赤江 瀑
アニマルの謝肉祭
目 次
第一章 暑い悪食の後で
序祭/破風拝みの烏/土曜に往生/>ある死
第二章 草原の夜の爪鳴り
夏の終り/肉の匂い/贈呈花の火/ライオンの出会い/華麗なる蹄
第三章 七曜歌の密林
家郷の門/闇都への旅/パリの人
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第一章 暑い悪食の後で
序  祭
イギリスの伝承童謡に、≪マザー・グース≫と呼ばれるふしぎなわらべ唄の集録がある。
八百余篇にもおよぶ大童謡集団の総称名であるが、さしずめ日本でいうならば、※[#歌記号]あめ、あめ、ふれふれ、母さんが……とか、※[#歌記号]チイチイパッパ、チイパッパ、スズメの学校のセンセイは……という類《たぐい》の幼児が口ずさむ単純な童謡から、教訓、箴言《しんげん》、はては奇怪な呪文《じゆもん》、謎《なぞ》、変譚《へんたん》にみちた、ただならぬ口伝《くでん》の世界までその内に封じこめた、面妖《めんよう》な味わいをもつわらべ唄の群団である。
子供が口ずさむたわいもない唄のなかに、あやしい大人の思索の世界が垣間《かいま》見え、変幻するところに、この伝承童謡のもつ恐怖的な貌《かお》がある。
しばしば推理小説などに、この童謡集のなかの唄がとりあげられ、殺人に重要な役目をはたしたりするのも、そのためである。
数えあげればきりもないが、たとえばヴァン・ダインの『僧正殺人事件』だとか、英国の推理作家アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』なども、この≪マザー・グース≫が殺人者に手をかした、有名な作品といえるだろう。
さて、前語りが長くなったが、季節は七月。陽曝《ひざら》しの京都のメイン・ストリート・河原町を、高島屋の前でまがって、四条通りを東から西へむかってあるいている一人の青年が、いる。
白にブルーのストライプ・サッカー、軽快なサングラスが、苦《にが》みばしった顔飾りとなり、褐色ののど首や肉づきのいい太腿《ふともも》に、ちょっと精鋭ラガーかなんぞのおもむきもあって、若さのさかんな甘い匂《にお》いや味わいもただよわせた青年だった。
楯林《たてばやし》 驍《ぎよう》。二十七歳。
この真夏の都大路の雑踏を行く、見るからに利《き》かん気そうな、けれどもどこか典雅な気品も整った、一人の若者のことをまず知っておいてもらうためには、英国の古い子供たちの唄の話から叙述をはじめねばならないのも、いたし方ないのである。
なぜなら、彼はいま、さして理由もないのだが、ふと心に浮かんだある言葉を、しきりにくり返し反芻《はんすう》しながら、強い陽曝しの大道をあるいているからである。
いや、|くり返し反芻しながら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というのは、正しくない。
それはふと意味もなく彼の頭に浮かんできて、浮かんできたから、仕方なしに持ってあるく、頭のなかで転がしている……とでもいったらよいか。いわば、束《つか》の間の気まぎらし、しょざいなさをまぎらわす無意味な思念、とでもいえるだろう。
では、その無意味な思念とやらに、眼をむけよう。
と、いっても、彼はべつに、それを口にしてつぶやいていたわけではなし、人の頭の闇《やみ》に棲《す》む思念に姿があるわけでなし、とにかく彼は、外見からは、そんな様子の塵《ちり》ほども見えぬ、じつにさわやかなすがすがしい風貌で、この花やいだ都の午後の人波に、ゆったりと身をあずけていた。
『ソロモン・グランディー、
月曜に誕生、
火曜に命名、
水曜に結婚、
木曜に発病、
金曜に悪化、
土曜に往生、
日曜に埋葬。
ソロモン・グランディー
これでおしまい』
……いうまでもなく、それは≪マザー・グース≫のわらべ唄の内の一つ。英国の子供なら、さしずめ飴玉《あめだま》でも口にほおばり、クリケット遊びの合いの手に鼻唄がわりにでもしたかもしれない、俗謡の一節である。
楯林驍は、それが、なんという題名をもつ唄なのか、またどういう|いわれ《ヽヽヽ》を唄った一節なのか、たとえば「ソロモン・グランディー」とはいったい何か……そんな、内容のせんさくは、まるでやらない。また、知らないのである。
知らなくてよいのである。イギリスでこの唄がどんなふうに唄われているか、そんなことに興味はない。
ただこの唄が、なんとなく、彼は気にいっているのである。気にいっているというより、彼はよく、ちょっとした何かのはずみで、この童謡を思い出すのだ。知らぬ間にふと口ずさんでいたりして、自分でもふしぎに思う。
要するに、何かしょざいないとき、退屈したとき、ぼんやりしているようなとき……その童謡は、不意に彼の頭のなかに現れる。
まるで、脳髄の襞《ひだ》の奥に棲みついたいたずらざかりの小悪魔か、妖精が、ときどき気まぐれに襞をゆさぶり、ときにはひょいととび出してきたりして、彼をからかったり、おどろかしたりする、そんなはずみに思い出す言葉とでもいったような印象が、彼にはするのだった。
またすこし≪マザー・グース≫の話にもどることになるが、この物語の主人公の一人でもある楯林驍について、理解を深めていただくために、これはぜひご辛抱願いたい。
楯林驍が、この≪マザー・グース≫の唄の一節を、いつどこで頭のなかにいれたのか。
そのことについての、説明が必要である。
結論からいえば、彼には、それがわからない。
彼は最初、この童謡を、こんなふうにしておぼえていた。
(いや、おぼえていたわけではなく、彼が物心つく頃には、すでに彼の頭のなかに、その言葉はあったのである。だから彼は、ごくしぜんに、もちろん当時は意味もわからずに、ただその言葉を声に出して、誦《そらん》じていたのである)
すなわち、こんな具合いにである。
『ソロモン、ガンジー
ボーノナ、マンデー
ジイスイズ、ジェンドー』
とか、
『ダイドン、サタデー
ベリドン、サンデー
ジイスイズ、ジェンドー』
とか、いったふうに。
それはちょうど、何かの呪文かおマジナイみたいに、ふとしたとき、とつぜん口をついて出るふしぎな言葉だった。
「驍ちゃん、何? それ」
と、よく子供の頃、そばにいた連中はキョトンとした顔になり、いぶかしそうにたずねるのだった。
「知らない」
と、驍は、最初答えた。
ほんとに、彼にもわからなかった。
だが、わからないことが、気味悪かったり、ふしぎだとは、思わなかった。無心だったといえばよいか、邪気のない子供心といえばよいか、とにかく驍には、気にするほどのことがらではなかったのだろう。
彼はやがて、
「ウン、ぼくのおマジナイ」
とか、
「ないしょ。ないしょのヒミツ」
とか、いうようになった。
むしろ、その言葉が口に出るとき、ちょっとあっけにとられたり、けげんそうに手をとめたり、一瞬耳をそばだてたりする遊び友だちたちの、好奇の眼やしぐさや表情をたのしむことのほうが、彼にはずっとおもしろかったのだ。
昔でいうなら、『ジュゲムジュゲム……』。いまでいうなら『ヘンシーン』『シェエー』の類《たぐい》であろうか。子供の世界で|イカス《ヽヽヽ》言葉に、深い意味など要《い》らないのであった。
そして驍は、実際、その呪文のような意味不明の言葉の連なりが、喋《しやべ》ってみれば、何か奇妙なリズムもあり、謎めいたひびきや、神秘的なある種の迫力や、眼に見えない物語性さえその奥に感じさせたりする雰囲気が、しだいに気にいり、そのうちに彼は完全に、自分がつくった創造語だとさえ、信じるようになった。
彼は誇らしげに、さかんに、一時その創造語《ヽヽヽ》を駆使した時期が、子供時代にある。「やあ」とか「おう」とかの挨拶代りに、また、「やった」「しめた」「サンキュー」「OK」「バカヤロ」「コンチクショウ」「うれしい」「かなしい」……などなど、適切自在な感情表現の代用語に、この言葉をあて、駆使したのである。
中学にあがるようになって、この言葉のなかに、あるいは英語ではないかと思われる部分があるのに気づいた。
『ソロモン』。これは、固有名詞ではないかと思った。『ガンジー』。これも、インドにそんな名の首相がいた、と思いあたった。
『マンデー』『サタデー』『サンデー』。これらはそれぞれ、月曜、土曜、日曜、という英語に置き代えられる。そういえば、『ジイスイズ』と、呪文《ヽヽ》の最後についている言葉も、『これは……である』という英語の構文に似ていなくもない。
そんなことを、考えた。
しかし、このほかの言葉が、意味をなさなかった。
それに、この呪文のような言葉は、ただでたらめに口をついて出た、いわば内容皆無の自造語だと思いこんでいた驍には、それらの言葉のせんさくはナンセンスであったから、大学に入るまで、それはまったく意識の外におかれていた。
彼がある日、ある古本屋で、一冊の本を手にとるまでは。
その本に、その奇怪な文字は、載《の》っていたのである。
≪マザー・グース≫の英和対訳本であった。
和訳の部分は、先にあげたとおりである。くどくどしくなるが、ことの行きがかり上、その英文の部分も、ここで記しておかなければなるまい。
彼が誦じていた文句が、けっして日本語などではなく、じつはその一つの童謡の原詩に、ぴったりとそって符合することを、知っておいてもらうために。
次のような文字を、彼は、その本の一頁に発見したのである。
≪Solomon Grundy,
Born on a Monday,
Christened on Tuesday,
Married on Wednesday,
Took ill on Thursday,
Worse on Friday,
Died on Saturday,
Buried on Sunday,
This is the end
Of Solomon Grundy.≫
彼は最初、店頭のゾッキ本のなかから、なにげなくその本を選びあげ、なにげなくパラパラとめくっていたが、
『ソロモン・グランディー』
という和訳の活字に、眼を射られた。
すぐその隣に、『月曜』という文字が並んでいる。さらにその先に、『土曜』も『日曜』もある……。驍はとっさに、英文の原詩の上へ視線を走らせた。
驍の唱えていたおマジナイと、原詩の部分を照合して見ていただきたい。無論、乱暴な発音や、句の連結具合いに妙なところはあるけれど、冒頭の二行と、七、八、九行の三つの行は、完全に重なる。
『月』『土』『日』がある以上、『火、水、木、金』も|あった《ヽヽヽ》、と考えてふしぎではない。ただ、驍の頭のなかからは、その部分が脱落していたに過ぎないのではあるまいか。『ガンジー』は、発音のあらっぽさで、じつは『グランディー』だったのだと、訂正は十分可能だ。『ジェンドー』は、『ジ・エンド』
……と、すれば、驍はこの原詩を、少なくともその一部分は完全に、誦《そらん》じていたということになる。
いつ、いったいなぜ……。
それが、楯林驍には、わからないのであった。
彼の身辺からは、彼が探し求めた限りでは、その答になるようなデータは、出てこなかった。
彼の父は早く死に、彼は母親の郷里で、祖父母や叔父夫婦の家族といっしょに暮らしたが、その母も、驍が高校にあがる年に病死した。
彼がそのおマジナイを口にしはじめたのは、四歳か五歳の頃であったから、もし≪マザー・グース≫の唄が、彼の過去のどこかに存在していたとしたら、これ以前の時期と考えざるを得ない。
四歳か五歳の頃には、驍はもう母の郷里にいたから、それ以前の記憶となると、これはもう驍に心あたりがない以上、母を頼るしかたしかめようがないことである。
その母も、驍がおぼえている限りでは、彼のおマジナイを耳にして、
「何? それ」
と、けげんな顔をした人間の一人である。
母が知らないということは、かりに≪マザー・グース≫が、それ以前の生活のどこかに、なんらかの形で存在しているようなことがあったとしても、驍にその所在を追跡できるすべはない。
まして、彼がその唄を、≪マザー・グース≫のなかの童謡ではないかと気づいたのは、母が死んで後のことだったから、あらためて問いただすこともできないのであった。
こうして、≪マザー・グース≫は謎のまま、しかし、彼がその本を見つけた大学時代のある一日から、装いをあらたに、今度は完全な形として、彼のなかに棲みつくようになったのである。
ソロモン・グランディー、
月曜に誕生、
火曜に命名、
水曜に結婚、
木曜に発病、
金曜に悪化、
土曜に往生、
日曜に埋葬。
ソロモン・グランディー
これでおしまい。
しかし、意味を持ったお|マジナイ《ヽヽヽヽ》は、持ったら持ったで、またなんと謎めいた、よりいっそう呪文の味の深まりゆく奇怪な言葉ではないか。
イギリスの伝承童謡≪マザー・グース≫の唄のなかには、さらにもっと奇怪なおもむきの深い、ふしぎな唄が、いくつもある。しかもそれが、いかにも稚拙、舌ったらずに、たどたどしく、わらべ唄として唄われるところに、やはり尋常でない恐ろしさが、こもるのであった……。
しかし、楯林驍は、この唄が好きであった。そんなに恐ろしい唄だとも、思わなかった。思っても、仕方ないのであった。唄は、もういまでは、彼の体にしみついた、いわば肉や血の一部とでもいってよいのであったから。
馴れ合うしか、手はなかった。
四条通りを西へむかってまっすぐにあるく驍の前方に、切妻|破風《はふ》の屋根を持つ櫓《やぐら》組みの建造物が、見えている。
繁華な大通りの路上に、それはどっしりとすわっていて、ごった返す車の流れも人の群れも、その建造物をよけて通る。屋根の頭上には、天空を刺し貫く真柱《しんばしら》が一本高々とぬきん出ていて、さながら路上の中央に出現した不意の工事塔を思わせる。
長大な剣柱をそびえたたせ、櫓建ての黒っぽい骨組みだけを曝した破風屋根のその塔は、四条通りを烏丸《からすま》、室町、新町通りへむかって、それぞれ一ブロックごとに間隔をおきながら、三基、連なって建っていた。
この都で、この時期、この大通りでなければ見られない風景だった。
手前の一基が、地上三十メートル近くの真柱の頂きに長刀《なぎなた》の刃をかかげる長刀鉾《なぎなたぼこ》。次が、三角山に月象を鉾頭《ほこがしら》にあおぐ函谷鉾《かんこぼこ》。三基目のいちばん彼方に見えている骨組みが、三日月天頂の月鉾《つきぼこ》だった。
七月に入ると、京都市内は、この都最大の祭、千年の歴史を誇る祇園祭の昂奮で、色めきたつ。街は、行事のクライマックス十七日の山鉾巡行を中心にして、前後丸一カ月というもの、祭気分に染めあげられる。
都が、一年中でもっとも暑熱をふく時期だと、土地の人間たちはいう。
驍も、この季節の京都の蒸し暑さは、おだやかではないと思う。何か都の地にひそむ齢古《としふ》りた獰猛《どうもう》なものの気《け》が、身を起こし、年に一度睡りから目醒《めざ》める……そんな獣じみた幻想を、暑さの気配の底に持った。
鉾は、近づくにしたがって、いずれもほぼ組立装備を終えていることがわかり、巨大な車輪上に美しい縄|がらみ《ヽヽヽ》の偉容を見せていた。
(今年は、すこし遅かったかな……)
と、驍は、思った。
昨年は、下層櫓の建ちあがるところから見られたのだが……。かむろ柱に支えられ、垂紙《しで》を散らした榊《さかき》や赫熊《しやぐま》の藁《わら》飾り、厨子《ずし》などをとりつけた長大な真柱が、ふれ太鼓の合図|音《ね》にのり、横倒しの櫓ごと梃子《てこ》とロープでゆっくりと中空に起きあがるさまは、劇的だった。
昨年のあの日……と、驍は、思った。ふと通りかかって足をとめ、昼過ぎから夕方まで、驍は、その鉾のそばが離れられなかったのだ。
あの胸騒ぎは、なんだったのだろうか。
仕事でやってきた京都だったが、たまたまこの四条通りで、鉾建ての現場に出くわしたのだった。もの珍しさからふと立ちどまった足が、やがて動かなくなった。あのとき、すこしずつ全身にしのびのぼった息苦しさ、いつの間にか体中を金縛りにしたあのちからは、なんだったのだろうか……。
恐怖は、まったくとつぜんにやってきた。
驍は、地ひびきをたてて崩れおちる鉾を、見たのだった。巨大な車輪が宙にはね、櫓は天空にそびえる真柱もろとも、横転しながら落下した。空をきる真木の鋭いうなり音《ね》が、長い恐ろしい悲鳴のように、驍の耳の奥で鳴った。
それは、束の間の幻影だったが、驍はしばらくうずくまり、荒い呼吸を整えた。その場を動くことができなかった。大ぜいの鉾町の男衆たちの手で、眼の前の鉾は何ごともなく組みあげられていくのだが、その男衆たちの一手、一動きに、驍は息をつめた。いまにも、大音響をあげ、落下や横転がはじまる気がして、その場を離れることができなかったのだ。
それは確実に起こる……という確信がして、眼がはなせなかった。
(あのとつぜんの恐怖や、ふしぎな崩壊感はなんだったのか……今年も、やはり起こるだろうか、あの鉾櫓の下に立てば)
楯林驍は、東洞院通りの交錯路を渡り、最初の櫓組・長刀鉾の前を通り過ぎた。次の広い十字路が烏丸通りの交叉点で、信号を渡ると、二番目の鉾・函谷鉾のある町内だ。彼はその前も通り過ぎ、次の室町通りを越えた。
昨年見た鉾が、その前方に建っている。
上層の囃子《はやし》座や屋根の上に、男たちがあがっている。この鉾が、いちばん装備は仕あがっていた。屋根まわりは、すでに華麗な細部意匠にいろどられ、外装束の絢爛《けんらん》たる胴懸《どうがけ》や水引、見送りも、その豪勢な姿をほとんど見せていた。
古色にじみ出た重厚さと、極彩色の花々しさが、眼をみはるばかりだった。
楯林驍が、ゆっくりとその月鉾へむかってあゆみ寄ろうとしたときだった。
「センセーェ……驍センセーイ……」
たしかに、誰かが呼んだと思った。
彼は、一度振り返った。
気のせいか、と思いなおした。
あるき出して、間もなく、
「センセ……こっち……こっちよ……こっち……」
と、むかい側の歩道から、手をあげながら大通りを横切ってくる女に、気づいた。
車のクラクションがいっせいに鳴っていた。
彼女は臆するふうもなく、その車の群れをひらひらとかわしながら、走り寄ってきた。
「ばかだな、お前も。横断歩道があるだろ」
驍は、道の端に出て、彼女を待った。
驍が東京の店で使っている美容師の一人だった。
女は息をきらしていた。
「先生……」
と、派手な声をあげて、驍にむしゃぶりついてきた。
「ひどい……ひどいわ」
「おい、よせ。人が見てるじゃないか」
「見てたって構いません……」
「よさんか」
驍は、女の腕をひきはなした。
ひきはなしてから、女がボロボロ涙をこぼしているのに気づいた。
「お前……気はたしかなのか……」
驍は、あきれたように女を眺めた。
「それに……こんなところで、何やってるんだ? お前」
「何やってるですって? 先生を探しにきたんじゃありませんか」
「探す?」
「そうですよ。もう、ほんとにひどい。京都なら京都って、おっしゃってくださらなきゃ困るじゃありませんか……」
「冗談じゃない。おれがどうして、お前にいちいち行き先まで断わって出なきゃならないんだ?」
「じゃ、やっぱり、まだご存じじゃないんですね?」
「何を」
「何をって、先生……東京は、大騒ぎなんですよ」
「大騒ぎ?」
「そうですよ。『ジャコウ』が焼けたんですよ、先生」
「ジャコウ?」
驍は、一瞬きょとんとした。
「ウーン」と、女はじれったげに身をもんだ。
「ゆうべいらしたでしょうが、先生も。開店祝いにいらしたでしょ」
「ああ、あのジャコウ……」
と、驍はいいかけてから、ぎょっとした。
「なんだって?」
「そうですよ。モウ。ほかにどんなジャコウがあるんですよ。黒田さんの出したお店ですよ。あれが焼けちゃったんですよ」
「そんなばかな……」
「ほんとですよ。でなけりゃ、どうしてわたしが、京都くんだりまで、先生を探しにくるんですか。ほんとに焼けちゃったんですよ。今朝、テレビでも放送しましたよ」
驍は、しばらく、女の顔をみつめていた。『ジャコウ』というのは、『若王』と漢字で書くのだが、しゃれて|ジャコウ《ヽヽヽヽ》と読ませた美容室の名前である。
主任デザイナー黒田牧夫は、驍の師匠筋にあたる雨野ビューティー・サロンの経営者、雨野華子の一の弟子で、雨野の店のチーフをつとめていたが、このほど独立し、新宿に店を持ったのだった。
雨野ビューティー・サロン時代に、黒田は驍の先輩だったが、現在では、立場は逆になっていた。
驍が雨野ビューティー・サロンにいた時期はごく短く、黒田とも個人的に親しい付合いはなかったのだが、驍の店も新宿にあったし、開店披露のパーティーに招かれて、昨夜、驍も、『若王』へ出かけたのだった。
ヘア・デザイナーとしての黒田の腕は一流だったが、雨野華子に縛られて、独立する機会を失い、『若王』も、華子と喧嘩別れしてやっと開店にまでこぎつけた店らしかった。
同じ新宿に店を持つ同業者といえば聞こえはよいが、かつては先輩後輩の間柄、齢《とし》も黒田のほうが四、五歳上である。黒田にしてみれば、驍が国際的な場数を踏んだということだけで、一躍美容界の表街道に躍り出たと思っているにちがいないし、『若王』を、驍の店の目と鼻の先に開いた黒田のライバル意識も、驍にはよくわかり、昨夜も、気が重かったのだが、顔だけは出したのだった。
『若王』は、靖国通りのビルの三階にあった。開店は明日からで、昨夜は新装の店内を使って三十人ばかりの客が招かれたパーティーだった。
昨夜とはいっても、案内は午後五時だった。
驍は、六時過ぎに出かけたのだった……。
「いつのことだ」
「だから、ゆうべですよ……と、いっても、もう朝方の三時近かった頃ですけど……」
「しかし、どうしてまた、そんなことに……」
「タバコの火かなんかの不始末じゃないかっていうことらしいんですけど……先生、七人も人が死んだんですよ」
「死んだ?」
「そうですよ。だから、心配したんですよ。ウチじゃ、もうてんやわんやなんですよ。火事だって聞いて……とにかく、先生に知らせなきゃって、マンションのほうへお電話したんですよ……そしたら電話、出ないじゃありませんか……いくら呼んだって、通じないし……ほかの子たちは火事見物に出払っちゃって……わたし一人でやきもきしたんです。それで、森江先生に連絡して……とにかく、出てきてもらったんです……」
森江というのは、驍の店のチーフ・デザイナーだった。若い美容師や助手たちは寮に泊り込んでいるが、森江は家庭を持っているし、ほかにも自宅通勤の美容師は二人ばかりいた。
「……夜が明けるまで様子を見ようって、森江先生、おっしゃるもんだから……ところがどうですか……死体がゴロゴロっていうじゃありませんか。それもパーティーの客らしいっていうんで、もしやって……わたしたち、先生には申しわけないですけど……管理人に頼んで、先生のお部屋あけてもらったんです……」
紀子というその若い美容師は、まだ肩で荒い息をたてていた。
「ベッドはきちんとメイクしてあるし……先生のお帰りになった様子もないし……もう、わたしたち、とたんにカアッと頭に血がのぼっちゃって……」
「ばかやろ。幼稚園の子供じゃあるまいし、おれが一日二日、自分の巣でおネンネしなかったからって、ガアガア騒ぎたてるほどのことか」
「先生。よくそんなことがいえますね。死んだ人たちのなかには、まだ身元のわかンない人もいるんですよ……わたしたちの身にもなってください。それに……」
と、紀子は、唾《つば》をのみ込んだ。
「その死体っていうのが……みんな……なんにも身につけてなかったっていうんですよ」
「身につけてなかった?……じゃ、素ッ裸だったのか?」
「そうなんですよ。それに、何かクスリのようなものも飲んでたらしくって……どうも、正体なくしてるところに、火が出たらしいんですわ……」
「クスリって……麻薬か?」
「なんだかそんなものらしいんですわ……黒田さん、そんなパーティーの常連だったからなんていう人もいて……おわかりでしょ、わたしたちがどんなに泡くって、ウロウロしたか……」
「じゃ、おれも、そんなかにいたとでも思ったのか」
「まさかってこともあるじゃありませんか。みんな総出で、先生の心あたりあたったんですよ……森江先生は、遺留品や屍体《したい》の確認にすっとんでかれるし……そしたら、急にアキ子先生が、思い出したんです。二、三日前、京都にお電話なさってたって……たしか、|ホコ《ヽヽ》の組みたてがどうとかこうとか話してらしたって、おっしゃるんです。|ホコ《ヽヽ》って、祇園祭の鉾じゃないかしらって、森江先生がおっしゃって……とにかく、今日はお店も休みだし、京都って可能性もあるわねってことになって……なんでもいいから、とにかくホテルをかたっぱしに探して、それからその鉾のあるところに行ってみて頂戴って、森江先生おっしゃるもんだから……わたし、もうとるものもとりあえず、今朝東京をとび出してきたんです……」
紀子は、大道のまんなかで、派手にハンカチを目にあてて、泣きじゃくった。
「さっきからこの道、何度ウロウロしたかしれないんですよ……先生の姿を見つけたとき……あたし、もう精も根もつきはてて……」
「それで、黒田さんは、どうしたんだ?」
「亡くなりましたよ」
「死んだ?」
その瞬間、楯林驍は、なぜだか、イギリスの古いわらべ唄の一節を、また想い出した。
祭鉾の建つ都大路は、強い陽ざしに灼《や》かれていた。
黒田牧夫の美容室『若王《じやこう》』の焼跡は、無残であった。
自然光を遮断して人工光線を駆使した店内設備が、窓のすくない構造をとらせていたこともあって、火は三階の『若王』だけを総なめにして、新装なったばかりのしゃれたぜいたくなインテリアを、情容赦もなく焼きつくしていた。
「そりゃ、あなた、不気味だったわよ。お店のなかは、もう真っ黒。どろどろに焼けただれたって感じなの。何かこう……この世界のはらわた、ぜんぶさらけ出されて見せられたみたいな気がして、わたしゾッとしたわ」
セカンド・チーフの矢根アキ子が、染色液を調合している紀子のそばで話している。
器材室なので、客のいる表のルームには聞こえない。
その横で、鋏《はさみ》に油をさしながら、美容師のマサルが割って入る。彼は、軽妙な女言葉を使う。
「そう、入ったところに、ラウンジがあるのね……その奥が、サロンふうな美容室になってたらしいんだけどサ……もう、あんた、シッチャカメッチャカ。サロンもへったくれもないわよ、ああなると。ほんとに、壁も天井もサ、それこそつぶれたオデキみたい……いぶしこぶしの穴だらけ……こうよ」
と、マサルが、何か適切な感じを身ぶりで示して見せたらしい。紀子のぷっと吹き出す声が聞こえていた。
「あら、ほんとうよ。ねえ、アキ子先生。そりゃもう、おどろおどろって感じなのよね」
「そうね……お手伝いに行ったはいいけど……なにしろ、ここで七人ひとが焼け死んだかと思うと、どこから手をつけていいか……とにかく、脂汗が出たわね」
「ほんとよ。オレとアキ子先生、いい貧乏くじ引いちゃったわよ」
「あら、だって楯林美容室の代表でいらしたんでしょ。いわば驍先生代理の、全権大使じゃありませんか」
と、紀子が、やり返していた。
「だって、ほかの店からお手伝いなんて、ぜんぜんきてないのよ。ウチだけだわよ、行ったの。ねえ、アキ子先生」
「いいじゃないの。そこが、ボスの立派なところよ」
「あら、アキ子先生、さんざぼやいてたくせに」
マサルはそして、「オオ厭《いや》」と、身ぶるいするような声で、おおぎょうにいった。
「ほんっとに、気味悪い焼跡だったわ。でこぼこ、アバタづらみたいに焼けただれちゃってるのよ。あれ、安物の建材使ってたせいかしらね」
「ばかだね、マサルちゃん。あれは、最初からそうなのよ。インテリアの凝《こ》ったところ、見せてるんじゃない」
「へえ。あれ、インテリアなの」
「そうよ。でも、もう一時代昔に流行《はや》ったバロックね」
「そうなの。オレ、てっきり新建材の安いのかと思ってサ……あれだろ、黒田さん、大借金して新兵器そろえたって触れこみだったろ……内装もバカ凝りに凝ったって聞いてたからサ、火事って、怖《こわ》いなと思ったのよ。なんだか、内幕暴露しちゃってる印象がしたの。だってあれ、いかにも見かけ倒しの安建材がサ、チリチリ、ボコボコ焦げあがったみたいな気がしたじゃない? 発泡スチロール、火にくべてごらん。あんなふうになるわよ」
「マサルちゃん。そんな憎まれ口、外でたたくんじゃないわよ」
「あれあれ。一時代前のバロックだっていったの、アキ子先生でしょ」
「だって、そうなんだもの」
器材室の声は、そこでぴたっと鳴りをひそめた。
「あなた方、何やってるの」
森江の声がした。
「紀子さん。いつまでお客さま、お待たせするの」
「ハアイ」
紀子があわてて、すっとんでくみたいにして出て行った。
「アキ子先生、ボスは?」
「は?」
「だめじゃないの。お客さま、スペシャルに入ってらっしゃるわよ」
「あらっ、もう見えたんですか?」
「もうって、時間をごらんにならないの? 特別リザーブのお客さまは、あなたがきちんとお迎えして、さばいてくださらなきゃ、困るでしょ」
「すいません。うっかりしてました。すぐに先生、お呼びします」
「おれなら、ここだよ」
と、楯林驍は、器材室の窓から顔を覗《のぞ》かせた。
外のテラスで、驍は、鉢植えにじょろで水をやっていた。
「あら、先生。そんなところにいらしたんですか」
アキ子は、ばつの悪そうな声をあげた。
「ああ。サボテンがあんまりカラカラになってるんでな」
「あらァ、水やっちゃったんですか。だめですよ、こんなカンカン照りの日なかに。いっぺんで、まいあがっちゃいますよ。朝、ちゃんとやったんですから」
アキ子は、まるでばつの悪さをごまかしでもするみたいに、はでな声をたててから、急にてきぱきとした口調にもどった。
「先生、権藤さまの奥さまです。四時に国立劇場にお入りになれればいいんだそうです」
「三時に、一つあったんじゃないのか」
「はい。辰見さまがございます」
「大丈夫か?」
「はい。権藤さま、今日はセットだけです。お衣装着てみえてる筈ですから、それにあわせて、ちょっとまとめていただければってことでした」
権藤というのは、権藤財閥の会長夫人である。
楯林驍美容室には、スペシャル・ルームが五つある。無論、個室になっている。ここに入る客は、すべて特別リザーブだが、広間のレギュラー・ルームの客たちも、原則として予約制をとっている。
べつにフリーの客をしめ出すつもりはないのだが、予約の客たちを優先に時間を組んでいくと、それで一日の時間がびっしりつぶれるのである。自然、とび込み客は断わることになり、断わられれば、次の機会から予約してくるようになり、いよいよ予約客だけで手いっぱいというかたちとなる。
そんなに店は狭くないし、従業員もかなりな数使っている。
特別リザーブの客以外、驍がいちいちカッティングから手をつけて髪をいじるわけではないけれど、楯林驍の店、というだけで、客は満足して帰るのである。
幾つかの国際コンクールを連続制覇。その後、ニューヨークに三年ばかり滞在して、この間、『褐色のヘア・魔術師《マジシヤン》』とか、『東洋のカッティング・手品師《ジヤグラー》』とか騒がれて、社交界出入りの上流階級夫人や、芸能界のスター連中を客に持ったことが、彼を一躍有名にさせ、一時日本でもマスコミにとりあげられたことがある。
腕次第、実力次第で、若僧にも、モード界トップ・クラスの席をあけてくれるニューヨークは、驍には住みよいところであったが、長く外国暮らしを続けるつもりは、はじめからなかった。
一昨年の暮れ、こちらに帰ってきて、この店を開いたのだった。
客筋の選り好みなどしたわけではないのだが、客のほうでほうっておかなかった。
大学を二年で中退し、この世界へとび込んでから、ちょうど七年目になるのだった。
楯林驍は、今年二十七歳だが、現在この東京で最高のデザイナー料金をとってもおかしくない実力とキャリアは、持っていた。
また、そうしても、客はつめかけた筈である。
けれども彼は、そう法外な値を吹っかけはしなかった。予約制システムをとっている店では、上級の下あたりの値段で、店をはじめたのだった。
スペシャル・ルームに入る客たちは、無論、一流の客であった。
「お飲み物は、もう運ばせてありますからね。とにかくあなた、ご挨拶に出て頂戴」
と、チーフ・デザイナーの村田森江はアキ子にいって、驍へも、
「ボス、お願いします」
と、声をかけた。
アキ子がちらっと首をすくめ、赤い舌を出すのが見えた。万事手ぬかりのない理知的な森江と、どこか抜けたところもあるアキ子は、数いる美容師や従業員たちを束ねていく役どころには、対照的だが、格好のコンビであった。どちらも、腕のたつデザイナーだった。
「うん」
驍は、じょろをさげたまま、テラスづたいに、奥のプライベイト・ルームヘ入った。
楯林驍美容室は、ビルの二階にある。
瀟洒《しようしや》な、明るい落着きをそなえた、張出し窓や花蔓《はなづる》のからむテラスもついた、いま売り出しの上げ潮に乗りきっている、ここは美の造形室である。
七月もなかば。ビルは、さかんな夏の太陽にあぶりたてられてはいたけれど、室内は快適に冷房もきき、営業もこうしてしごく順調で、いうこともなく平穏だった。
たった一つのあることがらを除いては。
いや、そのことがらも、驍にとっては、じつにばかばかしい、とるにたらないことなのであった。
驍は、仕事着に着替えながら、氷を浮かせたレモン水を一口飲んだ。そのグラスにも、窓の外の新宿が映っていた。
靖国大通りをはさんで、大小雑多なビルの群れがひしめいている。
五日前、白いエレヴェーターの箱に乗って昇ったビルも、それらの群れのなかにあった。
「ボス……」
と、つい昨日のことだった。森江が、店のすんだ後、帰り支度をはじめていた驍を、呼びとめた。さりげない声だった。
「うん?」
「ちょっと、お時間よろしいでしょうか」
「いいよ」
「いえ。たいしたことじゃないんです。ただ……やっぱり、お耳にいれといたほうがいいかと思いまして」
「なんだ?」
森江は、束の間うしろを振り返り、彼女が入ってきたプライベイト・ルームのドアを、きちんと閉めた。
「あの……黒田さんの開店ご招待の日のことですが……」
「うん?」
「ボスはたしか、警察の方が見えたときにも……七時過ぎには『若王』を出た、とおっしゃいましたわね……」
「ああ」
驍は、いぶかしそうに森江を見た。
「それが、どうした」
「いえ。それならよろしいんです。念のため、もう一度たしかめておきたかっただけですから」
「うん?」
驍は、封を切ったケントを一本口にくわえとったまま、ライターの手をとめた。
「いったい、なんの話だ」
森江は、赤いふちの眼鏡に手をかけ、そして、おろした。わずかな逡巡《しゆんじゆん》の後、彼女はいった。
「あの日、夜遅く……ボスが、新宿で飲んでらしたっていう人がいるんです」
「何?」
「きっと、人ちがいですわ。そんな筈《はず》ありませんもの」
「人ちがい?」
驍は、森江の顔を見た。
「村田。君は、なんの話をしてるんだ。おれが新宿で飲んでた……それがどうだというんだ。飲んでたって、べつにふしぎはないだろ」
「飲んでらしたんですか?」
「阿呆《あほう》。新宿で飲んでたら、京都になんかどうして行ける」
「ええ。だからわたしも、ちょっと妙だなと思いましたの。それが、気にかかったもんですから……。でも、安心いたしました。つまらないことでお手間をとって、申しわけございません。では、失礼いたします。お疲れさまでございました」
「待て。何が気にかかったというんだ。奥歯に物のはさまったようないい方をするな」
森江は、ドアのそばで振り返った。
「いえ、なんでもございません。ただ……警察の耳にでも入りましたらと……それが、心配だったものですから……」
「警察?」
驍にも、大体の話は納得できた。
黒田牧夫の『若王』焼失騒ぎは、幻覚剤や麻薬、睡眠薬などを服用した乱交パーティーによる失火事件として処理され、当事者たちの死亡状況にも、ほかに不審な点はなく、いずれも昏睡《こんすい》または半覚醒の状態で火にまかれ、パーティーの性格上、ドアに内鍵をおろした密室内でのできごとであったことなどが逃げ場を失わせ、煙による窒息、ないしは焼死とみなされた。
事の行きがかり上、当日、開店披露に招かれた客たちを警察はまわってあるいたらしく、驍の店にも、事件の翌日、早速刑事が現れた。招待客の正確なリストがわからないらしく、その辺のところもたずねられた。驍は、おぼえている顔ぶれは、ありのままに答えた。
そして、六時過ぎに出席し、七時十分にはひきあげたことを、告げた。まだ、外は明るかった。
「なるほど。京都にねえ」
と、刑事はうなずいた。
全日空の最終便、大阪行四十三便が、羽田空港を二十時五十五分に発つ。これに、驍は乗ったのだった。二十一時五十分、ほとんど定刻に大阪へ着き、名神高速をタクシーで、京都へ入った。二十三時、つまり十一時ちょっと前には、河原町のロイヤルホテルのフロントで、驍は宿泊カードに氏名を書き込んでいた。
その夜は京都に泊ったのだから、『若王』焼失事件とはまったく関わりがないのであった。
刑事は納得して帰って行った。
森江は、そのことをいっているのだった。
二十時五十五分、すなわち九時前には東京を離れた筈《はず》の人間が、その日深夜の新宿にいたとすれば、警察ならずとも、不審を呼ぶだろう。
なぜそんな嘘《うそ》をつくのか──と、警察は疑惑を持つだろう。
『若王』と『楯林驍美容室』
同じ新宿の靖国通り。目と鼻の先にある、同業者。いわば、競争相手にはちがいない。
村田森江は、そんな意味で、驍が思わぬ厄介なことがらに引きずり込まれたりするのを心配しているのであった。
「誰だ、そいつは」
と、驍は顔をあげて、森江をにらんだ。
「ウチの子の、男友だちらしいんですけどね……」
と、森江は、眉《まゆ》をひそめた。
「ほら、宮崎って、見習いがおりますでしょ」
「ああ、あの子か……」
東北出の、色の白い、よく働くあどけない女の子だった。
森江の話によると、宮崎の同郷の同級生でやはり東京に出て、理容師をやっている男友だちと会って、たまたま『若王』の火事が話題にのぼったとき、その男友だちが口にしたのだという。
──ああ、そういやあ、おれ、あの晩、お前ンとこの先生に会ったな。
宮崎は無論、驍の京都行きを知っているから、相手にしなかったのだが、
──いや、まちがいはない。
と、いい張るのだそうである。
──おれも理容師のはしくれだ。楯林驍の顔を見まちがえたりしやしない。二丁目のスナックで飲んでてよ、『火事だ』っていうんで、とび出したんだ。
出会いがしらに、「プンと酒の匂いのする男」とぶっつかった、というのである。
その男は、靖国通りへ走り出して行く人たちとは反対に、二丁目の仲通りを表の新宿通りの方角へむかってあるいて行ったという。
──たしかに、楯林驍だったよ。黒っぽいスーツだったと思うけどな……。
「宮崎が、そんなことってあるでしょうかって、わたしにたずねますもんですから……もちろん、あり得ないわって申しておきましたけど……」
と、森江は、いった。
「ボスは、お目立ちになるから……いえ、人ちがいにきまっていますけど……もし、そんな人がほかにもいたりいたしますと……」
「わかった」
と、驍は、話を打ち切るようにして、立ちあがった。
「それで、君がなぜ昨日休みをとったのかがはっきりした」
「え?」
森江は、虚をつかれたような表情を見せた。
「京都に行ったんだな?」
「……はい」
「ロイヤルホテルに、夜の十一時前。まちがいなく、おれは入ってただろ?」
「はい」
「フロントはおぼえていてくれたかね? 写真を、見せたんだろ?」
「すみません」
「謝ることはない。君が、どんな種類の心配をしてるのか、おれにゃわからんが……とにかく、おれの身を案じてとった行動だろう。楯林美容室のチーフとして、知っておく必要があると思ってやったことだろ。だったら、それでいい」
「ボス。わたしは、何も心配などしておりません。ボスが、『若王』の火事に何か関係をお持ちだなんて、夢にも思っておりません。ただ、あの火事の日、同じ時刻に、ボスをこの新宿で見たというひとがいる……そのことが、気がかりだったんです。ボスは、普通の方じゃございません。ずば抜けた方には、見えない敵はつきものです。ボスのほうで、そうは思っていらっしゃらなくても……折あらば、隙《すき》あらばって……考えてるひとたちは、たくさんいます。いいえ、まわりが、みんなそうだと思って、思いすぎじゃありません。ボスの才能は、美容界のひとたちには、ほんとうに恐ろしい……眼に立ってしようがないものの筈です。眼に立つからといって、とても太刀打《たちう》ちできないんですから、なおさらのことです」
森江は、一途な表情をみなぎらせていた。
「……わたしは、ほかに取り柄《え》はございませんが、年の功だけは、ボスよりも長くこの世界に身を置いております。この世界の怖《こわ》さや……きたなさは、よく知っています。骨身にしみています。こうして、ボスのおそばにつけてもらって、今でこそ日の目を見させてもらってますが……もう何度、やめようかと思ったことがあったかしれません。平凡な、街の美容師。それだけで満足して暮らすひとなら別です。でも、その上を望む人間には、この世界は、怖いところです。火のないところに、いくらでも煙が立つんです。火が、もえあがるんです。……それでなくとも、『若王』の黒田さんが、ボスの向うを張ったって……眼引き、袖《そで》引き、注目の的だったんですから……あんなことになって……そのすぐ後に、今度のこと……なんだか、胸騒ぎがしまして……いえ、万が一ってこともあります。そのときに、わたしがうろたえて、何も知らなかったんじゃ、打つ手も考えられません。ボスに黙って、出過ぎたことしましたのは、おわびします。でも、どうしても、あの夜は京都にいらしたんだということを、わたしは、はっきり知っておきたかったんです……」
「もういい。わかった」
驍は、穏やかな声で、森江を遮《さえぎ》った。
「おれが、京都にいたことはまちがいないんだから、安心して帰りたまえ。十一時に、河原町のロイヤルホテルにいたおれが、夜明けの三時に、新宿の二丁目をあるいていただなんて、あり得ないことだよ」
驍は、自分にもいいきかすように、そういった。
そんなことがあった。
あり得ない……と、思いながら、驍は、考えてみるのだった。
京都と東京の間の道のりは、特急列車で七時間かかる。
無論、新幹線や飛行機を使えば、その時間は半分以下、いや、もっと短く縮められる。
新幹線のひかり号で、三時間。
飛行機だと、一時間とちょっとで、大阪、東京間を、とぶことができる。
これなら、時間の上だけでは、可能である。
しかし、夜の十一時以後に、京都を出る新幹線も、もちろん飛行機も、ありはしない。
新幹線の最終列車は、ひかり十六号。これは、京都を二十時二十九分に出て、東京へ二十三時二十分に着く。
航空便の最終時間は、大阪空港を二十一時二十分に発ち、東京へ二十二時十五分に着く全日空の四十二便である。
どちらも、二十三時にホテルにいた驍には、利用することはできなかった。
では、二十三時以後の便で、もっとも早く東京に着ける時間は……と、驍は、時刻表をくりながら調べてみた。
京都を、零時十三分に発つ東京行きの特急寝台列車『出雲』が、それに該当する。しかし、東京着は朝。午前七時である。
これ以外には、東名高速を車で走るしかないだろう。特急列車で七時間かかる道程だ。車でいくらかかるかは知らないが、午前三時前に新宿へ入ることはできるわけもない。
とすれば、村田森江も考えたにちがいない仮定を立ててみるほかは、ないだろう。
つまり、夜の十一時に京都の河原町にいた驍を、ひとまず忘れてみようとする考えだ。そして、明け方の三時前に、新宿の二丁目にいたほうの驍を、本物の楯林驍だと思ってみる。
美容師の紀子が、河原町の雑踏で楯林驍を見つけたのは、その日の午後。はげしい陽ざかりの灼けつくような路上でであったから、これは、朝東京を発つ新幹線か、飛行便を使えば、少なくとも、時間の上だけでなら、十分間に合うことになる。
『若王』の焼けた時刻に新宿にいて、紀子と出会った時刻に河原町にいた……それがどちらも楯林驍ならば、驍は、夜京都に着いたのではなく、早朝東京を発ったのだと、森江が考えたとしても、ふしぎはない。
いや、この考えだけが、ごく自然に、東京と京都の間に横たわっている距離の謎をといてくれる、ただ一つの解答である。
となると、『若王』が焼けた時刻に京都にいた驍は、偽者《にせもの》の楯林驍と判断せざるを得ない。
なるほど、偽者か替玉を使ったと考えれば、少なくとも一応形の上でだけで、辻《つじ》つまがあうのである。
森江は、それをたしかめに京都へ出むいた。そして、その考えが徒労であったことを、その眼で確認したのである。
『若王』が焼けた夏の夜、京都河原町のロイヤルホテルのフロントで、二十三時前、宿泊者カードに記名をした人物は、楯林驍にまちがいはないのだから。
そしてその夜、驍は、京都の地をけっして離れはしなかったのだから。
……楯林驍は、眼をあげて、新宿の夏の靖国通りを眺めていた。
その眼は、どこかぼんやりとして、何か遠くを追うような、たゆたい流れている感じも、するのであった。
(なぜ、自分は、あんなに熱心に、むきになって、列車の時間や飛行機の時刻表をあたりなおしてみたのだろうか……)
驍は、そんなことを、ふと思っていた。
京都に行った。京都にいた。京都に泊った。
これは、自分が、誰よりもいちばん確実に、よく知っていることではないか。
だのになぜ、時刻表を繰りなおしてみたりする必要が、自分にはあったのだろうか。
その答は、わかっていた。
その理由は、わかっていた。
一つの唄が、驍の頭の襞《ひだ》の奥で、たゆたい流れていたからである。
楯林驍は、その唄を、追っていた。
英国の、古い子供の唄である。
──ソロモン・グランディー、
月曜に誕生、
………
土曜に往生、
日曜に埋葬。
ソロモン・グランディー
これでおしまい。
≪マザー・グース≫の童謡の文句は、ふしぎな旋律《せんりつ》さえともなって、楯林驍の頭のなかで、遠鳴っていた。
驍がいま、追っている調べは、とりわけ、『月曜』と、『土曜』と、『日曜』の調べであった。
驍は、思う。
彼が京都を訪れた日は、仕事の休日の前の日の夜だった。翌日が休みで、翌々日から、また仕事がはじまるわけだ。
すなわち、この三つの日は、『土曜』、『日曜』、『月曜』……に相当するとも考えられる。
黒田牧夫の美容室『若王』の披露パーティーは、この『土曜』の夕刻五時に、開かれた。
そして、その夜、『若王』は焼けた。
明け方の三時といえば、まだその日の夜の内でもあり、また、もう翌日の『日曜』にさしかかった時刻とも、いえるだろう。
そして、焼けさえしなければ、その次の日の、すなわち『月曜』にあたる日に、『若王』は営業を開始する運びとなっていたのである。
『月曜に誕生』
まさしく、『若王』は、月曜に誕生する筈であった。
『土曜に往生』
まちがいなく、『若王』は、土曜の夜に往生した。
『日曜に埋葬』
往生した者が次に迎える日は、埋葬の日しかないではないか
しかも、一週が、日曜から月曜へと続く無限の時の流れを形づくっていることを思えば、≪マザー・グース≫は、その唄の文句の配列さえ変えることなくして、黒田牧夫の『若王』がめぐり逢った不幸なできごとを、そっくりそのままいいあてているではないか……と、考えられるのであった。
──月曜に誕生、
土曜に往生、
日曜に埋葬。
ソロモン・グランディー
これでおしまい。
まさしく、黒田牧夫の一生は、『これでおしまい』になったのである。
やっと自分の店を持ち、『誕生』したばかりの、彼にとっては、これからはじまる人生であったというのに。
楯林驍は、そのことが、忘れられないのであった。
驍の頭のなかに棲む奇怪な童謡≪マザー・グース≫の唄どおりに、黒田牧夫の事件が起こり、そして終ったということが、驍には不可解でならなかった。
一夜にして『若王』を炎の牙《きば》でもみ砕き、呑みつくして、この世から抹殺し去った狂暴な火が、なぜ、自分の頭のなかにある一つの唄と、照応したりするのだろうか。
(ソロモン・グランディー……)
と、驍は、まるで呪文をとなえでもするように、その言葉を追っていた。
しょざいないとき、いつも頭に浮かんでいる唄であってみれば、消すことはできないのであった。
新宿の空で、太陽は輝いていた。
七月もなかば。京都では、祇園祭の昂奮の頂点、山鉾の動き出す十七日が、明日に迫っていた日のことである。
楯林驍はもう、その京都行きの新幹線の切符を買っていた。
破風拝《はふおが》みの烏《からす》
七基の鉾《ほこ》と二十二台の山が連なって巡行をはじめる午前九時過ぎ、京都市内は何十万とふくれあがった観光客の人出をのんで、ごった返していた。
楯林驍は、ホテルの食堂で朝食をとりながら、すぐ眼の下にある河原町筋を見おろしていた。
四条烏丸を出発点にする鉾は、四条通りから、やがてこの河原町筋へ姿を現し、まっすぐに北上して、御池《おいけ》通りに出る。
鉾を待つ群衆はぞくぞくと数を増し、交通規制で車を締め出した河原町筋の両舗道は、身動きのとれない混雑ぶりだった。
祇園祭の山鉾巡行を見るのは、驍にははじめてのことだった。
昨年たまたま組み立て中の鉾の現場を通りあわせ、真柱《しんばしら》の天頂まで地上三十メートルちかい巨大な鉾が、ガラガラと崩れおちる倒壊感におそわれた束《つか》の間《ま》の恐怖が、奇妙に鮮烈であっただけに、理由もなく、いわれもないその体験が驍には、不可解で、その不可解さにひきずられて、ただなんとなく今年もやってくることになった京都だったが、一週間前、その鉾建ての日に、思いがけない『若王』の火事騒ぎで目的は中断され、ろくに鉾町へ足を踏みいれるいとまもなく、東京へひき返さなければならなかった。
しかしそれにしても、再度、こうして出なおしてきている自分に、驍は、ふしぎなわからなさをいだかないわけにはいかなかった。
今年あの鉾の下に立って、昨年いきなり自分を金縛りにしたあの息苦しい硬直状態がかりにふたたび起こったとしても、いったいそれがなんだというのだろう。奇妙なことがらにちがいはなかったが、しかしそれはそれだけのことで、なぜそうなのかと解明できる手がかりなど、どこにもありそうには思えなかった。
昨年はじめてやってきた京都である。昨年はじめて間近で見あげる機会を持った祭鉾である。
それ以前の驍の生活のなかには、少なくとも現実の京都や、祇園祭の山鉾に関わりを持つような経験は、皆無であった。
京都は、外国にいても、たずねておけばよかったとしきりに思った都ではあったけれど、学生時代はアルバイトに追われ、ヘア・デザイナーをめざしてからは、見習い、インターン、国家試験、海外コンクール、外国暮らし……と、矢つぎ早やな階段を一気にのぼる毎日で、新宿に店を持って落着くまでは、この都はふしぎに足を踏みいれる機会のなかった土地なのだった。
だから、祇園祭の鉾がとつぜんよびさましたえたいの知れない恐怖感が、驍にはまぎれもない現実のことがらであったとしても、それは意味不明な、たとえば単なるめまいや立ち暗みの類《たぐい》とでも思うよりほかにはなく、こうしてでかけてきてみたところで、べつにどうという思惑があるわけではけっしてなかった。
高く積みあげた|モノ《ヽヽ》が崩れ落ちる、そんなとっさの崩壊感や幻影は、人間誰しも、ときには不意に持ったり感じたりしがちなことだ。さしておどろくにはあたらない。
また、そうした怯《おび》えや恐怖感に特別弱い体質の人間もあるだろう。
けれども、その種の目暗みや神経性の危惧であれば、かつては高層建築や摩天楼のふんだんにそびえ立つニューヨークで暮らし、現在驍の住む新宿にも、超高層ビルディングの建つ一劃《いつかく》がある。驍が、過去にその種の体験を一度も味わわなかったということが、ふしぎであった。
実際、楯林驍は、どんな高い場所へでも平気でのぼれたし、どんな高い建築物などの下に立っても、その場が動けなくなるほどの恐怖を感じたことなどは、一度としてなかった。
塔やポールのようなものの下に立った場合にも、それはいえることだった。
昨年のそのことがあってから、彼は何度か、ときに思い出したように、ビルや、塔や、ポールの下などに立って実地に試してみたりもしたのだが、そんな恐怖は生まれ出てはこなかった。
行きずりにふと振りあおいだ古都の祭の櫓鉾だけに、なぜあの、
(崩れ落ちる)
という幻想感覚が、あったのだろうか。
そして、その襲撃感で、呪縛を受けたかのごとく、その場が立ち去れなかったりしたのだろうか。
楯林驍が京都にやってきているのは、そんなことが頭のなかを去らないからなのであった。
頭のなかを去らないといえば、黒田牧夫の『若王』焼失事件を奇しくも唄いあてている≪マザー・グース≫も、そうであった。
二つながらに、祇園祭に関わりをもつ事件であった。
なぜだか、楯林驍には、そう思われた。
(京都にきて、それは、二つとも、起こった)
と。
驍は、食後のコーヒーを啜《すす》りながら、眼だけは、下の河原町通りを右往左往する群衆へあずけていた。
(昨夜、花見小路のクラブから連れ出した女の子は、あどけなくて、舌の根に甘い唾液のまつわりつく感じが、おもしろかった……)
と、そんなことを、考えてみようとした。
ふだんなら、朝のコーヒーの香にすぐに馴じみ寄ってくる歓楽の名残りの気配や、濃い肉の余韻のたゆたいも、いっこうに湧かないのであった。
褐色の液体がくゆらせる芳《かんば》しい香りとともに、瞬時若い肉体の上へたちもどってくる夜の痴態のあられもなさは、いつも朝、まぶしい光のなかでいきいきと甦《よみがえ》り、新鮮な欲情を驍にもたらす。彼は、そのみずみずしい褐色の液体の時間をしずかにすこしたのしんでから、やがて一息にコーヒーカップを傾ける。まるで欲情そのものを飲みほしでもするように、いさぎよくカップを空にして立ちあがる。
快適な日課のようになっていたそんな朝の一刻が、いま驍の上におとずれないのが、彼にはひどく不快であった。
(可憐な、ういういしい獲物をむさぼり食った。食いたい放題に、食いつくした)
という満腹感はたしかにあるのに、朝はいきいきと躍動してはくれなかった。
冷房のきいたホテルの食堂。テーブルの白布にこぼれるような明るい陽ざしも清潔で、申し分なく透きとおってかがやきたっているというのに、驍は、ただ暑い、むしょうに油照りのする夏の一日のはじまりを、その光のなかから感じとることだけしかできなかった。
コーヒーは、半分ばかり、カップの底に残っていた。
ちょうどそんなときであった。
食堂のラウド・スピーカーがコール・サインを鳴らして、喋《しやべ》りはじめた。
「お部屋番号、五一五号室にお泊りの楯林驍さま……お電話が入っております。最寄《もよ》りの受話器から一一五番をおまわしくださいませ……」
スピーカーは、二度くり返してから切れた。
「お客さまではございませんか?」
と、水を注ぎにきたボーイに声をかけられて、驍ははじめてその呼び出しに気がついた。
テーブルの上に置いてあるルーム・キイを見てボーイもそれとわかったらしく、驍をレジの横の電話機へ案内した。
一一五番をまわすと、すぐに外線につながった。
「先生ですか?」
と、明朗な声がとび込んできた。
「そうだ」
「紀子です。東京のお店からかけてます……」
「そんなことは、わかってる。なんだ、用事は」
「マア、ご挨拶。ご機嫌悪いんですか、今朝は。二日酔いじゃありません?」
「さっさと、用件をいえ」
「アラ、ほんものだわ……」
と、ちょっと首をすくめるような紀子のおどけた気配が伝わってきて、
「トマト・ジュース召しあがりましたか? すこしきつめにスパイスを振って……」
「切るぞ」
と、驍は、手短に遮《さえぎ》った。
「アア、待ってください。では、用件だけ申しあげます。先生、シザーズ・バッグを開けてごらんになりました?」
「バッグ?」
シザーズ・バッグというのは、驍の商売道具である。カット・バサミの入っている、セット・バッグだ。
驍はふだん、七種類のハサミをこのなかにいれている。無論、すべて、驍の手にあう特製のあつらえバサミだ。寸法、刃の研ぎ、肉づき、角度に、驍独特の工夫が凝《こ》らしてある。
『カッティング・手品師《ジヤグラー》』と呼ばれる驍の右腕の指だけが、そのハサミを使いこなすことができる。けっして他人の手に触れさせはしなかったが、また触れたところで、驍以外の人間がこのハサミを使っても、猫に小判で、けっしてハサミは思うように動いてはくれない筈である。
驍は、比較的長いハサミを使うデザイナーであった。
「バッグがどうした。ちゃんと持ってきてるぞ」
「だから、開けてごらんになりましたかって、うかがってるんですわ」
「おい、いいかげんにしろ。おれは、でかけるところなんだぞ」
「すみません。では、お帰りになってからでも、ちょっとあらためてみていただけますか? ロングが一本足らないんじゃないかと思いますので」
「足らない?」
「はい。こちらに一つ残ってますの。スペシャルのキャビネットに置き忘れていらっしゃいますね。もしかして、ご心配なさるといけないと思って……ちょっとお知らせしたんです。でも、わたくしが持って出ますので……」
「そうか。じゃ、頼む。それだけか?」
「はい。では、わたくし、一足お先にまいりますので、明日はお時間、おまちがえのないように。福岡のUビル、五階のホールです。十時には入っていただきませんと……」
「わかった。大阪を七時二十五分の一番機に乗る。八時過ぎには着くから、九時までにはホテルに入れる。何かあったら、そっちへ連絡しろ」
「はい。そういたします。では、九州で」
電話は切れた。
ハサミを忘れるようなことはついぞなかった、と、驍は思った。
出る前に、点検した筈だが……と、見落とした自分に、軽いおどろきを一瞬持った。
明日は、福岡で楯林驍の出張教室が開かれることになっていた。北九州、福岡地区の美容師や研修生相手の講習会である。驍は、この種の教室を、月に一、二回、不定期ではあるが、九州から北海道まで、何個所かの地方で受け持っていた。
美容師は、あくまでも個人的な才能が資本の美の創造者である。オリジナルな才能があってこそ、技術はその美容師の手もとで花ひらき、血や肉となるのであって、講師が講義や技術を実地に披露してみせたからといって、教えて教えきれるものではない。教えきれない領域のなかにこそ、美容師を真の花にする魅魔の世界があるのであって、それは教室などというものとは程遠い世界のことがらだった。
『教えはしないが、見て盗め』という芸術伝承法が、わが国には根強く生き残っているけれど、美容師の場合とて例外ではない。
だから、驍は、この種の仕事をあまりかかえこむことに気乗りはしなかったのだが、地方の業界からの名指しの要請があとを絶たず、つい懇望に負けたかたちとなっていた。が、いずれは、手を切るつもりであった。
有名美容師の売名と、勢力圏の拡張手段としてならば、かなり有効な、旨味《うまみ》もある一つの仕事舞台にはちがいなかった。
それに、美容室の経営者という立場から見るならば、地方で名前を売っておくことは、損にはならなかった。
人手不足、人材不足の解消法にもなる。店の従業員に、すぐれた技術者や才能のある人材をそろえるということは、なかなかにむずかしい。地方に教室を持っていれば、そうした意味で人材選びが広範囲にできるし、またすすんで弟子入り修業を希望する若い技術見習いたちも豊富に名乗りをあげてくれる。粒のそろった従業員を持つことができるのだった。
それはともかく、福岡のUビルで開かれる明日の教室には、驍は美容師の紀子をつれて出かけることになっていた。
紀子は正午の新幹線で夕刻までに先乗りし、地元の業者団体との打ち合わせや、会場準備などを整えて驍を待ち、教室が終ると、その日のうちに驍もとんぼ返りしなければならない、あわただしい日程だった。
七月の美容界は、年二回、その年の流行の動向を左右するニュー・モードの発表される月にあたっていて、有名デザイナーたちの動きはにわかに賑やかとなる。
例年、その年の二月に、夏から秋へかけてのヘア・モード。七月に、秋から冬へかけてのニュー・モードが轡《くつわ》を並べて出そろうのである。
世界の美容界を牛耳《ぎゆうじ》るパリの新作モード発表と同時にはじまるこの恒例の年中行事は、デザイン協会や講師会などのトップ・デザイナーたちの手によって、日本人むきにアレンジされ、独創を加えられてつくり出される、いわばこの秋のヘア界一番名乗りのデモンストレーションである。
美容室を開いて今年でまだ三年目に入ったばかりの楯林驍にも、ニュー・モードの造形依頼が協会からとび込んできていたが、
「まだ駈け出しですので」
と、彼はあっさり断わった。
しかしとにかく、七月は、この国でも、新しい美のシーズンにむかって、美容界が大きく一揺らぎ動き出す月であった。
古都の夏は、いままっさかりのフタをあけ、日本三大祭の一花、京洛祇園|御霊会《ごりようえ》の祭鉾を街へ放ち、華麗な山場を迎えようとしていた。
楯林驍は、一度テーブルのほうへもどり、煙草を一本喫ってから、立ちあがった。
誰も思うにちがいなかった。
一日、京の夏祭を、独り気ままに悠然とたのしむ、申し分のない優雅な身分の若者だ、と。
長い精悍《せいかん》な肉づきの足。褐色の明るい皮膚。強壮な、しかし匂やかな美貌。その若い豪華な肉体には、物思う苦《にが》みや、愁《うれ》いのかげりさえも見えないのであった。
驍は、食堂を出るときふと、背後に人の視線を感じて首をまわした。
それは、じっと見すえるかのような、長い間自分の上に注がれ続けていたかのような視線だったという気がしたが、そんな眼はどこにも見あたらなかった。
※[#歌記号]……コンコン……チキチン……コンチキチン……
祇園囃子の独特な鉦《かね》の音が、かなり近くまで迫ってきていた。
≪移動する美術館≫とか≪動く音楽堂≫などとも呼ばれる、きらびやかな巨大な鉾は、京都市役所の前で、河原町通りから御池通りへ左折する。
直径二メートルちかい大輪の御所車は、直線進行しかできないので、この街角をまがる方向変えが、『鉾まわし』といって、車方《くるまかた》のもっとも難渋する作業になっている。
車の下へ楔形《くさびがた》の木片をはさんだり、梃子《てこ》を使って持ちあげたり、心棒を綱巻きにして、路面に敷いた割竹の上をすべらせたりして、むきを変える。
先頭の長刀鉾が、この御池通りの交錯点にさしかかっていた頃、事件は起きた、といってよい。
驍は、巡行順序四番目を行く月鉾にならんで、河原町筋の人垣の後方を、ゆっくりとあるいていた。
七基の鉾中、もっとも細部意匠に秀で、装飾技巧の美術的価値がずば抜けているといわれる月鉾は、胴掛、水引、見送り、飾り総《ふさ》などに絢爛《けんらん》と彩られ、そろいのゆかたに共布の鉢巻をしめた二、三十人の囃子方を上層櫓にすずなりに乗せ、屋根の上に屋根方が四人、鉾を引く綱に曳方《ひきかた》が三、四十人、車のまわりに車方が二十人ばかり、合計およそ百人ちかくの男たちに仕えられて、ぎっしぎっしと揺れながらすすんでいた。
笛、太鼓、鉦の囃子音《はやしね》。
鉾の正面に二人並んだ音頭取《おんどとり》が、
※[#歌記号]ヨーイ、ヨーイ、エン、ヤ、ラ、ヨーイ……
と、声をあわせて扇を差し出す。
長い太綱を握った曳方たちは、この合図にのせて車を引く。
鉾のあげる悠然たるきしみ音《ね》は、お囃子や見物人たちの喧騒《けんそう》にかき消されたりするときにも、驍の耳にははっきりと聞こえていた。
聞こえていたというよりも、驍は、そのきしみ音を追いながら、あるいていたというべきだろう。
眼は、たえず、鉾の天頂、真柱のきっ先から、格子飾りの切妻屋根へと上下しながら、月鉾の上空へ投げられていた。
が、いつまでいっしょにあるいても、驍の内部に異変の起こるきざしはなかった。
昨年、この鉾を振りあおいだ瞬間、宙空を切って落下した真柱。横転した上層櫓。跳ねあがった大車輪。
……それらの幻影は、驍の上へやってこなかった。
(やはり、あれは気の迷いか)
さしたる意味など、なかったのだ。と、驍は思った。
思いながら、あるいていた。
(なんでもなかったのだ)
と。
法被《はつぴ》に白の股引《ももひ》き姿の若い屋根方が、屋根の中央を貫いてまっすぐ天空を突き刺している真柱の大きな揺れを、ときどき、帆綱をひっぱるような身振りで調整する。
ぐらぐらと、屋根が揺れる。
しかし、鉾は、雄大で、いささかもその典麗なたたずまいを崩すことなく、安泰だった。
楯林驍は、軽い解放感にひたっていた。肩の力がふっと抜けて行くのが、わかった。
彼は、透彫《すかしぼ》りや文様金具をちりばめた切妻屋根の破風《はふ》のあたりに、眼を遊ばせていた。工芸的な凝った屋根飾りが、美しかった。
はじめて彼は、鉾を美しいと思いながら眺めている自分に、気がついて、苦笑した。
そう思って見ると、月鉾は、たしかに≪動く美術館≫であった。
驍の眼が、不意にとまったのは、そんなときだった。
それは、べつに意味もなく、ふと眼をこらしたといったふうな、なにげないとまり方ではあったけれど。
しかし彼は、束の間、群衆のなかで立ちどまった。
彼の眼は、月鉾の屋根の片脇、つまり切妻部分が三角形をつくっている破風の上に注がれていた。
この三角形の破風板の頂点にあたる部分を、建築上では『拝《おが》み』と呼び、月鉾の切妻屋根の破風拝みには、一羽の真っ黒な烏《からす》が、とまっているのである。
無論、屋根飾りの一つとして。
驍は、その烏をみつめていた。
河原町通りの中央を行く鉾を、舗道の人垣のうしろから見あげているのだから、意匠の細部までははっきりと見定めることはできない。
だから驍には、そのとき、一羽の黒い禽《とり》が見えていただけである。もっとも、その禽は、
(烏)
と、明確にわかりはしたけれども。
烏は、ちょうど破風拝みに舞いおりた直後か、あるいはまさに羽ばたかんとして飛びたつ寸前であるのか、闇黒《あんこく》の羽をなかば背の上に鋭く開きかげんにかざし、首を後方に振り返らせて、|きっ《ヽヽ》と天空をあおいでいる。姿に凛《りん》とした感じがあった。
驍の位置からでなくとも、屋根にのぼって見ない限り、それはおそらく確認できはしないであろうけれど、この月鉾の屋根の烏は、ただの烏ではないのである。
近々と見れば、はっきりとわかる筈だ。
開いた二本足の中央に、もう一本、まぎれもない足を持っているということが。
つまり、三本足の烏なのである。
頑丈な三本足で破風拝みの中央を踏みすえ、すっくと首を振りむけて立てた烏は、いかにも精悍な風貌をそなえていた。
この三本足に気づかない限り、烏は烏にしか見えないだろうし、また、一羽の烏が破風拝みにとまっていることさえ、うっかりすれば見落としてしまう人たちもいるだろう。
驍がその烏に眼をとめたのは、美の世界に生きる人間の敏感な審美の眼だったのか。それとも、
(鉾に烏……)
と、単なる好奇の思いで見あげた視線だったのか。
正確には、驍自身にも、わからないのであった。
いや、わかるいとまがなかった、と、いいかえてもよい。
驍は、この直後、べつのことがらに気を奪われねばならないことになったのだから。
(なぜ、その烏が眼にとび込んできた刹那《せつな》、自分は足をとめたのか……)
おそらく、このことを、驍自身も考えようとしたにちがいない。
このときの楯林驍の眼の奥を、もし誰かが覗きこんで見ることができたなら、彼の眼が、何かを手さぐるような、あわただしく何かを瞬時探索するような、そんな光をおびてじっとこらされたのに気づいただろう。
楯林驍は、とにかくそのとき、ちょっと足をとめ、破風拝みの烏をみつめた。
みつめながら、彼は、ゆっくりと路上に膝《ひざ》をついたのである。
スカイブルーの軽やかなスーツの内ふところに隠されて、すぐには人眼にはつかなかったけれど、素肌にじかに着た純白のシャツの脇腹へ、血は早くもにじみ出て、ひろがりはじめていた。
驍の手は、しっかりとその左脇腹をおさえてはいたが、血糊《ちのり》は見るまに指間を染めて、あふれ出た。
驍は、何が起こったのか、とっさには判断もつかないまま、路上に転がっている一つの品物を、眺めていた。
それは、直射光をはね返して、鋭利な、細身の美しいかがやきを放っていた。
一本の、ステンレス刃のハサミであった。
全長十七、八センチ。一目でヘア・プロフェッショナルな道具とわかる、カット・バサミなのであった。
無意識にはたき落としたのか、驍が自分で引き抜いたのか、後になってからも、驍にはわからなかった。
わかっているのは、誰かが、一瞬身を寄せて、眼の前に立ち、そして通りすぎたということだけなのであった。
それはたしかに男だったが、振り返ったときはもう、その人物を探し出すことはできなかった。周囲は、見物客の人群れで埋めつくされているような状態だったから。
犯人は、おそらくまだそばにいた筈だったが、それを見きわめることができなかった。
いうなれば、顔も姿も、驍には、見えなかったのである。
彼は、一羽の烏を見ていたのだから。
楯林驍は、ほとんど声をたてなかった。たてずに、立ちあがろうとした。意外に深いところで、痛みが湧きたつのがわかった。
立ちあがりかけながら、彼は路上のハサミヘ手をのばした。少しよろけ、前のめりにふたたび彼は膝をついた。
まわりの人間たちが事件に気づいたのは、このときだった。
白昼の路上に、小さなどよめきが起こった。
だが、まだ騒ぎにはならなかった。
人垣は崩れもせず、人々は山鉾の巡行に見とれていたし、祭鉾は、相変らずぎしぎしと揺れながら、賑やかな囃子音を撤《ま》いて、すすんでいた。
驍には、そんな群衆の動きや鉾の動静、街の音の一つびとつが、つぶさに明瞭に聞きとれた。
自分が、ひどく平静だと、驍は思った。
(あのハサミを拾いあげて、そして、どこか病院を探そう)
そんなことを、彼は、考えた。
「つかまって。さあ」
と、いう声が、驍の耳もとでしたのは、そうしたときであった。
低い、たじろぎのない声であった。
「わたしに、つかまりなさい」
驍は、その男の肩に手をまわしながら、一度、しっかりと両足を踏みしめて、立ちあがった。
立ちあがったところまで、彼はおぼえていた。
うなじに、灼けた太陽が暑かった。
驍は、首をまわして、男を見た。自分と同じ背格好だな、と、そして思った。
白い麻の和服を着た男だった。
がっしりとした骨太の肩の感触と、清冽《せいれつ》な鼻梁《びりよう》のくっきりとした線の強さを、驍は眼の底に残して、男の腕につかまりながら、体の平衡を失った。
傷が、そんなに深手だとは思わなかった。
だから、自分の体が、こんなにたわいもなく自由を失うことが、ふしぎだった。
ふしぎだと思いながら、驍は意識をなくしていった。
(暑い)
と、思った。
京都の夏の暑さだけが、驍の頭のなかにあった。
祭鉾の動いている河原町の上空は、実際、さえぎる雲もない陽曝《ひざら》しの海であった。
七月十七日。正午にはまだすこし時間のある白昼のできごとであった。
楯林驍はおぼえてはいないけれど、彼がふたたび路上へ崩れおちる刹那、驍は、その白麻の和服の男の胸先から、はずみで大型の木箱を払い落とすことになったのである。
男は、その箱を片腕でかかえながら、驍に肩を貸してくれたのだった。
驍が重心を失いきった瞬間の、ほんのはずみの粗相であったが、箱は路上に放り出され、中身はぶちまけられることになった。
艶冶《えんや》な色絵陶器の大皿であった。
無論、皿は砕け散って、精緻《せいち》な色筆の跡をとどめた焼き物破片は、無残だった。
楯林驍が、その陶芸家を知ったのは、こうしたことのなりゆきからなのであった。
東山七条D病院の外科病棟第五病区は、五階にある。
五病区は個室群のパートになっていて、楯林驍の病室は、クリーム・カラーの扉の中央に『3』という標識数字が入っていた。
そのドアがひらいて、村田森江が顔を出した。
「紀子さん……まあ、あなた、早かったじゃない」
「森江先生……」
と、紀子は、とっさに涙声になった。
森江はドアをうしろ手に閉めて、廊下に出た。
「今朝の飛行機かと思ったわ」
「ええ。そのつもりだったんですけど、でも一番機が福岡を九時半でしょ。こっちに着くの、お昼前になっちゃいますもの……とてもそれまで待ってなんかおれませんでしたわ……」
「じゃ、ゆうべのうちに?」
「はい。十時前の夜行にのりました……それより……」
と、紀子は森江の手をつかんだ。
「ボスは、どうなんですか……いったい、何が起こったんですか……」
森江は、そんな紀子の肩を二、三度なだめるように叩いてから、
「いま、話すわ」
と、彼女を窓際のチェアーヘいざなった。
紀子はスーツ・ケースを二つさげていた。
二人とも、憔悴《しようすい》の色が顔にあり、眼は充血していた。
「ずっと眠ったきりなの。睡眠薬が使ってあるから」
紀子の手からスーツ・ケースをとってやりながら、
「おすわりなさい」と、森江はいった。
「あなたも、とんぼ返りで、疲れたでしょ。で、福岡のほうは、ちゃんと始末してきてくださった?」
「はい。とにかく急病ということで……幹事の方が動いてくださったんで、おまかせして……お詫びはよく申しておきました」
「そう。たいへんだったわね」
「いいえ。森江先生こそ……お寝《やす》みになっていらっしゃらないんでしょ」
「やすめやしないわ、どこにいたって。昨日はもうほんとに……足が宙に浮いてたわ。ガクガクしちゃって。いきなり、病院から電話でしょ。それも、警察の者だっていうのよ」
「警察?」
紀子はびくんとした。
「そうなの。事故だっていうの。事故っていったって、それだけじゃわかりゃしないじゃないの。アキ子さんが電話に出たの。あのひと、それだけ聞いて、泡食っちゃったのよ……腹部裂傷だっていうでしょ。もう、眼の前がまっ暗になって、スウッと血の気がひいてったわ。てっきり、交通事故だと思ったのよ……」
紀子は、広島を過ぎたあたりで、福岡行きの新幹線の車内電話に呼び出されたのだった。
「あなたに連絡とったのが、ちょうど手術が終ったあとだったの。わたしたちも、おっとり刀でとび出してきたんだけど……きてみたら、手術中だっていうでしょ。あなたには、詳しいこと知らせないほうがいいと思ったの」
森江は、
──ボスが急病で入院したから、とにかくあなたはそのまま博多へ行って、教室は中止にしてもらって頂戴。そっちを片づけてから、飛行機で帰ってらっしゃい。
と、いうような意味の指示を与え、京都の病院名を教えてくれただけだった。
──騒がないように。事情は、こっちに帰ってからね。
とどめをさすようなその言葉に、紀子は不吉な予感を持った。なぜだか、『若王』の焼けた夜のことを、急に想い出したからだ。
あの夜も、森江はテキパキと冷静な処置をとった。うろたえきった紀子たちには、そんな森江の冷静さが、心強かった。
しかし、新幹線の車内受話器の奥で聞いた森江の声は、疾走する列車のせいだったからか、あの折にさえ見せなかった落着きのなさを、どこかにふくんでいるような気がした。
(騒がないように)
紀子は、自分にいい聞かせた。
それでも一度、博多を発つ前、がまんしきれず、東京の店のほうへ電話をいれた。
矢根アキ子が、出た。
「ああ、紀ちゃん、たいへんなのよ……」
と、アキ子はいった。いってから、思わず言葉をのんだという感じで、声を落とした。
「いえ、大丈夫……大丈夫らしいのよ……生命《いのち》に別状はなかったらしいから……」
と、いうだけで、多くは語らなかった。森江に口どめされているらしいのがすぐわかった。
「詳しいことは、わたしたちにもわからないのよ……事件が起こったのは、お昼前だったらしいんだけどね……」
「事件? それ、どういうことですか! 事件って、なんですか!」
アキ子は、しまったというふうに、また言葉を切った。
「とにかく、電話じゃ話せないのよ……」
「大丈夫です。博多駅の公衆電話からかけてるんですから……ひとに聞かれる心配はありません……ねえ、アキ子先生……」
「それが、だめなのよ……まだお店の連中にも、これ、喋ってないんだから……ウウウン……喋るだけのデータ、まだわたし自身がもらってないのよ……ともかく、生命に危険はないから、騒がないようにって、それだけなのよ……至上命令なの……わかるでしょ、紀ちゃん……」
「……はい。わかりました。わたし、これから、特急に乗りますから。新大阪行きの『なは』です。七時三十五分には、大阪に着きます。九号車の八番、最下段の寝台ですから……何かあったら、連絡くださいね……」
「わかったわ。じゃ、気をつけてね」
紀子は、森江の、ほつれ毛が額に散ったぐったりとした顔を、みつめていた。
森江は、けっして人前でははずしたことのない赤いふちの眼鏡を、かけてはいなかった。眼鏡のない森江を見るのは、はじめてだ、と、紀子は思った。
そして、その赤い眼鏡が、どんなに効果的に森江の顔をひきたたせ、きりっとした花やぎを彼女に与える役目をはたしていた小道具であったかを、思い知った。
眼鏡のない森江は、ひどく力なく、威厳にとぼしかった。
森江は、三号室のとざされたドアを眺めていた。
そして、
「刺されたの」
と、いった。低い、いきなりの声であった。
「え?」
「そう。確かに、刺されたのよ、ボス」
「なんですって……」
紀子は、思わず立ちあがった。
「人混みのなかだったらしいわ。でも、誰も犯人を見てないのよ。わたしがきてからは、眠り続けてるから、ボスの口からはまだなんにも聞けないけど……すぐそばにいたひとが、救急車を呼んだり、お祭の街頭整理に出てたお巡《まわ》りさんに連絡したり、適切な処置をとってくださったんで、出血もだいじにならなくてすんだらしいの……」
森江は、ちょっと、言葉をついだ。
「腹筋を突きとおしてね、内臓をすこし破ったらしいの……」
「まあ……」
紀子はいきなり顔をおおった。
「腸壁の縫合にちょっと時間がかかったけど、でも、心配はないっておっしゃってるわ……まあ、しばらく入院はしなきゃならないでしょうけれどね」
「どうして……でも、どうしてそんなことに……」
と、紀子は、全身をわななかせた。
「そう……わたしも、考えるのはそのことばっかり……。昨日から、何度そう思ったか……」
森江は、紀子の肩に手をおいて、
「おかけなさい」
と、いった。
「わたしたちがとり乱してちゃ、いけないのよ。いいこと、紀子さん。しゃんとしてて頂戴。わけがわからなくったって、これはもう、警察の手が入った傷害事件なんですからね……それも、ただの行きずりや、まちがい沙汰で起こった事件じゃないんだから」
「え?」
「そうよ。はっきりと、ボスだと知って刺したとしか思われないの」
紀子は、恐ろしそうに眼をあげた。
「刃物がね……ハサミだったの」
「ハサミ?」
紀子の瞳《ひとみ》に、怯《おび》えが走った。
森江は黙ってうなずいた。
「ハサミって……」
紀子は、息をつめて森江を見た。
「ボスのね、足もとに落ちてたの。ヘアの、カット・バサミなの」
「───」
「わたしも、見せてもらったわ。ゾーリンゲンの中バサミ。すこしネジがきつめだけど、よく使い込まれた、いいハサミだったわ。ネジの下にね、ローマ字が一つ彫り込んであるの。たぶん、持ち主のイニシャルかなんかでしょうけど……『K』という字なの」
「K……?」
紀子は口にして、その途端、アッと咽《のど》の奥で声を殺した。
「いいこと、紀子さん。よく聞いて頂戴。そして、しっかりして頂戴。わたしは、心あたりはないかってたずねられたわ。ない、と答えたわ。だって、それはほんとうなんですものね。そのハサミを見るのは、はじめてなんだもの。たとえ『K』という文字が、誰かのイニシャルに符合したって……誰かの名前を思い出させたって……わたしは、そのひとのハサミなんか、一度も見たことはないんだもの。知らないと答えるほかは、ないでしょ……」
紀子は、うろたえていた。うろたえながら、しかし、強くうなずいた。
『K』
紀子にも、そんなハサミを見たおぼえはなかった。
『K』が、かりにイニシャルだとしても、たとえばKというイニシャルを持つ美容師は、数えきれなくいるだろう。何をうろたえることがあるのか、と、紀子は自らを叱責《しつせき》した。そして、とっさに『黒田牧夫』の名前を思い浮かべた自分に、はげしい腹立ちさえ、おぼえた。
なんの関わりもないことではないか。森江がいうように、それはわれわれの与《あずか》り知らぬことだ。『若王』が焼けたからといって、われわれが、それに何かを感じたり、わずらわされたりすることは、どこにもないのだ。
紀子は、落着こうとした。
「でもね」と、森江は、いった。
「いずれは、ハサミの持ち主はわかるでしょう。いえ、すぐにでもわかるかもしれないわ。あれだけのハサミだもの……しかも、イニシャルまで入ってる……」
森江は、かすかに瞳を動かせた。
「そう、あるいは……そのことが……刺した人間には、必要だったのかもしれない。ハサミの持ち主がわかることが、この傷害沙汰の目的だったのかもしれない……」
「森江先生……」
「いいえ、そうかもしれなくってよ。名入りのハサミを使うことが……そのハサミで、刺すことが……この犯人には、意味があったのかもしれなくってよ……」
低い、しっかりした声で、森江はそういった。
「いいわね。何が起こったって、わたしたちがあわてたりしちゃあいけないのよ。つまらない臆測や、誘いにだけは、乗らないで頂戴。そんなことで、動揺だけはしないで頂戴。ボスを、信じてればいいわ。それさえおなかのなかへいれててくれれば、なんにも隠すことなんてないわ。ありのままを、話せばいい。たずねられたら、正直に答えればいいの。ただ、いつだって、堂々としてて頂戴。いいわね、紀子さん」
「はい」
紀子は、急に足もとの地面がしっかりと踏みしめておれるような、安堵《あんど》感を持った。平静さが、立ちもどってくる気がした。
「そう」
と、森江は、柔らかなまなざしになって、うなずいた。
「じゃ、とにかくボスの寝顔だけでも見て、あなたは、ひとまずひきとって頂戴。この通りの前にね、旅館がとってあるから、そこで足をのばしなさい」
「いいえ、わたしなら平気です。寝台車に横になってきたんですから。森江先生こそ、お寝みになってください。替わりますから」
「いいのよ。もうマサル君が、起き出してくる頃だから。そしたらわたしも、ちょっとコーヒーだけでも飲みにおりるわ」
「あら、マサルちゃんもきてるんですか?」
森江は、笑って、
「そうよ。交通事故だって頭があったでしょ。とっさに、男手がいるかもしれないと思って……でも、やっぱり男は男ね。マサル君、なかなか頼りになるわよ。あのひとがそばにいてくれるだけで、わたし、ほんとに心強かったもの」
「そうですか」
紀子も、つられてニコッとした。はじめて人心地ついたような気分になった。
「お部屋は二つ頼んであるから、食事をとって、寝て頂戴」
「じゃ、わたし、お弁当でもつくってもらってきますわ……」
「いいのよ。それも、マサル君が持ってくるから。ちっとも食べたかないんだけど、よく考えたら、昨日からなんにも入ってないの」
「いけませんわ、そんなの。いま森江先生にバテられたら、わたしたちほんとに|とちめんぼう《ヽヽヽヽヽヽ》振りますわ」
「マサル君もね、ゆうべ、そういって帰って行ったから、何か持ってきてくれるでしょ。おたがいさまよ。誰がバテても、困るのよ。それにね、ボスが眼をさますかもしれないから……」
「そうですか」
と、紀子は、答えた。
やっぱり驍が眼をさましたとき、ぜひそばにいてもらわなくてはならないのは、森江だ、と、紀子は思った。
「じゃ、森江先生、そうさせてもらいます。すぐに交替しますから」
「いいのよ。ゆっくりなさい。先は長いんだから」
紀子は、森江があけたドアの奥へ、そっと視線をすべり込ませた。
清潔なアイボリー・カラーの室内は、同系色の分厚いカーテンが窓をとざしていて、ひんやりと静かだった。
平安な、たくましい褐色の顔が、ベッドの上にあった。その顔が、いかにも平安であったことが、紀子をホッとさせた。
彼女は、不意に眼がしらをおさえた。
思えばそれは、騒乱の入口《とばくち》で得た小康のようなものであった。
「先が長い」といった森江の言葉が、すぐそのあとで、胸の内へ落ちてきた。
病院の玄関口を出たところで、無造作にサファリー・ルックを身に着けたマサルと、出くわした。
彼は、通りのほうを振り返り振り返りして、車寄せの階段をのぼってきた。
「マサルちゃん、何に見とれてるのよ」
「あらァ、紀ちゃん。お前サン、ずいぶん早いじゃないの……」
マサルは、おおぎょうな身振りで両手をひろげかけて、
「いけねェ」
と、首をすくめてみせた。
「オレ、つい店の感じが出ちゃうんだよな」
「いいじゃないの。わたしといるときくらいは、リラックスしなさいよ」
「だめ。ここは、京都だろ。東男《あずまおとこ》ってところ見せなきゃな」
「あら。あなた、江戸っ子だったの?」
「あたりきよ。江戸は浜町、隅田川の流れで産湯をつかってよ……と、いいたいところだけどさ、ま、いいじゃない。気楽にいこうよ」
「ほんと」
二人はつい、顔を見合わせておどけて笑いはしたけれど、それは何か、笑いとは正反対の、真剣な握手のようなものだった。ほかにうまい表現方法を、二人はとっさに思いつかなかっただけだ。
紀子は、不精ひげを顎《あご》いちめんにのぞかせていたこのときのマサルを、後になって、何度も想い出す。
それは、けっして人前でははずさない赤い眼鏡をはずしていた森江を見たときのおどろきと、同じ性質のものだった。マサルが、人眼に不精ひげを曝す。そんなことは、あり得ないことだった。店にいる間だけでも、彼は一日に二度、必ず剃刀を使う。「オレの家の習慣なんだ」と、いつかマサルに聞いたことがある。「鼻毛と顔のひげだけは、人に見せるなって、子供ンときから親父がやかましかったからね。クセみたいなもんさ。誤解しないでくれよな。べつに洒落《しやれ》てるわけじゃないんだからさあ。だって、このお面でさあ、洒落|がい《ヽヽ》もないじゃない。アタシャ、腕で売ってるんですからねェ」
そんな、マサルだった。
紀子は、ふっと、胸が熱くなりさえした。
そのとき、マサルは、また表通りのほうを振り返った。
「厭《いや》ァねえ、マサルちゃん。なんなのよ。きれいな女の子でもあるいてたの?」
紀子は、からかい半分にいったのだった。
だが、マサルは、まじめな顔でうなずいた。
「そう。そうなのよ。オレ、たしかに見たことあるんだ、あの顔……」
「あの顔?」
紀子は、ぷっとふきだして、
「ま、このひと、本気だわ。マサルちゃん、ほら、そのお弁当、森江先生のでしょ?」
「ああ。とにかくこれ、とどけてくるよ。だから、紀ちゃん、その間、ちょっと見ててよ……いまそこですれちがったんだからさ。まだ遠くへ行きゃあしないよ。その病院の門をさ、左にまがったんだ。うすいヴァイオレットカラーのワンピースの女……ヘアは、ページ・ボーイだ。すそを内巻きにしてる。さあ、行って……オレも、すぐおりてくるからさあ……」
「いいかげんになさい」
「そうじゃないんだったら。あれ……どこかで、黒田さんといっしょにいた女だよ……」
「なんですって?」
「そうなんだよ。オレ、どっかで、たしかに見てるんだ……黒田牧夫といっしょだったよ。どこでだったか思い出せないけどさあ……」
紀子は、走り出していた。
「……あなたも、早くきて……」
と、走り出しながら、彼女はいった。
門までは、二、三十メートル、前庭のだらだら坂をくだらなければならなかった。
マサルが坂を駈けおりながらとって返してきたとき、紀子は、病院の門の前に立っていた。
東大路《ひがしおおじ》を、マサルの指示した方向へ南にくだってみたのだが、そんな女は見あたらなかった。引き返して、七条通りのほうへも眼を馳せたけれど、無駄だった。
「だめ?」
「そうみたい。どうして、もっと早くいってくれないのよ」
「だって、オレ、お前さんと喋ってる途中で思い出したんだもの」
「ほんとに、『若王』の黒田さんなの?」
「だと思うんだ……断言はできないけどさ、そんな気がしたんだから……だってさ、そこんとこですれちがったとき、ハッとしたんだもの……どっかで会った……誰だったか……オレ、考え考えその坂道のぼったんだから……」
「ということは、病院から出てきたのね、その女のひとは……」
「そうだと思うよ。だって、この道をくだってきたんだもの」
「じゃ、建物のなかから出てくるのを見たわけじゃないのね?」
「ああ。オレがこの門を入ったときさ、ちょうど道のまんなか辺をくだってきてたよ」
「で、相手はどうだったの? あなたに気がついたふうだった?」
「ぜェーんぜん。まるで見むきもしなかったわよ」
「でもさ」と、マサルは、急に顔をあげた。
「簡単じゃない。病院の受付に聞けばいい。さっきの、いまだ。病院から出てきたんだったらさ、受付だっておぼえてる筈よ。そしたら、わかるじゃない。あの女が、何しにこの病院へやってきたかが……」
「わからなかったら……?」
紀子は、自分でいっておいて、急に言葉尻をのんだ。
「わからなかったら……」と、マサルも、瞬時、いいよどんだ。だが、彼は無造作に、そのあとの言葉を口にした。
「あやしいってことになるじゃないよ」
あやしい。何が、あやしいのだろうか……と、紀子は、反復するように、思った。そのことを考えるのが、恐ろしかった。
「ためらってる場合じゃないだろ。『K』ってイニシャルのあるハサミで刺されたボスが、この病院の五階に寝てるんだ。その下の庭を、黒田牧夫の女が……いや、少なくとも、オレに、黒田牧夫を思い出させた女が、あるいてたんだ。偶然だと思うほうが、おかしいじゃない。いや、偶然なんかじゃありゃしないよ。あれは、そうだよ」
マサルは、断定するように、いった。
そして、もうあるきはじめていた。
「待って」
と、紀子は、低い声で呼びとめた。
「マサルちゃん。あなた、森江先生から聞いてる筈でしょ? うかつなことはできないのよ。あの『K』のハサミだって……黒田さんのものときまったわけじゃないのよ。またかりに、その女のひとが、黒田さんに縁のあるひとだったとしても……わたしたちがいま、それをとやこうせんさくすることは、できないのよ。そんなことをしたということが、チリほども、ひとの耳に入ってはならないのよ。どんなことがあったって、けっしてわたしたちの側《がわ》から黒田牧夫の名前を出すようなことは、してはならないのよ。わかってるわね?」
マサルは、背をむけたまま、立ちどまっていた。やがて、黙って前庭をよぎって行った。そして、ごろんと、芝生の上へ寝転んだ。
紀子も黙って、その芝生まであるいた。
そして、並んで腰をおろした。
しばらく二人は、無言のまま時間を過ごした。
太陽はもう、朝の光をすっかりふり落としていて、濃い白光色に変りつつあった。京都の夏の太陽には、光が色濃いという感じがあるのだった。
ほんの一週間前、この同じ光のなかを一人で右往左往した河原町の雑踏が、紀子の眼先にちらついた。
京都。
なぜボスは、夏の京都にやってくるのだろうか。なぜボスは、祇園祭に興味を持つのだろうか。
──たずねてごらんなさいよ。とたんに、雷が落ちるから。
と、矢根アキ子は、いった。紀子も、そう思った。
──ばかやろう。お前たち、それでも美容師のはしくれか。髪をいじるだけが能じゃないぞ。なんにでも興味を持て。持ったら、行動に移せ。自分の血肉に、獲《と》り込むことを考えろ。栄養にしろ。物を創造《つく》る人間の行動に、なぜ、どうして、そんなくだらない理由づけなどいらんのだ。すべてが、栄養だ。すべてが、創造の原動力になるんだ。
ボスは、きっと、そんなふうにいうかもしれない。いや、ボスのなかには、すでに何か具体的な造形プランができあがっていて、その取材のためだったかもしれない。
……紀子は、そんなことを、考えていた。
しかし、やはり、思わぬわけにはいかないのであった。
(ボスが、京都の地を踏むたびに、何かが起こる)
と。
ちょうどそんなことを、紀子が、とりとめもなく思いめぐらしているときであった。
マサルが、ぽつんと口をひらいた。
「ボスがさ、救急車に運び込まれる前に、いったんだって……」
「え?」
「いや、ほんのわずかな間だったらしいんだけどさ……ボス、意識がもうろうとしてるみたいな時間があったんだって。そんとき、ボスが、うわごとみたいに口走った言葉があるんだってよ……」
紀子は、マサルの顔を見た。
「まだ、聞いてないんだろ?」
「ええ。知らないわ」
「ボスのさ、救急車を呼んでくれたり、お巡りに知らせてくれたりしたひとがいるんだ……」
「ええ、それは聞いたわ」
「そう。そのひとがね……エエッと……なんったっけな……反藤《はんどう》……そう、反藤|繚一郎《りよういちろう》っていうんだ……」
マサルは、芝生の上に、指でその名前を書いてみせた。
「陶芸家なんだって」
「へえ……」
「そのひとが、聞いたんだってよ。ボス、うわごとみたいに……『烏』って、何度かいったそうなんだ」
「からす? あの、空をとぶ烏なの?」
「そうらしいんだ。その反藤さんが、いうんだけどね……ボスは、ちょうど月鉾って鉾の通っているそばの路上で刺されたのよ……だから、ひょっとして、その月鉾のことをいったんじゃないかと、私は思ったっていうんだ……」
「どういうこと? それ」
「月鉾って鉾の屋根にさ、烏がとまってるんだって。つまり、屋根飾りの烏だよね。それも、普通の烏じゃないんだって。三本足の烏なんだそうだよ」
「三本足?」
紀子は、けげんそうに眼を見はった。
「反藤さんが教えてくれたんだけどもね……三本足の烏っていうのは、古代中国で使われた太陽の象徴なんだって」
「太陽の……」
紀子は、おどろいたようにマサルを見た。
「意味、わかる?」と、マサルは、見返した。
「わかるわけがないじゃないのよ」
「そうだよね。サッパリだよね。サッパリついでに、もう一つ、サッパリなのがあるんだよ。手術の前にね、ほら、麻酔をかけるだろ? あの途中でね、ボス、急に眼をひらいて聞いたんだって。『今日は、何曜日か』って」
楯林驍がカット・バサミで腹部を刺しとおされた日、七月十七日は、土曜日であった。
土曜に往生
縫合部分に通過|障碍《しようがい》がなくなって、楯林驍の食事が|おもゆ《ヽヽヽ》にきりかえられた日、村田森江は、紀子だけを残して、いったん東京へ帰ることにした。
驍の指し図でもあったが、留守にしている店の業務以外にも、気になることが彼女にはあった。
手術後三日目の朝であった。
新宿署の刑事が病院に現れたとき、森江は、ひそかに懸念していたことが現実のかたちをとりはじめたという気がした。
『若王』の火事騒ぎの後、新宿の店にやってきた角田という初老の刑事だった。
角田は、長くはいなかった。
物腰の柔らかな、おだやかな口調で、驍の災難について見舞いのような言葉を述べた。無論、東京の新宿署からわざわざ見舞いのためだけに刑事が京都まで出張《でば》ってくる筈もなかった。
角田は、二つのことがらについて情報をもたらし、ごくさっぱりとした態度で帰って行ったということができる。
一つは、兇器のハサミに関するニュースだった。
「例のハサミですがねえ」と、彼は、なんでもない話を口にしでもするような調子で、いった。
「黒田牧夫さん。ご存じですよね? あのひとの持ち物だったらしいんですわ」
「まあ」
と、森江は、おどろいたような声をあげた。
ベッドの上の驍は、黙って角田を見ただけだった。
「いや、妙な行きがかりといいますかねえ、こっちの署から照会がありましてね……たまたまわたしも、同じようなハサミを眼にしておりましたんでねえ……」
「と、おっしゃいますと?」
「ええ。あの『若王』の焼け跡にね、二、三そんなものがあったんですわ。ハサミとかカミソリの柄やなんかにね、『K』というイニシャルが入った道具類がですな……いや、これはまあ、黒田さんのイニシャルというよりはですな、お弟子さんの名前だったらしいんですがね……」
「は?」
森江は、けげんな顔をむけた。
「いや。櫛野《くしの》という若いお弟子さんがいましてね……ご存じですか?」
「いいえ」
森江は、首を振りながら、ちょっと驍のほうを見た。
「知らんな」
と、驍も答えた。
「なるほどなるほど」
と、角田はうなずいた。
「まあ、黒田さんが目をかけてた若いお弟子さんなんだそうですがね。そのひとが、黒田さんからもらったといいますか……譲りうけたハサミらしいんですわ。つまり、黒田さんからもらった道具類にだけ、そのお弟子さんは、『K』というイニシャルを彫り込んでだいじにしてたらしいんですよ。黒田さんのKと、櫛野のKと、まあ二つを兼ねた意味でのイニシャルらしいんですがね……だから、もともと黒田さんのハサミだったんですが、譲ってもらって、お弟子さんが自分でイニシャルをいれ、使ってたものなんです」
「じゃ、その櫛野というひとが……」
森江は、心外そうに言葉をはさんだ。
「いや。それがどうも、そういうわけでもないらしいのです」
「はあ?」
角田は、「よろしいですか?」と、煙草をとり出して、驍のほうへ見せた。
「どうぞ」
森江は、灰皿を傍に寄せた。
「や、どうも」と、角田は気さくに一服|喫《す》いつけてから、あとを続けた。
「実は、その櫛野ってお弟子さんも、この世にはいないんですよ」
「え?」
「死んでるんですよ」
「と、いいますと?」
「ええ。例の火事でね」
森江は小さく息をのんだ。
「火事って……あの、『若王』のお店のですか?………」
「そうなんですよ。あのときの焼死者の内の一人なんですよ。黒田牧夫さんといっしょに死んでるんです」
角田は、煙草を半分ばかり喫ってから、火を消して、残りをポケットのなかにおさめた。
「行きがかり上といってはなんですが、まあそういうわけで、奇妙な事件のようですんでですな、またこうやってわたしが、お邪魔するようなことになったんですが……」
「じゃ、あのハサミは、『若王』の焼け跡から持ち出されたものだとおっしゃるんですか?」
「いや。そうじゃないんです。あれは、火にはあたっておりませんし、そうじゃないと見ていいと思いますね」
「それは、どういうことなんでしょうか」
「つまり、櫛野というそのお弟子さんのアパートの部屋に置いてあったものじゃないかと思われるのです」
「アパート?」
「ええ。同僚の男の美容師さんがほかに二人ばかり、同じ部屋で寝起きしてたんですがね……どちらも、黒田さんの店で働くことになってたひとたちなんです……その内の一人が、運よく、火の出た時間に店にいなくて助かったんですけどね……その同僚が、いうんですよ。たしかに櫛野のハサミだってね。そして、そういえば、遺品を整理してるときに、中身のないハサミのキャップだけが一つ、部屋のなかにあったというんですな。櫛野というひとは、手製の皮キャップを自分でつくって、ハサミにかぶせてたから、余分なキャップだろうと思ってそのときは気にもとめなかったけど、じゃ、あれがそのハサミのだったんじゃないかというんです。キャップは捨ててしまったらしいんだけど、おそらく、そうでしょう。ほかの仕事道具は、みんな店に持ち込んでて火をかぶってるから……何かの都合で、一本だけ部屋に残っていたハサミだと思っていいでしょう」
「では、誰かがそれを……」
「たぶん、そうでしょうな。家族に引き渡した遺品のなかには、ハサミはなかったっていうから、その前に誰かが持って行ったんでしょう……」
「でも、どうしてそんなハサミで、ウチのボスがこんな|め《ヽ》に遭わなきゃならないんでしょう」
「さあ、それが実はわたしにもわからないんで、こうして出むいてきたようなわけなのですがね……何か、お心あたりになるようなことでもあるまいかと……」
「そんなもの、ある筈がないじゃありませんか」
森江は、多少語気あらく、即座にいい捨てた。
それまで黙って聞いていた楯林驍が、このとき静かに口をひらいた。
「刑事さんのご意見を聞かせてくださいませんか。『若王』の火事と、僕が刺されたこととは、何か関わりがあるとお考えなのでしょうか」
「いや、そういうことではないんですがね。まあ、あの火事は、特殊な状況による失火事件としてカタがついておりますしね、火事そのものには問題があるとは思えないんですがね……しかしまあ、あなたが黒田さんのハサミで刺されたということに間違いはないんでして……そういう意味では、黒田さんと、あるいは黒田さんのお弟子の櫛野さんと、なんらかの関わり合いがある事件だと見ざるを得ないわけですよね……」
「そうですね」
と、驍もうなずいた。
「そういうことになるんですね」
「そうなんですわ」
「しかし、僕は、その櫛野というひとをまったく知りませんし、黒田さんとも、こないだお話した程度のお付合いで、昔の先輩後輩という以外に特別親しく往き来していた間柄でもありませんので……どういうことなのか、正直いって、そういうお話を聞かされると、返事のしようがなくなるわけですが……しかしまあ、いずれにせよ、ひとから刺されたりなんかするってのは、僕にそれだけいたらないところがあるんだってことにもなるんでしょうから、口はばったいこともいえやしませんけれどもね……」
「いやいや。そうおっしゃられると、一言もないですなあ」
角田はおだやかに笑って、「じゃ、まあ長話もなんですから」と、立ちあがった。
「あのう……」
と、声をかけたのは、森江のほうだった。
「その櫛野さんといっしょに住んでらしたというお弟子さんは……」
「ええ」と、気軽に角田は引きとった。
「いまも同じアパートにいるんですがね……最近大久保のほうの小さな美容室に勤めはじめてます。まじめそうな、口数の少ない青年でしてね……」
「ああ」と、そして思いあたったふうに、角田は森江を見た。
「彼にはアリバイがあるんですよ。七月十七日、つまり楯林さんがご難に遭われた日の正午前後の時刻には、確実に東京のアパートの部屋にいたようです。近所の人が何人も実際に彼を見てますし、まあ、京都にいたと考えることは不可能でしょう」
「いえ、そんな意味で申しあげたわけじゃございません。ただ、その方にでもうかがえば、何かわたくしたちにはわからない事情をご存じではあるまいかと……」
「なるほどなるほど。まあ、わたしどもも、仕事柄、その辺のところは遺漏のないよう手を尽してはおるつもりですがね……彼自身は、まったくこの事件については寝耳に水だといっておりましてね……ハサミの件にしても、櫛野さんのハサミだということは確認してくれましたが、それがいったいいつ、誰の手で、どんなふうにして持ち出されたのか、見当がつかないし……まして、楯林さんを刺した兇器に使われたとなると、もうなんのことだかわからないと……おどろいておりましてね。その点では、あなた方とまったく同じで、心あたりゼロなんですわ」
「……そうですか」
と、村田森江は、独りごちるように、呟いた。
角田は、くたびれた麻の背広を腕にかけ、
「それじゃ、ま、傷のほうのご養生をなさって、一つおだいじに……」
と、挨拶した。
「ありがとうございます」
森江が送ってドアのそばへ立ったとき、彼は急に思い出しでもしたように、ベッドの驍へ、振り返りながら声をかけた。
「そうそう……楯林さんは、たしかお一人でしたねえ」
「え?」
と、いうふうに驍は顔だけをすこし動かして、角田を見た。
「いや、ご家族のことなんですがね……たとえば、ご兄弟とか……」
「おりません。一人です」
「ほうほう。すると、一人っ子でいらっしゃる……」
「そうです」
「なるほど。で、ご両親は……」
「死にました」
「おや、そうでしたか。じゃ、ほんとのお一人で……」
「はい」
「そうですか」
「それが、何か?」
「いえいえ。まだお若いのに、あれですな、たいへんなご出世で……いや、近頃の若い者はなんて、ついわれわれも不用意に口にしますけども、なかなかどうして、独立独歩、しっかりした方たちもおられるんで、舌を巻きますなあ」
角田は、厭味でなく、しんから感心している様子で何度もうなずき、もう一度、
「おだいじに」
と、いって、帰って行った。
角田というその初老の刑事が、帰りぎわになにげなく残した一つの言葉が、村田森江には、気になってならなかったのである。
──たとえば、ご兄弟とか……。
と、いう一語だった。
兄弟。
なぜ、そんなことを彼はたずねたのだろうか。
森江には、その言葉のなかに、その日刑事がわざわざ京都まで出かけてきた最も肝心な目的があったのではあるまいか、という気がした。
兄弟。
角田がその言葉を口にしたとき、森江は、とっさに、一つのある光景を脳裏に思い浮かべたのである。
黒田牧夫の美容室『若王』が焼けた夜、焼けた時刻、新宿の二丁目|界隈《かいわい》をあるいていたという幻《ヽ》の楯林驍の姿をである。
いる筈のない場所、あるける筈のない街角を、彼はあるいていたという。
無論、人違いにきまっている。
だが、それを楯林驍だと思った人間が、現実に存在する。
楯林驍でない楯林驍。
角田という刑事の耳にも、そんな情報が、どこかから流れ込んでいたのではあるまいか。
そしてたぶん、角田は、それが楯林驍ではあり得ないということを、かつて森江自身がたしかめたと同じように、この京都でたしかめたにちがいない。
『若王』が焼けた夜、新宿の街をあるいていた人物が、楯林驍でないとすれば、それはどんな人物だと考えればよいのか。
角田も、きっとそう思ったにちがいない。
──兄弟。
と、いう言葉は、おそらく、そんな角田の思惑の一端からこぼれ出た言葉にちがいあるまい。
村田森江には、そう思われた。
楯林驍が京都にいた夜、火炎に包まれた一つの美容室を懐《ふところ》に擁した夜の新宿の街をあるいていた男。
その男の姿が、いま、森江の脳裏に、あらためて黒い影の輪郭を鮮明に描きながら、たち現れているのだった。
そして、驍には伝えてはいないけれど、その男《ヽ》を見たと、店の若い見習い宮崎に話したという彼女の同郷の男友だちが、たしか、大久保に住んでいたのだった。
──そのひと、何をしてるの?
──理容師です。
──どこの?
──大久保の理髪店に住み込みで働いてます。
たしか、宮崎はそういった、と、森江はいま思い出しているのであった。
大久保の小さな美容室に勤めはじめたという黒田牧夫の弟子の美容師。
大久保の理髪店に住み込んでいるという楯林驍《ヽヽヽ》を目撃した理髪師。
大久保。
(これは、偶然の一致だろうか)
と、村田森江は、考えていた。
東京へひとまず帰ることにした日、森江は朝の内、東山区|泉涌寺《せんにゆうじ》にある反藤繚一郎の自宅へ挨拶に出かけ、昼前に病院へもどってきた。
「ボス、たいへんですよ。あちらは、かなり有名な陶芸家でいらっしゃるようですのよ」
「そうか。で、おれが割ったっていう焼き物は……」
「はい。色絵の大皿だったんだそうですけど……お客様に納めに行かれる途中だったらしいんです。なにしろ、当日は、わたしたち泡くっておりましたし、あちらも、何たいしたものじゃないからっておっしゃってましたので、ついその気になって……でも、今日は冷汗かきましたわ」
反藤家には、翌日、すぐ森江があらためて礼に出むいたのだが、繚一郎は留守で会えなかった。
事件の当日、森江たちが東京から駈けつけるまで驍のそばについていてくれた反藤繚一郎は、森江たちの顔を見ると、手短にそのときの様子を話して、引きあげて行ったのだった。
清潔な彫りの深い容貌とがっしりした骨太の体躯《たいく》が、白麻のすがすがしい和服にさっぱりと馴じんで、静謐《しずか》な威厳を感じさせる青年だった。
青年といっても、驍よりは年上の、三十歳くらいには見えた。
「そうか。そりゃ、申しわけないことをしたな。おれは、まるでおぼえてないんでな」
「いえ、それがボス、ぜひ弁償させていただけないかとお願いしましたんですけど……反藤さんは、また焼けばいいからって、ケロッとしてらっしゃいますの。そりゃあみごとな作品、いろいろ見せていただいたんですのよ。お値段なんか聞くわけにもまいりませんしね……いえ、それとなく聞きはしましたんですけど、笑っておっしゃってはくださいませんの。それでわたし、ふと思いついて、お話のなかに出てたお店へ、帰りに寄ってみたんです」
「店って?」
「ええ。陶器店ですわ。五条通りに、大きな老舗《しにせ》がたくさん並んでますでしょ。太壺堂ってお店の名が一、二度出ましたんで、そのお店を探してみたんです。いちばん豪華なお店でしたわ。二階が、特別展示場みたいになってますのよ。そこの展示品だけは、一品ずつ、品目名と作題と作家の名が書き込まれた木札が並べてあるんです。そのなかに、ありましたわ。反藤繚一郎。わたし、お店のひとに聞いてみましたの。伝統工芸界では、あちこちの賞をたくさんとってらっしゃる、若手のホープなんだそうです。太壺堂に出てましたのは、壺とお茶碗が三点ばかり。どれもみな、六十万、七十万ってお値段がついてますのよ」
「マア、たいへん」
と、横で紀子がすっとん狂な声をあげた。
「でも、素敵な方ですのね。また焼けばいいからだなんて、イカス」
「ばかねえ。感心してる場合じゃないでしょ」
森江は、たしなめるようにいってから、ため息をついた。
「あなた一人残して帰るの、ほんとに大丈夫かしらね」
「大丈夫です」
「なんだか、心もとないわねえ」
「森江先生」
「そうそう、その意気込みを忘れないで頂戴。わたしも、できるだけ顔を出すようにしますからね」
森江は、ふくれっ面をした紀子から眼をはずすと、驍を見た。
「どうしましょうか、ボス。とりあえず、お礼だけは、十分にお伝えしてまいったんですが……」
「いいよ。おれが動けるようになったら、行く。そのときのことにしよう」
「そうですか。では、そういうことにして……」
と、森江は、一段落つけるように、腕時計を見た。
「じゃ、わたしは、お昼過ぎの新幹線に乗らせていただきますから」
「ああ。そうしてくれ」
「それから……」
と、森江は、ごくなにげない口調でつけ足した。
「反藤さんが、気にしていらっしゃいましたので……」
「ん?」
「いえ。『烏』のことです。自分の腕のなかで、あのひとはたしかに二、三度、『烏』っていったけど、なんのことだったんでしょうねって……しきりに気になさっておられました」
「……そうか」
と、楯林驍は、いっただけだった。
そのことは、森江も紀子もマサルも、驍が正気づいてから、何度もたずねてみたのだが、彼は、ただ、
「べつに、たいしたことじゃない」
と、いうだけで、何も話してはくれなかった。
刺された直後、短い意識の混濁のさなかで驍の口をついて出た言葉だと聞くだけに、森江たちにとっては、謎めいて、ぜひその真意を知りたい言葉なのであった。
そして、麻酔の効きはじめた直後、夢うつつに『今日は、何曜日か』とたずねたという言葉。それにどんな意味があったのか、問いただしておかねばならないのであった。
しかし驍は、どちらの言葉についても、何も説明を与えてはくれなかった。
「なんでもない。無意味なうわごとさ」
と、一笑に付した。
それだけに、気になる言葉なのであった。
紀子にも、森江のさりげない語調に託したこのときの心の内が、よくわかった。
それは自分たちが、ぜひ知っておかねばならない事柄であるような気が、するからなのであった。
紀子も、それとなく、驍の表情から何かを探しとるような眼になった。
「やっぱり月鉾の屋根の烏だったんですかって、お聞きになるから、わたし返事ができなくて困りましたわ。……あれなんですってね。あの鉾の屋根に烏がとまっているなんて、この京都でも、知ってるひとは少ないんですってね。毎年祇園祭を見ているひとたちでも、なかなか眼にはとまらないんですってよ。だから、反藤さん、とても興味を持ってらしたようですわ。自分も、あの烏の姿は好きだっておっしゃって……」
驍は、薄く眼をとじて、眠ったような顔に見えた。
「ほんとに三本足なんですってね、その烏。あれですってよ。鉾町の人たちにいわせると、あれは八咫烏《やたがらす》っていうそうですってね。ほら、神武天皇の大和征伐でしたっけ? 弓の先にとまって、道案内をした烏がいるでしょ。あの烏だって、鉾町の会所ではいってるそうなんですってよ。でも、反藤さんは、そうじゃないっておっしゃってましたわ。あれは、やっぱり、古代中国の神話の禽《とり》で、太陽の象徴だと見るべきだって。とてもいい姿をしてるんですってね……」
驍は、何もいわなかった。
聞いているのか、いないのか、まるで、表情を動かさなかった。
けれども、驍は、聞いていた。
あの烏が、三本足であったことも、また古代中国の|いわれ《ヽヽヽ》を持つ由緒ある禽であったことも、自分はあのとき、知らなかった。
自分はただ、
(烏)
と、思っただけである。
毎年、鉾を見あげる人たちもめったに気がつかないという烏が、なぜ、はじめて見あげた自分の眼に、しかも吸い寄せられでもしたように、まるで一直線にとび込んできたりなどしたのだろうか。
意味はなかった。意味など何もなかったけれど、
(烏だ)
と、自分は思って、束の間、あの鉾の屋根の破風拝みを凝視した。
あの凝視は、なんだったのだろうか。
楯林驍は、眼をつぶったまま、そんなことを、とりとめもなく考えていた。
烏。
自分はほんとうに、意識を失ったとき、その言葉を口にしたのだろうか。したとすれば、それはなぜだろうか。
自分が意識をなくした時間、自分が知ることのできない時間、その言葉が自分の口から出たということに、楯林驍は、ふしぎな困惑を感じるのだった。
ちょうど一つのわらべ唄が、自分の知らない間に頭に浮かび、知らない間に口ずさんでいたりするのと、それはどこか似ているような気もしないではない、奇妙な困惑感なのであった。
『今日は、何曜日か』
と、自分はあの日、たずねたという。
そのことのほうは、はっきりとおぼえている。
自分の意志で、たずねたのだ。
『土曜に往生』
その童謡の一節が、やみくもに頭に浮かんだ。誰かにそれをたしかめたかったのだ。その日が、土曜にまちがいはないということを。手術台に、自分が横たわる。その日が、たしかに土曜日であったということを。
楯林驍は、そんなことを考えながら、眠りおちた。
森江の声も、いつの間にか、耳にはとどかなくなっていた。
「お寝みになったのかしら」
「そうみたいね」
と、森江は、紀子をうながしてドアの外に出た。
「いいわね、紀子さん。ボスを頼んだわよ」
「はい」
「あとは回復を待つだけだから、体のほうは心配ないけど……」
「わかっています。マサルちゃんが見たっていう女のひとのことでしょ」
「そう。それもあるわ。でもね、これだけはほんとにいつも、忘れないでいて頂戴。ボスを誰かが刺した。これだけはね。誰かがボスの生命を狙った。これだけはね」
「はい」
「いい? しっかりと心のなかにいれといて頂戴。ボスの身のまわりから、眼をはなさないこと。いつも、そばについてて頂戴よ」
「そうします」
「マサルちゃんを帰すんじゃなかったわね」
「大丈夫ですったら」
「わたしも、もうすこしいたいんだけど……ボス、いい出したら聞かないから……とにかく、ひとまず帰るだけは帰るわ」
「そうしてください。お店のほうも、だいじですから」
「いれかわりに、若い子を一人寄こすわ。ほんとは、あなたとマサルちゃん、二人がいてくれると、わたしも安心して帰れるんだけど……」
「でも、やっぱりお店のほうが手薄になりますもの。大丈夫です。生命にかえて、ボスはお守りします」
「マ。それもすこし大げさだけど、でも、ほんとに頼んだわよ」
「はい」
森江は、ちょっとドアを振り返り、
「じゃ、わたしはこのまま行きますからね。眼がさめたら、よろしくね」
「はい。森江先生も、お気をつけて」
二人が、手を交わし合った直後であった。
廊下の突きあたりにあるステーションで、看護婦が手をあげて招いていた。
「お電話ですよ。東京からです」
「あ、いいわ。わたしが出るわ」
と、森江がいって、彼女は急ぎ足に、ステーション・ボックスヘ近づいて行った。
その日も京都は、快晴の炎暑であった。
村田森江は、外科病棟第五病区のステーション・ボックスで、しばらく、その東京からという電話にかかっていた。
森江の手が、何度か眼鏡のふちへのびる。のびて、つと眉間《みけん》の中央をおさえでもするように、彼女の指がその赤い眼鏡をかまいはじめると、東京の店の連中は、なるべく森江のそばへは近寄るまいとする。
彼女が落着かないときの、あるいは機嫌がよくないときの、それは癖である。いわば赤信号という奴だ。店の連中は、そう呼んでいた。
紀子は、病室のドアの前に立ったまま、そんな森江を眺めていた。気が気ではなかった。
(何か、あったんだわ)
けれども、そんな紀子は、逆にまた森江の眼から見れば、離れたくても主人の寝屋《ねや》を一歩も離れまいとする、忠実な番犬を思い出させもするのだった。
森江は、受話器を置くと、足早に帰ってきた。
「なんですの?」
「話してる時間がないわ」
と、森江は腕の時計を見た。
「わたし、とにかく帰るわ。マサルちゃんが出てるから、あなた、直接聞いて頂戴」
「あら、まだ電話かかったままですか?」
「ええ。待ってるわ。出てやって」
「森江先生……」
「ああ、それから」と、森江は一方的にさえぎって、
「マサルちゃんを寄こすからね」
「え?」
「いいの。ボスには、むこうへ帰って、わたしから電話するから。じゃあね。何かあったら、すぐ連絡して頂戴」
森江は、もうあるき出していた。
紀子も、受話器のほうへ走り出していた。
病院の廊下は、陽がさして明るかった。
中庭が地階から吹き抜けで、病室のある建物はそれを口の字型にとりかこんで空へのびている。ステーション・ボックスは、そのまがり角の一角にあり、この階への昇降口は、そのボックスの前と、反対側のまがり角の二個所に、それぞれ二台ずつ、エレヴェーターがついている。
驍の病室『3』号室からは、ステーション・ボックスの正面昇降口のほうが近かった。
だのに、森江は、反対側のエレヴェーターのほうへ急いであるき出していた。
物に動じない、いつも誰よりも沈着で冷静さを欠かぬ森江が、その距離の判断を誤っているということに、紀子は、おどろいていた。ほかの人間ならいざ知らず、彼女に限って(特にこうした場合はなおさらのこと)けっしておかす筈のないまちがった行動のように思われた。たとえそれはわずかな距離のちがいではあっても、急ぐなら、最短距離。正確に、それが選べる人間だった。
紀子は、ステーションヘ走りながら、そんなことを頭では思った。
「もしもし、紀子です……」
紀子は、受話器をつかんで振り返った。
森江のうしろ姿が、ようやくエレヴェーターの口ヘたどりつくところだった。
森江は、昇降ボタンを押してから、ちょっと紀子のほうを見た。すぐに箱はやってきたらしく、彼女は小さく手をあげて、乗りこんだ。
不意に追いすがりたいようなはげしい心細さに、紀子はおそわれた。
「もしもし、紀ちゃん? 紀ちゃんなの?」
受話器のなかで、マサルが呼んでいた。
「はい。紀子です……」
われに返ったように、紀子は、その声にすがりついた。
「どお? 元気? ボス、経過はいいんだって?」
「ええ。今日から流動食がとれるようになったわ……もっと食べさせろって、欠食児童みたい……」
「朝からビフテキ二皿ペロッて口だものね……」
「それより、マサルちゃん。どうしたの? 何があったの? 森江先生、泡くってとび出しちゃったわよ……」
「帰ってくるんだって?」
「そうよ。すんでのところで、この電話と行きちがうところだったのよ……」
マサルは、急に声を低めた。
「紀ちゃん。電話口に、看護婦がいるんだろ?」
「ええ……」
と、紀子は、ちらっとボックスのなかの白衣の女を見た。看護婦は、グラフ板のようなものを覗きこんでいた。
「わかったわ……注意します……」
と、紀子は、マサルのいわんとしたことを、のみ込んだふうだった。そして、ひやりとした。
「オレもね、この電話、病室のほうへかけようかどうしようかって、ちょっと迷ったのよ。ボスの耳に、いまいれちゃっていいのかどうかさあ……そんでまあ、ステーションにつないでもらったんだからさ、お前さんもそのつもりでね……」
「すみません……わたし、だめねえ……」
「何いってんのさ……しっかりおしよ、お前さんらしくもない……」
紀子は、小声で、
「早くきてよ……」
と、囁《ささや》いた。
「わたし……なんだか、急に自信が持てなくなったわ……」
「お黙り。病院の庭でオレに説教したのはどこの誰さ……」
「ごめんなさい……やっぱり、女は女だわねえ……」
「いい?」
と、マサルは、念を押すようにして、口調を変えた。
「森江先生が、お前さんにも話しとけってことだから、とりあえず伝えとくわよ……これ、オレも、ちょっとどういうことなのかわかンないんだけどさあ……おどろかないで。ほら……あの、ヘアを|ページ《ヽヽヽ》・|ボーイ《ヽヽヽ》にした女……」
「え?」
「お前さんと、病院の外まで追いかけたでしょうが……」
「ああ……ええ……」
「あの女の名前がわかったのよ……」
「ほんと?」
紀子は、緊張した。
「そうなのよ。どっかで見た……どこだっけって、あんた、オレ、あれから六本木のスナック総なめよ……たしか六本木だったって気がするんだけどさ、思い出せないのよ……エイ、考えてたってしょうがねェってさ、とにかく手あたり次第、行きつけンとこみんなまわっちゃったわよ……それもあんた、黒田牧夫の名前なんか、おくびにだって出せないでしょ……出さないで、彼の女の話を聞き出そうってんだから……まあ、わたしゃもう負ケソウよ。コォーンバンハ、ハイサヨーナラってわけにゃいかないでしょ。ウダウダ、キャアキャアアホ話を囀《さえず》ってさあ、そんで腹芸見せなきゃいけないでしょう? まあ、くたびれたわよ。ヘトヘトよゥ。おかげで、フトコロはすっからかん……オレ、今日、オケラだよ」
「大丈夫よ。わたしが面倒見てあげるから……」
「あらソウ? 頼もしい!」
「ね、それでどうしたのよ……早くおっしゃいよ……病室、カラにしてるのよ……」
「あら、そうだったわね……」
と、マサルは、そそくさとした声になって、
「それが紀ちゃん、思い出せない筈なのよ……六本木は六本木でも、スナックなんかじゃなかったのよ……バード・ショップだったのよ」
「バード・ショップ?」
「小鳥屋よ……ほら、あるでしょ……インコとかさ、十姉妹、九官鳥なんか売ってるお店……」
「ああ、ええ……」
「あれなのよ……まちがいないわ、バード・ショップの前だったのよ……オレさ、あるスナックから出てきてさ、ひょいと見たら、まん前にその店があるじゃない……とたんに、思い出しちゃった。そのときも、そうだったのよ。宵の口でさ、お店のシャッターおろしはじめてたのよ……そのシャッターが、傑作なの……極彩色のペンキでさ、鳥の漫画がいちめんにイラストしてあんの……あんまりおもしろいんでさ、つい足とめて眺めたのよ。そのときよ。黒田さんが、彼女とお店のなかにいたのよ。奥のソファーでさ、そこの主人らしいのと、いっしょにお茶のんでたわよ……彼女のほうが、なんかしきりに喋ってたの……これだ、と思ったわよ」
マサルは、
「あたしゃ、もう、すっとび込んで行ったわよ……」
と、いった。
「おかげで、あんた、セキセイインコ買っちゃったのよ……だって、なんかカッコつけなきゃ悪いでしょ。黒田さんの友だちだってことにしちゃったのよ……あの人にすすめられて、小鳥買いにきたんだけどってさあ……、まあ、そこはうまく立ちまわったわよ。そしたら、どお? ああ、反藤さまのお友だちの……っていうじゃない!」
「反藤?」
紀子は、思わず聞き返した。
口にしてから、あわてて声の調子を落とした。
「反藤……っていったの? マサルちゃん」
「そうよ。反藤よ。あたしゃ、もう、ヒックリ返ったわよ。黒田さんよりも、その女のほうが|お得意《ヽヽヽ》だったのよ」
マサルは一気にまくしたてて、一息つくように言葉を切った。
村田森江の狼狽《ろうばい》ぶりが、紀子にも納得いった。
「ちょくちょく現れるらしいんだけど、名前しか知らないっていうのよ……だから、反藤は反藤でも、どこの反藤かわからないの……」
「でも……」
「そうでしょ? 反藤なんて名字、そうザラにありゃしないわよね……あたしだって、こないだ京都でお耳《ヽ》にかかったのが、はじめてよ。これはいったい、どういうことなの?」
「で……森江先生、なんておっしゃったの」
「なんにもいやあしないわよ……『まちがいないのね』って聞くから、『ハイ。ゼッタイにまちがいありません』って答えたら、『そう』。この一言よ。『それ、紀子さんにも話してやって。それからあなた、明日こっちへこられるように支度しといて。じゃあね』それっきりよ」
「そう……」
「あら、お前さんまでオツキアイするこたあないでしょ」
「そうじゃないわよ。わたしも、ヒックリ返ってるのよ……」
「ヒックリ返るの、オレ一人でたくさんよ。なんとかいったらどうなのさ。アアだろうとか、コウだろうとか……そのために、電話かけてんですよ」
「いえる筈がないでしょ……あなたにわからないことが、どうしてわたしにわかるのよ……森江先生が、考えてくださるわよ」
紀子は、ちらっと、看護婦を見た。
もうかなり長電話だった。眼が合うと、看護婦はにこっと微笑みかけたけれど、公衆電話じゃないのよ、と、やんわりとがめられたような気が紀子にはした。
「で……わたしが聞いとかなきゃいけないことは、それだけなの? ほかには、ないの?」
「おや……お前さんも、冷静ね」
「そうじゃないわよ……意地悪ね、あなたも……」
「いいから、睨《にら》み返してやりなさいよ」
「え? なんのこと?」
「だって、看護婦が眼ェむいてるんでしょ?」
「まあ……」
「わかるわよ、それくらいのこと……オレも二、三度、やられたもの……若いの? それとも婆サンのほう?」
「マサルちゃん」
「わかった……ニコッと笑うほうでしょ。横目でチラッと睨んでさ。すこしゃ、かまやしないわよ……だって、あたしたちにゃさ、天下の一大事。真剣な話してんだもの……と、いいたいとこだけどさ、そこじゃ何も喋れないわね。じゃ、とにかく、今日はこれだけ」
マサルは、電話を切りかけて、
「ああ、紀ちゃん……」
と、つけ加えた。
「見舞い客には、気をつけてよ……それから、これ、ボスには、まだ話さないほうがいいんじゃない?」
「そうね……ええ、そうするわ」
紀子は、うなずいて、電話の切れる音を聞いた。
(でも)と、思った。
森江が、そのことを指示していかなかったのが、ふしぎであった。
──あ、紀子さん。電話のことは、ボスには伏せておいてね。
ふだんの村田森江なら、何をおいても、これだけはいい置いて行っただろうと思われた。
紀子は、明るい廊下の陽ざしのなかを戻りながら、先刻から、あらわれては消える一つの情景を、頭のなかで追っていた。
祭の都大路。ごった返す人波のなかで、倒れた楯林驍のいちばん近くにいたという、白麻の和服を着た、それはマサルの口をかりれば「すがすがしい眉目の偉丈夫」だといえるらしい、一人のまだ見ぬ男の姿を。
反藤繚一郎。
これを、偶然といわなければならないのだろうか。
(反藤という女……)
紀子には、ヴァイオレットカラーのワンピースを着て、髪を内巻きのページ・ボーイにデザインしていたというその女も、病院の外までは追いかけたのだが、いわばまだ見ぬ女であった。
マサルから聞かされたそんな女の|身なり《ヽヽヽ》からすれば、ひどく可憐なういういしい感じの女が、想像に湧くのだった。
「そうよ。ちょっと見には、可憐っぽく見えるわよ。せいぜいいって、二十四、五って感じにね。でも、あたしゃ、もっと齢《とし》くってると思うけどね」
と、マサルはいった。
ページ・ボーイという髪型は、顔のまわりで軽やかにヘアがゆすれ、ゆれ動くたびにひろがり花やぐ髪型だった。ちなみに、ページとは、小姓、側侍の謂《いい》である。あどけない典雅さや、軽快な気品が身上のヘアであった。
すがすがしい白麻の和服の男。
と、
ヴァイオレットカラーのワンピースを着たページ・ボーイの女。
(反藤)
と、紀子は、思った。
五階五病区の外科病棟の廊下は、すべて個室群で、他の階にくらべれば人の往来もすくなく、いつも比較的静寂なのが、助かった。
紀子は、三号室の扉の前までかえってきて、ふと、把手《ノブ》をつかんだ手をとめた。
ドアの内で、何か物音を聞いた気がしたのである。
マサルが勢いよくドアをあけて入ってきたのは、翌日の昼過ぎどきであった。
京都はその頃から雨になった。
驍は、眠っていた。
前ぶれもなくドアがひらいたとき、反射的に紀子は立ちあがって、二、三歩あゆみ出た。ベッドと訪問者の間をさえぎるような位置に立っていた。
「マサルちゃん……」
「どうしたの、怖い顔して……」
入ってきたマサルのほうが、その瞬間ぎょっとしたほど、紀子の動作は敏捷だった。敏捷というよりも、神経的だった。
当の紀子自身でさえ、思わずとった自分のそんな身ごなしにおどろいていた。
肩のちからが一時に抜けた。
「おどかさないでよ……」
「それは、こっちのいうことだよ。びっくりするじゃないのよ」
「シイッ」
と、紀子は、驍を振りむき、マサルの肩を押して部屋の外へ出た。
「いま寝《やす》まれたばかりなの」
「もう痛まないのかい?」
「ときどき、まだチクチクする感じはあるらしいわよ。でも、痛いってほどのものじゃないみたいよ。ああやって、すぐ眠り込めるんだもの」
「そう。よかった」
「ほんとによく眠るの。信じられないみたいだわよ」
「日頃のぶん、とり返してるんだろ。きっと」
「そうかもね。一日二十四時間いつも、絶えず何かを追っかけてるみたいなひとだもの」
「それでいて、ひと一倍、遊びにもタフだしね」
マサルは、廊下の椅子に腰かけながら、
「でも、どうしたの」
と、紀子を見た。
「先刻の顔、普通じゃなかったわよ。それに、すこしやつれたみたい。寝てないんじゃない?」
「うううん。大丈夫よ。だって、あなたがいきなりとび込んでくるんだもの。ノックくらいはして頂戴。ほんとに、わたし、血の気がスウッと退《ひ》いたのよ」
「そう。そんな顔してた……何か、あったの?」
「あら、ご挨拶ね。見舞い客には気をつけろっていったの、あなたじゃない」
「ああ、それで」
マサルは、ぷっとふき出した。
「オレ、殴り込みとまちがえられたのか。ダンビラ振りかざしてさ、オレが……」
「やめて」
と、紀子は、いきなりさえぎった。怯えるような眼の色が、瞳を一瞬ゆるがせた。
「どうしたの……やっぱり、何かあったのね?」
紀子はかぶりを振ったけれど、どこかふだんの彼女とちがって、張りつめた弓弦《ゆづる》が切れたあとのような、力のない感じがあった。
「なんにもありゃしないけど……でも、怖かったわ」
「紀ちゃん……」
マサルは、真顔になった。
「そう……足がふるえて……歯の根があわないって、よくいうでしょ……ほんとにそんな感じだったわ……」
紀子は、眼の前の『3』号室の扉へ顔をあげながら、昨日の午後のある束の間を、あらためて思い出すような眼になった。
「誰か……きたのね?」
と、マサルは、いった。
こくんと、紀子はうなずいた。
「誰? いつ?」
「あなたの電話があったあと」
紀子は、そういって、「いいえ」と、すぐに首を振った。
「そうじゃないわ。あなたの電話の最中に……」
「ええ?」
「そう。そういうべきだわ。あなたの電話が切れたあと、わたしがこのドアの前までかえってきたとき、もう、そのひとは部屋のなかにいたんだもの……」
マサルは、まじまじと紀子をみつめた。
「わたし、自分では眼をはなさなかったつもりよ……ほら、あそこのステーション・ボックスから、この病室の前は見通しよね。廊下は、むこうまで一本筋……そりゃあ、何人かひとはあるいていたわ……廊下の両端には、エレヴェーターがあるんですもの……ひとの出入りがなかったとはいわないわ。でも、注意して見ていたつもりよ。それに、この階は、そんなにひんぱんにひとが|そうそう《ヽヽヽヽ》する階じゃないわ……誰も、この部屋には入らなかったわ。いえ、入らなかったと、わたしは思ったわ。でも……あとになって考えれば……わたしも、見続けにみつめ続けていたとはいえないかもしれない……そう、なにしろ、ステーションの看護婦さんが気になって、小声で話さなきゃならなかったもの……何度か、彼女に背をむけたりしたことはあったわ……でも、あっても、それはほんのわずかな間よ。眼をはなしたとしても、そんなに長くはなかったわ。そうでしょ? その電話で、あなたにもいわれたくらいだもの。また、人が通るたびに、わたしは注意をむけた筈だわ。すくなくとも、自分では、そう思ってるわ……」
紀子は、ちょっと言葉をのんだ。
「だのに、このドアの前までかえってくると、なかで、椅子の音がするの……」
「椅子?」
「そう。ほんのわずかだったけど……はっきり、椅子を動かすような音がしたの。椅子の足が床を引きずるような……。ボスが、起きあがれる筈はない。ボスの手にとどくような場所に、椅子は置いてない。……わたしは、そんなことを考えたわ。とても怖くて、このドアがあけられなかった……あければ、その瞬間に、何かが起こるような気がして……。でも、あけないわけにはいかない。そっと……ほんとに、そっと……わたしはドアをひらいたの。誰がいても、とにかく相手をおどろかせてはならないと思ったから……」
紀子がドアをひらいたとき、部屋のなかには、女がいた。
「女?」
「ええ。こちらには背をむけて……うしろむきに、ボスのベッドのそばに、立っていたわ」
「……あいつ?」
紀子は、首を振った。
「わからないわ。あなたが見た女のひとの顔をわたしは知らないもの。でも、そのひと、ヴァイオレットカラーのワンピースでもなければ、ページ・ボーイの内巻きヘアでもなかったわ。白の上布《じようふ》に、茶の絽《ろ》羽織。髪は襟足をすっきりあげた変り束髪《そくはつ》。水ぎわだった和服の着こなしが、あざやかだったわ」
「和服……」
「ええ。ウチに見えるお客さんでも、あれほど和服の着こなせるひと、すくないわ。じっと、そのひと、ボスの寝顔を覗きこんでるの……。女は魔物っていうけども……ほんとにわたし、その言葉を信じたわ。こんな女性が、いつ、この部屋へ入れたのか。どうして、わたしの眼には見えなかったのか……」
紀子は、女が、ゆっくりとうなじをめぐらせて振り返ったときの、えたいの知れぬ恐怖感を、思い出しでもするような眼になった。
「イヤ」
と、女は、たじろぎもせず、優しいしなやかな声をあげた。無論、眠っている人間を|慮 《おもんぱか》って、小さく口のなかで殺した声だった。
「かんにんしとくれやっしゃ。どなたも見えへんもんやから、だまって入らせてもろうてます。おつきのお方ですのん?」
「……はい」
「いや、そうどすか」
女は、紀子のほうへあゆみ寄って、
「ようお寝みのようやさかい、このまま帰ろうかなて思うてたとこですねん」
「あの……失礼ですが、どなたさまで……」
「へえ。お初にお目にかかります。わたし、反藤の家の者でおす」
「反藤?」
と、マサルは緊張した。
「そうなの。そういったのよ、そのひとは。わたし、背すじがズウンと冷えてきて……もう、しどろもどろよ。しっかりしなくっちゃあって、思ったわ。負けちゃいけないんだって、思ったわ。だって、とても太刀打ちができないんだもの。位《くらい》どりがちがうというか……|女負け《ヽヽヽ》っていうのね、こんなの。しっとりと気品があって……しずかで……そう、とにかく、しずかなの。ひかえめで、それでいて、堂々としてるの」
齢は三十格好の、女の盛りを思わせる、匂やかな女性だった。
「ほんまに、とんだことで……ご災難どしたなあ」
と、彼女は、いった。
「怖《こわ》おすなあ。せっかくお祭たのしみにみえといやしたやろに、えらいこっとしたわなあ……」
しみじみとした口調であった。
あわてて、紀子は頭をさげた。
「どうも……このたびは、お世話になりまして……」
「何をゆうといやす。困ったときは、相身互《あいみたが》い。あたり前のこと、させてもろうただけどすがな。それをまあ、恩にきてもろて、今日はまた、わざわざお礼にみえてもろて、かえって|気ずつない《ヽヽヽヽヽ》ことやなて、ゆうてますのえ」
森江が午前中に反藤家へ出むいたことをいっているのである。
「あの、お帰りのときおことづけしたらよろしおしたのやけど、あとで気ィがつきましてな、えらい鈍《どん》なことどすけど……これ、おとどけしてこいいいますよって、出むいて参じましたのどす……」
彼女は、そういって、小振りの花瓶のような焼き物を、風呂敷包みのなかからとり出した。
「お気にもいらしませんやろけど、もろうてやっとくれやすか。小さいもの一つばかしで、かえって失礼かもしれしませんけど……お銚子になと、使うてやっとくれやす」
「これね」と、彼女は、紀子へ焼き物の絵柄を見せるようにして、
「烏の絵ェどすねやわ」
と、いった。
「烏?」
マサルは、紀子を見た。
「そうよ。白地に藍《あい》色の筆絵で、烏が描いてあるの。四、五羽、空をとんでる烏」
「反藤繚一郎が焼いたんだね?」
「そう。烏に縁があるようだから、もらってくれって、お礼返しにみえたのよ。ずっと昔の作品だけど、主人が気にいってるものだから、ぜひって、置いて行っちゃったの。反藤さんも、ふだんそれでお酒を召しあがってたんですって」
「へえ……」
紀子は、その焼き物を手渡すと、「ほんなら……」と、いって微笑んだ女の涼やかな顔を、眼の先によみがえらせていた。
「どうぞおだいじに、お伝えやしておくれやす。これも、何かのご縁どすよって、お越しやしたら、いつでも寄ってやっとくれやす。お待ちしてるて、反藤も申しておりますさかい……」
「あの……失礼ですが、奥さまでございましょうか……」
「へえ。ミノコと申します」
ミノコ。
どんな字を書くのだろうか、と、紀子は思った。
反藤美濃子との、それがはじめての出会いであった。紀子にとっては、肝を冷やした、恐怖にみちた出会いではあったけれど。
あ る 死
雨は二、三日、続けて降った。
マサルがやってきた日から、楯林驍の機嫌は、あまりよいとはいえなかった。
──ボス。お願いですから、これだけは聞いてください。身のまわりのことだけなら、紀ちゃん一人で十分でしょうけど、ボスは、ただのお怪我じゃなかったんですよ。ボスを狙って刺したひとがいるんですよ。そのことを、忘れないでください。せめて、自由に寝起きがおできになるくらいまでは、マサルちゃん、そばにおいといてください。でなかったら、わたしたち、どうして安心してお店がやっていけますの? お店のためだと思って、そうさせてください……。
東京へ帰った村田森江からの電話で、驍も不承不承マサルを手もとへ置くことに同意はしたのだが、
──大げさに騒ぎたてるほどのことか。
と、渋面をつくった。
終日、病室の窓ガラスをつたう雨だれのしずくばかりを眺める日が続いたのも、驍の口数をすくなくさせる原因になっていたようである。
その日も、驍は、午前中の回診がすむまで、ほとんど口をきかなかった。
べつに気むずかしい顔をしているわけではなかったが、新聞を読んでいるかと思うと、眼はぼんやりと紙面のうえで遊んでいたり、窓の外の雨あしを追っていたりした。
「マサルは、どうした」
「え?」
と、紀子は、パジャマの着替えを手伝いながら、言葉を濁した。
「朝飯にしちゃ、ずいぶん時間がかかるじゃないか」
驍は、枕元の時計を見た。もう正午前だった。
「きっと、廊下の椅子で本でも読んでるんですわ。もう帰ってきてる筈ですもの。ご用ですか?」
「いや」
マサルがきてから、夜の病室詰めはマサルが引き受け、紀子は病院の前の旅館へ帰って朝出てくるという日課が続いていた。
今朝も七時前に紀子が顔を出したとき、もうマサルは起きていて、廊下の外に出て電気カミソリで髭《ひげ》をあたっていた。
九時過ぎに、
「じゃ、オレちょっと飯食ってくる」
といって、出かけたままだった。
「落着かないやつだよな、まったく」
と、驍は独り言のようにいった。
「は?」
「いったい、何しにやってきてるんだ。ちよくちょくいなくなるけども、京都見物でもやってるのか」
「ボス、お顔をあたりましょうか……」
と、紀子は話題をそらすようにして、湯沸かし器のそばへ立った。
「ずいぶんお髭がのびましたわよ」
「バカ。同じようなことをいうな」
「は?」
驍は、苦虫を噛《か》みつぶしたような顔をした。
「マサルも、ゆうべそういったよ。お前、昼間どこをほっつきあるいてるってきくと、奴さん、妙にそわそわしちゃって、ボス、髭でもあたりましょうかってきやがった。お前らってのは、根が正直というか、バカというか、まあよく似も似たりって感じがするよ。村田も苦労するわけだよな」
「ボス……」
「あたり前だろ。お前らが、かげでコソコソやってることくらいわからなくてどうする」
驍は、
「ちょっとここへきて、腰かけろ」
と、紀子を呼んだ。|うむ《ヽヽ》をいわさぬ声だった。
「何を隠してる」
「ボス……」
紀子は口ごもった。
「いいえ……何も」
「村田の指し図か」
「そうじゃありません……隠してることなんて、わたしたちにはありません……」
「そうか」
と、驍はうなずいた。
「よし。じゃあ、マサルを連れてこい。たったいま、あいつには、東京へ帰ってもらう」
「ボス」
「そうだろ。男手をそばに置いとかなきゃ、おちおち仕事も手につかないっていうから、おれにはそんな必要もないけど、そうさせてるんだ。いわば、マサルは、おれのガード・マンだろ。東京の連中の気休めに、置いてやってるんだ。ガード・マンならガード・マンらしく、おれのそばにくっついてろ。それができなきゃ、いてもらう必要はない。店へ帰ってもらってくれ」
「ちょっと待ってください……マサルちゃんは……」
「どこへ行ってる」
頭ごなしな口調だった。
「毎日、どこへ出かけてる。何をちょこまかやってるんだ、あいつは」
紀子は、観念した。
話してよいことかどうか、紀子には判断がつかなかったが、話さないわけにはいかない、と彼女は思った。
紀子は、驍が刺された翌日、病院の前庭をあるいていたページ・ボーイの髪型をした一人の女のことを、話した。そして彼女が、黒田牧夫と親密な間柄である女《ヽ》に似ていること。その女《ヽ》について、マサルが東京で調べ出したことなどを、すべて白状した。
「反藤?」
と、驍は顔をあげた。
「はい。反藤というそうです」
紀子は、そのあと、とつぜん反藤繚一郎の妻の訪問を受けたとき自分が味わった恐ろしさについても、包み隠さずに、喋った。
驍は、黙って聞いていた。
「ねえボス。どういうことなんでしょうか……変だとお思いになりません? ボスが刺されたとき、いちばんそばにいたひとが、反藤繚一郎さんだったというのは……偶然のことなんでしょうか」
「………」
「ボスはたしか、刺したのは、男だったとおっしゃいましたわね?」
「……そうだ」
と、驍は束の間、間を置いてから答えた。
「それは、たしかなことなんですか?」
「だろうな。そう思ったんだから」
と、驍はまた、ちょっと記憶のなかを点検しでもするような眼になって、うなずいた。
一瞬誰かが身を寄せて、通り過ぎたという感じが、あのときした。無論、刺されたあと思ったことであるが、男だったという気がして、自分はうしろを振り返ったのだ。
「でも、ごらんになったわけじゃないんでしょ?」
「そうだ。見たわけじゃない……」
あたりはごった返す人の群れで、それらしい人物を探し出すことなど不可能だった。
それに、刺されたとき、自分は月鉾の屋根の烏を見ていたのだから。
正確にいえば、その瞬間の記憶には、整理のできない点がある。なにしろ、一瞬のことだったのだから。
「マサルちゃんは、こういうんです……」
と、紀子は、いった。
「反藤繚一郎さんがやったなんて、とても考えられないけれど……でも、反藤さんが犯人だとしたら、都合のいいこともあるって」
「都合のいいこと?」
「ええ。たとえば……マサルちゃんは、あの日、見たっていうんです。反藤さんの着てらした白麻の袖に、血の跡がいくつか散ってたのを」
「血?」
「ええ。血痕《けつこん》です。もちろん、ボスを抱き起こしてくださったり、救急車がくるまでずっとボスにつきっきりで、面倒みてくださったんだから、着物に血痕がついてたってちっともふしぎじゃないし……ないどころか、白麻の着物台無しにしちゃって、おまけに焼き物まで割ったっていうから、オレたち恐縮しちゃってたんだけど……考えようによったら、あの血は、微妙だなっていうんです。つまり、ボスを助けたときの血と、ボスを刺したときの血がまじってたって、われわれにはわからないわけだって……」
紀子は、ちょっと言葉を切った。
「つまり、絶好のカモフラージュになるだろうなっていうんです。それに、病院を世話したり、手術がはじまるまでそばについてたりしてくださったのも、傷の具合いや、結果を知るための確認行動だったと思えば、思えないこともないっていうんです。そんなふうに見ると、反藤さんの親切や、好意から出た行動は、実はすべて裏返っちゃうんじゃないか……いや、そういうふうに考えられないこともないって……マサルちゃんはいうんですよ」
紀子は、
「なにしろ、わたしは、反藤さんって方、お目にかかってないもんですから……マサルちゃんにそういわれると、返す言葉もなくて……」
と、いった。
「でも、わたしは、とても不自然な気もするんです。だって、そうでしょ。かりにも人を刺そうとする人間がですよ、色絵の大皿の箱を手に抱えてたり、白麻の和服なんていういでたちをするでしょうか。ねえ、ちがいます? もっと身軽で、目だたない格好。そう考えるのが普通でしょ?」
驍は、沈黙したままだった。まっすぐに天井をみつめていた。
「わたしはね、ボス……」と、紀子は、ややためらいがちに、だが、思いきって口を開いた。
「ボスが刺された日の翌日、病院の庭で、黒田さんの女を見たってマサルちゃんがいったとき、なぜだかわからないんですけど……その女《ひと》だと思ったんです。その女が、ボスを刺したんだって。もちろん、理由なんかわかりませんわ。でも、そんな気がしたんです……。彼女は、ボスの容態をうかがいにきたんじゃないかって……」
紀子は、そして独りごちた。
「そのせいかしら……いまでも、まだそのときの感じが消せないんです」
驍は、やはり黙っていた。
「ねえ、ボス」と、紀子は、そんな驍にふと問いかけた。
「ボスを刺したのが男だったっていうのは……ほんとに、まちがいないことなんですか?」
楯林驍には、まるでその声は聞こえていないようにさえ見えた。
驍はそのとき、べつのことを考えていた。
祇園祭の朝、ホテルの食堂を出る前に、ふと自分に注がれていたように思われた誰かのある見えない視線のことを。そして、自分を刺した『K』というイニシャルを刻んだ黒田牧夫のカット・バサミのことを。そのハサミをだいじにしていたという弟子のことを。そして、反藤と名乗る黒田牧夫にゆかりのある女のことを。そして、一人の陶芸家、白麻の和服の肩を自分に貸してくれた反藤繚一郎のことを。
それらのことがらは、緊密につながりあって、楯林驍の頭のなかで一つのメロディーを奏《かな》でていた。
『Died on Saturday……
土曜に往生……』
驍は、そのメロディーを聴いていた。
すると、七月十七日、祭鉾の巡行する河原町の人出のなかへ、あの日足を踏みいれた瞬間から、自分は見えない死の影にとり囲まれ、死の手に包囲されながら、街をあるいていたのだという思いが、確信のように湧いてきた。
自分を尾行し、自分を狙い、そして自分を葬らんとした眼や、腕や、人影が、一つではなく、いくつも自分のまわりにはあったのではあるまいか、という気がしてくるのだった。
音もなく、姿も見せぬ、それら影の眼や、影の腕や、影の人影たちは、いわれのない瞋恚《しんい》のほむらにもえながら、自分のまわりにしのび寄っていたのだと、驍は思った。
いわれのない瞋恚。
いわれのない敵愾心《てきがいしん》に染まって自分をつけ狙う見えない者たちの集団が、あの日、あの暑熱の都大路で、祭|囃子《ばやし》を聞きながらあるいた自分の身辺にあった。そんな想像が、いま、しきりに、強い現実感をともなって、楯林驍には湧いてくるのだった。
「マサルちゃんは、反藤さんのお家へ出かけているのです」
と、紀子は、いった。
驍は、ゆっくりと首をまわして、紀子を見た。
「いえ、お家へお邪魔しているわけじゃありません。お家のそばまで出むくだけです。反藤さんの奥さまの顔をたしかめに。だって、マサルちゃんだけが、黒田さんといっしょにいた反藤という女の人の顔を知ってるんですもの。彼に行ってもらうよりほかに、しようがありませんわ。とにかくまず、たしかめてもらわなきゃ。反藤さんの奥さまの顔を、彼に見てもらわなきゃ」
「村田も、そのことを知ってるのか」
「はい。それとなく首実検だけはしておくようにと、森江先生からいわれているようです」
「で?」
と、驍は、また天井へ眼を戻した。
窓を濡らす雨滴の影が淡いひかりを反映させて、アイボリー・カラーの天井はしずかにゆらいでいるようだった。
「どうだったんだ?」
「それが、まだ会えないらしいんです」
「ん?」
「泉涌寺のお宅は、この病院からも近いし、時間さえあれば彼、ちょっと張り込みって出かけて行くんですけど……今日でもう三日、いまだに奥さまと会うチャンスがないんだそうです。もっとも、たしかめるまでは、ボスにもお話すまいってことになってましたから……一日べったり張り込んでるわけにはいかないし、なかなかチャンスにぶっつからないらしいんです。できるだけ、買い物どきとか、外出時間にあたりそうなときを見計らって出かけてるんですけど……」
紀子は、急に思い出しでもしたように、歯がゆげな口調になった。
「世の中って、ほんとにうまくいかないものですわね。病院の庭で、あのとき、あのページ・ボーイの女の顔をわたしが見てさえいたら……いえ、門の外まで追いかけて行ったんですのにね……ほんとに、一足ちがいで見損ねちゃって。今度は今度で、反藤さんの奥さまを見たのは、このわたしのほうだけ……。とにかく、反藤という名前の女性を、わたしもマサルちゃんもおたがいに見ているのに、それが同一人物かどうかわからないなんて……」
紀子は、
「ボス」
と、椅子から立ちあがった。
「ですから、マサルちゃんが、いまわたしたちには必要なんです。京都にいてもらわなきゃいけないんです。東京へ帰すなんていわないでください。お願いします……」
楯林驍は、眼をとじていた。聞こえているのかいないのか、わからないようなしずかな顔であった。
雨滴のゆらぎが、その顔にもひかりの影を投げこんでいて、そのせいかふとその顔は、小さな火炎に包まれてでもいるかに見える一瞬間が、あるのだった。
マサルが帰ってきたのは、ちょうどそうしたときであった。
「ゴメーン、紀ちゃん」
と、マサルは大仰な身振りで、買い物包みでふくらんだ紙袋を胸からおろすと、ちらっと紀子にウインクした。
「回診までに帰ってこようと思ったのよ……そしたらあんた、ケロッとオレンジ買うの忘れちゃってさ……また引っ返したのよ。ところがいいのがなくってさ。なんだか鮮度落ちてるじゃない……この近所五、六軒まわったのよ。みーんな、だめ。そンでエイって、河原町まで出ちゃったわよ……雨でしょ、車が拾えないのよ……」
マサルは驍のてまえをとりつくろって、紀子へは、もう一度ひょこっとウインクした。
「だめなのよ、マサルちゃん」
と、紀子は、そんなマサルに首を振ってみせた。
「へ?」
「みんなバレちゃったの、ボスに」
「はァ?」
マサルはきょとんとして、驍と紀子を見くらべた。
紀子は、いきさつを話して聞かせた。
「だから、もう隠すことなんかないの」
マサルは、
「スイマセン」
と、ぺこっと驍へ頭をさげた。
驍は眼をとじたままで、返答はしなかった。
これ? というふうに、マサルはゼスチュアで額に二本、指の角《つの》をつくって、紀子のほうを見た。
そうじゃない、と紀子は首を振って応えた。
「で、どうだったの? 会えた?」
「うん」
「会えたの?」
と、紀子はすっ頓狂な声をあげた。
「そんなに昂奮しないでよ」
と、マサルは、意外に平静だった。
「いない筈なんだよな。彼女、どこかへ出かけてたんだよな。スーツ・ケースさげて帰ってきたもの……」
「あら、そう」と、紀子は身を乗り出した。
「オレさ、もう引きあげるとこだったのよ。反藤さんちからだいぶ表のほうへ出たさァ、東大路へ抜ける口のあたりでさ、果物屋の前通ってて、オレンジ買うの急に思い出したのよ。実はこれ、河原町じゃなくて、そこで買ったんだ。その店に入ってるときにさ、店のおばさんが、急に表を通るひとを呼びとめたんだ……『ミノコはん。ミノコはん』てね。オレ、ギョッとしちゃったよ。だって、毎日その名前、頭のなかでくり返してたようなもんなんだからさ……。ひょっと見たら、紀ちゃんがいってたとおりの女じゃない。これだ、と思ったよ」
その女は、和服コートに、下は履き物にビニール・カバーをかけ、小さなスーツ・ケースを一つさげていた。
──ご旅行どしたん?
──へえ、ちょっと。
──あんさん使うて、えらいお気の毒やけど、よろしか?
──なんどすねん?
──おうちから、メロン頼まれてますねん。
──いや、そうどすか。ほな、もろうていきます。
──すんまへんなあ。お便借らしておくれやす。
果物屋のおばさんとの会話は、そんなものだった。
「もちろん、オレ、そのひとが反藤さんの家へ入るまで見とどけたよ。たしかに、いい女だったのよ。でも、あれ、ページ・ボーイの女じゃないよ」
「……そう」
と、紀子は、張りの抜けたような声を洩らした。
「がっかりすることはないじゃない。これで、反藤さんの奥さんじゃないってことが、はっきりしたんだ。むしろ、よろこぶべきじゃない」
「だったら、あの反藤って女性は、いったい誰なのよ。反藤さんちには、ほかに若い女のひとはいないんでしょ」
「いるよ。女中が一人。もっとも、似ても似つかないけどさあ」
紀子は、マサルが聞き込んできていた反藤家の家族構成を、ちらっと頭のなかでたどり返した。
姑。反藤繚一郎夫婦。美濃子の弟の同志社へ通っているという大学生。それに女中が一人。合計五人暮らしの一家だった。
「なに、また、探すさ。あの女が、京都にいたってことはまちがいないんだから、きっとまた現れるわよ」
マサルは、そういった。
「そうね……現れるわよね」
紀子も、そう思うしかなかったが、何か一つ、追いつめた糸の先が、たぐりよせた目前でぷつんと切れて、獲物は跡形もなく遠ざかって消え失せた、という感じがするのだった。
そしてなぜか、楯林驍の寝顔を覗きこむようにしてベッドのそばへ立っていた女のうしろ姿だけが、脳裏に残って、消えないのだった。
白い上布に、茶の絽《ろ》羽織。襟足をすっきりと掻きあげた束髪の、水ぎわだった女であった。
反藤美濃子。
その名のごとく、濃艶《のうえん》なうすもやに包まれてかすみたつような女のうしろ姿が、いつまでも眼前にたちはだかっているのだった。
電話のベルで、そんな紀子の放心感は、しかしすぐに断ち切られた。
紀子が手をのばすより早く、マサルが受話器をとりあげていた。
「はい……ああ、森江先生……はい、替わります」と、いって、驍の枕もとへ受話器を運んだ。
「チーフからです」
「お前、聞いとけ」
「ボスに出てほしいとおっしゃってます」
大儀そうに、驍は腕をのばして、電話に出た。
「なんだ」
「ボス……お変りございません?」
「毎日紀子が報告してるだろ。用件だけをいえ」
「すみません……あの、お知らせしといたほうがよろしいかと思いまして……例の宮崎のことでございます……」
「宮崎?」
「はい……いつかちょっとお耳にいれましたウチの宮崎の男友だちのことなのですが……おぼえておいででございましょうか……」
「新宿で、おれの幽霊に会ったって奴だろ」
「はい……」
「それがどうした」
「亡くなりました」
「死んだ?」
「はい……実はボスには、あの理容師のことお話してなかったのですが……大久保の理髪店に住み込んでいた理容師なんです……わたくしも、宮崎から聞いておりましたのは、そこまでだけだったんですけれど……ほら、あの刑事さん、いいましたでしょ? ボスを刺したハサミの持ち主と同じアパートにいたっていう『若王』の生き残りのお弟子さん……その後、大久保の美容院に勤めを替えたって……おぼえておいででございましょ?」
「ああ」
「『若王』が焼けた夜、京都にいらした筈のボスを、新宿で見たという理容師が大久保……黒田さんの生き残りのお弟子が大久保……どちらも大久保で勤めてるってことが、わたしあのとき、とてもショックだったのです……ボスには、ひとまず黙って帰らせていただきましたけれど……わたくし、こちらで、そのへんの事情をあたってみるつもりでございました……角田という刑事さんも、おそらくこの大久保の理容師の話、嗅《か》ぎつけていらっしゃるんじゃないかと思われましたし……うかつには動けないと思いはいたしましたけれど……昨日、宮崎にそれとなくたずねさせましたの……そしたら、死んだっていうじゃありませんか。昨日の朝方だったらしいんです……住み込んでる理髪店の近所の陸橋の階段口に、倒れていたんですって……お酒好きの人らしくて、道端で酔いつぶれて夜明かしなんてことも、しょっちゅうだったそうですが……首の骨を折って死んでいたんです。階段の途中から、転がり落ちたらしいのです。もちろん、泥酔に近い量飲んでたということですけれど……」
村田森江の声は、きびきびと冷静さは崩さなかったが、どこかに心痛のうかがえる、疲れたひびきもまといついていた。
「ボス……そればかりじゃございませんの……もう一人の、黒田さんのお弟子さんだった美容師の方、ここ四、五日、お店に出てないんです……これは、わたくしがじかにアパートの管理人にもあたりました。アパートにも帰っていないんです……つまり、行方不明です。ボス……聞いていらっしゃいます?」
「ああ、聞こえてる」
「どういうふうに考えればよろしいでしょうか……ボスを見たというはた迷惑な目撃者が死んだってことは、ボスにとっては、ある意味でありがたいことですけれど……逆にいえば、もっと厄介な、恐ろしい荷物を背負いこまされたということになりません? 痛くもない腹を探られるようなことにもなりかねませんものね……」
「殺人だっていうのか?」
「いえ……事故死だということになってます……でも、ときがときですもの。ボスだって、変だとお思いになりますでしょ? ひとは何をいいだすかわかりゃしませんわ……ですが、ボス、こういうふうにも考えられません? あの理容師が死んだってことは、生きていれば、あの夜新宿にいた男がボスではけっしてあり得ないと証明できるかもしれないたった一人の人間が、もういなくなったということでしょ?………つまりボスにとっては、あの男は、生きていてくれなければならない唯一の生証人だったわけですわ。ボスの幽霊《ヽヽ》を見たって男ですもの……それが幽霊《ヽヽ》だということを、あの男なら証明できるかもしれませんわ。いえ、証明できた、と考えたらどうでしょう……つまり、あの男に生きていてもらっては困る人間たちがいた、ということにはならないでしょうか。わたしたちが……いいえ、あの新宿署の角田という刑事さんが……その理容師を問い詰めるようなことにでもなれば、困る人たちがいたということではないのでしょうか。……そう考えると、もう一人の行方不明の美容師の件にしても、ボスを刺したハサミのことで、もし何かもっと知っているとしたら、このひとしかありませんもの……現にわたくし、黒田さんのことや、いっしょに死んだ櫛野というハサミの持ち主のことを、この美容師さんにもっと詳しく聞きたいと思って、こっちへ帰ってきたんですもの……ねえ、ボス……そうじゃありません? そんなことをされては困るひとたちが、これはいるということですわ。それを、ご報告しときたかったんですの……以上ですわ」
村田森江の電話には、驍が離れたあと、紀子が出て、京都でのできごとを報告していた。二人は、長い間、喋りあっていた。
驍には、もうそんな電話の声などは耳には入らなかった。
昨日の夜明け、一人の男が死んだという。
昨日。七月二十四日。
驍の眼は、カレンダーの上でとまっていた。
七月二十四日。それは、土曜日であった。
楯林驍は、ゆっくりと、その視線をベッドの脇のテーブルの上へ移した。
小振りの花瓶とも見える銚子型の焼き物が一つ、そこには置かれている。白地に藍の華麗な筆で、四、五羽の烏がとび交《か》っていた。
楯林驍は、その烏をみつめていた。
そして、理由もなく、ふと深い吐き気におそわれた。その暑いむかつきは、体のずっと奥のほうで蒸し蒸しと熱気をはらんでおしひろがり、肌にあぶら汗をよんだ。
まるで得体のしれない悪食《あくじき》の宴卓にすわらされてでもいるかのような、苦しげな表情を、楯林驍は、一瞬見せた。
この美貌の若者には、似つかわしくない貌《かお》であった。
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第二章 草原の夜の爪鳴り
夏 の 終 り
病院の玄関を出るとき、楯林驍の手は、ほんの束《つか》の間《ま》服地のうえから左脇腹に触れ、自分でも知らぬ間に手がその部分へ動いたことに、驍は苦笑した。
シューズ・マットに靴先をわずかばかりひっかけただけだったから。
「大丈夫ですか」
紀子が、目ざとく声をかけた。
「バカヤロ。いつまでもデレデレするな。もう現役だぞ」
驍は、煉瓦《れんが》だたみの車寄せを大股におりて行って、陽ざしの濃い前庭に出た。
抜糸の後すこし残っていたむず痒《がゆ》さももう跡形なく消え、傷は完全に癒えていた。
「しばらく力仕事はいけませんよ。とんだり跳《は》ねたりってのも、だめですよ」
と、医者にいわれたせいではなかったが、何かというとつい手がかばうように動く。癖になっていた。
「現役はいいけど、ボス」
と、マサルが追いつきながら、紀子に聞こえない声で、ニヤッと笑って、すまし顔にいった。
「当分、あっちのほうは、お静かにですよ。あんまり馬力かけないでくださいよ」
「あっちのほうって、どっちのほうだ」
「ヤだねえ。もう眼の色が変ってる。そんなに張りきらないでくださいよ。無理な|スポーツ《ヽヽヽヽ》しちゃうとさ、パックリ口が裂けちゃいますからね」
「あいにく、おれは|スポーツ《ヽヽヽヽ》好きでな。三週間はたっぷり禁足くらってたんだからな、とりあえず、そのぶんだけはとり戻しとかんことにはな。体のバランスって奴がとれねえや」
「マ、どうだろネ、ギラギラしちゃって。ホント、ケッショク児童だよね」
「そういやあ、腹減ったな、おい」
「そっちの|ショク《ヽヽヽ》じゃありませんよ。ボスのは、色《ヽ》のほうですよ」
「そうさ。どっちも目下、欠食状態。両方、モリモリとり返すぞ。な、おい」
驍は、白い歯を見せて、屈託なく笑った。
八月の上旬。
退院の日は、朝から晴れあがって、京都は雲のない夏空の下にあった。
二人は前庭の途中で振り返って、すれちがった看護婦と挨拶を交わしている紀子を待った。
驍も、マサルも、紀子も、明るいはずんだ顔つきに見えた。三人三様、彼らは、この退院の日にふさわしい陽気で解放感にあふれたしぐさや表情を身にまとってはいたけれど、それがしんからの心のなごみにつながらない、装いの賑わいであることを、またおたがいによく知ってもいたのである。
この入院期間中に、驍の身辺に何ごとか起こるのではあるまいかと気遣われた心配も、杞憂《きゆう》に終り、結局、ページ・ボーイの髪型をした女を見かけたことと、反藤美濃子の不意の訪問を受けたことだけにとどまって、直接驍の身のまわりを騒がすようなできごとは、何も持ちあがらずにすんだ。
それはそれでホッと一息つけることがらではあったのだが、しかし、何も起こらなかったということは、事態がいっこうに進展せず、不可解なできごとはできごとのまま、謎は謎のまま驍の身辺に残されたということであり、依然として驍がいわれのない災厄の手に身を曝してでもいるかに見えるこの不安定な、心落着かぬ状態は、解決されずに持ち越されたということでもある。
──せめて、もう一度、あのページ・ボーイの女が現れてくれたなら……。
──いや、あの女が、現れてくれる日まで、この京都にとどまることができたなら……。
と、紀子もマサルも、心で思った。
彼女がどういう目的で病院の庭をあるいていたのか、それを知るすべはないけれども、彼女が黒田牧夫に関わりを持つ女である以上、必ずまた現れるにちがいないという気が、紀子にもマサルにもしたのである。
すくなくとも、この京都にいる間に、その機会はやってくるにちがいない。それがどんな形でやってくるにしろ、その日はきっとくる、と、紀子もマサルも、むしろその日のやってくるのを、心待ちにさえしていたともいえなくはない。
しかし、現実には、何も起こらなかった。
村田森江が東京から、ある理容師の死と、美容師の行方不明を告げてきたあの電話の一件を除けば、その日以後、楯林驍の身辺はまるで平穏無事といわざるを得なかった。
夏場のせいか、すこし傷の癒着に手間どりはしたけれど、おかげで回復は順調に運び、この傷で三週間なら申し分のない全快だと、太鼓判を押されて退院することになった。
「とうとう、見つからなかったわね」
と、紀子は、病室をひきあげるとき、『3』としるされたアイボリー・カラーのドアを最後に閉めながら、かたわらのマサルにいった。
「うん。こうなったら、手掛かりは、あの六本木のバード・ショップだけだってことになる。あの女、どんなことしたって、見つけ出してやっからな」
マサルは、そう答えはしたけれども、妙に重ったるい、歯切れの悪い口調だった。
紀子もマサルも、同時にそんな気がしていたのである。なぜだか、
──あのページ・ボーイの女は、この京都にこそ縁《ゆかり》のある女だ。
と、いうような気が。
──あの女を探せる手掛かりは、この京都にしかないのではあるまいか。
そんな心残りが、してならないのであった。
無論それは、反藤という名の家がこの京都に存在するという現実がもたらす、ある種の直感、誘心印象にすぎなかったが、捨てきれない心残りでもあったのである。
しかし、退院の日がやってきた以上、京都にとどまっているわけにはいかない。
紀子にもマサルにもいま、この三週間は、ずいぶん長い時間であったような気がする反面、またひどく短い、アッという間に消え去った日々のようにも思えるのだった。
早くきすぎた退院日。
そんな印象が、拭い去れないのであった。
マサルは、前庭の中央で看護婦と立ち話をしている紀子に、そうした去りがたなげな彼女の思いを見るのだった。すこしでも長い時間、この病院内にいたい。この病院にいさえすれば、あのページ・ボーイの女は必ず現れる。あの女をつかまえることだけが、いま、驍の身にふりかかった災難の根を糺《ただ》すただ一つの手掛かりなのだ。この刺傷事件の真相に迫れる何よりの早道なのだ。
そう考えている紀子の気持が、手にとるようにわかるのだった。
──全快が早すぎた。
と、いうふしぎな矛盾した感慨が、改めてマサルにも湧いてくるのであった。
楯林驍は、そんなマサルのそばに立って、高い病院の建物の上にひろがる空を仰いでいた。
眩《まぶ》しげにしかめた眉根に、若い美しい獣を思わせる精悍な力がみなぎって見えた。
「よく晴れたなあ、快晴《ピーカン》ですね」
と、マサルも、その空へ眼を移しながら、仰むいて彼はいった。
「ああ」
驍は、そう答えて、しばらくその眩しそうな眼を白い光のかがやきたつ天空にあずけていた。
(この病院へ運びこまれた日も、こんな空だった)
と、驍は思った。
雲ひとつない灼熱の空が、あの月鉾《つきぼこ》の屋根にそびえ立つ真柱《しんばしら》の上にはあった、と。
脇腹にひろがる激痛をおぼえながら、路上に崩れおちる一瞬仰いだ光の海のような空を、驍は想い出していた。
「すいません。お待たせしちゃって……」
と、紀子が、小走りに駈け寄ってきた。
「あら、何が見えますの?」
紀子も、つられて瞳をあげた。
期せずしてこのとき、三人は、前庭の坂の途中に並んで、病院の空を振り仰いだ。
はた眼には、病院の建物に仲よく別れを告げてでもいる人間たちに見えたかもしれない。
事実、三人が踵《きびす》を返して坂をおりはじめたとき、
「さよなら」
と、紀子は口に出して、誰にいうともないその言葉を、病院にむかって告げた。
やがて、三人は肩を並べて、東山七条D病院の門を出た。
夕方の新幹線に、驍たちは乗車した。
病院を出た後、驍は、ひとまずマサルと紀子に別れて、泉涌寺《せんにゆうじ》の反藤家をたずねた。
反藤繚一郎に会って、世話になった礼と退院の挨拶だけはしておかねばならなかったし、驍が割った色絵の大皿の弁償金も用意していた。
繚一郎が金銭を受けとろうとは思われなかったが、相当額に見合う品の物色がつかず、結局、現金で償うことにした。この金だけはとにかく届けておかなければ、京都を離れるわけにはいかない。驍は、何がなんでも置いて帰るつもりで出かけた。
泉涌寺一帯は、京焼陶磁器の生産地として知られ、業者が寄り集まっている一劃《いつかく》である。
狭い路地や坂道やまがりくねった迷路のような小道の奥や両側に、家内工業ふうな窯場《かまば》や工場が建ち並び、なかにはトタン掛けの小屋や、カスバを思わす陶器|窟《くつ》とでもいいたいようないり組んだ小さな窯場が、ほうぼうで眼についた。
反藤家は、そんな小道を幾筋かまがりつたって、だらだら坂をのぼる途中で見つかった。
古い板張りの木造倉庫のような家並みの前に、軽三輪が一台とまっていて、山積みにした太味の薪束《まきたば》を荷台からおろしていた。
狭い道いっぱいに車は行手をふさいでいて、驍は身を横にしてそのそばを通り抜けねばならなかった。
そんなときだった。
「イヤ、楯林さんとちがいますのん?」
と、いきなり声をかけられて、立ちどまった。
薪が運びこまれている倉庫のなかから、ふだん着にエプロンがけの見知らぬ女が、手を払いながら通りへ出てきた。
「そうどっしゃろ? 楯林さんどすねやろ?」
「ええ……」
驍は、足をとめたまま、女の顔を眺めていた。
「まあ、もうよろしゅおなりやしたんどすか?」
女は、晴れやかな声をあげて近寄ってきた。
「あの……じゃ、あなたは……」
「へえ。反藤でおす」
「そうですか。そりゃどうも」
驍は、とっさに口ごもりながら、頭をさげた。
「いや、助かりました。ここがお宅だったんですか」
「あら、そんなら、うちにみえとくれやしたんどすか?」
「ええ。おかげで、今日退院できましたもんですから、ちょっとご挨拶にと……」
「イヤ、そうどすか、それはまあ、ようお越しやしておくれやした。とにかく、表のほうへおまわりやしておくれやす」
女は、驍の先にたって、倉庫ぞいの道をまわり、門構えのある玄関口に案内した。
「さあ、どうぞ。おあがりやしておくれやす……」
女は、玄関口をあがると、脇の廊下を通って客間に驍を招じいれ、エプロンを脱ぎながら、
「えらい格好してまして、かんにんしとくれやっしゃ。まあ、おらくにしとくれやすな」
と、いって、ひとまず奥へ入って行った。
若い女中が、いれかわりに茶を持ってきた。
しばらく、驍は、簾《すだれ》格子の開け放たれたひんやりとする座敷にすわって、小池のある古びた庭を眺めていた。
家全体が古い歳月の重みや奥深さを持っていて、沈んだほの暗いたたずまいを整えていた。
驍は、たぶんあの女が美濃子という繚一郎の妻なのだろうと、思い返してみたりしていた。
紀子やマサルがいうほどの濃艶さがあるとも思えなかったが、それは化粧気のない顔や、エプロンがけのふだん着で、薪おろしの人夫仕事を手伝っていたりしていたせいにちがいない。
たしかに目鼻立ちの整った、たおやかな容姿の女であった。
この家には、美濃子の母親と、繚一郎、弟の大学生、あとは女中が一人と、窯場の焼き物工たちが三人ばかり住み込んでいると聞いた。
しかし家のなかはひっそりとして、物音一つしないのであった。
女中が、抹茶に干菓子を添えて出てくると、再び黙っておじぎをして出て行った。
驍がその茶碗を飲みほしたときだった。
奥の襖《ふすま》を開けて、さっぱりとした和服に着がえた美濃子が現れた。
白粉気《おしろいけ》はほとんど見受けられなかったが、薄く口紅だけをはいていた。それだけで、見ちがえるような匂やかさが加わっていた。
「いや、えらいお待たせしてしもて、かんにんしておくれやっしゃ。ほこりかぶってたまんまのなりでしたよって、あんまりお見苦しゅうおすやろ思いましたものやさかい……」
と、いいながら、彼女は、驍の手のなかの淡雪色の茶碗に眼をとめ、
「どうどす? よろしかったら、もう一服おたてしまひょか?」
と、うながした。
「いえ。もう結構です」
驍は、茶碗を畳に置いた。
「あの、お仕事のお邪魔をしたのではないでしょうか」
「何をゆうといやす。ちょっとも、そんなことおへん。手はなんぼもそろうてますよって、わたしも、ほかにすることもなし、気まぐれに、ちょっと若い衆《し》の手間、まぜくってただけどすねん」
驍は、改めて名を名乗り、先日来の礼を謝した。
「まあもうよろしやおへんか。気楽に崩しておくれやすな」
「いえ、今日はぜひ反藤さんにお目にかかって、お礼やらお詫びやら申しあげたくて……」
「いや、そうどすか。どないしまひょ。せっかくみえとくれやしたのに……えらい間の悪いことどしたなあ。あのひと、いまいてしまへんねん」
「お留守ですか?」
「そうどすねん。この月いっぱい、帰ってきイしませんのどす」
「と、おっしゃいますと? どこか、ご旅行かなんかででも……」
「そうどすねん。パリに行ってますのんどす」
「パリ?」
「へえ。なんや知らん、あっちで展覧会があるらしおしてな……いえ、ほんまは遊びに行きとうて、ついでに展覧会思いついたようなもんですねんやろけど……この京都のお仲間内で、若手の伝統工芸家が四、五人寄って、画廊を借らはったらしいんどっせ。それに一枚噛んで、行きましたのよ。でも、どうどすのん? 楯林さんなんか、あちらの様子にお詳しいのですやろ。こんな夏場に、パリで展覧会開いたかて、あちらは見てくれるひとがいてはらへんのとちがいますの? そうどっしゃろ? 夏場はみんな出はらって、めぼしいひとは街にはいてへんというやおへんの? それを知って出かけてますねんやさかい、どうせ遊びがお目あての見物旅行ですねんやわ。えらいもったいつけて出かけましたんですけどね、お里はちゃんと知れてますのにね……」
「そうですか。お留守ですか」
驍は、ちょっと言葉を切って、それから黙って美濃子の前に白い紙包みを差し出して、置いた。
けげんな顔で、美濃子は驍を見あげた。
「なんですのん?」
「どうか、お怒りにならないでください。これは、私の気持だけのものです。反藤さんのお作を台無しにした償いにはなりませんけれども、これだけはお納め願わないと、私の気持がすみません。とてもこんなことですませるものではございませんでしょうが……実は、私もあの色絵のお皿がどんなお値打ちのものか見当もつかないものですから……失礼は重々承知しながら、反藤さんのお作を扱っておられる太壺堂のご主人に、事情をお話して、なんとか力を貸していただけないかと教えを乞うたのです。さいわい、太壺堂さんが、あの大皿なら自分も出来あがりを見ているとおっしゃったものですから、ご無理をいって、お値段の見当を教えてもらいました。あのお皿は、この私が買わせていただいたと思ってはいただけないでしょうか。お願いします。どうか、そうさせてくださるように、反藤さんにお口添え願えませんでしょうか」
紙包みのなかには、七十万入っていた。
──まあ、五、六十万はくだらん皿やと思いますけどな。
と、太壺堂の主人は、いった。
──けど、反藤さんは、さばけた人柄のお方やさかい、本人がええとゆうてはんのやったら、そない律義に考えなさらんでもよろしのとちがいますかな。そんなご事情やったら、そらあのおひとなら、そのくらいのことはゆわはります。太っ腹のおひとやさかい。……けどまあ、あの大皿が、できのええ皿やったゆうことも、これもまあほんまどす。注文の品やなかったら、うちに置かせてもらいたいくらいの皿やった。
驍は、太壺堂の主人の話を聞いたとき、腹がきまった。これは、やはり現金で支払うべきだと。
繚一郎の好意に甘える気にはなれなかった。
「あかしまへん。こんなもの、お受けするわけにはいきまへん」
と、美濃子は、やにわに首を振った。
「そんなことしたら、あのひとに怒られます。どうぞ、納めておくれやす」
「いえ、これだけは、お聞き届け願います。でないと、私は東京へ帰ることもできません」
「何をゆうといやすのんか。お皿を割ったのは、あのひとの不注意どす。あなたはんのせいやおへん。そんなことゆわはったら、あのひと、きっと怒りまっせ。いえ、がっかりしまっせ。あのひとは、ほんまにあのお皿のことなんか、気にもかけてしまへんのえ。ただ、あなたのお怪我がだいじにならんですんだて、しんからよろこんでいますのえ」
「それはもう、よくわかっております。ご好意は忘れはいたしません。あのとき助けていただかなければ、危なかったと、医者からも聞いています。処置が早かったので助かったのだと、聞かされています。ご親切は、もう何にもかえがたく、ありがたいと思っております。ご親切はご親切として頂戴します。ですが、だいじなお作を割ったのは、私の粗相です。これは、べつのことがらです。この償いだけはさせていただきませんと、私のほうが心苦しく、すなおにご好意を頂戴することもできなくなります。どうか、これだけは、お納めになってくださいますように」
美濃子は、しばらく、驍の顔をみつめていた。
「美濃子はん」
と、そのとき、奥の間から六十年輩の品のいい胡麻塩《ごましお》髪の女が、顔を覗かせた。
美濃子は、
「母ですのん」
と、紹介した。
「なあ、美濃子はん」
と、彼女の母親は、敷居ぎわにちょっと膝をおろすようにしてすわって、
「どうやのん。あないにゆうといやすし、ここはひとまず、おあずかりしといたらどうえ」
と穏やかな声でいった。
「お母ちゃん……」
「いえな、繚一郎はんかて、受けとらはるとは思わへんで。けどな、こちらのお気持も、伝えてあげなならんやろ。そら、このおひとにしてみれば、えらい親切の押し売りみたいな気がせんこともないかもしらへんで」
「いいえ、そんなつもりで申しあげてるんじゃありません」
と、驍は、さえぎった。
「いやな、そらもうようわかっとります。ただな、あんさんにそないゆわれてみれば、そらまあ、かえってあんさんに、お気持の負担をかけるようなことになるかいなと思うたんですわ。あんさんに気ずつない思いをさせてるようやったら、せっかくお力にならしてもろても、かえって繚一郎はんの気持も仇《あだ》や。そうどすやろ」
母親は、美濃子のほうへ顔をむけた。
「どうやろな。これ、お受けするのやのうて、繚一郎はんが戻ってくるまで、おあずかりしといたら、どうやのん? そやないと、このおひとの気ィもすまへんやろし、繚一郎はんに、このおひとの心をすなおに伝えてあげることもでけんやろ」
「そうしていただけますか。お帰りになったら、また出かけてまいります。直接お目にかかって、ぜひお礼も申しあげなきゃなりませんし、お詫びさせていただきます」
「そうおしよしな」
と、母親は、美濃子にいってから、座を立った。
「ほなまあ、ごゆっくりしていっとくれやすや」
驍に、物静かな挨拶を残して奥へ消えた。
美濃子は、黙って紙包みのそばへにじりよった。
「そんなら、そうさせていただきます」
と、彼女は、両手にとっておしいただくようにした。
新幹線は、走っていた。
「ヘエ。七十万円ねえ」
と、マサルがため息をもらすように、唸《うな》った。
「けど、そうですよ。そりゃあ、ぜったいに払っとかなきゃいけませんよ。とにかく、反藤さんに借りをつくっとくのは、この際、好ましくありませんからね」
「そうね。わたしも、そう思うわ。ただ、ボスにはたいへんな出費だったでしょうけれど……」
「なにがたいへんよ。ヘアの魔術師、カッティング・手品師《ジヤグラー》といわれる天下の楯林驍ですよ。七十万ぽっち、はした金じゃないですか」
「アホウ。バカ声出すんじゃない」
驍は、シートに身をもたせかけて眼を閉じていた。
車内は冷房が効きすぎて、すこし寒いくらいであった。
「ボス。おなかの傷は大丈夫ですか? 冷え過ぎやしません?」
紀子はつと立ち上がって、スーツ・ケースのなかからタオル・ケットをとり出した。
マサルがそれをとって、隣の席の驍の膝の上にかけた。
「ばかね、おなかにかけなきゃだめじゃないの」
「いいの、いいの。ボスは、今日から現役復帰したんですからね。あんまり過保護にしすぎちゃいけないの。寒いと思ったら、ご自分でどうぞ。これでいいのよ」
驍は眼を閉じたまま、苦笑した。
「おい、マサル。水を汲んでこい。のどがかわいたよ」
「ほらきた。ちょっと甘い顔すると、すぐこれだろ。だからいわないこっちゃない」
マサルは、口とはうらはらに、敏捷に席を立って、後続車の飲料水ボックスのほうへすっとんで行った。
「じゃ、反藤繚一郎さんにはお会いになれなかったんですのね」
「ああ」
「まだ一度もお話しになったことはないんでしょ?」
「ああ」
「じゃ、また京都にいらっしゃらなきゃなりませんわね」
「そういうことになるな」
「わたしは、いや。なんだか、ボスが京都にいらっしゃるたびに、いやなことが起こるんですもの。できれば、もう京都になんか、けっして足を踏みいれないようにしていただきたいくらいだわ」
「何をばかなこといっとるんだ。これから当分、京都へはちょくちょく出かけることになるだろうな」
「ボス」
と、紀子は、顔をあげた。
「やっぱり、ボスも、反藤さんを疑ってらっしゃいますの?」
「アホ。そんな話じゃねえや」
「だったら、ボス。あのマサルちゃんが見たページ・ボーイの女ってのは、どうなりますの? わたしには、どうしても、あの反藤さんの家と関係のある女に思えて仕方がないんです」
「そんなことは、おれにはわからん」
「いいえ。ボスは、今日、きっと、そのへんのこともお調べになってきてる筈だわ。ねえボス。そうでしょ。それとなく、お家の方にさぐりをいれるくらいは、してこられたんでしょ?」
驍は、それには答えないで、
「マサルの奴、何しとるんだ」
と首をめぐらそうとした。
マサルは、そのうしろに突っ立っていた。
「ここにいます。はい、お冷《ひ》や」
マサルは、紙コップの水を驍が飲みほすのを待って、|から《ヽヽ》を屑《くず》いれに捨てに行った。戻ってくると、驍の隣に腰かけて、
「ねえ、ボス。どうなんですか」
と、真剣な声で、驍のほうへむきなおった。
「何が」
「あの反藤っていうページ・ボーイの女のことですよ。反藤家に、それらしい女のつながりは、ありそうにないんでしょうか」
「そいつは、お前のほうがよく知ってるんじゃないのか」
「僕が知ってるのは、あの家の家族には、そんな女に該当しそうな人間はいないということだけです」
「おれにも、それくらいのことしかわかりゃしないよ。まあ、いろいろ、怪しまれない程度には、おれも聞いてはみたがね」
「で、どうなんです?」
紀子も、首を乗り出した。
「うん。お前たちの知りたいのは、たとえばあの反藤家に、親戚のようなものがないか。そんなところだろ?」
「そうです」
「ないんだ。すくなくとも、反藤と名乗る親類筋は、まったくないそうだ。また、反藤という知り合いも、ないらしい。だからその女は、まずあの反藤家につながりを持つ人間だとは考えられない」
「よし、こうなったら、戸籍調べだ。東京へ帰ったら、早速、興信所にでも頼んでやる。徹底的に調べ出してやるからな。あの家の係累のどこかに、きっと|ひっぱりつっぱり《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》があるにちがいないんだ」
マサルは、妙にいきまいて、確信をもったような声で、そういった。
驍は、やれやれといった顔つきになって再びシートの背に身をあずけた。
「なあ、マサル」と、眼を閉じたまま、驍はふと思い出したように、話題をかえた。
「奥さんの弟の名前、なんていったかな」
「ああ、国春《くにはる》っていうんですよ。同志社大のサッカー部の選手」
楯林驍は、七十万の紙包みを美濃子がおしいただくようにして手にとったとき、廊下の隅をちらっと影のように動いて二階へあがって行った男があったのを、急に思い出しているのだった。
そういえば、スポーツ・マンらしい機敏な身ごなしの若者だった。と、驍は思った。
新幹線は夜の東京へむかって走っていた。
東京へ帰った楯林驍を待っていたのは、静養ではなく、忙殺の日々だった。
夏場を地方の講習会や出張教室にあてて、比較的この種のスケジュールをまとめて割り振っていた時期の三週間が、まるまる病院のベッドにしばられて過ごす時間でつぶされたわけである。
動くべく予定していた動の時間を、静止の魔にはばまれて、むなしくとどまって過ごした見返りが、一|時《どき》になだれ返してきて、彼に休むいとまをあたえなかったのも、やむをえないことなのであった。
太陽の最もさかんな時季に、精力的に日本国中をとびまわる。これはむしろ、驍が望んでたてたスケジュールであっただけに、この時季、こなさなければならないものばかりであった。
夏に躍動する楯林驍の野性と華麗さを売る肉体質のイメージが、どのスケジュールにも盛り込んであり、八月もなかばにさしかかって、夏も終りにむかいはじめた残《のこ》んの時季を、驍はキャンセル分をひっかぶって、動きまわらなければならないのであった。
ミニ・ショー・タイムをはさんだ講習会が三つ、出張教室が二つ、一時キャンセルで据え置かれていた。
これらがすべて、夏も終りのスケジュールに組み込まれることになった。
つまり楯林驍は、久方ぶりに帰ってきた東京に落着くひまもなく、夏の名残りの太陽を追って、北海道へ、九州へ、東北へ、山陰へと、矢つぎ早なスケジュールに乗せられることになったのである。
「無理ですよ、そんな。強行軍過ぎますよ。キャンセルは、キャンセルでよろしいじゃないですか。入院中のスケジュールを、全部復活させるなんて、できっこないじゃありませんか」
と、仕事にはビジネス・ライクな村田森江も、さすがにあきれて、強硬に反対した。
「全部がだめなら、せめて半分だけでも落としてください。何も、夏場にこだわらなくったっていいじゃありませんか。べつの機会に、いくらも振りかえはききますよ」
「いいよ。やっちまおう。できるじゃないか」
と、驍は、日時表にサアーッと眼をとおして、うなずいた。
「だって、これじゃ、ボスのお体|空《あ》く日がないじゃありませんか」
「その代り三週間、事前にたっぷり空けすぎてるよ。休憩はとった。静かな時間は終ったんだ。次は運動のお時間さ」
「ボス。東京のお店のことも考えていただきませんと。そりゃあわたしたちでも、十分|間《ま》はわたります。でも、楯林驍美容室に、楯林驍がいないでは、世間がゆるしはしませんわ。この上お留守が続いたりするのは、あまり好ましいことではないと思います」
「わかってる」
「いいえ。わかっていらっしゃいません。ここ半月は、外のことはお投げになっても、お店中心にスケジュールを調整していただきませんと。お店に、ボスのお顔があるかないか、そのことだけで、お客さまの活気がちがってきますんですから。この三週間の空白は、ボスご自身の空白なお時間でもあるでしょうが、お店にとっても空白な時間なんですよ」
「わかったわかった。お前たちは、よくやってくれてるよ。おれがいないほうが、水揚げのびてるんだからな」
「ボス。そんなこと申しあげてるんじゃありませんわ。そりゃ、お客さまはきてくださいます。ちゃんとおもてなしもいたしますわ。でも、わたしたちにできるのは、そこまでです。ボスがいらっしゃらないお店ってのは、花のない木の下に毛氈《もうせん》敷いて、お客さまご招待してることなんですよ」
「村田。お前、くどくなったな」
「わたくしをお虐《いじ》めになるのは、かまいませんわ」
「やだねえ。虐められてるのは、おれだろ」
「でも、もう一つだけ申しあげておきませんと。九月に入りましたら、ボス、Oホテルのモード・コレクションのステージがございますわよ。これだけは、お忘れになりませんように」
「今度は、脅迫かい」
「いいえ。コレクションの準備期間は、すべてこのスケジュールの裏側にダブッて進行すると思っていただきませんと、ほんとにお時間ございませんわよ」
「よし。わかった。じゃ、こうしよう。教室だけ落として、九月のシッポに持って行こう。コレクションの後なら、文句はないだろ」
「いいえ。文句はたくさんございますけど、仕方ございませんでしょ。働き過ぎだと申しあげても、おやめにはならないんだから。もうすこし、なまけることをお考えになったら、わたしたちどんなに助かるかしら」
「とどのつまりが、厭味と搦《から》みか」
「その手はボスには使いません。使い甲斐がありませんもの」
「まったく、お前さんにはかなわないよ」
「ボスほどじゃございませんわ。でも、このところ、『ちょっとそこまで』なんておっしゃって、パリからいきなり電話で『やあ』なんてことがないだけでも、みんなホッとしてますのよ」
「そうだ。その手があったよな」
「存じません」
「とにかく、おれはいまフラストレーションのかたまりみたいなもんだからな。何をやらかすか、わかんないぞ」
「まるで飢えたライオンみたい」
と、村田森江は口では軽口をたたいたけれど、楯林驍がいま、がむしゃらに体を動かしていたいと思う気持もわかるのだった。
動かしていることで、彼は彼の平安を得ようとしているのかもしれなかった。
彼の思いどおりにさせてやりたい。思うままに、真にいま、がむしゃらに、しゃにむに彼が没頭できるものを、彼にあたえてやりたい、とさえ思うのだった。
しかし、若さの無謀な疾駆のはたてに、疲れはてて起きあがれない若いライオンの姿もまた、見えたりするのだった。
しかし、いずれにしてもライオンは、草原を蹴って走る姿が類《たぐい》もなく美しかった。
そして楯林驍はいま、まさしく草原に飢えた一頭の若い牡《おす》のライオンだった。
ここで、楯林驍が退院後、東京でむかえた最初の夜のことを、すこしだけ記しておかねばならないだろう。
目下、驍は、沖縄の講習会をすませ、その足で帰ってきて、福岡にいるのだけれど。
さて、楯林驍が、マサルと紀子を引き連れて東京駅におり立った夜、三人は八重洲口に出て、車を拾おうとした。
まだタクシー乗り場へたどりつく前だった。
「ボス、ちょっと……」
と、紀子が、いきなり驍の袖口を引っぱった。
「ん?」
「あれ。ほら、あそこ」
紀子は立ちどまって、眼ですばやく前方を指し示した。
駅ビルに続く一階の喫茶店で、素通しの一枚ガラスを透かして内の客席が、街角からよく見えた。
窓際の植木のかげの席に、二人の女がいた。帽子をかぶった派手やかな流行色の服装に淡めのサングラスをかけた女と、黒い透けたロング・ドレスを優雅に着こなした女だった。
二人は、むかい合わせにすわって、話し合っていた。ちょっと見に、いかにも人眼を惹《ひ》く花やいだ雰囲気を感じさせる二人連れだった。
「おやまあ、雨野のおばあちゃん」
と、これはマサル。
「そうらしいな」
と、無造作に、これは驍。
驍は、ちらっと見たきりで、すぐに関心のなさそうな声で、
「行くぞ」
と、いってあるき出した。
「待って、ボス」
紀子は、その袖口を、またつかんだ。
「雨野先生じゃありません。お連れの方。ほら、よく見てください」
派手な流行色を身につけたサングラスの女のほうが、雨野華子。美容界に一大勢力を持つ雨野ビューティー・サロンの女総帥である。六十歳を越しているが、年齢は不詳。装飾過多の奇抜な服装で、マスコミ界に名高い女である。
紀子が、「ほら、あれ」と指し示した女のほうは、足を高く組み、煙草をくわえて、前かがみに火をつけるところだった。
「ホント」
と、マサルのほうが、大げさな声をあげた。
「マサカ!」
と、彼は打ち消した。
「でも、そうよ。まちがいないわ。ねえ、ボス。反藤美濃子さんでしょ?」
楯林驍だけが、黙ってその女をしばらく見ていた。
「もっと、そばに近寄りましょうか」
「よせ」
と、そのときになって、驍は短く紀子を制した。
「だって、あのひとが、どうしてこんなところにいるんですの。ここは、東京ですわよ」
「そんなこと、知るもんか」
「でも、ボス。ボスは、京都の反藤さんのお家を出て、まっすぐに新幹線の駅へいらしたんでしょ?」
「そうだ」
「そのまますぐに出た新幹線ですわよ。それでいま、わたしたち三人、ここへおりてきたところなんですのよ」
「飛行機かな」
と、マサルがいった。
「大阪空港まで出なきゃならないのよ。そして、羽田に着くのよ。ここは、東京駅の八重洲口よ」
「うーん」
と、マサルも唸っていた。
「いま、十時過ぎだよね。たしか、大阪からの最終便の飛行機が、十時過ぎに着く筈なんだけど……」
「でも、それは羽田でしょ。ちょうどいま時分羽田に着いたって、ここまでとんでこられないわ」
「そうだよね……と、なると、もう一便前ってことだ。一時間前に着くのがあるよ。オレがいつか、乗って帰ってきたやつだから」
マサルは、思い出すふうにして、
「あれは……八時……そう、八時十分。たしかそうだよ。八時十分に、大阪発だよ」
「わたしたちが新幹線に乗ったのが、七時五分だから……一時間あるわね。車で、京都から大阪空港までとばしたら、乗れないことはないわ。そして、九時過ぎに羽田に着いてれば、この時間、彼女があそこにすわっていても、まあべつにおかしくはないわよね……」
「そう。おかしくはないけどさ……」
「やっぱり、おかしいわ」
「うん。おかしいよな。なんとなく、おかしいよ」
「日航はどうかしら」
「おんなじようなもんだろ。ちょっと遅いか、早いかだよ」
「だわね」
「だわよ。いずれにしたってさ、彼女がいまあそこにすわっておれるためにはさ、ボスを京都の家で送り出した途端、彼女もその家をとび出したってことになるぜ」
「そうよね」
紀子は、うなずいて、驍を見た。
「ねえボス。美濃子さん、お家でのお召し物はなんでした?」
「和服だ」
「髪は?」
「上げてたよ、束髪に」
「じゃあ……」と、紀子はいいながら、街角の喫茶店の女へ眼をもどした。
「髪をおろして、和服を着かえて、お家をすっとび出したんだわね」
「そう。すっとび出して車に乗って、名神を突っ走って、大阪空港に駈けこんで、そンで飛行機にとび乗ったわけだ」
ぷっと、紀子が吹き出した。
「なんだか、フィルムのコマ落としでさ、カタコトカタコト息せききって走りまわってるあのひとを、見てるみたい」
「ほんと。でも、そんなにしなきゃあさ、あの女、あそこにああして優雅にさ、しなつくってすわってなんかおれやしないよ」
「だわね」
「だわよ」
「おかしいね」
「おかしいわよ」
「そうよね。ボスが東京へ帰るの知ってるんですものね。東京へ出る予定があるんだったらさ、話の一つに出たってふしぎはないわよね」
「そうだわよ。『あら、わたしも東京よ』くらいはいうわよ、普通。それをいわずにさ、あの女、ボスが帰ったと見るや、サアたいへん。髪ふりみだして、大シャカリキになったのよ」
マサルは喋《しやべ》りながら、自分で吹き出し、紀子もつられて笑い出した。
なぜだかふしぎに、マサルも紀子も、その黒いロング・ドレスを花やかに身につけて、美容界の女親分雨野華子と談笑している一人の女が、ひどく滑稽《こつけい》に見えたのだった。
しかし、第三者の眼から見れば、その黒いドレスの女は、申し分なく美しく、ときどきしなやかにうなじをながれる長い黒髪の濃艶さにも、落着いた気品があった。
成熟した、いい女だと、誰もが思ってふしぎはなかった。
「でも、ほんとにどういうんだろ」
「どう見たって、反藤美濃子さんだよね」
「そう。まちがいなく、彼女だわよ」
「それにしても、おどろいたわね。雨野華子と知り合いだったとは」
「ほんと。選《よ》りにも選って、あのザアマスおばあちゃんとつるんでるなんて……」
二人の頭のなかにはもちろん、このとき、一人の男の名前が、ごく自然に浮かんでいた。
黒田牧夫。
死んだ彼が美容室『若王《じやこう》』を開店する前に勤めていた店が、雨野ビューティー・サロンであった。
黒田牧夫は、雨野の主任デザイナーであった。
黒田牧夫──雨野華子──反藤美濃子。
そして、と、マサルも紀子も、思っていた。
(反藤という名字だけはわかっている謎の女)
その女が、美濃子でないことだけはたしかであったが、こうしていま、雨野華子を媒介にして美濃子の名が黒田牧夫と結びついてみると、黒田牧夫と反藤美濃子は、けっして無縁な間柄ではあるまいと、二人には思われるのだった。
無論、楯林驍も、おなじようなことを考えていた。
「ねえ、それにしても、ともかくもうすこしそばまで行ってみましょうよ」
と、紀子は、マサルに小声で囁《ささや》いた。
「これは、だいじなことだわよ。夜目遠目じゃ、すませないわよ。近くで確認してこなきゃ」
「よし。じゃ、オレ、行ってくるよ」
マサルは、足もとの地面にボストン・バッグを置いた。
その肩を、うしろから、いきなり驍が引っ掴《つか》んだ。
「いい。おれが行ってみる。お前たちは、先に帰れ」
「ボス。そんな……」
「いいから、帰れ。店の連中も待ってる筈だ。一足先に帰ってろ」
「ボスを連れて帰らなきゃ、オレたちつるしあげられちゃうよ。気をつけてよって、チーフにくれぐれもいわれてるんだから」
「そうよ。わたしたち、ここで待ってます。お一人でいらっしゃるんなら、早く行ってきてください」
「わからない奴らだな。お前たち、気をきかせろ」
「え?」
マサルと紀子は、同時に顔を見合わせた。
そして途端に、
「ボス!」
と、同時に声をあげた。
「そんなこと、だめです。ぜったいにだめです」
「そうです。そんなことゆるされません」
と、紀子もマサルにつられて声をあらげた。
「あのひとは、人妻ですよ。いえ、人妻がいけないってわけじゃないけども……」
「何いってるのよ、マサルちゃん。人妻だから、いけないんじゃないの」
「そうだ。そうだ。人妻だから、いけないんだ。ねえ、ボス。血迷っちゃいけませんよ。あのひとは、反藤繚一郎の奥さんなんですよ」
「ばか。そんなことはわかってる」
「わかってて、やるんですか……?」
「あほ。嘘《うそ》も方便ていうだろうが」
「方便てなんですか」
「どじだな、お前は。あのひとと、どうこうできる筈がないじゃないか。そばに、凄《すご》いのがくっついてるんだから」
驍は、マサルを脇へ寄せて、小声でいった。
「これは、きっかけ。きっかけだよ。このまま店へ帰ってみろ。やれ歓迎会だの、退院祝いだのって、連中手ぐすね引いて待ってるんだろ。逃げ出すチャンスはないじゃないか。お前も、男だろ。そのくらいのことは、ツーカーとこい」
「ボス。みんな聞こえてますわよ」
と、紀子が睨《にら》むように眼をむいた。
「とにかく、お店までは、いっしょに帰っていただきます。そのあとは、もちろん、わたしが責任を持って、適当なお時間に解放してさしあげますわ。お店でみんな、首を長くして待ってるのに、こんなところでわたしたちをだまして、一人だけドロンするなんて、ひどいじゃありませんか」
マサルはちらっと驍を見て、すみませんというふうに、ぴょこんと黙って頭をさげた。
「マサルちゃん。さあ、バッグを持って。行くわよ」
紀子は、憤然とタクシー乗り場へむかってあるき出した。
「やれやれ。いいチャンスだと思ったのにな」
と、驍も、そのあとへ従った。
「スンマセン。もうちょっと辛抱してください」
マサルは、そんな驍に並んだ。
奇妙なとりあわせの三人連れであった。
夜の東京駅の玄関口は、車と人の群れで賑やかだった。
三人は、三様の顔つきで、やがて一台の車に乗り込んだ。
だが、乗り込む寸前に三人とも、一様に顔をあげて、華麗な照明にあふれたつビルの角の店内を、振り返った。
そこも、賑やかだった。
一枚硝子の前の道を、しきりに人が流れていた。
二人の女たちは、まだ語らい合っていた。
その夜、新宿の靖国通りにある楯林驍の美容室は、遅くまでフル・ライトの状態だった。
紀子は、店に帰りつくと、すぐにマサルヘ耳打ちした。
「マサルちゃん。いけないかしら、この時間に電話をしちゃあ……」
「電話? どこへ」
「京都」
「京都?」
「ほら、反藤家」
「ああ……」
と、マサルもやっとのみこめたように、うなずいた。
「そうだな。うん。その手があったよね」
「でしょ。やっぱり、確認しときたいわよね」
「そう。まちがいはないと思うけど」
「じゃ、いいわね」
「いい」
「でも、なんていおう」
「いうことないよ。ただ呼び出せばいいじゃないのよ」
「よび出すだけ?」
「だけで十分だろ。美濃子さんいらっしゃいますか。いえ、おりません。お留守ですか? はい。どちらへお出かけなんでしょうか? 東京です。そうですか、ガチャン、これでいいじゃない。名前聞かれたら、適当にいっとけよ」
「あら。じゃ、わたしがかけるの?」
「あたり前だろ。人妻を呼び出すんだぞ。まして、ただいま亭主は留守。男の声が使えるかよ」
「それもそうね」
「ここじゃまずいな。やっぱり公衆電話だな。早いほうがいいんじゃない」
「わかったわ。じゃ、行ってくる」
紀子は、そのまま表へ駈け出して行った。
二十分ばかりして、彼女は何食わぬ顔つきで宴席へ帰ってきた。
美容室のオール・メンバーが集まって、驍を囲んだ祝宴は、てんでにはしゃぎたつ声で、盛大に陽気に沸いていた。
紀子は、マサルヘ眼くばせすると、そのまま器材室の横の廊下へ姿を消した。
マサルもその後を追った。
「どうだった」
「たいへん」
紀子は、走って帰ってきたらしく、殺していた息切れを一時に吐き返しているふうだった。
「何がたいへんなんだよ」
「だってあなた……」
「さっさといえよ。気をもたすなよ」
「いうわよ。いたのよ」
「え?」
「いたわよ、奥さん」
「まさか」
「ほんとよ。美濃子ですがって、はっきりそういったもの。あのひとの声だったわよ。ちゃんと、この耳で聞いたわよ」
「ほんとうに?」
「そう。ほんとうよ」
「で?」
「でって?」
「それだけ?」
「それだけよ」
「切っちゃったの?」
「切ったわよ。だって、あなた、そうしろっていったじゃないのよ。だから、そのとおりにしたわよ」
「そりゃまあ、それでいいんだけどさあ……」
「けどさあ、何よ」
「何って、せっかく彼女が出たんだったらさあ、もすこしなんとか、こう話の持って行きようってのがありそうじゃない……もっとさ、喋らせるとか……」
「だから、何を喋らせるのよ。本人がいたんだもの。電話口に出てきて、ちゃんと名乗ったんだもの。これほど確実なことはないじゃないのよ。それに、夜の夜中によ、用もないのになんだかんだとやっててごらん。それこそあやしまれるじゃないよ」
「お前さん、じゃ、ほんとにその声が、反藤美濃子だったって証明できるね」
「証明なんかできないわ。でも、自信を持って断言することなら、はっきりできてよ。最初に、だれだか知らないけど男の声が出たのよね。だから、奥さまいらっしゃいますかっていったら、ちょっとお待ちくださいって、出てきたわよ。ところが、これが奥さまちがいで、おばあちゃんのほうが出たのよね。だから、おばあちゃんが、『美濃子はん、美濃子はん、あんたにやで』って、大きな声で呼んでるのまでが、よく聞こえたわよ。そして、彼女が出てきたんだもの。まちがいないわよ。『はい。美濃子どす』ってはっきりいったわよ。わたし、二度ほど聞き返したわ。二度とも、正確に、彼女返事したわよ。そして、『あなたは、どちらさんどすねん?』て、たずね返してきたから、ガチャンとやったのよ。いけなかった?」
「いや、いけなかないよ。それでいいよ」
「でも、とすると、さっきのあの八重洲口の女は、いったいどういうことになるのかしら?」
「どういうことになるんだろう」
と、マサルも、鸚鵡《おうむ》返しにおなじ言葉を問いかけ返すしかなかった。
「とにかく、反藤美濃子ではないんだよ」
「でも、反藤美濃子だったわよ」
「おいおい。お前さんが、そんなふうにいっちゃあ困るじゃないの。本物の声を聞いたんだろ。本物は京都にいたから、あれは、まちがいなく別人だって、確言してくれなきゃ困るんだよ。だって、オレには、あの女、反藤美濃子以外の人間とは思えないんだからさあ」
「だから、するわよ。反藤美濃子は、京都にいたわ」
「そう。それでいい。お前さんは、彼女の声を聞いたんだ。もっと正確にいえば、声だけを聞いたんだ」
「あら。テープ・レコーダーやなんかじゃないわよ。まちがいなく|なま《ヽヽ》の声よ」
「いいよ。信じるよ。でも、お前さんが、反藤美濃子と会って喋ったのは、あのD病院の病室で一回こっきりのことだからね。これも、正確に頭にいれておく必要はあるよね」
「……そうね。そういわれれば、もっと何か、いろいろと喋ってみる必要があったわね。そう。あのひとの声は、はっきりおぼえてるけれど、物的証拠にはならないわね。物的証拠なんていうと……あの八重洲口の女のほうが、かえってそれに該当するわよね。わたしたち、三人の眼が見たんだもの。明るい光のなかにいる女をね」
「そういうこと」
と、マサルは、呟《つぶや》いた。
「反藤美濃子が、二人いる。一人は、生きたなまの人体。一人は、生きたなまの声。一人は、東京。一人は、京都。いまのところ、そう考えるよりほかないね」
「……双子かしら」
と、紀子は、ぽつんと独りごちた。
自分で口にした言葉であったが、なぜだか彼女は、その言葉のひびきに怯《おび》えた。
一人は京都。
一人は東京。
そして、双子としか思えぬ人間。
同じような状況が、つい身近にあったではないか。一つの美容院が焼けた夜。この東京の新宿と、やはりあの京都との間で。
紀子も、マサルも、同時にそのことを考えていた。
いる筈のない楯林驍が、いる筈のない場所にいたというあの夜のことを。
肉 の 匂 い
Oホテルの『孔雀』ホールで開かれる楯林驍のヘア・モード・コレクションは、
≪ジャグラー・イン・セプテンバー≫
というタイトルに落着きそうであった。
≪秋の手品師≫あるいは、≪手品師の秋≫とでもいえばよいか。村田森江がつけたコレクション・タイトルだった。
「楯林驍という名前だけをいれればいい。キザな横文字なんか使うな」
と、驍はいった。
「そうはいきませんわ。≪手品師≫は、世界のジャーナリストたちがつけてくれた名前ですからね。国際的なモード誌に登場なさるときには、かならず、ボスのタイトルには、この代名詞がつくんですから。いいじゃありませんか。これは、世界のモード界に登録されたも同然の、ボスの実力名なんですから。ニック・ネームだとでも思っていらっしゃればいいわ」
森江は、プログラムの作製準備やスタッフ仕事の進行役などに忙殺されて、それどころではないといった顔で、とりあわなかった。
「まったく、あれはヒステリーだな」
と、驍は、そばの連中には首をすくめてみせ、苦笑した。
「お疲れなんですわ。不死身のライオンのお尻にくっついていかなきゃならないんですもの。森江先生だから、もってるんですわ」
紀子が、すこし心配そうな声で、たしなめた。
「へえ。そんなライオンがいるのかい」
「いますわ」
と、紀子は、急に真顔になった。
「ねえ、ボス、すこしオーバー・ワークじゃありません? ボス、このところ、しばらくマンションにもお帰りになってないじゃありませんか」
「ここで寝てるからいいだろ」
「ちゃんとベッドの上でおやすみになっていただきたいわ」
「お前、どっちの心配してるんだ。おれか、村田か?」
「両方ですわ。どちらも、バテられちゃ困る方ですもの」
「おれは、五分手が空《あ》いたら、五分眠ってる。どこでだって、貪欲《どんよく》に体はやすめてるさ」
「明日は、また仙台の教室でしょ。今朝福岡からお帰りになったばかりですわよ」
「ゆうべ、ホテルでぐっすり寝たよ」
「嘘おっしゃってもわかりますわ。ゆうべ、マサルちゃんの部屋に電話したんですよ。モデルさんの変更が急に入ったでしょ。相手が返事をほしがってるんで、夜中にお起こししちゃ悪いと思ったんですけど……そしたら、ボスのお部屋、出ないじゃありませんか。マサルちゃんを起こしなさいって、森江先生おっしゃるもんだから、そうしましたわ。アレ、そんな筈ないよって、マサルちゃん、寝ぼけた声でいうんですもの。そんな筈ないっていったって、いらっしゃらないじゃないのって、マサルちゃん、森江先生からしぼられてましたわよ」
「ハハ。それで村田はカリカリしてるのか」
「心配なさってらっしゃるんですわ」
「バカヤロ。夜遊びできるくらい元気があるってことじゃないか」
「その時間を、いまは睡眠時間にあてていただきたいと思っていらっしゃるんですわ。ハード・スケジュールに乗ってらっしゃるときですもの。わたしだって、そう思いますわ」
「だから、女ってのはワカッテナイというんだ。おれはな、そのほうが休養になってるんだ。休養に」
「そんな赤い眼なさっててですか」
「赤いか?」
「寝不足の標本見てるようですわ」
「かえって迫力が出るだろ」
「エエ。不死身のライオンには見えますわ」
「そうか。ならマア、いいとしようじゃないか。しかし、マサルのやつ、そんなことちっとも報告しないからな。けしからんやつだ」
「マサルちゃんも、男ですからね。それに、森江先生が、いいとおっしゃったんですわ。どうせお返事は今朝になるんでしょうから、だったら帰って見えてからでいいわって」
地方教室の仕事には、たいてい紀子がつくことになっていたが、退院後まだ間もない時期の強行軍でもあったし、祇園祭での事件の結着もついてないこともあって、助手はマサルが交代することになった。
驍の身辺に男手をおいておきたいという村田森江の配慮であった。
「アア」
と、驍は大きく両腕を屈伸して、あくびした。
「お前たちが寝ろ寝ろいうから、みろ。とたんに眠気づいたじゃないか」
「お邪魔しませんわ。おやすみになってください」
「そうはいくか。特別室《スペシヤル》に入ってるんだろ?」
「はい。お一人は、いまシャンプーにかかってます。さっきカットの終った方は、アキ子先生がカールなさってます」
「スペシャルは、何人入ってるんだ?」
「五つ、満室です」
「それみろ。オネンネしてるわけにはいかないじゃないか。広間のほうは?」
「レギュラー・ルームも、お席はみんなふさがってます。でも、手は足りておりますから、どうぞおやすみになってください」
「とにかく、スペシャルのシャンプーがすんだら呼んでくれ」
驍は、そういうと、プライベイト・ルームの扉を押した。
体調はよいのだった。疲れもなかった。もう完全に、楯林驍は、以前の美しい精悍な牡の若者に復調しているのであった。
(ただ、ちょっと眠いだけだ)
と、驍は思った。
(五分ほど眠ろう。それで、この眠気の山は過ぎる)
「あのう……」
と、紀子は、そんな驍のうしろ姿へ声をかけた。思わず出た声であった。
驍は、首をまわして振り返った。
「なんだ」
「いえ、いいんです」
紀子は、急に思いなおしでもしたように、そう答えた。
こころもち浮かない、屈託ありげな声だった。
「なんだよ。いってみろ」
驍は、重ねて聞き返した。
「よろしいんです」
「よかあないよ、お前、今日は、ミスが多いぞ」
「は?」
「ハサミが、まるで手についちゃいないよ。さっきのストローグ、ありゃあなんだ? ぜんぜんえぐれちゃいないじゃないか。それから、昼間の客の染めもな、赤がきついよ。あれじゃ、赤毛じゃないかよ」
「すみません。気をつけます」
驍は、煙草に火をつけた。
「あとで聞こうとは思ってたんだ。なんだ。喋ってみろ」
「いえ、なんでもありません」
「紀子」
紀子は、一度眼をあげて、また落とした。
「ただ、ちょっと、森江先生のことが気になってたものですから……」
と、そしていった。
「村田? 村田が、どうした」
「いいえ。あの……すこしお疲れ気味ですので……」
「うん」と、驍もうなずいた。
「それは、おれもわかってる。その分、おれが肩代りするよ。いまあれにバテられると、まったくお手あげだからな。明日も、日帰りで帰ってくるよ」
「いいえ。そんなこと申しあげてるんじゃありません。森江先生の肩代りは、わたしたちがいたします。アキ子先生とも相談してあります。そんなことじゃないんです……」
「そうだろ。お前の顔見りゃ、そんなことくらい、おれにもわかる。だから、話してみろといってるんだ」
「すみません。ボスにいま、こんなことお話しちゃあいけないんでした。わたしって、しようがないドジですわね」
紀子は、いきなり頭をさげた。
「おやすみになってください」
「もう眼がさめちゃったよ」
「森江先生に知れたら、どなりとばされますわ」
「紀子。いいかげんにしろよ」
驍は、太い声できめつけた。
紀子は、なおもためらうふうだったが、観念したように口を開いた。
「……二、三日前のお昼過ぎでしたわ。電話がかかってきて、森江先生、三十分ばかり中座なさいましたわ。表の『エル』にいるからっておっしゃって」
『エル』は、楯林驍の美容室の斜めむかい側にある喫茶店である。
「そのあと、写真家のYさんが打ち合わせに見えたもんですから、わたし、ちょっとお知らせしに行ったんです。森江先生、男の方とお話しになっていらっしゃいましたわ。なんの気なしに声をかけようとして、わたし、急にやめたんです」
紀子は、ちょっと言葉を切った。
「……角田さんなんです。その方」
「ん?」
「警察の、角田さんですわ」
驍は、ゆっくりと紀子を見た。
「京都にやってきた、あのひとかい?」
「はい」
「それで?」
「いえ。それだけです。わたし、なんだか声をかけそびれちゃって……公衆電話から、森江先生呼び出して、お客さんのことだけ伝えて、帰ってきたんです。森江先生、すぐにもどって見えましたわ。でも、なんにもおっしゃらない。わたしも、聞いてみるわけにもいきませんし……」
「どうして」
「だって……何か、こう……ドキッとしたんですもの……怖かったんですわ。それに、何かあったら、森江先生のほうからおっしゃるだろうと思って……」
紀子は、顔をあげた。
「昨日の朝でしたわ」
と、そして、いった。
「お店に出てきて、ちょうど森江先生も出勤して見えて、通いのひとたちもドヤドヤ入ってきたんです。そのなかの一人が、なにげなくいったんですわ。『森江先生、昨日、大久保にいらっしゃいませんでした?』って」
「大久保?」
「はい。その子が、お店の退けたあと、大久保の町のなかをあるいてらっしゃる森江先生を見たっていうんです。その子、タクシーに乗ってたんで、声もかけられなかったけど『あれ、先生じゃありませんでした?』って。……森江先生、ちょっとおどろいたような顔なさいましたけど、すぐになんでもないふうに聞きながして、『あら、帰ったわよ。まっすぐおうちへ』と、おっしゃいました……」
森江の家は、池袋にある。大久保とは反対の方角になる。
「わたしが、そばにいたからじゃないでしょうか……」
「と、いうと?」
「わたしに、気を遣わせまいとなさったんじゃないかと思って」
「ん?」
「大久保といえば、例の理容師さんが死んだ町でしょ。それに、行方不明の黒田さんのお弟子さんも勤めてたところだし……ちょうどその場にいた人間で、それを知ってるの、わたしだけだったんですもの」
「………」
「そういえば、わたし、そんな気がしてたんですわ。『ちょっと出かけてくるわね』って、お昼間でも、一時間ばかり、お店|空《あ》けられることがちょくちょくあったんですもの。それはまあ、コレクション・ショーの段取りづけは一切ひっかぶってらっしゃるから、いろんなひとにお会いにならなきゃならないし、席の暖まるヒマもおありじゃなかったけど……でも、なんとなくそんな気がしてたんです。大久保のことも忘れてはいらっしゃらないって。一人であたってらっしゃるんじゃないだろうかって……。だって、ボスを刺した犯人は、野放しの状態なんですもの。あのハサミの出どころを知るいちばんの近道は、やっぱり、行方不明のお弟子さんを探し出すことしかなさそうなんですもの。それに、あのお酒に酔っぱらって陸橋から落ちて死んだ理容師さん。あのひとの身辺も、ずいぶん調べておまわりになってたし……結局、なんにもわからなかったけど……でも、忘れてはいらっしゃらないわ、きっと。いまでも、続けてらっしゃるんじゃないかと思ってたんです。
そこへもってきて、角田さんでしょ。それに、昨日の大久保の話。わたし、やっぱりそうだったと思うと……いてもたってもおれなくって……森江先生一人にこんなことさせてちゃあ、何もかもおっかぶせてちゃあいけないんだって気がして……」
「よし、わかった」
と、驍は、うなずいた。
「村田には、おれから話す。それから、秋本を呼んでくれ」
「秋本さん?」
紀子は、瞬間けげんな顔をした。
「教室には、あいつを連れて行く。マサルは残すよ。まあ、何かと事情をのみ込んでくれてる者が、村田のそばについてくれたほうがいいだろうからな。スケジュールは組んでしまってるんだ。これは変えるわけにはいかん。といって、村田はあんな性分だ。心痛するなといったって、やめるような女じゃない。とにかく、このコレクションが終れば、一山過ぎるだろう。お前たちも、できるだけ村田に協力してやってくれ」
「もちろんですわ」
「秋本とマサルを呼べ」
と、驍は、いった。
「あ、手が空《あ》いてからでいいんだぞ」
「はい」
紀子は、返事をして、レギュラー・ルームの広間のほうへ出て行った。
秋本というのは、最近助手から美容師に昇格した男性メンバーである。
楯林驍は、プライベイト・ルームのソファーに腰をおろして、背もたれに頭をあずけた。
眠りは、完全に遠のいていた。
ふと、宙に眼を泳がせた。
彼にも、一つの屈託ごとが、目下手近にあるのだった。
驍は、つと身を起こし、デッサン用の木炭を手にとって、画用紙の上へ走らせる。コレクションに出品するデザインの素描である。
が、すぐにその木炭を投げ出して、ふたたびソファーヘ身を沈めた。
たゆたうような眼の色を見せた。
「先生。スペシャル、お願いします。シャンプーすみました」
と、若い見習いの一人が告げにきた。
「お」
と、立ちあがりながら、楯林驍は、もう一度描きかけのデッサン画の上へ眼を落とした。
目鼻のない輪郭だけの顔に、ヘアの一部が荒いタッチで描きかけられている。
驍は、その白紙の顔の上に、不意に一人の女の顔が浮かびあがってくるのを、束の間見た。
「モデルさんがお気にいらないのは、よくわかりますわ」
と、村田森江は、いった。
「ですから、どこがご不満かを教えてください。いえ、こういうモデルを連れてこいとおっしゃっていただけば、どんなことをしても探し出してきますわ。既成のモデルさんで間に合わなければ、素人さんだってなんだって」
「だから、いまOKがとれてる連中は、いいよ。みんな使うといってるんだ」
「でも、何か足りないんでしょ。もう一つ、ハイライトになるものがほしいと、お考えになってらっしゃるんでしょ」
「そうだ」
「ですから、それを聞かせてください。最後の一人がきまらないってお顔ですわ。そのお顔は。モデルさんがきまらなければ、デザインも書きあげてはいただけないんですから。最後の一人がきまらなければ、全体の構成もおたてにはなれないでしょ」
「───」
「ボス。どんな方でも、引っぱってきますわ。もう、イメージはおできになってますんでしょ? 何をお考えになってるんですか。ボスはいま、どんなモデルさんだって指名のできる方なんですよ。厭だなんて断わるひとなど、いやあしないんですよ。スケジュールの都合さえつけば、どんなひとだって出てくれますわ」
驍は、腕組みをしたまま黙って眼を閉じていた。まるで、眠っているような顔に見えた。
瞼《まぶた》の裏に、また一人の女の顔が浮かんでいた。
黒い透けたロング・ドレスを優雅に着こなした、長い髪の女だった。濃艶なその黒髪の毛すじの流れや、気品のあるしなやかな身ごなしが、幻めいて消えてはまた眼の先に現れてくるのだった。
かつてない経験だった。
一人のモデルとして、ヘア・デザイナーの創造欲を刺戟するその好奇心のためだろうか。それとも、純粋に楯林驍の男の領域に湧く興味なのだろうか。いや、興味とも好奇心ともちがった、それはもっと別種な情感のような気もした。
そして、あの髪の上にハサミをいれて一つの創造の世界を成し遂げたいという願望もまた確実にあったし、牡の官能を呼びさます欲情の世界が同時に存在することも、嘘ではないような気がするのだった。
ただ、自分を何か嫋々《じようじよう》と揺さぶり、逡巡させ、わけもなくうっとりとさせるようなこの酩酊《めいてい》感が、楯林驍にはふしぎなのだった。一気に跳びかかって、前肢の下に引き据えてしまえぬ感じが、ふだんとはちがうのだった。
驍は、ある懊悩《おうのう》を自分に感じた。
それが、彼を落着かなくさせているのだった。
京都泉涌寺の反藤家では気がつかなかった、心の奥の惑いであった。東京駅の八重洲口であの夜の彩りに飾られたティー・ルームの窓のなかにその女を見つけたとき、はじめて自覚した感情だった。
「もうしばらく、これは置いておこう」
と、楯林驍は、いった。
「とにかく、一名欠員。あとは、手配したとおりのモデルでいこう。そういうことにしといてくれ。デザインも、あらかたきまっている」
「でも、きまらない最後の一枚が、コレクションのメインをとるかもしれないということなんですのね?」
「そういうことも、ないとはいえない」
「わかりました」
と、森江は、あっさりと話を打ち切った。
「では、その線が出ましたら、お知らせください」
「村田」
と、驍は呼びとめた。
森江は、驍が口を開く前に、さえぎるような口調でいった。
「先ほどのお話でしたら、ほんとうにご心配いりませんわ。角田さんが見えたのも、何かその後変ったことはないかと、様子伺いに立ち寄られただけですし、ないとお答えしておきましたわ。大久保のお話も、気にはかけてはおりますけれども、紀ちゃんが気遣ってくれるほど、時間をさいているわけではございません。また、何かございましたら、まっ先にボスにご報告しますわ。よけいなご心配などなさらずに、今夜は、お部屋のほうにお帰りになって、ぐっすりおやすみになってください。そうしていただくことが、ボスのいまいちばん先になさらなきゃならないことですわ」
赤いふちの眼鏡に手をあてて、森江は腕の時計を見た。
「あら、もうこんな時間。十二時前ですわ。すみません、長話しちゃって。さあボス、お帰りになってください。明日が早いんですから」
驍も、時計を見た。十一時四十五分であった。
矢根アキ子がドアから顔を覗かせたのは、ちょうどそうしたときであった。
「ボス、お電話です。切りかえましょうか」
と、アキ子はいった。
「誰だ」
「それが……」
と、アキ子は一瞬いいよどみ、森江のほうをちらっと見た。
「とにかく切りかえますわ」
彼女は、首を引っ込めかけた。
「アキ子先生」と、森江が呼びとめた。
「先方のお名前もわからずに、ボスを電話口に出すんですか」
「すみません」と、アキ子はちょっと首をすくめ、「女の方です」といいなおした。
「女?」
「はい。博多のタマ子とおっしゃってます」
「タマ子? 知らんな」
驍はけげんそうな顔をした。
「いいよ。そっちへ行く」
と、驍は立ちあがり、店の電話口ヘ出た。
店には、まだマサルや紀子たちも居残っていた。
「楯林ですが……」
「アラ、センセェ」と、突拍子もない甲《かん》高い舌っ足らずな女の声が、受話器のなかへ流れ込んできた。
「ゴメンナサイ……急にお声が聞きたくなったの……おこってるゥ? イヤ。おこっちゃイヤ。だってタマ子、とっても淋しいの……ほんとうよ。あのあとタマ子、お別れしてから泣いちゃった……ほんとうなのよ。ずっと泣きどおしなのよ……もうタマ子、センセを忘れられない……とんで行きたいくらいよ……いいえ、きっととんで行くわ……」
驍は、受話器から耳をはなし、
「なんだい? この電話」
と、店のなかの連中を見た。
聞かれた連中は一様に顔をあげて、驍のほうを振り返った。
「なんだいとは何よ、センセ……ひどい、ひどいわ……ゆうべ別れたばかりじゃないの……『サフラン』のタマ子よゥ……ウン、この浮気者……ほんとにおこるわよ……もうワタシのこと忘れちゃったの……」
「サフランのタマ子?」
驍は小首をかしげた。
「知らんな。いったい、君は誰?」
「だから、タマ子っていってるでしょ……クラブ『サフラン』のタマ子よゥ……」
「そんなクラブ、僕は知らんよ。人ちがいじゃないのかい?」
「マア……よくそんなことがいえるわね……ウン、憎らしい……アア、わかった……そばに誰かいるのねェ? ウン、それならそうといってくれればいいじゃない……」
「冗談はよしたまえ。何番にかけてるんだ? ここは……」
「楯林センセの美容室でしょ?」
「そうだ。僕が、その楯林驍だけど?」
「ウン、センセ……」と、甘ったるい、鼻に抜けるようなその声は、じれるようなしなをつくって囁いた。「やっぱりセンセ、おこってるのねェ……ワタシも、お店にかけるの、よそうかと思ったのよ……でも、お店の番号しかわからないんだもの……センセが悪いのよゥ……こんな気持にさせるんだものゥ……そりゃあワタシだって、昨日の今日でしょ? はしたないとは 思ったわよゥ……でもタマ子、がまんができなかったの……狂いそうなのよゥ、センセが恋しくて恋しくて……タマ子、狂い死にしそうなのよゥ……ねェ? いまどこからかけてると思ってェ? ほら、うちのお店出たあと、行ったでしょう? パブ『天神《てんじん》』ってお店……あそこにいるのよゥ……一人でセンセのこと思い出してるのよゥ……これからワタシ、どこへ行くと思ってェ? ねェ……あのホテルに行くのよォ。一人で行くのよォ……ゆうベセンセとあるいたとおりの道をあるいて行くのよォ……そしてセンセを思い出すの……何もかも、ゆうべのとおりにタマ子したいの……そして、センセを思い出すの……ねェ、聞いてるのゥ? ねェッたらァ、センセ……」
「ふざけるのはよせ」
と、驍は、辛抱しきれずに怒鳴った。
その声の剣幕に、店の連中はおどろいた。
マサルも、紀子も、アキ子も、そして森江も、あっけにとられて、驍を見守った。
「いいか、もう一度いう。僕は、楯林驍だ。君のような女に付合いはない」
それだけいうと、彼は受話器を乱暴に置いた。すこし呼吸が乱れていた。
一同は、顔を見合わせた。
そのとき、ふたたび電話が鳴った。
みんなが息をひそめたさなかだったので、そのベルの音は、特別大きく鳴りひびいた。
「誰か出ろ」
と、驍はいい捨てて、プライベイト・ルームに引きあげて行った。
マサルが受話器をとりかけた。
「わたしが出るわ」
と、いったのは、森江だった。
彼女は、ゆっくりと受話器をとりあげ、耳のそばへ近づけた。
楯林驍に、その電話の女の心あたりはまったくなかった。
「……ほんとうですのね?」
と、森江は、念を押した。
「ほんとうだ。たしかにおれは、ゆうべ、博多で、ある女とプライベイトな時間を持った。しかし、あの女じゃない。あんな、げすっぽい女に、おれが手を出すと思うのか」
「泣いてましたわよ」
「そんなこと、知るものか」
「音楽も聞こえてたし、賑やかな人声もしてたから……どこかのお店からかけてましたのね」
「パブなんとかっていってたよ。そんな店も知らん」
「ボスのお名前を、泣きわめいて、罵《ののし》ってましたわよ」
「ばかげた話だ。まったく、ばかばかしい」
楯林驍は、荒いしぐさで立ちあがった。
「また、アイツが出た……」
と、そして吐き出すように独語した。
束の間、驍をとり囲んでいる者たちの頭に、恐怖のかげがさしのぼった。
楯林驍でない楯林驍。
それがまた現れたと、驍はいっているのだった。
翌日、楯林驍が仙台の講習会ヘ発ったあと、森江は紀子に耳打ちして、朝の内二時間ばかり美容室を留守にした。
「なんだって?」
マサルがすうっとそばに寄ってきて、小声でたずねた。
紀子は、スペシャル・ルームの客へ出す紅茶をいれていた。
「うん……」
と、うなずいてなま返事をしたきり、彼女は黙って紅茶と羊羹《ようかん》の切り身を花模様のトレーにのせ、見習いの女の子を呼んでそれを運ばせた。
「ゆうべの件?」
と、マサルは重ねて紀子へ訊《き》いた。
「うん……」
「なんなのさ。じれったい。張り子の人形じゃあるまいし。ウンウンだけじゃわかンないじゃないのさ」
「角田さんに話してくるって」
「エ?」
マサルは紀子を見た。
「角田さんて、あの?」
「そう。新宿署の刑事さん」
「いいのかね、そんなことして」
「わたしも、森江先生にはそういってみたの。誰かが先に、そのタマ子さんてひとに一度会ってみてからのほうがいいんじゃないかって」
「そうだよ。たぶんその役、オレにまわってくるなって、オレ、そのつもりでいたのにさあ」
「マサルちゃん」
と、紀子は真顔になって、マサルをみつめた。
「博多でボスといっしょだったのはあなたなんだから、この際、あなたの感じとか印象ってのは、とてもだいじなことだと思うのよ。あなた、ほんとうになんにも気がつかなかったの?」
「そういわれると、一言もないんだよな。ゆうべも話したように、オレ、十時前までは、確実にボスのそばにくっついていたんだ。ホテルのバーで飲んでたんだから。『さあ、引きあげるか』ってボスがいうから、オレたちお開きにしたんだよ。ボスの部屋は七階。オレは五階だったんで、エレヴェーターのなかで『お寝《やす》み』いってわかれたんだよ。まさかあのあと、ボスが一人で出かけるなんて思っちゃいなかったから」
「ほんとうに?」
と、紀子は念を押した。
「いや、そういわれても困るんだよな。かりに、ボスが出かけるところをオレが見たとしたってさ、あとを尾行《つけ》るわけにはいかないよ。勿論、そんなことはなかったんだ。部屋に帰ると、バタン、キュー。そのまま眠っちまったからさ。君からの電話で叩き起こされるまで、ほんとにオレ正体なかったんだよな……」
「あれが、一時前くらいだったでしょ」
「そうだったよな」
「それからあなた、また寝たのよね」
「そう責めるなよ。ボスの部屋の前で帰りを待ってりゃあよかったのかい」
「責めてるわけじゃないわ。確認してるだけよ」
「だからいっただろ。十時に部屋へ引きとって、朝八時に顔を合わすまで、オレにはボスの行動はわからないんだ」
「ね。朝、顔を合わせたときに、何か、話すかなんかはしなかったの」
「普通だったら話してるよ。森江チーフが、電話のことは話さなくっていいっていったから、やめたんだよ。だって、ボスの夜遊び知ってますよってことになるんだろ。そんな厭味なこといえるかよ。チーフだって、その辺の気をきかせたんだろ?」
「でも、何か気がついたこととか……何かなかったの?」
「なかったよ。ボスは、しごくご機嫌よかったしさ、『コーヒーが美味《うま》い』なんて、二杯もお代りして、張りきっちゃってたからな」
「あんなにまっ赤な眼をしてるのに?」
「だから、それはいえやしないじゃない。ボスが部屋を空けてたことを、オレが電話で知らされてなきゃあ、そりゃあいちばんにいっただろうさ。オレも、まっ先に、あの赤い眼には気がついたんだからさ。けど、なんとなくいいそびれちゃったんだよ」
マサルには、紀子がしつこくその朝のことを聞きだそうとする気持も、よくわかるのだった。
男同士で気軽に喋り合う言葉や会話のはしばしに、その朝、驍の前夜の行動を推し量れるような事柄はなかったか。紀子は、それを訊いているのであった。
マサルも、いまではそう思うのだった。
──ボス、眠れなかったんですか。眼が赤いですよ。
というくらいは、あの朝、たずねてみてもいいことだった、と。
そしたら案外、驍は喋ったかもしれない。夜遊びに外出したことや、相手の女のことや、朝帰りしたことなどを。
いや、実際にはゆうべ、博多のタマ子という女からの電話がかかってきたあと、驍は、その夜の行動を、なんのためらいもなく、居合わせた者たちに話して聞かせてくれたのである。
楯林驍にとって、タマ子という女が見ず知らずの人間であることを、いまでは誰も疑いはしない。驍がいうように、それはまったく無関係な女にちがいない。
しかし、その無関係さを、できれば驍以外の人間が肌身で感じ、きっぱりと証言できる、そんな心の支えがほしかったのだ。
驍は、
「ほうっておけ」
と、いった。
「おれが、そんな女といっしょじゃなかったってことは、おれといっしょだった女が証明してくれる。一晩ぽっきり、行きずりの火遊び相手の女じゃない。よく気心の知れた女だ。いつだって証人にはなってくれるさ」
事実、驍が明かした女性の名前は、マサルや紀子にもおぼえがあった。村田森江や矢根アキ子も、その女性ならよく知っていた。
東中洲のクラブ≪ナースチャ≫の経営者。西崎三樹子。
博多の夜の世界では、トップ・クラスの美人ママだった。彼女はよく東京にも出てきたし、出てくると必ず驍の美容室へ顔を出した。スペシャル・ルームを使う上客の一人だった。
それも、水商売にありがちなべたつきや玄人臭を感じさせない、さわやかな気品と凛《りん》とした花やぎをもっていた。驍との仲も、いま驍にいわれてみると、やはりそうだったかと思いあたりはするものの、そんな馴じみや特別の間柄を、かつて一度もまわりの人間たちに感じとらせるような素振りなど見せたことはない女だった。彼女がくると、店がふと明るんで、晴れやかにゆらぎたつ。そんな雰囲気を持っていて、美容室の女連中にも評判は上々だった。
だから、驍の告白を、誰もがすなおに信じることができはした。
驍は十時過ぎにホテルを出て、まっすぐに≪ナースチャ≫へむかい、一時近くまでいて、閉店後、店の女の子二人と三樹子を連れてメキシコ料理店に寄り、そのあと女の子たちとわかれ、三樹子のマンションで夜を明かしたのである。
ホテルヘ帰ってきたのは、朝の六時近かった。
その話を聞かされたとき、村田森江が最初にたずねた言葉は、次のようなものだった。
「そのメキシコ料理のお店を出られたのは、何時頃か、おぼえてらっしゃいますわね?」
「正確な時刻など、わかりゃあせん。しかし、おれたちのほかに、店の女の子が二人もいたんだし、彼女らに聞いてみれば、そいつははっきりするだろう」
「そうですわね。それに、そのメキシコ料理店のほうでも、きっとおぼえててくれてますわ」
「だろうな。あんまり大きな店じゃなかったから」
「そりゃあもう大丈夫ですわ。ボスと西崎さんがごいっしょなら、誰だって忘れやしませんわ。こんなにめだつカップルなんて、そうそうザラにあるもんじゃございませんもの」
「お前、皮肉ってるのか」
「いいえ。現実を再確認してるんですわ。現実だけが、いまわたしたちには必要なんですから」
「お前がいうとさ、何か腹のしんにビリビリこたえて、落着かないんだよ」
「それは、ボスのご自由ですわ。わたしは、こんな女でございますから」
「もういいだろ」
「いいえ。よくはございません。ここのところは、はっきりしておいていただきませんと。ボスと西崎三樹子さん以外の方の証言がとれますのは、そのお店を出られる時刻までですもの。これはだいじなことですわ」
「わかった。聞くよ。聞きゃあいいんだろ」
驍は、電話機を引き寄せて、ダイヤルをまわした。
「ボス。お時間だけにしてください。ほかのことは、まだお話しになりませんように」
「わかってる」
楯林驍は、三分ばかり、福岡の三樹子と話していた。受話器を置くと、
「訂正する」
と、驍はいった。
「連れの女の子は二人じゃなくて、三人だそうだ。メキシコ料理店を出たのが、午前二時過ぎ。彼女の部屋へ着いたのが二時三十五分。これは正確な時間だ。彼女は時計を見たっていってるから。以上だ。これが今回のおれの博多の夜の全行動だ」
「わかりました。それだけうかがっておけば、ひとまず安心できますわ」
森江は、そういったけれど、誰も安心などした者はいなかったのである。
かつて、東京と京都に距離はへだたりながら、同じ日の夜、同時に存在した二人の楯林驍。その驍が現れた日に起こった事件のことが、思い出されるからである。
その夜、驍が京都にいたことはまちがいはないのだけれど、そしてそれは明確に証明できる事柄であるのだけれど、一つの美容室が火に包まれ、多数の死者を出したことも現実であった。
楯林驍の行動がその火と関わりのないことは、誰も疑いはしないのだけれど、その火が楯林驍の身辺にもたらした眼に見えぬ不吉な影は、誰の頭のなかからも拭い消されてはいないのである。
また何かが起こるのではないか。
いや、起こるとしたら、それはもうたぶん起こってしまっているかもしれぬ。
驍でない驍が博多の夜を徘徊《はいかい》した。起こるとすれば、それはその夜に、すでに起こっていなければならないような気が、誰にもしたのである。
その予感が、驍のまわりの者たちを、心のどこかで怯えさせ、落着かなくさせていることはたしかであった。
どんな事柄かはいざ知らず、何かがもう起こっているとしたら、それは防ぎようのないことだ。いま自分たちにできることは、それが防ぎようもないことだということを、誰かに、公に知ってもらう以外にはない。
村田森江が考えたのも、そのことだったのだろう。とにかく、何かが起こるかもしれぬ。それが何かはわからなくとも、わからぬ前に、手を打っておく必要がある。自分たちには、それが何かはわからないのだということを、はっきり第三者に知っておいてもらう必要がある。
いずれはまた、角田刑事の来訪を受けねばならぬような事態になるのなら、手をつかねてその日を待つよりもいま、こちらから出かけて行くべきときなのだ。ありのままを知らせておいたほうがいい。
森江は、そう考えた。つまり、先手を打つことが、防禦になると判断したにちがいない。
紀子にもマサルにも、その森江の判断は、まちがっているとは思えなかった。適切な処置かもしれぬと、理解はできた。
それに、楯林驍が現実に、タマ子と名乗るえたいの知れない女の出現によって、いわれのない迷惑をこうむっているのは事実である。もしまた、タマ子という女のいい分が真実だとすれば、楯林驍の名を騙《かた》る人物が存在するということにもなる。これは、警察に届け出ていっこうにふしぎはない事件でもあった。
森江の処置は正しいといえるのだけれど、しかし、なんとなくどこか気がかりで、釈然としない、心にわだかまるものがあるのだった。
クラブ≪サフラン≫のタマ子。
名乗りをあげている女がいるのだから、この女の言動を、まず一とおりたしかめてみる必要があったのではないだろうか。
「でもね」と、紀子は、考えながらいった。
「モチはモチ屋。その女のひとを調べてもらうのは、やっぱり本職の角田さんにまかせるのがいちばんかもしれないわね……」
「何が出てくるかわからないんだぜ」
「こちらに疚《やま》しいことがなければ……」
「何が出てきたっていいのかい」
「マサルちゃん。じゃ、あなた、ボスの行動に、どこか心配な点でもあるっていうの?」
「そうじゃないよ。そんなことじゃないけどさ……お前さんだって、そう思ってるんだろう? 今度は、東京と京都、ぜったいに同一人物ではありえないという地理的な不可能条件は、ないんだぜ。ボスは、タマ子という女がボスといっしょだったといってる夜、確実に同じ博多にいたんだから。それも、きわめてプライベイトな時間の過ごし方をしてね……」
マサルは、
「それに」と、口ごもりながら、続けた。
「どちらもクラブ。クラブの女。閉店後の寄り道。そのあとは、ベッド・イン……何かよく似てるじゃない。まあ、水商売の女との付合いにはお定まりのコースで、べつにふしぎはないといってしまえばそれまでだけど……それにしても、ボスがとった行動と、タマ子って奴が喋ってる内容とが、どこか似通ってるってのが、気になるんだよな。とにかく、女ってのが気にいらない。そうだろ。話の様子じゃ、どうもタマ子って奴、タチのよくない女みたいな気がするんだよな。おまけに、嘘かほんとか知らないけど、ボスだと思い込んでる相手にのぼせあがってるってのが、厄介だ。こういう手合いが、いちばん手こずらされるんだよな」
マサルは、ぽつんと、
「なにごともなきゃいいけどな……」
と、呟いた。
紀子もいまは、同じことを祈るしかない思いなのだった。
強壮なライオンの肉の褥《しとね》に、なぜだか、仕かけられた歓楽の罠《わな》の気配を感じるのだった。
誰が、また、なんのために仕かけるのか。
その相手の姿が見えないことが、不安であり、恐ろしいのであった。
同じ日の午後。楯林驍は、仙台から京都へ電話をいれていた。
反藤家の電話口には、若い男の声が出た。
「姉は、ただいま出かけております」
と、その声は抑揚のない口調で答えた。
「あの……いつ頃お帰りになりますでしょうか」
「わかりません。今夜は、たぶん、帰らないと思います」
「とおっしゃいますと……遠くへお出かけなんでしょうか」
「東京です。あなたの店へ行ったのです」
「え?」
驍は、あわてて聞き返そうとした。
電話は、その前に、一言、
「じゃ」
といって、先方から切れた。
そっけないといえば、にべもない電話であった。冷静といえば、ひどく冷静で、事務的この上ない応対の電話だった。
「姉」といったから、おそらく美濃子の弟の大学生なのであろう。それにしても、愛想のない男だな、と、驍はちょっと苦笑した。
だが指はもう、東京へのダイヤルをまわしていた。
──東京です。あなたの店へ行ったのです。
その言葉が、小さな昂奮めいた動揺を、いくつも驍の胸の内でゆらぎたたせていた。奇妙に濡れた情感だった。いいかえれば、楯林驍にはまったく不似合いな、手にあまる不意の昂《たか》ぶりなのだった。
「はい、楯林驍の美容室でございます……」
電話には、矢根アキ子が出た。
「おれだ。何か変ったことはないか」
「まあボス……どちらからですの?」
「ばかやろ。仙台にきまってるだろ。無駄口たたかずに、返事をしろ返事を」
「はい……いいえ……いまのところ、べつに何もございません……」
矢根アキ子は、ゆうべの博多からの電話のことを驍がいっているのだと勘ちがいして、急に声を低めて答えた。
「たてこんでるのか」
「はい」
「村田は」
「スペシャルに入ってらっしゃいます……」
「誰かたずねてこなかったか」
「いいえ、どなたも……あの、森江先生と代りましょうか……」
「いや。紀子を呼んでくれ。ああ、マサルでもいいぞ」
「はい。少々お待ちください……」
やがて、マサルの声がした。
「紀ちゃん、ヘア・ダイにかかってますから……」と、彼はいった。
「いい。お前でいい。あのな、京都の反藤さんがたずねてくるかもしれない。まだ、やってこないか?」
「いいえ」と、マサルはけげんな声になった。
「反藤さん、もうパリから帰られたんですか……」
「いや、そっちのほうじゃない。奥さんのほうだ」
「奥さん……あの美濃子さんですか?」
「大声をたてるな。そうだ、美濃子さんだ。彼女の顔を知っているのは、お前に紀子……村田も一度会ってるんだったな」
「はい……」
「じゃ、いいか。ひょっとしたら、頭をつくりにくるのかもしれん。もしそうだったら、お前たちが勝手にいじるなよ。おれは、今晩中にはそっちへ帰る。それまで待ってもらえ。彼女の都合が悪けりゃ、東京での連絡先を聞いておけ。いいな」
「はい、それはわかりましたけど……いったい、どういうことなんですか……」
「おれにもわからん。とにかく、京都へ電話したら、おれの店へくる用事で東京へ出たというんだ。今日か明日か、いずれにしろ彼女がやってくることだけはまちがいなさそうだ。いいな。今夜は東京泊りだそうだから、宿を聞くことを忘れるな」
「わかりました。よくわからないけど、そうします」
「バカヤロ」
と、驍は、とりすましたマサルの声に思わずつられて、ニヤッとした。
「ボス。念のために聞きますけど、これはチーフにもとおしてよろしいことなんですね?」
「あたりまえだろ。お前、気をまわしすぎるぞ」
「でも、声の感じがちがってますからね……ヤだねェ、眼の色変えちゃって……」
「アホ。仕事にもどれ。切るぞ」
「どうぞ。では、お早いお帰りを……」
驍は、しかし受話器を置いて、たしかに自分が気負いたっていた気がした。マサルに心の奥を見透かされ、けれどもそれがふしぎに快い甘やかな満足感にもつながって、自分をふと和やかな気分にさせているのが、驍には奇妙で、おかしかった。
この束の間、彼は、ゆうべの不快な電話のことなどを忘れているようにさえ見えた。
楯林驍に、一瞬あどけない子供のような表情が浮かび、彼は無心に眼前の宙へ瞳をあずけているのであった。
長い黒髪の流れのなかに、一本のハサミを躍らせている自分の手が、そこには見えた。指は機敏な生き物のように、幻の宙で動いた。
ほんの一瞬の幻影ではあったが、驍の眼はきらきらと光って、その映像を見のがさなかった。
(できそうだ)
と、彼は思った。
(クロウ)
そんな言葉さえ、不意に頭のなかに浮かんできた。
|CROW《クロウ》
(そうだ。烏なのだ)
メイン・テーマは、烏《クロウ》。
あの烏の美しさが、反藤美濃子の黒髪で自分は表現したかったのだ。
どうしてこのことに気づかなかったのか。
何かが形になりかけて、掴めない。できそうでいて、できない感じに悩まされて踏ン切りがつかなかったコレクションのメイン・テーマが、急にこのとき、具体的に姿を現し、動き出したという気が、驍にはしたのだった。
祇園祭の月鉾の屋根にとまっていたあの烏。
あの破風拝みの烏の美を、自分はデザインの世界に持ち込みたかったのだ。
東京駅の八重洲口で、黒い透かし模様のロング・ドレスを身にまとった反藤美濃子を見かけたとき、彼女の長い黒髪のゆらぎの上に自分が不意に展開できそうな気がしたあの世界。優雅な、蠱惑《こわく》にみちた、とつぜんのあの衝動。
あれ以来、心にかかって離れない、眼をつぶればたゆたうような、酔いの深間にふとひきずり込まれてでもいるような、あのふしぎな情念の奥底には、烏への創造欲が重なって流れていたのだ。
自分は、あの月鉾の破風拝みの烏の世界を、反藤美濃子の女身の上に創造してみたいと、自分でも知らぬ間に思い続けていたのにちがいない。
楯林驍はいま、そのことに気づいているのだった。まるで、眼の前の重いもやが吹き払われでもしたような気分であった。
美濃子が自分をたずねてくると思っただけで、たちまち視界が一薙《ひとな》ぎに洗われるように晴れあがるこの不可解な澄明感に、驍はそしておどろいていた。
烏《クロウ》。
(そうだ。これで、もうきまった)
と、彼は、思った。
しかし、ここで、ちょっとつけ加えておく必要はある。
楯林驍が、この年の秋のコレクションで、デザイン・テーマに烏をとりあげたのは事実であるし、そしてその華麗な造形技術や独創的な美の展開力にめざましい花々しさを盛り、大きな反響をまき起こしたのも現実のことではあるけれども、ここで断わっておいたほうがよかろうと思われる。
このコレクションの成功を、彼は、烏の美しさに惹かれて湧きたった自らの創作力のせいだと信じきっているけれども、それは彼が、まだ烏の秘めているほんとうの世界の恐ろしさに、気がついていないためである。
あるいはこういいかえてもよいかもしれぬ。
彼は、知らずして、彼自身の内に封じこめられている烏の世界を、このとき垣間見たにすぎないのだ、と。
要するに、楯林驍にとって、烏は、美の対象になるだけですまされるような禽《とり》ではないのである。
烏が、彼にとってもっと恐怖にみちた禽であることを、彼はいずれ知ることになるであろうけれど、現在の楯林驍には、そのことがわかってはいなかった。
彼は、ただひたすらそう思っていた。
烏に自分が美しさを見出すのは、そしてそれを作品化して結晶させ得たのは、これはデザイナーとしての自分の眼や能力のたまものなのだ、と。
反藤美濃子の美しさに心惹かれると同じように、彼は、祇園祭の月鉾の破風拝みにとまる烏も、自分には美しいと感じられるのだと、思い込んでいたのである。
しかし、彼がそう思い込んだとしても、それは無理もないことだった。
彼には、ほかに思いあたる理由がなかったのだから。あの祭鉾の屋根を飾る一羽の烏が、自分の頭のなかにとどまって、忘れられないでいることの理由が。
ともかくこうして、楯林驍は、彼のヘア・コレクション≪ジャグラー・イン・セプテンバー≫のメイン・テーマに、≪烏《クロウ》≫の世界を選びあげることになった。
驍が仙台から帰ってきたのは、夜中で、無論美容室はもう営業を終えていた。
「きたか?」
と、驍は店へ入るなり、迎えに出た紀子にたずねた。
「いいえ。お見えにはなりませんでした」
「こない?」
「はい。お電話がありました」
「電話?」
「はい。明日の朝、スペシャルをご予約なさいました」
「スペシャル……」
「はい。今晩は、ニュー・オータニにお泊りだそうでございます」
「じゃ、髪結いにだけきたのかい?」
「いえ、ボスにご用がおありらしゅうございましたわ。ですから、ぜひお目にかかりたいから、明日にするとおっしゃいまして……」
「そうか」
「ついでに、お髪《ぐし》のほうもいかがですかとすすめたのは、マサルちゃんですわ」
「マサルが?」
「ええ。そしたら、急にその気になられたようで、スペシャルを予約なさいました」
「ああ、ボス、お帰りなさい」
と、そこへ、マサルが奥から顔を出した。
「お申しつけどおりの手筈になっておりますから」
と、マサルは、心得顔にニヤッと笑った。
楯林驍の美容室は、ともかくこの日一日だけは、万事が順調で、平穏だった。
贈呈花の火
驍は、八時きっかりに店に出てきた。
ラウンジの入口にあるガラス製のコンソールに陶器の深壺が出してあり、アンスリュームが、二、三十本、どさっとひとまとめにして生けこんであった。
強烈な鮮紅色の仏焔包《ぶつえんほう》が、なまなましい火の色だった。
驍は一瞬、眉をしかめた。
「おい」
そばにいた見習いの女の子をつかまえて、いきなりいった。
「これは、なんだ」
「おはようございます」
と、びっくりしたように女の子は振り返って、挨拶した。
すぐに驍の質問に気がついて、
「さあ、さっきアキ子先生が生けていらっしゃいましたけど……」
「アキ子が?」
「はい」
「呼んでこい」
「はい」
女の子は、すっとんで奥へ消えた。
「おはようございます、ボス」
待つほどもなく、ユニホーム姿の矢根アキ子は出てきた。
「何か、ご用でしょうか」
「これは、なんだ」
と、驍は、同じ言葉をもう一度くり返した。
「お花ですけど」
「花はわかってる」
「アンスリュームでしょう?」
「ばかやろ。どうして、こんなものが入口に置いてあるかと聞いてるんだ」
「はあ」
矢根アキ子は、よく意味がのみ込めないといったふうに、なま返事をして、
「いけなかったでしょうか」
と、たずね返した。
驍の雷が落ちた。
「お前、これが店の入口を飾る花になってるとでも思ってるのか。ドアをあけたら、この壁面は、いわば楯林の玄関だぞ。この無神経な花は、なんだ。無造作ってのと、無神経とは、ちがうんだぞ」
「すいません。生けかえます」
アキ子は、あわてて花壺を奥へ持って入ろうとした。
「ちょっと待て。その花は、このコンソールに置くのはやめろ」
「はあ?」
「ほかのにしろ。もっとやわらかな感じのものがいい。何かあるんだろ? 花屋の店先じゃあるまいし、そんなしつこいのをどさっとほうりこんで、暑苦しくていけないよ」
「はあ……」
「奥の花は、なんだ?」
「淡いオレンジ色の薔薇《ばら》ですけど」
「それでいい。とりかえろ。それから、そのけばけばしいの、まとめていれるんじゃないぞ。もっと、まくばれ。お前、この店のセカンドだろ? 髪だけいじってりゃ、デザイナーってわけにゃいかないんだぞ。多少みっともないとは思わないのか」
「すみません」
根が陽性な矢根アキ子は、ひょこっとおどけ気味に肩をすくめてはみせたが、
「でも」
と、いささか、心外そうな表情もした。
「マサルちゃんも、あそこがいいっていったんですよ」
「うん?」
「わたしは、ちょっと強烈すぎやしないかって反対したんですわ。そしたら、そのパンチが、ボスの逆説だろって、いうんですもの」
「逆説? お前、なんの話してるんだ」
「お花の話ですよ。ボスがお店のお花に注文つけられることなんて、かつてない椿事《ちんじ》だから、それも普通のお花じゃないでしょ、しかも五十本もあるんですもの……」
「五十本?」
「ええ。スペシャルのほうにも、まだこのくらいありますわ」
「何ィ?」
「だから、こんなに強烈な花を大量にお買いになったんだから、それはそのままそっくりドデェッと……スイマセン、これマサルちゃんがいったんですから……ドデェッと、野性的に生けろってことなんだろうって、彼、いっぱしなこというもんですから……わたしも、お店のほうのお花は、もう十分に足りてるし、その上こんなに量あったんじゃ、やっぱりそういうことかしらねって……それで、ついその気になって……」
「待て」
と、驍は、さえぎった。
「おれが、この花を買ったって?」
「あら。そうじゃないんですか?」
「ばかやろう。だれが、こんな毒々しい花を」
「まあ。ボスがご注文になったって、マサルちゃん、いいましたわよ」
「マサルを呼べ」
「きてます。ここに」
マサルは、驍のうしろに立っていた。
「どういうことなんだ、これは」
「それは、こっちで聞きたいですよ。いきなり、ドサッと、お店あけたばかりのところへこれなんですもん。花は、まだ昨日かえたばかりでしょ。みんな、ピンピンしてますもん。ほかに考えようないじゃないですか。ハハア、では、今日のお客さんのために、これを生けろってことなんだなって……僕じゃなくたって、思いますよ」
「何をいっとる」
「いいえ。花屋だっていってましたよ」
「なんて」
「アンスリュームを五十本。そういう注文だったそうですよ。いつもの花屋じゃないから、僕、たしかめたんだから。楯林驍美容室だって、ちゃんと男の声で電話の注文があったそうです」
「おれは、知らんよ」
「ほんとですか? 僕は、てっきりボスだと思ったんだけど」
「じゃ、代金はまだなのか?」
「払いましたよ」
マサルは、急にカッとして、
「ちくしょう。あの花屋、カタリやがったな」
と、舌打ちした。
「どこの花屋だ」
「それが、ついうっかり……」
「聞かなかったのか」
「はい」
熱帯アメリカ原産の濃彩な観葉植物は、光沢のある真紅の仏焔包が、一見、蝋細工の人造花を思わせ、その名のとおり炎の舌を見るようだった。
不吉な連想だった。
驍は、その花を全部捨てさせた。
とにかくそんなことが、その日の朝のはじまりには、あった。
反藤美濃子が現れたのは、予約の時間どおり、午前九時きっかりにであった。
淡い青藍色の気品のある和服姿だった。
村田森江が、スペシャル・ルームヘ案内した。
「ほんとにその節はお世話になりまして……」
「何をいうといやす。こちらこそ」
美濃子は、驍が入ってくると、椅子から立ちあがった。
「やあ。ようこそ」
「ご機嫌よろしゅう」
森江は、それをしおにスペシャル・ルームを出た。驍のはずんだ声が耳に残った。
「チーフ。たいへん」
マサルが、そんな森江を呼びにきた。
「もう結構よ、そのたいへんは。おどかさないで。寿命がちぢまりそうだから」
「それどころじゃないですよ。ほんとにたいへん」
「なんなのよ。早くおっしゃい、用件を」
「電話です」
「電話?」
「はい。ボスに」
「誰から」
「西崎三樹子」
「西崎さん?」
森江は、びくっと聞きとがめた。
「博多の『ナースチャ』のママです。やってくるっていうんです。何か、急用らしいですよ」
「かかってるの? いま」
「はい。スペシャルの予約を聞いてきてます」
「なんだ。お髪《ぐし》にみえるの。それを早くおっしゃい。びっくりするじゃないの」
森江は、赤いふちの眼鏡に手をかけて、そしておろした。
「すこしお時間ずらして、お引き受けなさい。午後だったら、大丈夫でしょ」
「それが、空港からなんです」
「羽田?」
「はい。すぐそちらへうかがいたいのだがって、都合を聞いてきてます。どうします?」
森江は、瞬時ためらったが、いま出てきたばかりのルームのドアを、ノックした。
「千客万来」
マサルは、独り言のようにいって、レギュラー・ルームのほうへ引きあげた。
口調は軽口めいていたが、声のひびきに、隠しおおせない不安の色があった。
「失礼しました」
中座した驍がもどってくると、反藤美濃子は、袱紗《ふくさ》包みから白い角封筒をとり出して、小卓の上へ置いた。
「なんです?」
「これ、お返ししとくようにと、主人がいうてまいりましたさかい、どうぞ、お納めになっといておくれやす」
驍が破損した絵皿の弁償金に届けた、手つかずのままの封筒だった。
「それは困ります」
「いえ、ちょっと前に手紙でいうてきてましたのどすけど、家をよう空けへんなんだものですさかい、遅うなって……これ、お返ししときませんことには、帰ってまいりまして、わたしがおこられます。もうなんでも行ってきとかんことにはと、出かけてきましたのやさかい、助けると思うて、納めてやっておくれやす」
「弱ったなあ……あの、まだ反藤さんは、パリのほうで?」
「へえ。もう二、三日先には、もどってまいります。そやよって、これだけは片づけさせてもろうとかんことには、気が気やおへんのどしたんどす。お頼ン申します」
「弱った、ほんとに弱った」
と、驍は、ふだんの彼からは想像もできないほど殊勝にかしこまった感じで、「弱った」を連発した。
「じつは、今日は、僕のほうで、奥さんにお願いごとがあったんです。京都のお宅にうかがって、お願いしなきゃならないところだったんですが……弱ったな、わざわざ出てきていただいた上に、こんな調子じゃ、きり出せやしない……」
美濃子は、柔らかな眼で、そんな驍の困惑ぶりを、微笑ましいものでも見るように、眺めた。
「なんどすやろ。昨日お電話いただいたそうで……」
「ご存じでしたか」
「へえ。弟が連絡してくれまして……ちょうどよろしおしたやないの。いうてみとくれやす」
驍は、思いきって、いつかの東京駅の八重洲口で見た美濃子のことを口にした。その夜、自分はコレクションのメイン・テーマを掴んだ、というふうに話した。美濃子に、ぜひ≪ジャグラー・イン・セプテンバー≫のメイン・モデルをつとめてほしいと、依頼したのだった。
反藤美濃子は、ふしぎそうな表情で聞いていたが、話が終ると、ふと笑い出した。
「先生、それはあかしまへんわ」
「だめですか」
「へえ。だめどす。そやって、その黒いドレス着てはったというおひと、わたしやありませんもの」
「え?」
「そりゃあ、そんな先生の創作意欲をかきたてはるような美しいおひとにまちがえられて、冥利《みようり》につきますえ。そやけど、おひとちがいしてはるのに、なんでそんなお役、わたしにつとまりますかいな」
「ほんとうですか? その話」
驍は、真顔で美濃子を見た。
「ほんとうも嘘も、あらしまへん。いったい、いつのことどすのん?」
「京都のお宅に、うかがった日の夜です」
「ええ?」
美濃子は、きょとんとした。
「あれから新幹線に乗って着いた、その東京駅の八重洲口でです。あなたは、喫茶店で、雨野華子さんと話してらした。お茶を飲んでらした」
美濃子はおどろいたような顔になった。
「へえ? 雨野華子さんて、あの美容家の雨野さんどすのん?」
「そうです」
とたんにまた、美濃子はふき出した。いかにもおかしそうに、両の手のひらで口もとをおおった。
「いやどすえ、先生。からかわんといてください。なんでわたしが、そんな有名なお方、存じあげておりますのん。それに、考えてみとくれやす。魔法使いやあらしまへんえ。京都にいてましたやないの」
「だから、僕も、ちょっとふしぎな気がしたんです。飛行機でみえたのかと思って」
「飛行機?」
美濃子は、また笑った。
「やめとくれやす。おひとちがいどす。わたし、飛行機なんてよう乗らしまへんえ。あれだけは、怖《こお》うて、とてもよう乗らしまへん。引きつけ起こしますねん。それに、黒いドレスも、持ってしまへんえ」
美濃子はひとしきり笑ってから、驍の真剣なまなざしに気づき、真顔にもどった。
「いや、かんにんしとくれやっしゃ。あんまりびっくりなさはるさかい……」
「反藤さん」
と、驍は、美濃子の声をさえぎった。
「それがほんとうだったら、それでもいいです。ひとちがいでもかまいません。あの晩、八重洲口で見たのは、ほかの人間じゃない。あなたなんですから。かりにひとちがいだったとしても、僕は、僕の知っているあなたを、そのひとの上に見たんですから、あれがあなただったことに変りはない。お願いします。力を貸していただけませんか」
美濃子に、かすかな動揺が起こった。
「とても、そんなことできしまへん。そんな……専門のモデルさんたちにまじって、大それたこと……逆立ちしたかて、そんな大役、ようつとめまへん。いじめんといておくれやす。せっかくの先生のお仕事、ぶちこわしてしまいますえ」
「いえ、あなたでなければ、できないんです。あなたが引き受けてくださらなければ、僕はこのコレクション、とりさげるほかはないんです」
「そんな無茶な……」
「そうなんです。僕は、無茶をいってます。でも、その無茶がかなえられなければ、今度のショーは中止するほかありません」
「先生……」
「お願いします。無論、ご主人には、僕からご許可を乞いにあがります」
三十分ばかり、今度は美濃子のほうが「困った、困った」を連発する側《がわ》にまわった。
押し問答のあげくに、反藤美濃子は、ふとまっすぐに眼をあげて、驍を見た。
「ほんまに、わたしに、できると思うておいやすのん?」
「思っています」
美濃子の瞳に、束の間、花やかな光がよぎった。
「そんなら、わたしのお頼みも、聞いておくれやすか? このお金、お納めになっておくれやすか?」
「え?」
楯林驍と美濃子は、このとき、はじめておたがいの瞳の奥をゆっくりとみつめあった、といえるのである。
「失礼します」
ドアにノックがして、紀子が、客に着せるブルーズと驍専用のシザーズ・バッグを持って入ってきた。
「ご用意いたしましょうか」
と、彼女はいった。
その日、驍は、美濃子の長い髪の毛にはほとんどハサミをいれなかった。
「よろしおすえ。煮るなと焼くなと、しとくれやす。おまかせした以上は、俎《まないた》の鯉どすよって、バッサリ切ってもろたかて、かめしまへんえ」
「いや、これで十分です。ハサミは、反藤さんのご承諾を得てからいれさせてもらいます」
驍は、デッサンをとったり、頭のくせや毛質ののみこみなど、イメージ造りに時間をかけ、崩した髪はまたもとどおりの形にもどして結いあげた。
「それでは、お帰りになったら、早速出むきますから」
驍が反藤美濃子を送ってクロークの前までやってきたとき、スモーキング・グラスの瀟洒《しようしや》な表ドアを押して入ってきた和服の女がいた。
顔形やタイプは異《ちが》っていたが、情趣という点では、その匂やかな気品や花やぎは、美濃子にひけをとらない女であった。
二人は、すれちがうとき、軽く会釈を交わし合った。
交わし合ったというよりも、西崎三樹子の会釈に、美濃子のほうがつり込まれてちょっと頭をさげたといった感じのものだった。
村田森江がドアの外へ送りに出ると、美濃子は、振り返って森江にたずねたという。
「きれいな方どすわね。どなたはんどすのん?」
誰かとたずねたその言葉に、不自然なひびきはなかった、と、村田森江はあとで驍に述懐している。
「ほんとうに、ご存じなかったみたいでしたわよ」
と。
しかし、すれちがった西崎三樹子のほうは、ルームヘとおされると、驍にいった。
「ご常連なの?」
と。
「ん?」
「いまの方」
「ああ、いや。今日がはじめてだよ」
「お着物も、お召しになるのね。すてきに体についてるわ」
「知ってるのか?」
「ええ。うちに、ときどき見えるわよ」
「なんだって?」
「もっとも、最近のことだけど。いつも、お洋服召してるわ」
「洋服」
「ええ。つい二、三日前も……」
と、三樹子は口にして、思いついたように、「そうよ」と、いった。「あなたが博多に見えた日にも、いらしてたわ」
「え?」
「そう。あなたといれちがいくらいじゃなかったかしら。一時間ばかり、お連れさんと見えてたわ」
「連れって? 女の?」
「いいえ。殿方。すてきな方よ。背の高い、さわやかな感じの」
驍は、わずかに身じろいだ。
さりげなさを装おうとしたが、喉《のど》のあたりに、渇きがのぼった。
「いつも、連れといっしょなのか?」
「いいえ。あの晩がはじめてよ。わたしも、詳しくは知らないのよ。お名前も存じあげないわ。おっしゃらないから。いつも黙って、ちょっと飲んでお帰りになるだけ。でも、博多の方じゃないとは思ってたわ。やっぱり、東京だったのね」
「でも、話したことはあるんだろ?」
「ええ。あたりさわりのないご挨拶くらいはするけれど……いつも、お店の子がお相手してるから」
「それで、気がつかなかったのか?」
「あら、何が?」
「彼女の言葉」
「言葉って?」
「東京だと思ったのか?」
「ええ。きれいな標準語使ってらしたわよ。標準語にごまかされやしないけど、でも、東京って色は、わかるわよ。そのくらいのお商売はしてるつもりよ」
「ところが、そうじゃないんだな。彼女は、京都だよ」
「あら」
「あの京言葉が消せるかなあ」
驍は、むしろ独り言のように呟いた。
西崎三樹子は、しかし小首をかしげて、
「そうかしら」と、いった。
「わたしは、そんな気がしないんだけど」
「しないったって、そうなんだから。京都生まれの、京都育ち。京女だよ、あのひとは」
驍は、しきりに自分に納得させようとでもしているみたいだった。
「そうかなあ。京都弁使ってらしたの、お連れさんのほうなのよ」
「え?」
「殿方が使ってらっしゃるのに、京都の方だったら、京言葉が出ないというの、おかしいんじゃなくて? でも、先生も、さすがね」
「ん?」
「まあ、そらとぼけて。おそれいりました」
「よせよ。そんなんじゃないよ」
「いいえ。あの方見たとき、わたし、ほんとにシャッポ脱いだわ。博多の中洲で、凄い魚を見て眼をみはったのよね。東京へ出てきたら、ちゃんと先生の網のなかで泳いでるんだわ、その魚。ほんとに、ギョッとした感じ。いえ、これは、すなおにそうよ。先生の偉力を、思い知らされたわ」
「よさんか。それより、その連れの話を聞かせてくれよ」
「まあ、いけしゃあしゃあと。眼の色が変ってましてよ」
三樹子は、いたずらっぽく笑って、
「そりゃあ、ちょっとしたナイス・ガイでしたわよ。いや、ガイって感じともちがうわね。こう、どことなくしずかで……端正な感じで、精悍なひと。凛々《りり》しいっていうのかしらね。そう。わたしは、さっきの方よりも、その殿方のほうに、お着物着せてみたらすてきだろうなって、思ったわよ。焼き物、焼いてるっておっしゃってたから」
楯林驍は、唐突に顔をあげた。
「焼き物?」
「ええ。そんなふうにおっしゃってたわ」
「名前は」
「だから、それはうかがってないのよ」
「どんな男だった」
「いやだわ、先生。いま話したばかりじゃありませんか」
「もっと詳しく話せ」
三樹子は、軽く驍をにらんだ。
「先生。そんなこといってる場合じゃありませんわよ。わたしが、どうして今日ここへきたか、そのことがお気にはならないの?」
「何か急用があるんだろ。そのことは、ゆっくり聞く」
「ゆっくり聞かれたんじゃ、わたしの立つ瀬がないでしょ。急用だから、とんできたのに。福岡を一番で発つ飛行機にとび乗ってきたんですのよ」
「よし。じゃ、その話から聞く。そのかわり、彼女の連れのこと、詳しく聞かせろよ」
「詳しくなんておっしゃられても、さっきお話したくらいのことしか……だって、はじめて見えた方なんですもの。がっしりした体格で、背丈は先生くらいかしら。とにかく、高い方。男らしい顔つきの……そう、たしかパリの話をしてらしたわ」
「パリ」
驍は、息をとめた。
なぜだか、予感にぴたりときた、それは待っていた言葉のような気がしたのだった。
反藤繚一郎。
まだ会ったことのない男であったが、会わなければならない男だった。
たったいま、二、三日先には帰国すると、彼の妻が話して帰ったばかりの男だった。
その反藤繚一郎が、三日前に、福岡にいた。
しかも、彼の妻、反藤美濃子《ヽヽヽヽヽ》といっしょにだ。
洋服を着た美濃子。
東京駅の八重洲口で、黒い透けたロング・ドレスを優雅に着こなしていた美濃子。
それが美濃子ではなかったと、たったいま、美濃子自身の口から聞かされたばかりであった。
(これは、どういうことなのか)
美濃子は、嘘をいっているようには思えなかった。彼女は、二、三日後に帰国する夫を、ほんとうに待っている女に見えた。夫が帰国する前に、金を返しておかなければといって、そのために驍をたずねてきたのだった。
では、すでに三日前に、博多の東中洲にいたという焼き物を焼く、パリの話をしていた男は、いったい誰なのか。
そして、その男といっしょにいた、美濃子に見まちがうほどの女。洋服を着て、きれいな標準語を使っていたという女は。
(そして……)
と、驍は、思った。
その同じ夜、自分もまた、その博多にいたのである。
楯林驍は、彼の愛人西崎三樹子の顔を正視していた。だが、その眼は、三樹子を見てはいなかった。
彼女が、ある思いがけない言葉を口にするまでは。
西崎三樹子は、この直後、そういったのである。
「それよりも、先生。たいへんですのよ。何かのまちがいだとは、思ってよ。でも、ゆうべ、とても変な噂を聞いたの。もう、いっときもじっとしておれなかったの。早くお知らせしとこうと思って」
三樹子は、急に声を低めた。
「一昨日の晩、中洲の川に、あるクラブの女の子の死体が浮かんだの。いえ、|女の子《ヽヽヽ》とは、いえないかもしれないわ。クラブ≪サフラン≫ていうゲイバーの子なんだから」
楯林驍は、ふと、通り過ぎた言葉を追いでもするように、ゆっくりと耳をそばだたせた。
西崎三樹子が帰ったあと、楯林驍美容室のおもだったメンバーたちのあいだには、なんとなくなりをひそめたという感じがあった。
プライベイト・ルームのドアをノックして村田森江が入ってきた。
驍は、つとめてなにげなさを装うふうに、無造作な口調で仕事の話をはじめた。
「反藤美濃子さん、出てくれることになったからな。したがって、メイン・テーマもきまった。君にもちょっと話したが、『クロウ』、烏でいくことにした」
「そうですか。おめでとうございます。これで軌道に乗れますわ」
森江はいれてきた紅茶を机の上に置きながら、
「では、正式にコレクション・テーマにタイトルがつきましたところで、お茶をどうぞ。ブランディでもいれましょうか」
「いや、いい」
驍は、カップをとりあげて、ふと眼をとめた。金色の光のゆらぐ紅い茶の香りのなかで、不意に頭の奥をよぎるものがあった。
──タイトルがついた
という森江の言葉に、それは誘発されて、時ならず頭の隅を走って消えた英文の詩句であった。
≪Solomon Grundy,
Born on a Monday,
Christened on Tuesday,
……………………………≫
ソロモン・グランディー、
月曜に誕生、
火曜に命名、
所在ないとき、ふと脳裏に浮かぶ唄の文句だった。このところ忘れていて、思い出しもしなかった≪マザー・グース≫の一節だった。
「何曜日だ、今日は」
「は?」
と、森江は聞き返し、顔をあげて、驍のうしろの壁のカレンダーを見た。
「木曜日でございます」
「そうか」
驍は、紅茶を一口すすってから、またなにげなく瞳をとめた。
「コレクションの日は、何曜日だ?」
「九月二十日は、月曜日です」
と、村田森江は即座に答えた。
「土曜に会場とりましたんですが、同じ日にK年金ホールで雨野先生のショーがおありになるんで、ボスがお変えになりましたでしょ?」
「ああ、そうだったな」
「何か?」
「いや、いい」
驍は、カップをもったまま窓辺へ立って、うす曇りの靖国通りを見おろした。
意味もなく、
──月曜に誕生、
火曜に命名、
その言葉が、頭の隅にまた浮かびあがっていた。
コレクション・ショーは、月曜日。だが、誕生という言葉はあたるまい。はじめてのショーではないのだし、ヘア・デザイナー楯林驍が、その日この世にデビューするというような意味あいのものでもない。楯林驍の名は、国内では無論、国際的な舞台でも確固とした地位を築きあげている。誕生《ヽヽ》などという言葉に該当する事柄は、どこにもあるまい。偶然の月曜日《ヽヽヽ》なのだ。
しかし、新作デザインを発表する日という点では、それはあるいは一つの≪誕生の日≫と呼べる一日であるかもしれない。
(いや。意味のないことだ)
と、楯林驍は、その考えを打ち消した。
火曜に命名。
たしかに、命名というならば、反藤美濃子本人の承諾を得た今日が、このコレクションのメイン・テーマに『クロウ』というタイトルを冠することの実現した≪命名の日≫、と思ってよい。もし、唄の文句に何かの意味があるのなら、今日は木曜日であってはならない筈だ。
Took ill on Thursday,
木曜に発病、
そう。木曜日には、発病《ヽヽ》だ。
≪マザー・グース≫は、そう唄っている。
今日が、火曜日ではなく、木曜だということが、≪マザー・グース≫のいわれのなさを明らかにしてくれているではないか。
楯林驍は、そんなことを、ふととりとめもなく考えた。考えている自分に、苦笑しながら。
「お髪《ぐし》じゃございませんでしたの?」
と、森江がそんなとき、背後でいった。
「ん?」
「いえ。西崎さま」
「ああ」
驍はなま返事をして、一瞬、森江に話したものかどうか、ためらった。
べつにためらうほどのことではないと思いはしたが、改めて口にするのが、不快であった。
「何か、ございましたんですか?」
「うん……」
西崎三樹子が告げていった博多の夜の噂話というのは、およそ次のようなものだった。
三樹子は、ゆうべ、店のホステスの一人に耳打ちされたのだという。
「ママ、楯林先生のお名前が出てるんだけど……」
「そう」
「|そう《ヽヽ》じゃないわ、ママ。変な噂よ」
「変なって?」
「ほら、酔っぱらってホステスが那珂川《なかがわ》に浮かんでたって話……」
「ええ、それならわたしも聞いたけど?」
「あれ、ホステスじゃないんですってよ。ゲイバーの子なんですってよ」
「まあ、そう」
「まあそうじゃないわよ、ママ。その子、のんだくれて、ずいぶんあちこちの店、あるきまわってるらしいのよ。行く先々で、死んでやるって、そりゃあ派手にわめきちらしてたらしいわよ」
「へえ」
「へえじゃないったら、ママ。その子が、くだまいてあるいた相手というのが、楯林先生らしいのよ」
「ええ?」
「そうなのよ。楯林先生と何かあった子らしいのよ」
「まさか」
「そうでしょ。変な話でしょ。でも、ずいぶんひどいこといいふらして、荒れてまわってたらしいのよ。あげくのはてに、夜明け方、那珂川に浮いてたっていうんだもの。いやじゃない、ママ」
「どこの子、その子」
「サフランの、タマ子って子なんだって」
ホステスは、そういってテーブルを振り返り、
「奥のお客さん、よく知ってるんだって。その子を」
と、告げたのだという。
三樹子が、その客のテーブルについて、それとなく聞き出した話によると、タマ子という子は、≪サフラン≫でもかなり古顔のほうの子で、酒好きで、しょっちゅう酔っぱらっていたという。『泣きのタマ子』といって、酔っぱらうと泣きごとが出るクセと、閨房《けいぼう》での甲《かん》高い泣きの声が有名だったという。二十七、八の、その道ではわりに売れていた子だったそうだ。
タマ子が、死ぬ前にくだをまいていたというのは、もっぱら楯林驍の冷たい仕打ちへの泣きごとで、驍をさんざんに誹謗《ひぼう》し、
「死んでやる。死んでやる」
と、面《つら》あてにわめきちらしていたのだという。
つまり、タマ子は、死んだとき泥酔状態ではあったけれど、それは酔っぱらって川へ落ちたのではなく、自分でとび込んだのかもしれない、というのが、その噂のあらましなのであった。
「でも……」
と、村田森江は、信じきれないような口振りで、驍を見た。
「あの電話の声、男のひとの声だったと思えます?」
「そういう声なんだそうだ。声だけ聞いてるぶんには、女と区別はつかない子だったっていうから。それが売り物の子だったらしいんだ」
しばらく、森江は、途方にくれたような眼で、驍をみつめたまま黙りこんだ。
「じゃ、あの電話のあった晩に……」
「そうだ。死んだんだそうだ」
驍は、さめた紅茶の残りを一息にあおって、
「まったく、ばかげてる」
と、呟いた。
「心配するな。したって、はじまらん。こっちの事情は、西崎にもよく話しておいた。西崎は、おれとそのタマ子って子が、もし顔見知りだったらと、心配してきてくれたんだけど、タマ子の電話のことを聞いて、彼女もおどろいてたよ。そりゃあそうだろ。あの晩に、おれが、そんな子と出会える時間なんてありゃあしないんだから。西崎がいちばん、そのことはよく知ってるんだから。≪サフラン≫って店にも行けやしないし、≪天神≫てパブにも行けやしない。まして、そんな子とホテルに泊るなんてこと、おれにできる筈がないんだからな。西崎が、調べてくれるそうだ。あいつにまかせとけばいい」
驍は、そういって、机の上のデッサン画を手にとった。
本炭の素描がおどる幾枚かの画面の上に、反藤美濃子の顔が浮かびあがる。驍は、その顔にひきずられるようにして、木炭をもった手を動かしはじめる。
さしあたって、いま自分がしなければならない仕事はこれなのだ、と自分にいい聞かせでもするように、彼はその作業に没頭しはじめた。
驍が博多にいた同じ夜、やはり中洲の街にいたという反藤美濃子《ヽヽヽヽヽ》と|連れの男《ヽヽヽヽ》。
むしろ、そのことのほうが、驍にとっては謎であった。
美濃子《ヽヽヽ》といっしょに≪ナースチャ≫に現れたという男。それが、反藤繚一郎《ヽヽヽヽヽ》ではあるまいかという疑いが、驍の胸のなかでは消えないのであった。
だが、彼は、そのことは、このとき村田森江には話さなかった。
いずれ二、三日したら、京都に出むくことになるだろう。そのとき、本人に会った上で、たしかめることもできるかもしれない。
反藤美濃子のほうは、おそらく、はっきりと彼女が否定した、洋服を着た|反藤美濃子ではない美濃子《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》なのであろう。
西崎三樹子が見まちがうほどの女《ヽ》が、そうざらにいる筈もないであろうから。そして、驍自身も、東京駅で、その女《ヽ》を見ているのだから。
たぶん、驍が東京駅の八重洲口で見た女《ヽ》と、西崎三樹子が≪ナースチャ≫で見かける客だという女《ヽ》は、同一人物であろう。
それは、反藤美濃子でなければならない女《ヽ》なのだから。
しかし、美濃子は、それを自分ではないという。
美濃子と繚一郎。妻と夫だ。
かりに、彼らが、その夜博多にいたとしても、よく考えれば、それはすこしもふしぎなことではない。彼らが立ち寄った店が、たまたま≪ナースチャ≫だったというだけで、これは偶然のことなのだと考えて考えられないことはない。
妻と夫が、博多にいた。いっしょに酒を飲んでいた。べつにふしぎなことではない。彼らが、どこにいようと、何をしようと、誰にはばかることがあろう。妻と夫の仲なのだ。
ふしぎなのは、それが自分ではないといい、夫はまだパリから帰ってはこないという美濃子の言葉だ。
もしそれが事実だとしたら、博多にいた二人の男女は、いったい何者なのか。
楯林驍は、堂々めぐりの考えを、しかし追わずにはおれなかった。
追いながら、彼は木炭の手を動かしていた。
そんな驍を、村田森江は、しばらく黙ってみつめていたが、やがてしずかにドアを押して出て行った。
博多の西崎三樹子から電話が入ったのは、その夜十二時を過ぎてからであった。
「まだお仕事してらっしゃるの?」
「ああ」
「マンションのほうにかけたのよ。もう帰ってらっしゃるかと思って。お店じゃまずいわね。もっとあとにしましょうか」
「いや。いい」
「みなさん、いらっしゃるんじゃない? 大丈夫? お話して」
「ああ。大丈夫だ」
「あのね、店の女の子使って、早速、≪サフラン≫と≪天神≫ってお店は、あたってみたわ」
「で?」
「ええ。まずタマ子って子が勤めてた≪サフラン≫ね。あなたは、十二時頃に見えたってことになってるのよ」
「そんなばかな」
「まあ聞いて頂戴。あなたが、その頃うちにいらしたってことは、うちのお店のみんなが知ってるから、≪サフラン≫にいたのはあなたじゃないってことは、はっきりしてるわ。でもね、≪サフラン≫の店では、タマ子って子がついたお客を、あなただと思ってることも事実よ。というのはね、あの日が、ちょうど≪サフラン≫の開店何周年とかのパーティだったそうなのよ。仮装パーティなんですって」
「仮装?」
「そうなの。なんだか、あの人たちのパーティって、凄いらしいのね。眼のあたりをちょっと隠したり、ほら、あるでしょ? 鼻から上に小さなお面をかぶったり、あんなことじゃすまないらしいわよ。なんだか、もっと大掛かりらしいのね。お客さんの素顔なんて、わからないらしいのよ。探偵に行ったうちの子ね、話を聞いただけで、『ママ、そりゃあ、百鬼夜行よ』って、眼まわしてるの。とにかく、そんな日だったらしいのよ。だから、あなたのことも、タマ子って子がお店を出るときにね、『あれ、楯林驍よ』って、店の子に耳打ちしただけらしいんだけどね、でも、タマ子がずっとそばにつきっきりだったお客が一人いたってことは、みんな知ってるの。黒マントを着た、背の高い男だったそうよ。頭は、ライオンの縫いぐるみみたいなカツラとお面をかぶってたそうなの」
「ライオン?」
「そうよ。なんだか、あなたらしいじゃない?」
「ばかをいえ。冗談じゃない」
「まあ、怒らずに、お聞きなさいってば。そのお店ね、そっちの世界じゃ、|ウリセン《ヽヽヽヽ》とかいうらしいんだけど、お店の子を、お客さんに売ってるのね。時間ぎめだとか、泊りだとか、お値段であるらしいのよ。そういうお店なの。でね、あなたは、二、三十分くらいいて、タマ子と出て行っちゃったんですって」
「じゃ、一時前だな」
「そうね。その頃、まだあなたは、うちにいらしたわ」
「うん」
「それからが問題なの。あなたとタマ子が、そのあと、≪天神≫てパブに現れるのはね、二時を過ぎてからなのよ」
「どうして、それが問題なんだ」
「だって、≪サフラン≫から、そのパブ≪天神≫ってお店までは、あるいたって十分かそこいらなのよ、男の足だったら。だから、この一時間以上の空白が、わたしにはちょっとわからないの。二人とも、仮装のまんまで、≪天神≫ってお店に現れてるのよ。だからまあ、めだつ格好してたんだから、調べてみれば、足どりの見当はつくかもしれないでしょうけど。これも、いずれあたってみるわ」
「じゃ、≪天神≫てパブにも、おれは、タマ子の電話どおりに行ってるわけか」
「そうよ。水割りを一杯飲んで、タマ子って子は、スパゲッティを食べたそうよ。お店がはねたあと、その子がよく寄ってた店らしいのよ」
「そこでも、おれは、素顔を出しちゃいないのかい?」
「そうなの。入口を入ってすぐのところにね、個室みたいになったボックスがあるんですって。プライベイトな応接用に使っていて、お客さんは入れないらしいんだけどね、タマ子って子が顔見知りで、それに、そんな格好でしょ。だから、二人はそこへ入ったらしいのね。そのお店、カウンターだけの店だっていうから、ほかのお客さんたちには見られてないのよ。オーダーをとったボーイさんが、一、二度顔を出しただけらしいの。ここも、二十分ばかりでお店を出てるわ」
三樹子は、一息ついて、
「今日のところは、そこまでなの」と、いった。「そのあと行ったっていうホテルは、まだわからないの。≪サフラン≫で、うちの子、タマ子の行きつけのホテルや旅館なんかを二、三聞き出してきてはくれたんだけど、そこへは行ってないらしいのよ」
「すると、何かい、その≪天神≫を出たって時間は……」
「そうなの。二時半は過ぎてたらしいわよ」
「うーむ」
と、驍は、なんとなく口のなかで唸《うな》った。
「だから……」
と、三樹子の声が、電話器の奥を伝わってきた。
「それ以後の行動となると、あなたのこと証明できるのは、わたしだけになってしまうわね。わたしたちが、お店の子とメキシコ料理店にいたのは、二時過ぎまでですもの。お店の子とわかれて、わたしのマンションヘ帰ってきたのが、ちょうど二時三十五分だったでしょ? その頃、タマ子って子たちも、ホテルヘむかったってことになるわ」
三樹子は、驍の返事を待たずに、
「でも、これだけわかれば、大丈夫よ」
と、明るい声でいってきた。
「あなたが、タマ子って子の死に無関係だってことは、はっきりしてるわ。すくなくとも、≪サフラン≫と≪天神≫にいた|あなた《ヽヽヽ》は、あなたじゃないってこと、これは、わたし以外の人間たちが証明してくれるわ。かりによ、わたしの証言を色眼鏡で見るひとがいたとしたって、二時過ぎまでは、うちの子たちがあなたといっしょだったんですもの。これはまちがいないことだから、安心して頂戴」
三樹子の声は、ふと思い出したようにフフと笑って、
「でも、よかったわね、先生」
と、いった。
「選《よ》りにも選って、仮装パーティの日だったなんて。ライオンに感謝しなくっちゃ」
「ばかをいえ。素顔がわからないってのが、厄介だよ」
「あら、そのかわり、人眼には逆についてるわ。すくなくとも、二時過ぎまでは、わたし以外の人間たちが、先生のそばにいたんですもの。そのライオンが、ぜったいに先生じゃないって証明できるんですもの。だったら、先生の名前を騙《かた》った人間が、現実に存在したってことが、はっきりするじゃありませんか。その人間が、素顔のわからない仮装をしてたってことは、よけい先生には有利だわ。顔を隠さなくちゃならない男だったということなんでしょ? つまり、先生じゃないってことじゃありませんか」
「………」
「パブ≪天神≫から、翌日の晩、タマ子が先生に電話したのも、≪天神≫の店の連中はみんな知ってますわ。電話はカウンターにあるそうだから、タマ子が話した内容は、すべてそばで聞こえてたそうだもの。そりゃあ、ひどい電話だったらしいけれど、ひどければひどいだけ、先生にとっては、よかったことかもしれなくってよ。
タマ子は、はっきり、≪サフラン≫を出たあと、この店にいっしょにきたっていったんでしょ? お店のひとたちも、それはおぼえてるそうよ。だから、タマ子って子が毒づいたり、泣きわめいたりして、派手に怨《うら》みごとを並べた相手が、その前の晩、≪天神≫にいっしょにやってきた男だってことが、はっきりしてるでしょ。その男は、先生じゃあり得ないんですから、結局、タマ子がかりにどんな死に方をしたって、先生とその死とは、まったく無関係だということになるじゃありませんの」
西崎三樹子は、まじめな声になって、いった。
「安心して、お仕事に打ち込んでください。こちらは、わたしにまかせて。こんなこと、先生ほどの方なら、ありがちなことですわ。偽者《にせもの》が出るってことは、それだけ先生の名前が大きいってことなんだもの。そりゃあ、ご気分はよくないでしょうけれど、有名税だと思って、眼をつぶってくださるのね。じゃ、長くなりますから、ひとまず今夜は、これでね。たまには、お顔見せてくださいな」
「ご機嫌よう」といって、その電話は切れた。
「ご機嫌よう、か」
と、驍は、苦笑いしながら、それでもどこか憂さのふっきれたような顔になって、受話器を置いた。
深夜の美容室に、その受話器の音だけが、鮮明にくっきりと余韻を残した。
驍のまわりにいた連中は、なんとなくそんな驍の表情につられて、ほっと肩の力を抜き、和らいだ顔つきをとりもどした。
「水割りでもつくりましょうか」
と、マサルが、いった。
「そうだな。いっぱいやるか」
「いいわ、わたしがつくるから」
紀子が、いちはやく腰をあげた。
楯林驍の美容室は、その夜も遅くまで明かりがついていた。
翌日の朝。
美容室へは、また、アンスリュームの花が五十本、届けられた。花屋は、ちがっていたけれど。
「冗談じゃない。こんな花、頼んだおぼえはありませんよ」
応対に出たマサルは、つっけんどんに突き返した。
「いや、これはお代も済んでいますから」
といって、花屋は大量の花束を置いて帰って行った。
花屋の話によると、届け先と花を指定した紙きれの入った現金封筒の速達便を受けとっているというのである。差出し人が不明だから、持って帰るわけにはいかないというのだ。
その翌日も、またその翌々日も、アンスリュームの献花は、欠かさずに続いた。新宿、四谷界隈の花屋が、日ごとにかわって届けにきた。どの花屋に送られてきた現金入りの封書にも、届け先とアンスリュームの花だけが指定されていた。活字体の、筆跡に特徴のない文字だった。消し印は、都内のあちこちからのもので、贈り主をこの封書からつきとめることはできなかった。
唯一の手掛かりといえば、最初にこの花を届けてきた花屋にかかったという男の声の注文電話である。しかしそれも、男の声だというだけで、ほかに探索の方途はなかった。しかも、この花屋は、翌日、マサルが払った花代をわざわざ返却しにやってきた。やはり、現金入りの封書が届いたというのである。
こうして、アンスリュームの花は、完全な贈呈花として、楯林驍美容室に日ごと献じられる花となったのである。
真紅の仏焔包を束ねた熱帯種の花は、捨てても捨ててもあとを絶たず、一夜明けると、新しい鮮紅色の次の群れが姿を見せるのであった。
ちょうど、その不可解な献花がはじまって四日目のことだった。
その日、楯林驍は、京都の反藤美濃子から夫が帰国したという連絡をうけ、午後の新幹線で反藤家をたずねることにしていた。
その出発まぎわであった。
新宿署の角田刑事が、ふらりと美容室に顔を出した。
奥のプライベイト・ルームにとおすと、
「早速ですがね……」
と、この初老の刑事は、人なつこそうな穏やかな表情をたたえた眼をしょぼしょぼとしばたたいて、驍と村田森江にむかっていった。
「ちょっと、お知らせしといたほうがよくはないかと思いましてね。いや、先日お話のあった福岡からの電話の一件ですがね……」
「はい……」
村田森江は、神妙な声で答えてから、ちらっと不安げな視線を驍へ投げた。
≪サフラン≫のタマ子からの電話のことは、角田に話しておいたのだが、その夜タマ子が死んだ話は、まだこの刑事には告げていないのであった。
「関係のないことだ。わざわざ知らせるまでもない」
と、驍がとめたせいもあった。
森江も、何かあったら、必要ならば角田のほうから出かけてくるだろうと思って、そのままにしておいたのである。
角田は、タマ子が死んだこと、クラブ≪サフラン≫が特殊な店だったこと、タマ子がかけてきた電話の裏づけがいちいちとれたことなどを話し、西崎三樹子が驍に知らせた話の内容とほぼ一致するような事柄を、一とおり改めて聞かせてくれた。
「いや、これはまったく、楯林さんにとっては濡れ衣。ご迷惑な話でしてな、わたしも、あちらへ照会してみて、そのことはよくわかったんですがね……ただちょっと、気になることを、一つだけ聞いたもんですからね……」
と、彼は、短い吸いさしの煙草をポケットからとり出して、ゆっくりと火をつけた。
「と、おっしゃいますと……?」
森江が、そんな彼の悠長なしぐさを眼で追いながら、たずね返した。
「いや、実はですな、そのタマ子というおねえちゃんがですな、泊ったというホテル……これは大博通りというのに面したある公園のそばに建っとるラブ・ホテルですがね……この公園で、同じ日の夜……というよりも、明け方近い時刻じゃったそうですがね、公衆便所が一つ、焼けとるんですわ」
「はあ?」
「いやいや、ごもっとも。公衆便所が焼けたからといって、どうこういうわけじゃないんですがね……実は、この公園の便所が木造でしてね、しかも、焼けた跡から、死体が一つ出てきたんですよ」
「え?」
「これが、ガソリンをかぶって火をつけたような死体だったそうでしてね……なにしろまっ黒焦げで、身元も何もわかったものじゃないんだそうです。まあ地元の所轄署じゃあ、浮浪者か何かの焼身自殺だろうと見てるんですがね……この焼け跡から、実はハサミが一本出てきたということを聞いたんですよ」
驍も森江も、同時に一瞬、角田の顔を見まもった。
角田は、ゆっくりと煙草を唇の間に挟んだ。
「じつは、これからわたし、ちょっと福岡まで行ってこようと思ってるんですよ」
と、角田刑事は、驍と村田森江を見ながらいった。
「いや、これはプライベイトな話でしてね。北九州の知り合いに不幸があって、その葬式に出かけるついでがあるのですよ。ですから、仕事で行くわけじゃありませんけれどもね」
「あのう……」と、森江が、ためらいを含んだ声で聞き返した。
「その、公園のお便所から出てきたハサミと申しますのは……?」
「ええ。まあ、行ってみないことには、なんともいえませんけどもね。理容か、美容か、とにかくそっちのほうに使うハサミらしいんですわ」
「美容……」
森江は、角田を見たまま口ごもった。
「ヘアのハサミなんですか?」
「そうらしいのです。ま、そういう話を耳にしたもんですからね」
角田は、口に挟んだまま短くなっている煙草に、首をかしげて点《つ》けづらそうにして火を点けた。
「ゾーリンゲンのマークが入っているというのです」
「ゾーリンゲン……」
「いや、これも実物を見てみなきゃたしかなことはいえないのですがね、ほかにも、そのハサミ、ちょっとした特徴を持ってるようでしてね」
「と、申しますと?」
森江の声は緊張していた。
角田は、二口ほど喫うと唇を焼きそうにちびた煙草を、もう一服器用に煙にして、灰皿へ落とした。
「それがですな、製品マークのほかにも、そのハサミには、刻みこまれている文字があるというんです」
「文字?」
「ええ。アルファベットの『K』という文字だそうです」
「K?」
森江は小さく息をのんだ。
「じゃ、あの……」
「そうですな」
と、角田は、うなずいた。
「ハサミの状況としては、このあいだの、楯林さんを京都で刺した犯人が使ったハサミ、あれととてもよく似てるようですな。まあ、その点が、わたしには気になったので、この公衆便所の火事の一件、妙にひっかかっちまったんですがね」
「でも、まさか、おなじハサミというわけじゃないんでしょ?」
「ええ。そんなことはあり得ません。京都で楯林さんを刺したハサミは、わたしらのほうで保管してありますから。似ているというのは、ゾーリンゲンのマークいり。ヘアのカット・バサミ。『K』のイニシャル。この三点です。いや、『K』という文字が、イニシャルといえるようなものかどうか、それは問題ですがね」
「角田さん」
と、村田森江は、もどかしそうにさえぎった。
「とにかく、もっと詳しくお話うかがえませんか。いったい、どういうことなんでしょうか」
「いやいや、いまのところ、わたしにもその程度のことしかわからないのですよ。つまりですな、その≪サフラン≫というゲイバーのおねえちゃん、タマ子っていいましたかな、彼女が泊ったホテルというのが、大博通りの≪太陽≫って連れ込みホテルでしてね。ここに、タマ子は午前三時前に、たしかに男といっしょに入ってるんですわ。このホテル、客が帳場の窓口で鍵をもらって、そのままエレヴェーターで部屋へあがって行くというシステムらしくてですな、タマ子が宿泊料金を払って、鍵を受けとって、男とエレヴェーターに乗ったのは、まちがいないのです。これは、ホテルの人間が見ていますから、たしかなのですがね、ただ、男のほうの顔は、はっきりしないらしいのです」
「じゃ、やっぱり、仮装パーティーの扮装のままで……」
「いやいや。そうじゃないらしいですな。ちゃんと普通の服装だったらしいですよ。白い服で……エエット、なんとかいいましたな……ほら、猛獣狩りなんかの映画でよく見かけるのがあるでしょう……」
「サファリー・ジャケットですか?」
「そうそう。そのサファリーなんとかってやつです。そんな服装だったらしいですよ。それに、サングラスをかけて……」
角田がそこまでいったとき、いままで黙って聞いていた楯林驍が、奇妙な唸り声をたてた。
森江も、角田といっしょに、そんな驍を振り返った。そして、ふと何かに思いあたったように、
「ボス……」
と、口のなかで、小さな声をあげた。
「うん」
と、驍は、うなずいた。
「そうなんだ。僕も、あの夜は白の上下。サファリー・ルックだった筈だ。それに、サングラスもかけていた」
「ほう」
角田は、急に興味深そうに、眼をしょぼしょぼとしばたたいて、驍のほうへむきなおった。
「これはうっかりしてましたな。そうですか。あなたも、おんなじ服装でしたか」
「ええ。サファリーといわれれば、僕もそういう格好してました。で、その男というのは……」
「いや、それがねえ、このホテル、さっきもいいましたように、従業員が客を部屋まで案内するようなシステムじゃないらしいんで、受付の窓口から客の姿を見ただけらしいんですな。まあ、タマ子のほうは、はっきり顔も見てるんですが、連れの男は、エレヴェーターのそばでむこうむきに立っていたらしいんで、うしろ姿しかおぼえていないんですよ。朝帰るときにサングラスをかけていたのを、ちらっと見たという程度でね。まあ、タマ子っておねえちゃんがおねえちゃんだから、連れの男も、あんまり顔を見られたくはなかったんだろうし、ホテル側でも、そのへんのところは心得て商売したということなんでしょうかな。特別に顔を見るようなことはしなかったし、したがってはっきりはしないということなんですわ。ただ、背の高い男で、白いサファリー・ルックとサングラス、それ以外にはね」
「で、その公衆便所の火事っていいますのは?」
と、森江が、横あいからたずねた。
角田の話によると、≪サフラン≫のタマ子が泥酔状態で中洲の川に浮かんだという報告を受けたので、その聞き込みを依頼していた所轄署の刑事から様子を聞いている折に、たまたま、その話題が出たのだという。
タマ子の宿泊したホテルが大博通りの≪太陽≫だとわかって、その所轄署の刑事は、
──いや、じつはその日の朝、わたしは、そのホテルのそばにいたんですがねえ。
と、いったのだという。
よく聞いてみると、ホテル≪太陽≫の裏にある公園の便所が燃えて、身許のわからない男の死体が一つ出てきたのだという話になり、酔っぱらった(おそらく浮浪者ではないかと思われる)男が、便所のなかでガソリンをかぶって焼身自殺を企てたものであろうと、その刑事は話したというのである。
「焼けた死体のそばにハサミが落ちてたという一件さえ聞かなければ、わたしも、まったくそんな話、聞きながしていたでしょうけどね……」
と、角田は、いった。
「ハサミと聞いて、なんとなく気になったのでしょうな。ついせんさく癖が出ちまって、その先をたずねてみると、さっきお話したような事情が判明したんですよ。だから、この公園の便所の火事ってのは、まったく偶然に耳にした事柄ではあるのですがね、しかし、聞いてみると、いかがですかな? まんざら別個な、関係のない事件でもなさそうな気がしてきはしませんかな?」
「はい。お話をうかがっている限りでは、そんな気がいたしますわね」
「その火事ってのは……」
と、楯林驍が、口をひらいた。
「朝方とおっしゃったけど、いったい何時頃に起きたんですか?」
「通報があったのが、午前四時ちょっと過ぎということですから、四時前でしょうな、燃えはじめたのは」
便所は、大便所が一つと、三人ばかり並べる小便所がその横にくっついているだけの古い木造小屋で、近く新しい設備にとりかえられることになっていたという。
「死んだ男は、この大便所のなかでガソリンをひっかぶったらしくて、ここは完全に丸焼け状態だったというんですな」
「午前四時前の火事か……」
と、驍は、呟いた。
「でも」
と、森江が、すぐにひきとった。
「どう考えればよろしいんですの? 角田さんは、どうお考えですの? その公衆便所が焼けたことと、タマ子ってひととその連れの男がホテルに泊ったことと、どういうつながりがあるとお考えなんですの?」
「いや、それは、わたしにもわかりません」
角田は、おだやかな口調で答えた。
「目下のところ、わかっている事実をお話しているだけです。タマ子と連れの男が、大博通りのホテル≪太陽≫に、午前三時前に投宿していること。その男は、背が高くて、サファリー・ルックにサングラス。つまり、その夜博多におられた楯林さんと、非常によく似たいでたちの男であったこと。彼らが投宿して、ほぼ一時間後に、そのホテルのそばの公園で、小さな公衆便所が燃えあがったこと。便所のなかには、黒焦げの男の焼死体があったこと。衣服も所持品なんかも、完全に丸焼けで、死体の身許を割り出す手がかりが、いまのところないということ。その焼け跡から、ヘアのカット・バサミが見つかったこと。このハサミが、楯林さんを京都で刺した犯人の兇器と、ひどく似かよっているということ。まあ、事実を事実として正確に見るならば、そういう事柄があったということを、頭にいれておかなきゃなるまいということですな」
「その二人連れですが……」
と、驍がいった。
「ホテルを何時に出たのか、わかっているんですか?」
「ああそうでした。そいつも、つけ加えとかなきゃ、正確な事実確認とはいえませんな」
角田は、大きくうなずいた。
「ええ、わかっておりますよ。五時半過ぎに、男が一人で先に帰って行ったそうです。このホテルというのは、料金先払いで、靴も脱がずにそのまま部屋まで行けるわけですから、まあ帰りはエレヴェーターをおりてくれば、そのまま黙って出て行っても不都合はないわけですよね。鍵さえ返せば。鍵は、タマ子がまだ部屋に残っていたんで、男はそのまま出て行ったんですな。ちょうど、外の火事騒ぎが一段落して、消防車なんかがひきあげる頃だったそうです。まあ、早朝のことで、野次馬もそんなに多くはなかったらしいですがね、それでも公園の近辺にはかなり人だかりがあったそうですがね。ホテルの従業員も表に出ていて、それで、男が帰った時刻をおぼえていたらしいんですな」
「でも、ずいぶん不用心なんですのね。お客が勝手に帰って行けるなんて」
「いや、客の出入りは、入口に受付の窓口があってそこでチェックしてるらしいんですがね。まあ、『お帰りですか』と声をかけるくらいで、客とは顔をあわさずにすむところが、この種のホテルの繁盛する原因にもなっているということですからね」
「五時半といえば、火事が起こって一時間半後ということになりますね」
と、驍が、むしろ独り言のように呟いた。
「そういうことですな」
と、角田は答えた。
「三時前に入って、五時半に出たんですから、男のほうは眠る時間などなかったんでしょうが、タマ子は、一寝入りしたんでしょうな。昼前にホテルを出たそうです」
角田は、一区切りつけるように、言葉をついで、
「そして、その翌日の晩、あなたに例の電話をかけてきたということになるわけですな」
と、驍を見て、いった。
甘ったるい、やや甲高く鼻に抜けるような女の声が、楯林驍の耳もとによみがえってくる。しなだれかかってくるような、しかし、身におぼえのない声だった。
村田森江も、その声を思い出してでもいるのか、束の間、眼を宙にとめて沈黙した。
──あのあと、タマ子、お別れしてから泣いちゃった……ほんとうよ。ずっと泣きどおしなのよ……もうタマ子、センセを忘れられない……とんで行きたいくらいよ……
──センセが恋しくて恋しくて……タマ子、狂い死にしそうなのよゥ……
──これからワタシ、どこへ行くと思ってェ? ねェ……あのホテルに行くのよォ……一人で行くのよォ……そして、センセを思い出すの……
驍は、不快な追想を断ち切りでもするように、眉間に強い力をためた。
結局、タマ子という女《ヽ》は、そのホテルヘは行けずに、その夜、死んだ。
(なぜ、こんないわれのないことが、自分の身の上に起こるのか。誰が、いったいなんのために、それを起こすのか)
驍は、考えてもしようのないことを、また考えた。眼に見えない敵が、いることだけが、わかるのだった。
「もう一つ、うかがってよろしいですか」
と、驍は、角田へ顔をむけた。
「どうぞ」
「そのタマ子って子の死は、自殺なんですか?」
「さあて、これもはっきりしないんでしてね。とび込んだのか、落ちたのか。中洲の川ってのは、そんなに深くはないらしいですしね。まあ、満潮時で、水量はかなりあったらしいですがね。とにかく、とび込んだにしろ、あやまって落ちたにしろ、水につかれば助かりっこない泥酔状態だったことだけは、たしからしいですな。だから、正確にいえば、泥酔状態で、溺死《できし》。そういうことになるでしょうな」
角田刑事は、ちょっと腕の時計を見て、
「やあ、これは長居をしましたですな」
と、腰をあげた。
「列車の時間がありますんでね、それじゃ、わたしはこれで」
と、いって、美容室を出て行った。
正午前で、楯林驍の店はかなりたてこんでいた。
角田を送って出た森江が、プライベイト・ルームヘひき返してきたとき、驍は、窓ぎわに立って、ぼんやりと新宿の街なみを見おろしていた。
「ボス……」
と、いう声に振りむくと、村田森江はドアのそばに突っ立っていた。
胸に、抱えきれぬほどの鮮紅色の群花の束を抱えこんで。
驍は、一瞬、息をのんだ。
「また、届けてきました」
「今朝も、きたばかりじゃないか……」
「はい」
熱帯産の原色花、アンスリュームの鮮烈な赤い仏焔包の群らがりが、このとき不意に、燃えさかる炎の束に見えたのである。
博多のある公園で火をふいて燃えあがる公衆便所の光景を頭に思い描いた直後であったせいか、その花群れは、現実に炎上する火の舌を思わせた。
ほんの一瞬の錯覚であったが、驍は、その眼のまよいに、息をのんだ。
そしてこのとき、楯林驍は、この送り主のわからぬ奇怪な贈呈花に秘められている意味を、隠されているある意図を、知ることができた、という気がやみくもにしたのである。
理由もなく、ただ矢のように走って通り過ぎた、それは理解だった。
火。
(そうだ。この花は、火なのだ)
炎なのだ。
炎を、楯林驍美容室へ贈ってきているのだ、この花束は。毎日欠かさず。無数の炎を。
驍の脳裏に、ふたたび火に包まれた公衆便所がよみがえり、その火焔《かえん》のなかに、一つの美容室がたち現れてくるのだった。
誕生したばかりで、命名したばかりで、陽の目も見ずに猛火にまかれて、この世から消え失せてしまった一つの美容室。
黒田牧夫の店≪若王《じやこう》≫を、なめつくしている炎の群れが。
(アンスリュームの花)
誰かが、告げているのだ。
予告しているのだ。
火を。
炎を。
楯林驍は、そう思った。
ライオンの出会い
京都は、木陰の下を通り過ぎたりするとき、外気に透明な深みがあり、秋だな、と驍は何度も足をとめて、かすかな風の行方を眼で追ってみたりした。
泉涌寺の木立ちの多い径《みち》すじから、東林町のほうへ入った。
途中、二度ばかり、驍はふとそんな気がした。
(誰かにつけられているのではないか)
それは、不意の感じだった。
だが、それとなく振り返ってみても、人影はなく、人影のない径すじを行くときにだけ、その感じが驍をとらえた。
気のせいだろうと思いなおし、東林町のいりくんだ路地の内に入ってからは、その感じも消えて、やがて驍は、見おぼえのある倉庫のような陶器工場の板張り壁が続く径へ出て、その建物の角をまがり、反藤家の表玄関口のほうへまわった。
門がこいの格子戸の前に立ったとき、驍は急に首をまわして、きたばかりの背後の径角へ視線を投げた。
そして、何かを見た、という気が、驍にはした。
一度格子戸にかけた手をはずして、驍は、足早に門がこいの角までひき返してみた。
その先に、径はやや下り気味に細くまっすぐにのびているのだが、あるいている人間たちは四、五人いたが、そのなかに、驍が見たと思った人影は見あたらなかった。
(たしかに、薄紫色のスカートのひるがえりを見たと思ったのに。それから、ふわりと軽やかにながれた、まるみのある髪のゆらぎを)
それが、門がこいの角で、たしかに一瞬見えたと思われたのだった。
女だった。
スカートのひるがえった端と、髪の軽快な流れの先が、眼に残っていた。
(あの髪の流れ具合いは、ページ・ボーイだ)
と、驍は、思った。
思ったとたんに、記憶のなかに現れてくる女の姿があった。
いや、楯林驍は、その女のことを話に聞いただけで、実際には見たことはなかったが、記憶にだけは残っている女であった。
この京都の東山七条の病院に入院していた折、病院の周囲に姿を見せたというページ・ボーイの髪型をした女であった。
マサルや紀子は、その女を目撃していた。黒田牧夫と、東京のバード・ショップでいっしょにいるところをマサルが見て、おぼえていた女であった。
そして、その女《ヽ》も、反藤と名乗る女であることが、マサルの調べで、バード・ショップの主人から聞き出すことができたのだった。
それっきり姿を見せず、マサルたちの探索の糸にもかからずに、なかば忘れかけていた女であった。
ページ・ボーイの髪型。東京で、反藤姓を名乗る女。
(その女を、いま見た)
と、驍は、思ったのだった。
マサルたちにも、その片鱗をほんのわずかチラッと見せて、姿を消した女であった。
いままた、驍も、そんな実感を持つのであった。見たのは、気のせいではなかったかと、自分の眼を疑いたくなるような、身軽な出没ぶりだった。
(いや、ほんとうに気のせいだったかもしれない)
と、驍は、思いなおしてもみた。
見たのか、見ないのか、判然としない感じが、自分のなかにあったからである。
しかしいずれにせよ、驍が、このとき、改めてその女の存在を思い出したということに、変りはないのであった。
反藤家に関わる女。
いや、関わるという表現は、この場合適切ではないかもしれぬ。
反藤という家の名につながりを持つ女、とでもいいかえるべきか。
とにかく、現実の反藤家には、美濃子の母親をのぞけば、反藤姓を名乗れる女は、美濃子一人しか存在しないのに、驍は、すくなくとももう二人、ほかに女がいるということを知っている、と、考えないわけにはいかないのである。
一人は、反藤美濃子と瓜二つの女。
いま一人は(これはマサルが明言していることであるが)、反藤美濃子とはっきり顔形のちがっている女。
そして、楯林驍は、いま、その三人の女を、自分の眼で三人とも見てしまった、といってもよいのである。
もっとも、ページ・ボーイの女だけは、その顔形を見たとはいえないけれど。しかし、彼女の髪と姿の片鱗は、たしかに見たという気がするのだから。
驍は、そんなことを考えながら、その日、反藤家の玄関口に立った。
「イヤ、楯林先生、ようお越しやしておくれやした」
美濃子は、はずんだ声をたてて、驍を見るなり土間口まで駈けおりてきた。
「お約束どおり、ご主人にお目にかかりにやってきました」
「へえ、いてます。さ、おあがりやしておくれやす。お待ちしてましたのえ」
美濃子は、これまでに見せたことのない眼の色をたたえていたと、驍には思われた。柔らかな、潤いのきらきらあふれたつ眼であった。
「窯場《かまば》へおりてますよって、すぐに呼びます」
「いや、お仕事なら、どうぞ。お手がすくまで待ちますから」
「そんなんとちがいます。男衆《おとこし》はんと将棋さしてますのえ。仕事どころか、パリ呆《ぼ》けで、まだぼーっとしてるらしおすのえ」
「そうですか」
驍は、ちょっと声を低めて、
「で、話していただけましたか?」
と、急にたずねてみた。
美濃子は、晴れやかな笑顔を返してきた。
「へえ。お話させてもらいました」
「ご返事は?」
「OKです」
「ほんとですか?」
「ほんまどす。先生、まあ聞いとくれやすな。大笑いされましたんですのよ」
「大笑い?」
「へえ。お前にそんな役がつとまるかァいうて、そりゃもうてんから信用してくれしまへんの。そらまあ、わたしかて、自信はおへん。先生から、最初にお話聞かせてもろうたとき……」
「あなたも、笑いましたよ」
「そうどすやろ。そやさかい、わたしも身の程は知ってますゥ。けど先生、思い出すたんびに、笑いますねん。そら楯林さんもお気の毒やないうて、まるで先生、先生の会を、わたし一人がぶちこわしにするみたいなこと、いいますのんよ」
「そんなこと、ありません。あなたでなきゃ、今度のコレクションは出せないのです」
「まあ、嬉しい。それ、先生、早う聞かせてやっとくれやす。いえ、もうこうなったら、わたしは後へ退《ひ》けしまへん。女の意地は怖《こ》おすえいうて、こっちも負けてはいてしまへん。もうぜったいにやらせてもらいますいうて、宣言しましたのよ。それでも、どうどす。ニヤニヤ笑うてますのんよ」
美濃子は、冗談とも本気ともつかぬはしゃいだ話ぶりで、しかしむきになって喋ってみせたりする口もとに、ふとたまらないういういしさなどがほの見えて、驍は、惹きこまれるような心の昂ぶりをおぼえるのだった。
「ですから、先生、こんなこというたら、先生はお笑いどすやろけど、わたしはいま、妙な具合いにカーッとのぼせて……自分でいうのもおかしおすけど……なんや知らん、先生のお話に、このままスーッと乗せてもろうていけそうな気が、とってもしてるのどす」
「それは、ありがたい。とてもありがたいです」
「ほんまどすか?」
「ほんとです」
「まあ嬉しい」
美濃子のそんな顔を見るのも、驍にははじめてのことだった。
子供のように、すなおな歓びの表情を、しぐさや口ぶりにさしのぼらせて、美濃子は瞳をかがやかせた。
楯林驍は、危うく反藤繚一郎の存在を、忘れかけそうにさえなるのだった。
「イヤ、まだ|おぶ《ヽヽ》も出してしませんわァ。どうしょう」
と、美濃子は立ちあがった。
白い足袋が跳ねて畳の上をおどる美しさが、幻の魚でも見るように蠱惑的《こわくてき》だった。
反藤繚一郎。
はじめてその男に出会う刻《とき》が、すぐ眼の前に迫っていることを、驍は本気で忘れそうになった。
いや、はじめての出会いとはいえないかもしれない。すくなくとも、繚一郎のほうは、驍をよく知っている筈である。
祇園祭の雑踏のさなかで、一本のハサミが驍の脇腹を刺しとおしたとき、いちばんそばにいた男。そして、崩れ落ちんとする驍の体を、誰よりも先にがっしりと支えとめてくれた男であったから。
楯林驍は、薄れていく意識のなかで瞬時見た、白麻のすがすがしい和服の男の顔を、思い出そうとした。
いままでにも、何度も試みて、しかしそれは思い出せない顔であった。
反藤繚一郎は、黒灰色のさっぱりした紬《つむぎ》の着流しで、両手にウィスキーの壜《びん》とグラスをさげて、
「やあ。ようお越し」
と、まるで旧知の間柄ででもあるかのような気軽な口調で声をかけながら、襖をあけて入ってきた。
鴨居《かもい》に頭のとどきそうな、見るからに偉丈夫といった感じの、しかし端正な顔立ちに親しみをこめた笑みを浮かべて、どっかりと驍の前にあぐらをかいて腰をおろした。
「もうだいじおへんか? いや、おへんわな。うん。元気にならはった」
繚一郎は、独りで磊落《らいらく》にうなずいて、畳の上にグラスを置くと、ウィスキーの封を切った。
膝を組みなおして正座しかける驍へ、
「まあまあ、楽にしてください。かたくるしいことはやめときましょういな。挨拶いうのは、どうもわたしは苦手ですよって」
と、手を振って、
「ま、一杯やりましょういな。|おぶ《ヽヽ》出すなんていいよりますさかい、こっちのほうがええやろいうてぶらさげてきましたわ。どうどす? いけますのンやろ?」
「え? ええ、まあ……」
驍は、初対面の挨拶を交わす機会を逸して、繚一郎のペースにまきこまれた。
「いま氷持ってきますさかい、ま、とりあえず乾杯といきましょか」
繚一郎は、淡いセピア色の華麗な手ざわりのあるグラスに褐色の液体を注ぎ込むと、驍の前にそのグラスを差し出した。
「どうどす? ちょっと風趣のあるグラスどっしゃろ」
「え? ええ」
手にとりながら驍は、そのグラスのひんやりとした瀟洒な軽みや、それでいて手の底にしっくりと落ちこんでくるある種の重厚な握り心地のよさを推し量るような眼になって、繚一郎を見返した。
「パリのね、蚤《のみ》の市《いち》で見つけてきたんですわ。蚤の市、ご存じですやろ?」
「ええ」
「しかしまあ、あれもふしぎな市ですなあ。ぎょうさんな古物、ガラクタ並べて、ひょいと買う気を起こさせますものね」
「賑やかでしたか」
「かなりガヤガヤしてましたな。いっしょに行った焼き物仲間の若いのなんかにいわせるとね、最近は蚤の市もタネがつきて、めぼしい品物ものうなったんやそうですがね、このグラスは、ちょっとたのしい買物でしたわ。道端にね、ござ板敷いて子供が売ってたんですがね、はらわたのはみ出しかけた玩具人形やビー玉、|やっとこ《ヽヽヽヽ》、天眼鏡、古|釘《くぎ》、まがったスプーンなんかのごちゃまぜにばら撒かれてるなかにね、このグラスが二つだけ、ぽつんと並べて置いてあるんですよ」
繚一郎は、セピア色のグラスの底の液体をちょっと光に透かすようにして眺めた。
「わたしね、なんや知らん、急にのどが渇いてね、このグラスで水が飲みたいな、て思うたんですわ。パリは水がまずうおっしゃろ。壜づめの水ばっかり飲んでましたさかいね、ふっと京都の冷たい井戸水思い出したんですわ。妙な具合いにね。このグラスで京都の水飲んだら美味《うま》いやろなて気ィになって」
繚一郎は笑いながら、無造作にグラスを傾けた。
褐色の液体を流し込む頑丈なのど首に、午後の陽ざしが明るんでゆらいでいた。
「これね、二つで五十フラン。まあ、三千五百円見当でしょうかね」
と、彼はいった。
「連れの若いのがね、高いっていうんですよ。わたしはあっちの言葉はからきしだめですさかいね、彼がその子に掛けあってくれたんですがね。その子がいうには、これは自分が使ってたグラスだったっていうんですわ。もう一つのは、自分の兄貴のグラスなんだってね。その子の祖父さんが、自分たち兄弟に作ってくれたもので、祖父さんは腕のいいガラス職人だったから、このグラスもできのいいもんだ。自分も子供の頃から使ってるんで、ほんとうは売りたくはないんだっていうんですよ。高けりゃ、買わなくったっていいってね。十四、五の、かわいい、さわやかな顔した男の子でね。じつにはきはきした物いいするんですわ。わたしは、最初から買うつもりだったからね、金をもう出していたのやけどね、連れの若いのが、急によせっていいはじめたんですよ。『なんでや』って聞くとね、『縁起が悪い』っていうんですよ。つまりね」
と、繚一郎は、残りのウィスキーを飲みほしながら、いった。
「売りたくない品物を、君はどうしてここへ並べてるのかって、若いのが聞いたらしいんですわ。そしたら、その子がいうたんですて。『兄が病気で死んだからだ』って。その兄弟は、双子だったらしいんですわ」
「ほう」
と、驍もつり込まれて、繚一郎の顔を見た。
「双子の同じ持ち物は、片割れが欠けると縁起をかついで、手放すらしいんですな。わたしの連れはね、たぶんこの子のいってることは商売上の手管《てくだ》話で、本気で聞く必要もないけれど、それにしても、病気で死んだ人間の使うてたグラスやというてんのやし、そんなん気色《きしよく》悪いからよせと、とめるんですわ。わたしね、その男の子が、なんや知らんいとしゅうてね、これ、買うてきたんですわ」
繚一郎は、そういって、笑った。
「彼は、ほんとの話をしたんやと、わたしは思うてますのや。そりゃ、ご大層な値打ち物のグラスとはいえませんやろ。けど、どうどす? これは、これなりに、十分に美しい工芸品やとは思いませんか? おそらく、その子の祖父さんいうのも、名もない町のガラス職人どしたやろ。けど、双子の孫のために焼いた、手造りのグラスいうのは、ほんまの話やろと、わたしには思えますのや。このグラス眺めてると、そんな気がしてきますのや。また、その孫が、祖父さんの腕を誇りにしている気概も、わたしは好きどしたわ。なんでもない日常雑器に、その子の一家のドラマを見たような気もしてねえ……『高いなら、買わんでもええ』と、きっぱりいうたときのその子の顔が、好きどした。五十フランが百フランでも、買うて帰りたいと思うたグラスですねん」
繚一郎がパリ土産のグラスの話に一息いれたところへ、つまみや氷を抱えて美濃子が入ってきた。
「まあま、えろう遅うなりまして」
と、美濃子は、グラス敷きや小皿や箸を二人の前に置きながら、手ぎわよく酒席を整えた。
「先生。お燗《かん》のほうがよろしおしたんとちがいますか?」
「いえ。これで結構です」
美濃子は、驍のグラスに氷をそえながら、
「お水で割りまひょか」
と、いった。
「ええ。そうしてください。京都の水を、じゃ僕もぜひお相伴させてもらって」
と、驍は繚一郎のほうへ答えながら、陶製の水差しを傾ける細くしなった美濃子の指先へも、束の間、眼を落とした。
「いやいや、これは楽しい。そんなら、わたしも、水割りでいきますか」
と、繚一郎は上機嫌だった。
「あら、京のお水が、どないぞしましたんどすか?」
美濃子はちょっと手をとめて、二人の顔を見交わした。
「いや。パリのね、お土産話をいまうかがってたところなんですよ」
「まあ、どんなお話ですのん? このひと、わたしには、なんにも聞かせてくれしませんのよ。ごいっしょしたみなさんは、もう早うに帰っといやすのに、パリははじめていう|うち《ヽヽ》だけが、のんびりいつまでもあとに残ってますやろ。そら旅馴れといやすひとやったら、わたしも心配しいしまへん。けど、土地もはじめて、言葉も不自由、そんでお仲間とは別れたいいまっしゃろ。それに、家ではまあほんまに、左のものを右にするにも手のかかるひとですねん。そんなひとが、いったいどうおしやしといやすのか、やきもきするなといわれたかて、せんといてすむわけおへんやろ」
「ほう、じゃあ、反藤さんはお一人でパリに残られたんですか」
「へえ。みなさんよりも十日近くも、長|逗留《とうりゆう》してましたのよ」
「そうですか」
「それも先生、十日ばっかり遅れて帰るて、お仲間にことづてしたきりですねんさかいね。帰国の日時もはっきりせん、なんの連絡もなしどっしゃろ。指折ったり、日めくり数えたり、そんでああもうそろそろやろと、こっちは思うばっかりで、まあほんまに、顔見るまでは気が気やおへんのどしたのえ」
「いや、こりゃあどうも、ご馳走さま」
「イヤ、先生。そんなんとちがいますがな。そやかて先生、まあ聞いてください。もう今日あたりやろうとは思っても、帰国の日時も、飛行機も、わからしまへんやろ。出迎えに行けしませんやないの」
繚一郎は、愉快そうにニヤニヤ独りで笑いながら、水割りを飲んでいた。
「じゃ、お出迎えは……」
「へえ。なしどすねん。いきなりこのひと、玄関をガラッと開けて、『おい、帰ったぞ』これどすねん」
「ハハハハ」
繚一郎は、屈託のない笑い声をあげて、さかんに肴《さかな》をたいらげていた。
「先生、これどすやろ。暖簾《のれん》に腕押しいうのは、このことどす。それでもって、何を聞いても、『パリは暑かった』『暑かった』これだけどすのえ。昨日は一ン日《ち》中、それいうてましたのえ。ほかには、土産話のミの字もハの字も出てきはしませんのえ」
繚一郎は、
「いやね」
と、すこし眼のふちを赤くして、驍のほうへ声をかけた。
「こいつはね、昨日から、これがいいとうていいとうて、誰かにこれをいわんことには腹の虫がおさまらへんてな具合いでね、あなたのくるのを、じつは待ってましたんや」
「まあ、冗談いわんといてください」
「冗談はええけどな、おい。肴のあとが、さっぱり出てきいへんやないか」
「イヤ、そうどしたわ。運ぶのすっかり忘れてましたわ」
美濃子は、あわてて立ちあがった。
「これですさかいな。亭主が亭主なら、女房も女房いうとこですわ」
と、繚一郎は、たいらげた肴皿の上に箸を置くと、
「ま、ひとつ作りましょ」
と、驍のグラスに新しくウィスキーを注ぎこんだ。
氷の音が涼やかに鳴った。
もう秋だという実感が、ふとその音に深くこもった。
「今日は、ゆっくりしていっとくれやす。泊っていっとくれやす」
「はあ。ありがとうございます」
「かましまへんのやろ?」
「ええ、まあ、宿はこちらにとってまいりましたから」
「そんなあんた、うちに泊らはったらよろしがな。どこどす? 河原町どすか?」
「ええ」
「『ロイヤルホテル』どしたかいな」
と、繚一郎は、祇園祭の日、驍が泊ったホテルの名前を口にした。
「はい」
「いま美濃子にいうて、キャンセルさせましょ」
「いえ、そんなお気遣いは、どうぞなさらんでください。東京から電話やなんかも入りますし……」
「うちにも電話はありますがな」
「いえ……」
「まあよろしがな」
「しかし、反藤さんもお帰りになったばかりで、お疲れでしょうから」
「そんなふうに見えますか?」
「いや」
驍は、水割りに口をつけて、ふとまっすぐにあげた繚一郎の視線を、なんとなくかわすようにして外した。
楯林驍には、この日、対面の初《しよ》っ端《ぱな》から、座につくやいなや反藤繚一郎がはじめた二つのグラスの話といい、美濃子が洩らした繚一郎の遅れた帰国のこと、帰国日がわからなくて出迎えなしで彼が帰宅したという話などが、どこか頭の隅でひとつひとつ薄い糸をひき、蜘蛛《くも》の巣のようにゆらめいて残るのが気になって、落着かなかった。
繚一郎と美濃子を並べて眼の前に見ていなければならないことも、また驍を落着かなくさせているひとつの原因だったと、いわねばならないかもしれぬ。
酔うほどにはまだ飲んだつもりはなかったけれど、やはりアルコールのせいか、驍はともすると、胸先をふっと炙《あぶ》るようなうっすらとした熱気のもやだちが体のなかをよぎったりする感じが、気になってならないのであった。
そのたびに、自分で、それが、
(ある嫉《ねた》ましさ)
に似たようなものであるとわかることが、驍の居心地を悪くさせていた。
反藤繚一郎は、どこから見ても、美濃子の配偶者として、彼女にふさわしい男だと思われた。
二人は、しっくりとそりをあわせた似合いの男女、いや、夫婦であった。
こんな感情を自分がいま持ちあわすということが、理不尽である。理不尽とわかりながら、胸先を不意にかすめるもやだちを消せないでいるということが、驍には、やりきれないのであった。
美濃子が、一度酒菜を運んできて、また入って行った。
賑やかな料理であった。
「おい、氷。氷がないぞお」
繚一郎が、奥へむかって大声をあげた。
「はいはい。いまお持ちしますえ」
いいながら、美濃子の声は遠ざかって行った。
(長居はすまい)
と、驍は、思った。
透明な陽ざしがやや茜《あかね》がかって、長く座敷のなかまでのびてきていた。
驍が口を開いたのは、そんなときだった。
「一昨日、お帰りになったんですか?」
口にしてしまって、それは、いかにもばかげた質問だったと、すぐに後悔した。
美濃子から連絡を受けて、それを報《しら》されたからこそ、自分はいまこうしてこの家をおとずれているのではないか。
一昨日の夜、反藤繚一郎はこの家に帰ってきたのだ。それはわかっていることだ。
ただしかし、繚一郎自身に、そのことを聞いてみたかったのだ、と驍は思った。
「そうどす」
と、繚一郎は、いともあっさりとうなずいた。
「五時前に羽田へ着きましてな。新幹線の最終便に乗ったんですわ」
「ああ、八時過ぎに東京を発つ『ひかり』ですね」
「そうそう、それどす。しかし、あなた、さすがに詳しいですなあ」
「いや……」
と、驍は、瞬時びくっとし、
「まあ、仕事柄動きまわることが多いもんですから」
と、すぐにつけ足した。
それはもう調査済みのことだった。調査済みというよりも、一応時間の辻つまだけは合うかどうか、自分でもあたってみたといえるに過ぎないことだったが。
というのは、美濃子から繚一郎の帰国の報せを受けたとき、驍がいちばん先にしたことが、そのことだったから。
美濃子は、電話で、
──昨夜遅く帰ってきました。
と、いった。
つまり、夜遅く京都へ帰ってくるパリからの帰国者が、スムーズにたどれる帰途の道程。単純に、その道すじが、かりに想定できるかどうかを、飛行便や列車の時間などであたってみたかったのである。そんなことをすることがどんなに無意味か、よく承知していたが、驍は調べてみた。
パリからの帰国者が、パリ・東京間の直行便に必ず乗るとは限らないし、外国便は日に何本も入っている。また、夜遅く帰ってきたからといって、その帰国者の羽田到着時間が想定できるという性質のものでもない。朝早く羽田へ着いても、夜遅く京都へ帰ってくる人間もいるだろうし、かりにその夜帰ってきたからといって、羽田到着がその日でなければならないというわけのものでもない。こんなせんさくが無意味であるのは、よくわかっていた。
だから、驍が一応あたってみたかったのは、パリからの直行便で、深夜に京都へ帰りつける、そんな接続のスムーズにいく一つの道すじが、ごく単純に存在するかどうか。そのことだけだったのである。
おそらくJAL42X便。前日にパリを発って、その日東京へ午後五時前後に着く、この北まわり直行便だったら、東京からその足で新幹線に乗り、その夜の内に京都へ帰りつくことは可能だ。
それが可能だとわかる便が、明確にあるということを、驍は知っておきたかったのである。
そして、反藤繚一郎が、いまそのとおりの時間を、なんのためらいもなく口にしたせいで、つい驍はつり込まれて、頭のなかにあった最終便の新幹線の時刻まで喋り出しかけたのであった。
(一応、話の辻つまは合う)
と、驍は思った。
反藤繚一郎が、一昨日、パリから東京へ帰ってきたと考えても、不自然なところはない、ともいえた。
しかし、驍には、西崎三樹子が告げた博多の夜にいた陶芸家という男のことを、やはり意識の外へ追いだすわけにはいかなかったのである。
先刻の美濃子の話を聞けば、彼女が、一週間前、繚一郎と博多の夜のなかをあるいていたとは考えられない。
彼女は、一昨日、繚一郎がこの反藤家に帰ってくるまでは、彼に会うことなどできなかったのだから。彼の帰国日さえ知らなかったのだから。
とすると、西崎三樹子が見た女は、反藤美濃子ではないということになる。
また、繚一郎が一昨日パリから帰国したことが真実なら、一週間前に、美濃子と瓜二つの女を同伴して博多の三樹子の店に現れたという、京都弁を使う背の高い陶芸家は、これも反藤繚一郎だと考えることはできなくなる。
美濃子に瓜二つの女と、繚一郎に姿形その特徴がぴったりとあてはまる男。
一週間前の夜、博多にいたこの二人の男女は、ではいったい何者なのか。
驍がいま、あらためてその不審に心奪われるのは、ほかでもない。ついいましがた、繚一郎自身の口から聞かされた、一つの言葉。その言葉のせいである。
双子。
繚一郎が口にしたその二文字の言葉が、驍にはおどろきだったからである。
(双子)
そう。そう考えるしかないではないか。
それも、二組の双子なのだ。
美濃子の双子。
繚一郎の双子。
しかも、二人は夫婦である。
反藤夫婦に、それぞれ双生児の片割れがいる。
(そう考えるしか!)
楯林驍は、そして、思うのである。
なぜ、反藤繚一郎が、双子の男の子の話などを、最初の出会いの、しかものっけの話題にして、自分に話したのだろうかと。
いや、それはむしろ、こういいかえたほうがいい。なぜ、彼との出会いの最初に交わす話題のなかに、『双子』という文字がひそんでいたのだろうか、と。
これは、偶然のことなのだろうか。
(そう。偶然と考えるほうが、自然だろう)
彼は、パリの蚤の市で、たまたま見つけたグラスの話をしたのだから。
彼は、けっして、双子の話をしたのではないのだから。
彼が話したかったのは、パリの蚤の市で出会った一人の男の子の話である。たまたま、その男の子が、双子の兄弟だったというだけのことなのだ。
驍は、そう思おうとした。
だから、繚一郎の話のなかに『双子』という言葉が登場してきたとしても、べつに深い意味などありはしないのだ、と。
楯林驍は、氷ごとグラスのなかの液体をのどへほうり込みながら、しかし、やはり思うのだった。
繚一郎は、なぜ十日間も、同行した仲間の伝統工芸家たちに遅れて、この日本へ帰ってきたのだろうか、と。
「何か、よほどおもしろいことがおありだったんでしょうね」
と、驍はふと、思ったことをそのまま声にして、喋っていた。
「ん?」
繚一郎は、べつの話をしている途中で、驍の言葉の意味を解しかね、いぶかしそうに聞き返した。
「いや、パリですよ。十日間も滞在をのばされるなんて」
「ああ、いやいや。そんなことやないんやねえ。わたしは、根が不精やさかいねえ、ちょっと食い溜めしただけどすわ」
「食い溜め? といいますと?」
繚一郎は苦笑した。
「食い溜めいうのも、変かいな。まあ、そうやねえ、つまりものぐさなんやろねえ」
「?」
「先刻も家内がいうてましたやろ。ほんまに|し《ヽ》不精、出不精。なんにもせんと、ひまがあったら、家のなかで寝そべってるのが何よりいちばん。これが性に合うてるいう人間ですさかいね、せっかく出てきたパリどっしゃろ。これ帰ったら、またもういっぺん、てなわけにもいかんやろうと思うたんですわ。せっかく|おみこし《ヽヽヽヽ》あげて出てきたのやさかい、ついでにもすこし、見たりあるいたりしとこうか。ま、その程度のことですわ。いうたら、下司《げす》の食い溜めやね。いや、見溜め、あるき溜めかな。まあ、遊び溜めていうてもええかもしれへんけどねえ、とにかくいっぺんにつめといて、あとはもうなんにもせんと、寝て暮らそうてな根性やねえ。ちょくちょく出てくる気にもならんやろし、そんなら、もうちょっとぶらぶらして帰ろうか。これですねん。それも、まあ十日ぽっちのことでっしゃろ。自慢にもなんにもならしまへんがな」
「なるほど、そういうことだったんですか」
「いや、感心してたらあきませんよ。じつをいうとね」
と、繚一郎は首をすくめて、
「仲間といっしょに帰るわけにはいかへんかっただけどすわ」
「はあ?」
「帰る間際にね、大腹くだしやらかしてね、とってもホテルの部屋、出られる状態やなかったんですわ。つまり、トイレつきの部屋の外へは一歩もね」
彼はそういって、肩をゆすって大笑した。
さっぱりとした、豪快な笑いだった。
「これは一つ、ここだけの話に願いますよ。格好つかしまへんがな」
そんな繚一郎を眺めていると、目的がなんであれ、たとえどんな事情があったにしろ、彼が帰国日をいつわって、一週間早く日本へ帰ってきていたりなどするような、隠れた小細工を弄《ろう》する人間には思えない気もするのだった。
どちらかといえば、驍は、繚一郎のようなタイプの人間を、好きであった。
そして、繚一郎にはたえず、悠揚とした大らかな、飾り気のない風格があった。
驍は、また、西崎三樹子の言葉を思い出していた。
──そりゃあ、ちょっとしたナイス・ガイ。いや、ガイって感じともちがうわね。こう、どことなくしずかで……端正な感じで、精悍なひと。凛々しいっていうのかしらね。
その言葉どおりの男であった。
「反藤さん、あれですか。パリヘも、着物姿でいらしたんですか?」
「いや、洋服でしたよ。わたしかて、スーツの一着や二着、持ってますよ。もっとも、肩が凝りますがね、やっぱり」
三樹子の店に現れた男も、洋服姿だったという。そして三樹子は、
──その殿方に、お着物着せてみたらすてきだろうなって、思ったわよ。
と、いったのだった。
驍が、そんなことを、またとりとめもなくあれこれと思い出したりしているときだった。
繚一郎が、とつぜん、いった。
それは、なんでもないことを、ふと思いついて口にしたといった、ごくなにげない物の聞き方ではあったけれど、驍には、とつぜんという感じがした。
そしてその後、長い間、驍には忘れ去ることのできない事柄ともなったのである。
「ああ、そやったなあ」
と、繚一郎は、不意にいったのであった。
「あなた、おぼえてはるかなあ。あなたに会うたら、聞こうと思うてたのやけど。ほれ、例のお祇園さんの日のことやけど……」
驍は、一瞬、無言で繚一郎へ顔をむけた。
「そう、あなたがわたしにつかまって、気を失いかけはじめる前やった。どうどす? おぼえてはらへんか? あなたはたしか、わたしに何かいうたのやけどね……」
「……烏って、いったんでしょ?」
「いや、そのほかにも、もう一言、あなたはわたしを見て、いうたんですよ。それがねえ、どうも意味のわからへん言葉でねえ……」
「と……いいますと」
「うん。たしかねえ、『パプ』……いうような言葉やったと思うんやけどねえ」
「パ、プ……ですか?」
と、驍は、その奇妙な半濁音の音声をなぞり返しながら、聞き返した。
「そう。そんなふうな言葉やった」
反藤繚一郎は、確認するように一度うなずいてから、そうくり返したのであった。
その夜、楯林驍は、十一時近くになって反藤家を辞した。
繚一郎は、泊っていけとしきりにすすめたが、彼が酔いざましに一風呂浴びるといって座をたったのを汐《しお》に、驍は腰をあげることにした。
「かんにんどすえ。酔うたら、いつもあれどすねん。お湯につかったら、バタン、キュー。なかで鼾《いびき》をかいてますのえ」
「しかし大丈夫ですか。かなりお酔いになってらしたようですけど」
「へえ。いつものことですねん。ぬるいお湯につからんと、一区切りつかしまへんのえ。けど、ほんまによろしおしたら、お泊りやしていっとくれやすな。お寝間とってますのえ」
「いや、僕はこれでおいとましましょう。それでは、具体的なご連絡はまたあらためていたしますが、ショーの段取り、進行させていただきます」
「へえ。もう鬼の首取ってもろうたんどすさかい、怖いものなしの、おおっぴらどす。いつなとお声かけとくれやす。とんで参りますよって」
玄関口まで送って出た美濃子の、相伴《しようばん》酒でほんのり染まった眼もとが艶《えん》であった。
驍もいささか酩酊していて、酔いをふくんだ眼にともするとさしのぼる熱気や色情のみなぎりを、われながら大胆すぎるとおさえながら、しかしおさえきれない心地よさに、どこかで陶然と酔ったりもしていた。
「お気をつけてお帰りやしておくれやす」
「ご馳走になりました」
眼ざしに強い光のこもるのが、自分でもふしぎであった。
門を出ると、せまい家並みの通りを夜風がながれていた。
車の拾える東大路まで出るには、すこしあるかねばならなかった。
人通りの絶えた夜径にひびく靴の音が、驍をふと孤独にさせた。物淋しい気分へ駆りたてるものが、初秋の夜気のなかにはあった。
精悍な体を湯ぶねに沈めて鼾をかいている繚一郎の充ちたりた表情や姿態が、眼に浮かんだ。かいがいしくその世話をやく美濃子の繊《ほそ》いうなじや指先が、やたらと眼の前を動いて見えるのだった。
それにしても、と、驍は思った。
──パ。プ。
とは、いったい、どんなはずみで出た言葉だったのだろうか。
身におぼえのない言葉であった。
「わたしに、何かをいいたかったのやないやろうかと思ってねえ、気になってましたのや」
と、繚一郎は、話した。
「パはパやったと思いまっせ。そのあとがな、よう聞きとれへんかったのやけど。プやったか、フやったかな」
「パ、フ……」
と、驍は、口に出してみて、自分でもわけがわからないのであった。
白麻のがっしりとした繚一郎の両肩に、思わずつかまって上体を支え起こそうとしたところまでの記憶は、あるのである。
祇園囃子の華麗な音《ね》や、人出の喧噪、鉾車の重いきしり、そして脇腹に湧いた激痛、肉にめりこんでいたカット・バサミの握り手の感触。いや、そのハサミが舗道に落ちて、路上であげた束の間の金属音まで、驍はおぼえていた。
もたれかかった繚一郎の白麻の肩先を目映《まばゆ》いほどに灼いていた炎熱の太陽の記憶も、ある。
繚一郎がそれを聞いたというのが真実なら、それらの記憶の直後に続いて、自分はその言葉を口にしたのだ。
月鉾の屋根の烏にふと眼を奪われ、烏を見ながらあるいていたときであったから、意味はわからないままにも、意識を失う直前に、
「烏……」
と、自分が呟いたといわれるなら、それはそうかもしれないと、思いあたりはするのだった。
あの真夏の祭りでごったがえす河原町通りで、いきなり眼にとび込んできた黒い禽《とり》。そしてなぜだか、そのまま眼がはなせなくなったあの鉾屋根の破風拝《はふおが》みの一羽の禽。
なぜあの烏に自分が惹きつけられたのか、それはわからないにしても、あのときの自分には、ふと夢中になってその烏を追っていたという実感がある。記憶のなかで、それは思い返せるのだ。
烏に眼を奪われてあるいていた刹那に、脇腹を刺しとおされ、気を失ったのであったから、
「烏……」
と、いい残した言葉は、うわごとめきはするけれども、あのときの自分にとっては、何か辻つまの合う言葉であったかもしれぬと、納得できるのであった。
しかしその折、
──烏
という言葉以外にも自分が何かを喋ったというのなら、おそらくそれは、『烏』という言葉とほとんど同時に、自分の想念のなかをよぎった事柄についてのものであったろう。『烏』とほとんど相前後して、自分の頭のなかに浮かび、そして消え去った想念。
それは、なんだったのだろうか。
烏のことは思いあたって、そのすぐあとに続けてこの自分の口から出た言葉に、なぜおぼえがないのだろう。
『パ』と『プ』
あるいは、
『パ』と『フ』
そんな音声の連なりであったという。
『烏』と『パ、プ』
『烏』と『パ、フ』
驍は、二つの言葉を並べて、記憶のなかでその繋《つな》がりをしきりに探し求めようと努力した。
しかし、まるで、繋がらない言葉なのであった。
「そうどすか」
と、反藤繚一郎は、べつに深く気にとめたふうもなく、しごくあっさりとその話を打ち切った。
「いや、それやったらよろしおすのや。わたしはまた、何かだいじなことやったらあかんなと思うてたものやさかい、ちょっと気になってましたんや。何かわたしに、伝えようとされたんやないやろかいう気もしましたしな」
「と、いいますと?」
「いやいや。これは、わたしがあとになって、そない思うたことですのや。まあ、たとえば、あのとき、あなたは『烏』と、いきなりわたしの耳もとでいわはった。烏て、なんやろかなと、わたしもわけがわからんずくでおったのどすけど、まあ救急車呼ぶやら何やらしてるさなかに、急にひょいと思いついたんですわねえ。祇園祭のあの街なかで、烏といえば、ひょっとしたらあれやないのかな、と、まあ、そんな気がしたんどす。月鉾の屋根にある烏の飾りですねんけどね……」
「そうなんです。僕は、その烏をあのとき見てました」
「ほう。やっぱりそうどしたんか。いや、烏といえばね、あのときわたしに思いつけるのは、それしかあらへんしね。もしあなたがいわはったのが、あの烏のことやとしたらね、これはただもんやないな、と、ちょっと興味も湧いたんですわ」
「?」
驍は、繚一郎を見た。
「いや、これは不謹慎でしたわな。あなたは、えらいひどい目に遭うてなさるときやったのに。まあ、かんにんしとくれやっしゃ。けど、ほんまのことですねん。あの烏のことやとしたら、珍しいなと思うたんですわ」
「それは、どういうことなんでしょうか?」
「あの烏ね」
と、繚一郎は、いった。
「あの月鉾の屋根にとまっているあの烏の破風飾りのこと、この京都でも知ってる人は、数たーんとはいてしまへんやろ。ごくすくのうおすねんで。いや、ほんまどっせ。何十年も京都に住んでて、京生まれの京育ち、毎年夏にはあの鉾行列欠かさず眺めてる人間たちがどっせ、月鉾の屋根に烏がとまってあることなんか、まるで知ってしまへんのや。よっぽど通か、専門家でもないことには、あの烏に気ィついてる人は、まれどっしゃろ。それからね。まあわたしにしてみれば、半分嬉しい気ィも先に立ったんですわ。あれ、姿のええ、立派な烏どすよってねえ。それで、あなたに興味を持ったんどす」
反藤繚一郎が藍色の烏のとぶ銚子の焼き物を驍に贈ったのは、そんな心|算《づも》りからであったという。
「なんや知らん、こう、急に親しい仲間に出会うたような気がしてね」
と、彼は、いった。
「するとやね、『烏』というて意識失いはったことが気になってねえ……まあ、あなたのお店の人には、わたしの気づきだけはお話しといたのやけど、そのあとの言葉がねえ、わたしにも聞きとれへん。はっきりせんこというてもねえ、かえって迷惑かも知れへんと思ってね。これは、あなたにだけあとで聞いてみようと思うたんどすわ。事が事どっしゃろ。もしかして、刺した犯人の手掛かりにでもなるようなことやったらと、そんな気もちょっとしましたさかいね」
「そうでしたか……。しかし、ふしぎですねえ。僕には、まったく記憶がないのです。あの烏のことにしたって、ただなんとなく眼について、それを見ていただけなんです。もっとも、あとで調べてみて、あれがただの烏じゃなく、三本足のいわくある烏の破風飾りだということを知りましたがね」
「いや、なんにしても、あの烏に眼ェがとまるということが、さすがに物を見てなさるわ。一家をなすほどの人は、眼ェのつけどころがちがいますなあ」
繚一郎は、そういって、
「いや、そうどしたか」
と、あっさりとうなずいた。
「あなたにおぼえのないことやったら、わたしの聞きちがいかも知れまへん。とにかくまあ、こうして元気にならはって、だいじにならずにすんだのが、何よりですわ」
楯林驍は、人通りのないせまい路地から路地へ抜ける坂の多い夜の小径をあるきながら、屈託のない笑顔を見せて酒をすすめた反藤繚一郎とのやりとりを、思うともなしに思い、反芻していた。
夜風が、しきりに渡る径であった。
酔いの火照《ほて》りに、それは心地よい風であった。
その夜の風のなかを、とつぜん低い唸りをあげて耳もとをかすめ、擦過するものがあった。と同時に、前方の小石垣で甲高く物のはじけとび、路面を転がる音が起こった。
鋭い唸りは、矢つぎ早に二度三度と、驍の顔面をかすめて走り、その先の石垣を打擲《ちようちやく》した。
闇のなかからとんでくる石礫《いしつぶて》であった。
驍は、とっさに身をかわし、後方の闇をうかがった。
物音は、もう絶えていた。
しばらく息をひそめていて、顔を起こしかけたとき、「ひゅー」と、また、宙を切る石礫は眼前で鳴った。
耳たぶに軽い衝撃が走った。手をあてると、べったりと指の腹が濡れた。血のふいている感じがわかった。
「誰だ」
低く誰何《すいか》して、身を隠す場所を探した。二、三十メートル先のまがり角まで走らねばならない一本径だった。その角に、街灯があった。
驍は、突っ走ることと引き返すことを、同時に考えた。
前にも、それから後にも、彼方に街灯がある。距離にして百メートルばかりの暗がり径の中間に、驍と、おそらくその襲撃者も、身をひそめていることになるのだろう。襲撃者のいると思われるあたりには、人家の路地が多かった。驍も、その路地の一つを出て、この先まがりの一本道へさしかかったのであった。
逃げることよりも、引き返して、襲撃者をつきとめることのほうが、自分のとるべき行動のような気がした。
ものの十四、五メートルとははなれていまい。その闇陰に、石礫の主《ぬし》はいるのだ。
危険はある。
的確な狙撃力をもった礫であった。どの礫も、頭部をあやまたずに狙ってきた。驍に反射神経が不足していたら、たぶん耳たぶを切られただけではすまなかったであろう。
引き返せば、避けきれる自信はない。襲撃者のもとへたどり着くまでに、あるいは重傷を負うかもしれない。
しかしいま、現に眼と鼻の先の闇に、その人間がいるのである。自分に害意を抱いているとはっきりわかるその人間が。
そいつをつきとめなくて、どうして逃げ出したりすることができるだろう。
(この機会を、のがすわけにはいかない)
楯林驍は、そう思った。
それは、瞬間に彼がとった判断なのだった。
驍が、その行動を起こしかけたときである。
彼方の街灯の明りを背にして、一瞬、闇の路上をよぎる人影が見えた。無論、唸りを発して、伏せた頭上を次の石礫が襲いかかってはきたけれど。
顔面をそむけながら、束の間に見たその人影は、女であった。
ふわりとひろがった、やや丈長のスカート。顔のまわりで揺れていた髪。しなやかな、すばしこい、躍りあがるようなその身ごなし。
それはシルエットのように見た、ただ黒い人影ではあったけれど、まちがいなく女であった、と、驍は思った。
思いながら、驍は、次の瞬間、猛然と走り出していた。その女の影が消えたと思われるあたりの路地をめざして。
礫は、もうとんでこなかった。
そして、女の姿も無論、そこにはなかった。
しばらくそのあたりの路地や人家の物陰を注意深く探しまわり、耳を澄ませてみたりしたが、女の姿はおろか、気配も物音も聞こえず、あたりはひっそりと夜闇に沈んで静まり返っているのであった。
(ページ・ボーイの女)
あの女だ、と、驍は思った。
あれは、たしかにページ・ボーイの髪型だった。そして、あのスカートも、おそらく昼間見た薄紫色のスカートであったにちがいない。
反藤家をたずねるべく、この東林町へ足を踏みいれてから、誰かに尾行されているような気がし、再三振り返ってみた昼間のできごとを、驍は思い出していた。
反藤家の門の前で、背後の径の角へ不意に現れ、現れたと思ったらもう消えていた、あの女なのであった。
姿の片鱗だけをちらっと垣間見せ、消える、ふしぎな女であった。
しかし彼女が、美容室『若王《じやこう》』とともに焼け死んだ黒田牧夫に関わりを持つ女であることだけは、はっきりしていた。
そしてなぜか、反藤姓を名乗っていたという女であることも。
楯林驍は、その女の影が消えた路地の奥をもう一度念いりに調べてみた。路地は、べつの径へ抜けていたけれども、それは反藤家とは逆の方角にあたる径であった。
驍は、しばらく、その闇の小径にたたずんでいた。
耳たぶが、ひりひりといつまでも痛んでいた。
不快な疼痛《とうつう》であった。
ホテルに帰ると、電話が鳴っていた。
東京からだった。
出ると、村田森江の声がとび込んできた。
「ボス、夜遊びは控えるって、お約束だったでしょ」
「夜遊び? ばかをいえ。いま反藤さん家《ち》から帰ってきたところだ」
「まあ、こんなに遅くまでいらしたんですか?」
「いつまでいようと、おれの勝手だろ」
「そうはいきませんわ」
「何がいかない」
「だって、そこは京都なんですよ」
「あほ。そんなことはわかってる」
「いいえ。わかってはいらっしゃいませんわ」
「用件をいえ、用件を。お前たちの電話は、いつだってそうだ。正味十分の一で用は足りる筈だぞ」
「ボス。紀ちゃんなんか、宵の口からソワソワしどおしですのよ」
「なんの話だ」
「なんの話ってことはないでしょ。だって、何度電話をいれても、お出にならないんですもの」
「あたり前だろ。ホテルの電話番をしにやってきたんじゃないんだ」
「ボス。忘れないでくださいましね。いえ、縁起をかつぐわけじゃありませんけど、でも、京都にいらっしゃるたびに、何か事が起こってますわ」
「またその話か」
と、驍は、ふだんの声で答えたけれど、事が起こったといえば、まさにそのとおりだといわざるを得ないのであった。
「紀ちゃんが、あんまり気にするもんですから、わたしたちまで落着かなくって、仕事が手につかなくて困りましたわ」
「ばかやろ。それで、よくお前たち金がとれるなあ。仕事が手につかなかった? 冗談も休み休みいえ。お前は、楯林のチーフだろ? 子供みたいなこというんじゃないよ」
「ボス……」
と、森江の声が、急に小さく息をひそめるような気配を伝えた。
「何か、あったんですか? やっぱり」
と、森江は、いった。
「何か?」
驍は不意をつかれて、ちょっといいよどんだが、すぐに、
「そんなものは、ありゃあせん」
と、打ち消した。
「でも、そのご機嫌の悪さ、普通じゃありませんわ。わたしにだって、そのくらいのことはわかりましてよ。ボス。何がございましたの? 反藤さんのお話、うまくいかなかったんですか?」
「余計な心配はするな。そういうのを、早とちりというんだ」
驍は、しかしそう応えながら、女の勘というか、神経の微妙さにおどろいていた。
「反藤さんのほうは、OKだ。先刻まで、いっしょに飲んでたんだ。泊れといって聞かないのを、振り切って帰ってきたところだ」
「まあ、そうでしたの。でも、それはようございましたわ……」
「それだけか、用件は」
と、驍は話を切りあげるようにいって、
「だったら、マサルにかわってくれ」
と、つけ加えた。
「ボス」
村田森江の声が、また調子をすこし変えた。何か重い、逡巡をふくんだ声であった。
「いえ」
と、彼女は、すぐにいいなおすように、その口調も打ち消した。
「明日は、お帰りになりますんでしょ?」
「そのつもりだ」
「では、そのときにいたします」
「なんだ」
「いえ、よろしいんです。今夜はもう、お休みになってくださいましね。出過ぎたことのようですけど、夜あるきはがまんしてくださいましね。じゃ、マサルちゃんとかわりますわ」
森江は、受話器のそばをはなれた。
「かわりました。マサルです」
と、間なくして音声は流れてきた。
「なんだい、村田は」
「はぁ?」
「いまの村田さ。独りで何かきめこんじゃって、心得顔に話を打ち切ってしまいやがった。何かあったのか?」
「あれ? チーフ、話さなかったんですか?」
「何を」
電話のむこうで、「チーフ」と森江を呼んでいる声が聞こえた。なにやら、マサルと森江が喋りあっている様子であった。
「マサル。何をやってるんだ。お前に聞いてるんだぞ。聞こえてるのか」
「はい、聞こえてます」
「聞こえてたら、答えろ」
「それが……弱っちゃったなあ」
「なんだと?」
「いえ、チーフが話すっていってるんですよ。明日お帰りになってから」
「いいから、いま話せ」
「いま話せっていってますよ、ボス」
と、マサルが、森江に伝えている声が聞こえてきた。
「マサル、お前が話せ」
「僕に話せって」
と、また、マサルはおうかがいをたてているようだった。
「何をもたもたやっとるんだ。そのために、電話をかけてきたんだろうが」
「弱ったな……」
と、もう一度、マサルはいった。
「何をもったいぶっとるんだ。さっさと喋れ」
「いや、もったいぶってるんじゃありませんよ。ただ、チーフがね、今夜は余計なことは耳にいれるなっていってるもんだから……」
「それこそ余計なことだといってやれ。おれが聞かずにすむことなら、最初から喋るな。いま喋れんようなことなら、明日も喋るな。そういってやれ」
驍のほうも、駄々をこねているようなところがあった。おそらく、森江は森江なりの判断で、京都の夜を平穏に、無事にと、気遣ってのことであっただろう。
事実、驍の神経は、森江がいち早く察知したように、どこかとげ立っていたし、いうまでもなくそのとげ立ちは、あのページ・ボーイの髪型をした女のあからさまな敵意を、自分の眼で見、体で浴びて、それはもう疑いようのない事実として自覚せざるを得ないことからくる腹立たしさであった。いわれのない害意を自分に対して抱いている人間を、驍は、今夜はっきりと自分の眼で見たのだった。
見えない相手ではなく、それははじめて、今夜驍の眼の前に姿を現した、いわば具体的な敵であった。具体的な、驍に害意を燃やす人間像を、驍は今夜はじめて、まのあたりにしたのである。
平穏でおれる筈がなかった。
不快であった。
いいようのない不快さに驍は包まれて、ホテルヘ帰ってきたのであった。
できれば夜の街へ、とび出して行きたいところであった。とび出して行ったところで、この不快さが消えるわけではなかったが、じっと抱えて、ホテルのベッドで独り夜を明かすことなど、驍にはできそうもないのであった。できそうもないことを、しかし驍はするために、ホテルの部屋へ帰ってきたのであった。
それは、森江や紀子が心配するようなことを、驍もまた心配したからであった。かつてあった京都での不吉な事件を二度と繰り返すまいという思いがあったからだ。
そして、博多のあの一夜がもたらした得体の知れない不気味さや、不快さの、二の舞いだけは避けたいという気があったからであった。
驍が夜の街をあるくとき、ふとどこからともなく現れる、驍でないもう一人の驍。
身におぼえのない、いわばそれは、楯林驍の偽者であった。
その偽者の跳梁をはばむためにも、うかつな夜遊びや独りあるきは、森江がいうように、避けたいと思ったからである。
誰が、なんのためにするのかはわからなくとも、誰かが自分を陥れようと謀っていることだけは、事実のようであった。
それが何者であるのか。すくなくとも、その正体が明らかにされる日まで、自分は自重しなければならないのだ。眼に見えない敵につけこまれるような行動は、慎まなければならぬ。隙あればとびかかってくる、油断のならない相手であったから。
楯林驍は、そのことを、忘れてはいなかった。忘れてはいなかっただけに、今夜、河原町のロイヤルホテルヘまっすぐに帰ってきた驍の心中は、昂ぶり、穏やかではおれなかったのである。
そんなところへの、電話であった。
驍は、おさえようとしてもおさえきれぬある苛立《いらだ》ちを、その電話にぶっつけていたといってもよいだろう。
自分では、さりげなさを装っているつもりではあったろうけれど。
「もういい。おれの用件だけを話す」
と、驍は、マサルにむかっていった。
「待ってくださいよ、ボス」
と、マサルが、なさけなさそうな音《ね》をあげた。
「話しますよ。いずれは話さなきゃならないことなんだから」
マサルは、村田森江のほうに了解でも得ているような、短い間合いを置いた後、
「実はね、ボス……」
と、いった。
「ちょっと厄介な問題が持ちあがってるんですよ。いえ、ボスが出かけられた後に、この話、急に入ってきたんですがね……コレクションのトップ・モデルが、五人ばかり、泣きこんできたんですよ」
「泣きこんできた?」
「そうなんですよ。それも、ボスが、ロング・ヘアに予定していた子たちばかりなんです。カツラにしてもらえないだろうかって」
「カツラ?」
「ええ、地髪のヘアを、切っちまうっていうんですよ。ショートに」
「なにィ?」
「まあ、そういきり立たないで。一応話を聞いてくださいよ。その子たちだって、好きこのんでカットするわけじゃないんですから」
「ちょっと待て。誰がカットなんかさせるといった」
「いや。しなきゃならなくなったんですよ。そいで、泣きこんできたんだから。元凶はね、雨野のバアさんなんですよ」
「雨野?」
「そうなんですよ。あのババア、後から割りこんできやがって、ボスのコレクションの日程を変えさせたり、いやな雰囲気だなと思ってたら、案の定ですよ。年金ホールで、ボスの二日前にフタを開けるでしょ? それも、ボスが日程をずらしたから開けられるってのにさ。でなきゃ、雨野のバアさんのショーなんかさ、ボスのコレクションに蹴散らされるのは眼に見えてたんだ」
「余計なことはいい。要点を話せ」
「それが、ボス。あのバアさん、そのモデルたちの頭をね、断髪にして使うっていい出したんですよ。超ショートのデザインでね」
「なんだと?」
「同じモデルを、二日後のショーにボスが使うってこと、百も承知の上ですよね。しかも、超ショートにするって子がね、全部ボスのロング・ヘアのモデルばかりなんですよ。どうしようって、モデルたちは、もうおろおろしちゃってね。相手が雨野のバアさんじゃ、断わりゃ後が怖いしね。ボスに合わす顔がないって、わんわん泣くんですよ……」
マサルの声は、まだ受話器の奥で続いていた。
華麗なる蹄《ひづめ》
雨野華子が使うという五人のモデルは、やむをえず楯林驍のほうで手をひくことにした。
ロング・ヘアが重要な条件ではあったが、これらのモデルたちは、そのほかにも、それぞれ個性的で、驍のなかではコレクション・イメージもできあがっていただけに、ショー全体の構成に大きなバランスの修正を考えねばならず、かなりな痛手だった。
結局、急遽《きゆうきよ》新しいモデルを探すことになり、村田森江は、その手配に走りまわって席のあたたまる暇がなかった。
「しかし、きたないことするじゃないの。あとから名乗りをあげといてさ、おまけにこんな間際になって、足もとすくうようなまねしちゃってさ、そんで一言の挨拶もないんだから。天下の雨野が聞いてあきれるよ」
と、マサルは肚《はら》にすえかねるように、ぼやいた。
「そうね」と、紀子も同調した。
「もとはといえば、うちのボス、雨野ビューティー・サロンにいたこともあるひとじゃない。いわば、雨野先生にとっては、かつてのお弟子でもあるわけでしょ。眼をかけてくだされこそすれ、こんな仕打ち、普通できる筈はないわよね」
「冗談じゃない。お前さん、そんなこと考えてたの? よしてくれよ。あんなのに師匠づらされちゃ、それこそ、ボスの腕が泣くよ。そうだろ。雨野にいたっていったって、ほんの見習い時代のさ、たかだか半年たらずのことだろ。ボスは、すぐ海の外へ出ちゃったんだから。栴檀《せんだん》は双葉より香《かんば》し。もう雨野華子の時代なんかじゃないってのが、ボスにはちゃんとわかってたのさ。だから、見切りをつけたんだろ。弟子扱いにされるいわれなんか、ないさ」
「わかってるわよ、そんなこと。でも、ボスはああいう方だから、師匠と弟子すじ。ボスのほうで、義理だけはたててらっしゃるでしょ。今度も、黙って、また横車押させておあげになったでしょ」
「押させっ放しすぎるんだよ。そんな必要なんかないよ」
「でもね、マサルちゃん……」
と、紀子は、何か考え込みでもするような、重い口ぶりになって、いった。
「そうは思わない? そりゃあ雨野先生は、美容界の草わけ的な存在よ。この世界で仕事している以上、大なり小なり関わりはできてはくるわよ。協会の前会長、いまでも常任理事のおエライさんだし、ウチのボスと何かと接触があったって、べつにちっともふしぎじゃないかもしれないけど……でも、なんとなく、そんな気しない?」
「ん?」
「つまり、このところ、なんだか、雨野先生の名前が、わたしたちの身辺に登場してくることが多いって感じ、あなたは、しない?」
マサルは、ちょっとけげんそうに、紀子を見た。
「もちろん、業界の大物だし、マスコミ好きのひとだから、雨野華子の名が耳についたっておかしくはないわよ。とかくめだちたがり屋の、騒動屋だから、それがどうこうというわけじゃないんだけれど……でも、うちのボスの身近な暮らしのなかに、こんなに雨野華子の名が、なんとなくからみついて出てくることが多いってのは、いままでにあんまりなかったんじゃないかしら」
「そういえば、そうだけど……」
「考えてみれば、黒田さんの『若王《じやこう》』が焼けたときからよね。黒田牧夫は、雨野ビューティー・サロンのメイン・チーフだったんだから……あの焼け落ちた『若王』のことを、思い出すたんびに、わたしたちは、自分では気がつかなくても、どこかで雨野華子って名前を、頭のすみに置いてたのよね」
マサルが、さえぎった。
「そんなこと、ウチのボスの知ったことかよ。それじゃ、何かい。お前さんは、『若王』が焼けたことで、雨野華子がウチのボスに、何か含むところがあって……」
「そんなこといってるんじゃないわ」
「そうだろな。そんなこと、いわせてたまるかってんだよ。それに、忘れないでくれよな。黒田牧夫は、雨野華子の傘下から独立するために、『若王』を開店したんだからな。けんか別れして、あの美容室開いたんだぜ。雨野華子が恨むとしたら、そりゃあ、黒田牧夫のほうだろ。きっと、あのバアさん、『若王』が焼けて、肚《はら》の内では、ホッとしてるんじゃないのかい。『それ見たことか』って、溜飲《りゆういん》さげて、せせら笑ってる筈だぜ。ウチのボスに、なんの関わりがあるんだよ」
「それは、そうよ。でも、あの『若王』が焼けた日から、ボスの身辺に不吉なことばかりが起こるのも、事実でしょ。そりゃあ、黒田さんと雨野先生の間のトラブルなんか、ボスの知ったことじゃないわ。でも、事件が起こるのは、あの『若王』の日以来だし、あの『若王』が、雨野先生にそういう関わりを持った店であることも事実でしょ。なぜだかわたしにはわからないけど、あの『若王』を、なかにして、ウチのボスと雨野先生の間に、何かの眼に見えない関係が、わたしたちには知ることのできない関わりあいが、生まれたんじゃないだろうかって気がしてならないのよ」
紀子は、不安げな、物思いに沈んだ眼になった。
「東京駅で、反藤美濃子さんと雨野先生を見かけたのだって、そうでしょ? よく考えたら、とても不自然な事柄だわ。偶然なんていって、忘れてしまっていいことだとは、思えないわ。そうでしょ? 反藤美濃子さんとお付合いができたのも、『若王』が焼けたからでしょ? 『若王』が焼けさえしなければ、ボスの暮らしのなかに、反藤さんという人間が現れてくることもなかったわ。その反藤さんが、雨野先生と知り合いだなんて……」
「そんなこと、わかりゃしないだろ。知り合いだなんて、どうしていえるのさ」
「だって、いっしょにいたじゃない。あんなに親密そうに、二人は話し合っていたじゃない」
「反藤美濃子じゃないだろ」
「ええ。正確にいえば、そうよね。反藤さんに似てる女のひとだったのよね。でも、わたしたちは、反藤美濃子さんだと思ったわ。誰も、疑いはしなかったわ。あの東京駅の喫茶店で、雨野先生といっしょにいた女性は、反藤美濃子さん。わたしも、あなたも、ボスも、三人とも、そう思ったわ。あれが、美濃子さんか、そうじゃなかったか。そんなせんさくが、いま問題じゃないんだわ。わたしたち三人が、美濃子さんだと思った女性と、雨野先生がお茶を飲んでたということが、ふしぎなのよ。そして、今度のコレクションの、何か意地悪されてるみたいな、雨野先生の行動……。みんな、つながりがあるんじゃないかしら」
「つながり?」
「ね、あなたには、そんな気がしない?」
「───」
「してる筈だわ。ボスの人気や力を嫉んでの厭がらせ、単なる妨害行動なんて、思ってるわけじゃないでしょ? いえ、そうは思えなくなってきてるんじゃない?」
マサルは、落着かなげに、貧乏ゆすりをした。
「だったら、それは、なんだというんだい?」
「そんなこと、わたしにもわかりゃしないわ。わからないから、心配してるんじゃない」
二人は、閉店間際の片づけ仕事にとりかかったところだった。
客は、スペシャル・ルームに一人残っているだけだった。矢根アキ子が、その客のセットにあたっていた。
「ちょっと、紀ちゃん」
と、その矢根アキ子が、レギュラー・ルームのほうへ顔を出して、声をかけた。
「表、もう閉めて頂戴よ」
「すみました?」
「いま、ドライヤー」
「じゃ、カーテンだけおろしときますわ」
「チーフ、遅いわね」
「ええ。さっき、電話は入りましたけど。十時過ぎるだろうって」
「あら、そう。うまく集まりそうなのかしら」
「そろいそうだって、おっしゃってましたわ」
チーフの村田森江は、朝から出かけて、穴のあいたモデル補充に奔走していた。どんなモデルでもいいというわけにはいかなかった。驍のイメージ・プランにそった、穴埋めのできるモデルを確保しなければならなかった。
「ボスは?」
「奥です」
と、紀子は、プライベイト・ルームのほうを眼で示した。
その扉は、今日一日、ほとんど閉じられっ放しの状態だった。
「食事は?」
「さっき、運んどきましたけど」
「そう、ありがとう」
矢根アキ子は、森江の留守中、店をとりしきる責務をかぶることになる。彼女も、疲れているふうに見えた。
首の根に指をあて、筋をもみほぐしながら、アキ子はスペシャル・ルームのほうへもどりかけ、ふと思い出したように振り返り、紀子とマサルを手招いた。
店には、ほかにも従業員たちがいたから、アキ子は玄関際のソファーに腰をおろして、
「まあ、一服させて頂戴」
と、煙草に火をつけた。
そして、声を落として、彼女はいった。
「あなたたち、知ってる?」
と。
「なんですの、アキ子先生」
「いま見えてるお客様から聞いたんだけどね……あれだってよ。こないだの、ほら、博多の変な子。電話をかけてきた……」
「タマ子っていう、あれ?」
マサルが、たずね返した。
「そう。中洲の川で死んだ子のこと。噂になってるらしいわよ」
「アキ子先生……」
「そうなのよ。わたしも、どきっとしたわよ。彼女がいうんだもの」
彼女とアキ子がいったのは、もちろん、いまスペシャル・ルームでドライヤーのなかへ入っている客のことである。
常連客の一人で、世田谷のほうからやってくる有閑マダムふうな女で、本人は未亡人だといっていた。気さくに、よく喋る女であった。
「『まあ、こちらの先生は、あれですってね。女の子ばかりじゃないんですってね。ゲイバーの子たちにも、騒がれてたいへんなんですってね』って、彼女がいうじゃない。『はあ?』って、わたしは聞き返したわよ。いきなりだったんで、あの子のことだとは思わなかったのよ。そしたら、彼女、『博多で、たいへんだったんですって?』て、こうなのよ」
「まあ……」
「それが、ほんとに例の調子なのよ。悪気があっていってるんじゃないのよ。いつもの、さばさばした世間話の口調なの。わたしは、もちろん、とぼけてたわよ。でも、ちゃんと知ってるのよ。ボスに捨てられた子が、川にとび込んで死んだってこと」
紀子は、
「ちょっと待って」
と、アキ子の顔を見た。
「捨てられたって、いったんですの?」
「そうよ。ウチのボスに可愛がられてた子が、急に冷たくされて、自殺したんだっていうふうな理解の仕方なのよ。その子が、死んでやる、死んでやるって、はでに中洲でわめき散らしてたってことまで、知ってるのよ。『でも、わかるわ』って、いうのよ。『あのひとたちだって、女でしょ。女なら、誰だって、ほうってはおかないわよ。こちらの先生』って、そういうの」
アキ子は、煙草を、長いままでもみ消した。
「わたしね。とぼけて笑い話みたいにしてとおしたけど、『どこで、そんな話お聞きになったの』って、たずねたわよ。そしたら、お友だちから聞いたっていうのよ。その友だちっていうのがね、よそのお店で聞いてきた話なんですって」
「よそのお店?」
「そうなの。それが、どこだと思って?」
「お店の名前が、わかってますの」
「彼女は、そういったわよ。その友だちの行きつけの美容室なんだそうよ」
「どこ?」
紀子は、息をのんだ。
「雨野ビューティー・サロン」
矢根アキ子は、そういった。
束の間、無言で、三人は顔を見合わせた。
「雨野……」
紀子は、やがて、口のなかで独りごちるように呟いた。
「畜生」
と、マサルが、唸って立ちあがった。
「待ってよ、マサルちゃん」
と、矢根アキ子が、そんなマサルを振りあおいだ。
「雨野ビューティーの人間が、喋ってたっていうわけじゃないのよ。そこで、そんな噂話が、お客同士の間に出てたっていうことらしいのよ」
「おんなじことじゃないか。雨野のバアさんの店で、噂がばらまかれてるってことに、変りはしないよ」
「いいえ。だからって、誰がいい出したなんてきめつけることはできないわ」
「そんなこと、わかりきってるよ。あのババアのやりそうなことだ。いや、もっとひどいこと、喋ってるよ。おれが、たしかめてきてやるよ」
「マサルちゃん。落着きなさい。知らん顔してなきゃだめよ。笑ってりゃいいじゃないよ。ばかばかしい話なんだもの」
「何が、ばかばかしいんだよ。あのババアの店で、そんなことになってるってことはよ、もうマスコミにも知れ渡ってるってことじゃないか。最初が、コレクションのショーの日取り。次が、モデル。今度は、スキャンダルって寸法さ。あいつの肚《はら》と底は、見えてるんだ。ウチのボスが、むかしあいつのところにいてさ、すぐにやめたのが、あいつには気にいらないのさ。やめて、よそで腕を磨いてさ、国際舞台で騒がれるような大物になって帰ってきたのが、あいつには、肚にすえかねることなのさ。どうにも、がまんのならないことなのさ。あいつは、そういう女なんだよ。機会があれば、ボスを叩きつぶそうと狙っていやがったのさ。そろそろ、その本性を現しはじめたってことだろ。そうだろ? あんたたちだって、そう思ってるんだろ?」
「思ってたって、どうしようもないじゃないの」
「どうしてさ。博多の話は、まるで根拠のない、でたらめな濡れ衣だろ。そいつは、はっきりしてることだろ。こっちに弱い尻なんか、どこにもないんだ。毛ほども、ないんだ。いってやりゃあ、いいじゃないか。あのババアが流してる噂が、どれだけでたらめかってことが、こっちには証明できるんだから。あいつの中身が暴露されてさ、かえって世間に正体さらすにゃあ、絶好の機会じゃないのさ。こんないい機会は、ありゃしないよ。そうだろ。あいつに虐《いじ》められて、つぶされた人間は|ごまん《ヽヽヽ》といるんだ。眼には、眼をだよ。泣き寝入りすることなんて、ありゃあしないよ」
「まあ、おすわりなさいったら。だから、いってるでしょ。この噂の出どころは、雨野華子さんかどうか、それははっきりしないんだって。ただ、雨野美容室で、お客同士の話題にのぼってたということだけなのよ、わかっているのは。そんな噂に、まともに噛みついてごらんなさい。それこそ、雨野さんの思う壺かもしれなくってよ。さしずめ、あなた、名誉毀損で、ひどいしっぺ返しを食うわよ。また、かりに、その出どころが雨野華子さんだったとしても、その尻っ尾をつかませるようなへまを、彼女ほどの女が、する筈がないでしょ。噂は、噂よ。いい出しっぺが誰かなんて、ちゃんとわからないように、手は打ってあるわよ」
矢根アキ子は、
「そうでしょ?」
といって、腰をあげた。
「森江先生には、わたしがお話しておくわ。だから、あなたたちも、そのつもりでいて頂戴。いまは、コレクションを成功させることが、まず先決問題なのよ」
アキ子は、そういって、スペシャル・ルームのほうへ帰っていった。
日頃はのんきで、どちらかといえばおおざっぱな、のんびりしたところのあるアキ子が、村田森江とそっくりな口のきき方をした。
紀子もマサルも、そんなアキ子に、ちょっとおどろいているのだった。
「畜生」
と、マサルは、もう一度唸った。持って行き場のない、低いいらだちのこもった声だった。
紀子も、ふと独語した。
「でも、どこから伝わったんでしょうね。そんな話……」
泥酔して博多の川に一人浮かんでいたという女衣裳の人間の姿が、眼先にちらついた。なぜだか、その衣裳のはでな模様柄までが、紀子には見えてくるような気がした。
まがまがしい色彩だった。
雨野華子のヘア・ショーがK年金ホールで開かれた日、楯林驍の美容室は〈臨時休業〉の貼り紙を出していた。
驍のコレクション・ショーを翌々日にひかえた準備で、広い美容室のなかはごった返していた。
翌日が日曜日で、Oホテルの『孔雀』ホールでふたを開ける驍のヘア・モード・コレクションのステージ合わせは、この日曜日の午後から入る段取りになっていた。
雨野華子のショーヘは、驍が一時間ばかり顔を出しただけで、店の誰も出かける時間などなかった。
「いかがでした」
と、帰ってきた驍に村田森江がたずねただけで、ほかの者たちは、まるで興味も示さなかった。
「ん? うん」
と、驍は、返事にもならない返事をして、それで森江も、了解した顔になった。
「出かけなくても、わかってるのにさ」
と、マサルが、紀子に小声でいった。
「ばかね。そうはいかないわよ。招待状がきてるんだもの。顔出しだけはしとかないと」
マサルは、肩をすくめて、苦笑した。
「けど、ほんとに気の毒したよな。あのモデルの子たちさ。切らなくても済んだ髪をさ、たぶんバサバサ、カットされただろうからな」
「そうね。いちばんかわいそうなのは、あのひとたちかもしれないわね。雨野先生も、カットするっていった手前、あっさりあのモデルさんたちをボスが諦めちゃったからって、もうあとには退けないでしょうからね」
「やっぱり、カットしただろうな」
「そりゃあ、してるわよ」
「ハハハ。あのバアさん、頭にきてるだろうな。ボスの邪魔したつもりが、こうなってみりゃあ、ちっとも邪魔にならなかったんだからな」
マサルは、プッと吹いて、
「どんなカット頭が並んだやら」
と、痛快げにうそぶいた。
そんなときだった。
「マサル」
と、驍が、呼んだ。
驍は、てんてこ舞っているモデルや従業員たちの間をぬって、マサルを廊下へ連れ出した。
「ちょっと、表に出てみてくれ」
「はあ?」
「たぶん、まだその辺にいる筈だ。知らん顔して、気どられぬように見てきてくれ」
「誰をですか」
「行きゃあわかる。おまえの知った顔が、そこら辺にいたら、黙って帰ってこい。たしかめるだけでいい。知った顔にぶっつからなかったら、おれの気のせいかもしれん」
「いったい、なんのことですか」
「いいから、行ってこい。いいな、きょろきょろするんじゃないぞ。なんとなく、見てくりゃいいんだ」
マサルは、きょとんとしていたが、しかしすぐに、身をひるがえして出て行った。そして、五分ばかりして、アイスクリームをさげてもどってきた。
「いたか?」
「ええ」
「知ってる顔だな?」
と、驍は、念を押した。
「ええ」
「よし。それでいい。このことは、誰にも喋るな」
「は?」
「気づかれなかっただろうな」
「これ」
と、いって、マサルは、返事の代りにアイスクリームの箱を眼の前につき出した。
「買いに出たと思ってるでしょ、きっと」
「そうか。それでいい。で、いくらだ、それ」
「三千円です。あ、お金はいいんですよ。借りてきましたから。前のベーカリーです。ボスがあとで払ってください」
マサルは、そういって、しかし小声で驍にたずねた。
「どうしたんですか。何か、あったんですか?」
マサルはちらっと、奥のフロアーの椅子に腰かけて、洗い髪のまま、村田森江からステージ衣裳の説明をうけているブルーズ姿の反藤美濃子のほうへ、視線を投げた。
「反藤さんもみえてるんだし、なかへ呼んだらいいじゃありませんか。なんだったら、僕、連れに行ってきましょうか」
「よけいなことは、するな。ほうっておけ。入ってきたかったら、自分でやってくるさ」
驍は、そういうと、外出着を脱ぎにプライベイト・ルームヘ入って行った。
マサルは小首をかしげ、
「変なの」
と、呟いてから、持ち場へもどった。
モデルや店の者たちにアイスクリームを配ってあるきながら、表の舗道に立っていた人物のことを、思い返してみた。
雨野華子のショーに出かけて帰ってきた驍が、帰るなり、自分にその人物をたしかめてこいといった口調には、明らかに秘密めいた匂いがした。マサルは、とっさに、思ったのである。もしかして、驍は誰かに尾行されて帰ってきたのではあるまいか、と。その尾行者の確認を、マサルにさせようとしたのではあるまいか、と。マサルに見てこいという以上は、驍には、なんらかの理由で、その確認がとれなかったのではないか。マサルは、
「気づかれないようにしろ」
といわれたとき、そう思ったのだ。
そして、その人物は、驍のいうとおりに、楯林美容室の前の舗道にいた。ちょうど電柱の陰に立って。電柱にもたれるようにして。
驍は、その人物の名を、誰にも喋るな、といった。マサルには、その理由がわからなかったが、彼は驍の言葉に従った。
しかし、なぜ自分にそんなことをさせたのだろうか、と、マサルは思った。思いながら、彼は、
「はい、差しいれ」
と、いっては、アイスクリームを配ってあるいた。
そんなマサルに、紀子がすぐに寄ってきた。
「なんだったの? ボスの用事」
「ん? これさ」
と、マサルは、紀子にもアイスクリームを手渡した。
「嘘」
「どうして」
「あなたのお役目じゃないでしょ。走り使いなら、いくらでもいるわ」
「だってほら、現にこうして、買ってきてるだろ」
紀子は、疑わしそうな眼で、マサルを見た。マサルは、口まで出かかった言葉をのんだ。
つまり、この日、その人物が楯林驍の美容室の前の舗道に立っていたことを知っているのは、マサルと驍のほかには誰もいなかった、ということになる。
後に、マサルは、その人物がなぜ楯林驍の美容室の前にいたのか、そしてなぜ、その人物の名を驍が口どめしたのかを、知る日がくるのであるが、そのとき、マサルは、なぜこの日、もっと深くその人物について自分は考えてみようとしなかったのだろうかと、はげしい後悔の念におそわれたのであった。
しかしともかく、それは後日の話であって、この日のマサルには考えおよばぬことであった。
新宿署の角田刑事が例によってふらっと顔を見せたのは、この日曜日の、夕暮れ近いころであった。
美容室は、さながら戦場《いくさば》のようなあわただしさに包まれていた。
ショーの演出家、衣裳デザイナー、振付師、照明技術者、撮影家などのスタッフも顔をそろえていて、明日のOホテル・ホールでの総仕あげの打ち合わせや、下ごしらえに、文字どおり上を下への騒ぎで、足の踏み場もない状態だった。
最初に角田に気づいたのは、紀子だった。
角田は入口のところにたたずんでいて、
「いやいや、これはとんだところにやってきましたなあ。日を変えて、出なおしてきますかな」
といって、物珍しそうに室内を眺めていた。
村田森江にとりつぐと、
「そうね、こんなときだから……」と、いったが、すぐに、
「いいわ。表の喫茶店で待っていただけないかとお願いしてみて。じきにまいりますからって、ね」
角田は、
「まあまあ、ごゆっくり」
といいながら、しばらく興味深げに見物して、森江の手の空くのを待ち、いっしょに出て行った。
喫茶店の椅子にすわると、
「あなたもお忙しいでしょうから、今日は簡単にご報告だけしときましょう」
と、角田は、いった。
「博多の公衆便所でみつかったハサミですがね。あれは、黒田牧夫さんのハサミだと見てまちがいないでしょう。いや、とんだところで、瓢箪《ひようたん》から駒《こま》でしてねえ。ほら、大久保から姿を消して行方不明になっていた、黒田さんのお弟子の美容師ね、じつは、この消息がわかりましてねえ」
と、いった。
「博多にいたんですよ、彼」
「え?」
村田森江は、まっすぐに顔をあげて、角田を見た。
楯林驍のヘア・モード・コレクション≪ジャグラー・イン・セプテンバー≫は、翌週月曜日の午後、盛大に客を集めて、Oホテル二階の孔雀ホールでふたを開けた。
ショーの総進行役を受け持っている村田森江は、楽屋にあてられた控え部屋とステージの間をとびまわっていた。
焼絵硝子の彩色光を照明にとりいれた技巧的なオープニング・ステージは、深々とした絢爛たる幻想の光飾りをちりばめて、いきなり観客を濃密な花やぎの淵へひきずりこんだ。
「チーフ。そのストール、ちがいます。このあとの景です」
と、紀子が、モデルの肩先へ羽織らせかけた濃藍色の網目ストールを手にしている森江にむかって声をかけた。
「罌粟《けし》です。罌粟のブローチです」
モデルのほうが、そのブローチを手にとりあげた。
「そう。そうよ。それ」
と、紀子は、べつのモデルの頭にスプレーをふきかけながら、顔だけむけてうなずいた。
「ああ、そうだったわね。ごめんごめん」
と、村田森江は、青いカスミのようなストールをモデルの肩からとりのぞいた。
はずみで、ふわっと宙をながれたストールが、モデルの胸もとでブローチの花びらへ巻きついた。
「あら、いやーね。動かないでね」
と、はずしにかかった森江を、紀子は気づかわしげな目でちらっと見た。
「さあ、みんな浮かれて頂戴ね」
と、森江は、モデルの胸をぽんとたたいて「いいわ」とうなずいてから、いった。
「思いっきり浮き浮きと、はずんで、ライトのなかへ出てって頂戴」
紀子は、べつのモデルのほうへ移っていた。
「気にしない、気にしない」
と、マサルが、小声で囁いた。
彼の手も、せわしなくモデルの頭で動いていた。
「さっきも、化粧壜ひっくり返しちゃったのよ」
「知ってるよ」
「大丈夫かしら。いつものチーフじゃないみたい」
「大丈夫、大丈夫」
二人だけにわかる声で、ほんの束の間やりとりされた会話であったが、マサルも紀子も、森江の森江らしからぬ振る舞いが、気になって仕方がなかった。
村田森江は、表むき、平静な態度で、てきぱきと舞台裏の総指揮にあたり、その限りでは仕事の段取りにどこも支障はなかったけれど、ふだんの森江には考えられないようなミスを、ときどきやった。
ほかの人間ならいざ知らず、冷静、沈着、どんなときにもけっしてうろたえや騒ぎの色を表に出したりはしない彼女を知っている紀子たちには、それは奇異な眺めであった。
紀子もマサルも、その原因が、一昨日福岡から帰ってきたという角田刑事の来訪によるものであろうという推察は、ついていた。
一昨日、美容室がショーの下準備の騒動でてんてこ舞っている最中に、角田と出て行った村田森江が、帰ってきてから、それははじまった現象なのだった。
どことなく落着かなげな様子を、森江は強いてねじ伏せでもするように、ことさら活発に、忙しげに動きまわった。
誰にも、角田との話の内容は聞かせてはくれなかった。
「たいしたことじゃないわ。そんなことより、さあ、仕事、仕事」
と、彼女は、いった。
紀子もマサルも、そんな彼女のきびきびした身ごなしに、逆に空威勢のようなものを感じとり、ふと不安を持ったのだった。
昨日、今日と、村田森江は、何か上の空で、落着きを欠いていた。
欠いているということを見せまいとする彼女の態度が、よけいに紀子たちには心にかかるのであった。
ショーは、もうはじまっていた。
そして、その舞台裏の総責任者でもある村田森江は、人の出入りでめまぐるしい楽屋内をあちらこちらへと泳ぎまわりながら、その混雑の中心部にいる楯林驍へ、ときどき不意に眼をとめては、あわててその視線をはずしたりした。
そのたびに、村田森江は、角田刑事の飄々《ひようひよう》とした声を、耳もとに思い出すのであった。
角田は、べつに気負ったところもなく、なんでもないことを話しでもするような口振りで、博多の大博通りに面した小さな公園内にある公衆便所で焼死した男の死体といっしょに見つかった一本のハサミのことを、報告した。
「あれは、黒田牧夫さんのハサミだと見てまちがいはないでしょう」
と。そして、黒田牧夫の弟子で、たった一人の生き残りだと思われていた、大久保から姿を消した美容師が、
「博多にいたんですよ」
と、角田は、いった。
森江は、なんとなく息をのんだ。
その美容師だけが、祇園祭の当日、楯林驍を京都で刺したあのカット・バサミの出所をたしかめられそうな唯一の人間だと思われたし、また、黒田牧夫の美容室≪若王≫が焼けた夜、京都にいた筈の楯林驍を新宿で見たと証言して、その後酒に酔っぱらって陸橋から墜落死した理容師とも、大久保で勤めていたという点で共通項を持っていた人間だった。
この黒田牧夫の生き残りの弟子である美容師の行方不明は、だから、いまのところ、楯林驍を刺した犯人と、驍の偽者を追及できそうな、ただ一つの具体的な手がかりを、失ったという事柄でもあるのだった。
角田刑事も、その若い美容師を探していたことは、事実であった。
その美容師の消息が、博多に、やはり一本のカット・バサミを見に出かけた角田の口から、もたらされたのである。
角田は、
「いや、犬もあるけば棒にあたるとは、よくいったもんですなあ」
と、しょぼしょぼした眼にじつに穏やかな光をためて、のんびりといってのけたけれど、森江には、そうのんびりとも構えておれない報告だった。
「と、申しますと?」
森江は、先をうながすように、角田を見た。
「ええ、それがね、まあ、じつにひょんなところから話が出てきましてね……」
と、角田は、いった。
「例の公衆便所から出てきたハサミね、これはひとまずおくとして、まあわたしはわたしなりに、≪サフラン≫のタマ子って子、あのゲイ・バーのおねえちゃんね、そっちのほうも二、三、あたってみたんですよ。このタマ子っておねえちゃん、じつは上川端ってところのお宮さんのそばに住んでましてね。まあそこのアパートの人たちに、いろいろ彼女のことを聞いたりしたんですがね。そのうちに、ひょっと美容師《ヽヽヽ》さんって言葉が出てきましてねえ……いや、彼女の付合いのなかに、美容師さんがいるということなんですよね。まあ、ときがときだけにね、わたしもなんとなく印象的でしてね。それで、その美容師さんてのが勤めてる店にも、顔出してみたんですよ。タマ子のアパートからは、そう遠くないところにあるんですがね。タマ子は、毎日、その美容院へ、五時前にはセットに出かけるんだそうです。頭をセットしてですな、それから、≪サフラン≫へご出勤という日課なんですわな。
そういうわけで、この美容院をたずねますとね、そのタマ子の友だちってのは、もういないっていうんですよ。どこへ行ったか、それもわからないっていうんですよね……。話を聞いてみますとね、休みの日に店を出たっきり、帰ってこないというんですわ」
角田が、それはいつ頃のことかと聞くと、経営者が答えた日は、ちょうどタマ子が死んだ時期と重なるのだという。
「いや、正確にいいますとね、タマ子が泥酔状態で那珂川にはまって死んだ日の、それは前日にあたるんですよ」
森江は、角田の口もとをみつめていた。
「そしてね、その美容師ってのは、じつはタマ子の紹介でね、最近その店に住みこんだばかりだというんですね。いや、経営者は、しきりにぼやいていましてね、『近頃の若いのは、みんなこうなんですよ』と、まあいうわけなんですわな。『頼むときだけは、いい顔して、気にいらないと、ぽいと無断でとび出しちゃって、あとはもう梨のつぶてなんですからね』ってねえ」
そこで、角田は聞いたのだという。
──気にいらないっていうと……何か、あったんですかな、そんな事情でも。
──いいえ、わたしのほうには、思いあたることなんて、なんにもありゃあしませんよ。まあ、わりに腕もしっかりしてるし、働くだけは働いてくれてましたからね。おタマちゃんにも、いい子を紹介してもらったって、お礼を包んだくらいですよ。待遇だって、そりゃあ街なかの一流店なみとはいかないかもしれませんけど、よそにくらべて、すくなくはなかったと思いますよ。食べさせて、ちゃんとお給料払ってたんですからね。まあ、こんな小さい店ですから、そんなところが気にいらなかったのかと思ったりもしますけどね。若い子ってのは、とかく花やかな店にあこがれたりしますからね。でも、おタマちゃんの話だと、東京で働いてたってことだから、腰の落着かないのはお断わりだよって、釘は一本さしといたんですけどねえ。案の定です。
経営者は、そういったという。
──で、タマ子さんとは、どういう付合いだったんでしょうね。
と、角田がたずねると、経営者は、友だちという以外に詳しいことは聞いていない、と答えたという。
「わたしはね、ふいっと、ここで、あの公園の焼けた公衆便所のなかにあったハサミね、あれを思い出しましてね。まあ、どうということもなかったんだが、その美容院の主人にね、見てもらうことにしたんですよ。ところが、これが瓢箪から駒でしてね。そのいなくなった美容師が使っていたハサミにちがいないって、いうんですよ」
「まあ……」
「それから、話はとんとん拍子で、焼けた死体の背格好、体つきや、着衣なんかの焦げかげん……もっとも、ほとんどこいつは丸焦げでしてね、肉まで爛《ただ》れてるありさまだから、詳しいことはいえないけど……とにかく、照合してみたんですがね、これがほぼ一致するんですな。いや、するとみて、まちがいあるまいと結論が出るんです。きめ手は、ハサミと、それにサンダルの焼け残りがありましてね、これがその美容師のふだん履いていたやつと同じものなんです」
角田は、ちょっと言葉を切って、森江に同意をもとめるような口調になった。
「そうでしょう? あなただって、そうお考えにはなりませんかな。その美容師が、博多の店に勤めはじめたのが、ちょうど黒田さんのお弟子が大久保から姿を消した時期と同じ頃だとしたら」
「……同じ頃でしたの?」
「そうなんですよ」
と、角田は、いった。
「Kという署名入りのゾーリンゲンのカット・バサミ。東京で美容師をしていた男。しかも、楯林さんに関わりを持つ事件で調べる必要のあったタマ子という人物に、縁故のある男。となれば、なんとなくそう考えざるを得ない気がしてくるじゃありませんか。いや、これはもう、ほとんどそう思ってまちがいないと思いますよ」
「角田さんは、たしか、一度、その美容師さんに、東京のアパートで会っていらっしゃるんでしたわね」
「はい。楯林さんを刺したハサミの元の持ち主の名を聞いたのも、その男からですから」
「……櫛野さん、とおっしゃいましたかしら」
「そうです。イニシャルのKは、櫛野のKです。櫛野というお弟子さんが黒田牧夫さんからもらったハサミに、イニシャルをいれたんだと、彼が教えてくれたのです。どちらも黒田さんのお弟子で、同じアパートに住み、一人は黒田さんといっしょに≪若王≫で焼け死に、一人は生き残ったのです。つまり、彼なら、Kというイニシャルの入ったゾーリンゲンのハサミを持っていても、そうふしぎはないわけです。櫛野というお弟子さんは、彼の同僚だったのですからね」
「そのとき、顔もごらんになったのでしょ?」
「はい。見ましたよ。名前は田端といいましたがね。背丈のある、筋肉質な子でしたね。もっとも、福岡のその美容院では、どうやら偽名を使ってたようですが……わたしのおぼえている若者と、その美容院の主人から聞いた美容師の特徴は、ぴったりと符合するのです」
「じゃ、公園のお便所でガソリンをかぶって焼死したという男性が……」
「田端と考えられますね」
「でも、なぜ……」
と、森江は、口に出して、そのあとの言葉をのみこんだ。
「そう。なぜ、彼がそんな死に方で、死ななければならなかったのか……。これは、わたしにも、わかりません。いまのところ、わからないのです」
角田は、穏やかな口調で、いった。
「こんな表現は不謹慎かもしれませんが、しかし、公衆便所のなかの黒焦げ死体が彼だったとすると、これはたいへん興味深い感じがするのも、たしかですね」
それは、森江も、考えたことであった。
理由や原因はどうであれ、たった一人生き残った黒田牧夫の弟子が、死んだ。火にとじこめられて。燃える建造物といっしょに。
(焼死)と、森江は、くり返すように、その言葉を頭のなかで反芻した。
そして、その美容師が焼死した公衆便所のある公園からは眼と鼻の先に建つ連れこみホテルに、同じ夜、タマ子という女が宿泊したというのも、奇妙であった。
奇妙といえば、そのタマ子も、翌日の夜には、那珂川に溺死体となって浮かんでいたのである。
そして、このタマ子という人物は、その夜そのホテルで、楯林驍といっしょであったといい張った女である。事実、角田の話によれば、その同宿人は、その夜たまたま同じ博多にいた楯林驍と、姿形もそっくりの服装をしていたという。
それが楯林驍である筈がないと証明できるのは、西崎三樹子と、彼女の経営するクラブ≪ナースチャ≫の女の子たちということになるのだが、しかしそれも、彼女らがメキシコ料理店を出た午前二時過ぎまでのことで、タマ子と男が公園のそばのホテルに入ったのは午前三時前だったというから、その時刻、驍のアリバイを証明できるのは、正確には、西崎三樹子ただ一人ということになる。三樹子は、驍の愛人だった。特殊な愛人関係にある三樹子の証言を裏づける第三者の眼が、この時刻以降には、ないのである。
楯林驍は、二時三十五分に三樹子のマンションに入り、六時近くに彼が投宿していたホテルに帰っている。
いっぽう、公園のそばのラブ・ホテル≪太陽≫に、タマ子と楯林驍にそっくりの服装をした男が入ったのは、前述のごとく三時前で、その後、男は五時半過ぎに一人でラブ・ホテルを出たことがはっきりしている。
となると、このタマ子が同伴したという男が、楯林驍ではないと証明できるのは、西崎三樹子をのぞいては、タマ子本人に問い糺すよりほかはないのである。
つまり、タマ子は、ある意味で、楯林驍ではない驍が、この世に存在するということを実証する力をもったただ一人の第三者、ともいえるのである。
そのタマ子が、死んだ。ちょうど、≪若王≫の火事の夜、いる筈のない楯林驍を新宿で見たという大久保の理容師が、陸橋から墜《お》ちて死んだように。しかも、どちらも、酒に酔い、泥酔状態であった。死んでもふしぎはない状態で、彼らは二人とも、死んだのである。
これはいったい、どう考えればよいのだろうか。
村田森江にわかることは、楯林驍の身辺に出没する不吉な黒い影の存在を、つきとめようとすれば、その手がかりがそこで絶え、そして人が死ぬ、ということであった。
角田は、西崎三樹子にも会ってきたというから、彼は彼にできることはすべて調べつくして、帰ってきている筈であった。
「それじゃあ、刑事さん。刑事さんは、どう考えていらっしゃるんでしょうか。その≪太陽≫というホテルに、タマ子さんと同宿した男が、ウチのボスであり得る場合もある……と、考えていらっしゃるんでしょうか」
「いやいや」
と、角田は、柔和に笑った。
「そういうわけじゃありません。わたしは、西崎三樹子さんが嘘の申し立てをするような方ではないと、思いましたがね。しかし、これは、あくまでもわたしの主観でしてね。まあ、こういうふうに考えていただけば、よいでしょう。事態を正確に把握するならばですね、こういうことがいえるわけです。もし西崎さんの証言に、疑惑の眼をむける者がいたとすれば、その人間には、≪太陽≫に泊った男を楯林さんではないと立証する証拠は、どこにもなくなる……と、まあ、こういうことだけはね」
角田は、
「いまのところ、そうです」と、うなずいた。
「いまのところ、そういわざるを得ないでしょうな」と。
村田森江は、やにわにたずねた。
「じゃ、タマ子さんの死は、どう考えればよろしいんでしょうか。自殺なんですか? それとも、あやまって墜ちた……事故死なんですか?」
「さあ、それも、なんともいえませんな。いや、いえないというよりも、わたしにもわからない、というべきでしょうな」
角田は、一呼吸おいてから、やはりなにげない口振りで、つけ加えたのであった。
「わかったことは、≪太陽≫というラブ・ホテルに、タマ子と、タマ子が楯林さんだという男が泊っていた時間、そのそばの公園でガソリンをかぶって炎上した公衆便所のなかにいた男、これが、まったく無関係な……たとえば赤の他人の浮浪者だとか、そういう種類の人間ではなかったということだけです。つまり、この火事は、どうやら、なんらかの意味あいで、黒田牧夫さんのお店の≪若王≫の火事と、つながっているだろうと考えなければなるまい、ということです」
角田は、そういうと、立ちあがった。
「いや、これはお忙しいさなかを、長いこと付合わせましたな。わたしの福岡土産は、まあこういうところですわ」
村田森江は、その角田のうしろ姿を、いま思い出しているのだった。
≪サフラン≫のタマ子。その人間の死が、はっきりといま、黒田牧夫を仲介にして、楯林驍に結びつき、からまりつく不快な現実の蔦蔓《つたかずら》と化したのを、森江は自覚したのであった。
なぜだか、恐ろしい自覚であるような気が、村田森江にはしてならなかった。
楯林驍のコレクションは、三部にわかれていて、驍が反藤美濃子を中心に、六人のロング・ヘアのモデルを駆使して華麗な≪烏《クロウ》≫の世界のイマジネーションを奔放に展開し、造形して見せたのは、最終部の三のパートであった。
凛然とした天翔《あまか》ける漆黒の禽《とり》の百態が、象形ではなく、精神の世界でとらえられ、格調高い、鮮烈な気品を放って、濃艶な黒髪の上に生け捕られていた。
十数本の尺八が奏でる底深い楽音に乗って、そのメイン・パートが進行しはじめて間もなくの頃であった。
森江の指示で客席にまわっていた紀子が、不意に楽屋へ駈け込んできた。
「だめじゃないの。紀子さん。あなたは、お客のなかに入って、反響をしっかり聞いてきてくれなきゃあ」
と、入口で、矢根アキ子に呼びとめられた。
「すいません。ちょっとマサルちゃんに……」
と、紀子は、マサルのそばへ走り寄った。
この景では、美濃子に六人のモデルがからみながら、その間にがらりと造形を変えて、美濃子が主要な≪烏《クロウ》≫の中心テーマを披露するという離れ業を、驍はやってのけて見せる。
かつらや付け髪などをいっさい使わないところが、驍の手品師《ジヤグラー》の腕の見せどころであった。
美濃子が何態めかの仕あげをすませてステージヘ出て行った直後だったから、マサルはからみのモデルの頭なおしにかかっていた。
「マサルちゃん」
と、紀子は、その耳もとへ寄って囁いた。
「きてるの」
「ん?」
と、マサルは、振りむいた。
「きてるのよ。反藤さんが」
息を整えるような声だった。
マサルは、なんだといった顔になって、
「あたりまえだろ。奥さんが出てるんだもの。招待状の宛名は、君が書いたんだろう?」
「そうじゃないのよ。美濃子さんよ。反藤美濃子さんがいるのよ、客席に」
「バカ。反藤さんは……」
と、マサルはいって、不意に視線を紀子へもどした。
いまステージに出て行ったばかりじゃないか──と、いいかけた言葉を、急にのみこんだのであった。
「何……?」
「そうなのよ」
と、紀子は、そんなマサルにうなずいてみせた。
「反藤美濃子さん。まちがいは、ないわ。客席にも、彼女がいるのよ。雨野華子先生と並んでね」
「……ほんとうか?」
マサルは、瞬間、まじまじと紀子を見返した。
「ほんとうよ。それに、反藤繚一郎さんも見えてるわ。お席はだいぶ離れてるけれど」
「西崎さんは?」
「ええ。西崎三樹子さんもいらしてる筈よ。受付の芳名帳には、名前が書きいれてあるもの。ご本人は、ちょっとまだ探せないけど……」
紀子は、言葉をついで、いった。
「それがね、わたし、なんの気もなしに客席を見わたして、最初に眼にとまったのが、反藤さんなのよ。ショーがはじまる前に、ちらっと楽屋に顔を出して、ボスに挨拶なさってたから、あれ反藤繚一郎さんにまちがいないわ。素敵な和服召してらっしゃるでしょ。だから、すぐ眼についたの。そしたら、反藤さん、なんとなく視線を横のほうに投げてらっしゃるの。ちらっ、ちらっとね。だから、わたしも、そっちのほうへ眼を移したの。もう、ひっくり返りそうだったわ。美濃子さんが、そこにすわっているんだもの」
「客席は、この景、暗いだろ」
「ええ。ライトは落としてあるわ。でも、見まちがえやしないわ。反藤美濃子さんよ。ご主人も、それに気がついたんだわ、きっと。しきりに気にして、みつめてたもの」
「よし。帰ってろ」
と、マサルは、いった。
「いいかい。見失うなよ。その女のそばについてろよ。気づかれないようにな」
「わかったわ。でも、もし途中で立ったりしたら、どうする?」
「きまってるだろ。くっついてくんだよ」
「外へ出ちゃったら?」
「バカ。そんなこといってられないだろ。どこへ行こうとくっついてるんだ。そして、つきとめるんだよ、その女の正体をさ。こっちのことは、まかせとけよ。僕が責任持つからさ」
「大丈夫? ショーほっぽり出して」
「もうこの景で終るんだろ。君の手は、空いてるんじゃないか」
「客席にいろといわれてるわ」
「だから、そいつは、僕が責任持つといってるだろ。さあ、早く。こうしている間に、いなくなられたら、どうするんだよ」
「いいわ。じゃ、そうするわ」
紀子は、腹をきめたようにいって、また楽屋を走り出て行った。
誰も、二人の会話には、気づかなかった。
三、四十分ばかりして、ショーは大詰めをむかえていた。
ステージの中央には、カーテン・コールで勢ぞろいしたモデルたちに囲まれて、花束に埋もれた楯林驍が立っていた。
その横に並んでいる反藤美濃子の艶《あで》やかさが、いちだんときわだっていた。
驍と似合いのカップルに見えた。
拍手が鳴りやまず、あちこちの客席から声がかかっていた。
このあと、招待客をまじえて簡単なパーティーがあって、コレクション・ショーは終るのだった。
客席と舞台がそうした一つの昂奮に沸いて賑わっているさなか、マサルは、楽屋口をとび出していた。
しかし、客席には、そのとき、紀子の姿はもう見えなかった。
ちょうどこうした時刻であった。楽屋部屋の電話が鳴った。
誰がその電話に出たか、さだかではない。
とにかく、そのとき電話に出た人間が、最初にその報せを受けたのである。
電話の奥の声は、楯林驍の美容室が、いま燃えている、と告げた。
「なんですって?」
「火事です。燃えてるんです」
と。
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第三章 七曜歌の密林
家 郷 の 門
楯林驍は、明け方近く、眼を醒ました。
裸の胸の乳暈のあたりに、やさしいものの名残りの気配がまださまよいたっている気がした。
黒い千筋《ちすじ》の髪の流れが、しずかな幻のように炎《も》え、息づいて残っていた。柔らかな唇の感触や、さすらい続けた指先のひそかなわななきの跡まで、肌は鮮明におぼえていた。
驍は束の間、ふしぎな安らかさと、昂奮のなかにいて、その眼醒めの新鮮な酔い心地にぼんやりと身をゆだねていた。
ゆうべ、美濃子がこの部屋を出て行った後、消さずに残しておいたサイド・テーブルの上のスタンドが、淡い光をベッドの端へ投げかけている。
外は、まだ暗かった。
「送って行くよ」
と、起きあがりかけた驍に、美濃子はうなじを見せたまま、首を振った。
「いいえ。独りで帰しておくれやす。このまま、お寝《やす》みやしておくれやす。先生がお寝みやしたら、わたし、そおっと帰らせてもらいますよって」
「じゃ、下の車が拾えるところまで行くよ」
「大丈夫どすて。独りで帰りとうおすの。わたしは、悪いことしたのやさかい、なりひそめて、そおっと帰りとうおすの。送ってもろたりしたら、わたし、もっとよう帰らへんようになってしまいます」
「僕は、帰したくないんだよ」
「あきまへん。そんなこと、ゆわんといておくれやす。忘れておくれやす」
「忘れないよ」
「あかしまへんて。わたし、どうかしてたんどす。こんなことになってしもうて……」
「後悔してるのかい?」
美濃子は、しずかに立ちあがり、緋色のだて巻きをぎゅっと締めた。
「恥ずかしおすの」
と、そして、いった。
低い、消えいるような声だった。
「美濃子さん」
「お願いどす」
と、美濃子は、うしろをむいたまま、いった。
「お寝みやしておくれやす、眼ェつぶっておくれやす。お寝みまで、ここにいさせてもらいますよって。独りになれたら、帰ります。独りにさせておくれやす。でないと、先生のそば、離れられへんようになってしまいます」
美濃子は、はげしく首を振った。
「そんなこと、できしまへん。忘れなあかんのどす。帰らなあかへんのどす。先生のお寝みやした顔、見てたら、きっと帰れます。独りになれます。そうさせておくれやす」
驍は、黙って眼をとじた。
そして、ほんとうに眠りに落ちた。
眠ってやることが、いま自分のするべきことだという気が、驍にも、ふとしたからであった。
歓楽の余韻に染まった美濃子のうなじは、弱々しく、美しかった。その美しさが、美濃子の心の動揺をよく映し出しているように思えた。
美濃子もこの日、彼女自身がいったように、尋常な状態ではなかったのである。|どうかしていた《ヽヽヽヽヽヽヽ》のである。それは、驍にも、いえることであった。二人とも、いわば、どこかで心のバランスを崩し、平静を欠いていたということができるだろう。平静ではなかったからこそ、二人の上に、この夜が実現したのだ、と驍は思った。
そして、実現してみれば、もうこの夜からのがれられそうにもないという自覚が、しきりにするのであった。美濃子も、その自覚といま闘っているのだと、驍は思った。ふとしたはずみでもぎとった禁断の実の甘味の深さや濃密さに、驍も美濃子も、酔っているのであった。この酔いにいつまでも浸っていることはできないのだと、自らにいい聞かせている美濃子の心のとりとめのなさが、驍にはよくわかるのであった。
「このスタンドの灯《ひ》ィ、つけさしといておくれやす。外からお部屋が見とうおすの。先生のお寝みやしといやすお部屋の窓が、見とうおすの。見たら、車に乗りますよって。かましまへんか、このままにさせてもろうてても」
そんな美濃子の声を、眠りぎわに驍は聞いた。聞きながら、眠りに落ちた。
驍にも、闇はたえがたかった。
美濃子と過ごした時間をそっくり、このままいつまでもこの部屋に残しておきたい、と思った。灯を消せば、その時間ももう消えて、ふたたびとりもどせないものになり、終るのだという気がした。
驍は、いつ美濃子が出て行ったのか知らぬままに、眠り込んだのだった。
かすかな女の移り香が、夜明け方のベッドの上には残っていた。
楯林驍は、見えない裸身を抱き敷きでもするように、ゆっくりと寝返りをうち、ふたたび浅いまどろみへ入った。
ドア・チャイムに起こされたのは、夜がすっかり明けきってからであった。
ガウンをひっかけて扉をあけると、マサルが立っていた。
「お早うございます」
「うん」
「早過ぎましたか?」
「いや。もう起きるところだった」
「コーヒーでも、いれましょうか」
「そうしてくれ」
マサルは、黙って、持ってきた週刊誌を三冊、そばのテーブルの上に置き、キッチンのほうへ入って行った。
驍は、見るともなしにその週刊誌へ眼を落とし、一度ベッドヘもどりかけて、その視線を不意にとめた。
──楯林驍の華麗な闇黒の世界。
という見出し文字が、その女性週刊誌の表紙には刷りこんであった。
驍は手をのばして、ほかの二冊のページもめくった。
いずれの誌面にも、驍の名が活字になっていた。
十日ばかり前に終った驍のヘア・コレクション・ショーの話題を中心にして、その成果と、目下売り出し中の新進デザイナーの身辺を探るといったような扱いの記事であった。
ショーの後、驍もいくつかのインタビューに応じたり、マスコミ関係のショーヘの招待も怠ってはいなかったから、記事になること自体、べつにおどろきはしなかったが、なかには、ショーの当日、楯林驍の美容室がとつぜん火事騒ぎを起こしたことなどを、かなりしつこく好奇的に質問して行った記者もあった。
その記者は、つい数カ月前、おなじ新宿の眼と鼻の先で、開店当日火を出して全焼した黒田牧夫の店『若王』の火事を、明らかに言外ににおわして、物を喋った。
無論、驍はそんな話にとりあいはしなかったが、心のどこかで、不快な予感がなくもなかったのであった。
マサルの持ってきた週刊誌は、どれもショーの成功についてはおなじような記事を並べていたが、
──華麗な闇黒の世界
と、表紙刷りにした一誌だけが、その扱い方にきわだったちがいを見せていた。
記事の量も、この誌面がずば抜けて多く、ショーの華麗な成果を報道はしていたけれども、同時に楯林驍の私生活をあばくという色あいが濃厚に塗りこめられている記事でもあるのだった。
ショーの評価をべつにすれば、それはほとんどスキャンダラスな、毒をふくんだ中傷記事に終始しているといってもよかった。
記事は、明確に黒田牧夫を驍のライバル・デザイナーに見立て、二人の関係を、雨野ビューティー・サロン時代からの宿敵同士ででもあったかのように書き起こし、その後の驍の海外での活躍なども詳細に取材されていて、『若王』の火事、黒田の死、驍の京都での刺傷事件、博多のゲイバーの女《ヽ》・タマ子との交渉、そのタマ子の自殺《ヽヽ》事件などを網羅して、どこで取材したのか、じつにまことしやかな一編の読物記事ができあがっているのであった。
|類いまれな美貌と精悍な肉体《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を駆使して、夜ごと、|女の殿堂《ヽヽヽヽ》に|奔放な辣腕《ヽヽヽヽヽ》の|冴え《ヽヽ》を見せ、快楽と放縦なエネルギーに充満した明け暮れであるかのような私生活が、かなり克明に記されていた。
不快なのは、扱われている記事に登場する事件が、すべて現実に、驍の身辺に実在した事柄ばかりであるという点にあった。
実在のできごとをつないで、架空の物語をつくりあげ、|外国仕込み《ヽヽヽヽヽ》のエネルギッシュな肉の歓楽に耽溺《たんでき》する若いヘア・デザイナーの暮らしぶりが、たえずその裏で、非運な死に遭って身を滅ぼした黒田牧夫の影をまといつかせながら、物語られていた。
いうならば、|若い宿敵デザイナー《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》二人の浮沈、光と影の物語とでもいえばよいか。そんな構成をとった読み物記事なのであった。
記事は、最後に、こう結んであった。
──しかし、奇妙なことに、楯林驍・美容室もまた、晴れのコレクション・ショー開催日に、店から火を出した。さいわいに二坪ばかりの器材室を焼くだけのボヤに終ったが、考えてみれば奇《く》しき暗合とでもいうべきか。
|晴れの日《ヽヽヽヽ》に、それぞれおなじ職場を見舞った火は、何がなしに因縁めいて、ひどく印象的であった。
と。
驍は、その週刊誌を投げ出して、バス・ルームヘ入った。
火といえば、もう一つ、博多の小さな公園にある公衆便所の火事のことは、さすがに書き込まれてはいなかった。その火に包まれて死んだ男が、黒田牧夫の弟子であったということも。
驍は、熱いシャワーをさっとかぶって、バス・タオルを首にまきつけたまま、居間へもどってきた。
「入りました、コーヒー」
と、マサルが、サイフォンとカップを両手にかかえてキッチンから出てきた。
「読みました?」
「ああ」
「今朝出たばかりなんです。新聞の広告を見て本屋にすっとんでいったら、これでしょ。お見せしていいものかどうか、迷ったんだけど、どっちみち耳には入るだろうと思って」
「そうか」
「でも、ひどいじゃないですか。まるでボスが酒池肉林、セックス・マシンみたいな書きっぷりじゃないですか。おまけに、ゲイバーまでかつぎ出しやがって、乱脈《ヽヽ》とはなんですか。乱脈《ヽヽ》とは。訴えてやりましょうよ」
「ほっとけ」
「だってボス。これは、明らかに悪意のでっちあげじゃないですか。闇黒《ヽヽ》なんて書きやがって、〈烏〉の黒にひっかけたつもりか知らないけど、それこそ、暗黒記事というものじゃないですか。許せませんよ」
「まだ、殺人犯に仕立てあげられてないだけ、ましだよ」
「え?」
「いいたいやつには、いわせておくさ」
驍は、コーヒーをすすりながら、煙草に火をつけた。
ベッドのサイド・テーブルの上で紐《ひも》飾りのあるスタンドが、まだ灯をともしっ放しであった。
「お前も、飲めよ」
「いや、僕、冷蔵庫の牛乳、失敬しちゃいましたから。パンでも、焼きますか?」
「そうだな。お前も、食ってけ」
「じゃ」
と、いって、マサルはふたたびキッチンのほうへ入った。
驍は、十日ばかり前の一日を、ふと思い出していた。コレクション・ショーの終了間際にもたらされた『火事』の報せは、足もとの地面が不意にすうっと遠ざかって行くような放心感を、一瞬あたえた。と同時に、くるべきものがきたという気も、ふしぎにいっぽうでは、したのである。
アンスリュームの花を贈り続けてきた誰かが予告したとおりに、火は、楯林驍の美容室を襲った。火の気のない器材室がまるまる一ブロック燃えあがったのだから、放火の疑いが強かった。
火事を予期したわけではなかったが、虫の知らせとでもいえばよいか。全従業員がショーの会場に出払って、一日店を無人にすることが、ふと驍の意識のなかで、いま思えば、何がなしに気になったのかもしれなかった。
そんなことはかつてないことであったが驍は、その日一日、特別に留守番のガードマンを雇ったのだった。
このガード・マンの発見が早くて、火事はだいじに至らずにすんだのであった。
消火設備も、アンスリュームの贈花の意図に気づいてからは(無論それは、驍の独り合点ではあったけれど)、極力念をいれて完備させておいたのも、役に立ったといえばいえた。
焼けた部屋の始末もあって、店は半月ほど改装の手をいれることになり、目下その工事で、休業中なのであった。
しかし、あの贈り主不明の真紅の花束の意味が、こんなに歴然とした形をとって、驍の思惑どおりに的中したということに、楯林驍は、衝撃をおぼえずにはおれなかったのである。
京都の闇の路地でとんできた石礫《いしつぶて》と、その礫を猛然とくり出す若い女の姿を眼にしたとき、とつぜん身におぼえた狼狽感と、それは同質のものだった。
驍は、表むき平静を保ってはいたが、心のなかで辛抱はもう限度に近く、この眼に見えない、しかもいわれのない迫害者に対して、怒りの思いはたぎり立っていた。けれども、正体のつかめぬ敵《ヽ》であってみれば、その怒りのやり場もなかった。
また、いま自分が冷静を欠けば、それこそ敵《ヽ》の思う壺《つぼ》だという自覚も、驍にはあった。
なぜだか、そんな気がするのであった。
眼に見えない敵、その誰かは、それを待っているのだ、と。驍が辛抱の緒を切って、自らの日常のリズムを崩しはじめるのを。
指先で長く燃えつきた煙草の灰に、驍は一時《いつとき》気づかずに、眼を宙にぼんやりとあずけていた。
楯林驍の美容室から火が出た日、ショーの終り近くなって会場から姿を消した反藤美濃子に生き写しの女のあとを追って出た紀子は、宵の口になっても、帰ってはこなかった。
火事騒ぎで水びたしになり、なかばは手のつけられない状態の美容室へ、その紀子から電話が入ったのは、夜の十時近いころだった。
彼女は、まだ火事のことを、まるで知ってはいなかった。
「紀っぺ? お前さん、何してンだよ」
と、マサルはあと片づけの手をとめて、いきなり受話器にむかってどなった。
「何してるとは、何よ。あなたにいわれた仕事をやってるんじゃない」
紀子の噛みつくような声で、ああそうだったと、マサルは急にわれに返ったほど、くたくたに疲れきっていた。疲れきっていたのは、店の者すべてがそうだった。
ショーが終った直後に待っていた火事騒ぎだったから、火はだいじに至らなかったものの、働きづめに働きつめて、神経の休まるひまもなく、誰もが物をいう気力さえ持ちあわさない状態だった。
「どうしたのよ。もうお店に帰ってる時分だと思って、さっきから何度も電話するのに、誰も出てくれないじゃない」
「それどころじゃないんだよ」
と、マサルはいいかけて、言葉をのんだ。
紀子もおそらく、この時間まで、動きづめだっただろうと思うと、急に言葉が出なくなったのであった。
「何かあったの?」
「いいから、とにかく、すぐに帰ってこいよ。話はそれから聞くからさ」
「何よ、マサルちゃん。あなた、案外冷たいひとね。わたしは、ショーのフィナーレを見ずに、いままであのひとたちに引っぱりまわされてたのよ。どうだったくらいは、聞いたっていいでしょ」
「ごめん」と、マサルは、すなおにあやまった。
「で、いま、どこからかけてるんだ?」
「東京駅よ。わざわざ、公衆電話じゃない、喫茶室の普通電話をかりてかけてるのよ」
「あの女も、いるかい?」
「いいえ。彼女は、もう東京にはいないわ。いま時分は、空の上よ」
「空?」
「ええ。日本にはいないってこと」
「なんだって?」
「途中で連絡いれようとは思ったんだけど、とにかく彼女の落着く先を見きわめてからと思っているうちに、夜になっちゃったの。なにしろ彼女、あちこち動きまわるんですもの。眼がはなせなくて。あげくに、やってきたのが羽田空港。国際線。そこが、とどの行きづまり。二十時四十五分の、JAL・423便。ボーイング・747。ヨーロッパ北まわり線のパリ行きに、乗っちゃったわ」
「パリ行き?」
「そうよ。桃色のスーツ・ケース一つかかえて、颯爽《さつそう》とね。フィンガーから、そのジェットの離陸するまで見とどけたんだから、まちがいないわ」
「一人で?」
「ええ。一人でよ。もっとも、空へあがるまでは、お連れさんがあったけどね」
「ん?」
「お見送りよ。雨野華子先生と、反藤繚一郎さん」
「ええ?」
「といっても、雨野先生と、反藤繚一郎さんは、別行動なのよ。わたしが見るところじゃあ、この二人は、お知り合いじゃないみたいね。つまり、どっちも、反藤美濃子さんに瓜二つの彼女とは、それぞれ相当親しい間柄だとは思われるけど、雨野先生と反藤繚一郎さんは、まったく別口のお見送りなのよ」
紀子は、言葉をついでいった。
「というよりもね、こういうことなの。つまり、雨野華子先生はね、午後四時過ぎだったかしらね……、ショーの会場の客席を出てからはね、ずっと美濃子さんに似た彼女と行動を共にしているの。都内をあちこちあるいてさ……これはあとで話すけどね。夕食をいっしょに食べて、それから羽田へ直行なの。反藤繚一郎さんが現れたのは、この羽田空港のロビーでなの。それがね、雨野先生が彼女のそばにべったりだから、繚一郎さんは、いつも二人からはちょっとはなれたところに立って、近づかないの。女と繚一郎さんは、眼で挨拶はしてるけど、おたがい、はなれたまんまなの。たった一度だけね、雨野先生がおトイレに立ったとき、繚一郎さんは、女のそばへ歩み寄って、二人は握手したわ。そのときだけなの。二人が言葉を交わしてたのは」
「へえ……」
「わたしには、どう見なおしても、反藤夫妻が話し合ってるとしか、思えなかったわ。夫が妻を見送りにきてる。そんな情景なのよ。どう思っても」
「それだけは、あり得ないぜ。奥さんは、こっちにいたんだからな」
「そうよね。わたしも、何度も自分にそういい聞かせたわ」
「で、雨野の婆さんが帰ってきたら、またはなれちゃったのかい?」
「そうなのよ。まるで知らん振りなの。赤の他人みたいに。それっきり、飛行機が出るまで、はなればなれ。彼女が搭乗ゲートヘ入るとき、繚一郎さんのほうが、ちょっと手をあげただけだったわ。これで、彼女のことは、おしまい。飛行機はとんで行っちゃったのよ。雨野先生と、繚一郎さんは、それぞれフィンガーの別の場所に立って、一人の女を見送ったわけよね」
「へえ」
「わたしが、このあとすることは、一つしかないでしょう?」
「つまり、反藤さんを尾行《つ》けたんだね?」
「そう。そして、東京駅へやってきたの」
「しかし、奥さんはたしか、今夜はホテル泊りだぜ」
「そうよね。だから、わたしも、彼がそのホテルヘ帰るだろうと、思ったのよ。そこまでたしかめたら、この探偵ごっこ、打ち切りにしようと思ったの。ところが、東京駅でしょ。おや、このひと、一人で京都へ帰っちゃうのかなって、思ったわ」
「そうじゃなかったのかい?」
「ええ。新幹線の緑の窓口ヘ行くでしょ。わたし、すぐそばまで近寄って、みんな聞いちゃったの。明日の、午前中の『ひかり』のグリーン車を、一枚、買ったわよ」
「一枚?」
「そうよ。九州の小倉までね」
「小倉?」
「そう。彼はね、窓口で、最初こういったの。『明日の午前中の、九時見当の|ひかり《ヽヽヽ》で、門司まで行けるやつをください』って。『門司は停まりません。下関か、小倉ですね』って係員にいわれて、彼、ちょっとあわてたみたいに、『ああ、そうです。小倉でいいんです。小倉のほうが、速い|ひかり《ヽヽヽ》が停まるんでしたね』って、いいかえたの」
「へえ。門司ねえ……」
「だから、行先は、門司なのよ。きっと」
マサルは、独り言のように、
「門司ねえ」
と、もう一度くり返した。
「門司、門司……どっかで、聞いた地名だよな……」
「あら、わたしも、そうなのよ。誰かに聞いた気がするのよ。誰かが、たしか、門司のこと、話してたか……わたしが小耳にはさんだのか……何か、そんな気が、不意にしたの。じゃ、やっぱり、わたしたちの身のまわりで聞いた街の名なのね」
「待てよ……」
と、マサルが、急にいった。
「もしかしたら、それ……ボスの、|いなか《ヽヽヽ》じゃなかったっけ……?」
「そうよ」
と、紀子も、やや頓狂な声を発した。
「そう。それよ。思い出したわ。ボスの田舎よ。たしか、お母さんの実家があるところよ」
「そうだろ。どっかで聞いたと思ったんだ」
二人は思わずうなずきあって、しかし一瞬、どちらからともなく、沈黙した。
反藤繚一郎が、門司までの切符を買おうとした。考えてみれば、べつに不審な話ではない。彼には彼の、用むきがあったから、その切符が必要だった。なんでもないことではないか。門司は、九州から本州への渡り口。
かりに楯林驍にゆかりの土地だったからといって、反藤繚一郎がそこをおとずれてふしぎな理由など、どこにもありはしないではないか。
マサルも、紀子も、そう思った。
思ったけれども、不意に、言葉がと絶えたのだった。
本人たちにも、理由のわからない沈黙だった。
マサルのほうが、先にその口を開いた。
「で、反藤さんは?」
「国電に乗ったわ。たぶん、奥さんの泊ってるホテルでしょ。もう、そっちの打ちあげパーティは、すんだんでしょ?」
「ん? うん……」
と、マサルは、にわかに返答に窮し、口ごもった。
「わたし、明日の朝、もういっぺん東京駅へやってくるわ。とにかく彼が、その切符を使うかどうかたしかめるわね。それでいいでしょ?」
「ん? ああ、いいとも」
と、あわててマサルはうなずいた。
「さすがに、疲れたわ。じゃ、あとは帰ってから」
紀子は、そういって電話を切った。
焼けた美容室の前に立ったときの紀子の顔を想像して、マサルは、束の間胸が痛んだ。
翌日、二人が楯林驍にこの話を報告したのは、反藤繚一郎が一人で東京駅を発つのを確認してからであった。美濃子は、一足遅れて、正午近くの新幹線で京都へ帰った。
驍は、その美濃子を見送って、もどってきてから、マサルと紀子の話を聞かされたのだ。
(どういう日だったのだろうか。あの月曜の一日は)
と、驍はいま、十日前のそのコレクション・ショーの一日を、振り返っているのだった。
美濃子と瓜二つの女を、羽田空港で送ったという反藤繚一郎の姿が、驍の平静を奪うのだった。
実際、この十日あまり、美容室の改装工事の段取りに忙殺されながら、驍はいつも頭のどこかで、パリヘ発つその女を見送ったという繚一郎の姿が、消せなかった。なぜだか、美濃子にそのことを告げたいという誘惑に、驍はしきりに駆られたのであった。そして昨日、やみくもにその思いは高まって、衝動的に電話機を握っていた。まさか彼女が、京都をとび出してこようとは、思いもしなかったことであったけれど……。
モンマルトルの丘の中腹あたりの居住区、デュランタン通りの坂道に、古い小さな小鳥屋がある。軒先にペンキのはげた烏《からす》の飾り看板が風鈴みたいにつるされている。
注意して見ないと眼につかない、ごくひっそりとした店だ。
しかしひっそりしているのは、通りから見た印象だけで、なかに入ると一日中けっこう小賑やかな店だった。
無論、賑やかなのは鳥の声で、めったに客の姿など見かけない。よくこんなに古ぼけるまで商売が続けてこられたものだと、誰しも感心させられる。覗いただけで、そんな感じのする店だが、ほこりで曇ったガラス・ドアを押して入ると、左手にせまい木の階段がついている。
大原兵子《おおはらひようこ》の住まいは、この階段の上にある。らせん状にのぼった三階のとっつきだった。
兵子は、ブルーのコーデュロイのパーカにパンツをあわせた気楽な街着で、いまその階段口へ出てきたところだ。
ドアの前でバッグのポケットからコンパクトをとり出して、ちょっと顔を覗きこみ、ぱちんと閉じる。出勤前の、それが彼女の習慣だった。通りへ出ると、もう街の灯がともりはじめていた。
肉屋のライトバンが横づけになっていて、むかいの店先へ骨つき肉を運びこんでいた男が、手をあげた。
「ヨウ子。いつ帰ってきた」
「あら、もう二週間にはなるわよ、アル」
「そいつは知らなかったな。どうだい。たっぷり飲んできたかい、お袋のおっぱい」
「ええ、げっぷがでるほどね。あなたも、お元気?」
「相変らずさ」
「あら、けっこうじゃない」
「いまからかい?」
「そうよ」
「気をつけてな」
「ありがと。じゃあね」
兵子は、石畳の坂道をおりて行く。
クリシーの大通りへかかる前の街角で、黒人の若い女が声をかけた。
「ヨウコ。今日は早いわね」
「ええ。クリスマスの前でしょ。演《だ》し物が変るのよ」
「たいへんね」
「ほんと。じゃ、いい彼見つけてね」
「そうだといいけど」
黒い肌の女は、しなやかな長い指先で煙草をくわえた。まだ二十歳前のういういしい子だ。|立ちんぼ《ヽヽヽヽ》、|ろうそく《ヽヽヽヽ》などと呼ばれる街娼である。
兵子は、ヨウコでとおっている。ハ行の発音がフランス人には苦手な事情もあったけれど、兵子にはむしろ本名隠しにもなって、そのほうが都合がいい。
もうこのモンマルトルに住みついてかなりになるから、住人たちには顔馴じみも多いのだった。
クリシーの大通りへ出ると、ピガール広場を横切って、対岸舗道でタクシーに乗った。ふだんは地下鉄で通うのだが、ここ二、三日風邪気味で、なんとなく地の底へおりるのがおっくうだった。
セーヌを渡って、モンパルナスのオデッサ通りまで行くのだけれど、いやにその道のりも遠く感じられた。
(まだ疲れが抜けないのかしら)
と、兵子は、思った。
(日本へ帰って、疲れてくるなんて、ばかみたい)
彼女は、パーカの襟をたて、シートにしずみこみながらふっと苦笑した。物憂い、どんよりとした瞳であった。
もし東京で彼女を見かけた人間たちが、そばに乗り合わせていたとしたら、あるいは別人かと思ったかもしれぬ。
彼女は、黒い長い髪の毛でもなかったし、瞳の色も赤茶けていた。
もっとも、栗毛の髪はかつらであり、瞳の赤みは琥珀《こはく》色のコンタクト・レンズのせいである。
コンタクト・レンズは度がなくて、パリでは常時つけていたが、かつらのほうは黒い地髪にもどることもある。
その黒い毛も、パリに帰るとばっさり短く切り落とし、コンタクト・レンズをはずしても、東京を発《た》つ折りの彼女の印象とはかなりちがっている筈だった。
〈ジャン・ルイ〉の店の美容師が、チュチュと小舌を鳴らして、
「ほんとに、ばっさり?」
と、惜しがったほどの黒髪だった。
「ええ、かまわないから、やって頂戴」
「仕事にさしつかえない?」
「大丈夫。ぱあっと気分を変えたいの」
「何か、あったのかい? 東京で」
「ん?」
「愛《アムール》?」
「わたしが? まさか」
「でも、元気ないみたい」
「冗談でしょ。失恋なんかしないわよ。わたしの愛は、パリ。やっと帰ってきたのに、恋しいひとのふところに」
「だったら、いいけどさ。でも、ずいぶん長かったじゃない? もうパリは忘れたかと思ったよ」
「そう。ちょっと長過ぎたわね」
「五カ月かな?」
「ウウウン。もっとよ。七カ月と二十三日」
「へえ。そんなになるかな」
「なるわよ。バカンスの一月も前だもの。マロニエの花が咲きはじめた頃だもの。しばらくぶりだったでしょ。日本ぼけしちゃったのよ」
「じゃ、切るよ」
「いいわ。やって頂戴」
軽快なハサミの音が、よみがえってくる。
〈ジャン・ルイ〉の店のかかりつけの美容師は物腰の柔らかい若者だったが、『東洋のカッティング・手品師《ジヤグラー》』は、あらあらしいライオンのように強健な若者だった。
(あの若さに、疲れたんだわ。誰だって疲れるわ、あんな子が相手じゃ)
大原兵子は、ちょっと眉根を寄せ、楯林驍の精悍な美貌を、記憶のなかから払い落としでもするように、首を起こした。
「煙草、すってもいい?」
運転手に声をかけた。
「どうぞ」
運転手は、走りながら器用にライターの火をつけてくれた。
「ありがとう」
兵子は、深くすい込んで、またシートに背をうずめた。
ゆるやかな煙の先を追っている眼は、やはりどこかぼんやりとして、精気がなかった。
ちょうど何か、大きな仕事を一仕事し終えたあとの人間が見せる、虚ろさや、放心感。そんなけだるげな様子にも、それは見えなくもないのだった。
「ああ、タワー・ビルのそばでいいわ」
やがて、兵子は、そういった。
車は、まだいくらか明るさの残っているモンパルナスの雑踏に入り、地上一八五メートル、エッフェル塔にはおよばないが、この街の名物にもなっている高層ビルの横手へとまった。
オデッサ通りは、そこからわずかの距離であるが、兵子はいつも、この場所で車をおりた。露天で売る焼き栗の匂いが、風のなかにあった。
オデッサ通りをすこし入った路地の奥の暗がりに、棒ネオンで、
──プランタン
と、横文字がぽつんと出ている小さな建物の入口がある。
このビルの裏路地へ入ってこなければ眼につかないネオンである。
人間が一人やっと入れるくらいの細長いドアの横手に、切符売り場がある。
ここが、大原兵子の夜の職場なのだった。
|夜の《ヽヽ》と断わるのは、昼間、兵子は、書道を教えているからである。
教えるといっても、小さな塾で、常時十四、五人程度の、物好きなフランス人相手の仕事である。パリ人に日本の書を教えることに、べつに特別の情熱や意欲を持っているわけではない。日本|贔屓《びいき》がいくらかいて、物珍しさも手伝って、たまたま彼女が書をやっていたから、それではと手ほどきはじめたのがきっかけで、なんとなくだらだらと、それが尾を引いているだけのことだった。
書に熱心な友人がいて、そのフランス人夫婦のアパルトマンを塾がわりに提供され、そこへ教えに行っているわけだった。いわば、惰性で続けている、週に二、三度の出張教授なのだった。
彼女の本職は、ショー・ダンサーということになっている。
だが、彼女は、もうここ四、五年、ステージで、まともなダンスを踊ったことなど一度もなかった。
もっとも、現在の彼女の職場にもダンスはなくもなかったけれど。そして、彼女は、そのダンスを、べつに卑下してもいなかったけれど。
小劇場《プランタン》は、ライブ・ショーの小屋である。
ほの暗い路地の奥に、ただ入口の扉と切符売り場のボックスがくっつくようにしてあるきりの、ほかには何もない表造りである。昼間見ても、そこが劇場などとはとても思えないだろう。
──プランタン
と、横文字の白いネオンが、壁板に出ているだけの体裁だった。
劇場内は、入ると前さがりに半円形の階段状になっていて、正面のステージは、いちばん低い最前列の客席と同じ床の上にある。
客席、五十ばかりの規模のものだ。
ステージと客席は、カーテンで仕切ってあり、手の届く位置で、ショーははじめられるわけだ。
ステージの奥行きは、すこしたっぷりとあり、二階のついた舞台である。
場内は、結構小ぎれいに設備されていて、むしろ瀟洒な感じを与える。
兵子は、この劇場の小ざっぱりした構造がわりに気にいっていた。
ライブ・ショーの劇場は、パリにもほかに何軒かあるが、この劇場の感じのよさと、アクターの質の高さがずば抜けていて、ここのメンバーに加わることにしたのだった。
出演者は、男性三人、女性三人の、計六名のメンバーだった。
女性メンバーのうちでは、兵子がいちばん年嵩《としかさ》だったが、体には自信があった。
また自信がなければ、ここのメンバーには加われなかった。この小屋の演出家は、肉体の崩れや衰えに、特別厳格な男だった。
見せるだけのごまかしのショーを、彼はぜったいに許さなかった。
ショーは、ほぼ二時間半見当のものだったが、簡単な物語が構成されていて、もちろん、時間の大半はセクスの歓戯場面に費されるが、その行為に、いいかげんな見せかけや欺瞞《ぎまん》を許さないので、この小屋は評判も高かった。
たえず節制が厳しく課され、ステージの上ではその爆発が要求された。
楽な職業ではなかった。
兵子がメンバーになってからも、女性が二人、男性が四人も入れかえられた。
みな選《よ》りすぐった容貌と肉体条件をそろえた者たちばかりであったが、現実の肉体の疲労度や、また馴れからくる習慣化で、鮮度が落ちたり迫真力に欠けるようになったりすれば、容赦なく首を切った。
ありあまるほどこの種のショーの人材がそろうわけでもなかったが、そろわないからといって、お座なりなショーでお茶を濁すというやり方だけは、この小屋の演出家はしなかった。
それだけに、また彼は、たえず人材探しにも手をつくしていた。
したがって、兵子たちの収入も、ほかの劇場にくらべて格段に高かったが、いつお払い箱になるかもしれぬという不安もあった。
最初秘密クラブの形式をとってはじまった《プランタン》は、ポルノ解禁と同時に、この小劇場に衣がえしたのであった。
だから、パリのライブ・ショー演者たちのなかには、俗にいわれる『プランタン落ち』のアクターやアクトレスが、かなりの数いるのだった。みな、ほかでは花形としてとおるのである。
だから、《プランタン》の演者には、それなりの誇りや自信があった。また、なければ、ここでの仕事は勤まらないのであった。
《プランタン》を落ちれば、二流という、プライドがあるのだった。
大原兵子は、まだネオンのともっていない劇場のドアを押して、せまい廊下を楽屋口のほうへむかった。
楽屋には、もうメンバーは顔をそろえていた。
三日前から、演《だ》し物が変って、段取りの小直しや台詞《せりふ》、振りなどに、こまかな|だめ出し《ヽヽヽヽ》が無数につく段階なのであった。
「お早う」
と、男性メンバーでは最年少者のアンドレが、白タイツに着かえながら、振りむいた。全裸の臀《しり》の筋肉が美しい形に引き締まっていた。彼は、S大学の理工科の学生である。
リハーサルは、男女とも、タイツ一枚で行うのがしきたりだった。
「お早う。遅れちゃった」
と、大原兵子は、かつらを無造作に脱ぎながら、ほかの同僚たちにも声をかけた。
首すじのあたりで切りそろえた漆黒の毛髪を、ぶるんと彼女は頭を振ってもとに戻し、早速衣服を脱ぎにかかった。
「しかし、その髪は痛かったな」
と、演出家のマルセルが、思い出したように、あらためて残念げな口振りで、いった。
「すいません。勝手なことしちゃって」
と、兵子は、もう何度も口にした言葉を、またくり返した。
「君たちの体は、君たちのものであって、君たちのものじゃないんだからな。少なくとも、ここにいる間は、僕の許可なしには、ヘア一本だって、みだりにいじってもらっちゃ困る」
「マルセル、これ、だいじょうぶかな」
と、鉛管工のクロードが、タイツの胸もとについた縮れ毛を、一本つまみあげて片眼をつぶった。
座が大笑いになったところで、
「じゃ、行くか」
と、マルセルが、腰をあげた。
「行きましょう行きましょう。暖房だけじゃ、どうももう一つ物足らなくて、このあたりがスウスウしてたんだ」
クロードが、陽気に、太い手で自分の体を撫でまわした。
ショーは、深夜の十一時半からはじまるのだった。
セットのつくられた無人のステージには、もうライトが入っていた。
大原兵子は、アンドレとクロードに前後から抱きとられていて、荒い網目のハンモックの上で揺さぶられていた。
揺れながら、兵子は、ふと、反藤繚一郎の頑丈な筋肉を思い出していた。
アンドレとクロードの息づかいが、眼をとじると、一つになって、一人の男の息の音《ね》に変るのだった。
反藤繚一郎からの航空便が届いたのは、昨日の朝だった。
──兵子殿へ。
と、冒頭に、横書きでしたためられていた。
[#ここから1字下げ]
兵子殿へ。
あなたが羽田を発った翌日、早速、門司のほう、あたってみました。あなたが滞在中に何度かあたられてわからなかったことが、小生がかの地へおもむいた途端、判明したとは申しませんが、三日、かの地へ逗留して、あれこれと手をつくしてみました。
なにしろ、興信所か秘密探偵社まがいの、かなり奇妙な頼まれごとだったので、そのほうのしかるべき専門家に依頼して調べたほうが、万事徹底、かつ迅速精確とは思いはしましたが、くれぐれも他人手《ひとで》をとおさぬようにとのご希望だったので、まあ小生、できうる限りは実地にあたって、努力してみました。
まず、楯林君の母御の生家に直接おもむいて、谷野というこの楯林君にとっては叔父夫婦にあたる人たちに、じかにたずねてみるのが、いちばん手っとり早い方法でしょうが、この人たちに知られないようにとのあなたの要請があり、それがならず、かなり手こずりました。
なにしろ、二十年近くもさかのぼって昔のことを聞くのですから、あなたもいわれたように、楯林君の在門司時代の交友関係をあたることが効果的であろうと、小生も、その線にしぼって聞いてまわりました。
聞いてまわったということがわからないように、というこれまた大層むずかしいご注文だったので、うかつなこともできず、弱りましたが、まあなんとか、あなたからあずかった彼の幼な友だちのリストを最初の足がかりとして、やってみました。
結論からいいますと、楯林君の幼児時代、および小学、中学時代の交友関係の線からは、まったく収穫皆無でした。
現在地元に在住する彼の幼な友だちという条件にも限度があり、それに地元の人たちを連続訪問していたのでは、谷野家の耳にも入ること必定でしょうから、この点、あまり深入りもできず、一晩門司の宿に泊って考えました。
結局、小学校時代の担任教師にでもあたってみるほかはあるまいと思われ、これにきめました。
彼の小学校時代、受け持ち教師だったという人物は三人該当者があり、そのうち一人は死亡。
残る二人のうち、一人は新潟のほうに現在在住らしく、小生の手に負えそうなのは、一人ということになったわけです。
この人物も、現在門司にはいなくて、しかも老齢で、教職はかなり以前に退き、同じ北九州市内だが、八幡という町にいるらしいということがわかりました。
存命なら、七十歳前後ではあるまいかと、教え子の一人から聞き、結局、この先生を探しているのだという印象を、彼らにあたえておきました。
Sという女性教師で存命でした。
八幡区の穴生《あなお》という町に、息子さん夫婦と住んでおられ、二、三時間、話しました。
この女性教師は、楯林君が現在著名な美容家として活躍していることはご存じなく、小生もまた、この点に関しては触れずにおきました。
ああ、そういえば、楯林さん。いました、いました」
と、思い出してもらえたときには、ほっとしました。
楯林君は、
頭のいい子でしたよ」
と、彼女はいい、それで記憶に残っているらしい様子でした。
小生が、用件をきりだすと、
癖? あの子の癖ですか?」
と、彼女はけげんな顔をしましたが、小生、楯林君の飲み仲間から依頼を受けた者で、楯林君本人については一切面識がないのだが、彼らが飲み仲間同士で集まる会合で、昔の珍癖奇癖とか、人に知られない小学校時代のエピソードとか、そうしたものをすっぱ抜く趣向があるらしくて、その集まりの幹事から調査を頼まれたのだと、まあ多少はこじつけがましい身分詐称をしましたが、その老女教師は、じつにすなおに、この話に乗ってくれ、
まあ、近頃の方たちは、おもしろいことを考え出したりなさいますのね」
と、一も二もなく信用の態。
かくなる次第で、いろいろとその老女教師の記憶のなかを探ってもらったわけですが、結局、あなたから頼まれた事柄は、聞き出すことができませんでした。
歌? あの子の好きだった歌ですか?」
いや、好きだったというよりも、たとえば、しょっちゅう口にしていたとか、何か楯林さんの印象的なエピソードに関係した、思い出深いメロディーとか、そんなものでもいいんですがね」
と、まあ小生、苦労もしてみましたが、だめでした。
さあねえ……」
と、彼女は、かなり真剣に思い出そうと努めてくれたのですが、なにしろ二十年近くも昔のこと、どうも無理のようでした。
そこで小生、具体的にたずねてもみたのですがね、
マザー・グース?」
と、彼女は、きょとんとした顔で、逆に、
それは、どんなお歌ですの?」
と、聞き返される始末でした。
小生、この調子ならば、あなたの意にも反しはすまいと、あなたが指示したマザー・グースの七曜歌を、全部日本読みと、英語読みで、口にしてみたのですが、彼女は、まったく心あたりがないようでした。
まあ、おもしろい歌ですのね。ふしぎなお歌ね」
と、老女教師は、しきりに感心してはいましたがね。
ざっと、以上のような報告。ひとまず、思いつくままに記しました。
それにしても、この件、小生にも、まったく意味不明で、不可解なことに変りはありません。
あの折りにもいったように、マザー・グースが、楯林君にどんな関わりがあるのですか。ということを、ここにもう一度記して、おたずねします。
どうして、あなたには、彼の幼年時代のなかに、マザー・グースなどというものを、見つけ出そうとする必要があるのですか?
いや、マザー・グースとは、いったいなんですか?
そして、最後にもう一つ、これもあなたに何度かたずねて、あなたはそのつど、答えてはくれなかったが、ここにふたたび、質問します。
あなたは、楯林驍君と、どういう関わりを持つ人間なのですか?
小生は、それを教えてほしいと思います。
いや、小生には、それを知る義務があるのではないでしょうか。
美濃子を、妻にしている小生には。
そして、あなたと、かく相成った上での小生には。
小生、目下、あなたとなぜ出会うことになったかを、小生なりに考えてみております。
あなたとの最初の出会い。あなたを、美濃子とまちがえたあのはじめての出会いの日。
あの日に、どんな意味があったのか。
それを、考えています。
考えなければならないことだと、小生、目下、思っております。
ともあれ、とりあえず、あなたに頼まれたことだけは、やってみるつもりです。
マザー・グース。
楯林君の身辺に、それを探してみるつもりです。
奇怪な君。
君は、パリヘ帰った。
君は、いったい、誰なんだ。
抱きたいと、しきりに思う。
[#ここで字下げ終わり]
反藤繚一郎の手紙は、以上のようなものであった。
大原兵子は、繚一郎の腕のなかへすっぽり包みこまれながら、その文字の一字一字を思い起こしていた。
「ヨウコ」
と、マルセルの鋭い声が、彼女の夢を破ってとんだ。
「もっと、愛せ。もっと、楽しめ。アンドレとクロードも、そうだ。お前たちは、でくの棒か。ヨウコを、つぶせ。つぶしてヨウコの姿をなくせ。ヨウコは、消えてなくなるんだ。そして、お前たち二人の抱擁を、最後に完成させるんだ。そこまで行け。ヨウコが消えて、お前たち二人が抱き合えるところまで。そのくらい、愛せ」
パリの夜は、もうはじまっているのだった。
楯林驍は、山茶花《さざんか》の山道をのぼっていた。
花も葉もあらかた散った裸木に近い山茶花だったが、この樹間の細い坂道はなつかしい道であった。
初冬に白い花をこぼして段々坂がまっ白になる。のぼると海峡の見える道であった。
(何年ぶりになるのだろう)
母が亡くなって間もなくして遠ざかった土地であったから、もう十年近くにはなる筈だった。
驍は、ふしぎな感慨にとらわれていた。
なんの変哲もない山茶花の裸木の幹や枝ぶりに、一本一本、記憶が残っているのであった。子供時分に、この山は格好の遊び場だったから、何度ものぼりおりした道であったが、こんなに木の姿や枝の形がひとつひとつなつかしく、そっくり心に残っていようとは思わなかった。
知らぬ間に人間の体がおぼえこんでいる記憶のふしぎさについて、驍はふと思いを馳せたりして、途中何度も立ちどまった。
昔のままの山道だった。
常永寺は、その山茶花の坂道をのぼりきったところにある。
母の実家の谷野家の旦那寺であったから、母の墓もこの裏の山にあった。
庫裡《くり》の前を通るとき、奥で人声がしていたが、驍は黙って通り過ぎた。
母の墓は、谷野家の墓石と並んでいた。
谷野の祖母が建てたものだった。
母は、驍の父、つまり楯林に嫁いだ女だったから、楯林の墓に入るのが筋道だったが、驍の父親は早く死に、驍は三歳のなかばあたりからこの母の郷里へ帰って育てられた。
驍は父の顔もおぼえていなかったし、父と母が世帯を持った東京の家、つまりそこで驍は生まれたのだったが、その家の記憶もほとんどないのだった。
驍は父は外国航路のパーサーだったと聞かされている。船の遭難事故で死亡し、それ以来、この門司の実家へ母は帰ってきたのである。だから、驍にとっては谷野の家が生家も同然だったし、この門司の地が文字どおり故郷といえた。
「でもね、お母さんは楯林の人間になったんだから、谷野のお墓にいれるわけにもいかないしね」
といって、祖母は、長年一人でこつこつたのしみに買ってきた株を売って、母の墓を建てたのだった。
谷野の家は、旧街道すじにある古い乾物問屋で、家取りの叔父夫婦も驍たちにはよくしてくれて、驍は一度も谷野での暮らしを不服に思ったことはなかったが、祖母が彼女のいわば個人的な貯えともいうべき優良会社の株券を売り払って母の墓を建ててくれたとわかったとき、祖母は祖母なりに、母や驍のことで叔父夫婦に気兼ねがあったのだと思いあたり、それ以来、驍は谷野の家を心頼りにしてはならないのだと思うようになったのだった。
驍の父方の楯林家との交渉は、姓を名乗っているということ以外には、まるでなかった。
父が驍にはないもひとしい存在であったと同様に、楯林側の家系はまったく驍にとって無縁なものであった。
じっさい、谷野の家にいる間、驍は父の話をほとんど耳にしたことはなかった。母と所帯を持って三年目には亡くなったのだし、船に乗っていて家にいる時間はごくわずかだったと聞くから、母との結婚生活も実質的には一年にも充たないものであったろうし、母にも父は案外語るべき事柄の少ない人間だったのかもしれない。
いずれにしろ、谷野家の墓地に並んだ母の墓は、そこにあるのがごく自然で、母の生涯にもふさわしい墓であるのだった。
いまでは、祖母も、その同じ墓地の下にいた。
楯林驍は、線香と花をそなえて水をとりかえ、しばらく墓石の前で時を過ごした。
正月明けの晴れた日の朝であった。
急に思いたって出かけてきたときならぬ墓参に、母も祖母もおどろいて苦笑しているかもしれぬ、と驍は思った。
考えてみれば、この土地を出てからの日々、里帰りなど思いつくいとまもなかったという気もするのだった。
十年一昔というが、しみじみとそんな感慨が湧いてくるのだった。
驍の気持をふとこの土地にむかわせたのは、反藤繚一郎だといってもよいだろう。
驍は、コレクション・ショーの終った直後の火事騒ぎやそれに続く改装工事、美濃子との思いがけない事態のなりゆきなどで、気分の安まるひまもなかったここ一月ばかりのあわただしさを思い返していた。
その間も、紀子から知らされた反藤繚一郎の行動はたえず心のどこかで気になっていた。
繚一郎が、美濃子に瓜二つの女を羽田空港まで見送り、その翌日門司へむかったという報告は、忙しさにとりまぎれながらも、忘れてしまえずにいた。
年の暮れを迎える前に、美容室も改装後の店開きができ、気分一新とまではいかなくても、何か騒動の多かった年も改まり、これで一区切りつけたいという気がしきりにしながら明けた年だった。
その正月早々に、驍は、京都から送られてきた荷作りの頑丈な小包み便を受けとった。
開けてみると、箱入りの焼き物の大皿だった。
白地にみずみずしい藍の筆描きで、躍るような勢いの文字をいちめん奔放な文様ふうに焼き込んだ華麗な皿だった。
贈り主は、反藤繚一郎。
箱の表書きには、
──御祝
七曜|文《もん》大皿
とあった。
皿に描き出されている文字は、無論、箱書きにあるごとく、七曜、すなわち日《ヽ》、月《ヽ》、火《ヽ》、水《ヽ》、木《ヽ》、金《ヽ》、土《ヽ》の七文字で、藍色の筆の筆勢、文字の大小、形や肉の自在な変化が、じつにみごとな気品のある焼き物の装飾文様になっているのであった。
包みを開けたときそばにいた村田森江が思わず嘆声を発したのも、無理はなかった。
眼をみはるような花やかさが、しずかにあふれたって躍動している大皿だった。
「素敵ですわね」
「うん」
「こないだのショーのお祝いですのね」
「そうかな」
「ああ、それとも、新装開店のお祝いかしら」
森江は、そういった。
「ボス。お店の玄関のコンソールの上に、ちょうどいいんじゃありません? あそこの壁に、何か一つほしいと思ってたところでしたわ。色硝子の花瓶かランプでもとりつけようかと思ってましたの。いいですわ。このお皿を壁飾りにさせていただくと」
「うん」
驍は、なま返事をして、しばらくその皿から眼がはなせなかった。
「ボス」
「ん?」
「いやですわ。どうかなさいましたの?」
「どうかって?」
「いえ。なんだか、急にふさぎこんでおしまいになったみたいだから」
「べつに」
驍は、そういって、そばの受話器をとりあげた。
ダイヤルをまわすと、京都の反藤家の電話口には、男の声が出た。
繚一郎かと思ったが、
「ちがいます」
と、相手はいった。
「義兄《あに》は出かけております」
「ああ、弟さんですね」
「そうです」
「じゃ、お姉さんは……」
と、驍がいいかける言葉の先を、その声は無造作にさえぎった。
「姉も、留守です」
どこかとりつく島のない声だった。
そのまま一呼吸おいてから、電話はむこうのほうで切れた。
(国春といったっけな……)
と、驍は、受話器を置きながら、思った。
同志社大学のサッカー部の選手だという美濃子の弟の顔が、束の間、眼先に浮かんだ。
「ボス……」
森江が横から声をかけた。
「ん?」
「受話器がはずれてますわ」
置いたつもりの受話器は、半分溝をそれて信号音が鳴っているのが聞こえた。
「ああ」
驍は、気づいて、もとにもどした。
「どうかなさったんですか」
いぶかるように、森江がたずねた。
「いや」
驍は、なんでもないといった顔つきにもどった。
「いいんだ。ちょっと聞いてみようと思っただけだ」
「聞くって、何をですの?」
「うん。お祝いって、なんのお祝いだかな」
驍は、このとき、正確にいえばもっとべつのことを自分が考えていたという気がした。その考えに気をとられて、何か上《うわ》の空なところが自分にはあった、と。
いうまでもなく、それは、一つは、大皿に描かれている七つの文字についてであった。
日。月。火。水。木。金。土。
なぜこの皿に、その七文字が書きこまれているのか。驍には、ひどくそのことがふしぎに思えた。何か唐突な感じがして、その唐突な印象に、心奪われるものがあった。
もう一つは、電話に出た美濃子の弟の態度である。
驍は、以前にも、この国春という大学生とは受話器をとおして言葉を交わしたことがあった。その折りにも、たしかその大学生はとてもそっけない、ぶっきらぼうな受け答えをする若者だな、と思った記憶がある。用件だけを伝えて、ガチャンと切る。そんな電話だった。そのときには、それがかえっていかにも運動部の選手らしくて、むしろ微笑ましい気さえしたのだったが、今度はそんな感じがまるでしないのであった。
反対に、驍は、ある不快感さえ持った。
(なぜだろうか……)
と、驍は、そんなことをふと考えたりしたのである。
反藤繚一郎が、七曜文字を焼きいれた大皿を贈ってきた。
とにかくそれは、驍にとっては、ひどく思いがけない気のする贈り物なのであった。
思いがけないところで、思いがけないものに出会ったという印象を、捨ててしまうわけにはいかなかった。
その大皿の装飾模様に七つの曜日をあらわす文字が使われているということは、あるいは偶然と思って思えぬこともなかったけれど、しかし、それが七曜文字だとわかったとき、驍の頭に浮かび出てきたもう一つの文字の群れ、大皿の絵画にはない文字たちの群れのことを、驍はいま、偶然のこととして忘れ去るわけにはいかなかったのである。
大皿の七つの文字が、それぞれの下に隠している見えない影の文字のことを、驍は、反藤繚一郎の上に重ねて考えてみた。いや、考えてみざるを得なかった、というべきかもしれぬ。
華麗な大皿の面《おもて》に、西の国、門司をめざして東京駅を発ったという繚一郎の姿が二重写しに浮かびあがってくるのだった。
紀子が告げた繚一郎の旅行先が、門司だったということも、偶然と思えば、それですむ事柄ではあったが、いまこうして二つの偶然が重なりあって眼の前に持ち出されると、驍もふと足をとめて、《偶然》というその一度は通り過ぎかけた標識に、眼をとめてみないわけにはいかなかった。
七つの曜日をあらわす文字が、その下に隠しているもう一つの七つの世界。
その世界が、驍の人生のなかに登場してきたのも、西の国、門司であったから。
いや、門司であったと、考えざるを得なかったから。
七つの曜日が唄う歌。
ソロモン・グランディー、
月曜に誕生、
火曜に命名、
水曜に結婚、
木曜に発病、
金曜に悪化、
土曜に往生、
日曜に埋葬。
ソロモン・グランディー
これでおしまい
その歌は、物心つくと、すでに驍の記憶のなかに存在していた。
いつ、どこで、どうしておぼえた歌なのか、それはわからないにしても、片言まじりに、その歌の一節を、意味もわからず驍が口ずさんでいたことだけは、まちがいのないことなのだった。
もっとも、七つの唄全歌を正確に記憶していたわけではなく、それはとぎれとぎれに、はずみで歌の一部が口の端《は》に出てくるというふうなごく断片的なものだったが、しかし、子供の頃、驍がその歌を口にしていたことに変りはないのであった。
門司。
そこが、驍の故郷であった。
誕生地でこそなかったけれど、驍がおぼえている限りでは、そこで生まれそこで育ったも同然の土地であった。
七曜歌は、その土地で、驍の暮らしのなかへ顔を出した歌だった。
いわば門司が、驍にとっては、この七曜歌の源の地、といってもよいのであった。
〈門司〉と、〈七曜文字〉と、反藤繚一郎。
その三つの項目が指し示すものは、一つの歌。
英国の童謡歌、≪マザー・グース≫の七曜の歌。
(そう考えるほかはないではないか)
楯林驍は、自分にいい聞かせてみたのである。
すると、久しく訪《おとな》うことのなかった門司の地が、にわかにあるなつかしさをともなって思い出された。
母にもしばらく会っていない。
あの海の見える山の墓地で、母が、呼んでいるのではないだろうか。
不意に、そんな望郷の想いにとらわれたのだった。
楯林驍は、晴れた海峡の上空を渡ってくる冬の風に、吹き流される線香の淡い煙を、眼で追っていた。
(母さん。母さんは、ほんとうに知らなかったのかい? 僕が喋っていた、あのお呪《まじな》いみたいな歌のことを)
と、驍は心のなかで話しかけた。
驍の記憶によれば、たしかにその歌は、三、四歳の頃、すでに驍の口に馴じんでいたものだったと思われるのだ。
無論当時は、それが歌の文句だなどとは思ってもみなかったし、曲がついているわけでもなかった。ただ、意味不明の、音声の連なりでしかなかったあの奇妙な言葉。
どうして、あんな奇妙な言葉を、自分はおぼえていたのだろう。
口にすると、
「また、驍のお呪い?」
と、母はよく苦笑していたから、母にもそれが歌の文句の切れっぱしであったことなど理解はできなかったのだと、思われはするのだが、幼い驍の身のまわりのどこか、記憶の定かでない部分で、驍は、その奇妙な文句との|出会い《ヽヽヽ》を持っている筈であった。
『ソロモン、ガンジー
ボーノナ、マンデー
ジイスイズ、ジェンドー』
『ダイドン、サタデー
ベリドン、サンデー
ジイスイズ、ジェンドー』
文字に書けば、それは比較的言葉らしい体裁をおびるけれども、幼い子供が、後先の脈絡もなく、ただ音声だけで、たどたどしい続け読みに誦《そらん》じたそれは、言葉というよりも、何かの暗号、呪文の類《たぐい》に近い、単なる音の連なりだった。
驍は、口に出して呟いてみた。
どこで、この音の連なりを、自分は身につけたのだろうか。
そう。それは、身につけたといったほうが適切な、自然に体のなかから湧く音声なのであった。
(ねえ、母さん。ほんとうに、母さんにもわからない言葉だったのかい?)
墓は、香煙にけむるだけで、応えてくれる声はなかった。
楯林驍は、その日、谷野の家に顔を出して、とんぼ帰りで、夜の新幹線に乗った。
「まあ、なんちゅう忙しいひとかいの。一晩くらい、泊っていきゃあよかじゃなかかね」
叔父夫婦は呆《あき》れ顔で、それでもしきりに引きとめたが、驍はその日一泊するつもりで出てきた予定を、急に変更したのだった。
谷野の家を繚一郎がたずねた形跡はまるでなかったし、また繚一郎が何をしに門司へやってきたのかをたしかめるための里帰りでもなかった。
(母の墓の前に立ちたい)
繚一郎の大皿を手にしたとき、ふっときざしたその思いに引きずられて、やみくもにあげた腰だった。
叔父夫婦には申しわけない気もしたが、故郷はもっと安らかな気分になって、たずねるべきところだ、と思ったからだ。
さしずめ、自分がいましなければならないことは、反藤繚一郎に会ってみること。やはり、これだった。
母の墓の前に立って、その肚《はら》がきまったのだった。
七曜文の大皿に、あの奇怪な英国のわらべ唄≪マザー・グース≫の七曜歌を思い起こさせる気配があるのなら、あたってみるべきなのだ。一人あれこれと考えていることはない。
贈り主の繚一郎にたずねてみればいいのである。
そう、そのことのほうが先決だ。
七曜歌。
それは、自分にとっても、謎の歌だ。
出所不明の、妖《あや》しい歌だ。
かりにこの門司の地に、その出どころを解きあかす何かの手掛かりがひそんでいるとしても、十数年、ここで育ち、ここで暮らした自分に、それは見つけ出せなかった謎だ。いまこの地を探しまわっても、たやすく見つかる筈もない気がした。
驍の身のまわりに、七つの曜日が、具体的な形をとって七曜歌と結びつきながら持ち出されたのは、考えてみれば、この繚一郎の焼いた大皿、これがはじめての機会であった。
物心ついてこの方、その歌は、いつも眼に見えないところで驍の身辺にはあったけれど、七つの曜日を形にして姿を見せることはなかった。
──御祝
七曜文大皿
ま新しい箱蓋に墨書されて贈られたその優麗な大皿は、いわば、七曜歌の気配をまとって驍の人生のなかへ登場してきた最初の具象物、というべきだろう。
その道が、≪マザー・グース≫のわらべ唄へつながっているかどうかはわからなくとも、それがいま唯一の、七曜歌への門であることにちがいはなかった。
楯林驍には、そのように思われた。
故郷の地に立ち、いま自分が帰るべき故郷は、その門のむこうにこそ、ある気がした。
潜《くぐ》らねばならない門。
それはまず、七曜歌への門であった。
楯林驍は、小倉駅の新幹線ホームに立って、夜の上り列車を待っていた。
一つむこうの下り線に、ひかり号が入り、瞬《またた》く間に出て行った。
上り便の到着までには、まだすこし時間があった。
驍は、ベンチに腰をおろした。コートの襟をたてて、そのかげで煙草に火をつけた。
「先生ェ……」
と、ひとを呼ぶ声を聞いたのは、その直後のことであった。
「先生ェ」
なにげなく首を起こして見た視野のなかに、階段を駈けのぼってくる和服コートの女の姿があった。
驍は、思わず立ちあがっていた。
反藤美濃子であった。
美濃子は、走り寄ってきた。しばらく驍の胸に顔をうずめ、肩で荒い息をついていた。
「どうしたんです、いったい……」
「見えたんどす……いまのひかりできたんどす……窓から先生の姿が見えたさかい……ああ、もう死にそう……間に合わへんかと思いました……」
驍は、そんな美濃子の肩を、黙ったまま抱いていた。
言葉がまるで出てこないのであった。
「今朝、東京のお店へお電話したんどす……そしたら、マサルさんが出てくれはりまして……先生は門司へいらしてるて、教えてくれはりましたんどす……」
(マサルのやつ)
と、驍は、苦笑した。
「今晩はこっちへお泊りやと聞いたもんですさかい……もう矢も楯《たて》ものうなってしもうて……とび出してきたんどす……かんにんしとくれやす……うちは悪い女どす……」
美濃子は、独りで喋り続けた。
ほそいうなじを揺すって、しばらくは驍の胸から顔をあげきらないで泣いた。
「いいよ……いいんだよ。うれしいよ。よくきたよ」
「ほんまどすか?」
「ほんとうだよ」
「怒ってはらしまへん?」
「ああ、怒ってない、しかし、よかったな。行きちがいにならなくて」
「ほんまに。さっき窓から先生見たとき、もうだめかと思いました。もうお帰りやすのどす?」
「そう。あなたの家へ、行くつもりだった」
「まあ」
「今夜は、京都へ泊ることにしたんだ」
「ほんまどすのん?」
美濃子の眼に、涙が光った。
「しかし、よく出てこられたね」
「反藤が、留守してますよって……」
「ん? 反藤さん、いらっしゃらないの?」
「へえ。新潟へ出かけてます」
「新潟?」
上り線が入ってきた。
二人の話は、そこでひとまず中断した。
車中に落着いてから、美濃子は、
「よろしおすやろか?」
と、急に不安げな眼になった。
「ん?」
「ごいっしょさせてもろうて……」
「かまわないよ」
と、驍は答えて、その眼を、ふと宙にとめた。
「いや。やっぱりよそう。君に迷惑がかかるといけない。京都までは、別行動をとろう。君は、この席にいたまえ。僕が車輛《はこ》をかわる」
「いえ、うちが移ります」
「いいから」
と、立ちあがる美濃子の肩をおさえて、驍は自分の座席券を彼女へ渡した。
一瞬、その両肩をはげしく抱き寄せたい誘惑に駆られた。
しかし、思いとどまった。
(外で会ってはならないのだ。人眼のある場所で、このひとを傍に寄せてはならない。このひとを、禍いにまき込むことだけは、避けなければ)
とっさに、そう思った。
禍い。
そう呼べるものかどうかはわからないが、そう呼ぶにふさわしいできごとが、いつも起こった。驍の行く先々で、その行動を見のがさない隠れた眼があったとしか思えないようなできごとだった。いつも不意に、それはいわれのない形をとって、身辺に起こる。
美濃子だけは、その渦中に立たせてはならぬ。と、思ったのだった。
「いいね。明日、君の家へ行く。君は、まっすぐ帰りたまえ。やっぱり、そうしなきゃならない」
美濃子の眼に、深いかなしみの色が宿った。だが、彼女も、うなずいた。
小倉駅のホームにあった、思わずわれを忘れた数分間だけが、この夜二人が分けあった束の間の逢う瀬なのだった。
闇都への旅
反藤繚一郎は、旅装を解きながら、
「楯林君が?」
と、美濃子のほうを振り返った。
「ええ。お皿のお礼に寄っとくれやしたらしおすのやけど、あなたがお留守やさかい、残念がってはりました」
美濃子は、気がえを手伝いながら、なにげなく眼をあげて、ふと小さく息をとめた。
開かれた洋服箪笥の鏡のなかへ、繚一郎の背幅のひろい上半身が映っている。そのがっしりとした肩先に、美濃子自身の顔が不意に覗いて見えたのである。
それはちょうど、鏡のなかでは、繚一郎のふところに抱きとられてでもいるような姿勢に見えた。
美濃子は、そんな自分の顔に、束の間視線をこらし、やにわにはずした。
楯林驍から聞かされた、自分に瓜二つだという女。彼女のパリヘの旅立ちを繚一郎が羽田空港まで見送ったという女。その女の顔を、美濃子は、鏡のなかに見たような気がしたのである。
繚一郎とその女の抱擁の光景を目撃しでもしたようなうろたえが、一瞬美濃子の心を波立たせた。
何度か口に出して、繚一郎に問いただしたいと思いながら、その女のことはいつも言葉にはならなかった。その女のことを驍から聞かされた日に、自分も、繚一郎の妻としてあるまじき秘密を、驍との間に持ってしまったのだから。
夫とその女の間柄を問いただす資格は、自分にはない。問いただせば、驍との秘めごとも、口にしなければならなくなるだろう。
驍とのできごとを隠しておいて、その女と繚一郎の関わりあいだけを一方的にせんさくすることは、美濃子にはできなかった。
繚一郎との暮らしに、不満など何もなかった。繚一郎は、自分にはすぎた夫だった。不満をいうならば、むしろそれは、繚一郎のほうにこそあったであろう。結婚してもう七、八年にはなるけれども、いまだに子供に恵まれないのは、自分のほうに原因があるのだから。
「いや、できないというわけじゃないですよ。まあ、できにくい体質だということはいえますけれどもね」
と、かつて医者は、美濃子のほうに不妊の体質があることを指摘した。繚一郎は、こだわりもしなかったけれど。
しかし、不満といえば、それは彼にしてみれば不満であったにちがいない。
「所帯じみへんでええやないか」
と、繚一郎はいってくれはしたのだが、美濃子にとって、それは絶えずどこかでやはり忘れられない負い目となっていたことはたしかだった。
繚一郎に自分の知らない女付合いがあると知らされたとき、美濃子がいちばん先に考えたこともそれだった。しかも、その女は、自分に瓜二つだという。どんな事情によるものかはわからなかったが、どんな付合いであろうとも、夫が妻に似た女と親密な間柄にあり、妻である自分がそのことを知らなかったという衝撃は、美濃子を二重にうろたえさせた。
繚一郎に女。
それは、考えてもみないことだったし、また考えられもしなかった。女遊びなど、およそ関心の外。浮わついた色事などには、彼はまるで興味を示さぬ男であった。
美濃子も、その女が美濃子に生き写しだということを聞かなかったら、きっと笑いとばしただろうし、信じもしなかっただろう。かりに美濃子が、羽田空港の現場にいて、女を見送る夫を目撃したとしても、その女が単なる見知らぬ女であれば、おどろきもしなかったであろう。
夫が自分以外の女とまちがいを起こすような男ではないことを、美濃子がいちばんよく知っていたから。繚一郎は、その点で、むしろ頑固なほど、潔癖な性格の持ち主だった。
ときには、女遊びの一つや二つあってもよいと、ないものねだりの冗談口を、ふざけてきいたりしたことさえ、何度かあった。またもしそんなことになっても、自分はきっとそんなに騒ぎもとり乱しもしないだろうという気が、美濃子にはあった。繚一郎が、遊び心にうつつを抜かせる人間ではないということを、美濃子は疑いもしなかったから。
だが、その女が、自分と同じ顔を持ち、他人《ひと》にも自分と見まちがえられるほどの姿を持った女性だとなると、話はべつだった。
事実、そのことを聞かされたとき、美濃子は、とっさに信じたのだった。
それは、繚一郎の女だ、と。
繚一郎と特別な間柄の女なのだ、と。
そして、考えたのだった。何よりも先に。その女にはあって、自分にはないもののことを。
子供を身籠《みごも》らぬ女身のことを。
そしておそらく、繚一郎にも、そのことが頭にあったのだと。
美濃子は理解したのだった。
自分と同じ顔を持ち、同じ姿を持つ女。
夫が、この自分を愛し、自分以外の女とまちがいを起こすような人間ではないとわかるだけに、その女へむけられた繚一郎の心の動きが、ふとたやすく想像できるような気がするのだった。
妻以外の女を抱かない男だからこそ、繚一郎は、その女を抱いたのだ、という確信が、不意に美濃子には湧いたのだった。
そして彼に、その気を起こさせたのは、自分にはなくて、彼女にはあるもののせいなのではないだろうか。
特別に子供をほしがるふうもなく、また素振りにさえそんなこだわりは見せたことのない繚一郎のなかに、やはりその思いはひそんでいたのかと、美濃子は不意をつかれ、足もとの地面が消えてなくなるようなうろたえをおぼえた。
思わぬ動転感だった。
(何かに、しがみつきたかったのだ)
(支えがほしかったのだ)
(平静ではなかったのだ)
じっとしておれずに、無我夢中だったのだと、美濃子は、楯林驍の胸へ抱きとられた夜のことを、思い返した。
自分に瓜二つの女。
そんな女が、この世にいたということへのうろたえだった。そして、その女が、繚一郎の身辺に実在するということへの恐怖だった。
その恐ろしさに、われを忘れたのだった。
楯林驍とのあの一夜は、あやまちだった。
(わたしは、このひとを愛しているのだから)
と、美濃子は、和服に着がえてくつろぐ繚一郎の幅広い肩のあたりへ、頭《こうべ》を寄せた。
繚一郎は、無造作にしごきを腰にまわして結びあげていた。
(くり返してはならないのだ)
と、美濃子は、そんな夫のうしろ姿へ眼をとめながら、心で思った。
帯の結び目へ手をかして、結《ゆわ》えなおしながら、しかし美濃子は、門司まで楯林驍を追った自分の行動のふしぎさに、どこかで酔っている気配が体のなかでまだ消せないのを、感じとらないわけにはいかなかった。
(わたしに、この夫を責める資格はない)
(このひとだけを、愛していたのに)
(いや、いまも、そうなのに)
と、美濃子は、思った。
「で?」
と、繚一郎は、胸もとをくつろげながら、火鉢の前へ腰をおろした。
「何かいうてはったか?」
「え?」
「いや、楯林君やがな」
「ああ。ええ、びっくりしてはりましたえ」
「何が」
「お祝いて、なんのお祝いやろて。先生、お店のお祝いですねんていいましたらね、えらい恐縮してはって。早速、新しいお店の玄関に飾っとくれやしたそうどす」
「そうか」
「立派なお皿やて、気にいっといやしとくれやしたえ」
「そらまあ、よかったな」
「ああ、そうや。肝心なこと忘れるとこどしたわ」
と、美濃子は、ボストン・バッグのなかみをとり出していた手をとめて、
「お帰りになったら、聞いといてくれて頼まれてましてん」
「ん?」
「いえ、あのお皿、壁に掛けはりますねんて。それでね、どこを上にしたらええのか、天地《ヽヽ》を聞いといてもらえんやろかて、いうてはりました。ほら、あれ、丸いお皿どっしゃろ。七曜文字が、どの字を天にもってきてもええようにみごとにまくばってあるさかい、お店のなかで、ああやない、こうやないて、みなさん大もめですねんて。『七曜文大皿』と箱書きにあるさかい、やっぱり『日、月、火……』と、『日』の字を上にして掛けるのがほんとうかもしれへんけど、お皿をぐるっとまわすたびに、景色がガラッと変るさかい、どの景色も素晴らしゅうて、捨てがたいていわはりますねん。結局、お皿やさかい、平に置いて、どこからも隙のう楽しませてもらうのが、正しい扱いやとは思うのやけども、壁に掛けさせてもらうとしたら、どの字を天にもってきたらええのんか、教えてもらいたいいわはりますねん。反藤さんのお気に添わぬ景色を天地に掛けてたら、申しわけないさかい、一つはそれもぜひうかがいたかったて、まるまる一ン日、待っといやしたんどっせ」
「そうか」
「うちにもわからしまへんし、お好きなように掛けとくれやしたらよろしのにて、いうてはおいたんどすけどね」
「うん。それでええねん」
「けど、それ聞くために、わざわざ寄っとくれやしたようどすねん。日を改めて、お電話するからいうて、帰らはりましてん」
「そらまた、かえって気の毒やったな」
「ちょっとお電話しまひょか」
「うん。そうやな」
「あの七曜文字、そういえば、どれを天《ヽ》にするかとなったら、うちがもろうても、迷いますわ。罪つくりなお皿どっせ」
「そやったかいなあ」
繚一郎は、苦笑しながら、どことなく上《うわ》の空な口調であった。
「それだけか?」
と、そして、ぽつんと聞き返した。
「へぇ?」
「いや、楯林君。ほかには、何もいうてへんかったか?」
「へえ。お皿のことは、それだけどす」
美濃子は、ちょっとけげんな眼で、繚一郎の顔を見た。
「まあ、夕方近くまでおいやしたさかい、よもやま話のお相手は、あれこれしましたけど……お昼のお膳も出しましたし、お仕事場も見せたりして、職人さんたちとも話しといやしたけど……何かありましたん? お聞きしとくようなこと」
「いや、べつに」
と、繚一郎は答えた。
「そうか。それでええねん」
と、そして、やはり何かべつのことを考えてでもいるような、気のない空返事をして、独りでうなずいた。
「ああ、なんや知らん、腹へったな。ぶぶ漬け一杯、やろかな」
「へえ。すぐ支度します」
美濃子は、立ちあがって、
「ほな、お電話、あとにしまひょか」
といって、台所のほうへ入って行った。
繚一郎は、煙草に火をつけて、二口三口喫ってから、その煙草をくわえたまま、腰をあげた。
彼は、次の間の襖をあけて、階段下の電話機の前に立った。
受話器をはずすと、ゆっくりダイヤルをまわしはじめた。
「ボス。反藤さんからお電話です。切り替えます」
と、紀子が、プライベイト・ルームの扉からちょっと顔を覗かせて、いった。
「ん」
驍は、机上の受話器をとりあげた。
「やあ。留守してて、すんませんなあ」
磊落《らいらく》な繚一郎の声が流れ込んできた。
「いえ、こちらこそ。かえって、ご馳走になりに出かけたみたいで……」
驍は、大皿の礼を改めて一とおり口にした。
「いやいや、そんなによろこんでもろうたら、気恥ずかしゅうおっせ」
「新潟のほう、雪だったんじゃないですか?」
「はあはあ、大雪どしたわ。すぐ帰ってくるつもりやったのが、おかげで四日がかりの始末でねえ」
「お仕事だったんですってね。たいへんですねえ」
「いやいや。野暮用ですがな」
「で、いかがです? 収穫はありましたか?」
「はあ?」
と、繚一郎の声は、意外そうにとぎれ、束の間、沈黙した。
無論、驍には、このときの繚一郎の表情など見える筈もなかったが、繚一郎は、内心ひやっとしたのである。
新潟。
彼がその土地へおもむいたのは、いうまでもなく、楯林驍が門司で過ごした小学校時代の受け持ち教師、現在生き残っている二人の内の最後の一人、小千谷市でいまも教職についているという老教師をたずねるためだった。
その教師は、小千谷市のU小学校の校長になっている筈であったが、たずねてみるとすでに退職していて、小千谷からは二つばかり山越えで北に入ったA村で、農業を営んでいるという。その村までの山越え道が、雪でバスが不通になったりして、手間どったのであった。だが、たずねあてた老教師は、中風で寝たっきりの状態で、ろくに口もきけないありさまなのだった。
結局、楯林驍の小学校時代の話はおろか、驍の名前さえ、記憶にあるのかないのか、たしかめることもできずじまいに終ったのだった。
「収穫はありましたか?」
という、いきなりの驍の言葉が、だから驍にまるで自分の行動を見すかされてでもいたかのようなおどろきを、一瞬、繚一郎へあたえたのだった。
「釉薬《ゆうやく》の草木探しにいらしたんだそうですね」
と、驍は、そんな繚一郎の思惑など知る筈もなく、重ねて問いかけた。
「しかし、おどろきましたねえ。新潟くんだりまで出かけていらっしゃるなんて」
「いや……」
と、繚一郎の声は、多少いいよどむふうではあったが、ほっとした口調にもどった。
「そんな大げさなものやないですよ」
繚一郎は、そして、話題を皿のほうへ切り替えた。
「あの七曜文ね……」と、彼はいった。
「あれ、壁に掛けてもらえるのやったら、どうでっしゃろ。『月』の字を、頭にもってきてもろうたら、おさまりつきませんか?」
「ああ、そうですか。『月曜』からはじまるんですね?」
と、驍は、さりげない声で応え返した。
「そうか。やっぱり、そうでしたか。いや、僕もね、なんだか、そんな気がしてたんですよ。『月』を天の正面に掲げるのが、いちばん立派に落着くなあって」
「そうですか? 落着きますか?」
「ええ。いちばんどっしりして、花やぎますねえ」
「そら、よかった。けど、どっちむけてもろうたかて、ほんまはかましまへんのでっせ。お好きなように、その日の気分で、なんぼなと変えとくれやっしゃ。七つの文字に、始めも終りもないのですよって。ぐるぐるまわって、ひとつながりに、無限にめぐってくる歳月。悠久の環《わ》とでもいいまっしゃろか。ま、いうたら、そんなものが、景色になってるとでも思うておくれやす。尻っ尾がどこで、頭がどこか、わからんところが、ミソですさかいな。どっちゃなとむけて、掛けとくれやす」
「なるほど。よくわかりました。そうさせていただきます。じゃ、ここしばらくは、『月曜日』からはじまる七曜文を、楽しませていただきます」
「おおきに。そんなら、長うなりますよって……」
「こちらこそ。ありがとうございました。頂戴します」
「またこっちへお出かけやったら、寄っておくれやす」
「そうさせてもらいます。わざわざ、どうも……」
「さいなら」
と、いって、電話は切れた。
受話器を置きながら、このとき、楯林驍も、また反藤繚一郎も、二人とも、しばらく電話機をみつめていた。それぞれに、場所は東と西の都にへだたってはいたけれど。
そして二人は、偶然にも、同じようなことを考えていたのでもあった。
一つの月曜日からはじまる奇怪な唄のことを。
楯林驍は、思った。
(なぜ、切り出せなかったのか)
と。
──≪マザー・グース≫。そうでしょ? これは、僕に、≪マザー・グース≫の唄を贈って寄こしたんでしょ?
(なぜ、そう口に出せなかったのか)
と。
いっぽう、反藤繚一郎は、一つの言葉を、頭のなかで反芻していた。
『ああ、そうですか。月曜《ヽヽ》からはじまるんですね』
(彼は、たしかにそういった)
と。
『そうか。やっぱり、そうでしたか。いや、僕もね、なんだか、そんな気がしていたんですよ』
(あの独りごちるような口調で、呟いた彼のうなずきは、なんだったのだろうか。自分には、そんなふうに聞こえた)
──そうですか。やっぱり、≪マザー・グース≫だったんですね。あなたは、≪マザー・グース≫の唄を、僕に贈って寄こしたんですね?
(そんな意味を、彼は、言外に匂わせて伝えて寄こしたのだ)
という気が、繚一郎にはしてならなかったのであった。
『なるほど、よくわかりました。そうさせていただきます』
『ここしばらくは、月曜日《ヽヽヽ》からはじまる七曜文を、楽しませていただきます』
驍の言葉の端々に、繚一郎は、何か含みのある気配を、感じとれる気がするのであった。
(自分は、そういっただけだ)
『月《ヽ》の字を、頭にもってきてもろたら、おさまりつきませんか?』
と。
(注意して、言葉を選んで、彼に気どられぬようにと、さりげなく話したつもりだ。彼がもし、≪マザー・グース≫の唄を知っているならば、なんとかこのあたりから打診をはじめたらと、慎重に口火を切りはじめようとした、いわば試しの第|一矢《いつし》とでもいえばよいか。
自分は、そんなつもりで、口をひらいたのだった。
だのに彼は、いきなりその第一矢に、返しの矢羽を放ってきた。こともなげに、平然と誘い水に乗ってきた。
知らずに乗せられたのではなく、明らかに誘い水と知って、誘いに乗ってきたと思われるふしが感じとれるのは、なぜだろうか)
繚一郎は、そのことを考えていた。
──手の内は、読めているんだ。あなたは、≪マザー・グース≫を、僕に贈った。なぜ、こんなことが、あなたに必要なのか。
繚一郎には、驍のそんな声が、聞こえたようでならなかったのだ。
早々と電話をきりあげたのも、そのせいだった。
くれぐれも、驍には気づかれないようにと、大原兵子はいい残して、パリヘ発ったのだった。
その兵子の声も、同時に聞こえてくるようで、落着かなかったのだ。
気づかれずに打診するつもりであった企てが、すっかり見すかされていたという感じを、繚一郎は驍の電話から受けた。
──なぜ、こんなことが、あなたには必要なのか。
驍のそんな問いかけに、そして繚一郎は、答えられないのであった。
(なぜ、こんなことをするのか。それは、この自分にもわからないのだから。そう、わからないのだ。
大原兵子。
あの女に、たずねてみるよりほかに、すべはないのだ。)
反藤繚一郎は、黒い受話器に眼をとめて、一時《いつとき》、そんなきれぎれの思念を頭に浮かべた。
「あなた、お支度できてますえ。|おぶ《ヽヽ》、さめてしまいますわよ」
美濃子の声が、台所のほうでした。
ちょうど、そんな頃。
東京の楯林驍美容室では、表のドアを郵便配達夫が押し開けて入ってきた。
「ボス、速達です」
と、マサルが、その角封筒を持ってプライベイト・ルームヘ顔を出したとき、驍は、まだ京都からの電話を切って間もない眼を、電話器の周辺に遊ばせていた。
「うん」
と、うなずいて、驍はその速達便を受けとり、無造作に手のなかで裏返してみた。
「差出し人、ないんですよ」
と、マサルが、そばから口をはさんだ。
驍は、黙ったまま、もう一度封筒の表書きへ眼を走らせた。
角張った活字のような書体のぎごちない文字が、美容室の所と驍の名前を記していた。見馴れない筆跡のボールペン書きの文字だった。
ペーパー・ナイフで、驍はその封を切った。
出てきたのは、一枚の名刺大の写真であった。
「ん?」
と、驍は、その写真に瞬時瞳をあずけたまま、言葉をのんだ。
「なんですか」
マサルが、机越しに覗き込むようにして首をのばした。
驍は、その眼の前へ、乱暴なしぐさで写真を投げ出した。
拾いあげて手にしたマサルも、しばらくそれに眼をとめたまま、
「うーん」
と、短く唸っただけだった。
「ボス……」
「そうだ」
と、驍は、うなずいた。
「小倉の、新幹線のホームだ」
「じゃあ……」
と、マサルは呟いただけで、またその視線を写真の上へもどして、黙った。
小さな画面だったけれど、映像は鮮明に焼きつけられていた。
プラット・ホームを線路側から写したもので、おそらく対向車線のホームからでも狙ったものと思われる。
画面の中央に、二人の人物が抱きあっているスナップだった。
二人とも、はっきりとその顔が識別できた。
無論、男のほうは楯林驍であり、その胸に顔を寄せている女は、反藤美濃子と一眼でわかる写真だった。
説明も何もいらなかった。
二人の男女は、誰の眼にも、抱擁しあった愛の姿を表現しつくして見えただろう。いや、愛の姿としかそれは見えない男女の抱擁シーンなのだった。
たぶん、美濃子が驍の胸へ走り寄り、顔を埋め、肩で息をきらしながらその顔をあげた一瞬のスナップであったにちがいない。
二人とも、はげしい情感をその顔面にあふれたたせているのであった。
「誰が、こんなものを……」
と、マサルは、驍のほうへ眼をあげて、いった。
「ほかには……何も、入ってないんですか?」
「ない」
おそらく、この封筒の宛名書きも、筆跡を隠す細工の文字であろう。
どこにでもある横太のありふれた封筒だった。
(やっぱり、いた。おれたちを、尾行《つ》けていた、見のがさないやつ……。旅に出ると、かならず、何かを企《たくら》むやつ)
そいつが、あの日も、自分の身辺にいたのだと、楯林驍は暗然としながら、思ったのである。
小倉駅の新幹線ホームで美濃子と驍を盗み撮りにしたスナップ写真が郵送されてきた日の夜、東京は夕方から雪になった。
十一時過ぎに、驍は店を出た。
「この調子だと、車、拾えそうにないですね」
「あるくか」
マサルのアパートも驍のマンションと同じ方角にあったので、二人は靖国通りから四谷へ抜ける小路の多い間道へ入った。ビルや店舗をとじた商店などの合い間合い間に、スナックやバーなどがぽつぽつと並んでいる、人通りのまるでない道だった。
二人とも、口をきかなかった。
新宿通りへ抜け出る手前の路地の角で、二人はわかれた。驍はそのまま通りを越えてむこう側のブロックヘ渡らねばならず、マサルは、その路地をまがるほうがアパートヘは近道だった。
「お寝《やす》みなさい」
「うん」
二人がわかれて、マサルはまだ四、五メートルもあるかないときだった。彼は、ふと立ちどまって、振り返った。無論、驍の姿はもうその路地角にはなかったが、靴音だけはまだ聞こえていていい筈だった。
その靴音が、絶えていた。
妙だな、と思ったときには、もうマサルは踵《きびす》を返していた。路地の角までもどって見ると、つい眼の先の路上で、人影が二つもつれあっていた。
「ボス」
マサルが声をあげ、行動を起こすのと同時だった。人影の一つがぱっと離れ、やにわに走り出したのは。その人影は、またたく間に表通りをまがって、消えた。
マサルが駈け寄ったとき、楯林驍は、コートの袖口を血で濡らしていた。手の甲に血は流れ出していた。
「ボス……」
「あいつだ。そのビルの陰から、とび出してきた」
「大丈夫ですか」
「かすり傷だ」
マサルは、そんな驍の声をうしろに聞きながら、そのそばを走り抜けた。
「追うな」
と、驍は叫んだけれど、マサルはもう表通りへおどり出していた。
二、三十メートル先を、その人影は走っていた。黒っぽいコートの裾をひるがえし、その逃走者は、いきなり通りを横切りはじめた。その前へ、四谷方向から走ってきたタクシーがとまった。
「畜生」
マサルは、反射的にうしろを振り返った。後続車は何台かあったが、空車のランプをつけている車は、探せなかった。
前方の路面を、もうタクシーはすべり出していた。
「畜生」
と、もう一度、マサルは、腕を大きく振りかぶり、拳《こぶし》で宙を打ちすえるようにして、唸った。地団駄を踏みたい気持だった。
女。
(たしかに、あの女だ)
髪をページ・ボーイにゆるやかにカールした、黒田牧夫の女友だち。あの反藤という女にちがいなかった。
マサルは、雪のなかに立って、マサルが引き返してくるのを待っている驍のもとへ、駈けもどった。
「逃げられました」
「いい」
「いいって? どうしてですか。あの女なんですよ」
「わかってる」
「わかってるって?」
「追わなくて、いい」
「なぜですか」
マサルは、むしろムキになって、驍を見た。
「ボス。やっぱり、ボスが手をはなしたんですね。逃がしてやったんですね。僕には、そんなふうに見えたけど。なぜですか」
「いいから、もう帰れ。たいした傷じゃない」
「いいえ。マンションまで送ります」
「いいよ」
「だめです。理由を聞くまでは、帰りません。あいつが、ボスを襲った現場を、僕はこの眼で見たんですから。そしてボスが、あいつを羽交《はが》いじめにしている現場をね。僕が引き返さなかったら、ボスは、あいつを逃がしはしなかったでしょ? そうでしょ? 僕が、声をかけたから、ボスはあいつの手をはなした。なぜですか」
マサルは、驍の二の腕をハンカチで縛りあげながら、一応血どめの処置だけはとって、
「大丈夫ですね?」
と、もう一度たずねた。
傷は、三センチばかり、皮膚を浅く切り裂いているだけのようだった。
「病院に行ったほうがいいかな」
「ばかやろ」
驍は、そういって、あるきはじめた。
マサルも、そのあとに従った。
二人は、また、沈黙した。マンションヘ着くまで、どちらも、黙り続けていた。
傷の手あてを終え、マサルがコーヒー・ポットをさげて居間へ帰ってきたとき、驍は寝室のほうにいて、ベッドの上に横たわり、眼をとじていた。
「眠ったんですか?」
マサルは、サイド・テーブルヘコーヒーを運び、自分はソファーに腰をおろした。
驍は、ほんとうに眠りこんでしまったように見えた。
マサルは、自分のコーヒーを飲み終ると、黙って寝室を出た。
そんなマサルヘ、驍は、眼をとじたまま、声をかけた。
「マサル」
「いいですよ。明日、聞きますから。僕、今夜はここへ泊めてもらいます」
「いいから、そこへ掛けろ」
驍は、静かな声でいった。
「お前、あいつの顔を、見たか」
「見なくったって、わかってますよ。彼女の顔は、知ってますから」
「そうだな。お前だけが、彼女の顔を知ってたんだったな」
「そうですよ。あの女に、まちがいありません。とっつかまえててくれれば、僕が|うむ《ヽヽ》はいわせなかったのに。あいつが、黒田牧夫の女だということを、僕には、白状させることができたのに」
「───」
「そうでしょ? 昨年の夏、京都の祇園祭でボスを刺したのも、あの女にちがいないんだ。どうして、逃がしたりしたんですか。ボスを殺そうとした人間じゃありませんか。人殺しの犯人なんですよ」
「殺されちゃいないよ」
「ボス。本気で、そんなこといってるんですか。あいつは、諦めやしないでしょう。また、ボスを、狙うでしょう。もう、これではっきりしたんだ。黒田牧夫の死を、ボスのせいだと思いこんでいる人間がいるってことが。そんないわれのない怨みを、どうして、この先また野放しにしてしまうようなこと、したんですか。あの女にとったって、それは不幸なことじゃないですか。まちがった怨みを、持ってるんだ。まちがっているということを、知らせてやるのが、ほんとうじゃないですか。今夜、それができたんだ。すくなくとも、ボスを刺した犯人だけは、つかまえることができたんだ」
マサルの声は、激していた。
うらめしそうに、彼は、驍をみつめていた。
「そうだ」
と、驍は、うなずきながらぽつりといった。
「つかまえたんだよ。その犯人をな」
「え?」
「つかまえたも、同じだ。もう、逃げ出せはしないから」
マサルは、ちょっと息を殺した。
「そうだ。追う必要なんか、なくなったんだ」
と、驍は、重ねて、独語した。
「ボス……」
「あの女の顔を知ってるのは、お前だけだから、これは聞いてみるんだけどな、お前、ほんとに、あの顔を、ほかで見かけたことはないのか?」
「ほかで? と、いいますと?」
「つまり、ページ・ボーイ以外の髪型をしてるときの、あいつをさ」
マサルは、けげんな顔をした。
驍は、眼をつぶったままだった。
「おれも、お前も、よく知ってる人間たちのなかでは、どうだ? もっとも、よく知ってるとはいえないかもしれないけどな」
「それは……どういう意味ですか。僕は、あの女の顔を、よく知ってます。黒田牧夫といっしょにいるところも見てますし、昨年の夏、東山の病院の庭でも、会ってます」
「つまり、それ以外の場所で、見たことはないかといってるんだ」
マサルは、束の間、とまどった。
「おっしゃることが、よくわかりません……」
「じゃ、思い出してみてくれ、昨年、雨野華子のショーの日、おれが、ショーから帰ってきて、すぐお前に、店の表にいるやつを見てきてくれと、頼んだことがあったよな」
「ええ……おぼえてますけど。アイスクリーム買ったときのことでしょ?」
その日は、楯林驍の美容室も臨時休業で、驍のコレクション・ショーの準備にてんてこ舞っているさなかであった。
「『知ってる顔がいたら、たしかめるだけでいい。気づかれないように帰ってこい』たしか、そうおっしゃったと思いますけど」
マサルは、美容室の前の舗道で、電柱にもたれるようにして立っていた、一人の人物を思い出した。口どめされていたから、誰にも喋りはしなかったけれど、マサルには、そのことの意味が、そのときも、よくわからなかった。ひょっとして、街で驍を見かけて後を尾行《つ》けてきたのかなと、思ってみたりはしたけれど。
「そうだ、そのとき見た顔を、もう一度思い出してみてくれ」
「だって、ボス。あれは……」
「反藤国春だな?」
「ええ、反藤美濃子さんの弟さんでしたよ」
マサルは、いってしまってから、ふとその言葉尻を、口のなかでのみ込んだ。
そして、その眼を驍へ、投げた。
「ページ・ボーイの女じゃなかったんだな?」
と、驍は、念を押すように、マサルを見た。
「ええ。女じゃありません。紺のジャケットにネクタイ締めた、反藤さんの弟さんです」
「スポーツ刈りの短髪に、きりっとした顔立ちの、格好いい若者だよな」
「そりゃまあ、そんなふうにいえなくもないでしょうね……」
「それだけかい?」
「と、いいますと……?」
「ページ・ボーイの女じゃなかったかと、聞いてるんだ」
「え?」
「反藤国春。おれが、今夜会った女は、彼だった筈だがな」
マサルは、一瞬、ぽかんとした。
「まさか……いえ、そんなことは、ありません。だって、彼は、サッカー部の選手ですよ……」
「そうだよな。サッカー部の選手だという先入観があるから、お前には、あの女の顔が見抜けなかった」
「待ってください。じゃ、あの女が国春だというんですか?」
「そうじゃないかな?」
驍は、反藤家をたずねた折り、夜の道で石礫《いしつぶて》に襲われた日のことを話した。その石礫の的確さや、鋭さを思い出しながら。
「あんな石が、女の腕に投げこなせるわけはない。それから声だ」
「声?」
マサルは、見じろいだ。
「おれは、彼の顔よりも、むしろ、声のほうを、たくさん聞いている。顔は、二度ほどちらっと見てるだけで、あとはほとんど電話で話した声の記憶があるだけだ。反対に、お前は、反藤の家のまわりで、昨年張り込みまがいのことをやってるから、彼の顔や姿のほうはよく知ってるわけだ。それが、逆に盲点になっちゃいないかい? 同志社大学の学生。運動部の選手。その顔を、よく知り過ぎているから、彼の女姿など、思いもつかなかった。そうじゃないかい? 彼を、女にしてみてくれ。そしてその頭に、ページ・ボーイをかぶせてみてくれ。そうじゃないと、いい切れるか? しかも、お前は、男の彼も、女の彼も、まっ昼間に見てるんだ。昼間、堂々と街なかを女装であるけるほどの男だ。そして、お前に、男の不自然さを感じさせもしなかったやつだ。よほど、女装に自信があると見て、さしつかえあるまい。その辺をもう一度頭にいれてみて、いま、考えなおしてみてくれ」
マサルは、言葉を失っていた。
「おれも、無論、ページ・ボーイの女の姿は、この眼で見てる。けど、それは夜のことだ。顔をはっきりと見たわけじゃない。だから、かえって、彼の女姿も、想像しやすいのかもしれぬ。とにかく、今夜、おれは、彼だと直感した……」
驍は、言葉を切ってから、そしていった。
「ビルの陰からとび出してきたとき、やつは一言だけ、口をきいた。『死ね』ってな。その声を聞いて、おれは、急に、今日送られてきたあの写真を、思い出した。なぜあの写真を思い出したのか、おれは、しきりにそれを考えながら、彼と揉《も》みあっていた。電話の声がふいと浮かんできたのも、そのときだったし、浮かぶと、急に『死ね』といわれてもいい理由が、自分にはあるような気が、またふっとしたりもしたんだ。あの写真は、たしかに、おれに、自分は殺されても仕方のない人間だという気を起こさせたし、そんな気が不意にしたせいで、おれは、反藤国春という名を思いついたのかもしれない。とにかく、彼だ、と思ったんだ」
「思っただけじゃ、どうしようもないじゃありませんか」
と、とつぜんマサルは、口をひらいた。
「だったら、なおのこと、その場で証拠をおさえなきゃあ。どうして、逃がしたりしたんです。とぼけられたら、それまでじゃありませんか。男に返ってしまわれたら」
「返っても、消えはしないさ。彼も、切ってる筈だ。手のひらか、指のどこかをな」
「そんなもの、証拠になりゃあしませんよ。とぼけるつもりなら、いくらだって、白《しら》きれますよ」
「それで、いいんだ。彼を、犯人《ヽヽ》にするつもりはない」
「ボス」
「わかってる。昨年おれを刺した犯人が、犯人だ。そういいたいのだろう」
「あたり前ですよ。あれは、反藤さんと関わりを持つ前のできごとですからね。それに、警察の手も入ってるんだ」
「だから、お前に頼んでるんだ。警察が探し出すのなら、仕方がないだろう。しかし、それまでは、黙っててやってくれ」
「ボス……」
マサルは、なさけなさそうに、口をつぐんだ。
雪の新宿大通りを、走り去った車の後尾灯が、眼によみがえった。
(しかし、それにしても、そんなことがあり得るだろうか)
と、マサルは、考えた。
(反藤国春が、黒田牧夫の|女友だち《ヽヽヽヽ》だったとは……。そして、これは、どう判断すればいい事柄なのだろうか)
と。
驍は、また眠り落ちた人間のように見えた。
腕の包帯に、うっすらと血がにじみ出てきていた。
反藤美濃子から楯林驍の美容室ヘスペシャル・ルームの予約が入ったのは、驍がページ・ボーイの女に襲われた雪の日から四日ばかり後のことである。
淡い浅黄色の小紋の和服が柔らかく肌に馴じんだ静かな出立《いでた》ちの美濃子だったが、彼女を迎えいれたとき、驍は不吉な思いに打たれた。その面やつれの深さや力の無さは、別人を見るようだった。
「お店に寄せてもろうたほうが、正体失わんとすむやろ思いましてん」
「先生」と、美濃子はルームヘ入ると、低い嗚咽《おえつ》まじりの声を忍ばせ、ソファーの肘《ひじ》掛けに額をおしあてた。
「国春が……」と彼女は、いった。
いったまま、小さく身悶《みもだ》えるように、肩を震わせた。
「国春君が、どうしました」
「死にましてん」
「え?」
美濃子は、ひとしきりむせんだあと、
「見てやっておくれやす」
と、白い角封筒を、バッグのなかからとり出した。内には、便箋紙が何枚か入っていた。
『姉上へ』と、冒頭の文字は記されていた。
[#ここから1字下げ]
「僕は悪い弟です。できそこないの人間です。誰にも話さずに行くつもりでしたが、姉上だけには知っていただきたいと思って、そして眼をさましてもらいたいと考え、これを書き置くことにしました。
最初に、命を絶つ理由を書くべきでしょう。簡単です。僕は、殺人犯だからです。いや正確には、まだその殺人をやり遂げてはおりません。でも、その人間を、僕が心底殺したいと思っていることに変りはありません。事なかばで、目的も貫けずに投げ出すことは、死にきれない思いですが、僕がいま一日でも長く生きているということは、それだけ、反藤の家にとっても不幸な事柄ですし、家の禍いとなること必定です。
誰にも知られずに、人間を一人、殺したかったのですが、いま、それができなくなりました。けっして誰にも悟られてはならない僕の殺意を、相手に悟られてしまったからです。その男が死ねば、僕が殺したということが、おそらくすぐにわかるでしょうし、わかれば、反藤の家に不幸の累を及ぼすことにもなるでしょう。僕一人の、他人《ひと》には隠れた範疇《はんちゆう》で、密かに事がなし遂げられなくなった以上、この計画は、中断せざるを得ないのです。
僕がこの世に生きていて、この殺人を中断することなど、とても僕にはできませんし、できないとすれば、われながら腑甲斐ないことですが、死ぬほかはないのです。
おどろかないでください。昨年の夏、祇園祭の鉾巡行の日、楯林驍をハサミで刺したのは、この僕です。
事の起こりは、姉上ももう週刊誌などでご存じでしょう。黒田牧夫というヘア・デザイナーの美容室『若王』という店が、開店披露のパーティーの夜、全焼したのです。黒田さんが、楯林驍のむこうを張って、一か八か、美容師生命を賭けて開店まで漕ぎつけた店です。それが、開店前夜に一夜にして焼失し、従業員も一人を残してすべて死亡したのです。
世間では、麻薬、乱交パーティーにうつつを抜かしての揚げ句の失火事件だといわれていますが、僕には、そうは思えません。僕は、この事件を知ったとき、とっさに変だな、と思ったのです。
と、いうのは、この『若王』の火事で死んだ人間のなかに、僕の高校時代の友だちがいるからです。櫛野という友だちで、黒田さんに可愛がられている従業員の一人です。僕は、この櫛野を通じて、黒田さんとも面識がありますし、東京へ出るたびに、櫛野のアパートや、黒田さんのマンションにいりびたっていたものです。
だから、黒田さんのことも、僕はよく知っています。たしかに彼は、クスリをやったり、女の子たちとも自由な遊び方をする人でしたから、開店前夜のパーティーが、クスリを飲んでの乱交まがいの|はめ《ヽヽ》をはずしたものであったかもしれないとは思います。死んだ人たちが、ほとんど全裸も同様だったと聞かされますと、僕も、そのことは否定したりはしませんが、僕が変だなと思ったのは、死んだ人間たちのなかに、櫛野もいた、ということです。
パーティーの全員が、クスリや酒に酔い痴れて、火の不始末に気がつかなかったということが、僕には、とてもふしぎなのです。
なぜなら、櫛野は、幻覚剤や睡眠薬などのクスリの類《たぐい》は、ぜったいにやりませんし、アルコールも受けつけない性質《たち》だからです。
死んだ人間たちが、どんなに意識|朦朧《もうろう》として、常軌を逸していたとしても、すくなくとも、彼だけは、平常に近い判断力を持った状態にあっただろうと、僕には思われるのです。もっとも、新しい店の開店祝いなのだから、彼も、まったくの素面《しらふ》だったとはいえないかもしれません。ビールの一、二杯くらいは飲んで飲めなくはなかったし、また、飲むと、ひどく陽気にはしゃぎ出すクセもあったから、きっといくらかは飲んだでしょう。心底から、黒田さんの『若王』の誕生を、よろこんでいたやつだったから。
でも、僕は思うのです。彼はきっと、パーティーのはじめから終りまで、みんなの面倒見役をつとめたにちがいないと。こまごまと、よく気がつき、動くことを厭わない人間でしたから。
だから、僕には、みんなの気がつかない間に、火が出たという話は、とても奇妙に聞こえました。警察にも、このことは、一度投書したことがあるのです。火事は、失火ではなくて、不審火の線は考えられないのかと。
しかし結局、とりあげられはしなかったようだけど。
僕はだから、櫛野はいったい、火が出たとき何をしていたのだろうかと、その後も、よく考えたものです。やっぱり、飲めない酒に酔いつぶれてでもいたのだろうか。それとも、セクスの快楽に溺れ惚《ほう》けてでもいたのだろうか、と。どちらも、櫛野には、ぴったりとこない想像ではあったけど。
というのは、彼は、度をすごした酒は必ず戻していたし、セクスのほうも、ひどく淡泊な人間だったから。
こんなことを書くのは、彼の名誉のためにも、さし控えたいと思いますが、書かなければ、彼のことをよくわかってはもらえません。じつは、彼には、ちょっと変った習癖があるのです。知らない人には奇異に聞こえるかもしれないけど、女装癖とでもいえばよいか。女になりきって街のなかをあるいたりすることが、大層好きな人間でした。すくなくとも、クスリや、アルコールや、セクスよりも、彼はそのことが好きでした。と、いっても、誤解はしないでください、これは、すぐに想像されるような、性欲に関係した癖ではないのです。男が、生活のなかのある時間、女になりきって、しかも誰も、それが女であることを疑わない。そんな時間がもし持てたら、愉快だろうなと、彼は考える人間です。そして、それを実行する。
『眼の前の世界が、ほんとに、ガラッと変るんだよ。あの新鮮さったら、ないな。自分が、完全に自分じゃなくなるんだから。一度、あのガラッと変る感じをおぼえたら、もうやめられないな』
彼は、そんなふうにいいました。
『そのためには、どこから見ても、女になりきらなきゃだめだ。むつかしいけど、これがまた楽しいんだな』
そういう男でした。
僕は、そんな彼を知っているから、どんなに乱れたパーティーのなかにいても、そのパーティーでは、彼は酔い痴れはしなかっただろうと、思えてならないのです。
ちょうど、そうしたときでした。僕が、楯林驍についてのある噂を耳にしたのは。
それは、こういうものでした。つまり、パーティーの死亡者のなかには身許不明の死体もあって、その割り出しのために、パーティーの招待客の確認があったわけだけど、彼は、早く帰って、深夜の乱痴気パーティーには加わらず、火が出た時刻には京都にいたそうなのです。それはそれでいいのですが、じつはその夜、『若王』が燃えている最中に、すぐ近くの、同じ新宿の街のなかで、彼を見たひとがあるというのです。
僕は、その楯林驍を見たというひとにも会って話を聞きました。まちがいないというのです。
勿論、噂を丸呑みに信じたわけではありません。でも、僕は、黒田さんのライバル意識というか、楯林驍へのなみはずれた闘争心や執着を、櫛野からも聞かされていましたから、なぜかこの噂は、僕には強烈に、忘れられないものとなりました。というよりも、『若王』の内から出た火なら櫛野が気づかない筈はない、という信念が、この噂を知ってから、確固としたものになった、といったほうが正確でしょう。日がたつにつれ、僕は自分が、楯林驍を憎みはじめ、日毎にその憎しみは募り、自分でもふしぎだと思いながら、もう自分の力ではそれは消せなくなっているのでした。なぜ、楯林驍を殺したいと思うのか、僕にははっきりわかりません。でも、僕は、そう思うのです。彼を殺したいと思い、いつかは彼が、殺されてもいい尻っ尾を出すにちがいないと思い、その日がくるまで彼を見張り続けてやろうと決心したのです。
しかし、見張っていると、僕の心は、本気に殺意に染まるのです。……」
[#ここで字下げ終わり]
驍は途中で、その文面を投げ出したかった。
『しかし、見張っていると、僕の心は、本気に殺意に染まるのです』と書いた反藤国春の遺書は、まだ続いていた。
[#ここから1字下げ]
「僕は、黒田さんの弟子で櫛野とも同輩で同じアパートに寝起きしていた田端という『若王』のたった一人の生き残りの美容師と連絡をとりながら、楯林驍の身辺監視をはじめることにしました。昨年の祇園祭の日も、黒田さんが櫛野に与えた遺品のカット・バサミを、彼の身辺で何か印象的な脅迫暗示に使う方法はないものかと、持ちあるいていたのです。田端君が使えば出所がすぐにばれるので、それは僕の役目でした。あの日、楯林驍を尾行している途中で偶然|義兄《にい》さんに会い、立ち話を交わしている束の間に、不意に僕は自分でも思いがけない行動を起こしていました。手が自然に動いたとしかいいようがないのです。気がついたら、ハサミは彼の脇腹へ潜りこんでいました。ぼくはいまでも信じています。ハサミが勝手に動いたのだと。ハサミに乗り移った何かが、あのとき僕にそんな行動をとらせたのだと。そしてやはり、あのハサミに、彼は刺されてもいい人間だったのだ、と。
僕はそのまま義兄さんとわかれてその場を立ち去ったのですが、まさか義兄さんが彼を助けて、彼と関わりを持つようになろうとは思いませんでした。彼が反藤家に出入りするようになったのは、僕にとってたいへん不快で、迷惑なことでした。
しかし、そんなことはいっておれない事件が起きました。楯林驍を『若王』の火事があった夜、新宿で見たという目撃者が、酔っぱらってガードから墜ちて死んだからです。田端君からその報せを受けたとき、僕は自分がまちがったことをしているのではない、と確信しました。泥酔に見せかけた、これは殺人だと思いました。しかし証拠がない。その証拠を見つけ出すために、僕たちは彼を心理的な揺さぶりにかけて、白状させるしかないと思ったのです。楯林驍美容室を焼いたのも僕たちです。悪運強く、ボヤに終ったのが残念でなりませんが、彼のしたことにくらべれば、美容室の一つや二つ焼き払ったって、なんでもないことです。
僕たちは、田端君の知り合いの博多のゲイバーにいるタマ子という人にも協力してもらって、次はスキャンダルの手を考えることにしました。これは徹底的にやるつもりでしたが、まず田端君が自分にまかせてくれというので、まかせたのがまちがいのもとでした。
田端君が、本職の美容師の腕を駆使して楯林驍に変装し、タマ子という人と破廉恥な行動をとるという計画だったらしいのですが、じつに恐ろしい結果に終りました。
タマ子という人は、泥酔状態で中洲の川に浮かび、田端君は大博通りの公園の便所で灯油をかぶって焼き殺されていたのです。田端君からの連絡がないので、どんな具合いになっているのかと、博多の彼の勤め先に電話をいれてみて、はじめて知ったのです。公衆便所で原因不明の焼身死を遂げていた男の死体が、田端君が使っていた櫛野のハサミを持っていたし、着衣や履き物なども彼の物であることがわかったというのです。僕は、タマ子という人に会わなければと思って、博多へ行きました。そして、タマ子という人も死んでいるのがわかったのです。二人がどんな計画をたてたのか、僕には知ることができませんが、二人が死んだということだけで、僕にはもう十分です。計画は、無残に挫折したのだと悟りました。
楯林驍は、恐ろしい人間です。それは、姉上がいちばんよくご存じの筈です。姉上が彼のマンションをたずねた日、それは僕には信じがたいことでしたが、いっぽうでは、遂に彼は正体を現したと思いました。化けの皮がはがれる日がきたのだと。彼を助けた義兄さんの妻である姉上と、こんな恥知らずなことを平然とやってのける人間だ。彼は、動物だ。自分の思いのままに、この世のなかが動かせると信じている動物だ。
僕は、もう容赦することはないと思った。小倉駅の姉上をこの眼で見たとき、もう許してはおけないと思った。僕は正しかった。彼は、葬り去られていい人間だ。僕がそれをしなければ、誰がする。僕は、それをしてもいいんだ。
昨日僕は、そしてそれを行動に移したのです。眼には眼を。闇から闇に大ぜいの人たちを殺した彼を、僕も、闇のなかで葬り去ってやりたかったのです。残念です。それが完遂できなかったのが。
僕は、この手で彼が殺したかった。司直の手などにゆだねずに。しかし、それがもうできなくなりました。反藤家の不名誉を世間に曝すことなくして、彼を葬り去ることは不可能となりましたから。僕が生きていれば、きっと、そんな事態が反藤家を巻き込むことになるでしょうから。
お姉ちゃん。眼をさましてください。彼はそういう人間なんだ。恐ろしい男なんだ。それを知ってもらうために、これを書き残すことにしました。さようなら。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]国春」
遺書は、そう結ばれていた。
国春は、自分の部屋で睡眠薬を飲んで、命を絶っていたという。
楯林驍が美濃子から聞いたところによると、国春の身辺からは、ページ・ボーイの頭髪や女衣装などはまったく発見されなかった模様であった。
したがって、美濃子は、国春の女装癖を、まるで知ってはいなかった。驍も、そのことには触れずにおいた。遺書のなかで、国春自身がそのことをまったく書きとどめていない以上、国春にとっても、それは知られずにすませたかった事柄なのであったろうと、驍には思われたからである。
おそらく、死ぬ前に、身のまわりから女装に必要な痕跡はすべて消し去って、彼は死んだものと思われる。国春が、女装癖を持つようになったいきさつは、あらかた想像できた。たぶん、櫛野という友人の手引きによるものだろう。それは、国春の驍への異常な憎しみや執着ぶりが、まず櫛野というこの友人の死にはじまっている点からも、容易に判断がつきそうだった。国春は、黒田牧夫の死や『若王』の焼失事件よりも、むしろこの櫛野という友人の死に触発されて、楯林驍にいわれのない敵意を持ったといったほうが、正しいようである。遺書を読んで、驍はそう思った。
そして、櫛野に教えられたか、国春のほうで興味を持ったのか、その辺の事情はわからないにしても、彼が女装の世界に開眼し、病みつきになったであろう様子は、遺書のなかで櫛野の女装癖を説明している文章で、十分にうかがえる。
楯林驍は、この一件は、マサルたちにも口どめした。できれば、美濃子に報せずにおいてやりたかったからだ。
それはともかく、楯林驍は、国春の遺書を読み終って、ぼう然とはしたけれど、そしてその自失感は、深くてむやみにかなしいものではあったけれど、そうしたおどろきやかなしみの深さとはべつに、ある見のがすことのできぬ事柄にも、気づかねばならないのであった。
それは、いうまでもなく、国春がタマ子と田端という『若王』生き残りの美容師の死に触れている部分についての不審である。
田端という美容師がタマ子と組んで驍を陥れる策謀をたてたということはわかったが(そして、その策謀の具体的な内容を、どうやら国春は知らされてはいなかったようであるが)、国春が書いているように、田端が楯林驍に変装したことがまちがいないとすれば(それは新宿署の角田刑事によって確認されている。大博通りの『太陽』というラブ・ホテルに、タマ子は驍にそっくりな扮装をした男と投宿しているのだから)、公園の便所で焼死した人物は、むしろ楯林驍と見做《みな》されなければならないのではないだろうか。
また、角田刑事も話していたように、公衆便所で焼死した男が田端という美容師であるとすれば、同じ時刻、『太陽』にタマ子と投宿していた楯林驍に似た男は、田端ではあり得ないということになる。火が出て便所が燃えつきた後、楯林驍に似た扮装をした男がホテルを出て行くのを『太陽』の受付が見ているのだから。もしこの男が田端の変装だというのなら、公衆便所で焼死した男は田端とは考えられなくなる。
反藤国春は、この辺の事情を、知らなかったといわざるを得ないのであった。
つまり、死んだ男が田端であるにしろないにしろ、タマ子を使ってたてられた楯林驍への迫害計画には、田端以外にもう一人謎の人物がからんでいるということになるのだった。
そして、遺書に見る限り、国春は、その人物の存在を知らなかったといえるのではないだろうか。
楯林驍が抱いた疑惑は、そのことだった。
しかも、そのラブ・ホテルと公園は、眼と鼻の先の距離にある。『太陽』に投宿した楯林驍《ヽヽヽ》と、『若王』ただ一人の生き残りの美容師の死。それが、同じ夜、このような近さに隣りあわせて存在したという事実が、改めて忌わしい想像を決定的にするのだった。しかも、その翌日には、タマ子も死んでいる。
こうなると、二つの死に、楯林驍が関わりを持たぬと考えるほうが、不自然だ。
そして、楯林驍に、その二つの死を残して、立ち去った人物(それが男であることにまちがいはあるまい)が、明らかに一人存在するということを、国春の遺書は、驍に教えてくれたのだった。
驍に、いわれのない迫害を加え続けてきた人間。それがいま、反藤国春であり、田端という若い美容師であったということは判明したけれども、さらにもう一人、第三の人物がいた、と考えざるを得ないのである。
そして、その人物を、反藤国春が知っていなかったと思われることが、楯林驍の注意を惹いた。
しかしいずれにしろ、国春の遺書は、ある意味で、楯林驍には、真実が書きとどめられている、という自覚があった。
自分は、国春の言葉のとおり、恐ろしい人間なのだという自覚が。動物、獣。それは、ほんとうだ、という自覚が。
(美濃子を愛してしまったのだから)
国春に殺されても、文句のいえぬ人間だった。
そのことを、驍は、口にした。
美濃子は、力なく頭《かぶり》を振った。
「いいえ。こんな恐ろしこと、あの子が考えてるやなんて……先生に、顔むけもでけしまへん。死ぬのが、当然でおす。許してやっとくれやす」
美濃子は、ふたたび泣きむせんだ。
「この遺書、反藤さんも、ご覧になったのですか」
美濃子は、ひときわ肩をふるわせて泣いた。
「あのひとが、見つけたんどす。死んでる国春と、これを。わたし宛になってますさかい、読みはいたしません。けど、読んでもらわんことには、説明もでけしまへん……」
「そうですか」
「お葬式すませた明くる日に、パリヘ発ちました」
美濃子は、むしろ静かな声で、そういった。
「え?」
驍は、息をのんで、そのとつぜんの言葉を聞いた。
「帰ってくるまで、先生には報せるなというてまいりました」
「国春君のことをですか?」
「はい」
美濃子は、顔をあげた。
「そんなこと、でけしまへん。一刻も早う、先生にお詫びをせんと……わたしの気がすみまへん」
「しかし……」と、驍は、口ごもった。
「どうしてまた、パリヘなんか……」
美濃子は、やはり力なく、首を振った。
「わからしまへん。何ひとつ、いうて行かしまへんのどすよって……。ただ、この遺書そっくり、書きうつしているようどしたさかい、それ持って行ったことだけは、たしかでおす」
美濃子は、そういって、うなだれたまま、もう一度首を振った。
「もう、何が起こったかて、おどろかしまへん。何が起こったかて……」
呟くような声だった。
楯林驍は、一人の女の顔を思い描いた。それは、もう一人の美濃子とでもいうべきだろうか。そして、反藤美濃子も、そのとき、おそらく同じ顔を、脳裏に浮かべていただろうと、驍は思った。
セーヌの流れに、身許不明の日本人の死体が浮かんでいたと外電記事が報じたのは、それから日ならずしてのことである。
その記事に眼をとめたのは、楯林驍一人であったけれど。
性別は男。二十歳から三十歳前後。自由の女神像付近の中島の河岸に、男のものと思われる靴や着衣が残されているところから、寒中水泳とでもしゃれこんだものか。あるいは、風変りな自殺か──というようなわずかな内容のもので、
《セーヌに裸の溺死体》
と、見出しのついたごく小さな記事だった。
パ リ の 人
急な傾斜の石畳の道をのぼってきて、反藤繚一郎は、ふと立ちどまった。時刻はもう正午に近かったが、暗い薄墨色の空がモンマルトルをおおっていた。
むかい側の居住区の建物の間にのぞいた、そんなどんよりした空をちょうど背景に、その看板はぶらさがっていた。軒先に鉄の金具でつるされた、一羽の烏《からす》の看板である。ペンキのまだらにはげ落ちた、みすぼらしい烏だった。
繚一郎は、ほこりまみれのせまいウィンドーの奥をちょっとのぞき込むようにし、それからそばのガラス・ドアを押して入った。カランカランと、ドアは鳴った。古びた呼鈴の意外に澄んだ音であった。
奥の鳥かごのかげから、ひょこっと小さな老婦の顔がのぞいて引っ込み、しばらくして彼女は長い毛糸の肩掛けを膝までたらした格好で、歯のない口もとをすぼませてもぐもぐ動かせながら、出てきた。
「兵子・大原の住所は、ここだろうか」
と、メモした紙を彼女に見せると、
「ヨウコ?」
ウィ、ウィと、何か小鳥の啼き声でも聞くような甲高い咽《のど》を鳴らし、老婦は脇の木の階段をのぼれというようなしぐさをした。
中央が靴べりでまるく角のとれた階段を三階までのぼったところに、ドアがあった。
ノックをすると、
「|どうぞオ《アントウレ》」
と、ものうい声で返事があった。
大原兵子は、しばらく、幽霊でも見るような眼で、開いたドアの入口に立つ繚一郎を眺めていた。
「おどろいた……いつ、出てらしたの?」
やっと兵子のほうが先に口を開いていった。
「さ、どうぞ。とにかくお入りになって。散らかしてるわ。さっき起きたばっかりなの」
兵子は、急にはしゃいだ声になって、それはいくらかとってつけたようなぎごちなさはなくもなかったが、浮かれた表情を満面にたたえた。
「連絡してくだされば、お迎えに出たのに。意地悪ねえ」
繚一郎は、通りに面した窓ぎわにソファーのある居間に通されてからも、ほとんど口をきかなかった。
「お食事は?」
キッチンのほうから兵子は聞いた。
「すませてきたよ。ホテルで」
「あら、だってもうお昼よ。待って。いまお茶いれるから。それから、下におりましょうよ。この先にね、とってもおいしいシチューを食べさすお店があるわ。ちょっと汚いとこだけど、そりゃあお味はとびきりよ」
繚一郎は、煙草に火をつけて、下の通りを見おろしていた。
まだ春には間のあるモンマルトルは、重い曇り陽のかげがときどき明るんで石畳の上を動くほかは、人影もまばらな坂道だった。
「お紅茶でよかったかしら」
「ああ。いただくよ」
繚一郎は、束の間、ちらっと眩しそうな眼をして兵子を振り返ったが、すぐにまた押し黙った。
「すこし、おやつれになったんじゃなくて?」
「そうかな」
ぽつんと答えただけで、黙って紅茶に口をつけた。
しかしその手を、彼は不意におろして、兵子へ顔をあげた。
「君に、たずねたいことがあって、やってきたのや。ともかく、それを先にかたづけさせてくれないか」
「え?」
兵子は、ちょっと面食らったような眼ざしで、繚一郎を見守った。
最初から、どこか奇妙にぎごちない、けれどもそれは久方振りの再会なのであった。
「僕のたずねることに、正直に答えてほしい。いつか、手紙にも書いたことや。昨年の夏、七月十七日。祇園祭の日やった。君とはじめて出会ったのは。そうやったな?」
兵子は、静かに見返しているだけだった。
「僕が、楯林驍君を抱き起こして、腕のなかへかかえ込んだときやった。君を、あの人ごみのなかで見つけたのは。すぐそばを、君はあるいていた。僕は思わず、『美濃子』と、大声で声をかけた。よく考えたら、そんなところに、美濃子がいてるのもふしぎやったし、髪の形や|身なり《ヽヽヽ》かて、ふだんの美濃子に見たこともない格好や。けど、僕は、君を呼びとめた。お巡りに報せるやら、救急車を裏通りへまわしてもらう手配やら、なんやかんやと、君にも手伝ってもらった。なにしろ、とっさのことやったさかい、僕は、君が美濃子だと思い込んでいた。また、君も、黙って僕のいうとおりに動いてくれた。楯林君を、七条の病院に運び込むまで、君はすなおに手を貸してくれた。
だから、病院の入口で、車をおりると、
『それじゃ、わたしはこれで……』
と、君がいったとき、僕は、あっと声をあげた。まったく、あのときは、おどろいた。
美濃子だと思い込んでたさかい、びっくり仰天してしまった……」
──奥様ですの? 美濃子さんとおっしゃるのは。
大原兵子は、屈託もなく微笑んで、そんな繚一郎を静かに見あげたのだった。
「あのときから、僕たちの間は、はじまった。よく見れば、君はたしかに美濃子とは別人だ。話していると、それが僕にも、よくわかった。けど、あの楯林君を運び込むまでの間、僕はそのことに気がつかなかった。君を、家内だと思っていたし、疑いもしなかった。それが、僕には、おどろきだった。うまく口ではいえへんけれど、とにかくぎょっとしたショックが、新鮮やった……」
繚一郎は、まっすぐに兵子を見た。
「あの祇園祭の鉾巡行の日、君が、あの河原町の人ごみのなかにいた。あれは、偶然だったのか? ほんまに君は、偶然に行きあわせて、僕に手を貸してくれたのか?」
「───」
「いや。そうやないことは、もうはっきりしてるわな。君が、楯林驍君に関わりを持つひとやということは、君自身が明かしたも同じことやねんさかいな。君が、パリヘ帰るちょっと前に、僕に頼んだ調べごと。急に君の口から、楯林君の名前が出たとき、僕は、まったく意外やった。びっくりしたの、おぼえてるな? 君は、なんにも聞かずにおいてくれというた。ただ、マザー・グースを調べてくれと。楯林君の少年時代に、マザー・グースの七曜歌が、何か形になって残っているものはありはしないか。それを調べてみてくれと、雲をつかむようなことを、君は急にいったのやったね?
僕は、最初、なんや知らんわけはわからへなんだけど、まあ、引き受けるだけは、引き受けた。君にはいうてへんけどな、引き受けるだけの理由が、僕にもあったからなんや。ふと思い出すことが、僕には、あった」
大原兵子の眼が、このとき、わずかに宙を動いた。
「そうや。これは、君にはいうてない。いや、いうてええことかどうか、僕には判断がつきかねたのや。いまも、まだつきかねてる。考えれば考えるほど、君が、あの日、あの祇園祭の人ごみのなかにいたということが、ふしぎな気がしてくるさかいな」
繚一郎は、ちょっと言葉を切ってから、口を開いた。
「あの日、楯林君は、手術室に入ってから、うわごとみたいに、ふと麻酔を打つ途中でね、僕にたずねたことがあるんだ。『今日は、何曜日か』ってね」
繚一郎は、兵子を見ながらそういった。
兵子も、繚一郎を、見返していた。
「そのことを、僕は、急に思い出したんだ。マザー・グースの七曜歌。君にそういわれたとき、なぜだか、急にね。そしたら、あの祇園祭の日、人に刺された楯林君のすぐ近くの人ごみに、君がいたということが、偶然じゃない気がはっきりとした。君は、あの日、何をしてたのかね? 楯林君のすぐ間近に君がいたということの、ほんとうの意味を、僕に聞かせてほしいんだ」
兵子は、見じろぎもしなかった。
「楯林君が、刺された。君は、たぶん、見ていたんだね? 刺した人間の顔も、君は見ていた。そうじゃないのかね? そして、その後で、僕にいわれるまま、彼を病院へ運ぶ手助けをしたのは、いったいどういう意味なのかね? なんで君は、あのとき、一言も楯林君のことを喋らなかったのかね? まるで行きずりの人間みたいに、なんで君は、振るまったりしたのかね? それを、僕に、聞かせてほしい。聞くために、僕は、パリまでやってきたんや」
繚一郎の声には、きびしいひびきがあった。
大原兵子は、そんな彼を、みつめ返しているだけだった。
繚一郎は、たじろぎのない口調で、さらにいった。
「それだけやない。もう一つ、君に聞かなならんことがある。これは僕が、昨年パリから帰ってきた直後のことや。京都へ帰る日をずらして、君と福岡で何日間か、いっしょに過ごした折りのことや。僕たちは、駅前のUホテルに泊っていた。君も、おぼえていてるやろ? あのときの、ある晩のこと、思い出してほしいのや。いや、晩というよりも、もう明け方近い頃やった。僕が気がついて眼をさますと、君は、上衣を脱いでるところやった。いっしょに寝たのに、いつ君が起き出したのか、僕はちょっとも知らなんださかい、
『どうしたのか』
て、たしか聞いたな。
君は、笑って、眼がさめて眠れなかったから、ちょっと外をぶらぶらしてきた。
『これで、もう一眠りできそう』
そういったの、おぼえてるな?
僕は、時計を見たさかい、時間もはっきり思い出せる。午前四時前後やったと思うけど。
君はパジャマに着かえて、ベッドヘもぐり込んできた。気のせいか、僕には、ふっとそんな気がした。君にも、聞いた筈だよな。
『何か、匂わへんか』って。
『そういえば、そうね』って、君も、答えた。
たしか、あれは、油か何か……そんなものの匂いやった。ほんのかすかな、うっすらしたものやったさかい、まあ、べつに気にもならへんかったけど。
あの後やったな。ちょっとした火事騒ぎがあったのは。
『大丈夫かな』いうて、僕たちも、とび起きた。
後で聞けば、公園のベンチとか便所とかが焼けただけやということやった。おぼえてるやろ?」
繚一郎は、急に紅茶のカップヘ手をのばして口もとへ運ぶ大原兵子を、黙ってみつめた。
兵子は、ゆっくりとその茶を飲んだ。だが、心持ち頬のあたりにかげのような固い表情のわだかまるのも、見のがしはしなかった。
「思い出してほしいんだよ。君が部屋へ帰ってきたとき、うっすら匂ったあの匂い。あれは、灯油か、石油の匂いだったよな?」
「どうして、そんな話をなさるの」と、いきなり兵子は、立ちあがった。「わたしには、わけがわからないわ」
「あのホテルが、大博通りにあったからだよ。焼けた公園の公衆便所が、そう遠くはないところに、あったと気がついたからだよ。そして、その便所では、楯林驍君に関わりがないともいえない人間が、一人死んでいたからだよ。全身、灯油をかぶってね」
兵子は、すこし喘《あえ》ぐように咽をそらして、まじまじと繚一郎をみつめ返した。
「君が、あの朝、ベッドを抜け出し、どこを散歩してきたのか。知りたいと、僕はいま思っているんだよ」
そういって、反藤繚一郎は、国春が残した遺書の写しを、とり出して静かにひろげた。
グルネル橋には霙《みぞれ》がふっていた。
楯林驍は、反藤繚一郎と肩を並べるようにして、橋の中ほどから下の中洲へおりる階段をくだっていた。二人とも、押し黙ったままあるいていた。あるいているうちに、自然に足はその橋にさしかかり、その階段をおりていたといったほうがよいかもしれぬ。
現代ふうな装いに改築されてはいるが、セーヌの下流に懸かる古い名のある橋の一つだ。有名なミラボー橋が、すぐ眼と鼻の先にある。濡れた暗い空のせいか、間近なエッフェル塔の鉄骨が巨大な街の黒いあばら骨を思わせた。二人は、白鳥の中洲と呼ばれる中島へおりると、しばらく裸木の並木の下をあるいた。
あるきながら、驍は、不意に口をひらいた。
「あなたに許していただけるなどとは、思っていません」
「よしましょう」
と、繚一郎は、いくぶん疲れのにじんだ声でさえぎった。
「僕に、あなたや美濃子を責める資格などないんやから」
繚一郎は、霙が溶けては消えるベンチのそばで立ちどまった。
「それよりも、さっきの話のほう、聞かせとくれやす。あなたがパリまで出かけてきはってる以上、僕が口をさしはさむ余地はもうないのかもしれへんけど」
「いいえ。反藤さんがこちらにいらっしゃるうちにと思って、とりあえず僕はとび出してきたんですから。ぜひ、ご意見をうかがいたいんです」
繚一郎は、鉛色のセーヌのよどみに眼を投げかけていた。
「ほんとうに、その男だったんですか?」
「まず、まちがいはない筈です」
と、驍は答えた。
「さっきもお話しましたように、僕の知りあいの新聞社の特派員にあたってもらったのですから、これはたしかです。僕も、まさかとは思いました。なにしろ、日本で読んだ新聞記事は、ほんのわずかな、むしろ紙面埋めの軽いトピック記事ふうなものでしたからね。≪セーヌに裸の溺死体≫寒中水泳としゃれこんだのか、風変りな自殺か。身許不明の若い日本人の男。そんなことが、ちょっと書いてあっただけです。僕も、その記事のなかにほんの一行、その一行がなかったら、気にもとめはしなかったでしょう。河岸に男の着衣が脱ぎ捨ててあったんだそうですが、そのことで一行つけ加えてあったんです。シャツの襟元に、はっきりしないが『タハタ』と記名らしい文字がある、というような記事でした。
タハタ。この文字が、ふと僕には気になって。気になると、急になんだか頭のなかをはなれなくなって……」
楯林驍は、博多の大博通りに面した公園の公衆便所で焼死した田端という美容師の顔写真が手に入らないものだろうかと、しきりにそんなことを考えたのだった。
「ウチの店の連中に、それとなくあたらせたんです。僕はその男の顔を知りませんのでね。さいわい、何枚か手に入りました。美容学校当時の写真や、黒田さんなんかと雨野美容室にいた頃に撮ったものなんかがね。それを握って、僕は飛行機へ乗ったんです。何か、とにかく、そうしなければ気がすまないような、妙な気分に急《せ》きたてられてね。べつに、自分でも、これといった理由があったわけじゃないんです。ただ、なんとなく、『タハタ』という新聞記事の文字が眼先にちらついて、それに国春君の遺書のことがダブッてきて仕方がなかったのです。さっきもお話しましたように、田端という男が、国春君の遺言どおりに、僕に変装してタマ子となにごとかを謀ったのだとすれば、公衆便所のなかで焼身死していた男は、田端ではあり得ないということも考えられますし、死んだ男が田端なら、タマ子といっしょだった僕の偽者《にせもの》は誰か、という疑問が解けませんしね。
それに、あの遺書を読んで、あなたがパリにとばれたということも、僕としてはとても気になることだったし……」
驍は、ちょっと言葉を切った。
「とにかく、パリヘ行かなければ、と僕は思ったんです」
楯林驍がパリに着いてとった行動は、まず知りあいの特派員を通じて、外電記事を書いた記者にあたりをつけてみることだった。
「すると、僕が読んだ記事のニュアンスと、事実はちょっとちがうんですね。溺死した男は、多量のアルコールを飲んでいて、つまり酔っぱらってとび込んでるんですよね」
「───」
「国春君の遺書にも、ありましたでしょ? 酒を飲んで、泥酔状態で、二人の男が死んでいます。国春君は、僕が殺したのだと書いてますが、それはともかく、僕に関わりを持つ男が二人、過去に、泥酔状態で事故死と思われる死を遂げていることは、事実です。そして、今度も、やはり自殺か事故死としか思われないような三つめの男の死体。
でも僕は、その特派員の友人から、このセーヌで死んだ男の死体写真を見せられるまでは、まだ信じはしませんでしたよ。身許不明というので、鮮明な死体写真が数葉撮ってあるというので、僕は日本から持ってきた写真のほうは見せずに、その死体写真だけを見たんですがね、まちがいありません。田端という男です」
「───」
「無論、特派員の友人にも、相手の記者にも、悟られるような素振りは見せなかったつもりです。『どうも人ちがいのようだ』と、その場はひとまずごまかしてきましたがね。しかし、これは現実です。いずれは、明るみに出さなきゃならないことでしょ? 日本で死んだと思われている美容師が、生きていて、パリにいた。そして、つい先日、このセーヌの流れに死体となって浮かんでいた。これは、どう考えたらいいんでしょうか。あなたに、ご意見が聞かせていただきたかったんです。そのうえで、僕は、自分のとるべき行動を考えたいと思ったんです。何をおいても、まずあなたのホテルヘ、今日おうかがいしたわけです。そして、これまでのことを、ありのままに、あなたにお話したわけです」
反藤繚一郎は、沈黙したまま、重くたゆたう水の面に眼をあずけていた。
「反藤さんが、なぜ急にパリヘいらっしゃったのかは、ホテルで話してくださったことでよくわかりました。あなたのお話で、僕にも腑に落ちなかったことが、一つ解決がつきました。あの公衆便所が焼けた夜、反藤さんご夫婦としか思えないカップルが、同じ博多におられたということが、僕にはいつも気になっていたことだったのですが、これで納得もいきました。しかし、ほんとうなんでしょうか。その大原兵子という女性が、明け方散歩から帰ってきたとき、油の匂いがしたというのは……」
「ほんとうです」
繚一郎は、重い口調で、ぽつりと答えた。
「彼女は、僕の気のせいやというて、とりおうてはくれへんけど、僕は、それがなぜかを彼女から聞くまではパリをはなれへんつもりやったんや……」
「反藤さん。こうは考えられませんか。あなたが、その話を持ってパリにやってこられたから、田端という男の死体が、セーヌの河に浮かぶようなことになったと」
繚一郎は、うなずいた。
「そうやろな。あなたの話を聞いてると、そんな気がしてくるわな」
「これで、はっきりしたんです。あの日、公衆便所で油をかぶって死んだ男は、田端ではなく、公園のそばのラブ・ホテルにタマ子と泊り、翌朝早く立ち去った僕に変装した男のほうが、田端だったということが。そして、死んだ筈の田端はパリにきていた。大原兵子も、その後、パリヘ帰ってきている。これは、偶然なんかじゃない。つまり、大原兵子と田端は、このパリで必ず接触を持っている筈ですよ。それを探せば、彼女もあの博多の事件に関わりがないなどと白を切っておれなくなるわけでしょ」
繚一郎は、黙って驍の顔を見た。
驍も、そんな繚一郎を見返した。
「やってよろしいですね?」
と、驍は、低い声で承諾を求めた。
「どうして、そんなことを、僕に聞くのかね?」
「一言、反藤さんにことわっておきたいのです」
「そんな必要は、ない。彼女が犯罪者であるのなら、糾弾されるのは当然や。そら、たしかに、僕は彼女に心惹かれた。いや、いまでも、そんな気持が捨てきれへんのかもしれん。捨てきれへんさかい、だらだらと一日延ばしに、こないして、ようパリをはなれられへんのかもしれへん。彼女は、なんにも明かしてくれへん。口つぐんだまま、何一つ。僕も、それを、心のどこかで、望んでいてるのかもしれへん。聞かなならんことを聞くのが、怖うて、このまま黙っていててくれと、心の内では耳つぶしていてるのかもしれへんのや。そうや。僕には、そんなつもりがなかったとはいえへん。そやけど、君は、君や。君には、大原兵子という女の正体を知る権利がある。僕に断わることなんかあらへん。思うたとおりに、やったらええのや。いや、僕かて、それをしにパリヘやってきたんや。それは、せなならんことなんや。するつもりで、きてるのやさかい」
繚一郎の口調には、むしろ自分自身にいい聞かせでもするような、きっぱりとしたひびきがあった。一語一語、呟くような声ではあったけれど。
「そうですか」
と、驍は、独りごちた。
二人とも、水の流れに眼を落としていた。煤《すす》けた小さな煙突を持つ河船が、炊事の支度でもしているのか、薄い湯気をたてながらゆっくりとのぼって行った。
つい数日前、一人の若い男の裸体を浮かべたセーヌの水は、どんよりと青黒ずんで、動いているのかいないのか、ときおり霙にまじる風に吹かれてさざ波だつことのほかは、移ろう気配も見せないのだった。
パリの街は、もう暮れはじめていた。
楯林驍が繚一郎のホテルのダイヤルをまわしたのは、白鳥の中洲で繚一郎とわかれてから四日目の日の朝であった。
繚一郎は、まだベッドのなかにいた。
「今日、大原兵子さんに連絡をとっていただけますか?」
と、驍は、いきなり用件を口にした。
「え? ええ」
繚一郎は、多少うろたえながら受話器を持ちかえて、ベッドの上に起きなおった。
「あなたのホテルではいかがでしょう。人眼にたたないほうが、いいと思うんですが」
「ええ……それはかまいません」
「じゃ、午後の一時ではどうでしょう。彼女を呼んでおいてもらえますか?」
「いいでしょう」
「あ、それから、僕のことは、まだ彼女には話さないでください。話してはいらっしゃらないでしょう?」
「ええ」
「そのほうが、いいんです。僕がたずねて行くまで黙っていてください」
「じゃ、いずれ、そのときに」
驍の電話は、ごく簡単に用件だけを伝えて切れた。
繚一郎は、受話器をにぎったまま、しばらくぼんやりとした眼を、隣のベッドヘ投げかけていた。
ツイン・ベッドの片方には、むこうむきに女が一人眠っていた。黒い髪のなかばあたりまで毛布をかぶり、猫のようにしなやかに体をまるめて。
繚一郎は、受話器を置くと、煙草に火をつけ、ベッドをおりた。窓ぎわのカーテンをわけると、陽がなだれこんできた。空は晴れあがっていて、暖房が効いていたせいか、春の陽ざしを思わせた。
シャンゼリゼ通りの裏通りにあたるのだが、その窓からはホテルの内庭しか見おろせなかった。
(自分は、何をしにパリヘやってきたのだろうか)
と、ふと繚一郎は、思った。
京都の窯場にすわって手にとる土の感触や匂いが、むしょうになつかしかった。
「あら、もう起きてらしたの」
うしろで、もの憂い声がした。なかば眠りにおちて、まだ夢うつつな甘い濡れた声だった。
「いいお天気ね」
「ああ」
女は寝返りを打った。
「さっき、電話が鳴ってた?」
「ああ」
「じゃ、夢じゃなかったのね」
女は、くるくる毛布にくるまりながら、無邪気に枕へ顔を埋めた。
「いい? もうすこし眠ってても。眼がくっつきそう」
「ああ」
繚一郎は、そんな女の無心なしぐさを眺めながら、
(おそらく、楯林驍は知っているにちがいない)
と、思った。
大原兵子が、毎晩のようにこの部屋で朝を迎えているということを。
兵子は、日本でのことを、何も話してはくれない。だが彼女といると、繚一郎は、ふとそのことを忘れてしまいそうになるのだった。何もかも忘れて、彼女を抱き寄せる自分が、繚一郎には不可解だった。
自分は、美濃子を愛している。だから、この女を愛せるのだと、繚一郎は己にいい聞かせてみる。だが、兵子を抱いているときに、繚一郎は、美濃子の顔を一度も思い出したことのないふしぎさにも、また気づいているのだった。美濃子といると、彼は、絶えず兵子を想った。だのに、兵子といると、美濃子を忘れてしまうのはなぜだろうか。
同じ顔を持つ女を抱きながら、兵子は、けっして美濃子を思い出させはしなかった。そのふしぎさが、繚一郎には忘れられないのであった。
「君はいくつだ?」
「二十八よ」
と、昨年兵子はいったから、今年は二十九歳になる。美濃子と同い齢だった。女の盛りの時期だといえよう。熟れた果肉の豊饒《ほうじよう》さは、兵子に劣らず、美濃子にもあった。だが、兵子を抱いているさなかに、とつぜんおし包まれるあの鮮烈な爽快感は、なんなのだろう。まるで、青い固い果実を齧《かじ》りとってでもいるようなあの新鮮な感覚は。
青い果実と、熟れた果肉を、大原兵子は二つながらに惜しげもなく与えてくれる、ふしぎな肉体を持っていた。
(自分は、この女の肉の世界に溺れているのだろうか)
と、繚一郎は、何度も考えたことがある。
肉欲だけが、忘れられないのだろうか、と。
いまもまた、繚一郎は、そのことを考えた。
大原兵子について、自分は何もほかには知っていない。いや、知らぬも同然の人間なのだから。
それを知るために出かけてきたパリなのに、彼女が昼間は書道塾の教師をし、夜はクラブで踊っているということしか、自分は知らない。
「クラブって?」
「つまらないショー・ダンサーよ」
「見たいな」
「だめ。人が遊びにくる場所で、働いてるところを、あなたに見られたくはないの」
彼女は場所も教えなかったし、何度尾行を試みても、必ずまかれた。
結局いつも、ホテルヘ帰って、彼女を待つしかなかった。深夜、こっそりドアをノックする彼女のおとずれを。
(ほんとうに、待つしかなかったのだろうか)
と、繚一郎は、思いはする。
思いはするけれども、それ以外に何もしない自分に、あきれるしかなかったのである。
国春の遺書を彼女につきつけたときには、たしかに、つきつけられてよいだけのことが彼女にはある筈なのだと、確信を持って思ったのだけれど、いつの間にか、そのことを忘れかけている自分が、わからないのであった。
パリにきてからの日々は、そんな毎日のくり返しであった。とつぜん、楯林驍が姿を見せることになったその日までは。
いや、驍が現れてからも、この日々に変りはなかった。このままではすむ筈がないと思いながら、このままの日々が、この先も変らずに続くことを、繚一郎は心のどこかで望んでいた。
(その望みが絶たれる日。くるべき日ではあったけれども、こなくてすませたいと願ったその日が、とうとうきた)
と、繚一郎は、朝の陽を背に浴びながら、思った。
それは、ほとんど狂暴な自覚であった。
繚一郎は、一度あけかけたカーテンを閉め、ゆっくりと夜着を体からむしりとった。そのまま大原兵子のベッドヘ近づくと、獰猛《どうもう》なしぐさで彼女を抱き敷いた。
「今日は、お習字の日なのよ」
という兵子を無理にひきとめて、塾の休みの電話をいれさせ、いっしょに昼食をとり、ホテルの部屋へ帰ってくると間もなしにであった。
午後一時きっかりに、ドアは、ノックされた。
楯林驍が入ってきたとき、兵子は、洗面所にいた。
化粧バッグを小脇にかかえて洗面所から出てきた兵子は、束の間、ソファーに腰掛けている驍をぼんやりと眺めていた。次の瞬間、彼女はその放心状態から醒め、小さく鋭い声をたてて、入口のドアヘ駈け寄った。猛然と体を泳がせて。
「兵子」
繚一郎が、そんな兵子におどりかかった。いや、おどりかからんばかりのすばやさで、彼は兵子を抱きすくめたのであった。
「いやっ」
と、兵子は、甲高く叫んだ。
「騙したのね。あなたが、呼んだのね。そうなのね」
「落着け」
「いやっ。そのひとの、顔を見るのもいやっ。はなして」
兵子は、繚一郎の腕のなかで身もがきながら、かぶりを振った。
「はなして、帰る。帰るわ、わたし。帰して」
けだものじみた声だった。
楯林驍は、そんな二人を、しばらく黙ってみつめていた。
繚一郎は、兵子を横抱きにすくいあげるようにして運んできて、ベッドの上へほうりおろした。
驍が口をひらいたのは、そんなときだった。
「僕も、あなたにお会いするのは、ちっともうれしくはないんです。僕が望んだことではない。あなたが、そうさせたんでしょう?」
驍は、ポケットから手札型の写真を一枚とり出して、兵子の前へ置いた。
「この男を、ご存じですね? 田端正則という美容師です。つい先日、このパリで死にました。セーヌ河に、素っ裸で浮かんでいたんです。そうですね?」
兵子は、見むきもしなかった。顔をそむけたまま、横ずわりにベッドヘすわって、両腕をついていた。
だが、その肩が異様にこわばっていた。
「見るんや。そして、はっきり答えてほしいのや」
と、繚一郎は写真をとりあげ、兵子の眼の先へつきつけた。
「知らないわ」
「そんな筈はないでしょう」と、驍がいった。「モンマルトルのあなたの部屋にも、一、二度、顔を出してる筈です。下の小鳥屋のおばあさんは、おぼえていましたよ。たしか、昨年の秋時分だったといってたから、あなたが日本からこっちへ帰ってきた直後あたりのことじゃないかな。どうです? 思い出しませんか?」
「知らないといったでしょ」
にべもない返事だった。
「じゃ、〈ジャン・ルイ〉の店。これは、ご存じですよね?」
兵子は、瞬間顔をあげた。あげて振り返ろうとした首の動きを、途中でとめた。
「知らないとはいえませんよね。あなたが、週に一度は、欠かさず顔を出してる店だもの。あなたの行きつけの美容室。その黒髪も、バッサリ切り落とした店だものね。マルセルっていいましたかね? あなたのかかりつけの美容師は。背の高い、やさしい男。彼に聞いてみたらどうです? この写真の若者に、見おぼえはないかって。教えてくれる筈ですよ。『ヨウコ、君が連れてきた男じゃないか』って」
兵子は、すさまじい眼つきで、振り返った。一言も口はきかなかったけれど。
「僕も、美容師のはしくれだからね。知らない街で、もし僕が何かの職につかなきゃならないとしたら、やっぱり餅は餅屋。何をおいてもまず、手についた職を生かす口を探すだろうってね。そう考えたんだ。田端正則が、パリで職につくとしたら、やっぱり美容師だろう。そう思ったから、あなたの行きつけの店を、まずあたることにした。二、三日あなたの後をつけてると、ちゃんとあなたが、その店を、僕に教えてくれた。でも、まさか、こう簡単にことが運ぶとは思わなかったがね。
僕は、こう考えたんだ。田端正則。この男が、もしあなたの知りあいなら、パリでの働き口は、たぶんあなたに相談するか、頼むかしたにちがいない。いや、そういう場合も考えられるだろう。また、あなたがその面倒をみたとしたら、どういう場合が考えられるだろうかとね。さしずめ、手っとり早いのが、あなたの行きつけの美容室。この辺からあたってみようとね。ところが、あたったとたんに、大あたりだな。
『ウィ』とマルセルは、簡単にうなずいた。兵子《ヨウコ》に頼まれて、二、三知ってる店を紹介したけど、どこも人手は足りてるし、それに、パリと日本じゃ、商売のシステムもちがうから、右から左においそれとはなかなかいかない。腕はよさそうな子だったから、まあ、もうしばらく待って、春にでもなったらっていったんだけど、困ってるみたいだったから、そいじゃ、ウチのマネージャーか、ジャン・ルイに頼んでみたらって、口をきいてやったんだけど、やっぱりだめだった。
マルセルは、そう話してくれたんだがね。ちがいますか?」
大原兵子は、睨みつけるように瞳をひらいて、驍をみつめていた。
「そうよ」
と、そして、とつぜん挑むような声で、いった。
「ええ。たしかに、マルセルに、そんな話を頼んだことはあったわ。でも、それは、この写真の男じゃないわ。べつのひとよ」
「しかし、マルセルは、一目見て、『ウィ』とうなずいたんだよ。それに、あなたが住んでる小鳥屋のおばあさんもね」
「そんなこと、いくらでもあるわよ。日本人の顔なんて、よっぽど特徴があるならべつだけど、でなきゃ、彼らにはこまかな識別なんてできゃしないわよ。ちょっと写真を見せたくらいじゃあね。日本人、いいえ、東洋人ていうことだけで、みんな同じに見えちゃうのよ。それとも、いったの? マルセルか、うちの|おばあちゃん《ヽヽヽヽヽヽ》が。田端っておっしゃったわね。マルセルが、そういって? わたしが連れて行った男は、田端だっていったの?」
驍は、瞬間口ごもったが、視線をそらしはしなかった。兵子を、静かにみつめ返した。
「いいえ。どちらも、名前はおぼえていないといいましたよ。はっきりしないってね」
「そうでしょ。あたりまえだわ。田端なんてひとじゃないんですもの。わたしも、あまりよくは知らないひとだもの。たまたま、バーで話が合って、とても困ってる様子だったんで、それじゃあって、口をきいてあげただけなんだもの。でも、この写真のひとじゃないことだけは、たしかよ。マルセルにだって、うちの|おばあちゃん《ヽヽヽヽヽヽ》にだって、会いましょう。あなたといっしょに行って、会ったっていいのよ、わたしは。この男じゃないってことが、証明されるだけよ」
兵子は、昂然といい切った。
しかし、驍は、たじろぎもしなかった。
「そうですか。じゃ、そうしていただきましょうか。そのほうが、僕も手っとり早くて好都合なんです。もっとも、マルセルと、小鳥屋のおばあさん、それにもう一人、あなたにぜひ会っていただきたいひとがいるんですがね。ついでに、そのひとにも会っていただけますね? 何、この写真の男を、あなたが知らないとおっしゃるのなら、ご心配になることはありません。あとは警察が、判断をくだしてくれるでしょうからね」
大原兵子の肩先が不意にこわばるのを、驍は見た。繚一郎も、それは見のがさなかった。
「じつは」と驍はいった。「自由の女神が建っている白鳥の中洲。ご存じですよね? あの中洲で、あの夜、あなたを見たひとがいるんですよ。男と二人連れのところをね」
無論、そんな人物は実在しない。これは驍の口から出まかせの、いわば賭けだった。
しかし兵子は、急激に、見る間に色を失った。
白鳥の中洲で兵子が田端正則といた現場の目撃者があったという驍のとっさの嘘は、意外な効果をもたらした。
大原兵子は、まっすぐに首をたてて、長い時間、驍を睨み返してはいたけれど、深い動揺の色は隠せなかった。やがて、
「負けたのね」と、彼女は、唐突に呟いた。
誰にむかってというでもない、不意の声だった。
「わたしの、負けね」
驍も、繚一郎も、息をとめてそんな彼女を見まもった。
「そうよ。あれは、田端正則。わたしが殺したわ」
兵子は、苦もなくいってしまうと、急に肩の力を抜いて、だらしなく体の線を崩した。バッグから煙草を抜きとり、無造作に火をつけた。指だけがしばらく小刻みに震えてはいたけれど。
「そう」と、彼女はうそぶいた。「あなたたちの考えてるとおり、わたしは犯罪者。もういいのがれなんかしないわ。楯林驍、この男を葬るためにだったら、なんでもしたし、これからだって、するつもりだったわ。ただ、その方法をまちがえはしたけれど。そう。まちがったと気づいてはいたわ。他人の手をかりずに、わたし一人でやるべきだった。そうすべきだったとは思ったわ。でも、そのときはもう後の祭。田端も、反藤国春さんも、わたしの手なんかにはおえなかった。おえないところを突っ走ってた。楯林驍、この男を葬るために血眼になってたわ。もっとも、わたしには、それはとても好都合なことだったけど。願ってもないことだったけど」
驍は、いわれのない敵意を自分に注ぎ続けてきた張本人をいま眼の前にしているのだという実感が、すこしずつ胸もとへせめぎのぼってくる昂奮を味わわないわけにはいかなかった。
大原兵子には、そんな異様なふてぶてしさと、反面微妙に落着きのない心のほむらを押し殺してでもいるような平静さがあった。
驍も、つとめて静かな口調をと心がけた。
「教えていただきましょうか。その、僕を葬るってことのいわれを。まあ、反藤さんの弟さんや、田端という美容師の場合は、僕にもうなずけなくはない。いや、納得できたといってもいい。彼らには、僕を怨みに思う理由がそれぞれにあった。それは、国春君の遺書を読ませてもらって、僕にもよくわかった。しかし、あなたにそういう口をきかれる理由は、まるで思いつけないんでね。まったく理不尽としかいいようがない」
兵子は、薄く口の端で笑った。
「あんたにはなくったって、わたしには、あるのよ」
言葉つきも、急にぞんざいになった。
「あんたは、自分のことはすべて、自分で律し、自分に納得でき、自分では理解しているつもりなんでしょうけど、世間なんてものは、そんなに気楽なもんじゃないわ。あんたが、自分では知ってると思ってるあんたの生活、あんたの人生、それがみんな嘘っぱちってこともあるんだからね」
「よくわからないな。わかるように話してもらいましょうか」
「そうでしょうね。わからなくて、しあわせなのよ」
「どういうことですか」
驍は、すこし気色《けしき》ばんだきびしい口調で、問いなおした。
兵子は、口辺に笑いを浮かべたまま、平然と煙草の火をもみ消した。そして、不意に、ごく静かな調子で呪文でもとなえるように喋りはじめた。
「Solomon Grundy,(ソロモン・グランディー)
Born on a Monday,(月曜に誕生)
Christened on Tuesday,(火曜に命名)
Married on Wednesday,(水曜に結婚)
Took ill on Thursday,(木曜に発病)
Worse on Friday,(金曜に悪化)
Died on Saturday,(土曜に往生)
Buried on Sunday.(日曜に埋葬)
This is the end(これでおしまい)
Of Solomon Grundy.」(ソロモン・グランディー)
流暢な異国語の低いよどみない音声だった。
兵子は、驍の顔から眼をはなさずにそれを喋った。
驍は、軽い呼吸の乱れを感じた。
「ご存じみたいね?」
「マザー・グース……」
その言葉は、思わず驍の口から洩れた。
兵子の瞳に、もえるような光が湧いた。
「やっぱり、おぼえてたのね」
「おぼえてた?」
「そうじゃないっていうの? あんたに、この歌を教えたひとを、あんたはおぼえてるんでしょ?」
「教えたひと?」
驍は息をのんだ。
「よろこぶわね、きっと。小躍りしてよろこぶわ。このことを聞かせてやったら」
「誰が」
「だから、その男がよ」
「男?」
「あんたに、マザー・グースを教えた男よ」
「なんだって?」
兵子は、まじまじと驍の顔を見た。
「おぼえてないの?」
「なんの話だ。いや、その男ってのは、いったいなんだ。君は、なんの話をしてるんだ」
「そう」と、兵子はうなずいた。「じゃ、知らないのね。でも、マザー・グースだけは、おぼえてたってわけね? それだけでも、彼はよろこぶわ」
「だから、その彼ってのは……」
「わたしの父」
と、兵子は、さえぎるようにいった。
「え?」
「もっとも、父親なんて呼べるひとじゃないけれどね」
兵子は、二本目の煙草に火をつけて、つけたまま灰皿のなかへ投げ込んだ。
「わたしが、彼のことを聞かされたのは、十五の年だったかしら、十六だったかしら。母の実家を継ぐことになって、雨野から、母の旧姓の大原へ名字をかえたときだったわ」
「雨野?」
驍は、聞きとがめた。
「そうよ。わたしの母は、雨野華子」
こともなげな声であった。
驍のおどろきなどには、まるでかまうふうも見せなかった。
「母が生んだ子供たちの、わたしは未っ子。まあ、末っ子だからっていう事情もあったんだろうけど、ほかの兄姉たちは、みんな母の仕事を手伝ってたし、末っ子のわたしだけが母の仕事に興味をもたなかったりしたもんだから、大原の家を継ぐってことになったときも、わたしはべつになんてこともなかったわ。うじうじ女の頭をいじって暮らすなんて性分じゃなかったし、雨野の名前に未練なんかまるでなかったもの。母も、そんなわたしを知ってるから、話してくれたんだろうけど。とにかくその折、わたしは、雨野の兄姉のなかで、わたしだけが父親がちがうってことを知らされたの。そりゃあショックはショックだったけど、でも、どっちかっていうと、母もさばさばした人間だし、家庭よりも事業一本に生きてきた女だから、じめついた話にはならなかったわ。
『どんなひと?』
ってわたしが聞くと、
『男ね。牡っていうべきかしら』
母は、躊躇もなくそういったわ。
わたしは、その言葉を聞いただけで、了解したの。もう何もたずねることはないって気になったわ。雨野の父もふくめて、母のまわりにいる男たちを、ちょっと頭に思い浮かべただけで、それは納得のいくことだったわ。
だから、母がその男を、山師で、ろくでなしで、一生定職なんか持てない宿なしだと説明してくれたときも、ちっとも傷つきはしなかったわ。事業一筋、男を男とも思わない母のような人間が、まあその事業欲も満たされて、社会的な地位も名声も手にいれたし、夫にも子供にもめぐまれている。何が不足で、そんな男の子供なんか、生む必要があったかしら。
『あなたには悪いけど、魔がさしたのよ』
って、母はいったわ。
ふっとその気になったんだって。
わたしは、それで十分だと思った。誰にも明かさず、誰にも気どられずに、母がわたしを、雨野の父の子として生み、育ててきたことを、わたしは背信行為だとも、背徳とも思わなかった。母にそんな気を起こさせるだけの何かが、その男にあったんだ、と思ったわ。母が、母の人生で、たった一度、女にかえったときの子供だったんだと、わたしは理解したの。母も、そのことだけが、たぶんわたしにいっておきたかったんだろうと思って。だから、
『あなたは、わたしの子供。それだけでいいじゃない?』
って母がいったときも、すなおにその言葉が聞けたわ。
『探そうったって、探せるようなひとじゃないのよ。一つ所にジッとしてる男じゃないんだから。一攫《いつかく》千金。山を掘ったり、海へ潜ったり、鉱脈探しにあるきまわったり、とにかくそんな夢みたいなことに眼の色変えて、世界中どこへでもとび出して行くひとなの。投機家、冒険好き、一匹狼なんていえば聞こえはいいけど、早くいえば無宿渡世のバクチ打ちみたいなものよ』
母は、そういったわ。
根っからの山師だって」
大原兵子は、さばさばした口調で話した。
「そんな男と、母がどんな出会い方をしたのか、母も話さないし、わたしも聞きはしなかったけれど、母と会った頃が、四十前後。ちょうど四、五年ばかり、彼が日本へ帰ってきていた時期だったらしいわ。それも、ふいっといなくなって、その後アフリカから絵ハガキみたいなものが、一枚舞いこんだきりだっていうの。とにかく、わたしは、そんな男の子供なのよ。会いたいなんて、一度も思ったことはなかったし、また、父親などという気も湧きはしなかったわ」
兵子の視線は、窓の外へ流れていた。
その束の間だけ、彼女はふと、ぼんやり心|惚《ほう》けた人間のように見えた。
「わたしが十九の年だったわ。パリで彼を見かけたっていうひとの噂を、母が聞いてきて、わたしに話したの。もうすっかり彼のことなんか忘れちゃって、関心もなかったし、赤の他人だという気持に変りはなかったから、母も気楽に、なんでもない世間話のついでに喋ったことなんだけど……ほんとにどういうもののはずみだったのか。わたしは急に、その気になったの。パリヘ行きたいっていう気に。母もおどろいたし、わたしも、自分で自分におどろいたわ。
『会って、あなたのためになるようなひとじゃないわよ。それだけは、わたしが保証するわよ』
って、母はいったし、わたしも、そう思ったわ。
会いたいって気持じゃないの。会ったって、どうしようもないって思いはするの。ただ、一度くらいは、顔を見るのもいい。その程度の興味だったかもしれないわ。でも、それにしたって、まるで関心のなかった男に、そんな気が起きたってことだけでも、わたしにしたら、おどろきだったわ。急に、パリでシャンソンや、踊りの勉強がしたいって気になったんだから。ついでに、その男が探せるものなら、探してみてもいい。そう思ったの。
そう。自分では、|ついでに《ヽヽヽヽ》と思ったわ。でも、その男の話を聞かなかったら、わたしは、パリまで出かけて歌や踊りをやろうなんて、思いつきもしなかったわ」
大原兵子がパリヘ出てきたのは、その年の秋だった。
「歌にも、踊りにも、特別な才能があったわけじゃない。ただ、好きで、そっちの道へ進みたいって思ってただけで、結局、それだけのものだったってことを思い知らされにやってきたようなもんだったけど、ずるずると、そのままここへ居すわっちゃった。|ないものねだり《ヽヽヽヽヽヽヽ》とわかっていても、最初のうちは必死だったわ。母の知りあいやなんかのツテもあって、いい先生にもめぐまれたし、まあなんとかまともなステージにも立ったりしたことも、何度かあったわ。でも、そこが行きどまり。街の踊り子。ショー・ダンサー。はては、ライブ・ショーのアクトレス。落ちたといえばいいのか、最初からそれだけのものだったとでもいえばいいのか。身分相応。とにかく、ここ四、五年、わたしはそんな暮らしをしてるわ」
兵子は、繚一郎の顔を見はしなかったが、彼に話しかけているような口調が、言外にこもったりした。
繚一郎も、驍も、沈黙したままだった。
「荒垣健策。それが、わたしの父の名前。そして、わたしが彼を探す手掛りの、それがすべて。そう。彼の名前しか、わたしにはわからないの。でも、手あたり次第、会うひとごとに、たずねたわ。そんな暮らしが習慣になって、同じような年格好の日本人を見かけたりすると、必ず知らせてくれる友だちなんかもたくさんできた。もっとも、わたしのほうに、何がなんでも彼を探し出さなきゃあって気があったわけじゃないんだから、しまいには、ただほんとに習慣だけで、ひとにたずねてたようなもんだったけど」
大原兵子は、「そう」と独りでうなずいた。
「三年ほど前のことだったわ。モンマルトルに、日本人の老人と親しくしているおばあさんがいるって聞いたの。一時はいっしょに住んでたって話だから、夫婦かもしれないっていうの。とにかく、そのおばあさんをたずねたわ。彼女は、もう七十を越しちゃって、耳も遠いし、皺《しわ》まみれの、ほんとにしなびきったっていう感じのおばあさんだった。その顔を見たとき、ああ今度もだめだな、と思ったわ。とてもそんなおばあさんと、わたしの頭のなかにある父とは重ならなかったから。
だから、彼女の口から『ケンサク』という言葉を聞いたとき、わたしはしばらく、めまいがして、物がいえなくて困ったわ。たしかに、ケンサクは、その家に住んでたっていうの。もう二十年、いやもっと前からの知りあいだって。亡くなった彼女の|つれあい《ヽヽヽヽ》の友だちで、パリヘくると顔を出してくれたって。その後、|つれあい《ヽヽヽヽ》が亡くなってから、彼女といい仲になっちゃったらしくて、仕事で何年もいなくなったりはするけれど、パリヘ帰ってきたら、必ずここで暮らしてくれたって、しみじみと話すの。働き者で、やさしくって、いい男だって。そして、わたしの手を引っぱって、門口まで連れ出すと、彼女、見てくれって自慢するの。古ぼけた、ペンキのはげた烏《からす》の看板を指さして、『これも、彼が作ってくれたんだ。烏は、彼の大好きな鳥だった』って」
驍と繚一郎が顔をあげたのは、同時だった。
「そうよ」と、兵子は答えた。
「わたしがいま住んでいるデュランタン通りの小鳥屋。あれが、そうなの」
二人は、何かをいいかけて、なんとなく言葉をのんだ。
「ケンサクは、ついこの間まで、ここにいたっていうの。もう齢だから、ここに落着くって約束してくれてるから、近い内に帰ってくる。そういうの。わたしは、その場で、この近所に部屋はないかってたずねたわ。あの三階が空いてたのが渡りに船で、引っ越してきたんだけど、一年ばかり、彼には会えずじまいだった。その内に、近所のひとのなかに、道端で酔いつぶれてる彼をレアルの通りで見かけたとか、ベルビルの安宿で寝泊りしてるらしいとか、いうひとがいて、わたしも探しはじめたの。それから一年ばかり、パリの下町、裏町、労働者街、独りでは怖くてあるけないような街筋まで、ひまを見ては、あるきまわったわ。とても酒好きだっていうから、道でそんなひとを見かけると、声をかけたわ。
一昨年の秋だったわ。サンジェルマン・デ・プレで、友だちとわかれて、ドラッグ・ストアに入ろうとしたの。入口の階段で、よれよれの背広を着た男がぼんやりとすわってるの。膝に酒壜をかかえて。日本人だったわ。わたしは、息がとまるかと思った。名前を聞かなくったって、この男だと思った。半白の髪も髭も、のび放題。肌は、レンガ色のように灼けてくすんで、老いぼれはてたって感じだけれど……どこか、ふしぎに精悍なの。そう。わたしは、とっさにそう思ったの。老いぼれたライオン。そんな気がしたの」
大原兵子は、首をまわして、ゆっくりと楯林驍を振り返った。
「荒垣健策だったわ、その男が」
驍は、大原兵子がその直後に話した声を、耳のなかから追い払うことができなかった。
「わたしが素性を明かすと、その男、しばらく黙ってわたしの顔を眺めてたわ。まるで無感動。通りすがりの人間にちょっと眼でもとめたみたいな顔つきでね。そして、なんといったと思って? 『財産目あてか?』そういったのよ。わたしは、声をたてて笑ったわ。笑い声しか出てこなかった。でも、間もなく、彼の言葉も当然だという現実を、教えられはしたけれどね。そう。彼がいきなり、金が目あてかといったのも、無理はないと、わたしは翌日に知らされたの。彼は、銀行と、それから弁護士のオフィスヘ、わたしを連れて行ったわ。一粒で時価一億円はくだらないという大粒のダイヤや、まだ原石のままの宝石類、証券、預金通帳なんかを、見せてくれたわ。その眼でたしかめろというの。弁護士からは、彼の遺言書を見せられたわ。総額にして、六億いくらの財産を彼はたしかに持ってるの。
『これが、おれの一生賭けた稼ぎだ』
彼は、そういったわ。
そして、遺言書の内容を話してくれたの。
彼には、日本に三人の子供がある。自分が死んだら、その三人の子供に通知状を出すように。『闘え』と。『血を流して、闘え』と。
『どんなに悪い人間であってもよい。強いやつに。三人のうちで勝ち残った、いちばん強いやつに、この財産を贈る』
そんな意味のことが、書いてあるんだと説明してくれたわ。弱い子供には、鐚《びた》一文遺さない。ただ、強い子だけに、これを受けとる資格がある。正義、秩序、人情……そんなきれいごとだけで、この世のなか、強くも大きくもなれはしない。清も濁も合わせのんで、闘う強さと、その力を示した子供であれば、たとえその子が反社会的な人間であろうと、かまわない。反人道的な人間であろうと、ためらうことはない。その子供に、与える。その子供の強さを、さらに強大に育てるために、この金を使うように。
彼は、臆面もなく、そういったわ。
『これは、獅子の逆落としだ』って。
獅子は、生まれた子を千|仞《じん》の谷底へまず突き落とす。そのまま落ちて死ぬ子は、育てるに価せぬ子だと、知っているからだ。何をおいても、まず強い子。谷をはいのぼって、生き返ってくる子。そんな子だけが、生きるに価する子なんだ、と彼はいったわ。
そして、さも楽しそうに、眼を細めて笑ったの。笑いながら、わたしの顔を覗きこんだわ。
月曜に誕生、
火曜に命名、
水曜に結婚、
木曜に発病、
金曜に悪化、
土曜に往生、
日曜に埋葬。
マザー・グースの七曜歌を、いきなり英語で、わたしに喋って聞かせたの。
『おぼえてるか?』
と彼はいったわ。
わたしには、なんのことだか、さっぱりわからなかったわ。とたんに彼は、苦りきって、どなるような声になったわ。
『おぼえていろといった筈だぞ。お前にも、さんざ、この歌は聞かせた筈だ。一行くらいは、おぼえているだろ』
そういったの。
彼は、三人の子供たちと、それぞれ、三歳くらいの頃に、一週間ずつ、いっしょに暮らす機会をつくったというの。マザー・グースの七曜歌は、彼の愛唱歌で、口癖みたいにしょっちゅう歌っていたというの。どの子も、すっかりおぼえてしまうまで、口移しに教えたというの。人生、この七曜歌が、そのまま歌ってくれている。この歌は、人生の縮図。そこがいいのだと、彼はいった。おれの好きな歌なんだと。いわば、彼にしてみたら、この歌を仲にして、いっしょには暮らせぬ子供たちと、一生を共に暮らしたつもりにでも、なりたかったのかもしれないわね。そんな夢を、託したのかもしれないと、わたしは、そのとき思ったわ。このひとも、気の毒なひとなんだと。
でも『財産目あてか?』と、いきなりいわれた最初の言葉が、わたしには、どうしても忘れられないの。財産目あて。いいわ。くれるという財産なら、奪《と》ってみせるわ。むらむらと、そんな気が湧いてきたの。決心したのよ。どんなことをしたって、この男の遺したものは、わたしが奪ってみせるって」
兵子は、昂然といい放った。
「楯林驍。その折、はじめて知った名なの」
驍は、ぼう然と、その声を聞いていた。
「あんたが、そんなに有名なひとだなんて、まるで知らなかったわ。昨年の春、東京へ帰って、同じ名前のヘア・デザイナーがいるってことを、知らされたの。しかも、ごく身近にね。荒垣健策は、名前だけしか教えてはくれなかったけど、あんたには、三つのとき、京都で会ったって、はっきりいったわ」
「京都?」
驍は、深い夢の底からにわかに引きずり起こされでもしたように、思わず聞き返した。
「そうよ。そういったわ。夏祭の時分だったって。あんたと、あんたのお母さんと、三人で旅館に泊ったんだって」
(そんなことが、あり得る筈はない)
と、驍は、はげしく打ち消した。
しかし、その頃、父はもう亡くなっていたし、母は女手一つで驍を育てることに疲れ、思えば門司の実家へ引き揚げる直前の時期だったのではあるまいか。一年の大半を、外国航路に乗っていた父のことを思い、東京から門司へ移る前後の頃だったことを思い出して。驍はうろたえた。母も死んでしまったいまとなっては、誰に問い糺《ただ》すすべもなかった。
「夏祭……」
驍は、呟いてみるだけだった。
それに、得体の知れぬ呪文のように、昔から頭のすみにふと湧いてくる断片的な奇怪な文句。マザー・グース。
それに……と、驍の思いは、はじめて見た祇園祭の日の京へと、帰って行くのである。
大原兵子は、そんな驍の思惑などにかまいもせずに、続けた。
「だからわたしは、あんたと京都との関わりが、どこかにある筈だと、それが知りたかったの。ちょうどそんなときだったわ。黒田牧夫さんの『若王』が焼けたのは。そして、その夜、あんたは京都へ出かけた。わたしは、天の啓示だと思ったわ。そうよ。最初に、あの夜あんたを新宿で見かけたといい出したのは、このわたしなの。見たような気がしたと、ちょっと匂わせただけで、『若王』の生き残りの弟子、田端はカッとのぼせあがったわ。わたしに証人になれというから、そんなことはできないと、わたしは断わったの。|気がした《ヽヽヽヽ》だけなんだからってね。でも、あなたがそんなに確信を持つのなら、偽《にせ》の証人をつくってみるって手もあるわねって、かわりに吹っかけたの。それが誘い水になって、楯林驍が慌てたりでもすれば、獲物はかかったも同然。偽証人の嘘も嘘でなくなるわって。田端は、とびついてきたわ。なにしろ、彼には『若王』が一夜にして焼け失せたことが信じられなくて、それは不自然で、不可解千万なことだったんですものね。一も二もなく、あんたへの疑惑でのぼせあがっちゃって、なんにも見えなくなっちまったわ。友だちの理容師に金をつかませて、偽証人をつくりあげちゃった」
兵子は、不意に言葉を切った。
「でも、ここで、思いがけないことが起こったわ。反藤国春さん。こんなひとが搦んでくるなんて、思ってもいなかったの。しかも、その姉にあたるひとが、荒垣の子供の三人の内のもう一人だったとは。わたしは、このときばっかりは、身内がすくむようだったわ。荒垣の、眼に見えない執念みたいなものを、信じたわ。三人の子供を、一つ谷に逆落としにする獅子の執念みたいなものを、ほんとに感じたの。これは、偶然ではないわ。荒垣の執着が、形になって現れたのだ、と。怖かったわ。怖かったけど、もう引き返せはしなかったわ。田端は、やがて偽証人の嘘が露見しそうになると、殺したわ。この殺人が、国春さんにも、また田端自身にも、逆に火に油を注ぐような状態を、かえってつくりあげることになったわ。国春さんのことは、遺書にあるとおりだわ。わたしと田端が、彼を利用した形になったの。田端は、次のワナを考えたわ。いいえ。わたしも、手を貸したわ。後には引けないんですもの。おっしゃるとおり、博多の公衆便所で死んだ男は、田端じゃないわ。彼が見つけてきた浮浪者なの。偽装工作をして、それに使ったゲイバーの子も、彼が殺したわ。これだけ仕組めば、楯林驍を葬れると、彼は考えたのね。わたしも考えたわ。葬れないにしても、彼の名声に泥をかけることくらいはできるだろうと。だから、ひとまずパリヘ引き揚げたの。田端とも、それが約束だったの。いずれ整形でもして、彼は顔を変え、パリでの仕事はわたしが見つけてやるっていうね。
そんな矢先に、反藤さんがやってきたんだわ。国春さんの遺書を持って。わたしは、もう逃げ場がないと思ったわ。田端がこのパリで生きている限り」
彼女は、無造作にうなずいた。
「そう、わたしが、彼を殺したの。彼がいままで使ってきた殺人の手口をそっくりいただいてね。シャツに、彼の名前があったなんて、思わなかった。それだけが、わたしの手落ち。命とりになったわ。でも、わたしは、闘ったわ。血を流して闘ったわ。そうしろと、父がいったんですもの」
大原兵子は、首をたてた。
「そうでしょ? あなたの父親が、そういったのよ」
驍は、まなじりを裂いて自分を見据えるようにしていった兵子の顔を、声を、忘れることができなかった。
後になって、彼は知ったのであったから。
昭和二十六年七月十日、午後。ほとんど骨組みのできあがった組み立て中の月鉾が、巨大な真柱もろともに、凄まじい地ひびきをたてて路上に崩れ落ちたという事件が、現実に京都市鉾町の記録には残っている。たぶん、その鉾の崩れ落ちる現場を、通りかかるか何かして、三歳の自分は見たのにちがいない。誰と見たか、それは思い出せないにしても、自分が京都にいたことだけはまちがいあるまい。
そして、その月鉾には、烏のとまった破風拝みのある屋根が飾られる筈であった。
その屋根の烏も、きっとその折、自分はその鉾の周辺で見たのにちがいない。
でなければ、はじめて仰いだ祭鉾に、崩壊する鉾の幻が重なったりはしないだろう。そして、あの烏に、ふしぎな心の蠱惑《こわく》をおぼえ、見とれたりはしないであろう。
楯林驍は、そんなことを思うとき、モンマルトルの坂の途中で、古ぼけた小鳥屋の軒先にかかっていた一羽の烏の看板を思い出すのである。烏が好きだったという一人のパリに棲《す》む老人の顔と同時に。その顔は、まだ見たことがなかったけれど。
そして、暑熱の京の街の祭囃子に包まれて、腹に刃を受けながら、自分が口にしたという不可解な二文字の言葉のことを。
「パ、プ」
「パ、パ」
自分は、そんな意味のことを口走ったのではなかったのだろうか。
春の陽ざしを思わせる冬の終りのパリの街で、いつまでも大原兵子に寄りそってあるいて行った反藤繚一郎の姿が、驍の胸には、いまも黒い影絵のように灼きついている。
警察署へむかう道であった。
(今日は、何曜日だったのだろう)
驍は、ふと、そんなことを考えていた。
「その気があるなら、探してごらんよ。きっと飲んだくれてるわ。飲んだくれて、ボロまとって、転がってるわ。どこか、この街の安宿でさ。でなきゃ、道端かなんかで、とぐろまいちゃってさ。その老いぼれたライオン」
大原兵子が、最後に残していった言葉であった。
(明日は、何曜日なのだろうか)
と、また、驍は思った。
〈This is the end.〉
七曜歌には、終りがあった。〈これでおしまい〉と、マザー・グースは歌っていた。
だが、驍には、終りのない人生がいま始まったという気がするのであった。出口のない闇の密林が眼の前にあった。
──人生、この七曜歌が、そのまま歌ってくれている。この歌は、人生の縮図。そこがいいのだと、彼はいった。おれの好きな歌なんだと。いわば、彼にしてみたら、この歌を仲にして、いっしょには暮らせぬ子供たちと、一生を共に暮らしたつもりにでも、なりたかったのかもしれないわね。そんな夢を、託したのかもしれないと、わたしは、そのとき思ったわ。
兵子の声が、耳の底に渦まいていた。
あるかねばならない密林であった。
兵子に寄りそってあるいて行った反藤繚一郎のように、寄せ合える肩《ヽ》が、驍にはなかった。いま永久にその肩《ヽ》を見失ったという自覚が、驍を恐怖に追い落とすのであった。
美濃子に、どうしてこの密林の所在を伝えればよいか。驍には、その方途が探せないのであった。
楯林驍は、いま完全に一頭の狂暴な野獣に身を変えつつあった。
その咆哮《ほうこう》を、彼は自分の耳で聞いた。
初出誌 「JUNON」昭和五十年七月号〜昭和五十二年六月号
単行本 昭和五十三年八月主婦と生活社刊
〈底 本〉文春文庫 昭和六十年十一月二十五日刊