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足立倫行
妖怪と歩く ドキュメント・水木しげる
目 次
第一章 正体不明の人
第二章 妻と娘と別荘と
第三章 アメリカの霊文化を訪ねる旅
第四章 戦争体験の夏
第五章 交錯する群像
第六章 さらなる探索
エピローグ
参考文献
[#改ページ]
第一章 正体不明の人
1
画家の岡本太郎に似ていると言われることが時折あるらしい。
そういえば、禿《は》げ上がった広い額とやや薄い眉、古稀を迎えても艶のある肌と比較的整った目鼻立ちなど、往年の岡本に似てなくもなかった。私は十数年前、対談している岡本を間近で見たことがあるが、手振り身振りを交える日本人にしては大仰な話しぶりとか、驚いた時や意外に思う時にのけぞって両目を剥く演技的な仕種などは、確かに二人に共通している。
しかし、さらに表情の豊かさや複雑さという点まで行くと、断然水木の方が上だった。岡本は真一文字に口を引き結んだ傲然とした顔付きが基本形であるのに対し、水木の方は百面相のように千変万化する。しかも、笑顔が必ずしも喜びや快感を意味しない。戦地での地獄の苦しみや悲惨な貧乏体験を満面笑みを浮かべて語ることなど平気だし、それにあの、話の脈絡と直接関係のない頻繁かつ高らかな哄笑……。
「妖怪は霊なんです。私はその霊に招かれ操られてるんです。ハハハハハ」
水木はひとしきり笑うと、革の肘掛け椅子から半身を乗り出して声をひそめた。
「目に見えないものを形にするというのは、人類が大昔からやってきた正統派的なことなんですよ。それを世間はオモチャ扱いするんですからね。おかしいですよ」
水木には左腕がない。再び背を伸ばし、ペシャンコになっているカーディガンの左袖をクルッと器用に右腕に巻いて腕組みをする。
「本当は、目に見えないものを形にするのが芸術本来の姿だと思うんですよ」
顎を引き、上目遣いに顔をしかめてみせる。
私は、目の前の隻腕の老マンガ家が大変な内容について喋っていると頭の隅で自覚していたが、それを分析したり反論したりする心の余裕はまだなかった。相手の言葉に自分が遅れることなくついて行ってると意識しつつメモを取るだけで精一杯だった。
私が調布市布田一丁目の水木プロダクションを訪ねるのはその日が三度目だった。
平成四年(一九九二年)十月中旬に最初に訪ねた時は、開口一番「私の伝記を書く? 一、二年じゃ無理です。五年必要です、ワハハハ」と笑われたせいか、ビッシリと詰まったスケジュールを聞かされている間中、応接室の入口に掲げてあった面談三十分厳守!!≠フ貼り紙が気になっていたせいか、自分には珍しくかなり上がってしまった。続いて始まった奇妙な話題の数々は、あちこちに飛躍し、しかもそのどれもが非常に専門的だった。西アフリカのドゴン族の研究をしているマルセル・グリオールの学説など、知るはずもなかった。「土方久功《ひじかたきゆうこう》が自分と同じ南方憧憬病」と言われても、その土方という画家の名前自体が初耳だった。「来年は宮田さんとホピ族の村へ行ってカチーナを集めてこにゃならんのですけど……」、宮田さん? ホピ族? カチーナ? 何のことだ!?
水木のマンガ作品や著作の主だったものにはいちおう目を通してきたつもりだったが、そうした事前の知識がほとんど役に立たなかった。水木の関心はもはや別のものへと向かっているらしい。応接室の壁にはニューギニア土産だという奇怪で巨大な土俗面が飾ってあり、客の座るソファを見下ろすような形で鳥の嘴《くちばし》に似た大口を開けていたが、まるでそこから流れ出す霊気(?)にでも当てられたように、私の心臓は高鳴り脈拍は速くなった。水木が新たな話題を口にするたびに全身が熱を帯びてゆくようだった。
その長く苦しかった第一回目のインタビューに比べれば、余裕がないといっても三回目の今回はずっと楽だった。水木との会話のコツがおぼろげながら掴《つか》めてきたからだろう。慎重に質問を発し懸命にメモを取りながらも、少しずつ表情や仕種を観察できるようになっていた。
「人生の面白さってものは六十五過ぎてからわかるようになりましたね。それまでは過去のしきたりを踏まえにゃならんから、どうしても遠慮があるわけですよ」
水木はまたおもむろに口を開いた。私は大きく頷いた。自分が面談三十分≠フ適用外の人間と知らされてからというもの、こちらもいくらか鷹揚である。
水木は急に私を指差した。
「そうなんです! 人生の新発明は六十五歳以降なんです! ゲーテも……」
と、応接室の扉がノックもなしに開いて、和服姿の老婆がフラフラと室内に入ってきた。九十二歳になる水木の母親の琴江《ことえ》だった。
「病院、病院、病院の時間……」
琴江は私の方は見向きもせずに呟きながら水木の椅子の方へ歩み寄った。水木はスッと立ち上がり、それまでと打って変わった穏やかな微笑を浮かべ母親の手を取った。無言のまま肩を抱いて部屋の外へと誘導する。
廊下にスリッパの音がして、水木の娘の悦子《えつこ》と、水木の弟で水木プロのマネジャーを務める幸夫《ゆきお》が小走りにやってきた。琴江を引き取って奥の部屋へ連れて行く。
「病院が好きでたまらんのです。ワハハハ」
母親を見送った水木は豪快に笑った。
マンションの五階にある水木プロダクションは七部屋のゆったりとした間取りで、そのうちの東側の三部屋が琴江の居室である。耳が遠い上に数年前から老人性痴呆の症状が出始めたので、次女の悦子と家政婦が交替で一日中付き添っているのだ。
水木プロは、多くのマンガ家の例に漏れず、家族経営の小企業だった。水木の兄|宗平《そうへい》、弟幸夫、そして水木の妻|布枝《ぬのえ》と次女悦子も社員で、アシスタント三人を含め総勢八人(他に社外の契約アシスタントが常時一〜三人)。会社としての年商は一億二、三千万円ほどだが、「毎月一個分隊を食わせにゃならん」水木は組織上は月給九十万円の代表取締役ということになっている。
「それじゃ、アシスタントのとこへ行きますか?」
水木に促され、廊下に出た。つい滞《とどこお》ることを知らない水木の弁舌に引き込まれてしまったけれども、この日の来訪の主目的は三人のアシスタントたちに話を聞くことだったのだ。
いつの間に来たのか、玄関には次の来客が待っていた。スーツ姿の二人組で編集者というより企業の広報か宣伝担当者のように見える。水木は毎日午前十一時すぎに事務所に来るが、こうして昼の何時間かは必ず来客との応対に割かねばならないため、ネーム作成やコマ割りなどマンガ家としての職務は夕方から午後七時、八時にかけて集中的に行なう。テーマを考えたりストーリーを練ったりはその後、自宅に帰って夕食を終えてからが多いという。
チーフ・アシスタントの村沢昌夫と二こと三こと言葉を交わすと、水木はすぐに新たな来客二人の待つ応接室に戻って行った。
南側のアシスタント室は十二畳近くある広い部屋だった。中央に作業用のテーブルと大型コピー機がある。そして、それを囲むようにして一方の壁は天井まで積み上げられた資料用書籍の本棚、残る二方向にアシスタントの机が配置されている。チーフの村沢とその妻で文章担当の村沢きよみ、それに独身の森野達弥がそこで働いている。村沢が十五年目、きよみと森野がそれぞれ約十年と、ベテランぞろいだった。
薄陽の差し込む室内には低くロック・ミュージックが流れていた。誰も手を休めない。三人が目下のところ携わっているのは、≪ビッグゴールド≫の不思議シリーズ=A≪小学一年生≫の『河童の三平』など月刊誌四本の連載マンガだった。加えて、書き下ろし『悪魔くん』の単行本と、好評だった岩波新書カラー版『妖怪画談』の続編が同時進行中のため、森野に言わせれば「事務所で終わらないから家に仕事を持ち帰ってる状態」らしい。
「忙しいでしょうが、そこをどうか一つ御協力を。では、まず、村沢さんから」
私はテーブルの上にノートを拡げた。
私は、この日の水木との話し合いで水木の故郷境港へ一泊旅行することが本決まりになっていたので、どことなく上機嫌だった。境港は、私自身にとっても故郷である。
2
≪アエラ≫(朝日新聞社、平成4年12月15日号現代の肖像・水木しげる=jより
小雨の中を米子《よなご》空港まで出迎えに来ていたのは、水木しげるの小学校時代の同級生だった。
境港市の元消防署長の宮本安夫、水木は「ダグラスの安」と紹介した。紹介された七十歳の老人は苦笑した。
「世界一速かった飛行機の名前ですけん。子供の頃、チョコマカと何やるにも速かってね。小学校の友達だけですわ、今でもそげな綽名《あだな》で呼ぶんは」
我々は宮本の軽自動車に乗り込んで水木の実家へと向かった。
水木しげる(本名|武良茂《むらしげる》)の家は、鳥取県の西方の弓ヶ浜半島の北端、境港市の入船町《にゆうせんちよう》にある。昨年(一九九一年)の夏と今年(一九九二年)の夏、NHKテレビの夏の特集ドラマ≠ナ連続放映されて大きな反響を読んだ『のんのんばあとオレ』(昨年の総集編が平成三年度文化庁芸術作品賞を受賞)の舞台である。
ロングセラー『ゲゲゲの鬼太郎』の生みの親で、秀逸な諷刺マンガや戦争マンガの作者でもある自称妖怪研究家は、古稀にいたってまたまた宝の鉱脈を掘り当てたのだ。すなわち、現代日本人の郷愁を呼び起こす幼少年期の不思議世界の創出、である。
「そげか、あの人も死んだらか?」
「そげだ。わしらの年で今も元気に働いちょーもんはもう少のうなったで」
境港旧市街へと続く雨の国道431号線を走りながら、水木は宮本に、しきりと旧友たちの安否を尋ねた。
「ほんなら××ちゃんは?」
友人たちはすべて小学生当時の名前だ。
「ああ、××ちゃんな、あれもちょっこし体調を崩しちょってな」
「あれはがいに(すごく)助平だった」
「……そげか」
「うん、えらい助平だって話をおら聞いたことがあーだ。ハハハ」
米子空港に降り立って幼馴染みの顔を見た瞬間から、水木は六十年以上も前の少年時代に戻っていた。方言丸出しの言葉遣いまで溌剌としていた。
東京の調布のプロダクション事務所でアシスタントたちに指示を与えていた時も、引きも切らぬマスコミの取材や来客に応じていた時も、奇妙に陽気で磊落《らいらく》、しばしば唐突な笑い声を発して唖然とさせられたが、故郷ではそれがずっと自然で心から楽しそうなのだ。
私は水木に帰郷を提案してよかったと思った。このところ超多忙な水木に二つ返事で時間を割いてもらうには、戦争中九死に一生を得たラバウルか「黄金の幼少年期」を過ごした境港に誘うしかない、と思ったのだが、どうやら正解だったらしい。九月に訪れたばかりだというのに、すぐに水木は今年三回目の帰郷を承諾したのだった。
旧市街の海岸通りにある入船町の実家に着くと、水木は右手一本で手際よく鍵を外してシャッターを押し上げた。左腕は戦地で爆撃を受けたため付け根から十センチほどしかない。でも「動作を二つに分ければ問題はない。大抵のことは片手でできます」と言う。
三年前に建て直した二階建ての家は、家族全員が東京在住なので無人だった。ただし間取りはほぼ昔のままである。居間の戸を開けると小さな庭の向こうに海沿いの道路があり、中海《なかうみ》と美保《みほ》湾を結ぶ幅約三百メートルの境水道が横たわっていて、対岸に緑の島根半島が望める。いわば、目と鼻の先に海があって山があるのである。
昨年と今年、連続して『のんのんばあとオレ』を演出したNHKのチーフ・ディレクター兼歳正英《かねとしまさひで》は、初めてこの家に来て居間から外を眺めた時、「軽いショックを覚えた」と語った。
「食事をしながら海が見え、山が見えるんですよ。海を挟む対岸の山から、夜コーンとキツネの声が聞こえてくるんです≠チて水木さんが言う。もう、恐れ入りましたね。さもありなんです。イマジネーションの世界が、現実の世界と地続きで、実際に存在するわけですからね」
特殊な地理的条件そのものが、少年時代の水木の鋭敏な感受性をはぐくむのに役立ったのではないか、と言うのである。
水木が五つある部屋のそこここを点検して回っている間に、私は「ダグラスの安」こと宮本に聞いてみた。
「水木さんはどんな子供でした?」
「ゲゲちゃん? この辺の親分だわね、きかん坊のガキ大将だわ」
昭和初期、水木は友人たちから「ゲゲ」と呼ばれていた。幼い頃に自分の名を「シゲル」と発音できず、「ゲゲル」と訛《なま》っていたからだ。
「勉強の方はどうでした?」
「勉強は、わしと同じで、有名ではなかったね。写生会の絵は大港《おおみなと》神社の境内によう貼り出してあーましたけど」
学業成績は、本人も認めている通り、劣等生に近かった。朝はゆっくりと起床し、兄や弟の分までたっぷり食べてから登校するので、毎日のように遅刻して廊下に立たされた。
その代わり遊びにかけては人一倍熱心だった。ガキ大将として近隣のガキ軍団との戦争ごっこに智略を尽くす一方、メンコ、磯遊び、竹馬作り、紙相撲とまんべんなくこなした。とりわけ没頭したのは、絵を描くことと物を蒐集することで、何冊もの絵物語を仕上げたり、写生用にと木の根っ子や猫の骨を拾ってきたり、昆虫、貝類、鉱石、新聞の題字の切り抜きなど、さまざまな物品を膨大《ぼうだい》に集めて一人楽しんだ。
生来のこの蒐集癖は今日もなお健在だ。東京の仕事部屋には十代の頃から集めた絵の資料が四百冊近いスクラップ・ブックとなって残っており、昭和三十年代の極貧の貸本マンガ家時代に開始した軍艦の模型作りは二百隻を超え現在も続いている。
「今なら単なる落ちこぼれですよね」
とNHKの兼歳は言った。
「だけど茂少年は、そんな遊びの一つ一つに一生懸命打ち込むんです。家族もおおらかで、そんな茂に優しい目を注ぎ好きなことをやらせる。戦前には、いや戦後でも高度成長のつい前までは、日本にも確かにそういう家庭があったわけです。茂のような子供たちが伸び伸びと生きていけたんです」
番組が高視聴率を記録し再放送の要望が殺到したのは、「我々が失ってしまった家庭像への渇望があったから」と兼歳は言う。
もう一つ、ドラマ『のんのんばあとオレ』でいえば、妖怪のことがある。
昨年のシリーズ第一回目の冒頭、水木は境水道にかかる境水道大橋の上に立って次のように述べた。
「僕は四十年間妖怪のマンガを描いてますけども、そもそもの始まりはこの町に、のんのんばあという婆さんがいたからです。のんのんさんというのは仏《ほとけ》さんという意味で、仏さんを拝む婆さんというわけですけども、この人がバカに妖怪にくわしいんです。私の子供の時にものすごくたくさんの妖怪を実際に教えてくれたわけです。だから私は、非常に妖怪に興味を持つようになったわけです」
テレビ・ドラマでは茂少年が折あるごとに出会うさまざまな妖怪が精巧なアニメで合成され、話題を呼んだ。
「あの中で、子供時代に見聞きしたことのある妖怪はいましたか?」
私は同級生の宮本に尋ねた。
「さァ、妖怪やお化けっていうのは、よう覚えとらんね」
「じゃあ、この先の下《しも》ノ川《かわ》にいたという河童や、対岸の山から夜中に聞こえてきたというキツネの鳴き声は?」
「いやァ、知らんだった」
宮本は申し訳なさそうな顔をした。
しかし、それも無理はなかった。
当時一緒に暮らしていた水木の兄や弟は、現在東京で株式会社水木プロダクションを手伝っているが、その彼らでさえ「特に語るほどの妖怪体験などない」と私に話した。ことに水木より二歳年長で今年七十二歳になる長兄武良宗平は、「弟以上にのんのんばあに可愛がられた」そうだが、
「彼女はごく普通の田舎の婆さん。際立った能力があるとか、霊的なことに関して特別な知識を持っているとか、そんなことは全然なかった」
と記憶している。
つまり、島根県平田市の一畑《いちばた》薬師を信仰していた近所の老婆の言動に、過剰とも思える反応を示したのは、一人少年期の水木しげるだけだったのだ。
けれども、このことは水木個人の妄想と一言で片付けられない。不可思議な世界をことさらに重んじ素直に目を瞠《みは》るのは、洋の東西を問わずファンタジー作家に必須の資質であるし、世界中の夢見る少年少女たちに共通する性向だからだ。
市内中野町の正福寺《しようふくじ》に行った。
曹洞宗のこの古刹《こさつ》は、水木がのんのんばあに連れられて小学校入学前からよく訪れた寺であり、幼年期の水木に強烈な印象を与えた忘れがたい寺でもあった。
「こっちですよ。ここ、ここ!」
本堂に入ると水木は、案内役の住職を追い越すようにして大股で本尊の釈迦牟尼如来の前を横切り、鴨居《かもい》の一角を見上げた。
鴨居の上には古びた四枚の絵図が掲げてあった。人間が死後おもむくとされる六つの迷界を描いた六道絵《ろくどうえ》である。
「この敷居のところに腰かけて、私は絵を眺めながらのんのんばあの用事がすむのを待っとったんです」
水木は足許の敷居を指差した。
「こういうふうに座っとったから、見上げると、昔は、こう、反対側の鴨居の上に絵があったはずですよ。とにかく、ワハハハ、見飽きなかったんです」
百六十九センチ、六十五キロ。頭髪こそだいぶ薄くなっているが、年齢の割にはガッシリとした体格の現代マンガ界の巨匠≠ェ、五歳の頃に戻り、敷居の隅に小さくうずくまってみせる。
振り仰ぐ額縁の中には、鬼たちから責苦《せめく》を受けるちっぽけな裸の人間たちが描かれていた。血の池を泳がされ、針の山を歩かされ、釜|茹《ゆ》でにされ、八つ裂きにされ、苦しみ続ける哀れな人間たち……。生前の因果に応報して六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の各界)を輪廻転生《りんねてんしよう》し続けるという衆生《しゆじよう》の受苦相である。
考えてみればしかし、物心つくかつかぬうちに、このような絵を「飽かずに眺めた」というのもすさまじい体験だ。
水木はテレビ・ドラマの原作となった十五年前の児童読物『のんのんばあとオレ』(筑摩書房)の中で、正福寺の六道絵について書いている。
〈オレはこの絵によって、別の世界の存在というものを知った。のちに、軍隊に入って南方へ行ったときに、ほかの兵隊とちがってすぐに地元の生活にとけこんだのも、別の世界というものがあることを知っていたからだし、民俗学に興味をもっていろんな村の生活をおもしろいとおもうようになったり、妖怪の世界を探求してみようとおもうようになったりしたのも、地獄極楽の絵から受けた衝撃によるのだろう〉
水木は同行の写真家に請われ、六道絵を背景にしての写真撮影に応じた。サービス精神が旺盛なので気軽にいくつもポーズを取ってくれる。
私は水木のさまざまな表情を見詰めているうちに、取材の当初に写真家がふと洩らした言葉を思い出した。
「水木さんの目って、カメラで覗くとけっこう怖いんですよ」
人物写真のプロはそう言っていた。
翌日の午後は、境港市役所の建設部都市計画課を訪ねた。
境港市はもっかJR境港駅周辺の再開発事業を推し進めているが、その一環として、駅前通りの一部を水木しげるロード≠ニ命名し新たに整備する計画があるのだ。
松ヶ枝町と大正町の歩道拡幅にともない、四百四十メートルの道路の両脇に、鬼太郎、ねずみ男、一反木綿、小豆《あずき》洗い、砂かけ婆など水木マンガでお馴染みの妖怪たちを三十七体ブロンズ像で並べ、モザイクタイルを敷いたカラー歩道にも妖怪の絵タイル二十枚をはめ込もうというもの。工事開始は今年平成四年の十二月で完成予定は二年後の夏(第一期工事は平成五年七月までで妖怪ブロンズ像二十三体が据えられる)。総工費約二億五千万円。
日本海側最大の漁業基地とはいえ、人口わずか三万八千の地方都市にとってはかなり思い切った町おこし≠ナある。
そのためかどうか、主要な打ち合わせをすでに終えている水木は挨拶がてら立ち寄っただけなのに、通された会議室には担当の建設部部長以下、次長、課長、ブロンズ像製作会社の社長やデザイナーまでズラリと顔をそろえた。会話の途中、市長室から急遽《きゆうきよ》連絡が入って市長自身も面会を求めた。
公務の合間を縫って水木を部屋に招き入れた境港市長黒見哲夫は、
「水木先生は私の姉の小学校時代の同級生です。先生の妖怪の像で、人の流れを変え、かつてメインロードだった駅前通りをぜひとも再活性化させたいと思っております」
と、計画への期待を述べた。
水木マンガに登場する妖怪はどれも明るく愛嬌があり、「一般に妖怪という言葉から受ける暗いイメージには絶対にならない」と力説する。
私はそれを聞いて、なるほどと思った。
今や出版界はちょっとした妖怪ブームである。妖怪や超常現象を扱った書物が順調に売り上げを伸ばしており、その中核となっているのが七月に刊行された水木の岩波新書版『妖怪画談』だった。発売三ヵ月で六刷り十五万部を突破している。
水木はその理由について、「今年の夏が単に暑かったせいですよ」ととぼけているが、岩波の新書編集部の分析によれば、「目に見えない世界への年齢を超えた潜在的関心が、新書初のオールカラーとうまくマッチしたため」。そして、収録する全妖怪のカラー化を、最初から断固主張していたのが他でもない水木なのだ。
水木は幼児の頃から、明るいか暗いかはともかく、目に見えない妖怪たちを生き生きと身近なものに感じてきた。この世ならぬ別世界を偏愛してきたと言ってもいい。おかげで学校では常に劣等生。就職はことごとく失敗し、軍隊では「ウドの大木」と殴られっ放しだった。戦後も紙芝居や貸本マンガで怪奇物や妖怪マンガを描き続けたが、ほとんど注目されず、作品は売れなかった。
水木が講談社児童まんが賞を受賞してやっと窮乏生活を脱したのは昭和四十年のこと、実に四十三歳になってからである。
水木自身は今も昔も変わらない。変化したのはおそらく世間の方だ。特異な少年時代を回顧した本がテレビ・ドラマ化されるや評判を呼び、何十年も描いてきた妖怪画がカラー版岩波新書になったとたんベストセラー入りを果たした。平成三年春には劇画出身者としては最初の紫綬褒章《しじゆほうしよう》を受章。そしてついに、故郷の目抜き通りが水木しげるロード≠ニ改称される……。
「そうですか、じゃあこれはやめて海坊主にしましょう。海関係の妖怪をね、なるべく多く入れとく方がええです」
市長室から戻った水木は、担当職員らとの最終的な詰めに熱中し始めた。
抱えている連載や書き下ろしの仕事で手いっぱいで、口を開けば「時間がない」「忙しい」とこぼしているのに、新たな変更作業をいくつも引き受けてしまう。
私は、水木のように脇道ばかり選んで歩いてきたような人物でも、晩年にいたって故郷に錦を飾るということは、やはり特別嬉しいことなのだろうかと思った。
秋雨が静かに降っていた。
市役所で思いがけず時間を費やしてしまったため、最後の訪問地になる島根半島の諸喰《もろくい》に到着した時には、午後もずいぶん遅くなっていた。
諸喰は境港からおよそ三・五キロ、島根半島の北側にある戸数三十ほどの小集落である。森林の谷間に石州《せきしゆう》赤瓦の古い家並がひっそりと寄り添い、狭い入江に小型漁船が数隻雨に打たれてもやっていた。
幼年時代に水木は一度だけ、のんのんばあのお供をしてこのうら寂しい漁村を訪れたことがある。
諸喰では水木は、例によって雨の中を傘もささず、記憶のヒダを掻き分けるようにして精力的に歩き回った。ある家でサザエのツボ焼きを御馳走になったことから、名前も素姓も不明なのんのんばあは、この集落の出身者か縁故者ではないかと推測しているのだ。
しかし、いろいろ聞き回ってみたが、過去何度か訪れた時そうだったように、今回も結局詳しいことは何一つわからなかった。
「あれ、あの沖合の島ね。あれだけはハッキリ見覚えがあるんだけどね」
水木は右手で前方を指し示した。
正面の水平線上に奇妙な形の禿げた岩山が浮かんでいた。近くの漁師に聞くと和久王《わくおう》島だと言う。それは、鯨を大胆にデフォルメしたような白っぽい小島で、周囲の濃密な日本的風景の中にあってそこだけのどかに際立ってみえる。まるで水木マンガに登場する妖怪そのものだった。
「最近また夢を見るんです」
水木が呟いた。
「私、出雲《いずも》のことを描かなきゃいけないんですよね。『出雲国滅亡記』をどうしても描かなきゃいけない。忙しくてそのことを忘れてると、夢の中で背中をどやしつけられて、それでびっくりして飛び起きるんです」
この十数年、鳥取(伯耆《ほうき》)よりも島根(出雲)の霊≠ノ呼ばれているのだと言う。
「でも、鳥取県境港に水木しげるロード≠ェできて、そっちの方がまた忙しくなるんじゃないですか?」
「だから困るんです」
水木は顔をしかめた。
雨が本降りになってきた。我々は切り上げることにして、待たせてあったタクシーへと駆け込んだ。
「熱心に相談されるとつい乗ってしまいますけど、本当はえらい(辛い)んです。私に残された時間は限られてますからね」
車の中でも水木はしきりに「苦境」を訴えた。自分の名前をつけた道路に執着している様子など、少しも窺えなかった。
「私の体の中に、のんのんばあの霊が棲みついてしまったあんばいなんです。そのせいでしょうかね、どうも出雲のことが気になって仕方がないのは。ワハ、ワハハハ」
掠《かす》れた笑い声を絞り出すようにして放つ。
我々の車は雨に煙る暗い山道を一台だけ粛々と登って行った。
押しても引いても動かない、妖怪ぬりかべ≠ノ似た閉塞的時代状況に直面し、人々はようやく天性のアウトサイダー水木しげるの仕事に目を向け始めた。だが、当の本人は、そんなことにはいっさいおかまいなく、ひたすら内なる声に促され、闇の世界の探索を一歩でも遠く進めるつもりらしい。
乾いた笑いが、濡れそぼった山陰の森の樹々にいつまでも木霊《こだま》した──。
3
私が週刊誌に書いた水木に関する人物レポートは、原稿用紙にして二十枚足らずのものだった。もちろん、その程度で水木の何かに迫れたと思わない。初期の観察に基づく簡単なスケッチにすぎない。
私も水木と同じ鳥取県境港市の出身だが、育った町が違っていた(水木は港湾地区の旧境町、私は半農半漁の旧|外江《とのえ》町、昭和二十九年に境港町として合併されるまで別の行政区画だった)せいか、水木より幼い時期に境港を離れた(水木は十五歳の時、私は九歳の時)ためか、そもそも水木は大正生まれで私が戦後生まれだからか、水木を今日まで捉えてきた子供時代の妖怪体験≠ニやらは、最初から私とは無縁だった。私が水木に惹かれたのは、一にも二にもその人間性にある。
水木しげるは目の前にいても正体を見せない妖怪のような人物である(それが第一印象だった、だから猛烈に興味をそそられた)。
水木自身そのことは充分意識していて、「私は半妖怪化してる」とか「僕の中に三、四人の人間が棲みついてる」とか言って、相手を煙に巻く。意味のない高笑いなど数多くの奇矯な言動も、たぶんに自己演出の産物なのかもしれない。
筑摩書房のちくま文庫編集長松田哲夫は水木=妖怪$烽ノ頷いてみせ、「その証拠に明らかな矛盾があの人の中では堂々と併存できる」と言う。
現在重役の松田は、学生の頃から水木プロに出入りして『ゲゲゲの鬼太郎』の脚本などを手掛け、筑摩書房入社後も今や古典となった〈現代漫画〉シリーズに水木作品を収録、硬派のちくま文庫で水木しげる妖怪まんが集≠スタートさせるなど、一貫して「時代を超越する水木作品」を支持してきた編集者だが、その松田が半ば呆れ顔で語った。
「大体、子供時代からして変ですよ。貝集めや紙相撲に我を忘れるような子は、今でいえばオタクです。そんな子はガキ大将にならないし、またなれない。感性の方向が違うからです。ところが水木さんは、繊細なオタクであって同時に活発なガキ大将、平気で両立できるんです。大人になってからもそうです。南方への憧れ≠セの、妖怪との共生≠セの、相当本気で言ってるでしょ? 普通そういうこと本気で言う人は現実世界から取り残されますよ。でも水木さんの場合、そういうことを言いつつ、経営者としても非常に有能なんです。常に冷静な計算を働かせてますよ。……しかし、じゃあ何でも計算ずくかといえば、貧乏のドン底にあって、一文にもならない趣味の模型作りにせっせと励んだりね。『勲章』って作品で勲章社会を鋭く批判したかと思うと、自分はあっさりともらって、けっこう喜んでいたり……。矛盾だらけの人ですよ。そんな矛盾をいっぱい抱えて全然動じない。やっぱり、妖怪なんでしょう」
水木が矛盾に満ちた人物であるのは明らかだった。誰でも真っ先に気がつくのは、日々の労働に関しての言動の不一致である。
水木はふだん「あくせく働く生活はバカバカしい」と公言している。「猫のように、生活のための労働をいっさいしないのが理想」だが、それが不可能ならば「ニューギニアの土人たちのように、一日二時間ほど働いてあとは遊んで暮らしたい」と言う(土人というのは大地の人≠ニいう意味で、水木にとっては最大級の称賛語であり、決して差別用語ではない)。そうした考えを盛り込んだマンガ作品をこれまで繰り返し発表してきたし、テレビや新聞・雑誌のインタビューにもそう答えてきた。エッセイ等でも幾度もそのように表明している。
ところが、実際の水木の日常はとなると、これがもう絵に描いたような仕事中毒《ワーカホリツク》なのだ。アシスタントは日曜日と隔週土曜日が休日だが水木は土曜も日曜も仕事をする。原則として完全な休日というのはない。年に何度か行く海外旅行も、たとえそれが水木プロの慰安旅行であっても、必ずどこかに仕事が絡んでいる。しかも一日中「メシを食ってる時もクソをしてる時もストーリーを考えて」おり、毎日夕食と入浴の後は書斎へ直行して仕事、しかも「寝てる時にいいアイデアを思いつくことがある」ので布団の枕許にペンとメモ用紙を欠かさない。 本人に言わせれば「それほどこの世界(日本のマンガ界)は厳しい。ぼやぼやしとると大家・巨匠といえども抹殺されるんです!」ということになるのだが、いずれにせよ、現実の暮らしぶりが、持論である猫的生活礼賛論と裏腹の関係にあることは否めない。
しかし私は、だからといってそれが水木=妖怪$烽フ核心を衝《つ》くものとは思わなかった。多くの矛盾を一身に備え平然としているのは、それはそれで不可解かつ異様ではあるけれど、そのこと自体表面上のことであり結果的なこと、と言えなくもない。何かもっと根源的なもの、水木を根底で突き動かし、矛盾した行動をやすやすと取らせたり幾つもの人格を同時に棲まわせたりする別のもの、が存在するはずだった。
それはいったい何なのか。
……容易なことでは掴《つか》めそうにない。
ところで、十一月の境港への小旅行中に一つ面白いことがあった。レポートの主旨とは直接関連のないエピソードにすぎなかったものの、私にとってはすこぶる興味深かった。
取材第一日目の夜、ホテル内の割烹料理店の一室で編集者や写真家を交え夕食を摂っていた時のことだ。その場の話題が、マンガ界の現状から、いつしか平成元年(一九八九年)二月に六十歳で死亡した手塚治虫の話に移って行った。すると、
「あの人、おかしいですよ!」
水木が箸《はし》を動かす手を止めて言ったのだ。
「最初に会った時から敵意を持ってるんです。出てきたばかりの新人にですよ」
眉間に皺を寄せ、一座を見回した。
昭和四十一年(一九六六年)の春、講談社児童まんが賞の授賞パーティーの会場だったと水木は記憶する。貸本マンガ界で苦労した末にようやく大手商業誌に認められたということで、白土三平、楳図《うめず》かずおなど大勢のマンガ家仲間が駆けつけ、祝い、激励してくれた。マンガ界の頂点にいた手塚治虫ともその席で実質的に初めて会った(その前に一度マンガ家の集まりで同席したことがあったが会話はなかった)。ところが手塚の表情はなぜか固く、掛けてくれた言葉も「曙《あけぼの》(出版)か何かで描いておられましたね」とそれだけ、きわめて冷ややかな態度だった。
「それから六、七年たった別のパーティーで会った時もそうです。あるマンガ家のパーティーから帰る時バッタリ出会ったんです。そしたらまだやってるんですか!=Aいきなり戦闘的なんです。何のことかと面喰らってると私の故郷ですよ!≠ニ怒ってる。宝塚なんですね。私、昭和四十六年から宝塚の遊園地で鬼太郎のお化け大会ずっとやってますけど、彼は宝塚は自分の領地だ、領地を荒らされたって憤慨してるわけです。でもそんなこと言われてもね、私だって困ります」
手塚は三歳以降新進マンガ家として上京するまで宝塚市で過ごした。子供の頃からの宝塚歌劇ファンとしても有名だった。が、実は水木も大阪に住んでいた十代後半の頃、宝塚の大劇場に足しげく通っていた。天津乙女《あまつおとめ》、葦原邦子《あしはらくにこ》、乙羽信子《おとわのぶこ》などをいつも最前列で眺めていたのである。また、遊園地(宝塚ファミリーランド)の系列会社にラバウル戦線の数少ない生き残りの戦友がおり、その戦友と年に一度宝塚の催し物の際に会うのも楽しみにしていた。
「二回目のパーティーというのは、あの『一番病』を発表する前ですか、後ですか?」
私は尋ねた。
「二、三年後だったと思います」
水木は答えた。
短編マンガ『一番病』は水木ファンの間では手塚治虫をモデルにした諷刺作品としてよく知られている(後日確認すると≪ビッグコミック≫昭和44年10月25日号に掲載)。
舞台は江戸、主人公は|カンオケ《ヽヽヽヽ》職人の徳兵衛。「日本一のカンオケ職人」「カンオケ界の王者」を自負する徳兵衛は一ヵ月に三百個ものカンオケを作る。しかし、嫉妬心と競争心が異常に強いため、有力同業者の作るカンオケの形や量が気になってならない。彼らに日本一の座を奪われないよう無理に無理を重ねて増産に励む。過労で倒れてもムックリ起き上がって木槌《きづち》をふるう。働き過ぎを諫《いさ》める妻に、弟子が「先生は一番病というご病気なんです」と言う。そして今日も江戸の町に、|芸術的カンオケ《ヽヽヽヽヽヽヽ》を必死で作り続ける徳兵衛の木槌の音がコーンコーンと虚しく響く……。
むろん当時のマンガ界を江戸時代のカンオケ業界に擬しているわけだが、この作品の中に、水木らしき男と手塚らしき男との喧嘩の場面がある。葬儀屋の座談会の席で、水木に似た水又屋という職人が「カンオケは人類について回る、いわば金魚の糞のようなもの」と言うと、徳兵衛つまり手塚が「カンオケ芸術を糞にたとえるとは」と猛然と怒り、「カンオケを軽蔑することは俺を軽蔑したことになるんだぞ」と殴りかかるのである。
「私も仕事はしますけど、別に一番でなくてもいい。メシが食えればいいわけです。でも手塚さんはいつも一番じゃなきゃ気がすまなかった。おかしな人ですよ」
水木は編集者らに勧められるままにビールを飲んでいた。ふだんはまったくアルコールを口にしないので珍しいことだった。
「手塚さんは生前年齢を二歳年長に偽ってましたけど、水木さんは逆に、最近まで二歳若く公表してましたよね。本当は大正十一年生まれなのに十三年だと。なぜですか?」
私はコップ半分のビールで首から上を真っ赤に染めた水木に聞いた。
「若い方がいいだろうと思ったんです。日本のマンガ界はみんな若い人ですから」
手塚の年齢|詐称《さしよう》は余りに若くしてデビューしたため威厳≠つけるためだったと伝えられるが、水木の場合には別の噂があった。
「一説によると、マンガの神様≠ニ呼ばれた手塚治虫が水木さんよりずっと若かったので、手塚さんへの遠慮があったとか? 実際のところはどうなんですか?」
水木は穏やかな笑顔のまま表情を停止させた。そして私の顔をジッと見詰めたが、やがて湛《たた》えた微笑を静かに流すようにして口を開いた。
「遠慮もあったんでしょう」
……私は待った。しかし水木はその件についてはそれ以上何も言わず、いつしか編集者や写真家も参加して、話題は次の現代写真界や小説界の話へと移って行った。
境港の一夜のエピソードはただそれだけのことである。だが、私は、以前から頭の片隅に引っ掛かっていたことの背景がやっと少し見えてきたような気がした。
手塚治虫が亡くなって半年後、JICC出版局から『一億人の手塚治虫』という手塚に関する膨大な証言資料集が刊行された。その中に著名人らの追悼の言葉を集めた一章があり、水木のものも収録されていたが、その言葉というのが群を抜いて異色だった。
水木はこう言っていたのだ。
〈売れない貸本マンガを描いていた終戦後、小学生が歌うアトム≠フ歌に貧乏から脱出したい≠ニ思ったナァ〉
他の全員が手塚の天才と功績をさまざまに誉め称え、早過ぎる逝去をこぞって嘆き悲しんでいるというのに、水木一人が素っ気ない。いや、人間手塚やその作品にすら全然触れてない。アニメの主題歌と自分の貧困のみ、なのだ。
私は短編『一番病』とその時の追悼文(?)で、水木と手塚の間に何か確執があったことを察したが、具体的にそれがどういうものなのか、境港で水木から聞くまでわからなかった。かくも屈折していて、根深いものであることも。
しかし、手塚治虫と水木しげる、マンガ界の正統と異端の両巨人に、実は個人的確執とは別の宿命的とも言えるすれ違い劇があったと知ったのは、境港から帰ってしばらくたってからのことだった。
4
現代マンガの主流とも言うべき少年マンガを戦後長い間リードしたのは月刊誌である。
昭和二十一年(一九四六年)十一月創刊の≪少年≫(光文社)を皮切りに、二十三年一月の≪漫画少年≫(学童社)、二十四年二月の≪冒険王≫(秋田書店)、同九月≪おもしろブック≫(集英社)、二十五年四月≪少年画報≫(少年画報社)、二十七年一月≪漫画王≫(秋田書店)と続々発刊された。戦前の≪少年倶楽部≫≪少女倶楽部≫も≪少年クラブ≫≪少女クラブ≫(ともに講談社)とタイトル文字を変え存続していた。
これら月刊マンガ誌の誌面を当初飾っていたのは、『ふしぎな国のプッチャー』(少年クラブ)の横井福次郎、絵物語『少年王者』(おもしろブック)の山川|惣治《そうじ》、『バット君』(漫画少年)の井上一雄など戦前からのベテラン作家たちだった。しかし、昭和二十五年(一九五○年)に手塚治虫が『ジャングル大帝』(漫画少年)で颯爽《さつそう》と雑誌界に登場、二十七年から『鉄腕アトム』(少年)の連載を開始すると急速に世代交替が始まる。というのも、手塚が拠点としていた≪漫画少年≫は創刊号より読者投稿を募集していて、いわばマンガ家志望者たちの登竜門となっており、彼ら投稿少年の多くが手塚に憧れ中学や高校を卒業すると次々に上京、実際にプロのマンガ家として月刊マンガ誌戦線に参入し始めたからだ。
このうち、後年もっとも活躍するのがいわゆるトキワ荘グループである。トキワ荘は豊島区椎名町にあった木造二階建てのアパートで、東京に進出した手塚が一室を仕事場に使っていた。そこへ新人寺田ヒロオが入居し、手塚の出た後に手塚崇拝者の藤子不二雄(藤本弘、安孫子《あびこ》素雄)が入り、続いて石森(現、石ノ森)章太郎、赤塚不二夫、水野英子、鈴木伸一らが住みついたことから、俄然新進マンガ家たちの梁山泊となった。
昭和三十年代の前半は月刊マンガ誌の黄金時代だった。≪少年≫では手塚の『鉄腕アトム』の長期連載に加え、昭和三十一年(一九五六年)から横山光輝の『鉄人28号』の連載がスタート、三十二年には堀江卓の『矢車剣之助』が始まった。≪少年画報≫の『赤胴鈴之助』は二十九年の開始直後作者の福井英一が急死したため武内つなよしを起用、これが大人気を博した。三十二年には桑田次郎(現、二郎)の『まぼろし探偵』が登場しこれもラジオ・テレビ化された。桑田作品では≪少年クラブ≫で原作者川内康範と組んだ『月光仮面』もあり、こちらは三十三年から連載され『まぼろし探偵』以上のブームを巻き起こした。
この時期、≪漫画少年≫投稿欄出身の若手の何人かはすでに中堅となっていた。『ビリー・パック』の河島光広、『よたろうくん』の山根赤鬼、『ポテト大将』の板井レンタローなどである。が、トキワ荘グループは、少部数で同人誌的色彩の強かった≪漫画少年≫(昭和30年10月号で廃刊)を主要な発表の場としていたせいで出遅れ、本格的な活動は昭和三十年代後半を待たねばならなかった。
昭和三十四年(一九五九年)三月と四月、講談社から≪週刊少年マガジン≫が、小学館から≪週刊少年サンデー≫が相ついで創刊された。日本初の少年週刊誌の発売、少年マンガの世界に週刊誌時代が到来したのである。
もっとも、最初の一、二年の売れ行きはあまりかんばしくなかった。打撃を受けた月刊誌が軒並み発行部数を減らしたといっても≪少年≫や≪冒険王≫は三十万から三十五万部、毎号二十万部前後の≪少年マガジン≫や≪少年サンデー≫は苦戦を強いられた。この頃、新たな舞台の週刊マンガ誌上に躍り出て一気に地歩を固めたのがトキワ荘グループである。まず寺田ヒロオが≪少年サンデー≫創刊号から『スポーツマン金太郎』を連載、昭和三十五年(一九六○年)に第一回講談社児童まんが賞を受賞した。藤子不二雄も創刊号から五年間にわたって≪少年サンデー≫に『海の王子』を連載する。赤塚不二夫は「シェー!」という流行語を生んだ『おそ松くん』を三十七年に発表、ギャグマンガに新風を吹き込んだ。むろんこの間も御大手塚の快進撃は続いていた。≪少女クラブ≫連載の『リボンの騎士』が三十一年に完結するや、≪漫画少年≫に載せていた『火の鳥』を≪少女クラブ≫で再開、創刊された≪少年サンデー≫にも第一号から作品を掲載し三十四年の『|0《ゼロ》マン』、三十五年の『キャプテンKen』と立て続けにヒットを飛ばした。そして三十七年には虫プロを設立、昭和三十八年一月一日国産初のテレビ・アニメ『鉄腕アトム』を放映するのである。
確かに、少年マンガの世界に週刊誌が出現したことは画期的なできごとだった。読者の子供たちはこれによって短時間に大量のマンガを読むようになり生活のテンポが変わり始めたし、週刊誌連載は激務なのでマンガ家の世代交替も加速された。けれど、それで月刊誌が滅亡したわけではない。見方によれば、手塚とその後継者たちが週刊誌をも足場とし順当に伸びてきたにすぎない、とも言える。
この段階から、数年後に突如実現する週刊少年マンガ誌百万部時代へは、いったいどのようにつながるのか。何かがあったに違いない。しかも、最初の百万部雑誌が、創刊以来低迷を続けていた≪少年マガジン≫ということになれば、なおさらに。
「昭和三十九年の時点で、ライバル誌の≪サンデー≫は毎週約五十万部、ウチは三十二万部から三十三万部程度でした」
当時の≪少年マガジン≫の副編集長でマンガ班チーフだった内田勝は言う。
「それが四十一年に≪サンデー≫を追い抜き、四十二年一月八日号で百万部達成、四十四年には百五十万部を突破しました。キッカケは昭和四十年の|W3《ワンダースリー》事件です。あの事件を境に≪マガジン≫は劇画路線を突っ走ることになったんです。編集部内の合言葉は、打倒、手塚治虫!≠ナした」
昭和四十年(一九六五年)というのは、水木しげるの名前が初めて大手出版社のマンガ誌≪少年マガジン≫に載った年である。
内田の言うW3事件≠ニいうのは、表面に現われた事実のみ追えば次のようなものだ。
手塚は≪少年マガジン≫に昭和四十年三月二十一日号からSF冒険マンガ『|W3《ワンダースリー》』の連載を開始したが、連載六回目にあたる四月二十五日号で突然中止した。およそ一ヵ月後、今度は≪少年サンデー≫五月三十日号で同じ『W3』の連載を再開し、そのまま翌年の五月八日号まで続けて完結させた──。
部外者にすれば、作品の掲載誌が替わっただけでともかく完結したのだから、たいした問題ではないと思うかもしれない。しかし、連載が、予告もなしに打ち切られたこと、続編があろうことか競合誌に掲載されたことは、関係者たちにとっては紛れもなく大問題であり大事件だった。
発端は、手塚作品と同じ時期に≪少年マガジン≫に掲載予定だった『宇宙少年ソラン』(福本和也原作・宮腰義勝画)の基本設定を手塚が事前に知り、「アイデアを盗まれた」と言い出したことだった。具体的には、『ソラン』に登場する宇宙リスのチャッピーが、いつも主人公の肩にいて、超能力を持ち、体を光らせたり、姿を消せたりと、手塚の『ナンバー|7《セブン》』(本来はこの作品を掲載する予定だった)に出てくるリスのボッコにあまりに似ていると言うのだ。『ナンバー7』は急遽《きゆうきよ》設定変更され、『W3』になった。
ここで手塚側の説明を見ておこう。手塚は『手塚治虫アニメ選集DW3・バンパイヤ・新宝島』のあとがき(『一億人の手塚治虫』より)にW3のおいたち≠ニしてこう記している。
〈その年の暮れのことです。K社の人がうちへ来て「|W3《ワンダースリー》」をM誌に載せてみては、とすすめてくれたので、1月からM誌の連載がはじまりました。
しばらくして、「ソラン」がおなじ雑誌に載りそうだという噂《うわさ》を聞いたボクは、なんとか「ソラン」を載せないでくれと、約束してもらいました。
ひとの企画を盗んだような作品といっしょに並ぶのは、絶対にいやだったからです。
ところが4月になって、急にM誌では、「ソラン」を載せることになったのです。ボクは驚いて、約束が違うといいました。
「|W3《ワンダースリー》」を続けるのなら「ソラン」はどうか載せないでくれ。「ソラン」が載るのなら|「W3《ワンダースリー》」をやめる──と、ボクはとうとういいました。
でも、そのときは編集部内でも、どうしようもなくなっていたのです。「ソラン」を載せるため「|W3《ワンダースリー》」の打ち切りを知らせてきました。「ソラン」を載せるように働きかけたスポンサーは、その出版社にとって、大切なお客さまだったからです。
ボクは、くやしくて一晩じゅう泣きました。どこにも責任はないのです。ただ、大人の世界には、こんなつじつまのあわない、情ないことが当然のように起こるのです。それが悲しかったのです〉
この文章には正確でない点が多々ある。
例えば最初の部分。昭和三十九年(一九六四年)の暮れに手塚邸詣でをしていたのは当時≪少年マガジン≫編集部員だった宮原照夫だが、宮原が打ち合わせをしていたのは二月から連載予定の『ナンバー7』だった。三日間手塚邸に泊まって予告原稿を取ってきた。ところが、年が明けて会社の新年会に出席中、急に手塚から呼び出しの電話があり、「あれは連載できません。延期します」と通告があった。宮原が『W3』の連載を勧めたわけではないのだ。
細かいことはいろいろあるが、重要なのは、そして手塚の回想記でまったく触れられていないのは、手塚が「アイデアを漏らしたのは≪少年マガジン≫関係者に違いない」と思い込んでいたことである。『W3』の骨格ができた時宮原は手塚に呼ばれ、そのことを仄《ほの》めかされた。
「私はもちろん知りません≠ニ答えました」
と宮原は言う。
「漏らしたならどう漏らしたのか、先生言って下さい!≠ニ言いました。マガジンかどうかわからないけどとにかく漏らされた≠ニ手塚先生は言う。でも、その日私は長い間待たされ、廊下ですれ違ったのは≪サンデー≫の編集者だったんです。先生はすでに移すつもりだったんでしょうね」
『W3』の連載が始まった。が、『ソラン』を載せるなら『W3』を続ける続けないの騒動があり、結局手塚は作品を引き上げた。
≪少年マガジン≫編集部の受けた衝撃は甚大だった。マンガ界の覇者℃闥ヒが創刊以来作品を寄せていたのはもっぱら≪少年サンデー≫である。常に≪サンデー≫の後塵を拝していた≪少年マガジン≫に手塚作品が載るのは『W3』が初めてだった。それだけに部内の期待は膨らむだけ膨らんでおり、落胆もまた大きかった。加えて、相前後しての人気マンガ家桑田次郎の拳銃不法所持による逮捕と、『|8《エイト》マン』の連載中断。頼みのちばてつやの結婚による休載が重なっていた。
苦悩した編集長は二週間以上も不眠が続き、ついに辞表を提出した。こうして、副編集長に就任して日の浅い内田が、三十歳になったばかりでいきなり≪少年マガジン≫の三代目編集長に抜擢されたのである。
業界には≪マガジン≫が手塚のアイデアを漏らしたという噂が流れていた。
「読者に対して面目丸潰れでした」
内田は回顧する。
「連載を突如中止されライバル誌に移されたんですからね。我々編集者にとっても大変な屈辱です。私は編集長として何とかこの屈辱を晴らしたいと思いました。打倒手塚、打倒≪サンデー≫です。恨みというよりも、男の意地のようなものでした」
内田は、手塚や手塚の影響下にあるトキワ荘グループ、つまり≪少年サンデー≫を中心に全盛をきわめている主流派とはまるで別のマンガを、≪少年マガジン≫の柱にしようと考えた。丸味を帯びた絵ではなくもっとリアルな絵、SFやギャグや冒険活劇ではなくもっとシリアスなストーリー。読者に身近な「切れば血が出るヒューマニズム」的作品を……。
同い年の若手原作者梶原一騎らと討論を重ね企画を練る一方、以前から注目していたアンダーグラウンドの描き手たちに本格的な接触を開始した。貸本マンガ界の白土三平、水木しげる、さいとうたかを(現、さいとう・たかを)などだ。
貸本マンガ界が活況を呈していたのは昭和三十年から四十年にかけての約十年間だった。
貸本専門店自体は昭和二十三年頃に現われ、庶民の図書館≠ニして全国に急増して行き、昭和三十三、四年には東京都内で約三千軒、全国では約一万軒に達した。しかしちょうどその頃、正確には昭和三十四年(一九五九年)四月の皇太子結婚を機に、一般家庭にもテレビが普及し始め、もともと傍流の娯楽だった貸本はたちまち衰退への道を辿ることになった。
貸本マンガの世界に新しい動きがあったのは、その運命の昭和三十四年である。まず一月に、東京へ進出してきた関西出身の貸本マンガ家たち(辰巳ヨシヒロ、さいとうたかを、佐藤まさあきら七人)が劇画工房を名乗り、月刊短編マンガ誌≪摩天楼≫(兎月《とげつ》書房)を刊行、創刊号から大ヒットした。追随する企画が相次ぎ、一時は同様の体裁の月刊短編誌が貸本屋の本棚を独占するほどだった。
ついで年末十二月、三洋社から白土三平の『忍者武芸帳』第一巻が出た。これは昭和三十七年十月の十七巻まで続き、大学生や作家、評論家たちの間で評判となった。紙芝居作家を経てマンガ家になった白土は、昭和三十二年に『こがらし剣士』(巴出版)でデビューしたが、『忍者武芸帳』では当初の手塚の影響がすっかり消え、独特の歴史観に裏打ちされた写実的で力強い描写が冴え渡っていた。劇画という呼称を考案した辰巳によれば、「劇画を意識しない劇画家が、劇画らしい劇画をものにしていた」(『劇画大学』ヒロ書房)ということになる。
このように貸本マンガ界では意欲ある若手の新たな動きが澎湃《ほうはい》として起こっていたものの、いかにせん市場が狭隘《きようあい》だった。貸本業界ではいくら大ヒットでも一万部以下の売れ行き、一般出版社と違い取次店を通すことがないので普通の書店の店頭には並ばないのだ。
三洋社を経営していた頃を振り返り、青林堂会長の長井勝一が書いている。
〈当時、一冊百二十八ページぐらいの単行本を二千部刷って、それが全部、貸本屋さんに売れても、二万円ぐらいの儲けしかあがらなかった〉(『「ガロ」編集長』ちくま文庫)
貸本マンガ家が一ヵ月に一冊描いて手にする原稿料も二万円から三万円。貸本出版社が零細なら貸本マンガ家も食べるのがやっと、陽の当たる大手出版社の雑誌の世界に比べると、貸本マンガの世界はやはりアンダーグラウンドと言わざるを得なかったのである。
そんな状況下で、≪少年マガジン≫は有望な貸本マンガ家の起用に踏み切ったのだ。
水木を担当したのは奇しくも宮原だった。
宮原自身は水木に前から関心を持っていた。貸本マンガ家で商業誌にいち早く注目されたのは白土だが、昭和三十六年に白土が≪少年マガジン≫に『風の石丸』を連載した頃、白土から「水木しげるを知ってるか、あれはすごい」と勧められたのだ。宮原は『鬼太郎夜話』(三洋社)を読んでみた。強烈だった。白土作品でさえ個性的すぎて読者には抵抗があるのにそれ以上だった。暗い怨念がこもっており、おどろおどろしい。だが、奇妙なユーモアがあり、不思議なほのぼのとした味もあった。半信半疑で編集会議に提出してみると、軽く一蹴された。
けれど、内田編集長となった今回は別だった。編集部全体が前向きだった。ただ貸本そのままの内容では採用しかねるので両面作戦を取ることになった。一方で≪別冊少年マガジン≫で新作を依頼し、他方本誌の宮原はあくまで鬼太郎モノの掲載を図るのである。多少アレンジした鬼太郎モノを読み切りで三回くらい本誌に載せ、読者の反応を見てみようということになった。
その頃水木は、青林堂の≪忍法秘話≫シリーズや月刊マンガ誌≪ガロ≫に毎号作品を発表していた。『剣豪とぼたもち』『幸福の甘き香り』『空のサイフ』など、後年高く評価されることになる諷刺短編の数々である。
昭和三十九年(一九六四年)七月に創刊された≪ガロ≫は、三洋社をやめて青林堂を起こした長井が乾坤一擲《けんこんいつてき》勝負を賭けた一般誌であり、長期連載された白土の『カムイ伝』がその後一時代を画すことになるのだが、創刊から一年ほどはさっぱり売れなかった。当然、白土とともに初期の≪ガロ≫の両輪を務めていた水木の懐具合も芳《かんば》しくなかった。
水木は後に、≪少年マガジン≫編集者が訪れた時のことをさまざまなメディアで「暑い日、福の神がドアを叩いた」と表現している。自伝『ねぼけ人生』(ちくま文庫)では次のような具合だ。
〈夏の暑い日のことだった。また「少年マガジン」からやってきた。暑そうだったので、コップに水を入れて出すと(ただの水)、ぐぐっと飲んで、
「編集方針が変わりましたので、自由に三十二ページやってください」
と言った。僕は、ひきうけた。
作品が掲載されたのは、昭和四十年八月の「別冊少年マガジン」だった。「テレビくん」という幻想マンガだった。
これを機会に、雑誌の注文がどんどん来はじめるようになった〉
ここで「また」と書いているのは、その二ヵ月ほど前に同じ≪別冊少年マガジン≫の編集者が訪ねてきて、水木の不得手な宇宙モノを依頼し、一度断わっているからだ。
水木は、『テレビくん』がその年の講談社児童まんが賞を受賞し出世作となったので≪別冊≫編集者のことしか記していないが、同じ頃、むろん宮原とも会っている。宮原の記憶では、昭和四十年の初夏のことだった。
「水木さんは調布駅まで迎えにきてくれました。焼肉屋でいろいろと話をしました」
変わった人だと宮原は思った。
白土から前もって聞いていたので、片腕を失くしたという戦争のことなど遠慮しつつ尋ねてみた。すると水木は、ラバウルの奥地で一個分隊が全滅しながら一人生き延びた話、マラリアで病床にあった時爆撃を受け七徳ナイフで腕を切断してもらった話など、聞くだに恐ろしい体験を話してくれた。ところがその話しぶりたるや、まるで他人事のように愉快そうなのだ。深刻さが微塵もない。どういう人なのだろう、宮原は理解に苦しんだ。
もう一つ、宮原が初対面で感じたのは、意外に慎重なしたたかさだった。
「大手の雑誌に載せるということで、水木さんの方はあれこれ探りを入れてくるわけです。でもその探りの入れ方が単純じゃないし直截的でもない。例えば鬼太郎は貸本単行本のままでいいですかね?≠ニまず聞いてくる。私の返答を待って、次に白土三平の場合は、あれは成功してますか?≠ニくる。で、こちらもまァ、もうちょっと期待してたんですが≠ニ言うと、あれは単行本のままだからよくないんじゃないですか?=Aポンと言う。一つの質問にいくつもの意味をこめて、雑誌業界の動向や編集部の狙い、作品修整の要諦を掴み取ろうとする。賢いんですよ」
墓場の鬼太郎<Vリーズは、その夏から秋にかけて予定通り単発で三編掲載された。
『手』(≪少年マガジン≫昭和40年8月1日号)、『夜叉』(同、9月12日号)、『地獄流し』(同、10月10日号)である。
編集者やマンガ家などプロの間での評価は上々だった。が、読者の反応がよくなかった。≪少年マガジン≫には毎号好きな作品名を読者が書き込む読者カードが付いていたが、その集計結果を見ると、一作目も二作目も不人気の筆頭かその次。急遽編集会議が開かれ、打ち切りを主張する声も上がり始めた。
担当の宮原は気が気ではなかった。
「ホッとしたのは、夏休みが終わって大学生のカードが届き出してからですね。衝撃を受けた、バックナンバーはないか≠ニか、よくぞマガジンでやってくれた≠ニか、友人から聞いて探したけどない、至急欲しい≠ニか。数は少ないけど熱烈なんです。私もようやく自信を取り戻しました」
少年マンガ誌を熱心に読む年齢層はいつの間にか急上昇していたのだ。マンガを読む大学生≠ェ社会現象になり、こぞってマスコミに取り上げられる時代は、すぐそこまできていた。
ちなみに、水木が無事に商業誌デビューを果たしたこの年、白土は同じ≪少年マガジン≫誌上で新たな連載『ワタリ』を開始しているが、その第一話は手塚の『W3』の第六話(マガジンでの最終回)と同じ号だった。そして翌年、さいとうたかをも同誌の常連となり、内田が満を持して放った『巨人の星』(梶原一騎原作・川崎のぼる画)が≪少年マガジン≫を百万部雑誌に押し上げ、昭和四十三年(一九六八年)一月、時代を象徴する作品『あしたのジョー』(高森朝雄=梶原一騎原作・ちばてつや画)が掲載される。
手塚が≪少年マガジン≫に再登場するのは昭和四十九年(一九七四年)の『三つ目がとおる』以降だ。劇画路線を確立した内田編集長が辞め、宮原編集長になってからだった。
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第二章 妻と娘と別荘と
1
水木は自分のことを「水木さん」と呼ぶ。
「武良茂の方は大儀なんです。静かに平和に暮らして、できるだけ長生きしたいと願ってますからね。ところが水木しげるの方は、世界の精霊文化を調べる冒険旅行となると、喜んで慌てふためくわけです。旅の途中で死んでもいいとさえ思ってる。……てやなわけで、近頃は武良が水木さんに圧倒されてるわけです」
武良茂が一介の小市民なら、「水木さん」はマンガ界の長老にして精力的な妖怪研究家、時としてその葛藤に悩むというのである。
平成五年(一九九三年)の一月も半ばをすぎて再び私は調布の水木プロを訪れるようになった。この間に水木は六月のアメリカ旅行を正式に決定していた。六月中旬に約十日間の休みを取り、アリゾナ州とカリフォルニア州のインディアン居留地を訪問するというのだ。その企画を推進しているアメリカ在住の映画製作者宮田|雪《きよし》が十二月に水木プロにやってきた時、私もおおまかな話を聞き、同行を申し出た(承諾された)。しかしそれでもなお、多数の連載を抱える「水木さん」としては十日間の空白は大きく、武良茂の側からのボヤキが出るのだった。
「四月には台湾でしょ、八月に沖縄へ十日行く計画もありますからね、どう仕事をやりくりするか、今から頭が痛いですよ」
革張りの安楽椅子の上に胡坐《あぐら》をかいた水木は、娘の悦子の運んできた抹茶をすすり、二つ目の大福をつまんで三口で飲み込んだ。数年前に「コーヒーは体によくない」と止めてから、休憩時間にはもっぱら抹茶である。
「今年も忙しくなりそうですね」
私も抹茶茶碗を口に運んだ。
「マンガで一ヵ月のうち二十日取られるんです。バリ島から帰って家内に、何歳まで仕事続けるつもりですか!≠チて鋭く問いかけられたんですけどね。アシスタントの生活の問題もあるし、まァ、何とかしなくちゃと思い始めてはいるんですけど……」
もちろん、言葉で言うほど多忙ぶりを悩んでいる様子ではない。置かれている状況の厳しさを楽しそうに報告しているだけとも思える。
この元旦は、いつものように水木の自宅に武良一族が集まって新年会を催したという。兄宗平はイエメンへの観光旅行で欠席したため総勢十八人。ただし、全員が酒を飲まないのでジュースで乾杯、昭和五十九年に死んだ父親の亮一《りよういち》が「自由人」を標榜《ひようぼう》して形式ばったことが嫌いだったとかで、武良家では年頭の挨拶や各種行事などなく、午後二時頃からお節料理やビフテキなどの御馳走をみんなで食べ始め、午後八時には平穏のうちに解散した由。
また、「バリ島」というのは、一月四日から八日まで四泊五日で出かけた水木プロ恒例の社員旅行のことだった。水木夫妻と悦子、アシスタント三人、それに今回は妻布枝の姪が加わって、七人でインドネシアのバリ島とジャワ島のボロブドール遺跡を巡ったのだ。
「インドネシア旅行はどうでした?」
「よかったですよ。私はあそこは三度目ですけどね。幸夫はまた遊んでる≠チて言いますが、私の場合、ああいう旅行は後で必ず役に立つんです。貴重な勉強なんです」
三つ目の大福をパクリと頬張る。甘い物が大好きで、「どら焼きに狂っていた」時期もあれば、お茶うけに何ヵ月も鯛焼きばかり食べていた時もあり、干し柿の季節を通過して、現在は大福だった。
応接室のドアが開いて、幸夫が顔を覗かせた。「用意できてるよ」と一言。
水木と私は奥の洋間へ移動した。宮田からアメリカのインディアンの精霊のビデオテープが送られてきたのだという。アシスタント室にも声がかけられ、村沢と森野が急ぎ足で洋間にやってきた。
水木を中心に半円状に並んだ五人の男たちが大型のビデオ画面を見詰めた。
「霊が鳥の羽を踊らせるっていうんだ」
すでに宮田から内容についての説明を受けている水木が言う。
ぼんやりと画面が明るくなった。布の前に胡坐《あぐら》をかいたインディアンの男たちが何か祈ってる風だが、かなり不鮮明で、画面にかぶさる英語の解説もくぐもり、よくわからない。と、民族衣裳を身に着けた少女が布の向こう側に立ち、踊り始めると、布の上に置いてあった鷹の羽のようなものがいっせいに直立して踊り出した。少女の体が東に向くと羽も東に、南に向くと羽も南に。座った男たちは羽に指一本触れてないのに、羽は意志あるもののように少女に同調する。ナレーションは「マジック・ダンス」と呼んでいた。
「こりゃ、ヤラセだな」
幸夫がニヤニヤしながら言った。
「お前、疑い深いからそう言うが、精霊が出たんだよ」
水木がたしなめた。
「いや、紐で引っぱっとる」
幸夫は固持し、森野も「下の布も一緒に持ち上がってますよね、羽だけじゃない」と言ったので、水木はもう一度巻き戻させた。
十分足らずのテープを幾度か検討する。
いちおうカラーなのだが、古いフィルムをビデオに起こしたものらしく、いくら繰り返しても、停止画像にしても、細部の曖昧さは曖昧なままだった。糸や紐の操作だと断言できない代わり、霊の力だという証拠もない。
「その辺がいいじゃないか。あくまで謎の動きなんだ。問題は、女の子の踊りと羽の動きのリズムが奇妙に合ってることだ」
水木は握り拳を振り上げて力説する。
「ミスター・マリックも瓶の中の葉っぱに手を触れないで動かしますけど」
村沢がボソリと言った。
ついで、第二部が始まった。今度はロッキー山脈に棲むというビッグフットである。
これは、その映像の一部を私はテレビ番組で見たことがあった。雪原のような場所を全身黒褐色の獣の影が大股で横切り林の中へと消えて行く……。しかし、その後、ぬいぐるみを着た人間風のその獣が明るい小川で水浴するに及び、見ていた者たちは声を上げて笑い出した。
「水木さんは、これは認めない」
言った水木は割合真面目な表情だった。
「歩き方も動きも、これは全部白人の、アメリカ人のものです。宮田さんは本物≠チて言ってたけど、これは作り物です」
横合いから森野が半畳を入れた。
「でも、ちょっとこれ会ってみたいですね。川口探険隊≠フ一員として」
みんなが笑い、時ならぬビデオ鑑賞会はお開きとなった。水木は締切りが近いということでネーム室に引き上げ、私は、村沢や森野とアシスタント室に向かった。
部屋では村沢の妻君のきよみが資料用の本を積み上げ調べごとをしていた。いつものようにFM局のロックが流れている。
「あれで羽がバラバラに動いてたら面白かったんだけどな。でも先生、けっこう信じ込んでたみたい」
「そうそう、もう少し冷静であってほしいと思うんだけど」
二人のアシスタントは席についてからも見てきたビデオの批評をしばらく続けた。
実は私も少々心配になっていた。「アメリカの霊文化を訪ねる旅」と早くも水木が命名した旅行に同行するのはいいが、その内容があのビデオ程度のものなら……。暮れに話をした感じでは宮田はかなり信頼できそうな人物だったし、水木も内心はもっと懐疑的だと思うのだが……。アメリカ旅行に対する水木の本当の狙いが今一つ明確ではなかった。
「正月のバリとジャワはいかがでした?」
私は三人に向かって尋ねた。
「バリは奥さんも悦ちゃんも初めてだから楽しかったんじゃないですか。先生にとってもいろいろ収穫があったと思うし」
「でも先生三回目だよ、普通じゃないよ」
「あなたたちにとっては?」
「うーん、日程が厳しいですからね。二日目なんて朝五時半に起こされたし」
「泳ぐのが目的だったのに、そんな時間は半日もなかった」
村沢夫妻はバリ島には行ったことがあったが、森野はバリ島もジャワ島もどちらも初めての旅だったという。前年(一九九二年)の香港、二年前(一九九一年)のタイ、その前の台湾、平均四泊五日の正月の社員旅行というと必ず東南アジア方面のパック旅行で、変わらないのは駆け足旅行だということらしい。
「先生はいろんなとこ全部見ないと損だと思ってるから、とにかく動き回るんです」
「だけど今回は奥さんが一緒だから楽だった。先生の面倒見てもらえるから」
「奥さんも海外へ行くとすごいね、行動力が。ふだん控え目なのに、会話、食事、それに買物、いっきに爆発するって感じ」
「それで連れて行かれる店が金細工の店とか美術品の店とか。我々は金もないし、興味もあんまりない。上等の食事やビールをおごってもらえるのはありがたいですけど」
どうやら勤続十年以上のベテランのアシスタントたちに共通するのは、「海外パック旅行にタダで行けるのもいいけど、できることならその分を現金で欲しい」という思いのようだ。
「一つ聞きたいんですが、水木さんはしょっちゅうもう仕事を辞めたい≠チて言ってますよね。辞めたくても辞められないのはアシスタントの生活を保証しなくちゃならんからだ≠チて。それについては?」
村沢と森野は顔を見合わせ、笑った。
「実際問題として、辞められないんじゃないですか。これだけ仕事が詰まってると」
「もう一人補充する計画もあるんです。今のままじゃ絶対的に人手不足ですから」
一月八日にバリ島から帰ってきて、翌九日からすぐに仕事を開始したという。当分の間は、土曜、日曜返上の大車輪なのである。
「勲章もいただいてることですし……」
皮肉混じりの冗談が聞こえてきた時には、二人はもう作業に移っていた。
2
水木はこれまで四冊の自伝を著している。幼少年時代を回想した『のんのんばあとオレ』(筑摩書房)、主に青年時代を扱った『ほんまにオレはアホやろか』(ポプラ社)、戦争体験に的を絞った『娘に語るお父さんの戦記』(河出文庫)、半生を網羅した決定版『ねぼけ人生』(ちくま文庫)の四冊だ。
このほかにマンガでは『昭和史(全八巻)』(講談社)の中に自分史を織り込み、『敗走記』(講談社)など一部を作品化したものも数多くあるのだから、マンガ家としては異例なくらい自伝好きと言えるだろう。それだけ自分の$l生に対するこだわりが強いとも言える。
かくもたくさんの自伝があるということは、これから人物伝を書こうとする私にとっては好都合なことだった。人生の各段階での本人の思いや考えを容易に参照することができるからだ。ただし、一抹の不安がないわけではなかった。「水木はすでに自分の人生について充分書いている、それ以上に書き加えることが他にあるのか?」という不安である。
幸いに、と言うべきか、初対面の席で私は水木の言動に軽々と翻弄されてしまった。事前に『ねぼけ人生』以下の自伝作品を繰り返し読んでいたにもかかわらず、目の前の水木がどんな人間なのかまるで見当がつかなかった。おそらく多くの人にとっても同様だろうと思った(同席した編集者も「不可解な人だ」としきりに首をひねっていた)。そうであるなら、第三者が改めて人物伝や評伝を書く意義もあろうというもの。
それともう一つ、自伝ではかなりの部分が欠落しているということである。二回目に水木プロを訪ねた時、兄の宗平と話をしていた私は、「弟が生まれたのは境港じゃありませんよ。大阪の粉浜《こはま》です」と言われ、びっくりした。四冊の自伝にも『昭和史』などの自伝的マンガ作品にも、そんなことは一言も記されていない。ところが後で水木に確認してみると、事実なのだ。
生まれた日付は確かに大正十一年三月八日だが、生地は鳥取県|西伯《さいはく》郡境町(現、鳥取県境港市)ではなく、大阪府西成郡粉浜村(現、大阪市住吉区東粉浜三丁目)だった。水木によれば、当時父親の亮一《りよういち》は、親戚が大阪の梅田駅近くで経営していた印刷会社で働いていたという。身重の母親琴江は夫に会うために境港からやってきて、大阪で水木を産んだのだ。もっとも、「大阪は空気が汚れていて乳の飲みが悪い」からと、水木は生後一ヵ月ほどで母親に連れられて境港に戻った。従って水木の戸籍は、兄の宗平や弟の幸夫と同じく境港になっている。
何でもないと言えば何でもないことなのかもしれない。しかし、こうした基本的なことが省略されているとすると、私の出番もないわけではない。
例えば、水木の結婚のことである。自伝作品群を通読してみて、どうにも不明なのは結婚のいきさつだった。一般の自伝ならそれだけでエンエン何十ページも続く主題だが、水木自伝(幼少年時代を描いた『のんのん──』を除く)ではどれでも、わずか一ページに満たない。書かれていることも金太郎飴の断面のようにいつも同じである。要約すると、
@貸本マンガで苦闘している時に両親が「もうすぐ四十だぞ」と見合い話を持ってきた
A写真を見ると顔の長い女だった
B田舎で見合いをし、父が「これが最後のチャンスだ」と脅すのでただちに結婚
C結婚式場で父が「酒は二級酒でいい」と大声で叫んだ
D甘い新婚生活などなく、貧乏が続いた
……これだけである。さっぱり要領を得ない。
現在の水木と妻の布枝を見るととても仲がいい、ように見える。布枝は頻繁に事務所にやってきて水木とよく話をしているし、二人だけの買物や旅行も多いと聞く。当然、結婚前後の話も@〜Dのみではすまなかったはずだ。ことに「顔の長い女」と一言しか評されていない妻の立場からすればそうだろう。
そこで私はもう一つの∞@〜Dを聞いてみることにした。
※ ※
それは昭和三十五年(一九六○年)の秋、島根県立安来高等学校の文化祭でのことだった。卒業生で二十八歳になる飯塚布枝《いいづかぬのえ》が展示物を見て歩いていると、呼び出しがあった。
急いで家に帰ると親戚の小母さんたちが集まっていた。「こういう人がいるんだけど」と三枚の写真を見せられた。
一枚は、自転車に跨《またが》ってこちらを振り返っている若い男の写真。愛想よく笑っていて眼鏡をかけていた。痩せているがなかなかの好青年。「戦争で片手がない」と聞かされた。そういえば、自転車の向こう側に少しは写っているはずの左手が見えなかった。
あと二枚は、その若い男の自宅を写したという小さな写真だった。一枚は玄関。洋風のドアである。もう一枚は台所兼食堂、テーブルと椅子などありこれも洋風の明るい台所。
経歴書を見ると、本人は武蔵野美術学校中退で活躍中のマンガ家、父親は早稲田大学商学部卒業で銀行や保険会社に勤めていたとのこと。布枝はマンガ家といえば田河水泡と手塚治虫の名前ぐらいしか知らなかったが、「相当に知的な家族らしい」と思った。
「会ってみたいです」
布枝はこの話を進めてもらうことにした。
相手は三十八歳で片手ということだが、そんなことをいえば自分も身長百六十七センチと背が高いため縁遠く、二十八という年になってしまった。年が明けて一月六日になれば二十九歳である。マンガ家とはどんな人種なのかわからないが、とにかく自宅も持っている。しかも東京に住んでいる! 何やら面白そうな生活が待ち受けていそうだった。少なくとも「これまでの近在の男たちとの見合い話よりもはるかにマシ」と布枝は思った。
布枝の実家の飯塚家は、島根県|能義《のぎ》郡大塚村(現、安来市大塚町)では旧家だった。当主は代々飯塚藤兵衛を名乗り、呉服などを商う商家として知られていた。布枝の父親の藤兵衛は、若い頃から村会議員を務め、酒や塩の小売業を営みながらやがて市会議員になった人物。商売一筋というより面倒見のいいタイプだった。布枝はその藤兵衛と母ツヤコとの間に、昭和七年一月六日、二男四女の六人兄妹の三女として生まれた。
幼少時代、布枝といわず飯塚家の娘たち全員に強い影響力を及ぼしたのは祖母のさとである。母親のツヤコが非常に大人しく従順だったので、娘たちは気丈な祖母の薫陶を受けて育ったのだ。祖母さとが徹底的に教えたのは、祖先供養など祭祀ごとの大切さ、何ごとにおいても男たちを立てること、そして質実倹約第一の暮らし。
布枝は昭和二十三年に安来高等女学校を卒業した。姉二人が代用教員だったので布枝も教壇に立つよう誘われた。でも断わった。家の手伝いや農作業の方が好きだったのだ。リューマチを患って畑に出られない母親に代わり、布枝は鍬《くわ》を振るったり下肥えを運んだりした。炊事や洗濯のほか、酒や煙草の販売も手伝った。最大の楽しみは洋裁、編み物などで、二人の姉と婦人雑誌を回し読みしながらさまざまな衣服を作った(水木に送った見合い用の写真で布枝が着ていたのも自作のセーターとスカートだった)。
自分の婚期が遅れていることさえ除けば、祖母の教え通りの貧しくても堅実で穏やかな生活に、布枝はそれなりの満足を感じていたのである。祖母の墓に参るたびに布枝は、「どうかいい御縁を……」と拝んでいた。
昭和三十六年(一九六一年)の一月二十日だったと布枝は記憶している。飯塚の家に五人の来客があった。見合い相手の武良茂とその両親、仲人二人である。
茂は背広を着てネクタイを締めていた。左手は義手(この時だけつけていた)で手袋をはめていた。写真よりだいぶ老《ふ》けている感じだった。目尻に皺があり、額にも皺があった。
奥の和室で五人を迎えた。こちらは両親と兄嫁、それに布枝である。布枝は和服の上に茶羽織を着て、薄茶をたてて出した。
茂は気さくでざっくばらんな性格らしかった。薄茶を何杯もお代わりして出された茶菓子をパクパクと食べた。みんなが笑った。東京暮らしが長いはずなのに、境弁丸出しの言葉遣いも飾り気がなかった。
そのうち、部屋のストーブの石油がなくなり家の者がポンプを持ってきた。茂がすぐ立ち上がり、「自分がやります」と片手で懸命に石油を補充し始めた。
布枝は武良茂という男をとても好ましいと思った。人間としての温かみを感じたのだ。
その後の食事の席でも茂の食欲は旺盛だった。茂の母親の琴江が、「茂、もう止めない! もう、この子はこれですけんなァ」と呆れてみせたが、布枝の気持は固まっていた。
数日後、仲人から電話があった。飯塚家側は決まっていた。武良家も承諾だという。それでは仕事のある茂が帰京するまでにということで、急いで式の日取りが決定された。
結婚式は一月三十日だった。米子《よなご》の灘町の後藤≠ニいう旧家の座敷を借りて行なわれた。何せ急なので内輪の者二十数人が出席しただけのささやかな挙式である。三十八歳の新郎はモーニング、二十九歳の新婦は打ち掛け姿だった。式の後、集まった全員で披露宴を兼ねて簡単な食事を一緒にした。
その時、茂の父親で酒を飲まない亮一が「おーい、酒は二級酒でいいぞ」と仲居に言ったが、そろって酒好きな飯塚家の男たちはちょっと鼻白んだ感じだった。
式の夜、布枝は境港に行き武良家に一晩泊まった。境には前年の夏に町内の海水浴で一回行ったことがあるきりだった。夜中に、布枝は、夫の茂の腕が付け根から十センチほどしかないのを初めて知った。義手をつけていたのでわからなかったがもっと長いと漠然と思っていたのだ。しかし茂は「ネクタイを締める以外のことは何でもできる」と言い、事実その通りだった。
あくる日は二人で大塚に行き、飯塚家に一泊した。婿入りという慣習である。
二月一日、布枝は着換えだけ詰めたボストンバッグを持って、茂とともに夜行列車に乗り込んだ。家族や親戚、友人が駅まで見送りに来てくれた。東京での新しい生活に向かって心躍るような旅立ちだった。
※ ※
新居は平屋に二階部分を増築した二階家で敷地三十五坪の小さな建て売り住宅だった。なるほど玄関は洒落《しやれ》た洋風、台所にはテーブルも椅子もあった。
しかし当時の調布市下石原(現、富士見町)周辺は一面の畑地、家の裏には寺があり樹木が鬱蒼《うつそう》としていた。
「なんと、ここが東京か……」
布枝が思い描いていたのとはまるで違ううら寂しい場所だった。
当て外れは夫の茂に対してもあった。
仲人から聞いていた通り確かに真面目でよく働く。四六時中机に向かって必死にペンを走らせている。新妻の布枝の顔をまともに見る時間もないくらいだ。家の中で一番寒い板張りの仕事部屋に一晩中こもって、布枝が朝起き出す頃にバッタリと眠り込むのである。
それだけ働いているのに、家計は苦しかった。結婚前の話では、マンガの単行本を月に一冊描けば約三万円の収入になるということだった。月収三万円なら並の会社員よりいいはず、そう思ったのだが、それは「出版社がキチンと払ってくれれば」という条件付きだった。原稿料を値切る、一部しか払わない、まったく払わない、約束手形で払ってあとで倒産してしまう……、貸本マンガ界の零細出版社にはろくな会社がなかった。大塚の両親が「当座の足しに」と布枝に持たせてくれた大金十万円は、アッという間に消え失せてしまった。
それにもう一つ、布枝がどうにも納得できなかったのは、茂の兄の宗平一家への援助だった。当初調布の家は二軒続きだった。一軒に義兄一家が住んでいたが土地関係のトラブルがあり、布枝がきた頃、一家は近くの市営住宅に移っていた。その義兄の家族に茂は、なぜか全面的ともいえる経済的援助を続けるのだ。毎月の市営住宅の家賃は布枝が払いに行かされた。結婚後二年ほど二階に間借り人を置いていたが、その家賃収入もそっくり義兄に手渡した。折に触れ品物を差し入れたし、義兄の会社が倒産した時には子供たちを預ったり食事の世話をしたり……。
宗平が戦犯として五年間巣鴨で服役した話は布枝も聞かされ知っていた。「人生を狂わされ不憫《ふびん》だ」という茂の考えもわからないではない。しかしこちらも、せっかく持参した愛着ある着物を次々に質入れするくらい苦しい生活なのだ。
「これはどういうことでしょうか!」、布枝は茂に尋ねた。「貧乏には耐えますが、義兄《にい》さんの家族を支援する余力など我家にはありません」。茂は一言「済んだことを言うな」と言っただけだった。口ではダメだと手紙に書いたこともあった。夕方、仕事場の机の上に〈結婚を契機に無理な援助は止めるべきではないか〉と書いた手紙を残しておいたのだ。翌朝、手紙は丸めて屑籠に捨ててあった。
夢に見た新婚生活とはほど遠い毎日の中で、布枝にとってほとんど唯一の楽しみはサイクリングだった。見合いの時に茂から「自転車に乗れますか?」と聞かれ「はい」と答えたが、一緒の生活が始まると間もなく、茂は中古の女性用自転車を一台買ってくれたのだ。
中古自転車を二台連ね、近くの多磨霊園や深大寺《じんだいじ》へたびたび遊びに行った。多磨霊園では山本五十六元帥の墓など有名人の墓石を探して回った。自転車で墓地を走っている時、布枝はささやかな一体感のようなものを感じた。
結婚後初めての二人だけの外出も思い出深い。一年近くたってからだった。茂が急に「映画を見よう」と言い二人で池袋に出かけた。映画館で『ナバロンの要塞』と『老人と海』の二本立てを見た。池袋駅前でバナナを売っていて、二人で買って食べながら歩いた。とても寒い日で北風が強かった。茂の脇に寄り添うと風除けになり温かかった。「寄らば大樹の陰」、思わず布枝はそう呟いていた。
貸本出版社もたまにはまともな原稿料を払ってくれることがある。徹夜明けでフラフラになりながら原稿を持って出かけた茂が、紙袋いっぱいの食品を抱え上機嫌で帰ってくる日がそうだ。袋の中身は、中村屋のケーキ、コーヒーのモカ・ミックス、アメリカ煙草のキャメル、牛の上肉……。飯塚家の教えでは「金の入った時こそ節約に努むべし」なのだが、武良家ではまったく違った。入金があればパッと散財してしまうのである。大体武良の人間は贅沢だ、と布枝は思った。ふだんの食事でも、オカラをイカの煮汁で煮直したりキャベツの余りを漬物にしたり、貧しければ貧しいなりにいろいろ工夫をこらしているのに、「これは塩味が足りない」とか「うまみに欠ける」とか文句を言う。食べないわけではないのだが食べ物に妙にうるさいのだ。
結婚後約二年たった昭和三十七年(一九六二年)十二月二十四日、長女尚子を出産。この頃がもっとも苦しい時期だった。
飢え死にこそしないものの、将来の展望は開けない。茂は相変わらず懸命に仕事をしており、それでいて質札だけがたまってゆく。布枝は不思議に思った。大の男が何年も、これだけ命を削り精魂傾けて取り組んでいて、その結果が全然報われずむしろマイナスを生じるなど、そんなことがこの世の中にあるだろうか、と。布枝は尚子が生まれる前にも、貸本出版社に茂の原稿を届けたり原稿料をもらいに行ったりしたことがあったが、尚子ができると尚子を背負って出かけた。昭和三十八、九年は国分寺の東考社が多かった。
〈約束の原稿料の支払日に金ができず、帰宅が遅くなって、集金に見えていた水木の奥さんに迷惑をかけたこともあった。このときは国分寺の駅で待ってもらい、予定の半分にも満たない金しか渡せなかったのだが、奥さんはほっとしたようすで、
「ここで会えなければ、どうしようかと思った」といった。
その言葉が今でも耳に残る〉(桜井昌一『ぼくは劇画の仕掛人だった』エイプリル出版)
尚子は大人しく寝てばかりいる子供だった。手がかからないので、画用紙に穴をあけたり枠線を引いたりと茂の仕事を手伝う一方、布枝は茂の趣味にも参加した。プラモデルの連合艦隊作りである。茂はいったん何かをやり出すと熱中する性格だった。旧帝国海軍の連合艦隊の模型は、以前からカマボコ板などを使った手作りのものを千分の一の縮尺で作っていたのだが、新たにプラモデルの会社から七百分の一縮尺のものが売り出されると、全部作り直すことにしたのだ。
仕事が一段落した夜などやおらセメダインを持ち出し軍艦製作に取りかかる。編み物や刺繍が好きだった布枝も手先は不器用ではない。傍らに座ってせっせと手伝った。でき上がった模型は畳二畳大の紙製の海の上に並べて眺めた。プラモデルの連合艦隊作りは、夫が仕事を忘れ、妻が貧乏を忘れて没入できる、共通の楽しみとなった。
昭和四十年(一九六五年)十一月、茂が≪別冊少年マガジン≫に発表した『テレビくん』が第六回講談社児童まんが賞を受賞した。
布枝は別に驚かなかった。あれだけ仕事をすれば当然のことだと思った。マンガ家水木しげるはいつの日か世に出ると信じていた。
それよりも、賞金十万円に大喜びしたのも束の間、それが今度もまた義兄一家の援助資金に回されてしまったことに驚嘆した。
翌四十一年の六月、新宿の東京飯店で水木プロダクション創立パーティーが開催された時、布枝は次女の悦子を身ごもっていた。
3
五月のよく晴れた日だった。
前日の大雨が嘘のように晴れ上がり、約束の午後一時に調布市富士見町の水木の自宅前に着いた時は、真夏を思わせる日差しだった。
スポーティーなシャツにジーンズという軽装の布枝は、すでに車庫から車を引き出し、トランクを開けてあれこれと食料品の袋を詰めていた。聞いてみると、「富士山の別荘は四月末以来で今年になって二回目」だと言う。
まもなく自転車に乗った水木が事務所から帰ってきた。直前まで仕事をしていたのだ。水木の方はいつものように野球帽型の帽子を被ってサンダルばき、普段着のゆったりした長袖シャツとズボン姿である。サンダルを靴にはき換え、薄手のジャンパーを羽織っただけで助手席へ。
「何時間くらいかかりますか?」
「一時間と少々でしょう」
私も乗り込んで、布枝の運転するダークブルーのスバル・レガシィは出発した。
別荘の所在地は山梨県の南|都留《つる》郡|鳴沢《なるさわ》村だった。布枝へのインタビューの中で、「私たちのこの二十年は富士山の別荘なしには考えられません」という言葉を聞き、ぜひにと頼み込んで連れて行ってもらうことにしたのだ。
車は甲州街道に出ると、中央自動車道に乗るためにすぐに調布インターに入る。
「はよ行かんか、ほれ、さっさと」
インターチェンジへの右折を水木がせかす。
「だって、こっちが優先なの」
「さっと行けばいいんだ、さっと」
別荘へは冬期を除いて年に十数回も行くという。それが二十二年も続いているとなると計数百回。ということは、夫婦はこの入口で何度同じ会話を交わしているのか……。
もちろんレガシィは何の問題もなく右折して高速道路に乗った。
「調布から別荘まで九十六キロです。その間にトンネルが十個あるんです。河口湖インターを降りてからの距離は……」
布枝は完璧に道をそらんじていた。
「家内に自動車の運転の仕方を教えたのは私なんです」
水木が顔半分だけ振り向いて言った。
「でも水木さんは確か、六十歳の時免許を取ろうと思って仕事が忙しくて諦めたって?」
「それでも教えることはできるんです」
水木は正面を向いて片手を伸ばした。
「こうしてハンドルを握って、ジッとしとれと。走ろうと思うな、道の方が勝手に動いてくる、お前は動いてくる道の上にただ乗っかっておればええ、と。な? それでお前、富士山以外に新宿と荻窪へ、今でも行ける」
布枝は頷いた。両手は正しくハの字形にハンドルを握り、姿勢を正し、真っすぐ前方を凝視して「動いてくる道に乗って」いる。
私は、同行できてよかったと思った。
談合坂を過ぎたあたりから道路脇のそこかしこに満開のフジの花が見えた。五月の新緑の中に点在するフジは、サクラとはまた別の趣きで、近く遠く現われる山々の風景の上に、淡く上品なぼかし模様を散らせていた。
一時間十分ほどで到着した。
丸紅富士桜別荘地の一画だった。富士山の北側の裾野に広がるアカマツとカラマツの林を抜けて行くのだが、何度か同じような道を折れ曲がるので地理的にはわかりにくい。クリやクルミやアカマツの木々に囲まれた、ちょっと変わった屋根の平屋の建物だった。
「秋になるとドウダンツツジがきれいですよ。アヤメとかサクラソウとか家から持ってきて移植したものもありますけど、やっぱりフジアザミ、オダマキソウ、ノコンギクなんか、地の花の方がいいですよね」
車を降りるなり、布枝は玄関先の草花を指差しながら言った。
「家内は植物の人≠ネんです。長い間知らなかったけど、そうなんです」
水木によれば、布枝は調布の家の屋上でさまざまな野菜や草花を器用に栽培しており、かつては古代エジプトのハスの花を咲かせたこともあるのだそうだ。
「あなたが知らなすぎるんですよ。ハギでも何でも雑草と思って切っちゃうんだもの」
「黙って切ると大問題なんです」
生命力溢れる植物を描く稀代の風景マンガ家も、「植物の人」の前では形無しだった。
家の中に入ってカーテンを開け放ち、ベランダのガラス戸を開けて空気を入れ換えると、まだ布枝が食料品の袋を運び入れているのに水木は、「散歩に行きましょう」と言った。富士山の別荘にやってくると何はさておいても二時間から三時間の散歩をするのが「いつもの行動」なのだ。
「雨でも夜でも散歩します」
カメラを左肩にかけてすぐに歩き始めた。
あたり一帯はすべて別荘地だった。どの建物も林の中にあった。が、建物の大きさは水木の別荘とさほど変わりはないものの、それぞれの区画がだいぶ狭いように思える。
「これらは一区画、ウチは二区画です」
昭和四十六年に二区画分約三百坪を七百五十万円で買ったと言う。
「安かったんです。その頃は売り出したばかりで他にほとんど建物がなかったから、宣伝のためもあったんでしょう。サービスしてくれました。だから私、丸紅の悪口は絶対言わないんです」
恐ろしいほどわかりやすい論理だった。
「それにウチの場合は、東西と南の三方向に家が建ってないんです。もう二十年以上建ってない。それで実際以上に広く見えるわけです」
そう言って、歩く速度をやや緩め、私の方を見ていたずらっぽく笑った。
「私、別荘評論家なんですよ。誰も知らないですけど」
一軒の別荘の前で立ち止まった。木造の山荘風の建物。しかし、屋根には草が生え壁のペンキは剥げ落ちていた。廃屋同然の荒れようだった。
「建ててから人がきたのを見たことないです。十数年このままですよ。建てた時点で、別荘を持つことのすべての意味が終わってしまったんです」
少し歩いて今度は右側の建物を示す。
「ここは三年前まではよくきてました」
一階部分が湿気除けのコンクリート造りで車庫と物置になっていた。二階の木造家屋はそれほど古びた感じがしない。が、子供用遊具の一部がベランダの隅で色褪《いろあ》せていた。
「三年前に丘の上に別の家が建ったんです。風景が壊され、庭は日陰になり、上から覗かれ、何とはなしの威圧感を受ける。すなわち別荘としての使用価値がことごとく消え失せ、今や放棄されたんです」
坂道を登り、しばらく行ってある建物の駐車場に張られた鎖をヒョイと跨《また》ぐ。
「構いません。誰もいないですから」
芝生の庭にドンドン入って行く。
「ここはいいです。高台で眺めもいいし、庭の手入れも行き届いてる。隣と比べた場合、雲泥の差でしょ?」
なるほど、隣は多少土地が低くなっているだけだが、正面に密生したカラマツ林があり眺望を遮《さえぎ》っていた。わずかな位置の差で全体に薄暗い。それにしても、見知らぬ別荘の庭から眺める富士山は壮麗というほかなかった。さすがに富士を売りにする別荘地だけあって、圧倒的な迫力があり、しかも端整に見える距離を保っている。水木の別荘からも見えたことは見えたのだが。
「ウチは大木が多いからあと五、六本切らないと……。家内と相談の上ですが」
勝手知ったる他人の庭、水木は敷地を横切って玄関脇から別の道へと出た。
丸紅富士桜に限らずあたり一帯の別荘地はくまなく歩き尽くし、もはや迷おうにも迷えないほど周辺の地理に精通していると言う。
「別荘というのは庶民の夢なんです。別荘を建てることは夢を実現することです」
左袖をジャンパーのポケットにねじ込み力強く歩を進めた。道の両側は針葉樹と広葉樹の混交林、どこからかキツツキの音も聞こえてくる。
「普通の人は現地に見にきて、もっと洒落た家とか個性的な家、もっと大きい家を建てようとしますが、まず失敗します。維持管理の手間や費用、自分の自由になる時間や年間使用回数を考えないからです。家なんか小さくていいんですよ。奇抜なデザインにしたら維持費だけでえらい目にあいます。本当に重要なのは場所です。どんな土地に建てるか、です。もっとも二番目に見た建物のように、最初はよさそうな場所でも、後で大ドンデン返しを食うことがありますから安心はできないです」
「何だか、別荘ウォッチングと幸福観察学は似てますね?」
「そうなんです。似てるんです」
幸福観察学会は、例の路上観察学会を真似て、水木が四、五年前から提唱し始めた私設学会≠セった。「路上の珍奇なものを観察して面白がるより人生の幸福を観察して面白がる方がよほど意義深い」というわけだ。
貸本時代の傑作諷刺マンガの多くが人生の幸福(と不幸)の観察≠テーマとしていたのでその延長線上にある主張と言っていい。ただし、学会<Eンヌンは「正会員は私一人」と公言している通り半分冗談だった。「幸福観察は広めるものではなくただ静かに実践するもの」らしい。
「人間というのはなかなか未来を見抜けないんです。せっかく別荘を持てる段階まで辿り着きながら、使えもしない、行きもしないような別荘を作ってしまう。ハハハ、夢にまで見た幸福が泡と消えるんです。これなんか、ねェ、哀れなもんですよ」
暗い谷間にいくつか別荘がちらばっていた。水木が顎《あご》で示した建物は、外観は白一色のモダンな作りだが、やはり湿度が高いのだろう、あちこちに錆びが浮き出てカビや苔で汚れていた。階段や玄関先に落ち葉がうずたかく積もっているのを見ると、ここも長い間使用してないことは一目瞭然だった。
「別荘はね、私の場合そう失敗はしてないと思いますが……」
水木はふとしゃがみ込み、小さな水色の花の咲く草むらにカメラを向けた。
「幸福かどうかはわからんです。ゲーテが言うように、目の前の石をただ持ち上げてるだけかもしれん。他人のことは観察できても、自分のことはよくわからんですよ」
すぐに立ち上がり、再び歩き始める。
私は慌ててメモ帳を閉じて後を追った。
夕方はずっと焚き火だった。
庭に焚き火専用の一角があり、そこで「頭を空っぽにしてひたすら火を眺める」のも、富士山の別荘での大切な「いつもの行動」なのだ。落ち葉は敷地内に大量にあり、伐採したまま放置してある樹木や枯枝もまた燃やしきれないほどあった。
私は一時間近く枯枝集めを手伝っていたが、林の中に陽が隠れると急に冷気が強まり、別荘へ上着を取りに戻った。
布枝は三人分の夕食の仕度に忙しかった。
「今日はアレですけどね、いつもは土木作業みたいなことやって、あとは寝るだけなんですよ。土木作業? 主人はノコギリで枝切り。私は、園芸のことやったり、家の修理をしたり。季節によっては、キノコや山菜を採りに行くこともありますけど」
娘二人が幼く水木の両親が健康だった頃は、しばしば野外バーベキューなども催したが、夫婦だけが利用するようになったここ数年は共通の楽しみは散歩ぐらいなものだという。
「でもね、何もなくても自然があるだけで主人にはいいようなんです」
鍋の蓋をつまみ上げ、煮物の味をみる。
「気分転換になるんでしょうね。不意に行こうか≠チてよく言います。私も田舎育ちですから、自然の中は大好きですし……」
刺身のほかに冷蔵庫から取り出したばかりの分厚い牛肉があり、アボカドのサラダも調理中。大変な御馳走になりそうだった。
私は質問を切り上げて、また外に出た。
水木は木の枝と格闘していた。どこからか引きずってきたサワグルミの枝、そんなに太くはなかったが長い。その中央部分を片足で踏みつけ、一端を握って引き起こし、全身を使って強引にヘシ折ろうとしていた。
何度か試みてようやく成功すると、枝を火にくべ、その上に枯れ落ち葉をぶちまける。
炎が燃え上がるとあたりが急に暗くなった。別荘以外の三方が林なので、別荘に背を向けると深い森の中にでもいるような感じがした。
「焚き火は、子供の頃にもやってたんですか?」
水木は首を振った。
「ラバウルとか軍隊時代は?」
「いや、ここにきてからです」
狭い敷地いっぱいに建物が建っている調布の自宅でも焚き火とは無縁だったという。
「原始的な娯楽ですよ」
水木は言ったが、東京で連日締切りに追われている水木にとっては散歩同様、ことによるとそれ以上に、無心に火を焚く「原始的な娯楽」の時間は必要不可欠なのかもしれない、と私は思った。
水木は黙々と小枝を火にくべている。私は思い切って聞いてみることにした。
「自殺未遂の理由は何だったんですか?」
水木はスッと顔を上げた。
「自殺未遂? 誰が言いました、それ!」
声が大きくなっていた。私は聞いた人物の名前は明かさなかったが、紙芝居時代の水木にそうした噂があると答えた。
「ないですよ! そんな、自殺未遂なんて、ないです……」
手にした枝でせわしなく火をつついた。
そして、興奮を抑えるようにして言った。
「私は、前に進む方です。何事に対しても突進するんです。自殺したいなんて思ったことは、絶無です。後退の意志などない。長い貧乏時代にも、世界中見て回りたいとか、やりたいことが山ほどあったんです。それなのに自分から死にたいなんて……。これまで私、後ろ向きになったことはありません。いつかは絶対、自分の考えていることが実現できると確信を持ってました。自殺未遂など、金輪際あり得ないことです」
私は質問を撤回した。
しばしの間、沈黙と静寂があった。火はすでに充分大きくなっていたので、水木は傍らの煉瓦造りのベンチに座って腕組みをし、私も対角のベンチに腰掛けて煙草をくゆらせた。
別荘のガラス戸の向こうで布枝がテーブルに食器を並べているのが見えた。夕食は間もなくだった。やがて水木が口を開いた。先程の昂揚した様子は消え穏やかな口調になっていた。
「水木さんの言ってること、奥歯に物が挟まったようで時折ようわからんでしょ?」
私は素直に頷いた。
「南方への憧憬があるんですよ。根強くあるんです」
「というと?」
南方への憧憬≠ヘこれまでに何度も聞いていた。
「私は今でも、南方でこういうことして(と火中に枝を追加し)のんびり暮らした方がいいんじゃないかと思ってる。本当にそう思ってるんです」
「今の生活を全部捨てて、ですか? 本気で未だに移住を考えてるんですか?」
水木は微笑みながら肯定した。
「真実の幸福は向こうにあるような気がするんです。しかし、家族に真剣に相談しても納得を得られんのです。移り住むといっても、一人じゃね……。それにこちらで成功してしまってる。だから、一見幸福なんだけども、本当に幸福かというとそうじゃない。胸の奥にいつまでも満たされない南方への思いがあるわけです」
「でも、エッセイなどではもう昔のような楽園ではない≠チて書いてますよね。何度もラバウルやニューブリテン島に行き、行くたびに文明に毒されてる≠ニ。大の友人のトペトロも二年前に亡くなってますし」
「それは、書いただけです。憧れが消え去ったわけじゃない」
私は驚いた。
水木は昭和四十六年(一九七一年)十二月、約二十六年ぶりにラバウル郊外のトライ族の村を訪れトペトロたちに再会した。少年トペトロは戦争末期、傷病兵部隊にいてマラリアと飢餓に苦しんでいた水木に、老婆イカリアンの指令で食物を運び続けてくれた。彼らの暮らす平和な村は、悲惨の極限の中で水木の発見した地上の楽園≠ナあり天国≠セった。
以来水木は十回近いラバウル詣でを繰り返すことになる。しかし、私の読んだ『失われゆく楽園』(昭和54年10月1日付朝日新聞)という水木のエッセイは強烈だった。そこで水木は、近代欧米文明の侵入によってのどかだった楽園≠ェ一変したありさまを活写している。道は舗装され、町にはスーパーができ、椰子の葉の家は白ペンキを塗った板張りに変わっていた。昼寝ばかりしていたトペトロは朝早くから賃労働に追われ、憧れの美女エプペも「強欲ババア」に変身していた。明日を思い煩わない自給自足社会が資本主義の消費社会に巻き込まれ、蹂躙《じゆうりん》されたのだ。
水木は『失われゆく楽園』で書いている。
〈いままでいわれていた楽園≠ニいうものは、もういずれ地球から姿を消して、これからなにか新しい楽園≠ェ知恵の力で作り出されるのかもしれない、と思いながら、|かつての《ヽヽヽヽ》楽園《ヽヽ》≠あとにした〉(傍点筆者)
この一文以降も水木は、さまざまなメディアで南方への憧憬≠披瀝している。ニューギニアへの移住願望を懲りずに述べたものもあった。だが私は、『失われゆく楽園』であそこまで現実を見てしまった以上、本心ではあるまいと思った。南方への憧憬≠語り続けてきた文化人水木しげるの、よく言えば責任感、卑俗に考えればサービス精神の表われだろう、と。
「違うんです。誰も本気にしないし、わかってくれないけれど、私は今でも向こうに住みたいんです。日本でマンガ家やってるよりも、ずっといいんじゃないかと思ってる」
「昔とは、まるで違ってますよ」
「あの村以外にも、ニューギニア全土をくまなく歩き回ってみたいんです。面白そうなところがいっぱいあります。トペトロは死んだけど、その息子たちとか、ほかにまだ生きている友人知人もいるんです。……でも、それができない。幸福そうに見えて、幸福じゃないわけですよ」
別荘のドアが開き、布枝が我々を呼んだ。焚き火の火勢は衰え、知らぬ間に炭火のようになっていた。足許から寒さが這い上がる。
「もう入りましょうか?」
「この種類の木はちょっと燃えにくいんです」
水木は焼け残った幹を木片で掘り起こし、なおも「原始的な娯楽」を続行する気配だった。
4
武良尚子。長女、小学校教師(昭和37年12月24日生)
※ ※
「都内の小学校に勤めてますけど、学校で私の素姓を知ってる人はいません。私は私、武良尚子でいたいんです。水木しげるの娘とまず思われてしまうのはいやです」
──どんな子供でした?
「大人しい子でした。本が好きで名作物語とかSFとか本ばかり読んでました。でもマンガも好きでしたよ(笑)。小学校の三、四年生までは、身の回りに父のマンガの本がたくさんあったので、鬼太郎なんか描いてました。小学校高学年になると少女マンガの模写です。高校生頃までマンガを見たり描いたり……」
──一時期マンガ家を目指したとか?
「マンガ家かアニメーターになりたかったんです。高校時代は特にアニメにのめり込んでたから、アニメーターが第一志望でした。とにかく創作者になりたかった」
──でも、ならなかった
「父に反対されました。マンガ家でもアニメーターでも、絵関係のものはダメなんです。厳しい世界だからとても暮らしていけないって。小説家ならいいけど≠チて。それで大学(明星大学)に入って心理学をやってから、教育に興味を持ち始めたんです」
──子供時代に、父親が著名マンガ家だったことによる影響は、何かありましたか?
「ありました。小さい頃から絵を描くのが好きで得意でもあったんですが、小学校五、六年になると友達がお父さんがマンガ家だもの、上手《うま》くて当たり前よ≠チて言うようになり、とてもいやでした。お金持ちだから私立中学へ行けるのね≠ニか、お父さん有名だからお金持ちでしょ?≠ニか。その頃から父親のこと、隠すようになったんです」
──実際は金持ちじゃなかった?
「うーん、実感としては普通の家庭より質素だったと思いますね。妹と誕生日が一緒なんですが、いつもプレゼントは二人で一個のもの、億万長者ゲーム一つをはい、これ二人でね≠ニか。ケーキも一個を半分ずつとか。母が金持ちぶるのを嫌うんです」
──本当は裕福なのに?
「父も母も二人とも、心の底からのお金持ちにはなれないんじゃないでしょうか。両親そろってブランド物にはこだわらないし、名より実を取るところがあります。父にしても、一緒のホテルや旅館に泊まると、必ずタオルや歯みがきセットを持って帰ります。私がシャンプーなんか残しておくと、なんで残しとく!≠チて怒るんです。そういうの嫌いだったんですが、なぜか私、しっかり受け継いで(笑)。今の職場の私の机の中、拾い物のちびた鉛筆でギッシリ(笑)。モノを全然捨てられない性格になってしまいました」
──子供時代の家族の思い出というと、どういうものがありますか?
「デパート巡りですね。私が小学校低学年の頃まではよく日曜ごとに行ってました。特に何かを買うというのではなく、家具売り場や食器売り場をただブラブラ見て回るんです」
──家族四人で?
「ええ。父にすればそれも気分転換の一つだったんでしょう。それから食堂で食事したりして帰るんです」
──お父さん中心の家庭だった?
「そう、ですね。父の言うことには絶対服従、みたいな。母がよく言ってました、お父さんは一家の柱です≠チて」
──娘から見るとどんな夫婦ですか?
「仲はいいですね。けど最近かな、特に仲よく見えるのは。それまでの父は仕事一筋でしたからね。昔は夫婦喧嘩も時々あって、夜中に母が出て行きます!≠ネんて言って、家を飛び出して行ったこともありました」
──いつ頃ですか?
「私が小学校一年の頃です。妹は泣いてオロオロしてましたけど、私はじき帰ってくるさ≠ニ思ってました。案の定、すぐ帰ってきました。その頃から妹は、父と母のクッション役を果たしていたんです」
──夫婦喧嘩の原因は?
「些細なことですよ。母がつまらないことで愚痴を言って、いつまでも愚痴が続くと父が怒るんです。最近はほとんどないですけどね。その代わり、私と母がよく喧嘩します」
──尚子さんの結婚話とか?
「それです(笑)。私が二十五を過ぎてから、母は早く結婚して≠チてそればっかり(笑)。もともと二人とも、私に就職してもらいたくなかったんです。母の方は早く結婚させたいし、父は手許に置いて水木プロを手伝ってもらいたい。普通の親なら、娘が公務員になれば喜ぶのに、ウチは二人ともちっとも喜ばない(笑)」
──お父さんは今でもその考えですか?
「そうですよ。先日私、学校でいやなことがあって泣いて帰ったんです。もう辞める!≠チて泣き喚いて。母はいちおう慰めてくれたんですが、父はというと大喜び(笑)。ついにきたか! 俺はこの時を待ってたんだ!=i笑)。翌日、私が気持を取り直して出勤することにしたらガックリ(笑)。……だけど私、教師には向いてないみたいなんですね。現在の小学校教師は、時に応じて生徒を怒鳴りつけたりひっぱたいたりしないと務まらないんですが、私は八年たってもそれができない。性格的に合わないんです」
──じゃあ、いずれ水木プロへ?
「将来的には何らかの形で関わらざるを得ないでしょうね。それがいつになるのか、どういう形になるのか、今の時点ではまだ何とも言えませんけど……」
──現在でも父親には絶対服従ですか、三十歳になったのに反撥はしない?
「そんなことありません。今は私も言い返すことがあります。父は、苦労した末に成功したせいでしょうか、あまりに自己中心的です。自信過剰な面もあります。例えば誰かにお世話になって、私がお礼状書いたら?≠ニ言ってもいいんだ、ほっとけ≠ネんて言う。私なんか、自分を殺しても組織のことを考える毎日ですから、身勝手じゃないですか!≠チて思わず反撥してしまいます」
──ほかには?
「私の朝寝坊は父のせいです(笑)。武良家では父の方針で、たっぷり睡眠をとることとゆっくり時間をかけて充分食事することを、最重要視してました。おかげで私も妹も、よく寝てよく食べる娘に育ちました(笑)。満足な睡眠や食事がとれなかった父の戦争時代や下積み時代を考えると、もっともな家訓だとは思います。でも、外の社会に出ていろいろ眺めてみると、ちょっと異常だったかなと(笑)。今の時代、食事や睡眠よりもっと重要視すべきこと、たくさんありますよね。いい友人を積極的に作ったり、社会的な活動に自分の方から参加したり、そういうことの方がよっぽど大切だと思うんです。父はその点、ものすごく偏ってる。そう思います」
5
武良悦子。次女、水木プロ社員(昭和41年12月24日生)
※ ※
──朝寝坊はお姉さんよりひどかったとか?
「中学時代が一番遅刻しました。母が無理に起こすと父が怒るので、毎日のように遅刻です。お姉ちゃんは自分に厳しいところがあるけど、私は自分に甘い(笑)」
──短大(大東学園)の英文科を出てすぐ水木プロ、ほかにやりたいことはなかった?
「特別やりたいことってないんだけど……、ピエロの養成所には行きたかった」
──ピエロ?
「養成のための専門学校があるんです。施設の訪問とかいろんなアトラクションで演技したり。テレビでその学校の紹介をしてて、ピエロの人形集めるの好きだったし、漠然と行きたいなと思ったんです」
──かなり特殊な分野ですね
「私、ハメを外す時は外せます」
──ではなぜ入学しなかったんですか?
「母がダメだって。サーカスに行くつもりなの?≠チて言われて……」
──お父さんも反対しました?
「たぶん、ダメでしょ。母から聞いてるんじゃないかな。姉は、やりたいことやりなよ、協力するから≠チて言ってくれたけど」
──お父さんは、恐い?
「怒ると恐い」
──これまで殴られたことは?
「それは二人ともないです。あ、私は一回だけある。高速道路走ってて、窓からハーモニカ落とした時に、危ないじゃないか!<Rツンってやられた。だけど、ふだんはやさしいです」
──尚子さんは子供時代、水木しげるの娘だってことを隠したそうですけど、悦子さんの場合はどうでしたか?
「私もそうです、中学時代から。友達にいいな、すごいな≠ニかサインもらってきて≠ネんて言われ始めて、父のこと意識するようになりました。一人にサインあげるとみんなにあげなきゃいけないから、最初から誰にもあげない方がいいと思ったんです。それからは父親の職業を聞かれると自由業≠チて答えることにしました」
──悦子さんも、マンガは好きだった?
「大好き(笑)。でもお姉ちゃんと違って描く方は落書き程度、読む方専門です。近くにマンガの本が置いてあると、とにかく片っ端から読んじゃうので、それでよく母に叱られました。今でも好きで読んでます。あろひろしの『優&魅衣』とか」
──水木作品はどうですか?
「小さい時からいつも周囲にあるから、鬼太郎シリーズも全部読んでるし、特にどれって……、全部好きです」
──どう思いますか?
「いつまでたっても昔風だなと(笑)。でも、絵が素朴で、どこかぬくもりがありますよね。それと、世の中をよく見てるんだなァと思うことがある」
──悦子さんは妖怪に出会ったことは?
「一度だけ」
──聞かせて下さい
「中学の修学旅行で京都に行ったんです。山の中の宿に泊まったら、夜中に障子に目が映って、最初誰かのイタズラかなと思ってた。そしたら、一マスに一個ずつ目が現われて、それが動くんです。すごく恐かった。友達も一緒に見たのに、友達は信じなくて、それで帰ってから父に聞いてみたら目々連《もくもくれん》が出たんだ≠チて。それまでは半信半疑だったけど、あんまり自分がビックリしたんで、妖怪ってやっぱりいるんだなァ≠ニ思った」
──家族でほかに妖怪を見た人は?
「母は全然信じてない(笑)。お姉ちゃんはもともとすごい恐がり(笑)。お姉ちゃんは、妖怪やお化けの存在は信じてるけど、幽霊は本当にいると思うと恐すぎるから信じてない(笑)。信じてるはずのお化けの話しただけで夜眠れなくなっちゃう(笑)。私は、妖怪はいてくれた方が世の中が面白くなると思うんです。会えるものならいろんな種類の妖怪やお化けに会ってみたい」
──ところで、悦子さんは二年前の平成三年の暮れ、お父さんと一緒にニューギニアへ十日間旅行してますよね?
「はい、初めて行きました」
──水木さんは今でも、家族の同意さえ得られれば向こうへ移住したいと思ってるわけですが、どうですか、実際に行ってみた感想は? 家族で住むのはやはり難しいですか?
「そうですね、お風呂のないのがちょっと。あと、きれいな飲み水と、おトイレもあった方が(笑)。雰囲気は確かにのんびりしてるんですよね、ここに一生いてもいいかなァと思うぐらい。だけど気候はやっぱり暑いし、蚊はいっぱいいるし。あのマラリア用の薬って、けっこう強いんですよ。そういうの飲み続けても住みたいかとなると、難しいな」
──娘として父親の冒険旅行についてはどう思います? ニューギニア、アフリカ、イースター島と最近ますます盛んですよね、今年はアメリカのインディアンの村へも行くし
「心配です。年を考えてもらいたい!(笑)。でも父は健康体ですからね。何といっても鉄の胃を持ってます(笑)」
──そんなに健康ですか?
「私は父が寝込んだところを見たことありません。これといった持病もないし、風邪ひいてもいつも鼻風邪程度なんです。あとの三人は普通の人間なんですが(笑)」
──最後はどうしても結婚のことになりますけど、お姉さんの尚子さんは結婚自体にこだわりがないようですが、悦子さんは?
「私も今は全然考えてません。いつかはしたいですけど」
──どんな人と?
「私を引っぱって行ってくれる人。私が黙っていても、ピッピッと方向を定めて全部ちゃんとやってくれる人」
──何だかお父さんみたいな人ですね
「そう? そうかなァ……」
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第三章 アメリカの霊文化を訪ねる旅
1
コーヒーを注ぎ足しにきた年輩のウェイトレスに礼を言ったら、写真館に額入りで飾ってありそうな模範的笑顔が返ってきて、私はようやくアメリカにきたという実感を覚えた。
午前九時。水木は向かいの席で二つ目の目玉焼きを食べていた。皿の上の料理は目玉焼き、ベーコン、フレンチフライ、いずれも分量が多く大ざっぱに盛られている。隣席のカウボーイ風の男は大盛りのハッシュドポテトの上に大量のトマトケチャップを振りかけていた。
アリゾナ州フラッグスタッフの郊外モーテルの近くにあるレストランの窓辺には朝の光が満ち、手入れの行き届いた外の芝生では勢いよく撒水器が回っている。
「あの女の人は何て名前でしたか?」
「宮田さんの奥さんですか? 玲子さんです」
「あの人はいっぷう変わったもんですな。宮田さんも変わっとるけど、あの奥さんも普通じゃないですよ」
水木はナプキンで口許を拭った。
前日の夕方、成田出発以来三機目の飛行機になる十九人乗りの小型機でフラッグスタッフ空港に降り立った時、こぢんまりした空港ロビーには四人の日本人が出迎えにきていた。宮田|雪《きよし》・玲子夫妻と二歳の娘|礼《あや》、それに今回通訳兼運転手を務めるサンフランシスコ在住のビデオ制作会社代表|大羽正律《おおばまさのり》だった。
モーテルでチェックインをすませた後、全員で近くの中華料理店に行き、翌日の簡単な予定を確認してから新旧の水木作品の話題で大いに盛り上がった(大羽も宮田同様に子供の頃からの水木ファンで一時期日本のマンガ雑誌の編集者だった)のだが、水木がその間興味を感じていたのは、食事中ほとんど喋らなかった玲子のことだったらしい。
玲子はマンガの話題には加わらず、娘の世話に専念していた。二歳にしては言語明瞭で何でもハッキリ主張する娘の要求に従い、料理をあれこれと皿に取ってやっていた。ワンタンスープのワンタンなど、水木に回ってくる前になくなってしまったほどだ。幾つかのパックに詰めてもらった食事の残り物も当然のように玲子のバッグに納まった。オカッパ頭で化粧っ気のない顔、細い少女のような体。くすんだ紺色のシャツに同系統の色のズボンという服装もあって、二昔ほど前のヒッピーを思わせる女性だった。
「貧乏みたいですね、あの人」
「そうですね。宮田さんの話では、宮田家はまだ住む家が決まらなくて、一家三人で友達の家を転々と渡り歩いてるそうですから」
「子供抱えて、転々とね……。金、やらにゃいかんでしょう、あの奥さんに?」
「はァ? ええ、まァ、必要でしょうけど、宮田さんに聞いてからの方が……」
今回のアメリカ旅行の日常的な出費に関しては、私が受け持たされていた。
というのも、新宿から空港へ向かう成田エクスプレスの座席についてすぐ、水木に「今回はおたくが会計やって下さい」と言われ、旅行用資金を預っていたからだ。その時は仰天した。真新しい百ドル紙幣を十枚ずつ入れた銀行製ビニール小袋を四つ、計四千ドル(約四十六万円)を肩掛け鞄の中から無造作に掴み出し、私にヒョイと手渡したのだ。「足りなくなったら言って下さい。ここにありますから」、鞄を覗くとビニール袋入りのドル紙幣が詰まっていた。これから犯罪大国アメリカへ行くというのに!「クレジット・カードを持ってこなかったんですか!」思わず私が言うと、「尚子もカードがいいと言ってたけど、あれ、いつも使わないから先日破棄しました、ワハハ」と悠然たるもの。どうやら海外旅行では常に現金至上主義で押し通してきたらしい。私はとにかく、現金を鞄で持ち歩くのは危険なのでやめてもらい、全身に振り分け常時身につけておくよう助言したのだった。
それ以来、前日の中華料理店の夕食代など、一行五人の経費は預った金の中から私が支払っていた(私個人の飛行機運賃、宿泊費、食費、電話代などはむろん自分で払ったが、ガソリン代や大羽の通訳料などの共通経費については水木の好意により水木の預り金から出した)。
「おたくに預けた金じゃなくて別に私があげようかと思うんです。どうですか?」
「でも、いきなりお金というのも……」
私には、水木と宮田の付き合いというのが今一つわかりにくかった。
水木と宮田の交流は二十年以上になる。水木によれば、最初に宮田に会った時に「夢のお告げで、この人を食わさにゃいかんと思った」とのこと。以後機会あるごとに宮田の支援を続け、つい最近も「宮田さんがホピ族を連れてインドへ行きたいが金がないと言うので」、資金捻出のため新作本(『水木しげるのノストラダムス大予言』辰巳出版)の原作を任せたくらいだ。
一方、十二月に日本で宮田に聞いたところでは、宮田が水木プロに出入りを始めたのは一九七○年(昭和四十五年)頃だった。現在四十八歳の宮田は当時二十六歳、映画の助監督を経てテレビの脚本やマンガの原作を書いていた。七三年(昭和四十八年)に宮田はインドに行き、それまでの生活を一変させる。インド旅行を契機に日蓮宗系の平和運動家、日本山妙法寺山主の藤井日達《ふじいにつたつ》を知ったからだ。七四年から七六年にかけて、宮田は奥多摩の寺院に住み込んで奉仕活動に明け暮れるが、「その頃一番水木さんに食わせてもらった」と言う。『東海道四谷怪談』(学研)など水木との共著をこの時期に多数書いた。一九七八年(昭和五十三年)、反インディアン法の議会上程に抗議する全米インディアンの大行進(ザ・ロンゲスト・ウォーク)に日本山妙法寺が参加すると、宮田も渡米した。そして、当初態度を保留していたホピ族(ホピとは平和に満ちた人々≠フ意)に行進参加を促すため、藤井の手紙を携《たずさ》え、宮田が単身アリゾナ州のホピ族の村を訪れたのである。それ以降宮田は、八年を費やして記録映画『ホピの預言』(16ミリ、75分、1986年)を完成させたり、信じ難い努力の末に鷹の羽を長老の証明書に挟んだホピ国の正式パスポート≠使ってホピ族の三人を日本に招いたりと、水木の言葉を借りれば「ホピにはまってしまった」のだった。
今回の水木のアメリカ訪問は、宮田にとっては水木を主人公に据えたテレビ番組用のビデオ作りという側面もあるのだが、十二月に東京で会った時、宮田はこう語っていた。
「水木さんには迷惑だと思うんですよ。また宮田を食わさにゃならん、と思ってるでしょうからね。でも、どうしてこうなるのか自分でもわからないんですよ。たぶん水木さんと妙な縁というか、精霊のつながりみたいなものがあるんじゃないでしょうか。水木さんがホピに会ってくれることによって、僕と水木さんとの関係も明らかになる、何だかそんな気がするんです」
摩訶不思議な付き合い、というほかない。
「宮田さんのこと、どう思いますか?」
何杯目かのアメリカン・コーヒーを飲みながら私は水木に尋ねた。
「一種の神秘主義者でしょう。神秘的なことに対する趣味が水木さんと一致してるんです。それと、欲がないですね。欲がないから精霊を見たり感じたりできるんです」
水木は片手で腕組みをして答える。
と、入口の扉が開いてその宮田が姿を見せた。大羽の他に、インディアンの男が二人と白人の女一人もやってきて、慌しく我々と挨拶を交わした。髪の長い若い男は一体の木製のカチーナ(精霊または精霊の化身)人形を持っており、それを水木に売りたいと言った。
「彼が作ったんですが、どうですか先生? 他にもいっぱいありますから、今ここで買う必要はないですけど。おっ、もう九時四十分か、そろそろ出発しなきゃな」
Tシャツにジーンズ、オールバックの長目の髪にバンダナを巻きつけた宮田は、やや小太りの和風インディアンという風体だった。席についた宮田は大羽たちと地図を拡げ、さっそく車のルートをあれこれと検討し始めた。
高さ四十センチほどのカチーナ人形は奇妙な仮面を被り腕に鷹の羽の翼を付けている。眉根を寄せてその人形を眺めていた水木が私の方を振り向き、にんまりとした。
「ね、宮田さん、金も展望も何もなくともきわめて元気なわけです。すなわち、はまってるんですよ」
2
一九九三年(平成五年)六月十九日、午前十一時過ぎ、私はホテヴィラ村の道路をエメリー・ホルメスの家へと一人向かっていた。
乾き切った未舗装の道は一歩踏み出すごとに茶色の細かい粉となって舞い上がり、目も眩《くら》むばかりの暑さも手伝って、後にした広場の喧騒が急速に遠のいて行く気がした。
祭儀の日なので村内に人影はまったくなかった。土地と同じ色の自然石を積み上げた家、石の表面をレンガ状に削って建築した家、出来合いのコンクリート・ブロックを手軽に積んだだけの家とさまざまだが、概して地味で埃《ほこり》っぽく貧しげな家並だった。ホピ族きっての伝統派の村と頭では理解していても、ここが二十世紀も末近いアメリカだとはどうしても思えなかった。むしろ以前訪れたことのあるメキシコの田舎町に似ている。全体が土色に乾燥した風景の中で異様な金属光を放っているのは自家用車や小型トラックの車体のみだった。その日陰に、放し飼いの鶏や犬が仲よくうずくまっている……。
広場で、夏至の踊り(ニーマン・ダンス)の踊り手の衣裳をメモしていた私は、警備係のインディアンの青年にメモを取り上げられ、即刻退場を言い渡された。お前は祭儀を冒涜した、すぐに立ち去らないと警察に突き出す、と言うのだ(数名の警察官がパトカーとともに広場の周辺にいたのは私も知っていた)。
で、少し離れた場所で熱心に見物を続けていた水木や宮田に手短かに経緯だけ話し、すみやかに退去することにしたのだが、まだ感情が昂ぶっていた。
祭儀に限らず、ホピの村に一歩入ったらいっさいの写真撮影は禁止され、スケッチすることも録音することもノートを取ることさえ禁じられていることは、事前に宮田から言い聞かされ村の入口に看板もあったので了解していた。しかし、宮田が(特別に許可されて)村内を撮影した『ホピの預言』を見ていたせいか、あるいは村の入口の看板が判読不能なほど傷んでいたせいか、またはポケットに小型テープレコーダーを忍ばせた水木がかなり大胆に踊りの音声を録音していたのを知っていたせいか、私には甘えがあった。カメラはともかく、簡単なスケッチとメモぐらいなら、宮田の言う「神聖な儀式を歪曲して外部に漏らす危険」はあるまいと高を括《くく》ったのだ。
明らかに非は私の側にあった。タブーを冒してしまったのである。当然といえば当然の結果だが、警備係の男があれほど敵対的な態度を示すとは想像すらしていなかった。男の表情は炎天下にもかかわらず怒りで蒼ざめていた。両目は赤く血走り憎悪を漲《みなぎ》らせていた。口をつく言葉はすべて命令形で一点の容赦も妥協もなかった。私は見物客の中ほどで比較的のんびりメモを取っていたので、周りにはたくさんの人がいたが、あれで人目がなければパンチの一発も喰らっていたのかもしれない。
それにしても、平和に満ちた人々≠フ村を訪れた第一日目に、それも世界の平安と万物の調和を祈願する祭礼の最中に、かくも明白な剥き出しの敵意で迎えられるとは……。
私は村外れのホルメスの家まで戻った。家の中を覗いてみたがもちろん誰もいない。食堂のテーブルの上に、トウモロコシと羊肉入りのシチュー、うずら豆に似た豆の煮物、フライブレッドと称する薄焼きのパンなど、朝食の時に食べた食物がそのまま残っていた。
一人でいる間にこれまでのことをまとめておきたいと思ったが、祭儀の期間中はホルメスの家も人の出入りが多いため、部屋の中でノートをつけている姿など誰かに見られると、また一騒動起きかねない。そこで乗ってきたレンタカーのワゴン車の中で書くことにした。
我々のワゴン車はホルメスの家の裏手に停めてあった。運よく村道からは見えにくい位置にあり、距離も多少離れている。私は後部座席に潜り込み、背を低くして、取り上げられたばかりのメモ用紙を再生することから始めた(没収されたのが取材用大学ノートではなく携帯用メモ用紙だけでよかった!)。
ホピ族と十五年間関わってきた宮田によれば、ホピの宗教儀式は一年に通常九回行なわれるという。深刻な後継者難で伝統派と呼ばれる村でもそのすべてが実行されるわけではないが、豊作祈願と精霊信仰が重なった二月のポワムと六、七月のニーマンは欠かせない。我々の見物したのはそのニーマンだった。
ホピ族にとって聖なる山は荒野の南西方向にはるかに聳《そび》えるサンフランシスコ・ピーク(6905メートル)である。そこにはホピ族の祖霊や、森羅万象、生きとし生ける物のあらゆる精霊《カチーナ》が住んでいて、毎年冬至から夏至の時期にかけて村々を訪れ、作物に豊かな実りをもたらし、人々に安寧を与え、人間と宇宙との調和を健全で確かなものとしてくれる。
二月のポワムは、山から精霊を迎え、その超自然的な力によって生命を浄化する儀式であり、重要食糧である豆の発芽を祈る豆の踊り(ビーン・ダンス)が披露される。六月の夏至前後から七月中旬にかけて行なわれるニーマンは、再び山へ帰る精霊を送る儀式であり、収穫を前にした雨乞いの祭礼でもある。さらに、以上の個別的意義に加え、ホピ族は自らの暮らす土地を世界の中心と信じ、自分たちを最初の人間と考え、それゆえに地球上の全人類の運命に対する道義的責任を感じているから、いずれの祭儀においても世界平和への祈念がこめられる。
私の見た実際のニーマンは次のようだった。
会場は日干しレンガやブロック積みの家に囲まれたテニスコートほどの広さの村の中の広場。屋根の上や窓辺、テラスの上や広場周辺にはビッシリ並んだ観客の姿がある。早朝から椅子を持ち出すなど場所を確保しておくのだ。白人観光客も少数だが混じっていた。
そこへ、太鼓の音とともに精霊の化身《カチーナ》が登場する。揃いの衣裳をつけ同じ仮面を被り、五十人ほどの男たちが一列になって路地から広場へと入場してくる。
彼らは砂地の広場で緩やかな輪を形成し、太鼓に合わせ声を発しながら踊り始める。
仮面は女性を思わせるちょっとユーモラスなものだ。顔一面ピンクで、頬に赤い三角形の模様があり、眉の上に紙製の花をつけて、大きな目は寄り目、黒く塗ったおちょぼ口をしている。頭は黒いビロード状の布で覆われ、頭上に二枚の鷹の風切羽をつけ(付け根は白い和毛《にこげ》)、首に年輩の女性たちのように赤や黄や茶色のスカーフを巻いている。
黒いビロード状の布は両腕を含む上半身全体を覆っているが、腰から下は典型的なインディアンの衣裳である。膝までの白いキルト風の布には端に極彩色の模様が施され、尻に狐一匹分の毛皮を垂らしている。膝下に黒布が巻きつけてあり、右のふくらはぎに亀の甲羅、左には鈴が結ばれている。はいている靴は爪先の反《そ》り返った伝統のモカシン。
そんないでたちの男たちが大地を踏みしめながらいつ果てるともなく続ける踊りは、なるほど厳粛といえば厳粛、素朴な原形を保っているといえばその通りだが、正直なところひどく単調に見えた。動きらしい動きがほとんどないからだ。肘を曲げた両腕が、一列になった遅い行進につれわずかに左右に揺れるのみ……。時折リズムが変わり、足のステップを変えたり、その場でゆっくり回転したり、両腕を差し上げたりするものの、基本的な単調さに変化はない。黙って見続けていると、太鼓の響きと仮面でくぐもった男たちの肉声、ガシャガシャと乾いた亀の甲羅の音と規則的な鈴の音など、その場のプリミティブな音声が渾然一体となり、海鳴りのようにとどろき始める。眠気とともにしばし時間を忘失する。
しかし私は、もっと何かあるのだろうと思った。世界中の宗教学者や文化人類学者がホピ族に注目し、わけてもその伝統的祭儀に強い関心を示している(と宮田が言う)からには、もっと何か隠された重要な事実があるに違いない。それは何なのか、見届けねば、そう思いかけた時、長髪の頬にニキビ跡のあるインディアンが私の前にサッと立ち塞がり、手にしていたメモ用紙を突然奪い取ったのだった。
腕時計は十二時半を指していた。水木や宮田たちはまだ戻ってこない。私は顔と首の汗を拭い、村道と反対側の車の窓を開けて風を入れると、もう少し作業を続けることにした。
ホピ族の居留地はナバホ族の居留地に取り囲まれている。人口約二十一万のナバホ族は全米最大のインディアン部族で、その居留地ももっとも広く、アリゾナ、ニューメキシコ、コロラド、ユタの四州にまたがり面積およそ六万五千平方キロ(九州と四国を合わせたくらいの大きさ)。人口約一万のホピ居留地は、州に準じ自治国にもなっているナバホ居留地内の南西部にあり、面積約七千二百平方キロ(熊本県ぐらいの大きさ)、地図上はアリゾナ州の東北部に位置する。
フラッグスタッフから車で東に向かい、ナバホ居留地に入ると誰でも、風景が激変したことに気付く。緑の樹木がほとんど見当たらなくなり、ところどころ地表の剥き出た草原や、砂礫と灌木の荒野、岩だらけの丘陵ばかりがどこまでも続く。荒涼とした地形だけなら合衆国南西部に珍しいことではないが、居留地内ではその外部に当然のようにあった自動車や清涼飲料水などの立看板群が、ない。ガソリン・スタンドがない、沿道のコーヒー・ショップやレストランがない、通りすぎる小さな町がなく、遠く近くに点在するはずの小ぎれいな個人住宅も見当たらない。
時折目に入るのは、遠方で草を食んでいる少数の牛や羊の群れと、放牧用の番小屋なのか住居なのか判別しかねる貧弱な建物のみ。走っている道路そのものさえ、アスファルトが薄いため波を打っているように感じられる。
つまり、別世界なのだった。インディアン居留地に足を踏み入れたとたん、時計の針が数十年分は逆回転してしまうのだ。
ナバホ居留地を通過してホピ居留地に入ると、浮世離れの感はいっそう強まる。
ホピ族の十二の村はすべて州道264号線沿いにあって、その中心部は三つのメサの上に寄り集まっている。メサというのは岩盤状の台地のことだ。ホピ居留地の場合、ナバホ居留地内にある巨大なブラック・メサの先端が三本の指のように荒野に突き出し、南から順に第一メサ、第二メサ、第三メサと名付けられている。三つのメサは互いに十数キロずつ離れ、それぞれが地表から百五十〜二百メートルほど屹立して横たわっている。
これらのメサの上に村落が集中しているということは、ただでさえ痩せている大地よりも、もっと不毛で峻険な場所をわざわざ選んで居住地にしていることを意味する。軍事防衛上の利点が過去にあったにしても、それが今日もなお生活の場として存続しているのだ。
我々が訪れたエメリー・ホルメスの家は第三メサの上のホテヴィラ村にあった。約百戸の家からなるホテヴィラ村はホピ居留地十二ヵ村の中でもっとも伝統の残る村と見做されているが、宮田の見解では「近代文明を拒否しホピ本来の伝統生活を忠実に守っているのはホルメス家を含め数家族のみ」だという。残りの村人たちは、他の村々同様、基本的に近代化を受け入れてしまったというのだ。水道や電気を使い、伝統の髷《まげ》を切り、職を居留地の外に求め、子供たちを公立学校にやり、家庭ではホピ語の代わりに英語を話し始め、長老の言葉よりも合衆国政府に協力的な部族評議会《トライバル・カウンスル》の意向を尊重しつつある、と。
ホピ族の伝統的生活が崩壊の危機に瀕していることは各種の資料や文献でも指摘されている。ただ、宮田の言うように「真の伝統派は数家族のみ」かどうか、私には判断できる材料がない。今回の旅行の私の第一目的は水木の言動を記録することであり、その意味をさまざまな角度から検討することである。限られた時間の中で、水木が興味を感じていない事柄に深入りする余裕はなかった。
水木から初めてアメリカ旅行のことを聞いた半年以上前に、水木は言っていた。
「アメリカのホピ族というのが、目に見えない精霊の類いを人形にして彫ってるらしいんですよ。全部で千以上あるらしいんですけどね、私、幾つか持って帰りたいんです。日本の妖怪と比べてみると、妖怪の世界のことがもっと詳しくわかると思うんです」
水木はどんな場合にも自分の関心の所在については正直で率直だった。自分が興味を感じるものに対しては旺盛きわまりない好奇心と探求心を発揮するが、興味を感じないものは一顧だにしない。今回の旅行でいえば、興味の対象はアメリカ・インディアンと精霊信仰との具体的な関わりであり、決して個別なホピ族の共同体社会の崩壊過程やその理由などではなかった。ましてや宮田が再三説明を試みる村内の少数伝統派と部族評議会派の軋轢《あつれき》など、最初から関心の外だった。
こうした性向から水木を眺めてみれば案外理解しやすいのかもしれない。もっとも、必要とあれば、まるで興味のない事柄に対しても相当辛抱強く付き合うことがあるのはこれまで幾度となく見てきたところだ。時には、演技かと見紛うほどの過剰反応を示したりもする。必要とあれば≠フ必要≠フ範囲が実にユニークかつ功利的なのである。
水木に言わせれば、「私は常に一石二鳥、あるいは三鳥じゃないと腰を上げないんです。一石二鳥じゃなくともやるのはセックスとメシ食うことぐらい」となるのだが……。
窓の外にこちらに向かって足早に歩いてくる水木たちの姿が見えた。時刻はとっくに午後一時を回っていた。
私が車を降りると、やってきた水木がひどく興奮した口ぶりで言った。
「すごいです! あの祭りは予想以上に素晴らしいです! 民族にとって祭りは一巻の書物と言われますけど、まさにその通りです!」
野球帽の庇《ひさし》から外れた鼻の頭、両頬、半袖シャツの片腕が半日で真っ赤に陽焼けしているが、毫《ごう》も意に介してない。
「でも、ほとんど変化がなくて、歌も踊りもちょっと単調すぎませんでしたか?」
「それが、いいんです!」
水木は自説を強調する時の癖で、顔を少し傾け、唇を尖《とが》らせ、中空に振り上げた拳を何度も上下させた。
「いつ始まるともなく始まり、いつ終わるともなく続く、そこがいいんです。魂がこもってるんです。長い間聞いていても飽かない。オーケストラのような響きがありますよ、あの音楽は。精霊たちと本当に感応しあってるわけです!」
それから水木は、大羽を相手に、数年前にスリランカに行った時に自分の前世が音楽家だったと占星術師に言われた話をし始めた。
宮田が私の側《そば》にやってきた。
「いつもはエメリーの家族とか保守派は、非伝統派からあらゆる種類のいやがらせを受けてるんですけどね、この期間だけは祭りということで、一見平穏ですね。村をあげて宗教儀式に取り組んでるようだったでしょ?」
私は頷いた。長髪を頭のうしろで束ねた、ホピ族伝統の髷を結《ゆ》っている今年四十二歳の銀細工師兼メディスンマン(医療系呪術師)であるホルメスは、宮田らの後方で祭儀を見物していたが、確かに周囲の村人らと仲よく談笑していた。
「祭りが終わると大変なんですよ。また伝統派への陰湿なイジメが始まるんです」
ホルメスら伝統派の家族三人は宮田が前年十二月に日本へ招聘《しようへい》した人々である。その通りなのかもしれない。しかし私には、検証の方法がなかった。
「おたくがメモを取り上げられたでしょ、それで私も用心したんです」
水木がベストのポケットから小型テープレコーダーを取り出して言った。
「見つからなかったですか?」
「大丈夫でした」
水木はテープを再生してみせた。海鳴りのように寄せては返す男たちの声と太鼓の音が甦《よみがえ》り、私は警備係の男の顔を思い出した。
少なくとも私の軽率な失敗は、水木を用心深くさせ、「素晴らしい祭り」を細心の注意で録音させる役には立ったようだった。
3
次の日の午後、我々はニューオライビ村に長老トーマス・バンヤッカを訪ねた。バンヤッカは宮田が一九八六年に制作した映画『ホピの預言』に出演し予言の石板(ストーン・タブレット)について解説した人物であり、一九四八年にホピ族の長老会議が予言の内容を外の世界に伝えるため選出したメッセンジャーのうちの一人、そして現在生き残っている唯一のメッセンジャーでもある。
宮田は水木に、そんなバンヤッカをぜひ引き合わせたいと思ったのだ。二人の対談はバンヤッカの家の裏庭で行なわれた。
古ぼけた椅子に座った水木は日本から持参した出版されたばかりの『続妖怪画談』(岩波新書)を一冊贈呈し、古ぼけたソファに腰かけた堂々たる体躯の八十四歳の長老は、ゆっくりと一反木綿や砂かけ婆のページをめくってから、無表情のまま口を開いた。
バ「あなたは、これらのものを見たことがありますか?」
水「目で見たことはないです。妖怪や精霊は感じるものです」
バ「夢で見たことはないんですか?」
水「夢ではあります。そして時々感じます。ホピにはこうした精霊が千ぐらいいるということですが?」
バ「とてもたくさんいます。カチーナはすべての自然を表わしているんです。空、雲、土、さまざまなカチーナがあります」
水「いいものと悪いものがありますか?」
バ「自然界の霊を人間が形に表わしたものがカチーナです。雲なら雲のカチーナを、現在は主に仮面で表現しています」
水「イギリスの妖精などとは少し違うようですね。日本の八百万《やおよろず》の神みたいなものなんでしょうか?」
水木の隣に座っていた通訳の大羽が「八百万の神」についてバンヤッカに説明した。水木の尋ねた「悪いカチーナ」に関しても再度質問する。
バ「道化は我々人間を表わしています。カチーナたちがいくら警告を与えても、道化はそれを馬鹿にし、言うことをきかない。だからこらしめるために鞭で叩いたり水をかけたりします。言うことをきかないとこうなるという、みせしめのためにするのです」
カチーナ人形の中には道化の人形もある。この日の朝、ホテヴィラ村のニーマン・ダンスを見物していた時に、その道化たちの一団が広場を囲む建物の中から突如登場した。全身を白く塗り下着だけを身につけた彼らは、いかにも野卑な仕種で喋り、笑い、叫び、馬鹿げて滑稽なことをしでかして聖なる踊りを踊るカチーナたちを侮辱する。それによって見物客たちの笑いを誘う(と、ここまで見た時またしても私は前日の警備係に捕まってしまった。今回は何一つ違反行為をしていなかったのだが、お前がいるだけで儀式が穢《けが》れる、二度とくるな≠ニ前日以上の剣幕で追い払われたのだ。……伝統社会と付き合うのは難しい。一度罪人≠ノなるとずっと罪人≠轤オい)。
水「カチーナは、目に見えないけど、触れないけど、いるわけですね?」
バ「カチーナは霊的なものを表わしています。実際には見えないけど存在します」
水「イギリスの妖精も見えないけどいます」
バ「あの踊りは神聖なものなんです。でも、人々はよく知らない。三月、四月、五月と三ヵ月間、村人はそのための準備をしてるんです。人々が見るのはその最終段階です。歌は精霊と交信する歌で、うまく歌えれば雨が降ります。だから、歌い踊る人はその前八日間断食をして身を浄めるのです。あれは、踊りというよりも儀式なのです。しかも、木や草や石も雨を必要としますから、人間のためだけじゃなく、大地のためにも行なうんです」
水「なるほどね、自然界の調和を推進するわけなんですね。我々はつい人間のことだけ考えてしまいがちですけどね」
バ「最後の踊りのあと浄化の儀式をやって、道化が不適当な人たちを追い払い、残ったふさわしい人たちだけで雨乞いをします」
水「でも、悪いカチーナもいますでしょ?」
バ「ほとんどいませんが、よくないことをすると正しにくるカチーナはいます。悪いカチーナというより、父親のように悪いことを正してくれるカチーナです。それはいます」
水「そうすると、悪霊とかデーモンといったものはいないわけですか?」
日本や世界の妖怪たちとの類似点を確認するためなのだろう、水木はしきりに「悪いカチーナ」について尋ねる。
バ「人間の中には持っている力を悪の方向に使用する人がいますが、精霊にはいません。血のついた刀を下げているカチーナ、あれは道化たちが間違ったことをした時に警告を与えこらしめるためです」
水「うーん」
水木はやや浮かない顔つきだった。
水「カチーナの中に、オオカミやフクロウや動物の仮面のがいますね、あれは?」
バ「ホピのそれぞれの氏族の祖先を表わしたものです。あるいは、人々の前に動物の姿で現われる精霊たちを表わすこともあります。我々人間は道化ですから」
水「これは、宗教なんですかね?」
水木がそう言った時、横合いから宮田がバンヤッカに代わって答えた。
「先生、ホピの社会には宗教という言葉はないんですよ。宗教に似た儀式、宗教を思わせる信仰はありますけど、西欧的な意味での宗教というのはないんです。どちらかといえば神道なんかに近いんじゃないでしょうか、自然崇拝という生き方、といいますか」
腕組みした水木が小さく何度も頷き、長老然とした褐色の肌のバンヤッカは相変わらず無表情のまま、対談は終わった。
宮田が何を意図していたのか不明だが、対談はこれでよかったのだろうかと思わず私は考えてしまった。
夕方、同じ第三メサのオールドオライビ村の村外れにある岩山に行った。道路から少しそれた場所で、乗用車ほどもある大岩がゴロゴロしていたが、貧弱な灌木のそこかしこに壊れた家具や電気器具、空缶や瓶などが投げ捨ててあり、殺風景この上もない。
「今ここはゴミ捨て場なんですよ。夜は若者たちのカーセックスの場所ですね」
宮田が言った。そのような場所に、ホピの預言≠フ重要な部分を抽出したとされる岩絵があるというのだ。
一九四八年の長老会議でメッセンジャーの一人とされたトーマス・バンヤッカは、この場所に連れてこられ、岩絵をキャンバス地の布に描き写し、その上に会議で各村の長老たちが述べたさまざまな予言の記号を描き加えて、世界に広めるためのホピの預言≠完成させたのである。
岩絵の場所はすぐにわかった。一つだけ垂直に立てられた大岩の、斜めに傾いた灰褐色の壁面に、映画『ホピの預言』で見憶えのある稚拙な絵が白い線で刻まれていた。
「ほう、これですか」
水木は伸ばした手で直線をなぞった。
「ええ。この岩の下の窪地に、儀式で使った鷹の羽なんかも埋められていて、いわば聖地なんですけどね。こんなに荒れ果てていること自体、ホピの伝統的教えがすでに顧みられなくなったことを示しているわけです」
宮田の説明に頷きつつ、早速写真に撮る。
今回水木は、一眼レフと二台のポケット・カメラ、計三台のカメラを持ってきていて、撮影禁止の村内を一歩出るやいなやさかんにシャッターを押した。一日に三十六枚撮りのフィルムを三本撮影することをノルマとしており、「一枚として同じカットはない」そうで、しかも「一枚として失敗がない」ことを誇っている。聞けば、「今回はビデオを回してないだけ楽」とのこと。いつもの海外旅行では、以上のスチール撮影に加えて小型ビデオ撮影も自分でこなしているのだ。このほかに小型テープレコーダーによる録音も随時敢行し、書店では高額な写真集、地誌、歴史書、美術書の類いを次々購入しているところを見ると、海外旅行中の水木は、一個の貪欲な情報収集マシーンと化していると言っても過言ではあるまい。とにかく、猛烈であった。
「この二つの円が第一次大戦と第二次大戦を表わしています。そしてこの三つ目の円が、人類存亡の危機になるかもしれない浄化の日≠ナす。浄化の日≠無事に乗り切れば、こうしてトウモロコシのたわわに実る平和な第四の世界が出現するわけです」
宮田が岩絵を指差しながら説明した。
ホピ族の言い伝えによれば、現在の我々が生きている世界は第三の世界だという。
第一の世界は、混沌の中から創造主である偉大なる精霊(グレイト・スピリット)によって作り出され、天地ができ、両極ができ、すべての動物や植物、人間が生まれたが、いつしか人間たちがグレイト・スピリットを敬うことを忘れ醜い対立抗争を繰り返すようになったため、地下に逃れた一部の信仰心|篤《あつ》い人間を除き、地上のいっさいは浄化の火で焼き尽くされて消滅してしまった。
第二の世界は、生き残った地下の人間たちが再び地上に現われて再建した世界である。人々はグレイト・スピリットを讃える歌を歌いながら畑を耕し、村や町を作り、次第に子孫を増やしていった。ところが、食料品を蓄える習慣が根付くと、働かずにその移動で商売しようとする人間、他人の蓄えを奪ったり盗もうとする人間が増え、またも人間社会に争いが頻発するようになった。グレイト・スピリットは、自分に忠実な少数の人間を地下にかくまい、今度は地上に大洪水を引き起こした。大地は水没し、やがて凍りつき、全生物は死に絶えた。二度目の浄化である。
こうして、地下に隠れていた人間たちがようやく水の引いた地上に戻ってきた時、第三の世界、つまり現在の世界が始まった。最初に人類が現われた場所はグランド・キャニオンである。地下から出た人間たちはグランド・キャニオンから第三メサに行き、現在のオライビ村の近くでグレイト・スピリットの化身の守護神マーサウに出会った。
マーサウは世界各地に旅立つ人間たちに対し、旅の糧食にといろいろな種類のトウモロコシを与えた。白い人、黒い人、黄色い人たちはそれぞれのトウモロコシを取って四方へと散って行った。最後に残った一番小さい貧弱なトウモロコシを取ったのは赤い人々である。マーサウは彼らをホピと名付けた。
ホピという名前は従って、単に平和に満ちた人々≠ナあることを意味しない。それ以上に、人間たちの中でもっとも謙虚で、世界の中心地たる土地を守りつつグレイト・スピリットの教えに基づいた質素な暮らしを営み、堕落した生き方を断固拒否する誇り高い人々、であることを意味する。さもなければ、ホピの名を取り上げられてしまうのである。
そしてこの旅立ちの時、第三の世界の守護神であるマーサウは、ホピの人々に聖なる石板を授けた。石板には、これから第三の世界で起こることとそれに対処するためのグレイト・スピリットの教えが刻み込まれていた。マーサウは、いずれ世界中の人間たちの間でグレイト・スピリットへの畏敬の念が薄れてくると、前にそうだったように世界は乱れ、破局が近いことを知った人々が人類最初の土地であるホピの国へ戻ってくる、そう予見していたからである。
「オリジナルの石板は、今どこにあるんですか?」
私は宮田に聞いてみた。
「これまで厳重な秘密とされてきましたからね。部外者で実物を見た人はまずいないんです。最初は四枚あったそうですが二枚が行方不明で、現在残っているのは二枚。そのうち一枚が火一族(ファイアー・クラン)に伝わり、あのマーチンが管理しています」
マーチン・ガスウィスマはエメリー・ホルメスの義父だった。七十一歳のガスウィスマは去る十二月にホルメス親子と鷹の羽のパスポートで来日し、神戸の集会で水木と会見している。我々もホテヴィラ村滞在中に全員で何度か訪れてお茶やお菓子を御馳走になった。
「石板には、手形のほかに絵文字や記号が描かれていて、年に一回冬至の頃、村の長老たちが集まって内容に関する解釈を検討することになってますが、具体的にどうやるのか、見せてもらえないのでわかりませんね。一般に公開されてるのはトーマスの解説した絵、つまりこの岩絵だけですから」
宮田は、ゴミ捨て場兼カーセックスの最適地に掲げられたホピの預言≠見上げた。
それは、第三の世界にかつて起こりこれから起こることをも網羅した預言=Aと呼ぶにはあまりにも簡略な線画だった。
まず向かって左下隅に人型が描かれている。これが守護神マーサウで、その右にある丸印は「マーサウの教えに従う限り平和な世界が続くことを示す」らしい。マーサウと円の間に一本の縦線があるが、マーサウの片手がそれを支えていることからわかる通り(?)、その線はマーサウの示唆する「我々人間が生きるべき正しい道」である。
上に延びた一本の線はやがて二本に分かれる。その分岐点の手前に十字架が刻まれている。ここでは、「このシンボルを掲げる人間には警戒せよ、なぜならそれは破滅への前兆だからだ」、と読み解かねばならない。十字架は明らかに、キリスト教を持ち込んだスペイン人を指す。コロンブスのアメリカ大陸発見%鮪椁k米各地に約八十四万人いたというアメリカ・インディアン諸部族は、四百年後に約二十四万人へと激減した。歴史が解釈の正当性を証明するというわけだ。
二つに分かれた線は、そこから右方向にしばらく二本の平行線となる。途中に二ヵ所、上下の平行線をつなぐ線があり、上の線上に四人の小さな人型、下の線上に二つ並んだ円が描かれている。これはどう読めばいいのか。
バンヤッカの解説によると、上の線は物質文明を突き進む白人たちの道、下の線はマーサウの教えに忠実なホピの道である。上下の線をつなぐ最初の縦線は、ホピの道からもたくさんの人が白人の道へと参入することを示している。従って、白人の道を歩む人口は増大する。事実、一九三四年のインディアン編成法の制定によって全米居留地に白人式の部族評議会が設置され、英語の使用を強要する小学校が創設されると、ホピ族の青少年たちも続々と白人風の生活様式を採用し始めた。オライビ村が分裂し、ホテヴィラ村を作らざるを得なかったのもこの流れの中でのことである。
では、下の道に描かれた二つの円は何か。
これらは第一次大戦と第二次大戦、及び広島と長崎に投下された原爆だと解釈されている。というのも、バンヤッカのキャンバス絵で追加されている卍《まんじ》模様と太陽を組み合わせた記号、これがそれぞれのシンボルを間違った方向に掲げた二つの国、ドイツと日本だと見做されているからだ。また、白人の道の物質文明が進行すると灰のびっしり詰まった瓢箪《ひようたん》≠ェ発明され、もしそれが空から降ってくると大地が焼け、多くの生命が一瞬にして死滅し、生き残った者にも重い病気が広がる≠アとは、古くから言い伝えられてきた。だからこそ、日本への原爆投下によって預言≠ェ事実だと判明した時、急遽石板の警告を検討する長老会議が開催され、ホピの預言≠世界に伝えるためバンヤッカら四人のメッセンジャーが選出されたのである(しかも、映画『ホピの預言』が詳しく描いたように、投下された原爆の原料のウランは、ホピの聖地から採掘されたものだった!)。
今後世界はどうなるのか、人類はどうなるのか、そのことを最後の部分が暗示する。
平行していた上下二本の線は、ある地点で再び分かれる。上の線は急に激しいジグザグの線となり上方に消滅する。下の線は安定したまま長く継続する。そして下の線上にはトウモロコシが繁り、最初に登場したマーサウの姿が再び描かれている。
つまり、上の白人の道を歩き続ければ、大地震なのか火山の大爆発か、ともかくも天変地異が激発し、人類はまたしても滅びるのである。下のホピの道を行けば、五穀豊穣が約束され、幸福で平和な生活が続き、かつてマーサウが「私は最初であると同時に最後の者でもある」とホピの人々に述べた通り、再び地上に姿を現わしてくれるのである。
ここで重要なのは、この重大な分かれ道の手前に、上の道と下の道をつなぐ二本目の縦線、そしてその横に三つ目の円があることだ。
縦線は、白人の道で悔い改めた人々がホピの道へと合流する、いわば最後の救いの道だと理解されている。では、三つ目の円は。
「それがいわゆる浄化の日≠ネんです」
現在、ホピ族に関する二本目の映画『浄化の日』の撮影を進めている宮田は言った。
「第三の世界の破滅の危機に際して、太陽をシンボルとする人たちと、卍をシンボルにする人たちと、それから赤い帽子と赤い衣をシンボルにする人たちがホピの地に集まり、力を結集して問題解決にあたり、人々を本来の道へと導いてくれるわけです」
太陽は日本人、卍はドイツ人として、赤い帽子と赤い衣の人とはいったい誰なのか。
「チベット人ですね。トーマスが考えているのは彼らです」
バンヤッカは訪米した十四世ダライ・ラマとすでに会見をすませたという。
「もしも、人々の力の結集がうまく行かなかったら、どうなりますか?」
「人類はおしまいでしょうね」
宮田は朗らかに笑った。
子供でも一分もあれば描けそうな簡単な岩絵の割には、その内容は、とんでもなく壮大で深刻なものなのだ。
もっとも、夢のお告げ≠竍生まれ変わり≠ニいったテーマにはかなりの好奇心を見せる水木も、人類破滅の予言≠ノはさほど食指が動かないようだった。宮田の説明も途中までしか聞かず、一人であたり一帯を歩き回って写真撮影に没頭していた。
被写体は、風変わりな形状の岩や奇妙な恰好にねじ曲がった樹木など、自分のマンガ作品の背景にすぐにも使えそうなものばかりである。
人間の排泄《はいせつ》行為には快感が伴う。
そんなことを改めて実感したのは、まだ明けやらぬ大空の下、遮《さえぎ》る物の何もない荒野で一人しゃがんで用を足している時だった。
テントからなだらかな丘一つ越えた場所だった。木は一本も生えてない。ところどころに薄緑色のひねこびた草や棘《とげ》のある植物が散らばっているだけで、あとは赤茶けた砂と砕けた岩の破片のみである。すがすがしいほどに不毛で徹頭徹尾何もなかった。
私はまさしく、天と地に挟まれ、その真っ只中で純粋な生命維持活動の一部を遂行していた。至極単純な構図の中での至極単純な行為。その単純明快さが、ふだん意識しない感覚をことさら快いものと感じさせた。
フラッグスタッフを発って四日目、ホピ族の人々の言う「大地と一体となった生活」なるものがようやく体感としてわかりかけてきたということだろうか……。
立ち上がると太鼓の音が聞こえてきた。丘の向こう側からだった。
丘の頂きまで行ってみると、もう一つの丘の頂上で誰かが座って団扇《うちわ》太鼓を叩いていた。百数十メートル離れているので顔まで確認できなかったが、その髪形とヘアバンド、昇る太陽に向かい合った体の輪郭から宮田だとわかった。規則正しく響く太鼓の音とともに低く高く題目を唱える声も聞こえてくる。
私は丘の斜面を下り、いくらか距離が縮まったところで地面に腰を降ろした。
宮田ははるか彼方のメサの上に顔を出した朝日に向かって南無妙法蓮華経を唱えていた。宮田と太陽の間を隔てるものは何もなかった。ただ広漠たる原野である。いや、厳密には、宮田が「タイデスの畑」と呼んでいたホピの老人のトウモロコシ畑が丘の麓に広がっているはずだが、作物の芽がまだ出ていないためか、単に荒れ地の一部としか見えない。
前夜の我々の到着は夜の九時過ぎだった。ホピ居留地の東北部にあたり、タイデス・ゴマヨムプ・テーワなる九十三歳の老人が合衆国政府の強制移住政策に反対して抵抗農園≠構えている土地、ということだったが、真っ暗闇で何も見えなかった。
水木と私は、懐中電灯で照らされた丘の麓の一人用テントで一緒に寝るようにと言われた。宮田一家や大羽は改めてテントを設営するのだと言う。で、一人用テントの中にいた白人の青年にどこかへ移ってもらい、何が何だかよくわからないままに、水木と二人で土まみれのマットレスに横になり、背中合わせになって埃だらけの毛布を被ったのだった。私が感心したのは、それから五分もたたぬうちに水木が健やかな寝息をたて始めたことである。
なるほど水木はタフだった。日中は四十度を越す半砂漠地帯を連日精力的に歩き回り、夜は夜で雑魚寝《ざこね》だろうと野宿だろうと気にせず、どこでも眠ってしまう。アシスタントや家族の言っていた通り頑健な体の持ち主だった。けれど私は、アメリカにきて四六時中水木と行動を共にするようになってから、生来の肉体の強さとは別のある種の自己抑制をも同時に感じ始めていた。
その一つは食事である。食事は睡眠・排泄と並んで水木が日常生活で極度に重要視しているものだ。いつもなら自らの旺盛な食欲に関して冗談を言うことも多く、実際の食事となるとそれこそ一心不乱に食べる。ところがアメリカに入国してから、特にインディアン居留地に足を踏み入れてから、水木は食事に関してほとんど喋らなくなった。一心不乱に食べることもなくなった。理由は、現地食の固さである。
居留地ではどこの食卓でも羊肉入りのトウモロコシのシチューが出るが、この羊肉片とトウモロコシがどちらも固い。水木の歯は上下とも入歯である(だから笑うと歯並びが美しい)。水木は初日に一度このシチューを口にしてから、以後いっさい手をつけなくなった。食べるのはもっぱらパンや果物、あるいは柔らかく煮た豆ばかりである。
しかし不思議なのは、この重大な事態に直面し、水木が一言も不満を述べないことだった。移動中に村のスーパーマーケットに立ち寄って、自分用に好みの柔らかい食べ物をごっそり買い込むことなど簡単にできるのに、そんなことは全然しないのだ。それどころか、まずくて固い食べ物のせいで食欲が涌かないという事実を、素振りにすら見せずジッと秘しているように思える。
これは、「年齢を感じさせない」と称される頑健な自我像をあくまで保持したいからなのか、それとも、ホピの人々や宮田に対する例の奇妙な遠慮≠フなせるわざか……。
いずれにしてもそんなことを考えると、前夜水木が窮屈なテントですぐに寝入ってしまったのは、決してタフなためでなく、真底疲れ切っていたからだと思えてくる。
「常に前進あるのみ」と断言する水木は、どうでもいいことに関しては皮肉とも笑い話ともつかぬ言葉を連発しても、自分の体力のような、強く恃《たの》みとする根源的な事柄に関しては、絶対弱味を見せないのかもしれない(以前、マンガ家として成功する条件を水木に尋ねた時、水木はどれだけ長く自分を机の前に縛りつけておけるか、それだけです≠ニ答えたものだ)。
丘の下の宮田たちのテントから人影が現われた。オカッパ頭の玲子だった。
玲子は急ぎ足で丘の斜面を登り、宮田の隣に行って正座した。ほどなく、夫婦あい和しての太鼓の音と経文の声が聞こえてきた。
勇壮な朝焼けの空の下で祈る男女の姿は、私の排泄姿などよりよほど美的で、アリゾナの大自然とみごとに調和していた。宮田はホピの村で太鼓を持ち出したことはないから、やはり村内では憚《はばか》られたのだろう。宮田の仏教徒らしい姿を目にするのはこの日が初めてだった。
玲子は「私は日本山妙法寺の信徒ではありません」と三日前に言っていた。「でも、南無妙法蓮華経の力は信じてます」と。
水木ではないが、この夫婦は「普通じゃない」。最初は母子ともに我々に同行すると聞いていたのだが、居留地で一緒だったのは初日だけであとは別行動、そして前日の夕方にどこからか現われテントで一泊したのである。宮田の話では「映画のことや旅行の事務的なことなどいろいろやってもらってた」ということだが、およそ在外邦人の家族形態ではなかったし、夫婦らしさも希薄だった。
三日前の夜、玲子は全員の夕食にありあわせの材料で天ぷらを作ってくれた。その時に聞いたところでは、彼女は元中学校の体育教師で、「社会に目覚めて」教職を去り、海外放浪や農業をやった後、映画『ホピの預言』を見て「これが探していたものだ!」と思ったという。表現者にして平和活動家である宮田を深く尊敬しており、一九八八年(昭和六十三年)の結婚は、いわば同志的連帯の結果だったようだ。従って今なお一般的な意味での妻≠竍母≠フ意識は乏しい。
「礼が生まれてこういう生活になるなんて、思ってもいませんでした。でも、お金のことは心配していません。なくなると必ず誰かが助けてくれるんです。不思議なんです。将来のことは、わかりません。考えてもわからないから考えません。私はただ、雪さんのやろうとしてることを助けてあげたいんです」
ヒッピー少女風の玲子は自分の家族のことしか考えない利己的な妻ではなかった。むしろ、その逆だった。
一方、夫である宮田はこうした形態の生活についてどう考えているのか。私は移動中に聞いてみたことがあった。
「玲子ちゃんは素晴らしい人ですよ。有能だし、行動力があって交渉力もあるし。そりゃたまには喧嘩もしますけど、かけがえのない相棒ですよ。生活のことは僕も心配してません。インディアンの友達の家にいる間は金はまったく要らないし、ふだんでも車やテント暮らしですから、たまにモーテルでシャワー浴びるとしても、月に三人で十万円かからない。バイトその他で何とかなるもんです」
二作目のドキュメンタリー映画『浄化の日』は一九八九年撮影開始で一九九四年中には完成の予定。その制作予算はおよそ千五百万円だが、一作目の『ホピの預言』が「そのつど原稿料や、印税、寄付、カンパを掻き集めて完成にこぎつけた」ように、今度の作品も「どうにかなる」と思っている。
ところで、宮田の映画『ホピの預言』は、基本的な構成こそバンヤッカの語る岩絵の予言に負っているものの、見終わって鮮烈に残るのはその鋭利な政治的メッセージだった。
四つの州に跨《またが》ることからフォー・コーナーズと呼ばれるナバホ居留地(ホピ居留地を含む)からは現在全米エネルギー資源の三分の二以上が採掘されている。インディアンは鉱物資源を母の内臓≠ニ呼び取り出すことを禁じてきたが、合衆国政府や大企業にとっては住民を強制移住させても手に入れたい宝の山、それは一九四○年代の原爆製造のためのウラン鉱から始まり石炭・石油と拡大され、七○年代に入って再度のウラン・ラッシュが起こり、低賃金・安全無視で雇用された多数のインディアン鉱夫が次々にガンで死亡、しかも副産物の鉱滓《こうさい》は大量の放射能を含んだまま野積みにされ、あたりに飛び散り川に入って急速に環境を汚染、政府はこの地域を国家的犠牲地区≠ニ定め、さらに……。
ジャーナリスティックな感覚に裏打ちされた鬼気迫るドキュメンタリー映画なのだ。先住民族の民族自決権を求める国連国際先住民年(一九九三年)の意義を先取りした作品とも言える。
しかし、家族ぐるみでそこまでインディアン問題やホピ族と関わってしまって、それで、いったいどうしようというのか。
「僕は、今の自分は記録映画作家だと思うんです。でも、各地へ行っていろんなテーマを撮影するのは興味ない。ドキュメンタリーは対象との関わり方が重要です。小川紳介や土本典昭のように、全人生で対象と関わってこそ本物だと思うんです。僕はホピと自分との関係をそうしたい。世界中でいろいろな先住民族に出会ったけれど、ホピの生き方や考え方が一番ピッタリくるんです。ホピの預言≠、僕は信じています。だけど、映画は今撮っている『浄化の日』が最後でしょうね、その後はもう作らない。彼らと一緒に暮らしますよ」
なぜか。
「もう遅い気がするんです。人類破滅の日は数年のうちにやってきますよ。世界中で地震や噴火、洪水が起きます。アメリカ大陸も東西の沿岸部がかなり水没します。日本だって危ないですよ。僕はどうせ死ぬならホピの土地で死にたいんです」
妻や娘のことはどうするのか。
「子供の心配はありますけど、玲子ちゃんがきっとうまくやってくれる、でしょう」
……それ以上、私は何も聞けなかった。
テントの周囲とテーワ老人の小屋の周りが少し騒がしくなった。ここには、政府の強制移住政策に反対するため世界各地から若者たちが援農活動にきており、常時数人が泊まり込んでいたが、彼らが起き出すと共に小屋の犬が吠え出したのだ。
丘の斜面を礼が登っていた。太鼓を叩いている両親の許へ向かっていた。
朝焼けはすっかり消え、頭上には今日も暑くなりそうな濃く青い空が広がっている。丘の上の親子は、母親の方は近寄ってきた娘の手を取って抱き締めたが、父親の方はまだ脇目もふらず朝の勤行《ごんぎよう》を続けていた。
豊かな朝の光の中の三人のシルエット……。彼らは世界平和を表徴する聖家族なのか、それとも崩壊寸前の世紀末家族か、案外したたかな国際漂流家族と見るべきか……。
私の座っている方へ、モシャモシャ頭の水木が難しい顔つきをしながら登ってくる。
「どうしました?」
「クソが出んのですよ」
右手に持っていたトイレットペーパーのロールを高く突き出してみせた。
4
サンフランシスコ市サンタクララのウェスティン・ホテルに一歩入った瞬間、いきなり顔の正面からライトを浴びせられたような気がして、私は軽い眩暈《めまい》を覚えた。
吹き抜けになった広いロビーはそこここに照明があって真昼のように明るく照らされていた。備品や調度品は木製のものも金属製のものもピカピカに磨かれ、あたかも物自体が光を放っているようだった。着飾った人々がその光の洪水の中をゆったりと歩き、品よく立ち止まり、微笑を浮かべて会話を交わす。BGMがあくまで緩やかに流れていた。
「きのうまでとえらい違いですね」
汗の染みたTシャツに汚れたジーンズ姿の宮田がフロントに向かいながら言った。
「火星にきたみたいです」
疲労の滲んだ横顔を見せて水木も言う。
「きのうの今頃は、真っ暗な川原に寝転んでみんなで星を見てたんですもんね」
宮田と大同小異の服装の私も言った。
午後十時半だった。北カリフォルニアの山中のヨロク族の女性医術師《メデイスンウーマン》マーガレット・カールソンの家から車を飛ばして約十一時間、ようやく現代アメリカ文明が充満するサンフランシスコ市内のホテルに到着したのだ。
これで水木は、ナバホ族、ホピ族、ヨロク族と当初予定していたアメリカ・インディアン三部族の聖地をすべて訪れ、その生活の一端に触れ、それぞれの部族の長老や霊能力者との会見を終えたことになる。水木の命名した「アメリカの霊文化を訪ねる旅」は無事終了したのだった。
あとはウェスティン・ホテルで開催中の〈アニメ・アメリカ1993〉に特別ゲストとして出席することだが、これは付録のようなものだった。もともと日本製アニメに対するアメリカ人ファンを中心とした集いであり、宮田が「先生のために何かの役に立てば」と急遽予定表に組み込んだ企画にすぎない。水木も三日間の会期中ずっとホテルに滞在するわけではなく、一泊して翌日の講演とサイン会を終えれば、その次の日にはもう帰国の予定だった。
しかし、そんなこちら側の事情もあってか、フロントでは我々の宿泊する部屋がまだ決まっていなかった。宮田が交渉する間、水木と私と大羽はおよそ場違いな服装と表情のまま、ロビー中央の豪勢なソファに座って待つことになった。
そのうち、ロビーを行き来する客たちのうちの日本人が、二人三人と水木に気付いて挨拶にき始めた。いずれも胸に名札を付けており、〈アニメ・アメリカ〉に招待されているゲストや関係者らである。手塚プロダクション社長の松谷孝征、マンガ家のモンキー・パンチ、スタジオぬえの創設者でSF作家の高千穂|遙《はるか》……。
マンガ評論家の米沢嘉博は、感激で声を震わせ、握手するなり水木の隣に座り込んだ。
「わァーッ本当に水木先生ですよね。僕、先生の大ファンで評論など書かせてもらってます。貸本時代からのファンでして、『忍法屁話』とかあの辺からずーっと自分の人生と同時進行的に読ませていただいてるんです。いやァ、ここでお会いできるとは……」
ロビーの真ん中で日本語の会話やマンガの話題が声高に飛び交い、たちまちのうちにサンフランシスコのホテルの一角が、東京のホテルのマンガ関係者のパーティー会場の一場面に変貌してしまった。
眼鏡の奥の水木の両目の周囲には丸一週間に及んだ野外生活の疲労がこびりつき、頬と顎には白い不精髭がまばらに伸びていたが、人々に応対する水木の態度は、旅行中よりもはるかに堂々としているように見えた。高笑いの回数が直ちに増えたのも、馴染みの世界にすんなり移行したことを示すのだろう。
大体あの時に、と私は思った。水木の今回のアメリカ旅行は実質的に終わっていたのかもしれない。フラッグスタッフから東京の自宅に向けてカチーナ人形を郵送した、三日前の六月二十二日のあの時である。
水木がホピの村々で買い集めたカチーナ人形は合計十六体だった。その購入から発送に至るまでに見せた水木の熱意と執着心には尋常ならざるものがあった。旅行の土産品と呼ぶよりも、それらはあたかも考古学者にとっての貴重な学術的発掘品のようだった。
当初水木は、宮田があらかじめ知り合いのインディアンに制作を依頼しておいた人形を買うつもりだった。ところが現物は、一体が五万円から十数万円と値が張る割には、出来がよくない。水木は「魂がこもってない」と評した。精霊に関わる造形にはすべからく作り手の魂がこめられるべきで、自分にはその有無が一目でわかる、と。造形を支える彫刻技術についても厳格だった。衣裳の模様を刻んだノミの一彫りを指差し「こんな迷いのある線はダメです」と言ったりした。
結局、最初の方法では数が揃わないこともあり、フクロウ、蛇使い、道化師など主だった人形十二体はある専門店で一括して賄《まかな》うことになった。一体一体の選択は慎重だったが買い方は豪快だった。数が揃ったところでダーッとレジの前に一列に並べさせ、「負けなさい!」と迫った。値段をめぐる真剣なやり取りがあって、この時は定価七十三万八千円が五十万円まで下がった。水木は頷くと、手の切れそうな百ドル札の束を相手の前にポンと置いた(この一瞬の美学≠完成させるための現金なのだった!)。
さてその後の発送がまた一騒動だった。水木のトランクは大型なのにいやに軽いと思っていたが、開けてみると数枚の着換えと下着など最小限のものしか入っていなかった。ほとんど空に近い。そこへ人形を詰めて持ち帰ると言うのだ。入り切らなければ手に提げて帰る、と。宮田は航空便を勧めたが水木は首肯しなかった。かつてアフリカやニューギニアから航空便で送り、壊れたり届かなかったりしたことがあったらしい。「アメリカは大丈夫ですよ」と宮田は笑ったが水木は納得しない。こと郵便制度に関する限り、他のことでは合衆国政府の諸方策に正面から反対している宮田より、水木の方がよほど合衆国に対する不信感は根強かった。
発送前夜は宮田、私、大羽の三人がモーテルの水木の部屋に集まって梱包を手伝った。一体平均三十五センチの大きさだが、仮面に微細な飾りが多いので充分に発泡スチロールの緩衝材を詰め、結局大小四個の段ボール箱を作った。我々全員の粘り強い説得でついに水木も航空便輸送に同意した、と思ったのだ。ところが翌朝、水木の部屋には二個の箱しかなかった。我々が部屋に帰ってからもう一度水木一人で全部作り直し、二箱は航空便にしたが、残りはやはりすべてトランクに入れて自分の手で持ち帰ることにしたのだ……。
そして二十二日の午前十時、フラッグスタッフの郵便局で係員も呆れるほどの厳重かつ堅固な|二重梱包の大型段ボール箱二個《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を作製し、係員が書類にスタンプを押し、品物を奥に運ぶのを見届けて、水木はやっと頬を緩めた。全身に張り詰めていた緊張が一時に解けたような晴れ晴れとした笑顔だった。
ついでカリフォルニア州に移動し、二泊三日の日程でヨロク族の森の聖地に滞在したのだが、ホピ族のニーマン・ダンスやカチーナ人形に相当する具体的な何かが欠けていたせいか、水木の瞳が再び怪しい興奮で燃えさかることはなかった。水木はビッグフットや鹿人間《ナイトピープル》が棲むという暗い森を元気よく徘徊し、夜中に小人《チェケニトゥマ》が出没するといういわくつきのベッドで朝まで熟睡しただけである。
女性医術師のカールソンが語り続けた数々の幻想的な精霊の物語は、(私には面白かったが)水木にとってはやや退屈な話のようだった。
「先生に、失礼いたしました。すみませんでございました。大変長い間、お待たせいたしておりました。先生、お許し下さい」
自ら「金さん」と名乗る中国人風の男がロビーにやってきた。ニコニコしながら、やたら「先生に失礼いたしました」と日本語で繰り返し、すぐに部屋の鍵がくると水木に告げた。
ほどなく、「金さん」の言う通り、〈アニメ・アメリカ〉取締役副会長という名札をつけた恰幅のいい白人が急ぎ足でやってきた。
水木に非礼を詫び、恭《うやうや》しく四人分の鍵を手渡し、会としての歓迎の意を表すると、自らエレベーターへの先導役をつとめた。
今や我々は、くたびれ果てた身なりをしていても水木しげる先生御一行様≠セった。松谷や米沢に挨拶をし、「金さん」の満面の笑みに見送られ、エレベーターに向かった。
水木の講演は翌日午前十一時、ホテル二階の小会議室で行なわれた。が、日本での講演と比べるとはなはだしく低調だった。最初から最後まで傾聴したのは十二、三人にすぎない。
原因は、『ゲゲゲの鬼太郎』など水木のアニメ作品がアメリカ国内でまだ放映されておらず、原作者としての知名度が低いことにあった。それともう一つ、同時刻に別の会場で各種のアニメ上映会や原作者のサイン会、原画展示会、資料即売会などが催されていたからだ。
スタッフが壇上のパネルに水木の妖怪画のコピーを貼るのに手間取り、司会者が「ちょっとお待ち下さい」と言ったとたん、四十人ほどいたアメリカ人観客のうち二十人ほどがパッと席を立ち部屋を出てしまった(以後、講演中もひっきりなしに客の出入りがあった)。
しかし、壇上の水木はいっこうに気にする様子はなく平然としていた。
講演内容はいつもの日本の講演とあまり変わりなかった。簡単な生い立ちから始まって、戦争で片腕を失った話、マンガから次第に妖怪に深入りして行ったこと、現在は世界中を回り「目に見えないものを形にする」作業に専念しているが、世界の妖怪の数はおよそ三百から三百五十に絞られるだろう、といったような話だ。この決まりきった内容だと、途中でよほど脱線でもしない限り、水木の講演は三十分足らずで終わってしまう。今回もそうだった。日常の言葉は奇想天外・破天荒な面白さに満ちているのに、なぜか講演となると常識の枠内に収まり画一的なのだ。
唯一私が耳をそばだてたのは、講演後の質疑応答の中で「インディアン居留地で何を感じたか?」と問われ、水木がそれに答えた時だった。
「ホピのところに行きましたけど、日本の河童が秋に山へ行って春帰ってくるように、ホピの精霊も季節ごとに山に行って帰ってくる。同じなのでビックリしました。なぜ一致するかといいますと、妖怪と呼ばれ精霊と呼ばれるものが世界にはいるからです。目に見えないけれどもいるんです」
結論はいつものところへ還ってくる。
質問者をはじめ、おそらく水木の話を初めて聞いたであろう大半の聴衆は、ポカンとし、要領を得ない顔付きだったが、私は、やはりホピの村での体験が一番印象深かったのだと確認した思いだった。
午後一時、場所をホテル隣のコンベンション・センターの一室に移しての水木のサイン会は、講演会よりもっと低調だった。いや、悲惨といった方が事実に近い。サインを依頼するファンがほとんどいなかったのだから。
隣の机の前には、部屋の入口まで伸びるファンの長い列があった。アメリカ人のアニメーターだという。向かいの机も長蛇の列で、こちらは日本人のキャラクター・デザイナー。ちょっと覗いてみると、どちらも現在のテレビ・アニメ界で主流のSFアクションないしはSFファンタジー調の絵柄で、国籍不明の美少女キャラクターが売りのようだった。
水木の机の上に参考用に置いてある宙を飛ぶ一反木綿≠竅A暗い日本家屋の中であかんべェをしている化け草履≠フ絵とは、まったく次元の違う世界の絵である。事前に主催者側は「百人ぐらいで打ち切りにします」と言っていたが、そんな心配は無用だった。立ち止まるアメリカのアニメ・ファンなどいないのだ。
しかし水木は、少しも動じる気配がなかった。感情が苛立っている様子はなく、別に不機嫌な表情でもない。ただ静かに自然体で椅子に座っていた。
宮田がたまりかねたように呟いた。
「今のアメリカのマンガ・ブームは、妖怪をやっつける対象と捉えてますからね……」
二十分か、三十分たってからだろうか。ポツリポツリと水木の机にもファンが訪れるようになった。うち数人は講演会でも見かけた若い女性たちだった。聞いてみるとサンフランシスコ在住の日系人だという。子供の頃に『鬼太郎』のビデオやマンガを親が見せてくれたとのこと。
「ねずみちゃん、お願いします」
「私は鬼太郎くん」
水木は言われるままに、ノートやパンフレットの上にねずみ男や鬼太郎の絵を描き、サインを入れ、終わるとまたゆっくり椅子にもたれた。サイン会の時間は拘束された時間、と思い定めているフシがあった。これは仕事≠ナあり自分の感情とは関係がない、ファンが少なければ仕事≠ヘむしろ楽だと。
五十分のサイン会で、サインをもらいにきたのは結局二十人ほどだった。そのうち白人は二人、残りは日系、中国系、韓国系と全員がアジア系の若者たちである。
約二千人のアニメ・ファンが参集した〈アニメ・アメリカ1993〉の会場で、人生を達観したかのように淡々と丸半日過ごした水木が、にわかに、それまでとは打って変わった人間臭さを発揮し始めたのは、サイン会の職務から解放された直後だった。
我々全員で「会場巡りでもしよう」ということになり、一階に降りたところ、屋外撮影のため裏庭に出ていくアニメ・コスチュームの一団とすれ違った。そのとたん、水木はベストの内ポケットから小型カメラを取り出し、大急ぎで彼らの後を追ったのである。
陽光降り注ぐ芝生の上でアニメ・ファンの要請によって思い思いのポーズを取り始めたのは、先程までホールでコスチューム・プレイを演じていた人々だった。『ルパン三世』のルパンや銭形警部や峰不二子、『ドラゴンボール』のカンフー姿の面々、しかし水木は彼らには見向きもしなかった。水木がひたすらシャッターを押し続けた対象は、『ダーティー・ペア』(だと思う)の扮装をした四人の若い白人女性のみだった。
彼女たちはビキニ型の宇宙服を着ていた。長い手袋をつけ、ブーツをはき、手に玩具の光線銃を持っていた。が、アニメのスリムな美少女たちと違って、カリフォルニアの生身の娘たちはあまりにも肉付きがよすぎた。真っ白いバスケットボールを並べたような乳房は大きく突き出し、チャチなコスチュームの胸の止め具など今にも外れそうだった。腰も太股もよく発達し、柔らかな肉がたっぷりと付き、歩くたびに煽情的に揺れる。そして、臍《へそ》の下まで丸出しにした腹部は、お世辞にも「スッキリと細い」とは言い難く、生々しくよじれ、波打ち、肉感的な皺を作っている。
彼女たちはカメラの放列を敷いた男性ファンにとっては、もちろん一番の人気モデルだった。一人ずつ、ペアで、あるいは四人全員で、リクエストされるままにそれぞれ得意のポーズを取った。しかし私の見るところ、もっとも熱心だったのはやはり、水木である。
水木は、両足を開いてにこやかに銃を構えるモデルの正面から、精力的にシャッターを押しながら近付いて行ったりした。かなりきわどい距離まで、平気で接近する。躊躇《ちゆうちよ》とか逡巡《しゆんじゆん》とかは無縁だった。みごとな胸の谷間があれば谷底まで素直に覗き込もうとし、心そそる肉の陰翳があれば勇猛果敢にその細部をフィルムに焼き付けようとするのだ。締め括りは、自分自身が四人の娘たちに囲まれての記念写真(私がシャッターを押した)だった。
水木の、美形の異性へのあからさまな関心は、そのすぐ後にも発揮された。コンベンション・センターの一階でコミックマーケット風の展示即売会が開催されていたが、水木はそのうちの一店、つまり若い金髪の女性のテーブルの前で動かなくなってしまったのだ。
女性は新人のマンガ家だった。左右の男女のマンガ家たち同様、自分の作品をテーブルの上に並べていた。作品はどれも典型的なアメリカン・コミック調のもので、ペラペラとめくってみても、絵・ストーリーともに可もなし不可もなし、特別な才能など感じられない。けれど、水木にはそんなことは最初から問題外だった。水木は立ち止まった時から相手の顔とスタイルしか見ていなかった。
「美人ですよ、この人」
いきなり握手を求めながら呟いた。
ほんの一瞬ためらって、それから笑顔で握手に応じたその女性は、確かに上品な顔立ちだった。服装も化粧も地味で、物腰も言葉遣いも非常に穏やかだったが、マンガ家よりも女優の方が似合いそうな華やぎがあった。
私が「こちらは日本の有名なマンガ家の水木しげるさんです」と紹介すると、彼女はパンフレットにサインをせがみ、水木は快く応じた。再び、固い握手。
……そして、去ろうとすると、水木はまだテーブルの前にいた。ポケットから小型カメラを取り出し、彼女を激写≠オている。
「一つ、あの、この美人と」
最後はやはり、二人並んでの記念撮影である。水木はただひたすらニコニコとし、彼女は、事情がよくわからないようだったが精一杯の笑顔を浮かべ、十年来の知己のように仲よく寄り添って、「はい、チーズ!」……三度目の握手が交わされた。
「美人でしょ?」
「ええ」
短時間のうちに、弾けそうな若い娘たちの肉体を心ゆくまで接写し、美人と三回も握手した水木は、まことに満ち足りた表情だった。まるで、水木が〈アニメ・アメリカ1993〉に参加した目的は、講演やサイン会ではなく、本当はこのことだったかのようだ。
危ういところだと私は思った。ほんの少し間違うと、水木の行動は単なる不作法な好色老人の振る舞いに堕しかねないのだが、ギリギリのところでそうはならず、むしろ愛すべき稚気を感じさせる。理由の一端はおそらく、そこに卑屈さがないせいだろう。関心のありかは露骨なほど明白でも、迫り方が真正面からで堂々としており、小細工を弄するということがない。しかも、あと一歩踏み出せば必ずセクシャル・ハラスメントになるという場面で、決してその一歩を踏み出さない。絶妙な自己抑制を行なっているのだ。
「水木さんは、美人が好きなんですね」
廊下を歩きながら私は言った。
「好きです。ブスは、どちらかといえば好きじゃないです。ワハハハ」
水木はかなり上機嫌だった。
水木プロのチーフ・アシスタントの村沢によれば、水木から手渡される下絵で美しい女の登場するコマは、ただ「美人」とのみ指定されているという。ほっそりとして、いつも俯き加減で、黒目の大きな、水木マンガではお馴染みの、あの「美人」である。水木ワールドの中でもっとも無表情でもっとも没個性的なキャラクターでもあった。
六月二十七日の午前十時過ぎ、水木と私は成田行きの飛行機に乗り換えるため、ロスアンゼルス空港の待ち合わせロビーにいた。
十日前にアメリカに到着した時も、同じ空港ロビーでフェニックス行きの飛行機を待ったが、その時と同じ簡易レストランの同じ座席である。水木は十日前と同様にポップコーンとオレンジジュースを注文し、私も十日前と同様にビールを注文した。
「『ハスラー』は買いましたか?」
「買いました」
売店から帰ってきたばかりの水木は土産物で膨らんだ肩掛け鞄をポンと叩いてみせた。
「『ハスラー』の方が『ペントハウス』より過激です。女優の質も悪くないです」
「……そうですか」
水木はポップコーンを猛烈な勢いで口に放り込みながら頷いた。
水木が「資料用に」裸の女性の写真集を集めていることは、私も知っていた。調布の水木プロのネーム室には民俗学の資料用書籍と一緒に島田陽子のヌード写真集なども並べてある。当初の旅行目的が一段落した二日ほど前から、水木はホテルの売店や書店に入ると好んでポルノ系の雑誌を手にするようになり、私もできる限り協力するようにしていた。
「新聞によると、最近はセックスをしない夫婦が多いようですね?」
水木がナプキンで口を拭って言った。
「南方熊楠なんかスケベですが熊楠の兄貴もスケベです。すごくセックス好きです」
水木は右手の掌を開いた。肉厚で柔らかいぽってりとした掌である。
「私考えてるんですけど、セックスに関して人間は五段階くらいに分かれるんじゃないですか? 熊楠の兄貴なんか、これですよね」
開いた掌の親指を動かして見せる。程度が一番激しいということであろう。
水木は猥談、それも時と場所を選ばぬ唐突な猥談が好きだった。その点、水木が一年前に出版した『猫楠』(講談社)で描いた在野の天才学者南方熊楠と似ていなくもない(水木は同書の中で「妖力や脳力が高まると性欲も高まる」と述べている)。もっとも、猥談博士≠ニ呼ばれた熊楠がそうだったように、水木も実体験には乏しく(水木自身に言わせれば「機会はあったけれど忙しすぎて」)、もっぱら話のみである。
「セックスのことを口にするのは、日本ではよくないと言われてて、だからよくわからんのじゃないですか? 真面目に研究する人がいないんじゃないですかね」
水木と親しいある編集者によれば、水木が女遊びをしないのは三つの理由からだという。@多忙 A目立つ B病気が恐い、の三つである。@はもちろん物理的に自由になる時間がほとんどないことだが、ABは若干の説明を要する。水木はこの三十年間雑誌やテレビに頻繁に登場してかなり顔を知られている、片腕であることも目立つ、そんな状況下で女性と関係を持てばたちまちスキャンダルになりかねない。スキャンダルになって損をするのは有名人である水木の方、というのがAだ。Bも水木の用心深さゆえの理由である。水木は戦時中、トライ族の美女エプペと性交渉の機会があったにも拘わらず「ローソク病が恐くて」チャンスを見送った。同じような警戒心を、今日ではエイズに対して抱いている、というのである。
一見無頓着に見えながら、その実、社会的及び身体的危険性について極度に鋭敏な水木の身の処し方を見てくると、まんざら的外れとも言い難かった。むろん水木が公言している理由は@のみであるが。
「男の場合、セックスで身を滅ぼすこともありますが、案外多いのはギャンブルですよね。水木さんは賭け事はやらないんですか、競輪、競馬、麻雀、あるいは株とか?」
「ワハハハ」
水木は、紙容器の底に残ったポップコーンを丹念に指でつまみ上げながら言った。
「私、そういうのはやらないんです。戦争でえらい目に会ってるから、そういう、えらい目に会いそうなものには近付かんことにしとるんです」
だからセックスも、と聞きかけて私は時計を見た。搭乗時刻四十分前だった。国際線に乗り込んでしまうと、水木はビジネス・クラス、私はエコノミー・クラスである。成田まで約十一時間半、会話ができなくなる。聞くべきことを先に聞いておかねばならなかった。
「ところで今回のことですが、宮田さんによると、あと数年で地球には浄化の日≠ェやってきて、大規模な天変地異が起こり、人類は破滅の危機に瀕するということですよね。これは、水木さん、信じますか?」
水木は腕組みをしてソファにもたれ、陽焼けした顔をほころばせた。
「インディアンが言うのはね、わかるんですよ。白人に対する何百年かの恨みが蓄積しとるわけですからね。でも、それを宮田さんが言うとわからなくなるんです」
水木は旅行中は「これからは宮田さんの黄金時代ですね」などと冗談めいた言葉を言い続けていたが、案の定、醒めていた。
「けど水木さんと宮田さんは、精霊文化の必要性ということで同意見でしたよね?」
「精霊が存在する、とそこまでは一致するんです。だけど、その先になると実体派と現実派とに分かれるわけです」
「水木さんは、現実派の方ですか?」
水木はゆっくりと頷いた。
「第二の浄化、ですか、大洪水などあってノアの箱舟もあったかもしれない、そこまではいいわけです。しかし、間もなくアメリカの沿岸が地殻変動で水没するとか、日本列島が沈んでなくなってしまうとか、そういう予言はね、ちょっと信じられんです」
「あのホピ族の予言の岩絵は、信じられないということですか?」
「宮田さんの願望じゃないですか?」
実に直截な言葉である。水木は前のめりになって両目を剥いた。
「ああいう地球滅亡をね、楽しそうに大声で叫ぶ人は、この社会に不満を持っている人に多いんです。毎日懸命に働いて明日に希望を持ってる人や現在何がしかの金を持ってる人にそんなこと叫ぶ人はいませんよ。それにあの岩絵、簡単すぎますね。あんなに簡単な図では、あまり信用できません」
水木は言った。物事を本当に知ろうと思えば、宮田のように人生を賭けて邁進《まいしん》しなければならない。しかし自分のようにマンガを生業としていると、それはできない。宮田のような人物が発掘した世界を覗き見ると同時に、半分は一般的な常識人の世界に踏み止まっていなければならない。さもないと、「はまり込んでしまって」作品は作れない、と水木は言う。
「宮田さんのメッセージは、映画を見ると一目瞭然ですが、本質は非常に政治的で戦闘的ですよね。反体制運動というか、あの種の政治的な運動やメッセージに対する拒否感も、水木さんの中にはあるんじゃないですか?」
政治に対する水木の意識的な距離の取り方は、常々私が感じていたことでもあった。
「うーん、政治ですか……」
水木は言って、顎を撫でた。
「政治は私、よくわからんのですよ。一時左翼が、安保反対って言ってたでしょ? あれがわからんのです。戦争であれだけひどいことをやって負けたら、勝ったアメリカの言うことを聞くのは当たり前ですよ。敗戦国なんですから。ドイツとソ連の関係を見ても、やられた方がやった方を許しちゃくれませんよ。日米安保なんて当然の事だと思うんですよね。右翼は、これもわからんのです。天皇を神と奉《たてまつ》って戦争をやって、それで負けた。だったら、なぜまた天皇を神にまつり上げようとするのか、そこがさっぱりわからんのです。間違ってたんだから、そういう考え方やめればいいじゃないですか、そうでしょ? 政治的な運動って、わからんですね、私は」
私は、水木の論理は、思いの外よくわかるような気がした。この社会に対する基本的な考えの原形が戦争体験にあることも、今更のように改めて。
「もう時間です、行きましょうか?」
私は立ち上がり、テーブルの上にポケットに残っていた硬貨をチップとして置いた。
「私、宮田さんの奥さんに金を渡しときましたよ」
水木が言った。宮田の妻の名前を、とうとう最後まで水木は憶えなかった。
「そうですか、どのくらい?」
「五万円ほど」
「宮田さんへのお礼とは別に?」
「はい」
「玲子さん、何か言ってましたか?」
「とても喜んでました」
それから我々は成田行きデルタ航空機の搭乗ゲートへと向かった。
長い通路を歩いている時、フラッグスタッフ空港で別れたオカッパ頭の玲子の顔がふと思い浮かんだ。「お金がなくなると必ず誰かが助けてくれるんです。不思議なんです」と言っていた玲子……。考えてみれば、水木の宮田夫妻への気配りの方がよほど不思議だった。
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第四章 戦争体験の夏
1
アシスタント室から出てきた水木が「これから泳ぎに行きます」と言うので、付いて行くことにした。
会員になっているスポーツ・ジムは東隣の国領町にある。調布駅前布田一丁目の水木プロからは京王線で言えば二駅分の距離、そこまでいつも歩いて通うらしい。
「歩くのはいいんですよ。人間、足から老化しますからね。私、十年ほど前に自宅と事務所を分離して、自転車や徒歩で往復してますが、それがよかったんです。そうじゃなかったら今頃は糖尿病ですよ」
水木は言って事務所の前の道路、都道119号線を新宿方向へと歩き始めた。例によって野球帽にサンダルばきの軽装だった。右手の紙袋の中にタオルと帽子と水泳パンツが入っている。
水木がよりいっそうの健康増進のため、自宅と事務所の往復に加えて水泳を開始したのは約二年前のことだ。誰かに勧められたわけではなく水泳は子供の頃からの得意スポーツだったので自発的な決断だったが、最初の頃は一ヵ月近く休むこともしばしばだった。仕事の忙しさと「怠け癖のせい」だと言う。
「仕事がたてこんでくると、ついバカバカしい≠ニか無駄な時間だ≠ニか思ってしまうんですよ。でも、休むと必ず腹が出てくる。逆に、泳ぎを続けると体調がいいんです。体も締まってきます」
食欲旺盛で甘い物好きだからか、運動不足になると太る体質なのだ。
「初めは市民プールで泳いでたんです。だけど市民プールは貧乏そうな男ばかりで若い女が少ないんです。楽しくないです。それに、ロープに触るな∞まだ水に入るな≠ニ警告がやたら多い。サービスもよくないです。それで民間の会員制プールに変えることにして、この一年半ぐらい真面目に通ってるわけです」
プールに入っている時間は正味三十分、それに往復が三十分少々と着換えやシャワーなどで十五分ほどかかるから、最低でも一時間二十分は要する。
「事務所に八時間いるとしてそのうち一時間半近く使いますからね、体にいいことはわかってるんですが、締切り前なんかになると、日課として続けるのはなかなかえらいんですよ」
歩道のない道路で、水木は停車中の車の後ろに立ち止まり、やってくるトラックをやりすごしながら言った。事務所に掲げてある面談三十分厳守!!≠フ貼り紙は、プールに行く時間を捻出するためにも、ぜひとも必要な宣言≠セったのである。
ところで、水木の合理的な時間の使い方と言えば、アメリカ旅行のアルバム整理のことがあった。水木と私は、六月二十八日の夕方同じタクシーで成田空港から調布まで帰ってきたが、その三日後に事務所を訪ねてみると、みごとに整理された五冊の分厚い写真アルバムができ上がっていた。帰国したその日に写真屋にフィルムを預け、たまっていた仕事の合間を縫って翌日には自分で仕上げてしまったのだ。私など、アルバムどころか、撮影済みのカメラさえまだトランクの中に入れっ放しだったというのに。
もっとも、合理的な行為には常に非合理的な行為が付随しているのが水木の行動の特徴でもある。その日も水木は、「目下、恍惚としてホピの踊りの音楽を聞いてます」と言っていたが、帰国後およそ一週間、水木は明けても暮れても仕事中も、あの単調なニーマン・ダンスの録音テープに聞き入っていたのである。「聞いてるうちにいろいろなことがわかってくる」らしい……。
国領町のスポーツ・ジムに到着した。
四階建ての各階が異なるスポーツの練習場にあてられているまだ新しいビルだった。ロビーに入ると、一階奥のガラス壁の向こうに青い水を湛《たた》えたプールが見える。
「水木です。お願いします」
カウンターで名前を告げた水木は、女性係員にプラスチック製の会員カードを手渡した。「二分後ぐらいにプールの方へ出てきます」と言い残し、プール脇の男子用ロッカー・ルームへ入る。私はガラス壁の前に並べてあるベンチに腰を下ろした。数人の母親らしい女性がプールの中の子供に手を振っており、そこが待合所兼見物席なのだ。
曇り空の下のどんよりと濁った表の風景に比べると、ガラス一枚を隔てた室内プールの内部はハリウッド映画のセットのように明るく華やいでいた。青くきらめく二十五メートルのプールは五つのコースに仕切られていて、十人ほどの人がゆっくりとクロールや平泳ぎを楽しんでいた。小学校の低学年と思われる子供たちは約二十人、そろって一番手前のコースで水に潜る練習を繰り返している。指導しているのは黄色い帽子を被った男女七人の若いインストラクターだった。黒とピンクと黄色の斬新なデザインの水着をつけている。
ごく普通の平日の午後である。いかにも主婦然とした二、三人の女性を除けば、残りの大人たち(特に四、五人の壮年の男)がどんな仕事に就いているのかわからないが、彼らを含め、小学生の一群にもインストラクターにも、寛いだ余裕のようなものが窺えた。ぼんやり眺めていると、「本当にこの国は平和で豊かなのかもしれない」などと思ってしまう。そう思わせるだけの広い空間と整った設備、自然な笑顔と濡れた皮膚の健康そうな色艶があった。
水木は言葉通り、二、三分たってからプール・サイドに姿を現わした。黒の水泳帽に黒の競泳用パンツ。薄くなった白髪が帽子で隠されているため着衣の時よりも若々しく見える。肉体労働に縁のない白く柔らかそうな肌で、脇腹のあたりに多少たるみがあるが、腹部そのものは思ったより膨らみがない。年齢を考えるとまずは上等の体型と言えるだろう。
一番奥のコースのプール端から水木は水の中に入った。切断された左腕は、半袖シャツでは見えなかった付け根の部分が意外に細く、丸くすぼまった尖端がやや赤らんでいた。ふだん服を着て身振り手振りで話している時に短い左腕が服の下でヒョコヒョコ動いているのがわかることがあるが、準備運動代わりに裸で右腕を回すと、細い棒のような左腕もそれにつれて回転するのが明瞭に見て取れる。
水木は関節をほぐしながら前傾姿勢で水の中を歩き出した。水深は胸と腰の中間あたり、その青い水を掻き分けるようにしてコース沿いに歩く。一歩一歩が大股の、スローモーションを思わせる動作だった。
向こう側に辿り着くと、水の上に仰むけに寝た。元来た方向へ背泳ぎで戻って行く。だが、正式の背泳ぎではなく、右手は軽く浮きを取ったり腹の上に乗せて休めたり。両足もバタ足が時折あおり足に変わる。気ままに筋肉を動かしているという感じだ。そして二十五メートルを泳ぐと、また最初のようにゆっくりと水中歩行へと移る……。
なるほど、こういうやり方であれば片腕でも長時間の水泳の練習が可能だった。「子供の頃はいろんな泳法やったけど今は背泳ぎ専門」と聞いていたので、背泳ぎで泳ぎっ放しかと思っていたのだが、これは一種のインターバル・トレーニングである。
水木は二回目の背泳ぎをやっていた。そのすぐ横をインストラクターの若い女性が歩いて行く。水の中の水木からすれば、弾けそうな白い太股を真下から見上げる恰好になる。それまで天井を眺めて泳いでいた水木は、女性インストラクターに気付くと、チラチラと視線を送ったようだった。
私はプールを往復する水木をベンチに座ってじっと見詰めていた。一年半も通っているそうだが顔見知りはいなさそうで、誰とも会話など交わさない。
私は一度、調布での水木の交友関係を追ってみようと思ったことがあった。新宿駅南口のアパートから現在の調布に移り住んで三十三年も経つからである。ところが、それらしい人物はいなかった。水木は酒を飲まず食事も基本的に自宅ですますので、行きつけの飲食店というのがなかった。特に親しくしている友人もいない(調布在住のマンガ家、つげ義春に関しては後述)。毎日のように足を運ぶのはプールと書店だが、書店では個人的な付き合いは不要だし、どうやらプールでもそのようだ。本人は「唯一それらしいのは果物屋の親爺かな」と言う。水木は果物が好きで、よくフラッと事務所を出て山のように買って帰ることがある。事務所近くに店を構えているその果物屋の店主なら、地元で付き合いのある人物に数えられるらしい。
その交友≠ニはこんな具合である。
「買物する時の呼吸が合うんです。私がパッパッと品物を決めると親爺もパッパッと応対する。即断即決でお互いの会話が短い、それが快感なんです。ウチの家内なんか行くと、桃一つでもなかなか決断しなくて、掌に乗せて他と比べたり裏返してみたりするんですが、そういう態度を親爺は好まないんです。水木さんも好まない。とにかく親爺は|躊 躇逡 巡《ちゆうちよしゆんじゆん》を嫌い、質問を嫌う。品物見りゃわかるだろ、気に入らなきゃ買うな≠ニいう頑《かたく》なな姿勢を崩さないわけです。その上のぼせ者《もん》(興奮性)ですから、私と両雄|相搏《あいう》つような丁々発止のやり取りを続けていると段々興奮してくる。私も興奮してくる。ハッと気がついた時には、もう持ち切れないほど買っていて、腐った物も相当買わされてるわけです。私はそんな果物屋を贔屓《ひいき》にしてるんですが、家内や一般の人はそうでもない」
私もその果物屋には水木と一緒に行ったことがあった。確かに会話は極度に凝縮されたもので、「これとこれとあれ」「スイカもうまいよ」「あ、それも」というふうにテンポが速い。簡潔でリズミカルなやり取りなのである。しかし、それが果たして交友関係≠ネのか……。常識からはかなり隔たった水木好みの人間関係ではあるが。
午後四時八分。途中一回の休憩を挟んで、結局二十五メートル・プールを五回往復し終えた水木はサッと水から上がった。プール・サイドの水道で両目を洗い、口をすすぎ、再び隣のロッカー・ルームへ消える。濡れた頭髪を掌で撫でながら部屋を出てきたのは午後四時十八分だった。到着してからすべてが終了するまでにちょうど四十分である。
「帰りましょう」
カウンターの女性係員から笑顔で会員カードを受け取り、スポーツ・ビルの外に出た。
「女性インストラクターの中に二人ほど可愛い子がいましたね。一人は、水木さんが泳いでる時に横を歩いてた女の子で……」
私が言い終わる前に、水木が私の方を向いて右手の紙袋を大きく上下させた。
「そうなんです! あの子があそこのナンバーワンなんです! ワッハハハ、おたくも気がつきましたか?」
「はい。一番端のコースが一番いいコースだとわかりました」
「ワハ、ワハハハ」
日課の水泳でその日のストレスをすっかり解消したらしい水木は、巧みに車の往来を避けながら、早足に事務所へと向かった。
2
七月十六日の朝、宝塚ホテルのレストランで宮一郎を交じえて朝食を取った。宮は水木にとって残り少なくなった戦友の一人である。
「どうですか、その後心臓の具合は?」
食後のコーヒーが運ばれてきて、水木は宮に尋ねた。
「今のところ落ち着いてますね。じっとしとりゃ一生使えるやろ≠ト医者も言うてますから、じっとしてますわ」
「そりゃけっこう。せっかく生き残ったんだからお互い長生きせにゃ、ハハハ」
水木に言われ、宮は小柄な体を縮めるようにして何度も頷き、コーヒーをすすった。
水木は大阪府|箕面《みのお》市在住の宮と毎年この時期になると顔を合わせる。箕面からさほど遠くない兵庫県宝塚市の宝塚ファミリーランドで恒例のゲゲゲの鬼太郎のお化け大会が開催され、開場式に水木が必ず出席するからだ。しかし、今回で二十三回目ともなると、戦友どうしの話題といってもそんなにたくさんあるわけではなかった。
「奥さん、お元気ですか?」
宮が水木に聞いた。水木より二歳年長の宮は二十年前に退職してから職に就いていない。持病の心臓病で毎年のように入退院を繰り返しており、この日もやや顔色が悪かった。
「元気ですよ。相変わらずです」
言って水木は私の方を向いた。
「以前は娘たちもきたり、家内も毎年楽しみにして宝塚へきたんです。宮さんの家にはよく泊めてもらったんですよ。でもここ数年ですかね、大儀になったのか家内もこなくなって、とうとう私一人です」
「そうですね、あの頃は楽しかったです」
宮も思い出すような表情を見せた。
日本の夏はお化けと戦争の季節、両方に関わってきた水木がもっとも忙しい時期である。七月八月になると水木は、さまざまなメディアに登場し、特集のマンガを掲載したり文章を寄せたりインタビューに応じたりするが、時には自ら出向かなければならない。今年(一九九三年)は七月中旬の四日間がその最初のピークだった。
まず七月十五日に、東京の日本橋三越でNHKプロモーション主催の〈水木しげると日本の妖怪展〉(会期7月22日〜8月8日)のための記念講演があり、翌十六日は兵庫県宝塚市で阪急電鉄と産経新聞主催の〈ゲゲゲの鬼太郎/恐怖の妖怪五十三次〉(会期7月16日〜8月31日)の開場式があってこれに出席、同じ日の午後には宝塚ホテルで≪女性自身≫の終戦記念日特集企画の対談があり、翌十七日は宝塚ファミリーランドのイベント・ホール前で午前と午後二回のサイン会、終了後すぐに飛行機で鳥取県に移動し、七月十八日は半ば完成した故郷境港市の水木しげるロード≠フ除幕式に出席、という過密なスケジュールだ。私はこのうち、七月十七日午後のサイン会終了まで水木に同行する予定だった。
実は私は、三ヵ月前に宮に一度会っていた。
宮が数少ない戦友の一人で、現在も水木と付き合いがあり、しかも以前水木が、「私と同格かそれ以上の南方憧憬病♀ウ者です。ピジン語の使い手で、ニューギニア移住の私の夢を、おそらく日本でただ一人理解してくれる人です」と語っていたからだ。
ところが会ってみると、宮は戦地での水木のことをほとんど覚えていなかった。昭和十八年十月に同じラバウル行きの輸送船に乗っていたのは確かだが、水木個人に関する記憶となると終戦後の収容所のものしかない、という。
しかも、南方への憧憬もすでに失せていた。確かに一時は東京のパプアニューギニア大使館に通い詰め、大使と友達になったりした。〈ピジン語研究所〉なるものを旗揚げし、一人で活動したこともあった。だが、「ニューギニアは変わったし、私も年をとってしもうた」と言うのである。
宮が水木と再会したのは宝塚ファミリーランドで水木監修の第一回お化け大会が開催された昭和四十六年(一九七一年)の夏のことだった。当時水木はTVアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』(関西テレビ)の原作者として一躍名をあげた新進の妖怪マンガ家であり、宮はイベント主催者側である阪急電鉄系千里阪急ホテルの次長だった。講演後の水木を宮が訪ねて二十五年ぶりの対面となったのだった。
「その頃のゲゲは大先生≠ナすよ。宝塚の芸者をあげてえらいサービスしました」
芸者サービスを受けた水木は、しかし、宮と出会ったことによってニューブリテン島のトライ族との約束を思い起こした。戦時中親しくなり、「七年後に必ず帰ってくる」と老婆イカリアンや少年トペトロと交わした約束である。功成り名を遂げた水木は昔日の約束を果たす機会をずっと探していたが、聞いてみると、同じ中隊の宣撫班にいた宮も彼の地に対して熱烈な思いを持っており「できることならぜひ再訪したい」と言う。さっそく二人は、その時に再会したもう一人の戦友森島某と具体的な旅行計画を練り、昭和四十六年十二月末から翌年一月初めにかけ約一週間の日程で当時オーストラリアの信託統治領だったパプアニューギニア(一九七五年に独立)のニューブリテン島に出かけた。これが水木にとっても宮にとっても戦後最初のニューギニア行きで、水木は以後十回ほど、宮は三回、かつての戦地を訪れている。
水木は昭和十八年(一九四三年)五月、日大付属大阪中学夜間部三年生だった二十一歳の時に召集された。本籍地が鳥取県なので鳥取市にあった鳥取歩兵第四○連隊に入営したが、「ラッパ卒をやめさせてくれとひつこく人事係の曹長に頼んだため」南方行きを命じられ、岐阜連隊で歩兵第二二九連隊の補充要員となりラバウルに送られた。ニューブリテン島ラバウル湾岸のココポに到着したのは同年十月のことである。
約一ヵ月後の十一月二十五日、臨時歩兵第二二九大隊(大隊長成瀬|懿民《いみん》少佐、後に第一次ズンゲン支隊と呼ばれる)が編制され、ラバウルの南方約八十キロの地点にあるズンゲンに警戒と情報収集のため派遣されることになった。水木はその第二中隊(中隊長児玉清三中尉)二百余名の中に一兵卒として編入された。下士官(伍長)だった宮も同じ中隊の本部指揮班に配属された。やがて宣撫班の分隊長となる宮は大阪の出身で同志社大学経済学部卒業、水木より一年余り軍隊経験が長く、幹部候補生教育を受けていたのである。
ニューギニア島の北東部にあって、ダンピール海峡を隔て珊瑚礁の海に浮かぶニューブリテン島は面積約三万七千平方キロ、日本の九州とほぼ同じ大きさである。全島が熱帯雨林に覆われ、北東端に位置する湾岸都市ラバウルを除いては島内に町らしい町や道路らしい道路はなく、沿岸の各地に小規模な集落が点在しているのみ。従ってラバウル十万将兵≠ニ称された日本軍(陸軍七万人・海軍三万人)の主力はラバウル地区に集結していた。遠隔の地に派遣されるということは、とりも直さず最前線に押し出されることを意味していた。
その頃、中部太平洋地域の連合軍は南から二手に分かれニューブリテン島に迫っていた。マッカーサー将軍|麾下《きか》の米豪陸軍がニューギニア島東部から北上し、ハルゼー提督の指揮する米海軍がソロモン諸島を粉砕しながら北進してくるという車の両輪作戦≠ナある。日本軍はすでに昭和十八年二月にソロモン諸島南端のガダルカナル島から撤退していたが、三月には第五○師団の将兵を満載した輸送船六隻がダンピール海峡で全隻撃沈され、四月には連合艦隊司令長官山本五十六大将の飛行機がブーゲンビル島上空で撃墜されるなど、本格的な反攻に移った連合軍を前にして劣勢を余儀なくされていた。六月末、連合軍は中部ソロモンのレンドバ島と東部ニューギニアのナッソウ湾に同時上陸を果たし、十一月にはニューブリテン島の東隣のブーゲンビル島タロキナに、十二月にはついにニューブリテン島西南端のマーカス岬に上陸してきた。ニューブリテン島全体が一大決戦の場となることはもはや時間の問題と目されていたのだ。
しかし、爆撃下のココポに上陸しても、一日たてば「海外旅行のようだ!」と感激する水木二等兵の場合は、前線への派遣に何の不安も感じていなかった。ズンゲンに派遣されるにあたっては事前に遺書さえ書かされたのに、水木は「パパイヤのたわわに実る天国に行く」という噂の方を信じていた。
〈兵隊というものは、どうしたわけか、戦況とか、この上陸したところがどんなところで、将来どうするのか、ということを一切知らされないから、なにも分からない。今から考えるとそれがかえってよかったのかもしれない。みんな分からないから希望をもって生活していた〉(『娘に語るお父さんの戦記』)
一般の日本兵士に軍事的情報がまったく知らされなかったのは事実だが、決死隊に近い形で送り出された「みんな」が、水木のように「希望をもって生活していた」かどうかは疑わしい。
が、それはともかく、派遣されたズンゲンは決して「パパイヤがたわわに実る天国」ではなかった。陣地が構築されたズンゲン高地は、ワイド湾を望む標高百五十メートルほどの丘陵地帯で、全山が密林に覆われ、南側の海岸は各所が断崖になっていた。東方はヤシ林に白い砂浜のズンゲン岬、西方はワニの棲息するウルグット川とメベロ(メーベル)川の河口である。水木たちはそこで、敵の進攻に備えて陣地構築や兵舎作り、塹壕《ざんごう》掘りなどの重労働に追い立てられた。その合間に食糧調達や地形偵察がある。要領のよくない水木は毎日のように古兵に殴られていた。
一方、宣撫班の宮は現地人のガイドを引き連れ周辺の集落を巡り歩いていた。ビーズの首飾りやラプラプ(腰巻き)用の反物を各集落の長老に進呈し、日本軍への協力を依頼すると同時に敵側の情報を得ようというのだ。原住民の共通語であるピジン語(英語と現地語をミックスした言語)は、宣撫工作を続けるうちに自然に覚えてしまった。
この頃水木は、中隊本部を訪れた時に宮とよく話をしたという。水木の所属する第二小隊(小隊長小寺正二郎少尉)には粗暴な下士官や古兵が多かったが、宮は彼らと違って物わかりがよく、「いろいろなことを何でも知っていて話していると面白かった」からだ。けれども宮の方は、この時期の水木に関してほとんど記憶がない。
ズンゲン進駐から丸五ヵ月たった昭和十九年四月末、成瀬大隊は師団命令により、児玉第二中隊のみをズンゲンに残し突然ラバウルに引き揚げることになった。同年三月ニューブリテン島北方のアドミラルティー諸島の馬場大隊が玉砕、ラバウルへの爆撃も連日激化し、連合軍のラバウル上陸はいよいよ間近と判断されたためだ。しかし、一般の兵にそんな事情がわかるはずはなかった。水木は、自分たちだけ危険地域に取り残されたと思い、ただ恨めしく思った。
部隊の主力がラバウルに帰還したため、ズンゲン守備隊と命名された第二中隊のみで百二十キロにも及ぶ海岸線を警備することになった。おかげで水木は、最前線の中の最前線、ズンゲンから百キロ近く離れたバイエンにバイエン分遣隊の一員として派遣されることになり、そこで、いやな予感通り、一生涯忘れられぬ苦難を体験することになる。
もっとも、昭和五十六年に刊行された分厚い『歩兵第二二九連隊史』(歩兵第229連隊史編纂委員会編)の該当箇所を見てみると、そのくだりはわずかに数行である。
〈昭和19年5月頃になると、連合軍は航空機による空からの偵察ばかりでなく、巡視艇・魚雷艇による海上からの巡回偵察も愈々《いよいよ》激しくなり、土民軍を混じえた豪軍|斥候《せつこう》が、屡々《しばしば》カロライ、バイエン守備隊の前面に、出没するようになった。
5月下旬のある日、バイエン分遣隊が豪軍斥候に指揮された土民軍に急襲され、立哨中の水木上等兵一名を残し、奥田分遣隊長以下十三名が全滅してしまった〉
ここでは名前が本名の武良ではなくペンネームの水木、階級も復員時の上等兵になっているが、いずれにしても分遣隊の中でただ一人生き残り、逃げ帰ったわけである。水木の覚えている状況は次のような具合だった。
順番で歩哨に立つことになっていて、明け方最後の歩哨として望遠鏡でオウムを眺めていたら、銃撃を受け、兵舎の方で分隊長や同年兵らの倒れる姿が見えた。海に飛び込み、必死で逃げた。岩にすがり、断崖をよじ登り、追っ手を巻くために道なき道を走った。途中、夜の断崖の一本道で松明《たいまつ》の一団と出会って崖にぶら下がったり、海に浮かんでいたヤシの実に紛れて泳いだり、現地人に取り囲まれ危ういところで巨木の洞穴の中へ隠れたりと、幾度となく生死の境を潜り抜けた。数日後、服も銃もなくフンドシ一つ、全身傷だらけ、飲まず食わずなのでフラフラになって海軍の監視所に辿り着いた。そしてやっとズンゲンに戻ってくると、あろうことか叱責されたのである。小隊長からは「なぜ銃を捨てた!」と、中隊長からは「みんな死んだのにどうしてお前は死ななかったのか、次は真っ先に死ね!」と。
この体験は水木の軍隊観と戦争観を根底から覆《くつがえ》した。それまでは戦友の死に際してもどこか引いた部分があり、「自分だけは(大丈夫)」と楽観的だったが、そんな気持は吹き飛んでしまった。自分も些細なことでいつ死ぬかもしれず、たとえ生き残っても賞《ほ》められもせず別の死地へ追いやられるだけ、それが軍隊であり戦争なのだ。一介の兵士にとって、戦場とは地獄の別名にすぎなかった。
なお、宮によれば、当初バイエン分遣隊長に任命されていたのは宮自身だったという。ところが急な発熱で寝込んでしまい、奥田に代わってもらったのだ。このことは当時の水木は知らなかった。宮もまた、多くの偶然の積み重なりの末に生き延びたのである。
それから一ヵ月もしないうちに、水木はマラリアにかかり、高熱でうなされている時に爆撃を受け、負傷した左腕を切断される。大発(大型発動艇)でココポの野戦病院に移送されたのは、昭和十九年の六月末頃だ。以後復員船で帰国するまでの一年八ヵ月余りをラバウル近郊の施設を転々としつつ、マラリアの再発に悩まされながら過ごすことになる。
その間、宮たち残った児玉中隊の兵員たちは異常な事件に巻き込まれていた。第二次ズンゲン支隊のいわゆる幻の玉砕℃膜盾ナある。
昭和二十年(一九四五年)三月十七日、前年十月以来ズンゲンに再進駐していた第二次ズンゲン支隊の成瀬支隊長は、第三八師団司令部に「今夕を期し、全員最後の斬り込みを敢行する」と打電し、同月十九日未明先頭に立って敵の幕舎に突撃した。総員玉砕、のはずだった。
当時ラバウルの日本軍は孤立していた。連合軍はニューブリテン島を跳び越え、十九年六月にサイパン、七月にグァム、九月にペリリュー島と歩を進め、昭和二十年に入るとフィリピンのルソン島や硫黄島に上陸を開始したからだ。一大要塞と化していたラバウルはその戦略的な価値を喪失した。ニューブリテン島西部から米軍と交替した豪軍の進攻が始まったとはいえ、日本軍の士気の低下は明らかだった。そこへ、一個大隊斬り込み玉砕の報である。成瀬支隊の果敢な戦闘精神はラバウル十万将兵の亀鑑≠ニしてラバウルで大いに称揚され、大本営にも報告された。
ところがその後、ズンゲン近郊の山中で第二次ズンゲン支隊の生き残りと思われる敗残兵が次々に発見された。その数は最終的に百四十名近くにのぼった。
「敵前逃亡か!?」と驚き慌てた師団司令部は、急遽《きゆうきよ》師団参謀を敗残兵集結地のヤンマーに派遣し、真相調査と事後処置にあたらせた。その結果、斬り込み前に、「全員玉砕」を主張する若い成瀬支隊長と「山中で遊撃戦に転ずべし」と主張する老練な児玉中隊長との間で激論があり、五十余名が児玉に従って山に入ったことがわかった(宮もその一員だった)。残りの敗残兵は、成瀬以下三百八十数名が戦死した時に死にぞこなった者たちである。しかし、事情が判明しても、いったん「全員玉砕」と発表した以上、生存者だからといってそのまま生かしておくことができないのが日本の軍隊だった。
児玉中隊長はすでに死亡していたので、二名の将校が責任を取らされる形で、参謀立ち会いの下に自決させられた。その他の将兵は表立っての責任は問われず、いちおうヤンマー守備隊の指揮下に入ることになったが、次の戦闘で全員突撃し全員戦死することが強く期待されている≠アとは、みんな痛いほど自覚していた。そして、幸か不幸か、その後ヤンマー方面では数回の小競り合いを除いて本格的な戦闘はなく、一同は終戦までの四ヵ月間を平穏のうちに過ごしたのである。
以上が、水木が去った後の第二次ズンゲン支隊の幻の玉砕℃膜盾フあらましだった。水木はこの事件を基に、最後だけ二度目の全員突撃があったように作り替え、最初のニューギニア旅行から帰った翌年の昭和四十八年八月、書き下ろし長編戦記マンガ『総員玉砕せよ!!──聖ジョージ岬・哀歌』(講談社、後に『総員玉砕せよ!』と改題)として発表した。
〈この作品が文学でもルポルタージュでもなく劇画であることのよさは、下級の兵隊の、戦場での庶民的な哀歓というものがじつに生き生きと描かれているところにある〉(≪週刊朝日≫昭和48年9月28日号)
と、発表当初からそれなりの評価を受けたが、本を寄贈された宮は、克明な叙述と描写に感心する一方で怪訝《けげん》な気もした。
「ようできとる。実際、ほとんどあの通りですわ。そやけど、ゲゲはあの時は現場におらんかったのに、なんであんな詳しいんやろ思いました。私が知っとるゲゲは、終戦後ラバウルの収容所におったゲゲですからね。いっつもフラフラしとって、絵がうまいもんで、現地人に似顔絵描いてやっちゃあ煙草をせしめとったですが……。あの頃、同じ中隊の誰かに聞いたんやろか?」
宮の推察通り、戦後半年余りラバウルの収容所にいた頃、水木はかつての仲間から幻の玉砕℃膜盾フことを聞いたのだった。水木と浅からぬ因縁のある児玉中隊長の山中での自決の様子など、中隊長当番兵を探し当て丸一日かけて話を聞き出したのだ。そして帰国後も、折あるごとに情報を集め、事件の全体の構図は師団参謀松浦義教の書いた『灰色の十字架』という著書を読んで理解した。宮たちとのニューギニア行きは、作品のための現場取材をも兼ねていたのである。
水木は自らの戦争体験にこだわり続けてきた。戦後一貫して価値観の根底に置いてきた。それほど強烈な体験だったのである。戦争体験の絵は紙芝居界に入る前の昭和二十四年から、『ラバウル戦記』と題して発表のあてもなくワラ半紙に描いてきた。神戸から上京して貸本マンガ家になってからも、『戦場の誓い』(兎月書房)などの戦記モノは二年目の昭和三十三年から描いているのに、『幽霊一家』『墓場鬼太郎』(ともに兎月書房)などの鬼太郎モノは三年目の昭和三十四年からである。昭和三十五年には〈少年戦記の会〉を作り、「みじめな戦記モノは売れない」とこぼしつつも短編マンガ誌≪少年戦記≫(兎月書房)の編集に携わり、二十編もの戦記マンガを量産し続けた。もっとも、これら貸本マンガ時代の作品は文字通りの戦記モノであり、実体験に根ざしたものではなかった。後年の佳作『ダンピール海峡』(兎月書房)や≪ガロ≫で評判を呼んだ『白い旗』もそうだった。
水木は、わけのわからぬまま戦場に放り込まれ生死の境をさまよった一兵士として、『ラバウル戦記』のマンガ作品化をどうしてもやり遂げねばならなかった。それが『総員玉砕せよ!』だった。
『総員玉砕せよ!』に関しては興味深い逸話がある。六月にサンフランシスコのサンタクララで〈アニメ・アメリカ1993〉が開催され、水木が講演を行なったが、その時に通訳兼司会役を務めたアメリカの日本マンガ研究家フレデリック・ショットが、水木に会うなり口にしたのが『総員玉砕せよ!』のことだったのである。
日本語に堪能なショットは流暢な日本語で言った。
「『総員玉砕せよ!』を読んで、ものすごく感動したんですけど、あれは水木先生の体験でしょうか? アメリカにも戦争マンガはたくさんあります。その多くは通俗的な戦争讃美モノですけど、マンガ家個人の体験を描いたものは、第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争と、ことごとく反戦モノです。それらアメリカの反戦マンガと比べても、『総員玉砕せよ!』は断然素晴らしいです。不思議な迫力があります」
後日私はショットから、ショットが最近英字新聞に寄稿したという水木しげる論のコピーをもらったが、その最後にショットは『総員玉砕せよ!』("The Banzai Charge")の内容を紹介し、「それはこれまで描かれた反戦マンガの中でもっとも力強い作品の一つである」(1993年1月30日付マイニチ・デイリー・ニュース)と書いていた(ちなみに私はこの時、『ゲゲゲの鬼太郎』の英語タイトルが "Kitaro the Spooky" と初めて知った)。
『総員玉砕せよ!』は題名こそ勇ましいが、実際には勇ましい場面などまるで登場しない戦記マンガである。描かれているのは、善良だったり小ずるかったり猥雑だったり小心だったり居丈高だったりバカ正直だったりする兵隊たちの、戦場での日常生活ばかりだ。彼らは目先のことしか考えない。考えることを許されない。ちょっとでも質問したり口答えしたりすると、棒切れのように上官に殴り倒される。質問や口答えをしなくても殴られる。殴られることが常態なのだ。しかも身近に死がある。運んでいた丸太の下敷きになり、川に落ちてワニに食べられ、魚取りに行き口に魚を詰まらせ……、戦局とはおよそ関係のない犬死にのような死である。
そんな彼らに、若い隊長が「死に場所を得たい」と固く決意したため、玉砕せねばならぬ運命が襲ってくる。※[#歌記号、unicode303d]私はなんでこのような、つらいつとめをせにゃならぬ、と『女郎の歌』の一つも歌いたくなる。悲惨な闘いが繰り広げられる。だが、多数が生き残ってしまった。参謀がやってきて将校二名を自決させる。しかし一度「玉砕せり」と発表された部隊は二度と存在することは許されない。二回目の玉砕命令が出された。最後の突撃を前に、「好きな歌を歌ってよい」と言われ、兵隊たちはやり切れぬ思いで大合唱する。※[#歌記号、unicode303d]私はなんでこのような、つらいつとめをせにゃならぬ……。巻頭のピー屋(軍慰安所)で慰安婦と兵隊が和して歌った哀歌が全編を通じての基調低音となって響く。男たちの「女郎の方がマシ、生きて帰れるから」という思いを乗せて。
私は、きわめて日本的な軍隊物語と思われるこの戦記マンガに現代アメリカ人が深く感動したことに、感動した。水木は『総員玉砕せよ!』で、特殊を描いて普遍に達したのかもしれないと思った。そして、水木の実体験をそのまま写した戦場での日常生活はともかく、なぜ水木は、その場にいなかった幻の玉砕℃膜盾ノこれほどまで感情移入し、精魂を傾けて描くことができたのだろうと思った。所属部隊の実録だから、という理由だけでは不充分に思える。
考えられる有力な理由が一つある。水木自身のバイエンの体験である。あの時分遣隊は全滅し、水木一人が中隊に生還し、賞められると思ったら「次は真っ先に死ね!」と逆に叱られた。この顛末は、後に第二次ズンゲン支隊の将兵が直面することになった事態と酷似している。規模や細部は異なっているが、構造は同じなのだ。水木の体験は幻の玉砕℃膜盾フ雛形と言ってもいい。もしもその後、マラリアにかからなかったら、水木は次の大きな戦闘で真っ先に突撃を命じられたに違いない。いや、命じられなくとも、否応なく幻の玉砕℃ゥ体に巻き込まれていた。バイエンからの生還を吟味すればするほど、幻の玉砕℃膜盾ヘ他人事ではなく、切実な自分の問題として迫ったはずなのだ。
水木は『総員玉砕せよ!』の刊行直後、インタビューに答えて言っている。
〈自分としては、下級兵士たちのカッコ悪い日常を描くことで、意味もなく死んだ彼等の無念さを、より強く伝えたいと考えたのです〉(昭和48年9月10日付朝日新聞)
この年水木は五十一歳だった。当時の言葉で言えば、自らの戦争体験を約三十年たって総括≠オたのである。これ以降、水木の戦記マンガは極端に少なくなった。新たな書き下ろしの戦記は以後一冊も出版されていない。
「それじゃあ」
宝塚ファミリーランド内のお化け大会会場に行かなければならない水木は、ホテルを出て、横断歩道のところまで宮を見送った。
「ほんなら、また来年こさしてもらいますわ。お元気で」
宮は一、二度振り返ってお辞儀をし、背中を丸めるようにして建物の角に消えた。
一年に一度の戦友どうしの再会といっても、朝食を共にして雑談を交わしただけの、時間にすれば四十分足らずのものだった。
3
宝塚にやってくる途中、私は新幹線の中で水木に、戦争中死についてどう考えていたのか尋ねてみた。
「死の意味を本気で考えるようになったのは日本に帰ってからですよ」
水木は答えた。
「戦争中はそんな余裕ないです。毎日奴隷みたいにコキ使われて、慢性の空腹状態ですからね。おまけに、私らの船が最後の輸送船で補充がないからずっと一番下っ端の兵隊、朝昼晩と殴られっ放しです。殴られると痛いんです。生き地獄ですよ。そんなとこでは、人が死のうがどうしようが、かまっておれないです。人間なんて簡単にドンドン死ぬるんです。軍隊に入ったとたん死について考えることを止めざるを得ない。考えちゃいかんのです」
死のことは考えなかった。その代わり「観察した」と水木は言う。戦友たちの、戦死や病死や変死や頓死のありさまを、「今でも一人一人ハッキリ覚えている」と言う。
水木の場合、多くの体験は驚くほど鮮明な画像となって記憶されているのだった。日時については反対に、自身の入営の日付をはじめ門司出港・ラバウル到着の年月日など、呆れるほどあやふや(これまで記述した水木の行動の日時は各種の資料や証言から推定したもの)だった。具体的な数字、正確な組織名とその推移、地図上の正しい位置、などについても関心が薄い。
絵を描く人間の特性といえばそれまでだが、水木はまず見て、記憶し、そこからさまざまな価値を引き出してきたのだ。
七月十六日午後三時、宝塚ホテルの特別室で≪女性自身≫の取材用の対談が始まった。
今回の企画は、『ぼくが医者をやめた理由』の著者として知られる医療ジャーナリスト永井明の発案によるもの。水木と国立加古川病院の元院長砂原|勝巳《かつみ》、つまりラバウルの野戦病院で水木を診察した陸軍軍医とを会わせ、二人から当時の話を聞き出そうというのだ。永井によれば、砂原は永井の義理の従兄《いとこ》だった。食道ガンを宣告された砂原がかねてから「もう一度水木に会っておきたい」と言っていたため、週刊誌の戦争特集企画を利用して二人を再会させたのである。
「軍刀をよく忘れ」「密林に向かって『オーソレミオ』を歌う」人情味溢れる変な軍医のことは、自伝やエッセイ、マンガで水木はたびたび描いてきた。会ってみると、垂れた両目、太い鼻、大きな分厚い唇の顔が、『昭和史第6巻』(講談社)に登場するマンガの似顔絵そっくりだった。ただ、今年七十五歳、闘病生活三年目に入ったとかで、顔も体もかなり痩せている。
私は部屋の隅でメモを取り、インタビューと進行役は永井がつとめた。
──野戦病院はどこにあったんですか?
砂「ココポです。ラバウル湾はタコ壺状になっていて、壺に譬《たと》えると入口近く、海岸からすぐ立ち上がった断崖にヤシ林があって、その林の中に私たちの病院があったんです。第百三|兵站《へいたん》病院ですね」
──水木さんがこられたのはいつですか?
水「あの頃、いつも夏だから、年月日はわからんのですよ」
砂「生きてる保証や心づもりがあればね、年月日もあるんだけど」
──腕をやられたのはいつだったんです?
水「さァ……。ズンゲンなんです。ニューブリテン島なんですよ……」
永井は困り、水木もちょっと困った。まさに陣中暦日なし≠セった。しかし、水木の記憶にある行動を諸資料と突き合わせてみると、左腕の負傷は昭和十九年の六月中旬頃、第百三兵站病院への移送はそれから間もなくの六月末頃、のはずだった。
水「あそこにT軍医とかいましたね?」
砂「私の先輩です」
水「T軍医はものすごく上手な枕絵を持ってるわけですわ。うまいですよ。墨でね、色まで付いとった。ワハハハ」
いつもの水木流で、その場の雰囲気や人々の思惑とは関係なく、いきなりエロチックな方向に脱線してしまう。
──病院の規模は大きいんですか?
砂「軍医が二十人ぐらいはいたかな」
水「うん、私はよく出入りしてたんです」
──将校と軍医はイメージが違います?
水「そう、軍医は多少人間らしいんです、多少。他は人間じゃないですよ。何考えてるかわからないです。しょっちゅう働かせるわけですからね。意味もなく働かせる!」
部屋には、話をしている三人の他に、雑誌編集部のカメラマンと永井のアシスタントの若い女性がいた。二人は、脱線だらけで悲憤|慷慨《こうがい》調の水木の身振りや言葉に笑いを抑えながら、シャッターを押したり、テープレコーダーのテープを取り替えたりしていた。私はだいぶ慣れてしまったので水木の話しぶりにさほど違和感を感じなくなったが、彼ら初めて接する人から見ると、水木はやはり相当の奇人変人の類いに映るだろうと思った。
永井が砂原に向かって聞いていた。
──水木さんは、どういう目立ち方をしてたんですか?
砂「白衣着てたんですよ。スケッチブックを小脇に挟んでたね。こういうとこでも絵を描こうという兵隊さんおるんだな、と思った。私も絵に関心があって、ワラ半紙に原住民の顔描いたりしてたから、あんたの行動に注目するようになった」
水「あれはトタンで作って紙を挟んでたんです。今でも描いたのがあるんです」
私も調布の事務所で二十数枚のその絵を見せてもらったことがあるが、兵士や現地人を描いた人物画も、林や樹木を描いた風景画も、非常に正統的な技法の写生画だった。青年期の水木がまっとうな画家を目指していたことを明白に示す鉛筆画の数々だった。
砂「彼は、無線の通信をしてる人と交流があったらしく、私にもうこれ、戦争すみますぜ≠チて言ってね。私にそういう話をするのは、私も軍人離れしとったんだろうが」
水「普通じゃないですよ。ジャングルに向かってイタリアの民謡歌っていいのか!∞こんなの許されていいのか!≠チて、大尉のガジ(綽名《あだな》)がよく注意してたでしょ」
砂「お互いに中尉だったけど、向こうが先任なんです。注意されれば、はい=v
それからしばらく、テーマは永井の誘導によって、二人がいかに軍隊組織から外れた異質の存在だったか、という方向に進んだ。水木の軍律を無視した幾つもの振る舞い、砂原の一貫して醒めた軍隊観、などである。今回の文章をまとめる永井は、私も最初そうだったように、組織にとって落ちこぼれ≠ナあった彼らの生命力と人間性に強く興味を惹かれたのだ(永井の原稿は予定より約一ヵ月遅れの九月下旬に二回にわたって≪女性自身≫に掲載され、それぞれ「落ちこぼれ友情悲話」「落ちこぼれの兵隊とずっこけ軍医は、生き残った!」と題されていた)。
私はしかし、今回はもっと具体的な話題に興味を感じた。野戦病院入院からおよそ半年後、ラバウル地区ナマレの傷病兵訓練施設(名誉軍人部と呼ばれた)に水木や砂原が移動してから、水木が再び悩まされることになったマラリアの諸症状、などである。
砂「私は三日熱とか熱帯熱とかやりました」
水「私は十日熱です」
砂「そりゃ、熱帯熱だ」
水「四十二度も出て熱が下がらないんです。下半身の感覚がなくて歩けない。マラリアです≠チて言われたけど、寒気はしなかったんです。すごくだるかったですね。一ヵ月ぐらいしてやっと動けるようになったですが」
砂「血中に病原体がいるわけだから、その出す毒素がいろいろ悪さするんですよ。あそこにはまだわからない病気がいっぱいある。熱帯|潰瘍《かいよう》、あれだって原因はわからない」
水「私も罹ったけど奥へ進んでくるんです」
砂「セロファン当てて保護しても、ハエとかきて追加感染がすぐ起こるから治らない。んー、ところがそうでもない。腸関係のトリコモナスあるでしょ、ほら例の伝染症の……」
砂原は永井の方を向いて解説し始めた。
砂原は病理学を専門とする内科医、永井も神奈川県立病院の元内科医長。病原菌の分類を基にした詳しい症例比較の会話になると、門外漢には難しすぎて理解できない。
水「砂原軍医のところへ行こうと思って、雨の中へ飛び出したんですよ。ところが熱で頭がおかしくなったのか、いくら行ってもジャングルで、みんなが発見した時はジャングルの中に倒れてて、私はもう、重病人でしたよ」
砂「ああ脳症ね。あれはよく起こるんです。必ずしもマラリアの発作が起こってからではないんです。私の友人の軍医も、ポコッと脳症になって、ずいぶんと手こずりました」
水「血の小便の出る黒水病ってありましたよね、あれでだいぶ死にましたけど」
砂「黒水病は医原病なんです。マラリアの治療にキニーネを使うと発症する。血液の中の赤血球が壊れ、ヘモグロビンが壊れて、おしっこの中に溶け出て行くんです。海軍に多かったんです。陸軍はずっと合成剤を使ってましたから。終戦になって物資の関係が変わって、陸軍でもキニーネを使っちまえ、と」
水「そう、黒水病が多くなったのは終戦後収容所に入れられてからです」
ひとしきりマラリアに関する話が続いた。
マラリアは周知のように、ハマダラ蚊を媒介としたマラリア原虫による伝染病。砂原によれば、当時ラバウル方面に派遣された日本兵の約九割はマラリアに感染したはずだという。血球破壊時に断続的な高熱を発するのが特徴だが、恐いのは、血液中に病原体がなくなっても骨髄などに潜んでいて長期にわたり発症を繰り返すことだ。砂原の場合は、一時的に疲労が重なると毎年のように症状が出た。宮も、「退職後心臓が悪化したのはマラリアの再発と関係あったのかもしれない」と言っていた。しかし水木は、戦時中何度もマラリアに罹り、うち二回は重症患者だったにもかかわらず、「戦後はピタッとおさまった」のだった。
ここで、屋外での写真撮影となった。長梅雨が続いていてこの日も小雨模様の曇り空である。もう少したつと撮れなくなるとカメラマンが言い、二人は促されてホテルの中庭に出た。二十分ほどにこやかに雑談を交わしている間に撮影は終了した。砂原が「水木に会いたい」と言い出して実現した企画だが、格別伝えておきたいことなどなさそうだった。水木と会ってあれこれ戦争時代の話をする、それだけで砂原は充分に満足そうなのだ。
部屋に戻って、永井の質問が再開された。
──ナマレの名誉軍人部にいた頃、戦争の危機感というのはあったんですか?
砂「ありましたよ。敵の上陸は近いということで、穴の中に寝てましたからね」
水「敵がきたら玉砕だって、ヤシに爆弾吊しとるわけです。毎日『肉攻の歌』を聞かされて、大八車に丸い物持って突っ込む演習ですわ。何というバカバカしさ!」
砂「ナマレ渓谷へ進入してくる、と聞かされてましたからね」
水「敵機は夜もやってきてましたよ。そんな中でも、水木さんは原住民の村に断固行くわけです。上官に行くな≠ニ殴られても行く。夜こっそり行ってみると、彼らが寝そべって月を見ながら話をしてるんです。ものすごく楽しそうなんです」
──部隊と現地人の村との距離は?
砂「部隊は山の中腹にあって、現地人の村はその上の平坦なところですね。彼は自分から出かけて行くわけだけど、向こうも、子供らがしょっちゅう部隊に出入りしてました」
──何人ぐらいの村なんですか?
砂「小さな単位で分散してるんです。焼き畑やってるんですよ。子供に年を聞くとこのヤシの木と同じ≠チて言う。子供が生まれるとヤシの木を植えて、ヤシは一年に一つずつ葉が落ちるから、落ちた断面数えると年齢がわかる。あとバナナですね。ヤシの木とバナナの木を植えとくと一生食うに困らない。生涯踊って暮らせるわけです」
水「私は自分の芋の畑持っとったんです、村の中に。紫色の一番うまい芋です。それで終戦の時に、現地除隊してもよいと聞いて、砂原軍医に手続きの相談しようと思ったら、そんなバカな!≠ニ言われた。ラバウル十万の兵の中でそんなことする奴はいないぞ∞一度ご両親に会ってからにしたらどうだ≠チて」
砂「うーん、それねェ、どうも私は言った記憶がないんだよ」
この場面も、水木の自伝やマンガには何度も取り上げられてきたが、一方の当事者は記憶にないという。今でもニューギニア移住を熱望している水木である、当時砂原が黙って頷きさえしたら間違いなく現地除隊しただろう。そして、百八十度異なるその後の人生……。
事実は事実でも人間関係にかかわる事実というのは不思議だった。ある人にとって無かったに等しいことが、別の人には圧倒的影響力を持ちその人の人生を変えてしまうのだ。
──八月十五日はどうでしたか?
砂「おかしいと思ったのは、毎朝十時頃くる敵機の定期便≠ェその日からこなくなったんです。私は敵上陸に備えて毎日塹壕掘ってましたよ。数日後ですかね、部隊長から戦争に負けたと知らされたのは」
水「敗戦と聞いて、半分は悲しかったけど、一番ゲラゲラと嬉しがってたのは水木さんです。何がおかしい!≠チて殴られました」
水木は結局、約二年三ヵ月の兵役期間中、落ちこぼれ最下級兵として殴られっ放しだったわけである。水木マンガにビンタの炸裂《さくれつ》する「ビビビビビーン」という擬音語が頻出するのも無理はない。それだけ殴られても怪我をしなかったのは、若くて体が丈夫だったこともあるが、「全身の力をフニャッと抜いてパンチの衝撃をやわらげるコツを習得してた」からだ。殴られる達人、ではあった。
昭和二十年九月ラバウルに豪軍が進駐してくると、名誉軍人部は武装解除して解散させられ、兵員は旧所属部隊ごとに八ヵ所の集団キャンプに収容された。水木はラバウル東方のガゼル岬に設置されたガゼル集団キャンプ約一万二千人の一員となった。有刺鉄線に囲まれた敷地内で連日開墾作業などの肉体労働である。
ラバウルからの復員は昭和二十一年(一九四六年)二月末に始まったが、戦傷病兵の送還が優先され、水木が浦賀に上陸したのは同年三月、砂原が帰国したのは同年四月末だった。
──極限状態でさんざんな目に遭われた、と。でもお二人は社会的に成功していらっしゃるけど、そうでない人もたくさんいる。そういう人はどこに恨みをぶつけたらいいのでしょうか? それとも恨まないのですか?
水「恨みを持ってる人はいますよ。それをどう表現するか、思い惑ってるんじゃないですか? 例えば選挙に投票しないとか。でも戦争となるとね、対象が大きいですからね」
水木は投票に行かない人間だった。保革逆転が噂されるこの夏の総選挙も棄権である。
砂「結局、生き残った人間は、戦争の非合理さや不条理さを天災と捉えがちなのよ」
水「やっぱり戦死した人ですよ。私は戦後二十年くらい、人にあまり同情しなかったんです。戦争で死んだ人間が一番かわいそうだと思ってたからです」
砂「生き残ってるのがうしろめたいと言うか、戦後お互いに連絡取らないのはそれです」
水「生き残った者が一度集まった時、小隊長が我々はほんのちょっと長く生きただけだ≠チて言うんですよ」
砂「その感覚、共通にありますね」
水「戦死した人間は、ものすごく生きたかったんです! 死にたくなかったんです!」
砂「未熟な二十代前期、あまりまともな人生の期間じゃなかったですよ。でも、自分の青春時代はあの時代しかなかった。今頃になってやっと、あいつどうしてるかな、と」
水「私はよう覚えてますよ、死んだ人間を。大きな問題ですよ。大きな問題だけど、どうしようもない」
永井の質問の仕方がよかったのか、二人は堰《せき》を切ったように喋った。圧倒されて、我々その場にいた者はわずかな物音を立てることさえ憚《はばか》られたほどだ。
私は、水木の口から新幹線の中で聞いたのと同じ言葉を聞いて、同じ時に耳にしたもう一つの忘れ難い話を思い出した。
水木の、あの高笑いの由来である。本人の感情と必ずしも結びついているわけではない演技のような哄笑。幼少年時代にはやらなかったと言うので、いつ始めたのか尋ねた。
戦後復員してきて間もなくだったという。とりあえず実家のある境港に帰ると、すぐに戦友の母親が自宅にやってきた。水木と同じ部隊にいて死亡した息子のことを聞きにきたのだ。水木は、彼が眼鏡を失くしたので自分の持っていた予備の眼鏡を一つやったことなど、知っていることを話した。戦死ではなく、マラリアと下痢による病死だったがそのことは黙っていた。聞いていた母親は泣いた。激しく泣きじゃくり始めた。その時思わず、水木の口から乾いた笑いがほとばしったのだ。「何か、いたたまれなくなってね。大声で笑うしかなかったんです」と振り返る。
それから水木は、その場に居辛くなった時や切羽詰まった時、自分の感情に反してしばしば笑い声を上げるようになった。入院中の友人の家族から電話で「ガンらしい」と知らされた時突然笑い出したことがあるし、親しくしていた知人の葬式に参列中不意に笑ったこともある。おかげで、「非常識だ」とか「尊大だ」「頭がおかしい」とさまざまな誤解を受けることになったが、本来は戦争体験の後遺症とも呼べるものだった。
ただし後年には、さして深刻ではない場合でも、気まずい空気を払拭するため、照れ笑い同様に多用するようになるのだが。
午後七時、永井は必要とする項目をほぼ聞き終わったらしく、取材用対談は終了した。
水木と砂原は握手をして立ち上がった。
場所を移しての会食では、私の席も用意してもらっていたので、一緒に部屋を出た。
豪華な絨毯《じゆうたん》の廊下を歩きながら、私はたまたま横にいた砂原に、もう一度、「本当に現地除隊を思い止まらせた記憶はないんですか?」と聞いてみた。軽い気持だったのだが、砂原は頷いてから思わぬことを言った。
「私は彼に何を言ったのか覚えてないんだけど、彼が現地除隊を諦めたのは、おそらく別の理由があったと思うんですよ。つまり、日本が敗けた、ニューギニアはいずれ戦勝国になる、そこで原住民の中に旧日本兵がいたらどうなるか? ね、タダじゃすまないですよ。僕もトペトロと親しかったから、多少彼らの村の情報は得ていたんだけど、そういう判断がね、水木くんの頭にあったかもしれない。もちろん、結果的にはそれでよかったんですがね」
砂原は嗄《しわが》れ声で言って、微笑んだ。
私はびっくりした。あり得る話に思えた。しかし、そうだとすると、水木の過酷な戦争体験の中で、泥の中の蓮の花のようにそこだけポッカリと美しい現地人生活讃歌が、「(軍医に諫《いさ》められなければ)現地除隊しても残りたかった」という情熱的支柱を失い、冷静な計算に基づくその場限りのものだったことになりかねない。
その晩は水木に確かめてみる時間的余裕はなかった。ようやく砂原の説を質《ただ》すことができたのは、砂原や永井たちが帰ってしまった次の日の昼前、一回目のサイン会と二回目のサイン会の合間に、宝塚ファミリーランド内の喫茶店に入った時だった。
「ハハハハ、年をとってくると過去のことをだんだん忘れてくるんですよ」
水木はまず、砂原説を笑って否定した。そして、私の方に身を乗り出すようにして語った。
「戦争中の原住民、つまりあの土人たちは中立だったんです。日本軍だ米軍だオーストラリア軍だというよりも、人間的に優しい方に付いた。空腹な者に食物を施すのは当然だと思ってる社会なんです。だから、マラリアでウンウン言ってる私に果物をずっと運んでくれた。一方で、不時着した米軍の操縦士にもミルクを与えて命を助けてるんです。その人はあとで教会を寄付しましたけどね。それに、日本軍はほうぼうで悪いことしましたけど、ラバウルでは現地の人にそんなに悪いことしてないんです。飛行場の穴埋めや強制労働に駆り出したりはしましたが、中国みたいな残虐行為はほとんどなかった。そりゃ中には恨んでる人もいますよ。我々は侵略者だったんだから。けれどあの時でも、私は彼らとうまくやっていけたと思うんです。砂原さんが止めなければ、最低十年は楽しく暮らせた。だって、戦後再訪してから、ずっとうまく行ってますからね。今やトライ族の中で、ミズキ氏といえば伝説化してる名士なんですよ。ワハ、ワハハハ」
水木の信奉する事実≠ヘ強固だった。
4
昭和二十一年三月、駆逐艦雪風で神奈川県の浦賀に入港した水木は、応急処置を受けただけの左腕の再手術(露出している骨を削って肉に包み込む)を受ける必要があり、同県の臨時東京第三陸軍病院(現、国立相模原病院)に移送された。
手術の順番待ちの間にいったん境港に帰ろうと思い、病院から「(両親の)ショックを和らげるために手のない絵を書いてはがきで知らせた」(『娘に語るお父さんの戦記』)のは有名な話である。それに続く家族の反応のエピソードも、奇天烈《きてれつ》と言おうか、すっとぼけてると言おうか、他に類例がない。
〈母は、片腕というのがどれくらい不自由なものか、ハガキが着いてから一週間ばかり、片腕で炊事をやってみた、と語った。しかし、父はちょっと変わりものだから、僕を駅まで出迎えに来たまではいいのだが、
「お前、片手はどのくらいになったか」
と言ってソデをさわり、
「あっ、あっ、えらい短いな、これくらいなけらにゃいかんよ」
と言って、指で三十センチぐらいを示した。家に着くと、兄弟たちは、
「しげるは、昔から横着者で、両手を使うところを片手でやっていたから、一本になっても同じだろう」
と言う始末〉(『ねぼけ人生』)
これは、戦争で身体障害者となった息子を迎える家庭の、通常予想される図ではない。
水木の一家は、全員どこか少しズレていると思わざるを得ない。家族としての一体感や相互の愛情は存在するとしても、かなり個性的で、妙な具合にさばけている。
もちろんこれは文章力のなせる技である。水木は文章をよくし、独特のユーモア感覚には定評がある。実際にはもっといろいろとあったはずなのに、笑いを誘う突出した部分のみを抜き出し、この場面を構成したのだ。
ここで注意深く排除されているのは、前途ある青年の将来に深く関わる戦傷が当然本人と関係者にもたらすはずの暗い雰囲気≠ナある。本人の言い知れぬ不安∞嘆きと怒り=A家族の激しい動揺∞同情と悲しみ=Aなどだ。水木はそれらのやるせない感情と空気を描かない。かなり意図的にそうしている節がある。水木と四六時中一緒にいて非常に印象的なのは、日常生活において隻腕であることのハンディを微塵も感じさせないことだ。不自由さについて水木は一言も口にしない。
長女の尚子が私に話してくれたことがある。
「子供の頃は、父が片手だってこと、特に意識しませんでした。右手一本で何でもできるからです。でも中学一年の時だったかな、いつものように家族でデパート巡りしてて、夏だったから父も半袖だったんですが、何人かの人が父の左手をジロジロ見てるのに気がついたんです。それでハッとして、お父さん、片手なんだ!≠チて思いました。だからといって、それからも、父の行動にハンディキャップを感じたことはありませんけど」
水木は身内に対しても、失くした腕に関して愚痴めいたことをこぼしたことはなかった。それどころか、障害者という事実さえことさら感じさせないように振る舞ってきた。
いったい水木はいつから、どういう理由で、そのように自らを律し始めたのか。
私は今回の宝塚滞在中に水木に尋ねてみた。
「ナマレにいた頃からじゃないですかね」
名誉軍人部で、食糧生産にいそしむ傍らトライ族の村に通っていた頃だったと言う。
「働かせながら治療するところですから、手足のないのや目のないの、いろんな兵隊が寄り集まってるんです。そこで気がついたのは、五体満足でなくなると精神も弱々しくなってしまうってことですね。ある曹長も片手がなかったんですが、二言目には手棒《てんぼ》になってしまった≠チて溜息をつく。誰かが冗談を言っても笑わないんです。会話の最後に必ず、でも、俺は手棒になってしまった……=B悄然としてうなだれるわけです」
水木は障害を持った自分の体に絶望してしまうたくさんの将兵を見た。精神的落ち込みは、年齢が若ければ若いほど激しかった。
「私、これじゃダメだな≠ニ思ったんです。私自身が生まれつき負けん気が強かったのかもしれませんが、弱気になったら、こりゃ生きていけん≠ニ思いましたね。体の一部が欠落したら、その分知恵を使わにゃいかんなと。だから私の場合、落胆の気持は普通の傷痍軍人の三分の一くらいだったんです」
前向きに積極的に生きてやろうと決意して水木は復員してきたのだった。前述の、明るくとぼけた家族との再会シーンは、そんな水木の「覚悟」を反映したものだったと言えよう。
ところで、傷痍軍人といえば戦前はかなり優遇された存在だった。日露戦争後の廃兵院法以来援護制度が定められ、昭和十四年に軍事保護院が設立されると、そのための行政機構が確立された。「一般障害者に対して優越感を持たせることが目的の一つ」(児島美都子『障害者雇用制度の確立をめざして』法律文化社)だったため、治療や療養、職業再教育や就職斡旋などの面で手厚く遇され、生活に何ら不安のない高額の恩給を支給されるのが常だった。文字通り名誉の負傷≠ニして扱われたのである。
ところが敗戦を境に、こうした各種優遇措置はGHQ(占領軍総司令部)の命令によって停止させられた。昭和二十一年二月には軍事保護院が廃止され、所轄の病院などの諸施設は厚生省に移管された。傷痍軍人の援護は一般身体障害者と同等、つまりほぼゼロになったのだ。『日本傷痍軍人會拾五年史』(日本傷痍軍人会編、戦傷病者会館)によれば、当時の傷痍軍人の総数は「大凡《おおよそ》七十万人と推定されその半数が軽症と言われた款症者」だという(社会保障研究所編『日本社会保障資料(1)』では昭和二十三年二月に日本政府がGHQに報告した身体障害者数は約八○万人、うち三二万四六二二人を政府は退役軍人と推定している)。
「国家のために傷痍を受けた尊い誇りを堅持」(『日本傷痍軍人會拾五年史』)する多数の傷痍軍人は各地で国家補償の要求を掲げ運動を展開したが、身体障害者福祉法が施行されて一般身体障害者と同列の援護措置(更生施設への収容、国鉄運賃の割引など)が講じられたのが昭和二十五年四月、恩給法が改正されて傷病年金や増加恩給が復活したのが昭和二十八年八月(日本傷痍軍人会の創設は昭和二十七年十一月)、念願の「戦傷病者のための単独法」である戦傷病者特別援護法が制定されたのは昭和三十八年七月のことだった。ここに至ってようやく、傷痍軍人は戦傷病者手帳を交付され、療養手当の支給、更生医療の給付、補装具の支給及び修理などの援護を国家補償として受けることができるようになったのである。
水木が帰国後東京で過ごした数年間は、そのうちの傷痍軍人不遇時代だった。国立相模原病院で左腕の再手術を受けた後の昭和二十一年から二十四年にかけて、闇米の買い出し屋、病院直属の染物工場の下絵職人、鮮魚の配給業、輪タク(自転車に客席を付けた簡便タクシー)屋の親方など各種の職業を転々とした。「食うことに追われていた」のである。もっとも「物ごとをあまり深く考えない南洋ボケ」でもあったから、デッサン教室や武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)に時々通いながらの生業であり、どの仕事にも真剣に取り組んだというわけではなかった。
この間水木は、傷痍軍人の団体である新生会に加わり、折に触れて行動を共にしている。病院に住みついていた頃、同僚の男から「秘密の会合」に誘われたのがキッカケだった。
〈興味本位で出かけると、青山の旧陸軍の兵舎跡の一室に新生会というのがある。何のことはない、引揚者や傷病兵たちの圧力団体をつくって、国からいくばくかの援助をもらおうというオソマツな秘密団体〉(『ほんまにオレはアホやろか』)
水木はその「オソマツな団体」の会員となり、都内の戦災ビルを不法占拠したりした(同様の公共建物の集団不法占拠は昭和二十一年夏から翌二十二年夏にかけてかなり多かった)。
魚屋をやる破目になったのも新生会絡みだった。圧力団体として経済的基盤を強化するため、統制品だった鮮魚の配給権を利用したのだ。
そしてきわめつけは、白衣を着ての街頭募金である。水木は書いている。
〈最初は数寄屋橋でやった。一人で大声を出すのは恥ずかしいのだが、そこは元軍人、十人位でキヨツケしてやると難なくできる。慣れてくると、浅草の大勝館の前でも始めた。ここでは、机を借りてきて、一人ずつ上り、軍歌を歌ったり、戦場のつらさを訴える演説をしたり、一日中、声を絶やさぬようにした。声の切れ目が金の切れ目だったから、皆がんばった〉(『ねぼけ人生』)
いわゆる白衣募金≠フハシリだった。例によっていつ始めたのか水木の記憶は定かでなく、当時の仲間も探しようがないが、私は同じ頃に白衣募金をしていたという人に出会った。元海軍兵長伊東朝雄、七十歳である。
伊東は昭和二十年駆逐艦乗船中に艦上爆撃に遭い、両前膊切断、左眼失明の重傷を負っていた。つまり両手の手首を欠損し片目が見えない。その伊東によれば、自分たち海軍病院の患者が昭和二十一年五月に行なった街頭募金が傷痍軍人の白衣募金第一号だったという。
「陸軍は相模原病院、海軍は目黒の海軍病院と分かれてたんです。私はその海軍軍医学校付属病院(現、国立東京第二病院)にいたんですが、二十一年四月一日から国立病院に組織変更されるにあたって我々も入院費を請求されることになり、病院側と折衝したけどラチがあかない。それで有志二十人ほどが銀座や渋谷の駅頭に白衣のまま立って窮状を訴えることになったんです。入院費を払うには金を稼がねばならない、そのためには更生施設が必要だと、プラカード作って厚生省に要求したんですね。すごい反響でした。石油缶に放り込まれた浄財は二百万円近くになったし、十日ほどで厚生省も待ってくれ、更生施設は作ってやる≠ニ慌てて回答を寄越しました」
当初の白衣募金は一時的な目的のものだったのだ。
しかし、実際に更生施設が完成するまでには三年以上かかり、その間に将来を悲観して自殺する入院患者は跡を絶たなかった。またたとえ退院しても就職口があるわけではなかった。白衣募金は急速に、傷痍軍人にとっての安直な生活手段と化してゆくのである。
昭和二十二年十月に退院した伊東も、闇米の買い出し屋や街頭でのミカン販売を経て、二十三年暮れには池袋の傷痍軍人団体聖愛会の会員となり、白衣募金のプロとなった。
「神社やお寺、駅や盛り場、いろんな場所で募金活動しましたけど、ある時列車の中で、相模原病院に入院してた人に会ったんです。その人が言ってました、私らの街頭募金は海軍病院の募金の最初の反響を見て始めたんだ≠チて」
伊東が車内で会ったのが新生会の会員であったとすれば、水木が数寄屋橋で募金活動をしたのは昭和二十一年の五月か六月、もしくはそれから間もなくだったことになる。
ところで、伊東によれば昭和二十四年当時東京だけでも十幾つの白衣募金のグループがあったらしい。水木は、これといった活動方針もなかった新生会を相当に胡散《うさん》臭い団体だったと見ているが、伊東が入会した聖愛会も大同小異だった。十五名ほどの会員たちは集めた募金の中から日当分のみを取り、残りは会長に渡した。いずれ会員の自立更生のために市場か映画館を買い取る計画だったのだ。ところが計画はいっこうに実現しなかった。積立金を会長が個人的に流用していたのである。
やがて傷痍軍人によるこうした各種白衣募金活動は、戦後の混乱が終息するにつれ次第に公共の場での寄付行為の強要と見做《みな》されるようになり、社会的糾弾を受け始め、昭和二十七年に「白衣募金反対、国家補償要求」を掲げる日本傷痍軍人会が発足するとなだれをうって同会に吸収されることになる(伊東も昭和二十六年八月に白衣募金から足を洗い、後年日本傷痍軍人会の会員となった。現在は息子たちが働く小さな工務店の経営者である)。
東京各地で白衣募金をやった頃の水木の心情については、むろん本人に聞いてみた。
「仕方なかったんです。恥ずかしかったし、そんなこと長く続けるつもりもなかったですが、職もないし食えない。傷痍軍人が自活するには授産所(更生施設)が必要だということで、協力せざるを得なかったんです」
水木は言葉少なに語った。
ただ、傷痍軍人不遇時代のその時代、水木は意外にも、自分が身体障害者であることによって何度か人々から親切を受けたと言う。
「私が不具者だということで手助けしてくれた人がだいぶいました。月島の民生委員の木原万助という人はいろいろな便宜をはかってくれました。渋谷で魚屋をやるについても、松下という親方は、包丁を買ってくれたりして助けてくれました。娘は美人でした。月島の引揚者寮から吉祥寺に移った時には、そこの不動産屋が私に同情して、周旋料をまけてくれましたしね」
自伝類には一言も書かれていないが、片腕で悪戦苦闘を続ける水木に温情を示した人は、敗戦後といえども皆無ではなかったのだ。そして、水木は言うのである。
「ひょっとしたら、戦争中にニューギニアの土人たちが私に親切にしてくれたのも、私が五体満足でなかったからかもしれません。今振り返ると、そんな気もするんです」
昭和二十四年(何月かは不明)、水木は、事実上解体していた新生会の元副会長と東海道募金旅行に出る。列車を途中下車して白衣募金を繰り返しながら金を貯めるもくろみだったが、結果は惨憺《さんたん》たるものだった。
ようやくのこと辿り着いた神戸で、たまたま一泊した安宿の女主人が「この家を買わないか」と持ちかけてきた。二階建て十室の安普請のアパートだった。借金百万円を月賦で払ってくれれば頭金二十万円でいいと言う。二十万円でアパート経営者になれるなら悪い話ではないと水木は思った。父親からの借金と東京で弟幸夫に任せていた輪タク(十台ほどあった)を処分すれば頭金はできた。
かくして水木は神戸に落ち着くことになり、間借人だった紙芝居画家のツテで自分も紙芝居画家の道を歩き始める。ペンネームは、アパートが兵庫区水木通りにあって水木荘と名付けたことから、「水木しげる」とした。昭和二十五年、二十八歳の時のことである。
紙芝居画家として自立して以降の水木は、傷痍軍人の組織や団体とは没交渉となり、日陰の貸本マンガ家時代もマスコミの寵児《ちようじ》となってからも、片腕であることを仕事上の負い目と感じさせたことは一度もない。だが、身体障害者であり続けたのは事実で、今もそうだ。
現在水木は、二冊の手帳を持っている。
一冊は東京都が交付した身体障害者手帳。障害内容は戦傷による左上腕1/2以上欠損≠ニされ、障害程度を表わす等級は2級≠ニなっている。1級〜6級の等級は重い障害ほど数字が少ない。2級までは重度である。
もう一冊は、厚生省交付の戦傷病者手帳。こちらには左上腕切断創≠ニあり、戦傷による障害の程度は第1項症から第6項症まであるうちの第3項症≠ニされている。
身体障害者2級の場合、医療費の自己負担免除、障害年金の支給、JR運賃半額割引、都営交通無料パスなどの福祉サービスが受けられることになる。また、戦傷病者手帳第3項症の該当者であれば、戦傷療養費の給付や補装具の支給、年間十二枚(介護人と一緒なら六枚)までのJR運賃無料券の交付、飛行機運賃二五パーセント割引、などの援護措置が受けられる。
しかし水木は、昔はともかく、ここ数十年はこれらの福祉サービスや援護で恩恵を被ったという自覚はなかった。医療費の免除や障害年金は所得制限のために受けられず、交通費の割引や無料化は仕事関連の旅行が多い水木にはほとんどメリットがなかったからだ。
「全然サービスがないよりはいいでしょうけどね。でも、私にとっては、そういうものは福引き補助券みたいなもんなんです。ほんのちょっと嬉しいけど、だからといって福引き券じゃないから、すぐには使えない」
水木が戦争で片腕を失ったことに対して国家が具体的に補償してくれた唯一と言ってもいいものは、軍人恩給(傷病恩給)だった。ただしこれも、水木自身は年間いくら貰っているのかまったく知らない。父親の亮一にそっくり手渡していたからだ。亮一が昭和五十九年十月に死亡してからは妻の布枝が管理している。布枝は、「水木が仕事を辞めても、夫婦二人なら慎ましくどうにか食べていける額です。ウチは国民年金にも厚生年金にも加入してないので、最後の拠りどころです。感謝してます」と言っていた。
「水木さんはね、やりたいこと、やるべきことが多すぎて非常に忙しいんです。そういう細かいことに神経が行かんのです。お金ということなら、恩給なんかよりもっと大きなお金の方に目が向きますよ。とにかく、人の何倍も幸せになりたいと思ってるから、うしろを振り返るより前進あるのみなんです」
最後はどうしても、意気軒昂に言ってのける形になるのだった。
片腕という、人間水木しげるを考える場合に避けて通るわけにはいかない戦争の傷痕を執拗に追ってみても、水木本人の口からはついに直截な感情的|言質《げんち》は引き出せなかった。わずかに、次の言葉が私の頭の中で何度か余韻を残して鳴り響いただけである。
「私ね、片腕でも人の二倍から三倍の仕事をしてると思いますが、もし両腕があったら、五倍か六倍はできたと思うんですよ」
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第五章 交錯する群像
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水木はマンガ界に参入したまったく無名の頃から積極的にアシスタントを使ってきた。
それ以前の紙芝居画家時代に、紙芝居業界では、線を描く線書《せんがき》屋、色を塗る塗屋《ぬりや》、物語を書く原稿屋など、分業制で効率化をはかっていたことを知っていたからだ(水木の紙芝居作品は丸仕上げ≠ニ呼ばれる一人ですべてをこなす完成品だったが、必要に応じて塗屋≠ネどのアシスタント役もこなした)。また、マンガでは枠線を引く時などに片手で定規を押さえなければならないが、片腕ではやはり難しかったこともある(むろん短い左腕の端で押さえれば作業はできた)。そして、最大の理由は、ともすると怠けたくなる気持を集団作業によって奮い起たせ、殺到する注文を物理的に処理するためだった。
これまで水木は合計すると五十人近いアシスタントを雇い入れてきた。その中でよく知られているのが、初期の貸本マンガ時代の講談師田辺一鶴と、マンガ週刊誌でデビューし急に忙しくなった頃に手伝いを頼んだマンガ家つげ義春、少し遅れて水木プロに入社しやがてマンガ家として一本立ちした池上遼一、の三人である。
〈昭和三十二年頃から、テレビ受像機の普及と、子どもたちの生活の変化と、交通事情と食品の出まわりが紙芝居に潰滅期を到来させた。水木はそのようすを見て関西で紙芝居の仕事をつづけることに不安を感じて上京したいといってきた。私は三十|二《ママ》年末に水木を東京駅にむかえてこれからは貸本用単行本の画稿を描けといった。水木はやるというので、小寺国松が経営している下宿へ食事付きであずけた。小寺の下宿には講釈狂でそのころようやく田辺南鶴に師事した田辺一鶴が居候兼雑用係として住込んでいた。水木は一鶴に手伝わせて最初の一冊を描いた。表紙は私が描いた〉(加太こうじ『紙芝居昭和史』立風書房)
関西出張のたびに水木に紙芝居の作画を指導していた加太こうじは、昭和三十一年(一九五六年)末に水木が上京し、貸本マンガ家として第一歩を踏み出すまでをそう記している。後年評論家となった加太は戦前戦後を通じ紙芝居界の第一人者であり顔役であったが、紙芝居の急速な衰退期だった当時は借金に追われ、足を洗おうにも洗えず、やむなく紙芝居の製作と貸し出しを続けていた時期だった。
小寺国松というのは加太の傘下の紙芝居組合の江東方面支部長だった。紙芝居用の菓子(澱粉せんべい、梅ジャム、貝ニッキなど)の製造と卸しを手掛けたのが当たり、その頃は小松川に工場を所有し国鉄|亀戸《かめいど》駅前に従業員寮を持っていた。木造二階建てで三十室ほど部屋があった。
水木はそこで出会った田辺について、後にさまざまな場所で書いている。
〈テレビの出現で、たつきのタネの紙芝居の仕事を追われて大阪から逃げ出してきた当時の私に、亀戸の場末にある賄い付き四畳半のその下宿はいかにもふさわしい朽ち屋であった。その音の主がネズミならぬ人間であることを知ったのは数日後であった。まるでネズミ男さながらに、講談と色道修業で日本一を志すというその男の住みかは、天井裏よりひどい屋根裏のスペースだった〉(≪週刊現代≫昭和50年7月3日号)
〈同じ下宿に、東京の江戸川区に近い千葉県の浦安の紙屋の若だんなで、話すとドモルので、それを直そうとして、講談師になった田辺一鶴がいました。まだ、ヒゲははやしていなかったです。(中略)毎日のように講談をきかされました。十分間ぐらいにしてくれというと、十分間やるのですが、そこで、あと十分たのみますっていって、つづきをやりだす。自分が仕事があるからというと、手伝いましょうといって、一鶴師匠は貸本の絵を描く助手になってしまいました〉(≪エイビーロード≫平成2年2月号)
〈このアシスタントは、僕が交通費のない時には、十円貸してくれた(水道橋駅まで十円だった)。このアシスタントは、僕と同じ下宿に住んでいた田辺一鶴さんである。彼は、後にポルノ講談で有名になるが、当時は、まだ売れない芸人で、この下宿にごろごろしていた。僕の部屋も寒かったが、彼の部屋はもっと寒いらしく、僕の部屋へ遊びにきたりしているうちに、マンガの手伝いをするようになった。寒さのために垂れ落ちる鼻水を原稿用紙につけないようにしながら、ベタ(黒い部分)をぬってもらって、二時間百円払っていた〉(『ねぼけ人生』)
現在の田辺は講談界の異才で田辺派の家元である。「講談の普及と学問的研究」を目指し平成四年(一九九二年)十一月に講談大学を発足させ、学長≠ニして出張講義を行なうため全国の教室を飛び回っている。
昭和四年生まれの六十四歳。トレードマークの太く垂れたチリチリの鼻髭はさすがに白くなっているが、リスを思わせる小さな顔は肌の色艶がよく、眼鏡の奥で光を放つ目にも娑婆っ気はたっぷり。その田辺は、自分に関してこれまで水木が書いてきたことの中で、まず二つの点を訂正したいと言った。
「ポルノ講談は夕鶴だよね。俺はその売り出し役をやっただけ、自分じゃやらないよ。それからマンガ手伝って金もらったって話ね。俺もらってないよ。あの人から金もらおうなんてハナから思ってなかったもの」
ここでも記憶は食い違う。
吃音《きつおん》矯正のため昭和二十八年に田辺南鶴に弟子入りした田辺は、前座だった昭和三十年前後はアルバイトで紙芝居の絵の配送をやっていた。オートバイの運転ができたからである。
葛飾区金町にあった加太の製作所から江戸川区や江東区の各支部へ紙芝居の絵や用具一式、時には自転車さえも配達して回った。その頃、加太の製作所で田辺は水木に会っている。個性的な絵が印象的なので覚えていた。
「ちょっと独特な絵だったね、みんなと画風が違うっていうか、個性がありましたよ。描くのも速くてドンドンって感じだった」
水木は上京してすぐに貸本マンガを始めたわけではなく、半年近くは紙芝居を描いていた。昭和三十年から三十一年にかけて西宮で前・後編七十巻を仕上げた紙芝居『小人横綱』が好評だったのでその第三部を描いていたのだ。そのことは自伝『ねぼけ人生』の中でも触れている。
〈僕が紙芝居に見切りをつけて上京してからも続編の要望があり、東京でかいては阪神画劇社へ送ったほどだった〉
しかし、水木の丸六年間に及んだ紙芝居画家時代は『小人横綱』で終止符を打つ。紙芝居の業界そのものが消滅しようとしていた。田辺も配送のアルバイトが減って平井での下宿生活を維持するのが困難になった。その頃加太を通して小寺が寝る場所と食べる物だけなら面倒を見ようと申し出たのだ。田辺は「亀戸に移ったのは水木さんと同じ頃だった」と記憶している。ただし、下宿代は水木の方は四畳半二食付きで月に七千円だったが、田辺は同じように従業員食堂で食事しながら屋根裏部屋に住み込んで出世払い(無料)だった。
「俺はその頃、昼は毎日上野本牧亭で昼席をつとめてた。前座は一席百五十円だったから一ヵ月三十日やって月に四千五百円。たまに夜の席にも出るし、上野の軟式野球の審判のバイトもやるようになって、そっちは月九千円よ。何だかんだで毎月一万四、五千円は稼いでた。一ヵ月一万もあれば生活できたから、すごい貧乏ってわけじゃなかったね。もっとも収入の半分くらい本代に使ってたけど」
田辺が「水木さんからは金をもらってなかった」と主張する根拠である。
昭和三十二年の大卒国家公務員の初任給は九千二百円だった。三十四年には一万二百円になる。昭和三十二年に三十五歳だった水木は、約三ヵ月かけて同年十二月アメリカのスーパーマン風の処女作『ロケットマン』を描き上げ、翌三十三年二月兎月書房より発行した。その原稿料が二万七千円である。
以後、『怪獣ラバン』(暁星出版)、『恐怖の遊星魔人』(兎月書房)、『戦場の誓い』(兎月書房)と、SF・戦記・ギャグなど雑多なジャンルの貸本マンガを精力的に描き始めた。一冊九十五頁から百二十七頁で、原稿料は二万五千円から三万円だった。
田辺は仕事の暇な時に水木の部屋に遊びに行くようになった。水木は時折、美大の学生を雇って枠線引きやベタ塗りをやらせており、いつしか田辺も手伝うようになる。
「この人タダ者じゃないと思ったからだよね。安い値段でマンガ描いてるけど、ひょっとしたら世の中に出る人かもしれないと感じたのよ。発想の仕方、話の展開、省略の方法、すごくうまいんだ。俺も推理作家になりたいと思った時期があって、自分でもアイデアマンの部類だと思ってたけど、とてもじゃないけどこりゃかなわねェ≠ニ思ったね。将来有名になる人なら付き合っても損にならないって助平心も、正直言って少しあったよ」
田辺が水木の仕事を自発的に手伝ったのは、水木の才能に魅せられたせいだという。
「でもね、羨望とともに競争心も持ってたんだよ、糞ッ、俺だって負けねェぞ!≠チてね。あの人が講談社の賞もらった時にもそう思った。加太さんから聞いたんだ、水木が出たよ、世の中に≠チて。やっぱり俺の目に狂いはなかったって思ったけど、俺もやらなきゃ≠チてすごく闘争心湧いたね」
昭和四十三年、田辺は二つ目の時、NHKテレビ『ステージ101』の準レギュラーに抜擢され、ヒゲの講談師≠ニして一躍人気者になった。四十八年には真打ちに昇進した。
その後田辺は、小寺の葬式の席やテレビの番組で二、三度水木と顔を合わせている。『ゲゲゲの鬼太郎』がラジオ番組で放送された時は、水木に指名されてナレーション役を引き受けたりもした。
「向こうも俺のこと気にしてくれてたんだ。嬉しかったね。あの人があんなに有名でなきゃ、家に遊びに行ったりしてもっと深く付き合ってたかもしれないね。でも考えてみりゃあ、俺がここまで頑張ってこれたのも、もしかしたら、あの頃水木さんに出会って負けたくねェ!≠チて思い続けてきたからかな。そう思うと貴重な人だよね、俺にとってはさ」
講談界ではすでに確固とした地位を築いた田辺だが、水木に対するライバル意識は「まだまだある」と言った。次は寿命、らしい。
「俺、健康状態すこぶるいいのよ。水木さんも年齢の割に元気だけど、それは俺、負けないと思うね。百二十五まで生きるつもりなんだ。絶対俺の方が長生きする。勝ってみせる!」
リスのような、ネズミのような両目を、すばしこく喫茶店の片隅で光らせた。
盟友つげ義春に関しては、一番最初に水木に会った時から話を聞いていた。
「あの人にとっては、生きてることがすなわち恐怖なんです。生存即恐怖。だけど、水木さんのとこにいた頃は比較的精神が安定してましたね。つげさんの傑作は、ほとんど水木さんのところにいた時期のものですよ」
確かにそうだった。
つげは昭和四十一年の春から約四年間にわたって水木プロで働いた(その後も数年は出入りした)が、何種類も出版されている『つげ義春作品集』に必ず収録されている作品はたいていこの時期のものだ。『李さん一家』(≪ガロ≫昭和42年6月号)、『海辺の叙景』(同、42年9月号)、『紅い花』(同、42年10月号)、『ねじ式』(≪ガロ増刊号≫、43年6月号)、『もっきり屋の少女』(≪ガロ≫43年8月号)など、日本のマンガ史上に燦然《さんぜん》と輝く作品群がこの時期に集中的に誕生している。
私が今年(一九九三年)一月に水木プロを訪ねた時には、水木は「ついさっき私、表でつげさんと会いましたよ」と言った。
「つげさん、自転車に乗ってました。最近水木さん、描きすぎるんじゃないですか?≠チて言うから、家内にもそう言われますよ≠チて答えました。つげさんああ見えても、私の連載(≪ビッグゴールド≫に毎月四十頁連載中の不思議シリーズ=j見とるんですね、ハハハ。でもつげさんは描かなすぎですよ。昔は腱鞘《けんしよう》炎で苦しんどったけど今は目の方にきとるらしい。顔色も相当悪かったから、栄養失調ってこともあるんじゃないですかね、ワハハ」
水木が友人知人の健康の悪化や生活上の不運をさも愉しそうに語るのは、それからたびたび耳にすることになるのだが、具体的な名前が出たのはつげの場合が最初だった。
六月に訪ねたアメリカのホピ族の村では、一夕日本のマンガ家の話を日本人どうしでしたことがあった。宮田も大羽もかつては業界人だったのでマンガ界の人と作品には詳しい。ところが水木は、次々と名前の出るマンガ家を片っ端から斬って捨てた。「××の描くものは味のないガムみたいなもんです」「××は大酒飲みで身を滅ぼした」「××は仕事しないでセックス三昧」「××のは時代遅れですな」……、いずれも著名な作家たちが批評以前のぶった斬りなのだ。一時期人気があって最近作品を見ないマンガ家はことごとく「今頃は餓死でしょう」で片付けられる。
私は水木の口ぶりに悪意さえ感じた。「この姿勢はねずみ男に通じている」と思ったが、知らぬ仲ではない友人知己に対してなぜこのようにひねくれて突き放した見方ができるのか、不思議に思った。その時にはまだ水木が、「(戦争で死んだ人間が一番かわいそうだから)めったなことで他人に同情しない」ということを知らなかったせいもある。
その席で、つげも俎上《そじよう》にのぼった。さすがにつげに対しては、水木も一刀両断というわけにはいかなかった。
「つげさんは、グズ春と呼ばれるくらい怠け者です。でも、品物はいいですよ。『李さん一家』なんかいい。しかし、ハハハ、(『初茸がり』で)雨が一ヵ所にだけ降るのはおかしくないですか?≠チて言ったら機嫌が悪いんです。『沼』の言葉遣いは変ですよ≠チて言うと、ムッとする。おそらくつげさんは、水木は自分を理解してない≠ニ思ってるんじゃないでしょうか。そんなことないんですけどね。マンガは、芸術性ばっかりでもいかんのです、大衆性もないとね」
それから水木は、雑誌などで何度か書いたことのあるビルのエピソードを話した。その昔、つげにビルの裏側がどうなってるか考えたことがあるかと聞かれ、ひどく驚いた話だ。
月刊誌≪太陽≫(平成4年1月号)では水木は次のように書いている。
〈氏は電車に乗っていると、静かに、
「あの建物の裏側が見えないですか」といわれる。
「裏側というと……」
「あの裏です」
「裏?」
「ああ、見えないですか……」で話は途切れた。いわゆる超能力というやつかなあ、と思ったりしたが、つげさんには見えるらしい。
氏の言葉の数は極めて少いが、その少い言葉の中に重大なことが秘められている場合が多い。
ぼくは暗号めいた言葉の半分くらいは分るから、いつも「なんという不思議な感覚だろう」と自問自答して絶句する〉
≪太陽≫に寄せた一文では、水木はつげのことを、この世界に存在する奇妙な味≠理解できる数少ない人間の一人であり、それがつげの魅力だと高く評価していた。
が、今回のアメリカでは違った。
「ビルの向こう側のことなんかわからないですよ。ね、そんなこと心配したってしょうがないでしょ?」
我々に面白おかしく語ろうとしていることもあったが、ノイローゼ気質のつげの性格と絡め、たぶんに揶揄《やゆ》したのである。
もちろん、時と場合によって上げたり下げたりするのは水木の人物評価の常套《じようとう》ではあった。水木と関わった人間でその洗礼を受けていない者はごく少数だろう(私自身も付き合ってすぐに私がいない場所で私について厳しい批評が早晩下されることを覚悟≠オた)。同じことがつげに対しても行なわれたと思えば、別に驚くに値しないのかもしれない。
ただ、つげに向ける水木の眼差しは、その他の友人知己に対するものとはかなり異なっているように思えた。いくらけなしても、どこか基盤の部分で全面的に認め、受け入れ、愛情すら抱いているように見えるのだ。
日本に帰ってから、古い資料を引っくり返していて、ルポライター猪野健治との対談記事の中に水木の次の言葉を見つけた。猪野に若手のマンガ家で誰が好きかと聞かれ、「つげさんなんかは好きです、どっちかというと」と答え、それに続けた言葉である。
〈あの人はもともと働きたくないわけですから、根本的には似てるんですよ。自分も地上に生まれた限りは寝転んで暮らしたいっていう考えを持ってましたからね。ラクして暮らそうという考え。つげさんもそうなんですよ。あの人は、仕事をしなくてラクして暮らそうですけど、自分のほうは、金に困らんように準備して、それからラクしようと、こう思ってるわけですよ。そこのところがちょっと違うわけです。つげさんは金がなくてもラクしようでしょう〉(≪人と日本≫昭和53年7月号)
怠け者憧憬論者である水木は、怠け者実践論者であるつげに、同志愛もしくは連帯感めいたものを持ち続けている、らしいのである。
つげとは指定された調布駅近くの喫茶店で会った。つげは水木と同じ調布市内、水木プロのある場所から二キロと離れていない団地に住んでいる。
「最近水木さんには会われました?」
「会うのは一年に一度くらい、道で偶然会ったりしますけど、それくらいですね。ゆっくり話したことはありません」
「水木プロの事務所を訪れたことは?」
「今の事務所になってから一回だけ誘われて行ったことがありますが……。最近は水木さんを意識すること、あまりないんです」
丁寧な言葉遣いで静かに話す。予想していたより舌の回転は滑らかだった。
しかし、外見から察する限り健康状態がいいようには見えなかった。顔色はよくなかった。痩せた頬から細い首にかけて肌が荒れ、皺が目立った。表情全体に生気がなく、白髪混じりのボサボサの頭髪がよりいっそう病み上がりのような印象を与える。
「精神状態は今のところいいんですけどね、お腹というか、腸の方がちょっと……」
わずかに微笑むと、二重瞼の大きな瞳の周辺に優しさが漂い、妙な人懐っこさがある。
つげが水木のもとで働くことになったのは≪ガロ≫編集長だった長井の仲介によるものだった。昭和四十一年初頭の時点で水木もつげも≪ガロ≫の常連執筆者だったのだ。水木の『ねぼけ人生』によると、当時アシスタントは一人いたが、受賞後「怪物のようなマスコミの攻勢にさらされ」「人海戦術しかない」と判断、「上手くて、早くて、僕の絵に合」い、しかも「ヒマそう」なつげに、長井に頼んで連絡を取ってもらったのである。
「つげさんは、水木さんのところへくる前に千葉県大原の白土三平さんのところへ行ってますよね、アシスタントとして?」
「ええ、自分を求めてると聞いたもんで」
「でもすぐに辞めた。一ヵ月くらいですか?」
「一週間ほどです。白土さんのところは厳しいというのか、とても厳格で、自分みたいな人間は合わなかったんです」
「水木さんとは馬が合ったんですか?」
「最初はそう思いました」
つげは煙草を取り出した。一本のマイルドセブンを厚い唇の中程でそっとくわえる。
水木の姿はそれまで貸本出版社などで見かけたことはあるが、喋ったことは一度もなかったと言う。作品を読んだこともない。
「会いに行って、初めて世間話なんかして、気に入ったというと変ですけど、何となく馴染める感じがしたんです。気楽な人だと思ったんですね、本当はそうじゃないけど」
「どういう意味ですか?」
「だんだん付き合ってゆくうちに、大変博学な人だし奥の深い人だとわかってきたんです。そうすると、必ずしも気楽な人じゃないわけです」
静かに紫煙を吐き出す。
「一見、のらりくらりですよね?」
「あれはおとぼけなんです。決してそうじゃないとわかると、ちょっと恐い」
「恐い?」
「というか、アシスタントなんかの人遣いもすごく上手ですよね。絶対に感情的にならずに、うまくあしらうというのか……。たいしたもんですよ。水木さんは自分より一回り上ですが、若いアシスタントたちと比べると実際以上に大人と子供でした」
水木は昭和四十一年には四十四歳だった。つげは水木より十五歳年少、白土は十歳、手塚は六歳、それぞれ年下である。
つげはしかし、「自分は正確に言えばアシスタントではなかった」と言う。「自分もプロ」であり、「忙しい時に臨時に雇われて手伝いに行っただけ」だと。
「毎日じゃなかったし、平均すると一ヵ月のうち半分くらいしか水木プロで働きませんでした。自分では出稼ぎのつもりだったんです。日払いで仕事してましたからね」
つげが、その年四、五人に増えた一般のアシスタントと違って特別扱いだったことは、水木も認めている。水木がつげに支払っていた日当二千円は、水木本人の給料の一日分とほぼ等しかった。
当時の水木プロは現在の水木の自宅に置かれていたが、つげは職場のすぐ近くにアパートを確保し、経済的にも時間的にも優遇され、好きな時にフラリと旅に出たりしながら、短期間のうちに次々とあの傑作マンガの数々を生み出して行ったのである。
後になって長井はこう述べている。
〈絵のうまいあの人のところへ、つげ義春さんなんか、アシスタントに行って、それから池上遼一、鈴木翁二もそうですしね。みんな水木さんとこ行って模写させられて、それから風景画、写真なんかも与えられて、バックの絵を一日描いてるわけなんですね。時間たっぷり与えて描かせる。それで、みんなうまくなったんですよ。水木さんのとこ行って、絵が格段に上手くなりました〉(≪スタジオ・ボイス≫昭和60年2月号)
ところがつげに聞いてみると、つげ自身は「水木さんから何かを教わった覚えはない」と言うのである。
「僕は人物専門みたいにやってましたからね。写真を参考にした写実的なものは他のアシスタントが描いてたんです」
確かに、≪少年マガジン≫(昭和41年11月25日号)に掲載された『悪魔くん(悪魔メフィスト)』に登場する少女や、≪少年サンデー≫(43年1月26日号)の『河童の三平(空中遊泳)』に出てくる炭焼き夫婦など、明らかにつげの手になる作画は、この時期の水木作品の中に多数散見される。
「水木さんはかなり職人的な人ですよね。ご本人の絵は独特ですけど、それを全部アシスタントに任せても何とも思わない。話がワンパターンでも気にしない。その点、自分なんかとは質が違うなと思いますね。自分なんか、芸術的とかじゃなくて、若いからなのか、新しい表現や自分の個性を押し出すことに、どうしてもこだわってしまうんです。同じこと長く続けるのは飽きてしまうんです」
つげは何本目かの煙草を吸い終わった。どれもフィルター近くなるまで吸って、吸い終わるごとに丹念に灰皿で揉《も》み消す。
「だけど、その頃のお二人は仲がよかったんでしょ、気が合うというのか?」
「ええ。仕事中に側にきて話しかけられるのは自分が一番多かったです。水木さんはアシスタントに職人性を求めるんですが、職人性だけの人は評価が低いんです。職人性に加えて芸術的なセンスを持つ人を好む、そんな傾向がありましたね」
「それと、つげさんに対するいささかの嫉妬もあったんじゃないでしょうか。若くて才能があって身分も自由、気ままに旅行に行けて、恋愛体験も豊富だとか?」
「フフフ……」
つげは穏やかに笑った。「豊富な恋愛体験」は、水木の実際の言葉では「つげさんはセックス大好き」だったが。
「そういうことはあったかもしれません。あの頃の水木さんは締切りに追われてがんじがらめ、独身の自分と違って好き勝手なことはできませんでしたからね」
「しかも、次々と≪ガロ≫に発表された作品はどれも素晴らしかった」
「後から見てみると、そういう結果になりました。自分の仕事の中でも一番よかった時期でした。時々……不思議に思うんです。水木プロの仕事の合間に、よくあれだけの数ができたって。当時自分は腱鞘炎で、指が動かないくらい重症だったんです。それでもつい仕事をやってしまう。……自分なりに充実してたってことでしょうかね。当時は三十前後、若くて体力もあったのかもしれませんが」
水木の妻の布枝によれば、水木プロ時代のつげは背が高く(百七十六センチ)て痩せてヒョロリとし、口数が少なくて温和、「まるで仙人みたいな感じ」だったという。時折「頭が重い」とか「手が痛い」とか呟いていたと思うと、フッと姿を消す。「カッコよかったけどよくわからない人」だった。そして作品の構想を練る時も水木とは対照的で、水木がさかんに歩き回りながら呻吟するのに対し、つげは一ヵ所に腰を下ろして沈思黙考、そのままの姿勢で一コマも描かず朝を迎えることがたびたびあったらしい。
「つげさんは先程、水木さんから何も教えてもらわなかったと言われましたが、写実的な風景もそうですか? 我々素人から見ると、つげ作品の背景に使われている克明な風景の描写、特にうらぶれた路地や古い町並、田舎の風景など、水木マンガの風景描写と非常にタッチが似ているように思えますが?」
「それは、水木プロにいた頃はやりませんでしたけど、後で惹かれました」
「背景の細密描写は、やはり水木さんの影響ですか?」
「惹かれて、自分も取り入れたということです。背景が水木調だと言われれば、その通りです。それは自分でも認めてます」
「やはり、お二人には同質な部分がどこかあるんでしょうね」
「……?」
つげは少し首を傾げ、病院からこっそり抜け出してきた入院患者のような横顔を見せて冷めたコーヒーを一口すすり、話し始めた。自分と水木がいかに違うタイプの人間であるか、についてである。
「水木さんはいつも元気ですよね。好奇心も強い。どんなところへでも気軽に出かけて行きますしね。そういう点、自分と全然違うと思うんです。水木さんは人間好きだけど、自分はそうじゃないですから。……道で偶然会うと、水木さんはすぐに事務所に誘うんです。自分は行かないんです。行っても、一方的に喋るのを聞かされるだけで、ひどく疲れてしまうんです。あのエネルギーに疲れるんです。聞かされる話も、誰が月産何枚描いてるとか、誰が最近どれくらい儲けたとか、こっちに全然関心のない話ばっかりだから、辛くなってしまうんですね。水木さんはマンガの業界としっかり付き合っていて、自分は外れてしまってる、そういうところも二人はまったく似てないと思うんです」
誠実に淡々と語るつげの話に耳を傾けつつ、私はある場面を思い出し、失礼と思いながらつい口許が緩んでしまった。
赤瀬川原平が以前書いた、つげと共に水木プロを訪れた時の一場面である。
〈つげさんはまた就職試験のように黙っているので、水木さんは私に向ってしゃべりながら、机の上の新しい妖怪の本を手に取って渡しながら、
「これ……こないだ……」
とだけいってまた私に向う。つげさんはペラン、ペランと単調にページをめくっているうちに、受取った本はすぐ終ってしまう。それを見ると水木さんはまた私に向ってしゃべりながら、今度は外国の本を手に取って、
「これ……バリ島の……」
つげさんはまた受取ってペラン、ペラン。(中略)まるで子供にせんべいでも渡すようなのだ。(中略)もうお互いに話をしなくても性格を知り尽しているのだろう。つげさんはただ黙って渡される本をペラン、ペラン。それはじつによくリズムが合っていて、まるで共同作業のようなのだ〉(≪中央公論≫昭和53年11月号)
私はつげの説明にいちおう頷いたが、それでもやはり二人には共通の、お互い惹き合うフェロモンのような何かが、あるのではないかと思った。そもそも二人には日陰の貸本マンガ界から出発し辛苦の末に名を成したという共通項があった。水木は悪口を言いつつ純粋なつげの才能に一目置いており、つげはつげで水木の通俗性に閉口しながらもつげが渇望して止まない強靱な生活力を水木の足跡に見ている、というような……。
「水木さんって、一言で言い表わすとどんな人だと思いますか?」
「掴みどころのない人、でしょう。決まった枠にはめられない人、でもいいですけど。評論などではよくニヒリストとか言われてますが、自分は疑問です。あれだけの量の仕事をニヒリストが果たしてやれるものなのか、と思うんです。とにかくあの人は、死ぬまで逞しい人、ではあると思いますね」
慎重に言葉を選んで言った。
つげはここ四年ほどマンガの新作を発表していない。飛蚊症《ひぶんしよう》のためにペンが進まないのだという。ただ、二年前の『無能の人』(竹中直人監督)のヒットに続き、今年平成五年の七月には『ゲンセンカン主人』(石井輝男監督)の公開と、つげ作品の映画化が重なっていた。付随して作品集も売れ、生活に不自由はなかった。
「一時的に収入が増えただけで、すぐまた変わり映えのしない生活に戻りますよ」
あくまで悲観的な伝説のマンガ家≠ヘ小さく笑った。屈折した楽観論者の水木は、「つげさん、四千万は貯めたはず」と言うのだが。
つげが水木プロに加わっておよそ半年後、大阪から二十二歳の童顔の看板屋の職人が上京してきて水木プロのアシスタントになった。池上遼一だった。
その年の≪ガロ≫九月号に池上の投稿作品が掲載され、それを見た水木からアシスタント入りを勧められたのだが、調布の水木プロにやってきた池上は驚いた。そこに「憧れのつげ義春」がいたからだ。
「まさか、と思いました。つげです≠ニ挨拶されて、感激してしまいました」
池上の投稿作『罪の意識』は、つげが≪ガロ≫に発表した『沼』や『初茸がり』に刺激され、つげ作品を意識して描き上げたものだった。福井県|武生《たけふ》の貧しい家庭に育ち、中学卒業と同時に大阪の看板屋の住み込み職人にならざるを得なかった病弱の少年にとって、マンガを描くことは唯一の楽しみであり、屈辱的な状況から抜け出すためのたった一つの手段だった。本当は自分の日常とは正反対のさいとう・たかを作品など派手なアクションものが好きだったのだが、つげの哀感漂う静謐《せいひつ》な作品群には、「神経質で根クラな裸の自分」の理想的方向性を見た思いがしたのだ。
池上が≪ガロ≫で二、三度目にした水木作品を本格的に読むようになったのは入社後である。
「アシスタントになってから、貸本時代のものを含め、水木先生の作品を全部読ませてもらいました。読んで、この人すごい人なんだな≠チて改めて思いましたね。特に貸本時代の『鬼太郎』ものや『悪魔くん』、いくつかの戦記マンガは傑作ですよ。迫力ある絵がすごい。雑誌時代に入ってからのものは、リアルな背景が非常に新鮮でした」
水木プロの社員となった池上は、もう一人の若いアシスタント北川和義と一緒にその背景を担当した。つげが人物担当である(後に次々と新人が入社してくると池上も人物を描くようになった)。
池上は「天国みたいだ」と思った。以前大阪の貸本マンガ家のアシスタントを一年間やったことがあったがその時は無給だった。ところが水木プロでは最初から一ヵ月一万五千円もらえた。看板屋の月給より多く、両親に仕送りができた。しかも、師匠である水木は「あんたは描ける」と池上の伎倆を認めてくれ、同じ部屋には尊敬するつげも働いていた。
水木は『ねぼけ人生』の中で、「有力なアシスタント」だった当時の池上を回想している。
〈彼は仕事のあいまには、たいてい、座頭市の話か根性の話をした。
「いっつぁん、いうてなぁ、ええで、座頭市は」
隣のつげさんは「ふァ」という返事とも空気の漏れともつかないようなあいづちを打つが、それがまた池上少年を奮いたたせるらしく、根性の話に移り、
「そいつ、根性のあるやつでなぁ、ビルのてっぺんから落ちて、傷だらけになってもまだ生きとった。ほんま根性のあるやつやったなぁ」
「どこへ落ちたの」
と、静かにつげさん。
「屋根の明り窓の上やったんや。根性なかったら死んどるわ。ほんま、人間は根性やなぁ」
もちろん、池上君も根性があって、仕事は一日に十五時間ほども続けられた〉
また水木は、同書の中で、傲岸不遜な新入りのアシスタントがつげに対して催促がましい口ききをした時、池上が激怒し、「おのれは、つげ義春先生に向かって、なんちゅう失礼なことを言うんだ」と食ってかかったエピソードを紹介している。
つげに尋ねると、つげは「彼とはそんなに親しく付き合ったという間柄ではなかったから……」と、池上についてはほとんど印象に残っていない。しかし、デビュー前だった池上にとって、つげの影響は、水木から受けた影響に負けないくらい大きかった。
「先生からはゲーテを読みなさい≠チて言われました。つげさんはサルトルがいいです≠チて。つげさんには中山義秀とかいろいろ勧められました。僕はもともと大藪春彦なんか好きなんですが、一流になるにはやっぱり難しい本も必要なんだと思って、それから読むようになりました。先生はその頃毎月何十万円も古い本買って読んでましたね。ある時、お二人が腹を立てたことがあるんですが、その時も衝撃を受けました。Kというマンガ家が作品の中でこれは失敗作かもしれない≠ニ書いていて、それを見た先生とつげさんが失敗作と自覚していて発表するなんて許せない!≠ニものすごく怒ったんですね。プロの姿勢を、思い知らされた気がしました」
池上から見ると、水木とつげは名コンビのように思えた。二人は非常に仲がよく、「まるで戦友どうしみたい」だった。
池上が水木プロに在籍していた約二年半の間、つげは平均すると週三日の割合で水木プロにやってきて仕事をした。仕事のない日でもフラリと事務所にやってきて、ブラブラしたり半日近くソファに寝そべったりしていた。一方の水木は多忙で眠る時間もないほどだったが、そんなつげを見るとホッとするらしく、アイデアに詰まった時などよくつげのそばへ行って楽しそうに雑談を交わした。つげが不意に姿を消したりすると、水木はアシスタントを引き連れて探し回った。その心配の仕方は「普通ではない」と池上は思った。
「先生もつげさんも貧乏で苦労したはずですよね。それは僕も同じなんです。貧乏がいやだったからガムシャラに働いて貧乏から抜け出したかった。でも、二人を見てると、一般の貧乏体験者と違うんです。貧乏を毛嫌いしてないというか、ちょっと距離を置いて貧乏体験を楽しんでるというのか。大阪の商売人の間で揉まれてきた僕なんかから見ると、ほとんど無欲に近いんです。この人たちは人種が違うのかしら?≠ニ思いましたね」
人気キャラクターのねずみ男に通じる水木の通俗性は池上も何度か体験した。
池上は一時運転手役も務めていたが、有名マンガ家の座談会に水木を送り届ける時、会場の手前で停車させられ「洋モクを買ってきなさい」と命じられたことがあった。「洋モクなら何でもいいです」と言う。普段は国産煙草しか吸わないのに見栄を張りたがるのだ。しかし、後部座席にふんぞり返りながらも、「自動車に乗ると、自転車に乗ってる人間がバカに貧乏人に見えるもんだねェ」などとしみじみ言われると、「先生は人並み外れて正直なだけかもしれない」と思えたりした。
「先生の生き方は、まさしく泰然自若ですね。細かいことやセコイことに妙にこだわったりするんだけど、全体的に眺めると非常におおらかで、気持がのびのびと大きい。つげさんの方は、明らかに芸術家タイプです。自分の中で何かが固まってくるまで絶対に仕事をしない。つげさんも金が欲しい≠チてしょっちゅう言ってたんですが、だからといって不本意な作品は決して描かない。二年半の間、お二人からは実に多くのことを学ばせてもらいました。学んだことが、現在の自分の仕事にちゃんと活かされているかというと、はなはだ心もとないんですが……」
昭和四十三年(一九六八年)、二十四歳の池上は≪少年キング≫に『追跡者』(辻真先作)を発表してマンガ界デビューを果たし、水木プロのアシスタントを辞めた。
池上の評価が定まるのは、昭和四十八年に『|I《アイ》・餓男《ウエオ》ボーイ』(小池一夫作)、翌四十九年に『男組』(雁屋哲作)を、それぞれ≪週刊現代≫と≪少年サンデー≫に連載し始めてからだった。正統派劇画調と称される乾いた流麗な描線で完全燃焼する男の美学≠フ世界を確立したのである。ただし、池上の到達したマンガ世界は、水木やつげのそれからはかなり隔たったものだった。
「僕はやっぱり肉体コンプレックスがありましたからね、カッコいい男の世界を描きたかったんです。オリジナル・ストーリーにも何度か挑戦してみたんですが、物語作りの才能がないというか、原作者付きの方が自分の持ち味を発揮できるとわかりましたし……。先生から受け継いでいるのは、リアルな絵、特にリアルなバック(背景)の使い方でしょうかね」
池上は、マンガ家たちのインタビュー集『オレのまんが道(1)』(小学館)で言っている。
〈リアルな絵というのは本当にありそうなことをやってもつまんない。現実には起こりそうもない奇想天外なことをやった時、はじめて面白い〉
水木作品では現実的な絵が妖怪たちの活躍する舞台になっているが、池上作品ではそれが逆三角形の肉体をした男たちの死闘を繰り広げる舞台に変わっている、ということか。
「僕は今、四人のアシスタントを使ってるんですけど、アシスタントを持ってみて初めてあの頃の先生の気持がわかりましたね。人を使うっていうのは、大変なことです」
水木は池上と会った時に開口一番「君は空気の抜けたカステラのような声だね」と言ったそうだが、まさにそうとしか形容しようのない声で、池上は語った。
2
水木の周辺にはマンガ作品を媒介としないで水木と交際している人々が少なからずいる。マンガ家としてよりも、文化人として、妖怪研究家として、あるいは一人の魅力的な人間として水木と付き合ってきた人たちだ。
ビデオ・プロダクション〈ニューテレス〉の制作スタッフである加藤|正寿《まさとし》や戸田直秀はさしずめその代表格だろう。
加藤は昭和六十三年(一九八八年)八月、テレビ番組『新世界紀行/水木しげるのアフリカ幻想・精霊と妖怪のふるさと』(TBS)に企画兼演出助手として同行したのを皮切りに、翌年の『新世界紀行(パプアニューギニア編)』から水木の紀行番組のディレクターとなり、平成二年から三年間『妖怪博士水木しげるの夢探検』シリーズ(テレビ東京)の演出を担当。戸田は『夢探検@(日本編)』から加藤の演出助手として番組に関わってきた。いわば一年に一作ずつこの五年間、水木を主人公とした紀行ドキュメントを撮り続けてきたわけだが、二人とも水木マンガのファンというわけではなく、戸田にいたってはまともに読んだこともない。
加藤は不勉強を弁解してから言った。
「でも、僕らが興味を持ったのは水木さん本人なんですよ。どことなく僕の好きな南方熊楠に似てるなと感じてて、一度会いに行ったら、表情は豊か、知識は豊富、しかも話がめっぽう面白い。どこかアジアでも旅しませんか?≠ニ言うと、もっといいところがあります、マリ共和国のドゴン族の村≠ナすからね。もうたまりませんよ。そして水木さんが言ったんです。テレビはアップです≠チて。当時の僕はアシスタント・ディレクターでしたけど、常々テレビはアップ≠ニ思ってたから、これはもう決まりだ、と」
昭和三十年生まれの加藤が三十三歳の時だった。
水木はそれまでにもテレビや雑誌の仕事で海外に出かけたことは何度もある。だが、ゴールデン・アワーの人気番組で一時間全編海外取材となると、取材による拘束期間だけでも最低一ヵ月は必要である。面談三十分厳守!!≠フ貼り紙を応接室に掲げている身としては、普通なら引き受けられないところだ。
が、この頃から水木は、世界の妖怪の仮面や彫像の蒐集に乗り出し始めたのだった。
「ええ、五、六年前です。一生やってもキリがないことわかってましたからね、手を出さんように厳しく自分を戒《いまし》めとったんですが、学者みたいに霊のこと抜きにして妖怪を語ってもダメだ、形を明示しなきゃいかんと思い始めて、水木さんは立ち上がることにしたんです」
あたかも義によって立つ≠ニいった口調だが、当然それだけではなかった。
水木は小学生の頃から人口取り≠ニいう遊びに熱中し、世界中の国名とその人口を丸暗記していた。地図を眺めては名前だけ知っている国々を旅行することを夢想していた。長じて著名マンガ家となりそれが可能になると、大好きな未開地への旅は、それが自腹を切ったものだろうとテレビ局や出版社の紐付きであろうとことごとく「冒険旅行」と呼び、一般の旅行より数段価値ある旅行と見做すようになった。水木はアリゾナの荒野をドライブ中に私に言ったものである。
「休みのない水木さんにとってはこれが休みなんです。もちろん厳密には仕事の一部ですけど、自由になった快感を覚えるんです。東京での勤勉は苦痛ですけどこういうとこでの勤勉は自然に快感に変わる。人一倍面白がって止《や》まらんのです」
マンガ家として単調な日常生活を送る水木には、時折好奇心を最大限に解き放つことがどうしても必要だったのだ。
水木は昭和六十三年夏、西アフリカのマリ共和国のドゴン族の村々を訪ねた。山岳地帯の精霊が住むという集落では、創生神話に耳傾け、絶滅した謎の小人族の断崖の住居跡を観察した。別の村では六十年に一度行なわれる奇祭シギの祭り≠見物、キツネの足跡による占いを見て、やがて砂漠に埋まる廃墟の町にたたずんだ。そして謎の小人族アンドムルンの彫像や空飛ぶキツネ、ユルグ≠フ木彫などを持ち帰った。
翌平成元年五月にはパプアニューギニアを訪問。カヌーでニューギニア本島のセピック川を溯り、ワニの子孫を自称する現地人たちのワニの祭りプクプク・シンシンに参加した。途中の村で、自分の一生を描いたストーリーボードを彫ってもらい、死者と交信できるという聖なる家ハウスタンバランに入ってみたりした。高地のチンブー族の村では有名な泥の仮面の無言劇を見学、神の化身と呼ばれる極楽鳥を探し回ったあと、ニューブリテン島に渡って懐しいトペトロたちと再会した。そして、ストーリーボードやニューギニアの仮面など多数を日本へ持ち帰った。
同行した加藤が言う。
「とにかくあの人は、しちゃいけない≠ニいうことを必ずやってしまう人です。ドゴン族の村へ降りて行く二百メートル近い断崖の道なんて、非常に危険なんです。まずカメラマンが降りるから、と言ってるのに、彼は真っ先に降りてしまう。自分が一番最初に珍しい物を見たいんですね。途中の都市でも、あそこは危ないですから行かないで下さい≠ニ言うと、必ず行っちゃう。今、その瞬間に興味あるものがすべて、なんです。あの好奇心のすさまじさは二十代の青春期の人間のものですよ」
私は思わず笑ってしまった。アメリカ旅行でも思い当たることがだいぶあったからだ。
傍若無人と紙一重の水木の気取りのなさ、ざっくばらんぶりも加藤にとって意外だった。
「あれだけの有名人じゃないですか、世界中旅行してる人じゃないですか、当然それなりの旅のマナーは身についてるとこっちは思いますよ。ところが全然なし。ドゴンからパリへ立ち寄って四つ星のホテルへ行ったんです。生ガキ食べたいと言うので注文したんです。三段十六個の生ガキがアッという間、五分もたたずに消えましたね。猛烈な食い方です。食べ終わると足をバンと伸ばして、やおらバンドを緩める。ウェイターは露骨にいやな顔しますが先生はいっさい関知せず。おそらく、食べてる間は生ガキのアップのみだったんでしょう。ラバウルのホテルでもそうです。朝起きてこないのでノックすると、もう朝食なの?=B先生、真っ裸なんです。全然平気なんですよね、そういうの。まるで熊楠です」
しかし、これらは愛嬌とも言えるが、加藤がどうにも理解に苦しんだのは、かつての戦地を訪れた時の水木の言動だったという。
まずトペトロたちとのコミュニケーションの度合である。戦争中彼らの村を「天国」と感じ、彼らと親交を結び、戦後十回近くも彼らの村を再訪し(以上のこと自体、加藤には解せなかったが)、生涯にわたっての友情を培ってきたのなら、「水木さんと彼らは相当深くコミュニケーションできるはず」と思っていた。ところが現実は、実に簡単なものなのだ。最重要人物のトペトロとの会話そのものが、「何食った?」「芋食った」程度である。あとは肩をポンと叩いて、ひたすら楽しそうに笑い合うのみ。加藤は唖然とした。言語手段を抜きにして、かくも長期にわたる強固な信頼関係が存続していることが、信じられなかった。
「もっと不思議だったのはラバウル周辺の戦跡を歩いた時です。水木さん、一度たりとも感傷的にならない。少しは言葉に詰まったり、俯いたり、茫然としたりしてもいいと思うんですが、サラッと乾いてるんです。実際はその場所で毎日のように殴られ、戦友の死も身近に見てるはずなのに、まったく平静なんですね。ここで苦労しました≠ニも言わない」
加藤は『ねぼけ人生』や『娘に語るお父さんの戦記』を読んで、水木にとって戦争体験がどれほどの重みを持っていたか知っていた。「ウンコ時間が長いと殴られる軍隊≠ニいう告発は、凡百の反戦集会の声明より鋭い」と思っていた。それだけに、不可解だった。
「翌日撮影がないっていう日に、僕らがラバウルの町で買ってきたエッチ写真見てると、水木さんも同じようにエッチ写真眺めてる。片腕なくして辛かった話もとうとうしない。どうしてかな、と思うんですよ。どこで苦しみや辛さを浄化させてるのかなって」
加藤には文字通り、「理解しがたい妖怪のような人」に映った。
「だけど、ものすごくよくわかって、可愛い人だな≠チて思うことも多いんですよね」
それまで黙っていた戸田が口を開いた。
二十八歳の演出助手の戸田が例に引いたのは、『夢探検』シリーズで平成三年に台湾へ行った時の話だった。
「仙人の住む洞窟っていうのがありましてね、加藤さんが戸田、押さえとけ!≠チて叫んだんです。僕は慌てて走ったんだけど、間に合わない。水木さん、スッと入ってっちゃった。呼んでも出てこない。水木さんは一度見ちゃうとすぐ興味が薄れて、顔や態度にそれが表われちゃうから困るんですよ。三十分後に洞窟から出てきて、仕方ないからもう一回入ってもらうことにしたんです。そしたら、渋い顔の我々に悪いと思ったのか、ことさらオーバーに驚いてみせたり演技するんです。あげくは、水浸しの場所に寝転がってくれるほどの大サービス! ハハハ、大人に叱られた幼児みたいでした。そのあとがまた傑作で、ワイヤレス・マイクを切ってなかったから、洞窟を出たあと、何を、この、加藤猿が!≠チて罵倒してるのがよーく聞こえる」
二人は大笑いした。
「結局我々は、そういう水木さんの人間的魅力に参っちゃってるわけですけどね」
加藤は笑いを引き取ったが、そう言われれば加藤にはサルのイメージがなくもない。
色浅黒く痩せて俊敏そうな加藤に、私は、神秘現象をテーマとした映像を作る場合、制作者としては水木を起用するのと宜保愛子を起用するのと、どこがどう違うのか尋ねてみた。
「そりゃあ全然違いますよ」
加藤は即答した。
「宜保さんが、ここに霊がいます≠ニ言えば、彼女の全盛期なら視聴者のおよそ九割は信用したはずです。でも、水木さんがうーん、ここにいます≠チて言っても、悪いけど、テレビを見てる人は一割も信用しないでしょ。しかし、それだから水木さんはいいんです。水木さんの世界は、夢、ユーモア、ヒューマン・メルヘンなんです。いわゆるキワモノじゃないんですよ」
加藤は台湾で水木とある霊能者を会わせた時の話をした。霊能者は台湾では名の知られた人物でキョンシーの写真を持っていると言った。写真は、棺桶から本物の遺体が起き上がっているものだった。水木は即座に「撮らなくていいです」と言った。「これはキョンシーじゃない」と言う。成仏しそこなった死体で、それが現地では紛れもなくキョンシーなのだが、水木の世界には不必要だったのだ。
「水木さんは、怨念のようなドロドロした世界に入って行くのを嫌ってますよね。そういうものには一線を引いて、どこか楽しい、もう一つの霊の世界みたいな……」
戸田が自分で頷きながら言った。
二人の映像作家(戸田はその後間もなくディレクターになった)は、そろって今後は水木を対象とした新しいドキュメンタリーを撮りたいと言った。加藤は、水木の衰えを知らぬ好奇心を再考するために『七○才の青春(仮題)』を、戸田は摩訶不思議な人物水木の全体像を捉えるために『本当の水木しげる(仮題)』を。
「水木さんと付き合っていると、歪んでしまっておかしくなってるのは我々の方で、水木さんの生き方の方が本物じゃないかと思えてくることがあるんです。変、ですよね」
加藤が、腕組みをして真面目な顔で呟いた。
水木ファンの組織は二つに分かれている。
一つは水木しげる公認の唯一のファンクラブ≠名乗る〈水木伝説〉(会員約百四十名)。もう一つは、水木の個人叢書を刊行し続けているより実証的な研究・出版グループ〈籠目舎《かごめしや》〉(会員約五百名)である。
二つの組織は互いに反目し合っている。
「そうなんです。えらい迷惑なんです」
水木は顔をしかめて言うが、二つの組織がいかに仲が悪いかを具体例をあげて説明する時は、このうえなく嬉しそうなのだ。そして水木は、二つの組織とわけへだてなく付き合い、頼まれれば双方の取材に応じるし、時間が許せばそれぞれの会合に顔を出すこともある。
私が〈水木伝説〉の若者たちと出会ったのは、七月の宝塚ファミリーランドのサイン会の会場だった。その日集まった十四人の会員たちは小雨降る中を何度も列に並び、仮設テントの下でペンを走らせる水木に色紙を差し出しては、鬼太郎と猫娘≠竍河童の三平と死神∞ねずみ男と目玉親父≠ネどを描いてもらっていた(列の中には小太りでニコニコ顔の〈籠目舎〉代表伊藤徹もいたが、私はその時は挨拶を交わしただけだった)。
会場で会った〈水木伝説〉の会員は、三十一歳の会長馬場茂幸を除けば全員が二十代、それも二十歳前後の若い人が大半だった。
〈水木伝説〉は昭和六十二年十一月に神戸在住の馬場ら五人の水木ファンが発足させた。年に四回会報≪フハッ≫を発行し次第に会員が増え、平成三年から会員相互の親睦を図るため毎年この時期にサマーイベント in KOBE≠ネる懇親会を催すことになり、今回がその三回目である。過去二年は水木を招いて講演会を行なったが、今年(一九九三年)は境港の水木しげるロード≠フ第一期工事が完成して水木はその除幕式に出席しなければならず、水木の招待は取り止めとなった。
私はあらかじめサマーイベント≠ヨの参加を申し込んでいたので、サイン会場で水木と別れると、会員の車に便乗させてもらって宿泊先である神戸市中央区一里山の神戸市立若者の家へと向かった。
夕刻、山の中の集会所風の建物に到着した。十畳の畳の部屋二間に布団置場と廊下があるだけで、ムッとした湿気が立ち込めている。私は早速会員たちに話を聞いてみることにした。
会長の馬場が最初に概要について述べた。
「我々は作品研究や旧作の復刻もやってますけど、基本的には水木作品を楽しむ会です。水木ファンなら誰でも歓迎、ドンドン入ってもろて大きくしたいと思ってます。現状では会員年齢は十三歳から五十六歳まで、男性八割女性二割です。若い人はテレビ・アニメ、年輩の人やらは貸本マンガがきっかけでファンになった人が多いみたいですね」
会報≪フハッ≫はそのネーミングを水木も気に入っていたが、と私が言うと、馬場の返答はさすがにややマニアックだった。水木独特の感嘆詞「フハッ」は、その初出が貸本マンガ時代の墓場鬼太郎シリーズ『アホな男』であり、溜息に似た驚きを表わすという。
「水木マンガの驚きの感嘆詞は四つあって、強い順にギョッギョッ∞ギョッ∞タハッ∞フハッ≠ニなってます。フハッ≠ヘ一番弱いんですけど、そこに虚しさも込められていて、もっとも水木的なんです」
生まれる前に父親を亡くし、母子家庭で育ち、現在新聞配達員をやっている馬場は、マンガ作品から入って次第に水木本人の人柄に惹かれるようになったという。年に数回上京して水木に会うようになった今は、「先生は僕の心の中の父≠ナす」と断言して憚《はばか》らない。
「手塚治虫の作品世界と比較するとわかりやすいんですが、手塚さんのマンガはうまくできていて面白いけど、所詮きれいごとです。上品な嘘の世界ですわ。その点水木世界はすごい身近に感じるんです。僕自身田舎は知らんのですが、あの絵を見ると幻の田舎に帰ったみたいに思うし、登場人物がみんなまたほどよく下品! ねずみ男とか死神、フハの男(東考社の桜井昌一がモデル、眼鏡《めがね》出っ歯とも呼ぶ)なんか、まるっきり自分の分身みたいに共感を持てるんですよ」
さらに馬場は、「先生は偉ぶったところが少しもないんです」と付け加えた。
若い会員たちは部屋のそこここに座り込んで雑談を交わしていた。
二十一歳の大学生竹本未礼は尼崎市在住。
「幼稚園の頃から小学館の『妖怪なんでも入門』を見てました。近代的じゃない古い日本の民俗的な絵柄、雰囲気が好きですね。水木作品は読んだあと、人間って何だろう?≠ニか考えさせてくれるんです」
二十歳の杉岡隆は大分県からやってきた。興信所に勤務する調査員だという。
「十三年くらい前にモノクロの『ゲゲゲの鬼太郎』再放送アニメを見て以来のファンです。今はねずみ男ですね。あそこまで身勝手に自分のやりたいことをやるなんて、憧れてしまいますよ」
十九歳の瀬戸信行は印刷所で働いている勤労青年、地元神戸の出身だ。
「先生と同じような逃避願望があります。先生は南方ですが、僕は日本の田舎、特に東北地方。今と全然違う場所に住んでみたい。でも、先生の完璧な全集を出版したい夢もあるんです、たとえ何百冊になっても」
二十一歳の竹内丈は水木と同じ鳥取県境港市の出身で現在は首都圏の大学生である。
「壮大な構想の東考社版『悪魔くん』が好きです。先生は境港の土地と波長が合ったんだと思います。境の人はあったかくてのびのびしてるし、実家のある入船町のあたりは今でも古い建物がいっぱい残ってる。僕も、東京と波長が合わないから帰るかもしれない」
やがて、サイン会に間に合わなかった会員もやってきて、最終的には総勢十六人になった。男十三人女三人、である。
私はてっきり夕食の席が会員相互の最大の親睦の場になるのだろうと予想していたが、そうではなかった。遅い夕食は、配られたビニール・パック入りの弁当を各自ボソボソと食べたのみである。それから、にわかに室内がざわつき始めた。それぞれ持参のバッグや紙袋から何やら書籍や品物を取り出したり、廊下においてあった段ボール箱を運び入れたり……。次のオークションこそがサイン会と並ぶサマーイベント≠フハイライトだったのだ。
会長の馬場が前に進み出て、今回の売り上げを神戸新聞社を通じて全額北海道南西沖地震の救援金として寄付するむね告げると、直ちにオークションは開始された。
「まずは鬼太郎ハンカチ、一枚十円から」
馬場が段ボールから取り出した品物を、杉岡がその場に腰を下ろしている全員に示し、片手で空のペット・ボトルを振り回しながら競《せ》ってゆく。
「二十円」「三十円」「百円!」「二百円!」「えーい、ご祝儀で五百円!」「えーい、ご祝儀で五百一円」「おいおい」……
私は自分の目を疑った。
「ありゃとーございやした。ハンカチはセットで六百五十円、××君でした。次はえーと、鬼太郎のアニメ本、五十円から!」
「初版本ですか?」「絵的に価値がありますか?」「全何巻ですか?」「買ったあとまた買い取ってもらえますか?」「こらこら」「じゃあ、五十五円!」……
つい先程までとは打って変わったはしゃぎぶりだった。入試前の孤独な受験生たちが、次の瞬間合格後の祝宴を開いているようだった。今回の会員の中には司会進行役の杉岡をはじめサマーイベント≠ノ初めて出席した者が何人かいて、それがよそよそしい雰囲気の一因でもあったのだが、全員参加できるオークションが始まったとたん垣根は消滅してしまった。それとも、蒐集品を目の前にしたマニアとは、本来こういうものなのか。
競売品は、『悪魔くん』の初版本から妖怪|小豆《あずき》洗いのプラスチックモデル、東京都消費者センターのねずみ男のポスターまで、さまざまだった。マンガ本は諸星大二郎のものが五冊組で一回出たのを例外としてすべて水木作品だったが、関連商品の方は、ゲッターロボのめんこや妖怪人間ベムのレーザーディスクなど各種出品され、どの品物にもある程度の競り値はついたから、水木ファンといっても会員によっては複数のアニメ作品のファンを兼ねていたわけである。
オークションはえんえんと続いた。私は当初見学するだけのつもりだったが、古本屋で探し回っていた〈籠目舎〉の個人叢書第一巻『忍法秘話傑作選』が登場したので、思わず参加して競り落としてしまった。昭和四十一、二年代の≪ガロ≫が一冊数百円というのも買い得で、三冊わずか千円で購入した。探していた物を手に入れた時はやはり嬉しく、マニアの心情が多少わかったような気がした。
ところで、マニアと言えば水木も子供の頃からマニアであり蒐集家だった。筑摩書房の松田の言葉を借りれば「今でいうオタク」だったわけである。昆虫・海藻・貝類の採集から出発して、浜辺の木の根や動物の骨、新聞の題字といろいろな物を蒐集した。戦前二十冊だったスクラップ・ブックは三百冊をこして今も続いており、考えてみれば、五、六年前に開始したという世界の妖怪・精霊の仮面や彫刻の蒐集もその延長線上にある。
水木は自分の性格を一言で「ひつこいんです」と言う。「ひとたび注目したら最後、他人にとっては無意味なことでも、長い間熱中してしまって飽かんのです」と言う。
しかし水木の場合は単なる蒐集家とは異なっていた。興味の分野が多岐にわたり、かつ同時進行的であって、純然たる蒐集の他に常によりマニアックになれる対象を別に持っていたからだ。例えば小学校高学年の頃、昆虫の標本箱を十数箱作り、新聞の題字を五百種類以上集める一方で、紙相撲で現実の相撲界を再現することに熱中していた。本物の力士そっくりの体形に紙を切り抜いて四股名《しこな》を記し、新聞の取組表を参考に横綱から序ノ口まで全力士に相撲を取らせ、その星取り表を本場所ごとに作製したのである。
蒐集の枠を超え想像の世界に遊ぶこうした習癖は、後に帝国海軍連合艦隊を木製、プラスチック製と二度にわたって復元する情熱に引き継がれた。貧しい紙芝居時代にふと思いついて「二十坪以内で極楽のような家を建てるとしたら?」という難問≠ノ挑戦、家の設計図作りに没頭し、後年調布に自宅を買ってからその具体化に着手して増築改築計十八回、「水木しげる式不条理の家」(≪週刊朝日≫昭和54年6月22日号)と呼ばれるようになったのもその度外れたマニア的性格のせいだ。現在も三、四ヵ月ごとに事務所の間取りが変わったり小さな改築が施されているところを見ると(自宅の作り換えは休止中らしいが)、快適空間を創出するため自ら図面を引くという「ひつこい」趣味はなお続いている。
午後十一時すぎ、オークションが終わったあとで私は再び何人かに話を聞いてみた。
結果的にもっとも大量の水木マンガを購入した松井秀彦は神戸市のパチンコ店店員だった。最年長の四十歳である。
「それまでは古切手とジャズ・レコードのコレクターやったんです。三年くらい前に古本屋でサンコミックスの『鬼太郎』本四冊を見つけて、小学生の頃読んでたからああ懐しいな≠ニ、それで集め始めたんですわ。丸二年で水木関係の本は百二十冊ちょっと、毎週自転車で尼崎あたりの古本屋まで回っとんのですが、もう中毒ですね。水木さんの絵はアンバランスのバランスがたまりません。今回は店を二日休んでこれに参加したんです」
〈水木伝説〉の表紙絵を担当している斎藤美紀はファン歴十年でこの五月から水木プロの外部アシスタントになった女性、二十五歳。
「最初は妖怪の画集を見て、わァ、きれいやなァ≠ナした。水木マンガは、読んだあとなるほど≠ニ思い、それでいて間が抜けてるのに気づくのが、よい。でも、先生のおっしゃる通り念じると通ずるって本当ですね。念じてたら、アシスタントになれた」
会社員|米吉《こめよし》和久は今回のサマーイベント≠フ企画実行委員長。「去年までは仕事がうまく行かなかった」という二十八歳の青年だ。
「初めてサイン会の列に並んだ時に全身が震えました。そんな体験は初めてでした。鬼太郎の住む世界には、ほのぼのとした中に柔らかい雰囲気と土の匂いが漂っていて、安らぎを感じます。先生のマンガは基本的に、この社会の弱い者たちに味方するマンガだと思います。失われた田舎や自然を再発見させてくれるマンガでもあります。そんなマンガ家は、今の日本で他に見渡してもいません」
貸本マンガはかつて、この社会で報われることの少ない非エリート層の勤労青少年によって熱烈に支持されたといわれるが、水木の場合は現在でもなお、核となる崇拝者たちは現代の庶民と呼べる純朴な学生や青年労働者たちが占めているようだった。
総額六万九百三十円を売り上げたチャリティー・オークションのあとは、二つの部屋に隙間なく布団が敷かれ、全員が雑魚寝《ざこね》で電灯を消しての怪談大会となった。各自がこの日のために用意してきたとっておきの幽霊譚や怪異現象の話の数々が披露された。熱いオークションで相互理解が進んだのかなかなかの盛り上がりではあったが、私はいつの間にか寝入ってしまった。
翌日私は朝食後すぐに帰京した。会長の馬場によると、〈水木伝説〉恒例のサマーイベント≠ヘその後クイズ大会を楽しみ、昼前に喫茶店でピラフとアイスコーヒーの打ち上げをやって、今年もつつがなく終了したとのことである。
「……そこを伊藤徹が突くんです」「……それで伊藤徹が怒っとるんです」「……だから伊藤徹が文句を言うわけです」
水木と話をしていると、〈籠目舎〉代表伊藤|徹《とおる》(水木は「イトーテツ」と発音する)の名前がよく出てくる。担当編集者の松田哲夫や、因縁の仲のつげ義春、近年対談することの多い博物学者の荒俣宏や宗教学者の中沢新一などの名前がしばしば出てくるのは当然と言えるが、いくら「中学生の頃からウチに出入りしてて最初に僕の作品リストを作った」といっても、伊藤は水木ファンの一人で在野の水木作品研究者にすぎない。早い話がマスコミ業界の人間ではない。
それなのになぜ水木は伊藤を特別視しているのだろう、と初めの頃は訝《いぶか》しく思っていた。
驚愕したのは水木から、伊藤が編集・発行したという『水木しげる画業四○周年』という本を見せられた時である。
B6判六百三十九ページの分厚いハードカバー、黒褐色合成皮革クロス装で表紙・背表紙・裏表紙の三方がきらびやかな金箔押し、一冊ずつ水木の署名と直筆画が入って限定二百二十部番号付き、頒価二万五千円という超豪華本なのだ。内容は、タイトル通り水木の四十年間の画業の集大成である。三歳の時から刊行時までの写真アルバム、紙芝居作品リストや貸本マンガ時代のいくつもの未発表作品、三大代表作『墓場鬼太郎』『悪魔くん』『河童の三平』の扉絵特集、≪妖奇伝≫の『幽霊一家』の復刻特集など。そして全作品の解説付きリストと画業年譜、インタビューと水木の書き下ろしエッセイ四十年をふりかえって=A随所に挟み込まれている美しいカラーページも……。
平成二年(一九九○年)八月に刊行されたこの労作を、伊藤は約一年かけて、実質的にはほとんど一人で成し遂げたのだ。
「伊藤徹はおかしいんですよ。頼んでもいないのに、勝手に作ってしまうんです」
さも迷惑そうな表情や言葉とは裏腹な、水木の全面的協力の跡を本の中に見取って、私は、水木が伊藤の何を評価しているのか薄々理解できた気がした。
その後私は、伊藤が青林堂を発行元として、これも本格的な水木しげる叢書を編集し出版し続けていることを知った。平成四年七月から、第一期貸本作品篇(全十巻)をほぼ三ヵ月に一巻の割合で刊行中なのである。
また、今年(一九九三年)六月には、〈アニメ・アメリカ1993〉の会場で『合格』など五編の短編を収めた初の水木の自選英訳作品集『TALES OF SHIGERU MIZUKI』(籠目舎)がすでにできているのを見て、水木ともども驚いた(後に、水木の〈アニメ・アメリカ〉参加を知らなかった伊藤が宣伝用にと水木本人よりも早くマンガ評論家の米沢に手渡したことがわかった)が、同時に私は、執念にも似た伊藤のマニア精神に恐れ入った。
伊藤は財団法人大阪都市協会に勤務するれっきとしたサラリーマンである。サラリーマンが勤務の傍らになぜこれだけの仕事をしたのか、できたのか。ぜひ会って話を聞きたいと思ったが、それが実現したのは宝塚で名刺交換をしてから約一週間後、伊藤が日本橋三越や川崎市民ミュージアムで開催された水木絡みの妖怪展を見るため上京してきた折だった。
「私と水木さんは、マンガ家先生とファンというよりも、付き合いが長いからもうホンマの肉親みたいなもんですわ。切るに切れない腐れ縁いうんか、僕にとっては、しょうもない実の父親みたいな存在なんです」
喫茶店でひと通りのことを聞き終えたあと、場所を移した居酒屋で、伊藤は大ジョッキのビールを一口グッとあおってから言った。
伊藤が、犬猿の仲の〈水木伝説〉会長馬場と同じく、水木を自分の父親になぞらえたのは意外だったが、その言わんとするところはかなり違っていた。伊藤はうんざりしながらも付き合っていかざるを得ない#N上の血縁者として水木を捉えていた。馬場よりも伊藤の方が、はるかに醒めた見方をしていた。
伊藤が水木マンガの虜《とりこ》になったのは昭和四十一年(一九六六年)、≪少年マガジン≫に掲載された『悪魔くん』を目にした小学校六年生の時だった。伊藤は幼稚園児の頃から無類のマンガ好きで、小学校時代はずっとマンガ家志望だったが、『悪魔くん』を見て、「ストーリーやキャラクターやなしに絵に痺《しび》れた」のである。
伊藤は後に、水木の絵について能《あた》うる限りの賛辞を呈している(例にあげているのは『悪魔くん』ではなく『合格』だが)。
〈水木作品の魅力にその絵画的水準の高さがあるのは決して見のがしてはならないと思う。次頁上のコマは「合格」の冒頭の一コマであるが、このコマから受ける感銘は雪舟の水墨画に匹敵する。(中略)この一枚絵の見事さは、他の漫画家の追随を決して許さぬ水木しげるの独壇場である〉(≪別冊新評水木しげるの世界=竢コ和55年秋季号)
それから伊藤は水木マンガを集中的に読むようになった。宝塚ファミリーランドで水木監修のお化け大会とサイン会が開かれそれが恒例になると、欠かさず行くようになった。
東京の親戚を訪ねた中学三年生の時、サイン会で「一度遊びにきなさい」と言われていたので、初めて調布の水木の自宅を訪問した。上京のたびに水木家詣でを繰り返し、行けば数日から一週間滞在するようになるまで、さほど時間はかからなかった。大阪工業大学に進んでからも水木家詣では続いた。
「仕事場の二階の十二畳の部屋を僕専用みたいにあてがわれてましてね、ご家族と一緒に食事したり、コーヒー飲みながら水木さんからいろんな話を聞いたり、ものすごくお世話になったんですわ。その頃は水木さんも以前ほど忙しくなかった時期やったしね」
家族同様の待遇を受けるうちに、原画や著書の整理を自発的に行なうようになった。古い資料や著書の行方がわからず水木が困っている場面にたびたび遭遇したからだ。
そしてメモした著書目録をもとに、昭和五十一年(一九七六年)に画期的な『水木しげる作品リスト』を自費出版した。その時伊藤は大学三年生だった。
大学を卒業した伊藤は七年ほど大阪の印刷会社に勤めた。最初のうち数年間は水木しげるファンクラブ(会員約百名)を設立して会長に就任、会報≪もののけ≫を発行したりしていたが、昭和五十五年頃、急に活動を中止した。昭和五十八年には大阪市の外郭団体である大阪都市協会に転職し、以後イベントのガイドブック作りやキャンペーン・ポスターの作製など、市の広報活動を担当し始める。現在三十九歳になった伊藤は出版編集部の主任である。
「つまり昭和五十五年頃から平成元年に『画業四○周年』を作り始めるまで、十年近いブランクがあるわけです。その間の僕は、レッド・ツェッペリンのファンクラブに夢中で、水木さんにはあんまり関心なかったんです。新作マンガはさっぱり描かない、『妖怪事典』みたいな画集ものばっかり、たまに出すと過去の作品の焼き直しや追加版。本人にとってもダメな時期やったんと違いますか?」
平成元年も半ばを過ぎて伊藤がふと思ったのは、「そうや、来年(一九九○年)は水木さんが紙芝居画家になってから丸四十年、節目にあたる!」という事実だった。お祝いを言うつもりで会いたいと思い連絡を取った。
「てっきり嫌味の一つも言われると覚悟してたんですが、あ、そう≠チてすぐ会ってくれた。珍しい人ですよね。十年間の断絶状態なんてまるでなかったみたいでした」
宮田|雪《きよし》も同じことを言っていた。「何年と顔を出さなくても昨日の続きのように会ってもらえる。それが不思議なんです」と。
水木と会った伊藤は考えていた企画を話した。画業四十周年の記念に資料性が高く数多くの熱烈な水木ファンをも満足させる凝った編集の本を製作したい、と願い出たのだ。水木は承諾し、伊藤は早速水木宅に一週間泊まり込んで下調べの作業にかかった。
「一年間本作りに没頭しましたね。会社にいる時間が余暇みたいなもんでした。貸本時代の作品はもとの原稿そのものがないのが多いから、版下作りからやらなあきません。単行本の同じページを何回もコピー機にかけて一番いいのを使うわけですけど、これに膨大な時間を要するんです。女房が全面的に協力してくれてようやく、いう感じでした。今でも我ながらようやったな℃vいますよ。あんなしんどいこともう二度とできません」
反響はすさまじかった。
「百冊売れれば上々」と予想していたが、予約を受け付けるやいなや限定二百二十冊がたちまち完売してしまった。一冊二万五千円の値段を付けても伊藤個人の持ち出しは三百万円近くになったが、恩返しだと考え、「商売にするつもりはなかった」から気にならなかった。
そして『水木しげる画業四○周年』が刊行された平成二年(一九九○年)八月、本の製作を手伝ってくれた仲間数人と「大手出版社が絶対手がけないようなハイ・グレードな水木本を作るため」に編集工房〈籠目舎〉を旗揚げする。
私は喫茶店での最後の質問として、いちおう〈水木伝説〉とのトラブルに関しても尋ねてみた。伊藤が平成元年から一年間ほど〈水木伝説〉の会員であり、考え方の違いから同会を離れたことは馬場からも聞いていたからだ。
「そうですが知らんかったんです、彼らのこと。何しろ僕は十年間も御無沙汰やったから、まだこういうファンもおったんやなァ≠ニ思って会員になっただけで……」
伊藤は、神戸に水木のファンクラブがあると聞き「懐しさから」入会したのだった。入会後会報作りなどでいろいろ助言したりしたが、志向性の違いはいかんともし難かった。
「彼ら、年齢層が若いんですよ。どちらかというとアニメ好きでコミケ世代、同人誌作って売るのが楽しいんです。僕は出版物手がけるんやったらキチンとした本格的なものやりたい方ですからね、表紙に自分らの絵を使いたい人らとは合わへんのです。同じファンいうても目指すものが全然違うてる」
最近の対立点は、水木しげる叢書第一巻の内容と〈水木伝説〉の『ねずみ男特集』の内容が酷似しているというもので、〈籠目舎〉は「営業妨害だ」と批難し〈水木伝説〉は「悪質な嫌がらせだ」と応酬している。伊藤も馬場も、相互の路線の違い、志向性や対象読者の違いは認めており、「話し合えばわかるはず」と口では言っているのだが、いっこうに話し合う気配がないところを見ると、確執はすでに感情的なものに変わっているようだった。
「いやになるのは、僕らと向こうとの不仲を一番面白がってるのが水木さん本人やということですよ。水木プロにくる人くる人に言うてるらしい。幼児性丸出しといおうか、うんざりしますよね、そういうの」
≪フハッ≫誌上で毎号のように個人攻撃されるのは「かなり辛い」と告白する伊藤は、恨めしそうに言ってみせた。
それから我々は居酒屋に移動した。おでんの湯気と焼き魚の臭いと煙草の煙のたちこめるカウンター席の一角で、我々はビールのジョッキを何杯かあけた。
「水木さんいう人は、ある意味では自分のことしか考えん人なんです。ちょっと付き合うて、優しい人や≠ニか言う人もおりますけど、違いますね。自分の負担になるものは容赦なく切り捨てる、厳しい人ですわ」
伊藤は赤い顔をして冷奴を頬張った。
伊藤の言葉には私も思い当たることがいくつかあった。水木が昔付き合っていたマンガ家を僕が取材してきて、水木にもう一度細部を確認していた時、水木が急に「僕、他人には興味ないんです。自分のことしか興味ない」と話すのを止めたことがあった。またある時、水木が第三者に幸福観察学会の説明をしていて、「会員の資格は、まず何よりも冷酷であることです。情の海に溺れてはいかんのです」と言い、慌ててメモしたことがあった。人の悪口が大好きなのはこれまですでに何度となく見聞きしてきたことだし、「好奇心旺盛」と言いながらその関心の対象が案外狭いことも事実だった。興味や関心以外のこと、つまり水木にとって負担と感ずることをスケジュールに入れたりすると、マネジャーの幸夫や秘書の松久保晃作は厳しく叱責される。
「自分の評判、ものすごく気にする人ですよね。ある評論家に本の中で小心ぶりを書かれて、電話で抗議するとか……」
伊藤は顔を上げて続けた。
「つげさんがブームになると面白くなくて、つげさんの本が売れないって言うと大喜びするとか……。ほんと、子供みたいですわ。マンガ家になってなかったらロクな人間じゃないですよ、きっと」
「じゃあ、マンガの才能を別にすると、人間性はあまり評価できない?」
「いや、普通の人なら隠してしまうそういうマイナス面を実に素直に見せてしまう、そこがまた何とも言えずいいんですね。それを人間的な魅力と呼んでいいのかどうか、よくわかりませんけど……」
水木マンガを高く評価し、しかし人間水木しげるに「幻想を抱いてない」と言う伊藤は、営利目的ではない水木の個人叢書を刊行し続けるにあたって、常にギリギリの緊張関係を水木との間に保っているという。
「水木さんの絵は素晴らしいんです。現代日本の文化遺産として絶対に後世に残さなあかん。だから僕は、お金儲けやなしに、お金をできるだけかけていい本を作って、欲しい人にだけ売る形で水木作品を残したいんです。でも、言うてみたら僕の道楽やし、水木さんがそれで儲かるわけでもないから、迷惑はかけとうない。負担≠ニ思われても困る。忙しい時間を割いてできる限りの協力をしてもろとるわけですが、いつも怒り出す寸前まで行きますね。こっちは少しでもいい内容にしたい、水木さんもそれはわかってるけど現実問題として時間がない。あとちょっと粘ったら水木さんの怒りが爆発する、それを測りながら緊張のうちに作業を進めるわけです」
同じ水木ファンといっても〈水木伝説〉の馬場たちとはまるで異なる思い入れである。
水木の創作力に多大の価値を置いている伊藤が、もっか一番心配しているのは、水木の関心がここ数年急速にマンガから遠のいているように思えることだった。テレビ出演、講演、水木記念館の計画、妖怪研究家としての諸活動……。伊藤に言わせれば、「あまりにも文化人的な仕事が多すぎる」のだ。
「この前も手紙を書いて言うたんです。妖怪博物館を作ろうが水木記念館を作ろうが、海外へ出かけたり講演したりしようが、そんなことはなんにもならないって。コンスタントにマンガの本を出し続ける、ファンを増やすにはそれしかないですって。……まだよくわからないところがあるんですよね。文化人活動を続けていて、本人は将来をどう思ってるのか、そこらへんが特にわからん」
いつの間にか、あれほど賑わっていた店内に客の姿は疎《まば》らになっていた。カウンター席で残り物の皿と空のジョッキを前に、憑《つ》かれたように話し込んでいるのは我々だけだった。
「とにかく、他のマンガ家には僕みたいな人間はおらんけど、水木さんには僕がついてる。それだけは信用してもらっていいと思うんです。本人がわからんようになった作品でも、確実に揃え、キチンと復刻させますよ」
それが自負なのだろう、水木マンガ四百冊を保有する日本一の水木作品蒐集家伊藤は、酔いを振り払うようにそう言った。水木が「各作品の詳しいことは伊藤徹に聞いて下さい」と言っていたのも、もっともなことだった。
3
ここで水木作品の解釈と評価の軌跡を少し振り返ってみることにしよう。
ごく初期のものでは、昭和四十年(一九六五年)に講談社児童まんが賞を受賞した直後、選考委員の一人だった劇作家飯沢|匡《ただす》の次のような寸評がある。
〈むつかしくいえば、アラン・ポーの短編小説を思わせるような怪奇的な絵。しかもそのなかに、一種の批判がある。苦労しただけに、甘っちょろい漫画ではない〉(≪週刊朝日≫昭和40年12月17日号)
昭和四十年代中頃(一九七○年前後)、マンガを読む大学生が一般的な社会現象になってくると、知識人と呼ばれる人たちがいっせいにマンガを論評するようになる。この時期、加太こうじを筆頭に鶴見俊輔、佐藤忠男、尾崎秀樹などの評論家、学者では梅原猛、多田道太郎、小説や文学の世界からは野坂昭如や吉行淳之介、福田善之、高橋睦郎らが水木作品(作品集)に解説文を寄せた。
この時期の水木論の特徴は、水木マンガの背後に濃厚な死≠フ影を見て、それを水木自身の経歴、特に特異な幼児体験や過酷な戦争体験に溯り、そこから現代文明全体への鋭い告発者の像を読み取るというものだった。
例えば梅原猛は、昭和四十六年刊行の『水木しげる怪奇短編集』(筑摩書房)の解説文のタイトルを不吉なる終末予言者≠ニし、こう書いている。
〈彼の人間認識の根底に人間の死ということがある〉
〈水木しげるは、死後の世界に異常な関心を持つ〉
〈一つは彼の生れである。(中略)つまり水木は、黄泉《よみ》の国がまだ生き生きと存在していた地方の生れなのである。
その上、彼は戦争でラバウルへ行き、片手を失ったという。ラバウルで彼は何を見たか。おそらく彼の見たものは、人間に非ざる人間の世界であったであろう。そして彼は、どんなに容易に生者が死者になるかをつぶさに見たに違いない。そして彼の生の背後には、偶然の運命が彼との間をへだてた多くの戦友の霊があるはずである。幼児から死霊と親しかった水木しげるは、戦争体験によって一層死霊と語る人になったのであろう〉
〈水木しげるは不吉なる予言者である。彼の漫画は、はっきりと近代人が信じている合理的世界そのものが、いかに極限された世界であるか、(中略)そして近代世界が失った世界が、どんなに深くどんなに霊妙な世界であるかを教えてくれる。そればかりでなく、むしろ彼は、このような合理の信仰の上に立つ近代世界がいかに残酷で、醜悪で矛盾にみちているかをわれわれに教える〉
あるいは、佐藤忠男が現代漫画風土記=i≪小説新潮≫昭和46年3月号)で述べた論説を、この時期の代表的な水木論の一つと見ることができよう。
〈少年時代の死の恐怖とお化けの絵への関心が戦場での九死に一生を得た体験をくぐってじっくりと発酵してゆき、ついに「墓場の鬼太郎」以下一連の作品になったわけである。
その死の恐怖との長いたたかいの間に、水木しげるは、死のイメージを手なずけて滑稽なものに変化させることに成功した。それが、人間とは関係なくそこにいる妖怪、という愛嬌たっぷりの不思議な存在であった。妖怪の人権(?)、妖怪と人間との平和共存、というユーモラスな観念に到達することによって、水木しげるは、幼児期以来の死への恐怖感を創造的なものに変え、そこからさらに独特の文明批評を生み出す道を見出していったのである〉
〈水木しげるのは、人間も動物も妖怪もみんな平等であるはずだ、という不思議な思想であって、これは、遠くわれわれの先祖が万物に霊魂が存在すると考えたアニミズムに通じ、また、原始的な民族がさまざまな動物を自分の分身だと考えるトーテミズムに通じている。文明とは、そのようなアニミズムやトーテミズムの破壊の上に成り立ってきたのだが、破壊されたそれらの古い思想は、「墓場の鬼太郎」の幽霊族のように細々と生きのびて、水木しげるの絵筆を借りて発言をつづけているのである〉
昭和四十二年(一九六七年)、石子順造、権藤晋、梶井純、山根貞男の四人によってマンガ評論誌≪漫画主義≫が創刊され、マンガ家の人と作品を専門的に論じるマンガ評論という文芸ジャンルが出現した。水木作品も、彼らによってつげ作品や白土作品同様盛んに論評された。以後マンガ評論家を名乗る人々の水木論は続々と登場したが、その中で注目すべき水木論となると、やはり呉智英のものである。
『現代マンガの全体像』(情報センター出版局)の著者でありマンガ評論界きっての論客と言われる呉は、学生時代から水木プロに出入りして資料のリライトなどのアルバイトをしていた。いわば個人的にも水木との長い付き合いがあるわけである。その呉が、水木作品を理解するキーワードとして提示するのが「明るいニヒリズム」だ。
〈(『悪魔くん』は)『墓場鬼太郎』の『幽霊一家』とともに、疎外された者の共生感がよく表れている。と同時に、そこには肩肘張った悲壮感は生の形では出てこない。未来にユートピアが存在しうるということへの不信感さえうかがわれるほどである。そして、時には裏切り者にさえなりかねない俗人たちが、しばしば生き生きと描かれる。ネズミ男、情報屋、といった登場人物である。彼らを描かせるのが、水木の明るいニヒリズムなのである。社会からの疎外はニヒリズムを生み、それがもう一度ひっくり返って明るいニヒリズムとなる〉(『現代マンガの全体像』)
〈(水木の諷刺マンガの面白さは)かつて僕が評した言葉で言えば「明るいニヒリズム」とでも名付けるべきものである。すべての絶対的価値観に疑いを抱き、相対的に眺めようとする立場でありながら、つき放した冷たさがなく、不思議な明るさと安らぎに満ちているのだ〉(『水木しげる作品集II・諷刺の愉しみ』中央公論社、解説)
ただしかし、水木自身はマンガ評論家をはじめとする評論家たちの水木論にはあまり関心を示さない(呉の「明るいニヒリズム」論はあえて否定しなかったが)。評論家に対しては「絵がわかってない」という思いがあるからだ。
『水木しげる画業四○周年』の巻末インタビューでも伊藤徹に次のように話している。
〈──筑摩《ママ》文庫の解説は僕も読みましたが絵が分かる人のマンガ批評には説得力がありますね。
水木 評論家は全然絵が見えてないでしょ。絵が分からないのが多いです。ほとんど、そうなんです。絵の分からない人が多いです。筋だけですよ、批評家はみんな〉
「絵がわかる人のマンガ批評」というと、古くは東考社の桜井昌一の水木論があり、伊藤も終始一貫して水木の絵の魅力を語ってきたが、ここで伊藤がちくま文庫の「絵がわかる」解説者として念頭に置いているのは、例えば『水木しげる妖怪まんが集2・妖怪たちの物語』の解説を引き受けている荒俣宏である。
荒俣は、日本の戦後マンガは手塚治虫以下の主流もさいとうたかを・楳図かずおらの傍流も、ひっくるめて「その視線の原点は映画《キネマ》にあった」とする。これに対し水木マンガは時間の流れに関係のない一枚絵、つまり|絵 画《フアイン・アート》を原点にしている、と説く。
〈映画《キネマ》とは、要するにキャラクターとその動きだ。これをまんがに置き換える場合、一ページを無数に分割する各コマの枠線やその形は、映画の銀幕と同じ役割を果たした。
これに対し、水木しげるのまんがは基本的に「ファイン・アート(絵画)」を原点とした。水木まんがではキャラクターとか動きというよりもまず、背景が問題だった。画像が図と地とに分かれるとすれば、地を熱心に描き込む方向なのだ〉
しかも、背景に熱中するだけでも大いに時流に逆らう態度なのに、あろうことかその背景に、大変な労力と技術、時間を要する銅版画の描法で西洋幻想絵画を取り入れたという。
〈『怪奇死人帳』に出てくるアントニオ・ガウディの怪建築を模写した「霧の城」。
『やまたのおろち』の世紀末ヨーロッパ絵画調。
『妖怪水車』のヒエロニムス・ボッス「快楽の園」調。
これらを銅版画でステップル(点刻)と呼ぶ点々の描法で描きあげた。(中略)さらにこの背景に嵌《は》め込むキャラクターとして、氏は主人公たちに紙芝居時代の伝統的なデフォルメを強いた。現代まんがの新しいスタイルとなった「星のような瞳」や「八頭身の体」、「細かな髪」を描かないで、ドングリ眼の素朴な日本人|面《づら》を踏襲した。
この結果、水木まんがには、極端に微細で重い西洋銅版画を背景とした戦前まんがのシンプルな人物像、という史上類を見ない異様なコラージュが成立した〉
〈水木まんがの画面構成は本来矛盾しあう要素のつなぎ合わせを試みている。
こういう作画上の実験を、実はすべてのまんが家は試みてみたかったのだと思う。(中略)けれど、それに成功したのは水木しげるしかいなかった!〉
マンガ作品を記号論で読み解く試みは最近の傾向である。比較文学者の四方田犬彦(ちくま文庫の水木シリーズの解説も書いている)は、手塚治虫における聖痕の研究=i≪ユリイカ≫昭和58年2月号)の中で、鉄腕アトムの二本の角に着目し、それは手塚作品の中で繰り返し現われる「宇宙人の標識である肥大した耳の転移」であり、人間への自己犠牲と人間ならざる者の排除を宿命とする聖痕だと捉える。すなわちアトムのシリーズは、「アトムの反復強迫の病跡誌」なのだと。
そして、そんな手塚の思想に真っ向から対立する思想の持ち主として、水木に言及する。
〈なぜ人間ならざる者はつねに排除の対象となるのか。なぜ人間はいかなる場合にもみずからが人間であると他者から呼びかけられていなければ、たちまちのうちに不安と無秩序に陥ってしまうのか。手塚治虫の読者にまといつくのは、このような疑問である。
それは、たとえば「ジャングル大帝」や「鉄腕アトム」の傍に、「猫姫様」や「河童の三平」に代表される水木しげるの作品を並べてみた場合に、より明確な形をとるはずだ。水木しげるにおいても、人間は無数の人間ならざる者に直面する。河童、妖怪、南洋の原住民……。だが、このとき他者はけっして排除の対象とはなりえない。人間は未知に恐怖と幻惑を感じつつ、少しずつみずからの輪郭を解体し、人間ならざる者に変身してゆくことに無上の至福感を覚えるのだ〉
〈手塚治虫の薄幸な自己犠牲の死に、水木しげるの安逸で快感原則に満ちた不死が対立している。前者は人間の〈法〉を不断に形成し、後者はそれをたちまちのうちに解体してしまうのである〉
模写によるマンガ批評というユニークな仕事を続けているマンガ家に夏目房之介がいる。夏目は『手塚治虫はどこにいる』(筑摩書房)において、前掲の四方田の指摘を「本質的な手塚批判になりうる」と評価しつつも、夏目なりに両者の描線を比較している。
〈手塚の丸っこく閉じた線に対して、水木のそれはところどころ破れるように開いたよろよろした線である〉
〈手塚の線は、いつも背後に不定形のものをモチーフとして隠しもっていながら、人物や機械、影や紙などをそれぞれとしてちゃんと指し示す。(中略)水木の線は、こういう指示性を発揮するにはあまりに頼りない。(中略)そこでは人物の自意識よりも、風景や、世界の背後にある見えないものにこそ線はとらえられるのである〉
そして、四方田の指摘が本質的なのは、「手塚治虫には終生生きている$l間の側からしか、じつは世界が見えていなかったからである」と書く。
〈手塚は、人間以外のもの(あるいは人間より大きな概念)から人間を相対化した、といわれる。いわく宇宙=Bいわく自然=Bいわく超生命=B
しかし(中略)手塚は、そういう超越的な概念に垂直的にひきよせられながら、それとおなじ力で地上にひきもどされ続けた作家であり、まさにその点において手塚治虫であったのだ〉
〈これに比べると、水木しげるやつげ義春の線は、それとは逆のベクトルからの視線を内包しているように見えるのである。べつの言い方をするなら、あの世的≠ナある〉
夏目のこの本は、ここまで取り上げてきた書籍の中ではもっとも新しいもので、平成四年(一九九二年)六月の出版である。
ということは、梅原が水木を「死霊と語る人」と評してから二十一年たって、再び水木作品は最新のマンガ批評において「あの世的な視線を内包する作品」として位置付けられている、ということかもしれない。
ところで私は、もっと若い世代の、それも他の業界からの水木論を知りたいと思い、三十四歳の映画監督天願大介に会うことにした。
天願は平成元年に奇怪な映画『妹と油揚』で鮮烈なデビューを飾り、翌年『アジアンビート/アイ・ラブ・ニッポン』で高崎映画祭特別賞を受賞した新進気鋭の映画監督だが、小学生の頃から大の水木ファンで、今年(一九九三年)の≪ガロ≫一月号水木しげる特集2≠ノ、水木哲学のせいで沖縄に五年間住み着いてしまったという楽園≠ネるエッセイを寄せていた。
ところが会ってみると、水木の影響は予想よりもっと大きかった。天願は琉球大学に五年間在学している間に沖縄の女性と知り合い結婚した。つまり水木流南方憧憬病に罹ったために人生が変わったのだ。しかも、勤めていた出版社を辞める契機となったデビュー作『妹と油揚』は、「水木的なるものを映像化した妖怪映画」であり「水木しげるへのオマージュだった」と言う。
「水木世界というのは、基本的には、世界の目に見える構造を目に見えない構造によって疑う、というものだと思います。そこから霊への関心や虚無的な心情、現実逃避の姿勢などが生まれる。南方への憧れは現実逃避の最たるもので、従来の伝統から言えば中国の道教的なもの老荘的なものへ向かうはずなのに、水木さんの場合はなぜかメラネシア。しかも、方法論などはキチッとしてなくて、まるで偶然のようにフッとそちらへスライドしてしまう。非常に自由だけど、独断的で独善的なんです」
鮮やかなエスニック調のシャツを着て口許と顎に髭をたくわえた天願は、低い声で淡々と語った。水木から圧倒的な影響を受けたと言う割には、冷静かつ客観的な話しぶりだった。
「水木さんはもともと、人間に対して興味ないんじゃないかと思うんですよ」
天願がボソッと言ったので、私はびっくりした。実は、長い間かかって私もそう思い始めていたからだ。他人に興味がない、というよりも、人間そのものに興味がないのでは、と。
天願に尋ねると、水木には一度も会ったことがないと言う。
「作品を読んできてそう思うんです。だって、水木マンガに彫りの深い登場人物なんか一人もいないじゃないですか。何だかよくわからない人しか登場しない」
天願はグラスに焼酎を注ぎ足して言った。
「人間を深く掘り下げて描こうという野心は作家なら誰もが持ってる。マンガ界でも、手塚治虫以降はそうです。でも、水木さんにはそれがない。水木さんが関心があるのは、一人一人の人間じゃなくて、この世界の構造そのものなんじゃないかと思う。その意味では、手塚治虫に始まる近代主義、心理主義に頑として背を向けている作家は、現在のマンガ界では水木しげるしかいないと思う」
ここでも期せずして、水木世界の対立項として手塚世界の話を聞くことになった。考えてみれば、水木にしても手塚にしても、創作者としての資質の違い以上に、それぞれの方向性を最大限まで推し進めた表現者として、否応なく現代マンガを代表させられてしまう面があるのだろう。
私は念のため、水木作品の中ではキャラクター設定が明瞭なねずみ男について天願の意見を確認してみた。ねずみ男は人間ではないが、彫りの深い登場人物とは言えないのか。
「人間の一側面を描くために作り出したんじゃないと思いますよ、結果的にそうなっただけで。彼もやはり、本質的には水木流努力しても報われない哲学≠構造的に描く際の一つの駒にすぎないと思うんです」
天願はこのインタビューの時期、第三作目の『無敵のハンディキャップ』という作品を編集中だった。脳性マヒの障害者たちのプロレス興行を一年半にわたって追いかけたきわめて異色の長編ドキュメンタリー映画である。
「僕が映画を作る上で水木さんから学んだ最大のことは、創作にあたっていわゆる人間を描く&K要などない、ということです」
新人監督天願大介、つまり日本人の生と性を追求し続けた日本映画界の奇才今村昌平の息子は、ニヤリと笑ってまた焼酎のボトルに手を伸ばした。
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第六章 さらなる探索
1
「ゲーテを読んでたのは十八か十九の時です。その頃は哲学書を読むのが若い者の間ではやっとったんですよ。いずれ兵隊にとられて死ぬるかもしれんってことでね」
妖怪画の彩色作業が終わって一息ついた水木に、「今日はゲーテの話だけでいいんですが」とやや強引に時間を取ってもらった。
ゲーテ観はぜひとも聞いておきたかった。「私には師匠はいない」と公言している水木が、折に触れて引用するのがゲーテの言葉だった。戦争に行く前に岩波文庫の『ゲェテとの対話(上・中・下)』(エッケルマン著、亀尾英四郎訳)を何回も読んで暗記したのだという。ゲーテの言葉だけではなく、その思想や生活を批判したり讃美したりすることも少なくなかった。
水木作品に関わりのある上田秋成や南方熊楠などを除けば、水木の会話に登場する歴史上の人物の中に他にそうした人物はいなかったから、ゲーテはひょっとすると、水木にとって「人生の師」に近い存在ではあるまいかと思ったのである。
「死でしょ、死ぬるんですからね。眠っててもあんた、頭が冴えわたってくるわけですよ。オレ、生まれてきたけど、何だろう?≠チてやなもんです。結論みたいなもんを得たいわけです。そこで片っ端から答の書いてありそうな難しそうな本を読むわけですよ。ニーチェ、ショーペンハウエル(ショーペンハウアー)、聖書とか、仏教書とかね。ま、暇もあったんですが」
水木が十八歳、十九歳の頃といえば、昭和十五年、十六年である。
昭和十五年(一九四○年)には水木は大阪の西淀川区の新聞配達所に住み込みで働きながら、日本鉱業学校採鉱科に通っていた。東京美術学校(現、東京芸術大学)の受験資格を得るだけのために通っていた学校だったから、当然向学心は薄く成績不振で欠席がちだった。昭和十六年(一九四一年)になると、ジャワの出張駐在員だった父親亮一が多少の蓄えを持って帰国してきた。甲子園口に家を借り、境港から母親琴江も出てきて水木と三人で住むことになった(兄宗平と弟幸夫はそれぞれ学生寮生活)。新聞配達を辞め学校も退学した水木はしばらく家でブラブラしていたのである。
昭和十三年に国家総動員法が公布されていた。翌十四年には国民徴用令と価格等統制令の公布。十五年にはぜいたくは敵だ!≠フスローガンが現われ『隣組』の歌が流行し、大政翼賛会と大日本産業報国会が相ついで創立された。日中戦争とは別の新たな戦争が刻々と近付いていることは誰の目にも明らかだった。
「世の中、息苦しくて落ち着かんわけですけど、ショーペンハウエルみたいに絶望あるのみ!≠チて言われても、困るんですよ。安心立命とはいかんまでも、何とか、ね」
河合栄治郎編『学生と読書』(日本評論社)に、『ゲェテとの対話』が必読書として挙げられているのを知り、読んでみた。八十二歳で死んだゲーテの晩年八年間の言動を、崇拝者である貧乏詩人ヨハン・ペーター・エッカーマンが忠実に記録した書物である。
「気に入ったんです。楽しそうだし、面白い男だと思ったんです。偉人や著名人というと、とかく金のことをバカにするわけですが、ゲーテは金の力というものをよく心得ていて、問題は、困らぬだけの金をつくることだ≠チて言うんです。一番高い印税を取って、充分なる年金をもらい、生涯優雅な生活を貫徹するんです。これはいい、見習わなきゃいかんと思いましたね」
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは一七四九年、ドイツの自由都市フランクフルトに生まれた。裕福な家庭で育ち、高度の教育を受け、若くして有名作家となり、体は頑健で性格は朗らか、数々の恋愛事件で知られ、多趣味博識、ワイマール公国の大臣にまでなった。つまり、一生にわたって貧困とは無縁の豊かな生活を送ったのである。
その暮らしぶりと王侯貴族との付き合いから偉大なる俗物≠ニも批難されるが、水木は「その俗物性がいい」と評価する。
『ねぼけ人生』の中で水木は青年時代の夢想を書いている。
〈(前略)僕は、ゲエテのような生活がしてみたかったのである。
家は四階建てで屋根裏部屋があり、部屋数は多く、美術品がたくさん飾られており、近くには、散歩に適した所があり、ガーデンハウスなぞという別荘がある。宮殿で美しい女性に囲まれ、皇太子の頭をなでてみたりする。近所にはシラーという意見のあう友人がおり、家にはヨーロッパ中の文化人が訪問してくる。時たま、ナポレオンなんかも戸をたたく。こんな生活を僕は空想して楽しんでいた〉
〈近くの別荘を見ると、これはシュタイン夫人の家、甲子園ホテルを見ると、これはワイマール公国大公夫人の家、などと考え、もはや、ワイマールが甲子園だか、甲子園がワイマールだかわからないほどだった〉
〈ただ、ゲエテとちがって恋人もいなかったし、あまり女にももてなかったから、女と口をきいたこともなかったのが、少々さびしい〉
「ゲーテその人に興味があったんです。ゲーテの本は、『若きウェルテルの悩み』とか『ファウスト』『ウィルヘルム・マイスターの遍歴時代』といろいろ読みましたけど、『ファウスト』なんか何遍読んでもさっぱりわからんかった。やっぱり、『ゲェテとの対話』が一番面白かったんです、ゲーテの人間性がわかりますからね」
革張りの安楽椅子の上にあぐらをかいた水木は、一呼吸置いてから、両目を剥いた。
「第一、アレですよ、ゲーテは七十過ぎてから十六、七の娘に結婚を申し込むんですよ。自分は少女に恋をした、すなわち少女とセックスしたいというわけですよ。ちょっと異常でしょ? ゲーテは助平なんです」
ゲーテの最後の恋と呼ばれるウルリケ・フォン・レヴェツォーへの求婚のことだった。
ゲーテは一八二一年、ボヘミアの温泉地マリエンバートの宿泊先で十七歳の少女ウルリケに出会い恋をした。マリエンバートには毎年行き、三年目の夏に正式に結婚を申し込んだが断わられた。ゲーテ七十四歳、ウルリケ十九歳の時である。
「ゲーテは、ふだん非常に慎重で思慮深いですが、時々突然衝動的に行動しますね」
「そうなんです。四十近くなって、女中みたいな女とパッと結婚してしまう。周囲が猛反対してるのにパッと結婚するんです」
「イタリア旅行もそうですね」
「そう、恋人のシュタイン夫人にも知らせないでパッと行く。そういうね、パッパッと判断して行動するところも、大いに気に入ったわけです。これ式で人生やってゆくのもええなァ、と思ったわけです」
「水木さんの南方志向は、ゲーテの君よ知るやレモンの花咲く国を≠ニいうイタリアへの憧れと、どこかでつながってますか?」
「うーん、直接の関係はないでしょう。祖父《じい》さん(武良辰司)の影響の方が強いんじゃないですか。ウチの祖父さんが長いことジャワで商売やってて、親父もジャワへ保険の仕事で行って喜んでた。水木さんはニューギニアで、娘の尚子はフィージーが好き、今年尚子はニューカレドニアに行ったんです。おそらく、南方好きは武良家の血筋でしょう。武良一族が南方を荒らし回っとるんです、ワハハハ」
私と二人きりの時に水木の高笑いは出なくなっていたが、久々に聞く高笑いだった。
それから水木はゲーテの多彩な能力について語った。ゲーテは詩人や政治家として活躍する傍ら、植物学、動物学、医学、物理学、鉱物学など自然科学の研究も終生続けた。しかもそれは、人体解剖学で顎間骨を発見するなど、いずれも生半可なものではなかった。絵画、彫刻、建築に関しても造詣が深かった。
「ゲーテの色彩論ね、あれも当時はニュートンの色彩論が絶対の時代だったから全然認められなかったんです。でも、最近はそうでもないんです。ユングの人間が見るから、物は見える≠ニいう立場に立てば、確かに心理的なものが色に関係してるわけです。ゲーテが死んで百何十年もたってから、ゲーテの説の正しさが徐々に認められたんです」
ゲーテの色彩論の詳細は省略するが、戦後の『ゲーテとの対話』(岩波文庫)の訳者山下肇は、註釈の中でゲーテ説は「今日の専門科学も承認している」とし、「ゲーテは色彩の主観的生理学的解明をもってニュートンの客観的数学的なそれと戦ったわけである」と解説している。
「人間としてかなり大きな人なんですよ。簡単にはちょっと掴めないところがある。一つのことにこだわらなくて、非常に視野が広い。それでいて妙な信念を持っていて、断固としたところもある。ただちょっと、教育癖みたいなものがありますけどね」
「これまで僕が水木さんから聞いた言葉の中で一番多い引用は、『ゲーテとの対話』山下訳では、例の、(自分の人生は)たえず石を、繰り返し押し上げようとしながら、永遠に石を転がしていたようなものだった≠ナすよね。水木さんは、目の前の石を繰り返し持ち上げてるようなもの≠ニ覚えていたようですけど?」
「ああ、正しくはそうですか。何しろあの本は、戦後一度も読み返してないから、正確な言い回しではなかったかもしれません」
「あの一節は、シジフォスの神話のことですけど、ご存知でしたか?」
「知りません」
「じゃあ、カミュの本は?」
「知らないです」
水木がアルベール・カミュの『シーシュポス(シジフォス)の神話』を知らぬまま、この一節を常に自分の人生を検証する鏡としてきたことに、私は少し感動した。
エッカーマンが書き留めたゲーテの言葉の該当箇所は次のようなものである。
〈私は、いつも、みんなからことのほか幸運に恵まれた人間だと賞めそやされてきた。私だって愚痴などこぼしたくないし、自分の人生行路にけちをつけるつもりはさらさらない。しかし、実際はそれは苦労と仕事以外のなにものでもなかったのだよ。七十五年の生涯で、一月でもほんとうに愉快な気持で過ごした時などなかったと、いっていい。たえず石を、繰り返し押し上げようとしながら、永遠に石を転がしていたようなものだった〉
きわめて率直な心情吐露であり、ゲーテの人間味溢れる人柄を紹介する際にしばしば引用される箇所でもある。しかし、普通は、「幸運と言われた一生だが実際は苦労と仕事ばかり、楽しい時など一ヵ月もなかった」という部分のみが取り上げられ、ゲーテ自身がギリシャ神話から引用した最後の一行は省略されることが多い。
水木はこの前半部も一、二度口にしたことがあったが、やはり多いのは最後の一行だった。自分の行為や仕事を相対化して語る時、「ゲーテの言う、目の前の石を……」となるのである。
シジフォスはギリシャ神話に登場するコリントの王である。最高神ゼウスの怒りを買って地獄に落とされ、たえず転がり落ちる大石を山頂に押し上げる刑を科された。以来、無益で希望のない労働は恐ろしい懲罰の代表例と目されるようになった。
カミュは、ヨーロッパ世界で広く知られるこの神話をもとにして、一九四○年代に一つの哲学的主張を打ち出した。いわゆる不条理の哲学≠ナある。カミュは麓《ふもと》へと戻って行く途中のシジフォスに注目した。自分の存在の悲劇性を明確に意識しながら、それでも大石を拾いに麓へと降りて行くシジフォス。無力だが、しかしその目覚めた意識によって刑を科した神々に反抗し続ける「不条理の英雄」シジフォス。カミュは言う。
〈かれの運命はかれの手に属しているのだ。かれの岩はかれの持ち物なのだ〉
〈不条理な人間は、自分こそが自分の日々を支配するものだと知っている。人間が自分の生へと振向くこの微妙な瞬間に、シーシュポスは、自分の岩のほうへと戻りながら、あの相互につながりのない一連の行動が、かれ自身の運命となるのを、かれによって創りだされ、かれの記憶のまなざしのもとにひとつに結びつき、やがてはかれの死によって封印されるであろう運命と変るのを凝視しているのだ〉
〈頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに十分たりうるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ〉(清水徹訳『シーシュポスの神話』新潮文庫)
十八歳の水木が、上・中・下と三巻もある分厚い『ゲェテとの対話』の中で、特にシジフォスの神話の部分に目を止め、深く記憶し、(後年のカミュの論考も知らぬまま)五十年以上にわたって何度も何度も自分を振り返る鏡として使ってきたことは、よく考えると驚嘆すべきことだった。
「ゲーテのようにね、目の前の石を持ち上げるだけの愚かな真似はすまい、と思ったんです。最初はそうです。ところが実際には、石を持ち上げざるを得んのですよ、生活するためには」
水木は私の顔を覗き込むようにして言った。
「今、水木さんの前に横たわっているのは妖怪の問題ですけど、それが無意味な石なのかどうか、自分でもよくわからんのです。自分では、これは意味のある石だ≠ニ思って、一生懸命持ち上げたり降ろしたりしてるわけですけどね」
水木はいかにも水木らしいやり方でいつの間にか水木流不条理の哲学≠体得してしまったのではなかろうか、と私は思った。
「しかしね、ゲーテは尊敬ばかりできる男でもないんです」
今度は、にこやかに水木は微笑んだ。
「戦争が起こると自分の息子だけ戦場に出させまいとして、あれこれ工作したりね。晩年になって、詩作だけやっとればよかったとむやみに悔やんだりね。第一、エッカーマンに対して過酷でしょ? あれだけの仕事やらせときながら、給料も払わんのです。そのためにエッカーマンは、十何年も婚約者と結婚できんかったわけですからね」
ゲーテがエッカーマンに対して冷淡だったことは多くのゲーテ研究書が指摘している。
エッカーマンは無給の助手だった。ゲーテは、連日訪れるエッカーマンが貧困の中で自分との対話録を綴っていることを知っており、しかもそれが自分にとって最後の記念碑的な傑作になるのを予想していながら、正規の秘書として採用しようとはしなかった。
訳者の山下は、解説の中で述べている。
〈多少ともハイネ流の言い方を真似れば、老ゲーテの知恵は、(中略)善良なエッカーマン青年を巧みにそそのかして、「対話篇」という見事な遺産までつくりあげたのである〉
エッカーマンはゲーテの最晩年にようやく結婚できたが、出産には年を取りすぎていた新妻は最初の産褥《さんじよく》であっけなく死亡した。エッカーマンのその後は孤独で悲惨だった。『ゲーテとの対話』執筆が唯一の生きがいだった。
「だから、ゲーテの生き方をそっくり真似する必要はないわけです。面白そうなところだけ参考にすればいい」
水木は再び声を上げて笑った。
水木が神戸市兵庫区水木通りの賃貸アパートを多少の無理を押して買い取ったのは、「何となくワイマールのゲーテ邸に似ていたから」だった。水木はこれまでに一回だけ本格的な肖像画を描いたことがあるが、それはゲーテ像で、「水木荘の自分の部屋にしばらく飾っていた」と言う。
ゲーテはやはり、水木にとっては特別な人だった。「ゲーテに匹敵する面白い人物は、これまでいなかった」と断言する。
私は手塚治虫のことを考えてみた。
手塚もまた、十代の頃からゲーテに魅せられた一人だった。しかし手塚の場合、生涯脳裏を去らなかったのは、水木が若い頃「よくわからんかった」と言い、後に読んでも「あまり興味を感じなかった」という、世界文学の最高峰=wファウスト』である。
手塚は二十二歳の時すでに『ファウスト』を描き下ろしのマンガ単行本として出版している。四十三歳で、舞台を日本の戦国時代に移し変えた『百物語』を発表。六十歳で逝去する年には『ネオ・ファウスト』に挑んでおり、周知の通りこの作品が未完のうちに絶筆となった。
つまり、人間性の善と悪を究極まで追求したゲーテの作品に手塚は終始惹かれ、その種の作品を「セックスしたり」「珍しい鉱石を集めたり」「エッカーマンをうまくおだてたり」しながら書き進めていた人間ゲーテに、水木は強く惹かれたのである。
ゲーテは言っている。
〈私はこう勧めたい。何も無理じいをせぬことだ。何もできない日や時には、後になって楽しめないようなものを作ろうとするより、ぶらぶらして過ごしたり、寝て過ごす方がいい、と〉(『ゲーテとの対話』)
こうも言っている。
〈人間は高尚であればあるほど、超人間《デーモン》的な力の影響を受けやすい〉(同)
そして、こうも。
〈とくに才能に恵まれた人々には、高齢になってからも、なおかつ新鮮な、特別に生産的な時期が認められるものだ。そういう人たちには何度も一時的な若返りがやってくるように思える〉(同)
文豪ゲーテの生涯のモットーは、急がず、しかし休まず≠セった。
2
九月に入って私は鳥取県境港市の水木しげるロード≠再訪した。昨年(一九九二年)秋に訪れた時にはまだ道路自体を工事中だったし、この七月の除幕式には行けなかったからである。
水木しげるロード≠ヘ、JR境港駅から松ヶ枝町・大正町二つの商店街を貫く道路の歩道を拡幅、コミュニティ道路として整備して、歩道上に水木マンガの妖怪たちのブロンズ像三十七体を並べたものだ。ただし、七月にでき上がったのは全長四百四十メートルのうち松ヶ枝町側の二百六十メートルのみ、第一期工事分の二十三体である(大正町側の第二期工事は平成六年七月に完成。その後計画自体が拡大され、最終的には平成八年八月、全長八百メートルの舗道上に妖怪ブロンズ像八十体、妖怪レリーフ五基、絵タイル八枚が設置された)。
妖怪ブロンズ像の設置された松ヶ枝町商店街は前に訪れた時はかなりさびれた印象だったが、淡いピンクのカラー歩道に点々とブロンズ像が置かれ、並木や花壇も植え直されて見違えるほど洒落た通りに変身していた。人通り、車の往来、当然のことながらいずれも工事中より多く、それも活気を感じさせる一因だった。
妖怪像の出来は確かに悪くはなかった。水木が「思ったよりいいですよ。あれなら合格です」と言っていた通りだ。本体のブロンズ像は、鬼太郎≠ニねずみ男≠ェ人間大なのを除けば、あとはいずれも十センチから三十センチまでの小さなもので、形が奇怪でもグロテスクな圧迫感がない。加えて、水木が賞めていた石の台座がなかなかだった。一つ一つの八雲《やくも》産の長黒石《ながくろいし》(黒御影石の一種)は大きくどっしりとしていて、できる限り自然石の形状が残してあり、部分的に磨き上げられた艶のある黒御影の面と圧倒的な芥子色《からしいろ》の岩肌がほどよく調和している。全体として子供騙しの雰囲気はなく、妖怪をモチーフとしたオブジェ、多少ユーモラスなミニ彫刻群といった趣きなのだ。
しかし私は、本来なら二十三体あるブロンズ像のうちの十四体しか見ることができなかった。残り九体は、一体が盗難に遭い、七体が台座との接続ボルト強化のため取り外し中、もう一体は盗まれて戻ってきたもののまだ再設置されていなかった。
妖怪ブロンズ像は七月の設置以来ご難続きだった。七月末、八月下旬、九月初旬と三回にわたって計四体が盗まれ一体が傷つけられた。私が境港を訪れた日は、三回目の盗難事件の容疑者二人が逮捕された翌日で、宿泊先のホテルで前日の新聞を見ると、逮捕された二人の若い航空自衛官(対岸の美保関町の監視隊勤務)は「現場近くのスナックで閉店だと断わられ、腹が立ってやった」と供述していた。容疑者が反省し盗んだカシャボ¢怩持って出頭してきたこと、地元松ヶ枝町の自治会が「これ以上の盗難はたまらない」と夜間パトロール強化対策の会合を開いたこと、なども記事に載っていた。
もっとも、水木しげるロード≠サのものは、地元にとってマイナス効果よりプラス効果の方がはるかに大きかった。
市役所側の担当者の都市計画課計画係長黒目友則によれば、この夏休み中に水木しげるロード≠訪れた人は少なく見積もって約二万人。松ヶ枝町商店街では妖怪関連グッズのせんべい、ミニ下駄、妖怪カード、バッジ、キーホルダーなどがどこも品切れ状態で、ある店では「嫁にきてからこんな大勢のお客さん見たことない」という「嬉しい悲鳴」を聞いたという。これからはキャラクターTシャツやまんじゅうなど、より幅広い品揃えに加え、駐車場や公衆トイレなどの整備が早急に必要になってくるとのことだった。
除幕式の模様は全国ネットの各テレビ局のニュースで紹介された、市が用意した鬼太郎の絵入り官製ハガキはたちまち売り切れた、地元自治会は早速『鬼太郎音頭』の歌と踊りを披露した、九月下旬からは車輛に鬼太郎や妖怪たちの絵を描いた鬼太郎列車もJR境線を走る……。鬼太郎に逢えるまち≠キャッチフレーズに、前代未聞の妖怪たちによる町づくりをはかった境港市長黒見哲夫のもくろみは、少なくともこれまでのところ成功裡に進んでいると言わざるを得なかった。
その黒見市長は頬を緩めて私に言った。
「予想以上の大きな反響でした。自分の手で妖怪に触れる。これがいいんでしょうね。町起こしにはある意味で遊び心も必要なんだと、今回改めて思いましたよ」
市長と都市計画課の話では、十二月の定例市議会での決定を待って、平成六年から水木しげる記念館(仮称)の建設計画を練る予定だった。鬼太郎の家や資料館など何棟かの建物を併設し、ゆくゆくは水木しげるランド風の施設に拡大したい意向なのだ。
計画段階までは商店街をはじめ市内各層で「妖怪なんて気味が悪い」「逆効果になる」と反対意見が多かったらしいが、いまや妖怪マンガ家の故郷はこぞって妖怪ブームに沸き返っているといっても過言ではない。
これに対して水木は、境港市内で販売される妖怪関連商品の著作権料を全額市に寄付するという形で応えていた。水木は以前から、「ロードの商品の著作権料は市のために使ってほしい」と語っていたが、この九月一日から正式に、境港市内で販売される関連商品の著作権料(販売価格の三パーセント)の管理・運用が境港市観光協会(黒見哲夫会長)に委託されることになったのだ。観光協会はいずれ基金として積み立て、水木しげるロード≠フ運営などにあてる方針だという。
私は境港を訪れる数日前に水木プロを訪ね、予定されている記念館や付属の建物についての水木の考えを聞いてみた。というのも、半ば以上完成している水木しげるロード≠ヘともかく、記念館や資料館が世界妖怪博物館風のものになる(平成5年9月3日付の朝日新聞夕刊で水木はそう述べていた)なら、それは調布市が検討している「世界の妖怪を集めた水木ワールドのような建物」と重複するからだ。
水木が調布市民になってすでに三十三年である。故郷境港で過ごした年数よりずっと長い。水木は調布市主催の講演会や原画展を幾度となく引き受け、著作も調布市に多数寄贈してきた。平成七年(一九九五年)の秋には生涯学習センターとして文化プラザが建設されるが、その市立図書館内には水木作品の特別コーナーが設けられる予定だった。そして、その次の構想として水木の世界妖怪博物館(仮称)の新設が控えている。
水木の長年の妖怪研究に「文化的意義を認めている」行政側の企画推進者が、元の調布市立中央図書館長で現在参与の金澤|敬《たかし》だった。
「水木さんとは二十数年前からの付き合いですが、付き合うほどに奥深く、ただ者じゃないとわかってきました。私の好きな『妖怪事典』にしろ、民俗学的な根拠がしっかりしてるところがすごい。そういう世界を広く知ってもらい、大人も子供も楽しんでもらうには、やはり妖怪博物館のようなものがふさわしいと思うんです。予算や土地の問題がありますが、できれば駅の近くで、独立館で、四、五階建てが望ましい」
金澤は、「境港と似たようなもので競合することは避けたい」としながらも、文化プラザができあがってから水木と協議に入りたいと語っていた。
「熱意と予算です」
水木は簡潔に答えた。
「人口から言えば調布を選ぶべきです。しかし調布はまだまだ先の話だし態勢も整ってない。その点境港は燃えていてすぐに実行に移す気配です。そうなると、あとは予算です。予算がどれくらいあるかによって、境でできることもあるし、調布でできることもある。水木さんはそれをいま、じっと観察しとるんです」
慎重にして賢明な考えだった。それから水木は、「私に五億、十億任せてくれれば、どんな博物館でも作ってみせますよ」と言い、嬉しそうに笑ってみせたのだった。
私は水木しげるロード≠ゆっくりと往復した。鬼太郎≠フ座像の前を通るとセンサーが感知し『ゲゲゲの鬼太郎』の曲が流れる。それだけはあまり感心しなかったのだが、幼い子供たちにとっては面白いものなのか、彼らは何度も鬼太郎≠フ前を通り過ぎる。
「楽しかった?」
若い母親が四、五歳の男の子に聞いていた。
「うん、また最初から見よ! ね、もう一回最初から!」
半ズボンの男の子は、困った表情の母親の手をグイグイと引っ張って行く。
石の穴の中に据えられた倉ぼっこ≠フ足許や、目玉親父≠フ椀、小豆洗い≠フたらいの中に硬貨がたくさん置いてあった。見物客が賽銭《さいせん》代わりに置いて行ったものだ……。
子供時代の水木の頭に浮かんでいたものは単なる幻想と言ってよかった。しかし数十年たって「目に見えないものを形にした」時、それは、子供にとっても大人にとっても町の貌《かお》=A一つの確固とした文化環境になっていた。
入船町の海岸通りにある水木の実家近くを私は歩いていた。
コンクリートの岸壁には、前回と同様、数隻の中型イカ釣り船が係留してあった。流れの速い幅三百メートルほどの境水道を挟んで、向かい側に緑の鬱蒼《うつそう》とした島根半島が衝立《ついたて》のように横たわっている。
境水道は水木が釣りをしたりカニを獲ったり、小学校三年生の時から対岸に泳いで渡ったりした遊び場だった。樹木の密生する島根半島の山々は、水木がのんのんばあから狐の嫁入りがあると聞かされた神秘の場所。山の裏側(日本海側)にのんのんばあと一緒に行った諸喰《もろくい》があり、道中水木は川赤子≠竍野寺坊∞白うねり≠ネど、六十七、八年たった今も覚えている妖怪の話を聞かされた。
海に面した水木の実家の裏庭には一本の楠《くすのき》があった。幹の回りがひと抱えもあり二階建ての屋根を見下ろすような大木だが、これは水木が島根半島の山から採ってきて植えた時には人の背丈ほどの木だった。その楠の枝が覆い被さっている瓦屋根の二階家が、最近水木が増築した建物で、二階部分が海と山を望むアトリエになっている。
「マンガ家を引退したら、境港に帰って油絵を描きたいんです。海や山や船を描いて油絵|三昧《ざんまい》の生活を送りたいんですよ」
水木がよく言う台詞《せりふ》である。少年時代のように故郷の風景を描いて、余生を過ごしたいというのだ。妻の布枝は何年も前からそれを勧めていた。だが、信じてはいない。「どうせあの人は死ぬまで仕事仕事ですよ」……。
二階のアトリエは、海を向いた北側と西側に大きくガラス窓が取ってあるが、水木がたまに帰郷した時そこから外を眺めるだけでふだんは雨戸が閉めてあり、この日もそうだった。主のいないアトリエの建物はひっそりとたたずんでいた。
私はそのまま海岸通りを歩き、水木の実家から百メートルほど離れた景山米穀店まで行った。景山米穀店の当主景山賞一は、『のんのんばあとオレ』の中に正たん≠ニして登場している水木の小学校時代の友人である。
米穀店といっても米だけでなく酒や煙草、日用雑貨も扱っていて、港町の古風な雑貨店に近かった。景山は奥の部屋へと私を案内した。ガラス戸越しにみごとな日本庭園の見える部屋で、囲炉裏《いろり》が切ってあり、水木も帰ってきた時にはよく訪れる部屋だという。
「ゲゲやんの絵は由木《ゆうき》先生ががいに(非常に)驚かれましてね、こういう絵を描かにゃいけん′セわれーだが、こっちは胸糞悪くてね」
景山の話はやはり水木の絵のことから始まった。七十歳を越した水木の友人たちの話を聞いて回ると、誰もが真っ先に語るのは、水木の特殊な絵の才能のこととスポーツ抜群の運動能力のことだった。
「何しろあんた、色も線も私らと全然違いますだけん。空の色を真っ赤に塗ったりしますけんな、ゲゲやんは。お前は色盲だ!≠チて私らゲゲやんに言うおた(言っておった)ですよ。常識ってもんからかけ離れとったですけんね」
当時境小学校教頭だった由木末雄が画家であり、成績はよくないが才能を感じさせる絵を描く水木に注目し励ましたことは、やむなく貸本マンガ家になるまで東京美術学校入学に執着し続けた水木の軌跡を振り返ると、かなり重要なことだったのかもしれない。
小学校時代を通じて同級生だった池淵雪《いけぶちゆき》は、由木が「子供の絵とは思われん!」と水木の絵に感嘆したことを覚えていた。水木は、由木の尽力で高等小学校一年の時に個展を開催し、新聞の地方面に少年天才画家あらはる!!≠ニ写真入りで掲載された。気をよくして『天昆《てんこん》童画集』(昆《ヽ》虫の生活を天《ヽ》国と思っていた)や『茂鉄《もてつ》似顔絵集』(鉄《ヽ》のように強い茂《ヽ》に憧れていた)を作ったのもその頃である。
水木は陸上競技や水泳も得意で、毎年台場公園で開催される五ヵ町村対抗の小学校連合体育大会の常連選手だった。昭和十年(一九三五年)の夏には、淀江《よどえ》町で開かれた県の水泳大会に学校代表チームの一員として出場した。
しかし私は、自伝やエッセイでも触れられている絵やスポーツのことより、旧友たちの記憶にある「あの頃のゲゲやん」の初めて聞くエピソードの方に興味をそそられた。
景山は夏の夜の肝試《きもだめ》しを覚えていた。
「真っ暗な墓地に、順番で一人ずつ行って、行った証拠に何か品物を取ってくーですわ。私ら恐いですけんね、せいぜい端っこの塔婆《とうば》を引き抜いてくーぐらいのもんです。ところがゲゲやんは、湯呑みですよ、あの小さい湯呑み。あれは、仏さんの社《やしろ》の奥に手を突っ込まんと取れんですけん。死んだばっかりの仏さんの社ですよ! みんな仰天ですわ」
景山は水木の大胆な行動力に感心したが、一学年上級(水木は一年遅く入学したので同年齢)の豊田省一は、水木の奔放な無邪気さに唖然としたことがあった。
「隣町の外江《とのえ》で武良やつと泳いだことがあーましただ。わしらはパンツはいちょーましたが、武良は汚れーとお母ちゃんに怒られる≠トーで、スッポンポンですわ。そこへ、遊びにきとったのか、二級下の境の女子が何人か通りかかりましてな。わしら十二、三の時ですけん、多少は色気付いちょーもんで、パッと石垣に隠れたですわ。恥ずかしけん。でも武良だけは平気で泳いじょーますだ、素っ裸で。あげなことは何ともないようでしたな、あの男は」
数年前にテレビ・ディレクターの加藤が、ホテルの部屋で裸で応対した水木にびっくりした、という話を彷佛とさせる逸話だった。
水木のクラスのマドンナ的存在だった池淵は、ふだん学級内でふざけたり道化役を演じたりして教師に叱られてばかりいた水木が、時として異様に真剣な表情を見せることがあったのを忘れられない。
「お寺でお葬式があると、そーれん(葬※[#「歹+僉」、unicode6bae])見に行かい≠チてよく友達と見物に行ったもんです。すると、必ず武良さんが先にきとられるんです。武良さんの見物場所は決まっていて、いつも本堂に向かって右手の角のところ。葬式が始まると、ほんに一生懸命見ておられる。私たちは途中で帰るんですが、武良さんは最初から最後までいつも真剣に見物されてました。今でもその姿は目に焼きついております」
水木の旺盛な好奇心は、早い段階から観察力に裏打ちされていたようだった。
さて、妖怪である。前回きた時は、ダグラスの安≠アと宮本安夫の話や水木の兄宗平の回想から、当時の子供たちには水木に匹敵する妖怪体験がほとんどないことがわかった。
しかし正確に言えば、体験自体がなかったわけではない。暗い夜道を歩いていて誰かがつけてくるように感じたり、母屋から離れた便所に一人で行く時に何か恐いものが出てこないかと怯《おび》えたり、天井のシミを眺めているうち次々と妄想が湧いてきたりと、同時代者としての恐怖体験そのものは個々にあったのである。けれども、そうした怪異現象を妖怪の仕業《しわざ》と断定し、その名前を教え、一つ一つ解釈してくれるのんのんばあのような人物が近くにいなかったのだ(いても、宗平のように信用しなかった)。
水木と同級生の福田和夫の家(天理教会)には、のんのんばあのような老婆が住み込みで働いていた。老婆は幼年時代の福田に、寝物語でよく恐い話を聞かせたという。
「普通はとんと昔があったげな……≠ニいう昔話ですが、寝つきが悪いとお化けや幽霊の話で脅《おど》して早く寝かせようとするわけです。ウチの近くの大柳の前に幽霊が出る話や、下ノ川に河童が棲んでる話はその婆さんから聞きました。私は信じてましたから恐かったですね。でも、狐が化かす話や猫又ぐらいまでは覚えてますけど、それ以上の細かい妖怪変化の分類というのはどうも……」
今回、旧友たちに確かめてみても、狐や狐憑き、あるいは境町と上道《あがりみち》町の間を流れている下ノ川(現在は暗渠《あんきよ》)に棲んでいたという河童を除いては、これといった妖怪の名前は出てこなかった。幽霊以外の大半の怪異現象は狐の悪戯《いたずら》と見做されていたのである。
事情は現代でも同様だった。例えば、今年四十四歳になる市役所都市計画課の黒目は、小学校入学前に祖母からたびたび狐の話を聞かされた。雨の日に野外を歩いていると後ろでペタペタ足音がするが振り返ってみると誰もいない、祖母によればそれは狐が騙したのだという。下ノ川の近くに行くといろいろ不思議な出来事に出遭う、狐が棲んでいるせいだ、と。
豊田が笑いながら言ったものだ。
「お化けや幽霊のことは、武良だけがよう言っとりました。真顔で、なんと、ゆうべお化けが出てきてなー≠チて。誰も本気にする者はおらせんですわ。武良はいっつも人を笑わすよなことばっかり言っとりましたけん」
結局水木は、絵と体操は得意だが勉強の方はあまり得意ではない、気さくでひょうきんな変わり者の少年、と思われていたようだった。
少年時代の思い出を記した『のんのんばあとオレ』を読むと、各種の遊びと妖怪のこと以外は、朝から晩までケンカに明け暮れていたように思える。だが、池淵には水木が乱暴者だったという印象はないし、豊田は「武良のケンカしとるの見たことない」。景山は近所のケンカ仲間で、実際に水木の兄の宗平の投げた石の傷跡が眉間に残っているが、一緒に隣町へケンカ遠征に出たことなどは覚えていても、水木がケンカの場面で特に目立っていたという記憶はない。
宮本が認める通り、水木はケンカが強く、高等小学校二年の時には地区のガキ大将になった。それは事実である。が、人々にガキ大将としての武勇伝や荒っぽいイメージが残っていないのはなぜか。私は『のんのんばあとオレ』を読み返してみて、水木がガキ大将の地位を過大に評価していたからではないかと思った。
水木は本の中で繰り返し書いている。
〈オレは五歳ぐらいで正やん(当時のガキ大将)に声をかけられたから、それだけでも感激だった〉
〈オレはガキ大将というのは総理大臣のつぎぐらいにえらいように見えて、父母よりはるかに上の人だと思っていた〉
〈ガキ大将圏どうしの関係は、国と国との関係とよく似ていた〉
〈民の好むところを察知し、あるていどの自由を認めるようなガキ大将は人望があり……〉
〈ガキ大将は一銭の金も使わずにおもしろい遊びを指導し、ガキどもを満足させなければならない〉
〈オレは新ガキ大将としての壮挙をやって大ガキ大将になろうと……〉
幼い水木は純粋にガキ大将に憧れ尊敬していた。だから、晴れてガキ軍団の一員となり中堅となり幹部となってからは、軽率な行動は慎しみ、将来に備えてガキ大将の役割を探り、軍団相互の組織力学を研究した。弱い者いじめはしなかったし粗暴でもなかった。
そしてついに念願のガキ大将になった時、肝腎の集合場所であるノコクソ場はとうに閉鎖され、部下も敵も上級学校進学ブームのせいで四散し、子供世界のガキ大将圏そのものにもはや昔日の面影はなかったのである。
後に残ったのは、誰もが一時的なものだと思い気にもとめなかった昭和初期の境町北東部の子供たちのケンカごっこを、克明かつ詳細に「ひつこく」脳裏に刻んでいた水木の(幻の?)ガキ帝国の歴史≠ニいう記憶だけだった、のではないだろうか。
学校で冗談ばかり言っている少年が、手相判断で「早死にする恐怖に怯えていた」ことは誰も知らなかった(生命線が二十歳ぐらいのところで跡切れていた)。
将来のガキ大将を目指している少年が、流行遅れとなったさまざまな品物を蒐集し続けていたことも、ほとんど知られていない。
女子生徒の前で裸になって平気だった少年は、実は女性にやさしく、可愛い女の子の顔をまともに見ることもできないくらい恥ずかしがり屋だった。
「お化けが出た」と真顔で言った少年は、心の底からお化けや妖怪の存在を信じ、本当に前日の夜お化けを感じていたのだ。
なるほど幼少年時代の水木は、単純に強いものに憧れ、好きなことに没頭していた。しかしその内面は、すでにして相当に複雑で、外に現われる行動は矛盾に満ちていたのである。
当然、変わり者だったろう。
変わり者といえば、旧友たちが知っている水木の両親もかなりの変人夫婦だった。
池淵は昭和十七年の結婚後、夫(かつてのガキ大将の正やん=jに、「武良さんのお父さんは、何しておいでーだろうか?」と尋ねたことがあった。子供の頃から十数年見てきても、水木の父親武良亮一の職業がわからなかったのだ。没落したとはいえ明治時代の廻船問屋の御曹司で、生活のために努力することを嫌う飄々《ひようひよう》とした人物だった。
豊田は、親しくしていた〈ゆみはま民生新聞〉の主幹土肥操六を通して父親亮一を知っていた。亮一がしょっちゅう土肥のもとに立ち寄り水木のことを話していたからだ。
亮一は「二番目の茂だけは知恵遅れでさっぱりですわ」とよく嘆いていた。「すぐ仕事を辞める」と愚痴をこぼしたこともあれば「南方で負傷してなー」と顔を曇らせたこともあった。が、やがて「紙芝居で成功しちょーだ」になり、水木が傷病恩給を手つかずで送ってくるようになると「なんと一番いけんと思った息子に養われちょーだけん」と笑顔になった。
「マンガ家になってからも地元の新聞や放送局に、何で茂を取り上げてくれん!≠チて盛んに要望されーおた。いったん世に出た武良を有名にするについては、ほんに一生懸命でしたわ」
父親亮一は教育パパならぬ奇妙な応援団パパだったのだ。
一方、水木の母親琴江に関しては、「しっかりした人」ないしは「きつい人」という評が多かった。性格が勝気だったのである。
典型的なエピソードは昭和十八年の防空演習だった。演習は一軒残らず参加するのが当たり前だったが、琴江は、「どうせ勝ち目のない戦争だに、何がそんな、バケツ・リレーなんか!」と言い放って参加を拒否した。一億一心≠フ戦時中である。おまけに、同じ町内には※[#歌記号、unicode303d]見よ東海の空明けて、の『愛国行進曲』作詞者森川幸雄の家がある。琴江の発言は町内で反感を買い、「武良の家に焼夷弾が落ちたぞ、それ!」……バケツ・リレーの水や砂をかける標的にされたのである。
当時の価値観からすれば変わり者の夫婦ということになるのだろうが、現在の言葉で言えば際立った個性の夫婦であり、その両親から両親以上の強烈な個性を受け継いだのが、三人兄弟の次男坊の水木だった。
3
〈のんのんばあは夫の「拝み手」とよばれるじいさんとふたりいっしょに、オレの家から一○○メートルほどはなれた、小さな道の奥にある、四畳半二間の家に住んでいた。拝み手というのは拝んで病気をなおす人という意味で、病人を救う仏様である薬師如来の代理人ということである。のんのんばあは、その代理人に仕えているというわけだ〉(『のんのんばあとオレ』)
私は高岡|由久《よしひさ》の家を出ると、のんのんばあがかつて住んでいたという家の前に立った。
水木は『昭和史第1巻』でもマンガ版『のんのんばあとオレ(1)』(講談社)でも、のんのんばあの家を藁葺《わらぶ》き平屋の、畑に面した小さなボロ家として描いている。だが、現在そこには、茶色のカラー・トタン張りの真新しい二階家が建っていた。玄関の出入り口も以前の畑側とは真反対の路地側にあり、カラー・サッシュのガラス戸がはめこまれている。現在は高岡家が船具や漁具の倉庫に使っているのだ。
前回、約十ヵ月前に水木と一緒に訪れた時は、新しい二階家の周辺でキョロキョロしていると高岡に声をかけられ、路地を狭んだ向かい側の自宅に案内された。その時の高岡の話では、七、八年前に買い取ったのだが数年間は誰も住んでおらず廃屋同然であり、前年(一九九一年)の台風で屋根が壊れて三ヵ月前に建て直したばかり、とのことだった。もとの持ち主は水木の実家から三軒西隣の永田石材店、昭和二十年代に死亡した永田の先妻の連れ子の家族がそれまで住んでいた家だという(先妻の連れ子は水木の同級生で水木もよく知っていた)。
その時私は、五十五歳の高岡は高岡の生まれる前に死んでいたのんのんばあに関して何も知らないことがわかったので、それ以上聞かなかった。しかし今回、「のんのんばあは酒好きで焼酎買いに行ってたから、賞たんなら知っとるかもしれない」と水木が言っていた景山賞一がほとんどのんのんばあを知らず(武良家に出入りしていた老婆が現高岡家の倉庫あたりに住んでいた事実しか知らなかった)、他の旧友たちにはまったく記憶がなかったことから、一縷《いちる》の望みを再び高岡に託して訪ねてみたのだった。
けれども結果は同じだった。高岡には、市内誠道町に暮らす満九十歳の母親あさを紹介され、会いに行ったが、昭和三十一年まで朝日町にいたというあさは入船町界隈のことに詳しくなかった。あさは、昭和三十七年に病没した姑からのんのんばあの家付近を通りかかった時、「ここはお大師(拝み手)さんがおられただよ」と言われたことがあった……。それだけである。
約六十年前、山陰の港町の路地裏に(ほんの数年間?)住んでいた貧しく信心深い老婆のことなど、誰も覚えていなかった。
私は、のんのんばあの素姓探しは今回もやむなく中断し、市役所に隣接した境港市民図書館に郷土史家の館長畠中弘を訪ねることにした。のんのんばあ個人について不明でも、せめてその背景ぐらいはと思ったのである。
私が気になっていたのは拝み手≠ニいう存在だった。
水木はのんのんばあの夫が拝み手≠セったと書いている(『ねぼけ人生』でもそう書いている)。しかし、水木の言うように夫が一畑薬師の熱心な信者だとしたら、拝み手≠ナあったはずはないのである。
拝み手≠ヘ、確かに「拝んで病気を治す人」、つまりそれによって報酬を得る民間の祈祷師である。けれども、一畑薬師教団の信徒は祈祷師めいた活動は行なわない。
島根県平田市小境町の医王山一畑寺は、中国地方を中心に全国五十余りの分院を持つ一畑薬師教団の本山で、独立した一つの宗派を形成している。寛平六年(八九四年)、近くの坂村の漁師与市が海中から薬師如来を引き上げ祀ったのが始まりで、与市の母親の眼病が治ったことから目のお薬師さん≠ニして広く知られている。本堂裏の原始林に湧き出る清水で一畑(番号を付した古来よりの薬草畑)で採れた茶の葉を煎じたお茶湯≠ヘ、眼病を筆頭に諸病を平癒するとされ、参詣した信者たちはこぞって一畑寺特製の瓶に入れたこのお茶湯≠持ち帰る。
水木も、「万病にきくという」「番茶の煮だしたようなもの」がのんのんばあの家の祭壇中央に置かれていたことを記述している。が、「じっさいには、お客が来たのを見たことはほとんどなかった」し、老夫婦は「一軒一軒、巡礼みたいなかっこうで米をもらいに歩いていた」だけだった。拝み手≠轤オきことを何一つやっていないのである。
これはどういうことなのか。私は、島根県まで足を伸ばした時、地元の郷土史家で島根県立島根女子短期大学の教授藤岡大拙に尋ねてみたことがあった。藤岡は言った。
「一畑薬師信仰というのは、病気一般というより眼病に特化しています。昔からそうです。一畑灯籠と呼ばれる灯籠を出雲地方を中心に各地に立て、そこを信仰の場としてますが、布教活動は一等二等など等級のある各地の信徒が担当しています。彼らは輪袈裟《わげさ》を首にかけて御詠歌など歌いながら家々を回ります。中には、米や金をお布施《ふせ》として渡す家もありますが、それが目的ではなく、あくまで信者を増やすための布教活動です。彼らが、報酬を得るために何か特別の祈祷を行なうというのは、ちょっと考えられません」
藤岡が、民間の祈祷師ないしは拝み手≠ニしてすぐに思い浮かべることができるのは、出雲地方に根強い狐憑きに関わる修験者たちだという。
「憑き物信仰というのは、出雲では江戸中期に顕在化します。というのも、その頃に商品経済が急速に発達し、綿、菜種油、染物などの新商品で財産を築く新興成金が出現し、それまでの地主・小作人という安定した社会秩序を脅《おびや》かし始めるからです。旧勢力は新勢力の勃興を恐れ、妬み、あそこの財産は狐がくわえてきたものだ。現に自分は狐が走って出るのを見た≠ネどと言い出す。その新旧勢力の対立を利用して、狐の霊を憑けたり落としたり、マッチポンプの役目を果たして勢力を拡大したのが修験道の山伏たちです。彼らは松江藩に弾圧されましたが、一部はしぶとく生き残り、狐憑き信仰は彼らを通して広く出雲の庶民層に浸透しました。結婚の差別など今なお残っているところがあります。この俗信は、隣の伯耆《ほうき》でいえば弓浜《きゆうひん》半島にまで広がっています」
ということだった。
果たして、弓ヶ浜半島突端にある境港の拝み手≠ニはどういう人々だったのか。
境港市民図書館館長の畠中の返答も、「やはり修験者たちです」というものだった。
「境港の場合、対岸の島根半島の枕木山系と奈良県吉野の大峰山系の二つの系統の修験者たちが終戦後まで活動しており、彼らが拝み手さん≠ニ呼ばれておりました。拝み手さん≠ヘ、狐や蛇の霊を憑けたり落としたりするばかりでなく、病気や苦痛を祈祷によって取り除いてくれるため、戦前の一般庶民にとっては医者よりも身近な存在だったのです」
応仁の乱から戦国時代にかけて今日の境港を含む西伯耆地方は幾度か戦場となり、境港市内にはその頃の戦死者を弔《とむら》った塚さん=i古い供養塔)が多い。屋敷の内外に点在し総数は二百基を越す。子供たちが塚さん≠ノ小便をかけると発熱するといわれ、その熱を下げる時にも拝み手≠ノ頼んだ。
畠中は、「実は、私の死んだ兄も狐が憑いて拝み手さん≠ノ拝んでもらったことがあるんです」と言った。昭和十七年、畠中が小学生の時で、畠中より五歳年長の兄正は旧制中学の日野農林学校の生徒だったという。
「寮生活をしていた兄が戻ってきて、勉強してると頭が痛くなって死にたくなる≠ニ言うんです。母親はびっくりして、近所の人も狐が憑いたらしいと言うので、拝み手さん≠ノ頼むことにしたんです」
いったん寮に帰った兄に身につけていた肌着を送って寄越させた。やってきた拝み手≠ヘ境町の隣の外江村の大峰山系の修験者だった。肌着を前に拝み手≠ヘ護摩《ごま》を焚いて祈祷をし、その肌着を海に流した。すると、ちょうどその頃、寮では兄の両眉の上がにわかに膨らみ、兄は友人に言われて鏡を見た。
それが狐の霊の逃げた合図だったのかどうか、とにかくそれで頭痛は治ったという。
除霊は、行者一人のもの女性に憑依《ひようい》させるもの集団で行なうものと、各種あった。境港には狐憑きに限らず、狐の話自体が多かった。明治時代には町の西外れの法正原《ほうしようばら》に棲みついていた女狐がよく人を騙し、ホショバのお種≠ニ呼ばれて有名だった。畠中は昭和三十年代にも、「狐に化かされ道に迷った。やっと家に帰ると、後ろの帯の上に足跡と砂がついていた」と老人が語るのを聞いたことがあった。
「ようするに、わけのわからぬ出来事はたいてい狐のせいとされていたわけです」
畠中の結論は、水木の旧友たちの話してくれた子供時代のお化け話、あるいは戦後になって市役所の黒目が祖母から聞かされたという寝物語などと合致していた。
しかしもちろん、だからといって境港における狐の特殊性を水木が知らなかったわけではない。水木は島根半島へ遊びに行った小学校三年の時、山中で一人の怪しげな老人と出会って、「これは化けギツネだ」と直感した。日頃のんのんばあから聞いていた人を騙す狐の話をすぐに思い出したからだ。また、夜道を歩いていて下駄の足音に後をつけられた時も、「キツネが出た」とのんのんばあに報告している。友人たちと同様、奇怪なことをまず狐と結びつけようとする習慣があったのだ。そして、『のんのんばあとオレ』では触れてないが、『ねぼけ人生』ではハッキリと狐憑きについて言及している。
〈町角などでは、何かに食べさせるかのように、油揚げとめしがわらの上にのせてあるのを見かける。一体誰に食べさせるのかと、のんのんばあに聞くと、「人に憑いた狐をおびき出すためだ」という。「狐が人に憑く」と聞いて、おどろきはさらに大きくなる。山陰地方では、昔から、狐憑きなどの憑きものの迷信があったから、それと入りまじって、人間の目に見えない所には別の世界があるように、子供心に感じていたのだ〉
水木の場合、狐憑きの俗信の根強い土地で幼少年時代を過ごしながら、たまたま本物の拝み手≠フ憑依や除霊や加持祈祷を直接体験する機会がなかったのだろう。その一方で、のんのんばあはさまざまな妖怪の名前を次々に教えてくれたから、狐の占める位置は相対的に低下したはずである。ガキ大将の牛耳る子供社会への積極的な関わりや、各種珍奇な品々の情熱的蒐集も、狐をさほど特別視しないことに役立ったと思われる。
そして水木は十五歳で高等小学校を卒業するやいなや故郷を離れた。地域社会の古い因習に染まる前に、記憶が結晶化した……。
ところで、畠中は、境港と狐との関わりは大山《だいせん》(海抜1729メートル)の狐信仰に溯ることができると思われるので、江戸中期よりもっと古いのではないか、と言い、一枚のコピーを持ってきた。畠中が編集に携わった『伯耆、出雲郷土史跡めぐり』(鳥取県立米子図書館)の中の一ページで、元禄二年(一六八九年)刊の『本朝故事因縁集』の一節が掲載されていた。
〈伯耆国大仙は智明権現なり。使者と云《いい》て横山狐という野狐あり。万《よろず》の事|此《この》狐を頼て事を成就す。盗人にあう者は権現の神主に願を頼む時に神主この横山狐の教に任せ給《たま》えと云。則《すなわち》狐出て道しるべして彼盗人の家へつれて行(後略)〉
「つまり、盗難に遭った時に泥棒の家を教えてくれる霊験あらたかな野狐がいたということですね。大山の末社の下山神社の拝殿の下には、まだ穴があります。したぐらさん≠ニいう神のお使いの狐が棲みついていて、今でも人に憑くことができるそうです」
伯耆(鳥取県西部)と狐の因縁はかなり深いものがあったらしいのである。
それからひとしきり、私と畠中は、そうした風土が水木の描く妖怪作品にどのくらい影響を及ぼしているか、について話し合った。二人とも、狐憑きのような民間呪術の影響がほとんど見られない、と思っている点では一致していた。畠中は水木作品に、もっと根源的な、古いものと新しいものとの混在を感じると言う。
「境港自体、とても古いし新しいんです。縄文時代の遺跡が発掘される非常に古い土地でありながら、集落らしい集落となったのはせいぜい三百年前、本格的な発展は幕末以降と非常に新しい町でもあります」
なるほど、『境港市史』などを見ると、市内西灘遺跡から約六千年前の縄文土器片が多数発見されている。弓ヶ浜半島(夜見浜《よみがはま》半島とも呼ぶ)は日野川の流砂の堆積によってできた一大砂洲だが、平安時代の中頃までは北部の境港を中心とした細長い島で、夜見《よみ》島と呼ばれていた。『出雲国風土記』(七三三年)の国引き神話で、大山を杭にして島根半島美保関の地塊を引き寄せた綱というのが、この夜見島である。また、『古事記』(七一二年)で、伊邪那岐命《いざなぎのみこと》が死んだ妻|伊邪那美命《いざなみのみこと》を訪ねた黄泉国《よみのくに》というのも、一説によれば夜見島とされている。大変に、古い。
その一方、地域の大部分が砂地で水田が少なく、畑作も容易でないところから開発はなかなか進まなかった。綿花栽培が始まって開拓の時代が訪れたのが十七世紀後半、鳥取藩の海運施設が次々と開設され港町としてようやく繁栄の兆《きざ》しを見せはじめたのは、江戸時代も末近い十九世紀の半ば頃のことだ。
「物《もの》の怪《け》と呼ばれていた妖怪の存在そのものはきわめて古い。でもその表現方法が、弓浜《きゆうひん》半島の砂の如くというか、透明でサラッとしている。決してドロドロしてないんです。しかも水木さんは、これも境港の人間の一特性ですけど、進取の気性に富んでいる」
畠中によれば、稲作に不向きな砂地に対して、境港の人々は近世以来果敢に挑戦してきた。最初は綿作、次に甘薯《かんしよ》(さつま芋)、いずれも伯耆では最初の移入である。明治に入ると桑畑を拡大して中国地方最大の養蚕地域となり、やがて化学繊維が台頭すると葉タバコに切り換えた。現在は特産の伯州ネギやトマト、ピーマンのハウス栽培が主流である。
私は畠中の話を聞いていて、境港に海外移住者が特に多いことを思い出した。『境港市史』には約五十ページにわたって海外移住≠フ一章が設けてあり、それによると、明治以降の北米・アジア各地への海外移住者の多さは「鳥取県内にその比を見ない」という。昭和五十二年の米国カリフォルニア州南部の鳥取県人会でいえば、会員の約八○パーセントが弓ヶ浜半島出身者であり、その半数以上が境港市出身である。農地の少なさや貧しさもあるが、港町として発達してきたため「開放的な気風が大きく影響している」というのだ。
「水木さんは、古い宿命的なものを、砂地に水をやって作物を育てるようなすごい努力をして、新しい、価値あるものに作り変えた。それが水木マンガの妖怪だと思うんです。明るいでしょ、あの妖怪たち? あれはやはり、境港から生まれたものだと思いますよ」
私の脳裏にある自分の故郷境港のイメージも、青い海と白い砂浜、古い町並と風に鳴る黒松の林、そして市内いたるところにある乾いた小さな墓地と町の外に広がる真っ平な砂地の畑だった。全国有数の水産基地なので港の周辺にそれなりの活気はあるが、港町特有の猥雑さは稀薄で、全体に簡素で明るい印象なのだ。
畠中の解釈は、頷けないものではなかった。
この九月の境港訪問には後日談がある。
境港から帰って数日後、調布の水木プロを訪ねて水木に取材旅行の報告をし始めた時、突然水木が言ったのである。
「のんのんばあの名前がわかりましたよ。景山ふさっていうんです。二、三日前にお袋に聞いてわかったんです。景山ふさです」
私は少なからず驚いた。
景山ふさという名前にではなく、のんのんばあの本名が判明して本当に心から喜んでいるらしい水木の様子に、驚いたのである。
実は、景山ふさという名前をその前日に私は知っていた。水木関係の資料を読み返していた時、『別冊新評水木しげるの世界=x(昭和55年秋季号)の巻末の年譜の中に景山ふさの名を発見した。呉智英がまとめたもので、昭和二年(一九二七年)、水木が五歳の時の項だ。
〈(前略)年中行事・寺の地獄絵・伝説・妖怪といったものに関心を持つ。これには、祖父の代から女中として出入りしていた影《ママ》山ふさの影響が大きい。ふさは、行者のような男と内縁関係にあり、「のんのん婆ぁ(のんのん=神仏を指す幼児語)」と呼ばれていた。のんのん婆ぁには子供がなく、主家の子供である水木しげるたち兄弟をかわいがっていた。のんのん婆ぁは、水木しげるをあちこちの寺社に連れていったり、妖怪伝説を語り聞かせたりした〉
年譜を作製する前に、呉は水木から景山ふさの名を聞き出したはずである。とすると、水木は少なくとも雑誌刊行時の十三年前にはのんのんばあの本名を知っていたことになる。
「はァ、そうですか。お袋から前に聞いとって、忘れてたのかもしれんな」
水木はいちおう小首を傾げてみせたが、他人ごとのように屈託がない。
私は報告を続けた。今回の取材旅行の最大の疑問は、のんのんばあが|あの家《ヽヽヽ》に住んでいた証拠が掴めないことだった。十ヵ月前に水木が教えてくれたのは確かに|あの家《ヽヽヽ》だが、現在の所有者の高岡夫妻や九十歳になるその母親の話を総合すると、昭和初期に|あの家《ヽヽヽ》に住んでいたのは永田石材店の永田元一と妻のらんであり、のんのんばあと夫ではない。
高岡は「おらんさんがのんのんばあかと思っていた」と言ったが、らんは三十歳前後で死亡している。年齢からいっても職業からいってものんのんばあであるはずがない。
私はノートに、|あの家《ヽヽヽ》の周辺の地図を描きながら説明した。すると水木は、そのノートにサッサッとペンを加え、地図を完成させた。
私は仰天した。|あの家《ヽヽヽ》が二つに分割され、のんのんばあの家が永田元一・らん夫妻の家から独立したからだ。
「こっちに桑畑があって、ここは鍛冶屋の婆さんの家。婆さんは美人でした。……だから、のんのんばあの家はコレです」
「永田石材と別棟だったんですか?」
「ちっぽけな家で、らんやんの家と隣り合ってたんです。自分の家だったのか誰かから借りてたのか、わかりませんけど」
水木は、らんが産褥熱で死亡する直前、小学校一年か二年の時だが、のんのんばあと一緒に見舞いに行ったことがあると言った。
「らんやんは高熱で唸ってました。顔が赤くなって、頬骨が高く浮き出てました」
水木の頭には鮮明な場面が浮かんでいるようで、聞き出せばもっと続きそうだった。
しかし私には、疑問があっけなく氷解したことに茫然としている暇も、小学校一、二年当時の水木の観察力に感心している暇もなかった。次の質問である。
「のんのんばあ夫婦は、いわゆる拝み手≠カゃありませんね。本来の拝み手≠ネら、すぐ近所に土井さんという有名な祈祷師がいたはずです。お大師さん≠ニも呼ばれていたと思いますが?」
私は土井の家をノートの地図の上に記した。のんのんばあの家から遠くない場所にあり、高岡あさが夫の久蔵のマラリア熱を祈祷によって治してもらったという拝み手≠セった。
水木は腕組みをしてニヤリと笑った。
「土井の坊主ね。あれは、拝み手≠ナした。元は北海道の炭坑夫だったんです。子供の頃はよく庭に遊びに行ったもんです」
「では、のんのんばあの夫の職業は?」
「うーん……」
水木は天井をひと睨みした。
「拝み手≠ニしてはモグリだったのかなァ。本当は乞食《こじき》同然だけど、体面を繕《つくろ》うために拝み手≠轤オく振る舞ってた……、ということはあったかもしれません」
「でも、拝み手≠フ仕事をしてるところを見たことは一度もない?」
「ないです。じいさんが托鉢に出るのを見たことがあるだけです」
やはり、のんのんばあの夫は拝み手≠ナはなかった。高岡が|あの家《ヽヽヽ》を建て直した時、瓦礫の中から大量の一畑寺の御札が出てきた(いつの間にか二軒の家は一体になっていた?)そうだから、夫は単に、一畑薬師教団の熱心な信徒だったことになる。
それから水木は、今お袋が起きて落ち着いてますけどのんのんばあのことを聞いてみますか、と私に聞いた。願ってもないことだった。
ふだんの母親琴江は、ベッドで眠っているかうわ言のように何かを口の中で呟いているばかり、とてもインタビューできる状態ではなかった。私はすぐに水木と一緒に、水木がこの三月から母親用に借りているマンションの隣の部屋に行った。
浴衣姿の琴江は微笑をたたえて居間のテーブルについていた。が、家族以外の人間である僕とは視線を合わさない。お茶を飲みにきていた兄の宗平が水木と並んで座って、母親への質問用に紙と鉛筆を用意した。耳が遠いので筆談をするためである。
「のんのんばあのこと知りたいんだって。のんのんばあは、どんな人だった?」
宗平が大きな声で言いながら、わら半紙の上に鉛筆でのんのんばあのこと、教えて≠ニ書いた。
と、琴江はいきなり喋った。
「士族の娘。貧乏侍。……親父は足軽」
微笑を浮かべ前を見詰めたままである。
「出身は?」
水木が尋ね、宗平がどこからきた?≠ニ紙に書く。琴江はチラッと紙に視線を落とす。
「松江からきた」
大きな、しっかりした声で言い、水木は「ほゥ」と言った。松江の士族の娘だったことなど、今初めて知ったと水木は言う。
私は必死にメモを取りながら、何やら背筋がゾクゾクしてきた。のんのんばあの素姓を知るために悪戦苦闘してきたけれど、宝の山は思いもよらぬところにあったらしい。
「何歳で死んだんですか?」
思わず私は聞いた。
何歳で死んだ?=A宗平が書き、三人はジッと琴江の口許を凝視したが、琴江の唇は動かない。昭和八年頃死亡してるから質問方法を変えてみようと、宗平がイカルはのんのんばあとは何歳違う?≠ニ走り書きした。イカル≠ヘ怒《いか》る=A琴江の綽名《あだな》だった。
「のんのんばあの本当の年はわからん」
琴江が言った。続いて、
「ほいた婆だ」
吐き捨てるように言い、それきり黙った。
あとは何を尋ねても無駄だった。琴江は答えようとはしなかった。明らかに興奮しているようで、表情から穏やかさが消え去っていた。ほいた≠ニは乞食のことである。
「死んだのは六十から七十までの間、たぶん六十五、六歳だったと思いますがね」
水木はゆっくりと席を立ちながら言い、我々は事務所の方へ戻ることにした。
今となっては、のんのんばあこと景山ふさのことを詳しく知っているのはおそらく琴江ぐらいだった。しかし、琴江が質問に答えられる状態にあるのはごく短時間であり、しかもいつそういう安定した精神状態になってくれるのか、予測がつかなかった。
それにしても、と私は思った。解せないのはのんのんばあに対する水木の姿勢だった。
水木は何度か、「のんのんばあが自分の中で生き続けている気がする」と語った。もしもその通りならば、生身の景山ふさの生涯についてもっと関心があってもよさそうに思うのだが、拍子抜けするくらい無頓着なのだ。
事務所に戻ると、水木はそろそろ仕事に取りかかる時間だった。私はもう一つだけ確認しておくことにした。のんのんばあが死んだ時の、水木の行動である。
「本によると、武良三兄弟は結核で寝込んだのんのんばあの枕許に行き、彼女はのんのんばあは死ぬうだぞ≠ニ泣きながら言いますね。それからどうなったんですか、のんのんばあの亡くなった日と、葬式の日は?」
「学校に行ってました」
水木は簡潔に答えた。
「死んだ日がいつなのか知らないと?」
「知りません。葬式の日もわからない。死んだのは兄弟で見舞いに行ってから二、三日後だったと思いますけど、気がついたら全部終わってたんです。葬式も何もかも」
「でも、それではちょっと……」
「年をとってからののんのんばあは哀れなものでした。食えないのでいろんなことをやってました。最後は肺病の人の看護をやってて自分が肺病にかかるんです。みじめな死です。ああいう人が多かったんです、昔は」
眼鏡の奥の瞳に情緒の曇りはなかった。厳然たる事実を、ただありのまま告げているという口ぶりだった。
私は、水木には心中ひそかに、一介の庶民のんのんばあの最良の部分を、それのみを、間違いなく受け継いでいるという自負があるのではないかと、その時思った。
4
朝食の後、一服してから、水木夫妻とともに散歩に出ることにした。
秋の富士山麓の別荘地は、五月にきた時に布枝が言っていたように、ドウダンツツジの燃えるような紅葉がみごとだった。もっとも、この冬もまた暖冬になるという兆《きざし》なのか、十月も下旬だというのに緑の葉をたっぷりと枝につけているクリやサクラの木がまだある。布枝によれば、木の間隠れに見える富士山の冠雪も数年前はもっと多かったという。
「あの赤い実の木はガマズミです」
布枝は別荘地内の紅葉した樹木の名や実をつけた植物の名を一つ一つ教えてくれた。
「これ、アララギ。ガマズミも食べられますが、アララギも食べられるんですよ」
生垣になっていた朱色の果実を数個取って水木と私に手渡した。口に含むとほのかに甘い野生の味がする。さすがに植物には詳しい。
我々三人は丸紅富士桜別荘地の境界線まで歩き、そこからまた水木の先導でカラマツ林の道へと歩を進めた。カラマツとアカマツの木々の間にところどころ色付いたハゼの木が混じっている。空は晴れて陽射しも明るいが、時折吹く風はすでに肌寒さを感じさせた。
「あ、名残りのリンドウが咲いている」
布枝が立ち止まり、鍔広《つばひろ》の帽子を片手で押さえて道路脇の草むらを覗き込んだ。
水木も立ち止まって、言った。
「ここらへんは便所地帯なんです。クソをするのに恰好の場所です」
妻は黙って夫に携帯ティッシュを渡した。
再び三人で歩き始める。水木はあたりを見回しながらゆっくりと歩くので少し遅れた。
「どこらへんがいいかな……」
「もう! 黙って入ったら」
布枝はスタスタと先へ行ってしまった。
水木が林の中で用を足している間に、私も反対側の木陰で小の方をすますことにした。
今回は二泊三日の別荘滞在だった。水木夫妻にとっては四月から数えて六回目の「富士山行き」(布枝)である。十一月半ばすぎに冬季の戸締まりのためもう一度訪れるとしても、この年(一九九三年)は合計七回となる。平均して年間十回は富士山の別荘ですごすことにしている水木としては、「いささか不満の残る回数」だった。
それというのも、今年は例年以上に多忙だったせいだ。一月のインドネシア旅行、四月の台湾旅行、六月のアメリカ旅行と海外旅行だけでも三回行った。七月には境港で水木しげるロード≠フ除幕式があり、普通なら年に二回程度しか里帰りしないのにあれやこれやで五回も境港に帰った。夏場の妖怪がらみの各種イベントへのゲスト出演や講演、マスコミの取材回数もいつも以上だった。これらを、増えることはあっても減ることのない雑誌連載の締切りや毎月のように出版される単行本の校正の合間を縫いつつ成し遂げたのである。しかもまだ一年間の予定表は埋まったわけではなく、あと二ヵ月半近く残っている。
水木は、「今年はホピ族の村へ行けたことが収穫だった」と何度か言ったが、反面、「もう一人ののんびり派の自分が忙しすぎる≠ニ文句を言っていた」のも事実だった。
従って、今年富士山の別荘ですごす時間は水木にとって、いっそうその稀少価値を増しているはずだった。
布枝と私は、満足そうな表情でズボンをずり上げながら林から出てきた水木を待ち、隣接する別の別荘地へと入った。
そこは、水木夫妻の別荘がある別荘地とはかなり雰囲気が違っていた。豪邸ぞろいで庭が広く、一棟一棟の間隔も充分に取ってあり、それぞれが数多くの樹木に囲まれている。
「ここは四百坪平均だと思います。我々のところの二倍以上です」
水木が歩きながら説明した。
「私のところは特価七百五十万円で買ったんですけど、そんなものは、ここの別荘と比べるとまるで偽別荘です。あれなんか、貧乏人を寄せつけないって感じでしょ?」
水木が顎で示したのは、バスでも横付けできそうな車寄せのあるゴルフ場のクラブ・ハウス風建物だった。雑木林を取り込んだ敷地は四百坪どころか八百坪は優にあるように思える。例によって鎖を乗り越えて裏庭に回ってみると、水木の方の別荘地で言えば別荘本体に匹敵しかねないバーベキュー用|東屋《あずまや》があり、手入れの行き届いた広い芝生があり、一画に純和風の茶室があって、坪庭さえあった。
そんな別荘が企業や団体の所有物ではなく個人の持ち物なのだから、恐れ入る。
「上には上があります。別荘地を一ヵ所だけ見て、別荘とは所詮こんなもの≠ニ思うと間違うんです。妖怪の世界と同じです」
妖怪博士にして自称別荘評論家は言い、感心して建物を見上げていた私の肩を叩いた。
水木は家好き、というより建物好きだった。貧困時代に借金をして水木荘を買い取ったり、最近まで住宅設計を趣味としていたことからもそれはわかる。南方と全然違うヨーロッパ諸国に何度も行っているのは、「建築と美人を見るのが楽しみ」だからだ。現在水木の所有になる建物(水木プロ名義のものを含む)は、調布の自宅と隣のアシスタント用下駄ばきアパート(四室)、駅前のマンション二戸(事務所と資料室)、弟の幸夫が管理人をしている荻窪のマンション(二十二室)、境港の実家、などだ。これに加えて別荘がある。多い時は富士山一戸、熱海に二戸、箱根に一戸と合計四戸も別荘があった。
現在の別荘は富士山のものだけだが、以前四戸持っていたことに関しては、前夜水木との間でちょっとしたやりとりがあった。所在地と戸数を確認していた時、水木が「公表するのはまずいんじゃないですか?」と言い出したのだ。「誤解して嫉妬する人がいるかもしれない」と言う。私は反論した。熱海の別荘も箱根の別荘も、一戸建てではなくリゾート・マンションだった。温泉好きの両親のために購入したもので熱海の二戸にいたっては1DKの小さなものだ。しかも即金ではなくすべて月賦であり、父親の亮一が死亡した後で三戸とも手放している。正直に書けば、「買ってからローンに苦しんだ」と言う水木に同情する人はいても、嫉妬する人がいるとは思えない、と説得した。黙って聞いていた水木は頷いた(そして翌日私を、自分がまだ持ってない本物の別荘≠フある場所へさりげなく案内したのである)。
その時私は、公表するしないの問題とは別に、水木が人間の嫉妬心をかなり重く見ていることを知って、ハッとした。水木は叙勲にせよ水木しげるロード≠ノせよ、一般には本人の栄誉と考えられていることに対しつとめて平静な、時に過小評価とも思える言動をしてきた。私はそれを年齢と戦争体験のせいだろうと考えていた。そんなことで一喜一憂するなど大人げない、と。しかし、人間の嫉妬心ほど厄介なものはない、と深く自覚し警戒してきたのかもしれなかった。何しろ、嫉妬心が嵐の如く周囲に渦巻いていたに相違ない下積み生活を十五年近く経験し、嫉妬で身を滅ぼし滅ぼされる同業者の姿をゴマンと見てきたはずなのだから……。
我々はアメリカ風の平屋の別荘の敷地内を歩いていた。そこもまた庭が広大で、アカマツの林を巡る散歩道のような小道が作られている。ひろびろとしていて、ゆったりとしていて、気分が自然と穏やかになってくる。
「自分の別荘は小さくてもいいんです」
ひとわたり邸内を歩き回ってから、水木はバーベキュー・ハウスの椅子に腰掛けて言った。
「まわりの環境がよければ、私自身が特に大きな別荘を持つ必要はないんです。こうして時々借景すればいいことです。私、昔から借景は得意なんです」
布枝も、帽子を取って頷きながら、光の満ち溢れた風景を眩しそうに眺めた。
「私と手塚治虫の違いは、生活を楽しむってことじゃないですかね? 仕事がこれ以上増えちゃいかんのです。こういう時間がなくなりますからね。……マンガを描きながら死んでゆく、なんて大嫌いです」
水木は「大嫌い」に力をこめて言った。
私は前夜の水木の言葉を思い出した。マンガ創作、妖怪(精霊)研究、幸福観察、冒険旅行(南方憧憬を含む)と、現在の水木を突き動かしている関心領域はいくつかあるが、重要度で言えばどうなるのか順位をつけてほしい、と私が言ったのである。水木は即座に、「一位妖怪、二位幸福、三位マンガ」と答え、「あ、冒険旅行も一位です」と付け足した。そして、一位と二位の順位はその日の気持によって入れ替わることもあるが、三位がマンガなのは変わらない、と。
「マンガは作り話だけど妖怪や幸福は作り話じゃない」、それが理由だった。「もう無我夢中でマンガを描くってことはないです」とも語った。
水木は眼鏡を右手で軽くずり上げた。この時なぜかいつも小指を立てる。
「大阪の民博でジプシーの車を見たことがあるんです。感心しましたよ、設計に。色遣いとか模様も素晴らしい。その車で放浪していろんな土地に住むんです。家という考え方が普通と違うんでしょうな。いいんですよ、楽しそうで。今でいえばトレーラーハウスかキャンピング・カーでしょ? 前に六十ぐらいの夫婦がミニ・バスで日本中旅しながら暮らしてるの、私テレビで見たんです。うらやましくて仕方なかったですよ」
「それくらい、できるんじゃないですか?」
私は言って運転手役を務めることになる布枝の方を見た。布枝は「また、あんなこと言って」と言うふうに頭を振って笑った。
「やりたいけど、できないんです。水木さんの場合はアシスタント問題がある」
「村沢さんたちを首にはできないと?」
「そう。マンガじゃなく妖怪画にしてもね、必要な時にアシスタントがいないと形にしてすぐ示せない。そのためには常時雇っていなきゃいけない。……ジレンマです」
アカマツの梢を風が渡っていた。日射しはますます強くなって高級別荘地に降り注いでいたが、気温はさほど上がらない。
夕方、別荘の和室で取材ノートを整理していると、布枝がやってきて声をかけた。
「そろそろ焚き火が始まりますよ」
時計を見ると五時五分前だった。ガラス戸の外は早くも薄暗くなっていた。敷地の半分ほどが谷状になって落ち込んでいるので、そちらから闇が広がってくるような気がする。
厚手のジャケットをはおったサンダルばきの水木の姿はすでに煙に包まれていた。
「水木さんもしかし、焚き火好きですね」
私はベランダ脇に落ちていた数本の枯枝を拾いつつ火に近付いた。
「飽きないんです」
クルミの枝をサンダルでヘシ折りながら言う。
「兄貴はここへこないです。幸夫も全然こない。散歩、焚き火、植物や動物ウォッチング、そういったことに関心ないんです。私に言わせれば、二人とも自然の変化に対する感受性が乏しいんですよ」
水木の兄宗平の趣味は海外旅行、弟幸夫はゴルフとドライブだった。確かに焚き火などという「原始的な楽しみ」からは隔たっている。
「兄貴は優秀だったんです」
水木は一本ずつ枯れた枝を火にくべた。
「成績は一番だし運動も一番。野球も、私は小学校三年で胸に球を受けてからやらんようになったけど、兄貴は名ピッチャーだった。将来はどんな偉い人になるのか、総理大臣にでもなるんだろうかと私なんか思ってた。それが、長じたらたいしたことなかった。ハハハ、人生、わからんもんです」
水木と顔つき体つきがよく似た宗平とは調布の事務所でよく会っていた。マネジャーで経理担当の幸夫は常勤なので毎回のように顔を合わせたが、宗平とは三回に一回ぐらいの割合、宗平がフラリとお茶を飲みに立ち寄る午後三時前後に出会うことが多かった。
大きな声で喋り笑い、一見快活そうに見える。が、表情や態度にどこか屈折したところが窺われた。宗平の人生は、一言で言えば水木と正反対だった。つまり前半生が華々しく、後半生がパッとしないのである。
宗平は、名門米子中学(現、米子東高校)から大阪高等工業学校(現、大阪府立大学)へと進み、海軍予備学生を経て、館山砲術学校に入学した。日本海軍のエリート候補生だった。昭和十八年二月にニューギニア本島のウエワクに海軍少尉として赴任し、十ヵ月後に帰国して館山砲術学校の教官となった(帰国中に米子出身の澄子と見合い結婚)。
昭和二十年一月、再び戦地へ。今度はビルマ戦線、ラングーンの第十二根拠地隊だった。四月から開始された撤退作戦で奇跡的に生き残り、昭和二十一年六月に復員した。
約一年間米子の工業学校(現、米子工業高校)で電気科の教師を務めた後、退職。上京して電気関係の有望企業に就職すべく準備していた時に、戦犯容疑で逮捕された。ニューギニアの機関砲隊にいた時、不時着して捕虜になったアメリカ兵五人の処刑に関わったというのである。傷痍軍人の団体新生会の一員だった水木が、東京都から斡旋された月島の引揚者寮にやっと落ち着き、慣れぬ魚屋を始めた頃だった。
B級戦犯としての巣鴨プリズンへの収監は昭和二十三年五月から二十八年五月までの丸五年間だった。出所して宗平は、兵庫県西宮市今津に行った。そこに神戸の水木荘を売り払った水木が、紙芝居を描きながら宗平の妻子や幸夫と住んでいたからだ。
出所後の宗平は不運続きだったと言える。海軍時代の友人の会社に入社したがすぐに倒産。大手電気会社に就職し、人間関係がうまくゆかず退社。再び上京して知人の経営する出版社に勤めたもののそこも二年ほどで倒産した。
しばらく川崎の企業で働いていた宗平は、昭和四十一年にマンガ家として成功した水木が水木プロを設立するとこれに参画した。以来、約十年前に代表取締役の座を水木に譲るまでその地位にあったのだから、生活の不安こそなかった。しかし、かつての秀才で若き海軍将校、前途を嘱望された有能な技術者だった宗平にとって、現在の水木プロ顧問に至る戦後の軌跡が振り返って納得できるものだったとはとうてい思えない。
宗平は以前、弟の水木について、
「強運の持ち主です」
と短く評したことがあった。また、
「あの戦争がなければ、マンガ(の隆盛?)なんてなかったかもしれない」
と呟いたこともあった。
私は、宗平に関しては、布枝の話したことが長く気にかかっていた。つまり、新婚早々の貧しい所帯で妻の反対を押し切ってまでなぜ水木は宗平とその家族を援助し続けたのか、という最初の頃の疑問である。
一つには、むろん、戦犯となった兄への同情があった。水木は何度か言ったことがある。「BC級戦犯になった人の多くは戦争の加害者というより犠牲者たちです。アメリカ人は日本軍の命令というのがどんなものかわかってなかった」「命令を下した上官が死んだから、兄貴は罪を被ったんです」「そりゃショックですよ、死刑の恐怖に怯えて何年も過ごすんですから。巣鴨で頭がワヤ(無茶苦茶)になって、世の中の動きについていけなくなったんです」……。
もう一つには、調布の家のことがあった。水木が調布市郊外の下石原に見つけた二軒続きの小さな建売住宅は、宗平一家が住んでいた西宮の家を処分して得た金を頭金として、ようやく購入することができた。いわば、水木は宗平に借り≠ェあったのである。
しかし、それにしても、水木はどうしてそうした事情を布枝に説明しなかったのか。
「本当はもっと事情があったんですよ」
水木は焚き火の熱で赤らんだ頬を緩めた。
「結婚前に、土地のことで地主とゴタゴタがあって、一軒分明け渡さなきゃならなくなった。本来なら私が出て行くべきなのに、私は残って、兄貴たちが市営住宅に移った。だから、市営住宅の安い家賃を私の方で払うのは当然なんです。私の家の間借り人も、兄貴が世話した人だから兄貴が家賃を受け取るのは当たり前です。その頃、兄貴は勤めてた出版社が倒産して困ってましたしね」
聞いてみれば、それはそれなりにもっともな理由ではある。
「では、なぜ奥さんにそのことを……」
「結婚したら多少は偉そうにしなきゃいかんですからね。水木さんとしては、そういうことをいちいち解説しないんです」
意外な返答だった。水木には旧来の家長意識が残っていたのだろうか。
「だけど奥さんは悩んで、水木さんに何度も手紙を書いたりして、理由について知りたがってたでしょ?」
「それでも言わんのです。ひたすら沈黙を守っとるわけです」
それも男の美学≠フ一種かもしれない。しかし私は、水木の精神の若々しさに感嘆することが多かっただけに、この時改めて「ああ、大正生まれだったのだ」と思った。
午後七時、水木と私は布枝に呼ばれた。残り少なくなっていた枝を中心に集め、二人で周囲の灰をかき寄せた。
夕食後、水木と私はテレビの前の籘椅子に向かい合わせに座ってお茶を飲んだ。
台所の後片付けを終えた布枝は、エプロン姿のまま水木の隣の椅子に座り、木の蔓《つる》を編んでいた。午前中の散歩の帰り道に雑木林から採ってきたものだが、丸く輪に編んで木の実のついた細い蔓をあしらい玄関飾りや壁飾りにすると言う。飯田深雪流の造花を学んだ布枝は、富士山の別荘にやってくると、そうした手近な素材でちょっとした室内工芸品を作るのが楽しみなのだ。
会話のきっかけは、水木が両親から受け継いだ資質のことだった。
「はじめはどっちにも似てないと思ってたんです。強いて言えば親父かと思ってた。まさかお袋には、と思ってたんですが、この頃自分を観察すると、どうやらお袋に似とるらしい。びっくり仰天ですよ」
「そうね、どっちかと言えばお義母《かあ》さん似かもしれんね。義兄《にい》さんもお義母さん似だ」
手を動かしながら布枝も口を挟む。
「うん、アレは正しくお袋の血をちょうだいしとる。世界は自分のためにある!≠ニ信じとるから。兄貴は性格がお袋似で、弟は姿、形が親父に似とる」
水木によれば、「お袋はカバチ」だった。境港の方言でカバチたれる≠ニは悪口を言う∞毒舌を吐く≠ニいう意味だ。水木のマンガ作品に対して、「こんなの描いてちゃダメだ!」と痛烈に批判するのはいつも母親だった。両親の住んでいたマンションにしばらく姿を見せないと「島流しにされた」と文句を言い、「温泉にでも行く?」と誘うと「ニューヨークぐらい連れて行け!」と怒鳴る。
対して、父親の亮一はいたって穏やかな性格だった(突如怒り出すのは空腹の時のみ)。抹茶を飲みながら歌舞伎・芝居・浄瑠璃・文学などの話をするのが好きで、世俗的ないっさいのことに関心がなかった。「早稲田の演劇博物館で芝居の脚本を書く」のが夢だったが、ついに果たすことなく、八十八歳で逝去するまで「ひたすら静養を心がけて」生きた。水木に言わせれば、「親父は争いを避け続けた人生。お袋は争いに挑み続けた人生」ということになる。
私は尋ねた。
「ゲーテは、父からは、体格と真剣な生き方を、母からは、陽気な天性と創作の喜びを受けた≠ニ言ってます。ゲーテにならうと、水木さんの場合はどうなりますか?」
水木は笑って足を組んだ。
「そうですね、父からは芸術的志向と争いごとを嫌う性質、母からはガムシャラな突進力と頑固な意志。妙なひつこさも、お袋から受け継いどるのかな?」
「丈夫な体もお母さんからですか?」
「そうでしょう。でも、胃は親父もお袋も丈夫です」
ホワホワした少ない頭髪をゆっくり撫でる。
私は、創作の才能はどちらの血筋だと思うか、聞いた。亮一は学生時代から歌舞音曲が好きで、歌舞伎十八番の台詞などは暗記していた。完成に至らなかったとはいえ、小説や脚本を何度も書いている。やはり、父親の系統と見るべきだろうか。
「親父はよく本を読んでるんです。だから書く物はいちおうのしきたりには沿うてる。しかし、面白くないんですよ。オリジナル性がない。オリジナルな発想は、むしろお袋の方が豊富なんです」
突然水木は背もたれから上体を起こした。目を輝かせて語り始めた。
「七、八年前に沖縄から、屋根の上の魔除けのあのシーサーを送ってきたことがあるんです。すると一目見たお袋が、いきなり興奮して喋り出したんです。うん、これは地下に潜るんだ! あくまで潜る、潜るんだ!≠チてね。驚きましたよ。いきなり面白さに向かって突き進むんです。それから喋り出したストーリーも退屈じゃない、なかなか面白いんです。でもいきなりですからね、こう、潜るんだ!=v
水木は腰を浮かせんばかりにして母親琴江のその時の様子を真似てみせた。目を剥き、顔を歪め、右手を激しく上下させて琴江の口調を再現する。布枝は横で静かに笑っていた。
「結局お袋の話は鬼太郎のシリーズに原作として採用することにしたんです。そういうのが何本かありますよ、お袋の場合は」
老母に物語作りの才能があると知ったのは水木自身にとっても意外だったらしい。
「そのお袋から聞いたんですが、親父が亡くなる前に言ってたそうですよ、あまりいい人生じゃなかった≠チて」
一転してひそやかな声だった。
「私、親父にあまり親切じゃなかったですからね。その反省があるから、今お袋は親切にされとるわけです」
珍しくしみじみと言い、お茶をすすった。
すると、横合いから布枝が異議を唱えた。
「そんなことないですよ、おじいちゃんにもよくしてあげたじゃない」
水木は構わず続けた。
「終わりよければすべてよし、ですからね。いい人生じゃなかった≠ニ言われると、悔いが残る。私は若い時から人にあまり親切じゃなかったですよ。お袋が親切を奨励しとらんかった。親父が生きてるうちは、親切がそれほど重要だとわからなかったんです」
作業を止め、我々の会話に聞き入っていた布枝がたまりかねたように言った。
「いいえ、親切でしたよ。頭の下がる親思いでした」
布枝は具体例を話し出した。九年前の昭和五十九年(一九八四年)の八月末だったという。ここ富士山の別荘で水木の両親とともにスキ焼きを食べ一泊した。調布に帰って三日後の朝、マンションに両親を訪ねた水木夫妻は部屋に入るなり絶句した。床じゅう大便だらけだった。痴呆のようになった琴江がその大便を踏みつけながら歩いていた。亮一は、ベッドに仰むけになったまま、大量の便を垂れ流して眠り込んでいた。
「私はその光景と臭いにビックリしてしまって、一歩も動けないんです。そしたら主人が、どけ、俺は軍隊で慣れとる!≠ニ言うが早いか、新聞紙掴んで、床にしゃがみ込んで……。敏捷な早技なんです。私に手伝え≠ニも言わない。ほとんど一人で床一面の下痢便をきれいにしてしまったんです。私、本当に、頭の下がる思いでしたよ」
水木はその日から両親に家政婦をつけることにした。だが、約一ヵ月後、亮一は死亡したのだった。
「いや、まさかあれから間もなく死ぬと思わんから、家政婦替えてくれ≠ニ言ってたのに替えなかった。夜中も、一緒に泊まり込んでやらなかった」
「でもそれは……」
布枝が言おうとするのを水木は遮った。
「ツングースやギリヤークなんか、死が近づいてくると肉親が抱いて寝てやるんだ。最期まで一緒に寝てやる。日本じゃ望めんかもしれんけど、それが本当だと思うよ」
布枝はしばらく黙って、頷いた。
すでに作業は一段落したのか、布枝はエプロンを外し手袋を取った。水木はコーヒーを飲まないが私が飲むのなら淹《い》れると言う。私は立ち上がった布枝に所望した。
静かな土地だった。テレビやラジオの音はもちろんのこと、遠くの自動車やオートバイの音すら聞こえてこない。富士山麓の暗い林の奥深く、別荘地ごと世間から隔離されてしまったような静謐さだった。
「ゲーテも親不孝だったんです。晩年を迎えた母親が一人でいるのに、会いに行かなかった。それで母親が死ぬと深く落胆するんです。ゲーテも、変です」
ゲーテの話もよかったが、私にはもう一つ、聞いてみたいことがあった。青年時代に幾つもの美術研究所や美術学校に通いながら、そこで何を学んでいたのか、ということだ。
水木は十六歳の時に入学した大阪の精華美術学院を皮切りに、次々と美術系の学校に通っている。十九歳で中之島洋画研究所、二十六歳で武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)、三十一歳で神戸市立美術研究所……。
いずれも中退だが、目的はハッキリしていた。上野の美術学校=Aつまり東京芸術大学に入学するための受験資格が欲しかったのだ。水木は長い間、一人前の洋画家になるには東京芸大油画科出身でなければならないとかたくなに信じ込んでいたのである。
しかし、何を勉強していたのか。
「青年時代の『ほんまにオレはアホやろか』を読むと、石膏デッサンが中心だった≠ニ書いてますね? 戦前の中之島洋画研究所の頃の本の挿し絵も石膏像をデッサンしている水木青年です。でも、石膏デッサンばかりやってたんですか、それとも何か他のことも?」
「ほとんど石膏デッサンです」
「え、十五年近くもそれだけを?」
「そう。石膏のトーンを出すのが得意で、ちょっとほめられたりするとやめられないんです。バカな話です。色彩とか、もっといろいろやっとればよかった」
「でも、どこの美術研究所でも石膏デッサンのみを描き続けるというのは……」
「人物が苦手だったんです。風景画は好きだけど人物画が嫌いだったんです」
予想もしなかった言葉だった。私は緊張した。水木しげるの世界を解明するにあたって、これはきわめて重要な事実だと思った。
「人物画は、自分で下手だと思っていたわけですか?」
私は水木がラバウルの収容所で描いた何枚かの鉛筆画を思い浮かべた。兵隊も、現地人も、子供も、そのスケッチは同じ時期の風景画に比べて遜色があるとは思えなかった。しかし水木は、「劣っている」と感じていたのだ。
「私は、風景については人が驚くほど自信を持ってるんです。小学生の頃に親父とたった一度訪ねたことがある豚小屋でも、描け≠ニ言われれば今すぐにでも描けます。どんなところ、どんな風景でも、行けばたちどころに描けるという自信があります」
コーヒーと剥いたリンゴを運んできた布枝が、「すごいうぬぼれ」と囁いた。
「いや、実際そうなんです」
水木はリンゴにかぶりついた。
「風景はもともと好きだから練習しなくても描けます。でも人物はそうじゃない」
水木は、上級の美術学校に進学するため、苦手な人物画の基礎を、やむを得ず、繰り返し、練習していたのだった。
「いったい、人物画のどこが嫌いだったんですか?」
私はこみあげる興奮を抑えつつ尋ねた。
「風景というのは驚くべきものです。場所によってまるで違うのは当然ですが、同じ場所でも、時間により角度により、千変万化します。それに比べると、人間の姿形の変化などタカが知れてますよ。色一つとってもそうです。人間の肌の色が、そこらの自然の中にある風景の色ほど多彩ですか?」
なるほど、言われてみれば確かにそうだった。純粋に造形の対象として見た場合、人体はそれほど面白味のある対象とは思えない。性や年齢、人種の違いがあるといっても、自然界の摩訶不思議な多様性に比較すれば、取るに足らない素材とも言える。
しかしこれはまさしく風景画家の論理だった。水木は本性、風景画家だったのか。
正統な風景画家であったとすれば、伊藤徹が称賛して止まない「みごとな一枚絵」は当然のことであり、水木マンガの背景描写がつげ義春に決定的な影響を与えたことも納得できる。プロダクション制を敷いた水木が、登場人物ではなく細密な背景へと努力を傾注するのは自然な流れだし、やがて妖怪マンガから一枚モノの妖怪画へと移行していったのも頷ける。現在の水木を魅了している「冒険旅行」も、妖怪のいる(いそうな)風景を探す旅、ということになる。風景に人間以上の興味を持っていれば、作品の中で個々の人間を掘り下げるより、卑小な人間を含んだ世界の構造≠ヨと関心は向かうはずだ。そもそも、妖怪という存在自体、風景(自然界)と人間界の境界線上に位置しており、風景画家としての水木が無理せずに近付ける数少ない対象の一つなのでは……。
「私、人より自然が好きなんです」
水木は、私が漠然と感じていたことを初めて口に出して言った。私が果物を食べないので、大皿に盛られたリンゴをほとんど一人でたいらげてからである。
「たくさんの人間の中で生活するのは嫌いです。人と会ったり、パーティーに出たり、人前で話をしたりするのは苦痛なんです。しょっちゅう笑顔を見せてなきゃいかんから、顔が引きつってくるんです」
ということは、百面相にしろ高笑いにしろ悠揚迫らぬ微笑にしろ、水木にとっては努力を要する社交的サービスだったということか。「人前で話すのが苦痛」なのは、講演でも薄々感じていたが、これは「舌が短い」ことと関連するのかもしれない。そう思い込んでいるのだ。幼年時代に自分の名前を正しく発音できず、「ゲゲル」と訛っていたことに遠因があるのだろう。「都会が嫌いで山や田舎が好きなんです。無理に都心に誘われたりすると、意味もなく機嫌が悪くなる。富士山の山の中や、南方の方が自分に向いてるわけです」
「だから、こっちで絵を描いたら?」
布枝が皿を片付けながら言った。
「バカ、富士山では絵からも解放されたいんだ」
水木は糟糠《そうこう》の妻の臀部《でんぶ》に向かって言った。
5
翌朝、再び水木と別荘地を散歩した。
水木の別荘近くの路上にはシバグリがたくさん落ちていた。前日同じ道を通った時には布枝がいくつか拾い上げ、「(故郷安来の)大塚ではこれ、カチグリにしてよく食べたもんです」と説明してくれた小型のクリだが、この朝は水木と私だけだったので、そのまま跨《また》いで通り過ぎた。
「のんのんばあの妖怪の知識は、やはり若い頃に関西で得たもんでしょうかね?」
私は並んで歩きながら尋ねた。
「べとべとさん、先へお越し≠フお越し≠ヘ関西弁ですよね。松江や境港なら、先に行ってごしない≠ニか先に行って、ごっさんせ≠ノなると思うんですけど。柳田國男の『妖怪談義』でも奈良県に現われた妖怪ということになってますし……」
「関西でも女中をしていたということですから、関西で仕入れたんでしょう。必ずしも山陰だけのものとは限らないです」
「年をとって境港に戻ってきてから水木さんに各地で仕入れた妖怪の名前を教えた?」
「そういうことになりますかね。確かに、何でもないただの婆さんでしたよ。でも私にとっては大きな存在だったわけです」
水木は左肩にいつものようにニコンの一眼レフを掛けているので、私の前を歩くと左肩の方が少し上がっているように見えた。
前夜、風呂場から出てきたばかりの水木は、残り少ない頭髪が乱雑に逆立ち、眼鏡を外した両目もショボついて小さく、何やら急に年を取ったような印象だったが、さすがに身仕度を整えて散歩中の姿は違っていた。背筋がしゃんと伸びて歩行速度が速い。呼吸に乱れもない。前日の緩やかな歩調は妻の布枝への気遣いだったとわかった。
しかし、何かのトレーニングのような散歩では落ち着いて会話ができなかった。私には最後に一つ、ぜひとも聞いておかねばならないことがあった。
「妖怪のことなんですけどね。ちょっとゆっくり伺いたいんですが……」
「はァ、じゃあ、あそこへ」
水木は前方のログハウスを指差した。そこはあまり所有者の訪れない別荘の一つで、その割にベランダも庭もきれいだという。
我々はいつも通り遠慮なく侵入することにし、ベランダの木のテーブルを挟んで向かい合わせに腰を下ろした。庭のコナラの枯葉が風に舞って足許まで飛んでくる。
「水木さんは、精神科医の中村|希明《まれあき》さんの『怪談の科学』にカバー絵と何枚かのカットを描いてますよね?」
水木は頷いた。私が読んだブルーバックス版の中村希明著『怪談の科学』(講談社)は昭和六十三年(一九八八年)の発行だった。
「あの本は、〈まえがき〉にあるように、古今東西の怪談や怪奇な体験談の多くが、精神医学の立場から科学的に説明可能≠セと主張している本ですよね?」
アルコール症治療の専門家である中村は、古代ローマの政治家ブルータスの見た悪霊から現代日本のタクシー運転手が出会ったという女の幽霊まで、いわゆる怪奇譚と呼ばれてきたものを、人間の生理的幻覚ないしは錯覚現象として明快に解説していた。
それによると、何人ものタクシー運転手が小田原のある道路で深夜出会ったという女の幽霊は「高速道路催眠現象の典型」にすぎず、昔話や民話によくある祝言《しゆうげん》帰りに狐・狸に化かされた話は「酩酊と暗夜の感覚遮断性幻覚」で説明できるという。十九世紀の探検家ヘディンが中央アジアの砂漠で体験した奇妙な声や蜃気楼は「熱射病による熱性|譫妄《せんもう》」であり、雪女≠ヘ「凍死する前の入眠時幻覚」、山姥《やまうば》≠焉u旅人の被害妄想と入眠時幻覚」と考えられ、金縛りは「入眠直後に筋肉の緊張が極端に下がる特殊なレム睡眠の産物」といった具合だ。
こうした「科学的な説明」は、私のような一般人には理解しやすいものだが、妖怪博士≠フ水木にとってもそうなのか。
「あれは中村希明が水木さんの絵を希望したから描いたんです。でも、自分につごうのいい妖怪だけを挙げてますよ。反論しようと思えばいくらもできます」
一口で言って、水木は厚手のジャケットの片袖をクルッと回転させ、腕組みをした。
「妖怪の中には半分ぐらい妙なもの、人間が勝手に作り出したものなんか入ってます。でも残り半分くらいは霊ですよ。間違いなくある種の霊です。神、妖精、幽霊、妖怪と呼び方は違っていても霊なんです。精霊です。というのが私の解釈、水木妖怪学です」
「民俗学的に見てもそうだ、と?」
「民俗学は参考になりますけど、日本で民俗学の本を読んでるだけじゃわかりません」
民俗学による妖怪の捉え方と言えば、水木もこれまで私との会話の中で何度か引用したことがあるが、柳田國男の妖怪とは神の零落したもの≠ニいう説が、もっともよく知られている。
具体的には、日本民俗学の開祖柳田は、例えば次のように記している。
〈いずれの民族においても、見捨てられた神はすなわち妖怪になる〉(『おとら狐の話』玄文社・炉辺叢書2)
〈妖怪はつまり古い信仰の名残で、人がその次の信仰へ移って行こうとする際に、出て来てこういう風に後髪を引くのである。日本の新旧宗教はことに入り乱れている。そうして今日はおばけの話を通してでなければ、もはや以前の国民の自然観は窺い知ることができなくなった〉(昭和7年10月、奥南新報)
柳田が、お化けや妖怪を初期の民俗学の重要な研究対象に据えたのは、『妖怪談義』(修道社)で述べているように、「通常人の人生観、わけても信仰の推移を窺い知る」ために「意外なる多くの暗示を供与する資源」と考えたからだった。もっとも、柳田自身の個人的性向として、怪異現象や不思議な出来事を特に好んでいたせいもあった。
柳田は、少年時代に青空に数十の昼の星を見るなど、いくつもの神秘的な体験を持っていた。明治三十八年(一九○五年)、最初の民俗学的な随想『幽冥談』を雑誌≪新古文林≫に発表したが、これはタイトル通りあの世に関しての考察であり、幽冥界の使者である天狗に興味を惹かれている。そして日本民俗学の出発点となった明治四十三年(一九一○年)の『遠野物語』(自家出版)に登場するおびただしい零落した神々=A河童、天狗、山男、山女、座敷わらし、オシラサマ、雪女、おいぬ(狼)、ゴンゲサマ、狐、山の神……。
柳田以前の妖怪に対する学問的論考と言えば、東京帝国大学の哲学科教授だった井上円了が明治二十年代に開始した一連の妖怪研究が著名だった。井上は合理的な解釈ができない現象を妖怪現象と規定し、明治十九年(一八八六年)に物理学者や化学者らと不思議研究会≠設立、全国二百十余ヵ所を実地調査して妖怪現象を採集する一方、各現象を部門別に分類整理し、その一つ一つを検証した。井上は昭和六年(一九三一年)に成果を大著『妖怪学』(山洞書院)に結実させるが、結局その説くところは、人知において知ることが不可能な真怪=i例えば、水は酸素と水素の元素≠ナできているが元素≠フ正体とはそも何か、など)を除くと、ほとんどの妖怪現象は偽怪∞誤怪∞仮怪≠ニ言うべきものであり、狐憑きやコックリさんは心理学で説明できるし、幽霊や人魂などは宗教学で分析可能、というものだった。つまり、妖怪現象の大半を迷信の所産として退けたのである。
けれど、もちろん、柳田は井上に同調しなかった。民俗学者の柳田にとって重要なのは、人魂が科学に照らして真実かどうかよりも、人魂を生み出し、それを信じ育んできた日本の庶民の精神構造の方だった。柳田はごく早い段階から井上の妖怪論を批判している。
〈井上円了さんなどは色々の理屈をつけているけれども、それはおそらく未来に改良さるべき学説であって、一方の不可思議説は百年二百年の後までも残るものであろうと思う〉(『幽冥談』)
以来、日本の民俗学は柳田の姿勢を継承し、こと妖怪に関してはその真偽を正面から問うのではなく、妖怪に対する人々の認識の仕方を重視して、そこから日本人の精神のありようや社会の変化を探るようになった。柳田が『幽冥談』で予言したことは正しかった。『幽冥談』から九十年近くたった現在、不可思議説は「残る」どころかますます隆盛をきわめている。各種の占い、オカルト、ホラー、超能力など、「合理的な解釈ができない現象(妖怪現象)」に惹かれる現代人は跡を絶たない。口裂け女∞トイレの花子さん≠ネど新手の妖怪にもこと欠かない。日本全国が大なり小なり都市化してしまった今日、妖怪を扱う現代の民俗学がそのフィールドを都市に求めたのは、ある意味で当然だったと言える。
〈天狗・山姥・河童などの妖怪は、山間部や人里離れた淋しい場所に限定して出現することになっており、人家の密集した地域や都会などには、化け物の跳梁する余地はないと思われがちである。
しかし空間論的にいえば、妖怪出現の限定された場所には、それなりの必然性がある。たとえば、この世とあの世が交錯していて、その境界に位置する空間には、かならずや妖怪変化の働きかけがあると想像されている。そういう場所を認識できる感性の持主が、どの時代にも少しずつ存在していて、それに伴う不思議な民間伝承を堆積してきたことを考えるならば、民俗学が従来集めてきた農山漁村だけでなく、町場や都心部にも不思議な空間は発見できることになる〉(宮田登『妖怪の民俗学』岩波書店)
妖怪を巡る民俗学はこのように都市の怪異譚の集録へと傾斜して行ったのだが、他方では柳田が『妖怪談義』で主として対象とした江戸時代を溯り、より古い時代に日本人の妖怪観の原型を見ようとした。その代表格が中世の闇の世界を精力的に探究している小松和彦である。
小松は昭和五十八年(一九八三年)に、その『憑霊信仰論』(ありな書房)で、柳田の妖怪=神の零落したもの$烽真っ向から批判したことでも知られている。小松によれば、厄災をもたらす超自然的存在すなわち妖怪は、記紀の記述でも明らかなように最初から神と併存している。超自然的存在が祀られれば神になり祀られなければ妖怪になる、神が妖怪に降格することもあれば妖怪が神に昇格することもある、というのだ。
言うまでもなく水木は、民俗学界でのこうした妖怪論の変遷を熟知していた。妖怪マンガを描き始めた頃、井上の『妖怪学』や柳田の『妖怪談義』は愛読書であったし、宮田や小松とは顔見知り、何度か対談したり一緒に講演したりしている。
しかし水木の主張とアカデミックな研究には画然とした相違があった。
「学者は妖怪のことあれこれと詳しいんです。けど、肝腎の霊を掴まえてない。江戸時代はこうで、その前の時代はこうで、といろいろ解説するけど、それは霊がたまたまある時代にそう見えただけで、妖怪の実体が精霊だということに変わりはないんです。想像力とか何とかの問題じゃありませんよ」
確かに、現代の民俗学者たちも柳田以来の伝統(?)で、妖怪の存在論には触れず、基盤を人間の想像力に置いている。
〈大人も子どもも妖怪変化を求めており、いろいろと想像力が駆使される。これは明らかに日本の文化伝統であろう〉(宮田登妖怪たちの伝統文化=A≪現代≫平成5年5月号、講談社)
〈妖怪を見るのは、個人の想像力の問題です〉(小松和彦『妖怪草紙』=荒俣宏と共著、工作舎)
「この間までは、水木さんと似た考えの学者がいないかと探しとったんですが、まったく一致する人というのはどうやらおらんようですね。ちょっと似てる人はいますけど。だから、これからは私、たとえ間違ってても独自の道を行かなきゃならんわけです」
水木が言うところの水木妖怪学は、本人が「まだ骨格のみで体裁は整ってない」と言う通り、ひどく簡潔なものだった。何度も聞かされてきたものだが、改めてまとめてみると次のようになる。
@この世界には感知されるが目に見えないものがあり、太古より人間はそれを、神・妖怪・妖精・幽霊などと名付け表現しようとしてきた。すなわち、妖怪は霊(精霊)の一表現形態である。
A霊(精霊)の実在は、各民族に伝わる踊りや音楽や彫刻などを通して直接感知できる。決して、文字を通じてではない。
B霊(精霊)は、自然界や人間社会の秩序、個人の生涯などに大きな影響を及ぼす。
C各民族共通して、絵画・彫刻・仮面などに定着された霊(精霊)の数は千前後あり、そのうち三百五十前後は「常にさかんな霊」と考えられる(出雲の神々しかり、ホピ族のカチーナしかり、マレーシアのセノイ族の精霊たちしかり……)。
D水木個人は今後、世界の霊(精霊)の図像の蒐集に力をつくし、各民族、三百五十前後の霊≠ニいう仮説を証明する。
「いずれ水木妖怪学をまとめるつもりですが、もしもその本ができると、ハハハ、前代未聞の奇書になるかもしれませんよ」
寒空の下、水木は上機嫌で笑った。なるほど、これまでに霊(精霊)を数量で捉えようとした人間はいなかった。
「とにかく集める、量を集めれば本質が見えてくるというのは、荒俣さんの図像学の方法論ですが、水木さんの場合も、世界の精霊の絵や彫刻を集めてみようと思ったのは荒俣さんの影響があったわけですか?」
「いや、荒俣ちゃんより先でしょう。私は子供時代から蒐集癖がありましたから」
水木は軽く言い放った。
「しかしいずれにしても、想像力の段階から一歩踏み込んで、妖怪とは精霊だ、霊の世界は本当にあるんだ、と言うためには、そのことを世間に実証しなくちゃいけないですね?」
「そう、そこが弱いんです!」
私に向かって不意に指を突き出した。
「目に見えないものがいる、ある、大昔からそうだった、と私が言っても、信じてもらえればいいけど、そんなバカなことないじゃないか!≠ニ言われると、もろくも崩れる。そこが水木説の危ういところです」
水木は大真面目な顔で言う。
正直と言おうか、天真爛漫と言おうか、それまでの比較的真剣なやりとりが一瞬にして吹き飛んでしまいそうな言葉だった。もっとも、だからこそ仮説≠ネのだろうが。
「でも、世界中に同じような妖怪がいることが不思議なんです。そういうことは日本で本を読んでいてもわからない。実際に現地へ行って、妖怪が生かされている状況に出会って、体全体でハッとわかるんです。水木さんの場合は特殊な直観力で捉えてるんです。コナン・ドイルも言ってますよ、探索しすぎるのはいかん、そういうものはいるんだから、よく観察した方がいい≠チて」
こういう時にはカール・ユングやコナン・ドイル、コリン・ウィルソンなど、心霊学に惹かれた西欧の先達の言葉を自在に引用するのが水木の常套的な論法だった。
私は水木の話に耳を傾けながら、なぜ水木は「危うい」と自覚している説をかくも大胆に、かくも楽しそうに、提唱できるのだろうと思った。私に思い当たるのは、以前水木からもらった一冊の本のことぐらいである。
取材を開始した当初、水木はよく「偶然の一致を大切にしてるんです」と言っていた。気が進まず引き受けた仕事中に長年探していた物を発見したり、出会うべき人に会ったり、ある場所へ行くことを夢想していたら突然そこへ出かける企画が舞い込んだり、これまでにそうしたことが何度か起こった。「妖怪に操られている」とか「背後霊に指示されてるんです」とか水木は言い、私が訝しそうな様子を見せると、「これ、あげます。読んでみて下さい」と、『シンクロニシティ』(デビッド・ピート著、管啓次郎訳、1989年、朝日出版社)なる書物をくれたのだ。
いわゆるニュー・エイジ・サイエンス(新時代の科学)≠フ本だった。訳者の管によれば、著者のピートはイギリスの物理学者で、量子力学を研究していたが科学的世界観に疑いを抱き、分析心理学の創始者ユングの唱える集合的無意識(個人の意識の領域を超えた、民族・集団・人類の持っている無意識)などに関心を持つようになったのだという。
ユングがその晩年にいたって熱心に考察したシンクロニシティは、日本語では共時性と訳され、一般には意味のある偶然の一致≠ニ要約されている。ある時ユングは女性患者に精神分析の治療を施していたが患者は頑固な合理主義者で治療は難航していた。ある日、患者はユングに黄金のコガネムシの出てくる夢を見たことを語った。ユングはそれが古代エジプト人にとって再生のシンボルであることを知っていた。患者が語っている時に診察室の窓辺でカタカタと音がした。ユングが窓を開けると飛び込んできたのは金色の甲虫、ハナムグリだった。それ以来、患者の合理主義的態度はほぐれ、治療は円滑に進んだ……。これは、偶然の一致だが、当事者にとっては大きな意味を有している。こうした事例は世間によくある。しかしそれらを、単に偶然の一致と片付けていいものか。意味のある偶然の一致≠ノは、宇宙に関する我々の知らない別の法則が隠されているのではないか。それがユングの考え続けたことだった。
ユングは、共同研究の相手として優秀な理論物理学者ヴォルフガング・パウリ(パウリの原理≠フ発見により一九四五年にノーベル物理学賞受賞)を選んだことからも明らかなように、シンクロニシティという概念によって、精神世界から物質世界へと橋をかけることをもくろんでいた。『シンクロニシティ』の著者ピートは、ユングの問題意識を受け継ぎ、シンクロニシティを成り立たせる現代科学の成果を次々に紹介する。
現代の量子論はニュートン流の因果律や力学体系をもってしては歯が立たない「根本的・絶対的な非決定論」に基盤を置いていること、物理学で言う因果律とは方程式と計算機によるシミュレーションの世界だけに存在する仮の現実にすぎないこと、個体になったり集合体になったりする変形菌は個の中に全体が含まれ得ることを自然界で証明していること、隠された協同秩序の例は非生物にもあてはまり、電子ガスのプラズマ振動や金属の超伝導、レーザー光線や超流動体にも見られること、非生物の力学的構造は生物のそれと多くの点を共有していること……。
そして、量子論のレベルでは観測者と観測対象の区分は不可能になり、物質をもはや抽象的対称性と秩序原理とでも呼ばざるを得なくなったが、人間の精神も、個人的抑圧などの主観的領域の下には、人間という種全体に属する客観的内容が隠されていると説く。
〈シンクロニシティは、できごとの同時生起によこたわっている、普遍的なものと個別的なものとの統一性によって特徴づけられています。(中略)素粒子が物質世界を超越するダンスによって維持されるのとちょうどおなじように、こころもまた、こころと物質の両者の彼方によこたわるダイナミクスによって維持されるのです。したがってこころと物質の彼方には、ものごとを生成させ活性化させる、パターンと対称性が存在するということです。シンクロニシティ現象が起こるとき、一瞬のあいだ、こうした領域にふれることが可能になり、偶然の連結のなかには、なにかあらゆる創造の核心に位置し存在のもっとも基本的なリズムにふれているような、真に普遍的なものがおりこまれていることがわかります〉
ここまでで半分である。かなり抽象的で難解な本だと言える。
このあと、シンクロニシティを世界観に据えた人間社会として、夢で狩猟をするカナダのナスカピ・インディアンの例や、占いですべてを決めた古代中国の商(殷《いん》)の文明を紹介し、一転して、最新の生物学や物理学の理論(形態形成場≠竍内蔵秩序=jにもシンクロニシティの概念が応用できることなどを示す。
しかし、水木との関わりで言えば、次の文章を引用しておくだけで充分かもしれない。
〈ある人生のさまざまなひとときに、あるいは地面にあるひとつまみの砂埃に、宇宙全体がおりこまれている。そしてその宇宙それ自体が、想像することも名づけることもできない創造性のあらわれなのです〉
〈人間の歴史のさまざまな時に、科学者、神秘家、詩人、芸術家は、創造的源泉の香りのいくらかをとらえては、その洞察を科学理論や、あたらしい詩的メタファーや、かたちと色彩の運動や、さらには音楽というまったくの抽象といったものへと、表現しようとしてきました〉
『シンクロニシティ』という本は、過去五百年の間に発達してきた科学的世界観とは異なる、もう一つの科学的$「界観を提示しようとしていた。要するに、この世界(宇宙)は、目に見えない別の世界(宇宙)を含んでおり、そこでは物質と精神の区別はないということである。人間はかつてそのことを知っていた(中国古代の商文明のように)し、今も自然と共存する少数民族は知っている(ナスカピ・インディアンのように)が、人間社会が因果律や時間の線的展開に基礎を置くようになって、心は体から、個人は社会から、社会は自然から、切り離されてしまうようになった。少数の人間がインスピレーションによって真実の世界の断片を感知することがあり、時にシンクロニシティによってその存在を垣間見ることがあるのみだ、というのである。
この本は私には興味深かった。水木が依拠しようと思えばできるもっともらしい学説が随所にちりばめられていた。しかし水木は、春頃だったか、「あの本、難しかったでしょ?」と言っただけで、少なくとも私との間ではシンクロニシティについてそれ以上の話はしなかった。ただ、以前にも増して「目に見えない世界はあるんです!」と力説し始めたのだった。そして、聞いてみると、「目に見えない世界」にいるのは相変わらず神や土俗神や妖怪や幽霊たちだった。
「妖怪をやってると、霊を避けて通れないんですよ。問題は、だから、その霊をどう解釈するかですよね」
どうやら水木は、微妙な境界線上に自分の活動の場を形成しようとしているようだった。最新科学の動向を横目で睨みながらも、結論は急がず、過程を楽しもうとしていた。
「ゲーテも、詩だけ書いてればよかった≠チて晩年になって言ってます。外部からの注文が多すぎたし、『ファウスト』の完成に取り憑かれてましたからね。私の場合だったら、絵だけ描いてればよかった≠ナしょう。妖怪に取り憑かれてて、結局は自分以外の強い力に従わされてるわけです。でも、快感もあるんです。食事やセックスと同じですよ。お化けを扱ってると快感を与えられるんです」
水木は立ち上がり、私も椅子から腰を上げた。すでに一時間半近く経過していて、別荘ではそろそろ布枝が帰り仕度を始めている頃だった。
他人の別荘から道路に出ると、水木は帰り道とは反対の方角に向かった。
「いいんです。もう少し歩きましょう」
座り込んでいた時間を取り戻そうとするかのように大股でグングン歩く。私は慌てて鞄を脇に抱え水木の後を追った。
小走りに枯葉の道を歩きながら、この一年間、何度自分は同じような恰好で水木を追いかけているのだろうと思った。境港で、五月の別荘で、アリゾナの岩山やカリフォルニアの森の中で、プール帰りに、宝塚の遊園地で……。それというのも、水木の体力が二十六歳年下の私を上回るほどだったからだ。いやおそらく、水木の知識や感受性や人間的度量やバランス感覚や洞察力、それにずるさやしたたかさも、私を上回っていたのだろう。だから私は、追いついたと思ったとたん、水木との距離を感じ、幾度も小走りを繰り返さざるを得なかったのだ。
一年あまり水木を追いかけてきて、妖怪を思わせる人物水木しげるの正体を把握できたとは正直思えなかった。ただ、水木の姿を見えにくくしていたベールの何枚かを、私なりに稀薄化したり巻き上げたりすることができた気がするだけである。少なくとも当初感じていた得体の知れない薄気味悪さは感じなくなった、と言い換えてもいい。
そして、水木のいるあたりから聞こえてくるのは強烈な生命力の叫びだった。食欲と性欲と睡眠欲と排泄欲に基づいた根源的な生命肯定のメッセージである。人の死≠竍不幸≠も取り込んで栄養素としてしまう、貪欲なまでの生の讃歌である。墓穴から這い出てきた鬼太郎の呱々《ここ》の声である。
「ワハハハ、私のことを書くなら一、二年じゃ無理です。五年は必要です」
と再度水木は言うだろうか。
「富士山を時々(伯耆富士と呼ばれる)大山《だいせん》と同じように思ってしまう」と告白する同郷の先輩は、私の二、三歩先を、力強く脇目もふらずに歩いていた──。
[#地付き]★文中敬称略
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エピローグ
水木氏が一人で飛び出して、シンシン(部族の祭り)の踊りの列に加わると、広場を囲んでいた二、三百人のトライ族の見物客がワッと歓声をあげた。笑い声が炸裂する。
広場はサッカー場ほどの大きさだった。そこだけ草地で三方は緑濃い熱帯の樹林。端の方に掘っ立て小屋のような家屋が何軒か並んでいる。かつてトペトロが住んでいた集落だ。
十数人の上半身裸の褐色の男たちが二列になって披露している踊りは前に見たことがあった。原色のラプラプ(腰巻き)をつけた腰を屈め、よじらせ、両手に持った綿棒のようなものを上下左右に動かす。水木氏の調布の自宅で見せてもらった五本のニューギニア紀行ビデオのうちの一本にその踊りは収めてあり、氏は「これ、戦時中もありましたよ。おそらく収穫を祈る踊りです」と説明した。
その時のビデオには晩年のトペトロも写っていた。痩せて、頬や胸の肉がたるみ、腹だけが異様に膨らんでいた。それ以前のビデオの堂々たる体躯、自信に満ちた表情動作からすると別人のような衰えようだった。
トペトロは一九九一年七月二十一日に心筋梗塞で死亡した。水木氏が出会った昭和二十年(一九四五年)に十四歳だったとすると、享年六十ということになる。
水木氏はトペトロが亡くなった時、仕事の都合ですぐにはラバウルへ行けなかった。約二ヵ月後に訪れた時は略式の葬儀を済ませ埋葬された後だった。従って、水木氏にとっても、トペトロの家族にとっても、今回の催しこそがかつての実力者トペトロの正式な葬儀ということになる。喪主役は、故人の親友パウロこと日本人水木しげる(武良茂)である。
「村人はみんな驚いてますよ」
でっぷり太ったメリー・パイブが私のそばにきて耳許で囁いた。
「水木さんの飛び入りのことですか?」
「いや、彼がこんなに立派な、伝統にのっとった葬式を執り行なっていることに対して、ですよ。誰もこんな盛大な儀式ができるなんて予想してなかった」
パイブはそう言ってチラッと後ろを見た。
筒太鼓や竹太鼓の楽団の後方に、小山のように品物が積み上げられていた。豚の丸焼き、魚の缶詰、米袋、箱入りの豚のあばら肉、山盛りのバナナ、ビートル・ナッツ(檳榔子《びんろうじ》)などなど。儀式の後で喪主である水木が参列者全員に配布する贈与品の数々だ。そして、組み立てた青竹の上に麗々しく飾られた合計十個のシェル・マネー(貝貨)。小さな白い巻き貝を竹ひごに通したそれは、束ねて太さ約二十センチ、直径約一・五メートルの輪になっていた。昔の貨幣だが、今も市場などでは使えるし、象徴的に富と権威を表わしている。近在の集落の倉庫からこの日のために大金を払って借りてきたのだ。
これらの品々をわずか二日間で村人に準備させ、村の重要人物の葬式を「同じトライ族として恥ずかしくないもの」に演出したのは、元ラバウル市長で現在パイブ旅行社の社長、つまり今回の旅のコーディネーターのメリー・パイブだった。
「水木さんもあなた方も、こんな立派な式ができたことを誇りに思っていい。もちろん、私がいたからこそ可能だったんですが」
パイブはさり気なく言って口の端で笑い、自分も踊りの列の中へと飛び込んだ。
最後列の水木氏の横で太鼓腹の元市長が踊り出すと、観衆はまたドッと沸いた。
水木氏とパイブは黒のラプラプに黒のTシャツという喪服姿だった。眺めている秘書の松久保君や私、月刊マンガ誌≪ビッグゴールド≫の編集者氏も同じ服装である。ビデオを回し写真を撮っている尚子さんと悦子さんは、黒のラプラプの上に黒いムームー風のワンピースという女性用の喪服。トペトロの遺族の中では三人の息子のみが喪服姿だった。
やがて、水木氏が戻ってきて言った。
「いやァ、体が自然に動いて止まらんのです。妙なもんです。勝手に動くんです」
心《しん》から楽しそうに頬を紅潮させた。
※ ※
水木氏とともにパプアニューギニアのニューブリテン島ラバウルを訪れたのは、平成六年(一九九四年)の七月十八日のことだった。
本書の取材は前年(一九九三年)に終了、原稿も年が明けた春にはほぼ書き終えていた。だが、七月のニューギニア旅行は他ならぬトペトロの葬儀のためである。できれば一緒に行ってみたかった。水木氏が激烈な青春時代を送った戦地ラバウルを自分の目で確認し、後年の南方憧憬≠育んだ土地を実際に歩き、因縁のトペトロの葬儀に出席する(当初は参列だけだと水木氏も私も考えていた)様子をぜひ見ておきたい、そう思ったのだ。
私はもともと本書を水木しげる同行記のつもりで執筆した。水木マンガ論を書くのは最初から自分の役目ではないとわかっていた。時系列に沿った伝記も、すでに自伝が五冊(今回の旅行の直前に収容所時代の鉛筆画を中心とした絵物語風の自伝『水木しげるのラバウル戦記』が筑摩書房より刊行されて計五冊になった!)もある以上、必要とは思えなかった。私が試みたのは、七十歳を越した水木氏に一定期間付き添い、どこへでも同行してその言動を書き留め、うちいくつかの点について自分なりの考察を加えて、魅力的ではあるが正体のよくわからない妖怪のような人物の実像に、少しでも迫ることだった。
そうなると、同行記の締め括《くく》りとしてはやはり戦争体験の地ラバウルがふさわしい。ただしそれまでに若干の時間的猶予があった。その間に水木氏の周辺では、当然のことながら、いろいろなことが起こった。
まず二月、アシスタントの森野君が水木プロを辞め、マンガ家としてデビューすることになった(第一作は月刊≪マンガボーイズ≫八月創刊号の『地獄童子』、編集長は奇しくも講談社を退職した内田勝氏である)。
三月、水木氏は、夢判断で生活を律し夢で精霊と交信するというマレーシア先住民セノイ族を、ノンフィクション作家大泉実成氏と訪ねた。セノイ族の精霊像約百五十体を入手。
四月十六日、二週間近く意識不明だった母親琴江さんが脳血管障害で死去。九十四歳だった。告別式では水木氏が喪主を務めた。
五月、補充のアシスタントを一人雇った。秘書の松久保君が水木プロを離れ、この頃から次女の悦子さんが徐々に秘書役を開始した(松久保君の姉でデザイナーの頼子さんも水木プロの仕事の傍ら悦子さんを補佐)。
七月、「水木しげるロード」の第二期工事が終了した。水木氏は境港に帰って除幕式に出席した。なお、この年は宝塚ファミリーランド恒例の鬼太郎のお化け大会は休止。
そして、ラバウル旅行の一員に加えてもらった私は七月十七日、成田空港で水木氏と母上の葬儀以来三カ月ぶりに再会し、日本航空775便に乗り込んだのである。
ところが、丸一晩飛行機を乗り継いでラバウルに着いてみると、現地の事情は前もって聞いていたものとだいぶ違っていた。
前回の訪問で水木氏は「必ず一九九四年の葬式にはきてくれ」と息子たちに言われ、尚子さんも念のため今回の来訪を手紙で知らせておいたのに、トペトロの葬式の準備がまったくできていなかったのだ。理由は、資金不足だった。トライ族流の格式ある葬儀を行なうには、墓前で弔意を表した後、村内の広場でシンシンを催し、集会者全員に充分な食物をふるまうなど、かなりの資金を必要とするが、現在の遺族にはその貯えがないのだ。「手紙で今回の訪問は見合わせてくれるよう書こうと思った。でも、その前にあなたたちがきてしまって……」と息子たちは言う始末。
そこで水木氏は、以前ツアー・ガイドを頼んだことがあるメリー・パイブに相談した。三期六年ラバウル市長を務めたことのあるパイブは、水木氏が資金を肩代わりするという条件で、「私に任せなさい」と胸を叩いた。
翌日、水木氏はラバウル郊外のトペトロのいた村を訪ねた。集まってきた遺族や村人たちと握手を交わし、顔の見えない知人たちの消息を尋ね(氏のピジン語は予想していたのより流暢だった)、十人近い遺族たちには持参の土産物を手渡した。封筒入りの現金(日本円にして一人当たり約二万円)、紙袋いっぱいのTシャツ、各自にデジタル時計や電卓、などだ。トペトロの写っているアルバム二冊を回覧させると、とりあえず一段落である。
無表情に品物を受け取っていた(水木氏によればいつもそうだと言う)遺族たちは、やがて始まったパイブの演説に聞き入った。
大演説、だったはずだ。部族語なのでわからなかったが、パイブが厳しい表情を崩さず大声で長々と話すと、人々は神妙な顔つきになって俯き、しきりに頷き始めたからだ。
かくしてトライ族の部族的自尊心は著しく覚醒させられたようだった。トペトロの葬儀に「いちおう参加するつもり」だった水木氏は、この瞬間、最近村でも珍しくなった本格的な葬送の儀の主催者に祭り上げられたのである。
「ここでは、次に何がどうなるのかよくわからんのです。あらゆることに対処できる心の準備が必要です。ワハハハ」
傍目にも決定的な村人とのコミュニケーション不足を、水木氏は、持ち前の柔軟性でやすやすと乗り切った。その根底にある「他人に多くを期待しない(期待すると失望も大きい)」という考えは、小学校卒業以降の水木氏を支えてきた自立の思想でもある。
※ ※
パイブの指示で村人たちが葬儀の準備に追われていた二日間、我々一行はラバウル周辺の戦跡巡りをしたり、船に乗ってラバウル湾内を周航したり、山の上のバイニング族の火祭りを見物に出かけたりした。
このうち水木氏にとって特に重要だったのがバイニング族の村の訪問だった。
バイニング族はニューブリテン島北東部の先住民族で、北隣のニューアイルランド島から渡ってきたトライ族の侵入を受け山間部に住むようになった。それだけに現代文明の受容もトライ族の村ほどではなく、昔ながらの生活文化を数多く残している。一番よく知られているのは燃え盛る火の上を裸足で歩いて勇気を誇示する夜中の火祭りだが、五年前に一度見ている水木氏の関心は、祭りで彼らがかぶる奇妙な大型の仮面にあった。いずれできる妖怪博物館の展示用に買い付けたいのだ。「水木さんの旅は必ず一石二鳥か三鳥」なのである。仮面の購入は、トペトロの葬儀に負けず劣らず大切な今回の旅の目的の一つだった。
買い付けのための小旅行には、水木氏と私とパイブの三人だけで出かけた。ラバウルから車で一時間半近くかかる山の中だった。
「ああ、ここは戦時中の風景に近いです」
バイニング族の村に入ると、水木氏は足を止めて言った。
トライ族の家と比べると一回り小さな家々だった。屋根の多くはトタン板ではなくニッパ椰子、壁も椰子の葉を丁寧に編んだもの。広い庭のある数軒の鄙《ひな》びた家がそこここに散らばっていて、それぞれが埋もれるように密林に囲い込まれていた。
村人が畑から戻るまでしばらく待つことになったが、その間水木氏は溜めていたエネルギーを発散させるかのように付近を散策した。カメラ片手に炊事場の中を覗き、道具の一つ一つを点検し、小屋から小屋へ見て歩く。動作が機敏になり、溌剌としていた。
ラバウルに到着してからの水木氏は余裕の塊《かたまり》で好奇心を露《あらわ》にすることはなかった。ココポの戦争博物館で壊れた零戦や赤錆びた鉄帽を前にした時もそうだった。我々を引き連れ、名誉軍人部があったナマレ渓谷(現地で購入した地図を見ると|R《ラ》A|M《マ》A|L《レ》Eとなっていた)を訪ね、自分が潜んでいた防空壕まで案内してくれた時も、冷静そのものだった。すでに何度も訪れている場所だから、と言えばその通りなのだが、それだけではないような気がした。
大体、と私は思った。トペトロのいた村というのが、昔と同じ村ではないのだ。戦争中トペトロたちの暮らしていた村は、ナマレ渓谷近くの丘の上にあった。ところが戦後水木氏が再訪した時、村は現在の場所に移転していた。老婆イカリアンや、トユトとエプペの新婚夫婦、少年トペトロが住んでいて、飢餓状態の水木氏に腹いっぱい食べさせてくれ、「パウロ」と呼んで親切にしてくれた「天国のような村」は、密林の中に打ち棄てられ廃村となっていた。それでもトペトロが生きている間はまだお互いの中に思い出と絆があったが、イカリアンやエプペ夫婦が死に、トペトロも死んでしまった今となっては、「天国」の記憶はもはや水木氏の頭の中にしかない。
水木氏は、広場の外をひっきりなしに車が走るトライ族の村ではなく、山の中のバイニング族の村にやってきて、久しぶりに懐しい記憶を刺激されたのだろう……。
「写真撮ってくれますか?」
私は水木氏に請われカメラを受け取った。それ全体が一つの生物のように繁茂する植物とささやかな人間の住居を背景にして満ち足りた笑顔を見せる水木氏。何度かシャッターを切った。水木氏の洋服を旧日本軍兵士の軍装に変えれば、五十年前の写真といっても通用しそうな絵柄だった。時間が止まっていた。
私は水木氏を幸福な人だと思った。約一年間の取材中もそうした思いを抱かなかったわけではないが、この時ほどつくづくと感じたことはなかった。
水木しげるという人はいつどこにいても自分の心を楽しませるものを即座に見つけ出すことができる、だから幸せなのだと思った。
先の大戦中に南方戦線に派遣された二百万を越す日本軍兵士の中で、「地獄の戦場で天国を見た」とハッキリ断言できる人が何人いるだろう。普通なら原住民の村は徴発(略奪)の対象でしかない。たとえ原住民との間に水木氏と同様の友好的な交流があったとしても、例外的な体験として片付けてしまうのがオチだ。戦死した戦友たちや戦争全体の性格などを思えば、「天国だった」とは言いにくい。
ところが水木氏の場合は、不本意な戦争だったからこそ、古兵に殴られ戦友が斃《たお》れ飢餓やマラリアにのたうち片腕を吹き飛ばされる地獄の日々だったからこそ、垣間《かいま》見た原住民の村は紛れもなく「楽園」であり「天国」だったのだ。一日に二時間ほどしか働かず、のんびり寝そべって芋や果物をたらふく食べ、さまざまな森の精霊の登場する祭りでは我を忘れて熱狂して踊り、大自然とうまく折り合いをつけながら楽しく暮らす大地の人々の村……。
水木氏が強く興味を惹かれる世界というのは、本来それほど大それたものではなかった。水木氏はこれまで、科学技術の進歩に夢を託したこともなければ、理想社会の実現に奔走したこともない。学問的真理の探究に情熱を感じたことはなかったし、芸術に溺れたこともない。権力志向とは無縁だった。色恋沙汰とも縁がなかった。事業欲もほとんどない。金銭は、なるほど資本主義社会に生活する限り重要だと考えていたが、「せいぜい百歳ぐらいまでしか生きられないのだから、あくせく稼いでもあまり意味がない」と思い定めてきた。
水木氏が「天国」と感じた社会はかつて地球上に確かに実在した。幼少年時代の境港がそうであり、少年トペトロの住むトライ族の村がそうだった。そこでは人間が基本的にのん気にゆったりと暮らしており、時折ドキドキワクワクするような魑魅魍魎《ちみもうりよう》の世界(人間世界を超越した精霊世界)との邂逅があった。
そのような「天国」ないしは「楽園」の断片は現在でも世界各地に残っている。忙しすぎる現代人が気付かないだけだ。人類の歴史は、九割九分までがそうした妖怪(精霊)との共存時代、つまり人間が自然の一部として風景に溶け込んでいた時代だったのだ……。
「これ、私、全部買います」
「えっ? 四十個ぐらいありますよ」
「いいです」
やがて連れて行かれた森の奥で、火祭りの仮面を見るなり水木氏は言った。
そこは木を伐採して作った仮面置場だった。トタン屋根の下に、その夜の祭りのために近在のバイニング族の村から集めた仮面が四十個余り安置してあった。一個ずつ木の棒の上に乗せてあり、どれも縦横《たてよこ》一メートル以上の大きさ。巨大な目玉とアヒルのような嘴《くちばし》を持った白地の面で、おのおの形と模様が微妙に異なっていた。
それは、私が初めて水木プロを訪れた時に、緊張と混乱で冷汗をかいていた私をジッと見下ろしていた、応接室の壁の「奇怪な土俗面」そのものだった。
※ ※
トゥブアン(秩序をつかさどる精霊)の踊りと、二組の男たちの踊りが終わると、あとはもう広場に集まっていた観衆に食物を配布するだけだった。
食物を配る役は女性と決められていたが、尚子さんと悦子さん、それにトペトロの長女や息子の嫁たちではとても人手が足りず、私や松久保君や雑誌編集者氏も手伝った。
トライ族の家庭では今でもタロイモ、ヤムイモ、サツマイモ、タピオカといった芋類が主食、肉類はほとんど食べない。ことに豚肉は特別な儀式の時しか供されない御馳走だから大変な人気だった。相好を崩し、手を脂《あぶら》まみれにして持参の椰子の葉製バッグに生肉を押し込む。中にはチャッカリした者もいて、子供を何度も貰いに行かせたり、満杯のバッグをスカートに隠してまだ貰ってないように装ったり……、村人たちがこぞって参加する愉快なゲームなのだ。
水木氏はそんな光景をニコニコしながら眺め、もっぱらカメラマン役に徹していた。
この日の午前中水木氏は、村から少し離れた林の中のトペトロの墓の前で過ごしている。日本人一行六人を代表して般若心経を唱え、献花をした。その後、村人の讃美歌の合唱と牧師の説教(ラバウルのトライ族の大半はプロテスタントのメソジスト派信徒)を聞き、墓地の空地で約五十名の参列者全員と食事をとった。
そして午後はシンシンの開催。つまりトペトロの三回目の命日に合わせて日本から駆けつけ、予定外だったとは言え丸一日かけて伝統的な葬儀を主催し、その全費用を自分が負担して、戦争中の一時期自分に食料を運んでくれた男の霊を弔《とむら》ったわけである。パイブが「立派な式でした」と念を押すまでもなく、申し分のない供養と言えるだろう。
私が人間水木しげるを意識した発端は、もちろん郷土の大先輩だったからだ。同じ境港で、同じ海、同じ山、同じ砂地の畑や黒松林を見て育ちながら、なぜ異端のマンガ作品群(妖怪、諷刺、戦記など)に自らを託すことができたのか、託さざるを得なかったのかと常々不思議に思っていた。
本文に記したように、いまだその疑問の全部が解けたわけではない。しかし、一回同行すれば一回同行した分だけ、確実に水木氏に対する興味は増して行った。
水木氏は「幸福度から言えば、世の中で奇人変人と呼ばれていた人の方が幸福だった」と考えている。だからついつい水木氏自身も奇人変人を演じてしまうところがある。けれども、騙されてはいけない。奇人変人(例えば南方熊楠)の人生をキチンと作品に仕上げる奇人変人など、果たしているだろうか。
水木氏は醒めている。醒めながら、水木妖怪学の確立≠ニいうとんでもないものを自分の人生の目標に据え、そこへ向かって邁進している。「バカげた人生だ」と考える人もいるだろう。しかし、これまでの座標軸が大きく揺らぎ、自らの方向性を見失ってしまった人が多い今日、水木氏ほど充実した人生を送っている人は数少ないのではなかろうか。しかも、水木妖怪学≠ネるもの、まんざら荒唐無稽とは言えず、もしかすると意外な奥行きと広がりを持っているかもしれない。
我々はそこから何を学ぶべきなのか。戦争や貧困を潜り抜けてきた同時代人の開き直った知恵か、それとも徹頭徹尾自前の人生を生き切ろうとする一個人の明確な意志か……。それにしても、水木氏と接している間に何度となく覚える、心がほぐれてゆくようなこの懐しい感情は何なのか……。
「パウロ!」
マイクロバスに乗って広場を去る時、埃《ほこり》の舞う道を行く何人もの村人が声をかけた。
パウロは異教徒の使徒≠ニ呼ばれる聖者である。時ならぬ贈り物を手にした村人にとって、今回の水木氏はまさに異教徒の使徒≠思わせる存在だったに違いない。
車の中で水木氏は、打ち振られる黒い手に対し、小さく鷹揚に何度も頷いていた。
☆「ひつこい」取材を許し、長期にわたって貴重な時間を割いていただいた水木しげる氏に、衷心より感謝の意を表します。御家族、水木プロの皆様、失礼な箇処があるかもしれませんが、どうか御容赦下さい。取材でお話を伺ったたくさんの方々には、この場を借りて改めて御礼を申し上げます。なお、引用ならびに参照させていただいた書籍は、巻末に一括して掲載しておきました。
[#地付き]足立倫行
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■参考文献
●水木しげる作品
『ねぼけ人生』(昭51、ちくま文庫、筑摩書房)
『のんのんばあとオレ』(昭52、ちくま少年図書館、筑摩書房)
『ほんまにオレはアホやろか』(昭53、ポプラ社)
『娘に語るお父さんの戦記』(昭57、河出文庫、河出書房)
『妖怪天国』(平4、筑摩書房)
『水木しげるのラバウル戦記』(平6、筑摩書房)
『昭和史(全8巻)』(昭63〜昭64、コミックス、講談社)
『水木しげる戦記ドキュメンタリー(全4巻)』(平3〜平4、コミックス、講談社)
『妖怪画談』(平4、岩波新書、岩波書店)
『続妖怪画談』(平5、岩波新書、岩波書店)
『幽霊画談』(平6、岩波新書、岩波書店)
『のんのんばあとオレ@A』(平4、コミックス、講談社)
『妖怪博士の朝食@A』(平6、ビッグゴールド・コミックス、小学館)
『異界への旅 水木しげる作品集1』(平2、中央公論社)
『諷刺の愉しみ 水木しげる作品集2』(平2、中央公論社)
『河童の三平』(平4、中央公論社)
『猫楠(上、下)』(平3〜平4、講談社)
『現代漫画5 水木しげる集』(昭44、筑摩書房)
『墓場鬼太郎@AB』(昭51、サラ文庫、二見書房)
『水木しげるの妖怪文庫』(昭59、河出文庫、河出書房新社)
『水木しげるの〈雨月物語〉』(昭60、河出文庫、河出書房新社)
『ねずみ男の冒険』(昭61、ちくま文庫、筑摩書房)
『妖怪たちの物語』(昭61、ちくま文庫、筑摩書房)
『悪魔くん千年王国(全)』(昭63、ちくま文庫、筑摩書房)
『劇画近藤勇』(平1、ちくま文庫、筑摩書房)
『あの世の事典』(平1、ちくま文庫、筑摩書房)
『劇画ヒットラー』(平2、ちくま文庫、筑摩書房)
『鬼太郎のお化け旅行』(平3、ちくま文庫、筑摩書房)
『鬼太郎夜話(全)』(平4、ちくま文庫、筑摩書房)
『縄文少年ヨギ』(平4、ちくま文庫、筑摩書房)
『河童千一夜』(平5、ちくま文庫、筑摩書房)
『幽霊艦長』(平5、ちくま文庫、筑摩書房)
『ゲゲゲの鬼太郎(全7巻)』(平6、ちくま文庫、筑摩書房)
『悪魔くん(上、中、下)』(昭60、桜井文庫、東考社)
●水木作品及び人物に関する研究
『水木しげる画業四○周年』(平2、伊藤徹編、籠目舎)
『忍法秘話傑作選』(平4、籠目舎編、水木しげる叢書、青林堂)
『黒のマガジン傑作集(I・II)』(平4、籠目舎編、水木しげる叢書、青林堂)
『劇画No.1傑作集』(平5、籠目舎編、水木しげる叢書、青林堂)
月刊『ガロ(水木しげる特集2)』(平成5年1月号、青林堂)
『水木伝説IX(ねずみ男特集)』(平4、瀬戸信行編、水木伝説)
会報『フハッ(第30号、第31号)』(平5、瀬戸信行、馬場茂幸編、水木伝説)
『水木伝説X(妖怪百物語)』(平5、瀬戸信行編、水木伝説)
『別冊新評(水木しげるの世界)』(昭和55年秋季号、新評社)
『水木しげると日本の妖怪』(平5、カタログ編集委員会編、NHKプロモーション)
週刊『アサヒグラフ(水木しげるの世界)』(平成5年12月10日号、朝日新聞社)
●マンガ史・マンガ論・マンガ家関連
『「漫画少年」と赤本マンガ』(平1、清水勲、ゾーオン社)
『日本漫画史』(昭63、石子順、現代教養文庫、社会思想社)
『「ガロ」編集長』(昭62、長井勝一、ちくま文庫、筑摩書房)
『ガロを築いた人々』(平5、権藤晋、ほるぷ出版)
『ぼくは劇画の仕掛人だった』(昭53、桜井昌一、エイプリル出版)
『劇画私史三十年』(昭59、佐藤まさあき、桜井文庫、東考社)
『劇画大学』(昭43、辰巳ヨシヒロ、ヒロ書房)
『少年マンガ画報』(平5、高取英・喜国雅彦、ファラオ企画)
『現代マンガの全体像(増補版)』(平2、呉智英、史輝出版)
『マンガ家になるには(新版)』(平5、呉智英、ぺりかん社)
『知識的大衆諸君、これもマンガだ』(平3、関川夏央、文藝春秋)
『マンガ批評体系@』(平1、竹内オサム・村上智房編、平凡社)
『夏目房之介の漫画学』(平4、夏目房之介、ちくま文庫、筑摩書房)
『少年少女マンガ ベスト100』(平4、文藝春秋編、文春文庫ビジュアル版、文藝春秋)
『妖怪マンガ恐怖読本』(平2、文藝春秋編、文春文庫ビジュアル版、文藝春秋)
『貸本怪談まんが傑作選(妖の巻)』(平3、菊地秀行編、立風書房)
『さらばわが青春の「少年ジャンプ」』(平6、西村繁男、飛鳥新社)
『ねじ式・紅い花』(昭63、つげ義春、小学館叢書、小学館)
『新版つげ義春とぼく』(平4、つげ義春、新潮文庫、新潮社)
『つげ義春漫画術(上)』(平5、つげ義春・権藤晋、ワイズ出版)
『つげ義春日記』(昭58、つげ義春、講談社)
『総集版無能の人』(昭62、つげ義春、日本文芸社)
『一億人の手塚治虫』(平1、一億人の手塚治虫編集委員会編、JICC出版局)
『手塚治虫物語(漫画の夢、アニメの夢)』(平4、伴俊男・手塚プロダクション、朝日新聞社)
『手塚治虫大全@A』(平4、手塚治虫、マガジンハウス)
『ぼくはマンガ家@』(昭54、手塚治虫、大和書房)
『ガラスの地球を救え』(平1、手塚治虫、光文社)
『手塚治虫はどこにいる』(平4、夏目房之介、ちくまライブラリー、筑摩書房)
『W3《ワンダースリー》@A』(昭55、手塚治虫、手塚治虫漫画全集、講談社)
『ファウスト』(昭54、手塚治虫、手塚治虫漫画全集、講談社)
『ネオ・ファウスト』(平4、手塚治虫、朝日文庫、朝日新聞社)
『まんが家インタビュー オレのまんが道(I・II)』(平1〜平2、根岸康雄・少年サンデー編集部、少年サンデーブックス、小学館)
『第2期現代漫画11 戦争漫画傑作集』(昭45、筑摩書房)
●妖怪関連
『柳田國男全集6』(平1、柳田國男、ちくま文庫、筑摩書房)
『新文芸読本 柳田國男』(平4、河出書房新社)
『妖怪の民俗学』(平2、宮田登、同時代ライブラリー、岩波書店)
『妖怪草紙』(昭62、荒俣宏・小松和彦、工作舎)
『他界への冒険』(平5、小松和彦・立松和平、光文社文庫、光文社)
『怪物の王国』(昭63、倉本四郎、ちくまプリマーブックス、筑摩書房)
『日本の幽霊』(昭63、諏訪春雄、岩波新書、岩波書店)
『恐怖夜話おばけの本』(平3、平野威馬雄、廣済堂文庫、廣済堂出版)
『小泉八雲 怪談奇談集(上、下)』(昭63、森亮他訳、河出文庫、河出書房新社)
『怪談の科学』(昭63、中村希明、ブルーバックス、講談社)
『図説日本の妖怪』(平2、岩井宏實監・近藤雅樹編、河出書房新社)
『図説日本仏教の世界5(地獄と極楽)』(昭63、金岡秀友、宮田登他、集英社)
●その他
『戦史叢書陸海軍年表』(昭55、防衛庁防衛研修所戦史部、朝雲新聞社)
『日本陸海軍総合事典』(平3、秦郁彦編、東京大学出版会)
『臨時増刊歴史と旅(太平洋戦史総覧)』(平成3年9月5日号、秋田書店)
『責任 ラバウルの将軍今村均』(昭59、角田房子、新潮社)
『新聞記者が語りつぐ戦争4(ニューギニア)』(平成4、読売新聞大阪本社社会部編、新風書房)
『ホピ 精霊たちの大地』(平5、青木やよひ、PHP研究所)
『増補米国先住民の歴史』(昭61、清水和久、明石書店)
『コヨーテは赤い月に吠える』(平4、本間正樹、文藝春秋)
『アメリカ・インディアン神話』(平2、C・バーランド著、松田幸雄訳、青土社)
『紙芝居昭和史』(昭46、加太こうじ、立風書房)
『街の芸術論』(昭44、加太こうじ、社会思想社)
『サボテンの花』(平5、加太こうじ、廣済堂文庫、廣済堂出版)
『戦後日本の大衆文化史』(平3、鶴見俊輔、同時代ライブラリー、岩波書店)
『日本人の全世代読本』(平4、三橋一夫、毎日新聞社)
『日本傷痍軍人會拾五年史』(昭42、日本傷痍軍人会編、日本傷痍軍人会)
『障害者雇用制度の確立をめざして』(昭57、児島美都子、法律文化社)
『ゲーテ』(昭56、星野慎一、センチュリーブックス、清水書院)
『ゲーテの言葉』(平2、高橋健二訳編、人生の知恵シリーズ、彌生書房)
『ゲーテとの対話(上、中、下)』(昭43、J・P・エッカーマン著、山下肇訳、岩波文庫、岩波書店)
『シーシュポスの神話』(昭44、A・カミュ著、清水徹訳、新潮文庫、新潮社)
『境港 昔と今』(昭59、境港市)
『弓浜民談抄』(昭48、佐々木謙、稲葉書房)
『弓浜物語』(平1、畠中弘、伯耆文庫、今井書店)
『境港市史(上、下)』(昭61、境港市市史編さん室、境港市)
『境港市三十五周年史』(平3、境港市市史編さん室、境港市)
『島根県観光事典』(昭59、島根県観光事典編集委員会、島根県観光連盟)
『山陰歴史散歩』(昭47、徳永真一郎、創元社)
『日本の民俗 鳥取』(昭47、四宮守正、第一法規出版)
『私たちの相模原』(昭56、相模原市教育研究所、相模原市教育委員会)
『シンクロニシティ』(平1、F・D・ピート著、管啓次郎訳、朝日出版社)
『ホーキング、宇宙を語る』(平1、S・W・ホーキング著、林一訳、早川書房)
単行本 一九九四年十月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成九年九月十日刊