角川文庫
MとN探偵局 悪魔を追い詰めろ!
[#地から2字上げ]赤川次郎
目次
犯人を捜す犯人
1 叫 び
2 逃げる
3 手 配
4 交 渉
5 追いつめられて
6 奇妙な組合せ
7 影
8 包 囲
エピローグ
悪魔を追い詰めろ!
1 墜 落
2 MとN
3 元気の素
4 同 志
5 未亡人
6 襲 撃
7 絶 望
8 平手打ち
9 凶 行
10 一瞬の|隙《すき》
11 |棺《ひつぎ》の窓
犯人を捜す犯人
1 叫 び
悲鳴が聞こえた。
「──何だ?」
と|哲《てつ》|郎《お》は顔を上げた。「おい、ケンジ。何か聞こえなかったか?──おい、ケンジ!」
哲郎は振り返って、舌打ちした。そして、妙に腰を振りながら、体をクネクネさせているケンジの耳から、イヤホーンをはたき落とした。
「何だよ、兄貴! 壊れちまうよ|俺《おれ》の大事なウォークマンが」
「いい加減にしろ」
と、哲郎はにらんで、「仕事[#「仕事」に傍点]してるときにそんなもん、聞いてる|奴《やつ》があるか!」
「ちゃんと見張ってるぜ」
と、ケンジが口を|尖《とが》らす。
「聞こえなかったろう、変な叫び声が」
「叫び声って?」
「ま、いい。ともかく、ちゃんと用心してろよ」
哲郎は、周囲を見回した。
大丈夫だ。誰も見ちゃいない。
この駐車場は、哲郎たちの仕事にうってつけである。夜間の照明がない。道の街灯の光は、遠くてほとんど中へ届いていない。
それに、屋外で、どの車もシートさえかけていない。そう高級な車があるわけじゃないが、それだけに、妙な防犯装置なんかわざわざつける奴はいない。
加えて、場所がいい。──いや、車の持主にとっては逆だが、この駐車場は、マンション二棟分の車が置かれていて、しかも、どっちのマンションからも死角になっていて、見えないのだ。
これじゃ、「どうぞ好きにして下さい」と並べてくれているようなものである。
そして哲郎は、こんなときに遠慮する男じゃなかった。
「──兄貴」
と、ケンジが言った。
「何だよ」
「TVカメラがあるぜ」
合い|鍵《かぎ》を捜して、重い鍵の束をジャラジャラいわせながら、目の前の車にためしていた哲郎は、顔を上げた。
「ほら、あそこに」
と、ケンジが指さす方向に、薄暗くてよく見えないが、確かに塀の上の高い位置にTVカメラが設置してある。
「映ってんじゃない、俺たち?」
「心配すんな」
と、哲郎は笑って、「カメラがあるのは知ってたさ。でもな──安心しろ。あれは外形だけ。中身は空っぽなんだ。カカシと一緒さ。カメラを見りゃびびると思って、くっつけてあるんだ」
「何だ、そうか」
と、ケンジがつまらなそうに、「せっかくよく映ろうと思って、髪も整えたんだぜ」
「|呑《のん》|気《き》な奴だな」
と、哲郎は苦笑いした。「ちゃんと道の方を見てろよ」
「うん」
ケンジがブラッと駐車場から道路の方へ出て行く。
哲郎は首を振った。──頼りない奴だが、哲郎のことを、「兄貴」と呼んでくっついて来る。追い払うというわけにもいかなかった。
「──よし、開いた」犯人を捜す犯人
車の中を、|了《あらかじ》め懐中電灯で照らし、何かありそうな車だけ開ける。そして、バッグとかアクセサリーとか、金になりそうな物だけをとる。
哲郎は、他の連中のように、何も見付からなかったからといって、腹いせに車を|叩《たた》き壊すような馬鹿な|真似《まね》はしなかった。むだに罪状を重ねて、万一捕まったときの刑期を長くすることはない。
「──OK」
と|呟《つぶや》いた。
置き忘れたのだろう、バッグの中から、ネックレスやイヤリングが出て来た。
哲郎は慣れているので、本物かガラスか、その光で見分けられる。──こいつは結構な品物だ。素早くポケットへ入れる。
さて……。あと二、三台やったら、今日は引揚げよう。もう少し、もう少し、という欲が災いのもとだ。
次の車へ移ろうとして、哲郎は目を上げた。
TVカメラが見える。──ちゃんと調べてるんだぜ。そんな「はったり」にごまかされやしねえ。
ニヤリと笑って、次の車の中を|覗《のぞ》こうとした哲郎は、あのTVカメラがゆっくり首を振っているのを見て、|愕然《がくぜん》とした。
動いた……。確かに動いた!
あれがただの外箱だけのものなら、首など振らない。──畜生!
哲郎は急いで駐車場を出た。──あのカメラで、ここを監視している人間がいたとしたら、一一〇番して、もうパトカーがこっちへ向っている。いや、もうここへ着いていてもおかしくない。
畜生! 失敗だった。
もし逃げられても、あのカメラがこっちの顔をはっきり撮っていたら……。
「ケンジ!──ケンジ!」
と、哲郎は押し殺した声で言った。「どこだ!──ケンジ!」
どこに行った? あの馬鹿め!
|苛《いら》|々《いら》しながら見回していると──植込みから、フラッとケンジが出て来た。
「おい! 何してたんだ。早く逃げるんだ。パトカーが来るぞ」
と、哲郎は走りかけたが──。
ケンジがついて来ないのである。ボーッと突っ立っている。
「おい! 捕まりたいのか! しっかりしろ!」
と、駆け戻り、ケンジの手をつかんで引張ろうとしたが……。
ベタッと何かが手にくっつく感覚があった。
「──ケンジ。何だ、これ?」
手を街灯の明りにかざして、それが血らしいと気付いた哲郎は、愕然とした。
「どうしたんだ?──どこでつけた!」
ケンジは、哲郎に肩をつかんで揺さぶられ、やっと我に返った様子で、
「兄貴……。俺じゃない! 俺じゃないんだよ。本当だ。足が見えて……。で、中を探ってみたら……」
「足?」
哲郎は初めて気付いた。歩道と駐車場の間を分けている植込みから、白い足首が|覗《のぞ》いている。
哲郎は、近寄ってかがみ込んだ。──ほとんど全身が植込みの間に押し込まれているので、よく見えないが、足首だけでも若い女の子だろうと分る。
触らないように用心しながら植込みを左手で押しやって、明りで照らしてみる。
哲郎でさえ、一瞬血の気がひいた。
少女──たぶん、十五、六だろう。ブレザーの制服。プリーツスカート。
今、それは血に染まっていた。
刃物の傷が、少女の|喉《のど》から胸、腹へと一気につながって、血が|溢《あふ》れるように出ただろうと思われた。
「──ひどい」
立ち上って、さすがに少しよろけた。
「兄貴……。これ……例の?」
ケンジの声はかすれていた。
「たぶんな……。ともかく、俺たちは関係ないんだ。行くんだ、急いで」
二人は足早にその場を離れた。走ると目立つ。少し急いでいる感じで歩くのだ。
「兄貴……」
と、ケンジがふらついて、「吐きそうだ」
「しっかりしろ! 早く逃げねえと──」
と言っているそばから、ケンジは道端にかがんで吐いてしまった。
「急げよ。人が来るぞ!」
哲郎は気が気じゃなかった。そして、周囲を見回したが……。
そのとき、一番見たくないものが目に入った。──道の向うから、サッと光が射したと思うと、パトカーが現われたのである。
運悪く、哲郎たちは隠れようもなく、ライトの中に入ってしまった。
「逃げろ!」
と、哲郎は、ケンジの腕をつかんだ。「急げ!」
二人が駆け出した。当然、パトカーは追って来る。
「止れ!──そこの二人、止れ!」
マイクを通した声が、辺りに響きわたった。
ケンジは、まだふらついていて、とても一緒には走れない。
「分れるんだ!」
と、哲郎は怒鳴って、ケンジを反対側へと押しやった。「走れ! 死にもの狂いで走れ!」
それ以上、言ってやる言葉もない。哲郎はパトカーが自分を追って来るように、目立つ走り方をした。もちろん、パトカーと競っても、かなうはずがない。しかし、少しでもケンジを遠くへ逃がしてやりたかったのだ。
パトカーがキーッとブレーキの音をたてて|停《とま》り、警官が一人、飛び出して来た。その警官がケンジの後を追い、パトカーはまた走り出して、哲郎を追って来た。
哲郎はその間に少し走れたが、何といっても向うは車である。たちまち後ろへ追って来た。
それでも哲郎は必死で走った。──心臓が破裂しそうだったが、ともかく走った。
逃げられると思っていたわけではない。ただ、走り続けるしかなかったのだ。立ち止る、なんてことを考える余裕もなかった。
わきへ逃げ込める道はないかと目は必死で左右へ走ったが、運悪くどっちにも塀が続いている。
畜生! ひき殺す気かよ!
パトカーが|唸《うな》りを上げて迫って来る。
──もうだめだ!
そのとき、突然目の前の角を曲って、車が現われたのだ。
一瞬、哲郎はそれが現実のものなのか、幻なのかと疑った。
その車がクラクションを鳴らす。正面からのライトがまぶしく視界を覆う。
前と後ろから車が──。
哲郎は何も考えていたわけではない。考えている余裕などなかった。体の方が勝手に反応していた。
哲郎は横へと飛んだ。思い切り。
道へ転がるより早く、車と車のぶつかる音がした。哲郎は頭を抱えて、道に転がった。
野田は、体を揺さぶられて目を覚ました。
「──何だ。何してる?」
と、覗き込んでいるアケミを見上げて言った。
「何してる、はないでしょ」
アケミは、ちょっと口を|尖《とが》らして、「私、あなたの〈愛人〉でしょう。同じベッドにいてどこが悪いの?」
「そうか。──分った、分った」
野田は|欠伸《あくび》をして、「どうしたんだ? 今夜はあっちが忙しいのか」
「電話」
「俺に?」
「だから起こしたのよ。急な用ですって」
と、アケミは言った。「あの子よ。ハンサムな……。何てったっけ? テツオ?」
「哲郎か」
野田は起き上った。「あいつが何の用だ、こんな時間に」
「さあ。直接|訊《き》いて」
アケミはベッドから出ると、「向うへ行ってる?」
「そうだな。──じゃ、そうしてくれ」
野田は、アケミに気をつかわれて苦笑していた。
やれやれ……。四十五で、女に起こされないと電話にも出られないのか。
ナイトテーブルの明りを|点《つ》けて、外して置いてある受話器へ手を伸ばした。
野田重人は、このところたいてい一人で寝ている。──妻と子供は北海道にいて、めったに会うこともない。しかし、それは安全のためでもあった。
何しろ野田は「裏の顔」を持つ企業人である。身辺は充分に警護させていたが、家族のガードにまでは手が回らないというのが正直なところだ。
その代り、「女」には不自由しないし、また野田を知る人間の間では、「女殺し」で通っている。アケミもその「大勢」の一人なのだが……。
「──もしもし」
と、野田が出ると、
「あ。──哲郎です。社長、すみません。しくじっちまって」
哲郎の声は普通ではなかった。ひどく息を切らし、しかも人目をはばかっている様子である。
「何だ、どうした?」
「車をやってて……パトカーが来ちまったんです」
「そいつはまずかったな。で、逃げたのか」
「何とか……。でも、ケンジの奴と別々になったんで、あいつがどうしたか分りません」
哲郎は、少し間を置いて、「防犯カメラに映ってたらしいんです」
「何だと? お前らしくもないな」
「すみません。もうご連絡はしません。縁を切ったことに……」
「そうか。──分った」
「俺は何とか逃げます。それから……」
「それから? まだあるのか」
哲郎はためらった。そして、
「人が来るんで。もう切ります」
と、早口に言うと、「色々お世話になりました」
「ああ。気を付けてな」
「ありがとうございます。じゃ」
あわただしく電話を切ってしまう。
少しして、アケミが戻って来た。
「どうかしたの?」
と、大きなベッドへ入って来る。
「うむ?──忘れろ」
と、野田は言った。「いいな。哲郎のことは全部[#「全部」に傍点]忘れるんだ」
アケミが真顔になって、
「じゃ……まずいことになったのね」
「ああ、そうらしい。何も知らずにいろ。その方が、偽証せずにすむ」
野田は、アケミの肩を抱いた。
「──死ぬの?」
「哲郎か? どうかな。律儀な|奴《やつ》だから、そうするかもしれん。こっちへ迷惑をかけないように消えるだろう」
「|可哀《かわい》そう。いい子だったじゃないの」
「仕方ない。そういう決りだ」
野田は明りを消して、「──もう寝ろ」
と言った。
アケミは、何やらブツブツ|呟《つぶや》いていたが、五分としない内に眠ってしまう。
野田は、もう四十五で、一旦起きてしまうとそうすぐには寝直せない。
それにしても……。哲郎がもう一つ言わなかったことが、何だったのか。それが気にかかった。
いやな、重苦しい予感がしている。
そして野田のこういう予感は、たいてい当るのだった……。
2 逃げる
|紀《のり》|子《こ》は夢を見ていた。
十七歳の娘にしては、いささかロマンチックでない夢だったが、火事の中から逃げ出す夢で、紀子は誰だか分らないが、男を背負って逃げていた。
火はしつこく生きもののように紀子を追って来て、蛇のように長い炎の舌が、必死で駆ける紀子の足首に巻きつこうとした。
場所はどうやら学校──紀子の通っているN女子学園の高校のようで、冷たい石造りの建物が、なぜか紙でできているかのようによく燃えた。
紀子は、廊下を駆けている。背負った男の体は徐々に重味を増すかのようで、紀子の足は少しずつ疲れ、重くなっていた。
もう倒れる!──もうだめだ!
紀子は、よろけ|膝《ひざ》をついた。その拍子に、背中の男が床へドサッと落ちて、
「よくやった」
と言った。「もう、充分だよ」
──哲郎。
哲郎……。哲郎……。|諦《あきら》めないで。
まだ──まだ、希望はあるわ!
哲郎……
電話が鳴っていた。
紀子はハッと起き上った。──電話? これも夢だろうか。
そうじゃない! 自分のベッドの枕もとで、電話が鳴っていた。
これは紀子の個人用の電話で、よほど親しい友だちしか知らない。──誰だろう?
時計が午前四時を指しているのを見て、紀子はちょっと顔をしかめた。こんな時間、いくら夜ふかしの友だちが多いといっても、かけて来たりするとは思えない。
いたずらかしら?──紀子は、そっとコードレスの受話器を取って、ボタンを押した。黙って耳に当てる。
「もしもし」
と、男の声がした。
「──哲郎?」
紀子は、面食らった。
「起こしたろ。すまないな」
哲郎がホッとした口調で言った。
「いいけど……。ちょうど夢でね、哲郎が出てたから、びっくりしたの」
紀子は目をこすって、「どうしたの?」
「今、誰もいないか?」
「私の部屋よ。男もいないしね」
と、紀子はちょっと笑った。
「そうか」
哲郎は、少し間を置いて、「もう会えない」
と言った。
「今……何て言った?」
「さよならを言おうと思ってかけたんだ」
紀子は眠気が吹っ飛ぶのを覚えた。
「何があったの」
「警察に追われてる。例の車泥棒さ」
「哲郎……。だからやめてって……。いいわ。自首したら? 父に頼んで、弁護士、つけてもらう」
「迷惑はかけられない。──な、楽しかったよ。短い付合いだったけど」
「やめて。──格好つけないでよ。大した罪じゃないでしょ。しょせんコソ泥よ。|下手《へた》に逃げないで、おとなしく捕まってた方が良かったのに」
「お前、いつも厳しいな」
と、哲郎は笑った。
その笑い声の|爽《さわ》やかさ。紀子は、胸が痛かった。
「あの人──ケンジって子も一緒?」
「逃げるとき、別々になった。あいつはとろい[#「とろい」に傍点]からな。捕まってるかもしれねえ」
「ともかく──逃げ回るほどの罪じゃないわよ。ね、前科ないんだし。これがいい機会じゃない。やり直すのよ。あの野田とかいう人と縁を切って」
「もう、切ってる。逃げたとなりゃ、警察の手が社長へ及ばないようにしなくちゃな」
「馬鹿らしい。そんな気をつかって! 向うが一体何をしてくれるっていうのよ」
と、紀子は言ってやった。「いいわ。──そんな話は後。今、どこにいるの?」
「これから身を隠す。な、紀子」
「私に、忘れろなんて言わないで。忘れるかどうか、決めるのは私よ」
「それだけじゃない。コソ泥だけじゃないんだ」
と、哲郎が早口で言った。
「何ですって? 他にも何かしたの」
「俺はやってない。でも……見付けたんだ、死体を」
と、哲郎は言った……。
「──紀子!」
と、ダイニングキッチンへ入って来た母親の由利は、娘がもうテーブルについているのを見て、びっくりした。
「おはよう」
と、紀子は言った。
「どうしたの、こんなに早く?」
紀子は、もうブレザーの制服姿で、出かける仕度をして、コーヒーを飲んでいる。
「クラブの用があるの、忘れてたのよ」
と、紀子は言った。「もう出るから、朝食はいらない」
「お弁当は?」
「パン買うから。──もう行くわ」
紀子はコーヒーを飲み干した。
「そう……。じゃ、お母さん、こんなに早く起きなくても良かったんだわ」
間近由利は四十歳。大学を出てすぐに今の夫、間近聡士と結婚したので、今でもどこかお嬢さんっぽいところを残している。
「お父さん、今日帰るのよ、ニューヨークから。紀子、夕ご飯うちで食べれるでしょ?」
「うん。たぶんね」
紀子は立ち上った。「じゃ──」
居間の電話が鳴り出した。
「何かしら。出るわ」
と、由利が駆けて行く。「──はい、間近でございます。──あ、伊東さん? ええ、ここに。ちょっと待ってね。──みどりさんよ」
紀子は替って、
「もしもし」
「──紀子? 聞いた?」
クラスメイトで、年中互いに遊びに行ったり来たりしている伊東みどりである。
「聞く、って?」
「じゃ、知らないのか。あのね、ゆうべ、一年生の……古畑って子、知ってる?」
「古畑圭子? クラブ、同じよ」
「そう、その子。──殺されたんですって」
紀子の方はしばし無言だった。
「もしもし? 紀子、聞いてる?」
「──うん」
「ひどいよね。通り魔っていうのか……。変質者だろうって。刃物で──。ともかく死んじゃったのよ」
「大変ね。犯人のことは何か言ってる?」
「ううん。でも、見当ついてるみたい。その辺でうろついてたの、見られてるらしい」
「そう……」
「きっと今朝は大騒ぎよ、学校」
「そうだろうね」
紀子は|肯《うなず》いて、「じゃ、学校で」
「紀子、電車は?」
「今日、用があって、いつものに乗れないの。ごめんね」
「分った。それじゃ後でね」
「ありがとう」
紀子がダイニングキッチンへ戻ると、
「何なの?」
と、由利が心配そうに、「『犯人』とか何とか言ってた?」
「一年の子が……通り魔にあって」
「まあ!」
「死んだって。──じゃ、行くよ」
紀子はパッと|鞄《かばん》をつかむと、足早に玄関へと急いだ。
紀子は、左右へ素早く目を走らせた。
大丈夫。──まだ早い時間だ。人通りも少ない。
小さな公園へ入って、ベンチに腰をおろすと、呼吸を整えようと、何度か深呼吸をした。
秋の朝。──少し湿って、肌寒い感じである。
昼になって、日射しが降り注げば結構日焼けもしそうなのだが、夜は涼しい。
「ハクション!」
ベンチの後ろ[#「後ろ」に傍点]で、突然クシャミが聞こえて紀子は仰天した。
「──もう! 何してるのよ?」
と声をかけると、ゴソゴソと新聞紙の塊が動いて、
「──やあ、おはよう」
と、哲郎が顔を出した。「怪しい|奴《やつ》、いなかったか?」
「あんたが、一番怪しい」
と、紀子は言ってやった。「ちゃんと座って!──汚れるばっかりじゃないの、そんな所で寝たりして」
「でも……。人目につくと──」
と言いかけ、紀子がすぐ近くで買って来た弁当の包みを開けるのを見て、「──俺の?」
「そう。──さ、食べて。まだ温かいわよ」
哲郎は、当然のことながら空腹だった。
「仕事」の前には、食事をしない。だから、ゆうべの夕食から抜いていた。
紀子は、ベンチに並んで座った哲郎が、弁当を|凄《すご》い勢いで食べるのを見て、ウーロン茶の紙パックを渡すのを後回しにした……。
「──生き返った!」
フーッと息をつく哲郎。
「はい」
と、ウーロン茶を渡して、「世界新記録かもね」
「ありがとう……。|旨《うま》かった」
少し落ちついた様子で、「お前……。早く行った方がいいぞ。もし今警官が来て捕まったら、お前も巻き添えになる」
「余計なこと言わないで」
と、紀子は言った。「殺されたのは、うちの高校の一年生」
「そうか……。制服が似てると思ったんだ……」
「話して。詳しく」
哲郎は、ウーロン茶を飲んで、それからゆうべのてんまつを話して聞かせると、
「──絶対に俺はやってない。でも、あんな状況で、死体の近くにいたのを見られてるし、手についた血で、きっとどこかへ触ってるだろうし……。警察のことだ、俺とケンジがやったと思う」
哲郎はそう言って、「──ケンジ、捕まったのかな」
「まだのようよ。少なくとも、発表はない」
「そうか。うまく逃げてくれるといいけど」
と、ため息をついて、「ぶきっちょな奴だからな」
「|呑《のん》|気《き》ね。人のこと心配してる場合じゃないでしょ」
紀子は厳しい表情で言った。「──これ。コンビニで買って来たわ」
ガサゴソと紙袋を探って、小さく折りたたんだビニールのレインコートを出す。
「これしか着るもんはないの。上にはおれば大分違うわ。──これはカミソリ。ひげ[#「ひげ」に傍点]を|剃《そ》って。浮浪者よ、それ以上のびたら」
「ああ……」
「お金はあんまり持ってないけど」
と、紀子は財布を出し、「──とりあえず二万円。私のへそくりだから、心配しないで」
「金?──よせよ、おい」
「妙な意地張らないで。お金なきゃ、どこへも逃げられないのよ」
「すまん」
と、哲郎は金をポケットへねじ込み、「でも、これで最後だ。もう何もしないでくれ。指名手配されたら、人前には出られない。もう……会えない」
二人はやや沈黙した。
紀子は、しばし目を伏せていたが、やがてパッと|眉《まゆ》を上げて、
「会えないの[#「会えないの」に傍点]? 会[#「会」に傍点]わないの[#「わないの」に傍点]?──どっち?」
「紀子……。お前って、いい奴だ」
と、哲郎は言って、笑顔をこしらえた。
「哲郎!」
紀子は、哲郎の、少し湿った体を抱きしめた。力一杯、自分と離せなくなるようにしようとするかのように。
「──人が通るぜ」
「誰も気が付きゃしない」
紀子は、哲郎の顔を両手で挟んで、ご飯粒のくっついた唇に、自分の唇を押しつけた。
哲郎は、ハッと離れて、
「もうよせ」
と、手の甲で目をこすった。
「──泣いてるの?」
「お前が……変なことするからだ」
「これ……」
と、ハンカチを出す。
「レースの付いた|可《かわ》|愛《い》いハンカチか……。|匂《にお》いがするな」
「私の好きな香水」
「うん。──憶えてる。お前の匂いだ」
ハンカチを顔へそっと当てて、「持ってっていいか。いざってときは捨てる。お前に何かあったら大変だからな」
「持っていって。それから──連絡して、無事でいるかどうか、それだけでもいいから」
「分った」
哲郎は立ち上った。「もう行くよ」
「哲郎」
「何だ」
「約束して。──死んじゃだめよ」
紀子の視線は、哲郎を矢のように射た。
「ああ、死なないよ」
「希望を捨てないで。分った?」
哲郎が何か答えようとしたとき、音が──サイレンが、かすかに聞こえて来た。
「パトカー?」
と、紀子は立ち上った。
「さあ……。行くよ、ともかく」
哲郎はビニールのレインコートをはおって、「ありがとう、紀子」
と言うと、駆け出して行った。
「走らないで!」
と、紀子は呼びかけたが、もう哲郎には届かなかったろう。
紀子は、公園の前を救急車が一台、サイレンを鳴らしながら走って行くのを見た。
そして、ベンチにペタッと腰をおろし、急に力が抜けたかのように、両手で顔を覆って身を震わせた。
しかし──しかし、泣かなかった。
紀子は一滴の涙もこぼさず、顔を上げ、深呼吸をすると、ゆっくりベンチから立ち上り、公園を出て歩き出した。
やっと少し、駅へ行く人がふえつつあって、紀子も足どりを速めたのだった……。
3 手 配
血が……。血が|滴《したた》り落ちて来る。
ポタッ、ポタッ。
まるで時計の秒針のように正確に、それは規則正しく落ちて来る。
ポタッ、ポタッ。
女の子は、腹を裂かれていた。──やめてくれ! あんなもの、見たくないんだ!
忘れたい。忘れてしまいたいのだ。それなのに……。
女の子はそこ[#「そこ」に傍点]に横たわっている。体を切り裂かれても、まだびっくりしている余裕があったのか? その顔は、苦しげに|歪《ゆが》んでいるのでなく、びっくりしてポカンと口を開けている。
ほんの一瞬、しかも暗い中で見ただけなのに、どうして憶えているんだろう? どうして忘れてしまわないんだ?
ポタッ。──ポタッ。
冷たい一滴が、顔の上で弾けた。
「ワーッ!」
ケンジは叫んだ。飛び上って、悲鳴を上げた。
やめろ! もういやだ!
両手で頭を抱え込んで……。しばらくじっとしていたケンジは、自分が一人だけなのを知って、ゆっくりと周囲を見回した。
どこだ? ここは何だろう?
コンクリートの冷たい部屋。床も、壁も、天井も、むき出しのコンクリートである。
窓が高い所に一つだけ空いて、光が射し込んでいる。
ポタッ。──ポタッ。
天井に、太いパイプが通っていて、その水滴はパイプの結露のようだった。
ケンジは、体中で息をついた。今、自分がもたれかかっているのは、スチールの扉で、中ではゴトゴト音がする。
どうやら、ここはボイラーか何かの納めてある部屋らしい。たぶん地下なのだろう。
窓が高くて、平たい長方形をしているのも、あそこがたぶん地面の高さだからに違いない。
ケンジは、何度も息をついて、やがて自分がどうしてこんな所にいるのか、思い出して来た。
ゆうべ……。哲郎の兄貴と「車荒し」をやっていて、パトカーに追われたのだ。
そして、警官が一人、ケンジを追って来た。
逃げられたのは、偶然と言う他ない。
警官が、何かにつまずいて転んだのだ。相当ひどく膝を打ったようで、起き上れずにいた。
ケンジはもちろんその間に逃げて……。でも、じきにパトカーが何台もやって来た。
どっちへ行っても警官だらけで、ケンジはくたびれ切ってここへ入った。
ドアが開いたのだ。──そして、この床でうずくまって寝た。
本当なら、こんな所、えらく寒いだろうが、ボイラーの熱のおかげか、結構暖かい。
もう警官はいないだろう。──外へ出よう。
ケンジは伸びをした。
「畜生! 顔でも洗いてえや」
と|呟《つぶや》いて──。
自分の両手を見て、ギョッとする。
血。──少女。
あれ[#「あれ」に傍点]は幻でも夢でもなかったんだ!
誰かが女の子を切り裂いて、あの植込みへ押し込んで行った。──ひどいことをする|奴《やつ》がいるものだ。
もちろん、死体を見付けはしたものの、別に俺が殺したわけじゃない。何も心配することなんかないんだ。そうだとも!
ケンジは、ドアの方へ近付いて、足を止めた。
カチャリと音がしてノブが回り、ドアがキーッと金属音をたてて開いたのである。
ドアが開く音を聞いて、野田は、
「黙って入るな!」
と顔を上げながら怒鳴った。「──何だ、旦那か」
コートをはおった五十がらみのその男は、〈社長室〉へ入って来ると、
「どこだ」
と言った。
「小堀さん。何がどこだ、って訊いて下さいよ」
と、野田はボールペンを置いた。
「分ってるだろ」
小堀は|椅《い》|子《す》を引張って来てかけると、「中野哲郎、久保健二。──二人はどこにいる?」
コートぐらい脱いじゃどうです、と言いかけてやめた。刑事に余計なことは言わないに限る。
「さあ……」
と、肩をすくめて、「あいにく、あの二人の子守りはやってないもんでね」
「隠せば罪だ。分ってるな」
「──小堀さん。あの二人が何をやったって言うんです?」
「殺しだ」
野田は、ちょっと笑って、
「──まさか」
と言った。
「こんなことが冗談で言えるか」
小堀は真剣だ。野田にも分った。
「あの二人が?──誰をやったんです?」
小堀刑事は、手帳を開けて、
「古畑圭子、十六歳」
「十六? 十六ですか」
「それも、刃物で胸から腹へ、一気に切り裂かれてな」
野田は顔をしかめた。
「ひどいですな」
「哲郎とケンジは?」
「──私は知りません。いや、確かにあの二人は私の所の『若いもん』です。いや、『でした』ってところですな。そんな|真似《まね》をする奴は、うちへは来てもらいません」
「都合のいい話だな」
小堀刑事は苦笑して、「しかし、二人には頼るところがない。ここへ連絡して来る。お前がそれを助けようとしたら、すぐ引張ってやる」
「しませんよ、そんなこと」
と、不服な様子で、「うちはね、これでも暴力|沙《ざ》|汰《た》は嫌いですから」
「しかし、あいつらはやった[#「やった」に傍点]。──お前を罪に問うことはできなくても、必ずけりはつけさせてやる」
と、小堀は言った。
ドアが開いて、
「──あ、ごめんなさい」
「やあ、アケミか」
小堀も、アケミのことは昔から知っている。「元気そうだな。少し太ったか?」
「女の子に、その言葉は禁物よ」
と、アケミは笑って言うと、「後でまた来るわ」
「いや、もう帰るところだ」
小堀は立ち上って、「野田に、くれぐれも馬鹿な真似はしないように言っといてくれ」
「この人、私の言うことなんて、聞いちゃくれないわ」
「そうか。──じゃ、野田。連絡が入ったら、必ず知らせろよ」
「よく分ってますよ」
と、野田が肯く。
小堀が帰って行くと、アケミは野田のそばへやって来て、
「何の話?」
と|訊《き》いた。
「──ゆうべ、哲郎から電話があったのを憶えてるか」
「ええ。でも、何の話かは知らないわ」
「忘れるんだ、電話があったことも。──いいな」
野田の口調に、アケミは戸惑った様子で、
「何をしたの、あの子? いい子じゃない、やさしいし」
「そいつが、とんでもないことをしてくれたのさ」
と、野田は苦々しげに言うと、「──何か用事なのか?」
「うん……。ちょっと出かけたいんだけど。車を使ってもいい?」
「自分で運転するのはよせ。誰かに任せるのなら使っていい」
「でも──悪いわ」
「事故を起こされるよりいい。誰かと会うのか?」
「母さんと。──誕生日なの」
「お袋さんの? じゃ、どこかへ連れてって|旨《うま》いもんでも食べて来い」
野田は穏やかな表情になって、「金がいるんだろ?──持ってけ」
札入れを丸ごと渡す。
「ありがとう」
アケミは、野田の額にチュッと音をたててキスした。
「よせ、口紅がつくだろ!」
「|拭《ふ》いといてあげる」
と、アケミは笑ってティッシュペーパーでこすると、「──じゃ、夕方には戻るわ」
「お袋さんと晩飯を食べて来い。俺はパーティがある」
「そう? ありがとう」
アケミは浮き浮きした足どりで〈社長室〉を出て行った。野田は念のため、もう一度ティッシュペーパーで額を拭いた……。
「やれやれ」
小堀刑事の話はショックだった。すぐにインタホンで、事件のニュースをやっているか調べろと命じて、
「哲郎が?──まさか」
と考え込む。
十六歳の女の子を殺したって?
確かに、哲郎もケンジも若くて、血の気は多い年ごろだ。頭に血が上って、女の子を襲うことも──いや、哲郎は少なくとも、そんなタイプではないが。
問題は、警察が二人を犯人だと思っている[#「思っている」に傍点]ことで、そうなったら「本当はどうなのか」なんてことは関係ないのだ。
いずれにしても、野田にとって大切なのは、自分の身を守ることで、それは同時に自分がここまで作って来た「組織」を守ることである。
そう。──あの小堀という刑事は馬鹿ではない。きっと哲郎とケンジの二人を捕まえるだろう。
だが、そのときには二人とも野田と何の関係もない人間になっていなくてはならないのだ。たとえ二人のどっちかが助けを求めて来ても、野田にはどうしてやることもできない。
野田は引出しをあけると、タバコを取って火をつけた。──アケミが見たら、文句を言うだろう。このところ、野田は禁煙していたからである。
アケミ……。あいつは|可《かわ》|愛《い》い|奴《やつ》だ。
そう。アケミのためにも、今は何もかも失うわけにはいかない。若いチンピラ二人のために、危い真似はできない……。
二口、三口喫って、野田は顔をしかめた。ちっとも旨くない。
野田は、灰皿にタバコを押し|潰《つぶ》そうとして──灰皿がなかったことに気が付いたのだった。
「見た?」
と、一人の生徒が教室へ駆け込んで来た。
昼休み。──教室の中は、いつもの通り騒がしかったが、それでも雰囲気はどこか違っていた。
重苦しいとか、悲しみに沈んでいるというのとは違って、必死にいつもの調子を取り戻そうとして手探りしている、といった状態であった。
「TVに出てた! 二十歳の男、二人だって!」
紀子は、顔を上げた。──他のみんながワッと席を立つ。
「ねえねえ、捕まったの?」
「殺しちゃえばいいよ、そんなの!」
と声が飛ぶ。
すると、
「──静かにしろ」
と、男の声がして、「席につけ」
みんながザワザワと席へ戻ると、担任の矢川が入って来て、教壇に上る。
「今朝の校長の話で聞いた通り、一年生の古畑圭子が|可哀《かわい》そうなことになった」
と、ずんぐりして、よく日に焼けた英語の教師は、淡々とした口調で言った。「今、TVでも放送されていたが、犯人は二十歳の男二人組で、駐車場の車から物を盗んでいるところを、遅く帰った古畑に見られ、襲ったということらしい。──運が悪かったと言う他はない」
教室の中は静かだった。──昼休みに、こんなに教室が静かだったことは、たぶん一度もなかっただろう。
「犯人は指名手配されたから、遠からず捕まると思う」
と、矢川は続けた。「みんな、充分に気を付けるように。夜遅くなるときは、必ず自宅から誰かに迎えに来てもらうとか、友だちと一緒に帰るとかして、一人で寂しい道を歩かないようにしろ」
矢川は、軽くため息をついた。
「──古畑は俺も教えてた。いやなもんだな」
「先生」
と、一人の生徒が言った。「犯人は何ていう男ですか?」
「ああ。──メモがあったな。警察から知らせて来てくれたんだ。みんなも、もし見かけたら、通報しろ。写真が|貼《は》り出されるはずだ」
矢川は、手もとの紙を広げて、「一人は……久保健二。もう一人は中野哲郎。──どっちもチンピラのヤクザだ。いいか、ディスコとかでフラフラ遊んでると、こういう手合と付合いができたりする。気を付けるんだぞ」
紀子は、伊東みどりの目がこっちを見ているのを感じていた。紀子の表情は全く変っていないはずである。
「──それだけだ。古畑の葬儀などに関しては、詳しく分り次第、連絡する」
矢川は、ちょっと|肯《うなず》いて見せ、教室を出て行った。
再び教室の中がざわつく。けれども、それはどこか押し殺したようなざわめきだった。
「──紀子」
伊東みどりが、紀子の席のそばへ来る。
「しっ」
と、紀子は小さく首を振って、席を立った。
二人はベランダへ出た。二階から、校庭が見渡せる。──女子校の校庭なので、大して広くはない。
「|爽《さわ》やかな日だね」
と、紀子は言った。
「うん……」
と、みどりが|曖《あい》|昧《まい》に肯く。
「黙っててね。──私の付合ってた相手のこと」
「じゃ……。やっぱり、あの人?」
「うん。でも、彼がやったんじゃない」
「だけど警察が──」
「間違えることだってあるわよ、警察も」
「それはそうだけど──」
と言いかけて、「紀子。話したの? あの人と」
紀子はみどりを見た。──みどりは大柄だが気の弱い子で、しっかり者の紀子を頼りにしている。
「うん」
と、紀子は肯いた。「でも──もう会うことないだろうな。そう言って、行っちゃったから」
「そう……」
「みどり。──黙っててね。お願いよ。私だって、彼がどこに行ったか知らないんだし」
紀子がみどりの腕に手をかける。みどりは大きなクリッとした目を見開いて、肯いた。
「紀子……。どうするの」
「どうする、って?」
「だって──おとなしく見てる紀子じゃないでしょ」
みどりの言葉に、紀子の方がびっくりして目を丸くした。
4 交 渉
玄関の方で物音がして、伸子はハッと顔を上げた。
あの子だわ! 圭子が帰って来たんだ。
「ただいま」
と、いつものように少しふくれっつらをして、「何かおやつない?」
十六にもなって、甘いものの好きな子で……。普通なら、太るのを気にして、甘いものは控える年ごろである。
伸子は玄関へ出て行ったが──。
「あなた」
と、伸子は言った。「何してるの?」
古畑良介は、靴をせっせと玄関に並べていた。自分の靴も、伸子の靴も、そして圭子の靴も。広いとは言えない玄関は、靴で一杯になってしまう。
「いや、会社へ行こうと思ったんだ」
と、古畑は靴箱の中を|覗《のぞ》いて、「これだけしかなかったかな?」
「それだけよ」
「そうか?──圭子の靴が少ないな。ちゃんと買ってやれよ。女の子なんだ。お|洒落《しゃれ》の一つもしたいだろうしな」
古畑は、会社へ行くときのように、スーツにネクタイという格好をしていた。
「あなた……。会社へは休むって連絡したじゃありませんか」
「休む?──そうだったか?」
古畑は、少しポカンとしていたが、「今日は土曜日か。そうか」
「違いますよ。圭子が死んだのよ。だから休んだんでしょ」
しっかりしなくては。──伸子は自分へ言い聞かせて、夫の手を取った。
「さ、上って。少し横になった方がいいわ」
「いや……。もう充分寝たよ」
と、古畑は言って、それでも妻に逆らうことなく上って来た。
圭子……。そう、圭子は死んだ。
誰かの手で殺されたのだ。何てむごい!
伸子も信じたくない。しかし、現実に死んだ圭子をこの目で見たのだ。
「──さ、座って」
と、夫を居間のソファに座らせると、「ネクタイ、外したら?」
「いや、いつでも出社できるようにしとかんとな。サラリーマンは、それが仕事なんだから」
「そうね」
伸子も、それ以上は逆らわなかった。
圭子の死体を見せられたとき、伸子は泣いてとりすがったが、古畑の方は、ただじっと立ち尽くしているばかりだった。
伸子は、夫が悲しみに|堪《た》えているのだとばかり思っていたが、これは正しくなかったらしい。夫はただ、|呆《ぼう》|然《ぜん》として、「娘の死」を受け容れることができなかったのだ。
「──和男から電話がありましたよ」
と、伸子は言った。「明日の午後にはこっちへ着くって」
「明日? 何してるんだ。全く!──どこで遊び回ってるんだ、あいつは」
と、古畑は腹立たしげに言った。
「あなた……。和男はアメリカですよ」
と、伸子は言った。「分ってる? アメリカの大学へ行ってるのよ」
「あいつは冷たい|奴《やつ》なんだ。妹のことなんか、気にしちゃいない。俺はよく知ってるんだ」
と、夫は伸子の言うことなど聞いていない。
和男は二十歳で、アメリカの大学に留学している。──妹の圭子を可愛がっていたのは、伸子もよく知っていた。圭子も、伸子とは兄のことをよく話したし、一度アメリカに遊びに行きたいと言っていた。
ただ──どういうわけか、和男は父親とそり[#「そり」に傍点]が合わず、特に高校生になってからは、ほとんど口をきこうともしなかった。
伸子には、夫と息子との間が、なぜこうも冷たいものになってしまったのか、分らなかった。
ただ、和男がアメリカ留学を決めたのは、父親と毎日一緒にいるのがいやだったからだろうということは、伸子にも分っていたのである。
玄関のチャイムが鳴った。
「──はい」
と、出てみると、
「どうも、奥さん」
と、白髪の老人が顔を出した。
「あ……。泉さん、どうも」
と、伸子は頭を下げた。
「この度は──。娘さんはとんだことで」
「はあ……。何かご用でしょうか」
「ちょっとご主人にお目にかかりたくて。いらっしゃいますか?」
「はあ……」
あんな状態の夫に会わせたくはなかったが、泉は、
「じゃ、ちょっとお邪魔します。すぐ失礼しますから」
と、勝手に上って来てしまった。
「──どうも、古畑さん」
「泉さんですか。どうも……」
伸子は、泉の図々しさに腹が立ったが、帰ってくれとも言えない。仕方なく台所へお茶をいれに行った。
「まあ、力を落とさんようにね」
と、泉は古畑の肩を|叩《たた》いた。「犯人は捕まりますよ」
「ありがとう」
と、古畑が肯く。
泉は元警官で、今は停年退職して、このマンションで暮している。──伸子などには「口やかましい年寄り」として敬遠されているが、当人は時間を持て余し、体力はまだまだあるので、よく「パトロール」まがいの「巡回」をしたりしていた。
「──どうぞ」
と、伸子はお茶を出して、「主人はかなり参っていますので、お話は手早く……」
「ええ、よく分ってます。私もよく心得てますよ」
泉は、いかにも「役人」風の押し付けがましさを感じさせる口調で言った。伸子はどうしてもこの泉という男が好きになれない。
伸子は、ソファにかけたが、泉の方はあからさまに伸子に「いてほしくない」という様子を見せた。
「じゃ、何かあったら、呼んで下さい」
と、伸子は言って、台所へ行く。
泉は、古畑の方へ近寄って座ると、
「古畑さん。──ショックでしょうな」
と、少し低い声で言った。
「それはそうですよ」
「当然ですな。可愛い娘さんだった」
と、泉は肯いて、「しかし、これで犯人が捕まったとして、奴らはどうなるか。弁護士は精神鑑定を申請する。裁判は何年もかかります。下手すりゃ、奴らの方が『社会の犠牲者』扱いされて同情される。──冗談じゃない! 人殺しは殺してやりゃいいんです。親ごさんの気持になったら。ねえ、そうでしょう?」
古畑は、肯いて、
「そうですな」
と言った。
しかし、その目は、泉を見ているようでいて、何も見ていないようでもあった。
「──古畑さん」
と、泉は顔を寄せて、「娘さんはこのすぐ近くの駐車場のそばで殺された。犯人は、近くでパトカーに見られて逃げた。──ところがね」
泉はチラッと台所の方へ目をやって、
「見付けたんですよ一人[#「一人」に傍点]」
と言った。
古畑は、無表情のまま泉を見て、
「──見付けた?」
「ええ。偶然ですがね、ボイラー室で音がしたのを耳にしたもんですから、入ってみたんです。そしたら、あの片割れが……。目を疑いましたよ!」
泉は声が上ずっていた。
「じゃ……もう捕まったんですか」
と、古畑は|訊《き》いた。
「いいえ。──私はね、もちろん一一〇番すべきだということも分っています。でもね、考えたんです。古畑さんのお気持を。きっと自分の手で[#「自分の手で」に傍点]|敵《かたき》を討ちたいだろう、と思ったんですよ」
古畑の目に、やっと光が戻って来た。
「つまり……そいつはまだいるんですね、そこに?」
「ええ。──抜けた|奴《やつ》でね。自分の正体がばれてるとは知りません。私が、ちょっとやさしい声をかけてやり、安い弁当一つ、買って来て食わしてやったんで、すっかり信用してるんですよ」
泉は得意げに言った。「で、言ってやったんです。今出てくと必ず見付かって、浮浪者は警官に引き渡される。夜になってから出てった方がいいって。奴もすぐその気になりましたよ」
「──それで?」
「誰も入れないようにしとくから、と言って、ボイラー室の|鍵《かぎ》を借りて来てかけときました。奴を閉じこめたわけですよ」
泉は声が出ないようにして笑い、「夜、迎えに来てやる、とあいつに言っときました。あいつはおとなしく待ってるでしょう」
「じゃ……そのときに私も?」
「ぜひ、敵をお討ちなさい。娘さんの恨みを晴らさなくちゃ。私が手伝いますよ」
古畑は、大きく息をついて、
「──分りました」
と言った。「そいつを、この手で殺してやりますよ」
「そう! それでこそ父親ですよ」
と、泉が得たりという顔で肯く。
「しかし──警察から何か言われませんかね?」
「私が証言します。正当防衛ということにしてもいい。大丈夫ですよ。私は退職しちゃいますが、いくらでも知り合いがいるんです」
「ありがとう!」
古畑は、泉の手を強く握った。「ありがとう」
|頬《ほお》は紅潮し、目には輝きが戻っていた。
「奥さんには内緒ですよ」
と、泉が言って立ち上ると、「お迎えに来ます。──夜十時ごろにしましょう」
「待ってますよ」
と、古畑は肯いて言った……。
野田は電話を切ると、ため息をついた。
野田は、警察の中にも色々情報網を持っている。しかし、今のところ二人が見付かっていないのは確かなようだ。
電話が鳴って、出てみると、アケミからだった。
「──お母さんと食事してるの」
と、アケミは言った。
「良かったな。よろしく言ってくれ」
「ええ。それで──一つ、お願いがあるんだけど」
と、アケミがおずおずと言う。
「何だ?」
「お母さんが、このホテルのショップで見たバッグをとても気に入って……。買ってあげてもいいかしら?」
野田はちょっと笑って、
「何かと思ったぞ。いいとも。金は足りるのか? 足りなきゃ誰かに持たせるぞ」
「いえ、充分よ。──いいのね? ありがとう!」
と、アケミが飛びはねそうに喜んでいる。
「誰か来た。──じゃ、ゆっくりして来い」
「はい。じゃあね」
野田は少し気分が軽くなった。
「入れ。──何だ?」
がっしりした体つきの用心棒が、戸惑った顔で立っている。
「社長にどうしても会わせてくれって女が来てるんですが」
「女?」
野田は|眉《まゆ》をひそめて、「どんな女だ」
「私です」
と、大きな男のわきをすり抜けるようにして入って来た女学生に、野田は目を丸くした。
「おい! 勝手に入るな!」
と、用心棒が怒鳴る。
「待て。──何の用だね、娘さん?」
「野田さんですね」
と、その少女は言った。「私、中野哲郎の恋人です」
野田は|呆《あっ》|気《け》にとられた。
「哲郎のことで、お話ししたいんです、私、間近紀子といいます。十七歳です」
「──分った」
野田は手を振って、用心棒に出て行かせた。
「間近……紀子? ふーん。哲郎にこんな友だちがいたのか」
と、まじまじと眺めて、「──その制服、もしかして……」
「はい。殺された子と同じ学校です」
と、紀子は言って、「哲郎は犯人じゃありません。ご存知でしょ?」
野田は首を振って、
「俺は何も知らないよ、娘さん」
と言った。「もう、哲郎とは何の縁もないのさ」
「知ってます。──あなたが見捨てても、私は見捨てません」
野田は苦笑して、
「勇ましいね。しかし、君に何ができる?」
「お弁当をあげて、お金を渡しました。でも、長くは逃げられっこありません。遠からず捕まります」
「哲郎と会った?」
「はい。今どこにいるかは知りませんけど」
「そうか。──で、何の話だね?」
「哲郎を助けて」
と、紀子は言った。「私でできることなんて限られてます。でもあなたなら、それができます」
「無理だよ。もう奴は指名手配されてる。逃がしたところで、いずれ見付かる」
「分ってます。ですから、哲郎を救う方法は一つしかありません。本当の犯人を見付けることです」
野田は|唖《あ》|然《ぜん》とした。この娘の度胸に圧倒されそうだった。
「おい。うちは警察じゃないんだよ。犯人捜しをやれって言うのか」
「できるのは、あなたしかいません」
「残念だが──」
「哲郎を気に入ってるんでしょ」
少女の言葉に、野田が詰った。少女は続けて、
「哲郎は言ってました。こんな仕事、やめたいけど、社長にはずいぶん世話になった。だから、やめられないんだ、って」
野田は、ホッと息をついて、
「確かに、哲郎のことは気に入ってる。しかしね、しょせん奴はチンピラの一人さ。さあ帰りな。|俺《おれ》を恨むがいいさ。こういう世界なんだ」
と肩をすくめた。
紀子は、ゆっくりと首を振って、
「気にしてるんですね」
と言った。「でなけりゃ、そんなこと、私に言うわけないもの」
いちいち言うことが当っている。野田は|苛《いら》|々《いら》した。そして、ちょっと皮肉に笑って、
「哲郎に女がいたとは知らなかった。どこまで行ってたんだ?」
と|訊《き》いた。
紀子は少し間を置いて、
「キスはしました。でも、寝てはいません」
と言った。
「ふーん。そうか」
野田は、じっと紀子を見ていたが、「もし、ここで俺のものになったら、言う通りにしてやってもいいがね」
と言った。
「──約束してくれますか」
と、紀子は言った。
「ああ」
紀子は念を押さなかった。ドアの方へタッタッと歩いて行くと、出て行くのでなく、ロックして戻って来た。
そして、傍らのソファのそばへ行くと、
「じゃそうして[#「そうして」に傍点]下さい」
と言った。
「自分で脱いでくれ。面倒でね、女の下着は」
野田は、そう言って立ち上った。
紀子は、無言でブレザーを脱ぐと、ソファの隅へ投げ出し、プリーツスカートのファスナーをシュッと下ろした。
「──遅いなあ」
と、伊東みどりは|呟《つぶや》いて、腕時計を見た。
大丈夫かしら、紀子?
もう、紀子がそのビルへ入って行って二時間近くたつ。みどりは、この喫茶店で、紀子の|鞄《かばん》を預かって、戻るのを待っているのだ。
もう暗くなっていた。紅茶はすっかり冷め切っている。
紀子……。無茶して!
みどりは、紀子を行かせたことを後悔していた。──何といっても、相手はまともな連中じゃないのだ。
それに……。紀子は怒るかもしれないけれど、あの哲郎という男の子だって、確かに人殺しなんかしそうには見えなかったけれど、人は見かけだけじゃ分らないものだし。
ちゃんと警察だって調べているだろう。本当に哲郎が犯人だったら、紀子も罪を犯していることになる……。
みどりは、あと少し待って紀子が戻らなかったら、警察へ連絡しようと思った。
そのとき、ドアの開く音がして、
「──ごめん!」
と、紀子が入って来た。「心配したでしょ?」
「当り前よ」
と、みどりは息をついて、「足、ちゃんとついてる?」
「ご覧の通り」
紀子は座って、「ちゃんと話をつけたよ」
「話って?」
「本当の犯人を捜してくれるって」
みどりは目を丸くして、
「本当なの?」
と言った。
「うん。──大勢子分がいるからね。警察が哲郎を見付けるのと、どっちが早いか|賭《か》ける?」
「やめてよ、もう!」
と、みどりは紀子をにらんでやったのだった……。
5 追いつめられて
コトッと音がして、ケンジは目が覚めた。
やはり、いつもよりは緊張しているのだろう。いつもなら、少々の物音じゃ目を覚まさないところだ。
何の音だろう?──ブルブルッと犬みたいに頭を振って、ボイラー室の中を見回す。
床に、小石が落ちていた。白い紙でくるんである。
あの窓から投げ込んだらしい。
あのじいさんかな?
もう大分夜も遅くなっているだろう。そろそろ迎えに来てくれるころだ。
全く、運良くあのじいさんに出くわしたもんだ。でなきゃ、今ごろはとっくに捕まってる。
小石をくるんだ紙を開いて、外からの薄明りが射し込んでいる辺りへかざしてみると、走り書きで、
〈逃げなさい。殺されますよ〉
とあった。
「──何だ、これ?」
殺される? 俺が何をしたっていうんだ。
いたずらか? でも──ここに俺がいることを知ってるっていうのも妙だ。
殺される……。
あのじいさんに? ケンジは、足音が聞こえて来たのに気付き、ドキッとした。
じいさんかな?
ケンジは、耳を澄ました。──足音は一人じゃない。
ドアをトントンと|叩《たた》く音がして、
「起きてるか?」
と、あのじいさんの声がした。「迎えに来たぜ」
「ああ……。起きてるよ」
と、ケンジは言った。
だが──考えてみれば、何の係わり合いもない人間が、どうしてケンジのことを助けてくれるだろう。
「一人かい?」
と、ケンジは|訊《き》いた。
「ああ、もちろんだ」
ガチャッと|鍵《かぎ》があく。ドアがキーッと音をたてて開き、
「待ったかい?」
と、じいさんが顔を出した。「さあ、行こう」
「うん……」
ケンジは、ドアの方へと歩いて行った。「悪いね」
「なあに。さ、出て」
「うん……」
ケンジは、じいさんのわきを通り抜けようとして──ドンとじいさんを突きとばし、飛び出した。
ドアの外、すぐわきに、バットを振りかざした男が立っていたが、ケンジが飛び出して来たので、あわてて振り下ろしたバットは空を切った。
ケンジは、夢中で駆け出した。
「追っかけろ!」
と、あのじいさんが怒鳴った。
畜生!──|騙《だま》しやがったな! 畜生!
ケンジは必死で駆けた。
しかし──方向に弱いケンジは、外の道へ出ようとして、マンションの間の細い道へと迷い込んでしまった。
行く手に、何人かの男たちが現われた。
「いたぞ!」
「捕まえろ!」
あわてて戻ろうとするケンジの前に、あのじいさんと、バットを持った男が現われた。
「見付けたぞ!」
ケンジは、前後を挟まれて、逃げ場を失った。
階段。──非常階段がある。
ケンジは夢中でそのスチールの階段を上り始めた。
「やったぞ!」
と、泉がニヤリと笑った。「予定通りだ」
「逃げますよ」
と、古畑がバットを振り直す。
「大丈夫。ちゃんと考えてあるんです」
反対側から来た男たちと合流すると、泉は先頭に立って非常階段を上り始めた。
「住人の方たちも協力してくれたんでね。いや、実にありがたいですよ」
泉たちは急がなかった。
足音が止った。
非常階段の上の方から、やはりバットやゴルフクラブを手にした男たちが、四、五人現われて下りて来たのだ。
犯人は、途中の階のドアを開けようとしたが、外からは開かない。
ガタガタと足音が重なり合って、上と下から、その男へと近付いて行く。
「やめてくれ!」
と、男は叫んだ。「降参するから……。助けてくれ! 俺がやったんじゃないんだ!」
泉は鼻先で笑うと、
「誰でもそう言うのさ」
と、言い返した。「──さあ。この人は、被害者のお父さんだ。あの娘さんの味わった苦しみの何分の一かでも、味わうんだな」
「やめてくれ……」
男は身を縮めて、うずくまった。
「──さあ、古畑さん」
と、泉が促す。「娘さんの恨みを」
古畑はバットを振り上げると、男へ近付き、振り下ろした。シュッと空を切る音がして、バットが男の肩をしたたかに打った。
「ワッ!」
男は|這《は》うようにして、「|痛《いて》えよ! やめてくれ! 助けて!」
と金切り声を上げた。
古畑は、荒く息をすると、
「死ね!」
と怒鳴って、再びバットを振り下ろした。
男の頭を打った。バキッと無気味な音がした。
「やれ!」
泉が、他の一人の手からゴルフクラブをとると、男を殴りつけた。
それがきっかけになって、一斉にみんなが殴りかかる。
──ケンジは、どうして自分がこんな目に遭うのか分らなかった。
体中が裂け、バラバラになるような痛みで声も上げられない。
しかし──やがてケンジは意識も薄らいで、何も分らなくなった。痛みさえも。
「──もういいだろう」
泉は息を弾ませて、「害虫なんか、これで充分だ」
泉が足でぐいと押すと、ケンジの体は、手すりの下の|隙間《すきま》から下の道へと落ちて行き、ドサッという音がした。
「さあ、これですんだ」
泉は、古畑の肩を叩いて、「少しは気がすみましたか」
「ええ……。ありがとう」
古畑は汗をかいていた。
「今日のことは誰も知らない。──それでいいですな?」
泉は、集まった男たちを見回して言った。「さ、戻りましょう」
──夜は、また静けさを取り戻したのである。
誰もが当惑した様子で、顔を見合せた。
野田は、ゆっくりと集まった顔ぶれを眺めて、久しぶりの快感を味わっていた。
いや快感[#「快感」に傍点]などと言っては、哲郎とケンジが可哀そうかもしれない。しかし、長いこと「当り前の仕事」ばかりに明け暮れていた野田は、自分が思い切ったことのできない男になりかけていたことに、今気付いたのである。
「──親分、それはどういうことです?」
と、やっと一人が訊いた。
「言った通りだ」
野田は面白がっている。「俺たちの手で犯人を見付ける」
「しかし──もう哲郎たちが手配されてます」
「知ってるとも。だからこそ急ぐ必要があるんだ」
「ですが……。警察の仕事ですぜ、それは」
「分ってる。俺が何も考えずに、そんなことをすると思うか?」
「いえ、もちろんそれは分ってますが……」
野田は、一つ息をついて、
「当惑するのも当然かもしれんが、今度の事件は、哲郎たちのやったことじゃねえ。みんなもそう思うだろう」
と言った。
「確かにそうです」
と言ったのは、若くて切れる安井だった。「ですが、肝心なのは|一《いっ》|旦《たん》手配されたら、よほどのことがない限り、警察は他に犯人がいるなんて認めないってことですよ」
「だから、連中は哲郎たちを捜している。本当の犯人を見付けようって気は全くない。俺たちでやれることは色々あるんだ」
「ですが──」
「考えてみろ」
と、野田は少し厳しい声で、「今度の一件だけじゃねえ。前にも女の子が切り裂かれるようにして殺された。似た手口が二件だ。あれは……どれくらい前だったかな」
「ふた月と十日前です」
と、安井が即座に言った。
「同じ犯人だとしたら、恨みじゃなく、通り魔的な犯行かもしれん。そうなると、哲郎たちが犯人に仕立て上げられたら、本当の犯人はまた安心して人を殺すかもしれん」
と、野田は言った。「俺は何も社会奉仕しようってんじゃない。俺たちが安心して仕事をするには、警官があちこちの角に立っている、ってのはまずい。分るか?」
「それはまあ──」
「警察はどう思ってるかはともかく、哲郎たちの身も危い。あいつはたぶん……。ケンジの奴とは別々に逃げてるらしいが、うまく隠れたつもりでもいずれは見付かってしまうもんだ。──どうする?」
みんなが顔を見合せている。言いたいことがあるのに、どう切り出したものやら、分らずに困っているという図だ。
「みんなの心配していることは分ってる」
と、野田は言った。「だが、やってもいないことで、うちの誰かが捕まるなんてことは、黙って見過ごしていいことか? もちろん、警察の|真似《まね》ごとをするつもりはない。しかし、哲郎とケンジの二人は救ってやりたいんだ」
もちろん、野田としては話せないことがある。
あの少女──間近紀子に頼まれたから、こうして提案しているのだとは。
確かに、間近紀子にああして頼まれなかったら、野田もここまでやる気にはなれなかったろう。しかし、約束してしまったのだ。
あの少女の体と引きかえに。
──野田は、間近紀子を抱いたわけではなかった。実は、そこまではしなかったのである。
ああ言えば、少女が逃げて帰るだろうと思ったのだった。
しかし、間近紀子は、並の少女ではなかった。何のためらいもなく、服を脱ぎ捨ててしまって、野田を圧倒した。
野田は、紀子が|一《いっ》|旦《たん》納得すると、一切のためらいも見せずに裸になったのを見て、感心したのだった。脱いでいく途中、紀子は全くその手を止めなかった。
特に野田を驚かせたのは、最後の下着を脱ぐときでさえ、何のためらいも見せなかったことで……。紀子はソファに腰をおろして、|真《まっ》|直《す》ぐに野田を見て、
「いいですよ」
と、はっきりした口調で言った。
野田は、実はこのところ女の方が全くだめなのである。──何が原因なのかよく分らないのだが、もう半年近く、女を抱いていない。
しかし、はた目には「女殺し」と見られている立場上、そんなことは口にできない。
アケミを可愛がっているのは確かだが、それも「気持の上」だけである。しかし、アケミは決してそのことを口にしない。気のいい女で、少しも不平や文句を言わない。
だから、野田はアケミと年中寝ているように見せかけるのに苦労していた。
ところが──間近紀子。
あの少女の、白くてまだ子供らしい丸みを帯びた体を見たとき、野田はときめく思いを体験した。あのまま抱いていれば、可能だったかもしれない。
だが、怖かった。もっと時間をかけ、じっくりと抱いてみたいと思った。
「──服を着ろ」
と、野田は言った。「今はいい。その代り、もし本当の犯人を捕まえたら、俺のものになりに来るんだ」
「はい」
と、紀子はためらわず答えた……。
「──あなた」
と、ドアが開いて、アケミが顔を出す。
「勝手に開けるな。──どうした?」
「ごめんなさい……。今、下で──」
アケミが青ざめている。
「何だ?」
「見付けて来たんです、若い人が。──ケンジさんの死体を」
野田は耳を疑った。
「今──死体[#「死体」に傍点]と言ったのか?」
「ええ。そりゃあひどい様子」
と、アケミは涙ぐんでいる。
「どこだ?」
と、立ち上る。「みんな、来い!」
下の居間に、ケンジの死体は布をかけられて横たわっていた。
「──例の死体の見付かった現場の近くなんです。騒ぎが聞こえて……」
と、若い子分が言った。「静かになって行ってみると、非常階段の下に、ケンジが……」
布をめくって、野田は顔をしかめた。
「──どういうんだ、これは?」
「落ちたせいですか」
「落ちただけじゃない」
安井が、かがみ込んでケンジの服を脱がせた。
紫色になった肌のあちこち、頭にも血がこびりついている。
「──こりゃ、リンチですよ」
と、安井が言った。「あちこち殴られてはれ上っている。骨も何か所も折れてるみたいです」
「何てざまだ」
と、野田は首を振って、「ひどいことしやがって!」
「親分」
と、安井が言った。「──やりましょう。あの娘を殺した|奴《やつ》だけじゃなく、ケンジをこんな目にあわせた奴も見付けてやる」
「うん」
野田は、しっかりと|肯《うなず》いた。「アケミ。ケンジの体は渡さねえぞ」
「でも──」
「本当の犯人と|揃《そろ》えて突き出してやる!」
野田の声は、珍しく──全く珍しいことだったが──怒りに震えていた。
6 奇妙な組合せ
「おかしい」
と、泉は首をひねった。「おかしいですよ、どうも」
「そう言ったって、現に死体が消えてなくなってるんだから」
と、古畑良介は言った。
「まあね」
と、泉は渋い顔で、「あんなもの、持っていく物好きはいないと思いますがね」
泉と古畑は、あの非常階段の下に立っていた。──そろそろ夕方という時間だったが、もともと人の通る場所ではない。
子供たちが、ワーワーと声をたてながら駆け抜けて行った。
「──はっきり言ってください」
と、古畑は言った。「あいつが生きてた[#「生きてた」に傍点]って可能性は?」
泉はぐっと詰った。
「そんな……。生きてるわけがない! あの高さから落ちたんですよ」
「しかし、こうして死体がなくなってるじゃありませんか」
泉としても、そう言われると反論できない。
確かに、あのとき下へ落ちた男の脈でもとってみれば良かったのだろうが、あれだけ殴りつけ、しかもあの高さから下へ落ちているのだ。常識では、とても生きているとは考えられない。
「まあ、心配する必要はありませんよ」
と、泉は笑顔を作って、「万一、何かあったとしても、みんな知らん顔をしてます。何の証拠もないし」
「そんなことじゃ困るんだ!」
と、古畑は怒鳴った。「いい加減なことを言うな! あんたが大丈夫だと言ったから、私はあいつを──」
「しっ!」
と、泉はあわてて、「人に聞かれたらどうするんです」
と、たしなめた。
「落ちついて下さいよ。私のことを責められてもね。私はあなたが喜ばれるだろうと思って──」
泉は、カタッという物音を聞いて、ハッと振り向いた。「誰かいるな!──誰だ! 出て来い」
非常階段の向う側に人の気配がある。泉は、ゆっくりと近付いて、
「誰だ? そんな所で何してる」
と、声をかけた。「おとなしく出て来ないと──」
スッと──背の高い若者が、片手にバッグをさげ、もう一方の手で少女の肩を抱いて現われた。
「隠れてたわけじゃないですよ」
と、その若者は言った。「この子と二人で話をしてただけでね。こっちの方が先にいたんだ」
古畑が、目をみはっている。
「──和男か!」
泉がびっくりして振り向き、
「あの──」
「古畑和男です」
と、若者が言った。「今、着いたところです」
「そう……。そうでしたか」
と、泉は息をついて、「確か──アメリカへ行っておられた?」
「そうです。圭子のことを聞いて、帰って来ました」
「ああ……。全くお気の毒なことでした。いや、本当に……。じゃ、古畑さん、私はこれで」
「ああ」
と、古畑が|肯《うなず》く。
泉が行ってしまうと、父と息子はしばらく黙って向き合っていた。
「和男……。でかくなったな」
と、古畑は言った。
「まあね」
「その子は?」
「和男君の友人です」
と、少女が言った。「紀子といいます」
「フン、ガールフレンドか。さぞ圭子が喜ぶだろう」
古畑は肩を揺すって、「母さんが待ってるぞ」
「すぐ行くよ」
「ああ……。線香の一本でもあげてやれ」
古畑は|素《そっ》|気《け》なく言って、立ち去った。
少女はホッと息をついて、
「どうもありがとう」
と言った。
「いや、どうってことじゃない。あの泉って人は、元警官なんだが、やめてからも他人のことを監視して面白がってるようなところがあってね。嫌いだったな、昔から」
と、和男は言った。「君は──」
「間近紀子といいます」
と、少女は言った。「殺された圭子さんのお兄さんなんですね」
「うん。君はここで何をしてたんだ?」
「ええ……。ちょっとわけがあって」
と、紀子が口ごもる。
「無理に言わなくていいよ。さ、僕も家へ帰る」
二人は一緒に歩き出した。もちろん、和男はすぐに建物へ入ることになるので、
「じゃ、ここで」
と、足を止めた。
「どうもありがとう」
建物の入口で、二人は別れた。
紀子は、和男がバッグを手に歩いて行くのを見送って──。パラパラと何かが落ちて来た。
上を見ると、何か黒いものが真直ぐに──。
「危い!」
紀子は、和男の背中へと突っ込んで行った。
二人が重なるようにしてコンクリートの上に倒れると同時に、甲高く弾けるような音がして、土や小石が飛び散った。
「──何だ?」
と、和男が起き上る。
「何か上から……」
と、紀子は言った。
「植木鉢だ」
鉢が粉々に砕け、中の土が何メートルも周りに飛び散っている。
「──危いところだ」
和男は、立ち上って、「君──けがしなかったかい?」
「はい……。大丈夫」
和男がのばした手を、紀子はつかんで、立ち上った。
「お礼を言わなきゃ」
と、和男はそっと上へ目をやって、「頭に食らったら、命がないところだ」
「でも──どうしてこんな物が?」
「よく、手すりに植木を置いてる人がいるんだ。危いから、やめるように、っていつも言ってたんだがね」
「そうかしら」
紀子の言葉に、
「どういう意味?」
と、和男が紀子を見る。
「もし誰かが──」
「僕は、そんなVIPじゃないぜ」
和男は笑って、「君……紀子君か。圭子と似たところがあるな」
「同じ学校の後輩でした」
和男がびっくりしている内に、
「失礼します」
と、一礼して、紀子は駆け出して行った。
エレベーターの扉が開いて、
「和男!」
と、伸子が出て来た。
「お母さん。──ただいま」
和男は、母の手を握った。──伸子は、言う言葉がうまく見付からない様子で、
「よくまあ……。元気そうね。でも……こんなことでね……」
「母さん。しっかりして」
和男が肩を抱く。「父さんとはそこで会ったよ」
「少しおかしくなってるの。気を悪くしないで。お願いよ|喧嘩《けんか》しないでね」
「分ってるよ」
和男は、やさしく母の肩を|叩《たた》いて、「さ、家へ行こう」
と促したのだった……。
死体。──死体が消えた。
あの二人は確かにそう話していた。あれは何だったんだろう?
紀子は、歩きながら考え込んでいた。
あれが古畑圭子の父親だったとは。──紀子は、あの父親と息子の間に微妙な緊張感があることに気付いていた。
車が来たので、やり過ごそうと足を止めると、その大型の外車はスッと|停《とま》り、窓から見知った顔が|覗《のぞ》いた。
「やあ」
と、野田が言った。「乗らないか」
紀子は、ちょっとためらったが、
「同じ犯人を捜してる仲間だろ?」
と言われて、車に乗り込むことにしたのだった。
「今日は制服じゃないのか」
と、野田が言った。
「制服マニアですか? そういうのって好きじゃないなあ」
と、紀子は言った。「今日は学校が早く終って、一度家へ帰ってから出て来たんです。友だちと映画を見てくると言って」
「すると夕飯は?」
「どこかで食べてくる、って言って出て来ました」
「それはいい」
と、野田は肯いて、「じゃ友だち[#「友だち」に傍点]と食べようじゃないか」
と言った……。
「──こんな所。服装が合いません」
紀子は、やや気がひけて、ホテルの最上階にあるフランス料理のレストランに入って来る。
「裸でなきゃ大丈夫」
と野田は言って、紀子がポッと赤くなったのを見ると、「や、失礼。そんな意味で言ったんじゃないよ」
「──どうしてあんなこと、できたのかなって。ふしぎでした」
窓ぎわのテーブルについて、紀子は言った。
「俺だってびっくりしたさ。君のような子供の言うことを聞いちまったんだからな」
「子供?」
紀子はメニューを広げて、「子供を抱くんですか?」
「少しは俺も若返るかと思ってね」
と、野田は言った。「さあ、食事をしよう。栄養をつけて、真犯人を見付けてやらなくちゃな」
紀子が、ちょっと辛そうに、
「哲郎が──お|腹空《なかす》かしてるかもしれないと思うと……」
と言ったが、「でも、私が食べなくても、哲郎のお腹にその分入るわけじゃないんだし!」
野田はちょっと笑って、
「全く愉快な奴だ。さあ、今は食ベることだけ考えよう」
と、メニューを眺めた……。
「──死体だって?」
と、野田は言った。
「小さな声で」
と、紀子があわてて言った。「そんなことには慣れてるのかと思ってた」
「おい」
と、野田は顔をしかめ、「〈アンタッチャブル〉時代じゃない。そうそう人が死んでたまるか」
──食事はおいしかった。
食事の間は、どちらもあえて事件のことは話さなかったのである。やっと、デザートになって、初めて紀子が今日の出来事を話したのだったが……。
「死体のことを話してたんだな、そいつは?」
と、野田が低い声で|訊《き》く。
「ええ。殺された古畑圭子さんのお父さんと、泉っていう年寄りです」
「泉……。元警官の?」
「知ってるんですか」
「ああ。──ちょっとな」
野田は、それまで黙ってデザートのババロアを食べていたが、「──なあ。何と呼べばいい? 紀子、じゃ気を悪くするか?」
「どうぞ」
と、肩をすくめて、「できたら『|君《くん》』でも付けてほしいけど、ぜいたくは言いません」
「言うことがはっきりしてて、気持がいい。──な、紀子。心配させたいわけじゃないが……。その『死体』は、ケンジの奴だ」
紀子の手が止った。
「──一緒に逃げた人?」
「うん。死んだ。──殺された、と言った方が良さそうだ」
野田が事情を説明すると、紀子は目をつぶった。
「──どうした?」
「想像してるんです。思い浮かべてるんです。ケンジって人の痛さと苦しさを」
紀子は目を開けた。「あの人たちがやったんだわ」
「泉の奴め!」
と、野田はナプキンをギュッと握りしめた。「二人でやったことじゃないな」
「ええ、『みんな』とか言ってましたから」
「リンチか……。まるで昔の暗黒時代だな」
と、野田は首を振って言った。
「哲郎も、もしかして……」
「いや、あいつは大丈夫だろう。頭のいい男だ。ケンジはすこし抜けてた」
と、野田はため息をついて、「しかし、それがいいところだったんだ」
「分ります。哲郎も、よくブツブツ言ってたけど、憎めない子だとか」
「そうなんだ。気のいい奴で……」
野田は|咳《せき》払いして、「よく知らせてくれたな。捜す手間が省けた」
「待って下さい」
と、紀子は言った。
「何だ?」
「まさか──殺したりしませんよね」
「その二人をか?──さあ。できるもんなら、やってやりたいね」
と、野田は言った。「しかし、今はそんな時代じゃない。分ってるとも。ただ、きちんと落し前はつけてもらわないとね」
「それなら……」
と、紀子は何か思い付いた様子で、テーブル越しに身をのり出した。
「──何だ。キスでもするのかと思ったぞ」
と、話を聞いた野田が笑った。「うん、それがいい。なかなか面白いことを考える奴だな」
「|賞《ほ》めてるんですか? でも、哲郎、どこにいるんだろう」
コーヒーが来て、紀子は、ため息をついた。
「あいつは何とかするさ」
「それで……女の子を殺した犯人の方は、どうやって捜すんですか?」
「俺たちは、ワルの動向に関しちゃ情報網があってね。古畑圭子の前に一人の女の子が殺されてる。憶えてるか?」
「ええ。同じ犯人かもしれないって」
「そうだ。もし哲郎が捕まったら、あれも奴のやったことにされちまうだろう」
と、野田は肯いた。「前の事件のとき、哲郎は俺の用で大阪へ行っていた。しかし、もちろん、俺の証言じゃ、警察は信じちゃくれまい」
「じゃ、何か具体的に──」
「そういう奴は、たいがい前にそれらしいことを起こしてるもんさ。だから、その|類《たぐい》の男を捜してみる。みんなに声をかけてある。何か引っかかって来るだろう」
「ありがとう」
「礼にゃ及ばねえ。──これがケンジの|弔《とむら》いにもなるってもんだ」
他のテーブルの笑い声が聞こえて来た。野田は、ふと、
「──あの声は」
と振り向く。「やっぱりか!」
二人から少し離れたテーブルで、若い女と食事している男。
紀子の目から見ても、こういう場所にふさわしいタイプの男ではない。
「知ってる人?」
と、紀子が訊く。
「ああ。どっちもな」
と、野田は肯いた。「なあ、紀子。間近っていったか、姓は?」
「うん」
「すると……頭文字が〈M〉。俺が野田で〈N〉。〈MとN探偵事務所〉でも開くか」
「冗談言ってる場合ですか」
と、紀子がにらむ。
「そうおっかない顔、するなよ」
と、野田は苦笑して、「──あそこにいる男の顔、憶えとけ」
「ええ。──どうして?」
「小堀って刑事だ」
と、野田は言った。
7 影
面白くない……。
──工藤良子にとって、人生は面白くないことの連続であった。
といっても、大した経験をしてきたわけでもない。何しろ良子はまだ十七歳なのだから。
もちろん、十七歳は十七歳なりに「世界」や「生活」を持っているわけで、それが一向に面白いことに結びつかない、ということなのである。
みんな|凄《すご》く面白いことに出会ったり、面白いものを買ったりしてるのに、どうして私は……。
「いつも口を|尖《とが》らしてると、そんな口になっちゃうよ」
といつも母に言われていても、つい口を尖らして歩いてしまう良子だった。
その、口を尖らした顔を、「|可《かわ》|愛《い》い」と思う男もいた。だが、それは良子のボーイフレンドになるべくもない男だったのである。
──夜、十時を少し回って、良子は駅への道を歩いていた。
いつもこう遅いわけではないが、十時というのは良子の感覚では「早い」し、母親の感覚では「遅い」。この辺が難しいところである。
何人かの友人とカラオケをやっていたので、それが尾をひいて、夜道を歩きながら小さな声で、好きなグループの新曲を歌っていた。
でも──良子は自分でも分っていた。歌が下手なので、いやになってしまう。みんな上手なのに……。
そう。家にカラオケセットを持ってる子が大勢いるんだから。上手になるはずよね!
でも、良子の家では、父も母もカラオケとかが大嫌いで、決して人前では歌わない。
だから、カラオケやってて遅くなった、というときは、ご機嫌が悪いのである。
今日も、こんな時間になってしまった。帰ったら、さぞかし文句を言われるだろう。
といって、帰らずにどこかで夜を過ごすだけの度胸は、良子にはなかった。
セーラー服姿のままだから、そうフラフラしていられない。駅の近くは結構先生たちが見回っているので、用心しなきゃいけないのである。
もし、先生に見付かって|叱《しか》られでもしたら──いや、叱られるのは平気だが、家に連絡が行ったら、毎月のこづかいをストップされてしまう。
「うるさいんだから、全く!」
と、良子は|呟《つぶや》いた。
ゴーッと音がして……道を曲ると、ガードをくぐる。電車が上を駆け抜けて行ったのである。
もう駅は近い。あの次の電車には乗れるだろう。
車が一台、後ろからやって来て、良子は少し|脇《わき》へ寄った。
ライトが良子の影をガード下の壁に投げかけていく。──良子は、もう一つ、人影が壁に映るのを見た。
誰だろう? 振り向くと、もう車は行ってしまったので暗くなっていたが、ガード下へ入る辺りに、男の姿がシルエットで浮んでいた。
男は立ち止っていた。良子を見ている。はっきりとそれは分った。
良子は、気味が悪くなって歩き出した。コツコツ──。男の靴音もついて来る。
もう一度足を止めて振り返ると、男も足を止める。
「──誰?」
と、良子は声をかけた。「何か用?」
男は黙っていた。コートをはおっているようだが、それ以上は何も分らない。
「ついて来ないでよ!」
と言ってやって、良子は歩き出した。
ガードをくぐって、その道を少し先で曲れば、駅前へ出る。まだ充分明るいはずだし、人通りもあるはずだ。
足を速めて──良子は、大して心配していなかった。
しかし、突然、タタッと足音が追って来た。振り向くと、男が駆けて来る。
良子自身も、どうしてそんなことができたのかよく分らないのだが、とっさに|鞄《かばん》を男の方へ投げつけていた。
鞄は、男の前に落ちた。ちょうど、男はその鞄につまずく格好になった。よろけた。
良子は駆け出した。ガード下を抜け、そのまま必死に走る。男の足音が追いかけて来た。
助けて!──そう叫ぼうとしたが、全力で走っていて叫び声を上げるというのは容易でないと良子には分った。
セーラー服のダブッとしたスカートが、こんなときは足に絡みつくようで、走りにくいことも分った。しかし、今さらどうすることもできない。
あと少し|人気《ひとけ》のない道が続いていたら、良子は追いつかれていただろう。
しかし──たぶん、良子の一生の内で、これほど必死に走ったのは、生れて初めてか、小学一年生のときの運動会以来だったろう──男がすぐ背後に迫ったとき、良子は駅前を見渡せる場所へ出ていた。
そして、
「ワッ!」
目の前にいた男にぶつかって、一緒に引っくり返ってしまったのだ。
「何しやがる!」
と、その男は怒鳴った。
「ご、ごめんなさい……。でも──追っかけられて」
と、良子が急いで振り向くと──。
追って来た男がハッと足を止め、右手につかんでいた物をコートの下へ隠すところだった。
「キラッと光ったぜ」
と言ったのは、良子とぶつかった男の仲間らしかった。「兄貴、大丈夫かよ?」
「俺はいい!」
と、「兄貴」と呼ばれた男は立って、「逃げたぞ。今の|奴《やつ》を追いかけろ!」
「へい!」
と、もう一人が、あのコートの男を追って駆けて行く。
良子はポカンとしていた。──ぶつかった相手はどう見ても怖そうなヤクザで……。
「もしもし」
と、そのヤクザが携帯電話で話している。「──浜田です。今、K駅前ですが、ナイフを持った男が、女学生を追いかけてました。──ええ、無事です。男は逃げました。ガードをくぐって、市場の方へ。今、三郎が追いかけてます。──ええ。顔は見えませんでした。コートを着てます。──分りました」
浜田というそのヤクザは、ペタッと座り込んでいた良子を、
「しっかりしな」
と立たせた。
「──すみません」
と、良子はまだ|呆《ぼう》|然《ぜん》としている。
「危いとこだったぞ。もう何秒か遅かったら、殺されてるとこだ」
「はい……」
「もういいから帰んな」
「ええ」
良子は、ボーッとしている。
「──どうかしたのか?」
「いえ……。鞄が──」
「鞄?」
「男にぶつけて来ちゃったんです」
「何だ、そうか。どこだ?」
「あそこのガード下」
と、浜田という男は笑って言った。「怖がることないぞ。もうあいつは逃げてる」
「ええ……」
「ま、俺の方も怖いかな」
と、浜田が笑った。
「いえ、そんな──」
良子は、ガード下へ戻ると、「あった! すみません」
「よし。じゃ、早く家へ帰りな」
「どうも──ありがとう」
良子は、こんな風に人に礼を言ったのは初めてだという気がした。
「礼を言われると照れるぜ。慣れてないからな」
と、浜田が苦笑する。
「あの人──」
と、良子が浜田の肩越しに見たのは、さっきコートの男を追いかけて行った若い男だった。
「何だ。──三郎! 見失ったのか?」
と、浜田が声をかけると、
「兄貴……。ごめんよ」
三郎という若者が、そう言うと、崩れるように倒れた。
良子は、その体の下から血が広がっていくのを、呆然として眺めていた。
「──三郎!」
浜田が駆け寄って、「しっかりしろ! 畜生!」
良子は、浜田が携帯電話で連絡を入れ、救急車を寄こしてくれと頼むのを聞いていた。
「──出血がひどい」
浜田が三郎の体を抱き起こして、「頑張れ!」
「血を止めないと」
と、良子は駆け寄った。「このスカート、厚手だから」
「おい──」
良子はスカートをスパッと脱ぐと、
「これで巻いて!」
「分った」
浜田は、スカートを受け取ると、絞るようにねじって、三郎の脇腹の刺し傷を押えるように巻きつけた。三郎が小さく|呻《うめ》く。
「しっかりしろよ!」
浜田はそう呼びかけてから、「──ありがとう」
と、良子に向って言った。
やさしい口調だった。
「──間近さん。間近紀子さん」
と呼ばれて、
「はあい」
と紀子は、席を立った。
お昼休みで、紀子は伊東みどりとお弁当を食べているところだった。
「──お電話よ。お宅からですって」
と、事務室の女性が言った。
「はい。すみません」
急ぎ足で事務室へ。──何だろう。学校に電話してくることなんか、まずないのに。
「──どうも」
と、事務室へ入って、外線の電話を取った。「もしもし。──もしもし」
少し間があって、
「紀子か」
と、かすれた声がした。
紀子は息をのんで、チラッと周囲を見回したが、昼休みのことで、誰も紀子の方に注意してはいない。
「もしもし。──私よ」
と、何気ない口調で、「どうしたの?」
「すまないな」
と、哲郎が息をつく。「聞いててくれ。迷惑かけたくなかったんだが……。けがしちまって」
「──具合は?」
「足をやられて動けないんだ。──もし大丈夫なようなら、もう一度だけ、食いものとか……持って来てくれるか。これで最後だから」
「いいよ」
と、いかにも家族と話しているような調子で、「どこへ行けばいいの?」
言われた場所を頭に入れて、
「OK。じゃ、帰りに寄るよ。大丈夫?」
「ああ……。何とか生きてる」
と、哲郎が言った。
「私もよ」
紀子はしっかりと言って、「じゃあ」
と、電話を切った。
教室へ戻ろうとして、
「──間近」
と呼び止められた。
「矢川先生」
「ちょっと来い」
「何ですか?」
「いいから来い」
矢川が、いつになく難しい顔をしている。何だろう?
ついて行くと、職員室の奥のソファに、男が二人、座っていた。
「お待たせしました」
と、矢川が言った。「これが間近紀子です」
紀子は、一方の男に見憶えがあって、話の見当をつけられた。でなければ、やはり動揺しただろう。
「小堀というんだ」
と、その刑事は言った。「間近紀子君だね?」
「はい」
と、きちんと|膝《ひざ》を合せて座り、「何かご用でしょうか」
「中野哲郎を知ってるね」
どうせ、ちゃんと証人を見付けているのだろう。否定してもむだだ。
「知っています」
と、真直ぐに小堀を見て答えた。
「どういう関係?」
「友だちです」
「ふむ。──今、中野がどうなってるか、知ってるね。何をしたかも」
「彼は犯人じゃありません」
と、紀子は言った。「そう信じています」
「間近……。お前、どうしてそんな男と──」
と、矢川が言った。「分ってるのか! 古畑が殺されたんだぞ」
「まあ、落ちついて」
と、小堀は言った。「君は会ったかい、中野に? 逃げている中野に」
「あの|後《あと》は会っていません」
「そうか。──本当だね。もし|奴《やつ》の逃亡を助けたりすれば、罪になる。分るね」
「はい」
「中野のような奴と、どこで知り合ったんだ?」
紀子は、感情を出さないようにして、
「踏み切りで、子供が転んでけがしてるのを、彼が助けたんです。私がその子の傷の手当てをしてやって──」
「おいおい、TVドラマじゃないよ」
と、小堀が笑って言った。「大方、どこかのディスコででも知り合ったんだろ。──どこまで行ってるんだ、奴とは?」
紀子は|頬《ほお》を紅潮させて、
「どういう意味ですか」
と言った。
「──まあいい。優等生の仮面をかぶってる、この手の子が、一番とんでもないことをやるんですよ」
「よく注意します」
と、矢川が頭を下げる。
「処分はそちらへお任せします。まあ、お宅へもよく話しておきましたから、連絡をとり合って下さい」
紀子の顔から血の気がひいた。──家へも話しに行ったのだ!
「では」
と、行きかけて、「いいね。もし、奴から何か言って来たら、すぐ届けるんだ。そうなりゃ、学校の方でも考えてくれるかもしれない」
紀子は何も言わなかった。
「──ご苦労様でした」
矢川が刑事たちを送り出す。
「先生」
と、紀子は言った。「私、退学ですか」
「さあな。──それはこれからだ」
「私が誰と付合っても、自由だと思いますけど。私が何かしたわけじゃ──」
「間近。お前も分ってるだろう。そんな言い方が通るかどうか」
「分ってます。──通らないことがどうかしてる、ってこと」
矢川は渋い顔で、
「ご両親がじきに見える。一緒に帰って、当分は自宅で謹慎だ」
「──はい」
言ってもむだだ。──紀子は心を決めた。
両親が来たら、もう逃げられない。
「教室から|鞄《かばん》を取って来ていいですか」
「うん。ここへ戻って来て、待ってろ」
紀子は、廊下へ出ると足早に教室へ戻った。
「──何だったの?」
と、みどりが|訊《き》く。「青い顔してる」
「みどり」
紀子は、財布だけブレザーのポケットに入れると、「もう会えないかも」
「え?」
「電話するね」
紀子は教室を出ると、急いで図書館へと向った。正門や裏門は、さっきの刑事が見張っているかもしれない、という気がしたのだ。
図書館の裏側に、塀の壊れた所があって、こっそりと出入りできるのだ。
たぶん、二度とこの学校へ来ることはないだろう、と紀子は思った……。
8 包 囲
電話が鳴り出して、うたた寝していた泉は、目を開けた。
「何だ……」
夕方になっていた。鳴り続ける電話へ手をのばす。
「──はい。──もしもし。──どなた?」
と、顔をしかめながら言った。
一向に何も言わない。
「何だよ。こっちは忙しいんだ」
と文句を言うと、
「こっちは、いてえよ……」
「何だと?」
「いてえ……。ひでえじゃねえか。どうしてあんなに殴ったんだよ……」
細い、かすれた声。
「──誰だ?」
泉は座り直した。
「おまけに……あんな高い所から落っことしやがって……。ひでえ奴だ……」
「おい! 誰なんだ!」
「憶えてろよ……。|這《は》ってでも……どうしてでも、仕返ししてやる……」
「貴様──」
プツンと電話が切れる。
泉は、ツーツーという音だけが聞こえる受話器を、じっと握って座り込んでいた。──ドッと冷たい汗が背中を流れて行く。
「──母さん」
と、古畑和男が声をかける。
「どうしたの?」
伸子は、台所から顔を出した。「夕ご飯、じきだよ」
「父さんは?」
「さあ……。出かけたけどね、お昼過ぎに」
「どこへ?」
「さあ。よく知らないわ」
和男は、ちょっと考えてから、
「父さん、どうかしてるよ」
と言った。
「そりゃあ……。あんなに圭子を|可《かわ》|愛《い》がってたからね。仕方ないよ」
「そうかな」
和男の言葉に、伸子は、
「どういう意味?」
「それだけじゃないよ。あの様子はまともじゃない」
「和男──」
「分ってるんだろ、母さんだって。とてもじゃないけど……。俺はすぐアメリカへ戻るからね。圭子にはすまないけど、でも、分ってくれるはずさ」
和男は、軽く肩をすくめて、「出かけて来る」
「出かけるって……。どこへ?」
「ちょっと」
止める間もなく、出て行ってしまう。
伸子は、力が抜けてしまったように、ペタッと座り込んだ。
もう、外は大分暗くなっている。
圭子の写真。──|微《ほほ》|笑《え》んでいる圭子。
あの子が、死ぬ前にあんな笑顔を見せてくれたのは、いつだったろう?
圭子……。いつからか、何かが狂ってしまったのだ。
和男がアメリカへ行ってしまうまでは、それでも家の中は何とか平和だった。しかし、和男がいなくなると、急に明りを失ってしまったかのように、圭子も笑うことがなくなり、夫もいつも不機嫌で、よく伸子に当り散らすようになる。
圭子は、夜遅く帰ることが多くなって、何を訊いても答えないようになって来た。
相談しようにも、夫はいつも酔って夜中に帰って来て、眠り込んでしまうばかり。
伸子は疲れ切っていた。──そう、できることなら、死んでしまいたい、とさえ思っていたのだ。
それが……。それなのに。
圭子。──圭子。どうしてあんたが先に死んでしまったの?
母さんを出しぬいて死ぬなんて、ひどいじゃないの!
伸子は、両手で顔を覆って泣き出した。そして、外が夜になり、部屋が暗がりの中に沈んでも、全く気付かなかった……。
「──さ、飲んで」
と、紀子は紙パックのウーロン茶にストローを差して渡した。
「ありがとう」
哲郎は息をついた。「──|喉《のど》がかわいてたんだ。生き返った」
「うん」
「生き返った、か……。ケンジの奴、可哀そうに」
「哲郎のせいじゃないよ」
「でも、俺がついててやれたらな」
と、哲郎は言った。「ケンジは生きてたかもしれない」
「二人とも死んでたかもしれないよ」
哲郎は紀子を見て、
「そしたら、泣いてくれてたか?」
「殴るよ」
「よせ! お前、本気でそういうこと言うからな」
紀子は笑った。──笑い声が、古びた建物の中に響く。
今は閉めてしまって、荒れはてた工場。その廃屋の奥に、二人はいた。ボロボロの|椅子《いす》にかけて、哲郎は、紀子の買って来た弁当を食べたところだった。
「でも、紀子……。帰った方がいい。ここにいて、もし一緒に捕まったら、お前まで少年院だぞ」
「離れないよ」
紀子は、哲郎の肩へ頭をもたせかけた。
「頑固だな」
「もちろん」
二人の唇が重なる。──紀子は、
「シャケの味がした」
と笑った。
「もう夜だな」
「真っ暗だね、ここ、夜になったら」
「ああ。──どこかへ移るって言っても、この足じゃ……」
「いいよ、ここで。隠れてよう。──本当の犯人が見付かるかもしれないよ」
「むだだよ。もう指名手配までされてる」
「しっかりして!」
と、紀子は、哲郎の背中をどやしつけた。
「いてて……。乱暴するなよ」
と、哲郎は顔をしかめた。
「私、哲郎を守ってみせるからね」
と、紀子は言った。「家も家族も、全部捨ててやる」
「紀子」
哲郎の腕に抱かれて、紀子は力一杯顔をその胸に埋めた。
「──好きだよ、哲郎」
「ああ。──分ってる」
「ここじゃ、何もできないね」
「できなくてもいい。お前は俺のもんだ」
「うん……」
紀子は、哲郎の鼓動をじっと聞いていた。そしてパッと体を起こすと、
「じゃ、行くよ」
と言った。
「どこへ?」
「じっと待ってるなんて、いや。この手で犯人を捕まえてやる」
「おい──」
「心配しないで、待ってて!」
「紀子。──危いからよせ! 紀子!」
哲郎の呼ぶ声を背中に、紀子は暗がりの中、用心しながら戸口の方へと歩いて行った。
|錆《さ》びついた鉄のドアが半開きになっている。紀子は、そっと外を|覗《のぞ》いてみた。
人の姿が……。錯覚か?
いや──そうじゃない!
紀子は、一瞬の内に血の気がひいた。
警察だ!
目が慣れてくると、パトカーが二台、三台と集まっているのが分ってくる。そして警官が足音を忍ばせて動いている。
|尾《つ》けられたのだ。──何てことだろう!
紀子は、そっとドアから離れると、哲郎のいる方へと戻って行った。
「──何か用かい?」
と、いぶかしげにその男は|訊《き》いた。
これが?──こんな男がそうなのか?
「古畑と申しますが」
と、頭を下げて、「こちらに『先生』はおいでで?」
「『先生』?」
男は、警戒したような目で、「あんた、何者だい?」
やはり違う。この男じゃない。
「『先生』に取り次いで下さい。古畑とお伝え下されば分ります」
古畑はそう言って、「よろしく」
と、また頭を下げる。
ていねいな口調が|却《かえ》って気味悪いのか、応対に出た男は、
「待ってな」
と言って引っ込んだ。
古畑は、そのドアが閉りそうになるのを素早く止めて、男が奥へ入って行くと、スッと中へ入りこんだ。
安物の香水の|匂《にお》いがしている。──ごく普通のマンションの一室だが、中は「普通」じゃない。
重いカーテンで仕切られて、奥からは何の物音も聞こえないが、玄関に立つ古畑には、中の様子も大方分っていた。
古畑は、勝手に上り込むと、カーテンをそっとからげてその中へ入った。
薄暗い廊下に、紫色の照明が|妖《あや》しいムードをかもし出している。ドアがいくつか並んでいて、その一つが細く開いていた。
古畑は、そっとそのドアへ近付いた。
「──どうして追い返さなかったんだ」
と、不機嫌そうな声。
「どうも……帰りそうもなくて」
と、入口に出て来た男が言っている。
「会いたくないな。──何とか|上手《うま》くごまかして──」
と言いかけて、「誰かいるぞ」
廊下へ、あの男が顔を出した。
「勝手に入らないでくれよ」
「ごまかされちゃかなわないからね」
と、古畑は言った。「出て来てもらいましょうか、『先生』」
少し間があって、
「──分った」
と言う声。「向うへ行ってろ」
「はあ」
と、応対してくれた男が、チラッと古畑をにらんで玄関へ戻って行く。
古畑は、そのドアの前で足を止め、ドアを大きく開けた。
「──どうも」
と、「先生」は言った。「お入り下さい」
古畑は、中へ入ると、ドアを後ろ手に閉めた。
「本当に『先生』だったんですか」
と、古畑は言った。「そういうあだ名かと思っていました」
「隠すつもりだったんですが、袖口にチョークの粉がついているのを女の子が見て、『先生』だって……。それが通称になっちまいました。──ま、かけませんか」
ベッドと二つの椅子、小さなテーブル。それでもう身動きできないくらいの狭い部屋だ。
「古畑さん──」
と矢川[#「矢川」に傍点]は言った。
「先生」
と、遮って、「圭子のメモにあった『先生』はあんたのことですか」
矢川は、ちょっとため息をついて、
「珍しくありませんよ、今どき。先生と生徒の恋なんてね」
と言った。「それに、もとはと言えば、あの子の方から僕に言い寄って来たんだ」
「そうですか」
「いや、あなたが腹を立てるのは分ります」
と、矢川は言った。「まあ、多少私も軽率だった。しかしね、圭子はあなた[#「あなた」に傍点]のことを負担に感じてたんですよ」
「言いわけですか」
「本当の話です」
と、矢川が言い返す。「いつもここで会うと、圭子は、『帰りたくない』と言ってました」
「|嘘《うそ》です」
「いや、本当ですよ。圭子は家へ帰りたがらなかった。──お父さんと会いたくない、と言っていたんです」
「圭子が……」
「そうです。──あなたは、圭子を可愛がるあまり、家の中へ閉じこめておこうとした。ボーイフレンドなんか作ろうものなら、殴られた、と言っていましたよ」
「当然です。あれはまだ子供だった」
と、古畑は言った。
「いや、そうじゃない。圭子はもう大人でしたよ」
「父親の私が、あの子のことは一番良く知っています」
「そうでしょうか」
矢川は、軽くビールを飲んで、「しかし、分らないでしょう、男をいつ知ったか」
「何のことです」
「圭子の初体験ですよ。少なくとも、僕は初めての相手じゃなかったんです」
古畑は口をつぐんだ。矢川は続けて、
「まあ、圭子とは何度か寝ました。否定はしませんよ」
と、ベッドの方へ目をやった。「しかし、あの子は僕の何人かの恋人の一人でしたから、そのことも良く分っていた。──確かに責められれば謝ります。しかし……」
「先生」
と、古畑は言った。「私はね、ちゃんと知ってますよ」
「知ってる?」
「圭子がいつ男を知ったかね。──ちゃんと分ってます」
矢川は、じっと古畑を見つめていた。
「──古畑さん! そうなんですね」
と、目をみはる。「何てことだ!」
「先生にそんなことが言えますか」
「しかし僕は……。あの子が僕の所へ救いを求めて来ていたのも当然だ。──父親に犯されてたんだから」
「犯された、ですって?」
古畑はムッとした様子で、「とんでもない! あの子は幸せだったんです。いつも、私に抱かれて喜んでいたんだ。それを先生、あんたが、めちゃくちゃにした」
「馬鹿な! 私はね、ちゃんと聞いてるんだ。家へ帰るのは地獄みたいなものだ、と言って泣いてるのを、見てるんですよ」
「でたらめだ!」
パッと立ち上ると同時に、古畑の右手はナイフを握っていた。
「何するんだ!」
矢川は|怯《おび》えて声を上げた。「誰か来てくれ!」
「先生は先生らしくして下さい。みっともない」
「古畑さん……」
矢川が青ざめた。「──そうか! あんたがやったんですね! 自分の娘を殺したのか!」
「私はね、見るに忍びなかったんです」
と、古畑はナイフをゆっくりと振り上げて、「あの子があんたのオモチャにされてるのがね」
「オモチャにしてたのは、そっちだろう!」
「私は愛してた! だから──だから、あの子が妊娠したかもしれない、と言ったとき、罪の源を断つしかないと決心した。あの子を殺すことで、あの子を救ったんですよ」
「古畑さん──」
「あの子の恋人[#「恋人」に傍点]も許すわけにいかん、と決心したんです。捜すのにちょっと手間どりましたが……。先生、あの子が向う[#「向う」に傍点]で待ってますよ」
「古畑さん……。やめて下さい!」
狭いので逃げる余地がない。
古畑は、ゆっくりと矢川を追いつめて行く。
「誰か! 助けてくれ!」
と、矢川が叫んだ。
と──古畑が立ちすくんだ。そして、ゆっくりと倒れた。
立っていたのは、二十歳くらいの若者で、
「──古畑の息子です」
と言った。
「息子さん?」
矢川の顔が汗で光っている。
「妹と父の間が、まともじゃないことは分ってました。それで、アメリカへ逃げたんです」
と、古畑和男は言った。「でも、妹からも手紙が来て、父がどうしても自分を離してくれない、と言って……」
「そうですか……」
「矢川先生、とおっしゃいましたね」
古畑和男は、厳しい口調で、「生徒と関係を持つなんてことは、とんでもないことです」
「それはまあ……」
「当然ニュースが流れるでしょう。あなたも辞めざるを得ないでしょうね」
「いや、しかし──」
と、矢川は言って、「お父さんは、どうしたんです?」
「痴漢撃退用の電気ショックで、のびてしまったんです。──父のやったことは、きちんと明るみに出しますよ」
と、古畑和男は言った。「さ、警察へ行きましょう」
「あの──それは何とか……。古畑さん」
矢川の声が震えた。
「先生。もう無理です。父のことが分れば、自然、話をせざるを得なくなる」
古畑和男は、ドアを開けて、「パトカーの警官を呼びます」
と言った。
「哲郎……」
紀子は、しっかりと哲郎に抱きついた。「ごめんね」
「いいんだ。──それより、お前も巻き込まれる」
「もういいのよ」
逃げようがない。──警官はもうライトで工場の中を照らしながら進んで来ていた。
「哲郎……。|諦《あきら》めないでね」
紀子は、哲郎の手を握った。
足音とライトが、揺れながら近付いて来る。そして、明りが二人を照らし出そうとしたとき、
「おい!」
と、声が響いた。「引き揚げだ!」
ガヤガヤと騒いでいる。
「引き揚げるぞ! 早くしろ!」
と怒鳴っているのは、あの小堀という刑事だ。
ゾロゾロと警官たちが出て行ってしまう。
「──どうしたんだ?」
と、哲郎が|呆《あっ》|気《け》にとられている。
「分んないわよ。でも──本当に帰ったみたい」
信じられない思いで、紀子がそっと進んで行くと、戸口に人の姿が見えた。
「──いるのか?」
「野田さん!」
「いたか。哲郎も?」
「はい! ここにいます」
「無事か?──良かった」
と、野田がホッと息をついて、言った。「犯人が捕まった」
紀子は飛び上って、
「哲郎!──哲郎!」
と叫びながら駆け戻ったのだった……。
エピローグ
「古畑も、きっとケンジを殺すのに加わったんだろうと思ってね」
と、野田は言った。「見張らせといたんだ。しかし、まさか自分の娘を殺したとはね」
「しかも、他の女の子も殺してたんですものね。もっと早く分っていれば……」
と、紀子は言った。
紀子は、〈社長室〉へ来ていた。
「助かりました。よく、あの刑事が引き揚げましたね」
「ちょっとおどかしてやったのさ」
と、野田は言った。「あんなレストランで女と食事とはね。しかも、あの女は小堀の上司の女房だ」
「そうだったんですか」
紀子は学校の帰りで、ブレザーの制服姿だった。
「君も、ちゃんと学校へ戻れて良かった」
「文句なんか言わせません。矢川先生のことで大スキャンダル。家じゃブツブツ言ってますけど」
と、紀子は言ってから、「──哲郎が出所したら、足を洗わせて下さい」
「分ってる」
と、野田は|肯《うなず》いた。
「本当ですか」
と、紀子は目を輝かせた。「ありがとう」
「事件解決のお祝いだ。それに、泉の|奴《やつ》も逮捕されたしな」
「古畑さんの奥さんが、ケンジさんを助けようとしたらしいですね」
「ああ……。間に合わなかったがね。──しかし、三郎は助かったよ。それに、助けてくれた女の子──良子とかいったかな。浜田の奴が|惚《ほ》れちまって。第二のカップルが誕生するかもしれんね」
と、野田は笑った。
二人がちょっと黙る。そして、
「──じゃあ」
紀子は立ち上ると、「約束ですから」
と、ブレザーを脱いだ。
「いいんだ」
と、野田は首を振った。「力を合せて犯人を見付けた。それでいいさ」
「そんな……。私、約束は守ります」
「必要ない。大体、哲郎が可哀そうじゃないか」
「そっちが文句言うなんておかしいじゃありませんか!」
「頑固な奴だな、全く!」
「約束通り、抱いてもらうまで帰りません!」
──二人の「頑固者」は、まだ当分やり合っている気配だった。
悪魔を追い詰めろ!
1 墜 落
格別、珍しいことでもない。
出席をとって、返事のない生徒は、〈欠席〉なのである。
安東令子は今年四十歳。教師として、もう二十年近いキャリアを経て来ていて、出席をとる、なんてことは呼吸するのと同様、ほとんど無意識の内にこなすことができた。
そのとき、安東令子は、
「栗田さん」
と呼んだのだった。「栗田みゆきさん」
当然、返事があると思って、手にしたボールペンは早くも〇印を半分書いてしまっていた。しかし──返事はなく、
「栗田さん?」
と、出席簿から顔を上げた。
この教室へ入って来たとき、安東令子は栗田みゆきを見たような気がしていたので、当然出席と思ったのである。
確か、あの子は窓際の席で……。
そう。──確かに栗田みゆきはいつもの席に座っている。
「栗田さん。──何をぼんやりしてるの?」
安東令子は、極力|叱《しか》るような言い方にならないよう気を付けながら言った。
栗田みゆきは、おとなしい、真面目な生徒だった。おしゃべりするのを生れついての権利と思っている最近の子とは違っていた。
だから、たまにぼんやりすることがあっても叱るまいと思ったのである。
だが、どうも様子がおかしかった。少々ぼんやりしていても、これだけくり返し呼ばれたら気が付くはずだ。
周囲の席の子たちが振り向いて、
「みゆき。──みゆき!」
と、声をかけた。
それでも、栗田みゆきはじっと前方を見つめたまま、動かない。
「顔色が悪いようね。──気分でも悪い?」
と、安東令子はメガネを直して、机の間を歩いて行った。「栗田さん、聞いてる?」
と、突然──栗田みゆきが飛び上るように立ち上ったのである。そして、
「来ないで!」
と、耳をつんざくばかりの叫び声を上げた。「近寄らないで! 放っといて! 私のことなんか、放っといて!」
ほとんど、言葉になっていないほどの金切り声だった。誰もが|唖《あ》|然《ぜん》として、動くこともできない。
「やめて!──やめて!──触らないで! やめて! いやよ! いやよ!」
髪を振り乱し、全身をよじるようにして、栗田みゆきは叫んだ。
「しっかりして! 栗田さん! 落ちつくのよ!」
やっと我に返った安東令子は、みゆきの肩をつかんだ。すぐにみゆきは身をよじって逃れたが、教師は追いすがるようにして抱きしめると、
「誰か、手を貸して!」
と怒鳴った。
その前から、席を立って駆けつけて来ていたのは、間近|紀子《のりこ》だった。しっかりした子である。
が、紀子の席は大分離れていた。栗田みゆきは、窓に体ごとぶつかって、ガラスが割れた。
「危い!」
と、間近紀子は叫んで、間の机の上に飛び上ると、宙を飛んで、もみ合う二人の上に落ちた。
だが、紀子が捕まえることができたのは一人だけだった。一瞬早く、もう一人の体は割れた窓のガラス片と共に外へ落ちていたのだ。
声にならない悲鳴がクラスの中に満ちた。
紀子は起き上って、
「みどり!──先生は?」
と叫んだ。
しっかりと、みゆきを床の上に押えつけている。紀子の親友の伊東みどりが駆けて来て、窓から下を見た。
「落ちてる」
みどりの声は上ずっていた。「下の……テラスに……。倒れてるわ、血を吐いて」
一斉にクラスの子たちが立ち上る。
「みどり! 早く先生たちを呼んで!」
紀子は、なおも暴れようとする栗田みゆきを必死で押えつけた。「誰か、手を貸して! みゆきを押えて!」
しかし、誰もが|呆《ぼう》|然《ぜん》とし、まるで悪い夢でも見ているみたいに、突っ立っていた。
紀子は、みゆきの|爪《つめ》で顔を引っかかれ、殴られながらも、押えつける手を緩めなかった。
みどりが男の先生数人を呼んで来たとき、紀子の制服はほとんどボタンが飛び、ブラウスは裂けてしまっていた。
「──よし、間近、任せろ!」
と、男の教師が代ってくれて、やっと紀子は床へ転がるようにして逃れた。
「紀子! 大丈夫?」
みどりが駆けて来て、「急いだんだけど──」
「分ってるわ。大したことない。引っかき傷くらいよ」
と、ぐったり|椅《い》|子《す》に座り込んで、「安東先生は?」
「今、先生たちが──」
と言いかけたとき、学年主任のベテラン、水上の|禿《は》げ上った頭が見えた。
「何ごとだ! 一体何があったんだ?」
真っ赤な顔でやって来ると、紀子の様子を見て、
「──|喧嘩《けんか》でもしたのか」
と言った。
「違います! 私、みゆきを……」
振り向くと、栗田みゆきが急にぐったりと気を失ってしまった。
「──気絶した。ヒステリーか?」
「水上先生。安東先生は?」
水上はチラッと腹立たしげな表情を見せると、
「亡くなった」
と言った。
水上が怒っているのは、こんなことを起こした生徒にではなく、こんなことが起こったということ、それ自体になのだと、紀子は分っていた……。
2 MとN
「ほう!」
野田は顔を上げて、紀子の顔を一目見るなり、愉快そうに声を上げた。「その傷は? 男をめぐって女同士、取っ組み合いでもしたか?」
「そんなことじゃないんです」
|頬〉っぺたやおでこにバンソウコウを貼《は》った間近紀子は、制服姿に学生|鞄《かばん》――通っているN女子学園からの帰りである。
紀子は、ドサッとソファに座って、
「コーヒー下さい」
と言った。
「喫茶店じゃないぞ」
野田は文句を言いつつ、机のインタホンで、「コーヒーを持って来い。ミルクだけ。シュガーなしだ」
と、命令した。
「どうだ。ちゃんと憶えてるだろ」
──野田重人は四十五歳。見るからに落ちついた「実業家」然としている。片や間近紀子は十七歳の女子高校生。
これほど対照的な二人というのも珍しいだろうが、この二人、何だか「仲がいい」のである。
実は紀子のボーイフレンドだった中野|哲《てつ》|郎《お》が、この野田の子分[#「子分」に傍点]だった。そして、ある殺人事件に係わって、容疑者にされてしまった。
その哲郎を、紀子と野田は力を合せて救ったのだ。今、哲郎は別の軽い罪で服役しているが、そう長く入っていることもあるまい。
野田は、コーヒーが来ると自分も一息ついて、
「さて、何か用かね」
と言った。「何の用もなく、N女子学園のお嬢様が、こんなむさ苦しい所へおいでにゃならないだろう」
「それ、皮肉ですか?」
と、紀子は言って、コーヒーを一口飲むと、「もう少し新しい豆を使って下さい」
「うるさい|奴《やつ》だな」
と、野田は苦笑した。
表向きは「実業家」だが、裏では「ギャング」──とまで言っては可哀そうか。しかし、違法なことで稼いでいるのは確かなのである。
「三日前、うちの学校の先生が亡くなりました」
と、紀子は言った。
「そりゃ気の毒に。花環でも出そうか」
「茶化さないで」
と、紀子はにらんで、「そのときの事情は、こうだったんです」
そのときの一部始終を話すと、聞いていた野田の顔に警戒するような色が浮んだ。
「──なるほど」
と、野田は|肯《うなず》いて、「しかし、女生徒のヒステリーにまで|俺《おれ》は責任持てないぜ」
「分ってるんでしょ」
と、紀子は言った。「栗田みゆきは麻薬をやってたんです」
「そんなことだと思った」
と、野田は肩をすくめた。「しかし、どうしろって言うんだ? 俺の所じゃクスリはやってない。知ってるだろ」
「ええ」
と、紀子は肯いた。「でも誰が[#「誰が」に傍点]扱ってるかは知ってるでしょ」
「おいおい。──俺を殺す気か? 同業者の一人を、サツへ突き出す? そんな真似をしたら、俺は三日以内に川へ沈められちまう」
「大丈夫ですよ。今の川はたいていふさいであります」
と、紀子は平然と言った。「ともかく、麻薬が安東先生を殺したというのは確かです。その犯人を、何としても見付けたいんです」
野田は、深々とため息をついて、
「力になってやりたいとは思ってる。しかしな、俺の手に余ることだってあるんだ。俺は大統領じゃないんだからな」
「分ってます。何も、アケミさんを悲しませようとは思いません」
アケミは、野田の「愛人」だ。野田の妻子は、身の安全を考えて北海道にいて、野田は「女に不自由しない」身分。
しかし、実情はなかなかややこしいのである。
「何か情報を下さい。それだけでいいんです」
「それで、どうするっていうんだ?」
「私が犯人を捜します」
野田は首を振って、
「やめとけ。あの連中は、人を消すことなんか何とも思っちゃいないぞ。『手をひけ』と脅すなんて、まどろっこしいことはしない。いきなりお前を取っ捕まえて、散々オモチャにした挙句、どこかの山奥の湖にでも、石をくくりつけて沈める。でなきゃ、麻薬を|射《う》たれて中毒になるまで閉じこめられ、後は男たちの慰みものだ。悪いことは言わねえ。やめとけ」
「でも、私一人の問題じゃありません。N女子学園を守らなくちゃならないんです。麻薬から」
「何だって?」
と、野田は目を丸くした。
トントン。ドアをノックする音がして、
「──入ってもいい? あら、あなただったの」
と、アケミが入って来ると、紀子を見て言った。
「何か用か」
と、野田はちょっと|苛《いら》|々《いら》した口調で、「大事な話の最中なんだ。後にしろ」
「あら、ごめんなさい」
と、アケミは素直に言って、「じゃ、後でもいいわ」
「ああ」
アケミは出て行こうとして、
「紀子さん、そのバンソウコウ、どうしたの?」
「ちょっとしたアクセサリーです」
「そう。この人に襲われたわけじゃないわよね」
「もし、そんなことがあれば、野田さんの方は全身包帯巻いて、ミイラ男になってます」
アケミは大笑いしながら出て行った。
「──勝手なことばっかり言いやがって」
と、野田はむくれている。
「アケミさんって、いい人じゃないですか。大切にしないと」
「お前にお説教される覚えはないぜ」
と、野田は言い返した。「──哲郎に会いに行ったか」
「ええ」
「元気そうか」
「とても。──もちろん、うちの両親が知ったら、腰抜かすだろうけど」
「全く、お前は変った奴だよ」
野田は、自分の|肘《ひじ》かけ|椅《い》|子《す》に座り直して、「MとNか……。そんなことを言ったっけな、この前のとき」
紀子は黙って|微《ほほ》|笑《え》んだ。
間近紀子の〈M〉。野田重人の〈N〉。
その二つを並べて、〈MとN探偵事務所〉などとふざけて呼んだのである。
「野田さん」
と、紀子は改まった口調で、「私はあなたに借り[#「借り」に傍点]があるんです。分ってるでしょうけど」
野田はチラッと紀子の白い足に目をやった。
哲郎を助けたとき、野田は代りに紀子の体をもらうと言って、しかし、結局手は出さずに終っていた。
「そのことなら、俺が勝手に権利を放棄しただけさ」
「でも、気になってるの」
紀子は、小さく笑って、「変ね。忘れてくれてるのに、わざわざ……」
野田は、ゆっくりと息をついた。
「──話してみな。俺に何ができるっていうんだ?」
「ともかく──」
と、学園長は言った。「今、大切なのは、このN学園の名前に傷がつくような事態を避けることです」
教師たちは何も言わなかった。
会議はもう二時間も続いていて、みんな疲れていた。何といっても、事の真相がはっきりしていないのだ。いくら話し合っても、議論はすれ違い、空回りするばかりだった。
「──この学校の生徒が、特に|狙《ねら》われているという証拠はありません」
学園長の永井の言葉に、何人かの教師は口を開きそうにしたが、しかし結局、そのまま黙ってしまった。
「よろしいか。万一、そんな|噂《うわさ》が広まって、父母の耳にでも入ったら。──たちまち子供を転校させる家が続出する。そうなったら、学校経営そのものが成り立たなくなるのです」
と、永井は言って、全員を見回した。「学校の存続。──正にそれこそ第一です。すべてのことは、その次に考えなくてはならない」
六十を越えている永井は、声こそ少し弱々しくなっていたが、説得力のある口調は失っていなかった。
「園長先生、お話は良く分りました」
と、学年主任の水上が|禿《は》げた頭を汗で光らせて、
「しかし、何ごともなかった、とは言えないでしょうし……」
「もちろん! 事は単純です。どんなに気を付けていても、良い種の中に悪い種が混じることはある。そのときは、悪い種を取り出すだけです」
「というと……」
「栗田……みゆきといいましたか」
永井はメガネをかけて手もとの資料を見ると、「この生徒に関しては、退学を勧告しましょう。麻薬をやっていたのですからな、処分としては当然です」
「待って下さい」
と、若々しい声が上った。
「大久保先生。ご意見でも?」
「僕は、栗田みゆきの担任として、今回の出来事に関して、責任を感じています」
今年三十二歳になる青年教師は言った。「栗田みゆきは、大変真面目な生徒で、常習的に、あんなものをやっていたとは考えられません」
「一回やれば充分です。違いますか」
「確かに。しかし、本人は全くそんな記憶がないと述べています。昼休み、食堂で買ったコーラを飲んだら頭がボーッとして来た、ということです。誰かが、麻薬を入れたコーラを彼女に飲ませたとしたら……」
「当人の言い逃れでないと言えますか? 誰しも、退学にはなりたくない」
と、永井は言った。
「もし本当ならどうします。栗田一人を退学させて、問題は解決しません」
「しかし……一体誰がそんなものをコーラに入れたりしますか」
と、他の教師が言った。「出入りの業者は古い付合いだし、コーラを売っている、あのおばさんたちは麻薬の売人にゃ見えんが」
笑いが起こった。永井が顔をしかめて、
「安東先生が亡くなっているのですぞ」
と、たしなめると、急に静かになる。
永井は水上の方へ、
「葬儀の方はよろしく頼みますよ」
と言った。「では、これで終りましょう」
何となく戸惑った空気が流れたが、学園長はさっさと会議室を出て行ってしまった。
そして、教師たちもダラダラと仕度をして立ち上り、二人、三人と固まってヒソヒソと話をしながら出て行く。
「──大久保先生」
と、水上が、座ったままの大久保の後ろで足を止めると、「まあ、そう気にせずに。先生は担任を持たれて、まだ短いですからな。しかし、じきに慣れますよ。どうやったところで、手に負えない生徒ってのはいるもんです」
大久保は、黙ってファイルを閉じると立ち上った。
「──大久保先生」
「栗田を退学処分にして、早くけり[#「けり」に傍点]をつけたい。その気持は分ります。しかし、放っておけば、また犠牲者が出るかもしれませんよ」
そう言って、大久保は足早に会議室を出て行く。
水上はため息をつくと、小さく首を振って、
「若いな……。俺も昔はああだった」
と|呟《つぶや》いたのだった……。
3 元気の素
朝から、少しめまいがしていた。
しかし、買物に出ないわけにはいかなかった。冷蔵庫は空っぽだ。
真田充江は、午後も三時ごろになって、やっと腰を上げた。
「──本当に、いやになっちゃう」
と、ショッピングカーをガラガラと引いて歩きながら呟く。
エレベーターのボタンを押したが、明りが|点《つ》かない。──故障かしら?
見上げると、〈定期点検中〉の札が下っていた。
よりによって、こんなときに!
よっぽど、買物を明日にしようかと思ったが、今夜は夫が出張から帰って来る。ちゃんと好物を用意しておかないと、とたんに不機嫌になるだろう、と分っていた。
ため息をついて、充江はショッピングカーを両手で少し持ち上げるようにしながら、階段を下りて行った。あまり丈夫とは言えない充江にとって、四階分の階段を上り下りするのは大仕事だ。
でも、帰りには──そう、たぶん帰りはもう、エレベーターも動いているだろう。
やっと一階へ下りたが、少し休んでいないと息が切れる。
本当に……。まだやっと三十四だというのに少し[#「少し」に傍点]太り気味というのは事実である。自分でも、よく分っていた。
だけど、余計なものを食べてるわけじゃなし……。そう。何と言っても、食べることくらいしか楽しみなんてないじゃないの!
充江は、気を取り直して、団地の自分の棟を出て歩き出した。
よく晴れた、気持のいい日で、外出が面倒な充江も|一《いっ》|旦《たん》こうして外へ出れば、それなりに楽しい。
スーパーマーケットまでは団地の中の道で、車道とは分けられているからのんびり歩ける。
実際、スーパーで、あれこれ買っているときには充江も、出かけて来て良かったと思っていたのである。
「──あら真田さん」
と呼ばれて、充江は足を止めた。
「あ……。どうも」
倉田信子と、その後ろに、いつも影のように従っている相沢京子である。
二人とも、充江より少し年上で四十代の初め。倉田信子の方が確か少し上だし、実際、相沢京子を「子分」のように扱っている。
充江は子供がないので、近所付合いは少ない方だが、団地の自治会の役員をやらされていて、その会長をつとめる倉田信子とは、いやでも知り合いになってしまう。
「──ずいぶん沢山のお買物ね」
と、倉田信子は充江のカゴの中を|覗《のぞ》いて、「重いでしょ。京子さん、持ってあげたら?」
「いえ、とんでもない!」
と、充江はあわてて辞退した。「自分でちゃんと持てますから」
「そう?──あ、お魚はね、このスーパー、やめといた方がいいわよ。私がおいしい所を教えてあげる」
と言うなり、倉田信子は勝手に充江のカゴからパックした魚の切身を取り出して、「京子さん、ケースへ戻して来て」
「はい」
相沢京子は言われて、さっさと魚の売場へ駆けて行く。充江はただ|呆《あっ》|気《け》に取られていた。
「──さあ、支払いを済ませたら、お魚屋さんへ行きましょ。大丈夫。ここのを食べていただけば、ご主人が大喜びすること、請け合いよ」
と、倉田信子はポンと充江の肩を|叩《たた》いた。
確かに──「請け合って」くれるのも当然という気が、充江にもした。何しろ、値段がスーパーの三倍もしているのだから!
しかし、
「高いからやめておきます」
とも言えず、充江は財布の中身を心配しながら、その魚を買った。
倉田信子も子供はないが、夫はコンピューター技師でかなりの高給取り。しかも、夫が単身で二年もニューヨークに行っているので、一人で何とも優雅に暮していた。
着ている物も、指環やネックレス一つからして高価に違いないと分る。自分一人なら、お魚の値段が三十倍していても気に留めまい。
しようがない。これもお付合いというものか……。
「──ありがとうございました」
と、礼を言って別れようとすると、
「あら、真田さん、急ぐの?」
と、倉田信子が言った。
「あ……。いえ、別に……」
「じゃ、私の買物にも付合ってよ。ね? 大勢の方がにぎやかでいいわ」
と言うと、相沢京子を促してさっさと歩き出してしまう。
充江は、どうしようもなく、ガラガラとショッピングカーを引いてついて行ったのである……。
「──ごめんなさいね」
と、倉田信子は冷たいお茶を出して、「あなた、疲れてたのね。それなら言ってくれれば良かったのに」
言えっこないじゃないの。──心の中でそう言って、しかし口では、
「とんでもない。太ってるもんですから、すぐ息が切れるんです。ご心配かけて、すみません」
と、充江は言った。
何しろ、自分の買物がすんでから、一時間もあちこち引張り回されたのだ。くたびれ切って、めまいを起こしたのである。
ここは倉田信子の家。──といっても団地内だから、もちろん似た造りだが、4LDKという広さに、調度類の豪華なことは、めまいを起こしてハアハア言っている充江にもよく分る。
「でも、いけないわね、私たちよりずっと若いのに、そんなに疲れやすいなんて」
と、相沢京子が言った。
充江は、この女がどうしても好きになれない。いつも倉田信子のそばにくっついて、ご機嫌をとっておいて、お店や出入りの業者などには、ひどく威張り散らす。はたで見ていても、気持のいいものではなかった。見たところも、派手にしているが四十という年齢よりずっと老けて見える。
「何かお薬はのんでる?」
と、倉田信子は|訊《き》いた。
「お薬って……。ビタミンとか、そういうのですか?」
「違うわよ。そんなんじゃなくて、今はとてもいい薬が沢山あるの。副作用もないし、のめば元気が出て、シャキッとするのがね」
と、相沢京子の方へ、「ねえ? この人ものんでるのよ」
「そう。とってもいいわよ。──真田さん、そうすぐ息切らしてるんじゃ、絶対にのんだ方がいいわ」
「でも……」
と、充江がためらっている内に、倉田信子はさっさと立って行って、薬のびんを持って来る。
「これ。──ね、効かなかったら、やめればいいのよ。試してごらんなさい」
充江は渋々そのびんを手に取って眺めた。
「──心配ないわよ」
と、相沢京子が笑って、「私たちものんでるんですもの、ずっと。見たところ、元気そのものでしょ?」
「ええ……。おいくらするんですか?」
「それで三千円。一度にのむ量は少しだから、そう高くないわよ」
三千円……。安い値段ではない。しかし、ここはどうしたって断れない成り行きになっている。
「じゃあ……。いただいてみます」
と、おずおずと言った。
「そう! ぜひそうなさい。私、余分にひとびん持ってるから、それを持って行って」
充江は支払いをして、
「じゃ、もう私、これで──」
と、立ちかける。
「あら、もうお帰り?」
「主人が戻りますから、夕食の用意を──」
「そうね。じゃ、今そのお薬をのんで行けば? 帰りに重い荷物を持って行くのが楽かもしれないわよ」
「え……。ええ」
仕方ない。充江はびんのふたをそっと開けると、
「粉薬ですね。どうやってのむんですか?」
と|訊《き》いた。
「──ただいま」
と、くたびれた声を出して、真田は玄関を入った。
どうせ充江はまた引っくり返って寝てるんだろう。──よく寝る|奴《やつ》だからな。
「おい──」
と、靴を脱いで上ると、
「お帰りなさい!」
真田がびっくりして飛び上りそうな、勢いのいい声を上げて、充江が飛び出して来たのである。
「何だ、おい。びっくりさせんなよ」
「お疲れさま! |鞄《かばん》、持つわ。早く着がえて、夕ご飯、ちょうどできたところよ!」
真田は、すっかり面食らっていた。
何だ? やけに今日は元気だな。
食卓に、とても食べ切れないほどの料理がズラッと並んでいるのを見て、真田は仰天した。
「どうしたんだ、一体?」
「あら、気に入らない?」
「そうじゃないが……」
「さあさ、早くして! 冷めると味が落ちるわ」
せかされて、いつもならしばらくソファでのびている真田が、十分後には夕食をとっていた。
「──|旨《うま》い。しかし、何かあったのか、いいことでも?」
と、食べながら訊くと、
「後で教えてあげるわ」
と、いたずらっぽく答える。
真田は、ちょっと笑った。
確かに、充江も結婚したころから見ると大分太って、「|可《かわ》|愛《い》い」とも言いにくくなったが、上機嫌でいてくれるのは、夫としても|嬉《うれ》しいことだった。
──満腹になって、真田が夕刊を広げていると、
「あなた、お|風《ふ》|呂《ろ》」
「ああ……。しかし、まだ早いぞ」
「いいじゃない。ゆっくり休めるときに休んでおかないと」
「そりゃそうだが……」
真田は、充江の目が、見たこともないほどきらめくような光を放っているのを見て、びっくりした。
「充江……」
「今夜は……お風呂も一緒に入りましょ? ね?」
と、充江が重い体を真田の|膝《ひざ》の上にのせてくる。
どうしたんだ、こいつ? |呆《あっ》|気《け》に取られながら、真田は充江にキスされて目を丸くした。──こんなこと、初めてだ!
しかし、それ以上は考える余裕もなかった。真田は充江に押し倒され、風呂へ入る前に、「一汗かく」ことになってしまったのである……。
4 同 志
「先生」
と、紀子は声をかけたが、相手は聞こえていない様子で、ぼんやりと座っている。
「大久保先生!」
少し大きな声で呼ぶと、大久保はハッとしたように、
「──間近か」
と、息をついた。「びっくりした」
「何をぼんやりしてたんですか? 二日酔?」
校庭の木かげ。──古びたベンチがある。
放課後、もう学校は静かだった。女子校のせいもあって、クラブ活動でも、遅くまで残っていることは許されていない。
「お前はいつも元気だな」
と、大久保は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「お前を見てると、世の中にゃ悩みなんてものはないような気がしてくる」
「失礼ね」
と、紀子は口を|尖《とが》らし、「こう見えても、色々苦労してるんですから」
「そうか。──ま、人間、誰しもそうだ」
「先生は、栗田みゆきのことで?」
そう訊かれて、大久保は、
「どうしてそう思うんだ?」
と、ふしぎそうに言った。
「先生が一人で、彼女の退学処分に反対したって」
「おい、待て。どこでそんなことを──」
「そういう話って、どこからともなく伝わるもんですよ」
と、紀子は言った。
「まあ……そうかな」
と、大久保は遠くへ目をやって、「しかし、結局止めることはできなかったんだから、同じことだ」
「そんなことありませんよ。人間、信じてれば通じるってこともあります」
「だといいがな」
と、大久保は|肯《うなず》いて、「──間近。お前どうして残ってるんだ?」
「待ってるんです」
「待ち合せか。誰と?」
「そういうんじゃなくて──」
と、紀子が言いかけたとき、タッタッと足音がして、
「大久保先生!」
と、事務室の先生が駆けて来た。
「どうした?」
「園長先生がお呼びです」
「僕を? 分った」
と、大久保は立ち上って、「何だろうな?」
と首をかしげながら急いで行ってしまった。
──紀子は、ベンチに一人でのんびりと|寛《くつろ》ぐと、空を見上げた。
そろそろ|黄昏《たそが》れてくる空。
哲郎のことを、ふと考える。──哲郎には、四角く区切られた空しか見えないだろう。
でも、しばらくの|辛《しん》|抱《ぼう》だから、哲郎。頑張ってね!
私も──そう、私だって、哲郎が戻って来るまで、元気でいなくちゃ。
危いことに首を突っ込みたいわけじゃないのだ。でも、人間、どうしてもやらなきゃいけないことというものがある……。
しばらく座っていると、足音がした。
「何でした、大久保先生?」
と、振り向こうとした紀子は、いきなりスポッと頭に何かをかぶせられた。
てっきり大久保だと思っていたので、油断していた。逆らう間もなく、頭にかぶせられた袋が、首の周りでギュッと引き絞られた。
息ができない!
同時に、紀子は後ろ手に右手をねじ上げられ、ベンチの上に押え付けられた。──腕が折れるかと思うほどの痛み。
必死に逃れようともがいたが、相手は力の入れ方を心得ていた。
苦しい……。哲郎! 死んじゃうよ、私!
哲郎……。
次第に気が遠くなる。体から力が抜けて、同時に痛みも薄らいでいくようだった。
ああ……。助かるんだろうか?
それとも──それとも、これが「死ぬ」ってことなの? 死ぬのって、こんなに気持のいいものなの?
哲郎……。
意識が、薄れかける中で、紀子は「いけない!」と自分に向って言った。死んじゃいけない! 哲郎が待ってる。私が会いに行くのを、待ってる。
そう思うと、今の自分の状況がつかめた。
空気。──何とかして空気を……。
頭にかぶせられた袋は、ビニールらしかった。紀子は、口を開けて思い切り息を吸った。
袋がペタッと口にはりつく。それを思い切り歯で|噛《か》んで、上下の歯をすり合せた。ビニールが裂ける。
空気が入って来た! 紀子は何度も息を吸っては吐いた。
すると、腕をねじ上げていた手がパッと離れた。
紀子はベンチから地面へ転げ落ちた。タタッと駆け出して行く足音だけが聞こえたが、体を起こすことさえできない。
そのとき、
「間近!」
という声がした。「どうした!」
大久保だった。紀子は、抱き上げられ、頭にスッポリかぶせられていたビニール袋を外された。
「──先生か」
と、紀子は|喘《あえ》ぐように言って、「もうちょっと早く来てくれりゃ良かったのに……」
「お前……。一体何ごとなんだ?」
「どうってことじゃないんですけどね……」
と、紀子は少しむせて、「ただ──ちょっと殺されそうになった、っていうだけで」
大久保は|唖然《あぜん》としていた。
「ああ、やれやれ」
紀子はラーメン一杯、軽く平らげてしまうと、
「殺されるって、お|腹《なか》の|空《す》くもんなんですね」
「おい、間近……」
大久保は|呆《あき》れ顔で、「ともかく説明してくれ」
「待って下さい。──お茶、下さい!」
ラーメン屋の店内は、結構こみ合っていた。
「大丈夫か?」
「ええ、何とか」
紀子は息をついて、「先生、園長先生のお話って、栗田さんの退学を取り消すってことだったんでしょ?」
「どうして知ってる!」
と、大久保が目を丸くした。
「私が[#「私が」に傍点]そうさせたんですもの」
「お前が?」
「園長先生、彼女[#「彼女」に傍点]がいるんですよ、知ってました?」
「いや──知らん」
「他の学校の先生でね、二十八とか」
「二十八?」
「ええ。もし、そのことが知れ渡るのをいやだと思ったら、栗田さんの処分を取り消せって」
「おい、待て。それじゃ──」
「脅迫ですね、まあ」
と、涼しい顔で肯いて、「でも、間違いを正してもらったわけですから、本人のためでもありますし」
「しかし……」
「先生。私、手伝ってくれる人がいるんです。学校に麻薬を持ち込んだ人間を見付けてやろうと思ってます」
紀子の言葉に、大久保は唖然としているばかりだった。
「それであんな目にあったのか?」
「ええ。──でも、誰がやったんだろ? まだ知ってる人間なんて、ほとんどいないはずなのに」
「全く、お前って|奴《やつ》は分らん」
と、大久保が首を振って言った。「──何をニヤニヤしてるんだ」
「大久保先生って、少しふてくされると、すてき」
「何だと?──だめだ! |俺《おれ》は生徒に手は出さんぞ」
「当り前でしょ。私だって、彼氏がいるんですから」
「何だ、そうなのか?」
「今、刑務所に入ってますけど」
大久保は、ますますふてくされてしまったのだった……。
野田は、もうベッドに入って、眠りかけていた。
|傍《そば》ではアケミが眠っている。──野田は、もうずいぶん長いことアケミを抱いていないが、こうして並んで寝ているだけでも何となく安心する。
妙なものだった。──もう|年齢《とし》かな、俺も。
直通の電話が鳴った。
「──はい」
と、出てみると、
「〈M〉から〈N〉へ。今日、殺されかけた。どうぞ」
「お前か。──殺されかけた? どういうことだ」
「分ってりゃ、殺されかけやしません」
「おい、待て。詳しく話してくれ」
野田は、たちまち目が覚めてしまった。
紀子の話を聞くと、
「そりゃ、プロの手口だな」
と言った。「良く助かったな。悪運が強いってのは、このことだ」
「あのね……。今度、押しかけてって、『女房にしろ』って騒いであげましょうか。あなたに手ごめにされたって泣きじゃくって、責任とってくれって……」
「人を脅かすな。ちゃんと、そっちの偉い先生のことは手を打ったぜ」
「分ってます。でも、こっちも深刻。何しろこの若さで死にたくないですから」
「妙だな。お前が、探りを入れてるってことを知ってる人間は限られてるんじゃないか?」
「だから、こうして連絡したんです。心当りはありませんか?」
「待てよ。そう言われても、すぐには──」
「ともかく、私が殺される前に、犯人を見付けましょ。化けて出ますよ、私」
「さぞ怖いだろ、お前が化けたら」
と、野田は言ってやった。「ともかく、用心しろ。哲郎の奴に恨まれるからな、何かあったら」
「でも、殺されるくらいだったら、私、一度野田さんに抱かれとくんだった」
と言って、紀子はちょっと笑った。「じゃあ──。あ、そうだ。明日、うちの担任の先生を連れて行きたいんです。いいですよね?」
「先生を? 何するんだ。俺は勉強なんか嫌いだぞ」
「先生も手伝ってくれるんです。じゃ、明日そっちへ寄ります」
「ああ……」
野田は首をかしげた。
誰が一体、野田と紀子のことを知っているだろうか?
「──どうしたの?」
と、アケミが寝返りを打って言った。
「起きちまったか。あのはねっ返りからだ」
「紀子さん? |可《かわ》|愛《い》いわよね。──どうしてあの子を抱かないの?」
「アケミ──」
「あの子なら、大丈夫なんじゃない? いいのよ、私」
「よせ」
野田は、アケミの額にキスして、「──もう寝ろ」
「ええ……。でも、気を付けてって伝えてね、紀子さんに。麻薬って怖いわ」
「分ってる」
と言って、野田は、「──おい、どうしてその話を知ってる?」
と|訊《き》いた。
「話? 話って」
「だから──俺と間近紀子の話したことさ」
「ああ。だって、聞こえてたわよ、インタホンから」
「インタホン?」
「あなた、スイッチ、入れっ放しにしといたでしょ、机の上のインタホン」
「おい、待て。じゃ、あの話を、他にも聞いた|奴《やつ》がいるのか?」
「たぶんね。私は途中でいなくなったけど」
「──参った!」
野田は頭を抱えた。「どうしてそう言わなかったんだ!」
「だって、あなた、いつか言ったでしょ。『俺のやることは、意味がないように見えても、ちゃんとあるんだ』って。わざとああしてたのかな、と思ったのよ」
野田も、これには何とも言いようがなかった。
──俺のせいで、紀子が殺される? それだけは何としても防がなくちゃ。
野田はベッドを出ると、アケミへ、
「先に寝てろ」
と声をかけて寝室を出たのだった。
5 未亡人
五回か六回か。
ともかく、かなりしつこくチャイムを鳴らしたことは確かだった。
真田充江は、もう|諦《あきら》めて帰ろうかと思った。そのとき、
「──どなた?」
と、インタホンから声が聞こえたのである。
「あ……。真田です。すみません」
と、充江はつい謝っていた。
「ああ、真田さん」
と、倉田信子は言った。「何かご用?」
いかにも面倒くさそうな言い方で、充江は気後れしたが、
「あの……この間のお薬のことなんです」
と言った。
「じゃあ、少し待って」
倉田信子が、少し愛想のいい口調になって言った。充江はホッとした。
しかし、それから充江は十五分も玄関の前で待たされることになったのである。
──やっとドアが開くと、
「じゃ、失礼します」
と、背広姿の男が出て来た。
「よろしくね」
倉田信子は、その男を送り出して、「さ、入って」
と、充江を中へ入れた。
「今のは……」
「ああ、証券会社の人。株のことでね。ときどき来ては、あれこれ売り込んで行くのよ」
信子はそう言って、「あの薬、どうだった?」
充江は、ちょっとの間別のことを考えていた。
証券会社の人?──それは本当かもしれないが、すれ違ったとき、充江ははっきり石ケンの|匂《にお》いらしいものに気付いていたのである。
「あの──」
と、我に返って、「とてもよく効きましたわ。おかげさまで、主人も喜んでいて──」
と言いかけてポッと赤くなる。
「結構じゃないの。結局、妻が幸せでいるのが一番なのよ」
「はい……。それで、あれをまたわけていただけないかと思って」
「もうのんでしまったの? まあ」
と、信子は笑って、「じゃあ……。どうしようかしら」
「もし、お持ちの分がないようでしたら」
「いえ、私の分がね、ほとんど手をつけてないから、譲ってあげてもいいわ」
「そんな申しわけない──」
「いえ、いいのよ。すぐにも欲しいんでしょ?」
「ええ……。あれがないと思うと、何だか不安で」
と、充江は言った。「よろしいんですか、いただいても」
「ええ。待っててね」
と、信子は奥へ入って、じきに戻って来た。「──さ、どうぞ」
と、びんをテーブルに置く。
「すみません」
充江は息をついて、「じゃ、お代を」
と、財布を取り出す。
「ええ。三万円[#「三万円」に傍点]ね」
「──え?」
充江の手が止った。「三万円……。この間は三千円でいただいたと思うんですけど」
「ああ、初めての人にはね、試供品ということで、特別の値段で売ってあげるの。ねえ、あれだけ良く効くのに、三千円ってことはないと思わない?」
充江は、じっとそのびんを見つめた。
「──今、持ち合せが……」
「じゃ、待ってるわ。お宅へ戻って、お金を持って来て」
と、信子は言った。「いえ、これが私自身の売っているものだったら、いくらでも待ってあげるんだけど、人のものだから。分るでしょ?」
「はい……」
──三万円!
どうしよう? しかし、充江は、この薬をのんだときの、あのすばらしく楽しい気分|昂《こう》|揚《よう》し、すべてが美しく見えるような、あの気分を、忘れることができなかった。
三万円。
充江の家計からひねり出すのは容易なことではない。でも──でも、夫だって喜んでくれていたのだ。
あれをのむと、普段の何倍も「感じやすく」なって、夫との交わりにも夢中になれた。たぶん──結婚してから初めてのことだ。
たった[#「たった」に傍点]三万円。──あら、たった三万円なんだわ。
充江はそう考え直した。
「分りました。じゃ、ちょっと待って下さい」
と、充江は立ち上った。「すぐお金を取って来ます」
本当は、銀行からおろして来なくてはいけなかった。もう二時半を回っている。
急がなくては。──充江があわてて玄関から出て行くと、
「あわてないでもいいのよ」
と、信子は声をかけた。「ちゃんと、取っておいてあげるから。──あなたがお金を持って来るまでね」
最後の言葉は、もう空っぽの玄関に向って言われたのだった……。
信子は、声をたてずに笑うと、電話の方へと歩いて行った。
「憶えてる?」
と、紀子は訊いた。
「たぶん……」
栗田みゆきは、大きく引き伸ばされた写真を、じっと見つめた。
「──いつも見てるはずなのに、結構憶えてないものね」
と、紀子は言った。
「ええ……」
栗田みゆきは自宅謹慎中なので、紀子は学校の帰りにやって来た。そして、昼休み、生徒のための売店で、コーラやパンを売っている「おばさん」たちを撮った写真を大きく引き伸ばして、みゆきに見せているのである。
「──この人かな」
と、みゆきは指さした。
「確か?」
と、紀子も|覗《のぞ》き込む。
「そう……。そうだわ! 憶えてる。胸のところに、このマークがついてたんだ。思い出した」
と、みゆきが|肯《うなず》く。「この人から、あのコーラを買ったの」
「そう……」
紀子は、写真のその「おばさん」にサインペンで丸印をつけた。
「でも、どうするの?」
と、みゆきは訊いた。
「この人を当るわ。もちろん、この人がやったという証拠はないけど」
「でも、安東先生は……」
と、みゆきがため息をつく。「もう戻らないんだ」
「薬のせいなのよ。みゆきのせいじゃない」
「ありがとう」
みゆきは、紀子の手を取った。
「元気出してね。──じゃ、また来るよ」
と、紀子は立ち上った。
──栗田みゆきの家を出て、紀子が足早に歩き出すと、車のクラクションが後ろで鳴った。
足を止め、振り向くと、
「おい、乗れよ」
と、大きな外車の窓から野田が顔を出している。
「どうしたんですか?」
と、後ろの座席に野田と並んで座ると、紀子は言った。
「うん……。用心のためだ」
と、野田は言った。「おい、オフィスへやれ」
「はい」
車を運転している部下が肯く。
「急に親切になったんですね」
「憎まれ口|叩《たた》くな。お前が無茶してるんだろうが」
「そりゃ分ってますけど」
と、紀子は澄ましている。
「実はな──」
と、野田が、例のインタホンの話をすると、紀子は|呆《あっ》|気《け》に取られていたが、すぐ笑い出してしまった。
「──何がおかしい。謝ってるだろ」
「野田さんって、もっと切れる[#「切れる」に傍点]人かと思ってたら、結構ドジなんだ。安心したな」
野田も苦笑している。紀子は、
「誰がそれを聞いてたんですか?」
「それが、あのときは会合を開くことになっててな。外の人間が何人も来てた。その誰がたまたまインタホンの聞こえる位置にいたか、とても当り切れない」
「頼りないの」
と、紀子は言った。「こっちは、これ」
写真を取り出して、丸で囲った女性を指さす。
「この人が、みゆきにコーラを売ったらしいんです。外れてもともと。一応、身許を調べてもらえません?」
「ふーん、そうか」
と、野田は写真を眺めていたが、「忙しいんでな。時間がない」
「ケチ」
と、紀子は言ってやった。「じゃ、自分で調べるからいいです」
「だから先に、あそこで働いてる連中、全部を調べて来た」
と、野田は自分のブリーフケースからファイルを取り出し、紀子へ渡した。「その女は、たぶん金山靖子って名だ」
「早く出してくれりゃいいのに! 素直じゃないんだから」
と、にらむ。
ファイルをめくって、
「──金山靖子。未亡人か。娘が一人。働いて高校に娘をやってる……」
と、目を通し、「こんな人がやるかしら、麻薬なんて」
「売る人間は決してやらない。分るだろ。しかし、これほど簡単に金になる仕事はないからな」
「でも……。違ってればいいけど」
と、紀子が言うと、
「やさしいな、お前は」
と、野田が言った。「──どうする?」
「でも、この人しか手がかりがないんですから。ともかく会ってみます」
「よし。じゃ、行くか」
「これから? 待って。大久保先生が待ってるんです。会ってもらわないと」
「そうか、分った」
と、野田は肯いてから、「おい、そいつは何の先生なんだ?」
「学校の」
「分ってる! 教えてる科目を|訊《き》いてるんだ!」
「どうしてそんなこと──」
「俺は、理数系の先生に会うと、やたら緊張するくせ[#「くせ」に傍点]があるんだ」
「誰にでもあるくせ[#「くせ」に傍点]ですよ。劣等生なら、誰にでも」
と、紀子は素直に言った……。
6 襲 撃
「ただいま」
と、金山靖子は声をかけた。
「お帰り」
台所から、包丁の音がしている。
「厚子。──いいのよ。あんたは勉強していなさい」
と、靖子は娘に言った。
「そう手間じゃないわ」
と、厚子は皿に盛りつけると、「できたおかずを切っただけ。へへ」
と舌を出す。
靖子は笑ってしまった。
くたびれて帰って来ても、娘の明るさが救いになる。
「お母さん、すぐご飯にしていいんでしょ?」
「ええ。お母さんがやるから」
「早く手を洗って来て! つべこべ言わないで」
これじゃ、親と子の立場が逆だ、と思いつつ金山靖子は|嬉《うれ》しかった。
厚子は十六歳の高校一年生。──二人でこの安アパートに暮すようになって五年もたっている。
厚子が中学生のころは、収入も少なくて苦労した。
そのころに比べると、今は厚子もアルバイトができるので、大分楽である。もちろん、靖子一人の稼ぎで食べられればいいのだが、それは難しいことだった。
「──ご飯食べたら、バイトに行く」
と、厚子が言った。
「こんな時間に? もう夜よ」
「お店の留守番。楽だし、いいお金になるし、勉強もしてられるし」
「大丈夫なの?」
と、靖子が心配して、「体をこわさないでよ」
「平気よ。顔色でも悪い?」
と、厚子は笑って、もりもりと食べている。
「遅くなったら電話して。迎えに行くわ」
「うん。平気よ。夜道っていっても明るいじゃない」
「そりゃそうだけど……」
──早々に食べ終ると、厚子は仕度をして|鞄《かばん》を手にアパートを出た。
そろそろ七時になるころだった。
厚子は、足早にバス通りへ出ると、バス停をそのまま通り過ぎて、道を折れ、もう人気のなくなった公園の辺りで足を止めた。
今夜は来ないんだろうか?
来てくれないと困る、という気持と、来ないでくれたら、という気持と半々だ──。
けれども、やはりそれ[#「それ」に傍点]はやって来た。
黒塗りの大きな車が静かに寄せて来て|停《とま》ると、中からドアが開いた。
厚子は、ちょっとためらってから、思い切ったように車に乗り込む。
車はすぐに走り出した。
「来てくれたね」
と、その老人は言った。
「二時間くらいで帰らないと」
と、厚子は言った。「お母さんが心配するから」
「分ってる。大丈夫だよ」
運転席との間が仕切られていて、老人はその窓を閉めた。
「さあ」
と、老人は札入れを出して、厚子に一万円札を何枚か抜いて渡した。
厚子は、それを小さくたたんで、自分のファイルの中へ挟み込んだ。
「すみません、いつも」
「いや、これは施しじゃない。立派な取引きだ。そうだろ?」
と、老人は笑った。
上等な香水が|匂《にお》った。
車が静かに走って行く。
厚子は、老人の手がそっとのびて来て、自分の足に触れると、反射的に身を硬くした。
「力を抜いて。──大丈夫だ」
厚子は、力を抜いた。
そう。ほんのしばらく我慢すればすむことなんだ。何も感じないで、何も知らないでいれば……。
厚子は目をつぶって、シートに身をゆだねた。老人の手が厚子の|太《ふと》|腿《もも》をさすっている。
いつものことだ。──もう何度もして来たことだ……。
すると──何か妙な匂いがした。
目を開けると、老人の手にした布が厚子の顔に押し当てられる。ツーンとくる匂い。
それを吸い込むと、頭がクラクラした。
やめて! 何するの!
叫ぼうとしても声が出ない。息をする度に、厚子は薬を吸い込んで、気が遠くなっていった。
そして──意識を失った厚子の体がガクッと崩れるように倒れると、老人は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「──もう君を帰さんよ」
老人は、厚子の体をゆっくりとさすりながら言った。「君は私のものだ」
老人は、仕切りの窓を開けて、
「別荘へやれ」
と言った。
車が郊外へと向う。
クロロホルムの匂いが車内にこもって、老人は少し窓を開けた。
「目を覚ますといかん」
老人はそう|呟《つぶや》くと、ドアのポケットから細い縄を取り出し、厚子の手足を縛り上げた。そして、毛布をかけて隠すと、息をついた。
これでこの子は|俺《おれ》のものだ!
突然、車が急ブレーキをかけた。老人は、
「ワッ!」
と声を上げ、前につんのめって、仕切りにおでこをぶつけた。
厚子の体が弾みで床へ落ちる。
「おい! どうした!」
と、老人が怒鳴ると、
「どうもしないよ」
開けた窓から男が一人|覗《のぞ》き込んでいる。
「何だ、お前は?」
と言って、老人はギョッとした。
男の手に|拳銃《けんじゅう》が握られていたからだ。
「やめてくれ!」
「おとなしく、その女の子を渡しゃ、何もしないさ」
「何だって?」
「床に寝てる、その子だよ」
「分った。──持ってけ」
「ありがとう」
男はドアを開けると、軽々と厚子の体を抱え上げ、「──行ってもいいぜ。しかし、こんな子供をどうしようってんだ?」
「大きなお世話だ」
と、老人は言い返した。
「そうか」
男が引金を引いた。
大久保は、夜の道を急いでいた。
帰りが遅くなったので、腹が空いていたのである。
あの男──野田という男が、「夕食でも」とすすめてくれたのだが、断ってきた。
間近紀子も、ふしぎな知り合いを持っているものだ。
野田が、本心から力を貸してくれるつもりなのは、大久保にもよく分った。今回は、力を借りるしかあるまい。
しかし、やはり野田はまともな仕事をしている男ではない。教師として、食事をごちそうになることまでは、自分に許せなかったのである。
しかし──大久保のアパートは駅から二十分も歩く。お腹がグーグー鳴って、大久保は夕食の誘いを断ったことを、少々悔んでいるのだった……。
気が付くと──誰かが行く手をふさぐようにして立っている。
二人だ。どうも大久保を待ちうけているようだった。
「何か──」
と言いかけて気付くと、後ろにも一人、いつの間にやら立っている。
「用件は何です?」
と、大久保は言った。
三人の男は、どう見てもヤクザ。
金目当てか? いや、それならもっと別の誰かを|狙《ねら》うだろう。
──間近紀子が殺されかけたことを思い出す。
男たちの手に、何か棒のような物が見えたと思うと、一斉に殴りかかってくる。
パッと頭を下げると、大久保は後ろの男のわきの下をかいくぐって、ダッと駆け出した。
かつてラグビーをやっていたので、その要領である。
男たちは、大久保がこんなに素早く逃げるとは思っていなかったらしい。あわてて、
「待て!」
「野郎!」
と、口々にわめいて追って来る。
待ってたまるか! 大久保は必死で走った。
このときばかりは空腹も忘れた。そして──。
アッと思ったときには、派手に転んでしまっていた。
追いつかれる! 急いで立ったが|膝《ひざ》を打っていて、痛みが走る。
「畜生!」
と|呟《つぶや》いて、それでも何とか走り出すと、
「何してる!」
と、怒鳴る声がした。「おい! みんな来い! 強盗だぞ!」
追って来た三人の男たちは、足を止め、ちょっとためらっていたが、
「行くぞ!」
と一人が声をかけて、三人一斉に駆けて行ってしまった。
──助かった!
大久保がハアハア息をしていると、
「大丈夫ですか」
と、居合せた男がやって来た。
「ありがとう……。襲われたんで……。危いところでした……」
大久保は汗を|拭《ふ》いた。
「あれ?」
と、街灯の明りで大久保を見て、「大久保じゃないか!」
「え?」
「俺だ。真田だよ」
「ああ!──先輩!」
ラグビー部の先輩だった、真田浩一である。
「こんな所でラグビーか」
「そうじゃないんです。──でも、助かりましたよ」
「教師をやってるんだろ、まだ?」
「ええ」
「ふーん」
と、真田は|肯《うなず》いて、「教師も命がけだな」
「あの──」
と言いかけると、大久保のお腹が安心したのか、グーッと声を上げた。
「おい、腹が減ってるのか」
と、真田は笑って、「よし、何か食いに行こう。食べながら話を聞く」
「はい」
大久保は、正直なところ何か食べられることの方が、ヤクザから助かったことより嬉しかったのである……。
「──気が付いた?」
と、紀子は言った。
金山厚子は、目を開けると、戸惑ったように紀子を見上げた。
「あの……」
「じっとして。──まだ頭がクラクラするわよ、きっと」
「ええ……。あ、痛い……」
ソファに起き上って、厚子は頭を抱えた。
「もう少し寝てた方が……。ここは私の家よ。大丈夫」
「あの……どうして、私……」
「あのじいさんに薬かがされて、眠っちゃったのよ」
「──そうだ。そうだっけ」
「危いことしてたわね。お金もらって、あんな奴の相手して」
厚子は目を伏せて、
「でも……私が少しは稼がないと、食べていけないし、といって勉強しないと、学校はついていけないんだもの……」
「気持は分るけど、お母さんが知ったら、大変でしょ」
「お母さん!」
ハッとした厚子は、「今、何時?」
「じき、十時かな」
「大変! お母さん、心配してる」
「じゃ、電話すればいいわ」
と、紀子はコードレスホンを渡して、「お友だちの所で遅くなったけど、今から帰るって。送って行ってあげるから」
厚子は、家に電話して母を安心させると、ちょっと息をついた。
「──さ、クッキーでも食べて」
と、紀子は言った。
「お金持なんだ」
と、厚子は部屋の中を見回して、「あなたの部屋?」
「うん」
「でも──どうして私のこと──」
「調べてることがあって、あなたの家に行ったの。そしたら、ちょうどあなたが出て来て、どうも様子がおかしいのでね、尾行したってわけ」
「調べるって……。私のことを?」
「あなたのお母さん」
「お母さんが、何を──」
「むきにならないで。さ、今、紅茶が来るから」
ちょうどドアが開いて、母の由利が紅茶を運んで来てくれた。
「あら、もう大丈夫なの?」
と、厚子を見て、「紀子。ちゃんと送ってさしあげるのよ」
「うん」
紅茶を置いて由利が出て行くと、しばらく厚子は黙っていたが、
「──いただきます」
と、紅茶を一口飲んで、「おいしい」
と言った。
「そう?」
「──うちのお母さんと、笑顔がそっくり」
と、厚子は言った。「助けてくれて、ありがとう」
紀子は微笑んだ。
二人はクッキーをつまんだ。──紀子の話を聞いて、
「お母さんが、そんなことしないと思うけど……」
と、厚子は首をかしげた。
「自分で気付かない内に、ってこともあるんじゃない?」
「たとえば?」
「誰かに、『これを売ってくれ』って頼まれるとか」
厚子は肯いて、
「それなら分るわ」
「お母さんに、付合ってる男の人はいない?」
紀子の問いに、厚子の表情がふっとくもった
7 絶 望
どうして、団地の中には公園があるのかしら?
──真田充江は、自分でも理由はよく分らないのに、そんなことを考えていた。
もう夫が帰って来る。そう、夜遅いんだもの。
それとも、まだ早いのかしら? 時間の感覚が、このところ少しおかしい。
あの薬のせいだろうか。それとも……。
でも、私にだって分る。今が夜だってことぐらいは。こんなに暗いんだもの。
充江は、公園のベンチに座っていた。
確かに、団地の中にはたいてい公園がある。そして公園には池がある。
風が少し冷たい。──昼間は、子供を喜ばせに連れて来る母親たちのにぎやかな笑い声で埋る公園も、日が暮れると砂漠のように無人の地となる。
充江は、ベンチに座って池を眺めながら、自分がどんどん地面の中へ沈み込んでいくように感じていた。地中に沈んで、やがて灰になって消えてしまう。
いっそ──いっそそうなってしまえばいいのに。
「お金を持ってらっしゃい!」
あの、倉田信子の声が、今も充江の耳の中に響いて消えない。
充江は頭を下げて頼んだ。いや、哀願した。しまいには、倉田信子の所の玄関に|膝《ひざ》をついて、祈るようにすがった。
「あの薬を下さい……」
と言って──。
しかし、倉田信子はただ冷ややかに笑って、
「あげるわよ。三万円持ってくればね。簡単なことよ、分るでしょ? いくら頭の悪いあんたでもね」
と言った。
「月給日まで待って下さい。もう預金も残ってないんです。必ず、必ず来週には持って来ますから、お薬を──」
「お金と引き換えよ。何度言えば分るの? 出てって! お客様がみえるんだから」
「お願いです、少しでも──」
と、取りすがる充江を、信子は突き放した。
「さ、出てって!」
と、ドアを開けると──。「来たのね」
そこに立っていたのは、証券会社の男だった。
「お取り込みですか。出直しましょうか?」
「いいえ。もうこの人、帰るところなの。──さ、入って」
充江は押し出され、代りに証券会社の男が入って行き、
「遅かったじゃないの」
と、信子が甘えた声を出すのが聞こえた……。
充江は、自分がどれくらいこの公園にいるか、よく分らなかった。
一びん三万円のあの薬……。何てすてきな気分にしてくれることか!
でも、預金残高はたちまち減っていき、底をついた。借金したくても、貸してくれる人もいない。
そして──夫も、遠からず預金がゼロになっていることを知るだろう。
どうしよう。──どうしよう。
「──何してるんです?」
声をかけられて振り向くと、見知らぬ男が……。でも会社帰りなのだろう、背広姿で、少し酒くさい。
「座ってるんです」
と、充江は言った。「あなたは?」
「僕は──会社の帰りです。そうですとも。見りゃ分るでしょ?」
と、男は笑った。
「ええ……。でも、どうしてここへ?」
「そりゃあ……あなたを見かけたからです。何してるのかな、って、気になってね」
男は、ベンチに並んで座ると、充江の肩に手を回して来た。酒くさい息に、充江は顔をしかめた。
「やめて下さい」
「そう言わないで。──ね、こんな所で時間|潰《つぶ》してんじゃ、あんたも放ったらかしにされてるんでしょ?」
男の手が胸もとをさぐるのを感じて、充江はゾッとしたが、同時に、ある考えが浮んだ。それは、自分がそんなことを考えるとは思ってもみないような考えだった。
「──私が欲しい?」
と、充江は言った。
「え?」
「私のこと──好きにしてもいいわ」
「そうですか? そりゃ悪いな。──いいんですか?」
男はせっかちに充江のスカートの中へ手を入れて来た。
「待って。通る人がいたら困ります。ね? どこか……人目につかない所で」
「ええ。──じゃ、その茂みの奥で、どうです?」
充江は、自分が自分でないようで、何も感じない内に、男に組み敷かれていた。ただ、背中に小石がこすりつけられて痛かった。
男は充江の胸をはだけ、スカートをまくり上げてのしかかって来ると──アッという間に終ってしまった。
充江は、そのときになって初めて青ざめ、痛みを覚えた。心の内側の痛みを。
「──ちょっと|呆《あっ》|気《け》なかったな」
と、男は笑ってズボンを上げると、「この次はもっとゆっくりね」
「お金」
と、充江は言った。
「──何です?」
「お金下さい。三万円。──私を抱いたんだから」
と、充江は起き上って言った。
男は、ちょっとの間呆気に取られていたが、
「冗談じゃねえや」
と、鼻先で笑った。「三万円? 何を寝言言ってんだ。こっちが払ってほしいね。抱いてやったんだぜ」
「お金、くれないの?」
「あのね。あんた、十六やそこらの小娘じゃないんだ。大人同士なんだよ。どうしようってんだ? 訴える? そっちが恥かくだけさ。よく鏡を見てみなよ。金のとれる顔かい」
男は一気にまくし立てるように言った。──男の方も不安だったのだ。|怯《おび》えているのだ。充江にもそれが分った。
「じゃ、結構です」
と、充江はスカートを直して、よろけるように立ち上った。「お引き止めして、すみません」
男の方は、充江がえらくおとなしいので少し悪いと思ったのか、
「いや……。言い過ぎたな。ごめん」
と、ネクタイを直した。「──金がないんですよ。いや、本当に。財布の中はほんの二、三千円で……。情ない話ですがね」
充江は、ほとんど聞いていなかった。
「会社がね、リストラだとか言って。要するに人減らしなんです。で、俺も引っかかっちゃってね。──もうこの二週間、会社へ行ってないんですよ。でも、女房にそうは言えないし……。で、一日中あちこちぶらついて、こうして帰って来るんだけど……。もうちょっと遅い方が本当らしいだろうと思ってね、この公園で時間を|潰《つぶ》してたんです。──ま、勘弁して下さい」
男は、充江が何も言わないので、早々に行ってしまった。
充江はフラッと元のベンチの方へ戻って行って、ペタッと腰をおろしたが……。
金のとれる顔かい。──本当に、そうよね。私なんか、主人にだって愛想つかされて当り前なんだわ。
目の前の池にさざ波が立った。風が出て来たのだ。
そう。──分ってるわ。私の居場所は、このベンチじゃない。この池[#「この池」に傍点]なんだわ。
そうだわ。やっと分った……。
充江は低い柵を乗り越えて、池の中へ足を入れた。深くはないが、泥で足をとられ、頭から突っ込んでしまう。
|一《いっ》|旦《たん》は水から顔を出したが、充江はそのまま再び水に頭ごと沈んで、もう二度と現われて来なかった……。
「──ちょっと寄ってけよ」
と、真田に言われて、大久保も断り切れなかった。
真田にすっかりごちそうになった挙句、二軒も飲み歩いた。これで「失礼します」とは言えない。
バスを降りて二人が団地の中を歩いて行くと、サイレンを鳴らして、救急車が二人を追い越して行った。
「何かあったんですかね」
と、大久保が言うと、真田は肩をすくめて、
「団地の中じゃ、サイレンの聞こえない夜はないぜ。住んでると、すっかり慣れっこさ」
「そんなもんですか」
「しかし──すぐそこだな。珍しいな、こんな近くで」
と、真田は言った。
救急車は、公園の入口で停っていた。
「公園で何かあったのかな」
と、真田が言って、近くで足を止める。
近所の住人らしい七、八人が救急車から少し離れて様子を眺めていた。大久保は、その内の一人の女が、真田に気付いて急いでやって来るのに目を留めた。
「真田さん。誰か──」
「やあ、ご近所の奥さんだ。──相沢さん、何ごとです?」
その少し神経質そうな四十がらみの女性は、ひどくあわてた様子で駆けて来ると、
「真田さん! 良かったわ、見付けて」
「え?──何かあったんですか。ああ、これは僕の大学の後輩で大久保というんです。相沢京子さん」
「どうも」
と、大久保は会釈した。
「真田さん。落ちついて聞いてね。奥様が──」
「充江が? どうかしたんですか」
「亡くなったの」
大久保は息をのんだ。──真田の方はピンと来ないのか、
「あの──充江の|奴《やつ》が、どうしたんですって? 何かご迷惑を──」
「その池で……。|溺《おぼ》れたんです」
と、相沢京子という女が言うのを聞いて、大久保は、
「大変だ! 真田さん、ともかく救急車の人に話を」
「うん……。でも、溺れたって? あの池はそんなに深くないんですよ」
「奥様、たぶん……自殺なさったんだと思うわ」
「──自殺」
「ええ。私も何とかしてあげれば良かったんだけど」
と、相沢京子はため息をついた。
真田が近寄って行くと、集まっていた野次馬がサッと|退《さ》がった。
「──何かあったんですか」
と、大久保が相沢京子に|訊《き》く。
「ええ。──お金に困ってらしたんですよ、奥さん」
「お金に?」
「ご主人に内緒で使ってしまっていたらしくてね。銀行預金がゼロだって泣いてたわ」
「どうしてまた……。何に使ってたんですか」
「分らないけど……」
と、相沢京子は少し声をひそめて、「これ、誰にも言わないで下さいね。真田さんの奥さん、覚醒剤か何かやってたらしいんですよ」
「何ですって?」
大久保は|唖然《あぜん》とした。
「しっ! 他の人の耳に入ると──」
「でも、大変なことじゃないですか、もし本当なら」
「ええ……。でも、ただの|噂《うわさ》ですから」
と、相沢京子は言った。
真田が大久保たちの方へ戻って来ると、
「本当に──充江の奴だった」
「真田さん、何か僕でお役に立つことがあれば……」
「ありがとう。大久保、悪いが今日はここで──」
「ええ、もちろんです。元気を出して下さい!」
「うん。ありがとう……。相沢さん、家内についてってやりますので、明日には何かとご相談に伺うかもしれません」
「ええ、どうぞ」
「じゃ……」
大久保は、真田が救急車の方へ力なく歩いて行くのを見送った。真田の後ろ姿が、急に|年齢《とし》をとったように見えた……。
8 平手打ち
「お疲れさま」
と、金山靖子は言って、フーッと息をついた。
このところ、というか|年齢《とし》のせいだろうが、仕事がすむと一休みしないでは動けないのだ。
このN女子学園の食堂で働くのは、決してきつい仕事とは言えない。こんなことで参っていたのでは、先が思いやられる。
「しっかりしなきゃ」
と、靖子は|呟《つぶや》いて立ち上った。
食堂は、もちろんお昼休みが一番混み合うが、学生は必ずしも十二時に食べるとも限らないので、午後四時まで開いている。
もっとも、三時以降は何人かが飲み物やパン類を買いに来るくらいで、ほとんど仕事はないのである。
四時十五分。──もう十五分もぼんやり座っていたのだ、と知ってびっくりする。
一緒に仕事をしていた人たちは、みんないなくなって、もう靖子一人しか残っていなかった。
靖子は、ロッカールームへと歩いて行ったが──。ふと、風が吹いて来るのを感じて振り返った。
食堂の入口が開くと、こういう風が来るのだが、もう扉は閉まっているはずだ。
「──誰かいるの?」
と、靖子は呼んでみた。
遅れて来た学生でもいるのなら、売ってあげようと思ったのである。
しかし、何の返事もない。──気のせいだろうか。
靖子はロッカーの置いてある廊下へと出た。制服を脱いで、ロッカーへしまう。
夜の仕事もある日だが、時間が空いているので、厚子に夕ご飯の用意をして行ってやれるだろう。
靖子は、財布を開けた。──大丈夫。これだけあれば、おかずくらいは買って帰れる。
スッと、人影がロッカーのかげに隠れた。全く音はしなかった。靖子は、他の誰かが、しかも自分を殺そうとしている誰かが、三メートルと離れていない所にいることなど、全く知らなかった。
「早く行きましょ」
と、靖子は|呟《つぶや》いた。
ロッカーのかげに潜んだ男は、静かに細い針金を両手の間にピッと張った。
この針金が靖子の首を一巻きしたら、ほんの二、三秒で靖子の命はなくなっているだろう。
バタンとロッカーの扉が閉まる。男は静かにロッカーのかげから出ようとした。
そのとき、食堂の通用口のドアが開く音がした。男はパッと身を元の通りに潜めた。
「──お母さん」
と、顔を出したのは、厚子だった。
「厚子! 何してるの、こんな所で?」
靖子は目を丸くした。「学校の人に見付かったら|叱《しか》られるわよ」
「大丈夫です」
と言ったのは、ここの高校の制服の少女で、「私、間近紀子といいます」
「あ……。この間、厚子がお世話になった……。ありがとうございました」
と、靖子は頭を下げた。
「いいえ。今日、担任の先生から話をしてもらいまして」
「はあ?」
「お母さん! 私、ここの事務で働くことになったのよ。高校は夜学へ通って」
と、厚子が言った。「いいでしょ?」
「厚子……。突然何ごと?」
靖子が|呆《あっ》|気《け》に取られている。
「勝手なことをして、すみません」
と、紀子は言った。「でも、ここの事務で働けば、安全ですし、終りもきちんとしています。収入も安定しますし。──厚子さんも、夜学へ通った方が勉強しやすいと言うので」
「お願い、お母さん。お母さんが寝込んだりしたら大変だもの」
と、厚子が言った。「ね、私のしたいようにさせて」
靖子は、ちょっとの間迷っていた様子だったが、
「──分ったわ」
と|肯《うなず》いた。「間近さん……。よろしくお願いします」
「ええ、ご心配なく」
紀子は、厚子の肩を|叩《たた》いて、「良かったね」
と言った。
三人は、食堂を出て、学園の中を歩いて行った。
「大久保先生が、あなたのことを事務長さんに紹介してくれるから」
と、紀子は言った。「あなたは事務能力抜群ってことになってるのよ」
「わあ、大変だ」
と、厚子は笑った。
「──ところで」
と、紀子が歩きながら、「一つ、うかがいたいことがあるんです」
「私に、ですか?」
「大久保先生の大学時代の先輩で、真田さんという人がいます。その人の奥さんが、この間自殺したんです」
「まあ」
「その後、調べてみると、奥さんは家の預金を全部使い切っていたそうです。団地の噂では、奥さんは覚醒剤を使っていたというんです」
「覚醒剤……」
靖子が、ふっと目をそらす。
「ね、お母さん」
と、厚子が言った。「私、お母さんがその団地に行ったことあるの、知ってる」
「え?」
「誰か、その団地に知ってる人がいるんでしょ?」
「どうしてそんなこと──」
「教えて下さい」
と、紀子は言った。「先日、安東先生が亡くなったのは、みゆきさんが飲んだコーラに何か[#「何か」に傍点]入っていたからなんです」
「コーラに?」
と、靖子が言って、青ざめた。
「ええ。たぶん麻薬の一種だと思います。もし、あなたが何も知らずに売っていたコーラに何か入っていたとしたら……」
「──まさか!」
と、靖子は足を止めた。
「お母さん。何か知ってたら、言って」
と、厚子が母親の腕をつかむ。
「厚子……。お母さんは何も──何も知らなかったのよ!」
「分っています」
と、紀子が肯く。「後は私に任せて下さい。ともかく、このまま放っておくわけにはいかないんです」
靖子は、青ざめた顔で、しかししっかりと紀子を見て、
「分りました」
と、肯いた。「何があったのか、私には分りませんので……。知っていることはお話しします」
三人は、校舎の少し手前の並木道にいた。ふっと風が起こって、木々の枝を揺らした。
「私が、仕事であの団地へ行ったとき──」
と、靖子が言いかけたとき、バシッという音がした。
靖子がハッと胸を押えると、その場に崩れるように倒れた。──紀子が、サッと青ざめて、
「危い! 伏せて!」
と、厚子を引張って地面へ転ばせた。
「お母さん!」
ぐったりした靖子から、血が流れ出す。
「撃たれた!」
紀子は危険を承知で、「ここにいて!」
と叫ぶと、校舎へ向って駆け出した。
ちょうど、大久保が校舎から出て来る。
「間近、どうした?」
「大久保先生! 救急車を!」
と、紀子が叫んだ。「金山さんが撃たれたんです!」
「分った!」
大久保が校舎の中へ駆け戻る。紀子は足を止め、靖子たちの方へ戻りかけた。
車が一台、猛然と走って来ると、紀子の前を遮るように急停車した。
「馬鹿! 伏せろ!」
野田だった。紀子があわてて頭を下げると、バン、という音と共に車の窓ガラスが粉々に砕け、頭上に降って来た。
「──もう大丈夫だ」
ドアが開き、野田が降りて来る。「行っちまったぞ」
「助かった!」
と、立ち上った紀子はガラスの破片をはたき落して、「危いところだった?」
「二、三秒遅かったら、今ごろ、頭がふっとんでる」
と、野田は言った。
「そしたら、もっと数学のできる頭と取り替える。──それより、金山さんを」
「よし」
野田が駆けて行く。紀子は後を追った。
「──お母さん」
厚子が|呆《ぼう》|然《ぜん》と座り込んでいる。「何も聞こえないみたい。──死んじゃったの?」
「どけ」
野田が、靖子の心臓の辺りに耳を押し当てて、
「──まだ打ってる。弾丸が心臓をそれていれば助かる見込みはある」
大久保が走って来て、
「今、救急車が来る」
と言った。「どうです?」
「一刻を争うね」
野田は、一瞬考えて、「待つか、それとも五分でも早く病院へ運ぶかだ」
「どっちがいいと思う?」
と、紀子が|訊《き》いた。
「──俺は病院へ運んだ方がいいと思う」
と、野田は言った。
「厚子さん、任せてくれる?」
と、紀子は訊いた。
厚子は涙を|拭《ぬぐ》うと、紀子をしっかり見つめて、
「はい」
と|肯《うなず》いた。「どうなっても、文句は言いません」
「そうと決ったら、車へ運んでくれ」
と、野田が言った。「毛布を出しておく」
靖子をそっと車へ運び込むと、
「傷口を布で押えるんだ」
と、野田が言った。「何でもいい。出血を少しでも止めろ」
「任せて」
紀子は、パッとブレザーを脱いだ。「行って!」
「よし。動かないように押えてろ」
野田がアクセルを踏み込む。車が猛然と飛び出し、窓ガラスの破片が辺りに飛び散った。
「──免許停止だ」
と、野田が渋い顔で言った。「みっともねえっちゃありゃしねえ」
「でも、すてきだったわよ」
と、紀子は言った。
紀子は、病院の白衣を着ていた。野田が苦笑して、
「お前だって、何も裸になるこたあない」
「だって、布がなかったんだもん」
と、紀子は平気なもので、「見たのは厚子さんとあなたと……。ま、病院の入口じゃ、大勢見てたわね」
「当り前だ。年ごろの娘がパンツ一つで駆けてりゃ、誰だって見る」
二人は、病院の廊下のソファに座っていた。
「──ああ寒い。お母さん、早く服持って来てくれないかな」
「パンツ一枚だろ? 風邪ひくぞ」
野田が上着を脱いで、紀子にかけてやった。
「本当はパンツも脱いで使おうかと思ったけど、やめたんだよ」
「お前は面白い|奴《やつ》さ」
と、野田は言った。「しかし、とんでもないことになったな」
「あの団地にいる誰か、だね」
野田は、ちょっと息をついて、
「一億円の損害だ」
と言った。
「何が?」
「取引きがパアになる。それをよそへ任せる代りに訊き出した。その団地の薬を扱ってる元締の名前をな」
紀子は、野田を見て、
「ありがとう」
と言った。「悪いね」
「お前の裸を、また拝ませてもらったさ。しかし、一億は高いな」
と、野田は首を振った。
「あ、お母さんだ。──ここよ」
と、紀子が手を振る。
間近由利が|風《ふ》|呂《ろ》敷包みを抱えてやって来た。
「紀子! どういうことなの?」
「うん……。後でゆっくり説明する」
と、紀子は言って、「──この人、野田さんっていうの。うちの母」
「初めまして」
と、野田が|挨《あい》|拶《さつ》すると、由利はだしぬけに平手で野田の|頬《ほお》をひっぱたいた。紀子が目を丸くして、
「お母さん!」
「うちの子は十七なんですよ! いい|年齢《とし》をして! 結婚するつもりですか?」
野田が|唖《あ》|然《ぜん》とし、紀子があわてて、
「お母さん……。勘違いしないでよ」
と、止める。
すると、そこへ──。
「紀子さん」
と、厚子がフラッとやって来た。
「どうした? お母さんは?」
厚子は、床にペタッと座り込んでしまうと、
「助かった!」
とひと言、ワーッと泣き出してしまった。
わけが分らずにいた由利は、野田の方へ、
「あの子にも手を出したんですか?」
と訊いた。
「違います! 私は紀子さんに指一本触れちゃいません! 誓いますよ」
と、野田はあわてて言った。「チラッと裸は見ましたが……」
野田は、今度は由利の平手を危うくよけたのだった……。
9 凶 行
「電話ですよ」
と、証券会社の男が言った。
「放っとけばいいわ」
と、倉田信子は男の胸に頬をこすりつけた。「時間がもったいない。どうせ大した用じゃないわよ」
「そうですか……」
男はもう一度信子の上にかぶさる。
──昼間とはいえ、きちっとカーテンも閉めて、寝室は暗かった。もちろん、男の抱擁に夢中になっている信子には、どうでもいいことだったのだが。
──電話は一旦鳴りやんだが、二、三分するとまた鳴り出した。
「いやねえ……」
信子は起き上って、「待っててね」
と言うと、ガウンをはおってベッドから出た。
寝室にも電話はあるが、男といるところで夫と話したくなかった。たぶん、こう何度もかけてくるというのは……。
「──はい、倉田です」
と、信子は言った。「──もしもし?」
「俺だ」
と、男の声が言って、信子はちょっと息をのんだ。
「──どうも」
「まずいことになったな」
と、男は言った。「あの女を追い詰め過ぎた」
「でも──仕方なかったんですよ。分ってるでしょ。私……言われた通りにしただけで……」
信子は寝室の方へ聞こえないかと気にして、チラッと目をやった。
「ああ、しかし何か[#「何か」に傍点]あったときには、責任を取らなきゃな。そのために金を払ってるんだ。分るだろ?」
「ええ……。でも、もう死んじゃったんですから、あの人。ばれっこありませんよ」
「それはどうかな」
と、男は言った。「ともかく、しばらくおとなしくしてることだ」
「はい……」
と、信子はむくれている。「じゃ、どうするんですか? 買いに来る人には?」
「それはこっちが考える。あんたは、身の回りのものに気を付けろ」
「身の回りのもの?」
「客のリストとか、薬のメモとか、見付かってまずいようなものはないか?」
「それは大丈夫ですよ。散々注意されましたものね」
と、信子は肩をすくめて、「書いたものとかは一切ありません」
「それは確かだね? 万が一、警察の手が入ったときでも、何も証拠になるものが残っていなければ平気だ」
「何もありませんよ。──いやだわ、手入れなんてあったら、主人に──」
「万が一、と言ったろ」
と、男は笑って、「心配することはない。大丈夫だ」
信子はなおも心配そうに、
「でも──」
と言いかけたが、「分りました。じゃ、何もしなくていいんですね、私」
「ああ。安心して、証券会社の奴に抱かれてろ」
信子はギョッとして、
「あの──何のことか──」
「ちゃんと分ってる。あんたのことは隅から隅まで」
と、男は低く笑って、「じゃ、近いうちに使いを出すから、それを待っててくれ」
「はい……」
「それじゃ。──邪魔したな、お楽しみのところを」
電話が切れた。信子は、ちょっと受話器をにらみつけて、
「いい気なもんね」
と|呟《つぶや》いた。「こっちだって、大変なんだから」
そう。充江の場合は──あれで死んでしまうとは思わなかった。
普通は、預金がなくなったら、知人とか友人、サラ金辺りで借金してくる。それがふくれ上って、どうにもならなくなると、死ぬこともあるが、充江の場合は例外で、誰かからお金を借りる、なんてことは思いもよらなかったらしい。
まあ、いずれにしても、あのままいけば中毒になって死んだも同然になるのだから、それが多少早くなったというだけのこと。
いくらかは|可哀《かわい》そうに、と思わないでもないが、結局自分が馬鹿だっただけじゃないの、と信子は思った。
そう。──この「副業」のおかげで、ずいぶんぜいたくをしている。この副収入がなくなると、信子にとっては痛いのである。
今は、そんなことどうでもいい。
あの人がベッドで待ってるわ。──でも、どうして私の恋人のことまで知ってるんだろう?
見張られてるみたいで、いやね、と信子は思った。
寝室へいそいそと戻ろうとして──。玄関の方で物音がしたので、びっくりして振り向いた。
誰だろう?──まさか、主人が?
「どなた……」
こわごわ玄関の方を|覗《のぞ》くと、信子はホッと息をついた。「何だ。あなたなの」
そして、ふと|眉《まゆ》を寄せると、
「どうやって入って来たの?」
玄関は、ちゃんと|鍵《かぎ》をかけてあったはずなのに。──それが、信子の最後に考えたことだった。
「──ここか」
と、大久保はそのドアの前で言った。
「〈倉田信子〉、間違いありません」
と、紀子が肯く。
「よし。呼んでみよう。返事があったら、何て言う?」
「お届け物です、とでも?」
「そうか。それがいいな。お前、そういうことになると、よく頭が回るな」
「どういう意味ですか、それ?」
「ま、ともかく押すぞ。──いいか」
大久保の方はドキドキしているのである。
それも当然かもしれない。何しろ危いことにかけては、紀子の方がベテランである。
「先生」
「な、何だ?」
「もし、先生が殺されたら、誰かに言い|遺《のこ》したいこととか、ある?」
誰かがふき出すのが聞こえた。振り向くと、
「おい、先生をからかうもんじゃない」
と、野田がやって来る。
「野田さん。来てくれたんですか」
「相手はプロの殺し屋かもしれん。少なくとも、人を殺すのを何とも思ってない男だ。|俺《おれ》も、お前のお袋さんにまたひっぱたかれたくない」
紀子も、そう言われると赤面してしまう。
「どいて。俺が鳴らす」
と言って、野田はチャイムを鳴らした。
しかし、なかなか返事がない。野田はハンカチを出して、それでドアのノブをつかみ、回してみた。
「──開くぞ。危いかもしれねえ。退がってな」
大久保はパッと言われる通りにわきへどいたが、紀子は動かず、
「平気。慣れてる」
「よし、入ろう」
ドアをパッと開け、野田は少し頭を低くして中へ入った。
「──鉄砲|弾《だま》は飛んで来ないようだ。上るぜ、先に」
「ええ」
しかし、続いて上ろうとした紀子は、立ち止った野田の背中に、危うく追突しかけた。
「何よ。急に止らないで」
「足下にご用心だ」
「え?」
と、覗き込んで、紀子は息をのんだ。
女が倒れている。ガウンがはだけ、下は裸である。首に赤い筋が入って、そこから血がカーペットへと|溢《あふ》れ出ていた。
「──死んでる?」
「ああ。針金でやると、首がちぎれる寸前になる。アッという間だったろう」
大久保も、こわごわ覗いて、目をみはっていた。
「この女が?」
紀子は、落ちついた声で言った。
「そうだろう。倉田信子、まあ間違いない。──しかし、ずいぶんアッサリ殺されちまったもんだ」
「一一〇番しなきゃ」
と、紀子は言った。「あなたはいない方がいいんじゃないの?」
「気をつかってくれて恐縮だね」
と、野田は言った。「俺も放っておくわけにはいかん。戻って、早速当ってみる。せっかく一億も出して手に入れたネタがパーじゃな」
「先生は──。大久保先生! 大丈夫ですか?」
紀子は大久保が玄関の上り口に青くなってしゃがみ込んでしまっているのを見て、びっくりした。
「うん……。いや、すぐに治る」
「|素人《しろうと》さんにゃ刺激が強すぎるさ」
と、野田が言って、「──おい、誰かいるぞ」
と、緊張した。
「え?」
紀子の方が緊張するより早く、奥から男が一人、裸にバスタオル一つ腰に巻いて出て来たのである。
「アーア……」
と、大|欠伸《あくび》して、「すっかり眠っちゃいましたよ。どうして起こして──」
と言って、紀子たちに気付いてギョッとする。
「あなた、何してるんですか?」
と、紀子が訊くと、
「私──あの、N証券の者で、こちらの奥様に、何かとごひいきにしていただいてる者です」
と言って、自分の格好に気付き、「あの……つまり、色んな意味でごひいきに──」
「眠ってたのかい」
と、野田が言った。「じゃ、気付かなかったんだね」
「何のことですか?」
「これだよ」
その男は、床に倒れている|もの《、、》に初めて気付いたのである。
「誰か、客があって──。おい!」
と、野田が言いかけたときには、その男はもう気絶してあられもない[#「あられもない」に傍点]格好で、カーペットに大の字になってのびていたのである。
「──先輩。真田さん」
と、大久保が声をかけると、しばらく間を置いて、真田は顔を上げた。
「ああ、大久保か」
「この間は……。奥さんのことは何と言っていいか」
「もういい。──俺も悪かった」
と、真田は息をついた。
公園のベンチに、真田は座っていた。
「──どこのお嬢さんだ?」
と、真田が紀子に気付いて言った。
「あの──僕の担任しているクラスの子で、間近といいます」
「間近紀子です」
「間近。──変った名だね」
真田は会釈して、「大久保、心配するな。ちゃんと会社へは行ってる。今日は休みを取ったんだ」
「そうですか……」
大久保は、池を眺めて、「確か、ここで奥さん……」
「うん」
と、肯いて、「あいつの死に顔が寂しそうでな。気になってるんだ」
「真田さん……」
「銀行の預金がゼロになるまで何も気が付かないなんて、亭主失格だ。そうだろ?」
「いや……」
「俺は、あいつが自殺しようとしてることさえ、気付かなかった。何て鈍い奴かと|呆《あき》れるぜ」
と、唇を|歪《ゆが》めて笑うと、「──さっき、サイレンが聞こえてたな。また誰か死んだのか?」
「ええ」
と、紀子が言うと、真田はびっくりした様子で、
「──本当に?」
「はい。奥さんに覚醒剤を売っていた女です」
「何だって?」
「倉田信子。──ご存知ですか」
「倉田……。ああ、確か自治会の会長をやってるんじゃないか? 女房は役員だったから知ってる。その女が?」
「団地内の人に、他にも何人も覚醒剤を売っていたようです」
「何て奴だ!」
と、真田は身を震わせて、「ぶん殴ってやる! どこだ!」
「たぶん──地獄の方じゃないでしょうか」
「そうか……。死んだって言ったな」
「殺されたらしいです。口封じに」
と、大久保が言った。
「ひどい話だな」
と、真田は首を振って、「世の中にゃ、信じられないようなことを平気でやる奴がいるな」
「全くです」
大久保は肯いた。「とても同情できませんね。外国へ行ってる亭主には同情しますが」
「犯人は、人の命なんか何とも思ってないんです」
と、紀子が言った。「麻薬なんかやるのはゆっくり自殺していくようなものです。分っていて売るのは殺人ですから、もともと、人一人、殺すのなんか何とも思っちゃいないんです」
紀子の言葉に、真田はじっと考え込んでいたが、
「──君は憎んでるんだね、そういう奴のことを」
「悪魔です、そんな奴。必ず、必ず見付けて|崖《がけ》っぷちまで追い詰めてやります」
紀子の口調は、抑えてはいたが、激しい怒りの|漲《みなぎ》るものだった。
10 一瞬の|隙《すき》
厚子は、コックリと頭を垂れてハッと目を覚ました。
そして急いでベッドの母親の様子を見る。──母、靖子は静かに呼吸していた。
大丈夫だ! 厚子はホッと息をついた。
ほんの何秒間かしか眠っていないつもりだったが、時計を見ると十分近くもたっていてびっくりした。
深夜、もう十二時を回っている。
厚子は伸びをした。──いくら母のことが心配でも、何日も眠らずにいることはできない。
この個室に入っても、靖子の意識は戻らなかった。ずっと点滴で栄養をとり、心拍はナースステーションにつながっている。
「今のところ危険はない」
という医師の言葉も、裏返せば、
「いつどうなってもおかしくない」
ということだ。
厚子は自らこうして母の病室に泊り込んでいるのである。
何が何でも──あの紀子さんや、野田さんというふしぎな人のためにも、母に元気になってもらわなければならなかった。
この入院費用も、紀子の家から出ている。──いつか必ず返すつもりだが、今は紀子の親切に甘えておくしかない。
厚子は、欠伸をした。──もうソファで寝ようか。
その前に顔を洗って来よう。
病室を出ると、警官が|椅《い》|子《す》にかけて、ドアのすぐわきに待機している。
「今晩は」
と、厚子が会釈すると、
「やあ、まだ起きてるの?」
と、ずいぶん若い警官が|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「今から寝ようと思って。──顔を洗って来ます」
厚子は、自分で持って来たタオルを手に、洗面所へ行った。
ザブザブと顔を洗い、歯もみがいて。──ソファで寝るなんて、どうってことない。五分としない内に寝込んでしまうのだ。
タオルで顔を|拭《ふ》いて、フーッと息をつくと……。
鏡の中に、見たことのある顔が浮んだ。
「──あ!」
厚子は目をみはった。
あの老人──厚子をさらって行こうとした老人が立っていたのだ。
「やあ」
「あの……」
「もう忘れたかね、私にさんざんたかっておいて」
「たかった、だなんて」
「自分が何をしてたか分ってるはずだ」
と、老人は苦々しげに、「オモチャのピストルなんかでおどかしおって!」
「オモチャのピストル?」
「まあいい」
と、老人は言った。「来てもらうよ。あのときの約束だ」
「もういやです」
と、厚子は首を振った。
「ほう。あんなに気持良さそうにしていたのにかい」
厚子は真っ赤になって、
「あれは……お金もらって、仕方なかったから……」
と、口ごもった。
「やっていたことは分っているらしいな、自分でも。あれがばれたら、学校にもいられないだろうね」
「学校って──。でも、私……」
「写真がある」
と、老人はニヤリと笑ってコートのポケットから数枚の写真を取り出した。
「写真なんて──撮ってないはずです」
「こっそりと撮るくらい、今は簡単さ。車の中だって、誰にでも撮れる。君が逃げ出しそうになるのを防ぐためにね、撮っておいたのさ」
パラパラと写真が足下へ落ちる。厚子が拾おうと急いで身をかがめたとき、老人は厚子の後ろに回って、抱きすくめた。
「やめて──」
叫ぼうとするところを、またあの薬をしみ込ませた布を押し当てられる。
ツーンという|匂《にお》いで、頭がクラッとしたが、二度同じ手でやられはしない。必死で息を止めて、厚子は思い切り老人の足を踏みつけてやった。
「ウッ」
と、老人が布を取り落とし、片足を抱えてよろける。
厚子が逃げようとすると、
「待て!」
と、老人が厚子のスカートをつかんだ。「逃がさんぞ!」
そのとき、
「よくやるわね」
と、声がした。
「紀子さん!」
「こりない|奴《やつ》って、こういう男のことなのね」
紀子が|拳《こぶし》を固めると、老人の|顎《あご》に一発食らわした。──もちろん、即KO、とはいかなかったが、老人が|尻《しり》もちをつく。
「痛い!──おい、年寄りをいじめるのか!」
「何言ってんの」
紀子は落ちた布をつかむと、老人を押し倒し、馬乗りになって、薬のしみ込んだ布を老人の顔へギュウギュウ押し当てた。
老人はバタバタと手足を動かしてもがいていたが……。やがてグッタリしてしまう。
「自分の用意したものでのびてりゃ、世話ないや」
と、紀子は息を弾ませて、「──大丈夫?」
「ありがとう」
と、厚子は言った。「つい、引っかかっちゃった」
写真を拾い上げると、厚子は顔をしかめる。
「──他の子ね」
と、紀子も|覗《のぞ》いて、|眉《まゆ》をひそめた。「吐き気がする」
どう見ても七、八歳という幼い子から、厚子くらいの子まで、どれも裸やスカートをまくり上げた写真。
「警察へ引き渡してやる。ちょうどいい」
と、紀子は言った。「お母さん、どう?」
「ええ。変りません」
「こいつはしばらく寝てるでしょ。病室へ行こう」
「はい。──紀子さん、どうしてこんなに遅く?」
「私、夜遅い方が元気が出るの」
「へえ。吸血鬼みたい」
「言ったな」
と、紀子は笑って、「病院の中じゃ、静かにしなきゃ」
「──病室の前にお巡りさんを置いてくれたのも、野田さんなんですか?」
「そう。──ああいう人はね、刑事さんとも結構仲がいいのよ」
と、紀子は言った。「あれ? こっちじゃなかった?」
「いえ、この先──。おかしいな」
と、厚子が言ったのは、母の病室の前に、警官の姿が見えなかったからだ。
「──あれは?」
紀子は駆け出した。
廊下の角を曲ると、少し薄暗がりになった所に、警官が倒れている。椅子も投げ出してあった。
「大変だ!」
と、紀子が言った。「看護婦さんを早く!」
しかし、呼ぶより早く、夜勤の看護婦が駆けつけて来る。
「今、オシログラフが──」
「誰かが病室へ入ったんです!」
もしかしたら、そいつがまだ中にいるかもしれない。
紀子にも分っていたが、ためらっている暇はなかった。病室へパッと飛び込むと、ベッドの靖子の顔に、大きな枕がのせられている。
「お母さん!」
と、厚子が叫んだ。
看護婦が、枕を投げ捨てて、
「すぐ先生を呼びます」
と、駆け出して行く。
「お巡りさんも、倒れています」
と、紀子は後ろから声をかけた。
「お母さん! しっかりして!」
と、すがる厚子の肩をつかんで、
「今は、お医者さんに任せて」
と、紀子は言った。
しかし──何という犯人だろう。警官がいるというのに!
すぐに医師が駆けつけて来た。紀子と厚子は、病室の隅に退がって、じっと手を取り合っていた……。
「──何だ」
と、野田が目をこすって、「もう夜中だぞ!」
「あなた、ヤクザでしょ」
と、アケミが言った。「こんな早寝のヤクザなんていないわよ」
「大きなお世話だ」
と、野田はベッドで大|欠伸《あくび》した。
「お電話」
「誰からだ、こんな時間に?」
「あなたの|可《かわ》|愛《い》い子からよ」
野田は目をパチクリさせて、
「紀子か。──なら、そう言え。もしもし」
と、受話器を受け取って、また欠伸をする。「──ああ。──何だって?」
いっぺんに眠気がふっとぶ。
アケミもギョッとして、ベッドに起き上った。
「それで……。──うん、そうか。──分った。俺の方でやる。──ああ、そうだな」
野田は、電話を切って、少しの間呆然と座っていた。
「どうかしたの?」
「あの女……死んだ」
「あの女って……。入院してた人? 助かったんじゃなかったの」
「殺されたんだ。──畜生!」
野田が珍しく怒りを見せた。「しかも、警戒してた警官もやられた」
「気の毒に」
「──俺が頼んで出してもらったのに。とんでもないことになった。警官の方は死んじゃいないようだが、重態だとさ」
「今から行く?」
野田は、少し迷って、
「いや……。もう遅い。──あの女の葬式をやってやらなくちゃ」
「そうね……。可哀そうに」
「お前、手配を頼んでくれるか」
「ええ。今からすぐ?」
「すぐだ」
「分ったわ」
アケミは、そんなとき、面倒がったりしない。すぐに起き出して、寝室を出て行った。
野田は、ブルブルッと頭を振ると、腕組みをして、考え込んだのだった……。
11 |棺《ひつぎ》の窓
冷たい雨だった。
けれども、厚子にとっては天気などどうでもいい。大体、外が雨かどうかなんて、気付きもしない。
靖子の葬儀は、もちろんこぢんまりと行われた。そう知り合いもないし、喪主は厚子で|親戚《しんせき》などもいない。
それではあんまり寂しい、というので、紀子の両親が厚子の後ろに座っていてくれた。
紀子は初めの内隣に座っていてくれたが、意外に大勢の人が焼香に来ると、
「受付の方を見てくる」
と言って立って行った。
「あの子ったら、途中で席を立ったりして」
と、母の由利が文句を言っている。
でも、もちろん厚子には気にならなかった。──今はたぶん、何も感じないのだろう。
母が死んだと聞いて泣いたが、本当に悲しいのはこれから後かもしれない。
殺されたというので、母の遺体はなかなか戻って来なかった。お葬式も、ずいぶん遅れたので、何となく実感がなくなってしまったのかもしれない。
「あ、大久保先生」
と、厚子は言った。
「気の毒だったね」
と、大久保は焼香した後、厚子の方へ来て、「気を落すなよ。学校じゃ君の来るのを待ってるぞ」
「はい」
大久保の言葉が|嬉《うれ》しかった。
「──間近は?」
「紀子さんですか? たぶん受付の方だと思いますけど」
「そうか。見かけなかったが……。じゃ、後でな」
「はい」
と、厚子は頭を下げた。
──大久保は外へ出た。
野田が仕切っているので、そう広くはないが、立派なお寺である。
「大久保」
と呼ばれて、振り向く。
「あ、先輩」
真田がやって来たところだった。
「同じ犯人か?」
と、真田は小声で言った。
「まず間違いないでしょう」
と、大久保は|肯《うなず》いた。
「警察も何をしてるのかな。──ともかく他人事じゃない。お焼香してくるよ」
「ええ、お願いしますよ」
と、大久保は言った。
大久保は紀子の姿を捜してキョロキョロしていたが──。
コツン。小さな石が頭に当った。
「いてっ!」
と振り向くと、紀子が木のかげから手招きしている。
「──おい、何だ」
「しっ」
紀子は大久保の手をつかんで引張った。
「──全く、お前のやることは分らん」
大久保は寺の裏側へ出て、紀子が足を止めると言った。
「その内、分るようになりますよ、先生も大人になれば」
「言うことが逆だ」
足音がした。大久保は振り向くと、
「あ、どうも」
と、野田に会釈した。
「どうだい?」
「ええ、大勢みえてるわ」
と、紀子は言った。「あなたも座ってればいいのに」
「俺は表に出ない方がいいんだ」
と、野田は首を振った。「例の警官だが、まだ意識が戻らないらしいぜ」
「気の毒に。──何か言われた?」
「いや、別に。しかし、後が怖いね」
と、野田が肩をすくめる。「せいぜい日ごろの行いを良くしとくさ」
「犯人を捕まえて突き出せば? 見直してくれるわ」
「見直してもらっても困る。こっちはできるだけ目立たないのが一番だ。それに犯人なんて、分りもしないのにどうやって捕まえるんだ?」
「分ってるもん」
野田と大久保が顔を見合せた。
「──分ってる? 本当か?」
「ええ、もちろん」
「どうして分った」
「聞いたの。靖子さんから」
「──いつだ? 意識の戻ったときがあったのか」
「死んだ後[#「死んだ後」に傍点]」
紀子の言葉に、野田はむくれて、
「相棒を馬鹿にしてるのか?」
と言った。「──おい」
「しっ。いいの」
と、紀子が野田にウインクして見せる。
少し間があって、野田は小声で、
「誰かが立ち聞きしてたぞ」
「分ってる。それでいいの」
と、紀子は肯いた。「さ、犯人が来るのを待ちましょ」
「──どうしたんですか?」
と、厚子は車から出て|訊《き》いた。
いざ出棺となって、白木の棺が|霊柩車《れいきゅうしゃ》に入れられたのだが、一向に車が走り出さないのである。
「──いや、申しわけありません」
と、葬儀社の男が汗を|拭《ふ》いて、「車が故障のようで……。すぐ別の車をこっちへ寄こしますので」
「君、困るよ」
と、紀子の父が顔をしかめる。
「何ともはや……」
「しょうがないわよ」
と、紀子が言った。「じゃ、お手数ですけど、棺を一旦お寺の方へ戻して」
「はい、すぐに」
葬儀社の社員たちが急いで棺を寺の中へ戻す。
「──どうしたらいいのかしら」
と、母の写真を抱えた厚子が戸惑っている。
「ついて来て」
と、紀子は言った。「お父さん、写真を持ってて」
「|俺《おれ》が?」
|呆《あっ》|気《け》に取られている父へ写真を押しつけ、紀子は厚子の手を引いて、お寺のわきへ回った。
「紀子さん……」
「しっ。──窓から忍び込むくらいのこと、できるでしょ」
「忍び込む?」
「そう。──そっとね」
二人は、窓からお寺の中へ入った。
もうすっかり片付けてしまっているので、白木の棺は奥の部屋に置かれていた。
「隠れて見てよう」
と、紀子が小声で言って、厚子の肩をつかむ。
「何を──」
「しっ。来たみたい」
足音がした。──二人だ。
「おい、あるぞ」
と、男の声がした。
「確かに?」
女の声がして……。「中を見た?」
「見ちゃいないさ。しかし──」
「本当に死んでるのかどうか。もし、死んだって発表しただけなら──」
「まさか!」
「あの女は、あんたのことを知ってるのよ。もし、証言されたらおしまい」
「開けてみるのか?──気が進まねえ」
「大丈夫。顔の所だけ窓がついてるでしょ」
──二人は、そっと棺に近付いた。
「おい……。やめようぜ。確かに殺したんだ。間違いねえよ」
と、男が言った。
「念には念よ」
女の方が近付いて棺の窓をそっと開け|覗《のぞ》き込んで、
「──確かにあの女ね」
と、肯く。
「分ったろ? さ、行こう」
と、男が促したとき、
「キャッ!」
女が飛び上って|尻《しり》もちをついてしまった。
「おい! 人が来るぞ」
と、男があわてて女を抱き起こすと、
「目を──目を開けた!」
女は真っ青になっている。
「何だと?」
「目を開けて、私を見たわ!」
「馬鹿な!」
突然、打ちつけたはずの棺の|蓋《ふた》がガタッと音をたててずれると、床へ落ちて、大きな音をたてた。
「おい……」
男の方も青ざめている。
棺の中から、ゆっくりと金山靖子が起き上った。
「お母さん!」
厚子が思わず叫ぶ。
「逃げろ!」
と、男が女の手をつかんで逃げ出そうとしたが──。
「そうはいかないぜ」
と、野田が二人の前に現われた。
「先輩」
と、大久保も出て来た。「──ひどいことをしたもんですね」
「大久保……」
と、真田は|愕《がく》|然《ぜん》として、「引っかけやがったな!」
女が──相沢京子がヘナヘナと座り込んでしまう。
紀子は、呆然としている厚子の肩を|叩《たた》いて、
「ごめんね。本当のことを言うと、犯人を引っかけられないから」
「じゃ……お母さん、助かったの?」
「寝心地はあんまり良くないわね」
と、靖子が棺からゆっくりと出て来る。
「靖子──」
と、真田が言った。「すまん……」
「あなたは意志の弱い人だから……」
と、靖子は言った。「でも、奥さんを死なせるなんて……」
「こいつにそそのかされたんだ! そうなんだ、この京子が──」
「何よ、男らしくない!」
相沢京子が真田をにらんで、「私のためなら何でもやるって言ったくせに!」
「確かにやりましたね」
と、紀子が言った。「真田さん。女のせいにはできませんよ。あんなひどいことをしておいて」
真田が上着の内側へ手を入れる。
「危いぞ!」
野田が飛びかかった。二人が床の上でもつれ合って、銃声が響いた。
「野田さん!」
と、紀子が駆け寄る。
「大丈夫。──かすり傷だ」
野田が左手を押えて立ち上る。真田は、ぐったりと動かなかった。そして、胸にじわじわと血が広がって行った。
人が大勢駆けつけて来る。
そして、誰もが|唖《あ》|然《ぜん》として立ちすくんだ。
──当然だろう。
死んだはずの靖子が厚子と抱き合っていて、真田が銃を手に倒れている。そして、相沢京子は床に座り込んで泣いている。
どうしたって、一言や二言じゃ説明できない場面であった。
「──真田は、充江さんが覚醒剤を使っているのに気付いて、誰が売っているのか、調べようとしたんです」
と、紀子は言った。「そして相沢京子と会って、二人は気が合い、恋人同士になった」
「相沢京子の方も、倉田信子を何とか見返してやりたいと思ってたらしい」
と、野田が言った。「いつも召使同然に使われて、憎んでいたんだ。それで、真田と二人で、倉田信子のやっていた仕事[#「仕事」に傍点]を奪ってやろうとした」
野田のオフィスである。
大久保と、金山厚子が話を聞いていた。
「充江が薬に|溺《おぼ》れていくのは、真田にとっちゃ幸いだった。望み通り、充江は死に、真田は自由になると同時に、倉田信子の失敗だと組織の方へ思わせた。──ま、組織から見りゃ、誰がやってもいい。相沢京子の頼みを聞いて、その代り倉田信子の始末は自分でやれ、と言われた」
厚子が息をついて、
「お母さんが、あんな男と仲良くしてたなんて」
「一人で寂しいときってのはあるものさ」
と、野田が言った。「確かに、真田は気が弱い男だったんだろう。──だから恐ろしくて、人を殺したりしてしまうのさ」
「あのコーラのことは?」
と、厚子が訊いた。
「真田が持っていたのを、お母さんがケースに間違って入れてしまったのよ」
と、紀子が言った。「それを知って、真田はお母さんの口をふさごうとした」
「それも何度もな」
と、野田が首を振って、「ひどい奴だ」
「でも、厚子さん。お母さんって運の強い人だわ。きっと長生きするわよ」
と、紀子が言うと、
「長生きしてもらわなきゃ!」
と、厚子は張り切って言った。「孫の面倒、みてもらうんだから」
紀子がふき出した。
──大久保と厚子が帰って行くと、紀子は野田の方へ、
「ありがとう」
と、頭を下げた。
「何だ、気味が悪い」
「失礼ね」
と、紀子は笑って言った。
「しかし、お前もな、俺にまであの女が生きてることを隠すことはないだろ」
と、野田がむくれる。「相棒なのに」
「MとN?──そうね。ごめんなさい。でも、後で迷惑がかかると……」
「お前は気のつかい過ぎだ」
野田は、インタホンのスイッチに触れて、「あの日、これを聞けた連中の中で、あの団地で薬を売ってる奴が分ったよ。しかし、警察へ突き出すわけにゃいかない。──分ってくれ」
「うん」
「その代り、あの団地じゃ、もう商売はできんさ。相沢京子がしゃべっちまってるからな」
「でも、他の所で売るんでしょうね」
「ああ。どうしてあんなものを欲しがるのか」
と、野田は首を振って、「孤独な人間が多いのかもしれんな」
「人間って弱いわ。そうでしょ? そこにつけ込むのは|卑怯《ひきょう》よ」
「ああ。──お前のそういう所が好きだ」
紀子は、ちょっと|頬《ほお》を染めた。
「やれやれ……。俺もお前も、よく生きてるもんだ」
「本当。──明日にも殺されたって、おかしくないね」
と、紀子は言った。「でも後悔しない。そうなっても。黙って見過してれば、きっと一生後悔するもの」
野田は立ち上ると、机を回って紀子の前に立ち、
「死なせやしない。──お前のことは、ちゃんと言い含めてある」
「でも……」
「ただし、その都合で、俺の恋人ってことにしてあるけどな」
「そうか。──ま、許してやる」
と言って紀子は笑い、「十七の女の子が、いいのかな、こんな口きいて」
「今さら何だ」
「今さら、ね。──本当だ」
紀子は、立ち上って、野田にキスした。
そこへドアが開いて、
「あ、ごめんなさい」
と、アケミが顔を出して言った。
紀子はパッと離れて、
「あ、あの──目にゴミが入って」
と、あわてて|鞄《かばん》を抱えると、「明日、テストなの! じゃ!」
と、風のように飛び出して行った。
MとN|探《たん》|偵《てい》|局《きょく》
|悪《あく》|魔《ま》を|追《お》い|詰《つ》めろ!
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年5月11日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
■(C) Jiro AKAGAWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『MとN探偵局 悪魔を追い詰めろ!』平成11年1月25日初版刊行