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少年とオブジェ
赤瀬川原平 著
目 次
少年とオブジェ
チューインガム
飛行機
爆弾
皮靴
電球
蛇口
畳
割箸
雑巾
ラジオ
消しゴム
制服
目覚める前のこと
梅雨の少年期
濡れた部屋
わが家における暴力の歴史
あとがき
文庫版のためのあとがき
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少年とオブジェ
枕というのは嫌な物体である。枕に関するいい想い出なんて、この世の中にあるだろうか。膝枕? ぼくはそんなもの知りません。いくら膝がよくたって、それは本当に枕としていいわけではないでしょう。冗談はいわないでほしい。
枕というのは本当に嫌な物体です。枕の中には嫌な物がはいり込んで棲みついているのです。この嫌な物とは何だろうか。夜眠るときになると必ずごそごそと動き回り、それがムクムクとふくらんでくる。枕屋さんはなぜそんなものを枕に入れて売っているのか、ぼくはまったく理解に苦しんでしまうのです。
小学校にいく前のぼくの枕には、塀がはいっていました。上に瓦の屋根が一列になって乗っかっている長い土塀です。こんなものを入れておくなんて、まったくヒドイ話だ。
その塀は、ぼくが住んでいた大分の家の向いにある小川さんの家の塀なのです。その塀には白い漆喰の剥げたところがあって、そこから黄土色のガサガサした土がこぼれ落ち、細い竹の芯がのぞいたりしている。ぼくが寝るときにはいつもその塀の修繕がはじまるのです。左官屋の男が鏝を上下しながら、黄土色の泥をジャーラ、ジャーラと塗り込める。ぼくはじっと眠る用意をしながら、その左官屋の男の手つきを後から見つめているのです。
男は四十歳くらい。焦茶色の膚をして、半纏をはおり、頭には破れた麦ワラ帽を乗せています。ぼくは仕上がりがどうなるのかと思ってその作業をじっと見つめているのだけど、その男が左官屋の副業に人さらいをしているという噂も知っているのです。男はよそ見したりしながらジャーラ、ジャーラと鏝を動かし、いまにも後を振り返りそうな気配です。ぼくはなるべくじっと頭を固めて、何かほかのことを考えようとするのだけど、頭はだんだん重くなって枕の中にめり込んでいき、枕の中ではいつまでたっても左官屋の鏝が動きつづけて止まらない。
ぼくはたまらずに起き上がります。隣の部屋ではまだ大人たちが起きているのか、襖の隙間が細長い包丁の刃のように、白く光って立っています。手を伸ばすと白い光がスパスパと手を輪切りにします。ぼくは面白いので手を伸ばしたり、足を伸ばしたり……。そして疲れていつの間にか包丁に背を向け、枕をポンと裏返してから、また眠る用意をはじめるのです。
頭がまた枕の中に沈んでいきます。枕の中はもうひっくり返したのだから、修繕中の土塀がバラバラに崩れ落ちて、左官屋の男もアタフタと逃げ出しているはずなのだけど、それがどこにいったのかわからない。枕の隅の方にしゃがみ込んで、また塀の修繕をコソコソと準備しているのだろうか。それとも枕の外に逃げ出して、真暗闇で音も出さずに弁当を食べているのだろうか。
仰向けになっていると、柔かい腹や胸を真暗闇が舐めにくる。だからぼくはフトンの上で自分の体を裏返し、部屋の中の真暗闇に固い背中を向けて、眠る用意をやり直します。この場合困るのは、うつ向いた顔の鼻や目が枕の上に押しつぶされてしまうことです。これでは苦しくて眠れない。だからぼくは腹ばいになったまま、顔だけ枕の上で横にする。そうすると横になったぼくの耳は、やっぱり土塀の前で左官屋の男を発見してしまうのだ。
*
人間の体が重力に不感症であればどんなに眠りやすいだろうかと、私はいまでも考えている。人間が眠るときにいつから枕が必要になったのかは知らないけれど、その原因は地球の重力によるものである。地球の上で、人間の頭だけが大きくなりすぎたのだ。人間の体全体がミミズみたいなものであれば、夜眠るのにはフトンだけで充分であり、特別に枕などはいらないはずである。人間は頭が大きくなったために枕を使うようになりながら、そのくせ枕を嫌悪している。
そもそも嫌悪とは何だろうか。なぜ何かを嫌いになったりするのだろうか。
*
ぼくの頭は枕の上で、いつも「嫌」ということにひたされていました。ぼくの頭はいつも枕に引きつけられて、枕の中にめり込みながら、いつも枕を弾き返そうとしている。
フトンは好きです。フトンはぼくの体が好きなのです。特にぼくの指はフトンの末端が大好きで、寝るときにはいつもその柔らかい皺の先っぽを、つまんだり伸ばしたりして遊んでいました。フトンは安心できるのです。だけどフトンの端にうずくまる枕だけは、不安の固まりなのです。
あの世は嫌だ。ぼくは嫌だということであの世を感じました。夜眠るときのぼくの体はフトンの弾力にふわふわとしみ込んでいきながら、頭の方はいつまでも枕と格闘をつづけているのです。この暗闇での枕への抵抗は、あの世と四つに組んでの格闘なのではないでしょうか。
人間は夜眠るたびにあの世に接近しているのです。朝になれば大体はまた戻って来るのだけど、夜になるとまたあの世の入口まで近づいて行く。睡眠というのは非常に危険なことです。そのままあの世に行ってしまったらどうするのだろうか。眠るというのは毎日死ぬか生きるかの大変な冒険なのです。だから睡眠から持ち帰る夢のほとんどは悪夢ばかり。だけど夜になると体はどうしても眠くなり、その眠る闇への発射台が枕なんだから、枕が嫌いになっても何の不思議はないでしょう。生まれたばかりの赤ン坊だって、眠る前には猛烈な抵抗をするではないですか。まるで突然の死刑の前のように、イライラとむずがって、枕を懸命に弾き返そうとしている。フトンは皮膚の延長のようなものだけど、枕はまず最初に他を意識する物体なのだと思います。他という意識はまず嫌悪の感じからはじまっていくのに違いない。
だけどそれなのに、固い物質の膚を愛するというのはどういうことなのでしょうか。
物体が好き。そんな感情のいちばん最初は、幼稚園の帽子につけた真鍮の徽章でした。これは赤煉瓦をすり潰した赤土の粉で磨くと、幼稚園の生徒にとってはたまらない魅力の光沢を放つのです。男子はみんなその光沢を競い合っていた。そこで当然赤土の植木鉢が狙われる。だけど新品の植木鉢をすり潰すとしかられるので、どこかに壊れたカケラを探し歩くのです。それがなければ新品が壊れるのをいまかいまかと待ち構えているのです。だけど新品の植木鉢というのは大事に使っているので、そうなかなか壊れるものではない。あ、足がぶつかるか……、あ、バケツがぶつかるか……、と思っていつも見ているのだけど、それらはいつも何気なく事故をすり抜けていくのです。だから赤土の植木鉢のカケラは大変な貴重品で、自分たちの秘密の貯蔵庫にしまい込まれ、蓄積される。
愛というのは物体からはじまるのだと思いました。他人のはじまりは物質なのに違いありません。
その後小学校へ上がって「科学」の考え方を知ってから、ぼくはとうとう枕を分解しました。
じつはその後のぼくの枕の中には、土塀の蒸発したあとに虫が潜り込んできたのです。鉛筆の折れた芯くらいの小さな固い虫が、枕の中で内職をしている。何もこんな時にこんな所でと、ぼくは理不尽な思いにかられていると、その次には赤い玉のついたマチ針が枕の中を突き抜けて行くのです。いつの間に誰が入れたのか知らないけれど、危いったらありゃしない。いつ頭に刺さるかと、ぜんぜん眠れない。
ぼくは昼間の十二時を見計らって枕を分解しました。だけどいくら探しても、枕の中から出てくるのは赤黒い色のあずきばかり。その後も何度か分解してみましたが、枕から出てくるのは蕎麦殻だったり、籾殻だったり、パイ綿だったり、スポンジだったり。枕というのはろくな物ではありません。
*
その後大きくなって、社会人になってしばらくしてから、私は深沢七郎さんのラブミー農場へ連れて行かれた。穴掘り人足である。農場の一角に筍を植えるのだそうである。だけど竹の根というのは放っておいたら伸び放題に伸びていく。だから土の中に塀を埋めてその一角を取り囲むのである。これは柵で囲った牧場を、そのまま土中に埋めたようなものだと思った。筍牧場である。竹の根というのは二尺くらいの深さまでしか伸びないそうである。だから三尺くらいの深さの細長い穴を掘り、そこにセメントを流し込んで土中の堀を作るのだ。
人足頭は状況劇場の絵師篠原勝之。その日青林堂の南伸坊といっしょにラブミー農家の土間にはいっていったら、ボーイのヤギさんが小さな木の筒を作っていた。十センチ角で長さ三十センチくらいの四角い木の筒である。表面にニスを塗って、三つ並べて乾かしている。深沢さんはそれを眺めながら、
「こりゃ立派なのが出来たなァ」
何かと思って様子をうかがっていると、
「お客さんが来るったって、うちにはマクラが足りないもんだから、ミスターがきのうからこさえてたのよ」
マクラって枕のことだろうか。
「え? 木枕を知らないの? こりゃ眠るのにはいちばんいい枕なのに。昔は丁稚なんか寝るときはみんなこれだよ。髪結った女の人とか偉い人のはね、この上に綺麗な座ブトンがのっかってたりするんだけど、あんなのはよくない。これだったら髪の油で汚れたって、雑巾でスーッと拭きゃすぐ綺麗になるんだから」
私は驚いた。雑巾で拭く枕なんてはじめてだった。
「昔はこれが丁稚の頭に使い込まれて、油がしみて綺麗な艶が出てきてね。汚れたって雑巾でスーッと拭きゃすぐ綺麗になるんだから」
深沢さんは木の筒の口のところを持って、掌で横面をピシャピシャと叩いている。
「あのなァに? 近ごろの羽根枕とかこーんなに大きいの。映画なんかに出てくる。あんなので寝たら、耳とか頬ぺたとかにベターッとくっついて、ぬる暑くて眠れやしないよ」
穴掘りのあと、私はその枕で眠らせてもらった。やはり慣れないせいか、頭には固かった。だけど筒の左右は切りっぱなしで空気が筒抜け。枕の中には何もはいっていない。少年のころ、枕の中ではいつも土塀の修繕がつづいていたのを思いだした。今日は土の中にコンクリートの塀を埋めたんだ。
枕の中には本当に塀がはいっているのかもしれない。ある意味で。塀というのは越えてみたいけど、越えるのはやはり恐いものである。頭にはちょっと痛いけど、こういう筒抜けの枕をもっと早く知っていたら、塀など気にしないでぐっすり眠っていたのかもしれないのに。
そんなことを考えながら、私は朝の雀の声で目を覚ます。頭はちゃんと木の枕の上にのっていた。年齢とともに人間は睡眠にも慣れてくる。ものを考えないようにする方法を少しずつ覚える。何も考えないでいられたら睡眠なんてへっちゃらだ。でもなかなかそうはいかない。生きている間はどうしてもいろいろ考えるのだ。
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チューインガム
私が生まれてはじめて見たアメリカ人は兵隊だった。戦後間もなくのころ、大分駅前の電車通りを、向うから二人連れで歩いてきた。私は小学校二年生。(まさか殺されることはないだろう)と思いながらも、私は緊張で汗びっしょりになり、両足がブリキのコンパスのように固く動いてすれ違った。アメリカ兵は駅前の闇市で買った赤い箸を両手でカチャカチャともてあそびながら、こちらをゼリーのような横目で見て通り過ぎた。二人とも「ホァーイ。イヤーォ。ヒューゥ。フォーァ……」とかいうようなふわふわの声を、頭の先から出していた。私は火星人というのはこういうものに違いないと思った。占領されたのだという実感と、奴隷のような気持があった。だけどそれから以後は、この支配者が持ち込む高級な物質への欲求が、一種マゾヒスチックな憧れとなっていく。
もっともそんな憧れは戦争中からあった。当時の私たち少年がはじめて手にしたアメリカの物質は、爆弾である。昼間、空に爆撃機がないとき、私たちは爆弾のダンペンを求めて、道路のはじや草むらの中を探し歩いた。屋根といわずドブ川といわず、町の隅々に刺さっている鉄のダンペンは、遠い宇宙から飛び込んでくる隕石のようなものである。私たちはその隕石を集めて鉄の肌を眺めながら、空の彼方の近代的な物質に、遠く憧れていたのだと思う。背中にはカンカン日がさしていた。しかしそれにしても、いまの民主主義の世の中の灰色に濁った空にくらべて、当時、軍国主義の町の空は、何と青く澄みきっていたことだろうか。
戦後のアメリカは、マッカーサー元帥がコーンパイプにつめて持ってきた。日本中にDDTの白い粉がまかれ、サマータイムの朝がはじまり、サッカリンのおしるこが胃袋の壁を塗っていく。アメリカ兵の巨体が軽そうに歩くのにくらべて、日本人の痩せた体は、いつもだるそうに停車場でしゃがみこむ。
学校では給食の時間ができて、ララ物資が流れこんだ。ララ物資のララというのが何の意味かはわからなかったが、楕円形の缶詰めの空き缶がその後弁当箱になっていた。中にはつぶしたさつま芋がぎっしり詰めてある。そんな弁当を持って遠足の道を歩いていると、同級生の一人がチューインガムを噛んでいた。
アメリカ人が食べるお菓子には、いくら噛んでもぜんぜんへらない便利なお菓子があるらしい。私たちはそのお菓子のことを、チューインゴム[#「ゴム」に傍点]と発音して噂していた。ゴムで出来た新しいお菓子、だけどそれをじっさいに見るのははじめてだった。その同級生は「こんなことは常識なのだ」というような得意な顔でチューインゴム[#「ゴム」に傍点]を噛んでいる。遠足の列は前へ前へと歩きながら、みんなその同級生の口もとを見つめた。口の中では緑色のゴム[#「ゴム」に傍点]が丸まったり伸びたり縮んだりしていて、みんなは「なるほど、これがチューインゴム[#「ゴム」に傍点]だな」といいあいながら、その味や噛み具合について口々にたずねる。その同級生はしようがなしにもう一つだけ持っていたチューインゴム[#「ゴム」に傍点]をリュックから取り出し、それを三つに割ると、そのカケラはたちまち手の早い順に三つの口に運ばれた。
遠足の列の中では、四つの口がチューインゴム[#「ゴム」に傍点]を噛んでいる。「これは噛んでもへらないからネ、セロファンに包んでとっておいてまたあとで噛めるんだヨ、な」などといいながら噛んでいる。
四つのゴム[#「ゴム」に傍点]は、やがて遠足の列の中を移動した。口から口へとゴム[#「ゴム」に傍点]は移り、私は何番目かでやっとチューインゴム[#「ゴム」に傍点]を借りることができた。私は生まれてはじめて、チューインゴム[#「ゴム」に傍点]を他人から借りて噛んだのだ。
それはもう何人もの口の中で噛まれて、味も何もないただのゴム[#「ゴム」に傍点]だった。いや本当は、何人もの他人の唾液や歯垢がしみこんでいたのだろう。手渡されたとき、他人の口の中への抵抗はあったが、私はやはりそれを自分の口に入れて噛んでみた。ぜんぜんおいしくはないけど、この感触は何だろうと思った。お菓子のような、お菓子ではないような……、私は口の中の他人への抵抗といっしょに、あのアメリカ兵のお湯でふやけたような皮膚を思いだした。スプーンで流しこんだような水色の目、糸のない風船のように飛び跳ねる声。これは異質のものなのだ。
私は結局チューインゴム[#「ゴム」に傍点]の価値がわからずに、それを丸めて口から出すと、借りていた人に返した。口の中から他人が出ていき、私はほっとした。
チューインガムは食料ではない。私にはそのことが不審でならなかったのだ。飢えを満たす口の中に無駄なものが必要だとは考えられなかった。だけどその後私たちは、小麦の実を噛んでチューインガムの真似をしたりした。そしていまでは焼肉屋の帰りに、お釣りといっしょに必ずチューインガムがついてくるのだ。
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飛行機
私は生まれてから一度だけ飛行機に乗ったことがある。だからほとんど飛行機に乗ったことがない。
日本人でありながら何故そんなに飛行機に乗らないかというと、乗る用事がないからだ。何故用事がないかというと、お金がない。ちゃんとしたお金があればちゃんと結婚式などして、ハワイやグアムへ新婚旅行に行く用事ができる。でも日本人としての生活を怠っていると、なかなかそういうことにはならない。自転車やバスに乗る用事ばかりできて、飛行機に乗る用事はいっこうにできないのだ。
というのは本当は「偽弱者的」ないいわけで、たまに飛行機に乗る用事ができそうになると、あわてて話題をそらしたり、いや視線をそらしたり、いや何というか、つまりそれに至る起承転結をそらしてしまって、何となく無意識にその用事を避けるのである。これは注射に行くのをごまかそうとして、一所懸命勉強にうちこんだりしている幼児の心理みたいなものなのだろうか。
しかし世の中にはことさら幼児の体験をもち出すことで、自分が自然のままの、文明に毒されない手作りの人間であることを示そうとする、自然食品のセールスマンのような人がいる。だけど自然食品というのは、いや、こんな例え話はよそう。問題が横道にそれすぎる。えーと、そうではなくて問題は、つまり飛行機に対する憧れと恐怖について。
私は一度だけ飛行機に乗ったことがある。だけど飛行場に行ってはじめて機体を間近に見たものは、こんなに重いものをフワフワと空を飛ばせるのにはどこかに必ず無理があると思い、それが恐怖として意識の底辺に居残るのである。構造や統計からいうと、飛行機よりも自動車や新幹線の方がよほど危いものらしい。だけどそういういい方は現状肯定のための気休めというか、ジャンボジェット機のセールスマンの論法というか、いやしかし小さい飛行機ならわかるのである。紙飛行機でもまだ多少大きいが、糸くずやチリやホコリほどの大きさの飛行機があるとすれば、それは落ちようにも落ちようがなく舞い上がるばかりであり、地上に激突ということはまずないであろう。これは絶対に安全である。いや、奇をてらった論を展開しようというのではない。飛行機の安全にも絶対値というものがあるのではないかと、それをいま考えはじめたのだ。
で、大きい方の飛行機。飛行機というのは空気を騙しながらその上を飛んでいるのであり、機体が大きくなればなるほどその騙すウソもどんどん大きくなる。いつかはそのウソのバレるときがくる。もう現在のジャンボジェット機などは、そのウソツキの限界にあるのではないか。いや機体が大きくなれば、その分だけ翼やエンジンを大きくすればいいという意見もあるだろう。だけどはたしてそうか。ウソをつく相手の空気にも限界はある。地球の大気は無限ではないのだ。だから飛行機の大きさにも限界が出てくる。仮りに翼やエンジンをどんどん大きくして、日本列島と同じくらいの長さの飛行機を作った場合、それは空を飛べるだろうか。いやいやもっと大きくして、地球の直径よりも長い翼の飛行機を建造したとして、それは地球の青空の上を飛べるだろうか。そんな大ウソがいつまでもつけるはずはないだろう。空気だってそれほどバカではない。その特大飛行機は、少しずつ作っていくはじからどんどん地上に墜落していき、最後に完成するのは地上にベシャリとへばりついた飛行機の残骸であろう。空気に対するウソより前に、金属に対するウソがバレてしまうのだ。地球上で飛行機を作るかぎり、ある一定以上の大きさの翼はどうしても垂れ下がる。それを持ち上げようと金属を分厚くすればするほど翼はますます重く垂れ下がる。
結局この金属と重力の関係、そして重力と空気との関係というのは、宇宙のどこにいっても同じらしい。重力の小さな惑星には飛行機がウソをつく相手の大気がとどまっていないだろうし、また反対に地球よりも分厚いウソに耐え得る大気をまとった惑星では、それにもまして猛烈な重力が、たちまちのうちに金属のウソをバラバラにバラしてしまう。したがって地球に限らずとも、この宇宙のどの星でも、大気の上を飛べる飛行機の大きさには、その限界の絶対値というものがあることになる。
それはそうだ、この宇宙の政治に対する一人一人の有権者ともいうべき素粒子というものの大きさに、この宇宙共通の絶対値というものがあるのだから、エネルギーの分布、気質の分布にも類型があらわれ、この地球のような惑星大気圏内を飛ぶ飛行機の大きさにも、おのずから絶対値が決定される。だからそれ以上の大きな飛行機というものは、この地球上だけでなく、宇宙のどの惑星でもどんどん墜落の失敗をくり返しているはずなのだ。新幹線よりも飛行機の方が安全だという人は、まずこのことを考えてほしい。
したがって飛行機の安全の可能性は、小さな飛行機の方にこそ望みがかけられる。ホコリやチリのように小さくて地球の引力から逃げ出せるような飛行機が可能であれば、これは絶対に墜落の恐れがない。だから万有引力からできるだけ離れて小さく、小さく……、すでにミクロの世界では万有引力からの戦線離脱が実際に観測されている。そこには静止質量がゼロというような粒子があったりするわけだから、その地帯をも突き抜けてさらに小さくゼロに向って進んでいくと、万有引力は千有引力→百有引力→十有引力→一有引力となって、引力ゼロの地点を突き抜ける。そこから先は「万有斥力」の世界がひらける。その「万有斥力」の秘密を盗み出した飛行機がもしこの地球上にあらわれるなら、それこそは絶対に地上に激突することのない、というより墜落不可能な飛行機なのであろう。飛行機作家の奮起を期待する。
さて私がその一度だけ乗った飛行機は戦闘機であった。昭和二十年、私はまだ少年だったが、友人と二人、日本軍には無断でその戦闘機に乗り込んだのだ。友人は後の座席に乗り、私は前の座席に乗り込んだ。私は興奮でこわばった両腕に力を入れながら、ガラス窓(しかしあれは窓というのか、戸というのか)をピシャッと閉めた。外には猛烈なスコールが降っている。座席のまわりには精巧な計器類がひっそり静まり返る。私は興奮にうわずった気持でまず操縦桿を握りしめた。
しかしこの飛行機の操縦席というものは、世の中に数ある座席の中で最高のものである。シネラマ映画館の中心部、あの彎曲したスクリーンの焦点に一つだけあるはずの正しい座席も最高の座席ではあるが、この操縦席にはいわばそのシネラマスクリーンの焦点角度をどうにでも彎曲できるようなボタンやハンドルやコックやギアのたぐいが、前後左右上下にまでもギッシリと犇めいている。壁面全部にライカやコンタックスやハッセルブラッドなどの全機種が埋め込まれている、というか、ロレックスやオメガやバセロンコンスタンチンなどがびちびちに埋め込まれているというか、いやはっきり言って自分の快感帯を綿密に分散移植して作り上げた大型金属性器の中央座席に自分が座っているような、つまり戦闘機の操縦席というのはそのようなものであるのだから、こんなもので戦争をはじめたら、それはやめられるわけがないのである。はたしてこの座席に坐ったもので、快感を抜きの思想だけで闘ったものがいただろうか。
このことは現在の旅客機のパイロットでも同じかもしれない。あの快感を抜きにして、給料だけで働いているパイロットがいるだろうか。ここではそもそもその座席が空を飛ぶ飛ばないということ自体がもう蛇足のようなことなのである。
そのせいでもないだろうが、ジェット旅客機というものはときどき飛ばずに落ちる。もう五、六年前のことになる。飛行機がよく墜落した時代があった。羽田、北海道、富士山、あるいはインド、ソ連、その他各所。
そのころ私も飛行機に乗る用事にまきこまれそうになったのだった。ある雑誌の仕事で北海道まで取材に行って、それでイラストを描くという。私は考えた。しかし考え方が二つあるから困るのである。つまり最近は航空事故が多いので飛行機には乗らない方がいいということ、もう一つは最近は航空事故が多いので確率からいうともうこれ以上事故はないだろうということ。しかし結局私の恐怖的潜在意識はその優柔不断を延々と引きのばし、とうとう予定日がきてなしくずし的に中止となり、予定日はたんたんと過ぎていった。私はそのまま東京にいた。ところが当初の計画による帰りの予定日になると、その予定の時刻に北海道を飛び立ったジェット機は、突然ポトリと海に墜落したのであった。多くの人々が死に、私は潜在意識と優柔不断に救われた。昭和四十六年の夏ごろのことだった。
(画像省略)
結局私は、まだ生まれて一回しか飛行機に乗っていない。昭和二十年、それは終戦の直前であったか直後であったのか、私が一回だけ乗ったのは、地上に止まっている飛行機なのだった。
大分の航空場だ。その先の砂浜で町内のお兄さんたちと貝掘りをしていると、一天にわかにかき曇り、大粒の雨が地面をバラバラと叩きはじめる。私は友人と二人、航空場の方へ走って逃げた。荒い雨は機銃掃射のように追いかけてくる。航空場にはほかに何があっただろうか。格納庫の屋根はどれもこれもズタズタの穴だらけ、コンクリートの上にはガラスの砲片がギザギザに散らばり、溶けたガラスが草のまわりをはいまわる。そんなところに、ポツンと取り残されたような戦闘機が一機。私たちはその操縦席に逃げこんだ。
翼の高さは、当時小学校三年生の私の首くらいまであっただろうか。そこに思いきり足をかけて登ろうとするとき、肩にかけた水筒が翼にぶつかって簡単に割れた。中からぬるい水が大雨の中に流れ出る。金属の水筒などどこにもない世の中で、その陶器の水筒はわが家の貴重品であった。私は呆然とした。帰ってどう釈明するか。
もうその間に体はびしょ濡れである。だけどびしょ濡れになっても人間は雨に濡れまいとするもので、私たちは急いで座席の中に乗り込んだ。猛烈な雨のしぶきをピタリと閉じた防弾ガラスの室内。まるで宇宙人の座席であった。私はどうすればいいのか。後部座席の友人に大声で叫んでも、互いに口がパクパク、まったくの防音装置。私はそっとひざの前の操縦桿をにぎりしめる。前後に重く動かすと、翼が雨の中でパタパタと動く。この戦闘機は生きているのだ! うわ、いったいどのボタンがどこに通じるのか……、私はワクワクしてどこにも触われない。窓を叩く友人と、ふたたび雨の外をくぐって座席を交代するころ、雨の機銃掃射は雷雨となって炸裂をはじめた。見渡すかぎりの地平線だ。この戦闘機が狙われている。私たちは操縦席を飛び出すと、また雨の中を走って逃げた。その後方で、稲妻の届いた気配がしたけど、もうわからない。
それ以来、私はまだ一度も飛行機に乗ったことがないのである。
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爆弾
いま考えれば、昔は本当に危なかったと思う。空からどんどん爆弾が落ちていたのだから。これは模型ではなく本物である。重たいだけでなく爆発するのだ。それが予定もなしにアチコチに落ちてくる。あらかじめわかっていれば場所をよけておくこともできるのだけど、どこに落ちるかわからないのだ。じつに危ない話である。
いまだったら大変なことになる。人権無視もはなはだしいと、すぐ告訴の手続きがとられるだろう。これはまさに環境の破壊であると、巷間に論議がまき起こるだろう。他人の迷惑も考えないで! と吐き捨てるように市民の一人がいうだろう。だけど昔はとにかくどんどん落ちてくるので、みんな穴を掘ってもぐり込んでいた。防空壕。この穴で爆風や弾片からは守られる。だけど直撃弾が当たれば即死である。でもそれはサイコロにまかすしかない。みんなバクチ打ちのような生活をしていたのだ。いま考えればじつにいいかげんなものである。いま考えれば。
だけど昔はいいかげんだったせいか、いまほど恐くはなかった。みんな毎日サイコロを振りなれて、バクチ打ちの度胸がついていたのだろうか。防空壕の中にうずくまっていると、町を二つ三つへだてて落ちた爆弾でも、いまでいう震度四か五の震動があった。ロウソクの光に穴が揺れるのが見えて、頭上から土がパラパラと落ちてきた。いま落ちた遠くの爆弾の下はグシャグシャにひしゃげているのだろうと、チラと考えた。そして揺れる穴につかまりながら、さァ次のサイコロはどうなのかと、寒い体を硬くする。おそらく外の暗い上空では、何本もの探照燈の光の中で、サイコロがいくつも踊っているのだろう。上空の闇の中で遊んでいる奴がいるのだ。そいつはデカイ無重力の図体をしている。そうだ、水面で何頭ものフカがサイコロ遊びをしている、そんな海の底でじっと息をつめるようにして、みんなは土の中にもぐっていた。直撃弾を恐れながらも、しかしそれはサイコロだからと、むしろそんな気持に救われていた。だからいまほど恐くはなかった。当時小学校二年生。自分の力ではその落ちてくる爆弾を防ぎようがなく、その穴の中よりほかの場所は考えられなかった。そこは北九州の大分であった。
しかしそういう空から落ちてくる爆弾を、町の上空全部に大きな網を張りめぐらして防ごうという話があった。私はそれを年上の友人から聞いたような気がする。ひょっとしてその人の作り話だったのだろうか。それとも当時の何か軍国SF小説で読んだのだろうか。だけどそのとき頭の中にひろがった町の光景は壮観だった。空襲警報が鳴っても、町の人は全員下からのんびり眺めていられる。B29がいくら爆撃しても、落ちてくる爆弾は網のところでフワンと止まってしまうのだ。町はぜんぜん火事にならない。しかし子供ながらにも、町の上空にそんな大きな網を張るのは経費からいって不可能だろうと、あきらめていた。
だけどそういう発想は、当時は必ずしも荒唐無稽なものではなかったのだ。その発想を裏返した指令が飛んできて、私たち町中の家の天井が剥がされた。屋根を貫通した爆弾が、不発のまま天井の上で止まっているのに気がつかないと危ないという。これは理論的に正しいような、正しくないような、と考える間もなく天井板がどんどん剥がされ、はじめて開放された天井裏の空間は、子供たちの格好の遊び場となり、原住民のネズミたちは路頭に迷うこととなってしまった。地上に降りた天井板は飯炊き用のエネルギーとなって、私たちの腹の中に転化した。そんなやり方が正しいのか間違いなのかわからなかったが、天井板のない家の空間には、なぜか坊主頭のようなスガスガしさがあった。
よく考えてみると、天井板というのは無用な板なのである。これは家の中の空間にかぶせた薄いのし紙みたいなものである。爆発する前の爆弾の余波だけが先にやってきて、まずあらかじめ無用なものを爆撃していったのだろう。のし紙の天井板は、そういうあらかじめの透明爆弾に吹き飛ばされてしまったのだ。
B29の去った町の中で、道端に横たわる不発弾を見た。絵で見たことのある、ロケットのような、長さ一メートルくらいの円筒型の物体だった。落ち方がまずかったのだろうか。クルクルひっくり返って落ちながら、サイコロの目がすり切れてしまったのだろうか。その不発弾は焼夷弾だった。町の年上の少年たちが、その横腹にヤスリで穴を開けようと取り組んでいた。雷管にさえ触わらなければ平気なのだそうである。それはまるで陸に打ち上げられたフカのように、じっとしていた。
その後うちに親戚の大学生が滞在したときがあった。そのときの空襲で、大学生は焼夷弾を何本も拾ってきた。しかしそれは前に見たロケット型とはまったく違い、長さ五〇センチほどのただの事務的な四角い筒だった。それまで爆弾というのは先のとがった流線型だと思っていた私には、そのそっけない四角い筒はショックだった。はっきりと、新しい時代への区切りを見たような気がした。終局というのがもう時間の問題だろうと無意識に思った。大学生はその四角い焼夷弾の腹を裂いて油脂を取り出した。その焼夷弾もある部分さえ触わらなければ平気なのだった。大学生はまるでフグでも料理するように、次々と焼夷弾の腹を裂いた。その日の風呂は、物凄い勢いで沸いてしまった。その風呂にはいってから大学生は東京に行った。その後もなお空襲はつづいたが、私にはまだ大学生のようにフグ料理をすることができなかった。
そして私にとっては最大の空襲の夜がきた。警戒警報も空襲警報も間に合わず、夜中に目が覚めると押入れからバキバキ音がする。家人はもうアタフタと中腰で身づくろいをし、しかしよく見ると燃えているのは押入れではなく外の垣根か向いの家らしく、だけどもう防空壕に行くヒマもない。みんなは押入れにはいって頭からフトンをかぶった。その間にも飛行機の爆音と爆弾の真空音とがキリモミ状に交差し、道をへだてたすぐ向いの家あたりがバキバキ、ボキンと、まるで肋骨を何本もまとめて折るような音がする。赤く熱した巨大な斧が、上空でビュンビュン振りまわされているのだろう。あの図体のデカイフカが海底にまで降りてきたのだ。どこかの隙間がピカピカと輝やく。とうとうこれで最期なのだと思った。私は暗い狭い押入れの中で、ボンヤリと騒音を聞いていた。何故恐くないのだろうか。不安はどこにいったのだろうか。暗闇にパッチリと目を開いて、乾燥したような気持だった。よく洗って乾かした、清潔な雑巾のような柔らかさだった。
死の局面に立つと肝がすわるという、これがその状態だったのだろうか。この状態のまま成長していたら私も相当な人物になっただろうと思うのだけど、バキン、ボキンという音がだんだん静まっていくと、私はまた肝がすわらずに歩き出す状態に戻り、ビクつく生命は残されていた。静まってから外に出てみると、家のまわりの垣根などにもチョロチョロと飛び火が燃えていたりしたが、かんじんの肋骨折りの現場は、向いの家からさらに広いお寺とドブ川をへだてた「第一高女」という女学校であった。私はすぐ隣りだと思った現場があまりにも離れていたのに驚いた。そしてホッとしながら女学校の燃える火を遠く眺めた。
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しかしよく考えたらおかしたことである。女学校を爆撃するとはどういうことなのか。上から見たB29が工場か何かと間違えたのだろうか。それともアメリカから来ているスパイが間違えたのだろうか。いやひょっとして女学校と知りながら爆弾を落としたのだとしたら、それはイヤらしい変態のパイロット……、いや小学生にそんな想像はできないだろうが、女学校は校舎が半分焼けてしまった。私はその遠い火を眺めてからまたフトンの中で眠っていった。
ところが明くる日の昼間、今度はちゃんとした空襲警報とともに、またB29の一団が女学校を襲ったのである。これはよほどヘマなスパイだ。それとも女学校の地下には、何か秘密の大工場があるのだろうか。とかいうこと考える余裕もなかったが、空襲警報解除のサイレンで防空壕から顔を出すと、
「また第一高女がやられちょるど!」
といいながら、もう町の年上の少年たちが走り出していた。先頭はもう空襲の途中から駆け出しているのだ。そういう少年は空中戦を何度も見ている。だけど本当は空襲警報解除になるまで防空壕から出てはいけないのである。そしてわが家の両親は馬鹿正直で、私も臆病な方だった。だから私は空中戦というのはストロボの光のように、パラッ、パラッ、とほんの断片をかいま見ただけである。そういうわけだから、私は町の少年たちの一番あとを追っかけながら女学校に向かった。お寺の境内を通り、墓場の雑草をかき分け、ドブ川に渡した丸太棒を気をつけて渡ると、女学校の裏の野原に出る。野原の横の運動場のはるか遠くで、残った校舎が燃えている。だけど仲間を追って行こうとする目の前の野原の中に、変な大人たちの行列があった。
十人ほどもいただろうか。みんな三メートルほどの間隔をおいてキチンと一列になり、下を向いてゆっくりと進む。私はその雰囲気にギョッとなって立ち止まった。校舎の方では消防活動が本格的にはじまったらしく、その喧騒の音が、小さく、運動場の上をはってつたわってくる。上空に立ちこめた黒煙で野原は薄暗く、雑草を分けた細い道を静かに歩く人の列は、まるで幽霊のようだった。それは女学校の先生たちなのだろうか。みんな火事の光を背中に受けて、先頭から二人目の人は両手で黒っぽい板を抱いて……。
私はおぼろげながら、それが御真影を運ぶ一団だと気がついた。あの黒い板は天皇陛下の写真なのだ。当時、学校の正門脇のあたりには奉安殿というものがあり、いつも扉が閉じられていた。その中には御真影があると教えられていた。あの黒い板がそれなのだろう。女学校が燃えたのでどこか安全な場所に移しているのだ。いったいどこへ運ぶのだろうか。そのうつ向いた行列はどこかにあてがあるようにも見え、ないようにも見え、薄暗い野原の向うへ消えていく。私はボンヤリとその背中の列を見送った。
火事現場では消防団が主人公だった。水びたしの地面をはち切れそうな太いホースがのたうちまわり、ホースにポツポツと開いた穴から、小さな噴水の花が無数に咲いていた。落ちてきた爆弾の姿は、当然ながらどこにも見えなかった。
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皮靴
むかしむかし、うちの玄関の横の庭に生えていた青竹を、兵隊さんが切りにきました。
むかしはうちにも庭があったのです。本当ですよ。大分のときのことだけど。貧乏だけど家と庭は広かった。庭にはたくさん木が生えていて、この竹のほかにも桜桃、ザボン、椿、松、もみじ、ざくろ、桃、いちじく、つつじ、ぐみ、枇杷、しゅろ、梅、なんてこんなことはこの間『少年補導』という雑誌に書いたばかり。これは大阪で出ている雑誌で、青少年を悪の誘惑から守る雑誌。学生としてならともかく、社会人として文章を書くにはやはりこういう雑誌に書くようにならないと。
いやそれはともかく、それに書いたときにはこの竹も生えていたのを忘れていた、その青竹を兵隊さんが切りにきたのです。だけどこんなに立派な庭があるのに何故貧乏だったのか、それが子供のぼくにはわからないのです。いまの東京だったら考えられない。たちまちのうちに不動産屋が乗り込んできて、建売住宅を三つか四つ、そそくさと建てられてしまうでしょう。だからいまの東京からみると、これはまるで外国の話ですね。そうですよ。こんなに立派な庭の中で、ツギハギだらけのズボンをはいて、水だらけの雑炊をシラミといっしょにすすっていたなんて、これは外国としか考えられません。そんな外国に、ぼくはむかし住んでいたのです。
でその外国の庭の外の道路でボール投げか何かしていたら、兵隊さんが一人、あたりをキョロキョロしながら歩いてくるのです。兵隊さんがいるのだから、まだ戦争は終っていなかったのでしょう。終戦の直前だったと思います。その兵隊さんのキョロキョロの目は、うちの玄関の竹を見ると、キョロッ、と止まりました。
「これは……」
とかいいながら、横にまわったりして見ているのです。そこには竹が十本ほども生えていたでしょうか。
母が呼び出されて兵隊さんと立ち話をはじめました。兵隊さんはさかんにその竹を見上げながら何かいっている……。つまりこの兵隊さんは、竹槍を作る竹を探して町中を歩いていたのでした。もう本土決戦が間近いのです。
わが家の竹は、お国の役に立つことになったのでした。母とぼくが遠まきに見ている前で、兵隊さんは何となくはにかみながら、腰のサーベルをさらりと抜きました。試しに一本切って見本に持って帰るのでしょう。だけど何かぶつぶつ呟やきながらサーベルを抜くのです。本当はこういうところで抜いちゃいけないんだけど……何だかそんな表情なのです。
ぼくは凄いところを見られると思ってわくわくしました。そのころは兵隊さんだけでなく巡査の腰にもサーベルがありました。だけど中身を見るのははじめてのことです。振り上げられたサーベルは、笹の葉の間をもれてくる光にキラキラと輝やいてから、サッと振りおろされました。笹の葉がいっせいにシャーン、と鳴ります。だけど竹は倒れません。
ぼくはガッカリしました。一度でスパッと切れると思ったのです。サーベルは竹に一、二センチくいこんだだけでした。しかも今度は外れません。兵隊さんは渋い顔をして、サーベルを左右にゆすって外しながら「これは……まァ……竹を切るようには……できていないから……」
みたいなことをいうのです。二、三回サーベルが振りおろされるうちに、竹はその部分がささくれ立ってきました。だけど切れません。頑丈なものです。とうとう母が台所から菜切り包丁とナタを持ってきました。兵隊さんはそのナタを使い、両足をふんばって、やっとのことで竹を一本倒しました。そのふんばっている兵隊さんの足は、膝までもある茶色い皮のピカピカの長靴をはいていました。いいわけをしたりして、兵隊さんというのはオシャレだな、と思いました。無意識に。
*
で皮靴の話であるが、その時代、私たち小学生のはいていたのは下駄かぞうり、一番上等なもので布のズックであった。これはクジ引きの順番による配給、いまでは団地の抽籤みたいなものである。事実それと同じほどの困難と喜びがあった。
はじめて皮靴をはいたのはいつだったろうか。現在の日本国にいる私の脳裏に、黒い編み上げ靴をはいた記憶がかすかに浮かぶ。だけどそれは私がはいたのだろうか。それとも兄がはくところをしゃがんで見たのだろうか。銀紙で丁寧に包まれたチョコレートのような、あの気品のある感触。
だけどあの編み上げ靴の紐を引っかけていく金具というもの……、いや最近は見かけだけは編み上げであっても、実際に脱いだりはいたりは横のチャックでジー、パー、とすませちゃいますね。だけどむかしのその外国では、実際に靴紐をつま先のほうからキク、カク、キク、カクと引っかけながら、ちゃんとすねのところまで編み上げておりました。その靴紐を引っかけていくあの金具の形、あれはよく見ると波止場の岩壁に並んでいる鉄の杭、港の船をロープでつないでおくあの鉄の杭の形とそっくりなんですね。
だから編み上げ靴紐のをキク、カク、キク、カクと編み上げていくとき、その両側がまるで波止場のように見えてくるのです。汽笛の音がボーッ、と聞こえてくるのです。沖仲仕のオッサンの背中がモコモコと見えてくるのです。あの金具の下の方では海水がチャプ、チャプ、そうそう、編み上げ靴の中の足はまるで海のような気持なのです。
そうです。足は海です。だから本当は岩壁も靴もいらない。ちょうど梅雨のころでした。学校に行く途中で鼻緒の切れてしまった下駄を、それでも何とかギッコン、ギッコンと引きずっていきながら、えいっとばかり裸足になって通学した足の気持よさ。
それからずーっと梅雨が終るまで裸足の通学がつづきました。だけどたてまえからいうと、やはり裸足の通学というのは気品がない。校則に反する。だから先生にいちおう注意されるのです。それでいちおう理屈をつけるのです。途中で下駄の鼻緒が切れたとか、何とか……、そして結局、毎日下駄の鼻緒が切れるのです。だけどあんなに気持のいい足の裏ってあるでしょうか。
最近のビル街、そしてビルの中というものは、裸足で歩いてもまったく安全なように、ツルツルに用意されています。梅雨の季節にあそこを裸足でピタピタと通勤したらどんなに気持がいいでしょうか。もちろん冬は大変です。だけど残るスリーシーズン、たとえ上はドレスやスーツでも、足は裸足が一番です。満員電車も安心です。互いに踏まれたって痛くない。汚れたって汚なくない。気持いい水をシャバシャバッとかければスッと消えてしまうのです。
それからこれはちょっとまた別ですが、最近の駅のホームにつくられている盲人のための黄色い凹凸ライン、私はあの上をぜひ裸足で歩いてみたいのです。
*
私がはじめて皮靴を買ったのは、高校生のときだった。それはきつくてギチギチの靴だった。本当は寸法を計って作ってもらうつもりで靴屋さんにいったのだけど、寸法を計り終って形のことを話していたら、そこにあったのを試しに穿かされたのだ。
「それも注文靴でね、きのう仕上がったんだけど、これはあんた……」
オヤジは自慢そうにいっている。黒い短靴だ。私はおそるおそる穿こうとしたが、かなりきつい。長い靴ベラを使ってこねまわした末、やっとのことで力いっぱい押しこんだ。オヤジは皮の上から私の足を押さえてみながら、
「いやピッタリだねェ。こりゃァあつらえたみたいだよ」
といっている。私は小さい形にていねいに折りたたんだお札のかたまりを、ズボンの裏側の感触で確かめながら、この買物は一世一代の大仕事だという気持でその片足の靴を眺める。
当時は既製品の靴を買うということはあまりなかった。既製品なんてとても足に合うものではないと思われていた。何しろ靴を作るということは、半永久的な財産を作るようなものだった。靴屋の店先にはたくさんの既製品が並んでいるけど、それらは飾りのようなもので、そういうのを買うのはだまされることだと考えていた。ちょうどバーや呑み屋と同じことで、新宿でも渋谷でもあれだけたくさん店があるのに、はいるのはほんのわずかな店だけで、あとの知らないほとんどの店は全部だまされるものだと思っている。
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「いいねェ。ピッタリだよ」
それは誰かの注文靴のはずなのに、オヤジはまるで私にすすめるような調子でいった。二、三歩歩いてみるとギュッ、ギュッと音がして凄く痛い。こういうのをピッタリというのだろうか。私はまだ自分の皮靴というのをはいたことがないのでわからないのだ。
「ちょっと痛いみたいですけど……」
「いやァピッタリだよ。最初痛いくらいでね、二、三日すると少し伸びてちょうどよくなるの」
オヤジは当然のようにいうので、知らない私は少し恥ずかしくなった。だけど相当痛い。かかとはギチギチで、指先はかなりちぢめているのだ。やはり皮靴というものは大変なもんだと思う。こういうものなのか。
「それピッタリだから、あんたに先に売っちゃってもいいよ」
オヤジは特別なはからいだという調子。だけどやっぱり痛いなァと思っていると、オヤジは、
「この……上等の皮が……」
とか自慢げに呟やいている。しかしこんなに痛くて学校に穿いていけるだろうか。
「やっぱり寸法を計ったんだから、いちおうその通りに作ってもらおうかな……」
「あのねェ、寸法計って作っても、あんたのは結局それと同じになるんだから。いやそんなにピッタリいかんかもしれんよ」
私は結局その皮靴を買わざるをえなかった。私は生まれてはじめて自分の皮靴を買っていちおう嬉しかった。だけどその皮靴は三日たってもまだ痛かった。二、三日で伸びるといったけど、この皮靴の場合は四、五日かもしれないと思った。だけど私はガマンしすぎたのだろうか。
六日目からは布のズックにはきかえて通学した。一週間くらいして足がなおってから、私はまた自分で買った皮靴をはいた。今度は三日目にズックにはきかえた。この皮靴の場合はしっかりしてるので、伸びるのに相当長くかかるのかもしれないと思った。痛いのと大事なのとでていねいにはいていたので、ぜんぜんキズはついていなかった。そしてまた十日後にはいたり、一月後にはいたりしながらその靴はピカピカのまま何年か後には忘れられてしまった。そしてあの靴屋の場所も。
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電球
電線の覆いが破れてムキ出しになったところを指で触わると、ビリッときます。あれは嫌な感じです。肉の内部の隙間に、曲がった針を何本もいっぺんにグイグイと刺しこまれたみたい。だけど痛いというのではないのです。だけどどうにも嫌なのです。あの感じは何でしょうか。
嘔吐の前の嫌な感じにも似ているのでしょうか。あれも痛いわけじゃないのです。息が詰まりそうに苦しい、というわけでもないのです。ただ何だかフニャフニャする不安のために、いても立ってもいられないという瞬間。その瞬間の連続。
ふつう不安というのはじわじわと蓄積されていくものです。あーやってもダメだ、こうやるわけにもいかぬ、だけどこのままではどうなるのだ? というふうに、わりと理詰めの心理が追いつめていくものです。だからそれはじわじわと長い間つづいて煮つまっていくものです。いても立ってもいられない、という感じも同じものでしょう。グツグツと煮込んでいった末に出来上がるもの、いわばビーフシチュウのようなものです。
だけど電気にビリッという嫌な感じは、そういう不安がその瞬間に出来上がるのです。まるで電子レンジの料理みたいに。あれ? なるほど。電子レンジの原理がわかったぞ。あの中には、いても立ってもいられないという瞬間がギッシリ詰まっているのでしょう。その瞬間がよってたかって、アッという間にビーフシチュウを煮つめてしまう。ハッハッハッハッ。
だけど嫌ですねェ、あのビリッとくる感じは。電線の先には丸い筒のソケットがついている。あの穴の中には、チョロッと、電線の切口がのぞいているのですね。あるとき私は、スイッチを切ってあるのだからいいだろうと思い、何だこんな真ちゅうの穴なんて、と人差指を入れてみたら、ビリリリリッ、ときてしまったのです。もう本当に嫌だ。いきなり肉の中を火箸で掻き回されているみたいで。
だから電球というのは凄いと思うのです。あの電線の切口を自分の先っぽで触わったまんま、ずうっと長い間ぶら下がっている。いても立ってもいられないという嫌な感じは、いったいどう処理しているのでしょうか。
おかしいですよね、電球というのは。あの電線のビリビリが溜まり溜まって垂れ下がった、雫のような形のガラス球の中は、真空なのです。空気がない。あそこに首を突っ込んだら、窒息して死んでしまうのです。あの中は地球ではない。あれはねェ、地球からずーっと離れた宇宙の空間を、ガラスで包んで持ってきたのだ。しかもいまにも割れそうな薄いガラスで。
危ないですよね。あの中には地球の外があるのです。あの中は外だ。だからよく考えると、地球は反対にあの電球のガラスに包まれているのです。あんなに薄いガラスの皮で、地球は外から包まれているのです。割れてしまったらどうするのだ。これでは人間がノイローゼになるのも無理はない。
人間の肉体は、宇宙空間では生きていけません。宇宙に出るとすれば、肉体をスッポリ地球の空気で包まないと出ていかれないのです。その空気が脱けてしまえば人間は死んでしまう。だから宇宙空間では、空気も人間の肉体の一部になってしまうのです。もしも宇宙空間で空気に針を刺したら、血が出るのではないでしょうか。
私はまだ宇宙に出かけていったことがありません。いや本当の宇宙でなくても、地球上の真空の部屋にはいったことがありません。だから窒息しそうになったことがありません。いったいどんな感じなのでしょうか、宇宙空間は。
それはやはり、肉体にとっては、ムキ出しの電線のようなものだと思うのです。ビリビリと肉の中を掻き回されて、いても立ってもいられないあの嫌な感じ。
宇宙空間には何もない、真空だといわれています。あったとしても、星間物質というのはせいぜい一立方センチあたりに原子が一個程度だといわれています。だからやはり何もない。だけど肉体が見ている宇宙空間には、ムキ出しの電線がビッシリくまなく詰まっているのではないでしょうか。
それは飢えたライオンの群れを放置したコロシアムの空間です。ワニがウヨウヨと泳いでいる洞窟の底なし沼です。マムシやコブラが隙間なくからみついて蠢いている古井戸の底です。サソリとムカデを佃煮のように詰め込んで蓋をした地下室の倉庫です。私たちはそんなところに裸では一歩もはいることができないのです。肉体にとっては禁断不可触の危険空間。
そんな宇宙空間を、ポツンとガラスの皮で閉じ込めた電球が、私たちの世界では一つの部屋に一つずつ、天井の中央からぶら下がっているのです。一つの部屋に一つずつ、私たちは宇宙空間を飼っているのです。そしてその恐しいはずの小さな宇宙空間が、地球の夜の闇の中に明るい光をもたらしている。
肉体は宇宙空間を恐れていても、精神というものはその遠い距離に憧がれているのです。だから人間はこんなガラスの缶詰を、いつの間にやら発明してしまったのでしょう。
*
「ごめん下さい。あのう、電球はいりませんか……」
中学生のときだったと思います。私はそういってよその家の玄関を開けながら、電球売りのアルバイトをしていました。友人と二人で電球をいくつもかかえながら、大分の町を歩きまわっていました。それは私が地球に生まれてから、二度目のアルバイトでした。
一度目は石鹸売りでした。そうだ、石鹸もジャブジャブやると、泡が丸い空間を作りますね。だけどあれは真空ではないでしょう。だから石鹸は重いのです。石鹸をたくさん持って売り歩いても、重いわりには儲かる率が少ないのです。
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「電球にした方が軽くて儲かるど」
といって先輩が教えてくれました。私たちは石鹸をやめにして、先輩から電球を仕入れてもらいました。はじめて電球を売り歩いた日、荷物がグッと軽くなって嬉しかったこと。だけどその荷物は、いまにもカリカリ、クシャンッ、と割れそうなのです。おまけに電球の中では細いオシベとメシベのようなフィラメントがブルブル震えて、強く揺するといまにも千切れそうになるのです。そして千切れてしまえばもうその電球は売れなくなって、一個分の値段を損してしまう。
だからその荷物は後生大事にそーっと持ちます。肩を固くして腕は棒のように、足はなるべくすり足で、止まるときはゆっくり止まる。
何だかそんな映画を、その後大きくなってから見たことがあります。重い大きなトラックを、ゆっくり、ゆっくりイヴ・モンタンが運転していく。「恐怖の報酬」ニトログリセリン。
だけどそのころはもちろん、まだそんな映画も見たことがない。だから自己流でゆっくり持ちます。重ければ自然にゆっくりなるのだけど、軽いとかえって難しいのです。二十箇くらいの電球を詰め込んだ袋でも、腕は思わずフワッと上がる。袋の中ではたくさんのオシベとメシベが一斉に音を揃えてシャラシャン、シャラシャン、……。
「ごめん下さい。あのう、電球はいりませんか……」
それはもちろん戦後のことです。戦時中の電球は配給でした。戦前もそうだったのではないでしょうか。昔は一般家庭に電気のメーターなどなかったのです。配給する電球の数が一家に三つ、便所用一つとか決まっているので、メーターは必要ないのです。昔は電気なんてその電球以上に使いようがない。
いまならそうはいかないでしょう。だけど昔は、電気を使うのは夜の電球だけでした。昼はラジオくらいなものです。飯を炊くのは薪です。パンを焼くのは炭です。冷蔵庫があったとしても配達の氷です。掃除や洗濯は主婦の筋肉、髭を剃るのは亭主の筋肉、レコードを回すのはお兄さんの筋肉、扇子を動かすのは各自の筋肉。だから電球の数さえ決まっていればメーターはいらないのです。
だから昔は電球売りもいりませんでした。電球が切れると、それを変電所まで持っていって新品と交換してもらうのです。それはいつも子供の役目。子供たちは切れた電球が割れないように両手で支えて、丘の上の変電所まで、歌を歌いながら行くのです。
変電所の中はポカポカと暖かい。本当は入口で電球交換をしてもらうのだけど、ちょっとだけ中に入れてもらうのです。床には大きな電熱器があって、ま赤な熱を出している。さすがは変電所だと思うのです。電気がどんどんあふれているという感じなのです。精米所にたくさん米粒がこぼれている感じなのです。だから電熱器はいくら使ってもタダなのでしょう。
帰りの電球は新品です。だからいっそう大事に両手で支えて、歌もあまり大きい声は張り上げないで、新品の電球を見つめながら、ソッと小さい声で歌うのです。変電所のうしろはもう夕焼けで、赤い光が丸い背中を照らしています。赤い光は電球の中にもはいりこんで、ツルツル滑って回っています。そしてクルクル回って出ていくのです。
「ごめん下さい。あのう、電球はいりませんか……」
やはり中学生で、電球売りをしているときのことでした。いつものように友人と二人でよその玄関を開けると、部屋の奥には奥さんが一人、斜めになっていました。斜めというか、ちゃんと坐るでもない、横になるでもない、崩れたような姿勢で、私は思わず病気かと思いました。
これは電球のテーマとは関係がないのだけど、何となく気になるのです。まだ夕方ではなく、それほど薄暗くはないのだけど、その部屋には元気がないのです。ちょっとセールスにはふさわしくない空気だと、子供ながらに思ったけれど、もう玄関は開けてしまったのです。
「あのう、電球はいりませんか……」
奥さんは泣き終ったところなのか、これから泣こうとするところなのか、あるいは何か別の過程にあったのか、やっと力を出して、
「いま……、病気なので……、ごめんなさいね……」
と小さく呟やきました。私は何故か、病気ではないのだと思いました。だけどいちおう形式は終ったのです。
「どうも、すみませんでした……」
私はそっと締めた玄関を背に歩きながら、あの奥さんは死ぬのではないかと思いました。もちろんその先のことなど、まったくわかりません。私たちは一軒の家を一度ずつのぞいて歩いただけなのでした。
それからもしばらく電球売りはつづけました。いまにも割れそうなガラスの包みをかかえて、よその家の玄関をそーっと開けては締めていくその仕事は、軽くて透明でスリリングな仕事でした。
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蛇口
いつも私がいく銭湯の向いには、使用されていない軒先があった。それは店舗としての立地条件が悪かったのであろうか。おそらくかつては八百屋として野菜類を並べていただろうと思われるその二坪ほどの軒先は、いつも薄暗く、湿っぽく、道に近い地面から一米ほど地上に突き出しているはんぱな柱の先には、薄汚い布の塊がくっついていた。
風呂から出た私がいつものように同伴者の出てくるのを待ちながら、ボンヤリとその布の塊を眺めているとき、それが水道の蛇口を包んだものであることを知ったのは、もう一年以上も前のことである。おそらくその包みこまれた蛇口は、固く栓を締めても水漏れしているのだろう。どんなに天気の良い日でも、その柱のつけ根を中心にして、周囲の地面はいつも湿っていた。分泌である。その蛇口は無能な軒先とともに打ち棄てられながらも、地下にビッシリと張りめぐらされた水道網は、その蛇口の背中を掴んで放さないのである。
その関係は悲惨であった。しかしそれを包んだ布の塊を見ているかぎり、その関係は隠されてあるのであり、ただその柱のつけ根の湿った地面だけが、その悲惨な関係を無言のうちに実証しているのであった。もちろん銭湯に出入りするお客の中で、その棄てられた軒先とともにその布の塊をかえりみるものとてないのである。そういう私も、毎日銭湯から出たときに、その布の塊の中身が蛇口であると知ることもなく、ただ漠然と眺めているだけであった。
ただそのころいつのまにか私は、その水漏れを布で包みこまれた蛇口をペン画で描いていた。そしてかすかに意識されるその絵の原因をたどりながら、じつはそれが銭湯の前の打ち棄てられた蛇口であるという事実に逆戻りしたのである。そのペン画は鎌田忠良氏の著書『殺人者の意思』の装幀のために描いていたのだ。
(ちなみに、この本の内容は「横須賀線爆破事件」の若松善紀と「連続射殺事件」の永山則夫の、それぞれの犯した犯罪についての論考である)
これは昔の文章です。一九七一年当時発行された『映画批評』という雑誌の中で、私は『サクラグラフ』というグラビアページを発行していたのです。それの二号目にこの文章を書いたのでした。私にとってはこれが水道の蛇口というものの本質を知った初体験だったのだと思います。本質だなんて、別に偉そうにいっているのではありません。老人のような気持ちで書いているのです。
本質というものは、なかなか知ることができないものです。頭の働きだけではとても知ることができません。手、足、腹、尻、首、足の裏、頬、爪、その他まだまだたくさん無数にありましょうが、そういったいろんな肉体の部分の後押しがなければ、とても知ることができないものです。だから私が水道の蛇口の本質を知ることができたのは、私にとっては私の肉体をたっぷりと夜尿症にひたしていた長大な時空間によるものと考えています。私の肉体の本質は、夜尿症によって煮つめられてきたのです。夜尿症の本質というのは何でしょうか。
小便の成分はほとんどが水だといわれています。水を飲むから小便が出るのだ、小便の本質は水なのだ。夜尿症のぼくはいつもそういうふうにいわれて、寝る前に水を飲むのをガマンさせられていました。もちろんそんなころに本質なんて言葉は使わなかったけど、別の言葉からおしはかる本質という意味のことに、ぼくは敵対感情を抱いていました。これは自分の体に憎しみを抱いていたのです。夜尿症の肉体なんて、憎しみなくしてつき合っていられるでしょうか。ましてそれが本質だということであれば、もう話し合いの余地もなくなってしまうのです。あとはもう問答無用で自分の肉体を撲滅するほかはない。だけどそういう暴力というものが肉体にしかないのだから、ぼくの肉体のまわりには盲いた憎しみだけがふくらんでいく。それはやはり本質というものへの敵対感情なのだと、いまになってもそう思うのです。
だけどいまはもう小便の本質は水だと、いうことができるようになりました。肉体の成分もほとんどが水だといわれています。肉体のはじまりというのはこの地球の海の中からいつの間にか沸いてきた虫のようなものなのだから、それが陸上に移住するにはやはりその海を下着のようにしていつも持参しなければならなかったのでしょう。いま陸上にいる私たちの肉体には、無数のポケットに海が詰め込まれているのです。それがなくなるとまた海を補充しなければならない。だからぼくの体はいつも水道の蛇口から出る水を飲む。ぼくの体は毎日肉体の本質を飲んでいるのです。だから当然ながら、ぼくの体からは毎日肉体の本質が流れ出ていく。
ぼくの体には肉体の本質があるのではなく、肉体の本質が流通しているのです。ぼくの体は肉体の本質の流通機構の一つなのです。いわば水道の蛇口の一つのようなもの……。
その後成長してから、私はこの大宇宙の成分のほとんどが水素であることを知りました。宇宙にある物質の90パーセントは水素であるといわれています。ここから見える物質のほとんどすべて、つまり夜空に輝くすべての星は水素が燃えながら光っているのです。輝く星の本質は水素であり、この大宇宙の本質は水素なのです。さそり座のアンタレスも、うしかい座のアルクトウルスも、海を詰めた肉体の眠る夜の上空に光り輝く星のすべてが、いわばこの銀河系にある水素の水道の蛇口のようなもの……。
そういう宇宙の水素の水道、そういう蛇口の水漏れのとばっちりがひっかかって、地球には海ができているのだといわれています。だからぼくの体には肉体の本質が流通し、宇宙の本質が流通している。宇宙と肉体とは、その本質のほとんどが水によって水増しされているという共通の構造をもっている。だからぼくの体はどうしても水が飲みたくなってくるのに、ぼくは夜になると水を飲むのをガマンしなければならなかった。ぼくは水に焦がれながら、その水が本質であることを憎むほかはなかったのです。
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それでもぼくは、夜になると水を飲むのを何日もガマンしました。禁じられるとよけい欲しくなるのをそれ以上にガマンしながら、日が沈むとすぐ水から遠ざかったこともありました。そんなに水を避けていても、夜眠ると、ぼくの体からは水が流れ出ていくのです。水の体からは夜になっても水が流れる。これは本質的には当然なことなのに、なぜガマンしなければいけないのか。
ぼくは一人でいった夜の便所の帰りに、そっと風呂場へ寄り道をしました。足の裏にはヒンヤリとするタイルの空間に踏み込むと、薄暗いセメントの壁に真鍮の閉じた蛇口が、淋しげなシルエットで垂れ下がっているのです。その中には砂漠の水がしまわれている。手探りのままコックをそっとゆるめると、冷たい水滴が行列となって、タイルの上で警笛を鳴らします。ぼくは慌ててコックを締める。そして蛇口の先を口の中に包み込み、それからそっとまたコックをゆるめていくのです。禁断の水は警笛を包み込まれて、ゴクリ、ゴクリと体の中へ……。
腰をかがめて蛇口をくわえた顔の方向、暗い風呂場の窓の外にはキラキラと星が光っていました。星の光は風に吹かれたローソクのように、ハタハタと強くなったり、ハタハタと弱くなったり。ぼくはそれと同じリズムで水道の蛇口をゆるめたり閉じたりしながら、その星の光と睨み合っておりました。昼間は青空に隠れて見えないけれど、夜になると顔を出す。あの星空も夜尿症だ。あの星空も水を飲んでいる。そして夜にはポツポツ水滴となって、黒い空からにじみ出てくる。夜中にコックをゆるめた蛇口のように。そうだ。こんな夜中に水を流している水道も、この風呂場の蛇口くらいではないだろうか。この蛇口もやはり夜尿症……。
ぼくはコックを締めて口を離し、真鍮の膚を眺めました。風呂場の蛇口は、セメントの壁の奥に隠れた水道管に背中を掴まれ、じっと首をうなだれている。
だけどそれは当り前の形です。うなだれたパイプというのは、水道の機能が要求する当り前のデザインです。だけどその当り前の形が淋しげに見えてしまうのはなぜでしょうか。
ぼくはそのとき、水道の蛇口というものの本質を知ったのかもしれないと思います。
いやだけど、子供には本質という分別はできないし、本質という言葉も知りません。それはそんな風呂場の情景を保存したあとの私の頭が、その後ヒマをみてカシオの電卓か何かではじき出したものなのでしょう。私の頭はぼくの頭を追いかけながら、やっと本質に追いついたのです。
水道の蛇口の中を、蛇口の本質が流通し、肉体の本質が流通し、宇宙の本質が流通している。その宇宙の本質を満たす水増しの水は、息を止めた蛇口の背中のギリギリまで押し寄せている……。
ある夏の台所、水道を出しっぱなしでジャージャーと何かを洗っていました。私は子供。洗い終って蛇口のコックをひねろうとしたら、ぜんぜん動きません。もう用はないのに水はジャージャー出つづけています。そうなると出しっぱなしの水道というもの、一刻一刻がもったいなくなる。早く止めなきゃ、もったいない、もったいない。まるで大事な家が、はじからどんどん焼けていくみたいな感じです。ほおっておいたら大変だ。いまのうちに何とかしなきゃと慌てるあまり、コックをひねるのが逆ではないかと、今度は力いっぱい反対に回す。でも、いや、やっぱり違うと、またモトの方向に力いっぱい。いやこれもおかしいと、右に力いっぱい、左に力いっぱい。もうどうしようもありません。たまらずに大人を呼んできても、大人だって蛇口から出る浪費の勢いに押されて慌ててしまい、右か左かわからなくなる。
とにかく何とかしようと、大人はペンチを持ち出してきました。それでコックの根モトをいじったりしたら、今度は根モトから全面的に水がほとばしり出て、もうどうしようもありません。もう完全に非常事態です。水はその小さな部分から、破裂したように放射して、台所は一面に水びたし。
ふだんはチョロチョロ出る水道だけど、本当は恐しいもんだと思いました。水というものは水道の蛇口のところまで、物凄い勢いで押し寄せてきているのです。電気だってそうです。電気は目に見えないものだけど、電気はあのコンセントやソケットのところまで、物凄い勢いで押し寄せつづけているのです。ガスだって……。昔はガスはなかったけれど、いまはほとんどの家庭にあるでしょう。ガスはあの元栓のところまで、物凄い勢いで押し寄せつづけているのです。家というのは大変なところです。みんな外側からそういう圧力にかこまれて立っている……。
すっかりびしょ濡れになってしまったぼくの頭の中に、水色の地球が浮かんでいました。真暗闇に、ポツンと丸い水の玉。柔かい空気に包まれた森と湖の地球のまわりには、暗黒の真空が物凄い勢いで押し寄せつづけているのです。これでは地球はポツンと丸くなるほかはない。
どちらを向いても真暗闇のフトンの上で、ぼくは地球のようになって目を覚まします。真夜中に、ポツンと丸い水の玉。もう蛇口を締めてもしようがないのです。内側も外側もびしょ濡れになった大きな丸い水の玉が、真暗闇のフトンの上に転がっている……。
私はその後、大きくなってから考えました。夜尿症は宇宙の本質である。
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畳
畳の部屋には幽霊が出る。昔の人はよくそういったものである。何故って、畳はいつもやわらかくて湿っているから。幽霊の原料というものは、いつも家の床下の狭い暗い空間に、重く溜まって待っている。そしてそれが怨めしい順番に並んで畳の中にギュウギュウとはいり込み、あの無数の畳の目の隙間に濾過されながらはみ出していくと幽霊となって、夜の部屋の中に舞い上がる。だから畳の部屋には幽霊が出る。昔の人はよくそういったそうである。
……なんて、これは私の口から出まかせの言葉、いやペン先から出まかせの文章だけど、でも何となくそんな気がしませんか。畳というのは何故かしら、いやらしい感じがするのです。畳の中からはいつ幽霊が出てきても、いつ痴漢が出てきても、いつバイ菌が出てきても、ぜんぜんおかしくはない気がするのです。
つまり畳は生きている、ということなのだと思います。生きながらあの長方形に閉じ込められている。だから三畳の部屋には三人の畳が敷きつめられているのです。六畳の部屋には六人の畳が敷きつめられているのです。そしていつもその部屋で生きて動いて生活している人の足の裏や、尻や、背中に触わりながら、自分でどんどん擦り減っているのです。自分から好んで擦り減るなんて、畳というのはちょっとおかしいですね。
いや畳というのはやはりおかしい、いやらしいですよ。昔、夏の大掃除のときでした。一番最初はどこに指を突っ込むのか忘れたけれど、とにかくどうにかして一枚畳を上げると、あとはバラバラと全部畳は外せます。畳の下からは、畳が勝手にかくまっていたムカデや、ゾウリ虫や、ゲジゲジなどが、不満そうに引越しをはじめます。いままで人間が眠ったり、勉強したり、ご飯を食べたり、しかられたりしているところを、黙ってじっと下で聞いていたのだ。この虫たちは、それをまたじっと黙ってかくまっていたのだ。この畳どもは。表面はツルツルの顔をしながら。
そこで畳は日の当たる道路に引っぱり出されて、二枚ずつ三角になって立たせられながら、その表面を竹のモノサシでピタピタと引っぱたかれます。そうすると畳からは幽霊の原料が白い粉みたいになって、その粉が煙みたいになって、それがまわりの空気に吸い込まれて上の方に消えていきます。その上の方には青空があるから恐くはないのです。だけどその空が黒い空だったら、その白い粉の煙は恐い幽霊になってしまう。だから夜中に大掃除をしているのは見たことがありません。暗い道路で畳をピタピタ引っぱたいているのは見たことがありません。夜中にそおっと大掃除をしてみると、いったいどういうことになるのでしょうか。
いや問題はそこではない。そういう大掃除を終って引っぱたいた畳をしまうときです。位置や順番を間違えると、畳は最後の一枚がどうしてもはいらなくなる。ほんの一センチがはいらない。あーでもない、こうでもないと畳を押したり引いたりしているうちに、もうホトホトにくたびれてしゃがみ込んでしまいます。六畳の部屋の六人の畳が、いままでそんなに密着して並んでいたのかと、いやらしくなってきます。そんなにピッタリひっついて敷きつめられているのかと、その密着の異常さに後ずさりしてしまうのです。女性的タイトスカート、あの下半身のピッタリ密着感はいやらしいというより悩ましいけど、男の黒い短靴、それも五本の指が溶けそうなほどピッタリ密着した靴をはく官僚の男は、いやらしくて嫌いです。
だけど大人はもうそんな風に考えたりはしない。大人はもうその畳の密着度を知っているので、外す前に順番を間違えないように、畳に白いチョークで印をつけておきます。「東角」とか「南左二」とか。でも畳をモノサシで引っぱたいているうちにそれが消えてしまうから困るのです。もうそうなったら畳を入れる順番は、六畳だったら六の六乗くらいも組み合わせがあるだろうから、さすがの大人もその異常な密着度に恐れをなしてしまうのです。
だけどいまはそういう悩みはあまり聞きませんね。だいいちいまは夏になっても道路で畳を引っぱたいている風景を見たことがありません。うちだってこのアパートもう四年以上もいるけれど、一度も畳を引っぱたいたことがありません。だいいち畳を道路に引っぱり出すなんて、上の物をどけるだけでも大変ですよ。そんなめんどくさいこと、とてもやってるヒマはありません。昔の人はよくまァあんなめんどくさいことを毎年やっていたものだ。昔の人はやはり現代人ではないのだろう。そうだ、昔の家庭にはそういうときにコキ使える子供がたくさん住んでいたからなァ。
いまはもうコキ使えるような子供はいなくなった。大掃除をやるとすれば、夫と妻の二人だけである。だいいち畳の隙間にどうやって指を突っ込めばいいのかもわからない。そういう作業のできる人は、もう外人である。昔の人は外人なのだ。タオルで頬かむりをして汗水たらして畳を引っぱたけるのは、もういまでは遠い昔の外国に住む外人だけになってしまった。
だけど私も昔はその外国に住んでいました。私も昔は外人だった。しかし外人とはいえ、ずいぶん貧しい外人だったなァ。
私はその外国で、夜になると畳の上七〇センチほどの中空で眠っている時期がありました。小学校の後半だったでしょうか。
最初はもちろん人並に、畳の上に敷いたフトンの上で眠っていたのです。だけど私は青びょうたんの夜尿症でした。だからいつも睡眠のかげに隠れながら泌尿器から流れ出る水分が、下着やフトンを通過して畳の中までしみ込むのです。私の泌尿器には潜在意識が通じなかった。いや通じすぎたのか、いやそうじゃなくて条件反射がきかなかったのでしょう。
私が寝る位置の畳は少しへこんできました。濡れたフトンは竿にかけて乾かすこともできるけど、畳はそうはいきません。どうしても湿地帯となり、盆地となっていくのです。時代的にも家庭的にも物質のない情況で、家人はその滅びゆく畳を保護するために、古材を利用して寝台を作ってくれました。私の泌尿器はともかくとしても、その寝台によって畳は水分からまもられるのです。
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いまだったらその寝台のフトンの上にはビニールを敷いて、その上にタオルケットでも敷いて寝るでしょう。だけどその時代、石炭で蒸気機関車が走るその外国にはビニールなんて便利なものはありませんでした。寝ている背中がゴワゴワと、たしか敷布の下にあったのは油紙ではないでしょうか。
泌尿器から流れ出る水分はその油紙のところでプールされる。畳の上七〇センチほどの中空に浮いたその水溜まりの中で眠る私は、まるで水栽培の野菜のようなものでした。
だけど油紙というもの、完全ではない。ゴワゴワととんがったところにだんだんヒビが入って、そこから水分が漏れだすのですね。漏れる水はふたたびフトンを通過し、寝台の材木の隙間を抜けて、今度はその七〇センチ上空からピタン、ポタンと、畳の上に落下するのです。
それはもう畳をへこますための水力工事、その深夜作業のようなものでした。畳を保護するために作った寝台なのに、私がそこで眠るようになってからは、畳のへこませ工事は飛躍的に進んでしまいました。家人はその浸食に慌てて油紙を改良したり、寝台の位置を移動させたり、しまいにはその寝台睡眠法を廃止してまた畳にじかにフトンを敷いたりしましたが、気がついたときには六畳の部屋の六枚の畳が全部へこんでしまっておりました。たかが寝小便とはいえ、恐ろしいことだと、いまでも畳の目を見るたびに思い出します。
当時夜尿症を治す荒療治として、自分が漏らしたシミのフトンをかついで町の中を歩かせる、というお仕置きがありました。それがもしうまくいけば、それはたしかに精神力に働きかける治療となるかもしれないけれど、私はそんな話をチラチラ聞かされながら、そんなこと死んでもやらないぞと口を結んでおりました。だけど私の両親は甘かったせいか、私はそんな残酷なお仕置きを受けずにすみました。だけどもしその荒療治がふりかかっていたら、私の場合はそのへこんだ畳をかつがされていたのかもしれません。
その六枚とも畳のへこんでしまった六畳の部屋は、常時アンモニアが気化して立ちこめているようで、幽霊などは一度も迷い出ませんでした。畳にひそんでいるはずの幽霊の原料は、泌尿器からの水分によって追い出されていたのでしょう。私の水分が畳の中を隅から隅まで占領してしまっていたのです。濡れている畳というもの、足で踏むとジュッと水が出るほど湿っている畳というものはどうにも恐ろしいものだけど、この部屋の畳ばかりはもうたくさんだというような顔をして、私の方を見上げておりました。私だってもうたくさんだと思いました。つまりもうお互いにウンザリしながら顔をそむけ合っていたのです。
だけど私がいままで最高に濡れた畳に接したのは、伊勢湾台風のときでした。私はやっと夜尿症を脱却し、名古屋市港区の市営住宅で成人式を通過中のころでした。私の家の部屋の中へ、海が押し寄せて来たのです。堤防を切った海水は地上二メートルぐらいのところに水平線を引いたようです。私はカナヅチだけど、海底をころがって高台へ逃げました。カナヅチというものは本当によく沈むものです。私はいよいよ食えなくなったら、船の錨のアルバイトができるのではないかと思っています。
人間がみんな逃げたあと、逃げられなかったわが家の十二枚の畳は、その後二週間以上も泥水の中に沈んでいました。ときどき家の様子を見に行ったけど、畳はまだなかなか姿を見せません。やっと畳が見えはじめてやれやれとか思っていたら、近所のおじさんにどやされました。早く外ずして捨てに行かないとテャーヘンなことになると。
水没した畳は水のあるうちに水に浮かして捨てにいかないと、もうどうにも動かなくなるのです。そのとき海水はもう畳より少し水位が下がっていました。部屋の畳を道路の海面まで持って行くには、畳を外ずして多少なりとも持ち上げなければなりません。それはテャーヘンな重量でした。水をタップリと含んで、まるで寝そべった石材のようでした。一人ではビクとも持ち上がりません。だから濡れた部屋の中をズルズルとずらして、道路の海面に浮かべるとホッとするのです。ちょうど氷ぐらいの比重でしょうか。畳の表面が水面からちょっとだけのぞいています。だけど沈みはしません。二枚ぐらい重ねて浮かべることもできるのです。それを手で押して堤防まで運びながら、畳なんてヘンなものだと思いました。
それはまるで水に浮かんだ死体のようでした。両手でピチャンと押して手を離すと、その死体は海水の道路をいやいやながら流されていくのです。堤防のところまで来てみると、町中から吐き出された死体の山が、えんえんと海の方までつづいていました。私もそこに自分の家の死体を重ねました。おそらく幽霊は、慌ててどこかで作戦を練り直しているのだろうと思いました。
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割箸
割箸をパチン、いやパシンかな、いやピシン、バシッ、パチッ、パキン、ピキン……、やっぱりパチンかな?
割箸を割る音を文学的に表現するのはむつかしいものである。いやこれは文学的というよりは単に文字的ということかな?
私はどちらかというとパキンというのが好きだ。ピキンもいい。だけどビチ、とかボキ、なんて割れるとガッカリしてしまう。斜めに折れた割箸の片方だけが重くなって、喜び勇んで食べようとしていた御馳走が半分ひえてしまうのだ。
で割箸をパチン、新鮮な割箸が真二つに割れるあの初日の出のような両手の感触、あの感触といっしょにパチンを聞くと、私はもう何ともいわれぬ幸福感に包みこまれてしまうのである。
たとえそこがゴキブリの往来する駅前の定食屋であり、目の前にあるのが粗末な鯵のヒラキ定食であって、私の表情が今日もまた倦怠感を凸版で印刷したようなありさまでその食事にとりくんでいたにしても、最初の割箸パチンだけは一瞬の幸福感を花粉のように舞い上がらせて、私の感情をスッポリと包み込む。
いや私の頭はユウウツである。たとえば定食のぬるい味噌汁に眉をしかめ、そこに浮いている髪の毛に脳ミソがゆがみ、その連動で自分の靴下の湿っぽい感触がゆがんだ脳ミソに舞い戻ってくる。そういうときの私の頭の総体はユウウツであるが、しかしその私の頭の外側の一点に、割箸パチンは幸福感の渦巻を浮かばせている。
つまりこういうことだろう。この定食屋空間の中で発生する割箸パチンは、その瞬間に私の頭の高さのところまで舞い上がり、私のユウウツな頭のまわりを小さな衛星となって回りつづける。その衛星の引力による潮汐作用は、私の脳ミソの外側に幸福感の小さな盛り上がりをつくりだし、それが絶えず割箸パチン衛星からの見えない糸に引っ張られながら、このユウウツな頭の外側をクルン、クルンと回転していく。いやそういう定食屋空間における相対性心理の解明はあとでもいいのだ。割箸パチンに発生する幸福感とは何か、またその由来について、これをまず漢字とひらがなで観測することの方が先なのである。
で割箸をパチン、うーんたまらないんですねェこれが。でもう一度パチン、うーん幸福。もう一度、こんどはパキン、いいなァ。パシン。ピシッ。パチン……。こうして割箸はその一回性がどんどんムダになっていく。本当はもったいないことである。だけど本当はたまりませんねェ、この快感が……。
快感とはいつももったいないものである。だけど日本の食堂のテーブルの上には、その快感の割箸が無料で山積みにされている。一人で何本パチンとやっても、それは少くとも違法ではないのだ。日本は何という幸福な国なのだろうか。しかし本当はやはりもったいないことである。
割箸の材木は杉らしいが、いまではその割箸用の杉が底をついて、遠くカナダあたりから輸入しているという。だから日本の外食者の群に朝食と昼食と夕食の時間が訪れてラーメンや野菜炒め定食が日本全国の胃袋に収まるたびに、カナダではある一区劃ずつの原始林がバタバタと倒れていくことになるのだという。日本人の外食はカナダの自然を破壊するのだ。
しかし割箸パチンの幸福感のためには、それも仕方のないことだと思う。仮りに割箸をパチンと割ったために自然環境が破壊され、地球上の生態系が変調をきたし、そのために人類が滅亡することになるとしても、それは核弾頭の連発式で人類が滅亡するより、多少はマシなことだと思うのだけど……。
昔、お父さんのお箸は大きいお箸でした。兄さんやお姉さんのは中くらいのお箸、ぼくや弟のは小さいお箸、そうやってぼくの家の食卓には八膳のお箸が並びました。そういうお箸は漆塗りの木や動物の骨などで出来ていて、何回でも洗って使えるのです。
父のお箸にはお箸箱もついていました。父はご飯を食べたあと、お皿に残った煮魚の骨にお湯をかけて、それを飲みながら自分のお箸の先をシャバシャバと洗い、そのままお箸箱の中にしまってしまうのでした。いま考えると貧乏くさいような習慣だけど、昔の大人にとっては別に貧乏くさいことでもなかったのでしょう。昔はやはりいまよりも物が質素に使われていたのです。
……この間、うちの四歳の娘が幼稚園の遠足に行った。カバンの中にお弁当を詰めて、ジュースやお菓子もたくさん入れて……、しかし私はその中身を見ながら淋しくなった。それらは娘がいつも食べているものと大して変りはないのである。別に貧相な中身ではない。といってゼイタクな中身でもないのだ。それはよその子供の中身とくらべてみても、大して変りはないのだろう。だからその用意しているカバンの中身を見ている娘の目にも、特別の輝きはないのである。
いまの子供たちにとって御馳走なんてあるのだろうか。金額の高いという、大人にとっての御馳走はあるかもしれない。だけど子供にとって本当に嬉しい御馳走なんてあるのだろうか。私は娘の遠足のカバンの中を見ながら、何ともガッカリして淋しくなった。そのカバンを肩から下げて、ふつうのことのように出かけていく娘の姿が不憫であった。涙が思わず内側にこぼれた。それは内側なので、ハンケチで拭こうにも拭き取れない。
昔、ぼくの家でどこかから頂いたケーキを切ったりするときには、そのナイフの切り込む厚みに家族八人の視線が集中していました。夕食にすき焼をかこむときなど、右手を伸ばす間隔が早すぎないかと暗黙のうちに観察しあい、その箸の先につかまれたのが、肉が何回、ネギが何回、豆腐が何回と、互いに計算しあっているようでした。
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それはまぎれもない御馳走なのでした。だからその配分にもキチンと年齢的な階級、紅茶のお砂糖は子供は一つ半、バナナは疫痢になるので子供は一本の三分の一(?)……、家で食べる御馳走には必ず制限があるのです。それは幸福ではありません。だけどそれは、不幸であったといえるのでしょうか。
それがどちらであるかは誰にも決められないのかもしれません。だけどぼくたちの遠足、昔のリュックサックの中のお菓子は輝いていました。ぼくたちはその重さにほくそえんでいました。そればっかりは重いほど嬉しいのです。ホンノリと湿った重みのリュックサック。それは家で食べるのとは違う特別な御馳走なのです。それは単なる御飯なのではなくて特別な御馳走なのです。そしてそのリュックサックをかついで目的地に着き、場所を見つけ、お弁当の包みの新聞紙をひろげ、割箸をパチン……。
そのときそれが割箸でなく、いつも家のお膳に並べられる自分用の骨のお箸だったなら、それは単なるふつうの御飯になってしまうのです。いつもとつづく三度三度の御飯なのです。だけど新聞紙の包みからまず出てくるのは新しい割箸、このお弁当のあとにはまだキャラメルがある、ミカンもある、カリントウだってあるぞ、これは誰にも制限されない、全部自分で好きな順番に食べられるのだ、まず乾いた口に水筒の水を飲んで、さァて割箸をパチン……。
みなさん、これこそは幸福への瞬間なのです。いやそれともやはり不幸であったといえるのでしょうか。……そうかもしれない。幸福というのは不幸に包まれた中でのある異質の瞬間のこと、だとすると幸福のためにはいつも不幸の包みが必需品となる。
割箸をパチンと割って幸福だなんて、ぼくは本当は不幸なんですね。だけどやっぱり割箸をパチンと割ると、ほとんど条件反射のように幸福のシコリのようなものが頭のまわりをまわりはじめる。
割箸は外で食べる食事のシンボルです。外で食べる食事というのは、遠足のお弁当、そして百貨店の大食堂、いやたとえ自分一人だけ父親にこっそり連れて行ってもらった会社のそばの大衆食堂であったにしても、そこで割箸がパチンと割れると、その子供はすべての義務や責任から解き放たれた特権的御馳走構造の中にスッポリと包み込まれてしまうのです。このような作用をもたらす割箸のパチンという音は、あるいは母性の響きのようなものなのでしょうか。
母性の響き? こういうふうにいってみると、もう一つ言葉が顔を出します。もう一つ、食事するぼくの頭にいつもひっついていて離れないもの、またまたぼくをはるか彼方の地平線の裏側にまで持ち運んでしまう言葉……。
「さてと、それじゃおヒルにしましょうか」
おヒル、この言葉には、温度計で計れないぬくもりがある。すべてが順調にゆっくり進む、そんな自然のなかの安定感。ぼくはこの「おヒル」という言葉を聞いただけで、もう脳ミソの中の口が柔らかい味を無限大にほおばってしまうのです。別に母性という言葉につながるからといって、母親言葉でなくてもいいのです。
むかし看板屋に勤めていたころ、職場に大工がいました。職人です。その職人が昼になると声をあげます。
「よし、ヒルにしようか」
みんなで休みのデパートの現場仕事なんかに出かけていって、日差しの暑い屋上で時計の針が十二時を指す。
「おう、それ途中でいいからヒルにしよう。ヒルだ、ヒルだ」
ヒル、おヒル、その言葉を聞くぼくの消化器系統は、お弁当の御飯にしみたタクアンの色のような、親密な優しさに包まれるのです。
「さァ昼食だ」
という言葉では何も余分なことは発生しません。(ああ昼食か)と思うだけです。だけど「おヒル」という言葉はまるで魔法のように、ぼくの食事にまつわる金銭関係をほどいてしまうのです。目の前の現実にあるしがらみから、ぼくを一瞬のうちに連れ去ってしまうのです。その「おヒル」という言葉の口の中は、どんな甘えでも受け入れられる夢の暖帯、無重力のユートピア……。
だけどそれはやはり言葉だけに住み込んでいる世界であって、目の上の額からは汗がタラタラと流れ落ち、私はやはり雑然としたデパートの屋上にいて、コンクリートの上にベニヤ板を敷いて、ほかの職人たちと「昼食」をしている。それは無料で支給される仕出し弁当なのだけど、ほとんど脂だけのトンカツの片方がソースでべちゃべちゃに溶けていて、片方はコロモがカリカリに乾いている。タクアンはただ塩辛いだけのものであり、野菜の煮物はやけに甘ったるい。私たちはその弁当をモクモクと食べる。それでも最初にパチンと割った割箸の音は「おヒル」という言葉と追いつ追われつのシーソーゲームのようなことをしながら、空腹を食べている私の頭の外側を、クルン、クルンと回りつづけるのでありました。
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雑巾
しかし雑巾《ゾーキン》ほど差別され、軽蔑されている布切れがほかにあるだろうか。
同じ布切れでも手拭いなどはちゃんと一人前の人格としての扱いを受けている。ツギハギだらけの穴だらけという手拭いはあまり見たことがない。布巾《フキン》にしてもそうである。ちゃんと洗って高い所に干してくれる。|手巾(ハンカチ)などは衣服よりも清潔に扱われていて、歌や小説の中などで何度も書いてもらっているのである。
いったいいままでに雑巾を歌った歌があるだろうか。雑巾を書いた小説があるだろうか。デズデモーナが落とすのは手巾である。あそこは絶対に雑巾にはしてもらえないのである。もしもあそこでデズデモーナが雑巾を落としたりしたら、周囲の人はもうあきれ果てて、事件も何も起こらなくなってしまうのである。小説にならなくなってしまうのである。
世の中の仕組みはそのようになっているのだ。雑巾はそのような位置に押し込められているのだ。頭に手拭いでネジリ鉢巻はすることがあっても、雑巾のネジリ鉢巻は軽蔑されてしまうのである。
雑巾は縫い物の中でも最底辺に置かれている。小学校の家庭科の裁縫の時間に、最初に縫わされるのが雑巾だった。生まれてはじめてのおぼつかない手つきで糸の線がヨレヨレになりながらも、その時間に縫われたものはちゃんと雑巾として認められてしまうのであった。
「雑巾だからといってバカにしてはいけません」
といって縫う前に注意する先生の言葉というものには、雑巾はバカにされても当然であるという考えが、そのまま裏返しに見えているのであった。雑巾なんて小学二年くらいのド素人だって、簡単に縫える下等な縫い物だという軽蔑の念が、その時間に縫われた雑巾の中にはジットリとしみ込んでいるのであった。そのような軽蔑の上に、
「でもちゃんと縫えたじゃないの」
というような軽蔑の仕上げ言葉がのっかるのであった。ああ、可哀相な雑巾。
しかしそのように雑巾を可哀相だと思うことは、やはり雑巾に対する差別感情なのだろう。雑巾を下層に置く階級構造への保守的意識が、可哀相という感情演技となってあらわれるのである。その場合もしも雑巾自身がツギハギルックを意図的なデザインとするマゾヒストであった場合、可哀相という言葉を発した人の偽善的スタイルは見事に支えを失って、作意丸出しの宙ブラリンになってしまうのだ。
とはいえやはり雑巾は軽蔑されている。世の中には洋服地はたくさん売っていても、雑巾のための布地がはたして新品で売られているだろうか。いやァそんなもの、どこの店にも並んではおりません。
雑巾は、すべての布地が破産し没落しながら流れつく地の果て、失意のどん底、生命の掃き溜め、ボロの溜まり場なのである。そういうボロはほうっておいてもこの世の生活がいくらでも生み出してくる。雑巾の生地はそういうボロの中からいくらでもタダで採用できるのだ。新品のまま雑巾を志願する布地なんてどこにもいるわけがない。雑巾はそれほどの軽蔑の位置にあるのである。
だいたい雑という字のつくものにロクなものはない。これは軽蔑の冠詞みたいなものなのだろう。雑念というものは払いのけるべきものであり、雑草というものは駆除されるべき対象である。雑談はやめなければならないものであり、雑音はカットされるものなのである。雑菌は消毒されて当然であるだけでなく、大腸菌や梅毒菌ほどの人格、いや菌格も認められていないのだ。いまの社会である程度の地位を認められている雑の字は、雑誌と雑煮くらいのものであろうか。
雑巾はもう軽蔑のあまりに、この世から全面的に抹消されようとしている。モップやダスキンやペーパータオルといったものは、雑巾を追放するために派遣されてきたのだ。雑巾なんてもう二度といじりたくない、雑巾が部屋の隅にあるだけで品位が下がる、わたしは雑巾とは何の関係もないのです。いやもちろん雑巾だってそれなりの役目はあるでしょうけど、やはりああいう汚ない身なりをされていては、いちおう世間ていというものが……。
*
絵であろうと落語であろうと、昔の修業の手はじめはまず雑巾がけであった。雑巾をいじったりするのは一番手下のものの仕事であった。
小学校でもそうでした。朝と帰りの掃除の時間、掃除道具には|帚(ホーキ)と雑巾の二種類がある。当然帚の奪い合いでした。早い者順であったり、強い者順であったり。そしてはみ出したものはいやいや雑巾を握ることになるのです。汚いということもあるだろうけど、冬はとにかく冷たいのです。帚にめぐり会えるのは、五回に一回くらいだったでしょうか。
だけど一度だけ、ぼくは帚を奪うのでなくゆずってもらったことがありました。ぼくは授業中にウンコをしかぶってしまったのです。
(しかぶる=着衣のまま糞尿を漏らすこと。大分弁)
ちょうどお腹を下していたんですね。もう六時間目の終りでガマンにガマンを重ねていたのだけど、とうとう力尽きてしまったのです。
しかしいまはどうなのでしょうか。昔の男子小学生は、学校の便所で大便をするのを嫌がりました。小便は自由奔放なのだけど、大便は「女の便所」にはいらなければならないのです。それがみんなどうにも恥ずかしい。だから一所懸命ガマンして、家の便所まで持ち帰っていたものでした。だけどその途中でいつも落としそうになるのです。だから早く家に帰ろうとするのだけれど、走るとよけいに落としそうになる。といって落とさないようにゆっくり歩くと、家までなかなか届かないのです。結局はその中間をとることになり、落とさないようにしっかりと歩きながら、何気なく早く歩く。その体の部分をだましだまし歩いていくのです。
しかしその日はそこにまでいかない授業中に、その落とし物が体の出口に押し寄せてきたのでした。ただでさえ「女便所」にはいるのが恥ずかしいのに、授業中に手を上げてそこに行くなんて、死ぬほど恥ずかしいことなのでした。だから一所懸命授業を聞いているふりをしながら、あと一時間、あと三十分、あと十五分、うーん、あと、あと……。
そして破局がやってきたのです。ぼくは教室の後の方の席で、椅子に坐ったままでした。ズボンがだんだん冷たくなっていき、木の椅子にピッタリとひっついていきます。ぼくの全身から血の気が引いていくのがわかりました。もう引っこみはつかない。いや冗談じゃなく本当に引っこみがつかない。まだ授業はつづいているけれど、いずれ終わればみんなが立ち上がる。そうすると机を片付けて掃除がはじまるのです。そうするとぼくのこの分厚く濡れたズボンは白日のもとにさらけ出される。
「……というわけで大化の改新がはじまるのですが、えー、今日はこれまで」
授業はやっぱり終わり、みんなワイワイ、ガヤガヤ、ガタガタゴトンと、勉強用具を片付け、机の上に椅子を上げて、早い者はもう帚を手にしています。とうとう暴露の時がきてしまったのだ。ぼくはカバンを開けるでもなく、エンピツをしまうでもなく、うつ向いてノートの端をなでたりさすったりしているのです。冷たいズボンはまるで糊がタップリと椅子に貼りついたみたいに、立ち上がることができないのです。
「どげーしたんか?」
僕がよほど青ざめていたのでしょうか。ふだんそれほど親しくもない友人が声をかけてきました。もう椅子を上げてないのはぼくのところだけです。ぼくは、
「いや、あの……」
とか何とかいおうとしたのだけれど、口も体も硬直したまま。友人はぼくの顔をのぞくようにしながら、
「腹が痛ェんか? ほら、この帚を貸しちゃるけ」
これは本当は大変なことなのです。自分が獲得した帚を他人に譲るなんて、まずふつうはとても考えられないことなのです。だけどぼくはいまや帚どころではありません。ズボンがすでに雑巾のようになっている……。
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事態はいつの間にか先生のところまで知れ渡りました。ぼくはみんなからさんざん冷かされてバカにされるだろうと覚悟していたのだけど、みんなは意外と同情的な態度で包んでくれました。みんな気の毒そうな顔をしてくれるのです。ぼくの緊張は一箇所だけほぐれました。だけどもうすでに臭気も発生しています。
先生に呼ばれて、ぼくはズブズブと教壇まで歩いていきました。まるで濡れたロボットのような歩調でした。先生は少し笑顔を見せながら、馬鹿な奴だ、仕方がない、というような意味のことをつぶやきながら、習字の紙をたくさん渡してくれました。それはもちろん新品ではなくて、もう何度も練習をして黒い字がいくつも重なっていらなくなった習字の紙です。厚さは十センチくらいもありました。
こんなにたくさんはいらないのに、なんて倹約的に思いながらも、ぼくはその習字の紙の束をかかえてまたロボットのように教室を出ると、校舎の横にある便所、そこの女の便所にはいりました。最初からここにはいればよかったのです。だけどやはりはいれなかったのです。
ぼくは内側から木のカギをしっかりかけてから、ゆっくり作業にとりかかりました。いまごろみんな掃除をしているのに、ぼくはこんなことになってしまって、今日は掃除をしなくてもいいのだろうかと考えながら、ズボンを脱いで、パンツを脱いで、まるで糊を拭き取るように……、最初は自分一人でできるだろうかと心配だったけど、やればできるものだと思いました。もうほかのクラスも授業が終わって、便所の木戸が外から何回もコンコンと叩かれます。そのたびにぼくはコンコンと叩き返して作業をつづける。外ではみんなおしゃべりをしたりふざけ合ったりして遊んでいます。ぼくはもう学校中の評判になっているんじゃないかと思いながら、人が走ると地面というのは意外に揺れるもんだと思ったりもしました。
……何度も何度もズボンと体を習字紙でこすりながら、気がつくと便所の外はもうほとんど静かになっている。習字の紙もほとんどなくなっていました。やはりたくさんもらっといてよかった。もうほとんど拭きとってしまっているのだけど、外にはまだ誰かいるような気がして出られない。だからぼくは便所の中で同じ作業をくり返すのです。やがてそれもやめました。
何の音もしない便所の一室で、もう一度湿ったズボンをはいてじーっとしゃがみこみながら、ぼくはまるで授業の終った教室の後ろにかけてある雑巾のようでした。便所の外で、枯葉が地面をこすりながら転がっていく。
やっとのことで湿気のなくなった気持をかかえて、ぼくは便所の木戸を開けました。わずかに残った習字紙を職員室に返すと、誰もいない教室からカバンを取って家路を歩きながら、ぼくはもうカラカラな気持になっていました。それはまるでよく乾かしてカラカラにひからびて固くなった雑巾のようでした。
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ラジオ
ラジオは夏のものですね。
まだ民間放送もないころの夏の日曜日、
「キンコンカーン……」
という鐘の音が棚の上のラジオからノロノロと流れ、適度に迎合的なアナウンサーの声と、下手クソな素人の調子外れの歌声とが、交互に退屈なテンポのもとに聞こえてくると、ああもう、日曜日だというのに出かけるところもなくて、ただゴロゴロと畳の上に寝転んで、一日がジットリと過ぎていくのを待っているだけ。だるい。暑い。もう嫌だ。といってほかに何をすることもない……。
ラジオのまわりにはいつもそんな空気が漂っています。ラジオはいつも退屈な夏の日中の顔をしていて、だるいのです。もちろん夏はいまでも暑い。だけどいまのこの近くにある夏は、あんなにへたりこむほどだるくはない。
あのころの夏は本当にだるかった。停留所で電車やバスを待つ間、みんな荷物を地ベタにおろしてしゃがんでいました。少しでも立っているのがもったいなかった。あんなに体がだるいのは、栄養失調というよりは塩分の欠乏だそうですね。塩分というのは体の敵みたいに思われていますが、しかし塩がぜんぜんないと人間の体は地面にヘナヘナとへたりこんでしまうのです。
母は両手にバケツを持って電車に乗って、遠くの海岸から海水を運んできました。何時間かの長い道のり、海水はバケツの中でピチャピチャと揺れています。家に着くまでに三分の一くらいはこぼれてしまうのです。だけどほかにはどこにも塩分がない。あのころ塩分というのは海にしかなかったのです。町の中はカラッポでした。
ぼくもついて行ったことがありますが、だるい体で海水を運ぶ……、あの水のはいったバケツというのはじつに持ちにくいのですね。ただ手でまっすぐぶら下げていると、歩く足にバケツのフチがぶつかってしまう。だから手を少し横に突き出してぶら下げないといけない。これがだるいのですね。だるいからつい手がまっすぐ下がってしまう。するとバケツが足にぶっつかる。海水がピチャピチャとはねて道路にしみ込む。それで持って帰る塩分が少し減ってしまうのです。だるい体はソンばっかりしている。だるくなければ海水はちゃんとこぼさずに運べるのに、だるい体で海水を運ぶといつまでもだるい。
その持ち帰った海水を大きな鍋でグツグツと煮立てていると、しまいには水分の蒸発した鍋の底で塩がとれるのです。だけどいつも待ちきれなくて、鍋の底に海水がやっとドロドロになりはじめたというくらいのところで、もうそれを煮物なんかに使ってしまうのです。それは塩分にはちがいないけど、じつに苦い塩分でした。鍋の底のドロドロの中には、ゴミや海草のカケラなども居残っているのでした。海水というのは塩分だけではないのです。ぼくはレンタンの上で火アブリになっている鍋底を横目で見つめながら、夏は嫌だと思いました。それらが鍋の底に煮つまるまでの時間というものは、じつに残酷でだるい時間でありました。
棚の上のラジオには、そういうだるい時間がまきついているのです。それはだるいだけでなく暑い。どうしようもない夏なのです。だけどなぜ夏なのでしょうか。ラジオは冬でも春でも秋でも聞いていたのに、想い出はいつもだるい夏。
八月十五日も夏でした。学校はもうだいぶ前から休みです。最後に登校したのはいつだったでしょうか。空襲のために突然早引けになったり、あるいはその前の日にあらかじめ休みだと決められてしまったり……。学校が休みになるというのは大変なことなのです。戦争のほかに学校が休みになるのは台風くらいのものでしょう。子供はそういう非常事態が大好きでした。またこんど学校が休みになるといいと思い、そのためにせっせと学校に行くのです。
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最後に登校した夏の日、教室にはぼく一人でした。先生が苦笑いしながらやってきて、
「学校から知らせがあるまでしばらく休みにするから、気をつけて帰りなさい」
といわれました。みんなもう勝手に判断して休みにしたのでしょう。ぼくは勝手な判断が遅れたのでした。帰り道、地上一メートルくらいの高さの頭の中で、これで解散なのだと思いました。真夏の道なのに、そのときだけはふいに涼しい風が頬をなぜていきました。ちょうど台風が押しよせてくる前の軽いよそ風のような、一瞬の無気味な心地よさ。ぼくの頬ペタに、大きな猛獣のはじっこの柔らかい毛の先が、サラリと触わっていったのでした。
それが何月の何日だったのかは忘れたけれど、もう学校に行かない日はずーっとつづいていたはずなのに、八月十五日のお昼、国民は全員仕事も勉強もやめてラジオの前に坐ること、そのときにいままでで一番重大な放送がある、というそのことだけはいつの間にか先生から知らされていたのです。
その日は快晴、軍国主義の青空はスモッグも何もなく澄み渡り、太陽の光は容赦なく屋根瓦に当たってカンカンと音が聞こえてくるほどの静けさでした。ぼくの家は八人家族でしたが、その時間、父や兄や姉たちは、それぞれ会社や軍需工場や学徒動員で外に出ていて、結局家のラジオの前にいたのは、母と、三番目の姉とぼくの三人。
ぼくと母と姉は、ラジオの前に並んで坐っていました。重大な話なので、ぼくの目は畳の上を見ていました。棚の上のラジオからは、
「ガッガーッ、ピッピーッ、ガリガリ……」
という音が聞こえてきます。それは天皇陛下の声なのです。だけど何をしゃべっているのかさっぱりわかりません。重大な話というものはよくわからないものだ。大仏や国宝なども重大なものはずーっと奥の暗くて見えにくい所に置かれてあって、ふつうの人には何が重大なのかよくわからないものだ。ぼくは畳の目を見ながらそんなことを連想していました。よく耳をすますとラジオの雑音の合い間、合い間には、ゆるい波のような人の声がもれて聞こえてきます。何だかオフロの中で一人で演説しているような……、それが天皇陛下の声らしいのです。だけどやっぱり何をしゃべっているのか、その言葉がぜんぜん聞き取れません。
国民は本当に全員ラジオの前に坐っているのでしょうか。家の外には通る人もなく、真夏の暑い空気の中で、家の窓も襖も玄関のガラス戸も全部開け放たれて、庭には真紅な鶏頭の花が、ユラユラと燃えるように咲いています。シンとした青空の下で、ラジオの雑音だけがガリガリとふるえています。だけどその放送は本当に重大なのだとわかりました。見上げると母は、そのラジオの音を聞いて泣いていたのです。母は手拭いであふれる涙を押さえていました。
「お声がお変りになって……」
あとはもうハラハラと涙ばかり。
しかしこのことを近年になってある先輩に話したら、それはおかしなことだ、当時の一般の国民はそれまでに天皇の声を聞いたことがないはずだ、天皇の声はその八月十五日の放送ではじめて国民一般の耳に流れ込んだのだ、それにあのときのラジオの雑音をかいくぐって天皇の声が聞こえたにしても、あの話は一般人の知識では理解できないはずだというのです。
だけど母はたしかに泣いていました。
「お声がお変りになって……」
あとはもうハラハラと涙ばかり。おそらく母は天皇に仮託して泣いていたのだろうと思います。ラジオから流れる音は、それが天皇みたいなものでありさえすれば、雑音でも人の声でもよかったのでしょう。そのときの棚の上のラジオというのは、母にとっては鏡台のようなものだったのだと思います。
「お声がお変りになって……」
それはその棚の上の鏡に映った自分たちの変り果てた姿に、思わず涙を流していたのだろうと思うのです。いつの間にかずるずると崩れ落ちていく運命の砂の壁、気がつけばとにかく身を守ることの精一杯の毎日で、鏡台の埃をはらうゆとりさえなく、その日の放送ではじめて鏡を見たのだと思うのです。
それでもぼくには放送の意味がわかりませんでした。いやぼくにはまだその鏡が見えなかったのです。庭には真紅な鶏頭の花が、ユラユラと燃えるように咲いています。あ、また庭の方を見てしまった。重大なのに。ぼくは母の涙をうかがいながら、今度は玄関の方を見ました。右も左も開けっ放しの夏の家、だけど風は少しも吹き抜けてはいきません。そのとき開け放たれた玄関の外の道を、自転車に乗った大人の男が一人、スーッと通り過ぎて行きました。まだ涙の出ないぼくは、そんなことに驚いてしまいました。国民が全員ラジオを聞いているはずなのに。ぼくは思わず声を出した。
「あ、ラジオ聞いてない人がいるよ!」
母はべつに答えませんでした。姉もべつにとりあってはくれません。だけどたしかにラジオを聞いてない人がいたのです。あの人は誰だろうか。ラジオのことを忘れているのだろうか。重大なのに、聞かなくても平気なのだろうか。ぼくの頭はその自転車に乗って通り過ぎた人のシルエットを追いかけながら、ボンヤリとラジオの音を聞いていました。国民全員の中にはまだまだぼくの知らない人たちがたくさんいるのだと思いました。
夏のラジオがだるくなったのは、それからあとのことだと思います。国民が棚の上の鏡を見てしまってから、肉体は停留所でしゃがみこむようになりました。体の中の塩分は、みんな海に戻ってしまったのです。戦後はもう一度その海水をバケツで汲んでくることからはじまったのです。
いま私の机の上にはSONYのソリッド・ステイト・ナントカという弁当箱くらいのラジオがあります。いや大きさを比較するのに弁当箱なんて、私もトシですね。
私は机の上のペン先で絵をカリカリと描くときには、ラジオのスイッチをプチンと押しています。今日は王が28号を打ったけど、ブリーデンが29号30号を打ってしまいました。いまのラジオはポータブルでコンパクトになっています。昔のラジオは持ち運ぶものではなく、まるで神棚のような顔をしていましたね。いまはテレビの方が神棚になってしまったので、ラジオはポータブルになったのでしょう。
夏はいまも暑い。夏の汗はあのころと同じように体から流れ出てきます。だけどいまの体には、あの地ベタにへたり込むようなだるさはない。あのころのだるさは過激でした。毎年がだるいだるい過激な夏でした。だけどそんな夏は棚の上のラジオといっしょに、いつの間にかクズ屋のオジサンがリヤカーに積んで運び去っていきました。それはいつ、いくらで売り渡したのか、いまはもう誰も覚えていないことでしょう。あの棚の上のラジオの群れは町の外に転がり落ちて、この世の中の一番低いところに集結している。それはレンタンの上の鍋の底、そしてこの明るく見える町の外の夢の島……。
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消しゴム
消しゴムというのはおかしな物体である。便宜上四角い形をしてはいるけど、それは消しゴムに固有の形というわけではない。消しゴムの四角い形はいつのまにか丸くなったり三角になったりして、表面にある仮のシルシもいつの間にかすり減って落ちてしまう。消しゴムは本当は粉や液体のような不定形のもので、モトモト一個の個体としてあるのではなく、したがってその形というのはすり減ってなくなるためにだけ存在している。
そもそも消しゴムというものは、本来ならば不必要なものだ。世の中に必要なのはあくまで鉛筆の方である。本当は鉛筆だけあればコトは足りるのだ。ただウッカリした鉛筆が字や線を間違えたときにだけ、やっと消しゴムの出番がやってくる。鉛筆が間違えなければ永久に消しゴムの出番はないのだ。そして鉛筆というのはいつも間違えないように、間違えないようにと活動している。間違えるための鉛筆というのは存在しない。間違えやすい鉛筆というのはあるにしても。
したがって鉛筆が本来の鉛筆としてあるかぎりは、消しゴムは世の中に存在する必要のないものである。それなのに消しゴムは生産されている。南洋のゴムの木はどんどん消しゴムになっている。いや、いまは石油が原料だろうか。いずれにしても消しゴム工場の労働者は、確実に給料をもらっているのだ。これはいったいどういうことなのだろうか。私には何故か世の中が半分ずつ減っているようで気になってくる。
私の小学生のころ、戦後の物資の欠乏していた時代には、消しゴムも欠乏していた。私たちはできるだけ鉛筆の線を間違えないようにし、それでも間違えた線は指先でこすって消していた。指先にツバをつけることもあった。それは消し取るというよりも、そこにある鉛筆の線を指で押し崩してバラバラにして周囲の空白にまき散らすことによって、線の存在を希薄にするようなことであった。だから同じ所を二度三度と間違えると、その場所の空白はだんだん灰色になっていき、新しく書く鉛筆の線というのも最初からその存在が希薄になってしまう。そうなったところでやっと消しゴムが出動していくのであった。
だけど当時の消しゴムはいまのように減りやすいものではなく、なかなか減りにくい、つまり丈夫な消しゴムなのであった。丈夫であるということは倹約の時代には当然要求される性質なのだけど、減ることを本質とする消しゴムの場合には、丈夫な消しゴムというのは消しにくい消しゴムになってしまうのである。その丈夫な消しゴムは、ゴムの粉が鉛筆の線に娼婦のようにからみついてなしくずしに連れ去っていくというのではなくて、まるで粗野なブルドーザーのように紙の繊維ごと鉛筆の線をひっぺがしてしまうのである。だから消しゴム自体は減らないけれど、紙の方が減って穴が開いてしまうのであった。これはもう消しゴムというよりはヤスリのようなもの、鍬やツルハシ、スコップのようなものである。ナイフのような消しゴムである。やはり戦後の消しゴムはすさんでいた。
しかしそういう殺意をムキ出しにしたような消しゴムであっても、買いたての新しい消しゴムにはワクワクとする。早くそれを使ってみたい。早く鉛筆の線を消してみたい。だから鉛筆が間違えるのを待ち構えている。だけどそういうときにかぎって右手は意識しすぎて、キチンと書いてしまう。なかなか間違えることができない。なかなか消しゴムを使う場面がない。
そこであらかじめ間違えた線、まったく何の意味も持たない、消すための鉛筆の線というものが描かれることになる。それは結局は消されてしまう線なのだけど、何故か気になる線である。消しゴムという世の中に不必要なものの力を試すために必要なもの、これほど純粋に不必要なものの存在というものがあるだろうか。もしも芸術というものが確定した形であるとすれば、この線のようなものなのかもしれないと考えたりもする。
いやここにわざわざ芸術という字が登場する必要もないのだけれど、しかし買ったばかりの消しゴムのその機能だけを純粋に取り出してみたいという気持はあるものである。だけど鉛筆の本当の間違いというものは、自然に、知らぬ間に発生するものなのだ。この間違いは、忘れものとよく似ている。忘れものというのも自然に、知らぬ間に発生するものである。意識して忘れるということは絶対にできない。もし仮りに「忘れもの探知機」というものをどこかで買ってきたとして、そのテストのためにあらかじめ忘れてみるもの……。しかし逆にいうと、その試したものがじっさいにみるみるうちにどこかに忘れ去られていくとすれば「忘れもの探知機」は夢でなく現実のものとなるだろうけど。
忘れものは記憶力の裏側にぶら下がっているものである、記憶力というエネルギーを発生させているモーターの回転軸は、一方で記憶力を発生させながら、もう一方では忘却力を発生させている。だから私たちが見るそのモーターは半分しか見えない。その回転軸の記憶力発生の先端はハッキリと見えているけど、忘却力の方の先端はボンヤリと消えていて、どうしても見ることができないのだ。
私たちの現実とは記憶力の世の中のことである。この世の中を先頭に立って動かしているコンピューターは、記憶力だけで作動している。技術の革新によってはこの記憶力はいくらでも増大できる。だけどもしもこの世の中に忘却力によって作動するコンピューターができたとすれば、私たちの現実は一挙に拡大するであろう。そのときにこそ超現実が現実のものとなる……。
シュールリアリズムという言葉は、いまではこの世の中での表現の一形式となるスマートさを身につけてしまっているが、それはこの忘却力で作動するコンピューターがいまだに発明されていないからである。この装置の特許権を最初に手にするものは誰だろうか。
それはまず消しゴムの研究からはじまると私は考える。消しゴムは鉛筆の線を消すためのものであるが、もう一方では自分自身がこの世から消えてしまうから消しゴムなのだ。自分自身がすり減って粉となり、その粉がありったけの媚態をつくして鉛筆の粉に粘着し、キリッとしていたつもりがつい一歩足を踏み外したという鉛筆の線を、そのままズルズルと連れ去って、忘れものの嬌声渦巻くキャバレーのドアの向うへ消えてしまう。つまり消しゴムをゴシゴシやってフッと吹くと、消したものはその息に飛ばされてなくなるけれど、それがじつは鉛筆の線だけでなく消しゴムの粉までも……。
消しゴムは超現実からのスパイなのだ。現実の空巣ねらいにやってくる。あれは万引きです。犯罪者だ。表面は柔らかそうな顔をしていて。そうでしょう。消しゴムがスパイではないという人がいたら証拠を見せてほしい。消しゴムがこの世から逃げも隠れもしないという証拠を。屁理屈ではなくて現実を並べてほしい。いったい小学校から中学校、高校、大学、絵画、デザイン、手紙、計算、そういう鉛筆と交際する時間の中で、そこに介入してきた消しゴムの粉を、小学校以来ずーっとトランクの中にかき集めながら保存しているという人がいたら、正直に見せてほしい。いないでしょう。いますか? やっぱりいませんね。いやいたとしても……。
消しゴムは自分自身が消えるから消しゴムであるとはいっても、それは粉となって消えるだけではない。いったい、一個の消しゴムが最後の一カケラまで粉になって消えるところを目撃した人がいるだろうか。いない。消しゴムは最後まで粉にはならないのだ。最後、指でつまむ部分だけはどうしてもカケラとなってこの世に残る。しかし、しからばそのカケラを小学校以来ずーっと一升ビンの中に保存してきた人がいるだろうか。いない。まずいないでしょう。消しゴムというのはとにかくこの世から消えてしまうもの、それは紛失のシンボルなのである。
その証拠になるかどうか。私には幼児期以来、消しゴムに関するエピソードが残っていない。消しゴムは自身のエピソードも消してしまう。私だけではないでしょう。たとえば愛用の万年筆、思い出の日記帳、記念の下敷き、専用の三角定規というものがあるにしても、小学校からの愛用の消しゴム、思い出の消しゴムというものがはたして残っているものだろうか。いないと思う。紙や鉛筆やモノサシなどは残っても、消しゴムだけはこの世から消え去ってしまうのだ。
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たとえばモノサシなどは残るものである。墨汁がしみて、角が丸くなり、フチが欠けて直線が引きにくいモノサシ。それが不便になったからといって新しいモノサシを買い、古い方を捨ててしまえばともかく両方いっしょに使用したりしていると、いつのまにか新品の方がなくなって古いモノサシが残るものである。おそらく新品は無意識のうちに誰かの手許に渡るのかもしれない。私の手許にもフチの欠けた一メートルの竹のモノサシが一本、十数年もの間残っていて、これはおそらくもうなくならないだろう。だけど同じ道具だとはいえ、このような消しゴムは、ない。
消しゴムは紛失のシンボルである。その最後の一カケラの紛失の現場を目撃したものは、まだこの世の中には誰もいない。いったいどこに消えていくのか。おそらくこの世のどこかの隅に、消しゴムの墓場への入口があるのだろう。だけどそれはこの記憶力が制覇している世の中からの想像にすぎない。いったい紛失とはどういうことなのか。
紛失の極北にあるのは消しゴムであるけれど、紛失するのは消しゴムだけではない。鉛筆、ポールペン、お金、ライター、切符、ボタン、ネジ釘、画鋲、栓抜き、ボール、手袋、手帖、傘、ETC。それらの紛失はいったいどのようにして発生するのだろうか。
たとえば鉛筆である。鉛筆は最後部まで芯が入っているので本来は最後まで書くことができるはずのものだ。だけど最後の芯の一ミクロンまで書きつぶすところを目撃した人がいるだろうか。否。ほとんどの鉛筆は半分くらいでいつのまにか、どこかに紛失してしまうのである。
私はとりあえず紛失の研究対象に鉛筆を取り押さえることにした。最後まで刃物で削っても、二センチくらいはどうしても残ってしまう。そうなればあとはもう紛失を待つのみである。私はそういう最小限にチビた鉛筆を透明なビンの中に密封して毎日観察している。ビンの底にはもう二十八個が転がっている。だけどまだ一個も紛失していない。このビンの中から紛失はいったいいつ発生するのだろうか。私はその観察のために毎日が多忙で、ヒマがない。
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制服
私はいつも制服を着て生活している。町では町の制服、駅では駅の制服、道路では道路の制服。そして家に帰ると家の制服に着換えて横になる。制服はどうしても脱ぐことができない。
風呂の中でも風呂の制服を着て風呂にはいる。サンダルを下足箱に入れ、番台にカチリと小銭を払ったときから、もう銭湯の制服を着ている。カゴの中にシャツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、下着を脱いで真っ裸になった体がガラス戸を開けて湯気の中に踏み込むときの制服は、左手で股間に垂らした水色のタオル……。
制服はいつごろから着るようになったのだろうか。やはり小学校に入ったときからだったと思う。鍔の光った帽子に金ボタン、ランドセル。
新しく制服を作るということは、貧民には大変な負担である。だけど制服を着てしまえばもうほかの服を作らなくてもいいので、貧民はかえって負担をまぬがれるのであった。制服はどんなに汚れても制服である。本当はほかの服を着たいのだけど、規則だから仕方なしにこの制服を着ている、そんな無言の言い訳ができるのだった。だけどあんまり破れてツギハギのボロボロになってくると、それは輪郭がぼやけて制服ではなくなってくる。制服とは輪郭のことなのだろうか。
そうなのかもしれない。中身が逃げないように閉じ込めるアウトライン。フワフワの体をハッキリと固めるための布の袋。
制服を着ることに快感があるとすれば、その奥には一種の被虐趣味が隠れているのだろう。制服を着た貧民の安堵には、鉄の鎖につながれた奴隷の幸福がはいりこんでいる。その幸福だけが膨張して制服内での臨界点を超えると、制服の外への加虐趣味となって転化する。これは軍隊や警察での制服の表情を調べれば明らかなことである。
私はあまり感応しないのだけど、女子学生のセーラー服を崇め立てる人は多いようだ。処女は制服を着ている。肉体の中に制服を着ている。その制服を着ているから処女である。セーラー服崇拝者はそこのところを見ているのだろうか。その人の目に映るセーラー服の輪郭は、おそらく硬い針金のように見えているのに違いない。あるいは濡れた荒縄のように見えているのだろう。セーラー服は緊縛写真なのである。
私はセーラー服よりも、銀行の事務服の方が理解できる。いやこれは別に理解するものでもないだろうけど、その自分の感応を意識したのはむしろ事務服がなくなってからだった。
事務服というのが本当になくなったわけではないのだけど、最近の女子銀行員の制服はカラフルになり、ファッショナブルになって事務服のイメージを追放している。そうするとそれはあたり前の服になって、窓口では明るい挨拶があるだけである。何だかつまらないのだ。何故だろうか。そう考えて振り返ると、昔の地味な事務的な制服の方が、女性の性が際立っていたように思えるのだ。白いシャツに灰色の無地のスカートといったありきたりの制服の隙間からは、まるで天井裏を通り過ぎる蛇のように、キラリと一瞬の艶やかな色が閃いていた。私はそういう事務服の女子銀行員に、緊縛写真を見ていたのかもしれない。
だけど実際の緊縛写真というもの、あれはダメですね。痛いのはイヤだ。何だか生活苦を見せられているみたいで、もうたくさんだと思ってしまう。
実際の緊縛写真にはコンプレックスをもってしまう。それはテレビのプロレスを見るのとどこか似ている。プロレスの勝負は一筋縄ではいかないインチキ臭いものだけど、そのインチキ臭さとインチキ臭さのぶつかり方が面白いのだといわれてみても、やはりどうしても素直には楽しめない。だからプロレスを面白がっている人をみると、ああ自分はどうしてバカなのだろうとコンプレックスがわいてくる。
制服は組織の意志の受皿、あるときは歩きやすい運動靴である。だけど制服の中の快感をのぞいてみると、そこには緊縛的なフェティシズムが浮かんでくるのだ。倒錯的な愛の中には、制服崇拝がちゃんと登録されている。ボーイスカウト、消防士、警察官、軍隊、ナチス、フェチス(?)それらの輝やける制服の上には、緊縛の愛の目が、舐めるようなスピードをもってそそがれている。
ホモ美人、いわゆるオカマというのも、女性の制服を着る緊縛の人々である。女性の性[#「性」に傍点]服は、男性でなければ着てみる[#「着てみる」に傍点]ことができないのだ。当り前のことながら。
だけど制服がその中に包んでいる感覚は、何も性的なものだけではないだろう。性的なものに対応してあるのは、経済的なものと理知的なものである。つまり性器と胃袋と脳ミソ、これが人体の三つの元素である。性器から生まれ出た生命は、胃袋から先に成長するのか、それとも脳ミソから先に成長するのか。いずれにしても性器は三番目に成長していくものである。幼児は性器を使うことができない。幼児の性の感覚は、胃袋と脳ミソによって代用されているだろう。
私が幼児だったころ、母親の制服とは白いカッポー着だった。いつも着ていたわけではないけれど、あの白いカッポー着を着ている母親には信頼感があった。赤い擦り傷や夕暮の空腹を、いつでも助けに来てくれる軍隊のような頼もしさがあった。あのカッポー着の白い色は、白米の御飯の色である。その証拠に、戦争の消費によって物資が底をつき、母親が白いカッポー着どころではなくモンペやズボン姿になってくると、食卓には麦飯や雑炊や芋や粉カスだんごがのさばり出してくるのであった。
そもそも白米の御飯というのは、日本人の食事の制服であった。実力では玄米や麦やメリケン粉にそれ相応の能力があるのだろうけど、それらには制服としてのハッタリがない。食事をするのは胃袋だけでなく、脳ミソだって腹を空かして待っているのだ。そんな日本人の人体の前の白米の御飯には、制服としてのオーラが光り輝いていた。白米の御飯というのはその味と栄養以上に輝かしい力、まぶしいような制服の力がそなわっている。私たちはそんな白米の御飯の食事を制服として着て、はじめて人並の気分にひたれるのであった。母親のカッポー着は、そんな白米の御飯の色で染められているのである。
父親の制服は、私にとっては中折れ帽子であったと思う。それは白いカッポー着よりも遠方の高い位置に見えていた。ヨダレを垂らしたり、足で踏んづけたりしては絶対にいけないものであった。カッポー着には洗濯の匂いがあったが、中折れ帽には髪油の匂いが漂っていた。そんな父の頭の上に乗っかっている中折れ帽子、あの中にはお土産がギッシリ詰まっているのではないかという憧れがあった。幼児であった私の身長が伸びていくと、父の中折れ帽は目の前の位置に見えてくる。間近に見る渋茶色のフェルトの折れたところ、指でつまむ部分には、じつはもう擦り切れて小さな穴が開いていた。その中折れ帽を父はいつからかぶらなくなったのか、よく覚えてはいないのだけど、父は八十歳でこの世を去った。その後家財整理をしたのだけど、中折れ帽はどこからも出てこない。
母さん、父のあの帽子、どうしたでしょうね?
おそらくそれは、どこかの押入れの奥に忘れられたトンネルを抜けて、遠い夢の島まで飛んで行ってしまったのだろう。髪油の匂いを引っかけたまま、中にお土産を詰め込んだまま、月夜の空をボロボロになって飛んでいった。戦前の父親たちはほとんどといっていいくらい、町ではみんな中折れ帽をかぶっていたようだけど、いまはもうそんなもの、どこの町にも見かけない。中折れ帽は一つ一つ廃品となって、それぞれの押入れのトンネルを抜けて、遠い夢の島まで飛んで行ってしまったのだ。白いカッポー着も、白米の御飯の制服も、いまはもう遠いところへ飛び去ってしまった。
遠くのものはすべて夢である。遠くのものには番地がない。値段もない。栄養もない。締切りもない。ただその飛び去って行った彼方から、軽い、無重力の陶酔の波が、体のどこかの部分につたわってくるだけである。それは波長の数値もさだかではない、夢の波。
私はそんな波を浴びながら、公園のベンチに腰掛けている。現実はいずれ遠くに去って夢になる。目の前に静かな池がひろがり、その池の向うの道を、遠く小さくマラソンランナーが走っている。それは私の網膜の端で、白い米粒のようにピョンピョン跳ねる。それは遠い世界の夢のランナーである。夢のランナーには重力がない。だけどそのランナーが池沿いの道を走りながら、だんだん近づいてきてベンチの後を「ドシン、ドシン」と走っていくと、それはもう汗の匂いの現実のランナーとなってしまうのだ。彼には住所、氏名、年齢があるのだろう。夢は近づいてくると、現実の番地の中にはまり込む。そして私は制服の警官にポンポンと肩を叩かれるのだ。
「あんた、きょう仕事は休み?」
日曜祭日でもない昼間の公園に、若い男が一人でポツンとベンチに腰掛けているのは、あまり普通のことではないらしい。私はもうその警官の目に、ほんのりとした犯罪色に見えているのだ。そのにじり寄る皮紐のような視線の前で、私はあわてて制服を着る。
「あ、ぼくはイラストレーターです。いや雑誌に絵を描いたり文章を書いたり……、あ、でも仕事は夜だから……、いまは飯を食って……」
私はあわてて制服を着たので、ボタンがぎくしゃくとずれている。制服は着るところを見られてはいけない。制服は天然の皮膚のように見せなければ制服の意味がない。
警官は何種類かの市民の制服カタログを持っている。自室から町に出る私たちは、そのカタログに登録されている制服を着て出かけなくてはならない。さもなければ皮紐の視線がにじり寄る。
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私はもう自転車で懲りていた。私の自転車は赤錆だらけの中古品である。その古び方が、やや市民のルールから外れているらしい。だからすぐ警官に呼び止められる。おそらく自転車を盗んだりするのは小心なので、こういうボロ自転車を狙う、というテキストがあるのだろう。
「ちょ、ちょっと、あー、どこへ行くのだ?」
まずこの質問だ。そしてこの自転車はいつ買った? どこで買った? いくらした? 私はそんなに犯罪者に見えるのだろうか。
私は落ち着いて考えてみた。私はおそらく市民の制服を着ていなかったのだろう。私は自転車に乗ってどこへ行く? どんな用事を持っている? そうだ。市民というのは何かの用事をもって、目的地へ向かって歩かなければならないものなのだ。
それ以来私は、自転車の前のカゴには必ず何か荷物を載せている。子供を乗せていればまず絶対であるが、買物袋でも充分である。忘れたときにはあわてて家に戻り、適当な荷物をみつくろう。ペラペラの紙袋一枚であっても、それは充分に市民の制服となるのだ。私はそれ以来、警官の前を素通りしている。
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目覚める前のこと
昭和十六年というのは大東亜戦争の始まった年だ。私はその開戦の日の新聞を、当時住んでいた大分県のお茶の間で見た。その新聞には、
帝国、米英に宣戦を布告す
という大きな活字の見出しの上に、特別に赤い色を使って日の丸の旗が刷りこまれてあった。
私はその新聞紙に貼りついたような赤い日の丸に驚いた。その突然で何となくあわただしい雰囲気は、何か大異変の前ぶれとして私にもつたわってきた。だけどその日の丸はどことなく晴れがましい感じで輝いていて、これから何か特別なお目出度いことが始まるのだという感じをもった。皆にタダでお饅頭か何かがくばられるのかもしれない、という感じをもった。いや、このときに限らなくても、私は白地に赤い日の丸の旗を見るたびにそういう思いにとらわれるのである。
しかしお饅頭はくばられなかった。そしてその年、私は大分幼稚園に入れられた。いやその明くる年かもしれない。いや、もっとそれより二、三年あとだったのだろうか。いずれにしろその赤い日の丸の新聞を見たころのある年である。その年の春のある日、私は母に連れられて、食堂にいくとだまされて外に出たのだ。私は食堂という言葉にウキウキしながら、だけどなぜ母と二人きりなのかと多少いぶかりながら、そのいぶかる頭を地上六十センチほどの体にのせて歩いていた。そして気がついたときには、私は突然幼稚園の入園式の中にいた。
私は母の着物のたもとに顔をうずめて、そのたもとは私の涙と鼻汁とでベトベトになっていた。何だか無性に恐ろしく、無性に恥ずかしかったのだ。母は私の頭の上のほうで別の母親と会話をしていた。私はときどきまわりの様子を見ようとするのだけど、その目は涙や鼻汁や汗や、とにかくいろんな体液でベトベトになっているので、私に見えるのは雨の日のスリガラス越しのようなボンヤリした光景だけだった。そのボンヤリした光景の中で、元気な子やその母親たちが右往左往している。私はしまいには泣くのに疲れて飽きてきたけど、いまさら泣きやんでしまうのもよけいに恥ずかしく、結局最後まで母のたもとの中にビッショリ濡れた顔をうずめていた。
ああ、情ない子供だなア。
その後しばらく、私は毎朝家中を逃げまわった。足には自信があった。だけど逃げるのに失敗した朝は、いやおうなく捕獲されて幼稚園へ出頭させられた。それでも二、三カ月ほど、私はあきらめて幼稚園通いがつづいた時期があったのだ。その時期に何人か友達もできた。それは帰り道がいっしょの友達だった。
幼稚園の帰り道、少年少女たちは紆余曲折しながらジグザグに道を歩いていく。あっちの電信柱、こっちの水溜り、石垣の間の虫の穴、そしていま通り過ぎてしまったがドブ板の割れ目をもう一度と、あっちこっちを調査しながら行きつ戻りつ、少しずつ自分の家に近づいていく。いつもそうやって帰る私と同じ方向に、三、四人の友達がいただろうか。その中で最初の角を曲がって帰るのはゴトウカズコさんという女の子だった。
ある日「サヨウナラ」といってその角を曲がるゴトウカズコさんがとても可愛らしかったので、私もそばによって「サヨウナラ」といいながら、ベロでほっぺたをペロリとなめてしまった。いやペロリではなく、ペロペロと二回ぐらいなめたかもしれない。別に好きだとかいうことではなく、白くてふっくらしたほっぺたがなめたくなったのだ。白いお饅頭を見ていて食べたくなるのとほとんど同じような感情だった。
しかしこういうことは友達どうしではあまりないことだった。だから帰り道の友達は、それを見ていてひやかすわけでもなかったし、また先をあらそってほっぺたをなめにいくというわけでもなかったのだ。だけどゴトウカズコさんは何となくテレくさそうな様子をしていた、だけど私はテレくさいという感じはなかった。ただなめてしまってから「あれエ、なめてしまったなア」と思っていた。
私は家に帰ってから、そのことを母に話したような気がする。おそらく自分でもちょっと変わったことだと思ったので、母に話してみたくなったのだろう。だけど別にほめられもしなかったし、しかられもしなかった。
私がゴトウカズコさんのほっぺたをなめたのはその一回だけである。その後も同じ帰り道の少年少女達は紆余曲折しながら行きつ戻りつ、同じ道を歩いて帰っていったのだけど、誰もほっぺたをなめたりはしなかった。私はたまたまあのときだけゴトウカズコさんのほっぺたをなめたくなったのだと思う。
だけど、入園式でグショグショに泣き、その後も毎朝逃げまわっていた情けない子供が、よくそんなことをしたと思う。おそらくその帰り道にはすなおな時間があったのだろう。私が男女関係ですなおだったのはそのときぐらいのものだと思う。
女性のことを意識的に好きになりはじめたのは、小学校の四、五年だろうか。しかしその芽生えと同時に、男女の交際を軽蔑し、白眼視するというしきたりも、私たちの時代はおぼえさせられた。以後私は男女という関係にすなおになれたことは一度もないように思う。いつもどこかにわだかまりがあるのだ。
中学校にはいってから、私は友人達とよく図書館へ通った時期があった。いったい私は何を読んでいたのだろうか。私の親友は『更級日記』を借りるのに、
「ベンキュウ日記をお願いします」
といって、図書館の受付の人に笑われたりしていた。私は何を読んでいたのだろうか。どうにも思い出せない。もともと私は読書が好きなほうではないのだ。ただ友人達が図書館へ行くというので私もついていったのではないかと思う。
私たちはある日、図書館の中庭にたむろして話をしていた。私の前には図書館の廊下があって、ふと見上げると、あけっぱなしにしてある窓の向こうからゴトウカズコさんがこちらを見ていた。あれ? と思った。幼稚園以来のことだけど、私はその顔をよく覚えていた。向こうも私の顔を覚えていたらしい。
「ゴトウカズコさんですか?」
と聞こうかどうしようかと考えているうちに、私はたちまち恥ずかしくなってしまった。向こうも恥ずかしそうに、ふっくらとした頬を桃色に染めていた。向こうもやはり友人達ときているらしい。私はあのときなめたほっぺたがそこにあるのだと思うと、また一段と恥ずかしくなって目をそらしていた。あのときほっぺたをなめたのがすなおであっただけに、余計にいまは恥ずかしくなるのだ。
しかし私にはその現在のゴトウカズコさんを、特定の女性として好きになるような感情はなかった。ただそこで再会した偶然が楽しかったのだ。その偶然の遠くのほうに、ほっぺたペロリがあったということが楽しかったのだ。おそらく向こうも同じ思いであるにちがいないと思った。結局私たちは顔を赤くして目をシバシバさせただけで、一言も口をきくこともなく、またそれぞれの友人といっしょになって別れていった。ああ、何という美しい関係であろうか、と、これは書いている本人もテレくさくなってくる。
私が性の秘密を知るようになったのは、それよりもう少しあと、中学校の終わりごろだったと思う。それも体験したわけでも現場を見たわけでもなく、友人達がそれぞれの知識をもちよるうちに、どうやら人間というものは本当に〇〇をやるらしいゾ、という結論に至ったのである。だからそれにハッキリと確信をもつまでにはさらに時間が必要だった。
もっとも体の現象のほうは先にあらわれてきた。小学校の三、四年のころだと思うけど、とても美人の先生がいた。ある日私は体操の時間を休んで教室にいた。その日はカゼでもはやっていたのだろうか。教室には五人ほどの男子が休んでいた。私たちは早速、普段は聖域である教壇に上がり、先生の机の抽出しをあけてみたり、出席簿を開いてみたり、黒板に落書きをしてみたり……、そのうち美人先生が体操服に着がえたあとのスカートや上着が椅子にかけてあるのを見つけたのだ。私たちは、
「あ、先生のスカートじゃ」
といいながら、皆でそのスカートにさわりながら珍しそうに裏返したりたたんだりしていた。そのうちその中のガキ大将の一人が、
「お前達、知っちょるか? こげなときは立っちょるんど」
といったのだ。最初は何のことだかわからなかったが、ふと思いあたって自分の体を点検してみると、別に小便にいきたいわけでもないのにその小さな部分が硬直していた。いままでも何度かそういう現象があったのだけど、なるほど、これが「立つ」ということなのかと、私ははじめて知らされたのだ。そして不思議なことに、その教室にいて先生のスカートにさわっていた男子全員が「立って」いたのだ。皆はそのことを不思議がった。だけど皆はまだそれ以上のことを知らなかった。
そしてそのうち不思議は不思議ではなくなり、私はいつしか目覚めてしまったのだ。いまは何だろう。その小さな部分は目覚めたあとで働いたり遊んだりしていることになるのだろうか、いや、遊ぶというと語弊がある。働いてばかりいるのかな? いや、働くというのも語弊があるか。
まあしかし、そのうち、目覚めたものはいずれまた眠くなるのだろう。しかしそこでぐっすり眠ることはできるにしても、そしてそれは目覚める前の状態に戻るにしても、もう目覚める前のあの不思議[#「不思議」に傍点]はやってこないのではないだろうか。そう思うと私には、目覚めてしまったことが何だか無性に悲しくなってくるのである。
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梅雨の少年期
私は中学生の終りごろまで、毎晩毎晩オネショをしていた。その当時なら、こんなことは死んでも書けなかったにちがいない。しかしいまでは私はもうオネショをしない体質になっていて、そのことを人前で対象化することさえできるようになってしまったのだ。むしろ懐しい感じさえするのである。これは考えてみれば恐しいことだ。
いまここに二十年以上前の「ボク」が現われたら、私は裏切者として断罪されるだろう。ボクは毎晩小便にひたされながら、世の中が敵であることをはじめてみつけていたのだ。夜、その冷たさに独りで目を覚ましたときの孤独感は、昼間乾いた衣服に包まれて遊んでいるときにも離れることがなかった。いま私はそのボクを懐しみながらも、遠く冷たくみつめているが、ボクのまわりは、昼も夜も、いまの私のような者どもによってかこまれていたのだ。そのボクには、まずボクの泌尿器管が敵であり、それを統御できないボクの体が敵であり、そしてそれをそのまま包んでいる世の中すべてが敵であったのだ。
しかし昼間のボクは、まわりのすべてを敵として全面対決するということもできずに、いつも死ぬことを思いうかべながらもやはり遊ぶ仲間がほしくて、ボクはその遊ぶ昼間に、はじめてコンプレックスというものもみつけてしまったのだ。そしてまた夜になると、涙さえみえぬ暗闇の中で、敵との距離を測ることもできぬままに、ボクは一人で世界を背負わなければならなかったのである。
ほとんど毎晩くり返されるそれは、ボクにとっては理由のないことだった。ボクは普通に生まれてきているのである。生まれたときは一貫百もあったのだ。しかし小学校二年のころには顔も蒼ざめて、養護学級に入れられていた。しかしその年でのオネショは、まだそれほど異常なことではなかったのだ。
一度などは裸で寝ていた夏の朝、顔一面に雨が降りかかってきて、ボクはパッチリと目が覚めた。フトンの上で寝ているボクはその情況がわからなくて、しばらくの間その雨を顔に浴びつづけていた。しかしだんだん気がついてきてよくみると、寝ているボクの裸の小さな筒先が、上方一四〇度ぐらいにピンとそりかえっていて、そこから満タンになってほとばしり出るボクの雨が、ボクのお腹の上空を弧を描いて飛び越しながらボクの顔に降りそそいでいるのである。それを理解したトタンに、ボクはこりゃ大変だと蜂に刺されたように飛び起きて、顔に降りかかった雨のしずくをあわてて枕で拭きとったのだ。そのようなことも、小学校二年のころは、まだ皆といっしょに笑うこともできていた。
しかしそのオネショだけは変らぬままに、学年だけが一年ずつ上っていきながら、それはしだいに異常なこととなっていく。それはしかし、そのときのボクの力ではどうしようもないことだった。一晩に一度だけでなく、二度三度とするときもあったのだ。それも寝入りばなであれば、両親のどちらかが目を覚まして下着の世話をしてもくれるが、夜中に独りで気がつくときには、暗闇の中で自分の半身を起しても、もう誰かを起すということがボクにはできなかった。そして時には、ある決心をしよう、と思いながらも、やはり冷えきっていく体に勝てずに、押入れの行李の中からゴソゴソと古着を引っぱり出して体にあてがうのである。もう戦後の物資が欠乏しているときでもあり、ボクの着ている衣類からはアンモニアの匂いがしみ出ているようで、友人たちはそのことを知っているにちがいないと思っていた。しかし友人たちは、そのことを面と向ってボクにいうことは決してなかった。それだけにボクは、その対し方のハシハシに、より敗北的にそのニュアンスを感じとっていたのである。しかし、そのようにコンプレックスの核を自分なりに握っていたおかげで、その後もつづく貧困に耐えることもできたのだろう。
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六年生のころには、ボクはもう自分の体質をあきらめかけていた。それまでにボクはもう六畳の部屋の六枚の畳を、小便でへこませて全部ダメにしていた。そしてとうとう中学二年のクリスマスの夜、ボクは数人の友人たちと先生の家に泊らねばならない瀬戸際に追いつめられた。ボクは他人のフトンの上で、眠らぬように注意しつづけながら、朝目が覚めたとき衣服は濡れていなかった。そのころから、夢の中に出てくる便所を夢ではないかと疑うようになっていた。そして夢の中でガマンして何度も便所を変えながら、やっとこれが本当の便所だと力をゆるめたトタンに、快感と同時にその冷たさで目を覚ますのである。しかし次第に夢の便所を見極めて現実に戻っていきながら、やっとオネショがなくなったころにボクは中学校を卒業していた。
高校を出たあと東京にきて、いわゆる大人になってから、はじめてホンの少しのオネショをもらしたときには、私はオカしくて嬉しくてしようがなかった。
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濡れた部屋
ある旅館に泊まったときのこと、それは観光旅行だったのか、あるいは仕事の出張だったのか、いずれにしても何人かの団体で泊まっていたのだけど、寝る前にちょっとだけあいた時間があったので風呂にはいることにした。廊下を歩きながら、すれ違う旅館の人に訊ねていくのだけど、要領をえない。あちこちにいくつもの部屋があって、それぞれの部屋にはそれぞれの団体がはいっていて、まるで湯豆腐のようにざわついている。その入口を通り過ぎるときにそこの会話の断片だけが、途切れ途切れに聞こえてきたりする。みんな風呂にはあまり関心がないみたい。こちらもあちこちに気を取られていて、何を捜しているのか自分でも忘れそうになる。
すれ違う何人目かの旅館の人に、やっと聞き覚えて行った先は、その旅館の出口に近い所、小学校の教室のようなところだった。蝶番の板戸を開けて中にはいると、コンクリートで固めた床の左側が便所になっていて、一つずつ便器のある個室がいくつも並んでいる。だけどそれぞれの便所の板戸は床上五〇センチくらいがあいている「半扉」みたいなものなので、便所の全部の床が通して見える。その床はまるで駅の便所みたいに、漏れた小水でビチョビチョに濡れているのだ。それと同じ床つづきの右側が風呂になっていて、その床からそのまま下に湯舟がつづいている。
ひどい風呂があったものだ。これでは便所の床に漏れ出た小水が、流れ流れて湯舟の中にはいってしまう。それでなくても風呂にはいっている者と、便所にはいっている者とが、お互い丸見えになってしまうではないか。
私はいささかウンザリしてしまい、どうしたものかと立ちよどんでいると、風呂にはすでに先人がはいっていて、それも「まァこの風呂も、これはこれでやむをえないことだよ」というような、何か生活の恥をさらしたような投げやりな笑顔でお湯につかっているのだ。おそらくこの先人も、どうしたものかと迷ったすえに入浴の方を選んだのだろう。こちらはお客なのに、こんな気持の圧迫はまさに主客転倒ではないか、と考えながらも私はなおも立ちよどむ。いったんお湯につかろうと思っていた気持が中止されるのは、本当に絶望的なことである。銭湯の入口まで行ったのに休日だったとき、また休日ではなく明かりがついているのだけど、もう一歩というところですでにお湯を抜かれてしまっているとき、そんな帰り道の絶望が、いくつもいくつも私の胸の中で泡ぶくのようにふくらんできて、私はその不愉快な風呂場から離れられない。もうちょっとの工夫で何とかならないものかと考えつづける。だけどやっぱり、その冷えたお湯の中にははいれないのだ。
世の中にはこういった旅館が数多くあるものである。だから旅館に泊まるときは気をつけた方がいい。私の経験したこの旅館は、三年ほど前に見た夢の中でよく泊まっていた旅館である。いくら夢とはいってもこんな旅館に泊ったら最後、圧迫される気持は流れ流れて、いつまでも堂々めぐりをするばかり。
だけど夢の中に出てくる建物は旅館が多い。それも整然としたホテルではなくて、構造の不定形な木造の旅館。夢の中でめぐり歩く建物が旅館的なものであるというのは、おそらく全部の人に共通のことではないだろうか。それは自分の家ではなくて、他人のいる部屋がいくつもあって、薄暗い廊下が迷路のように縦横に伸びる。
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その廊下を歩くこと自体は探険のようで面白いのだけど、この便所と風呂場の合体には閉口してしまうのだ。この二つの組み合わせは、この時期の夢の中に手を変え品を変えして何度も出てきた。別々に出てくればいいのだけど、合体するから困るのである。たしかにこの二つの部屋は、その薄明るさといい、質感といい、その中で衣服を脱ぐ状態といい、そこに水が満たされることといい、互いに共通することの多い空間である。
だけど共通するとはいっても、落着いてよく考えてみると、私はいまでもまだ風呂場で小便を出しにくい。床はタイルであるし、もう裸になっているのだし、お湯も水もふんだんにあるのだから、あとをよく流してしまえば同じこと、だからさァ出しなさい、いいですよ、いくらやっても、別に誰も見ているわけじゃなし、さァ早く出しなさい、安心して放尿しなさいヨ……、と上半身の頭の方がいくらくわしく説明しても、下半身の筋肉はなかなか力をゆるめないのだ。それでも説得をつづけていれば最後には流れ出て行くのであるが、やはり一瞬のわだかまりというのはいつまでたっても消えないものである。おそらくそんな置き忘れのコンプレックスが、夢の中でこの二つの部屋を合体させてしまうのだろう。
だけどこれは、日本家屋の住人だけの現象だろうか。じつは私にとっては夢の中でだけ合体するこの二つの部屋が、外人の家の中では現実に合体している。あるとき夢の外に起きていながらはじめてそれを目前にしたときには、やはり外人は違う、異人さんだと思った。想像の鼻先に体臭がプンと来た。その違いが自由主義のせいなのか、キリスト教のせいなのか、その辺はよく調べてみないとわからないが、「外人」というのは困った存在である。
外人といえば、話は変わるが、先日オーストラリアの美術ジャーナリストのインタヴューを受けた。優しく明るい顔の感じのいい男性で、通訳の日本女性といっしょにやって来て、SONYの大型テープレコーダーのボタンをプツンと押した。
「絵を描くようになった動機は何ですか?」
私はその正面切った翻訳の言葉の前に一瞬つまってしまった。つぎの一瞬もつまってしまった。
ど、どういう形で答えれば通じるものやら、それは答え方はたくさんあるけど、相手は翻訳の向うの人である。
絵を描くようになった動機といえば、話はずれるが、その始まり方には二つあるだろう。子供のときから絵が好きで以後ずーっと描いている人と、成人後のある時期に何かの外的なキッカケで絵を描くようになる人と。私自身は前者のタイプだけど、その動機はといえば、一口にいって生活上のコンプレックスということになるだろう。だけどそんな真面目すぎる答えが、はたして翻訳の向う側にくぐり抜けることができるだろうか。この優しい顔の、美しく豊かな国の人に、このモモヒキの国の生活の縮み具合など説明できるだろうか。
だけど私は、目の前にある顔の透き通った目の無邪気さのために、一所懸命「コンプレックス」という言葉に取り組んだ。幼児期の私を絵にしがみつかせていたコンプレックスの動力源は、大きく分けて「貧困」と「夜尿症」である。だけどこの「貧困」はとても伝達不能であると判断して「夜尿症」の方を翻訳者のパイプに流し込んでみた。透き通った目は何度かうなずきながら、
「オー、オー……」
といってニッコリ笑った。
「オー、ウェット・ベッド……」
といってニッコリ笑った。私もその言葉を聞いて、思わずニッコリ笑ってしまった。
「ウェット・ベッド」とは、何ていい言葉なんだろう。それは「おねしょ」と同じ言葉でありながら、それと同じ意味を支えていながら、その支柱の位置が別のところに立っているのだ。外国語というのも、いい言葉になるもんだと思ったね。
それでもその外人の言葉を借りて来ていえば、話は戻るが、私の夢の中で合体する二つの部屋は、共に「ウェット・ルーム」ということになるのだろう。濡れた部屋。湿った部屋。皮膚の部屋。肉の部屋。
最近気がついてきたことだけど、これは個人的なことであるが、中学に行ってもまだ毎晩夜尿症にしがみつかれていた私の体の外れの頭の奥の薄暗い脳ミソのシワの間には、当時の我家の湿った便所がからみついていたのだろうと思う。これが少しばかり変った便所で、おそらく本当は上品な便所だったのだろう。「大」の方には特記するべきものはないが「小」の男性用の方がお座敷の縁側のすぐ隣にあって、足を踏むところが葦張りで、その突き当たりに立つ便器は藍色の紋様を染めた瀬戸物である。ここでお茶でも立てて飲みそうな雰囲気である。それがもちろんその反対で、ここはやっぱり使用後のお茶を放出廃棄するところ。
いや、食後のお茶を飲みながらこれを読んでいる方には申し訳ないが、ちょっとその方には目をつぶっていただいて、それでそこは本来なら上品な便所のはずなのだけど、おそらく最初に垂らした奴がいたのだろう。その昔の父か、兄か、兄の友人たちか、あるいはボクか。これがタイルであればビクともしないのだろうが、せめて板ならまだしもながら、葦の場合は上品なので、垂らされたときの反応も早いのだ。だからこういう便所はまめに掃除をする必要がある。垂らしたらすぐ拭いておくこと。ところが拭かないでおくとそこがすぐ軟弱な感じになり、踏み抜くのを恐れて次はその一歩後ろからするようになる。その次は二歩後ろ、三歩後ろ。ボクが物心ついたときには、もうそこは五月の水田のようになっていた。
結局は廊下から立ったまま発射するのであるが、ボクらの技術ではやはりどうしても瀬戸物のまわりにこぼれてしまう。これはもう田舎の畦道から田圃に向かってするようなものである。前方の瀬戸物の便器の前には、たしかそれとお揃いの瀬戸物で、下駄のような形の足踏台が二つ置かれていたはずである。正式にはスリッパをはいた上でその台の上に立つのだけど、そこの濡れた葦はもういまにもグサリと落ち込みそうな感じであった。たまにお座敷に来たお客さんが正式にそこに立つときなどは、ボクは隣の部屋でその物音を聞きながらハラハラとしていた。
いま考えてみれば、我家の便所がなぜいつまでもそんな状態であったのかと不思議にもなってくる。そんな極度の「ウェット・ルーム」が、その家の住人の夜尿症児の「ウェット・ベッド」につながりがあったのであろうことは、現代の科学でも説明ができないのではないだろうか。そのアンモニア漬けの葦張りの便所のウェットなイメージが、夜尿症児の潜在意識を恒常的に経由しながら、その下半身をいつまでもウェットにしつづけていたのだろう。別に親をうらむわけではないが、おそらくその便所を改造していれば、その夜尿症はもう少し早く脱け出して行ったのではないかと思う。
しかし考え方を変えてみれば、本当に可哀相なのは、その家の方だったかなと思うのである。そのときの私の下半身の状態が、私の潜在意識を恒常的に経由しながら、その葦張りの便所をいつまでもウェットのままで保ちつづける。私の方もさることながら、むしろその家の方が夜尿症に犯されていたのではないだろうか。そこで私の体をビシビシ引っぱたいてもっと早くこちらの夜尿症を治していれば、その葦張りの便所はもっと早くキレイになっていたのではないか。だけどこの方はまだ、現代の科学では説明ができない。
その家は大分市内の借家だった。六部屋ほどの平屋建てで、庭には松や椿やいちじくなどがたくさん生えていた。私の家族はそこに十年間ほど住んでいた。その間私は自分の寝ている六畳の部屋で、布団を敷く畳を順番に移し変えていきながら、結局その部屋の六枚の畳を全部夜の小便でへこましてしまった。その家には便所と風呂場のほかに、もう一つのウェット・ルームができていたのだ。
その大分の家から名古屋に引越したのは、私がちょうど中学を卒業したころだった。私の夜尿症もその引越しのころになって、やっとどこかに脱け出して行った。おそらく私が出て行ったあと、その家の夜尿症も治ったのではないかと思う。あの便所の葦張りも、おそらくキレイに改造されていったのだと思う。もし私が出て行った後もなおあの便所が悶々とウェットに染められていたのだとしたら、むしろこちらが後めたい気持になってくる。
三年前、私は二十何年振りかで大分に行ってみた。私は気もそぞろになりながら、その昔の町並みを分け入って、あのウェット・ハウスを探しもとめる……。だけどあの家はなくなっていた。かつて家の前にあった袋小路は広く吹き抜けになっていて、あの家の跡には「西日本重工ビルディング」というものが建っていた。あの家は亡くなったのだ。最期はどんな姿だったのだろうか。あの症状は完治していたのだろうか。あの紋様を染めた瀬戸物も、おそらくどこかにブルドーザーが墓地をつくって、埋めてくれたのだろうと思う。いまはただ御冥福を祈るばかり……。
いまでこそ便所は臭くもなく明るくなって、家庭内の他の部屋と同じような待遇を受けているが、あのころ、まだ水洗便所の勃興する以前には、それは家屋の中でもっとも下層階級の空間であった。薄暗い光の中に見る汲取式の穴の底は、いつも子供の地獄の想像を強力に援護していた。そのくせその空間は、日本家屋の中では内側から鍵の掛かる唯一の個室であった。鍵を掛けるとそこは内面の部屋となる。そうすると白い裸の足は地獄をまたいでしゃがみながら、子供は時間と空間を果ての果てまで考えるほかはなくなってくる。その頭は巨大にふくらんでしまい、その内面の部屋一杯になって、裸の肛門といっしょに汲取式の穴の底に向かってはみ出していく。黄土色の海を泳ぐ蛆虫の群れが、そんな頭を内側からくすぐりつづける。それが内側に御飯粒のようにひっついて来る。ふくらんだ頭はそのひっついた部分を置き去りにしながら、目の前の板の木目を伝って宇宙の果てまで走りつづける……。だけどその部屋の内側の鍵を外して板戸を開けると、そこはたちまちその家の中の最下層の空間となってしまうのだ。
しかしいまは「民主主義」の世の中である。あちこちの家の中では床の間や神棚が廃止される一方、便所は中産階級にまで引き上げられた。黄土色の地獄は地底のビンに詰められ、洋式の白い陶磁器で栓をされた。上層の階級は床の間や神棚に代わるテレビのブラウン管の裏側に姿を隠した。寄りかかる敵を失って3DKに住む人々は「プロレタリアートがいなくなった」という奇妙な感情に包まれている。本当はそれが待っていた姿なのに、待っていた自分がいなくなってしまったのだ。最下層の苦難の中に圧縮される鉄の力、これこそはと仕舞いつづけていたその力が、気がつくといつの間にかプラスチックの力になっている。いまに見ろと肩で押さえていた苦難の壁が、いまはビニールの壁になっている。肩は苦難を失って、その駆逐を夢みた夢だけが置き去りにされている。どこに消えたのだ? と苦難を捜す奇妙な捜索。
こうして日本の便所はホワイトカラーになっていった。汚物の色は水洗の水が流しつづける。いまは玄関も、居間も、勉強部屋も、台所も、風呂場も、便所も、みんな平等なのである。それぞれがいちおうちゃんと一票ずつを持たされている。だけどやはり、人体から肛門は消えては行かない。
私は最近便所空間の蒐集というのを考えている。マッチやパイプの蒐集というのはどうしても場所をとる。だけど空間の蒐集というのはぜんぜん場所をとらないから不思議。
それはいつからか頭の隅に溜っていった。だけどその頭の隅の記憶は、いつもアルコールといっしょに蒸発していた。だけど頭にアルコールが滲みるとまたそれがあらわれてくる。酔払った私は両足を踏ん張りながら考える。この店の便所は斜めに切ったヨーカンみたいだ。しかも隅っこの方に少し噛んだあとがある。さっきの店の便所の床は三角形だった。しかも横の壁は五角形。その前の店の便所は超長方形。どうしてあんなに後ろが長いのか。
町の呑み屋やスナックというものは、じつにさまざまな便所空間を持っている。四角、三角、横長、縦長。それも小さな店であるほどその便所空間は、考えられないような構造を呈す。もしも最初から意図して建てるとすれば、とても複雑で高価な建物。
私はその空間を一つ一つ集めはじめた。狭い町の片隅で出合うその不定形の空間を、一つ一つ設計図に写し取って、地図の上に貼りつけていく。もちろん新しい建物、ゆとりのある建物、民主平等建築の中にある便所空間は、どれもまったく同じ長方体であって、これは蒐集には価しない。そうではなくて、建築思想家の介入の余地のないような、町の空間の下層階級。まるで原生細胞の蠢きのように、改造に改造を重ねつづける、建築理念の放任地。
そのような小さな水商売の店というものは、表側の客席をできるだけ多く作り、キッチンや従業員の空間はできるだけ小さく切り詰め、便所などはさらにキリキリと切り詰められる。縦に切って、横に切って、斜めに切って、なおもうまい切り詰め方はないものか……。それがまた改造のたびにさらに複雑に切り直されて、詰め直されて、思いもかけない空間を生み出していく。ここではなおも、便所はやはり最下層の空間なのだ。
おそらく店主は考えているのではないか。こんな面倒な便所さえなければどんなにいいのかと。ボクもそういうことを考えていた。この世の中から便所がいらなくなったとしたら、どんなに気が楽だろう。
だけど便所はどこにでもある。どんな建物にも必ずついている。飛行機にもついている。宇宙船にもついている。こういうときに、私はいつも考える。あの天使の家のような空飛ぶ円盤の中にも、やはり便所はあるのだろうか。
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わが家における暴力の歴史
家庭内暴力というのは嫌な言葉です。陰惨な感じの言葉です。もうやりきれない、下着にしみこんだ垢の匂いが丸見えになって、そのすり切れた所を針と糸でキチンとつくろったりしようという気がなくなってしまいます。もう寝床がなくなってしまうのです。
家庭内暴力という言葉を考えていると、閉店後のラーメン屋、その人気のない薄暗いテーブルのようなものを思い出します。そのテーブルの上には、客の食べ残したラーメンの丼がいくつか置き去りにされています。その丼の底の方には、飲み残しのスープにまじって、食べ残しの焼豚のカケラや、食べ残しのシナチクのカケラや、食べ残しのナルトのカケラや、食べ残しのメンのカケラなどがかたまっていて、それらが互いに殴り合いをしているのです。薄暗い丼の底で、ピチャン、ピチャンと小さな音がするのです。そのたびに茶色のわずかなスープがユラユラと揺れるのです。そんな丼が、薄暗いテーブルのあちこちに、無雑作に置き去りにされているのです。だけどそれは誰も見ていません。そんな閉店後の薄暗いラーメン屋の中なんて、わざわざのぞく人は誰もいないのです。のぞくのは、手拭いをかぶった泥棒くらいです。さもなければ猫や鼠やゴキブリといった動物くらいです。
家庭内暴力というのは、そういうゴキブリの見ている前でおこなわれるのです。ゴキブリはこの暴力について、何も意見をいってくれません。冷蔵庫と戸棚の隙間から、じっとなりゆきを見ているだけなのです。ネズミも米びつの中から顔を出して、じっとなりゆきを見ているだけなのです。野良猫も、野良猫は窓ガラスの割れたところから顔をかたむけて、じっとなりゆきを見ているだけなのです。あとは誰も見ていません。外はもう北斗七星がシンシンと輝き、ときどき窓の外を自動車が通り過ぎるだけ。
そんな所でピチャン、ピチャンと音がつづくのです。丼の底に残ったスープは、揺れだすとなかなか止まりません。猫も鼠もゴキブリも、それを止めてはくれません。揺れつづける茶色いスープにもまれながら、焼豚のカケラや、シナチクのカケラや、ナルトのカケラや、メンのカケラは、さらにこなごなに小さいカケラになって、茶色いスープはさらに濁ってドロドロになっていく。
だけど私には家庭内暴力の経験がありません。私が育ってきた家庭には、暴力というものがありませんでした。貧乏だけはたっぷりあった。だけど親兄弟に殴られたことはありません。また殴ったこともありません。私はいわば家庭内暴力のシロウトです。こんなシロウトが家庭内暴力について考えて、考えながら書く文章が何かのタシになるでしょうか。
などということを考えてみてもはじまらない。家庭内暴力という言葉のやりきれなさは、白いご飯の中にも宿るものです。ラーメンの残りカスではなく、今度は白いご飯。それも外から現金で買ってきた白いご飯。
家の中で食べるご飯というものは、やはり家の中で炊くもののようです。米がなければ麦、麦がなければ芋でもいいのです。芋がなければ粉カスのパンでもいいのです。だけどあの粉カスというやつ、つまり小麦の一粒一粒の外側の皮のむけたのをかき集めたやつですね。これはふつうは豚のエサか何かになるんだろうけど、それが豚にも食わしてもらえないときがある。つまり人間が食べるときですね。だけどあの粉カスというやつ、やはり少しはメリケン粉にまぜてパンに蒸すものですね。それなのにメリケン粉がとうとうなくなって、粉カスだけでパンを蒸そうとしたことがあるのです。
たとえばご飯の場合だと、米にまぜた麦飯じゃなく麦だけの麦飯だってちゃんと炊けるものです。しばらくはそれがつづきました。それだって水だらけの雑炊よりはましなのだけど、でもそれを弁当箱につめて学校に持っていくのが恥ずかしいのですね。全部麦だとわかるのが恥ずかしいのですね。麦飯だというのはいいのだけど、やはり米が主体であって、それに麦がまぜてあると思われたいのですね。たとえ麦が多くたって、やはり米が主体でありたいですね。これは日本人独特の感じなのでしょう。米、そして白いご飯というものには、何というか、神格のような、心の支えのようなものがあったと思います。栄養素で評価するところの食料というだけでなく、それ以上の思い入れがあった。だから麦飯の麦の分量がふえていってとうとう麦だけの飯になってしまったということは、貧乏の恥ずかしさだけではないのですね。何かもう一つやましいことをしているような気がするのでしょう。
もちろん子どもはそういう分析をしません。子どもは分析を素通りして、ただ直感で知るだけです。しかし知っても知らなくても、持っていくのはその弁当以外にありません。それでとにかく麦だけの麦飯の弁当箱、それを学友に気づかれないように、何気ないふりして急いで食べながら、しかし麦というのは正面から見ると真中に線があるからすぐ麦だとわかるけど横から見ると米とほとんど変わらない。この弁当箱の中では麦の粒があっち向いたりこっち向いたりいろいろなんだから、向うの机の人から見ると半分近くは米みたいに見えるんじゃないだろうか。などと希望的な気休めを考えながら弁当を食べるわけです。いっそのこと麦を真中の線から左右に割ってしまえば、もうそれは米とそっくりになるではないか。早くそういう機械が精米所にできないのだろうか。などと積極的に考えたりもするのです。
で、麦飯は米がなくて麦だけでも炊くことができるのだけど、さっきの粉カスですね。わが家にメリケン粉がぜんぜんなくなったので、粉カスだけのパンを蒸そうとした。ところがこれは水でといていくら握ろうとしてもぜんぜんまとまらないのですね。何しろカスだけなんだからまったく粘り気がない。パラパラにこぼれてしまう。何とか努力して丸い型をそうっと作っても、それを蒸し器の中に置いてちょっと動かしたとたんにボサッとこわれてしまう。家族そろって何度か格闘していましたが、しまいには苦笑いしながらやめてしまいました。誰も他人は見ていなかったのだけど、やっぱり自分たちのしていたことが恥ずかしいのですね。
*
向いにやはり貧乏な家があって、ハコベという鶏のエサにする雑草を食べたらしいという噂が聞かれました。いよいよそこまでいくのかと、子どもながらに覚悟しました。いまだったら健康とか自然食とかいうので、ひょっとしてわざとそういうものを食べたりするかもしれませんが、もちろんそれとはぜんぜん違うんですね。米への思い入れと同じようなもので、雑草は犬畜生の食うものだということがあるんですね。もうこれ以上は下がれない、これ以上は下がれない、と懸命に考えながらジリジリと下がっていました。
だからその時代は「三度の食事」というのも懸命に守っていましたね。どんなくだらないものでも、朝昼晩といちおう三度ずつは食卓に向かっていたと思います。これにもやはり何か神格みたいなものがあったんじゃないでしょうか。いまはもう食事に神はないですね。時間の都合で朝食を抜いたり、夜食をたくさん食べたり、立ち食いをしたり、美容と健康のために絶食をしたり。しかし昔は三度の食事に神がいました。一日三回栄養をとるということもあるけど、一日三回食事にお参りをしていた。でもこれは信仰というほどのものじゃなくて無意識のものですよ。でも無意識だからこそ子どもにも感じられたのです。だから三度の食事がくずれるというのはものすごく不安なんです。しかし実際にはときどきくずれますよね。また反対に、何かのひょうしでほんのちょっと余分にご馳走が食べられることもありますが。
そういうときに、このわが家の三度の食事の「三度」というのがだんだん破綻してきたんですね。一回目が抜けたり、二回目が欠けたり、三回目が遅れたり。そしてその日もどうしても三回目の材料がなくなってしまった。それでどうしても手放せないギリギリのものを何か手放したんでしょうね。つまり家の中の物を売って現金をつくる。子どもにこまかいことはわかりませんが、あーだこーだと家の中を計算と感情が飛びかっていました。もうみんな空腹と不安で気が立っています。最後はもうガムシャラに何かが決まったんでしょうね。やっと何かの方法で母が現金をつくってきたときには、もう夕食の時間をとっくに過ぎていました。もう火を起こして飯を炊いたりということをしていられないわけです。
母はもう一度現金をもって外へ行ってご飯を買ってきました。佃煮か何かもいっしょに買ってきたんだと思います。しかしそんなただの白いご飯を、どこで買ってきたのかはわかりません。でもとにかく食卓にはご飯とおかずが並びました。みんなは食卓の前に座ります。だけどその食卓の殺伐とした眺め。これはどう説明すればいいのでしょうか。
理屈からいえば、たいしてどうということはないのです。その前後の芋や雑炊の食事にくらべたら、白いご飯というのは立派なものです。とにかく金が出来たのだから、白いご飯くらい食べられるのです。だけどそれはぜんぜんうまくない。いやうまいのかもしれないが、とてもやりきれない気持なのです。家で炊いた麦だけのご飯の方がよほど安心できるのです。オヤツやオカズならともかく、ご飯を外で買ってくるというのは、もう家が破滅してしまったように感じるのです。よそで借りてきた敷きブトン、返さなければならない敷きブトンに寝ているような感じなのです。硬直した口を上下に動かしながら、その外で買ってきたご飯を食べていると、何だかもう投げやりな気持になってしまうのです。寒い、すさんだ空気なのです。気持の寝床がなくなってしまい、いくらフトンをかぶっても、そのまま外に引き出されてしまうのです。そのフトンのエリのところを、野良犬がクンクンとかいで通るのです。道路のホコリが風に吹かれてフトンの隙間にはいりこみ、雨がジワジワと掛けブトンにしみこんでくるのです。そんなところで白いご飯を食べてもぜんぜんおいしくない。いやおいしいのだけど、味がおいしいだけで、ぜんぜん安心できないのです。
子どもの私は、外でご飯を買ってきた母を軽蔑しました。私は母親の立場に立つことができなかったのでしょう。だけどいまは母親の立場に立ってみることができます。やはり母はたくましかったのだと思います。何はともあれご飯というものには栄養があり、腹の足しになるのです。とにかく何かを食べないと、命をつないでいけないのです。だけど子どもというものはある意味では冷静であり、家の中の動きをいつも足下の低いところから見つめている。だから物資の欠乏への不安もさることながら、家庭の安定のリズムの破綻に敏感なのでしょう。母親の立場としてはいやおうなく外で買ってきた白いご飯が、これだけのすさんだ空気をもたらしたという子どもの記憶に、むしろいまの大人の私が驚いているのです。
だけど外でご飯を買ってきたのはそのときだけでした。それからはまた家でご飯を炊いたり、パンを蒸したり、芋をふかしたりして食べました。その材料が粗末なものであっても、三度三度の食事のお参り、それをつくっていく安定したリズムとその予定があれば、まず安心できるのです。私の場合はそうでした。でもいろいろな場合があるのでしょうね。もっとムキ出しの暴力が部屋の中をブンブン飛びまわり、窓が割れたり、襖が破れたり、衣服がち切れたり、茶わんが砕けたり……、だけどすさんだ空気の構造というのはやはり同じものではないでしょうか。母が外で買ってきたご飯というものは、家庭内暴力というものがつくり出す空気と同じものをつくり出してしまったのだと思います。
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しかしやはり苦手なものは苦手なものです。私はやはり家庭内暴力というものについて直接的に書くことができないのです。何事も経験的にしか書けないものですから、経験のない私に、これはやはりどうしようもない。
私の育った家の中には、貧乏はあったけど暴力はなかった。戦前はともかく、戦後はただひたすら貧乏に打ちひしがれていくしかなかった父の体からは、まったく暴力は出てきませんでした。これはいったい何故でしょうか。もちろん貧乏と暴力というのは単純には結びつけられないでしょう。暴力の発生しやすい体質と、暴力の発生しにくい体質とがあるのでしょうか。そのような体質が人類の長い歴史によっていくつか形づくられているのでしょうか。
父だけでなく、私を含めて男兄弟三人ともその体からは暴力が出てこないのです。兄は親孝行の優等生でした。学校ではいつも級長でした。借金のたまっている八百屋に、母に代わって野菜を借りに行く中学生でした。だけどいやな顔一つ見たことがありません。私は修身の教科書よりも確かなものとして、後についておりました。ある日外で「不良」から一方的に殴られたことがありました。股倉をケガしたらしく、縁側で向う向きになって薬を塗っている。私は何事かと思って背中の方からのぞこうとしたら、物凄い大声でどなりつけられました。だけど暴力はぜんぜん出てこないのです。これはいったい何故でしょうか。
五つ下の私は重度の夜尿症で、気持も暴力も引っこんだままでした。いつも小便のはいった体をかかえて、青い顔して絵を描いていました。級長になりそうなときには、絶対にならないように努力しました。犬が恐くて、回り道ばかりしていました。明るい性格は夜尿症によってどんどん追いつめられていきました。だけど多少裕福な時代を四、五歳まで経験していただけ、まだましな方でした。
五つ下の弟は貧乏の真只中で生まれ育ちました。だから昔は裕福だった、という無意識の負け惜しみさえできないのです。いじけて育つほかはない体質を見ながら、上のものは多少の後めたい感じをもつのです。弟は相当大きくなるまでは可哀相でした。いつも何かの、誰かの後をついて歩くばかりでした。そしてこの体もまたどう絞り出したって、暴力は出ませんでした。
いったいこれは何故でしょうか。貧困というものは暴力を育てる場合と、暴力を押し殺す場合と二通りがあるのでしょうか。
しかし姉たちは元気でした。私の上にいる女姉妹三人からは、時おり嵐のようなヒステリーがほとばしり出ておりました。それもむろん貧乏に押し出されたヒステリーではありましたが、ひょっとしてこれがわが家における男の暴力の代行をしていたというのでしょうか。
姉の一人は、切れた電球をたくさん保存していると告白していました。ヒステリーが起きそうなときには、その電球を庭の石に投げつけるのだそうです。ふだんはそれだけユーモラスな客観性があるのです。だけどどうして男たちとは違うのでしょうか。姉たちの衣裳が、ときどき母の手によってひそかに現金化されてしまったあとのヒステリーの騒乱は大変なものでした。
そのヒステリーにはもちろん正当性があるのです。だからその騒乱を理屈で説き伏せることはできません。だけど親としては理屈をつけるほかはない。親には親の理屈があるのです。そうやってヒステリーの嵐は輪になってしまった理屈にそって螺旋状に渦を巻きながら、部屋の中をかけめぐるのです。親は親の理屈を低い声で呟やくほかはなく、子どもたちはその日の犠牲者の狂乱にじっと耐えて、勉強をするフリをしながら、ただひたすら時間の経過を待つ以外にないのです。その衣裳は何らかの形で家族全員の胃袋の中に分配されてしまっているわけだから、親だけでなく家族全員が後めたい気持なのです。だから何とも声はかけられないのです。
これではまるでエスキモーの犬の群ですね。アラスカ横断の植村さんが書いていました。犬たちはいよいよエサがなくなると、家庭内暴力を振るうそうです。しばらくの間全員がうなりながら牽制し合っていたかとみると、一番弱い犬めがけて全員が、まるで合意の上のように一斉に飛びかかり、たちまちのうちに食べつくしてしまうのだそうです。そうやって朝昼晩と、かどうかはしらないけれど、食料になる犬は一匹ずつ弱い順に群の中をまわっていくのだそうです。そして一行がエサのあるところにたどり着くと、共食いのことはピッタリと忘れてしまうらしい。
これはどんな生物、どんな組織にも共通のことでしょう。家庭外[#「外」に傍点]暴力が封じられたところで、家庭内[#「内」に傍点]暴力(共食い)があらわれる。昆虫でも、動物でも、人間でも、家庭でも、政党でも、軍隊でも、国家でも。すべてはその内と外のバランスによって、時を流れているのでしょう。
わが家においてもヒステリーに火をつけられることの多かったのは、ふだんはおとなしい方の姉でした。優柔不断で、ものごとをテキパキという具合にはうまくなく、引っ込み思案の方でした。もう一人の姉はこの家族に見切りをつけて、家庭外への発展をはじめていました。家はいわば腰掛けのようなものでした。もう一人の姉はこの家庭からの脱出をはかり、自分だけの力で見事に大学へ進んでいきました。
総じてわが家では、女たちの方が元気があったようです。茶の間に薄い財布を前にした両親がいて、片方が猛烈な勢いでもう一方をつねり上げている、そんな情景を一度だけ目撃したことがあります。つねり上げているのは母の方でした。つねられる父は、
「痛いなァ、おい」
とだけしかいいようがないのです。これはまァ家庭内暴力といえるシロモノではないでしょうが、しかし父はそうして耐えるだけです。これはいったい何故なのでしょうか。
*
父の郷里は鹿児島です。一通りの貧乏な家だったようですが、しかし戦前の小学校の入学願書には「士族」とか「平民」とか書く欄があり、私の一番上の姉などは「士族」と書いていたそうです。つまり没落士族だったのでしょう。父は少年時代に東京に出て、ある新興成金の書生となって働きました。
そもそも鹿児島というところは産業的にも経済的にも貧しい県なので、一旗上げに上京するものが一番多い県なのです。父の兄弟も結局は全部上京してしまいました。
父は書生時代にリューマチに苦しみながらも、その成金に可愛がられて大学に通わせてもらいました。しかし間もなくその成金は破産して、父は大学も半ばにその夜逃げの大八車を引かされたそうです。
三井系の倉庫の会社にはいってからの父は、やっと貧乏から遠去かりました。各地の港町の支店を転勤するたびに出世していきました。といっておそらく目ざましい働きをしたわけではなく、典型的な真面目なサラリーマンだったのでしょう。だから世の中が平穏であるかぎり、たんたんと出世していくのです。私の知らぬ昔の家族写真には、「ねえや」や「ばあや」が写っていることもありました。転勤しながら子どもが生まれて、家庭が大きくなって、東京、横浜、名古屋、四日市、横浜、芦屋、門司、大分とたどり着いて戦争がはじまったときには、もう私もその家庭に含まれていて、私は四歳になっていました。
父は大して酒も飲まず、女や遊びの問題もなく、よく家族を行楽に連れていってくれました。大分では叔母の病気の快気祝いに家族全員で別府の温泉に行き、長逗留しすぎて金が足りなくなって、父が会社まで取りに行ったのを覚えています。ガッチリ計算して蓄財をするという風ではなかったのです。のんびりとした、穏やかな父親でした。だからサラリーマンとして安泰のかぎり、家族にとってはいい父親でした。だけどそれまでです。
終戦直後の人員整理で、父は真先にクビを切られました。戦後の動乱の時期を食いつないでいくことは、ただ真面目一方のサラリーマンでしかなかったものには、悲惨なものです。仕事を変えるたびに落ちぶれていき、背中は毎年貧乏に打ちひしがれて、丸くしぼんでいきました。穏やかな空気というものも、ある程度以下の貧乏になると、いじけた空気になるものです。父の背中はどんどん丸く、固くなり、勤めへの行き帰りの歩行速度はどんどん遅くなっていきました。それには貧乏の重圧はもちろんですが、世の中のどんでん返しによる動乱の衝撃が強くあったのだと思います。それに太刀打ちする用意がまるでなかったのです。
朝の縁側、寝巻き姿の父がフラッと立っています。青白い煙がフワッと立ち昇ります。ボンヤリと遠くを眺めながら、父が煙草をすっているのです。自分で紙に巻く配給の煙草です。その縁側に立つ父の姿があんまりボーッとしているので、私は庭のもう青い実しかつけなくなったイチジクの枯木ごしに見上げながら、何か心配する気持になりました。その心配をどういう質問で尋ねたのかは忘れましたが、いつか父は、その朝の一服がまるで天にも昇るような気持なのだと教えてくれました。まだ米も野菜も魚も運動靴も配給の時代です。芋の粉のダンゴにララ物資のバターを塗って食べていたころのことです。
そのころ、勤めが変わるたびに沈んでいく父が、その勤め先でどんな顔をして働いていたのか、私は一度も見たことがありません。ただ行き帰りのいじけた固い背中しか見たことがありません。
そんな父が一度だけ、怒って荒れたことがありました。問題は子どもの修学旅行のことでした。子どもの誰かが修学旅行に行けることにはなっていたけど、その持ち物か何かの問題が発端でした。子どもが不平をもたらしたのです。だけどその修学旅行が私のだったか、誰のだったか。
私は修学旅行には一度も行きませんでした。小学校のときは夜尿症のために、中学校のときは貧乏のために、高校のときは貧乏と反抗のために。だけどそれほど行きたい旅行でもなかったので、それほど残念でもなかったのです。
で、父は物を投げました。そこに居合わせたのは、私と二人の姉です。物は誰にも当たりません。父も誰かを目がけたのではないのでしょう。だけど子ども三人ともビックリ仰天し、お茶の間に逃げこみました。父はお座敷の方から物を投げます。物は部屋を二つ通ってお茶の間に転がりこんできます。
この家はまだ終戦の前、わが家の経済が落ちぶれる前に借りたものなので、広さだけはたっぷりあるのです。庭も広いものでした。まわりは杉の垣根と竹の垣根、戦後はそこに食料のカボチャのツルが、縦横にからみつきました。庭には玄関の横から順番に、桜桃、ザボン、榎(?)、椿、松、ザクロ、桃、イチジク、ツツジ、そして大家さんにつづく庭にはグミ、ビワ、シュロ、いやァ、書いてみて改めて感心しています。大家さんが庭木好きの人だったのでしょう。とはいえこんな庭のある家、いまの東京だったらちょっとした邸宅でしょう。だけど当時の地方の町で、住居の広さなんて何の財産にもなりません。
父の投げる物は、部屋を二つ通ってお茶の間に転がりこんできます。だけどそれらの物は宙を飛んでくるのではなく、畳の上を転がってくるのです。それがやはり父の性質なのでしょうか。よく見ると投げつけるというのではないのです。鍋や、バケツや、茶碗や、灰皿といったものを、まるでボーリングの投球のように、畳の上をお茶の間目がけて転がすのです。「コノヤロウ」とか「……のだぞ」とか声を発しながら、下手投げで転がすのです。
だけど私たち子どもは、はじめて見た父の姿に驚いて、お茶の間の襖の陰でオロオロしていました。父は気が狂ってしまったのではないかと恐しくなりました。とても声をかけに行ったりはできないのです。一寸先が真青になりました。これから先の不安をどうしていいのかわかりませんでした。とにかく姉の一人が、近所の家に行っている母を、呼びに走っていきました。
それは何分ぐらいの出来事だったのでしょうか。父が暴れたのはそのときだけです。それがどうやって収まったのかは、記憶にありません。ただ姉に呼ばれた母は、何だかわからぬ顔をしたまま帰ってきました。台所の土間のところからタンタンと、下駄を歩きっぱなしに脱いで上がっていきました。脱ぎすてられた下駄は、右と左がまるで足跡のような間隔をもって、土間の上に置かれていました。だけど私はまだお座敷の方へ行くのが恐ろしくて、顔はボンヤリと下駄の方を向いたままでした。
父は若いころから俳句をやっていて、俳号を骨茶といいます。私が小学校のころでしたか、タンスの中をかき回していたら「赤瀬川骨茶氏に照子嬢誕生」という見出しの黄ばんだ新聞を見つけてびっくりしました。本当は昭子で、字が間違っていたのでよく覚えています。それは最初の横浜時代の俳句の新聞でした。会社のピンポンの全国大会で優勝し、優勝カップを抱いている写真もありました。四日市の写真館のウインドウに長い間飾られていたという若い笑顔の大きな写真もありました。白い歯と黒い目の美しいハンサムな写真でした。母も子どもたちも、そういうことを内心では誇りにしているのです。
父はコタツの前で座ったまま亡くなりました。八十歳。最後に息を引きとるときもまるで穏やかに。めぐりめぐって横浜の兄の団地。おかゆが少し固いからと、母がもう一度火を通して部屋にかえると、父はコタツに頭を落としていたそうです。まるで居眠りのような姿だったといいます。おそらくその暴力は、あの世までもって行ってしまったのでしょう。
横浜で葬式のあと、父の写真を波止場まで運びました。港が父の仕事場なのでした。しかし波止場といえば海の男、荒くれ男とつづいていくのに、父の体は一生暴力を振るうことがありませんでした。私の体もいままでのところは同じ道をたどっています。兄も弟も同じです。私たちもまた、あの世まで暴力をもって行こうとしているのかもしれません。いや、私たちはこれでいいのです。しかしいったい何故でしょうか。この先またどんな貧困にまつわりつかれても、家庭内暴力とは無縁でいるのでしょうか。
*
父の葬式のあと、私は鹿児島へ旅行をしました。これは父の亡くなる前からの懸案だったのだけど、父の死によって実行が早まったのです。ご先祖様の墓に参ること、そして父から聞いていた、鹿児島のどこかにあるらしいという「赤瀬川」を見つけてくること。
私は幼稚園のころに、父の先祖の墓の前に立った記憶があります。その記憶の夢のような鹿児島に来てみると、市内の墓はすべて一カ所に集められておりました。だけど墓石はもとのままのものでした。苔むしてカンロク充分のものでした。正面には祖先代々の墓とあって、左の側面にはその墓を建てた父たち兄弟とその祖父と曾祖父の名前が並び、その一番右側の筆頭には「先代不明」と彫られてありました。
その先代不明の四文字は多少奇異な感じもありましたが、なるほど、そこから先はわからなかったのか、しかしわざわざわからないと墓に彫るのも変だなァ、と考えながら、その後大隅半島を歩いて運よく二級河川の「赤瀬川」を発見し、東京に帰りました。
父の四十九日、お経をあげていただいたお坊さんがお茶を呑んでいるとき、私は先祖の墓にあった「先代不明」という文字のことを尋ねました。墓石を建てるのに、いったいそういうしきたりがあるのだろうかと。お坊さんは湯呑み茶碗をゆっくりと下に置きました。そしてにっこりと笑いながら、
「それはしかし、いまどきじつに気持のいいお話ですねェ」
といわれました。私はいちおう(そうですねェ)という笑顔を返しましたが、しかしいったい何が気持がいいのかさっぱりわかりません。そこで私もお茶を一口呑んだりしていると、
「もともと先祖というものの先の先はわからないものです。だけどふつうはこのわからない先を、何とか地位の高い、高貴な家系に結びつけようとするものですよ」
とお坊さんはいいました。なるほど、それはそうです。ふつう先祖伝来といわれる家系図というものは、自慢するためにあるものですね。いかに上等な血統であるかということを、本人の体より以上に図面で主張しようとするもの。そうするとこのうちの墓の文字はいったいどういうことになるのでしょうか。
お坊さんはまたお茶を一口呑んで、湯呑み茶碗をゆっくりと下に置きました。そしてまたにっこりと笑いながら、
「まァそのお方たちは、よほど正直な方たちだったのですね。わからないということを、そのまま正直にお書きになられたのでしょう」
といわれたのでした。
なるほど、そういえばそういうことにもなるのです。なるほど、先代不明か。しかしそうすると、察するにご先祖様たちも、あまり金儲けはうまくなかったのだなァ、と思いました。正直とはいっても、上に馬鹿をつけられるのかもしれないなァ、とも思いました。しかし反対に、何か意地のようなものも感じられるのです。そうだ、意地正直という言葉はあるのでしょうか。
とこんなことを、この家庭内暴力という文章を書く最後に思い出したのでした。父の体からは最後まで暴力というものが出てこなかった。私たち兄弟も同じようなものです。おそらくご先祖様もそうだったのではないでしょうか。私はあの墓石を思い浮かべながらそう思うのです。
しかし何ということでしょうか。生前に父が甥の手紙の返事に書いていた簡単な家系図によると、上の方に、
「薩摩藩主島津家槍術師範赤瀬川の姓を下賜さる」
ということが書かれているではありませんか。これは何ということだ。槍術師範といえば暴力も暴力、暴力のプロの先生ではないですか。
私は何だかおかしくなりました。さっき自分で書いたばかりの定理を思い出したのです。なるほど、もしこの通りだとすると、ご先祖様には家庭外暴力の場所があったので、家庭内暴力の方は無用である体質ができ上がったのかもしれません。それが今日の私たちまでずーっと伝わってきたのかもしれません。だけどしかしそうすると、家庭外暴力の方はいったいどこに行ったのでしょうか。そのままそっくり受けつぐとすると、父や私たち兄弟は、機動隊か自衛隊の先生になっていなければならないではないですか。そしてもしも機動隊や自衛隊が私たちのようなものだとしたら、いったい日本国は……。
私はその有様を想像しておかしくなってしまいました。やはり正しいのは「先代不明」なのです。私はこの墓石がすっかり気に入ってしまいました。私はこの墓石に刻まれた家系図を、これから自慢しようと思いました。この「先代不明」の墓石を見たのは家ではまだ私だけなのだけど、もう少し年をとったら兄弟みんなで旅行して墓参りをしようと、それを楽しみにしているのです。
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あとがき
「飛行機」から「制服」までの十一篇は、一九七七年の『現代詩手帖』に「遠くと近く」という名のもとに連載したものを、そのままの順で並べた。「蛇口」は半分書直した。いちばん最初の「枕」の話は、この本のために新しく書いた。
この中に書かなかったことだけど、幼稚園時代のぼくの小さな頭の上で、母親が近所の人と立話をしていた。
「近頃は魚がなかなか手に入らなくて……」
「そうですわねェ、この間なんか鰯でさえも○○銭で……」
魚がないらしい。何故だか知らないけれどみんな魚を探しているようだ。そんなことを考えながらの幼稚園の帰り、道端にマグロの頭が落っこちていた。それは捨てられていたのだろうけど、あっ魚だ! そう思ったぼくの頭の中では、食卓で食べる魚と、大人たちが探している魚とが一致していなかったようなのだ。
ぼくは近くに落ちていた荒縄でそのマグロの頭を縛ると、ズルズルと家まで引きずって帰った。マグロの頭は土にまみれながら、ズルズルと家まで引きずられていった。
「お母ちゃん、お魚があったよ」
ぼくが報告すると、母親は口をあんぐりと開けて、
「あら……、克彦ったら……」
このことは私の記憶の中にいつもついてきている。子供の頭の中で、食べ物と物体とがあっさりすれ違う感じが、いまになっても頭に引っかかるのだ。そんな頭の部分をそーっと引っぱりながら、私の少年が交際した物品類について書いてみた。これは私にとっては大切な本である。
少年とオブジェという主題でこの本をまとめてくれた堀切直人氏に、心から御礼申し上げる。
一九七八年八月 日本にて
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文庫版のためのあとがき
これを書いていたのは、まだ自分が小説を書くようになるとは思いもしないころで、それだけに文章の露天掘りをしているような楽しさがあった。思っていることや感じていることについて、言葉をひねくり回しながら書いていく。そういう言葉の泥遊びというか、言葉の粘土細工みたいなことが楽しかった。でもちょっとひねり過ぎて、ごてごてになってしまったところもある。
ごてごての理由はもう一つある。六〇年代七〇年代というのは、難解な表現こそ凄いのだという迷信のはびこっていた時代で、その後遺症が、私みたいなものの文章にもちょっと透けて見えるのである。
これは北宋社で単行本になったあと、角川書店の文庫本になったことがある。その印刷にかかったころ、小説の芥川賞をもらった。芥川賞をもらったのは赤瀬川ではなく尾辻だったので、急遽角川文庫版の「少年とオブジェ」は尾辻克彦になってしまった。やはりお墨付きというのは人を慌てさせるようである。
そのとき北宋社の人に聞いたのだけど、単行本では「じつは」六百部しか売れなかったそうだ。あとは「じつは」断裁していたと申し訳なさそうに言われて、こっちが申し訳ない気持になった。哀れな本だったのだ。その後角川でもポツンと一冊だけで絶版となり、それから十年の歳月が流れた。その間私は小説も書いたが、トマソンを探したり、路上観察をしたり、時代劇の脚本を書いたり、油絵の風景画を描いたり、ステレオ写真を撮ったり、いろいろした。
今回久し振りにゲラ刷りを見て、やはりいまの自分の文章とはちょっと違うところがあるなあと思う。油絵でいうと、絵具をずいぶん厚塗りにしているなあという感じである。でも自分なんてわからないもので、これでまた十年したら、いまの自分を○○だなあと思うのだろう。
そういう哀れだった本が、今回こうしてちくま文庫で再刊されたのはじつに喜ばしいことである。むかし私の本のあとがきでよく謝意を述べさせてもらっていた松田哲夫氏は、いまはこの出版社の経営者の一人で、ソ連は崩壊するし、世の中何がどうなるかわからない。担当の鶴見智佳子さん、そして解説の秋山祐徳太子氏は私の同窓生、それから装幀の東幸見氏、みなさんに謝意を表する。
一九九二年七月七日
赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい)
一九三七年横浜生まれ。画家。作家。路上観察学会会員。武蔵野美術学校中退。前衛芸術家、千円札事件被告、イラストレーターなどを経て、一九八一年『父が消えた』(尾辻克彦の筆名で発表)で八四回芥川賞を受賞。宮武外骨、3D写真、老人力などのブームの火付け役でもある。著書に『超芸術トマソン』『外骨という人がいた!』『反芸術アンパン』『老人力』『ライカ同盟』『新解さんの謎』『老人とカメラ』『優柔不断術』、写真集に『正体不明』など一〇〇冊を超える。
本作品は一九九二年八月、ちくま文庫として刊行された。