[#表紙(img/表紙.jpg)]
じろじろ日記
赤瀬川原平
目 次
T
頭上の宝石
南海の二宮金次郎
韓国の緑の事情
韓国で見た猫と魚
α‐7700iでのぞく植物ワイパー
カラスが黒くなる原理
日本風景界に突入せるインコ
函館の建物のペンキの年輪
わが脳内の記憶観察
パーマネントに火がついて……
買えるものなら買ってみろ!
可愛いネコあげます
U
ヒドロナリューム合金に触る
クエスターを手に持つ感触
国道四一一号線 4WDの放流
結構なお点前
沖縄の路上に出合う石敢當《せきかんとう》
オリンパスのアルミニュームカメラ
宝石売場のカメラ男
かなり毛の生えた「パオ」
英語の質問の飛んだ記者会見
重要人物の集まった日
命日にクランクイン
V
国宝を訪ねて
五千トンの鉄の嬉し恥ずかし初体験
快感と哀愁の西伊豆写生旅行
東京港から横浜港への船旅
ブリキ時代のモーションディスプレイ
十七歳のカンフーテニス
東京最高齢銭湯の最期
グィーンと走ってビューン
打上げ花火を根元から見る
色彩の不思議体験
川一族のシンポジューム
カタン、カタンのクギ抜き地蔵
W
街を転がる目のつけどころ
猫の行き交う尾道
恐竜のサファリパーク
小川には底力が流れている
可愛くて食べちゃいたい
青年よ大志を抱け
ベイブリッジを渡る
屋内の戸外空間の都内の外国
日本のお酒です
お手本つきカメラの登場
物件某と笑顔の持続
狩猟のための狩猟がはじまる
春うらら、幻のじろじろ気分
あとがき
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パーマの名の起り
パーマネントはいつごろだれが始めたもので、また日本で流行しだしたのは何年ごろですか。
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パーマの始まりは西暦1917年第一次世界大戦に、アメリカの婦人部隊が長髪では活動に不便だというので、髪を短かく切りアイロンでちぢらせてクセをつけるのが流行し、その後いまの機械ができた時に最初にかけた女性がパーマネント嬢で、この第一号の名誉ある名を記念してパーマネントと命名したと石井研堂著『事物起源』に書いてありますが、真偽のほどはわかりません。
日本では大正13年ごろ東京銀座にただ一軒パーマネント美容室が開店し、一回の電髪料金が30円から50円、当時はサラリーマンの月収と同じぐらいなので世間はビックリしました。もっとも電髪機器一式の輸入価額が、当時千円以上したということです。
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じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│頭上の宝石
空には太陽がある。だから世の中は明るくて、ものが見える。
ところがこの太陽は単なる明るさではなく、物凄く明るい。物凄く、という単純表現しかできないのも情ないが、とにかく長い時間直視すると、その明るさで目が潰れる。そういう、目に危険なほどに明るい太陽がいつも上空に出ていて、その下で人間は平気で暮しているのだから、慣れというのは恐ろしい。人間は生れたときから太陽を直視しない習慣を身につけている。
でも子供のころ太陽を直視した経験があった。砂浜か草原かに寝転んでいて、退屈なので空を見上げながら、太陽をチラッと見たのだ。もちろん眩しいのですぐ目を閉じたのだが、しかしその眩しさにめげずにこんどは手で目を覆い、指の隙間を細く開けて、まぶたも細く開けて、もう一度素早く太陽をチラッと見たのだ。太陽表面はツルツルに研磨した鉄の膚の鏡みたいに、青白くトロリと光っていた。爪でつついたらカチカチというほどに硬そうだった。
そういった物凄く明るい太陽を月が隠すのが日食である。
うまいことに、地球から見て太陽と月はほぼ同じ大きさである。じっさいには太陽は月の四百倍の大きさがある代りに、四百倍だけ離れているので、ちょうど同じ大きさに見えるのである。これは偶然のことだけど、ひょっとしたら必然かもしれない。とにかくあまりにも偶然すぎるから。
さてそうはいっても世の中はゆらいでいるので、この距離は多少伸び縮みする。日食のとき月がピタリと同じ大きさで太陽を隠すのが皆既日食であり、そのとき月がちょっと遠くて小さいために隠したはずの周囲にチリチリと光が漏れて環のように見えるのが金環食である。これはどちらが凄いかというと、金環食が十万円だとすると皆既日食は百万円ぐらいのものらしい。
いやお金で計ったりして申し訳ないが、その百万円の皆既日食が小笠原諸島のさらに南の太平洋上であるというので、私はカメラと双眼鏡を持って見に行った。
「にっぽん丸」という一万トンの客船で、五百人の目撃希望者が乗っていた。正味二日半かかって行くのだけど、二日とも雨が降って風が吹いてシケていた。船の床はいつもぐらぐらしていて、ときどきマグニチュード七か八ぐらいになって、食べているビフテキの皿がズズズズッと食卓を滑って落ちそうになる。一日目はそんなことをいちいち心配していたが、二日目にはもう食卓の皿の動きを楽しむようになっていた。
さて当日、ガバと起きると雨はやんでいるのでホッとした。船はどんどん走りつづけて、青空がのぞきはじめる。そうはさせじと雲もまた追いかけてくるが、しかし本船もそれを必死で逃れる。
まず欠けはじめの太陽を日食用サングラス越しに見た。これはいままでにも経験がある。ところがその「食い込み」がさらに進んで細い三日月状になってくると、さすがに辺りがうっすらと暗くなった。お昼前で空はまだ青いが、太陽に向って左下の方に星が一つ光りはじめる。金星だ。白昼の金星を見たいと思いながら果せずにいたが、その思いのほか強い光に感動した。それなら……、と視線を太陽方向に少しずらすと、あった、木星である。金星の光よりはかなり弱い。
「木星も見える!」
と叫んでしまった。四個の衛星を見ようと双眼鏡を構えたが、甲板が揺れるのでいまひとつ確認できない。
しかしそんなこともしておれんのだ。サングラスでのぞく太陽の光はいよいよ細く、もう裸眼でもいいのか、いややはり裸眼では目が潰れるか、と迷いながら裸眼で見るうち、細い光はなおも縮んで最後の一点に集まり、そこがトローンと光ってる。ダイヤモンドリング二秒ほどか。そして太陽は真っ黒になった。
完全に我を忘れた。このときスリが一万円札をスッて行ってもぜんぜんわからぬ。黒い太陽の周囲に美事なコロナがひろがっている。プロミネンスが上と下に一つずつ出ている。ハッキリ肉眼で見える。双眼鏡を向けると、いままでに見たこともない色、透明なピンク色。世の中に見えるものの美しさの焦点。すべての理屈が蒸発して、完全に宗教である。
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本当は某科学誌の取材で行ったのだけど、思わず昂奮して先に書いてしまった。いままで自分の目でいろいろなものを見てきたが、この美しさは文句なく第一位である。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│南海の二宮金次郎
「にっぽん丸」で硫黄島の近くまで皆既日食を見に行き、帰りに小笠原諸島の父島へ寄った。父島があれば母島があり、兄島、弟島がある。孫島もある。嫁島まである。妾島まであるかどうかはわからない。
しかし東京の晴海埠頭を出てえんえんと二日間、水平線だけを見て進み、その先に見えてくる島が、近づくと家があり人が住んでいるので恐れ入ってしまう。
鬱蒼とした密林を這わす山影が、ほとんどベトナムやカンボジアを連想させる。パタパタとヘリコプターの音が聴えてきて「シュパーン!」とナパーム弾が火を噴きそうだ。
デッキに立って見ていると、島の絶壁が近づいてきて、小さな穴が二つ三つ開いている。双眼鏡でのぞいてみると、戦時中に掘られた防空壕の跡らしい。しかしまったくの絶壁で、上からも下からも行けそうもない。人間というのは凄いことをする。
「にっぽん丸」は沖合に停泊し、小さな漁船が何度も往復して島まで客を運んだ。
陸地に上がると、すぐにマンホールに出合った。期待の第一である。マンホールの蓋の大研究家林丈二も、おそらくこの島までは来ていないだろう。だからもし鉄蓋の名品でも見つけたら、早速報告して手柄を立てようと考えていたのだ。
とはいえ絶海の孤島に果してマンホールそのものがあるかどうかという疑問もあった。
で、上陸第一歩で出合ってしまい、なあんだと思った。しかもそれは東京都のマークのあるふつうの蓋なのでガッカリした。考えたら小笠原諸島は、晴海埠頭から船で二日かかるとはいえ東京都なのである。
島を走っている車が品川とか多摩のナンバープレートを付けているので、何だか拍子抜けした。
さてレンタカーを借りて島を一周したのであるが、この島はほとんどが山の島だから、道路が全域にまではとても行き渡らない。地図を見ているとジョンビーチ、ジニービーチ、コペペ海岸などという名前があり、アメリカ軍占領時代の名残だろう。ブタ海岸なんてのもある。脇に英語で小さく (WhiteBeach) と書いてある。何だろうか。
行けるだけの道をとにかく走っていたら、島の中央にある中央山の尾根道に出た。そっけない名前だ。そのまま進むと夜明山に出る。そこに珍しく芝生の広場があって、黒ずんだ建物が廃墟となっている。何か胸騒ぎがした。おそらく戦前の施設の跡だろう、と思って車を徐行させていると、芝生の広場の中央に妙な物を見つけた。
慌てて停車し、車を降りて駆け寄る。
二宮金次郎の石像である。
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頭部がポッキリ折れている。手にした本も折れている。しかし紛れもなく勤倹貯蓄の二宮金次郎だ。
いささか興奮した。こんどは藤森照信の顔が浮かんだ。荒俣宏とともに二宮金次郎の大研究家であるが、おそらくこの南海の小島までは来ていないだろう。
私は当然ながら思わずカメラを構えてシャッターを切った。これを二人に報告して手柄を立てよう。かつて日本全国に分布していたという二宮金次郎像の南限の物件ではないか。しかし緯度では沖縄本島の方がやや南だから、うーん、沖縄にも二宮金次郎像があったかどうか。台湾にもあったとすればもっと南だ。しかし、少なくとも、東京の二宮金次郎像としては最南であること間違いない。まあ別に頑張ることもないが。
しかしこれは変な二宮金次郎である。石像で薪を背負っているから、藤森研究によると粗朶《そだ》を背負った銅像モノよりは新しいことになるが、その脚が脛《すね》のところまで台座に没しているのが珍しい。推察するに、田んぼを歩いている場面であろう。おそらく手にした本で勉学に夢中になって歩きながら、山道を下りて田んぼに踏み込んでしまったのだ。そして勉学に夢中のあまり頭部が吹っ飛んでしまったのも気がつかない。故に手にした本が半分吹っ飛んでしまったのも気がつかない。そして戦後になったのにも気がつかず、もはや戦後ではないということにも気がつかずに、南海の孤島の芝生の広場に立ちつづけている。
真面目な話、こんな山の上に小学校があったわけでもなかろうから、黒ずんだ廃墟はおそらく昔の兵学校か何かであろう。頭部を吹き飛ばしたのは爆弾か、あるいは米軍の思想的な力によるものなのか。
ちなみにこの首無し二宮金次郎の石像は、北北西の東京の方角を向いていた。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│韓国の緑の事情
ゴールデン・ウィーク。韓国へ行った。
五月五日は子供の日。韓国でも五月五日は子供の日だという。凄く似ている。ほとんどそっくりというか、子供の日に関しては同じである。当然といえば当然かもしれないが。
それだけでなく桜が咲いているのでうーんなるほど、と思った。
到着は四月二十八日。満開をちょっと過ぎた山桜が、日本の桜事情と同じようにたくさん見えた。これもほとんどそっくり。しかし日本で桜のシェアの過半数を占めている染井吉野があるのかどうか、でもあれは近年の日本で植木職人が掛け合わせで作り出した新種だから、まあ違うだろう。
それからこれも満開を過ぎてもうほとんど散っていたが、レンギョウの花。これが至るところに植えられていた。ソウルの街の中に全部で十七万坪という李朝の王様の宮殿があり、そこの秘苑という庭園を歩いていると道の両側に並んでいる潅木はみなレンギョウだった。ソウルから扶余《プヨ》の方へ車で走ったのだけど、道路の両側には行けども行けどもレンギョウが植えてあった。レンギョウは韓国の国花ではないかと思ったほどだが、調べてみないとわからない。
ツツジもありましたね。これはレンギョウ、山桜につづいて第三位といったところ。あるいはもっと下かもしれない。もちろん私の見た限りでの話だが。
南の扶余とか慶州の方へも行ったのだが、牡丹の花が見事だった。指に粉がつきそうな感じの緑色に、花はエンジ色。花だけ見ているときはそうでもなかったが、カメラを向けてフレームをのぞいたとき、あ、こりゃ韓国だ、と思った。緑と赤のハレーションを起す関係。あの韓国独特の色彩が、フレームの中にデザインされてあるようだった。
前に富山の方の聖徳太子を祭るお寺に取材に行ったとき、ちょうど太子講という祭事をやっていて、本堂の高い軒からずいぶんと派手な赤、黄、青といった原色の垂れ幕のようなものが下がっていて驚いたことがあったが、おそらく韓国から渡ってきた色ではないかと思う。それが伝統ある行事には残ったものの、日常の生活の中では、自然に褪色したように消えてしまった、のではないか。やはり土とか水とか空気とか温度とかの関係によるのだろう。
あと花ではないが、車で走る道路の両側に田園風景がひろがる。田園でなければ山林、あるいは野原であるが、プラタナスとかその他、背の高い樹木が立っている。その上の方に、ぼんやりと柔らかい球が見える。
見たところ直径五十センチくらい、それが樹木の頂上よりちょっと下のところにあって、鳥の巣である。
当然日本にもあるのだろうが、いままで気が付いたことがない。韓国でこんなにたくさん気が付くのは何故だろうか。日本の鳥はもっと隠れたところに巣を作るのだろうか。あるいは私の観察力のたんなる乱れなのかもしれない。
田園風景の似たような丸いものに、土マンジュウの墓があった。一般のものは直径二、三メートルほどの半球形であろうか。それがちょっとした丘の斜面にいくつも並ぶ様は、遠くから見るとピップエレキバンをぽつぽつと貼ったようである。土マンジュウの上にうっすらと草が生えて、その柔らかい丸みが、ちょうど樹の上にぽつぽつとある丸い鳥の巣によく似ている。
とりあえず車窓から眺めた植物関係のことを書いたが、全体に、何となく樹が若いように見えた。細いというか。ズンッと太ったような樹をまず見かけない。
韓国は地震がないというので、そこはやはり違うなと思った。たしかに岩山が多い。石はとにかく豊富。
地面の全体が岩盤なので地震がないという。ニューヨークみたいな事情があるのかもしれない。そうすると土が少なくて、従って樹もそうは太れない、ということかな。
私はニューヨークには行ったことがないが、もし行ったら樹の太りかげんを見てみようと思う。
日本に帰ってまず感じたのは、やはり樹々の緑がこんもりと盛り上がっていることだった。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│韓国で見た猫と魚
韓国に猫はいないかと見回したが、あまり見かけなかった。もっとも今回、お寺とか史蹟に行くことが多くて、路上観察はほとんどできなかったが。
猫の置物でもないかと思ったが、これもなかなか見かけない。
私はもともと猫なんて好きではなかったのだけど、五、六年前に家人が強く主張して、友人のところから黒いのを一匹もらってきてしまった。
私は妥協的に好きになってこんにちに至るのだが、しかしいっしょに暮しながら見ていると面白いものである。
わが家の猫のキャパシティはせいぜいが一匹であるが、しかし置物なら一個以上何十個か置くことができる。
おもにセトモノだが、気に入ったのを買ううちに結構増えてしまった。
白地に青い模様の猫はタイのものに多い。
韓国では猫も猫の置物も見かけないのはどうしたことか。
去年上海に行ったときにも見かけなかった。置物もさることながら、上海には犬も猫もいない。いてもすぐ人間の胃袋へ直通するのではないかという噂もあるのだけど、じっさいには飼育が禁じられているのだ。住宅事情のせいだと聞いた。
上海で鶏はよく見かけたが、これもじつは飼育禁止。街でなぜ見かけたかというと、それは飼育ではなくて保存なのだ。つまり鶏はすべて食用であって、買ってから食べるまでの何日間かは、生きたまま保存してよいと法律に決められているらしい。
たしかに人間が多ければ、犬猫鶏どころではないわけである。まず人間が住んで、あともし余裕があれば犬猫鶏にも住ませてあげる。その反対に犬猫鶏に住んでもらうため人間の一部に死んでもらう、というほど人間のセンチメンタリズムは過激ではないようだ。
で韓国であるが、古道具屋で、昔の錠前を見つけた。真鍮製で、魚の形をしている。鯉のように感じる。その魚が跳ねた形をしていて、反った背の上の頭と尾をつないで太い棒が貫通している。大きさは十五センチぐらい。
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あ、珍しい、と思ってすぐ買ったのだけど、そのあと埃だらけの店内をごそごそ探していたら、隅の籠にそれがまだたくさんあった。大きさや模様などがちょっと違うが、いずれも同じ魚の跳ねているようなデザイン。
時代は日本でいうと江戸時代とか、そういうあたりではないだろうか。この国では錠前といえば魚のようだ。箪笥についていっしょに売られている錠前も同じ魚の形。
何故魚が錠前になったのだろう。
韓国には猫がいないからだろうか。
韓国では魚が錠前になってしまうほど猫が少なく、魚にとっては治安のいい国である、という説はまさかないだろうな。
日本では、ガードマンの会社は梟《ふくろう》マーク、宅急便の会社は親猫が仔猫をくわえたマーク、航空会社は大きな翼を広げた鶴のマーク、といった具合に、何らかの理由で動物を選んでいるのがわかる。で、韓国のこの錠前の魚はどんな理由か。
何か歴史上の資料を調べればすぐわかるのだろうが、しかし調べるより考える方が楽しみである。
猫がいないと思った旅行の最後の日、ソウルのどこか路地裏のちょっとした通りに、何かふにゃりとしたものがいると思ったら、猫だった。はじめて見た。
細いビニールの紐につながれて、ダンボール箱の中で眠っている。白と黒のブチの、日本でもよく見かけるやつだ。しかし紐でつながれているのはあまり見かけない。しかもダンボール箱を小屋ふうにしつらえている。ただ置いただけだが、しかし横向きに置いたところに、しつらえたというわずかな感じが読み取れる。
しかし紐がちょっとね。この猫は何度も逃げた前科があるのだろうか。日本では、いやほかの国でもそうだろうが、猫はまず紐でつないだりはしない。犬はつなぐが。
このダンボール箱、よく見ると「安城湯麺」とプリントしてある。うーむ、湯麺か。食べ物である。その食べ物のダンボール箱に、猫が紐でつながれて中に入っている。うーむ。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│α‐7700iでのぞく植物ワイパー
はじめてのカメラに触った。ミノルタα‐7700i。
ミノルタは三年前にα‐7000というのを出しており、その上に9000もある。9000の新型が出たら9900iとなるのだろうか。あと100足せば10000の大台を越える。そうなるとちょっと数字が大きすぎる感じだ。カメラの名前でまだ万の位はないが、最近こういった名前はインフレ的にエスカレートしている。
むかしは数も少なく引き締っていて、ニコンの一眼レフは最初はニコンFだけど、その次がF2、その次がF3。
キヤノンはF1である。A1もあるし、AEもALも1だ。
オリンパスはOM‐1、OM‐2など。
ミノルタにしても昔はα‐1だった。ミノルタSR|7《セブン》なんていうのもありましたね。
その後各社インフレ傾向で、オリンパスOM10、OM20。キヤノンT50、T70、そしてT90。三桁ではニコンF301、F501とあって後でF401も出た。しかしそのころからトップはミノルタで、α‐500、α‐600、α‐700。もちろん数字の話だけど。
しかしカメラはα‐7000までいって、たんに数字の話だけではなくなった。7000とはまた数字も大きく出たものだけど、性能においても、あのAF機構は他社が追いつくのに二年はかかったというシロモノである。
さてこのところAF一眼レフカメラは各社一線に並んだ感じがあったが、そこでもう一度グインと出てきたのが、α‐7700iである。
シャッターを押した感じで即座にイオスを思い出した。キヤノンEOS。
とにかくシャッター半押しからピント合わせまでの時間が早い早い。イオスよりも早いかもしれない。シャッターをちょっと押しただけで、こちらは別に何も言わないのに、動く被写体に合わせてキュンキュンとレンズが動く。
やはり一般の水準に比べると一周引き離しているという感じがまざまざとした。とくに手前に向って走ってくる被写体に対して、あらかじめそのスピードを察知、予測される次のピント位置までレンズが繰り出して待ち構えている、というのが凄い。被写体が来たところで微調整するだけだから、時間の省エネは凄いわけだ。
もちろん私自身、そういう撮影はまずしないだろうから、私にとってはあまり意味がないとはいえる。走ってくるベン・ジョンソンを正面からチュイーン、チュイーンと速写することも、じっさいには考えられない。
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しかし、カメラはたんなる必需品ではない。自分の道具が必要以上の性能をも持っているぞということに深い満足感を味わう。
前のα‐7000のときにはデザインに大いに不満があった。今回も広告で正面写真を見たときにはあまりスマートとはいえなかったが、じっさいに手にするとしっくりする。全体のシルエットはいまいちとしても、角を丸くした細部のデザインは7000より格段によくなっている。
じつはある雑誌の広告タイアップページでちょっと出演を、ということだったのだ。何かこそばゆいような話であるが、それを手にして撮影に行った。
路上観察で「植物ワイパー」と呼んでいるものがある。壁際に生えた植物が、風に吹かれてぶらぶら揺れて、壁にワイパーの跡のような痕跡を残す。これがさまざまな形態があって興味深い。おもに蔦草類が垂れ下がって揺れて下向きの半円形を描くが、まれに立ち上がった植物類が揺れて、上向きの半円形を印すのがあり、私はこれを珍重している。
家の近くの植木畑にそれのいくつも立ち並ぶのを見つけていたので行ってみたが、いざ正面に立ってみると、何故だかはっきりと見えなくなるのでがっかりした。光のかげんか、斜めからだとかなりよく見えるが、正面からだと飛んでしまう。でも本当は正面から撮りたい。こういうコントラストのあいまいな物件をはっきり見えるように修整するカメラというのはまだない。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│カラスが黒くなる原理
うちには黒猫のクリがいる。しかしうちの周りには黒いカラスがいる。両方とも黒い固まりとしては同じくらいの大きさである。
うちに来た人はクリを見て、
「ずいぶん大きい猫ですね」
と言うが、私はいつも見ているのでとくに大きいとも思えない。しかしこのクリが外の野原を歩いているところをふと見たりすると、
(うん、カラスより大きいかな)
と思ったりする。しかしカラスは翼を拡げるとグーンと大きくなるので、やはりトータルとしては同じくらいの黒い固まりに感じられてしまうのである。
おそらく体重では猫の方がずっと重いだろう。だから足を止めて勝負すれば猫の圧勝だろうが、しかしカラスにはフットワークがある。フットではなくて、フェザーワークというかウィングワークというか、英語のことはよく私にはわからない。
おそらくカラスの作戦としては、猫の襟首をつかんで急上昇し、ビルの五階ぐらいの高さから落してしまう。猫は落されてもくるりと体勢を整えて安全に着地するというが、ビルの五階ぐらいからではどうなるのか。
この問題を考えるとき、私はいつも蟻だったらどうだろうと思ってしまう。蟻が地面に叩きつけられる、ということがどうも想像しにくい。蟻ぐらいになるとビルの十階ぐらいから落ちても何ともないのではないか。
極端な話、毛虱のような小さなものが成層圏のあたりから落されたとする。その場合ほとんど重さがないので落ちていかないのではないか。落ちるとしても一週間ぐらいかかったりして、十日後にはまたどこかの人体に平気で食いついているかもしれないわけで、微小動物には高所恐怖症というのはないらしいのである。
しかし今回の問題はそんなことではなくて色のことだ。黒猫が黒い理由もわからないが、それにもましてあのカラスはどうしてあんなに染めたみたいに全身が黒いのかということ。
ひとつヒントは、カラスの糞は真っ白だということである。カラスは極端だ。
黒猫はそれほどでもない。ちゃんと人間にも近いような、土色のものを出しているようである。まあそれがふつうだと思う。ところが真っ黒なカラスの糞が真っ白である。どうしてなのか。
牛乳と豆腐と白米のご飯とイカと素うどんと御膳そばだけを食べているというなら、真っ白いものが出てくるのも納得がいく。しかしカラスという奴はミミズやその他、よく知らないが、ふつうに色のついたものをたくさん食べているではないか。
そこで思うのだが、カラスの体内には色彩分離機構があるのではないかということ。
食品にはさまざまな色がついている。マグロは赤いし、トウモロコシは黄色いし、ホウレン草は緑色だ。カラスも贅沢はいえないから何でも食べるだろう。だからその体内は十二色の絵具を混ぜ合わせたように混沌とした色彩状況となっている。
色彩理論では三原色を全部混ぜると黒になるというが、私が子供のころやったときにはそうはならなかった。黒っぽい濁った色という程度だった。理屈で考えても完全な黒になるわけがないと思う。三原色を混ぜるだけでなく、そこから白い色素を取り除かなければ。
カラスの体内ではそれがおこなわれているのではないか。おそらく遠心分離機のような構造だと思うが、それが作動して、体内の混沌とした色は次第に黒と白の両極に分かれる。そして真っ黒に仕上がった色から順番に表面に出てきて、カラスの濡れ羽色を作り上げる。一方の白い方はカラスにとっての不要物件として、体外に排出される。つまりカラスはカラスの濡れ羽色を作るために、真っ白い糞を排泄している。
のではないかと思うのだけど、これはまったく科学的な裏付けのないことだから、あまりアテにはできない考えである。
しかしカラスは今日も、真っ白い糞を出しながら真っ黒い体で空を飛んでいる。これは紛れもない事実なのだ。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│日本風景界に突入せるインコ
カラスの体内には白と黒の遠心分離機がある。それによってカラスの表面は黒くなり、白い色は糞となって排泄される。それがいつの時代に完成されたかはわからない。
さてインコというのは南洋の鳥である。この鳥はカラスとは対照的で、その表面は緑、赤、黄色と原色だらけだ。
南洋の鳥はなぜ派手になるのか。暑くて暑くて、とても微妙な中間色の調合などはしていられないよ、という気持はわかる。どっと派手にいこう派手に、原色を効かして、という風潮が南洋の鳥の間にはあるのだろう。
そういう南洋のインコが日本で繁殖をはじめている、という記事を読んだ。
ペットで飼われていたのが逃げ出したらしいのだ。あるいは業者が売れ残ったのを空に棄てた、という説もある。とにかくそれがいま野性化して、何十羽と群れになって東京の空を飛んでいる。
同様の話では、ニューヨークの地下水道に鰐が繁殖している、という噂を聞いたことがある。ペット売場でトカゲくらいの鰐を買ってきた子供たちが、そのうち飼うのが面倒になって水洗便所に捨てる。それが流れ流れて地下水道でウヨウヨ繁殖しているというのである。真偽のほどはわからないが。
しかし日本の空をインコの一群が飛んでいるのは真実である。
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インコというのはそのエキゾチックなスタイルに似合わず、環境に適応する能力に優れているという。おとなしい鳥だそうだが、大きなカラスなどが攻撃を仕掛けてくると、大変なチームワークでカラスを撃退してしまうらしい。頭はいいのだ。
しかし西洋の絵本の中から出てきたような洋風の鳥が、当り前の顔をして日本の和風の空を飛んでいるというのは、どうも風景にそぐわないというか、何となく不気味な光景である。
日本の鳥といえば雀、カラス、鶴、雁など、どちらかというとモノクロームを趣味としている。色がついているにしても、非常に地味に押さえてある。それが日本の風景に似合うのである。水墨画の世界ですね。
日本の鳥はどうして色の好みが地味なのだろうか。
文鳥というのもモノクローム的なファッションの鳥だが、出身は南の方で、地元の元祖文鳥はもっとケバケバに派手な色をしているらしい。
そういえば南洋というのは魚にしたって恐ろしく派手だ。熱帯魚などちょっとやりすぎと思えるほど、ヘビメタというかパンクというか、地上げ屋のハワイ旅行みたいなキンキラな恰好をして泳いでいる。好みだから、といわれてしまえばそれまでだが、熱気と派手というのは、感情を超えて物理的に関係があるものなのかもしれない。
日本でいうと、たとえばウグイスである。
ウグイス色といえば、上品な和菓子のアンコになったりしているが、ウグイスの色も本当はもっと派手だったのかもしれない。螢光色みたいなギンギンのウグイス色で南洋から乗り込んできて、はじめはひんしゅくをかいながら飛び回っていたのが、いつの間にか日本の風景と混ぜ合わさって、こんにちの渋いウグイス色に落ち着いてきたのかもしれない。
日本の風景の中には、見た目の派手さを押さえる地味なエネルギーというのが、土や水や空気の中に充満しているのではないか。
そのエネルギーを物理的に発見した人はまだいないが、その原理が解明されれば、超電導にも匹敵するノーベル賞候補となるのかもしれない。
派手エネルギーの原発が派手な事故で立ち往生しかけているこんにち、地味エネルギーを地味に研究して地味に手にすることが、地球の新しいトレンドである。
近年になって日本の空に野性化し繁殖をはじめたインコが、いずれウグイスのような渋い色に落ち着いてくるのかどうか、その観察の過程で新しい発見が得られるものと思われる。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│函館の建物のペンキの年輪
北海道へはじめて行った。
ペンキ塗り下見板張りの洋風建物をじろじろ見てきた。
函館にはアメリカ風の木造建築が多い。何年おきかにペンキを塗り替えるのだが、戦前はおろか大正や明治の終りころからのもあるから、そのペンキの層は何重にもなっている。それを上から剥がしてじろじろ見る研究グループがあるのだ。
じつはトヨタ財団の一般市民を対象にした研究コンクールがあり、その審査に関わって視察に行ったのである。
建物の色の歴史を調べるという、その目のつけどころが面白い。つまりじろじろどころが面白いというか。
最近でこそアメリカ木造建築ふうの白い二階家が新建材であちこちに建ってはいるが、これの真正木造ペンキ塗りの元祖本格ものが函館にはじつに多く群生している。
函館はこれまで何度も大火に見舞われているというが、それでも千か二千のこの手の建物が現役で残されているのだから、腰の入れ方が違う。
函館に限らず、そもそもアメリカと北海道というのは、その歴史の新しさ、先住民との関係、ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキー(この際ミュンヘンは関係ないが)、あと土地の広々《ひろびろ》感など、どうもふつう以上に似ていると、前々から睨んでいたのである。
で函館へ行った。あるある。下見板張りペンキ塗りの二階家がたくさん並んでいる。全体に洋風ではあるが、ところどころ和風も混じり、我国得意の和洋折衷建築ということになるのかもしれない。
ペンキの層を調べるといっても、一枚ずつ剥ぐのではなく、サンドペーパーで丸くこする。力いっぱいこすっているとペンキの層が斜めに削れていって、ペンキの年輪みたいなものがあらわれてくる。それがじつに美しい。
家のペンキというのは二、三年ごとに塗り替えるのだろうが、オーナーが代ったり、あるいは親父から息子に代ったりで建物の気分も変るせいか、ときどきペンキの色も変っているのだ。前回、前々回と、カラスやウグイスの色の転換を考察してきたのであるが、人間も建物でけっこう似たようなことをしているらしい。
多いもので十七層だったかあるという。グループの一人がその典型的な一つをコンピューター・グラフィックで再現していた。窓枠や柱だけ別の色で塗ったり、あるいは全面一色で塗ったり、上下ツートンカラーにしたり、そのときオーナーがどんな気持で色を選んだのか、とにかくさまざまである。
中には下塗りのペンキが見えている可能性もあるが、それはこれから顕微鏡で、埃の層を調べるという。たしかに下塗りは二、三日のことで、上塗りは二、三年はさらされるのだから、埃の層が検出されればしめたもんだ。
まさに地層を調べる考古学と同じ、それをぐっと短縮したものなのだった。
オーナーの都合によって塗り替えの周期は異なるが、それでもどの建物にも共通してある時期に暗い色の層が見えてくるのが面白かった。
あれこれ測定すると、どうも戦時中の色らしい。あの時代、私は九州の大分にいたが、市役所の白い建物が黒くまだらに塗られたのをよく覚えている。
ところがこの函館の建物では、一様にモスグリーンの色があらわれてくる。戦時中この一帯は暗いモスグリーンに覆われていたらしい。
函館は港町だ。当然船がたくさん出入りする。船は錆止めのため入念にペンキを塗り直す。その大きさからいって膨大な消費量だ。町の消費量より多いかもしれない。
船底はいま赤く塗ることで有名である。ところがその時代の船は一様に船底をモスグリーンに塗っていたという。
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うぬ。これは怪しい。戦時中のことだ。家の塗り替え用のペンキがなくて、その船のお余りを頂戴していたことは充分考えられる。
じつに面白い研究である。「函館の色彩文化を考える会」の人々だ。今後のじろじろパワーを大いに期待するものである。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│わが脳内の記憶観察
吾輩は横浜生れだ。
生れた家はわからない。
といってみなし子ではなく、ちゃんと両親二人に兄弟六人。ただしその家族が東京、四日市、名古屋、横浜、芦屋、門司、大分……という具合に転々としていて、吾輩はたまたま横浜で生れた。
つまり、生れた家がわからないというその家とは、家屋のこと。
兄や姉たちに訊くと、我家が横浜にいたのはせいぜい吾輩が二歳のときまでらしい。となると、吾輩の脳裏に横浜の記憶があるはずもないのである。
と考えるのだが、一つだけある。両側に乞食の並ぶ橋を、母に手を引かれて渡っている光景。
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これが吾輩の記憶の原点。
記憶とは何か、その一番目にあるのはどんな記憶かと、吾輩の脳裏にはいり込んで脳ミソのヒダを一枚一枚じろじろ眺めていくと、そのどん詰まりに浮かぶのがこの橋の光景だった。両側にボロをまとった乞食。その露出する膚が赤く鮮やか。日本晴れの直射日光。空は真っ青。空気が物凄く澄んでいる。吾輩の左手は上に上がって、上空の母の大きな手につながれている。その姿勢で、両側に乞食がずらりとしゃがんで並ぶ橋の中央をゆっくりと渡ろうとしている。
兄や姉たちの話では、横浜にはじっさいにそんな橋があったという。両側にずらりと乞食がいるので有名であったという。
なるほど。となると吾輩には一歳か二歳ホヤホヤの記憶があることになる。おそらく吾輩の脳は天才なのだ。
さて八月、夏は記憶の季節。十五日のお昼、玉音放送、ラジオのノイズ、蝉の声、赤く燃えるような鶏頭の花。戦後民主主義国日本においては、真夏に記憶を遡行する風習が生れている。
そこで私も一念発起、横浜に吾輩の誕生地点を探しに出かけた。
横浜少年会というのがある。会員は四人。いずれも横浜は本牧の大鳥小学校の同窓生で五十七歳。その一人が吾輩の兄。年四回の食事会があり、こんどは横浜の本牧を歩くというので混ぜてもらった。
我家が本牧にあったとは聞いていたが、兄は小学校の二年で引っ越している。記憶はさだかではない。しかし少年会の他のメンバーはその後中学高校と在住していた。記憶は兄よりハッキリしている。
とはいえ横浜の爆撃は東京に劣らず凄かったそうで、本牧の辺りは全焼している。いちど戦後社会人になってから、兄は少年会の一人と焼跡を再訪し、
「君んちはここだったよ」
とその一区画を示されたという。しかしその後ン十年、新しく町並が復興したあとに行ってみると、わからなかった。
そこでこんどは作戦を立てた。まず大鳥小学校へ行き、そこから子供時代の帰り道をたどる。記憶は追いつめられて、この道しかないという路地に至り、兄がもう一度、
「君んちはここだ、間違いないよ」
と言われるのを吾輩は横で聞いた。そこにはモルタル二階建のアパートがあった。もちろん戦後のもので、少年会の誰にも見覚えはない。だけどその入口の壁に、このところ吾輩が執着して採集している「植物ワイパー」の痕跡があるので嬉しくなった。生誕地の、吾輩へのほのかな歓迎であったと思う。
夜の食事会のとき吾輩の記憶の原点を確かめてみた。
「それは吉田橋だよ、乞食がいつもいるんで有名だった」
と少年会の人たちに確認された。しかしつづけて、
「でもね、せいぜい両側に一人か二人で、そんなにズラリとは並んでいないよ」
と訂正された。吾輩はがっかりした。吾輩の頭に浮かぶ光景はズラリなのだ。前から怪しい記憶だとは思ってはいたが、やはり兄や姉たちから、
「橋の両側にね、乞食がズラリと並んでいたのよ」
と聞かされていたズラリの話を、吾輩の脳が映像に仕立てていたのだろう。とすると、吾輩の脳にはやはり二歳の記憶はなかったわけで、大して天才でもなさそうである。
しかしその日に限ってズラリと並んでいたのではないかと、まだ考えたりもしている。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│パーマネントに火がついて……
自分の脳の中にはかなり定着液の効いた部分がある。夜尿症によるコンプレックスのせいであるかもしれない。
夜尿症というのは二歳三歳ではきわめて正常なことであるが、五歳十歳となると次第に異常なこととなっていく。
コンプレックスが発生し、成育する気持にブレーキがかかり、内省的にならざるを得ない。自分の不便な体を交換できないのか、どうしてこんな形で生れてきたのか、自分は何故自分なのか、という具合に自分の観察が早期にはじまる。そうやって自分の中をじろじろ見ることになり、脳内を掃海してそこまでの記憶が点検される。そうやっていわば夜尿を定着液として、溶けかけた記憶が固められるのではないか。
それにこの自分の場合、幼児期に一年か二年で引っ越しを繰り返しており、記憶の時代区分がしやすい。
「パーマネントに火がついて……」
という戯れ歌を聴いたのは芦屋だった。横浜の次に住んだ町。二歳から三歳のときである。私は家の前の道路にいる。五つ上の兄もいたのではないか。いずれにしろそのくらいの歳の子供たちが三、四人群れていて、私もくっついていたのだ。
背の高い婦人が通りかかり、黒っぽいロングコートを着ていたような気がする。その婦人に子供たちが戯れ歌をはやし立てていた。とりわけ一人、そういうことの得意なガキ大将が率先していたように思う。婦人はそれを無視して通り過ぎていく。
パーマネントが頭髪に関わることだとは知っていたが、婦人がそのパーマネントを何故するのかはわからなかった。火までついてしまうのに。
振り返ってみて当時のパーマネントは、それによって髪が美しくなるならないというより、とにかく「パーマネントをかけたい」ということだけがあったのだと思う。
ビールもまたしかり。
これはもう門司の次の大分でのことだから四、五歳にはなっていただろう。父の会社のお花見に連れられていき、お弁当のとき大人たちはビールを取り出し、栓を抜くと、
「ポン!」
と大きな音がして、白い泡がモリモリとこぼれ出ていた。いま考えればまるで冷えてないビールである。うまいわけがない。だけど当時の大人は味はともかく「ビールを飲みたい」ということだけがあったのだ。栓を抜く晴れがましい音、そして噴き出る白い泡(冷えてないのだから両方ハデだ)、それだけで充分に祝祭となったのであろう。
で、芦屋であるが、トンネル内に馬糞がたくさんあった。そこを母に手を引かれて通った記憶。横浜の乞食のいる橋はカラリと晴れ上がっていたが、こちらは陰でじめついている。
それは自分たちの居住区の外れだった。その馬糞のトンネルをくぐってどこか別の町へ行くのだ。しょうがないと思った。
そして土手の上を電車が走る。高架線というほど高くはない。その情景が若いころの夢によく出てきた。その土手の線路のガード下が、トンネルみたいになっていたのだ。
そこでのしかし記憶の一枚目にあるのはまず馬糞だ。ムリもないと思う。当時はおそらく身長五、六十センチ。大人の母は身長一メートル五十センチはあっただろう。それぞれの目から馬糞までの距離が、大人と子供とではまるで違う。大人には標準レンズの光景が、子供には接写レンズだ。子供にとって、そこはガード下のトンネルというより以上に馬糞通りだ。
テニスコートもはっきりと覚えている。草ボーボーで使われていない。だけどネットを張る柱が草の間に突き出している。私は兄と二人。兄は少々暗い顔をして、自分の掌を見つめている。そこには捕えたトンボが二匹ほど。喜んでいいはずなのに、それはボスに指令された捕獲数にまだ足りないのである。兄は何かガッカリしてそれを見ている。私はどうすればいいのかと思っていっしょにそれを見ている。周りは草ボーボーで誰もいない。
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じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│買えるものなら買ってみろ!
ニコンF4が出た。
ニコンの一眼レフカメラの真打ちである。F3が出てから八年ほどたっている。ぼつぼつ出そうだぞ、と噂されていたのだ。
「出た!」
と聞いて、
「見たい!」
と思った。カメラ屋にはまだ置いていない。発表はしたが、発売はまだ二、三か月後だという。そうは待てない。いっそ本拠地に乗り込もう。東京の丸の内にニコン本社がある。電話、コネ、顔、名刺、看板、笑顔、ひたむきさ、とにかくあらゆる秘術を尽して中に入った。
何しろ大変なカメラらしいのである。このところAFカメラが全盛で、ニコンもAF一眼レフを何機か出したが、正直いってガッカリだった。この世界ではミノルタのα‐7000がダントツであり、各社これを追走し、去年キヤノンがイオスでやっと抜いた。そうしたら今年ミノルタがα‐7700iでまた抜き返し、同じころニコンが第三弾の801を出して並んだ。
そこへ真打ちのF4である。
見た人によると、とにかく凄いという。801が出たとき、これはやはりニコンだと感心したが、その感心の仕方は、
「ほう」
という程度だった。ところがF4を見た人は、まずこれを手にして「唸る」という。しばらく絶句した状態になるという。しかも値段が何と、同種他カメラの二倍から三倍の二十四万八千円。ボディーのみ。
たしかにこの値段にはちょっと絶句した。いまどきそんなに高いカメラ、どこがどう高級なのか想像できない。ボディーに金箔でも張ってあるのだろうか。
しかしこれだけ吹き込まれて期待したんでは、おそらく期待外れに終るだろうと思った。映画ではいつも期待しすぎて後悔している。
ドアが開き、ニコンの人がほどよい大きさにふくらむキルティングの袋を持ってきた。うむ。まだわからない。袋から取り出した。ずんぐり、がっしりした固まりが出てくる。大きい。見知らぬダイヤル類がごろごろ配置されている。目を瞠った。慎重に手にする。重い。唸った。
やはり唸ってしまった。何か不思議なものを見た感じだった。発掘品を見るようだった。かつて地球のどこかに文明の栄えた国があり、そこでもAF一眼レフが作られていた。基本原理は同じでも、その発展の経路が少し違い、思わぬ機構が生み出されている。それが一万年後のこんにち掘り出されて、錆びもせずに新品同様で目の前にある。
そんな印象を生み出すその第一、液晶表示がないこと。最近のカメラは電子化が進み、データはほとんど液晶表示となっている。正直な話あの液晶表示は、何かこちらの手の届かぬところの操作感覚がもどかしく、いま一つ納得がいかず、しかしコンパクト化のためと諦めていた。それをこのF4ではもう一度手で触れるダイヤル式に戻し、そのダイヤルをむしろ積極的にデザインしている。その結果、かつてのライカ型カメラでいわれていたボディー上面の「軍艦部」という印象が蘇り、まさに異文明の軍艦が海底から浮上したのを見るようだった。
その第二、プロ用の多機能搭載を第一とし、そのためには当然重くなるぞ、といっているようなところ。
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その第三、消費者迎合は二の次というようなこの値段。買えるものなら買ってみろ、といわれたようなカルチャーショック。
その第四、最近の電子ボタン操作で失われていた、精密機械としての操作感覚。ダイヤルやレバーの隙のない動き。その感触に指先が恍惚となる。
とにかくその物件から手を離して部屋を出るとき、私は久し振りに、何か濃厚な映画を一本観終ったような感動を味わっていた。
私が悩むのは、このF4がいまの私には必要のないことである。私はすでにAF一眼レフを持っているし、コンパクトカメラも持っている。交換レンズもストロボも持っているし、何ごとか写すにはそれで充分である。と思いつづける一方で、しかし、何かいざというときの最後の砦というか、納得の柱というか、満足の重りのために、このF4を手もとに置いておきたい。というその引力に今後抵抗できるかどうか、ちょっと心配なのだ。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│可愛いネコあげます
家にも背中がある。わが家の背中は北側で、その背中に男の歴史がにじみ出ているかどうかはわからないが、山道が一本にじみ出ている。
この山道、左側には某コンピューター会社と某生命保険会社の広大なグラウンドが広がり、右側には某雑木林がどうしようもなく広がっている。
何故どうしようもないかというと、グラウンド側は南斜面で明るいが、雑木林側は北斜面で暗く、開発が進まぬらしい。
人間というのは日当りを好むもので、南側には花が飾ってあっても、北側にはビールの空ビンが並んでいたりするものだ。
日本中に北斜面というのは何坪ぐらいあるのだろうか。
日本全国の北斜面で豆モヤシを栽培したら、かなりのビビンバが食べられると思う。
だけどそれをやろうという男がいないので、某グラウンドと某雑木林の間の尾根は細い山道となって延びている。全速力で歩いても五分間は人っ子一人遭わない。
そのかわり犬に遭ったりするのだ。
最近は保健所がうるさいせいか放し飼いの犬はまずいないが、段ボール箱に入った犬がいた。はじめは犬とは思わなかった。ボロギレがいくつか入っていて、その中に動くボロギレがあり、よく見ると十センチくらいの仔犬だった。十五センチあったかもしれない。いや伸ばせば三十センチくらいあっただろうが、丸めればまあ直径十五センチぐらい。
いわゆる一つの捨て犬である。見て見ぬふりして通り過ぎたが、妻と娘が見てしまった。私は子供のころから犬が嫌いで、嫌いというより怖くて、飼うなんてもってのほかのことだ。だからその直径十五センチが導入されたとき、家庭内は昔のソ連とアメリカみたいになった。
いまはそれが八十センチぐらいになっている。伸ばせば一メートル以上あるだろう。ニナという名前だ。生れが推定五月二十七日、つまり二七、ニナ、なんてバカなことをソ連が考え出した。いやアメリカか。いずれにしろ二年もたってしまったいまは、中距離ミサイルを互いに廃棄して、文化交流もできるようになった。
結果としては、私にとってニナの導入はよかったと思う。五十年近くも犬を恐怖しつづけてきた人間が、少なくとも自分んちの犬に関しては指で触れるようになったのである。
そうすると対犬用のバリヤーが一部解除されて、そうなると世間一般の犬もこちらに対して過剰防衛で吠えつくこともなくなり、一本道の向うから単独行動の猛犬が来たらどうしようか、という取り越し苦労もなくなり、ゆっくりと落ち着いて山道を歩けるようになったのである。
そうしたらこんどは猫だ。やはり北斜面の山道である。これも十五センチぐらいの固まり。三つも。
すでにうちには八年にもなる黒猫のクリがいるのだ。この上さらに野良猫を分担しろというなら、私はもう地球から出ていく。
という意向を述べると、ソ連は駅前に貼紙を出しにいった。
「可愛いネコあげます。生後三ヶ月。雑種。メス。トイレのしつけしてあります」
なんて写真つきで五枚も電柱に貼り出してきたという。可愛いと表現するのは自由であるが、そういうのは主観の問題。
一つは白黒のブチで、一つは黄トラで、一つは黄トラと黒ブチの混じり合い。
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山道へソ連が導入に行ったとき、白黒ブチはすでにどこかへ行っていなかったという。黄トラはかなり弱っているので動物の先生に診せたら、生存はムリだという。せっかくこの世に発生したけど、また出直してもらいましょうと、残念ながらキャンセルの手続きをとってもらったという。
結局うちにいるのは混じり。口もとなんて中央線から右が白くて左が黒い。しかも右足が黒く左足が白い。おかしな奴だ。でも可愛い可愛いと吹聴するようにしているが、まだ欲しいと電話はかかってこない。
この山道で、前には南洋の蝙蝠を拾ってしまった。翼を拡げれば一メートルもある。大変なので動物園に預けたが死んでしまった。
北斜面の山道の引力というものであろうが、しかしこんど歩いていて十五センチぐらいのものが動いたら即蹴飛ばしてしまう。だからみんな生き物は棄てないように。
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立っていられる風速
人間は風速何メートルぐらいまで立っていることができますか。
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風の種類は強さによって十二階級に分けられています。ナンバー0(ゼロ)の「静穏」と呼ばれる風速一秒間に〇・五メートルの最低風から、ナンバー12の「大暴風」風速三二・七メートル以上までです。人間が風に向って歩けなくなるのは、ナンバー8の「疾強風」、一七・二から二〇・七メートルとなれば立っていることは困難です。この上の「大強風」になるとさらに困難となり、その上の「全強風」二四・五から二八・四メートルに達すと人間は吹き飛ばされ、樹木が倒れ、建物に損害がかなり出てきます。
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じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│ヒドロナリューム合金に触る
火星の大接近である。よく見るチャンスだ。と思いながら仕事にかまけていたら、最大接近時を過ぎてしまった。
でもまだ急に遠ざかっていくわけではない。友人の話では口径6.5センチの屈折望遠鏡で120倍ほどかけると極冠の白い点がポッと見えるという。
つまり火星の北極の氷結地帯である。私は写真でしか見たことがない。写真だとシャッターを何分間も開けておいて、光をフィルムに蓄積したのを現像して見るわけだから、かなり見える。しかし肉眼では一瞬一瞬ナマの光を見ているわけだから、そうちゃんとは見えない。6.5センチの120倍で火星の極冠が見えるといっても、見えないといえば見えないし、見えるといえばまあ見えるというぐらいのことだ。
それでもナマと干物は違う。
私だって望遠鏡ぐらい持っている。タカハシの6.5センチP型。螢石アポクロマート。といっても興味のない人には何のことだかわからぬだろうが、しかしこれで火星の極冠を見るには高倍率の接眼鏡を買う必要がある、と思って久し振りに天文雑誌を見ていたら、かっこいい双眼鏡の広告が見えた。20(倍率)×100(口径)で宮内光学という。聞いたことがない。接眼部が45度斜めに傾いている対空型で、そのデザインが凄くいい。二十三万円。値段もなかなかやってくれるじゃないですか。
「でも双眼鏡は競馬とかを見るもんでしょう。星を見るのは天体望遠鏡じゃないんですか」
という人がいるかもしれぬが、そうでもないんだな。
つまり、ふつうの望遠鏡は単眼である。数字のうえでは単眼で充分。たとえば口径6.5センチ焦点距離50センチの光学系は、集光力が肉眼の85倍と答が出ている。これが一本でも二本でも、理屈は同じことだ。
カメラは理屈上の物件だから、その単眼一つで充分。二つあっても意味がない。しかし人間は理屈ではない。いや理屈ではあるとしても、人間は二つの眼でものを見ている。だから単眼鏡より双眼鏡の方がはるかに見やすい。
ふつうでも片眼をつぶればわかることだ。眼に見えるものが何となく縮む。コントラストが落ちるというか、見え方が心もとない。つぶった眼を開けて双眼に戻すと、ハッキリと安心して見えるのがわかるだろう。
考えてもごらんなさい。単眼ではジロッとしか見られない。双眼ではじめてジロジロとなる。
しかしふつうの双眼鏡で高い空を見るのは姿勢が疲れる。とくに天頂付近は架台の三脚にしがみつくようにして、しまいには寝っ転がるようにしてのぞくことになってしまう。これが接眼部の傾いた対空型だとじつに見やすく便利なのだ。
考えはじめたらじっとしておれなくなって、友人のチヒロ君を誘って神田へ行った。神田近辺にはアトム、協栄産業、誠報社という天体望遠鏡ショップが点在している。
ところがこの宮内光学の20×100対空双眼鏡は見当らない。メーカーとしてはまだルーキーらしい。広告には出ていても、製品が出回っていない。
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それならというので会社まで行った。板橋である。皆さん、世界の双眼鏡の八十パーセントがこの東京の板橋近辺で作られているということを知らないでしょう。どういうわけか光学関係の中小工場が犇《ひし》めいている。私の6.5センチP型も、十数年前この近くの高橋製作所まで直に買いに来たのだ。
チヒロ君と私は、いかにも板橋的工場の細い階段を昇った。下はガレージでガランとしている。上も床板がギシギシするがガランとしていて、社員二人。工場は秩父の方へ引っ越しているそうだ。
見本が一台だけあった。それも20×100の新鋭機はなくて、20×80。でもスタイル構造はほとんど同じ。ヒドロナリューム合金製の材質感が素晴らしい。アクセサリーの卓上スタンドや回転台もじつにいい。それではとのぞいてみると、遠くの電柱が見え、その縁にひょいと青い色のにじみを感じる。いわゆる色収差というやつ。見本のせいかもしれないが、いずれ改良されるだろう。しかし欲しいなあ。
火星を見るはずが、板橋まで双眼鏡を見にきてしまった。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│クエスターを手に持つ感触
銀座四丁目に松島眼鏡店がある。ここの二階に望遠鏡売場があるのだ。
はじめに訪れたのは、十五年ほど前のことだ。おずおずと上がっていくと、二階には望遠鏡がニョキニョキと並んでいるので圧倒された。
何となく星空のことが気になって、天文雑誌をチロッとのぞきはじめたころだ。望遠鏡の屈折式と反射式の違いは知っていたが、それ以上は何も知らなかった。
ウインドーの中に、ちょっと変ったコンパクトな望遠鏡があった。反射式と思われる筒の外側に星座が描いてある。クエスターといって外国製だった。
とにかくその売場全体のカタログをもらって帰り、あらためて自宅でゆっくり点検しながら、クエスターの偉大さを知った。何しろ値段が九十五万千五百円。
これは凄いと思ってなおもカタログを点検すると、なるほど、大変な性能である。光学系はカセグレンのもう一つ精度を高めたマクストーフ。口径8.9センチ。長さは約25センチ。その小さな筒の中にファインダーと拡大バローレンズも内蔵していて、レバー一つで変換できる。カメラを装着した場合も同じ。
架台部にはモータードライブ内蔵。小さな棒を三本ジョイントするだけで、卓上赤道儀となる。
アメリカ製だ。私はドイツ製かと思った。超小型カメラのミノックスを思い出していたのだ。
しかし九十五万千五百円。これには絶望した。とんでもない値段。
ところがそれから十五年たったのである。この間に自動車の輸出は伸びるわ、IC産業はアメリカを追い抜くわ、ジャパンバッシングはあるわ、円高ドル安になるわ、一ドル三百六十円と頭に刻み込まれていたものが、いまや百二十円ですぞ。
ということは百万円近くしたクエスターでも六割引きではないか。
私は海外旅行をしないので、ヘネシーも買わないし、レミー・マルタンも買わないし、円高ドル安の恩恵を何も受けていない。このまま円安ドル高[#「円安ドル高」に傍点]に反転しないとも限らないのである。いまのうちに何か円高ドル安の記念品を買っておいた方がいいのではないか。
で、銀座の松島眼鏡店に行ってみると、クエスターはなかった。高くてほとんど売れないせいか、置くのをやめたらしい。神田近辺の望遠鏡ショップのアトム、誠報社、協栄産業に行ったが、ない。
アトムのオーナーにそれとなく訊いてみると、
「そりゃクエスターは素晴らしいですよ」
と言下に言われた。この人は望遠鏡メーカーのハードにいた人だから確かな発言である。そうか、やはり素晴らしいか。そうなるとますます現物を見たくてたまらなくなった。
こうなれば意地だと、輸入代理店を調べて、渋谷二の三の四の青光ビルの四階にあるエーピーへ行った。こんなところへ来てしまえばかなりマニアだ。
ところがここにも現物はない。しかしそれの大型タイプを見ることはできて、カタログをもらえた。私の目差す小型は現在七十八万二千円だという。円高ドル安効果が少ないので訊いてみると、クエスター自体の値段が年々上がってきているのだという。値段のことだけでなく、クエスターがいかに優秀であるか、詳しく訊くことができた。かなりの作業が手作りで、製品テストも相当に厳格なものらしい。やはりアメリカというよりドイツ的なものを感じる。その夜は二時間も三時間もカタログを見ていて、仕事にならなかった。
ところがこの間双眼鏡メーカーへいっしょに行ったチヒロ君から電話があり、新宿の六丁目にあるコプティック星座館という望遠鏡ショップのウインドーの中に現物があるという。ソレッというので見に行った。
あった。
[#挿絵(img/fig12.jpg]
十五年振りに見て、しかも手に持ってみた。軽い。精密さがたまらない。これだけの性能でたった3.2キロ。顕微鏡を入れるようなピッタリのケースに入れてアクセサリーも全部収納されて、それで5.5キロ。片手で楽に持っていける。どうするべきか。私の手から離れなくて困るではないか。その後この物がどうなったかは、いまはまだ言えない。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│国道四一一号線 4WDの放流
朝七時、玄関のチャイムがピンポーンと鳴った。Yさんである。
朝七時といえば、ふつうだったら私はまだ熟睡たけなわ。しかし今日はもう六時に起きて顔を洗って服を着ている。二時間しか寝ていない。
オニギリを六個バッグに入れた。三個ずつ筍の皮に包んである。筍の皮なんて昔はふつうの何でもないパッケージだったのに、いまは大変な貴重品のイメージだから、中のオニギリがまるで鹿皮かカシミヤの布で包み込んだ高級品に思われてくる。単なるオニギリではなくて、まるでライカとかハッセルブラードのオニギリに見えてくる。
そういえば西ドイツ製のオニギリなんて一度食べてみたい。スウェーデン製のオニギリもいいな。おそらくボディーががっちりと焼き固められて、間違ってビルの上から落しても、中のウメボシはビクともしない。
冗談を考えてる間にちょっと遅くなった。ウーロン茶をポットに入れて、カメラ、双眼鏡もバッグに入れた。
Yさんの車はジープと乗用車を合体したような4WDだ。漢字で書くと四輪駆動。少しぐらいの浅い川はそのまま渡れるし、凸凹《でこぼこ》の坂だってぐいぐい登る。前についているウインチを使えば、樹の上にだって登っていける。まあ登る必要はないが。
今日は日曜日、日和もいいし、奥多摩の溪谷へ行って魚釣りしてバーベキュー。
「浅瀬があったら突っ走るからね」
Yさんは張り切っている。
それにしても朝の七時は早い、と私など思うが、休日のドライヴはこれがふつうだそうだ。適当に起きて適当な時間に出発すると、道路はもう適当な車でギッシリ詰まり、いくら四輪駆動でも一輪駆動はおろかナメクジみたいになって、イライラしてきて人間が堕落するらしい。それをちょっとムリして朝早く出発すると、車はごくふつうの平常心でもってスイスイ走る。
溪谷に着いた。三つある釣り場の一つに入る。入漁料兼釣り竿貸賃一本二千五百円。一本につき十尾まで釣っていい。何だか数字で仕切られて釣り堀みたいだ。事実東京のこの辺りは虹鱒を放流している。そうでもしないと、もはや自然の虹鱒なんて、ドッと押し寄せる日曜釣り師には対応できないらしいんですよ。
よく見ると溪谷が自然石で何となく仕切られていて、もちろん水流は自然にすり抜けていくのだけど、魚はそのゾーンから出にくい。そこへ午前と午後の一回ずつ、バケツから虹鱒をボチャンと流し込む。
事情を考えればやむを得ぬ、とは思うのだけど、何だか割り切れなかった。それを一尾ずつ釣り上げて焼いて食べるのだけど、食べるだけなら放流なんて省いてそのまま網の上にのせてくれた方が手っとり早い。その釣り場の脇には貯水槽があり、水の中に虹鱒がぎっしり保管されて泳いでいた。システムとしてはほとんど料理屋の生簀みたいなものだ。
まあしかしそう考えてしまっては始まらない。私はなるべくその生簀を見ないようにして水際へ行き、釣り糸を垂れた。
餌はイクラである。これは豪華だ。Yさんが用意してきた。それを釣り針の先に二粒刺し通し、チャポンと沈めて水流に沿って流していく。その物件が岩陰に潜む魚の鼻先をかすめるときにパクリとくる。で、食いついてパチャパチャ跳ねるのを川岸まで引いてくるのだが、ここが難しい。半分くらいは途中で逃げられてしまった。
そのうち太陽は真上に昇り、魚の焦げるいい匂いがしてきた。隣や向う岸にいるグループが、釣った魚を早くも網で焼きはじめたのだ。お昼である。頑張らなくてはいけない。へたをするとこちらのお昼はおかずなしだぞ。
そんなわけで、ヤラセっぽいとはいえけっこう夢中になって釣り竿を振り回し、私たちも一人二尾ぐらいずつは焼いて食べられた。
帰りの時間は結局適当になったお陰で、大渋滞に巻き込まれた。じっと動かぬ窓の風景を眺めながら、
「浅瀬が走れなかったね」
とYさんが呟く。4WDなんて日本ではそんなものだ。買ってはみたが、結局は坂道も登らず浅瀬も走らず、その恰好だけで街なかを走るしかないのである。ご婦人の和服みたいなものだ。作ってはみたがほとんど着る機会もなくタンスの中で埋れている。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│結構なお点前
今日はお茶会へ行って参りました。
赤坂見附にある知性ビルのてっぺんに無畏軒というお茶室が出来たのでした。
私は「利休」のシナリオを書いたとはいえ、お茶会なんてはじめてなのです。
私はネクタイをしました。
スーツではないけれど、ズボンを穿いてセビロを着ました。
懐紙を内ポケットに用意しました。
本日お招きを受けたのは、草月流家元勅使河原宏氏、金魂巻の著者渡辺和博氏、ナウのしくみの泉麻人氏、そしてトマソンの私。
まあたぶん信じてはもらえないでしょうが、このような組み合わせはとんでもないことにも思えるし、あるいはまたとない見事なブレンドとも思えてくるし、カメラでいうとハッセルブラードと写ルンですが並んでいるというか、世の中にはいろんなことがあるものでございます。
草月会館にお誘いに行くと、勅使河原氏は羽織袴で出て参りました。銀色のメルセデスベンツに乗ると、すぐ知性ビルに着きました。
エレベーターは八階で終りです。
サロンにはすでに泉麻人氏がいらしておりました。私は初対面です。渡辺和博氏は今日はやむなく欠席とのことで、これは大変残念でした。
マナ板をスリコギでコンと叩いたような音がして、これがお茶会の始まりの合図です。スリッパに履き替え、板張りの廊下を通り、階段を登ると、屋上に小さな庭があります。
近年になって建築法の容積率が増加され、新しくこのビルに発生したハンパな空間は、お茶室にこそふさわしいものであったということなのです。
庭の片隅にある手水鉢は、かなり古そうな石造りで、しっかりと苔に守られています。その水を使うとき、眼下にはいくつものビルが見えて、その向うに東宮御所の森も見えます。
まず正客の勅使河原氏が躙り口をはいり、泉氏がつづき、最後に私がはいって引き戸を閉めました。
もちろん刀は腰からはずして外に掛けておくのですが、この日、みんな刀は持っていませんでした。
お茶室は草庵のスタイルで、四畳半プラス台目畳。床柱の四角いのは珍しいと思いました。見事な枯れ方、古び方で、尋ねると、昭和二年改修のときの法隆寺のタル木だそうです。これはさすがと思いました。見ると下の方に「法隆寺」の焼印があります。
あとはもう逐一は申しませんが、囲炉の赤く熾った炭を見物したあと懐石料理が運ばれ、その前に何か小さなものがちょこりと出てきて、のし鮑だそうです。利休の花会記のメニューにのっとったものだそうで、指でつまんで食べると物凄く固い。
懐石のあと休憩となり、私たちは躙り口を出ていったんサロンで休みました。ここが待ち合いというわけです。
こんどは銅鑼《どら》がジャーンと鳴って、第二部。また席につくと、まずスリバチみたいな形の井戸茶碗に濃茶が出て、これを三人で回し飲み。茶碗をグイと上に上げて飲んでみてもなかなか流れ落ちてこないようなどろんどろんのお茶です。やはり昔であれば麻薬と見紛うばかりの迫力があると思いました。
それを飲むと次は薄茶。これがいわゆる表面の泡立った液体の抹茶です。黒楽茶碗をぐいと傾け、最後の一滴をスッと音を立てて飲みました。すべて正客の勅使河原氏を見てのマネです。
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たしかにおいしいと思いました。もう一杯いかがですかと尋ねられ、もう一杯所望しました。
ここは南坊流といって、正座ではなく、胡座《あぐら》がフォーマルなのです。だから終って躙り口を出たあと、足が痺れて思わずよろける、ということはありませんでした。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│沖縄の路上に出合う石敢當《せきかんとう》
沖縄へ行ってきた。羽田から飛行機に乗る。シャツにセーターにハーフコート。
那覇空港に降り立つ。さあコートとセーターを脱がなきゃ、と思いながら歩いていくが、それほど暑くはない。背広を着てる人、ジャンパーを着てる人。しかし歩いていくほどに、シャツだけの人がいるし、半袖の人もいる。
要するに暑くもなければ寒くもない。不思議なところだ。もちろん夏にはガンガン暑いのだろう。
いやごめん。やはり歩きつづけていると暑くなった。日差しが強い。セーターはいかにも余分。シャツにコートをはおるくらいならいい。
さて沖縄ではひとつ確認したいものがあったのである。路上にある「石敢當」という文字。
発端は京都の角石である。京都の町を歩いていると、家の前や横にやたらと石が並べてあって、これは駐車除けだと思われる。ところが家の角にも石があって、これも車からの防衛らしいが、どうも腑に落ちない点がある。たとえば道路より高くてどう考えても車がぶつかりようのないところにも、家の角をわざわざ削って石を置いてある。
この不思議さについて考えながら、ひょっとして鬼門に関わるものではないかと気がつきはじめたころ、そういえば沖縄の町の路上には妙な文字がある、という者がいた。四つ角とか道の突き当りに、
「石敢當」
と書いてあるという。石という字に敢闘賞の敢、弁当の当の難しい字。沖縄で一か月アルバイトをしているときによく見かけたという。
こいつ何か幻覚でもあるんじゃないか、と思った。そんな話、聞いたこともない。
ところがそんなことも忘れたころ、東京の路上観察をしながら、千駄木のマンションの角を削ったところに「石敢當」の文字を見た。現実にある。ちゃんと黒い石板に彫ってはめ込んである。このマンションのオーナーは沖縄の人か。
それ以来、沖縄に行く機会があったらぜひともそれを確かめようと思っていたのだ。
那覇の町を歩きながら、はじめてその文字を見たときには感動した。幻覚じゃないかと疑った友人に申し訳ない気がした。町を歩くほどに、その文字にいくつも出合う。だいたい建物の角の下の方に、石板に彫ってはめ込んである。東京で見たのと同じものだ。自然石を切った表面に入れた字もある。セメントに手書きした質素なものもある。
じつは東京の千駄木で見た「石敢當」のことをある本に書いたら、読者から手紙をもらった。それは中国の昔の力士の名前で、守護神とされていて、辞書にも載っているという。
「広辞苑」を引くと確かにあった。沖縄や九州南部で、道路のつき当りや門、橋などに、魔除けの一種として建てる石碑という。
そうか、中国の英雄か。地域的に見て台湾経由だろう。
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見ていくと、いずれも建造物の根元にあるとの印象を受けた。やはり根が力士だけに、建物を踏ん張って支えているのだろう。
地元の人に聞くと、四つ辻の、とくに風が渦巻いて風当りの強い突き当りなどにその文字が置かれるという。なるほど。風水の術というのがあったな。やはり鬼門のモトと同じ中国の陰陽道だ。どうやら京都でたくさん見かけた角石とこの石敢當はルーツが同じらしいぞ。
沖縄は台風のメッカだ。この石敢當の三文字は、ほとんど必需品なのである。精神の必需品。本土の鬼瓦に彫りこまれた「水」という火事除けの文字を思い出したりする。
しかし九州南部にもあるとすると、私の祖先は鹿児島だ。一度だけ行ったことがあるが、いずれまた行く機会があったら、じっくりと観察しよう。宿題が一つできた。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│オリンパスのアルミニュームカメラ
この間はニコンF4でアッと驚いたが、こんどはオリンパスが変なカメラを出した。
アルミニューム製。
カメラといえば猫も杓子も黒いプラスチックと決めちゃったような時代に、金属ボディーで銀色に輝いている。はじめて手にしたときドキンとして、胸が妖しくときめいた。最近では珍しいことだ。
内容はいわゆるAFコンパクトカメラでどうということはないのだけど、デザインがずば抜けている。ストロボをあえて丸く大きく、昔のフラッシュみたいにしてコードで繋いだところはレトロであるが、レンズ回りは大小いくつもの円形を配し、じつに斬新で未来的だ。つまり単純な未来イメージではなく、いわば戦前に考えられていた未来的物品を現在にデザイン化したような、じつに複雑な味わい、そうだ、まさに未来派の彫刻作品の味わいである。
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そしてこれが限定生産で、全世界二万台きり。申し込み殺到で抽籤待ちだという。
車でBe1というのが限定販売で、やはり人気が出てプレミアムがついた。が、聞くところによるとそのBe1のプロジェクトチームがこのオリンパスの企画開発にも加わっているという。やっぱりね。
しかもこの発表会が型破りで、メカの説明など一切なく、ファッションショウと抱き合わせ。着飾ったモデルがこれを手につぎつぎ出てきて、パシパシとストロボを光らせながらシャッターを切ったという。
オリンパスもいよいよプッツンしてきた。私はこういうプッツンは大賛成だ。どんどんこの道を進んで欲しい。ファッションショウはまあご愛嬌だが、物質として魅力ある肌合い、見ているだけで胸の躍るカタチ、躊躇なくお金を出したくなるもの。
これまでカメラは性能向上にばかり気を取られて、物品としての魅力を切り棄ててきた。もう性能はこの辺でいいから、少しバックしてマニアックな魅力を極めて欲しい。高くても金は出すから。
そのうえで注文を二つ。
これだけストロボを主役クラスにまで持ち上げたのだから、日中シンクロのための強制発光が欲しい。
もう一つ。巻き戻しのモーター音を聞くたびその不経済に心が痛む。その間両手はヒマなんだから、まったくムダな機構。手動の方がよほど速いし、むしろレトロ感覚で受ける。
それからセルフタイマーやリワインドのボタンも遠慮せずにむしろ機械感覚で大きくしては。フィルム判別用の小窓はやはりあった方が便利だが。ストラップの吊り金具はじつに優秀。電池蓋の感触が良い。カメラケースに代る黒いスエード風の信玄袋も使い勝手よし。
このテスト品を肩から下げて、京都をちょっと離れた古い遊廓の名残の街を撮り歩いたが、何だか自分が外人になったような気持だった。
ちらりと見た若い友人たちが欲しがって仕方がなかった。ヨドバシカメラに行ったらもう申し込み打ち切りで、抽籤率数倍。ではというので近所の小さなカメラ屋に申し込んだがやはり同じ、配当二台にやはり十人ぐらい。しまいには大島に一軒あるカメラ屋が知り合いだというので問い合わせたら、大島には一台だけ入荷したのをすでに第一位抽籤者が持っていったそうだ。
伊豆七島には一台ずつ配当があるのだろうか。小笠原はどうだろう。奄美大島もある。
と考えるうち、このカメラの分布図に興味が湧いてきた。日本には一万台という。各都道府県に均等に行き渡るのだろうが、東京に二百台、長崎にも二百台というのでは不平不満が出てくる。ここはやはり人口比を考慮しながら、といっても同じ人口でカメラ嫌いな人の多い県もあるだろうし、まあとにかく大変である。こうなったらひとつ、全国の抽籤もれした人々のためにも、第二弾真鍮カメラを売り出して欲しい。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│宝石売場のカメラ男
一組の男女がデパートの中を歩いている。カメラ売場を通り過ぎるとき、心もち男の歩調が遅くなる。一歩二歩と減速していき、ときには止まってしまうときもある。当然ながら男女の距離が開き、女が振り返る。
「またカメラなんか見ている。そんなものいいから、早く行くわよ」
とか、言われる。こういう男女って、案外多いのではなかろうか。
あるいはまた男女がデパートを歩いている。インテリア売場を通りながら、その先に時計売場があるのに気付いて、男は何気なく進路を変えようとする。時計売場の奥には宝石売場があるからである。女はそれを知っているのかどうなのか、インテリア売場をじりっ、じりっと宝石売場方向へ行こうとしている。男はふと気付いたように、
「ふうん、ああいう椅子もあるんだね」
とか言いながら方向を変えようとする。そうすると女の方は、
「うわ、見て見て、この椅子」
とか言って、宝石売場方向に引き戻そうとする。そうやって心にもない品物をあれこれ言いながら、その近辺で見えない綱の引き合いをしている男女って、案外多いのではなかろうか。
男はカメラで女は宝石。この逆はまずない。これが不思議で、私はいろいろ研究をした。
カメラはわかる。しかし宝石の魅力とは何か。もちろん高いから、持っていれば捨てたりはしない。しかしその値段を別にしたら、ただの石ではないか。
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もちろん光がキレイで、汚いとは思わない。でもガラスだってキレイだ。同じ形で指に付けていれば、ほとんどわかりませんよ。
という疑問を解くべく、私は宝石売場近辺での綱引きをやめてみたのだ。当然女は宝石の方に寄っていく。男はその背中に隠れるように付いて行き、ウインドーの中をちらちらと眺める。ルビーは赤、サファイアは青、エメラルドはグリーン、ダイヤは透明、とかいろいろわかったが、それはただ知識を得ただけで、魅力についてはまだ何もわからない。
以前オックスフォードを歩いていたとき、ここは古い綺麗な建物が並ぶ礼儀正しい街で、小さな宝石屋さんがあった。ぜんぜん重々しくなく、通行人がわりと気軽に出入りしている。私もマネをして気軽に出入りしてみた。ふつうのセーターを着た男が、ウインドーの指輪をじーっと見ている。一人で見ているのだ。照れも衒いも何もない。
そうできることが羨ましかった。日本では、男一人で宝石をじーっと見るなんて、恥ずかしいことですよ。だいいちすぐに店員が張りついてきて、
「何をお探しで」
「ご予算は」
とか売り買いの結果だけを求めて、じーっと見てその魅力を研究することなどできやしない。
男は女に付いてミキモトへ行った。銀座の、ど真ん中だ。こんなところへ入ろうもんなら、たちまち黄金の手錠を掛けられ、ミンクの荒縄で縛り上げられ、シャネルの5番を注射され、現金払いでコンクリートに叩きつけられるのではないかと思ったりするが、
「意外に見やすいんだって」
と女がどこかで聞いてきたのだ。男は一人では一生入らなかったであろうドアを開けて中に入る。そのとたんに冷蔵庫のような視線がピュンピュン飛んで男の体が蜂の巣だらけになると思いきや、店員は知らんぷりで何か仕事をしている。男女二人ウインドーにこびりついて物件をじろじろ見ていても、店員の方からはぜったい寄ってこない。
さすがだと思った。やはり名門の余裕というものか。
男はホッとした。気が楽になり、もうここで何度か宝石を買った常連みたいな気持になった。買う買わないを別にしてじっくり比較検討していくと、やはり宝石というのはそれぞれに味わいがある。値段はその味の引き立て役にすぎないのではないか。
などと、カメラ男は宝石女にだいぶ接近したが、やはりその、値段というものを克服するのが相当の難事業なのである。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│かなり毛の生えた「パオ」
新車の発表会を見に行った。日産の「パオ」という限定販売の車。
前にやはり日産が「Be1」という小型車を限定販売で売り出したら、それがアッという間にドジョウになった。じゃあもう一匹ぐらいいるだろうというので「パオ」が出来た。
私は車は運転しないが、見るのは好きだ。むかしサンドイッチマンで路上に立っていて、車ばかり見ていた。シボレー、ビュイック、スチュードベーカー、ナッシュ、シムカ、プリムス、一九五〇年代。
ちょうど昨夜のことだが、テレビでジャック・タチの「ぼくの伯父さん」をやっていて、そういう当時の車のオンパレードがあり、
(おっ)
と思った。いま見るとじつに懐かしい。
懐かしいだけではなくて、やはりあのころの車には形に迫力があった。それぞれにちゃんと体臭のようなものがあり、独特のモルトの香りを発散していた。
いまの車は性能がはるかにアップしているけれど、みんなツルンとして、髭を剃ってウブ毛も剃ってしまって、みんな同じファウンデーションを塗りたくっている。そんなものにちょっと飽きたのである。そういえば昔は車にも毛が生えていたというんで、日産がちょっとウブ毛を植えてみたのが「Be1」だった。
これが売れたんですね。限定なのでプレミアムまでついてしまった。
しかし本当のマニアはこういう人工植毛を軽蔑している。それというのも、「Be1」のお手本にしたのはイギリスの「ミニクーパー」という小型車なのだ。これには本当に毛が生えている。ちゃんとした地毛が。
しかしあまりこういう表現を使っているとマジメな読者は本当に車体が毛むくじゃらだと思うかもしれないので、ここいらでストップするが、しかし「ミニクーパー」というのは何故だか魅力があるのだ。日本車の流れる道路にこの「ミニ」が走っていると、ひゅっと目に引っかかる。といって奇抜なデザインではない。窓もドアもタイヤもごくふつうの状態に配置されているのだけど、何故だか魅力がある。この「何故だか」が問題なのだ。
「ミニ」に限らずヨーロッパ車全体にそれがいえる。性能では日本車も負けず劣らず、便利さではむしろ抜いているのに、ヨーロッパ車には何か特有の力があって、それを「欲しい」と思う。
車に限らずカメラにしても、家具にしても、文房具にしてもそれがいえる。デザインという結果の前に、物を作る気構えのようなものが根本的に違うような気がする。
話が硬くなったが、とにかくヨーロッパの「物品」のもつ超能力を導入しようとして、日産では「Be1」でちょっと感触を得たんでしょうね。こんどの「パオ」ではウブ毛だけでなく、もう少しスネ毛やムナ毛も植えてみている。
会場に入ってパッと見たとき、
(欲しい)
と思いましたね。同時に(いーけないんだ、いけないんだ)とも思った。大人として恥ずかしいというかはしたないデザインを、モロやってしまっている。要するにいまふうにいうとレトロだけど、それをとうとう、大の日産が、と思ったのだ。良い傾向だと思う。もう遠慮することはないじゃないか。
私などシロートだけど、ちょっと心配なのは、これがヨーロッパの地元の人にどう見えるかということである。ひょっとして人工植毛だというのがバレるのではないか。何しろ向うは地毛がふさふさ生えている人たちなんだから。
たとえばバンパーがそっけない一本の鉄パイプになっている。これなどヨーロッパ的な実利主義に食い込んでいて、構造はかなり地毛に近いと思うのだけど、やはりどことなく外から形をマネた遠慮が見えるというか、それは塗装の軽っぽさのせいかもしれないけれど。
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とにかくこの「どことなく」違うという匂い、香り、そういう定量化できないエネルギーに非常に興味がわく。まだまだこのデザインの内と外を舐め回したいが、今回はもうスペースがない。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│英語の質問の飛んだ記者会見
記者会見をした。「利休」という映画の製作発表。監督は勅使河原宏。私は脚本を担当したのだ。
映画の脚本なんて生れてはじめて。しかも時代劇なんて生れてマッタクはじめて。薮から棒の三年間だった。
記者会見は二度目である。はじめは芥川賞をもらったときで、この時は初体験であり、しかも標的は私一人なので、大変というか、一人ヘリコプターで宙に浮いているようだった。ハンドル操作一つで、目の前の風景がザーッと右に傾くし、左にも傾く。そのハンドルとは、私のまぶた。
つまりその日、仲間と飲酒状態のところへ報せがきて、都内の記者会見場へ任意出頭。私がふだん着のままテーブルにつくと、目の前にはカメラを持った何十人かの記者団。こいつが今度の芥川賞男かという目でジロジロ見られる。私は多少酒が入っていたのでペラペラしゃべったつもりだが、それにしても常日頃から優柔不断の引っ込み思案で、私の目はどうしても伏目がちになる。
で面白いことを発見したのは、伏目でいる時はシャッターの音が少なくなる。こちらが伏目に飽きて、
「ですから私は……」
とかいう話の変り目でパッと目を上げてみると、そのとたんにカシャ、カシャ、カシャ、カシャとシャッターの音が連続して、ストロボがパッパと光る。こちらがまた伏目顔になるとそれがやんで、また次にこちらが目を上げるのをじーっと待ち構えている。
つまり自分のまぶたのハンドル操作で、シャッターとストロボが作動するのだ。
その後記者会見ではないが、取材を受ける機会がときどきある。編集者が前に坐って話を聞き出し、その横からカメラマンがこちらの表情を狙うのがふつうのスタイル。この場合は伏目を上げるぐらいではダメで、
「いやこのくらい大きいんですよ……」
とかいうので両手を動かしたりすると、その瞬間にカシャ、カシャ、とシャッターの音がしてストロボが光る。それに驚いてこちらがふつうに戻ると、カメラもまたじーっと待ち構えている。
「とんでもない。ぼくなんかは……」
といって手を前で振ったりすると、カシャ、カシャ、ストロボ。またじーっとしている。
「そう、彼のお尻にね、ワッハッハッハッ」
なんて大口あいて笑うとまたカシャ、カシャ、ストロボ。そしてまたじーっとしている。
つまりカメラのシャッターというのは、ふつうではないポーズをしたところでカシャカシャというものである。
で、今回「利休」の記者会見は、標的が大勢いたので私は楽だった。しかも標的はそれぞれ映画での衣裳で身を固めて華やかである。
三国連太郎=千利休
三田佳子=利休の妻りき
藤田芳子=利休の娘お亀
山崎努=豊臣秀吉
岸田今日子=秀吉の妻北政所
そして勅使河原宏監督、衣裳のワダ・エミといった各氏がズラリと並んでいるわけだから、この際私一人のまぶたの上げ下げでストロボを光らせるという芸当はなかなかできない。
だから私は存分に記者団をじろじろ見ることができた。ああいう場所は雛壇に並んで質問を受けるのも緊張するが、質問する側もずいぶん勇気がいると思う。変な質問はばかにされるだろうし、ちゃんとした質問をするには、どうしてもその答を知りたいという意欲がいる。雛壇に並ぶ方は、仕方なく質問に答えるという立場だから(私の場合)、意欲がなくても大丈夫。質問する方が大変だと思った。
英語で質問した外人が二人もいた。
「英語の質問の飛ぶ製作発表なんて、はじめてだよ」
と業界の人に言われた。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│重要人物の集まった日
大喪の日に向けて、飛行機からいろいろな重要人物が降りてくる。ブッシュ大統領、ミッテラン大統領、アキノ大統領、ブット首相、エジンバラ公、フセイン国王、ほかにもたくさんの国王、首相、外務大臣、国連事務総長も。これだけの重要人物が一か所に集まってしまったら、あまりにも重要すぎて、その重みで地面が凹むのではないかと心配になった。
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だから警備陣は大変である。地面が凹むのを防ぐために、全国から三万人の警察官が動員された。
よけい重くなる。
結局凹みはしなかったが、それでもやはりそのあまりの重要さのため、新宿の沿道では男が二人飛び出てしまい、府中の崖も破裂した。
やはり重要人物というのは、場のエネルギー緊張に力を加えるので、充分な注意が必要である。
私はブータンの国王に注目した。飛行機から降りてきた服装がいい。赤茶色の木綿みたいな生地で、しかも日本の和服みたいに、衿が合わせになっている。で、帯をしめて、裾は短く、脚には脚絆のようなものをつけているのか、あるいは長靴なのか、とにかくいわゆる「重要人物」とは違う感じなので、
(おりょ)
と思った。もちろんそれは民族衣裳で、ブータンの正装なのだろうが、私はその和服的スタイルに目を瞠った。しかもその顔がアジア的というか、日本人によく似ている。その服装が何か身軽な感じでいて、しかしその顔面は威厳に満ちている。
明くる日「諸君!」という雑誌を見ていたら、
「天皇崩御の知らせを受けたブータンのジグメ・ワンチュク国王は、二十世紀の最も偉大にして尊敬された指導者の一人≠フ死を悼むため、直ちに、国民に対しては七日から六日間の服喪を、全国の寺院には特別法要を命じたという」
という記事があった。なるほどと思った。それだけのことをおこなった自信のようなものが、ブータン国王の威厳の中に含有されて放射していたのだろう。
で大喪の日、私はブータン国王をもう一度じっくり見たいと待ち構えていた。何となく兄弟というか、親戚というか、互いにアジアの残留孤児みたいな気持で、その皮膚、骨格、表情などを確かめたかったのだ。
大喪の礼がはじまり、各国の重要人物が一人ずつ(夫人同伴も可)、進み出て黙礼していく。その列の中に、赤茶色の衣服が見えて、あれだ、と思った。しかしテレビというのは重要人物の政治的重要度というものをどうしても等級化しているわけで、ブータン国王の黙礼の顔がアップにはならなかった。戻ってくる姿が流れて写っただけだ。
運悪く、といっていいのかどうか、ブータン国王の前がイギリスのエジンバラ公だったので、カメラがそちら中心に動いている間に、ブータン国王は弔いを終り、戻ってきてしまったのである。
もちろんイギリスも大事だしアメリカも大事だ。しかしあの葬列の中で、日本人でさえも全員が洋服になってしまっているとき、和服的要素を堂々と身につけていたのはあの人だけだった。
ひょっとして、私たちにはあの人が一番の重要人物であったのかもしれない。
フランスのミッテラン大統領は、例の怪鳥コンコルドで羽田空港に降り立った。タラップを降りるとき、黒いオーバーコートに衿元の赤いマフラーが何ともイキで、やはりフランス、と思わされた。しかし葬式に赤は、と思っていると、大喪の礼では黒いマフラーに変えていた。おそらくパリを出るとき、赤と黒二本のマフラーをトランクに詰めたのだろう。
新宿かどこか、お見送りの群衆の中に、小野田寛郎さんがいた。カメラはよくとらえたものだと思う。しかしブータン国王も小野田寛郎さんも、TVカメラにとってはほとんど無意識の映像のようだった。TVカメラの意識はもっと別のところにあったのである。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│命日にクランクイン
二月二十八日は千利休の命日である。秀吉の命令で切腹をした。私は「利休」という映画の脚本を書いたのでそのくらいのことは知っている。
その日私は京都へ行った。大徳寺に千利休のお墓がある。真ん中にボコッと四角い穴の開いた、石燈籠のような、一風変った墓石である。それが毎日後継者によって水をかけてもらっているのか、しっとりと重そうで、何か大変に威圧されるものがある。私はその前に直立し、両手を合わせた。
何とお参りなのだ。隣には監督の勅使河原宏氏。その隣には映画で利休を演じる三国連太郎氏。私の左隣には利休の娘を演じる藤田芳子ちゃん。
映画を作るときにはよくお墓参りをするという。四谷怪談のときにはお岩さんのお墓参り。忠臣蔵のときには四十七士のお墓参り。吸血鬼ドラキュラのときにはドラキュラ伯爵のお墓参り、これはまだ聞いてはいないが。
でもやはり映画を作る身になってみるとその気持はわかるもので、利休もこの日お参りとなった、だけではないのである。じつはこの命日にクランクイン。しかもその撮影の第一ショットは、利休の木像が京都の大門戻り橋に磔《ハリツケ》になる場面からという大変過激なスタート。
これは現場でのロケ撮影だが、じっさいの戻り橋はどうにもしようがないらしく、嵐山のふもとにある橋が選ばれた。
行ってみると、そこにはすでに立札が立てられ竹矢来が組まれている。
その前にその川の近くの嵐亭という料亭の畳の部屋で記者会見があった。これはみんなお膳の前であぐらをかいての記者会見で、前回の草月会館のときよりはぐっとなごやかだった。それでも三、四十人はいたか。ほとんど関西のジャーナリストたちで、大阪には物凄く新聞社が多いそうなのである。昼間だけど部屋の中だったのでやはりストロボがバチバチ光る。プロはニコンやキヤノンのモードラ付きが看板だと思っていたが、ミノルタα‐7700iやイオスなどもたくさん見かける。やはり看板よりもホンネの露出度が高い。新聞に印刷したらみな同じでっせ、と声に出してはいなかったが。
現場にはすでに竹矢来が組まれ、磔用の十字架状の柱も立っている。その周りに大勢のスタッフ。監督、カメラマン、照明、道具、それぞれに何人もの助監督や助手がついて、あれこれ準備をしている。
そこはちょうど川沿いの遊歩公園みたいになっていて、すでに野次馬も群がっている。
私も仕事としては脚本を終って本日は野次馬なので、気が楽だ。カメラをぶら下げて、ぶらぶらと周りを歩く。川辺まで行ってみた。橋の上から見ると、遠くに竹矢来で囲んだ刑場が出来て人が群がっている。本当みたいに見える。こんなところでリンチなどしてはいかんと警察が飛んできそうだけど、もちろん許可はちゃんと取ってあるのだ。
ふと目を落すと、橋の欄干にそってカゴやザルや天秤棒が置いてある。それがいずれも大昔のものなのでビックリした。しかもザルの中には食べられる魚の干物がはいっているのでギョッとした。
つまりカメラが向うから竹矢来を写して、背景にこの橋が入る。橋の上には行商人がいるという設定らしい。
しかし背景だからピントはボケているし、それにザルの中までは絶対写らないのに、魚の干物が入れてあるとは。
リアリズムというのは大変だと思った。やはり見える部分の恰好だけではダメで、気持のうえでもザルの中の魚の干物は必要なのだろう。
ふうんと思ってなおも現場を遠ざかっていくと、橋を渡りきった空地に江戸時代の人が大勢いるので驚いた。江戸時代ではない、安土桃山時代の百姓町民である。それが二、三十人ぶらぶらとして、タバコを吸ったりしている。あとで竹矢来のところに群がるエキストラたちである。本当に変な感じだ。
やがて用意万端整い、勅使河原監督の声が響く。
「スタート!」
利休の木像に斧が振り降ろされ、木像の眉間から顎、首、胸にかけて亀裂が走った。
「カット!」
これで一つ一つ二時間分を作っていくのだから、大変なことだ。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│純粋日本酒協会でのおいしい出来事
純粋日本酒協会というものがある。
と聞いたとき、思わず私は、
「またまた……」
なんて笑い出しそうになった。しかしそれがウソでなくホントだと知ったとき、私はその名称に感動した。そうだ、日本酒は純粋でなければならない。
ひところ堕落してドン底まで落ち込んだ日本酒が、このところまた品質を鍛え直して、ついにはその純粋さを問うところまできた。これは日本酒の好きな酒飲みとしては大変喜ばしいことである。
その純粋日本酒協会の大会があるという。といって何か決議するわけではなく、純米酒を楽しむ会というのだそうで、毎年お酒の事典を出している出版社のAさんが教えてくれた。
「興味ありますか」
「行きます、行きます」
会場は一ツ橋の如水会館。もうお酒の匂いがぷんぷんしている。|※[#「口+利」、unicode550e]酒《ききざけ》をするA会場と、そのあとのパーティーのB会場とに分かれている。
まずA会場。絨緞の上に分厚いビニールシートが敷いてある。凄い。プロ野球の祝勝会だ。酒のピチャピチャこぼれるのはあらかじめ覚悟しているという、そのしつらえがさすがにプロ。
テーブルが二列並んでいる。右側のテーブルにはちゃんとラベルの付いた各社のビンが六本。左側のテーブルにはそれぞれの酒を全部同じ型の透明ビンに入れて番号だけふったのが六本。
やり方は、まず右側の酒の味とブランド名をよく覚えておいて、そして左側の透明ビンの酒の味の合致したその番号を記入していく。
で、そういう二列のテーブルが三組、ブランドとしては十八種並んでいるが、全部は時間の都合上大変なので、どれか一組をとのこと。
すでに大勢の男たちが酒を味わっている。スーツを着て恰幅のいい男たちが、悠然とグラスを手にして宙を睨んでいる姿は、いかにも業界である。私は嬉しくなった。カメラの業界と日本酒の業界は大事にしたい。
飲んでいると思ったが、口に含んだあとバケツにパシャッと吐き出している。いちいち飲み込んでいると酔っ払ってわからなくなるわけで、噂には聞いていたが、現実に見て感動した。私もやってみたが、何となくプロのマネをしているみたいで面映ゆいというか、テレくさい。それに何といっても純米の吟醸酒である。せっかく口に入れたおいしいものを、喉の欲望を振り切って吐き出すわけだから、どうしても唇の方がチビってしまい、細くチョロチョロと斜めに流れてバケツの外に垂らしてしまった。ああ恥ずかしい。
私はかねがね、食と性の感覚は共通していると思うのである。仮に性の方面でこのようなことがおこなわれた場合、こうやって途中で出したりできるだろうか。
いやつまらぬ連想はやめておこう。二度、三度と繰り返すうち、私も慣れてきた。飲むのはB会場で存分に飲める。それより味を見分ける方に興味がわいて、バケツにピュッとわだかまりなく吐けるようになった。いっぱしの業界人の気持。
といっても三つ、四つと味わううちにわからなくなる。一つだけ自信のあったのは、米麹の味のじつに濃厚なもの(まったく自己流の解釈だが)。もう一つ特徴を感じたのは塩漬け大根的な辛口。それと自分の好みではない重ったるくもたついたもの(いわゆる一般酒に似た味、失礼)、というわけで、サッパリした味の美酒というのがむしろ見分けがつきにくい。
とか何とか、あとはあてずっぽーで投票した。やがてB会場でのパーティーでその発表があり、六問全解が三人(うち一人は二テーブル十二問全解)、やはりプロは凄い。いやプロかどうかはわからないが、賞状を受け取りに出てきたのはいずれも若い人で、酒蔵の息子かと想像する。
次に四問正解が五人(五問正解はないわけだ)。その五人目に、何と私の名前が呼ばれてしまった。
これは冗談でなく本当である。
投票用紙の控えも持っているぞ。
しかし三百人くらいの中でのこれだから、自分はひょっとして天才だ、とは思わないように努力したが、いやマグレだマグレだと言いながらも、同行のAさんによると目が勝ち誇っていたそうである。まあ自分の直感が認められるのは嬉しいことで、自信がわいてきた。やはり賞というのは励みになる。私はこれからもしっかりと酒を飲むぞ。
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まん中の人の早死説
三人並んで写真をとると真ん中に入った人が早死をするといって人形など入れてとることがありますが、どんないわれがあるのですか。
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わが国に写真術が伝わったのは天保十三年(西暦1842年)長崎に入港したオランダ船からといわれますが、当時は「写真は人の魂を奪うから写した人は早死する」といい、写真機の排斥運動さえ起ったのですが、薩摩《さつま》藩主島津|斉彬《なりあきら》らの先覚者の努力によって、この迷信は打破られました。つぎに生れたのがこの中心人物の早死説≠ナ、その発生には次のようなことがいわれています。@三人並んでとる場合、真中に座る人は大体この三人のうちの年長者か先輩なので一番早く死亡する場合が多かったためこのように信じられた。Aお寺の仏画や仏像の三尊仏(例えば中尊が弥陀の場合は両側は観音、勢至菩薩)が三体ならんで、その中心が仏《ほとけ》であり、死者をほとけ≠ニよぶところから連想してこの迷信を生んだ、などです。
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じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│国宝を訪ねて
また京都へ行ってきた。
醍醐寺。
春。
桜が咲いている。
そのむかし、豊臣秀吉は醍醐寺で超ド級のお花見を挙行した。死ぬ四か月ほど前の人生ギリギリのときである。
これがじつに変った、大変なお花見らしくて、軍隊を動員して醍醐寺周辺に戒厳令を敷いた。そしてガッチリと幔幕を張りめぐらした中には第一夫人、第二夫人ほか大奥のギャルたち何百人をはべらせ、男の招待は一切なし。
まあ気持はわかるが、私はそこまではやりたくない。
とにかくそんな歴史があったお陰で、秀吉の醍醐の花見というので醍醐寺は有名になってしまった。
ところがこの醍醐寺は秀吉より五百年ぐらいも前に建立されており、しばらく荒れ果てていたのを秀吉がこのお花見のため改修工事をしたのである。そのくらいの寺だから国宝になっている。だから今回は国宝を訪ねて行ったのである。
従ってNHKの撮影班もいっしょだった。
醍醐寺国宝の五重の塔。私がゆっくり歩いていくと、カメラがじーっと後からついてくる。五重の塔の前でゆっくり私が止まると、カメラもゆっくり止まる。私はここで感動しなければならない。太いマイクが私の足もと辺り、カメラのフレームに入らない位置を見計らいながらじーっと出てきている。さあ感動を一般大衆にわかるように、はっきりと声に出して呟くのだ。
「…………」
これが呟けないんですね。私はふだん一人で呟いたりしませんよ。
「すみません。じゃあもう一度お願いします。タイミングはちょうど良かったんですけどね。やはりあそこの立ち止まったところで、その、はじめて実物を見た印象を、ひとこと何か、言ってもらいたいんですけど」
私はタレントじゃない、と言いたかったが、引き受けてしまった以上、ここでご破算にするのも忍びない。
しかしこれほど後ろめたいことをさせられるとは思わなかった。いや別に犯罪ではない。しかしみなさんもやってみて下さい。ゆっくりと歩いて国宝の前で立ち止まる。そしておもむろに口を開いて「やはりスバラシイものですね」とか何とか。そしていつまでも離れ難いという顔をしてじっと見入る。
そうか、一般大衆はカラオケでそういうこと鍛えているんだ。ヤラセでエクスタシーを感じるクセがついている。私はどうもカラオケが苦手で、だから国宝に感動したふりをするというのも苦手なのだった。感動が苦手なのではなく、ふりをするのが苦手。虫ずが走る。
でもお陰で国宝を見せてもらった。国宝というのはやはり貫禄がある。まず材質が古いという、これはほかのものでは真似ができない。貴重である。だからみんなハレ物のように扱う。そういうみんなの距離感が、国宝に大変な貫禄をもたらす。
黄金の茶碗。これはまだ国宝指定は受けていないが、秀吉が醍醐の花見で茶を飲んだもの。利休とともに黄金の茶室を造ったときにも黄金の茶器を作ったそうだが、それとは別の物らしい。
[#挿絵(img/fig19.jpg]
とにかくそれを間近に見せてもらった。金ムクではなく、木地ものだという。だけど塗りではなく金の延べ板の張りだというのは表面を見ただけでわかる。外側に金が垂れたようにデザインしてある。そっと手に持たせてもらうと、感触は金属、しかし中身の木地の分だけ軽く、一瞬、黄金と木地とが分離して感じられた。私の指先に透視能力が備わったようだった。これはなかなかの感触である。
置いて真上から眺めたところでは、ほとんど真鍮である。ところがその撮影をモニターで眺めると、黄金色が見るからに美しく輝いていた。まさに国宝然としていた。どうもやはり、映像というのはクセモノである。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│五千トンの鉄の嬉し恥ずかし初体験
横浜港で筆おろし、いや船おろしがあるという。
船をはじめておろす、正しくは処女航海というらしいが、昭和海運の「おせあにっくぐれいす」号。
総トン数五千トンである。乗客百二十人。
つまりこの船に一泊六万円カケル百二十人の乗客をたっぷりと含ませて、横浜港から東海沖を通って瀬戸内海を横切り、九州の鹿児島、長崎まで八日間の太い線を引いていくわけである。
その横浜の大棧橋埠頭に行ってみると、要所要所にたくさんのガードマンが張り切って取締りを強化していた。埠頭の先へ行こうとする車を、
「ピピピーッ!」
と制止する笛の音に力がみなぎっている。一匹たりとも、いや一人たりとも関係ない者は入れないぞ、という意欲に燃えている。
折しも埠頭の反対側にはあの有名なQE2、つまりクイーン・エリザベスU世号が停泊中なのだ。しかもこの港で横浜博が開催中でもある。世界中の目がこの横浜港の、とくに大棧橋埠頭にそそがれているという責任感で、ガードマンの表情は険しくなるのだった。
ぐれいす号の横付けされた埠頭ではステージが造られたりして、式典の準備で忙しい。その間QE2号をちょっと見た。有名人がそばにいるとつい目が行ってしまうという、あの感覚だろう。
QE2号は六万七千トンかあって、さすがに大きい。しかし優美な曲線をもっているので、威嚇的な大きさというのは感じられない。イラストでいうと、スペースの枠にとらわれずに引きたい線を気のすむまで引いてみたという伸びやかさがある。やはり大英帝国の看板だけのことはあると思った。
やがて、
「まことに……」
とか、
「このたびの……」
とか言っていた関係者要人の挨拶が終り、いきなり賑やかな音をまき散らしてマーチングバンドが行進してきた。ぐれいす号の横っ腹から出ていた昇降階段がゆっくりと引き上げられる。たぶんそうなるだろうと想像していた通りに折り畳まれる。つまりマイクロバスの補助椅子みたいに、いったん横に畳んでから縦に収められる二段格納方式。それがマニュアルではなく電動式のオートでゆっくりと、格調高くとりおこなわれる。何しろ最新式の新築の船だから、そういうメカは新しい。
船の甲板には一泊六万円カケル七日間を出した人々が、多少のテレを上気した顔に含ませて手摺りのところに並んでいる。こちら側にいるのはその家族、知人、友人、野次馬たちだ。もちろん野次馬には報道陣も含まれている。ヘリコプターに乗った野次馬もいて、上空を何機かブンブン飛び回っている。
甲板の乗客の方から紙テープが投げられてきた。七色の線が飛び交う。最近は環境保全のためにテープ自粛令が出ていたらしいが、今回は特別なのだろう。まあいいじゃないですか。もっと悪質な環境汚染の取締りが先決である。
報道陣のカメラがパチパチと活躍している。見るとニコンF4があるではないか。注文殺到で発売が延期になったりしていて、現場ではまだほとんど見かけなかった。それがやっと現場でシャッターを作動しはじめたわけで、いや余談であった。
マーチングバンドは一曲終ったらまた一曲と、知っている曲を全部、ここぞとばかり演奏している。それというのも船が岸壁を離れるには、ロープを外し昇降階段を引き上げたあと三十分ぐらいは要するのである。その間盛り上がりを維持するため、マーチングバンドは演奏努力をしているのである。チアガールは若いギャル、というのは当然わかるが、よく見ると制服を着たラッパやタイコの演奏者たちにも女性が混じっている。制服姿はパッと見て男だけど、帽子の下の髪のニュアンスに男とは違うものを感じる。つまり女である。
そうこうしているうちに、気がつくと船はゆっくりと棧橋を離れはじめていた。何しろ巨体だから、いったん動き出すとじつに滑らかな慣性を身につけ、海上をすーっと動いていく。ブォーッという太い汽笛が鳴ったのだけど、あの音は何故だか気持を震わせますね。船は埠頭の先をぐるりと回り、開通間近のベイブリッジの下を抜けて、そのままゆっくりと小さく消えていった。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│快感と哀愁の西伊豆写生旅行
写生旅行に出かけた。キャンバスと油絵具とイーゼルを持って、伊豆半島へ出かけたのである。ああ懐かしい。
中学生のとき以来。いや高校生のときにも写生旅行には行ったことがある。
風景写生そのものは、東京で画学生の一、二年まではやっていた。でもそのあとはすぐ、前衛に走った。
人はすぐ走る。前衛に走ったり、犯罪に走ったり、金儲けに走ったり、革命に走ったり。しかし風景写生に走ったりはできない。
いや十九世紀には走ってましたね。印象派の若い画家たちはみんな風景写生に走った。あのころは風景がいわば前衛だった。
しかしいまは違う。いまは風景画に走ったりできない。むしろ風景写生に立ち止まるんですね。前衛だ前衛だと走り尽したあとで、私なんかマジメに走り過ぎて芸術の外に出ちゃった。
芸術というのもそれほど広いグラウンドではなかったのだ。走るとすぐに出てしまうようなところ。
だからこんどはそうっと歩いて写生旅行に出かけたんです。電車には乗ったけど。風景画なんて、本当は自分の家の近くでもどこでもいいんです。腕のある人ならどんな所でも絵になる。ところが腕のない人はどうしても風景に頼りたくなるんですね。どこかいい風景を探し求める。
まあ手近なところで西伊豆となった。松崎。長八の美術館のあるところ。何故か秋山祐徳太子とアンリ菅野も絵具を持ってきている。じつはみんなムサ美のOBで、ムサ美というのは武蔵野美術学校(大学)のことだけど、こんど風景画の展覧会をやろうなんてことになったわけだ。こういうことが先に決まって写生旅行に行くというのが、ちょっと邪悪なんだけど、それよりも取材陣が二つ同行している。これはかなり邪悪ですね。中学生のころはただひたすら絵を描きたくて、ツブラな瞳で写生に行ったのに、大人になるとみんな予定に仕組まれている。
まあそんなことはともかく、朝、宿を出たところでいきなりイーゼルを立てた。小さな橋の上からの景色が気持いい。絵具箱を拡げる。油絵具の匂い、テレピン油の匂いがいっぺんに画学生に舞い戻らせる。
画家ではなく画学生ですね。
それはいいが、絵具箱のチューブの蓋が固まっていて取れない。指で力いっぱいやってもネジが回らぬ。ついには歯でくわえてギュッとやったら、チューブの肩のところが破れた。絵具がニュッと出た。
何だか赤面しましたね。画家としての、かくも永き不在。
しかし油絵具というのは大したもんです。しっかりチューブの蓋さえしておけば、何十年でも待ち構えている。
白いキャンバスに、いきなり溶いた油絵具を塗りつける。キャンバスの弾力。筆先の摩擦。油絵具の粘り。これがしたかったんですよこれが。
[#挿絵(img/fig20.jpg]
と有頂天になりながらも、自分はすぐ絵具を塗りすぎてグチャグチャになってしまうタチなので、ガマンにガマンを重ねて、少しずつ色を塗る。ガマンしすぎて絵が縮んでしまった。
結果。
やはり難しいですね風景画は。自分は律儀な性格なので、つい見える通りに描いてしまう。すると写真画というか、キレイ画になりかける。これはイカンと勝手に塗りはじめると、表現派になってしまう。これもイカンと描き方を変えると、セザンヌになりかける。ゴッホになりかける。筆先が切り替るたびに、過去のあらゆるスタイルが落し穴のように待ち構えている。
現代美術はすでに芸術のグラウンドを走り尽しているのだ。だから振り返って風景画を描いてみても、それは可能なスタイルの一つということで、どうも切実さがない。ヤラセになる。
カメラがそうですね。オリンパスがデザインだけレトロ感覚のアルミニュームカメラを出した。カッコいいので私も買ったが、中身は結局今の「ピカソミニ」の流用だから、それを思うと、何だかちょっと、デザイン的ヤラセにすぎんではないか。
車でもニッサンが、デザインだけレトロ感覚(ヨーロッパ感覚か)の「パオ」を出した。一瞬カッコいいと思うのだけど、中身は結局「マーチ」の流用。それはそれでいいのだけど、やはり中の構造から出てくる表現の切実さがない。行くところまで行った技術が、デザインだけ過去に借りに戻る悲哀。
こういう現代技術の悲哀が、現代美術の悲哀にもつながっている今日このごろなのであった。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│東京港から横浜港への船旅
東京は浜松町の日の出棧橋からボートに乗った。海上を走って横浜に行き、横浜博覧会を見るのだ。そこへ行く専用のボートが出ている。ボートといっても二階建で二百三十人乗れる。最新鋭カタマラン(双胴船)というもので、名前はベイブリッジ号。
船だけど形は乗用車みたいで、フロントの部分など、最近の、たとえばホンダ・アコードというか、いまにもリトラクタブルランプがパカッと起き上がるような感じ。
それでもって双胴船だから、シルエットとしてはいまハヤリの4WDむりやりタイプに似ている。つまり乗用車のボディーの両側にトラクターみたいなぶっといタイヤをむりやり付けてしまった特注ランドクルーザー。そんな恰好の船だけあって、さすがにリキはある。
最高時速三十二ノット。巡洋艦というより駆逐艦、もう一息で水雷艇だ。といっても東京港のごちゃごちゃしたところを出るまでは徐行運転。十五ノットぐらいかな。
東京にいながら東京湾なんて見たことがない、という人がほとんどだろう。しかし海上に出てみると、東京湾も案外と賑やかですね。貨物船はもちろん、釣り船は走っているし、ガラス張りのレストラン船は走っているし、和風の屋形船も走っている。海は濁っているけど、けっこう楽しそうです。
東京港の入口にある「お台場」というのを間近に見て通り過ぎる。むかし亜米利加の黒船と戦争するために築いた砲台の跡だ。
東京港の外に出ると、スピードがグィーンと増す。後ろがぐっと下がって舳先が上がる。この双胴船は高速艇なので、混雑を避けて沖合いを走ることになる。さあ横浜まで九十分。これは日の出棧橋からの時間。九十分というと急ぐ人には長いようだが、逆にいうとそれだけたっぷり東京湾の眺めを楽しめる。
[#挿絵(img/fig21.jpg]
さあ楽しむぞというので、売店に行って紙ジョッキの生ビールを買ってくる。
「おっとっと……」
と揺れる甲板によろめいたりしながら、クイーッと喉をうるおす。そこへ潮風がまたオツマミのように、喉の外側をうるおしていく。いいですね。最高ですね。ふと見ると、羽田空港をグィーンと飛行機の巨体が飛び立っていく。
横浜港が近づいてきた。さすがに東京港にくらべたらプロというか、先輩格で、港にともる明りだけでもグンと華やか。
ちなみに日の出棧橋を夕方の六時半に乗ったので、もう夜である。
本牧埠頭と大黒埠頭を結んで建造中のベイブリッジの下をくぐる。物凄く高い橋で、クイーン・エリザベスU世号も頭をぶっつけずに悠々と下を通れるそうだ。
ますます横浜港が近づいてきた。右手に横浜博の会場が明るく浮かび上がる。左手にも一段と細かい明りの密集したものが見えると思ったら、このところ横浜に停泊中のクイーン・エリザベスU世号だ。やはり気品があるというか風格がある。
横浜博の棧橋に到着。海からやってきて直接博覧会場に上陸する感じは、たとえばヘリコプターでいきなり横浜球場に着陸する感じにも似ていて(やったことはないが)、何となく自分が政府要人というか、博覧会の会長の甥に当る人物というか、とにかくなかなかなやんごとなき感触であると思った。
夜なのでさすがに人は少なかったが、それだけにタイムスリップのような錯覚もある。事実文明開化のころの街並が軽く再現されている。下見板張りの洋風木造建築が並び、テラスがずっと連なっている。アメリカの西部劇の町のようだ。そこで実際にビールを飲ませたり、ソーセージを食べさせたりしている。お土産も売っている。人力車が停っていて、ステッキを振りながら山高帽の紳士が歩いている。花飾りの貴婦人っぽいのも歩いている。みんなアルバイトで雇われた若者である。サンゴ礁のヤラセは悪いおこないであるが、こういうヤラセは別に悪いおこないではない。
パビリオンというものがあちこちに出来ている。さてどこに入ろうかと見回していたら、頭の上を重くて軽いものが走って行った。会場内の高架線をリニアモーターカーが走っている。超電導だ。レールの上を浮いて走るので摩擦音がまるでない。ゴットン、ゴットンという重みがまるで感じられない。しかしレールから浮いていても、浮かせている重みがレールにはかかっているはずだが、とか考えているうちにスーッと走り去った。
動くベンチという極小の電車も会場内を走っている。もう一つ会場を出たところから山下公園まで、臨港線を利用したレトロ電車が走っている。戦前の電車の復元である。それに乗って山下公園から中華街へ行き、中華ソバを食べたのだった。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│ブリキ時代のモーションディスプレイ
人間は生き物である。生き物というのは動いているものに目がいく。やることのない犬が地面にべたっと寝そべって、
(この世は退屈だな……)
なんて眠そうな目をしているところに、バッタがピョンと飛ぶと、犬は目だけパッと動かしてそれを見る。用もないのにそれを見る。
猫も鳥もそうである。止まっているものよりも、まず動いているものに関心がいく。
たしか蛙だったと思うが、動かないものは何も見えないという種類さえある。だから目の前の葉っぱに虫がとまっていても見えないが、それがピョンと飛び立ったとたんに見えて、パッと舌が伸びる。食べてしまう。
人間もその性格は同じで、ふだん小説なんて関心ないのに、新人がピョンと芥川賞を取ると、パッと見てその本を買う。ふだん政治なんて関心ないのに、中国でピョンと動乱があると、パッとテレビをつけてかじりつく。
そのような人間の性分というものを、商売人がほうっておくわけがない。
というので「モーションディスプレイ」というものが生れたのだった。つまり商店のウインドーに物を置くだけでなく、それを動かしたら人が見る。人が群がる、物が売れる、というわけ。
横浜のマリンタワーの二階で「モーションディスプレイ展」というのが開かれている。八十八点あるのがいずれも一九二〇年〜五〇年代の宝石店のウインドーに飾られていたもの。それぞれの小さな舞台が海賊船だったり、宇宙ロケットだったり、虫の世界だったり、巨大時計の内部だったり宝石工場だったり。
[#挿絵(img/fig22.jpg]
スイッチを入れるとグィーンと唸ってコトコト動きはじめる。たとえば宝石研究所で白衣のミニ科学者が働いている。ベルトの上を巨大宝石が運ばれてくる。あるボックスの中にスーッと入ると、博士がスイッチを入れて、パッとボックスが赤くなる。核融合でも起きたのか、ボックスからは宝石が五倍ぐらいに大きくなって次のベルトにスーッと出てくる。
と、そんな具合に、自転車が走り回ったり、ロケットが回転したり、ハンマーが打ち降ろされたり、動きは単純だけど、その工作がじつに綿密にうまく出来ている。造作が上品で、アイデアがしゃれている。見ているとどのディスプレイも調子が一つに整っていて、やはり時代の個性というのは一人の作家の個性みたいなものだなあ、と思った。そうしたら、事実、これはみんな一作家のものなのだった。
一人ではなくベリンジャー夫妻、つまり全部ベリンジャースタジオの手になるものだという。
もともとは自分の宝石店の店頭にだけ置いてあった。それをいくつか作って置き換えるうち、これが大評判となり、他の宝石店から済んだのを貸してくれといわれた。そんな評判が折り重なって注文殺到。それじゃあというんでスタジオを設立、専門に作りはじめた。大量生産ではなく、一種類を数個作っての貸し出しである。一作ごとに新しいアイデアと意匠に粋をこらす。置く場所がみんな宝石店だから、イメージアップの責任重大なのである。
と、そういうモーションディスプレイの燃えた時代があって、それから六十年、その一連の作品群が巡り巡って日本のコレクター北原照久さんのコレクションとなり、今回の展示となったわけ。
北原さんはブリキの玩具やポスター、引札、扇子絵など、産業革命以後のキッチュ的ビジュアル物件を相当に蒐集していて、横浜にブリキおもちゃ博物館を建てているという人。
それにしてもこの時代の工作品の魅力とは何だろうか。ブリキ、ガラス、木、エボナイト、といった素材の魅力だろうか。それを直接工作した技倆、その労苦、けなげさ、といったものが伝わってくるからだろうか。
現代モダンモーションディスプレイには、そのような感じが稀薄である。数十年後にこのモダニズム物件を懐かしく蒐集珍重することになる、とはなかなか思えない。いまのプラスチック玩具も、数十年後にもう一度喜ばれるかどうか、どうにも疑問なのである。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│十七歳のカンフーテニス
ある深夜、Yさんがテレビをつけたら、レンドルのテニスの試合が映っていたそうだ。相手は見たこともない小さな東洋人。解説では十七歳だという。何だと思ったらフランスオープンの一試合。
レンドルといえば実力ナンバーワン。しかも相手の無名チビ選手は体力もなく、明らかに足がふらついている。何かいたいけな感じさえして見ていたら、それがけっこう粘り抜いて、フルセットまでもつれ込み、何とレンドルに勝ってしまった。世の中には凄いことがあるね。
という話をYさんに聞いたのだった。その無名の少年の名前はマイケル・チャン。
私も見たかったなあ、と残念だった。私はテレビでフランスオープンをやっていることさえも知らなかった。
ところがそれから何日かたったある深夜、プロ野球ニュースが終ったあとも未練がましくチャンネルをあちこち回していたら、テニスの試合が見えた。それがじつに緊迫した雰囲気。一人は見憶えのあるエドベリで、もう一人は見たこともない小さな東洋人。
マイケル・チャンだ。
私はテレビの前に坐り直した。どうやら決勝戦の生中継だ。チャンは準々決勝でレンドルを破ったあと、準決勝ではソ連のチェスノコフにも打ち勝って、とうとう決勝まできてしまったらしい。
儲けた。噂のチャンを見られるとは。
それは衛星生中継なのだけど、私はもうチャンの優勝したビデオを見ているような錯覚をもった。こうなったらもうチャンは優勝するはずである。
マイケル・チャンは東洋系のアメリカ人ということだけど、見るからに日本人、あるいは見るからに中国人、もしくは見るからにフィリピン人、見るからにベトナム人、要するに見るからに東洋人だ。髪の色も、皮膚の色も、目の色も、体つきも、東洋のそこら辺にいる少年である。それがフランスオープンの優勝戦で一歩も後へ引かず、子供みたいな体でガンガン打ち合っている。これはやはり東洋人の私たちから見ると痛快である。
聞くところによると、いまはパワーテニスの時代で、体がデカくて力があるのがだんぜん有利なのだそうだ。しかし相撲やボクシングならいざ知らず、ラケットでボールをやりとりするテニスに体の大小はそう関係ないように思うが。
でもたしかに身長五メートルぐらいの男がいたとして、テニスコートにしゃがんでプレーすれば、ほとんどピンポンだ。走り回る相手よりもはるかに有利。なるほど。
そうするとやはりチビ選手のチャンの頑張りは凄いんだ。
しかし見ていて凄いのは、やはりその闘志だと思った。ボールを打ち込んだり打ち込まれたりしたあと、相手をキッと睨みつける。
蟷螂を思い出した。気取って漢字で書いたが、カタカナで書くとカマキリである。カマキリは人間とは格段の体力差があるくせに、出合いがしらに人間をキッと睨みつける。コンプレックスなどミジンもない。そうなると相手が小さいだけに、こちらはドギマギしてしまう。体力差が消えてしまって、相手の目に呑まれてしまう。そんな作用が、対する白人選手のエドベリにもあったのだろうか。
[#挿絵(img/fig23.jpg]
私などいつもコンプレックスの固まりで、視線があちこちお辞儀ばかりしているが、このマイケル・チャンみたいに、コンプレックスなど干物にして焼いて食べてしまったような、キゼンとした視線もいいもんだと、久し振りに感じ入った。
試合はまたフルセットまでもつれ込んだが、エドベリの方に疲れが出てきたのがアリアリと見えた。それに反比例するように、チャンはますます冷静になってくる。結果は私がビデオの再生だと思った通り、チャンの優勝。
表彰台でチャンがスピーチするのだけど、これがまるで大統領就任スピーチみたいに、気配りよく落ち着いて堂々たるもの。日本の常識では十七歳とは絶対に思えない。この点に関してはアメリカ社会の教育だろう。コートで跳びはねる目つきと体つきはほとんどカンフーだけど、その表面はアメリカ生活者の実力で固められている。面白い見ものであった。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│東京最高齢銭湯の最期
久し振りに路上観察の合宿。
大田区を調査した折のことである。
池上にかなり迫力のある銭湯があり、ひょっとしたら東京に現存する最古の銭湯かもしれないという。門構えは大層なものではないが、そのかもし出す雰囲気がただものではなく、その営業状態から見ても、銭湯としては相当な高齢で引退間近の風情だという。今年の二月ごろ建築探偵の藤森照信さんがたまたま通りかかって、その見慣れぬ銭湯を見つけたのである。
そりゃあ東京は広いから見慣れぬ銭湯なんて無数にある、と思うかもしれないが、そうではない。路上観察学会には銭湯研究家が多い。杉浦日向子さんなど町を歩いていて見知らぬ銭湯を見かけると、そのまま服を脱いで入浴してしまう。ほかの会員にしても見知らぬ銭湯があれば必ず写真を撮るし、合宿すれば必ずその地区の銭湯に調査入浴している、だけでなく、藤森さんには東大で銭湯研究のゼミがある。そこの学生で手分けして、東京の全銭湯入浴を目差して活動し、一人一日六か所ぐらい入浴して全身ふやふやをつづけながら、ほぼ浴破達成という実績をもっているのだから、古い銭湯新しい銭湯のだいたいの分布図は頭に入っているはずなのである。にもかかわらず、たまたま通りかかった藤森探偵の鼻がムズリと反応したのだ。
では明日の夕刻はみんなでそこへ調査入浴しようということになった。しかし休みだといけないので念のため電話をかける。ところが何と「いまは営業致しておりません」という返事。
「え!?」
と驚いたのは藤森探偵。通りがかったのはつい半年前で、そのときはまだやっていたはずなのに。
このように、最近は消えゆくもののスピードが速い。
とにかく電話の向うへ、入浴はできなくてもいいから入場できないか、と頼み込む。もう引っ越しの用意で中はがたがただけど、建物を見るだけなら、と承諾してくれた。
明くる日、みんなタオルの代りにカメラを持ってその「玉川湯」へ行く。
これまでにも立派な銭湯はいくつも見てきた。北千住の大黒湯、子宝湯など、正面に唐破風の屋根を配した堂々たる寺院のような、歌舞伎座のような大変なもので、それらは戦前も昭和初期の建物である。それに比べるとこの玉川湯は小さなもので、屋根なんてトタン葺きで頼りないが、これは近年に葺き変えたものだろう。外壁の古ぼけた板張りというのは、しかしいまどき銭湯ではあまり見かけず、よくよく考えているうちに凄みを感じる。
事実これは大正十二年、震災前に建てたものと聞いて驚いた。東京の銭湯が大型歌舞伎座スタイルになる以前のもので、もうほかには残ってないだろうと藤森探偵はいう。
おばさんが入口を開けてくれた。まず男湯に入る。この間までお客さんが裸の背中を見せていたであろうタイルの流し場には、荷物を詰めたダンボール箱が山積みされている。廃業したのは藤森さんが見かけた直後。昭和十八年に前の人から引き継いでやってきたが、このところ銭湯の客足は下り坂だし、その上ご主人亡きあと女手二人(娘さんと)による運営も限界となったようだ。
しかしもったいないなあ。入口の土間にあるマジョリカタイルは創建当時のものだというし、洗い場にいくつかある花鳥風月のタイル絵も同じ。何でもこれを建てているときに関東大震災があり、エントツが揺れたそうだ。凄いですね、このエントツは。
女湯も見せてもらったがほぼ同じ。こちらにはダンボール箱はなくタイルの洗い場が見渡せる。板場には木製の机のような椅子のような妙なものがあり、ベビーベッドだという。目一杯使い込まれて角が丸くなっている。ここを引き継ぐときからあったというから、そのころこれを使った赤ン坊も、いまはもう立派な初老。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│グィーンと走ってビューン
日産のフェアレディは、むかしは携帯用のラジオみたいに小ぢんまりしていた。スポーツカーといえばワイルドなものなのに「レディ」なんてつけて、それが変な感じだった。しかし性能は凄くいいんだと聞いて、乗ったこともないのに感心していた。
むかし路上のサンドイッチマンで、通る車をじろじろ見ていたころだ。マーキュリーとかスチュードベーカーとか、そういうアメリカ車がスィーンと走っていた時代である。
このたびフェアレディZの新型が発表された。四回目のフルモデルチェンジで、ニコンもF4になったわけで、いや関係ないが、なかなか評判なのだという。
箱根で試乗会があるので、Yさんの運転するアウディに乗って行った。私は運転はしないが、車は好きだ。しかし運転しないから、あまりよくわからない。トルクとかツインキャブとか4WDとか、いろんな言葉があるのは知っている。ドアミラーとかフォグランプなんて言葉も知っている。しかし意味はわからないのが多い。それでもいちおう世の中を生きていける。
箱根の山のホテルというのが試乗会の基地になっている。この山のホテルというのは小田急線の車内広告で見ていて、
(何だか山の上ホテルと紛らわしいなあ)
と思ったので覚えている。まさかそこに来るとは思わなかった。
ホテルの前の車溜りのところに簡単なテントが設置され、Tシャツやスポーツシャツ姿の若い男女が十何人かたむろしている。私たちが車を停めて降りると、そのたむろしている十何人かがいっせいにこちらを見ている。恰好ではわからなかったが、そのいっせい振り向きで全員が日産の人だとわかった。
試乗車は十台。色はスーパーレッド、ダークブルーパール、イエローパール、ブラックパール、センシティブシルバー、要するに赤、青、黄、黒、銀の五種。いまは全部出払っているが、試乗者の名前が表に書き込んである。ほとんどが車の雑誌関係の人で、私など知らない雑誌がずいぶんある。係の人が戻ってくる車のローテーションをあれこれ考えていて、私たちの車は銀色になった。
待つ間、ホテルでコーヒーを飲む。これはサービス。フェアレディ一台四百万円以上する。コーヒー一杯四百円として、一万分の一。
銀色が戻ってきた。青や赤も戻ってくる。赤はいかにもスポーツカーだが黄色もいいと思った。黒はやはり凄みがある。スタイルはいかにも安定性よさそうに、べたっと地面にひろがる感じで、アンコウみたいだ。鍋にするとかなり精のつく感じである。
[#挿絵(img/fig24.jpg]
この車はTバールーフといって、中央の骨一本残して、両側の屋根がこぼっと外れる。
Yさんが運転してグィーンと走り出した。スピードがビューンと出ていく。どうも私は運転をしたことがないので、グィーンとビューンくらいしか言いようがない。でもとにかく最新技術のスポーツカーであるし、新品であるし、車には中にも外にもムダな凹凸がなく、すべてがスムーズにいっているという感じ。Yさんも、だいたい思い通りにハンドルが切れると言っている。
箱根の空いた山道を走るのだけど、ときどき町にも出る。学校の前でしゃがんでいる高校生などが、
(お……)
という感じでこちらを見たりする。なるほど、スポーツカーに乗ってる気持ってこういうんだな、とわかった。
グィーンと走ってホテルに戻る。ほかの車はまだ一台も帰っていない。制限時間、一時間半。まだだいぶ残っているが、それも何だか贅沢みたいでいいではないか。
「これはお食事券です」
とチケットを渡され、ホテルのレストランで食事をした。これは千分の一ぐらいか。ほかのテーブルでも車の関係者が食事をしているようで、
「……車は人を選びますから……」
とかいう言葉が聴えた。Yさんは(ふふん)と鼻で笑っている。私もそれに合わせて(ふふん)と鼻で笑ってみたが、どうも運転をしないので、この(ふふん)の笑い方がぎこちない。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│打上げ花火を根元から見る
小田急線というのは多摩川の長い鉄橋を渡る。私はいつもこの電車に乗っているが、この鉄橋を通るときは必ず窓の外を見る。広い眺めが楽しいからである。
むかしはこの川幅いっぱいに水が流れていたのかもしれないが、いまは半分以上に洲が広がって、地面ができている。いわゆる河川敷というのだろうか。むかし田中角栄が新潟で転がしたりしたやつ。
この多摩川の場合は草野球のグラウンドが出来ていたり、じっさいに草がボーボーに茂っていたり、あとボート屋の船着場があったりする。
そういうのを電車で通るたびに、たとえ本を読んでいても顔を上げて眺めながら、なるほど、うんなるほど、野球をやってるな、ボートもちゃんと営業している、釣り人も出ているな、よしよし、という具合に、この辺りの優しい地主みたいな気持で通過していく。
そこで花火大会があるというので行ってみた。電車から見るだけで、前からいちど降りたいと思っていたのだ。本当は昼間降りて土手を散歩してボートに乗りたかったが、花火は夜である。降りたらあいにく小雨がパラつきはじめてしまって、ついてない。
それでも近所からわいわい人が来ている。婦人や娘たちはけっこう浴衣なんて着ちゃって、キャッキャッといっている。駅の改札のところで浴衣を着ている男を二人だけ見た。私も浴衣を持っているし、こういうときぐらいしか着るときはないので、と思ったが、浴衣で電車に乗るのが恥ずかしくてやめた。落語家に間違えられる。事実駅の改札を浴衣で通り過ぎた男を、私は一瞬落語家かと思った。
土手からグラウンドに降りていく。もういっぱい人が来ている。ちょっと小雨がパラパラなので、地面が湿っていて腰が下ろせない。グラウンドでもみんな立っている。遠くに夜店が一軒だけ出ている。何かヤキソバとか期待してきたが、あきらめた。花火の純粋観賞だ。
八時になってまずドーンと一発上がった。この最初の一発がいちばん感動的だった。真上にズバッと光がひろがる。花火大会は遠くから見たことはあるが、根元から見るのははじめてである。河川敷のグラウンドから草むら一つへだてた川辺のところで打ち上げているらしい。
とにかくその一発で、見に来てよかったと思った。皆既日食を思い出した。去年小笠原諸島の先まで行って三分間だけ見てきた。この美しさと感動は実際に見る以外に伝えようのないものだが、それを一瞬に思い出させるのだから打上げ花火というのは大したものだ。感動の度合はやはり皆既日食にゆずるほかはないが、その派手さ、見栄えというところでは皆既日食を上回る。ただ物量が多過ぎるのは豊かな感じでいいのだけど、途中でちょっと飽きてしまって有難味がなくなってくるのは考えものだ。
皆既日食にしたってあれが毎月毎週あるとなれば、有難くも何ともないだろう。そこのところを打上げ花火関係者はよく考えた方がいいと思う。
いきなり小言が出てしまったが、しかし根元から見る花火は強力で豪華で贅沢でいい。ドーン五十万円、ドーン百万円、ドーンまた百万円、と推定していると、金なんていずれ何とかなるじゃないかという太っ腹な気持になったような錯覚におちいり、多摩川の鉄橋を走る小田急線もサービスで徐行運転している。
そういえば以前、誰かが飛行機で羽田空港へ飛んできたとき、上空から隅田川の打上げ花火が見えて、それが手毬のように球体に見えたそうだ。飛んで動きながら見るので立体感が出たのだと思う。いちどそういう体験をしてみたいが、そうするとあの鉄橋を徐行運転する電車からも球状に見えているのだろうか、と想像したが、まだ目撃者の報告は出ていない。
とにかく花火は爆発なので光が球状に散っているのは当然だけど、地上から見ているとそれはどうしても円型に見えるだけで球状には見えてこない。闇と光のコントラストが強すぎて、こまかい遠近感がなくなるのだろう。
なんて科学するうち雨がちょっと強くなって、みんな持参の傘をさして花火見物という、それもまた一風変った風情であったが、遂にはドシャ降りで中止となった。濡れた花火がどうなったかは気になるところだ。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│色彩の不思議体験
ものを見る。じろじろ見る。
ということは、ものだけでなく自分を見ることである。
なんていうと、今日は哲学の時間かと思うかもしれないが、そうである。
たとえば渦巻図像が回転している。渦の線が周りから出てどんどん中心に吸い込まれていくように見える。それはよくあることだが、それを二、三十秒じっと見ていて、ふと目を離して自分の掌を見る、そうすると自分の掌の肉がどんどん盛り上がってくる。血も何も出ていないのに、掌の肉が渦巻と逆にねじれながら盛り上がってくる。
もちろん錯覚である。しかしあまりにもはっきりそう見えるので、これを写真に撮りたい、と思ったりするが、それはムリ。自分の目の中だけの出来事である。
そういう哲学の展覧会(エクスプロラトリアム展)が科学技術館で開かれている。子供がたくさん来ている。子供は哲学者だからである。
一歩進んで、その上でやっているワークショップをのぞく。この日は「色彩の不思議体験」というもので、講師は藤本佳志さん。人間の目が色を見ることの現象を、実物を使って実験的に話してくれる。私は色彩学なんてはじめてなので、凄く面白い。それにわかりやすい。何故かというと、前列にずらりと子供がしゃがんでいるからだ。大人はそれの保護者がほとんど。
これがいいのだ。講師はまず子供にわかるように話してくれるし、聴く方の大人も子供相手の話だからと、構えずに聴けるから吸収がいい。私はこれをある言語学のサークルでも経験しているが、講義というのは子供のフィルターを透してやりとりするのが一番である。これからは大学と幼稚園を合体すべきだ。マジメな話。
とにかくいろいろ面白かったが、青と黄色を重ねて縁もゆかりもない色になるのが凄い。
まず薄いパネルのような透明容器に入れた青い水と黄色い水があるわけである。それを白色光を発するプロジェクターの前に置く。青を置いて、その前に重ねて黄色を置く。さらに青を置いて黄色を置く。それを何度か重ねていくと、どうしても緑色になるわけである。
[#挿絵(img/fig25.jpg]
それはわかる。光の三原色の原理で習っているからわかるのであるが、この実験ではそこで終らず、さらにしつこく青、黄色、青、黄色と重ねていく。そうするとキレイな緑色であったものが、緑とも何ともしれぬモジャモジャした色となり、なおもどんどん重ねていくと、だんだん赤くなってくるのだ。最後は何十枚だか忘れたが、どう見ても赤、正真正銘の赤い色となる。青と黄色を透すだけで。
これは驚いた。
学校でぜんぜん習っていない。
これはもちろん色彩学の世界では常識らしいが、どうしてそうなるかはわかっていないらしい。というより、色というのは物体の積木細工みたいにロジカルには理解できないもののようで、そこのところが変なのだ。色とはそういう性質のもの、ということだけがわかっているらしい。
どうもらしいらしいで頼りないが、その次にまた凄いのを見せてもらった。
白黒と赤のスライドフィルムで総天然色が出る!
これは最近の発見で、まだ「現在の科学では解明」されていないという。
もとはスライド三枚だった。カメラには白黒フィルムを入れ、レンズの前に赤いフィルターをつけて風景を撮る。同様に青のフィルターで撮り、黄色のフィルターで撮る。しかしフィルムは白黒だから、見た目はいずれも同じ白黒のスライド。ところがこれを三台のプロジェクターで、それぞれの前に撮影時のフィルターをつけて一つのスクリーンに映写する。そうすると風景が見事な天然色であらわれたという。
その後その方法をさらに省力化して、赤いフィルター透しの白黒フィルム、それとそのままの白黒フィルムの二枚だけで、天然色が可能となった。
実際に見せてもらったが、光の強さと重なり具合をうまく調節していくと、フワリと色があらわれてくる。
思わず溜息とも歓声ともつかぬどよめきが起きたが、色彩というのはどうもそれ自体が神秘なものらしいのである。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│川一族のシンポジューム
この間、赤坂のとある喫茶店で打合せをしていた。私はその店の、道路に面した大ガラスのそばの席で、通行人をぼんやり見ながら打合せをしていた。
すると、いきなり通行人と目が合った。評論家の川本三郎さんだ。前から知っている。お互い何となく照れて、
(どうも……)
(こんなところで……)
と、ガラス越しなので声は聞えないが、挨拶を交わして、
(また……)
なんて表情で、川本さんは去って行った。
さてその日、家に帰り、夜、広島から電話があった。シンポジュームに出席してくれぬかという、当方を路上観察者と知っての電話で、しかしそのシンポジュームは路上ではなく、広島の川を見直そうという内容で、市内を流れる太田川に筏を浮かべて、その上でやりたいという。ほほう、面白そうだと思っていると、
「それで赤瀬川さんと、もうおひと方を川本三郎さんにお願いしたいと思いまして」
ときたので驚いた。人生はこういう偶然があるので面白い。
「今回は川を見直すシンポジュームということで、いずれも川にちなんだお名前の方に」
というから、ますます気に入ってしまった。さらにパネラーとなるアドバイザー、コーディネーター、そして司会の人もみんなその選択基準に従ったということ。ちなみにその名前は松浦茂樹、川辺純子、三浦ひろみ。
さらに聞くと、一般からの参加者三十人も同じく川、河、水、|※[#「さんずい」、unicode6c35]《サンズイ》の付く名前の人に限定するという。これが建設省と県と市の主催というから、世の中捨てたもんじゃない。
(とはいえ広島にもじつは広島路上観察倶楽部というものがあり、その面白一派が広島市役所の中に潜伏しているらしいのだ)
さて当日、私は始発の新幹線で広島へ行ったのだが、じつは前の晩にも東京でシンポジュームがあった。これもまた変ったやつで、銭湯の男湯でシンポジュームをやり、そのあと女湯でビールパーティーという、これもまた大衆水にちなんだ催しである。キリンビール主催で東京の銭湯の組合が後援。銭湯を見直そうということで、消費税も見直しが進むらしいが、最近は見直しがトレンドである。
ちなみにその夜のパネラーは杉浦日向子さんと中沢新一さんと私。いずれも水にちなむ名前だ。広島のこのユニークな企画は、かなりの力で偶然を引き寄せてしまったようである。
ちなみに路上観察学会のメンバーは、藤森、林、松田、一木、南と、私のほかには水がなくて植物だらけ。
さて十時半ごろ広島に着いて、そのまま太田川に直行、すぐに筏の上だ。スタッフ、報道陣を含めて総勢五十人。その全員が川や水のつく名前の人で、みんな万一のために救命胴衣を身につけている。一見したところ、ほとんど難民船だ。
参加したくても名前に川のつかない人々は、それぞれ自作の筏に乗って川下りのレースに参加している。そのうちの一艘では、何と和服を着込んだ数人の女性が茶を点てている。それがスルスルと近づいてきて、私たちにも茶を振舞ってくれた。まことに結構なお点前で、じつに豪華なボートピープル。
そんなわけで、もはやこれだけの環境があれば、もっともらしい話をしても意味がない。かえってしらける。企画の面白さだけで目的はもう十分に達せられている。私は支給された麦藁帽を頭にのせて、流れゆく川面をボーっと眺めていた。
しかし油断しましたね。何しろこの日の広島はこの夏最高のカンカン照り。おまけに私はここのところ海にも山にも行かず、いきなり直射日光に肌をさらしたもんだから、東京に帰ってきたら日射病みたいになっていた。肌は真っ赤、お腹はグルグル、微熱さえ生じて虚脱状態。太陽の恐ろしさが身にしみた。日焼け手帖というのはどこに行けばもらえるのかと、そんな妄想にうなされた。
教訓――面白さには常に危険が伴う。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│カタン、カタンのクギ抜き地蔵
路上観察でまた京都へ行った。
テレビの取材が同行している。
NHKの朝の物凄く早い時間に、毎週土曜日連続で路上観察の番組がある。今回は京都だけど、京都面白物件の名品はすでに別の仲間が出演して報告している。
じゃあ何にしようかと相談しながら、西陣の辺りへ行った。とくに何のアテもない。
クギ抜き地蔵尊というのがあった。
トゲ抜き地蔵というのは東京にある。それと何か親戚かと思ったが、とくに関係はないらしい。
クギ抜き地蔵というのは苦を抜いてくれる神さまということで、まあ昔の人はいろんなこじつけを考えるものだ。でもそういう語源的なことからいって、東京のトゲ抜き地蔵ももとはクギ抜きだったのかもしれないと、クギ抜き地蔵の人は言う。
ここでは釘と釘抜きとをセットにしたものがお札みたいになっていて、ここへお参りして病気回復祈願などした人が、病気が治ったときに、苦を抜いてくれたお礼としてこのお札を買って奉納する。それが本堂の周囲の壁にズラリと飾られている。
ここのご本尊は釘抜きそのもので、ペンチみたいに挾むヤットコである。これの大きいのが入口に立ててあって、よだれ掛けをかけるとちょうどお地蔵さんみたいになるのがおかしかった。頭のてっぺんで挾むわけで、顔が素抜けになるところなど、ほとんど現代芸術。
お参りをしていると、カタン、カタン、カタン、カタンと音がする。西陣である。周りには西陣織の織物屋さんがたくさんあるのだ。
[#挿絵(img/fig26.jpg]
町を歩いてみると、小さな家内工業的な、あるいは町工場といった感じのカタン、カタンがたくさん並んでいる。みんないわゆるひとつの西陣を織っているのだ。そういう細い通りが縦横に走っていて、この町そのものが西陣の織物である。道の両側でカタン、カタンとやっていたのが、歩いていくとふっと止まったりして、まるで蝉の声の中を歩いているようだ。
京都の町並は、自分の家の前をじつに綺麗に磨き上げている。西陣でも例外ではなく、一つ面白い物件を見つけた。通りに面した細長い私有地の、タタキみたいなところに小石で模様が埋め込んである。よく見ると大きな蝶々。ここに自転車など停めるなということを、暗に声明しているのかもしれない。蝶々というのが意外で、見たときハッとした。
歩くうちに、もう西陣を出ていたのかもしれないが、妙な建物の並ぶ一画にはいり込んだ。西洋館と和風とマゼコゼにしたような建物が並び、入口がタイル張りになっていたりする。それでピーンときた。昔の花町である。色町というか。つまり遊廓地帯である。いまはもちろん廃業している。もう人の住んでいる気配はない。でも何かには使っているらしくて、入口をはいったところにサンダルがいくつか脱いであったりする。
窓のステンドグラスが綺麗だ。その昔は自慢の種であったのだろう。しかし廃業後の建物の変遷で、どんなことがあったのか、建物の壁が波板のトタンで補修されている。そのトタンがさらにつづく年月で錆びてしまって、しかしそのトタンに囲まれたステンドグラスは昔ながらの風情を残して、何だか複雑な色合を漂わせている。トタンのサビに、ステンドグラスのワビ。
人間の世の中は、多彩な変化をするものである。
原型をかなりとどめた旅館があった。いや、ひょっとしてこれは現役の旅館なのか。とにかくフェイスハンティングとして写真を撮った。この入口が顔に見えるのである。日本古代の埴輪の顔に似ている。ドアのガラスが綺麗に割れて、ちょうど口に見える。埴輪と思うのは、上の軒がちょうど兜の庇に見えるからだろうか。
まあそうやって、ちょこちょこと変な物件に出合ったのだった。
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ヨーロッパの暗殺史
トロツキーはメキシコ共産党員に暗殺されたといいますが、ヨーロッパの暗殺史の始まりについて。
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欧米では暗殺者をアッサッシュンと呼びます。これは十一世紀のキリストの聖地エルサレムを奪回するため第一回十字軍が侵入しましたが、この時回教の熱狂徒イスマイル派のハッサン・サバが十字軍の主要人物を倒すため秘密結社を組織し老人山≠ニ匿名する党主から殺害者を指名した命令が発せられますが、命令を受けたものはハッシュシュ(インド大麻草から製した麻酔薬)を飲まされ感情がうっとりとして何かにつかれたようになった時に暗殺を行わせたものです。これは十字軍が二百年間も続いた間、ペルシャ、シリア地方で行われ西欧の騎士を恐怖に陥れたもので、このハッシュシュからアッサッシュンの言葉が生れたといわれます。
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じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│街を転がる目のつけどころ
この場所で、つまり「毎日グラフ」のこのページで、いつも私と入れ違いで顔を出している人がいる。私とは時差出勤で、この同じページで仕事をしている。
つまり林丈二という名前の人で、なんていう言い方もおかしなものだが、林丈二さんは路上観察学会でのじろじろ仲間である。
こんど本を出した。『街をころがる目玉のように』筑摩書房刊。一六五〇円。
写真や図版入りのエッセイ集であるが、私はこれをじろじろ見てしまった。
林丈二さんは何しろ路上観察学会ではじろじろの神様といわれる人で、物を見ることにかけては凄い。ほとんど人間を超えている。だから神様といわれるわけだが、見るといっても、ただ凝視する、なんてものではなくて、目のつけどころが違う。
たとえばこの本の中に「皇居周辺トイレ調査」というのがある。トイレとはお尻を出してしゃがむものだ。和風の場合はキンカクシというものがあり、それを前にしてしゃがむ。お尻は当然キンカクシと反対に向く。
さて皇居周辺にはたくさんの公衆便所があるが、そのキンカクシはそれぞれどちらを向いているのか。それを一つ一つ調査して、地図にまとめ上げている。もちろんこれによってその向きが不敬であるとか、そんなことのためではない。ただたんに、科学的な調査なのだ。
皇居周辺には銅像もたくさんある。楠木正成、和気清麻呂、大村益次郎、ETC。それらの銅像はどちらを向いているか。どこを見つめているか。という調査もある。また銅像となると女性の裸婦像もよくあるわけで、皇居周辺にもそれはある。その向きはどうか。
なんてこと、ふつう誰が考えますか。やはり神様以外に考えつかない。
「おもしろ地名を歩く」というのがまた面白い。たとえば「日帰り海外旅行」である。そんなことできるか、と思うだろうが、できるのである。神奈川県の三浦半島に「海外《かいと》」というところがあるのだ。そこへ旅行して帰ってくる。もちろん写真を撮って、地図を書いて、きっちりと海外旅行のルポを書きしるしている。「海外への行きかた」というガイドもついている。こんなこと誰が考えますか。やはり神様以外に考えられない。
ことほどさように、たとえば山梨県東山梨郡勝沼町字休息というところに休息しに行ったりするのである。これを「理想の休息」と言っている。東京から中央高速バスで勝沼まで行き、そこから歩いて一時間半で休息に着く。その休息で、ゆっくりと休息をする。こんなこと誰が考えますか。やはり神様以外に考えられない。
もろ「面白」というところも訪問している。千葉県夷隅郡大多喜町面白。はじめはここの警察署を見たいと考えていた。あるとすれば「面白警察署」。犯人も警官もゲラゲラ笑いながら取調べをしている。裁判所も見たいと考えていた。検事も弁護士もゲラゲラ笑いながら応酬している。それを裁判官がゲラゲラ笑いながら耳を傾けている。証人もゲラゲラ笑いながら証言をして、それを書記官がゲラゲラ笑いながら速記にとっている。こんなこと誰が考えますか。やはり神様以外に考えられない。
行ってみたら、面白には残念ながら警察署はなかったという。裁判所もない。刑務所もなかったらしい。「面白刑務所」なんて、あれば最高だったのにと、この話には、聞いていた南伸坊が腹を抱えて笑っていた。
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もちろんマンホールの蓋のことも書いてある。林丈二といえばまずやはりマンホールである。街を目玉が転がっていけば、必ずマンホールの鉄蓋の上をこすって通る。みんな見てないだろうが、マンホールの蓋というのは大変なものだ。日本のものも素晴らしいが、外国のマンホールの蓋がまた素晴らしい。私も外国へ行ったら下ばっかり見て歩くだろう。転がった目玉が、溝に落ちたりしないように、ちゃんと追跡していかなくてはいけない。いずれたくさんの目玉が街を転がりあって、誰の目玉かわからなくなる。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│猫の行き交う尾道
尾道へ行ってきた。
私のもう一つのペンネームは尾辻である。まあ別に関係はないけど。
尾道へはご馳走を食べに行ったのである。食談会のゲスト。
食談会の元祖は金沢だ。町の自慢の料理屋さんにゲストを呼んで、その話と料理を味わおうという市民が会費を払って参加する。そういうのを町の何か所かでやる。町とご馳走のPRである。金沢へは二度行った。
尾道というのは瀬戸内海の港町だ。
じつは私は千利休のことを調べていて、大阪の堺へ行ったことがある。その時代にいちばん栄えた港町で、しかし行ってみたら当時の面影は何もなかった。あそこは行っても何もないよといわれていたが、本当にそうだった。
尾道の人から電話をもらったとき聞いたのだが、尾道というのは堺と同じころ栄えた港町で、それが堺のようにさびれることなくずうっと今日まで現役できている町なのだという。それを見たかったのだ。
新幹線が止まるのでちょっと心配した。交通の便がいいというのはプラスとマイナスの両面がある。人がワッと来すぎて、すれっからしの町になりかねない。日本の場合、観光客というのはある意味ではネズミとかゴキブリみたいなものだ。油断をすると、私だってその一匹になっているかもしれない。ときどき自分の胸に手を当てて、シャツを脱いで確かめてみる必要がある。
尾道の人に訊いてみると、新幹線の弊害はまだとくに出ていないということだった。
瀬戸内海に面した港町で、背中はすぐ山になる。丘というか、その急斜面に細い道がじぐざぐに伸びて、家並もじぐざぐに上へ上へとつづいている。そこを歩きながら、道を曲がるごとにワクワクする。道も、崖も、家並も、さまざまに変化してじつに楽しい。山側には石垣があり、海側には板塀やトタンの波板塀やレンガ塀があったりで、それが丁寧に古びて何ともいえない。道は一本一本に味わいがある。
そもそも坂が楽しいのである。
私の場合、門司に住んだ記憶のせいかもしれない。やはり港町で、背中がすぐに山。その急斜面に町が出来ている。港町の一つの特徴である。そこに幼児期の一、二年いて、その後はペタンとした町にばかり住んでいるので、坂のある町への憧れは強い。
斜面の町というのは、どうしてもムダな部分が出来てくる。そこを何とか工夫するので、おのずから変化に富んだ町並になる。画一的にはなりようがない。やはり人間というのは、多少の不便さを備えたところに住んだ方が、気持が濃密に、豊かになるのではないだろうか。
坂道はセメントで舗装してあり、表面に滑り止めの横線が引っ掻いてあったりする。それが急坂の場合は石段となる。その石段がところどころセメントで埋めて段をなくしてある。それはどこの町の石段でも、乳母車や車椅子用に工作してあるのを見かける。しかしこの尾道のは手造りふうで、しかも車椅子が通るにしては幅が狭い。車輪一本分ぐらい。それにそもそも急坂だから車椅子など危いし。
こっそり教えてもらった。
たとえばお米屋さんなど、上までの配達が重い。バイクを石段に阻まれる。そこで配達の人が勝手にセメントを持っていって、石段の一部をちょこっとバイク用に工作、というものらしい。この段を埋めて潰したところをバイクでたどりながらモトクロスの競技みたいに、じつにうまく駈け上がって行くという。
いいなあ。必要に応じて出来る道、森の中のけもの道だ。知る人ぞ知る路上物件。こういうものこそ町の親密さのバロメーターである。
もう一つ小さなバロメーターが、この町の坂道をたくさんちょろちょろと動き回っている。猫である。路上観察学会の定説では、猫の住みやすい町は人も住みやすいということになっている。
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じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│恐竜のサファリパーク
今回はツワモノどもの夢の跡を観察してきた。横浜港の旧港湾施設を再開発した地面についこの間までツワモノどもの夢があったのである。
その名を「横浜ツワモノ博」という。日本全国のツワモノ企業が、ここにパビリオンという名の夢の資本主義リアリズムを建造していたのである。
これについては私も前に視察して、その結果を「横浜港への船旅」として本欄に掲載している。
読んでないでしょう。
いやいいんです。そういちいち雑誌の隅々まで読めないですよね。仕事もあるし。
さて。
横浜博はいざ蓋を開けてみると思いのほか来場者数が少なくて、あまりかんばしい成績を上げられなかった。
ツワモノどもの夢は、やはり夢のまま終ったらしい。
このところ、日本は全国的にツワモノどもの夢が乱立している。つまり博覧会ばやりで、もうみんな飽きてしまったのだ。人マネばかりする日本人の発想の貧しさが、各地にツワモノどもの夢の跡ばかりを残すはめになったのである。まあその中では横浜博はソコソコの成績を残せたというが。
その夢が終り、いまは解体作業が進んでいる。夢の解体とはどのようなものだろうか。
ふつう私たちは朝目が覚めると、夢を解体しながら顔を洗って会社へ行ったりする。
横浜博の地面でも、夢を解体したあと顔を洗って「みなとみらい21」という会社が、いや社会が、つまりそういう町が建設されるらしい。
行ってみると夢がガンガン壊されていた。
何しろ夢だから、巨大な丸い夢とか、三角のピラミッドみたいな夢とか、細長い夢とか、表面がガラスみたいにピカピカの夢とか、いろいろある。その夢がベリッと破れて、中から鉄骨が突き出したり、地面に落ちてひしゃげたり、引き裂かれた夢が散らばったり、とにかく惨たんたるありさまだ。
まだ壊されていないところもあって、そこを歩くと変な感じだ。かつては綺麗に着飾ってニコニコしていた会場が、いまは人っ子一人いなくて、ゴミが散らばっても片付ける人がいなくて、ベンチとか灰皿とかが倒れてもそのままになっている。世界戦争で人類が消滅し、そのあとの街を歩いているようだった。
夢の解体ではショベルカーというのが暗躍している。ユンボともいうが、戦車のようなキャタピラの脚でザリザリと動き回り、その胴体からは長い二段式の鉄骨首が伸びていて、その先に残材をガブリとくわえる大きな牙が付いている。その動きはゴジラとか恐竜にそっくりである。首を伸ばして建物の屋根にガブリと噛みつき、グイと引き、ダメなときはガンガンと首を揺すって、くわえたところを左右に振ったりして、強引に引きちぎる。
そういう恐竜が三頭とか五頭ずつぐらい群れて、それが会場のあちこちで動き回っている。全部で百頭近くいるのではないか。
恐竜の放し飼いだ。横浜博の会場に全国から百頭の恐竜を集めてきて、
「さあここにある建物を煮て食うなり焼いて食うなりやりたい放題やってよろしい」
といわれて、百頭の恐竜がいっせいに、
「ウワオーッ!」
「ギャオーッ!」
と暴れはじめてしまったのである。
よく見ると恐竜にはいくつかの種類がある。大きさもいろいろだ。見ているうちに、ミツビシザウルス、コマツザウルス、ヒタチザウルスなど種別がわかってくる。長い首のところなどに名前が書いてあるのだ。だいたいは肉食系の獰猛な牙を有しているが、中には明らかに草食系と見える優美な恐竜もいる。一段と首が細長くて、その先から垂直にロープを垂らし、ゆっくりと物をぶら下げて動いている。
こうして花と咲いた横浜博は、いまは恐竜のサファリパークとなっているのだった。危険なので一般の入場は禁止されているが、桜木町駅のホームに立てば双眼鏡で観察することができる。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│小川には底力が流れている
藤枝に行ってきた。藤枝のちょっとした山奥に、水車の研究をしている人たちがいるのである。水車むら会議という。水車というとメルヘンチックなイメージばかりが強いが、ここの人たちは要するに小水力の研究をしているのである。小水力とは小川のせせらぎや、小さな滝みたいなチョロチョロと流れるエネルギーのことで、そういうささやかなエネルギーは世の中のあちこちに散在している。それをうまく利用することで、分散型エネルギー実践の端緒を開いていこうというものである。
集中型エネルギーとは大規模火力発電、大規模原子力発電、大規模水力発電といったもので、これは人間でいうと、一万人分の心臓が一個、町の心臓部に置かれている状態である。人々はそこから血液の補給を受けるので、いちいち心臓の負担がなく楽であるが、いつも巨大心臓による弊害というものを抱えている。それにいざ町の心臓部に異変があると、一万人が揃って危険にさらされる。それよりも心臓はやはり分散して、各人が一つずつ所持しようではないかという、ちょっと例が飛躍しすぎか。
さて小水力であるが、そもそも水力というのは、地球上の水が太陽熱で蒸発し、高い所から落下するエネルギーのことである。
ありていにいって、空中の水分は雲になって上空に滞留している。その雲がいずれ雨や雪になって地上に落下してくる。その間のエネルギー利用はまだなされていないが、いったん地表に落ちた水は、さらに重力によって低い所へ移動をはじめる。山頂の水などは途中で川になって、ところどころで滝になったりして、その位置エネルギーというものを各地でデモンストレーションしながら海に至る。
[#挿絵(img/fig29.jpg]
そんなわけで水力のもとは地球の重力であるが、それにはいったん水分を上に持ち上げる必要があるので、水力のもとはそれを蒸発させる太陽エネルギーだということもできる。
小水力の場合、水力をいったん電気に変えてそれでモーターを動かすとかなると、ロスが多くて仕事にならない。できるだけ間接ワザを使わずに直接ワザがいいという。そうなると昔ながらの水車に戻るわけで、落下する水を受けて水車を回し、その軸の回転を直接米搗きやその他の単純機械に伝えるのがいちばんという。ここではその力で紅茶の葉を揉みほぐす作業をさせて、充分に経済利益を上げているということだった。
問題はほかのいろんな機械作業に使おうとする場合、現在の機械はほとんどが電気エネルギー用の高速回転を採用していることである。それに水車のような低速回転を対応させようとすると、シャフトが折れてしまう。高速回転は力としては弱いのでシャフトは細くてすむが、低速回転では力が強くなるので太いシャフトが必要になるのだ。たしかに車の運転でも、スピードよりも力を必要とする坂道などでは、ローギアに切り替えている。なるほど。
この話は、何だかいまの高速回転社会の性格を象徴しているみたいで面白かった。たしかに最近の若者は、頭の回転は速いけど骨が細い。底力というものがないもんね。
底力なんてたんに精神主義的な言葉だと思っていたが、ちゃんと力学構造をもった言葉だと気がついて面白かった。
まあしかし昔ながらの水車をどこでも使えるというわけにはいかないので、新しい形を実験している。離れた小川からパイプで水を引いて動力を得るとき、スクリューの逆利用がてっとり早い。舟のスクリューはモーターで回転させて水流を放出する機能をもつが、逆に水流を導入すればスクリューの回転でモーターが動く。そのモーターを作業機械に変えればいいわけである。
以前、「函館の建物のペンキの年輪」というのを報告したが、あれと同じトヨタ財団の市民研究コンクールの視察で行ったのである。こういう生活のディテールにおける研究を誰に見られるともなくやっている人たちに出会うと、こちらにもじつにクリーンな気持が湧いてくる。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│可愛くて食べちゃいたい
前にこの欄で、
「可愛いネコあげます。三ヶ月、雑種。メス。トイレのしつけしてあります。じろじろ日記係」
とお知らせを出した猫のことだが、とくにコレという申し込みもなく、結局はうちにいることになってしまった。
裏の山道に捨てられていたところの、黒と茶トラと白とごちゃ混ぜになった猫で、額に三日月の模様があったりするので、
「主之介《モンドノスケ》」
という名前もついたが、いまは日本風にミヨと呼ばれている。いちおう成人したので避妊手術をしたのだが、そのせいかちょっと肥満ぎみになり、おまけに前脚にちょっと障害があるようで、いわゆる猫の正座をするとき、二本揃えた前脚がガクガクッとなったりする。つまり肥満と前脚のハンディとで、猫らしい敏捷な動きはできなくなった。のたのたっと動くので自分でも不安なのか、遠くへは絶対に行かない。アウトドアに出るとしても、家の小さな庭の敷地内のみ。わが家は道路から石段でだいぶ上がったところにあるが、その石段は一度も降りていない。
だから社会というものを知らない。わが家には人間が三人と犬が一匹、あとミヨのほかに兄貴分の黒猫クリが一匹、それしか知らない。
それでも鳥は向うから飛んでくるわけで、これには非常に興味を示す。
兄貴分のクリは五体健全だから、鳥を捕えたりする。もう結構いい歳なのに、このミヨが家に来てから逆に張り切っちゃって、この間など鳩を捕えてしまった。小雨が降っていたので鳩も羽根が重く、そこを狙われてしまった。
第三者としては困ってしまう。鳩はもちろん可哀相だが、猫もそれが本能だからといわれたら、返す言葉がなくなる。人間だって肉や刺身を食べているのだし、と考えるとそのままうつむいてしまうのだ。
ミヨは動きが鈍いので、とても鳥を捕えられない。それでも鳥を見るともう体が黙っていられないらしい。庭の繁みに入って、じっとしている。その二メートルぐらい上のところに鳥の餌台があるのだが、そこに来る雀たちをじっと見上げている。ミヨの隠れている繁みはピクリとも動かない。
もっと小さいころ、家のガラス戸越しにはじめて雀を見たときは凄かった。その動く小動物に全神経を集中させて、興奮のあまり体がぶるぶる震えている。緊張のあまり声にもならない声を発して、上顎と下顎がカクカクと鳴っている。食べたいのだろうが、それが単に食品としてというより、とにかく好奇心ではち切れる寸前、という印象である。
その様子を見ていると、ミヨにとってはもうその小動物が可愛くて可愛くてたまらないという感じである。ガラス戸がなければたまらずに駈け寄り、前脚で捕えて、可愛い可愛いとペロペロ舐めて、頬を押しつけて、カリカリと噛んだりして、結局は食べてしまう。結果としては残酷になるのだ。
雀にとってはたまったもんじゃない。いい迷惑だ。しかし小猫のミヨに悪気がないのも確かなのだ。肉食動物の悲しいサガというものである。
折しも少女誘拐殺人の宮崎勤が逮捕されたので、よけい複雑な気持になってしまった。これもまた動物の悲しいサガ、というわけにはいかないだろう。人間は動物とは違うのである。動物のように生きたいのなら、人間をやめるしかない。
ミヨは動物なので、繁みに隠れて息を殺している。二メートル上方の餌台では、雀たちがツクツクと粟粒をついばんでいる。見るとどれも子供の鳥のようで、親鳥らしき太目のが何羽か、少し離れた枝に留まって見張っている。たぶんミヨが潜んでいるのは知っていて、ミヨにはそこまでの攻撃能力のないことも見抜いているのだ。
そうやって見くびられているとも知らずに、ミヨはじっと潜んでいる。ぶるぶる震えて、上顎と下顎をカクカク鳴らしているのかもしれない。女学校の脇の繁みに変質者が潜んでいるようなものである。人間に置き換えると情なくなる。だけどミヨは動物だから、情なくもあるも何も、そうせずにはいられないのだ。動物の世界も、大変なところだ。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│青年よ大志を抱け
羽田からビューンと飛んで北海道の札幌へ行った。
同行は藤森照信さん。路上観察学会のお父さんといわれている。合宿のとき、お父さんがいないとみんなどことなく心細い顔をしている。子供たちだけでもできるのだけど、やはりお父さんがいるとみんな元気が盛り上がるのだ。
今回は合宿ではなく講義である。
「青年よ、大志を抱け」
のクラーク先生で有名な北海道大学で、路上観察学を教えるのである。これは冗談ではなくて、ぼくらのお父さんは東京大学の助教授であり、今回は北海道への出張講義、ぼくはそのゲスト。
スライドを使っての講演だけど、みんながドッと笑ったりするので公演の方かもしれない。漫才の要素もある。もうあちこちで何度もやっているので慣れている。同じスライドで同じ話をして同じように笑ってもらうので、古典落語ともいわれている。
千歳空港に着陸してそこから車を飛ばした。ニュースでは気温一度といわれていたのでどうすればいいかと思っていたが、来てみるとそんなに寒くない。
沖縄へはじめて行ったときもそんなに暑くはないと思った。
北海道へは去年函館へ行った。そのときは日本の延長と思っていたが、この札幌へ向う車の外の風景はほとんど外国だ。道路の伸び方が外国だし、針葉樹の林が外国だし、ポツポツと見える家並も外国。
家並はたぶん新建材による新しいもので、おそらく東京でもたくさん見かけるアメリカ風のツーバイフォーだ。それが東京の場合だとどうしても西洋からの借物に見えるのだけど、ここではちゃんとここのものに見える。スタイルもわずかに違うようだが、おそらく一軒一軒の間隔が違うのだろう。色とりどりであるのも、ほとんど白一色の東京とは違う。その色もワインカラーというか、利休好みというか、華やかだけど落ち着いた感じで、ちゃんと地に着いている。
階段教室には学生がたくさんいた。笑い方に元気がある。
「ンチタイム」
という看板物件を映したときなど、太鼓が一発ドンと鳴ったみたいに、会場が一丸となってドッと笑った。しかもたっぷりと笑ってくれるので、こちらはあまり話さなくてすむ。札幌はいいところだ。
札幌といえば時計台、観光案内に必ず出てくる。無視するのも悪いので、表敬訪問をした。もとはここにクラーク先生の札幌農学校があり、それが大昔の地上げにより引っ越しをしていまの北大になったのである。で、シンボルの時計台だけ残したのだが、これは農学校当時の演武場だという。東京の武道館だ。
いまとなっては小さなもので、周囲には背の高いビルがどんどん建っている。ぐるりと回ると一角だけビルのないところがあって、背景に青空が見える。ちゃんとした写真を撮ろうとするとどうしてもそのアングルになるわけで、だから札幌の時計台の写真はみな切手のように同じなのだ。
ここから引っ越しをした農学校の校舎を見に行った。いまの北大構内の一角に保存されている。木造で、やはり当時の建物は風格がありますね。じつに堂々として、しかもおしゃれ心があって、いろんな工夫が楽しくて、それでいて素朴で、飽きない。
内部も見せてもらった。当時の酪農用の農具が並んでいる。乾草などをああしたりこうしたりするものだろうが、複雑な細かい金属部分がいくつも突き出したりしていて、何のためにどのように使うのかぜんぜんわからない。宇宙人の農機具を見ているようだった。というより、マルセル・デュシャンのオブジェ作品みたいである。
帰りは千歳空港からビューンと飛んで羽田に着いた。着陸するころもう日が暮れていて、着陸のため飛行機が向きを変えたとき、三日月が見えた。三日月の先に星が一つくっついている。そうだ。今日は金星食だ。ちょうど金星食が終って、月の裏から金星が出てきたところであった。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│ベイブリッジを渡る
横浜のベイブリッジが開通した。
折しもサンフランシスコ大地震で、サンフランシスコのベイブリッジが大災害を引き起したので、俄然ベイブリッジというのが有名になった。
「ベイ」というチェーン店が世界各地に橋を造っていて、通行料で儲けているのだろうかと思った。
いろいろ調べてみたところ、「ベイ」というチェーン店は存在しない。
ベイとは港湾のことで、ベイブリッジといえばたんに港湾にかかる橋のことだ。
横浜のベイブリッジは横浜博のはじまる前から建造が着手されていて、そのころ夜の遊覧ボートでまだつながっていない橋の下を通り抜けたことがある。
それがとうとう開通したわけで、ここを車で走るとなかなかの眺めらしい。
ということをYさんから聞いて、じゃあ、ということになった。ベイブリッジを走って、そのあと中華街でそばでも食べよう。
Yさんは横浜の保土ヶ谷に住んでいて、車があって運転ができる。私は町田に住んでいるが車がなくて運転ができない。じゃあ、というんで、Yさんが車で迎えに来てくれた。
乗った。
車は横浜に向ったのだが、横浜インターから東名高速道路をどんどん東京に向って走りはじめる。
「あれ? 横浜のベイブリッジでしょ?」
「そうなんだけど、帰りに中華街へ行くには東京方面からのルートでベイブリッジを渡んないと、こっちからだとずーっと生麦の方まで行くことになって……」
「でも横浜はもうそこなのに」
「いやそうなんだけど、あのね、説明が難しいけど、つまりベイブリッジのインターというのが……」
Yさんはいったん車を止めて、何かいろんな曲線を描いて、ここがこうなっているので、こう行くとこうなる、とか何とか説明してから走り出した。私は運転しないのでどうも道路のことはわかりにくいが、何かベイブリッジの近辺はトポロジーのような、メビウスの輪のような、位相空間みたいになっていて、一歩間違うとサンフランシスコに出てしまったり、あるいは江戸時代に出てしまったり、とにかく大変な構造らしいのだ。
車は東京の銀座までは行かなかったが、世田谷の辺りで下に降りてまず一般道を走る。
「ちょっと喉が渇いたからお茶飲んでいきましょうか」
経堂に近い「トロア・シャンドリエ」というケーキ屋さんで紅茶とケーキを食べた。ベイブリッジというのは最新式の橋だから、そこまでのルートがなかなかのものだ。じつにおいしいケーキである。
さていよいよ折返しの高速道路に乗った。首都高速の湾岸沿いをビューッと走る。羽田に行くときモノレールから見る光景の中を交差していく。銀座とかの都心部からは見えない水際のところに、いつの間にか物凄い大量のビル群が建っている。全部人が住んでいる。東京というのはやはりとんでもないところだ。
羽田を過ぎて、川崎の工業地帯も過ぎて、いよいよ横浜である。いよいよ横浜の中のいよいよベイブリッジである。
[#挿絵(img/fig30.jpg]
まず地面に降りてから気持を整えた。やっとここまで来たのだ。私はもう五十二歳だ。
さて車はまたドアを閉めて走り出した。料金所みたいなところを通って、道路はグィーンと曲がっていく。もうベイブリッジははじまっているのだ。何しろ高い空の上を走る橋なので、そこへ昇るまでの道路が直径百メートルか二百メートルぐらいの円を描きながら、ぐるぐる螺旋状に上昇していく。この感じはかなりSFだ。いよいよ宇宙船に乗り込む感じ。一周、二周、五周、十周と回っていくと、遂に高度五千メートルのベイブリッジの道路面に達した。
というのは少々大げさであるが、あとはもう横に走るのみ。細長い巨大H型の柱の間に渡した橋をスィーンと走る。港の光が全部オレンジ色にチカチカしていてじつにキレイだ。本当は駐車禁止なのに、何台もの車がブリッジ脇に駐車して風景に眺め入っている。ほとんど全員がアベックである。ベイブリッジは男女交際も促進している。
橋そのものはほとんど一分くらいで渡り終えた。料理でもそうだが、作る苦労は大変だけど食べるのは一瞬である。
そうやってベイブリッジも渡り終り、あとは中華街へそばを食べに行った。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│屋内の戸外空間の都内の外国
銀座の小さな画廊でちょっとしたグループ展をやった。六十年代にゼンエイをやっていた仲間十人くらいで、作品とかより、久し振りに会って酒を飲むのが楽しかった。
オープニングでまずワイワイなったあと、二次会をめざして街を歩きだした。先頭を歩くのは秋山祐徳太子。都知事選に出たことのある芸術家で、山高帽に長いマント。有楽町のガード下にいい店があるという。
有楽町というのはご存知のように、JRの山手線が走っているし、京浜東北線、東海道線、新幹線も走っている。東京駅から有楽町、新橋、その先へと、日本最古の高架線が走っているわけだ。
橋桁を支える橋と橋の間がレンガ細工のアーチ状になっているところが(うーん、古き良き時代)と思わされる。そのアーチ型の下の空間が喫茶店になっていたり、レストランになっていたり、タクシー会社の事務所になっていたりする。とくに有楽町の駅の新橋寄りのガード下は焼鳥屋がぎっしり並び、半身を外気にさらしながらビールに焼鳥という感じがいい。銀座界隈にいながら、おお自分は日本の現地人だ、と思わされる。ところが山高帽にマントの祐徳太子はそこを通り過ぎて、有楽町の駅前も通り過ぎて、東京寄りの方へどんどん進む。
(まあまかしてついてきなさい)
という感じで歩いているので、みんなぞろぞろ。その先は店もまばらになってきて、道も暗く、本当に酒と食い物にありつけるのかどうか、心もとない。道路の上の看板に、
「都庁への近道」
なんて書いてある。いずれ新宿へ移転するとはいっても、とにかく夜の官庁街へ向うわけだから、その「都庁への近道」は歩くほどに人通りもとぎれて、暗くなる。左側にはガランとしたアーチ状のガードがつづき、右側には無用の車がずらずら停めてある感じは、もうほとんどこの先行止りだ。何だか上海の廃墟のような薄暗い空気が、だんだん日本の東京の銀座どころではなくなってくる。
というところで祐徳太子は止まった。マントをひるがえして振り返り、さあどうぞどうぞという感じで、右手を上げていざなう。ガラーンとしたアーチ型空間の奥に、一つだけポツンと灯がともる。入口の「アサヒレスト」という看板文字が相当ひなびている。
[#挿絵(img/fig31.jpg]
祐徳太子によると、ここはムダに人は来なくて、中華のちょっとした料理がうまくて、何といっても夏に混んでくると店の前にテーブルと椅子を出して、外のテラスでありながらアーチ型の天井で雨も大丈夫という、その感じがいいんだという。
こういう空間を文字で説明するというのはじつに難しいのだが、要するにアーチ状のガード下空間というのはカマボコ型である。その縦半分の半ペラを仕切って店にしてあり、あと半ペラが戸外というわけである。そしてこのカマボコ空間の両側には細い道を挾んで鉄柵がある。ウエストサイド物語ではないが、都市の中の僻地という感じで、私たちはその夏のテラス風景を想像して嬉しくなり、冬だけどテーブルを出してもらった。
(え、こんな寒いのに)
という顔で笑いながら、店の東南アジア的な顔の人がテーブルと椅子を中からどんどん出してくれる。コードを引いてきて電球もつけてくれる。私たちはワイワイ動きながらセッティングした。空間はたっぷりある。カマボコ半ペラ型の屋内戸外空間にずらりとテーブルをつなぎ、みんなオーバーコートや皮ジャンを着たまま着席した。ビールとふつうのポテトサラダが並ぶ。このポテトサラダがうまい。焼ビーフンもうまい。みんなでカンパ〜イとやりながら、何だか昔のフランス映画かポーランド映画の中に潜り込んだような気持になった。日本人のくせに、
「ブラボー!」
なんて言いたくなった。「都庁への近道」へ入り込んだだけで、何だか大変な旅行をしたような気持になったのである。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│日本のお酒です
前回につづいてまた有楽町のガード下である。泣く子も黙る銀座界隈にありながら、人通りの死角となっているところがあるのである。
JR有楽町駅の都庁寄りのガード下がそれで、夜になるとどこか地方都市の夜みたいに真っ暗である。とても銀座界隈とは思えないし、これでは泣く子もぜんぜん黙らない。
まあそんな一角でポツンとある大衆レストランのことを前回は書いたのだが、そんなことを話していたら、友人が、
「あるある、そのレストランは知らないけど、やっぱりその辺にね、お袋と息子でいつも喧嘩しながらやっている焼鳥屋があるんだよ」
と言うのである。
何だかよさそうなので行ってみた。友人は、
「もう三年前だから、まだあるかなあ」
と心細げに言う。
あった。もう何十年と使い古したようなガラス戸をガラガラと開けると、狭い店内がぎっしり満員。男ばかり。みんなネクタイをしている。辺りが暗くて寂しげなところなので、よけいにその店内のぎっしり感が凄い。
だめか、とあきらめきれずに入口に立っていても、店の人は何とも言わない。ちょうどカウンターの奥の三人が立って帰ることになったので、やっと座れた。こちらは二人なので席が一つ余る。焼鳥を焼いていた分厚い眼鏡のお母さんが、奥の方から詰めて座れと言う。なるほどそうかと思ってそうしていると、息子が戻ってきて、順番に詰めて奥を一つ空けとけと言う。お母さんは眼鏡越しにジロリと見て、奥から詰めるんだよ! と言うと、息子は、奥は自分が通るんだから空けとくんだよ! と言って怒っている。
友人がこちらを見てニヤリと笑った。前とぜんぜん変ってないということだ。早速の論争で私は嬉しくなった。もう何十年とやっていれば、席の詰め方はどちらかに決まっているはずだけど、まだ論争はつづいているのだ。決着はついていないのだ。決着がついてはいけないのだろう。息子も眼鏡をかけていて、水木しげるのマンガのキャラクターに似ている。ビールを頼むと、
「アサヒのドライ、サッポロの生、サントリーのモルツ、キリンのラガー、どれにしますか」
という。なかなか丁寧である。立派なビール用の冷蔵庫があるのかというとそうでもなくて、ふつうの肉とか野菜の詰まっている冷蔵庫にビンを横にしたり斜めにしたりして、まめに入れている。
友人が日本酒を頼むと、
「お燗ですね」
と一方的に答えながらもうヤカンを持ってくる。受皿つきのコップになみなみとあふれさせる。この日本酒は何ですか、と尋ねると、
「日本酒です」
と言う。いやあの、銘柄は……、とまた尋ねると、
「日本のお酒です」
[#挿絵(img/fig32.jpg]
と答えて、注ぎ終ったヤカンをもっていった。これも凄い。何だか銘柄なんか訊いて、恥ずかしくなった。
焼鳥がうまいのだ。肉も吟味しているらしいがタレに年季が入っている。それに焼きかげんがいいのだろう。竹の太くて長い串で、先の焦げたのがたくさん缶に刺して置いてある。一度で棄てたりせずに何度も使うらしい。その律儀な感じが好ましい。店の奥のガラス棚など、当然薄汚れてはいるのだが、ようく見ると整っている。よくよく見ると汚れてはいない。
店内にぎっしりの男たちは、みんな常連のようだ。都庁やその他、この界隈の勤め人らしい。五人ほどの客がいっせいに帰ることになった。分厚い眼鏡のお母さんが計算をはじめる。コピーの裏の白いところに鉛筆で掛算をしている。息子が来て、違うよ、と口をとがらして、鉛筆で別の数字を書き加えている。電卓なら簡単なのに、その気配もない。ご会計も母と息子の喧嘩つきだ。
最近の東京の飲食店では、よく東南アジアの人が働いている。日本人かな、と思うと日本人ではないのである。もうそれが当り前だと思っていたが、久し振りに原日本人を見た、という感慨をもった。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│お手本つきカメラの登場
キヤノンがバーコード組込みの新型カメラを出すらしい、という情報をキャッチしたので、それを工場まで目撃しに行った。
と大げさにいうほどのこともなく、じつは新型カメラの発表会が、エビスファクトリーというところであったのである。東京の恵比寿にあるエビスビールの工場跡を利用したイベント会場、である。前に日産「パオ」の発表会もあった。そういうトレンドの場所だ。
しかしこのキヤノンはイオス1を出したばかりなのに、もうイオス10である。私など優柔不断なので、買おうかどうしようかと考えている間にもう次のが出てくる。結局買えない。メーカーとしては商売にならないのではないか、と心配をするが、まあしかし出たらすぐ買う人が多いのだろう。
会場にはミニスカートのキャンペーンガールがたくさんいた。あちこちでカメラの説明をしている。ミニスカートなので、ボディーがかなり露出している。どうしてもそのボディーに目がいく。
本当はカメラのボディーに目がいかなければいけないのに、ああ時代は変ったと思った。
むかしはそんなミニスカートのボディーぐらい露出していても、そんなものには目もくれずに、新型カメラに吸い寄せられていた。
いやホント、目をくれるにしてもほんのわずか、それよりこんどのカメラはどうなっているのか、レンズは、シャッターボタンは、お、巻き戻しノブがこんな具合に、ペンタ部がこうなったか、軍艦部が……、とかあれやこれやとカメラボディーをいつまでもいつまでも触っていたのだ。
それがいまやミニスカートの方に視線がそれていって、アインシュタインの相対性原理ではないが、光は重力によって曲げられる。カメラには重力がなくなったのだ。
いやじっさいに軽い。いまやカメラボディーにプラスチックは常識であり、軽くなって携帯に便利なのは有難いが、しかしこれでは視線がカメラの方へ曲らなくなる。
かつての金属カメラには絶大なる重力があった。カメラ一台で家一軒建った時代があるというのだから、それはもうカメラ一台がブラックホールほどの重力である。
イオス10の特徴はバーコードだ。アートコードプログラムといっているが、要するにスーパーの商品などについている縞模様がポイントである。
[#挿絵(img/fig33.jpg]
つまりカメラとは別に、撮りたい写真の見本帖がある。逆光の風景や、花のクローズアップや、水を蹴立てて走るボートや、バックをぼかしたモデルの顔など、その下にそれぞれバーコードが印刷してある。
さてもう一つ、太い万年筆みたいなバーコードリーダーが別にあり、その先でお手本の写真のバーコードをさっとなでて読み取り、それをカメラボディーの受信部に当ててインプットする。これで準備完了、あとは眠っていても写真が出来る、のではなく、やはりシャッターは人間が押さなければ撮れないわけで、そこがまだ欠点といえば欠点……。
いやそうじゃなくて、とにかく撮りたいお手本通りの写真が誰にでも撮れるという、大変便利な、民主平等、機会均等的なカメラだ。
この間江崎玲於奈氏がある新聞に、
「アメリカ人は教えたがる民族、日本人は習いたがる民族」
と書いていて面白かった。日本人はたしかに先生が好きだ。お稽古ごとが好きだし、こうしなさいと教えられなければ自分からは何もできない。だからルイヴィトンが良いと言われればみんなルイヴィトンを買いにいくし、ローレックスが良いと言われればみんなローレックスを買いたがる。
だからこのお手本つきのカメラというのは日本では大いに売れるだろうが、しかし欧米ではどうだろうか。主張したがり教えたがる欧米的人々が、このカメラにどんな反応を示すか、とにかくこれからの売行きが注目される。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│物件某と笑顔の持続
この間、被写体になった。
部屋中真っ白なスタジオで、正面の壁がグルーンと湾曲して床につながり、境目がない。スタジオにはカメラマン、助手、ライト、助手、メイク、助手、ヘア、助手、スタイリスト、助手、デザイナー、助手、とにかく大勢の人がこちらを見ている。
私は物件某を手にして立っている。ストロボがバチバチ光り、シャッターがカシャカシャ切られて、フィルムに映像がチリチリと焼きつけられる。
つまり物件某のCM撮影である。CMなんてはじめてだ。
物件某は未発表の新製品なので、まだ某というほかはない。この某の秘密が漏れると大変なので、スタジオは入口も窓も、天井裏も、床下も、ガードマンによって厳重に警備されている、かというと、そうでもない。みんなふつうに立ち働いていて、ガードマンらしき姿も見えない。物件某はふつうの機材といっしょに、そっけなくテーブルの上に置かれている。
私はこの物件某を、最初の打合せのとき喫茶店で見せてもらった。ふつうの喫茶店である。担当者はしっかりと周囲の目に注意を払う、というふうでもなかった。最近の某は、むかしの某に比べて秘密度が薄くなっている感じがする。
むかしの某はもっと完全にガードされていた。自動車の新型車開発のときなど、サーキットでは物件某のボディーにがっちりシートをかぶせて覆面カーにして、それでもって走行テストをしていたものだ。いまはあまり覆面カーという言葉は聞かない。いまでもそういうことをやっているのかもしれないが、あまり話題にならない。あらゆる製品レベルが上がるところまで上がって、性能的には均一化して、秘密にする意味が前ほどはなくなっているのかもしれない。
とはいえやはり新製品の某は、発売されるまでは某だから、そこのところで多少のスリルはある。
「ちょっとマジメになりすぎてますね。目が怖いですよ。少し笑って下さい」
とカメラマンに言われる。私はまだ物件某を手にして立っているのだ。しかしそう言われてもこちらは俳優じゃないから、意味もなく笑ったりできない。だから私は、
「ただ笑えといわれてもねえ、それはムリですよ」
と言って照れ笑いをし、笑えないと言ったのに笑った矛盾がおかしくて本当に笑ってしまう。そうすると私もいちおう社会人だから、よし笑えたぞ、この笑顔でしばらく維持しよう、と努力して五、六秒は笑っていられる。そうするとカメラマンはここぞとばかりにバシバシバシンとシャッターを切る。
その有効期限は五、六秒。それが過ぎると、また笑顔がだんだん消えていく。いけない、もっと笑え、もっと笑顔を持続しろ、と焦るのだけど、焦れば焦るほど表情はこわばってきて、笑顔はどんどん萎《な》えていく。
持続力というのが時として難しいものであることを、男性諸君なら裸体時に経験したことがおありだろう。あれと同じだ。
「またちょっと怖くなりましたね。もうやめて帰りたいという表情が見えてますよ」
とカメラマンに言われる。
「参ったな。ぼくは正直だから。いやいや、別に帰りたいわけじゃないですよ」
などとこちらも冗談を注入して答えていると、そこで感情の流れが復活して、またムクムクと笑顔が盛り上がってくる。
「そうそう、いい顔ですよ」
なんてカメラマンに褒められたりする。そこでまた五、六秒は持続する。時には十秒くらい持続するときもある。
ただ笑えばいいというものでもなくて、商品の宣伝のためだから、できるだけ温厚な、大らかな、優しい、しかも個性のある、そういう立派な笑顔でなければいけない。大変難しい。
終ってみると、けっこう疲れた。立ったまま足が痺れていた。顔面をほぐそう、ほぐそうとしながら、足は地面に吸いついて微動だもせずにいたのだろう。人間の神経というのは扱いが難しい。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│狩猟のための狩猟がはじまる
この間凄い写真集を見た。「THE END OF THE GAME」という象の死体写真集だ。撮影はいまから二、三十年前のもので、象狩りが無制限におこなわれていた時代。このままではいずれ象が絶滅するというので、ある広い区域を象の禁猟区にするということもあったらしい。そこに象を押し込んだら、逆に象の過密化でどんどん象が死んでいった、ということもあったらしい。
いずれにしろこの写真集にはページをめくるごとに象の死体がボツン、ボツンとあらわれてくる。カメラはいずれも垂直に、上空から象の死体を撮っている。飛行機を飛ばして上空からのアフリカ大陸じろじろ本である。
象の死体は腹ばいのもあるが、だいたいは横倒しである。死体の周囲の地面は、流れ出た血や体液でぼんやりと円形に黒ずんでいる。それが濃いのは死後間もなくであり、淡いのはかなりの年月を経過している。
その黒ずんだ円形が、一本線になってすーっと外に伸びていたりする。象の死体の一部分を他のものが持ち去った跡らしい。他のものとはおそらく人間である。象の死体が河馬のようになっている。象なのに牙がないのだ。象牙を持ち去ったのである。ライオンも禿鷹も象牙を持ち去ったりはしない。人間の仕業はすぐわかる。
これを見ていると人間というのがつくづく嫌になる。象の顎の骨だけが何百何千と、整然と並べられた写真があったりする。縞馬の剥いだ皮が、野球場くらいの広さにびっしり敷き詰められた写真もある。これだけの大量捕獲はもちろん金儲けのためだろうが、何か快楽殺人に近いものを感じたりする。
生き物を殺して食べるのは自然の摂理ではあるのだけど、そこに経済がからんで利潤の追及がはじまると、殺すことの切実さがなくなってくる。象牙だけ取ってあとはポイということになり、人間がだんだんロボット化してくる。つまり経済ロボットというものだ。そうすると経済の数字だけどんどん上がるには上がるけれど、自分が何のために生きているのか、わからなくなる。
何だか説教じみてきたが、この写真集を見ているとどうしてもそういうことになってくるのだ。
話は違うが、最近のアメリカでは毛皮狩りが盛り上がっているという。ミンクや狐の毛皮のコートを着て歩いていると、白い目で見られるという。動物愛護風潮、いや動物愛護運動の一環だという。
[#挿絵(img/fig34.jpg]
アメリカというのは急にこういうことをいい出すからおかしい。いままでさんざん、これ見よがしに毛皮のコートを着て歩きながら、急に、
「ミンクや狐が可哀相だ」
といい出す。去年あたり、ニューヨークでは毛皮なんてなかなか着て歩けなかったそうだ。白い目で見るだけでなく、黄色いペンキが飛んでくるという。剃刀で切られたりもするらしい。ほとんど変態である。理念はたしかにわかるけれど、やることがヒステリックだ。本当のところはまずアメリカ社会の何らかの苛立ちがあり、その消化のための大義名分として、動物愛護の理念が引き寄せられている。のではないか。
鯨のときにもそう思った。これは主力はイギリスだったかもしれないが、動物愛護といいながら、じつは自分の攻撃本能を癒すためではないかと思わされる。
タバコ狩りもアメリカでは大変らしい。いままでのハンフリー・ボガードのくわえタバコがウソみたいに、煙が完全な毒物として締め出されている。
その前には赤狩りがあったし、カポネの時代には酒狩りもあった。いつも何かを狩らなければ収まらない、狩猟民族の本能である、とまではいわないが、ルイヴィトン、ベンツ、BMWといった成金日本のブランド狩りと、アメリカの猛獣狩り→タバコ狩り→毛皮狩りというのは、じつにいまの地球上での好一対をなしていると思うのである。
じろ月じろ日[#「じろ月じろ日」はゴシック体]│春うらら、幻のじろじろ気分
いよいよ世紀末を迎えて、世の中の動きは早い。東欧情勢は一気に変化したし、ベルリンの壁も一気に崩れた。今年の桜も一気に咲いて散った。
三月で桜が散ったのなんて近年になかったことだ。来年は二月に散るかもしれない。
それを予感したわけではないが、今年のお花見はまず二月に京都でおこなった。世の中の動きが早いといっても、まだ今年の二月に桜は咲いていなかった。まだ蕾も出ていない。枝の先の節々がほんの少しふくらんでいるだけである。それをあちこち見て歩きながら、いくら世の中の動きが早いといっても、まだ私のこの動きにはついてこれない、と自信を深めた。
まあしかしこれは取材だったのである。京都の桜守佐野藤右衛門さんを訪ねて、
「富士桜は富士山の見える場所にしか咲かない」
とかいろいろ不思議なお話を聞いた。
さて本番の私自身のお花見は、今年は東京の白山にある小石川植物園でおこなった。ここは東京大学の持物なので、植物がちゃんと学術的に植えてある。
入場料三百円。これがいい。それでもお花見をしたいという切実な人々だけがきている。しかも入場規則に「酒類持込み禁止」。これもいい。それでもお花見だから少しはお酒を飲みたい、という切実な人々だけが密かにお酒を持ち込んでつつましく飲んでいる。
つまり自分の判断と責任において花見酒を飲むわけで、だからここにはじつに純粋なお花見の大吟醸の空気が漂っている。
行くともう仲間たちが車座になっていた。むかしの美学校のOBたちだ。毎年お花見だけは欠かしていない。ここはそもそもトマソン発祥の教室であったから、みんなカメラには縁がある。それもちょっと変りものに興味があって、立体写真というのが前から流行《はや》りはじめている。その立体写真もいわゆるステレオカメラで撮ったステレオ写真というのではなくて、人間の両眼による立体視そのものの原理にわけ入っている。
前回のお花見のときは同じ電車の切符二枚を並べて、それをじっと立体視すると、切符の地紋から印刷の数字が浮き上がる、というのをやって大いに沸いた。
その開発のリーダーである徳山君が、今年はまた凄い方法を持ち込んできた。まず図のように稜線だけの棒で作った立方体を指先でつまみ、それを片目で見つめながら、立体感が逆になるように自分の目をしつける。つまり一番手前の角が奥にあり、一番奥の角が手前にあるように思い込む。ちゃんと思い込んでそう見えてきたところで、その物をちょっと動かす。そうすると指先の感覚とは逆の方向にその物が動きはじめて、
「お、お、お――っ!」
と思わず叫び声が上がってしまう。
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次に小さな長方形の紙片を図のようにW字形に折って指先で持つ。これもじっと片目で見ながら同様の逆立体の錯視をしていくと、あり得ない見え方があらわれてきて、
「おっ!」
と声が上がる。みんな車座になって、それぞれ何か小さな紙切れを持ってじろじろ見ながら、
「おーっ、来た、来た来た、凄い!」
なんてやっているので、これはほとんどマリファナか何か、クスリでもやっているように見えたかもしれない。
たしかにクスリみたいなもので、これは自分にしか見えないし感じられない。だから見ている同士では話はすぐ通じるが、見えない人には何がどう凄いのかぜんぜんわからない。ものを見ることが、じつは目玉から内側の出来事だというのをこれほど露骨に示すものはないわけで、まさにじろじろの極致。このコツは文章ではなかなか伝わりにくいことだが、皆さん騙されたと思ってやってみて下さい。
まあそんなわけで、春うららの桜の下で、私たちは車座になり、つつましく酒を飲みながら、指先にある幻影に見入っていたのであった。
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あとがき
さてこれからあとがきである。あとがきの締切りを持ったまま、飛行機に乗って赤道を越えてしまった。いま現在インドネシアのバリ島にいる。バリ島にいることは確かなのだけど、バリ島のどの辺にいるのかぜんぜんわからない。デンパサールとかいう空港に降りたらもう夜、迎えの車が来ていて、ワンタさんとフィスニーさんだけど、その車に乗せてもらって空港からの一本道を三十分くらいか、何か物凄い宮殿みたいなところに着いた。
南洋の冒険小説にあるような複雑な彫刻のある門をくぐると、宮殿の人が全員出迎えに出ていて、綺麗なハイビスカスか何かの花を差したジュースのグラスを渡された。カメラのフラッシュがパッパッと光ったりする。何だかアガってしまって、そうでなくても凄いところだ。広い芝生があり池があり、芝生があり池があり、池には魚が泳ぎ、水蓮の花が開き、噴水があちこちにある。芝生の庭には南洋の樹が何本も何本も生えていて、モクレンみたいな花、ブーゲンビリア、あとなんだかわからない花が悠然と咲き乱れ、南洋の冒険小説みたいな彫刻の門や塔があちこちにある。夜なのにどうしてそんなに見えるのかというと、ポツン、ポツン、と照明があるのだ。夜の闇の中にそのあれこれがどこまでも浮かび上がってるので、この電気代だけでもどうなるのかと、貧乏人はどうしようもない。
明くる日起きて確認した。いまいったような情景がこんどは南洋の太陽に照らし出されて、あちこちにカヤぶき屋根に白壁の家が点在している。プールあり、娯楽室あり、博物館あり、食堂あり、厨房あり、寝転びソファの休憩所(茶屋風)が各所にあり、緑色のシャツに編笠帽の人がたくさん庭を掃いたり、水を撒いたり、そして身の前にあるサンゴ礁で組み上げた垣の向うにはダーッと横一線の海が広がっている。
ここで十日間、カンヅメである。
いままでいろいろカンヅメになってきたが、カンとしては最大最高級だ。
某という映画のシナリオ製作だけど、その映画の棟梁の関係者がこの大宮殿のオーナーである。関係者の関係者は関係者だというわけで、今回はこの桃源郷に囚われの身ということなのだ。
この宮殿に宿泊しているのは私のほか数人。夜の照明の電気代もすべて私たちのために使われている。あちこちで枯葉を掃いている人々も、すべて私たちのために働いている。プールサイドで寝そべっていると「使用人」が長い柄の網で水面の枯葉を拾っていく、というアメリカ映画を見て、自分だけいい思いをしてけしからん、と思ったりしたが、現実にそのようなことがおこなわれている。寝そべっている私が手を上げると、シャンペンをお盆に載せて持ってきてくれる。
そんなわけであとがきであるが、たまには日本食も食べたいから、米とか味噌とかの素材は多少日本から持ってきた。女性スタッフ二人がオニギリと味噌汁を作ろうというのでキッチンに行くと、「使用人」が何かに役立とうと見守っている。スプーンを探そうとしたら「何ですか」と英語で訊かれてサッと鍋や包丁が出てくる。自炊といったって王侯貴族の自炊である。
そんなわけであとがきであるが、ついじろじろのくせが出て、あとがきの執筆現場のことばかり書いてしまった。
この「じろじろ日記」というのは、日記とはいいながら、二週間に一回の日記である。雑誌「毎日グラフ」に一週間おきに連載していたのだ。それをそのままの順番で並べてある。皆既日食とか新車発表会みたいに積極的に見に行ったものもあれば、なんとなく身の回りを見たものもある。
ふだん私たちは、睡眠時間以外は目を開いて何かを見ている。目をつぶっても網膜の赤色が見える。そのまぶたを指で押さえると、黄色や緑、紫色がひろがったりする。眠っているときにも夢を見たりするわけだから、人間はみんないつも同じ分量だけ何かを見ている。
ふつう何かを書くというと、もっと何か考えたり勉強したりしたことを書くわけだが、私は勉強が苦手なたちなので、見たものを何でもそのまま書いてしまった。
人類はこれまで何十万年、何百万年と物を見てきたわけだが、まーだまだ見ていないものがたくさんある。最後の章の「錯視」などはその一例だ。じろじろは人間の内側へ向けて続行中である。
最後になったが「毎日グラフ」の山路陽一郎さん、本書編集の永上敬さん、そして私を表紙にまで引っ張り出した装幀の東幸見さんに御礼。
一九九〇年七月一〇日
バリ島ゴールデンプリズンにて
[#地付き]赤瀬川原平
赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい)
一九三七年、横浜に生まれる。画家、作家。武蔵野美術学校中退。前衛芸術家、千円札事件被告、イラストレーターなどを経て、一九八一年『父が消えた』(尾辻克彦の筆名で発表)で第八四回芥川賞を受賞。路上観察学会会員。宮武外骨、3D写真、老人力などのブームの火付け役でもある。著書に『超芸術トマソン』『外骨という人がいた!』『反芸術アンパン』『新解さんの謎』『老人力』『ライカ同盟』『老人とカメラ』『優柔不断術』、写真集に『正体不明』など一〇〇冊を超える。
本作品は一九九〇年十月、毎日新聞社より刊行され、一九九六年八月、ちくま文庫に収録された。