角川e文庫
魔女たちのたそがれ
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
プロローグ
1 |依《より》 |子《こ》
2 |斧《おの》
3 |消《き》えた少女
4 |葬《そう》|儀《ぎ》の|刃《やいば》
5 |消《き》えた女
6 少 女
7 |多《た》 |江《え》
8 雨
9 |幻《まぼろし》の|都《と》|会《かい》
10 |惨《ざん》 |殺《さつ》
11 〈谷〉へ
12 |影《かげ》の中
13 夜の|校《こう》|舎《しゃ》
14 |消《き》えた|刑《けい》|事《じ》
15 三つの|殺《さつ》|人《じん》
16 |消《き》えた依子
17 |再《ふたた》び山中へ
18 すれ|違《ちが》う顔
19 谷へ入る
20 白い|影《かげ》を|追《お》う
21 |恐怖《きょうふ》の|記《き》|憶《おく》
22 |危《き》|険《けん》な|叫《さけ》び
23 |炎《ほのお》の中に
24 |平《へい》 |和《わ》
プロローグ
ともかく、目の回るような|忙《いそが》しさだった。
その朝は、やたら、|風《か》|邪《ぜ》で休む|者《もの》が多くて、その分の|仕《し》|事《ごと》が、|全《ぜん》|部《ぶ》、|残《のこ》った者にかぶさって来た。
これがたとえば、|従業員《じゅうぎょういん》数千人という|大企業《だいきぎょう》の中で、休みが五人というのなら、どうということもあるまいが、何しろ|津《つ》|田《だ》の|勤《つと》めている小さな|雑《ざっ》|貨《か》の|卸売《おろしうり》会社は、十五人しか|社《しゃ》|員《いん》がいない。しかも、今年七十八|歳《さい》の社長を|含《ふく》めて、その人数である。
その十五人の中の五人が休んでしまったのだから、いかに|影響《えいきょう》が大きいか、|想《そう》|像《ぞう》もつこうというものだ。
九時のチャイムが鳴るのにも、まるで|気《き》|付《づ》かなかった。八時五十分ごろから、次々に鳴る電話に出なくてはならなかったのだ。
もっとも、これがいつもの|状態《じょうたい》で、ただ、電話を取る手が、まるで足りなかった、というだけなのだが。
あっという間に昼が近くなっていた。――これは|誇張《こちょう》でも何でもない。津田の|実《じっ》|感《かん》であった。
入社して、|既《すで》に五年たつが、こんなに|忙《いそが》しい思いをしたのは、|初《はじ》めてだった。二十八|歳《さい》という若さで、何とか|乗《の》り|切《き》った――というのは、ちょっとオーバーな言い方になるかもしれないが、ともかく、そう言いたくもなる|状況《じょうきょう》だったのである。
あと十分で昼休みだ。津田は、次々に|伝票《でんぴょう》を|整《せい》|理《り》しながら、一|秒《びょう》足らずの間に、チラリと|壁《かべ》の時計に目を走らせた。
|畜生《ちくしょう》、昼のチャイムが鳴ったら、何があろうと――たとえ会社中の電話が|鳴《な》り|響《ひび》いてようと、会社から|飛《と》び出してやるぞ。
電話をかけて来る方も、同じような気分なのかもしれない。あと五分で十二時、というあたりから、またあちこちで鳴り出した。
自分で一つ|取《と》ると、|他《ほか》から、
「津田さん、出てください!」
と、声がかかる。
そっちへ出れば、まだ|聞《き》き|終《おわ》らない|内《うち》に、
「津田さん! それ終ったら、こっちに出てね!」
と声がかかる。
両手両足で同時に|受《じゅ》|話《わ》|器《き》を持って、しゃべれたら、と津田は思った。いや、いっそ、電話なんてものが、この世から|無《な》くなっちまえばいいのに!
まだ一本、|待《ま》っている電話がある、というのに、もう一つ、
「津田さん、電話」
と、女の子が大声で言った。
やっと、一つを切って、
「どこから?」
と|訊《き》きながら、待たせてあった一本へ手を|伸《の》ばす。
「分りません」
と、その女の子は|肩《かた》をすくめて、「女の人ですよ」
「待たせといて。――はい、津田でございます。――あ、どうも、いつもお|世《せ》|話《わ》になっております」
|得《とく》|意《い》|先《さき》からの電話だ。津田は、息を切らしているのを、|極力押《きょくりょくおさ》えながら、急いでメモ用紙を|引《ひ》き|寄《よ》せた。
その電話を切らない内に、チャイムが鳴った。
「――はい、|確《たし》かに|承《うけたまわ》りました。|明《あ》|日《す》中には|必《かなら》ず。――よろしくお|願《ねが》いいたします。――どうもありがとうございました」
電話を切って、津田は|椅《い》|子《す》にへたり|込《こ》んだ。――参った!
もう、ほとんどみんな、|食事《しょくじ》に出てしまった。|出《で》|遅《おく》れたな、と津田は思った。
立ち上ると、ちょっとめまいさえする。昼は少し高くても、|栄《えい》|養《よう》のあるものを食おう。いつものソバじゃ、とてももたない。
ここは|貸《かし》ビルの五|階《かい》だ。――会社を出ると、エレベーターの前で、|深《ふか》|野《の》|珠《たま》|江《え》が待っていてくれた。
「何だ、待っててくれたのか」
「一人じゃ、|寂《さび》しいでしょ」
と、珠江は|笑《わら》った。
|紺《こん》の、|野《や》|暮《ぼ》ったい|事務服姿《じむふくすがた》でも、珠江の色っぽい|雰《ふん》|囲《い》|気《き》は|壊《こわ》れていない。――この社|唯《ゆい》|一《いつ》の、|魅力的《みりょくてき》な|女《じょ》|性《せい》である。
そして、津田は|独《どく》|身《しん》の二十八|歳《さい》だ。珠江と、なるべくしてなったのも、|無《む》|理《り》からぬことで、まあ、そろそろ|年《ねん》|貢《ぐ》の|納《おさ》めどきかな、などと津田も考えている。
「しかし、|今日《きょう》はひどい目にあったな」
エレベーターが上って来るのを待ちながら、津田は言った。
「|忙《いそが》しかったわね。|午《ご》|後《ご》もこんな風かしら?」
「やめてくれ」
津田は大げさに言った。「午後のことなんか考えたくもないよ!」
珠江は|軽《かる》く声を立てて|笑《わら》った。
「――あの電話、|誰《だれ》からだったの?」
「どの電話?」
「ほら、チャイムが鳴る前に、女の人からだって――」
「しまった!」
津田は|指《ゆび》を鳴らした。「出るのを|忘《わす》れてた!」
「|呆《あき》れた。もう切れてんじゃない?」
「ちょっと|待《ま》っててくれ」
津田は会社の中へと|駆《か》け|戻《もど》った。――どれだ?
|外《はず》したままになった電話が一つだけあった。津田は、|駆《か》け|寄《よ》って、|受《じゅ》|話《わ》|器《き》を取った。
「もしもし、――お待たせしました。――もしもし」
何も聞こえない。しかし、切れてはいないようだ。向うも、待ちくたびれて、受話器を|置《お》いて、|離《はな》れているのか。
「もしもし。――もしもし」
出ないのか。まあいい、何か大切な用なら、またかけて来るさ。
|受《じゅ》|話《わ》|器《き》を耳から離しかけたとき、
「津田さん」
という声が、電話から、|飛《と》び出して来た。
「もしもし?」
「津田さん……」
いやに遠い声だ。いや、弱々しい声なのかもしれない。女の声だが。
「どなたですか?」
と津田は|訊《き》き|返《かえ》した。「――え?――何ですって?――もしもし!――もしもし!」
珠江が入って来て、
「どうしたの?」
と訊いた。
津田は、受話器を、まるで|珍《めずら》しい|物《もの》か何かのように、目の前に持って来て、じっと|眺《なが》めていたのだ。
「どうかした?」
と、重ねて|訊《き》かれ、津田は、
「いや、別に」
と、あわてて首を|振《ふ》り、電話を切った。「さあ、行こうか」
――ちょうどエレベーターが来ていた。
一階へ向って、|静《しず》かに|降《お》り|始《はじ》める。
「|今日《きょう》は何を食べる?」
と珠江が言った。
「何でもいいよ」
と、津田は、目をそらしながら、言った。
――あの電話。あの声。
|誰《だれ》だろう。「津田さん」と|呼《よ》んだ、あの声は……。
津田は、今でも、信じられなかった。|聞《き》き|違《ちが》いだ。きっとそうだ。
その弱々しい女の声は、こう言ったように、津田には聞こえたのだ。
「|助《たす》けて……|殺《ころ》される」
と――。
1 |依《より》 |子《こ》
「依子!」
と、|叫《さけ》んで、津田はベッドで|飛《と》び|起《お》きた。
「何よ、びっくりするじゃない!」
同じべッドの中で、ウトウトしかけていた珠江が、|仰天《ぎょうてん》して目を|見《み》|開《ひら》きながら、あわてて|毛《もう》|布《ふ》を|裸《はだか》の|胸《むね》に|引《ひ》っ|張《ぱ》り上げた。
「いや――ごめん」
津田は、頭をかきながら、言って、それから手を|伸《の》ばし、|部《へ》|屋《や》の明りを|点《つ》けた。
ここは、津田と珠江がよく使うホテルで、|妙《みょう》な|仕《し》|掛《かけ》だの、ビデオだのはないが、なかなか落ちつける所である。
ベッドだけは、|特《とく》|大《だい》、というところで、いくら二人して|転《ころ》げ|回《まわ》っても、まず落ちる|心《しん》|配《ぱい》はない。
もう十二時を回っている。むろん夜中である。――ホテルへ入るのが十時になってしまったので、|仕《し》|方《かた》のない時間だった。
何しろ、朝からの|忙《いそが》しさは、五時を|過《す》ぎてもまだ|続《つづ》き、|結局《けっきょく》、ほとんどの社員が、九時近くまで|残業《ざんぎょう》するはめになった。
そうなれば、帰りには、|疲《ひ》|労《ろう》|回《かい》|復《ふく》に|一《いっ》|杯《ぱい》、ということになる。その後、津田と珠江は、わざわざ、また|疲《つか》れに来たわけである。
「こんなときに|他《ほか》の女の名前を呼ぶなんて、|失《しつ》|礼《れい》よ」
と、珠江は少々おかんむりだ。
「そうじゃないんだ。やっと思い|付《つ》いたんだよ」
「何を? 依子って|誰《だれ》よ?」
「|中《なか》|込《ごめ》依子。――|僕《ぼく》の|幼《おさな》なじみだよ。中学高校とずっと|一《いっ》|緒《しょ》でね」
「へえ。|初《はつ》|耳《みみ》だわ、そんな名前」
「もう、ずいぶん会ってない。|年賀状《ねんがじょう》ぐらいは来てるけどね。――|最《さい》|後《ご》に会ったのは、たぶん、もう四、五年前じゃないかな」
「何をしてるの?」
「小学校の|教師《きょうし》だよ。――どこか、山の中の小さな町の小学校に行った、とか聞いたな」
「その人を、どうして急に思い出したの?」
「今日の電話さ」
珠江は、ちょっとキョトンとしていたが、
「ああ、あのときの? お昼休みの――」
と、思い出したらしく、|肯《うなず》いた。
「うん。あの声。どこかで聞いたことがあると思ってたけど、どうしても思い出せない。――それが今、急にパッと分ったんだ」
「どうしてあっちは名前を言わなかったの?」
ふと、津田の顔から、|表情《ひょうじょう》が|消《き》えた。
「|助《たす》けて……|殺《ころ》される」
あの声[#「あの声」に傍点]は、そう言ったのだ。
「何だかおかしいわよ」
と、珠江は言って、|欠伸《 あくび》をした。「私、|眠《ねむ》いわ」
「うん」
と、答えてから、「――何て言った?」
「おやすみなさい、って言ったのよ」
珠江は、|呆《あき》れたように言って、そのまま、すぐに|寝《ね》|入《い》ってしまった。
津田は、ぼんやりと、|天井《てんじょう》を見上げていた。――|一《いっ》|向《こう》に|眠《ねむ》くならない。
依子。――二つ、年下だから、今、二十六|歳《さい》のはずだ。
|教師《きょうし》|生《せい》|活《せいかつ》四年。もう、大分、「先生」らしくなって来たのではないか。
依子が教師になったというのは、「いかにも」という感じで、少しも|意《い》|外《がい》ではなかった。つまり、|昔《むかし》から、津田と|違《ちが》って依子は、|真《ま》|面《じ》|目《め》な女の子だったのだ。
といって、ガリ|勉《べん》|型《がた》というのとは、ちょっと違う。
それほど、頭が切れるというタイプではなかったし、クラスでの|成《せい》|績《せき》は五、六番目だった。
しかし、ともかく|努力家《どりょくか》だった。何でも|一生懸命《いっしょうけんめい》に取り組んだのである。|器《き》|用《よう》でもなく、|運《うん》|動《どう》|神《しん》|経《けい》だって、お|世《せ》|辞《じ》にも、いいとは言えなかったが、それでも|必《ひっ》|死《し》に何にでも取り組んで、|結局《けっきょく》、やってのけるのだった。
その点、津田はなまじ器用で、大して努力しなくても、たいていのことはこなせたから、|却《かえ》って、|伸《の》びなかった。
依子の|粘《ねば》り強さには、津田も|脱《だつ》|帽《ぼう》の|他《ほか》はなかった。
「私は|教師《きょうし》に向いてると思うんだ」
高校に入るとき、依子は津田にそう言ったものだ。
「だって、頭も良くないし、|駆《か》け|足《あし》も|遅《おそ》いし、手先は無器用だし。――一番だめな子の気持が、よく分るのよ」
なるほどそうかもしれない、と津田は思った。
「ま、|頑《がん》|張《ば》れよ」
|先《せん》|輩《ぱい》|顔《がお》をして、津田は言ったものだ。「|俺《おれ》はエリートビジネスマンか、|外《がい》|交《こう》|官《かん》になって、世界中を|飛《と》び回るんだ」
「津田君、なれるわ、きっと」
と、依子は|笑《え》|顔《がお》で言った。「頭いいんだものね。外交官にでもなったら、ヨーロッパに|招待《しょうたい》して。|遊《あそ》びに行く」
「ああ、いいとも。何なら|女房《にょうぼう》にしてやるぞ!」
「やあだ!」
依子は、顔を|真《まっ》|赤《か》にして、|恥《は》ずかしそうに|笑《わら》ったものだ……。
「依子……」
津田は|呟《つぶや》いた。
珠江が、何かムニャムニャと呟いて、|寝《ね》|返《がえ》りを|打《う》った。
――|結局《けっきょく》、頭の良くない依子が、ちゃんと|教師《きょうし》になり、津田の方は……。
そして、いつしか依子は、遠く|離《はな》れ、|忘《わす》れられてしまった。いや、依子の方は時々、手紙やハガキをくれていたが、津田は|返《へん》|事《じ》も出さなかった。
それでも、きちんと|年賀状《ねんがじょう》は来ている。
|取《と》ってあるだろうか? いや――たぶん、|捨《す》てちまったろう。
依子がどこの小学校にいるのか、まるで|記《き》|憶《おく》がないのである。
だが――小学校の|教師《きょうし》をしている依子が、なぜ津田の|所《ところ》へ電話して来たのか。そして、
「|助《たす》けて……|殺《ころ》される」
と言ったのか。
あれは、本当に依子の声だろうか?
津田は、もしかしたら、|全《まった》く|別《べつ》の女の声かもしれない、と思おうとしたが、それはうまくいかなかった。――思い当った|瞬間《しゅんかん》、依子の声に|違《ちが》いない、と|確《かく》|信《しん》していたのである。
依子が助けを|求《もと》めている。
津田は、いても立ってもいられない|気《き》|持《もち》になった。――あれは、どう考えても、|冗談《じょうだん》や|遊《あそ》びではない。
依子に、そんな冗談を言う|理《り》|由《ゆう》がない。
つまり、依子は本当に、「|殺《ころ》され」かかっているのだろう。
それなのに、|俺《おれ》はこんな|所《ところ》で……。
津田は、ベッドから出ると、|急《いそ》いでシャワーを|浴《あ》び、|服《ふく》を|着《き》た。珠江は、|軽《かる》く、いびきすら立てながら、|眠《ねむ》っている。
|起《おこ》すこともあるまい。――津田は、ホテルを出ると、タクシーを|拾《ひろ》って、アパートに|戻《もど》った。
「中込依子。――ええ、そうです。四年前に|卒業《そつぎょう》しているはずです」
|翌《よく》|日《じつ》、津田は休みを|取《と》った。
|課長《かちょう》は|文《もん》|句《く》を言いたげだったが、|構《かま》わず電話を切ってしまった。かけなくてはならない|所《ところ》があったのだ。
アパートに帰って、あちこち引っかき回してみたが、依子の|年賀状《ねんがじょう》は見当らず、彼女の母親の|所《ところ》の電話|番《ばん》|号《ごう》も、どこにもメモしていなかった。父親は、依子が高校のときに|亡《な》くなっていた。
そうなると、どこでどう|調《しら》べればいいか。――考えたあげく、依子の|卒業《そつぎょう》した|大《だい》|学《がく》で、|同《どう》|窓《そう》|会《かい》|名《めい》|簿《ぼ》を|調《しら》べてもらうことにしたのである。
「――あ、どうも。――|自《じ》|宅《たく》の|住所《じゅうしょ》と電話は?――分りました。それから、今、|教師《きょうし》をやってると思うんですが、どこの小学校か、分りますか?」
この|質《しつ》|問《もん》はむだだった。――依子は同窓会に|連《れん》|絡《らく》していなかったらしい。
ともかく、母親の|住《す》む所が分った。
津田は、|訪《たず》ねてみることにした。電話で、
「津田です」
と言っても、分ってくれないかもしれないと思ったからだ。
津田は、中古のカローラを走らせ、住所を|頼《たよ》りに、依子の母を訪ねて行った。
|地《ち》|図《ず》で大方の見当をつけ、その近くまで行って、交番で|訊《き》く。
|捜《さが》し当てるのに、ちょっと手間|取《ど》ったのは、古びた二階|建《だて》の家で、どうやら、上を|誰《だれ》かに|貸《か》しているらしかったからだ。
|表札《ひょうさつ》が二つ出ていて、〈中込〉の方が、|薄《うす》くかすれて、目につかなかったのである。
津田も、依子の家に|遊《あそ》びに行ったことはあったが、それはまだ父親が|健《けん》|在《ざい》なころで、家もここではなかったのだ。
「――ごめん下さい」
と、|玄《げん》|関《かん》を入って、声をかける。
しかし、母親が出て来たら、何と言おうか。依子さんが、「殺される」と電話して来たんですが、と言うのは……。
しかし、今ごろ何の用で、|突《とつ》|然《ぜん》やって来たのかと、|妙《みょう》に思われるだろう。
考えが|決《きま》らない|内《うち》に、当の母親が出て来た。――めっきり|老《ふ》けたな、と津田は思ったが、しかし、いかにも依子に|似《に》て、しっかりした、|上品《じょうひん》な|女《じょ》|性《せい》だった。
「あの――」
と津田が言いかけたのを|遮《さえぎ》って、
「津田さん!」
と、目を|見《み》|張《は》った。
「|憶《おぼ》えていて下さったんですね」
「もちろんですとも。――本当にいいところへ来て下さって」
「え?」
「お上り下さい。ともかく――」
|促《うなが》されて、津田は、上り|込《こ》んだ。
「依子さんは……」
と、津田は、|座《すわ》りながら、|曖《あい》|昧《まい》な言い方をした。
「地方の、小さな山の中の小学校に行っておりますの。津田さん――」
と、母親は早口に言って、|膝《ひざ》を|進《すす》めた。「あの子、何か、|危《あぶ》ない目に|遭《あ》っているようなんです」
「え?」
津田は、目を|見《み》|開《ひら》いた。「それは、どういうことなんです?」
「よくは、分りません」
と、依子の母親は首を|振《ふ》った。「でも、このところ、何通か、手紙が来ていて、ともかく、その小さな町で、何か|恐《おそ》ろしいことが|起《おこ》っているようなんです」
「恐ろしいこと……」
津田はくり|返《かえ》した。「どんなことなんです?」
「|詳《くわ》しいことは、何も書いて|寄《よ》こさないんです。それに――」
と、母親は首を|振《ふ》って、「電話をしても、何だか、そばで|誰《だれ》かが聞いてでもいるように、とてもよそよそしい話し方なんです」
「それは|変《へん》ですね」
「津田さん。あの子の|所《ところ》へ行ってみて下さいませんか」
「|僕《ぼく》がですか?」
「|他《ほか》に、お|願《ねが》いできる人はいないのです。――|急《いそ》がないと、とんでもないことになるかも……」
「とんでもないこと?」
「|昨日《きのう》、あの子の|働《はたら》いている小学校へ電話をしたのです」
と母親は言った。「中込依子をお|願《ねが》いします、と言ったのです。ところが――」
津田は、|得《え》|体《たい》の知れない|重《おも》|苦《くる》しさで、|息《いき》|苦《ぐる》しいほどだった。
「ところが――」
と、母親は言った。「|向《むこ》うの人が言ったのです。『そんな先生は、おりません』と」
2 |斧《おの》
あまり、|快《かい》|適《てき》なドライブとは言えなかった。
ともかく、山道で、カーブは多いし、道は|舗《ほ》|装《そう》していないので、でこぼこだし。
|加《くわ》えて、津田の車が、あまり|上等《じょうとう》といえないせいもあった。
「車なら二時間かね」
と、|駅《えき》|前《まえ》の交番で聞かされて、走ること、|既《すで》に二時間半。――どうなってるんだ!
あんまりガタガタ|揺《ゆ》れる道というのに、|都《と》|会《かい》|人《じん》たる津田は|慣《な》れていない。
えらく|疲《つか》れて、小休止することにした。
車をわきへ寄せて、|一《ひと》|息《いき》つく。何だか、体中の|関《かん》|節《せつ》が、バラバラになりそうだった。
タバコをくわえて火を点ける。車から出て、|腰《こし》を|伸《の》ばし、それから、ウーンと伸びをした。
その|拍子《ひょうし》に、口からタバコが|落《お》ちてしまった。
「|畜生《ちくしょう》!」
|靴《くつ》でギュッと|踏《ふ》みつぶして、津田は少し道を歩いて行った。
山の中――本当に、|両側《りょうがわ》はすぐに|深《ふか》い森で、たちまち|暗《くら》く、夜の|世《せ》|界《かい》へ入って行く。
じっと耳を|澄《す》ましても、耳に入るのは、鳥の声と、風の|鳴《な》らす|枝《えだ》のざわめきだけだ。
|凄《すご》い|所《ところ》に来たもんだな、依子も。
しかし、一体何があったというのだろう?
母親の|不《ふ》|安《あん》を、|単《たん》なる|勘《かん》|違《ちが》いだと|済《す》ませることは|易《やさ》しい。
かけた学校が|違《ちが》っていたのだろうとか……。母親は、ともかくそう|若《わか》くもないのだから。
しかし、あの電話の声は――あれは、津田が、自分の耳で聞いたものだ。
そして、あれが本当に依子の声なら、母親の話と合わせて、やはり、依子に、何か|危《き》|険《けん》が|迫《せま》っているのだとしか考えられない。
「|俺《おれ》だって|危《き》|険《けん》は|迫《せま》ってるけどな」
と、津田は|独《ひと》り言を言った。
何しろ、二、三日休みをくれと言った津田を、|課長《かちょう》は、頭ごなしに|怒《ど》|鳴《な》りつけたものだ。――帰ったら、もう|席《せき》がない、なんてこともありうる。
しかし、依子のことを考えると、じっとしてはいられなかった。それは、津田自身にも、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》なくらいだった。
依子。――俺が依子を|守《まも》ってやらなくちゃ。なぜか、津田は、そう思うようになっていたのである。
依子とは、|恋《れん》|愛《あい》|関《かん》|係《けい》にあったわけでもないし、もちろん珠江のように、ホテルで|抱《だ》き合ったわけでもない。それでも、なぜか、気にかかるのだ。
妹のように、か?
そうかもしれない。――|以《い》|前《ぜん》は、|確《たし》かに、|兄妹《きょうだい》のような|仲《なか》だった。
しかし、今、依子のことを思っている、この|気《き》|持《もち》は、やはり|微妙《びみょう》に|違《ちが》っている。
女としての依子を、|心《しん》|配《ぱい》しているのだ。今、ここに依子がいれば、|抱《だ》きしめてやりたい、と思った。
さて、行くか。
あまりのんびりしていると、|着《つ》く|頃《ころ》には|暗《くら》くなってしまう。
車の方へ|戻《もど》ろうと、津田はクルリと|向《む》き|直《なお》った。それが二、三|秒遅《びょうおそ》かったら、|確《かく》|実《じつ》に、津田は|死《し》んでいただろう。
目の前に、女が、|斧《おの》を|振《ふ》り上げていたのだ。|重《おも》い斧が|真《まっ》|直《す》ぐに振り|降《お》ろされて来るのを、津田は|危《あや》うくかわした。
「何だ! おい、何するんだ!」
やっと|我《われ》に|返《かえ》ったときには、女が、斧を持ち直していた。
|髪《かみ》を振り|乱《みだ》して、|服《ふく》はグレーのスーツだが、|汚《よご》れ切って、あちこちかぎ|裂《ざ》きができている。足は|裸足《 はだし》だ。
目を|見《み》|開《ひら》いて、|荒《あら》く|息《いき》をつきながら、|再《ふたた》び津田の方へと|向《むか》って来た。
「おい、何だよ!――やめろ! |危《あぶ》ないじゃないか!」
津田はあわてて|逃《に》げ出した。女が、|斧《おの》を手に後を|追《お》う。
しかし、女の方はかなり|疲《つか》れているようだった。斧も|重《おも》いのだろうが、|両手《りょうて》で、|持《も》っているのがやっと、という|感《かん》じである。
「えい!」
と、かけ声と|共《とも》に|振《ふ》り回した斧は、車のボディにガン、と食い|込《こ》んだ。
だが、そのショックで、女の手が斧から|離《はな》れ、女はよろけて|尻《しり》もちをついてしまった。
津田は、やっと|反《はん》|撃《げき》の|余《よ》|裕《ゆう》ができて、斧をまず|取《と》り上げ、|傍《そば》へ、|放《ほう》り|投《な》げた。
女が、いきなり、津田の|足《あし》へしがみついて来た。
「おい、何するんだ! やめないか!」
津田もよろけて、|尻《しり》もちをつく。
|初《はじ》めて、女の顔をまともに見た。――土や|埃《ほこり》で|汚《よご》れているが、まだ|若《わか》い女のようだ。
|待《ま》てよ、この顔は……。
女が|両手《りょうて》をのばして、|飛《と》びかかって来た。津田は|仰《あお》|向《む》けに引っくり|返《かえ》り、女がのしかかって、首を|絞《し》めようとするのを、何とか|押《お》し|戻《もど》した。
「待て!――やめろ!――依子! 依子だろう!」
と|怒《ど》|鳴《な》る。
ハッ、と女の手が止った。――ポカンとして、津田の顔を|眺《なが》める。
「津田……さん?」
かすれた声が出て来た。
「そうだよ! |僕《ぼく》だ!」
「ああ……津田さん……来てくれたのね!」
依子の目から|大《おお》|粒《つぶ》の|涙《なみだ》がこぼれた。
「しっかりしろよ。どうしたんだ!」
「|私《わたし》――私――」
依子は体を|震《ふる》わせた。
「どうした!」
津田が|起《お》き上って、依子を|抱《だ》いてやる。
津田の|腕《うで》の中で、依子がぐったりと|崩《くず》れた。
「しっかりしろ!――依子!」
依子は気を|失《うしな》っていた。
津田は、|呼吸《こきゅう》を|整《ととの》えた。――これが|事《じ》|実《じつ》だと|信《しん》じるまでに時間がかかった。
本当だ。ここにいるのは依子なのだ。
何があったのか分らないが、ともかく、こうして津田の|腕《うで》の中にいる。
津田は何とか依子を車に|乗《の》せた。|後《こう》|部《ぶ》|座《ざ》|席《せき》に|寝《ね》かせてやる。
|相《そう》|当《とう》に|疲《ひ》|労《ろう》|困《こん》|憊《ぱい》しているようだ。|入院《にゅういん》させた方がいいかもしれない。
津田は、ちょっとためらったが、|結局《けっきょく》、道を|戻《もど》ることにした。
|入院《にゅういん》させるのなら、ちゃんとした|所《ところ》でなくては。少し時間がかかっても、大きな町へ出よう、と思った。
|結《けっ》|果《か》|的《てき》には、その方が|楽《らく》だ。
津田は、車をUターンさせ、でこぼこの山道を|戻《もど》って行った。
「大分、体力を|消耗《しょうもう》していますね」
と、|医《い》|師《し》は言った。
「|大丈夫《だいじょうぶ》でしょうか」
と、津田は|訊《き》いた。
「|特《とく》に|危《あぶ》ないということはありませんよ」
津田はホッと|息《いき》をついた。
「じゃ、ずっと|眠《ねむ》りつづけているのは……」
「|疲《つか》れている、ということですね、|要《よう》するに」
「はあ……」
「それに、|胃《い》も空っぽで。――どうやら、ここ何日か、ろくに食べていなかったようですよ」
津田は、思わず、ベッドで|眠《ねむ》り|続《つづ》けている依子の方を見た。
「今日はもう夜だから、明日、また|精《せい》|密《みつ》|検《けん》|査《さ》をしてみましょう。|一《いち》|応《おう》|点《てん》|滴《てき》で、|栄《えい》|養《よう》を入れていますから」
「よろしく」
津田は頭を下げた。
――夜になって、やっとこの|病院《びょういん》へ|辿《たど》りついたのだった。
気が気ではなかった。何しろ、依子は、眠り続けていて、あのでこぼこ道でも、|一《いち》|度《ど》も目を|覚《さ》まさなかったのである。
これは、よほどの|重態《じゅうたい》か、と、半ば|覚《かく》|悟《ご》して、ここへ|運《はこ》び|込《こ》んだ。
一応|安《あん》|心《しん》である。――病院も|総《そう》|合《ごう》病院で、|真新《まあたら》しく、|気《き》|持《もち》のいい|所《ところ》だ。
ただ、ちょっと|痛《いた》かったのは――といっても|懐《ふところ》の方で――|個《こ》|室《しつ》しか空いていなかったので、ひどく高くつくことだった。
今夜は|仕《し》|方《かた》ない。ここで|寝《ね》るか、と津田は思った。
|場《ば》|所《しょ》がないことはない。|来客《らいきゃく》用のソファがあって、何とか|横《よこ》になれる大きさだ。
それにしても……。
津田はソファに|腰《こし》をおろし、|眠《ねむ》っている依子の横顔を|眺《なが》めていた。
何があったのだろう?
依子の体には、いくつもすり|傷《きず》や、小さな引っかき傷があったらしい。山の中を歩き回っていたのか。
しかし、小学校の|教師《きょうし》がなぜ山の中をあんな|格《かっ》|好《こう》で歩き回っていたのだろう?
「助けて……|殺《ころ》される」
と言ったのは、なぜか。
どうやら、かなり|複《ふく》|雑《ざつ》な|事情《じじょう》がありそうだ。
津田は|欠伸《 あくび》をした。――少し眠気がさして来たのだ。
やれやれ、体がガタガタだよ。――だが、考えてみれば、|危《あや》ういところで、依子に|殺《ころ》されそうだったのだ。
いくらガタガタになっても、|斧《おの》で頭を|割《わ》られるよりまし[#「まし」に傍点]というものだ……。
ソファで|横《よこ》になって、ウトウトしかけた津田だったが、
「――そうだ」
と|起《お》き上った。
依子の母へ|連《れん》|絡《らく》していない。――もう十二時を回っているが、電話しておいた方が、|安《あん》|心《しん》するだろう。
津田は十円玉と百円玉を|何《なん》|枚《まい》か持って、|廊《ろう》|下《か》に出た。
赤電話が、|階《かい》|段《だん》のわきにあった。――病院の夜は|静《しず》かである。
十円玉の|落《お》ちる音も、気がひけるほど大きく聞こえる。
「ああ、夜中にすみません、津田です。――ええ、依子さんに会いましたよ。――いや、|実《じつ》はそれが――」
|手《て》|短《みじ》かに|事情《じじょう》を|説《せつ》|明《めい》し、「|医《い》|者《しゃ》も、|心《しん》|配《ぱい》ないと言ってますから。――ええ、明日、もう一度、お電話します」
津田は電話を切った。最後の|一《いち》|枚《まい》の十円玉が|落《お》ちた。
「さて、|寝《ね》るか」
と、|伸《の》びをして、|病室《びょうしつ》の方へ|戻《もど》りかけたとき、ガラスの|砕《くだ》ける音が|響《ひび》き|渡《わた》った。
あれは――依子の病室だ!
津田は、病室の中へ、|飛《と》び|込《こ》んだ。
依子が、病室の|隅《すみ》で|震《ふる》えている。|床《ゆか》に、|点《てん》|滴《てき》のびんが|砕《くだ》け|散《ち》っていた。
「――依子。|大丈夫《だいじょうぶ》かい?」
「津田さん……」
依子は、震える声で言った。「本当なのね?」
「何が?」
「|私《わたし》、ここにいるのね。――津田さんと|一《いっ》|緒《しょ》に」
「そうだとも」
津田は、かがみ|込《こ》んで、依子の|肩《かた》に手を|置《お》いた。依子が、その手に|頬《ほお》を|押《お》しつける。
「本当なんだわ……」
依子は、|何《なん》|度《ど》も何度も、|深《ふか》く|息《いき》をついた。
「さあ。――もう、今日は|寝《ね》るんだ。思い切り休んで」
依子は|肯《うなず》いたが、|動《うご》こうとはしなかった。
「ねえ……」
「何だい?」
「そばにいてくれる?」
「もちろんさ」
「私……|殺《ころ》される」
と、依子は言った。
|訊《き》いてみたかったが、今はその|時《じ》|期《き》じゃない、と津田は思った。
ドアが開いて、|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》が入って来た。
「まあ、どうしたの?」
「すみません。ちょっとうなされたらしくて……」
「|待《ま》ってね。ガラスで、足を切ると|危《あぶ》ないから――」
いやな顔もせずに、|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》は|片《かた》|付《づ》け|始《はじ》めた。
それを見ている|内《うち》に、依子の|表情《ひょうじょう》に、|平《へい》|静《せい》さが|戻《もど》って来た。
「|教師《きょうし》らしい」
と、いつも津田がからかっていた、あのきりっとした顔に、戻ったのだ。
「さあ、|横《よこ》になってて。――今、新しいのと|換《か》えるわ」
看護婦に言われて、依子は、
「すみません」
と、頭を下げた。
おとなしくベッドに入ると、津田を見て、
「――どうして来たの?」
と、|訊《き》いた。
「お母さんの|頼《たの》みさ。それと、|君《きみ》の電話」
「母は……」
「ここにいると、さっき知らせたよ」
「どうもありがとう。――お|仕《し》|事《ごと》、|大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
「それほど|重要《じゅうよう》なポストにいるわけでもないからね」
と、津田が言うと、依子は、やっと|笑《え》みを見せた。
「そうそう。|笑《わら》うのが一番だ」
依子は|天井《てんじょう》を見ながら、
「明日、|警《けい》|察《さつ》へ行くわ」
と言った。
「まだ|無《む》|理《り》だよ」
「でも、ともかく話をしなきゃ!」
と、強い|口調《くちょう》で言ってから、依子は、大きく|息《いき》を|吐《は》き出した。「|誰《だれ》も、|信《しん》じてくれないかもしれないけれど……」
――|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》が|点《てん》|滴《てき》の新しいびんをセットして行くと、ほどなく依子は|眠《ねむ》りに|落《お》ちた。
その|寝《ね》|顔《がお》は、やっとごく普通の[#「普通の」に傍点]、|平《へい》|和《わ》な|眠《ねむ》りを思わせるものになっていた……。
3 |消《き》えた少女
大きな|事《じ》|件《けん》というものは、たいてい、何事も|起《おこ》りそうにない、|平《へい》|穏《おん》な日に|始《はじ》まる。
中込依子も、その日はいつになく、のんびりした気分であった。
秋の日――というだけで、目に|浮《うか》んで来そうな、青空と、ポッカリ浮んだ白い雲と、|爽《さわ》やかな風と。
|都《と》|会《かい》では、|既《すで》に|失《うしな》われてしまった「|季《き》|節《せつ》」が、ここには|残《のこ》っていた。
依子が、この|山《やま》|間《あい》の町の小学校――|正《せい》|確《かく》には分校だった――へやって来て、一年|余《あま》りたった。
|教師生活《きょうしせいかつ》二年余りで、こうした小さな|規《き》|模《ぼ》の学校へやって来るのは、少々心もとない|感《かん》じであった。都内では、三年生と四年生を|受《う》け|持《も》っていたが、この分校では、一年生から六年生まで、|全《ぜん》|部《ぶ》合わせても三十人にしかならないので、もう一人の男の先生と、教科を|分《ぶん》|担《たん》して、全学年、|一《いっ》|緒《しょ》に|授業《じゅぎょう》をすることになっていたからである。
|初《はじ》めての|経《けい》|験《けん》で、|最《さい》|初《しょ》は|緊張《きんちょう》したが、すぐに、依子は|子《こ》|供《ども》たちの中に|受《う》け|容《い》れられたことを知った。
「中込先生」
と、声をかけて来たのは、もちろん、もう一人の先生、|水《みず》|谷《たに》だった。
何しろ、この二人しか、この学校には|教師《きょうし》がいないのだから。
「帰らないんですか?」
と、水谷は、|欠伸《 あくび》をしながら言った。
「今日のテストの|採《さい》|点《てん》をやってからにしますわ。どうぞ、お先に」
「いや、|熱《ねっ》|心《しん》ですねえ。|若《わか》いということは、|羨《うらやま》しい! では、お先に」
「ご|苦《く》|労《ろう》さま」
――一人になると、依子は、ちょっと|息《いき》をついた。
立ち上って、|窓《まど》から|校《こう》|庭《てい》を|眺《なが》める。
|校《こう》|舎《しゃ》もオンボロの|木《もく》|造《ぞう》で、|窓《まど》もろくに|閉《しま》らないというお|粗《そ》|末《まつ》さだが、|都《と》|心《しん》の|近《きん》|代《だい》|的《てき》な校舎で、窓ガラスが|全《ぜん》|部《ぶ》|割《わ》られたりしているのに|比《くら》べれば、ずっとユーモラスで、|暖《あたた》かい。
それに校庭は、三十人の|生《せい》|徒《と》には、もったいないほどの広さ。都心の小学校では、考えられない|面《めん》|積《せき》だった。
まだ、五、六人の、三年生の子たちが、|遊《あそ》んでいる。その|内《うち》の一人が依子に|気《き》|付《づ》いて、手を|振《ふ》った。
依子も手を振って見せ、
「早く帰るのよ!」
と、大声で言った。
でも、都会と|違《ちが》って、少し帰りが|遅《おそ》くなっても、|誘《ゆう》|拐《かい》だの|痴《ち》|漢《かん》だのに気を|使《つか》わなくて|済《す》むのは、ありがたかった。
|実《じっ》|際《さい》、今の五年生、六年生ぐらいの女の子の中には、|完《かん》|全《ぜん》に女っぽい体つきをしている子がいるのだ。
前に依子のいた小学校では、六年生の女の子が|妊《にん》|娠《しん》するという|騒《さわ》ぎがあって、|週刊誌《しゅうかんし》までが|取《しゅ》|材《ざい》にやって来て|閉《へい》|口《こう》したものだった。
それに|比《くら》べれば、この分校の子たちは、まだまだ、|昔《むかし》の「やんちゃ」な|子《こ》|供《ども》たちのイメージを|残《のこ》している。
|教師《きょうし》が|疲《つか》れてしまうのは|授業《じゅぎょう》とか、|生《せい》|徒《と》たちの|素《そ》|行《こう》などの|指《し》|導《どう》ではなく、むしろ親たちとの|付《つ》き合いにおいてである。
その点、この小さな町では、まだ道を行けば、|向《むこ》うから、
「先生、こんちは」
と、|挨《あい》|拶《さつ》してくれる。
ここでは、まだ教師は「|尊《そん》|敬《けい》される|職業《しょくぎょう》」であった。
依子としては、全学年を同時に教えるという、|特《とく》|殊《しゅ》なやり方に|慣《な》れると、この分校での|生《せい》|活《かつ》を、|充分《じゅうぶん》に|楽《たの》しめるようになっていたのである。
「さて、やっちゃおうっと!」
依子は、ウーンと|伸《の》びをして、自分の|机《つくえ》に|戻《もど》った。テストの|採《さい》|点《てん》、一人一人への|注意《ちゅうい》、そして、前より点の上った子には、|賞《ほ》め|言《こと》|葉《ば》を|添《そ》えてやる。
依子は、こういう|仕《し》|事《ごと》が|楽《たの》しかった。先生たちの中には、テストの|問《もん》|題《だい》を作るのを|面《めん》|倒《どう》くさがって、|全《ぜん》|部《ぶ》、|市《し》|販《はん》のテストを|使《つか》う人も少なくない。
|都《と》|会《かい》の教師たちは|忙《いそが》し|過《す》ぎるのも|事《じ》|実《じつ》だが、やはり生徒たちの実力や、問題点を一番よく知っているのは、|担《たん》|任《にん》の教師である。問題を作るのは、どんなに忙しくても、自分の手で、というのが依子の|信《しん》|念《ねん》だった。
水谷は、依子ほど、そういう点、|熱《ねっ》|心《しん》ではない。人はいいのだが、ちょっとやる気[#「やる気」に傍点]のないタイプである。
「もう|年《と》|齢《し》だから……」
が口ぐせで、|生《せい》|徒《と》の前でもよく言うので、〈もうとし〉先生、などと|呼《よ》ばれたりしているが、|実《じっ》|際《さい》はまだやっと四十になったところだ。
ただ、|年《ねん》|齢《れい》の|割《わり》に|老《ふ》け|込《こ》んでいるのも|事《じ》|実《じつ》だし、ちょっと|心《しん》|臓《ぞう》が弱いとかで、|体《たい》|育《いく》の時間でも、|勝《かっ》|手《て》に生徒たちにやらせて、自分は、見ているだけだったようだ。
依子が、体育もみることになって、水谷はホッとした|様《よう》|子《す》だった。
|同僚《どうりょう》としては、ちょっと食い足りないし、それに、まだ|独《どく》|身《しん》だが、|恋《こい》の|相《あい》|手《て》としてはあまりに|魅力《みりょく》に|欠《か》けていた。
だが、|一《いっ》|緒《しょ》にやって行くのが|苦《く》|痛《つう》、というほどのこともなく、まずまず、依子はここでの|境遇《きょうぐう》に満足していた。
ただ――いいことばかりはないもので、|裏《うら》を|返《かえ》せば|煩《わずら》わしさにもなる。
どこを歩いていても、依子の顔を知らない人はいないし、それに、|初《しょ》|老《ろう》の|未《み》|亡《ぼう》|人《じん》の家の二|階《かい》を|借《か》りているのだが、|世《せ》|話《わ》|好《ず》きというか何というか、依子がいない間に、|勝《かっ》|手《て》に|部《へ》|屋《や》の中でも何でも|整《せい》|理《り》してしまう。
|悪《わる》|気《ぎ》がないのは分るのだが、依子としては、多少のプライバシーも|必《ひつ》|要《よう》であり、|困《こん》|惑《わく》することがしばしばあった。
だが、ともかく――まあ、八割の|満《まん》|足《ぞく》|度《ど》、とでもいうところだろうか。
それに、日曜日には時々、近くの大きな町へ出て、|買《かい》|物《もの》したり、|映《えい》|画《が》を見たりする。
東京へも、夏休み、春休みなどには帰れるし、そう|苛《いら》|々《いら》がつのるほどではなかった。
「――|終《おわ》った!」
依子は、ふうっと|息《いき》をついた。
一時間ほどかかった。――気が|付《つ》くと、もう|校《こう》|庭《てい》は|静《しず》かになっている。
そろそろ|暮色《ぼしょく》が|漂《ただよ》い|始《はじ》めていた。
そうそう、|通《つう》|勤《きん》が|楽《らく》なことも|付《つ》け|加《くわ》えておかなくてはならない。何しろ歩いて十分なのだから!
学校を出て、依子は、ふと今日は|遠《とお》|回《まわ》りをして帰ろうか、と思った。
遠回り、といっても、学校の|裏《うら》|手《て》をぐるっと回るだけのことだが、小川を|渡《わた》り、林の中の道を|抜《ぬ》け、ちょっと小高い|丘《おか》へ上って、町へと|降《お》りて行く。
なかなか|変《へん》|化《か》に|富《と》んだ|散《さん》|歩《ぽ》|道《みち》なのである。
風も|爽《さわ》やかだし、まだ|暗《くら》くなるという時間ではないし……。よし、そうしよう。
依子は回れ右をして、学校の裏へと歩いて行った。もとより、裏門などというものがあるわけではない。いや、大体、|塀《へい》がないから、門というものもない。
門ができるのは、|運《うん》|動《どう》|会《かい》のときの「入場門」と「|退場《たいじょう》門」ぐらいだ。
依子はぶらぶらと、その|小《こ》|径《みち》を|辿《たど》って行った。――こういう歩き方ができるようになったのも、つい|最《さい》|近《きん》のことだ。
|都《と》|会《かい》で、時間に|追《お》われて、せかせかと歩いていたので、のんびり歩くということがむずかしい。わざとゆっくり歩くと、|却《かえ》って|疲《つか》れたりした。
しかし今では、町の中でも、そう|違《い》|和《わ》|感《かん》なく歩くことができる。前には、ごく|普《ふ》|通《つう》に歩いていても、
「先生、何かお|急《いそ》ぎですか」
と声をかけられることがあった。
小川が|流《なが》れている。――本当に、今どきほとんど見られない、|浅《あさ》い小川で、夏の水|遊《あそ》びには|格《かっ》|好《こう》の|場《ば》となっている。それに、水が|澄《す》んでいるのだ。
依子は、小川にかかった、小さな古い木の|橋《はし》から、|川《かわ》|底《ぞこ》を|震《ふる》わせながら流れる水をじっと見下ろしていた。
東京では、もうほとんど川というものを見なくなった。
ここに何年いるか分らないけど、ずいぶんのんびりになっちゃいそうだわ、と依子は思った。でも、いつまた東京へ|戻《もど》ることになるかもしれない。
そうなればなったで、またせかせかと歩くようになるのだろう。
「――あら」
小川の|流《なが》れに、何かが|転《ころ》がりながらやって来た。それは、|橋《はし》の|真《ま》|下《した》で、少し大きな石に引っかかって、止った。
「|靴《くつ》だわ」
|子《こ》|供《ども》の|運《うん》|動《どう》|靴《ぐつ》のように見える。
依子は、橋のたもとへ|戻《もど》って、わきから、|斜《しゃ》|面《めん》をこわごわ|降《お》りて行った。
|途中《とちゅう》、|危《あや》うく引っくり|返《かえ》りそうになったが、何とか|無《ぶ》|事《じ》、川のほとりへ|辿《たど》りついた。小石に足を|取《と》られそうになりながら、手を|伸《の》ばして、その運動靴を取ろうとした。
もう少し、というところで|届《とど》かないのだ。
|仕《し》|方《かた》ない。|周囲《しゅうい》を見回して、|小《こ》|枝《えだ》が|落《お》ちているのを|見《み》|付《つ》けると、|拾《ひろ》って来て、それで靴を引っかけようとした。
アイデア通りには、なかなか行かないのだが、しつこくくり|返《かえ》して、やっと|靴《くつ》が|枝《えだ》の先に引っかかった。
用心しながら、手もとへ|持《も》って来る。――大きさからすると、三年生か四年生の、女子の|運《うん》|動《どう》|靴《ぐつ》である。
|見《み》|憶《おぼ》えがあった。それはたぶん、三年生の|角《すみ》|田《だ》|栄《えい》|子《こ》の靴だ。
中の水を|捨《す》て、|内《うち》|側《がわ》を|覗《のぞ》いてみると、|油《ゆ》|性《せい》のサインペンで〈角田〉とかかれているのが分る。――やはりそうか。
この靴を憶えているのは、アニメのキャラクターの|絵《え》が入っていて、ちょっと高い靴だからである。
分校に来ている子で、こんな靴がはける子は、何人もいない。
栄子の父親は、この町でも古い|家《いえ》|柄《がら》で、手広く、色々な|商売《しょうばい》をしている。町ではたぶん一番の|金《かね》|持《もち》だが、同時に町の|世《せ》|話《わ》|役《やく》|的《てき》な|存《そん》|在《ざい》で、町の人々には|頼《たよ》りにされていた。
栄子はそこの|一人娘《 ひとりむすめ》だ。男の子がいないので、もしこれから生れなければ、栄子が|養《よう》|子《し》を|取《と》ることになる。町では、そんな話まで出ていた。
「でも――どうしたのかしら」
と、依子は|呟《つぶや》いた。
靴を|片《かた》|方《ほう》|流《なが》してしまったのでは|困《こま》るだろう。
きっと、友だちとふざけていて、|落《お》としたのだろうが……。
依子は|橋《はし》のたもとへ上って行くと、靴を手に、|小《こ》|径《みち》を歩いて行った。小川に|沿《そ》って上流へと歩いているので、もしかしたら、栄子がいるかもしれない、と思ったのである。
林の中の道を|抜《ぬ》け、小川が流れ出している|岩《いわ》の上を通っても、栄子の|姿《すがた》は見当らない。
きっと、何とかして帰ったのだろう。友だちの|肩《かた》につかまるか、それとも|裸足《 はだし》でだって歩ける。
やたら、コーラのびんのかけらや、ピンなどが|落《お》ちている道ではないのである。
|小《こ》|径《みち》は、少し上りになって、|周囲《しゅうい》に|眺望《ちょうぼう》の|開《ひら》けた、小高い|丘《おか》に出る。ここからは、町が|見《み》|渡《わた》せるのだ。
それほど小さな町だということでもある。
依子は、ちょっと|息《いき》をついた。――風が渡って来る。
空が、|輝《かがや》きを|失《うしな》って、少しずつ|暮《く》れ|始《はじ》めていた。風も、やや|冷《つめ》たさを感じるようになった。
この|靴《くつ》を、角田さんの|所《ところ》へ|届《とど》けて帰ろう、と、依子は思った。それなら、ここから|真《まっ》|直《す》ぐ町へ|降《お》りて、少し右手へ行けばいい。
|下宿《げしゅく》している家とは|反《はん》|対《たい》|方《ほう》|向《こう》だが、五分も|余《よ》|計《けい》に歩けば|済《す》むことである。
さあ、行こうかしら、と歩きかけたとき、後ろの方で、|茂《しげ》みの|揺《ゆ》れる音がした。
|振《ふ》り向いた依子の目に、|低《ひく》い|茂《しげ》みの向うを|駆《か》け|抜《ぬ》ける、黒い|影《かげ》が|映《うつ》った。――しかし、それはほんの|一瞬《いっしゅん》で、|錯《さっ》|覚《かく》かもしれないと思わせるくらい、短時間だった。
しかし、あの音は、風ではない。|確《たし》かに何かが|茂《しげ》みの中を|動《うご》いた音だ。
依子は、その茂みの方へと歩いて行った。――|別《べつ》に何も|残《のこ》っていない。
何か|動《どう》|物《ぶつ》でもいたのだろうか?
|肩《かた》をすくめて、|戻《もど》ろうとしたとき、それ[#「それ」に傍点]が目に入った。
赤い色。――茂みをかき分けて、そこに赤いランドセルを見たとき、依子は顔をこわばらせた……。
「――そうです。小学校三年生の女の子で――山の中を|捜《そう》|索《さく》しますので、少し人手を。――はあ、こちらも、もちろん、できる|限《かぎ》りは動員いたします」
電話をしている|駐在所《ちゅうざいしょ》の|河《かわ》|村《むら》を、依子は、|重《おも》|苦《くる》しい|気《き》|持《もち》で見ていた。
河村の|机《つくえ》の上には、依子の持って来た、角田栄子のランドセルと|靴《くつ》の|片《かた》|方《ほう》が、|置《お》かれている。
――何があったのだろう?
もう、外はすっかり|暗《くら》くなっていた。
「中込先生」
と、声がした。
「水谷先生。――今おいでに?」
「ええ、出かけてましてね。帰ったら、|大《おお》|騒《さわ》ぎで……。びっくりしてやって来たんですが」
「何もなければいいんですけど」
「角田君ですって?」
「ええ」
電話を切った河村が、依子の方へ|向《む》いて、
「何とか少し人を出してくれるように|頼《たの》みましたよ」
と言った。「山を|捜《さが》すといっても、|大《たい》|変《へん》なことだ。町中の男たちは|総《そう》|出《で》ということになりますな」
「|私《わたし》も行きます」
と、依子は言った。
「いや、先生はいけませんよ。山の中は|蛇《へび》もいるし」
「何と言われても、|勝《かっ》|手《て》に行きます! |私《わたし》の|生《せい》|徒《と》ですもの」
依子は言い|張《は》った。河村は、|太《ふと》った|頬《ほお》に、|困《こま》ったような|笑《え》みを|浮《うか》べて、
「いいでしょう。先生はお|若《わか》いですからな」
と言った。
「いつ、出かけますの?」
「|準備《じゅんび》が|必《ひつ》|要《よう》です。――ズボンか何かに|着《き》|替《が》えた方がいいですよ」
「分りました」
「角田さんは?」
と水谷が|訊《き》いた。
「家で、人手を|集《あつ》めておられます」
と、依子は言った。「ともかく、|必《ひっ》|死《し》ですわ」
「そうですな」
と、河村はため|息《いき》をついた。「何しろ、目の中に入れても|痛《いた》くない、という|可《か》|愛《わい》がりようだ」
「じゃ、すぐに|仕《し》|度《たく》して|戻《もど》りますから」
依子は、|駐在所《ちゅうざいしょ》を|飛《と》び出すと、|下宿《げしゅく》している家まで|駆《か》け|戻《もど》った。
――山の夜は|深《ふか》い。
依子も、ここに一年|住《す》んで、夜の山へ入るのは、|初《はじ》めてだった。
依子にとっての夜は、|街《がい》|灯《とう》があり、ネオンが光り、車の走っている夜だった。
しかし、山の中は、「夜」だけしかないのだ。
角田が、先頭に立っていた。
|持《も》っているライトに、時々、その力強い|横《よこ》|顔《がお》が|浮《うか》ぶ。
角田の|呼《よ》びかけに、|正《まさ》に町の男性は、|子《こ》|供《ども》と|老《ろう》|人《じん》|以《い》|外《がい》、|総《そう》|出《で》の感があった。その中に|混《まじ》って、依子はあの|丘《おか》への道を|辿《たど》っていた。
ランドセルのあった|場《ば》|所《しょ》から、|捜《そう》|索《さく》を|開《かい》|始《し》するのである。
|丘《おか》の上に上ると、
「中込先生! 先生、いますか!」
と、河村の声がした。
「はい!」
と、|進《すす》み出る。
「ランドセルがあったのは、この|辺《へん》ですね?」
依子は、|近《ちか》|寄《よ》って行った。――そのようにも見えるが、そうでないようにも見える。
「もっと明りを……。すみません」
依子は少し|退《さ》がって、|茂《しげ》みを|眺《なが》めた。「――そうです。その右手の方です」
「黒い|影《かげ》が、ここを走って行った、と……」
「そう見えたんです。ほんのチラッとでしたが」
「どっちの|方《ほう》|角《がく》へ?」
「林の方へですわ。|印象《いんしょう》ですけれど」
「それを手がかりにするしかない」
と、すぐそばで、角田の声がした。「ともかく早くしないと」
「もちろんです」
河村は、大声で、「ここから右手へ。――できるだけ広がって下さい!」
と、|呼《よ》びかけた。
「何か|見《み》|付《つ》けたら大声で!」
と、角田が|怒《ど》|鳴《な》る。
「行きましょう」
河村の|言《こと》|葉《ば》で、依子は林の中へと、足を|踏《ふ》み入れた。
持って来た|懐中電灯《かいちゅうでんとう》は、あまり大きなものではなかったが、ともかく目をこらして、光の|輪《わ》の中に|浮《うか》び出る|物《もの》を見つめた。
角田が、しばらくはすぐ|隣《となり》を歩いていた。
「|畜生《ちくしょう》……」
と、角田が|呟《つぶや》くのが、依子の耳に入った。「あいつら[#「あいつら」に傍点]……ただじゃおかない[#「ただじゃおかない」に傍点]……」
「ほう」
と、その|刑《けい》|事《じ》は顔を上げた。「そう言ったんですね? その角田という人は」
「はい」
依子は|肯《うなず》いた。
「|大丈夫《だいじょうぶ》かい? あんまり話すと|疲《つか》れるだろう」
津田が声をかけると、ベッドで、少し頭を高くした依子は首を|振《ふ》った。
「|私《わたし》はもう大丈夫。ちゃんと朝も食べたし」
「顔色は大分いいけどね。――でも、|無《む》|理《り》をしないで。|興《こう》|奮《ふん》しちゃいけない、と、お|医《い》|者《しゃ》さんに言われてるだろう」
「だけど、このことは、ちゃんとお話ししておかないと……」
依子は、|軽《かる》く|息《いき》を|吐《は》き出して、|刑《けい》|事《じ》の方を見た。
「すみません、話が|悠長《ゆうちょう》で、|苛《いら》|々《いら》なさるでしょう」
「いや、|一《いっ》|向《こう》に」
もう、五十|代《だい》も|半《なか》ばと思える刑事は、のんびりと言った。|好《こう》|人《じん》|物《ぶつ》という|印象《いんしょう》の、およそ刑事らしくない刑事だ。
もっとも、|本《ほん》|物《もの》の刑事など、津田は知らなかったから、|専《もっぱ》ら、本や|映《えい》|画《が》からのイメージだったが。
「|構《かま》いませんよ。ゆっくり話して下さい」
「すみません。――こういう風にお話ししていかないと、その後の|出《で》|来《き》|事《ごと》も、とても|理《り》|解《かい》していただけないと思うんです。もし|信《しん》じていただけなかったら、みんなの|死《し》がむだになる……」
依子は声を|詰《つ》まらせた。
津田は、|息《いき》を|殺《ころ》した。――「みんなの死」だって?
一体|誰《だれ》が死んだのか? おそらく、依子|自《じ》|身《しん》も、その一人に|加《くわ》えられるはずではなかったのか……。
依子の目に|涙《なみだ》が|浮《うか》んでいた。――|必《ひっ》|死《し》で、|悲《かな》しみを|押《お》し殺している。涙を|呑《の》み|込《こ》んでいるのだ。
ドアがノックされて、
「|失《しつ》|礼《れい》」
と、|医《い》|師《し》が顔を|覗《のぞ》かせた。「ご|面《めん》|会《かい》の方ですよ」
依子の母親が、|不《ふ》|安《あん》げな|面《おも》|持《も》ちで入って来た。
「――お母さん」
「依子!――依子」
|急《きゅう》に|緊張《きんちょう》が|緩《ゆる》んだのか、母親は、ベッドのわきに、|膝《ひざ》をついてしまった。
「気分はどうなの?」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。――津田さんのおかげよ」
依子は、母親の手を|握《にぎ》りしめた。
「昼食です」
と、|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》が顔を出した。
「|続《つづ》きは、昼食の後にしましょう」
刑事が|椅《い》|子《す》から立ち上った。「さあ、お母さん、どうぞ」
そして、津田の方へ、
「どうです、お昼をご|一《いっ》|緒《しょ》に」
と声をかけた。
4 |葬《そう》|儀《ぎ》の|刃《やいば》
「ここのカレーはなかなかですよ」
〈カレー|専《せん》|門《もん》|店《てん》〉と|看《かん》|板《ばん》の出た、|病院《びょういん》のすぐ近くの店に津田を|案《あん》|内《ない》すると、その|刑《けい》|事《じ》は言った。
こんな町へ来てカレーを食おうとは思わなかったな、と津田は思った。
しかし、|実《じっ》|際《さい》、食べてみると、びっくりするほど|旨《うま》い。これは|参《まい》った、と思った。
カレーを食べながら、その刑事は、
「私は|県《けん》|警《けい》の|警《けい》|部《ぶ》で、|小《こ》|西《にし》といいます」
と、|自己紹介《じこしょうかい》した。
「津田です」
と言ってから、「警部さんですって?」
思わず|訊《き》き|返《かえ》していた。
|県《けん》|警《けい》で|警《けい》|部《ぶ》といえば、|相《そう》|当《とう》の|地《ち》|位《い》だということは、津田も知っていた。
道理で、|落《お》ちついているわけだ。しかし……。
「警部さんが、わざわざおいでになったのは、何か|理《り》|由《ゆう》でも?」
と、津田は|訊《き》いた。
「|実《じつ》はあるのです」
小西は|肯《うなず》いた。「県警の方でも、あの町に、何か|起《おこ》っているらしい、ということは分っていたのですよ。ところが、どうにも|実《じっ》|態《たい》がつかめない。――|最《さい》|初《しょ》は、ちょっとした|噂話《うわさばなし》でした。ところが、その|内《うち》に――」
小西は少し声を低くした。
「|行《ゆく》|方《え》不明の|者《もの》が何人も出ている、という|情報《じょうほう》が入って来た。それではこっちとしても|放《ほう》っておけない。しかし、|確《かく》たる|証拠《しょうこ》や|犯《はん》|罪《ざい》の|事《じ》|実《じつ》もないのに、|乗《の》り|込《こ》んで行くには、少々人手も|不《ふ》|足《そく》していましてね」
「そうでしたか……」
と、津田は|肯《うなず》いた。
「あの中込さんのことを聞いて、これは、あの町の|事情《じじょう》を知る手がかりになる、と思い、私が自分で来ることにしたのです」
小西は|淡《たん》|々《たん》と語っていた。「――あなたが来られたのは、どういう事情だったんです?」
津田は、依子の電話のことから|始《はじ》めて、|順序《じゅんじょ》立てて|説《せつ》|明《めい》した。
「なるほど」
と、小西は肯いた。「どうやら、あなたは、|恐《おそ》るべき|幸《こう》|運《うん》に|恵《めぐ》まれましたね。中込さんを|救《すく》うことができたのですから」
津田は、|初《はじ》めて、それに|気《き》|付《づ》いた。
「――コーヒーでもいかがです?」
と、小西はのんびりと言った。
「そうですね」
津田は、何となく、この、ちっともいかめしくない|警《けい》|部《ぶ》に、|親《しん》|近《きん》|感《かん》すら|覚《おぼ》えていた。
こちらはあまり|感《かん》|心《しん》しない|味《あじ》のコーヒーを|飲《の》みながら、津田は言った。
「|彼《かの》|女《じょ》は、『|殺《ころ》される』と言いました。――しかも、さっきの話のように、『みんなの|死《し》』とも言っています。一体、何が|起《おこ》ったんでしょう?」
「さあ、それは分りません」
小西は|首《くび》を|振《ふ》った。「幸い、中込さんは、冷静な|観《かん》|察《さつ》|者《しゃ》です。もっと、|公《こう》|平《へい》な目で見た|事《じ》|件《けん》の|全《ぜん》|貌《ぼう》を語ってくれるでしょう」
「しかし……」
と言いかけて、津田は|苦笑《くしょう》した。「話を聞くのが、ちょっと|怖《こわ》いんですよ、|正直《しょうじき》に言って」
「分ります」
小西は|静《しず》かに|肯《うなず》いた。「一つ|確《たし》かなことは――」
「え?」
「それが、すでに|終《おわ》ってしまった、ということです」
「角田栄子は、|捜《そう》|索《さく》を|始《はじ》めて三日目の朝、|死《し》|体《たい》で|発《はっ》|見《けん》されました」
と、依子は言った。「|誰《だれ》かが、首を|絞《し》めて|殺《ころ》したのです。|暴《ぼう》|行《こう》の|形《けい》|跡《せき》はありませんでした」
「その|事《じ》|件《けん》は聞いています」
と、小西が|肯《うなず》く。
「――栄子ちゃんの両親の|嘆《なげ》きは、本当に、見ていられないくらいでした。私も|教師《きょうし》として、|責《せき》|任《にん》の|一《いち》|部《ぶ》を|負《お》わなくてはならない、と思いました。そして、|葬《そう》|儀《ぎ》の日は、朝から|冷《つめ》たい雨で、まるでもう冬が来たかと思うような日でした……」
依子は、|焼香《しょうこう》を|済《す》ませると、|外《そと》へ出た。
角田家は広いので、中で|座《すわ》っていられる|場《ば》|所《しょ》もあったのだが、両親の顔と、|正面《しょうめん》の|写《しゃ》|真《しん》の中で|微《ほほ》|笑《え》んでいる栄子の顔を見ている|勇《ゆう》|気《き》がなかったのだ。
外へ出て、雨の中に立っている方が、まだ|良《よ》かった。
|傘《かさ》をさして、|外《そと》に出ると、町のほとんどの人々が、|集《あつ》まっていた。|焼香《しょうこう》の|列《れつ》は、|延《えん》|々《えん》と|続《つづ》いている。
|読経《どきょう》の声。香の|匂《にお》い。
|重《おも》|苦《くる》しい時間が|過《す》ぎて行った。――|予《よ》|定《てい》を一時間|以上《いじょう》ものばして、焼香が続いたので、さすがに|出棺《しゅっかん》を|待《ま》っていた人々も、少しずつ帰り|始《はじ》め、やっと焼香|客《きゃく》の列が|終《おわ》りに近づいたときには、半分ほどに|減《へ》っていた。
依子も、長く立っていて、|指《ゆび》|先《さき》が、かじかんで来た。
ちょっと|腹《はら》|立《だ》たしかったのは、水谷が、焼香を|済《す》ませて、さっさと帰ってしまったことだった。――人さまざまだから、|仕《し》|方《かた》ない、と自分へ言い聞かせる。
「先生」
と声をかけられ、|振《ふ》り|向《む》くと、|駐在所《ちゅうざいしょ》の河村である。
「河村さん――」
「ご苦労さまです。|出棺《しゅっかん》までおられますか」
「ええ」
「|全《まった》くむごいことだ」
と、河村は首を|振《ふ》った。
「|犯《はん》|人《にん》の手がかりは?」
と、依子は|訊《き》いた。
「何人か、|浮《うか》んではいるのですが、なかなか|決《き》め手がなくて……」
河村の|返《へん》|事《じ》は、何だか|用《よう》|意《い》されたもの、という|印象《いんしょう》を、依子は受けた。
|実《じっ》|際《さい》は、何かつかんでいるのかもしれない。ただ、|部《ぶ》|外《がい》|者《しゃ》には話せない、ということなのだろう。
「ともかく、早く|捕《つか》まってほしいですね」
と、依子は言った。「他の|生《せい》|徒《と》たちにも、同じ|危《き》|険《けん》があるわけですから」
「|同《どう》|感《かん》です。――いや、先生の|努力《どりょく》には|感《かん》|服《ぷく》しますよ。お|若《わか》いのに、しっかりしていらっしゃる」
「とんでもない」
と、依子は言った。
自分に|油《ゆ》|断《だん》はなかったか?――あのあと、何度そう自分へ|問《と》いかけたことだろう。
|都《と》|会《かい》でも、こんな小さな町でも、同じ危険[#「同じ危険」に傍点]が、|子《こ》|供《ども》たちを|待《ま》ち|受《う》けているのに、自分は、|至《いた》ってのんびりと、|放《ほう》っておいたのではないか。
帰り道の|注意《ちゅうい》や、身を|守《まも》るための|知《ち》|恵《え》を、子供たちに教えるのを、|怠《おこた》ったのではないか……。
そう思うと、たまらなかった。
|不《ふ》|意《い》に、その|場《ば》の|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が|一《いっ》|変《ぺん》した。それは、|特《とく》|別《べつ》注意していたわけでもない依子が、ハッとするほどの|急激《きゅうげき》な|変《へん》|化《か》だった。
一人の女が、やって来たのだ。
黒いスーツ、手に|数《じゅ》|珠《ず》をかけた、見たところ、特に変ったところもない、四十代の|女《じょ》|性《せい》だ。少し、|生《せい》|活《かつ》に|疲《つか》れたようなところも見えた。
ただ、|奇妙《きみょう》なのは――もしこの町の人間だとすると、一年間も|住《す》んでいるのに、依子は見たことがない、ということ、そしてもう一つ、今、その女を見る、町の人々の目の|冷《ひ》ややかさだった。
いや、それはほとんど、|敵《てき》|意《い》ともいえるものだった。
女は、|焼香《しょうこう》のために、中へ入って行った。――町の人々がざわつく。
声をひそめて、話し合っている。
依子は、河村の方へ、そっと、
「今の人は、どなたですか?」
と|訊《き》いてみた。
しかし、河村の目は、その女の後を|追《お》っていて、依子の|問《と》いには、ちょっと|肩《かた》をすくめて、
「この町の|者《もの》じゃないんですよ」
と言っただけだった。
その言い方は、いやに冷ややかで、ちょっと依子は|驚《おどろ》いた。そんな言い方をする河村を、|初《はじ》めて見た。
もう少し、何か訊いてみようと思ったのだが、河村は、
「|失《しつ》|礼《れい》」
と、足早に、家の中へ入って行ってしまった。
ややあって、あの女が出て来た。
町の人々は、|今《こん》|度《ど》は女を|無《む》|視《し》していた。女が、門のわきに立って、|傘《かさ》を広げた。
|出棺《しゅっかん》も間もなくだろう。――依子は、そっと|周囲《しゅうい》を見回した。
町の人々は、どこか|冷《つめ》たい|仮《か》|面《めん》をかぶったように見えた。それは、ほんのわずかの、|微妙《びみょう》な|変《へん》|化《か》だったが、依子には、はっきりと|感《かん》じられた。
|突《とつ》|然《ぜん》、見知らぬ人々の|真《まん》|中《なか》へ|放《ほう》り出されたような、そんな|気《き》|持《もち》だった……。
依子は、その女を見た。――|哀《かな》しげな目だった。顔にも、|表情《ひょうじょう》というか、|生《せい》|気《き》がない。
ふと、|視《し》|線《せん》を感じたのか、その女が、依子を見た。
依子は、その、哀しげな目から、視線をそらすことができなかった。
女の顔には、「|諦《あきら》め」だけがあった。
町の人々のことを、見ようともしない。
声もかけられないことを、ちゃんと知っているのだ。そして、その|境遇《きょうぐう》に|甘《あま》んじている。
町の人間ではない、と河村は言ったが、それでは、なぜここへ来ているのか。
「|出棺《しゅっかん》でございます」
と声がして、|全《ぜん》|員《いん》の目が、その方へ|向《む》いた。
――小さな棺が、出て来る。
|涙《なみだ》があちこちで|湧《わ》いた。雨の音さえ、|打《う》ち|消《け》すようだった。
|霊柩車《れいきゅうしゃ》の中へ|納《おさ》められると、角田と、その|妻《つま》が、|参《さん》|列《れつ》|者《しゃ》の前に立って、|短《みじか》く、|挨《あい》|拶《さつ》をした。
ほとんど声にならない挨拶だった。
角田は、|深《ふか》|々《ぶか》と頭を下げた。――|傘《かさ》もなく、雨に|濡《ぬ》れている。
河村が、なぜか、角田の少し後ろに立っていた。
町の人々が引き上げかけた。――依子は、あの女のことが、何となく気になって、その|場《ば》に立っていた。あの女も、行こうかどうしようかと、|迷《まよ》っている|様《よう》|子《す》だ。
角田が、その女を見た。女と目が合った。
そして――依子が、目を|疑《うたが》うような|出《で》|来《き》|事《ごと》が、|起《おこ》ったのである。
しかし、見たものは|間《ま》|違《ちが》いようもない|現《げん》|実《じつ》だった。角田が、黒い|上《うわ》|衣《ぎ》の|内《うち》|側《がわ》へ手を入れると、|銀《ぎん》|色《いろ》に光る|短《たん》|刀《とう》を|取《と》り出した。
そして、あの女の方へと|大《おお》|股《また》に歩いて行くと、いきなり、短刀を女の|腹《はら》へと|突《つ》き立てた。
依子は目を|見《み》|張《は》った。刃は、たっぷり十センチ|以上《いじょう》、女の体に|呑《の》み|込《こ》まれていた。
女の手から、|傘《かさ》が水たまりに|逆《さか》さに|落《お》ちる。女は、大きく目を|見《み》|開《ひら》いて、|崩《くず》れるように|倒《たお》れかけた。
そのとき、河村が|素《す》|早《ばや》く|飛《と》び出して女を|支《ささ》えた。同時に、|周囲《しゅうい》にいた二、三人の男が、女を|両側《りょうがわ》からかかえるようにして、家の方へと|運《はこ》んで行く。
女をそっちへ|任《まか》せて、河村は、角田の|腕《うで》を取った。河村と角田が、家の中へ入って行った。
角田の|妻《つま》が、それを|追《お》って家の中へ|消《き》える。
――|総《すべ》ては、ほんの何|秒《びょう》かの|出《で》|来《き》|事《ごと》だった。
|我《われ》に|返《かえ》った依子は、町の人々が、何も|気《き》|付《づ》かなかったのか、家へと|戻《もど》って行くのを、|見《み》|送《おく》っていた。
あれは――あれは|現《げん》|実《じつ》だったのか?
|間《ま》|違《ちが》いない。あの女の|傘《かさ》が、雨の中に、|落《お》ちている。
角田が、あの女を|刺《さ》したのだ!
なぜ? なぜなのか?
あの女が、栄子を|殺《ころ》したとでもいうのだろうか?――それ|以《い》|外《がい》には、考えられない。
依子は、後が気がかりではあったが、ともかく、|一《いっ》|旦《たん》|引《ひ》き上げることにした。
「何てこと……」
歩きながら、思わず|呟《つぶや》いていた。
たとえ|犯《はん》|人《にん》があの女だとしても、|刺《さ》してしまうなんて! しかも、あの|傷《きず》は、|下《へ》|手《た》をすれば|命取《いのちと》りだろう。
ともかく――河村が、あそこにいたのだから……。
だが、どうも|妙《みょう》だった。
依子は、|初《はじ》めて思い|付《つ》いた。河村は、角田があの女を刺すのを見ても、手を出さなかった。|突《とつ》|然《ぜん》で、どうにもできなかったのかもしれない。
しかし、女が|倒《たお》れかかったとき、|素《す》|早《ばや》く|支《ささ》えた、あの|行《こう》|動《どう》は? まるで、|待《ま》っていたようだった。
そして、すぐに女を中へ|運《はこ》んだ|手《て》|際《ぎわ》の|良《よ》さ……。
まさか!――考えすぎだ。
依子は、|冷《つめ》たい雨の中、|下宿《げしゅく》へと、足を早めていた。|逃《に》げているかのように……。
5 |消《き》えた女
角田栄子の|葬《そう》|儀《ぎ》から、三日が|過《す》ぎた。
依子は、|多《た》|忙《ぼう》だった。
ともかく、二度とあんなことがあってはならない、というわけで、|登《とう》|下《げ》|校《こう》|時《じ》に、グループを作ることを|決《き》めたのである。
決めたといっても、何しろ水谷の方は、いたって|腰《こし》が|重《おも》い。|優柔不断《ゆうじゅうふだん》というのか、依子の提案にも、
「そうですねえ……」
と|曖《あい》|昧《まい》な|返《へん》|事《じ》をするばかり。
依子が|業《ごう》を|煮《に》やして、|具《ぐ》|体《たい》|的《てき》な|案《あん》を作ると、
「やはりそれは|僕《ぼく》らの一存では――」
というわけである。
水谷との|相《そう》|談《だん》は|諦《あきら》めて、依子は、|直接《ちょくせつ》、本校の方へと出かけて行った。
校長と|直接《ちょくせつ》話をすると、依子の|提《てい》|案《あん》は、|即《そく》|座《ざ》に|受《う》け|容《い》れられた。本校の方としても、|別《べつ》に|費《ひ》|用《よう》がかかるわけでなし、|認《みと》めない|理《り》|由《ゆう》もなかったのだ。
依子は、三十人の|生《せい》|徒《と》たちを、町の南|側《がわ》、|中央《ちゅうおう》、北側、と|住《す》む|所《ところ》によって三つに分けた。
それぞれに、六年生が入っているので、|好《こう》|都《つ》|合《ごう》だった。
|集合場所《しゅうごうばしょ》を決め、六年生が|責《せき》|任《にん》をもって、|連《つ》れて来る。休む場合は五年生に|必《かなら》ず|連《れん》|絡《らく》しておく。
中央部のグループには五年生がいなかったので、六年生が休むときは、依子が|代《かわ》ることになった。
下校も、時間を早め、|原《げん》|則《そく》としてグループごとに帰ることにした。
しかし、|放《ほう》|課《か》|後《ご》の|校《こう》|庭《てい》で|遊《あそ》ぶのを|楽《たの》しみにしている|子《こ》|供《ども》たちを、しめ出すのも、ためらわれた。
用心|深《ぶか》いのはいいが、子供たちが|駆《か》け回るのまで|禁《きん》じることはできない。――依子は、放課後、遊びたい子は、|予《あらかじ》め|届《とど》け出ること、そして、|必《かなら》ず四人|以上《いじょう》で|遊《あそ》ぶようにして、一人だけ早く、あるいは|遅《おそ》く帰ったりしないようにする、などを決めた。
水谷は、依子があれこれと|規《き》|則《そく》を作るのを見ても、|別《べつ》に|手《て》|伝《つだ》うでもなく、といって、止めるでもなかった。
むしろ、自分の手を|離《はな》れて、ホッとしている、という|様《よう》|子《す》であった。
依子は、|生《せい》|徒《と》たちの家を|一《いっ》|軒《けん》一軒回って、|新《あたら》しいやり方について|説《せつ》|明《めい》しなくてはならなかった。
いや、もちろん、生徒たちに手紙を|持《も》って帰らせてもいいのだし、|父《ふ》|兄《けい》を|呼《よ》んで話をしてもよかったのだが、そうでなく、|出《で》|向《む》いて説明することで、せめて、栄子の|死《し》を|償《つぐな》いたいと思ったのである。
それに、何といっても、あんな|事《じ》|件《けん》があっても、町の人々はのんびりしている。
いわば、|切《せつ》|実《じつ》な|危《き》|機《き》|感《かん》がないのだ。その|辺《へん》を、|直接《ちょくせつ》会って話をすることで、かき立てる|必《ひつ》|要《よう》があった。
|実《じつ》のところ、この「|家《か》|庭《てい》|訪《ほう》|問《もん》」には、依子にとっても、ある|決《けっ》|心《しん》が|必《ひつ》|要《よう》だった。
角田栄子の|死《し》について、依子は、|責《せ》められても|仕《し》|方《かた》のない|立《たち》|場《ば》だったからである。
しかし、回った|各《かく》家庭で、依子は、|快《こころよ》く|迎《むか》えられた。|誰《だれ》|一人《ひとり》、依子を|責《せ》める|者《もの》はいなかった。
むしろ、
「先生のせいじゃないですから」
と|慰《なぐさ》められることもしばしばだったのである。
依子の考えた、グループ|別《べつ》の|登《とう》|下《げ》|校《こう》についても、|誰《だれ》もが快く|協力《きょうりょく》すると|約《やく》|束《そく》してくれた。
「何でも、お|手《て》|伝《つだ》いすることがあったら、おっしゃって下さい」
母親の多くが、そう言ってくれたのは、何よりも|嬉《うれ》しかった……。
そして――グループ別登下校の|初《しょ》|日《にち》が、今日だったのだ。
やはり、のんびりしていて、ついうっかり一人で来た|者《もの》も二、三あったが、ほとんどの|生《せい》|徒《と》たちは、依子の|指《し》|示《じ》の通りに、朝、|決《きま》った時間に|集合《しゅうごう》して、やって来た。
そして帰りも、|混《こん》|乱《らん》なく下校して行った。――|遊《あそ》んで行くという生徒が、十人近くいたので、依子は、もちろん、|許《きょ》|可《か》した。
「いや、|結《けっ》|構《こう》やるもんですねえ」
と、水谷が、|放《ほう》|課《か》|後《ご》になって、|感《かん》|心《しん》したように言い出した。
「え?」
依子は、|窓《まど》から、遊んでいる|子《こ》|供《ども》たちを|眺《なが》めていたが、水谷の|言《こと》|葉《ば》に、|振《ふ》り|向《む》いた。
「いや、|集団登校《しゅうだんとうこう》なんていっても、どうせ、みんな|守《まも》りやしない、と思ってました。きちんとして来たのには、本当にびっくりしましたよ」
依子は|苦笑《くしょう》した。もう、あまり|腹《はら》も|立《た》たない。
「やればできますよ」
と、言って、また|校《こう》|庭《てい》に目を向けた。
「|全《まった》くだ。しかし……」
水谷は、言いかけて、|言《こと》|葉《ば》を切った。
|沈《ちん》|黙《もく》が|続《つづ》いて、依子は、また|振《ふ》り|返《かえ》った。
「しかし――何ですの?」
「え? ああ、いや――いつまで続くかな、と思いましてね」
依子がムッとして言い返そうとすると、
「|別《べつ》に、これは|皮《ひ》|肉《にく》を言ってるんじゃありません」
と、水谷は急いで言った。「ただ、|事《じ》|実《じつ》を言ってるんです。もちろん、この間のような|事《じ》|件《けん》は、この小さな町には大事件だ。でも、また|忘《わす》れられるのも早いですよ」
依子は何も言わなかった。
水谷の言うことにも一理ある、と思ったのだ。
「まあ、あんなこと、もう二度と|起《おこ》らんでしょう」
と、水谷は言った。
「そう|願《ねが》いたいですね」
と、依子は言った。
ふと、思い出していた。――栄子の|葬《そう》|儀《ぎ》のとき、角田が|刺《さ》した女のことを。
あの女が来たとき、町の人々が|向《む》けた、|冷《ひ》ややかな|視《し》|線《せん》。――それは、依子を|迎《むか》えた|父《ふ》|兄《けい》と同じ人々のものとは思えなかった。
「あの人、どうなったのかしら」
と、依子は言った。
「――|誰《だれ》のことです?」
水谷が|訊《き》く。
「お|葬《そう》|式《しき》で……。ああ、水谷先生はいらっしゃらなかったんだわ。中年の女の人が|焼香《しょうこう》にみえたんです。そして――角田さんが、その人を|短《たん》|刀《とう》で|刺《さ》したんですよ!」
水谷は目を|丸《まる》くしていた。
「刺した、ですって?」
「ええ」
「まさか!」
と、水谷は|笑《わら》った。
「本当です。|確《たし》かに、目の前で見たんですもの」
「そんな風に見えたような気がしただけじゃありませんか?」
「いいえ! この目で見たんです。|絶《ぜっ》|対《たい》に確かですわ」
と、依子は言い|張《は》った。
「しかし、そりゃ|傷害罪《しょうがいざい》になりますよ」
「もちろんですわ。あの|刺《さ》し|傷《きず》だったら、|死《し》ぬか、それでなくても|大《たい》|変《へん》な|重傷《じゅうしょう》だと思います」
「でも、そんな話、聞きませんね、少なくとも|僕《ぼく》は」
|私《わたし》もだわ、と依子は思った。
町の人々は|噂話《うわさばなし》が|趣《しゅ》|味《み》である。あんな大変な事件で、しかも、ひき|起《おこ》したのは、町の名士だ。
もっとあちこちで|話《わ》|題《だい》になっていてもいいのに。
「それに、そんなことをすれば、いくら角田さんだって|逮《たい》|捕《ほ》されてますよ」
と、水谷が言った。
「ええ、もちろんでしょうね」
「でも、僕は|今《け》|朝《さ》、見かけましたよ」
依子は、|振《ふ》り|向《む》いた。
「|誰《だれ》を?」
「角田さんです。いつも通り、車を|運《うん》|転《てん》して行きました」
依子は、|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「本当ですか?」
「もちろん。父親の方でしょう? |間《ま》|違《ちが》いありません」
まさか、そんなことが――と思ったが、水谷がそんなでたらめを言うはずもない。
依子は、わけが分らなかった……。
「|失《しつ》|礼《れい》します」
依子は、声をかけた。
「やあ、先生! これはどうも――」
|駐在《ちゅうざい》の河村である。パッと|敬《けい》|礼《れい》して、
「ご|苦《く》|労《ろう》さまです」
「どうも――」
依子は、ちょっとどぎまぎした。「今――よろしいでしょうか」
「ええ、もちろんです」
と、河村は、ガタつく|椅《い》|子《す》を、依子にすすめた。
「どうなりましたか、|犯《はん》|人《にん》は?」
と、依子は|訊《き》いた。
河村は、ちょっとポカンとしていたが、
「ああ、栄子さんの|一《いっ》|件《けん》ですか、もちろん」
と|肯《うなず》いた。「今、|県《けん》|警《けい》に、|異常者《いじょうしゃ》のリストを|頼《たの》んでいるんですよ。その中で、この|近《きん》|辺《ぺん》の者、この辺まで|容《よう》|易《い》に来られる者を|洗《あら》ってみるつもりです」
「そうですか」
依子は肯いたが、ちょっとすっきりしなかった。
依子が「犯人」と言ったとき、河村がすぐに分らなかったのは、どういうわけだろう?
まるで、栄子|殺《ごろ》しが、もう|過《か》|去《こ》のものにでもなってしまったかのようだった。
いや、いくら何でも、それは考え|過《す》ぎだろう。――河村だって、ついうっかりすることはある。
「実は、そのことに|関《かん》|連《れん》してなんですが」
と、依子は|座《すわ》り|直《なお》した。「お|願《ねが》いがありまして――」
依子は、グループ|別《べつ》の|登《とう》|下《げ》|校《こう》のやり方について|説《せつ》|明《めい》し、|欠《けっ》|席《せき》が多かったりして、自分一人では手が回らないときは、|協力《きょうりょく》してくれと|頼《たの》んだ。
「|承知《しょうち》しました、|任《まか》せて下さい」
と、|即《そく》|座《ざ》に、河村は言った。
「|良《よ》かったわ。私の|一《いち》|存《ぞん》で|始《はじ》めてしまって、出すぎた|真《ま》|似《ね》をしたかと気になっていたんです」
「そんなことはありませんよ。町の|連中《れんちゅう》、みんな、いい先生だと|評判《ひょうばん》です」
「とんでもありません」
依子は顔を赤らめた。「――じゃ、どうかよろしく」
立ち上って、|駐在所《ちゅうざいしょ》を出ようとして、
「ああ、あの女の方、|傷《きず》はどうでしたの?」
と、|訊《き》いた。
「女といいますと?」
「ほら、角田さんがお|葬《そう》|式《しき》のとき、|刺《さ》した……」
「刺した?」
河村が目を|見《み》|張《は》り、それから「――ああ、分りました!」
と|肯《うなず》いて、ちょっと|笑《わら》った。
「いや、『刺した』とおっしゃるんで、びっくりしました」
「でも、本当に刺したでしょ? 私、あの|場《ば》で見ていて、びっくりしました」
「あの女は、角田さんのお|妾《めかけ》さんですよ」
と河村は、少し声を低くして言った。
「まあ!」
「だから、町の|連中《れんちゅう》は、|良《よ》く思っていません。それに、栄子さんのことを|恨《うら》んでいましたからね。あの子さえいなければ、妻の|座《ざ》につけた、とでも思っているんでしょう」
「それで……。でも、角田さんが、なぜあんな――」
「さあ、やはりカッとなってたんでしょうな……」
と、河村は首を|振《ふ》った。「|一人娘《 ひとりむすめ》を|殺《ころ》されたんだ。つい、|理《り》|性《せい》を|失《うしな》うのも分りますよ」
「ええ、それはもちろんですわ」
「でも、|刺《さ》されたわけじゃありませんよ」
と河村は|軽《かる》い|口調《くちょう》で言った。「どうも、角田さんの|様《よう》|子《す》がおかしいんで、私も気を|付《つ》けとったんです」
「ええ、|憶《おぼ》えていますわ」
「あの女に|向《むか》って行こうとしたんで、私が止めたんですよ。そしたら、角田さんが|包丁《ほうちょう》で切りつけましてね。――女の方は、ちょっと手をけがしただけでした」
依子は、何とも言わなかった。
「角田さんも、後で気が|落《お》ちつくと、|悪《わる》かったと|謝《あやま》っておられました。まあ、いくらお|妾《めかけ》でも、|子《こ》|供《ども》を|殺《ころ》したりはせんでしょう」
「そう――でしょうね」
「|結局《けっきょく》、女の方も、|訴《うった》えたりするつもりはないということでした。――そんな|具《ぐ》|合《あい》です」
「そうでしたか」
依子は、やっとの思いで、|笑《え》|顔《がお》を作った。
「どうもお|邪《じゃ》|魔《ま》しました」
依子は、|外《そと》へ出て、歩き出した。
見られている。――|振《ふ》り|向《む》かなかったが、依子は、なぜか、ずっと見つめられているような気がして、ならなかった。
その夜、依子は、|眠《ねむ》れなかった。
河村の話を|信《しん》じたい。――信じられたら、どんなにか気が|楽《らく》だろう。
しかし、そのためには、依子は、自分の見たもの、その|記《き》|憶《おく》を|否《ひ》|定《てい》しなくてはならないのだ。
それは|不《ふ》|可《か》|能《のう》だった。――|印象《いんしょう》は、あまりに|鮮《せん》|烈《れつ》だ。
女の|腹《はら》へ|呑《の》み込まれる|短《たん》|刀《とう》、|落《お》ちる|雨《あま》|傘《がさ》、そして、手早く|運《はこ》ばれる女……。
依子は、はっきり見た。そして、|憶《おぼ》えているのだ。
それをどうして否定できようか?
しかし、|実《じっ》|際《さい》に、河村は否定している。
河村が|嘘《うそ》をついているのか。――なぜ?
依子の|記《き》|憶《おく》が正しければ、|当《とう》|然《ぜん》、角田は、|傷害《しょうがい》か|殺《さつ》|人《じん》|未《み》|遂《すい》で|逮《たい》|捕《ほ》されているだろう。
しかし、|現《げん》|実《じつ》に、角田は|自《じ》|由《ゆう》の|身《み》である。――つまり、女を|刺《さ》しても、逮捕されていないのだ。
角田がいかに|実力者《じつりょくしゃ》といえ、そんな|罪《つみ》を|逃《のが》れることは、考えられない。
暗い|部《へ》|屋《や》の中で、依子は|寝《ね》|返《がえ》りを|打《う》った。
|間《ま》|違《ちが》いない。――何度考えても、記憶違いや、見間違いではありえない。
「いいわ」
と、|呟《つぶや》いてみる。
あの|事《じ》|件《けん》は|起《おこ》ったのだ。
そして、どうなったのか? まず|第《だい》|一《いち》に、|刺《さ》された女はどうしたのか?
これが|肝《かん》|心《じん》だ。女は生きているのだろうか?
もちろん、見かけほどの|傷《きず》でなかったということは、あり|得《う》る。だが、ちょっと|薬《くすり》をつけたぐらいで|治《なお》せる傷でないことは、|確《かく》|実《じつ》であった。
つまり――どこかで、|治療《ちりょう》を受けているはずだ。
町に、|医《い》|者《しゃ》は一|軒《けん》しかない。|内《ない》|科《か》、|外《げ》|科《か》、|小児科《しょうにか》と一人で|引《ひ》き|受《う》けている、|金《かな》|山《やま》|医《い》|師《し》である。
「|生《せい》|徒《と》の|健《けん》|康《こう》|診《しん》|断《だん》は、またよろしくお|願《ねが》いします」
と、依子は、古びた|診《しん》|察《さつ》|室《しつ》で、頭を下げていた。
「ああ、いつでも行ってやるよ」
金山医師は、しわくちゃの|白《はく》|衣《い》を|着《き》た人の|好《よ》さそうな、六十男である。
六十といっても、|髪《かみ》は白いが、まだまだ|血色《けっしょく》のいい、|好《こう》|人《じん》|物《ぶつ》だった。
「今日は、ちょっと|私《わたし》のことで……」
と、依子は言った。
「そうか。何だね?」
「|実《じつ》は……このところ、ちょっと生理が|不順《ふじゅん》なんです」
「うん、なるほど。まあ、色々|心《しん》|労《ろう》が|重《かさ》なったせいだろうね」
「はあ」
「それとも|妊《にん》|娠《しん》するような|心当《こころあた》りでもあるかね?」
「いやだわ! そんなこと――」
と、依子は赤くなって言った。
「いや、私ももう二十|歳《さい》|若《わか》けりゃ、あんたを|放《ほう》っちゃおかんのだが」
「|光《こう》|栄《えい》です」
と、依子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「――で、お|薬《くすり》など|服《の》まなくていいでしょうか」
「まあ、できれば|放《ほう》っておいて、|自《し》|然《ぜん》に|元《もと》に|戻《もど》るのを|待《ま》った方がいいがね」
「そうですか」
「何か、体の方に、|異常《いじょう》があるかね」
「少し手足が|冷《ひ》えます」
「うん、それは|女《じょ》|性《せい》には多い。|心《しん》|配《ぱい》することはないよ。ただ、ちゃんと|睡《すい》|眠《みん》は|取《と》らなくてはいかんよ」
「はい」
と、依子は|肯《うなず》いた。「――ここは、|入院《にゅういん》なさってる方はあるんですか?」
「|昔《むかし》はいたよ」
と、金山は言った。「しかし、|命《いのち》の|惜《お》しい|者《もの》はみんな|逃《に》げ出すので、やめた」
「じゃ、|重《おも》い|病気《びょうき》の方は?」
「大きな病院へ送るのさ。車で三十分ほどの|所《ところ》に|一《いち》|応《おう》、|総《そう》|合《ごう》病院がある」
「そうですか」
と、依子は言った。「じゃ、あのけがをした女の方も――」
金山は、ちょっといぶかしげに、
「|誰《だれ》のことかね?」
と|訊《き》いた。
「お|葬《そう》|式《しき》のあった日です。角田さんの|所《ところ》で、けが人が出たとか聞きましたけど」
金山医師は、ちょっと|迷《まよ》っている|様《よう》|子《す》だった。
「――ああ、そういえば、そんなことがあったかな」
「やはり、大きな|病院《びょういん》へ?」
「うん、|送《おく》ったよ。思い出した。だが、大した|傷《きず》じゃなかった」
「そうですか。|良《よ》かったわ」
依子は立ち上り、|診《しん》|察《さつ》|室《しつ》を出ようとして、|振《ふ》り|向《む》いた。「その|総《そう》|合《ごう》病院の名前と電話を教えていただけますか? 何かのときに、|心《しん》|配《ぱい》なので」
「いいとも」
金山は、メモ用紙を|一《いち》|枚《まい》|破《やぶ》り|取《と》った。その音が、ギクリとするほど|鋭《するど》かった。
6 少 女
「考えてみると……」
と、依子は言った。「あのとき、何も|追求《ついきゅう》したりせずに、きれいに|忘《わす》れてしまっていれば|良《よ》かったのかもしれません。|大《おお》|沢《さわ》|和《かず》|子《こ》のことは、ずっと分らなかったにせよ……」
「大沢和子というのは?」
と、|小《こ》|西《にし》|警《けい》|部《ぶ》が|訊《き》いた。
|午《ご》|後《ご》の|病院《びょういん》は、|静《しず》かだった。
ベッドに少し|起《お》き上った|格《かっ》|好《こう》で話をしている依子は、まるで、モノローグだけのドラマに|出演《しゅつえん》している|役《やく》|者《しゃ》のように見えた。
津田は、依子の母親を、近くのホテルに|送《おく》り|届《とど》けて、|戻《もど》って来たのだった。
|奇妙《きみょう》な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》だ。――依子の話と、この|穏《おだ》やかな|病室《びょうしつ》と。
何もかもが、|夢《ゆめ》のようにも思えて来る。
「すみません」
と、依子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「大沢和子というのは、角田に|刺《さ》された|女《じょ》|性《せい》の名です」
「なるほど」
「いけない|性《せい》|格《かく》なのかもしれませんけど――私、|物《もの》|事《ごと》を|曖《あい》|昧《まい》に|済《す》ませておくことのできない|性《せい》|質《しつ》なんです」
「|君《きみ》は|昔《むかし》からそうだったよ」
と、津田は言った。
「そうね。だから、男っぽいとか言われてたわ」
と、依子は津田へ|笑《わら》いかけた。
大分、|以《い》|前《ぜん》の元気な依子に|戻《もど》ったようだ、と津田は思った。
「それでいいんですよ」
と、小西が穏やかに言った。「どんなに|残《ざん》|酷《こく》なものでも、|真《しん》|相《そう》を|暴《あば》くことは、|間《ま》|違《ちが》いではありません」
「そうおっしゃって下さると、少し|安《あん》|心《しん》しますわ」
依子は、|深《ふか》く|息《いき》をついて、|天井《てんじょう》へ目を|向《む》けた。
「|疲《つか》れたのなら、少し休みましょうか」
と、小西が|訊《き》いた。
「いいえ。そうじゃありません。――|私《わたし》、どうお話ししようかと……。でも、何もかも申し上げた方がよろしいでしょう」
「話しやすいように、話して下さい。|総《すべ》てを聞き出すのは私の|仕《し》|事《ごと》ですからね」
依子は|軽《かる》く|肯《うなず》いた。
「――金山|医《い》|師《し》の|所《ところ》から|戻《もど》って、私、|下宿《げしゅく》でいろいろ考えてしまいました。私は一体何をしているんだろう……」
私は一体何をしているんだろう?
依子は、|畳《たたみ》の上に|寝《ね》|転《ころ》がって考えた。
町の人たちは、みんな親切な人ばかりだ。それは分っている。でも――それでいて、河村や、金山|医《い》|師《し》を|疑《うたが》ってかかっている。
あの女がけがをしたにしろ、自分には何の|関《かん》|係《けい》もないことではないか。もっとやるべき|仕《し》|事《ごと》は、|別《べつ》にある……。
そうなのだ。分っている。――何もかも、見なかったことにして|忘《わす》れてしまえばいいのだ。
それで|総《すべ》ては|丸《まる》く|収《おさ》まる。
でも――それができない。|性《せい》|格《かく》というものだろう。
だが、依子が知りたかったのは、二つだけだ。|刺《さ》された女の|具《ぐ》|合《あい》と、刺した角田の|罪《つみ》。
それさえ分れば、依子とて|満《まん》|足《ぞく》したかもしれない。いや、|不《ふ》|満《まん》は|残《のこ》っても、日々の仕事の|内《うち》に、忘れていたかもしれない。
だが、総てを忘れることは、どうしてもできなかった……。
|次《つぎ》の日曜日――
「ちょっと出かけて来ます」
と、|一《いっ》|階《かい》の|家《や》|主《ぬし》である|未《み》|亡《ぼう》|人《じん》へ声をかけて、依子は|下宿《げしゅく》を出た。
町の中には、バス|停《てい》というものはない。
|幹《かん》|線《せん》|道《どう》|路《ろ》から|外《はず》れているので、バス停は町の外れ、十分ほど歩いた|所《ところ》にあった。
野っ原を道が|横《よこ》|切《ぎ》っているだけの場所で、バス停の|標識《ひょうしき》が、ポツンと、少し|傾《かたむ》いて立っている。
今は、|都《と》|会《かい》ではバス停の標識もずいぶん新しいデザインのものに|変《かわ》っている。こんなクラシックな「停留所」は、もう|忘《わす》れられて行くだけだろう。
少し早|過《す》ぎたわ。――依子は、|腕《うで》時計を見て思った。
バスも、もちろん本数が少ない。日曜日は|特《とく》にそうである。
だから、依子も、ちゃんと時間を見て、それに合わせて下宿を出たのだ。しかし、本来がせっかちなので、早く|着《つ》いてしまったというわけである。
あと五分……。
このバスは、|時刻表《じこくひょう》から|遅《おく》れることはあっても早く来ることはない。依子の|乏《とぼ》しい|経《けい》|験《けん》でも、それはよく分っている。
|足《あし》|音《おと》がして、|振《ふ》り|向《む》いた。
「まあ、先生」
|駐在《ちゅうざい》の河村の|奥《おく》さんである。「お出かけですか」
「ええ」
依子は|肯《うなず》いて、「お|買《かい》|物《もの》?」
「少し買い出しに行かないと」
と、河村の|妻《つま》は言った。「何しろ、大きいスーパーの方が、何でも|安《やす》いですものね」
「そうですね」
「それに、|品《しな》がいいんですよ。魚とか|肉《にく》とか。やっぱり大きい|所《ところ》の方が新しいですもの」
|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》で、ちょっと|几帳面《きちょうめん》なところのある河村に|比《くら》べると、妻の方はのんびりタイプである。
河村もやや|太《ふと》り|気《ぎ》|味《み》だが、妻の方は|完《かん》|全《ぜん》に太っていた。依子と|並《なら》んで立つと、|印象《いんしょう》だけでは、|倍《ばい》もあるという|感《かん》じだ。
|丸《まる》いメガネをかけていて、顔も丸いので、どことなく|愛敬《あいきょう》はある。しかし、なぜか依子は、この奥さんが、|苦《にが》|手《て》であった。
|理《り》|由《ゆう》はよく分らない。ともかく、|一《いっ》|緒《しょ》にいると、何となく|疲《つか》れるのである。
そうおしゃべりでもなく、人の|悪《わる》|口《ぐち》を聞かせるわけでもないのだが、それでも、どこか疲れる。
いわば、|波長《はちょう》が合わないとでもいうのだろうか……。
この人と、町まで|一《いっ》|緒《しょ》だと気が|重《おも》いな、と依子は思った。|特《とく》に今は、河村のことで|胸《むね》の中にモヤモヤしたものがあるので、|余《よ》|計《けい》だった。
仕方ない。どうせ、|向《むこ》うへ|着《つ》けば|別《べつ》|々《べつ》なのだから……。
「先生はよろしいですね、スマートで」
と、河村の|妻《つま》が言った。
「はあ」
「私なんか|L《エル》サイズでしょ。このセーターも、|好《す》きな|色《いろ》じゃないんですよ。でも、この色しかLがなくて」
|確《たし》かに、ちょっと|変《かわ》った草色で、あまり|趣《しゅ》|味《み》のいい色とはいえなかった。
「あら、|珍《めずら》しい」
と、河村の|妻《つま》が言った。「時間通りに来たわ」
バスがやって来るのが見えた。依子はホッとした。
バスが|停《とま》ると、二人は前の方の|乗車口《じょうしゃぐち》から入った。
「さあ、先生、そこへ|座《すわ》りましょうよ」
と、河村の妻に言われて、依子は|並《なら》んで座ることになった。
中はガラガラなのだから、本当は、|別《べつ》|々《べつ》に座りたかったのだが、こうなると|仕《し》|方《かた》ない。
|降《お》りる方の口で、|年《とし》|寄《よ》りが手間|取《ど》っていてバスはまだ停っていた。
乗車口はもう|閉《と》じていたが、|窓《まど》から|外《そと》へ目を|向《む》けた依子は、|誰《だれ》かが走って来るのに目を止めた。
「誰か来るわ」
と、言うと、河村の|妻《つま》も目をそっちへ|向《む》けたが、
「まあ」
と、声を出した。
|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》そうな言い方で、依子はびっくりした。
それは、十五、六の女の子だった。スラリとして、|背《せ》は依子と同じぐらいありそうだ。
バスの|乗車口《じょうしゃぐち》がもう一度|開《ひら》いて、その少女が乗って来た。
ジャンパーにジーパンという、男の子のようなスタイルだった。|髪《かみ》も短く|切《き》って、|全《ぜん》|体《たい》にボーイッシュである。
少女は、依子たちのわきを通って、後ろの方の|座《ざ》|席《せき》へついた。
バスがガタゴト|揺《ゆ》れながら、走り出す。
少女は、依子にも、河村の妻にも、全く目を向けなかったが、それは、|別《べつ》にわざと目をそむけているのではなく、|無《む》|視《し》してかかっている|感《かん》じだった。
「――先生、気を|付《つ》けて下さい」
と、河村の|妻《つま》が、少し低い声で言った。
「何をですか?」
「今、|乗《の》って来た|娘《むすめ》がいるでしょう」
「ええ。あの女の子が、どうかしたんですの?」
「|泥《どろ》|棒《ぼう》なんです」
依子は目を|見《み》|張《は》った。河村の妻は、顔をしかめて、
「ともかく、小さいころから、人の|物《もの》を|盗《ぬす》むくせのある|子《こ》|供《ども》で、何度も|捕《つか》まってるんですよ。――今でも|良《よ》くなっていなくて、たぶん町へ出て、スリでもしてるんじゃないかと、みんな言ってますわ」
「まあ……」
依子は、そっと|振《ふ》り|向《む》いて、一番後ろの|座《ざ》|席《せき》に座っている女の子を見た。
「ともかく用心なさって下さい。お|財《さい》|布《ふ》をすられないように」
「気を付けますわ」
と、依子は言った。
少しバスが|揺《ゆ》れるのに|身《み》を|任《まか》せていた依子だったが、ふと思い|付《つ》いて、
「でも――やはり町に|住《す》んでいる人でしょう?」
「え?」
「あの、後ろの女の子です」
「ええ――そりゃあ、まあ|一《いち》|応《おう》町の人間ということになってるんですよ」
河村の|妻《つま》は、|曖《あい》|昧《まい》に言った。
「でも、|私《わたし》、見かけたことがありません。町のどこら|辺《へん》に、お家があるんですの?」
「町といっても、町|外《はず》れです。|書《しょ》|類《るい》の上で町の人、というだけなんですよ」
それにしても、|買《かい》|物《もの》とか、その|他《ほか》、|色《いろ》|々《いろ》|用《よう》|事《じ》もあろう。依子は、|郵便局《ゆうびんきょく》などへは、年中行っているが、そこでも顔を見たことがないというのは、|妙《みょう》な気がした。
「今日は|久《ひさ》しぶりに|主《しゅ》|人《じん》もお休みでして」
と、河村の|妻《つま》が言った。「ぐっすり|眠《ねむ》っていますわ」
話は、|他《ほか》のことに|移《うつ》った。
その町は、依子がいつも|買《かい》|物《もの》や、|映《えい》|画《が》などを見に出るのとは|別《べつ》の町だった。
|珍《めずら》しいので、依子は、町の|賑《にぎ》やかな通りを少しぶらついて、それから買物をしたり、時間を|過《すご》した。
河村の妻は、買物をするから、とスーパーへ|直行《ちょっこう》して行った。あの少女は、バスから|降《お》りると、どこかへアッという間に見えなくなった。
依子は、ちょっと小ぎれいなレストランに入ってみた。
日曜日とはいえ、大|都《と》|会《かい》のように、レストランが|満《まん》|席《せき》で、|順番待《じゅんばんま》ちということはない。
これでも|混《こ》んでる方なのかも……。
|値《ね》|段《だん》もずいぶん|安《やす》い。依子は、|無《ぶ》|難《なん》にハンバーグのセットメニューを|頼《たの》んだ。
「コーヒーは先にお|持《も》ちしますか」
「そうね。お|願《ねが》い」
と、依子は|肯《うなず》いた。
|熱《あつ》いおしぼりで手を|拭《ふ》く。ついでに――あまりお|行儀《ぎょうぎ》は良くないが、顔を|軽《かる》く|拭《ぬぐ》った。
そして、ふと見ると、あの少女が、店の中を|横《よこ》|切《ぎ》っていた。
|偶《ぐう》|然《ぜん》、顔を見ていなければ、|気《き》|付《づ》かないところだ。
少女は、ウェイトレスの|制《せい》|服《ふく》を|着《き》ていたのである。
依子は、食事が来ると、ゆっくり食べながら、少女の|働《はたら》きぶりを見ていた。
|特《とく》|別《べつ》に|仕《し》|事《ごと》|熱《ねっ》|心《しん》というわけではないにせよ、ちゃんと働いている。それも、|昨日《きのう》|今日《きょう》、|始《はじ》めたというのではない。
|注文《ちゅうもん》を聞いても、その|場《ば》ではメモせず、ちゃんと|憶《おぼ》えているし、|配《くば》るときには、|誰《だれ》が何を|頼《たの》んだか、ほとんど頭に入っているようだった。
かなり、長いことこの店で働いている、という|印象《いんしょう》を、依子は|受《う》けた。
|食事《しょくじ》を|終《お》え、依子は、
「すみません、コーヒーをもう一|杯《ぱい》」
と、声をかけた。
「はい」
コーヒーポットを手に、|注《つ》ぎに来たのは、あの少女だった。テーブルの|所《ところ》まで来て、やっと|気《き》|付《づ》いたらしい。
「あ――」
と、思わず声を出した。
「バスで|一《いっ》|緒《しょ》だったわね」
と、依子が言うと、少女の方は|素《す》|早《ばや》く目をそらした。
カップを|持《も》ち上げると、ゆっくりコーヒーを注ぐ。
「あなた――町のどの|辺《へん》に|住《す》んでるの? |私《わたし》、見かけたことがないから」
少女は、ちょっと|表情《ひょうじょう》を|固《かた》くして、カップを、依子の前に|置《お》いた。
「どうぞ」
「|私《わたし》はね――」
「知ってるわ」
と、少女は、依子の|言《こと》|葉《ば》を|遮《さえぎ》った。「小学校の先生でしょ」
「ええ、そう。中込依子っていうの。お名前、聞かせてくれる?」
「|関《かん》|係《けい》ないでしょ」
と、少女は|突《つ》っぱねた。
「でも、あれだけ町にいて、|全《ぜん》|然《ぜん》知らない人がいるなんて、何だかいやだもの」
少女の|唇《くちびる》が、ちょっと|震《ふる》えた。
「一人は知ってるでしょ」
「え?」
「お|葬《そう》|式《しき》に行ったはずだわ」
――|刺《さ》された女のことだ、と、依子は思った。
「あの人を知ってるの?」
「もちろんよ」
「あの人――どうなったの? けがしてたんじゃない?」
少女が、キッと依子をにらんだ。依子が思わず後ずさろうとするほどの、|鋭《するど》い|視《し》|線《せん》だった。
「こっちが|訊《き》きたいわよ!」
少女は、|投《な》げつけるように言って、店の|奥《おく》の方へと|戻《もど》って行った。
依子は、|呆《ぼう》|然《ぜん》として、それを|見《み》|送《おく》っていた……。
――そのレストランを出ると、依子は、しばらく|迷《まよ》ってから、近くの|商店《しょうてん》に入った。
|病院《びょういん》の|場《ば》|所《しょ》を|訊《き》くためである。
金山|医《い》|師《し》が、あの|刺《さ》された女を送った、と言ったのが、この町の病院だったのだ。
病院はすぐに分った。
「一番この町では大きな病院ですから」
と、訊いた店の|主《しゅ》|人《じん》は言った。
「|他《ほか》に、大きな病院って、あります?」
と、依子は訊いてみた。
「いや、|他《ほか》はみんな|個《こ》|人《じん》の先生ばかりですよ」
「どうも」
|礼《れい》を言って、|外《そと》へ出る。――この道を|真《まっ》|直《す》ぐに、十分ほどの|所《ところ》らしい。
|病院《びょういん》は、すぐに分った。
しかし、大きいといっても、東京|辺《あた》りなら、ちょっと大きな個人病院、くらいの|規《き》|模《ぼ》だろう。
中へ入ると、それでも、やはり日曜日のせいもあるのか、|患《かん》|者《じゃ》が多い。個人の|医《い》|者《しゃ》が、休んでいるのかもしれない。
〈入院〉という|窓《まど》|口《ぐち》へ行って、
「すみません」
と声をかけてみた。
|最終《さいしゅう》のバスは、九時二十分だった。
これには間に合うように帰るはずだ。――依子は|腕《うで》時計を見た。
七時半だった。
|最《さい》|悪《あく》の|場《ば》|合《あい》は、一時間半も|待《ま》たなくてはならない。しかし、帰ってしまう気には、なれなかった。
ここまでやって来たのだ。何一つ、明らかにできずに帰るのでは、依子としても気が|済《す》まなかった。
|仕《し》|方《かた》ない。|待《ま》とう。
そう|決《けっ》|心《しん》して、ともかく、小さな|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》に入った。レストランは、今、一番|忙《いそが》しい時間だろう。
まだ出て来られないに|違《ちが》いない。早くても八時。――依子はそう思っていた。
八時になったら、バス|停《てい》まで行って、待っていよう。
|苦《にが》いコーヒーを一口だけ|飲《の》んで|諦《あきら》め、ぼんやりと店の中を|眺《なが》める。
|薄《うす》|暗《ぐら》くて、|客《きゃく》が入るのかしらと|心《しん》|配《ぱい》になるような店だ。
カウンターの後ろに、古ぼけた|鏡《かがみ》がかけてある。店の|窓《まど》|越《ご》しに、|外《そと》の|風《ふう》|景《けい》が|映《うつ》っていた。
その中に――河村の|妻《つま》の顔が、|一瞬覗《いっしゅんのぞ》いた。
依子はハッとして、|振《ふ》り|向《む》いた。|誰《だれ》かが、スッと|姿《すがた》を|消《け》した。
あれは?――|錯《さっ》|覚《かく》だろうか?
もう一度、|鏡《かがみ》を|眺《なが》める。
いや、|確《たし》かに見えたような気がする。そして、今、チラッと|視《し》|界《かい》をかすめた|人《ひと》|影《かげ》も、どこか、河村の|妻《つま》を思わせた。
「セーターだわ」
と|呟《つぶや》く。
|間《ま》|違《ちが》いない。セーターの色が、あの、河村の妻がこぼしていた色だった!
依子は、ふと|寒《さむ》|気《け》を覚えた。河村の妻が、この店を|覗《のぞ》いたのは、|偶《ぐう》|然《ぜん》だったのだろうか?
いや、おそらくそうではない。河村の妻は、自分を|尾《び》|行《こう》していたのではないか。
|気《き》|付《づ》かなかったし、そんなことを考えもしなかったが、ずっと後を|尾《つ》けて来ていたのではないだろうか。
――依子がそう思うのも、あの|病院《びょういん》で、話を聞いたからだった。
つまり、あの|刺《さ》された女と思われる|患《かん》|者《じゃ》は、|全《まった》く|受《う》け入れていない、ということだったのである。
7 |多《た》 |江《え》
|幸《さいわ》い、長く|待《ま》つまでもなかった。
依子は、三十分ほどして、あの少女がバス|停《てい》の方へと歩いて行くのを、目に止めたのである。
どうすれば、口を開いてくれるだろう、と依子は考えた。
いきなり声をかけても、さっきのような|調子《ちょうし》では、とても、心を開いてくれそうもない。といって、ぶつかってみる|以《い》|外《がい》に、何の|方《ほう》|法《ほう》も思い|付《つ》かなかった。
|仕《し》|方《かた》ない。――ともかく、|誠《せい》|意《い》を見せて、|信《しん》じてもらうことだ。
依子は、少女の方へと歩いて行った。
が、依子は|途中《とちゅう》で足を止めた。バス停の所に立っていた少女が、|急《きゅう》に何か思い立ったように歩き出したからである。
どこへ行くのだろう?
ちょっと|迷《まよ》ったが、|一《いっ》|旦《たん》|見失《みうしな》って、会えずじまいになるのも|困《こま》る。|結局《けっきょく》、あまり気は|進《すす》まなかったが、少女の後をつけて行くことにした。
あのレストランとは、|全《まった》く|逆《ぎゃく》の|方《ほう》|向《こう》に|向《むか》っている。|買《かい》|物《もの》とか、そんな|用《よう》|事《じ》ではなさそうだった。
それなら、バス|停《てい》近くの方が、まだ|商店《しょうてん》がある。少女は、どんどん|薄《うす》|暗《ぐら》い、|静《しず》かな通りへと入って行った。
|目《もく》|的《てき》|地《ち》がはっきり分っている、という歩き方だ。かなり|複《ふく》|雑《ざつ》に、右へ左へと、|細《ほそ》い道を|折《お》れて、|一《いっ》|向《こう》に|迷《まよ》わなかった。
|困《こま》ったのは依子の方である。とても、|道順《みちじゅん》など思い出せない。
しかし、ここで少女を見失ったら、もっと困ることになるので、何とかついて行った。
|角《かど》を|曲《まが》り、ハッと足を止める。
少女が、アパートの|一《いっ》|室《しつ》のドアを|開《あ》けて、中に入るところだった。
ここに|住《す》んでいるのか? それとも、|誰《だれ》か知人か|親《しん》|類《るい》でもいて、今夜|遅《おそ》いので|泊《と》めてもらうつもりだろうか?
そうなると、依子は|戻《もど》るに戻れず、|困《こま》ってしまうわけだが……。
気は|咎《とが》めたものの、止むを|得《え》ない。
依子は、そっと足音を|殺《ころ》して、そのドアへと近づいて行った。
上と下、四|軒《けん》ずつの二|階《かい》|建《だて》のアパート。
ドアの|間《かん》|隔《かく》からして、|一《ひと》|間《ま》か、せいぜい二間の小さなアパートだろう、と|想《そう》|像《ぞう》できた。ドアのすぐわきに、|台所《だいどころ》の|窓《まど》があるらしい。小さな|換《かん》|気《き》|扇《せん》が、|汚《よご》れ|放《ほう》|題《だい》になっている。話し声が聞こえて来た。――換気扇が開いているのだ。
「――|構《かま》わないじゃないか」
男の声だった。|若《わか》い――といっても、少年という声ではないが。
「そうしたいけど、だめなの」
と、その少女の声がした。「|最終《さいしゅう》のバスで帰るわ」
「|真《ま》|面《じ》|目《め》だな、|相《あい》|変《かわ》らず」
男が|笑《わら》った。
「そうじゃないの。ちょっと――|事情《じじょう》があるのよ」
「そうか。――じゃ、お|茶《ちゃ》でも|飲《の》むか」
「コーヒーくれる? インスタントでいいから」
「ウィスキーもあるぜ」
「だめよ」
と、少女は笑った。
いかにもホッとしたような笑いだった。――どこか、|張《は》りつめた所のある少女の、|息《いき》|抜《ぬ》きというところらしい。
「――|例《れい》の、いなくなった|叔《お》|母《ば》さんってのは|見《み》|付《つ》かったのかい?」
と、男が|訊《き》いていた。
「まだ。それも気になってるんだけど……」
少女の|呟《つぶや》きが低くなった。依子には、聞き|取《と》れない。
いなくなった|叔《お》|母《ば》さん。もしかしたら、それが、あの|刺《さ》された女だろうか?
依子は耳を|澄《す》ました。――|教師《きょうし》が立ち聞きなんて、いけないわ、と思いつつ、そうしないではいられなかったのである。
だが、二人の声は、ほとんど聞き取れなかった。そして――
「明りを|消《け》して」
という少女の声に、依子はハッとした。
明りが消える。――依子は、少しずつ、|窓《まど》から|離《はな》れた。
少女とその男との|仲《なか》に、口を出す|立《たち》|場《ば》でもないし、依子としても、そんなところまで、立ち聞きをしたくはなかった。
|胸《むね》がドキドキして、|頬《ほお》が|熱《あつ》い。――まるで、|世《せ》|間《けん》知らずの女の子のように。
アパートから少し|離《はな》れて、依子は立っていた。――ほんの、十五分ほどの|暗《くら》|闇《やみ》だった。
再び明りが|点《つ》く。
また、何か話をするかしら? 少し|待《ま》って、依子は、そっとまたその|部《へ》|屋《や》の前へと|忍《しの》び足で近づいた。
|不《ふ》|意《い》にドアが|開《ひら》いて、少女が出て来た。
依子としても、どうしようもなかった。少女は、部屋の中へ、
「いいわよ、送ってくれなくて。|最終《さいしゅう》バスに間に合うから。じゃ、またね」
と、声をかけ、ドアを閉めた。
そして、依子に|気《き》|付《づ》いて、目を|見《み》|張《は》った。
依子は、
「あの――」
と言いかけて、少女が手を上げて、止めたので、|急《いそ》いで口をつぐんだ。
そうか。中の男に聞かれては|困《こま》るのだろう。
少女は、ゆっくりと歩き出した。依子がその後をついて行く。
|背《せ》|中《なか》を向けて歩きながら、
「|私《わたし》の後をつけて来たの?」
と、少女は言った。
「ごめんなさい」
依子は言った。「どうしても、あなたとお話がしたくて」
「学校の先生が、人をつけ回すなんて!」
「ええ、でも……もっと大切なことのためには仕方ないわ」
「そうやって、何でも正当化するのね」
少女が|急《きゅう》に足を止め、クルリと|振《ふ》り|返《かえ》った。「私たちの話を――立ち聞きしたのね!」
依子は目を|伏《ふ》せた。
「ごめんなさい。でも――話だけよ。その|他《ほか》のことは――」
「|盗《ぬす》み聞きなんて、やることが|下《げ》|劣《れつ》ね」
少女は|足《あし》|早《ばや》に歩き出した。依子が|急《いそ》いでそれを|追《お》う。
「ついて来ないでよ!」
と少女が|怒《ど》|鳴《な》った。
「道が分らないわ」
「何ですって?」
「バス|停《てい》に|戻《もど》れないわ、|私《わたし》一人じゃ」
少女は|呆《あき》れたように依子を見ていた。――それから、|急《きゅう》に|笑《わら》い出した。
――依子はホッとした。
バスは、がら空きだった。
依子とその少女|以《い》|外《がい》、三、四人の|客《きゃく》しかいない。しかも、みんな|席《せき》につくなり、|居《い》|眠《ねむ》りを始めた。
バスがガタゴトと|揺《ゆ》れながら、走り出す。
「後ろへ行きましょう」
と、依子が|促《うなが》すと、少女は、|黙《だま》ってついて来た。
少なくとも、|敵《てき》|意《い》のようなものは、少女から|消《き》えているようだった。
「私、中込依子。あなたの名前、教えてくれる?」
「|栗《くり》|原《はら》|多《た》|江《え》よ。――こういう字」
少女は、|指《ゆび》でてのひらに字を書いてみせた。
「多江さん、ね。いくつ?」
「十七。もっと下に見える?」
「そうね。でも|可《か》|愛《わい》いのはいいことだわ」
「ご|機《き》|嫌《げん》|取《と》らなくてもいいわ」
と言いながら、多江はそう気を|悪《わる》くしてもいないようだった。
「さっきの人は――|恋《こい》|人《びと》?」
「恋人か……」
多江は、ちょっと|寂《さび》しげに|笑《わら》って、「恋人と|呼《よ》ぶには、ちょっと|侘《わび》しくて……。|仲《なか》|間《ま》というか、弱い|者《もの》|同《どう》|士《し》というか……」
多江の話し方は、まるで四十|代《だい》の|女《じょ》|性《せい》のそれのように、少し|疲《つか》れていた。
「さっき、あなたたち、|叔《お》|母《ば》さんがいなくなったって話してたでしょ。――あなたの|叔《お》|母《ば》さん?」
「そうよ。大沢和子っていうの」
「大沢和子……」
と、依子は名前をくり|返《かえ》して、「四十|代《だい》の――ちょっと|疲《つか》れた|感《かん》じのする、やせ|型《がた》の人?」
多江が、依子を見た。
「あなた――先生って|呼《よ》んだ方がいい?」
と多江が|訊《き》いた。
「いいえ。依子でいいわ」
「それも|変《へん》ね。やっぱり、先生は先生か」
多江は、じっと|正面《しょうめん》を|見《み》|据《す》えて言った。「先生はあの子のお|葬《そう》|式《しき》に出たの?」
「角田栄子ちゃんの? ええ、もちろん。教え子ですものね」
「――|馬《ば》|鹿《か》だわ」
と、多江が|呟《つぶや》くように言った。
「え?」
「行かなきゃ|良《よ》かったのよ。――止めたんだけど」
「あなたの|叔《お》|母《ば》さん――大沢和子さんも、あそこにいたの?」
「ええ、そして帰って来なかった」
「帰って来ない?」
「|訊《き》きに行ったわ。でも、叔母は来ていなかった、って、あっさり|追《お》い|返《かえ》されて……」
依子は、やはり、その大沢和子というのがあの女に|違《ちが》いないと思った。
「――叔母に何があったの? 教えて」
と、多江は依子をじっと見つめながら、言った。
|迷《まよ》ったが、しかし、|逃《に》げるわけにはいかない、と、依子は思った。何のために、この少女を|待《ま》っていたのか。
「信じられないような話だけど……」
と、依子は口を開いた。「私が見たのは、|出棺《しゅっかん》のとき、角田さんが――お父さんの方が、いきなり、あの女の人を|刺《さ》したところよ」
「刺した……」
多江は青ざめた。「それで――」
依子は、言葉を|選《えら》んで|説《せつ》|明《めい》した。そのときの|様《よう》|子《す》から、その|女《じょ》|性《せい》の|行《ゆく》|方《え》と、けがの|具《ぐ》|合《あい》が分らないこと、そして、今日、町の|病院《びょういん》を|訪《たず》ねた|結《けっ》|果《か》まで。
「――だから、どうしても、あなたと話がしたかったの」
と、依子は|結《むす》んだ。
多江は|唇《くちびる》をかみしめていた。目が赤くなっている。|涙《なみだ》が|溢《あふ》れそうなのを、じっとこらえているのだ。
「|可《か》|哀《わい》そうな|叔《お》|母《ば》さん……」
と、|震《ふる》える声で|呟《つぶや》いた。
「やっぱりその人が――」
「叔母だわ。|間《ま》|違《ちが》いない。そして、|死《し》んだんだわ」
多江は顔を|伏《ふ》せた。涙がこぼれて、|頬《ほお》を|落《お》ちる。
「|死《し》んだ?」
「ええ。|殺《ころ》されたのよ、角田に」
「でも――それなら、|駐在《ちゅうざい》の河村さんが|放《ほう》っておかないでしょう」
多江は、ゆっくりと首を|振《ふ》った。
「先生は、何も知らないのよ。分ってないんだわ。でも――」
と、|肩《かた》をすくめて、「それは先生のせいじゃないし、知らない方が|幸《しあわ》せでしょうけどね……」
と|続《つづ》けた。
「教えて」
と、依子は、多江の|腕《うで》をつかんだ。「私、何が|起《おこ》ったのか、知りたいの。なぜ、あんな|事《じ》|件《けん》が、うやむやにされて|済《す》んでいるのか、町の人たちが、|噂《うわさ》にもしないのは、なぜなのか」
多江は、目を|床《ゆか》へ|落《お》として、
「やめといた方がいいわよ」
と、言った。「知らない方が先生のためだわ」
「そんな!――教師として|訊《き》いてるんじゃないわ。人間として訊いているの。どんな|理《り》|由《ゆう》があろうと、人を刺したことを、もみ|消《け》すなんて|許《ゆる》せないわ」
多江は涙に|濡《ぬ》れた顔で、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「|正《せい》|義《ぎ》|漢《かん》なのね」
「|教師《きょうし》としても、社会|的《てき》な|責《せき》|任《にん》があるわ。それに、栄子ちゃんの|死《し》にも、|間《かん》|接《せつ》的に責任のある|立《たち》|場《ば》だし」
「でもね――」
と、多江は言った。「|世《よ》の中には、どうしようもないことだってあるわ」
「どういう|意《い》|味《み》?」
「何でもないわ。――ほら、もう|次《つぎ》で|降《お》りなきゃ」
気が|付《つ》くと、多江と依子の二人しか|客《きゃく》がいなかった。
多江が立って、|降《お》り口の方へ歩いて行く。依子も、それに|続《つづ》いた。
バスが|停《とま》って、|扉《とびら》が|開《ひら》いた。何しろ、古いバスらしく、|自動扉《じどうとびら》とはいえ、ギイギイきしむのである。
降り立って、バスが走り|去《さ》ると、依子は多江に言った。
「|私《わたし》に話してくれるつもりはない?」
「知らない方がいいわ」
多江は|軽《かる》く|肩《かた》をすくめて、「じゃ、先生はそっちよ。気を|付《つ》けて」
と言うと、さっさと歩き出した。
「|待《ま》って」
依子は後を|追《お》った。「――|私《わたし》を|信《しん》|用《よう》してくれないのね」
「|逆《ぎゃく》よ」
多江は|振《ふ》り|向《む》いて、「先生が気に入ったわ。だから、話したくないの」
と言った。
依子は、歩いて行く多江の後ろ|姿《すがた》が、すぐに|闇《やみ》に|紛《まぎ》れて行くのを|見《み》|送《おく》っていたが、
「ねえ、気が向いたら、学校へ|遊《あそ》びに来て!」
と声をかけた。「|放《ほう》|課《か》|後《ご》、しばらくはいるから――」
|果《はた》して聞こえただろうか?
依子には分らなかった。
ほとんど|真《まっ》|暗《くら》な道を、依子は町に|向《むか》って歩いて行った。
|刺《さ》されて、|死《し》んだ。
まさか!――しかし、依子の|記《き》|憶《おく》は、それを|肯《こう》|定《てい》していた。
あの女の|傷《きず》は、|致命傷《ちめいしょう》になってもおかしくない。
そして、河村の|態《たい》|度《ど》や、金山|医《い》|師《し》の話が|嘘《うそ》だったことを考えると、あの多江という少女の言う通り、一つの|殺《さつ》|人《じん》が、もみ|消《け》されようとしている、と考えるのが|論《ろん》|理《り》|的《てき》である。
いかに信じがたい話でも……。
暗い道を歩いていた依子は、|突《とつ》|然《ぜん》、|懐中電灯《かいちゅうでんとう》の光に|照《て》らされて、ギクリとした。
「やあ、先生、どうなさったのかと思って、|迎《むか》えに来ましたよ」
河村の声がした。
「あ――どうも、すみません」
「|最終《さいしゅう》のバスでしたか?」
「ええ」
「少し早目に|着《つ》いたんだな」
「客が――|他《ほか》にいなかったからでしょう」
私たち[#「私たち」に傍点]の他に、と言いかけて、依子はあわててやめた。
「何しろこの前の|事《じ》|件《けん》もありますからね。|心《しん》|配《ぱい》になって」
「すみません、気を|遣《つか》っていただいて」
「いやいや。これも|仕《し》|事《ごと》の|内《うち》です」
河村は|上機嫌《じょうきげん》な声を出した。「さあ、|下宿《げしゅく》までお|送《おく》りしましょう」
「どうも……」
依子は、河村と|一《いっ》|緒《しょ》に歩き出した。「そういえば、行くとき、|奥《おく》|様《さま》と同じバスでしたわ」
「ああ、聞きました。それで、お帰りが|遅《おそ》いな、と気になったわけでしてね」
「あの町へ出たの、|初《はじ》めてでしたから、何だか、あれこれ|物珍《ものめずら》しくて、つい遅くなってしまったんですの」
「お|若《わか》いと|好《こう》|奇《き》|心《しん》も|盛《さか》んですな」
と、河村が|笑《わら》った。「しかし、それも|程《てい》|度《ど》の|問《もん》|題《だい》でしょう」
依子は、その|言《こと》|葉《ば》が、さり気ない|警《けい》|告《こく》かもしれない、と思った。
「|終《しゅう》バスは、|誰《だれ》かとご|一《いっ》|緒《しょ》でしたか」
と、河村が|訊《き》いた。
「三、四人乗っていましたけど、みんな|途中《とちゅう》で|降《お》りて、|最《さい》|後《ご》は私一人でした」
と、依子は言った。
「そうですか」
河村は、それ|以上《いじょう》、|訊《き》いては来なかった。――それきり、町へ入るまで、依子は口を|開《ひら》かなかった……。
8 雨
雨の日だった。
依子は、雨に|打《う》たれる|校《こう》|庭《てい》を、ぼんやりと|眺《なが》めていた。
もちろん、こんな日に|遊《あそ》んで行く|子《こ》|供《ども》もいないので、|残《のこ》っている|必《ひつ》|要《よう》はないのだが、何となく、本を見たりして時間を|過《すご》していた。
水谷はとっくに帰っていた。
依子も、|特《とく》|別《べつ》に用のない日は、いつも|下宿《げしゅく》へ早々に引き上げるのが|常《つね》だったが、このところ、何だか|急《いそ》いで帰る気になれないのだ。
下宿にいても、|落《お》ちつかない。思い過しだとは思うのだが、何となく、いつも|見《み》|張《は》られているような気がして|仕《し》|方《かた》ないのである。
|神《しん》|経《けい》が休まらないのだ。
あの多江――栗原多江という少女は、どこに|住《す》んでいるのだろう?
|誰《だれ》かに|訊《き》いてみたいと思うのだが、一体誰に、となると――|迷《まよ》ってしまう。
河村や、金山|医《い》|師《し》のような人まで|信《しん》じられないということになると、町中の誰もが信じられない。
といって、このまま|放《ほう》っておくわけにもいかない。
日がたつにつれ、何か[#「何か」に傍点]あったと|立証《りっしょう》するのは|困《こん》|難《なん》になろう。しかし、ただ、もっと大きな町の|警《けい》|察《さつ》へ行って話をしたところで、一体誰が信じてくれようか?
何の|証拠《しょうこ》もない話なのだ。
依子は、ため|息《いき》をついた。――いつまで、こうしていても|仕《し》|方《かた》ない。
|下宿《げしゅく》へ帰ろうか……。
|廊《ろう》|下《か》で、タタ、と足音がした。
「誰?」
と、依子は声をかけた。
|返《へん》|事《じ》はない。――|誰《だれ》か、|子《こ》|供《ども》が|残《のこ》っていたのかしら?
依子は、|職員室《しょくいんしつ》を出て、|廊《ろう》|下《か》を見回した。誰もいない。
しかし、|確《たし》かに、足音がこっちの方へと……。
歩いて行って、廊下の|角《かど》へ顔を出したとたん、何か|袋《ふくろ》のような|物《もの》がスッポリと頭にかぶせられてしまった。
同時に|凄《すご》い力で後ろから|抱《だ》きつかれて、手が上らなくなる。一人ではない。
依子は|必《ひっ》|死《し》にもがいた。――|下《した》|腹《はら》をいやというほど|殴《なぐ》られた。
|呻《うめ》いて、依子は体を|折《お》った。気が|遠《とお》くなる。
――誰? 一体誰が――?
依子は、そのまま床に|突《つ》っ|伏《ぷ》して、気を|失《うしな》った。
そして――|冷《つめ》たさに|身《み》|震《ぶる》いして、ハッと|意《い》|識《しき》が|戻《もど》った。
|激《はげ》しく、雨が当っている。
依子は、|痛《いた》みよりも、冷たさとショックで身を|震《ふる》わせた。――|校《こう》|庭《てい》だ。
雨の|降《ふ》りしきる校庭の、|真《まん》|中《なか》に、|放《ほう》り出されていたのだ。しかも、依子は、|裸《はだか》だった。
|服《ふく》を|全《ぜん》|部《ぶ》|脱《ぬ》がされて、|投《な》げ出されていたのだ。依子は、|周囲《しゅうい》を見回した。
それから、|夢中《むちゅう》で、|校《こう》|舎《しゃ》へ|向《むか》って走った。校舎の中へ|飛《と》び|込《こ》むと、そのまま|床《ゆか》に|座《すわ》り込んで、すすり|泣《な》いた。
「――先生」
と|呼《よ》ぶ声に、顔を上げる。
ジーパン|姿《すがた》の、栗原多江が、そこに立っていた。
「どうしたの?」
「|私《わたし》――|誰《だれ》かに――」
|言《こと》|葉《ば》が出て来ない。|寒《さむ》さと|恐怖《きょうふ》で、体が震えている。
「ひどいことするのね!――服はどこ?」
依子は首を|振《ふ》った。
「|待《ま》ってて」
と、多江は|廊《ろう》|下《か》を|駆《か》けて行ったが、|途中《とちゅう》、|職員室《しょくいんしつ》の中を|覗《のぞ》くと、
「ここにあるわ、きっとこれよ」
と声を上げた。
多江が|持《も》って来たのは、|確《たし》かに、依子の|服《ふく》だった。
「でも――ともかく体をタオルか何かで|拭《ふ》かないと。びしょ|濡《ぬ》れよ」
「タオル……|私《わたし》の|机《つくえ》の引出しにあるわ」
「持って来てあげる」
多江が走って行く。
依子は、服を体に|押《お》しつけるようにして、|何《なん》|度《ど》も|息《いき》をついた。
多江が、タオルで、依子の体をこすってくれて、依子は少し体が|暖《あたた》かくなって来た。
それから服を身につける。――|髪《かみ》も濡れていたが、これはどうにもならない。
「一体何があったの?」
多江に|訊《き》かれて、依子は、|襲《おそ》われたときのことを話した。
「でも|誰《だれ》が……」
と、依子は|息《いき》をついた。「こんなひどい目に、どうして|遭《あ》わなきゃいけないの?」
「|待《ま》って。さっき、先生の|服《ふく》を|見《み》|付《つ》けたとき、何か紙が上にのっかってたの。たぶん|床《ゆか》に|落《お》ちてるわ」
「紙が?」
依子は、|一《いっ》|緒《しょ》に|職員室《しょくいんしつ》の床を|捜《さが》した。それはすぐに見付かった。
白い紙に、|金釘流《かなくぎりゅう》の字で、
〈|余《よ》|計《けい》なことはするな〉
とだけあった。
依子は|椅《い》|子《す》にかけると、その紙を手の中で|握《にぎ》り|潰《つぶ》した。――|怒《いか》りと|恥《は》ずかしさで、体が|震《ふる》えた。
「――先生、何かされたの?」
と、多江が訊いた。
「いえ――それはないわ。あれば、分るでしょう」
「じゃあ、これは|要《よう》するに|脅《おど》しなのね」
「ひどいわ!」
|悔《くや》し|涙《なみだ》が、依子の|頬《ほお》を伝った。
いずれ、|襲《おそ》ったのは男、二人か三人だろう。その男たちは、自分を|裸《はだか》にして、|散《さん》|々《ざん》|面《おも》|白《しろ》がって|眺《なが》めたに|違《ちが》いない。
そう思うと、悔しくてたまらなかったのである。
「いざとなりゃ、何でもできるぞ、っていう|警《けい》|告《こく》なのよ、きっと」
と、多江は言った。「|私《わたし》と|一《いっ》|緒《しょ》だったこと、|誰《だれ》かに言ったの?」
「いいえ」
と、依子は首を|振《ふ》った。
「でも、私があのバスでよく帰ることは、知ってる人もいるしね」
「あの日、河村さんの|奥《おく》さんと一緒だったわ」
「ああ、そうか。|往《い》きで、会ってたんだわ」
「きっと、あの人が、話したのね」
多江は|黙《だま》っていた。
|職員室《しょくいんしつ》にいる、ということが、依子を|落《お》ちつかせた。教師に|戻《もど》れた、というべきかもしれない。
「――よく来てくれたわ」
と、依子が言った。
「|迷《まよ》ったんだけどね」
と、多江は首をかしげた。「でも、ちょうどよかった」
「本当に。|助《たす》かったわ」
依子は、|校《こう》|庭《てい》の方へ目をやった。――|信《しん》じられない。
|悪《あく》|夢《む》のようだった。
「|私《わたし》に、話しに来てくれたの?」
と、依子は|訊《き》いた。
「そうだけど……」
多江はためらって、「でも、やっぱりやめた方がいい。これ|以上《いじょう》、首を|突《つ》っ|込《こ》むと、先生、今度は、こんなことじゃ|済《す》まないかもしれないよ」
依子は、多江の目をじっと見つめた。
「これで、|私《わたし》が|泣《な》いて|逃《に》げ出すと、向う[#「向う」に傍点]が思ってるんだったら、|残《ざん》|念《ねん》ながら、|間《ま》|違《ちが》ってるわ」
と、きっぱりと言った。「|私《わたし》、見かけほど|弱《よわ》|虫《むし》じゃないのよ」
多江は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「見かけも、弱虫じゃないよ」
「|失《しつ》|礼《れい》ね」
と、依子も笑った。
やっと、それでショックから立ち|直《なお》った、という気がした。
「――先生、いい人ね」
と、多江はしみじみと言った。「だから、|危《あぶな》い目に|遭《あ》わせるのはいやだわ。|悪《わる》いこと言わない。この町から出た方がいいわよ。小学校の先生なんて、いくらでも|仕《し》|事《ごと》、あるでしょ?」
「いやよ。出て行くもんですか」
と、依子は首を|振《ふ》った。
「|頑《がん》|固《こ》ね」
「そう。――それだけが|取《と》り|柄《え》なの。|昔《むかし》から、|根《こん》|気《き》だけ[#「だけ」に傍点]はいいって言われて|育《そだ》ったんだから」
多江は、まだしばらく|迷《まよ》っているようだったが、やがて、ため|息《いき》をつきながら、|肯《うなず》いた。
「分ったわ。でも――今日、ここで話をしても、きっとよく分らないと思うの。|今《こん》|度《ど》、出られる日はない?」
「土曜日の|午《ご》|後《ご》はどう?」
「|私《わたし》はいいけど」
「私、本校に行く用があるの。少々長引いても、|構《かま》わないわ」
「じゃ、そのときに、|案《あん》|内《ない》してあげる」
と多江は立ち上った。
「もう行くの?」
「家に|黙《だま》って出て来たから、|心《しん》|配《ぱい》してるといけないわ」
「そう……」
ちょっと|心残《こころのこ》りだったが、|無《む》|理《り》|強《じ》いはしないことにした。「――ねえ、多江さん」
「え?」
|職員室《しょくいんしつ》を出ようとしていた多江は|振《ふ》り|向《む》いた。
「|案《あん》|内《ない》してくれる、って、どこへ?」
「〈谷〉よ」
「〈谷〉?」
「そう。来れば分るわ。じゃあ、土曜日に」
依子は、多江が、|傘《かさ》をさして、|裏《うら》|手《て》の道へと|消《き》えて行くのを|見《み》|送《おく》った。
谷[#「谷」に傍点]……。
谷というのは、どこのことだろう?
依子は、職員室を、いつもの通り|片《かた》|付《づ》けると、|鍵《かぎ》をかけて出た。
|傘《かさ》をさして、|校《こう》|庭《てい》に出る。
あんなことが、|現《げん》|実《じつ》にあったのだろうか?
――しかし、|疑《うたが》いようがない。
この|濡《ぬ》れた|髪《かみ》は、いやでも、それを|証拠《しょうこ》|立《だ》てている。
あんなことまでして、一体何を|恐《おそ》れているのだろう。|守《まも》るべき|秘《ひ》|密《みつ》があるのは|間《ま》|違《ちが》いないが、それは何なのか?
大沢和子の|死《し》。それは、もう|疑《うたが》いようのないものになった。
依子は、学校を出た。
――|下宿《げしゅく》に帰ると、ちょうど、電話がかかっていた。
「お母様からですよ」
「すみません」
と、依子は|受《じゅ》|話《わ》|器《き》へ手を|伸《の》ばした。「――あ、お母さん? |私《わたし》よ」
「ああ、依子。どうしたの?」
「どうした、って……」
依子は|面《めん》|食《く》らった。「そっちが電話して来たんじゃないの」
「だって、お前が|電《でん》|報《ぽう》を|打《う》ってよこしたからじゃないの」
「電報を?」
依子はわけが分らなかった。「どんな電報?」
「|急《いそ》いで帰るからって……」
「帰る? |私《わたし》が?」
「そうじゃないの?」
依子は|受《じゅ》|話《わ》|器《き》を|握《にぎ》りしめた。
「帰らないわ。何かの|間《ま》|違《ちが》いよ」
と、依子は、きっぱりと言った。
9 |幻《まぼろし》の|都《と》|会《かい》
「少し|熱《ねつ》が出て来たね」
と、|医《い》|師《し》が依子の|額《ひたい》に手を当てて言った。
小西|警《けい》|部《ぶ》は、|肯《うなず》いて、
「少し、|無《む》|理《り》に話をさせてしまったかもしれませんね」
と、|椅《い》|子《す》から立ち上った。
「あまり|興《こう》|奮《ふん》させると、まだ|完《かん》|全《ぜん》には|回《かい》|復《ふく》していないのですから」
と医師が言った。「明日、|改《あらた》めておいで下さい。少し|眠《ねむ》らせた方がいい」
「分りました」
小西は、|快《こころよ》く|承知《しょうち》した。
医師が出て行く。
依子は、ベッドで、ちょっと目を|閉《と》じて、|息《いき》をついた。
「|疲《つか》れさせてすみませんでしたね」
小西が|優《やさ》しく言った。
およそ|刑《けい》|事《じ》らしからぬ|口調《くちょう》である。
「|一《いち》|度《ど》にお話しできなくて、すみません」
と、依子は目を|開《あ》けて言った。「何もかも思い出そうとすると、頭が|混《こん》|乱《らん》してしまいそうなんです。どうかなってしまいそう――気が|狂《くる》ってしまうかと――」
津田が、|急《いそ》いでベッドに|近《ちか》|寄《よ》ると、依子の手を|握《にぎ》った。
「|心《しん》|配《ぱい》するな。もう何も心配することはないよ」
|他《ほか》に|言《こと》|葉《ば》が見当らない。しかし、依子にとっては、言葉より、津田の手のぬくもりの方が、|嬉《うれ》しいようだった。
「ありがとう。津田さん……」
小西が、ちょっと|咳《せき》|払《ばら》いして、
「では、|私《わたし》はお先に|失《しつ》|礼《れい》します。明日、またお|邪《じゃ》|魔《ま》することにしますよ」
とドアの方へ歩いて行った。
「|警《けい》|部《ぶ》さん」
と、ベッドから依子が言った。「私がこの|病院《びょういん》にいることは、みんな知ってるんでしょうか?」
「みんな、というと?」
「町の――人たちです」
依子の|言《こと》|葉《ば》には、|不《ふ》|安《あん》げな|響《ひび》きがあった。
「いや、ここを知っているのは私たちと、あなたのお母さんだけですよ」
依子は、
「そうですか」
と、|安《あん》|堵《ど》の|息《いき》と|共《とも》に言った。
「|念《ねん》のため、夜間は、|警《けい》|官《かん》を一人、病院の入口に|置《お》きます」
と、小西はドアを|開《あ》けながら言った。「目立たないようにしますから、ご|心《しん》|配《ぱい》なく」
小西が出て、ドアが|閉《しま》る――と思ったら、またヒョイと小西の顔が|覗《のぞ》いて、
「津田さん」
「はあ」
「あまり、|彼《かの》|女《じょ》を|興《こう》|奮《ふん》させないようにして下さい」
――ドアが閉ると、津田と依子は顔を見合わせて、|笑《わら》った。
「いい人ね」
と、依子は言った。
「ああ。|刑《けい》|事《じ》ってのは、もっと|無《ぶ》|愛《あい》|想《そう》なもんだと思ってたよ」
津田は、依子の手を、もう|一《いち》|度《ど》しっかりと|握《にぎ》った。
「――|痛《いた》いわよ」
「ごめん。しかし――|君《きみ》の話を聞いてて、|凄《すご》いショックで――何といっていいか、分らないけど――」
津田は、頭を|振《ふ》った。
|裸《はだか》にされた依子が、|冷《つめ》たい雨の中に|放《ほう》り出されている|様《よう》|子《す》を|想《そう》|像《ぞう》するだけで、津田の|胸《むね》は|煮《に》えくり|返《かえ》るようだった。そんなことをした|奴《やつ》を、|決《けっ》して|許《ゆる》すものか、と思った。
|妙《みょう》なものだ。依子からの、あの電話があるまでは、珠江との|気《き》|楽《らく》な|情事《じょうじ》にうさ晴らしをして、依子のことなど、思い出しもしなかったというのに、なぜ、|急《きゅう》にこんなにも、依子のことが|愛《いと》おしく思えるのか、津田|自《じ》|身《しん》にも分らなかった。
「津田さん」
と、依子が|微《ほほ》|笑《え》んだ。「|優《やさ》しいのね」
「これからはね」
と、津田は、そっと依子の、少し|熱《あつ》い|頬《ほお》に手を|触《ふ》れながら|言《い》った。「今まではともかく、だ……」
津田の|唇《くちびる》が、依子の唇に|重《かさ》なった。熱い|吐《と》|息《いき》が|混《まじ》り合った。
「――また熱が出たかな」
「少しぐらい、高くなってもいいわ」
依子は、手を|伸《の》ばして、津田の頭を|抱《かか》え|込《こ》んだ。もう|一《いち》|度《ど》、二つの唇が出会った。
――|病室《びょうしつ》に、|黄《たそ》|昏《がれ》が音もなく|忍《しの》び入っている。
二人は、しばらく手を|握《にぎ》り合っているだけで、何も言おうとしなかった。
やがて、津田が|窓《まど》の|外《そと》へ目をやった。
「|暗《くら》くなって来たね」
「明りを|点《つ》けて」
「まぶしくないかい?」
依子は頭を|軽《かる》く左右へ|動《うご》かした。
「暗いのは|怖《こわ》いの。明るくしておいてくれた方が|落《お》ちつくわ」
「分った。カーテンを|閉《し》めようか?」
「ええ」
津田は、病室の明りを点けておいて、|窓《まど》|辺《べ》に|寄《よ》った。
依子の入っている病室は、二|階《かい》である。窓から、|表《おもて》の|道《どう》|路《ろ》が見下ろせた。
「――どうしたの?」
依子が声をかけたのは、津田が、道路を見下ろして、|突《つ》っ立っていたからだった。
「いや、何でもないよ」
と、津田はゆっくりカーテンを引きながら言った。
ちょうど|窓《まど》から見下ろした|路上《ろじょう》に、車が一台|停《とま》っていたのだ。
ごくありふれた、白い――いや、|最《さい》|初《しょ》は白かったのだろうが、今は|薄《うす》|汚《よご》れてしまった|乗用車《じょうようしゃ》だった。
車の窓が|開《ひら》いて、男の顔が|覗《のぞ》いていた。どんな男かは分らなかったが、津田が見下ろしているのに|気《き》|付《づ》いて、|急《きゅう》に頭を引っ|込《こ》めた。
いや、そんな風に見えただけなのかもしれない。|実《じっ》|際《さい》のところはどうだったのか……。
そして、車は、走り|去《さ》ってしまった。
まるで、この|病室《びょうしつ》を見張っていたようだ。――そんな気がするだけかもしれない。あんな話を聞かされた後だからか。
「――今夜、ずっとついててやろうか」
と、津田は言った。
「どうして?」
と、依子が目を少し|見《み》|開《ひら》いて、言った。
「いや――もし、その方が|安《あん》|心《しん》できるんだったら、ってことさ」
「大丈夫よ。それより、母についていてくれる?」
「お母さんか。そうだ。|忘《わす》れてた」
「いやねえ。母は、こんな町のホテルに一人で|泊《とま》ったことなんてないんですもの」
と、依子は|笑《わら》って言った。「――ね、母をよろしくお|願《ねが》い」
「分ったよ」
津田は、|椅《い》|子《す》に|腰《こし》をおろした。
ドアをノックする音がした。
「|夕食《ゆうしょく》です」
「どうぞ」
と、津田は立って行って、ドアを開けた。
|病院《びょういん》の|食事《しょくじ》時間が早いのは、どこも同じことらしい。
「|食事《しょくじ》が|終《おわ》るまで、そばにいていいかい?」
「ええ」
依子は、ちょっとけだるい|様《よう》|子《す》だったが、|頬《ほお》の赤みは、少しさめかかっているように見えた。
「元気を出してくれよ」
「|大丈夫《だいじょうぶ》よ。|若《わか》いんだから」
依子は|肯《うなず》いて見せた。「――あなたのことを聞きたい」
「|僕《ぼく》のこと?」
「そう。だって、ずっと|音《おん》|信《しん》|不《ふ》|通《つう》だったじゃないの」
「そうか。いや――|仕《し》|事《ごと》が|忙《いそが》しくてさ、つい……。といっても、大した仕事をしてるわけじゃないんだ」
依子は、|冷《さ》めたスープをゆっくりと|飲《の》みながら、
「|独《どく》|身《しん》でしょ?」
と|訊《き》いた。
「もちろんだよ」
「|恋《こい》|人《びと》は?」
「そんなもの――」
いないよ、と言おうとして、つい、ためらった。
「いるのね」
「いや――恋人といっても、そんな、|結《けっ》|婚《こん》だの何だのって|仲《なか》じゃないんだ。|遊《あそ》び|相《あい》|手《て》っていうのかな」
|苦《くる》しい言い方だった。
「ホテルに行ったり?」
依子が|冷《ひ》やかすように津田を見た。
「うん……。まあ、ごくたまに、ね」
津田は頭をかいた。「どっちかというと、|僕《ぼく》の方が遊ばれてる|感《かん》じなんだよ、本当の話――」
依子は|愉《ゆ》|快《かい》そうに|笑《わら》った。津田は、ホッとした。
「|怒《おこ》られるかと思ったよ」
「|仕《し》|方《かた》ないわね、男の人って」
「もう|彼《かの》|女《じょ》とも|別《わか》れるよ。お|互《たが》いに、そろそろ|飽《あ》きて来てたんだ」
どうしてだろう? なぜ珠江と別れようという気になったのか。
もちろん――そう、依子のためだ。
依子のことで、今は頭が|一《いっ》|杯《ぱい》だった。今まで、依子のことをほとんど|忘《わす》れていたのが、|嘘《うそ》のような気がした。
「何もかも|片《かた》|付《づ》いたら――」
と、津田は、自分でも|気《き》|付《づ》かない|内《うち》に言っていた。
「え?」
「いや――つまり、この|事《じ》|件《けん》が片付いたら、東京へ帰るだろ?」
「そうね……」
依子は、ふと目をそらした。「そのときになってみないと分らないけど……」
「帰ろうよ。そして|結《けっ》|婚《こん》してくれないか」
依子は、ちょっと目をしばたたいて、津田を見た。
「――どうだい?」
「また|熱《ねつ》が上るわ」
と言って、依子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
|大《だい》|都《と》|会《かい》――|特《とく》に東京などに|住《す》んでいる人間にとって、夜とは、|真《ま》|夜《よ》|中《なか》のことだ。
六時とか七時、八時ごろまでは「夜」の|内《うち》に数えないようになってしまっている。
いや、|場《ば》|所《しょ》によっては|深《しん》|夜《や》、十二時でも一時でも、真昼のように明るい。そんな場所の住人たちにとっては、夜は、もう明け方近くになって、ようやく|始《はじ》まる、といってもいいだろう。
だが、こんな小さな|田舎《 いなか》町では、|暗《くら》くなり始めれば「夜になった」のである。
夜も九時を|過《す》ぎれば、あたかも真夜中の|如《ごと》く、ひっそりと|静《しず》かになる。
この町の夜は、長いのである。
――ごく|普《ふ》|通《つう》の、小さな会社に|勤《つと》めているOL、|石《いし》|井《い》|恵《え》|美《み》にとって、こんな時間に帰ることは、|滅《めっ》|多《た》になかった。
「いやんなっちゃう」
と、足を早めながら|呟《つぶや》いたのは、|遅《おそ》くなったから、というよりは、ちょっと遅くなると、バスもなくなり、こんな暗い道を歩いて帰らなくてはならなくなるからだった。
高校|時《じ》|代《だい》の|同級生《どうきゅうせい》は、東京に|就職《しゅうしょく》、夏休みには、一|週間《しゅうかん》くらい帰って来て、夜も休むことのない都会の|愉《たの》しさを、あれこれと話してくれる。
それを聞くたびに、東京へ出たい、と石井恵美は思った。もちろん、そんなことを言い出そうものなら、父も母も、目をむいて|反《はん》|対《たい》するに|違《ちが》いない。
「そんな|危《あぶ》ない|所《ところ》に行くなんて!」
というわけだ。
でも、|危《き》|険《けん》も何もない町なんて、同時に|魅力《みりょく》もない、ってことだ。恵美にとっては、この町は|正《まさ》にその見本みたいなものだった。
どうして一人っ子なんかに生れちゃったんだろう、といつも|悔《くや》んでいる。
どうせなら、五人|兄姉《きょうだい》の|末《すえ》っ子ぐらいに生れたかった。それなら、少々気ままに家を出たって、|文《もん》|句《く》も言われないだろう。
|不《ふ》|公《こう》|平《へい》だわ、人生なんて。
恵美は、上り|坂《ざか》にかかって、足を止めた。まだここから十五分も歩かなくてはならないのだ。
|仕《し》|事《ごと》なら、こんなに|遅《おそ》くなることはない。
|結婚退職《けっこんたいしょく》する|同僚《どうりょう》の、|送《そう》|別《べつ》|会《かい》だったのである。
|二《に》|次《じ》|会《かい》まで|付《つ》き合って、こんな時間になってしまった。
しかし、ワイワイと|騒《さわ》ぎながら|飲《の》むこと自体は|楽《たの》しかった。その結婚する同僚が、東京に出て結婚|生《せい》|活《かつ》を送ると聞くまでは、のことだが。
おかげで、この帰り道が、|一《いっ》|層《そう》長く|感《かん》じられる。
ああ、いやだいやだ。――このまま、どこかへ行っちゃいたい。
もし、見も知らぬ男が車で|寄《よ》って来て、
「|乗《の》らないか?」
と|誘《さそ》って来たら、恵美は|喜《よろこ》んでついて行ったろう。
しかし、|現《げん》|実《じつ》には、そんなことは|起《おこ》らないのだ。現実は、家で|渋《しぶ》い顔で|待《ま》っている|両親《りょうしん》と、明日、いつもの通り九時に|始《はじ》まる会社のタイムカード……。
やれやれ、とため|息《いき》をつきながら、恵美は|坂《さか》|道《みち》を上り始めた。|急《きゅう》な|坂《さか》ではないが、えらく長いのである。
――|住宅地《じゅうたくち》、といえば聞こえはいいが、まだ|雑木林《ぞうきばやし》が大分|残《のこ》っている。町の|外《はず》れ、というわけだ。
ろくに|街《がい》|灯《とう》もない、|暗《くら》い|寂《さび》しい道である。
一歩、一歩、息をつきながら上って行くと――林の中で、何かが|動《うご》くような音がした。
|野《の》|良《ら》|犬《いぬ》か何かかしら。
よく、|飼《か》っておいて、|面《めん》|倒《どう》くさくなると、この|辺《へん》の雑木林に|捨《す》てて行く人がいるのだ。
また、ザザッと音がした。
恵美は足を止めた。犬にしては、音が大きい。
|誰《だれ》かいるのだろうか? 目をこらしたが、ともかく暗く、|静《しず》まり|返《かえ》っているばかりで、何も見えない。
|肩《かた》をすくめて、恵美はまた歩き出した。
女の子にしては、|度胸《どきょう》のある方だが、やはり、あまりいい気分でもない。いつしか、|足《あし》|取《ど》りは早まっていた。
ポツン、と|灯《あか》りが見えた。――うちの|玄《げん》|関《かん》だわ、とホッとした。
もう少しだ。
そのとき、何か、|布《ぬの》でも引きずるような音が|背《はい》|後《ご》から|近《ちか》|付《づ》いて来た。|振《ふ》り|向《む》くのと、|鋭《するど》い|刃《は》が恵美の|喉《のど》を切り|裂《さ》くのと、ほとんど同時だった。
恵美の目に何か|映《うつ》ったとしても、それは、|一瞬《いっしゅん》の白い|幻《まぼろし》でしかなかったろう。
すぐに|視《し》|界《かい》は黒く|閉《と》ざされて、二度と光を取り|戻《もど》すことはなかった。
|都《と》|会《かい》へ出してやっていれば、と|両親《りょうしん》を|嘆《なげ》かせることになる、恵美の|突《とつ》|然《ぜん》の|死《し》だった……。
10 |惨《ざん》 |殺《さつ》
「|警《けい》|部《ぶ》」
と、声がして、小西は、うたた|寝《ね》から|覚《さ》めた。
|机《つくえ》に|肘《ひじ》をついたまま、|眠《ねむ》ってしまっていたらしい。
「|起《おこ》してしまって、すみません」
顔を上げると、ちょっと|憎《にく》らしくなるくらい|爽《さわ》やかな顔つきの、|部《ぶ》|下《か》、|三《み》|木《き》|刑《けい》|事《じ》が立っていた。
「何時だと思ってるんだ」
と、小西は|文《もん》|句《く》を言った。
「すみません」
「もう少し、|疲《つか》れたような顔をして来い」
小西はそう言って|笑《わら》った。
三木は|楽《たの》しげに、
「ご|機《き》|嫌《げん》がいいですね」
と、|椅《い》|子《す》を引いて来て、|座《すわ》った。
「|機《き》|嫌《げん》が|悪《わる》くても、|事《じ》|件《けん》は|解《かい》|決《けつ》せんさ」
小西は|自己流《じこりゅう》の|理《り》|屈《くつ》を|並《なら》べて、「――どうだった?」
と|訊《き》いた。
もう、|深《しん》|夜《や》、一時を回っている。|県《けん》|警《けい》|本《ほん》|部《ぶ》にも、ほとんど人の|姿《すがた》はない。
「津田という男について|調《しら》べました」
と、三木が|手帳《てちょう》をめくった。「本人が言っている通りです。|特《とく》に|怪《あや》しい点はないようですが」
「そうか。――中込依子との|関《かん》|係《けい》は?」
「中学と高校が同じです。といっても二年、|違《ちが》うので、|先《せん》|輩《ぱい》、|後《こう》|輩《はい》の|間柄《あいだがら》ですね」
「|同《どう》|棲《せい》とか――」
「それはないようです」
「見た通りか」
「少なくとも、中込依子は、|教師《きょうし》として、|大《たい》|変《へん》に|熱《ねっ》|心《しん》で|真《ま》|面《じ》|目《め》、といつも|評価《ひょうか》されて来ています」
「あの|娘《むすめ》はそうだろう。――いい娘だ」
小西は|肯《うなず》いた。
「津田の方は、少々いい|加《か》|減《げん》なところもあるようです。|恋《こい》|人《びと》がいて、名前は深野珠江。|同《どう》|棲《せい》までは行っていませんが、ちょくちょくホテルへ行く|程《てい》|度《ど》の|仲《なか》らしいです」
「そんな|感《かん》じだな、あの男は。――|悪《わる》い|奴《やつ》じゃないが、ちょっと|頼《たよ》りない」
小西は、少し考えて、「津田がこっちへ来たのは、もっと前じゃなかったのか?」
「いえ、言っている通りです。会社に出ていましたから、|間《ま》|違《ちが》いありません」
「なるほど」
小西は肯いた。「すると、あの二人の話は、大体|信《しん》じていい、ということになるか」
三木は、|手帳《てちょう》を|閉《と》じた。
「――|警《けい》|部《ぶ》。あの町で、何があったんでしょう?」
「分らん」
小西は、立ち上ると、|机《つくえ》の後ろの|窓《まど》へと歩み|寄《よ》って、空っぽの|街《がい》|路《ろ》を見下ろした。
「あの女|教師《きょうし》の|証言《しょうげん》で、かなりのことが分って来るだろうが……」
「じれったいですね」
三木|刑《けい》|事《じ》はため|息《いき》をついた。「|徹《てつ》|夜《や》ででも話を聞いて、一気にあの町へ|乗《の》り込みたいですよ」
「|待《ま》て。――あの|娘《むすめ》がこっちの手中にあることは、知られないようにする必要がある。いや、|俺《おれ》たちが何を|求《もと》めているか、|悟《さと》られないようにする|必《ひつ》|要《よう》がある」
「ええ」
三木は、|肯《うなず》いて、少し|重《おも》|苦《くる》しい|表情《ひょうじょう》になった。
「|警《けい》|部《ぶ》はどう思われます?」
「何のことだ?」
「|田《た》|代《しろ》は、生きてるんでしょうか?」
小西は、ちょっと三木の方を|振《ふ》り|返《かえ》って、言った。
「|死《し》んでるんでしょうか、と|訊《き》いてくれた方がいい」
三木が、ちょっと|戸《と》|惑《まど》ったように、
「では――」
と言いかけたとき、小西の|机《つくえ》で、電話が鳴った。
|受《じゅ》|話《わ》|器《き》を|取《と》って、
「小西です」
と、|穏《おだ》やかな声で言った。「――なるほど。――分りました。|急行《きゅうこう》します」
三木が、|腰《こし》を|浮《う》かしていた。
「|事《じ》|件《けん》ですか」
「|殺《ころ》しだ。|若《わか》い|娘《むすめ》が|喉《のど》を切られた」
「何ですって?」
「ちょっとうるさいぞ。さあ、出かけよう」
小西は、三木の|肩《かた》を|軽《かる》く|叩《たた》いて、若々しい|足《あし》|取《ど》りで歩き出していた。
津田は、|浅《あさ》い|眠《ねむ》りから|覚《さ》めた。
もともと、小さなベッドで、|寝《ね》|苦《ぐる》しいのである。やっと|眠《ねむ》りに入ったところであった。
「パトカーか」
津田は|呟《つぶや》いた。
|外《そと》を、パトカーのサイレンが|駆《か》け|抜《ぬ》けて行く。一台ではないようだ。
いやな|気《き》|持《もち》だった。依子の話の|印象《いんしょう》が、あまりに|強烈《きょうれつ》だったせいかもしれない。
「まさか、|病院《びょういん》で何かあったわけじゃあるまいな――」
津田は|起《お》き上って、|窓《まど》|辺《べ》に歩いて行った。パトカーが、また一台、|深《しん》|夜《や》の道を走って行くのが見えた。
|記《き》|憶《おく》をたぐり|寄《よ》せて、パトカーが|向《むか》っているのが、病院とは|逆《ぎゃく》の|方《ほう》|向《こう》だと分ると、少しホッとした。
時計を見ると、もう三時だった。
こんな小さな町で、パトカーの音に眠りを|破《やぶ》られるとは思わなかったな、と津田は|苦笑《くしょう》した。
もちろん、どんな小さな町でも、山間の村でも、人間がいる限り、そこには|憎《にく》しみも|愛《あい》もあるには|違《ちが》いないのだ。
|平《へい》|和《わ》な村、|素《そ》|朴《ぼく》な村人、などというのは、|都《と》|会《かい》の人間の|身《み》|勝《がっ》|手《て》なイメージに|過《す》ぎない。
どこでも、人間は、どろどろした|苦《くる》しみを|抱《かか》えて生きているのである。
ドアをノックする音で、津田は|仰天《ぎょうてん》して|飛《と》び上った。
何をびくついてるんだ!
ここはギャングの町じゃないんだぞ。
またノックの音がした。ためらいがちな、|控《ひか》え目な|叩《たた》き方。
「津田さん……すみません」
依子の母だ。
「はい!」
|急《いそ》いで|返《へん》|事《じ》をすると、あわててズボンだけはいて、ドアを|開《あ》けた。
依子の母が、ホテルの|浴衣《 ゆかた》を|着《き》て、立っている。
「どうしました?」
「すみません、こんな時間に」
「いや、|僕《ぼく》も、ちょうど目が|覚《さ》めたところなんです」
「今、電話が鳴って――」
「電話が?」
「はい。出てみたんですけど、|向《むこ》うは何も言わないんです」
「|間《ま》|違《ちが》いじゃないんですか」
「でも、向うに人が出ているのは分るんです。ただ、息づかいというか、すすり|泣《な》いているような音が聞こえて――」
「すすり泣きですって?」
「よく分りませんけど」
と、依子の母は首を|振《ふ》った。「もしかして依子だったら、と……」
「|病院《びょういん》ですから|心《しん》|配《ぱい》ないでしょう。でも――|不《ふ》|安《あん》なら、行ってみますよ」
「でも、そんなことをお|願《ねが》いしては――」
「|構《かま》いません。どうせ目が|覚《さ》めてたんです。それに近いですからね」
|実《じっ》|際《さい》、|病院《びょういん》とこのホテルは、歩いて五分ほどの|距《きょ》|離《り》しかない。
「すみませんね」
|恐縮《きょうしゅく》する依子の母を、|部《へ》|屋《や》へ帰らせ、何か分ったら、電話するからと言っておいて、津田は自分の部屋へ|戻《もど》り、|服《ふく》を|着《き》た。
ホテルのフロントは、空っぽだった。|当《とう》|然《ぜん》のことだろう。こんな時間にやって来る客もないだろうから。
津田はルームキーを|上《うわ》|衣《ぎ》のポケットへ入れたまま、外に出た。
人っ子一人いない道を、病院へ|向《むか》って|急《いそ》ぐ。
パトカーのサイレンが、遠くで鳴っているが、どの|方《ほう》|角《がく》なのか、見当もつかなかった。
よほど大した|事《じ》|件《けん》が|起《おこ》ったのに|違《ちが》いない。
――依子が電話して来たのだろうか?
|夢《ゆめ》でもみて、うなされたとも考えられる。|実《じっ》|際《さい》、あんな目に|遭《あ》って、夢でうなされなければ不思議というものである。
依子は大したものだ、と津田は思った。
|俺《おれ》だったら、さっさと|逃《に》げ出すか、でなければ、見てまずいものには、目をふさいでしまうだろう。
依子は、それのできない女なのだ。
|結《けっ》|婚《こん》でもしたら、|尻《しり》に|敷《し》かれることになるかな、と津田は思った。まあ、それもいいか。どうせ、俺は|頼《たよ》りないところがあるんだ。
|病院《びょういん》の|建《たて》|物《もの》の明りが、見えて来た。もう少しだ。
|突《とつ》|然《ぜん》、目の前に|人《ひと》|影《かげ》が立ちはだかった。津田は、ギョッとして足を止めた。
「やあ、あなたですか」
小西が|愉《ゆ》|快《かい》そうに|部《へ》|屋《や》へ入って来た。
「小西さん! |助《たす》かりましたよ」
津田は|息《いき》をついた。|傍《そば》の|警《けい》|官《かん》を見て、
「この人に、いくら|怪《あや》しい|者《もの》じゃないと言っても、|信《しん》じてくれないんです」
「それは|失《しつ》|礼《れい》しました。――|君《きみ》、この人は|大丈夫《だいじょうぶ》だよ」
小西は、|警《けい》|官《かん》を|退《さ》がらせた。
「いや、今夜は|留置場《りゅうちじょう》かと思いました」
津田は|額《ひたい》の|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》った。
「どうしてこんな夜中に出ておられたんです?」
「いや、|実《じつ》は――」
と、津田が、依子の母にかかって来た電話のことを|説《せつ》|明《めい》すると、小西は真顔になった。
「なるほど。それは気になりますね。ご|一《いっ》|緒《しょ》に行ってみましょう」
「そうしていただけると――」
「パトカーなら二、三分ですよ」
――夜の町を、パトカーが|疾《しっ》|駆《く》する。
いや、もう明け方も間近い。
「ところで、何かあったんですか?」
と、津田がパトカーの中で、|訊《き》いた。
「ええ。|若《わか》い|娘《むすめ》が|殺《ころ》されましてね」
「そうですか……」
「|喉《のど》を切られてるんです。こんな|事《じ》|件《けん》は|珍《めずら》しいですよ」
「それはひどい」
津田は顔をしかめた。大体、あまりなまぐさいことには強くないのだ。
「|凶悪《きょうあく》事件は何年ぶりかですのでね、パトロールの|警《けい》|官《かん》も、つい|過《か》|敏《びん》になっているわけです」
「それはまあ、|無《む》|理《り》もありませんね」
と、津田は|肯《うなず》いた。
「依子さんからお話を聞くのが、ちょっと今日は無理かもしれないと……。ああ、もう|着《つ》きましたよ」
|病院《びょういん》の通用口から入って、当直の|医《い》|師《し》に、小西が話をした。
「何もなかったと思いますがね」
医師は、|眠《ねむ》そうな顔で、スリッパの音を、|静《しず》かな|廊《ろう》|下《か》に|反響《はんきょう》させながら歩いて行く。
病室のドアをそっと|開《あ》けると――ベッドで|眠《ねむ》っている依子の顔が見えた。
「|異常《いじょう》ないようですね」
と、小西が|肯《うなず》く。
|医《い》|師《し》が、|念《ねん》のため、というので、|脈《みゃく》を|取《と》り、|額《ひたい》に手を当てた。
「――少し脈が早いかな。でも|熱《ねつ》はありません。|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」
「お|騒《さわ》がせしてすみません」
と、津田は頭を下げた。
出る前に、津田は|一《いっ》|旦《たん》、依子のそばへ行って、|寝《ね》|顔《がお》を|覗《のぞ》き込んだ。
|穏《おだ》やかで、|平《へい》|和《わ》な顔をしている。これなら大丈夫だろう。
出ようとして、ふと、目が|床《ゆか》に|落《お》ちた。
津田は、かがみ|込《こ》んで、十円玉を一つ、|拾《ひろ》い上げた。
十円玉。――電話を|連《れん》|想《そう》した。
やはり、依子が電話をかけたのだろうか?
あのホテルに依子の母が|泊《とま》っていることを|他《ほか》の|誰《だれ》が知っていたか?
津田は、十円玉を、そっと小さな|机《つくえ》の上に|置《お》くと、|病室《びょうしつ》を出た。
|医《い》|師《し》に|礼《れい》を言って、小西と津田は、通用口から|外《そと》へ出た。
「お|騒《さわ》がせして――」
「いやいや。何もなければ、それに|越《こ》したことはありません」
小西はパトカーの方へ歩きながら、「ホテルまで|送《おく》りましょうか」
と言った。
「近いですから。――でも、また|捕《つか》まると|困《こま》るな」
「送りますよ」
と、小西は|笑《え》|顔《がお》で言ったが、ふと、|表情《ひょうじょう》をこわばらせた。「おかしいな」
「どうしたんです?」
「|警《けい》|官《かん》がいません。通用口の|所《ところ》に立たせてあるはずだ」
小西は、小走りに|病院《びょういん》へと|駆《か》け|戻《もど》った。
夜間|受《うけ》|付《つけ》の|係《かかり》も、警官のことを|訊《き》かれて、|初《はじ》めて|気《き》|付《づ》いた|様《よう》|子《す》で、
「そういえば……。十二時|過《す》ぎに、しゃべりましたけどね。それからは見てないな」
「どこかへ行くと言ってたかね?」
「いいえ。でも――私も、ちょっと|眠《ねむ》っちまったもんですから」
と、係の男は|照《て》れくさそうに頭をかいた。
小西は、|表《おもて》に出ると、
「――ここにいて下さい」
と、津田へ言った。「表の玄関|辺《あた》りを見て来ます」
小西が行ってしまうと、津田は一人になった。いや、パトカーの中には、|運《うん》|転《てん》してくれた|警《けい》|官《かん》がいる。
まあ、|心細《こころぼそ》いということもないが、それでも、|暗《くら》い中に、ポツンと立っているのは、いい気分とは言えなかった。
そろそろ夜が明けて来るだろう。まだ朝の|気《け》|配《はい》はなかったが、たぶん二、三十分の内に空が白んで……。
津田は空を見上げていた。
通用口の少しわきに、立っていたのである。――何の|物《もの》|音《おと》にも|気《き》|付《づ》かなかった。
|突《とつ》|然《ぜん》、足首をぐいとつかまれたので、津田は|仰天《ぎょうてん》した。
「ワーッ!」
と大声を上げて、|地《じ》|面《めん》に引っくり|返《かえ》った。
「|誰《だれ》か――|助《たす》けてくれ!」
とわめくと、パトカーから、警官が|飛《と》び出して来た。
「どうしました!」
「誰かが――足をつかんだ!」
津田は|震《ふる》え声で言った。
|我《われ》ながら少々|情《なさけ》ないが、|仕《し》|方《かた》ない。
|懐中電灯《かいちゅうでんとう》の光が、津田の足の方を|照《て》らした。
「これは――」
津田もびっくりしたが、|警《けい》|官《かん》の方も|息《いき》を|呑《の》んだ。
|倒《たお》れているのは、|制《せい》|服《ふく》の警官だった。
おそらく、ここの|監《かん》|視《し》に立っていた警官だろう。顔が血で|汚《よご》れていた。|苦《くる》しげに|喘《あえ》いでいる。
「おい! しっかりしろ!」
津田も、やっとショックから立ち直って、もう一人の警官と|一《いっ》|緒《しょ》に、けがをした警官をかかえて立たせた。
そこへ、小西が|駆《か》け|戻《もど》って来る。
|急《いそ》いで中へ|運《はこ》び、当直の医師が、|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》を|呼《よ》んで、手当をした。
「――大したことはありません」
と、医師が出て来て、言った。「頭を|殴《なぐ》られたらしいですね。|派《は》|手《で》なコブになっていますよ」
「|出血《しゅっけつ》は?」
「|出血《しゅっけつ》? ああ、あれは鼻血です。たぶん、|倒《たお》れたときにでも、地面に顔を|打《う》ちつけたんでしょう」
「そうですか」
小西は|苦笑《くしょう》した。「では話を聞けますね?」
「|構《かま》いません」
――|殴《なぐ》られた|警《けい》|官《かん》は、頭に大げさな|包《ほう》|帯《たい》をして、|照《て》れくさそうに|座《すわ》っていた。
「|申《もう》し|訳《わけ》ありません」
と|恐縮《きょうしゅく》している。
「用心が足らないぞ。何のための|警《けい》|備《び》だ」
「はあ」
「まあ、大した|傷《きず》でなくて|良《よ》かった」
小西は、|穏《おだ》やかに言った。「|犯《はん》|人《にん》を見たか?」
「いえ、それが|全《まった》く――」
「何も、か?」
「ええ。いきなり後ろから、ガツン、と。――それきり、何も分りませんでした」
「足音も何も聞こえなかったのか?」
「はあ。気を|付《つ》けていたつもりなんですが……」
「どっちを|向《む》いて立ってたんだ?」
「外です。つまり――この|病院《びょういん》の|建《たて》|物《もの》に|背《せ》を向けて」
津田は、|変《へん》だな、と思った。
その警官の話だと、|殴《なぐ》った|奴《やつ》は、「病院の方から」来たことになるじゃないか……。
11 〈谷〉へ
雨の中で|襲《おそ》われてから、依子の心の|持《も》ち方が、ガラリと|変《かわ》った。
これまでは、|他《よ》|所《そ》|者《もの》として、この町の|問《もん》|題《だい》に、どこまで口を出していいものか、という|迷《まよ》いが|残《のこ》っていたのだが、もう、その点は、ふっ切れていた。
もし、あの|脅《おど》しで、依子が町を|逃《に》げ出すと|期《き》|待《たい》していた|者《もの》があったのなら、当て|外《はず》れだったに|違《ちが》いない。
依子という|娘《むすめ》の性格を、よく知らないのだ。
依子は、|決《けっ》して、後に|退《ひ》くものか、と思った。もちろん、正面切って、町の人々に|対《たい》|抗《こう》するような|真《ま》|似《ね》はしないが、|逆《ぎゃく》に、こしらえものの|愛《あい》|想《そう》|良《よ》さで、|接《せつ》することを|覚《おぼ》えた。
ともかく、|誰《だれ》をも|信《しん》じない、という|決《けっ》|心《しん》が|却《かえ》って、依子を明るくしたのである。
|現《げん》に、水谷から、
「中込先生、何かいいことでもあったんですか?」
と|訊《き》かれたほどである。
しかし、依子は|油《ゆ》|断《だん》しなかった。
毎日、町を歩き、|買《かい》|物《もの》し、立ち話をしながら、この中に、自分を|襲《おそ》って、|裸《はだか》にし、雨の|校《こう》|庭《てい》に|放《ほう》り出した|犯《はん》|人《にん》がいるのだ、と思うと、|改《あらた》めて|怒《いか》りを|覚《おぼ》えるのだった。
おそらく、当の犯人だけでなく、その|周囲《しゅうい》にも、|事《じ》|件《けん》を知っている人間がいるのだろう。
その人々は、いとも|平《へい》|然《ぜん》としている依子を、どう見ているだろうか?
依子は、|注意深《ちゅういぶか》く、町の人々の|表情《ひょうじょう》を|観《かん》|察《さつ》していたが、さすがに、依子の顔を見て、あからさまにギョッとするような、|単純《たんじゅん》な犯人はいないようだった。
学校での日々は、何事もなく|過《す》ぎた。
|生《せい》|徒《と》たちにも|変《かわ》りはない。|授業《じゅぎょう》も、以前の通りだ。
ただ、|職員室《しょくいんしつ》に、|野球《やきゅう》のバットが|置《お》かれるようになった。
「中込先生、野球をやるんですか」
と、水谷がびっくりしたように|訊《き》いて来たので、
「|美《び》|容《よう》|体《たい》|操《そう》の|代《かわ》りです」
と、依子は|言《い》った。「このところ、少し|太《ふと》っちゃったんで」
もちろん、このバットは、|護《ご》|身《しん》用である。
それから、|白《はく》|墨《ぼく》の|粉《こな》をつめた小さな|封《ふう》|筒《とう》を依子は|持《も》ち歩いていた。
いざ、というとき、目つぶしぐらいにはなるだろう。
まあ、|武《ぶ》|器《き》を持ち歩くわけにもいかないので、後は、|度胸《どきょう》でぶつかるしか、手はなかった。
――土曜日になった。
栗原多江が、〈谷〉へ依子を|案《あん》|内《ない》してくれる日である。
本校へ出向く用事があって、依子は、|午前中《ごぜんちゅう》、十一時で|授業《じゅぎょう》を|終《おわ》りになると、
「|遊《あそ》びは二時までよ」
と、生徒に|言《い》い|渡《わた》した。
|校《こう》|舎《しゃ》の|外《そと》に、河村が|制服姿《せいふくすがた》で立っていた。
依子が本校へ行くので、子供が遊んでいるのを、見ていてほしいと|頼《たの》んだのである。
「じゃ、河村さん、|申《もう》し|訳《わけ》ありませんけど」
と、依子は|表《おもて》に出て言った。
「|大丈夫《だいじょうぶ》です。|任《まか》せて下さい」
河村は|上機嫌《じょうきげん》に|肯《うなず》いた。
わざと河村に何かと|頼《たよ》って行くように、依子はつとめていた。その方が、河村の|警《けい》|戒《かい》|心《しん》を|解《と》くことになるだろう、と思ったのである。
|事《じ》|実《じつ》、河村の|態《たい》|度《ど》に、一時見られた、よそよそしさが|消《き》えて、|以《い》|前《ぜん》のように、目つきも|優《やさ》しくなっていた。
「ちゃんとお昼を食べに帰るように言って下さい。食べないで|遊《あそ》ぶ子もいるんですから」
と、依子は言った。
「|承知《しょうち》しました」
「それで――|私《わたし》、本校へ出たついでに、町に|寄《よ》って来ようと思ってますの。少し帰りが|遅《おそ》くなるかもしれません」
「ゆっくりしていらっしゃい。先生は少し|働《はたら》き|過《す》ぎてるんじゃないか、と、この前も町の|連中《れんちゅう》が|心《しん》|配《ぱい》してましたよ」
「まあ、それはどうも」
と、依子は|笑《わら》って言った。「生れつき、|怠《なま》け|者《もの》なんですから、ご心配には|及《およ》びませんわ」
――学校を出て、本校まで、バスを|乗《の》り|継《つ》いで、一時間はかかる。
本校へ|着《つ》いたのは、十二時を少し回ったところで、昼食時間だった。
|応《おう》|接《せつ》|室《しつ》で、しばらく待たされる。――依子は、ちょっと|苛《いら》|々《いら》した。
本校での|用《よう》|事《じ》は早く|済《す》ませて、多江と|落《お》ち合いたいのである。もう少し早く来れば|良《よ》かった、と思った。
一時まで|待《ま》つのかしら、と|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見ていると、|秘《ひ》|書《しょ》の|女《じょ》|性《せい》に|呼《よ》ばれて、校長室へと通された。十二時四十分だった。
「やあ、お待たせして」
校長の|大《おお》|崎《さき》が立ち上って、依子を|迎《むか》えた。
一見して、校長というより、会社の社長というイメージの|紳《しん》|士《し》である。
なかなかのお|洒《しゃ》|落《れ》で、いい|背《せ》|広《びろ》を|着《き》ている。人当りも、|至《いた》って|柔《やわ》らかい。
「――どうです、その後?」
仕事の話が済むと、大崎が|訊《き》いた。
「分校の|状態《じょうたい》、ということでしょうか?」
「ええ。あの|事《じ》|件《けん》の後、何か|変《へん》|化《か》はありましたか」
「いいえ。みんなとても元気にやっていてくれます」
「それは|良《よ》かった」
と、大崎は|肯《うなず》いた。
「でも――」
と、依子は目を|伏《ふ》せた。「|犯《はん》|人《にん》はまだ|捕《つか》まっていません。それなのに、どんどんみんなの|記《き》|憶《おく》が|薄《うす》れて行くのは、どうも……」
「|確《たし》かにその点はありますね。また|油《ゆ》|断《だん》したときが|危《あぶ》ない」
「|充分《じゅうぶん》に気を|付《つ》けてはいるのですけれど、|私《わたし》一人の力では、できることは|限《かぎ》られていますので」
「私も、時々、|県《けん》|警《けい》の人と会うことがあるので、|今《こん》|度《ど》、よく言っておきましょう」
大崎は、メモを|取《と》った。――何でもメモするのが、この校長のくせらしい。
「|捜《そう》|査《さ》の|進《しん》|展《てん》について、何か|報《ほう》|告《こく》はないんでしょうか?」
「変りばえしないようですよ。あの|一《いっ》|帯《たい》の|変《へん》|質《しつ》|者《しゃ》を中心に、当ってみてはいるようですがね」
「そうですか……」
正直、依子はがっかりした。河村はともかく、|県《けん》|警《けい》の|捜《そう》|査《さ》には|期《き》|待《たい》していたのである。
「何か、|希《き》|望《ぼう》があれば、言ってみて下さい。すぐにどうとは|返《へん》|事《じ》できなくても、うかがっておきますよ」
依子は、ちょっと考えてから、言った。
「あの|悲《かな》しい事件のことは、とても忘れられませんけど、それ|以《い》|外《がい》は、|満《まん》|足《ぞく》しています」
「それは|結《けっ》|構《こう》」
大崎は、|肯《うなず》いて言った。「あなたのような、教えることに喜びを見出すタイプの先生がこのごろは少なくなりましたからね」
依子は、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
大崎は、少し間をあけて、|続《つづ》けた。
「――|特《とく》に、あの町はむずかしくて、何人も|辞《や》めているのでね。あなたが|頑《がん》|張《ば》ってくれて、|助《たす》かります」
これは、依子には|意《い》|外《がい》な話だった。
「|初《はじ》めてうかがいました。そんなに何人もですか?」
「ああ――いや、それほどでもありませんがね」
大崎は、しまった、という|表情《ひょうじょう》で言った。
「三、四人、でしょうか」
「なぜ|辞《や》められたんでしょう、その先生方は?」
「色々ですよ」
と、大崎は|肩《かた》をすくめて、「|結《けっ》|婚《こん》でやめた人もあるし、やはり|都《と》|会《かい》の学校でないと、という人もある。――何といっても、|退《たい》|屈《くつ》な所ですからね」
わざとらしく|笑《わら》う。
何か、他の|理《り》|由《ゆう》があったのだ、と依子は思った。教えたくない理由が。
ともかく、今日はゆっくりしていられない。
依子は、早々に大崎校長の|下《もと》を|辞《じ》した。
大崎は|愛《あい》|想《そう》|良《よ》く、しかし、どこかホッとした|様《よう》|子《す》で、依子を|送《おく》り出した。
「――何かあるんだわ」
と、歩きながら、依子は|呟《つぶや》いていた。
あの町には、やはり、何か|秘《ひ》|密《みつ》めいたものがあるのだ。
「そうだわ」
依子は、思い|付《つ》いた。――前、あの分校にいて、やめて行った先生たちの名前や|連《れん》|絡《らく》|先《さき》はどこかに|残《のこ》っているはずだ。
|調《しら》べて、手紙を出すか、それとも会いに行ってもいい。話を聞くことができれば、何か分って来るかもしれない。
依子は、バスを|待《ま》っていた。
コートをはおった|若《わか》い男が、依子のすぐ後ろに|並《なら》んだ。たぶん、依子と同じくらいの|年《ねん》|齢《れい》だろう。
きりっとした顔立ちの青年である。
依子は、バスが来ると、どうせ終点まで行くので、一番後ろの|座《ざ》|席《せき》に|座《すわ》った。
すると、その青年も、一番後ろにやって来て、依子の|隣《となり》に|座《すわ》ったのである。
依子は、|初《はじ》めて、その青年をまじまじと見た。何だか、わざと隣へ来たように思えたのである。
しかし、バスが走り出すと、青年は頭を|垂《た》れて、居眠りを|始《はじ》めた。
どうやら、思い|過《すご》しだったらしいわ。
その内、青年が、依子の方へもたれかかって来た。依子がぐいと|押《お》し|戻《もど》すと、何となくムニャムニャと|呟《つぶや》いて、|一《いっ》|旦《たん》、元に戻るのだが、またすぐにもたれかかって来る。
もう! |図《ずう》|々《ずう》しいんだから!
|押《お》し|返《かえ》すか、それとも、サッとわきへどいて、引っくり返らせてやるか。
そう|迷《まよ》っていると、急に、
「中込依子先生ですね」
と、その青年が|低《ひく》い声で|呟《つぶや》いた。
「え?」
依子はびっくりした。
「しっ。|静《しず》かに」
青年は、|相《あい》|変《かわ》らず|居《い》|眠《ねむ》りだ。目を|閉《と》じたまま、そっと、|呟《つぶや》くように話している。
「あの――」
「こっちを見ないで!」
と、青年は強い|口調《くちょう》で言った。「知らん顔をしてて下さい。――中込先生ですね? 小さな声で」
「ええ、中込依子です」
「ちょっとお話をうかがいたいことがあるんです」
「あなたは?」
青年は、|腕《うで》|組《ぐ》みをした。手がスッとポケットへ入って、黒い|手帳《てちょう》を少し引き|抜《ぬ》いて見せる。
「|刑《けい》|事《じ》さん?」
依子はびっくりして言った。
「田代といいます」
「なぜ|私《わたし》を……」
「あの町のことを調べているんです」
「町のこと?」
「そうです。あなたに|訊《き》けば、少しは|事情《じじょう》が分るかと……」
「|私《わたし》、まだ|新《しん》|任《にん》ですもの」
「しかし、|殺《さつ》|人《じん》がありましたね」
「教え子でした」
「犯人は見当もつかないようです」
「あなたも――」
「|県《けん》|警《けい》の人間です。しかし、あまり|騒《さわ》ぎ立てたりしませんから、ご|心《しん》|配《ぱい》なく」
「何のお話ですか?」
「どこかで、ゆっくりお話しできませんか?」
依子は|迷《まよ》った。――|刑《けい》|事《じ》と話ができる。それも|興味《きょうみ》はあったが、しかし今日のところは、多江との|約《やく》|束《そく》がある。
「今日はどうしても……」
と、依子は言った。
「そうですか」
と、田代という刑事は|残《ざん》|念《ねん》そうに言った。
「お話はしたいと思いますけど……」
と、依子は、言った。
「いつなら|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「明日なら日曜日ですから……」
「出て来られますか?」
「ええ。でも、どこへ――」
「あの町では、うまくありません。どこか|他《ほか》の町で……」
依子は、|妙《みょう》な気分だった。まるで、外国のスパイ|映《えい》|画《が》にでも出ているようだ。
これが|現《げん》|実《じつ》の|出《で》|来《き》|事《ごと》なのだろうか?
「そうだわ」
依子は、多江が|働《はたら》いているレストランを教えた。
「そこなら――大丈夫だと思いますけど」
「分りました。|捜《さが》します」
田代は、|相《あい》|変《かわ》らず|居《い》|眠《ねむ》りしているように、前へ頭を|垂《た》れていたが、やがて、ちょっと依子の方へ目をやって、
「あなたも|充分《じゅうぶん》、用心して下さい」
と言った。「|危《き》|険《けん》なことがあるかもしれません」
田代は、ふっと目が|覚《さ》めたような|様《よう》|子《す》で、キョロキョロと|周囲《しゅうい》を見回し、|大《おお》|欠伸《 あくび》をした。
「もう、|危《あぶ》ない目には|遭《あ》いましたわ」
と、|窓《まど》の外を見ながら、依子は言った。
「何ですって?」
「|襲《おそ》われて|裸《はだか》にされました」
田代が、さすがに|驚《おどろ》いた|様《よう》|子《す》で、ちょっと依子を見た。が、すぐに、うつむいて、|床《ゆか》に手を|伸《の》ばすと、|落《お》ちていたバスの|切《きっ》|符《ぷ》を|拾《ひろ》い上げて、
「あなたのでは?」
「いいえ」
「そうですか。じゃ、|誰《だれ》か|捨《す》ててったんだな」
田代は肩をすくめた。「――|届《とど》けたんですか」
「いいえ」
「どうして?」
「|却《かえ》って、危険です」
田代は、頭を|振《ふ》って、
「――では、ここで|降《お》ります。明日の二時に、そのレストランで」
「ええ」
田代は、
「降ります!」
と、大声を上げて、つかれて、うっかりしていたという風に、走って行った。
バスが走り出す。
依子は、|窓《まど》の外の田代を、目で|追《お》った。
|刑《けい》|事《じ》か。――依子の心は、少し|軽《かる》くなっていた。
私は一人じゃないんだわ!
依子は、|裏《うら》の山道から、|校《こう》|舎《しゃ》を見下ろした。
バスで町へ|戻《もど》って来れば人目につく。
タクシーで、町の|外《はず》れまで来て、後は歩いて来た。くたびれたが、見られていないという|自《じ》|信《しん》はあった。
|校《こう》|庭《てい》は、もう|静《しず》かになっていた。|誰《だれ》も|遊《あそ》んでいないのだろう。
多江はどこへ来るのだろうか?
|校《こう》|舎《しゃ》の中で|待《ま》った方がいいのかもしれないと思ったが、あの雨の日の|記《き》|憶《おく》が、それをためらわせた。
もちろん、まだしばらくは明るいし、二度も|襲《おそ》われることはあるまいと思ったが……。
後ろに足音がした。ギクリとして|振《ふ》り|向《む》くと、多江が立っている。
「先生、来たのね」
多江の|笑《え》|顔《がお》に、ホッとした。
「|教師《きょうし》は|約《やく》|束《そく》を|守《まも》るのよ」
と、依子は言った。「さあ、|案《あん》|内《ない》してちょうだい。その〈谷〉っていう所へ」
「いいわ」
多江は|肩《かた》をすくめた。「先生の|意《い》|地《じ》っ|張《ぱ》りにはかなわない。私も|相《そう》|当《とう》なもんだけど、先生の方が|上《うわ》|手《て》だわ」
「|意《い》|志《し》が強いとか、言い方があるでしょ」
と、依子は言い|返《かえ》した。
多江が先に立って、歩いて行く。
山の中の、依子など、まるで知らない道だった。
おまけに、道はどんどん|狭《せま》くなって行くのだ。――そしてついに、ただ林の中を分け入って|進《すす》んで行くだけになってしまった。
いくら|若《わか》くて元気とはいえ、依子も|都《と》|会《かい》っ子である。しばらく行くと、|息《いき》が切れて来た。
「先生、|大丈夫《だいじょうぶ》? 少し休もうか」
「|平《へい》|気《き》よ」
と、言ってみたものの、「後、どれくらいあるの?」
「まだ半分」
「じゃ、休むわ」
依子は|素《す》|直《なお》に言った。
12 |影《かげ》の中
依子と多江は、|平《ひら》たい|岩《いわ》の上に|腰《こし》をおろして、休んだ。
風が|渡《わた》って、|汗《あせ》ばんだ|肌《はだ》を|乾《かわ》かして行く。――|静《しず》かだった。
「近道したの。きつかったかな」
と、多江が言った。
「|運《うん》|動《どう》|不《ぶ》|足《そく》でね」
と、依子は、ハンカチを出して、|額《ひたい》を|拭《ぬぐ》った。
「あなた、平気なのね」
「そうよ。だって、年中通ってるんだもの」
「年中?」
「うん」
「でも――町で、あなたの|姿《すがた》、見かけたことないわ」
「バス|停《てい》に|直接《ちょくせつ》出るからよ。町は通らないもの」
「そうか。|働《はたら》いてるものね」
と言って、ふと依子は|気《き》|付《づ》いた。「|仕《し》|事《ごと》、今日は?」
「休んだの。明日、早く出るから、って言ってね」
「|私《わたし》のために? 悪いわね」
「どうってことないわ」
多江は、遠くへ|視《し》|線《せん》を向けた。「|辛《つら》い生活には|慣《な》れてるもの」
依子は、少し間を|置《お》いて、
「――谷には|誰《だれ》かいるの?」
と|訊《き》いた。
「うちの|一《いち》|族《ぞく》、|全《ぜん》|部《ぶ》で――三十人くらいかしら」
と、多江は言った。
「三十人も?」
「家が六|軒《けん》。谷の底に、|固《かた》まって|建《た》ってるから、いつの間にか、〈谷のもの〉とか言うようになったのよ」
「――なぜ、あなた方だけが?」
多江は、ゆっくりと首を|振《ふ》って、
「村八分――というのかな、|追《お》いやられたのよ。|私《わたし》が生れて、間もなくだったらしいわ。私|自《じ》|身《しん》は|憶《おぼ》えていないの」
「で、ずっとそこに?」
「そう。――もう十六、七年になるわ」
「あなた、学校は?」
多江が|肩《かた》をすくめた。
「行ってないわよ」
「まさか!」
依子が|唖《あ》|然《ぜん》とした。「でも――ちゃんと|住民票《じゅうみんひょう》はあるわけでしょう?」
「|書《しょ》|類《るい》の上では、行ったことになってるわ。ちゃんと|出席簿《しゅっせきぼ》もあるし、|成《せい》|績《せき》もついていて、|卒業《そつぎょう》したことになってる。――でも、行ったのは一日」
「一日?」
「|入学式《にゅうがくしき》の日よ。――そこで、私、|寄《よ》ってたかって、|服《ふく》を|破《やぶ》られ、|泥《どろ》の中へ|投《な》げ|込《こ》まれたわ。母も同じ。二人して、谷へ|戻《もど》って、それきり、一日も行かなかった」
依子は、体が|震《ふる》え出すのを、|必《ひっ》|死《し》でこらえた。――多江の話し方は、ごく|淡《たん》|々《たん》としていて、それだけに、|胸《むね》に食い入って来た。
「今まで、何人かの先生が、谷へやって来て、学校へ来てくれと話をしたわ。でも、行けばどうなるか、みんな知ってる。――その|内《うち》に、その先生も、町を出て行った」
「――水谷先生は?」
「何もかも|承知《しょうち》よ。でも、|利《り》|口《こう》というか。小心というか。ともかく、角田の口ききで、何とか教師をやってられるんだもの」
「角田さんの?」
「水谷先生は、一度、学校のお金を|使《つか》い|込《こ》んだのよ。クビになるところを、角田が口をきいて|助《たす》けてやった。――だから、言いなりなのよ」
依子は|呆《あき》れて、|怒《おこ》る気にもなれなかった。
「それに、あの先生は、大体が|日《ひ》|和《より》|見《み》じゃないの」
と、多江は言った。
|初《はじ》めて、|腹《はら》|立《だ》たしげな|響《ひび》きが、多江の|口調《くちょう》に|混《まじ》った。
「――今、谷の人たちの中で、小学校へ行く|年《ねん》|齢《れい》の子はいないの?」
と、依子は|訊《き》いた。
「いないわ。――|幸《さいわ》いね」
と多江は、|微《ほほ》|笑《え》んだ。「いたら、先生、|黙《だま》ってないでしょうね」
「|当《とう》|然《ぜん》だわ」
と、依子は言った。「|教師《きょうし》として? 当り前のことじゃないの」
「おお|怖《こわ》い」
と、多江はおどけて見せた。「ねえ、先生、|恋《こい》|人《びと》、いるの?」
「え?」
「きっと|恋《こい》|人《びと》と話すときも、そういう|調子《ちょうし》なんだろうな」
依子は|仕《し》|方《かた》なく|笑《わら》った。
「でも――なぜ、そんなことになったの?」
「それは|私《わたし》が話すより、母に|訊《き》いてもらった方がいいわ」
依子は|肯《うなず》いた。
「みんな――|谷《たに》を出て行かないの?」
「|年《とし》|寄《よ》りを|置《お》いて? そんなこと、できないわ。行く|所《ところ》もないし、お金もない」
「あなたのように|働《はたら》きに出てる人も、|他《ほか》にいるの?」
「何人かね」
と、多江は言った。「でも、いいお金を|取《と》れる|仕《し》|事《ごと》にはつけないわ」
「あなたの恋人は、ここの人?」
「恋人?」
と、多江は|訊《き》き返して、「ああ、あのアパートのね」
思い出して|頬《ほお》をちょっと染めた。
「聞かれちゃったんじゃ|仕《し》|方《かた》ないけど」
「聞いてないわ! 本当よ」
「むきになるところが|愉《ゆ》|快《かい》ね」
「大人をからかうもんじゃないわ」
依子は、多江をにらんでやった。
「あの人とは、あの町で知り合ったのよ。ここの人じゃないわ」
「でも、|仲《なか》がいいんでしょ」
「|傷《きず》をなめ合ってるだけよ。――|寂《さび》しさを|忘《わす》れるためにね」
多江の言い方は、まるで、生活に|疲《つか》れた大人のそれだった。
「ねえ、あの|叔《お》|母《ば》さんといってた人――大沢和子さんだったわね。何か分って?」
と、依子は訊いた。
「いいえ」
多江は、首を|振《ふ》った。「もう、みんな|諦《あきら》めてるわ」
「諦めてる……。どうして?」
「|戻《もど》るはずがないもの」
「どうして諦めるの? |捜《そう》|索《さく》|願《ねが》いでも出せばいいのに!」
「むだよ」
「そんなことないわ。|現《げん》に、|警《けい》|察《さつ》の人が――」
多江が依子の方を見た。
「何と言った?」
「|刑《けい》|事《じ》さんよ。|県《けん》|警《けい》の。――私に声をかけて来たわ」
「何のことで?」
「分らない。でも、あの町のことを|調《しら》べるんだ、って」
「警察が……」
多江は、|固《かた》い|表情《ひょうじょう》で、「でも、|信《しん》|用《よう》できないわ」
と言った。
「なぜ?」
「今までだって、ずいぶん|私《わたし》たちが|悪《わる》|者《もの》にされて来たのよ。何かある|度《たび》に、『谷の|奴《やつ》ら』だって」
「|警《けい》|察《さつ》は?」
「河村は、角田の|飼《かい》|犬《いぬ》だわ。――それに、|事《じ》|件《けん》といっても、この間のような、|殺《さつ》|人《じん》まではなかったもの」
「でも、それなら――」
と、依子は|熱《ねっ》|心《しん》に言った。「|却《かえ》って、いい|機《き》|会《かい》じゃないの! 殺人――それも|子《こ》|供《ども》よ。|県《けん》|警《けい》だって、放ってはおけないのよ。この機会に、|実《じっ》|態《たい》をはっきり|訴《うった》えたら?」
多江は、ちょっと|肩《かた》をすくめた。
「|簡《かん》|単《たん》に言うけどね……」
「ええ。そうね。――ごめんなさい」
依子は、声を|低《ひく》くした。「|局外者《きょくがいしゃ》の私が、|訳《わけ》も分らずに――」
「そうじゃないのよ」
多江は、依子の手を|握《にぎ》った。「ありがたいと思ってるの。でも、|現《げん》|実《じつ》は、そう|単純《たんじゅん》じゃないわ」
「ええ」
「みんな谷から出るのを|恐《おそ》れてる。――ひっそりと|息《いき》をつめて|暮《くら》してるのよ。|勇《ゆう》|気《き》を出せといったって、とてもむずかしいわ」
それは、依子にも何となく分った。
「でも、このままにしておいたら――」
と、依子が言いかけたとき、
「しっ!」
と、多江が|鋭《するど》く言った。「|誰《だれ》か来たわ」
二人は|腰《こし》かけていた|岩《いわ》の|陰《かげ》に、かがみ込んだ。
「――誰かしら?」
「こんな|所《ところ》へ来る人、ほとんどいないんだけど」
と、多江は言った。
足音が、|近《ちか》|付《づ》いて来た。
「一人じゃないわ」
と、多江が、|低《ひく》い声で言った。
なるほど、依子の耳にも、二人らしい足音が|届《とど》いて来た。
「――おい、少し休もう」
と、男の声がした。
「だらしねえな、|頑《がん》|張《ば》れよ」
言い|返《かえ》した方の声は、依子にも聞き|憶《おぼ》えがある。――町の|雑《ざっ》|貨《か》|屋《や》の|息《むす》|子《こ》だ。
「だけど、|重《おも》いぜ」
「早くしねえと、帰りが|真《まっ》|暗《くら》になるぞ」
「そうか……。それもいやだな。よし、行くか」
「後は下りだ」
「帰りにゃ上りだぜ」
「|荷《に》|物《もつ》はないよ」
――二人の男が、また歩き出した。
「――何かしら?」
と、依子は言った。
「分らないわ。何かを|捨《す》てに行くのか……。でも、こんな山の|奥《おく》まで、なんで」
依子は、そっと頭を出した。
二人の男たちの|姿《すがた》が、木々の間に、見え|隠《かく》れしている。
依子は青ざめた。
「見て!」
「え!」
「あれを――」
多江も頭を出し、そして|短《みじか》く声を上げた。
二人の男がかついでいるのは、棺[#「棺」に傍点]だった。
多江は青ざめていた。
「――きっと、|叔《お》|母《ば》さんだわ」
「そう思う?」
「でなきゃ、こんな|山《やま》|奥《おく》に、埋める必要ないでしょう」
「そうね」
「今ごろどうして……」
「きっと、どこかへ|一《いっ》|旦《たん》埋めてあったのよ。でも、私のことがあったりして、|見《み》|付《つ》からないように、きっと|掘《ほ》り出して、埋め直すんだわ」
依子は、多江を見た。「――後をつけましょう」
「え?」
「どこへ埋めるか、|見《み》|届《とど》けるのよ」
多江が|肯《うなず》いた。ためらいはなかった。
依子と多江は、|岩《いわ》|陰《かげ》から|忍《しの》び出て、遠くに見える男たちの後をつけ|始《はじ》めた。
やがて、|黄《たそ》|昏《がれ》の|気《け》|配《はい》が、山の|影《かげ》の中に、|這《は》い入って来る。
13 夜の|校《こう》|舎《しゃ》
男たちは、かなり山の|奥《おく》|深《ふか》くへと分け入って行った。
「|畜生《ちくしょう》!」
とか、
「いい|加《か》|減《げん》にしてくれよ!」
といった声が上るのは、大分へばって来たせいだろう。
依子と多江は、用心しながら、男たちの後を|尾《つ》けて行ったが、|向《むこ》うは、そんな用心をする|余《よ》|裕《ゆう》もないようだった。
「――こっちへ行くと、どこに出るの?」
依子は、|低《ひく》い声で|訊《き》いた。
「|湖《みずうみ》の方だわ」
「湖? そんなもの、あるの? |初《はじ》めて聞いたわ」
「湖っていっても、ただの|池《いけ》なの。少し大きいくらいの。町の人が、『湖』と呼んでるだけで」
「まだ|遠《とお》いいの?」
「そうね……。|私《わたし》も、あまり行ったことがないけど、たぶん、この|調子《ちょうし》で行けば、まだ一時間はかかると思うわ」
依子たちはともかく、男たちは、|棺《かん》という|大《おお》|荷《に》|物《もつ》をかついでいるのだ。どんどん、ペースは|落《お》ちていて、|尾《び》|行《こう》するのは|至《いた》って|楽《らく》であった。
「――もうすぐ|陽《ひ》が落ちるわ」
と、多江が言った。
|実《じっ》|際《さい》、山の中は、そろそろ|影《かげ》の中に入って、ほの|暗《ぐら》くなりかけていた。風が冷たくなっている。
「ワッ!」
と、|突《とつ》|然《ぜん》、男の一人が声を上げたので、依子と多江は、|一瞬《いっしゅん》、|気《き》|付《づ》かれたのかと身を|伏《ふ》せた。
しかし、|続《つづ》いて、何かが|岩《いわ》にぶっつかるような音がしたので、|事情《じじょう》が呑み込めた。|棺《かん》を|落《お》としたのだ。
「何だ、だらしねえぞ!」
もう一人が|怒《ど》|鳴《な》る。
「だけど――もうだめだよ」
と、|完《かん》|全《ぜん》に|参《まい》っている|様《よう》|子《す》。
「|俺《おれ》だって|疲《つか》れてるんだ。だけど、言いつけられた|所《ところ》まで|運《はこ》ばないと、後でどやされるんだぜ」
「分るもんか!――|誰《だれ》も|調《しら》べに来るわけじゃあるめえし、ここで|埋《う》めちまおうぜ」
「だけど……」
と、ためらいながら、こっちもかなり|迷《まよ》っている|様《よう》|子《す》である。
「ここだってあそこだって、大して|変《かわ》らないじゃねえか」
「そりゃな。――でも、ばれたら|怖《こわ》いぜ」
「俺たちが|黙《だま》ってりゃ、分りっこねえよ。そうだろ?」
「じゃ、ちゃんと言われた通りの所へ|埋《う》めた、って言うのか?」
「それでいいさ。分らなきゃ|関《かん》|係《けい》ないだろ」
「うん……」
|相《あい》|手《て》も|息《いき》をついて、「よし、そうするか」
と|賛《さん》|成《せい》した。
「|助《たす》かった! じゃ、この|辺《へん》を|掘《ほ》ろうぜ」
「じゃ、せめてわきの方にしよう。ここじゃ、人が通るかもしれねえ」
「じゃ、その木の|陰《かげ》だ。早くしよう。夜になっちまう」
「OK。じゃ、|棺《かん》を運ぶぞ」
「そうなりゃ、力が出るさ」
「|現《げん》|金《きん》な|奴《やつ》だ」
と笑ったのは、|雑《ざっ》|貨《か》|屋《や》の|息《むす》|子《こ》である。
二人の|姿《すがた》が、木の|陰《かげ》に|隠《かく》れて、見えなくなった。
少しして、ザッ、ザッ、という音が聞こえて来た。|穴《あな》を|掘《ほ》っているのだ。
「|戻《もど》ろう」
と、多江が言った。
「えっ?」
「夜になるもの。明りも何もないんだよ」
そうだった。依子は、|尾《び》|行《こう》に|夢中《むちゅう》で、そこまで考えていなかったのだ。
「――|場《ば》|所《しょ》は分る?」
「うん、ちゃんと|憶《おぼ》えてる」
と、多江は|肯《うなず》いた。
「あれを|掘《ほ》り出せば、|動《うご》かぬ|証拠《しょうこ》になるわ」
「でも|慎重《しんちょう》にやらなくちゃ」
と、多江は首を|振《ふ》った。「あれが|叔《お》|母《ば》さんだったとしても、町の人間が|殺《ころ》したって|証拠《しょうこ》はないんだもの」
「|私《わたし》が見たわ」
「|反《はん》|対《たい》の証人が、十人は出て来るわ」
と、多江は言った。「|挙《あげ》|句《く》に、谷の人間が|犯《はん》|人《にん》、ってことにされかねない。よほど慎重にやらなきゃ」
|局外者《きょくがいしゃ》の自分より、|当《とう》|事《じ》|者《しゃ》である多江の方がよほど|冷《れい》|静《せい》なのに、依子は心を|打《う》たれた。
そこまでには、どれだけ、ひどい|仕《し》|打《う》ちを|堪《た》えて来た|過《か》|去《こ》があったのだろうか。
「ともかく、今は|戻《もど》りましょう」
と、多江は言った。「少しでも明るさの|残《のこ》ってる|内《うち》に、町の見える|所《ところ》まで行かなきゃ。谷へ|案《あん》|内《ない》するのは、また|今《こん》|度《ど》だわ」
「|残《ざん》|念《ねん》ね。でも――」
歩き出して、依子は、ちょっと|振《ふ》り|向《む》いた。
「|大《たい》|変《へん》な切り|札《ふだ》をつかんだわ。向う[#「向う」に傍点]は、こっちに見られたことを知らない。この|強《つよ》|味《み》を|利《り》|用《よう》しなきゃ」
足早に、来た道を戻りながら、多江が|苦笑《くしょう》した。
「大変な先生もいたもんね」
「そうよ。|教師《きょうし》だって、|作《さく》|戦《せん》を立てる|能力《のうりょく》は|必《ひつ》|要《よう》なんだから」
と依子は言ってやった。
|辛《かろ》うじて、町を見下ろす|丘《おか》に|辿《たど》りついた。
「――間に合ったわ!」
と、多江は|息《いき》を|弾《はず》ませた。
多江が息を弾ませているのだ。依子の方は、ハアハアと、|肩《かた》で息をしていた。
「先生を|迷《まい》|子《ご》にさせちゃ、|申《もう》し|訳《わけ》ないもんね」
と、多江は明るく言った。
たった今、|叔《お》|母《ば》のものに|間《ま》|違《ちが》いないと思える|棺《かん》を見て来たばかりだ。それでいて、こうして、明るく|振《ふ》る|舞《ま》っていられる。
その|逞《たくま》しさが、依子には|羨《うらやま》しくもあり、また|哀《かな》しくも思えた。
|実《じっ》|際《さい》、もうすっかり夜になって、町は、ただ光の点の|平《へい》|面《めん》に|過《す》ぎない。
「ここからなら、|大丈夫《だいじょうぶ》よ」
やっと、少し|呼吸《こきゅう》を|整《ととの》えて、依子は言った。「それより、こんなに|暗《くら》くて、あなたは帰れるの?」
「|私《わたし》はコウモリだもの」
と、多江は言った。「|超音波《ちょうおんぱ》を出すの」
「まさか」
と、依子は|笑《わら》った。
「|吸血鬼《きゅうけつき》の|親《しん》|類《るい》かもね。――|慣《な》れた道だもの、|平《へい》|気《き》よ」
「さっきの二人に出会わないでね」
「お|化《ば》けのふりして|脅《おど》かしてやるわ」
多江は、二、三歩|離《はな》れて、「じゃ、先生、またね」
と言った。
「|待《ま》って! 明日、会える?」
「|私《わたし》は|仕《し》|事《ごと》よ」
「あのレストランに行くの。そこで|刑《けい》|事《じ》と会うのよ」
「そう」
「あなたとは、まだ知らないことにしておいた方が――」
「そうして。|悪《わる》いけど」
と、多江は言った。「|信《しん》じないわけじゃないの。ただ――」
「|無《む》|理《り》に、とは言わないわ。話の|結《けっ》|果《か》は、|改《あらた》めて……。じゃ、明日ね」
多江は、わざとかしこまって、
「おいでをお|待《ま》ちしております」
と、言って、小走りに|去《さ》って行った。
すぐに|姿《すがた》は暗がりの中に|消《き》え、足音の方が長く|残《のこ》っていた。
依子は、学校の方を回って、町へ|戻《もど》ることにした。町へ入るところを、|誰《だれ》かに見られても、学校の|方《ほう》|角《がく》からなら、|怪《あや》しまれることはあるまい。
依子は、張り切っていた。
もちろん、あの|棺《かん》を目にしたのはショックだったが、しかし、|向《むこ》うの|弱《よわ》|味《み》を|握《にぎ》っているのだ。
せっかくつかんだ|有《ゆう》|利《り》な|札《ふだ》である。じっくりと|構《かま》えて|使《つか》おう。
学校が見えて来て、依子は足を止めた。
「|変《へん》だわ」
と|呟《つぶや》く。
――明りが|点《つ》いているのだ。
こんな時間に|誰《だれ》が? 依子は、|緊張《きんちょう》した。
|襲《おそ》われて、|裸《はだか》にされた|記《き》|憶《おく》がよみがえる。――しかし、用心していれば、そう|不《ふ》|意《い》をつかれることはない。
いざ取っ組み合いにでもなったら、|負《ま》けちゃいないから!
依子は、学校へ|近《ちか》|付《づ》くと、足を|緩《ゆる》めた。――用心に|越《こ》したことはない。
明りが点いていて、|時《とき》|折《おり》、|影《かげ》が|揺《ゆ》れる。誰か、いるのだ。
依子は、|校《こう》|舎《しゃ》の中へ|滑《すべ》り|込《こ》んだ。
|静《しず》まり返った校舎。――|廊《ろう》|下《か》の|奥《おく》に、光が|洩《も》れている。
パチパチ、という音。あれは何だろう?
依子は、耳を|澄《す》まして、考えていた。チーン、という音で、思い当る。タイプライターだ! チーンと|鳴《な》るのは、キャリッジが|戻《もど》る音である。
それにしても、|誰《だれ》がタイプなど|打《う》っているのだろう? それも、あまりうまいタイピストではない。
雨だれ、というほどひどくはないが、しかし、およそ|単調《たんちょう》なリズムである。
依子は、そっと|廊《ろう》|下《か》を|進《すす》んで行った。
何しろ|古《ふる》い|校《こう》|舎《しゃ》だ。時々、足下の|板《いた》が、ギーッと鳴ったりして、|肝《きも》を|冷《ひ》やしたが、タイプを打っている人間は、|夢中《むちゅう》らしく、|気《き》|付《づ》かない|様《よう》|子《す》だ。
今日は、|探《たん》|偵《てい》の|真《ま》|似《ね》ごとばかりだわ、と依子は思った。
明りの点いているのは、|職員室《しょくいんしつ》である。では――水谷だろうか?
しかし、水谷が、こんな時間に学校へ来て|仕《し》|事《ごと》をしているなんて、ちょっと考えられないことだ。
|慎重《しんちょう》に、|窓《まど》に|寄《よ》って、顔を出してみる。
やはり、水谷だった。依子の方に|背《せ》|中《なか》を向けて、一心にタイプを打っている。
何だろう?――どうも、|納《なっ》|得《とく》しかねて、依子は、目をこらした。
ハッとした。――|傍《そば》の|机《つくえ》に、|手《て》|提《さ》げ|金《きん》|庫《こ》が|置《お》かれている。|開《あ》けたままだ。
そうか!
多江の話を思い出した。水谷が、学校のお金を|使《つか》い|込《こ》んだことを……。
|一《いち》|度《ど》やれば、二度目はやさしい。三度目はもっとやさしいだろう。
タイプは、|伝票《でんぴょう》に|違《ちが》いない。本校へ出す、一か月分の出金の|一《いち》|覧《らん》を、|打《う》ち|直《なお》しているのだ。自分が|使《つか》った金に、何か名目をつけて、|帳尻《ちょうじり》を合わせているのだろう。
何てことだ!
依子は、|激《はげ》しい|怒《いか》りに、顔を|紅潮《こうちょう》させた。
怒りのこもった|視《し》|線《せん》が、|感《かん》じられたのかどうか、水谷は、ハッと|振《ふ》り|向《む》いた。
視線が合う。――|一瞬《いっしゅん》、|迷《まよ》ったが、依子は、見られたからには強く出るしかない、と|決《けっ》|心《しん》した。
「――お|仕《し》|事《ごと》ですか」
と、|職員室《しょくいんしつ》に入って行く。
「やあ、どうも……」
水谷は、引きつったような|笑《え》|顔《がお》を|向《む》けた。
分っているのだ。見られてしまったことを……。
「学校のお金ですよ」
と、依子は言った。
水谷は、フウッと|息《いき》をついて、
「やはり、分りましたか」
と言った。「中込先生は|鋭《するど》いからな。いずれ知れると思ってましたよ」
「いくらぐらい?」
水谷は、|開《ひら》き|直《なお》ったのか、いとも|平《へい》|然《ぜん》と、言った。
「四、五十万というところでしょうかね」
「前にはいくらでしたの?」
水谷は、ちょっと顔をこわばらせた。
「なるほど……。よくご|存《ぞん》|知《じ》ですね」
「いくらでした?」
と、依子はくり|返《かえ》した。
「二百万ほどのものです。|政《せい》|治《じ》|家《か》あたりに|比《くら》べりゃ、大したことはない」
「|正《せい》|当《とう》|化《か》するには、|無《む》|理《り》がありません?」
水谷は|笑《わら》って、
「正当化したいなんて、思ってもいませんでしたよ」
と言った。
「|不《ふ》|正《せい》を|認《みと》めるんですね」
「もちろん。しかし――」
と、依子の方へ|指《ゆび》を|突《つ》き出した。「中込先生だって|同《どう》|罪《ざい》ですよ」
「何ですって?」
「|私《わたし》一人が|使《つか》い|込《こ》んだという|証拠《しょうこ》はない。この手提げ|金《きん》|庫《こ》は、あなたも|開《あ》けられるんですから」
依子はおかしくなった。
「おどしてるつもりですか? そんなこと、|調《しら》べればすぐに分ります。水谷先生は、|警《けい》|察《さつ》の|取《と》り|調《しら》べに|堪《た》えられる方じゃないと思いますけど」
水谷が、ちょっと青ざめた。
「|届《とど》けるつもりですか?」
「|他《ほか》に、どうしろとおっしゃるの?」
「目をつぶる、という手もありますよ」
水谷は立ち上った。
「|無《む》|理《り》です」
「いいですか。そんなことをしたって、あなたには一文の|得《とく》にもならない。二人でうまくやれば、百万や二百万の金はすぐに手に入りますよ」
「やめて下さい」
|苛《いら》|々《いら》して言った。
「しかし――」
「ともかく、聞くつもりはありません」
依子はタイプの方へ歩み|寄《よ》って、水谷が|打《う》ちかけていた用紙を引き|抜《ぬ》いた。
「これが|証拠《しょうこ》になるでしょうね」
それに目を通している間、|警《けい》|戒《かい》|心《しん》が|薄《うす》れていた。
水谷が、まさか|襲《おそ》いかかって来るとは、思ってもいなかったのだ。
|突《つ》き飛ばされて、依子は|床《ゆか》に|転《てん》|倒《とう》した。水谷がその|上《うえ》に|倒《たお》れて来る。依子を|押《おさ》えつけようとした。
「何をするんです!」
依子は|叫《さけ》びながら、|激《はげ》しくもみ合った。
「何を――|気《き》|取《ど》ってるんだ!――どうせ|処《しょ》|女《じょ》じゃないくせに!」
水谷が、まるで|別《べつ》|人《じん》のように、|荒《あら》|々《あら》しく依子を組み|敷《し》こうとした。依子も、|予《よ》|想《そう》|外《がい》のことに|抵《てい》|抗《こう》が|遅《おく》れた。
「|諦《あきら》めろ!――どうせ――かなわないんだぞ」
水谷の手が、依子の|胸《むな》|元《もと》へ入ろうとする。依子は、水谷を|甘《あま》く見ていたらしい、と思った。
|乱《らん》|暴《ぼう》なことには|縁《えん》のない男だと思っていたのだ。
しかし、見かけからは、思いもよらない力で、依子は押え|込《こ》まれてしまった。足が依子の|膝《ひざ》を|割《わ》って来る。
かみついてやろうとしても、|巧《たく》みに|逃《のが》れて、そうはさせないのだ。
「どうだ――|俺《おれ》のことを|馬《ば》|鹿《か》にしてたんだろう?――さあ、これで、どうだ!」
水谷の右手が依子の首にかかった。|息《いき》がつまる。依子は|必《ひっ》|死《し》で頭を|振《ふ》ったが、振り|離《はな》すことはできなかった。
|殺《ころ》す気はないのだ、と依子は|悟《さと》った。ただ、|抵《てい》|抗《こう》する力を|失《うしな》わせるためなのだ。
その力の入れ方。――依子は必死で、|冷《れい》|静《せい》になろうと|努《つと》めた。
もう少し――もう少し|我《が》|慢《まん》して!
依子は、ぐったりと、体の力を|抜《ぬ》いた。半ば|失《しっ》|神《しん》しているように見せかける。
「よし、それでいいんだ……」
水谷の手が離れた。
同時に、依子は体をひねった。水谷が|横《よこ》へ|投《な》げ出されるように引っくり|返《かえ》る。依子は|飛《と》び|起《お》きて、|廊《ろう》|下《か》へ|向《むか》って走った。
「|待《ま》て!」
水谷が|追《お》って来る。
廊下を走る依子の前に、|人《ひと》|影《かげ》が立った。
「|助《たす》けて!」
と、依子は|叫《さけ》んだ。
「どうしました?」
河村だった。
依子を|抱《だ》き止めると、びっくりしたように、
「先生、どうしたんです?」
と言った。
追って来ていた水谷が、足を止め、クルリと向きを|変《か》えて|逃《に》げ出した。
「ありゃ、水谷先生じゃないですか!」
と、河村は、|呆《あき》れたように言った。
依子は、|疲《つか》れ切っていた。廊下にヘナヘナと|座《すわ》り|込《こ》んでしまったのだ……。
「|何《なに》|事《ごと》です?」
と、河村が|訊《き》いた。
依子が|事情《じじょう》を|説《せつ》|明《めい》できたのは、十五分ほどもたってからだった。
「――なるほど」
河村は、タイプ用紙を|眺《なが》めて、「これは|問《もん》|題《だい》だ」
と、ため|息《いき》をついた。
「ともかく、|不《ふ》|正《せい》にお金を|使《つか》っていたんです」
「学校の先生がねえ」
河村は首を|振《ふ》った。「|世《よ》も|末《すえ》だな」
「どうします?」
と、依子は言った。
もみ|消《け》されては困る。
「もちろん、先生には出頭していただくことになりますね。|公《こう》|金《きん》の|横領《おうりょう》と文書|偽《ぎ》|造《ぞう》、それに|婦《ふ》|女《じょ》|暴《ぼう》|行《こう》……」
「未遂[#「未遂」に傍点]です」
と、依子は|付《つ》け|加《くわ》えた。
「|未《み》|遂《すい》ですね。――いずれにせよ、あの先生はもうここへは|戻《もど》りませんよ」
依子は、ふと、河村の|言《こと》|葉《ば》に、ひどく|冷《ひ》ややかなものを|覚《おぼ》えた。
14 |消《き》えた|刑《けい》|事《じ》
一時|過《す》ぎ、依子は、レストランに入って行った。
いつもなら、|勤《つと》め人も|職場《しょくば》に|戻《もど》って、|店《てん》|内《ない》が空いて来る時間だろうが、今日は日曜日だ。却って、|混《こ》み出しそうな|気《け》|配《はい》だった。
しかし、混むといっても、東京あたりの、どの店へ行っても|満《まん》|席《せき》で、|順番待《じゅんばんま》ちというひどい|状態《じょうたい》とは違う。
まず、空席がないということはない。
「|奥《おく》の方の席になりますが――」
と、ウェイトレスが言った。
「|構《かま》いません」
と、依子は|肯《うなず》いた。
|却《かえ》って、田代という|刑《けい》|事《じ》と話をするには|好《こう》|都《つ》|合《ごう》である。
ウェイトレスは、多江ではなかった。来ていないのだろうか?
ちょっと気になった。何しろ、|昨日《きのう》の今日である。
「いらっしゃいませ」
と、水が|置《お》かれた。
顔を上げると、多江が、ちょっとウィンクして見せる。依子はホッとした。
「ご|注文《ちゅうもん》は?」
「ランチをちょうだい」
田代との|約《やく》|束《そく》は二時だ。少し|待《ま》って、ちょうどいい時間だろう。
「ランチですね」
と、多江は|伝票《でんぴょう》を書いて、「|太《ふと》りますが、よろしいですか?」
と|訊《き》いた。
依子は|吹《ふ》き出してしまった。――この|調子《ちょうし》なら|大丈夫《だいじょうぶ》だ!
「少々お|待《ま》ち下さい」
多江が、|奥《おく》へ|引《ひっ》|込《こ》んで行く。
依子は、|楽《らく》な|姿《し》|勢《せい》で|座《すわ》り|直《なお》した。
水谷と|争《あらそ》ったせいで、まだ体のあちこちが|痛《いた》んだ。後で、お|風《ふ》|呂《ろ》に入るとき見たら、いくつか、あざ[#「あざ」に傍点]にもなっていたのである。
しかし――水谷はどうなるのだろう?
あの後、河村と|共《とも》に、水谷の家へ行ったが、|戻《もど》っていなかった。河村も、本気なのかどうかはともかく、
「学校の金を|使《つか》い|込《こ》むのはともかく、先生に|乱《らん》|暴《ぼう》しようなんて、いくら何でも|許《ゆる》せませんよ!」
と、|腹《はら》|立《だ》たしげに言って、|早《さっ》|速《そく》、|県《けん》|警《けい》に|連《れん》|絡《らく》していた。
もちろん、昨日の|日《ひ》|付《づけ》で、水谷は|教師《きょうし》の|職《しょく》を|解《と》かれているはずだ。かつ、|公金横領《こうきんおうりょう》や、|文《ぶん》|書《しょ》|偽《ぎ》|造《ぞう》、|婦《ふ》|女《じょ》|暴《ぼう》|行《こう》|未《み》|遂《すい》で|指《し》|名《めい》|手《て》|配《はい》。
もう人生も|終《おわ》り、というところである。
依子は|別《べつ》に|同情《どうじょう》もしなかった。|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》というものだ。
ただ、|現《げん》|実《じつ》|問《もん》|題《だい》として、月曜日から、|教師《きょうし》が一人|不《ふ》|足《そく》することになる。本校に行って、|相《そう》|談《だん》しなければ……。
月曜日の|授業《じゅぎょう》を半日にして、本校へ行こうと、依子は思った。
本当のところ、|仕《し》|事《ごと》を|離《はな》れても、水谷には|興味《きょうみ》があった。多江の言った通り、かつて、|使《つか》い|込《こ》みをしたときに、角田に|助《たす》けてもらったのが|事《じ》|実《じつ》なら、あの、一見|平《へい》|和《わ》な町の|裏《うら》|側《がわ》も、よく知っていよう。
|罪《つみ》を|軽《かる》くするような|証言《しょうげん》をしてあげるから、と言って、|代《かわ》りに|情報《じょうほう》を引き出すこともできそうだ。
今は、少しでも、|真《しん》|実《じつ》を話してくれる人間がほしい。うわべの顔でなく、その裏側について、|公《おおやけ》の|場《ば》で証言してくれる人が……。
ランチが来た。
ゆっくりと食べ|始《はじ》める。――町の人たちは大いに、依子に|同情《どうじょう》してくれた。
今日、出て来るときも、会う人ごとに、
「|大《たい》|変《へん》でしたね」
と、言われた。
しかし、その中に、依子を|裸《はだか》にして雨の中へ|放《ほう》り出した人間がいるかもしれないのだ。
それを考えると、|激《はげ》しい|怒《いか》りがこみ上げて来る。
あの田代という|刑《けい》|事《じ》に、どこまで話したものか、依子は|迷《まよ》っていた。
多江は|信《しん》じていないらしいが、それを|責《せ》めることはできない。|制《せい》|度《ど》とか公の|機《き》|関《かん》も、多江たちを|守《まも》ることはできなかったのだ。
|総《すべ》て、|他《た》|人《にん》というものを信じられなくなって|当《とう》|然《ぜん》である。
しかし、もし田代が、「|向《むこ》う|側《がわ》」の人間だったら、あんな風に近づいて来るだろうか?
いや、もちろん、依子がどこまで知っているのかを|探《さぐ》ろうとしている、とも考えられる。しかし、それならもっとアッサリと、学校にでも|訪《たず》ねて来るか、|県《けん》|警《けい》|本《ほん》|部《ぶ》へ|呼《よ》び出してもいいだろう。
|特《とく》に、角田栄子が|殺《ころ》された|事《じ》|件《けん》で、|何《なん》|度《ど》か依子も県警に足を|運《はこ》んでいる。
それなのに、わざわざあんな風に、そっと声をかけて来たのは、|捜《そう》|査《さ》そのものが、|秘《ひ》|密《みつ》に進められているせいかもしれない。
――ともかく、|誰《だれ》も|彼《かれ》も|疑《うたが》ってかかっていたら、きりがない。一歩も|進《すす》めなくなってしまう。
依子は、自分の|第一印象《だいいちいんしょう》を|信《しん》じよう、と思った。もちろん、|全《ぜん》|面《めん》|的《てき》にではないにしても……。
二時になった。――|客《きゃく》の数が、少しずつ|減《へ》り|始《はじ》めている。
日曜日などは、一時から一時半ぐらいがピークなのだろう。その|辺《へん》は東京と同じだ。
|子《こ》|供《ども》|連《づ》れの客が多いので、やけにやかましかったが、やっと少し|静《しず》かになって来た。
二時十五分を|過《す》ぎると、店はほぼ半分くらいの入りになっていた。田代|刑《けい》|事《じ》は、|姿《すがた》を見せない。
どうしたのかしら。
|場《ば》|所《しょ》が分らないのかな? でも、刑事なんだから!
ちょっと|苛《いら》|立《だ》って来る。――大体、依子はきちんと|約《やく》|束《そく》の時間などは|守《まも》るタイプである。
|待《ま》たせて|平《へい》|気《き》という|神《しん》|経《けい》が、|理《り》|解《かい》できない。
二時半。――|結局《けっきょく》、からかわれただけなのだろうか?
それとも何か|他《ほか》の|理《り》|由《ゆう》があって、来ないのか。もう少し待って、来なければ出よう、と思った。
そう決心したとき、田代がやって来るのが目に入った。
店に入ると、田代は、ちょっと|店《てん》|内《ない》を|捜《さが》すように見回し、それから|真《まっ》|直《す》ぐに、依子の方へやって来た。
「お待たせして――」
と|座《すわ》る。
「おいでにならないのかと思いました」
「|尾《び》|行《こう》されないように、用心に用心を|重《かさ》ねて、来たものですから」
と、田代は|低《ひく》い声で言った。
「まあ、そうですか」
「本当はちょっと|寝《ね》|坊《ぼう》したんです」
と言って、田代は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
依子は笑った。この|刑《けい》|事《じ》、いい人だわ、と思った。|正直《しょうじき》というか、|好《こう》|感《かん》が|持《も》てる。
「いらっしゃいませ」
やって来たのは、多江だった。
「ああ、コーヒーを」
と、田代が|注文《ちゅうもん》する。
多江は、依子の方を、|全《まった》く見なかった。
もちろん、田代のことは分っているはずだ。
「――|実《じつ》は、|昨日《きのう》の|事《じ》|件《けん》のことも、聞いて来ました」
と、田代は切り出した。「えらい目にあいましたね」
「ええ。でも、|私《わたし》が見たことに|比《くら》べれば大したことじゃありません」
「見たこと? 何です、それは?」
「|殺《さつ》|人《じん》です」
田代は、ちょっと|表情《ひょうじょう》を引きしめた。
「あの女の子とは|別《べつ》の、ですか?」
「そうです。私の目の前で、人が殺されました。そして、その|事《じ》|件《けん》は、|誰《だれ》にも知られていません」
「――話して下さい」
と、田代は言った。
その目は、|真《しん》|剣《けん》そのものだった。じっと依子を見つめている……。
「――|彼《かれ》に、どの|程《てい》|度《ど》、話をしたんですか?」
と、小西|警《けい》|部《ぶ》は|訊《き》いた。
――午後も|遅《おそ》くなっていた。
前夜、|若《わか》い|娘《むすめ》が|喉《のど》を切られた事件で、夜通しの|警《けい》|戒《かい》|態《たい》|勢《せい》だったのである。
しかし、ついに|容《よう》|疑《ぎ》|者《しゃ》すら、|挙《あ》げることはできなかった。
やっと、|非常態勢《ひじょうたいせい》が|解《と》けて、小西はまた|病院《びょういん》へやって来たのだった。
「ほとんど話しました」
依子はベッドに、|起《お》き上っていた。
「つまり、|殺《ころ》された女――大沢和子のことも?」
「ええ。|棺《かん》が、山の|奥《おく》に|埋《う》められていることも、です」
「なるほど。――『ほとんど』と言いましたね? 話さなかったことも?」
「ええ」
依子は|肯《うなず》いた。「多江さんのこと、そして、〈谷〉のことも、|漠《ばく》|然《ぜん》としか話しませんでした。だって、|現《げん》|実《じつ》にこの目で見ていたわけではありませんもの」
「なるほど」
小西は肯いて、「いや、あなたはしっかりした方だ。|敬《けい》|服《ふく》します」
「やめて下さい」
依子は、ちょっと|気《け》|色《しき》ばんだ。「あんな|惨《みじ》めなことになってしまったのに……」
「もうすぐ夕食の時間ですね」
小西は|軽《かる》く言って、依子の気をそらした。「――その話をきいて、田代はどうしました?」
「ええ。話が――一時間ぐらいはかかったかしら。田代さんは、|深《しん》|刻《こく》な顔で、『そんなことになっているとは知りませんでした』と、おっしゃって、どこか、|案《あん》|内《ない》したい|所《ところ》がある、と……」
「なるほど」
「どこ、とは言いませんでした。店を出ることになって、私、手を|洗《あら》って行くから、と言って、田代さんに、先に出てもらったんです」
「多江さんと話をするため、ですね?」
「そうです。田代さんが、|支《し》|払《はら》いを|済《す》ませて、店を出ました。私、多江さんの方へ歩いて行って、『後で会える?』と|訊《き》きました」
「|向《むこ》うは何と?」
「|終《おわ》りまで待ってくれれば、と。――八時に、店の前へ来る、と|約《やく》|束《そく》して、店を出ました」
「それからどこへ行きました?」
依子は首を|振《ふ》った。
「どこにも」
「というと?」
「田代さんはいなかったんです」
「何ですって?」
小西は、|珍《めずら》しく身を|乗《の》り出した。「あなたを待っていなかったんですか?」
「ええ。私もびっくりしました。|遅《おく》れて出たといっても、ほんの一、二分のことです。その間に、いなくなってしまったんですもの」
小西は、しばらく口を|開《ひら》かなかった。
「――それからは?」
「|私《わたし》、しばらくその店の|表《おもて》で待っていました。三十分はいたと思います」
「田代は|戻《もど》らなかった」
「そうです」
小西は、メモを|取《と》る手を休めた。
ひどく|真《しん》|剣《けん》な|表情《ひょうじょう》だ。いつもの、|穏《おだ》やかさが、このときだけは|姿《すがた》を|消《け》していた。
「――|失《しつ》|礼《れい》します」
|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》が顔を出した。「小西さん。お電話です」
「どうも。――じゃ、|一《いっ》|旦《たん》、休みましょう」
小西は立ち上った。「食事の後、少しは|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「はい。|構《かま》いません」
「では、一時間ほどしたら、また」
小西は|病室《びょうしつ》を出た。
津田は、ずっと|隅《すみ》で話を聞いていたが、二人になると、ベッドに寄って、依子の口にキスした。
「|疲《つか》れたんじゃないのかい?」
「いくらかは……。でも、|寝《ね》てるだけだもの。大丈夫よ」
「|欲《ほ》しいものがあれば、買って来るよ」
「そう? じゃ――|悪《わる》いけど、何か果物が食べたい」
「OK。お母さんに電話で|頼《たの》もう。話の|区《く》|切《ぎ》りがついたら、ここへ来るから知らせてくれと言われてるんだ」
「じゃ、電話してやってくれる?」
津田は、依子の手を|取《と》って|軽《かる》く|唇《くちびる》を当てると、|病室《びょうしつ》を出た。
――|受《うけ》|付《つけ》の赤電話で、ホテルの依子の母へ電話して、切ると、小西が|傍《そば》に立っていた。
「やあ、|警《けい》|部《ぶ》さん」
「どうも、ますます分らなくなりますね」
と、小西は首を|振《ふ》った。
「田代っていう|刑《けい》|事《じ》さんは、ご|存《ぞん》|知《じ》なんでしょう?」
「ええ。――|行《ゆく》|方《え》|不《ふ》|明《めい》なんですよ」
と、小西は言った。
「|行《ゆく》|方《え》|不《ふ》|明《めい》?」
「これは|極《ごく》|秘《ひ》でしてね。|申《もう》し|訳《わけ》ありませんが、それしか言えないんです」
「分りました……」
何となく、ゾッとした。|薄《うす》|気《き》|味《み》が|悪《わる》いというのか。――これはただ、依子一人がひどい目にあったという|事《じ》|件《けん》ではないのだ。
頭では分っていたのだが、その|恐怖《きょうふ》が、|肌《はだ》に|迫《せま》って来る。
「|昨《さく》|夜《や》の事件は?」
と、津田は話を|変《か》えた。
「今のところ、手がかりなしです。――|妙《みょう》なことですよ。この町に、あんな|犯《はん》|行《こう》に|及《およ》ぶ|変《へん》|質《しつ》|者《しゃ》がいたとは……」
「でも、どこにだって――」
「いや、それはそうです。どこの|田舎《 いなか》町でも、|犯《はん》|罪《ざい》はある。それは分っています」
小西は、首を|振《ふ》って、|続《つづ》けた。「しかし、ゆうべの|事《じ》|件《けん》は、|妙《みょう》です」
「というと?」
「なぜ[#「なぜ」に傍点]、|犯《はん》|人《にん》はあの女性を|襲《おそ》ったのか? |恨《うら》みなら、|突《つ》き|刺《さ》すのが|普《ふ》|通《つう》です。ただ、通り|魔《ま》の犯行かもしれない。しかし、それにしても手ぎわがいい。もし、|性《せい》|的《てき》な|犯《はん》|罪《ざい》なら、|暴《ぼう》|行《こう》の|形《けい》|跡《せき》もないのはおかしい」
「なるほど。|喉《のど》を切る、というのは、|確《たし》かに|珍《めずら》しいですね」
「しかも、|技術的《ぎじゅつてき》にも|容《よう》|易《い》じゃありませんよ。いや、犯人が|器《き》|用《よう》だとほめるつもりはありませんけどね」
小西の|冗談《じょうだん》めかした|口調《くちょう》の|底《そこ》には、|苦《にが》いものが|混《まじ》っていた。
「――|警《けい》|部《ぶ》!」
と、|背《はい》|後《ご》から声がした。
三木|刑《けい》|事《じ》である。こんなときでも、|至《いた》って|快《かい》|活《かつ》そのものだ。
「どうした?」
「|目《もく》|撃《げき》|者《しゃ》です」
「よし、行こう」
小西の目が|輝《かがや》いた。「――津田さん、では|失《しつ》|礼《れい》します」
わざわざ、そう言って行くのが、小西らしいところだろう。
津田は、依子の母が来るのを待って、|病院《びょういん》の|表《おもて》に出た。そろそろ|夕《ゆう》|刻《こく》とはいえ、まだ少し明るい。
津田は、のんびりと通りの方へ歩いて行った。
ふと、通りの|向《むこ》う側へ目をやった。――白い車が、|停《とま》っている。
|昨日《きのう》も、依子の病室の|窓《まど》から、あんな車を見た。同じ車、と|断《だん》|言《げん》はできないが、しかし|似《に》ている。
ちょっとためらってから、津田は通りを|渡《わた》って、その車の方へ歩いて行った。
今、車は空だった。中を|覗《のぞ》いてみる。
シートの上に、|双眼鏡《そうがんきょう》が|投《な》げ出してあった。やはり、|病室《びょうしつ》を|覗《のぞ》いていたのだろうか?
|誰《だれ》の車なのか? 津田は、ゆっくりと|周囲《しゅうい》を見回した。|誰《だれ》もやって来る|気《け》|配《はい》はない。
津田は、少し|離《はな》れた電話ボックスの|陰《かげ》に入った。――車が見える。
誰かが、|戻《もど》って来るはずだ。それを、|見《み》|届《とど》けてやる。
しかし、津田は何分、|刑《けい》|事《じ》ではない。張り|込《こ》みなどという、|根《こん》|気《き》のいる|仕《し》|事《ごと》も、もちろんやったことがないのだ。
五分たち、十分たつと、ジリジリして来る。十五分もすると、|苛《いら》|々《いら》して、二十分たつとくたびれてしまう。
|意《い》|外《がい》に|大《たい》|変《へん》なもんだな、と津田は思った。
その間に、依子の母が、|果《くだ》|物《もの》を手に、|病院《びょういん》へ入って行くのが見えた。
|畜生《ちくしょう》、|頑《がん》|張《ば》ってやるぞ!
その|決《けっ》|心《しん》も、十分と|続《つづ》かない。――もう|諦《あきら》めるか、と言いわけを|捜《さが》していたとき、一人の男が、やって来た。
|向《むこ》うから歩いて来る。顔は見えない。|暗《くら》いので、黒い|影《かげ》になってしまう。
あれかな?――男は、白い車のドアを開けると、|双眼鏡《そうがんきょう》を|取《と》り出し、車のわきに立ったまま、|病院《びょういん》の方へとレンズを向けた。
「あいつ……」
いい|加《か》|減《げん》、|苛《いら》|立《だ》っていたせいもあって、|余《よ》|計《けい》にカッと来た。
|取《と》っ|捕《つか》まえてやる。――津田は、|指《ゆび》を|鳴《な》らした。
やめとけばいいのに、とも思った。|別《べつ》に、ケンカなんて、ちっとも強くないのだから。しかし、今はやたらとカッカ来ていたのである。
双眼鏡を|覗《のぞ》いている男の|肩《かた》に手をかけると、
「おい! 何してるんだ!」
とやったのである。
次の|瞬間《しゅんかん》、相手の|拳《こぶし》が、津田の|顎《あご》にぶつかった。もちろん|意《い》|図《と》|的《てき》に、である。
つまりは、|殴《なぐ》られたのだ。
目から火が出るとはこのことで、チカチカと光が|明《めい》|滅《めつ》したと思うと、たちまち目の前が|真《まっ》|暗《くら》になった。
――|気《き》|絶《ぜつ》したのである。
どれぐらいたったのか、津田は、やっと頭を上げた。――|顎《あご》が、ヒリヒリと|痛《いた》む。
「やれやれ……」
|慣《な》れないことはするものじゃない。
やっとの思いで|起《お》き上ると、もう、あの白い車は、|影《かげ》も形もなかった。
津田は頭を|振《ふ》って、病院へと|戻《もど》って行った。――とても依子には話せない。
「|絶《ぜっ》|対《たい》に、だ!」
と、津田は言った。
15 三つの|殺《さつ》|人《じん》
「|目《もく》|撃《げき》|者《しゃ》」は、小西をがっかりさせた。
何しろ、小学生なのだ。しかも二年生。
|果《はた》してどこまで|信《しん》じていいものやら、と思った。しかし、そうは言えないし、|万《まん》|分《ぶん》の一でも、この|子《こ》|供《ども》が|重要《じゅうよう》な|証言《しょうげん》をしてくれる|可《か》|能《のう》|性《せい》だってあるのだ。
家は、|現《げん》|場《ば》に近い。ほんの七、八十メートルというところか。
「この子ったら、何ですか、どうしてもお話しするんだと言いまして……」
母親は、ちょっと|苦《にが》|々《にが》しげだった。|余《よ》|計《けい》なことを言って、というわけだろう。
もちろん、子供が|警《けい》|察《さつ》へ|進《すす》んで|協力《きょうりょく》を|申《もう》し出たのだから、本来なら親も|賞《ほ》めてやるべきなのだろうが、|実《じっ》|際《さい》には、
「|厄《やっ》|介《かい》なことには|係《かかわ》り合いたくない」
という|意《い》|識《しき》が強い。
その|気《き》|持《もち》は、小西にもよく分った。
「いや、ありがたいですよ。ともかく、まるで手がかりがなくて|往生《おうじょう》していたんです。どんな小さな|情報《じょうほう》でも、|助《たす》かります」
「そうでしょうか……」
母親は、ちょっと|照《て》れたように言った。
「さて――」
小西は、当の|子《こ》|供《ども》の方へ|向《む》いた。「|君《きみ》は、いくつ?」
もちろん、|年《ねん》|齢《れい》も知っているのだが、|順序《じゅんじょ》立てて話に入って行った方がいいのだ。
「八|歳《さい》」
と、その子供は|答《こた》えた。
しっかりした子だ、と思った。いい|加《か》|減《げん》な作り話で、大人をきりきり|舞《ま》いさせて|喜《よろこ》ぶという手合では、少なくともないようだ。
男の子にしては、多少色が白い。|都《と》|会《かい》|的《てき》というべきかもしれない。
「そうか。――ゆうべの|事《じ》|件《けん》、知ってるね」
「うん」
と、少年は|肯《うなず》いた。
「君はそのとき、何をしてたの?」
「組み立ててた」
「ほう。何を?」
「ベンツ」
「ベンツ?」
と、小西が思わず|訊《き》き|返《かえ》した。
「あの――」
と、母親が口を|挟《はさ》む。「この子、|自《じ》|動《どう》|車《しゃ》のプラモデルが|大《だい》|好《す》きでして。やらせておくと何時間でもやっているんです」
「なるほど」
よくそういう子がいるものだ。|子《こ》|供《ども》の|集中力《しゅうちゅうりょく》というのは|凄《すご》いものなのである。
「べンツのプラモデルを組み立てていたんだね?」
「うん」
「それで――何を見たの?」
「車」
「車だって? どの車?」
「白い車だった。サーッと通って行っちゃったけど」
「ほう」
小西は|座《すわ》り|直《なお》した。「|事《じ》|件《けん》があったころなんだね」
「うん。車の中に|誰《だれ》か走って入って行ったのも見た」
「誰かが?――その誰かは、どっちから走って来た?」
「あっち」
少年の|指《さ》したのは、|現《げん》|場《ば》の|方《ほう》|角《がく》だった。
「で、車はどっちへ行った?」
少年の指は|反《はん》|対《たい》|方《ほう》|向《こう》を指した。
犯人が車に|乗《の》って|逃《に》げ|去《さ》ったということも、もちろん考えられないではない。
白い車か……。
「ねえ、どんな車だったか、分るかい?」
と、小西は少年に|訊《き》いた。
「|国《こく》|産《さん》|車《しゃ》はよく知らないんだよ」
と、少年は、もっともらしく顔をしかめて首をかしげた。
「ほう、じゃ、外車|専《せん》|門《もん》か」
「ベンツとかBMWなら、よく分るんだけど――」
少年の大人びた口のきき方に、三木|刑《けい》|事《じ》が|笑《わら》いをこらえている。
「そうか。じゃ、|犯《はん》|人《にん》はそんなに|金《かね》|持《もち》じゃなかったんだろうな」
と、小西は|肯《うなず》いた。「車に、何か|変《かわ》ったところはなかった? |傷《きず》があるとか、|絵《え》が|描《か》いてあるとか……」
「|別《べつ》にないよ。ただの白い車で……」
「そうか。――じゃ、その車に|駆《か》け込んだ|誰《だれ》かの方は?」
「ちょっと|遠《とお》かったけど、女の人だったみたい」
「女の人?」
これは|面《おも》|白《しろ》い|証言《しょうげん》だった。
「|髪《かみ》が長かったし、|服《ふく》も長かったよ」
「服も?」
「うん。|凄《すご》く長くて、フワッと広がってるんだ」
|殺《さつ》|人《じん》|者《しゃ》にしては、|面《おも》|白《しろ》い|服《ふく》|装《そう》である。
ただ、その小学生も、|女《じょ》|性《せい》の服装に|関《かん》しての|知《ち》|識《しき》は、あまり|持《も》っていないらしく、それ|以上《いじょう》は聞き出せなかった。
「――いや、ありがとう。とても|助《たす》かるよ」
と、小西は|手帳《てちょう》を|閉《と》じた。「おじさんたち、本当に|困《こま》っていたんだよ」
「そう?」
「そうさ。犯人を|捕《つか》まえたら、またお|礼《れい》を言いに来るからね」
小西は、母親にも|礼《れい》を言って、帰りかけた。
「ねえ、おじさん」
と、少年が言った。「これ、いる?」
紙きれを出している。
「何だい?」
「あの車のナンバーだよ」
と、少年は言った。
|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》の|夜《や》|勤《きん》というのは、|忙《いそが》しいものである。
知らない人からは、
「|眠《ねむ》くて|困《こま》るでしょう」
などと言われるが、とんでもない。
眠くなる|暇《ひま》などはない。|次《つぎ》から次へと、|仕《し》|事《ごと》は山のようにあるのだ。
「――眠い」
と、|若《わか》い看護婦が|欠伸《 あくび》をした。
ちょっと古手の方が、|渋《しぶ》い顔をする。
ただ眠いのならともかく、|勤《きん》|務《む》につく前、男と会って来たせいで|眠《ねむ》いのを、ちゃんと知っているのだ。
「しっかりしなさいよ! まだ十二時になったばかりよ」
「はあい」
もちろん、|若《わか》い方は|逆《さか》らわない。
|平《ひら》|野《の》|紀《のり》|子《こ》は、ここの|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》の中でも、「うるさ|型《がた》」で通っているのだ。
「――|警《けい》|察《さつ》の人は?」
「さっきみえてましたけど。下へ|戻《もど》ったんじゃありませんか?」
「そう。――あんたたちも、よく用心してね」
平野紀子は、一人で、歩き出した。
十二時を|過《す》ぎると、|一《いち》|度《ど》、一人で|病院中《びょういんじゅう》を見回る。それが|彼《かの》|女《じょ》のくせなのである。
長年の|勘《かん》で、何か[#「何か」に傍点]あるときは、分る。音がしなくても、分るのだ。
|実《じっ》|際《さい》、それで|危《あぶ》ない|状態《じょうたい》の|患《かん》|者《じゃ》が、|救《すく》われたことも、二、三度あった。
平野紀子の|超能力《ちょうのうりょく》、などと言われたものである。
――今日は、|何《なに》|事《ごと》もないようだ。
いつにも|増《ま》して、|彼《かの》|女《じょ》の|神《しん》|経《けい》は|敏《びん》|感《かん》になっている。
ともかく、ああいう|特《とく》|殊《しゅ》な|患《かん》|者《じゃ》がいて、|警《けい》|察《さつ》|官《かん》がうろうろしているというのは、あまり|嬉《うれ》しい|状況《じょうきょう》ではない。
ともかく、患者というのは、|細《こま》かい|異常《いじょう》にすぐ|気《き》|付《づ》く。その点では、患者の方が、よほど超能力、と言えるかもしれない。
ともかく、早く|正常《せいじょう》な状態に|戻《もど》ってほしいわ、と思った。
――ふと、足を止める。
何だろう? 自分でも、どうして足が止ったのか、分らなかった。
しばらくじっと立っていて、やっと分った。
|階《かい》|段《だん》の方から、物音がするのだ。|誰《だれ》かいるらしい。
患者がフラフラと出て来てしまうことも、|珍《めずら》しくはない。
平野紀子は、|階《かい》|段《だん》を|覗《のぞ》いた。――下の方からだ。
人の声のようでもあり、何かの音のようでもある。
「|誰《だれ》かいるの?」
と、声をかける。
シン、と|静《しず》かになった。人がいる、ということだ。
「誰なの?」
と、階段を|降《お》りて行く。「もう夜中ですよ――」
|踊《おど》り場に、|人《ひと》|影《かげ》はなかった。|非常《ひじょう》階段への出口が、少し|開《ひら》いている。
誰か出て行ったのだろうか? それとも、入って来たのか。
ドアを開け、外を覗いてみる。――誰もいないようだ。
ドアを閉める。そのとき、|背《はい》|後《ご》に誰かがいる、と|感《かん》じた。
平野紀子は、少し|太《ふと》っていて、|動《どう》|作《さ》はあまり早くなかった。|振《ふ》り|向《む》く前に、彼女の|喉《のど》に|銀《ぎん》|色《いろ》の|刃《やいば》が走った。
依子は、田代|刑《けい》|事《じ》が|姿《すがた》を|消《け》した後、どうしたものか、|途《と》|方《ほう》に|暮《く》れてしまった。
|一《いち》|応《おう》、多江を|待《ま》つ|約《やく》|束《そく》はしていたものの、大分時間がある。
レストランの近くで、まだ|未《み》|練《れん》がましく立っていると、多江が店から出て来た。
「あら」
「あら、じゃないわ。何してるの? 姿が見えたから、びっくりして」
「それが――今話してた|刑《けい》|事《じ》さん、どこかに行っちゃったのよ」
多江は目を|丸《まる》くした。
「まさか」
「本当よ。――ずっと待ってるんだけど、|戻《もど》って来ないし」
「もう四十分になるよ、出てから」
「そう。――気になるわ」
と、依子は首を|振《ふ》った。
「|私《わたし》、今からお昼休みが|取《と》れるの。|待《ま》っててくれる?」
「ええ、もちろんよ」
多江は店の中へ|戻《もど》ると、すぐに|制《せい》|服《ふく》を|脱《ぬ》いで、出て来た。
「|裏《うら》に|静《しず》かな店があるわ」
と、先に立って行く。
およそ目に|付《つ》かない、小さな|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》で、|趣《しゅ》|味《み》でやっている、という|感《かん》じだった。
「――先生のこと、〈谷〉で話してみたよ」
と、コーヒーを|飲《の》みながら、多江は言った。
「そう。それで?」
「みんな|好《こう》|感《かん》は|持《も》ってる。でも――先生のためには、|危《あぶ》ないから、やめとけ、って」
「やめとけ?――何を?」
「私たちと|係《かかわ》り合うことよ」
依子は静かに、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「|手《て》|遅《おく》れよ」
「そうね」
多江は、ちょっと笑った。「――学校で何かあったの? |噂《うわさ》を聞いたわ」
「そうよ。また[#「また」に傍点]|襲《おそ》われたの。でも、|今《こん》|度《ど》はちょっと|違《ちが》っててね」
水谷との|一《いっ》|件《けん》を話すと、多江は顔をしかめた。
「その|内《うち》、やるとは思ったけど……。|危《あぶ》なかったわね」
「あの人一人ぐらいなら、|負《ま》けやしないわ」
「強いんだから! でも、|油《ゆ》|断《だん》が|怖《こわ》いのよ」
「分ってるわ。でも、この一件はもう|公《おおやけ》になったから……」
「それがおかしいわ」
と多江が言った。
「おかしい?」
「あの水谷を、そんな風に|追《お》い|詰《つ》めたら、何をしゃべるか分らないじゃないの。――それぐらい町の人にも分ってるはずだけど」
「つまり……水谷を|手《て》|配《はい》したのも、何か|理《り》|由《ゆう》があるっていうわけ?」
「たぶんね」
と、多江は|肯《うなず》いた。「先生、|充分《じゅうぶん》に用心してね」
「そうするわ」
多江の話は、思いがけなかった。
もちろん、多江の思い|過《すご》しということもあるだろうが、何といっても、依子は、|根《ね》の|深《ふか》さを知らない。多江の|忠告《ちゅうこく》には耳を|傾《かたむ》けるしかないだろう。
「今日は、明るい|内《うち》に帰った方がいいよ」
と、多江は言った。「また、夜にでも、先生の|所《ところ》へ行くから」
「そうね。――じゃ、ご忠告に|従《したが》うわ」
と、依子は肯いた。
「|珍《めずら》しく、|素《す》|直《なお》に言うこと聞いた」
「|失《しつ》|礼《れい》ね」
と、依子は|笑《わら》った。
――町へ|戻《もど》ったのは、そろそろ|陽《ひ》が|傾《かたむ》いて来る|時《じ》|刻《こく》だった。
|下宿先《げしゅくさき》へ上ると、
「先生、お帰りで」
思いがけず、河村の顔が出て来た。
「まあ、河村さん。どうかしたんですの?」
依子は、ちょっとギクリとした。
つい、|生《せい》|徒《と》に何かあったのか、と考えてしまうのである。
「お|待《ま》ちしてたんです。水谷先生――いや、水谷がね、|見《み》|付《つ》かったのですよ」
「そうですか。それで――」
「|死《し》んでいました」
依子は、
「死んで……」
と、|呟《つぶや》くように言った。
「ともかく、来て下さい。つい、今しがたなんです」
「ええ、もちろん」
依子は、河村について、外へ出た。
――学校の|裏《うら》|手《て》、あの、小川が、|現《げん》|場《ば》だった。
「子供が|遊《あそ》んでいて、|見《み》|付《つ》けたんです。――びっくりしましたよ」
水谷の|死《し》|体《たい》は、まだ|河《か》|原《わら》にあった。|布《ぬの》をかけられている。
「――|自《じ》|殺《さつ》ですの?」
「それが……|妙《みょう》でしてね」
と河村は頭をかいた。「|喉《のど》を切られているんです」
「喉を――」
依子は|息《いき》を|呑《の》んだ。
「見て下さい。――いや、気が|進《すす》まなければ、いいですよ」
「見ます。見せて下さい」
と、依子は言った。
町の人間が、七、八人、|集《あつ》まっている。子供も|混《まじ》っているので、河村が、
「みんな、あっちへ行け!」
と手を|振《ふ》って|散《ち》らせた。
|布《ぬの》がめくられると、依子は、|一瞬《いっしゅん》、目をそむけた。
水谷とは思えない、|歪《ゆが》んだ|表情《ひょうじょう》だった。
|恐怖《きょうふ》か、それとも|恨《うら》みか……。そして|喉《のど》が大きく切り|裂《さ》かれている。
「自分で、喉を切っても、こうは行きませんよ」
と、河村は言った。
「そうでしょうね」
依子の声は|震《ふる》えていた。「ということは……」
「たぶん、|剃《かみ》|刀《そり》のような、|鋭《するど》い|刃《は》|物《もの》でしょうが、ここにはない。つまり、どこかで|殺《ころ》されて、ここへ|運《はこ》ばれた、ということです」
「殺されて……」
依子は、布を|戻《もど》した。「でも――|誰《だれ》が水谷先生を殺すんでしょう?」
「分りませんね」
と、河村は|肩《かた》をすくめた。「それはこれからです。|殺《さつ》|人《じん》となると、|県《けん》|警《けい》の|担《たん》|当《とう》ですからな」
「また、ですね」
「そうです。前の|一《いっ》|件《けん》も|片《かた》|付《づ》いていないというのに」
依子はハッとした。
つい、|無《む》|意《い》|識《しき》に口にしていたのだ。――依子のいう「殺人」は、大沢和子のことだった。
河村は、もちろん、角田栄子の|事《じ》|件《けん》について、言っているのだった。
そう。それを「二つ」と数えれば、三つの殺人が、この小さな町で、|相《あい》|次《つ》いだことになる。
|急《きゅう》に、|陽《ひ》が|落《お》ちて、|辺《あた》りが|暗《くら》くかげり|始《はじ》めていた。
16 |消《き》えた依子
|珍《めずら》しく、小西|警《けい》|部《ぶ》は|機《き》|嫌《げん》が|悪《わる》かった。
といって、|普《ふ》|通《つう》の|上《うわ》|役《やく》と|違《ちが》うのは、やたらに|部《ぶ》|下《か》を|怒《ど》|鳴《な》りつけて、その|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》を|解消《かいしょう》したりしないところだ。
その分、ストレスはたまる。――|仕《し》|方《かた》のないところだろう。上役か部下か、どっちかに、ストレスはたまるものなのだ。
小西が|苛《いら》|立《だ》っているのは、車のナンバーが分っているのに、車を|割《わ》り出すのに時間がかかっているせいだった。
「まだなのか」
|席《せき》から、電話を入れる。「もう何時間たったと思ってるんだ?」
「|申《もう》し|訳《わけ》ありません、今、やっていますから――」
「早くしてくれ!」
小西は、受話器を|置《お》いた。|苛《いら》|々《いら》していても、|叩《たた》きつけたりはしない。
「しかし、|幸《こう》|運《うん》でしたね」
と、言ったのは、三木|刑《けい》|事《じ》である。
こちらは|至《いた》ってのんびりしている。小西と|違《ちが》うのは、|結《けっ》|果《か》が出るまでは休んでいられる、という|発《はっ》|想《そう》の|違《ちが》いであろう。
「あの|子《こ》|供《ども》の|記《き》|憶《おく》違いってこともある」
と、小西は言った。
「でも、あの手の子供は、|結《けっ》|構《こう》、よく|憶《おぼ》えてるもんですよ」
「|該《がい》|当《とう》の車がなかったら、また|厄《やっ》|介《かい》だぞ。それに近いナンバーの車を|全《ぜん》|部《ぶ》|洗《あら》い出さなきゃならん」
「そうですね。でも、ただ当てもなく歩き回るよりは……。中込依子の方はどうします」
「手は二本、頭は一つしかないよ」
小西はため|息《いき》をついた。
「いっそのこと、町へ|乗《の》り込んでみませんか?」
「どういう名目で、だ?」
三木は|肩《かた》をすくめた。
「何とでもつけられるじゃありませんか。|未《み》|解《かい》|決《けつ》の|殺《さつ》|人《じん》だってあるんだし」
「|担《たん》|当《とう》が|違《ちが》う」
「そりゃそうですが……」
「あの|娘《むすめ》の話をもとにして、|強制捜査《きょうせいそうさ》に|踏《ふ》み切るのはむずかしい。|証拠《しょうこ》が|残《のこ》っているかどうか……」
「でも、田代のことがありますよ」
三木は|真《しん》|剣《けん》な|口調《くちょう》になっていた。「|刑《けい》|事《じ》が一人、|行《ゆく》|方《え》|不《ふ》|明《めい》なんです。もっと力を入れて|調《しら》べても、おかしくはないんじゃありませんか?」
小西は、三木の目を|見《み》|返《かえ》した。
「――|気《き》|持《もち》は分る」
と|肯《うなず》く。「しかし、|焦《あせ》るな。一気にやる|必《ひつ》|要《よう》がある。|向《むこ》うは町ぐるみだぞ。下手をすると、町中を|相《あい》|手《て》にしなきゃならん」
「そのときになりゃ、やりますよ。たとえ|向《むこ》うが東京|都《と》だって」
三木は、ちょっとむきになって言った。
「一度行ってみるのは、いいかもしれん」
と、小西は少し考えながら、言った。「あまり何もしないのでは、|却《かえ》って向うが|怪《あや》しむ|恐《おそ》れがあるからな」
「やりましょう! |警《けい》|部《ぶ》と|僕《ぼく》の二人なら――」
「|落《お》ちつけよ。ともかく、この|殺《さつ》|人《じん》が|片《かた》|付《づ》かんと、|動《うご》きが|取《と》れない」
「車を|割《わ》り出すのを、|手《て》|伝《つだ》って来ましょうか」
|今《こん》|度《ど》は、三木の方がせっかちになった。
ちょうどそれに答えるように、電話が鳴り出した。
「ほら来たぞ」
と小西はニヤリと笑った。「――小西だ。――そうか。言ってくれ。――何だと?」
小西の顔に、|信《しん》じ|難《がた》いという|表情《ひょうじょう》が|浮《うか》んだ。
「――|間《ま》|違《ちが》いないか?――よし、分った。ご|苦《く》|労《ろう》」
受話器を|置《お》くと、小西は、フウッと|息《いき》をついた。
「どうしたんです?」
三木の|質《しつ》|問《もん》が聞こえているのかどうか。小西は、ちょっと考え込んでいる|様《よう》|子《す》だったが……。
「こいつは|面《おも》|白《しろ》くなって来た」
と、小西は言った。
「え?」
「あのナンバーが|誰《だれ》の車のものだったと思う?」
「分りませんよ」
「|当《とう》|然《ぜん》だ」
小西は、メモした紙を、三木へ|手《て》|渡《わた》した。三木はそれを見て、ちょっと目を|見《み》|開《ひら》いた。
「|警《けい》|部《ぶ》、これはもしかして――河村[#「河村」に傍点]というのは――」
「あの町[#「あの町」に傍点]の、|駐在所《ちゅうざいしょ》の|巡査《じゅんさ》だ。あれは河村の車だった」
三木の|頬《ほお》が|紅潮《こうちょう》した。
「|警《けい》|部《ぶ》、これは――」
「うむ。どうしても、あの町へ行かねばならんようだな」
「じゃ、今夜の|内《うち》にも出かけましょう!」
「いや、あの|山《やま》|道《みち》を夜中には|無《む》|理《り》だ。それに|逮《たい》|捕《ほ》に行くわけじゃないぞ。あくまで、|捜《そう》|査《さ》だ。それを|忘《わす》れるな」
「分ってます。じゃ、明日、朝一番で出かけましょう」
「そうだな、今夜は早く|寝《ね》ておこう」
小西が立ち上ったとき、また電話が|鳴《な》り出した。
「|今《こん》|度《ど》は何だ。――ああ、小西だ」
顔が、こわばった。
「――よし、|急行《きゅうこう》する。|現場付近《げんじょうふきん》に|非常線《ひじょうせん》を|張《は》れ」
「|何《なに》|事《ごと》です?」
「また|殺《ころ》しだ。同じように|喉《のど》を切られた」
「何ですって?」
「しかも、現場はあの|病院《びょういん》の中だ。行くぞ」
小西と、三木は、ほとんど|駆《か》け出すような|勢《いきお》いで、歩き出していた。
津田は、ホテルの|部《へ》|屋《や》で、何となく|寝《ね》|苦《ぐる》しい夜を|過《すご》していた。
|眠《ねむ》っては|起《お》き、まどろんでは目が|覚《さ》める。――|理《り》|由《ゆう》は分らなかったが、ともかく、|疲《つか》れていても、|一《いっ》|向《こう》に眠れないのだ。
|畜生《ちくしょう》。――ベッドに起き上って、津田は頭を|振《ふ》った。
どうして、こう寝つけないんだろう?
これならいっそ、アルコールでも|一《いっ》|杯《ぱい》引っかけておくんだった。しかし、こんなホテルでは、およそそういう|場《ば》|所《しょ》もサービスもあるまい。
|冷《れい》|蔵《ぞう》|庫《こ》があったな、ビールぐらい入っているだろう。
いや、それとも、いっそシャワーでも|浴《あ》びて、さっぱりした方がいいかもしれない。
――そのとき、ふと|気《き》|付《づ》いた。
ドアの前に|誰《だれ》か立っている。――ドアの下から、|廊《ろう》|下《か》の明りが|洩《も》れているのだが、そこに、|影《かげ》が|動《うご》いているのだ。
しかも、それは|通《つう》|過《か》しては行かない。いつまでも、ドアの前を、右へ左へ、動いている。
誰だろう?――津田は、急に頭がはっきりと|冴《さ》えてしまった。
津田とて、もともとあまり|勇《ゆう》|敢《かん》な方ではない。いや、どっちかといえば、|臆病《おくびょう》だし、できることなら、|危《あぶ》ないことには近づきたくない、という|性《せい》|質《しつ》である。
どっかへ行っちまってくれないかな、と半ば|期《き》|待《たい》しつつ、津田は、その「影」の動きを見ていた。
が、|一《いっ》|向《こう》に、それはドアの前を|離《はな》れようとしないのだ。
津田はベッドからそっと出ると、スリッパをはいた。
ゆっくりとドアの方へ近付く。――ドアに、外を見るスコープがついているといいのだが、ここのドアには、それがない。
どうしようか? 津田はしばらく|迷《まよ》った。
そっとドアに耳を|押《お》し当ててみる。
色々な音はする。|空調《くうちょう》だの、水の|流《なが》れる音だの……。
しかし、ドアの前に|誰《だれ》が立っているかまでは分らない。
よし、――津田は|腹《はら》を|決《き》めた。
音がしないように、|静《しず》かにドアチェーンを外す。そして一気にドアを|開《あ》けるんだ。
いいか、行くぞ。――それ!
パッとドアを開けると……目の前には誰もいなかった。
|一瞬《いっしゅん》、|幽《ゆう》|霊《れい》でも出たのか、とゾッとした。しかし、気が付くと――何のことはない。
|天井《てんじょう》の明りの、ちょうどドアのすぐ上の一つが、古くなったのか、チカチカと、|明《めい》|滅《めつ》していて、それが、ドアの下から見ると、まるで何か|動《うご》いているように見えたのだった。
津田は、大きく息を|吐《は》き出した。――|笑《わら》いたくなったが、ちょっと自分が|惨《みじ》めでもある。
ま、いいや。何ともなかったんだ。
それに、|誰《だれ》かに見られていたというわけでもない。
津田は、ドアを|閉《し》めると、|部《へ》|屋《や》の明りをつけた。――|馬《ば》|鹿《か》だな、|全《まった》く!
|汗《あせ》までかいている。|結局《けっきょく》シャワーでも|浴《あ》びなきゃならない。
ふと、津田は、サイレンの音に|気《き》|付《づ》いた。
OLが|喉《のど》を切られたときのことを思い出して、ハッとする。
サイレンは、また|病院《びょういん》の方へ|向《むか》ったようだ。
いくら何でも、まさか……。
津田は|窓《まど》から、|表《おもて》を|眺《なが》めた。――パトカーが|続《つづ》いて行く。
それだけではない。パトカーが、そこここに|停《とま》って、|警《けい》|官《かん》が道へ出ると、|動《うご》き回り|始《はじ》めた。
どうやら、また何かあったようだ。
|突《とつ》|然《ぜん》、電話が|鳴《な》り出した。いや、電話としては、ごく|普《ふ》|通《つう》に鳴ったのだが、|状況《じょうきょう》が状況だっただけに、津田は|飛《と》び上らんばかりに|驚《おどろ》いた。
「はい、津田です」
「小西です。夜中にどうも――」
「何があったんですか? 今、外を見ていたんです」
「また同じように|喉《のど》を切られて|殺《ころ》されたんです」
「それはまた――」
「中込さんの|入院《にゅういん》している病院の中、なんですよ」
「何ですって? まさか|彼《かの》|女《じょ》が――」
「いや、殺されたのは|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》です。ご|心《しん》|配《ぱい》だといけないと思いましてね」
「わざわざどうも。――|良《よ》かったら、彼女の|病室《びょうしつ》に行って、ついていてやりたいのですが」
「それは|構《かま》いませんよ。|待《ま》っていて下さい。|誰《だれ》かをそっちへやりましょう」
こんなときでも、小西の|細《こま》かい気のつかい方に、津田は|感《かん》|心《しん》した。
十分としない|内《うち》に、三木|刑《けい》|事《じ》がホテルへやって来た。|仕《し》|度《たく》をして|待《ま》っていた津田は、そのまま、すぐにホテルを出た。
――|途中《とちゅう》、車のナンバーから、それが河村の車だと分ったことを聞かされて、津田もびっくりした。
「それは|凄《すご》い手がかりですね!」
「|全《まった》くです。――あ、この|件《けん》は口外しないで下さい。たぶん、中込さんにも|伏《ふ》せておいた方がいいでしょう」
「分りました」
と、津田は|肯《うなず》いた。
思いもかけないところから、手がかりが出て来たものだ。
「大きな|事《じ》|件《けん》が|解《かい》|決《けつ》するときってのは、こんなもんですよ」
と、三木|刑《けい》|事《じ》は言った。
|病院《びょういん》へ|着《つ》くと、小西がやって来た。
「|彼《かの》|女《じょ》は|寝《ね》てるんでしょうか?」
と、津田は|訊《き》いた。
「さあ、|現場《げんじょう》の方が|大《たい》|変《へん》で、私も見ていないんです。行ってみて下さい」
「分りました。しかし――どうして病院の中で?」
「分りませんね」
と、小西は首を|振《ふ》った。「まさか、この中に[#「中に」に傍点]|犯《はん》|人《にん》がいるということはないでしょうが……」
津田は、ちょっと青ざめた。
津田は、依子の|病室《びょうしつ》のドアを|開《あ》けた。
もちろん、中は|暗《くら》い。――|起《おこ》してしまうといけないので、津田は、目が|慣《な》れるまで、待つことにした。
ベッドは、こんもりと|盛《も》り上って、依子はよく|眠《ねむ》っているようだ……。いや、どこか変だ。
津田は、依子の|寝《ね》|息《いき》が、まるで聞こえていないのに|気《き》|付《づ》いた。
まさか――依子!
津田は、明りを|点《つ》けた。|毛《もう》|布《ふ》をめくってみる。――そこにあるのは、|丸《まる》めた毛布と、クッションだった。
「|大《たい》|変《へん》だ」
と、津田は|呟《つぶや》いた。
しばし、どうしていいか分らず、立ちすくんでいた。
これは、ただ、|部《へ》|屋《や》を出て行ったというだけじゃない。|寝《ね》ているように見せかけているのだ。
「|失《しつ》|礼《れい》」
と、ドアが|開《ひら》いて、小西が顔を出した。「どうです、|彼《かの》|女《じょ》は?」
津田は、|黙《だま》ってベッドを|指《ゆび》さした。
小西の顔色が|変《かわ》った。
17 |再《ふたた》び山中へ
「――|誠《まこと》に|面《めん》|目《ぼく》ありません」
と、河村が頭を下げる。
「じゃあ……車は|盗《ぬす》まれた、というんだね?」
と、小西は言った。
「そうなんです。一週間ほど前のことでしたか――」
河村は考えながら言った。
「しかし――なぜ|届《とどけ》が出てないんだ?」
と三木|刑《けい》|事《じ》が口を出す。
「|申《もう》し|訳《わけ》ありません。いや、出さなきゃいかんとは思っとったんです。しかし、何といっても、私は|警《けい》|官《かん》で、車を|盗《ぬす》まれた、しかも、キーをつけっ|放《ぱな》しにしておいて盗まれたというんじゃ、何とも見っともない話で。つい、出しそびれておりまして」
「|怠《たい》|慢《まん》だな、それは」
「|申《もう》し|訳《わけ》ありません」
河村は頭をかいた。
小西は、三木と、そっと目を|見《み》|交《か》わした。
うまく|逃《に》げたな、と二人の目は|互《たが》いに言い合っていた。
「その車が、|殺《さつ》|人《じん》に|使《つか》われるとは、思ってもいませんでした」
と、河村は|額《ひたい》の|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》った。
|県《けん》|警《けい》の、小西の|机《つくえ》の前に立って、河村はいかにも|自《し》|然《ぜん》に|緊張《きんちょう》している。
「分った。――|一《いち》|応《おう》|念《ねん》のため、|確《たし》かに|君《きみ》の車かどうか、|記《き》|録《ろく》を見てくれ」
「かしこまりました」
河村は|恐縮《きょうしゅく》した|様《よう》|子《す》で、頭を下げる。
小西は、|部《ぶ》|下《か》の一人に言って、河村を|案《あん》|内《ない》させた。
「ごまかしですよ!」
河村が行ってしまうと、三木が|腹《はら》|立《だ》たしげに言った。
「うん。しかし、なかなか頭のいい|奴《やつ》だ」
小西は|息《いき》をついた。「ああ言い|張《は》られたら、こっちとしても、|嘘《うそ》だと|決《き》めつけるわけにはいかん」
「このまま帰すんですか?」
三木は|不《ふ》|服《ふく》|顔《がお》だ。
「まあ|待《ま》て。――ここは、|向《むこ》うの言うことを信じたように見せた方がいい」
「しかし――」
「ここにいて、|我《われ》|々《われ》がああだこうだと言っても|始《はじ》まらん。向うへ行ってみるしかないじゃないか」
「行くんですか?」
「もちろんだ。それを河村に|悟《さと》られて、向うに、いつ我々が行ってもいいように|準備《じゅんび》されてしまったら、何もつかめない」
「分りました」
と、三木はやっと|納《なっ》|得《とく》した|様《よう》|子《す》で言った。
「|警《けい》|部《ぶ》さん!」
と声がして、津田がやって来る。「|彼《かの》|女《じょ》の|行《ゆく》|方《え》は分りましたか?」
ほとんど|寝《ね》ていないのだが、さすがに|緊張《きんちょう》で、目が|輝《かがや》いて見える。
「|残《ざん》|念《ねん》ながら、今のところ手がかりはありません」
と、小西は首を|振《ふ》った。
「どうするんです!」
津田が|詰《つ》め|寄《よ》る。「彼女に万一のことがあったら――」
「お|気《き》|持《もち》はよく分りますよ」
と、小西は言った。「|必《かなら》ず依子さんを|見《み》|付《つ》け出します」
「ちゃんと、生きた[#「生きた」に傍点]彼女を見付けて下さいよ」
と、津田は言って、それから、自分の言ったことにびっくりしたように、「いや――まさかそんなことはないと思いますが……」
と、付け|加《くわ》えた。
小西は、しばらく、|何《なに》|事《ごと》か考え|込《こ》んでいたが、やがて一つ|息《いき》をつくと、
「|我《われ》|々《われ》も同じ|気《き》|持《もち》ですよ」
と言った。
「いや、すみません。|別《べつ》にあなた方が|怠《たい》|慢《まん》だと言ってるんじゃないんです」
「行ってみますか」
小西が、津田の|言《こと》|葉《ば》を|無《む》|視《し》して、ポツリと言った。
「――え?」
「あの町へ[#「あの町へ」に傍点]、ですよ。――|表向《おもてむ》きは|捜《そう》|査《さ》ということでなく。どうです?」
くり|返《かえ》しているように、津田は|英《えい》|雄《ゆう》でも何でもない。だから、すぐに、
「行きます!」
という言葉は出て来なかった。
だが、|数秒間《すうびょうかん》してから、
「行きます」
と言った。
|一《いっ》|般《ぱん》|民《みん》|間《かん》|人《じん》としては、まず|立《りっ》|派《ぱ》なものであろう。
「|警《けい》|部《ぶ》、もちろん|私《わたし》も――」
と、三木|刑《けい》|事《じ》が言った。
「ああ、もちろんだ。しかし、それには、|昨《さく》|夜《や》の|事《じ》|件《けん》のけり[#「けり」に傍点]をつけて行かなきゃならん。――ともかく、そのために一日二日はかかりますね」
津田はちょっと|不《ふ》|満《まん》だった。しかし、だからといって、一人で先に行くだけの|度胸《どきょう》もない。
「先に行かれますか?」
と、小西に言われて、津田は答えに|困《こま》った。
「そうですね――もちろん、その――しかし――」
大切な|部《ぶ》|分《ぶん》は|抜《ぬ》けているのである。
「しかし、ここの事件の|責《せき》|任《にん》|者《しゃ》は私ですから、私は|動《うご》けませんが――」
小西は、三木の方をちょっと見て、「この|忙《いそが》しいときに、|休暇《きゅうか》を|取《と》る、けしからん奴もいます」
と言った。
三木は|苦笑《くしょう》して、
「分りました。じゃ、一つのんびりと|旅《りょ》|行《こう》でもして来ますよ。――津田さん、お|付《つき》|合《あ》い|願《ねが》えますか」
「いいですとも!」
津田はホッとして、|即《そく》|座《ざ》に|肯《うなず》いた……。
小西は、首をひねった。
おかしい。――どう考えてもおかしいのである。
「おい」
と、|振《ふ》り|向《む》いて、|見《み》|張《は》りに立っている|警《けい》|官《かん》を|呼《よ》んだ。
――|病院《びょういん》の|建《たて》|物《もの》の|裏《うら》|手《て》である。
|非常階段《ひじょうかいだん》があり、ここには、|警《けい》|官《かん》が一人、夜通し立っていたのだ。
もちろん、今は昼間である。しかし、夜でも、|決《けつ》して|身《み》を|隠《かく》すのに、|便《べん》|利《り》な|場《ば》|所《しょ》とは言えない。
「何でしょうか?」
と警官が小走りにやって来る。
「ゆうべ|事《じ》|件《けん》のあったとき、ここに立っていたのは|君《きみ》か?」
と、小西は|訊《き》いた。
「はい、そうです」
「ここから|離《はな》れなかったんだな?」
「はい」
|警《けい》|官《かん》は|頬《ほお》を|紅潮《こうちょう》させて、「|絶《ぜっ》|対《たい》に、ここから|動《うご》きませんでした!」
と強い|口調《くちょう》で言った。
小西は|微《ほほ》|笑《え》んで、
「君が|嘘《うそ》を言ってると思ってるわけじゃないぞ」
と言った。
「はあ……」
ここに警官が立っていて、|誰《だれ》も出入りしなかったとなると、|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》、平野紀子を|殺《ころ》した|犯《はん》|人《にん》は、病院の中[#「病院の中」に傍点]を通って、|逃《に》げたということになるのだ。
そんなことが|可《か》|能《のう》だろうか?
犯人そのものは、おそらく|返《かえ》り|血《ち》を|浴《あ》びていないだろう、と|検《けん》|死《し》|官《かん》は話していた。
それだけ、手なれた|殺《ころ》し方だったのだ。
しかし、|被《ひ》|害《がい》|者《しゃ》が、そんな「|殺《ころ》し|屋《や》」に|狙《ねら》われるようなタイプの人間でなかったことははっきりしている。
そんな風に、「殺し」に|慣《な》れた人間、というのは、どんな|人《じん》|物《ぶつ》だろう?
ただの|変《へん》|質《しつ》|者《しゃ》として|片《かた》|付《づ》けるには、その手口はあまりに|鮮《あざ》やかだった。
といって、そんな「殺し」のベテランが、どうして|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》を殺したりするだろうか?
そして中込依子が|消《き》えたことと、どう|関《かん》|連《れん》しているのか。
小西は、ぶらぶらと、まるで|散《さん》|歩《ぽ》でもしているように、|病院《びょういん》の|表《おもて》の方へと回って行った。
この地方|都《と》|市《し》にとって、|続《つづ》けて|起《おこ》った、この二つの|残《ざん》|忍《にん》な手口の殺人|事《じ》|件《けん》は、大センセーションである。
|責《せき》|任《にん》|者《しゃ》としての小西の|立《たち》|場《ば》も、|微妙《びみょう》なものだった。
しかし、小西はもともと、その|類《たぐい》のことをあまり気にしない。いくら上の方からやかましく言われても、|事《じ》|件《けん》が早く|解《かい》|決《けつ》するわけではないのだ。
むしろ|焦《あせ》りが、|捜《そう》|査《さ》|方《ほう》|針《しん》を|誤《あやま》らせることの方を|心《しん》|配《ぱい》する。だから、どんな風当りも、正に「|柳《やなぎ》に風」と|受《う》け|流《なが》しているのだ。
もちろん、小西が事件に心を|痛《いた》めていないわけではない。やたらと「|哀《あい》|悼《とう》の意」を|表明《ひょうめい》したがる|上層部《じょうそうぶ》に|比《くら》べても、たぶん小西の方がずっと|胸《むね》を|痛《いた》めていただろう。
ただ、それをあくまで表に出さない。――それが小西の|違《ちが》っているところなのである。
それにしても、と小西は思った。こんな事件にぶつかったのは|初《はじ》めてだ。
ただの|凶悪《きょうあく》な事件というだけではない。その|裏《うら》に、何か[#「何か」に傍点]が|潜《ひそ》んでいる。
小西はいやな|予《よ》|感《かん》がしていた。
これで|終《おわ》らないのではないか。また、同じような|惨《さん》|劇《げき》が|起《おこ》るのではないかという|予《よ》|感《かん》が……。
小西が病院の|玄《げん》|関《かん》へやって来ると、|医《い》|師《し》が出て来た。
「やあ、先生」
と、小西は言った。
|事《じ》|件《けん》の|捜《そう》|査《さ》に|関《かん》|連《れん》しても、|何《なん》|度《ど》か|世《せ》|話《わ》になったことのある、五十がらみの、人の|好《よ》さそうな医師である。
「何だ、|君《きみ》か」
「何だ、はないでしょう。ゆうべから、何度も出入りしてるのに」
「そうか。君の|担《たん》|当《とう》だね」
「そうです。頭が|痛《いた》いですよ」
小西は|苦笑《くしょう》した。「|寝《ね》|不《ぶ》|足《そく》のせいもありますがね」
医師の|古《ふる》|川《かわ》は、ちょっと笑って、
「寝不足を|治《なお》す|薬《くすり》を教えてやろうか」
と言った。
「いただきたいですね」
「|眠《ねむ》ることだな」
と、古川|医《い》|師《し》は言った。「どうだね、お|茶《ちゃ》でも」
「ありがたい! それは|名《めい》|案《あん》ですな。|一《いっ》|向《こう》に|気《き》|付《づ》かなかった」
と小西は|息《いき》をついた。
古川は|笑《わら》って、
「|息《いき》|抜《ぬ》きを|忘《わす》れるというのは、|疲《つか》れている|証拠《しょうこ》だよ」
と、小西の|肩《かた》を|叩《たた》いた。
古川は|白《はく》|衣《い》を|脱《ぬ》いで|丸《まる》めて|持《も》つと、近くの|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》の|扉《とびら》を|押《お》した。
「いらっしゃいませ、先生」
と、店の人間が声をかける。
「――どうしていちいち、白衣を脱ぐんですか?」
と、小西は|席《せき》について|訊《き》いた。
「これを|着《き》て入ると、|他《ほか》の|客《きゃく》がいやがる」
「そんなものですかね」
「|医《い》|者《しゃ》も|刑《けい》|事《じ》も、|似《に》たようなものさ」
と、古川は言った。「――おい、ブルマンをくれ」
「こっちも同じだ」
と、小西もウェーターに声をかけた。「――|刑《けい》|事《じ》と|医《い》|者《しゃ》ですか」
「ああ。いざ[#「いざ」に傍点]というときは|必《ひつ》|要《よう》だが、いつもはあまり|関《かかわ》り合いたくない、という点ではね」
「なるほど」
「もし|君《きみ》が、|警《けい》|察《さつ》|手帳《てちょう》を見せながら、この店に入って来たら、|他《ほか》の|客《きゃく》はいい顔をしないだろう」
「それはそうでしょうね」
「医者も同じだ。|白《はく》|衣《い》を|着《き》て入ると、みんないやな目で見る」
古川は、水を一口|飲《の》んで、「どうなんだね?」
と|訊《き》いた。
「どうも|妙《みょう》です」
小西の声は|低《ひく》くなっていた。
「ほう?」
「|病院《びょういん》の外から、|犯《はん》|人《にん》が|侵入《しんにゅう》し、外へ|逃《に》げたという|可《か》|能《のう》|性《せい》が低い。ゼロというわけではありませんが」
「それなら話は|簡《かん》|単《たん》じゃないか」
と、古川はアッサリ言った。「|犯《はん》|人《にん》が|病院《びょういん》の中にいる、ということだ」
「そんなことを言ってもいいんですか」
「|構《かま》うもんか。ただの|推《すい》|測《そく》としてならね」
古川は|笑《わら》って、「――しかし、|噂《うわさ》にでもなれば、病院は|大《だい》|打《だ》|撃《げき》だな」
「そこが気になります」
と、小西は|肯《うなず》いた。
「|殺《さつ》|人《じん》|鬼《き》のいる病院に入院する|奴《やつ》もあるまいしな」
「何か|影響《えいきょう》は出ていますか」
「さあ。それは分らんな。しかし、|患《かん》|者《じゃ》が|大《たい》|挙《きょ》して|逃《に》げ出したとも聞いとらん」
「病院|内《ない》での|内《ない》|偵《てい》を|進《すす》めても、かまいませんかね?」
「|必《ひつ》|要《よう》ならやりたまえ」
と、古川は|即《そく》|座《ざ》に言った。「こっちとしても、早く|犯《はん》|人《にん》を|挙《あ》げてほしいからな」
「|努力《どりょく》しますよ」
小西はホッとした。
この町の|最《さい》|大《だい》の、というより、|唯《ゆい》|一《いつ》の|大病院《だいびょういん》である。その力は大きい。
病院|内《ない》に|変《へん》|質《しつ》|者《しゃ》がいるというのでは、|大《たい》|変《へん》な|騒《さわ》ぎになろう。病院|側《がわ》が、|一切関《いっさいかかわ》り合わないという|態《たい》|度《ど》を|取《と》るのは、目に見えていた……。
「院長に話しておくよ」
と、古川は言った。
「よろしく」
|実《じつ》は、それこそが、|頼《たの》んでおきたいことだったのだ。
「しかし、|君《きみ》も|一《いち》|応《おう》、院長に|挨《あい》|拶《さつ》しておいてくれ」
と、古川は言った。「ああいう|偉《えら》い人は、|無《む》|視《し》されるのを一番|嫌《きら》うんだ」
「よく分っています」
小西は|肯《うなず》いた。
ふと、時計を見る。――もう、三木と津田が|出発《しゅっぱつ》したころだ。
自分は、いつ|追《お》いかけられるだろうか?
18 すれ|違《ちが》う顔
「|内《ない》|偵《てい》といっても、むずかしいだろう」
|病院《びょういん》の方へ|戻《もど》りながら、古川が言った。
「そうですね。まさか、|同僚《どうりょう》の中に、女の|喉《のど》を切りそうな人はいませんか、と|訊《き》いて回るわけにもいかないし」
「|咽《いん》|喉《こう》|科《か》の医者かな」
と、古川は|白《はく》|衣《い》を|着《き》ながら言って、|笑《わら》った。
「|殺《ころ》された|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》ですが――ご|存《ぞん》|知《じ》でしたか?」
「もちろん! |超《ちょう》ベテランだよ。|有《ゆう》|能《のう》だったし、口もうるさかった」
「|恨《うら》みとか、そんな|犯《はん》|行《こう》ではないと思いますが、|一《いち》|応《おう》その|線《せん》も、|全《まった》く|無《む》|視《し》するわけにいきませんので」
「|私《し》|生《せい》|活《かつ》があるよ、看護婦にも」
と、古川は言った。「つい、|忘《わす》れがちになるがね」
「|医《い》|者《しゃ》にもですね」
と、小西は|微《ほほ》|笑《え》みながら言った。
|病院《びょういん》へ入ると、とたんに、
「古川先生。――古川先生」
と、|呼《よ》び出しがかかる。
「やれやれ。これでも医者に|私《し》|生《せい》|活《かつ》があるのかね」
と|苦笑《くしょう》して、古川は、「じゃ、さっきのことは、|間《ま》|違《ちが》いなく院長へ話しておくよ」
と言って、歩いて行った。
|頼《たよ》りになる男だ。
病院は、いつもの通り、|混《こん》|雑《ざつ》していた。もちろん、|待《まち》|合《あい》|室《しつ》で|順番《じゅんばん》を待っている|患《かん》|者《じゃ》たちも、|事《じ》|件《けん》のことを知らないはずはない。
しかし、ここへ来ると、何となく、その話は|控《ひか》えてしまうようだ。
患者というのは、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》なものである。
さて――小西は、のんびりと、病院の中を歩いて行った。
犯人が、|病院《びょういん》の中にいると|仮《か》|定《てい》して、ではどんな人間が考えられるか。
|医《い》|師《し》。|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》。――これは|当直《とうちょく》の何人かに|限《かぎ》られる。
入院|患《かん》|者《じゃ》。その|可《か》|能《のう》|性《せい》はある。
そして患者の|付《つ》き|添《そ》い。
しかし、一人一人、|全《ぜん》|部《ぶ》の人間を|調《しら》べることはできない。その|必《ひつ》|要《よう》もあるまい。
ただ、|問《もん》|題《だい》は、いつまた、|殺《さつ》|人《じん》が|起《おこ》るかもしれないということである。
この病院の中で。――それを、どうやって食い止めるか。
もちろん早く犯人が|捕《つか》まれば、言うことはないのだが、今日中に、というわけにもいかない。
病院の中を、|警《けい》|戒《かい》するしかない。
何人か、|刑《けい》|事《じ》を|泊《とま》り|込《こ》ませよう、と小西は思った。|各《かく》|階《かい》の|廊《ろう》|下《か》に、|見《み》|張《は》りに立たせる。
それで、|犯《はん》|行《こう》を|防《ふせ》ぐことはできるだろう。
ただ、|逆《ぎゃく》に、犯人を|捕《つかま》えるのはむずかしくなる。|気《き》|付《づ》かれないように|見《み》|張《は》るなどという芸当は、|映《えい》|画《が》の中ぐらいでしかできやしないのだ。
――それにしても、中込依子はどこへ行ったのか?
自分から|姿《すがた》を|消《け》したのか、それとも|誘《ゆう》|拐《かい》されたのか。
いずれにしても、ここから、どうやって出て行ったのか……。
|謎《なぞ》が多すぎる、と小西は思った。
もっと|無《む》|理《り》をしても、|彼《かの》|女《じょ》の話を|終《おわ》りまで聞いておくべきだった。
今となっては、もう|遅《おそ》いが……。
「聞いておくべきでしたよ」
と、車を|運《うん》|転《てん》しながら、三木|刑《けい》|事《じ》が、言った。
津田は|肯《うなず》いた。
「小西さんとしては、|彼《かの》|女《じょ》に気をつかってくれたんでしょう」
「人がいいんですよ」
と、三木は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「でも、あんな風だから、もっと|出世《しゅっせ》してもいいのに、|一《いっ》|向《こう》に……」
「でもいい人ですね」
「|全《まった》くです。|僕《ぼく》も|尊《そん》|敬《けい》してますよ」
――|互《たが》いに、小西のことを話しながら、道の半ばまで来た。
小西の話なら、|無《ぶ》|難《なん》だった。そのせいもある。
しばらく、二人は|黙《だま》っていた。車は|段《だん》|々《だん》、小道へと入って行く。
カーブも多く、話をしている|余《よ》|裕《ゆう》もなかった。
少し道が広くなった|所《ところ》で、三木は車をわきへ|寄《よ》せて止めた。
「――どうしたんです?」
と、津田は|訊《き》いた。
「どうしますか」
「どう、って……」
「町へ|真《まっ》|直《す》ぐ入るか。――しかし、考えてみて下さい。あそこは大体|観《かん》|光《こう》|地《ち》でも何でもない。そこへ我々がのこのこ行って、|別《べつ》に何の用もない、と言って、信じてもらえますかね?」
言われてみればその通りだ。
「しかし――じゃあ、どうしようと?」
「谷へ行ってみませんか」
「谷へ?」
「依子さんが話していたでしょう。〈谷〉のことを」
「ええ。しかし――どこだが、分るんですか?」
「|地《ち》|図《ず》を持って来ました。コンパスもね」
「手回しがいいですね」
「町の|連中《れんちゅう》に|気《き》|付《づ》かれてしまったら、どうやっても、谷へ行くことはできなくなりますよ。どうです?」
津田も、その点は|同《どう》|感《かん》だった。
「道が分りますかね」
「かなり遠回りになりますが、車で、できるだけ近くへ行って、それから山へ入りましょう」
三木は|地《ち》|図《ず》を広げて、「――ほら、この|辺《あた》りだと思うんですよ」
と、×|印《じるし》をした|箇《か》|所《しょ》を|指《ゆび》さした。
「|研究《けんきゅう》してるんですね」
と、津田はびっくりして言った。
「山歩きが|趣《しゅ》|味《み》なので」
と、三木はちょっと|照《て》れくさそうに言った。
「いいですとも。行ってみましょう」
と、津田は|肯《うなず》いて言った。
「|決《きま》った! ただし、これは|警《けい》|部《ぶ》には|内《ない》|緒《しょ》ですよ」
「分りました」
車が|再《ふたた》び走り出した。
「――どこへ行ったんでしょうね」
と、三木が言った。
「|彼《かの》|女《じょ》ですか?――町へ|連《つ》れ|戻《もど》されたんじゃないかと思うんですが」
「そう。それが一番|心《しん》|配《ぱい》ですね」
「|万《まん》|一《いち》のことがなきゃ、いいんですが……」
「しっかりした人ですね、|彼《かの》|女《じょ》は」
「ええ。|僕《ぼく》よりは、よほど」
津田は|正直《しょうじき》に言った。
「あなたも|面《おも》|白《しろ》い人だな」
と、三木は|笑《わら》った。
「――車が来ますよ」
|反《はん》|対《たい》|側《がわ》から車がやって来た。すれ|違《ちが》うのがちょっと|大《たい》|変《へん》な|道《みち》|幅《はば》だ。
三木が車をぎりぎりに|寄《よ》せて、|停《と》めた。すると――やって来た車が、三木たちの車の|傍《そば》で停ったのである。
「これはどうも、三木さんでしたね」
と、|窓《まど》から顔を出したのは、河村だった。
「これはどうも」
三木は、ちょっと面食らった|様《よう》|子《す》で、「よく分りましたね」
「スピードを|落《お》としたので、お顔が見えたんですよ」
と、河村は言った。「町へおいでになるんですか?」
「いや、もっと先です。人を|送《おく》って。――あなたは?」
「|例《れい》の車のことで。|始《し》|末《まつ》|書《しょ》を書かされましてね。|全《まった》く、|面《めん》|目《ぼく》ない話ですよ」
と|笑《わら》って、「では、お気を|付《つ》けて」
「どうも」
河村の車が行ってしまうと、三木は、|肩《かた》で|息《いき》をついた。
「今のは――?」
津田が|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》そうな顔で|訊《き》く。
「ああ、あなたは|直接《ちょくせつ》見たことがないんですね。河村ですよ、|駐在《ちゅうざい》の」
「あれが――」
津田は、顔に|血《ち》が|昇《のぼ》るのを感じた。
依子の話の中で、|何《なん》|度《ど》も「出会って」いるのだが、|実《じっ》|際《さい》に顔を見るのは|初《はじ》めてである。
「知ってたんだ」
と、三木は言った。
「え?」
「|我《われ》|々《われ》のことをですよ。今の車の|停《と》め方は……。つまり、町じゃ、我々が行くのを|承知《しょうち》してるというわけですね」
「どうして分ったんでしょう?」
「さあ」
三木は首を|振《ふ》った。「――ともかく、行きましょう」
|再《ふたた》び車が走り出す。
その後、二人はほとんど口をきかなかった。
19 谷へ入る
津田は、いつも、|妙《みょう》だな、と思っていた。
|吸血鬼《きゅうけつき》の出て来る|映《えい》|画《が》を見ていると、|必《かなら》ず|最《さい》|後《ご》には、|主《しゅ》|人《じん》|公《こう》たちが、吸血鬼の|棲《す》む|城《しろ》へ|乗《の》り|込《こ》んでいくのだが、城へ|着《つ》いたころはいつも夕方なのだ。
そして、|陽《ひ》が|沈《しず》む前に、吸血鬼の|眠《ねむ》る|墓《はか》を|見《み》|付《つ》けなくてはならないので、ひどく|焦《あせ》って|駆《か》け回るのである。
|馬《ば》|鹿《か》だなあ、と津田は見ながら思うのだった。もっと朝早く出て、|真《ま》|昼《ひる》の内に城へ|着《つ》いとけば、のんびりと|捜《さが》せるじゃないか。
もちろん、それでは、|夕《ゆう》|陽《ひ》が沈むのと、吸血鬼の|胸《むね》に|杭《くい》を打ち込むのとどっちが早いか、というサスペンスは生れないから、|仕《し》|方《かた》のないことかもしれない。
しかし、いくら何でも、|城《しろ》へ|着《つ》いたら、いかにもわざとらしく|陽《ひ》が|沈《しず》もうとするのには、|苦笑《くしょう》してしまうのだった。
――三木|刑《けい》|事《じ》と二人で、車を|降《お》りた津田は、もう、|辺《あた》りに少し|夕《ゆう》|暮《ぐれ》の|気《け》|配《はい》が|漂《ただよ》い|始《はじ》めているのを見て、ふと、自分が、|吸血鬼《きゅうけつき》の城へこれから|乗《の》り|込《こ》もうとしているように思えたのだった。
「ここから先は歩くしかないですね」
と、三木刑事は言った。「山歩きの|経《けい》|験《けん》は?」
津田は|肩《かた》をすくめて、
「|高《たか》|尾《お》|山《さん》くらいなら……」
と言った。「ハイキングに毛の生えた|程《てい》|度《ど》ですよ」
「そうですか」
三木は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「しかし、ここは|別《べつ》に|登《のぼ》りじゃありませんからね。道は|悪《わる》いだろうけど、迷わなきゃ、|大丈夫《だいじょうぶ》でしょう」
「そろそろ|暗《くら》くなりそうですよ」
と、津田は空を見上げて、言った。
まだ、青空は出ているが、まぶしいような|輝《かがや》きは、|既《すで》に|消《き》えていた。
「|懐中電灯《かいちゅうでんとう》が二つあります」
三木は、ダッシュボードから|取《と》り出した一つを津田へ|手《て》|渡《わた》した。「|大《おお》|型《がた》だから、もしもの時は、|武《ぶ》|器《き》にもなりますよ」
津田が、ちょっと|不《ふ》|安《あん》げな|表情《ひょうじょう》を見せたのに|気《き》|付《づ》いたのか、三木は、
「まあ、|心《しん》|配《ぱい》はありませんよ」
と付け|加《くわ》えた。「|僕《ぼく》も|拳銃《けんじゅう》を持ってますしね」
これでは|却《かえ》って不安になる。
ともかく、津田は一つ|深呼吸《しんこきゅう》をして、|肯《うなず》いて見せた……。
道は、林の中に|消《き》えていた。そこから、二人は歩き出した。
ゆるい上りだが、十分も歩くと、津田は、|都《と》|会《かい》に|慣《な》れ切った足の|弱《よわ》さを|痛《つう》|感《かん》させられてしまった。
|息《いき》を|弾《はず》ませているのを、前を行く三木に|気《き》|付《づ》かれないように、用心した。やはり、いくらかはプライドというものがある!
三木は、かなり山道に|慣《な》れているようだった。|若《わか》い――といっても、二十八の津田と、そう|違《ちが》いはないと思うのだが、|日《ひ》|頃《ごろ》のきたえ方の|差《さ》であろう。
三木が|振《ふ》り|向《む》いて、
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
と|訊《き》いた。
「ええ。まあ、何とか」
「もう少し行っておかないと、日が|暮《く》れてしまいますからね」
「大丈夫ですよ。どんどん行って下さい」
ちょっと|無《む》|理《り》をして、津田は言った。
それからしばらくは、二人とも|無《む》|言《ごん》で歩き|続《つづ》けた。
林を出ると、谷間の|狭《せま》い道になった。
草木は少なくて、|岩《いわ》だらけの道である。早く|陽《ひ》がかげって、足下が少し見にくくなり|始《はじ》めている。
しかし、まだ|懐中電灯《かいちゅうでんとう》をつけるほどでもなかった。
津田は、もうすっかり|汗《あせ》をかいていた。ハンカチを|取《と》り出して|額《ひたい》や|首《くび》|筋《すじ》を|拭《ぬぐ》う。
三木は、|黙《もく》|々《もく》と歩き|続《つづ》けていた。
津田は、ふと|妙《みょう》なことに|気《き》|付《づ》いた。――三木は、少しも|迷《まよ》わずに歩いている。|地《ち》|図《ず》も|持《も》っているはずだが、一回もポケットから出さないのだ。
大丈夫なのだろうか?
三木の足取りには、ためらいがなかった。まるで――そう、まるで、よく知っている[#「知っている」に傍点]道を歩いているかのようだ。
しかし、三木はそんなことを言ってはいなかった……。
三木が足を止めた。
「少し、休みましょうか」
「そうですね」
津田は、手近な、|比《ひ》|較《かく》|的《てき》|平《たい》らな|岩《いわ》に|腰《こし》をおろした。歩みを止めると、汗がどっと出て来る。
三木は、|座《すわ》ろうともせず、高い|岩《いわ》の上に上って、先の方を|眺《なが》めていた。
――いよいよ|黄《たそ》|昏《がれ》が|迫《せま》っている。
空気がひんやりと|肌《はだ》に当って、ゆるやかに|流《なが》れて行った。少しすると、|汗《あせ》をかいた|背《せ》|中《なか》が|冷《つめ》たい。
三木が岩の上から|飛《と》び|降《お》りて来た。
「|身《み》|軽《がる》ですね」
と津田は言った。
「|今《こん》|度《ど》歩き出すときは、もう|懐中電灯《かいちゅうでんとう》がいりますね。足をくじいたりすると|困《こま》る」
「もう、どれくらい来たんですか」
「半分は、たぶん――」
と、言いかけて、三木は津田の顔を見た。
津田は、|探《さぐ》るように三木を見ながら、言った。
「知ってるんですね、『谷』の|場《ば》|所《しょ》を。でなきゃ、どれくらいかかるか、分らないでしょう」
三木は、ちょっと|表情《ひょうじょう》を|固《かた》くした。
「|地《ち》|図《ず》で見ただけですよ。山歩きは|慣《な》れてるから、|距《きょ》|離《り》も見当がつきます」
津田は、|敢《あ》えて、それ以上は言わなかった。何といっても、ここは三木が|頼《たよ》りである。
こんな|所《ところ》で|放《ほう》り出されたら、ただでさえ|方《ほう》|向《こう》|音《おん》|痴《ち》なのだ。|迷《まい》|子《ご》になるに|決《きま》っている。
しかし、三木がなぜ――いや、たとえ「谷」への道を知っているとしても、それをなぜ|隠《かく》すのか?
ただの思い|過《すご》しかな、と津田は思った。
「出かけますか」
と、三木は言った。
いくらか言い方が|素《そっ》|気《け》ない。
津田は|腰《こし》を上げた。
少し行く|内《うち》に、すっかり夜になっていた。|懐中電灯《かいちゅうでんとう》の光など、せいぜい足下と、目の前の三木の|背《せ》|中《なか》を|照《て》らすだけだ。
月が出ていない、|曇《くも》った夜だった。
三木は、明らかに道を|熟知《じゅくち》していた。ともかく、この|暗《くら》さの中で、|全《まった》く、迷うこともなく|進《すす》んで行くのだ。
ただ、|地《ち》|図《ず》を見ただけでは、こうは行かない。――しかし、津田も、くり|返《かえ》しては|訊《き》かなかった。
それに、やたらに石がゴロゴロしている道で、足をくじかないようにするのが|精《せい》|一《いっ》|杯《ぱい》だったのだ。
|異《い》|様《よう》な|静《しず》けさだった。――いくら山の中でも、鳥の|羽《は》|音《おと》や虫の声、風に|梢《こずえ》のこすれ合う音ぐらいはするものだが、津田の耳に|届《とど》くのは、自分たちの足音と|息《いき》づかいだけだった。
本当に、|怪《かい》|物《ぶつ》の|城《しろ》にでも|向《むか》ってるみたいだな、と思った。|十字架《じゅうじか》でも|持《も》ってくればよかった。
その|内《うち》、|狼《おおかみ》の|遠《とお》|吠《ぼ》えでも聞こえて来るかもしれない。
――|不《ふ》|意《い》に三木が足を止めた。
|周囲《しゅうい》が|開《ひら》けた、という気がした。風が|流《なが》れて来る。
「どうしたんですか」
と、津田は言った。
三木が何か言いかけたとき、雲が切れた。白い月光が、|周囲《しゅうい》をほの白く|浮《うか》び上らせる。
それは、まるで舞台にライトが当ったような、|鮮《あざ》やかな|効《こう》|果《か》だった。
広い|山《やま》|裾《すそ》へ出て来たらしい。周囲に、なだらかな|山《やま》|並《なみ》が見える。
「ここは……」
「あの町から山を一つ|越《こ》えたんですよ」
と、三木は言った。「ご|覧《らん》なさい」
「え?」
「あれが、『谷』です」
道は、そこから、ずっと下りになっていた。そして、その|奥《おく》に、山の|懐《ふところ》に、まるで|潜《もぐ》り|込《こ》むようにして、いくつかの家が目に入った。
「あれが……」
と、津田は、|息《いき》をついて言った。
まだ、|距《きょ》|離《り》はありそうだが、ともかく下り坂である。
三木は、津田の方へ、ちょっと|照《て》れたような顔を|向《む》けた。
「|黙《だま》っていて|申《もう》し|訳《わけ》ありません」
「何のことですか」
「|僕《ぼく》は、『谷』の|出身《しゅっしん》なんです」
津田は、|唖《あ》|然《ぜん》とした。三木は|続《つづ》けて、
「もちろん、このことは、小西さんも知りません」
と言った。
「つまり、あそこの生れ、というわけですか?」
「ええ。もっとも、十年以上前に、出てしまったんですがね。――そのころはまだそうひどくなかった……」
「よく道を|憶《おぼ》えていましたね」
「もちろんですよ。いつも通っていたんですから」
と、三木は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「あの谷にいるのは、みんな|一《いち》|族《ぞく》なんでしょう? つまりあなたも――」
「僕の場合はちょっと|特《とく》|別《べつ》でしてね。東京にいた両親が|事《じ》|故《こ》で|死《し》んで、ここへ引き|取《と》られたんです。いくらか|血《ち》のつながりはありますが」
三木は、ちょっと顔を|曇《くも》らせた。「中込依子さんが見たといった、|刺《さ》された女――大沢和子というのが、|僕《ぼく》の|叔《お》|母《ば》なんです」
「じゃ、あの多江という|娘《むすめ》も――」
「多江のことはよく知っています。妹のようなものだった。とても|我《が》|慢《まん》|強《づよ》い子でした」
三木は、谷の方へ目をやった。
「やっぱり、どうかしてしまったんだな」
と、三木は首を|振《ふ》った。「ご|覧《らん》なさい。一|軒《けん》の家にも、|灯《ひ》が見えないでしょう」
津田は、言われてみて、やっと気付いた。
「なるほど。――|誰《だれ》もいないのかな」
「分りません。行ってみましょう」
三木は歩き出して、|振《ふ》り|向《む》き、「|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
と|訊《き》いた。
「もちろん。そのために来たんですよ」
|正直《しょうじき》なところ、一人だったら、こんな夜にあの谷へ入って行く気にはなれなかっただろう。
――下り道は、|意《い》|外《がい》に|手《て》|間《ま》|取《ど》った。
三木は、いとも|軽《かる》|々《がる》と下りて行くが、津田の方は|膝《ひざ》がガクガクしそうで、ついて行くのに|必《ひっ》|死《し》だった。|却《かえ》って、|怖《こわ》さを|忘《わす》れられたのも|事《じ》|実《じつ》だが。
|平《へい》|地《ち》について、|息《いき》をつくと――もう、目の前に、家が|並《なら》んでいた。
古びた|家《か》|屋《おく》が、六|軒《けん》。どれもかなり古ぼけているが、|一《いち》|応《おう》しっかりした|造《つく》りだ。
|確《たし》かに、どの家も、明りを|消《け》して、ひっそりとしている。人がいるという|気《け》|配《はい》が|感《かん》じられないのだ。
三木は、少し前へ|進《すす》み出ると、
「|誰《だれ》かいないか!」
と声を上げた。
声が|周囲《しゅうい》の|静寂《せいじゃく》へと広がって行く。――しかし、|反《はん》|応《のう》はなかった。
「いたら|返《へん》|事《じ》をしてくれ!――誰かいないのか!」
三木は、しばらく|待《ま》って、それから首を|振《ふ》った。
「|誰《だれ》もいないようですね」
と、津田は言った。
「何があったのか……。家の中へ入ってみましょう」
三木は一|軒《けん》の家へと歩いて行った。「ここで|僕《ぼく》はしばらく|暮《くら》していたんです。――大沢和子という|叔《お》|母《ば》の家でした」
|玄《げん》|関《かん》の|戸《と》を|叩《たた》く。もちろん、|返《へん》|事《じ》はなかった。
「――|戸《と》が|開《あ》きますよ」
と、三木が言って、ガラリと開けた。「|戸《と》|締《じま》りもしていない。どうかしてる」
三木の|姿《すがた》が中に|消《き》えた。
津田は、何だか、|真《まっ》|暗《くら》な家の中に入って行くのも気がひけて、|表《おもて》に立っていた。
――たった六軒の家。
ここに三十人ほどの人間が|住《す》んでいた。
そして今は?――どこに行ってしまったんだろう?
家の中で、チラチラと三木の|懐中電灯《かいちゅうでんとう》の光が|動《うご》いている。
依子の話で、この谷の住人たちに、何か|恐《おそ》ろしいことが|起《おこ》ったらしいことは分る。しかし、それがどんなことなのか、とても津田の|想像力《そうぞうりょく》では思い|及《およ》ばなかった。
栗原多江という|娘《むすめ》は、どうしたのだろう?
――三木が、この谷の人間だったというのは、津田にもショックだった。
依子の話を、三木はどんな思いで聞いていたのだろう?
――なぜ、|気《き》|付《づ》かなかったのか、津田にもよく分らなかった。
ともかく、いつの間にか、左右に男が立っていたのである。それぞれ一人ずつ、しかも、|上《うわ》|背《ぜい》のある、|大《おお》|柄《がら》な男だった。
|予《よ》|想《そう》していた|危《き》|険《けん》でも、いざ目前に|迫《せま》って来ると、なかなか|実《じっ》|感《かん》できない。
男たちがゆっくりと近付いて来て、津田は|初《はじ》めてゾッとした。
「三木さん!」
と、|開《ひら》いたままの|玄《げん》|関《かん》へ|飛《と》び|込《こ》む。「来て下さい! |変《へん》な男たちが――」
だが、その先を言うひまはなかった。
目の前に|誰《だれ》かが出て来る。三木だと思った。――とたんに津田は、|腹《はら》を|殴《なぐ》られて、体を|折《お》った。
体が|重《おも》くなる。そして、|床《ゆか》に|倒《たお》れて――津田は気を|失《うしな》っていた。
20 白い|影《かげ》を|追《お》う
何かが|起《おこ》りそうだ。
小西には、そんな|予《よ》|感《かん》があった。
小西は、|刑《けい》|事《じ》の|勘《かん》というものを、あまり|信《しん》じない。その点では、|珍《めずら》しい|存《そん》|在《ざい》だった。
たいていのベテラン刑事は、まず、|直感的《ちょっかんてき》に|犯《はん》|人《にん》の|目《め》|星《ぼし》をつけ、|証拠《しょうこ》を当てはめて行こうとする。
小西は、むしろ|逆《ぎゃく》だった。直感的に、|怪《あや》しいと思う人間がいたら、それ|以《い》|外《がい》の人間に、むしろ目を|配《くば》るようにする。
それで、ちょうどバランスが取れるのである。
しかし、|確《たし》かに勘というものはある。それは小西も分っていたし、|否《ひ》|定《てい》してはいなかった。ただ、|犯《はん》|人《にん》を|挙《あ》げるときには、それはむしろ|邪《じゃ》|魔《ま》になるのだ。
――何か|起《おこ》るかもしれない。
こういう|直感《ちょっかん》は、たとえ|外《はず》れても、大した|害《がい》はない。当れば、その「何か」を|防《ふせ》ぐことができるかもしれない。
「今夜、ここへ|泊《とま》り込む|許《きょ》|可《か》をもらいましたよ」
|病院《びょういん》の中にある、お|世《せ》|辞《じ》にもうまいとは言えない|食堂《しょくどう》でカレーライスを食べながら、小西は言った。
|一《いっ》|緒《しょ》にいるのは、古川|医《い》|師《し》である。
こちらはコーヒーだけ。
「ほう? すると|寝《ね》ずの番か」
「いや、寝ますがね」
小西はとぼけた顔で言った。「しかし、|万《まん》|一《いち》のとき、すぐに|対《たい》|処《しょ》できます」
古川は、ちょっと|周囲《しゅうい》へ目をやって、
「目立たんようにすることだな」
と言った。
「|心得《こころえ》てますよ」
「|患《かん》|者《じゃ》ってのは、ともかく|勘《かん》が|鋭《するど》いもんだからな。あんたが|刑《けい》|事《じ》だってことは、すぐに|見《み》|破《やぶ》ってしまうだろう」
「おとなしく、引っ|込《こ》んでましょう」
小西は|素《す》|直《なお》に言った。
「――また何かありそうかね」
「何とも。しかし……」
「しかし?」
「そんな気がするんです」
「|根《こん》|拠《きょ》はないのか」
「|確《かく》たるものはありません」
と、小西は首を|振《ふ》った。「しかし、どうも、|状況《じょうきょう》から見て、|犯《はん》|人《にん》が|病院《びょういん》から外へ出ているとは考えにくいんです」
「なるほど」
古川は|肯《うなず》いて、「病院|側《がわ》でも、人を出すのか?」
「これは|我《われ》|々《われ》だけでやります」
小西はきっぱりと言った。
「しかし、犯人がそう|続《つづ》けてやるかな」
「分りません。しかし、|可《か》|能《のう》|性《せい》はあります。ともかく、外へ出て|殺《さつ》|人《じん》を|犯《おか》し、|病院《びょういん》へ|戻《もど》って来るとすると、|必《かなら》ず|途中《とちゅう》で|見《み》|付《つ》かっているはずです。――|犯《はん》|人《にん》が病院の中の人間だったら、外へ出られず、きっと|苛《いら》|立《だ》っているでしょう」
「分った。――しかし、気を|付《つ》けろよ。|相《あい》|手《て》もなかなか|手《て》|強《ごわ》い」
「|寝《ね》|首《くび》をかかれないようにしますよ」
と、小西は言って|笑《わら》った。
しかし、|内《ない》|心《しん》、小西はヒヤリとしていたのだ。
|眠《ねむ》っている間に|迫《せま》って来る白い|影《かげ》、そして|剃《かみ》|刀《そり》の|刃《は》が、自分の|喉《のど》を切り|裂《さ》く……。
そんなことも、もちろんあるのかもしれない。
「コーヒーを」
と、小西は|急《いそ》いで|注文《ちゅうもん》していた。
眠気は|遠《えん》|慮《りょ》なくやって来た。
小西は、|当直室《とうちょくしつ》の|隅《すみ》で、|椅《い》|子《す》にかけていたが、午前二時ごろになると、さすがに|瞼《まぶた》がくっついて来る。
|張《は》り|込《こ》みとはちょっと|違《ちが》うので、|緊張感《きんちょうかん》がないのである。
「コーヒーでもいかがですか」
と、|若《わか》い|当直《とうちょく》の|医《い》|師《し》が声をかけてくれる。
「こいつはどうも」
小西はたち上って、|伸《の》びをした。
「|大《たい》|変《へん》ですね」
「いや、どうせむだ|骨《ぼね》だとは分ってるんだが――」
あまり、|医《い》|師《し》や|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》たちに、|不《ふ》|安《あん》を|与《あた》えてはいけない、と小西は思っていた。
「さあ、どうぞ。インスタントですけどね」
と、医師は、紙コップを小西へ|手《て》|渡《わた》して、言った。
「|隠《かく》すことはありませんよ」
「どうも。――隠す、というと?」
「この病院の中に、|殺《さつ》|人《じん》|鬼《き》がいる、ってことです」
小西は、びっくりして医師を見た。
「どこでそんな話を?」
「みんな話していますよ」
と、|医《い》|師《し》は|肩《かた》をすくめて、「今夜は、|患《かん》|者《じゃ》がなかなか|寝《ね》つかなくて|大《たい》|変《へん》でした」
「知らなかったな、それは……」
「患者は、考えたり、|想《そう》|像《ぞう》したりするしか、|仕《し》|事《ごと》がありませんからね」
小西は、|熱《あつ》いコーヒーをゆっくりとすすった。
「――どうなんです」
と、医師が言った。「|正直《しょうじき》なところ、目星はついてるんですか」
小西は首を|振《ふ》った。
「さっぱりですね。――|万《まん》が一、というだけですよ」
あまり、この|若《わか》い医師と話しても|意《い》|味《み》はない。しかし、少なくとも、小西にとって、|眠《ねむ》|気《け》を|防《ふせ》ぐ|効《こう》|果《か》はあった。
小西は、|一《いち》|応《おう》、話しても|構《かま》わない|程《てい》|度《ど》のことを、医師に|説《せつ》|明《めい》してやった。
「|面《おも》|白《しろ》いですね」
「それはちょっと――」
小西は|苦笑《くしょう》した。
「いや、|病院《びょういん》の中では、〈|死《し》〉は|日常《にちじょう》の|出《で》|来《き》|事《ごと》です。でも、これはちょっと|違《ちが》う。いわば、〈|死《しに》|神《がみ》〉がこの病院の中を歩き回っているというわけですね」
「死神か。まあ、そうかもしれませんな」
小西は|肯《うなず》いた。「――いや、コーヒーをありがとう」
|医《い》|師《し》は、ちょっと|廊《ろう》|下《か》の方へ目をやって、
「もし|僕《ぼく》なら……」
と言った。
「何です?」
「いや、もし僕がその|犯《はん》|人《にん》だったら、どこへ|隠《かく》れるかな、と思ってね」
「中は|捜《そう》|索《さく》|済《ず》みです」
「|霊《れい》|安《あん》|室《しつ》も?」
小西は、ちょっと間を|置《お》いて、
「もちろんですよ」
と言った。
「しかし、その間は|他《ほか》の|所《ところ》へ|隠《かく》れていて、|調《しら》べ|終《おわ》った後、|死《し》|体《たい》のふりをして|寝《ね》ていれば、|見《み》|逃《のが》すかもしれませんよ」
「なるほど」
「死体の顔にかけた白い|布《ぬの》を|取《と》ってみるというのは、なかなかできないことですからね」
小西は、しばらく|黙《だま》っていた。
まさか、とは思うが、しかし……。
いいさ、どうせ、ここにいてもウトウトしてしまうのだ。
「どうです、先生」
と小西は立ち上って、言った。「|霊《れい》|安《あん》|室《しつ》を見に行きますか」
「いいですよ。――こちらも|実《じつ》のところ、|眠《ねむ》かったんです」
「|寝《ね》|不《ぶ》|足《そく》で?」
「大きな|手術《しゅじゅつ》があったのでね」
二人は|廊《ろう》|下《か》へ出た。「――もっとも、|眠《ねむ》いのは、その後、ポーカーをやり|過《す》ぎたせいかな」
小西は、ちょっと|笑《わら》った。
地下へと、|階《かい》|段《だん》を|降《お》りて行く。つい、足音すら、気をつかってしまうのだった。
「――今、|誰《だれ》か|霊《れい》|安《あん》|室《しつ》に?」
「いや、今日はないはずです」
と、|医《い》|師《し》は言った。
階段を降り切ったとき、ヒョイと|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》が|現《あら》われて、小西は、思わず声を上げそうになった。
「キャッ!」
と、向うもびっくりした|様《よう》|子《す》。「――先生ですか」
と、|息《いき》をつく。
「何をしてるんだい?」
「|毛《もう》|布《ふ》を|取《と》りに。――どこへ行かれるんですか?」
「霊安室だよ」
「まあ、|肝《きも》だめしですか」
と、看護婦は笑った。
「|誰《だれ》もいなきゃ、どうってことはないさ」
「あら、でも……」
小西は、足を止めた。
「誰かいるんですか?」
「たぶん」
|医《い》|師《し》と小西は顔を見合わせた。
「――見たのかい?」
「ちょっと|覗《のぞ》いたんです。そしたら……。見たような気がしますけど」
「しかし、今日、|亡《な》くなった人はいないだろう?」
「|私《わたし》は|存《ぞん》じません。私の来る前かと思ってましたけど……」
「行ってみましょう」
と、小西が|促《うなが》した。
二人は、ちょっと|薄《うす》|暗《ぐら》い|廊《ろう》|下《か》を|進《すす》んで行った。まさか、と思ったことが|事《じ》|実《じつ》になることもある。
「ここです」
医師が、ドアに手をかけて、ためらった。
小西が代って、ドアを一気に|開《あ》けた。
|安《あん》|置《ち》する台の上は、|空《から》だった。
「|誰《だれ》もいないよ」
と、|医《い》|師《し》が、ホッとしたように、言った。
「あら、おかしい」
と、|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》もやって来る。「――|変《へん》ですね。気のせいかしら?」
小西は、ふと、顔を引きしめた。足早に、台の方へ歩いて行くと、かがみ込んで、
「どうやら、|確《たし》かなようですね」
と言いながら、|拾《ひろ》い上げたものを、医師へ見せた。
白い|布《ぬの》が、|床《ゆか》に|落《お》ちていたのだ。
「誰かが、|死《し》|体《たい》のふりをして、ここにいたんだ」
小西は、きびきびした|足《あし》|取《ど》りに|戻《もど》っていた。|廊《ろう》|下《か》へ出て、|階《かい》|段《だん》へと急ぐ。
|一《いっ》|刻《こく》も早く、|警《けい》|官《かん》たちを、|警《けい》|戒《かい》|態《たい》|勢《せい》にしておかなくてはならない。
階段を上り切ったとき、廊下の|奥《おく》から、|鋭《するど》い|悲《ひ》|鳴《めい》が聞こえて来た。
小西は、|一瞬《いっしゅん》、|身《み》|動《うご》きできなかった。
|起《おこ》ってほしくないことが起ったとき、つい、|信《しん》じることを|拒《こば》んでしまうのだ。
|廊《ろう》|下《か》を、|誰《だれ》かが走って来る。
「|助《たす》けて! 誰か!」
|若《わか》い|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》だった。小西は、やっと|我《われ》に|返《かえ》った。
「どうした!」
と、|駆《か》け|寄《よ》る。
「誰かが、あの|病室《びょうしつ》に――。音がするので|覗《のぞ》いたら、いきなり|飛《と》びかかって来て――」
「分った。どの|部《へ》|屋《や》だ?」
「二番目の――」
小西は|駆《か》け出した。|無《む》|意《い》|識《しき》に、|拳銃《けんじゅう》を|抜《ぬ》いている。
まさか、|病院《びょういん》の中で|発《はっ》|砲《ぽう》するわけにはいかない。しかし、少なくとも|相《あい》|手《て》がひるむ|効《こう》|果《か》はあるだろう。
ドアが少し|開《ひら》いていた。小西は|一《いっ》|旦《たん》足を止め、それから一気にドアを|開《あ》けて、中へ入った。
|身《み》を|低《ひく》くして、|攻《こう》|撃《げき》に備える。――しかし、何の|反《はん》|応《のう》もなかった。
小西は、左手で|壁《かべ》を|探《さぐ》って、明りを|点《つ》けた。白い|病室《びょうしつ》が、まぶしい光の中に|浮《うか》び上る。
だが――|誰《だれ》もいなかった。
人が|隠《かく》れるほどの|場《ば》|所《しょ》はない。小西は、|窓《まど》の方へと|駆《か》け|寄《よ》った。
開けた|形《けい》|跡《せき》はなかった。
ズズッと、|床《ゆか》に、何かがこすれる音がした。――しまった、と思った。
ベッドの下にいたのだ!
小西は|振《ふ》り|向《む》いた。床へ|這《は》い出した、その女[#「その女」に傍点]の右手が、|横《よこ》へ、|払《はら》うように|動《うご》くと、小西は、左足首に、|鋭《するど》い|痛《いた》みを|覚《おぼ》えて、よろけた。
窓へ、もたれかかりながら、小西は、左足を|刃《は》|物《もの》で切られたのだと知った。
|傷《きず》は|深《ふか》いようだ、と|直感的《ちょっかんてき》に思った。|血《ち》が|噴《ふ》き出すように|流《なが》れ出る。
小西は、|床《ゆか》に|崩《くず》れるように|倒《たお》れた。
女が、立ち上った。――白いガウンが、赤黒く|汚《よご》れている。
「そうか!」
と、小西は叫んだ。「やっぱり、|君《きみ》か!」
中込依子だった。
|剃《かみ》|刀《そり》を手にして立っているのは、中込依子だった。――しかし、その女は、依子であって、また依子ではなかった。
目に、じっとすわった|狂気《きょうき》がある。――まるで|熱《ねつ》に|浮《う》かされているようだ。
|一《いっ》|種《しゅ》の|夢遊状態《むゆうじょうたい》なのだ、と小西は思った。おそらく、|彼《かの》|女《じょ》|自《じ》|身《しん》、何も知るまい。
依子が、|剃《かみ》|刀《そり》を|振《ふ》りかざした。
「やめなさい!」
と、小西は|叫《さけ》んだ。「やめるんだ!」
|苦《く》|痛《つう》が|襲《おそ》って来た。|激《はげ》しい|痛《いた》みで、気が遠くなりそうになる。
「やめなさい!」
と、小西はくり|返《かえ》した。
|拳銃《けんじゅう》は、まだ|握《にぎ》っていた。|銃口《じゅうこう》を依子へ|向《む》ける。
「やめろ!」
依子が目を|見《み》|開《ひら》いて、小西の上に――。
引金を引く。
銃口が下を向いていたのは、|故《こ》|意《い》か|偶《ぐう》|然《ぜん》か、小西にもよく分らなかった。
|銃弾《じゅうだん》は、依子の右足のふくらはぎをかすめて|飛《と》んだ。依子が、アッ、と声を上げた。
|銀《ぎん》|色《いろ》の|刃《は》が手から|床《ゆか》に|落《お》ちる。
依子は、足を|押《おさ》えて、うめいた。――しかし、|倒《たお》れなかった。
ドアの方へ|向《むか》って、よろけながら歩き出す。その前に、|警《けい》|官《かん》が立ちはだかった。
「|取《と》り押えろ!」
と、小西は|怒《ど》|鳴《な》った。「|逃《にが》すな!」
小西は|起《お》き上ろうとして、左足の|痛《いた》みに|堪《た》え切れなかった。
もう一度|倒《たお》れながら、
「|手《て》|荒《あら》にするな――」
と、言っていた。
そして、小西は気を|失《うしな》ってしまった……。
21 |恐怖《きょうふ》の|記《き》|憶《おく》
「――気が|付《つ》いたか」
と、言ったのは、古川|医《い》|師《し》だった。
小西は、目を|何《なん》|度《ど》も、|開《あ》けたり|閉《と》じたりした。――|病院《びょういん》のベッドに寝ているのだ。
「|参《まい》ったな。――今、何時ですか」
と、小西は|訊《き》いた。
「十一時だ。昼間のね」
小西は、|軽《かる》く頭を|振《ふ》った。
「ひどいですか、|傷《きず》は?」
「切り傷だからな。|無《む》|理《り》に|動《うご》かさんことだ」
「|違《ちが》います。|彼《かの》|女《じょ》の方ですよ」
と、小西は|苛《いら》|立《だ》つような|口調《くちょう》で、言った。
「ああ、そうか。――|向《むこ》うはもっと軽い。かすり傷だ」
「それは|良《よ》かった」
小西はホッと|息《いき》をついた。
古川は|笑《わら》って、
「|君《きみ》は|変《かわ》ってるよ」
と言った。「まあ|一週間《いっしゅうかん》は|安《あん》|静《せい》だな」
「とんでもない!」
小西は|起《お》き上って、顔をしかめた。
「そら! |傷《きず》|口《ぐち》が|開《ひら》くぞ。どうしても|動《うご》くのなら、|車椅子《くるまいす》だ」
「|押《お》して下さい」
「|図《ずう》|々《ずう》しい|奴《やつ》だ。|部《ぶ》|下《か》に押させろ」
「分りました。一人、|呼《よ》んで下さい」
「君は、しばらく休まんといかん」
「そうはいきません。|謎《なぞ》を|解《と》かなくては」
小西は、古川の方を見て、「|彼《かの》|女《じょ》は、|憶《おぼ》えてますか」
と|訊《き》いた。
「|君《きみ》を|傷《きず》つけたことか? いや、まるで|憶《おぼ》えとらんらしい。自分のけがの|原《げん》|因《いん》も、よく分らないんだ」
「それでいいんです」
小西は|肯《うなず》いた。「|黙《だま》っていて下さい」
「|奇妙《きみょう》な話だな、しかし……」
「|一《いっ》|種《しゅ》の|催《さい》|眠《みん》状態でしょう。何かのきっかけで、|起《お》き出す……」
「|厄《やっ》|介《かい》なものだ」
「しかし、もう分ったんですから、後は|彼《かの》|女《じょ》を|見《み》|張《は》ればいいんです。すみませんが|車椅子《くるまいす》を――」
「どうしても、か?」
「もちろん」
小西は、もう、いつもの小西に|戻《もど》っていた。「それから、|服《ふく》の|着《き》|替《が》えを持って来させなくては」
と言って、|軽《かる》く|息《いき》をついた。
依子は、小西を見て、びっくりしたように、目を|見《み》|開《ひら》いた。
「どうしたんですか?」
「いや、ちょっと、ドジをやって――」
小西は、|車椅子《くるまいす》を|操《あやつ》って、依子のベッドのわきへ来た。
「足を?」
「|軽《かる》いけがですよ」
と、小西は言った。
依子は、いくらか青ざめていたが、|正常《せいじょう》な|様《よう》|子《す》に|戻《もど》っていた。
「でも、|変《へん》ですわ」
「何がです?」
「私も、足をけがしたんです。ゆうべ、|全《ぜん》|然《ぜん》|記《き》|憶《おく》にないんですけど」
「なるほど」
小西は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「それは|面《おも》|白《しろ》い。私たちは、何か|特《とく》|別《べつ》な|縁《えん》があるのかもしれませんよ!」
依子も笑顔になった。
本当は、小西としては、とても笑う気分ではなかったのだ。
こうして|座《すわ》っていても、|傷《きず》はズキズキ|痛《いた》んだし、それに、自分が人を|殺《ころ》したと知ったとき、依子がどうなるか、それを考えると気が|重《おも》かったのである。
「ところで、話の|続《つづ》きをうかがわせて下さい」
と、小西は言った。
「はい。――どこまで話しましたっけ」
「学校の金を|使《つか》いこんだ水谷が、|他《た》|殺《さつ》|死《し》|体《たい》で|発《はっ》|見《けん》されたところでした」
「ああ、そうでしたわね。――あのとき、私は――」
と言いかけて、依子はふと、「津田さんはどうしました?」
と|訊《き》いた。
「|急用《きゅうよう》で、東京へ|戻《もど》りました」
「そうですか……」
「また、すぐここへ来ると言っていましたよ」
依子は、|軽《かる》く、|心細《こころぼそ》げに、|肯《うなず》いた……。
水谷の|死《し》の後、依子は|大《たい》|変《へん》な|忙《いそが》しさになってしまった。
|当《とう》|然《ぜん》、本校から来ると思っていた|教師《きょうし》が、|都《つ》|合《ごう》がつかなくて、来られなくなったのだ。
本校へ電話して、校長に|直接《ちょくせつ》話をしてみたのだが、
「今は、人手がね」
と、くり|返《かえ》して、「当分、あなた一人で何とか|頑《がん》|張《ば》って下さい」
というわけである。
二人分、|月給《げっきゅう》をくれるわけでもないのに、と、依子は|腹《はら》が立った。
しかし、|子《こ》|供《ども》たちは毎日学校へやって来るのだ。それを|放《ほう》り出しておくわけにもいかない。
依子は、|必《ひっ》|死《し》でやりくりして、|授業《じゅぎょう》を午前と午後に分け、何とかこなすようにした。
もちろん、|事《じ》|件《けん》のことも気になるが、やはり、まず教師としての、|任《にん》|務《む》を|果《はた》さなくてはならない。
|一週間《いっしゅうかん》が、たちまち|過《す》ぎて行った。
田代|刑《けい》|事《じ》のこと、多江のことなど、時々、|心《しん》|配《ぱい》にはなったのだが、一日は二十四時間しかなく、しかも、|眠《ねむ》る時間と|食事《しょくじ》の時間|以《い》|外《がい》は、ほとんど|働《はたら》きづめだった。
これでは、どうすることもできない。
やっと土曜日が来て――それでも、午後まで|授業《じゅぎょう》をしたので、|一《ひと》|息《いき》ついたのは、もう夕方だった。
|職員室《しょくいんしつ》で|寛《くつろ》いでいると、河村が顔を出した。
「先生、|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
と、やって来る。
「河村さん」
「先生が|倒《たお》れちまうんじゃないかと、みんな心配してますよ」
「ありがとうございます。でも、これくらいのことでは、へこたれませんわ」
と、依子は言った。
「いや、大したもんですな」
と、河村は|笑《わら》って、「|警《けい》|官《かん》になったら、先生はきっと今ごろ|警《けい》|部《ぶ》さんだ」
「そういえば――」
と、依子は言った。「水谷先生を|殺《ころ》した|犯《はん》|人《にん》の方は?」
「ええ、|実《じつ》は|昨日《きのう》、|県《けん》|警《けい》の方とも話をしたんですがね」
と河村は言った。「ちょっと、|怪《あや》しいのがいるんです」
「まあ」
「先生、いつか町へ行くバスで|一《いっ》|緒《しょ》だった|娘《むすめ》がいたでしょう」
「娘……」
「栗原多江という娘です」
依子は、|動《どう》|揺《よう》を|悟《さと》られないように、|苦《く》|労《ろう》した。
「そんな名前でしたね」
「どうもあの娘が怪しいということでしてね……」
「まさか」
と、つい、依子は言っていた。「だって――あんな|殺《ころ》し方、女の子にできると思われますか?」
「分りません」
と、河村は|肩《かた》をすくめた。「しかし、|不《ふ》|可《か》|能《のう》ではありませんよ。|鋭《するど》い|刃《は》|物《もの》ならね」
「何か|理《り》|由《ゆう》が?――|動《どう》|機《き》があるんでしょうか」
「あの|娘《むすめ》は、この学校に、|恨《うら》みを|持《も》っているんですよ。|教師《きょうし》にも、|当《とう》|然《ぜん》ね」
「でも、殺すなんて……」
「何とも言えませんな」
河村は首を|振《ふ》った。「ともかく、|一《いち》|応《おう》、あの娘に目をつけているようです」
多江に。――多江に水谷殺しの|容《よう》|疑《ぎ》がかかっている!
もちろん、依子は|信《しん》じなかった。
多江が、そんなことをやる理由はない。
しかし、河村の話で、県警が、|彼《かの》|女《じょ》を|取《と》り|調《しら》べることは、|充分《じゅうぶん》に考えられる。
そうなったら、多江は、|無《む》|理《り》に、|犯《はん》|人《にん》にされてしまうかもしれない。
多江は知っているのだろうか?
「――先生も、明日はゆっくりと休まれた方がいいですよ」
と河村は言って、「では、これで」
と、|丁《てい》|寧《ねい》に頭を下げ、出て行った。
――何をしに来たのだろう?
依子は首をかしげた。
多江が、|疑《うたが》われていることを、なぜわざわざ、依子に知らせたのか?
依子は時計を見た。――これから、多江の|働《はたら》く店まで行く時間はあるだろうか?
|放《ほう》っておくわけにはいかない。
依子は|急《いそ》いで、|机《つくえ》の上を|片《かた》|付《づ》けた。
学校を出る依子を、ずっと|遅《おく》れてつけている|人《ひと》|影《かげ》があった……。
22 |危《き》|険《けん》な|叫《さけ》び
依子が、多江の|働《はたら》いているレストランに|着《つ》いたのは、もうすっかり夜になってからのことだった。
「――多江さん? 今日は来てないんだよね」
と、話を|聞《き》いて、店の|主《しゅ》|人《じん》は首を|振《ふ》った。
「お休みですか」
「いや、電話もない。|珍《めずら》しいことなんでね、|心《しん》|配《ぱい》してたんだ」
「そうですか」
依子は、がっかりした。同時に、|不《ふ》|安《あん》にもなる。
多江の|身《み》に、何か|起《おこ》ったのではないか。
しかし、河村は、まだ多江を|逮《たい》|捕《ほ》するようなことは言っていなかった。
ただ、何か多江に|急用《きゅうよう》ができたのならいいが、河村が、わざわざ、あんなことを言いに来たのが、依子には気になっていたのである。
何かあるのだ。――何か。
|偶《ぐう》|然《ぜん》と考えるのは|不《ふ》|自《し》|然《ぜん》だ。
依子は、レストランを出た。どこへ行こうか? といって、あの町へこのまま|戻《もど》るのは――。
「そうだわ!」
と、依子は|呟《つぶや》いた。
この町にいる、多江の|恋《こい》|人《びと》。あそこへ行けば、何か分るのではないか。
でも――どう行くんだったかしら?
依子は、あのアパートを|捜《さが》して行けるかどうか、|自《じ》|信《しん》がなかった。
しかし、やってみるしかない!
ともかく、まずバス|停《てい》に行った。そこから|出発《しゅっぱつ》する。
ともかく、この前は、ずっと多江の後を|尾《つ》けて行ったのだ。道を|憶《おぼ》える|余《よ》|裕《ゆう》などなかった。
|案《あん》の|定《じょう》、たちまち依子は道に|迷《まよ》ってしまった。右も左も分らない町である。
しかし、ともかく、道を|訊《き》くにも、|目《もく》|的《てき》|地《ち》の|住所《じゅうしょ》もアパートの名前も分らないのだ。どうしようもない。
ただ、|捜《さが》し歩くしかないのだ。たまたま、うまく、|目《め》|指《ざ》す|場《ば》|所《しょ》へ出ることを|祈《いの》って……。
――|幸《こう》|運《うん》の|女《め》|神《がみ》が|微《ほほ》|笑《え》んでくれたのは、一時間たってからのことだった。
依子はもうヘトヘトに|疲《つか》れていた。――歩くこと、そのことは大して|苦《く》|労《ろう》ではない。しかし、いつになったら、そこへ|辿《たど》りつくのか分らずに歩いているというのは、|辛《つら》いことだった。
それでも――ヒョイ、とそこへ出たときは、ポカンとしてしまった。
どう考えても、今の道を三回は通ったような気がするのである。でも、|確《たし》かに、ここへ出たのは|初《はじ》めてだ……。
ともかく、|着《つ》いたのだ!
|部《へ》|屋《や》には|表札《ひょうさつ》も出ていなかった。きっと、|面《めん》|倒《どう》くさがって、出していないのだろう。
依子はちょっとドアの前で、|呼吸《こきゅう》を|鎮《しず》めてから、ブザーを|鳴《な》らした。
――|誰《だれ》も出て来ない。|返《へん》|事《じ》もない。
ブザーを、二度、三度と、くり返し|押《お》してみる。――しばらく|待《ま》ったが、何の|応《おう》|答《とう》もなかった。
出かけているらしい。もしかすると、どこかで多江と会っているのかもしれない。
それならそれでいいのだが……。
ここで待っていようか?
ただ、どことなく、おかしかった。
部屋の明りは|点《つ》いている。|窓《まど》が、明るくなっているのだ。しかし、耳を|澄《す》ましてみても、人のいる|気《け》|配《はい》がない。
十五分ほど、|表《おもて》に立っていたが、|一《いっ》|向《こう》に|戻《もど》って来る気配はなかった。どうしたものか、依子は|迷《まよ》った。
せっかく|捜《さが》し当てたのに、帰る気にはなれない。それに、明りが点いているのだから、|戻《もど》って来るだろう。
そして――何気なく、依子は、ドアのノブを回してみた。ドアが|開《あ》いて来る。
ずいぶん|無《ぶ》|用《よう》|心《じん》なことだ、と思った。
開けっ|放《ぱな》しで、こんなに長い間、|留《る》|守《す》にするなんて……。
何だか、おかしい、と思った。
「いますか」
と、小さな声で言って、中を|覗《のぞ》き込んだ。「あの――|誰《だれ》か――」
|玄《げん》|関《かん》へ、一歩入る。
「ええと……。あの――誰かいます?」
依子は、そう声をかけて、|部《へ》|屋《や》の中を|覗《のぞ》き込んだ。
首を|伸《の》ばして、|奥《おく》を見たとき、それ[#「それ」に傍点]が目に入った。
ギョロリと|白《しろ》|眼《め》をむいた男の|死《し》|体《たい》、首に、|細《ほそ》い|紐《ひも》が|巻《ま》きついている。
依子は、しばらく、それがTVの|映《えい》|像《ぞう》か何かで、時間がたてば|消《き》えてしまうのではないかと思って、立っていた。
いや、|実《じっ》|際《さい》には、何も考えずに、立っていたのだ。――どれくらい?
一時間か、一分か、それも|定《さだ》かではなかった。
あの多江の|恋《こい》|人《びと》に|違《ちが》いない。しかし、なぜ、|誰《だれ》に|殺《ころ》されたのだろう?
いや、そんなことは後で考えればいいのだ。
今は――この|場《ば》でどうしたらいいか、それを考えるのが|先《せん》|決《けつ》である。
「|落《お》ちついて。しっかりして」
と、口に出して|呟《つぶや》く。
あまりに思いがけないことに出くわしたとき、いつも依子はこうするのだった。
ともかく、このまま|放《ほう》っては行けない。
しかし、ここで|警《けい》|察《さつ》へ|連《れん》|絡《らく》したら、しばらくはあれこれ|訊《き》かれて、引き止められるだろう。それに、ここへなぜ来たのか、そこから|説《せつ》|明《めい》しなくてはならない。
それは|容《よう》|易《い》なことではなかった。
そうだ。――それに、もしかすると、多江に|容《よう》|疑《ぎ》がかかることも考えられる。
ここは、|一《いっ》|旦《たん》引き上げるしかない。
そう|決《き》めると、後は|割《わり》|合《あい》に考えがまとまった。ともかく、まずハンカチで、手の|触《ふ》れた|所《ところ》の|指《し》|紋《もん》をふき|取《と》る。
ドアのノブも、である。――|重要《じゅうよう》な|証拠《しょうこ》を|消《け》してしまったのかもしれないが、|仕《し》|方《かた》あるまい。
外へ出て、アパートの名前を|憶《おぼ》え|込《こ》んだ。
もちろん、|周囲《しゅうい》に人のいる|気《け》|配《はい》はなかった。
依子は歩き出した。
大方の|見《けん》|当《とう》で歩いて行ったのだが、|今《こん》|度《ど》はスンナリとバス|停《てい》に|着《つ》いた。
依子は、|公衆《こうしゅう》電話で一一〇番へかけ、アパートの名前を言って、
「そこの二|号《ごう》|室《しつ》に、|死《し》|体《たい》があります。よろしく」
とだけ言って、切った。
|向《むこ》うは、さぞかしキョトンとしていることだろう。
依子は、バス|停《てい》に行って、何食わぬ顔でバスを|待《ま》っていた……。
|戻《もど》るバスの中で、依子は、やっと|事《じ》|態《たい》を|検《けん》|討《とう》し|始《はじ》めた。
あの男は、なぜ|殺《ころ》されたのか?
多江の行方を知っていると思われたのかもしれない。少なくとも、この|時《じ》|期《き》に殺されたというのは、|偶《ぐう》|然《ぜん》ではないのではないか。
何か|関《かん》|連《れん》があるのだ。――おそらく。
水谷が殺され、多江に|疑《うたが》いがかかる。
そして、多江の|恋《こい》|人《びと》が殺された。
――多江がやるはずはない。しかし、多江はどこにいるのだろう?
バスを|降《お》りて、|暗《くら》い道を歩くのも、大分|慣《な》れた。
もちろん、|危《き》|険《けん》を|感《かん》じないわけではないが、少し|開《ひら》き|直《なお》って来ているのである。
学校に、明りが見えるのに|気《き》|付《づ》いて、依子は|緊張《きんちょう》した。水谷がいない今、学校へ夜来ているような人間がいるはずはない。
もしや。――多江ではないか、と思った。
依子は、少々|無《む》|鉄《てっ》|砲《ぽう》だとは分っていたが、一人で、足音を|忍《しの》ばせるでもなく、|校《こう》|舎《しゃ》の中へ入って行った。
明りは|職員室《しょくいんしつ》だ。――依子は、|廊《ろう》|下《か》に立って、声をかけた。
「|誰《だれ》なの?」
自分が明りを|消《け》し|忘《わす》れたことはない。
ここを出るときは、いつもしつこいぐらい、|確《たし》かめている。
職員室の中へ入る。――依子の|机《つくえ》の明りが点いていた。
「誰かいるの?」
と、もう|一《いち》|度《ど》言った。
そのとき、いきなり、後ろから手が|伸《の》びて来た。
ぐい、と依子の|肩《かた》をつかむ。依子は、思わず、
「キャッ!」
と、声を上げた。
「先生、|危《あぶ》ないですよ」
河村だった。「こんな時間に、何をしてるんです?」
依子は、何とか|平《へい》|静《せい》を|装《よそお》った。
「どうも……。明りが見えたので」
と、|机《つくえ》の方を手で|指《さ》した。「河村さんが点けたんですの?」
「いいえ。|私《わたし》は今、来たところですよ」
「おかしいわ」
と、依子は首をかしげた。「じゃ、|誰《だれ》がつけたのかしら」
「先生、点けたままにしておいたんじゃありませんか?」
「いいえ。でも――」
依子はちょっとためらって、「そうかもしれませんね」
と言った。
もし、ここに多江がいたのなら、わざわざ河村にそれをほのめかしてやる|必《ひつ》|要《よう》もないだろう。
「町へ|戻《もど》られますか」
と、河村が言った。
「ええ」
「じゃ、ご|一《いっ》|緒《しょ》に」
|断《ことわ》るわけにもいかない。
|心残《こころのこ》りではあったが、明りを|消《け》し、河村と一緒に、|校《こう》|舎《しゃ》を出た。
「――お出かけでしたか」
と、河村が|訊《き》く。
分ってるくせに、と、ちょっと|腹《はら》が立ったが、それを|押《お》し|隠《かく》して、
「デートですの」
と、おどけて見せた。
「やあ、そりゃ|羨《うらやま》しい」
河村は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「先生、さぞ、もてるでしょう!」
「とんでもない。|振《ふ》られてばっかりなんですよ」
「そうかなあ。――町の|連中《れんちゅう》は、|恐《おそ》れ多くて、手が出せんでしょうが」
「|怖《こわ》くて、じゃないかしら」
と、依子は笑った。
――町は、何となく|様《よう》|子《す》がおかしかった。
ざわついている、というのか。夜のこの時間にしては、人が出歩いていた。
それも、|珍《めずら》しく、足早に、|忙《いそが》しく|動《うご》き回っているのだ。
「どうしましたの?」
と、依子が|訊《き》いた。「何かあったんでしょうか?」
「ああ、みんな|騒《さわ》いでるんです」
と、河村は、大して気にもしていないようだ。
「どうして?」
「ああ、言い|忘《わす》れてた」
と、河村は|笑《わら》って、「昼間――というか夕方お話しした、栗原多江という女の子ですが」
「その人が何か?」
「今、|留置《りゅうち》してあるんです」
と、河村は|得《とく》|意《い》|気《げ》に言った。
依子は、|一瞬《いっしゅん》、足を止め、
「留置?」
と|訊《き》き|返《かえ》していた。「でも――何か|証拠《しょうこ》が?」
「まず、あの|娘《むすめ》が犯人ですよ」
と、河村は|断《だん》|言《げん》した。
「でも――その人は、今、どこにいるんですか?」
「ここの留置場です。みんなが|騒《さわ》いでるんですよ」
「というと……」
「あの|娘《むすめ》が、角田栄子ちゃんも|殺《ころ》したという|噂《うわさ》が広まってるんです」
「何ですって?」
依子は|息《いき》を|呑《の》んだ。
「いや、どうしてそんな話になったのか、よく分らんのですよ」
と、河村は首を|振《ふ》った。
「――町の人たちは、何を|騒《さわ》いでるんですか?」
「|血《ち》の気の多いのがいますからね」
「まさか――|私刑《 リンチ》を?」
「言うだけです。やる|奴《やつ》はいませんよ」
そんな話が出るだけでも、大きなショックだった。
「|誰《だれ》かついてるんですか」
と、依子は訊いた。
「ついてる、といわれますと?」
「その栗原多江に、です」
「|留置場《りゅうちじょう》です、手は出せませんよ」
と、河村は言った。
そう。――まさか。|西《せい》|部《ぶ》|劇《げき》じゃあるまいし!
しかし、依子は|不《ふ》|安《あん》だった。
これはまとも[#「まとも」に傍点]ではない! 何かが、|裏《うら》で|動《うご》いているのではないか……。
依子は|眠《ねむ》れなかった。
もちろん、多江のことが気になっていたのである。――会いに行ってやれば|良《よ》かったかしら?
しかし、多江と話したことを、河村に知られるのは、|避《さ》けた方がいいと思った。
多江は、どんな思いで、|留置場《りゅうちじょう》にいるのだろう。――依子は、それを|想《そう》|像《ぞう》しただけで、|胸《むね》が|痛《いた》かった。
|様《よう》|子《す》がおかしいと|気《き》|付《づ》いたのは、夜中の三時ごろだった。
|表《おもて》が|騒《さわ》がしい。人が|怒《ど》|鳴《な》ったり、大声を上げたりしているのが、耳に入って来る。
こんな時間に。――依子はすぐに|起《お》き出して、|服《ふく》を|着《き》た。
|窓《まど》を|開《あ》けて、通りを見た依子は、びっくりした。
この町の人間が、みんな出て来たのかと思うほどの人である。
「――かた[#「かた」に傍点]をつける時だ!」
と、どこかで聞いたことのある声が、耳に|飛《と》び|込《こ》んで来る。
角田だった。
何か台の上に|乗《の》っているらしく、|集《あつ》まった町の人々へ、|演《えん》|説《ぜつ》をぶっているようだった。
「私の|娘《むすめ》は、|無《む》|惨《ざん》に|絞《し》め|殺《ころ》された」
角田は声を|震《ふる》わせた。「あの子が何をしたというんだ? |罪《つみ》のない|子《こ》|供《ども》を、絞め殺して|平《へい》|気《き》な顔をしてるなんて|奴《やつ》は、人間ではない!」
オーッという声が上った。
依子はゾッとした。角田は|続《つづ》けた。
「|我《われ》|々《われ》はあの連中[#「あの連中」に傍点]に|寛《かん》|大《だい》すぎたのだ。我々は|間《ま》|違《ちが》っていた。あいつらは、もうとっくに|滅《ほろ》ぼしておかねばならなかったのだ!」
「そうだ!」
「今からでも|遅《おそ》くないぞ!」
と、声が|返《かえ》って来る。
「まずあの娘だ!」
と、角田は|叫《さけ》ぶように言った。「今、|留置場《りゅうちじょう》にいる|娘《むすめ》だ。あいつが私の娘を|殺《ころ》した、と|誰《だれ》かが言っている。――それは正しいのかもしれん。|間《ま》|違《ちが》っているかもしれん。しかし、そんなのは、|本《ほん》|質《しつ》|的《てき》な|問《もん》|題《だい》じゃない」
依子は、足が|震《ふる》えるのを|感《かん》じた。
「問題は――」
と、角田は|続《つづ》けた。「あの娘が、いつかは|泥《どろ》|棒《ぼう》になり、人殺しになるということだ。それははっきりしている。我々にはそれを|防《ふせ》ぐ|権《けん》|利《り》が――いや、|義《ぎ》|務《む》がある!」
|拍《はく》|手《しゅ》が|湧《わ》いた。それは|熱狂的《ねっきょうてき》と言っていい拍手だった。
「行こう!」
「留置場から引きずり出せ!」
「谷を|焼《や》き|払《はら》え!」
口々に叫びながら、町の人々は、|警《けい》|察《さつ》|署《しょ》へ|向《むか》って歩き出した。
依子は、|呆《ぼう》|然《ぜん》として、しばし|動《うご》けなかった。これは|夢《ゆめ》だ。|悪《あく》|夢《む》なんだ。
こんなことが、|実《じっ》|際《さい》に|起《おこ》るはずがない!
しかし――どう自分へ言い聞かせてみても、|眼《がん》|前《ぜん》の|光《こう》|景《けい》が、|消《き》えてなくなるわけではないのだ。
やっと、頭が|働《はたら》き|始《はじ》めた。そうだ、|警《けい》|察《さつ》――|県《けん》|警《けい》にでも、|直接《ちょくせつ》かければいい。
何か手を|打《う》ってくれるだろう。
依子は|一《いっ》|階《かい》に|駆《か》け|降《お》りて、電話へと走った。|受《じゅ》|話《わ》|器《き》を上げて、ダイヤルを――。しかし、回す前に、受話器から、|発《はっ》|信《しん》|音《おん》が|全《まった》く聞こえて来ないのに|気《き》|付《づ》いていた。
電話を|不《ふ》|通《つう》にしてある!
おそらく、この町の人間の中にも、|私刑《 リンチ》などは、やりすぎだと思っている|者《もの》があるだろう。その|通《つう》|報《ほう》を|防《ふせ》ぐために、どこかで、電話|線《せん》を切ったのではないか。
依子は、|改《あらた》めてゾッとした。
|一《いっ》|見《けん》、|突《とっ》|発《ぱつ》|的《てき》に見えるこの|騒《さわ》ぎだが、おそらく、|予《あらかじ》め考え|抜《ぬ》かれ、|準備《じゅんび》された|行《こう》|動《どう》なのだ!
依子は外へ出た。――角田に|率《ひき》いられた男たちは、もう道のずっと遠くへ行っている。
どうしたらいいだろう? あの男たちの前に立ちはだかったところで、それは、手で|雪崩《 なだれ》を止めようとするようなものだ。
「先生」
と、|呼《よ》ぶ声がした。
依子は、|信《しん》じられない思いで、|振《ふ》り|返《かえ》った。
目の前に立っていたのは、そこにいるはずのない人間――栗原多江だった。
23 |炎《ほのお》の中に
「――多江さん!」
と、依子は言った。
その|言《こと》|葉《ば》が出て来るまでに、十|秒《びょう》近い間があった。
多江は、かなりひどい|格《かっ》|好《こう》だった。Tシャツにジーンズだが、あちこちに|泥《どろ》がこびりつき、|所々《ところどころ》、|破《やぶ》れている。
顔にも、いくつかすり|傷《きず》があった。
「どうしたの、多江さん、どうしてここへ――」
「分らないわ」
と、多江は首を|振《ふ》った。「河村が出してくれたのよ」
「河村さんが?」
「そう。|私刑《 リンチ》しようとして|騒《さわ》いでる|連中《れんちゅう》がいる。|守《まも》り切れる|自《じ》|信《しん》がないから、|一《いっ》|旦《たん》出してやる、って」
「そう。でも、ともかく――」
依子は、ちょっと|周囲《しゅうい》を見回して、「|誰《だれ》かに見られたら|大《たい》|変《へん》よ! 行きましょう!」
「ええ」
二人は、|暗《くら》がりを|選《えら》んで、小走りに|駆《か》け出した。
「どこへ?」
と、依子が|訊《き》く。
「谷よ」
「でも――」
「私がいないと分ったら、あの人たち、谷を|襲《おそ》うわ。早く知らせないと!」
そう言われると、依子も|反《はん》|対《たい》できない。
「――そのけがは?」
「|連《れん》|行《こう》されるとき、|抵《てい》|抗《こう》したら、|殴《なぐ》られたのよ」
「河村さんが?」
「|他《ほか》の|若《わか》い|警《けい》|官《かん》だったわ。|髪《かみ》の毛をつかんで、引きずり回したのよ」
依子は何も言えなかった。|怒《いか》りで、|胸《むな》|苦《ぐる》しい。
「|証拠《しょうこ》もないくせに!」
と、多江は|吐《は》き|捨《す》てるように言った。
「でも、なぜ河村さんが、あなたを|逃《に》がしたのかしら?」
「そうね」
多江は|肩《かた》をすくめて、「お|役《やく》|人《にん》だから、|私刑《 リンチ》の|責《せき》|任《にん》を|取《と》るのが|怖《こわ》いのかもしれない」
なるほど。そうかもしれない。
役人というのは、えてして、小心だから。しかし、河村が本当に、それだけのことで、多江を逃がしたのか、依子には、今一つ、ピンと来なかった。
河村らしくない。――|腹《はら》の中で、何を考えているか、分らない男なのだ。
ただ、多江はそんなことは、大して気に止めていない|様《よう》|子《す》だった。ひたすら、谷へと|急《いそ》いだ。
もし、河村が本気で、あの|暴《ぼう》|徒《と》を|押《お》し止める気があるのなら、まだしばらくは時間が|稼《かせ》げるだろう。しかし、あまり|期《き》|待《たい》はできない、と依子は思った。
どちらかといえば、|心情的《しんじょうてき》には河村も角田と大して|変《かわ》りないはずである。
多江がいないことを知れば、|確《たし》かにあの|連中《れんちゅう》は、谷へ|押《お》しかける。そして――何が|起《おこ》るか、それは|空《そら》|恐《おそ》ろしい気がした。
――二人は山の|奥《おく》へと入って行った。
いくらか月明りはあったが、|暗《くら》い道で、依子は、多江の後をついて行くのに、|必《ひっ》|死《し》だった。|却《かえ》って、それで|不《ふ》|安《あん》を|忘《わす》れることはできた。
|静《しず》かな山中に、多江と依子の、|足《あし》|音《おと》と|息《いき》づかいだけが聞こえる。
|山《やま》|間《あい》を|辿《たど》って、あの、大沢和子が|埋《う》めてある|辺《あた》りへ来た。
「もう少しだわ」
と、多江が言った。
「|待《ま》って」
と、依子が言った。
「え?」
「何だか――|音《おと》がしたわ」
「音が?」
「どこかで――何かしら? 気のせいかな」
「そうね。――止って」
多江は、じっと、耳を|澄《す》ましていたが、やがて、ハッと|息《いき》をつめた。
「|誰《だれ》かいる!」
強いライトが、|一《いち》|度《ど》に依子と多江に|浴《あ》びせられた。依子は、|一瞬《いっしゅん》、まぶしさによろけた。
目がくらみながら、依子は、グルリと|周囲《しゅうい》を囲んでいる男たちの|姿《すがた》を|認《みと》めた。
「ちゃんと、計算通りの|所《ところ》へ来てくれたね」
――思いがけない声――いや、|当《とう》|然《ぜん》の声だった。
「河村さん!」
と、依子は言った。「あなたは、わざと――」
「もちろんですよ、先生」
河村は、いつもと|変《かわ》らぬ|口調《くちょう》で言った。「いくら何でも、私の目の前で、|容《よう》|疑《ぎ》|者《しゃ》が|私刑《 リンチ》を|受《う》けたんじゃ、|立《たち》|場《ば》がありませんからね。しかし、|逃《とう》|亡《ぼう》した|挙《あげ》|句《く》、その|途中《とちゅう》で、となれば……」
計算ずくだったのだ。――依子は体が|震《ふる》えた。
「河村さん! あなたは|警《けい》|官《かん》でしょう!」
「しかし、同時にこの町の人間ですよ」
「|法《ほう》を|守《まも》るのが、あなたの|役《やく》|目《め》です」
「谷の|連中《れんちゅう》に、法など|必《ひつ》|要《よう》ありません」
河村は|冷《ひ》ややかな|表情《ひょうじょう》になった。
「多江さんは、人殺しなんかやってないわ!」
「それはどうでもいいことですよ」
と、河村は言った。「|要《よう》は、谷の人間たちがいなくなれば、|世《よ》の中がきれいになる、ということです」
「何てことを……」
依子は耳を|疑《うたが》った。「|私《わたし》が|黙《だま》っていないわ! あなた方を|訴《うった》えてやる!」
「先生――」
「|私《わたし》も|殺《ころ》す? やってごらんなさい。私は|家《か》|族《ぞく》も|親《しん》|戚《せき》もあちこちにいるのよ。日本中回って、|皆《みな》|殺《ごろ》しにするつもり?」
もう|恐怖《きょうふ》はどこかへ|消《き》えていた。|烈《はげ》しい|怒《いか》りが、依子の中で|燃《も》え立っている。
「先生、|誤《ご》|解《かい》しちゃいけません」
と、河村は言った。「私たちは|別《べつ》に|人《ひと》|殺《ごろ》しの|集団《しゅうだん》じゃない。先生を殺したりする気はありませんよ」
「じゃ、どうするの?」
「その|内《うち》、分って下さると思います。先生もこちら側[#「こちら側」に傍点]の人間ですからね」
「私を生かしておいたら|後《こう》|悔《かい》するわよ」
と、依子は河村をにらみつけた。
河村は目をそらした。
「そんな小娘の言うことなんか|放《ほ》っとけ!」
と、角田の声が|飛《と》んで来る。「みんな、ぐずぐずするな! あの|連中《れんちゅう》を|逃《に》がすと、|大《たい》|変《へん》なことになるぞ!」
男たちがワッと依子たちの方へ|駆《か》け|寄《よ》って来る。依子はたちまち、三、四人の男たちに手足を|押《おさ》えられ、わきの方へと引きずって行かれた。
「――おい、|用《よう》|意《い》しろ!」
と、角田が|怒《ど》|鳴《な》った。
|悪《あく》|夢《む》だわ、と依子は思った。
まるで、|昔《むかし》、TVで見た|西《せい》|部《ぶ》|劇《げき》のようだった。――木の太い|枝《えだ》に、ロープが、かけられた。
その|先《せん》|端《たん》が|輪《わ》になって、ゆっくりと|揺《ゆ》れている。――それは、|無《ぶ》|気《き》|味《み》に|単純《たんじゅん》な形をしていた。
多江は、もう|諦《あきら》めたのか、逆らおうともしなかった。男たちの手で、木の下へ|連《つ》れて行かれると、首に輪がかけられた。
「やめて! みんな、人を|殺《ころ》そうとしてるのよ!」
依子が|叫《さけ》んだ。
多江が、依子を見た。――それは、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》な|視《し》|線《せん》だった。
多江は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「先生。気にしないで」
|口調《くちょう》は、いつもの通りの多江だった。
――|一瞬《いっしゅん》、さすがに|重《おも》|苦《くる》しい|雰《ふん》|囲《い》|気《き》がその|場《ば》を|支《し》|配《はい》した。
「――よし。やれ」
角田が、少し|乾《かわ》いた声で言った。
ロープがピンと|伸《の》びた。
男たちが、多江の体から|離《はな》れる。
そのとき、多江が|笑《わら》いだした。――依子が、それまでに聞いたこともない|凄《すご》|味《み》を|帯《お》びた笑いだった。
ヒステリックな笑いではなく、何かが|解《と》き|放《はな》たれたような笑い声だ。
男たちが、さすがにギョッとしたようすで、少し後ずさった。
角田が|叫《さけ》んだ。
「引け!」
|枝《えだ》に|渡《わた》した、ロープの|端《はし》を、四、五人の男たちが|一《いっ》|斉《せい》に引いた。多江の体が空中へはね上ったように思えた。
依子は、|全《ぜん》|身《しん》で|叫《さけ》び声を上げた。まるで、自分が|吊《つる》されたような、|苦《く》|痛《つう》とショックに|襲《おそ》われて、依子は|地《じ》|面《めん》に倒れた。
「――なるほど」
小西は|肯《うなず》いた。「|恐《おそ》ろしい目に|遭《あ》ったんですね」
依子は、じっと小西を見つめた。
「でも、本当に[#「本当に」に傍点]恐ろしいことは、その後に|起《おこ》ったんです」
「何ですって?」
と小西は言った。
そのとき、病室のドアが|荒《あら》|々《あら》しく|開《ひら》いた。
ベッドの上で、依子は、|怯《おび》えたように身を|縮《ちぢ》めた。
小西は、|驚《おどろ》いて|振《ふ》り|返《かえ》った。
「|警《けい》|視《し》!」
入って来たのは、小西の|上司《じょうし》に当る、|県《けん》|警《けい》の警視だった。赤ら顔の、|太《ふと》った男である。
「おい、どうしたというんだ!」
と、警視が|怒《ど》|鳴《な》るように言った。
「警視、ここは|病室《びょうしつ》ですよ」
「分っとる」
|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》そうに、警視は言った。「なぜ|報《ほう》|告《こく》せん! |犯《はん》|人《にん》を|逮《たい》|捕《ほ》したと|俺《おれ》が|誰《だれ》から聞かされたと思うんだ? とんだ|恥《はじ》をかいたぞ」
小西は、|車椅子《くるまいす》を上司の方へ|向《む》けた。
「警視。ここは私に|任《まか》せて下さい」
「なぜこの女に|手錠《てじょう》をかけていないんだ? 病人だといっても、ベッドにつないでおくぐらいはしておくべきだ!」
依子が、その|言《こと》|葉《ば》に、青ざめた。
「|私《わたし》が――何をしたんですか?」
小西は|焦《あせ》って、
「警視、ともかくお話は外で――」
と言いかけたが、止めることはできなかった。
「二人も|剃《かみ》|刀《そり》で|殺《ころ》しておきながら、よく|涼《すず》しい顔をしてられるもんだな」
と、|冷《ひ》ややかに、依子をにらむ。
依子は、目を|見《み》|開《ひら》いて、じっと小西の方を見ていた。
「|警《けい》|部《ぶ》さん……本当ですか」
声は|震《ふる》えていた。
「ごまかされるな」
と、|警《けい》|視《し》は小西に言った。「|無《む》|意《い》|識《しき》の|犯《はん》|行《こう》だとか、そんなものは|嘘《うそ》っぱちだ。|容《よう》|赦《しゃ》なくぶち|込《こ》んでやればいいんだ! お前は女に|甘《あま》すぎるぞ」
小西はため|息《いき》をついた。
依子は、体の|震《ふる》えを止めようとするかのように、|両手《りょうて》で体をかかえ込むようにした。
「――じゃ、警部さんの、その足も――|私《わたし》が?」
小西は、少しためらったが、|諦《あきら》めたように、|肯《うなず》いた。依子は両手に顔を|埋《う》めた。
「警視、ともかく外でお話を」
と小西がくり|返《かえ》した。
「うん。――|逃《に》げないか?」
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」
|渋《しぶ》|々《しぶ》、|警《けい》|視《し》が|廊《ろう》|下《か》へ出る。小西は|車椅子《くるまいす》でそれに|続《つづ》くと、ドアを|閉《し》めて、
「何もかもぶち|壊《こわ》しです」
と言った。「あの|女《じょ》|性《せい》は、田代が|行《ゆく》|方《え》|不《ふ》|明《めい》になっている|事《じ》|件《けん》での、|唯《ゆい》|一《いつ》の手がかりなんです。その|謎《なぞ》が、もう少しで|解《かい》|明《めい》できるところだったのに……」
「|取調室《とりしらべしつ》で|訊《き》けば|良《よ》かろう」
と、警視が顔をしかめて言った。
「いいですか。|彼《かの》|女《じょ》の場合、|実《じっ》|際《さい》に|犯《はん》|行《こう》は|無《む》|意《い》|識《しき》にやっているんです。それは、あの町での|出《で》|来《き》|事《ごと》に、|深《ふか》く|関《かか》わってるんですよ。彼女の|記《き》|憶《おく》を、一つ一つ、たぐり出していたんです」
「|俺《おれ》としては、|殺《さつ》|人《じん》|犯《はん》が|見《み》|付《つ》かったという事実[#「事実」に傍点]がほしいんだ。マスコミが、|噂《うわさ》を聞きつけて、やかましい」
「|待《ま》たせておけばいいんです」
小西はぶっきらぼうに言った。「あの町で、何か|恐《おそ》ろしいことが|起《おこ》ったのです。それを|証言《しょうげん》してくれるのは、|彼《かの》|女《じょ》だけなのですよ。それを|警《けい》|視《し》は――」
ガラスが|激《はげ》しく|割《わ》れる|音《おと》がした。――小西は|一瞬《いっしゅん》、|動《うご》けなかった。
何が起ったのか? |病室《びょうしつ》の中だ!
小西は、|車椅子《くるまいす》を|操《あやつ》るのももどかしく、病室の中へ入って行った。顔から|血《ち》の気がひいた。
|窓《まど》ガラスが|砕《くだ》けている。そして、ベッドには、依子の|姿《すがた》はない。
「――おい」
と、|警《けい》|視《し》が言った。「どうしたんだ」
「ご自分で見れば分るでしょう」
小西は、|冷《ひ》ややかに言って、|砕《くだ》けた窓の方へと、車椅子を|進《すす》めて行った。
ガラスの、|尖《とが》った|破《は》|片《へん》のいくつかに、|血《ち》がついていた。
下を|覗《のぞ》いて見る。――依子の白い|寝《しん》|衣《い》が、花びらのように広がっていた。
小西は思わず目を|閉《と》じていた。
|医《い》|師《し》が|駆《か》け|込《こ》んで来た。
「|警《けい》|部《ぶ》さん! |患《かん》|者《じゃ》が……」
「ええ。|落《お》ちたんです。|急《いそ》いで、手を|尽《つ》くしてみて下さい」
「分りました!」
あわただしい|動《うご》きが、十分ほども|続《つづ》いただろうか。
|廊《ろう》|下《か》へ出た小西の方へ、古川医師がやって来た。
「――何をしとったんだ?」
と、|怒《おこ》ったような声で言った。
「|面《めん》|目《ぼく》ありません」
と小西は言った。「どうですか」
古川は|肩《かた》をすくめた。
「|神《かみ》|様《さま》だって、首の|骨《ほね》を|折《お》った|奴《やつ》は|助《たす》けられん。おまけに、ガラスで|動脈《どうみゃく》を切っているんだ」
小西は、じっと|拳《こぶし》を|握《にぎ》りしめた。
|警《けい》|視《し》の|姿《すがた》は、いつの間にやら、|消《き》えていた。
「――車に|乗《の》っても|大丈夫《だいじょうぶ》ですか」
と小西が|訊《き》いた。「山道を|揺《ゆ》られて行くんですが」
「|痛《いた》いぞ」
「|構《かま》いません」
「いつだ?」
「すぐに」
「よし」
古川は|肯《うなず》いた。「|包《ほう》|帯《たい》をし|直《なお》そう。それから、痛み止めをやる」
「お|願《ねが》いします」
と、小西は言った。
24 |平《へい》 |和《わ》
「これは小西|警《けい》|部《ぶ》――」
河村が、|急《いそ》いで外へ出て来た。「足をどうなさったんですか」
「ちょっとしたけが[#「けが」に傍点]でね」
と、小西は言った。「|突《とつ》|然《ぜん》ですまん」
「いいえ。こちらの|椅《い》|子《す》へどうぞ」
ステッキを|突《つ》いた小西は、やっと椅子に|辿《たど》りついて、|腰《こし》をおろした。
「お茶でも|淹《い》れさせましょう」
河村が、|妻《つま》を|呼《よ》んだ。
小西は町を|眺《なが》めた。
明るい昼下り、この|田舎《 いなか》の町は、|静《しず》かで、平和そのものだった。
ここで|恐《おそ》ろしい|殺《さつ》|人《じん》があったとは、|誰《だれ》が|信《しん》じるだろう?
しかも、みんな、それを|押《お》し|隠《かく》して、ごく当り前に|暮《くら》している。
「そうそう」
と、河村が|戻《もど》って言った。「|実《じつ》は、ご|報《ほう》|告《こく》しなきゃならんことがありまして」
「ほう」
小西は、出されたお|茶《ちゃ》を一口|飲《の》んで、河村を見た。
「どんなことだね」
「小学生が|殺《ころ》された事件なんですが」
「角田栄子殺しだね」
「はい」
と、河村が|肯《うなず》いた。「|実《じつ》は|昨《さく》|夜《や》、父親が自殺したんです」
「何だって?」
小西は、思わず|訊《き》き返した。「自殺した?」
「はい。それで、|遺《い》|書《しょ》の中に――自分が|娘《むすめ》を殺した、と|告《こく》|白《はく》がありました」
「角田が|娘《むすめ》を……」
「|精《せい》|神《しん》の|病気《びょうき》で、|悩《なや》んでいたようです。この町では|名《めい》|士《し》だったので、|公表《こうひょう》しない方が、という声もあったんですが、やはりそういうわけには……」
「もちろん|報《ほう》|告《こく》するべきだ」
と、小西は言った。「――ところで、|実《じつ》は、ちょっと会ってみたい|娘《むすめ》がいるんだ」
「この町の|者《もの》ですか?」
小西は|肯《うなず》いて言った。
「栗原多江というんだがね」
「分りました。お|待《ま》ち下さい。|連《つ》れて来ます」
河村が|急《いそ》いで出て行く。
小西は、|落《お》ちつかなかった。――どこか、おかしい。
栗原多江の名を出しても、|一《いっ》|向《こう》に|反《はん》|応《のう》を|示《しめ》さないのだ。こんなはずはないが……。
「|警《けい》|部《ぶ》!」
と、声がした。
|振《ふ》り|向《む》くと、三木|刑《けい》|事《じ》がやって来るところだった。
「三木か!」
小西はホッとした。
「どうしたんです、その足?」
「そんなことはいい」
と、小西は|苛《いら》|立《だ》たしげに言って、「どうしたんだ、津田は?」
「それが――」
と、三木は|表情《ひょうじょう》を|曇《くも》らせた。「|事《じ》|故《こ》がありまして」
「事故?」
「用心しろと言ったんですが……。ともかく夜の|内《うち》に、谷へ行くといって聞かないんですよ。――止めたんですが」
「それで?」
「|結局《けっきょく》、|仕《し》|方《かた》なく二人で出かけまして……。|途中《とちゅう》、はぐれてしまったんです」
と、三木は言った。「|今《け》|朝《さ》になって、|捜《さが》してみました。――|崖《がけ》から落ちたようです」
小西は、|我《われ》|知《し》らず、ステッキを握りしめていた。
「|死《し》んだのか」
「はい」
と、三木は|肯《うなず》いた。「ただ、一つ|発《はっ》|見《けん》がありました」
「というと?」
「とても足を|滑《すべ》らせやすい|場《ば》|所《しょ》なんです。しかも人目につきにくい。――もう一つ、かなり時間のたった死体がありました」
小西は、じっと三木を見つめた。
「田代か」
三木が肯く。
「|間《ま》|違《ちが》いないと思います。やはり足を|滑《すべ》らせたんでしょう。|所《しょ》|持《じ》|品《ひん》があったので、持って来ました」
「そうか……」
小西は、すっきりしなかった。
三木は、田代が|殺《ころ》されたのでは、とあんなに|心《しん》|配《ぱい》していた。それなのに、なぜ今は田代の|死《し》を、|事《じ》|故《こ》だと思っているのか。
「それで――」
と、小西が言いかけたとき、
「お|待《ま》たせしました」
と、河村が|戻《もど》って来た。「この|娘《むすめ》です」
十六、七の娘が、多少|緊張《きんちょう》した|様《よう》|子《す》で、立っていた。
「――栗原多江です」
と、娘は頭を下げた。「|私《わたし》に何か……」
小西は、しばらく|言《こと》|葉《ば》が出なかった。
これは|別《べつ》|人《じん》なのだろうか? |幽《ゆう》|霊《れい》ではあるまい。
「いや――ここの小学校の中込依子という先生を知ってるかね」
「はい」
と、多江は、ちょっと|不《ふ》|安《あん》げに小西を見た。「先生に、何かあったんでしょうか?」
「というと?」
多江は、ちょっとためらって、河村の方を見た。河村が|咳《せき》|払《ばら》いをして、
「|実《じつ》は……中込先生は、ノイローゼで、大分前から、もう|授業《じゅぎょう》をしておられなかったんですよ」
「ノイローゼ?」
「ええ。中込先生はとても|真《ま》|面《じ》|目《め》な方でした。水谷というもう一人の先生が、|公金横領《こうきんおうりょう》で|逃《に》げて、|結局《けっきょく》、自分で|喉《のど》を切って|死《し》んでしまったんですが、その分の|仕《し》|事《ごと》も、中込先生が|全《ぜん》|部《ぶ》、一人でしょっておられて……」
「おかしくなったというのかね」
「そうなんです」
多江は|肯《うなず》いた。「ただ――とてもいい先生だし、しばらく、休んでいただこうと、町の人たちで|相《そう》|談《だん》して|決《き》めたんです」
「この子の|叔《お》|母《ば》のところで|部《へ》|屋《や》があいていたもので、そこへ入っていただいて、この子が|面《めん》|倒《どう》を見ていたんです」
「|叔《お》|母《ば》さんは何という名だね?」
と小西は|訊《き》いた。
「大沢――和子といいます」
大沢和子? |殺《ころ》されたはずの女ではないか!
「でも、|一《いっ》|向《こう》に|良《よ》くならなくて」
と、多江は言った。「殺されるとか、|逃《に》げなきゃ|危《あぶ》ないとか、そんなことを口走っておられて……。そして、本当にいなくなってしまったんです」
「この子のせいじゃありません」
と、河村が|取《と》りなすように言った。「ともかく、二十四時間ついているわけに行きませんから。|行《ゆく》|方《え》|不《ふ》|明《めい》になって、|捜《さが》していたんですが……」
「そうか……」
小西は言った。「|彼《かの》|女《じょ》は死んだよ」
「まあ!」
と、多江が|息《いき》を|呑《の》んで、手を|握《にぎ》り合わせた。
「|自《じ》|殺《さつ》のようなものだった」
「そうでしたか」
と、三木が|呟《つぶや》くように言った。
「ところで――」
と、小西は三木の方を見た。「谷の方の|様《よう》|子《す》はどうだったんだ?」
「谷のことをご|存《ぞん》|知《じ》ですか」
と、河村が|意《い》|外《がい》そうに、言った。「あそこは|昔《むかし》、この多江なども|住《す》んでいたんですが、ともかく|不《ふ》|便《べん》な|所《ところ》でして。――今はみんな、ここの町へ|移《うつ》って来ているんですよ」
「ここへ?」
「ええ。もう谷はゴーストタウンになってます」
小西は三木を見た。三木が、ちょっと|肯《うなず》いて見せる。
|信《しん》じがたい思いだった。――あの、依子の話が、|総《すべ》て、|彼《かの》|女《じょ》の|空《くう》|想《そう》の|産《さん》|物《ぶつ》だったというのか?
しかし、|現《げん》|実《じつ》に、この多江という|娘《むすめ》は生きている。そして、谷にも人のいる|形《けい》|跡《せき》がないとしたら……。
「――町で、|最《さい》|近《きん》、|変《かわ》ったことはないかね」
と、小西は|訊《き》いた。
「さあ……。その、中込先生のことぐらいでしょうか」
と、河村は考えながら言った。
「|他《ほか》には?」
「まあ――角田栄子|殺《ごろ》しも、水谷先生の|件《けん》もありましたがね。それはそれで、この町では|大《だい》|事《じ》|件《けん》でしたが」
「――多江さん、だったね」
と小西は言った。
「はい」
「レストランで|働《はたら》いてるのかい?」
「ええ、そうです。ご|存《ぞん》|知《じ》なんですか?」
「|恋《こい》|人《びと》は?」
「恋人――ですか?」
多江は目を|丸《まる》くした。「まだ、私、|若《わか》いですから。そんな人、いません」
「そうか」
小西は|肯《うなず》いた。――ここまでやって来たのは、|虚《むな》しい|旅《たび》だったのか? しかし、あの依子の話が……。
「まあ、何しろ|平《へい》|和《わ》ですよ、小さな町ですから」
と、河村が言った。「大した|事《じ》|件《けん》なんて、|起《おこ》るわけもありませんからね」
小西は、もうここにいる気にはなれなかった。
「――三木。帰るか?」
と言った。
「少し|残《のこ》ってます。明日中には、|必《かなら》ず|戻《もど》ります」
「分った」
「|送《おく》りましょうか?」
「|大丈夫《だいじょうぶ》だ。パトカーの|所《ところ》まで、ついて来てくれ」
「はい」
三木に|腕《うで》を|取《と》られるようにして、歩いて行く。小西は|低《ひく》い声で言った。
「――何も、おかしい|所《ところ》はないのか?」
「ええ」
三木は首を|振《ふ》って、「|我《われ》|々《われ》、|結局《けっきょく》、あの中込依子の|妄《もう》|想《そう》に|付《つ》き合わされただけじゃないんですか?」
と言った。
小西は、パトカーに|乗《の》り込んで、|息《いき》をついた。――どこかおかしい。
何もかもが依子の|幻《げん》|想《そう》だったとは、信じられない。――小西は、依子が、「本当に|恐《おそ》ろしいことは、その後に|起《おこ》った」と言っていたのを思い起していた。それは、どんなことだったのか?
そうだ。これで|引《ひっ》|込《こ》むわけにはいかない……。
パトカーが走り|去《さ》ると、三木が|戻《もど》って来た。
多江は、ゆっくりと|椅《い》|子《す》にかけた。
さっきとは|打《う》って|変《かわ》って、河村を、|小《こ》|馬《ば》|鹿《か》にしたような目つきで|眺《なが》めていた。
「なかなか|上出来《じょうでき》よ」
と、多江は河村に言った。「その|調子《ちょうし》でね、これからも」
河村は、顔を赤くさせたが、何も言わずに、|奥《おく》へ入って行った。
三木と多江は|表《おもて》に出て歩き出した。
町行く人が、みんな顔を|伏《ふ》せ、二人を|避《さ》けながら、|気《き》|付《づ》かないふり[#「ふり」に傍点]をする。
「――|納《なっ》|得《とく》したと思う?」
と、多江は|訊《き》いた。
「いや、|無《む》|理《り》だろう」
と三木は首を|振《ふ》った。「あの人は、かなりしつこい」
「でも、何も|証拠《しょうこ》立てられやしないわ」
と、多江は言った。「|彼《かの》|女《じょ》が|死《し》んでしまった今となっては、ね」
三木は、足を止め、ゆっくりと町を見回した。
「|活《かっ》|気《き》がない町だな」
「夜になれば、みんなが出て来るわ」
と、多江は言った。「――ねえ」
「何だい?」
「あの人、|最《さい》|後《ご》までは話さずに死んだのね、きっと」
「そうだろうな。小西さんが|戸《と》|惑《まど》ってた|様《よう》|子《す》で分ったよ」
多江は、ちょっと遠くへ目を|向《む》けた。
「あの人は気の|毒《どく》だった……」
「中込依子かい?」
「ええ。本心から、私のことを、|心《しん》|配《ぱい》してくれてたわ」
「――かもしれない。しかし、|最《さい》|後《ご》まで|拒《こば》んだんだろう、僕らの側[#「僕らの側」に傍点]に|加《くわ》わるのを」
「あれは|立《りっ》|派《ぱ》だったわ。町の|他《ほか》の|連中《れんちゅう》は、みんな言うなりになったのに、あの先生だけは、|意《い》|志《し》を|貫《つらぬ》いたんですもの」
「しかし、|彼《かの》|女《じょ》も人を|殺《ころ》したよ」
「|責《せ》められないわ。――|怖《こわ》かったからだわ」
「どういうことだい?」
「夜になると、私たちの|暗《あん》|示《じ》を思い出すのよ。自分の知らない|内《うち》に、|行《こう》|動《どう》してる……」
「そうか。――|僕《ぼく》はてっきり谷の|誰《だれ》かがやって来たんだと思ってた」
と、三木は|肯《うなず》いた。
「河村に|見《み》|張《は》らせたのに。|一《いち》|度《ど》は車に|乗《の》せたのに、また|病院《びょういん》へ|逃《に》げ|戻《もど》ってしまったのよ」
「|彼《かの》|女《じょ》にとっては|不《ふ》|幸《こう》だったな」
「そうね」
多江は、ちょっと目を|伏《ふ》せた。
二人は、学校の見える|所《ところ》まで来ていた。
|黄《たそ》|昏《がれ》が|迫《せま》って、|校《こう》|舎《しゃ》がシルエットになって見えていた。
「――長かったわ」
と、多江は言った。
「谷での|暮《くら》しが?」
「ええ。みんなあそこで、|一《いち》|族《ぞく》が|滅《ほろ》びるのを|待《ま》つつもりだったのに……。人間って、本当に|馬《ば》|鹿《か》だわ。見当外れのことで、わざわざ、私たちを|駆《か》り立てて……。人間が私たちに|勝《か》てるわけがないのに」
「|向《むこ》うが|仕《し》|掛《か》けて来たんだ」
「そうね。角田が、|娘《むすめ》を|殺《ころ》したのを何とかして私たちのやったことだと思わせようとしたのが、|間《ま》|違《ちが》いだったのよ」
「もう、今は町ごと、|僕《ぼく》たちのものだ」
「そうね」
|沈《しず》んで行く|夕《ゆう》|陽《ひ》に、多江の|笑《え》みがこぼれて、口元に、小さく|尖《とが》った|歯《は》がチラリと|覗《のぞ》いた。
「――河村はどうする?」
と、三木が|訊《き》いた。
「|死《し》んでもらうしかないわね。|危《き》|険《けん》だわ」
と、多江は言った。
「すぐにはやらない方がいいだろうな」
「もちろんよ。――角田には、娘を殺したと|告《こく》|白《はく》した|遺《い》|書《しょ》を書いてもらったから、河村には、水谷を殺したという遺書でも書いてもらう?」
「|悪《わる》くないね」
と、三木は肯いた。
夜が|降《お》りて来た。|暗《くら》がりが、町を大きな|翼《つばさ》で|押《お》し|包《つつ》む。
多江は、三木の|腕《うで》を|取《と》った。
「さあ、私たちの時間[#「私たちの時間」に傍点]よ」
二人は町の中へと|戻《もど》って行った。
|静《しず》かで、|平《へい》|和《わ》な町。――夜に|支《し》|配《はい》されていても、そこは平和な町に|違《ちが》いなかった。
本書は、昭和六十一年六月、小社より刊行されました。
|魔《ま》|女《じょ》たちのたそがれ
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成14年8月9日 発行
発行者 福田峰夫
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2002
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角川文庫『魔女たちのたそがれ』昭和61年6月2日初版発行
平成12年7月30日改版8版発行