紫州は違うのかな」
「ううん、母様の命日が明日なのよ。だから掃除しとこうと思って」
「そっか」
燕青はそれだけ言うと、ぽんぽんと秀麗の頭を軽く叩いた。
今日も暑い。途中で咲《さ》いてる花を摘《つ》んでいこうと思ったのだが、今年はあまりの猛暑で季節の花も枯《か》れてしまったようだった。それでもいくつか見つけては摘んでいく。
花摘みを手伝いながら、思いついたように燕青がいった。
「そうだ姫さん。そこらからなんか苗木《なえぎ》でも引っこ抜いてもって帰るか?」
「……え?」
「や、ちょっと庭院《にわ》がさみしーかなーと思って。綺麗《きれい》な花でもつける木とかさ。ど?」
秀麗はやや沈黙《ちんもく》し、微笑《びしょう》を浮《う》かべて首を横に振った。
「……ありがと。でもいいの。重いし、帰るときに邪魔《じゃま》になるし」
「そっか」
燕青はやっぱりそれ以上何もいわなかった。秀麗はそのことに少しだけホッとする。
「そういえば燕青、あなたの元々の用事とやらはどうなってるわけ?」
「ああ、そろそろ片づけるつもり。だから姫さんちに厄介《やっかい》になるのもあと少しだな」
「そうなの……なんだか、ちょっと残念だわ」
「おや、嬉《うれ》しーこと言ってくれるなー」
「だってあなたって、なんだかほんとにスルッて入ってきちゃったんだもの。……ちゃんと帰るとこ、あるの?」
「あるよ。心配してくれてありがとさん」
「あと、どのくらいいられるの?」
「そーだなぁ。まあ戸部《こぶ》に人が戻《もど》ったらと思ってたんだけど、姫さんの薬のおかげでぼちぼち戻ってきそうだから、まあ七日とか、そんくらいかな?」
秀麗は早速《さっそく》葉医師のところへ行って事情を説明し、夏バテに効く薬をたくさんもらってきていた。みなさんにわけてあげてくださいと、黄尚書と景|侍郎《じろう》に渡したのだが、効果はなかなかのものらしい。ちなみに薬代は事後|承諾《しょうだく》で霄太師もちだ。
不思議な梅干し壺《つぼ》の話をすると、六十がらみの葉先生は「ははあ、なるほど」と豪快《ごうかい》に笑って勝手に霄太師につけてくれたのだ。
『はっはっは。代金の心配はせんでええわい。こんなときに壺なんぞにかかずらっとるバカには、そんくらい役に立ってもらわんとな』
話しぶりからすると、葉先生は太師とずいぶん親しいらしく、聞けば昔から各地で顔を合わせてきて、いつの間にか知り合いになったという。
たどりついた山の中腹には、墓が点在していた。そのなかでも、奥のほうに秀麗は分け入る。ちょっと見にはわからないところにその墓はあった。
「へー……いいとこに建ってるな。見晴らしもいいし、周りには四季折々の樹《き》が植わってる」
「とっておきの場所でしょ?」
簡素なつくりの墓石に近づき、秀麗は暑さでしおれた手摘みの花が置かれているのを見た。
「お花……父様か静蘭がきたのね。先|越《こ》されちゃったわ」
それから黙々《もくもく》と掃除を始めた。燕青も黙《だま》ったままそれを手伝う。
すっかり綺麗になると、秀麗は手を合わせた。
じっと墓石を見つめる。そのまま、秀麗は長いあいだ動かなかった。燕青も何もいわず、その脇《わき》にただ佇《たたず》んでいた。
影《かげ》の長さが変わるくらいの時間が経《た》ってから、秀麗はぽつんといった。
「燕青は、家族は?」
「いたよ。兄弟|姉妹《しまい》だけでも六人いたな。ガキのころ、賊《ぞく》に押し入られてみんな殺されちまって今は俺一人だけどな」
秀麗の顔色が変わったのに気づいて、燕青は屈託《くったく》なく笑うと、ポンとその頭を叩《たた》いた。
「ごめんなさい……」
「昔のことだって」
燕青の口調は優《やさ》しかった。上辺だけではない、心からの。
「しかし姫さんの母さんなら、さぞしっかりして飯のうまい人だったんだろーなぁ」
「……ええ?……そうねぇ……しっかり…はしてたけど、多分あなたが思ってるような人じゃないわよ。父様と同じくらい不器用で、いろいろ頑張《がんば》りはするんだけど、一緒《いっしょ》にやってた私のほうがどれも早く上達してたもの。ああでも、木から果実をとるのはとっても上手だったわ。秋には静蘭と母様が落として私と父様が拾ってたの」
「……それ、男の役目だろ……」
「そういうのが好きな人だったのよ。何でも面白《おもしろ》がってたわ。いつも笑って、元気で、たくさん遊んでくれたわ。病弱だった私の看病もつきっきりでしてくれた」
「病弱? だ、誰《だれ》が?」
「昔は体が弱かったの。何よその目。信じてないわね」
「嘘だろ」
「ほんとよ。母様がいなくなってからは、不思議と丈夫《じょうぶ》になったけど」
「じゃあ、母さんの加護だな」
秀麗はうつむいた。
「……その日ね、雷《かみなり》がねぇ、鳴ってたの」
小さな声に、燕青はすぐに察して頷《うなず》いた。あやすように秀麗の頭をなでる。
「そっか。だから、姫さん雷が嫌《きら》いなんだな」
「……嵐《あらし》みたいな日だった。雨音が耳にいたくて、風の音が怖《こわ》かった。薄暗《うすぐら》い昊《そら》がときどき目に痛いくらいに光って。蛇《へび》みたいな稲妻《いなずま》が何本も現れて消えて」
記録的な雷雨《らいう》の日だったのに、まるで子守《こもり》歌でもきいているかのように眠《ねむ》るように逝《い》った。
「……母様、すごく元気で丈夫な人だったの」
「ああ」
「なのに、本当に急に……前の日まで笑ってたのに……次の日には動かなくなってた」
「そうか」
「……私はそのときも患《わずら》ってたけど、母様が動かなくなってしばらくしたら治ったの」
「母さんが守ってくれたんだな」
我慢《がまん》するなよ、と優しい声が降ってきた。燕青の言葉は本当に空気みたいだった。すうっと身体《からだ》の中に入って、途端《とたん》に涙が《なみだ》あふれてきた。ぼろぼろと、秀麗の頬を熱い涙が伝った。
邵可と静蘭には絶対いえなかったことがある。いったら絶対、「そんなことないよ」と慰《なぐさ》めてくれるのがわかっていたから。自分と同じくらい母を愛していた二人に、自己満足のためにそんなことはいわせられなかった。
「わ、私が母様の命……吸いとっちゃったんだぁ……」
「んなことあるか」
「私のかわりに母様死んじゃっ…た…っ」
「もし本当にそうなら、母さんも本望《ほんもう》だろ」
「夏……嫌い……雷も……大切なものみんなとってくの」
だから、静蘭が賊退治に加わると聞いたときも不安だった。別の季節ならなんの心配もしなかったけれど、よりにもよって今の時期に――と。
とうとう秀麗はしゃくり上げはじめた。子供のように泣く秀麗を、燕青が軽く抱《だ》きしめる。燕青は秀麗が欲しい言葉をそっくりくれた。何をいって欲しいのかわかっていて、その通りのことをいってくれた。嘘《うそ》も慰めも感じさせない、ごく普通《ふつう》の口調で。
秀麗はその言葉に思いきり甘えた。母様を知らない人だからこそ、素直《すなお》に甘えられた。「そんなことないよ」という言葉を誰かにいってほしくて。ずっと一緒にいる人じゃないからと、わざといわせた。卑怯《ひきょう》で子供っぽい自己|憐憫《れんびん》。
燕青はそれをわかってて付き合ってくれた。
「だから日に日に元気なくなってたのか。静蘭も邵可さんも心配してたぞ」
静蘭と父様を足して二で割ったみたい、と秀麗は泣きながら思った。優しくて大きい。
「こう毎年毎年夏が来るたび暗くなられたら、母さんも墓の下で泣くぞ。俺も家族|亡《な》くしたのは夏だったけど、夏好きだぞ。大事な思い出のほうがずっと多いからな。姫《ひめ》さんは?」
「わす……れた……そんなの」
「思い出せるよ。そしたらきっと夏も好きになる。夏だけ抜《ぬ》けてるなんて勿体《もったい》ないだろ」
「そう……かも」
「そうだよ」
低い声は、心にするりとすべりこんできて、耳に心地《ここち》よかった。
「姫さんももう十六だからな。いい潮時だからそろそろ大人にならんとなー」
「……?」
「今年で、暗い夏は終わりってことだよ。周りに心配かけるなんざ、まだまだ子供だ。俺に甘やかしてもらったから、もうできるだろ?」
「……あなた、優しくて厳しい人ね」
「いい男の秘訣《ひけつ》だからな!」
胸を張った燕青に、秀麗は顔にあたる髭《ひげ》を軽くひっぱった。
「このもじゃ髭|剃《そ》ってからいって」
「この野性的な髭の魅力《みりょく》がわからんとは、やっぱりまだまだお子様だぜ」
「……明日まで」
「ん?」
「母様の命日までには元気になるわ。約束する」
燕青は破顔した。
「いい女に一歩近づいたな、姫さん」
***
「なんか、妙《みょう》にゴキゲンだねぇ」
「気味悪いな」
楸瑛と絳攸が呟《つぶや》いたのも道理、彼らの主《あるじ》はその日、妙にへらへらした顔で執務《しつむ》室にいた。
「秀麗|殿《どの》のこと、バレたかな?」
「まさか。そしたらまっさきに俺たちにくってかかるだろう。なんで教えてくれなかった! とかなんとか」
「それもそうか」
「――絳攸、こっちの書翰《しょかん》はもう処理し終えたぞ。さあ、次はどれだ!?」
彩雲国《さいうんこく》国主・紫劉輝は晴れ晴れとしていた。肌《はだ》などつやつやぺかぺかだ。ついでにいつもの二倍の処理速度と、五倍のやる気がみなぎっている。さすがの絳攸も不審《ふしん》に思った。
「主上、なんかヘンなもんでも拾い食いしたんじゃないでしょうね。そこらに生えてたキノコとか、アヤしげな草とか、虫とか、生ゴミとか」
「……余をなんだと思っている……」
好奇心《こうきしん》の赴《おもむ》くままに何でも口に入れる五歳児。とはさすがに口に出さなかったが、顔には出ていたらしい。楸瑛が横を向いて吹《ふ》きだした。
しかし上機嫌《じょうきげん》の劉輝はそんな無礼な臣下の発言にも、異様なまでに鷹揚《おうよう》だった。
「ふ。余は今宵《こよい》『夜這《よば》い』を決行することにしたのだ」
絳攸と楸瑛の目が点になった。
「……夜這いだと?」
「ちゃんとその旨《むね》も文《ふみ》にしたためて邵可に送った。そしたら構わないと返事がきた」
「ちなみにその文、なんて書いて送ったんです?」
問われて、劉輝はそらんじるように中空に視線をやった。
「夜に訪ねる。できれば秀麗のご飯が食べたい。二胡《にこ》も聴《き》きたい。邵可と静蘭と一緒《いっしょ》に一晩過ごせればありがたい。空いてるのは四日後なのであるがどうだろう、と」
どこが夜這いだ、と臣下二人は同時に思った。それでは単なるお宅訪問だ。
「主上、いっときますが私は一応|近衛《このえ》の将軍なんですがね。そんなことバカ正直にいって、私に邪魔《じゃま》されるとは考えなかったんですか」
「ちゃんと朝議には間に合うように戻《もど》ってくるぞ? それにたまの息抜きは必要だとよく楸瑛もいってるじゃないか」
「……あなたのその素直さにはほとほと敬服しますよ」
「まいったな。そう褒《ほ》めるな」
「褒めてません。……まあ行き先が邵可様のところで、単なる一泊《いっぱく》みたいですし、一日くらいならいいでしょう。絳攸?」
「駄目《だめ》といったって行くだろうが。大体お前が止めないものを俺に止められるか。まあ出かけるならそのぶんの仕事を早回しで終わらせておいてもらいましょうか」
このやる気、無駄に発散消費させておくのは勿体ない。せいぜい利用して政務処理に役立ててもらおう。――素早《すばや》く算段を立てた彼らは有能かつ非情なる配下であった。
「じゃ、次はこっちの書翰をお願いします。終わったら向こうの書翰。合間に乱雑な机案《つくえ》まわり、自分でちゃんと整理|整頓《せいとん》しておくように」
「うむ! 今の余に不可能はないぞ!」
さりげなく雑用を押しつけられたことにも気づかない、ただいま絶好調な劉輝十九歳。
「そういえば主上、草案のほうは進んでますか」
「ああ。もう少し待ってくれ。まだ直しが終わってないのだ」
せっせと政務に取り組む劉輝に、楸瑛は面白《おもしろ》半分に訊《き》いてみた。
「でも主上、秀麗殿をそばに置くのに、なんだってそんな回りくどいことをするんです? いまのあなたなら今度こそ正式に下命して後宮に召《め》しあげられますし、それが普通ですよ。紅家が貧…経済的に苦しいとはいえ、家格と血筋を鑑《かんが》みれば反対する者もいないでしょう」
むしろ政治的変動がないということで、最初の妾《しょう》とするに絶好な安全|牌《パイ》と思われて諸手《もろて》を挙げて歓迎《かんげい》されるはずだ。徐々《じょじょ》に「女性」に慣れさせ、各重臣が自分の娘《むすめ》を最高の条件で送り出す腹づもりでいるのは間違《まちが》いないが。
「それがいちばん確実な方法だと思いますが?」
「そうか? 余はそうは思わぬ」
書きものに気をとられ、やや上の空で劉輝が呟く。
「秀麗は自ら後宮を出ていった。それは、後宮にとどまる気はないという、秀麗《あれ》の意志だ」
――ひいては、劉輝《じぶん》のそばにもとどまる気はないということ。
考え、再びどよーんとした空気が劉輝の周囲を覆《おお》いはじめる。心なしか筆のすべる速度が遅《おそ》くなっていく。
「それなのに、今むりやり後宮に召しあげたら、きっと秀麗は怒《おこ》るだろう」
「春だって毎日さんざん怒られてたでしょう」
「それとは違う…気がするのだ。秀麗は優《やさ》しい。怒っているときだって優しかった。いつだって余のために怒ってくれた。余はそれが嬉《うれ》しかった。でも」
言いよどむ。なんと表現したらいいか、うまい言葉が見つからない。
「……許してくれることと、許してくれないことがあると思うのだ。今度のことは、多分後者だと思う。後宮に召しあげることは簡単だが、……何かが、壊《こわ》れる、気がする」
自分でもよくわかっていないようで首をひねる劉輝とは逆に、楸瑛は目を丸くした。
――よくわかっている、と思った。
秀麗は後宮に戻る意志はない。それはもう、見事なまでにない。春の出来事は彼女のなかで人生における十大|椿事《ちんじ》の一つとして処理済みの棚《たな》に分類されており、なつかしみはしても掘《ほ》り返す気などさらさらない「過去」の話になっていた。
秀靂は劉輝を好いているが、それは恋愛《れんあい》感情とはまた別のものだ。本能的にそういう感情をもつことを排《はい》したのかもしれない、と楸瑛は思っている。彼女は聡《さと》い。「王」を愛するということ、ひいては名実ともに妃《きさき》となることの意味を無意識下に悟《さと》り、拒絶《きょぜつ》した可能性は高い。
だからこそ彼女は恋愛感情をもたないことで逃《に》げ道を用意し、引き際《ぎわ》を見逃《みのが》さずにすたこらと街へ戻ってしまったのだ。
今度劉輝が国王としての一存で後宮へ召しあげたとなると、それは秀麗にとって大切なものをすべて捨て、男と女の関係を強要されることを意味する。だが多分、今の秀麗には到底《とうてい》受け入れられるものではない。一度親しくしたからこそ、なおさら理不尽《りふじん》に怒《いか》りが募《つの》るだろう。数ヶ月前の関係には二度と戻れず、劉輝の望むものは今度こそ手のひらからこぼれおちる。
(権力者ほどそれがわからなくて、むりやり手に入れようとするものだけど)
劉輝は無意識とはいえ、理解しているのだ。だからこそこんなに回りくどい手を打ち、時を待つほうを選んだ。彼女の意志を阻害《そがい》することなく、少しずつ確実に手に入れる方法を。
(……ひょっとして、女性を陥落《かんらく》させる天性の才では私より上かも?)
しかしながら劉輝の道は険しい。本人は恋愛初心者かつ天然、相手は恋愛未満かつ意志強固な女性であり、おまけに彼女の前には遥《はる》か高いカベがいる。初心者にしてはずいぶん難易度の高い相手を選んでしまったものだ。
ふと、自嘲《じちょう》の笑《え》みが洩《も》れる。
(……まあ、私も人のことはいえないか)
楸瑛は冠《かんむり》なしの劉輝の頭をおもむろにくしゃくしゃとなでた。にっこりと笑う。
「まあ、お頑張《がんば》りなさい。あなたはなかなか見込みがありますよ」
***
「あの元気な二人がいないと、この室も寂《さぴ》しいですね、鳳珠《ほうじゅ》」
「……その名で呼ぶな」
「いいじゃないですか二人だけなんですし。大体|奇人《きじん》なんてみっともない名では呼べません」
「…………」
十年以上|飽《あ》きもせず一緒にいてくれるしたたかな癒《いや》し系・景|柚梨《ゆうり》には、黄|尚書《しょうしょ》も強く出られないところがある。
「いつもの宝物庫の点検も、一人だとなんだか変な感じがしますね」
隠《かく》し金庫から宝物庫の鍵《かぎ》をとる。それを腰《こし》につけながら、景侍郎はふと室を見回した。
「この室、こんなに広かったでしょうかねぇ」
ぽっかりと空間が空いてしまったような気がする。たった半月とちょっとなのに、あの二人はこんなにもなじんでしまったのかと驚《おどろ》く。
「李|侍郎《じろう》に言って、ずっと留め置いていただくわけにはいかないでしょうか。燕青さんはさすがに無理としても……秀くんなら」
「いや、それは無理だろう」
「なぜです?」
仮面がじっと景侍郎を見る。呆《あき》れたような視線を正確に感じとり、景侍郎はむっとする。
「なんですか」
「……お前、本当に気づいてないのか」
「は? 何をです」
「いや……まあ、いい。李侍郎はいずれ秀が国試を受けるといってたんだろう」
「いいえ、官吏《かんり》になった暁《あかつき》にはと、はっきりおっしゃってましたよ」
黄尚書はやや沈黙《ちんもく》した。何を思ったのか、筆を擱《お》く。
「柚梨、以前王が突然《とつぜん》言い出した国試|女人《にょにん》受験制のことを覚えているか」
「それはもちろん。あなたは無言で途中《とちゅう》退席しちゃって、あとの言い訳が大変でしたから」
「……悪かった」
「なれてますから。それにあのときのあなたの態度は致《いた》し方《かた》ないと思いますし」
「気になっていることがある」
「ああ、吏部《りぶ》尚書のことですか」
黄尚書は苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔をした、ようにみえた。少なくとも景侍郎には。
「……何でお前はそうズバズバ見抜《みぬ》くんだ?」
「そりゃあ仮面をかぶる前からあなたのそばにいるんです。そのくらいわかります。……確かにあのとき、吏部尚書がさしたる反対をしなかったのには驚きました。もちろん積極的に賛成もしてませんでしたけれど」
「あのくそったれは私たちの知らない情報を握《にぎ》ってたのかもしれん」
「……くそったれって……相変わらずですね。吏部尚書にはよく贈《おく》り物をいただいて――」
「あのヘンな仮面の数々か? あれは嫌《いや》がらせというんだ」
「そんな、素顔《すがお》のあなたと対等に向き合ってくださる数少ないご友人なんですから、昔のことは水に流してお付き合いなさったらよろしいのに」
「ふざけるな。死んでも御免《ごめん》だ。誰《だれ》が友人だ。あんな男くそったれで充分《じゅうぶん》だ」
相変わらずの剣幕《けんまく》に、景侍郎が溜息をつく。いつも冷静|沈着《ちんちゃく》な黄尚書だが、吏部尚書のこととなると一転して頑固《がんこ》で感情的になる。
「で、女人受験のことですけれど」
そのときだった。庭院《にわ》先から何やら騒々《そうぞう》しい音が聞こえてきた。
「つかまえろ!」とか「向こうへ逃げたぞ!」などという衛士《えじ》たちの怒鳴《どな》り声が耳に入ってきて、黄尚書と景侍郎は顔を見合わせた。
「猟犬《りょうけん》でも逃げたんでしょうか?」
景侍郎が半分ひらいた窓のほうに顔を向けた途端《とたん》、その窓から猟犬ならぬ二人組の黒|装束《しょうぞく》の少年たちが飛びこんできたのだった。
時は少し遡《さかのぼ》る。
「うーむ、なぜこんなにあっさりと見つかったのだ? 我らの潜入《せんにゅう》は完璧《かんペき》だったはずだ!」
全身黒ずくめの衣装に身をつつんだ「お頭《かしら》」は、叫《さけ》び声を上げて追ってくる近衛《このえ》から逃げるために庭院を全力|疾走《しっそう》していた。
「有り金はたいて黒装束を新調したのにヘンですねー?」
同じく脱兎《だっと》のごとく逃げながら首をかしげる曜春。真夜中ならともかく、まだ日も落ちきっていないこの時刻にいかにも「アヤしげです」と宣伝してるその黒装束こそがあっさり見つかった要因だとはまったく思いもしない二人である。
彼らは根本的に間が抜けていた。だが同時に恐《おそ》るべき強運と脚力《きゃくりょく》の持ち主でもあった。
「お頭ー、なんか、どんどん奥に行っちゃってる気がしますけれど」
「うーむ……磁石はさっき落としてしまったしな。せっかく山から苦労して掘り出したのに」
「日が傾《かたむ》いてますから、あっちが西ですよ!」
「バカモノ! どっちからきたのかももうわからんのに、西がなんの役に立つ!」
では磁石がなんの役に立つのか。などとお頭は考えない。
もともと猛暑《もうしょ》で人が少なかったうえに、実に羽林《うりん》軍の半分が賊《ぞく》退治のために城下へおりていた。そして見つかったとはいえ、逃げ足の速さと身の軽さだけは自慢《じまん》できるこの二人、屋根を伝って行きどまったところを飛び降り――ちょうど開いている窓へ飛びこんだのだった。
景侍郎はあまりの出来事に絶句していた。……なんだ、この黒い二人は?
そして飛び降りたほうも仰天《ぎょうてん》した。
「うおっ、こ、こんなところに怪人《かいじん》仮面男が――曜春! ここは死んだふりだ!」
叫んで「お頭」は突然ばたりと倒《たお》れた。つられて曜春も死んだふりをしかけ――ハッと思いとどまる。
「お、お頭ー! それはクマと出会ったときです!」
「ハッ、そ、そうか。怪人仮面男の対処の仕方は――そうだ、塩だ!」
飛び起きたお頭は懐《ふところ》から携帯《けいたい》品の塩|袋《ぶくろ》を取り出し、黄尚書に向かってぶちまけた。
そのあまりに脈絡《みゃくらく》のない行動を予測できず、黄尚書はまともに塩をかぶってしまった。
「おおお頭ー! それって幽霊《ゆうれい》とかなめくじとかの対処法じゃなかったですかぁあ」
「似たようなものだろう! しかし真っ昼間から出るとは非常識な怪人だ!」
黄尚書は無言で仮面にかかった塩をぬぐった。景侍郎はその仕草に内心うめいた。
(……お、怒《おこ》っている……)
近ごろでは珍《めずら》しいほどに。……これはまずい。
仮面の目や鼻の穴から塩が入りこんだのか、黄尚書の機嫌《きげん》がみるみる悪くなっていくのが景侍郎にはわかった。
「お頭ー! 全然効いてないみたいですよぉおお」
「な、何ぃ。じゃ、砂糖か!? とんがらしか!?」
「き、君たち、悪いことは言いませんから、ね、今のうちに近衛の方々に捕《つか》まった方が」
黄尚書が後頭部に回った仮面の紐《ひも》に手をかけた。
「いけません!」
景侍郎が止める間もなくほどいた紐が、はらりと落ち、追って仮面が外される。
「でたな怪人仮面お……」
髪《かみ》や顔にかかった塩を払《はら》い落としながら、黄尚書はじろりと闖入《ちんにゅう》者たちを睨《にら》みつけた。
その顔をもろに見てしまった少年たちは絶句した。いや、思考回路がぶっ飛んだ。
固まったままの二人に歩みよると、黄尚書はすっと手を伸《の》ばした。久しぶりに見る素顔に景侍部もしばらく息をのんでいたが、そこでハッと我に返る。
「うわわ、手加減してあげてください鳳珠《ほうじゅ》! あなたは気功の達人……っ」
そのとき、ぴくりと体が動き、少年たちは弾《はじ》かれたように両脇《りょうわき》に飛びすさった。本能で呪縛《じゅばく》を解き、あやうく気絶を免《まぬか》れた二人に黄尚書の双眸《そうぼう》が細められる。
「曜春やばいぞあの男っ! 我々を石にする気だっ! 目を合わせちゃいかん!」
「ええ。まだ仮面してたほうがましでしたねッ」
うわーと景侍郎が額を押さえた。
黄尚書のこめかみに青筋が浮《う》く。
「……人の顔をごちゃごちゃと……私は猛獣《もうじゅう》か?」
「まずい。これは相手が悪いぞ曜春っ。よし」
「逃《に》げるんですね!」
「バカモノっ、明日へつながる名誉《めいよ》ある撤退《てったい》といわんかっ」
強運ともども逃げ足にも定評のある二人はあっというまに駆《か》けだした。その際、自称《じしょう》「お頭」は景侍郎とぶつかり、横っ飛びに避《よ》けようとして彼の腰《こし》辺りにあった何かに手を引っかけた。堅《かた》くてほどよい重さのそれ[#「それ」に傍点]を反射的に左手でつかむと、再び入ってきた窓から飛び降りる。
あまりに見事な逃げっぷりで、追いかける気さえ起こらないほどだった。
「ちっ、逃げ足の速い……!」
悪役全開の台詞《せりふ》を吐《は》いて忌々《いまいま》しげに舌打ちすると、黄尚書はまだ衣《ころも》の上や髪に残っている塩を払い落とし、再び仮面を装着した。
「……まったく、これを外すことになろうとは思わなかった」
いかにも苛立《いらだ》たしげな声に、景侍郎はくすりと笑った。
「笑いごとじゃないぞ柚梨。あの二人が非番の日で助かった」
「ええ、でも燕青さんなら一笑《いっしょう》して元通りな気もしますけれど。秀くんはきっと驚《おどろ》くでしょうけど、一生|懸命《けんめい》見なかったふりをして、いつも通りに接してくれるんじゃないでしょうか」
何せあなたの仮面を外す機会に恵《めぐ》まれながら、何もしなかった子ですからね。……そう言外にいわれて、黄尚書は仮面の中の視線を逸《そ》らす。
「……ところで柚梨」
「はい?」
「お前、さっきまで腰に宝物庫の鍵《かぎ》をつけていなかったか」
「え? ええ。定期点検に行こうと思ってましたから。って………ああっっっ!?」
腰の辺りをさぐった景侍郎はみるみるうちに蒼白《そうはく》になった。慌てて床《ゆか》にはいつくばって鍵の行方《ゆくえ》を探《さぐ》ろうとするが、上官に止められる。
「無駄《むだ》だ。多分ぶつかりしなに持っていかれたんだろう。私に塩をぶちまけた方の手にそれらしいものが握られていた」
黄尚書の動体視力を知っていた景侍部はますます青くなった。
「ちょ、嘘《うそ》でしょう!? なんでそんなに落ち着いてるんですっ」
彼は大急ぎで窓に駆け寄ったが、もはやあの二人組は影《かげ》も形もない。
「あれは……あれは国にたった一つしかない…鍵なんですよっっ!?」
景侍郎は悲鳴のように叫んだが、自らの危機管理の甘さを嘆《なげ》いたところでもう遅《おそ》かった。
***
「今日のご飯は何がいい?」
墓|掃除《そうじ》の帰り、秀麗は燕青と連れだって街を歩いていた。珍しく大泣きしたせいか、ずいぶん気分が良くなっていた。
「口止め料に、できる限りきいてあげるわ」
「お、やったね。んーじゃ、山菜が食べたいなー。キノコとか菜っぱとか」
「ずいぶん謙虚《けんきょ》ね。そんなんでいいの?」
「うん。とりあえず山菜食えればいい。調理法は姫《ひめ》さんに任せる」
「じゃ、何か見繕《みつくろ》って帰りましょうか。……って、あら? なんかヘンな人がいるわね」
この暑いのに、全身黒|装束《しょうぞく》の二人連れが通りの向こうからとぼとぼ歩いてくるのである。
燕青は彼らを何気なく眺《なが》めた瞬間《しゅんかん》、げっと固まった。
「真夏にあんなカッコしてバカじゃないの。全身黒ずくめなんて……あら、小さいほう、ふらふらしてる。あ、倒れた。――大変!」
よろめいていた小さな黒装束がばったり倒れ、もう片方が慌てたように抱《だ》き起こしている。
それを見た秀麗は、とっさに駆けだしていた。
「あっ、姫さんちょっと……なんて耳にはいるわけねーか」
燕青はのび放題の髪をガシガシとかきむしると、仕方なく秀麗のあとを追ったのだった。
突然《とつぜん》倒れた曜春に「お頭」は仰天した。
「おい曜春、曜春!?」
「揺《ゆ》すっちゃだめ!」
凛《りん》とした声が降ってきた。見ると、見知らぬ少女が険しい顔をしてこちらをのぞきこんでいた。彼女は手早く曜春の覆面《ふくめん》を外し、額に手を当てる。
「……熱中症《ねっちゅうしょう》ね。この暑いのにこんなの着こんで……まったく何考えてるわけあなたたちは。ほら、あなたもとっとと上着|脱《ぬ》いで。この子の名前は?」
「曜春……」
秀麗は軽く少年の肩《かた》を叩《たた》くと、耳元で名を呼んだ。
「曜春くん、曜春くん、聞こえる?」
「……う……はい……」
「よかった。意識はあるみたいね。脈は……弱いけど、すごくってわけでもない。呼吸は大丈夫《だいじょうぶ》ね。手足の痙攣《けいれん》は……右のふくらはぎが少し。あなたお塩もって――ないわよね」
「持ってるぞ! あ、ああしまった! あの怪人《かいじん》仮面男に全部投げつけてしまったぁっ!」
「怪人仮面男?」
秀麗の脳裏《のうり》にその言葉に該当《がいとう》する人物が一名浮かんだが、すぐに打ち消す。……まさかね。
「ないのね。じゃ、すぐに近くの家に行ってお塩と水を」
「ほい姫さん、食塩水と砂糖水」
「燕青。よくわかったわね。ありがとう。問題は飲めるかどうかだけど……」
濃度《のうど》を確かめてから、曜春の口に食塩水をふくませる。ややあってこくりと嚥下《えんか》する。
「よかった。水分は飲めるみたいね。あとは冷却《れいきゃく》だけど……氷って高いのよね。特に夏は。ここらへんじゃちょっと無理だわ。しょうがない。燕青、うちに運んでくれる? 葉先生には往診《おうしん》してもらったほうが早いわ」
「――私の家のほうが早い」
不意に聞こえた涼《すず》やかな美声に、秀麗は振《ふ》り返った。そして――絶句した。
それどころではないはずなのに、一瞬すべてのことが頭から消し飛んだ。目の前に現れた顔に秀麗はあんぐりと口をあけた。まったくもって唖然《あぜん》とした。燕青もまじまじと目を見ひらき、無意識に「……すげぇ」と呟《つぶや》いた。そして「お頭」はああっと声を上げた。
「お前は! 怪じ……」
「この少年を助けたかったら黙《だま》っていろ」
じろりと睨《にら》みつけられ、お頭はうっと口をつぐんだ。
絵に描《か》いたような美人――どころの話ではなかった。絵にも描けない美しさとはこういうことかと思った。なめらかで白い肌《はだ》はまるで陶器《とうき》のよう。とおった鼻筋も、引き結ばれた唇《くちびる》の形も、長い睫毛《まつげ》の一本一本まであり得ない完壁《かんペき》さで整っている。はらりと額にかかる髪《かみ》の感じさえ美しく、冷ややかでどこか不機嫌《ふきげん》そうな双眸も、整いすぎた造作をますます魅力《みりょく》的にしていた。これほどの美貌《びぼう》に、秀麗も燕青もいまだかつてお目にかかったことはなかった。しかもこの美貌の持ち主はなんと男だ。二の句が継《つ》げないとはまさにこのことだった。
ここまで整った顔だと、何をするにも迫力《はくりょく》だった。彼が手を伸ばして曜春をそっと引き上げる姿さえ、一葉におさめておきたいほど優美である。
絶世の美貌の主はおもむろに少年を燕青に押しつけると、玲瓏《れいろう》玉のごとき声で短く告げた。
「軒《くるま》を寄越《よこ》す。待っていろ」
「へ、あ、はぁ」
男はすれ違《ちが》いざま、燕青にだけ聞こえる声量で囁《さきや》いた。
「――くれてやった『みやげ』は全部片づいたんだろうな」
今度こそ燕青は唖然とした。
嘘だろ…と心の中でうめいた。まったく悪夢に違いない。ナゼあの仮面の下があれ!?
(いや、そうか……わかったぞ。なんであの人の素顔《すがお》が朝廷《ちょうてい》全体で禁忌《きんき》になったか……)
あの顔は凶器《きょうき》といってももはや過言ではない。彼が万一女だったら、傾城《けいせい》の美女として歴史にその名を轟《とどろ》かせただろう。あれはまったく隠《かく》しておいたほうが世のため人のためだ。
つくづく、彼が男でよかった。しかも侠気《おとこぎ》も理性もあって、美貌に驕《おご》らず才を重視し自分の評判に一切《いっさい》頓着《とんちゃく》しない男だったためにこの彩雲国は救われたのだ。彼に美貌以外のどれかひとつでも欠けていたら、今ごろどうなっていたことやら。
(……しかしなんだって、仕事ほっぽりだしてこんなとこにいるんだ?)
よりにもよってあの仕事一筋の彼が。
彼の家は彩《さい》七区の一つ、黄東《こうとう》区に居をかまえる大|邸宅《ていたく》だった。敷地《しきち》面積は秀麗の家より狭《せま》いが、荒《あ》れ果てて大半が使用不可の邵可邸と違って、こちらは全室手入れが行き届いている。
なぜか彼は名を言わず、邸《やしき》に入るときも裏門からこっそり入り、一同を手引きして使用人のほとんどいない離《はな》れに曜春を運んだ。実は彼は邸でもよっぽどでない限り仮面をかぶっているので、素顔をさらしたまま帰ると、使用人たちが阿鼻叫喚《あびきょうかん》の地獄《じごく》絵図になるという理由からだったのだが、そんな事情など秀麗たちは知るよしもない。
呼ばれてきた葉医師と秀麗とで手当が始まり、別室で待っていた燕青は、ひとり残された自称《じしょう》「お頭《かしら》」を前に溜息《ためいき》をついた。
「……まったく、のこのこ山からでてくるからこんなことになんだぜ? 翔琳《しょうりん》、だっけか」
青い顔でうつむいていた少年は、驚《おどろ》いたように顔を上げた。
「なんで名前を」
今度こそ燕青はあきれ果てた。
「……お前ら、いったい何しにここまできたんだぁ? まったく。すっかり当初の目的忘れ果ててやがるな? まあだからこそ俺も毎晩木の上で野宿してたお前らほっといたんだけど。追っかけてる相手忘れんなよバカタレ」
長い前髪をかきあげると、左頬《ひだりほお》に十字傷が現れる。それを見た翔琳は跳び上がった。
「ああっっ、お、おまえ――――ッ! くっ、観光に夢中ですっかり忘れてた」
「んなこったろーと思ったぜ……。なんだ、やんのか?」
美貌の黄奇人は、それを止めるでもなく黙って見ている。
翔琳はすとんと腰《こし》を下ろした。ゆるりと首を振る。
「……やめておく。お前たちは曜春を助けてくれようとしてる。親父殿《おやじどの》から恩を受けたら絶対裏切るなって言われた」
燕青はカリコリと頬をかいた。
「……なあお前、その親父殿≠ノついてなんだが、なんかすっげぇ勘違《かんちが》いしてねぇ?」
「何だとぉう」
ちょうどそのとき、施術《せじゅつ》室の室が開いた。
「はー、終わった終わった」
トントンと腰を叩きながら葉医師が出てくる。やけにのんびりした口調だった。
それを見た翔琳はガバッと立ち上がった。
「お、お医者殿! 曜春は――曜春の容態はそれほどまでに悪いんですね!?」
「……ほい?」
「お医者殿は俺を落胆《らくたん》させまいとそんな呑気《のんき》な態度を貫《つらぬ》かれて…ッ」
「や、もう全然大丈夫なんじゃが。幸い軽度の熱中症だったし」
「慰《なぐさ》めは結構! 軽度で失神までいたしますまい! 男翔琳、万一の覚悟《かくご》はできております。はっきり言ってくださいッ」
しーん、と座が静まりかえった。燕青は、ナゼ翔琳少年が自分の親父殿≠ノついてあれほどまでの勘違いをしたのか、その過程を見たような気がした。
これは何を言ってもだめっぽい、と葉医師も思ったらしく、しかつめらしい顔をつくった。
「……実はな、翔琳殿、曜春殿を救う手だては一つだけある」
「何でも言ってくださいッ。地の果てまでも薬を探しに行きましょうぞッ」
「うむ、この裏手の山に石斛《せっこく》という多年草が生えてるんじゃが、それを生薬にして飲めば」
「曜春の命はかろうじてつながるのだな!? 今夜中に摘《つ》んでくるッ! おやすいご用だ」
そうして風のように窓から飛び降り、ものすごい速さで夕闇《ゆうやみ》の中に消えていったのだった。
「……どういう草か、知っておるのかのう……」
「ああ、その点は心配いらないと思います。確かあいつ、ガキのころから峯盧《ほうろ》山に住んでたはずだから、草木には詳《くわ》しいはずだし。親父さんも生薬づくりの名人だったし」
「……石斛の生薬なら、うちにもあったはずだが。滋養強壮《じようきょうそう》の薬だろう」
「まあ、何かやってたほうが気が紛《まぎ》れるからのぅ。それにしても」
葉医師は眉目《びもく》超絶《ちょうぜつ》秀麗《しゅうれい》な奇人を見、てれっと笑《え》み崩《くず》れる。
「いやぁ、往診にきてこんな美人さんに会えるとは、ついてるのう。わしの長い人生でもまったく滅多《めった》に拝めない美人さんじゃ。……しかしなぜおなごじゃないのかのう」
ぺたぺたと平らな胸をつまらなそうになでる葉医師を、奇人は視線だけで見下ろした。
怒《いか》りをおさえた美人の眼差《まなざ》しは、ときに人ひとり簡単に射殺すくらいの効力がある。こうも切れ味|鋭《するど》い視線を注がれてまったく動じないとは、この葉医師もタダモノではない。冗談《じょうだん》でなく室《へや》の空気が冷たくなったと、燕青はぶるりと身震《みぶる》いした。
奇人の指がついと葉医師に伸《の》びる。その一動作さえ思わず見惚《みと》れそうになるほどだが、何をしようとしているのか悟《さと》った燕青は慌《あわ》ててその腕《うで》を寸止めした。
「わわわわそこまでっ! お医者さんぶっ飛ばしたら駄目《だめ》でしょやっぱり」
「……よくわかったな」
奇人はチッと舌打ちした。何とお面を外したらずいぶん好戦的な人である。
「何、わしをぶっ飛ばそうとしたじゃと? 激しいところも魅力的じゃな〜」
呵々《かか》と大笑《たいしょう》する葉医師に、ますます眉間《みけん》の皺《しわ》を深める黄奇人。表情がもろにわかるぶん――しかもどの顔もド迫力の美貌――仮面をしていたほうがまだましだった。燕青は今初めて手綱《たづな》を握《にぎ》る景|侍郎《じろう》の偉大《いだい》さを思い知った。彼はどうやってこの危険人物を止めているのだろう。
いよいよ風前の灯火《ともしび》となった葉医師の命を救ったのは、施術室からひょっこり顔を出した秀麗だった。
「燕青、うちまで文《ふみ》出してくれた? ずいぶん遅《おそ》くなっちゃって……ご飯どうしよう?」
「なあ姫《ひめ》さん、今日はここに泊《と》めてもらおうぜ」
燕青の唐突《とうとつ》な提案に、秀麗の眉根《まゆね》が寄る。
「……はあ?」
「気になるじゃん、曜春少年の容態。まだ小せーしさ。一日くらいは様子見が必要だろ。それにもう片方は弓箭《ゆみや》みてーに裏山へ飛んでっちまったし」
「そりゃ確かにそうだけど……じゃ、お夕飯の支度《したく》だけしたいから、一旦《いったん》……」
「大丈夫《だいじょうぶ》だって。ガキじゃあるまいし、あっちだってなんか適当に食ってるって」
さすがの秀麗も不審《ふしん》に思った。
「なんか、隠してない?」
「えーっと、実はもうここに泊まるって書いて文だしちまってさー」
「ええ!? 何、そんなにここが気に入ったの? そりゃうちはボロ邸だけど、ってそうじゃなくて。ちょっと勝手じゃないの」
「う、ごめん。勘弁《かんべん》。謝る」
外聞もなくぺこぺこと頭を下げる燕青に、秀麗も毒気を抜《ぬ》かれた。本当に燕青は人の心をなだめるのがうまかった。仕方ない、という気分にさせられてしまうというか。
「……はあ、まあ、もう文出しちゃったんなら仕方ないわね。ええと、じゃあすみません、通りすがりの親切なかた。ご厚意に甘えて一晩ご厄介《やっかい》にならせていただきます」
素顔《すがお》をさらした黄奇人の正体にまったく気づかないまま、眩《まぶ》しげに目を細めて丁寧《ていねい》に頭を下げると、秀麗は曜春の容態を見に葉医師ともども室に引っ込んだのだった。
直後、絶対|零度《れいど》の美声が響《ひび》いた。
「……燕青。いつのまにそういうことになったんだ?」
「え、はははー。たった今。ってことでよろしくお願いします」
「なぜ」
「ええっとぉ、邵可さんとこに迷惑《めいわく》かけるとある人に俺殺されちゃうんで。通りで翔琳が大騒《おおきわ》ぎしてくれたおかげで、多分|他《ほか》の連中にも気づかれちまったから。今夜が山場かなーと」
かなり抽象的《ちゅうしょうてき》な物言いだったが、奇人は正確にその意味するところを汲《く》み取った。
「つまり、今夜ここに『団体客』がくるということか」
「え、へへへ。まあ、そういうことです。ここなら多少|壊《こわ》れてもお金持ちだし、警護兵もいるし、広いし、ご主人は口が堅《かた》いし、身分高いし偉《えら》いし、俺の正体も知れてるし、まさにお客さんをとっつかまえるのにステキに理想なとこだなーって」
ますます奇人の顔が険しくなる。燕青はもみ手でもちあげた。
「いーじゃないですか。結構俺、頑張《がんば》ったでしょ? でしょでしょ? そのご褒美《ほうび》ってことで。よッ、大将太っ腹。なんならお面の新作手づくりして御礼《おれい》しますから」
「いらんわ!」
「姫さんに大将の正体バラしたりしませんし」
「秀が女だということがバレて困るのは、お互《たが》い様だろう」
「あんたは言わないよ」
にっかと燕青は笑った。
「言うつもりならとっくの昔にバラしてるはずだからな」
真っ向から自分の素顔を見据《みす》えて一歩も引かない者を久々に見つけた、と奇人は思った。
「……好きにしろ。ただし私は手伝わないからな」
「もちろん。多分|増援《ぞうえん》、最低一人くる予定ですし、ご心配なく。姫さんとお子様組のほう、見張っててください」
「誰《だれ》がお前の心配などするか」
「お褒《ほ》めにあずかり光栄です。……ところで黄|尚書《しょうしょ》、お歳《とし》はいくつで?」
奇人はちらりと髭《ひげ》もじゃ燕青を見た。そしてひと言答えた。
「お前よりほ年上だ」
***
燕青から届いた文を囲んで、邵可|邸《てい》に集まっていた男たちはうーんと眉を寄せていた。
「な、なぜよりにもよって今日なのだ…っ」
宮城を抜けてお忍《しの》びでやってきた劉輝は、到着《とうちゃく》時の朗《ほが》らかさはどこへやら、怒りでぷるぷると震えていた。
「申し訳ありません、主上。娘《むすめ》が帰ってきたら伝えようと思っていたものですから……」
邵可は困ったように文面を見下ろした。
「主上もつくづく間が悪いですねぇ。やっぱり縁《えん》むすびの赤い糸は三月《みつき》前にぷっつりと切れたのかも」
「もともと繋《つな》がってなかったんだろ。あきらめて城へ帰るか」
両白《おもしろ》半分、護衛ついでにくっついてきた絳攸と楸瑛がひどいことをいう。
「だったら、結び直せばいいんだろう。この文にある邸《やしき》へ行くぞ! だいたい燕青って誰だ」
「私の旧《ふる》い友人ですよ。ちょうど今|居候《いそうろう》してまして」
さらりと応じた静蘭に、劉輝は驚《おどろ》いて訊《き》き返した。
「……静蘭の?」
静蘭はそれ以上口を開かなかった。無言で腰《こし》に剣《けん》を佩《は》く。
「さて、私は行きます。皆《みな》さんも、いらっしゃるなら必ず剣を持っていってくださいね。多分夜通し駆《か》け回ることになると思いますけれど、それでもよろしければ」
さっとその場の空気が冷えた。楸瑛の顔つきが険しくなる。
「……どういうことだい? そこで何かあるのか?」
「じゃなければアレが泊まるなんていい出しませんよ。よりによってこの邸に」
「よりによってって……黄東区の変わった邸に泊まるとしか」
絳攸はいいかけ、ぎょっとして楸瑛と顔を見合わせた。……黄[#「黄」に傍点]東区の、変わった[#「変わった」に傍点]邸?
「燕青みたいな厄介種をこき使ったばっかりに、ちょっとくらい面倒《めんどう》かけてもいいと思われてしまったんでしょうね。それに今日は結構早くに白大将軍から解放されましてね。今日に限ってちっとも賊《ぞく》が動きまわってる気配がなくて。どこかのバカな正義の味方|面《づら》した人が夜ごと徘徊《はいかい》して茶《さ》州から流入した賊退治をしてくれてましたけど、それでも手配書からするとまだ結構残ってるはずなんですが」
はあ、と静蘭は溜息《ためいき》をついた。
「彼らが追っかけてきたという男と、うちの居候が非常によく似た特徴《とくちょう》を持っていたものですから、きっと本人と思われてしまったんでしょうねぇ」
楸瑛は堅く凝《こ》ったこめかみを、指先でもみほぐした。
「……静蘭」
「はい?」
「そういうことはもっと早く報告するべきだと思うんだが?」
「本人はあとでちゃんというつもりだったみたいですから、二度手間かと。そうそう、これで市中を騒がせている賊を残らず退治できたら、特別|報酬《ほうしゅう》いただけますか?」
「……まさかそれを見越して黙《だま》ってたわけじゃないだろうな」
「いいえ、まさか。まったくの偶然《ぐうせん》です」
またしてもにっこり。魔性《ましょう》の微笑《ほほえ》みだ、と絳攸と楸瑛は同時に思った。
ようやく話の筋がのみこめた劉輝は青くなった。
「じゃ、一緒《いっしょ》にいる秀麗も危ないではないか!」
「大丈夫ですよ。燕青がそばにいるなら、まあお嬢様《じょうさま》に危険が及《およ》ぶことは皆無《かいむ》でしょう。じゃなければ預けたりしません」
その絶対の自信に、驚いたのは楸瑛と劉輝のほうだった。
「……ずいぶん、信頼《しんらい》しているようだね」
「信頼というか……私はあの男より強い人間というのを、彼の師匠《ししょう》をのぞいて知らないだけです。本人の前では死んでも言いたくありませんが、格闘《かくとう》と棍《こん》なら間違《まちが》いなく彩雲国一です」
武官・藍将軍としての楸瑛の瞳《ひとみ》がわくわくと期待に輝《かがや》く。
「剣は?」
「さっぱりです。ですから羽林《うりん》軍には無理だと思いますよ。剣は嫌《きら》いだといってましたから」
「……それは残念」
「で、どうします? お三方」
劉輝はぐっと拳《こぶし》を握りしめた。
「行くに決まっている! でなければ、何しにきたのかわからん」
「まったくですねぇ。で、絳攸はどうする?」
「後ろから礫《つぶて》でも投げながら応援《おうえん》してやる。当たっても文句いうなよ」
「うわーやる気になるねー……」
静蘭はやりとりを黙って聞いていた邵可に顔を向けた。
「ということですので、一晩留守をお願いします。明日の朝には絶対帰ってきますから」
「うん。待っているよ。明日はみんな揃《そろ》ってお墓参りしないと、妻に怒《おこ》られてしまうから」
そう、明日はこの家の主《あるじ》・邵可の妻であり、秀麗の母である人の、命日だった。
「奥様の雷《かみなり》は恐《おそ》ろしかったですからね。必ず。――では、行ってきます」
邸を出しなに、静蘭はそっとひとりごちた。
「燕青《あいつ》もよくよく悪運が強い。よりによって藍将軍と主上がそろった日に当たるとは」
若者たちが出て行ったのち――がらんとした室《へや》で、邵可はひとつ溜息をついた。
「……さて、聞いていたね? 珠翠」
はい――という言葉とともに、今までそこにいたかのようにごく自然に珠翠は姿を現した。
「黄尚書の邸周辺はどうなっていた?」
「静蘭様の読み通りです。午後の一件で燕青|殿《どの》のことがばれてしまったようですね。残った茶州賊がまとまって黄尚書邸に夜討《よう》ちをかける算段のようで、周辺に集まってきています」
「数は?」
「さほどは。先日までの燕青殿の地道な努力で、だいぶ数を減らされてますから。三、四十人といったところです。一部貴陽の破落戸《ごろつき》も混じっているようですが、たいしたことはありません。邵可様自ら参られなくとも、私だけで充分《じゅうぶん》です」
邵可は穏《おだ》やかに笑って首を振《ふ》った。
「妻の命日前に娘たちの命を人任せにはできないよ。万一のことがあったら悔《く》やんでも悔やみきれない」
たとえ多くの命をその手で奪《うば》ってきた自分がそう思うのは理不尽《りふじん》だと知っていても。
[#改ページ]
他人《ひと》様の庭院《にわ》の至る所に仕掛《しか》けをつくって回っていた燕青は、ふと顔をほころばせた。
「やっぱきてくれたんだなー静蘭。さすが竹馬の友。大感激。でもそんな大人数でくるとは思わなかったけど。おお! 左羽林軍将軍さんまで。なんと豪華《ごうか》な面子《メンツ》」
高い塀《へい》から人影《ひとかげ》が落ちてくる。最初の三人は身軽に、最後の一人は多少運動能力が落ちるのか、ややぼてっと。しかしこの高い塀を登って落ちてくるだけでもなかなかのものである。
静蘭はどこかで引っかけてきたらしい緑の葉っぱやら土埃《つちぼこり》やらを髪《かみ》からはたき落としながら、不機嫌《ふきげん》を隠《かく》しもせずに悪びれない燕青を叱《しか》りとばした。
「……お前な、あちこちに仕掛けつくりすぎだ。ここにくるまで難儀《なんぎ》したぞ」
「一つも発動させずにくるとはさすが。でも、ここのご主人には話通してあるから堂々と表門から入ってくりゃよかったのに」
「そういうことは事前に文《ふみ》に書いておけ」
かなり親しげな二人の様子に、見ていた劉輝はムッとした。彼はお兄ちゃん子なのだ。
「誰《だれ》だお前は! 兄…静蘭の竹馬の友だと? お前の顔など記憶《きおく》にないぞ!」
横から怒鳴《どな》られて、燕青は目をぱちくりさせた。
「おや新顔。誰?」
「余…わ、私は…っ」
言いかけた劉輝をあっさり無視して、燕青は所在なげな絳攸に笑いかけた。
「あ、悪いんだけど李|侍郎《じろう》さん、あっちの離《はな》れに姫《ひめ》さんとここのご主人がいるから。お相手と事情説明よろしく」
足手まといになるだろう絳攸の顔をさりげなく立ててくれる言葉選びは、まったく顔に似合わず繊細《せんさい》でうまい。
「わかった。俺はおとなしく引っ込んでることにする」
「あ、余――私もちょっと秀麗の顔を見に!」
いそいそと絳攸のあとにくっついていこうとした劉輝の襟首《えりくび》を、静蘭がむんずとつかんだ。
「君、何しにここへきたんです?」
「……お、お手伝いです」
兄の非情な一撃《いちげき》に劉輝はあっけなく撃墜《げきつい》された。
準備が整ったところで、『お客』を撃退するのに一番いい位置に陣取《じんど》り、それぞれ得物を手に背中合わせであぐらをかく。劉輝は庭院の隅《すみ》で何やらごそごそやっていて一番最後だった。
「……まったく、迷惑《めいわく》かけないといっただろうが」
「だからさ、このお邸《やしき》借りたんじゃん」
こそこそと謝る燕青を、静蘭が一瞥《いちべつ》する。
「お嬢様を巻きこんでないとでも?」
「う。悪かったよー。でもさ、あのまま帰すよりよかったろ?」
背中ごしに、楸瑛が気楽な格好で頷《うなず》いた。
「まあ、確かに。人質《ひとじち》にとられたりする可能性はあるしね。そうしたら邵可様も巻きこんでしまったろうし」
「だろだろだろー?」
「というか、そもそもお前は何者なのだ。あんなに大勢の茶州の賊《ぞく》がお前を追っかけて貴陽に入ってくるなんて……いい迷惑だ」
むぅ、と劉輝が顔をしかめた。明かりの灯《とも》る離れを、未練がましくちらちら見やる。
「あ。私もそれが聞きたいね」
「あーははははは。これでも王都に着くまでにだいぶ潰《つぶ》してきたんだけどなぁ。諸事情は今は勘弁《かんべん》。そうだなー、今夜乗りきったら話すよ。約束する」
日が暮れても昼の熱気が逃《に》げず、暑い夜になりそうだった。
そのとき、空気が張りつめた。わずかに剣《けん》の鍔《つば》をずらした三人を、一人棍の燕青が短く押しとどめる。
「――ちょい待ち。こっち側で一人帰ってきてないのがいるから、そいつかも」
月を背後に、高い塀を軽々と越えた小さな人影があった。燕青が仕掛けた数々の罠《わな》を一つも発動させることなく、恐るべき速さで離れへ向かう。
「なんだあの小猿《こざる》は! 敵じゃないのか」
劉輝に襟元を掴《つか》んで揺《ゆ》さぶられ、燕青はばたばたと顔の前で手を振ってみせる。
「あー違《ちが》う違う。ようやく帰ってきたな。よわっちいのに相変わらず足と危機察知本能は抜群《ばつぐん》にいいなぁ。でもあんなにぞろぞろ敵さん連れてこなくても」
走り去った影《かげ》につづくようにして、塀を乗り越えてくるいくつもの大きな影があった。最初の小さな影と違って、こちらは面白《おもしろ》いように仕掛けた罠にはまっていく。
静かな夜陰《やいん》が野太い雄叫《おたけ》びに切り裂《さ》かれてゆく。
「うっぎゃ――――――っっっ」
「うおぉおおおなんじゃこりゃ――――――ッッ」
「いてぇいていていてぇえええええ」
大半が庭院にしかけた罠にかかって足止めを食《く》らう。
「おーかかってるかかってる。でも思ったより少ないな? 火もこねーし」
無論、燕青はこのとき邸の外で、邵可と珠翠が賊の十人ほどを「軽くなでて」やったあげく、松明《たいまつ》や火矢の類《たぐい》も残らず駄目《だめ》にしていたことなど知るよしもない。
「ま、ぼちぼちいきますか」
「こちらはただの加勢だ。お前、責任もって片づけろよ」
棍を一振《ひとふ》りうならせて、燕青が立ち上がった。旧知の気易《きやす》さからか、普段《ふだん》の数倍乱暴な口調で吐《は》き捨てて静蘭があとにつづく。
「ちょっと物足りないかな?」
余裕《よゆう》の笑《え》みですらりと刃《は》を抜《ぬ》いた楸瑛の隣《となり》で、いまだ未練と怒《いか》りさめやらぬ劉輝が、剣の柄《つか》をぐっと握《にぎ》り直した。
「目と鼻の先に秀麗がいるというのに、余は……余はなぜこんなところで、こんなことをしておるのだ! 今宵《こよい》は、今宵は待ちに待った『夜這《よば》い』決行日だったのだぞ――っ!」
やっぱり緑《えん》が薄《うす》いのかもね。と、事情を知る静蘭と楸瑛は、胸の内でそっと涙《なみだ》を拭《ぬぐ》ったとか拭わなかったとか。
――この日、黄奇人|邸《てい》にもぐりこもうとした者たちは不運としかいいようがなかった。待ち受けていた国内|屈指《くっし》の腕利《うでき》き四人組に、ちぎってはなげられ、ちぎってはなげられ、いささか八つ当たり気味の手痛い攻撃《こうげき》なども受けて、一人残らずあっというまに捕縛《ほばく》されてしまった。
時はまた少し遡《さかのぼ》る。
「あら? 燕青はどこ?」
曜春を葉医師に任せて施術《せじゅつ》室を出た秀麗は、きょろきょろとあたりを見回した。
「あの男なら、用事があるといって出て行ったが」
「なんですって? 今日の燕青はわけわかんないことばっかりしてるわね」
泰然《たいぜん》と椅子《いす》に座る圧倒《あっとう》的な美貌《びぼう》の主にも少しだけ慣れてきた秀麗は、卓子《たくし》に茶器が用意されているのを見て思いきって声をかけてみた。
「お茶、飲みます?」
「……もらおう」
手慣れた仕草で秀麗はお茶を滝れはじめた。
「あのう、なんだかご迷惑をおかけしてすみません。見ず知らずのかたに、こんな」
「いや、私にも少々事情があってな」
「事情?」
「鍵《かぎ》が……いや、なんでもない」
湯飲みを口に運ぶその挙措《きょそ》さえ優雅《ゆうが》に美しい。けれど秀麗はそれに既視感《きしかん》を覚えた。
「あら、私の……知っているかたと飲み方が似てます」
一瞬《いっしゅん》、男の手が止まった。秀麗はそれに気づかずに話をつづけた。
「そのかた、ちょっと変わったところもあるんですけど、とても仕え甲斐《がい》のある人なんです。いつもいちばんお仕事してて、厳しいけれど理不尽《りふじん》なことは言わなくて、どちらかというと無口で、でも多分|優《やさ》しい人で。将来あんな人の下で働けたらいいなぁと思ってるんですけど、残念ながらもう少しで私、そこを辞《や》めなければならないんですよね」
「…………」
「なんて」
ふふ、と秀麗は照れたように笑った。
「あちらにしてみれば足手まといがなくなった、って、案外せいせいするのかも。もともと臨時|雇《やと》いのお仕事だったし、へま、数え切れないくらいしちゃいましたし」
「だがお前は、すぐに直した」
「え?」
「いや。……きっと、その主《あるじ》も残念に思ってる、かもしれんな」
仕草が似ていると思ったからだろうか。秀麗はなんだか黄|尚書《しょうしょ》本人にいわれたような気がして、嬉《うれ》しくなった。心がポッと温かくなる。
「だと、いいんですけど」
男は微《かす》かに笑った。それは一目見たら失神してしまいそうなほど魅力《みりょく》的な微笑《びしょう》だった。
ちょうどそのとき、使用人が扉《とびら》を叩《たた》いた。
「お館様《やかたさま》。李絳攸様がお見えでございます。お通ししてよろしいでしょうか」
「絳攸様が!? え、お、お知り合いだった、んですか?」
男は秀麗をちらりと見やると、わずかに沈黙《ちんもく》し、外に控《ひか》える者へと告げる。
「……ここではなく、別の室《へや》に一度通してくれ」
扉の向こうから、かしこまりました、という声が聞こえた。
「少し、席を外す。お茶をありがとう」
「は、はい」
退出する間際《まぎわ》、さらりと流れた絹糸のような髪《かみ》が目にとまる。またしても妙な《みょう》既視感。けれどそれを思い出す前に、今度は外壁《がいへき》に何かが激突《げきとつ》したような衝撃《しょうげき》に驚《おどろ》いて考えが霧消《むしょう》する。
「わ、な、何!?」
慌《あわ》てて半蔀《はじとみ》をあけると、同時に大量の草が室のなかにばらまかれた。
「……くっ、まさか蔀が閉じられてるとは思わなかった……うかつ」
鼻を押さえつつ、涙目の「お頭」翔琳が、縁《ふち》に手をかけてよたよたとなかに入ってきた。
「石斛《せっこく》を採ってきたぞ。早く、お医者|殿《どの》に!」
「うん、本当。すごいわ。こんなにたくさん。大丈夫《だいじょうぶ》、絶対曜春くん助かるわよ」
本当は命に別状など全然ないのだが、一生|懸命《けんめい》な翔琳の姿に、秀麗は思わずそういった。
そのとき、施術室の扉からひょっこり葉先生が顔をのぞかせた。
「ようやっと帰ってきたか。おお、これは大量じゃのう」
「お医者殿! これだけあれば曜春はッ!?」
「ほっほ。治る治る。心配せんでいい。数日|寝《ね》てれば全快じゃ。よしよし、じゃ、もらっとくかの。……なんじゃい、やけに外が騒《さわ》がしいのう」
そういえば、何やら怒号《どごう》や悲鳴が聞こえている。秀麗は嫌《いや》な予感がした。
「そこの庭院で、浪燕青が賊に追いかけ回されているのだ」
「は、はぁ!? 何やってんのよ」
「安心しろ。お前たちは俺の身内を助けてくれたから、恩返しをする。そうだこれ、薬代の足しにでもしてくれ。今日いつのまにか持ってたんだ。ヘンテコだが金ピカだ」
ぐい、と手の中に押し込められたのは、布に巻かれた何か――堅《かた》くて少し重いもの。
「なに、浪燕青のことは心配ない。今からこの超《ちょう》有名な山賊《さんぞく》茶州の禿鷹《ハゲタカ》%代目頭目翔琳様が加勢に駆《か》けつけるからなッ」
「ヘ? あ、ちょちょちょちょっとあなた!?」
「我が唯一《ゆいいつ》の手下であり、弟である曜春を頼《たの》んだぞッ」
言うが早いか翔琳は、制止もきかず半蔀から飛び降りていった。
まったくわけがわからない。次から次へ、いったい何が起こっているというのか。
葉医師は白い髭《ひげ》をしごきながら、首をかしげた。
「……茶州の禿鷹≠ノいつのまにあんなちっこい跡継《あとつ》ぎができたんだ? それにありゃ山賊じゃなくて義賊《ぎぞく》だったはずだがなぁ」
秀麗は呆然《ぼうぜん》と、翔琳に押しつけられた堅いものを見下ろした。はらり、と包み布が開く。
のぞきこんで、息が止まりかける。
「……はぁああっ!? ちょ、こ、ここここれッ」
「うほ。こりゃ本物の金じゃないか。治療《ちりょう》費ということはわしにくれるんかいな?」
「な、ななな何言ってんですか。こ、これ、私の見間違いじゃなければ」
見間違えるはずがない。景|侍郎《じろう》と燕青と三人で、見回るのが日課になっていたのだから。
「なんでこれをあの子がもってるわけ!?」
それはまぎれもなく、王宮宝物庫の鍵だった。
***
入ってきた仮面の主に、絳攸《こうゆう》は上官に対する正式な礼をとった。
「……このたびは知人が庭院《にわ》をお騒がせしているようで、かわってお詫《わ》び申し上げに参りました。黄尚書」
黄尚書は仕草で座るように言うと、自分もふわりと椅子に着いた。
「お前がくるとはな。で、お前のほかに誰《だれ》がきた」
「……正直に申し上げたほうがよろしいでしょうか」
「勝手に人の庭院に入りこんで、あげくに嘘《うそ》までつくつもりか?」
「失礼いたしました。紅邵可様家人のし[#「くさかんむり/此」]静蘭、左羽林軍将軍藍楸瑛、あと主上です」
たっぷり三|拍《ぱく》の沈黙があった。
「……最後、何と言った?」
「主上がおいでになってます」
「あの騒ぎのなかで駆けずり回ってるのか? 王が?」
「はあ、まあ、いろいろと不幸な偶然《ぐうせん》が重なりまして」
「――バカ王め」
黄尚書はひと言で切って捨てた。絳攸自身常々そう思っているのだが、なぜか他《ほか》の者にそういわれると無性《むしょう》に腹が立つ。黄尚書はすぐにそれを見て取った。
「ほぉ、お前が怒《いか》りを露《あら》わにするとは珍《めずら》しいな。よほどあの王に肩入《かたい》れしたと見える」
私生活では非常に短気かつ感情豊かな絳攸だが、朝廷《ちょうてい》での態度はまるで正反対である。
いかなるときも感情を表に出さず、冷ややかな口調と無表情で決裁を下す能吏《のうり》。まさに冷静|沈着《ちんちゃく》を絵に描《か》いたような、朝廷|随一《ずいいち》の才人の名に恥《は》じない振《ふ》る舞《ま》いをしている。彼がよく口にする「鉄壁《てっぺき》の理性」も、外朝ではまったくの真実なのだった。
劉輝に対して態度が違《ちが》うのは、忠誠を誓《ちか》うに足る相手と、そう認めたからだ。絳攸は彼の差し出した「花」を受けた。この未熟で年若い王とは本音で付き合うことに決めた。
だから今も。この仮面の尚書の前で王を語るに、冷静や理性で覆《おお》った仮面はかぶらない。
正面に座る長官をひたと視線の先に据《す》え、絳攸はいった。
「確かにバカですが、……王の器《うつわ》です」
「あれがか」
促《うなが》されて耳をすますと、庭院の大騒ぎがかすかに聞こえてきた。剣戟《けんげき》や野太い悲鳴に時折混じる「夜這《よば》いー!」の奇声《きせい》が、絳攸の言葉を喉《のど》に詰《つ》まらせた。――確かにバカである。
「……愚者《ぐしゃ》と才子は紙一重《かみひとえ》といいますし」
「それでかばってるつもりか? あのバカ王に付き従って、まさかお前にまでバカが伝染《うつ》ったんじゃあるまいな」
たいていの宮人はなんなく論破できる絳攸だが、勝てない相手というのはいる。才能は互角《ごかく》でも、上乗せされた経験と年の差はどうしようもない。つまり、黄尚書がそれだった。
「王はまだ即位《そくい》から一年も経《た》ってはおりません。当初はどうしようもないバカでしたが、あれでも日々進化しています。見込みはあります。評価はせめてあと三年まってください。前王のように誰もが認める名君ではないかもしれませんが、きっとそれに比肩《ひけん》する、いえ前王すら超《こ》える王になります。私はそう判断しました」
「ふん……朝廷随一の才人が、ずいぶんつたない論展開だな。論ともいえぬ」
「…………」
「だが、口先だけの褒《ほ》め言葉よりはましか。……王はお前に花菖蒲《はなしょうぶ》を送ったそうだな」
「はい」
「それだけは評価してもいい。まあ、何も考えてなかった可能性も捨てきれないがな」
前王は亡《な》き茶太保に菊花《きっか》を送った。その意味は高貴・高潔・高尚《こうしょう》=B国一番の剣士と謳《うた》われた猛将《もうしょう》、宋太傅には沈丁花《じんちょうげ》の花を。その意味は栄光と不滅《ふめつ》=B
けれどあの若き王が最初に臣下に贈《おく》った花の意味は――あなたを信頼《しんらい》します=B
そのときの状況《じょうきょう》を黄尚書は知らない。単なる偶然か考えなしかとも思う。
けれど、『臣下を信頼』するとはっきり示すその『花紋《かもん》』を送った以上、王は決してその約定を裏切ることはできない。愚王か名王か、まだ判断はできないが、……可能性は、ある。
「……いいだろう。ほかならぬお前が判断したというのならな。しばらく見せてもらう」
黄|尚書《しょうしょ》はつと左手の壁《かべ》を指さした。
「この一つ向こうの室に邵可殿の娘《むすめ》がいる。行ってやるといい」
「黄尚書、あの娘は――」
「行け。そのことを話し合うのはお前とではない。お前では役者が不足だ」
絳攸は口をつぐんだ。――事実、その通りだった。
まだまだ自分は彼と対等に相対するまでには至っていない。
次期|宰相《さいしょう》候補の冠《かんむり》は伊達《だて》ではない。実力も、経験も、官位も。自分は黄尚書に釣《つ》り合うどころか、まだ足許《あしもと》にも追いついていない。絳攸にはそれがわかっていた。何せ自分の上司と対等に並び立つ人なのだ。
だから何も言わず、頭を下げた。
「――李侍郎」
「はい?」
「あの二人はなかなか役に止った」
そのひと言で、充分《じゅうぶん》だった。
「それは、ようございました」
にっこりと絳攸は笑った。
絳攸が出て行って少し――かたん、と室《へや》の隅《すみ》で音がした。
「……まったく、私の養い子を、あんなにいじめなくてもいいだろう、鳳珠《ほうじゅ》」
目の前に立った男に、黄尚書は仮面の裏で険しい表情をつくった。
「――黎深《れいしん》。貴様、またうちの使用人を丸めこんで入りこんだな。おまけに盗《ぬす》み聞きか。どこまでも見下げ果てたヤツだ」
黄奇人という名がまかりとおっているなかで、今やその本名を知り、なおかつその名で呼びつづける数少ない一人、吏部《りぶ》尚書――紅黎深だった。
「絳攸から、君の邸《やしき》に出かけるという書翰《しょかん》をもらったのでね」
黎深はためらうことなく奇人の仮面に手をかけ、紐《ひも》をほどくとあっさりそれをはずした。下から現れたのは、怒気《どき》を露わにした、けれど少しも損《そこ》なわれることのない美貌《びぼう》。
「相変わらず麗《うるわ》しいな」
悪戯《いたずら》っぽく笑って、黎深は片手で仮面をもてあそんだ。
「懐《なつ》かしいね。思い出すよ、あの年の国試。君の顔を見た者は、私以外みーんな君に見惚《みと》れて落っこちたんだっけね。同舎になった者は不運だったねぇ。試験官さえ君から目を離《はな》せなくて、制限時間を過ぎても合図の鐘《かね》を打てずにクビになったその数……ええと三十人だったかな」
ちなみにその年の国試は「悪夢の国試」と呼ばれており、いまだに誰もその年のことを口にしない暗黙《あんもく》の了解《りょうかい》ができている。
奇人の美貌が嫌《いや》そうにしかめられた。
「うるさい。この顔のことはいうな。特に貴様にだけはいわれたくない」
「……まだ根にもってるのか」
「当たり前だ。『その顔の隣《となり》で奥さんなんかやってられません』という理由でふられた俺の気持ちがお前にわかるか? しかもそのあとよりにもよって貴様の嫁《よめ》になんぞなられた日には、仮面でもかぶらなければやってられんわ!」
このどこかぶっとんだ論理が、奇人《きじん》の奇人たるゆえんといえる。
「――ったく、とっとと紅州へ隠居《いんきょ》すればいいものを、いつまでも私の前をちょろちょろとしおって。七家の当主のくせに本邸《ほんてい》に戻《もど》らず、紫州《こんなところ》でふらふら宮仕えなんぞしてるのはお前くらいのものだ」
「いいじゃないか別に。私は仕事熱心なんだ」
「ふん。単に邵可殿の近くにいたいだけなんだろうが。この兄大好き男め。貴様こそ相変わらずだな」
今度は黎深も本気でむっとした。
「――それのどこが悪い」
「そうそう、姪《めい》のそばに出没《しゅつぼつ》してるそうじゃないか。へらへら笑《え》み崩《くず》れながら秀――秀麗の手伝いをしている紅黎深の姿は実に実に奇《き》っ怪《かい》だったと、あちこちでいわれたぞ」
「人を物《もの》の怪《け》みたいにいわないでくれ。偶然《ぐうぜん》だよ偶然。君にこき使われていて可哀想《かわいそう》でね」
「ほう。あの娘の通り道で待ち伏《ぶ》せしているのを見かけたという情報もガセか」
黎深はふいとそっぽを向いた。
「聞けば『おじさん』などと呼ばせているようだな。バカじゃないのか」
「君にはわからないんだ。会いたくても会いにいけず、叔父《おじ》さんだよといいたくてもいえず、こっそり物陰《ものかげ》から見守るしかない私の気持ちが!」
「わかるか、バカ。全然物陰から見守ってないだろが」
黄奇人は政事《まつりごと》と同じく紅黎深にも容赦《ようしゃ》がなかった。
ふと奇人は何かを考えるように顎《あご》に手をやった。
「……そうだな、秀麗はお前の姪というのを抜《ぬ》きにすればなかなか出来がいい。あの娘を嫁にもらうのもいいかもしれん。すでに一度押し倒《たお》された仲だしな」
黎深はぎょっと目を剥《む》いた。
「なに? いつそんな羨《うらや》まし……じゃなくてそんな不埒《ふらち》なことを!? 鳳珠、お前なんかヘンな薬でも嗅《か》がせたんじゃないだろうね!?」
「あの娘の自発的意志による行為《こうい》だった。抱《だ》きついて、なかなか離れてくれなくてな。しかも面と向かって会えなくなって寂《さび》しいですと言われたぞ。どうだ、お前よりよほど親密だろう」
奇人は嘘《うそ》は言っていなかった。ただその場の状況を綺麗《きれい》に省いただけだ。もちろんこれは、兄一家のこととなると簡単に理性をとばす黎深に大|打撃《だげき》を与《あた》えた。
「嘘だっ! 君なんかに秀麗をやるつもりはないぞ! 秀麗にはまっとうな男をだな」
「なんだと。私がまっとうでないとでもいうつもりか」
女に振《ふ》られて以後十年以上も仮面をかぶりつづけるような男が、果たしてまっとうな男だろうか……という問題はさておき。
「あの娘を私のところへ寄越したのは、お前か、黎深」
不意に奇人の声が鋭《するど》くなった。黎深は口許《くちもと》をゆるめた。
「いいや。その件に関しては絳攸に訊《き》いてくれ。私は一切《いっさい》関知してないからね。でもま、百の言葉を連ねるより、実際に見てもらったほうが手っ取り早いと思ったんじゃないかな」
李絳攸――この紅黎深が手塩にかけて育てた男。次の時代を担《にな》うであろうあの能吏《のうり》は、無駄《むだ》な手は決して打たない。
奇人はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「女人《にょにん》受験導入など到底《とうてい》受け入れがたい愚案《ぐあん》だ」
「今度から、と主上が言ったからだろう? だから君は無言で斬《き》って捨てた」
「当たり前だ。時間が少なすぎる。早急《さっきゅう》に手を打つべきものと、時間をかけるべきものの区別なぞ初歩の初歩だ。反対の言葉すらバカバカしすぎて口にしたくもなかったわ」
「そう――時間さえかければあるいはと君は思った。だから絳攸が送り込んだ秀麗を黙《だま》って受け入れた。最初から女の子とわかってたんだろう?」
「……単に人手不足だったんだ」
黎深と並んで次代宰相候補と言われる黄奇人。一風変わった風貌《ふうぼう》だけが突出《とっしゅつ》して語られがちであるが、その才、実力ともに黎深と伯仲《はくちゅう》し、いささかもひけはとらない。そして何より、彼が常識や固定観念にとらわれぬ柔軟《じゅうなん》な思考の持ち主であることを、黎深はよく知っていた。
男とか女とか、そういうつまらないことにこだわるような男ではない。でなければ派遣《はけん》されてきた秀麗を少女と知りつつ受け入れたりはしない。
彼が反対したのは、実際的な問題があると判断したからだ。
「女人の国試受験――確かに一考の余地あるものとは認めよう。だが、それは政事は男のものという今まで長きにわたって当然と信じられてきた固定観念を根底から覆《くつがえ》すものだ。いきなり降ってわいたようにそんなことを言われても官吏たちが納得《なっとく》できるものではない。これから先、長くその制度を維持《いじ》していこうと思うならば、その価値観から変えていかねはならん。それには多くの時間がかかるし、またかけるべきものだ」
王の勅命《ちょくめい》で制度をむりやり導入することは可能だろう。だが、それでは官吏たちが納得しない。しこりが残るのはもちろん、そうした反対官吏たちは、隙《すき》あらば法|撤回《てっかい》を求めてくるだろう。それでは意味がないのだ。女性の参加が政事において有益であるという考えを、しっかり植えつけてからでないと、どんなに有用な制度でもその真の効果は発揮されない。
「だいたい、固定観念は女だって同じはずだ。政事は男のもの――それが当然と考えて疑問も抱《いだ》かない女がほとんどだろう。この件に関しては宮中の頑固《がんこ》おやじだけじゃない、女たちにも政事に目を向けさせる必要がある。簡単に女人国試受験可などというが、肝心《かんじん》の受験者がいないのではどうしようもないだろう。政治的意志をもつ女性の育成、その援助《えんじょ》たるべき勉学の場の提供、そのための資金|繰《ぐ》りと財源の確保、礼部《れいぶ》における国試制の大幅《おおはば》改正案、何より女性に政治進出を可能と思わせる意識の植えつけ――十年かけてもいいこれらを、今年度の会試までにやろうと言い出したんだ。馬鹿《ばか》かと言いたくもなるだろうが」
絳攸が奇人の意向をことのほか意識した理由もここにある。奇人の正確無比な判断力は朝廷《ちょうてい》の誰《だれ》もが信をおく。たとえば針の穴に糸を通すようなことでも、出来ると判断したなら彼は迷わず即決《そっけつ》する。しかし穴も空いてないのに糸を通せと言われたら却下《きゃっか》する。配下の能力を限界まで見極《みきわ》め、ぎりぎりまでこき使う彼が無理といったら本当に無理なのだ。
ゆえに、彼を攻略《こうりゃく》することを絳攸は最大であり最低の目標としたのである。
「でも、今は少し違《ちが》う風に思いはじめたんだろう?」
わかったような黎深の笑みに、奇人の形良い唇《くちびる》がむっとへの字になる。
「……ひとつ訊く。あの王の愚案に、よりにもよってお前が反対しなかったのはなぜだ?」
黎深が奇人の能力を認めているように、奇人も黎深の能力を正確に評価している。「怜悧《れいり》冷徹《れいてつ》冷酷《れいこく》非情な氷の長官」と言われるこの男が、根拠《こんきょ》もなしに賛成したとは思っていない。
「ん? それはね、小さなころから官吏になりたいと思っていて、私の国一番すばらしい兄上がそれならと何年も前からじっくりと国試の勉強を教えこみ、今はまあそこそこまともに育った私の養い子が何日かおきに出かけていって、ご飯を食べがてら補足分を叩《たた》きこんでいる女人の存在を知っているからだよ」
奇人の顔色が変わった。
「……国試合格可能|圏《けん》か?」
「それも上位で」
「官吏になる意志……は」
「間近で見ていた君のほうがよっぽどよくわかってるだろう? 景|侍郎《じろう》はあの子を養子にとさえ言ってくれたそうじゃないか。まあなかったら毎日賃仕事で疲《つか》れてるのに絳攸が毎回だす非人間的な量の宿題を黙々《もくもく》とこなしてきたりしないだろう」
「……王のバカな案をあの娘《むすめ》は知っていたのか?」
「まさか。もともと兄上に似て学問好きだし、本人は主上の意図も、絳攸の意図も全然知らないよ。官吏になりたくて、無理と知りつつこっそり頑張ってたんだ。なんてけなげだろう」
万人《ばんにん》を魅了《みりょう》するであろう奇人の双眸《そうぼう》がゆっくりと閉じられる。考えたのは数|拍《はく》。
「なるほどな。それでお前の面妖《めんよう》な言動も理解できた」
「……面妖って君ね……」
「そういうことなら、話は別だ」
微《かす》かに唇のはしがつりあがる。
「常識を根底から覆せるような衝撃《しょうげき》と効果が得られるようであれば――」
最後の言葉を言いかけてやめにする。だんだんおさまってきた庭院《にわ》の騒音《そうおん》に目をやる。
「……ま、この次に王がこの議案をどうもってくるかによるがな。また愚にもつかぬバカなことを言い出すようなら即却下するのは変わらん」
奇人は思いついたように黎深にいった。
「――もし及第《きゅうだい》したら、あの娘は私のところへ寄越《よこ》せ」
「ダメだ。君のとこにやったらきっとこき使われて婚期《こんき》を逃《のが》すハメになる」
「心配するな。そしたら私がもらってやる。第一こっちは万年人手不足なんだ」
「冗談《じょうだん》じゃない。人手不足は自業《じごう》自得だろう。まったく景侍郎に同情するよ」
「貴様が根性《こんじょう》足りんやつばかりまわしてくるからだろうが! もっとましなのを寄越せ」
国試及第した進士たちを各役所へふりわけるのも人事である吏部の仕事である。
「ペーペーと根性なしは最初に君のところでもまれてようやく使えるくらいになるんだよ。世間の厳しさを教えるにはもってこいだ。私は優《やさ》しいからついついナサケをかけてしまってね」
「お前のナサケは世間|一般《いっぱん》の意味とかけ離《はな》れた意味で使われるようだな」
魔《ま》の戸部《こぶ》と並ぶ恐怖《きょうふ》の代名詞が吏部である。通称《つうしょう》、悪鬼《あっき》巣窟《そうくつ》の吏部。一度入ったら最後、八割方の人間が人格改造されるともっぱらの噂《うわさ》だ。ちなみに残りの二割はもとから悪鬼なので変わりようがないだけである。
「……そういえば、あの娘にくっついてきた髭《ひげ》男もお前の差し金か」
「髭男? ああ、そういえば絳攸から聞いているけれど、私は何も知らない」
くっと奇人が片頼《かたほお》だけで笑う。
「……なるほど。ものすごい偶然《ぐうぜん》だ。天運も味方につけているようだな、あの娘は」
「……どういうことだ? その男の名は?」
「浪燕青――頬に十字傷のある男といったほうがわかりやすいか」
記憶《きおく》をたぐるように黎深の眉《まゆ》がひそめられる。すぐ思い出せないのは珍《めずら》しかった。
「浪…燕青……どこかで――」
「ずいぶん前に一度だけ宮城へきただけだからな。茶《さ》州の人事でもめた折りに」
黎深は珍しく心から驚《おどろ》きを露《あら》わにした。――思い出した。
「まさか――現茶州府長官の浪燕青か!?」
「そうだ。大|抜擢《ばってき》どころかその名さえ中央には知られていなかった無名の男を、茶太保の強力な後押しとあのときの状況《じょうきょう》を鑑《かんが》みて茶州|州牧《しゅうぼく》に据《す》えた異例中の異例の人事の当人だ」
黎深は天を仰《あお》いで額を押さえた。
「……なんと、まあ」
***
「……なんっでお前はよわっちいくせに、ちょろちょろ邪魔《じゃま》しやがったんだこのバカ!」
東の昊《そら》がぼんやりと薄藍《うすあい》に染まりはじめたころ、賊《ぞく》全部をなんとか縛《しば》りあげると、燕青は翔琳少年の首根っこを猫《ねこ》のようにつまみあげた。
「なに!? 俺様が手伝ってやったから完全|制覇《せいは》できたのだぞ」
「バカタレ! 味方への被害《ひがい》のほうが多いじゃねーか」
翔琳の見当違いの「掩護《えんご》」であちこち余計な傷を負った他《ほか》の三人は、無言で頷《うなず》いた。
「しかもお前だけキレーに無傷でよ」
「あんな攻撃《こうげき》よけられないほうがマヌケなんだ」
「お前みてーにガキのころから山飛びまわって、サル顔負けの足腰《あしこし》と危機察知本能だけ異常に発達してたりとかしてねーんだよ。だいたいお前一人もつかまえてねーじゃねぇか」
「親父殿《おやじどの》は人相手の喧嘩《けんか》は教えてくれなかった」
真顔でいう翔琳に、燕青は目を見ひらいた。
「……ふーん、なるほどな。そりゃいい親父さんだ」
「当たり前だ。親父殿は国一番の親父殿だぞ」
誇《ほこ》らしげに翔琳が胸を張る。と、途端《とたん》にその腹の虫が鳴った。
するとその音につられたように劉輝もガックリと膝《ひざ》をついた。
「……そういえば……秀麗のご飯を食べるつもりだったから、余も夕飯|抜《ぬ》きだった」
腹減った……としくしく呟《つぶや》く劉輝。それは静蘭も楸瑛も同じだった。
離れは暖かそうに煌々《こうこう》と光が灯《とも》っている。飛んで火に入る夏の虫ということわざが全員の脳裏《のうり》をめぐった。でも秀麗に「なにやってたの他人《ひと》様の庭院でッ」と怒《おこ》られたとしてももう構わないと誰もが思った。本当はこっそり帰る予定だったのだが。
「……あそこに行って、お嬢様《じょうさま》に何かつくってもらいましょう」
静蘭の意見に反対する者は誰もいなかった。
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予想通り秀麗は仰天《ぎょうてん》し、怒り、呆《あき》れ、けれど結局は早朝とも呼べない時間に人様の庖厨《だいどころ》を借りてご飯をつくってくれた。
「――しかもなんだってあんたまでいるわけ」
ご飯の合間に傷薬を塗《ぬ》りながら、秀麗は劉輝をじろりと睨《にら》みつけた。
「……ちゃ、ちゃんと文《ふみ》は出した。邵可に返事も貰《もら》ったし!」
「まったく父様ったらなんにも言わないんだから。もう、あんたもほいほい出てこないの!」
劉輝はしゅんとうつむいた。
「……でも……三月《みつき》も我慢《がまん》した」
ポツリと言われた言葉に、秀麗は胸を突《つ》かれた。――自分はここ半月よく見かけていた、などとはとても言えそうにない。
「秀麗は、余に会えて嬉《うれ》しくないのか」
前髪《まえがみ》が伸《の》びた、と秀麗は思った。少し日焼けもした。前と比べて少しだけ……ほんの少しだけだが、男らしくなったかもしれない。
「そうね。あんたがぞくぞく届けてくれるヘンな手紙やら贈《おく》り物やらで、三月も会ってないなんて感じなかったから。でも、本人に会えてまあ嬉しいわ」
劉輝の顔がパッと輝《かがや》いた。嬉しそうに破顔する。
「文、読んでくれたか」
「読んでるわよ。でも勿体《もったい》ないからあんな高級な料紙に一行だけっていうのはやめなさい。しかもわけわかんないわよ。『今日は雨だから池の鯉《こい》が元気だった』ってのは何よ。子供の日記じゃないのよ」
「楸瑛が、文はマメに書けば書くほどいいっていうから」
「……言っときますが、中身が大事なんですよ」
自他ともに認める風流人の楸瑛は、ヘンな文の責任を押しつけられないようにさりげなく口を挟《はさ》む。……しかしよくよく劉輝には恋愛《れんあい》の才能が無いらしい。
「贈り物は? 氷はどうだった? 暑いから特別に大きいのを切りだしてもらったんだ」
「……最後はかき氷にして子供たちと食べたわ。涼《すず》しかったしおいしかった」
「卵は? 秀麗はゆでたのが好きだっていってたからゆでて届けた」
「近所の人とおいしくいただいたわ。おかげで食費が浮《う》いたわね」
「赤い花は? 調べたら曼珠沙華《まんじゅしゃげ》というそうだ。綺麗《きれい》だったろう」
「ええ。押し花にして本の間にはさませてもらってる」
「藁人形《わらにんぎょう》は?」
「室《へや》に飾《かざ》ってあるわ」
何とはなしに二人の会話に耳を傾《かたむ》けていた燕青が、ご飯を食べながら眉根《まゆね》を寄せる。
「なぁなぁ静蘭、あの天然ボケの若様の話、あれって嫌《いや》がらせ? 藁人形ってナニ?」
「……あれは心の底から、本気でいいと思ってやってるんだよ」
何故《なぜ》か申し訳なさそうに応《こた》える静蘭に、楸瑛がこっそり訊《き》いた。
「静蘭、いま秀麗殿のいってること、本当かい? その…室に飾ってあるとか」
「ええ。いただいたものは全部きちんととっておいでです。いろいろ文句をいっても、主…劉輝が一生|懸命《けんめい》考えて贈ってくれているのをわかってますから。そういうものを捨てられるようなお嬢様じゃありません」
「……うーん。秀麗殿、佳《い》い女性だなぁ。今のはちょっとぐっときたな」
「そういう台詞《せりふ》は、華々《はなばな》しい女性関係を全部きれいに清算してからいってくださいね」
「…………」
「バ力め。墓穴《ぼけつ》を掘《ほ》ったな」
絳攸が鼻で笑った。
隣《となり》ではまだどこかほほえましい会話がつづいている。
「実は、今日も贈り物をもってきたのだ」
「ええ?」
劉輝は袷《あわせ》の奥をごそごそとさぐった。とりだされたものに、秀麗は瞠目《どうもく》した。
「これ……?」
「桜の枝だ。苗木《なえぎ》は大きすぎてもってこられなかったから、とりあえず枝だけ先に。前に、桜が咲《さ》かなくなったといっていたから。今日には苗木が届くと思う」
ちなみに戦闘《せんとう》中は踏《ふ》まれないよう、庭院《にわ》の隅《すみ》に置いておいた。
「……――――」
不覚にも秀麗は言葉に詰《つ》まった。はた、とこぼれた涙《なみだ》に、劉輝は仰天した。
「え!? その、な、何か余は間違《まちが》ったか!?」
「……違うわ」
ずっと昔、父様と母様と静蘭の四人で植えた桜の木は、もう二度と咲かなくなった。桜だけでなく、他のどの木も。
霄太師にもらった金五百両で邸を修繕《しゅうぜん》したとき、新しい木の苗を植えることもできた。けれど秀麗はなぜかそれができなかった。見るたびに悲しくなる、丸裸《まるはだか》の庭院なのに。
手渡《てわた》された木の枝を見る。――やっと、わかった。
庭院は秀麗にとって象徴《しょうちょう》だった。優しい思い出と悲しい記憶《きおく》との。自分でいじることができないくらいに、秀麗と庭院は同一だった。けれど劉輝が木の苗をくれるという。新しい――これから大きくなってたくさんの花を咲かせる苗。
新しい時代がくるのだと――不意にそう思った。この新しい苗木のように、この王が新しい時代をくれる。もう寂《さび》しい庭院を眺《なが》めなくてすむような、優しくて平和な時を。
「ありがとう――……」
悲しい記憶が過去になるなら。苗を植えて、また新しく庭院をつくれる。山に木の苗を見つけに行って、静蘭と父様と一緒《いっしょ》に魚を釣《つ》って池に放そう。
もう、優しい思い出が壊《こわ》されることはない。
壊れることを恐《おそ》れて足踏《あしぶ》みする必要もない。一つ一つ、また積み重ねていける。
「嬉しいわ。今まででいちばん」
折しも今日は母様の命日。燕青に元気になると約束した日。
涙をぬぐいつつ、秀麗は笑った。
劉輝の胸がひとつ音をたてる。
こんな顔が見たかったのだと、心が熱くなる。そっと頬《ほお》に手を伸ばすと、首を傾ける。
劉輝は途方《とほう》もなく口説き下手だったが、こういうことに関してはごく自然にできるほど経験豊富だった。そもそも彼自身、なんの裏もないのだから女性に警戒心《けいかいしん》を抱《いだ》かせない。
気づけば、秀麗は再び唇《くちびる》を奪《うば》われていた。
愛《いと》おしむ想《おも》いそのままに優しくふれて離《はな》れていったあたたかな感触《かんしょく》に、秀麗は呆然《ぼうぜん》とした。
(い、今……ななな何かとんでもないことが起きたような――)
劉輝は邪気《じゃき》なくにこにこしている。何も悪いことなどしていないとでもいうように。
そうなのだ。この男にとっては単にそこらの花や鳥に気まぐれで口づけたくらいの価値しかないのだ。しかし秀麗にとっては大切なものだ。ぷるぷると枝をもつ手が震《ふる》えた。
「……劉輝、あなた今自分が悪いことしたっていう自覚はある……?」
「悪いこと? なぜだ? かわいいから口づけただけだ」
「説明しても理解不能だろうから省くわ。とにかくしたの。だからおとなしく殴《なぐ》られるわね」
「え」
劉輝の返事を待たずに秀麗の張り手が飛ぶ。しかし劉輝は素早《すばや》く手首をつかんだ。
「秀麗、そういうのは理不尽《りふじん》というのだ。ちゃんと説明しないといけないぞ」
「あんったにだけは理不尽なんていわれたかないわこの頓珍漢《とんちんかん》男――――ッ!!」
一発殴ろうと猛然《もうぜん》と暴れる秀麗を劉輝が驚《おどろ》いたように押さえ込む。
「……うーん。今まで頓珍漢な贈り物を届けて気をゆるめておいて、いきなりど真ん中を射貫《いぬ》く贈り物か。ものすごい恋愛高等技術だよ。あれで意識してないところがすごい」
唖然《あぜん》として傍観《ぼうかん》していた楸瑛はいっそ感心したように呟《つぶや》いた。
「あそこで止めておけば艮かったんだけどねぇ。もしくは二人きりになって口づけすれば少しは違ってたかもしれないのに。肝心《かんじん》なところで詰めが甘い」
「お前はそういうことばかり考えてるから頭が万年|常春《とこはる》なんだこのバカ」
「でもまあ、桜の苗木に関しては感謝ですね。無意識だから、お嬢様《じょうさま》も素直に受けとれる」
きっかけが必要だった。事情を知っていて、でも決して同情ではなく、自然に気持ちの区切りをつけられるような。もう終わったことなのだと、そう告げてくれる何かが。
自分や邵可では近すぎて、それはかなわなかったけれど。
微笑《ほほえ》みすら浮《う》かべている静蘭に、燕青は眉を上げた。
「……怒《おこ》ってないわけ? 大事な姫《ひめ》さんに手ぇだされたのに」
「別に? たいして大事《おおごと》でもないだろう」
つまりはまだまだ眼中外というわけか、と燕青は内心呟く。
「これで、お嬢様は庭院を見ても泣かなくなる」
静蘭は心からの微笑《びしょう》を浮かべた。
***
その日は結局、全員で離れに泊《と》まらせてもらうことになった。泊まるといっても、あと数刻ほどしか寝《ね》る時間はなかったけれど、徹夜《てつや》よりは遥《はる》かにましだった。
劉輝が貸してもらった寝間着《ねまき》に着替《きが》えていると、室の扉《とびら》が叩《たた》かれた。
「……? 誰《だれ》だ?」
「燕青です。ちょっと入ってもいいですか?」
不審《ふしん》に思ったが、兄・静蘭の友人ということで劉輝は扉を開けた。が。
入ってきた男の顔に、まったく見覚えがない。
「やですねー。髭剃《ひげそ》って前髪切ってちょっとさっぱりしただけじゃないですか」
「燕青!?」
「だからそう言ってるじゃないですか」
劉輝はまじまじと男の顔を見た。まるで別人だった。たとえるなら昨日までもこもこの熊《くま》だったのが次の日にはすらりとした牡鹿《おじか》に変身していたという感じだ。
「そそそそんな顔をしてたのか!?」
「驚くほどのことじゃないと思うんですけど」
誰かさんの仮面に比べたら微々《びび》たるものだと思うのだが。
「お疲《つか》れだろうから迷ったんですが、これ以上いい機会もなさそうなんでお邪魔《じゃま》させていただきました。ちょいと話を聞いていただけますか? ほらさっき、今夜が過ぎたら俺の事情を話すと約束したでしょう」
敬語というほどではないが、言葉|遣《づか》いがやや丁寧《ていねい》になっているのにも違和感《いわかん》があった。
どこか有無《うむ》を言わせない口調に圧《お》され、劉輝は内心かすかにうろたえた。
「余…私にか? 話なら市中警護を引き受けた白大将軍に、明日にでも」
「いいえ、俺は最初から、あなたと話すために貴陽へきたんです、今上《きんじょう》陛下」
劉輝は表情を変えた。
「そなたは、誰だ[#「誰だ」に傍点]?」
「陛下の即位《そくい》の折は、事情あって副官を行かせましたので、お初にお目にかかります」
燕青はいつもの大雑把《おおざっぱ》な態度からは考えられないほど優雅《ゆうが》な仕草で膝《ひざ》を折った。
「茶《さ》州州牧、浪燕青です」
劉輝は瞠目《どうもく》した。
茶州州牧――茶州府長官だと?
「私のことをご存じで?」
「確か茶州人事に上層部が頭を悩《なや》ませてるとき、茶太保が推《お》した人物だった……とか。国試を通ってもいないのに州府長官に抜擢《ばってき》された異例の人事――」
「異例っていうか、ありえないっていわれましたねー」
国試制がはじまって以来の大|椿事《ちんじ》だとさんざんいわれた。国試制を導入した意味がない――権力者による介入《かいにゅう》で綱紀《こうき》が乱れるなど、など。推した茶太保自身、当時はかなり叩かれたようだ。それでも大もめにもめたあと、地元ということで茶太保がいちばんよく茶州の内情を知っていたこと、彼自身の高潔さと実力、主上の信頼《しんらい》の厚さで最終的には彼の案が通り、国試合格も果たしていない無名の若者が登用されたのである。
その際にも様々な制約がもうけられた。浪燕青については茶太保がすべての責任を負うこと、彼の州府長官としての官位・権限は茶州府内においてのみ発動され、他州または中央官庁における公的地位はなく、よって州牧としての権限の行使も不可能、他州もしくは中央関係の仕事は補佐《ほさ》役として中央から派遣《はけん》される官吏《かんり》に一任し、全権を委譲《いじょう》すること、補佐役が不適当と見なした場合は書面にて即日官位|剥奪《はくだつ》可――などだ。実力重視の国試制を揺《ゆ》るがさぬためにとられたこの数々の防御《ぼうぎょ》策が、いかに浪燕青の任官が異常で、茶太保の後ろ盾《だて》なくば成り立たなかったかを物語る。そしてそうせざるをえなかった茶州の状況《じょうきょう》の異常さも。
「茶州はなんというか、昔っから妙《みょう》に茶一族が幅《はば》をきかせてるところでしてね。国試制に切り替《か》わって、中央からの役人派遣が行われるようになってからも、茶一族はなんとか地元を牛耳《ぎゅうじ》りつづけようと、いろいろ画策したりしてました」
官吏による派遣制に移行するまでは土着の豪族《ごうぞく》として各州を支配していたのは彩《さい》七家のどれも同じであるが、それ以後、国試制を重要視し、官吏育成に乗りだしていったのは茶家がいちばん遅《おそ》かった。
「基本的にあそこの一族は劣等《れっとう》感がとても強いんです。自分たちが彩七家でも格下と見なされてると思いこんでるっていうか。しかも家名にしがみつくだけの寄生虫のような親族がたくさんいて、土着権力|基盤《きばん》をなかなか手放そうとしなかったわけです。そんな中で、はきだめに鶴《つる》みたいな存在が若き茶|鴛洵《えんじゅん》じーさ…様で、あの人が頭角を現して茶家当主となってからは、彼が欲深な親族をうまくおさえ、なんとかなっていました」
茶太保は誇《ほこ》り高い人物だった。たゆまぬ努力とそれによって勝ち得た地位と先王の信頼をもって、実力で権力の中枢《ちゅうすう》にまでのしあがった。ところが彼が紅藍両家を押さえて上に立ったことで、他の茶一族は無意味な自信をつけてしまった。彼が並々ならぬ努力の末にやっと手にしたものを、自分たちの手柄《てがら》と勘違《かんちが》いする輩《やから》が大勢でたのである。
すっかり茶太保の威《い》を借る狐《きつね》となった茶一族の多くは、彼を強大な権力を握《にぎ》る免罪符《めんざいふ》のごとく思い、茶州府にまで権を及《およ》ぼそうとした。しかし茶太保はそれを決して許さなかった。
「でも鴛洵様はちょっと出世しすぎました。常に紫《し》州――王のそばに控《ひか》える身になってしまい、その目を盗《ぬす》んで茶一族は、こりもせず茶州府に干渉《かんしょう》するようになったんです」
そうして地元茶一族と中央から派遣されてくる官吏たちのせめぎあいがはじまった。だが、代々茶州で権を振《ふ》るってきた茶一族のほうに分があるのは自明だった。
「いくら有能な長官を送り出しても、ほんのわずかな期間しかもたなかった。ある者は茶一族の傀儡《かいらい》になり、ある者は暗殺され――そういうことが繰《く》り返された」
劉輝は頷《うなず》いた。
「ついには誰もが派遣を拒《こば》んで、人選が相当難航したと聞いている。そうだ……確かそれで、どんな刺客《しかく》もことごとく返り討《う》ちにできるような者を州牧に据《す》えればいいと茶太保がいったとか。――それがそなたか!」
燕青は先ほどよりもややゆるまった表情で苦笑《くしょう》した。ついでに口調も砕《くだ》けてくる。
「あー、まあ、そうです。聞いたときは俺もびっくらしましたが。なんつーむちゃくちゃな論理だって。でもそんな意見が通るくらい、当時の人事はせっぱ詰《つ》まってたわけです。ところが毎日せっせと学問にいそしんで殿試《でんし》合格を果たした官吏さんたちのなかには、その条件に該当《がいとう》する人物がちょっといなかった。藍楸瑛|殿《どの》は当時まだ国試受験前でしたしね。で、なんと俺のところにお鉢《はち》がまわってきちまったんです」
「そなたは殿試合格を果たしていないときいたが……」
「ええ。一応勉強はしてたんですが、俺は中央より地方のほうに興味があったんで、国試じゃなくて準試の勉強でしたしね。しかもその最終合格もまだで」
国の中枢を担《にな》おうと思うなら国試だが、地方で働こうと思うなら準試を受ける。よっぽどのことがない限り他の州へ飛ばされることなく、受験した州で一生仕事をする。
「……では、どうやって茶太保と面識をもったのだ?」
「あはは、準試を受けようと思う前に、俺、茶州でちょっとしたことをやってまして」
「ちょっとしたこと?」
「師匠《ししょう》と二人で、まあ、喧嘩《けんか》荒事《あらごと》用心棒引き受けますみたいな。それで生活費|稼《かせ》いでまして。で、その仕事の関係でたまたま茶州に里帰りしてた鴛洵じーさんと顔見知りになって、準試を受けるときに相談したり、いろいろ面倒《めんどう》をみていただいてたんです。で、慣れない本と毎日|格闘《かくとう》してたとき、突然《とつぜん》降ってわいた話がそれだったと」
困ったように、燕青は溜息《ためいき》をついた。
「そりゃー、腕《うで》っぷしには自信ありましたけどね、まだ準試にも合格してないってのになんですかそりゃってぶっ飛びましたよ。でも結局うまいこと鴛洵じーさんに丸めこまれて、じゃあ、まあ、臨時でってことで、有能な補佐付きお試《ため》し期間つって、赴任《ふにん》しちまいまして」
そういえば、と劉輝は以前きいたことを思い出した。
この異例の人事は当初半年の予定で、とりあえずこの無冠《むかん》無名の長官がどこまでできるかを見る、という苦しまざれの条件付きで承諾《しょうだく》されたのだとか。実際、国試合格者の相次ぐ赴任|拒否《きょひ》で、いわば人身御供《ひとみごくう》のようなものだったから、あまり批判も受けずひっそりと認可《にんか》された。そして茶太保の目は確かだった。
新任の茶州州牧は、ことごとく茶一族の妨害《ぼうがい》を退けた。忍《しの》びこんでくる多くの兇手《ころしや》はもちろん、何十人もの賊《ぞく》が組織されて真っ正面から茶州府に押し入ってきたときも、たった一人で返り討ちにしてしまったという。茶一族が直々に乗りこもうとすれば州城の門まで出て行って文字通り門前|払《ばら》いを食《く》らわし、配下の者が丸めこまれようとすると、すぐに嗅《か》ぎつけてコトをおさめてしまった。そして彼の派手《はで》な立ち回りに目が向けられている隙《すき》に同行した優秀な《ゆうしゅう》補佐官がその手腕《しゅわん》を発揮して茶州府を見事に建て直したのである。
単に腕が立っただけではありません――と邵可はいっていたものだ。
『彼は補佐官に下駄《げた》を預けたわけではなく、ちゃんと自ら政事《まつりごと》をとったそうです。素人《しろうと》でもなんでも、施政《しせい》している姿を見せ、決して州牧印を誰《だれ》かに任せず、それによって自分が茶州府の長であることを示しました。その上で茶一族のどんな甘言《かんげん》も脅《おど》しも彼は頭から無視することで茶州府の権を取り戻《もど》したのです』
劉輝はまじまじと目の前の男を見た。……では、なぜ、その茶州府長官がこんなところに?
若き王のもの問いたげな表情を見て、燕青はちょっと笑った。そしておもむろに袷《あわせ》から何かを取り出した。
「私が貴陽にきたのは、陛下にこれを預かっていただきたかったからです」
差し出されたものをみて、劉輝は瞠目した。
「これは――茶州州牧のもつ佩玉《はいぎょく》と印ではないか!」
高位の官吏にのみ佩帯を許される佩玉は、それ自体おのおのの役職官位をあらわすものでもある。燕青がとりだしたのは、茶州特産である琥珀《こはく》がふんだんに連なり、中央の円環《えんかん》には州花である月彩花《げっさいか》が複雑|精緻《せいち》に彫《ほ》りこまれている。裏には複製不可といわれる国璽《こくじ》の文様があり、間違《まちが》いなく茶州長官の佩玉だった。ずっしりと重い印も佩玉と同じ文様と国璽が彫りこまれ、一目見ただけで本物とわかる。
「やー、本当は多分、いま俺がこれをもつ資格はないんでしょうけどね」
「――どういうことだ」
「先だって茶太保が亡《な》くなられましたね。それで茶州でもおさえつけられていたものがなくなったというか、またぞろバカな茶一族がのさばりはじめたんです」
たとえ貴陽にいても、茶鴛洵の影響《えいきょう》力は大きかった。彼の目の黒いうちは、一族の者であろうと権をほしいままにすることなど到底《とうてい》許されなかった。だが太保が亡くなり、次の権をめぐって茶一族が争いはじめた。茶州府もそれに巻きこまれかけている。
――それを伝えにきたんです、と告げた燕青に、劉輝はカッとして叫《さけ》んだ。
「ならば、なぜそなた自身がのこのことここへ来た! 茶州府長官のそなたが州府をまとめ、茶一族の力を抑《おさ》えなくてはならない時だろう!」
燕青は苦笑した。
「正論ですね。本当に茶州府長官だと胸を張れる立場なら、俺もそうしたんですけれど」
「なに……?」
「言ったでしょう。俺は国試に受かってないんです。もともと臨時ということだった。それが、うやむやのうちに半年どころかずいぶん長い間やることになって――そこを突《つ》かれました」
厳しい表情は、長年州府長官を務めた能吏《のうり》の顔だった。
「俺の後見だった茶太保はもういない。国試にも通っておらず、実は正式な任命書もない、州牧とは認められない――そう意見書を出されれば俺も何もいえません。何せ事実ですから。というか、俺も『あ、そーか』って思いましたし」
「…………」
「だから、俺はあなたに会いにきたんです」
まっすぐに見つめられて、劉輝は言葉を失った。
先ほどの乱闘《らんとう》での、舞《ま》うようにあざやかな棍《こん》さばきが思い出された。この男の強さは半端《はんぱ》ではない。静蘭が太鼓判《たいこばん》を押した理由が充分《じゅうぶん》すぎるくらい理解できた。たぶん自分が全力でかかっていっても、息ひとつ乱さずに制されるだろう。あまりに強い――だからこそ彼がここにこなくてはならなかったのだと、劉輝は不意に理解した。それを察したように燕青は笑った。
「俺以外の者にこさせてたら、道中佩玉と印もろとも抹殺《まっさつ》されてましたよ。いやーもうすごい追っ手の数で、しつこいのなんの」
佩玉も印も州牧の証《あかし》。だから燕青もみすみす奪《うば》われるわけにはいかなかった。中央へ届け、一旦《いったん》お役目を返上するのだという大義名分が立てば、少なくとも次に新しい官が派遣《はけん》されるまで、しばらくは茶一族の動きを凍結《とうけつ》できる。
当然、そうはさせたくない茶一族は、佩玉の奪還《だっかん》と燕青の暗殺を計画する。茶州に巣くう無頼《ぶらい》者たちを雇《やと》って次々と差し向けた。
「……茶州からお前を追って賊が流入してきたのはそのせいか」
「あははーそうです。この首、裏で高い懸賞金《けんしょうきん》かけられちゃってたみたいで。ま、ここに来るまでにできる限りふんじばってきたんですが、いかんせん虫みたいにあとからあとからわいてきて……近衛《このえ》総出でとっつかまえてくれるらしいってんで、こりゃありがたいって下駄預けようと思ったんですが。一応俺のせいだし、夜中に貴重な睡眠《すいみん》時間|削《けず》って、賊退治もちゃんとしてたんですよ?」
「……宋太傅と白大将軍が余計なことをと怒《おこ》っていたのはそれか……」
「余計なこと!? うわひでー。毎晩目をしぱしぱさせながら頑張《がんば》ってたのに」
「あの子供二人もお前を追ってきた賊と聞いたが」
「はあ、まあ、見てのとおり逃《に》げ足と運の良さしかとりえがないんで、ほっといたんですが」
「確か茶州の禿鷹《ハゲタカ》≠ニかなんとか」
「あー、それは実は先代のことで」
「先代?」
「ええ。前にやってた仕事関係で、ちょっと顔見知りだったんですが、確かにその人は凄腕《すごうで》でした。ただ、彼は盗賊《とうぞく》じゃなくて義賊だったんで、実際戦ったことはありませんが」
劉輝の目が点になった。
「……義賊?」
「そうです。山暮らしの彼は、ふもとの村人をよく助けて、盗《ぬす》みはすれども非道はせず、って悪い金持ちからくすねて貧困層に配ってたりしてて。結構気まぐれな人だったんですが、やっぱり気まぐれで子持ち女性を拾って、彼女が亡くなったあとは残された二人の赤ん坊《ぼう》を育てはじめまして、それからは義賊の仕事もぷっつりやめてしまって、その強さと名だけが伝説的に有名になってたんです。ところが、そうとは知らない茶一族のバカタレ男が、噂《うわさ》を聞きつけて俺抹殺の依頼《いらい》にやってきて」
「……義賊に、そんなことを頼《たの》んだのか?」
「いやー、その茶一族の男ってのが、また馬鹿《ばか》なじーさまなんで、金でなんとかなると思ったんでしょうね。けど、行ってみたら先代はついこの間他界していて、子供たちしかいなかった。ここがまた頓珍漢《とんちんかん》なとこなんですが、そのとき子供――翔琳のほうだと思いますが――はヘンな勘違《かんちが》いをして、自分の父ちゃんが名だたる義賊でなく極悪《ごくあく》非道な山賊だったんだと思いこみ、ならその跡《あと》を継《つ》ごうと思ったようなんです。……まあ、さっきの件でなんかその勘違いの仕組みも理解できましたけどね。で、依頼主も依頼主で、まあどっちでもいーかみたいな感じで任せちゃって、ここに十二歳と十一歳の少年二人の新茶州の禿鷹≠ェ誕生したわけです」
「逃げっぷりと勘の良さは確かにすごかったがな」
「ええ。ま、害はないですし、俺が責任もって茶州の山まで送り届けますから、あいつらだけはちょっと見逃《みのが》してください」
「……まあ、別につかまえても仕方ないしな……」
「で、話を元に戻して茶州のことなんですが」
劉輝はハッと現実に戻った。
「そうだ。明日すぐに正式な任命書を出す」
「いえ、そのことなんですが」
燕青はそばの卓子《たくし》に佩玉と印を置いた。
「たぶん、今頃《いまごろ》俺は茶一族の介入《かいにゅう》で州牧を罷免《ひめん》されてます」
「――馬鹿な。そんなことできるわけがない」
「ここにくるまでひと月。罷免理由にするには充分な不在時間です。少なくとも俺の居場所はなくなっているでしょう。配下にも、もしそうなっても逆らうなと言っておきました。有能な官吏《かんり》を失うことだけは避《さ》けたかった。ただ、勝手に州牧を茶一族に任命させるわけにはいかない――だからこの佩玉と印をもってきたんです。身分は借り物とはいえ、この佩玉と印は本物ですからね」
「だから、明日にでも勅書《ちょくしょ》を出すと」
「さっきも言ったはずです。俺は国試に受かってないんです」
燕青はまっすぐに劉輝を見た。
「それが不自然だったんです。例外だといいつづけても、それがいつまでたっても付け目になることには変わりありません。同じことを繰《く》り返すのでは意味がない。ちょうどいい機会です。今度こそ、誰《だれ》もつけこむ余地のない、正統な州牧を派遣してください」
燕青はにやっと笑った。
「心配ありません。俺が不在の間、優秀《ゆうしゅう》な補佐《ほさ》官には師匠《ししょう》をつけてあるんで、師匠が突然《とつぜん》ボケたりしなけりゃ暗殺される心配は皆無《かいむ》です。彼がいる間は、俺がいなくてもなんとかなります。以前とは違う。基盤《きばん》は俺たちがきっちり囲めたつもりです。茶一族も当主争いで、まだ当分は本格的に州府政事に介入はしてこないでしょう。次の国試が終わって、新長官任命のときまでは州牧不在でももつくらいの自信はあります。――そのときまでに、手を打ってください」
劉輝は無言で佩玉に手を伸《の》ばした。燕青の言葉の意味を、彼はしっかり理解した。
「茶一族は俺の件をぎりぎりまで隠《かく》すでしょう。宮城への伝使は途中《とちゅう》で握《にぎ》りつぶし、茶州府内部の情報が漏《も》れないように手を打ちはじめています。そういうことだけは一致《いっち》団結しますから。だからこそ、私自身がここへ来る必要がありました。そしてできれば二人だけで、このことを話したかった。新王陛下がどんなかたなのかも、まわりにどんなかたがいるのかもわかりませんでしたしね。最後の手段として、陛下の臥室《しんしつ》までもぐりこむつもりだったんですが」
茶目《ちゃめ》っ気を含《ふく》んだ笑《え》みは、その自信が充分あったことを示している。
それでも、これは命がけの賭《かけ》だったのだと、劉輝は悟《さと》った。彼の州牧としての権限は茶州府内のみ。茶州を出れば、彼はなんの官位も権限ももたないただ人になる。ただ人が王宮に侵入《しんにゅう》し、あまつさえ王の臥室に踏《ふ》み込んだりすればどうなるか――子供でもわかる。
彼は文字通り命をかけて、茶州の状況《じょうきょう》を伝え、直訴《じきそ》にきたのだ。
「……そなたは、どうするのだ」
「俺は茶州に戻《もど》ります。州牧でなくなっても、一度やりかけたことは最後までなんとかしなけりゃなりませんからね。地位がなくても、できることはたくさんありますから。俺は俺なりのやりかたで、茶州を保《も》たせます。まあなるべく早く、なんとかしてくれると嬉《うれ》しいですが」
「燕青」
「はい?」
「命令だ。次の除目《じもく》のときまでに、せめて準試にはちゃんと受かっておくように。そうすれば州牧補佐には任命できる。時期的に確か不可能ではないはずだ。何年も州牧やっておいて落ちましたなんて言語道断だぞ」
燕青は数瞬《すうしゅん》沈黙《ちんもく》し、ややあって笑い出した。
「補佐なら、有能なのがもういますよ。俺なんかより数段やり手で能吏な男が」
「鄭《てい》補佐、だったな。補佐選びでも次々辞令|拒否《きょひ》する高官たちに怒って、『なんのためにあなたたちは官吏になったのですか』と言い放って候補でもなかったのに自ら茶州行きを希望したとか。まだ若くて前途《ぜんと》有望で、周りはさんざん止めたのに頑《がん》としてきかなかったときく」
「ええっ!? あれがそんな熱いこと言ったんですか!? うわー初耳。すげぇ見たかったなー」
「確か、……足がお悪いときいたが」
「ええ。全然歩けないわけじゃないですが、走ったりとかは無理ですね」
「地方で苦労させとくのももったいない。確か今三十半ばで、脂《あぶら》がのってていい時期だ。それほど能吏《のうり》なら中央がもらう。中央大官なら一日中|机案《つくえ》に座っていられる」
「そりゃいいですねー。地方だと高官つっても結構ちょろちょろ動かなきゃならないですから。――準試は受けるつもりです。あなたに言われたからじゃなくて、もともとそれに受かって、茶州文官になるのが俺の夢でしたからね」
迷い、叶《かな》わないと思いながら、それでも微《かす》かな希望に向かってひたむきに頑張っていた少女。本当は、いい機会だから鄭文官に下駄《げた》を預けて、しばらく気楽にあちこちを放浪《ほうろう》しようかと思っていた。退屈《たいくつ》でもつまらなくもなかったけれど、そろそろ窮屈《きゅうくつ》に感じ始めていたのは事実だった。それに今さら準試の勉強なんてな、とも思っていた。
秀麗を見て、思い出した。なぜ茶州文官になろうと思ったのか。
『今からでも、頑張ればいいのに』
秀麗の言葉にかすかに混じる羨望《せんぼう》に、顔から火が出るかと思った。自分は男で、夢に手の届くところ立っていたのに。おごっていた。本当は何一つ進んでなどいなかったのに。
「もう一度、一から頑張るのもいいかなーって、思いましてね」
「待っている。きっと、茶州府でお前の部下だったものもみんな」
燕青は笑った。
『――また戻ってきますね?』
出立の日、州城総出で見送ってくれたことを、昨日のように思い出す。鄭官吏のまっすぐで静かな視線を受けとめられなくて、笑ってごまかした。
簡単な問いに、はっきり答えることもできずに。
今からでも、間に合うだろうか?
俺が逃《に》げ出してきた城で、今も必死に踏ん張っている配下たちに、今度こそ『是《ぜ》』というために。俺、実は勉強苦手だから、いつになるかわかんねーけど、と前置きして。
(大切なもんが見えてなかったのは、俺のほうだ)
官吏になるのをやめて他の州に逃げたら、多分もう二度と茶州には入れなかった。
(ああー怒《おこ》ってるかなぁ。……怒ってるだろーなぁ)
綺麗《きれい》で物静かで、いつも微笑《びしょう》をたたえる鄭補佐だが、怒らせると怖《こわ》い。『――最後の最後に皆《みな》を不安にさせるとは、あなたは州牧失格です』という吹雪《ふぶき》のような声さえ聞こえてきそうだ。
それでも、まだ大切なものはかろうじて手のひらに引っかかっているから。
「主上、例の案、頑張《がんば》って通してくださいね。俺も陰《かげ》ながら応援《おうえん》してます。姫《ひめ》さん、きっとイイ官吏になりますよ。俺なんかよりずっと」
劉輝はなぜか、その言葉にはこたえなかった。
「おや、静蘭どしたの。もうあんまり寝《ね》る時間ねーぞ?」
劉輝の臥室《しんしつ》から出てきた旧友に、静蘭は視線を向けた。
「――用件は終わったか」
「ああ、おかげさまで。いやーまさかあのぼっちゃんが王様とはね」
「それはこっちの台詞《せりふ》だ。まさかお前が茶州府長官になってるとは思いもしなかった」
「俺も。人生わかんねーよなー。とりあえず地道に州官になろうと思ってたんだけどなー」
「私には、お前がそもそも文官になろうと思っていたこと自体、理解不能だ」
「なにぃ? いっとくがなー、遠い遠い昔、おぼっちゃまだったころの俺の目標は、偉《えら》い官吏様になることだったんだぜ。ちっと遠回りしたけど、もとの軌道《きどう》に戻っただけの話なんだぞ」
かつて、ほんのひとときだけ。燕青の過去と静蘭の過去は重なったことがあった。
共に過ごしたのは短い時間だったけれど、忘れられないほど濃《こ》い記憶《きおく》でもある。
静蘭は燕青の過去を、多少なりとも知っている。蒸青も、また。
どんなに悲惨《ひさん》な過去でも、燕青は決して引きずらなかった。忘れることなぐ、真正面から受けとめる。どんなことも一笑《いっしょう》して乗り越《こ》えていけるような、まぎれもない心の強さがある。決して悲壮《ひそう》になることなどない彼にあのとき会ったことで、たぶん、静蘭の軌道は修正されたのだ。彼に会わなかったら、そのあと邵可たちに会ったときも、あの暖かい手をとることができなかったのではないかと、今は思う。
清苑でも静蘭でもなかった、あの空白のとき――。
露《あら》わになった燕青の十字傷。遥《はる》か昔のようで、つい昨日のような気もした。
「その頬《ほお》の傷」
「ん? そうそうこれ、短いほうお前にやられたんだよなー。遠慮《えんりょ》なくやってくれたよな」
「もっと景気よくやれば良かったな。意外と短い」
「……結構……かなり痛かったんですけど」
何事もなくこの傷の時代を話せることが、静蘭には不思議な感覚だった。一生、この記憶の箱はあけるまいと思っていたのに。
「さて、寝るか。今日はお墓参りだ」
認めたくないが、多分いつも陽気に笑って、自分より遥かに懐《ふところ》が深く広いこの男の影響《えいきょう》に違いなかった。
けれどそれを口にすることなく、静蘭は素っ気なくきびすを返したのだった。
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翌夕刻――戸部《こぶ》での仕事が終わったあと、秀麗は父と静蘭、それに燕青とともに墓参りに行った。そういえばやはり翔琳のもっていたものは宝物庫の鍵《かぎ》だった。今朝もっていったら景|侍郎《じろう》が泣き出さんばかりに喜んでいた。何があったのかと思いきや。
『昨日昼過ぎ、暑かったので半蔀《はじとみ》を開けていたら、馬鹿《ばか》な鴉《からす》が二羽飛びこんできて景侍郎の腰《こし》にあった鍵を銜《くわ》えてあっというまに飛び去っていった』
のだと仮面の長官が説明してくれた。それがどう巡《めぐ》り巡ったものか、翔琳の手に渡《わた》っていたらしい。何ともすごい偶然《ぐうぜん》だと秀麗は感心した。やっぱり日頃《ひごろ》頑張っているからに違《ちが》いない。
劉輝から渡された桜の枝を供え、秀麗は母の墓前で手を合わせた。
今までになく、秀麗の心は落ち着いていた。
(……そういえば、お墓の前ではいつも泣きそうになってたかも)
いつも笑っていて、人にも笑顔《えがお》を強要していた(たいてい静蘭が犠牲《ぎせい》になっていた)母だったから、もしかして今まで墓の上に浮遊《ふゆう》しながら怒っていたかもしれない。娘《むすめ》が墓の前まで来るといつも沈《しず》んだ顔をしていたことに。そう考える心の余裕《よゆう》ができたことが不思議だった。
秀麗は気づくと自然に笑っていた。
(母様、私、ひとつ心に決めたことがあるの)
昨夜、絳攸が秀麗に告げた。
『今、国試の女人《にょにん》受験制の草案提出をすすめている。まだ確定してはいないが、今年度中に草案が通るかもしれない。少なくとも私と王は通すつもりでいる。だが全面的な受け入れはまだ無理だ。今度通るとしたなら、高官による推薦枠《すいせんわく》制で、しかも実験的|措置《そち》という形になるだろう。俺はお前を推《お》すつもりでいる。お前は? 国試を受ける気はあるか』
絳攸の目は怖いほど真剣《しんけん》だった。
その目にのまれ、秀麗は答えることができなかった。
『今後のために俺はお前を利用すると思え。まずは男子のなかでも高位で国試に受かってもらう。最低二十位以内には必ず入ってもらうつもりでいる。勿論《もちろん》実力でだ。そのくらいでなくては次の年には女人国試など立ち消えになっているだろう。はっきりいって、お前以外はおそらく受からないと思え』
二十位――それは大官の道を約束されているも同然の順位だった。
『受かったとしても、お前の歩く道はひどく厳しいだろう。女ということだけで差別されることは当たり前だと思っておけ。任官してもろくな仕事は与《あた》えられない、意見は無視される、嘲笑《ちょうしょう》や罵倒《ばとう》を浴びせられ、いつだってお前はきっと一人で頑張らねばならなくなるだろう。たとえ高位で受かっても、お前がそこから這《は》い上がるのはひどく厳しい。――そういう道が待っているとわかっていても、お前は国試を受けるか』
顔が青ざめた。冗談《じょうだん》でなくそんな道は嫌《いや》だと思った。それでも。
『――やります』
震《ふる》える声で答えた。
――どうして女の子は国試が受けられないの?
幼かった自分の泣き声が耳にこだました。
理不尽《りふじん》だと思った。本当に国試を受けて、官吏《かんり》になりたかったから。
受けられないとわかって、本当に悲しくて悲しくて悲しかった。頬が真っ赤にはれるまで泣きつづけた。
――どうしておんなのこは国試が受けられないの――……?
それは努力以前の問題だった。秀麗にはどうにもできないことだった。
『やらせてください』
平凡《へいぼん》な道を歩めば、平凡な幸せが待っている。つらい思いはきっと半分以下。
それでも秀麗の唇《くちびる》はその言葉を紡《つむ》いだ。
後世の女の子たちの踏み石になるなんて、そんなご立派な意志はかけらもなかった。
努力すれば何とかなると思ったわけでもない。そんなに楽観的でないことくらいわかる。
手足の先から冷えていくような怖さ。とても決然たる決断とは言えなかったけれど。
まっすぐに絳攸を見上げた。
ただ一つだけ、いえることがあった。それだけは胸を張っていえたから。
『官吏に、なりたいんです――』
大切な想《おも》いがあるなら、頑張《がんば》れる。
ふと、絳攸の表情がやわらいだ。彼は優《やさ》しく秀麗の頭をなでた。
『上出来だ。お前はきっと、いい官吏になる。俺の見込んだ弟子《でし》なんだからな』
秀麗は唇を噛《か》みしめた。そうしなければ涙腺《るいせん》がゆるんでみっともない醜態《しゅうたい》をさらしてしまいそうだった。
『――ご指導、よろしくお願いいたします』
秀麗は精一杯《せいいっぱい》笑って見せた。
(母様。私、頑張るからね。見ててね)
秀麗はぐっと拳《こぶし》を握《にぎ》りしめた。ふと供えた桜の枝を見て、微笑《ほほえ》む。
午《ひる》に、桜の苗木《なえぎ》が届いた。この桜が大きくなり、毎年満開の花をつけるころ――自分はどうなっているだろう。せめてしゃんと顔を上げてこの花を見られるような大人でありたい。
静蘭と父様は何だか嬉《うれ》しそうだった。
それだけで秀麗は勇気がわいた。少なくとも、この二人だけはいつだって味方だから。
(あ、絳攸様も、たぶん楸瑛様も。あと劉輝――も? でも頼《たよ》りにならないわ。なんたって普通《ふつう》秋から冬に植樹する桜を真夏に贈《おく》ってくるトンチンカン男だもの。あとは)
「姫《ひめ》さん、お互《たが》いがんばろーなッ」
にっかと笑う燕青を、秀麗はうさんくさそうに見た。
「……ほんとーにあなた、燕青? どっかで入れ替《か》わったんじゃないの」
「んなわけあるかよー。声だって傷だって同じだろ?」
「だって二十六って……昨日まで絶対四十過ぎだったわよあなた!」
「ひでー」
情けなさそうに燕青はつるつるになった顎《あご》をさすった。
髭《ひげ》を綺麗《きれい》に剃《そ》り、長すぎる前髪《まえがみ》を切ってさっぱりした燕青はまるで別人だった。秀麗は見るなり「どなたさま」などと真顔でいったものだ。それくらい印象が違《ちが》った。
はっきりいって「いい男」だったのだ。
精悍《せいかん》で野性的な顔立ちで、いつも陽気な光をたたえる双眸《そうぼう》と笑みを浮《う》かべた唇が雰囲気《ふんいき》をやわらかくし、荒《あら》けずりながら充分《じゅうぶん》魅力《みりよく》的な風貌《ふうぼう》だった。静蘭や劉輝が細工師による芸術品なら、燕青は自然がつくった豪快《ごうかい》な彫刻《ちょうこく》といえる。左頬《ひだりほお》の十字傷も露《あら》わになってみると、男らしい顔立ちをいっそうひきたてている。男としての魅力という点では全然負けてなかった。
顔の印象が違うと、体まで均整のとれたしなやかな体躯《たいく》に見えてくるから実に不思議である。というか、実際体つきは静蘭とそうたいして変わらないと秀麗は今さらながら気づいた。
(詐欺《さぎ》だわ……)
と秀麗はその後燕青の顔を見るたび思ったのだった。
燕青はそれから数日、戸部《こぶ》の仕事を手伝っていたが、帰るときは実にあっさりしていた。
「さーて、じゃ、お別れだ、姫さん」
ある晴れた日の朝、燕青はいつもの笑顔でくしゃくしゃと秀麗の頭をかきなでた。
「結構長くいすわっちまって悪かったな。ありがとよ。姫さんの飯サイコーだったぜ」
「本当に行っちゃうの? 父様今日は用事があっていないのに……明日とかにすれば」
「未練たらしくなるから、だめ。あ、黄|尚書《しょうしょ》には昨夜《ゆうべ》文《ふみ》を出しておいたから。人も戻《もど》ってきはじめたから大丈夫《だいじょうぶ》だってさ。姫さんもそろそろお役|御免《ごめん》になるんじゃねーかな? そうそう、俺のぶんの手当も出してくれるみたいなんだけど、姫さんがもらっといて。宿代ってことで。邵可さんに挨拶《あいさつ》できねーのが心残りだけど、姫さんからよろしくいっといてな」
燕青は憎《にく》らしいくらいいつも通りだった。あっけらかんとして、名残惜《なごりお》しげな様子もない。でもだからだろうか? また会えるかもしれない――そうなんの根拠《こんきょ》もなく思えるのだ。
それでも秀麗は根拠のないことを無条件に信じたりしなかったから、やっぱり寂《さび》しかった。なんだかんだいって、このひと月弱、燕青と一緒《いっしょ》の生活は楽しかった。
「……また、行き倒《だお》れることがあったらうちの前にしたらいいわ。たいしたものないけど、あなた一人くらいなんとかなるわよ。静蘭のお友達だし、いつでも歓迎《かんげい》するから」
お友達という言葉に静蘭は微妙《びみょう》な表情をしたが、何もいわなかった。
燕青は破顔した。嬉しそうに秀麗の頭をなでる。
「姫さんはほんといー娘《こ》だなぁ。元気で優しくて飯うまくて努力家だし。……姫さんがうちの上官になってきてくれたら、おもしれーんだけどなぁ」
最後の呟《つぶや》きは、小さすぎて秀麗の耳には届かなかった。
「じゃな。姫さんも静蘭も元気でな。またな」
そしていかにも気軽な様子で、燕青はふらりと去っていったのだった。
***
「邵可《しょうか》さんと珠翠《しゅすい》さんにあえて、良かったですねーお頭《かしら》」
同時刻、貴陽の城門をくぐる二人組があった。
「あのお二人に会うために、本当はきたんですものね」
「うむ。このバカみたいに人の多いところでは無理だと思っていたのだがな」
「なんかちょっと、僕たち勘違《かんちが》いしてたみたいですしー」
「まったく盲点《もうてん》だったな! まったくあの使者め、適当なことをいいおってけしからん」
おみやげの紫《し》州団子を食べながら、お頭――翔琳がぷんぷんと怒《おこ》る。
「今度こそ、ちゃんとした義賊《ぎぞく》茶州の禿鷹《ハゲタカ》≠ノなるべく日々精進努力をしなければな!」
「はい! お山に帰ったら、よく計画を練りましょう」
今日は、暑さがだいぶやわらいでいた。猛暑《もうしょ》も、もうそろそろ去るころなのだろう。
ふと、曜春は名残惜しげに振《ふ》り返った。
「邵可さん、泣いてましたね……」
「……ああ。何がなんでも、親父殿《おやじどの》を連れてくれば良かったな」
昨夜|怪人《かいじん》仮面男の邸《やかた》に見舞《みま》いに来てくれた二人を思い返して、少しだけしんみりする。
『……君たちは、北斗の育てた子だね? 翔琳くんと曜春くん――』
優しそうなその人は、悲しそうに、でも嬉しそうに笑った。
ああ、この人が親父殿がよく話してくれた邵可殿なのだと、翔琳はすぐにわかった。そしてうしろで泣きそうな顔をしている綺麗《きれい》な女性が、きっと珠翠殿。
親父殿の口癖を思い出す。春になったらあの二人に会いに三人で貴陽に行こうと。けれど春になったら『やっぱり照れくさい』『こんな俺を見たら笑われる』とかいって、いつだってまた来年にしようっていい出した。……むりやりにでも、ひっぱりだせば良かったと思う。
その言葉は、もう、二度と聞けない。
布団《ふとん》にもぐりこむ親父殿を、布団ごと転がしてでも山をおりれば良かった。
親父殿が、本当はとても心待ちにしていたことだったのに。口で何をいっても、大切な友達に会いに行こうと、心に決めていたことだったのに。三人で、一緒に――。
親父殿が約束してくれた『来年の春』は、もう、二度とこない。
『君たちは、本当は、その依頼《いらい》のためにきたのではないだろう?』
邵可の言葉に、二人の少年は顔を見合わせた。
なぜ、わかったのだろう――と思った。
親父殿は国中の話をしてくれた。いつか旅に出るか――と最後にはいつもいった。
お前たち二人がもう少し大きくなったら。そしてお前たちが望むなら。
たぶん、貴陽へ――親父殿の友達に会いにいくのが最初の旅になったはずだった。
だから依頼がきたとき、行き先が紫州州都貴陽なのを聞いて出立することにした。
一人欠けてしまったけれど、親父殿が見たもの、感じたものを、自分たちに見せたかった世界を見に行こうと思った。親父殿の大切な思い出を拾いに行こう。話してくれた様々なものを、この目で。親父殿はいなくても、親父殿の見た世界はそこに在る。
ひとつひとつの話を覚えている。本当はそれを確かめるために。
親父殿が最後に残してくれたものを手のひらにつかむために。
「でも、なんで最後に邵可さんと珠翠さんはへンな顔してたんでしょうねー?」
「親父殿と山でどんな生活してたか、貴陽までどうやってきたかを話しただけなのにな」
遠くなる城門をあとに、少年たちはてくてくと茶州の方角へ足を伸《の》ばす。
それを見送る二つの影《かげ》が、城門のそばにあった。
「……見事だよ、北斗。君にあんな子たちを育てられるとは思わなかった」
邵可は笑った。ええ――とつられるように珠翠も相好を崩《くず》す。
少年たちは、かつて風の狼《おおかみ》≠フ一人であった凄腕《すごうで》の兇手《ころしや》――北斗によって、知らず知らずのうちに驚異《きょうい》的な逃《に》げっぷりを叩《たた》きこまれていることを知らなかった。
国でも十指に入る峻険《しゅんけん》な峯盧《ほうろ》山の山頂付近に住まいをもっていた彼らは、毎日の野性的な生活のなかで自然と高い身体能力を身につけていた。
そのなかで北斗が子供たちに叩きこんだのはまず何よりも「逃げ足」であった。ちょっとでもやばいと思ったらすぐ逃げろ、格好つけるな無理するな、動物相手に命《タマ》はるな、とりあえず逃げて逃げて逃げまくれ――の精神であった。その結果、彼らは峯盧山をサル顔負けに逃げ回れるようになり、結果、燕青相手でも見事に逃げきれるくらいになったのである。
それは同時に、逃げることは恥《はじ》でもなんでもないという考えを彼らに植えつけた。その通り、二人はまずいと思ったらすたこら逃げるし、たとえ片割れが窮地《きゅうち》に陥《おちい》っても考えるのは「立ち向かう」ではなく「一緒に逃げる」ことである。そこには恥も見栄《みえ》も外聞もない。そんなことは彼らは考えない。
北斗は兇手としての能力は何一つ教えなかった。鳥獣《ちょうじゅう》や魚のとりかたは教えても、それを人にも応用できるのだという考えは注意深く切り離《はな》した。大物を倒すために体を鍛《きた》えさせるのではなく、いかなるときも逃げきれるカンと身軽さを叩きこまれた彼らは、たとえ腕っぷしが弱くても、相手がどんなに強くても、決して負けることはない。
勝つのではなく、負けない強さを、北斗は選んだのだ。それはかつての彼と正反対の強さ。
「……君は自分がいなくても愛する者を守る方法を手に入れたんだね」
そして愛する人を愛せる心を。
北斗に会っておきたかった。飢《かつ》えた光が消えた、君の本当の笑顔《えがお》を見てみたかった。
「あの子たち、もう一つの贈《おく》り物をもらっていることに気づいているでしょうか?」
燕青の足にぴったりとついてきた。それは身体能力の高さと運の良さだけではない。
北斗が繰《く》り返し聞かせた多くの昔話。かつて国中を旅していた彼の体験に基づくそれらの話の通りに、彼らは貴陽へやってきた。街や村のあるところ、水場や獲物《えもの》のある場所、毒のある食べ物の話、季節ごとに変わる風景、安全な寝床《ねどこ》、賊《ぞく》が少なく最短|距離《きょり》の道筋――物語に知らずにふくまれたそれらを無意識にたどってきた。それが燕青の道とぴったり重なっただけのことだ。正確で無駄《むだ》のない知識と情報は、まさしく黄金の値打ちがあるもの。
「どんな場所でも、生きていけるように――北斗|兄《にい》からの形のない贈り物を」
「気づかなくたっていい。彼らはちゃんと受けとめているから」
もう一度笑みを向けると、邵可はきびすを返した。
そのあとで、小さな二つの影に一つの大きな影が合流した。城門で待ってろと言ったのに勝手に行くなこのバカタレが! と燕青が怒鳴《どな》る声はもう聞こえなかった。
***
燕青が出立して数日が経《た》ったころ――。
「楸瑛」
王宮の一室で執務《しつむ》中だった劉輝は不意にその手を止めた。絳攸は今出ていて楸瑛と二人だけだった。
「はい?」
「……余は、もしかしたら何か間違《まちが》っている……のだろうか」
絳攸のかわりに書翰《しょかん》の整理などをしていた楸瑛は顔を上げた。
「秀麗は官吏《かんり》になりたかったと言っていた。もし、実際そうなったら? 秀麗はきっとその役目を果たすだろう。そう――『官吏』として」
劉輝は口をつぐんだ。何を言いたいのか、自分でもはっきりわからないように目をつぶる。
「……それは、余が望んでいることと『違う』気が……する。近くて、でももっと離れてしまうような。……燕青は秀麗が良い官吏になるといった。余は……何もいえなかった」
(ふむ……?)
楸瑛は劉輝が危惧《きぐ》していることをほとんど正確にいい当てることができた。
劉輝にとって秀麗が官吏になることは手段の一つだった。目的にできるだけ近づこうとするための。けれど今の秀麗にとってはそれが目的地だ。彼女はそこに留《とど》まり、官吏として働くことを望むだろう。そこに恋愛《れんあい》感情はなく、劉輝の言うとおり、近くて遠い存在になる。
劉輝が欲しいのは『良い官吏』としての秀麗ではない。だから彼はそう言われても何も答えることができなかったのだ。
本当は、楸瑛は劉輝が国試の女人《にょにん》受験制を言い出したときから、そうなるであろうことはほぼ予測していた。けれど何も言わなかった。良案を私事で左右することは好ましくないというのもあるが――意地悪な気持ちがあったことは否定できない。こんなほのぼのな恋心《こいごころ》でなく、なんというかもっと苦労しろという感情がときどき顔をのぞかせるのだ。昔の自分をふと思い出すときがあるからかもしれない。
「……主上、申し訳ありませんね」
「は?」
羨《うらや》ましいのかもしれなかった。自分とは違う恋の形をもつ劉輝が。
これからどう変化するのか――見てみたいとも思う。どんなに苦境でも、もしかしたら劉輝は変わることなくほのぼのと、でも確実に近づいていくかもしれない。「待つ」ことができる――そんな優《やさ》しい恋の形を、もし見られるなら見てみたい。そう思っているのも事実だ。
(……まあ、別に成就《じょうじゅ》はしなくてもいいんだけれど)
やはり少し意地悪な気分で、楸瑛はそう内心|呟《つぶや》く。
「……主上、たとえどんな状況《じょうきょう》でも、人の心を自分に向けさせることの難しさは、いささかの変わりもありませんよ。秀麗|殿《どの》が官吏になったからといって、それがなんなんです? 主上がしなければならないことは何一つ変わってはいないでしょう。それとも主上は近道やズルして努力を怠《なま》けようとでも思ったんですか?」
掛《か》け値なしに真実と思う言葉を、楸瑛は口にした。それは彼にとっては珍《めずら》しいことだった。
劉輝は少しく目を見ひらいたのち、ゆっくりと頭《かぶり》をふった。
「……そうだな。余はちょっと怠けたいと思っていたのかもしれぬ。反省する。確かに、余が頑張《がんば》ることは何一つ変わらない」
「私情を抜《ぬ》きにしても、国試の女人受験は良案だと私も思います。頑張ってくださいね」
「ああ」
こっくりと頷《うなず》き、また草案とにらめっこをはじめる劉輝を見て、楸瑛は笑う。
この素直《すなお》さだけは本当に愛《いと》しいと、彼は心から思った。
そして猛暑《もうしょ》も和《やわ》らぎはじめた夏の終わり、朝廷《ちょうてい》でひとつの議案が可決された。
当初|一笑《いっしょう》に付された「国試女人受験制」であったが、王の作成した綿密な草稿《そうこう》と、何度も重ねられた根回しと討議の結果、この次の国試において実験的に導入されることが決まった。この件に関してはどのような心境の変化か、黄|戸部《こぶ》尚書《しょうしょ》が突然《とつぜん》賛意を表したことが最終的に可決とあいなった最大の要因であるといえる。
次期宰相候補とまで言われる紅|吏部《りぶ》尚書、黄戸部尚書の二人がともに賛意を表したことで、なんとか可決にこぎつけられたこの議案は、当然のことながら同時に多くの反対を押し切ってのものであった。そのため、後世初の国試の女人受験として名高いこの年の試験には、様々な条件がもうけられた。
まず、大貴族もしくは正三品《せいさんぴん》以上の高官の推薦《すいせん》が必要であること、素性《すじょう》が確かな者であること、事前に会試を受ける実力があるかを見る適性試験をもうけ、それに通ること、男女の別なく扱《あつか》うこと、もしこの実験的国試において誰《だれ》一人女人合格者がいなかった場合、以後もとのように男子専制とし、女人国試受験を改めて廃案《はいあん》とすること――などであった。
一見、あまりにも女人受験導入派に不利に思えるこの様々な制約を、しかし王はたいした反論もせず首肯《しゅこう》した。
そしてその年の国試で、ただ一人女性合格者がでた。
いろいろな意味で騒《さわ》がれた国試であったが、やはり第三位――探花《たんか》という称号と十七歳という若さで合格を果たした少女のことは、かなりの反響《はんきょう》と話題を呼んだ。それは遠く州をこえて。
茶州でその情報を耳にした左頬《ひだりほお》に十字傷のある男は苦笑《くしょう》した。
「さすが姫《ひめ》さん。予想以上のことしでかしてくれたなぁ。ちぇ、俺も報告しょうと思ったのに、かすんじまうなー」
その年の茶州準試のことも、後世一人の男の名前とともに記されることになる。
官吏としてはかなり数奇《すうき》な道を歩くことになるその男の名は浪燕青。
のちに、稀代《きたい》の名官吏として名を残す紅秀麗の名|補佐《ほさ》としてあちこちをともに飛び回ることになる彼の、小さな足跡の一つとして。
***
霄太師は継《つ》ぎ目のない壺《つぼ》をじっと見つめた。
「……たく、あのバカタレ王め。妙《みょう》な噂《うわさ》を流すからだいぶ遅《おく》れてしまったではないか」
宮城にある自分の室《へや》に入ると、霄太師は何気ない仕草で腕《うで》を水平にないだ。
「これで、よし」
当分、この室は人の視界に入らない。そこまでしてようやく霄太師は一息ついた。
霄太師は壺を卓子《たくし》の上に置いた。その上部をそっとなでる。
「……ふむ、そろそろ、頃合《ころあ》いか」
つ、と指をすべらせると、そこに一つの筋が浮《う》かびあがっていく。蓋のように円を描《えが》くと、おもむろに手をかけた。するとまるで本当の蓋のように壺口辺りが切りとられた。
壺は、しばらくはなんの変化もなかった。けれど徐々《じょじょ》に、なかから白っぽい靄《もや》のようなものがわき上がりはじめる。それはゆっくりと形を整え――やがて一つの姿を形づくる。
やや神経質そうな顔立ちだった。目は閉じられたままだったが、薄《うす》い唇《くちびる》は引き結ばれ、眉《まゆ》はわずかに寄り、上半身だけの体は痩《や》せぎみの――二十代後半頃の青年の姿。
霄太師の目が子供のように輝《かがや》く。成功した――そう思った。
青年の閉じていた両眼《りょうめ》が見ひらかれる。意志の強さがそのまま現れたかのような眼差《まなざ》し。知性あふれるその目は、霄太師がよく知っているものだった。
「……霄――この、馬鹿《ばか》者が。よくもこんなふざけた真似《まね》をしたな」
開口一番に浴びせられた罵声《ばせい》に、しかし霄太師は笑った。心から。
「君がいなくなってから、こちらも何かと大変でね。特に茶州あたりが」
つられたように若いころの口調に戻《もど》る。
地名を聞いて、男の顔つきが険しくなった。
「気になるだろう?」
霄太師は旧友にゆっくりと手を差しのべた。そして滅多《めった》に見せない微笑《びしょう》を浮かべる。
「お還《かえ》り、我が友」
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どなたさまもお元気でしょうか? 雪乃《ゆきの》紗衣《さい》です。
『彩雲国物語』の第二冊目をお届けできて嬉《うれ》しいです。……とつなげられればきれいなのですが、実は私の中で前作の続きというのはサッパリ頭にありませんでした(←おい)。大雑把《おおざっぱ》な今後は頭にありましたが、途中《とちゅう》はごっそり抜《ぬ》けてますし、何よりすっかりあれで「終わった」と思っていたので……(汗)。
頭が沸《わ》くほど考えまして、とりあえず二巻目はこんな形におさまったのですが、いかがでしょうか。陰謀《いんぼう》活劇を期待してらしたかた……す、すみません……。しかもまたまたキャラが増えてます。ええ。何とかしようとはするんですが、一人けずってもどこからかまた一人わいてくる……摩訶不思議です。それにしても主役が……う、うーむ。前巻でも最後|某《ぼう》じーちゃんズが主役の座をかっさらう勢いでしたが、今回はにーちゃんズが大|活躍《かつやく》(?)です。劉輝の地位がますます危《あや》ぶまれる今日この頃《ごろ》……。
そういえば、いただくお手紙の中に「中国ものや歴史ものが好きで」という言葉を見つけるたびに冷や汗《あせ》をかいております。……や、あの、彩雲国に関しては信用しないでくださいね。色々アレンジしちゃってるので……。例えば冒頭《ぼうとう》の四省|六部《りくぶ》も、中国史では三省六部ですし。彩雲国では一省増えてますが、それは私が設定上増やしてしまったものなので、学生の皆様《みなさま》はくれぐれもテスト等で四省六部なんて書かないでくださいね(汗)。そんな風に色々変えたりけずったり都合のいいようにいじっているので、「中華風《チャイニーズ》ファンタジー」なんてとてもいえません。「ただのファンタジー」として楽しんでいただければなぁと思います。
私事もありまして、年末年始は幾《いく》晩|徹夜《てつや》したんだかわからないというえらい状態でした。それが物語に関する修羅場《しゅらば》なら建設的なのですが、そうでないところが悲しい……。時間がないと泣き言をいう私を支えてくれたのは、初めていただく読者様からのお手紙です。「続きが楽しみです」という言葉は、私がいちばん元気になれるお薬です。誰《だれ》かが楽しみに待っていてくれる、それは泣きたくなるくらい嬉しいことです。優《やさ》しい励《はげ》ましや、体を気遣《きづか》ってくれるお手紙にはとても勇気づけられました。本当にありがとうございます。
最後に、私事のために無茶苦茶なスケジュールになってしまった担当様。ご、ごめんなさい。
由羅《ゆら》カイリ様、今回もお世話になります。表紙と挿絵《さしえ》、そして新キャラたち、とっても楽しみにしております。前巻、某じい様の若返りイラストには度肝《どぎも》を抜かれました。……こ…んなにカッコ良かったとは……。そしてこの本を手にとってくださった読者様に心からの感謝を。よろしければ、ちょっとでも感想のお手紙などくださると本当に嬉しいです。
それではまた、次の機会にお会いできることを祈《いの》りつつ。
[#地から2字上げ]雪 乃 紗 衣
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