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ごちそう探検隊
赤瀬川原平
目 次
グルメの丸ぼし
築地市場の路上ラーメン
丸の内のエンタープライズ
幻の納豆ご飯
ベンチに控える漬物
ビフテキ委員会
たまにはフランス懐石
ジャイアンツVS.シュウマイ
ガムをくれる料理店
肌をさすグルメ
ヤクザあっての牡蠣鍋
金沢ご馳走共和国
ふぐ食わば蟹まで
北極回りの機内食
浅草に匂ふ櫻肉かな
回転寿司の元禄宇宙
山菜人類学
タコ焼きの科学
敬虔なる盛りそば
クサヤ菌の奇蹟
遠くを見るお茶
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グルメの丸ぼし
私はグルメが好きである。とくにグルメの丸ぼしが好きだ。ちょっと固くて、噛《か》むとゴリッとした歯ごたえがあり、独特の苦みがある。それが噛んでほぐれてくると、甘みのようなものが出てくる。甘みといっても砂糖の味ではなくホーレン草を煮出したような、口の中の粘膜に抵抗があってしかもなじむというか、たとえば中華料理のピータン、あんな味にもちょっと似ている。
しかしいつも思うことだけど、食べ物の味を文章で説明するのはじつに難しい。相手に伝えたいという実感の周囲をグルグルと回るばかりだ。書く者と読む者との共通項を探しながら、ホーレン草のような、とか、それに加えてピータンのような、とか、チーズを焦がしたような、とか、ソーメンの舌触りにも近い、とか、そういった実感の近似値だけをもってくるしかないもどかしさというのがいつもついて回る。
食べ物でなくても、歌がそうだし絵でもそうだ。そのものの味わいを文章で伝えるのが難しい。そのものによる自分の感動というのは文章にして伝えることができる。だけどそのものの感覚的な内実を百パーセント正確に伝えることは、まず不可能である。だけど何とか伝えたい。天下一品的においしいものを食べたときなどそれを人に伝えたくて、つい自分の感動を媒介にしながら、たとえば……とか、しいて言えば……とか、近似値を変換しながらあの手この手で書くほかはないわけである。
いやのっけから絶望的になりそうだけど、逆にいうと食べ物にはそれだけの実感があるということである。むしろ実感だけがあるのだ。実感のない食べ物なんて、いったいこの世にあるのだろうか。
いや、いけないいけない。どうも食べ物の話になるとつい真剣になってしまって、必要以上に身を乗り出してしまう。これは反省しよう。
さてグルメであるが、これは日本では輸入するしかないのでそう簡単には食べられない。現地では生で食べるという話も聞いたことはあるが、私などはその生の状態を見たこともない。まず日本で生はムリだろう。それにグルメというのは丸ぼし状態にしてこそあの独特の風味が出るといわれる。
それからまたグルメの開きというのも聞いたことがない。想像するのだけど、丸ぼしにするということは、生きている時の状態はイワシに似ているのではないだろうか。イワシは「鰯」という字の通り、開きにすれば崩れてしまうほどに身が柔らかい。だからイワシの干物は丸ぼしである。おそらくグルメというのも、そのイワシと同じような身の状態のものだろう。
最近はグルメという言葉が一般化してきて、〇〇グルメという名前の食堂や雑誌が出ているし、グルメ評論家もいる。食通や美食家のことをグルメというのがふつうになってきている。だけどグルメという言葉のもとについてはあまり知られていない。
いや私だってその語源について詳しく述べられるほどではないのだけど、グルメというのが南米の高地の川に棲息するグルメザンパリオからきている、ということぐらいは知っている。
じつは友だちがいたのだ。もう二十年ほども前のことである。鯵北《あじきた》正男といって、そのころは映画評論家を目差していた。日本にポーランド映画の波が押し寄せてきたころで、アンジェイ・ワイダやカワレロヴィッチという名前が輝いていた。鯵北はそんな空気を吸いながら、自分で実験的な記録映画も作っていた。ごつい手足のゴリラみたいな印象の体つきで、しかし目鼻立ちは整っていた。そのどことなくアンバランスな印象が日本人離れのしたものであったが、じっさいに鯵北には南米人の血が混じっていたのである。
祖父がペルーの人だとかで、向うには親戚もいるらしいのだ。はじめは半信半疑だったが、年に一度ほど彼のところに送られて来る外国郵便があり、その表に貼られた切手を見て実感した。三角形でギザギザの縁のところが黒い、日本ではまったく見たことのないものである。そしてその小包の中味がグルメザンパリオ、石炭のように黒光りのしたグルメの丸ぼしだった。
私はその鯵北にご馳走になってはじめてグルメの味を知ったのだけど、その日は鯵北が自分の部屋でネクタイをしているので驚いた。はじめは冗談かと思った。だけど彼は真面目に正装をしたつもりのようである。こちらが怪訝《けげん》な顔をしていると、鯵北は食卓につきながらちょっとはにかんだ笑いを見せた。そのはにかみ笑いを見て、これは冗談ではないのだと思った。だからこちらもその「正装」に合わせるように厳粛な気持で食卓に坐ると、食卓の皿にはグルメの丸ぼしがある。
私は年に一回ずつ都合四回ほど、そのグルメのご馳走になっているのだけど、それを食べる前にはいつも鯵北が何ごとか呟《つぶや》く。はじめはそれがまるで耳にしない言葉なので驚いたが、おそらくペルーの言葉なのだろう。ペルーとかあの辺りはだいたいスペイン語系だろうとは思う。そもそもインカ帝国を滅ぼした白人軍団というのがスペイン人であったし、南米のコロンビアとかアルゼンチンとか聞いただけで、何となくスペインの匂いがする。結局はスペインの言葉と原住のインカ帝国人の言葉とが複合しているのだろうか。辞書によるとペルーの言葉にはスペイン語とケチュア語が合体していて、それにある部分アイマラ語が混じっているという。
いずれにしてもペルーをはじめとするアンデス山脈に流れる言葉というのは、スペイン語の響きが強いのだと思う。日本語にしても原住の大和《やまと》民族の言葉よりは、当時朝鮮半島から到来して日本列島の文化を先導した人々の言葉の響きの方が、いまの日本語の主調として残っているわけである。
まあとにかくグルメの食卓を前にして「正装」の鯵北が呟く言葉は、何らかの祈りの言葉だろうと思った。日本の場合はふつう「いただきます」という一言で、そこに祈りの意味もこめたことになるのだけど、欧米ではもっとはっきりと神への祈りの言葉があらわれている。この鯵北の呟く言葉もその類のものなのだろう。その言葉が何かしら哀愁をおびたもので、私は何千キロかの距離を一気に飛んだみたいにハッとした。
しかしそれにしても奇異なのは、このグルメザンパリオの姿形である。褐色をした細長い葉巻型の、一見すると魚の干物で、年代物のクサヤのような質感がある。だけど頭と思う部分が見当らない。魚の尾鰭《おひれ》のようなものがあるのだけど、それが何と両端にある。いったい水中をどうやって泳ぐのだろうか。
いずれにしろ干物になっているので、そのもとの形というのは正確にはわからない。鯵北に訊いてみるが、彼もちゃんと話してはくれない。鯵北にしてもこれの生きているときの姿を現地で見たわけではないらしいのだ。だけど彼の祖先はペルー人なので、その由来については子供のころから聞いている。それを丸ごと話してくれないのは、この儀式的なグルメの食事をめぐるそれなりの歴史があってのことらしい。だけどとぎれとぎれに四回ほどご馳走になりながら聞いた話の断片を集めると、おおよそのことは推測できる。
まずグルメザンパリオは魚ではないらしいのである。
水中生活の哺乳類には鯨やイルカがいる。海にいるのだから当然ながら魚類だと思っていたら、小学校で哺乳類だと教わって驚いた。でもそれらはいずれも海に棲《す》む哺乳類だが、グルメザンパリオは川に棲む哺乳類なのだ。たとえば似たようなものには両棲類がいるが、それとも違うらしい。こんなことはまったくの初耳で、生物学の人にきいても知らない人が多いので、そのことに私も驚いてしまった。しかも鯨やイルカのように巨体ではなく、鮎《あゆ》やヤマメといった川魚ほどの小さな体形である。
赤道に近い熱帯地方の、しかも高地の渓流に棲息する哺乳類ということなのだ。そうなるとどこかほかにもいそうだけど、世界地図をひろげてみると、たしかにその条件を満たしているのはペルーだけかもしれないと思う。
ペルーでこのグルメが霊魚として崇《あが》められているのは、その歴史の謎を引き継いでいるからではないだろうか。つまりインカ帝国の歴史である。
一九六七年だったか八年だったか、鯵北は日本から消えた。ペルーの隣のボリビアへ行ったのである。キューバのゲバラ工業相がボリビアの革命運動に身を投じた、そのころである。反体制運動が盛り上がりを見せたのは世界的な傾向で、鯵北もその波に乗ってボリビアまで行ったようだ。私の知るかぎりでは、日本をはじめて離れたのだ。記録映画のためだといって撮影機材は用意していた。だけどそれっきり帰って来ない。その後ゲバラの死によって日本にも中南米からのニュースが伝えられる日がつづいたが、その後はまた静かになって、何の音沙汰もない。鯵北からは行った年に絵ハガキが一通来ただけで、その後はまったく消息不明になってしまった。何しろあの辺りは政情不安の国である。いつも革命とクーデターの繰り返しで、アジェンデ政権の崩壊などはまだ生々しく思い出される。鯵北の消息は、こちらからでは探りようもないと思った。
ただ五年前に、不思議な小包が一つ届いた。外国郵便で、表には三角形の、黒い縁の切手が貼ってある。慌てて包みを破ると、中から黒光りのしたグルメザンパリオが出て来た。皺《しわ》の寄った葉巻状の身の両端に尾鰭のようなものが付いている。私はそれを掌の上に載せて眺めながら、鯵北のことを想い出した。もちろん彼のほかにはいないだろう。南米のどこか混み入ったところでゲバラとはまた別の運命をたどっているのだ。
しかし南米は暗い国だ。いったい彼がどんなところを彷徨《ほうこう》しているのかと世界地図をひろげて見るのだが、南米の地図は小さい。ほかはアメリカもヨーロッパもアフリカも拡大図が付いているのに、南米だけは拡大図も出ていない。
でもそれからは年に一回、グルメの丸ぼしが送られてくる。私は鯵北のやり方を想い出して、いつも正装でこれを食べているのだ。何しろ世界最高の味である。食べる前には鯵北の口調を想い出して、いつの間にかペルーの言葉らしきものを呟いている。そうすると自分の声が自然に哀愁をおびて、その旋律がスペイン語を剥いだ向うのインカ帝国の歴史をくぐり、チチカカ湖を滑ってティアワナコ遺跡のもとを突き抜け、ナスカ高原の巨大な図画に反射して、宇宙の深奥に直進するような気持にもなる。
このたび食べ物に関する連続的な考察をはじめるにあたり、出し惜しみすることなく、第一回目からグルメの頂点を目差した。ちょうどこの冬になって、今年のグルメの丸ぼしが送られてきたのだ。料理は四谷のレストラン桜んぼのご主人に頼んだ。当然私はタキシードである。
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それはともかく、グルメは丸ぼしにかぎると私は考えている。丸ぼしというより、丸ままといった方がいいかもしれない。最近は日本も高度経済成長の余波を受けて、グルメへの関心が高まっている。しかしグルメとは手をかけた料理だとカン違いしている傾向もある。グルメはたしかに高品位の料理であるが、いろいろ過剰な手をかけることなく、ずばり丸ごとが本筋だと思う。その思いがあまって、「グルメ」の丸ぼしというのを物体として実在させたわけだが、もともとアンデスの高地の川に哺乳類が、棲息できるわけがないといわれた。しかしグルメの本質について考える熱情のあまりに、ついついそんなことまで書いてしまった。これを読んで、アンデスの高地までグルメ釣りに出かける用意をしている人がいたとしたら、申し訳ないがすぐチケットを取り消してほしい。もちろん行くのは自由であるが。
私としてはこういうことを書いてしまった以上、いずれはアンデスの高地の川へ行って、形だけでも釣糸を垂らしてみたいと思う。おそらく七十歳ぐらいには可能だと思う。そうしたら案外釣れたりして。
世の中案外わからないものである。そのときもし釣れたら、私は科学博物館へ寄付するというより、やはり自分でこっそり食べてしまうだろう。
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築地市場の路上ラーメン
さてグルメの正体とは何だろうか。
築地だと思った。東京なら築地の市場である。中央卸売市場。あそこには東京中のおいしい食べ物のモトが集まっている。いや集まっているというより、あそこから東京全体に散らばっていくのだけど、あの築地の市場というのはグルメの本拠地である。東京のどんなおいしい料理でも、その材料はみんなあそこから仕入れているのだ。いわばグルメの巣窟《そうくつ》である。全国のグルメのモトが、あそこにはぎっしりと固まっている。日本海のマグロ、太平洋のシマアジ、津軽海峡のタコ、利根川のヤマメ、琵琶湖のシラタキ(このあたり私には知識がないので間違ってる分は訂正しながら読む)、とにかくあちこちに発生しているグルメの原因というのが、私たちの知らぬ間に築地の市場にはぎっしりと積み重ねてある。
東南アジアのどこか知らぬ山奥には麻薬の巣窟があって、床にも道路にも麻薬が山のように積み上げられているというが、それと同じようなことが東京の海に近い築地の市場ではおこなわれているのだ。グルメの原因というのは都民の眠っている間に、深夜ひそかに築地の海から陸揚げされているという。しかもまだ日の昇らぬ暗闇の中でその取引きがおこなわれてしまうというのだ。
そこを直撃してきた。早朝である。私はだいたい夜中に仕事をしているので、ふつうは起きるのがお昼ごろだ。それではまるで間に合わない。だから早朝にガバッと起きて行ったつもりなのだけど、もうすでに日は高く昇って十時ごろになっていた。太陽というのは早く昇りすぎる。十時ごろに昇るようにできぬものか。
しかしそれでも凄いと思った。午前十時、銀座の四丁目から海の方に向かって歩いて行くと、街並がすぐに銀座ではなくなる。着飾った感じががらりと変って、ふつうの人のやっているようなふつうの店が並び、やがてその店もなくなる。そうするとその向うに何か煮物の固まりのような街並が見えてきて、それが築地の市場なのだ。
といってもそこは「場外」というらしい。築地の中心にはシロウトではとても入場できぬような中央卸売市場があって、その外側のところに、ここならまあシロウトでも何とか取引きしてもいいというような、通称「場外」といわれる市場があるのだ。それが銀座の方から歩いて行くと、グルメの巣窟の波打際のようにざわめいて待ち構えている。私はその波打際からまず築地市場の「場外」にはいり込んだ。
ところがその「場外」の市場の外側に広い歩道があるのだけど、そこで人々がもう物を食べている。グルメをしている。路上でグルメ。
驚いた。築地の市場というのはグルメの原因を取引きするところである。それが市場の「場外」の歩道上で、すでに結果となってあらわれている。
というのはまあちょっと大げさな考えなのだけど、その歩道に面してソバ屋やオデン屋やコーヒー屋といった店がずらりと並んでいて、市場でワイワイと働いている人々が、ちょっと一休み、あるいはやれやれ終ったという感じでラーメンを食べたり、オデンを食べたり、中には熱燗《あつかん》で一本クィッとやったりしている。
まだ午前中である。いやそれはまあ個人の自由だが、しかし路上というのが凄かった。並んでいるお店はいずれも「半屋台」であって、「純粋屋台」のように車で移動するのではなくちゃんと柱が地面に食い込んだ不動産ではあるが、客席というのが歩道に露出している。つまり歩道に面してカウンターが一列あるのだけど、客が混んでくると足りなくなる。そうするとラーメンを買った人が(この場合は買ったという言い方でいいのかどうか、とにかく現金先払いでラーメンを注文して出来上がったドンブリを持った人が)、そのドンブリの湯気をふうふうと吹きながら、路上でいきなり二足直立式で食べているのである。
それが午前中なのだ。もちろん個人の自由なのだが、しかし立ったまま食べるのもナンだというのか、二、三口食べたあと歩道上を移動し、車道側に置いてあるミカン箱やそういうものの上にドンブリを置いて、そこで本格的にふうふうとやりながらラーメンを食べたりしている。ミカン箱ならまだ幸せな方で、そこに置いてあるお店のバイクの荷台にドンブリを置いて、それでふうふうと食べたりもしている。横には段ボールからはみ出たキャベツの山は見えるし、背中を通行人は通り過ぎるし、目の前の車道をトラックや何かがぶんぶん通り、信号で止った運転手と目が合ったりする。目が合ったままラーメンをツルツルと食べている。まだ午前中である。これは凄い食文化である。
とにかくまあ築地に来たので市場をのぞいた。「場外」の市場である。肉屋、魚屋、乾物屋、かまぼこ屋、ちくわ屋(があったかどうか)、とにかくありとあらゆる食品の店がずらりと並び、そこを狭い通路が縦横に網の目のように伸びている。その網の目の細い通路を店の人々、仕入れに来た人々、物を運ぶ人々、物を選ぶ人々、用事を思い出して引返したりする人々、そういう人々がぎっしりと詰まって動き回っている。それがまるで、細胞と細胞の隙間をめまぐるしく往来しているバクテリアの大群みたいだ。
いやバクテリアなんて差別用語かもしれないけれど、とにかくそんなことよりそのエネルギーには圧倒される。エネルギーだけではなくそのテクノロジーも。何しろぎっしりと人々が詰まって身動きもできないようなところを、黒い大型の自転車がするすると通行したりするのだ。これは不思議というほかはない。鉄の二輪の荷車も通行していく。
「ほいほい、ほいほい」
とか、
「おっとっとっ、危いよ」
とか掛声を掛けながら、ぎっしりの人通りをそういう車がすり抜けていって怪我も何もしないのだから、これは現代の科学では説明ができない。みんな超能力をもっているのだ。というより、この網の目の通路の場の全体が、超能力場となっているのだろう。
この「場外」の場合は、あちこちの料理屋や飲み屋や食堂の板前さんたちがたくさん仕入れに来ている。男が多いのだけど、みんな竹で編んだ分厚い買物篭を下げている。プロ、という感じである。みんなその網の目の通行人としての資格をもっているのだ。私みたいな買うつもりのないものが、取材なんて名目で割り込んで行くのがどうにも気がひける。しかしそれも午前十時だからまだいい方で、ここのラッシュは朝の七時八時だというから非常識だ。いや、驚異的だ。
その網の目を突き進んで「場外」を抜け「場内」へ入ってみた。「場内」というのかどうかは知らないが、とにかく中央卸売市場の本部というか、中心、プロの極点。
凄く広くて「場外」の比ではなかった。もうすでに取引きは終ってしまったのか、食品の山はなく閑散としていて、ホースで水を撒《ま》いたり片付けたりしている。聞いてみるとここはもっと過激で、朝の五時六時がいちばんのラッシュなのだそうだ。人が集まって動きはじめるのは三時ごろからだという。朝の三時である。というか夜の三時である。太陽はまだ昇るどころか、まだまだアメリカの真上あたりだ。そんなころの時間に懐中電燈でマグロの切口を照らして取引きをはじめるというから、まさに密貿易だ。いやもちろん合法的な、都の公認する正しい中央卸売市場ではあるが、その光景としては密貿易に匹敵するのではないか、と想像する。何しろ私はそんな早起きはとてもできないので、確認のしようがない。
また「場外」へ戻った。ここにしても、もう午前の十時か十一時ぐらいには店を閉めはじめるという。すでにカンバンが近づいているのだ。
私も何か買おうと思ったが、何を買っていいのかわからない。何か豪快で安そうなものがぎっしりと並んで際限もなく売り出している。じゃあ鮭の切身を買おう、と思うと、鮭の切身を売っている店があっちにもこっちにもあって、どこで買っていいのかわからない。それをなおも考えあぐねていると、自分はいったい何故ここで鮭の切身を買わなければいけないのかと悩みはじめてしまうのである。
私の心の底に、鮭の切身へと内発するドロドロとした情念のようなものがないからだろう、と思ったりした。まあ取材だから仕方がない。
しかし通路をぎっしりと埋めた人は、鮭の切身やタコや海老《えび》へと向う強力なモーメントを内に秘めて、買物に来ている。だから足を踏んだり自転車にぶつかることなく、スムーズに動き回っているのだ。私は取材などという邪悪な目的でこの人混みに紛れ込んでいるのが、人々の交通の邪魔をしているようですまない気持になった。身を細めて人混みの隙間をすり抜けながら、「場外」の外の波打際へ出た。
さてラーメンでも食べよう。そうだ、食べに来たのだ。グルメである。グルメの原因の渦巻く場所の波打際で、すぐにその結果を求める。これがプロっぽいというか、ある意味ではグルメの極点ではないか。
歩道に向けて並んだラーメン屋は何軒かあるが、がらがらに空いてる店の隣に長い列の出来ている店がある。これはどうしたことだろうか。その謎を解くために私も列に並んだ。ラーメン屋だけど、ここのはみんなチャーシューメンだ。四百五十円。順番がきて、つっ、とドンブリを渡されると、切口の鮮やかなチャーシューがたっぷり、ざばっとのっかっている。立ち昇った湯気が頬にかかり、ほっと神に救われた気がする。私はドンブリを受取ると、その場でまず二足直立してスープを吸った。うまい。いやあせって吸ったのではなく、そこで一口でもスープを吸うと、持運ぶときにこぼす確率が減るということを考えたのだ。だから二口めは吸わずにそうっと両手で捧げて歩道を横断し、車道際に積上げた荷箱の上の平面にドンブリを安置し、そこで本格的な一口を吸った。うまい。つぎは箸で麺をつまみ上げてツルツルと口へ。うまい。つぎは切口鮮やかなチャーシューの一枚。これはうまい。
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そうやって三種のうまさを確認されたラーメンが、ドンブリの中にはまだ九割以上も確保されているのだ。私はまたつぎの一口のスープを吸って、勝ち誇った顔になって周囲を見回した。路上ではほかにも思い思いの場所でラーメンを食べている人々がいて、みんなこの市場へ仕入れに来たのだろう。それが終った帰りに、この波打際でちょっと休んでラーメンを食べている。
鳥のようだと思った。市場の中央には食品が山と積まれて、その間を札束が入り乱れて、取引きがごうごうと渦を巻いている。その渦から飛び跳ねたようなものが、周辺の路上にちらほらと散らばっている。そこへすかさず鳥がやって来て、その路上のものをツクツクとついばんでいる。
私はそんな鳥になったような気分でラーメンを食べた。食べ終ると、午前十一時ぐらいになっていた。
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丸の内のエンタープライズ
さてそれでは、日本の勤労者たちはどのような食事をしているのであろうか。
それを見たいと思った。いや見たいだけでなく食べたいと思った。
グルメのことであるが、世の中においしいものはたくさんある。しかしおいしさの絶対値というものはないのだ。お茶碗一杯の米の飯が、いつも絶対的においしいとは限らない。いま人々はそれをただのふつうに食べている。しかし戦時中の芋と雑炊ばかり食べていた者どもにとっては、その同じ米の飯がもうふつうどころか、天にも昇るほどのスペースシャトルみたいなおいしさだった。
このようにおいしさとは相対的なものである。そうやって食べ物のおいしさというのを生態系もろともダイナミックに考えた場合、どういうのがいちばんおいしいのだろうか。
いや、いちばんという考えはいけない。そうではなくても、たとえば働きながら食べるご飯とはどんな味か。
つまり勤労者の昼食である。
私も勤労者ではあるが、毎日お昼ごろに起き出して電車にも乗らずに自宅で何か紙に書いたりしている自由業というのは、勤労者としてはジミである。あまり勤労者らしく見えない。
やはりハデに電車に乗ってタイムカードを「ガチン」と押すような、そういうちゃんとした逃げも隠れもせぬ勤労者の昼食というのを食べてみたい。
会社には社員食堂があり、県庁などには職員食堂がある。いずれも勤労者専門の食堂であるが、その最高峰はどこだろうか。ということはつまり勤労者の最高峰、勤労の極点とはどこだろうか。
私はやはり宮内庁だと考えた。二重橋の内側、ところ番地でも第一番目のところ。
たとえば食品会社などでは、自社の食品を宮内庁に納入できることは「宮内庁|御用達《ごようたし》」といって最高の栄誉としている。だから自分の労働力そのものを「宮内庁御用達」しているものは、これはもう最高最上の、勤労者の極点である。その職員食堂における昼食といったら、これはもうタイやヒラメやウニやイクラの目も眩《くら》むばかりの……。
と思ったのであるが、これはしかし差し控えることにした。いちおうその試食を恐る恐る願い出てみたのであるが、丁重にお断わられた(ちょっと「お」の使い方が違ったかな)。考えたら当然のことである。やはりいくらグルメといっても、自分の身分というものをわきまえなければいけない。
では、どこに行けばいいのだろうか。つぎなる勤労者の最高峰は。
造幣局だと思った。お金を造る工場である。ふつうは自動車を造ったり材木を削ったりというそういう労働をしてお金をもらうのだけど、ここではその労働でじかにお金そのものを造るのだから、これは凄い。ラジカルだ。
ちょっと訂正するが、私の思ったのは正しくは大蔵省印刷局だった。造幣局というのは大阪にあって、十円玉とか百円玉とかを造る工場だ。これは大したことはない。いや、十円玉をバカにしているわけではないのだけど、しかし一万円札を作っているのは造幣局ではなくて大蔵省印刷局である。東京にある。ここで勤労者が一万円札を刷っているのだ。考えたら凄いことだ。これはむしろ宮内庁の上をいくような勤労者の最高峰ではないだろうか。
考えていたら頭が痺《しび》れた。ここの職員食堂は凄いだろう。ナプキンなどはみんな一万円札だ。フライドチキンの足の持つところに巻いてあるのも、きっと一万円札だ。油がしみるので一万円札を二枚ぐらい巻いてあるかもしれない。食券なども一万円札ではないだろうか。テーブルに半分ちぎって置いていくとか……。
しかしここもやはり断わられてしまった。一万円札を印刷するというとんでもないことをしている工場だから、食堂とはいえまあそう簡単にはいれないのはムリからぬことである。
さてそうやってちょこちょこと挫折したのであるが、あまり高きを望んではいけないと思った。そういうあまりにも高貴なる職場はやめて、もっとふつうの民間の職場にしようと思った。しもじもの数ある株式会社の中で最高峰の社員食堂はどこだろうか。
まあ三井物産にしようと思った。
大手町である。地下鉄を降りると、改札を出た通路の壁に黄色い案内板があり、矢印の下にただ一行、
「三井物産」
とあるだけであとは空白。これは凄い。ふつうはもっと「〇〇ビル」とか「××通り」とか並ぶはずの文字がいっさいないのだから、その空白の豪華さたるや、威圧感さえ感じる。これはむしろ大蔵省印刷局とか宮内庁より凄いところかもしれないぞ。
「あ、ちょっと!」
と言われた。地下通路からはいったビルの入口(しかし地下というのはどこがビルでどこが通路だかよくわからない)。そこで直立したガードマンに制止された。何気なくはいろうとしたところをたちどころに制止された感じであって、私は唸《うな》ってしまった。凄い能力である。そこはまだ地下通路から一歩上がっただけのところで、大勢の人がぞろぞろと通行している。みんな制服でもなくふつうの服装で、とりわけ名札も何も付けてないのに、そこで三井物産以外の異端者をシャキーン! とセレクトするのだから凄い性能だ。
私が特別に変な服装かというとそうではない。ネクタイこそしていないけど、ズボンも破れてはいないし、靴にだって泥はついていないし、髪だって最近はキチンとふつうに刈り込んでいる。どうということはないふつうの「中流階級」の服装である。このビルに出入りしている人々とそんなに変りはないつもり。それが何故見破られたのか。何か特殊な匂いでもついているのだろうかと、自分の服の袖をそっと嗅いだりしてみた。
これこれしかじかと説明して通過を許されたのではあるが、正面ロビーに回るとそこにもガードマンが二人直立していて、玄関からの人の流れをピリピリと真剣に見守っている。その猛烈にマジメな態度に、日本企業の迫力を見た。
で食堂へ行ったのであるが、いつの間にか通路はフカフカの絨緞《じゆうたん》が敷きつめられて、靴音が建物に吸い込まれる感じが、ちょっと慇懃無礼《いんぎんぶれい》でこそばゆい。まるで一泊五万円ぐらいのホテルにでも来た感じで、これもまた日本の企業の無音の迫力である。
これは大変なことになったと思った。いままでにも勤労者の食堂に行ったことはあるが、絨緞なんてどこにもなかった。たとえば警視庁の地下食堂。私だって警察の世話ぐらいにはなっている。いまのではなく昔の、テレビの「七人の刑事」の冒頭にいつも映し出されていたあの古い建物である。あの地下食堂も迫力があったが、それはむしろ恐怖の迫力だった。
弁護士会館の食堂。これはしかし一般にも公開されているみたいで、とくに勤労者の食堂とはいえないか。
ではNHKの中の食堂。あれは皆さん行ったことのある人もいるかもしれない。そっけない椅子と机がガラガラと置いてあって、いつもアルミやプラスチックの器物がガチャガチャとぶつかり合っているような、あの感じがまあふつうの勤労者の食堂だと思っていたのだ。
私はフカフカの絨緞に靴音を吸い取られながら、勤労者の食堂にはいった。三井物産である。広さは講堂ぐらいもあって、その床にまたビッシリと、無音の迫力の絨緞である。これはもう昼からナイトクラブだ。入口のところに直径五メートルぐらいの円盤がグィーンと回っている。そこに何種類もの料理が小皿に盛り分けて並んでいて、それを自分のトレイ(お盆)に取っていくのだけど、麻婆《マーボー》豆腐や五目焼き肉丼やピーマンと豚肉の細切り炒め、じつに盛りだくさん。それが明るい照明にキラキラ輝いて、未知との遭遇のマザーシップだ。料理の皿はみんなが取っていく端からどんどん補充される。何しろこの三井物産のビルには六千人の勤労者がいるのだ。十二時のラッシュには写真撮影どころではなくなるというので早目に来たのだけど、その巨大円盤に寄って来る人々はもう次から次へとどんどん洪水のように増えてくる。
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トレイに自分の料理を取った人は、食堂の広間にはいる入口で、スーパーのレジみたいなところを通過する。そこで品物に応じて支払いを済ませるのだけど、衛生上のことを考慮して支払いはチケットである。
そのレジの関所が四つほども横に並んで、いよいよラッシュに重なるとそこに列が出来てしまった。何しろ六千人である。
関所を通った人は自分のトレイを抱えて、思い思いのテーブルについてそれを食するわけだが、それも次から次へと関所を通る人がなだれ込んで、講堂ほどのところにあるいくつものテーブルがたちまち満員になり、あちこちの通路にトレイを抱えた人が立ち留まって、どこかテーブルが空かないかと見回している。何しろ六千人である。
申し遅れたが、ここは中華の部の食堂なのだ。このほかに同じぐらいの広さで洋食の部、和食の部とあって、さらにそば類の食堂やハンバーガー類の食堂が別に分かれてあるというのだから、その全部の状態をビルの断面図で見たら物凄いことになる。あちこちで洋風、和風、中華風のマザーシップがぐるぐると回っていて、そのあちこちで無数の味との遭遇が繰返されている。六千人の従業員がいくつものマザーシップに手を伸ばして、次から次へと栄養を摂取している。お昼というのは凄い時間だ。
みんなさすがにキチンとした服装をしていた。男性はほぼ全員がネクタイをしている。私は絨緞の廊下を通ってあちこちのマザーシップをめぐりながら、ちらちらとした視線の引掛かりを感じた。ガードマンほどの強さではないが、やはり通り過ぎる人の視線が私のところでヒョッと引掛かる。
セーターというのは視線が引掛りやすいのかもしれないと思った。三井物産のビルの中では。
いやセーターに限らず、私のようにいつもお昼ごろ起きて自宅で勤労しているような人間は、やはりどことなく目付きか、服装か、歩き方か、背中の角度か、何かが微妙に違うのだろう。異分子の選別能力はガードマンだけではなかったのだ。六千人がそれを微妙に受持っている。
女性の場合はネクタイという暗黙の制服がないので、セーターもいればスーツもいるし、さすがにバラエティに富んで華やかである。でもやはりここに自由業の女性作家や陶芸家などがはいって来たら、みんなの視線がヒョイと引掛かるのではないかと想像された。ネクタイという暗黙の制服よりも、さらに暗黙の内なる制服というのが隠されていることが想像された。
かんじんの昼食の味であるが、おいしかった。ふつうのレストランのような味である。値段もふつうに食べて五百円ほどで、一つ二つおかずが多くなると七、八百円になるという。ふつうのレストランとそうは変らない。社員食堂というともっとぐっと困るほど安いと思っていたが、ここの場合は外からレストランの業者がはいって運営しているのだという。だから種類も豊富で見かけもキレイなのだけど、安いという社員の特権はそれほどはないのであった。
しかし大儲けの先端にいる日本企業の迫力というものをまざまざと感じた。六千人の靴音が全部フカフカの絨緞に吸い込まれながら、しかし十二時前後には二十四本もあるエレベーターの争奪戦が上と下で大変なのだという。中途の人は満員ランプの通過ばかりなので、それではというので昇りの空いているのに乗ってビルのてっぺんまで行ってから降りてくる作戦があったりして、とにかくお昼の電力は大変なのだ。食堂のテーブルには灰皿がなかったけれど、これも健康衛生のためというより、ひたすら人の回転を良くするためである。
一時を過ぎると立っている人がいなくなって、次には坐っている人もいなくなって、マザーシップの回転も止り、空中|秘《ひそ》かに六千人の体温だけが残されて、それもビルの排気孔から消えていった。
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幻の納豆ご飯
納豆は厄介な食べ物である。味はおいしいのだけど、箸や茶碗がべたつく。唇もべたつく。きっと喉《のど》や胃の中もべたついているのだろうけど、それはもうわからない。そこからは喉や胃にまかせきっているからいいとしても、しかし唇や箸や茶碗というのはまかせるわけにいかない。べたついてしまったのを何とか後始末しないといけないわけで、それが面倒なばかりにせっかくの納豆のおいしさを事前に諦《あきら》めてしまう、というのが管理社会に生きる現代人の情ない点であるのかどうか、今回はひとつその辺を考えてみよう。
私は少年時代九州に住んでいたこともあって、納豆は幻の食べ物だった。
いまでこそ納豆なんてどこのスーパーでも売っているのだろうが、むかしはその流通機構のオートフォーカスであるスーパーというものがなかったのだ。食品というのはそれを生産している現地に近いところでないと食べられなかった。たとえば刺身のシラスなんていまでは東京のスーパーで平気な顔して売っているけど、ついこの間まではとんでもない幻の珍味だったのである。
とにかくそういう具合で「在来商法」の時代の九州に納豆はなかったし、それから本州でも関西から西にはなかったと思う。私の記憶では高校時代に住んでいた名古屋にもなかった。おそらく納豆民族というのは関東から北に棲息《せいそく》しているのではないだろうか。
思わず民族なんて言葉を使ってしまったが、納豆というのは異民族的なカルチュアショックをもたらすほどの食品なのであった。
そのことでいうとそばもそうだ。そば民族というのは信州を本拠地として関東一円にまで勢力圏を拡大していて、茨城を根城にした納豆民族と結託しているかのようである。このそば民族というのも関東のせいぜい横浜、鎌倉ぐらいまでで、あと関西から西の西日本一帯というのはうどん民族というのが古来より生活を築き上げていて、そば民族の侵入を阻止している。だから私は九州のあと名古屋でもそばと出合うことはなくて、東京に出てからはじめて盛りそばを食べることができたのである。
いや今回は納豆である。九州の大分市に住んでいた少年時代、納豆は本当に幻の食べ物だった。少年小説など読むと納豆売りの少年が出てきたりして、朝の住宅地の裏通りで、
「納豆一つ下さいな」
などとどこかの夫人が言うと、その納豆というものがとてつもなくうまそうなものに思えた。「ナットウ」という語感からしてうまそうなのだ。だからその言葉をそうっと自分で発音してみたりして、その語感の中にすでに納豆の引く厄介な糸の予感が含まれてはいるが、しかしその実体まではわからなかった。
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想像のベースになるのは甘納豆である。この甘納豆というのは日本列島の全域に分布していて、九州にいた少年の私にもすでに大好物だった。その甘いお菓子の甘納豆が、お菓子ではなくご飯のおかずに変化しているとなると、これはもう大変な食べ物に違いない。そう思ってその幻の味に憧《あこが》れていたのだ。
この憧れの中には、ひょっとして東京への憧れもあったのだと思う。小説というのは標準語の世界である。その標準語というのは九州の少年にとっては抽象的な言葉であって、その抽象世界に憧れるのだ。うどん地帯を東に突き抜けて行った東京には標準語を話す標準語民族が住んでいる。それは自分たちとちょっと違って、上品で頭が良くて、ナイフやフォークの使い方など全部知っているのに違いなくって、その人々の食べるご飯のおかずに納豆がある。これはもう藁《わら》の包みを開けてみると中には標準語がたっぷりと振りかかっていて、抽象が抽象のまま具体物になっているというような、まるで奇蹟のような食べ物のそんな幻だけが膨張していく。
わが家の母というのが東京で生れ育った標準語民族だった。だから当然納豆民族でもあるわけで、子供時代に納豆はたくさん食べているはずなのだ。その点が私には羨《うらやま》しかった。だから納豆という食品の様子を訊いてみるのだけど、いくら説明されてもそのおいしさは雲をつかむみたいで、膨張した幻の味がさらに七色に光って渦を巻くばかりで、その実体はまるでわからない。
さて、その憧れの納豆を食べたときのカルチュアショックとは、いったいどんなものであったのだろうか。
いずれにしろ私の場合、高校を卒業してから出てきた東京においてであるが、不思議とその初体験を覚えてないのだ。
ふつう何ごとにおいても、初体験というのは記念写真みたいにして印象に焼きついているものである。たとえばはじめてスーパーマーケットというものへ行ったとき、一九五七年ごろだ、そのころすでに上京して三年目だった私は、高円寺にいた姉について駅前の東光ストアに買物に行き、お客が勝手に品物を手に取っていくそのやり方で果して泥棒が発生しないものだろうかと、非常に危ぶんだものである。そういう危険なやり方はすぐすたれるだろうと思った。ところがどうして。
あと何があるだろうか。仕事の報酬ではじめて小切手をもらって銀行へ行ったとき、いったん自分の口座へ入れて三日後でないと現金化できないと聞いて、貯金通帳など持ったことのない私は驚いてしまい、じゃあ貯金の最低額はいくらかと訊くと一円だというので、ポケットにあった一円玉を窓口のカウンターに、
「パチン」
とこれ見よがしに置いたのははっきりと覚えている。
万事そういう具合のはずなのだけど、納豆の初体験についてはなんにも思い出せない。
とにかく気がついたら私は納豆民族に帰化していたのであった。すでに納豆を常食とするようになっていたのである。東京に出て二年目の私は、高校で同窓だったコンドウ君と共同生活をしていて、そのころ盛んに納豆を食べていたのだ。阿佐谷の六畳一間である。自炊の食事は一日おきの当番制で、献立はだいたい味噌汁か納豆になってしまう。毎回そのどちらか一品である。そのかわり味噌汁となればその中に入れられるものを全部入れる。豆腐にワカメに大根に油揚に、里芋や人参も入れてケンチン汁みたいにしていたのだ。
それで納豆の方であるが、これ一品のときにもやはり入れられそうなものを全部入れる。といっても納豆の場合は葱と鰹節と、あとは卵ぐらいのものだけど、それを大量に入れるのだ。とにかく葱をたくさん刻み、そして鰹節をたっぷりと入れる。鰹節というのは納豆に混ぜると姿を消してしまいがちのものであるが、それを混ぜてもはっきり目立つほどにたっぷりと入れるのだ。その鰹節も、固い塊のあれを自分で道具で削るやつがいい。その方が抜群にうまいし、それに当時はその方が安かったのではないかと思う。袋に入ったのを混ぜるのでは簡単だけど、自分で削る場合にはけっこう力もいって時間もかかるので、納豆とはいえども料理しているという実感が出るのである。
納豆はそのころはもう経木《きようぎ》のパック入りになっていたと思う。本来は藁の束にくるんであるのだけど、それが木を薄く削った経木で三角形に包むようになっていて、ちょっと味気なかったものである。それもまた最近では白くて軽っぽい発泡スチロールに変っているわけで、さらに一段と味気なくなっている。味はそう変らないのかもしれないが。
で、たっぷりと入れるのだ。丼《どんぶり》の納豆に葱と鰹節が山盛りになり、それを太めの箸で力いっぱい掻き混ぜる。とにかく納豆というのは混ぜて粘りの糸がたくさん出たところがうまいのだと、何となく標準語的に学習していたものだから、それを力いっぱい実行するのである。それで納豆と葱と鰹節と混ざり合って三位一体となったところへ醤油《しようゆ》をかける。混ぜる前から醤油をかけると、せっかくの納豆の糸が出にくいと信じられていた。
そうやって丼の中で混ぜ上がった納豆を、いよいよ自分の茶碗の飯にかけて食べるのだけど、しかしここからこの食品の厄介な資質があらわれてくる。混ぜているときすでに納豆の糸がちょっと指先についてべたついているし、ご飯にかけるときにまたちょっと丼のフチから糸を引いてべたついてくるし、それを自分の口に掻き込むとき、唇のまわりにべたついてしまう。それを拭き落すのがまた大変である。拭いても拭いてもべたついてくる。だから非常に食べにくい。とくに管理社会にまっとうに生きようとする潔癖型の人間にとっては、ただの食品のくせに周囲をところ構わずべたつかせてしまうというその性質が、我慢できなくなってくる。
そこでテクニックが発達してくるわけで、ご飯一面に納豆をかけるのではなく、口に入れられる一口分だけの納豆をご飯にのせて、それをそうっとご飯ごとお箸で持ち上げながら、周囲に影響を与えぬように口の中にまで持ち込んできて、それでしめしめ、悪名高い納豆のべたつきを見事に封じ込んで食べることができたぞ。
と、こういう食べ方が出てくるところが問題なのである。もちろん納豆の食べ方は各自の自由なのであって、唇全面をべたつかせながら食べようと、あるいはそれを細心の注意で封じ込むようにして食べようと、それは勝手である。
しかし、このしかしという問題があるのであって、ご飯の上に一口分だけの納豆を上品にのせ、それをべたつかないように楚々とした箸どりでもって口の中にまで運び込み、無事に閉じた口の中でホッと安堵《あんど》しながらそれを食しはじめるという、そういった自分のやりくちにソコハカとないうしろめたさを感じることはないだろうか、皆さん。
いや糾弾するわけではないが、私自身そうやって納豆ご飯を食べていると、何かしら、健康のため吸いすぎに注意しながらタバコを吸っているような、管理社会に生きている人間としての潔癖症の悲哀を感じてしまうのである。
ちょっと横道にずれさせてもらってタバコのことだが、あれは「健康のため吸いすぎに注意」しながら吸う吸い方は、じつに健康によくない。本当は、
「今日も元気だ、タバコがうまい」
という懐しい吸い方が健康には一番である。しかしあれは肉体労働のフィーリングであった。肉体労働は両手両足が忙しいからタバコなんてそう吸えるものでなく、一日にせいぜい十本ぐらいだ。それは素直にタバコがうまいわけである。しかし近来は皆さんの労働が頭脳労働的になっているので、両手両足はそう忙しくない。その上頭脳が悩んだりするものだから、タバコがぐっと増えて三十本も四十本もになってしまう。そんなタバコがうまいわけはないのだけど、やはり頭脳労働のサガというか、やめるにやめられず、結局は「健康のため吸いすぎに注意」しながら吸うという、じつに不健康なありさまとなる。
まあその先は各自の頭脳で考えてもらうことにして話は戻るが、とにかく納豆である。潔癖のためべたつきに注意しながら納豆を食べるというのは健康によくない。
という境地に達した私は、納豆ご飯はできるだけべたつかせて食べることにしたのである。いざ、ひとたび納豆ご飯となったあかつきには、納豆をできるだけ乱暴に、力いっぱい掻き混ぜ、それをご飯の全面にイッキョにどっぷりとかけてしまって、垂れるのも構わず不器用なほどに大口でかき込み、唇はもちろん頬っぺたや箸や食卓やときにはシャツまで、あたりをべったべたにしながら食べる。それはもうまさに全身が納豆風呂にでもはいった感じで、納豆ご飯の真髄をたっぷりと堪能することができたのだった。
タバコには嫌煙権というものがあるからこうはいかないだろうが、納豆ならば大丈夫。せっかくべたつくものを、封じ込めては何にもならない。部屋中べたつかせるほどにして食べるのがいちばん贅沢な食べ方である。
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ベンチに控える漬物
私は米が好きだ。
これは日本国の農業政策を立て直すために発言しているのではない。とにかく何の邪心もなく、米を食べるのが好きなのである。
正確には米を炊いた飯の味が好きなのである。
「メシ」
と発音しただけで、その余韻がもうたまらない。ふっくらと炊き上がったメシの、あの包容力のある白い味が頬の内側にひろがってきて、さておかずは何をつまもうかと、生きていてよかった肉体が喜びに震えはじめる。
というと大げさになるのかもしれないけれど、メシのおいしさというのはじつに独特である。それ自体がおいしいというより、つぎに来たるべきおかずの味を迎えようとスタンバイしている、その白いふくらみがじつに頼もしく、しかも味覚としてはこれほどつつましいものはない。
西洋のパンがこれにあたるのかもしれないけれど、しかしパンにはもう少しパンそれ自体の味の主張があって、メシにおける自己犠牲といえるほどの食事の味総体へのヴィジョンというものがないのではないか。
いけない、また少し大げさになった。
しかしとにかくメシのような味というのは世界にも類例がなく、これはやはり日本の料理だけが誇る味の世界、いわば「間」としての味だと思うのである。
まだ少し大げさかな。
では少しおかずをつまもう。
とりあえず漬物である。
漬物というのはこの「とりあえず」というのが生命である。
しかし、自己犠牲ともいえるほどのふくらみをもったメシの白い味そのものを味わうためには、やはり何といってもこのとりあえずの漬物が一番である。
「ツケモノ」
この発音もいいが、これはしかしかなり当り外れのある食品である。漬物の漬り具合によっては、ただ塩辛いだけで食品とはいえないようなものもあるし、その野菜本体にスがあったり、皮が固かったりして、もう生きているのが嫌になるほどがっかりする漬物もある。
しかしほどよく熟した野菜がムダのない塩かげんで漬け込まれて、しかも漬け過ぎになる寸前に取り出されてきた漬物ときたら、これはもう……。
メシという特殊な立場の味を惜しみなく味わう一番のおかずは、まず漬物だと思う。
たとえば世の中には茶碗蒸しとかビフテキとか鯵《あじ》の塩焼きとかのおかずがあって、それらでメシを食べるとおいしい。たしかにおいしいのだけど、それはしかし茶碗蒸しやビフテキや鯵の塩焼き自体のおいしさである。それらはほとんどメシがなくてもおいしいのであり、したがってメシにはそれほどのふくらみも要求されていない。そんなときに、果たして「メシがうまい」といえるのだろうか。
いや問い詰めているのではないのだけど、そう考えるとき、やはりメシを味わうのに一番うまいのは漬物だと思うのである。
いま思いついたのだけど、漬物が「とりあえず」の食品であるとすれば、メシは「とにかく」の食品ではないだろうか。とにかくのメシのふくらみを、とりあえずの漬物の味が最大効率で引き出すのである。そういう互いに質素な味どうしがぴたりとかみ合ったときの食事というのは、まるで同点のままきた七回あたりにぴたりとヒットエンドランが決まったときのような、まるで名人芸みたいな痛快さと満足感があってもうたまらない。
とくに私はヌカ漬がいい。胡瓜《きゆうり》や茄子《なす》や大根、蕪《かぶ》もいいな、キャベツもいい。セロリというのもヌカ漬にするとうまいので驚いた。とにかくそういう漬物類がヌカにまみれて八百屋の店頭に並んでいたりすると、もう家裁へ行く途中であっても立ち止まって買い求めたくなる。
いや人間誰でも家裁へ行くとは限らないが、最近の女房はヌカ漬のできないのが多い。それはしかし時代のスウセイであって、いまさら汽車を復活しろとか火鉢を復活しろとかいっても仕方がないのと同じことで、しかしそれではおさまらない人間の業みたいなもので家裁が、つまり家庭裁判所が忙しくなったりするわけである。
いやそうではなくても、ヌカ漬というのは家人とか自分とかが念入りに漬けるのもいいが、しかし八百屋の店頭にヌカまみれであるようなのをひょいと立ち止まって買ってきて、それが絶品であったときの方がヌカ漬のしあわせを味わえるような気がすると思うのは私だけだろうか。
とにかくそういうときにはあのヌカ漬の「とりあえず」の味が引き立つのである。
しかしこれが難しい。そのヌカまみれの姿をひとめ見て、これは物凄くうまいはずだと思って買ってきたのが塩でまぶしただけの食品とは思えないような味だったりすると、もう後悔が後にも先にも立たずに猛烈な人間不信におちいってしまう。
これを防ぐためには、やはりふだんのなじみの八百屋がいいだろう。いや八百屋に限らず漬物屋であったりお惣菜屋であったりするのだろうが、あいつなら三割はちゃんと打てるという篠塚みたいな、そういうお店で立ち止まって買って、多少の当り外れはガマンするのがカンジンである。
ヌカ漬のつぎはタクアンである。ある意味ではタクアンの方がもっと地味かもしれない。タクアンの場合の方がむしろ地味なだけに難しく、いいかげんで投げやりな味のものがずいぶん出回っているような気がする。タクアンを買って十割というのを、皆さんは記録したことがありますか。
私の体験ではタクアンは二割三分ぐらいだ。まあバント要員として二番に入れることはできる。しかしこのタクアンが当ったときのメシとの交歓というのは、これはもう地味だけにこたえられない。何よりもメシが大喜びだ。
おいしいタクアンには想い出がある。終戦直後のことだ。わが家はふつう八人か九人家族で、それが十人家族とか、ひどいときには十一人家族のときもあった。いやひどいといっちゃ何だが、いまは亡き母は大変だったと思う。一匹のサンマを十一等分すればもう懐石料理みたいになってしまうんだから。
そのくらいの大家族では、漬物をするとなると大量に漬け込まなければあっという間になくなってしまう。そう思って、うちではタクアンを防火用水の容《い》れ物で漬けたのである。コンクリート製で、当時四角いのと丸いのとあったが、うちのは直径一メートル以上の、深さも一メートル以上はあるほどの、円筒形の防火用水の容れ物だった。そこにクタッと干した大根をぎっしりと漬け込んだのだ。
当時のことだから大根なんて安かったのだろう。米が一番高く、つぎが芋だったような印象がある。とにかく主食第一で、とりあえずおかずは二のつぎとされていたのだ。
さて、母は都会育ちだから漬物は得意ではない。そのとき住んでいた大分の近所の人の見よう見まねで漬けたのだろう。そうでなくてもわが家の母は料理がどちらかというと不得手な方で、ご飯などもよく芯《しん》を作ってしまったりしていた。もっとも火力がいまみたいにガスでなく薪《まき》だったり練炭だったり、おまけに米の中に麦だけでなく粟《あわ》とか何かいろいろ正体不明の穀物を入れて炊くのだから、これは零対零で二死満塁に追い込まれてしまったピッチャーみたいなもので、芯が出来てしまうのもムリからぬことなのである。
で防火用水だ。コンクリートの容れ物の中に大根を漬け込んで、あれは本当は何日くらい置くのだろうか。母はいちおう人から聞いて知っていたのだろうが、しかしもう私たちは待てないわけである。その時代ご飯もないけど、おかずだってほとんどないのだ。で防火用水の容器の中にタクアンが漬けられている。まだ漬けたばかりで出来上がってはいないのだけど、しかし少しぐらいは出来かけている。まるで食べられないというわけではない。ちょっとだけのぞいてみてもいいのではないか。
という圧力に負けて、それでなくてもややせっかちな母は、タクアンを一本取り出してみるわけである。で包丁を入れて、
「まだこれは大根よ」
と言いながらも食卓に出してみる。で皆は、今日もおかずは貧しいなあ、出来かけのタクアンか、と思いながら、箸でつまんでポリッ。
これがポリンと噛んでハッとした。うまいのだ。もちろんまだタクアンにはなりきっていないけど、これがうまい。ただの大根ではなくて、妙に甘みがあって、それにほんのちょっとの苦みが溶け込んでいて、ポリポリと噛んでいるとその味わいがたまらずに、またつぎの一切れを箸で取ってポリンと噛んでしまう。みんながみんなそういうふうで、十人ぐらいがポリンポリンと噛みながら、とりあえずのタクアンはあっという間になくなってしまった。
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さあそれからは食卓が楽しい。毎日の食卓に期待がふくらむ。理論値からいうとまだタクアンにはなりきっていないので、取り出してはいけないはずだが、もうそれ自体十分にうまい。だから、
「これはまだ大根よ」
と言って食卓にのぼりながら、それがあっという間に食べられて消えてしまう。
実力というのは恐しいと思った。
しかし人間、理論は気になるもので、まだ大っぴらに食べてはいけないと思っている。本当はあと何日かは待たなければいけない。だけどそうはいっても、いつも食卓のおかずは貧弱である。そうなるとみんな気もそぞろに防火用水のことを考え、それに気圧《けお》されて母はその浅漬タクアンを取り出しに行く。
まるでベンチに、強力な助っ人外人の指名打者がいるようだった。暗く沈んだ試合展開を、その一発で明るくしてしまう。
その防火用水のコンクリート容器がタクアンで満たされていた何週間かは、じつに豊かな毎日だった。ポリポリといくら食べつづけても飽きずにおいしいタクアンが、防火用水の容れ物いっぱいにあるのだから、何かしら人生に自信みたいなものが湧いてくる。ほどよい塩気にほんのりとした甘みがあって、そのタクアンはご飯のときだけでなく、おやつでも食べてしまった。
母としては、そんな漬物ははじめてだから、かえってうまくいったのかもしれない。カメラだって買ったばかりのフィルム一本目というのは、じつに良い写真が撮れる。
言い忘れたが、ヌカ漬とタクアンの間に白菜漬があった。これを忘れてはいけない。しかしもう紙数がなくなってきた。しまったことをした。これはメシのときにもよく犯してしまう過ちである。食卓にヌカ漬がありタクアンがあり白菜もあった場合、メシを食べてヌカ漬を食べて、またメシを食べてタクアンを食べて、しかし漬物だけ食べていてもいけないのでメインディッシュのマグロの照り焼きか何かを食べてメシを食べて、味噌汁を飲んでメシを食べて、そうこうするうち腹いっぱいになり、茶碗にもメシがなくなる。つまりメシとおかずとのローテーションに誤算が生じて、漬物のエースともいうべき白菜漬をベンチに温存したまま試合終了となってしまって、呆然と見つめるほかはないアイボリーの白菜の艶やかさ。
白菜だけではない。タカ菜もあった。これがまた箸で広げてメシにのせて、のり巻きみたいにして食べるときの幸福感というのは何ものにもかえがたいのであって、それだけでなく野沢菜もあった。タカ菜に似ているがちょっと違う。東京のはともかく現地の長野とか新潟とかで食べるものはコクがあふれて、しかしこれらのベンチ入りした漬物全部を食べるためにはもうメシがなくなり、紙数も尽きてしまって、監督としては反省している。
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ビフテキ委員会
私がはじめてビフテキを食べて飲み込んだのは、二十五歳の春だった。声変りをして、タバコも吸うようになり、酒も呑めるようになっていて、そして二十五歳、銀座のスエヒロではじめてのビフテキを食べたのである。
しかし本当はそれより二十年前の五歳のときに、ビフテキを食べていた可能性もある。ビフテキそのものは記憶にないのだけど、その年レストランに行ってフルコースを食べているのだ。フルコースだから、ビフテキも一口ぐらいはかじって飲み込んでいるのではないだろうか。
しかしその記憶は残っていない。そのときの記憶で残っているのはスープだけだ。フルコースのはじめのスープを飲んだ記憶だけははっきりと残っている。
ちょっと説明しよう。
そのころうちは九州の大分に住んでいて、家族は両親以下子供五人で、私は末っ子だった。
そこへ満洲から叔父さん一家が遊びに来たのだ。これはだいぶ上流階級である。子供たちはみんなソックスなんて穿《は》いて賢そうで、うちの子供たちも緊張した。親父は奮発して別府の高級レストランへみんなを連れて行った。両家の家族あわせて十二人。
なぜ高級なのかというと、目の前に大きなテーブルがあり、白い新品のテーブルクロスがかかっていたのだ。それは当り前かな。しかしそこは一室貸切りのギリシャみたいな部屋で、壁際には要所要所にボーイさんが立っている。きちんと気をつけをして、私たちを見ている。私はよその人に見られながら食事をするのははじめてなので、五歳とはいえ上がってしまった。
そうしたらまず第一番目にスープが運ばれてきた。私だってスープぐらいは知っていたが、こういうちゃんとしたギリシャみたいなところで飲むのははじめてだ。おまけにそのスープというのがお皿にはいっていて、それをスプーンで掬《すく》って飲むのだから、飲みにくいったらありゃしない。スプーンがすぐお皿の底にコツンと当たる。スープがいくらも掬えない。スープというのは液体だから、深いお椀《わん》に入れた方が飲みやすい。それをどうしてこんなお皿なんかに入れるのか。私は非常に理不尽な気持になった。やり方を変えようと思った。だからスプーンを置いて両手でお皿を持ち上げ、口に持っていってスルスルと飲んだ。こうすれば簡単だ。
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ところが飲み干したお皿を置いたら、どうも回りの空気がおかしい。何となくみんなの視線が自分の方に集まっている。その視線が笑っているのだ。あれ? と思った。何がおかしいのか。
そう思っていたら、親戚のところの私と同い年ぐらいの男の子が、私のマネをした。両手でお皿を持ち上げてスープを飲んでしまった。上流階級がそれをしたので、その子はお母さんにメッとひとことたしなめられてしまった。お皿を持ち上げてスープを飲むのはいけないらしい。原因は私である。みんなの気まずい笑い。壁際に立って見ているボーイさんも苦笑いをしていて、そこにちょっと軽蔑の意味も含まれている。含み笑い。
私は軽蔑なんて漢字を知らないくせに、その意味だけを先回りして感じてしまった。何だかポーッと頬が赤くなった。その赤い熱といっしょに軽蔑の意味も体全身にひろがってきて、そこからはもう何も覚えていない。
本当はそのあとにグラタンとか何とかソテーとかいろいろつづいて、その先でビフテキも出たかもしれないと思うのである。子供だからその全部は食べられないが、メインディッシュのビフテキの一口ぐらいは食べて飲み込んでいるのでは、と思うのである。だけどもう何もかもがスープの底に沈んでしまって、いっさい記憶にありません。
そして二十年の歳月が流れて、私は銀座スエヒロの二階にいた。生れてはじめてビフテキを食べることになったのである。厚さは二センチ五ミリから三センチはあったと思う。面積は幅十二センチぐらい、長さ二十センチぐらいの長円形といえばいいのか。表面はカリッと焦げた焦茶色をしていて、それがジュージューと音を立てながら運ばれてきて、目の前の皿の上にズッと置かれた。その豊満な姿と熱、重量感、そして何より肉体の芯に働きかけるようななまめかしい匂い、私はもうその存在に心を奪われ、そのビフテキをちらっと見て目をそらしたりしながら、つぎにはジッと見つめてしまった。何しろ話と写真だけで知っていながら、それまで接したことのないビフテキである。それを二十五歳になってやっと肉眼で見て、しかもこれから実際に口で食べて、喉から飲み込もうというのだから。
ちょっと説明しよう。
その年私がビフテキを食べることになったのは、私がビフテキ委員会にはいったからだ。私は何人かの投票で選ばれて、その一員になったのである。委員会にはほかにも友人が何人かいて、みんな見事なビフテキを前に緊張していた。
もうちょっと説明しよう。
このビフテキ委員会とは、正しくは「読売アンデパンダン展出品者委員会」という。この展覧会は一九四九年から六三年までの間、毎年春に上野の美術館で開かれていた。読売新聞社の主催による無審査自由出品の公募展で、当時の若い前衛的な美術家たちにとっては唯一の発表の場所だった。このことについては『いまやアクションあるのみ!』(赤瀬川原平著、筑摩書房刊)に詳しい。
で、ビフテキ委員会であるが、その無審査の展覧会をさらに民主的に運営しようというので、毎年出品者の投票による委員会がつくられていた。これが毎年展覧会のはじまる前に、銀座スエヒロの二階でビフテキを食べながら委員会を開くのである。もちろんビフテキの代金は主催者の読売新聞社が支払う。これはまことに有難い。しかしこの構図が示すように、出品者委員会とはお客様で、読売新聞社がご主人である。出品者委員会は何か意見をいうことができても、その意見の採択をするその最終決定権というのは読売新聞社にある。となれば出品者委員会とは何なのか、ただの飾りではないのか、スエヒロでビフテキを食べるだけの役目ではないのか。となればそれはただの、
「ビフテキ委員会」
となったのである。
それはしかし一方で、ビフテキを食べられない人々からの羨望の言葉でもあった。
まあその辺の関係はともかくとして、ビフテキである。厚さ二センチ五ミリもあろうかというずっしりとしたビフテキがジュージュー音を立てて運ばれてきた。それが何か専門的な器具に挟まれて、耳の高さの宙空をよぎりながら、テーブルの白いお皿の上にズンと置かれた。お皿の上でもまだジュージューと音を立てている。こういうものとは知らなかった。
同席者は二十人ほどいて、その一人一人の前にジュー……、ジュー……、と置かれている。大変な光景である。その環境に目を奪われていると、また私の耳の高さの宙空をよぎりながら、アイスクリームが出てきた。それが大きめのスプーンに載って出てきて、こともあろうにビフテキの上にニュッと置かれた。
私はビックリした。ビフテキにアイスクリームをかけるとは。
しかしみんな平然としている。ビフテキにアイスクリームは常識だという顔をして、ビフテキの保護者のようなふりをしながら、わざとビフテキから目をそらしたりもしている。私もこのくらいのことで驚いてはいけないと思い、そういうふりのマネをした。
やがてみんな行きわたり、さてそれではいただきますということになり、私はナイフは右、フォークは左、それが間違ってないか、何度も見て確認しながら、ビフテキの左端一センチぐらいの幅にズブリとナイフを入れた。その感触はもうほとんどそのまま味覚で、私は体がのけぞりそうになった。その切り取ったビフテキ部分を実際に口に含んだ後の口中粘膜の状態については、もはや各自想像するほかはないだろう。
さてその不思議なアイスクリームであるが、ビフテキの上にのっけたのを当然のように認めてしまった以上、私はナイフを寝かせて積極的にそれを押し溶かして、当り前だという感じで肉につけて食べた。
これがうまいのである。
アイスクリームと思ったが、さすがにアイスではない。これはたぶん生クリームではないか。それが分厚い肉の上で甘く溶けて、しかしヨーカンみたいに甘いのではなく、ビフテキの分厚い味と溶けあってうまいのである。なるほどねェ、と思った。聞くところによると、アメリカではビフテキにジャムをつけて食べたりするという。それはちょっと、あまりにも無謀な気がするが、しかしこのビフテキにクリームというのは不思議においしい。妙においしい。やはり、さすがは、ビフテキ委員会のビフテキである。
それからさらに二十何年かの歳月が流れたのであった。その間に私はビーフシチューというものも知ったし、ヒレカツというものも知った。シャブシャブというのも噂だけでなく本当に食したし、牛肉のタタキというものまで知った。それらのものはむかしはまるでなかったし、あったとしても、ごく一部の人だけがこっそりと知られないように食べていたのだろうと思う。
まあそれはいい。そうやってさまざまな肉の味を知りながら、正しい肉、というか、純正なビフテキというのも何度か食べた。東京だけでなく肉の本場神戸で食べたビフテキさえある。何か高級な団体の会食やその他で、値段としては相当高価なビフテキも食べているはずである。しかしこの一九六二年のビフテキ委員会のビフテキほどに、おいしくて重量感のある充実したビフテキには出合ったことがない。
これは過去への思い入れや、自分だけの何か特殊な感情で言っているのではない。そういうエコヒイキで言うのではなく、味とボリュームの総合力、そのビフテキの物理的な実力だけで考えて、本当にそれ以上のものに出合ってないのだ。
私は何ごとも科学的に検証したいので、二十何年か後のこんにち、銀座のスエヒロ本店にそのビフテキを確かめに行った。
建物はそのままだけど、内装やそのシステムなどはやはり新しくなっていた。二階の、ビフテキ委員会が大テーブルを囲んだ部屋は、当時はそれ専門のワンルームだったと記憶するが、いまはふつうの四人掛けぐらいのボックスがいくつか置かれて、一般の庶民がなごやかに食事をしている。
ではというので注文することになったが、メニューを見てハタと困った。ビフテキ委ではメニュー抜きで、ずばりと最高のビフテキが出てきたのである。それに戦後四十年の民主主義多党化時代を反映して、メニューにはたくさんのビフテキが並んでいて、どれを注文していいのかわからない。いま最高というとフィレステーキということになっているが、あれはちょっと違う。分厚さではたしかに目を見張るものがあるが、面積が足りない。大きさを気にするようだが、食べものはやはり口中粘膜の反応だけではなくて、その物体の質量も重要である。
私はマスターに二十何年か前のビフテキを説明し、それに近いものを注文した。ジューッというビフテキが運ばれてきたが、何か違うような気がした。かねてより疑問だったアイスクリーム状のものとビフテキの関係を質問すると、もちろんという感じでビフテキの上にニュッと置かれた。それはスエヒロのオリジナルで、各種調味料を調合したメンテルドバターだと説明された。
さて、というので私はニッコリとして、あるいはニンマリであったかもしれないが、私はナイフを入れた。この瞬間にむかしはのけぞりそうになったが、いまは大丈夫だった。クリームの方は、かつて、
(ビフテキにアイスクリーム……)
と絶句したほどの新鮮さとは違うもっともな味だった。それらを全部総合しておいしいビフテキだった。それ一つで一万円札が飛んでいくほどの豪華さである。申し分なくおいしい。私は冷静にそのおいしさを味わった。しかし私にはその冷静であるのが不満だった。のけぞればいいというものでもないが、しかしもう一つ何かドカンとしたものが欠けているような気がする。私はセンチメンタルになっているのではないはずだけど。
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たまにはフランス懐石
まず貧乏性のことから書かなくてはならない。お食事前にすみません。しかしちょっと一言。
日本には貧乏性というものがある。たとえば本屋で文庫本を二冊買ったとする。そうするとレジで手際よく本にカヴァーをかけて、その二冊を輪ゴムでパチンと束ねてくれる。で買った人はそれを家に持ち帰り、輪ゴムを外して文庫本を読みはじめるわけだが、問題はその外した輪ゴムである。本屋から自宅まで、軽く使われていただけの輪ゴム。外してもまだ充分に使える。引っぱればピンと伸びて、ほとんど新品同様である。そのままポイと棄てるにはあまりにももったいない。皆さんこれをどうしますか。
文庫本だけではない。スーパーに行けばパセリとかシソの葉が輪ゴムで束ねてあるし、郵便局でハガキを十枚買えば輪ゴムで束ねてくれる。そんな輪ゴムが買物のたびに家にいくつか溜って、全部新品同様。まだ棄てなくたって、そのままもう一度パセリやハガキが束ねられるわけだし、いや一度だけでなく十度でも、本当は輪ゴムというのは百度ぐらいは使えるはずだ。とっておけばお正月に年賀状を束ねておいたり、あるいはうちに大勢お客が来たとき何か一人ずつ小さなお土産を包むことだってあるかもしれないし。
そう考えて家の中の、とくに台所の、そのとくに水道の蛇口《じやぐち》のところに輪ゴムが溜る。その輪ゴムが長年の間には干《ひ》からびたり熱気で溶けて固まってしまったりして、もうこれでは使いものにならない。もったいないと思ってとっておいても、輪ゴムなんてそう使い途《みち》はないのである。
しかし、だからといって今日もシソの葉から取り外したばかりの新しいまだ使える輪ゴムを、そのままポイと棄てられるだろうか。
棄てられない。
そんな美しい日本の貧乏な性《さが》というものが、私たち日本人にはみんなある。
ないとはいわせない。みんなにあるのだ。あるけどないふりをして、中に押さえ込んでいるだけではないか。
いや非難しているのではない。そんな日本人の寄り集った日本国が、世界でも一、二を争う経済大国にのし上がっており、その遠因に貧乏性があること、それを私は評価しているのだ。
つまり貧乏性というのは、馬鹿では発生しない。利巧だからこそ貧乏性にもなる。ものごとを工夫し、未来への展望をもち、自制する心をもつものでなければ貧乏性はおこらないのである。
私は長年この貧乏性を研究しているのであるが、その世界分布の概略を記すと、自然的に食物豊富な熱帯地方には貧乏性は発生しない。生活にあくせくする必要がないし、だいいち暑くて頭がボーッとして細かいことなど考えられないだろう。一方自然的に食物の欠乏する寒帯地方では、物資をあくせくと細分化して工夫蓄積するほかはないのであるが、それは貧乏性とは違って貧乏そのものである。必要に迫られた貧乏の努力が、貧乏を超えなおあらわれる貧乏性として結実するイトマがないのだ。
となると貧乏性の発生は地球上の温帯地方となるのだが、しかし温帯ではあっても国土のひろびろとした、たとえばテキサスの大平原みたいなところでは、細かく輪ゴムを蓄積したり、あるいはブルーチップをこつこつと溜めてぶら下がり健康器と替えたりというような貧乏性は、発生のしようもないだろう。
以上の考察から、まず世界地図の熱帯と寒帯を塗り潰《つぶ》し、残る温帯から不動産大国を塗り潰す。そうするとそのあとに浮かびあがる地球上の貧乏性の濃密国家は、その一方の極が日本であり、もう一方の極にはドイツがあらわれる。そのことからまた新しい考察が生れるわけで、すなわち第二次世界大戦というのは、貧乏性国と不動産大国との……。
いや、その先は歴史家におまかせしようと思うが、この日本の貧乏性は極東という立地条件によっているのだ。大陸には文化の牧場のような中国があり、そこからスポイトのように朝鮮半島が伸びて、その受け皿として日本列島がある。この日本の状態は背水の陣といえば聞こえはいいが、ラストオーダーも終ったような定食屋の鍋底である。我侭《わがまま》はいってられない。物資は限られている。そこで少しでも豊かさを求めようとするには、鍋底に受け入れて残されたもののあれこれの編集構成、工夫利用しかないわけである。貧乏性はいやがうえにも磨き抜かれる。
日本の美はそんな貧乏性の土壌から生れたのだった。ワビとかサビの美しさなんて、熱帯の人が感受することがあるだろうか。不動産大国の人に感受できるだろうか。
活け花にしてもそうである。一本の草木から、いかに最大の美を感受するかという作法。
食べ物にしてもそうである。一つの食品をいかに最大に味わうか。だからほんのちょっとの煮凝《にこご》りがじつに巨大な容器にぽつりと入れて出されたり。
そもそも「間《ま》」というものが日本の文化的発明工夫の最たるもので、文学でも音楽でも絵画においても、その表現を支える「間」というものが一つのテーマとさえなっている。つまりそれは何もない空虚をいかに工夫してみるかというイタイケな努力の文化表現であるわけで、物資の豊富な国では「間」の美学なんて生れようがない。
で、懐石料理なのだけど、これはもはや言わずもがなのものであろう。日本美学の極点である。その美学が食べ物にまで食い込んでいるところが凄いと思う。料理に「間」というものが取入れられて、食卓の器の中はほとんど隙間だらけだ。正しい懐石料理のフルコースを全部寄せ集めてみたら、せいぜいドンブリ一杯ぐらいに収まるのではないか。
いまは日本の食生活も西欧化して、私は正しい懐石料理なんて食べたことがない。しかし考えたら終戦直後というのは、家庭料理がいつも懐石料理の連続であった。大きな皿に佃煮《つくだに》がちょっと、漬物がほんのちょっと、白飯にしても茶碗の底にほんのわずか。あと食卓には空虚がいっぱい。
しかしあれは懐石料理というより精進料理か。
ところで昨年のことだ。フランス人の来客があり、せっかくだからというので日本酒とちょっとした日本料理を出した。話は芸術のことだったのだけど、フランス人は出された日本料理を見て、
「ソウイエバ、最近フランスデハ、日本式ノ懐石料理ガハヤッテマス」
と言うのでハッとした。私の頭に、理解よりも先に納得が、瞬間に生じたのだ。やっぱりそうか、という感じもあった。フランス料理といえば手がこんでいて、しかもフルコースともなると猛烈なボリュームである。とても全部食べきれたもんではない。それがわかっていてなおもどっさりと出てくるところが、フランス料理のプライドだろうと思っていた。中国料理にも似たようなところがある。
ところが時代が変ったんですね。
物資豊富の文明社会が飽和してしまうと、ボリューム・イズ・ビューティフルではなくなったのだ。せっかくのおいしいものが、むしろそのボリュームによってヤボいものになりかねない。地球上の人口密度のどん詰まりを知ってしまったこんにち、むしろ質素で禁欲的なスタイルこそがイキなものとして、人類の先端部分に感覚されているのである。というよりも環境保護と省エネルギーはもはや人類逼迫の条件であり、極東のどん詰まりで貧乏性を発生させざるを得なかった日本国の体質に、やっと全世界が落ち込んできたというべきだろう。日本国のスシ、ショーユ、カイワレ、トーフといったものがアメリカをはじめとする西欧諸国に受け入れられてきているというのは、それなりに理由のあることなのである。
そしてカイセキである。お待たせしました。懐石料理だ。それもフランス懐石。
銀座の清月堂に、フランス懐石を食べに行った。最近は東京にもフランス懐石を名乗る店が何軒か出来ているが、清月堂はその老舗《しにせ》だということで、もう七年ほど前からその呼称を使っているという。
私は取材だからファーストクラスのものを注文した。自分の現金払いであれば、ファーストになっていたかどうか……。
というと何だかやましい態度のようだが、そうではない。この取材というのがじつは棄てがたい態度なのであって、フランス料理はみんな取材で食べるべきだ。
と悟ったのだが、いきなりではわからないだろう。ちょっと説明しよう。みなさんはフランス料理といったとたんに目をつぶってひれ伏してしまい、
(高級! 豪華!)
と心の内で叫んでいるはず。
いや隠さなくてもいい。この一世紀もの間を西洋コンプレックスをもって生き抜いてきた国民にとって、それは当り前のことなのだ。
私は隠さずに言うが、西洋料理の、とくにフルコースというのはただの緊張の儀式である。ナイフやフォークやその他金ピカのわけのわからぬ食器類がいくつも並び、それを見ただけでも無知がバレるみたいで失神しそうになる。それを防ぐには回りの人のやり方をマネするしかないので、自分からは先に手を出さないように気をつけながら、
「いや、それは同感です。やはり日本人のアイデンティティは……」
とか何とかその場の話に熱中して料理なんてまるで忘れているふりをしながら、誰かが先に手を出すのを待つわけである。
だからそういう自信のない人ばかりのときはみんなが牽制《けんせい》しあって、食事がぜんぜん進まないこともある。そうなればフランス料理を口に入れたって、口の中にも冷汗が流れているからおいしくも何ともないし、むしろまずい。こんなことならアジの開きにホーレン草の方がよほど良かったと、日本人の全員が本当はそう思っている。
それでも若いころはスノッブのあまりに難解なフランス料理を有難がったりしているけれど、そんな若さもとれてホンネの人物になってしまうと、難解であることを有難いとは思わなくなる。つまりフランス料理のカマシが効かなくなるのだ。
だからこの清月堂のフランス懐石に、私は平常心をもっておもむいた。まして取材のためであるから、並んでいる難解そうな食器類についても、
「これは何に使うんですか?」
と正直に訊いた。そうするとボーイ長が、
「これはABCのお料理のときにXYZをしていただくわけで、VHSでも構いません」
なんてハッキリ教えてくれてこれが気持いい。取材心が満足する。だから料理そのものについても、
「そうするとこのグリーンアスパラの回りにかかっているのは?」
「それはムースリーヌソースでして、植物の光合成を円周率の二乗で割ったものに塩胡椒してから……」
というわけで、具体的な説明が得られてその料理に対する理解が深まる。これがいいのだ。理解すればそれを味わう意欲も出てくる。難解を前にして硬直していた気持が「食べよう」という本来の前向きの姿勢になってくるのだ。
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で、ハタと考えたのだけど、高級フランス料理はみんな取材で食べるべきだということ。国民全員に取材費は出ないだろうが、自分の現金払いであるにしても取材記者のふりをして、全部の料理を質問しながら食べていく。そうすると軽く当てたつもりがグーンと伸びてホームランになるみたいに、力まずに料理本来の味が引き出せると思うのである。
だから今回のこの取材で食べたフランス懐石はおいしかった。
「海の幸の盛合せ」にはじまり、先のグリーンアスパラのあと「帆立貝レーズンソース」そして四番バッターの「オマール海老のフリカッセ、ソーテルヌ酒風味」さすがはと唸るほどの名前で、しかしこれがザックリとした豪快な味。そして口休めの「シャーベット」のあと「ヒレビーフ・グリエ、モリーユ茸ソース」が五番バッターとして走者一掃の大量得点。大満足した私は、もはやそのあとの「スフレ」「ショートケーキ」「コーヒー」などのデザートはギブアップしてただ眺めるほかはなかった。
フランス懐石といってもボリュームの総体は貧乏性を打倒してしまうものであったのである。
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ジャイアンツVS.シュウマイ
ビールを飲むなら、私は枝豆とジャイアンツがいい。ジャイアンツというのは巨人軍のことだ。できれば巨人・阪神戦がいい。そしてできれば中盤に七対二ぐらいで巨人がリードしていて、生ビールはさて、ジョッキ二杯目にいこうか、なんて感じは申し分ない。
あ、ひょっとしてこれは阪神ファンの心理を逆なでしたかもしれないが、他意はない。他意なんてぜんぜんなくて、これはたんに巨人ファンの立場で書いたのである。阪神ファンであれば、十五対〇ぐらいで阪神がリードしていて、バースが四打席連続ホームランでいよいよ五打席目、ちょっとジョッキ二杯目いこうか、なんてどうだろうか。気持いいでしょう。バースはもういないか。
まあファンによっていろいろだから、人によっては中ジョッキにロッテ・日本ハム、フライドポテト、生ハムもいってみようか、なんてなるかもしれない。
しかし生ハムとなるとちょっと高級で、そちらにウェイトがかかりすぎる。野球への関心がナオザリになる。やはり枝豆ぐらいがいいな。ビールに枝豆に巨人・阪神。しかもこの場合、生ハムじゃないが巨人・阪神戦をナマで。
私の子供のころはラジオだった。ナマでなんてとんでもなかった。プロ野球をナマで見る、ということを考えただけでもう目が潰れそうなことだった。九州の大分に住んでいたのだ。
当時そこに一度だけきたのは阪神・南海のオープン戦だった。阪神に藤村《サード》、土井垣《キヤツチヤー》、若林《ピツチヤー》らのいるころである。南海には山本《サード》(鶴岡)一人《かずんど》がいた。これは大変な人々である。ナマの名球会というか。
当時ジャイアンツには川上、青田がいて、二十五本ずつでホームラン王になったころだ。千葉二塁手や白石遊撃手もいた。本当はそのジャイアンツをぜひとも見たかったのだけど、人生はなかなかうまくいかないものである。
しかしそのオープン戦でのプロ野球というものをしっかりと見て、それを一滴も漏らさぬように記憶に貯蓄し、その上でラジオの実況を聴くのだった。
ほかにも新聞のスポーツ欄に載ったわずかな写真をしっかりと記憶にとどめた。たまにこっそり大人のマネをして本屋で立ち読みなどをしたときは、いろんな選手のフォームを一網打尽に記憶にとどめて、それでラジオの実況を聴くときに、なるほど、あの投手のあのフォームがいまはこうなってるんだな、と四次元的に想像するからそれはもうテレビ以上だったかもしれない。
しかしそうはいってもそのラジオというのが雑音だらけで、試合が九回裏の二死満塁で盛り上がったりするとアナウンスも歓声も音量増大、雑音はいっそう激しく、アナウンサーの声は鶏がしめ殺されたみたいに聞こえるばかりで、もう何が何だかわからなくなる。だから慌ててツマミをいじったり、角のところを叩いたり、ラジオをちょっと横向きにしてみたりする。ラジオの裏側の何かわからないところをいろいろ触ると急によく聞こえたりすることがあり、それは人体がアンテナだったかアースだったかになるためらしい。だから以後はそこにじっとタッチしたまま聴くわけだけど、そういうときのラジオは兄やその友だちなど年上の人々の支配下にあるので、こちらは聴きたい一心でそのタッチ係となっている。しかしラジオの裏側の何かむき出しの金属部分なので、ちょっとでもほかを触るとビリリと感電しそうで、その指定の箇所だけを緊張してタッチしている。そうやって、
「さあいよいよバッターは四番、川上哲治……」
なんて聴いているのだから、それは本当に命がけの実況放送だった。だからビールとか枝豆どころではない。もう口はカラカラであり、耳に聞こえるプロ野球のみの時間だった。
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そういう苦しい時代を生き抜いてきた人間だから、世の中にテレビが出来て、それがカラーになって一般に普及してきてそば屋でも見られるようになったときなど、まるで神の恵みが本当に地上にまで降りてきたようで、人間の社会を見直したものである。
で、いまはご家庭で落着いてテレビを観ながら枝豆に巨人・阪神ということになった。これがもう当り前のことなのである。
しかし当り前になってみると、テレビというのは小さいなあ、と思う。選手の顔とかそぶりというのはよく見えるけど、何となく箱庭の模型みたいだ。
はじめて球場に行ってナイターを観たときの感激は忘れられない。後楽園球場の巨人・阪神戦だった。五年前のことだ。このときはじめてプロ野球の公式戦をナマで観たのだから、ずいぶん禁欲の時代がつづいたものである。
コンクリートの階段を昇って観覧席に出ると、目の前がすーっと開けて、いきなり広いプールに飛び込んだようだった。体が水着ひとつになったみたいにウキウキしてくる。青い湖のようなグラウンドを無数の観客がぐるりと取り囲んで、遠くの方は豆粒みたいになっているので、その距離感に圧倒される。もう夜になりかけているのに、空はまだ青くて、人工の光の下でユニホームを着た選手たちがぽつん、ぽつんと立って、本物のボールを追っている。夢のような空間だった。
そのときは王選手が同点ホーマーを打って、巨人・阪神は引き分けに終った。それ以後も球場には何度か行くようになったが、巨人がスカッと勝った試合にはめぐり合ったことがない。いつも敗けるか、勝つにしても西本が投げて二対一など、そりゃあたしかに敗けるよりはいいが、しかし点数で勝てばいいというものではないだろう。
こういう話をすると、
「そうなんだよ」
と答える友人が案外いる。テレビで観ているときはいいのに、球場に自分が観に行くと必ず敗けるというのだ。意識のしすぎでそう考えてしまうのかもしれないけれど、ヒイキというのは反動となってあらわれやすいのかもしれない。
しかしそれでもやはり、ナマというのは凄い。ご家庭のテレビとはくらべものにならない。
で今回は横浜球場だった。夏のビールを飲みたくて横浜球場へ行ったのである。巨人・大洋戦だ。
本当は後楽園球場でもよかった。神宮球場でも文句はいわない。いやビールだけというならニュートーキョーとかライオンとかそういうビアホールでもいいかもしれない。しかしせっかく現代の極東のこの資本主義国に生きているのだから、やはりビールはぜひともナイターのナマの球場で飲みたいではないか。
社会主義になると野球ができなくなる、という発言もあったりしたが、その言葉を誰が笑えようか。
いけない、話がそれた。とにかく生ビールにはナマ野球が最高である。贅沢である。
横浜球場にしたのはうちに近いからだ。それだけでなく、ここにはビールのほかにシュウマイがある。横浜はシュウマイの町である。横浜球場自体が円形でシュウマイみたいだ。球場のフチに辛子《からし》みたいなお兄さんたちがついている。パンチパーマをかけてアロハシャツに白い靴のダフ労働者。
「ハイ指定席あるよ」
「ネット裏あるよ」
「もう切符ないとはいれないよ」
「ハイ余った切符ないかな」
つまりダフ屋のお兄さんたちだ。駅からの人の流れが全員球場に向かっているのに、ポツン、ポツンと反対向きに立っている。横浜にかぎらずどの球場にもついているけど(川崎球場は知らない)、私はあれを見るたびに、もし切符が売れ残ったらどうするのだろうかと思う。仕方がないから売れ残りの切符で自分がはいって、その座席でじーっと野球を観るのだろうか。
さて巨人・大洋戦である。巨人はカムストックで大洋は遠藤。三塁側から見ていると遠藤は迫力がある。猛烈にスピードが速く見える。いやじっさいにも相当速いのだろうが、遠藤のようにオーバースローのピッチャーは横から見るととくに凄いと思う。テレビだとピッチャーの後から縦方向に見ることになり、球スジというのはたしかによくわかるが、スピードはあまり感じられない。
だから球場でもバックネット裏の観客席は、値段は高いのだろうがちょっとテレビみたいでつまらない。毎日のように野球を観ているグルメっぽい人が観るには球スジなどわかっていいだろうが、それ以外は両翼にかぎる。投球だけでなく、ホームランの迫力が違う。後からだと、あ打った、あ入った、というデジタル表示みたいなことになるが、横からだと、うおっ、うおっ、うおっ、うわあ、本当に入った……、ということになる。
しかし横からでも巨人の斎藤のようにサイドスローのピッチャーは迫力が減ると思った。水平に投げるので、投げる腕が体のシルエットの中に消えてしまう。体からボールだけが出ていく感じ。
さてビールだ。
「えビールいかーすか」
というような発音で若い男が売りにくる。旅行が新幹線になってから駅売りの弁当屋の風情というのは味わえなくなったが、それが球場に残っているのだ。
「シュウマイ弁当いかーすか」
これがやはり横浜球場の名物である。最近は一村一品運動というのが盛んであるが、横浜はもうずーっと昔から何故かシュウマイだけは作っているのだ。
枝豆はなかった。後楽園や神宮などでも、
「えー枝豆いかーすか」
というのは聞いたことがない。ビールがあるんだから、やはり枝豆がないと片手落ちだ。たとえば枝豆をちぎらないで枝ごと塩ゆでにして、一枝いくらという具合に売って歩いたら、これはナマの球場にふさわしい豪快な感じでいいと思うのだけど。枝にほかのオツマミもおまけで結びつけて売るとタナバタみたいでいい気分だし。
球場ではあとチクワとか、ウイスキーの水割り、お湯割り、ホットドッグ、幕の内弁当、コーラ、コーヒー、ジュース、応援のメロディの吹ける笛、とにかくいろいろ売りにくる。
一瞬、国技館の升席にいるような気持になった。このスポーツは観ることもかんじんだけど、飲み食いもかんじんなのだ。
前から日本人が野球好きなのは不思議なことだと思っていた。しかしもう一つ日本人の好きな相撲と並べてみるとわかるのである。野球というのは新しいスポーツみたいだけど、選手が一人ずつアナウンスされてバッターボックスに入るところは、
「やあやあ我こそは……」
と名乗りを上げる昔の合戦にそっくりで、相撲によく似ている。カウント、ツースリーまで仕切り直しがあるところも相撲にそっくり。バッターやピッチャーがグラウンドの自分の足場をゆっくりと固めるしぐさなど、これもまた相撲にそっくりではないか。プレーとプレーの間にゆったりと間《ま》があって、両チームの作戦や選手のことなどをあーでもないこーでもないと脇から評論しながらのあのリズムというのが、またこれは相撲にそっくりなのである。
その間というか、ゆとりのところにどうしてもビールがはいってくるのであって、ナイターは最高のビアガーデンである。青空が次第に星空に変っていくところがまたたまらない。そういった空間環境そのものに魅せられてしまって、勝ち敗けはどうでもいいような気持がひそかに生れるところの余裕がまた素晴しい。
といろいろと自画自賛しながらビールとシュウマイをやっているうちに、大洋の加藤が二塁打性のヒットを放ち、それが三塁打になり、そのままなおも走って、あれよあれよという間にランニングホームランとなってしまった。貴重な目撃であったが、巨人は結局三対一で敗けてしまって、やはりどうもいけない。
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ガムをくれる料理店
アメリカ人はどうしてあんなにガムが好きなのだろうか。くんにゃん、くんにゃんと噛《か》んでいて、何か口の中で英語の練習をしているように見える。英語というのは何か舌をべろべろさせながらいいかげんな気持で発音するといいみたいで、そのためにはガムを噛んだりするのはいいのかもしれない。シャツのボタンも二つか三つ外して、さらに襟《えり》を立てたりすると体つきがくんにゃん、くんにゃんとなって、英語の発音もよくなりそうだ。
アメリカ人でもとくに野球をやるアメリカ人がガムを噛むのが好きみたいだ。バットを振るよりもガムを噛む方が大切みたいに、猛烈に噛んでいる。しかも西武ライオンズのスティーブなんか物凄く大量に頬張っていて、頬張りすぎて噛みにくいほど。あれはまるで食料だ。ベンチで丼飯を食べていて、打順が来たので最後に残った飯をガーッと頬張り残ったタクアンもバッと口に入れて、それをうまく噛んでちょうどいい味にしながらバッターボックスに立っているのではないのか。
あれではバッターボックスでお茶が欲しくなる。
しかしああいう外人選手を見ていると、もう大量のガムを噛むのに忙しくてバッティングどころではなくなり、でもいちおうは契約金をもらってるからバットを振るぐらいは振っとかなきゃ、というんで適当にビュッと振って、ところがそんな振り方だから力みがぜんぜんなくて、だから簡単にボールに当ててポーンと外野席まで運んでしまう、ということになるような気もしてくる。
アメリカ人の、とくに野球選手がガムを噛むのだとすると、それは言えるのかもしれない。スポーツといってもボクシングでは試合中にガムは噛めないだろうし、ラグビーとかアメフトでもガムは噛めんだろう。テニスでも見ない気がする。ゴルフなら噛むかな。
どうか知らないけれど、とにかく野球というのは時間的に余裕のあるスポーツだから、ついあれこれと考えすぎる。で考えすぎて固くなるのを防ぐために、ガムを噛んでリラックスする。ということだろう。
その点では日本人も同じだけど、日本人でガムを噛む選手はほとんど見ない。そこまでアメリカナイズはできないよ、というのかもしれないが、でも野球だから時間の条件は同じことだ。だから阪神タイガースの掛布にしても本当はガムを噛みたいところだろうが、ガムの代りに指先でズボンの皺《しわ》とかシャツの皺とかヘルメットの庇《ひさし》とかに触ることで何とかしのいでいる。あれはアメリカ人から見ると、掛布選手はズボンの皺やシャツの皺にガムをセットしている、と思うかもしれない。
ところで外人選手でもピッチャーはガムを噛まないみたいだけどどうだろうか。やはりピッチャーはいつも投げるのに忙しくてガムどころではないのかもしれない。投げてバントされた拍子に飲み込んじゃったら怖いような気もする。
さてそういうガムであるが、日本人がふつうに噛むようになったのはいつごろからか。
ガムは戦後になってアメリカ兵が持ち込んできて「ヘーイ」と群がる子供たちに面白がってバラ撒《ま》いていたというのだけど、私はもらったことがない。だけど同級生がそのもらったのを遠足に持ってきて得意そうに噛んでいた。それをみんなで寄ってたかって替りばんこに噛ましてもらった。ガムの回し噛みである。私は最後の方でそのガムを借りて噛んだのだけど、もう味なんてぜんぜんなくてまずいので、その借りた人に口から出してすぐ返した。それが私のガム初体験である。大変な時代だった。
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いずれにしてもそうやってガムは日本にはいり、そのうちふつうの顔をして駅の売店でも売るようになり、そしていまでは焼肉屋でお勘定のあとお釣りといっしょにガムをくれる。
私が焼肉屋ではじめてガムをもらったのはいつごろだろうか。意外とそんなに昔ではない、ここ六、七年のことではないだろうか。お釣りといっしょにガムを出されたときはハッとした。え? と思い、なるほど……、と納得した。サービスとしてじつに的を射ている。お勘定をすませた後の、あの現金を入れる丸いお皿のイボイボのところにお釣りといっしょにそっとあると、何か凄くトクをした気になる。ビフテキを食べてもこんなことはないし、餃子《ギヨウザ》を食べてもこういうことはない。
焼肉というのは私には身近なご馳走である。同じ肉でもビフテキとなると盆と正月みたいな感じであるが、焼肉はそんなに大げさでなく、日曜日くらいの感じなのだ。
とくに私は風邪を引いたりすると、すぐに理由ができたみたいにして焼肉を食べに行く。あれを食べるとむしょうに体力がつく気がするのだ。じっさいにつくのだろうが、それよりも体力がつく「気がする」というのが重要だと思う。火に肉をのせてジュージュー焼いて、焼きすぎにならぬように慌てて頬張り、つぎの肉をちょっと引っくり返して様子を見たりしながら、その間に白いご飯もちょっと頬張り、しっかり辛いキムチを口に入れて、弱みを見せたらよけいに辛くなるとばかりにザクザク噛んで、そうやって煙に眉をしかめながら食べていたらもう風邪どころじゃないという気になってくるのだ。
日本人の肉食の歴史は浅いらしいが、焼肉が好きな人は多いと思う。朝鮮料理の焼肉をこんなにおいしいと思うのは、やはり醤油のせいだと思う。同じ肉でもヨーロッパの何か白いものでクニャクニャにした料理というのは、無条件においしい、とは思えない。西洋コンプレックスがあるお蔭で何とか食べている。それはそれで楽しいことでもあるのだけど、焼肉の場合は黙っていても舌と胃袋が喜んでしまう。体がそのままウマイと思うわけで、料理評論家の必要がないのだ。
それはやはり醤油の媒介があるからではないか。あるいはもう少し詳しく、醤油と箸といってもいい。
たとえば湯豆腐である。お湯の中にふわりと揺れる白い豆腐をパチンと割った割箸の先で挟み上げて、ネギとカツブシを入れた醤油にチョンと付けて口に入れる、この瞬間に、思想も何もなく私は、ああ日本に生れてよかったと思う。いや、東洋というべきかもしれない。西洋の人にこの湯豆腐の幸せがわかるだろうか。醤油ぐらいは貸してあげてもいい。しかしナイフとフォークで湯豆腐をいったいどうするのだ。
つまりこれは鍋物の幸福は箸の民族にしか味わえないということなのだけど、ちょっとこれは口がそれた。
いずれこの先でテーマとして追求する。
とにかくそういうわけで、朝鮮料理はおいしい。焼肉はもちろんのこと、ビビンバ、コムタン、クッパ、ナムル、チゲ鍋、キムチ。
このキムチというのがどうしても日本にはない発明品で、夏にいい。たとえば暑くて食欲がないから体が弱る。こりゃいけないと頭で考えて焼肉を食べたりするとき、このキムチをちょっと食べるとがぜん食欲が出てきて、頭どころか胃袋の方が先になって焼肉を食べてしまうわけだから、ほとんど夏の必需品だ。
このキムチが韓国の家庭では白菜の中にもっと日本では考えられないようないろんなものを入れるそうで、それが漬かるともう驚異の美味になるというが、これは聞くだけでも羨ましい。
でもそれを一度食べたことがある。私の兄が新宿の会社に勤めていたとき、いつもその仲間たちが帰りに寄る焼肉屋が西口にあった。回りがどんどんビルになるのにそこだけ戦後のバラックが残されたような小さな店で、ところがここがいつも満員。たまに暇なときはご主人が毛筆を手にハングルや漢字でメニューを書いたりしていて、その見事な達筆を見ると、生粋の郷土料理という感じがあふれて迫力がある。
その店に暮に寄ったのだ。もう大晦日《おおみそか》も近い日の夜遅く、年内最後の営業だという。それは運がよかったと、兄たち数人でちょっとビールを飲んで料理を食べた。いつの間にか外の電気は消してカンバンになっているらしいのだけど、兄たちはお馴染《なじ》みなので大目に見られている。そのうちもう店仕舞いしたのだからと、向うのテーブルで店の人たちの晩餐がはじまった。何か見馴れぬ料理もあるようでチラッと気になったりしていると、おばさんがふとご挨拶という感じで、
「あのう、これは店に出すもんじゃないんですけど……」
と何かどっさり盛ったお皿を持ってきた。キムチのようだけどちょっと違う。ところがやはりキムチなのだけど、赤味の混じる白菜の間に昆布のほかにも何かいろいろなものが挟まっていて、その中に何と、生《なま》牡蠣《がき》が入っている。
まず驚いた。冬だとはいえ生牡蠣を入れるとは、これは凄いことをするもんだと思い、白菜とともにおずおずと口に入れると、これがもう……。
うまい。こんなうまいもの、本当にはじめて食べた。キムチは辛いものだけど、辛さというのが味の一部であって、あと甘くて、じつにコクがあって、白菜が絶妙にサクリとして、生牡蠣なんて生臭いのではないかという不安が口の中で見事に溶けて消えていった。素晴しい冒険と蓄積の味。
あとで韓国で暮したことのある四方田犬彦さんにこのキムチのことを話したら、
「いやあ日本のお店でそれを食べられるというのはまずないはずですよ」
と言われてよけい嬉しくなった。もう一度それを食べるために、そのうち玄界灘を越えたいと思う。
兄はもう何度か韓国へ行っていて、その最初のときホテルの朝食に感動して写真に撮ってきた。それを見せてもらったが、お盆の上に小さなおかずの皿が十いくつも並んでいる。兄によるとそれは特別に豪華な料理ではなくて、日本でいう家庭料理の、たとえばホーレン草のゴマ和《あ》えとか、キンピラゴボーとか、切干大根の煮物とか、そういったようなものが小皿でずらりと並んでいるのだという。それを感動のあまり食べる前に立ち上がって写真に撮る姿というのは、想像するとおかしくなるが、気持はわかる。私もそうするだろう。見たところ好きなものばかりで、むしろ全部食べきれなくて悩むのではないか。
ああ食べ物の話はきりがない。
いちど麻布近辺の本格的な朝鮮料理店に行ったことがある。ここではふつうよく行く焼肉屋とは違って、何かハッとするような料理が出てきて、一段とまた複雑な味がした。しかしもう一つハッとして気がついたのだけど、帰るときにガムをくれない。
これは考えてみて何だかおかしかった。たしかにそういう「本格的」なお店で、いまさらガムでもないだろう、という気もする。
ところがこれも最近気がついたのだけど、このところあちこちにちょっと洋風な朝鮮料理店とか、かなり本格豪華風の朝鮮料理店というのがふえているようだけど、そういう店では帰るときに、ガムをくれないのではないか。それもあえてガムを出さない、という感じがするのではないだろうか。いやこれは全部調べたわけではないからわからないが、何かその、あえてガムを出さないことによる「本格」の表現、といったものを感じたりする。
そのことで私は一円玉を思い出すのだ。スーパーなどでは少しでも安く見せるために「四九八円」というような値段がある。ところが最近はその一円玉のお釣りがむしろしみったれたイメージだというので、一見豪華風に「五百円」というようなチョッキリ値段というのが流行《はや》っているのだ。それを思うと、あの底にイボイボのある丸い皿にお釣りといっしょに出てくるガムも、いずれは引退するのだろうかと、私は複雑な思いでそのガムを噛むわけである。
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肌をさすグルメ
さて第十回である。この論考も一つのクギリを迎えたところで、食べ物とは何かということを、もう一度深く考えてみたい。
最近の世の中にはおいしそうな物が満ちあふれているので、おいしさとは何かということがわからなくなっていると思う。わかるのは「おいしそうだ」ということだけで、おいしいかどうかの実感的判断は消えかかっている。おいしさというものを商業的に供給し過ぎた結果、目と口が麻痺してしまっているのだ。このような世の中でなおもおいしさを論じることは、すでに自然感覚を離れた言葉の上の遊戯であって、それは食べ物をめぐるデータゲームに過ぎないと思う。
というところで食べ物とは何か、それを味わうグルメの極北とは何かと考えるとき、それは点滴である、と私は結論する。
点滴である。腕にする養分の注射。
かつて人々はイワシやホーレン草を口で噛んで飲み込み、体内の胃腸の働きによって養分を摂取していた。その食事の手続きを一切省略して、一本の注射によって水分や養分を体内にじかに入れる、ダイレクトグルメ。
いまはまだ病院でしかおこなっていない。物理的に口や胃腸の使えなくなった患者だけが、その特典にあずかっている。しかし私たちはすでに目や口が麻痺しているのだ。おいしさというのがいまは言葉やデータの上でしかわからない。そういうほとんど患者といえる現代人が、なおもグルメとしての本道を極めようとするとき、点滴に向うのを誰も止めることはできないのではないか。
点滴の最高峰といえば、やはり大学病院だろう。東大病院の点滴の味は、辛口か甘口か。慶應病院ではどうだろう。さっぱりとした味、あるいはマイルドな味とか。警察病院の点滴はハードで甘さを押さえているとか。いや何といっても通は東京逓信病院を好むとか。むしろ東中野の駅前の小松病院がいい味を出しているとか、いろいろありそうである。
「あそこの点滴はコシがある」
という言い方もあるかもしれない。
「あそこの点滴は明くる日ちょっと体にもたれるな」
という発言もあり得る。
「あそこは点滴の大盛りを出しているところがいい」
「あの病院はこんど増築してから、ちょっと点滴の味が落ちたと思わない?」
といった点滴の評判がグルメの間で盛り上がる一方、自宅でおこなう手作り点滴というのもあらわれてきたりして、
「ぼくはね、カルシュームをちょっと強めにしたリンゲル液が大好物です」
「私はミネラルをプラスしたハルトマン液の一本やりですね」
「なるほど、私はやはりアミノ酸が欠かせません」
「まあ点滴のうまさというのは塩分と電解質をからめた水分バランスでしょう」
という具合にダイレクトグルメたちのウンチク競争がかまびすしい。
と、これは冗談の力を借りた話の展開であるが、目的は冗談にあるのではない。食べ物の極北とは何かということ。
私が点滴をはじめて知ったのは小学生のころだった。戦争がはじまったばかりなので、まだ内地[#「内地」に傍点]ではそこそこの平和が保たれていた。そのころ九州の大分に住んでいた我家に伯母さんが遊びにきて、病気になった。伯母さんはお座敷に蒲団を敷いて寝込んでしまい、お医者さんが診察にきた。見てはいけないと言われた襖《ふすま》をそうっと開けてのぞいてみると、枕許に金属の棒が立っている。その先に太いビンがぶら下がっていて、そこから細いチューブが伸びている。それをたどって見ていくと、先の方についた針が伯母さんの腕に突き刺さっている。
凄い注射があるものだと驚いた。私は喧嘩のできない弱虫だけど、注射のときに泣かないというのが誇りだった。それでもこの超極太の巨大注射にはおそれおののき、針の先が腕を突き抜けて背中にまで達しているのではないかと思ったほどだ。
その点滴を自分の腕にやったのは、二十二歳のときだった。点滴を受ける条件の一つ、十二指腸潰瘍になったのである。十八のころからチクチクとした自覚症状をもち、その後三年四年と苦しみを重ねて、しまいには胃の痛みで夜も眠れなくなり、全身から脂汗がにじみ出て、ついに黒便が出た。ほとんど江戸むらさきのような漆黒の便で、内出血の固まりである。レントゲンをのぞいた医師は即刻手術を命じた。入院した手術台で二時間の格闘の末、腹部を三十センチほど切り開かれて、全身の孔《あな》という孔から、脂汗と、涙と、鼻汁と、ありとあらゆる体液が震えながらしみ出した。その結果悪い胃袋の三分の二が切取られて縫合された。あとはもぬけの空の丸太棒だ。この状態ではご飯というものが食べられない。おかずというものも食べられない。明くる日、むかしの伯母さんの病気で見たことのある太いビンの注射があらわれた。
ここでやっと点滴である。
ご馳走のおいしさを知るには必ず空腹が必要であるように、点滴のグルメにはこれだけの長い年月と苦しみが必要なのだった。私は細い体で、呆然としてその点滴を味わった。針は腕に刺してしまえばあとは痛くない。点滴をしている間は針が外れないように、刺したところをテープで貼って留めてある。ベッドの脇に立てた金属の棒の先には伯母さんのときと同じような太いビンがぶら下がっている。そこから長く垂れた細いビニールパイプの中間のところに、中継地点のカプセルがある。直径一センチほどの透明なカプセルで、その中を液体が一滴ずつポトリ、ポトリと垂れている。それを見て、看護婦たちは点滴のスピードを調節している。おそらくそのカプセル内で水滴の落下する光景をシンボルとして、これを「点滴」と称しているのだろう。
さてその味であるが、私の腕には味覚がないのでよくわからなかった。ただ自分は胃を切除された身柄であって、その人体が腕に刺した注射針の先から養分を摂取しているという知識があるので、そのカプセルの中をポトリ、ポトリと液体が垂れる眺めは、もはやおいしさもまずさも超えてしまった落着きというか、満腹感が無数の点に分解されて、それが粉末状に全身にばら撒かれているような気持になった。
しかしその液体が何であるのかということがわからない。食事の代りのものだから、ご飯とおかずと味噌汁とお茶と果物を全部ドロドロに溶かして液体にしたものだろうか。それにしてはずいぶんキレイで透明である。二日目のとき回診にきた医師に訊いてみると、医師はどう説明しようかと考えてから、
「これは塩水《しおみず》ですよ。まあ、海水みたいなもんです」
と言ったので驚いた。その驚き顔を見て医師はさらに、
「要するに人体に不可欠なのは水です。それと塩分。その塩分の濃度というのがちょうど海水ぐらい。要するに人間の体は海水で満たされているんです」
と付け加えた。さらに、
「まあ人間というのは、生き物はみんなそうだけど、もとは海から生れたもんだからね」
と背中で言いながら医師は去った。これは私の人生の中でも大変にショックな出来事だった。生命の発達の歴史は学校で教えられていたはずだけど、まるで頭にはいっていなかったのだ。それがいま海水になって、頭にではなく体の中にはいってきている。私はそのポトリ、ポトリと垂れる液体を眺めながら、何億年もの圧縮された時間を体の中でほぐしているようだった。
考えてみれば、食べ物を食べるというのは地球上での最近のできごとである。もとは海の水の中で、単細胞が漂っていたのだ。それを人体の形に押し固めて陸に上がったのが人間だから、体内に摂取する食べ物の原形は海水であって不思議はない。
このグルメの極点である点滴を、私は数日つづけておこなったと思う。それからまた医師の指令によって口からオモユをすすりはじめ、オカユを食べはじめ、そしてご飯を食べはじめてまたふつうになった。それからはまた納豆を食べたり、目玉焼きを食べたり、野菜炒めを食べたり、牡蠣《かき》の土手鍋を食べたり、松茸のドビン蒸しを食べたり、にぎり鮨《ずし》の特上を食べたり、フランス懐石のフルコースを食べたり、一万円のビーフステーキを食べたり、そうやって次第に目や口が麻痺した患者となって、ついにまたいまはダイレクトグルメの点滴にたどりついたわけなのである。
(画像省略)
しかし私はいま胃腸が悪くない。ときどき下痢をしたりもするが、手術をするほどのことはない。肝臓も同じ。腎臓も同じ。点滴をするほどの病気をいまはもってない。だからグルメの窮極の点滴に想いをめぐらせながら、それを体で味わえないでいる。何とかならないのか。
隣り町に大学病院がある。ここの点滴はおいしくて有名である、かどうかわからないけど、私はそこで人間ドックに入ったことがある。フルコースだった。でも一日コースなので、まあサービスメニューといったところか。お昼に点滴が出るのかと思ったが、病院内のレストランでふつうのランチだった。三日コースとか一週間コースという豪華メニューになると点滴もメインディッシュとして組み込まれているのだろうか。その点滴も好みによってウニ的なものとか、トロ的なものとか、イクラ的なものとか、選べるのだろうか。そもそも点滴とはどういうものなのか。
この病院の山本記顕先生に訊いてみた。
点滴のことを正しくは「輸液」というらしい。成分は水がほとんどで、あとは塩や栄養素がわずかに含まれている。メニューは数種類に分かれていて、まずは生理食塩水。これは人間の血液濃度と同じで、海水よりは薄いらしい。これにカルシュームとかカリュームを加えたものをリンゲル液という。そしてミネラルを加えたものがハルトマン液。さらに五%糖液と同じく二〇%の高濃度のものとあり、メーカーとしてはテルモ、森下薬品、その他さまざまなブランドがあり、やはりいろいろとグルメの道は深いようだ。
これを例のビンから伸びるビニールパイプで注射するわけだが、皮下注射と静脈注射とがあり、中心静脈への注射となると血管の中に細いビニールパイプを挿入し、それを押し込んで心臓まで届かせたところで注入するというから凄い。ディープスロートというか、そのおいしさに心臓が震えそうだ。
点滴の歴史は意外に古く、一六六二年に動物実験の記録が残されているという。
一六六七年には小羊から人間に輸血をしている。おそらく死んだだろうという。いまそんなことをしたら殺人事件だ。しかし当時は無知だったのだ。死にそうな人を何とかしようという気持の手探りで、輸血ということを考えたのだ。
十九世紀になってコレラ患者に食塩水を注射している。これも成功の記録はないが、海水に近づいてきている。
一八四三年には糖液で動物実験をしている。
一八七三年にはコレラ患者に牛乳を注射している。これは凄い。牛乳なら何とか体の中にはいるだろうと、何となくうまくいきそうなところが凄い。これも当然死んでいるはずだという。これもやはり絶望的な患者を何とか救いたいという思いで、液体食品の牛乳に目がいったのだろうという。若き人類の悲しきダイレクトグルメ。
一八九一年には食塩水を注射している。
一八九六年にはブドー糖を注射。
一九一四年にはタンパクを動物に注射。
一九一五年には脂肪を動物の静脈に注射。
一九二八年には日本で初めて脂肪乳剤の注射をおこなっている。
一九六五年には静脈注射だけの栄養で小犬を正常に発育させている。
一九六八年には口から食べられない新生児に同じく静脈注射だけの栄養で発育に成功している。
「だから近代医学というのは、ほんのここ二十年のことなんですよ」
と山本先生は言った。
たしかにそうである。近代医学は二十年だ。近代グルメはまだはじまってもいない。点滴は医師以外の一般人にはおこなえないことが医師法で決められている。食べ物の極北を求めて手探りでたどりついた点滴は、食品ではなく薬品なのだった。ダイレクトグルメは私の体内妄想として、脳ミソの奥地に蒸発していった。
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ヤクザあっての牡蠣鍋
牡蠣《かき》鍋はおいしい。まず豆腐がふつふつと揺れて、あの白くて柔らかい味が舌に大好きである。葱、白菜もいい。春菊は煮すぎないように、見かけはまだ生野菜といった感じのところを箸で取って口にすると、あのほろ苦い味が新鮮で、もう何ともいえない。シラタキもいい。エノキもいいですね。この二つは歯ごたえが売りものである。牡蠣鍋の場合は何といっても味噌味だから、エノキはじつに奥深い味となる。そして主人公は牡蠣である。牡蠣は広島の特産である。イキのいいところを広島から空輸してもらうのが一番である。ナマモノだから届いたらすぐに味わうのがコツである。空輸というのは突然来るから、いつでも食べられるように覚悟しておく必要がある。ドアをトントンと叩かれて、
「お届けものです!」
と言われたら、すぐにハンコを持って出て行き、四角い包みを受取る。配達人が帰ったらそのままサッと台所へ行って包装を解く。中から四角い発泡スチロールの箱があらわれるから、その継ぎ目にぐるりと貼りつけた厚手の黄色いテープを剥ぎ取り、蓋《ふた》を開ける。中から銀色のぶよぶよとした袋が出てくる。その袋の中がもう生牡蠣である。銀色でなく透明の場合もある。とにかくそこまでたどり着いたら、それをまず冷蔵庫に入れておく。そして友人たちに電話をかける。一家で食べるには多すぎるし、それに牡蠣鍋は大勢の仲間で食べるのが一番である。その場合みんなのスケジュールの都合があるから、その日取りと時間をまず決めなければいけない。それから豆腐や野菜類の買出しに行くのでも充分間に合う。土鍋にヒビが入って欠けていたりしたら買い直す。割箸や小皿などもちゃんと足りるように注意して揃える。飲み物に関しては日本酒にかぎる。乾杯ぐらいはビールでもいいが、このような鍋物にはまず絶対的に日本酒である。ヒヤでもいいし、お燗《かん》をしてもいいだろう。まずそのとろけるような液体をクッと口に含む。その味にゆっくりと楽しみがふくらんだところで、落着いて箸を取って、どれどれという感じで、やおら煮立った鍋の中に箸先を入れる。
というのが牡蠣鍋を食べるまでのだいたいのあらすじである。
このような牡蠣鍋を食べるためには、まず順序として聖職につくことが必要である。聖職というのは最近ではあまり聞かれない言葉となったが、映画「聖職の碑《いしぶみ》」で知られるように、先生という立場もそれにあてはまる。
私の場合は美学校の先生になった。一九七〇年だった。神田神保町の第二富士ビル三階にある小さな美をめぐる学校である。生徒の年齢としては大学にあたるが、一年制で、卒業しても何ら資格を得るわけではないところから、私塾のようなものと考えてもらっていいだろう。
私はここで「考現学」の教室をもった。現代を考える学問、いわば身の回りを観察する学問といってもいい。人は幕の内弁当のおかずをどの順番に食べていくか。立喰いそばにくる人の服装の共通点は何か。駅前のタバコの吸殻の分布状態。商店街の人だかりの仕方。赤電話をかける人の癖の蒐集《しゆうしゆう》。とにかく手当り次第に観察をするわけで、教室にいるときは新聞紙の細密模写をしたりしている。そういう学校の先生である。
つぎに、牡蠣鍋を食べるためには学校の夜の帰り道に缶蹴りをすること。
この美学校から水道橋の駅まではふつうに歩いて十分ほどの距離がある。学校が終るのは九時だが、ときどき焼酎を飲んだりしながら勉強をしているので、帰り道は十時か十一時ごろになる。もう町はみんな戸を閉めて、ところどころ飲み屋が最後の明かりをつけているが、人通りはほとんどない。こういう通りは歩くのに退屈なので、何か道端のものを蹴飛ばすのである。それにこの学校の生徒たちはだいたいにおいて無口ぎみなので、道端の物をうつむいて蹴ったりするのは得意なのである。で、道端に落ちているのはだいたいがコーラみたいな空缶である。蹴ると道路の右から左へ、
「カン……カラカラカラカラ、カ……」
と転がって止まる。するともう一人の生徒がそれをまた、
「カン……」
と蹴って、缶は道路を左から右に、
「カラカラカラ」
と転がっていって、
「カ……」
と止まる。そうやって夜の神田の町を数人で一つの缶からを蹴りながら水道橋の駅まで帰るわけである。
余談であるが、途中、自動車の上を乗り越えたりもする。つまり酒の勢いというものがあるわけであって、真っすぐ歩いていてそこに無人の車が停めてあったりすると、わざわざ避けるのもなんだからというので足をかけて上に昇り、屋根を通ってまた道路に降りる。これはその車のオーナーに見つかると怒られるが、夜なので、オーナーは家の戸を閉めていてわからないことが多い。
で、つぎに牡蠣鍋を食べるためには、駅のところでヤクザにからまれて、からまれた男を逃がして殴られなければいけない。
私の場合は水道橋の駅の改札口だった。缶を蹴りながら駅へ来て、さあ仕方がないから切符を買って電車に乗ろうとしていると、その一人がなおも酒の勢いをパワーアップして、缶蹴りをあきらめずにそのまま改札を通ろうとした。おそらく缶を蹴りつづけて中にはいり、なおも階段を蹴り上げながらホームに上がり、開いたドアから電車の中にまで蹴り込もうというこんたんである。人間というのは何ごとかを完成したいという性癖があるものなのだ。
さて酒の勢いパワーアップのY君がそれを実行したはいいが、パワーアップしすぎて足もとがふらふらしている。その足に蹴られた缶からが、ファールボールみたいに飛んでいって、改札のそばで立話をしていた男の肩に当たってしまった。男はジロリと振り向いて辺りを睨《にら》み回し、よく見たらヤクザの人だった。
振り向けばヤクザ。
酒の勢いパワーアップのY君はその勢いのままごめんなさいねと言うのだが、パワーアップしすぎているからその言葉にはなかなか真意がこもりにくい。
「んのやろう!」
というんでヤクザの血圧が上がって小ぜり合いになり、こりゃ大変なことになるぞというシロウト考えでパワーアップのY君を引き離し、一人がその肩を抱いて階段を駆け上がり、電車に放り込んでしまった。しかしそうなるとヤクザの人の血圧というのはさらに上がることがわかった。逃がしたな、いやあれは別に、ふざけるんじゃねえ、まあいいじゃないですか、俺をなめたな、いやそういうわけじゃ、ナシをつけろ、ナシ? とぼけるんじゃねえこの野郎、いやホントすみませんでした、お前らちょっとついて来い、いやしかしあれは、来れねえってのか、いや行きますよ。
(画像省略)
というわけで連れていかれたのがM君とK君と私。私は怖がりなので帰りたかったが、そうはいかないのが聖職である。水道橋の駅を離れて深夜の後楽園球場の辺りに行ったときにはヤクザ関係の方々は十人ぐらいになっている。こちらはシロウト三人で、もちろん勝負になどなるわけもなく、もともと三人とも暴力の持ちあわせはまるでなかった。しかしここまでくれば何らかの暴力の発現がなければコトは収まらないわけで、あれこれと能書きをつけながら、私たちはボコン、ボコンと殴られた。とりわけ、
「早く殴って終りにして下さい」
と正論を言ったM君は顔面をボコボコに殴られてしまった。
さて牡蠣鍋の用意がここまで進んでくると、あとはヤクザの人から引き離して逃がしたパワーアップのY君というのが、広島出身であればいいのである。
ちょうどそれは十二月のことで、その出来事のあとすぐに冬休みになってしまった。そうすると自分が電車に乗って帰ったあとの顛末《てんまつ》を知ったY君は、冬休みで帰った郷里で恐縮することになる。郷里とは広島であり、広島で恐縮していると、回りには生牡蠣がある。いや広島全土に、道路にも空地にも生牡蠣があるわけではないだろうが、とにかく牡蠣の名産地である。そうするとどうしても、詫《わ》びとして生牡蠣を、ということになるらしい。となると年が明けた一月に、玄関のドアがトントンと叩かれて、
「お届けものです!」
と配達人の声がすることになる。私はすぐに出ていき、ハンコを押して四角い包みを受取る。あとはこの文の最初を参照。
もちろん私だって遠慮はした。いやホント。しかし物件は生牡蠣である。ナマモノなのだ。遠慮ぐらいしたって容赦なく腐敗ははじまってしまう。うかうか遠慮もしていられないのだ。それを腐敗から防ぐためには食べるのがいちばんいいだろうという結論になり、被殴打率最高のM君に電話をかけることになる。そうするとそれは大変だということになり、じゃあ食べなければということになり、ぼくは月曜日にちょうど法事があるんで火曜なら、とか、おれは火曜日は座談会があるんだけどちょっとズラしてもらおうか、とか、いろいろとみんなの万障を繰り合わせて、牡蠣鍋のガスに点火をすることになる。
さて、問題は、日本には四季があるということだった。日本という国は地球の北半球の緯度でいってちょうど中間ぐらいにあるため季節というものが発生し、毎年一回冬というものが訪れてくる。人間の記憶というのは恐ろしいもので、Y君は毎年冬になると恐縮をするのだ。そして東京にいたとしても、毎年一月には広島に長距離電話をかけて、生牡蠣の航空便を発注することになる。そうするとナマモノであるから、送られた方ではただちに万障の繰り合わせがとりおこなわれることになる。それが毎年となると牡蠣鍋を食べるメンバーは次第にひろがる。そのころM君たちとロイヤル天文同好会というのをつくったので、そのメンバーのW君やT君も牡蠣を待ち構えることになる。いや待ち構えたりはしないが、はたからはそう見えたかもしれない。
しかしそれが何周年かを迎えたころ、もうこういうことが制度化するのもなんだから最後の打止めにしようということになり、パワーアップのY君もそのときばかりは出席をしていっしょに牡蠣鍋を囲んだ。そしていやァあのときはまったく、しかしもう五年になるか、M君のマンガ読んだよ、T君会社やめたんだって、牡蠣鍋はやはりうまいねえ、とよもやま話に花を咲かせてこれは大団円を迎えるかに思えたのであるが、しかしさすがはパワーアップのY君である。このときも気がついたらすでに酒量はキャパシティを超えていたとみえて、しかも立場上自分の気分を弾圧していたこともあったものだから、体内化合物が一気に口から噴出してしまった。
その場所というのがM君や私の家ならともかく、そのときはたまたま私たちの先輩の家だったのだ。その洋間の絨緞《じゆうたん》一面に有機物があふれ出ている。驚くほどの物量である。その海に頬をひたして、Y君は倒れ込んだまま起き上がれない。
もう手遅れだった。家の中なので一般市民は無事だったものの、私たちは呆然として、眠るY君を見つめた。これでまたY君の新しい恐縮がはじまってしまう。また来年も牡蠣がきてしまう。全員がそういう表情をしていた。当分この流れは止りそうもない。私たちが老人となり、寝たきりとなっても、息子や孫たちの間で牡蠣だけは空輸されているのではないか。
そして今年の一月もドアがノックされた。
「お届けものです!」
私はハンコを押して航空便を受取る。そしてM君に電話する。M君とは南伸坊である。W君は渡辺和博。ロイヤルの会長は田中ちひろ。そのほかいろんな友だち、奥さん、子供。みんなふつふつと揺れる豆腐を味わい、葱を噛み、シラタキを喉に通し、そして味噌のしみた牡蠣をとろりと食べる。牡蠣鍋は本当においしいと思う。食べるまでの手つづきが大変だけど。
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金沢ご馳走共和国
さて、皮下注射による点滴という過激なこともやったが、人間はやはり口から物を含んで噛んで食べるのがいちばん良い。味がわかっておいしいし、満足感がある。
これは当り前のことだった。しかし食べるというのは毎日三度三度のおこないなので、つい何か目新しい味を求めて横道にそれ込んでいってしまうのである。
さて毎日三度三度のふつうのおこないの食事だけど、その食事のお祭りをやるので行ってみないか、という話が舞い込んできた。電車賃を出してくれて、ご馳走を食べさせてくれて、しかもお金もくれるという。これは凄く良いことだ。行ってみないわけにはいかない。
行先は金沢である。ここで食べ物のお祭りをやるわけで、フードピアというのだそうだ。それの第一回目だという。いずれ国際的な祭典にするらしいが、今年はその前哨戦というか、雑誌でいうと創刊準備号みたいなもので、そのゲストにどうぞ、ということなのだった。ゲストを三、四十人も呼んで、それが市内のあちこちの料理屋に散らばって宴会をするというのだから、なかなか豪勢なことをする。いったい誰だろうと思って案内状を見たら、主催のところには石川県とか金沢市とか金沢の商工会議所とか強そうなところがいろいろ並んでいるので、こちらはとくに遠慮しなくてもいいようなのだった。
金沢というのはご馳走の名所なのである。前にも仕事で一泊だけしたことがあって、そのときお刺身のコブシメというのがうまかった。イカをコブで締めておいたもので、ただのイカ刺しとはちょっと違う。もちろんほかにもいろいろご馳走を食べたが、私はデータ的な記憶がどうも弱い。印象でしか覚えられないのだった。
いやもう一つカブラズシというのがある。若いころ東京の絵描き仲間に金沢出身のものがいて、そこで二、三日ごろごろと遊んでいた。そこへ郷里からの小包が届いたわけで、それを受取った友人は、
「カブラズシだ!」
と誇り高く呟《つぶや》いたのだった。金沢の名産だという。私は巻き寿司みたいなものかと思った。しかし彼がその小包をほどきながら言うことには、大きなカブに包丁を半分入れて、そこにサバの切身を挟んで麹《こうじ》に漬け込んであるのだという。(とばかり思い込んでいたのであるが、このたび金沢へ行ったときにその話をしたら、それはサバではないはずだということだった。もう一つ違う何とかという魚の切身だと訂正されたが、それを失念。やはり私はデータ的記憶に弱い。試験は苦手。しかしほかの魚も使うわけでサバの場合もあり得る、ということだった。だからここでは仮名としてサバという言葉を使う)
私はカブにサバと聞いて、ずいぶん生臭そうだと思ってちょっと気持がひるんだ。やがて彼は小包をほどき終り、中から白いツブツブの、ドロドロの、麹にまみれた大ぶりのカブを取出した。言った通り、中にサバの切身が挟まれている。彼はそれをまず一口、ガブリと食べた。そして口の中で五、六回噛んで少し飲み込んでから、
「うん、うまい……」
と言った。その語感によって、私はひるんだ気持がちょっと解けた。
「うまいよ。食べなよ」
と言うので、私もその麹まみれのカブを一つ指でつかんで、思い切ってガブリとやった。そして口の中で五、六回噛んで少し飲み込んでから、
「うん、うまい」
と言ってしまった。それがはじめての金沢の味なのだった。
生臭さはまるでない。さっぱりとして、しかも豪快な味の食べものである。その時代、私は漬物といえばタクアンとタカナと白菜漬ぐらいしか知らなかったので、その豪快なカブラズシを口の中に頬張りながら、これは文化だと思った。
地上を走る電車で六時間かけて金沢に着くと、タクシーのお出迎えがあった。主催者がタクシーを何十台かチャーターしていて、駅やら空港やらホテルやらを走り回って大変なのである。
本部の置かれたグランドホテルのロビーでは、きちんとした服装の晴れがましい顔の人々があれこれと接待している。広い待合室には有名人の顔がいろいろと見える。テレビや雑誌のグラビアがあちこち椅子に坐っているようである。エレベーターの中で、浜美枝という人は意外と小柄だな、と思ったりした。
さて私が行くことになっている料理店は寿し割烹《かつぽう》松寿しさんである。そこへ行くと一般からの参加者が会費を払って待ち構えているらしい。そこでいっしょにご馳走を食べながら、私の役柄としては、
「うん、うまい」
という発言をすることになるのである。
つまりゲストの三十何人かが行く料理屋が三十何店か決められていて、その場所ごとに一般からの参加者が募られている。ところがその会費というのが下は六千五百円から上は二万五千円まであるのでハッとした。六千五百円のところのゲストは価値が低いということだろうか。
しかしそうではなかった。選定された料理店にはうどん屋から寿司屋から料亭まであり、若い人の参加しそうなゲストはできるだけ値段の安いお店、部長や課長の参加しそうなゲストは高いお店と、そういうわけなのだった。めでたしめでたし。
ちなみに私の行った松寿しは会費、つまり入宴料一万円である。充分にご推理お願いします。(この入宴料は高い気もするだろうが、明くる日の兼六園での宴会費も含まれているのだから、むしろ安いかもしれぬ)
で、その寿し割烹松寿しへ行ってみると、入口に私の名前を書いた提灯《ちようちん》が掲げられていたので驚いた。もはや逃げも隠れもできない感じ。
参加者はやはり、まあ一万円札ぐらいは何とかムリをすればできる、という若い感じの人が多かった。ヨダンであるが、このそれぞれの店の参加者を会費別に並べてみると面白いと思った。そこにはやはり何らかの階層が、遠心分離機にでもかけたみたいにキレイに並んで見えると思うのである。
ゲストもまた。
(画像省略)
寿司というのは全部押し寿司的な傾向のものだった。東京にいると寿司といえば目の前で握ってくれるあの江戸前の握り鮨であるが、全国的に見るとあれはマイナーなものなのかもしれないと思った。改良型なのだろう。寿司の原型はやはりギュッと押した四角い押し寿司らしい。
ところがここには「お手玉寿司」といって、丸く押し固めたものもあった。大きさはお手玉ほどもなくて、ちょっとキンカンくらい。その表面は赤いマスと赤白のエビとあって、ころっと口に入った。
いちばんうまかったのは、最初の方で酒の肴《さかな》で出てきた白子の酢のものだった。
白子というのをはじめて食べたのは、フグの刺身をはじめて食べたときである。むかし週刊誌のグラビアで赤塚不二夫さんたちと仕事をしていたころで、みんなで何かどこかへご馳走を食べに行ったら、大きなお皿にフグの刺身がピラーッと並んでいるので驚いた。外人みたいな気持になった。
そのときフグチリの中に白子をどどっと入れたのだけど、私は何だかおずおずという感じで食べた。丸ごとのナマコよりはまだいいが、やはり見たことがなかったので、ちょっと。
それから何年かの歳月が流れて、この金沢での白子の酢のものはじつにうまかった。小さな鉢にちょっとだけなのだけど、
「うまい!」
といきなり発言してしまった。「うん、うまい」の「うん」を省いてしまっていたのだ。その白子そのものがうまいと思ったのだ。料理人の言葉では、その「素材」がうまいということになるのだろうか。
これはやはりご馳走の原点だろう。あるいは日本料理の原点といえるのかもしれない。食べるものの物そのものがうまいということ。
事実ここのご主人がみんなに説明したとき「うちでは材料にできるだけ手を加えないようにしているので」と言っていた。私も「そうだ」と思った。つまり市場や産地に行って素材を選ぶところからもう料理ははじまっていて、しかもそこでもうあらかた終っているのだ。あとはほんの少し包丁を当てて、ほんの少し何かを添えるだけ。
こう考えるとやはり日本料理というのは大変なものだと思う。西洋料理とはまるで違う。西洋料理というのは足し算の積み重ねのようなものだけど、日本料理というのは引き算というか、割り算というか、ほとんど一瞬のパフォーマンスに近い。料理人がその腕をできるだけかけないところに料理人の腕の見せどころがあるのだから、これはもうほとんど哲学的なご馳走である。やはり西洋人の理解からはちょっと遠いかもしれない。
つまりそのくらい、この白子の酢のものはうまかったのだ。
そのあと金沢市内の遊廓へ行った。といっても赤線廃止のこんにち、遊廓は建物だけだった。市内を流れる浅野川の近くに、昔のままの廓の建物がずらりと残る通りがあった。いまは芸者さんがそこを根拠地としていて、やはり会社関係やその他の宴会の場所となっているらしい。その三軒ほどにゲストが三固まりほどになって集まっての二次会だった。松寿しの方で若者たちといろいろ話し込んで遅くなったので、もう芸者さんたちが太鼓叩いたりして、何か舞ったりしている。
ここでは大根ズシというのを口に入れた。カブラズシと似たような味だけど、素材は大根である。しかもいっしょに漬け込んでいるのが鰊《ニシン》。これがうまい。
鰊といえば鰊ソバがある。はじめて鰊ソバと聞いたときには、うわァ生臭そうだ、と思ったのである。それがもう二十年ほども前のことか、友だちと正月に京都に行ってその鰊ソバを食べたら、これがうまいので尊敬してしまった。やはり人間というのはなかなか考えて食べものを作っている。この場合やはりサバではいけないだろう。
その鰊ソバの鰊が大根ズシにはいっていたので、なるほど、と私はすぐにその手法を理解した。だからもうそのまま素直にうまい。
それから何か茶色いみたいな、何とも書きようのないようなのがちょこっとお皿に載っていた。見るからに酒の肴なので、日本酒をクピッと飲んでからそれをつまんでみると、うまい。酒がうまい。
近くの芸者さんに、それはフグの内臓の漬物だと教えられた。フグの内臓と言われて何だか犯人でも見るような気持になったが、それは三年間漬け込んであるのだという。三年間漬け込まないと売り出す許可が出ないのだとも言った。「許可が出ない」というところが、この物品に対してじつに説得力がある。それが口の中にひろがって、じつに貴重な味だ。いけない、書いていて日本酒が飲みたくなってきた。
明くる日は兼六園でのさよならパーティー。ところがあいにく雨になり、その雨が物凄い勢いに変り雹《ひよう》になってしまった。雷もビカビカ光ったりしている。これは凄いと思っていると、金沢ではこういうのは当り前のことだそうだ。大したご馳走でもないらしい。
お蔭で兼六園の散策はできなかったが、その入口のところにずらりと並んだ茶店の二階での宴会に専念。前日の店の前にあった提灯が、こんどはこの茶店の前に並んでいる。自分の提灯を探してはいると、前日の若者たちとまた顔を合わせた。ほかのチームも入り乱れて、やはりこの二日目の方がぐっとくだける。二階の窓から東京では珍味の雹を眺めながら、お燗のお酒がじつにうまい。いけないねえ、また飲みたくなった。ここでもまた大根ズシや、あといろいろおいしいものを食べたのだけど、メモなんてしなかったので忘れてしまった。とにかくおいしかったということだけは覚えている。金沢の誇る料理であるから、当然ながら日本料理で、やはりどうしても日本酒の味に合う。もう書くのやめます。たしか台所の一升ビンに、日本酒が半分くらい残っていたはずだ。申し訳ないが、ちょっとだけ飲ましてもらいます。それではまた来月。
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ふぐ食わば蟹まで
「今日はご褒美に何でも食べさせてあげる。好きなものを言ってごらん」
と誰か頼りがいのある人に言われた場合、あなたなら何を希望するだろうか。
まずおいしいものを食べたいと思う。それから少し考えて、この際だから高いものをご馳走になろうと思う。
納豆がいくらおいしくて好きでも、この場合、
「納豆!」
とは言わないだろう。同様に、
「鯵《あじ》の開き!」
とも言わないだろう。いずれもおいしくて好きなのだけど、
「肉じゃが!」
とか、
「レバニライタメ!」
とかも言わないだろう。ラーメンやカレーライスもこの場合は除外される。モリソバも除外される。ギョーザ、なども除外されやすい。おそらく、
「ウニ!」
と言う人がいるのではないか。あるいは、
「エビ!」
「アワビ!」
「イクラ!」
などと連発する人もいるだろう。
「ビフテキ!」
というのも多いかもしれない。人間とはそういうものなのである。
「ふぐ!」
と言う人もいるだろう。私などはこの発言に賛同したい。ふぐなんてむかしは食べたことがなかった。毒があって、しかしその毒をうまく避けて食べれば大変に美味であるという、そういう話の上で聞くだけの幻の食べ物であった。当然ながら猛烈に高価である。自分がそんなものを生きているうちに食べさせてもらえるとは、思いもよらないことだった。
しかし戦後ン十年、日本も口では資本主義とはいいながらほとんど共産化のようなことがどんどん進んで、人民大衆もふぐを食べられるようになったのである。
毎日ではない。一日三食の食事の一食をちょっと何とかしてしばらく貯金すれば、たまにはふぐを食べられるようになったのである。
元祖共産主義のソ連でさえも人民のほとんどはまだふぐを食べていないというのに、日本は人民のほとんどが一回ぐらいは食べている。と思うが、正確なところは国勢調査の結果を待たなければわからない。
「カニ!」
と言う人もいるのではないか。
さっきのご馳走の種目選択の話である。蟹もおいしい。もちろんの話である。日本人ならみんな蟹がおいしいのではないだろうか。
いや強制してはいけない。蟹が嫌いな人もいるのだ。ただ嫌いではなくて、大嫌いという人がいるのだ。
三島由紀夫がその一人だった。蟹の身の味が嫌いだったのかどうかわからないが、とにかく蟹の形が嫌いだったようだ。形が嫌いで、文字も嫌いだったそうだ。
蟹。
という文字を見ていると、たしかに天才三島由紀夫の気持がわかるような気がする。自分の肉体が皮膚の外側の方からだんだん角質化してきて、全身があの固くて四角い甲羅のようになってしまい、そんな中に自分の脳ミソが閉じ込められて出られないとすると、もはや自分の精神が蟹ミソみたいで気持悪くなってくる。
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そういう蟹アレルギーの人は、世の中に何人かはいるのだろう。私だって蟹という文字をあまり長く見つめていると怖くなるが、しかしそこに文字ではなく身が出されて、それをポン酢にちょっとつけて口に入れてしまえば、すぐに文字のことなど忘れて次の身を箸でポン酢に、となってしまうのだから、やはり天才との間には深い溝が横たわっているわけである。
だから私は蟹が出てくると弱い。本当は怖いのだ、と思いながらも、ついその足をもいで、その殻の中から身をほじり出してしまう。それがスルッと出たときはいいが、毛蟹の場合などはその殻の内壁にひっついたのを細い串の先で少しずつかい出しながら、それがいつまでもいつまでも跡切れずに内職労働みたいになってしまう。これは私だけではなく日本人はみんなそのようで、二、三人で酒を飲みながらいざ蟹が出てきてしまうと、いつの間にかみんな押し黙ってお通夜のような宴席となる。みんな黙々とグルメ労働に従事してしまうのである。
これには二通りのタイプがあって、蟹の身をほじって出した先から食べてしまう人、もう一つは少しずつほじったのを小鉢の中にためておいて、それが豊富なかたまり状となったところでやおら手を拭き、正式に箸を持って、その身のかたまりをゆっくりと、満足そうにポン酢につけて口に入れる人。
しかし話は違うが、ワープロというのもあれは毛蟹だと思った。あれはけっこう時間のかかるもので、カタカナを一つずつ打って単語を作り、それを漢字に変換する。その作業を何度か繰返していって一文節ができる。さらにそれを何度か繰返していって一つの文章ができる。その途中の一文節できたところでプリンターにかけてもいいのだけど、いちいち面倒でもあるし、まとめてプリントされる楽しみも減るので、打ったのがワープロの中にたまって原稿一枚分ぐらいになったところで、さてさてという感じでプリンターにかける。これはもうほとんど毛蟹の世界だ。
ところがこの間家人が住所録をワープロで打っていて、一時間以上もかけて打ち終えて、さてとプリンターにかけようとしたら、何らかのアクシデントで全部消えてしまった。ボタンをあれこれ操作したけど、もはや二度とあらわれず、一時間の作業が水の泡。
ちょうど一時間黙々と毛蟹をほじって小鉢にためた身のかたまりを、さて食べようとおもむろにポン酢につけたところを野良猫がさっと飛んできてかっさらっていった、というがごとき事態であって、ワープロの中にはタチの悪い野良猫が住んでいるのだ。
余談であったが、蟹というのはそのくらいの思い入れができてしまうほどに、ご馳走の上位にあるものなのだ。グルメというからにはその蟹を食べてみたい。
しかし、とここでまた考えるのである。グルメというものが、この日本の共産主義のような高度資本主義社会の中でのエントロピー増大で一般化しつつあるこんにち、蟹を食べたぐらいではグルメとはいえないのではないか。
そこで私は蟹といっしょにふぐを食べることを考えた。
ふつう一日のご馳走において、今日は蟹だと決めれば蟹だけであり、ふぐだと決めればふぐだけである。この二つを同時に食べるということはまずない。蟹とふぐというのはそういうものだ。店にしても、蟹を食べさせるところはほとんど蟹主義で統一されていてふぐは置いていない。ふぐを食べさせる店のふぐ主義もまた同様である。別に食い合わせがどうのというのではないが、それぞれが一国一城のアルジというか、ご馳走の極北を誇っているのであって、しかしこれをやはりそういうジャンルや派閥を超えて一挙に食べてみようと思ったのである。
いわばバースと落合を両方ともジャイアンツに入れてみようではないかと、まあジャイアンツファンの心理に迎合すればそういう表現になるわけである。
さて、町の料理屋で蟹とふぐが二つの派閥に分かれているとなると、これはもう自宅で食べるしかない。
さてそこで、蟹は本場北海道は札幌の二条市場から空輸してもらった。これはルートを調べて金さえ用意すれば実現できる。蟹というのは美味であるにもかかわらず調理は簡単で、活きのいいのを熱湯につければそれでいいのだ。
ところがふぐの方は問題である。活きのいいのを持ってきても、アマチュアの調理ではダイナマイトの導火線が焦げて、ふぐの刺身が大爆発を起してしまう。というより、これはアマチュアによる料理が法律で禁じられていて、鑑札のあるプロでないと調理できない。となると、料理人を自宅に呼ぶことになるわけで、しかしそこまでやるのはいくら金で解決すれば何でもいいという資本主義でも、ちょっと気がひける。
というのでいろいろ調べてみたら、ふぐの空輸があるというので驚いた。プロが正式に調理して大皿に敷きつめたふぐの刺身を、その大皿ごと空輸するのだ。日本の資本主義もいよいよ凄い。
発注するとすぐに送られてきた。本場下関からの空輸である。牡蠣の空輸には慣れているが(「ヤクザあっての牡蠣鍋」参照)、空飛ぶふぐ刺しははじめてである。
かなり大きな発泡スチロールの箱で、蓋を開けると、ちり鍋用のふぐの身と、刺身用のふぐの皮と、ポン酢が一ビン、それに柚子が一つとワケギの細かく刻んだのまで小鉢に入れてついている。ヒレ酒用のヒレも四枚。それらの載った中蓋を開けると、その下から薄切りのふぐ刺しをきれいに敷きつめた大皿がサランラップをかぶってあらわれてきた。これは凄い。本物である。
この空飛ぶふぐ刺しは、下関の会社が最近はじめたのだそうだ。この四人前で一万三千五百円というのだから、さすがは産地直送の強み、たっぷりとお徳用である。東京のふぐ料理店の人たちはちょっぴり眉をしかめて、困ったもんだと言っているとかの話も聞いた。つまりそのくらいの、これは実力がある。
さて下関直送のふぐ刺しである。その隣の皿には北海道直送の大型の毛蟹である。天国というのはおそらくこういう食生活のところだろう。その上偶然とはいいながら、私はその前の日もふぐだったのだ。某誌での渡辺和博との対談がたまたま前日にあったわけで、その場所が九段のふぐ料理屋だった。まあ蟹がなくふぐだけであるからとりわけグルメというわけでもないが、ウォッホン、ちなみにその対談のテーマは「満足」というもの。某誌とは何と「世界」なので、まあこの際驚いて読んでもらいたい。
いや宣伝が入ってしまったが、まずとりあえずふぐ一種を試して、その明くる日にふぐと蟹の二種である。日本の資本主義もここまできたのだ。ソ連には黙っておいた方がいいだろう。
さて、ふぐと蟹である。別の言い方をすれば蟹とふぐである。これどちらから先に食べればいいのか。
私はそれをゆっくりと考えながら、まずふぐのヒレを焼いてみた。表面をさっと焦がして、熱燗の日本酒にヒュッと入れる。ぷーんと焦げた香りが、熱い日本酒のほんのりとした甘さといっしょに漂って、それをまずチュピッと口に入れると、うまい。これはうまい。もうふぐと蟹とどちらが先でもいいと思って手を出したら、ふぐだった。私の箸の先が大皿のふぐ刺しの薄切りをぺらりとめくっている。三枚か四枚ぐらいいっしょにめくれて、それをポン酢につけて口に含むと、これがうまい。シャキッと新鮮で、あのふぐの身独特の信頼感のあるしっかりとした歯ごたえ。
むかしふぐ刺しをはじめて食べたとき、この薄い身を一枚だけ律儀にめくってポン酢につけて食べたのだ。そうしたら同席の先輩が箸の先で三、四枚いっぺんにめくり取ってポン酢で食べるので驚いた。なるほど、そういうものかと思った。そういう食べ方でもいいらしい。しかしやはり一度に三枚も四枚も当然のようにめくり取るのは、やはりどことなくはしたないというか、もう少し謙虚さというものもほしい。つまりつつましい箸の先で謙虚に一枚だけめくり取ろうとしながら、たまたま隣合った二、三枚がいっしょにめくれてきてしまって、まあそうなったのならせっかくだからいっしょにという感じでポン酢につけて口の中へ。
といった感じがふぐ刺しの食べ方としては申し分ないと思うのである。
というところでつぎは蟹だが、これは産地直送そのままであるから、足をもぎっても包丁の切れ目などはいっていない。だから直接歯でがりっとやって殻を裂くと、何しろたっぷりと大型であるから中からまとまった身がごろりと。これは内職という感じではなくそのまま指でつまんでポン酢につけて、さぱっと口に入れると、これがもうあまりにも何というか、書けば書きようもあるのだけど、しかしこんなおいしい話ばかり書いていると何だか読者に悪いような気がして、もうこの辺で遠慮してやめておこう。
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北極回りの機内食
機内食というのは飛行機に乗るとついてくるものだ。
逆に言うと飛行機に乗らないとついてこない。
別に逆に言うほどのことでもないが、とにかく機内食というのは羽田空港へ出かけて行って、
「あのう機内食の上を一つ、大盛りで」
などと注文してその場ですぐに食べるわけにはいかないところのものなのだ。これを賞味するには海外旅行をしなければいけないという、大変やっかいな食事なのである。
国内旅行ではついてこない。以前九州まで飛行機で行ったことがあったが、このときは小さなオレンジジュースと、何か子供|騙《だま》しのクッキーが一つ。
ただでもらっておいて子供騙しなんて悪態をついてはいけないが、しかしじっさいのところ、あのクッキーでは最近の子供は騙せないだろう。
それがつい二、三年前のことで、私はそのときはじめて飛行機に乗ったのだった。乗るハメになったという方が正しい。気がついたら窓の外の風景が斜めになって静止している。海の上に船が浮かんでいたりするのだけど、その水だらけの海全体が斜めになって止まっているのだ。
つまり乗っている飛行機が旋回中の窓の外の風景であったが、あれはショックだった。いくらカーブするためとはいっても、何百人と人の乗っている座席全体を斜めにしてしまうのだから、飛行機というのは物凄いことをする。
私は窓際から二番目なので、よく見ようとするには少し身を乗り出さなくてはいけない。しかしあまり乗り出して飛行機が傾くと危険なので、できるだけ体重を動かさないようにして目だけで窓の外を監視していた。
そんなところでくれるのが紙コップのオレンジジュースと小さな試食品みたいなクッキーだから、こんなもので騙されないぞ、と思うのが人情というものだろう。
そうやってはじめて飛行機に乗ったわけで、その後もう一度九州に行ったし、四国にも行ったし、それが往復だから合計六回乗っている。でも飛行機賃は一度も払ったことがない。仕事にハメられて仕方なく乗ったまでのことである。
さてオレンジジュースとクッキーに甘んじることなくビフテキやシチューやサラダといった機内食を賞味するには海外へ雄飛しなくてはならない。これが経費やスケジュールの点からいって大変なことなのである。海外といっても韓国や台湾くらいではまだ食べさせてくれない気がする。もっとぐっと遠くまで雄飛しなければ機内食というのは出てこないのではないか。
そうだ、どこかもう耐用年数を過ぎた飛行機が払い下げになって、空地にコンクリートで据えつけられたりしていて、そこで機内食だけを特別に食べさせてくれるというレストランはないだろうか。
入口で金属探知器をくぐらせたりするとムードが高まる。
ホステスはもちろんみんな外人である。
横にあいた窓は全部テレビになっていて、上空で撮った環境ビデオが映る。だいたいあの飛行機の窓というのは、テレビのブラウン管に似ているではないか。ひょっとしてあの窓から見えるのは全部テレビ映像なのではないか。
いや疑ったりして悪かった。
とにかく機内食を食べるにはグローバルな飛行をしなければいけないわけで、私はイギリスに行くことにした。オックスフォードである。この間まで浩宮様がご留学なされていたところで、その後礼宮様もご留学なされているが、ここにオックスフォード近代美術館というのがあるのだ。そこである展覧会が企画されて、私も出品をして、ついでにシンポジウムをやることになり、私も出席を要請されて、
「いや私なんか英語ができないから」
「でもそれは通訳の人がつきますし、スライドをやったらどうですか」
「あ、スライド、ではハイレッド・センターの記録をやりましょうか」
「それがいいです」
「ついでにトマソンのスライドもやりましょう、超芸術の」
というわけで、ちょっと専門用語がはいってしまったが、私ははじめて海外に雄飛することになった。もちろん飛行機賃他人払いの記録はつづいている。
イギリスだから、やはり英国航空である。ブリティッシュ・エアウェイズ。この「ブリティッシュ」という語感がすでにビフテキを含んでいると思う。それもちょっとウェットステーキというか、シチューとまではいかないが、ワインに少しひたしてから焼いたような、厚みは充分にある。それにエアウェイズという水色のシャンペンスタイルのビールがついて、これはいいと思った。もちろんイメージである。信じてはいけない。しかしウェットステーキなんて、どこか六本木あたりの店でメニューに入れると人気が出るのではないか。
空港にはたくさんの飛行機がとまっていた。日本のもあるしアメリカのもあるし、オランダやドイツのもある。きっとみんなホカホカに湯気の立つ機内食をたくさん載せているのである。乗客はみんなそれを食べようとして飛行機に乗り込んでいる。
私は受付のところで猛烈に複雑な手続きをとったあとでイギリスの飛行機に乗り込んだ。ハイジャックをしないことを金属探知器に誓ったり、そのカタとして荷物を預けたり、いろいろなしきたりがあるのである。
私が乗り込むと、飛行機はグィーンと機内食を載せて飛び立った。中に調理場があって、ちょっと火で温めたりしているのだろう。それごと空中に飛び上がるのだから凄いと思う。遠くを見ると着陸してくる飛行機もあって、それはもう機内食が空になっているのだろう。しかし空になってもそれは乗客全員の体内に移動したまでであって、飛行機総体の重量は変らないのだ。
さてその機内食であるが、あんまりたくさん出るので忘れてしまった。
飛行機に乗る前から旅行社の人に、ロンドンまでの十何時間かの間に機内食がワンサと出てくるから、との警告は受けていたのだ。たしかにたくさん出てくる。何しろ地球を反対に回ることになるので、ふつうよりも早く日が暮れたり夜が明けたりするわけだから、三度三度の食事のつじつまを合わせるのが大変なのである。
一つ印象に残っているのは鶏肉の梅酒煮ですね。梅酒の梅が入っていたのでわかった。そうでなくても私だって味でわかる。おいしい。さっぱりしている。とくに私などあまり脂っこいものはダメで、いつも肉の脂身なんてナイフで分離して残す方だから、これはうまかった。肉食の西洋人にはものたりないかもしれないが。かなり和風の感じだ。しかし梅酒なんて西洋にあったっけ。果実酒はたくさんあるけど、梅酒の梅というのがそもそも日本とか中国のような気がする。それに日本の梅酒というのは梅から作るわけではなくて、あらかじめ出来ている焼酎に梅を漬け込んで梅酒にしてしまうわけだから、葡萄を原料にして作るワインみたいな果実酒とはちょっと違うと思うけど、そのへんどうかな。
とにかくこれはおいしくて、お腹の中にピタリと収まった。ロンドンから帰りの便だったようにも思う。
和風といえば天麩羅《てんぷら》が出た。海老とイカだったと思う。ちゃんとタレもついて、大根オロシはあったかどうだか、見た感じはフリッターみたいだけどおいしかった。
和風といえば海苔《のり》が出た。他がどういうおかずのときだったか忘れたが、小さく切ったのがセロハンみたいな袋に入っている。こちらは、おう海苔だ海苔だと思って食べるのだけど、隣の外人は残していた。そういえば刺身が好きになった外人でも海苔だけは食べられないという話を聞いたことがある。あと納豆も。
たしかにあんなに薄くてパリパリした食品は、外国にはないかもしれない。しかも黒いところが無気味なのかもしれない。無気味というより無意味に見えるのかな。無気味で無意味。
隣の外人はと見ていると、その海苔を持って私に英語で何とかかんとか、と言ってから、パッケージごとポケットに入れた。きっとお土産に持って帰るのだろう。お土産というより記念品というか、資料として。どこか西洋の地元に帰れば珍しがられるのかもしれない。極東の日本人はこんなものを食べるのかといって、その話が一晩か二晩は酒の肴になるのかもしれない。これを食べれば経済成長して金持になれるぞというので、近所の人に五ミリずつぐらいパリパリちぎって分けてあげて、残ったのを神棚にまつったりするかもしれない。
おかしいのは食器だった。機内食であるからお盆も小さく、食事もコンパクトにまとめてあるのだけど、袋の中にナイフ、フォーク類がカチャカチャとたくさん入れてある。割箸もちゃんとついていて、日本の食事作法も国際的に認知されたわけで助かるのだが、そのカチャカチャという袋を開けてみると、ナイフとフォークとスプーンと、料理によってまた新しく変えるナイフとフォークがはいっていたりして、一回の食事にずいぶんな数である。ふつうの地上のレストランで食べるときには余裕があるからそれもいいが、こんな上空の狭いところでの食事まで何本も食器がついてくるというのは、真面目というか頑固というか融通がきかないというか、ちょっと笑ってしまった。こちらは軽い割箸一本。パチンと割れば二本になる。
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ワインはいいですね。食事を持ってくる前にまず小さなワインのビンを一つずつくれる。赤がいいか白がいいかと訊かれて、
「両方」
と言えばたぶん両方くれると思うのだけど、みんな恥かしくて、
「赤」
とか、
「白」
とか言っている。外人でも「両方」と言う人はいないようだったが、ワインのほかに何か英語をちょろちょろっとしゃべって、ウイスキーをもらったり、ブランデーをもらったり、ビールをもらったりしている人がいた。あれは言えばタダでもらえるらしいのだ。私も後半の方はそれに気がついて、ビールを別にもらった。
旅行慣れした人はぺらぺらっと英語をしゃべってもうすでにウイスキーやブランデーをたくさんもらっているのだろうが、はしたないと思う。
いやそう言っちゃいけない。それは法律で許されているのだから、個人の自由だ。
しかしイギリス以外の機内食も見てみたいと思う。日本の場合はどうなのだろうか。国内線ではジュースとクッキーだけであったが、国際線での機内食はやはり日本の民族食事を出しているのだろう。スシとかマゼゴハンとか、あるいは鯛のオカシラつきなど出しているのかもしれない。タラチリもいいな。鍋ものはウケると思う。スチュワーデスが一人一人ガスコンロを配っていって、座席にあるガスの元栓につなぐ。そして土鍋を配っていって、ネギとか白菜とか配っていって、
「これはタラチリと言います。お客さま四人で一つの鍋をお囲み下さい」
などと指導をする。そして客席に気を配って通路を歩きながら、
「もうそのネギは煮えてますよ。野菜はお早目にお召し上がり下さい」
とアドバイスをする。それだけでなく、お銚子を持ってお酌をして歩くわけで、これには外人も大喜びだ。お蔭で箸の使い方もすぐにうまくなってしまって、豆腐もシラタキもどんどんなくなる。そうするとまたスチュワーデスがきて、
「オジヤをお作りしますか。それともおうどんを……」
と訊くわけである。もう機内には湯気があふれて、タラや野菜の匂いもあふれて、それを包み込んだまま飛行機は成層圏を飛んでいく。これはもう機内食の極北であり、そうやって北極回りでイギリスへ行くというのも、いや、つまらぬダジャレでありました。
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浅草に匂ふ櫻肉かな
さて春だ。春となればお花見である。お花見となればさくら鍋に馬刺しで一杯。という食品決定はちょっと安易ないいがかりかもしれないけれど、私は本当に馬刺しが食べたいと思う。嘘ではない。今回はとにかく馬刺しで一杯。
もちろん馬刺しを食べるのに理由はいらないけれど、自分の場合、これにはいくつかの段階があったのだ。
私が桜を好きになったのは、はじめは馬からだった。野次馬の馬である。いまでこそ野次馬なんて、フィリピンのマラカニアン宮殿の前あたりにでも行かなければ見かけなくなったが、むかしは日本にもああいう物見高い野次馬が何十万と路上に群生していた。一九七〇年を挟む前後のころだ。
そのころ私は「櫻画報」というのをやっていて、この「櫻画報」の櫻とはもちろん野次馬の馬が変態したもので、言ってみれば野次馬の情報誌をやっていたのだ。時代が時代だったから、ご存知の読者もいるかもしれない。お互い歳を取りましたね。
当時は理屈の時代だから、私は野次馬の馬という理屈から桜の花に対面した。やがて時代とともに理屈が崩れ去って、桜の花だけが残された。
これがいいんですね。理屈抜きの桜。
お花見というものをはじめてしてみた。前にも何度かお花見を通過したことはあるが、お花見が素晴しいなんて、桜がひらひら散るのが美しいなんて、ぜんぜん思いもしなかった。
幼稚園のころ父についてお花見に行き、あたりにふんわりと桜が満開だった感じはたしかに覚えている。でもそれよりも、父の会社の人たちのゴマ塩の顎がいくつも近づいてきて、その酒臭い息の嫌悪感の方が強く残るのだった。
学生のころ東京に出てきて、武蔵小金井に住んだ。その下宿からちょっと歩けば小金井公園があり、ここはもう春になればお花見のメッカだ。弁当を持って五分歩けばもうお花見ができる。それなのに一度も行ったことがなくて、そんなメッカがあるということさえもほとんど知らなかった。関心がなかったらしい。
やはり若いころはお花見どころではなかったのだ。では何どころだったのかというと、よくわからない。まああまり問い詰めては、過ぎ去った若い時代が可哀想だ。
とにかくそんな時代が過ぎ去ってからは、いろいろとお花見をしましたね。
小金井公園では何度もした。はじめは桜の樹がまだ若くて低い時代で、花びらの色も湿度も消し飛びそうに新鮮だった。
狭山湖畔でしたこともある。ここは桜の樹の本数が圧倒的で、お花見人口も圧倒的で、午後になるとちょっと埃《ほこり》っぽいほどの空気であった。
国鉄ストの日に井の頭公園でやったお花見も、これは最高だった。そこは広い池の水面に桜の枝が乗り出していて、景観としては申し分ない。ところがここは駅から近すぎるものだからいつもヤングが多すぎる。それが国鉄ストで環境が浄化された。桜の下にちらほら来ているのは、近くから人力で歩いてきた人たちばかりで、これは毎年春闘には頑張ってもらって、満開時には必ず全面ストを実行してほしいと思ったものだ。
京都でもしたことがある。山に近い、鴨川沿いの茶屋みたいなところだ。あいにく雨であったが、窓の外を流れる川の向うに、雨に濡れる桜を見るのもこれはまた最高で、仲間と短冊に墨くろぐろと五七五など書いてしまった。
高尾山の山頂がまた素晴しい。東京のいちばん身近な山だから小学生などはみんな遠足に行く。だから頂上は新宿の駅前ぐらいに混雑していて、ところがそこを抜けて陣馬山へ通じる尾根道になると人もぐっと少なく、そこにずうっと桜並木がつづいている。
ここでのお花見のアイデアが浮かんだときには嬉しくなった。はじめは何も知らなかったのだ。高尾山でお花見なんてあまり聞かない。ところが夏のハイキングで行ったときに、その尾根道を歩きながら、
(あれ? ここに並んでいるのは桜の樹だぞ……)
と見破ったのだ。だとすると、この高空でお花見ができる。でもふつうにちゃんと咲くのだろうか。などと半信半疑の気持だった。
で次の年、とりあえずふつうに地上でお花見をして、まず第一回目の満足をする。そのあと花が散って、今年はもう終りだ、また来年だなあ、と一般大衆は考えているその時、こちらはなおもあきらめずに第二回目の計算をしていて、地上と高尾山の頂上とは温度差が〇〇度だから、こちらが散ったあと〇日ぐらいたってやっと満開か、それともその樹の品種によっては〇〇日なのか。それを土地の古老に聞いたり、高尾山のケーブルカーの事務所に探りの電話を入れたりして、狙いを定めたXデーだ。仲間と示しあわせて頂上に登り、そこを抜けて尾根道にはいったところで、まるでピンク色の雲のようなものが尾根の上をふんわりと伸びているのを遠望したときには、思わず頬がふわふわにほぐれてしまい、そのままそのピンク色の雲に乗って天まで昇りそうな気持になった。喜びのあまり、それを「山頂の花びら」という小説に書いてしまった。
このように桜というのは生《ナマ》ものであるところがまた難しいのである。お花見のスケジュールを作るのが大変なのだ。当の桜の花にアポイントを取っているつもりでいても、こちらがちょっとでも約束をずらすと相手はすぐに立ち去ってしまう。
引越しなどすると、散歩の楽しみの一つに桜の樹の見破りがある。夏であっても、お使いのたびに自転車でいろんな道を通りながら、樹の幹や枝や葉っぱを見ながら、うぬ、これは立派な桜の樹だ、うぬ、これは見事な桜並木だと見破っていく。春にはこうなってああなって、これは凄い光景だぞと想像をする。その時には仕事は何とか片付けて、絶対にここでお花見をするぞ、絶対に。
と心に誓う。ところが人間というのは弱いもので、仕事にはどうしても流されてしまうんですね。あれよあれよと桜の季節が過ぎてしまって、悔しくてしょうがない。シーズンに二回か三回はお花見をしたいと思うのだけど、一回もできないときさえあるのだ。そこがやはり生《ナマ》ものの魅力と厳しさ。
ところで、ちょっとあきらめれば八重桜もいいものである。もちろんいちばん風情のあるのは染井吉野か山桜で、その寿命が短いだけに散り際はじつに美しい。八重桜は開花の寿命は長いが、ちょっとボリュームがありすぎてごってりしている。
しかし私たちは人間社会に生きていることを忘れてはいけない。日本人はみんなお花見が好きだから、好天で休日の満開時などは人間でぎっしり埋る。桜の花がいくら見事であっても、もう風情どころではなくなってしまう。ただお花見をクリアしましたという、それだけのことで終ってしまう。ここが人間社会の問題点。
ところが災い転じて福とせよというか、仕事に足を取られてせっかくアポイントを取ってある桜にも立ち去られてしまった場合のときに、私はなおもあきらめきれずに八重桜のお花見に行く。
これも小金井公園だった。桜が完全に散ったことを情報で知り、そのころになってやっとヒマができて、私は自分の身の不運を嘆いたものだ。しかしまあサイクリングでもしようと、ちょっとしたお弁当を持って小金井公園へ行ったのである。お花見をしてやろうというような気負いはまるでなくて、まったくの無心であった。で小金井公園にはいっていくと、一面に八重桜が満開である。
思わず自転車を漕ぐ脚を止めて、ブレーキもかけずに、そのまま八重桜の下を惰性で進んでいきながら、感動しましたね。一瞬、これが本当のお花見だと思った。
というのは、そこでお花見をしている人が少なくて、しかもみんな肩の力を抜いて、のんびりしている。
ふつうのお花見、つまり染井吉野や山桜のお花見というのは、何故か人間社会の全員が押しかける。新入社員が番を取ったり、酔払いが暴れ込んできたり、お巡りさんが喧嘩を取り締ったり、もちろんそういう賑やかさもお花見であります。しかしそうやって人間の肩に力が入りすぎると、せっかくの桜の質感が吹っ飛んでしまって。
それはたしかに花は染井吉野がいいと思う。しかし人間が密集しすぎるとプラスマイナスゼロになってしまって。
八重桜はたしかにごってりとしている。だからかどうか、染井吉野みたいにはお花見人口が群がらない。むしろほとんど顧みられないといってもいいだろう。と、その人の密集の消えたところに、桜本来の柔らかさがぽっかりと残されている。
それに感動したのだ。自転車のブレーキをかけずに、チェーンの音がチリチリチリとゆっくりになり、チリ……チ……リ……チ。
と止まって私は草原に寝転んだ。焦りも欲もなくなって、上空の桜をぼんやりと見つめる。周りにちらほらといる人も、同じように肩の力を抜いて、のんびりとお花見をしている。いまの人間社会では、八重桜の方がむしろ桜らしいのかもしれない、と思ったりした。
というのも、やはり桜というのは、静かに咲いていて桜だと思うのである。松茸は香りが命だというが、桜は静けさが命だ。それもふんわりと柔らかい静けさ。つまり人間がそれを見るときの静かな気持の柔らかさ。
となると、物質的には染井吉野の方がその静けさを含んでいるのに、人間社会にあっては、むしろ物質的に静けさのやや欠ける八重桜の方が、その点で見放されている分だけむしろいまは静かな桜となっている。
なかなか食べ物の話にならない。
いずれどこかでさくら肉につながるだろうと書いているのが、なかなかつながらずに花のことばかり。
むかしはお花見をしながら馬刺しで一杯、などと望んだりした。しかしいまは、そういう理屈はない方がいい。馬肉のことはたしかにさくら肉という。でも桜のお花見だからさくらの馬刺しにしようというのは、理屈で考えた取り合わせだ。そうやって何ごとも小さな理屈で整えるやり方というのは、どうにも鬱陶しくてかなわない。それはもう過ぎ去った理屈の時代の中に放り込んでしまっていいのではないか。
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そう思って、馬刺しはただ馬刺しで食べることにしている。これがしかしさっぱりとしてうまいんだなあ。魚はよく刺身で食べるけど、動物の肉を刺身で食べるとは思いもよらぬことだった。むかし「櫻画報」をやっているときにはじめて食べた。とにかく桜に関するものを手当り次第に収集していて、理屈力を発揮していた。桜紙や、桜印のマッチや、桜の模様のハンカチや、すべてを桜の理屈で集めていて、その理屈の力で馬刺しも食べたのである。
陸上動物と魚ではずいぶん味が違うと思うのだけど、それが刺身で食べるとじつによく似ているのが不思議な気がする。
陸上ものではじめて刺身で食べたのはレバ刺しだった。レバーの刺身だ。ヤキトリでレバーはよく食べていたけど、それを生《ナマ》で食べようといわれてちょっとひるんだ。でもこちらはハンパな学生のところで、ひるんだところを見られるのがちょっと悔しくて、それだけでレバ刺しをペロリと口に入れた。
これがうまいのである。猛烈に生臭いだろうと体中の細胞の口を閉じるようにして舌の上に載せたのだけど、食べてみると何か魚の刺身みたいで、うまい。生姜《しようが》醤油だからなおさらである。
だから馬刺しのときもペロリと舌に載せた。うまいですねえ。馬にはわるいが、感謝はしている。
魚と違うのはくにゃりとしているところだろう。魚は鯛《たい》にしろ鮪《まぐろ》にしろ、切身になってピンとしている。やはり永年の刺身としての伝統があるのだろう。馬刺しの場合はちょっと違って、なかなかピンとはしない。まだ刺身状況に慣れていなくて、ちょっと照れたわけでもないだろうがくにゃりとしている。それがまたなかなかな味なのである。
はじめて食べたのは、櫻画報社の無給の社員たちと、隅田川の先の森下町の「みの家」だった。明治三十年からの古い店で、ノレンにも、窓ガラスにも、下足札にも、あちこちに桜の模様があるので嬉しくなった。その後あちこちで酒とともに馬刺しを食べて、今回もまた「みの家」へ行ってきた。
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回転寿司の元禄宇宙
私たちの太陽系においては、水、金、地、火、木、土、天、海、冥といった種類の星が、それぞれ半径の異なる軌動をもって、いわば横に並ぶ形で回っている。
一方そのころ日本の都市の大衆寿司店舗においては、トロ、イカ、タコ、エビ、アジ、シャコ、イクラ、ミルガイ、タマゴヤキ、といった種類の寿司が、同一の軌道上をいわばカルガモ的な縦一列の形で回っている。
ふつう、前者を回転運動といい、後者を元禄運動という(なんていま私が決めた)。
しかし江戸前の寿司というものが江戸時代のいつごろか知らんが発明されたときに、その寿司の団塊となったものが回転をはじめようとはいったい誰が予想しただろうか。
でもこれは、物理的に熟考すれば当然のことであった。空中に散在する物質粒子群が、その分子率のゆらぎの増幅により凝集して一体をなすと、そこに重力にもとづく回転運動がはじまる。それは天体となった地球や、その団塊である太陽系や、そのまた団塊である銀河系を見ても明らかである。だから江戸時代の外食産業ビッグバンにはじまるシャリとネタのゆらぎによって形を成した江戸前寿司が、やがて都市の繁華街における質量集中増大の結果こんにちの元禄運動がはじまったことは、しかしこの言い方では話が面倒になるばかりなので少し変えよう。
とにかく外食産業というのは、いまは一段とまた凄い膨張ぶりなのだ。これまではたんに繁華街での膨張だった。駅前にレストランが犇《ひし》めき、駅裏には定食屋が犇めき、その隙間を縫ってそば屋やラーメン屋が犇めいていた。それがもはや駅の周辺だけでは収まりきれずにはみ出した。駅をぽーんと離れた田んぼの中のようなところに、ボール紙製の飛び出す絵本みたいなレストランがすとんすとんと建ちつづけている。SFなどで過密の地球を抜け出て宇宙空間に建設される人工都市があるが、あれの練習をすでに地上でやっている。つまり田んぼというのは宇宙空間みたいなものであって、そこではまだ質量集中がゆるいので、江戸前寿司の元禄運動は発生していない。いまはまだテーブル上に静止したハンバーグやスパゲッティといった種類のすかいらーく的なものだけが販売されている。しかしいずれその宇宙空間で元禄寿司が営業を開始するとき、地球の人口はどのくらいになっているのであろうか。
いけない、また話が大きくなった。話というのも増大すると、回転運動を起して宇宙空間を引き込んでしまう。
しかしいまでこそ外食行為はぺらぺらなほどに明るいけれど、私などいまだに外食という言葉には一抹の暗いものがよぎる。むかしは外食券というものがあり、その前に米の通帳というものがあった。それがないと米が買えないし、ご飯を炊いて食べられなかった。つまり国民全員が平等に同じ分量の米を食べるという、ほとんど共産主義のようなことをしていた。
しかしその当時でも人は外で仕事をしている。ふだんは家に帰って自分の米を食べるにしても、やむを得ぬ事情で外食するとき、自分の米をわざわざ持って行くのは大変である。だからその場合には米の通帳を削って外食券に換えてもらう。その券を持って外食券食堂へ行くとやっとお米のご飯の外食ができるのであった。
最近は当時のだぶだぶのズボンやオーバーが流行《はや》りなので、六本木あたりに外食券食堂を開店したらどうだろうか。
それはともかく元禄寿司のことである。外食寿司の回転問題。
やはり元禄寿司の元祖、第一号店を訪問しよう。外食寿司が繁華街の一店舗で増大現象を起し、超高密度となり、それが臨界値を超えて遂に回転をはじめる、その元禄運動の記念碑ともいうべき場所に坐って寿司をつまんでみたい。仮りにそこが店舗改装されていても、寿司が最初に回りはじめたその中心の回転軸が、店のどこかに遺跡となってあるのではないか。
しかし元禄寿司本舗に問い合わせてみると、
「一号店は大阪にあるんですが、もうだいぶ前に改装していて、ほかの店と特に変りはありませんよ」
ということだった。
「しかし店のどこかに最初の回転軸だけ保存されているとか……」
「え、かいてんじく?」
「いや、いいです」
まあこちらの勝手な妄想に過ぎぬのかもしれない。
「まあそういうことでしたら、浅草の雷門にある店をおすすめしますね。そこは七十席分あります。ふつうは三十から四十席だから、まず倍の回転ラインですね」
それは凄い。豪華だ。というより雄大である。七十人の取り囲む中を、三百か四百ほどもの寿司皿が回転している。一つの皿に二つずつだから、六百から八百。のり巻などは一皿に六つとか八つあったりするから、総数は千を超える。それが一列にカルガモ的に並んで回転しながら、ところどころで外側にピュッ、ピュッと飛び出していく。するとその回転の内側の高圧部では、シャリとネタが核融合を起してギュッと握られ、それがつぎつぎとまた回転の表面まで押し出されて補充される。その物質中の八割方を占めるシャリというのがまあさしずめ水素、もしくはヘリュームということになろうか。
「シュー……」
これはいままた話が大きくなったので圧力を抜いた音。
さて、浅草雷門の元禄寿司へ行ったのである。ちょうど折も折、その日は四月二十九日の天皇誕生日。緊張した。天皇在位六十年記念式典で、過激派が暴力を使って脚光を浴びようとしている。しかもその会場というのが浅草のすぐそば、両国の国技館だ。地上ではもうロケット弾がビュンビュン飛んで、機動隊のブラウン運動が発生しているのかもしれないぞ。そう思って地下鉄で下を潜って浅草に着いた。地上に出たが、ロケット弾の匂いはしない。雷門の仲見世通りは日本人や外人で賑わっている。
仲見世からちょっと入ったところにその元禄寿司の店があった。まず店の前に立って観察する。店内のカウンターを寿司群が回転して動いているのがちらりと見える。私は感動した。アンドロメダ星雲の末端部を望遠鏡でのぞいたようだった。ちょうどお客が満員で、寿司群の回転が全部は見えない。お客の背中と背中の隙間から回転ラインがちらちらっと見える。それがまたよけいに、地球の大気を通しての見えにくい映像を思わせ、感動が深まる。
店内にはいり、回転ラインに接近した。つまりカウンターの椅子に坐ったのである。目の前を寿司群が流れている。それがありありと見える。イカ、タコ、マグロ、エビ、タマゴヤキ、いままでに見たこともないカニ風味みたいなものもある。それがいずれも手を伸ばせばすぐ届く至近距離にあるのだ。私はアメリカの惑星探査機ボイジャー2号のような気持になった。
「シュー……」
前に同じ。
さて、何から食べるか。いよいよこちらの主体性が問われる。ふつうの寿司屋のカウンターであれば、もちろん値段も高いし緊張度も高いし、しかしそれだけに眼前の板前や両隣の客を意識した上での見栄などを基礎として注文ができるといえばできるものだ。ところがこの元禄スペースにおいては、眼前の板前や両隣の客といった引力関係がほとんどなくなり、それが全部自分との関係に持込まれてしまい、自分が自分に対して見栄を張りかねないような内面運動が発生してきて自分としては困ってしまう。
(画像省略)
私はまずマグロの赤いのに手を出した。別に他意はない。深い意味もない。とにかくまず第一球、アウトコース低目に投げて、ボールになっても仕方がないし、しかしあわよくば低目ぎりぎりに入っていきなりワンナッシングと有利なカウントに立てるのではないか、といったような心のアヤは、まああったのかもしれない。
そのあと白っぽい貝を食べたと思う。イカを食べて、鉄火巻も食べた。赤貝も取った。アマエビとイクラも。とにかく皿は二桁の大台に迫った。しかしその詳細を覚えていない。
よく囲碁の解説などで、
「白がこういって、黒がこういって、つぎに白がこちらを切り返しにいって、それをかわして黒がこちらにきた……」
などと一試合全部を再現してみせるが、あれにはいつも驚いてしまう。凄い記憶力だ。おそらくあれは白と黒の勝負にドラマ性があり、それをたどって可能なのだろう。
そうすると元禄寿司にもドラマはある。それを追っていけば解説者による再現も不可能ではないと思う。
「O氏はまずマグロの赤からいきましたね。これはまあこの人のいつもの手なんですが、つぎにいきなり貝にいった。しかも白いの。そのあとイカ、鉄火巻とつづくわけで、これはずいぶん思い切った手だと思うんです。とくに貝の白からイカにつづくところ、本当はその間にハマチとかですね、あるいはシャコなんて手もあった、それからイカにいっても充分間に合う……」
何に間に合うのかわからないが、解説者は裏に磁石のついた寿司模型をいくつも持って、表示板の上へ並べていくわけだ。
「シュー……」
しかしいったいいくつの寿司を眺めただろうか。目前を色とりどりの寿司類が切れ目なく流れていく。それを一つ一つ食する目でもって眺めるわけで、あまり優柔不断に眺めているとそれだけで満腹になってくる。そのうち慣れてくると、一度見たような寿司がもう一度目前を横断していく。同じマグロであっても、よく見ると個性がある。四十億の人類の指紋が全部違うように、寿司の表情も全部違う。マグロの切り口、米粒の並び、その両者のずれ方、皿の上の位置、それらが無意識にも脳裏に焼きついているもので、
(あ、あいつまたきたな)
という感じで固有の寿司と知り合いになる。そうするとそれを取ってパクッと食べてしまうのに忍びなくて、
(遠慮せずにまた返ってこいよ)
と後姿を見送る。わが特捜班のストップウォッチによると、この店の回転ラインは一周五分八秒。長い。それが二周も三周もするとマグロの表面が少し乾いて反《そ》り返ってきてしまい、
(あいつ、老けたな)
と思われてくる。そうなると鮮度第一の食品としては、どうしてもまた敬遠されて、寿司としてはますます魅力を失う。
おそらくはじめは他と比べて何ら遜色《そんしよく》のないマグロであったのだろう。あるいはほんのわずか小さめに見えるとか、切り口が歪《ゆが》んでいるとかあったかもしれない。それともたまたま客の手のタイミングが合わなかったという不運もある。その最初のわずかな遅れを克服できずに干からびを招いてしまい、いったん見かけが悪くなると手を出す人もなくなり、寿司はますます乾燥凝縮して地獄の底まで落ち込んでいく。
人生の悲哀を感じた。あるいは自然の苛酷さといってもいい。この落ちこぼれの寿司に対する救済の道はないのか。
私はお茶を飲みながら、二段回転方式が頭に浮んだ。その店のメインの回転ラインから引込線を引いて、店の脇にサブの回転ラインを設ける。いわば元禄の衛星を作るわけだ。落ちこぼれの寿司はそこで小さく回転するようにして、そこは値段も安く半額にする。そうすれば落ちこぼれの寿司も地獄まで落ちることなく救済される。
しかし日本は平等主義の天才であるから、このような装置は、
「差別だ」
といって世間が許さぬ。一方アメリカという国は貧富の差をエネルギーとして尊重する傾向がある。だからいずれ元禄寿司がアメリカ進出の折には、この二段回転方式が出てくるのではないか。むしろそれが発展して三段式、五段式の店舗があらわれるかもしれない。そうするとその五段階目のミニラインでは、もうほとんどコチコチの真っ黒になってしまったマグロの寿司が、三円くらいの値段になってゆっくりと回転している。これはじつに凄みのある風景であろう。
「ごちそうさま」
私は十皿で終りにした。八皿あたりで満足したのではあるが、せっかくだからカズノコも、というので九皿となり、九までいけばキリのいいところでもう一つ、今日は天皇の在位六十年でもあるし、私も頑張って十皿の大台にのせたのである。
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山菜人類学
高タンパク、高カロリー、もっと塩と砂糖をたっぷり、という時代があった。世界大戦などというSFみたいなことがじっさいにおこなわれたころだ。当時は山菜料理なんて食べたいとも思わなかった。思ったとしても、いまみたいな流通機構はないので、山奥の山菜の採れる現地の人でなければ山菜料理なんて食べられなかった。
私がはじめて山菜を食べたのはその現地である。SF的な世界大戦が終って十五年、私は二十二歳とか三歳とかの青年のころ、ネオダダという前衛芸術のグループをつくっていた。前衛である。フランス語ではアバンギャルドという。シュールレアリスムとかオブジェとかデュシャンとか、そういうカタカナに感動している最中なので、山菜なんてまるで眼中になかった。
ところが仲間のみんなでなぜか東北に旅行したのだ。山形の人にみんな招待されて、行ったのは米沢というところ。交通機関をいろいろ使ったあげくに徒歩となり、山奥の釣橋を渡ってお伽話《とぎばなし》みたいなところに来てしまった。大きな農家で、太い柱には手斧《ちような》で削った跡があり、鉋《かんな》のまだない時代の建物だ。凄いと思った。
その家の若いお嫁さんが赤ん坊をおんぶしながら、じゃあ今日はお客さんだからとか言いながら、夕方、裏山みたいなところにはいって行った。赤ん坊をあやしに行ったのかと思ったら、夜の食卓に山菜料理が出たのである。
それがおいしいので、ちょっと黙りましたね。山菜なんて言葉は知っていたけど、ぜんぜん食べたことはなかった。それを山奥の現地で思いもかけず口にして、アバンギャルドはちょっと置いておいて、感動した。うまい。植物の味。大根や白菜はまあふつうに食べてふつうに好きではあったが、その野菜の味のさらに奥地に踏み込んだ先端部にあるような味と歯ごたえ。はじめてだけど、これは自分の好きな味だった。だけど子供では味わえない味で、そこのところだけ、一足先に青年から大人になったようだった。
あとはまた山菜の現地から遠い都市生活がつづくのである。東京で暮しながらキャベツとかニラとかモヤシとか食べていたのであるが、流通機構はまだ山菜にまではなかなか届かない。だからああいうものはそう簡単に食べられるものではないのだと思い、必需品ではないのだけれど、山菜は頭の中の貴重品となっていたのだ。
そんなある日一九七〇年代の終りごろであろうか、神田神保町のふつうのそば屋に入ったら「山菜そば」というメニューがあるので思わず注文してしまった。かけそばの上に山菜がたっぷり載ったのが出てきて感動した。これは素晴しいそば屋を見つけたと思った。
それが山菜の流通機構が組み上がってきたはじめのころだろう。その山菜は本当は缶詰なのだ。それを知ってしまったせいもあるが、いまは都内で山菜そばを食べても感激が薄い。缶詰がだめだというのではないが、やはりちょっと人工的で、ちょっとというか、かなり。
缶詰でもいいものはある。私が認める缶詰は、トウモロコシとアスパラガスだ。これには缶詰の幻滅もなくおいしい。だから缶詰は食品の味にとって絶対悪ではない。しかしやはり山菜は。
ずばり現地へ行くことにした。新潟県の六日町。ここに料理「大」という小さな料理屋があって、なぜ大かというとその料理人の名前が我田大。
大君はT大の文化人類学だ。造反有理で盛り上がっている時代、あのころは学生は勉強をせずにヒマそうにしていたので、私の「櫻画報」の仕事でタダ働きをさせた記憶がある。当時マッチのコレクションをしていたので大君をも収集作業にそそのかしてコレクションを増やした。大君たち学生が「戯歌番外地」という本を出したので私がその表紙の絵を描いたりした。やがて世の中の興奮がおさまり、大学が営業を再開したころ、大君は板前をはじめていた。箱根の旅館が皮切りで、はじめは包丁など持たせてもらえず魚ばかり焼いていると言っていた。板前修業はまず洗い物、下ごしらえ、焼き物という順にはじまるらしい。その旅館に雑誌「ガロ」の忘年会でみんな押しかけたりした。その後あちこち回って都内の料理屋勤めになったので、そこにも友人と飲みに行った。
その後いよいよ世の中が静まり、大君はいったん包丁を仕舞い、故郷で先生をやろうとT大の授業を受け直した。みんな造反有理のドサクサで中退のまま就職したりしていたのだから、それをもう一度やり直すのはしんどいことだ。ところが免状を取っても造反有理の男の顔は履歴書で、正式の採用のハンコが押してもらえない。すでに故郷で先生のインターンみたいなことをしながら、生徒たちに人気があった。板前の先生だからそれはわかる。
じつをいうと大君のお父さんは町長さんで、ふつうはその筋からハンコも押せるというのが世の中だけど、大君は先生を断念していよいよ本格的に包丁を研ぎ出したのだ。何が本格かというと、包丁で刻む野菜については全部自分の畑で作る。茄子、きゅうり、トマト、白菜、大根、いずれも味は濃厚、形は不細工。それをダンボールに入れて上京し、昔の仲間に料理して食わせた。東京人の食生活を見かねてのことである。
その大君に山菜現場への案内を頼んでみた。大君が上京したときだ。大君は、
「うーん……」
と唸っている。その唸りは何かと思って尋ねると、山菜を採る場所というのはそう簡単に他人に教えられるものではないのだという。つまり山は公的なものであるにしても、プロにはプロの秘密の場所があるのだ。山菜というのは自生するものだから、乱獲すれば次の年のものまでも根絶やしにしてしまう。公道に近いところではそのような状態をよく見かけるという。プロたちはもっと奥地の足場が険しくて人の寄りつきにくいところを知っていて、そこは自分だけの秘密にして、自分がその摘み採りをコントロールして、その生態系を自分の責任をもって管理しているのである。そんな奥地に案内しても、都会人はつきあいきれぬよと言うのである。私は、
「うーん……」
と唸った。その話を聞いただけで、その大君だけの秘密の山の空気を感じたのだ。その空気だけでも吸ってみたい気になるのだが、やはりダメだろうかと思って「うーん……」と唸ったのだ。しかしこちらはプロではないのだし、その場所のことを人に言うわけもない。それに地理を知らなければ言おうとしても言えるものではない。そう思ってもう一度大君の顔をうかがうと、
「まあ長靴を穿《は》いてこないとダメですよ」
と大君は言った。
「山菜の出るころはちょうど雪が溶けて、地面がぐちゃぐちゃだから」
と言っている。私はニッと笑った。大君は黙って空を見たりしている。
大君の指示により、五月の二十日に出かけて行った。その年の天候によってピークは多少ずれるという。しかしずれて遅くなったら、それだけ山の高い所へ登れば同じ状態があるという。桜の満開が、だんだん山の上へ登っていくのと同じことだ。
大君の相当に古い建物の実家に寄って、結局長靴を借りることになった。四輪駆動のジープに乗り込むと、いつの間にか頬かむりした小柄な初老のおばさんがくすくす笑いながら乗り込んでくる。山に山菜採りの車が行くというので、近所の人が便乗するのかもしれない。ぐいーんと舗装道路を進んで、やがてでこぼこの土の山道となる。ぐいーん、ぐいーんと進んでいくと、上空にどんどん近づき、畑や田んぼが遥か下の方に見渡せる。道路がちょっと広がったようなところで片側に寄り、山の斜面にぐいとめり込ませるようにしてジープを止めた。おばさんはトンと降りて山の中に消えていった。私たちもトンと降りる。服装はシャツ一枚にジャンパーをはおってちょうど気持がいいくらいの空気。ところが見ると北側の物陰に雪がまだ溶けきらずに残っていて、その間の差額というのがどうにも不思議だった。
「まあゆっくり登ってきて下さい」
と言って大君はもう山の中に消えようとしている。慌てて山道を追いかけた。長靴に軍手で、大君はむき出しの鎌を一つ持って、胸に大工さんの釘袋を大きくしたみたいなのをぶら下げている。そこに採った山菜を入れるわけで、もういくつか右手でツンツンと採ったのを左手に束ねて持っている。それが気まぐれでちぎった草の先をなんとなく捨てずに持っているという感じで、はたから見ると何をしている人かわからない。ときどき、
「この道を行ってて下さい」
と言いながら、自分は道を外れて山の急斜面にざわざわと踏み込んでいく。あちこちの枝の先を手に取って調べるようなことをしながら、地面の草を掻き分けたりして、いつの間にか左手のものが増えている。私には山の斜面はすべて雑木と雑草に見えるのだけど、大君にはそこに無数の顔が見えるのだろう。
(画像省略)
山菜といえばわらびとぜんまいくらいは知っている。しかしその違いはとなると、もうわからない。ジープの中での授業では、あさつき、すっかし、こしあぶら、桑の葉、しおで、こごめ、うるい、とりあし、きのめ。きのめはあけびの芽だそうで、木の芽としてはたらの芽、ととんぼ、うこぎがあるという。まるでわからない。山うど、山たけのこもある。ぜんまいにもウブゲの生えたようなのでおとこぜんまいというのがあり、これは採っても食べられないという。たらの芽は一本の木に一つだけは残しておかないともうその木は枯れてしまうという。ところが知らない人はそれを最後の一つまで採ってしまって困るという。
私は自信もないし迷惑になってもいけないので、なるべく山道を行った。大君はときどき山道に戻りながら、ときどきザザザッと斜面にずれて行って、木につかまって身をのり出して何かつかんだりしている。その身のこなしがだんだん人を離れて猿に近づく。猿になりきれればいいのだろうが、やはり人間であるところで遭難というのはつきものらしい。相当な人でも、夢中に追いすぎると木が折れたり、崖から滑ったりして、人知れず谷底に落ち込んでいく。植物だって必死だから、ぎりぎりの斜面に生えているのだ。
見ているとやはり「のってくる」というのはあるようで、大君の動きは調子にのると淀みなく点から点へとリズミカルに動いて、何ものかを適確に摘み採っていく。それにしてもこの雑木と雑草の一色にしか見えない山の斜面から、よくそれだけのものが見分けられるのか不思議だった。山道の脇で一休みして訊いてみると、やはり調子があるのだという。山の斜面の迷彩を見ながら、ピントを深くしたり浅くしたりするようなものだという。その途中で一つ見えると、その同じ深度のものがぱらぱらっと見えてくるらしい。
「ちょうどね、掌で斜面をそうっとなでてるようなもんですよ。ちょっと加減して強く押すと、チクッと飛び出したのが感じるみたいな」
なるほど、じつによくわかる。都市の路上観察と同じ要領だ。目が対象に合ってくると、すーっとつづけて見えてくる。
私も頑張って、自分の目で山たけのこを探し出した。ポキンと折ると、その周囲の迷彩の中にほんのわずかな頭がまた一つ見えた。私の眼の奥にICが一つ増えたようだ。
ジープに戻ると、ほどなくさっきのおばさんも降りてくる。じつに不思議なタイミング。やはり袋に山菜を採ってるらしい。またくすくすっと笑ってジープに乗せてもらい、実家の前で止るとトンと降りて、何となく実家の中へ消えていった。不思議に思って大君に訊いてみた。
「あれは誰?」
「おふくろだよ」
それから料理「大」に行って採ったばかりの山菜を料理してもらった。山たけのこはすっと包丁を入れて焼いて食べると、えもいわれぬ。ふきのとうを刻んでゴマ味噌とマヨネーズをまぶして摺《す》り鉢でごりごり一体化したのが、またうまい。東京ではまず手に入らない冷やの「亀の翁」がまたうまい。こんな贅沢ははじめてだった。
[#地付き]料理「大」(電話)〇二五七―七二―四五六五
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タコ焼きの科学
タコ焼きは熱い。しかも丸い形をしている。だから口に入れると、洞穴のような口の中をコロコロと転がる。一箇所にじっと止めていると熱くてそこの粘膜がヤケドしそうになるから、それを回避しようと舌が動いて、熱いタコ焼きを移動させる。そのとき丸い形が生きてくるわけで、タコ焼きの熱さを口腔内粘膜の各所に分散させながら、口の中をコロコロと転げ回る。
そうやってタコ焼きの熱が押さえられ、体温との差がなくなってくると、タコ焼きはやっと一箇所に落ち着き、それを載せた下の歯に向かって上の歯がぐっと降りてきて、タコ焼きを潰《つぶ》す。
つまり噛むわけで、タコ焼きの丸い形はぐじゅっと破れて、中から身といっしょにまた熱さがひろがり出てくる。
太陽においてもその表面温度五七八五度Kに対して中心温度は一五〇〇万度Kであるが、タコ焼きにおいてもその表面より内部が熱い。それが思いがけず露出して、口腔内粘膜はまた慌ててタコ焼きから逃げようとし、全員が責任を他人に押しつけようとするみたいに、タコ焼きはふたたび口の中をタライ回しにされて転げ回る。そのとき唇は半開きとなり、場合によっては、
「フハフハ……」
というような音とともに熱気が外に出てくる。あまり唇を全開にするとタコ焼きが外に飛び出し、地面に落ちてソンをするので、それを警戒しながら唇は半開きとなるのである。
それもやがて収まり、タコ焼きの過剰する熱が失われて体温とほぼ等しくなったところで、上顎と下顎はもう一度活動を開始する。上の歯と下の歯は本格的に上下運動にはいるわけで、タコ焼きの小麦粉マントルは不定形となって味の放出をはじめ、そのマントルに包まれていた内部核のタコのカケラがようやく姿をあらわす。
その内部核がはたして存在するのかしないのか、それは粘膜の間でもさまざまな臆測があり、タコ焼きといっても本当のタコが入ってるわけはないですよ、というような噂も乱れ飛んで、その観測の中枢をつかさどる舌の先も、それまでは半信半疑でタコ焼きを転がしたりしていたわけである。
それがようやくタコのカケラを確認し、舌の先はそれを押さえて、上下の顎の筋肉にもう一度業務連絡をする。それを受けて上下の歯が小躍りしながらタコのカケラに近づき、ゆっくりと噛み潰しながら、その歯触り、弾力、裂け方の具合などで、それが紛れもなくタコであることの事実を口中に伝えるわけだ。口の中ではすべての部位がその情報に湧き立ち、粘膜の間には拍手さえ湧き起り、その波が洞穴のような口の中全域を駆けめぐる。それはときには口中を漏れ出て食道を通り、胃袋の内壁にまで達するという。
そうやって一つのタコ焼きの組成と構造が解明されて、その一部始終を観測していた脳髄の食品部タコ焼き課には、深い満足が訪れ、感覚はゆっくりと味覚の収集、確認、保管、観賞へと向かうのである。
*
このようなタコ焼きの賞味には、まず夏の市営プールに行くことだ。
タコ焼きは熱いので、たしかに冬の終電間際の屋台などが好都合ではある。あの柔らかく丸い形、そして内側に秘めた熱、ほとんど人間的な暖かさ、それは冬の寒さと、ぎりぎりに追いつめられた突発時間にその力を発揮する。もうほとんど諦めていた胃袋が、駅前でばったりめぐり合ったタコ焼きに万歳三唱をした経験は、大人なら誰にでも一度はあることだろう。温度から考えても、その形や経済から考えても、冬の空気環境におけるどん詰まりの時間は、タコ焼きにとって最大効率の食事法である。ほとんど公式といってもいいが、しかし私はあえてその公式を外れて、夏の市営プールに行くわけである。
私の場合は国分寺の北町プールだ。
ところでプールに行くには泳げる必要がある。泳げなくても料金を払えば入場はできるが、プールに行って水に漬かっているだけでは、銭湯ではないんだし、物足りないではないか。
しかし私は四十歳を過ぎてもまだハンマーだった。沈むのである。私は小学生のころからハンマー質で、というより誰もが水泳を覚えはじめる小学校三、四年のころ、自分が泳げないのが恥かしくて「泳げる」と嘘をついてしまった。その手前、友人たちと海やプールに行けなくなって、自分が次第にハンマーとして固められていったのだ。恥かしいことである。
でも私は水泳が好きだ。泳げないけど、兄弟家族となら水のある海に行くこともできる。裸で水に接するときの解放感は、自分が有機物そのものになって天にも昇るほどの感触だった。その水の中の力学さえ操作できれば、そのまま泳いで天に昇ることができる。だけど私は泳げないから天には一歩も昇れない。
四十歳を過ぎると、さすがに人間も居直る。泳げないからといって、隠れることはないじゃないか。水が好きなんだから、好きなように水に漬かって手足を動かせばいい。浅いところなら死ぬことはないし。他人はその他人である私のことなんて、ぜんぜん気にしていない。
そのことにやっと少し気がついた。いいじゃないか、好きな水を勝手なやり方で掻き分けていけば。
そこからやっとイヌカキができるようになったのである。
プールの端から端まではじめて泳ぎ渡ったときの感激は忘れられない。イヌカキを基本に、しまいにはネコのような、ウマのような、ヘビのような、何か説明できない術を全部おり混ぜて端までたどり着いた。コンクリートの上にはい上がり、フーフー息をついた。周りでキャッキャとじゃれ合うガキたちを横目で見ながら、自分は偉大だと思った。
そうやって市営プールの百五十円という料金を、実質消費することができるようになったのである。私はいままでの人生でいろいろと金を使ってきたが、この市営プールの二時間百五十円という値段ほど安い買物に出合ったことはない。夏の暑い日、汗がじっとり出てくる。自分の肌とシャツが密着して、豚のような気持になる。窓を開けてもぜんぜん風がはいってこない。思考力が煮詰まる。世の中のどこへ行ってもこの熱気からは逃れられないというとき、百五十円をポケットに、水着をちょっと持って自転車をこいで行けば、全身をザッパリと水の中に漬け込める。自治体というのはいろいろムダ使いをしているらしいが、この市営プール百五十円だけは素晴しいおこないである。
しかも私の行っていた市営プールは畑の中だ。林もある。青い空の下を自転車で近づいていくと、玉川上水沿いの道を折れて、畑と空地と雑木林をおり混ぜた道にはいり、すると何かしら小さなざわめきが聞えてくる。はじめは遠くに何か大事件が勃発しているような、それも誰かがお金をばらまいて大勢の人が群がっているような、ひょっとしてジャイアンツが優勝したのかもしれないような、そんなところに何かぴちぴちと、水玉のイクラをたくさん踏み潰すような音まで入り混じって聞こえる。で、ぐっと自転車が曲がってプールがあらわれ、そうするともう金網の向う側では大変なことが持ち上がっている。こちらの道路ではみんなふつうに服を着て荷物を持ったりして歩いているのに、金網の向う側はみんな裸でびしょびしょになって、顔の表情がめろめろに崩れているのだ。
それを見るとこちらはまだ金網の外なのに、もう表情がめろめろに崩れはじめて、自転車を指定の場所へ置きに行く間にもう表情は服を脱いで裸になって走り出してしまっている。まだ百五十円払ってないのに。
まあそうやってプールにはいるのだけど、私はイヌカキが少し進んで平泳ぎのマネごとまで行った。しかしそこから先がどうも上達しない。やはりもう歳も歳だし、正式に水泳教室で習った方がいいのかもしれない。
私の憧れは泳ぐ老人である。こちらがおそろしく不合理な泳ぎ方でへとへとになってプールサイドで両手をついて、掌にコンクリートの凹凸ができてちょっと痛いな、ぼつぼつ姿勢を変えようかな、とか思いながらプールの人々をぼんやり眺めていると、たまにポツンと老人が来ている。若者が騒ぐ中で目立たないが、よく見ると老人である。たいていは一人で来ていて、その孤独さがまたいい。ご老人同士はやはり目が合うらしくて、たどり着いたプール際で並んだりすると、お互いに少し言葉を交わしたりしている。聞いていると、
「いやあ、わたしなんか皇后陛下と同じ歳だから……ムニャムニャ……」
なんて言っている。ということはもう八十の大台である。それがまた話し終って、ザブーンと一人水にはいり、ゆっくりとしたクロールで泳ぎはじめる。見るからにムダのない動きで、何か年代ものの銘木の丸太が進むように、悠然とプールの向う側にたどり着く。
こういうのを見たら、やはりマネをしたくなるのだ。皇后陛下には追いつけないが、私だっていずれは追いつく。そのときああいう丸太のような安定感でプールを流れていけるだろうか。まだ年齢は間に合う。やはり正式にクロールを習おう。
と決意だけは何度もするのだけど、なかなか実行がともなわなくて。
私の泳ぎが下手なのは、やはり粗悪な自己流で水対策が確立されてないからだ。水泳は好きなのだけど、水への恐怖心が除かれていないのだ。息ができないと思うと過剰に苦しくなる。だからはじめてイヌカキをやったときには、水面から首が異常に長く出ていたようで、友人たちに、
「恐竜みたいだ」
と呆《あき》れられた。水中に没するのを恐れるあまり、首がニューッと肩のへんまで出ていたらしい。必要以上の物凄いエネルギーを出しきっていたはずである。以来その私の泳法は「恐竜かき」と名付けられた。
(画像省略)
最近はそれほどでもない。
*
さてそうやってプールから出てきて、いよいよタコ焼きである。
いや、それが目的ではないのだけど、水泳はエネルギーを消費する。私の場合はなおさらである。まるで水中で重量挙げをしながら進んでいるのだ。そうではなくてできるだけ軽く、凧揚《たこあ》げの凧みたいにふわふわ泳ごうと思うのだけど、すぐ落ちそうになるので慌てて重量挙げになってしまう。
だけどたまにフッとその軽さのカンをつかむことはある。あ、この感じでいけばぜんぜん力がいらないじゃないか。しかしそれはほんの一瞬か二瞬ぐらいで、なかなかつかみきれない。
だからプールを出るとエネルギーを出しきっていて、何か新しい電池のようなものが欲しくなる。どこかに電池屋はないか。
するとちょうど帰り道のところに何ということもない空地があって、二、三本の雑木がどうってこともない木陰をつくったりしていて、そこに何か適当な屋根を張ってタコ焼き屋が出ている。鉄板にずらりと丸い電池を並べて、細い鉄串の先でコロコロ引っくり返して、電池を焼いている。こんなもの、といつも横目で通り過ぎようとするが、しかし思わず足が止る。
店の前には簡単な木の長椅子が出してあり、子供たちが二、三人坐ってその電池をつまんでいる。真っ黒に日焼けした肌をしている。それが二時間水に漬かりっぱなしで、少し鳥肌が立って青くなっている。体はちゃんと拭いたのだろうが、それでも髪の毛のところどころが黒く湿って、その先っぽに水滴が溜り、
「ポトン」
なんて落ちる。子供たちはそんな水滴には構わず、何か呆然として電池をつまんでいる。やはりエネルギーを出し切っているのだ。
私も木陰にはいった。むかしは買い食いなんてしたら怒られていた。しかし私はもう立派な社会人だ。自分で働いたお金を持っている。
「電池下さい」
「え?」
「いや、タコ焼き一皿」
私は慌てて言い直した。店の人はコロッ、コロッ、コロッと丸い電池を引っくり返して、発泡スチロールのトレイに並べてくれた。その上に青ノリを載せてソースをかけると電力がミまる。脇に紅ショーガを添えたのでまたボルトが上がった。おもむろに爪楊子《つまようじ》で電池を一つ持ち上げると、私の顔面の電池室が口を開ける。以下は本文はじめに戻る。
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敬虔なる盛りそば
米というのは信仰に近いような食べ物だと私は勝手に思っている。信仰といっても日本の宗教、日本教というか、日本人教というか。
とにかく一日三食のうち最低一回は米を食べないと落着かない。不満である。ウドンやパン、スパゲッティ、洋風の何かグニャグニャしたもの、それらしか口にはいらなかったときには、その日の自分の運命を嘆き、世の中の構造を呪ったりする。
反対に何食振りかで米のご飯にめぐり合ったときなど、その色、匂い、味、歯ごたえ、しかも柔らかさ、そういう米のすべてに全身の細胞がふるい立ち、ああ日本人に生れてよかったと、恥かしいから口には出さねど、口の中でゆっくり噛みしめ、遠くの雲をぼんやり見つめたりするのである。
いや、つづけて米のことをもっと書きたいが、今回はそばである。米は寄り道であった。しかしそばのことを考えていたら、米というのは信仰に近い食べ物、という常日頃の下意識が浮上したのだ。というのも、そばというのは健康に近い食べ物だと、私は勝手に思っているからである。
健康への信仰といえばいいのか、そばは体に絶対に良い、と信じ込んでいる。意外と日本人のほとんど全員がそうではないか。違うかな。
うどんはそれほどでもない。うどんは代用食というか、しかしこんな言葉、いまどきの年少者は知らないだろうが、まあ言い換えれば胃袋の充填《じゆうてん》剤というか、小包の物品の揺れを防ぐワタの詰め物みたいな、それがウドンだ。と言ってしまえばウドンには悪いが、しかし今回はそばのためだ。軽蔑も甘んじて受け入れてくれ。人生はいろいろ、照る日もあれば曇る日もある。
私がそばを食べたのは青年になって東京に出てきてからだ。少年時代は東京以西の土地を点々としながら一度も食べたことがなかった。東京を舞台とする小説や歴史物語の中でときどきそばのことを読みながら、いったいどんな味のものかと憧れていた。印象の原点はやはり忠臣蔵だ。討入りの前にそば屋の二階で身仕度をして、全員がざるそばを食べてから出かける。これはじつにうまそうで、うまいだけでなくシャキッとして、体の引き締まる食品だと思った。
あと落語などにもそばが出てきてうまそうだし、江戸時代の絵にもそばを食べてるところがあって、一人の男が箸でそばをつまんで梯子《はしご》の上まで登り、その長く垂らしたのを下の男が口を開けて食べている。そばというのはそんなに長いものかと目を丸くした。私は非常に性質が良くてものごとを信じやすいタチである。
もう一つざるそばを肩の上に十何段も重ねて自転車で出前している絵があったりして、やはりふつうの食品とは違って特別に格調の高いもの、と思わされた。そばという食品に宿された心意気、みたいなものを子供ながらに感じていたのだろう。
青年になって上京し、はじめて盛りそばを食べたときはショックだった。盛りそばはおいしかったが、まず食べたあと、その下の竹のスダレみたいなのをめくると、下は空っぽ。私はその下にまだそばが詰まっていると思っていたのだ。あれれれと思い、慌ててもとに戻した。
これはトウモロコシのショックにも共通している。はじめてトウモロコシを食べたとき、私は外側の粒々を食べるとその中にまた粒々があり、ずっと芯《しん》まで食べられると信じ込んでいたのだ。そうしたら外一段のみ。あとは不毛。ショック。
まあそんなことがあったのだけど、そのようなショックを乗り越えて盛りそばが好きになったころ、一九五七、八年、値段でいうと盛りそば二十五円の時代、そばは緑色がハヤリだったような気がする。茶そばのくすんだ緑よりもっと明るく淡い若草色で、ふつうに盛りそばを頼むと、たいていの店でそれが出てきた。たぶん着色だと思うが、盛りそばを食べるのに慣れたころその色に気づいて、へえ、そばってこんな色だったのか、と記憶したのである。それがしかしいつの間にか盛りそばから淡い若草色が消えてしまって、あれは幻だったのかと思う今日このごろ。このことはいちど誰かそば業界の人に訊いてみたい。
新宿のむかしの二幸の裏に戸隠しそばがあり、そこの盛りそばを食べてから、そばの実から作ったそば粉によるそばはうまい、という実感を味わった。それまでただスタイルとして食べていたそばのようなそば、というだけでなく、そばという物質のおいしさをそこではじめて知ったのである。そば丸出しという感じの茶色いそばだ。
もっとも後で得た知識によると、茶色の濃いのだけがそば丸出しかというとそうではなくて、そばの実を搗《つ》いて外側の殻を削ったそばの実(つまり米でいう白米)を粉にひいて作ったそばは、そば丸出しでも白いわけで、御前そばというのがそれだという。まあその辺は知識人にまかせるとして、それ以来私はそばの信者になった。そういうそば丸出しの感じられるうまそうなそば屋を見かけると、すぐにはいって食べたくなる。
そばという食品はとりわけその発作的な誘惑が強い。たとえばビフテキも誘惑は強いが、これは夕食物品であり、大変なご馳走である。食べるとしても一日一回。いやじっさいのところは五日に一回とか十日に一回。とても発作的には食べられず、考えに考え抜いた末の、いわば何十試合目かにやっと打つことのできたホームラン。
ところがそばはシングルヒット。ちょこんとバットを当ててライト前とか、とりあえずバットを振ったら三遊間をコロコロとか、あるいはラインぎりぎりのバントヒット。だから何十試合に一本といわず毎試合でも。あるいは打順がくるたび。
だから自転車でちょっと買物に出た帰りとか、用事で町に出た日の空いた時間とか、そんなときそば屋があるとつい立ち止り、せっかくだから、盛りそばぐらいはいいんじゃないかと。何かこっそりつまみ食いをする浮気感覚というか、大丈夫、帰ったら夕食もちゃんと正しく食べられるから、なんて心の中で言い訳をして、家族にはナイショで自分だけ四時ごろ盛りそばを。
そういう人って意外と多いのではないか。図星でしょう。いやいいけど。
そんなときもう一つの言い訳として、そばは体に良い、と思うのである。うどんは充填剤であるが、そばは栄養素の固まり。食べるとそのまま体に入り込んで皮膚になるというか、肉を引き締めるというか、とにかく体には物凄く良い。だからこれはたんなる浮気というのではなく、味の確認、体力増強、むしろ治療というか……。
このあたりの言い訳を書きだしたらキリがないが、そのようなそばをひとつ白昼堂々と連続的に摂取してみよう、と決めて私は神田へ行ったのである。
靖国通りにあるまつやにはいった。戦前からの古い建物で、正面両側頭上の緑青を吹いた銅製の雨樋《あまどい》の受口には、松の紋様に「まつや」の文字が透し彫りのようになっている。その左側は「ま」が抜け落ちて「つや」になっていることが路上観察学会によってすでに確認されている。
ま、それはともかく席についた。まだ夕方のちょっと前で空いている。目的はそばであるが、本日のような場合はもう居直っているのだから、江戸っ子のふりをして、まずそば屋で酒を飲むのである。トリワサを頼んだ。イタワサも頼んだ。これでチビリとお酒。ここで早くも日本人としての至福の感情がこみ上げてくる。日本に生れて神田へ来てよかった。
トリワサとイタワサぐらいどこでも口にはいる、と思うかもしれない。しかしここはれっきとした神田のそば屋。いずれは本命のそばを食べる。その大事を控えて、それまでの間ちょっとだけ椅子に腰を降ろしてチビリとお酒を。
ここが違うのである。たんなる日本酒とおつまみではなく、とりあえずの日本酒から来るべきそばへ向けての豊潤なるパースペクティヴ。
卵焼きも頼んだ。分厚い小判型をしていてここの特製である。表面中央に三つ葉が張りついていて、大根オロシ少々。
鰊の棒煮も頼んだ。このあたりでかなりそばに近づく感じ。鰊そばの鰊だけがビューンと出てきて、そこに日本酒が加わった口の中の化学作用がたまらない。
日本酒との化合物で最高の素材はウニ。頼んだ。
焼海苔も頼んだ。いちだんとそばに近づく。漆塗りの小さな長方形の容れ物に焼海苔がカサカサと。へりのところにちょっとワサビ。それを手に取った焼海苔でこすってお醤油にピラリ。口の中でパリパリ。その感触を縫いながら日本酒が朝霧のように漂い、これはもう完全に日本の宗教だと思った。そばが至近距離にあるのが感じられる。気がつけばもう夕方。店内には勤め帰りの人々があちこちの席を賑わしている。いずれも日本教の、とくにそばへの信仰心の厚い人々。
ついに盛りそばが出てきた。これだけ事前にお迎えの準備が出来ているので、本命はもっともシンプルな盛りそばにした。
感想。
うまい。
これもシンプルになる。ここのは茶色ではなくて、そばを上品に丸出しにしたもの。味も物量も出すぎぬように、しかし食べてみて気がつくかつかないほどの一瞬の鋭い切れ味。さすが、と感服。しかし西洋人なら、
「え? コレがメインディッシュ、ですか?」
とアパルトヘイトっぽい顔つきになるだろう。敬虔なる信仰行事は、信仰外のものからはたしかに滑稽に見える。しかしそれはそばを知らぬ人類の不幸というもの。別にヤセ我慢ではないのだけど、ちょっとこれ説明が難しい。
つぎは神田薮そばへ行った。まつやから歩いて二、三分のところ。建物は比較的新しいが、歴史は一番古いという。ここは青年時代に一度来た記憶があるが、そのあと場所がまるでわからなかった。大きな提灯が下がっていたのだけ覚えている。敷石を伝って店内にはいると、入口のところで女の店員さんが、
「いらっしゃいィー」
と歌うように迎えてくれる。席について注文すると、帳場にいる男の人が、これもまた節をつけて歌うように注文を奥へ伝える。私は機関車の時代を想い出した。はじめて上京したとき、汽車が東京駅のホームに着くと、駅のアナウンスがちょっと鼻にかかった声で、
「とおきょおー……、とおきょおー……」
と歌うように流れてきたのだ。その旋律に青年の頭は酔っ払ってしまった。
などと思いながら、ここでまたお酒を注文する。あい焼というのを頼んだ。カモとネギの焼きもの。
小田巻蒸しというのは何だろうと頼むと、茶碗蒸しのようなものだった。
そばずしも頼んだ。これは生れてから二度目。そばが海苔で巻ずしみたいになっている。パクリと食べた。そばはやはり長く垂らしてツルツルというのが本道であるが、これはちょっと意表をついてそばの短髪、坊主頭みたいな。
盛りそばが来た。新しい割箸をパチン。そばを上に長く上げて垂らして、ツルツル。やはりこれがいい。
(画像省略)
そこからしばらく十分ほど歩いて神保町、出雲そば本家へ行く。三軒目となるとやはりこれくらい歩かないといけない。ここは割子そばが名物。薬味が四種類で、一口ぐらいの小さな椀にそばが五段。これがノーマル。注文によって追加するのが割子そばの本領発揮で、それが水準以上にいった人の記録が壁の巻紙に細い毛筆で張り出してある。しかし本日はもうとても挑戦する気になれない。
まずお酒におしんこを注文した。三軒目はもう老境の域だ。前にこの店に来たとき人の食べていたもので、何だろうかと謎であったものを注文する。大型のノートぐらいもあるワカメをペタンと薄く干したもので、めのはという。関西ではワカメのことをめのはとふつうに言うらしくて、これは三月から四月に穫れる出雲のワカメだという。これをパリパリとやりながら酒をチビリ。やっと一人前の顔になれた。
割子そばは三段を注文。品書きに五段と三段とあったのだ。まさか一段というわけにはいかないだろう。そばはかなり茶色味の濃いもので、そばの実の物質感は原始的なほどである。まさにそばであることを確認して満足できた。
もう夜だ。そば屋を三軒回って、体は物凄く良くなった。贅肉が一切削れて、体がそば色になってくる。やはり私は日本教の信者であると思い知った。私はれっきとした日本人ではあるけれど、もう一度日本に入国手続きをしてみたい。
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クサヤ菌の奇蹟
さて、グルメの丸ぼしでは失礼したが、丸ぼしそのものをいってみよう。
子供のころ住んでいた九州の大分ではトージンボシといっていた。唐人干しと書くのだろうか。とにかく鰯《いわし》みたいな魚が丸ごと干してある。それも完全に干し切ってあり、固くて棒みたいだ。これを焼いて頭からガリッと食べる。その歯ごたえと、苦味の混じった味が何ともいえぬ。しっかりと噛みつつ、ちょっと口の中の味が過剰になりかけたところで白いご飯を頬張る。ここからが本当のおいしさなのだ。地味でつつましやかで自分からは決して出しゃばろうとはしない白米のご飯というものを、たまらなくおいしいと感じさせる食べもの、それが日本のおかずの最高峰だ。
そうだ。ご飯のおいしさはおかずなのだ。そのおかずに代っていつから料理なんてものが出しゃばってきたのか。
いや慨嘆するのはやめておこう。社会党みたいになってしまう。あ、いけない発言。
とにかくその丸ぼしのトージンボシである。東京ではあまり売っていない。スーパーなどでたまに見かけるのは小さくてウルメという。ウルメの丸ぼし。ん? 何か聞いたような言葉だな。まあとにかくあのウルメも味そのものはトージンボシに近い。丸ごと固く干した味がうまいのである。
いずれにしても魚をかっちりと干した干物を焼いて食べるのがうまい。これは西洋人にはとてもわかりにくいだろう。東洋人にしても、白いご飯というものがほとんど宗教的な味にまで高められている皇国日本の住民でなければ、まずムリだと思う。すなわち、米を食する東洋であっても「料理」ののさばっているような国の住民は魚の干物の味なんてわからないのだ。
どうもこのグルメの話というのはその根源に迫ると国粋的になってしまうが、私は選挙に出ようとしているのではないのだ。次の次なんてまるで考えていない。ただひたすらトージンボシの味、丸ぼしの味、干物の味の真髄に迫りたいのだ。
さてどうやって迫るか。
私はカーブから入ってクサヤというものを考えた。
クサい干物である。しかしその匂いはおいしさの予感につながる。食欲を刺激される。その点でニンニクの匂いに通じるものがある。鼻にしたとたん眉間に縦皺が寄りながら、しかし口腔内では唾液が分泌をはじめている。ほとんど性欲反応に近いものだ。
大島に行くことにした。クサヤの現場に踏み込む。東京ではアパートでクサヤを焼いただけでも近所から苦情がくる、というほどの物品の原産地となれば、これはもう苦情どころか暴動が……、なんて理由ではないだろうが、クサヤといえば本州を離れた「海外」の大島や新島で作られている。
羽田から近距離航空のプロペラ飛行機。たぶん落ちないだろうといういいかげんな気持で乗ったら、本当に大島の小さな滑走路に着陸。地面に降りたらもう鼻先にクサヤの匂い、と思ったのはたんに潮の香りだった。しかし近い。
滑走路の出口に地元の谷口君が迎えに来ている。私の考現学教室の生徒である。クサヤの現場へ案内してくれるのだ。4WDのワンボックスカーにもう一人、黒いTシャツにサングラスの地元っぽい男。谷口酒造店の若い衆だ。谷口君の実家は焼酎の醸造元である。「御神火」という。よろしく。
(画像省略)
車はいきなりサファリになった。三原山の麓の砂漠地帯。ところどころにパラッと草が生えて、あとは見渡すかぎりザラザラの赤黒い砂地。その凹凸の激しい地面の上で、4WDがゴットンゴットン跳ね回る。頭が天井にゴッツンゴッツンとぶつかる。それがとぎれたらタイヤが砂にめり込んでエンジンはウンウン唸りっ放し。いったんバックして別のルートから勢い込んで突っ切ると、つぎの砂漠の崖から転落しそうになる。運転の若い衆は、ハンドルをキリキリ舞いさせながら、タバコをくわえて平然としている。
やはりクサヤは凄い。あれだけ強烈な匂いの物品だから、その原産地へはやはりこれだけの秘境を通らないとたどり着けない。のだろうと思って訊いてみたら、別にそうではなくて、まあせっかく本土から来たのだからサービスで三原山の砂漠を案内しているとのこと。
どうせならというので火口まで行った。もう噴火が収まって何十年とたつ。それでも以前は夜になると、遠くから山の頂上がほんのり赤く光って見えたという。
(注――この私たちの三原山訪問は一九八六年の八月十一日、この日から三カ月と十日後に、三原山は大噴火をすることになる。あとで調べてみると、その大噴火に至る火山性微動は八月十一日、つまり私たちが火口に近づいたそのときからはじまっているようだ)
すぐそばまで行った。火口の内壁は赤黒くすすけたようになっていて無気味、もう何千人という自殺者を飲み込んでいる。下をのぞこうとするが、下にはさらにもう一つ崖があって底までは見えない。せっかくだからその縁まで、などと考えていると、
「ピーッ」
と笛の音がした。振り返ると岩のごろごろつづく砂漠の遠くの方に、ポツンと人影が。西部劇みたいだ。警官である。メガホンを口に当てて何か言っている。双眼鏡で監視していたらしい。しかし集団自殺にしてはずいぶん優柔不断に見えただろう。慌てて火口を離れた。急いで4WDに飛び乗って発進。警官はジープで追跡してくる。つかまれば私たちは自殺未遂の現行犯だ。下手をすれば死刑だろう。
というのは妄想であって、私たちは警官に軽く陳謝したあとその場を離れた。若い衆の運転する4WDは砂漠を抜け出て大島一周のデザートラインを走り、大島南端の波浮港に近い差木地に着いた。クサヤ製造所の藤文商店である。やれやれ。
中庭には犬が長い鎖で繋《つな》がれている。その鎖が本当にずらりと長くて五メートルぐらいもあるのでひるんだが、おとなしい小さな柴犬。まるで吠《ほ》えないのでホッとした。なでてあげたら喜んでいる。
出てきたご主人はまだ三十代のがっしりとした体格の若い人。
「クサヤ菌についてはまだはっきりしたデータはないんですが、それがとにかく腐敗を防ぐ作用をもっているらしくて、新島や八丈島まで行って研究している人がいるんです」
いきなり研究レポートが出てきた。グラフとか表がある。おおっと、バイオテクノロジー。意表をつかれた。
クサヤは何かどろどろの液体に漬けて干すらしい、というのは知っていた。もともとは海水で、それが江戸時代から使いつづけるうちにどろどろになっていて、ときどきまた海水を足すという。そんな話を聞いていたので、もっと朽ち果てた木の桶とか皺くちゃの老人とかを想像していた。それが何と、クサヤ菌の折れ線グラフ。
しかしクサヤ菌というのは、その一言で説得力がある。しかしデータはまだこれからなので、これには納得力が必要である。
ご主人の話によると、クサヤの製法は昔からの経験的なやり方、プラス、新しい研究と工夫、である。昔は夏場にクサヤは作らなかったという。夏はクサヤがムレるし、しかも観光シーズンで人手不足。しかし現代は需要の力が強い。ゆっくりと夏休みをしてはいられない。だからクサヤもいろいろな合理化を重ねて、冷蔵設備、乾燥設備の導入、クサヤのタレの合理的保存をはかり、夏場にも生産が可能になった。
だいたいの魚はまず開いてハラワタを出し、夏場はそれをいったん冷蔵室で冷やして、漬け込むタレとの温度関係を調節する。そして漬けたあとは冷風の乾燥室へ。昔は戸外に並べて日に干していたが、いまは世間的な衛生概念からいってもそれが難しいという。味の方からいうとやはり天日で干すのが一番だけど、しかし室内乾燥では天候に左右されずに生産力が安定する。
そうでなくてもクサヤというのはその素材である魚の種類と状態によって、タレの漬け方や干し方などがいちいち異なるのだという。港に漁船が入り、その収獲物によってクサヤ工場もあれこれとやり方を調節している。タレは先祖伝来のものであるが、それも季節や使用状態によって微妙に変化するわけで、それを吟味しながら、ときどきバナナを放り込んだりするという。リンゴの皮や鮫《さめ》の身も入れるという。それもはっきりとした理由はわからないが、先祖からのやり方をそのまま経験的に引きついでいるわけである。
工場を見せてもらった。大きな作業台があって、数人のおばさんたちが短い包丁で魚を開いていた。真夏だけど手袋をはめて、それがもうハラワタまみれだ。一尾ずつ腹を裂いて、どろどろのハラワタをこそぎ出す。片付けても片付けても魚はまた山のように積まれる。もう魚の生臭さを通り越して、有機物の熱気だけが充満している。私は有無もなく圧倒された。何だか頭が下がる思いだ。これからはキレイな手でクサヤをつまむたびに、この労働を思い出そう。
開いた魚はまず井戸水で洗ってから冷蔵室に入れる。そこには年のいったおじさんがいた。視線を手もとの魚におろしたまま、黙々と作業している。洗って水を切った魚を木箱に一枚一枚重ねている。魚の開いた方を上にして重ねながら、その開いたところを指先ですっとなでる。塩でもすり込んでいるのだろうと思ったが、じっと見ていてもその手に塩をつける場面がないのだ。私は何かしらハッとした。ただ何もない手で一枚一枚開いた魚をなでている。
もう一度よく見た。おばさんたちの開いた魚がザルに入っている。それをこのおじさんが持ってきて、水を張った大きな樽《たる》の中で揺すって洗い、それを水切りしたあと木箱に移す。その移す作業をする時に、その開いた魚に塩をするみたいに、一枚ずつゆっくりと触りながら重ねている。開いた背のところをそっとなでて、掌で優しく押さえたりしながら、一つ一つをいたわるような感じなのだ。
先程のおばさんたちの作業には圧倒されたが、このおじさんの作業には感動した。視線を下におろして黙々と作業する姿は、クサヤの神だ。
ご主人に問題のタレを見せてもらった。設備は近代化されていて、タレは地下タンクに貯蔵してある。タレは使いすぎると当然ながら薄まり、といってあまり使わないでおくとクサヤ菌が弱まる。その点からは夏のクサヤ製造はむしろタレのためにはいいらしい。とにかくその性質上、地下タンクは二室に分けてあって、それを適度に休ませながら交互に使う。
太いホースから吸い上げて出てきた。アパートでは苦情さえもくるというその匂いの原点である。もちろんこの工場に入ったときから匂いは強いが、見学しているうちに慣れてしまう。そこへさらに強力な地下タンクからの原液、ご神体の匂いとでもいえるものが二つの鼻孔から体の奥に。おおっと一瞬直立するが、それも知らぬ間に慣れるから不思議なものだ。見ると意外にも淡紫色のキレイな液体。もちろん雑物は下で濾《こ》されて出てきているのだろう。しかしこれが「秘められし伝統の味と香り三百年」の液体である。
仕上がったクサヤを中庭に出して写真を撮らせてもらった。カメラマンが入念にシャッターを押していると、チャラチャラと音がして、長い鎖を引きずりながら柴犬に近づいてくる。被写体をクンクンと嗅ぐが食べようとはしない。犬でよかった。猫だったら大変である。犬の名はフジ。ちゃんとこの店の名を受けついでいるところがおかしい。ところがこの犬の先々代だかはフジマルという名だったという。
その話も面白かった。フジマルはれっきとした藤文商店の働きものだったのだという。そのころはクサヤもいまみたいな近代設備ではなくて、この海岸の斜面にずらりと並べて天日で干していたという。そうするとアウトドアであるから、猫にとってはたまらない光景である。悪巧みを抱いて猫のギャングが近づいてくる。猫は世の中に多いものだが、海岸にはまたとくに捨て猫が多いのだという。それがじわじわと近づいてくるところでフジマルの仕事がはじまる。右に左に走り回って猫のギャングを追いちらす。ほとんど牧場に働く犬である。大島の海辺のクサヤ牧場である。
それはしかし先々代の話で、いまはもうクサヤ産業も近代化されてインドアとなり、お蔭でフジマルの子孫は仕事もなくなり、中庭に長い鎖でのんびりと暮している。ただその名前だけは「藤」をいただき、犬もまたこの店の看板を守っているのだ。
その夜は大島の宿で、思う存分クサヤを食べた。クサヤの通った口の中に、焼酎の「御神火」がぴたりときまる。ふと気がついた。回り一面の海から寄せてくる潮の香りは、そのまま凝縮すればクサヤの匂いだったのである。
[#地付き]谷口酒造店(電話)〇四九九二―四―〇〇四一
[#地付き]藤文商店 (電話)〇四九九二―四―一一三八
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遠くを見るお茶
どうもご馳走さまでした。
もはや満足である。
とにかくビフテキを食べて、ラーメンを食べて、フランス懐石のフルコースを食べて、納豆ご飯に漬物も食べたのだ。
ふぐと蟹を同時に食べて、さくら肉を食べて、回転寿司も食べた。
横浜球場でシュウマイを食べたし、ブリティッシュ・エアウェイズに乗って機内食も食べた。
新潟で山菜、大島でクサヤ、神田でそば屋三軒、その他いろいろ、タコ焼きも食べた。
焼肉を食べたあとガムももらった。
そして点滴もした。
もはや。
言うことはない。
お腹いっぱいである。
あとはもう縁側の柱によりかかって、ゆっくりとお茶を飲みたい。
そうだ、お茶があった。グルメのしめくくりである。ご馳走をたんのうしたあとは、ほんのりと苦味のあるお茶でぐっとしめる。
プロ野球でもそうだ。盗塁やヒットエンドラン、二塁打、三塁打、送りバント、ポテンヒット、満塁ホームラン、といったいろいろなプレーのご馳走をいただいたあと、最終回にはお茶が出てくる。ジャイアンツの場合はそれをカタカナでサンチェと書く。ブラックティーである。それを少しいただいてしめくくり。ああうまかったといって立ち上がり、みんな球場をぞろぞろと出ていく。
私は立ち上がった。こちらも最終回、サンチェの登板である。私はゆっくりとマウンドに出て行く王監督のような足どりで、台所へ行った。審判に、
「サンチェ……」
とリリーフを告げるような手つきでもって、ヤカンに水を入れて火にかける。お湯を沸かすのである。お茶を入れる。お茶は自分で入れて飲むのがいちばんおいしいし、納得がいく。きっと王監督もそう考えているのだろう。
サンチェが規定回数の投げ込みをする間、マウンドの脇に立ってじっと見守る。そのようにして、私はヤカンの火をじっと見ていた。火は順調にヤカンを熱しているようである。ふむふむ。大丈夫だろう。この中のお湯がいずれお茶となって、このあとをピタリと押さえてくれる。ここはひとつ、このヤカンを信頼しよう。
しかしお茶だけは大人の飲み物だとつくづく思う。最近は子供の舌が大人みたいになったとよく言われる。昔は、子供の好きなのは甘い物と相場が決まっていた。それはじっさいにそうであったのかもしれないし、大人の方がそう決めつけていたのかもしれない。いずれにしても、昔の子供は甘い物がAクラスの味だと思って食べていたのだ。
最近の子供はそうではない。大人の食べ物、それも酒の肴にするような大人のAクラスの味をそのまま好んで食べる。甘いだけでなく、から味や苦味のおいしさを知っているのだ。
今はもう昔とは流通機構が段違いに発達していて、生活が向上してしまい、昔だったら料亭でしか食べられなかったようなものが一般庶民の家庭で食べられるようになった、そのことの結果かもしれない。
しかしそんな最近の子供も、やはりお茶にはまだ到達していないのではないか。
子供がお茶を飲む、このスタイルがどうもそぐわない。子供はやはりジュースだ。飲むときのリズム感が違うのである。
お茶というのはどうしても飲むときの気持がゆっくりとなる。熱いせいもあるが、何故かゆっくりと味わいながら、遠くを見たりする。
子供はあまり遠くを見ない。近くを見る。なるほど。近くを見るとジュースになるのだ。ジュースをゆっくりと飲みながら、遠くを見たりはしない。冷たいからだろうか。一度実験してみる必要がある。熱いジュースを口に含んで、人間は果たして遠くを見るものかどうか。
やはり飲み物にもリズムというものがあるのだろう。それを口に含んで人間が反応する、その関係の中にあるリズムである。
冷や酒など口に含むと、少しは遠くも見る気はするが、それよりも視線がズームレンズのように泳ぎはじめる。
スープなども近距離だ。スープを口に含んで遠くは見ない。
コーヒー紅茶もお茶ではあるが、この場合は中距離のような気がする。ただの目の前よりはちょっと遠くを見たりするのだけど、しかし視線が無限遠にまでは到達しない。
そんなわけでジュースは子供、コーヒー紅茶は若者、お茶は中年以降の高齢者、という結果が出てくるのではないか。
この問題はいろいろな飲み物を選んで、それに反応する人間の視線の長さについての定量分析が必要である。それと人間の視線における年齢変化をつけ合わせれば、問題は解決する。別に解決してもしょうがないが。
お茶を飲んで遠くを見るのは、その味の微妙さに起因する。舌先の味覚の分解能が、お茶の微妙な味を検出するには、やはり数多くの味覚の遍歴を必要としている。それは端的にいって、時間の積み重ねである。つまり年齢ということ。
しかし中年になるまで甘納豆ばかり食べてきた人もいるかもしれない。その場合はやはり舌先の分解能が低いので、いくら年齢を重ねてもお茶の味はわからない。自分でお茶を入れたとしても、コップにジュースを入れたみたいにクイッと飲むのかもしれない。それはそれで自由であるが。
しかし考えてみれば、世界中の数あるお茶の中でもとくに日本の緑茶の味がいちばん微妙だと思うのである。これは自分が日本人だからそう感じるのかもしれないが、それだけでもない。
茶類における砂糖の有無が要因かもしれない。砂糖は人間の視線を縮めるのではないか。子供の場合を考えても。
コーヒーを砂糖なしのブラックで飲む場合もある。しかしコーヒーの生《き》の味は、その苦さがあまりにも明確である。コーヒーは、大人の味ではあるにしても、口に含んでそれほど遠くを見ないと思うのである。苦さが明確なので、舌先の分解能の高度化が進まずに、それを含むときの視線は中距離に止まるのだろう。
こう考えてくると、飲み物の味と、それを飲むときの視線の距離との関係には、はっきりと公式があらわれてくる。
そしてまた西洋人と日本人との感受性の相違点も浮かび上がってくるのである。
日本の食べ物の押さえの切り札であるこの緑茶の味は、同じ日本の食べ物打線の四番に坐っている白い米の飯の味と、そしてまたその役割と、やはりどこか共通したものがある。そのほとんど味のないような味の味わい方がそうなのだろう。
そこでもう一つ、お茶を飲むときの声の問題がある。声というか、音というか、息というか。
満腹のあと、食卓を片付けてお茶を飲む。そのとき人はつい遠くを見るのだけど、同時にまたそのとき、つい、
「ッあァー……」
と声が出る。この発音は表記するのが難しいが、あまり細かく複雑に書いてもしょうがないので、ただ簡単に、
「あー……」
としよう。とにかく満腹のあとお茶を飲んで、つい遠くを見ながら、思わず、
「あー……」
と小さな声が出る。吐息をともなう声というか。
たしかにコーヒー紅茶でも同じように、
「あー……」
と声が出ることは出る。それは液体が熱いし、一息入れたという安堵感《あんどかん》にもよるが、しかしその飲んだときの声というのが、コーヒー紅茶にくらべてお茶の場合はぐんと深い、と思わないだろうか。
深くて長い。ちょうどそれは、お茶を飲んで遠くを見つめるその距離に見合ったほどに深く長いものなのである。
コーヒー紅茶に、それほどに深くて長い吐息をともなう、
「あー……」
が出るだろうか。いやほんと。
(画像省略)
そのことで思い出すのは日本のお風呂だ。とくに銭湯である。表通りから閉じられてはいるが公共に開かれた裸の空間にタオル一つで堂々とはいっていって、広々とした湯船にゆっくりと体を沈める。このとき思わず、つい、
「あ……あ……あー……」
と声が出てしまうのである。吐息とともに漏れるという感じだ。「あー」だけではなく、ときには、
「お……お……おー……」
とも言う。
「う……うー……」
と言うこともある。それらが複合的に、
「あ……う……お……おー……」
となりながら唸ったりもする。
この現象が欧米にはない。西洋ではシャワーである。タイルの上に立ったままシャワーを浴びて、
「あ……あ……あー……」
と声の出る人はいないだろう。シャワーというのはできるだけ早く済ませたいような、仕事みたいなものであって、銭湯のように文化というものを形成しない。
よく映画などで白い浴槽を泡いっぱいにして体を包んでいるのを見かけるが、あの状態でも、
「あ……あ……」
という深い吐息は想像できない。あれは、
「ルンルルンルン……」
という軽快な鼻歌になってしまうのである。あの場合、やはり視線は近距離である。中距離だとしても、酒の場合のズームレンズの状態に似ている。無限遠の距離にまではとても到達しない。
ここで日本の精神文化の特質がだいぶ明らかになった。お風呂とご飯とお茶である。いずれもそのものを肉体が享受したあと、視線は遠くを見つめる。そして深い吐息とともに絞るような声が、
「あー……」
と漏れるのである。このとき人はみな、日本列島にネットワークを組む質素な遺伝子を、自分の体内で噛みしめている。
「チン……チン……チン……」
と音がしてきた。ヤカンの中でお湯が沸きはじめたのだ。規定回数の投げ込みが終った。王監督はここでベンチに引込む。私の場合はヤカンの火を止めた。もちろんお湯は充分に沸騰している。火を止めたヤカンの蓋を開ける。まず百度の熱の上だけ逃がすのである。
それから急須を出して、深いたっぷりとした湯呑みを用意する。私は食後はお茶をたっぷりと飲みたいのである。それと茶漉《ちやこ》しも用意する。不注意で蓋を割ってからは、この急須を湯冷ましとして、金網の茶漉しで入れるようになったのである。
ヤカンの蓋をして、まず湯呑みにいっぱいにお湯をそそぐ。この段階ではまだかなり熱い。湯呑みの外側まで熱が伝わったところでそのお湯を湯冷ましの急須に移す。ここでお茶の缶からお茶の葉を適量だけ茶漉しに取り出す。このお茶の葉は多すぎると下品な気がするし、少なすぎるのも貧相である。だから適量を極める。
そのころ急須の中ではお湯の熱がかなり鎮まってきている。でもお茶の葉と接するにはまだ熱い。そのままもう少し冷めるのを待ってもいいが、ただ手をこまねいているのも気分がだれる。だから急須のお湯をもう一度湯呑みにそそぎ、そこで熱をさらに削ってからまた急須に戻す。もうそのくらいでいい。いよいよお茶を入れる。
右手に急須を持って、左手の茶漉しの葉の上にくるりと回すようにお湯を垂らす。一周か二周くらいで、お茶の葉の全体が湿ったところでお湯をいったん止める。お茶の葉の全域に水分が含まれて充分になじんだところで、本格的にお湯をそそぐ。といっても急須から出るお湯はできるだけ細くなるようにし、それをゆっくり回しながら、できるだけ長い時間をかけて茶漉しの葉の間を通過させる。そうやってお湯をそそぎ終ったら急須を置いて、茶漉しを右手に持ち換える。そして静かに強く上下に振りながら、茶漉しに残留する水分を、最後の一滴までの気持で湯呑みに落す。これで終り。
茶漉しを急須の上に戻し、右手に湯呑みを持って、好みの場所にゆっくりと腰を降ろす。そしてとろりとしたお茶をおもむろに口に含む。
「あー……」
赤瀬川原平(あかせがわ・げんぺい)
一九三七年横浜生まれ。画家。作家。路上観察学会会員。武蔵野美術学校中退。前衛芸術家、千円札事件被告、イラストレーターなどを経て、一九八一年『父が消えた』(尾辻克彦の筆名で発表)で八四回芥川賞を受賞。宮武外骨、3D写真、老人力などのブームの火付け役でもある。著書に『超芸術トマソン』『外骨という人がいた!』『反芸術アンパン』『老人力』『ライカ同盟』『新解さんの謎』『老人とカメラ』『優柔不断術』、写真集に『正体不明』など一〇〇冊を超える。
この作品は一九八九年二月、新潮社より『グルメに飽きたら読む本』として刊行され、一九九四年二月、ちくま文庫に収録された。