TITLE : 人は道草を食って生きる
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人は道草を食って生きる
人は道草を食って生きる・目次
T道草のススメ
直線と螺旋
大人とこどもの間
こどもに習う。人間と言語
人は皆星の子
U行き当たりばったり
十八歳の区切り
がっしりした木の机
キーワードは「行き当たりばったり」習作時代
振り出しに戻る
先送りの方程式
こどもの楽園と戦争
ケンカ歴
文章の素読と絵画の模写
文芸も理数も人間の言語
方言は人間の美しい生態系
貧乏という名の贈り物――娘への手紙
三十五にして酒に開眼
V貧乏旅行に如かず
初めての洋行
貧乏旅行に如かず
トリッキーなカントリー・ハウス
カフェ・カルメン
雲湧き、松繁る出雲
川を歩く 四十年目の遡行
そばと風土感
W銀幕の一期一会
映画館で映画を見る
終戦時の黒澤映画と僕
「負」の価値を知れば、人は心安まる
映画―道―人生
銀幕の一期一会
ジェラール・フィリップ、気品あふれる美神の寵児
映画の食卓
風土・風景・気質
X道端のキャッチボール
何もなかったが野球があった
道端のキャッチボール
西鉄ライオンズ 時代の風雲と「場」の申し子
ホームラン・アーチスト
サヨナラホームラン――勝者と敗者の一瞬の詩
ベースボールことば遊び
アメリカ野球映画散策
プロ野球開幕近し。されど……
T 道草のススメ
直線と螺旋
人は何を食って生きてゆくのか。道草を食って生きてゆく。道草こそが、人が生きるうえで最良の滋味あふれる栄養源である。
今、七十年に近い僕の半生をかえりみると、そのすべてが螺旋状あるいは葛折状の軌跡を描いて続いてきたように見える。そして、そのすべてに「道草」の名を与えてよいように思える。これからもそうだろう。
しかし、ここでことばの矛盾を思い知る。すべてが道草なら、道草なる語は使えないのではないか。なぜならこの語は、本道あるいは主目的といったものを想定したさいに初めて、それを外れるものとしてあるものだから。いったい、おまえの本道なり生きる主目的は何なのだ。
こう聞かれたら、僕は躊躇なく答える。「そんなものはない」
かくして僕は、このことばの矛盾を死ぬまで解決することができないだろう。
人生に目的はあるだろうか。そんなものはないし、考えないほうがいいと思う。ビッグバンに始まった宇宙の生成に目的や意図がなかったと同じように、その末の星の成分から生命を帯びている人間個々も、目的や意図をもって生まれてきたわけではない。生物として生まれたから生きてゆくだけだ。人生論というものに僕は関心が向かない。
ただ、人間だから、真偽、善悪、美醜を自分なりに峻別するセンスは培っていきたい。それを培う場は、「人生の目的」と錯覚されているものへの人為的直線的な突進ではなく、螺旋状にふくらむ道草の中にこそあると思う。
この稿では、それをもう少し敷衍してみようと思う。
「道草」というテーマで一文を草しようとしてこれだけ書き、一息入れようとペンを置いてから、だいぶ時間が経つ。何をしていたのか。このテーマにいちばん忠実な行為にはまっていたのである。道草を食っていたのだ。原稿の締切りまでにあまり余裕はないというのにである。
書斎には、散歩の途中で買ったり頼んで取り寄せたり贈られたりして、まだ目を通していない本がけっこう積んである。ふと一冊に目が行って手に取り、ぱらぱらとめくる。そしていつしか本腰を入れて読み始めている。別にこれは、ぜひ今読まなければならぬ本ではないのだ。ぜひ今しなければならぬのは、「道草」というテーマで一文を草するために、ペンを手にして原稿用紙に向かうことだ。
それに気付いて本を閉じる。本を戻した近くに、何度も見た、アメリカで買ってきた何冊かのベースボールの写真集がある。ついそれを抜き取ってまた眺め始める。写真を眺めていくだけだからたいして時間はかからないという安心感がある。
それも済んだ。さあ書き始めよう。と心してペンをとった指先を眺めると、思いのほか爪が伸びているのに気付く。ペンを置いて爪切りを取り出す。
それも済んでいよいよというとき、突然、妙な反省が首をもたげる。
――確か、歯ブラシの買い置きがなかった。今使っているのはそろそろお役御免にしなければ、歯茎を傷める。こういうことはつい忘れるから、思い付いたときに買っておこう。このところ散歩も足りないし。
歯ブラシを買いかたがた散歩に出る。道すがら本屋に入ってしまい、しばし遊弋した後で雑誌を買う。家に帰って書斎に入り仕事机に向かうが、せっかく買って帰ったのだからと、まず雑誌をめくり始める。
書斎のドアが少し開いて、家人が顔をのぞかせる。
「ひと休みして、お抹茶、どう?」
悪くない。いや、ひと休みもふた休みもしっぱなしなのだが、ここいらでお抹茶でもいただいて、気分を整えてから仕事にかかるとするか。
雑誌を閉じて立ち上がり、茶の間に向かう。
僕としては珍しいことだ。実は小説を書き始めようとするときには、それが長いものであれ短いものであれいつもこうなのだが、今度のようにエッセイを書こうというときに、あれこれ道草を食うのは珍しい。
小説の場合は、あらかじめある程度構想ができていても、一行目、あるいは最初の数行をどう書き出すかが、その小説の出来栄え、あるいはその小説の世界の展開に大きく影響する、ような気がする。書き出してしまえば後はどうということもないのだが、それまでがあれにするかこれにするかと優柔不断右顧左眄、挙句の果てはいったん作業を休み、いつのまにか右に列挙したような道草を食い始めていることが多い。そうしながらも、いや、そうすることによって、なすべき作業への集中力、求心力を徐々に昂めているのである、という言い訳も成り立つような気がする。
ところがエッセイにとりかかるときは、そんなことはめったにないのである。テーマさえ決まっていれば、ペンは素直にすらすらと滑り始める。それなのにこれはいったいどうしたことか。
そのわけは自明だった。書こうと思い立ったエッセイのテーマが「道草」だからだ。これこそ自縄自縛というべし。そんなもの書かなければいいではないかと言われそうだが、やっぱりこのテーマで書いておきたいのだ。
今、やっと書き始めている。それにしても今という時代は、のろまな人間はついていけない世の中になってきた。のろまな人間ほどまた、道草にふける傾向も強いものだから、困ってしまう。
ともあれ今の社会は、こどもも含めて、道草を楽しみ、そうしながら人間がゆるやかに成長していくというような余地がなくなっているのではないか。無駄な道草なんか食わずに真っ直ぐに、ひたすら真っ直ぐに、速く。しかし、何に向かって?
こんなことに僕が強くこだわるようになったのは、ついここ二十年か三十年ほど前からのことだ。それまでもいくぶんは感じていたことだが、今度のように、やっぱり書いておきたいと思うまでに強いものではなかった。
齢のせいだろうか。自分自身の体の動きや頭の閃きが鈍くなり、集中力が衰え始めたせいだろうか。人からそういわれそうなので、先手を打ってまず自問してみる。
それも少しはある、と答えなければならないだろう。しかし問題の本質は、一老人の個人的事情を超えたところにある。
三十年ほど前といえば、七〇年安保と、同年の大阪の万博に続いて思い出すことがある。その二年後の一九七二年に、当時の現役の総理大臣によって、『日本列島改造論』という本が出てベストセラーとなった。確か、首相に就任してまもなくのことだった。引退した大物政治家の回顧録がベストセラーに顔を出す例は外国でもよくあるが、就任早々の施政方針演説のような本がベストセラーになるというような例は、おそらくなかったのではないか。これが政府の政策の中心になることは明らかだった。
この本の建前は、それまでの高度経済成長のもたらした、日本列島の過密と過疎を同時に解消し、百年構想の基礎をつくるというものだった。首都圏、近畿圏、中部圏に集中している大工場の過疎地への移転を促進する。それに伴って地方に中規模の都市を建設する。高速道路網と新幹線を増やす。
その一方では、農業の再生にも言及し、食糧自給率の向上も説いていた。
そういうことをいっぺんにやろうとして走り出したのだから大変だ。大規模建設事業に国家予算と民間資本が注がれ、日本中が鉄とコンクリートによる「工事中」となった。
港湾設備がどんどん拡大し、陸揚げした石油や原材などを運ぶために巨大な橋を架け、幹線道路を都市の真ん中にも走らせ、工業用水を主眼とした沢山のダムの建設に着手し、各地に工業団地を誘致した。
結果はどうだっただろうか。まず地価が列島改造論を先取りして高騰し、大資本が土地を買い占め、折からの石油危機などもあってインフレーションが起きる。経済成長は鈍り、多くのものが、「工事中」のまま残った。改造論では同時にめざしていたはずの、農業の再生と食糧自給率の向上も絵に描いた餅となった。
いや、こんな慣れない政治、経済に触れる事柄を、のっけから長ながと書くつもりはなかった。とんだ道草をしたものだ。ただ、ここまでは最低限必要だった。というのは、初めに書いた「こんなことに僕が強くこだわるようになったのは、ついここ二、三十年ほど前からのこと」のきっかけとなったものを探って確かめておきたかったのである。
一市民の生活実感としては、結局あのあたりから、以前にも増して何かにつけ、真っ直ぐに、速く、無駄を省いて効率よくといった、工場内の標語のようなやり方が、われわれの生活や、学校など教育の分野にまでいつのまにか浸透し始めたような気がするのだ。列島改造計画は、あまりにも速く、あまりにも一斉に、あまりにも直進し突っ走り過ぎた。その間に都市部はもちろん、山間部や大きな川や海辺まで、日本の景観が一変した感がある。それがこの二、三十年だったと思う。もちろん、列島改造が進行していくなかで、自然の生態系が壊れるという抵抗の声はあったが、ブルドーザーの轟音がそれをかき消した。
一生活者の感覚では、それによって政策や生産の重点が偏って農業が疲弊しただけではなく、人間の暮らし方や価値観がそれに引っ張られ、人間自身のモラルが変わってきた。工業的な思想や手法からするとあらかじめ準備した計画どおり、極力無駄を省いて効率を高めることが至上であるのは当然で、すべては目標に向かって直線的に最大の効率を挙げるよう設計される。しかしわれわれ普通の生活者の暮らしまでそうならなくてもよさそうなものだ。
今になってみればこれだけ変わってしまったことに愕然とするが、変わりつつあるときにはあまり気にしないし、目先の便利さを歓迎する。それは僕自身の中にもある。新幹線が開通したときは確かに喜んだが、たまにはそういうものや飛行機によらずにのんびりと旅行したいと思うと、いつのまにか幹線鉄道の在来線やローカル線の長距離のダイヤが、ズタズタになって接続も不便になっている。ローカル線が赤字という理由で廃線となる。代わりのバスは料金が高いし、決まった時間どおりには運行できない。そういう小さな傷が日本全体の経済成長優先主義のために見過ごされてきた。
この経済効率と工業的手法、すなわち直線的な価値観は仕事をこなす社会だけでなく教育の分野に浸透し、当然ながら家庭にも及ぶ。その伝わり方があまりにも直線的なのだ。
ここで、一人のこどもにとっての学校、特に小学校と、家庭との関係を、頭のなかに簡単な図形を描いて考えてみよう。直交するタテのY軸とヨコのX軸に囲まれてひろがるスペースを思い浮かべてみる。Y軸に沿ってタテに伸びるベクトルは学校、ヨコに伸びるのは家庭だ。
こどもは学校では、先生や級友たちと一緒に共通の、いわば普遍的な知識を身につけ、小さいながらも一つの社会で共同して行動することを学ぶ。これに比べて家庭は、もっと原始的で本能的な場である。普遍に対して個、知識に対して経験、分化に対して未分化の世界だ。それは、両親が生物の本能によって自然に現出した、手作りの小さな遊園地のようなもので、こどもはまずそこで、混沌に始まって本能のままに育つ。
家庭と、学校あるいは社会と、どちらがより重要であるというものでもあるまい。ただ、タテのY軸がしっかり立ち、これに対してヨコのX軸がゆるぎなく横たわって直交している限り、その両軸が生み出す空間は、こどもが育つスペースとして充分なひろがりを持っているはずなのに、どうも最近では、家庭のX軸がY軸のほうにゆらいで立ち始めているようなのだ。開かれていた扇子の面が、徐々に張りを失って面積が狭まっていくような感じだ。こどもの自由の領域が狭まっている。
それには、昨今の情報過多に両親が振り回されやすいという状況があると思う。このことについては、後の「大人とこどもの間」の項で、もう一度触れたい。簡単に述べれば 父母が自分たちでせっかく手作りした家庭で、個別の経験則のほうに自信のある根拠地を置かず、一般的知識や、外からの「家庭のありかた」という声を優先する傾向が強まると、このこどものベースであるX軸は揺らぎ出し、Y軸に沿って立ち始めるのだ。
それは、規範のほうからこどもをみて、大人になっていない不安定な存在として、ひたすら真っ直ぐに急いでY軸に沿った成長を望むようになることだ。自分一人の冒険の旅、長い人生のイメージの骨格と、個性的な養分をゆたかにつくり出す唯一の時期は、親によってはしょられてしまい、平均的、一般的、無個性的人間への道を歩み始める。おそろしいことだ。わが家の誇りに満ちた独自の価値、他との比較の問題とはなりにくい個性的な世界をみずから否定し、学校に似たタテ軸に沿って、家庭というヨコ軸を立ててしまうことになる。こどもの前にひろがっていた原野と独立国は狭められ消滅する。
家庭が普遍を軸とする学校と同じような目標を、こどもに対して設定した。こどもは、家庭ではせめて好きなことにのびのびと打ち込みたい。学校がきらいなわけではないのである。仲間といろいろなことがやれて愉しい。しかし家では、もう少しちがったことをしたい。絵、野球、音楽、昆虫、天体、映画、登山、サッカー……そして冒険とファンタジーとミステリーの物語のなかに没入すること。まだまだある。個性や年齢によってさまざまである。そしてすべては出会いが決める。
こどもは好奇心のおもむくままにいろんなものを渡り歩くうちに、何か一つのことに夢中になり始めたとする。すると一つのことに一心に打ち込み始めたこどもを見て、母親は思う。「年端もゆかぬのに、この子はへんなことに凝り始めた。まるでこのこと以外に世界はないかのようだ」「もっといろんなことに万遍なく関心を持ってほしい。深手を負わないでほしい。専門家になるにはまだ早い」
ついには、心に思っていたことを、こどもに対して口に出し、それでもおさまらないと管理統制に乗り出す。ここでも大人は、大人の位置からこどもを見て錯覚を起こしている。そのとき大人にとって、昆虫とか登山とか天体とか音楽とかは、広い世界の一領域にすぎないのである。しかし、一つに夢中なこどもにとっては、打ち込んでいるものが世界の全体なのだ。それはこどもが、世界は自分が知っているよりもっともっと広いものなのだということを考えていないことには決してならない。ただ、こどもにとっては、昆虫や登山や音楽や映画が世界全体の具体的な表現なのである。つまり、大人の視点からの一般的俯瞰ではなく、こどもの具体性を通して、世界を感じ取っているのだ。万遍なくということは学校で充分やらされている。
かつて私は、「標準偏差値」という、現代の日本の父兄としては当然の常識であることの仕組みが、なかなか頭に入らなかった親の一人だった。
学校の諸科目への全体の適応性を数値で表すことは、個別に対して普遍の系による学校の資料としては意味があるだろう。しかしそれは、個別性を持つ一人のこどもという生きもの全体についての、何らかの価値表現にはなり得ないことも明らかだ。にもかかわらず、家庭におけるこどもについて、その偏差値と同じような考えかたを適用しているとしか思えない親も見受けられるようになった。
こどもが一つのことに熱心に突っ込もうとすると、その力の何割かを排除して他のものに向かわせる。大人の側のそうした計画性によって、幼いときから、ピアノと、絵と、水泳と、英語の塾に、一週間のうち四日通っていたこどもを私は知っている。ある時期からこの子は、そのための塾などない昆虫の世界に夢中になり、観察、採集、読書に毎日没頭して行った。母親は、「せっかく小さいときから、片寄らずにと思って四つ選んでやらせてきたのに、この子は、そのどれでもないものに夢中になっている。病的なほどだ」というわけである。
少年期に、一つのものに極端に偏向しないこどもであってほしい、そして広い視野を持ってほしいと願う親心は、こうして、かえって非常に狭量な図式的思考にとらわれている場合が多い。少年期に自分で出会った世界にまっすぐに打ち込んで行くかぎり、そこには、その子が次第に大人になって行くダナミックな契機が濃厚にひそんでいるにちがいない。今、こどもが何に好奇心を持ち、何に自分の全存在をかけようとしているのか、そのことに出会いの妙を感じ「よし、やるならとことんやってみなさい」とはげます気持ちがないかぎり、どうしてわが子に広い世界にのびのびとはばたいて行ってほしいと願う資格があるだろうか。
家庭は、社会の仕組みや体制がどんなに移り変わっても、時代を超えて変わることのない人間の暮らしの原単位だ。それは、地球の生物の一種である人間の暮らしの原単位のはずだ。人工の制度ではない。しかし家庭によっては、その信奉する価値観や親子の関係にさまざまなひずみが見受けられ、時代を超えて変わることがないとは言いがたい。
時代は移り、社会全体の効率優先の風潮が個々の家庭にもじかに浸透し始めた。道草を食うなどという余裕は、段々姿を消して行く。こどもの楽園や王国というのは、道草そのものだと思う。それが影を潜めてしまう。日暮れになるまで外で遊んでいる時間も空間もない。学校や親から示されたひとつの価値観に必死について行かなければならない。
息抜きしようにもこどもだけで自由に遊べる原っぱや広場がなくなった。いろいろな行政体が公園や運動広場を用意はする。しかしこどもは、作ってあげたからここでこれで遊べ、というと駄目だ。はじめは面白くてもすぐ飽きる。あてがわれて公認された遊び場所では満足できないのだ。そして大人が作ってくれた遊び場所は、これはしてはいけない、野球はしてはいけないなどと、遊び場所なのに、遊びのネタが制約されてしまう。
さて、田中角栄の『日本列島改造論』が世に出た七年後の一九七九年に、アメリカのエズラ・ボーゲルという学者の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が出て、これもたちまち日本でベストセラーの仲間入りをした。本来この本は、日本の驚異的な経済成長の姿をアメリカ人に認識させて、その官僚機構や日本的企業経営を異常に高く評価し、ぼやぼやしてるとたいへんだぞと自国民に警告しているような本だった。それが翻訳されて、日本でベストセラーになった。
これで一番、気をよくして更に発奮したのは、日本の政治家や経営者たちだろう。おだてられて妙な自信を持ってしまい、「我々のやり方はやはり正しい。力もある。これからもこれで行こう」となった。日本人は海外の評価に弱い。おだてられるとすぐに乗ってしまう。日本の首相の『列島改造論』とアメリカの学者の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が七〇年代に出たことにより、ますます政治家や経営者の頭の中にこの道を突っ走るのが正しいという幹線道路ができてしまった感がある。
やがてコンピュータライゼーションの時代になった。広範な分野で次々とコンピューターが活用され始める。コンピューターは数値の世界である。その数値もアナログではなくディジタル。いろいろな分野でいろいろな人がものごとを数値で判断するようになった。僕らの普通の生活では、数値というものは長いあいだ、まずアナログ的でよかった。今はどうだろうか。
先日、僕の家に遊びに来た知り合いの若者とそんな話をしていた。その若者は大学で美術・造形の分野を修めて卒業し、今はいわゆるフリーターをやっている。まじめなタイプで、一生懸命やりたいことを求めている感じだ。将来何をやりたいのかと聞くと、美術館なり博物館のキューレーター、学芸員をめざしているという。その若者が大学時代の友達で、どこかの会社に入った女性と会って近況を話していたら彼女に言われたという。「そんなことやってると生涯賃金に差が出るわよ」
若者からそれを聞いて僕は驚いた。生涯賃金――今はそんな言い方、考え方があって、それが若い人たちの間でも取り沙汰されているのか。生涯賃金という数値の多寡が生きていく方向や価値を決めるのか。この一言はジョークだったことを願わずにはいられなかった。たとえばスポーツの世界では、プロ野球の生涯通算安打数とかそれなりに積み重ねて意味のあるものもあるけれど、生涯賃金の差が、生涯が終わった後で何の価値があるだろうか。今までは、せいぜい年収などが話題になったり関心のまとにはなってきたが、生涯賃金というとらえ方は知らなかった。これこそ統計・数値・ディジタルの世界だ。道草など食っているひまはない。目的に向かって一直線。
ところで、人間が生きる目的とはなんだろうか。例えば、一流会社なり一流企業を目指している人は、そして入ってからの昇進をめざしている人は、それを生きる目的と思っているのだろうか。とすれば、人間の目的はそんなものではない、それは一つの「方法」に過ぎないと言いたい。
人生論というのが僕は嫌いだ。そして、人生の目的など誰にもないと思う。こういうだけで、僕の嫌いな人生論になっているではないかといわれれば、甘んじて受けなければならないだろうけれど。要は、自分が楽しく、納得できる方法、自分の美意識、自分の倫理観に照らして何をやっていけば心地良いか、楽しいか、自分に忠実かということを求めるのが人間だと思う。それはあくまで、生きていくうえでの方法だと思う。そして、道草を食いながら、試行錯誤を重ねながらその方法を模索し発見する楽しさ。しかし「方法」と言っても当今はやりの「ハウツー」とは違う。人の説く、あるいは人の書いたハウツーものによるのは直線的な志向だ。
あることを無駄なく達成するには、どうしたらいいのか、という直線的志向、効率優先、工業生産的方法重視の風潮の最大の被害者は、これから育ちゆくこどもたちだ。大人の立てた目標にしたがって、まずは幼稚園が、小学校に行くまでの一、二年が大事だとなる。小学校に入ると、次の中学が大事だ。常に親なり周りから、道草などせずに無駄なく効率よく進むことをさとされ、期待されていく。
そういう傾向が顕著になったのは、初めに述べたようにここ三十年ぐらいのことだろう。もちろんそういうかわいそうなエリート子弟は昔もいただろう。しかし、ほとんどのこどもたちはそういう大人のエゴイズムとは関係がなかった。好奇心のままの気ままで自由な道草こそが子どもの特権だ。そのことがどれほど大切か、ということがここへきていろいろ見えてきているような気がする。
直線的に伸びたものは、何かの原因で折れる時には、ポキンと酷い折れ方になり、そのショックも強い。先を急がない道草の許される育ち方は、蔦蔓のように螺旋を描いて、スピードは遅いけれども、あっちへ伸びたりこっちへ伸びたり、それから真ん中に寄ったりしながら、ゆるゆると大きくなって行く。そういうものは、まずポキンとは折れにくい。あの縄文杉は外から見ると上は真っ直ぐなようでも、根っ子に近いところは螺旋を描いて成長したのがわかる。
いま、人間の子たちは狭い視野で短時間に真っ直ぐに伸びるプログラムに追われている。その細く真っ直ぐな木がポキンと折れたときはショックが大きい。最近続発している、昔とは質の違う少年犯罪もそれと無縁ではなかろう。悪いのは本人だが、今の日本全体が陥っている、直線的志向、効率優先、工業的手法の重視の環境で育ってきたことと無関係ではないような気がする。
道草のある生活を直線に対してゆるやかな螺旋にたとえ、おもにこどもについて考えてきたが、これは大人になってからも同じだと思う。大人になってからも、自分の美意識や倫理観によって、好奇心の赴くままに道草を食っていきたい。
しかし、明らかに大人になってからでは急には変わらないのである。それは僕自身についても自覚できる。僕自身の七十年近い半生を顧みると、だいたい十八歳、高校を卒業するくらいまでに、僕という人間はできあがっていたと思い至る。そのころまでに身についた考え方の癖や生活の癖は一生もんだと思う。そして、ものごころついてから十三歳の途中までは、戦争という大変なものを背景にしながらも、一方では原理もモラルもそれとはまったく違い、それから独立していたこどもだけの王国、あるいは共和国が存在し、そこで自由に存分に道草を食いながら遊んだ。大人たちはそれを許した。
やがてこどもはいつのまにか、大人が営んでいる社会、大人が楽しんでいることに好奇心が向き、少しずつ背伸びする感じで首を突っ込むようになる。たとえば読書の対象もそういうふうに推移する。いまのこどもたちも、夏目漱石などを、学校の先生のすすめより先に、家にあるから自然に取って読んでみる、ということはあると思う。それは親が自分のために整えた本棚を、こどもが指図されずにむしろ盗むように読んでみるということがとっかかりだろう。こどものために漱石全集なんかを買って並べてくれても何もありがたくはない。
夏目漱石なら初めは、『坊ちゃん』あたりだろう。漢字に仮名が振ってあれば小学生でも読める。それがすむとまた、とっつきやすそうなものをみつけて読んでいく。わからないところはひとまずわからないまま丸ごと飲み込んだ感じで次に進んで読み通して行く。もちろん漫画もふんだんに読み、探偵小説も冒険小説も英雄豪傑伝も、誰にも強制されずに興味が湧けば読む。親から命じられていた用事も学校の宿題も忘れて読み耽っていると母から叱られる。それも道草だが、こども同士でひとつの自立的な社会を作っていた野外での遊びこそは本当の道草だろう。こどもが自分たちで自由にルールを作り、外で暗くなるまで遊んで家に帰る。母親も、子だくさんで忙しいからいちいち構っていられないということもあり、あまり注文をつけられずに道草ができた。
そうしたことが、だいたい中学に進む頃から変化を見せ始める。そしてだいたい十八までに人間形成ができてしまう。大学教授だろうと首相だろうと、実業家だろうと芸術家だろうと、これは同じではなかろうか。大学生活でも、社会人としてどこかの組織に入ってからも、そこでの考え方の癖や、楽しみ方の傾向は、だいたい十七・八歳までに獲得されたものではあるまいか。後はそれを自分なりに統御していくことになる。
こう考えてくると、今は大人がこどもたちに早くからプログラムを与え過ぎるのではないかと思う。これができるようになったら次はこれ。読書でも小学校四年生ならこれ、六年生になったらこれを読みなさいとか。そうではなく、マンガでも難しそうな本でも、何でも玉石混交で手当たりしだいに読んでいくうちに、こどもは自分の知識や好みで本を選び、自分にとっての玉と石を見分け始めるものだ。それまでの手当たり次第の濫読は、自然な下積みになっている。またこども同士の遊びでも、ベイゴマをやったりビー玉をやったりメンコをやったりと、それらに一時期夢中になる。そのうちにそのゲームが単純で詰まらなくなり、例えば、スポーツ的なルールのあるものに広がっていったりする。僕らの時代はそうだった。
それまでこどもなりに、ちゃんと下積みをして、段階を経ていくわけだ。それで読書にどんどんのめり込んで行く子もいるだろうし、スポーツをもっと本格的にやろうとする子もいるだろう。そういった道草を含む下積みの部分ができていないか貧弱だと、十八歳、二十歳になってからあわてても遅い。
ところで、江戸川乱歩に、「探偵小説とこども心」というエッセイがある。これは文藝春秋の「オール讀物」二〇〇〇年十一月号の七十周年記念特大号の巻末に再録されているもので、載ったのは昭和二十二年、一九四七年十二月号である。
「大抵の大人は自分のこどもが絵描きになるとか、音楽家になるとか、文士になるとか、役者になるとか、発明家になるとかいうと、ひどく心配するものである。そんなやくざな稼業では妻子を養っていけないだろうと考えるからである。凡てが自己の世渡りのアクセクから割出される。そういう第二義的なことのほうを人生の最重大事と考える。又考えざるを得ないような仕組みになっている」「大人の世界のあらゆる迫害に堪えて、あくまでもやりたいことをやり通すものが大発明家になり、小発明家になり、大芸術家になり、小芸術家になり、又は乞食になる。」と書く。
更に乱歩は、こどもの側からは、「金を儲けたり、重役になったり、政治家になったりすることは、こども心から見ると実に下らない。大人というものは下らないことにアクセクするものだと軽蔑するが、大人の方では、一かど自分が本当らしい人間だと思い込んでいて、逆にこども心を軽蔑する。しかし、どちらが本当らしいかは、よく考えてみないと軽々しく判断は下せない。」と書いている。
人間は大人になると、こどもは未完成で幼稚で、手取り足取りやってやらないとだめだ、と危なっかしい存在として見がちだが、人間の感性や記憶力が一番ピークにあるのは、十歳あたりではないか。中学・高校生あたりから、ある意味ではそういう能力は生物としては徐々に下降し始め、代わりに判断力や知性などが備わっていくのだろう。
ここで乱歩は、「そんなやくざな稼業では」と言っているが、今はそうではない。親のアクセクというのは相変わらずあるが、その親の目から見て、こどもが音楽なりスポーツにちょっと光るものを見せると、手助けする。そのなかにはこんな親もいるだろう。この子はひょっとすると金の卵なのではないか。これはものわかりがいいというよりむしろ親のアクセクの打算である。
乱歩が挙げているような職業も、今ではヤクザな稼業とはあまり言わなくなり、抵抗もなく、すんなり始められる。こどもがこれをやりたい、ということをめぐる親子喧嘩はあまりない。しかしこれは必ずしも親の理解が深まったのではない。時代が変わって江戸川乱歩が「やくざな稼業」と言っていた芸術家、文士、役者などが、世間で認知されるようになったという世間体がある。のみならず、何かがちょっとヒットすれば有名になりスター扱いされる世の中だ。
そこで親が自分のこどもに金の卵という幻想を描いてしまう、というわけだ。その途端に我が子への期待は自分のアクセクに変わってしまう。自分の世渡りがらくになる。そして親のほうが一生懸命になって、英才教室やそれに類するものに通わせ、投資を続ける。その結果、もしものにならないとわかった暁に、初めて親子の軋轢が生まれる。そんなことなら江戸川乱歩が言うように、初めに心配してやめておけと言えばよかった。本当にそういう才能のあるこどもは、どんなに親に反対されても、どんな道草を食っても、迫害を受けても、やりとおす覚悟と自立の意思が固まる。昔だったら勘当だ、出ていけ、ということもあったと思うが、今はまずない。初めの段階でこどもに理解のある態度を示して、後で、幻滅してがっかりするくらいなら、初めからこどもを突き放したほうがいい。
こどもは周囲の大人の無理解に抵抗し、悩み、孤独を味わい、強くなる。それを親は一歩遠いところから見守っていく。そのうちにこどもの力は知らず知らずのうちに養われていく。それくらいの強さが両方にないと、本来こういう世界で大成することは、とびきりの天才は別としてできないかも知れない。
それがいつのまにか、親としては自分の願うとおりにやってくれる子がいい子で、こどもからすれば、自分の願うとおりにやってくれる親がいい親という関係になり、一見双方ものわかりがよく、摩擦や抵抗が表面的には薄れてきたように見えるが、本当はどうなのだろうか。
こどもはあるがままの道草の天才である。道草が好きだとか、その性癖が強いというのではなく、あるがままの道草の天才だ。そして、道草イコール好奇心といっていい。こどものうちは、生きる目的などという無用なものを持っていない。生きる目的を持って生まれてきたこどもなど一人もいないのだ。
そんなこと当たり前じゃないかと言われそうだが、それではあなたの生きる目的は、と聞けば、たいていは、しばらく間をおいて何らかの答えが返ってくる。とすればそれは、他から後天的に与えられたものか、自分で自分に与えたものだ。かりにそれがわからなくなったときわれわれが戻ってみなければならないのは、こどもではなかろうか。自分のなかに、難しいかも知れないが、こどもの状態を取り戻してみる。そこにしか人間の裸の姿はない。そこから改めて、おれが人生の目的と思ってやってきたことは何だったのかとかえりみる。その「こども性」についてもう少し考えてみよう。
いうまでもないことだが、大人とこどもの関係は、つねに与える者と与えられる者という固定したものではない。こどもの姿、こどもの心の動き、こどもの感じる世界、ひいてはこどもの楽しむ一見荒唐無稽な物語は、大人にとっては、しばしば自分を映し出す正直な鏡である。大人はその鏡に自分の姿を見て、ゆがんだ像、にごった像、ぼやけた像、そしてしばしばいつわりの像を発見する。しかし、それを発見できることは、大人もまだ捨てたものではない証拠である。そういう像をまったく認めることのできない大人も稀にはいる。しかしたいていの大人は、その鏡にみちびかれて自分の位置を確認し、自分の像を修正し、ういういしい生命力を恢復する。そして態勢をととのえ、ふたたび大人としての自分の領域へ進んで行くことができる。
こうして大人は、こどもから明らかに何ものかを与えられて行く。
さて、大人の言動がこどもたちにとって良くも悪くも鏡になるということは、大人の自戒をこめてよくいわれることである。しかし、こどもの姿が自分の像を映す鏡であることについては、前者と同じ意味のことばの置き換えであるととられて、あまりかえりみられない。それは、大人は普通、こどもから逆に影響を受けていることをあまり考えていないことのあらわれだ。
与える側、影響を及ぼす側は常に大人のほうであり、価値や秩序の基準はすべて大人の側に置かれ、完成した思想や表現はすべて大人言語の中にあるという態度である。そこからは、こどものことをかわいいと思うことはできても、こどもの言動や感じかたの中に人間の原形を発見しておのれをかえりみ、こどもの投げかける疑問の中に本質的な問いを感じるという、素直な、やわらかい感性は取り戻せない。
大人は、自分のこども、あるいは周囲のこどもたちが育って行く要素として、大人の指導、影響、薫陶といったものをあまりに大きく考えすぎてはいないだろうか。しかし、大人がいくらそう自画自賛しても、事実はそれほどでもないのである。実際に大人がこどもに有効に与え得ているものは、こどもが自由に生きて行く上の環境と、自由に生きることについての、ひかえめな示唆ぐらいのものである。それ以外はほとんど無効に終わっているか、印象の薄いものなのだ。
こどもはまったく新しい生きものである。こどものほうが正直な鏡であり、大人はそこに自分のずれた像を見る。私たち大人は、こどもに導かれて自分たちの道を修正することに、もっと柔軟でなければならないだろう。
父母は、父母であることにおいて本来的に教育者であるといわねばなるまい。一人の人間がこの世に生を受けて育つことは、ただちに教育という大きな体系に組み入れられることを意味する。ただし父母は、意識的、計画的、専門的な教育者ではない。またそうなろうとしないほうがいい。
こどもの勉強机にくっついて学校の予習復習をすることで、こどもとの一体感をつくり出す存在ではない。そういう世界では、こどもが親を乗りこえて行くのは時間の問題である。こどもが簡単には親を乗りこえるわけには行かないもの、あるいは親が死ぬまではついに乗りこえることができないもの、それは親が自分の人生をおのがじし生きる姿そのものだ。そこに、親と子の一体感がある。
「大人は、みんなかつてはこどもであった」というのは事実である。しかし、この事実が生きていたのは相当昔のことだ。にもかかわらず大人は、「この事実と経験によって、私はこどものことは何でもわかる。だからお望みとあればいつでもこどもに帰ることができる」と思いがちである。そこから、「経験のある大人が、経験のないこどもに教える」という、妙な経験主義、保守主義、教訓主義が発生する。
残念ながら、私たちがこどもであった経験は、はるかに過去のことである。そのはるかに過去の十数年間における、静止することを知らず、固定することを嫌い、常に動き、常に変わっていたこどものころの全体像を、そのままの新鮮さで保ち続けている大人がいるだろうか。
こどものころの出会いで、終生忘れ難く残るものがあっても、それを思い出す感性は、もはや残念ながら昔のものではない。ふとしたことや事件から何かを感じ取っていた、こどもの心のなまなましい発生の瞬間までを、すべてくっきりと保存しているわけではないのである。
かつてのこどものころの激動期は、遠近法にしたがって、小さく短い風景となっている。その波乱万丈の長い時間が、今では遠くのほんの短い時間にちぢまり、輪郭はぼやけ、色も薄く、「思い出」という固定した心象風景として、小さな額縁におさまってしまっていることを、私たち大人は心すべきであろう。それだけに拠ることは、大人がこどものことをわかろうとしたり、教えようとする際に、保守的経験主義か感傷主義におちいる原因となる。
「私がこどもだったころはね――」ということは、参考としてはいくら話してもよいことだろう。しかし、「だから――」という接続詞によって続く文脈は、自分のこどものころの小さな額縁のほこりを払って今のこどもに押しつける作業の前触れである。おじいさんやおばあさんが、孫たち、あるいは同じような年齢のこどもたちに「私のこどものころはね――」と目を細めて語るとき、「だから――」という転調はたいていない。だからこどもたちは老人の話を好む。それはすでに無欲な一つの物語の語り口になっているからだ。
こどもに帰る、こどもになるということは、自分のこども時代をとり出してあてはめることではなく、新しい自分として出発することだ。無心の存在としてこどもといっしょに未知の旅をめざすことだ。自己の中のこどもの再生とでも呼ぶべきものである。
大人とこどもの間
僕の生れ合わせた時代は、小学校までが義務教育で、その上に、中学・工業・商業と三種の五年制の学校があった。その上が高等学校、そして大学。中学に入るのは、当時僕のいた大分市の小学校では、ひとクラスから二割ぐらいだった。合格して中学に入り制服を着る。今の子もそうだと思うが、そのときにまずちょっぴり大人に近づいた気分を味わう。 中学は五年制だったから、最上級生は十七、八歳、顔付きも背丈も立派な大人だった。そういう人たちが同じ学校に同じ制服で登校しているのだから、新入生まで彼らにあやかって背伸びしたくなるのは自然だったろう。
ところで、こどもとは何か。大人とは何か。大人とこどもを区分するものを、国境線のように求めてみても無駄だと言わざるをえない。その区分は、人間に一律の、静止したものとしてはどこにもないと僕は思う。あるとすれば、それは人間一人一人に固有の内在的な契機、しかも一人の中においてもたえず動的な姿をした契機にしかない。
その契機は、一回限りではなく、大きな波も小さな波も、大人に向かって進む波も退く波もある。それはまるで、予告されている氷河期に向かってその特徴が寄せたり返したりしながら、しかし確実に氷河期に向かっている地球の姿に似ている。気がついてみたら、もはや私は大人としかいいようがないという底のものだ。
たとえば、十歳のこどもと話しているときに、彼の口から、なまかじりではなく、認識の仕方として、「大人」がヒョッコリ顔を出すことがある。しかしそれは、総体として十歳という彼のこどもの全体像のなかにしみこまれていて、彼を代表する顔ではない。しかし、彼のなかにはすでに大人が棲んでいるのである。
地球上に何十億の人間がいようと、二つと同じ顔がないように、こどもから大人へと、寄せたり返したりしながら変貌していく姿に、二つと同じ物語はない。そして、一人一人についていえば、こどもから大人になる激しい「時」が幾層にも脈打っているのだ。
それは、大人一般がこども一般にあてがうグレード、プログラム、法規、儀式などに関係なく進む。幼児用、小学何年用、中学生向きとしてあてがわれるものを、順々に規則正しく登りつめて、皆が同じ歩調で近づいて行くものではない。未知の世界への、何といつ出会うかわからない冒険の旅である。養分を自力で摂取することと、プログラムを与えられていない個別な体験を重ねながら、人間は進んだり引き返したりする。直線の上を進むのではなく、それぞれ螺旋状に進む。「早く大人になりなさい」というと、いつまでもこどもであり、大人が、自然の摂理を見るにも似た気持ちで待っていると、こどもはいつのまにか大人になって行く。そして、大人になって行く上の大きな波や、大きなきっかけは、だれからも強制されず、自分自身の意志で大人の世界にまるごと挑む体験のなかにしばしばひそんでいる。
それは、父親の大きな自転車を乗りこなそうとしては何回もころげ落ち、ひざをすりむき、しかしついに乗りこなした瞬間にひそむ。
何かの都合で、こどもに関係のない会合に母に連れられて行き、おおむね無視されながら、知らない大人から不意にひとこと声をかけられたときにひそむ。
父親の本棚の一番高いところから本を引っぱり出し、その難解さに手をやきながらも、いつのまにか大意をのみこんだときにひそむ。
幼いころ住んでいたときによく遊んだ広い庭を、数年たって訪れたら信じられないほど狭く見えて驚くときにひそむ。
父母もきょうだいもいないときに祖母が倒れ、応急手当や医者への連絡など、一人で考えられるすべてのことをひとまず終えて、ほっと一息ついたときにひそむ。
そのような事件をきっかけに、よせては返す波の中で、みずみずしい感性に次第に分別が混じり合い、大人になって行く。
もちろん、法律上は成人というものを画一的に定義しなければならない。法律の適用や選挙権などのためである。そのために満二十歳を境に成年・未成年という区別もある。
しかし、それだけの話だ。
ところで僕はつい最近まで知らなかったのだが、「国民の祝日に関する法律」によって一月十五日が「成人の日」に制定されたのは意外に古く、一九四八年、昭和二十三年だそうだ。「意外に古く」と僕が感じるのは、この年に僕は十七歳で、そうするとその三年後に二十歳になったときには、成人の日がすでに定められていたからである。そんなもの、僕らの時代にはなかったとばかり思っていたのだ。まるで記憶にない。
まして成人式があったかどうか、あったとして通知が来たかどうかも記憶にない。いやなかったに違いない。そのころ僕は、東京都杉並区に住んでいたが、通知が来て無視したという記憶もない。
その後、成人の日だけでなく、「敬老の日」なるものも制定され、国民の祝日ではないが「父の日」「母の日」などもいつのまにかポピュラーになった。春分とか秋分とか正月とか、そういう天地自然の巡りにちなんだ記念日はあっていいと思うけれど、成人の日・父の日・母の日・敬老の日などにはあまり意味があるとは思えない。それぞれの家庭の父母や祖父母の固有の誕生日を祝うのはごく自然だが、敬老の日など、電車のシルバーシートみたいなもので、敬老の日だけ年寄りに優しくすればいいというものでもあるまい。
父の日・母の日も同じだ。全国津々浦々で画一的に父や母に花やら何やらを贈って感謝のしるしとしている姿を想像すると気味が悪くなる。それで本当に感謝の気持ちが湧くのだろうか、家庭の親子とはそういうものではないはずだと思ってしまう。父の日・母の日に小学校では、親への感謝の気持ちを作文に書かせたりもするらしい。そうだとすれば、父や母は、皆で一斉に感謝をことばに表す対象なのですかと、書かせる人に言いたくなる。
画一化というものに、僕がなぜ抵抗を覚え嫌悪するようになったかをかえりみると、明らかに、ものごころついてから十代のとっかかりまでを戦争体制下ですごしたという生い立ちと関係する。あのころこどもたちにも天皇のために一命を捧げるという命題が与えられていた。そして、それぞれの家庭や、こどもたちだけの遊びの場以外では、みな一斉の行動を強いられ、訓練された。戦争体制とは超画一体制のことである。
その一方で僕ら「少国民」は、学校から帰ると近くの原っぱに集まり、先生や親の介在しないこどもの王国で、いろいろな遊びを発明して日が落ちるまで遊んでいた。画一と自由、思えば不思議なアンビバレンツなこども時代だった。
そして一九四五年八月十五日の敗戦を境に、それが一変する。僕は中学二年生になっていた。ようやく、地球の規模での、いろいろな外国の文化に目が開けていった。そして、日本を占領したアメリカを民主主義の理想の国などと教えられたが、まもなく幻滅を味わうことになる。たちまち復活した日本の保守勢力の味方になるし、まもなく朝鮮戦争が始まった。その他いろいろな幻滅を味わううちにこれからは自分の価値観を持とうと、それをことばにしたわけではないが、少なくともそれができるという幸せは感じ取ったと思う。
おれはおれでいいんだ。遅まきながら十代半ばでそう開き直ることができたということは、やはりいい時代に生まれたと思う。自分の中の負の遺産をプラスに転化する張り合いとでもいうものだろう。世の中の画一化を人一倍嫌悪するのは、おそらくこういう生い立ちからも来ているだろう。そうして働き始めてからもいくつかの組織から外れて、行き当たりばったりで生きているうちに七十近くになり「道草」について書いているというわけだ。
ところが皮肉なことに、そんな僕に三年程前、ある市の教育委員会から、こともあろうに成人式に配るパンフレットにメッセージを寄せろと来たものだから面食らってしまった。到底その役にあらずと断るつもりだったが、ちょうどそのころ「道草」について考えていたものだから、よしこれを成人式にぶつけてみようと思った。そして、「道草のすすめ」という一文を書いて送った。
「道草を食うことを恐れるな。だいたい人生の目的なんて簡単に決められるものではない。一流会社? 昇進? そんなものが目的だとしたら情けないことだ。それは身過ぎ世過ぎの手段のひとつに過ぎない。生きていればやがて、もっと深い目的が自然に見えてくる。そして、自分が自分であることの喜びが湧いてくる。あせるな。道草とは、決められた一本道を急ぐのではなく、好奇心を道連れに、時間をかけて螺旋状に進むことだ。そのほうが風に折れにくく、風にたわむ力がつく。少しぐらい人に遅れたっていいじゃないか」
多分ボツになるだろうと思っていたところ、パンフレットが送られてきたので開けてみると、僕の一文も載っている。多分、こういう風変わりなものが一つぐらいあってもいいと判断されたのだろう。少しぐらい人に遅れてもいいという考えは、僕が学校に通っていた頃は当り前だった。病気もあるし落第もある。それでも周りも本人もさほど気にしていなかった。東大に三浪や四浪で入るのはざらで、七浪という猛者を僕は知っている。直線を進むのに対して、道草を食いながら蔦蔓を伝っていくと人に遅れるのは当り前だ。しかし、その手間取っていた間にたくわえていた力は意外に大きく、結果として大成した人はざらにいる。
ところが今は、人に遅れる、すなわち標準から外れると、当人よりはむしろ学校の先生や親のほうが困るらしい。学校だけでなく会社でも、昇進が標準より、一年二年遅れたというだけで、本人も周りも気にする。画一、標準という工業生産的合理性が重んじられる世の中である。そういうつまらぬ画一、標準からこどもを解き放ってやれるのは、やはり父母だろう。ここでもう一度家庭について考えてみよう。
未分化の混沌から生まれた生命が次第に分化し変貌をたどる筋道は、一人の人間においても、その人間の言語においても、軌を一にしている。その未分化の混沌たる根っこの場所は、いかなる時代にも、いかなる制度の下でも、万人にとって「家庭」であろう。
繰り返すが、家庭という人間の暮らしの原単位は大昔から変わらない。人間が動物の一種である限り変わらない。この当り前のことを、もう一度よく見ておきたい。
こどもたちは、それぞれの家庭から学校や幼稚園や遊園地にとび出し、やがてまたそこから自分たちの家に帰って行く。そして家の中に姿が消える。大人もまったく同じである。家の中に姿が消え、そこからまた外に出て行く。この様子は、僕にとっては次のような雰囲気なのだ。
もし、何かの事情で僕がある人を家の前まで送ったとする。あいさつを交わして、その人が家の中に姿を消す瞬間まで見とどけることがあると、僕は、その人がただ姿を消したというよりも、今までその人が僕やほかの人たちと過ごしていた世界とは、ちょっと違う世界に影が吸い込まれていった感じを受ける。その人が家に入るために開けたドアから、ある特別なにおいが一瞬外にただよって、すぐまた、その人とにおいがいっしょになかに入ってドアはとざされる。このにおいは、ある種の「自由」というにおいである。一面的に喜びのイメージとしての自由ではない。時としてつらい自由もある。それを本能的自由とでも言おうか。
私たちは、すぐれた創作や記録によって、いろいろな家庭の典型や、そのなかの真実感、実体感を読みとることはできる。しかし、隣の家庭とか、相当親しい友人の家庭についても、連続した時間でのほんとうの姿は意外にわからない。
同じ家庭に育ったきょうだい同士でも、やがてそれぞれの家庭を持つことになると、いったいどんな暮らしかたをしているのかわからなくなる。においが変わるのである。先生と生徒、友だち同士、親同士が、訪問し、出会ったときに話し合い、作文などによってイメージを受け取ることはできても、家庭での連続性を伴った実像は、家族だけが立ち会っていることである。それ以外の人にとっては、しばしば長時間とざされた密室でさえある。
さっきも書いたように、そこには外の世界とは違うある種の自由が、いらないといっても選択の余地なくすわり込み、独特のにおいがあり、独特の原理さえ生まれる。それが家庭というものだ。そこで生まれる原理は、一般の社会でことばをかわしてたしかめ合って行くものに比べると、はるかに原始的で、無言のうちに発生して居ついてしまう原理である。
家庭は、人間が、他の動物ほど完璧というわけにはいかないが、本能と自然則に一番近い姿で生きる場所であろう。普遍性、一般性に対して、個別性である。暮らし方も家庭によってさまざまであり、一つの現象への反応もさまざまである。他の家庭や一般社会では通用しない、つまり普遍的でない「家庭語」というものも、主としてこどもが発明し、家庭の中をいきいきと飛び交う。それは、ある特定の社会の「隠語」とは少し違うものである。もっと自然発生的なことばなのだ。
一方、社会の構造のほうは、分化を続け、専門分野の枝分かれが進む。特に最近の百年、その中でもさらにこの三十年、またさらにこの十年というぐあいに加速度をつけてきた。そういう社会で、英知を集め、努力して開発される科学的成果、あるいはうち立てられた原理、法則というものは、当然のことながら、本来普遍化、一般化へと向かう。
その普遍的、一般的である成果や原理、法則が、個別性と経験則の支配する家庭というものにじかに向けられると、ちぐはぐに感じられることがよくある。それぞれの家庭の独自の原始的な原理、法則になじまないのである。
最近「家庭のありかた」についての発言が豊富になってきた。これはこどもの非行、異常、自殺という現象が毎日のように報道されることと関係している。有識者、専門家、評論家が、これらの現象をさまざまな角度から分析し、総合し、警告する。その結論は最終的にはほとんど「家庭のありかた」に向けられる。そうした情報市場とも言うべき状況下で多くの父母が現象の報道と解釈に追いまわされるきらいがある。その結果、自分の固有の暮らしや考え方の中にじっくりと組み込んで、消化して行くエネルギーになるよりも、情報をとりあえず受け取ってストックせざるを得ないということになりがちだ。
かくして現代では、多くの父母が多くの専門家、評論家の世界に近寄り、そこでの普遍的一般的解釈や法則のほうから、逆に自らの個性的な家庭を眺め直すということになる。そして、多くの識者が、「家庭での親子の対話が不足しているのが問題だ」と指摘する。話し合う中身はともかく、対話という二字だけで、充足した価値があるかのように人には聞こえる場合がある。
外でビールを飲んでいた父親同士は、それを聞くたびに何か小さな荷物を背負ったような感じになり、わが家の姿を静かにたしかめて反省してみる。
僕は、「親子の対話」ということばを見たり聞いたりするたびに、ちぐはぐでなじまない感じにおそわれる。なんというか「親子」と「対話」ということばの対が、あらためて対面させられて照れ合っているようなぎごちなさである。
ビールを飲みながら深く反省した、ある大人の優等生は考えた。(うちでは、おれをふくめて、家族がいつもやっているやつは、対話というしろものじゃないな。とんでもない話題、たわいない話題が、偶発的に、誰の口からともなくとび出す。ひとりが真に受ける。誰かが茶化す。おれがしゃれのめす。ことばじりをとらえる。そうでなければ、呼吸のついでに、ふっと声になることばぐらいのものだ。これでは対話とはいえないようだ。よし今日から対話をしよう)
家に帰るなり、こどもたちに、「今日からおれは、おまえたちとテーマを決めて対話をしていく」とは口走らないまでも、きっかけを求めて何となくぎごちなくタバコを吹かし、どうやら思い切って対話らしきことを始めたとしたら、どうだろうか。こどもたちは、「何かあったの? お父さん」となる。そのとき、今まで無言のうちに居すわっていたわが家独特のにおいと、独特の原理がくずれ始める。エプロン姿で、かいがいしく家事に働いていた、妻でありお母さんである婦人も何か落ち着かなくなり、「何かあったの? お父さん」である。そして最後に照れるのはお父さんだ。健康な家庭、当り前の家庭、本能と自然則に恵まれた家庭は、こうしてたちまち「親子」の「対話」に終止符を打ち、たわいない沈黙のやすらぎが訪れ、独特のにおいがよみがえる。そして、もともと初めからその家にあり、ひかえめに育っていた、ほんとうの「対話」の環境がよみがえるのである。そのとき、政治や教育行政のテーマを肴にビールを飲んできたお父さんは、こどもに帰る。そして、(ああ、うちはいいなあ)とつくづく思うのである。
一人一人の父母が自分自身を見つめ、自分の生きざまを貫く中で、実際に生まれる喜びや悲しみ、成功や失敗の姿を、こどもたちが見ながら育つということは、そのこどもの読む何らかの優れた物語とまったく同じ値打ちを持つものではないだろうか。それはすでに一つの立派な「物語」を生み出し、こどもに伝えているにちがいない。
大学教授も、商店主も、サラリーマンも、医者も、失業者も、家では一人のお父さん、一人のお母さんである。そこでは、理性ではどうにも説明のつかない夫婦げんかが起こり、こどもがいつのまにか発生させた家庭語が横行し、またいつのまにか消滅し、外では本能的に抑制されていたおならも、家の中では本能的に発生する。人間は、人間としてはかなり本能的に自然に生きる。
そこは、知識や形式が優先する世界ではなく、本能と個別の経験則が優先される世界である。もし親が家に帰っても、徹頭徹尾大学教授であり大臣であるという家庭があれば、それは家庭というよりも何らかの社会施設か公共施設のほうに近い。お父さんとお母さんは、一般的な「家庭のあり方」に関する論及に身を寄せる前に、まず自分の経験則のほうにはっきりとした自信を持ち、根拠地を定めるべきである。その上で、自分の得た知識をどう取捨選択して自分の知恵袋にとり込んで行くかを、ゆっくりと考えればよい。
知識を経験に結びつけて生かすのを知恵と呼んでいいだろう。この知恵が働かずに、知識が生煮えのまま経験の世界にぶつけられると、ちぐはぐになりなじまないものになる。何においてもそうだが、家庭では特にその傾向が強いようである。
家庭という根拠地は、整った形をしていない。雑然とし、混沌としている。家庭は人間にとって最初の教育が発生する場所であり、父母は人間にとって最初の教育者である。しかし、あらためて教育というと意識的な一つのプログラムを持っているように感じられる。家庭は、親がこどものための綿密な教育プログラムを持って教える場所ではない。こども自身が、親きょうだいと自然な連続した時間の中でつきあい、その生き方を見るともなく見、そこから何かを奪い取って育つのが家庭というものだ。そして、人の生きかたが個別である数だけ、教育の姿も個別であるということができる。整った形式も不要であり、混沌としているほうがふさわしい。
教育の成果とか、進度などというものを測定しようなどとは思わないことだ。家庭と、家庭を取り巻く環境においては、人間あるいは家庭について、原則として優劣という価値体系はないと思う。それは、普遍性というものを主な軸とせざるを得ない学校という教育の場に対して、優劣を問わない個別性という系をこどもに保証してやる場でなければならないだろう。
こどもに習う。人間と言語
人間の赤ん坊は、生まれ落ちてもなかなか自立できない。「自立」とは文字どおり、自分の脚で立つことである。それがなかなかできない。両脚で立つこと、あるいは二足歩行こそが、他の動物と比べたときの人間の行動上のいちじるしい特徴なのに。
それだけでなく、人間の赤ん坊は、両手両脚で這い這いすることすらなかなかできない。そんなことぐらい、他の動物の赤ん坊ならたちまちやってのける。
人間の赤ん坊は、生まれ落ちてから当分は、ただその場にひっくり返って泣き、乳を飲み、眠るだけである。外側から見ればそれだけのことである。そしてそれだけのことにも、母親なり自分以外の人間の手助けや配慮を必要とする。しかも人間の赤ん坊は、母親の胎内で十カ月にもわたって成長を続け、外界に出る準備をしてきた、あるいはさせられてきたのである。万物の霊長と自負する人間のスタートがこれでいいのだろうか。
もちろん、これでいいのだ。いや、これでなければならないのだ。これでなければ万物の霊長とはいえないのだ。人間の赤ん坊が、他の動物の赤ん坊に比べて、自立までに要する時間が相対的にいちじるしく長いのは、その間に他の動物にはない何ものかを自然に身につける必要があるからではなかろうか。「必要」ということばはこの場合にはあまり使いたくないのだが、そう、とりあえず「本能」と言い替えておこう。その、自然に身につける何ものかとは何かというと、僕は「ことば」だと思う。
僕は生物学者でも人類学者でも何学者でもなく、そうした分野に興味は持つものの一介の小説家に過ぎない。だからといって甘っちょろい逃避は許されないが、識者から嗤われるのを覚悟で次の仮説を立ててみる。
人間の赤ん坊が生まれ落ちて、他の動物の赤ん坊よりはるかに長い時間、一見何もできないのは、すなわち身体行動に移れず、その点で未熟なのは、何もできないというより何もしなくていい、実に贅沢な時間を保証された姿である。赤ん坊は一見何もしない代わりに、周囲の環境で発せられるあらゆる音声を浴び、人間から人間にのみ伝わる言語を自然に鋭敏に習得してゆく。身体行動における未熟さは、それに集中するために、天あるいは神が人類に与えた一種のモラトリアム――執行猶予であった。そして、ことば、言語こそは、人間を人間たらしめた。
「天あるいは神」と書いてしまったが、これはまずかった。こう書くと、あたかも何か超人的な存在に「意思」があったような文脈になってしまうから。だから「宇宙」と言い替えよう。宇宙に意思はない。宇宙にあるのは百五十億年来の自然の秩序だけだ。その自然が、ここへきて人類誕生をうながし、そしてなぜか人間は生まれ落ちた後のけっこう長いモラトリアムを得たのである。かくして、はじめにことばありき。
日本には英会話学校ないし教室というものが、いったいいくつあるのだろうか。無数といっていいだろう。たいていは目先の必要から、たとえば海外旅行、会社の仕事といったことが動機になるのだろうが、募集する方は一様に、ネイティブ・スピーカーを講師にして、正しい方法で短期間にマスターできるというのを謳い文句にしている。しかし、そこで、満足すべき成果を収め所期の目的を達成したという受講者にはまずお目にかかったことがない。どれだけの人がどのくらい、その国のことばで相手の人と心の通じる態度で心の通じる話ができるようになったか。その不毛さは学校の英語教育と同じだ。違うのは、学校では読み書きから受験対策へと入るのに対して、英会話教室では、聞き、話す発音重視の会話のスキルを鍛えることにあるようだ。
そのどちらもがおしなべて不毛に終わるのは、読み書きにせよ発音にせよ、人間であるのに人間とことばの関係についての根源的な理解が欠けているからだ。人間の中にことばが育っていく道筋を、外に表れる現象によって外からしか見ようとしないからだ。人間の赤ん坊は育つにつれて、誰が教えなくても、生まれ育つ環境のことばをいつの間にか聞き取りしゃべっているという不思議さは、あまりにも日常的で一見当り前のことなので、それを不思議だと思い、深く考えてみるという人はめったにいない。しかも、人間の赤ん坊に生まれてことばの習得に挫折したとか、その過程で文法的にまちがったとか言うことはないのである。その一つの鍵となるのは、母親を初め周りに人はいても、ことばを意識的に教えようとする先生は一人もいなかったということだ。
たまたま僕は、三十年ほど前に、東京で榊原陽という一つ年上の人に出会った。彼は人間と言語についての考察を進める過程で、右に描いたような事柄についても研究を続けていた。そして外国語の、母国語と同じような自然習得の環境づくりをめざし、長い準備と試行錯誤を重ねた末に、二十年ほど前にヒッポ・ファミリークラブを発足させた。その準備段階では僕はしばらく彼のもとで仕事をした。
冒頭の僕の仮説は、その榊原氏の話に示唆されて遊んでみたに過ぎないが、人間の赤ん坊が他の動物に比べて自力ではなにもできない期間が長いのは、非常に贅沢な一種のモラトリアムに恵まれていることで、そのモラトリアムは人間に特有の言語の自然習得にかかわるのではないかということだ。ことばを周囲から浴びる、与えてもらう、そして自然にことばの海を無心に泳ぎ回る。その代わりに何もしなくてもいい。お乳は与えられるし、湯も使わせてくれるし、まったく贅沢なものだ。全生物の水準から言えば、これほどもたもたして、動き始めるのが遅いやつもいない。
さて人間の赤ん坊は、そうやって近しい周りの人たちから、たくさんのことばを浴びる。それは必ずしも赤ん坊に向けたものではない。むしろ大人同士の会話のほうがずっと多いだろう。そのうちに赤ん坊はフッとある時に「あっち」、とか、「おんも」、とか言う。ここで重要なのは、赤ん坊がやさしい単語から断片的に憶えてそれを発音したなどということなどあるはずがなく、またそう解釈する人などもいるはずがないということだ。赤ん坊は日本語なら日本語という言語の全体をいつのまにかとらえていて、「あっちにつれていって」とか「外につれていって」と、母親に堂々と意思表示をしているのだ。だからまちがうはずもない。
この自然習得に対して、いわゆる語学ないし会話教室ではどうだろうか。外国語の場合は特に、全体性などというたいそうなもののマスターは後の事で、まずは易しい単語や表現から一つ一つ与えられる。それが学習というものだとみんなが思っている。自然習得のほうは、何かが言えた瞬間は、そのことばで代表される自分のことばの全体性ができたことを示している。皆そのことを知っているはずなのに、である。
赤ん坊が乳児期から幼児期になると、親や周りの人を相手に次から次へとうるさいほど話し出す。理の当然だが、文法的な誤りは全くない、文法なるものは、外側から後で理屈をつけた体系だから、初めに正しい姿であったのは、内側から自然に出てくることばなのだった。
榊原氏は、初めは英語の自然習得の環境を、幼児期から大人までを対象に、試行錯誤しながら築いていった。外国語だからという理由だけで、自然習得はできないということはないはずだ。そのことばが自然に話される環境さえあれば、人間は何語であれ自然にできるようになる。例えば、親の転勤でアメリカに行ったこどもは、公園で毎日友達と遊ぶうちに、いつのまにか英語ができるようになっている。そしてそこに先生などいないのだった。
榊原氏が築いた英語の自然習得のシステムは徐々に実っていった。そのうちに彼が気づいたことは、直線的に英語だけをやるのでは駄目だということだった。人間である以上、環境さえあればどこの国のことばも自然習得できる。多言語が飛び交う国の公園で遊ぶこどもは、その何カ国語かをいつのまにか同時に話せるようになっている。そこで英語と並んでまず導入したのが韓国語だ。
ここで自然習得の環境と言っているのは、こどもにも親しみやすい物語を会話で運ぶ音声テープかCDを各家庭に備えることが基本になる。それをもとに会員の家族が集まって交流する大小の活動については今は省く。さて、英語の次になぜ韓国語を導入したかというと、例えば、フランス語やスペイン語や、ドイツ語だと、テキストはローマ字だからたいていの大人には読めてしまう。大人が読めるとこどもの自然習得の邪魔になる。実は大人当人の邪魔にもなるのだが。しかし幸いにして当時、韓国語のハングルを読める人などほとんどいなかった。辞書もテキストも役に立たない。テープには外国語に対応する日本語も入っているが、テープのいろんな場面でのやりとり、けんかするところもあるし、冗談を交わすところもあるし、泣いたり笑ったりもするのだが、生まれたての赤ん坊と同じように、大人もそれを何回も繰り返し浴びるように聞いていく。それしか方法はない。
こどもは楽しいことはやる。楽しければ夢中になって聴く。そしてこどもにとっては韓国語の新しい響きがおもしろくてしかたない。大人よりも先に口にするようになる。テキストの文字でカンニングするわけにいかない大人は、こどもに遅れてついていく。そこで完全に先生というものが存在し得なくなった。
英語だけのときには完全にはできなかった領域がそこで生まれた。次にはスペイン語をとり入れた。ここまで来れば大人も文字から入る倒立した「不自然習得」にこだわる人はそんなにいない。こうして今では、ドイツ語・フランス語・中国語・ロシア語・マレーシア語・タイ語など、十四カ国語をやっているという。
そして今までの誤った「常識」では、英語一つでも大変なのにこんなにできるわけがないとなるが、自然習得の環境ではその反対なのだった。インドやアフリカなど、日常的に多言語の飛び交う国から日本に来た人たちは、驚くべき速さで、まったく自然な日本語を話すようになる。もちろん日本語の先生など誰もいない。榊原氏は次のように述べている。
「内なる赤ちゃんとの出会い」
十七年のヒッポの歴史は、大人が自分の中に生き続けていた赤ちゃんとの出会いの旅でもあった。
旧来の言語観にとらわれ、先生なしで、勉強もしないでこんなことで本当にことばができるようになるのか。文字もなくて辞書もなく、意味は? そのすべての呪縛から開放されるのは容易なことではなかった。行ったり、戻ったりしながら、ひとつづつその呪縛を解きほぐしながら、自然の道筋をさぐってきた。自然の道筋とは、それが誰にでも起こることを見つけることだった。
「これなら赤ちゃんにもできる」
それが自分の中の赤ちゃんとの出会いだった。
アフリカやインドなどのいわゆる多言語人間が、あっという間に新しいことばができるようになる秘密も見えてきた。アフリカでは部族語二、五〇〇以上、インドでも一、〇〇〇以上のことばが話されているという。方言のような互いに関係の近いことばもあるだろうが、全く系統の違うことばも無数にある。日常、聞こえてくることばなら、誰でも十でも二十でも話せるようになるという。しかも、初めて聞くことばを話す人に出会うことなど日常茶飯事だ。いっしょに仕事をしたり、生きてゆくことで、お互いがそれぞれのことばを何の苦もなく話せるようになるということを体で知っているのである。その上、それらの部族語のほとんどが文字を持っていない。従って辞書もない。彼らは日本にやって来て初めて出会う日本語も、アフリカで出会う未知のことばの一つと何の違いもなかったのである。
前に繰り返し述べたが、人間の定義は、人間に生まれれば誰でもそこで話されていることばが話せるようになる、と言うことだった。しかし、その前提は、自然の道筋でということに限る。自然の道筋とは赤ちゃんの方法でということである。多言語人間とは、その内なる赤ちゃんが生き続け、好奇の目を爛々と輝かせている人たちのことだった。
ヒッポの活動は、大人の中に生き続けている赤ちゃんに目を覚ましてもらうことだった。試行錯誤をくり返して、どうにか不自然のハードルを越えて自然に帰ってくる旅だった。現在のヒッポでは十四のことばの活動をしている。スペイン語、韓国語、英語、日本語、ドイツ語、中国語、フランス語の七カ国語に加えて、イタリア語、ロシア語、タイ語、マレーシア語、ポルトガル語、インドネシア語、広東語の十四である。
続々と、その不自然のハードルを越えて、自然に回帰してきている人たちがいる。その体験は、誰の話も大げさに言えば、ほとんど生まれかわると言ってもいいほどだ。その人たちは新しいことば(のテープ、CD)が発表されると、半年、いや三カ月もあれば話し始めている。大人が自分の中の赤ちゃんを見つけた時、外側ではなく、赤ちゃんの内なる驚くべき感動的なドラマが見えてくる。
(榊原陽『物質。生命、人間(ことば)を貫くもの』より)
人は皆星の子
榊原陽氏は、ヒッポ・ファミリークラブの活動を進めるうちに、かねてから考えていた、「人間と言語」に対する自然科学的アプローチのための言語交流研究所を開設し、トランスナショナル・カレッジ・オブ・レックスという少人数のカレッジを開校した。
従来は大学の言語学科といえばほとんどは文学部なり文系に属していた。しかし人間も地球の他の生命体と同じく自然の存在である以上、その人間に固有の言語の振舞いも自然科学の重要な研究対象であることは理の当然だ。入学資格は高校卒業に相当する年齢以上であれば上の年齢は問わない。ペーパーテストはなく面接のみ。ただしそれまでに一つの課題が与えられる。ドイツの理論物理学者で量子力学の先駆者の一人であるウェルナー・ハイゼンベルグ(一九〇一〜一九七六)の『部分と全体 私の生涯の偉大な出会いと対話』(山崎和夫訳・みすず書房)をできるだけ繰り返し読んでくること。
一般に日本の大学は、入学するためには受験勉強などで大変だが、いったん合格して入学すれば、卒業するのは容易だ。そして大きな目的は、就職などのための大学卒業「資格」の取得だ。しかしこのカレッジは、卒業したからといって別に何の資格が与えられるわけでもない。それでは若者は何を目的に入学してくるのか。面白いからだ。これほど知的好奇心をそそるところはないからだ。ここでの二年ないし数年の経験は、彼または彼女にとって何ものにも替えがたい無形の財産となるだろう。
さて、このカレッジには専任教授はいない。客員は、一流の大学や研究所からおもに自然科学系の教授が何人かいてときどきやってくるが、みっちり講義するというものではなく、学生たちに共同研究の示唆を与える、いわば引き出し役のようだ。学生は数十人、学年別ではなくテーマによっていくつかのグループに別れることもあれば、まとまってやることもある。
こうしてスタートしたこのカレッジが、最初に取り組んで共同研究の成果として発表した紀要のタイトルは『フーリエの冒険』。紀要といっても教授の名は出てこない。全篇学生による研究発表である。「冒険」とあるが、フーリエとは、十八世紀フランスの空想社会主義者のことではない。社会科学ではなく、同時代に生きた自然科学、数学者のフーリエで、その名を冠したフーリエ級数、フーリエ解析という、自然科学の研究に重要で難解な数学に挑んだのだ。言語音声の振動、共振、共鳴の研究にとっても重要だ。それまではフーリエ級数という名前さえ聞いたことのない学生がほとんどだった。大半が一から、あるいはゼロからのスタートだった。だから「冒険」である。紀要には、その一から、あるいはゼロからの出発の様子も含めて、実験、失敗、討論、試行錯誤、解明といったプロセスが、余さず隠さず書かれている。
この『フーリエの冒険』はかなり分厚いものになった。関係者からも「これは面白い」という声が挙がった。学生たちは手分けして、本を持って紀伊國屋、丸善、有隣堂といっためぼしい書店を回り、店頭に置いてもらった。すると驚くべきことに、自然科学書の中のベストセラーに名を連ねるようになった。大学の学生、研究者、会社の理工系社員たちに評判になり、やがて大学のテキストにも用いられるようになった。しかし、初めから「売れるものをつくってやろう」と考えた人間などいたはずがない。
次に学生たちが挑んだ「冒険」は量子力学だった。その研究プロセスをまとめた『量子力学の冒険』もまた売れた。これらは研究所の手で英訳版もでき、アメリカの大学でも使われている。かりにここに、野心的で腕の立つ出版社の男がいて、こういう分野のベストセラーをと目論んだところで、そう簡単にはいかないだろう。ビジネスを目的とする直線的な作業ではなく、無欲無心でゼロから出発し、道草と試行錯誤を重ねて螺旋状に進むうちに、ついに目指すものを掴んだその作業過程の面白さが、当人たちの予期せぬ反響を呼んだのだ。
続いて学生たちが挑んだ「冒険」はDNAだ。自然の生んだ生命体である人間と、人間固有の言語の関係をDNAに探ることで、「言語と人間を自然科学する」というこのカレッジの命題は、いよいよ核心に迫り始めた。そして九八年に『DNAの冒険』が世に出た。
このカレッジの学生たちの共同研究は、現存する日本最古の文献とされる古事記、日本書紀、万葉集の全く新しい解読にも及んでいる。その成果は藤村由加のペンネームで『人麻呂の暗号』『額田王の暗号』『古事記の暗号』などの本となって新潮社から出版され、特に、『人麻呂の暗号』は四十数万部に及ぶ大ベストセラーとなった。これらの一群の本の魅力も『フーリエの冒険』などの自然科学書群と共通するものがある。すなわち、取っ掛かりは、フーリエ級数や量子力学など何も知らなかったと同じように、すべて漢字で書かれた万葉集や古事記の原文などまるで見たこともない人ばかりだった。そして研究に当たっては、引き出し役はいるものの、先生ないし権威というべき人はいなかった。これもゼロからの出発で、未知の旅への冒険だ。そして同じように、模索、仮説、検証、失敗、試行錯誤を繰り返し、螺旋を描いて進むうちに、ついに曙光が射し、手応えのある解明にいたる、その道程を隠さず記したノンフィクションとなっている。先生なし権威なし、ゼロからの出発というのは、すでに述べたヒッポ・ファミリークラブの多言語自然習得の立ち上がり方ともまったく同じなのだった。
二年ほど前、僕はある人から一冊の本を紹介された。『世界でいちばん美しい物語』(ユベール・リーヴズ、ジョエル・ド・ロネー、イヴ・コパンス、ドミニク・シモネ著、木村恵一訳、筑摩書房)。最初、表紙のメイン・タイトルだけが目に入ったとき、いったい何というタイトルをつけたもんだろうと思った。「俺の好みじゃないな」
ところが脇にサブ・タイトルがあるのに気付いた。「宇宙・生命・人類」とある。なるほどその分野の本なのかと興味にかられ、ぱらぱらとめくっているうちにいつのまにか読み耽っていた。
フランスの代表的な週刊誌「レクスプレス」誌の副編集長であるシモネが、宇宙物理学、分子生物学、古生物学の三人の泰斗からこもごも話を引き出し、的を射た質問をする。そして、難解にちがいない専門的な話が、深さを保ったまま平易に展開する。読み終えて、「なるほど、これは『世界でいちばん美しい物語』に値する」と思った。ただし、物語といっても誰が書いたものでもない。百五十億年前のビッグバンによる宇宙の誕生以来、地球・生命・知性の誕生に至るまで、自然の秩序のままに進化しつつ推移してきた過程を人間が読み取って、美しくも壮大な物語と感じるのである。
一読後、手近な本棚に納めておいた。そして机に向かい締め切りの迫った、あるいは締め切りを過ぎた小説やエッセイの原稿に精を出す。つい一息入れて一服したくなる。ふと本棚のその本に目が行く。一度読んだが、妙に惹かれるものがあるのだ。宇宙・生命・人類に関する科学書だが、全部が全部僕にとって驚くべき新知識や考え方というわけではない。わかっていたことの再認識もあれば修正もある。にもかかわらず三人の話が、三人とも想像力をかき立ててくれるのである。「私たちの体を構成しているのはかつて宇宙をつくった原子だ。その細胞には原始の海の一部が閉じこめられている」といった一行にも。
道草に気付いて本を閉じ、原稿用紙に向かう。しばらくしてまた一息入れたくなる。そしてついまた……。今度は結構読み耽ってしまう。そのうちに、原稿と読書のどっちが道草なのだかわからなくなってしまう。
本の内容に立ち入ることはやめるとして、この本は百五十億年を宇宙・生命・人類の三幕物の舞台に仕立て、一幕をそれぞれ三場に分けて語り進めている。各場に入る扉のページには、ごく短い要約が書いてある。これが何ともすばらしく詩的ですらある。その部分だけを抜粋しておこう。
第一幕 宇宙
第一場 カオス
場面ははてしない白一色。どこもかしこも白熱の世界のまばゆい光に輝き、物質はいまだ形もなく名もない混沌でしかない……。
第二場 宇宙の形成
登場するのは、まず、言い表しがたい無秩序状態の素粒子。次に、それらが組み合わさってできる最初の原子。その原子がやがて灼熱の星の中心で爆発的な結合を引き起こす。
第三場 地球
空漠たる空間のなかで、初期の分子たちがとぎれることのない輪舞を始め、ある平凡な銀河の端近くに奇妙な惑星を誕生させる。
第二幕 生命
第一場 原始のスープ
太陽という適度な星から遠すぎもせず、大気のヴェールに守られ、地球は星々に代わって物質の進化をさらに推し進める。
第二場 生命の形成
惑星に雨が降る。天から落ちてきた精妙な分子が干潟のなかで結合して、生命の最初のしずくを作り出す。
第三場 種の爆発
久しく孤独のうちに生きてきた細胞たちが連帯し始め、色鮮やかな世界が花開く。生物種が次々に生まれ、死に、多様に分岐し、生命の世界は拡がり、発展していく。
第三幕 人類
第一場 アフリカのゆりかご
小さなずる賢いサルたちが花の咲き乱れる世界に誕生する。彼らの子孫は乾燥に耐えるために立ち上がり、新しい世界を発見する。
第二場 人類の形成
いまだヒトでもなく、もはやサルとも言えず、わが祖先たちは、しかし両後脚で立って世界を見下ろし、愛のことばを交わし、カタツムリを食べる。
第三場 征服の道
古い世界が死に、新しい世界が生まれる。二足歩行の日和見主義者がそこに君臨し、地球全体を征服し、芸術と愛と戦争を生み出し、自らの起源について自問する。
エピローグ
意識をもち、好奇心にあふれた存在が、狭い地球にひしめき合い、自らの力に脅かされつつ、空を見上げて不安げに問いかける。この美しい世界の物語はこの先どうなっていくのだろうか。
目先のあれこれの仕事や考え事に疲れると、僕はこの本を書架から取り出してぱらぱらとめくり、この各章の扉の文章を目で追う。そしてエピローグまで来る。「この美しい世界の物語はこの先どうなっていくのだろうか」――僕ごときにはもちろんわからない。わかろうとしても仕方がない。おそらくだれにもわからない。ただ、小さな人間の僕にも言えることは、宇宙を構成する原子の末裔として、星屑の末裔として、みずからの意図や目的を持たずに人間に生まれた以上、せっかくだから人間を一回やるだけだ。一回だから、生きる「目的」などという無用で不自然なものにとらわれずに、真偽、善悪、美醜を自分なりに峻別するセンスを保って生きるだけだ。
などと考えながら、また思いにふける。
一人の人間が一生にできること、やらなければならないことなど、たいして多くはないはずだ。いったい人間は、みずからに目的といわれるものを負わせ、あるいは他から負わされて、何に向かって急ぐのか。目の色を変えてどこまでやれば気が済むのか。
いいことだ、必要なことだと思ってやり過ぎて、ろくなことはない。その果てには、楽しさと面白さを喪失した世の中が残る。
昔の人は、こんなには、何のためにやっているのかわからなくなるほどには、やり過ぎなかった。今の人間よりはるかに短命だったのに、急がず、仕事にも生活にも時間のゆとりがあり、自分の好きなことを、自分のたのしみとして悠々とやれた。列車のスピードも遅く、暮らしの手立ても不便だったのに。
一人の人間についてのその感想は、日本という国家についても当てはまる。何に向かってかくもめいっぱいやっているのか。やり過ぎてろくなことはない。
先に死ぬ人間は、あとに残るこどもたちに、やり過ぎて途方もない負の遺産を地球に残してはなるまい。
「身の程」ということばが脳裏に浮かんできた。
U 行き当たりばったり
十八歳の区切り
幼児の頃は、なにしろ泣き虫だったらしい。その泣き方は度を外れていたと、後になって父母や姉たちから聞かされた。
「らしい」とか「聞かされた」とか逃げを打ったが、実は四歳か五歳ぐらいのときのことは、本人の僕もいくらか憶えている。
いじめられたり喧嘩に負けて泣くといった種類のものではない。たいていは、自分の思いどおりにならないから泣くのである。玩具屋の店先の道端に座り込んで、あるいは地面に転がるようにして腸が破れんばかりに泣き叫ぶ。その結果めざす玩具を買ってもらえたかどうかは憶えていない。
あるいは、母からおやつに当てがわれたビスケットの裏の、あばた模様が気に入らないといっては放り出し、泣き叫ぶ。この理由は今でもよくわからない。
単純に考えれば、泣き癖は父母に甘やかされて育ったせいだ。昭和二年に長女、昭和四年に次女、そして昭和六年に長男の僕が生れた。とりわけ父にとっては「期待される人間像」であったろう。昭和に入ってなおさら富国強兵の時代だった。そして、長子相続の時代だった。といって父は資産家ではなく、ずっと社宅か借家住いの並のサラリーマンだったが。
富国強兵について父がどう考えていたかはともかく、旧末士族の末裔の分家に、後継ぎが生れたのである。ちなみに父母は、長男の僕の後に、昭和九年に三女、昭和十二年に次男、更に昭和十七年に三男をもうけ、当時では標準と思われる三男三女とした。
六年目に生れた「期待される人間像」の実物が並外れた泣き虫小僧とあっては、父は理想と現実との乖離に途方に暮れたであろう。といって幼児専門のカウンセラーやセラピストのいた時代ではない。結局父母は僕の泣くに任せたようだ。そのことに心配しただれかが言った「ダッチョウ」ということばの響きを僕は憶えている。脱腸である。「このままでは息子さんは脱腸になってしまうのではないか」といったことだったと思う。
父は終生、俳句をやっていた。僕が三つか四つぐらいのときの端午の節句に詠んだ一句。
太刀兜睨んで泣くな花菖蒲
その頃の写真を見ると、やはり僕は甘えん坊の泣き虫小僧であったことを改めて認めざるを得ない。
ところが、小学校に上がる少し前あたりから、僕の泣き癖は脱腸になることもなくぴたりと止んだ。この原因もよくわからない。何か特別なことがきっかけになったとか、精神的にいちじるしく成長したとかいったことではなさそうだ。ともかく、以来五十余年、泣いた記憶がない。慟哭、号泣のたぐいはもちろん、忍び泣きをした覚えもないし、眼から涙滴が落ちることすらほとんどなくなった。極端から極端へ、これも困ったことだ。
これだけ生きていれば、それなりに悲しいことも辛いことも、反対に泣きたいほど嬉しいことも多々あったが、涙が伴わない。本や映画のどんなに極め付きの悲しい場面、感動的な場面になっても、悲しくなったり感動は覚えるのだが、涙は伴わない。眼頭が熱くなる寸前のところで引っ込んでしまう。
父母をはじめ近しい人の死に遭っても葬式でも、泣けなかった。貰い泣きもない。こうなると、自分は感受性が鈍いか、あるいは無情で冷淡な性格なのではないかと反省せざるを得ない。しかし僕はその反省を避け、一人の人間が一生に流す涙の量はあらかじめ決まっていて、僕はそれを五歳までに消費しつくしたのだと考えることにした。
父の転勤に伴って三重県の四日市に生れ、名古屋に移り、次に横浜に移ってまもなく、僕は中区本牧町にある大鳥小学校に入学した。昭和十三年のことだ。一年一組、男の子だけの組で、僕は、お互いに家の近い田原茂行と宮内長三の二人と仲好くなった。特に田原は、当時では珍しく一人っ子だったこともあって、きょうだいの多い僕の家にしょっちゅう遊びに来ていた。僕の家では、上の姉の所有物であった、当時としては貴重品のドッジボールを、姉から「返しなさい」と言われるまで使って遊び、まれには、姉の油断した隙にそれを持ち出して田原の家に行き、家の板塀の高いところにチョークでしるしを付け、それをバスケットに見立てて大勢でバスケットボールの真似ごとをして遊んだ。そのドッジボールの使用をめぐって、僕らと姉の間にときどきトラブルが起きたが、気の弱い僕はすぐ引っ込み、代りに田原が、四つ年上の僕の姉と、力ずくでも感情でもなく論理で争い、しばしば姉を言い負かしていた。やがて姉も母も、この利発な一年生には一目置くようになった。
七年後、この田原と僕には奇縁が発生する。それについてはまた後で書きたい。
横浜では、同じ中区の内だったと思うが、短い間に二回も引っ越しをした。当時は普通のサラリーマンでも、庭付きの一軒家をらくに借りられる時代だったが、一軒目の家が昔の武家屋敷のような門構えの立派な家だったので家賃が高過ぎたのか、しかし更にもう一度引っ越したのはなぜなのか、父母はいずれも家相を気にするようなタイプではなかったのに不思議だ。長じてから、いつか聞いてみようと思っているうちに二人ともあの世に逝ってしまった。
今振り返ると、僕の育った家は、当時としては中流の中か下ぐらいの、しかし結構モダーンな家庭だった。核家族のはしりである。
薩摩の貧乏侍の子孫の父は、鹿児島で高等小学校を終えると上京し、僕の聞いた記憶では剣道だか柔道だかの師範の家の住み込みの書生となり、苦学しながら大学に通った。そして倉庫会社に就職した後、東京の女と結婚した。これは、何十年か後に僕が大分から上京してからの経緯と似てなくもない。僕はおやじの轍を踏んだのかと思うふしもあるが、それについては今は略す。
母の父は、大蔵省の官吏をやったり中学の教師をやったりしたらしく、その長女である母も当時では珍しく嫁入り前に勧業銀行に勤めていたというキャリアの持主で、父母の出会いがどういうものだったかはともかく、多分恋愛による二人の結婚は大正期の資本主義と自由主義の申し子のようなものだったのだろうと僕は思っていた。ところが、母の死後、その間際に住んでいた弟の克彦の家に遺された母の手記によると、実は母には銀行勤務時代にほとんど将来を契った同じ職場の相思相愛の人がいて、一方、母の父は多分仕事の関係で僕らの父を知って気に入り、かなり強引に母と恋人との仲を裂き、父との縁談を決めてしまったらしいのである。そんなことを僕や克彦は、父からはもちろん、母や、そんな事情を知っていたらしい姉からもついぞ聞いたことはなかった。母は父を嫌いなタイプとは思ってなかったが、結局は心の内で泣きながら、彼女の父の命に従ったらしい。
そうだ。父や母の伝記ではなく、僕の自伝を書かなければならないのだった。つまりは、僕ら六人きょうだいの育った家庭は、昭和初期としては割合モダーンだったのだ。父は、骨相には大久保利通や東郷平八郎に似たものを残しながらも、息子たちを末示現流風にしごくなどという振舞いは皆無で、拳骨を振るうことも、正座させて説教を垂れることもなく、終生、優しく寡黙な父親のまま八十歳で死んだ。その八年後に母も八十歳で死んだのだが、彼女は昭和初期の教育ママのはしりであったかも知れない。その影響を受けてか、彼女の長女すなわち僕の長姉は、僕や克彦に対して教育アネであったとの印象が強い。
母は、中流の下ぐらいのサラリーマンの妻であるにもかかわらず、自分の産んだ子のことごとくを一流の上級学校に進ませようとし、父はそれを母に託した。戦争が介在しなければ、母の理想の図式は達成されたかも知れない。ところが、敗戦後、父が何らかの責を負ってか貧乏くじを引いてかは父から詳しくは聞けなかったが、財閥解体のあおりを食って三井倉庫をクビになってからは、母の理想の図式は露と消えた。僕は後年になって、僕の家族をひそかに「中退家族」と呼ぶようになった。確か父も、大学をまっとうしなかったと聞いた。長姉は女子美を中退、僕は夜学を中退、妹は学芸大か何かを中退、そして弟の克彦は武蔵美を中退である。次姉にも末弟にもたいした学歴はついて回ってない。そういえば母の手記にも、名門の麹町女学校を受験する日に彼女の父か母かが急病に倒れて受験の機を逸したとある。これを要するに、家族のことごとくが、めざした学業をまっとうしていない。中退家族である。開き直って「中隊、進め!」てなもんだ。
僕の小学二年の夏休み、父に下った転勤命令で、一家は兵庫県芦屋市、当時の武庫郡精道村打出野田一番地に転居した。僕の通い始めた学校は、芦屋の分限者のお屋敷地帯にある岩園小学校で、横浜では経験したことのない男女組、すなわち男女七歳にして席を同じうした学校だった。後になってかえりみれば、僕の初恋は、その学校での二年生から三年生にかけての間に発生した。小学生になるまでに泣き虫小僧を卒業していたせいかどうか、僕は勉強が割合できる子になっていたらしく、芦屋で三年生になると級長にさせられてしまった。副級長が、後になってあれが初恋だったと自覚させられる、その女の子だった。子供にしては面長の整った顔立ちや、つきたての餅のようなほっぺたの感じは今も鮮明に脳裡に残るが、彼女の姓も名もまったく憶えてないのだから情けない。仕方ないからK子としておこう。K子の家は、山の手の分限者のお屋敷地帯ではないが、それから少し下った国鉄と阪急の線路脇の、僕の住む中堅サラリーマンの家の並ぶ地帯の中では際立って洒落た白い洋館だった。芝生の前庭と公道を分ける丈の低い木の柵は真っ白なペンキで塗られ、そこに沢山の真っ赤な薔薇が這っていた。
学校の子弟の貧富の差は服装ではなく弁当の中身に表れた。貧富の差というものを、僕はその学校で初めて意識したのだったと思う。最高級の弁当は、昼休みになるとその家の女中さんが現われ、ほかほかの吸物の椀と重箱を坊っちゃんの机にうやうやしく差し出すクラス、その対極は、固い御飯が用意できないので家に雑炊か何かを食べに帰るクラス、そして大半は僕のように、鰹節や海苔を敷いた御飯に塩鮭と卵焼きといったところ。昼飯時にはこれだけ親の貧富の差を見せつけられるのに、それ以外の勉強や遊びの時間にはどちらの側からもそんな階級差を意識せず、入り混じって平等に子供の共和国を作っていた風景が懐かしい。そんな中で、K子の弁当は重箱ではなく僕らのと同じアルミの弁当箱だったが、御飯は口に入れやすいように小さなブロックに分かれていて黒胡麻が振ってあり、おかずの部分も僕らの塩鮭と卵焼きよりずっと多彩だった。
あるとき僕は、それが羨しいという気持ではなかったと思うが、彼女の弁当をのぞき込み、ほめる代りに何か無理にケチをつけたのである。K子は箸を置き、つぶらな黒い瞳で僕を睨み、やがて瞳から涙を溢れ出させ、おいおいと泣き出した。女の先生は「級長が副級長の女の子をいじめるなんて」と怒り、僕を廊下に立たせた。僕は「先生、違うんです。いじめたつもりじゃないんです」と心の中で言いながら廊下に立っていた。「K子はかわいいし、K子の弁当は申し分なく幸せそうだし、非のうちどころのないK子を僕は好きだから、虚勢を張ってつい心にもないことを言ってしまったんです」とでもいった心境だった。
そんな事件にもかかわらず、K子は自分の誕生日のパーティーに、級友の中の数少ない招待客の一人として僕を選んでくれた。僕は母の整えたよそゆきの服を着、赤い薔薇の咲き乱れる白い木のフェンスの扉を押してK子を訪ねた。そして自然に仲直りした。
三年生の途中で門司の清見小学校に転校、一年足らずの四年生の途中で大分の金池小学校に転校、その冬に真珠湾攻撃によって太平洋戦争の火蓋が切られ、父のあいつぐ転勤もそこで止み、僕は高校を卒業するまで、八年間も大分で過ごすことになった。その八年間のちょうど真ん中に当たるのが、一九四五年八月の敗戦――終戦である。
小学生の間に転校する先々で、それまでと違う方言になじんでいった経験は、今となっては得難い宝のように思える。方言の表すものは、その地方の文化の特徴そのものであり、人間の生態系そのものであろう。僕は、頭がまだ固くならない小学生の間に、四つの文化を友達との遊びの中で抵抗なく自然に吸収して育ったことになる。当時の、転勤が宿命のサラリーマンの子弟は皆そうだった。八人家族だろうと十人家族だろうと、皆おやじについてぞろぞろと汽車に乗って引っ越していた。
一つには、住宅事情に今とは比べものにならないほどゆとりがあり、一方では、父親の単身赴任で二重生活をするだけの便宜性や経済のゆとりがなかったのだ。それより何より、家族というものはよっぽどの事情がない限り、父を中心に一つ屋根の下で暮すのが当り前なのだった。
小学校四年の二学期末から、旧制大分中学二年の夏までの太平洋戦争中のことは、ここでは一切省略する。思い出したくないわけでも避けたいわけでもなく、そこを書き出すとこの紙幅の中には到底収まりそうにないからだ。個人的な体験以外にいろんな要素が絡まって、それだけで優に一冊の本になってしまいかねない。他日を期さねばなるまい。要は僕も、先生や大人の言うことに素直に従っていた軍国少年であり、敗戦とともに今度は素直に左翼少年―左翼青年になっていったのだった。
中学二年だった一九四五年八月十五日のことを、僕はしばしば次のように書く。「学業のない一学期の後の、休みのない夏休みという奇妙な季節の真っ只中」
束の間の虚脱感と放心、しらけ気分、解放感の後、やがて「学業のある」二学期を迎え、僕らは再開された教室に集まった。ある日、休憩時間になって廊下にあふれ出した生徒の、隣のクラスの群れの中に、横浜の小学校で僕の転校のため二年の夏休みに別れた、田原茂行に面影のよく似た生徒を遠くから見付けた。近寄って名札を見ると田原だった。お互いに驚き、異口同音に出たことばは「奇遇だな」だった。僕は転々とした後大分に、彼は戦争末期に横浜大空襲から逃れて父の郷里に移っていたのだった。家に帰って母や姉にそれを告げると、彼女たちも眼を丸くして驚き、喜んだ。
六年ぶりに交友が復活した。一九五○年早春、僕は、父が不運にも失職し大学進学をあきらめて就職のため、田原は晴れて合格した東京大学に進むため、それぞれ上京した。以来彼は今日まで、僕が大体十年単位で会社を飛び出す度に次の仕事を心配してくれ、一九八二年に僕の最初の本となった、『映画館を出ると焼跡だった』という書下ろしエッセイを草思社から出す橋渡しをしてくれた。彼自身は大学を出てラジオ東京、今のTBSに入ってそこを全うし、退職後、三十七年間のテレビ界の内側での経験を生かした著作に入った。
そして、僕の小説が直木賞を受けることに決まったその日に、田原の渾身のドキュメント『テレビの内側で』が草思社から上梓された。僕にとって二重の喜びであり、こんなことはもうめったにないだろう。
戦後の出発に戻る。
僕らの生活は猛烈に忙しくなった。もう爆弾の落ちてこなくなった焼跡や草っ原で、草野球が始まった。それぞれの父の蔵書などを貸し借りしたり新刊本を回したりして、手当り次第に片っ端から読みまくった。急激に入ってきた外国映画や、早くも生れ始めた邦画が映画館にかかる度に片っ端から見まくった。必然的に小遣いが足りなくなる。アルバイトの口を探す。僕の場合は父が失職したために、母たちと一緒に働き口を探し、家計の一助にもしなければならない。しかし、結局、中学生高校生の稼ぎではたいして家計には回せず、大半は映画代や学校の授業料や遊ぶ費用に消えた。印刷工場、硝子工場、土木作業、日用品の家庭訪問販売、何でもやった。それに加えて、リヤカーを借りての農村への食糧買い出しと物々交換、それにもちろん通学。今考えると、三年間か四年間ぐらいのことではあったが、よくまあ、これだけのことがいっぺんにできていたと思う。僕だけではない。父親が戦死したり失業したりの家庭で、子沢山の家の級友たちは、皆同じようなことをしながら学校に通っていた。栄養の回らない身ではすぐ疲れるし、慣れぬ力仕事などは肉体的にはつらかったが、暗くはなかった。戦争時代の、国のための、個人には見通しのつかぬ強制的な労働と違って、自分個人のための、小さいけれど目的のはっきりした営みだから、明るい気持でいられた。
そんな日常の中で、旧制中学四年のときだったか、翌年に新制の高校二年にスライドした年だったか、野球部が、めぼしい生徒を集めて入部テストをすることになり、あろうことか小柄でひ弱な僕に、部員がじきじきテストを受けるよう勧誘にきた。生来の左利きで戦争中の軍事教練などではコンプレックスを抱いていた僕は、それから解放されて草野球やテニスを愉しめるようになると、左利きの稀少価値にひそかに誇りを持つようになっていた。クラス対抗の軟式野球で活躍したことも部員の眼を惹いたのだろう。硬球を扱えるかも知れないという可能性に胸の躍る思いもあったが、それを聞いた母が必死に反対した。都会の失業者の息子で、食べるものも満足に補給できないのに野球部などに入ったらたちまち体を壊すというのだった。僕も何が何でもやってみたいというほど一途ではなかったので応募を止め、春の選抜大会に連続して出たほどの硬式野球部から一度声をかけられたということを、高校時代唯一の誇りとすることにとどめた。
文芸部からも勧誘されたが、僕のいちばん入りたくない部だった。ときどき部誌に載る創作を読んでみると、小さなことを無理にひねって深刻がっている感じがし、そういう雰囲気の合評の場にはとても加わる気になれなかった。
結局僕は新聞部に入り、編集長になって、前記の田原たちと「言論の自由」を掲げてラディカルなオピニオン・ペーパーをめざし、その内容をめぐって顧問の教師とよく衝突し激論をたたかわせた。
三年の一学期も終って級友たちが志望の大学を決め始めた頃、僕もどうせなら一度、東大に当たって砕けろと思った。その頃の僕は漠然と、シナリオライターか新聞記者になりたいと思っていた。しかしすでに、家の経済状態はどん底で、受験のために上京することさえかなわぬようになっていた。僕は上京できる就職先を探して他日を期す方針に切り替えざるを得なかった。そんなことで教室での態度も投げやりになっていたのだろう。ある日、尊敬する物理の教師から皆の前で叱られた――。「赤瀬川、大学に行けなくなったぐらいで、ものを考える姿勢を捨てちゃ、いかん」――ぼっとしていて簡単な設問が解けなかったのだと思う。この一言はこたえた。そして前記のように一九五○年早春、上京して働くべく夜行列車に乗った。それからの、社会に出て大人になりかけてからのことどもは、今はまだ自伝的な文章にする気はない。ただ、現在に至る僕の考え方や感じ方の癖のようなもの、興味や関心の持ち方の原型の大半は、右に略記した十八歳までに動かし難く出来上がっていたように思う。『球は転々宇宙間』によっておそるおそる小説の世界の入口をのぞいたのは、上京して三十二年後のときだった。あれは、三十二年を解体してまず十八歳までの原点に戻ってみる気持が無意識に働いていたのかも知れない。
(「オール讀物」95・9月号)
がっしりした木の机
横浜で小学校に入学したのが父の転勤による偶然なら、その後各地を転々とし、今からおよそ二十年前に横浜に住み着くようになったのも、今度は僕自身の転勤による偶然である。
業種は異なるが父も僕も転勤の多い職場にいた。僕の場合は、横浜に移ってきて数年後に文筆業に転じたので、転勤がなくなったのである。
父は倉庫会社に勤めていた。すでに世を去っているが、明治二十八年の生まれだから入社したのは大正六、七年頃であったろう。
僕が小学生になるかならぬかの頃だったと思うが、父が僕を、横浜港に臨む会社の事務所に連れて行ってくれたことがある。その動機は何だったのか、もう五十年以上昔のことだから覚えていないが、断片的な情景は脳裏にはっきり残っている。事務所は木造二階建で、がっしりした木の床に同じくがっしりした机が並んでいた。この「がっしり」感は、もちろん僕が幼少だったゆえの印象にもよるのだろうが、少なくとも今のリノリウムの床やスチールのデスクよりは重厚な質感があったことは確かだ。父は二階の自分の机の脇に僕を侍らせて、しばらく仕事をした。背広や作業衣の人たちがきびきびと行き来していた。父はその何人かに、照れながら僕を「総領の甚六だよ」と紹介していた。
二階の窓から外を見た。眼下には貨物列車の引込線がカーブを描き、その先に埠頭があり、その先に海が光っていた。やがて父が僕を一階の食堂に連れて行った。また「がっしり」した木の大テーブルがあり、その上にやっと首だけ出す恰好で、僕はライスカレーを食べた。
もともと家でも寡黙だった父は、会社でも僕にはほとんど口をきかなかった。ただ僕をそこに数時間いさせ、ライスカレーを食べさせてくれただけである。しかし、会社の人たちとはきびきびと快活にことばを交わしていた。
その後、転勤する先々で、僕は父に一度ずつは会社に伴われた記憶があるが、僕の脳裏にいちばんくっきりと残るのは、この横浜の事務所の一日である。今思うと、僕はその日初めて、働く父の姿に接したのだった。家族以外の人たちの中で、すなわち社会で、ある役割りを果たしている父の姿に初めて接したのである。そのとき僕は、父に対して家庭の中でとは別種の尊敬の念を抱いていたような気がする。
大人になってから、同年輩の友人知人にそうした思い出を語ると、同じような体験をした人が何人もいることがわかった。
今では、農業や個人商店や家内工業はともかく、一般のサラリーマンは子供に父親の社会での役割りを、肉眼で知らしめる機会があるのだろうか。あるいは、そんな悠長なことなど考えられないほど父親は仕事に追いまくられているのか。そしてそんな姿を我が子にまで見せたくないのか。
亡父の晩年は不遇で無気力だった。しかし、父に対する僕の尊敬の念は、あの幼少時の一日によって不変である。
(「勤労よこはま」94・10月号)
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「行き当たりばったり」習作時代
初めての本を二冊同時に出したのがちょうど五十歳のときだった。エッセイ『映画館を出ると焼跡だった』(草思社)と、小説『球は転々宇宙間』(文藝春秋)である。
もし若い頃から作家を志し、それなりの修業を意識して習作に励み、あるいは雑誌に投稿などしていれば、いくら才能に乏しくてももう少しは若い年齢で文筆を生業としていたことだろう。そのあたりの事情を、初対面の人からよく聞かれる。五十歳というのが珍しいらしい。
「ずっとサラリーマンで食ってたんです」
これでは十分な説明にならないようだ。
「じゃ、その間にこつこつと習作に励むなり、あるいはその処女出版の原稿を書き溜めてらしたんですか」
「いや、全然。二冊の原稿はサラリーマンをやめてから一気に書いたんです。金はないけど暇だけはあるという状態を処理するには、原稿用紙に向かうのがいちばんいいだろうと思って」
「そのとき初めて、作家を志したわけですか」
「いや、まだ志としては固まっていませんでしたね。フィフティ・フィフティのゲーム感覚というか、とにかく本にしてもらえたら僥倖だなと思っていた程度で」
「でも、文筆に専念するために勤めをやめたんでしょ」
「いや、僕にそんな計画性はありませんよ。クビになったんですよ。四十八のときです。困りましたねえ、妻子はいるし。で、失業保険が切れてから書籍の全集物のセールスマンで食いつないでいました。その間に暇だけはあるから原稿を書いたんです。要するに行き当たりばったりの所産ですよ」
本当に行き当たりばったりなのだ。こんな男が「私の習作時代」あるいは「文学に志してからデビューするまで」というテーマを与えられても困ってしまう。しかし、基本的には注文にすべて応じるのが物書きの業というものだ。そして、こういうときも打開の道は困った挙句にやってくるのだった。文筆への「転職」までの五十年をまるごと「習作時代」ととらえればいいのである。いわば無意識の習作時代だ。人生のすべてはエチュードであるなどとキザなことは言いたくないが、何やらそう言いたい気分にもなってくる。
高校は大分一高(現・大分上野ケ丘高)だった。文芸部の文学臭が嫌で、新聞部に入っていた。しかしこれも文章を書くわけだから「文」が嫌いではなかったのだ。だが、もう少し体格がよければ本当は野球部に入りたかった。
志望大学を決める頃、何になりたいかと自問した。新聞記者、シナリオライター、やっぱり書くことを志していたのか。しかしほかのことにも憧れていた。建築家、造船技師など理系のエリート。しかしすべては幻想に終った。食い物にも乏しい時代の父の失職と極度の貧乏、九人家族が生きていかねばならない中で、大学に進むどころではなくなったのだ。しかし東京には出たい。行き当たりばったりで就職したのが、何とそれまで予想だにしなかったある都市銀行だった。入ってみたが面白くない。労働組合の機関紙誌にせっせと投稿し、好きになった女の子にせっせとラブレターを書いた。やっぱり文章を書いていたのだ。
僕の拠り所だった労組の自由な場所は、朝鮮戦争の深まるあたりから締めつけが厳しくなった。あるとき、組合の年報に投稿したラジオ・ドラマのための反体制的シナリオが返却されてきた。その中に、明らかに女手とわかる一行の手紙が添えられていた。「よい原稿をお返ししなければならない現実を悲しく思います」――思うに、このあたりから僕の、自分の文筆に対するナルシシズムが芽生えたのか。
銀行は十六年我慢してやめた。三十五歳、妻と幼い二人娘がいた。組合活動ゆえに東京から飛ばされていた北九州から再び上京し、失業保険をもらいながら親友に頼った。そして就職したのが新興の外国語教育の会社だった。このあたりから、文章を書くことに職務上近づいてくる。社内外に対する広報の仕事をあてがわれたのだった。プロパガンダのような、広告のコピーのようなものをせっせと書いた。そして四十八のときにそこをクビになった。僕にとっての第二次失業保険給付時代、正直言ってその六カ月の期間はパラダイスだった。朝寝坊し、やおら起きて今日は何をしようかなと思いめぐらす。やることがないからコクヨの原稿用紙を買ってきて机に向かう。今思えば、処女作のタイトルは『行き当たりばったり』とすべきであった。
というわけで、僕の習作時代は五十年に及ぶという以外にない。無意識の習作時代、それを「年の功」というのだろうか。当代名うての作家たちにまじって小説を生業とし始めて十年、これからも行き当たりばったりが続くだろう。やはり「人生のすべてはエチュードである」などとキザに口走ってみたくもなる。
(「別冊歴史読本」93・冬)
振り出しに戻る
病気、怪我、失敗……五十を過ぎて思い返してみると、私はそういうことの度にいつのまにか角を曲っていたようである。
自分の姿についての最初の記憶が、病気姿である。数えで五歳のときだった。黒塗りの大型自動車の中で、真っ白なネルの衣にくるまれて母の膝の上にいた。グミの実を食べて疫痢に罹ったと聞いている。入院するときか退院したときかは覚えていない。当時この病気の死亡率はきわめて高く、「ほんとに一度は死にかけたのよ」と、あとあとまで母に言われた。そのために私は、自動車の中の記憶を、自分が死んで白衣に包まれているという情景に置き替えるようになった。自分についての最初の記憶が、想像を加えた死装束となったのである。
それまであまり丈夫でなかった私は、疫痢を境にしてすこぶる健康になり、以来病気らしい病気をしていない。あれが多分最初の曲り角だったろう。
病気をしなくなった代りに、今度は怪我をいくつもするようになった。小学校に上る頃、近所の子の放った吹矢が左眼に刺さった。高校二年のときには喧嘩でキンタマを蹴上げられ、しばらく医者通いをした。その他、梯子を踏み外して向こう脛をそいだり、裸足で釘を踏んだりした。
怪我をする度に、私の脳裡では、疫痢のときと同じように想像の世界がふくらんだ。ヒロイックな色を帯びた変身想像である。そんな出来事が、少年の私にいくつかの角を曲らせたように思う。
怪我をしない年頃になってからは、今度は失敗が重なる。大学受験の失敗、愛の告白の失敗、会社勤めにおけるいくつかの失敗、数えていけばきりがない。そのひとつひとつが大小の曲り角になったようだ。しかしすでにそのときは、少年の頃の変身想像は伴っていなかった。そして大小の曲り角の中で、これこそが決定的な転機だったと特筆したくなるものはない。というより、今の私は、どこにいて何をしているのかが自分でもはっきりせず、これからどうなっていくのかもわからないから、「決定的」といえる要因もまた自覚できない道理なのである。
道に迷って山勘で歩き廻り、気がついたら元のところに戻っていたという夢を、こどもの頃に見たことがある。私は五十三歳の今、その夢のように道をいくつも曲った末、白い衣にくるまれて死んでいる自分を見たと思った五歳当時に戻っているような気がしてならない。ただし明らかにちがうのは、当時にくらべれば想像力や感受性がはるかに衰えていることである。だから私は、いろいろなことを文章に表してみなければ安心できず、自分を確かめてみることもできないという始末になっているのだろう。
私は仕事もいくつか変えてきた。もちろんそれぞれに動機はあるが、その中でくっきりと方向を決めた転機は自覚できない。今はただ、ゆるやかに円を描いて幼児の振り出しに戻った感覚があるだけである。
(「小説現代」85・10月号)
先送りの方程式
今、この「執筆儀式」を執筆するにあたっての儀式は皆無であった。儀式めいたことをしたり、あるいはそれほどの形式とは自覚しなくても、これも広い意味では儀式の中に入るかもしれないといった振舞いが執筆に先立つのは、小説の場合に限る。
コラムやエッセイの場合は長短いずれにかかわらず、たいした熟慮もこだわりもなく、さっさと書きにかかる。そのほうがうまくいく。これは、小説を重く、エッセイを軽くあしらうということでは決してない。両者の質の違いがそうさせるとしかいいようがない。
執筆儀式なるテーマを離れて、儀式一般に共通するものを考えてみると、何かの実現への祈りを一定の手順と形式をふんで表現することももちろんあるが、もう一つ共通していると僕が考えるのは、儀式とはその「何かの実現」を先送りするという性格があるのではないかということだ。
結婚の初夜や、遺体の埋葬や、オリンピックの競技などにいきなり入っていかずに、それはもうどうせそうなるのだからという安心感、あるいは諦めを前提にして、その実現をわざとちょっと先送りする。いよいよやるぞ、本当はすぐにかかりたいのだが、という気持を保ったまま、それをちょっと先送りすることによって盛り上げるのである。実現すべき何かが大きければ大きいほど、めったにないことであればあるほど、その先送りのための儀式も規模が大きくなる。
さてそろそろ我田引水、牽強付会になってきたぞ。いや、もうとっくになっているか。小説は長短にかかわらず大仕事である。めったにない仕事である。だから先送りの儀式によって、締切りに向かって気持を盛り上げなければならない。
「わかったわかった。では夫子の儀式とは何ぞや。具体的に述べられよ」といわれても困る。特に決まったもの、あるいはひとさまに説明してなるほどと思ってもらえるようなものはない。
締切りが迫る。小さい仕事を片付け、雑事を整理し、失念していることがないかをノートの予定表や壁に貼ったメモで改めて確かめ、何もない、小説の第一行を書き始める以外にお前のやることは何もないとなった状態、夾雑物皆無の状態、明鏡止水の状態、実はこうなったときが一番恐ろしい。ふと、まだ儀式が足りないのではないかという思いがよぎる。バチが当たるのではないか……。そこで急に風呂を洗って水を張るとか、清めにビールを飲むとか、バスに乗って外出するとかで、一見日常生活に溶暗したかのような儀式に入る。あるいは急ぎもしない三枚ほどのコラムに先に手を出したりする。この原稿もそうだ。こうして僕の日常生活のすべては小説を書くための儀式の座を占め、その短篇小説は長篇書き下ろしのための儀式の座を占め、つねに何かの実現が先送りされているわけである。そして、しかしいつかは長い儀式の末の短い実質の時が訪れる、という楽観の日々が過ぎてゆく。
僕の宗教は「楽天」。今から映画の試写を見るという儀式に出かける。多分そこで小説のための宗教的解脱を得るだろう。
(「オール讀物」92・9月号)
こどもの楽園と戦争
小学校二年の夏、父の転勤で横浜から芦屋に引っ越した。昭和十四年のことである。家の周りも校庭も舗装してある環境でものごころついた僕にとっては、土と緑に囲まれた芦屋の住宅地は、風景も匂いも新鮮だった。家から少し登り坂になったところに国鉄と阪急の線路があり、土手には草が生い繁っている。その手前に道を隔てて広い原っぱがあった。公園ではなく、だれのものともわからぬ空地である。その原っぱから線路の土手にかけてが、僕らの日常の遊び場となった。日が暮れて家々から「御飯よ」と呼びにくるまで、草叢で三角ベースや戦争ごっこに興じていた。非日常といえば、二つの線路を越えて山ノ手にある分限者の子弟に招かれて邸宅を訪れるときだった。そういうときは母から、いつもの遊び着ではなくよそゆきを着せられた。線路を隔てた北側の山ノ手が、雑草がなく立派な立木と塀のある地帯、南側が、塀がなく土手や空地に雑草の生い繁る地帯だった。後になって「こどもの楽園」というイメージを思い描くとき、真っ先に浮かんでくるのがその雑草におおわれた線路の土手と空地になった。
戦争たけなわの頃は大分にいた。中学二年の夏、勤労動員でどこかの小高い山の中で土木作業をしていた。突然爆音が響き、「待避!」という声が飛んで、僕らは身を投げ出すようにして深い草の中に飛び込んだ。敵の戦闘機が何か攻撃目標を見つけたらしく、すぐ近くを、バリバリ、キーンという音とともに機関銃の弾が通過する。それが去ると、急に真夏の草いきれが鼻腔をおそい、小鳥のさえずり以外何も聞こえない静寂が訪れた。後になって「僕自身の体験した戦争」を思い描くとき、この草いきれが脳裡に真っ先に浮かぶようになった。
「草」は、草庵、草紙、草書など、簡素あるいはあまり上等でないさまにも用いられる。さてそこで僕の好きな草野球とは、厳密な語義としては残念ながら草の上の野球の意ではなく「あまり上等でない」野球の意だろう。しかし僕は今もそれに加わる度に、あの時代の奇跡のような解放区だった草ぼうぼうの「こどもの楽園」で遊んでいるような気分になるのである。
(「列島ジャーナル」91・3月号)
ケンカ歴
口ではなく手足を発動してやったケンカは遠い昔のこと。しかし、口ゲンカは昔のも最近のも(最近はたいていは妻とだが)発生原因・戦況・結末ともほとんど記憶に残らないのに、体を張ったケンカは遠い昔のことでも鮮明に残っている。肉体に刻まれた記憶は消えないのだろうか。
まずは小学二年生のみぎり。父の転勤で横浜から兵庫県の芦屋に移ってまもない頃のことである。社宅のすぐ近くに子供が遊ぶのに恰好な原っぱがあり、僕らは学校から帰ると毎日そこに集まって暗くなるまでボール遊びをした。おもにテニスのボールと棒切れでやる野球だった。しかし、その天国的な遊びが暗くなるまでは続けられない事態がよく起きた。三年生や四年生のグループが現われ、僕らが丈の高い草を抜いてやっと整えた一等地を横取りして、先住者の僕らを辺境に追いやるのである。
ある日、とうとう僕らは我慢できなくなり、上級生に口々に非をなじり始めた。すると上級生の親分格が周りにいた僕らの胸を小突き始めた。僕も小突かれてよろけた。怒りと恥ずかしさで、僕は夢中で両腕をぶんぶん振り回してその上級生に向かっていった。そうして、めちゃくちゃに振り回していた左拳が、まぐれ当たりで相手の頬をしたたかにヒットした。僕に恐怖が走った。やられる!
しかし、奇跡的としか考えられないが相手はしばし呆然と突っ立っていたあと踵を返し、近くにたむろしていた彼の仲間のところに戻り、そして上級生たちはそのままどこかに立ち去った。僕はまぐれ当たりの一発のホームランでヒーローになったのである。
お次は、それから門司を経て大分に移って中学四年になった、敗戦後三年目の頃のことだ。ある日、家に迎えにきた友人と横丁の路地を歩いてゆくと、同年ぐらいの商業学校の二人連れと擦れ違った。やがて彼らは引き返してきて、一人が僕の友人に彼の咳払いが気に食わんと因縁をつけ始めた。僕が「つまらんいいがかりはよせ」と言って二人の間に入ろうとした瞬間、敵は「おまえは黙っとれ」と言っていきなり僕の股ぐらをしたたかに蹴り上げた。反撃しようとしながらも激痛にしゃがみ込む僕。敵のはいていた靴は旧陸軍のお下がりの軍靴だった。
そいつは友人を二、三発殴ると連れと足早に立ち去った。僕は友人に大丈夫だと言ってなんとか歩いて家に帰ると倒れ込んだ。ズボンを脱ぐと股間は血まみれで何がどうなっているのかわからない。驚く母の肩につかまって医者に行く。医者は「こりゃひどい」と言って調べ始めた。バットに裂傷、球は異常なしとのことで、小さな哀れなバットは包帯でぐるぐる巻きにされた。十日ほど治療に通った。若い看護婦が包帯を解き、「だいぶよくなったわね」などと言いながら薬を塗り新しい包帯を巻いてくれる。屈辱の敗戦を思い出しながらも僕は、ある種の屈折したヒロイズムに気分が昂ぶってゆくのだった。
(「小説現代」98・6月号)
文章の素読と絵画の模写
素読、あるいは暗誦といったことが、今の小学校や中学校の一般教育でどのくらい用いられているのか、詳しくは知らないが、昔に比べればはるかにかえりみられなくなっていることだろう。私などは、漢文や詩や散文でそれをいやというほどやらされた最後の世代になるのかも知れない。
素読とは、文章の意味は考えずに文字を声に出して読むことだから、個性や自発性を期待する教育にとって益なしと考えられがちだが、はたしてそうだろうか。個性といい自発性といっても、本当に力があり持続性のあるそれは、先人の文化遺産である古典のうちの良質なものをこやしとし、その土壌にこそ花咲くものではなかろうか。問題は、それを与える側の「良質なもの」を選ぶ力量である。うっかりすると素読暗誦は誤った価値観や道徳の押し付けにもなる。
私の世代は、漢詩や、たとえば島崎藤村の新体詩などとともに、教育勅語、神武に始まる百二十四代の天皇、はては軍人勅諭まで暗誦させられた。こんな轍を踏んではならないが、子供ながらに、いやなもの、おぞましいものと、声に出して気持ちいいものは本能的に選り分ける力を持っていた。いくつかの漢詩や島崎藤村の新体詩などは気持ちよかった。意味はよくわからなくても、韻があり、リズムがあった。
初めは意味がほとんどわからなくても、もともと意味のないものをそらんじているのではなく、意味のあるものを忠実にそらんじているのだから、その行為には意味があるのだ。しかしその行為には、教育者が辛抱強く待ってあげるゆとりが必要だ。最近では子供を待ってあげるゆとりが、学校でも家庭でも失われがちに見える。工業的合理主義は、できるだけ短時間に規格にかなったものを作り上げることで、それ以外の要素、すなわち無駄に見える時間や道草や規格外の製品は排除される。しかし、人間の教育は本来、自然の摂理に従って待つことをどうしても省略できない農業の手法に近いもののはずではないか。
話は少し変わるが、最近私はある雑誌の企画で、印象派の名画の模写をやらされた。油彩をやったことのない素人数人に狙いをつけ、油絵具を与えて、好きな絵を忠実に模写させるという企画だ。私は好きなシスレーの風景画を選んだ。もちろん本物ではなく縮小版の複製画を手本にしてカンバスに向かう。
悪戦苦闘するうちに、画家の筆づかいや工夫の仕方が少しずつわかる気がする。ただ眺めているときにはわからなかったものがわかり、ひいては画家の偉大さがわかる。この過程では模写をする者は、自分の表現、自分の個性を出そうとしてはならない。ひたすら忠実に模写につとめる。その結果できあがった模写作品は、これは私の模写技術のまずさもおおいにあるが、やはり私の絵になっているのだった。その過程でいろいろな収穫があった。
文章の素読と絵画の模写は似ているように思える。時間はかかるが、ためになる。
(「神奈川新聞」96・10・7日号)
文芸も理数も人間の言語
何で読んだのか、十六か七の頃に読んだ逸話を思い出した。芥川龍之介のところに一人の青年が訪れ、弟子入りを願い出て言った。「私は数学や物理は大の苦手ですが、文学には情熱を抱いています」――それを聞いた芥川は言下にこう答えたという。「数学や物理の嫌いな人が文学をやっても仕方がない。帰りなさい」
好きな話だ。といって僕が、数学や物理が特に得手というわけではない。ただ、あらゆる科学の基礎となり、曖昧な答えや誤りの許されない数学や物理について「俺の仕事にはまったく関係ない」という態度では、文学をはじめどんな分野のことでもしっかりとは身につかないと思う。前記の青年は多分、自分がいかに文学志向かを強調するために理数の才を否定し、その下心を芥川に見破られたのだろう。
旧制中学から新制の高校にかけて、僕は俗にいう英数国漢が好きだった。というといかにも受験に苦労のない優等生に聞こえるが、授業の中身の好き嫌いとテストの点数とは、かならずしもいつも釣り合うとは限らない。テストではムラが多かった。
不思議なことに、数学のテーマが難しくなればなるほど一種の快感を覚えた。サイン、コサイン、タンゼント、ロガリズム、微積分……、人間が自然を読み解く手際の深まりに何とかついていきながら、人間の一人としてその解のプロセスに快感を覚え、美しさに酔った。思えばこのあたりの性向が、僕の人文系の傾向を示していたのかも知れない。やがて僕は理数から遠ざかり、「曖昧な答えや誤りの許され」る、いや許されないまでもそれが多分に相対的で主観的に評される文芸に暮しのたつきを求めるようになったのであった。
そうこうするうちに八年ほど前、東京渋谷にあるトランスナショナル・カレッジ・オブ・レックスという大学の創立に出会った。そこの学長の榊原陽という人が僕の人生の先輩にして知友なのである。「人間と言語の科学」をやるという。以後ときどきそこをひやかしに行って学長や学生たちと交わるうちに、僕は彼らのやることにその都度瞠目せざるを得なくなった。言語=文系、これが一般の反応であろう。しかし黒板には大てい、僕の昔懐かしい対数や微積分、はては僕のとりつくしまもない量子力学の数式などが学生の手によって書かれているのだった。「数式は、自然を読み解くための万国共通の人間の言語である」――これが彼らのアプローチの態度なのだ。そこから、入学するまでとりわけ理数に関心はなかった学生たちの共同作業によって、『フーリエの冒険』『量子力学の冒険』といったロング・セラーが生まれた。僕は相変らず「人間の一人としてその解のプロセスに快感を覚え、美しさに酔っ」ている。しかし彼らが黒板にすらすらと書く数式についていけるわけではない。まだ僕は当分、小説やエッセイを書いていく以外にないようだ。
(「数学セミナー」92・8月号)
方言は人間の美しい生態系
戦前戦中の小学生時代、僕は四つの小学校を転々とした。平均すれば一年半おきである。入学したのが神奈川県横浜市、それから兵庫県芦屋市、次に福岡県門司市で最後は大分県大分市。
その転校歴を振返ってみると、マイナス面よりも恩恵を受けたほうが多かったように思う。風土も方言も異なった地方での生活を、こどものころにいくつも体験できたからである。関東、関西、北九州、中九州――。残念ながらというべきか、関東より北の地方には行かなかったのだが。
こどものころは、転校して新しい友達や先生と交わっていれば一週間ぐらいでそこのことばになじんでしまうものだ。頭も心も柔らかい時期だから、違和感はたちまち消えてしまう。よく、転勤などで家族揃って海外に行った場合、外国語にいちばん早く順応して上達するのは小さいこどもだと聞くが、事情は同じだろう。大人はつい、教本や文法から入ろうとし、間違ったら恥ずかしいという意識にとらわれがちである。その土地のことばになじむには、まず頭よりは心である。頭と心は違う。
僕の国内転々の場合は、その移動の仕方もよかったのだろう。西へ、また西へ、そこから少し南へ、ほとんど同じ方向だから、風土もことばも関連しながら微妙に変っていったからである。その結果、長じてからも僕に残ったのは、適度の順応性と、ものごとを相対的に見る習慣ではないかと思う。恩恵と書いたのはそのことだ。
父は倉庫会社に勤めていた。当時の一般のサラリーマンの転勤は、重役か何かでない限り、単身赴任はまずなかった。家族の二重生活を許すほどの手当は会社もできなかったし、一般社会も、単身赴任の男が生活にさほど不自由しないような利便は整っていなかった。いや何よりも、家族というものは、よほどのことがない限り一つ屋根の下で暮すものだとの認識が強かった。だから僕の家も父の転勤のたびに、家族揃って汽車に乗るのが当り前だった。横浜から芦屋に移るときにはすでに両親とこども五人の七人家族で、大分でまた一人増えた。僕ら兄弟姉妹は、父母についてぞろぞろと長距離列車に乗り込むこと三回、それは、未知の土地へのかすかな不安と好奇心に満ちた楽しい旅となった。
大切なのは、そういう大勢の家族の転居を可能にする住宅事情だ。当時はどこに行っても、かりに社宅の備わってない土地でも、一戸建の貸家は沢山あり、父は気に入った家を選んで社宅扱いにしてもらっていたのだと思う。不動産が諸物価のなかで相対的に安かった時代だ。それに転勤の多いサラリーマンは、若いうちはマイホーム志向は薄く、ついの住処なら戦前は退職金でポンと買えたのだろう。もっとも、僕の父は戦後まもなくの失職でそれどころではなくなったが。
さて、小学生時代の僕は、そこの風土や方言になじんで気の合う友達もでき、やっと落着いたと思ったら転校という経験を重ねたのだが、小学校四年の途中から高校を卒業するまでは珍しく大分に定着することになった。大分に転じた年の十二月に米英との戦争が始まり、父の転勤がやんだからである。
八年間に及ぶこの定着は、僕にもう一つの恩恵をもたらした。それには、めぐり会った時代との関係も濃い。厳しい戦争の時代が四年、そして戦後の復興期が四年、その間に僕は人間形成に決定的な十代の大半を過ごす。その後半は折しも学制改革の時期で、僕らは旧制中学の四年修了から新制の高校の二年に移行するという変則の道を歩むのだが、実はその変則ゆえの安定した環境と人間関係を六年間保つことができたのだ。というのは、校門の表示が中学から高校に変っても、校舎は同じで、先生と生徒の大半も中学時代と変らなかったからだ。その六年の間に僕らは、共通の貧困や空腹とたたかいながら、そして価値観の大転換のなかで道を模索しながら、それゆえ終生の得難い恩師を得、終生の友を得ることができたのだ。高校を出て上京してからも、大分は僕の後天的な故郷となり、その風土やことばは僕のなかにいちばん強く残った。
大分弁に次いで今も強く残っているのは、横浜から最初に転校して小学校二年の途中から三年の途中までいた芦屋での関西弁だ。今でも、その言い回しやイントネーションを復活させるのにたいした不自由は感じない。
面白いことに、父母と、僕より四つ年上の長姉は、行く先々の方言にたちまち染まるということはなく、外でも家族に対しても、いわゆる標準語に近い関東弁で話していた。僕らは家の中でも、父母や姉に対しても自然にそこの方言を使うようになる。関東弁と関西弁や、関東弁と九州弁が、お互いに邪魔でなく平気で行き交う。それが少しも不自然ではない。父母や姉が別に気取っていたわけではない。大人になってから、あるいは十代も深まってからではなかなか順応できなかったのだろう。母は結婚するまで東京を出たことがなかった。
地方地方に昔から根づいている方言は、その地方の天地自然の生態系と同じように、人間の生態系だと僕は思う。人間の生態系、すなわちことばの生態系。それぞれの風土になじんでそれぞれに自然で、かつそれぞれに美しい。ところが、仕事や観光でいろいろな地方に旅すると、最近はその生態系の影がいくぶん薄くなり、あるいは乱れている気がする。多分一つは、テレビがラジオ時代とは比較にならぬほどのネットワークで全国をおおい出したからだ。そして、テレビは流行に乗ってわけのわからぬ言い回しやイントネーションを全国に画一的に撒き散らす。それに人も物も流通万能の時代である。
しかしそれほど悲観することもあるまい。昔から育まれてきた方言の美と自然の秩序は、一時の流行を右に左にかわしながら、たおやかに生き続けるだろう。
(「月刊国語教育」99・9月号)
貧乏という名の
贈り物――娘への手紙
おまえたちが育った時代に私がおまえたちに与え得た最良のものは、「貧乏」という名の経験であったかも知れない――とまず開き直っておこう。
世の中全体が貧乏な時代であれば、それから少しは突出した貧乏も世の中に紛れて普通になる。私の少年時代がそれに当たる。もっとも、それでも私は、わが家の貧乏は少しひど過ぎるなあとは思っていたが。敗戦直後、私の父は大企業から放り出され、それからは失業している期間のほうが長いような生活に明け暮れたまま年老いていったのだ。そんな父を、私はそれほど情けないとは思っていなかった。薩摩の貧乏士族の末裔で会社勤めしか知らなかった男が、生き馬の眼を抜く商売などで利を争う姿になるよりはいいと思っていた。ほかの五人のきょうだいや母がどう感じていたかは知らない。
こういうのは父子相伝とはいうまいが、私もけっこう失業を経験した。父と違うのは、私の失業がいずれも、みずから会社を飛び出したことによるものという点だ。もう一つは時代の違い。世の中全体の生活水準の回復が、その中の貧乏もそれほどひどくはない水準に押し上げていて、家族の明日食べるものがまったくなく算段もつかないところまでは落ち込まなかった。子供も、おまえたち、まなつとかおりの二人だけだった。
とはいうものの、北九州の小倉でまなつが小学校に上がってすぐ、私は十数年勤めていた銀行を突然辞めてしまったのだから、どうかしているといわれても仕方がない。しかし私は、新しい職を求めて東京に行き、それまでの広い社宅とは比べものにならない狭いアパートに四人で住むことになっても、おまえたちやお母さんにすまないとはあまり思わなかった。経済面では冒険だったが、私自身の精神的安定と充実感がない限り、私が責任を持つ家庭に幸福はあり得ないということを第一に考えて実行したことだから。
よそとの比較で自分の家の経済状態を意識するようになるのは、多分小学生の後半あたりからだろう。おまえたちはそれから成人して結婚するまでずっと、経済的に豊かだった時期は一度もなかった。一方マクロの日本経済のほうは高度成長を続け、人びとは何となく裕福感を味わい始めていた。おまえたちは通学のためのバスの定期も切れてすぐには更新する金もないので、駅からの三十分以上の道のりを歩いたことも何度もあったとか。それでも私には不平不満は聞こえてこなかったから、まあよくできた娘たちだったのだろう。その分お母さんにアピールしていたのだろうか。
私は家庭というものを、成文化された憲法のない原始的な本能の園だと思っている。だから外の社会におけるような改まった「対話」などなじまないし、それが必要なときはよっぽどぐあいの悪いことがあるときだと思う。幸い、それほどぐあいの悪いことはだれにも起きずに来た。だからおまえたちとまとまった話をした記憶は一度もない。お母さんともない。おまえたちとお母さんはどうだったのだろうか。ときどき喧嘩していたが。
おまえたちが一年おきに結婚したとき、私は友人知人からよく聞かれて困った。「淋しいだろう」「花嫁の父の感想は?」「式では泣いただろう」――とんでもない。私は二人のどちらのときも、うれしくて幸せで仕方なかったのだ。その感想は強がりととられたようだ。そのことのほうが不思議で仕方がない。
さて初めに、貧乏という名の最良の経験を与えたなどと開き直ったが、もちろんこれは結果として今言っているので、当時もこれが最良だなどと思っていたわけではない。ただ、経済的に緊張感があり、贅沢な選択肢の少ない成長期が、おまえたちを強くしたと思うのだ。工夫し、考え、自立する力、それを私はことばで導くことなど一度もなかった。要するに何もしなかった。なのにおまえたちが一人前になったのは、お母さんの努力を別にすれば、貧乏の力だと思わないわけにはいかないではないか。
(「ハイミセス」95・11月号)
三十五にして酒に開眼
コップ一杯のビールでおかしくなっていた男が、三十五歳になって急にビールでも日本酒でもウイスキーでもいけるようになったのだから我ながら不思議である。しかも五十を過ぎたあたりからは、おもに外でだが適当にチャンポンにしたほうが深酔いせずに心地よいというぐあいになった。根拠はないが飲み友達には「胃の中のブレンド効果だよ」と言っている。ただし家ではせいぜい二種である。
三十五にしてなぜ急に飲めるようになったのか。仕事の環境や交友関係が変ったなど、思い当たることはメンタルな面でいくつかあるが、それを書き出すと長くなるので今はおく。
ただし、三十五になるまでにも酒にまつわる記憶はある。最初は中学二年のときだ。敗戦直後で食物の乏しい時節に父に連れられて父の友人の会社に行った。父の友人は「お父さんの前だからいいだろ。ちょっと味わって見給え」と言って、ショットグラスにちょっぴりウイスキーを注いで僕に渡した。恐る恐る口をつけると舌と喉が焼けただれる感覚がした。生れて初めてチーズなるもののかけらも差し出された。臭い以外の何物でもなかった。大人とは何と嫌な趣味を持つ生物だろうと思った。ところが今やチーズは離乳食にも使われ、僕の五歳の孫にとっても大好物である。
もう一つの記憶は昭和二十四年、高校三年の秋のこと。生徒自治会主催の体育祭のあと、委員六、七人が神社の社務所を借りて打上げをやり、清酒の一升びんを茶碗に注ぎ分けて乾杯した。みんないい気分になったところを運悪く風紀担当の教師に見つかり、一週間の謹慎処分をくらった。僕が飲めたのは茶碗半分ぐらいだが、このときは美味いものだと感じた記憶がある。ほろほろとした夢幻の境地だった。
しかるに、成人してから飲めなくなったのである。以来いたずらに十五年を経て、三十五にして酒に開眼、といっても酒豪になったわけではない。今でも、何らかのアルコホルがなければ宵が越せないとはいえ、その必要量はたかが知れたものである。外でも、終日家にこもっている日でもそれは同じだ。もちろん、外で気心の知れた人とサシで、あるいは数人で飲んでいると、一人で飲むときよりは相乗効果で、家で飲む倍以上は進んでいると思うが、それでも酒好きの平均以下だろう。この年になれば、自分の生理的限界は理性ではなく五官が自然に教えてくれて、愉快で終るか不快に向うかの分岐点を悟る。
ただし最近では、若い女性でむやみに酒に強い人が少なからずいる。いくら飲んでも顔色一つ、眼の色一つ変えない。そういう女性と飲むときは、こっちもつい敵愾心と虚勢にかられて度を過ごす。これが反対なら理性を駆使して口説けるのだが、世の中はままならない。
外でいくら飲んで帰ってきても、かならず冷蔵庫を開け、もう一度ビールを飲み直す。たいていは深夜だから家人は寝ている。このビールの一杯は、家人への「ただいま」の代りである、というのが僕の勝手な解釈だ。やはり無言であれ「ただいま」を言わないと気が済まないのである。この無言の「ただいま」が実に美味い。一日のみそぎである。
急ぎの原稿のないときは、それからすぐ寝る。しかし、たいていはある。だから机に向う。そこからの成果は急ぎの度合いによる。小説の場合は残している枚数にもよる。まだ殺される心配はないと判断した場合は、急に緊張が緩み酔いも回り、机の前でいたずらに二時間ほどじっとしたあとで寝てしまう。温和な編集者の殺意を感じたときは、そのまま頑張ってペンを動かす。そして、夜がしらしらと明け始めて空腹を感じる頃、うどんかそばを作る前にビールをもう一杯やる。この至福な感じは何物にも代え難い。昔、「夜明けのコーヒー、二人で飲もうと……」という歌が流行ったが、僕の場合は「夜明けのビール、一人で飲もうと……」である。
外で飲む酒でいちばん愉しいのは、大勢の若い男女と安い酒場で飲むときである。渋谷にトランスナショナル・カレッジ・オブ・レックスという言語研究の少人数の大学があり、僕の二人の娘がそこの第一期卒業生ということもあって、僕はそこの客分である。学生たちの研究発表の折に年に何度か顔を出す。夕方それが終ると、あうんの呼吸で七、八人の学生と近くの酒場に行く。老いも若きも語ることは尽きない。閉店が近づくと僕は、「おまえたち千円ずつ出せ」とか「俺がこれだけ出すから、あとはおまえたちで割れ」とか言う。決して僕一人で持ったりはしない。
外で飲む酒の最高の肴は「話」である。だから難しい話や窮屈な話の場は本能的に避ける。若い学生たちとワリカンで飲みながら、僕は彼らの研究や交友や結婚話に耳を傾ける。そして、僕らの年頃には味わう能力のなかった酒の味を、共に享受しているのである。
(「酒」93・11月号)
V 貧乏旅行に如かず
初めての洋行
一九七六年の夏、四十五歳で初めて“洋行”した。その頃僕は、こどもたちの外国語教育と国際交流のためのある民間団体に勤めていて、夏休みにアメリカ各州の家庭にホームステイする中学・高校生たちを引率していく役の一端が僕にも回ってきたのである。僕の担当はカリフォルニア州、約一か月の滞在期間中は僕自身もサンノゼ市のある家庭で過ごした。
こどものいない三十そこそこのジムとリンダの住む家は、裏庭を広く取った、素朴な感じの木造平屋で4DKといったところか。二人の愛の巣の一隅を未知の日本人にあてがうとは、物好きなカップルもいるものだと思っていたが、やがてジムが東洋びいきで仏教に関心のあることがわかった。それにしても、夜中にトイレに立つとき、ジムの自慢のダブルのウォーター・ベッドに二人が寝ている裾を通らねばならないのには少なからず気がひけた。
ミシガン育ちでそこの州立大学を出たジムは、ヴェトナム戦争下のアメリカの価値観に疑問を抱き、カリフォルニアに来てヒッピーの群れに混じった。やがて足を洗い、リンダと一緒になってサンノゼに一戸を構え、木工を生業とするようになった。僕が二人の愛の巣にお邪魔したのはそれからまもなくのことだったらしい。ヴェトナム戦争は終結し、アメリカ建国二百年祭、隣国カナダのモントリオールではオリンピックの最中だったが、二人に祝祭気分はなく、ヒッピーの名残の長髪と長いひげに囲まれたジムの碧眼は暗い光をたたえていた。
僕は彼の木工を手伝い、一緒に問屋に売りに行き、あるいは彼の趣味とする陶芸のワークショップに行って一緒に茶碗を焼いた。彼の地では陶器のことを「ラク」と呼び、僕はラクの本場の人間として同好者たちから尊敬され、乞われるままにいい気になって漢字を教えた。ときにはリンダと三人で、ジムの運転するトヨタで遠出し、北のサンフランシスコや南の新聞王ハーストの城に観光に行き、荒波の寄せる太平洋の岸辺で、日本から流れてきたかもしれない木片を拾い集めた。その頃ようやくトヨタは、アメリカの小型車市場で無視すべからざるシェアを占め始めていた。ジムは僕に、愛車を「グッド・マシン」と言った。僕はそれに関心を示さず、ジムとリンダからひたすらアメリカを吸収しようとしていた。こうして僕は、ジムとリンダの親友になり、彼らの周囲の白人や、当地に多いメキシコ系アメリカ人たちと交流した。
その後何度か海外に旅に出たが、たいてい一人は親友に恵まれるのが自慢といえば自慢。そのきっかけとなり、心を開き開かせてくれたのがジムとリンダのカップルだった。
(「オール讀物」95・6月号)
貧乏旅行に如かず
一度は行ってみたいと前から思いながら果たせていない土地があるとする。そういう土地への初めての旅は、一人の貧乏旅行に如くはない。という感想は、僕のいくつかのたまたまの経験によるもので、いささか負け惜しみめくが、僕にとってはまずはパリがそうだった。
時代は一九八〇年代に入っていた。そして僕は五十の大台を超えていた。日本経済は国際競争力を強めて円の価値が上がり、かつては夢想もできなかった一般大衆の海外旅行がブームを迎えていた。そして五十代に入った男といえば、サラリーマンであれ自営業であれ、まともに働いていればそれなりに、日本経済のグロスの成長と軌を一にして、少なくとも経済的には安定した生活を営んでいるのが普通だった。
ところが僕は、そういう流れに心ならずも逆行していた。三十五歳で一度味わって以来十数年ぶりの二度目の失業の身だった。企業組織内では誰しもが多かれ少なかれ耐えざるを得ないさまざまな重圧と、派閥抗争の狭間にいることに人並みには耐えられず、とうとう外れてしまった。
もうすぐ五十という男にそうそう働き口はない。僕にとって五十歳前後の数年は慢性的半失業状態で、大学生と高校生を抱える一家四人の家計は慢性的赤字だった。「半」というのは、いくらにもならない全集物の書籍のセールスマンをやったり、失業の閑にあかせて書き綴って出版社に持ち込んであったエッセイと戯作小説の原稿が、どうやら日の目を見そうだという状態だったのである。しかしもとより、書籍セールスの僅かな成果や自分の本の未来形で食っていけるはずもない。借金がかさんでいた。
そんなさなかに、そのような状態と喜劇的にミスマッチな、「エールフランスの東京・パリ往復航空券をさしあげたいがどうですか」という話が舞い込んだのである。話の主は、妻の友人の小学校長夫人だった。何でも彼女がゴルフのコンペの賞品に、出発日指定で帰りはオープンの航空券プラス、パリ到着日の指定ホテル宿泊券をもらったのだという。出発日までひと月もない。校長は公務多忙、本人は夫や受験期の息子の世話があるし、女の一人旅では二の足を踏む。誰か利用できる人は身近にいないか。「そうだ、赤瀬川さんの御主人。あの人なら勤めを辞めて自由がきくはずだわ」とひらめき、妻を通して僕に話があったのだった。
確かに時間は自由がきくが、金は不自由だ。まさか、指定ホテルに一泊だけしてトンボ返りではナンセンスきわまる。せっかく行くからには一週間ぐらいはほしい。さてどうする。この機会に行っておきたいのはやまやまだが、こんな状態のときに妻に「行ってくるぞ」と切り出すのもはばかられる。その気持ちを察して妻が「何とか工面して行ってきたら」と言ってくれた。工面とは、一週間の滞在に最低必要と見積もられる費用の捻出である。こうして突然のひょんなきっかけから、僕の五十歳パリ初旅行が実現したのである。
方針としたところは、パリに着いてから自分で安いホテルを探し、原則として毎日パリ市内を見て回ることに当てる、一度だけパリ近郊の田園地帯への日帰りを試みるというものだった。日本を出発したのは十一月の初旬のことだった。地理を含めてパリについての予備知識はほとんどない。観光案内書も買わず、日仏語併記の市内の地図だけを買い、それを畳んで服のポケットに入れ、飛行機の中で眺めて行くことにした。
到着日の夜のために航空会社が用意してくれていたホテルは、セーヌ右岸のバンドーム広場の近くという一等地にあり、和食の店なども入っていて日本人観光客向きのようだった。フロントに料金を尋ねてみると、やはり僕の予算では二日ともたない。翌朝、チェックアウト後スーツケースをフロントに預け、パリの第一日の散策がてら、セーヌ左岸の学生街を目標にホテルを探しに出た。フランス語がからきし駄目な僕には、英語でやりとりできるフロントがいてほしい。そして安ければほかに条件はない。
カルチェ・ラタンやサンジェルマン通りや、坂の多い細い路地を行ったり来たりして恰好な宿を探すうちに、僕はパリに何ともいえぬ親しみを覚え始めていた。実は前の晩にセーヌ右岸のホテルに着いて近くの散歩に出たとき、商店員や通行人の眼差しや街の佇まいに、僕は自分のひがみかも知れないがある種の高慢さを感じていたのである。
犬も歩けばの諺どおり、カルチェ・ラタンからセーヌのほとりに降りる路地の途中で、僕は、安い宿料といい、そのわりには小綺麗な佇まいといい、英語のわかる金髪の美女がフロントにいてくれることといい、申し分のない小さなホテルを見つけ、右岸のホテルからスーツケースをタクシーで運んだ。一週間の滞在でタクシーを使ったのは、空港からの片道とこのときぐらいのものである。あとは全部、地下鉄か歩きだった。
チェックインのときにキーを二つ渡された。個室のキーと共通のキーだという。「共通」の意味はドアを開けてみてわかった。そのドアの内側に更に三つのドアがあるのだった。多分、広いツインルームか何かだったのを、貧乏な学生や研究者のために三室に改造して料金を安くしたか、あるいはもともとその目的で設計したのだろう。それでも僕には十分な広さだった。それに、朝食は、部屋のクラスに関係なく一階のラウンジでフランスパンかクロワッサンにカフェ・オレ、加えて果物をただで好きなだけ摂れることにおいて平等だった。実はこれがいちばん助かった。
それから毎日、僕はその朝食を済ますと、パリを東西南北にかけてほっつき歩いた。歩きやすい靴をはいてきたつもりだったが、日本に帰る頃になると、石畳の道を歩き過ぎたせいで両足のくるぶしとかかとがぱんぱんに腫れてしまった。
行き当たりばったりで美術館や教会や公園などに入り込み、喉が乾いたり空腹を覚えると、これも行き当たりばったりで感じのよさそうなカフェに入る。昼食も夕食もカフェでメニューを探し、ドアの中がよく見えないレストランは敬遠した。だいいち、入口に出ているメニューと料金は僕の身には高過ぎた。
三日目ぐらいになると、僕のお好みのカフェや憩いの場所が定まった。僕にとって最適の憩いの場所は、ドラクロワ美術館の小さな中庭のベンチになった。ドラクロワという画家には前からそれほどの関心はなかったが、画家の遺した住居とアトリエに囲まれた中庭は、天国を箱庭にしたように思えた。周囲の石垣には蔦が深く生い、晩秋とて、足許にはマロニエや、名もわからぬ木の落葉が黄や紅に散り敷かれ、眼を上げると、葉の落ちた木々の梢の間からサンジェルマン・デ・プレ教会の尖塔が望めた。そうして日が傾いて肌寒くなるまで、僕は毎日のように中庭のベンチに坐っていた。小説の想を練るにはもってこいの感じだが、僕の頭はただ空で、そして愉しかった。
気に入ったカフェが決まると、そこでの僕の夕食の「定食」も決まった。カレー風味の米料理に、細切りの肉と野菜を卵でまとめたものが乗せてあり、安くて美味、毎晩食べて飽きることがなかった。
そうして丸五日も経つと、僕は自分が、ずっと前からパリに住み、自分の好みに合った日常をかたくなに繰り返している、初老の質素な一市民のように思えてきた。フランス語もできないのに、である。睡眠をとり、食事をする。生きるうえのこの基本的な営みのほかは、さして広くないパリの市街地を歩き回り、疲れたら地下鉄に乗る。それ以外のことがあまりできない懐事情が、短期間のうちにパリを僕の街にしてくれたのである。行きたいと思っていた土地への初めての旅は一人の貧乏旅行に如くはない、と冒頭に書いた負け惜しみめいた感想は、その生活感覚から生れたものである。
しかし、感覚だけで、実は一週間の似而非住民であった僕には、日本に帰る日もいやおうなしに迫っていた。僕は一日を、パリからあまり遠くない郊外で過すことにした。そして、画家のコローやミレーにゆかりのバルビゾン地方を選んだ。そこで僕は、日本では絶えて甦ることのなかった、僕の幼少時の原風景とでもいうものが、脳裡に甦るという経験をしたのである。
リヨン駅を発車した列車が縫う風景は、石造りの都会からたちまち森林と田園の風景に変った。フォンテーヌブロー駅で降り、バスに乗る。バルビゾンの集落は、狭い道の両側に石畳の歩道があり、二階建の石造りの小さな家が立ち並ぶ、幼少時に親しんだ西洋の童話の挿絵を思い出させるような愛らしい風情だった。その一画にミレーのアトリエ跡もあった。僕は帰りの列車までの時間の許す限り、集落を離れて歩き回った。大きくうねるアスファルトの道の周囲に人家はだんだんまばらになり、奥行きの深そうな森や林が見えてくる。森の中で迷ってしまってはことなので、少し足を踏み入れては道に戻る。晩秋の昼下り、空はいよいよ碧く、大気は澄み、ときどき車が走り去る以外は音もない。そのうちに僕は、日本の各地で過した幼少時の、周囲の風光に感応する感覚が甦ってくるのを覚えた。眼に見える風景が似ているわけではない。その違いを透過した、木洩れ陽の様子、静かさ、やや肌寒い風が頬や首筋に伝わってくる感じ、それらが僕に幼少時の感覚を復活させたとしか思えない。初めて来た土地で、しかも風土も文化も違う外国で……。日本のどこを歩いても今までこんな感覚に包まれたことはなかった。多分、母国のそれがあまりにも日常的で近似であるために、例えば人間の眼球があまりにも近いものにはピントを合わせられずぼけるように、僕の感覚もぼけていたのだ。
距離を、それもできるだけ遠い距離を置くことによって思いがけず訪れる自己の再発見、自己とは、現在の自分でもあり、過ぎ来し方の自分でもあり、更に自己とは家族でもあり、住んでいる地方でもあり、そして日本でもある。距離を置いたとき、それまでは至近でぼけていた自己の輪郭がくっきりと立ち現われる。未知の土地への旅は、その土地を知るとともに、そのことによって改めて自己を認識し甦らせる道程なのだった。僕はそれをアメリカでも韓国でも、最近訪れたキューバでも痛切に感じた。
さて、いよいよ懐も淋しくなり、日本に帰る日が来た。この日の気候の変化は劇的だった。秋と冬の境目をこの眼でこれほどくっきりと見たことはない。決して大げさな言い方ではなく、パリはこの日の午後三時に冬になった。いつものカフェで昼食を摂ったときはまだ雲間から青空がのぞき、シャツにセーター姿で寒くはなかった。ホテルに戻って荷物をまとめ、空港に向かうべく、上着を着て外に出ると、さっきまでいたサンジェルマン通りの光と風が一変していた。暗い雲が空一面に低く垂れ、つむじ風が枯葉を巻き上げ、信じられないように冷たくなっている風が首筋を襲った。街を歩く人びとも毛皮やマフラーに首を埋め、ポケットに手を入れて前かがみに急ぎ足で歩いてゆく。つい今しがたまで僕を含めて大勢が日なたぼっこをしていたカフェのテラスに人影はない。時計を見ると午後三時だ。僕は、かじかむ手に息を吹きかけながら地下鉄をめざした。天候が僕に「今日から寒さが、暮らしがきびしくなるぞ。さあ、日本に帰りたまえ」と合図してくれているようだった。こうして五十歳の半失業者のパリ初旅行は終った。
(「まほら」98・7月号)
トリッキーなカントリー・ハウス
イギリスといっても僕はイングランドに八九年と今年の二回行っただけだが、めったに海外に出ない僕にとってこの二回の経験は貴重なものとなった。短い期間にイギリスを近世から中世まで遡行し、さまざまな時代の建造物を含むランドスケープの中に我が身を置き、眼と耳と、渡る風を受ける肌とで、空間に佇みながら時間系の想像へといざなわれる旅だった。すなわちタイム・トリップを随所で無理なく味わうことができたのである。
イギリスならずとも、もともと旅への期待はそうしたものであるはずだが、昨今とくに国内では、どうもあまりそういう期待の適うことがない。人工物を含む風景が不変ではないのである。
イングランドの二回は、旅仲間と彼らの着眼にも恵まれた。一行は、慶応大学の英文学の教授で英国建築史に通暁する田中亮一さん夫妻、建築好きの画家藪野健さん、それに建築写真家の増田彰久さん、僕も素人なりに建築を眺め歩くのは大好きである。
一回目は、主として十六世紀後半のエリザベス朝以降に貴族たちが競って領地に建てた豪壮なカントリー・ハウスめぐりをした。増田さんはハウス内外の撮影、藪野さんはスケッチ、田中さんはそのナヴィゲーターで、僕はただの観光者という取り合わせだった。十日間で訪れたカントリー・ハウスは十を超え、田中さん一人でハンドルを握るボクソールは無慮三千キロを走破した。
二回目もほぼ同じ日数だったが、今度はあまり移動せず、十三世紀以降徐々にコレッジの数が増えて今日に至るケンブリッジ大学の街ケンブリッジに腰を落ち着けることにした。この大学は田中さんの母校でもある。
こうして二回で正味二十日間、僕は田中さんについて歩きながら、学費も納めずに教授の愉しいレクチャーを受けるといった恵まれた「学生生活」をおくり、すっかり英国好きになってしまったのだった。以下はその成果の一端で、実はケンブリッジというところもなかなか面白くてミステリアスなのだが、今回は割愛してカントリー・ハウスにしぼる。
イングランド地方には高い山がない。見はるかすかぎり悠揚とうねって続く丘陵、牧草地、田園、そして教会の尖塔が見え始めると集落が近い。領主でもあった貴族たちが、そのパースペクティヴのすべてを自分の美意識でコントロールし、自分のものとして眺めて満足したいという欲求に駈られたのは、そこに立ってみるとよくわかる気がする。
中世を脱して戦もなくなり国情も安定に向かうと、貴族たちは城壁や堀に囲まれた、窓の小さな城館を構える必要がなくなった。やがてエリザベス一世治下の海外進出とともに、文化はイギリス・ルネッサンスの華を咲かせる。海外から得た富は特権階級の貴族たちに厚く配当されたであろう。建築技術も向上した。貴族たちは権勢を誇示するためもあり、領地内の最良の場所に技術の粋を凝らした館を建て、その周囲に途方もなく広大なガーデンを造成し、領地の田園と一体のランドスケープを実現した。
この時代のイギリス文化の爛熟は、シェークスピアを生みスペンサーを生みフランシス・ベーコンを生み、そしてカントリー・ハウスを生んだといっていいだろう。どこでもいつの世でも、あらゆる芸術と生活機能の時代的特徴は、代表的建築物に結集して表現されると僕は思う。カントリー・ハウスの様式も、ルネッサンスからバロック、パレイディアン、新ゴシックへと移り変る。貴族にとって、議会に出席するときのロンドンの別宅はタウン・ハウス、これに対して領地における本宅がカントリー・ハウスであった。
彼らの多くは、館を中心としたランドスケープを、文化先進国イタリアのクロード・ロランやニコラ・プッサンなどの絵にあるアルカディア―田園的牧歌的理想郷として実現したいと思った。その典型を僕は、十八世紀に造られたスタワヘッド・ハウス・ガーデンで教えられた。広大な回廊式庭園の道伝いにある地点に立つと、ロランの「アイネアスのいるデロス島の海岸風景」と題された絵とそっくりの、ドームと列柱を配した水辺の建物が出現する。ただし水はさすがに海とはいかず、大きな池である。
館からのパースペクティヴの中で、近くの集落がどうしても目障りな場合は、その村ごとそっくりよそに移してしまった横暴な例も少なくないと田中さんから聞いて、僕はびっくりした。移された村の一つにも連れて行ってもらった。その小綺麗で愛らしい家々の並ぶ風景はイングリッシュ・フェアリーテイルズそのもので、やっぱり僕はタイム・トリップをしていた。
よく、庭園の隅に朽ち果てたギリシャ神殿の一部のようなものが建っている。ところどころ外壁がはげ落ち、躯体も欠けている。これが、わざと廃墟を模して初めからそう造らせたのだと田中さんから聞いて、僕はまたびっくりした。こういう建物をフォリー follyと呼ぶそうである。愚行―遊び半分ということか。
カントリー・ハウスをめぐりながら僕は、十九世紀末から今世紀にかけてドイルやクリスティらによってジャンルの確立したイギリスのミステリー小説が、多く貴族地主階級の環境に発想を得ているのもむべなるかなと思った。遺産争いというモチーフだけではないと思う。英国式庭園の果てしない広さと、その中に孤高を示して建つ館の閉塞性、その昼と夜、光と翳の舞台装置は、推理作家を刺戟せずにはおくまい。
英国式庭園はアルカディアを模した「人工的」自然であるとすれば、まさにアート―アーティフィシャルである。アートは芸術のほかにトリックの語意もある。フォリーはその典型だが、そう考えると庭園全体が、アルカディアというトリックを模した壮大なトリックに思えてくる。フランス式の整然たる庭園や日本の枯山水のように、はっきり手を入れましたというのでなく、トリックをトリックと見せないところにさまざまなトリックがひそんでいそうで、なかなかミステリアスである。ロンドンに帰って、シャーロック・ホームズという名の、外観のいかにも洒落たパブを見たが、時間がなくて立ち寄れなかった。次の機会にはぜひ寄って、ビターをワン・パイント立ち飲みしたい。
(「ミステリマガジン」92・1月号)
カフェ・カルメン
六、七年前の夏、イギリスのケンブリッジに一週間ほど滞在したことがある。ケンブリッジ大学を卒業した慶応大学のT教授夫妻の案内で、画家のYさんも一緒の旅だった。
僕にとってイギリスは二回目だった。その二年前に、この四人に写真家のMさんを加えた五人でレンタカーを駆り、イングランド全域に点在するカントリーハウスと呼ばれる貴族の館と庭園を、一週間で十か所以上も見て回っていた。そのときは田園地帯の風光を堪能したので、今度は一つの街に腰を落着けようというわけだった。
ケンブリッジは、大学の中に街があるというべきか、街の中に大学があるというべきか、それぞれが独立した二十五にも及ぶコレッジが散在する合間に瀟洒な街並みが挟まれており、一日かけて散策するのにちょうどいい規模の街である。
Yさんと僕はT教授の計らいで、その中のジーザス・コレッジの、夏休みで空いていた学寮の個室に寝泊まりさせてもらった。教授夫妻は近くのアパートメントを借りた。学寮は、中世の修道院だったという石造りの古色蒼然たる外観のわりには、改造された内部は明るく快適だった。その昔、コレッジこそ違え、エラスムスやニュートンやダーウィンがこの近くの学寮に住んで研究に励んでいたと思うと、自分もいっぱしの学徒として来たような気分にもなる。しかし元より僕は、学究肌でも何でもない一観光客である。Yさんと僕のさしあたりの関心は、安くて旨いレストラン、日暮れてからビターのジョッキを手に愉快に過せるパブ、そして朝昼の憩いに好適なカフェを、街を歩きながら探し定めることだった。
新聞の連載小説を持っていた僕は、ついつい夜更かしして遅く起き、図書館に行って日本へのファクシミリを頼む。その頃にはYさんは「だいたいこのあたり」と言い置いて街にスケッチに出かけている。僕は彼の姿を探しながら散策を始める。途中で「機関車トーマス」の精巧なミニチュアを見つけて孫に買ったりする。やがて道端にしゃがみ込んで大判のスケッチ帖をひろげているYさんに合流する。画家は羨ましい。制作中であれば、異国の街角でもそれとわかり、通りすがりの人々の賞嘆の声を背に浴びる。これに比して小説家は、うろうろと胡散臭い東洋人に過ぎない。
スケッチが一段落したところで二人でコーヒーを飲みに行く。今日はカルメンにするか、ジュリエットにするか。いや、それは店の名前ではない。カルメンは僕が、ジュリエットはYさんが、それぞれのカフェの看板娘のイメージから勝手に付けた綽名である。「今日はカルメンにエスプレッソを淹れてもらいたいな」「じゃ、そうしよう」。そう言いながら二人は、ジュリエットとカルメンをめぐって秘かにライバル意識を抱いているのだった。コーヒー好きの僕はYさんを出し抜こうとして、ときどき一人でカルメンの店に通った。日本に帰ってまもなく、僕は、『ケンブリッジの哲学する猫』という挿絵入りの翻訳書を見つけて読んだ。この愛すべきファンタジーに出てくる賢い猫に比べて、僕はケンブリッジでも一向に哲学しないホモ・サピエンスなのだった。
(「ドゥ・マゴ通信」98・6月号)
雲湧き、松繁る出雲
朝の九時に快晴の東京を飛び立って、西北西に一時間ほど行くと、次第に雲が湧き立ち、
いつのまにか見渡すかぎりの雲海の上にいた。
「綿みたいね」
窓際の席の妻が、シャッター・チャンスをうかがいながら言う。私はふと、「わたつみ」ということばを想った。わたつみ―海神―転じて海そのもの、これに対して「やまつみ」は山の神である。そういえば、瀬戸内海の大三島には大《おお》山《やま》祇《ずみ》という神社があったな、と思いめぐらしているうちに、私は思わず苦笑した。私に「わたつみ」を連想させる発言をした人は、私のヤマノカミではないか。
わたつみの「わた」は海を渡るの「渡る」と関係はないだろうか。「つみ」は出雲の「つも」と関係はないだろうか。などと思っているうちに、禁煙のサインが出て飛行機は米子に降りる姿勢に入った。
もの心ついてから五十路の今まで、私には風土についての一つのコンプレックスがあった。それは、東京から西南の地にしか住んだことがない、つまり、日本列島の東寄りや北辺を知らずに生きてきたということである。わずかに北九州にはいたことがあるが、あれもどちらかというと、日本全体では西南のイメージである。あとは四日市、名古屋、横浜、芦屋、大分、広島と、いずれも西、とりわけ南辺の地で暮した。私に生じたコンプレックスとは、東、とりわけ北側の風土から「おまえのような、がさつなやつは、くるな」と言われているような気がしていたことである。私にとって、北辺の風土は禁断の聖域となり、そのシンボルは、人間の形象としては色白で肌理の細かい美女であった。そしてこのたび訪れる土地は、私のなじんだ西方でありながら、中国山地を越えた北辺に優美に横たわっているであろう山陰なのだった。そこに私は今、これも江戸っ子で北の風土を知らない妻と降り立とうとしている。
雲海の下に降りると、やっぱり雨だった。初日の宿の皆生温泉東光園に荷物を置き、すぐにタクシーで北をめざす。目標は島根半島の東北端の美保関である。
右手に美しい松の防砂林を通して海を眺めながら走る。「弓を引き絞ったときの弦に似ているので弓が浜。昔は一面に綿畑でした。砂地なので穀物は採れないのです。その綿で作ったのが弓絣です。は? さあ、もう何軒もないでしょう」
運転手君の話に興味を示しているのは妻のほうである。私は「うむ、綿津海の綿が出てきたな」などと思いながら、ただ松並木を見ている。その向こうに望める美保湾は、その字のとおり美しく、今日はおだやかである。
美保は出雲国風土記では三穂、弓が浜は夜見の嶋と記されている。風土記の国引き神話で、大山を杭にして綱で越の岬を引き寄せた、その綱が夜見の嶋だった。同じ話が、ここから中海と宍道湖を隔てて西側の浜、薗の長浜にもある。こちらは三瓶山を杭にして新羅の岬を引っ張ってきた。その綱が薗の長浜だとある。その北端の稲佐浜には、明日行ってみるつもりだ。
風土記では、あと二つの土地を引き寄せて東西に伸びる島根半島ができたことになっている。この建国神話をどう読み取るかは今は措くとして、地図を見ると、この東西両端の二つの浜は、それぞれゆるやかに美しくくびれて島根半島を支える姿をしており、この浜や湖を含めた半島全体は、よく正月などの吉兆に使われる松の枝ぶりの図柄にも見え、また見ようによっては、たなびく一片の雲のようでもある。
「ここです」と運転手君が言って車を停めた。外に降り立つと、右手は静かな入江の小ぢんまりとした漁港である。狭い道を隔てた左手の露店にイカの生干しがぶらさがっている。そのすぐ先に美保神社の鳥居が二つ、海を向いて立っている。その全体のまとまりぐあいが箱庭のようにかわいらしい。島根半島の東端を占めるこの美保関港は、昔は漁港だけでなく、風待港、鉄や木綿や年貢米の積出港、それに航行する船から税をとりたてる関所でもあり、最盛期には一日の出船入船は千隻に達し遊女は百人を数えたという。戦乱期には要港ゆえの争奪戦で血が流れたであろう。今その面影はなく、そぼ降る雨のなか、静謐そのものである。
風土記にも載っている美保神社は、この小さな漁港のなかで唯一スケールの大きいたたずまいを示している。境内は狭いのだが、大社造の拝殿と本殿の重なりぐあいが壮大な感じを与える。おまけに本殿は大社造の社殿を二つつなげたものである。左が、千木を垂直に断ち切った男神、右は千木を水平に切った女神のアベックで、比翼造というそうだ。風土記では、祭神は御穂須須美命、つまり、高天が原から稲穂を持って降ってきたという三穂津姫だけだったのに、いつごろから男がもぐり込んだのだろう、と思って案内を見ると、事代主命とある。記紀によれば、天照大神が建御雷神を出雲に派遣して大国主命に「葦原中つ国をよこして隆伏せよ。イエスかノウか」と迫ったとき、まず初めに降参した神で大国主命の息子である。してみると、天下を取った政権が後世になって事代主命の服従に報いてここに祭ったのか。しかしなぜ三穂津姫と並べたのか、私にはわからない。大体、出雲大社にしてからが、やはり最後には高天が原政権に服従した大国主命への見返りとして建てられたというのだが、本当は父も息子もとことんまで戦って殺されたか自刃に追い込まれたかしたのではなかろうか。一国の覇権争いである。とてもやわな和平交渉ではすむまい。非業の死霊の祟りを怖れて、島根半島の東西両端の神社に手厚く封じ込め、両社の間の土地の静謐を実現するのが目的だったのではなかろうか。
などと妄想をめぐらせているうちに、腹がすいてきた。山陰にきた楽しみの一つ、いや最大の楽しみは、本場の割子そばを食べられることである。本日は松江まで行って食べる方針になっている。で、松江行きのバス停に向かう。
このたびの二泊三日は、別に古代史に的を絞った旅ではないし、遺跡古墳のめぐり歩きでもない。日本海沿いのごく普通の観光ルートを辿って温泉にひたるつもりの旅である。奥出雲に分け入って古墳などを訪ねるのは、交通の便も悪いし、不案内だし、もっとゆったりした日程を取っていずれ出直すつもりである。
バスは途中で七類港に廻って、隠岐島からのフェリーの客を待ち、結局松江まで一時間半かかった。雨は上がったが、雲は依然として低い。松江城の北に位置する塩見縄手に行こうとして、城の東側の堀沿いに真っ直な道を歩き出すと、また、松である。今度は、丈はさほどではないが幹の太い松が、歩道のまんまんなかに連なっている。そういえば、美保関でタクシーから見上げた山の上の名物も「関の五本松」だった。
塩見縄手の武家屋敷の先で、案内書どおりやっと割子そばにありついた。庭の広い「八雲庵」という店で、建物の内外の造作も悪くないが、四囲の壁一面に著名人やタレントの色紙がびっしり貼りめぐらしてあるのはいただけない。いや、割子そばはいただけた。まことに美味、何枚でもいけそうだったが四枚で我慢した。美保関からの長時間のバスに暖房がなく、体が冷え込んでいたせいもあり、妻は温かい月見そばを注文した。日頃はそばよりもうどんの彼女も、おいしいと満足気である。
本日最大の目的を果たして心が落ち着き、途中で矢印を見ておいた明々庵への道を登る。茶人として有名な藩主松平不昧公が建てた茶室の写しとある。小柄な私でも頭が支えそうな門をくぐると、右に小さな待合のような建物があり、飾雪隠と書いてある。なるほど便器の中央の部分が平坦で、きれいな小石を敷きつめてある。ここにはしゃがめない。飾りである。何のために? わからない。妻にもわからない。駅などでせっぱつまって便所に駆け込もうとして「清掃中」の文字にさえぎられ、油汗を流すときの気持を思い出した。もしこれが風流の心だとすると、人間のほうもわざと尻をまくってしゃがんでみて、にこっと笑って「私も飾りです」と言ってみるのも風流ではないか。あるいは運よくまわりに雪でも積もっていれば、本当にやってしまって、それを雪で隠せば、これこそ雪隠であり、これぞ風流の極意である。
などと考えたあとで座敷に上がって抹茶をいただく。
皆生温泉東光園に戻り、割子そばに次いで大きな目的にしていた温泉にゆっくりとつかる。日が落ちたので庭は見渡せないが、全面ガラス張りのすぐ外に、また松並木のシルエットが浮かぶ。プールほどの大浴槽に私一人、もったいなくなってつい平泳ぎで波を立ててしまう。
支配人の今岡さんと、夕方と朝の二回話す機会があった。堂々たる恰幅をつねにスーツとネクタイでぴしっと固め、めがねの奥の柔和な眼がときどき鋭く光る。大学教授か、大物弁護士か、あるいはやんごとなき方の侍従長といった感じだと思っていたら、案の定、地元の神職の家柄で、旧京城帝国大学に学び現在六十歳、戦後も一貫して恩師をはじめとする学者たちとの交流を続けてこられたとのこと。二人の話はたちまち、上古の文化とりわけ出雲古代史に及ぶ。古代朝鮮との関係などで意見の合うこと少なくなく、時間が足りない感じで再会を約す。初日の宿でこういう人物と出会えたのは大きな収穫だった。
翌朝七時に目覚めて外を見ると、きのうと打って変って快晴、海の色が灰色から紺青に一変している。支配人と屋上に出る。大山から孝霊山に至る山脈が東からの陽光を受けて銀白に輝いている。あきらめていただけに、体の奥までしみ通るようなすがすがしさである。
孝霊山は昔は韓山、そして高麗山だったという。今の私はそういうことにたいして驚かなくなっている。大きくは奈良から平安への移行期と明治維新後の二回、祭祀や地名の脱朝鮮化は日本中いたるところでおこなわれたにちがいない。中古の官僚国家と近代官僚国家への道である。そんなことを今岡さんと話す。折しもその日の朝刊は、奈良斑鳩の藤ノ木古墳から、六世紀中ごろの超一級の装飾馬具が出土したことを伝え、「大陸からの輸入品」「朝鮮からの渡来品」などという学者の意見を伝えた。私は今岡さんに話す。輸入品とか渡来品とか、どうして物にしか眼がいかないのだろう。事実は、こういう馬具で飾られた馬に乗った人が、強力な武器と先進文化を持って集団で上陸し、中原を制して王となり、その王あるいは一族が死んで葬られたのにちがいないのに。
さて、妻の希望で弓が浜の浜絣民芸館に寄ったあと、米子駅から一路、出雲大社をめざす。列車が宍道湖を過ぎてしばらくすると、何と快晴の空のかなたから雲が湧いてきた。そして出雲市駅に着いたときには一面の雲である。きのうは、快晴の東京から山陰に近づくと雲、その山陰のなかで今日は、快晴の松江周辺から大社に近づくと雲である。やっぱり、雲の湧く根源は出雲大社だ、と思ってしまう。
正門前でバスを降り、昼時なのでまずは、そば屋を探す。鳥居に向かって左筋の一軒に入る。うっかり屋号を忘れたが、創業三百年とあった。ここの割子も、そばを想って生唾をためていた私の期待にこたえてくれた。お茶がおいしいので妻が店の婦人に聞くと、「番茶とハマ茶を混ぜたものです。体にいいですよ」とのこと。ついでながら、今日も妻は温かいそばで、とろろである。そしてこれはついでではなく大事なことだが、冬のシーズンオフは、静かな出雲を静かに感じ取るには最適である。温泉も静か、列車もバスもゆったり、そば屋や神域の人影もまばらで、至って心地よい。もっとも、旅行にシーズンオフがあるのかどうか、考えてみればおかしな語法である。
鳥居をくぐる。また、松、それも今度は極め付きの松並木である。幹も太く丈も高いのが何列も、真っ直に伸びたり斜めに伸びたり交錯して続いている。
「鳥もいないのに鳥居とはこれいかに」、答えを私は昨年の夏の韓国旅行でみつけた。平原の夕焼けの空に、一本の木の棒がそそり立ち、その頭に横木が渡してあって、そこに鳥が二羽とまっている。よく見るとこれが木彫りの鳥だった。これを韓国語でソッテといい、シャーマニズムの遺習だと説明を受けた。
拝殿から、本殿を取り巻く瑞垣に廻る。その格子越しに楼門と玉垣が見え、そのなかに大社造のルーツの本殿がそびえる。瑞垣から中に入れないのが残念だ。できれば本殿の心柱まで肉迫したかった。それにできれば御神体も。しかし適わぬ夢である。仕方がないから宝物殿の模型を見にゆく。
現存する本殿の高さは八丈、約十・八メートルだが、これは十八世紀半ばに、その百年まえの古材を使って建てたものだそうだ。そのまたまえには倍の十六丈あり、さらに上古には三十二丈あったという。ざっと四十メートル以上である。すごい。木造のピラミッドだ。そしてそのとおり、三分の二までは長い階段のついた楼の構造だったらしい。
一国の正統の王ならともかく、降伏したボスのために、いかに平和交渉妥結の見返りとはいえ、当時の労力と技術のすべてをつくして、そんなピラミッドを建てるものだろうか。やっぱり、最後に笑った権力が、殺した先王の怨念を怖れ、八重垣の奥の厚い屋根と窓のない壁の中に死霊を封じ込め、それを四十メートルの高さにマツリアゲタとしか思えない。ちなみに、ここの御神体は正面の南ではなく西を向いているそうである。多くの解説はそれを、九州の筑紫の方向と説く。冗談じゃありません。筑紫はここからは西南です。西はまさしく、朝鮮半島の慶州か扶余あたりなのである。
宝物館には大名の寄進した什器に有のマークが多い。物識りの方は何を今更と言われるかも知れないが、「有」は「十月」の合成なのです。神無月の十月は出雲にとっては神在月、漢字のゲームは本当に面白い。
さて、前述したように、国引きの綱になったという薗の長浜の北端、稲佐浜に出て西を望む。大社から歩いて十五分ほどである。いつのまにか雲が切れ、水平線から波を照らす入日がまぶしい。この浜で、国譲りの最終交渉がおこなわれ、妥結したそうである。私は、きれいな砂浜と寄せる波と、波打際の小島の小さな鳥居を眺めながら、また妄想をほしいままにする。「大国主命、または大穴持命、その他多くの名を持つ先住の王は、この浜に追いつめられてグサリとやられ、浜は血に染まったのではないか」
詳細は略すが、この神の名を古代朝鮮語で推理すると、蛇が重層化して出てくる。蛇は虹に通じ、さらに雲に通じる。一方で蛇は、草薙剣の姿とナギの音に通じる。ナギは青く長いもの、例えばうなぎのナギである。
松は、古代の樹木信仰における神木である。これも古代朝鮮語に逆探知できる。というわけで、出雲の地名と、そこに多い松のイメージが浮かびあがってくる。
さて、温泉旅行の二日目の宿は、暮れた日本海沿いに出雲市から西へ、快速列車で一時間余りの、その名も温《ゆ》泉《の》津《つ》である。輝雲荘に案内されて、おや?と思った。宿の門をくぐって狭い道を通ると、小ぢんまりとした長方の中庭が開け、その四囲に木造平屋の建物が、それぞれ小さな玄関を配してつながっている。おや?と思ったのは、私が何回かの韓国旅行をとおして好きになった、韓式旅館の配置を思い出させたからである。
皆生でもそうだったが、やっぱり冬の松葉がにはうまい。あ、また、松だ。
それに、海草を細切りにして、ごまなどであえたものが絶品である。それに鯛の塩焼きに刺身に、鯛の頭と豆腐・えのき・ねぎ・しらたきなどの鍋物風の大皿などを、こたつに入って食べる。やっぱり冬はいいよ。
明くれば曇り空、宿の御主人の案内で、まず石見銀山天領の庄屋さんの後裔を訪ねる。昔の酒蔵の三和土に、当時の生活用具が展示されている。黒光りした太い柱や梁や内壁が、うらやましいほどがっしりしている。面長、色白、眼のパッチリした品のいい老婦人、ここに住んでいる大奥さんが、展示の説明をしてくれる。ことばは少ないがいちいち的確で、ほほ笑んだ表情からは控え目な誇りがうかがわれる。輝雲荘の御主人は無口だが、内に並々ならぬ見識としたたかな志を秘めていると見た。
小雨のなかを山あいの椿窯へ。河井寛次郎に学んだ京の陶師・荒尾常蔵の息子さん二人が、父のあとを継いで焼物に精を出している。二人とも四十代で、いよいよ磨きがかかるころだろう。二代目のお父さんの代から温泉津に移ったが、ここの土はなかなかいいらしい。共同生活のなかで、それぞれ独自の個性の表現に意欲を燃やし、語り尽きないが時間がないので辞す。妻は、白陶の小ぶりの湯呑みを買い求めた。
ゆうべ温泉につかりながら、三日目の最後の訪問地を安来と決めた。空港のある米子に近いし、夕方ぎりぎりまでそこで過せる。
安来駅を降りてまた、そば屋を探す。駅前はひっそりとしてこれといった店はない。西へ五分ほど歩いて右に折れた路地に、黒い土壁の土蔵造りの「しばらく」というそば屋がある。中に入るとこれも黒光りしてがっしりした造りで、帳箪笥や自在鉤などが飾ってある。三回目の割子そば、妻は温かい天婦羅そば。美味なるかな、これで本場の割子ともしばらくお別れかと思うと心惜しいが、最後に入った店が「しばらく」なのでその符合に思わずにやりとした。
駅に戻る途中にハイヤーのガレージがあり、のぞくとちょうど空車があった。運転手君は親切で世話好きそう。聞いてみると道理、玉造温泉のホテルでフロントをやっていたという。およそ二時間のコースを手際よく案内してくれ、まず清水寺へゆく。寺の結構はどの本にもあるので省略するとして、特筆したいのは境内の土産物店のおばあさんである。運転手君に案内されてゆくと、にこにこと笑いながら一口に切った羊羹をすすめ、抹茶を
点ててくれた。「おいしい」と言うともう一杯点ててくれた。
「おばあちゃん、おいくつ?」
「明治三十四年の生れですよ」二十世紀の初年だから八十五歳か。耳も眼もよく、ことばにももつれがない。歯並びも美しく、瞳の輝きは童女のように無垢である。願わくば私の死後、妻もこういう感じに老成してほしいなどと思う。もちろん、このおばあさんの家の黒田千年堂製の羊羹を買った。黒砂糖の素朴な味がしみ込んでいておいしい。
車は参道を降って、取り入れがすんだあとの広い田の間を走る。
「あれです」
運転手君が指さす。田んぼに無数の白い点――白鳥の群れである。湧き起こる雲、遠くに低く横たわる丘陵、黄褐色の広い田、そこに点在する純白の鳥、もちろんしばし車を停め、その風光にみとれる。そのあたりに鷺の湯という温泉があるので鷺かと思ったが、やはり首の長い白鳥である。無慮数百羽、十二月に入って飛来したばかりで、春先にはシベリアに帰ってゆくとのこと。その間、近在の農家の人たちが籾殻を餌に与え続けるのだそうだ。最後は運転手君推賞の足立美術館、大阪で財をなした安来出身の絵好きの実業家が、近代日本画を中心とした美術館と、周囲に広大な日本庭園を開いた。庭園も名画と同じ扱いで足を踏み入れることはできず、一幅の掛軸や屏風のように観賞する。目玉は横山大観、その他巨匠がずらり、結構ずくめで、土地の人が東京のカッペに見せたくなるのももっともだと思った。
永年憧れていた出雲にあっけなくきて、もうお別れである。家に帰ったら、もう少し古代史や遺跡の勉強をしよう。そして今度は、奥出雲から石見、益田のほうに足を伸ばそうと思う。雲よ、松よ、さらば。
(「旅」86・2月号)
川を歩く 四十年目の遡行
六尺べこを締める。純白の木綿の晒しで母に作ってもらったものだ。作るとはいっても、ただ、布をほぼ一尺幅で六尺の長さに切って、端がほつれないように縫い合わせただけのもの。
締め方は忘れた。まず股下をおおってから腰にぐるりと巻き、それを二重にした後で最後は尻の上部でグイと締めて結ぶのだったか。
雑草の生う土手で衣服を脱ぎ、六尺べこを締めると、川に飛び込む。たいていは二、三人の友達と一緒だ。飛び込んで水を掻くと、一方へ一方へという川の流れが、多少の緊張を伴った心地よい感覚を体に与えてくれる。その感覚のままにしばらくは下流に流された後、今度は流れを横切って中洲まで泳ぐ。クロールならぬ抜き手、あるいは、全身を横にして片手で水を掻く横泳ぎである。川を横切るにはこの泳法がいちばんいいのだと先輩から教えられている。
流れに抗し、いくぶん流されながらも、川を真横に泳いで中洲をめざす。それを数回試みた後、一旦土手に上がり、草を踏んで少し上流に歩き、日豊本線のレールに這い上がり、列車の音が近付いていないのを確かめて鉄橋を伝い歩く。川のほぼ中央の、列車が通っても待避できるところにまで達すると、その下の橋脚は恰好の飛込み台である。今度はそのコンクリートの橋脚の基台まで慎重に降りる。そこから川面までは潮の満ち干で差はあるが大体二メートルほどか。
両足の指で基台をとらえ、両腕を真っ直に突き出して深呼吸し、二メートルが五メートル下にも見える川面に向かって、頭から、あるときは両足から飛び降りる。
少し水を飲んで浮き上がると、流れに任せて静かに下流に泳いでゆく。そしてある地点、いや川点にまで達すると一旦土手に這い上がる。ある地点、いや川点とは、川の小さな生き物たちが棲息していそうな場所である。
土手に置いてあった水中眼鏡をかけ、三つ又の短い槍を手にして、再び川につかる。
岸に近いあたりの場所を、勘を働かせて物色し、息を深く吸って頭から潜り、息をぶくぶくと吐き出しながら川底に達する。
どんこがいる。狙いすまして槍を突き出す。仕留めると一旦浮き上がり、笹の枝を切ったのにどんこを突き刺しておく。
また潜る。小さな海老がいる。ふながいる。名前のわからない小魚がいる。岩の奥に何か黒い生き物がひそんでいる。眼を凝らすと、長いひげをゆらゆらさせた大きななまずの頭が見え、僕と視線が合う。小さな魚に眼が慣れていた僕は、思わずひるんでしまう。槍を突き出す相手としては威厳があり過ぎ、敬遠しておく。
小一時間もそんなことをして潜ったり上がったりしていると、五十センチほどの笹の枝には、どんこやはぜやふなやざりがにや小海老などがかなり賑やかに連なってくる。その獲物を、友達とお互いに見比べる。その頃になると陽はかなり西に傾いていて、川面の光もしだいに収まり、大気は夕暮れのきざしに包まれる。僕らは、獲物をさげて家路につく。母が一家八人の夕餉の材料に事欠いて思案している台所に、いくぶんかの彩りは副えることができるだろう。
大分川と僕とのつきあいは、小学校の四、五年からそんなふうに始まり、高校時代まで続いた。それまでにも川べりで遊ぶことはあった。しかし、海ではなく川で泳いだり潜ったりし始めたのは、小学校四年で大分に移ってからのことだ。
倉庫会社のサラリーマンの息子として三重県の四日市市に生まれた僕は、以後二、三年おきに名古屋、横浜、芦屋、門司、大分と転々とすることになる。いずれも港湾都市だから、いずれかの川の河口に近かったわけだ。幼時の記憶としては、草の生う土手でとんぼを追いかけ回したりはしたが、それほど足繁く川に遊びに行っていたわけではない。
大分の社宅は、大分川まで歩いて行ける位置に恵まれた。それに僕が、友達同士で遊びに行くことを母から許される年齢になっていた。太平洋戦争が始まったのは小学校四年の冬である。それでも二年間か三年間は、学校から帰って思う存分遊べた。夏休みになると毎日のように大分川に行った。
中学に進む頃、日本の敗色が濃くなってきた。やがて大都市をはじめとして空襲にさらされるようになる。その頃、大分はまだ無事だった。豊後水道は、北九州工業地帯への敵爆撃機の通過路に過ぎなかった。しかしやがて大分も敵の爆撃目標となる。
僕らが遊ぶ大分川の対岸には、大分海軍航空隊があり、岸辺に沿って広い飛行場が横たわっていた。初めはそこが敵機の目標となり、やがて市街地に及ぶ。警戒警報や空襲警報のサイレンが頻繁に鳴り響くようになった。
先生からも父母からも、不用意に遊びに出ることはいましめられていたが、それでも僕らは隙をうかがって、大分川に潜りに行ったことが何度もあった。中学生になっていたが、僕らの遊びにとって大分川は切っても切れない関係になっていたのだ。
中学二年の夏に終戦となり平和が甦ると、僕らと川の親密さは一層増した。やがて僕らにとって大分川の土手は、友人と哲学を語り文学を語り人生の懐疑を語りながら歩く小道となった。そしていつしかその群れには、女子学生の姿も混じるようになっていた。
その頃になっても、僕らの川泳ぎの姿は六尺べこのままだった。水泳パンツなどというものは、プールを使う水泳選手は別として、僕ら一般の田舎の高校生には普及していなかったと記憶する。
十代の大半を、そんなふうに川に親しんで過ごした僕だが、残念なことに上流を知らなかった。移り住んだどの町も港湾都市だから、川が海に流れ込む下流に位置していたので仕方のないことではあるが。
大分川の上流にあるいくつかの温泉地を訪れる機会に恵まれるようになったのは、大分で高校を出て上京してから、実に四十年の月日が経ってからのことである。大分川の本流は、湯布院温泉のある由布院盆地の水を集めて南下し、蛇行しながら東に向かい、やがて別府湾に注ぐ。その注ぎ口の近くで、僕は小・中・高校の八年間、友達と遊んでいたのである。
旅人として初めて訪れた湯布院は、僕にはこの上なく静謐で、機械工業思想万能の現代では、鄙びこそが、その土地や人びとの品格を生むといったことを感じさせてくれた。押し寄せる観光開発大資本の攻勢を、町の民間と行政が一体となって阻止し、天与の自然を現代人の癒しの里として守ろうとする見識と実行力は、日本中にとどまらず海外にも有名になった。一方、僕は、父から自立してからも東京をはじめ港湾工業都市を転々とし、今は横浜に住んでいる。そんな僕が、事情の許す限り何年かに一度は、できれば年に一度は湯布院を訪れ、温泉につかり、宿の主人と語り合いたいと思うのは、阿蘇の溶岩が流れ落ち、そのあたりを水源とする大分川の河口で、六尺べこを巻いて泳ぎ、潜って魚を獲っていた十代の僕の原体験が、下意識のそのまた奥のほうで蘇生しているせいかも知れない。
由布院盆地に発する水源が大分川の本流だが、そのほかにいくつかの水源を持つ支流が合わさって大分川となり海に注いでいる。その流れを逆に河口から地図で見ていくと、田尻付近で二股に分かれた北の流れは、由布岳の東南の麓の城島高原に至る由布川、その南の流れが由布院盆地に達する本流で、更にその南には鐙ケ岳の北麓に消えてゆく七瀬川がある。もちろんそれらの川は更にいくつかの小さな支流を生んでいる。
さて、本流が由布川と七瀬川を生んで更に西に至ると、小野屋の付近で二つの支流を生む。北が阿蘇野川、南は芹川である。その水源はいずれも九重山麓に発する。
その芹川の中流に位置する長湯温泉を初めて訪れたのは、今年の七月に入ってまもない頃だった。大分市で仕事を済ませた後、いくぶんの余暇があった。若い知人から、この機会に一度ぜひと誘われた。何人かの男女の同行が加わった。
夕刻近くに宿に着き、部屋に案内されると、窓の下は滔々たる芹川の流れである。川幅はあまり広くなく、対岸の小さな神社の境内の様子がはっきり見て取れる。
宿の主人がまず誘ってくれたのは、今は温泉の営業をやめている、老女一人の住む広びろとした旧家だった。一般家庭のように狭い脱衣所で裸になり温泉につかる。何ともぬるい。これが、日本一の質を誇り海外にも有名な、炭酸泉の原湯とのことだった。
湯舟から両腕を出して伸ばす。小さな無数の透明な泡が、僕の両腕に付着している。これが万病に効能あらたかな炭酸泉のエキスなのだった。「アフロディーテ伝説と呼んでいます」と、案内してくれた宿の主人が言った。ギリシア神話の女性美の最高神ではないか。こんなことを言って、日本中から女性客が押し寄せてきたら、この小さな静謐な温泉はどうなるのだろう。
ぬるいまま上がって浴衣で宿に帰り、夕食後までそれで通したが少しも肌寒くない。寝際にその宿の熱い温泉に入り、熟睡した。芹川の滔々たる流れは、かすかに耳に寄せる子守歌になった。大分川の河口付近で横泳ぎをし、鉄橋台から飛び込み、潜って魚を突いていた十代から四十有余年、僕はようやく、その川の流れを遡行して上流に至り、そこで営まれてきた文化に出会い始めている。
(「FRONT」97・1月号)
そばと風土感
もう四十年以上も前のことである。二十歳を過ぎてまもない男女五人で、浅間山麓の信濃追分に何日か英気を養いに行った。というと余裕しゃくしゃくにきこえそうだが、日々勉学や労働に追われる貧乏な大学生や勤め人ばかりだった。金と時間をそれぞれ何とかやりくりして、束の間、東京の日常から脱出することにしたのである。
初日から秋晴れに恵まれた。宿に荷物を置くと早速、高原の散歩に出た。当時はまだ、幹線道路すら舗装されていなかったように思う。ボンネットのバスがときおりゆっくり走り過ぎる以外は、自動車の影すらなかった。
高原の雑木林を出て、南に開ける田園の畔道を歩いて行くと、藁葺きの小さな農家が、一軒ぽつんと見えた。近付くと、軒先に小さな旗が出ている。
「そば」
その文字を見たとたん、唾液の分泌が活発になり、胃腸が反応し出した。僕だけではなかったらしい。衆議一決して農家の戸を開けた。がらんとして薄暗い土間の台所である。奥から老女が一人出てきた。
土間の小さな椅子や、居間に上がるへりに腰掛けて、そのおばあさんの作ってくれたかけそばをつるつると喉に送り汁をすすった。こよなくうまかった。淡い青味を帯びたそばは、箸で強く挟むとぽろりと切れた。
九州から東京に出てきて二年、当時の九州ではまず食べることのなかった生そばを、すぐ一日一回は常食とするほどそば好きになっていて、そのときの気分に応じ、もりかけに食べ分けていたが、この信濃追分の農家の土間で、僕は初めて、混じり気なしのそばの匂いと味を知った。
一日の中で「そばどき」というのが僕にはある。それは一日におおむね二回訪れる。腹が減ってきたけれども、麺類以外はイメージがわかないときである。
まず、午後から夕刻までのあるひととき、僕にとっては二回目の食事どきだ。外出していれば、仕事の打合せを終えた後か、映画を見終わった後。食欲はひたすら、一杯のビールとそばに向かっている。イメージに浮かぶのが、ときとして坦々麺であったり、スパゲティボンゴレであったり、釜上げうどんであったりするが、やはりいちばん多いのは生そばである。いずれにせよ、練って延ばして細く切ったもの。
それを食してまず幸福感にひたり、夜は家では妻の整えるままに、外なら他人任せにして飯やお菜をしっかり食べる。そして、二回目の「そばどき」は深夜ないし未明の間にやってくる。冷蔵庫に保存してある麺を取り出して、調理の不得手な僕が自分で作るのだから、客観的には味が落ちるのは当然だが、しかしこれがまたうまいのである。食後の茶を一服してぼんやりしていると、やがて夜がしらしらと明け、何も書いてない原稿用紙を前に、ああ今日もそばを食べた以外は無為であったと反省してふとんにもぐる。
信越本線の黒姫駅だったか、あるいは長野駅だったか、寒いなかにプラットフォームで立ち食いしたかけそばが、めっぽううまかった。もう十年以上前のことで、うまかった味だけ憶えていてどの駅だったか憶えていないのは残念だ。
今は流通や保存の技術も発達して、僕の育った九州の各地でも生そばの看板を見るのは珍しくなく、店によってはそれなりにおいしいが、食物にはやはり風土感がついて回る。たとえば広島で食べる出雲そばよりは、日本海側の本場で食べる出雲そばのほうがしみじみとおいしい。しかし僕が出雲そばのうまさを初めて知ったのは広島においてなのだった。今年の一月に初めて山形を訪れた。山形市内では何人かで特大せいろに盛られた箱そばに舌鼓を打ち、翌日は上の山で、タタシーの運転手のすすめてくれた少し人里離れた店に行った。普通の人家の縁側に備えられた座卓で、蔵王の懐に抱かれながら食べたそばの味は格別だった。
(「新そば」96・4月号)
W 銀幕の一期一会
映画館で映画を見る
与えられたこのテーマは、僕をごく自然に、僕の中学・高校時代へと回帰させる。というのは、戦争が終ったとき中学二年生だった僕にとって、それからの数年というものは、原っぱで草野球に興じることと「映画館で映画を見る」ことだけが娯楽だったからである。娯楽であると同時に、「映画館で映画を見る」ことは「学校で勉強する」こと以上に少年にとって大切なことだった。そう思わせる力を、映画館と映画は持っていた。だから僕らにとって、教室で先生が黒板に白墨を走らせている隙にそっと抜け出して、映画館というもうひとつの教室に走る行為は、冒険心は必要としたが罪悪感はあまりわかなかった。
とはいえ、切符切りの小父さんや小母さんは先生ほど甘くはない。九州の狭い田舎町のことだ。「またエスケープしてきたね。今日は大目に見てあげるけど、今度昼日中に来たら先生にいうよ」などとプレッシャーをかけてくる。当時、他人の子弟に対する隠れた教育者は至るところにいたのである。しかし、放課後になってからでは、僕はアルバイトに直行しなければならず、映画に逃げられてしまうこと再三だった。
戦災に焼け残った映画館はあまりなかった。しかし、焼跡にはたちまちいくつかの映画小屋が立ち、たちまち満員になった。入口には、小さなペラのプログラムが積んである。それはただでもらえた。小屋に入ると木の長椅子が並んでいて、フロアには勾配がまったくついてない。だから観客は、前列の首と首の間に自分の首の位置を定めて画面を見る。前列の首が揺らぐと自分の首も揺らぐ。すると後ろから怒号が飛ぶ。そうしながら人びとは、映画の成り行きに注目して一斉に哄笑し、ときにはあちこちですすり泣きが聞こえ、大団円を迎えると拍手がわいた。
小屋だから、ほっておけば外光がじかに射し込む。開始のベルが鳴ると、何人かの従業員が三方に備えた暗幕をエイッとばかりに引く。光の筋が少し残る。それをまたエイッと反動をつけて修正する。それを待っていたように、映写機が音を発し、館内のごみを克明に映しながら光線の束を発射する。観客が静まる。そうして、『わが青春に悔なし』が、『キュリー夫人』が、『運命の饗宴』が、『破れ大鼓』が始まった。
翌朝、何食わぬ顔で登校すると、ホームルームの担任教師が「きのうの映画は面白かったか」。僕は観念して答える。「はい」
「それじゃ、その内容を皆に報告せい。そしたら勘弁してやる」
映画館は自分を消し去る装置である。闇に溶けて消えた自分という存在は、そして自分の魂は、眼前に輝く長方形の世界に売り渡され、そこでなんらかの役に乗り移って蘇生する。その橋渡しをするのは、メフィストフェレスという名の悪魔である。
自分を消し去るのだから、映画館の闇は、音楽会や演劇の客席のように「適度に暗く」というのでは困る。漆黒の闇でなければならない。だから、どこぞの官庁のお達しであれ、「禁煙」とか「EXIT」とかの赤や緑の不粋に光る文字が残っていては、メフィストフェレスにとってもたいへん迷惑なのである。悪魔とはいえ、彼は僕らの体内に棲む、僕らの友人なのだ。だから僕らは、官庁よりは彼の仕事に加担し、彼の仕事がやりやすいようにしたほうがいい。
「眼前に輝く長方形の世界」を、僕の少年時代には「銀幕」といった。休憩時には「白幕」に過ぎないものが、映写機からフィルムの影が走りだすと銀色に輝き始め、僕らを夢の世界へといざなう。その夢には薔薇色のものもあれば悪夢もある。僕らがなりたい役は正義のヒーローとはかぎらず憎き悪役のこともある。メフィストフェレスのいざないは単純ではない。映画館では、自分の存在や魂が売り渡された後の死を覚悟しておいたほうがいい。
さて、今はもう銀幕とはいわない。大半がカラーだからである。では何幕というのか。もう出る幕はない。だから単にスクリーンという。
ビデオはもちろん便利でありがたい装置だ。しかし本当は、その映画との最初の出会いにふさわしい場とはいえない。ビデオの画面は、もともとは影である映画をもう一度小さな影にとったものなので、旬の味に乏しい。この文明の利器は、トイレに立ちたくなれば画像をとめておけるし、宇宙の時間の摂理に逆らって人生を巻き戻したり、反対に将来を適当にはしょって先回りすることもできるので、再見したいとき、あるいは何らかの必要で研究や検証をしたいときには便利だが、どうしても二次的な影という印象は拭いがたい。電車賃と千数百円にするか、しばらく待って一泊三百円にするかの比較の問題ではあるまい。だいいち、日常生活の家具や匂いに囲まれた空間には、自分の存在と魂を消し去る漆黒の闇の空間とちがって、メフィストフェレスという悪魔は出没してくれないのである。
(「MEDIA SHOTIKU」95・5、6月号)
終戦時の黒澤映画と僕
黒澤明監督の訃報に接し、しばし感慨に耽るうちに、その感慨は自然に、戦争終熄後およそ五年の、僕の中学・高校時代に及んでいた。終戦時、九州の大分にいた僕は中学二年生だった。大分で高校を卒業して東京に出た。それまでの五年間である。
長かった戦争体制の解除は、大人の社会に深刻な、そしてしばしば喜劇的な急変をもたらしたが、中学生の僕らが享受した変化の最大のものは、教室での授業の久しぶりの再開でもなければ、初めて耳にする「民主主義」ということばへの関心でもなく、爆弾の降ってこなくなった空の下で存分に草野球ができることと、映画館の暗闇に心おきなく身を任せて銀幕を見つめていられることに代表される、ささやかな遊びの空間と時間の復活だった。
僕らは片っ端から映画を見た。感動のあまり、一緒に見た友人とことばを交わすことすらできないこともあり、あまりの馬鹿馬鹿しさにがっかりし、映画館に足を運んだ自分の不明を後悔することもあった。
初めは圧倒的に、戦勝国アメリカとフランスの映画が多かった。それも戦前戦中に作られたものが主だった。
それらに遅れることしばし、敗戦の翌年から、ようやくというべきか早くもというべきか、同時代の日本映画が次々に姿を現し始めた。それは、映画ルネッサンスと呼ぶにふさわしい勢いだった。
そのなかで、僕が最初に見た同時代の日本映画は、『わが青春に悔なし』だった。そのとき、黒澤明という監督の名を初めて知った。以後も、内外の映画を「濫読」していた中学・高校時代の僕にとって、一年ごとに力作を発表していく黒澤明の存在は特別のものとなり、深いところまではわからぬ僕も、毎年、黒澤明の映画と必死に格闘していた。黒澤明の映画は、人間の内面の、たぎりたつ格闘劇であった。それは年ごとにボルテージを高めていくように思えた。
やがて僕は、自分でひそかに勝手に「罪と罰」三部作と名付けた映画に、十代の後半に出会う。『酔いどれ天使』(一九四八年)、『静かなる決闘』(四九年)、『野良犬』(四九年)の三つの映画である。
このうち『静かなる決闘』を、黒澤明は初め『罪と罰』というタイトルにしたかったらしい。しかし映画会社が、それではあまりに地味で客の入りにひびくのではないかとおそれて『静かなる決闘』に変えたという記事を、僕は当時何かで読み、それで勝手に「罪と罰」三部作と呼んだのだ。他の二作にも通底するのは、戦後の社会における、戦争のもたらした男たちの有形無形の後遺症を、やくざ、梅毒、殺人等を通して非情なまでに追いつめて描いていたことだ。
『酔いどれ天使』では、志村喬と三船敏郎が黒澤明の映画で初めて共演した。これは日本の映画史上きわめて重要な出来事だったと思う。というのは、この剛直なイメージを持つ二人のコンビは、この三作に続いて、五○年代の黒澤明の大半の作品に登場し、黒澤映画の画面の基調をつくっていくからである。二人のキャラクターは、ときに動と動、ときに動と静となって独特の緊迫感を生んだ。『醜聞』(五○年)、『羅生門』(五○年)、『七人の侍』(五四年)、『生きものの記録』(五五年)、『蜘蛛巣城』(五七年)、『隠し砦の三悪人』(五八年)などである。
このうち、僕の印象に最も深く残るのは、『野良犬』『羅生門』『七人の侍』である。『羅生門』には一筋縄ではいかない感銘を受けた。それまで一貫して戦後日本の社会を鋭くリアルにえぐり取ってきた黒澤明が、芥川龍之介の『藪の中』を原作に得て、舞台を初めて昔の乱世にとり、藪のなかの一人の武士の殺人死体をめぐる、白洲での当事者たちの証言に沿って、微妙にくい違うそれらの証言を眼前の出来事として白日の藪のなかに再現する。
観客はすべての証言を重層的に「目撃」する。そして、志村、三船に加えて、森雅之扮する武士の内攻的でニヒルな味と、京マチ子扮する妻の美貌と蠱惑的な存在感。僕は友人たちとこの作品を語り合い、昔の乱世を舞台とした、知的で現代的なミステリーの傑作と受け取った。
しかし、僕らの評価にもかかわらず、封切時の映画評論家たちの評価は必ずしも良くはなかったように記憶する。調べてみると、その年のキネマ旬報ベストテンのうち、かろうじて第五位にランクされている。翌五一年、ヴェネチア映画祭で『羅生門』がグランプリに輝くと、国内の評論家たちの評価が、がらりと一変したことを憶えている。
僕にとって、映画のほとんどとは一期一会で、映画館やビデオで再見することはめったにない。そんな状態で数々のシーンが自然に甦るのは、右に挙げてきたような、黒澤・志村・三船の組み合わせが、中学・高校時代から二十代にかけて僕に与えてくれた傑作群である。志村喬と三船敏郎はすでに亡く、そして今、巨星墜つ。
(「大衆文学研究」98・12月号)
「負」の価値を知れば、人は心安まる
不器用な人間、要領の悪い人間の生き方を描いた映画、というのが与えられたテーマだが、難題である。世のほとんどの映画がそれに当てはまってしまうだろうからである。いや、映画に限らずもともと小説がそうだ。昔から、器用で要領のいい人間、あるいは苦労のないエリートや屈折を知らない成功者を主人公にした作品で面白いもののあったためしがない。というより、そうした作品はそもそも成立しないのである。作家を創作へと駆り立てるものは「負」の意識だと僕は思う。数学でいう「正」に対する「負」である。そこに、人間がこだわらなければいけない、人間の本性がひそむ。現象としてはそれは、たとえば借金、貧困、あるいは失恋、あるいは犯罪などとなって現れる。そして不和や悩みが生まれる。作家がことさら深刻なテーマを求めているわけではない。問題のない「正」の世界などに、作家もまた何も取り組むに値する問題を感じないだけの話だ。
一方、小説であれ映画であれ創作というものは、本質的に人びとに娯楽を提供するものである。借金、貧困、失恋、犯罪といった「負」にこだわり、それと向き合いながら、最終的には何らかの形でそれを克服して完結へと向かう。かならずしもハッピーエンドではないにせよ、それらの不幸や不和をくぐり抜けて完結することで、人びとはカタルシスを覚える。そのカタルシスが「娯楽」なのだ。だからどうしても小説や映画の主人公は、何らかの点で「不器用な人間、要領の悪い人間」になってしまい、その反対は脇役となって主人公を引き立てざるを得ないのである。生き馬の目を抜く実社会との逆転現象、それが僕らのカタルシス、娯楽ではあるまいか。
というわけで、与えられたテーマで特定の映画に絞るのは難題なのだが、強引に、ある土地の風土と結びついた二作をとりあげることにする。ある土地とは、アメリカのアイオワ州である。とはいうものの僕はまだ行ったことがない。映画や小説で想像するだけだが、そこには何か「負」のイメージを感じる。
アメリカ合衆国と、それに次いで戦後驚異的にGNPを伸ばした日本は、今や数値がものをいう社会である。いわばGNP社会だ。生産流通量、その効率、給与水準、あるいは学校における偏差値、そうした数値にすべてを還元する価値観を見るにつけ、僕はかつて伝え聞いた三宅島の老女の感想、「お金がないから貧乏だなんて一体だれが決めたんでしょうね」を思い出す。それが、まだ行ったことのないアイオワ州のイメージと重なるのである。
スウェーデン人のラッセル・ハルストレム監督がアメリカで作った最新作『ギルバート・グレイプ』はアイオワ州が舞台だ。表題は主人公の青年の名前。
人口千人のエンドーラという田舎町から外に出たことがなく、小さなストアで働く二十四歳のギルバートをジョニー・デップが演ずる。もうすぐ十八歳になる弟のアーニー(レオナルド・ディカプリオ)は知能障害を持ち、兄が眼を離しているとすぐ町の給水塔に登ったり奇矯な行動に出る。母は、七年前に夫に先立たれてから一歩も外出しなくなり、過食症で「浜辺に打ち上げられた鯨」のように肥ってしまい家の中を動くのも容易でない。ギルバートは二人の妹と共に、この弟と母の世話に明け暮れ、ガールフレンドもいない。
映画は、アイオワのひなびた風光のもと(ロケはテキサス州の地勢が似通った地方で行なわれたそうだが)、ギルバートの負うこの二つの負担を軸にして、一見静かな町の住民の小事件を日常的な手触りで描いてゆく。
そんな町にも、ヴァケーションの季節になると都会からキャンピング・カーの隊列がやってくる。その中に母と二人で来た若い女ベッキー(ジュリエット・ルイス)がいた。ストアの商品を母娘に配達したギルバートは、ベッキーと心の通い合うものを感じた。しかし彼女はまもなく町を去ってゆく存在、ギルバートは母と弟というお荷物を負って町に残る存在である。
弟に優しく面倒を見るギルバートも、弟のあまりのやんちゃと聞き分けのなさについ感情が爆発し暴力をふるってしまう。母がそれを厳しく叱る。ギルバートは気持ちの救いを求めてベッキーのキャンピング・カーに走る。しかしそこには同じ気持ちのアーニーが先に来ていた。
アーニーの十八歳の誕生日に、母は静かに息を引き取る。ギルバートは、母親の巨体の亡骸を物見高い人目にさらすまいと、妹たちと家具を持ち出したあと、住み慣れた家もろとも火葬に付すのだった。
アーニーの役のディカプリオの動的でやんちゃな演技もすばらしいが、それと対照的に抑制された「静」の演技で、映画全体を、いわば「負」の総体を寡黙のうちに受け止めるギルバート役のデップが実に爽かである。
さて、アイオワで思い出すのは、フィル・アルデン・ロビンソン監督、ケビン・コスナー主演の『フィールド・オブ・ドリームス』だ。原作の『シューレス・ジョー』の著者W・P・キンセラは、他にもアイオワを舞台にした味わい深い小説をいくつも書いている。
この映画は見た人が多いと思うので詳細は省くが、とうもろこし畑の小農園を営むレイは、やはり家業の成功や金銭の「正」より「負」の内面的価値を持つ人に惹かれてゆく男である。
その「負」とは、隠棲する反体制の作家であり、一九一九年に八百長疑惑で永久追放されたまま死んだ八人の大リーガーであり、そして息子と疎遠のまま死んだ父である。レイは彼らのためにとうもろこし畑の一部をつぶし一文の得にもならない野球場を作る。
このようにアイオワは僕の中で、アメリカ全体の動的な社会の中の「静」、あるいはメジャー志向の中での「負」のイメージを結ぶ。「負」の内面的価値を見出した時、人は心安まる。そしてこれらの映画は、心安まる映画である。
(「PHP」94・12月号)
映画―道―人生
映画では僕はロードムービーが好きだ。道行き、すなわち旅の情景を織込んだ映画である。
古来からの演劇の舞台は、空間が制約されているから、長い道程を表現するには大胆な省略と、観客の想像力に訴える約束事が必要になる。もっとも、その制約ゆえの工夫にも見応えのあるものは少なくないが。
ところが、百年前に発明され発展してきた映画は、制約された演劇空間を、あるがままの大地に解き放ったのである。カメラの力で人間の視界の限りを写し出すとなると、映画の最大の魅力、あるいは武器は、ロードムービーではないかと僕は思う。無声映画の時代から、アメリカで西部劇が沢山つくられて人気を得たのもそれゆえではなかろうか。日本では股旅物がこれにあたるだろう。
ロードムービーには入らない映画でも、印象的な道の場面はいくつも思い出せる。とっさに脳裡に浮かぶのは、キャロル・リード監督、オーソン・ウェルズ主演の『第三の男』のラストシーンだ。アリダ・ヴァリ扮するアンナ、死せるハリー・ライムのかつての愛人が、ウィーンの墓地の横の、冬枯れの並木道を歩いてくる。カメラは一本道を正面から写している。女の姿はしだいに大きくなり、手前で待受ける男には眼もくれずに通り過ぎて画面から消える。
その他、昔の映画だろうと最近の映画だろうと、室内に終始する数少ない作品を除けば、画面に道の出ない映画はまずあるまい。そして街路であれハイウェイであれ森の中の細い道であれ、優れた映画は道の写し方がさりげなくうまい。その中でも優れたロードムービーが胸を打つのは、その道行き、旅の苦楽や冒険、真っ直な道や曲がりくねった道の映像が、人生という旅そのものの隠喩となっているからである。
そうしたロードムービーの名画中の名画は、題名からしてそのものずばり、『道』であろう。フェデリコ・フェリーニ監督、アンソニー・クイン、ジュリエッタ・マシーナ主演のこの映画では、イタリアの寒村や街外れの道の一つ一つもまた主役といってよい。粗暴で欲深い大道芸人ザンパノと、彼に買われた、無垢な心を持つ白痴に近い女ジェルソミーナの旅。ザンパノがジェルソミーナを棄てた幾年か後、年老いたザンパノは、ジェルソミーナが口ずさんでいた歌を耳にし、それはこの近くで野垂れ死にした女が子供たちに教えた歌だと聞く。暗い夜の海辺に倒れ伏し野獣のように号泣するザンパノの姿にニーノ・ロータ作曲の哀切なメロディがかぶさるラストシーンは、何回見ても心の奥からじんとくる。それは道――人生の終りに外ならない。
そう考えると、『第三の男』のラストシーンの真っ直な道の意味も見えてくる。旧友だが非道の犯罪者ハリー・ライムを追い詰めて、涙ながらに自分のピストルで撃ち殺し、かねてから気のあるアンナを道端で待つ男に、アンナは眼もくれず一人で生きて行こうと歩き去るのである。真っ直な道はその意志を無言のうちに表しているのだろう。
(「ネオ・ロード」98・夏号)
銀幕の一期一会
『ヘッドライト』のフランソワーズ・アルヌールと『太陽はひとりぼっち』のモニカ・ヴィッティ。
僕にとって二人は出会い頭の恋の相手であり、銀幕でのほとんど一期一会の恋であった。その後、彼女たちのそれ以外の出演作を一つか二つずつは見ているが、僕の中には右記の作品での一期一会感しか残っていない。はかない恋であった。
何年か前に、文藝春秋が「わが青春の映画女優」という趣旨のアンケートをおこなった。僕は心に浮かぶままに素直に回答したつもりだが、日本の女優はなぜか可憐なタイプばかりになり、外国の女優はなぜか蠱惑的な、今日でいうセクシーな感じの人ばかりになった。リタ・ヘイワース、コリンヌ・リュシエール、フランソワーズ・アルヌール、モニカ・ヴィッティ……。
後日、沢山の人の回答結果をもとにして、長部日出雄さんと山川静夫さんとの鼎談に出たとき、お二人から「あなたは日本と外国では好みがガラッと変わりすぎる」とひやかされた。ちなみに、僕の挙げた日本の女優は、『潮騒』の青山京子、『野菊の如き君なりき』の有田紀子、『破戒』の桂木洋子といったところであった。
この、「日本と外国では好みがガラッと変わりすぎる」のはなぜだろうと自分でも考えてみたが、わからない。何であれ、自分の心に素直に答えたことについては理由を見出しにくいものだ。
やがて僕は、こうではないかと思った。大戦が終わるまで、僕らは欧米映画、まして欧米の恋愛映画などまったくといっていいほど見ることができなかった。それが一九四五年を境に、どっと入ってきたのである。ときに僕は旧制中学の低学年だった。小遣いの大半を内外の映画にあてていた。
日本の伝統文化の反映で、戦後初期の日本の恋愛映画は、やはりおずおずとしていた。接吻のシーンがえらく話題になったほどである。それに対して、どっと入ってきた欧米の映画では、接吻のシーンなど朝飯前、男女が堂々とあたり構わず「アイ・ラブ・ユー」を発していた。リタ・ヘイワース然り、コリンヌ・リュシエール然り、そしてフランソワーズ・アルヌール然り、やがて現われたモニカ・ヴィッティ然り。これを、戦後の中学・高校生のカルチャー・ショックといわずして何といおう。かくして僕らは、にきびをつぶしながら、欧米から渡来する銀幕の女王たちに熱病のように浮かれたのであった。
僕らが色気づいた時代、セクシーということばはなかった。上級生が「彼女には“イット”がある」といういいかたを教えてくれた。サムシング・イット、そこはかとない性的魅力という意味であろう。
もちろん、欧米の女優にも“イット”を感じられない人は少からずいた。その中で僕が“それ”を感じたのが前記の女優たちだったのだ。僕はおくてだったのだろうか早熟だったのだろうか。多分、おくてゆえのカルチャー・ショックだったのだろうと思う。
『運命の饗宴』のリタ・ヘイワースや『格子なき牢獄』のコリンヌ・リュシエールは、あまりにも過去の人である。とりわけコリンヌ・リュシエールは、ナチス高級将校の愛人だったという理由で人民裁判にかけられ、牢屋に入れられたまま二十九歳で結核で夭折した。嗚呼……。そしてリタ・ヘイワースはアル中で身を持ちくずした。ゆえに、戦後から五○年代にかけての僕の“イット”の偶像は、フランソワーズ・アルヌールとモニカ・ヴィッティなのである。
フランソワーズ・アルヌール、何といってもその名を発音してみたときの感じが“イット”を感じさせる。『ヘッドライト』の原題は「しがない人たち」の意だそうだ。長距離トラックに豚などを積んで走る中年運転手役のジャン・ギャバンと、給油所兼簡易宿で働く若きフランソワーズ・アルヌールの出会いと悲劇。彼女は冷えて笑わぬ女優である。賢そうなおでこに男のハートをそそる眼の光と唇、小柄だが、安っぽいビニールのレインコートの内に包む肉体は充実を思わせる。
モニカ・ヴィッティ、細面のわりに肉厚の唇と、乱れた金髪、それに冷えた瞳とスリムな全身から伝わってくる虚無とアンニュイの硬質な色気。
『ヘッドライト』のジャン・ギャバンも、『太陽はひとりぼっち』のアラン・ドロンも、相手役として申し分なかったが、その頃の僕にとって映画とは、男優を刺身のツマとして女優の美しさと“イット”に出会える装置なのだった。
改めて調べてわかったことだが、この二人の女優は、何と僕と生年を同じくする一九三一年生まれなのだった。リアルタイムで見ていたとき、僕は彼女らをてっきり年上だと思っていた。いまだに同年なんて嘘ではないかと思う。やっぱり、人前での接吻など平気だった彼女たちの文化と、接吻はおろか、肩を並べて歩くことさえ一大事だった東洋の少年の文化との「年齢差」だったのだろうか。
(「ノーサイド」96・4月号)
ジェラール・フィリップ、
気品あふれる美神の寵児
神の特別な寵愛を一身に受けて生まれ、人並外れた才能を発揮し、その神の寵愛の深さゆえに夭折する。そのシナリオには、神のねじれた分身としての悪魔の影もつきまとう。
例えば音楽では三十五歳で死んだW・A・モーツァルト、文学では『ドルジェル伯の舞踏会』や『肉体の悪魔』のレイモン・ラディゲ、彼の享年はわずか二十年だった。
画家にもこと欠かない。その一人は三十六歳で命尽きたアメデオ・モジリアニである。
そのシナリオにふさわしい俳優を一人挙げよといわれれば、僕はためらいなくジェラール・フィリップの名を挙げる。モーツァルトの天才は音楽という美に捧げられ、ラディゲの天才は文学という美に捧げられ、モジリアニの天才は絵画という美に捧げられて尽きた。それでは俳優の天才は何に捧げられるのか。それは、例えば右に挙げた天才たちを含むあらゆる人間存在を自己の中に創造し再現することに捧げられる。平たく言えば、彼は誰にでも成り代わり、観客の前にその「誰」を生き直してみせるのだ。こうしてジェラール・フィリップは、ラディゲの分身を演じ、モジリアニを演じ、三十六歳で死んだ。
ジェラール・フィリップを僕が初めてスクリーンで見たのは、ラディゲ原作によるクロード・オータン・ララ監督『肉体の悪魔』(一九四七年)。日本で公開されたのは五二年、僕は二十歳だった。第一次大戦下、婚約者を戦場に取られた女を恋う十七歳の高校生を演ずるフィリップが、実際は二十四歳だったと後で聞いたが、たいした違和感はなかった。早熟で繊細な高校生の、天空に巣立とうとする鳥のおののきと豪胆さ、薄いガラスのような危うさと大人の支配する世の中へのシニシズム、その十代の感性がみずみずしく表現されていた。
やんちゃな光を放つ大きな瞳、その下を支えるやや高い頬骨、くぼみ気味の頬から小さく優雅な顎にかけての線、引き締まった薄い唇、その繊細で不遜な美貌を支えるのが、いかにもはかなげで細い首筋である。体全体もやせぎすで、それを形のいい長い脚が支える。そのシルエットのすべてに僕は、美に貪欲な神の寵愛を一身に受けて生れた男のはかない運命を感じる。もちろんこれは僕の二十歳のときの感想ではなく、『肉体の悪魔』をビデオで再見して改めて感じるものである。
驚くべきことに右に挙げた彼の容貌とシルエットは、三十六歳で死ぬまで寸分も変わらなかった、というのが僕の印象である。
『肉体の悪魔』の確か翌年に僕の見たのがクリスチャン・ジャック監督の『ファンファン・ラ・チューリップ(邦題『花咲ける騎士道』)』(五二年)。これで僕は完全にジェラール・フィリップのとりこになった。女たらしの魅力に変わりはないが打って変わって軽妙洒脱、中世騎士活劇における彼のしなやかな身のこなしとコミックな味に酔いしれた。
その他で印象に強く残る作品といえば、ルネ・クレール監督『悪魔の美しさ』(四九年)、クロード・オータン・ララ監督『赤と黒』(五四年)、そしてジャック・ベッケル監督『モンパルナスの灯』(五八年)である。『モンパルナスの灯』を僕は、俳優ジェラール・フィリップの白鳥の歌だと思っている。その後彼はいくつかの映画に出演し、舞台も踏んだが、この映画の主人公モジリアニが生前世に認められないまま酒びたりで三十六歳の生涯を終える役を演じてまもなく、フィリップも心臓発作で息を引き取った。一九五九年十一月二十五日、奇しくもモジリアニと同じ三十六歳の生涯だった。
フィリップは、どんなコスチュームも板に付いていた。気品のある美貌、かぼそい首筋、すらりとやせぎすの体躯には、『赤と黒』のジュリアン・ソレルの軍服も法衣も、『悪魔の美しさ』における一人二役のさまざまな衣装も、酔いどれの胸をはだけたくしゃくしゃのシャツも、襟元のスカーフやマフラーも、ジャンパーも、すべてがフィットしていた。すなわち彼は誰にでも成り代わることのできる天才だった。美神の寵児に生れて死んだというほかはない。であるならば、と僕はないものねだりをしたくなる。彼の生きているうちに、モーツァルトの『アマデウス』が世に出て彼が演じてほしかった。
(「MRハイファッション」97・1月号)
映画の食卓
根が食いしん坊のせいか、映画を見ていて食事のシーンが出ると、他のシーン以上に丹念に画面に注目する。平凡だとがっかりし、その映画全体への興味が薄れる。
平凡とは、料理の内容ではない。いや、それも少しは左右するが、いちばん興ざめするのは「はい、今度はごはんの場面を見てちょうだい」という感じで、映画を作る人が食べることにはあまり情熱がなさそうだと思えるときだ。型どおりで、おざなり、登場人物もみんなつまらなさそうに食べている。
それにしても、こと食事のシーンに関しては、僕の少年時代のモノクロ映画よりは、カラーのほうが圧倒的に有利で、たのしい。やっぱり食事は色彩がだいじですよね。
さて、ここ二、三年に僕が見た映画で、食べる場面の秀逸さですぐ思い出すものといえば、うーん、やっぱりフランスとイタリアになってしまう。
まず、フランスのベテラン監督――ああ、かつてはヌーベルバーグ(新しい波)の旗手とうたわれた人ももうベテランか――のルイ・マルの『五月のミル』だ。ミルとは初老の男の名でミシェル・ピコリが好演しているのだが、ある老女が死んで親戚一同が田園風景に囲まれた古い屋敷に集まってくる。話の中心は老女の遺体を前にした遺産争いや愛欲のもつれだが、僕が感心したのは愛欲よりは「食欲」場面だ。いやあ、食べるは飲むは。しかも室内の食卓あり草上の昼食あり、何人いたか忘れたが、とにかく盛大に食べ盛大にワインを飲む。近くの小川でミルの捕ってきたザリガニに、みんなでむしゃぶりつく。こういう場面が自然でいきいきしている映画は傑作だというのが僕の確信である。
もうひとつすぐ思い出す「食欲」映画は、イタリアのプピ・アヴァティという人の作った『いつか見た風景』。これは映画全体としては中身は軽いが、全篇を通して食べることへの情熱と持続力にはただただ感服あるのみ。こちらは、ある農家での婚約の祝宴で、都会の新郎の家族がもてなされるのだが、両家合わせて二十人ほどの男女が食べるは食べるは。しかもイタリア人特有のにぎやかさ、決して上品とはいいがたい話題やトラブル、ハプニングが続き宴は台なしになりかけるが、どっこい亭主は何があっても、前の日から親戚にも手伝ってもらって準備した二十品の料理と、デザートの五種類のケーキは、最後まで出すぞと頑張り続ける。これには感動する。
そうだ、まじめなところでは台湾の侯孝賢の『悲情城市』があった。たしか最初の場面と最後の場面が同じ家の同じ食卓だった。それを囲む家族の顔触れが、いろんな事件のために最年長のじいさん以外は変わっている。ことば少ないそのじいさんが料理を黙々と食べている姿が印象的で、画面から台湾料理のうまそうな匂いが漂ってくるような感じだった。
――ああ、腹が減ってきた。
(「マミー・クラン」92・9月号)
風土・風景・気質
四年ほど前、イタリアのナンニ・モレッティ脚本・監督・主演の『親愛なる日記』という映画を見た。ナンニが、使い古したスクーターのヴェスパに乗ってローマの外れの住宅地の細道を縫ってゆく。自動車や大型バイクほど速くはなく、自転車や歩行ほど遅くもない。それにつれて、周囲の風景がほどよいテンポで移り変る。そのスクーターの走行感と周囲の風景との一体感が秀逸だった。音楽用語でいえば、「アンダンテ、しかし遅すぎぬように」「アレグロ、しかし速すぎぬように」といったところだ。それがこの映画の基調を作っていた。それに、ヴェスパの垢抜けたデザイン。映画の滑り出しを見て、ああ洒落ていると思った。しかし、ナンニ・モレッティは尋常な男ではない。奇矯でオフビート、通りすがりの人から「クレイジー」「切れてる」などと言われる言動に及ぶのだが、その展開はここでは省略する。
僕は自分では車を動かせないくせに、デザインを吟味するのは好きだ。車だけでなく、建築、カメラ、時計など硬質の物。そしていつも、これらのデザインなり機能は、それを生んだ風土、風景、そこに住む人々の気質と密接に結び付いているという当り前のことに思いが至る。車でいえば、日本と似た島国のイギリスの街を走るローバー・ミニやモリス・ミニクーパー、そして今映画で引用したイタリアのヴェスパ――どうも僕は車でも小さいものに惹かれるようだ。
しかし、「それを生んだ風土、風景、そこに住む人々の気質と密接に結び付いている」デザインと機能とはいえ、衣服の場合はそうもいかないことが多い。明治中期以降、日本でも男女とも、和服に代って洋服がしだいに大勢を占めるようになったのだから。そこで僕の脳裡に甦るのは、僕が小学生の頃の、戦前の大人の男たちの服装である。
その頃の大人といえば、大雑把にいえば明治生れが主流だった。そしてその中核は、大正資本主義だか自由主義だかの洗礼を受けてサラリーマン、当時の呼び方では会社員になった服装だった。僕の父もその一人だった。僕の脳裡に甦る大人の男たちのイメージは次のようなものだ。
出勤に際しては、黒っぽい三つ揃いの背広に灰色がかった中折れ帽、その三つ揃いのチョッキ(今ではヴェストというか)のポケットには銀色の鎖を這わせた懐中時計、多くは口髭をたくわえ、内ポケットには万年筆、また多くは煙草と燐寸箱、もちろん手帖やハンカチも入れていただろう。そして家に帰れば妻の整えておいた和服の着流しでくつろぐ。とりあえずは小津安二郎の映画の笠智衆の役柄を思い浮かべればよい。
とにかく、大人の男が外出するときは必ず帽子をかむった。外で誰かに会って挨拶するときは、その中折れの部分を指でつまんで脱いでかしげる。それが恰好よかった。父や周りの男たちのそんな流儀から、大人とはそういうものだと僕は思っていた。
戦後、それががらりと変り、着帽より無帽が、懐中時計より腕時計が、やがて万年筆よりボールペンが主流となり、そしていつのまにか僕も大人になっていた。日本だけではない。戦後の欧米でもだいたいそうだ。多分、世界中が能率最優先となり、アンダンテよりアレグロへ、更にはプレストへと移ってきたのだろう。今はむしろ、若い伊達男が中折れ帽をかむっているのをまれに見かける。
読みかじりだが、『衣装論』のエリック・ギルがこう言っているそうだ。「衣服というのは肉体によりも精神によく合うものだ」
とすると、とうに還暦を過ぎてなおジーパンで外出し人と会うのが平気な僕の精神とは、そして中折れ帽の若い伊達男の精神とは。
深くは考えまい。僕はただ、冒頭に引いたナンニ・モレッティの『親愛なる日記』のヴェスパのように、その風土、風景、気質に素直になじむ余生を、意識下の意識としてデザインしていくことになるだろう。
(「MENS EX」99・4月号)
X 道端のキャッチボール
何もなかったが野球があった
僕にとっての甲子園の原風景は、昭和十四年、小学校二年生のときのものである。そう、振り返れば太平洋戦争は二年後に迫っていたのだ。そんな時期に、一人の少年は、自分たちがやっていた三角ベースではない本当の野球の姿に初めて出会ったのだった。父の職場が、転勤によって横浜から神戸に移ったので、野球ファンだった父は早速、長男の僕を連れて甲子園に「中等野球」を見に行ったというわけだ。今の高校野球の前身である。
原風景とはいうものの、球場の様子もゲームの内容も、スコアボードにゼロが二十四並んで十二回引き分けに終わったという記憶を除いては、おぼろげにしか残っていない。確実にいえることは、このときから僕の心身に野球が棲み始めたということである。
このスコアの例のように、中等野球は投手王国の時代だった。小学生の胸に、海草中学の嶋、岐阜商業の大島、滝川中学の別所などの名が刻まれた。それらの学校をはじめ、平安中学、熊本工業、島田商業などの名は、僕の中に、単に野球の強い学校の名としてではなく、一人の非力な少年の憧れる野球の神格的象徴としての記号を植え付けた。当時、僕は職業野球、今のプロ野球の存在を知らない。父が話題にするのは、東京六大学野球と中等野球だけだった。
父の転勤で門司を経て大分に移って太平洋戦争勃発、そして敗戦。僕は中学二年生になっていた。そしてその秋からの、プロ野球、都市対抗野球、大学野球、中等野球の、きらめくばかりの急速な復活。それは、野球ルネッサンスと名付けてもよい社会現象ではなかっただろうか。
あの、昭和二十年八月からの数年を振り返るとき、僕は思う。あの頃の日本の社会と野球の関係、あるいは、生い立ち成長する少年たちと野球の関係は、例えばラテンアメリカ諸国の社会とサッカーの関係、あるいは、そこで生い立ち成長する少年たちとサッカーの関係のようなものではなかっただろうかと。これらの国々では、サッカーは数あるスポーツのなかから選ぶ一種目ではなく、これらの国々の文化の根にあるもので、男の子が生まれてよちよち歩きを始めるとサッカーボールに戯れ始め蹴り始め、いつしか生活の一部になる。
同様に僕は、野球がずば抜けて盛んなキューバを訪れたときに、何人かから聞いたことばがある。「この国の男の子たちは、ボールとバットを持って生まれてくる」
敗戦後数年の少年時代の生活を脳裡に復活させてみると、野球は日本にとってもまさにそのようなものだったと思わざるを得ない。
大人も子供も、久しく抑制され飢えていた遊びを求めた。何もなかった。しかし人々はボールを求めた。戦争をひそかに生き抜いたボールは貴重品になった。それも手に入らない子供たちは、毛糸屑や布や、ありあわせの材料でボールを作った。そんなボールでできる遊びは野球だけである。あとは木か竹の棒切れがあればいい。手製のボール一個で大勢の子供が遊べる。
僕の母校は当時は旧制の大分中学、のちの大分第一高校、僕らが卒業後上野丘高校となる。終戦時、広い校庭は全面芋畑と化していた。生徒総出でそれを均らし、雑草を抜き、ローラーを引いてグラウンドに復元した。昼休みにはあちこちで素手の草野球が入り乱れた。そして放課後は、我らが誇るべき野球部の練習グラウンドとなり、僕ら一般の生徒はその練習ぶりを飽くことなく見守り続けた。野球部といえども用具は十分ではなかった。軟球から硬球には変ったものの、ボールもグラブもほとんどは先輩のお古で、ボールは酷使されて、しょっちゅう糸が切れ、部員たちはそれを家に持ち帰って縫い合わせた。初めはスパイクも揃わずユニフォームもなかった。バックネットの金網の破れは補修できず、よくファールボールが抜け、下のほうはやむなくベニア板でふさいだので球が当たるとすさまじい音がした。
おそらくこれは、全国どこの中学校でも見られる風景であったろう。しかしそのような貧困な立ち上がりであったにもかかわらず、わずか一年後の昭和二十一年八月には、西宮球場で、地方大会を勝ち抜いた十九校が集まって、戦争中途切れていた全国中等学校優勝野球大会が復活したのである。当時は甲子園球場は米占領軍に接収されて使えなかった。
この復活を遅いと見る人は少ないだろう。主要都市はまだ戦災の焼跡だらけ、闇市だらけで、人々は明日の食糧の当てもつかない状態だった。代表校の選手たちはやっと工面した米や麦をリュックに背負って大会入りした。
こういうときこそ、そこで輝いたヒーローの名は忘れられないものとなる。中学三年生になっていた僕にとって、戦後の最初のヒーローは、僕より一つか二つしか違わないはずの、浪華商業を優勝に導いた左腕投手平古場であった。球威抜群で次々と三振を奪い、準決勝では確か一九奪三振である。これらを僕らは、雑音のひどい性能劣悪なラジオで聴き、翌日の新聞の片隅の小さな記事で知るのみだったが、それだけに、平古場という稀代の投手の勇姿をあれこれと想像し、彼のイメージは僕のなかで、いっそう光り輝くのだった。
僕にとって、平古場の次に現われた甲子園のヒーローは、翌二十二年の夏の大会で優勝し、九州に初めて全国優勝をもたらした小倉中学のエース福島である。そして僕にとって彼の場合は、平古場のようにラジオや新聞だけで知るのと違い、甲子園に行かなくてもこの眼で彼のプレーを見ることができた。僕らの大分中学が小倉中学を招待し、大分の球場で試合をしたからである。あるいはそのときは学制が変って、大分中学は大分第一高校に、小倉中学は小倉高校になっていたかも知れない。
このあたりの記憶が乱れるのは、学制が改まって、僕らは昭和二十三年の春に、旧制の中学四年から新制の高校二年にスライドしたのだが、校舎も先生や同級生の大半も中学時代と同じままだったからだと思う。ちなみに、福島投手を擁する小倉高校は、昭和二十三年に名称の改まった全国高等学校野球選手権大会、すなわち今の全国高校野球の第一回(通算第三十回)にも、中学時代に続き連続優勝を飾っている。
さて、大分の球場で見たその福島、体型はすらっとしてやせぎす、投球フォームは柔軟でひらりひらりという感じ、素人の僕などの眼には、極端にいえばまるで捕手を相手に楽しげにキャッチボールをしているように見えた。その一見威圧感のないフォームから緩急自在でコントロール抜群の、結局は威力あふれるストレートやカーブが放たれる。その投球を受ける捕手の原とともに、このバッテリーはいかにも頭脳明晰な雰囲気を備えていた。ちなみに小倉中学は昔から九州随一の県立進学校である。
ここで僕の母校の話になるのだが、大分中学も小倉には及ばないものの、九州では五指に入ったであろう県立進学校だった。戦前の野球では、南九州を制して甲子園の常連校となっていた大分商業に、地元の対校戦ではたいてい負けていた。それが戦後、一時にわかに強くなったのである。夏の大会では南九州大会の決勝戦で、勝てば甲子園という大一番に力及ばなかったものの、春の選抜大会では、中学の最後と高校の最初の甲子園に、小倉とともに九州から二校だけ選ばれて出場している。我らが梅津・大塚のバッテリーは、小倉の福島・原と九州の双璧と謳われていたものである。ちなみに、北九州地区の戦前の甲子園の常連といえば小倉工業だった。
この時代、戦前の東京六大学で六位と決まっていた東大が、戦後再開されたシーズンであわや優勝かといわれて二位になった珍事があった。これらの現象を概括すれば、戦争による中断のために、それまでの野球伝統校、強豪校を中心にしたパワーが一旦休眠状態となり、戦後、その秩序の整わぬ時期に、野球では劣位であった学校が、戦後の野球戦乱期に乗じて、雄叫びを挙げたということではないだろうか。
僕の母校は、その戦乱期が収まり、上野丘と名を変えて、昭和三十三年、初の夏の甲子園出場を果たした。晴れの舞台では作新学院に二対三で敗れたが、その後輩たちを、今でも僕は誇りに思っている。
(「ホームラン」98・8月号)
道端のキャッチボール
団地の広場で少年が二人、二十メートルぐらいの距離でサッカーのボールを蹴り合っている。彼らは器用にパスを送り合い、受けたボールにフェイントをかける仕草をし、あるいはミドルシュートを想定したような蹴りを入れる。私はしばし足を止めてそれを眺める。
眺めながら思う。
――五十年前、俺も同じようなことをやっていた……。ひねもす、飽きもせず。
ただし、私の場合はサッカーのボールではなく、手作りの野球のボールだった。それでキャッチボールをしていた。グラブなどという贅沢な物はない。素手か、あるいは手作りのボールを硬く作り過ぎて掌が痛いと、白い軍手をはめて捕球していた。
敗戦直後の大分市、戦争末期の空襲で市の中心部は焦土と化していたが、我が家のある住宅地一帯は無傷のまま残った。もっとも、我が家の生け垣のねきにも焼夷弾は落ちた。しかし不発弾だった。しばらくして家に遊びに来た親戚の高校生が――彼は鹿児島の第七高等学校から大分海軍航空廠に動員学徒として来ていたのだが――その焼夷弾の信管を抜いて解体し、油脂を取り出して風呂を焚いてくれた。中学二年生の私は、彼の沈着な手際と、油脂の火力の凄さに舌を巻いていた。
我が家とはいっても借家だった。いわゆる借り上げ社宅である。父は大正十年頃に大学を出て倉庫会社に入って以来、東京を振り出しに横浜から九州までの港町を二、三年おきに転勤して歩いた。それに伴って私も、横浜で小学校に入って芦屋、門司、大分と転校し、大分で旧制の中学に入った。その頃はすでに太平洋戦争のさなかだった。だからだろう、父の転勤もなくなっていた。
私が大分にいたのは、小学校四年の二学期から高校を卒業するまでのおよそ八年である。
そのちょうど真ん中が昭和二十年八月十五日の終戦だった。
戦争が終わっても父への転勤命令は復活しなかった。転勤のなくなった理由は、戦後まもなく、父が会社からクビを切られたからである。父はその理由を、中学二年の私にあまり説明しなかった。およその輪郭は、父が入社した会社は戦時中の企業合併によりある財閥系倉庫会社に吸収合併されていたが、戦後の財閥解体政策によって多くの支店や出張所が縮小されることになり、それが大分出張所所長であった父のクビにも及んだということだった。
ところが、私の母校の元教頭で父と親しかった人が、父の死後に記憶を語るところによると、戦後まもなく出張所の倉庫に大泥棒が入り、所長の父が、警備員や社員の責任を一手に負って辞職したのだという。まるで違う。母からは私は何も聞いてない。教頭が父から聞いたらしい話は美談に過ぎるきらいはあるが、そのほうが父らしかったとも思う。五十年前のことを今更気になってただそうにも、父母も教頭先生もすでに亡い。
さて、手作りのボールによるキャッチボールのことである。私がいちばん頻繁にやった時期は、中学二年の秋、すなわち敗戦の年の秋から、高校三年の二学期あたりまで、いちばん頻繁にやった相手は、近くに住む二人の級友とともに、父であった。後半になると、ようやく小学校高学年になった上の弟がこれにおずおずと加わるようになった。父とよくやったのは、父が若い頃から野球ファンであったからという理由以上に、会社をクビになって、代わりの勤めもおいそれとはなく、無聊を慰めるには、趣味の俳句だけではますます気が滅入るから、学校から帰った息子とキャッチボールをやるに如くはないと父が思っていたからである。そんな心境を父が私に洩らしたわけではないが、息子の私はそう感じていた。
父は五十歳になったところだった。
借り上げ社宅だから、会社をクビになれば会社からは家賃の補助は出ない。夫婦と子供六人の八人家族が悠々と住める広い一戸建ての平屋で、その四囲には観賞用に植えた樹に加えて、ザボンやイチジクやザクロやサクランボやビワなどの果実の実る樹に恵まれた庭が開けていた。こんな結構な家に、タケノコ生活も底を突き何の貯えもない失業者家族の住めるはずがない。
ところが追い出されなかったのである。隣に住む大家さんは、私の高校の校長の父親で、奥さんともども優しげな人だった。私の父の境遇に同情し家賃を格安にしてくれたらしい。そのおかげで、私たちは大分を去るまではずっとそこに住むことができ、そのおかげで、父と私はその家の生け垣に沿った路地でキャッチボールに興じることができたのだった。
毛糸屑を探す。なければ、姉たちのいない間に古いセーターを失敬してほぐすことになる。中心になる小さなビー玉大の球体を作る。コルクの栓やゴムの塊があるに越したことはないが、見つからなければ適当な物で代用する。毛糸をぐるぐる、なるべく硬く巻きつけていく。ときどきろうそくのろうを塗ってさらに固め、球体を保つ。そうして野球のボール大になった球体に、なるべく丈夫な布の切れ端を見つけてきて、二片のひょうたん型に切り、それを球体にかぶせて糸で縫いつける。
キャッチボールだけなら結構長持ちする。
しかし、もし仲間との草野球に供出し、バットや竹の棒で打とうものなら何発かでおしまいである。それこそ、ひょうたんみたいにぶやけてしまう。だから、私たちはキャッチボールに精を出した。どう丁寧に作ってもやはりどこかいびつだから、ストレートでも変化する。カーブは面白いように曲がるし、ドロップは面白いように落ちる。友人や父と、ホームプレートとバッターを想定してピッチングの技を競う。
私の処女出版は書き下ろしエッセイ『映画館を出ると焼跡だった』(草思社刊)である。こんなことが書いてある。
「キャッチボールをしているときは、二人ともすべてを忘れていた。『行くぞ!』『よし、来い!』という声も腹の底から出た。そして疲れて縁側に引揚げて荒い息を吐き、やがてその息が静まって行くと、父は何かもの思いにふけって行くようだった。配給のタバコの葉をコンサイス英和辞典の一枚をちぎってくるみ、紙巻きタバコにして火をつけ、吐き出した煙が縁側から青空に向かって逃げて行くのを眼で追いながら、おそらく父は、同じように逃げて行った良き時代を思い出していたのであろう」
団地の広場でサッカーに興じる少年たちを眺めながら、私もタバコに火をつける。
(「PHP」96・12月号)
西鉄ライオンズ
時代の風雲と「場」の申し子
一九九七年十月十六日午後、僕は快晴無風の福岡平和台球場のフィールドに、僕の所属する東京の草野球チーム、クーパースタウン・ファウルズのユニフォームを着て立っていた。
何のために? もちろん野球をやるためにである。どこと? 西鉄ライオンズとである。
とはいえ、西鉄ライオンズは、もう二十五年も前に姿を消したチームだ。僕らの相手をしてくれたのはライオンズのOBチームだった。往年のエース「神様、仏様、稲尾様」こと稲尾和久は六十歳、型破りの二番打者で遊撃手のスラッガー豊田泰光は六十二歳、当時熱狂的な西鉄ライオンズのファンとして平和台に通っていた僕は六十五歳、そして僕以上に西鉄に熱をあげていた、わがクーパースタウン・ファウルズのプレーイング・マネジャー平出隆は四十七歳になっていた。
平出隆と僕が、文筆や取材を通して、稲尾和久や豊田泰光と満更縁がなくもなかったとはいえ、一草野球チームの「平和台でお手合わせを」という一見非常識な申し出に、彼らが二つ返事で気さくに応じてくれるとは思っていなかった。おまけに手弁当である。僕らには、遠近各地から平和台に集まってくるOB諸氏に、交通費もお礼も出せない。
豊田泰光氏は僕らと同じように東京からの往復、そして稲尾和久氏は、これは当日になって知らされたことだが、ゲームにはほんの二、三回しか出られないスケジュールであることがわかっていながら、仕事先から飛行機で駆け付け、ゲーム半ばでまた飛行機で名古屋へという無理をしてくれたのだった。
ペナントレースでは強敵南海ホークスを、日本シリーズでは読売ジャイアンツを相手に三連覇して、戦後の日本プロ野球に一時代を画し、今や伝説となった西鉄ライオンズの猛者たちとは、五十、六十になっても、そういう気さくな、興に乗れば損得抜きで僕らの草野球の相手をしてくれる童心を保った人たちだったのである。
しかし、僕らの夢が実現したのには、もう一つの大きな要因があった。キーワードは「平和台」だ。往時の西鉄ライオンズのホームグラウンドであり、ライオンズが埼玉県所沢に移って西武ライオンズとなってからも、プロ野球や高校野球に使われ、フィールドが人工芝と化しはしたが、なお野球場の姿を保ち続けた平和台球場が、九七年十一月をもって閉鎖され、ほどなく取り壊されることになったのだった。
球場の地下には古代遺跡が眠っていることは前からわかっていた。球場に隣接する区域からは、すでに古代の迎賓館である鴻臚館の遺跡が発掘展示されていた。プロ野球のためには福岡ドームが出来、アマチュア用の野球場にも事欠かなくなって、平和台球場の解体と遺跡の本格的発掘に取りかかるのはやむを得ないことでもあった。ただ僕らは、古代遺跡の発掘のために、入れ違いに西鉄ライオンズのホームグラウンドという「遺跡」が姿を消すことに哀惜の想いを抱いた。その姿のあるうちに、記念試合をしたいと思った。そしてその最高の記念となるのは、西鉄ライオンズOBとの一戦だと思い至ったのである。
そして実は、平和台に寄せる哀惜の想いは、かつてその球場で新生球団をスタートさせ、その球場で黄金時代を築き、その球場で所狭しと暴れ回った、当の西鉄ライオンズのOBの人たちのほうが、ファンの僕らよりもはるかに大きく深かったことは想像に難くない。僕らの無謀ともいえる申し出に彼らが快く応じてくれたのは、彼らの気さくさとともに、「場」に対する懐かしさ、いとおしさによるものだったことは明らかだ。
「ホームチーム」といい、「ホームグラウンド」という。そのイメージは、ゲームのダイヤモンドの要の地点に埋め込まれた、変則五角形のホームプレートと重なる。野球は、ホームからスタートし、「死」をも覚悟した冒険に挑み、あくまでホームへの帰還を至上の目的とするスポーツだ。当然、たたかう相手はそれを妨げ、「帰郷」の夢を砕くことを至上の目的とする。「ホームイン」すなわち得点をめぐるせめぎ合いである。
そしてプロ野球チームは、シーズンを通して、ホームを出発して遠征に旅立ち、成果を挙げ、あるいは傷ついてホームに帰ってくることを度重ねる。そしてシーズンの半分は旅のなかである。
西鉄ライオンズは、セ・パ十二球団中、ホームを出てからの旅の時間と距離が、シーズンを通して最も長いチームだった。その次が広島カープだった。
当時はもちろん、飛行機便はおろか、新幹線すらなかった。寝台車も整っていない時期、若手の選手たちは普通の座席にもありつけず、通路に寝て大阪や東京まで揺られて行ったことも度々だったという。
それだけに、長い遠征を終えて平和台に帰ってきたときの喜びはさぞ大きかっただろう。「かあちゃん、ただいま」
その「ホーム」の姿をからくもとどめていた平和台球場が姿を消すのだった。その「場」に対する、グラウンドでプレーしていたプロの選手と、スタンドで声援していた一ファンの、懐かしさといとおしい気持が一致し、この日の、プロ野球OBチーム対草野球チームの交流ゲームに結実したとしか思えない。
プロ野球と「場」の伝説、それは平和台だけではない。かつてパシフィック・リーグにおいて、来る年も来る年も西鉄ライオンズと覇を競った南海ホークスのホームグラウンド大阪球場。僕は、南海ホークスが大阪から福岡へ去る最後のゲームを大阪球場のスタンドで観戦した。大阪のファンたちの涙声の声援が耳元に残っている。そしてゲーム終了後、グラウンドに選手を整列させて、超満員のファンに監督の杉浦忠が挨拶した最後の一言は、「さようなら」ではなく「行ってまいります」だった。「また帰ってきます」という意味のことばを、実現不可能と知りつつ口にした杉浦の心情は、やがて朽ちることになる「ホーム」へと注がれていたのだった。
大阪球場や平和台球場が「強者どもの夢の跡」となるよりはるかに前、ニューヨークのブルックリン・ドジャースがロサンジェルスに移った後のエベッツ・フィールドや、ニューヨーク・ジャイアンツがサンフランシスコに移った後のポロ・グラウンドとて同じである。今は見る影もない「場」に、オールドファンの哀惜の念は注がれ続け、神話や伝説のように度々語られる。
なぜ、「場」についての想いが語り継がれるのか。それは、野球が、絶えず「ホーム」への帰還を渇望し、それに向かって全智全能を捧げるスポーツだからである。
さて、西鉄ライオンズのことに戻ろう。一九五○年のシーズンから、日本のプロ野球は、前年末の経営者同士のすったもんだの争いの末、それまでの一リーグ八球団が二リーグに分裂し、セントラル・リーグ八球団、パシフィック・リーグ七球団でスタートすることになった。八球団から十五球団への、ほぼ倍増である。
この年、新規に参入した主力は新聞社と鉄道会社と映画会社だった。当時の日本復興を担っていた花形の業種である。新聞では、毎日オリオンズ(パ)、西日本パイレーツ(セ)、鉄道では、国鉄スワローズ(セ)、東急フライヤーズ(パ)、近鉄パールズ(パ)、そして西鉄クリッパーズ(パ)、映画では松竹ロビンス(セ)、大映スターズ(パ)と、大手が続々と参入した。
しかしその後、これらの新興球団はいくらも経たぬうちに合併や売却に身をさらすことになり、今日まで一貫して一資本で球団を支えているのは近鉄の一社のみである。
そして、発足一年にして早くも合併したのが、セの西日本パイレーツとパの西鉄クリッパーズだった。この寄合い世帯は五一年からパの西鉄ライオンズとして再発足することになる。そしてそこにその年、当初は総監督として招かれたのが、読売巨人の監督の座を水原茂に譲らされて、名ばかりの総監督で背広を着ていた三原脩であった。五二年から、三原は本格的に西鉄ライオンズの監督業を始める。
目標は、リーグ優勝して日本シリーズで水原率いる巨人と相まみえ、これを倒すこと、そのためにはまず、パ・リーグの覇者南海ホークスを凌駕することだった。五○年は西日本パイレーツはセ・リーグ六位、西鉄クリッパーズはパ・リーグ五位、下位球団同士の合併チームは前途多難であった。巨人時代のやり方では駄目だと三原は思っていたようだ。発想の転換が必要だ。三原は模索した。
一九五二年、三原の高松中学時代の後輩で、高校時代から怪童と謳われた中西太が、高松中学改め高松一高を出て入団した。キャンプで、並居る先輩たちの度胆を抜く中西の豪打を見て、三原は発想の転換の方法論を決めたようだ。三原は、スカウトとフロントに切望した。「九川・四国の地元の高校生の逸材を取りこぼすな。巨人や南海に先を越されるな」
エリートやベテランを中心にした巨人や南海の組織的・求心的野球に対して、未知の力を秘めた若い逸材を発掘し、奔放な力を結集するチーム作り、求心力に対して遠心力のイメージを三原は描いた。
「選手は惑星である。それぞれが軌道を持ち、その上を走ってゆく。この惑星、気ままで、ときには軌道を踏みはずそうとする。そのとき発散するエネルギーは強大だ。遠心力野球とは、それを利用して力を極限まで発揮させる。私が西鉄時代に選手を掌握したやり方である」
三原は晩年の著書でそう回顧している(『風雲の軌跡』ベースボール・マガジン社)。
中西入団の翌年の一九五三年、西鉄は、のちの黄金時代の形成に不可欠の存在となった投打の人材を一挙に入団させている。いずれも高校出である。五二年から五年間に入団したおもなルーキーを列挙してみよう。
五二年中西太・高松一高。
五三年豊田泰光・水戸商、高倉照幸・熊本商、西村貞朗・琴平高、河村英文・別府緑丘高―東洋高圧大牟田。
五四年仰木彬・東筑高、滝内弥瑞生・戸畑高。
五五年和田博実・臼杵高、玉造陽二・水戸一高、若生忠男・東北高。
五六年稲尾和久・別府緑丘高、畑隆幸・小倉高。
右に挙げたメンバーは、入団した十八歳、十九歳のときから直ちに、今でいう一軍入り、しかも大半は先発ラインアップに名を連ねることになる。ちなみに、稲尾入団の年にほぼ完成していた不動のラインアップは、
1 中 高倉照幸 二十二歳
2 遊 豊田泰光 二十一歳
3 三 中西太 二十三歳
4 右 大下弘 三十四歳
5 左 関口清治 三十一歳
6 一 河野昭修 二十六歳
7 二 仰木彬 二十一歳
8 捕 和田博実 十九歳
9 投 稲尾和久 十九歳
ほか
若武者たちの間に、大下、関口といったベテランのスラッガーを配したラインアップは心憎いばかりのバランスである。この布陣によって西鉄ライオンズは、五六年から三年連続して、ペナントレースでは南海ホークスを、日本シリーズでは読売ジャイアンツを相手に三連覇したのだった。その前奏として、五四年にペナントレースで初の優勝を飾っている。
勤めていた会社の転勤命令によって、僕が東京から北九州の小倉に移り住んだのは、その西鉄のリーグ初優勝の年の五月、ペナントレースが始まってまもなくのときだった。二十二歳だった。
東京にいたときは、セ・パ併せて五つか六つのチームが集まるなかで、その気になればいろいろな組み合わせのカードを見に行くことができたが、僕は特定のチームの熱心なファンになることもなく、強いていえば、セ・リーグで毎年最下位かブービーをさまよっている国鉄スワローズにシンパシーを感じていた程度だった。
そんな野球風土が福岡に移り住んで一変した。僕の周りは、地元の西鉄ライオンズと、強力なライバルの南海ホークスの話題で持ち切りだった。西鉄は開幕十一連勝を飾っていた。同県とはいえ、北九州から福岡に行くには国鉄で一時間かかる。それでも北九州は西鉄ライオンズの話題でたぎり立ち始めていた。
テレビはまだ実験段階の時代だった。平和台に見に行かない限り、ラジオの野球中継か新聞で楽しむ以外にない。それだけに、北九州のファンは、プロ野球と、西鉄ライオンズと、ライオンズのスターたちへの想像力を、自分の脳内で養った。そして、金と時間を工面して平和台に行きたいと願った。北九州にいた十二年間に、僕が平和台に行けた回数はそう多くはない。ぎりぎりの生活を続ける安月給取りにとって、時間と金の面からもかなりの負担だった。めったに作れない貴重なチャンスは、だから極力、人気の出始めていた西鉄・南海のカードに当てることにした。セ・リーグでいえば巨人・阪神戦だ。
西鉄は前年の五三年に、それまで対等に戦えていなかった南海に十一勝九敗と初めて勝ち越していた。最終的には南海が三年連続優勝し、西鉄は四位に終ったものの、地元ファンの期待は高まっていた。そして開幕十一連勝である。
果たせるかな、勢いは持続し、終盤は南海とのマッチレースとなり、ついに南海を○・五ゲーム差で抜き去ってリーグ初優勝を遂げる。前述したように、五二年から五四年にかけての、中西太に始まる高卒新人を次々に登用して清新なラインアップを組んだことによるのはいうまでもない。南海とのカードは十勝十敗であった。
三原のチーム作りは第一段階の成功を収め、三原は確信を得た。そして、平和台に蝟集するファンの熱気はいやが上にも高まった。この年の中日ドラゴンズとの日本シリーズはファイナルまでもつれ込んだが、結局、中日の杉下投手の力投に屈した。翌五五年のシーズンは南海に巻き返され、二位。しかし、チームも地元ファンも確かな手応えを感じ始めていた。
初優勝の五四年以降、五八年までの五シーズンにわたって、西鉄と南海は、いずれかが優勝すれば片方は二位という熾烈なペナント争いを続けることになった。とはいえ、南海の優勝は五五年のみであった。そして、お互いのライバル同士の対戦成績が、ペナントを手にするか否かの最重要ポイントになったのだった。西鉄から見たこのカードの成績は、五五年、七勝十三敗二分け、五六年、十勝十一敗一分け、五七年、十五勝七敗、五八年、十三勝十一敗二分けであった。
同じころ、セントラル・リーグでは東京の読売ジャイアンツと大阪の阪神タイガースが毎年のように首位争いを演じていた。セもパも、その様相は、都市と都市の、東と西の、西とさらに西の代表的チームによる激戦だった。それは、アメリカ大リーグの姿にも似ていた。日本列島全体の地方都市がまだ十分に活力を持っていて、その力が政治・経済・文化の極度の中央集権に奪われる前、プロ野球はその活力を存分に表現していた。西鉄ライオンズは、その最も典型的でダイナミックな存在となった。こうして、三原の巻き起こした風雲は、西鉄ライオンズという革命的なチームを、五六年から五八年までの三シーズン、ペナントレースにおける対南海三連覇、日本シリーズにおける対巨人三連覇という偉業へと向かわせるのである。
とりわけ、五八年の南海とのたたかい、それに続く日本シリーズでの巨人とのたたかいは、いずれも大逆転のスリルと興奮を、ファンに存分に味わわせるものとなった。ファンにとっては、逆転劇こそがスポーツを楽しむうえでの最高の醍醐味であろう。
野球における逆転劇の直接の原動力は、何といっても打撃の力だ。しかし、そのステージを用意し支えるのは、終盤に崩れず、ゲームを引き締める投手力であることはいうまでもない。そして、西鉄ライオンズには、若きエース稲尾和久がいた。
五八年のペナントレースは、前半戦を終えたところで、西鉄は二位とはいえ首位南海に一〇・五ゲームも引き離されていた。しかも、オールスター・ブレイクの直前の対南海戦では三連敗を喫している。南海独走の気配が濃厚だった。
ところが、後半戦に突入するや、“眠れる獅子”が目を覚ました。見る見る南海を追い上げ、とうとう一ゲーム差で南海を抜き去って優勝してしまった。後半戦の四十六試合は何と三十六勝十敗二分けという信じ難い成績である。四連勝が二回、一分けを含む六連勝が一回、そして、優勝を決めた百二十八試合目までのラスト十四試合は、一分けを挟み十三連勝というすさまじさ。
南海とのカードはどうか。前半は六勝九敗一分けだったが、後半は六勝二敗一分けと圧倒し、シーズンを十三勝十一敗二分けと勝ち越した。
この快進撃の立役者が、奔放な力を放った打撃陣であったとともに、入団三年目、二十一歳の鉄腕エース稲尾だった。先発にリリーフに獅子奮迅、後半のチーム四十六試合だけで十七勝してわずかに一敗、南海には四勝無敗だった。そして、シーズンを通しては、三十三勝十敗、防御率一・四二という、今ではとても考えられない成績を収めた。ちなみに入団の五六年は、二十一勝六敗、防御率一・○六、五七年は三十五勝六敗、防御率一・三七と、毎年コンスタントに、しかも抜群の成績を挙げている。
「稲尾なかりせば、ペナントレースでの対南海、日本シリーズでの対巨人三連覇はとても実現できなかっただろう」とは、当時猛打をほしいままにした打撃陣や投手の僚友たちが異口同音に言うことである。
五八年の対巨人日本シリーズは、そのシーズンの南海を相手にした後半戦の大逆転劇がそのまま乗り移ったような展開となった。世に名高い、三連敗の後の四連勝である。勝利投手は四勝すべて稲尾。
このシリーズの攻防の経緯はあまりにも有名で、今までさまざまな人によってさまざまな角度で語り継がれてきたし、紙幅もないので詳述は避ける。
日本シリーズの三連覇は、歴史上もちろん西鉄ライオンズだけではない。その後、ライオンズが首都圏の別の親会社に移ってからも二度達成されたし、読売ジャイアンツに至っては、西鉄ライオンズが凋落した後の一時代に、何と九連覇である。
また、シリーズにおける三連敗後の四連勝も、その後、八六年には西武ライオンズによって、さらに八九年には読売ジャイアンツが記録している。にもかかわらず、僕の胸のなかでは、はるか四十年以上も昔の西鉄ライオンズの三連覇や大逆転の事蹟が、最も強く印象的な光を放っている。
それは単に僕が、かつて西鉄ライオンズの熱烈なファンだったという、えこひいきのファン心理のせいだけだろうか。それはある程度認めざるを得ないとしても、それだけではないと思う。
背景となった時代の風雲があり、その風雲に乗じて、知将三原脩が、それまでの常識をくつがえすチーム構想で若わかしい“遠心力”のエネルギー集団を生み出して育て、そのエネルギーを、エスタブリッシュメントである南海や巨人にぶつけ、それがある達成を見たというところに歴史的な意味があると思う。風雲、それは、日本が敗戦後十年を経て、ようやく戦争の痛手から立ち直り、経済成長を始め、やがて資本の集中と東京一極集中による未曾有の高度経済成長へと向かう前夜の、まだまだ中小の工業や農業が活力を帯びていた「地方の時代」の風雲であった。
八年ほど前のことになるが、僕は、西鉄ライオンズの往時の選手たちを歴訪し、それぞれの個性に触れることによって、西鉄ライオンズの全体像を描いてみたいと思い立った。それは、『獅子たちの曳光 西鉄ライオンズ銘々伝』(文藝春秋)となって世に出たが、その際、参考資料とし、おおいに啓発された本が何冊かある。
それはいずれも、評論家やジャーナリストによって書かれたものではない。当の西鉄ライオンズの、プロ野球の修羅場に身を投じて戦った人たちの手記である。それを紹介して読者の参考に供したい。一読に値するものばかりである。
三原脩著『風雲の軌跡』
ベースボール・マガジン社
大下弘著『大下弘日記 球道徒然草』
ベースボール・マガジン社
豊田泰光著『風雲録 西鉄ライオンズの栄光と終末』
葦書房
河村英文著『西鉄ライオンズ 伝説の野武士球団』
葦書房
また、最近になって、地元のジャーナリストが、四十二人にものぼる往年の西鉄ライオンズの選手や関係者へのインタビューを一冊にまとめた本が出た。
森山真二著『わが青春の平和台』
海鳥社
九八年十月十八日、横浜スタジアムにおける横浜ベイスターズと西武ライオンズの日本シリーズ第一戦を見終えて、僕は豊田泰光氏と酒を酌み交わしつつ、野球を語り合った。話は自然に去年の西鉄OBと草野球チームの交流試合に及び、往時の西鉄ライオンズの武勇伝に及んだ。時代の風雲と「場」の情景が僕の脳裡に復活していた。
(「野球小僧」98・12月号)
ホームラン・アーチスト
外野手がフェンス際まで追いすがったがわずかに届かず、あきらめて見送るのもホームランなら、打球が天空に舞い上がるやいなや、守備についていた誰もが守備の姿勢を放棄し、両手を腰に当てて所在なげに打球の行方を見送るしかないのもホームランである。どちらにしても記録上は等価だ。
僕もホームランは沢山見たが、右のうち文句なしに後者と言えるホームランをスタンドで目撃したことは数えるほどしかない。戦後一リーグ制だった少年時代の記憶から順に思い出してみると、大下弘、別当薫、小鶴誠、中西太、王貞治、田淵幸一、門田博光、アメリカから強打者が来るようになってからは、クラレンス・ジョーンズ、チャーリー・マニエル、レロン・リー、ラルフ・ブライアント、そしてランディ・バース。彼らの、それぞれ一発か、せいぜい二発である。繰り返すが、これらは僕が偶然スタンドに居合せて幸運にも大ホームランを目撃した例に過ぎない。個々の印象は後半で述べることにする。さてしかし、今名前を連ねた打者はいずれも自他ともに認めるホームラン・ヒッターであり、「打球が天空に舞い上がるやいなや、守備についていた誰もが守備の姿勢を放棄」せざるを得ないような飛球は、決してまぐれ当たりでは生まれないことをあらわしてはいまいか。
もっとも、僕のような素人が、打球が放たれた瞬間に「あ、ホームラン」とわかるのは、見ているスタンドの位置にもよる。外野席はもちろんだが、ネット裏をはじめ、ホームプレートの後方にいるとかえってわかりにくい。いちばんいいのは、一塁か三塁のベースの近くで、ホームランの弾道を横から見上げるあたりである。右に連ねた僕の目撃例は、たいていこういう位置で見ていたときのような気がする。いや、ホームランならずとも、このあたりから見る痛烈な打球はみな美しい。のみならず、守備も走塁も、要するに野球全体がよく見える。テレビがなかなかとらえようとしない視角である。いつごろからか僕は、チケットを買うとき、三塁ベース寄りの中段あたりを求める習慣になっている。そうしてやはり、天空高く舞い上がって遠ざかり、外野フェンスの向こうに消えてしまうホームランを待望している。
フェンス越えのホームランは、特権的な打球であり、比喩的には治外法権の打球である。治外法権とは正しくは、外交官などが、滞在国の法律や裁判権の適用を受けない国際法上の特権のことらしいが、これは元の英語のほうがわかりやすい。簡潔に、エクストラテリトリアル・ライト。テリトリーすなわち領分の埒外にある特権、相手にとっては平たくいえば「お手上げ」である。
外野フェンスは、ルールが厳格に適用され、皆がそれに気をつけて忙しげに動いている社会と、その埒外の異界とを分かつ境界線である。たった今まで、そのルールに気を配って動いていた人間がひとたびフェンス越えの打球を放つと、彼は、ルールの生きる社会にいながら特権者になる。何の特権か。それは、誰の助けも受けず、しかも急ぐ必要もなく、いつもは危険にさらされている地帯を悠々と回って、出発したマイホーム(ホームプレート)に帰ってくることのできる特権である。
この間、フィールドに散らばっている相手方の勇士たちはなすすべもない。ベースを悠々と回る打者走者や、ときにはその前を回る走者に腹いせにタッチしようにも、タッチすべきボールは治外法権の異界に消えてしまった。
僕は意地悪な男ではないつもりだが、ホームランを打った打者のベース一周の仕方や、彼をホームで歓迎するチームメイトの所作にも増して、フィールドに散らばったまま所在なげに立ちつくしている相手方の風情を観察するのも好きである。くやしそうな姿、退屈そうな姿、呆然とした姿、我関せずといったスタイル、一人ひとりに人間味がある。
この、スタンドは歓声に沸き立っているが、プレーヤーたちにとっては空虚な時間は、しかし完全に空虚ではない。ルールは生きて続行中なのだった。ボールが異界に消えてしまったからといって、ボールデッドになったわけではない。タイムがかかったわけでもない。インプレー中なのだ。ボールが消えてしまったのにインプレー。フェンス越えのホームランのとき以外にこういうケースはあるのだろうか。僕は思い付かない。
栄光のホームラン打者走者がベースを一周してホームプレートを踏むまで、相手方のプレーヤーや審判員が、それに味方の何人かが、なんとなくうつむいているように見えたのは退屈だからだけではなかった。栄光に包まれたホームラン打者走者が、三つのベースやホームプレートを踏んだかどうか。もし二塁を踏まずに回ったら単打止まり、一塁を踏まなかったらアウトである。しかしそれは誰かのアピールによってのみ審判員が宣告する。打者走者の前に走者がいたとして、彼の運命も同じ。
めったにホームランの出ない打者がホームランを打って、無我夢中で小躍りして走り、前をゆっくり走る走者の姿が見えずうっかり追い越してしまった。これもアウト。
このようなケースがもし、逆転サヨナラホームランになるべきはずのときに起こったら、そしてそのゲームがペナントレースの、あるいは日本シリーズの帰趨を左右するようなものであったとしたら……。
心配性の人間が考えることはこれだから厭だという人もいようが、しかし、そこまで考えてみることができるというのも、野球のルールの持つスリルと面白さだと思う。ホームランをかっ飛ばしたからといって有頂天になるなよ、ちゃんと回っておうちに帰れよ、というわけだ。このようなケアレスミスではないのに、ホームランが単打になったシーンを僕は九九年の秋、アメリカ大リーグのテレビ中継で見た。しかしそれは祝祭的な雰囲気に包まれっ放しだった。余談めくが記しておきたい。
ナショナル・リーグのチャンピオンシップ・シリーズ、ニューヨーク・メッツはアトランタ・ブレーブスに三連敗後サヨナラ・ゲームでやっと一勝したが、剣が峰に立っていることに変りはない。その第五戦は雨の中の凄絶な試合となった。延長十五回、ブレーブスが一点を入れて三対二とし、もはやこれまでかと思った裏、メッツは一死満塁から押し出しで同点、ここで三塁手ロビン・ベンチュラの一振りはライトスタンドへ。七対三、劇的なサヨナラ満塁ホームランと誰もが思った。しかし、サヨナラはサヨナラでも一点差の四対三でメッツの勝ちとなったのだ。打者走者のベンチュラが一塁に達するとメッツのナインが一斉にベンチから飛び出し、ベンチュラをぐるぐる巻きにして歓喜に酔い、ためにヒーローは次の塁に進めず、あるいは、勝ったのだからいいやと思ったか、そのままベンチに凱旋してしまったのだ。かくして“フェンス越えの単打”で打点一。
戦後についていえば、ペナントレースが復活した昭和二十一年から二十四年までの四シーズンが八球団一リーグ制の時代だ。僕が大下、川上、別当、小鶴らの印象的なホームランを見たのはおもにこの時代に集中している。僕の年齢でいえば十四歳から十七歳まで。ただしいずれも早春か晩秋のオープン戦でのものだ。というのは、この時期僕は九州の大分に住んでいて、当時のプロ野球はまだフランチャイズ制は確立していなかったものの、公式戦が九州で行なわれることなどまずなかったのである。そしてオープン戦すら、地方都市大分、あるいは隣の別府ではめったに見られなかった。テレビのない時代の動く映像といえば、映画館のニュース映画でのほんの一コマだけ。それと野球雑誌に載る写真だけでスター選手のプレー姿に想像をたくましくしていた僕らは、だから、オープン戦の予告を見ると必死の思いで小遣いを工面し、当日の好天を祈り、当日になると何時間も前から球場に行って並び、開門となるやいなや選手たちに少しでも近い席を求めて走った。
そういう状況で幸運にも見たホームランだからたまらない。どんなゲームだったかはもちろん、どことどこのゲームだったかも忘れてしまったものが多いが、いくつかのホームランの弾道と方角は今も目に鮮やかである。まことにホームランというものは偉大だ。
大下弘のホームランを最初に見たのは、デビュー二年目か三年目だったろう。東急フライヤーズ時代だ。二十一年にプロ野球復活とともにプロ入りし、それまでの日本のホームランの概念を一新したといえる驚天動地の二○本を打った大下は、少年たちをたちまち野球ファンにした。
構えは自然体、バットのグリップは腰から腿の上部あたりまで下げてゆらゆらさせ、いかにも自由な印象を与えた。そこから一転はっしと打ち出された打球は、天空高く舞い上がり、美しい弧を見せて、狭い地方球場のライトスタンドを越え、場外に消えて行った。
川上哲治のホームランは同じころ別府球場で見た。このときは巨人対ノンプロの別府星野組のカードで、星野組の投手は後にプロで活躍し野球殿堂入りした荒巻淳。川上の打席姿は大下と対照的に武骨そうで、不動の構えということばがぴったりしそう。そのときのホームランは、のちに「弾丸ライナー」といわれるようになったそのものだった。大下と同じく左打者だった川上の打球は、低い弾道であっというまに右翼席に飛び込んだ。
阪神タイガースの別当薫のホームランを見たのは、新しくできた大分球場でだったと思う。一塁側内野席から見ていた僕に、右打席の別当は長身でスマートに見えた。左足をひょいと上げてインパクトに入る。そのインパクトがまた、両手のリストを一瞬ひょいときかせただけの感じで、打球はもう遠くを目指していた。
小鶴誠のホームランは、昭和二十四年に大分で見たのだったと思う。とすれば、二十五年から二リーグになって小鶴が松竹ロビンスに移り、五一本のホームランを打って松竹のセ・リーグ優勝の立役者となった前年だ。わりあい小柄で痩身に見えた記憶がある。しかし、バックスイングも両足のスタンスも大きく取り、そこから打ち出されたホームランはいかにもダイナミックだった。
二リーグ分裂となり、セ・パに分かれてペナントレースが始まった昭和二十五年は、僕が大分の高校を卒業して東京に出た年である。以後、北九州、名古屋、広島、横浜を転々とし、その気になればシーズン中に公式戦をいくらでも見に行ける都市ばかりに住んだのだが(北九州は福岡の平和台球場に行けた)、そうなると今度はあまり見に行かなくなった。社会人として仕事が忙しくなったこともあり、やがてテレビが普及し始めた。地方都市での少年時代のあの渇望と、それがかなえられたときの充足感はどこへ行ったのか。今となっては一リーグ時代が懐かしい。
とはいえ、それ以降に見た数々のゲームでのホームランで印象深いものももちろん多い。その中で超弩級といえば、平和台球場で見た西鉄ライオンズの中西太の打った何本かだ。上背はないががっしりと厚味のある体躯、尻をぶるんぶるんと震わせてから打席で構え、バットが一閃すると打球はものすごいスピードで外野スタンドに一直線だった。
甲子園や後楽園で見た阪神タイガース時代の田淵幸一のホームランもまた大きく、美しかった。長身といいリストのきかせ方といい、一リーグ時代の同じチームにいた別当をほうふつとさせた。しかし天空高く舞う打球の美しさは田淵の方が印象深く、この点では大下に近い。そして僕の見た限りで、打席での姿、打撃フォーム、打球のすべてにおいて快さをもたらすホームラン・アーチストとなれば、僕にとっては大下弘と田淵幸一である。
九九年の秋、アメリカで野茂英雄と話す機会があった。彼は言った。「ホームランを打たれるともちろんくやしいけど、その後で気持が爽やかになるホームランがあります。空遠くに飛んで行くホームランって本当に美しいし、それに、打ったときのバッターの姿が恰好いいですよね」
(「スポーツ20世紀」2000・3月号)
サヨナラホームラン――
勝者と敗者の一瞬の詩
スポーツ競技で、サドンデス――突然死――ということばを用いるものがいくつかある。例えばゴルフのマッチプレーが同点で延長にもつれ込んでからの決着の仕方にも使う。サッカーではVゴールというが、以前は確かサドンデスといっていた。
しかし、野球のサヨナラホームランほど、サドンデスの様相をくっきりと呈するものはないのではないだろうか。野球用語にはないものの、これこそ本当に“突然”に、バッターの一振りで決まってしまう。しかも野球においては、サドンデスは、延長に入ってからという条件を必要としない。それは、レギュラーの最終回の九回裏にやってくることが多いし、しかも、投手がその先頭打者に投じた第一球の直後に決まることだってある。本当に“突然”なのである。そのなかの、いちばん劇的で興奮する例からいこう。
この九回裏に、もし、攻撃側が三点のビハインドを負っていて、監督もナインも、勝つことを半ば諦めていたとする。ところが、ランナーが三つの塁を埋めて満塁になった。もし一発ホームランが出ればサヨナラ勝ちである。
実はこうした設定は、フィクションの作者(僕もその一人だが)が書いてみたいという誘惑に駆られる設定である。しかし、それで、作品が成功して読者に感動を与えたことは、まずないといっていいだろう。どんな名文であっても、所詮それは絵空事だ。
僕は十三歳か十四歳の頃、そういう発想によるある日本映画を見てしらけてしまったことがある。終戦の翌年あたりに封切られたものだったと思う。題名はたしか『二死満塁』だった。
怪我だったか、監督と悶着を起こして干されていたかで、ベンチを温めてきた選手がいる。優勝を決める大一番だったと思う。味方は三点ビハインドを負っているが二死満塁になる。ここでその選手が代打に起用される。カウントはスリーボール・ツーストライクになる。劇映画だから、どんなに鈍い観客でも結末は予想できる。代打・逆転・釣銭なしのサヨナラ満塁ホームランだ。
僕はたちまちしらけてしまった。劇の状況設定もさることながら、その一打を放つ俳優の、アップの映像のスイングが、何ともナマクラだったからだ。あれでホームランの打てるはずがないと、少年は思ったのである。
事実は小説よりも奇なり。まもなく僕は、本当に感動し興奮することになった。昭和二十四年(一九四九年)四月十二日、ペナントレースが開幕してまもない巨人・南海戦。一リーグ制最後のシーズンだった。
後楽園球場でのこの試合、南海が五対二とリードして九回裏、巨人最終回の攻撃は一死満塁となった。ここで打席に入ったのが四番川上哲治。南海の投手は途中から、エース格の中原に替わっていた。
僕は高校三年生になりたてで大分にいた。家のラジオの性能が悪いので、少しはましなラジオのある近くの級友の家に行って一緒に聞いていた。突然、ラジオから伝わる音が観衆の割れんばかりの大歓声に包まれ、アナウンサーの声がかきけされた。僕と友人は思わず立ち上がって顔を見合わせていた。逆転・満塁・釣銭なしのサヨナラホームラン! それまで野球のラジオ中継を聞いていてこんなに興奮したことはなかった。
しかし南海ホークスもさるもの、それからひと月ほど経って西宮球場での対巨人戦で、今度は南海の三番打者飯田徳治がサヨナラ満塁ホームランを放ってお返しする。
今書いた川上のホームランにもう一つ代打という条件を加えて、これ以上ないという劇的サヨナラ・グランドスラムを初めて達成したのが巨人の樋笠一夫。一九五六年三月二十五日、対中日ドラゴンズ戦で、投手はエースの杉下だった。現実に起きたことだから許せるのである。繰り返すが、劇映画や小説がこういう設定を創作して感動を呼ぶことは、まずあり得ないのである。
古いところでもう一つ印象に残るサヨナラホームランを挙げるとすれば、一九五八年の西鉄・巨人日本シリーズ第五戦において、西鉄の投手稲尾和久の放った一撃だろう。僕は北九州の小倉に住んでいたが、このときもラジオ中継にかじりついていた。会社の仕事はそっちのけだったんだろう。
このシリーズ、西鉄は開幕後巨人に三タテを食らってからようやく一勝したが、後のないことに変わりはない。十月十七日、平和台球場でのその第五戦も、西鉄は中盤まで巨人の投手堀内庄の好投に抑えられ、〇―三と敗色濃厚であった。舞台裏では表彰式の準備も始まっていたらしい。西鉄は七回に中西太のツーランで一点差に迫り、九回裏の土壇場に関口清治の快打でついに同点に追いつき延長戦へ。そして十回裏、西鉄は四回からマウンドに上がって巨人に追加点を許していないエース稲尾に打順が回った。巨人・大友工の球を叩いた稲尾の打球はレフトスタンドへのサヨナラホームラン。このときもラジオのアナウンサーの声は大歓声にかき消された。そしてこの一打がシリーズの流れをくっきりと変え、西鉄三連敗後の四連勝という未曾有の大逆転のターニング・ポイントとなったのである。
ついでにいえば、投手によるサヨナラホームランは、レギュラーシーズンでもやはり稀だ。記録を見ると一九四八年のところに大阪タイガースの投手梶岡忠義という懐かしい名がある。その翌年には巨人の藤本英雄も打っている。金田正一は国鉄スワローズ時代、一九五五年と五九年に二本も打っている。さすが国鉄でワンマンといわれただけのことはある。五五年には巨人の別所毅彦も打っている。六三年には阪急の米田哲也、七三年には阪神の江夏豊も記録している。そして、米田にサヨナラホームランを喫したのは、何とあの西鉄の稲尾である。
梶岡忠義、藤本英雄、別所毅彦、金田正一、米田哲也、江夏豊、それに前出の稲尾和久と並べてみると、いずれも、チームを背負って立っていたエースであるばかりでなく時代時代で日本のプロ野球を代表していた堂々たる大投手であることがわかる。これは決して偶然ではあるまい。近いところでは九○年の四月に、今はアメリカ大リーグにいる木田優夫が巨人時代、東京ドームでヤクルト・スワローズの金沢投手から打っている。彼も好投手だ。
いつ果てるとも知れぬ延長戦に“突然死”をもたらす最たるものも、サヨナラホームランだ。僕の印象に残るのは、横浜が優勝した九八年における、八月六日の横浜スタジアムでの対阪神戦。ゲームは猛烈な打撃戦となって八回終了時で九対九、ここから両チームの打棒が沈黙し、ゼロが並んで十四回裏になった。ここで横浜の四番ロバート・ローズがサヨナラ・スリーラン。一二対九で決着をつけた。もし次の回まで進んで両チーム点が入らなければ引分け再試合になるところだった。なお、このゲームでローズは、横浜の一二点中七打点を挙げている。記録を調べると、一九一六年にプロ野球のリーグ戦が創始されて以来九九年までの六十三シーズンに生れたサヨナラホームランの数は九七四本。一シーズン平均一五・五本ということになる。日本プロ野球のサヨナラホームラン第一号は、三六年に阪急の山下実が打っている。山下は大打者だったと聞く。
さて、現行では一チームの一シーズンの試合数は一三五だから、セ・パ十二球団の総試合数は八一○。そうすると、サヨナラホームランが飛び出す確率は、約一・八五パーセントになる。サヨナラホームランの数は、年を経るにつれ、ホームランそのものが増えてきた傾向のなかで往時よりは微増し、最近では二○本前後のシーズンが多い。そこで、通算平均を一五・五本から二○本に引き上げてみると、確率は約二・五パーセントになる。一〇〇試合のうち、平均二・五本というわけだ。
意外に多いと思うか、意外に少ないと思うかはともかく、まあめったにあるものではないということを表してはいよう。だから面白いのだ。
投手による稀有なサヨナラホームランについて触れたが、同じようにめったにないだろ
うと思われるものでランニング・サヨナラホームランというのはどうだろうか。
快打を放った打者走者は、打球が外野に転々とするのを見て、走りに走る。外野手は打球を必死に追いかけ、内野手は中継のカットプレーに備えてポジションをとる。走者も三塁コーチも、守備側の野手も、全力、全神経を一点に向けて注ぐ。ホームプレートだ。サヨナラか、ランナーアウトか。幸運にもその場に居合せていれば、このスピードと緊張感
の加速はこたえられないだろう。残念ながら僕は居合せたことはないが。
調べてみると、やはり少ない。今まで五回である。一九四三年、甲子園球場で大和の渡辺絢吾が対阪急戦で。五二年、刈谷球場で名古屋の牧野茂が対大洋戦で。五七年、平和台球場で西鉄の玉造陽二が対阪急戦で。それからしばらくなくて、八四年に西宮球場で、阪急の松永浩美が対ロッテ戦で。そしていちばん新しいのは九八年、グリーンスタジアム神戸で、オリックスの広永益隆が対ロッテ戦でやっている。
サヨナラホームランとは、いつごろ生れた呼び方なのだろうか。野球に関する和製英語のなかで、これは傑作だと思う。アメリカではどう呼んでいるのだろう。手許の資料を探してみると、ゲーム・エンディング・ホームラン。ほかにもあるかも知れないが、サヨナラホームランという呼び方は、サヨナラゲーム、サヨナラ勝ち、サヨナラ負けなどとともに、勝つと負けるとでは天地の差のサヨナラ感の双方の気分を如実に表していて、詩的情緒さえ感じさせることばである。
(「スポーツ20世紀」2000・5月号)
ベースボールことば遊び
何年か前の暮れのことである。
僕がそれまでときどき寄稿していた東京タイムズの、運動部長の木村修一さんから電話があった。
「元旦のスポーツ面を見開きいっぱい使って、近未来のプロ野球記事で埋めつくしたいのですが、相談に乗っていただけませんか。もちろん、お遊びです」
「うーん」
僕はうなった。困ったのではない。新聞にしては大胆な奇想に感嘆のあまりことばがすぐ出なかったのである。
「面白い。やりましょう」
こういうことにはすぐ乗ってしまう。断る理由がまったく見つからない。
木村さんたちがやっていたその当時のスポーツ面は、日本の新聞のスポーツ面には珍しく、「越境」と称してスポーツ好きの各界の人のエッセイや観戦記を載せる開放的な紙面を作っていた。もちろん記者の人たちの記事も面白かった。
スポーツといいプレーといい、語源からしてもその本質は娯楽であり、遊びである。それを思うと、日本の一般の新聞のスポーツ面は、概してどうもしかつめらしく、愉しい気分に欠ける。スポーツやプレーの表情にそぐわない感じだ。それはとりもなおさず、日本のスポーツ界そのものの反映なのかも知れないが。
それはともかく、やろうやろうということになって、近未来、たしか二年先のシーズンの大詰めを想定したブレーンストーミングが始まった。
その数年前に僕は『球は転々宇宙間』という近未来長篇小説を発表していて、それは小説だから、現実に立脚しながらもイメージのままに思い切って飛躍でき、ファームの選手や新人採用も含めて、現行の二リーグ十二チームを三リーグ十八チームにして全国にばらまいてしまったのだった。
しかし新聞記事の体裁をとるとなるとそうはいかない。イメージよりは現実立脚に重きを置かなければならない。というのは、ペナントレース大詰めのある日の、すべての架空チームの架空ゲームのスコア、ゲームごとの個人別の成績、現在の打撃十傑や防御率の表、チーム勝敗表、それに各ゲームの戦評を加えなければならない。それでいて現実感と近未来の面白さを加味するには――というわけで、現行の二リーグ十二チームの規模はそのままとして、一都市一チームをめざした本拠地再編に着手し、当時の実在の選手たちを原則として出身地別に分けて新チームを作ってしまったのである。
こうして、日本列島をジグザグに縫ういなづまリーグと、太平洋岸のくろしおリーグが誕生した。
記者諸君の仕事は大変だった。なにしろ、六つのカードの結果とそれに伴うあらゆる数字のテーブルを作り、戦評を書く。それが全部架空なのだから、たまったものではない。
実は僕は、その苦心惨憺の作業を横目に、鉛筆をなめなめ、新チームのニックネーム作りの愉しさに没頭していたのだった。
繰り返すが、これは個人の勝手気ままな小説の作業ではない。いかに元旦号とはいえ、れっきとした日刊紙のスポーツ面を埋めつくす企画である。それだけに僕は、編集の大胆不敵さとプレー気質とパロディ精神に感嘆したのだった。
で、そのときに紙面を飾ったチーム名を御覧いただきたい。
いなづまリーグ
札幌アウトサイダーズ 通称 一匹狼
長野ジャッカルス 山犬
千葉スリラーズ わくわく野郎
京都ブラックライダーズ 黒騎手
広島バッドニューズ 凶報屋
福岡ジョーカーズ 冗談屋
くろしおリーグ
仙台ジョッキーズ 騎馬野郎
東京トリックスターズ ぺてん師
名古屋コンカラーズ 国盗り
大阪バッドボーイズ 不良少年
高松シージャックス どくろ船
那覇サザンスターズ 南の明星
狙いは、その地方の歴史風土あるいは伝統的な気質を表すか、それがうまくいかなければ、初代監督のイメージを表すものとした。
前者の例では、福岡ジョーカーズは博多にわか、高松シージャックスは瀬戸内海賊、後者では、たとえば千葉スリラーズは長島茂雄のイメージ、京都ブラックライダーズは野村克也のイメージといったあんばいである。
二つともうまくいかない場合は、勝手な名前をこしらえた。ちなみにバッドニューズとは、それが来るという知らせに人びとがおびえ、いみきらうほど強いという意味である。その元旦の紙面が、好評だったか悪評だったか、あるいは物議をかもしたかは僕は知らない。
なぜこんな昔のことをここに書いたかというと、最近友人とビールを飲みながら気ままな野球談義をするうちに、ニックネームの傾向といったことに話題がいったからである。まず、日本のプロ野球チームについて見てみよう。
大きいことを表すもの ジャイアンツ、ホエールズ、ドラゴンズ。
強い、あるいは獰猛なことを表すもの タイガース、ライオンズ、バファローズ、ホークス。猛獣や猛禽ではないが、強い、あるいは荒あらしいイメージとして、ファイターズもここに入れておこう。
この両方にまたがって、すなわち大きくて荒あらしい自然現象としてブルーウェーブがある。しかし僕の感じでは、あまりにも雄大なイメージでかつ無生物であるために、チーム名としては具体的な印象に乏しくなってしまった。
さて、残ったのは、カープ、スワローズ、オリオンズだ。これらは、大きいとか強いとかを直接アピールするネーミングではない。
もっとも、鯉は広島の名産であることと、「鯉の滝登り」や「掉尾を飾る」など勢いのあることを示すし、燕は、このチームの創立時の国鉄の特急列車の名前にちなみ、速いことを示し、オリオンは光り輝くイメージだが、いずれも特に大きいとか特に強いとかいう存在ではない。
「やはり多数派は、大きい、強い、あるいは大きくて強いというわけか」
「まあ、当然の傾向だろうね」
「それじゃ、アメリカ大リーグはどうだろう」
というわけで、大リーグのチーム名に眼を移してみた。
「江戸っ子」といったフィーリングを持つもの ニューヨーク・ヤンキース、ニューヨーク・メッツ(メトロポリタンズの短縮形)、フィラデルフィア・フィリーズ(フィラデルフィアっ子)。
その都市の歴史風土にちなむ人間像または都市像 シアトル・マリナーズ(船乗り)、テキサス・レンジャース(風来坊、あるいは森林警備隊―西部開拓史の人間像だろう)、クリーブランド・インディアンス(大リーグ初のインディアン選手ルイス・フランシス・ソカレキスを称えて)、ミルウォーキー・ブルワーズ(醸造業者―ビールの名産地)、ヒューストン・アストロズ(宇宙飛行士アストロノーツの短縮形)、サンディエゴ・パドレス(宣教師―同市を開拓した宣教師セラにちなむ)、ロサンゼルス・ドジャース(元の本拠地はニューヨークの下町ブルックリン―路地が狭く住民は路面電車から身をかわしながら通行していた)、モントリオール・エクスポズ(一九六七年の万博)、ミネソタ・ツインズ(双子―ミネアポリスとセントポールという、隣接する双子郡市)。
州鳥など鳥の名前 ボルチモア・オリオールズ、トロント・ブルージェイズ、セントルイス・カージナルス。
ユニフォームのストッキングから ボストン・レッドソックス、シカゴ・ホワイトソックス、シンシナチ・レッズ。
猛獣 デトロイト・タイガース。
大きいもの サンフランシスコ・ジャイアンツ。
強い人または荒あらしい人 アトランタ・ブレーブス、ピッツバーグ・パイレーツ、オークランド・アスレチックス(競技者―大リーガーを意味すると考えられる)。
その他 カンサスシティ・ロイヤルズ(王冠)、カリフォルニア・エンゼルス(天使)、シカゴ・カブス(子熊―一般に小僧っ子の意にも用いられる)。
これで二十六チームである。
「うーん、こうしてみると、強いぞ大きいぞと言っている名前は、大リーグでは意外に少ないんだな」
「その都市なり地方なりの特色をたんたんと表しているものが多数派だな」
「ニックネームの傾向から見ても、アメリカのプロ野球がローカルなり都市に根ざしてい
て、日本はそうではないということがわかるね」
日本のチームで本拠地にちなんだネーミングはカープだけだ。ホエールズは港町のイメージにちなんだというより、むしろ親会社の大洋漁業の捕鯨時代の名残りだろう。
とすると、日本の十二球団の命名のうち「強いぞ」「大きいぞ」のグループは九で全体の七五%、これに対してアメリカ大リーグは、かりにロイヤルズを「強いぞ」「大きいぞ」の範疇に入れても、二十六球団中六、全体のわずか二割強ということになる。オリオールズもブルージェイズもカージナルスも、ホークスのような猛禽ではない。たとえばカージナルは紅雀だ。
3A、2A、1A、ルーキー・リーグと、無数のプロ野球選手の中で、選びに選び抜かれて大リーグのエリート・プレーヤーになった、実力抜群のむくつけき男たちが、「宣教師」とか「天使」とか「紅雀」とか「小僧っ子」とかの、優しくまたは愛らしいニックネームをつけて必死にプレーしている図を想像すると、頬がゆるんでくる。
ひるがえって、東京タイムズの企画で僕がひねり出した十二球団のニックネームは、お遊びとはいえ、いささかひねくれ過ぎていて、品位に欠けるものであった。それはかつて『球は転々宇宙間』でも試みたことば遊びの流れだったが、それをもっと面白くと張り切って調子に乗り過ぎてしまった。
ところで、『球は転々宇宙間』が出たとき、某週刊誌が紹介記事を載せてくれた。タイトルにいわく。『球は軽々宇宙間』、もちろんケアレスミスである。しかし僕は、そのタイトルを眺めて「うーん」とうなって感心してしまった。スケールが大きい。これは超特大ホームランのイメージである。バット一閃、打球は場外どころか、かるがると地球の引力圏を脱して宇宙空間に飛び去ってゆく。
「よし、このイメージでもう一つハチャメチャ野球小説を書こう」と志したが、いまだに書いていない。
こういった僕の初歩的なことば遊びとは次元がちがって、プロ野球とくにアメリカ大リーグのプロフェッショナルたちは、ことば遊びならぬ名言をよくはく。そして名言であり核心をついているのに、その面白さはことば遊びの側面をも感じさせるのである。
ロサンゼルス・ドジャース生え抜きの監督トム・ラソーダの「俺の腕を切ってみろ。ドジャー・ブルーの血が流れてる」――ブルーはドジャースのチーム・カラーである。
大リーグ通の池井優さんが何かで紹介しておられた格言「恋と戦争と野球はどんな策を弄してもよい」。
これも大リーグの逸話で僕の好きな話。ある打者が大ホームラン性の飛球を打った。わずかに外れてファウルのように見えたが、審判はホームランの判定。守備側の監督がクレームをつけると、審判いわく。「あそこまで飛ばしたんだ。かりに少し外れていたとしても立派なホームランさ」
もう一つホームランの話。ホームラン性の飛球が、折からの強風で左右に揺れるポールの外側を通り、判定はファウル。監督が「ポールが真っ直に立っていれば文句なしに内側を通っていたからホームランだ」と抗議すると、審判は「人生にそれくらいの幸不幸はつきものさ」。
どうも審判に面白いことを言う人が多い。その極め付けの本は、元大リーグで審判のロン・ルチアーノ著『アンパイアの逆襲』(文春文庫・井上一馬訳)だろう。
さて、最近また面白い本が出た。伊東一雄・馬立勝共著『野球は言葉のスポーツ――アメリカ人と野球』(中公新書)だ。これはただ面白おかしいという内容ではなく、ある意味では大変まじめで、とてもためになる本である。
監督やプレーヤーや記者たちの短いことばのかずかずをキーワードにして、その背景となった、それぞれに個性豊かなプレーヤーや監督の人間性、あるいは有名なゲームの展開が詳しく興味深く紹介されている。
ヤンキースを何回も出たり入ったりした喧嘩早い監督で、交通事故死したビリー・マーチンは、監督室にこう書いて掲げていた。「規則1、ボス(監督)は常に正しい。規則2、もしボスが間違っていたら、規則1を見よ」
火の玉投手と謳われたボブ・フェラー投手に向かう打者に、セネタースのバッキー・ハリス監督はこう言ったという。「もしあいつの投げる球が見えたらバットを振ってこい。なにも見えなかったら、仕方ない、ベンチに帰ってこい」
ヤンキースの名捕手で強打者だったヨギ・ベラが、コーチから、もう少し考えて打てと言われて、
「考えて打てだと。無理をいうな。二つのことが同時にできるものか」
もう一つだけ同書から引用させていただく。つい最近、四十四歳のノーラン・ライアン投手が七度目のノーヒット・ノーランを達成したゲームは僕もテレビで見て感動したが、昨年、六度目を達成したときの新聞記事の一節。
「ライアンのピッチングを見るのは、美術館でゴッホの名画をみたり、コンサートホールでモーツァルトの名曲を聞くのと同じ体験を味わわせる。まずファンの感覚をとりこにし、それから息をのませるのだ」
僕も、すばらしいプレーに接したときには、よくそう思う。スポーツと芸術は、人間の営為として等価なのである。この稿、ことば遊びやパロディのくわだての話に始まって、えらくきまじめなフレーズに終わった。首尾一貫していない拙文に、あえて強弁を加えたい。本来ことばとは、その双方を同時にはらんだ生命なのだと。
その生命を、プレーで体現するのがベースボールである。
(「バッカス」91・8月号)
アメリカ野球映画散策
僕はベースボール・クレイジーを自認すると共に、シネマ・クレイジー……いや、映画の場合はスポーツの興奮と違って、クレイジーという表現は適切でないかも知れないが、相当な映画好きである。
生い立ち、あるいは時代のめぐり合せとも大いに関係あると思う。終戦が中学二年の夏休みだった。焼跡に、営業を目的とした小屋でいち早く建ったのが映画館、そしていたるところに空地があった。決して平坦ではないが大勢で踏み固めればなんとかボール遊びぐらいはできる。一個のボールで大勢が遊べるのが野球だった。
そういうわけで、僕にとっても大半の友人にとっても、戸外での唯一の球技は野球、そして唯一の娯楽が映画だった。厳密には唯一ではないかも知れないが、少なくとも唯一共通のものだった。
その同世代の中で、僕は幸運というか気楽な男の部類に入るのだろう。というのは、その野球と映画について書くことが、あまり売れない小説書きの僕の暮しのたつきの中で、いつのまにか無視できない収入源になっているからである。ガキの頃の二大エンターテインメントが今や生業の一部。もしかすると、僕のオコナイがよかったのかも知れない。
閑話休題。その野球という要素と映画という要素が出会った作品となると、やはり何をおいても見たくなる。邦画洋画とりまぜていくつも観てきたが、昔観たものを順々にとりあげていってはきりがないし、若い読者にとって面白くもなかろう。僕の気持も新しいものを書きたい方向に動いている。
『エイトメン・アウト』というアメリカ映画を映画館で観た人はいるだろうか。多分多くはいないだろう。実は僕も観る機会がなかった。というのはこれは日本の映画館では封切られなかったからである。だから観た人は幸運にもたまたまアメリカで上映時にいた人に限られる。
日本では、いきなりビデオで発売された。八八年にその映画が作られたことを聞いていた僕は、直ちに買い求めた。おかげで、映画館なら千六百円ですむところを、ポケットから大枚一万五千円が消えたのであった。食い物の恨みは恐しいというが、この恨みも僕は忘れそうにない。いや、金額のことだけでなく、やっぱり一度は映画館の大型スクリーンのあざやかな映像と音で観たかったからである。
ではなぜ日本で上映されなかったのか。消息通に聞いたところでは、これより一年後に完成した『フィールド・オブ・ドリームス』が日本ではほぼ同時か先に封切られることとなり、これはヒットまちがいなしで、それに比べると『エイトメン・アウト』のほうは、同じ野球を題材としたものでもわりあい地味で、日本の一般の映画ファンにはあまり向かないのではないかとの判断だったらしい。しかも、二つの映画には共通のキーワード的人物がいる。シューレス・ジョーだ。配給元はテーマの重複を恐れたのかも知れない。
確かに、シューレス・ジョーだけでなく、有名な一九一九年のワールド・シリーズにおける「ブラックソックス・スキャンダル」にかかわったホワイトソックスの八人のプレイヤーは、両方の映画に登場するが、共通点はそれだけで、他はテーマといい肌合いといいまったく異質のものだけに、なぜ勇気をもって映画館にかけてくれなかったのかと、今でも残念に思っている。
いや、愚痴はこれくらいにして『エイトメン・アウト』だ。これにはノンフィクションの原作がある。エリオット・アジノフの同名の本(名谷一郎訳・文藝春秋刊)だ。
僕は原作を映画より先に読んでいたのだが、これが実に読み応えがある。当時のホワイトソックスのしぶちんオーナーのコミスキー、賭け屋の親分子分、新聞記者たち、そしてプレイヤーたちの個々の動きと絡みについて、綿密な取材に基づき、主観を抑え、緻密なペンで事実関係の一部始終を書き綴る。そしてまさにその手法から、野球に対する著者の愛と、当時のアメリカ社会の体臭のようなものが伝わってくるのだった。
今ここに記した分だけ、僕は映画についての感想を省略することができる。というのは、ジョン・セイルズ監督の映画『エイトメン・アウト』は、その原作のノンフィクションの構成と肌合いに忠実に、一時間半の映像とダイアローグに表現したと、少なくとも僕には思えるからだ。
「原作に忠実」という言い方が、映画作家の創造性や努力を軽んじたものでないことは、映画好きの人にはもちろんわかっていただけると思う。忠実と言うと忠犬ハチ公みたいな語感でよくないが、文章を綴ることと映画を作ることはまったく別の芸術で、そのうえで原作の起承転結を踏み外してなく、しかも原作がノンフィクションだったということにおいて、僕は映画の実力に敬意を表しているつもりである。要するにこの映画はノンフィクショナルな「ドラマ」に徹しているのだ。僕のハタケに関係することわざで言えば、「事実は小説より奇なり」というわけだ。
これに対して『フィールド・オブ・ドリームス』は、ファンタジーとリアリズムの結晶とでもいえるフィクションである。周知のようにこれにも、W・P・キンセラ著『シューレス・ジョー』(永井淳訳・文藝春秋刊)という珠玉の原作がある。映画化は難しいといわれたこの作品を、フィル・アルデン・ロビンソン監督は見事な映画に仕上げた。
そこで僕はまた執念深く思うのである。同じシューレス・ジョーを撮って、一つはノンフィクション、一つはファンタジーの魂を持った好一対の映画を、できれば同時期に上映してほしかったと。厳しい現実と、その上にこそ花咲くファンタジー。ファンタジーを夢と言い替えれば、これはそのまま野球の持つ二面なのだった。
『エイトメン・アウト』を観ながら、僕は改めて、野球がいかに映画に合っているかを確認した。それについては前に「キネマ旬報」にも書いた。自分の文章だから、下手に書き替えるよりも一部をそっくり引用してしまおう。
「野球映画の構造は映画の文法に合いやすいのである。他の球技に比べてボールが生きている個々の時間が小刻みで短く、かつ一回から九回までのイニングを重ねながらクライマックスへといくので、映画はそのふんだんな間を縦横に活用し、同時進行の事件や回想をモンタージュさせて、同じ波長で映画のクライマックスへと導いていくことができる。それが典型的に生きたのがジョン・セイルズ監督の『エイトメン・アウト』だろう」
さてそうなると、同じ時期に来日した痛快野球映画『メジャーリーグ』が甦ってはこないか。あれは、ほかのことには脇目も振らず、ひたすらベースボール・クレイジーの現場に徹したコメディだったから、ゲームの場面が特に多かった。ついでだが、この映画で、初めはノーコンだった速球投手を演じたチャーリー・シーンは、『エイトメン・アウト』にもエイトメンの一人として出演している。高校時代はエースで大リーガーをめざしたこともあるそうだからうなずける。
さてこの映画、アメリカ人がプレイヤーを含めて、ベースボールをいかにかけがえのないエンターテインメントと思っているかを、まざまざと見せつけてくれる。
まず、初めにコケにされて描かれるのが、大リーグにれっきとして実在するチーム、クリーブランド・インディアンズで、女性オーナーのたくらみで負けるために呼び集められたハチャメチャな集団。それが奮起して勝ち始め、今度はクライマックスでコケにされるのが名門ニューヨーク・ヤンキースである。にもかかわらず、この両チームの本当の大リーガーたちが映画に協力し端役として出演している。こんなこと、読売ジャイアンツや西武ライオンズに限らず、日本ならとても、かりにプレイヤーが「面白い、出てやろう」と思っても球団が許さないだろう。
また、この映画で大リーガーになる俳優たちの投・打・走・守の、何とサマになっていることか。しかもそれぞれにコミカルな個性をフィールドのプレイで発揮してのことである。この映画に限らず、スクリーンで野球のプレイヤーを演ずる俳優は、それに備えて大リーグあるいはマイナーリーグのコーチに特訓を受けるのが当然の心構えとされる。日本に比べて学校時代に本格的な野球をやった者は多く、もちろん配役もそれを参酌するだろうが、過去の経験に慢心することなく映画に備えて本格的トレーニングを積むのだ。チャーリー・シーンは『メジャーリーグ』のためのマイナーリーグでの特訓で、三週間後にはプロ相手のバッティング投手を務めるようになったという。事実、映画の大詰めでの彼の投球の最後の一球は、ホームプレート側から撮影した吹替えなしのスローモーションである。なにしろ映画の話での触れ込みが時速百マイル(百六十キロ)だからスローモーションにせざるを得ないが、それでもストレートの球の回転といいスピード感といい立派なもので、百四十キロは出ていたのではないか。この映画で彼と共に重要な捕手役をやったトム・ベレンジャーもドジャースのコーチに六週間の特訓を受けた。いろんなプロテクターをまとっての身のこなし、捕球等が実に板についていた。
となると連想するのが、八四年製作のバリー・レビンソン監督『ナチュラル』のロバート・レッドフォードの左打席でのバッティング・フォームである。彼も高校時代は野球の選手だったそうだ。日本の多くの野球映画のように上半身のアップでごまかすのでなく、全身のフォームの動きもインパクトの感じも見るに耐えるものになっていたという記憶がある。それに彼らはユニフォームの着こなしがいい。
ところで、この『ナチュラル』も不思議というか不可思議な味を持った映画だ。これにも原作があるが僕は読んでない。時代設定は『エイトメン・アウト』と同じ頃、ベーブ・ルースをモデルにした役も出てくる。そして随所にファンタジーあるいはミステリーの仕掛けがある。八百長―敗退行為とその黒幕が登場する。僕は、レッドフォード扮するロイ・ハブスという一匹狼的なプロも、実在のシューレス・ジョーをモデルにして作者のイメージのままにひねった人物ではないかと思う。
こうしてみると、アメリカ人にとって一九一九年のブラックソックス・スキャンダルは、七十年以上経った今も熱い思考の対象になっているようだ。いや、時が経てば経つほどそれは伝説的歴史あるいは歴史的伝説の醸成度を増し、人びとの心をとらえるのかも知れない。何よりも、当時のコミッショナー、ランディスによって文字どおり「エイトメン・アウト」と宣告され永久追放になった八人のうちに、シューレス・ジョー、本名ジョー・ジャクソンのいたことが大きい。シリーズを通して三割七分五厘と過去最高の打撃成績とプレイぶり、それに平素の実直な人柄からも敗退行為への加担はなかったとされる名外野手で、大リーグ十三年間の通算打率三割五分六厘(史上第三位)の人気者だった。『エイトメン・アウト』の訳本の巻末で解説をしている芝山幹郎氏のことばを借りれば、野球ファンは「ジャクソンやウィーヴァー(赤瀬川注・三塁手で、仲間から八百長を持ちかけられたが加担しなかった)の無念をどこかで共有しようとしているふしがあるのだ」。
それが『ナチュラル』や『フィールド・オブ・ドリームス』のような、一旦葬られた過去から不死鳥のように蘇生する映画を生み、それがヒットする土壌になっていたのだろう。
さて、プレイヤーとしてサマになっている俳優となると、もう一人、ケビン・コスナーを挙げないわけにはいかない。『フィールド・オブ・ドリームス』では彼は、とうもろこし畑を野球のフィールドにして過去の人物を呼び寄せる農民の役で、いつもジーパン姿でユニフォームは着ない。彼がプロのプレイヤー役をやったのは、その前年に封切られた『さよならゲーム』においてである。この映画も僕は大好きだ。コスナーも高校時代は野球、フットボール等スポーツ万能だった。しかしこの映画に備えてマイナーリーグのコーチについて特訓を積み、ベテラン捕手役で洗練されたプレイを見せる。
この映画が今までに挙げた映画と違うのは、マイナーリーグを舞台にしている点だ。監督はロン・シェルトン、何とこの人は実際にマイナーリーグ十二年のキャリアがあり、五年間は大リーグのすぐ下の3Aクラスで正二塁手をやっていたという。ちなみにアメリカのマイナーリーグは日本の二軍とはまるでちがう。日本の二軍が一軍と同じ経営下にあり、シーズン八十ゲームのほかは練習漬けであるのに対して、アメリカの3Aから1Aに至るマイナーリーグのチームは、大リーグとの系列はあるにせよそれぞれが独立採算、一シーズンに大リーグの百六十二に匹敵するゲームをこなす。大リーグのどの系列でもないインディペンデントと呼ばれる球団も少なくない。毎日がゲームで、ゲーム即練習、多くの都市に分散して、もちろんスタンドのある球場を持ち、ファンがゲームを見にくる。小都市のファンにとっては我が市の誇るべきプロ・チームなのである。
さすがにそこでプレイした経験を持つ映画監督だけのことはある。ノースカロライナ州ダラスにあるマイナーのチームの雰囲気を実によく描いている。
コスナーは、新米ノーコン速球投手の調教役として呼び戻されたベテラン捕手、地元には野球に詳しいセクシーな女教師(スーザン・サランドン)がいて、一シーズンに一人有望なプレイヤーを選んでベッドを共にし、大リーグへと励ます。新米投手と新入りベテラン捕手と女教師との奇妙でユーモラスな三角関係――。邦題の『さよならゲーム』は、野球で派手なさよならゲームがあったわけではなく、新米投手はベテラン男女の調教よろしく大リーグへとさよならし、それを機にベテラン捕手はお払い箱になる。しかし……という意味合いで、いい題だと思う。
まだまだ挙げたい映画はあるが紙幅がない。少年少女野球の『がんばれ!ベアーズ』の第一作等。最後に、アメリカの野球映画では監督役(アメリカではフィールド・マネージャー、またはスキッパーという)が皆面白い。老練な俳優が演じて味がある。皆、ドジャースのトム・ラソーダのようだ。
(「バッカス」91・11月号)
プロ野球開幕近し。されど……
南の土地で桜の蕾がほころび始め、やがて花開く。あとは早い。桜前線が快適なスピードで日本列島を北上する。
毎年、それと同じ季節に、それと同じスピードで、一緒に北上するものがある。野球前線――オープン戦である。私は自分の小説で、春先にスタンドで友人とオープン戦を見ているある男にこう言わせた。「わたしは野球で四季を知る」
この台詞はしかし、屋根におおわれたドーム球場では使えない。ドーム球場には四季がないからである。温度は人工的に一定に保たれ、風はそよりとも訪れず、雨の心配はない代りに青空も星空もない。
今日の空模様はどうかなと、予報を聞いたり服装を考えたりするのも、野球観戦の楽しみの一つである。そしてスタンドで、暑いときには汗ばみ、寒いときにはセーターの衿を立てて飲むビールや熱燗は格別にうまい。ドームのよどんで生ぬるい空気の中では、酒を飲む気も失せる。
百年来変ることなく続いてきた野球が、これからも変らずに生きてゆく環境に、現代のテクノロジーとエレクトロニクスの最先端の建築工学などを当てはめてほしくない。やりたいなら、ほかの目的の建築物に生かしてほしい。そうでないと野球が「野」球でなくなる。大体、多目的ドームなるものは、結局何の目的に使っても満足できないものなのである。人工芝も、選手の足腰に負担がかかり害があることがわかっているのに天然の芝に戻そうとせず、ドームと人工芝は日本ではますます増えている。
さて、桜前線と野球前線が北上を始め、やがて日本列島全体に及ぶと、いよいよペナントレースの開幕は近い。そこでとりあえず前半の日程表に目が行く。どれとどれを見に出かけようか。
そうしているうちに、楽しい計画のはずなのに、一方では脳の片隅でふさぎの虫が動き出す。ナマの野球を見に球場に足は運びたいが、外野席の大半を占拠して我物顔に振る舞う、集団的乱痴気ディスコ軍団の、のべつ幕なしの騒音である。あれは行く先をまちがえているのではないか。ここは、野球の技と力において異能のプレーヤーたちの、一投、一打、一走、一守を楽しむ場所である。その「一」ごとに、大勢の観客が期せずして個々に歓声を挙げ、嘆声を洩らし、あるいは声援を送り、野次を飛ばす。それが一束になることもあれば、個別に聞こえることもある。そして、投手が投球の動作に入ったときには、一斉に静まる。そして次の瞬間、また歓声と嘆声。それが、私の少年時代から若い頃まではずっと続いていた野球場の当り前の風景だった。そしてアメリカの野球場では、今も変ることなく続いている風景である。当り前のことをなぜ書かなければならないのか、腹立たしい。トランペットの持込みを許し、それのみか、グッズと称して騒音発生源の一つのメガフォンなどを売る球場や球団の経営者は、多分野球には興味がなく、金もうけだけに興味があるのだ。
そして、内野席とフィールドを分けるフェンスの上に高だかと張りめぐらされた金網、あれほど客を馬鹿にしたものがあるだろうか。高い料金を払って前のほうに行くと金網で視野を不快にさせられる不条理。やむなく、選手やフィールドを遮るものなく見渡せる地点まで遠ざかると、愛すべき選手たちは豆粒のごとくにしか見えない。もちろん、最前列のフェンスに体を預け、グラブを手にファウルボールを待ち受ける少年などいるはずもない。私の少年時代にはそうであった、そして今もアメリカではそうである風景が、なぜ失われたのか。金網を張って隔離して管理する。これだけやったのだから後の責任はない。お客さんがゲームの進行に、そしてボールの行方にどんなに不注意だろうと知ったこっちゃない。これが経営者の態度だ。ファウルボールが飛ぶ度に「ファウルボールには十分御注意ください」などと恥ずべきアナウンスを流しておけばよい。
集団乱痴気騒ぎと金網のことは過去十年に百回も書いた。これが百一回目だが、これからも書く。なくなるまで書く。
何やかやで球場への足も鈍り、テレビで我慢する。するとまたアナウンサーがのべつ幕なしにやかましいから音を消して画面だけにする。それでも消えないのは、ボール・イン・プレー中に平気で割り込んでくるCMである。あのCMの逆効果に、テレビ局やスポンサーのえらい人たちは気付いているのだろうか。
(「酒」96・5月号)
著者略歴/赤瀬川 隼(あかせがわ・しゅん)
1931年三重県四日市市生まれ。1950年大分第一高等学校卒業。銀行、外国語教育機関、書店等に勤務後、1980年代より文筆の道に。1983年、「球は転々宇宙間」により吉川英治文学新人賞を受賞。1995年、「白球残映」により第113回直木賞を受賞。そのほか主な著書に、「映画館を出ると焼跡だった」(草思社)、「捕手《キヤツチヤー》はまだか」「潮もかなひぬ」(文藝春秋)、「ダイヤモンドの四季」(新潮社)、「四人の食卓」(集英社)、「冬晴れの街」(実業之日本社)などがある。
人《ひと》は道《みち》草《くさ》を食《く》って生《い》きる
赤《あか》瀬《せ》川《がわ》 隼《しゆん》
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平成13年7月13日 発行
発行者  松村邦彦
発行所  株式会社 主婦の友社
〒101-8911 東京都千代田区神田駿河台2-9
Shun Akasegawa 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
主婦の友社『人は道草を食って生きる』平成13年5月1日初版刊行