角川文庫
黒い壁
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
1 悲鳴
2 破片
3 救い
4 言葉
5 マルティン
6 ライトの中
7 死の影
8 弾痕
9 トンネル
10 血痕
11 少年
12 惨劇
13 入院
14 欲望の交錯
15 オットー
16 面影
17 罠
18 少女の肌
19 殺しの標的
20 逃走
21 幽霊
22 〈壁〉
23 生者と死者と
1 悲 鳴
白い手が虚空をつかんでいた。
細い指、そしてほっそりとした手首は、その女性がデリケートな職業を持っていることを感じさせた。
そう。――ピアニストとか、ヴァイオリニストとか。
いや、むしろ、そういう仕事をしていると、手や指は、がっしりと|逞《たくま》しくなるものなのだろうか? ――|利《と》|根《ね》にはよく分らなかった。利根貞男自身、ピアノといえば小さいころ、家に壊れかけたオモチャのピアノがあって、そのガタガタになった|鍵《けん》|盤《ばん》をポンポンとでたらめに叩いていた以外、何の縁もなかったのだ。
だが――問題はそんなことじゃなかった。
確かに、一人の女性が地面に|這《は》って、救いを求めて手を差しのべていたのである。
「おい!」
と、利根は叫んだ。「大丈夫か!」
夜ふけのことで、周囲には人の姿がなかった。
暗い道は、もう終電も過ぎて、通る人とてなく、それでも、街灯だけはアスファルトの細い路面を照らしている。
この道は、駅から団地へと続いていて、毎朝急ぐと十分ほど、帰りには十五分かけて歩くほどの距離。利根は、終電過ぎに帰宅することも珍しくない。
遅い人はたいていタクシーで直接団地の中まで乗っていく。利根は、同じ方向の同僚の車に同乗させてもらって、駅前で降ろしてもらったので、こうして一人、この道を歩いているのだった。
秋も終りに近いころで、郊外のこの辺りは都心より一段と寒い。もう利根も冬のコートをはおっていた。
そして――早く団地の自分の部屋へ帰りついてホッとしたいと足どりを速めたとき、その声が聞こえて来たのである。
足を止めた。
何だ?――女の声だったようだが……。
周囲を見回しても、あまり意味はなかった。というのは、駅と団地の間は、まだほとんど開発されておらず、この道以外は空地になっているからだ。
駅から来ると、道の左手はずっと造成だけすんで、建物のたっていない土地が並んでいる。
もう一方の右手の方は、金網を張った柵がずっと続いていた。こっちは造成前で、林だった所を、木を全部抜いて平らにならしただけの土地なのである。
たぶん、ちょっとした野球場くらいの広さはあるだろう。――夜は、むろん照明などないので、ただの暗闇でしかない。
そこで声がしたのである。
それとも空耳か?
ためらっていると――。
「ひ……え……」
女の声だ。――何と言っているのか、よく分らなかったが、ともかくかすれた叫び声のようだった。ただごとではない。
「誰かいるのか?」
と言ってみた。
声は、確かに金網の向うから聞こえて来たようだ。
「おい!――いたら、返事しろ」
と、もう少し大きな声で呼ぶと……。
白い手が見えた。
目が暗さに慣れたのか? それにしても、今まで何も見えなかったのに。
女が、地面にうつ伏せに倒れていた。頭を利根のいる方へ向けて、白いコートが広がっている。
「おい! 大丈夫か!」
大丈夫なわけはないが、ともかく何か言わなくては、と思った。
利根の声が届いたらしい。
女は顔を上げた。金網から七、八メートルの距離である。
女が手をのばして、何か言った。
利根には聞き取れない。――「ひ……え」だろうか? よく分らない。
「どうした?」
と、利根は呼びかけた。「待ってろよ」
助けに行こう、と思った。――利根は格別勇敢なわけではないが、目の前で人が助けを求めているのを放って行くほど不人情でもない。
しかし、問題は金網がずっと続いていて、どこにも切れ目がない、ということだった。
柵の高さは二メートル以上ある。
何といっても、何かに使うということのない土地だから、中へ入れないように金網が張ってあるのだ。入口――というか、出入りする所はどこかにあるのだろうが、今、この土地の周りをグルッと一周しようと思ったら大変だ。
ということは、この金網を乗り越えるしか、方法はないわけである。
しかし――そんなことができるか?
利根は、もともとあまり木登りなどとは縁のない暮しをして来た。それに、金網の目は割合に細かくて、手でつかむことはできても、足をかけられるかどうか。
そんなことを考えてためらっている内にも、その女は必死で彼の方へ手をのばしている。
そして――利根は初めて気付いた。
女の体の下に、ゆっくりと広がっていくのは、血だまりに違いなかったのである。
けがをしている!
さすがに、迷っている余裕はない、と利根も思った。
「待ってろよ!」
と声をかけると、目の前の金網に指をかけた。
しかし、映画の中のヒーローのようにはいかない、ということが、利根にも分った。
革靴というのが、大体こういうことに向いていない。それに、靴先を引っかけただけで、手の力でよじ上ろうとしたら、とてもじゃないが、体が持ち上らないのだ。
力を入れると、金網が指に食い込んで、痛くてたまらない。――畜生! どうすりゃいいんだ?
女の声が聞こえる。といっても、それは言葉ではなく、苦しげな息と共に|洩《も》れる|呻《うめ》き声だった。
血が、白いコートにも広がっていく。
「見てろ!」
一旦、金網から離れて|退《さ》がると、利根は、
「ヤッ!」
と、かけ声つきで飛び上りながら、金網につかまった。
あまり高くは飛べなかったが、それでも何とか落っこちずにしがみつき、指の痛さをこらえて必死で体を引張り上げた。
やったぞ! 手が、金網の|天《てっ》|辺《ぺん》をつかんでいる。――利根は何とか金網の上の枠につかまって、片足を向う側へ出すことができた。
これで思い切り力を入れて飛べば、向う側へ下りられる!
が、待てよ。――一瞬、利根は考えた。
向う側へ下りてしまったら、今度はどうやってあの女を運び出すんだ?
自分一人でも、やっとの思いで乗り越えたこの金網を、彼女をおぶって越えるなんて、できっこない。それに、あの出血では、動かすことなどできないのではないか。
そう思い付いた利根が、一瞬金網の上で考えていると――突然、バアンと|弾《はじ》けるような音がして、金網がガーンとショックを受けて揺れた。
「あ――」
と声を上げたときには、利根の体は地面に落っこちていたのだ。
道路の側へ落ちたのだが、幸い、お尻から落ちたので、そうひどくは痛まなかった。
何だ、今のは?
やっとの思いで立ち上ると、遠い闇の中に赤い|閃《せん》|光《こう》が走り、再びバアンという音と共に、金網とその倒れている女の間の地面でパッと土が弾け飛んだ。
やっと、利根にも分った。――誰かが銃で[#「銃で」に傍点]撃ったのだ。
血の気がひいた。こんなこととは思ってもいなかった。
あの女も、撃たれて倒れているのだろう。犯人は、まだ銃でこっちを狙っているのだ。
すると――また銃声がして、
「アッ!」
と、女が叫んだ。
利根は、女の足に血がふき出すのを見た。女が苦しみ|悶《もだ》えて、仰向けになり、撃たれた足を抱え込むようにして呻く。
何てことを!
女がまた手を伸して来た。その手はもう白くはない。自分の血で赤く汚れていた。
――どうしたらいいんだ? 明るい道路にいる利根のことも、向うにはよく見えているに違いないのだ。
助けたくても、この金網を越えようとすれば、こっちが撃たれるかもしれない。
「――待っててくれ!」
と、利根は叫んだ。「誰か呼んでくる! すぐ戻るから――」
と言ったものの、駅まで行かなければ、人はいないだろう。
必死で走って、駅前の交番へ駆け込んで、警官を連れて戻ってくるのに何分かかるだろう? 五分? 十分? その間に、あの女は殺されてしまうかもしれない。
しかし、今の利根には他にどうしてやることもできないのだ。
「すぐ戻ってくるからな!」
と、もう一度大声で言うと、駅の方へ駆け出そうとした。
その瞬間、続けて三発の銃弾が発射された。それは、利根の行手を|遮《さえぎ》るように、目の前の道路のアスファルトを削り取って、細かいかけらが利根の顔にまで飛んで来た。
利根は立ちすくんだ。――向うは、わざと道路を撃ったのだ。そうとしか思えない。
利根を行かせたくないのだ。立ちすくむ利根の足下へ、さらに二発の弾丸が飛んで来た。
「ワッ!」
利根を思わずその場で飛びはねた。一発は靴のかかとを削り取っていた。
動けない。――人を呼びに行こうとすれば撃つぞ、と言っているのだ。
冷汗がふき出して来た。膝が震える。
どうしたらいいんだ!
女は、苦しげに地面を這っていた。少しずつ、金網の方へ這い寄ろうとしている。
と、また銃声がして、女は右腕を撃ち抜かれて悲鳴を上げた。コートがたちまち血に染っていく。
もう這って進むこともできない。撃っている人間は、明らかに狙いを定めていた。
出血がひどいせいか、女はほとんど声も上げなくなっていた。
「もうよせ」
と、利根は言った。「もうやめろ!」
だが、声は震えていた。犯人を怒らせて、こっちが撃たれたら、という恐怖心が、利根を縛りつけていた。
女が、ゆっくりと顔を上げた。――もう叫ぶ元気もなかったのかもしれない。声は洩れなかった。
撃たれていない左の手で、女はコートのポケットを探った。そして、何かを取り出すと、その手を精一杯の力で、利根の方へと差しのべた。
だが、とても届く距離ではない。
すると――女は驚くべき気力で、その手にした物を、利根の方へ向けて投げたのである。
それ[#「それ」に傍点]は街灯の光を受けて、キラリと光った。一瞬、利根はハッとした。それが金網に引っかかってしまうかと思ったからだ。
しかし、奇跡的に――と言うしかないが、それは金網を越えて、利根の足下に落ちた。
反射的にかがみ込んで、それを拾っていた。
鎖のついたペンダントだった。それは、たった今まで持っていたあの女の体温なのか、ぬくもりが感じられる。
ペンダントは卵型のもので、花を図案化したような模様が入っていた。それが何の花なのか、確かめるような余裕は利根にはない。急いでポケットへ入れた。
もし、犯人が今の出来事を見ていたら、利根を撃ったかもしれない、と思った。しかし、今度は一発も弾丸は飛んで来なかった。
利根は、金網越しに女を見た。すると女も顔を上げ、利根の方を見たのである。
その顔は、ふしぎな穏やかさに満ちていた。もう苦痛に|歪《ゆが》んではいなかった。
出血で、感覚が鈍っているのか? しかし、女の目はしっかりと利根を[#「利根を」に傍点]見ていた。二人の目が合っていたのである。
「受け取ったよ」
と、利根は何度か大きく|肯《うなず》いて見せた。「受け取ったよ!」
女にその声が届いただろうか? しかし、女は、利根の声がはっきり分ったという様子で、微笑んだ[#「微笑んだ」に傍点]。
その笑顔は、ほんの一、二秒のものでしかなかったが、忘れがたく利根の目に焼きついた。
そして――女はゆっくりと地面に頭を落とし、そのまま動かなくなった。
じわじわと血だまりが彼女の周囲に広がっていく。そして、コートも、今は半ば以上が血で染っていた。
「――生きてるのか?」
と、声をかけても、何の反応もなかった。
「おい。――何とか言ってくれ。おい!」
女は死んだ。
利根は、直接彼女の手首の脈を取ってみたわけではないが、それでも彼女が死んだと直感的に知っていた。生きている徴候は全く感じられない。
――何てことだ!
目の前で人が死ぬ。しかも、銃弾に倒れて。
こんなことが。――こんなことが、どうして起るんだ?
利根は、しばらくその場に立ちすくんでいた。動けばまた銃撃されるかもしれない。
どうしよう?――どうしよう?
汗がにじんだ。足は地に根を張ったかのように、動こうとしなかった……。
2 破 片
「それで?」
と、|説《せつ》|子《こ》は息を呑んだ。
「うん……」
利根は、急に言い淀んだ。
「どうしたの? 教えてよ! その人、やっぱり死んだの?」
思わず大きな声を出してしまって、説子はあわてて周囲を見回した。――ここはレストランなのだ。
もちろん、ごく普通のサラリーマン、OLにも気軽に入れる大衆的な店で、周りもにぎやかにおしゃべりしている。聞かれはしなかっただろうが、それでも改めて少し声を小さくして、
「どうなったの? 早く言ってよ」
と、せっついた。
「それがね……」
と、利根は額にしわ[#「しわ」に傍点]を寄せて考え込みながら、「結局何時間たってたのか……。その内意識がボーッとし始めて……。緊張のあまりだと思うけど。ハッと気が付くと、もう辺りが少し明るくなりかけてた」
「そんなに長い時間?」
「うん。きっと三、四時間たってたと思うんだ」
と、利根は言った。「そして、金網の向うも、はっきり見えるようになっていた」
「――それで?」
「ところが……」
と、利根は首を振った。「その空地には何も[#「何も」に傍点]なかった」
「どういうこと?」
「女の死体も、ライフルを持った狙撃者もいなかった。血だまりも、消えていた」
説子は|呆《あっ》|気《け》に取られていたが、
「――どういうことなの?」
「分らないよ」
と、肩をすくめて、利根はコーヒーを飲んだ。「僕は、足下の道路もよく見た。弾丸が何発も当ってるんだ。その|痕《こん》|跡《せき》がないわけはない。でも……何も[#「何も」に傍点]なかった」
「じゃ……その女も幻のように消えちゃったってわけ?」
「まあ……そういうことになるかな」
説子は、少しの間、利根を見つめていたが――。
「ちょっと!」
と、突然、かみつきそうな声を出した。
「何だよ?」
「結局、全部夢でしたってわけ? 冗談じゃないわよ。ハラハラしながら聞いてれば。こっちまで寿命が縮まったじゃない!」
と、やけ気味に自分のコーヒーを飲み干し、「ぬるい! ちょっと! コーヒー、もう一杯!」
「僕だって、『そこでハッと目がさめて、ベッドで寝てたんだ』ってことになりゃどんなに気が楽か」
利根は、ため息をついた。「しかしね、朝までその場所に僕がずっと立ってたのは事実なんだ。おかげで今日は会社を休んじまったけど」
「立って眠ってたんじゃないの?」
「酔っちゃいなかったんだぜ。全くアルコールなんか入ってない。それで、歩きながら居眠りして夢を見るなんてことがあると思うか?」
「そう言われても……。じゃ、何だったって言うの? タヌキに化かされたとでも?」
「タヌキがこんな物を持ってるかね」
利根が上着のポケットから、鎖のついたペンダントを取り出して、テーブルに置いた。
説子は目を丸くして。
「これって……話の中に出て来た?」
「彼女が死ぬ前に投げて寄こした物だ。これがなければ、僕もあのすべてが夢だったかもしれないと思うんだけどね」
説子は、触ると消えてしまうとでもいうように、恐る恐る、それを手に取った。
「――これって、割合古い物ね」
「らしいね。周囲の金色が鈍くなってる」
「これ、ロケットだわ」
説子が小さな突起を見付けて押すと、カチッと音がして、ふたが開いた。
「子供の写真よ」
中には、せいぜい一、二歳と思われる赤ん坊の笑顔の写真があった。モノクロで、いくらかセピアがかった色になっているのは、古いのか、それともわざとそうしてあるのか……。
「僕も見た。たぶん、あの女の子供なんだろう」
と、利根が|肯《うなず》く。「でも、名前も何もない。どこの誰やら、調べようもないよ」
「本当ね……。可愛いわ」
「男の子かね?」
「さあ……。こんなに小さいと、どっちとも取れるわ」
と、説子はまじまじと眺めた。「何だか、外国人の子供みたい」
「うん。僕もそう思った。もしかするとハーフかな」
「その女の人は? 確かに日本人?」
「さあ……。そう見えたけどね。髪が黒かったからそう見えたのかもしれない」
「ともかく――返すわ」
気味悪くなって、説子は利根の手にそのペンダントを返した。
「――びっくりさせてごめんよ」
と、利根は笑顔になって、「だけど、こんな話を信じてくれるのは、君ぐらいしかいないんだ」
「分ってるじゃない」
と、麻木説子は、わざとおどけた調子で言った……。
「ねえ」
と、説子は言った。「――ねえ」
返事はなかった。
利根がぐっすりと眠り込んでいるのを知って、説子はあの話が事実だったのだろう、と思った。
明りを落とした部屋に、かすかにコーヒーの香りが残っている。
利根貞男の住む団地の一室は、男の一人暮しにしてはよく片付いていて、毎週、週末にはここへ泊りに来る説子が一応その度に掃除や片付けもするのだが、実際にはそんな必要がないほどである。
説子は、大きく伸びをした。
ベッドの傍の時計へ目をやると、三時を少し回ったところだ。
説子は、眠る前にシャワーを浴びて、ここに置いてあるパジャマを着ることにしている。しかし今夜はもう少し利根のそばで休んでいることにした。
利根は裸のままでぐっすり眠っている。説子は薄手の羽毛ふとんをていねいにかけてやった……。
――麻木説子は二十八歳のOLである。
同じ会社の別の課に勤める利根とこういう仲になって半年ほど。利根が大分年上の三十七歳ということもあって、「あまり目立ちたくない」と言うので、説子も会社の中では一切プライベートな話はしないようにしていた。
同僚でも、説子が利根と付合っていると知っているのは、同じ課で後輩の柳原沙江、一人である。――他の女性たちには知られていない、という自信があった。
といって、説子も独身、利根貞男も独身なのだから、隠す必要性はないようなものだが、むしろ噂になったり、からかわれたりすることで、せっかくの恋に水をさされるのを心配している、というのが利根の気持なのだろう。そういう彼の性格を、説子はよく呑み込んでいた。
こうして週末ごとに利根の部屋へ説子が来て泊る、というのも、申し合せたわけでも何でもなくて、何となく習慣になり、「暗黙の了解」になっていったのである。
結婚、という形に落ちつくのかどうか、説子にもはっきりした見通しがあるわけではないが、今さら急ぐ気にもなれなかった。
それにしても……。
暗い天井を見上げて、説子はゆうべの利根のふしぎな体験を思い出していた。
利根は、そんなことで作り話をするような人間ではない。といって、あれがすべて事実なら、一体何が起ったのだろうか。
今夜は、食事の後、少し飲んでからタクシーで帰って来た。電車がない時間にはなっていなかったから、そんなぜいたくをするのは珍しいことだったのだが、説子は利根がゆうべの「現場」を通りたくないのだろう、と察した。
それほど、利根にとってそれは恐ろしい体験だったのだ。
その気持は、今夜、いつになく利根が我を忘れて説子を激しく愛したことにも感じられた。――少し心配もある。
いつも、きちんと避妊してくれる利根が、今夜はそんなことを忘れてしまっていたのだ。説子は今、妊娠してもおかしくない時期だった。
しかし、そのことで利根を責めようという気にはなれない。彼は「悪い夢」から必死で逃げようとしていたのだ……。
たぶん、利根を苦しめているのは、「恐ろしかった」ことより、「その女を救えなかった」ことの方だろう。
確かに、目の前で、人が一人、徐々に息絶えていくのを見守るのは、決して忘れることのできない体験に違いない……。
けれども、実際には[#「実際には」に傍点]何があったのか? 説子には見当もつかなかった……。
――やっと思い切ってベッドから出ると、説子は裸のまま浴室へと入って行った。
洗面所、トイレと一緒になったユニットバスだが、団地そのものが新しいので、充分に広い。
シャワーの音で利根が起き出てこないように、きちんとドアを閉める。
洗面台の明りをつけると、パッと浴室の中が明るくなった。
お風呂は、洗い場もスペースがゆったりしていて、説子は気に入っている。
もともと、この部屋は三、四人の家族用に作られていて、3LDKの広さ。それが売れ残って、「独身者でも可」という公団の方針変更で、利根が買ったものだ。
もし結婚するとしたら、説子が今一人で住んでいるワンルームマンションを引き払って、ここへ越して来ればいい。収納やクローゼットも、充分にスペースが空いていた。
シャワーを出し、熱さを調節してから、ゆっくりと浴びた。
こうしてさっぱりしないと、説子は眠る気になれない。そこは習慣というものだ。
少し長めにシャワーを浴びていると、お風呂場に湯気がこもって、汗が出て来た。
シャワーを止め、白くくもったガラス戸を開けると――目の前にパンツ一つの利根が立っていて、説子はびっくりして声を上げてしまった。
「――ああ、びっくりした!」
「ごめん」
と、利根が頭をかいて、「何となく目がさめてね」
「起こしちゃった?」
「いや、そういうわけじゃない。僕もシャワーを浴びるよ」
「じゃ、どうぞ」
入れ替りに出て、説子がここに置いてある自分のバスタオルで体を|拭《ふ》く。
髪が少し濡れたのを、ドライヤーで乾かしていると――ふと鏡の前の棚に、四角い、小さなタイルのかけらみたいな物がビニール袋に入れて置かれてあるのに気付いた。
髪が乾いたころには、もう利根も出て来て、
「目がさめちゃったよ」
と笑って言った。
「よく眠ってたわ」
「そうだな……。夢も見ないで、ぐっすり寝た。――君のおかげかな」
「あら、珍しいこと言って」
と、バスタオルを体に巻きつけたまま、説子は利根に軽くキスした。「体を早く拭かないと、風邪ひくわよ」
「うん」
利根も自分のバスタオルで体を拭く。
「――ね、これ何?」
と、説子がビニール袋をつまみ上げて|訊《き》いた。
「え?――ああ、それか」
と、利根が笑って、「野川のみやげ[#「みやげ」に傍点]さ」
「野川さんって……この間、帰って来た人でしょ、ドイツから?」
「そう、君はよく人の名前を憶えてるなあ」
と、利根は感心している。
「いやだわ、何よ」
と、説子は照れた。
しかし、事実、説子は人の顔や名前を憶えるのが得意である。仕事でそう仕込まれた、ということもあるが、やはり持って生れた部分が大きいだろう。
「野川卓也さんっていったっけ?」
「うん。大学の同期で……。この十年、ドイツに行ってたんだ」
つい、先週のこと、説子が会社帰りに待ち合せた場所へ行くと、利根と一緒に、少し老け込んだ感じの、やせた男がいた。
それが野川卓也で、急に利根に「会いたい」と連絡して来たのだということだった。
帰国していることさえ知らなかったので、利根もびっくりしたらしいが、もともと少し風変りな所のある人だったということだ。
「会ったときにくれたのさ」
と、利根は言った。「――何だか分るかい?」
「もしかして……。でも、まさか今どき……」
と、説子はそのビニール袋に入った物を目の前にかざして、口ごもった。
「その『まさか』さ」
「〈ベルリンの壁〉?」
「ご名答」
「だって――もう何年たつの、あれがなくなってから!」
「僕も忘れてたよ。帰ってから調べたら、ベルリンの壁が崩れたのが、一九八九年」
「じゃ、もう十年近いのね」
「そう。野川が行ったときは、まだ〈西ドイツ〉だった。もっとも、野川は東ドイツの町にもずいぶん足を運んでたらしいけど」
「それにしても……」
と、説子は首を振った。
ドイツ統一の後、しばらくの間、ドイツ土産は〈ベルリンの壁のかけら〉というのが流行ったものだ。
しかし、実際にはその辺のコンクリートのかけらを拾ってビニールの袋へ入れても、見たところは少しも違わないのだから、果して本物[#「本物」に傍点]がどれくらいあったのか、誰も知りようがないわけだ。
それにしても、〈壁〉がなくなって十年近くたった今、ドイツ土産にこれ[#「これ」に傍点]を持ってくるというのは珍しい。
「黒い色が塗ってあるのね」
ベルリンの壁には、一杯に色々絵や文字が描いてあった。だから、売る方も、
「本物だよ! ほら、ちゃんと絵が描いてあるだろ!」
と主張したものらしい。
「ま、もちろん本物じゃないとは思うけど、でもくれた当人に、そうは言えないし。ありがとう、って受け取っといた。捨てるわけにもいかないしね」
その一辺四、五センチの四角いコンクリート片は、片面が黒く塗られて、その裏側はコンクリートむき出し。厚みは一センチほどのものだった。
「でも、十年もドイツにいた人のお土産だもの。本物かも」
「だとしても、どうしたらいいのか……。どこかその辺の引出しへ放り込んどいてくれよ」
と、利根は言った。
説子は、洗面台のわきの小さな引出しに、そのビニール袋を入れた。
「さあ、もう一眠りしよう」
「目がさめちゃったんじゃなかったの?」
「でも、まだ寝られそうな気がしてるんだ」
――事実、翌日の休みの土曜日、二人は昼過ぎまでぐっすりと眠り込んでしまったのである。
3 救 い
利根が足を止めた。
その少し手前から黙りがちになっていたので、説子にも見当はついていた。
「――ここね?」
と、できるだけ明るい口調で|訊《き》く。
「うん」
――駅へ向かう一本道。
金網の向うには、ただ平らな大地が広がっている。
「何の跡もない。だけど、本当にあったことなんだ」
と、利根が言うと、
「分ってるわ」
と、説子は彼の腕に自分の腕を絡めて、しっかりと身を寄せた。「世の中には色んなことがあるのよ。人間の常識では判断できないことも」
「ありがとう」
と、利根は微笑んだ。
夕方、まだ辺りは充分に明るい。この道も買物に駅前へ出る人、戻ってくる人で、結構人通りが途切れることがなかった。
「ね、今日はもう帰ったら?」
と、説子は言った。
「大丈夫だよ」
「でも……」
土曜日の夜には二人で駅前へ出て夕食をとり、そこで別れて説子は帰る。これがいつものパターンである。
普通はもっと暗くなってから団地を出るのだが、ここを暗い中で通るのはいやだろうと思って、今日は早く出て来た。
「気をつかわせて悪いな」
と、利根は言った。「食事して帰っても、電車を降りて帰る人がいくらもいる。心配ないよ」
「じゃあ……」
|却《かえ》って、気をつかい過ぎるのも良くないかもしれない。説子は、できるだけいつも通りにしようと決めた。
二人は駅前に出て、いつもと同じ中華料理店に入る。特別中華が好きというわけでもないのだが、この駅前では、「何とか食べられる店」はここぐらいしかない。
一時間ほどかけて、少しビールを飲み、説子と利根は店を出て駅の改札口へ。
「それじゃ」
と、説子は笑顔で言った。
何か言ってあげたい、と思ったが、却って利根が気にするかという気もして、やめた。
「また月曜日に」
と、説子は手を振って改札口へ。
「気を付けて」
と、利根が声をかける。
説子は振り向くと、
「電話するわ!」
と大きな声で言った。
周りの人が、ちょっと目を丸くするくらいの声だったので、利根はいささか照れた。
――説子の姿が見えなくなると、利根は軽く息をついて、歩き出す。
何も怖いことはない。――そうとも。
今日は時間も早いし、人通りがある。あんなことは起るわけがない。
そう自分へ言い聞かせるのが、|怯《おび》えている証拠だろう。
いや、決して怖いわけではない。むしろ、「怖がらないこと」を恐れている、と言ったらいいだろうか。
「――今晩は」
と、女の子の声がして、利根はまさか自分に向けられた言葉とは思わず、そのまま行ってしまおうとした。
「利根さん」
「――え?」
びっくりして振り向く。
セーラー服にコートをはおった女の子がニコニコ笑っている。
「ああ、美奈ちゃんか」
と、利根はホッとして言った。
「どうかしたの?」
と、同じ棟に住む高校二年生の少女は訊いた。
「何が?」
「|凄《すご》く怖い顔してたから」
「僕が? そうかな」
と、さりげなく笑って、「仕方ないんだ。人間、中年になると、いつもくたびれてるからね」
「そんなことばっかり言ってる」
弓原美奈は、少し顔をしかめて、「老化は気持からですよ」
このしっかりした少女は、よく利根に「お説教」をしてくれる。それをかしこまって聞くのが、また利根には楽しいのである。
「美奈ちゃん、学校の帰り?」
「クラブがあって」
美奈は、学生鞄の他にスポーツバッグをさげていた。
「大変だね」
「でも、早めにすんだのよ、これでも」
と、美奈は言った。「もうじき文化祭でしょ。発表があるから、練習が長いの」
「そうか。――帰るか、一緒に」
「うん」
はつらつとして、肌のつやが違う。――もちろん、三十七の自分と比べても仕方ないことは分っているが。
「あ、ちょっと待って」
と、美奈は言った。「私、コンビニで買物があるの」
「そうか。じゃ、寄って行こう」
ついでに、なくなりそうな歯ミガキやグラニュー糖を買おう、と思った。
駅前にコンビニができて、夜の十二時近くまで開いている。都心のように二十四時間営業というわけにはいかないが、遅くまで開いている店があるというのは、妙に安心する。
コンビニの中は、若い人で結構混んでいた。
「利根さんも何か買う?」
「うん。じゃ、一緒にするか」
「あ、だめ」
と、美奈は微笑んで、小声になり、「女の子用品、買うから」
いたずらっぽく言われると、照れるより笑ってしまう。
二人は、別々にカゴを持って、棚の間を回った。
弓原美奈の所は、母親と美奈の二人暮しだ。父親とは、三、四年前に離婚したと聞いた。
母親はフリーランスの記者だそうで、出かけるのも帰るのも、時間はまちまち。美奈は自然に何でも自分でやるように育ったらしい。
ふっくらとした丸顔の可愛い子である。体型はやや太めで、足もがっしりと太い。
|逞《たくま》しさと、少女らしい色白な肌のなめらかさが、アンバランスで面白かった。
「――説子さんは帰ったの?」
と、急に美奈が訊いた。
「ああ……。今、送ってったところさ」
「じゃ、入れ違ったんだ」
――美奈は、説子が毎週末、泊りに来ていることも知っている。
説子も何度か美奈に会ったことがあって、お互い、どことなく「似たタイプ」と思っているらしかった。
「ねえ」
と、美奈が言った。「説子さんと結婚しないの?」
「さあね。――するかもしれない。しないかもしれない。どうして?」
「私だったら別れてるな。しびれ切らして」
美奈が生理用品の棚へ手を伸す。
その瞬間、利根はハッとした。
ゆうべ、説子を抱いたとき、勢いに任せて、避妊しなかったことを、初めて思い出したのである。
説子は何も言わなかった。むろん分っていたはずだが。
「――どうしたの?」
と、美奈が振り向く。
「何でもない。もうそれで最後?」
「うん、先にレジに並んでる」
美奈がサッサとレジの行列の最後につく。
――説子がもし妊娠したら?
利根は、ふとそう思った。同時に、並んでいる美奈の白い足を見て、あの子もいつか母親になるのだと思ったりもした。
利根は、キズテープがなくなりかけていたのを思い出し、一箱カゴの中へ入れた。
そのとき――。
「金を出せ!」
と、|甲《かん》|高《だか》い声が店内に響いた。
一瞬の間。――そして、悲鳴が上った。
「金を出せ! 殺すぞ!」
利根は、棚の間から出て、レジで一人の男がナイフを突きつけ、店員に迫っているのを見た。
古びたジャンパーの、中年男だ。手にしたナイフも、どこかで拾ったものかもしれない。
「早く金を出せ!」
男が上ずった声を上げる。そのすぐそばに美奈が|呆《ぼう》|然《ぜん》として突っ立っていた。
早く逃げろ! そう叫びたかったが、男を刺激してもいけない、と思った。
「何してやがる!」
男は|苛《いら》|立《だ》って、「こいつを殺すぞ!」
と、いきなり美奈の腕をつかみ、|喉《のど》にナイフを突きつけたのだ。
「金を出してやれ」
と、利根は店員へ言った。
店員の方も、大学生だろう、どうしていいか分らず、立ちすくむばかり。
「早くしないと、本当に殺すぞ!」
男が美奈を一方の手で押えつけると、ナイフの刃を押し当てた。美奈の手からカゴが落ちる。
「落ちつけ」
と、利根は言った。「そんなこと、やめとけ。今やめて逃げれば、大したことじゃないぞ」
「余計な口を出すな!」
男が叫ぶ。
――レジの店員が、やっと現金をつかみ出して置いた。
「全部出せ!」
男は、汗を流していた。顔がギラギラと光っている。
レジのカウンターに、クシャクシャの一万円札や五千円札が置かれる。
利根は、青ざめた美奈の目が、救いを求めるように自分の方を向くのを見た。
助けて……。助けて……。
その目はそう言っていた。
あの目。――救いを求めていた、あの女の目と、それはそっくりだった。
利根は自分のカゴを足下へそっと置いた。
男は、カウンターの上の札をつかんで、ポケットへねじ込んだ。美奈の体を押えていた手が外れたのだ。ナイフの刃も、美奈の喉から離れた。
利根は、大股に、真直ぐ男の方へと歩いて行った。
誰もが|唖《あ》|然《ぜん》としていた。――男は利根に気付いたが、足を止めると思っていたらしい。
「おい――」
と言いかけたときには、もう利根は目の前だった。
利根の拳が男の|顎《あご》に向って飛んだ。
男はのけぞって、カウンターの上に突っ伏すように倒れると、そのままズルズルと床へ崩れて、のびてしまった。
――美奈が喉を押えて、
「やったね」
と言った……。
「お母さんに話すんだ」
と、美奈が言った。「利根さんに助けてもらったんだよ、って」
「やめてくれ」
と、利根は言った。
「どうして?」
「無茶なことをした。下手をすれば、君が殺されてたかもしれない」
二人は、団地への道を歩いている。
電車が着いて、帰り道は人が途切れずにつながっていた。
「あれで良かったんだよ。相手が|呆《あっ》|気《け》にとられてる間に一発!――凄かったなあ」
美奈は|呑《のん》|気《き》なものだ。
しかし――利根は胸のつかえが消えていないことを感じていた。
美奈を助けても、それがあの女を見殺しにしたことの代りにはならない。
「――どうしたの?」
美奈が振り向いた。
利根が足を止め、金網越しに中の空地を見ていたからだ。
「何かあるの?」
と、戻って来て|覗《のぞ》く。
「何か見えるかい?」
「何も」
「そうだろうな……」
「何なの?」
「行こう」
利根は美奈を促した。
「――ね、うちのお母さんのこと、どう思う?」
と、美奈が言い出した。
「何のことだい?」
「お母さんと結婚してみる気、ない?」
利根は、つまずいて転ぶところだった。
4 言 葉
「――利根さん」
と、説子が呼んだ。
会社での昼休み、昼食から戻った利根は、エレベーターの前で説子と出くわしたのである。
「やあ。――ごめんよ」
利根は反射的にそう言っていた。
「何のこと?」
説子はふしぎそうに言った。
「あ、いや……」
「お客様です」
「僕に?」
「下の喫茶で待ってるって」
「分った」
メモを受け取って、利根は|肯《うなず》いた。
「すぐ行って下さいね」
説子は、事務服がよく似合った。背筋が真直ぐに伸びて、歯切れよく歩くからかもしれない。
メモを見ると、〈下の喫茶店で、永井様という方がお待ちです。――愛してる!〉
とあって、利根は笑ってしまった。
「永井……」
首をかしげる。誰だろう?
エレベーターで、また一階へ下りて行くことになった。
――利根や説子の勤め先、A商事は、そう大きな会社ではない。この九階建のビルの三階分を使っていて、社員は全部で七十人ほどだ。
利根のいる資料課は一番下の七階。説子は総務課で、八階にいた。一番上の九階は、重役や社長室、そして会議室になっている。
一階へ下りると、利根は階段でもう一つ下り、喫茶へと向った。
昼休みは、女性たちでにぎわう。――奥の方の席から、男が一人立ち上って手を振った。
「――やあ」
利根はびっくりした。
「突然で、悪いな」
背広にネクタイという格好が、いつの間に似合うようになったのか……。
「永井と聞いても、お前とは思わなかったよ!」
利根は、すっかり頭の薄くなった旧友をまじまじと眺めた。
コーヒーが来て、一口飲んでから、
「今、何してるんだ?」
やっと当り前の口をきいた。
「うん。――ここに勤めてる。ま、お役所の下請けみたいなもんだ」
名刺が置かれた。
永井康夫は、大学で利根の一年下だった。今、三十六歳のはずだが、見たところは四十代の半ばにはなっている。体も二回りは太ったろう。
「利根さんは変らないな」
と、永井は言った。
「変りようもないさ」
と、利根は言った。「大体、いつ日本へ帰ったんだ?」
「もう……七、八年かな」
と、タバコを取り出す。
「ああ、ここは禁煙なんだ」
と、急いで言った。
「そうか。やれやれ。肩身が狭いや」
と、永井は苦笑した。
利根は、永井が病気でもしているのかと気になった。肌にも目にも、生気がない。
「そんなに前に戻ってたのか」
「何も連絡しなくてすまん。色々あって、田舎へ帰ってたんだ」
「そうか。じゃ、改めて上京して来たのか」
「うん。三年前に。――結婚して、今は子供もいる」
永井が父親でいるという光景は、想像できなかった。
「利根さんは?」
「僕はまだ独りさ。別に独身で通すつもりじゃないけどね」
「いいな、気楽で」
永井は、何となく落ちつかない様子だった。
「――一度ゆっくり会いたいな。もう仕事が始まっちまう。永井、何か用事があって来たんじゃないのか?」
利根の問いに、永井は少しの間黙ってしまったが、やがて息をつくと、
「実は――ちょっと|訊《き》きたいことがあって」
と、口を開いた。「野川さんのことを、何か知らないかと思ってね」
永井は、野川と一緒にドイツへ行っていたのである。
「ああ、野川のことか。ついこの間、会ったけど」
利根の言葉に、永井はサッと青ざめた。
「――会った?」
「うん。突然、会社へ電話して来て。そういえば、お前の話は出なかったな」
「それ……いつのことだ?」
「ええと……もう二週間くらい前かな」
「二週間……。そうか。じゃ、日本にいるんだな」
と、永井は言った。
「知らないのか。ドイツで、ずっと一緒だったのかと思ってた」
「いや、色々あって……。もう長いこと、連絡先も分らないんだ」
「そうか。野川も、今は落ちつかないから、と言ってた。落ちついたら連絡する、って。――野川と何かあったのか」
永井の様子は、どう見ても普通ではなかった。
「うん……。野川さんは……僕を殺すために帰って来たんだ」
永井の言葉に、利根はびっくりして、
「何だって? どういうことなんだ?」
「いいんだ。――邪魔してすまん」
永井は立ち上ると、逃げるように店を出て行った。
利根は|呆《あっ》|気《け》にとられていた。
人間、何があるにしても、「殺そう」とするほど人を恨むことはあまりない。野川の様子も、確かに少し妙ではあったが……。
利根は、永井の名刺をポケットへ入れると、急いで支払いをすませ、店を出た。――もう午後の仕事は始まっていた。
「――残業?」
珍しく、説子が「恋人」の口調で訊いて来た。
七時になって、ほとんど社内は空になっていたのである。
利根は、一人で資料課に残っていた。
「まだいたのか」
「今夜は会議のお茶出し」
「そうか。――もうすんだの?」
「ええ。会議はまだやってるけど、もう私の仕事は終り」
利根は机の上を見回して、
「これ、一通り片付けて、それから全部コピーして……」
「手伝う?」
「いや、いいよ」
と、利根は首を振って、「このまま帰る!」
説子は嬉しそうに、
「いいの?」
「明日、頑張りゃ大丈夫」
利根は、とりあえず、机の上を片付けると、席を立った。
「じゃ、何か食べて帰りましょ」
「そうしよう」
利根は、上着をつかんだ。
――ビルの正面はもう閉っていて、二人は裏口から外へ出た。
風が冷たい。もう冬が間近である。
「何か鍋でも食べたいわね」
と、説子は言った。
「よし。どこか知ってるかい、いい店?」
「安くていい店、でしょ」
と、説子は笑って言った。
――だが、寒い、となると考えることは誰でも同じで、二人が知っている店は、どこも満席だった。
まさか……こんな店?
予定とはかけ離れた結果になった。
ドイツ料理で知られるレストラン。そう高級店というわけではないが、ソーセージやハムがおいしい。説子が学生のころ、よく来た店だった。
「――懐しいわ」
と、やや薄暗い店内を見回す。
「雰囲気があるね」
「冬向きじゃないかもしれないけど」
と、笑って言う。
「いいさ。冬だからって、いつも同じものを食べてるわけじゃない」
――ほぼ半分の入りで、店内には低くクラシック音楽が流れていた。
そう。これもいいかしら。
説子は、たまにはこんな「デート」らしい場所もいいか、と思った。
メニューを眺めて、自家製というソーセージを中心に、いくつか料理をとった。
白ワインをグラスでもらい、乾杯する。
「――よく眠れる?」
と、説子は訊いた。
「うん。――もう大丈夫だ」
利根は|肯《うなず》いて、「忘れてたよ、つい」
「ごめんなさい。思い出させて」
「違うんだ。今日の永井のことで……」
「あのお客様?」
「うん。大学の一年後輩でね」
説子は、利根の話を聞いて、|眉《まゆ》をひそめた。
「野川さんって、あの人ね」
「うん。永井と二人でドイツへ行ってたんだ。――しかし、人間、十年もたつと、大きく変るな」
「そうね」
「特に、二十七と三十七じゃ大違いだ。もう若いとは言えないし」
「そんな……」
「君はまだ二十八だ。――僕なんか年寄に見えないか?」
「残念ながら、見えないわ」
と、説子は言ってやった。
前菜にハムの盛り合せが来て、二人は取り分けて食べ始めた。
そこへ、五、六人のグループが入って来て少し離れたテーブルにつく。
「あら、利根さん」
と、一人の女性が立って来て、「この間は……」
「ああ 弓原さん」
美奈の母親である。
「美奈が危いところを助けて下さって、ありがとうございました」
スーツ姿で、きりっとした印象の弓原栄江は、ていねいに頭を下げた。
「いや、別に……。あれはたまたまですよ」
「一度お礼に伺おうと思っていたんですけど、毎日帰宅が遅くて、ここでお目にかかれて良かったわ」
利根が説子のことを紹介すると、
「ああ、美奈がよく話してます」
と、微笑みかけ、名刺を出した。「――じゃ、仕事なので、これで」
テーブルへ戻っていく弓原栄江を見送って、
「あの高校生のお母さん? 若いわね」
と、説子は言った。
「でも、四十にはなってると思うよ」
「あの子を助けたって、何のことなの?」
説子が訊くと、利根はちょっと肩をすくめて、
「あの日の帰りにね……」
と話し始めた。
「――|呆《あき》れた! 危いことして!」
と、説子はつい文句を言う。
「そう言うなよ。何だか……今度こそは[#「今度こそは」に傍点]、助けなきゃ、と思ったんだ」
「気持は分るけど……。気を付けてよ」
説子は、それ以上言わなかった。
きっと、その事件が利根を苦しみから救い出したのだろうと察したからだ。
二人はしばらく黙って食べていたが、
「――どうして急にこんなことになったのかな」
説子は戸惑って、
「何のこと?」
「いや、今まで平和に暮してたのにさ。あの出来事があって、コンビニでの事件があって……。今日は永井があんな話をしに来るし。――偶然かな」
「他に考えようがないでしょ。コンビニの強盗なんか、よくあるわ」
説子は、利根が深刻に考え込むのを心配して、わざと、「何も表彰されなかったの?」
と言ったりした。
「そうだな。変に考え込んでも――」
と言いかけて、利根は食事の手を止めた。
「どうしたの?」
「――これは?」
「え?」
「何の曲だろう」
店内に流れているのは、ややドラマチックな音楽だった。
「オペラね」
少し耳を傾けて、「――ああ! モーツァルトの〈魔笛〉だわ」
「じゃ……ドイツ語かい?」
「そうね。――そう〈魔笛〉はドイツ語でかかれてるわ。どうして?」
「さっき、頭のところで何と歌ってたんだろう?」
「さあ、そこまで知らないけど……」
利根は、レストランのオーナーらしい白髪の女性がテーブルを回って|挨《あい》|拶《さつ》しているのを見て、
「ドイツの人だね」
「ええ、もう五十年だか日本にいるのよ」
上品な貴婦人だった。
利根と説子のテーブルへ来て、
「お味はいかがですか?」
と、ていねいに訊く。
「ええ、とてもよく味がしみて……」
「すみません」
と、利根が言った。「今流れてるオペラですけど、一番初めに何と叫んだんですか?」
「叫んだ?」
と、少し考えて、「――ああ、〈ヒルフェ!〉ね。日本語の『助けて!』という意味です」
「ヒルフェ……」
「主人公が、竜に追われて逃げてくるんですよ。そこの歌です」
「――ありがとう」
利根は、頬を紅潮させていた。
「どうしたの?」
と、女主人が行ってしまうと、説子は訊いた。
「あの女が、あのとき言ったのは、〈ヒルフェ〉って言葉だ」
「つまり……助けて、ってことね」
「うん。僕の耳には『ひ……え』としか聞こえなかった。でもきっとそうだ」
「ということは、ドイツ語を使ってたってこと?」
「さっき、この歌を聞いててハッとしたんだ。――あの女はドイツ人だったのかな」
「でも……消えてしまったのよ」
「うん……。分ってる」
利根は、しかし何か気分の安らかな様子になった。
――もう忘れて。お願いよ。
説子はそう言いたいのを、何とかこらえた。
何かいやな予感がしていた。
利根が、もっともっと深く、何かに巻き込まれていくような……。
今は、私のことを考えて。
説子は、なぜか直感的にあの夜、利根の子を身ごもった、と感じていた。
むろん、はっきりするのはまだずっと先のことだが、説子はほとんど確信に近いものを持っていた。
「ごめんよ、ぼんやりして」
と、利根が言った。「ただ、ずっと気になってたんだ、あの言葉が。分ってホッとした」
「じゃ、落ちついて食べましょう」
話したかった。――あなたの赤ちゃんができたのよ、と。
しかし、今言っても信じてはもらえまい。
説子は何とか自分を抑えて、
「残り、食べてね。私、この後のソーセージに賭けてるの!」
と、大げさに言ってやった……。
5 マルティン
レストランのオーナーが弓原栄江たちのテーブルへ回って来るまでは、そこは「日本」でしかなかった。
「いらっしゃいませ」
レストランの女性オーナーは、静かな威厳とも呼んでいいものを身につけていた。
日本語も、日本人より美しい発音をすると言ってもいいくらいだ。
「今晩は」
と、栄江は微笑んだ。
主にランチだが、栄江は何度かここへ来ているので、オーナーも顔を憶えてくれている。
オーナーの目は、もちろんテーブルについている金髪の白人男性へと向いた。――一見して、典型的なドイツ人。
「ドイツの方?」
と、オーナーは日本語で|訊《き》いた。
万一、他の国の人だったときは、気を悪くしかねない。
「ヤァ」
と、その男は微笑んで、「弓原さんの友人です」
と、付け加えた。
栄江は、その二人がドイツ語で話し始めるのを、予期していたこととはいえ、内心苛立ちながら眺めていた。
仕事の打ち合せは、かなりポイントになる部分まで煮つまっていたのだ。そこへ、こんな邪魔――と言っては悪いが――が入っては、しばらく話が元に戻るまい。
フリーのライターである弓原栄江にとっては、のんびりワインを飲んで一回の打ち合せが終ってしまっては困るのである。
今、テーブルについている五人の内、三人は大手出版社の社員だった。翻訳書の出版を引き受けてくれるまでにこぎつけたので、何とか今夜中に具体的な点を詰めたかった。
今、不況の中で、フリーの人間には厳しい状況が続いている。今夜の食事代は、栄江が持つことになっていた。話を中途半端で終らせたくない。
マルティンがレストランのオーナーと話し込んでいるのを何とかやめさせたかった。
しかし――もちろん考えてみれば、こんな外国で、同国人と会ったら、つい話が長くなるのも当然で、それは栄江にもよく分っている。
しかし、オーナーの方も客の邪魔をしないように気をつかっているのだろう。心配したほど長くならない内に話はすんで、他のテーブルへ回って行く。
「――失礼しました」
マルティン・エティンガーは他の面々に向って言った。
「やはりドイツ語をしゃべるとホッとするでしょう」
出版社の一人が当り前のことを言い出す。
「そうですね。――彼女はミュンヘン|訛《なま》りがあります」
「ミュンヘンか! 南の方だね? あのでかいビヤホールのある」
「ああ、この前、フランクフルトの帰りに寄ったな」
と、出版社の人間同士がしゃべり出す。
フランクフルトでは毎年ブック・フェアがあり、各国が自国の本の売り込みや、翻訳権の交渉などをする。
――ミュンヘンの話からドイツビールの話になって、しばらく話題は元に戻らなかった。
仕方ない。出版社が引き受けてくれなければ、話そのものが流れる。
マルティンが腕時計を見て、
「弓原さん、お嬢さんは大丈夫?」
と言った。
「え?」
一瞬戸惑ったが、マルティンは他の三人の方へ、
「弓原さんは娘さんを迎えに行く時間があるのです。仕事の話をすませてしまいましょう」
と言った。「むろん、ビールをおかわりしてからですが」
出版社の三人は笑って、
「悪い悪い、つい飲む話になると熱が入ってね」
「いえ、とんでもない」
栄江自身が言えば、こうスンナリとは納得してくれなかったかもしれない。
栄江はビールの追加を注文してから、マルティンの方へそっと感謝の視線を向けた。
マルティンも分っているので、小さく|肯《うなず》く。
――後はソーセージを食べ、ビールを飲みながら上機嫌に話が進み、酔う前に何とか契約書にサインするところまでこぎつけた。
「これでいいね」
と、契約書が戻ってくると、
「ありがとうございます」
と、栄江は頭を下げた。
正直なところ、もう後はどうなってもいい――というのは大げさだが、これで急に体が軽くなった気さえする。
「弓原さん、良かったら先に帰ってもいいですよ」
と、マルティンが言った。「後は僕がお相手します」
「でも――」
と、ためらったが、
「早く帰ってあげなさい。娘さんが待ってるよ」
女の子がいるという出版社の人もそう言ってくれて、|却《かえ》って居続けると申しわけないような雰囲気だったので、
「それじゃ、すみませんけど……」
と、契約書をバッグへしまい、マルティンへ、「よろしくお願い」
と|会釈《えしゃく》して席を立った。
レストランを出るとき、チラッと利根たちのテーブルの方へ目をやると、もういなくなっていた。
「――あ、お母さんよ。――もしもし、聞こえる?」
電車の中から携帯電話で、美奈へかける。
美奈にも携帯電話を持たせているのは、決して感心したことではないと思うのだが、仕事上、どうしても帰宅時間が予定から大きく狂うことがあり、美奈へ万一の時に連絡をつけるために必要だったのである。
「聞こえるよ。もう電車?」
と、美奈の声が明るく聞こえてくるとホッとする。
「そうよ」
「早いね」
「うん。ね、三十分くらいで行くから、待っててね」
「はい」
この間のコンビニでの事件もあって、美奈には、近い友だちの家にお邪魔させてもらっている。
ともかくひと安心。――栄江は、空席も目立つ車両の中を見回した。
夫と別れるまでは、こんな面倒はなく、夫はたいてい七時ごろに帰っていたから、心配することもなかった。
しかし、娘のことで安心している間に、夫は女を作っていた。――もう思い出したくもない。
ゴーッという電車の音に混って、パラパラと|弾《はじ》けるような音がした。窓を見て、雨が降り始めたのだと分る。
車で良かった。駅前のタクシー乗場は行列だろう。
車を駅前に置いてある。それで美奈を迎えに行けばいいのだ。
|膝《ひざ》の上のバッグを、愛しいような思いでなでた。――この仕事がすんだら、少し休んで美奈と旅行でもしたい。
でも、美奈の方がいやがるだろうか。
マルティンにお礼の電話をしておこう、と思った。
マルティン・エティンガーは、年齢からいうと栄江より一つ年下の三十九歳。
西欧の人は老けて見えるので、見た目はずっと年上のようだが、髪が薄くなっていることを除けば、若々しく、ハンサムである。
ドイツから七、八年前にやって来たそうで、栄江と仕事で組むようになったのは、この二、三年のことだが、みごとに「日本のビジネス」の流儀に溶け込んでいて、舌を巻くほどである。
今夜も、後を任せて来たのは、マルティンなら大丈夫と信じられるからだ。マルティンは、アルコールに弱い日本人の酔い方にも慣れているし、必要ならカラオケまで付合って、演歌を歌う。
日本語の力も立派なもので、どんなに血のにじむ努力をして来たか、想像もつかない。――ともかく、今、一番栄江が信じているパートナーだった。
「弓原さん」
と呼ばれて、びっくりする。
「あ……。利根さん。先ほどは」
利根と同じ電車だったのだ。
「いや、雨なんで、後ろの方で降りると濡れると思いまして」
利根は窓の方へ目をやって、「まだ降ってるようですね」
何となく並んで座る。――あと十分足らずで着くのである。
「美奈ちゃんはお宅で?」
と、利根は訊いた。
「いえ、今日はクラブで遅いと言ったんで、やはり心配でお友だちの所で待っています」
「ああ、それがいい。今は物騒ですから」
と、利根は肯いて言った。
「この間助けていただいて、利根さんはすっかり美奈の『王子様』ですわ」
「王子様ですか」
「白馬にまたがって助けに来てくれる王子様、というところでしょうね」
「ずいぶん老けた王子様だな」
と、利根は笑った。
美奈が――もちろん漠然とではあるが――母親と利根が結婚しないかと思っていることを、栄江も承知している。しかし、利根には今日、ドイツ・レストランにいたあの女性――麻木説子といったか――がいる。
不規則な仕事の栄江が、普通の時間にデートしたくても、それは不可能に近い。
でも、こうして帰りの電車でたまたま一緒になったりすると、胸のときめくのも事実だった……。
つい、美奈の話だけをしている内に、電車は駅に着いた。
――雨は、本降りになっていた。
駅の改札口を出ると、タクシー乗場は長蛇の列。
「あの……もし良ければ私の車に」
と、栄江は言った。
「でも……」
「美奈を迎えに、ちょっと回り道しますけど、それだけですから」
少し迷っていた利根は、
「それじゃ、申しわけないから、僕が運転しましょう」
と言った。
「あら、でも申しわけないわ、そんなこと」
「正直に言って下さい。『この人、運転、下手なんじゃないかしら』と思ってるんでしょう」
利根の真面目くさった言い方に、栄江は思わずふき出していた。
栄江の体の疲れが、急に半分ほども減ったようにさえ感じられたのである……。
6 ライトの中
「お世話になって」
と、くり返し栄江が礼を言う。
「じゃ、また明日」
と、美奈はクラスメイトの子に手を振った。
――二人は、細い路地を抜けて、車の停めてある通りへと向った。
雨は幸い少し小降りになって、一本の傘でも肩を寄せ合えば何とかなる。
「どう? 風井さんのお宅、迷惑じゃない?」
と、歩きながら栄江は|訊《き》いた。
「ううん。咲子も一人っ子だから、一緒にいると喜んでる。でも――あんまり年中、上り込むわけにいかないでしょ」
風井咲子はクラスメイトで、こうしてたまたま家が近いので、美奈が待たせてもらっているのだが、先方の事情、都合もある。
「ね、お母さん。私一人で帰れるよ。大丈夫だから」
「ええ、分ってるけど……」
美奈にも、母の気持はよく分る。逆の立場だったら、きっとどんなに仲の悪い叔母の所にだって、娘を預けるだろう。
でも、栄江の仕事が、時間の読めない特殊な事情を持っていることも、美奈にはよく分っていた。
「でもね、家に帰ってからだって、一人じゃ心配だわ」
確かに、団地は広くて、外から誰が入って来ても分らないし、一つ一つの棟は、|却《かえ》って密室のようになって、怖い。
「気を付けるよ。そんなこと言ってたら、生きてけない」
と、大人びた口をきいて、「お母さんの運転の車で事故起す確率の方が高いかもしれないよ」
「言ったわね」
と、栄江は笑って、ちょうど車の所へやって来る。「でも今夜は安全! ほらね」
運転席のドアが開いて、利根が笑顔で降りると、
「お帰り」
と言った。「二人で後ろの座席に乗って」
――美奈は|呆《ぼう》|然《ぜん》と突っ立っていて、雨に濡れるのも忘れていた。
「早く乗って!」
と、栄江に言われて、
「はい……」
と、後ろの座席に落ちつく。
といっても、まだ目を疑っていて、
「どうして?」
「今夜はね、本当は利根さんとデートだったの」
栄江の言葉に、
「え?」
「|嘘《うそ》よ! 帰りの電車でたまたまご一緒したの。そしたら、送って下さるって」
栄江が笑う。
「僕の方が、雨なんで強引に便乗したのさ」
車を動かしながら、利根は言った。「ではお屋敷まで参りましょうか」
「よろしく」
と、栄江は言った。
車は走り出し、ワイパーが忙しく往復した。
夜ともなると団地の道は|空《す》いていて、ついスピードが出る。
「安全運転でね、利根さん」
と、美奈は言った。「スピード出し過ぎじゃない?」
「美奈、失礼よ」
「いや、ごめん。つい空いてるから、アクセルを踏んじまう」
利根がスピードを落とした。
美奈は――どうして? そう自分へ訊いた。
自分らしくない。いつもなら、「もっと飛ばして!」とそそのかす方なのに。
美奈は怖かったのだ。こんな素敵な瞬間が長く続くわけがないという気がして、事故でも起るのではないかと恐れていたのである。
――利根の姿を見た瞬間、混乱した。
どうしてあの人[#「あの人」に傍点]がここにいるの? そう思った。
同時に、「ここにいてくれた[#「いてくれた」に傍点]」とも思っていた。
それほど、母の車に乗って運転している利根は、その場所[#「場所」に傍点]に似合って見えたのである。
そして……。
美奈は、隣の母へチラッと目をやった。――母は目をつぶって、どうやらこんなわずかの時間に眠っている様子だ。
疲れているのだろうし、少しアルコールが入っていることも分っていた。利根を相手に冗談を言ったりしたのは、そのせいもあったかもしれない。
でも、美奈は母が、
「利根さんとデートだったの」
と言った瞬間――考えただけでも顔が赤らむが――母と利根が裸で抱き合っているところを思い浮かべてしまったのである。
そして、そのときに、美奈は鋭く深い胸の奥の痛みを経験した。それが「|嫉《しっ》|妬《と》」というものだということを、十七歳の美奈が知らないわけもないが、そのときの痛みは、美奈の人生の中で知っていたどの痛みよりも大きかった。
――美奈は、少し体をずらして、バックミラーに利根の目が見えるようにした。
利根も気付いて、チラッと二人の目がバックミラーの中で出会う。
「お母さんは?」
と、利根が訊いた。
「寝ちゃったみたい」
「そうか。疲れてるんだろうな。偉いよ」
美奈は、何も言わなかった。
私だって――私だって偉いわ。どうして私をほめてくれないの?
無茶な要求と知りつつも、美奈は恨みのこもった目で、バックミラーの中の利根の目を見つめていた。
すると――また胸に痛みがさした。あの嫉妬の痛みとは違う、やさしいけれども苦く、甘いけれども奥深い痛みだった。
それはたぶん、「せつない」という気持だったのだろう、と美奈は思った。
私……。私は……。私は、利根さん、あなたを愛してる。女として、男のあなたを恋してる。
今、そうなったのか。それとも前からの気持に今、気付いたのか。
そんなことはどうでも良かった。今、自分が利根に恋していることこそ、大事だったのだ……。
「もうじきだ」
と、利根が言った。「お母さんを起こした方が――」
次の瞬間、車は急ブレーキの鋭い叫びと共に車体が大きく横へ滑った。
自分の叫び声が聞こえた。
車が停るまで、ほんの一秒か二秒。――それはとんでもなく長かった。
「――どうしたの!」
急ブレーキで、体がはね上るように、前の座席の背にぶつかった栄江が言った。
利根は、車が道路の真中で真横を向いて停っているのを、幻でも見ているような気がしながらも、よく分っていた。
全身が凍りついたように動かなかった。
「美奈、大丈夫?」
「うん。――何ともない」
何ともないわけはない。――俺は何をしてるんだ?
「すまない」
と、利根は、やっとかすれた声で言った。「ライトの中を――急に誰かが横切ったようだったんだ。夢中で急ブレーキを踏んでた。申しわけない。けがはない?」
「大丈夫です」
と、栄江が落ちついた様子で、「それで、誰かはねたとか……」
「いや、その点は大丈夫」
と言った利根は、シートベルトを外し、「でも、一応見て来よう。座ってて」
「でも、利根さん!」
と、美奈が急いで言った。「車を道の端へ寄せてからでないと」
「そうだ。――いや、どうかしてる。ありがとう」
他の車にぶつけられてしまう。
エンジンは割合にすぐかかって、車を道の端へ寄せると、利根は車を出た。
雨が降りかかってくる。小走りに道を戻って行った。
夜道といっても、団地内の道は照明もきちんとされているので、ずっと見通せる。
そこには何も[#「何も」に傍点]なかった。
利根は大きく息をついた。――分っていたのだ。何もないことは。
正確には、利根は「横切る人影」を見たわけではなかった。白いコートの女が、突然車の前に立っていたのである。
一瞬のことだったが、利根の目ははっきりと見ていた。――それが、あの金網の向うで死んで行った女だということ。そのコートのあちこちにはまだ鮮やかな血が広がっていること……。
それは今も|瞼《まぶた》にはっきりと焼き付いていた。
あれは幻だったのだ。生身の人間ではなかった。当然、何も残っているわけがない。
ただ、利根は一人になりたかったのである。
あの女がまた[#「また」に傍点]現われたという事実を、何とかして受け止めなければならなかった……。
不意に雨が止んだ。
びっくりして振り向くと、美奈が立っていて、傘を利根の上にさしかけていた。
「ああ、ごめんよ」
「濡れちゃうと思って」
「もう戻ろう。――誰もはねたわけじゃなかった」
二人は並んで歩き出した。利根の方が傘を持って、美奈の上にさしてやった。
「利根さん、ささないと濡れる」
「僕はもう濡れてるよ」
と、利根は笑った。
「じゃ、そっちへ寄るから……」
美奈がぴったりと利根へ身を寄せて、少しでも濡れないようにしようとする。
「僕が運転するなんて言い出したばっかりに、怖い思いをさせちゃったな」
「そんなこと……。私、毎日でも利根さんが運転してくれたら|嬉《うれ》しいな」
利根がちょっと驚いて見ると、美奈は急いで、
「もしも、の話!」
と言って、赤くなった。
「君のお母さんはすてきな人だけどね」
と利根は微笑んで、「僕には説子がいる。――でも、君の気持は嬉しいよ」
美奈は何も言わなかった。
「どうでした?」
車から栄江が出て来る。
「ああ、乗ってて下さい。何もありませんでした。大丈夫です」
「良かった。誰もけががなかったし」
「後はゆっくり走らせても五分ですから。――信用されないかもしれないけど」
「いいえ、お任せしますわ」
と栄江は言った。
エレベーターが三階に停ると、
「じゃ、失礼します」
と、利根が降りて、「おやすみ、美奈ちゃん」
「おやすみなさい」
美奈は、エレベーターの扉が閉じても、窓から利根の後ろ姿が見えている間は目を離さなかった。
もちろん、すぐにエレベーターは五階へと上って行ったので、ほんの一瞬のことだったが……。
利根はこの七階建の棟の〈306〉に住んでいる。弓原母娘は〈512〉。
五階までも、のんびりのんびりと上って行く。――なぜかこういう所のエレベーターはゆっくりしている。
「美奈、お腹空いてる?」
「ううん、大丈夫。咲子んとこでごちそうになった」
「じゃ、もう食べない? それじゃ、すぐお風呂にしましょ」
五階でエレベーターの扉が開く。
美奈は、この二十分ほどの間に大人になっていた。
そんなものだ。徐々に「子供」から「大人」へ変っていくのではなくて、その境の一本の線を越えるのである。
利根が愛してくれないのは仕方ない。突然のことなのだから。
でも、美奈が利根に「父親になってほしがっている」と誤解されていることは、|堪《た》えられなかった。
君を愛していない。そう言われるのは我慢できても、美奈の気持を全く知らない、というのでは、あんまりだ……。
あの人に、何とかして私の気持を伝えよう。――美奈はそう決心した。
栄江が玄関のドアを開け、
「さあ、早く入って」
と、美奈を促した……。
7 死の影
幽霊が出ようが、恐竜が出ようが、自分が幽霊にでもならない限り、仕事は休めないのだ。
「――忙しい?」
午前十一時を少し回って、一息入れたところへ、麻木説子がやって来た。
「今、一区切りさ。何だい?」
「これ……。課長が午後の会議にほしいんですって」
と、説子がメモを置く。
「分った。午後三時? じゃ、大丈夫」
「よろしく」
説子が微笑む。そして、ちょっと顔を近付けると、
「ゆうべはごちそうさま」
と小声で言って、資料課から出て行く。
――利根は、面食らっていた。
社内では、人目があるのであくまで個人的に親しいという素振りは見せない。そういう約束でやって来たのだが……。
今の説子の言い方は、明らかに仕事の話とは見えず、同じ課の女性がチラチラと利根の方をうかがっているのが分る。
説子はどうしたんだろう?
人は、よほどのことがない限り、いつもと違う行動はとらないものだ。といって、説子が格別何かに腹を立てているとも見えなかったが……。
利根も首をかしげてばかりはいられない。説子に言われた資料を捜して、パソコンをいじっていると、
「利根さん。お電話」
と、隣席の女性に言われた。
利根は机の方へ向き直って受話器を取った。
「もしもし。お待たせしました、利根です」
と言うと、いきなり、
「しゃべったな!」
という男の声が飛び出して来て、びっくりする。
「何ですか? もしもし?」
「俺のことを、教えたな!」
やっと、その声に思い当った。
「永井か。――永井だな? 落ちついてくれ。どうしたっていうんだ」
しばらく、荒い息づかいだけが聞こえた。そして、
「――すまん」
永井の、弱々しい声。「勘弁してくれ。参ってるんだ。どうかなりそうだ」
「永井。何があったんだ?」
永井康夫は、それでも大分まともな口調になって、
「僕と会った後、野川さんと話したか?」
と|訊《き》いた。
利根も、永井がここの地下の喫茶で、野川が永井を殺すために日本へ帰国した、と言っていたことはよく|憶《おぼ》えている。ショックだったし、一体二人の間に何があったのか、ゆっくり聞きたいと思っていた。
「いや、全然。本当だ」
「そうか。すまん、それならいいんだ」
「おい、切るな!」
と、利根はあわてて言った。「永井、どうしたっていうんだ? 野川と一体何があったんだ」
会社の電話だから、じっくり話し込むというわけにはいかない。しかし、さっきの永井の様子は普通ではなかった。
「いや、もういいんだ」
と、永井は言った。「ただ――利根さん、こんなことを頼んじゃ迷惑だろうと思うけど、聞いてくれ。他に頼む相手がいない。聞いてくれ」
淡々とした口調になっていて、さっきの切羽詰った気配は消えている。利根は半ば|安《あん》|堵《ど》しながらも、聞かないわけにいかなかった。
「もし僕の身に何かあったら――」
「永井――」
「いや、はっきり言っておこう。もし僕が殺されたら、女房と子供を頼む」
「何だって?」
「女房は伸代という。この間の名刺の勤め先に訊いてくれれば、詳しいことは分る」
「永井。それは――野川がお前を……という意味なのか」
周りの同僚が聞いている。「殺す」という言葉は使いたくなかった。
「それはどうでもいいんだ。こっちは死ぬだけだからな。同じことだ」
「しかし――」
「子供は男の子で、まだ二つだ。――もちろん、利根さんの力でできることは限られてるだろう。できるだけでいいんだ。何か、してやれることがあったら、やってくれ」
利根には他に返事のしようがなかった。
「分ったよ」
「すまない。恩に着る」
永井は何かふっ切れたような様子で、「びっくりさせてすまん」
「びっくりするさ。いいか、妙なことを考えるなよ」
「ああ、大丈夫。大丈夫だよ」
永井はそうくり返して、「仕事中、邪魔して悪かった」
「いや、そんなことはいいけど……」
「それじゃ」
と、永井は言った。「元気でいてくれ」
またな、と言おうとして、なぜか利根はためらった。ためらっている間に、電話は切れてしまった……。
「――心配事?」
と、麻木説子が訊く。
「うん……」
利根にとっては、複雑な思いの昼休みである。
昼食の後、この喫茶店で説子が待っていると言って来たのだ。利根は永井の電話で忘れていた心配ごとを、また思い出した。
「――説子、何かあったのか」
と、コーヒーを飲みながら言うと、
「何が?」
と、説子は明るく問い返した。
「何って……つまり……」
「知られたくない? 私たちのこと。まだ隠しておいた方がいいかしら」
あっさりと訊かれて、利根の方が面食らった。
「そうじゃない。しかし――」
「私ね、とりあえずはっきりするまでは、あなたに〈予約済〉の札を|貼《は》っとくことにしたの」
「何だって?」
「何でもないって分れば、そのときは札をはがしてあげる。でも、それまでは、他の女の子に近付いてほしくないの」
「それまで、って……」
「妊娠がはっきりするまで」
別に小声で言うわけでもないので、|却《かえ》って利根はびっくりした。
「それは……本当?」
「だから、はっきりするまで、って言ったでしょ。まだ分らないわ。でも、私、直感的にね、そうなってるような気がするの」
と、説子は言った。「もし本当だったら――産むな、なんて言わないわよね」
「ああ、もちろん……。そういうことなのか!」
「ごめんなさい。びっくりした?」
説子は、しかしいつも以上にキラキラと輝いて見えた。
「――あの夜[#「あの夜」に傍点]か」
と、利根は訊いた。
それで、二人の間は通じる。
「ええ。だからまだはっきりするのはしばらくかかるけど、待っててね。もし他に可愛い子が現われても、我慢して」
「よせよ」
と、利根は笑った。
永井からの電話のこと、それに、ゆうべの雨の夜道で見た、あの白いコートの女のことも、説子に話そうと思っていたが、やめておくことにした。
体にさわるようなことがあっては、と思ったのである。
説子の話に、驚かされはしたが、利根自身、あの夜のことは気にしていたので、意外ではない。
それに、もう三十七歳で、彼女も二十八。結婚するのに何の不足もない。
もし、妊娠が彼女の勘違いだったとしても、結婚に踏み切ってもいいかな、と利根は思ったりした……。
「あら、仲良いのね」
気付かなかったが、同じA商事の女性社員が数人、離れた席にいて、二人に気付いていたらしい。
出がけに二人の方へ手を振って行く。
利根も軽く手を上げて見せた。
「たちまち|噂《うわさ》だ」
と、説子が笑った。
「いいさ」
利根は首を振って、「なあ。――はっきりしてから決めたら、ずいぶん遅くなる。今の内から進めておこう」
「――え?」
今度は、説子の方が戸惑っている。
「だから、式のこととかさ」
少し間があって、説子は|頬《ほお》を赤く染めると、
「本気なの?」
「冗談で言うほど若くないよ」
説子は、ちょっと笑ってから言葉を捜すように考えて、
「プロポーズなら、もう少し場所を選んでよ!」
と言った。
|嬉《うれ》しそうだった。――利根は、良かった、と思った。ごく自然に言えて、これで良かったのだ。妙に構えて言おうとしたら、迷っていたかもしれない。
「――あ、説子さん」
と、同じ課の女の子が店を|覗《のぞ》いて、「課長がね、車を呼んでくれって言うの。今、どこへ頼んでたっけ?」
「私、行くわ」
と、説子は立ち上った。「じゃ、払いの方はよろしくね」
「分った」
利根は笑って|肯《うなず》いた。
説子が、まるで二十歳そこそこの娘のような元気の良さで店を出て行くと、利根は腕時計を見た。
――永井の言っていたことも気になっていたが、野川の居場所も分らず、手の打ちようがない。
利根は、トイレに立った。まだ少し時間はあるが、午後の仕事の段取りをつけておこうと思ったのだ。
――手を洗って、ペーパータオルを抜いて|拭《ふ》くと、丸めて|屑《くず》入れに投げる。
外れて、紙は屑入れの外へ落ちた。
「下手くそめ」
と、自分で|呟《つぶや》くと、拾って入れ直す。
「真面目だね、相変らず」
という声にびっくりして振り向くと――永井が立っていた。
「永井。――いつ来たんだ?」
「今さ」
「さっきの電話で心配してたぞ。少し話をしよう」
トイレのドアを開けて、「さ、行こう」
と振り返ると、
「女房と子供をよろしく頼む」
と、永井は言って、頭を下げた。
「またその話か」
利根は、入れ替りに入ろうとする客を通しておいて、「おい、永井――」
永井の姿は、もうなかった。
席へ戻った利根はウエイトレスを呼んで、
「コーヒー、もう一杯」
と頼んだ。
「はい。――大丈夫ですか? 顔色、悪いですよ」
「少し貧血を起しただけだ。大丈夫」
「ゆっくり休んでらしてね」
ウエイトレスが戻って行く。
冷たい汗がにじみ出る。――てのひらは、じっとりと濡れていた。
永井は言った。
「女房と子供をよろしく」
と……。
あいつは死んだのだ。――今、どこかで死んでしまったのだ。
二杯目のコーヒーの味は、全く分らなかった。
8 弾 痕
聞いた住所が不完全だったこともあって、探し当てたのは、もう夜の九時近かった。
その一軒家の前には、数人の人が困った様子でたたずんでいる。
「――失礼ですが」
と、利根は言った。「ここは、永井さんのお宅ですか」
中年の主婦が振り返って、
「あんた、どなた?」
「永井さんの古い友人です」
と、利根は言った。「何かあったんですか?」
「いえね……」
と、居合せた男女は顔を見合せて、
「何か|凄《すご》い物音がしてね」
と、一人が言った。
「物音? どんな音です?」
「よく分んないわよ。でもさ、その後、悲鳴みたいなもんがしたって――」
「俺は言わねえよ! 人の声がした、って言っただけだ」
「言ったじゃないの! 『ありゃ、女の悲鳴だ』って」
「いや、そんな風にも聞こえたってだけさ」
「言ったことは言ったんだから――」
「待って下さい」
と、利根は言った。「警察には連絡したんですか?」
「だって……もし何でもなかったら……。ねえ、叱られちゃうわよ」
「いや、大丈夫ですよ。私が呼びましょう。友人ですから、呼んでもおかしくない」
「そうしてくれる?」
ホッとした空気が広がる。
「その物音と声は、いつごろ聞こえたんですか?」
「ええと……」
と、顔を見合せて、
「十五分くらい前かな」
「そんなもんね」
「分りました」
利根は〈永井〉という表札の出た玄関へ目をやった。
古びた一軒家で、夜だというのに、明りも消えている。
――永井は会社を休んでいた。
住所を|訊《き》いても、なかなか教えてはもらえなかった。当然ではある。
やっと聞いて、帰り道、こうして捜して来たのだが……。
「恐れ入りますが、電話を貸して下さい」
「ああ、うちが向いだから」
と、快く言ってくれて、利根は向いの家へ上り、一一〇番した。
何があったのかはっきりしているわけではないので、なかなか出向いてくれるとは言わなかったが、それでも、利根の話し方がきちんとしていたせいだろう、パトカーが来てくれることになった。
「――やれやれ」
外へ出て、利根は永井の家の玄関のドアを叩いてみた。
「むだよ。何回も呼んでみたわよ」
「そうですか。――どうしたんだろう」
利根はドアを開けようとしたが、|鍵《かぎ》がかかっている。
「奥さんと子供さんがいるんですね?」
「そうよ。男の子で、今……二つかしらね、確か。『クニちゃん』っていつも呼んでたから、『クニオ』とでもいうのかしら」
表札は〈永井〉の姓だけである。
「私がパトカーを待っています。もしご用があれば――」
「でもねえ……。気になるわよ」
居合せた人たちも、利根が警察の相手をしてくれるとなると、どうなるか見届けたいらしい。
「ご主人が中にいるかどうか、お分りですか」
「さあ……。会社から帰ったかどうか……」
と、首をかしげている。
そのとき――利根の耳に入って来たのは、待っているパトカーのサイレンではなかった。
家の中から子供の泣き声が――|甲《かん》|高《だか》く、はっきりと聞こえて来たのである。
「あらま。クニちゃんだわ、きっと」
と、主婦が言った。
「中へ入りましょう! もしけがでもしていたら大変だ」
利根はそう言ったが、誰もが、玄関をこじ開けて入るとなると、ためらっている。
「|鞄《かばん》を持っていて下さい」
と、利根はその主婦に鞄を預けると、玄関のドアを力一杯揺さぶった。
古いドアとはいえ、そう簡単には開かない。
利根は、玄関の脇に積んであるレンガを一つ手に取って、ドアの鍵の辺りに何度か打ちつけた。
何かの弾み、というものだろう。ドアがカチリと音をたてて開いた。
子供の泣き声がひときわ高く聞こえてくる。
利根は中へ入り、明りのスイッチを捜して押した。
玄関が明るくなる。正面の|襖《ふすま》が半ば開いていた。
「どこにいるんだ?」
と、できるだけ穏やかに呼ぶ。「クニオ君かい? 今行くからね」
泣き声は止まない。――すぐ近くだ。
利根は、襖を開け、明りを|点《つ》けると、息を呑んだ。
――茶の間だった。いや、たぶんそうだったのだろう。
戸棚、ちゃぶ台、食器戸棚、どれもがボロボロになっている。
何があったんだ?
ガラスが砕け、障子は桟ごとバラバラになっていた。
子供の泣き声は――どこだ?
廊下があって、その途中、肩ほどの高さに小さな納戸がある。
利根はその引き戸を開けた。
男の子の小さな顔が見えた。
「良かった!――さあ、もう大丈夫!」
男の子は、おとなしく利根に抱かれて出て来た。
「クニオ君だね?」
男の子がコックリと|肯《うなず》く。涙で汚れた顔には、永井の面影がある。
「――まあ、無事だったの!」
抱いて出ると、向いの主婦が声を上げた。「クニちゃん! 怖かったね!」
「お願いします。母親を捜します」
「どうしたっていうの?」
「分りません。――さっぱり分りません」
利根は、子供を主婦に任せて、家の中へ戻った。
「奥さん。――奥さん、どこです?」
と、利根は呼んだ。
あの茶の間には、少なくとも永井の妻の姿はなかった。
ガラスの飛び散った茶の間へは危くて入れず、利根は廊下の奥へと進んでみた。
風呂場らしいくもりガラスの戸がある。そこは明りが点いていた。
少しためらったが、利根は戸に手をかけ、ゆっくりと開けた。ガラガラと戸がレールの上を滑る。
手前の小さな洗面所、その向うにお風呂場があった。
そこに、女が倒れていた。タイルの上に、血に染ってうつ伏せに倒れている。
顔がこっちを向いて、もう何も見ていない目が見える。
利根は、パトカーのサイレンで我に返った。
これが――永井の妻だろう。
「女房と子供を頼む」
と、永井は言ったが……。
助けられなかった。――子供だけが生きのびたのだ。
「ここです」
と、利根は言った。
パトカーが停る。誰かが見ていたらびっくりするだろう。
もう夜中、十二時を回っていた。
警察での話が長くなって、自宅までこうして送ってくれたのである。
ぐったりと、体の|芯《しん》までくたびれ切っていた。
三階へエレベーターで上り、部屋へ|辿《たど》り着くまでが、とんでもなく長く感じられた。
上着を脱ぎ、ネクタイを外すと、利根はしばらく部屋の真中に座り込んだきり、動けなかった。
今は、ただ休みたかったが、しかし、そう簡単には眠れないだろう。――永井の妻、伸子の死体の映像が、目の前をチラついて、消えない。
それは、あの金網越しに見た白いコートの女とダブって、利根の胸をしめつけた。
――何があったのか。
永井は行方が分らないままだった。
利根は、
「なぜ永井の所を訪ねたか」
を説明するために、昼間の電話のことを刑事へ話さなければならなかった。
もちろん、喫茶店で見た「永井」については黙っていたのだ。
しかし、そのために、刑事は見当外れの推測をしたらしい。――まともでない電話。妻の他殺死体。
刑事は、永井がノイローゼのような状態で、妻子を殺そうとした、と思ったのである。妻は危険を感じて、子供を戸棚へ隠し、自分は逃げる間がなく殺された……。
利根は、「そうじゃない」と言おうとしたが、根拠を問われても答えられないことを考えて、やめた。
刑事は、永井を手配するだろう。――しかし、利根は知っている。
永井はもう死んでいるのだ。妻の伸子が殺されたとき、永井は死んでいたのである。
それを知っているのは、利根しかいない……。
子供は「邦男」という名だった。
警察から、近くの施設へ連れて行かれたが、もうぐっすり眠ってしまっていた。
それでも、刑事が首をかしげたのは、伸子が射殺[#「射殺」に傍点]されていたことだ。
伸子は七、八発の弾丸を撃ち込まれて死んでおり、茶の間の惨状はおそらく「軽機関銃のようなもの」を乱射したためだということだった。
永井が、ただの拳銃ぐらいならともかく、機関銃など持っていたわけもない。
――分らなかった。
今日はもう、寝よう。
立ち上ると、玄関のドアをノックする音がして、利根は一瞬心臓が止るかと思うほどびっくりした。
「どなた?」
「利根さん。――美奈です」
急いでドアを開けると、美奈がパジャマにカーデガンをはおって立っている。
「どうしたんだい?」
「だって――上から見たの。パトカーから降りて来たから心配になって……」
「ああ、そうか。いや、ちょっと事件の証人になってね。僕が捕まったわけじゃないよ」
「じゃ……何ともないのね」
「うん。ありがとう、心配してくれて」
やっと、利根は微笑を浮かべた。
「良かった」
そう言うなり、美奈が突然利根に抱きついた。
「美奈ちゃん……」
「心配だった!」
震えるような声だった。
そして、パッと離れると、
「お母さん、酔って帰って来て、もう寝てる」
と言うと、ニッコリ笑った。「おやすみなさい!」
「おやすみ……」
エレベーターへ駆けて行く美奈の後ろ姿を見送って、利根は戸惑っていた。
今の美奈の抱擁は、少女のものではなかったかもしれない。――いや、気のせいだろうか?
利根は、音をたてないように、そっとドアを閉め、ロックしたのだった……。
9 トンネル
長くは居られなかった。
思いの他、その駅は遠く、またその〈ホーム〉も駅から遠かったのである。
――説子との待ち合せに、少し遅れてしまうかもしれない。
ロビーのソファで待つ間、利根は明るく日の射し込む窓から、芝生をゆっくりと散歩する老人たちを眺めた。
一人で杖をついて歩く者、手を引かれて歩く者、車椅子を押してもらう者……。
どれもゆっくりとした動きで、ここでは時間の流れ方が違っているようだった。
「――どうも」
と、声がして、振り向くと、ガウン姿の老婦人が、一歩ずつ踏みしめるようにしてやって来た。
白髪の、この人が?――記憶の中の顔と、それは一致しなかった。
「あの……野川卓也君のお母様ですか」
と、利根は立ち上って言った。
「そうですが……」
「私は大学で一緒だった利根という者です。ご記憶にないと思いますが」
老婦人の目が見開かれて、
「まあ! 利根さん。利根貞男さんね」
利根はびっくりした。
「|憶《おぼ》えていて下さったんですか」
「もちろん! うちでよくご飯を食べて行ったわ」
と、ソファに座って、「何てよく食べる人かと|呆《あき》れたもんだわ」
「いや、若かったですから」
利根も、やっとその笑顔に、かつての面影を見出した。
「――主人は亡くなって、私もね、一人でいるのもつまらないし、ここが空いていたんで入ったの。ここで死ぬことになるでしょうね」
七十歳ぐらいだろうか、見た目は老けていても、言葉も表情も若々しいものがあった。
「突然お邪魔してすみません」
「いえいえ。退屈ですもの。お客は大歓迎よ」
「実は――同じ大学で一年下だった永井という男が、ちょっと色々あって、問題を起したんです。姿をくらまして、行方が分らないままでして」
「あの人? 奥さんを撃ち殺したっていう……」
「ご存知でしたか」
「手配の写真を見て、どこかで見たことがあると思ってたの。永井って姓もね」
大したものだ。――利根は舌を巻いた。
「それで、もしかしたら、卓也君が何か知らないかと思って。――確か、一緒にドイツへ行っていたんです」
「卓也が……」
「ええ、卓也君に連絡を取りたいと思ったんですが、居場所が分らなくて。ご存知でしょうか」
ふしぎな表情で、老母は利根を見ていたが、
「ご存知ないのね」
と、静かに言った。「卓也は死にました」
――利根は、いつの間にか自分が、
「いつですか?」
と|訊《き》いているのを、ぼんやりと分っていた。
「もう……半年になりますね」
半年。――半年[#「半年」に傍点]?
利根は笑い出しそうになった。
そんな馬鹿な! 僕はついこの間、野川に会ったんですよ。そしておみやげに、時代遅れの〈ベルリンの壁〉をもらったんですよ!
しかし、何も言わなかった。
「|呆《あっ》|気《け》なくね、本当に」
と、老いた母親は言った。「そのとき、私も髪がいっぺんに白くなったんですよ」
その白い髪に、柔らかな日射しが当って、まるで雪のように輝いて見えた。
「――遅い!」
説子は目をつり上げていたが、本気で怒っているわけではなかった。
今日、利根がどこへ行ったか、ちゃんと知っていたからだ。
「――会えたの?」
と|訊《き》くと、利根は、
「うん」
と肯いた。
「そう。それで、分ったの、野川さんのいる所?」
「いや、分らなかった」
「そう……」
「遅れてすまない。――出かけよう」
もちろん、説子にも異存はない。
日曜日の午後、待ち合せた二人は、結婚式場を捜しに歩くことにしていたのである。
「初めはどこへ行く?」
と、説子は言った。
「君が決めてくれ。地下鉄の乗り方は、君の方が得意だろ」
説子は、実のところ、どこからどこへどう回るか、ちゃんと計画を立てていた。
「じゃ、二時間で五つ回りましょ」
「そんなに回れるのかい?」
「途中、気に入った所があれば、詳しく見せてもらうのよ。予約の状況も聞いてからね」
二人は、まず地下鉄へと向った。
――説子は、利根がどこかふさぎがちなことに気付いていた。
確かに、あの白いコートの女が目の前で射殺されたという奇妙な事件に始まって、旧友が妻を殺して行方をくらます。しかも、その妻の死体を発見したのが利根自身なのだから、気がふさぐのも当然だ。
でも説子は、それ以上のことを考えるにはあまりに幸せだった。
「――私、あなたの部屋へ行けばいい?」
と、地下通路を歩きながら、説子は訊いた。
「うん?――ああ、今夜?」
「違うわよ」
と、説子は笑って、「結婚したら、ってこと!」
「そうか、何だ。――もちろん、あそこで二人は充分暮せる。三人でもね」
「そうね」
説子は微笑んだ。「もう少し待ってね。三人か二人か、分るわ」
利根は、説子の手を握った。
説子は少しびっくりした。人目のある所で、こんな風に手をつなぐなんて、したことがない。
当り前の恋人のような、そんなことが、今の説子には|嬉《うれ》しかった。
――式場巡りは、三つめまでは時間通りに運んだ。
四つめの式場は、小規模なホテルだったが、係の女性の感じがいいことと、ちょうどひと月後の週末がキャンセルで空いていたこと。それは魅力的な状況だった。
「式場をごらんになりますか?」
と、係の女性に言われて、説子はためらわず、
「ぜひ」
と肯いていた。
――小さなチャペルだったが、ステンドグラスがきれいで、バージン・ロードに七色の光を落としている。
「とてもすてき」
説子は正面に立って言った。「――どう?」
「うん……」
利根は、小さく肯いて、「悪くないんじゃないか」
「一か月後が空いてるって、それ……巡り合せだわ」
本当は「運命だわ」と言いたかったのだが、少し照れてやめた。
「じゃあ、ここで予約を入れて行こう」
「ええ」
仮の予約、ということで、説子が書類に記入する。
「ちょっと、化粧室を」
と、利根が立ち上った。
「出られて左の奥です」
と、係の女性が言った。「あ、ここへ、ご住所とお電話番号を……」
利根は、化粧室で手を洗い、鏡の中の自分を見つめた。
「おかしくなんかない」
そうだ。――あの母親の記憶違いだろう。
いや、野川は本当は死んでいないのかもしれない。死んだのは別の人間で……。
もし、あの野川が「生きた人間でなかった」としたら、説子もそれ[#「それ」に傍点]を見ているということだ。
そんなことがあるのだろうか。
利根は顔を冷たい水で洗って、ハンカチで|拭《ぬぐ》った。
――今は説子が幸せに浸っているのだ。何も言い出さずにおこう。
利根は、化粧室を出た。
目の前に、暗いトンネルがあった。
何だ、これは?
振り返ると、化粧室は消えて、そのトンネルが背後にも続いていた。
ひんやりとした空気が触れる。――地下道だろうか。水の滴り落ちる音が、あちこちからシンコペーションのようにずれて聞こえてくる。
ここは何だろう?
そっと手を触れると、ヌルヌルと泥のような土の層がある。
高さは二メートルくらいか。人が一人なら充分に通れるトンネルである。
明りが、ずっと先の方から射していて、それが利根の足下も照らしていた。
どこへつながってるんだ?――大体、どうして突然こんな所に?
しかし、利根はもうさほど驚かなかった。これも幻なのだ、きっと、幻影なのだ。
ゆっくりと進んでみる。――明りの方へと。
そこには出口か何かがあるはずだ。
足下は水たまりが至る所にあって、どうしても靴の中に水が入ってくる。少しすると|諦《あきら》めて、水たまりなど気にしないで歩くことにした。
トンネルはゆるくカーブしていて、先まで見通せない。
しかし、いくら行っても、出口は見えて来ないのだった。
そのとき――背後で叫び声が上った。
振り向くと、トンネルの中を何人もの足音が駆けて来る。
暗いトンネルを必死に駆けてくるのは誰だ?
すると――明りの中に、駆けてくる男女の姿が浮かび上った。
若い金髪の男と、茶色い髪の女。男が女の手を引いて、走ってくる。
その後から、初老の紳士が、孫かと思える小さな子を抱いて駆けてくる。その後に、太った婦人が息を切らし、|喘《あえ》ぎながら続く。
どれも外国人――ヨーロッパの人間だろうと利根は思った。見た印象だけにすぎないが。
利根はトンネルの壁へ身を寄せた。――走ってくる人々には、利根の方が存在しないらしく、誰もが利根の目の前を駆け抜けて行った。
その後からも家族らしい男女と子供たち。結局、十四、五人が駆け抜けて行った。
そしてその後から、トンネルの中に響き渡る犬の|咆《ほう》|哮《こう》。そして足音が近付いて来た。
――軍用犬だ。
激しく|吠《ほ》え立てながら、あの人々を追って行く。そして、兵士たち。
機関銃を手にした兵士が十人近く、犬たちの後から駆けて行った。
何ごとだ?――一体これは……。
突然、トンネルの中に銃声が響いた。
悲鳴と子供の泣き声。――機関銃の連続する発射音が、その叫び声を消して行った。
利根は走り出した。
我を忘れて、銃声と叫び声の方へと駆けて行った。
10 血 痕
「大丈夫?」
説子の声が、どこか遠くから響いてくる。
大丈夫?――大丈夫?
大丈夫なわけがないだろう! あのトンネルの中で何が起きたか。あのライトの中に浮かび上った光景を、どうして忘れられるものか。
「ね、利根さん。……気分は?」
冷たく、ひんやりとした感覚が額によみがえって、利根は目を開けた。
説子。――危いぞ、逃げなくちゃ。
しかし、そこはあの暗いトンネルではなかった。明るい結婚式場の廊下である。
「立てる?」
冷たいおしぼりを、この式場の女性が持って来てくれたようだ。
「ああ……」
廊下の隅にうずくまるように倒れていたらしい。説子はさぞびっくりしただろう。
「少し、横になる?」
と、利根を支えて、相談室へ連れて行く。
「いや、大丈夫……。すまん。ちょっとめまいがして」
「分ってるわ。このところ忙しかったので」
説子の言葉は、係の女性へのものだった。
「大変ですね。もしご無理でしたら、式場を仮押えだけしておきますから、ご予約は改めて、ということでも」
「そうする?」
と、説子が利根をソファに座らせて|訊《き》く。
説子は、ちゃんと予約して行きたいのだ。その気持は分っていた。
「いや、少し休んでれば平気さ」
と、利根は言った。「予約して行こう。その方が、後も楽だ」
説子が|嬉《うれ》しそうに、
「そう? そうね。――じゃ、大体は私が書き込むから、あなたはサインだけして。ここで休んでてね」
利根は、説子が机に向って、せっせと必要事項を記入している、その後ろ姿を眺めていた。
――あれは何だったんだ?
トンネルも、軍用犬の|咆《ほう》|哮《こう》も、機関銃の音も――すべてがあまりにリアルだった。
見たこともない場所、光景を、突如目の前にすることなどあるだろうか?
利根は、トンネルの壁のヌルッとした感触、ひんやりと湿った空気、そして靴を泥の中へ踏み入れた、あの気持悪さも、はっきりと|憶《おぼ》えていた。
そして……あの|凄《せい》|惨《さん》な光景も。
機関銃の音に驚いて、トンネルの先へ駆けて行くと、男たちの笑い声が聞こえた。
そして――利根は、機関銃を構えた兵士たちを見た。
泥と水たまりの中に、さっき利根のそばを駆け抜けて行った人々が倒れていた。血に染って。
老人も子供も、折り重なって血と泥に半ば埋れるようにして、死んでいた。
射殺されたのだ。
何という光景……。それは「悪夢」だった。
しかも――。
|呻《うめ》き声が上った。
老人が撃たれるときにかばったのだろう。
老人の下になっていた男の子が苦しげに呻いたのである。
銃弾を逃れたわけではなかっただろうが、まだ息がある。――それを聞いた兵士が、拳銃を抜くと、近付いて行って、引金を引いた。――二度、三度。
「やめろ!」
と、思わず利根は叫んでいた。「やめろ!」
すると――突然兵士たちが利根の方を見たのである。
利根は凍りついた。
まさか! 俺の声が、聞こえたのか?
しかし、兵士たちも戸惑っている様子だった。
利根のいる方へ拳銃を手に近付いてくる。しかし、その目は利根を見ていない。
見えないのだ。――利根はホッとした。
そうとも、これは夢なんだ。夢の中で撃たれて、本当にけがしたりしたら、たまらないものな。
だが、どういう具合か、あの叫び声が、兵士たちの耳に届いたらしい。
兵士が上官らしい男に何か言った。
上官が鋭く命令を下す。――機関銃を手にした兵士が、進み出てくると、銃口を真直ぐ利根の方へ向けて構えた。
やめてくれ! 俺は幻なんだ。いや、お前らの方が幻なんだ!
やめてくれ!
機関銃が火を吹く。――利根は反射的に地面へ身を伏せていた。
同時に――一瞬、正面からはっきりと見たその兵士の顔に、見覚えがあるような気がした。
そして利根は、気を失ってしまったのだ……。
あれは一体何だったのだろう?
「――どうぞ」
若い、事務服姿の女性が冷たいお茶を出してくれる。
「ありがとう」
利根は微笑んで|肯《うなず》いた。
その女性のやさしい笑顔が、利根をやっと完全にこの世界へ引き戻した。
冷たいお茶を飲むと、その冷たさが胸からお腹の方へと広がっていく。――それは生きているという感覚だった。
「じゃあ、よろしくお願いします」
と、説子が立ち上った。
「またご連絡を差し上げますので」
と、係の女性はていねいにファイルを閉じて、「――お加減、いかがですか?」
「もう何とも……。ご心配かけました」
利根はゆっくりと立ち上った。
いくらかめまいを覚えたが、すぐに消えていった。
「今、お話し申し上げてたんですけど、ひと月後ということですので、忙しい進行になります」
「招待者とか、まずリストを作らなきゃ」
と、説子は言った。
「ああ、大丈夫。そういうことは君の得意技じゃないか」
「あなたの|親《しん》|戚《せき》のことまで知らないわよ」
と、説子は言った。「ともかく、正確な人数を出します」
「よろしく。二、三人のプラスマイナスは結構です。そのくらいで人数を。それが第一ですので」
「じゃ、行きましょう」
と、説子に促されて、
「どうも……」
利根は|会釈《えしゃく》して、その式場を後にした。
少し行きかけると、
「お客様!」
と、あのお茶を出してくれた若い女性が追って来た。
「――何でしょう」
「あの……今、お出になるときに、カーペットに足跡が……」
「足跡?」
言われて、利根も初めて気付いた。――外へ出て、ここまで、舗装の上に、黒ずんだ足跡がついている。
「じゃ、おたくのカーペットを汚してしまいましたね」
と、利根は言った。「申しわけない。気付かなくて――」
「いえ、そんなことはいいんです」
と、その女性は首を振って、「どうせ、カーペットは定期的にクリーニングしていますから。ただ――カーペットの足跡が、何だか……血のような[#「血のような」に傍点]気がして、大丈夫かしらと思ったもんですから」
「――それって何なの?」
と、説子は言った。
「分らないよ」
と、利根は首を振った。「ともかく、そういうトンネルの中に、僕はいたんだ」
利根は靴を脱いで、手に取ると、裏を引っくり返して見た。
そこにはもう何もついていない。
「――おかしいわ。カーペットにはっきり跡が残るくらいなら、まだこびりついてるでしょう」
と、説子は言った。
「うん……。何にしても、あの足跡は現実だ」
二人は、喫茶店に入っていた。
もう外は暗くなり始めている。
「私、さっぱり分らない」
と、説子はため息をついた。「もちろん、あなたが正直に話してくれてるのは分ってるのよ。でも……」
利根にも説子の気持はよく分った。
説子は今、長い間、幻だった「結婚」を、現実のものにすることに夢中なのだ。
それに冷水をあびせるように、利根が見た妙な「白昼夢」の話。今、手にしかけている「現実」を逃してしまいそうで、怖いのである。
そうだ。――これは俺一人の胸にしまっておけばいいことなのだ。
「そう心配するなよ」
と、利根は言った。「大丈夫、いくら夢の中で撃たれても、かすり傷一つ負うわけじゃないんだ」
「でも――永井さんの奥さんが……」
「ああ。しかし、真相は分ってないんだからね」
説子に、野川卓也が死んでいるということも話していなかった。言わずにおこう、と利根は思った。
「――ともかく、今は一か月しかない式のことだ」
と、利根は言った。「ゆっくりと相談して決めよう」
「それはいいけど……」
「一晩中かかるな、細かいことまで決めると」
説子は戸惑って、
「一晩中?」
「うん。もちろん、睡眠もとって、ってことだけどね」
説子は、ちょっと笑って、
「あなたのアパートで?」
「いや、こういうことはやはり、華やかな場所で決めなくちゃ。ホテルに泊って、明日はホテルから出社ってのはどうだい?」
「無茶言って!」
と、苦笑している。「化粧品も何も持って来てないわ」
「ホテルの売店で売ってるよ」
「パジャマもないわ」
「着ることないさ」
「馬鹿ね!」
|頬《ほお》を赤くして、それでも説子は嬉しそうだった……。
11 少 年
「ごめんね、遅れて」
「いいよ、中をぶらついて待ってる」
と、弓原美奈は言った。
「できるだけ急いで行くから」
風井咲子はそう言って、電話を切った。
咲子と、この日曜日の夕方、美奈は待ち合せて何か食べて帰ることにしていた。
約束の時間を、十分ほど過ぎて、おかしいな、と思い始めたとき、美奈の携帯電話が鳴ったのである。
咲子は、母親の用事で出かけていたのだが、意外に手間どって、三十分近く遅れそうといって来た。
美奈は別に急いでいるわけでもなかったので、二人で待ち合せた広場に面したスーパーマーケットの、小物売場で待っていることにしたのだった。
――店内は、そろそろ夕食の買物の客は減り始めて、少し|空《す》いていた。
美奈はスーパーの二階へ上って、文房具やキャラクターグッズの並んでいる棚に見入った。
可愛い小物を見付けて買うのが、美奈の楽しみの一つだ。
ゆっくりと棚の一つ一つを眺めて行く。
棚の端を回ろうとして、向うから来た子とぶつかりそうになった。
「あ、ごめんなさい」
と言って――相手が外国人らしいと気付く。
男の子だ。髪は茶色で、顔立ちは西洋人。身長は美奈と同じくらいあるが、年齢はずっと下だろう。ヒョロリと足が長く、まだ男の子らしいがっしりしたところがない。
たぶん十四歳か――もっと下かもしれない。
ぶつかりかけて、謝った美奈は、その少年がじっと自分を見つめるのを見て、
「ごめんなさい……」
と、ゆっくり言った。
日本語が分っていないのか、と思ったのである。
その目は青かった。澄んで、ふしぎな透明さをたたえていた。
そして、美奈を見つめる視線は、どこか冷たく、ゾッとするようなものを持っていた……。
「何でもないよ」
と、その少年は言って、パッと美奈のわきをすり抜けて行ってしまった。
「――何だ」
と、思わず|呟《つぶや》く。「日本語、しゃべれるんじゃない」
美奈は肩をすくめて、また棚を眺めて行った。
十分ほどたっただろうか。突然、
「泥棒!」
という叫び声が上った。「おい! 待て!」
エプロンをつけてレジを打っていた中年のおじさんが、カウンターから飛びだして、
「泥棒だ!」
と大声で言いながら追いかけて行く。
美奈は、ちょうどレジを見る位置に来ていたので、その声に振り向いた。
そして――レジの係が追いかけている「泥棒」が、さっきぶつかりかけた少年だと知って目をみはった。
たぶん、前の客が支払いしているときに、レジの中の金をわしづかみにして逃げたのだろう。
少年は、二階から下りる階段を飛ぶような勢いで駆け下りて行く。
美奈は思わずその階段の方へ近寄っていた。
少年は、階段の踊り場で足を滑らした。
アッという間もなく、階段を下まで転り落ちる。硬貨が散らばって、音をたてた。
「捕まえてくれ!」
と、追っかけるレジ係が怒鳴っても、客にはとても無理なことで、店の人間が気付いて駆けて来たときには、少年はもう外へ飛び出していた。
美奈は、少年があんなにひどい落ち方をして、けがしなかったかしら、と思った。
もちろん、自分がお金を盗んで逃げようとしたのだから、自分のせいなのだが、それでもあの細くてきゃしゃな体つきと、あの目を思い出すと、ふしぎと責める気になれないのだった。
「――大丈夫。全部落として行きやがった」
レジの係がお金を拾い集めて、「ざま見ろだ! たち[#「たち」に傍点]の悪いガキなんだから」
息を切らしながら、レジの係のおじさんが二階へ戻ってくる。
美奈は、小さなクリップをいくつか手にしてレジへ出すと、
「――今の男の子、知ってるんですか」
と言った。
「え? ああ、あいつかい。――二百十円。うん、何しろこの辺でよく万引きやるんだ」
「万引き?」
「そう。どの店でも用心してるよ。目立つだろ。あんな風だからな」
「じゃ、今日みたいにお金をとって行くなんて――」
「うん。ありゃ初めてだ」
と|肯《うなず》いて、「びっくりした。だけど、全部落として行った。悪いことはできねえよ」
美奈はお金を払って、
「どこの子なの?」
「さあね。――たいてい、この裏の公園で寝てるって話だよ」
「公園で……」
美奈が、おつりを財布へしまって、階段を下りて行くと、
「ごめん!」
と、咲子が手を振ってスーパーへ入って来るのが見えた。
「やめとけば?」
と、咲子は美奈の手を引張った。
「せっかくここまで来て?」
「だって……一人じゃないかもしれないよ」
美奈は、|人《ひと》|気《け》のなくなった公園の前に立つと、
「咲子、ここにいて」
「でも……」
「何かあったら、逃げてね。私を助けようなんてしないで」
「もう!――美奈のひねくれ屋!」
と、咲子はむくれて、「一緒に行きゃいいんでしょ!」
美奈は笑いをかみ殺した。
小さな公園の中で、捜すのに時間はかからなかった。
植込みの向うに動く気配があって、
「そこにいるの?」
と、美奈が声をかけると、あの少年が植込みのわきから顔を出した。
「やっぱりいたね」
と、美奈は微笑んで、「|憶《おぼ》えてる? さっきスーパーで……」
「何だよ」
と、少年は美奈を見上げた。
「うん。これ……」
と、紙袋を出して、「ハンバーガーと、紙パックの紅茶。ハンバーガー、まだあったかいよ」
少年は、しばらく美奈を見ていたが、
「置いてけよ」
と言った。
「うん。じゃ……。ここに置くね」
地面に置くのも何だかいやで、ベンチの上にのせる。
「待てよ」
と、少年は息をついて、「持って来てくれよ。足が痛くて……」
「さっき、階段から落ちたせい?」
「うん……」
はい、と紙袋を渡すと、
「じゃあ、これで――。足のけが、ひどいようなら、お医者に診せた方がいいよ」
食べるところを見られたくないだろうと思って、美奈は、ちょっと手を振って、そのまま公園を出た。
「――ああ、ドキドキした」
と、咲子はホッとした様子で、「物好きね、美奈も」
「でも……」
と、歩きながら不安げで、「足、かなり痛そうだったね」
「放っときなよ。自分のせいじゃない」
「そりゃそうだけど……」
正直、美奈一人ならもっとあの少年のそばにいただろうが、今は咲子がいる。
美奈は、咲子が慎重な性格で、たいていのことは親に報告してしまうことも分っていたので、これで切り上げることにしたのである。
「――でも、あの男の子、結構可愛かったよね」
その咲子が、バスを待っている間に、そんなことを言い出した。
「咲子。本心?」
「うん。私、顔は好み。もちろん、泥棒じゃいやだけど」
咲子は面食い[#「面食い」に傍点]である。
「でも、年下でしょ」
「たぶん、十三、四だね、あれ[#「あれ」に傍点]」
「あれ、ってことないでしょ」
美奈は、バスが来るのを見て、「――咲子」
「何よ。いやよ、あんな所に戻るの」
「はいはい」
バスが停って、扉が開いた。
「けがしてれば、子犬だって放っておけないよね」
と、咲子は言った。
二人は、小走りに、あの公園へと戻って行った。
風に空の紙袋が飛んで行く。
しかし、少年の姿はなかった。
「何だ。歩けたんじゃない」
と、咲子が肩をすくめて、「心配して損しちゃった」
「そうだね」
夜になると、風は冷たい。――寝るのはどこか他の場所なのだろう。
美奈たちが、公園を出て歩き出そうとすると、
「君たち」
呼ばれて、びっくりして振り返る。
大柄な、がっしりした体つきの男が立っている。――日本人ではない、頭はほとんど|禿《は》げていたが、耳の辺りに残った毛は白く光っていた。
「この辺で、十二、三歳の男の子、見なかった?」
達者な日本語である。発音が固くて、巻き舌になるところは、ドイツ人かと美奈には思えた。
美奈は、この男が何者か分らないので、どう答えるか迷ったが、先に咲子の方が、
「私たちも捜しに来たの」
と言ってしまった。
「ほう。――すると、ここにいたことがあるんだね?」
「前はいたんです」
と、美奈は急いで言った。「でも、どこかへ行っちゃったみたい」
「前、とはいつごろ?」
と、男が訊く、
「ええと……二、三週間かな。ね?」
と、咲子の方を見る。
咲子は|呆《あっ》|気《け》にとられつつ、
「たぶん、それくらいね」
と、同調した。
「そうか。君らは、その子にどんな用事で?」
「この前、足をけがしてたんで、どうしたかな、と思って」
美奈は、「あなたは、あの子の……お父さん……じゃないですよね」
と見上げる。
「父親じゃないが、父親に頼まれて捜している」
と、男は言った。「もし、その子を見かけたら、ここへ電話してくれないか」 男が名刺を出した。
カタカナで、〈オットー〉とだけある。
「オットーさん」
「そうだ。〈お父さん[#「お父さん」に傍点]〉と憶えてくれ」
男は笑って、「ちゃんとお礼はするよ、知らせてくれたらね」
「分りました」
と、美奈は言った。「あの子、どこの国の子?」
「もちろん[#「もちろん」に傍点]ドイツ人だ」
と、男は、何を今さらという表情で、「私もね」
男が、コートのポケットに手を入れて立ち去る。
美奈は、咲子と顔を見合せて、
「あの人、変だよ」
と言った。
「もう、美奈の言うことにはついて行けない!」
「そう怒らないの」
と、美奈は親友の肩を叩いて、「あのオットーって人、拳銃を持ってた」
咲子は、それを聞いて真青になった……。
12 惨 劇
説子は目をさました。
――今のは? 夢の中だろうか。
いや、それは妙だ。何の夢も見ていなかったのに、聞いたりするだろうか?――女の悲鳴を。
「ね、利根さん」
と、小声で呼ぶ。「――利根さん。起きて」
しかし、利根はツインベッドの一つで、寝返りを打っただけだった。
仕方ない。――無理に起すのも気がすすまず、説子はベッドから出て、バスローブをはおった。
二人で、夕食をとってこのホテルへチェックインして……。
「明日、休んじまおうか」
と、利根が言うほど、クタクタになるまで愛し合った。
そのせいで、ぐっすり眠っている利根に文句を言っても……。
時計へ目をやると、午前四時になっていた。
今のは本当に悲鳴だったろうか?
説子は、ドアへ近付くと、|覗《のぞ》き|窓《まど》から廊下を見た。
誰もいないし、誰一人駆けつけても来ない。
じっと耳を澄ましても、何も聞こえない。
やはり気のせいか……。
説子は、バスルームへ行って顔を洗った。――眠気はいくらかさめたが、十分もすれば眠ってしまうだろうと思えた。
タオルで顔を|拭《ぬぐ》い、ベッドへ戻ろうとして……説子はもう一度ドアへ寄って、廊下を覗き見た。
何ごともない。――平穏無事である。
説子がドアから離れようとしたとき、隣室のドアが開いた。
もう一度目をつける。
男が一人、黒いコートをはおって出て来た。そして、説子の見る前を通り過ぎて、エレベーターの方へと消えた。
それだけだ。――それだけ。
気にはなったが、通報するには根拠が乏しい。
説子は、ベツドへ戻って目を閉じた。
今は、厄介なことを少しでも遠ざけたいのだ。何も、わざわざ、もめごとの種を自分でまくことはない。
――寝よう。
ギュッと目をつぶって、説子は眠ろうとした。
あの悲鳴も、目の前を通って行った男も、全部夢の中のことだ……。
そう。――いつしか、説子は再び眠りに落ちて行った。
「――毎朝、こんな朝食だといいね」
と、利根は上機嫌で、ビュッフェスタイルの朝食をたっぷりと皿にとって食べていた。
「家でこんなもの、作れないわよ」
と、説子は笑った。
「まだ早い。こんなにのんびり食べてられるなんてな」
「そりゃ、会社まで十分だもの」
「いいな、実に」
「私も、今朝はお腹が空いて。――取ってくるわ」
説子は、ゆで卵、スクランブルエッグから、ベーコン、ハムなどをどんどん皿へ取った。
そして――ふと説子の目はフロントの方へ向いた。
警官が数人、急いでフロントへ駆けつけ、そして案内されてエレベーターへ……。
まさか……。
テーブルへ戻ると、
「ああ、もう満腹だ」
と、利根が言った。
「ね、フロントに……」
「うん?」
振り向いて、「警官がいるね」
説子は少し迷って、
「――さ、早く食べましょ。ここから遅刻したら、みっともないわよ」
と言った。
もちろん、あれがゆうべの悲鳴と同じことだとは限らないわけだ。全く別の事件かもしれない。
無理に自分自身へそう言い聞かせて、説子は忘れようとした。
耳の底で、いつの間にか悲鳴を打ち消す、別の音を捜していたのかもしれない。
「――君は?」
フロントで、山代弥生は問われて、
「呼ばれて来ました。あの……本当に――」
「君の名前は?」
と、刑事が言っていた。
「山代弥生です」
「大学生?」
「S大文学部です」
「学生証を」
山代弥生は、バッグから学生証を取り出して刑事へ渡した。手が震えている。
「――はい。それじゃ、こっちへ」
学生証を返すと、刑事は弥生を連れてエレベーターへと向った。
山代弥生は、大学へ行く仕度をして、家を出ようとしたとき、電話が入ったのである。
Kホテル。――木浜和子という子を知っているか。
親友の名が出て、弥生はびっくりした。
呼ばれて駆けつけたのだが、信じられなかった。誰か、他の子の間違いだ、と思いたかった。
エレベーターの中で、
「友だちかね」
と、刑事が|訊《き》いた。
「はい。でも……」
「|辛《つら》いだろうが、ともかく見てくれ」
「本当に……和子ですか」
と、弥生は言った。
「さあ。それを君に見てもらうんだ」
エレベーターが停り、扉が開く。
「僕は国原」
と、刑事が言った。「五十歳だ。君のお父さんくらいか」
「父は――五十二です」
「同じ世代だな」
廊下に人が大勢いた。国原という刑事は、五十にしては若く見えた。
「どいてくれ。――中は?」
「今、検死官が」
「そうか。|身《み》|許《もと》の確認だ」
弥生は、逃げ出したかった。
――木浜和子は、同じS大の二年生で、大学の中では一番の仲良しである。
弥生が呼ばれたのは、和子が上京して一人住いをしているからだ。その手帳のトップに、弥生の名前があったのである。
「入って」
と、国原が手招きする。
こわごわ中へ入ると、ダブルベッドが目に入った。――シーツはしわになっているが、そこには何もなかった。
「――木浜和子さんの物?」
テーブルの上のバッグや財布、そして教科書……。
「そうです」
弥生の声がかすれている。
「現場はバスルームだ」
と、国原が言った。「君には気の毒だが、まず被害者がはっきりしないと、何もできないのでね」
弥生は青ざめた顔で|肯《うなず》いた。
「来てくれ」
国原に促されて、弥生は震える足でバスルームの中へ入って行った。
写真のフラッシュが光る。――バスタブの傍らに、|膝《ひざ》をついていた男が振り返った。
「国原君。こいつはプロの手口だ。刃物を扱い慣れてるよ。鮮やかなもんだ」
「検死官。――被害者の友人です」
「ああ、そうか。まあ……仕方ない。見てくれ」
弥生は前へ押し出されるようにして、バスタブの手前まで行った。
目をそろそろと上げる。
和子……。
「友だちかね」
と、国原が言った。「肯くだけでいい」
弥生は肯いた。
「分った。ありがとう」
弥生は支えられてバスルームを出ると、そこで緊張の糸がプツンと切れて、失神してしまった。
「――大丈夫か」
冷たいおしぼりが額にのせられて、弥生はソファに寝かされていた。
「ここは、別の部屋だ」
国原刑事がそばに椅子を持って来て座っていた。
「私……気絶したんですね」
「当然だ。無理をさせて、すまなかったね」
弥生は、大きく息を吐いて、
「和子……苦しまなかったでしょうか」
と訊いた。
「|喉《のど》を切られて、一瞬の出血のショックで亡くなったろう。苦しみは長くなかったと思う」
「そうですか……。でも、むごい……」
弥生は涙を|拭《ぬぐ》った。
「犯人は、どうやら外国人らしい」
「え?」
「金髪の男性、という証言がある。印象としては、ややいかつい、ドイツ風の顔だということだ」
弥生は、ゆっくりと起きて、
「和子は……仕送りが止ってたんです」
「家からの?」
「不況で、送れないと言って来たって。困ってました」
「いつのことだね?」
「二年生になったばかりのころです」
「それで――」
「アルバイトを捜してました。でも、その内、ずいぶん|洒《しゃ》|落《れ》た服も着たりするようになって……。本人は、『また父の所がうまく行ってるの』と言っていましたが、みんな分ってました」
「つまり、男と……」
「他に考えられません。どんどん持っている物もブランド品になって」
弥生はため息をついて、「私が、もっときつく言って、やめさせれば良かった……」
「子供じゃない。仕方ないさ」
国原は言った。「そうなると厄介だな。特定の恋人じゃないというわけだ」
「そうです」
「彼女が――男を見付けるのは、何かそういうクラブなどに入ってのことかね?」
「分りません。訊いたこともないし、訊いてもしゃべらなかったでしょう」
弥生はそう言って、「ご両親には……」
「今、こっちへ向っておられる」
「そうですか」
「君の持物だ。これで全部かな?」
と、国原が言った。「持っていたものが、倒れたときにあちこち飛んでいってしまってね」
「すみません!」
弥生はタオルで顔を拭った。
ドアをノックする音。
国原がすぐに立って行き、ドアを細く開けて何か話していたが、
「山代弥生君」
「はい……」
「協力ありがとう。君はもう気分が良くなったら帰っていいよ」
「分りました」
「何か、思い出したことでもあれば、ここへ電話を」
と、国原刑事は名刺を渡し、「じゃ、僕はちょっと失礼する」
「どうも……」
弥生は、一人になると、テーブルの上の物をバッグへ戻した。
そして弥生の手が止った。
「これ……私のものじゃないわ」
弥生は|呟《つぶや》いて、それ[#「それ」に傍点]を手にしてじっと見つめていた……。
13 入 院
「マルティン! おはよう」
弓原栄江は、明るく言って手を振った。
「遅れてすみません」
マルティンは、小走りにやって来た。
「二、三分よ。大丈夫」
栄江は、ビルのロビーを見回すと、「あそこに座っていましょう。相手がみえれば、すぐ分るわ」
「そうですね」
二人は、ロビーのソファに腰をおろした。
「――感じはどうです?」
と、マルティンが言った。
「え?」
「向うの出方。電話での感じは?」
「ああ。『感触』ってことね。悪くないわ。翻訳がいいの。私も感心した」
「それは珍しい。弓原さんがそうほめるのはめったにない」
「そうね。本当に今はまともな文章になってない翻訳がいくらもあるわ」
と、栄江は言って、「――あら、マルティン。けが[#「けが」に傍点]したの?」
「いえ、どうして?」
「髪の毛の……この耳の後ろの所。血じゃない、それ?」
「そうかな……」
と、指で探り、「あ、いてて……。できものを|潰《つぶ》したんです」
「消毒した方がいいわ」
「ちょっと、洗面所で洗って来ます」
マルティンは立ち上って、ロビーの奥の化粧室へ入って行った。
鏡の前で、ペーパータオルを濡らし、耳の後ろの血のこびりついた所をこすって落とした。
マルティンは、さらに冷たい水で顔を洗った。
そしてペーパータオルを抜いて顔を|拭《ぬぐ》うと、鏡の中に、大柄な男を見た。
「オットー……」
と、マルティンは|呟《つぶや》くように言った……。
「――利根さん。お電話です」
と言われて、コピーの所にいた利根は、
「ありがとう」
と、机に戻った。「――はい、利根でございます」
「今日は。私、美奈です」
「ああ、美奈ちゃんか」
利根は椅子にかけて、「どうしたんだい、会社へ」
「ご迷惑?」
「いや、そうじゃないけど……」
「ゆうべ、帰って来なかったわね」
利根は詰って、
「うん……。ちょっと用事で――」
「いいの。そのことは」
と、美奈は言った。「別に、利根さんが何してようと、私がとやかく言うことじゃないし」
「美奈ちゃん……」
そばには誰もいなかった。
「利根さん、私――」
「待ってくれ」
と、遮って、「僕はね、説子君と結婚する。昨日、式場も予約したし」
「いつ?」
「ひと月後だよ」
美奈は少しの間黙った。
「――もしもし? 美奈ちゃん?」
「はい」
「だからね――」
「分ってる。私は子供だし。でも、あと何年かしたら、私も大人になるのよ」
「それは分ってるけど……」
「そんなことで電話したんじゃないの」
と、早口になって、「ね、どこか近くの病院を紹介して」
「病院?」
「ええ。どこか知らない?」
「君……。美奈ちゃん、まさか……」
と口ごもると、
「――いやだ! 何考えてるの?」
と、美奈は怒っている。「けがしてる子がいるの。男の子で、足を骨折してるんじゃないかと思うんだけど」
「誰なんだい、それ?」
「万引き」
「ええ?」
「お金盗って逃げようとして、階段から転り落ちたの」
利根はわけが分らず、キョトンとしているばかりだった。
「もう少しで、足を切断しなきゃいけないところだったよ」
と、医師が言った。「何とか間に合ったがね」
「ありがとうございました」
と、美奈は頭を下げた。
「ただ、大分傷口が大きい。当分は痛んで起きられないだろう」
「分りました」
美奈はホッと息をついた。
朝、遅刻してまで、あの少年を病院へ連れて来て良かった。――足の切断。
でも……。あいつは何も言わない。
美奈は、今朝どうしても気になって、あの公園へ寄ってみた。
そこでベンチに横になっている少年を見つけたのだ。
少年は苦しげに|呻《うめ》いて、ひどい熱だった。
美奈は迷った後、利根の所へ電話したのである。
少年――カールという名だそうだが、少年からそれ以上の話を聞くこともできず、緊急の手術になった。
身許引受人は、利根がなってくれた。
美奈は、学校を完全にサボるのもいやで、医師に任せて学校へ遅れて行った。
そして帰りに寄って、手術が無事にすんだと聞かされたところである。
――病室へはまだ戻らず、集中治療室で一日二日は過した方がいいということ。
美奈は、ガラス越しにあの少年カールが額にたてじわ[#「たてじわ」に傍点]を刻んでいるところを見ると、何だか少しホッとした。
あの子の本当のことを聞く日はいつか来るだろうか。
美奈は、そっと、
「また明日ね」
と言って、窓を離れた。
「――利根さん?」
と声をかけられて、
「はあ」
利根は、会社を出るところで、この後、説子と待ち合せている。
「国原といいます」
「刑事さん?」
「ゆうべのKホテルでの事件、ご存知ですね」
利根は|肯《うなず》いて、
「TVのニュースで見ました」
「女子大生が殺されたんです」
「気の毒でした」
「ゆうべ――Kホテルに泊っておいででしたね」
「ええ」
住所と名前、勤務先まで書いて来ているから、当然分るわけだ。
「事件の現場は、お隣の部屋だったんです」
利根も、それは知らなかった。
「本当ですか!」
「それで、何か変ったことに気付かなかったかと思いまして」
「さあ……」
利根は当惑した。
「むろん、あなたを疑うとか、そんなことじゃありません」
と、国原は言った。「それなら、あんなに正直に、住所や名前を書いて来ないでしょう」
「はあ……」
「お二人でしたね。もうお一人は?」
「婚約者です」
「それはそれは……。ちょっとお話をうかがいたいんですが」
「たぶん、彼女も何も気付いていないと思いますが……」
利根は国原へ、「今から待ち合せているので、どうぞ」
と促した。
――待ち合せた喫茶店で、説子は、利根が見知らぬ男と一緒なのでびっくりした。
刑事と聞いて、すぐに察しがつく。
「隣の部屋の事件ですね」
と、説子は言った。
「君、知ってたのか」
と、利根は言った。
「ええ。でも、わざわざ言うこともないと思って……」
「何か気付かれたことが……」
と、国原刑事が言った。
説子も、黙っているわけにいかなかった。
「――悲鳴を聞いたと思います」
説子の言葉に、利根の方がびっくりした。
「そのとき、男の顔を見たんですね」
と、国原が言った。
「一応。――でも、覗き穴のレンズを通してなので、大分デフォルメされています」
「しかし、特徴などは――」
「金髪でした。外国人です。横顔も、たぶんゲルマン系じゃないでしょうか」
と、説子は言った。「そのときは、大したことと思わなかったので……」
「当然ですよ」
と、国原は肯いて、「思い出せることは何でもおっしゃって下さい」
利根は口を挟んで、
「この説子は、人の顔や名前を決して忘れない人なんです」
「それはありがたい!」
国原は、手帳を手に張り切って身をのり出した。
「でも……ともかく一瞬のことだったので」
説子はじっと考え込んだ。
利根は、そんな厳しい説子の顔を初めて見たような気がした。
14 欲望の交錯
「いいかい?」
と、利根は念を押した。
今さら、妙なものだ。麻木説子は何度もここに泊りに来ているし、一か月後には式を挙げる予約も入れた。
そうなると、|却《かえ》って何だか遠慮してしまうのが面白いところである。
「――私も一緒にいたいわ」
と、説子は言って、微笑んだ。
二人は電車を降りて、利根のアパートへと向った。空気が湿っていて、雨の気配は二人の足どりを急がせた。
アパートへ着くまで、二人は専ら式のこと、披露宴のことばかり話していた。――一緒にいたいと思ったのは、他の理由からだが、夜道を歩きながら、二人ともそれ[#「それ」に傍点]を思い出したくはなかったのである。
――部屋へ入って、二人はやっと落ちついた。
「明日、同じ服で行かなくちゃ」
と、説子は言った。「何か言われそうね。私は平気だけど」
「いいじゃないか。もう式場の予約までしてある。みんなに知れ渡った方が、却ってやりやすい」
利根は、ネクタイを外し、息をつくと、「君に言い寄る奴もいなくなるだろうし」
「そんな人いないわ。いつもはねつけてやった」
と、説子は笑った。「――お風呂、入ってもいい?」
「うん。僕がお湯を入れるよ」
「私もこつ[#「こつ」に傍点]を呑み込んでるわ」
と、説子は止めて、「じゃ、先に入るわね」
「どうぞ」
利根は、説子がスーツを脱いでハンガーにかけ、シュミーズ姿でバスルームへ入って行くのを、何だか幻でも見るようにポカンとして眺めていた。
結婚か。――いざ、本当にその決心をすると、お風呂を使う説子の後ろ姿に、色気よりも、安心感を覚える。
今まで何度もここへ泊っているのに、その安心感は初めて知るものだった……。
それにしても――利根が見たトンネルでの|殺《さつ》|戮《りく》。そして二人の泊ったホテルの隣室で殺された女子大生。
まるで、俺たちが――いや、俺が[#「俺が」に傍点]血生ぐさい出来事を招き寄せているようだ。
そんなことを言えば、説子が全身を浸している幸せに水をさすことになってしまう。黙っていよう。
利根は、バスルームからお湯を入れる音が聞こえてくると、少しホッとした。
それは幻でも何でもない、「生活の音」だった……。
玄関のチャイムが鳴る。――利根は当惑した。
「――利根さん。いる?」
ドアを叩く音と一緒に、聞き慣れた声。
ああ、そうだ!
利根も、やっと思い出した。
玄関のドアを開けると、
「あ、もう帰ってた」
と、弓原美奈が言った。「今日はありがとう」
「その男の子、どうしたんだい?」
と、利根は|訊《き》いた。
「詳しく話すと長くなるの」
と、美奈は言った。「でも、手術がうまく行って、ちゃんと足は治るって」
「そうか。良かったな」
「うん。下手したら、足を切断するところだったって」
「ねえ、美奈ちゃん。お母さんにはちゃんと話をした?」
「詳しくは話してない」
と、美奈は目を伏せて、「本当はまだ全然」
「そうだろうと思った」
「今夜、ちゃんと話すわ。私も、あの子のこと、特別どうって思ってるわけじゃないの。カールっていうんだけど……」
「カール。――ドイツ人?」
「そうらしいわ。十二歳で、でも、一人ぼっちなのよ」
ドイツ人。――ドイツ。
どうして俺の周囲に、こんなことが続くんだ?
「しかし、その子のことは、ちゃんとどこかで面倒をみてもらわないとね。美奈ちゃんが、けがしてるその子を見かねて病院へ入れてやったことは正しいと思うよ。でも、それ以上のことは、君には無理だ」
「うん、分ってる」
と、美奈は|肯《うなず》いた。「でもね、一つ気になってるんだけど」
「何だい?」
「その子を捜してる人がいるの。やっぱりドイツ人で――」
と、美奈が言いかけたとき、バスルームのドアが開いて、説子が、
「ねえ、シャンプーの買い置きは――」
と言いかけて、美奈に気付いた。「あら……」
美奈と利根の話し声が、お湯を入れる音で聞こえていなかったのだ。美奈も、まさか説子がいると思っていなかった。しかも、説子が裸で現われるのを見てしまうとは……
「ごめんなさい!」
美奈は頭を下げて、「じゃ、帰る!」
止める間もなく、美奈は飛び出して行ってしまった。
駆けて行く足音が、廊下を遠ざかっていく。
「――びっくりさせちゃったわね」
と、説子が言った。「中にいると聞こえなくて……」
「うん、いいんだ」
利根は|鍵《かぎ》をかけて、「――シャンプー、君がいつも使ってるのは、鏡の戸棚の中に入ってるよ」
と言った。
あの子は、私に|嫉《しっ》|妬《と》してる。
バスルームのドアを閉め、説子は鼓動の高鳴りにしばらく聞き入っていた。
まさか、利根以外に誰かいるとは思ってもいなくて、驚いたのも事実だ。
しかし、それだけではなかった。利根は気付かなかったかもしれないが、あの美奈という少女の、説子を見る目には、鋭く刺すような嫉妬の矢が込められていたのだ。
確か――十七歳といったか。
十七歳といえば、男を本気で愛することもできる。少女であって、女でもある。
いや、もちろん利根はそんなことに気付いてもいないだろう。
――説子は、お湯を止めた。
急にバスルームの中が静かになる。
利根に言われた戸棚を開けると、本当に説子の使うシャンプーがあった。
そろそろなくなって来たからといって、ちゃんとこうして買っておいてくれる人など、めったにいるものではない。
利根のやさしさであり、同時に細かいことに気の付く、神経質な傾向の現れでもあるだろう。
説子は、戸棚の、表が鏡になっている扉を閉めようとして、ふと|眉《まゆ》を寄せた。
空いた棚に、ビニール袋に入った石のかけらが置かれている。――あの、野川という人の「お土産」の〈ベルリンの壁〉だ。
何か絵が描いてあったのか、黒い色に塗られたその壁のかけら……。
説子は、その袋を、そっと指でつまんで取り上げた……。
「どこに行ってたの!」
ドアを開けるなり、母親の声がぶつかって来た。
美奈は、
「ちょっと」
とだけ言って、ドアを閉め、ロックしてチェーンをかける。
「ちょっと、じゃ分らないでしょ。――利根さんの所?」
「うん」
美奈は居間へ入って、TVをつける。
「何の用だったの?」
「何でもない」
「何も用がないのに、行ってたの?」
「ほんの二、三分よ」
「でも……」
弓原栄江は、まだ帰宅したスーツ姿のままだった。「――心配なのよ、美奈のことが」
「大丈夫だったでしょ」
と、つき放すように言う。「邪魔してないわよ、そんなに」
栄江は何か言いかけたが、そのとき、ピピピと携帯電話が鳴り出して、急いでバッグから取り出した。
「――はい。――あ、マルティン。今日はご苦労様。――え?――うん、分ってるわ。ちゃんと書面にしておかないと……」
母の声が奥へ消える。
美奈は、TVのリモコンを握りしめて、指先がひっきりなしにチャンネルを変えていた。
母に、利根の部屋からどうして逃げるように戻って来たか、言いたくなかった。
カール少年のことも、オットーといった、あの妙な男のことも……。
今は、何も話したくない。
いや、今の美奈は、利根の所で見たものの衝撃に|堪《た》えるので精一杯だったのである。
「――馬鹿ね!」
と、口に出して|呟《つぶや》く。
あの説子という女の人が、しばしば利根の部屋に泊っていることは、美奈も知っていた。
彼女が泊れば、当然二人が一緒に寝るということも、分っていた。十七歳だ。自分で経験はなくても、何をするのかくらい、知っている。
でも、それは「見えない」限り、利根と関係ないと思うことができた。
自分自身が、両親の交わっているところを想像できないように、美奈は利根があの女性と愛し合っているさまを、思い浮かべることができなかった。
それが――バスルームのドアが開いて、あの説子という女が裸で現われるのを見て、美奈は突然利根が「男」だということに気付いたのだ。
利根さん……。
私だって――私も女なのに。
美奈は、自分が利根の部屋のバスルームから裸で当り前のように出てくるところを想像していた。
あそこにいるのが私だったら……。私だったら……。
「――いつもありがとう、マルティン」
栄江はベッドに腰をおろした。つい、疲れたように息をついていた。
「どうしたんですか?」
と、マルティンが訊いてくる。
「え?」
携帯電話で話しながら、栄江はスカートのホックを外し、ファスナーを下ろした。しめつける感じが消えて、楽になった。
「いや、疲れてるみたいだから」
「ああ……。いえ、今帰って、一息入れたところなの」
と、栄江は言った。「つい、ため息が出るのよ、もう若くないもの」
ブラウスのボタンを外して、今度はそっと息を吐いた。
「栄江さんは若いし、きれいです」
「まあ、ありがとう。誰か、本気でそう言ってくれる人がいるといいけど」
と、栄江は笑った。
「僕は本気です」
と、マルティンが言った。
「マルティン……」
「今――何してるんですか」
「座ってるわ。ベッドに」
「一人で?」
栄江は面食らって、
「もちろんよ!」
「今度――どこかへ旅行しませんか」
マルティンの誘いは、明らかに「恋人」としての言い方だった。栄江は、すぐには返事ができなかった。
「――もしもし?」
「聞いてるわ」
「怒っていますか」
「いいえ。でも……私は娘がいて、放っておいて旅行には出られないわ」
断っていることにならない。
それは分っていた。――マルティン自身を拒んでいるわけではない。
「旅に出られない」
ということは、つまり、
「旅でなければいい」
という意味になる。
「マルティン。あなたの気持は|嬉《うれ》しいけど、あなたは、もっと若い、すてきな女の子を見付けられるわ」
我ながら、つまらない言い方だった。
「栄江さんが僕を嫌いでないと分って、嬉しいですよ」
マルティンは明るく言った。「じゃあ、書類ができたら、連絡して下さい。取りに行きます」
「ええ、分ったわ。――マルティン」
「何ですか?」
「ありがとう……」
そう言いながら、ベッドから立ち上って、スカートを足下に落とす。
まるで、今マルティンに抱かれようとしているかのようだった。
「――早いね」
利根は、バスルームのドアの開くのを見て、言った。
説子が、体にバスタオルを巻いて立っている。――まだ入っていないことはすぐに分った。
「どうかしたのか?」
「見て」
説子が右手を広げて差し出す。
「けがしたのか?」
びっくりして利根が立ち上る。
「違うわ」
と首を振って、「でも、やはりこれ、血に[#「血に」に傍点]見える?」
右のてのひらが赤く染っている。
「うん……。けがじゃないのか」
「これ[#「これ」に傍点]よ」
右手に、ビニールの小さな袋を下げている。
「それって、……野川の――」
「ええ、〈ベルリンの壁〉よ。それを今、手に持ったら、こうなったの」
「何だって?」
利根は、説子の左手から、かけらの入ったビニール袋を受け取って、「――何てことだ」
と言った。
ビニール袋の底に、血らしい紅色の液体がたまっている。
「この黒い壁、黒じゃなくて、本当は血が乾いてるんじゃない?」
もしかすると……。
「君、このかけらに水をかけてみたのか?」
「違うわ! 何もしてない」
と、説子は強く首を振った。
「それじゃ……」
「このかけらから、血がにじみ出て来たのよ」
「今になって? そんなことが――」
「事実だわ」
説子はじっと利根を見つめて言った。
「ねえ、これ[#「これ」に傍点]を捨てて」
利根は一瞬、言葉を失った。
「捨ててしまいましょうよ。縁起でもないわ。今ごろこんな物をくれるなんて。友だちがそんなことをするなんて変よ」
説子の言い分はもっともだった。
しかし――それは野川の「形見」かもしれないのだ。
「お願い」
説子はくり返した。
「――分った」
利根は、ゆっくりと肯いた。「分ったよ」
15 オットー
「起きてるんでしょ」
と、美奈は言った。「分るわよ、タヌキ寝入りしても。――『タヌキ寝入り』って、分んないか」
「知ってるよ」
と、目を開けて、少年が言った。
「ほら、起きてた」
と、美奈は笑って言った。
少年もちょっと笑った。――珍しいことだった。
「痛い?」
美奈は、学生|鞄《かばん》を床へ置いて、ベッドのわきの椅子に腰をかけた。
カール少年がこの病院で手術を受けてから、三日たっている。経過は良好で、今日からカールは普通の病室へ移されていた。
「少し」
カールは包帯でグルグル巻きにされ、ベルトで吊られた片足を眺めて、「動けないって、いやだ」
「仕方ないでしょ。ちゃんと治しておかないと」
カールは、ふしぎそうに美奈を見た。
「どうして入院させたりしたんだ?」
「放っとけなかっただけよ。――ねえ、あなた、日本に知り合いとか|親《しん》|戚《せき》とか、いないの?」
学校の帰り、美奈はこうして毎日病院に立ち寄っていたが、普通の病室へ移って、やっと話ができる状態になったのである。
「いたら、あんなことしてない」
と、カールはぶっきらぼうに言った。
「でも、誰か……。あなた、オットーって人、知ってる?」
その名を聞いたとたん、カール少年の顔に激しい怒りが浮かんだ。
「知ってるのね」
――美奈はびっくりしていた。
「オットーがどうしたんだ?」
「あなたのこと、捜してたのよ、あのスーパーの近くで」
「それで?」
「何だか怪しい人みたいだったから、話さなかった。――あの人は何なの?」
カールは、青ざめた顔をこわばらせて、
「知らない方がいいよ」
と言った。
「だって、会って話もしたのよ。向うが私の言ってることを信用してるかどうかも分らないし。何かあるのなら、話してよ」
カールは、じっと天井を見上げて、
「知らない方がいいよ」
と言った。
「どうして?」
と、美奈は|訊《き》いたが、カールは答えなかった。「――ねえ、どうして?」
「知らない方がいいんだ」
カールは、そうくり返した。
――美奈は、病院を出た。
なぜか、あのカールのことが気にかかっている。
しかし、これ以上美奈にできることはないのだ。利根が名前を出してくれているから、やはり利根に何とかしてもらうしかないだろう。
今夜、利根の所へ行ってみよう。美奈はそう決心した。
バス停でバスを待っていると、携帯電話が鳴った。
「――もしもし」
「美奈? お母さんよ。今、どこ?」
「うん、外……だよ」
「出かけてるの?」
「学校の帰りに、友だちのお見舞に、病院へ寄ったの」
母には何も話していなかった。
「そう。お母さん、食事の約束ができたから、少し遅くなるわ」
「うん、分った」
「何か買って帰って、食べててね。ごめんなさい」
「大丈夫だよ」
と、美奈は言った。「もう十七だよ」
「そうね」
栄江は笑って、「じゃ、気を付けてね」
「はい」
美奈はホッと息をつく。――この分だと、母の帰りはかなり遅いだろう。
今夜、利根の帰宅が早いといいのだけれど……。
栄江は席に戻った。
「――今夜、大丈夫よ」
そう言って、栄江の顔が赤く染る。
「ありがとう。無理を言ってすまない」
マルティンが栄江の手を取る。
「いいえ」
栄江は首を振った。「ちゃんと納得してのことですもの。――後悔しないわ」
この三日間、忙しかった。
マルティンとも、電話で話すだけ。
そんな状況が、|却《かえ》って栄江に一歩を踏み出させた。
今日は仕事をやりくりして、この時間から後を空け、会っているのである。
「でも、遅くなっても帰らないと」
と、栄江は言った。
「分ってる。じゃあ……出ようか」
マルティンが促す。
ホテルのバー。まだ夕方なので、客は少ない。
「このホテルの部屋を取った」
と、マルティンがウエイターを呼んで支払いをしながら、言った。
「まあ、高かったでしょう」
「あなたを、安っぽいホテルへ連れていくわけにいかない」
「もったいないわ。あなた一人でも泊ってね」
つい現実的な言い方をしてしまう栄江だった。
「食事は後で?」
「部屋で取ってもいいわ」
「それがいい。――ありがとう」
マルティンはつり銭を受け取ると、立ち上った。
二人はバーを出て、エレベーターへと向った。
「マルティン」
と呼び止める声がした。
栄江は足を止めて、少し年輩のドイツ人らしい男がやってくるのを見た。
「――お知り合い?」
マルティンはなぜか固い表情で、ドイツ語で早口に何か言った。
二人は握手している。
「ドイツにいたころの友人です」
と、マルティンは言った。「オットーといって……」
「オットー・リンデンといいます」
と、その男は達者な日本語で、「マルティンとは一緒に暮したこともあります」
「まあ、日本語がお上手ですね。――弓原栄江です」
オットーという男は、栄江の手を取って、軽く|会釈《えしゃく》した。
がっしりした体つきのその男は、マルティンとは大分タイプが違って見えた。
マルティンがドイツ語でオットーに何か言うと、オットーの方はニヤリと笑って、
「マルティンが、『大切な仕事の打ち合せがある』と言っていますが、本当ですか?」
と、栄江の方を見る。
「オットー!」
マルティンは怒ったように言った。
「邪魔はしません。――では、いずれ、また」
オットーは栄江に向って会釈すると、立ち去った。
「――ぶしつけな奴で、すみません」
マルティンは、栄江に言った。
「いえ、そんなことはないけど……。久しぶりなんでしょ? いいの?」
「大丈夫。必要ならいつでも捜せます」
マルティンは栄江の肩を抱いて、「今夜はあなたのことしか考えたくない」
と言った。
栄江は|頬《ほお》を染めると、
「じゃ、まずエレベーターのボタンを押さないと、部屋へ行けないわ」
と言った。
マルティンが笑ってボタンに指を触れた。
「ごめんなさい」
と、説子は言った。「今日はこのまま帰るわ。頭痛がして、早くやすみたいの」
「風邪ひいたのかな」
「大丈夫。一晩寝れば」
説子は、表の公衆電話から会社へかけていた。――仕事で外出し、そのまま早退することにして、利根へ連絡しているのだ。
「明日は、予定通り、式場へ行きましょう」
「そうしよう。じゃ、僕も今日は少し頑張って仕事を片付けて帰るよ」
「無理しないでね」
と、説子は言った。「それじゃ……」
――電話を切って、説子は振り返った。
利根のいる公団住宅が見える。
説子は、足早に、その棟へと向った。
エレベーターで三階へ上る。
利根の部屋の|鍵《かぎ》は持っている。説子は、鍵をあけ、素早く部屋の中へ入った。
――もう、ここの空気になじんでいる自分。
それは、自分の部屋へ入ったような|安《あん》|堵《ど》感を、説子に与えた。
しかし――その「安心感」に影を落としているものがある。
説子は、部屋へ上ると、コートを脱いで、まずバスルームへと足を向けた。
あの棚には、もうあの〈壁のかけら〉はなかった。――利根も、同じ所にそのまま置いてはおくまい。
では、どこにやったか。
説子は、利根から、
「あの〈壁のかけら〉は処分したよ」
と聞かされた。
しかし、説子は直感的に察していた。利根はあの〈壁のかけら〉を捨てたりしないだろう、と。
旧友からもらったという点を別にしても、あの〈壁のかけら〉から、何かふしぎなことが起っている。――説子は、利根が自分の経験したいくつもの奇妙な出来事を、すべて平気で忘れ去れるような人間でないことを、よく知っている。
むしろ、そういう利根を愛しているとも言えるだろう。
でも――あれ[#「あれ」に傍点]はあまりに危険だ。説子は、あれが自分と利根の幸せをおびやかすことになると思っていた。
見付けて、ひそかに処分してしまおう。――利根にはあくまで黙っていよう。
説子は、バスルームの中から捜し始めた……。
一人で外食というと、高校生ではどうしてもハンバーガーやフライドチキンになる。
美奈は、駅前につい最近オープンしたお弁当屋さんに寄って、好きなお弁当と、サラダを買った。持って帰って家で食べた方がいい。
こういうお弁当も、今は競争が激しいのでなかなかおいしいのである。
美奈がアパートへ着いたときには、もう辺りはずいぶん暗くなっていた。日一日と、夜の訪れが早くなる季節だ。
「――あの人」
足を止めたのは、自分の棟から、急ぎ足で出て来たのが、利根の「彼女」だったからだ。
麻木説子。――しかし、何だか様子がおかしい。
こんな早い時間に、利根が帰宅しているのだろうか?
説子は、出て来たのだ。もう帰るところなのだろうか?
帰るのなら、当然美奈と出くわすことになるのに、なぜか説子は逆の方向へと歩いて行った。
美奈は、後を|尾《つ》けてみることにした。
手にさげたお弁当の袋がガサガサと音をたてるので、あまり近付くわけにはいかないのだが、この団地の中はよく分っている。
少し離れて、美奈は説子を尾行して行った……。
説子は、団地の奥の方へと入って行き、〈中央公園〉と住人が呼んでいる、広い公園の中へと足早に消えた。
暗くなると、公園にはほとんど人がいない。
美奈は駆け足になって、公園の中を少し上から見渡せる場所へと急いだ。
公園で時間を|潰《つぶ》している母親を捜したりするとき、みんなここへ来て中を見渡すのである。
公園自体が、中央に池があって、少し低い位置に作られているのだ。
美奈は息を弾ませて、説子の姿を捜した。
すぐに、池の辺りを歩いている説子の姿が目に入った。――むろん、見られているとは思ってもいない。
説子は、|人《ひと》|気《け》がないのを何度も確かめるように、キョロキョロと見回している。
何をしているんだろう?
説子がバッグを開け、何かを取り出した。小さくて何なのか分らないが、それを説子は力一杯池に向って放り投げたのである。
池の真中辺りに小さな水柱が立ち、タポッという音が、美奈の耳にも聞こえて来た。
説子がハンカチで手をしつこく|拭《ふ》いている。そして、走るように公園から出て行ってしまった。
美奈は、説子が通りかかったタクシーを停め、乗って行くのを見送った。
アパートへ戻るわけではないのだ。
今の様子から見て、説子は利根の部屋へ留守中に入り、何かを持ち出して捨てたのだろう。
美奈は、公園の中へ入ってみた。
もちろん、池は大きくて、真中辺りは深いので、何が捨てられたか、知りようもないのだが、それでも説子が立った辺りまで行ってみた。
池の面はもう黒くかげって静かだった。
――何を捨てたんだろう?
他の女の手紙とか、写真とか……。そんなものなら、池に捨てないで破るか焼くかすればいいのだ。
ともかく、美奈は説子の秘密――利根に知られてはたぶん困ることを見たのだと思って、満足していた。
「帰ろう……」
と、|呟《つぶや》いて池から離れかけたとき、ふと池で水音がした。
振り向くと――池の中から何かが飛び出して来た。
妙な言い方だが、そうとしか見えない。
何かが空中高く、放物線を描いて飛んで来ると、美奈の二、三メートル先の道へ落ちたのである。
――美奈は|呆《あっ》|気《け》に取られた。
今のは何? まるで見えない手が投げ返しでもしたようだった。
道へかがみ込んで見ると、落ちていたのは小さなビニール袋で、中に石のかけらのようなものが入っている。
そっと拾い上げてみると、袋の中から、池の水がこぼれ落ちる。中には、黒い色をした石――いや四角くて薄い、かけらのような物が入っている。
これを、説子は捨てたのだろうか。
美奈は少し迷ったが、袋の中の水を切って、それからティッシュペーパーにくるんで、鞄の外側のポケットへと入れたのだった……。
16 面 影
「まあ、若くて回復力がありますから」
と、医師が言った。「しかし、ひと月は入院しないと。途中で無理に動かすと、骨が真直ぐつながらないことがあります」
「分りました」
利根は医師に礼を言って、「知人から預かった子で、あまりよく知らないのですが」
「ま、おとなしくしてますよ、今は」
と、医師は笑って、「我慢強いことは確かですね」
利根は、残業していて、この病院から電話をもらったのである。
美奈に頼まれて名前を出している以上、放ってもおけない。
少し早めに残業を切り上げ、この病院へやって来たところだ。
――病室の奥のベッドで、少年が雑誌をめくっていた。
「失礼」
と、利根は声をかけた。「カール君だね。僕は利根というんだ」
少年が利根を見る。
とても十二歳とは思えない。大人の目をしていた。相手をまず「敵か味方か」に分類する目。
しかし、利根はその少年を見て、なぜか胸をつかれる思いがした。
どこかで、この目[#「この目」に傍点]を見たことがある、と思ったのである。
「美奈ちゃんと同じアパートにいてね」
と、椅子にかけて言った。「君の手術のとき、誰かが君の身許引受人にならなきゃいけないんで、頼まれたんだ」
「知ってます」
と、少年は言った。「どうもありがとう」
「いやいや、別に大したことじゃない。しかし……君、一人なのか?」
「|訊《き》かないで」
と、カール少年は言った。「僕のことは放っといて」
「そういうわけにもいかないだろ。――誰か身寄りがあれば、呼んであげるよ」
「誰もいません」
と、カールは天井を見上げた。
「ご両親は?」
「死んじゃった」
「お二人とも?――事故か何かで?」
カールはしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと、
「パパは捕まって、どこかで処刑されたって。でも、どこなのか今でも分らない」
「分らない?」
「まだ、ドイツが一つになる前だったから」
利根は、座り直した。
「つまり――君のご両親は東ドイツにいたんだね」
「うん」
「そして、政府ににらまれるようなことをした……」
「馬鹿みたいだ」
と、カールが言った。「あと二、三年、うまくやって生きてたら、殺されることなんかなかったのに」
「そうだな……。でも、誰も、あんなことが起るなんて思わなかったんだよ。ベルリンの壁が一夜で壊されるなんて……」
カールの目から急に涙が|溢《あふ》れた。
「――ごめんよ。何か悪いことを言ったかな?」
と、利根はあわてて言った。
「そうじゃないの」
カールは、両手を固く握りしめて、「ママが……」
「お母さん?」
「ママは……あそこ[#「あそこ」に傍点]で死んだんだ」
「――あそこって?」
「〈壁〉だよ」
「ベルリンの壁?」
「うん。――西へ逃げようとして、撃ち殺されたんだ」
利根の顔から血の気がひいた。
カール少年に残る面影。それは、あの目の前で射殺されてしまった、あの女のものだった……。
「ハルト!」
突然、マルティンがそう叫んで、眠りかけていた栄江はハッと目を覚ました。
「マルティン?――マルティン」
マルティンがガバッと起き上った。
「――大丈夫?」
栄江は毛布を胸まで引張って、上体を起した。
マルティンは肩で大きく息をつくと、
「僕は何か言った?」
と、訊いた。
「たぶん……ドイツ語でしょ。夢でも見てた?」
栄江はマルティンの広い背中に手を当てた。
「汗かいてるわ」
「ええ……。びっくりさせて、ごめん」
マルティンは金髪をかき上げた。
「いいのよ。私も、眠っちゃうところだったわ」
と、栄江は言って時計へ目をやった。
「九時だわ。――シャワーを浴びて、仕度する」
マルティンは栄江の方へ向くと、肩をつかんで抱き寄せた。
「マルティン……。もう……」
唇をふさがれ、栄江は軽く身震いした。
――時間を忘れてしまいそうだった。
マルティンに抱かれながら、しばしば栄江は、もうこのままどうなってもいい、という気持になった。
これほど、自分が快感に|溺《おぼ》れたことはないような気がした。
「もう行かないと。美奈が待ってるわ」
言葉は弱々しかった。
「もう娘さんは子供じゃない。一人でも大丈夫だよ」
「でも――」
「泊って行こう。朝まで、こうして離れずにいよう」
力強い腕に抱きすくめられ、押し倒されてしまうと、栄江はもう拒むことはできなかった。
マルティンの重み[#「重み」に傍点]が、栄江の中から美奈の姿を消してしまった……。
だが――部屋の電話が鳴り出して、二人の間へ割り込んだ。
「――誰かしら」
「待って」
マルティンは|苛《いら》|々《いら》と手を伸し、電話を取った。「もしもし」
栄江は、大きく息をついた。
――これ以上はだめだわ。戻れなくなってしまう。
マルティンが低い声でしゃべっている。ドイツ語だった。
マルティンは、難しい顔で受話器を戻した。
「――さっきの方? オットーっていったかしら」
マルティンは|肯《うなず》いて、
「どうしても話があると言って……。すみません」
「いいえ。また会えるわ」
と、栄江は自分からマルティンにキスして、「先にシャワーを使うわ」
「ええ、どうぞ」
栄江は、バスローブをまとってベッドを出ると、バスルームへと入った。
鏡の中を|覗《のぞ》いて、栄江は驚いた。――これが自分だろうか?
まるで二十歳そこそこの恋する娘のように、顔を上気させ、ごく自然に笑みの浮かぶ自分の姿があった……。
バーの奥に、オットーの重そうな姿があった。
「――いくらでも待つぞ」
オットーがグラスを上げる。
「大きな声を出すな」
マルティンは、苦々しげに座った。
「ドイツ語でしゃべってりゃ、誰にも分らないさ」
マルティンは、カクテルを注文して、
「連絡しない約束だ」
と言った。
「分ってる。しかし、食べていかなくちゃな。そうだろう?」
オットーは真顔になって、「――妙なことが起ってる」
と言った。
「何のことだ」
「あのトンネルのことが、|噂《うわさ》になってるんだ。今はまだ、ほんの何人かのことだが、広まると、ジャーナリズムが取り上げるかもしれない。分るか?」
「――もう終ったことだ」
と、マルティンは目をそらした。
「そうはいかない。僕たちは同罪さ。あのトンネルで、ずいぶん稼いだんだ」
マルティンは、じっとグラスを見つめて、
「金なら、あんたにやるほど持っていない」
と言った。
「ああ。分ってる。お前は偉い。よく努力して、ここまでやって来た。ドイツ民族の誇りさ」
「やめてくれ」
と、首を振る。「もう――何もかも忘れたいんだ。あそこでのことは」
「忘れられるもんか」
と、オットーは苦笑した。
「忘れようとしてる」
「女と寝てか。女は知ってるのか、お前が東ベルリンで何をしてたか」
マルティンはオットーをにらんで、
「彼女には何の関係もないんだ。手を出すな!」
「分ってるとも。俺の捜してるのは、あのトンネルのことを知ってる連中だ」
マルティンは目をみはって、
「オットー……。何をやろうっていうんだ?」
「もう、やってるんだ」
オットーは言った。「これが俺の仕事さ」
上着をめくって、オットーは肩から下げたホルスターの拳銃をチラリと覗かせた。
マルティンは青ざめて、
「俺には関係ない!」
と、立ち上り、「もう近付くな!」
と叩きつけるように言って、バーから大股に出て行った。
美奈は、利根の部屋へ行ってみようと思った。
母から電話があったばかりで、三十分は戻って来ないだろう。
急いで部屋を出ると、エレベーターで三階へと下りる。
五階から三階だから、階段でもいいのだが、階段はよく電球が切れていて、暗くて足もとが危い。
「帰っててくれるといいけど……」
と、エレベーターの中で|呟《つぶや》いた。
三階に着き、美奈は廊下へと出たが――。
「――何、これ?」
そこは、暗く、じめじめとした空気の充ちた、見たこともないトンネルの中だった……。
17 罠
こんな……。
こんなことって、ある?
美奈は、たった今、自分が降りて来たエレベーターの方を振り返ったが、そこにはただ暗いトンネルが闇の中へと延びているばかり。
「これって、何なの?」
まるで夢の中へ迷い込んでしまったかのよう。
今、私はエレベーターで三階へ下りて来た。そして、扉が開いて……。
眠っているのか。でも、このひんやりと湿った空気は何だろう? そしてこの長いトンネルはどこへ通じているのだろう。
美奈は何度も頭を振り、目をこすった。でも――自分はどこかへ「迷い込んで」しまったのだ。
「どうしよう……」
と、美奈は途方に暮れていた。
トンネルはかなりの長さがあるようだが、前も後も闇に閉ざされてよく見えない。今、自分のいる辺りが見えているのも、ふしぎだった。
そのときになって、半円形のトンネルの壁が地面に接する辺りに、小さな火が燃えていて、その光がぼんやりと周囲を照らしていることに気付いた。
そして――物音がした。
気のせいかと思ったが、人の話し声らしいものは少しずつ近付いてくる。
そして、ゆるくカーブしているトンネルの濡れた壁に、照明がチラチラと動いて見えて来た。
誰か来た!
しかし、美奈には、その誰かに助けを求めていいものか、見当がつかない。
話し声は外国人――ドイツ語らしい。それに日本語も混った。
何人かの足音が近付いて来て、壁に人影が揺れる。
美奈は、ほとんど本能的にトンネルの先の暗がりへと逃げるように進んで行った。
トンネルが真直ぐなら、すぐにやって来た誰かの照明に|捉《とら》えられるだろうが、目も慣れて、進んで行くとトンネルは右へ左へと曲りくねって、後ろから見られないようにするのは難しくなかった。
――声が響いて、日本語は聞き取れるようになって来た。
「どうしてトンネルは真直ぐじゃないのか、と|訊《き》いてる」
と、男の声。
どうやら、誰かの質問を通訳しているらしい。
「西へ本当に向ってるのか、分らなくなるんだろう。大丈夫。曲っているのは、地下に色んなものが通っていて――地下鉄、ガス管、水道管とかね。そういうものをよけて掘ってあるので、こうなっている」
「ヤアヤア」
と、男は納得した様子で言って、それを何語にか通訳していた。
「ともかく、これだけのものを掘るのは大変だった。高いと思うだろうが、分ってほしい……」
美奈はギクリとして足を止めた。
目の前に、男が立っていた。兵士だ。手には黒光りする機関銃。
ゾッとして、言葉も出ない。だが――男は美奈を全く見ないで、やって来る人々の方をうかがっていた。
私は見えないんだ……。
やっぱり夢なのか、と美奈は思った。
ホッとしてもいたが、これがただの「夢」でないことも分っていた。
トンネルをやって来た一行のライトが兵士を照らし出した。
その瞬間、人々の間にパニックが起った。地面に伏せる者、逃げ出そうとする者、両手を組んで、神に祈っているらしい者……。
七、八人のその一行は、年齢もまちまちだった。女性も二人いる。
「大丈夫だ!」
案内して来た男が叫んだ。「落ちついて! 味方だ!」
通訳の男が何度も同じ言葉をくり返して、やっと騒ぎはおさまった。
「心配ない。この兵士は我々の仲間だ」
案内しているのは、どう見ても日本人ではない。しかし日本語は達者だった。
通訳をしているのは日本人らしく、他のメンバーにあれこれと話しかけている。ドイツ語ではないようだ。
でも――このトンネルは何なのだろう?
美奈は、その場にいながら、誰にも見られていないという奇妙な感覚に、なかなか慣れることができなかった。
「大丈夫だと言ってやってくれ」
「言ってる。しかし|怯《おび》えてるんだ。分るだろう」
「分ってる。――紹介しよう」
案内役の大柄な外国人は、機関銃を構えた兵士のそばへ歩み寄って、その肩を抱いた。
「私の部下で、信頼できる男だ。マルティン[#「マルティン」に傍点]という」
――マルティン。
美奈はその名を聞いてハッとした。
母が仕事でよく連絡を取っているドイツ人が、確かマルティンだった。
いや――もちろん「マルティン」という名は一人ではないだろう。偶然ということはあり得る。
その兵士が微笑んで、|会釈《えしゃく》すると、今にも逃げ出しそうにしていた人々は少し|安《あん》|堵《ど》の表情を見せた。
「当日もこのマルティンがトンネルを案内する。|憶《おぼ》えておいてくれ」
きれいな日本語で説明している男。――その男は軍服こそ着ていないが、やはり兵士らしい雰囲気があった。
そして、その男はマルティンという兵士と何か話し始めた。ドイツ語だろう。
その案内役の男のドイツ語を聞いていて、ふと美奈はこの男の声をどこかで聞いたことがある、と思った。――どこだったろう?
マルティンがしきりに身振りを混えて、トンネルの先の方を指さし、何か説明している。
「ヤア」
と、案内役の男は|肯《うなず》き、「みんなに言ってくれ。トンネルの出口辺りで今日は道路工事をしている。大勢が行き来しているので、これ以上先へ行くのは危険だ、と」
通訳が翻訳してしゃべると、一行の間に、ちょっと戸惑いがあったが、互いに少し声をかけ合っただけで、一番年長の紳士が通訳に何か言った。
「――結構だと。工事は夜もあるのか、と訊いている」
「夜はやらない。日没になれば、事実上終りだ。しかし、用心に越したことはない。実行は夜中にしたい」
その返事に、一行は納得した様子だった。
「この先、百メートルほどでトンネルの出口だ。――心配ない。そこを出れば、もうみんな自由だ」
その言葉が訳されると、不安と怯えの表情を浮かべていた人々の顔に、笑いが浮かんだ。それは、わけも分らずに眺めていた美奈でさえ心打たれるほど、長い苦しみの後に喜びを見出した人の笑顔だった……。
「では、戻ろう。――各自、持って行く物だけをまとめておいてくれ。くれぐれも言うが、荷物になる物は、どんなに惜しくても置いて行け。持っていたオルゴールが突然鳴り出したら、おしまいだ」
案内役の言葉に、誰もが神妙に肯く。
「私はマルティンと今夜のことを打ち合せていく。先に戻っていてくれ」
通訳の日本人が、その人々を促してトンネルを戻って行く。
美奈は、もし[#「もし」に傍点]これが夢でないとしたら何だろう、と思った。
トンネル。――自由。
これはもしかすると、どこかの国境を越えるトンネルなのかもしれない。
すると、あの人たちは脱出を希望していて、それをこの男とマルティンが案内して逃がしてやっている、というところか。
通訳していた日本人らしい男は誰だろうか?
人々が戻って行く。
そして残った二人が話し始めた。
何だか、空気が変ったような、そんな印象を美奈は受けた。
案内役の男が笑った。いやな笑いだった。
そして、それを見たとき、美奈はその男をどこで見たか、思い出した。
その男は――ずっと若く、そしてまだそう太っていないが、あのカール少年を捜していた男、オットー[#「オットー」に傍点]だ。
そのつもりになって聞いていると、二人の早口の話の中に、マルティンが呼びかけている、「オットー」という名が聞き取れた。
これがあの「オットー」なら、やはり兵士の方も、母の知っているマルティンかもしれない。
オットーは、マルティンに向って説得しようとしている。何を?
マルティンがためらいがちに肯いて、オットーは上機嫌でマルティンの肩を抱いた。
二人はトンネルを、何か話しながら戻って行く。
――美奈は、しばらくその場に立っていた。
美奈は一人になると、またひんやりとしたトンネル内の冷たい風に身震いした。
夢にしては、あまりに現実らしい。でも、こんな見たことも聞いたこともないことを夢に見るだろうか。
ふと――好奇心が頭をもたげた。
この先、百メートルほど。
オットーはそう言ったが――。
美奈はトンネルを先の方へと進んでみることにした。
滴り落ちる水、そして足下のぬかるみ。
たぶん、四、五十メートル進んで、美奈は当惑した。
トンネルはそこだけ広くなっていた。しかし、そこでトンネルは「おしまい」だった。行き止りなのだ。
これは一体……。
もしかすると、ここが出口か? どこか外へ出る穴が隠してあるのだろうか。
ゆっくり見て回ると、隅に泥をかぶっているマンホールの口らしいものがあった。
少し足先で泥をのけてみると、確かによく見かける、丸いマンホールのふた[#「ふた」に傍点]である。
これが出口[#「出口」に傍点]?
とてもそうは思えない。地上へ出ようというのになぜ足下から?
美奈は、ためしにそのふたを引張ってみたが、全く歯が立たない。
手に泥がこびりついている。
美奈は、戻ろうとして何かを踏んだ。
泥にまみれたそれ[#「それ」に傍点]を拾い上げる。
それは、小さなぬいぐるみの熊だった。
一つの手が取れてしまっている。
逃げようとする人たちの中に、小さな子供がいたのかもしれない。その子がこのぬいぐるみを抱いていたとしたら……。
その子に何が起きたのだろう?
ぬいぐるみの真丸な目を見ていると、何かふしぎな悲しさに捉えられた。
そして――突然トンネルの中は闇に閉ざされ、一寸先も分らなくなった。
急に恐怖が襲って来て、
「誰か来て!」
と、美奈は叫んだ。
不意に足下が崩れるようで、美奈の体は闇の底へと呑み込まれて行った。
18 少女の肌
タクシーを降りて、栄江は息をついた。
「さあ……。現実に戻らなきゃ」
自分が毎日暮している棟を見上げると、ふと後悔の思いが|湧《わ》く。
マルティンに抱かれたことへの後悔ではなく、こうして一人で帰って来たことへの後悔である。
マルティンがオットーに会いに行っても、そのまま部屋で待っていれば良かったのだ。
マルティンは、戻って来て、また愛してくれただろう。
栄江は、何年も男と縁のなかった自分の体が、たった一度の交わりで、こんなにもマルティンの体になじんでしまっていることに驚いた。
マルティンを愛している。――きっと、そうなのだ。
でも……。
マルティンにとってはどうだろう。栄江はもう四十で、若くはない。仕事の上のパートナーと、気が向いて寝てみた、というだけなのかもしれない。
西洋の男性はすぐに「愛してる」「すてきだ」と言う。
それは一種の社交辞礼なのだ。
いや、そんなに自分を|卑《ひ》|下《げ》することはない。
マルティンも寂しいのだ。どういう事情でドイツを出て来たのか分らないが――。
マルティン……。
栄江は、もしマルティンと再婚すると言ったら、美奈はどう思うだろう、と思った。
「――弓原さん」
気付かなかった。利根がやって来るところだったのである。
「利根さん」
「どうしたんです?」
「え?」
「いや、何だかずっと立ったまま動かないので、何か……」
そうか。タクシーを降りて、建物の中へ入らないまま、立っていたのだ。
どれくらいボーッと立っていたのだろう?
|頬《ほお》を染めて、
「何でもありません。つい、考えごとをしていて……」
「そうですか。いや、具合でも良くないのかと……」
「いえ、そんなんじゃないんです」
と、あわてて首を振って、「入りましょう」
「ええ」
利根も、考えごとをしながら歩いて来たのだが、栄江はもちろんそんなことには全く気付かなかった。
「美奈ちゃんは、もう先に?」
と、利根がエレベーターを呼ぶボタンを押した。
「ええ。何か適当に食べてると言って……。仕事で忙しくて、夕ご飯を作れないことが多いんです」
「仕方ありませんよ。美奈ちゃんも、ちゃんと分ってる」
「ええ……。ありがたいと思っています」
エレベーターが下りて来て、扉が開く。
栄江と利根は声もなく立ちすくむことになった。
エレベーターの床に、泥だらけになってうずくまっている美奈を見ていたのである。
「美奈。――美奈」
栄江が必死で冷え切った手をさすり続けている。
「お湯が入りました」
と、利根が声をかけた。「僕が運んで行きます。後はよろしく」
「申しわけありません」
栄江の声が震える。
利根は、美奈を抱えて部屋へ運んで来た。
そして、体が冷え切っているので、お風呂のバスタブにお湯を一杯に入れたのである。
「さあ、タオルを何枚か用意して下さい」
「はい!」
美奈は気を失っていた。
脈拍は正常に打っていたが、体は長いこと冷たい川にでも入っていたように、冷え切っていた。
利根はベッドから美奈の体を抱え上げた。
もう十七歳である。決して軽くはないし、ぐったりしているので、特に重く感じる。
しかし、何とか踏んばって、お風呂場まで運んで行った。
「すみません……」
栄江は震えていた。
「一人で入れられますか?」
「私……たぶん……」
栄江は青ざめていた。「利根さん、入れてやって下さい」
「分りました」
利根としては、美奈が後でどう思うか心配だったが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
脱衣カゴのそばに美奈を座らせ、洗面台によりかからせると、利根は泥で汚れた美奈の服を脱がせて行った。
「――これは?」
美奈の左手が、汚れた熊のぬいぐるみをしっかりつかんでいる。
「ぬいぐるみですか」
「片手の取れた熊だ。美奈君のですか」
「違うと思います」
ぬいぐるみを取り上げようとしても、固く握って離そうとしない。
「無理にとるのはやめましょう。シャツを破っていいですか? ハサミがあれば」
「はい!」
栄江がすぐにハサミを取ってくる。
利根はシャツを切って、やっと脱がせた。
栄江の方が目を伏せている。
母親の気持は分る。――泥だらけでうずくまっていた、あの様子は、美奈が暴漢に襲われ、乱暴されたと思えるものだった。
下着や、肌を見るのが怖い。――栄江がそう思っても当然だった。
しかし――利根は、美奈のブラジャーを外し、
「大丈夫のようですよ」
と言った。「汚れていないし、傷もない。たぶん……」
上半身の白い肌はまぶしいほどに利根の目を射た。
「スカートもいいですか」
「ええ」
利根はスカートを引張って抜き取った。
足は泥で汚れていたが、太腿には汚れはない。
「大丈夫ですよ」
利根の声にもホッとした響きがあった。「傷一つない。何かされていたら、こんなことはあり得ませんよ」
「はい!」
栄江は床に|膝《ひざ》をついた。
「じゃあ……後で黙ってて下さいね」
利根はわざと冗談めかして言うと、美奈の下着を脱がせた。
「お風呂へ入れます。よくこすってあげて下さい」
「はい……」
栄江は涙を|拭《ぬぐ》った。
利根は、全裸にした美奈を抱き上げると、浴室へ入り、バスタブの中へ何とか体を沈めた。
お湯が|溢《あふ》れ、利根の方もワイシャツからズボンまでびしょ濡れになってしまう。
「――これでいい。さあ、後はよろしく」
「ありがとうございます」
栄江は中へ入って来て、「――利根さん」
「何か……。あ、もちろん、誰にも言いませんよ、このことは。美奈ちゃんの話を聞かないと分らないことですしね」
「いえ、そうじゃないんです」
「というと?」
「私――今夜、ホテルで男と寝ていたんです」
と、栄江は言った。「相手はマルティンというドイツ人で、仕事のパートナーです」
「いつぞやレストランで見かけた人ですね」
「そうです。彼に誘われて、拒めなかったんです」
栄江はバスタブのそばに膝をつくと、タオルでお湯の中の美奈の体をさすり始めた。
「それはしかし……あなたは大人なんですから」
「私……美奈がひどい目[#「ひどい目」に傍点]に遭ったとしたら。そのとき、自分はマルティンに抱かれていたんだと思うと……。自分が許せなかったでしょう」
「ご自分を責めちゃいけません。それに、美奈ちゃんは大丈夫ですよ」
「ええ……。救われました、私。でも――もうやはり二度と……」
お湯の中で、美奈が深く息を吐いた。
意識が戻りそうだ。――利根は、
「自分の部屋へ戻ります。着替えたりして、後でまた来てみましょう」
と言った。
「ありがとうございました!」
利根が浴室を出て、濡れた靴下を脱いでいると――。
急に、美奈が言った。はっきりとした口調で。
「マルティン!」
栄江の手が止った。
何が起ったのか。
――利根は、部屋へ戻り、濡れた服を脱いで、そのまま熱いシャワーを浴びた。
利根の目に、美奈の白い裸身が焼きついて消えない。
「しっかりしろ!」
と、鏡の中の自分に向って言った。
そして着替えると、無理にでも、今の状況をつかもうとした。
そうしないと、また美奈の体のことを思い出してしまいそうになったのだ。
ドイツだ。
|鍵《かぎ》は「ドイツ」にある。
それも、「一つのドイツ」に統一される前、東西に分れていたころのドイツ。
野川が――死んだ後に?――くれた、あの〈ベルリンの壁〉。
すべてはあれから始まったのではないか。
射殺されたあの女が、カール少年の母だとすると、あのとき、利根の目の前で起ったのは、実はベルリンの壁で起ったことだったのかもしれない。
そして、あのふしぎなトンネルでの光景。
弓原栄江の恋した男がドイツ人のマルティン。そして、美奈は、意識が戻らない内に、
「マルティン!」
と叫んだ。
――栄江にとってはショックだったろう。
やはり美奈が、母とマルティンのことを知って、責めているかと思えただろう。
しかし、そうではないように、利根には思えた。
美奈は利根に恋している。母の恋にまで気が回るまい。
そうだ。もう一つ。美奈が握りしめていた、あのぬいぐるみの熊。――美奈をバスタブに入れて、利根はあのぬいぐるみにぬいつけられていたタッグを見た。
〈シュタイフ〉。――ドイツの有名なぬいぐるみのメーカーである。
しっかりと作られた、そのぬいぐるみは、親から子の代へと受け継がれると言われている。
その片方の手が取れていた。何か、よほどの力がもぎ取って行ったのだろう。
電話が鳴って、出てみると、弓原栄江からだった。
「――色々ありがとうございました」
と栄江は言った。
「いや。どうですか、美奈ちゃんは?」
「ええ、何でも夢を見たようとか……。今は疲れたのか、ぐっすり眠ってるんです」
「それは良かった。眠らせてやって下さい」
「はい」
「明日でもまた、お寄りしますよ」
と、利根は言った。
「よろしく。――私も明日は仕事をキャンセルしました」
「そうですか。しかし……」
「あの子がマルティンの名を呼んだときは、心臓が止るかと思いました」
「詳しいことを|訊《き》いてみますよ、僕から」
「はい……。ありがとうございます」
栄江は電話を切った。
きっと、栄江はもう二度とマルティンに抱かれないだろう。
マルティンか……。
利根は、お湯をわかしながら、あのレストランで見た金髪の、いかにもドイツ人らしい男を思い出した。
そして連想作用のように、説子と泊ったホテルの隣の部屋で殺された女子大生のことを思い出した。
説子は、「金髪の、ドイツ人風の」男だと言った。
ここでも「ドイツ」か。
利根は、明日美奈の話を聞きに行こうと思った。会社は遅れて行ってもいい。
あの、泥だらけの美奈の姿に、利根はあの幻のトンネルのことを思い出していた。
そして――突然思い出した。
あのトンネルの中で見かけた、機関銃を持った兵士。
どこかで見たような気がしていた。
あれは――年齢は若いが、あのレストランにいた、「マルティン」だ……。
19 殺しの標的
ドアを開けたのは、意外なことに美奈当人だった。
「やあ、起きてもいいの?」
と、利根は言った。「心配で寄ってみたんだ」
「上って」
美奈は、寝ていた風でもなかった。
「お母さんは?」
と、利根が|訊《き》くと、
「仕事に行った」
と、美奈はポットのお湯でお茶をいれながら言った。
「仕事? 今日は休むと――」
「私が行かせたの。大丈夫だからって」
「そうか」
「フリーの立場でキャンセルなんてしたら、後で困るもの」
美奈はしっかりした口調で言って、「――どうぞ」
と、お茶を出す。
「ありがとう。ゆうべのことは――」
「私のこと、利根さんが運んでくれたのね。ありがとう」
「いや……。当り前だよ」
「服を脱がすのも?」
利根はやや焦って、
「それは――お母さんがしたんだ。僕は君を運んだだけ。本当だよ!」
美奈はちょっと笑って、
「ちゃんと聞いたもの。|凄《すご》く困った顔してたって」
「そりゃあね……。君に万一のことがあっちゃいけないっていうんで、それでね。――分るだろう?」
「分ってるわ」
美奈はそう言って、「でも、私の体を見て、何か感じた? はっきり言って」
「それは――」
「言って」
と、美奈が利根を見つめる。
「――重かった」
困った|挙《あげ》|句《く》にそう言うと、美奈はふき出してしまった。
「笑うなよ」
と言いつつ、利根も笑っている。
これで、妙な緊張がほぐれた。
利根はお茶をひと口飲んで、TVの上の熊のぬいぐるみを見た。
「あれ、君が昨日持ってたんだね」
「ええ」
「どこで見付けたの?」
美奈は、
「トンネルの中で」
と言った。
利根はじっと美奈を見つめた。
「君も[#「君も」に傍点]入ったのか、トンネルに」
「――うん」
「話してくれ」
利根は座り直した。
美奈の話を聞く間、利根は何も言わなかった。「それで?」と促しもしなかった。
美奈が自分のペースで話し終えるのを、じっと待っていたのである。
――話が終ってから、しばらく二人とも何も言わなかった。
「お茶、さめた?」
と、美奈が言って、「いれかえるね」
と立ち上る。
何か動作が――日常の当り前の動作が必要だったのだ。
「利根さんは、いつトンネルに入ったの?」
と、美奈が訊く。
「うん……。この間、結婚式の打ち合せをしててね」
利根は、しかしあのトンネルの中の出来事を話したくなかった。
「――話して」
「うん……。しかし、美奈ちゃん。君は知らない方がいい」
「そんなのないよ!」
と、抗議して、「話してくれなかったら、利根さんに乱暴されたって訴える」
「おい……」
と、利根はため息をついた。「分ったよ」
――利根の話を聞いて、美奈はさすがに青ざめた。
「何だったの、あれって?」
「君の話と僕のとをつなげてみると、分ってくるだろう」
と、利根は言った。「ドイツが東と西に分れていたとき、大勢の人が東から西へ逃亡しようとして、殺された」
「教科書で読んだわ」
「たぶん、あのトンネルは、東側の地下にある。きっと、何か目的があって掘られて、途中で放置されたトンネルじゃないかな」
「わざわざ掘ったんじゃないのね」
「あれだけのものを掘ろうとしたら、容易じゃないよ。――きっと、あのトンネルを見た誰かが思い付いたんだ。『西側へ脱出できるトンネルだ』と|騙《だま》して、脱出したい人から高い料金を――いや、ほとんどの財産を取り上げたんだ」
「でも、トンネルは行き止りになってる」
「そこまで、脱出しようとする人を連れて行き――皆殺しにしたんだろう」
と、利根は首を振って、「きっと軍部の上の方の誰かが絡んでいただろう。そして、何人かの兵士にその仕事[#「仕事」に傍点]をやらせていた」
「あのマンホール……」
「死体をそこへ捨てていたのかもしれない」
「うん……。じゃ、あのぬいぐるみは……」
「持っていた子供は殺されたんだろう。ぬいぐるみだけが、泥の中に残った」
美奈はしばらく何も言わなかった。
「――その日本語の通訳がついていたグループっていうのは、きっとドイツ人じゃなくて、他の国から来た人たちだ。ドイツ語が分らなくて、たまたま日本人にオットーという日本語の上手な軍人との通訳をしてもらった」
「あの人たちも殺されたのかな」
「たぶんね」
利根は、少し迷ってから、「君のお母さんの仕事仲間のマルティンというドイツ人も、そのとき、加わっていたんだ」
「恋人でしょ、お母さんの」
「知ってるの?」
「電話で話す調子で分るよ。自分でも恋してるとね」
「そうか……。オットーというのは上官だったらしいな」
「オットーはあのカールを捜してるんだ」
と、思い出して、「病院にいるから、大丈夫だろうけど」
「分らないな。――君、オットーも見てるんだね、日本で」
「うん」
「オットーは、殺し屋かもしれない」
「殺し屋?」
「もう、ドイツが一つになって、そんな事件は過去になった。でも、殺された人の知人や親類で、おかしいと思う人間が出て来たんだろう。調査されて、そんなトンネルを利用しての大量の殺人があったなんて、もし知れたら、ただではすまない」
「マルティンやオットーも」
「それで、トンネルのことを知っていた人間を口ふさぎのために殺して行った。僕の知人も、きっとそうだ。オットーは日本語ができるんで、日本へ送られて来たんだろう」
「マルティンも?」
「それは分らない」
と、利根は言った。
「怖いね」
と言って、美奈はちょっと身震いした。
「お金のために、そんなことまでするの?」
「一度やってしまえば、後は段々慣れて、何も感じなくなっていくんだろうな。それに、兵士にとっては、『上官の命令でやってる』という言いわけができる」
利根はそう言って、「今のこと、お母さんには……」
「話してない」
「そうか。――僕と君はあのトンネルに入っているが、他の人たちに話しても、分ってくれるとは思えない。はっきりした証拠が出ればともかく、今はまだ黙っていた方がいい」
「うん」
美奈は|肯《うなず》いて、「でも、もし本当にマルティンが大勢の人を射殺したんだったら、お母さんの彼氏でいてほしくない」
「分るよ。しかし、たぶんお母さんはもうマルティンと仕事以外のことでは付合わないと思うよ」
微妙な問題で、美奈もそれ以上は言わなかった。
「しかし、分らないのは、どうして美奈ちゃんがトンネルへ入りこんだのか、だな。君、何か――たとえばカール少年から何かもらったりしたかい?」
「何も」
と、美奈は言った。
「そうか。――僕にもよく分らないけれど、このふしぎな世界へ引き込まれるのは、何かのきっかけがいるようなんだ。しかし、美奈ちゃんの場合、それは何だったのか……」
「利根さんは?」
「うん……。ある日、昔の友人がひょっこりやって来てね。ドイツ帰りのそいつが、みやげにくれたのが、〈ベルリンの壁〉のかけらだった」
「〈ベルリンの壁〉……」
「それをもらってから、すべては始まった。僕はそう思ってるんだ」
「じゃ……あのトンネル以外にも、何かあったのね」
「うん……。僕は、あのカールという子の母親が射殺されるのを見ていたんだ」
――利根は何もかも話をした。
美奈に話して聞かせていいものかどうか、迷いはあったが、今さら一つ二つの事実を隠してどうなるものでもない。
美奈は息すら殺して聞き入っていたが、
「――そのペンダントって、まだ持ってるの?」
「ここにある」
と、上着の内ポケットから取り出し、「あの子に見せようと思ってる」
「見せて」
美奈は受け取ると、中の写真を見て、「カールだね」
「たぶんね」
と、利根は肯いた。「カールを、オットーが捜してるんだね。入院先を調べることはできるだろう。今から行ってみる」
「私も!」
と、美奈は立ち上った。
美奈を巻き込むのは気が進まなかったが、今さら来るなとも言えない。
「危いことがあったら、すぐ逃げるんだよ、僕に構わず。いいね?」
と、一応念を押して、しかし気休めでしかない。
「待っててね」
美奈はすぐに着替えて出て来た。
「じゃ、出かけよう」
と、利根は促した。
美奈は、迷っていた。
あれ[#「あれ」に傍点]は〈ベルリンの壁〉のかけらだったのだ。
利根はそれが自分の部屋にあると思っているだろう。
でも――見たことを利根に告げるのは、ためらわれた。
説子が持ち出して捨てたのだということ。――利根にそれを言うと、説子への|妬《ねた》みから言うようで、美奈自身もいやだった。
黙っていよう。いつか、自然と分る時が来るかもしれない。
それまでは……。
「じゃ、出かけよう。――学校は?」
利根は初めて気付いた。
「今日は休むって連絡してある」
「そうか」
「利根さんと出歩いてるとこを見られたら、まずいな」
と、美奈は笑って見せた。
20 逃 走
「じゃ、今後の予定はそういうことで」
と、栄江は出版の担当者に言った。「よろしくお願いします」
「ご苦労さん」
と、もうベテランのその中年の編集者は|肯《うなず》いて、「期限を守ってくれるんで助かるよ」
「それが|取《と》り|柄《え》ですもの」
と、栄江は微笑んだ。「それに、マルティンがよくやってくれます」
「うん、確かにね」
栄江の傍に、マルティンがおとなしく控えている。体は大きいのに、あまり目立たないのがふしぎだった。
「この間、カラオケで歌った、君の演歌は大評判だったぞ」
と、編集者に言われて、
「恐れ入ります」
と、マルティンは少し照れている。
「じゃ、これで――」
と、栄江が立とうとすると、
「そうだ。待っててくれないか」
「何かご用が?」
「一つね、面白そうな本があってね、詳しいところはよく分らないんで、ザッと読んでみてほしい。いけたら、翻訳したいんだ。今、取ってくる」
「はい」
新しい仕事につながるかもしれない。言われる通りにするしかなかった。
応接室で、マルティンと二人になる。
「――今日はどうしたんだ?」
と、マルティンが言った。
「どう、って?」
「今日の約束を延ばすって言って来たから、心配したよ。何かあったのかと思って」
「娘がね――ちょっと具合悪くて。それで出るのやめようと思ったのよ」
「それで?」
「でも、娘が『大丈夫だから、行って』って言うの。『約束を断っちゃだめだよ』って」
と、微笑んで、「子供の方が、ちゃんとしてるわ」
「そうか……」
マルティンが手をのばして、栄江の手をつかむ。それを、力をこめて振り切り、
「だめよ」
「今夜、ぜひ――」
「もうだめ」
「――どういう意味?」
「昨日のことは、いい思い出にして。でも二度とあんなことはないわ」
マルティンは言葉を失った。
「誤解しないでね。あなたが悪いんじゃないの。でも、私には仕事がある、美奈がいるの。あなたと、いつまでも続けてはいけないのよ」
「よく分らない。――何がまずいんだ?」
「さあ……。でも、このままだと、何かとんでもないことが起りそうな気がするの」
「とんでもないこと……」
マルティンもまた、考え込んでしまう。
「分るでしょ? 仕事の上では、いいパートナーでいたいけど。でも、あなたがそんなことできないと言うのなら、仕方ないわ。あなたの自由にして」
マルティンは、しばらく黙っていたが、
「僕は、あなたの役に立つ間は、そばにいる」
と言った。「もし――僕のせいで、あなたに危険なことがあるようなら、去ります」
「危険なこと?」
と、マルティンを見て、「何があるっていうの?」
「僕にも分らない。ただ――昔の幽霊が、僕を追いかけてくる」
マルティンは真顔で言った。
「昔の幽霊?」
「そう……。僕がドイツにいたころの……。あの東ドイツの、暗い夜の中にいたころの幽霊だ」
「それって、何のこと?」
「いや……。いいんだ。忘れてくれ」
マルティンは、何か思い詰めた表情をしていた。
栄江が何か言いかけたとき、ドアが開いて、分厚い原書を手にした編集者が入って来た。
「――今、検査中です」
看護婦にそう言われて、
「長くかかりそうですか」
と、利根は|訊《き》いた。
「たぶん、二、三十分ですむと思いますけどね」
「どうも……」
利根は、ホッと息をついた。
病室を|覗《のぞ》いて、カール少年のベッドに誰もいないのを見て、一瞬ドキッとしたのである。
「美奈ちゃん。僕はちょっと会社へ電話してくる。ここにいてくれるかい?」
「うん」
「すぐ戻るよ」
利根は病室を出た。
美奈は、カールのベッドのそばの椅子に腰をおろした。
ともかく、まだカールは無事なのだ。
「――あんた、あの子の友だちかい?」
隣のベッドのおじさんが言った。
「え……。まあ、そうです」
向うは友だちと思っていないだろうけど。
「あの子、どこの国の子?」
「ドイツ人ですよ」
と、美奈は言った。
「ドイツか! てっきりイギリス辺りかと思ってた」
と、そのおじさんは言った。「じゃ、見舞に来てた、でかいのもドイツ人か」
美奈はふと、
「でかいの、って……。大柄な男の人ですか、頭の|禿《は》げた」
「うん、そうそう。でも日本語が上手でね」
美奈は血の気のひくのを感じた。
「その男の人……いつごろここへ?」
「ついさっきさ。やっぱり、検査って言われて、出てったよ」
――オットーだ!
オットーが来ている。今、この病院の中にいる。
美奈は立ち上って病室から出た。
利根はまだ戻って来ない。いや、行ったばかりだ。すぐには戻らないだろう。
「電話……。どこだろ」
近くでかけようとするだろう。
美奈は急いで廊下を歩いて行った。
少し引込んだ格好で休憩所があり、当然電話がありそうだ。
覗いてみると、二台の公衆電話は、どっちも入院患者が使っていた。
きっと利根もここを覗いて行っただろう。
美奈は、他にないかと歩き出した。
そのとたん、わきから出て来た誰かとぶつかって、美奈は尻もちをついてしまった。
「ああ、こりゃごめん」
大きな体が、目の前にあった。
「――大丈夫かい?」
と、手を引いて立たせてくれる。
オットーは、美奈を見て、
「やあ、君はあのときの……」
「どうも」
と、美奈は言った。
「カールに会いに来たのか?」
「え……。そうですけど……」
「今、検査だと言ってたよ」
「聞きました」
「座って待ってようじゃないか」
「あの……ちょっと電話をかけるんで……」
「電話? そこにあったよ」
「使ってるんです。他の階へ行ってみます。どうも」
急いでオットーから離れる。
階段まで来て振り向くと、オットーの姿はなかった。
「どうしよう」
もし、カールが検査から戻って来たら……。
美奈は、必死で利根の姿を捜したが、見付からない。
――カールのいる病室が見える所まで戻って、オットーがどこかにいないか様子をうかがう。
しかし、忙しく人の行き来する廊下は、いくらオットーが大きいとはいえ、いくらでも姿を隠せる場所だった。
美奈は、汗がにじみ出てくるのを感じて、てのひらをスカートで|拭《ぬぐ》った。
マルティンの携帯電話が鳴った。
「――何だろう」
栄江と二人で、出版社のビルを出ようとしているときだった。
「もしもし」
と、マルティンは言って、顔がこわばった。
ドイツ語になり、栄江から離れて、ロビーの隅へ行く。
オットーという男だろう。――マルティンの反応が、どこかまともでないものを感じさせて、栄江には気になった。
押し殺した声でしゃべっている。
内容は分らないが、口調からは|苛《いら》|立《だ》ちと腹立たしさが感じられた。
押し問答の末、マルティンが折れたらしい。
深いため息が出て、電話をしまうと、
「――申しわけない。急な用事で」
「いいわよ。ここでの用がすんだんだから」
「また電話する」
「ええ」
マルティンは、足早にビルを出て、一瞬タクシーを拾おうとしたが、道の渋滞を見て、地下鉄の入口へと急いだ。
マルティン……。
ゆうべ、なぜ美奈は「マルティン」と言ったのだろう?
母とマルティンの付合いに怒って、というのとはどこか違う気がする。
栄江は、ほとんど反射的に駆け出していた。そして、地下鉄の入口へと走って行ったのだ……。
早く。――早く戻って来て。
美奈は、祈るような思いで、廊下の端に立っていた。
オットーの姿も見えないが、どこかにいる。美奈は直感的にそう思っていた。
利根が戻らないので、不安にもなってくる。もしかしてオットーが……。
でも、まさか!
こんなに人がいるんだもの。まさか、こんな所で人を射殺したりしないだろう。
「――あのカールって子を待ってるのよね」
と、通りがかった看護婦が声をかけてくれる。
「はい」
「今、検査終ったから、そのエレベーターで上ってくるわ」
「ありがとう……」
美奈はエレベーターの扉の前に行って立った。
少し待つと、チーンと音がして、扉がガラガラと開く。
ストレッチャーにのせられたカールがいた。
すぐに美奈に気付いて、手を上げる。
「やあ」
と、美奈は手を振った。
ストレッチャーがエレベーターから押し出されて来る。
「いつ来た?」
と、カールが訊く。
「さっき。――検査の方は? |辛《つら》かった?」
「大したことないよ」
と、カールは強がった。
「待ってね」
看護婦がナースステーションへと小走りに急ぐ。
「カール」
美奈はカールの方へ身をかがめ、「オットーがいる」
カールが驚いて、
「どこに?」
「分らないの。でも、きっとどこかに……」
オットーがやって来る。
どこにいたのか、大股に真直ぐやって来る。
「逃げろ!」
と、カールは言った。
美奈は、エレベーターの扉が開くのを見た。医者が数人、出てくる。
――とっさのことで、ほとんど体の方が先に動いていた。
美奈は、扉が閉ろうとしたとき、力をこめて、カールの乗ったストレッチャーを押した。
ガラガラと車輪が音をたて、ストレッチャーがエレベーターの中へ入ると、扉が閉じた。
オットーが、一瞬足を止め、|唖《あ》|然《ぜん》として美奈を見た。
美奈は駆け出した。
「待て!」
オットーが追って来る。
美奈は、〈非常口〉と示されたドアを開け、飛び込んだ。
「――キャッ!」
足をとられ、危うく転びそうになる。
美奈は息をのんだ。
そこは――あのトンネルだった。
また[#「また」に傍点]来てしまった!
立ちつくす美奈の前に――突然、オットーが現われたのだ。
美奈を追って、あのドアから入ったのだろう。
オットーは、自分がどこにいるのか、わけが分らずキョロキョロしていた。
しかし――すぐに気が付く。そのはず[#「はず」に傍点]だ。
「何だ、これは!」
オットーの右手は拳銃を持っている。
「トンネルよ」
と、美奈は言った。「|憶《おぼ》えてるでしょ! あなたが人を沢山殺したトンネルよ!」
オットーは怒るよりも混乱している様子である。
「どういうことだ!」
オットーの額には汗が光っていた。
21 幽 霊
パタッ。
冷たい滴が首筋に落ちて来て、美奈は、
「キャッ!」
と悲鳴を上げた。
「黙れ!」
オットーが怒鳴る。
美奈は、じっとオットーと向い合ってトンネルの中に立っていた。
「――どうなってるんだ」
オットーは、トンネルの中をゆっくりと見回した。
「|憶《おぼ》えてるんでしょ」
と、美奈は言った。「このトンネルで何があったのか」
オットーは、美奈をじっと見つめて、
「お前がやったのか?」
「私が? 私が知ってるわけないじゃない。私の生れる前のことよ」
「それなら、どうしてここにいるんだ」
「分らないわ」
と、美奈は言った。「ただ、前にも一度、ここへ迷い込んだの」
「迷い込んだ?」
「ええ」
「このトンネルは……。だが、こんな馬鹿な!」
「私、見たわ、あなたを」
オットーがギクリとして、
「俺を?」
「ええ。もっと若くて、軍服を着て」
「――それから」
「マルティンと二人で、どこかの国の人たちを案内して来たわ。通訳をしている日本人がいて」
オットーは、やっとこれが何かのトリックではないと納得したようだった。
「過去へ迷い込んだのか? 俺たちは、どうなるんだ」
「分らないわ。――これ[#「これ」に傍点]がいつのトンネルなのか、知らないもの」
「お前は前にも来たと言ったな。どうやって戻った?」
「真暗になって、気絶したの。目が覚めたら、戻ってたのよ」
オットーは拳銃を上着の下へしまうと、
「奥へ行こう」
と言った。
「どうして?」
「外へ出る口がある。――ここがどの辺か分らないが」
「でも、外へ出ても、いつ[#「いつ」に傍点]の時代か分らないじゃない」
「ああ……。しかし、こんな所に突っ立っているよりましだ」
「でも――」
「黙って!」
オットーが小声で、「聞こえるか」
と言った。
トンネルの、塗り込められたような静寂の奥から、少しずつ、ざわめくような物音が聞こえて来た。
「人の声だわ」
「近付いてくる」
オットーは背後を振り向き、「あっちから来るな。先へ行こう」
美奈は、逆らわずにオットーについてトンネルを歩き出した。
追われるように、二人の足どりは、少しずつ速くなる。それでも、背後の声が近付く方が速いようだった。
「急げ」
「そんなこと――」
「急ぐんだ!」
足下で泥がはねた。美奈は思い切り転んで、泥だらけになったが、立ち上って、すぐに歩きだした。
「もうすぐだ」
オットーが言った。
トンネルが明るくなった。
あの[#「あの」に傍点]行き止りに来た。美奈は息を弾ませていた。
「――出口って?」
「待て」
オットーが足を運んだのは、あのぬいぐるみの落ちていた隅だった。
「これを開けると、出口がある」
「マンホールなのに?」
「下へ降りる途中、横穴があって、そこから地上へ出る穴へ通じてるんだ」
オットーはマンホールのふたを引張ったが、それは固く閉じて、動かなかった。
「――畜生! どうして開かないんだ!」
オットーの顔は汗で光っていた。
「来るよ」
と、美奈が言った。
人の声が、すぐ近くまで来ていた。
オットーは必死でマンホールのふたを引張っていた。それはかすかにきしみながら、少しずつ持ち上り始めていた。
「前のときは、誰も私のいることに気付かなかったわ」
と、美奈は言った。「今もきっと――」
「あれ[#「あれ」に傍点]はおかしい」
と、オットーが言った。
「おかしいって」
「このトンネルの中じゃ、みんなしゃべったりしない。黙々と歩いているはずだ。――おい、お前も引張れ!」
美奈も仕方なくオットーと一緒にふたを引張った。徐々にではあるが、ふたが開く。異様な匂いが鼻をついた。
ふたが完全に開き切らない内に、その人たち[#「その人たち」に傍点]がやって来た。
美奈は、自分が悪い夢を見ているような気がした。――そこへやって来たのは、「過去の人たち」ではなかった。
「――あれは何だ!」
と、オットーが真青になって、震えている。
老人がいた。女が、子供がいた。何十人いるんだろう?
しかし――誰一人として、「生きて」いなかった。
老人の白い顔は半分銃で吹っ飛んでいた。赤ん坊を抱いた女は血だらけで、胸のど真中に銃弾の貫通した穴が黒々と口を開けている。
そして、小さな男の子も、こめかみに銃口を押し当てて撃ったのだろう、血がどす黒く固まっていた。
誰もが白い顔に笑みを浮かべていて、ワイシャツやブラウスを血で染めていた。
この世のものではない。――美奈はあまりに|凄《せい》|惨《さん》な光景に、恐怖すら感じられずに立ちすくんでいた。
見えないんだ。向うからは私のことが見えないんだ。――美奈は自分にそう言い聞かせた。
しかし――その人たちが急に話をやめた。
それは、どう見てもオットーと美奈の二人に気付いたせいだったのだ。
人々は、しばらく黙って二人の方を探るように見ていたが……。
「オットー!」
と、一人が言って、みんな一斉に、
「オットー!」
「オットー!」
と、口々に叫び始めた。
その声には怒りがこめられていた。
「見えてるんだわ」
と、美奈は言った。「こっちへ来る」
オットーは、開きかけたマンホールのふたを、全身の力で引張った。ふたがパッと開いて、オットーが弾みで尻もちをついた。
「オットー!」
死者たち[#「死者たち」に傍点]が、激しい怒りの声を上げながらやって来る。
「来るな! 畜生!」
オットーが立ち上り、拳銃を抜いて、彼らに向けて撃った。
「死んでるんだよ、もう! むだだよ」
と、美奈は叫んだ。
「中へ入れ!――急げ!」
オットーにせかされて、美奈はマンホールの中へ入って行った。目の回るような匂い。――真直ぐの穴を下りて行くための、細いはしごがある。美奈はそれを下り始めた。
「早く行け!」
オットーが美奈の頭上へ下りて来る。美奈はあわてて急ごうとして、足を踏み外してしまった。
悲鳴を上げる。しかし、美奈の叫び声は、もうマンホールまでやって来ていた死者たちの怒りの声に、かき消されてしまった。
オットーがどんどん降りて来る。そして、手を踏まれそうになった美奈は、思わずはしごから手を離してしまっていた。
声を上げる間もなく、暗いたて穴を、美奈は落ちて行った。
ガラガラと音がして、
「美奈ちゃん!」
ハッと顔を上げると、利根がエレベーターの前に立っていた。
「利根さん!」
「立てるか?」
利根に支えられて、美奈は立ち上ると、エレベーターを出た。カールの入院している病院だ。――戻って来た!
利根は美奈を廊下の隅へ連れて行くと、泥のついた美奈の服を見て、
「また行った[#「行った」に傍点]んだね」
と|訊《き》く。
「オットーが、カールを殺しに来たの」
と、美奈はその後に起ったことを、利根に話して聞かせた。
「じゃ――その『死んだ人間たち』がオットーを襲おうとしたのか」
「私のことも、 はっきり分ってたわ。 オットーがどうしたのか分らないけど……。 カールは大丈夫?」
「うん、大丈夫だ。カールからオットーと君のことを聞いて、心配で捜してた」
「あの人たち……。幽霊だとしても、ふしぎじゃないわね」
と、美奈は言った。「もし捕まってたら、オットーは……」
「仕方ない。我々にはどうすることもできないよ」
と、利根は言った。
「でも……こんなことがいつまで続くの?」
「分らないよ。あのトンネルで殺された人たちの魂が慰められるまでは――罪が償われるまでは、無理かもしれない」
美奈にも、彼ら[#「彼ら」に傍点]の怒りと恨みはよく分った。もちろん美奈は何も|係《かかわ》りのないことだが――。
そのとき、病院の廊下をやって来たのは、金髪の外国人で、利根はそれを見て、
「マルティンだ」
と言った。
その声を聞きつけたらしい。マルティンが利根と美奈の方へとやって来る。
「マルティンさんね」
と、美奈は言った。「私、弓原栄江の娘です」
「ああ、美奈ちゃんだね」
「ここへはなぜ?」
と訊かれて、マルティンはちょっとためらった。
「オットーに呼ばれたんでしょ」
美奈の言葉に、マルティンは目をみはった。
「どうしてそれを――」
「オットーはね、今、〈トンネル〉の中にいるわ」
「何だって?」
「まあ、今ここで話をしても分らないだろう」
と、利根は言った。「ともかく、僕も、この美奈ちゃんも、ある事情から、昔、東ドイツのトンネルの中で起ったことを知っている、とだけ言っておこう」
マルティンが一瞬真青になった。
「マルティンさん」
と、美奈が言った。「あのトンネルの中で、あなたも罪のない人たちを|騙《だま》して、殺したんですか」
マルティンは答えなかった。ただ固い表情で、美奈を見ている。
「もしそうなら」
と、美奈は続けて言った。「母とは付合わないで。母はあなたのことを愛してるかもしれないけど、でも、過去のことは知らないわ。もし知ったら、きっと苦しむと思うの。母のことを好きなら、黙って別れて下さい」
マルティンが、しばらくしてから口を開きかけたときだった。
廊下に悲鳴が響き渡った。
看護婦が、廊下に座り込んで、立てずにいる。利根たちも駆けつけた。
「どうしました?」
「エレベーター……」
と、看護婦はガタガタ震えながら目の前のエレベーターを指さす。
「エレベーターがどうしたんです?」
と、利根が訊くと、
「エレベーターの中……」
「中?」
利根はボタンを押した。
エレベーターの扉が開く。――|覗《のぞ》いた美奈が、声も上げられず、よろけた。
マルティンは中を覗き見ると、|唖《あ》|然《ぜん》とした。
そこには――バラバラにされたオットーがいた。
頭が床をゆっくりと転り、両腕、両足、胴体が、どれも|凄《すご》い力でねじ切られたように、ちぎれて打ち捨てられていた。
「オットー……」
と、マルティンが言った。
「復讐[#「復讐」に傍点]だわ」
と言って、美奈は大きく息をつくと、利根の手を思わず握りしめていた……。
22 〈壁〉
屋上を風が吹き抜けて行った。
「仕方なかったんだ」
と、マルティンはくり返した。「上官に逆らえばどうなったか……。特に、あんな公務とは無縁の|金《かね》|儲《もう》けだ。みんな、口をつぐんで分け前を受け取っていた」
屋上には他に人影がなかった。
利根と美奈は、マルティンが〈トンネル〉での仕事について認めるのを、黙って聞いていた。
「だが、後悔したよ」
と、マルティンは続けた。「いつも悪い夢を見て、うなされる。今でも、しばしば起きてしまう。――どうしてあんなことができたのか、言いわけのしようがないよ。でも、何人もでやっていると、その内、大して苦痛に感じなくなるんだ……」
美奈は、しかしマルティンを許す気になれなかった。
「でも、お金を受け取ってたんでしょ?」
「まあね」
「じゃ、やっぱりいやだ」
と、美奈は挑みかかるように言った。「もうお母さんに会わないで」
「美奈君。君が腹を立てるのは当然だ。しかしね、あの〈トンネル〉の仕事には、日本人が一枚かんでいるんだ」
と、マルティンが言った。
「それは誰だ?」
と、利根は|訊《き》いた。
「名前は知らないが、我々の間では、ただ〈日本人〉と呼んでいた。元はといえば、歴史の研究に来ていて、あの〈トンネル〉を調べた。そのとき、案内した士官に、その日本人が、あのアイデアを出した、と聞いた」
「あの人かな……。どこか、ドイツ人じゃない人たちを案内して来てた……」
「君、見たのか」
「うん」
「では、用心することだ。オットーは、その男に雇われていたんだと思う」
「人殺しを?」
マルティンは|肯《うなず》いて、
「兵士にとって、何ができる? 特にオットーのような、生え抜きの軍人にとっては、東西ドイツの統一は決して|嬉《うれ》しいことじゃなかった」
「そうだろうな」
と、利根は肯いた。
「特別の権力を持っていて、ワイロも取れる兵士にとっては、統一は失業だ。しかも、就職口はない。オットーは、頼まれるままに、あの〈トンネル〉のことを知っている人間を消して行った……」
「そのオットーは、復讐を受けた。見たろう? 君も、いつ彼らに復讐されるか分らないよ」
「甘受するよ、運命は」
と、マルティンは言った。「しかし、美奈ちゃん。君のお母さんへの気持は本当だ」
美奈も、風に吹かれて乱れる髪を直そうともせず、マルティンの視線を受け止めていた。
「――分ったわ」
と、美奈は肯いた。「でも、お母さんに危険が及ぶかもしれないでしょ。やっぱりお母さんから離れていて」
「うん……」
「マルティン」
と、利根は言った。「オットー以外にも殺しを請け負っていた人間はいたのか」
「オットーは何も言っていなかった。僕も誘われたが、断った」
「もう一つ教えてくれ」
と、利根は言った。「オットーがこの病院で殺そうとしていたカールという少年のことだ」
「カール?」
マルティンは|眉《まゆ》を寄せて、「アンナの息子のことか? この病院に?」
「アンナというのか、母親は」
「うん。――その〈日本人〉の知人だった。いや、友人の恋人だったと思う」
「その友人というのは、日本人か」
「そうだ。アンナと一緒にいるのを見かけたことがある」
と、マルティンは言った。
「アンナは死んだ。――そうだね?」
「ああ……。不運だった。ベルリンの壁を越えようとして発見され、射殺された」
「撃ったのは君か、オットーじゃないのか」
「とんでもない!――僕じゃない」
「じゃ、誰がやった?」
マルティンは、少しためらってから、
「僕自身が直接見たわけじゃないが、仲間の兵士が見ていたらしい。――撃ったのは、例の〈日本人〉だったとね」
「何だって?」
「どういう事情かは知らないが、そう聞いたよ」
「そうか……」
利根は肯いた。「そうだったのか」
「もう行っていいか」
と、マルティンが訊く。「オットーが死んで、ともかくホッとした」
「あんな死に方でも?」
と、美奈は訊いた。
「当然の報いだよ。――僕も覚悟はできている」
そう言ったとき、突然、屋上に銃声が響いたと思うと、マルティンが腹を押えて倒れた。
利根は、美奈を自分の後ろへかばって、「出て来い!――永井。お前だな」
と叫んだ。
洗濯したシーツやパジャマが干してある中、風にはためくシーツのかげから、ゆっくりと永井が顔を出した。
永井の手には、軍用のモーゼルが握られていた。
「永井……。お前がマルティンの言っていた〈日本人〉だな」
永井は静かに肯いて、
「もとはほんのジョークさ」
と言った。「東ドイツのリポートを書くために、やっと許可を取って、地下鉄のために掘られたトンネルへ入った。しかし、予算不足で、レールも敷かれないまま、何年も放置されていた」
「それを利用して、金儲けしたわけだ」
「偶然なんだ! 案内してくれた仏頂面の将校に、別れぎわ、『西側まで掘ってあれば、亡命請け負いの商売ができますね』と言ったのが、向うの印象に残ったらしい。――数日後、突然その将校が私服で僕のアパートを訪ねて来た」
「そして、商売を持ちかけた」
「うん……。僕も半信半疑だったが、言われたらいやとは言えない。――一度やると、あまりに簡単に次々引っかかる人間がいるのでびっくりした」
「分け前を取って、人々を死へ追いやっていたんだな」
「そのときはいないからな。前もって案内するまでが僕の役目さ」
「永井――。わざと殺されるようなことを俺に言っておいて、奥さんも殺したんだな」
永井は少し顔をしかめて、
「つい口を滑らしたんだ。女房はおしゃべりだったし、僕はこっちで恋人ができていたんでね。オットーが僕を狙ってくると分ってたんで、時機を見て、女房を殺して、僕も消息不明のまま、新しくやり直すつもりだったんだ」
「永井、お前――」
「おっと! 妙なことはやめてくれ。君を殺したくないんだ。黙っていると約束してくれたら――」
「信用できるか。――お前が野川も殺したんだろう」
「野川さんは自分で死んだんだ。本当だ」
「彼をそうさせたのは、アンナが悲惨な死に方をしたからだ」
「アンナが……」
永井は、ため息をついた。「僕はアンナに|惚《ほ》れていたんだ」
「だが、アンナは野川を愛した」
「そうなんだ。――野川は、いつも僕より|上《うわ》|手《て》を行っていた。僕は野川にいつもかなわなかった」
と、永井は言った。「野川が、当局ににらまれて、東側へ入って来られなくなった。アンナが沈み込んでいたので、僕はうまく西へ逃がしてやれると持ちかけた」
「アンナは信じたのか」
「ああ。野川に会えるなら、どんなに危険でも行っただろう。僕は――本当にアンナを逃がしてやろうと思っていた。その代り――一度だけ、一度だけでいいから、アンナを抱きたかった……」
「それを拒まれたんだな」
「舌をかんで死ぬ、と言われて、僕は謝った。――そのとき、アンナへの想いが、憎しみに変ったんだ」
「そして彼女を撃った。しかも、一発では殺さずに、手や足を狙って」
「どうして知ってる?」
永井の顔が紅潮した。「それだけの屈辱を受けてたんだ」
「人間のやることか、あれが」
「利根さん。口のきき方を気を付けてくれ。ここでその女の子と一緒に死ぬつもりか?」
「この子に何の罪があるんだ!」
「ともかく、〈トンネル〉のことまで知ってるんじゃ、生かしておけない。――オットーも死んだらしい。マルティンも。これで、君らがいなくなりゃ、僕は新しい生活を始める」
すると、美奈がパッと利根の前に出て、
「この人を殺さないで!」
と、訴えるように言った。
「おやおや。利根さんも隅に置けないな」
と、永井は笑った。「こんな小さな子に手を出してたのかい?」
「美奈ちゃん――」
「利根さん、私の好きなようにさせて」
と、美奈は言って、真直ぐ永井を見つめると、「私を好きにしていいわ。利根さんを殺さないで」
「美奈ちゃん! 何を言うんだ!」
「面白いな」
永井はニヤリと笑って、「いくつだ?」
「十七よ」
「いい年齢だ。――よし、言うことを聞くんだな」
「そう言ったわ」
「じゃ、ここで服を脱いでみろ」
美奈は、利根から二、三歩離れると、手早く服を脱ぎ始めた。
永井も、一瞬呑まれた様子で、美奈の白い肌を見つめた。
マルティンが――永井の視界から一瞬外れていた――起き上って、体ごと永井にぶつかった。
「こいつ!」
永井は、銃口をマルティンの背中へ当てて引金を引く。
しかし、マルティンは、力を緩めなかった。永井の小柄な体は、マルティンの両腕に抱え上げられた。
「離せ!――こいつ!」
永井は暴れたが、マルティンは構わず、屋上の手すりまで永井の体を運んで行った。
「やめろ!――よせ!」
永井の体が、手すりを越えて、次の瞬間、向う側[#「向う側」に傍点]の空間へと消えていた。
短い叫び声が、すぐに消えてしまうと、マルティンはその場に崩れ落ちた。
「マルティン!」
利根が駆け寄って、「すぐ医者を連れてくる! 待ってろ!」
立ち上ろうとする利根の手をマルティンがつかんで、
「もういい……。むだだ」
と、首を振った。
美奈が急いで服を着ながら、マルティンのそばへ来ると、
「起き上ろうとしているのが見えたの」
と言った。「――ありがとう」
「勇敢な――娘さんだ」
と、マルティンは|喘《あえ》ぐように息をつきながら、「君のお母さんに……こんなことを話しちゃいけない……」
「――うん」
と、肯いて、美奈はマルティンの手を握った。
「良かったよ……。君を助けてあげられて……」
マルティンの体から力が抜ける。
「お医者さん、呼んでくる!」
美奈は、思い切り勢いよく駆け出した。
永井は顔を上げた。
――どこだ。ここは?
俺は……確か、病院の屋上から投げ落とされたんだ。
それなのに……。
辺りは暗い。――|凍《こご》えるような寒さだった。
ふしぎだ。
体のどこも痛くない。骨も折れていないらしい。
ツイてるな、俺は……。
ゆっくりと立ち上って、永井は周囲を見回したが、暗がりに目が慣れていない。
ともかく、どこかへ――。
歩き出したとたん、犬の激しく|吠《ほ》える声に仰天した。
同時に、サーチライトが永井の上に滑って来て止った。
その瞬間、永井には分った。
ここは――〈壁〉だ。〈ベルリンの壁〉だ。
「撃つな!」
と、両手を上げて、永井はドイツ語で叫んだ。「亡命しようとしてるんじゃない! 撃つな!」
次の瞬間、機銃弾が永井の体を貫いた。
「――どうしてだ!」
目を見開いた永井は、ひと言そう言うと、その場にゆっくりと倒れた。
軍用犬が、なおも吠え続けていた。
そして放たれた犬たちは、まだぼんやりと意識のある永井の上に、襲いかかったのだった……。
23 生者と死者と
昼休み。珍しく風のない暖い日だった。
公園のベンチに腰をおろして、利根は、池の周囲に群れる鳩を眺めていた。
「――お邪魔しても?」
と、声がして、隣に座ったのは、国原という刑事だった。
「ああ、刑事さん。――どうしてここへ?」
「例の女子大生殺しですがね」
と、国原は言った。「犯人が落として行ったと思われるライターを、つい見落としていたんです。それを、被害者の友人の女子大生が持って来てくれまして」
「それはまた……」
「面目ない話ですよ」
と、国原は首を振って、「その指紋から、犯人が割り出せたんです」
「誰です?」
「それが――あの大騒ぎになった、病院のエレベーターで見付かったバラバラ死体。あの男の指紋と一致したんです」
「ほう」
「オットー・リンデンというドイツ人で、部屋から金髪のカツラも見付かりました」
「そうでしたか」
「あなたはあのとき、病院にいたんですな」
「ええ、居合せました」
「どうして、と|訊《き》きたいところですが、女子大生殺しは解決してしまった。あのオットーという男は、どうもかなり危い仕事をしていたようでね。犯人を挙げるのは難しいかもしれません」
国原の言い方は未練たっぷりだった。
「――利根さん。あのオットーという男について、何か知っていることは?」
利根は首を振って、
「残念ながら……。あんな殺し方は、普通の人間じゃできないでしょう」
「全くです。――世の中、ふしぎなことはあるもんですな」
国原は、少し間を置いて、「ご一緒だった彼女はお元気ですか」
「今、ここへ来るところです」
「おや、それではお邪魔してもいけませんな!」
国原は立ち上って、「それでは」
と、|会釈《えしゃく》して立ち去った。
入れ違いに、説子がやって来る。
「ごめんなさい。病院が混んでて」
と、説子はベンチに腰をおろすと、「――やっぱりそうだった」
利根は微笑んで、
「そうか!」
と言うと、説子の肩を抱いた。
「男の子と女の子、どっちがいい?」
「どっちでもいいさ」
利根は、説子の|頬《ほお》に素早くキスした。
「ちょっと! みんな見てるわ」
と、説子は赤くなった。
――今日は、検査の結果が出て、妊娠がはっきりしたのである。
説子は、心から幸せだった。
――妙な出来事が続いて、不安にさせられもしたが、それも何とか終ったようだ。
そもそも、利根の子を宿したのも、妙な出来事のおかげだ。説子も、あの〈壁〉のかけらを捨ててしまったことを、今は後悔していた。
でも、利根が何も言わない限り、自分から言い出す必要もないだろう。――子供が生れたら、それどころじゃなくなる。
挙式も近い。今の説子には、すんだことを考えるより、これからしなくてはならないことが山ほどあった。
「ぶらぶらと戻るか」
と、利根は立ち上った。
二人は腕を組んで歩き出した。
――利根は、美奈からあの〈壁〉の破片を返してもらったとき、一瞬は説子に腹を立てたものだ。
しかし、|却《かえ》って美奈にたしなめられてしまった。
「利根さんの身が心配で、捨てたんだよ。絶対に説子さんの目につかない所にしまっといてね」
利根は、高校生の美奈の方が、むしろ自分には近いのかもしれないという気がした。
しかし結婚は現実だ。――そして、現実との折り合いをつけるのが少し苦手な利根には、説子が一番似合っているのである。
「それに、もうあの〈トンネル〉に行きたくないから、返すの」
という美奈の気持も、もっともだった。
あの〈壁〉は、また引出しの奥深く眠ることになった。しかし――何もかも片付いて、あの〈壁〉はもう血を滴らせてもいない。
ただ、死んだ親友の思い出として、やがて忘れていくことだろう……。
「ハネムーンのクーポン券、もらって来るわ!」
と、説子が突然言った。「先に戻ってて!」
「おい――」
説子の後ろ姿は、たちまち人の間へ消えてしまう。
思い立ったら、早いんだからな。
利根はちょっと青空を見上げて、会社のビルへと戻って行った……。
「――オス」
と、美奈は手を上げた。
「やあ」
カールが、ベッドに座って窓の外を眺めていた。
「ずいぶん顔色良くなったね、ちょっと見ない内に」
「ちっとも来なかったな」
「テストだったんだもん」
美奈は、カールの髪の毛をいじって、「ちょっと切ってやろうか?」
「よせ! いじるなよ」
と、カールが怒る。
面白くて、わざと怒らせている、というところもあるのだ。
美奈は、
「お弁当買って来たよ。食べる?」
と、紙袋を見せる。
「うん!」
カールも食べ盛りで、病院の食事では、とても足りないのだ。
「じゃ、お茶いれてくるね」
美奈は、ポットを手に、病室を出た。
――給湯室で、ポットにお湯を入れていると、ふと人の気配に振り向く。
黒い髪の、きれいな女性が立っていた。
「アンナさん?」
と美奈が訊くと、
「カールに……やさしくしてくれて……ダンケ・シェーン」
と、微笑んで言った。
「元気ですよ、カール。ドイツ人の家で、養子にしたいって言って来てるらしいけど。――当人、どうなるのかな」
「あなたにお礼を言いたくて……」
「そんなこと……」
美奈はちょっと照れて、目を伏せると、「私も失恋したばっかりで、カールとやり合ってると楽しいんです」
と言った。
顔を上げると、もう、アンナの姿はなかった。
夢?――いいえ、そうじゃない。
美奈は、どうやら「別の世界」へつながる道を知っているらしいのだ。
それは、怖くもあるが、一方では絶対に手離したくない、宝物でもあった。
「――マルティン」
と、美奈は言った。
マルティンが、給湯室の入口に立っていたのである。
「元気そうだね」
と、マルティンは言った。
「うん。――そっちは、少しは慣れた?」
「まあね。何しろ、こっちじゃ、もう年齢をとらないからね。急ぐこともないんだ」
「あ、そうか」
「お母さんは、どうしてる?」
と、マルティンは訊いた。
「忙しいよ。特にこの十日くらい、夜中に帰ってくる」
「体に気をつけろと言ってくれ」
「マルティンがそう言ってた、ってね」
と、美奈が笑った。
「お母さんが心配するよ」
「大丈夫。今ね、マルティンの代りにパートナーになってる人と仲良くしてるよ」
マルティンの顔から笑みが消えた。
「じゃ……僕のことは、もう忘れてる?」
「どうかな。――でも、ちゃんとマルティンの写真、飾ってるし」
「そうか」
「それに新しいパートナーは、同じ|年《と》|齢《し》の、女の人」
「何だ!」
マルティンが息をついて、「おどかすなよ!」
「お化けがやきもちやいて、どうすんの」
と、美奈はからかってやった。「じゃあね! カールがお腹|空《す》かしてるから」
「美奈ちゃん、お母さんに時には僕のことを――」
美奈は、病室へ戻って行った。
「何よ、もう!」
|呆《あき》れたことに、カールは、ほとんどお弁当を食べ終えていたのだ。
「だって、腹減ってさ!」
美奈は苦笑した。
カールは確かに生きているのだ。
「お茶も飲んでよ」
美奈のお腹も、カールにつられたように、グーッと鳴った。
美奈も生きている手応えを、間違いなく感じていたのである。
初出/「小説CLUB」連載 一九九八年七月号〜一九九八年十二月号
|黒《くろ》い|壁《かべ》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年8月10日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2001
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角川文庫『黒い壁』平成11年4月25日初版発行