角川文庫
長い夜
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
1 暗い穴
2 死との約束
3 トラック
4 |惨《さん》|劇《げき》の町
5 町に入る
6 町外れの家
7 夜の行進
8 鉄格子
9 かみついた少女
10 発 熱
11 苦 痛
12 暴れる女
13 招 待
14 飛び出した男
15 白い夜
16 取り囲む影
17 襲う影
18 死 闘
19 穏やかな死
20 月を染める
エピローグ
1 暗い穴
「ねえねえ」
と、ルミは母親の腕を引っ張った。
何といっても、まだ五歳のルミの声は小さくて、お父さんとお母さんがおしゃべりしていて、お兄ちゃんがTVなんか|点《つ》けていると、全然聞こえなくなってしまうのである。
「あれ、何なの?――ねえ」
その努力は、三度目にして、やっと認められた。
夫に、近所のいや味なおばあさんのことをグチっていた母親は、やっと話が一区切りついて、娘の方へ向いたのだ。
「どうしたの? 早く食べなさい。片付かないわ」
ルミは、母親が自分の話を全く聞いていなかったと知って、ちょっとムッとしたが、五歳ともなると、大人ってのは結構忙しくて、時には子供に構ってられないものだということを、理解している。
だから、ここは腹の立つのをグッと押えて、もう一度、同じ質問をくり返すことにしたのだった。
「あの、お庭にあるのは何なの?」
「お庭?――何かある?」
母親の方は、全然ピンと来ていない様子だ。
ルミは、ため息などついて、お母さんったら一体何を見てんだろ、毎日、と嘆いたのだった。
「ああ」
と、母親は|肯《うなず》いて、「あれはね、洗濯物を干すところなのよ」
ルミは、さらに頭に来てしまった。
「それじゃないよ」
いくら私だって、そんなものぐらい、|訊《き》かなくたって分ってる。
「あら、じゃ、何なの?」
母親は戸惑っていた。
「庭はまだ手が回らないからな」
と、父親は、見当違いの言いわけを始める。「次の日曜日には、草むしりをするよ」
「お父さんは言うばっかりだから」
と、母親は笑って、「ねえ、土曜日は早く帰れそう?」
ルミは、自分の質問がどこかへ置き忘れられてしまいそうになったので、ちょっとあせった。
「ね、ほら、お庭の隅っこに、四角いものがあるじゃない」
と、母親に説明する。「こんぐらいの高さで、石がこんな具合にのっけてあって」
「そう?」
と、母親はてんで関心がない。
ほとんど絶望的な気分に陥ったルミは、もう|諦《あきら》めようかと思った。すると、助け舟が意外なところからやって来たのだ。
TVをじっと見ていたお兄ちゃんが、
「井戸だろ」
と、言ったのである。
「――なあに、進ちゃん?」
と、母親が面食らっている。
「井戸だよ、ルミの言ってるの」
進は、一向にTVから目を離さない。
進は、小学校の五年生。ルミとは六つも離れているので、あまりルミの遊び相手にはなってくれない。しかし、なかなかしっかりした子で、お母さんのお気に入りではあるのだった。
ついでに言えば、お父さんはルミの方を|可愛《かわい》がっている。まあ、むろん、「どっちかといえば」であって、両親が二人の子を可愛がっていることは確かだった。
「井戸か」
と、田所昭二は肯いて、「そういえば、確かに、庭の隅の方にあったな」
「イドってなあに?」
と、ルミは訊いた。
「昔ね、お水をあそこからくんだんだ」
と、田所昭二は言った。
「お水? 水道の水?」
「水道がなかったころの話さ」
「あそこにお水が入ってるの」
と、ルミは訊いた。
ルミにとっては、水というのは、レバーを押したら出て来るものなのである。
「ほら、よく山とか行くと、水がわいてる所があるだろ? あんな風に、井戸の中にも水がわいてるんだ。昔は水道がなかったから、その水をくんで使ったんだよ」
「ふん」
ルミとしては、あんまり山へ連れてってもらったことなどないので、「水がわいてる」というのもピンと来なかった。が、何となく漠然とは理解できた。
「あのふたをあけると水が出て来るの?」
「もう|涸《か》れちゃってんだよ」
TVがコマーシャルになって、進が、おかずの皿の方へ目を戻した。「あれ、もう食べちゃったのか」
「涸れてる、って?」
「水が出ないのさ。だからふさいだんだよ」
「あんなに一杯、石をのっけて?」
「それはね」
と、田所昭二は言った。「井戸ってのは、|凄《すご》く深い穴なんだ。だから、子供が|覗《のぞ》いてる内に落っこったりしたら大変だから、そうやって、ふたをしてるんだよ」
「どれくらい深いの?」
「そうだなあ……。とにかく、ずーっと、ずーっとだ」
田所の答えは、あまり科学的とは言えなかった。
「石を落としてみりゃ、分るよ」
と、進が言った。
この言葉は、ルミの目を輝かせた。
「石をどうするの? ねえ!」
「井戸の中へ落とすのさ。水のある所まで落ちたら、ポチャッ、とか、音がするだろ。ずっと深かったら、石がなかなか下まで着かないから、音がするまでに時間がかかる」
「だめよ、そんなこと」
と、安全第一の弘江が口を挟んだ。「井戸に落ちたら死んじゃうのよ。絶対そんなことしちゃだめ。――分った?」
「うん」
と、ルミは言った。
もちろん、ルミも死にたくはなかったのだから。
――田所一家の四人が、この古い家へ越して来て、二週間たつ。
引越しというのは、古い方から新しい方へ、というのが普通だが、田所家の場合は逆だった。
その代り、前は六畳と四畳半という小さなアパートで、四人、窮屈な思いをしていたのが、今は一軒家。二階があって、ともかく、ルミなんかには、信じられないくらい大きな家だったのだ。
お母さんは、色々、「ガタが来てる」とか、「さびついてる」とか文句を言っているが、でも、そう不満ではないらしい。
――この家は、弘江の|叔《お》|母《ば》に当る人が一人で住んでいたのである。
一年ほど前に亡くなった時、その人には子供がなく、この家はそのまま放置されていた。
田所一家がここに住みたいと言っても、親族の誰からも文句は出なかった……。
何といっても田舎町で、都心まで出るのに一時間半はかかる。それも、よほどうまくバスや電車の時間を見ておかなくてはならない。
田所が、それでもここへ越して来ることにしたのは、進も五年生になり、二間のアパートでの暮しはもう限界だと、常に思っていたからである。通勤は大変だが、前のアパートだって不便な場所にあり、一時間はかかっていたから、そう苦でもない。
ただ、一年間誰も住んでいなかったので、家のあちこちに手入れが必要で、全部が片付くのは、大分先のことになりそうだった。
それでも、事実上、引越しの費用だけでこの一軒家に住めたのだから、田所としても、不平を言うつもりはなかったのである……。
「学校の方はどうだ?」
と、田所は進に|訊《き》いた。
「うん。面白いよ。運動場が広いしね」
それはそうだろう。前に進が通っていた小学校は、百メートルも真直ぐ走れないくらい、運動場が狭かったのだ。
ただ、問題はルミの幼稚園で――。近くにはないので、どうしても、バスで通うことになる。手続きするひまがないので、今のところ、ルミは幼稚園へ行っていなかった。
「来週には、何とかできると思うわ」
と、弘江は言った。「ご近所にも、お友だちになれそうな子がいないの。やっぱり幼稚園へ行かせないと」
広い家だけに、掃除や片付けで、まともな生活ができるようにするまでには、時間がかかる。弘江も毎日頑張ってはいるのだが、なかなか出かける時間が取れないのだった。
でも――ルミは結構楽しんでいた。
何といっても、この広く古い家そのものが、何よりの遊び場だ。
「いい?」
と、弘江が念を押した。「井戸には近付かないのよ」
「うん」
と、ルミは|肯《うなず》いて、ご飯を食べながら、明日石を落っことしてみよう、と決心していた……。
チャンスは、お母さんが台所に立ってる時、とルミは決めていた。
台所は庭と反対側にあって、全然見えないのだ。
三時過ぎになって、お母さんは台所で、お|鍋《なべ》をかけ、野菜を刻み始めた。
ルミは、庭に出るガラス戸をそっと開けて、お母さんのサンダルをはくと、庭の隅っこの草が生い茂っている辺りへと、歩いて行った。
もちろん、前のアパートでは、「庭」なんてものはなかったし、木も草も、目に入る限りでは見当らなかったものだ。
井戸は――ルミは、まだそれがどんな字を書くのか知らなかったが――一見、草で隠されてでもいるように見えた。
井戸の周りは、特に草がのびていて、ほとんどルミの胸ぐらいまである。それに、二、三本の木が井戸の上に覆いかぶさるようにのびているので、少し日がかげって、薄暗いのだった。
それにしても……。井戸は真四角で、一辺がルミの両手一杯広げたよりも、ずっと大きい。高さは、ちょうどルミの胸くらい。石かレンガを積んであるようだった。
井戸には、どっしりと重そうな板でふたがしてあった。しかもその上に、大きな――ルミの頭ぐらいもある石が、四つも五つものせてあって、ただふたが動かないようにというより、何だかギュッと上から押えつけてでもいるように見えた。
もちろん、このままじゃ、井戸の中に石を落とすことなんて、できない。
しかしルミは、そのふたの一番端の辺りの板が、少しくさって割れているのを、知っていたのである。
手ごろな石が、足もとにあった。
それを拾って、|一《いっ》|旦《たん》ふたの上に置くと、割れた所を引っ張った。――メリメリと音がして、意外に簡単に、板は裂けた。
手に細かい木の粉がついて、ルミは顔をしかめて、手をはたいた。――都会っ子なので、手が汚れたりするのを、いやがるところがある。
ポカッと、ルミの手が入るほどの|隙《すき》|間《ま》が開いた。
ルミは少し|爪《つま》|先《さき》|立《だ》ちして、その暗い穴を|覗《のぞ》いていたが――もちろん、それくらいの隙間では何も見えない。中はただ暗く、シンとしていた。
ルミは、ちょっと鼻にしわを寄せた。いやな|匂《にお》いがしたのだ。
――今までに、ルミのかいだことのない匂いだ。
何だろう?
ともかく、ルミは石を手に取った。そして隙間の上に持って来ると、ちゃんと、そこを通るのを確かめた。
水があれば、ポチャッと音がするだろう。なにもなくて「|涸《か》れて」いれば、底に当るコツン、って音が……。
少しドキドキした。
お兄ちゃんが帰って来てから、やれば良かったかしら?
でも、一人でやって、お兄ちゃんに教えてやる方が、ずっと楽しい。きっとお兄ちゃんもやってみるだろう。すんだら、またこの板を元の通りにくっつけておけばいい。
両手で持っていた石を、ルミは落とした。穴の中、暗がりの中へ。
石は、すぐに見えなくなった。――ルミは、一つ、二つ、三つ、と数えた。
音がする。もうすぐ。もうすぐ。
四つ、五つ……。どんな音だろう?
六つ、七つ、八つ……。
「――九つ、十」
ルミは、口に出してそう言って、数えるのをやめた。
音は、聞こえなかった。――いつまでも。
じっと、ルミは耳をすましていたのだ。聞きもらすはずはない。
でも……。どうして音がしないんだろう?
ルミは、それでも|諦《あきら》め切れずに、じっと立って耳をすましていた。
何分もたった。どんなに少なくみても、百とかそこいらは数えられる時間だった。
でも、やはり音はしなかった。
こんなに長く――いつまでも落ちつづけて[#「落ちつづけて」に傍点]いるんだろうか? でも、そんなに深い穴なんてあるのかしら?
――ルミは、まだしばらく、その場に立っていた。
それから、ちょっと首をかしげた。ちょっとがっかりしていたのだ。
すると、
「ルミ!――ルミ」
お母さんの声がした。
ルミはあわてて駆け戻って行った。お母さんが庭の方へ来る前に、上がって手を洗わなきゃ。
サンダルを、ちゃんと並べて上がると、洗面所へ行って、パッと手を洗う。
「――ルミ」
「なあに、お母さん」
ルミは、何くわぬ顔で、母親の前に出て行った。
板の割れ目の隙間を元の通りにふさいでおくことなど、ルミは、きれいに忘れてしまっていた……。
2 死との約束
「やっぱり、こういう所は平日に来なきゃね!」
と、白浜|仁《ひと》|美《み》は、軽くスキップして歩きながら言った。
「ちょっと! 仁美、そんなに先に行っちゃわないでよ」
と、母親の千代子が声をかける。
「大丈夫! 迷子になるのはお母さんたちの方よ」
と、仁美は言い返した。
「――あの子ったら」
と、千代子は仕方なしに笑った。
「まあいいさ」
白浜省一は、そう言って、まぶしいような晩秋の空を見上げた。
「気持のいい日ね」
と、千代子は言った。
「ああ」
白浜省一は|肯《うなず》いて、「いい日を選んだ。そう思わないか」
「本当にね。そうだわ」
白浜省一と千代子が二人で歩いていると、何だか人目を引きそうだった。――何しろ、ここは東京ディズニーランドである。
仁美は、両親が一向に足を早めないのを見て、仕方なく戻って行った。
「――フリーの券を買っただろ。自由に乗ってろよ」
と、白浜省一は言った。
「だって、いざ離れちゃったら、捜すの、面倒だもの」
と、仁美は言った。「ね、そこで何か冷たい物、飲まない?」
「寒くないの?」
「|喉《のど》がカラカラ!」
「じゃ行ってらっしゃい、お父さんと二人でその辺りにいるわ」
「うん」
仁美は、カウンター式のドリンクコーナーへと走って行った。
――確かに、前に来た時は日曜日だったので、入場するまでに一時間かかり、中でも行列、また行列。
三つぐらいのアトラクションを楽しんだだけで、疲れ切って帰って来たものだ。
「こんなに静かなのね、普通の日って」
と、千代子が言った。
「うん」
白浜省一は、ベンチを見て、「少し座ろうか。――疲れたろう」
「別に……」
と、言いながら、千代子はベンチに腰をおろして、息をついた。
「ここに座ってりゃ、仁美が来ても、見えるさ」
白浜省一は、周囲を見回して、「こんな所に背広なんかで来るんじゃなかった」
確かに、背広にネクタイという格好の人はほとんど見当らない。
東南アジアの観光客らしいグループが、にぎやかに通り過ぎて行く。
「――子供はどこの国も同じね」
と、千代子は|微《ほほ》|笑《え》んで言った。
「そうだな」
白浜省一は、少し潮の|匂《にお》いを含んだ風を、大きく吸い込んだ。
――白浜省一と千代子の夫婦は、誰からも若く見られる。
実際には、白浜省一が四十五歳、千代子が四十一歳で、娘――一人っ子――の仁美が十五歳という、まあ標準的な年代なのだが、夫婦そろって童顔というか、坊ちゃんとお嬢さんという雰囲気が抜け切れない。
二人とも三十代の後半ぐらい、と見られることが多かった。
特に千代子は少し病弱で、あまり外へ出ない生活をしていたから、余計に色白で、お嬢さんらしさが残っているのかもしれなかった。
「今、何時だ?」
「――二時少し過ぎよ」
「四時ごろには出よう」
「|空《す》いてるから、充分でしょう」
「そうだな」
と、白浜は肯いた……。
――一方、仁美はオレンジエードを飲みながら小さなテーブルで、園内の図面を広げて、
「ええと、この前はこれに乗らなかったんだよね」
と、確かめていた。「じゃ――こっちから回った方が便利か……」
ガヤガヤと、女の子のグループがやって来た。|揃《そろ》って紺のブレザー。
同じ中学三年ぐらいかな、と思って見ていると、
「――仁美じゃない!」
と、メガネをかけた丸顔の一人が、目を丸くしてやって来た。
「あ、恵子か!」
小学校の時の親友だったのだ。「びっくりした!」
中学三年ともなれば、大分変っていて当り前だが、
「ちっとも変わんないね、仁美」
「そっちこそ」
と、仁美は笑って、「少しやせたって手紙よこしたじゃない」
「やせたのよ! 五百グラムも!」
と、恵子は強調した。「仁美、今日は何なの?」
「うん……。恵子は?」
「テストの次の日で休み。仁美も?」
「そうじゃないの。ちょっと用事でね」
と、仁美は|曖《あい》|昧《まい》に言った。「みんな学校の友だち?」
「そう。仁美、一人なの?」
「両親同伴」
「そう。元気、おばさん? 体の具合、どうなの?」
「まあまあね。こうやって出かけて来るぐらいだから」
「そうか。――よろしく言ってね」
並んで買っていた他の子が、
「恵子! 何にするの?」
と、呼びかける。
仁美は、
「行って。またその内――」
「うん。今度会おうね」
恵子が駆けていく。
中学の受験で別々になり、恵子の家が引っ越したこともあって、このところほとんど会っていない。
恵子たちは、飲物を買うと、早々に外へ出ることにしたらしい。仁美は、恵子がちょっと手を振って行くのを見て、ニッコリ笑って|応《こた》えた。
またその内。――今度。
でも、もうそんなことは起こらない[#「起こらない」に傍点]のだ……。
仁美は飲み終えて、外へ出た。遠くに、恵子たちの姿が見えなくなるところだ。
そして、仁美は歩き出したが……。
ふと、誰かに見られていると思った。どうしてそう思ったのか、よく分らなかったが、何となく、視線を感じたのだ。
振り向いた仁美は、サングラスをかけた男と、目が合った。いや――サングラスだから、相手の目は見えないのだが、その男が仁美を見ていたのは確かだった。
そして、仁美が振り向いても、その男は目をそらそうともせず、じっと立ち止って、仁美を眺めていたのだ。
薄いコートをはおったその男は、もう大分髪が白くなっていて、見たところでは六十歳ぐらいとも思えた。もっとも、仁美は男の人の年齢などよく分らない。
ちょっと気味が悪かったが、仁美は、そのまま両親を捜して歩きだした。
「仁美」
母が、ベンチで手を振っている。
「――ね、小学校の時一緒だった、恵子に会っちゃった」
「まあ、恵子ちゃん? あのメガネかけた丸顔の――」
「そう。今でもだよ」
「へえ」
「友だちと五、六人で来てた」
「お話ししたの?」
「少しね」
「そう。――良かったわね。どこへ行くの、今度は?」
「うん……」
仁美は振り向いた。――あのサングラスの男は、もう見えなかった。
「――おいしかった」
仁美は、ナイフとフォークを置いた。
「もういいの?」
「お|腹《なか》一杯だよ」
と、仁美は言った。「でも、デザート、食べよう」
「そうしましょ。あなたは?」
「うん。――そうだな。何か食べるか」
ホテルの中の、静かなレストラン。
白浜の家族がよく利用するので、レストランの方でも、すっかり顔を|憶《おぼ》えてくれている。
「今日のお肉は良かったよ」
と、仁美が一人前のことを言った。
「そうか。この前はちょっとな。ま、良かった」
ウエイターがすぐにやって来て、デザートのメニューを配る。
「私、このクレープ」
「十分ほどお時間をいただきますが」
「構いません」
と、千代子が言った。
――急ぐことはないのだ。
「ちょっと――」
仁美は、席を立った。
化粧室へ入って、手を洗う。そして、ふと顔を上げると、鏡に、いつもと変わらない自分の顔が映っていた。
ここへ来るのも、これで最後か。――仁美には、しかし、少しも実感がなかった。
そんなものかもしれない。
死ぬと決めても、人間、その場にならないと、怖いとも思わないものなのかもしれない……。
――白浜省一と千代子、そして仁美の三人は、このホテルに部屋を取っている。今夜、三人で薬をのんで死ぬつもりである。
学校も休んで、今日一日、最後の家族の団らんを楽しんだのだった。
化粧室を出た仁美は、すれ違った男の方を、ハッとして振り向いた。
今の人は……。サングラスをかけていたみたいだけど……。
もちろん、サングラスをかけた男が一人しかいないというわけではない。でも――偶然だろうか?
席へ戻ると、コーヒーと紅茶が来ていた。
「仁美、ミルクティーでいいのね」
と、千代子が言った。
「うん」
と、仁美は|肯《うなず》いた。「いつもの通りね」
「そう。いつもの通りに、ね」
千代子は、夫の方を見て、「あなた、ここの支払いはどうするの?」
「そうだな……。現金で払っておくか」
「迷惑はかけたくないわ」
「そうだな」
と、白浜は肯いた。「現金にしよう」
デザートが来て、仁美はきれいに平らげてしまった。
食事が|喉《のど》を通らないのでは、と思っていたのだが、そんな心配は不要だったようだ。
「そろそろ部屋へ行くか」
と、白浜が言った。
九時半だった。
広いツインルームに、エキストラベッドを入れてもらって、部屋は快適そのものだった。
「――さあ」
と、千代子はカーテンを閉めた。「ちゃんとお風呂へ入って、きれいになってからね。あなた、先に入って」
「そうするか」
仁美は、父が|上《うわ》|衣《ぎ》とネクタイをハンガーへかけて、バスルームへ入って行くのを、ベッドに引っくり返って、見ていた。
「――仁美」
と、千代子が言った。
「なに?」
「お手紙とか、書く?」
「別に。――でも遺書は、置いといた方がいいよ。見付けた人が、迷わなくてすむし」
「そうね」
と、千代子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「何だか眠くなったわ」
「後で、ゆっくり眠れる」
「本当にね。――ここ何日も、ろくに眠れなかったのに……」
千代子は、ソファに腰をおろした。
バスルームから、お湯の入る音が聞こえて来る。
仁美は、起き上がると、
「お母さん」
「え?」
「どこかへ行ってようか」
「どこへ?」
「下の喫茶とか。お父さんと、最後に二人きりになりたいでしょ」
千代子は、少し|頬《ほお》を染めた。
「そう……。いいの?」
「うん。下でジュースでも飲んで来るから」
仁美は靴をはくと、「一時間? 二時間?」
「一時間で充分よ」
と、千代子は言った。
「じゃ――一時間半。ごゆっくり」
仁美は、部屋を出た。
エレベーターでロビーへ下りると、コーヒーラウンジへ入る。
お腹はもう満腹。奥の席について、コーヒーを頼んだ。
本でも持って来りゃ良かった、と思いながら、表の車の流れを見ていると、
「失礼」
と、声がした。「いいかな?」
振り向いた時には、そのサングラスの男は、もう向い合った席に座っていた。
「あの……」
「私もコーヒーを」
と、ウエイトレスに言って、「――びっくりさせてすまないね」
近くで見ると、老人というには若々しい。
六十歳ぐらいかな、と思った。しかし、少しも老人くささは感じられない。
「あの――ディズニーランドでも」
「そう。さっき、ここのレストランでも会ったね」
口調は穏やかで、自然だった。
「何かご用ですか」
と、仁美は訊いた。
「間違ってたら、申し訳ないが」
と、その男は言った。「君たち一家が、一家心中しようとしているんじゃないかと思ったんでね」
仁美は、凍りついたように、動かなかった。
二人の前にコーヒーカップが置かれ、熱いコーヒーが注がれる。
「ごゆっくりどうぞ」
ウエイトレスの声が、仁美の耳を素通りして行く。
「――やっぱり当ったかな」
と、男は言った。「誤解しないでくれよ。私は、心中を止めようとしているんじゃない。君らなりの考えがあってのことだろう。しかし、できたら、その事情を話してみてもらえないかね」
仁美は、ゆっくりとコーヒーにミルクと砂糖を入れた。
スプーンでかき回しながら、
「父は、祖父から会社を受け継いだんです」
と、言った。「創業者はその父親で、父は三代目の経営者でした。ところが――」
一口、コーヒーを飲んで、
「実質的に会社を動かしていた専務が、こっそり株を買い占めたり、得意先を味方につけておいて、突然独立してしまったんです。――父はあわてました。坊ちゃん育ちで、人を疑ったことのない人です。会社は仕事が三分の一ぐらいまで減って、材料の支払いができなくなりました。そこへ古い知人が、|儲《もう》け話がある、と持ちかけて来て――」
「大損か」
「ええ」
と、仁美は肯いた。「その人も、専務に頼まれていたんだと後で分りました」
「ひどい話だね」
「何億円もの借金をかかえて……。家も全部抵当に入っていました。父は、残った現金を、社員へ分けて、退職させ、私と母に、家も何もかも失うことになった、と話してくれました」
「なるほど」
「それでも、まだ借金は残っています。取り立てに追われ、住む家もなくて逃げ回るなんて、とても……。母は体が弱いので、無理がききません。それで話し合って、こうすることに決めたんです」
「しかし……君はまだ若い」
仁美は首を振って、
「父と母を死なせて、一人で生きてるなんて、いやです。――父も母も、人はいいんですけど、|逞《たくま》しさなんてない人だし、|惨《みじ》めな暮しをするぐらいなら、死んだ方が、という方ですから」
「なるほどね」
と、男は、ゆっくりとコーヒーを飲みながら、「気の毒な話だ」
「でも、薬をのんで眠っちゃうだけですから。――大して苦しくないと思うし」
男は、少し間を置いてから、
「どうかね」
と、言った。「君らに頼みがある」
「え?」
仁美は面食らった。「あの世の誰かへ伝言でもあるんですか」
男は、愉快そうに笑った。
「いや、面白い子だね、君は」
「そうですか」
「実は、ちょっと危険を伴う仕事があるんだ。これをもし引き受けてくれたら、君の家の借金はすべて私が肩代りしよう」
仁美は|呆《あっ》|気《け》に取られて、その男を見ていた……。
「――もう一時間半たつわ」
千代子は、ベッドから出ると、「仁美が戻って来るわよ」
「もう?――時間がたつのが早かったな」
白浜は息を弾ませて、「いや、最高だった!」
「早くして」
と、千代子は急いで下着をつけると、バスルームのバスローブをはおった。「あの子が気をきかしてくれたのよ」
「いい子を持って幸せだ。いや、幸せだった、と言うべきかな」
部屋のチャイムが鳴った。
「ほら、早く!」
「おっと」
白浜はあわててベッドから飛び出した。「バスルームでシャワーを浴びてる」
「ええ」
千代子は、ドアを開けて、「お帰り……。あら」
「お客様よ」
と、仁美は言った。
「まあ、あの……。すみません、ちょっとお待ちを」
と、千代子は赤くなって、言った……。
――十五分後、サングラスを外したその紳士は、仁美に言った言葉をくり返していた。
「分りませんね」
と、白浜は言った。「どうして私たちにそんな……」
「これは家族でしかやれない仕事です」
と、その男は言った。「本物の[#「本物の」に傍点]家族しか。しかも、危険がある」
「どんな危険です?」
「命にかかわる、と言っておきましょう」
と、男は言った。「引き受けて下されば、もっと詳しいことをお話しします」
「はあ……」
白浜と千代子は、顔を見合わせた。
「お疑いでしょうか」
と、その男は言った。
「いや……。しかし、負債は五億円以上ですよ」
「ご心配なく」
と、男は言った。「取りあえず、ここに現金で三百万あります」
一万円札の束が三つ、置かれた。
「これで、あなた方三人、その家へ移り住むために必要な支度をして下さい。その上で――」
「待ってください」
と、仁美は言った。「その危険っていうのは……。殺されるとか、そんなことなんですか?」
「私にも分りません」
と、男は首を振った。「――あなた方は、これから死のうとしている。それは楽な死でしょう。この頼みを聞けば、恐ろしい目にあったり、殺されかかったりするかもしれない。それは事実です。しかし――もし、無事にこの仕事をやりとげて下されば、あなた方には自由が待っている」
「自由……」
と、千代子が|呟《つぶや》いた。
「借金も何もない、三人の生活が、です。どうです?」
――しばらく、誰も口をきかなかった。
仁美が、その三つの札束の一つを手に取った。
「私、今度はベッドにしよう。ずっと布団だったんだもの」
「仁美――」
「どうせ死ぬのよ。――やってみようよ。少し痛い思いしても、一人でも生き残れば……。ね、お母さん」
「あなた……。どうする?」
白浜は、ギュッと手を握り合せた。
「お父さんはいいの」
と、仁美が言った。「私とお母さんが言えばついて来る。――ね、お父さん」
白浜は、二人の顔を見て苦笑した。
そして言った。
「|俺《おれ》には、何を買ってくれるんだ?」
3 トラック
久井武彦は、ガタッと音をたてて|椅《い》|子《す》をずらすと、立ち上がって、歩き出した。
――別に、大して珍しいことでもない。ここが授業中の教室でなければ、である。
「久井」
と、教師が顔を上げて、「どこへ行くんだ?」
「タバコをすって来るんだ」
と、久井武彦は言った。「ここですっちゃまずいだろ」
いくら教師が注意してもザワザワの消えることのない教室の中が、シン、と静まり返った。
生徒たちは、興味|津《しん》|々《しん》の目つきで、久井武彦と教師の間に飛び散る火花を眺めている。
もちろん、とんでもない、と|叱《しか》りつけるのが教師の役目だろうが、この生徒に関しては、どの教師も、おっかなびっくりだった。
おとなしく、言うことを聞いて席に座るような少年ではない。やり合えば、教室の中はたちまち|蜂《はち》の巣をつついたようになって、しばらくは授業どころではあるまい。
たとえ、力ずくで席につかせたところで、授業など聞くわけもないのだし……。
教師は、軽く肩をすくめた。
「よし。行け」
「どうも」
久井武彦はニヤッと笑って、「心配いらないぜ。ちゃんと、タバコもライターも持ってるからさ」
と、ポケットから出して見せる。
ワッと生徒たちが笑った。
つい三十分ほど前の昼休みに、抜き打ちで所持品検査をしたばかりなのである。
久井武彦が、少しノッポの、しかし骨格のしっかりした体を少し前かがみにして教室を出て行く。教師が、その後ろ姿へ、
「この時間中は戻って来るな」
と、声をかけた……。
――誰が。頼まれたって、戻るもんか。
廊下をのんびりと歩いて、久井武彦は校庭へ出た。
木立ちにもたれて、タバコに火を|点《つ》ける。――少し風は冷たくて、乾いていた。
晴天だった。武彦は空を見上げて、もともと細い目を、もっと細くした。
十七歳。――普通で行けば高校二年生だが、一年留年しているので、今、高一である。
「畜生……」
と、武彦は|呟《つぶや》いた。「面白くねえな」
何だかむしゃくしゃした。――いつもは、そう|喧《けん》|嘩《か》っ早いわけじゃないのだが、今は誰かが肩をぶつけただけで、殴りつけそうな気がする。
タバコをすったって、気分が落ちつくわけでもないが、教室の中で、じっと座ってるよりはずっといい……。
武彦には、どうして|苛《いら》|々《いら》しているのか、そのわけもよく分っていた。だからといって、どうすることもできない。だからこそ、苛立っているのだった。
――どこへ行っちまったんだ?
武彦は、タバコを足下へ投げすてて、ギュッと靴で踏みつぶした。もう一本取り出して、火を点けようとしていると――。
「だめ」
ポン、と肩を|叩《たた》かれた。
武彦は、ポカンとして――今のが、|空《そら》|耳《みみ》だったかと思いながら、それにしちゃ、空耳で肩を叩かれることもないしな、と振り返っていた。
「またさぼってんのね」
「お前……どこ行ってたんだよ!」
武彦は顔を真赤にして、「心配してたんだぞ! 黙ってどっかへ行っちまいやがって!電話一本ぐらいかけたっていいじゃねえかよ!」
一気に言ってしまったものの、よく考えりゃ、武彦自身の方が、よっぽど風来坊なのである。
「ごめん」
と、白浜|仁《ひと》|美《み》は言って|微《ほほ》|笑《え》んだ。「一応、心配してくれてたんだ」
「当り前だろ。一家で急にいなくなりやがって……。前から、聞いてたしよ、親父さんの会社がどうとかって。だから、もしかして――」
「もしかして?」
「もしかして……」
と、言いかけて肩をすくめ、「ま、元気なんだな。良かった」
「ちょっとお話があって。――もしかしたら、さぼってるかな、って」
「さぼってんじゃねえや、休憩してるんだ」
と、武彦は言った。
「裏へ行こうよ。教室から見える」
「ああ」
二人は、校舎の裏手に出た。
「今、どこにいるんだ?」
と、武彦が|訊《き》いた。
「今のとこ、住所不定」
「どうして?」
「引越しの途中なの」
と、仁美は言った。「トラックが、この近くで待ってる」
「そうか。――遠くに行くのか」
「近くはないけど、車で行ける範囲だから」
「そうか。落ちついたら、知らせろよ。見物に行く」
――仁美と、久井武彦。
奇妙な取り合せだが、実は、小さいころ二人は近所に住んでいて、仲が良かった。二つ年上の武彦を、仁美は「お兄ちゃん」と呼んで、よくくっついて歩いていたものだ。
武彦が両親の離婚などで転居して行き、再び二人が会ったのは、中学校だった。一年生の仁美は、三年生の札つきの不良が武彦だと知って、びっくりしたものだ……。
「どうもね、そんなわけにはいきそうにないの」
と、仁美は言った。
「どうして?」
「――さよなら、を言いに来たんだ」
と、仁美は言った。
武彦は仁美を見つめた。
「どういうことだよ?」
「私にもよく分らない。でも、危険なことが待ってるの。もしかしたら、三人とも死ぬかもしれない」
「ええ?」
武彦はすっかり混乱している様子。
「いいのよ」
「よかねえよ」
武彦は、仁美の腕をつかんだ。「はっきり言えよ」
「私たち――心中するつもりだったの」
「三人で? 馬鹿!」
「そうね。でも、不思議なことがあってね……。うまく生きのびられたら、また親子三人でやり直せるかもしれない」
「さっぱり分んねえよ。分るように説明するまで、離さないぞ」
「私だって、よく分んないのよ」
仁美は、あの不思議なサングラスの男のことを話してやった。
「――じゃ、その何とかいう小さな町に住んでくれ、って……。それだけか」
「その町に、何かがあるのよ」
「やくざでもいるのか?」
「知らないわ。ともかく、三人で決めたの。どうせ死ぬ気だったんだし、一つ、|賭《か》けてみようって……」
武彦は、戸惑いながら、
「ともかく……死ななくて良かったな」
と、言った。
「そうね、今は私もそう思ってる」
と、仁美は|肯《うなず》いた。「じゃ、もう行かなくちゃ。武彦も、授業に戻って」
「戻るな、って言われて来てら」
「それを戻るのが、武彦らしいところじゃないの」
武彦は、ちょっと笑った。
「それもそうだな」
「じゃ、手を離してくれる?」
武彦は、まだ仁美の腕をつかんだままだったのだ。
「ああ……」
武彦が、そう言って――急に仁美を引き寄せると、キスした。
「――何するのよ」
急いで後ずさって、仁美は真赤になった。「中学生にそんなことして!」
「だって、お前が……死ぬ、とか言うからだよ」
武彦も、照れて目を伏せている。「――怒ったか?」
「ううん」
と、仁美は首を振った。「なかなかだったよ、今のキス」
「からかうなよ」
武彦は頭をかいた。「だけど――本当に危いのか? 何か、武器持ってるのか?」
「まさか。そういう相手じゃないみたいよ」
「ふーん」
「ともかく……何カ月か、それともアッという間に片付くか、分らないけど。――もし、生きて帰れたら、会いに来る」
武彦は、肯いた。
「分った。――死ぬなよ。絶対に死ぬな」
仁美は、武彦の、真剣そのものの口調に打たれた。
「分ったわ」
と、肯く。「死なないで、帰って来る」
足音がした。
裏門から、母親の千代子が入って来たのだった。
「仁美、もう行かないと……。まあ、武彦君ね」
武彦は、ちょっと頭を動かした。会釈したつもりらしい。
「じゃ、またね」
と、仁美は言って、「――お母さん、行こう」
「ええ。じゃ、武彦君」
「どうも……」
武彦は、ぼんやりと母娘を見送っていた。すると、急に仁美が振り向いて、タタタッと駆け戻って来たと思うと――武彦に抱きついて、しっかりキスしたのだった。
「バイバイ!」
仁美が駆けて行く。|呆《あき》れ顔の千代子の手を引張るようにして、裏門から出て行ってしまった……。
武彦は、しばらくその場に突っ立っていたが――やがて、我に返ったように左右を見回して……。
そして仁美たちの後を追って、駆け出したのだった……。
全く、厄介なこった。
電話ボックスに入って、広沢は十円玉を入れながら、ため息をついた。
口やかましい依頼人ってのは、やりにくいよ。
――もちろん、払うものさえ、きちんと払ってくれりゃ、こっちとしては文句ないわけだが。
「――もしもし。――ああ、広沢ですが」
「どうだ?」
と、不機嫌そうな声が飛び出して来る。
初めに会った時は、一体何をこいつは怒ってるんだろう、と面食らったものだ。
すぐに、それがいつもの声、顔なのだと分ったが――。全く、話していて、気分の良くなる相手ではなかった。
「トラックは停ってます」
と、広沢は言った。「昼飯でしょう。運転手も一緒に、レストランに……」
「行先は分らんのか」
「まだ都内です。分りませんよ」
「必ず突き止めろよ。見失うな」
「分ってます。任せて下さい」
「ちゃんと連絡を入れろよ。――五分、遅れたぞ」
と言って、相手は電話を切った。
「――やれやれ」
広沢は肩をすくめる。
ボックスを出て車に戻ると、広沢は|欠伸《あくび》をした。
尾行してる最中に、そうそうきちんと連絡できるもんか! 何も分っちゃいねえんだからな、全く……。
広沢は、いわゆる「取り立て屋」の一人である。
もともとは興信所に勤めていたのだが、情報を顔見知りの暴力団員へ流してやったのがばれて、当然クビ。成り行きで、「組」の仕事の下請けのようなことをやるようになったのだ。
あれこれやったが、今はサラ金などの業者や、たちの悪い不動産業者に頼まれて、借金の取り立て、住人の追い出し、いやがらせ、といった仕事をしていた。
もちろん、人に好かれる商売でないことは百も承知だ。――女房、子供もいたのだが、広沢の仕事を嫌って、出て行ったきりだ。
勝手にしろ、と広沢は思った。一人になりゃ、気楽でいいぜ。
――もうそろそろ四十代も半ば。少し金をためて、何かのんびりできる商売でも始めたい、と思っていたが……。なかなか、うまくはいかない。
借金の怖さは、身をもって(?)知っているから、誰からも借りたくなかった。
今度の話は、広沢にとっては正に渡りに船、というところだった。報酬がべらぼうにいい。
もちろん、ちゃんと取り立てられれば、の話だが。
「しかし――妙な連中だな」
と、広沢は首をひねっていた。
五億円からの借金。
家を引き払って姿をくらます、というのはよくやる手だが、どこで買い込んだのか、トラックに家財道具一式、積み込んで、一家で引越すらしい。
どこへ行くんだ?――まず、それを突き止めるのが第一だった。
もちろん、今のあの連中――確か、白浜とかいったな――に、何億もの金はあるまい。しかし、たいてい経営者ってものは、倒産しても何とかなるように、色々な形で、財産を隠し持っているものだ。
広沢の仕事は、白浜たちを監視して隠し財産を突き止め、それを絞り取ることである。
――あれは白浜の女房と娘だな、とレストランへ入って行く二人を見ながら、広沢は思った。
あの女房は、なかなかの女だ。それに娘の方はまだ十五、六か……。
この仕事も、徹夜の見張りは日常茶飯事。決して楽じゃない。
多少の「役得」があるとすれば、
「今は見逃してやるから、その代り――」
と、女房や娘をいただく[#「いただく」に傍点]ことぐらいだ。
あの母娘は、どっちも悪くなさそうだ。
あわてることはない。――じわじわと、追い詰めて、楽しんでやる……。
「ん?」
広沢は、目をパチクリさせた。「何だ、ありゃ?」
「じゃ、先にトラックへ戻ってるからな」
と、白浜省一は立ち上がった。
「でも、あなた――」
「運転手さんと、道を研究しておく。ゆっくり食べてから来いよ」
白浜は、トラックの運転手と二人で、先にレストランを出て行った。
「お父さん、すっかり張り切っちゃってる」
と、仁美は笑った。「お|腹《なか》|空《す》いたな。何を食べようかなあ……」
母の千代子が苦笑して、
「朝も、ちゃんと食べたじゃないの」
と、言った。
「いいの。さっきのキスでエネルギー使ったから」
「まあ」
――二人は、軽くカレーを食べておくことにした。
「でも――」
と、千代子が言った。「本当に、お父さん、別人のようね」
「そう。――もともと、お父さんって、社長とかに向いてないんじゃないの?」
「かもね」
と、千代子は肯いた。
本当に、と千代子は思う。会社が危くなりかけてからの何カ月か、夫のやつれ方は、見ている方が|辛《つら》くなるほどだった。
そして、|一《いっ》|旦《たん》死を覚悟して、やっと夫は落ちついたように見えたのだが……。
あの不思議な紳士の申し出を受けて、三人で、新しい生活を始めることになると、仁美の言った通り、夫は、別人のように張り切り出したのである。
上に立って人を動かすよりは、自分で動く方が、夫の性に合っているのかもしれなかった。
「でも、仁美」
と、千代子は思い出して、「あなた、武彦君と……」
「え? ああ、あれ? |挨《あい》|拶《さつ》代り」
と、仁美はケロッとしている。
「そんなこと言って……。怒らないから、本当のこと、おっしゃい」
「あれが初めてよ。いやねえ、そんな目で見て。私、まだ中学生よ」
「ならいいけど……」
「武彦って、悪い奴じゃないよ」
「知ってるわよ。お母さんだって好きよ、あの子。ただ――色々あったからね」
「すねてんのよ。うちのお父さんと似てるのかもね」
「どうして?」
「自分のすることが分ってない、っていうのかな。そんな感じがあって」
「ふーん」
と、千代子は感心したように言った。
なかなか仁美もよく見てるわ、と思ったりしたのである。
カレーが来て、二人は食べ始めた。
仁美が、途中でちょっと一息つくと、
「もし……この仕事が無事に終ったら」
「なあに?」
「一番高いレストランに行こうね」
「何言ってるの」
千代子は笑った。
――もちろん、不安はあった。
しかし、ともかく、今の千代子たちには「行くべき場所」があるのだった……。
4 |惨《さん》|劇《げき》の町
「どうしたんだ」
と、小西晃介は言った。
「え?」
娘の宏子が顔を上げた。「どうした、って――何が?」
「隠してもだめだ」
小西晃介は首を振って、「会った時から、様子がおかしいのは分ってた。――何があったんだ?」
宏子の服装は、三十歳という年齢にしても、ひどく地味で、質素なものだった。
小西晃介が社長をつとめる――というよりも、小西自身が作り上げた会社の所有するこのビルは、二十一階の高さがあって、最上階は展望レストランになっている。
今、小西と宏子は、少し遅目の昼食をとっているところだった。
もちろん、見はらしのすばらしい窓辺のテーブルについて、小西は今日のランチメニューを食べていた。ランチといっても、まともに払えば、課長クラスでもためらうほどの金額である。
「別に何も……」
スープを飲みながら、宏子は言った。「特に、どうってことはないの」
「すると、特別でないことが、何かあったんだな」
ウエイターが、スープ皿を下げて行くのを待っていたように、宏子は疲れ切った様子で、息を吐いた。同時に、涙が|頬《ほお》を伝い落ちた。
小西は驚いた。――一人っ子で、散々甘やかし、ぜいたくもさせて来たというのに、宏子は、小さいころから独立心の強い、気丈な娘だった。
何があっても、およそ泣くことなど、ほとんどない。
「大丈夫か」
と、小西は言った。
「ごめんなさい」
宏子は|微《ほほ》|笑《え》んで、涙を|拭《ぬぐ》った。「少し疲れてるのよ」
「金のことなら――」
「そうじゃないの」
宏子は軽く息をついた。「――久しぶりだわ、こんなもの食べるの」
料理の皿が来ていた。
「久弥に何か買って帰ってやれよ」
「そうね。何かおいしいお菓子でも」
食べ始めると、やっといつもの宏子らしい快活さが戻って来た。
宏子の夫は江田洋介という。――今の宏子の格好を見ても分る通り、江田と宏子の結婚は、父親の反対を押し切ってのものだった。
小西としては当然、宏子に合った男を養子に迎えて、会社を継がせたい、と思っていた。ところが、大学時代に出会った江田と、宏子は恋に落ちる。
父親が反対すると、宏子はさっさと家出してしまった。――母親は、宏子が中学生の時、亡くなっていたのである。
江田は、大学の社会福祉科に通っていて、一生貧乏暮ししても福祉のために働く、と決めている男だった。
二人を別れさせるのを|諦《あきら》めた小西は、江田を会社に課長待遇で迎えよう、と提案したが、あっさりけられてしまった。
大学を出ると、二人はボロアパートを借りて暮し始め、一年して久弥が産まれる。
小西も、完全にお手上げだった。
しかし、一方、心の奥底では、その宏子の頑固さを気に入っているところもあったのだ……。
江田たちは、この二年ほど、都心を離れて、小さな田舎町に住んでいた。江田が、働いていた福祉事務所で嫌われて、追放同然にやめさせられてしまったからである。
別に江田が不正をしたとかいうのではなく、むしろその逆で――。
福祉事務所に生活保護を申請しに来る暴力団員を、江田は真向からけってしまった。
もちろん本来は江田の判断が正しい。何しろ、中には外車で乗りつけて、手当を出せと要求して来る組員もいるくらいなのだ。
しかし、他の職員は、仕返しを怖がって、そういう相手に素直に金を出す。何といっても、自分の金ではないのだから。
その一方で、本当に困っている母子家庭などへの支給を打ち切って、バランスを取ったりすることが、しばしばあるのだ。江田にとっては、それは胸が悪くなるような状況だった。
江田が暴力団員の申請をはねつけたおかげで、事務所の職員、誰かれ構わず脅迫やいやがらせにあうはめになった。その非難は、江田へ集中した……。
こんな事情で江田が辞職した時、小西は少々|呆《あき》れてしまった。よくもまあ、宏子の奴、ぴったりの亭主を見付けたものだ、と……。
今、江田はその町に近い市の図書館で働いている。もちろん生活は苦しく、宏子もパートで働きに出ているが、小西からの援助は、一切受けようとしない。
もう、小西も諦めていたのだった。
「――あの人の様子がね、おかしいの」
食事の後、コーヒーを飲みながら、宏子は言った。
「病気か」
小西はコーヒーをかき回すスプーンを止めた。
「分らないけど……。おかしいの」
と、宏子は首を振った。
「一度、|診《み》てもらえ。いいドックを紹介してやる」
「体の病気じゃないと思うわ」
「すると……神経か?」
「何て説明していいのか……。途方にくれてるのよ、私も」
宏子がこんなことを言い出すのは珍しい。「ごめんね。何だか分らないことばっかり言って。でも、私にも分らないの」
「どういうことだ?」
「人が変った、っていうのかしら……。このひと月くらい、あの人らしくないことが続いてるの」
「仕事がうまくいかないとか――」
「色々|訊《き》いてみたわ。でも、一向に要領を得なくて……。初めはね、あの人が働いてる図書館の事務長さんって人から電話をもらって、話があるから、と……」
「それで?」
「出かけて行って、喫茶店で会ったわ。十八歳の、今年から勤め始めたっていう女の子が一緒に来てた。――話を聞くと、あの人が、その子に言い寄って困る、っていうわけなの」
「江田君が?」
「ね、信じられないでしょ? 私もびっくりして、考え過ぎじゃないか、って言ったの。お茶に誘うぐらいのことは、そりゃしたかもしれないけど、って。でも、その女の子の話では、毎日のように、あの人が帰りに出口で待っていて、どこかへ行こう、とうるさくつきまとうんだって……」
「それは――」
「作り話かとも思ったわ。何しろ、強引にキスしたり、スカートに手を入れたりした、なんて……。あの人がそんなこと、と思って……」
「私もそう思うね」
「でも、その事務長さんの話では、同僚たちの間でも評判になってるし、実際に、開館中で利用者が大勢いる前で、あの人がその女の子を抱きしめようとしたのを見たっていうの」
「それは驚きだな」
と、小西は言った。
「私もショックだったわ。――その晩、あの人に訊いてみたら、笑うだけだった」
「本当なのか」
「問い詰めたら、アッサリそうだ、って……。分らないわ。もちろん、あの人だって男だから、若い女の子にひかれることもあるでしょう。でも――そんなことをして、家では何くわぬ顔してるなんてこと、ないわ」
「そうだな」
「でも、もっとショックだったのは、そのこと自体じゃないの。――人間、魔がさすってことはあるでしょう。でも、私が真剣にそのことを話してるのに、あの人は謝るでもなし、怒るでもないの。笑ってごまかすのよ。あんなこと、決してしない人だったわ」
それは確かにおかしい。
小西も、江田のことは何度も会って、よく知っている。
人間、どんなにしっかりしていても、中年になってから、道ならぬ恋に狂ったり、金にとりつかれたりすることはある。しかし、そこにも、人間のタイプ、性格というのは出るものである。
江田は、およそそんなタイプではないのだ。
「――それはやはり、精神科の問題じゃないかな」
と、小西は言った。「いい医者を紹介してやる。一度連れて行けよ」
「ええ……」
しかし、宏子は、急に口が重くなった。「何とかするわ。心配しないで」
「だがな――」
「ごめんね。つい弱音を吐いて。お父さんの顔見たら、帰るつもりだったんだけどな……」
「いいじゃないか。子供のことを心配するのが親の役目だし、楽しみでもある」
「ありがとう」
宏子は、小西の手を、ちょっと握った。「何かの時には、必ず相談するわ」
「ああ。――いつでも電話しろ。会社へかけても構わん」
「さ、もう帰らなきゃ」
と、宏子は、バッグを手に取った。「久弥を預けて来たの。遅くなると、ご機嫌が悪くなるから」
「送ろう」
小西はビルの下まで、娘を見送った。
手を振って帰って行く宏子の姿は、いつもの通り明るく、元気だった。
小西は、もちろん宏子のことを心配していた。しかし――まさか生きている娘の姿を、これきり見られなくなろうとは、思ってもいなかったのだ……。
トラックが、ガクン、と揺れて、ウトウトしていた仁美は、目を覚ました。
「――ああ、眠っちゃった」
と、仁美は頭を振った。
「もっと眠ってればいいのに」
と、千代子が言った。「まだ大分かかりそうよ」
「眠いわけじゃないの。首が痛いや」
と、手でもんだ。
座席のクッションは、お世辞にもいいとは言えない。
助手席には、父親の白浜省一が座って、地図とにらめっこしている。
仁美と千代子はその後ろの、長距離の場合には仮のベッドになる、狭い席に座っていた。
「――もうずいぶん田舎ねえ」
と、汚れた窓から、木立ちの列を眺めて、仁美が言った。
「そうね」
「私、あの小西っておじいさんの話、思い出してたの」
「小西さんの?」
「うん。――何があったんだろうね」
「分らないわ」
と、千代子は首を振った。「そのために、私たちが行くんじゃないの」
「そりゃ分ってるけど……」
仁美は、窓の外へ目をやった。
――江田宏子は、父親と昼食を一緒にとって半月後に死んだ。
殺されたのだ。夫の手で。
「ひどいものでしたよ」
と、小西は、ホテルの部屋で、白浜親子を前に言った。「知らせがあって、駆けつけたんですがね……。宏子は夫の手で、何十回も刺されて、ほとんど見分けがつかないくらいに……」
小西の声は詰まった。
「どうしてそんな……」
白浜が|唖《あ》|然《ぜん》として、言った。
「分りません。町の人の話では、突然、宏子が子供の久弥を抱きかかえて、家から転がるように飛び出して来て、それを夫の江田が、包丁を振りかざして追っていた、と」
「助けられなかったのかしら」
と、仁美は思わず言った。
「江田は狂ったように刃物を振り回していて、誰も近付けなかった、と……。宏子と、孫の久弥。二人とも、道で殺されてしまったのです」
「で――ご主人の方は」
と、千代子が|訊《き》いた。
「返り血を浴びてしばらくぼんやりしていたが、やがてフラッと立って家へ戻って行き……。後で警官が踏み込むと、自分も|喉《のど》を突いて――」
「じゃ、原因は分らなかったんですか」
「結局、江田の一時的な錯乱ということになりました」
と、小西は言った……。
しばらく、仁美も両親も、口を開かなかったものだ。
「そのことと、私たちの仕事というのは――」
と、白浜がためらいがちに口を開いた。
「もちろん、関係があります」
と、小西は肯いた。「私は娘と孫を、一度に失った。しかし、あれが本当に、言われていた通りの突発的な錯乱によるものなら、今さら、どう言っても始まらない」
「そうじゃない、とおっしゃるんですか」
「どうも妙なのです」
と、小西は言った。「私は、人を雇って、あの町のことを調べさせました。――すると、奇妙なことが分ったのです。町のあちこちの家で、事件が起っている」
「事件?」
と、仁美は言った。
「もちろん、江田の家のように|悲《ひ》|惨《さん》なものではないが、主人が突然姿を消して帰らない家があったり、働き手が全く外出できなくなって、困り果てている家もある。その町の子は、みんなバスで十分ほどかけて、隣の町の小学校へ行くのですが、あの町の子が、集団で万引きをして捕まっている」
「なるほど」
と、白浜は肯いた。
「確かに、一つ一つは、そう珍しいことではありません。しかし、そういった事件は、たった一カ月ほどの間に起っているのです」
「まあ」
と、千代子が思わず声を上げた。
「あの町には、何か[#「何か」に傍点]が起っている。――私はそんな気がしたのです」
と、小西は言った。「それを何とかして知りたい。もし、娘や孫の命を奪ったものが、何か別のものだったとしたら――何としても知りたい、と思ったのです……」
――何か別のものだったとしたら。
その小西の言葉は、今でも仁美の耳に残っている。
「でも……」
と、仁美は、トラックの外の風景へ目をやりながら、言った。
「うん?――何か言った?」
と、千代子が、メモから顔を上げて訊く。
「あの小西って人の話……。あれで終りじゃないような気がする」
「どういう意味?」
「よく分んないけど――。あの人、他にも何か知ってたんじゃないかしら」
「どうしてそう思うの?」
「うまく説明できないけど……。あの時の印象」
「そう」
「まだ隠してることがある。そんな感じだったわ」
「どんなことを?」
「つまり――もっと具体的な何かを。私たちを待ってる危険の……」
トラックが、石にでも乗り上げたのだろう、ガタン、と派手にバウンドした。
「いてっ!」
と、声がした。
千代子と仁美は、顔を見合わせて、
「――お母さん」
「今の声……」
「後ろから聞こえた」
千代子が、夫の肩を|叩《たた》いた。
トラックがわきへ寄って停ると、みんなが降りて、後ろの荷台へと回る。
「――おい、誰かいるのか?」
と、運転手が怒鳴った。「隠れてるんなら、出て来な!」
少しして、ガタゴトと音がした。
「――やあ」
と、荷台から顔を出したのは――。
「武彦!」
仁美が目を丸くした。「何してんのよ、こんな所で!」
「うん……。ドライブさ」
と、武彦は言って、「しかし、さっきのはこたえたぜ」
と、|尻《しり》をさすった。
「|呆《あき》れた」
「心配でさ」
と、武彦はピョンと飛び下りて来た。「一緒に行くよ」
「だめよ! 何言ってんの?」
「どうせ、|俺《おれ》は風来坊だ。いなくなっても、誰も心配しやしないさ」
「武彦君――」
「すみません、勝手に」
と、千代子の方へ頭を下げて、「でも俺は役に立ちますよ。大工仕事も結構やれるし、料理はできないけど、足は早いし」
「無茶言って」
と、仁美が笑い出した。
「どうなってるんだ?」
と、白浜が|呆《あっ》|気《け》に取られている。
「――どうするの?」
と、千代子が仁美を見た。
仁美は、ちょっと考えて、
「私、武彦と荷台に乗ってく!」
と宣言して、荷台へヒョイと飛び上がった。
「やった!」
武彦も飛び上がる。
「――やれやれ」
と、白浜が苦笑して、「急に息子[#「息子」に傍点]が一人できたか」
と、言った。
5 町に入る
つい、油断していた。
ともかく単調な田舎道だったのである。
白浜一家に、何だか妙な若い男――高校生ぐらいだろう――を加えて、引越しトラックは、ひたすら郊外へと走り続けている。
それを尾行する広沢の方も、いい加減うんざりしていた。
「えらい所へ越して行くもんだな」
と、広沢は|呟《つぶや》いた。
眠気もさしていた。――ゆうべは女の所で泊まって来たのだ。
少々、年齢も考えずに張り切ってしまって……。おかげで、今ごろになって眠気がさして来る。
もちろん、半分眠って運転していたって、まあ事故なんか起しそうもない、|空《す》いた道であった。
ただ――こういう道は、尾行には少々厄介だ。近付くと、すぐに見付かってしまう。幸い、ほぼ周期的に道がカーブしているので、トラックのバックミラーに映り込まない程度、間をあけて走っているのだ。
雑木林が両側に続き、所々、ポカッと空いた場所に家が建っている。古びて、空家になったものもあるし、新しく建ったばかりの家もある。
こんな所に住んでる奴は、何の仕事をしてるんだ?――退屈しのぎに広沢はそんなことを考えていた。
道は上りが続いた後、下りにさしかかっていた。町が、遠くの木立ちの間から、すけて見えている。
あれが、白浜一家の目的地らしいな、と広沢は思った。そうであってほしい。
ガソリンも、少々心細くなっていた。途中、ガソリンスタンドもあったが、戻って間に合うすれすれの所だ。あの町より先だったら、かなり面倒なことになる。
それにしても……。何とまあ!
広沢は、「取り立て屋」として、こんな遠くまで出張して来たことはない。毎日ここまで通うんじゃお手上げだ。
といって、あんな町に旅館などないだろうし、あったとしても広沢が何のために泊っているか、不思議がられるに違いない。
まあどこか――この近くの国道沿いのラブ・ホテルでも捜す手だな。
それがいいかもしれないな、と広沢は、自分の思い付きに、ニヤリと笑った。適当に女を連れて来ることもできるし、あの白浜の女房や娘を呼びつけて……。
一人でニヤニヤしながら、広沢はまた眠くなって来て、大|欠伸《あくび》した。
その時だった。――目の前に自転車が現われたのだ。
普通の道なら、ハンドル操作で、間に合ったろう。しかし――こんな所で、まさか、という思いが、動きを鈍らせた。
ブレーキを踏むのが、ぎりぎりのタイミングだった。|辛《かろ》うじて、自転車を引っかけずに済んだが、車の方はお|尻《しり》が振り回されて、押えが効かなくなっていた。
一瞬、死への恐怖が、広沢を捉えた。まさか!
こんな所で――。やめてくれ!
ガン、と車の横腹が、立木にぶつかって、広沢の体が、座席から飛び上がる。
車は、停った。ともかく停ったのだ。
エンジンの音が、静かに下がって、カタカタという呟きになり、やがて消えた。
張りつめた静けさの中で、荒々しい、風のような音だけが耳について、それが自分の呼吸の音だと分るのに、少し間があった……。
やれやれ、何とか助かったようだ。
車の窓を開けると、立木のぶつかった横腹へ目をやる。大きくへこんでいた。
「畜生!」
と、思わず言葉が出ていた。
これでまたいくら取られるだろう? こんな費用を、経費につけて見落としてくれるような依頼人でないことを、広沢はよく分っていた。
ともかく、このへこみだけですんだのならいいが……。
「あの――」
と、声をかけられて、広沢は、ギョッとした。
そういえば、今、よけようとした自転車のことを、すっかり忘れていたのだ。
振り向くと、三十そこそこぐらいの女が、自転車を引いてやって来るところだった。
少しやせて、やつれた感じだが、なかなかいい女だ、と広沢は思った。――もちろん好みの問題ということだが、広沢はむしろ、こういう普通の人妻などの方が食指を動かされるのである。
「やあ。大丈夫だったかい?」
広沢が|愛《あい》|想《そ》良く言ったので、女はホッとしたようだった。
「ええ、私は……。おけがはありませんでしたか?」
と、女は|訊《き》いた。
「車が、ちょっとけが[#「けが」に傍点]したようだけどね」
と、広沢は肩をすくめた。「しかし、体の方は何ともないようだ」
「まあ、良かった」
と、女は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「|凄《すご》い音がしたんで、びっくりして……」
広沢は車を降りてみた。もし、オイルとかガソリンが|洩《も》れていたら、危い。
しゃがみ込んで、車の下を|覗《のぞ》き込んだが、洩れているところはないようだった。油くさい|匂《にお》いもしない。
「大丈夫らしい。――あんた、あの町の人かい?」
と、広沢は立ち上がって、遠くに見えた町の方向を|顎《あご》でしゃくった。
「ええ。一応は」
と、女は言った。
「一応?」
「少し外れた所に住んでるんです。でも、あの町の一部ですけど」
「なるほど」
広沢は肯いた。「小さな町らしいね」
「そりゃもう……。みんなが|親《しん》|戚《せき》みたいなものですわ」
と、女は言った。「町へおいでなんですか?」
「うん、ちょっと用事でね」
「お引越しにも見えませんね」
一見、人付合いの苦手なタイプに見えたが、結構話し好きらしい。
「引越しがあるのかい?」
「ええ。――江田さんのお宅に。やっぱり親子三人で来られるようですわ」
白浜一家のことだろう。ああいう小さな町では、そういうニュースはすぐに広まる。
「その家はどの辺だい?」
と、広沢が訊くと、女はクスクス笑った。
「何かおかしいことを言ったかな」
「ごめんなさい。そうじゃないんです。――でも、どの辺っていうほど大きな町じゃないから」
「なるほど。行きゃ分るってことか」
広沢は笑って、「ありがとう。気を付けてな」
「どうも」
女は、自転車の向きを変えると、またがって、ゆっくりとこいで行った。――その尻の形に、広沢はポカンと見とれていた。
「――仕事だ、仕事だ」
車に乗って、エンジンをかける。
ところが、エンジンがかからなくなってしまったのである。――どこか、立木にぶつかったショックで、電気系統がいかれてしまったらしい。
「参ったな!」
こんな所で立ち往生か。――広沢は、今の女を呼び戻そうかと思ったが、もう自転車は見えなくなっている。
どうしたものか……。
広沢は、もう一度外へ出て、考えた。
町まで歩けないこともないが、見えてはいても、かなりありそうだ。電話して、修理に来てもらうとしても、こんな場所で……。
それに、白浜たちに気付かれる心配もあった。
「――そうか」
今の女。自転車で、町の方からやって来たのだ。当然、帰りもここを通るだろう。
呼び止めて、電話を頼んでもいいし、広沢が、女を後ろに乗せて、自転車をこいで女の家まで行ってもいい。どっちにしろ、その方が楽だ。
よし、ここで、女が通るのを待とう。
白浜たちの引越し先は分ったも同じだ、焦ることはない。
広沢は、車に入ると座席を倒して、ゆっくりと|寛《くつろ》いだ。あの女、そう遠くへ行ったわけではないだろう。
ほんのしばらく――少し目をつぶっていよう……。
思いの他、疲れていたのかもしれない。
広沢は、すぐに眠り込んでしまっていたのである。
静かな木立ちを、風が吹き抜けて行く以外、周囲は「死」そのもののように、静まり返っていた……。
トラックのスピードが落ちた。
|仁《ひと》|美《み》は、頭を上げた。――雰囲気が変っている。
「町へ入ったな」
と、武彦が言った。
「そうらしいわね。きっとここ[#「ここ」に傍点]だわ」
「いよいよか」
荷物の山の間で、布団包みにのっかって、二人は横になっていた。といって、もちろん、何かあったというわけではない。
ただ、並んで一緒に横になっていただけだが、仁美もはっきり、武彦のことを「好きだ」と思えるようになっていた。
奇妙なものだ。
「別に、武彦に遺書を書こうなんて、思わなかったのにね」
と、仁美は言った。
「遺書?」
「ホテルで、死のうとした時よ。武彦のことなんか、全然思い出さなかった」
「どうせ」
と、武彦はむくれた。
「聞いてよ。――だけど、今は、武彦のことが一番気になる」
仁美は、両手を武彦の肩に回して、「ね、武彦にもしものことがあったら、いやだわ。――帰ってよ」
「ふざけんな」
と、武彦がムッとしたように、「こんなに|尻《しり》の痛い思いして来たのにか?」
仁美はふき出した。
「――じゃ、生きるも死ぬも一緒だよ」
「ああ」
「約束する?」
「約束するさ」
と、武彦は言った。「お前より先にゃ、絶対死なねえぞ」
「うん。――うん」
仁美は|肯《うなず》いて、しっかりと肯いて、武彦にキスした。
トラックの中で、仁美は小西の娘と、孫を襲った、恐ろしい運命について話してやった。武彦も、この町での生活が、予測もつかないものになりそうだということは、分っていたのだ。
トラックが停った。
ドアの開く音。――足音がして、荷台の扉が開いた。
「起きた起きた! 着いたぞ」
と、父親の白浜省一が元気に声をかけた。
「誰も寝てやしないわよ」
と、仁美は言い返した。「武彦、手伝ってね」
「もちろんさ」
武彦は、ポキポキと指を鳴らした。
仁美はトラックからポンと飛び下りる。
「――お母さん」
「仁美。家の中を見ましょう」
「うん」
鍵は、あの小西老人から、預かって来ている。
二人は、初めて、町の中を見回した。
――寂しい町だった。
少し、空に暮色が漂い始めているせいもあるだろうが、冷ややかな、沈んだ空気は、まるで町全体を封じ込め、凍結させているかのように見える。
中央の広い通り。それを挟んで、両側の町並。
「人がいない」
と、仁美は言った。
「うん……」
母親の千代子は、不安げに肯いた。
いないわけではない。あちこちの家の窓から、こっちを見ている、何十もの視線を、仁美は感じた。だが、道に出ている人影は一つもなく、通りは閑散としている。
「人見知りが|揃《そろ》ってんのよ、きっと」
と、仁美が明るい口調で言った。「さあ、中へ入ろうよ」
「ええ」
千代子は、仁美に促されて、家の玄関へと歩いて行った。
口には出さないが、二人とも、分っていたのだ。ここが、江田洋介と宏子の住んでいた家――江田が、宏子と子供の久弥を殺して、自らも命を絶った家だということを。
もちろん、小西の手で、家の中はちゃんときれいになって、|血《けっ》|痕《こん》など残ってはいないはずだが、それでも、玄関のドアに|鍵《かぎ》をさし込もうとする千代子の手は、震えていた。
「お母さん。――私が開けるわよ」
と、仁美は母の手から鍵を取った。
大体、千代子は気が弱いのだ。仁美の方がよほど――。
すると、仁美が鍵をさし込まない内に、ドアがスッと開いた。
「キャーッ!」
千代子が声を上げた。仁美も、声こそ上げなかったが、飛び上がるほどびっくりした。
「ああ、失礼」
と、その老人は言った。「あなた方は?」
仁美は、大きく息をついた。――出て来たのは、六十歳ぐらいの、温厚な感じの老人だった。上衣はなかなか上等なもので、少なくとも身なりからは、怪しい感じは受けない。
「どうした!」
叫び声を聞いて、早速武彦が顔色を変えて飛んで来た。「――誰だ?」
「私は、ここの管理を頼まれている金井という者ですがね」
「あの――」
と、千代子が、やっと口をきいた。「ここへ越して来たんですけど」
「ああ、そんじゃ――白浜さん? いや、びっくりさせて失礼」
と、金井というその老人は笑って、「明日かと思ってました」
「あの――管理というと、誰に頼まれたんですか?」
と、仁美は|訊《き》いた。
小西は何も言っていなかったのだ。
「地元の警察です。勝手に誰かが入り込んだり、中の物を盗んだりしてはいけないのでね」
と、金井は言った。「今、念のためにと思って、中を見ていたところです。――越して来られたのなら、安心だ。お手伝いすることでも?」
「いいえ、結構です」
と、千代子は言った。「人手は充分足りますから」
「そうですか。じゃ、何かあればいつでも声をかけて下さい」
金井は|愛想《あいそ》良く言って、「じゃ、私はこれで」
と、行こうとした。
「すみません」
仁美が呼び止めて、「この玄関の鍵を」
「鍵?」
と、金井が戸惑ったように訊き返す。
「入られたんですから、鍵をお持ちなんでしょう」
「ああ、そうそう。――鍵でしたね」
金井は、|上《うわ》|衣《ぎ》のポケットから鍵を出し、仁美に渡した。「いや、失礼。うっかりしていましてね」
武彦が、その間にそっと金井の後ろへ回っていた。そして金井の上衣の、もう一方のポケットへさっと手を入れると、中に入っていた物を取り出した。
「何するんだ!」
金井があわてて振り向く。
「中を見回るのに、どうしてこんな物がいるんだよ」
武彦が手にしていたのは、ナイフだった。「これは飛出しナイフだぜ。普通の人間は持ってない」
突然、金井が武彦を突き飛ばすようにして、駆け出した。たちまち姿が見えなくなる。
「何かしら、あれ?」
「さあな」
武彦はナイフを自分のポケットへ入れ、「ともかく、もらっとこう。――中をよく調べた方がいいよ。あんな奴が出入りしてたんだったら」
「初めっから、波乱ね」
と、仁美は言った。「面白そう」
「お母さん、少しも面白くないわ」
と、千代子が情ない声を出した。
「鍵を取りかえた方がいいね」
と、武彦は言った。
「そうね」
「ともかく入ろう」
と、武彦は言った。「|俺《おれ》、先に入るよ」
中は、小西の言った通り、きれいに掃除され、血の飛んだ壁や|襖《ふすま》なども全部取りかえられていた。
「別に問題ないみたいね」
と、仁美も一通り家の中を見て回ってから、ホッとして言った。
「この電話は?」
と、武彦が、居間――といっても狭いものだが――の床に置かれた電話機を見て、言った。
「通じるはずよ」
仁美がしゃがんで手を伸ばした時、待っていたように電話が鳴り出した。
「誰かしら」
「出ようか」
「いいわよ」
仁美が受話器を取る。「――もしもし。――え?――あなた、誰?――もしもし」
仁美が、
「切れちゃった」
と、|呟《つぶや》くように言った。
「誰から?」
「男の子みたい。――小さな」
「何て言ったんだ?」
仁美は、チラッと台所にいる母親の方へ目をやって、低い声で言った。
「『夜は外へ出ちゃいけないよ』って。『絶対に出ないで』って、そう言ったわ」
6 町外れの家
デスクの電話が鳴っても、小西晃介は、すぐには取ろうとしなかった。
それは珍しいことだ。小西は、決して、こういうことを面倒がらない人間なのである。
「取りましょう」
見ていた女性秘書が急いで立って来ると、
「いや、いい」
やっと、小西は受話器を取った。「――もしもし」
「小西さんですか」
元気な若い娘の声だ。「白浜仁美です」
「やあ。どうかね」
小西は|微《ほほ》|笑《え》んで言った。「そろそろ着いたころかな、と思っていたよ」
「今、あの家です」
「そうか。変りはないかね」
「多少は」
「ほう」
仁美が、金井と名乗った奇妙な老人のことを話すと、小西は、「なるほど。充分に用心してくれよ」
と、言った。
「はい。――父も母も、荷物を片付けるので手一杯ですから、よろしく、と言ってます」
「こっちこそ」
と、小西は言った。「無理を言ったが、よろしく頼むよ」
「はい」
仁美の返事は、|爽《さわ》やかなほど元気だった。「また、ご連絡します」
「うん。いつでも――自宅の方でも、構わんよ。夜中だろうが、遠慮することはない」
「分りました。それじゃ」
電話が切れる前に、仁美が、「ね、その|椅《い》|子《す》は私のよ!」
と、叫んでいるのが聞こえて来て、小西は低く笑った。
「――ずいぶん楽しそうなお電話ですね」
と、秘書が言った。
「うん、若い女の子さ。十五歳の恋人だ」
「まあ、社長さん、捕まりますよ、そんな若い娘に手を出したら」
「恋は年齢に関係ないさ」
小西は、|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔で言った。
秘書の机の電話が鳴った。
「はい、社長室です。――え?」
秘書が目をパチクリさせて、小西の方を向いた。「あの……お客様です」
「誰かな。予定はなかったろう」
「刑事さんだそうです」
「刑事?」
「まさか社長さん、本当にその女の子のことを――」
「よしてくれよ」
と、小西は苦笑した。「分った。応接室へ通してくれ。――会議を二十分遅らせると連絡だ」
「はい」
小西は、ゆっくりとお茶を飲んだ。
「お茶を出します?」
と、秘書が|訊《き》いた。
「もちろんだ。コーヒーがいいかもしれんな」
小西は、何本か電話をかけた。それから、特に急ぐでもなく、社長室を出る。
「――お待たせして」
と、応接室へ入って、小西は言った。
「お忙しいところを、どうも」
刑事は、ちょっと腰を浮かした。
四十五、六というところか。少し髪が白くなって、老けた感じではあるが、五十にはなっていないだろう、と小西は思った。
「ご用件は何でしょうか」
と、小西はソファに腰をおろした。
「色々、大変なことでしたね。お嬢さんはお気の毒なことで」
「恐れ入ります」
と、小西は言った。「しかし、あの事件はもうすっかり終ったと思っていましたが……」
「確かに」
と、刑事は肯いて、「ああ、失礼。――私は市村といいます」
「娘の事件の時、お目にかかりましたか?」
「いや、お会いするのは、今日が初めてですな」
市村という刑事は、出されたコーヒーをゆっくりと飲んで、「――|旨《うま》い。刑事部屋で飲む紙コップのコーヒーとはまるで別ものですよ」
と、笑った。
小西も、自分の分のコーヒーを飲んだ。
「お嬢さんの事件は――」
と、市村が言った。「夫の江田洋介の一時的な錯乱によるもの、ということで、結着しています。私も、それが間違いと思っているわけではないのですが」
「何か問題が?」
小西の問いに、市村はすぐ答えなかった。どう切り出したものか迷っている、という様子である。
「実は、妙な訴えがありましてね」
と、市村は言った。
「ほう?」
「ある男からです。自分の妹の一家が行方不明になった、というのですが」
「なるほど」
「妹は三十歳。夫がいて、子供は男の子で七つ」
少し間があった。
「娘の宏子と孫の久弥が、全く同じ年齢でしたね。それはご心配なことだ」
と、小西は同情するように言った。
「全くです。――ところがその男の話では、小西さん、お宅のお嬢さんとお孫さんが殺された事件で、実際に[#「実際に」に傍点]殺されたのは、自分の妹たちだ、というのです」
「何ですって?」
小西は目を見開いた。
「びっくりされるのも当然です。しかし、その男が、あまりそう言い張るものですから」
と、市村は首を振って、「もちろん、単なるその男の思い込みとか妄想ということもあり得ますが」
「そんなことは……。いや、その人の言う通りなら、うちの娘と孫は生きていることになりますからね。私としても、|嬉《うれ》しい、と言ってもいいくらいです。しかし――私自身、娘と孫の遺体をこの目で見ているのです」
「分っています」
と、市村は|肯《うなず》いた。「その点を、確かめたくて、うかがったんです。ともかく、その男が、あんまり強く主張するものですからね」
「確かめるというと?」
「お嬢さんは、夫の江田に、かなり何度も刺されて、ひどい状態だったと聞いています」
「ええ」
小西は目を伏せた。
「もし――万に一つ、ということですが、死体が別の女性のものだったという可能性はありませんか」
「つまり……」
「親ごさんにとって、死体の確認というのは|辛《つら》い仕事です。チラッと見ただけで、着ているものなどから、これで間違いない、という――」
「刑事さん」
と、小西は遮って、「確かに、あの時、私は、大変なショックを受けていました。気も動転して、いつものようには頭も働かなかったかもしれません。しかし、親は、もしかして自分の子ではないのではないか、と祈りながら見るものですよ。――本当に別人なら、こんな言い方をしては何ですが、嬉しいわけですから」
「それは当然でしょう」
「ですから、間違いはありません。あれは娘と孫でした」
「なるほど。――いや、良く分りました」
市村は、コーヒーを飲み干した。「念のためと思ってうかがったんです。――申し訳ありませんでした」
「いやいや」
小西は、そう言ってから、「しかし刑事さん」
「何か?」
「その男性は――名前は何というのか知らないが――どうして、妹さんたちが私の娘と入れかわっている、などと考えたんでしょうね」
「その辺のことが、どうもその男にもよく分っていないようなのですがね」
と、市村は言った。「ただ、妹さんが、あなたのことを話したことがあるようでしてね」
「ほう。妙な話ですな」
「まあ、世の中、色々な人間がいますから。――どうも失礼しました」
市村は立ち上がった。
――小西は、社長室へ戻った。
「お話はおすみになったんですか」
と、秘書が言った。
「うん。何とか逮捕されずにすんだよ」
と、小西は笑って言った。「ちょっと頼まれてくれないか」
「はい」
――秘書を使いに出すと、小西は内線の電話で、ビルの一階受付を呼んだ。
「――小西だ。今、市村という男が出て、そっちへ行く。すぐに帰るかどうか、見ていてくれないか。――そうだ。五十ぐらいの、コートをはおった男だ」
小西は、しばらく落ちつかない様子で、社長室の中を歩き回っていた。
電話が鳴ると、すぐに取って、
「――うむ。どうだ?――すぐ帰った? 確かか?――そうか、それならいい」
小西は肯いて、受話器を置いた。
席に戻ると、小西はしばらく考え込んでいたが、やがて引出しを開ける。――直通の私用電話が入っている。
小西は、その受話器を取ると、記憶させてある番号のボタンを押した……。
頭がヘッドレストから外れて、ガクッと落ちる。
その拍子に、広沢は目を覚ました。
「おっと……」
眠ってしまったのか。やれやれ。
車の外へ目をやって、目を丸くしてしまった。
外は真暗だ。
「畜生!」
時計を見ると、もう九時を回っている。
たっぷりと寝てしまったものだ。――あの自転車の女、ここを通ったのかな?
もし通ったとしても、眠っている広沢にわざわざ声をかけては行くまい。
「失敗したな」
と、首を振って|呟《つぶや》く。
もしかしたら、と思ってエンジンをかけてみたが、むだだった。
こうなったら……。遠くても、あの町まで行くしかないだろう。まさかこんな所で夜明かしするわけにも……。
それに、腹も空いていた。
車を出ると、冷え込みが厳しいので、びっくりした。いくらかモヤモヤしていた頭も、すっきりしてしまう。
夜の道は、ほとんど見通しのきかないくらい、真暗だった。――車のダッシュボードから、懐中電灯を出して、ともかく歩き出す。
じっとしていると、寒くてたまらないのである。まだそう風がないから、いいようなものだが……。
十分ほど歩いた時だろうか、後ろの方で、カタカタという音がした。
|空《そら》|耳《みみ》かと思ったが、確かに近付いて来る音だ。
振り向くと――あの自転車が見えた。
女が、懐中電灯の中に浮かび上がる。
一瞬、広沢はギクッとした。女の目が、奇妙な光を放ったように見えたからだ。
――たぶん懐中電灯の光の反射だろう。
すぐに女は広沢に追いついた。
「まあ、さっきの――」
「やあ」
「どうしたんですの?」
「いや、車が動かなくなっちまってね」
「それで今まで?」
広沢は、肩をすくめて、
「あんたが通りかからないかと思って待ってる内に、眠っちまったんだ」
「まあ」
女は笑って、「でも良かった。私も、こんなに遅くなると思わなかったの。もしよろしかったら、ご一緒に?」
「そう願いたいね。|俺《おれ》がこぐよ。後ろに乗ったらいい」
「え? でも重いですよ」
と、女は笑った。
「自転車が|潰《つぶ》れなきゃ平気さ」
と、広沢は言った。「――さ、降りて」
幸い、自転車は二人の体重に、充分|堪《た》えられた。
「こんなこと、久しぶり」
女が、広沢に後ろから抱きつくようにして、言った。
「そうかい」
「だって――子供の時ぐらいでしょ。こんな風に」
子供だったら、そんなに胸が大きくないだろうな、と広沢は思った。
背中に押しつけて来る胸のふくらみは、広沢の冷えた体を、中から暖めるのに充分だった……。
「どこへ行くんです?」
と、女が|訊《き》く。
「どこでも。――電話を借りたい」
「じゃ、うちへ来て」
「いいのかい?」
「ええ。どうせ子供と二人ですもの」
「|旦《だん》|那《な》は?」
少し間があって、
「今夜は留守なの」
と、返事がある。
微妙なニュアンスを含んだ言い方だった。
広沢は、もしかすると、結構面白い夜になるかもしれないな、と思った……。
「――どうぞ」
女は、玄関の戸をガラッと開けた。
「じゃ、お邪魔するよ」
広沢は、中へ入った。
町をぐるっと|迂《う》|回《かい》するように回って、反対側へ出た町外れの家。
どうしてこんな所にポツンと家があるんだろう、と思うような一軒家だった。
家そのものは、そう古くない。狭いが、小ぎれいに片付いていた。
「不動産屋の口にうまくのせられたの」
と、女は言った。「まだこの辺に何軒もできる、ってことだったのに……」
「そうか。不運だな」
「――ママ」
男の子が出て来た。そして、広沢を見ると、ちょっと用心するように後ずさった。
「お|腹《なか》|空《す》いたでしょ。ごめんね」
女はそう言って、広沢へ、「そちらも、何か召し上がるでしょ?」
「そう願いたいね」
「じゃ、何か簡単なものを作るわ。休んでらして」
「すまないな」
小さな居間へ入ると、広沢は少し固めのソファに腰をおろした。
――電話しなきゃ、と思った。
しかし、今かけたところで、どうにもなるまい。明日でもいい。
ともかく、今は何か食べるものだ。
男の子が入って来て、まじまじと広沢をみつめる。
「やあ」
と、広沢は言った。
「お|巡《まわ》りさん?」
「俺が? そう見えるかい」
「でなきゃ、探偵かな」
広沢は笑って、
「そうだな、似たようなもんだ」
と、言った。「パパは、どこへ行ってるんだ?」
「あっち」
と、男の子が言った。
「あっち?」
「うん。僕らとは違う所だよ。だから、会えないんだ」
会えない[#「会えない」に傍点]、というのは妙だった。しかし――まあ、子供の言うことだ。
「だめよ、邪魔しちゃ」
女が顔を出した。「さ、ご飯だから」
広沢も立ち上がった。
「――今夜は泊って行って下さい」
と、女は言った。
「悪いね、そこまで」
「いいえ」
女は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「一向に構いません」
「旦那が帰ると――」
「帰りません」
女は即座に答えて、「当分は」
と、付け加えた。
「そうか。布団の余分がなきゃ、ここで寝るよ」
「ベッドがありますわ」
女が微笑む。
もう、はっきりしていた。――広沢も、ニヤリと笑う。
今夜は長い夜になるかもしれない、と思った。
しかし、それが本当に、どんなに長いものになるか、広沢には分っていなかったのだ……。
7 夜の行進
いくら用心しているとはいっても、仁美は十五歳だ。
|一《いっ》|旦《たん》眠ってしまえば、そう簡単に起きなくても仕方あるまい。
肩を二、三回揺すられて、やっと目を開くと、
「なあに、お母さん……」
と、舌っ足らずの声を出し、パチパチと|瞬《まばた》きして――。「武彦!」
「しっ」
と、武彦が押える。
「――何時よ?」
仁美の目はベッドのわきの目覚し時計に向く。「三時? 夜中の三時でしょ」
「そうだ」
と、武彦が低い声で言った。
「何なの? まさか――」
と、仁美は武彦をにらんで、「一緒に来ていいとは言ったけど、だめよ、まだそんなことしちゃ」
「――お前、何考えてんだ?」
と、武彦は心外、という様子で、「いくら|俺《おれ》でも、こんな時にそんな|真《ま》|似《ね》するわけないだろ。大体、お前の親父さんもお袋さんも、すぐそばにいるのに」
「じゃ、いなきゃ、やるわけ?」
「馬鹿。起きてみろよ」
「何なのよ」
「誰かが歩いてる」
仁美はベッドに起き上がった。
「どこを?」
「表さ。外の通りだ」
仁美はパジャマの上に、カーディガンをはおった。
廊下へ出る。――古い家だが、割合に広い。
「ちょっと」
仁美は足を止めて、父と母が寝ている部屋の様子をうかがった。ちょっと肩をすくめると、
「グーグー寝てる」
と、言った。「|呑《のん》|気《き》だなあ」
「人のこと言えるか。――こっちに来てみろよ」
武彦は、玄関を上がってすぐわきにある小部屋へと仁美を連れて行った。武彦は、ここで寝ているのである。
「何も聞こえないじゃない」
「しっ。――少し待ってろ」
表の通りに面した窓がある。もちろん、部屋の明りは消し、カーテンも引いてあった。
誰か忍び込むといけないというので、武彦が針金で即席の鉄条網みたいな物を作って、窓の所へ張ってある。
「ほら」
と、武彦は言った。
何の音か、初めは仁美にも分らなかった。風の音のようにも聞こえたが、やがてそれは小刻みな、時計の音のように変って、近付くにつれ、人の足音だと分るようになった。
「一人じゃないね」
と、仁美が言った。
「ああ。いいか、カーテンの隅の方を少し上げて、|覗《のぞ》いてみろ」
「うん」
「少しだぞ、向こうもこの家のことは気にしてるはずだ。気付かれないようにしろ」
「分った」
――何だろう? 夜中の三時に、何人もの人間が、なぜ町の中を歩いているのか。
仁美は、頭を低くして、カーテンの隅の方へと|膝《ひざ》で進んで行った。
「針金に引っかかるなよ。けがするぞ」
「分ってるわよ」
仁美は、カーテン全体が動かないように用心しながら、隅の方を静かに持ち上げた。
目が慣れないので、少しの間は、何も見えなかった。しかし、月が出ていて、その明りが、青白く道を照らしているのに気付くと、目に入る物がはっきりと見分けられる。
足音は、ほとんどこの家の前まで進んで来ていた。
狭い視野の中に、それ[#「それ」に傍点]が入って来た。
五、六人……いや、十人以上いる。
男たちが、二列になって進んで来る。顔までは見えないが、町の男たちだろう。服装も別々だった。
異様なのは――一人一人が、みんな手に手に武器を持っていることだった。二、三人は、銃を手にしている。残りは、太い棒や、鉛管か鉄パイプらしい物。一人は、どうやら日本刀を手にしている様子だ。
その奇妙な武装した一団は、しかも、なぜか軍隊のように、しっかりと固まって歩いているのだった。
何だろう、この光景は?
仁美は何となく、背筋の寒くなるような思いを味わった。――これが自衛隊とか警官隊のような、制服姿の一団なら、行進していても少しもおかしくはない。
しかし、私服の人々が、しかも武器を持って整然と歩いて行く|様《さま》は、どこか不つりあいで、|歪《ゆが》んでいた。不自然そのものだった。
狭い視野の中をその行列が通り過ぎるのに、何十秒もかかってはいないだろうが、しかし、仁美には、ずいぶん長い時間のように感じられた……。
「――行ったわ」
仁美は、体中で息をついた。知らない内に、息を殺していたのだ。
「どう思う?」
と、武彦は言った。
「よく分らないけど……。一番最後にくっついてたの、昼間この家にいた、金井って人じゃない?」
「ああ、そうだ」
「何だか……気味が悪いわ。どうしてなのかよく分らないけど」
「みんな|凄《すご》い目つきして歩いてただろう」
そう言われて、仁美も気が付いた。
確かにそうだ。この家の前を通り過ぎる時も、みんな油断なく左右を見ていた。
「どういうことだと思う?」
と、仁美は言った。
「分らねえよ、|俺《おれ》だって」
と、武彦は肩をすくめた。「ただ、どうもまともな奴らじゃねえな、ってことは分る」
「そうね。――自警団みたいなものかしら?」
「かもしれないな」
と、武彦は肯いて、「それにしちゃ、あんな風に固まって行進したりして……。妙だよな」
「うん」
――二人は、しばらく黙っていた。
「あれ、ずっと夜の間、やってるのかしら?」
「どうかな。さっき気が付いてからは、二回、この前を通ったぜ」
「そう……」
「ま、いいさ。ともかく寝ろよ。別にここを襲って来る様子もないしな」
「起こして、あんな物見せといて、寝ろって言われたってね」
「あれ。そんなにデリケートだったっけ、お前って」
仁美は、ちょっと笑った。その笑いで、大分気が軽くなる。
「――じゃ、寝るわ。悪い夢でうなされたら、見に来てね」
「俺を起こすんだったら、よっぽど大声で叫ばないとだめだぜ」
と、武彦は笑って言った。「おやすみ」
「おやすみ。――明日はどうするの?」
「町の雰囲気次第だろ」
「そうね」
「ともかく、町を隅から隅まで一回りしてみないとな」
「私も行く」
「好きにしな」
――仁美は手を振って見せ、廊下へ出ると、自分の部屋の方へ歩いて行った。
途中、父と母の寝室のドアをそっと開けてみる。――寝息をたてて、二人ともぐっすり眠っていた。
やや部屋が狭いせいもあって、父と母は布団で寝ている。もちろん二組敷いてあって……。でもよく見ると、母が父の布団に入って、身を寄せるようにして眠っている。
仲のいいこと……。仁美はそっとドアを閉めた。
自分のベッドへ入って、目を閉じる。
ふと、昼間の電話を思い出した。小さい男の子の声の……。
「夜は外へ出ちゃいけない」
と、その男の子は言った。
あの奇妙な行進があるからだろうか? それとも、他の理由からか。
そうだ。明日は、あの電話をかけて来た男の子を捜そう。
きっと、見付けられる。こんな小さな町である。男の子といっても、数は多くないだろうし。
あの話し方、それに、声がとても近かったことからみて、この町に住んでいる子だというのは、ほぼ確実だし……。
よし、と。――これで明日やることができた。
人間、やるべきことが決まると落ちつくものだ。
仁美も落ちついて――そしてすぐに深い眠りに落ちて行った。
奇妙に寝苦しかった。
畜生……。広沢は、何度も寝返りを打ったが、その内、根負けしたように目を開けた。
夜があった。深い|闇《やみ》が。
ここは?――どこだったろう?
ベッドの上。そうか。
あの女だ……。自転車に乗っていた女。
名前も聞いてなかったな、と広沢は思った。
しかしまあ……。別に知らなくたっていい。どうせ明日になりゃ、出て行くのだ。
女は、ベッドにいなかった。どこへ行ったんだろう?
ベッドの、女が寝ていた辺りに手を当ててみたが、女のぬくもりは全く残っていなかった。
子供のそばにでも行って、寝てるのかな。
広沢は、ベッドに起き上がって、|欠伸《あくび》をした。
いつもなら、女を抱いた後はぐっすり眠ってしまうのだが……。今夜の女は、とんだ拾いものだった。女の方もかなりしつこかったが、広沢も大いに楽しんだ。
それでいて目が覚めたのは、やはりいくらか、奇妙な感じを持っていたからだろうか。
広沢は、シャツを着て、寝室を出た。
廊下は、ほの白く、明りに照らされている。それが月明りだと気付くのに、少しかかった。
高い所に窓があって、そこから月の光が射している。外は、結構明るいかもしれない。
広沢は便所に行って、戻りかけたが、ふと|喉《のど》が乾いて、台所の方へ歩いて行った。
もちろん、どっちの方だったか、うろ憶えだ。
「おっと」
ドアを開けると、布団が敷いてあった。
やっぱり、女は子供に添い寝しているらしい。布団が盛り上がっていた。
広沢はドアを閉め、今度は台所へうまく行きついた。
明りを|点《つ》けようとして、スイッチを捜す。カチッ。――カチッ、と二、三度やり直したが、明りは点かない。
「何だ。停電か」
と、|呟《つぶや》く。
肩をすくめて、それでも大分目が慣れたせいもあるのか、ぼんやりと台所の中の様子は見える。
コップを見付けて、水を飲んだ。――ぬるくて、|旨《うま》くもないが、仕方ない。
冷蔵庫、とも思ったが、電気が切れているのでは仕方ない、と気付いた。
寝るか。
広沢は、頭を振って、廊下を戻って行った。さっき開けたドアの前で足を止める。
もう一度、ドアを開けてみた。
布団が盛り上がって、あの女と子供が……。たぶん……。
何が気になったのか、やっと思い当った。
部屋の中が、全く静かなのだ。二人が寝ているのに、寝息が耳に届いて来ない。
もちろん、布団をほとんど頭までかぶっているからかもしれないが……。
広沢は、そっと部屋の中へ入った。畳が、キュッと鳴る。
かがみ込んで、広沢は布団の端をそっとつかむと、ゆっくりとめくった。
「何だ、これは?」
思わず、声が出ていた。
人ではない。布団を丸めた物が、人のように寝かしてあって、少し頭の先が出て見えたのは、ヘアピースだった。
どういうことだ?
これは明らかに、寝ているように見せかけるためにやってある。
誰に「見せかける」んだ?――|俺《おれ》に、か。
他には考えられない。
広沢は、寝室へ戻ると、脱ぎ捨ててある自分の服を集めた。上衣の財布を確かめてみたが、別に中身もちゃんとある。
広沢は、ともかくまず服を着た。
あの女! 何を考えているんだ?
|苛《いら》|立《だ》っていた。何が起ろうとしているか分らないので、余計に苛立っているのだ。
ポケットにペンシルライトが入っていた。
いささか頼りない光源だが、仕方あるまい。これで、家の中を調べよう。
広沢は、慎重に、家の中を調べて回った。
もちろん、人はいない。そして気付いたことは、最近、人が住んでいなかったらしい、ということだ。
台所や寝室以外の部屋はほとんど見ていなかったので、気付かなかったのである。
すると、あの女は、空家へ広沢を連れて来たのか?
しかし、子供は家で待っていたし……。
時計を見る。――三時半を少し回っていた。
よし。外へ出よう。
しばらくすると夜も明けて来る。どうせ目が覚めてしまったのだし。
広沢は玄関へ行った。自分の靴だけが、きちんと|揃《そろ》えて置いてある。
広沢は、ちょっと表の様子をうかがってから、戸を開けようとした。
動かない。――変だな、と思った。
|鍵《かぎ》はかかっていないのに。
力をこめても、戸はミシミシときしむばかりで、一向に開かないのだ。
すりガラスをはめた格子戸で、そう頑丈とも思えなかったが、広沢が必死で力をこめても、だめだ。
「――畜生!」
どうなってるんだ!
広沢は、靴を持って上がると、手近な部屋の窓から出ようとした。
そして、ペンシルライトで、窓を照らしてみて、|愕《がく》|然《ぜん》とした。
板[#「板」に傍点]を外から打ちつけて、完全にふさいである。
次から次へと、全部の部屋を調べてみた。
どの窓も、だ。
この家へ来た時は、外見などろくに見もしなかったが……。
ただ、廊下に月の光を誘い入れた高い窓だけが、板でふさがれていなかったが、その窓は細長くて、とても人間が出られる幅はないのだ。
全身に汗をかいていた。
――広沢は、自分がとんでもない所へやって来たらしい、とやっと気付いたのだった……。
小西晃介は、ベッドで目を開いた。
電話が鳴っている。――ほとんど無意識の内に手が動いて、受話器を取っていた。
「小西だ」
向うの話に耳を傾ける内、小西の顔は、厳しく引き|締《しま》って、眠気はたちまち消し飛んでしまった。
「――分った。ともかく、何とかして落ちつかせておいてくれ」
と、小西は言った。「――ああ、すぐそっちへ行く。一時間かな。――よろしく頼むよ」
電話を切ると、小西はベッドから出た。
仕度をするのも、若者並みの手早さである。
小西は、都心の一等地のマンションに住んでいる。何といっても、通勤も楽であった。
部屋を出て、人気のない廊下をエレベーターへと急ぐ。
午前三時半だ。――いくら夜ふかしの多いマンション族も、この時間は眠っているだろう。
駐車場へ下りて行くと、小西は、自分の車へと急ぐ。
そして――足を止めた。
車と車の間に、誰かが身をかがめていたのだ。
「誰だ」
と、小西は言った。「出て来い」
少し間があって、
「分ったよ」
と、返事がある。
姿を見せたのは、革ジャンパー姿の、二十歳ぐらいの若者だった。
「何をしていたんだ?」
と、小西は言った。
「見りゃ分るだろ」
と、若者は肩をすくめる。
「質問しているんだ。答えろ」
小西の口調と、よく通る声には迫力があった。
「ケチな泥棒さ」
と、若者は言った。「高そうな車ばっかりだしな。うまく車ごと盗めりゃ、|儲《もう》けもんだし、だめでも、中に何か金目の物があるかもしれねえだろ」
「ケチな泥棒か」
と、小西は言った。「ケチだと自分でも思うのか」
小西の言葉に、若者は戸惑った様子で、
「決まってるじゃねえか。少なくとも、大泥棒じゃねえしな」
「なら、なぜやるんだ」
「お説教はやめてくれ」
と、口を|尖《とが》らす。「あんたに関係ねえだろう。警察を呼びたきゃ、呼べよ」
小西は、ちょっとの間、若者を見ていた。
細身だが、いかにもバネのいい体だった。
「――車の運転はできるのか」
と、小西は|訊《き》いた。
「当り前だい。ただし、免許は取り上げられてて、持ってねえけどな」
「腕に自信は?」
「俺は元レーサーだったんだぜ。事故を起してやめたけどな」
「信じておこう」
と、小西は言った。「仕事がある。やるか」
「何だって?」
「私の車を運転して、できるだけ早く、目的地へ着くことだ。私の車はそのベンツだ。――どうする?」
若者は、|呆《あっ》|気《け》に取られて小西を見ていた。
「決めるのは早くしてくれ。急いでる」
「分った。やるよ」
と、若者は言った。「面白そうだしな」
「よし、乗れ」
小西は、キーを出して車のドアを開けると、自分は助手席に乗った。
若者は、運転席について、シートを調節した。口笛を吹いて、
「|凄《すご》いシートだな。|尻《しり》がくっついちまいそうだ」
と、言った。
「行先はここだ」
小西はメモを渡した。簡単な略図である。
「分るか?」
「暴走族だったころ、よく走ったぜ」
と、若者は言って、エンジンをかけた。
車体が震える。
「――どれぐらいかかる?」
「そりゃまあ――一時間だな」
「半分で行けるか」
若者は小西を見た。
「信号を守ってちゃ、無理だぜ」
「なら、守らなくていい。ただし、事故は起すな」
「分った」
若者は、ニヤリと笑った。「面白いな、あんたって人は」
「行こう」
いきなり車がバックして、
「ワッ!」
と、若者が声を上げた。「畜生、バックに入れたのか」
「大丈夫か?」
と、小西が顔をしかめた。
「見てろ」
ベンツが、猛然と飛び出した。
地下の駐車場から、一気に坂を上って、通りへとジャンプしながら躍り出ると、タイヤをきしませながら、スピードはたちまち百キロを超えていた。
8 鉄格子
「――あれだ」
と、小西は、遠くに見える灯を指して、言った。「二十五分だ」
「楽に着けるぜ」
と、若者は言った。「――おい」
「何だ?」
「向うに、トイレあるか」
「ああ、もちろんだ」
「そうか。――肝を冷やした」
若者の顔は、汗で|濡《ぬ》れていた。
信号無視、パトカーをふっ切ること二回。
「こんな思いは初めてだ」
と、若者は言った。「年中こんなことをやるのかい?」
「いいから急いでくれ」
小西は、じっと前方を見つめている。
その顔には、汗の一粒も見当らなかった。
「――ここを入るんだな」
わき道へと車が入る。タイヤの下で、砂利が鳴った。
ぐるっと回りながら、小高い丘へと上って行く。目の前に、三階建の、どっしりとした石造りの建物が立ちはだかった。
「正面につけろ」
と、小西は言った。「二十六分だ。よくやった」
「ああ……」
若者は体中で息をつくと、車を停めて、エンジンを切った。
建物の玄関が開いて、誰かが駆け出して来る。
「小西さん! ずいぶん早く――」
「様子は?」
小西は、もう車から出ている。
「今は少し落ちついています。――どなたか?」
「運転手です。ああ、トイレを借りたい、と……」
「分りました。ともかく中へ。先生が待っています」
「分りました」
小西が中へ入って行こうとして、振り向くと、
「私は小西だ。君の名前は?」
若者は、車から出て、
「三神。三神一郎だよ」
「三神か。待っててくれ」
「ああ」
――三神一郎は、小西が足早に中に入って行くと、息をついて、その建物を見上げた。
何の建物か、見当もつかない。
個人の家にしては、大き過ぎるという気がした。といってホテルでもない。
「どうぞ」
と、初めに出て来た男が、三神を|促《うなが》した。
中へ入って、三神は納得した。――ここは病院なのだ。
薬の|匂《にお》いが、しみついている。
「そっちがトイレです」
「ありがとう」
三神は、トイレで用を足すと、洗面所で、何度も顔を洗った。
まだ心臓が高鳴っている。――運転に自信はあったが、しかし、現実にやるのは別の話だった。
あの小西という男……。
「妙な奴だぜ」
と、鏡を見て、|呟《つぶや》く。
くたびれはしたが、気分はさっぱりしていた。こんなに|爽《そう》|快《かい》な思いをしたのは、久しぶりのことだ。
玄関ホールへ戻って、三神は、中を改めて見回した。
大理石の冷たい床。階段も手すりも、石造りで重苦しい。
照明は、ほの暗かった。
病院か。――すると、あの小西の家族かなんかがここへ入院していて、具合が悪いのかもしれない。
しかし、車がどんな危なっかしい場面に出くわしても、身じろぎもしない、あの男。
三神は、小西という男に、参っていた。
やられた、と思った。とてもかなわない、と……。
三神が、こんな気持を抱く人間に出会ったのは、おそらくこれが初めてだった。
しかし……何の病院なんだろう?
所在ないので、三神は、階段をゆっくりと上って行った。
すると――奇妙な声がした。
声? いや、「音」だろうか?
よく分らない。しかし、ともかく人の声とは思えなかった。細く、長く、嘆き悲しむように――あるいは何かを訴えるように……。
そう。まるで、映画とかで聞く、|狼《おおかみ》の|遠《とお》|吠《ぼ》えのようだ。
何だか気味が悪くなって、三神は、上りかけた階段を、また下りてしまった。
表に出てみる。まだ、少し|頬《ほお》がほてっていたのだ。
空を仰ぐと、月が|冴《さ》え|冴《ざ》えと青白い光を発散している。
月夜か。――やっと、気付いた。
建物を見上げると、二階のいくつかの窓に明りが灯っていた。さっきは暗かったから、小西が、あそこへ行ったのかもしれない。
明りが|点《つ》いて、窓に鉄格子がはまっているのが分った。
自殺防止かな。――してみると、ここはノイローゼとか、分裂症の人間を入れているのだろうか。
こういう郊外には、確かに珍しくはないが……。もちろん、間近に見るのは、初めてである。
三神は、玄関のドアの所へ戻った。
ドアを開けて、中へ入った時、階段の上の方から、絞り出すような女の叫び声が響いて来て、飛び上がりそうになった。
と――騒ぐ声。
「捕まえろ!」
「早く!」
と、口々に怒鳴っている。
バタバタと足音がして、目の前に――若い女が飛び出して来た。
|呆《あっ》|気《け》に取られている三神の方へ、その女は真直ぐに向って来た。
白い寝衣が旗のように翻って、長い髪が波打つ。|蒼《そう》|白《はく》な顔の女は、目を大きく見開いて、三神に向って走って来た。
「おい――」
三神は、反射的に女をよけていた。
しかし、女は、そのまま駆け抜けるのではなく、三神につかみかかって来たのだ。あわてて、手を払いのけようとしたが――。
|凄《すご》い力だ! 三神は焦った。
女の手を振り離そうとしている内に、床へ押し倒されていた。
「おい! 何だ! よせ!」
女の指は、三神の目を|狙《ねら》っていた。目をえぐられそうだ。
三神は、必死で、女の両手首をつかんで、押し返した。
しかし女は体重をかけて、指を伸ばして来る。女の目には、殺気以上の何かがあった。
「誰か! 誰か来てくれ!」
三神は助けを求めていた。恥も何もない。
ドタドタと数人の足音が響いて、三人の男が女を捕まえ、三神から引き離した。
「――大丈夫か?」
と、小西が言った。
「何とか……」
三神は起き上がって、頭を振った。「びっくりしたぜ……」
「すまん。用心したんだがな。けがはなかったか?」
「うん」
三神は、立ち上がって、「しかし――物騒な所だな」
と、言った。
三神は、玄関|脇《わき》の小部屋へ通されて、コーヒーを出してもらった。
ゆっくり飲んでいると、ドアが開いて、小西が入って来る。
「うまいよ、コーヒー」
「そうか」
小西は、ソファに身を沈めた。
しばらく、沈黙があって、
「――ここは、病院か」
と、三神が言った。
「まあ、そんなところだ」
「誰か、知り合いが?」
「うむ」
「ま、|俺《おれ》にゃ関係ない」
と、三神は肩をすくめて、「もう帰るのかい?」
「運転を頼めるか?」
「いいけど……」
「帰りは一時間でいい」
「助かった!」
と、三神はホッとして言った。
「確かに君の腕はいい。どうだ、私の車をずっと運転しないか」
「ずっと?」
「そうだ。私も運転はできるが、考える時間が少しでもほしい。君に運転を任せれば、楽だ」
「運転手か」
「いやなら、無理にとは言わん」
三神は、ゆっくりとコーヒーを飲み干した。
「――給料は出るのかい?」
「当り前だ」
「分った。やるよ」
アッサリと返事をしたのが、自分でも、意外だった。
自分で思っていた以上に、この小西という男に|惚《ほ》れたらしい。
「一つ、条件がある」
と、小西が言った。
「何だい?」
「この病院のことを、一切他言しないこと。どんな親しい人間にも、だ。一言でも|洩《も》らしたら、即座にクビだ」
小西の言葉は明快な、間違えようのないものだった。
「OK。承知した」
「では、今から、『分りました』と言ってもらう」
三神は肯いて、
「分りました。――社長、かな?」
「それでいい」
小西も|微《ほほ》|笑《え》んで、「行こう」
と、立ち上がった。
目が開くと、朝の光が、ほの白く天井に映っていた。
「あ、もう……」
仁美は、起き上がった。
台所の方から、音がする。仁美はパジャマ姿で、歩いて行った。
「お母さん。早いね」
と、声をかけると、
「あら、起きたの?」
千代子が振り向く。「そう早くもないわよ。武彦君は?」
「|叩《たた》き起こしてやる」
「よしなさい」
ヌッと当の武彦が顔を出して、
「誰を叩き起こすって?」
「何だ、起きてたの?」
「お前なんか、まだパジャマじゃないか」
「エッチ!」
仁美は舌を出してやった。
「それでも女か、お前?」
「大きなお世話」
仁美は、着替えをして、顔を洗うと、朝食のテーブルについた。
「お父さんは?」
「まだ寝てるわ。疲れたんでしょ」
と、千代子が、ご飯をよそって言った。
「お母さんがお父さんの布団へ入ってったからよ」
「何言ってるの」
と、千代子が、赤くなった……。
「――一つ問題がありますね」
と、武彦が言った。「おじさんの仕事、それから、僕と仁美の学校」
「そう。主人はね、自由業ってことになってるの。何か、ボロの出にくい、いい仕事、ないかしら」
「そんな都合のいい仕事なんて」
と、仁美は笑って言った。「私はね、病気療養中なの」
「どの辺が? 頭の中か」
「ひどい!」
と、仁美はムッとして言った。「見るからにきゃしゃ[#「きゃしゃ」に傍点]でしょ」
「そうかなあ……」
と、武彦は真剣に考えている。
その内に、白浜も起きて来て、取りあえずは、映画のプロデューサーだということにしよう、と決まった。
「たまに出かけりゃ、そう見えるだろう。ラフな格好をして、歩き回ったり」
「歩き回る暇がありゃね」
と、仁美は言った。「ね、武彦、ゆうべのこと」
「うん」
武彦がゆうべの奇妙な行進のことを話してやると、千代子は、
「気味が悪いわね」
と、|眉《まゆ》をひそめた。
「そりゃ、この話がもともと気持のいいもんじゃないからね」
と、仁美は言った。「ともかく、朝ご飯すんだら、武彦と二人で、町を歩いてみる」
「気を付けてね。私は、ご近所を回ってみるわ」
「大丈夫よ。武彦がついてるもん。――ねえ?」
「え?――ああ」
「何よ、気がないわね」
「ゆうべな……」
「ゆうべのことなら――」
「いや、お前が眠った後だ。何だか妙な声を聞いたんだよ」
「声?」
「いや――人間の、かどうか分らないけど。何だか獣の声みたいだった。狼の|遠《とお》|吠《ぼ》えみたいな、さ」
「狼?」
「いや、犬かもしれないけど、本当に、狼みたいに聞こえたんだ」
「日本にはもう、いないのよ」
「知ってる。――何だったのかな」
武彦は、何か、引っかかることがある様子だった。
――食事の後、武彦と仁美は、町へ出てみることにした。
「待ってろ」
と、武彦は出がけに、|一《いっ》|旦《たん》引っ込んで、戻って来た。
「どうしたの?」
「これさ」
武彦の手には、ここへ来た時、あの金井という老人から取り上げたナイフがあった。
「持って行くの?」
「万が一、ってこともあるからな」
「そうだね」
二人は町へ出た。
もう、日射しは大分高くなっていた。
9 かみついた少女
「どこに行く?」
と、仁美は|訊《き》いた。
「そうだな」
と、武彦は道に立って、周囲を見回した。「あの丘に上ってみるか」
「丘?」
と、仁美は武彦の視線を目で追って、「――ああ、あれね」
小高い丘が、ちょうど町を見下ろす格好で、屋根の向うに|覗《のぞ》いている。
「町全体を見渡すには、高い所へ上るのが一番さ」
と、武彦は言った。「行こう」
「だけどさ――」
「何だよ?」
「馬鹿は高い所に上りたがる、とも言うわよね」
「こいつ!」
二人が道を歩いて行くと、少し遅い出勤らしいサラリーマン風の男が二人、三人と連れ立って、やって来た。
「――バスでしょうね、ここからは」
と、仁美は言った。
「うん。――よく、こんな所から通う気になるよな」
「仕方ないじゃない。家族持ったら、働くしかないし」
「まあ、そりゃそうだけど」
武彦と仁美の方を、誰もがチラチラ見て行く。
「――ちょっと有名人になった気分」
「|呑《のん》|気《き》な奴だな」
と、武彦は苦笑した。「今の中に、ゆうべの妙な行進に加わってたのが、二人はいたぜ」
「確か?」
「人の顔は忘れないよ」
仁美は首を振って、
「でも、こうして見てると、別に、どうってことのない、小さな町だけどね」
と、言った。
「その電話して来た男の子が言ったんだろう? 『夜は外へ出るな』って」
「うん。――昼間は大丈夫、ってことなのかもね」
「ともかく、町の中をよく知っとかないといけないな」
二人は、もう町の外れまで来ていた。
「その辺から上れそうだぜ」
「細い道があるよ」
「行ってみよう」
二人は、ゆるい上りになっている林の中の道を、|辿《たど》って行った。
「――そうだ」
と、仁美は思い出したように、「ねえ、武彦」
「何だ?」
「私たちのこと、どうする?」
「何だよ、いきなり」
と、武彦が面食らって、「どうする、って悩むような仲じゃないだろ、まだ」
「馬鹿」
と、仁美は武彦をつついてやった。「町の人たちに何て言うか、よ。――兄妹ってことにしとく? まさか恋人で|同《どう》|棲《せい》させてますとも言えないでしょ」
「よせやい」
と、武彦、少し照れている。
「じゃ、番犬ですって言っとくか」
「犬扱いするな!」
と、ムッとした様子で、「いいよ。|俺《おれ》は――|従兄《いとこ》ってことにしよう」
「|従《い》|兄《と》|妹《こ》同士か。――それ、いいね」
仁美は、武彦の腕を取って、「ちょっとスリルもあるし」
「お前、何考えてんだよ」
と、武彦は照れている。「スリルなら、いくらでも、これから出て来るぜ」
――ともかく、二人は、丘の一番高い所まで上ってみた。
「町全体も、少し高低があるのね」
と、仁美は言った。
そうなのだ。町の中にいるとよく分らないのだが、仁美たちのいる家は町の高い方にあり、そこから、だらだらと下りになって、町の端まで続いている。
もう、朝の仕事に、主婦たちが精を出し始める時間だった。
どの家でも、窓のカーテンが開けられ、中に忙しく動く人の影が見えた。
「今ごろ出かけてく人もいる」
と、仁美は指さした。
「どこかの奥さんだな。パートか何かに出てるのかもしれないぜ」
「――別に、どこといって、変った所もないみたい」
「一見したところじゃな」
と、武彦が|肯《うなず》いた。「だけど、やっぱり何か起こってるんだ。ゆうべのことだって、まともじゃないもんな」
「うん……」
しかし、何が起こっているというのだろうか? 仁美には、見当もつかない。
少し、風が吹いて来た。
「風、冷たいね」
と、仁美が首をすぼめる。「やっぱり、都心の方に比べると寒い」
「そうだな。――大丈夫か?」
「抱いてくれないの。冷たいのね」
「だって……」
仁美の方から体を寄りかからせて行くと、武彦は、
「重てえな……」
とか何とか言いながら、仁美の肩に手を回した。
ふと、仁美は、背後にガサッという、枝のこすれるような音を聞いて、振り返った。
「あら」
五つか六つぐらいの、女の子が立っていた。
「やあ」
と、武彦が言った。「君――町に住んでるの?」
女の子は、答えなかった。警戒するような目で、二人を見つめている。
どこか、妙な印象を受けた。――仁美は、ふと、どうしてこの女の子がこんな所にいるのかしら、と思った。
子供が一人で遊びに来る、といった場所ではない。それに――どこから来たのだろう。いつ?
近付いて来れば、足音がするはずだ。
そう思って、初めて気付いた。――女の子は裸足[#「裸足」に傍点]だった。
「あなた、お名前は?」
と、仁美が|訊《き》く。
女の子は、仁美の言葉が耳に入らなかったのか、武彦の方を、じっと見つめていた。
「――武彦のこと、気に入ったみたいよ」
「よせやい」
――女の子の格好も、何だか妙ではあった。白のブラウスと、えんじ色のスカート。
よそ行き、という格好だが、どっちも、土や|埃《ほこり》で、ずいぶん汚れてしまっている。
髪の毛も、ずいぶん長いこと、洗っていないようで、細かい枯葉が、引っかかったりしている。まるで、地べたに寝ている、とでもいう様子だ。
「どこの家なの?」
と、仁美は女の子の方へかがみ込んで、訊いた。「お姉ちゃんに教えてくれるかなあ、指さして」
女の子は、仁美のことを完全に無視していて、武彦の方へと近寄って行くと、何を思ったのか、ぐるっと武彦の周囲を回った。
「何してんだ?」
武彦は戸惑っていた。
「ね、ちょっと――」
と、仁美が手を伸し、女の子の肩に触れると、突然女の子は、電気にでも打たれたように飛び上がり、金切り声を上げた。
これには仁美の方がびっくりして、|呆《あっ》|気《け》に取られた。
「ごめん! びっくりした?」
女の子が、パッと駆け出す。
「おい、待てよ!」
と、武彦が素早く女の子の腕をつかまえた。
と――女の子がパッと振り向き、いきなり武彦の手にかみついた。
「ワッ!」
武彦が声を上げた。不意の出来事で、仁美も、すぐには動くこともできなかった。
武彦が、右手を押えて、うずくまる。女の子の方は、信じられないような早さで、たちまち走り去り、木立ちの間に姿を消してしまった。
「――あの子、何なの?」
と、仁美は|呆《ぼう》|然《ぜん》としている。
「まるで犬だぜ! 畜生!」
武彦が顔をしかめた。
「――大丈夫?」
「そうでもねえよ」
かまれたところを押えていた左手を離すと、血が流れ落ちた。
「ひどい! ね、ハンカチ――これで縛ってあげる」
「まるで|牙《きば》でも持ってるみたいだったぜ」
と、武彦は息をついて、「ただかみついただけにしちゃ、|凄《すご》いよ」
「ほら……。ほら、手を上げて。――ここで縛るから」
思い切り、力をこめて、仁美は武彦の腕を縛った。――まだ出血している。
傷は割合深いようだ。
「お医者に見せないと」
「なに、平気さ。血さえ止れば」
「だめよ! 何か菌でも入ったら……。あの子、まるで浮浪児みたいだったわ」
「そうだな。しかし、都会ならともかく、こんな所に浮浪児なんて、いるのか?」
「知らないわ。――ともかく、家へ戻りましょ。この町じゃ、いいお医者さんなんて、ないかもしれないわね」
仁美は、武彦の腕を取って、急いで丘を下りて行った。
「何だ」
と、声がした。「お前、こんな所で何してる」
小西のベンツを洗っていた三神一郎は、手を止めて、振り返った。
「何だ、刑事さんか」
市村刑事だったかな、こいつ。三神は|辛《かろ》うじて名前を思い出した。
「どこかで見たことのある顔だな、とさっきから思ってたんだ」
ビルの裏手の駐車場。――三神は、小西の外出の前に、車を洗ったところだった。
「市村さんだったね」
と、三神は息をついて、「何か事件なのかい?」
「いや。ちょっとな」
市村は、きちんと背広を着て、ネクタイをしめた三神を眺めて、「いや、びっくりした!」
「|馬《ま》|子《ご》にも衣装さ」
と、三神は笑った。
市村という刑事には、割合、いい印象を持っている。三神のように、年中何かやらかしていると、刑事も頭から犯人と決めてかかるので、ずいぶん、やってもいないことで挙げられたりもしたものだ。
しかし、市村は、そんな時でも一応、三神の話に耳を傾けてくれる数少ない一人だった。
「この車は?」
と、市村がベンツを見て、訊く。
「小西さんのだよ」
「小西晃介?」
と、市村が、びっくりしたように言った。
「何かまずいのかい」
「いや、そんなことはないが……。ちょっと、この前、用事で会ったもんでな」
と、市村は言って、「じゃ、小西の運転手をやってるのか」
「うん。――ちゃんと、正式に雇われてるんだぜ」
「分ってる」
市村は|肯《うなず》いて、「しかし、良かったな。お前は|真《ま》|面《じ》|目《め》に働く方が似合ってる」
「そうかな」
と、三神は少し照れて肩をすくめた。「――おっと」
ポケットで、ブーッとブザーが鳴った。
「お呼びか」
「ああ。じゃ、仕事だから、失礼するぜ」
「頑張れよ」
市村は、ポンと三神の肩を|叩《たた》いて、歩いて行った。
三神は、ベンツに乗り込むと、エンジンをかけた。――よし、この音なら、大丈夫だ。
しかし……。刑事がどうして、こんな所をうろついてるんだろう?
三神は、ちょっと肩をすくめて、車を走らせた。
――ビルの正面につけると、ちょうど小西が一人で出て来るところだった。
「社長、早いですね。今日は」
と、ドアを開けながら、言うと、
「くたびれたよ。朝から会議だ。――人間に会うってのはくたびれる」
小西が、座席に|寛《くつろ》ぐ。三神は運転席に戻って、
「どちらへ?」
と、|訊《き》いた。
「うむ。――病院へやってくれ」
「分りました」
ただ「病院」と言う時は、あの[#「あの」に傍点]病院のことなのである。
三神は、車の流れの中へ、ベンツを割り込ませて、
「急ぎますか」
と、訊いた。
「そうだな。あの時ほどじゃなくてもいい」
「はい」
と、三神は答えて笑った。
――もう一週間になる。小西の車を、初めて運転してから。
しかし、三神にとって、この一週間は、いやに短く感じられた。
働くなんてことは、およそ性に合わないと思っていたのだが、小西という男への敬服の念が、三神を楽しくさせていたのだ。
あの病院のことを、三神は何も知ってはいない。
小西も、話したがらないのは明らかだった。
しかし、この一週間だけでも、小西があの病院へ行くのは、これで三回目。
多忙な小西のスケジュールを考えれば、大変な時間を費やしていることになる。
よほど親しい人間が、入院しているのだろう。――もちろん、三神の知ったことではなかったが。
あの時、階段を駆け下りて来て、三神に飛びかかって来た女。あれが、小西の見舞う相手なのだろうか?
もしそうだとすれば、あの女は、小西の娘ぐらいの年齢である。
何か時々、発作を起こして凶暴になるとか、大方、そんなところだろう。
家の中に病人がいるというのも、|辛《つら》いものだ。――三神にも、経験があった。
「待て」
と、小西が言った。
ベンツを道のわきへ寄せて、
「――どうしました?」
「仕事を思い出した」
と、小西は舌打ちした。「仕方ないな。ホテルPへ行ってくれ」
「分りました」
三神は車を強引にUターンさせた。
少し走らせると、
「三神」
と、小西が言った。
「はい」
「私はホテルで降りる。その後、一人であの病院へ行ってくれないか」
「何かご用事でも?」
「これを届けてくれ」
小西に渡されたのは、小さな箱だった。きちんと紙に包んである。
「誰に渡せば?」
「あの入口の男でいい。電話して、分るようにしておく」
「はい」
その包みを、三神はダッシュボードの中へしまい込んだ。「その後は?」
「それだけだ。――たぶんホテルPに泊ることになるだろう」
「じゃ、明朝のお迎えは?」
「ホテルPへ電話を入れてくれ。朝の八時にな」
「分りました」
――ホテルか。女かな?
もちろん、小西に女がいても、おかしくはない。
ホテルの正面で、小西は降りると、
「じゃ、頼むぞ」
と、三神へ声をかけた。
一人になると、やはり何となくホッとする。
小西は、三神の免許証も取り戻してくれたし、女の所を転々としていたのを、小ぎれいなアパートの一部屋も用意してくれた。この背広も、もちろん小西の金で買ったものである。
全く、不思議な男だ。
ともかく、三神は再び車であの病院へと向かった。
――着いたころには、もうすっかり暗くなっていた。
三神が車を出ると、入口のドアが開いて、いつも受付にいる男が顔を出した。
「やあ、ご苦労さん」
「どうも」
と、三神は言って、「これを、小西さんから――」
「ええ、聞いてますよ。ともかく入って下さい」
「それじゃ」
三神は、病院の中へ入った。――あまり、長居したくなる所ではないが。
「そこで休んでて下さい。この箱ですね。確かに渡しますから」
人の|好《よ》い、話し好きな男で、いつも小西が誰かを見舞っている間、三神にお茶など出してくれる。
「――どうです、コーヒーでも」
「ありがたいな。いただけますか」
「ちょうど、いれようと思ってたとこなんですよ。――ちょっと待ってて下さい。インスタントじゃ、おいしくない。ちゃんとドリップでいれますから」
「どうも」
と、三神は言って、小さな部屋のソファに腰をおろした。
一人になって、ドアが少し開いているので、つい、耳に神経を集中してしまう。
泣くような声、|呻《うめ》くような声、甲高い笑い声……。
遠くから、様々に響いて聞こえて来るので、それはいっそう幻想的とでも言いたいような印象を与えた。
三神は、伸びをして、天井に目をやった。すると――布を引きずるような音がした。
開けたままのドアの方へ目をやると、何か白いものがチラッと見えたようだったが――。
しかし、錯覚かもしれない。
それくらい、ほんの短い間のことだったのだ。別に、どうってことじゃあるまい。
三神は、|欠伸《あくび》をした。――すぐに、受付の男が戻って来て、
「やあ、お待たせして」
と、手をこすり合せ、「さて、|旨《うま》いコーヒーをいれますよ」
と、やけに張り切っている……。
10 発 熱
「今晩は」
と、仁美は言った。
その男の子は、ただ黙って頭を下げただけだった。
「まあ。ちゃんと|挨《あい》|拶《さつ》ぐらいしなさい」
と、母親が顔をしかめる。
「いいんです。二人になったら、ちゃんと話すもんね」
仁美は、ニッコリと笑って見せた。
「本当に、人見知りな子で……」
田所弘江は、仁美にお茶を出した。「――以前はそうでもなかったんですけどね。父親がいなくなってから、やっぱり寂しいんだと思いますわ」
仁美は、あんまり色々当人のことを、母親と目の前で話さない方がいい、と思った。
「じゃ、早速始めようか」
と進へ声をかける。
「いいよ」
と、あまり気のない様子で、進は言った。
「じゃ、よろしくお願いします」
と、田所弘江は仁美に頭を下げた。
中学三年生で家庭教師をやるというのも、何だか照れくさかったが、別に仁美の方から売り込んだわけではない。弘江が、白浜家へやって来て、
「お宅にお嬢さんがおられるそうですけど、うちの子の勉強を見ていただけませんか」
と、頼んだのだ。
五年生といえば、算数の問題など、結構むずかしい。しかし、仁美は、まあ成績もいい方だし、男の子相手に、教えるのも面白いだろうと思ったのだ。
それに、大人の話はどこまで信じていいか分らないところもあるが、子供となら、勉強途中の雑談などで、何か、手がかりらしいものがつかめるかもしれない。
「――ふーん」
と、仁美は、進の部屋へ入って中を見回すと、「なかなかよく片付いてるじゃない」
「そう?」
と、進は面白くもなさそうで、「教科書はこれ」
「はいはい。――じゃ、一番の問題は、算数ね」
進の机のそばに、もう一つ|椅《い》|子《す》を置いて、仁美はそこに腰をおろした。
「そんなに成績悪くないよ」
と、進は、やや不本意という様子。
「ま、ともかく五年生だもんね。もう来年は六年。中学受験ってこともあるから、お母さん、心配してるんでしょ」
仁美は、進の教科書を広げながら、言った……。
――この町へ、白浜たちがやって来て、一週間たつ。
生活のテンポも、やっと少しでき始めて来たところだ。
しかし、肝心の、小西からの頼みの件は、一向にはかどっていない。――もちろん、そう焦って、危険を招くことはないのだが。
町へ着いた夜、武彦と見た、「奇妙な行進」も、あれ以来ないようだ。
町の人たちとも、大分顔見知りになっていたが、少なくとも、表面上は何事もなく過ぎていた。――|愛《あい》|想《そ》のいい人も、悪い人もいる。
どこの町でも、それは変らなかった。
奇妙な出来事といえば、あの武彦にかみついた女の子のことだろうが、あれ以来、一度も見かけていない。かまれた傷も、やっと良くなって来ていた。
時々、小西から電話が入る。
しかし、小西も、
「決して急がずにやってくれよ」
と、念を押していた。
仁美は、この町へ来た時、夜は外へ出るな、と電話して来た男の子のことが、気になっていた。
それらしい年齢の男の子は、町に四、五人いた。この進もその一人で、家庭教師を引き受けたのも、それが理由の一つだったのである。
――勉強を始めると、進も結構熱心になった。
仁美としても、ちょうど教えやすい感じで、あまり経験のないことだけに、楽しかった。
「あ、もう一時間以上たったね」
と、仁美はふと気付いて、「じゃ、一息入れようか」
「うん」
進は|肯《うなず》いた。「じゃ、お母さんにそう言って来る」
途中でお茶菓子を出してくれるのである。――まあ、家庭教師の役得の一つだろう。
進が部屋を出て行くと、仁美は椅子から立ち上がって、腰を伸した。
慣れていないので、つい力が入ってしまうのだろう。
ゆっくりと頭をめぐらして、本棚の本を見る。――なかなか、健全な読書傾向である。
ふと、一枚の写真に目が止った。
古いカラー写真で、本の|隙《すき》|間《ま》に、雑誌の付録らしいボール紙の写真立てに入れて、置いてあった。
一人は進だ。――二年くらい前のものか。
そして一緒にうつっている女の子。おそらく、進の妹だろうか……。
もしかして、この女の子は――。
面影がある。武彦にかみついた、あの女の子の。
進の父親は、仕事の関係で、ここを離れているという。そして進の妹は、病気で長期に入院している、という話だった……。
「――はい」
と、ドアが開いて、進が自ら盆を運んで来た。
「あら、悪いわね」
と、仁美は盆を受け取った。
二人で紅茶を飲み、ケーキを食べながら、
「進君の妹って、何ていう名?」
と、|訊《き》いた。
「ルミ」
「ルミ、か。ルミちゃんって、いくつなの、今?」
「五歳だよ」
五つ。――あの女の子も、それぐらいではなかったか。
「そう。五つで、入院か。|可《か》|哀《わい》そうだね」
「うん」
進は、あまり話したくないようだった。
ふと、仁美は、進の目に光るものを見たような気がした。――涙か?
たぶん、何かあるのだ。ただ、病気で入院しているという以上のことが、何か……。
今夜は、仁美もそれ以上訊かないことにした。
「――小西さんは、よくできた人だね」
と、受付の男は、三神にコーヒーをいれながら、言った。
「そうですね。まだ短い付合いだけど……」
三神は、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。「|旨《うま》いなあ!」
「そうかい?」
と、男は|嬉《うれ》しそうに、「これでもね、なかなかこってるんだよ」
「――小西さんの家の人ですか、入院してるのは?」
と、三神はさりげなく訊いた。
「そいつは、秘密さ」
「ああ、それじゃいいです。すみません」
「いや」
受付の男は、首を振って、「それにね、私も知らないんだ。正確なところはね」
と、言った。
「そうですか」
「ま、年齢とか、面会した時の感じで、大体、見当はつくけどね」
「でしょうね」
「まあ……。小西さんは大変だ。二人[#「二人」に傍点]だからね」
「二人?」
「そう。たぶん、娘さんと孫じゃないかな」
娘と孫……。
三神は、ちょっと|眉《まゆ》を寄せた。
小西のビルで働いている人間から、聞いていたのだ。小西の娘と孫が、かなり|悲《ひ》|惨《さん》な死に方をした、と。
――では、ここに入っているのは、誰なのだろう?
「長居しちまって」
三神は、空のカップを置いて、「ごちそうさま」
と、立ち上がった。
「もう行くのかい」
「ええ。何しろ遠いですからね」
三神は会釈して、病院を出た。
ベンツを運転して、広い道へ入ると、少しスピードを上げる。
小西の娘と孫、か……。
何かありそうだ。――もちろん、三神の知ったことではないのだけれど。
――工事中の灯が見えた。
赤いランプが点滅している。三神は、スピードを落とした。
すると、突然、
「停らないで」
と、後ろで声がした。
三神は、びっくりして振り向いた。
「停めないで! このまま走って」
女がいる。――後ろの座席の床に、うずくまっていたのだ。
「君は――」
「このまま走って!」
「ああ……」
ベンツは、工事のわきを抜けて、走って行く。
少し先まで行って、三神は車を道のわきへ寄せた。
「――さっきのは、パトカー?」
と、女が言った。
「いや、工事だよ」
女が、ホッと息をつくのが聞こえた。
「ごめんなさい……。てっきりパトカーが、私を捜してるのかと思って」
三神は車を出ると、後ろのドアを開けて、
「ともかく、座れよ」
と、言った。「そこじゃ、お|尻《しり》が痛くなるぜ」
「ええ……」
女は、白い、ダブダブの服を着ていた。
「――君か」
「え?」
「この前、|俺《おれ》につかみかかって来た女だ」
「私が?」
「うん」
「いつのこと?」
「一週間ぐらい前かな」
女は、少し考えて、
「一週間前ね……」
と、|肯《うなず》くと、「具合が悪かったの。|憶《おぼ》えていないわ」
「そうか」
三神は、どうしたものか、と思った。「どうしたんだ?」
「逃げたの」
「あの病院から?」
「ええ」
「何か、いやなことでも?」
「そうじゃないわ」
と、女は首を振った。「あの病院の人は、みんな親切よ」
「じゃ、どうして――」
「わけがあるの。訊かないで」
と、女は言った。
「そうか。しかしね……」
三神としては、知らん顔を決め込むわけにはいかない。
「お願い。連れて帰らないで」
と、女は三神の手をつかんだ。
女の手は、やわらかく、暖かかった。
「だけど、大騒ぎしてるぜ」
「分ってるわ。――私も、することがあるの。それが終ったら、病院へ戻るわ」
「自分で?」
「ええ」
「することって、何だい?」
「それは言えないけど」
――三神は、しばらく迷っていた。
この女を勝手にどこかへ連れて行ったら、小西が怒るだろう。
「お願い」
と、女は言った。「小西の所へ連れて行って」
三神は、ちょっと面食らって、
「君は? 誰なんだ?」
「私は……小西の娘よ」
と、女は言った。
「――どうも」
と、仁美は、田所弘江に頭を下げた。
「また、よろしく」
と、弘江は玄関まで出て来る、「進。――ちゃんとお送りしないと」
「大丈夫ですよ」
と、仁美は笑って、「すぐ近くなんだし」
「でも……。進」
「うん」
進が、サンダルをはいて、「そこまで、送る」
「まあ、ありがと」
仁美も、それ以上は断らないことにした。
「どうもありがとうございました」
弘江の声を背に、仁美は玄関を出た。
夜の町は、静かだった。
「――静かだね」
と、歩きながら、仁美は言った。
「うん」
「何だか、妙な感じ。ずっと都心の方にいたから、いつも何か聞こえてるのが、当り前だものね」
仁美は、道を少し来て、「――もういいわよ。進君、帰って。大丈夫だから」
「うん」
進は肯いて、「じゃ、さよなら」
「さよなら」
進は、足早に戻りかけたが、ふと足を止めると、振り向いて、「――先生、気を付けてね」
と、言った。
「ええ」
「夜は危ないよ[#「夜は危ないよ」に傍点]」
進が、一気に駆け出して行ってしまう。
やっぱり……。あの子だったのだ。
電話をくれたのは。――しかし、今、追いかけて|訊《き》くわけにはいかない。
仁美は、ともかく、進だということが確かめられただけで、満足だった。
「ただいま」
玄関を上がって、「――お母さん」
「あら、仁美」
母の千代子が顔を出した。「どうだったの?」
「うん。まあ、無事にね」
「お|腹《なか》は?」
「少し、|空《す》いてる」
「じゃ、お茶漬でも食べる?」
「うん」
台所へ行って、お茶をいれると、仁美は、
「お父さんは?」
と、訊いた。
「お仕事。――もう帰るころよ」
「へえ。本当の[#「本当の」に傍点]仕事?」
「そうなの。小西さんとも会うんだとか、言ってたわ」
仁美は、アッという間にお茶漬を片付けて、
「――武彦は?」
「さあ。部屋にいるんじゃない?」
あの進っていう子のことを、武彦には話しておこう、と思った。
武彦の部屋のドアをノックして、
「武彦……。入っていい?」
返事がない。ドアを、そっと開けると、中は暗かった。
「どうしたのよ?」
と、声をかけると、
「お前か……」
「寝てるの?」
仁美は、びっくりした。
明りを|点《つ》けると、武彦は、布団を敷いて、その上に横になっている。
「具合でも悪いの」
「少しな……。大したことないけど」
「どうしたのよ」
仁美は、かがみ込んで、「何だか、熱っぽいような顔ね」
顔に手を当てて、息をのんだ。――|凄《すご》い熱だ。
「どうして黙ってたのよ!」
「この傷のせいかな」
右手の包帯を、武彦は左手で押えた。
「痛むの?」
「ああ……。大分治りかけてたのにな」
包帯の上からでも、傷の付近が、熱を持っていることが分る。
「お医者へ行かなきゃ。――待ってて」
仁美は、急いで台所へ行った。
「――まあ、熱が?」
話を聞いて、千代子も手を休め、武彦の部屋へと急いだ。
「お父さん、いつ帰る?」
と、仁美は訊いた。
「さあ……。そろそろだと思うわ」
「タクシーで?」
「たぶんね」
「じゃ、そのタクシー、そのまま使って、武彦を病院へ連れて行くわ」
ちょうど、表に車の音がした。仁美は、
「お父さんだ!」
と、急いで飛び出して行った。
11 苦 痛
こんなことがあるのだろうか?
三神は、何だか見も知らぬ迷宮の中へ迷い込んでしまったような気分で、ハンドルを握っていた。
小西の娘? この女が……。
しかし、人づてに聞いた話では、小西の娘と孫は、気の狂った夫に殺されたのだということだった。もちろん三神は、小西当人から、そんな話を聞いたわけではない。
この女が|嘘《うそ》をついているということだって、当然考えられる。
しかし、小西が、ああも熱心にあの病院に通っているという事実は、この女の話を裏付けているようにも思えた。
――どっちにしても、三神の知ったことではない。三神はただの運転手である。
小西がどこへ行こうと、誰と会おうと、三神はただ車を運転して、言われた通りにしておけばいいだけだ。
「なあ」
と、女の方へ声をかける。「やっぱりまずいんだよ。――おい」
車を停める。
女は、助手席で、眠り込んでいた。
「やれやれ……」
と、三神は|呟《つぶや》いた。
こっちが困ってるのも知らないで。いい気なもんだ。
まあ、いい。眠っててくれりゃ、|却《かえ》って楽だ。今の内に、病院まで送り返してしまおう。
三神は、車をUターンさせて、病院への道を|辿《たど》った。三十分もあれば戻れるだろう。
――しかし、女の眠りは、割合に浅かったようだ。
車が小さくバウンドすると、ドキッとしたように、目を開いた。
「眠っちゃったのね」
と、女は言った。「長く寝てた?」
「そうでもない」
と、三神は言った。
「いくらでも眠れるわ……。あの日[#「あの日」に傍点]が過ぎると」
女は、|謎《なぞ》めいた言い方をしたが……。ふと窓の外へ目をやった。
変哲もない、林の中の道だが、どこか|見《み》|憶《おぼ》えがあったのだろうか。三神の方を見て、
「戻ってるの?」
と、言った。
「――そうだ」
ごまかしても仕方あるまい。「君はあそこの患者だろう。|俺《おれ》はただの運転手だ。俺の一存で、君を小西さんの所へ連れて行くわけにはいかない」
この前、女に飛びかかられたので、三神は用心していた。車のスピードを落とし、いつでも停まれるようにしている。
女が怒ってわめき出すかと思ったが、意外なことに、あっさりと、
「そう」
と、肯いた。「そうでしょうね」
「悪く思うなよ。俺は小西さんに雇われてるだけだからな」
少しホッとして、三神は言った。
「ええ、分ってるわ」
と、女は言った。「あなたにも、立場ってものがあるわね」
「そんなとこだ」
「でも――」
と、女は首を振って、「私は病院へ戻りたくないの」
何が起こったのか、三神は一瞬分らなかった。
ガタッ、と音がしたと思うと、女の側のドアが開いて、女の姿は消えていた。
「――おい!」
馬鹿め! 飛び下りやがった!
車を急停止させて、三神は飛び出した。
いくらスピードを落としていたといっても、時速四十キロぐらいは出ていたはずだ。そこから飛び下りるなんて、無茶だ!
「おい!――どこだ!」
三神は、大声で呼んだ。
女が飛び下りた辺りまで駆け戻って、青くなった。――ちょうど片側が、急な斜面になって、落ち込んでいる。ガードレールもない。
飛び下りた勢いで、女がこの斜面を転がり落ちて行ったとしたら……。
夜の暗がりの中では、その斜面の下がどうなっているか、よく見えなかったが、前に昼間走った時の記憶では、さらに急に落ち込んで、狭い流れが下にあったような気がする。
そこまで落ちていたら……。途中、岩にでも頭をぶつけたら、命を落とすことも充分にある。
「――厄介な奴だ」
と、息をついて、三神は|一《いっ》|旦《たん》車へ駆け戻ると、懐中電灯を手に、その場所へと戻って来た。
そして、足下を照らしながら、用心深く斜面を下り始めた……。
古びて、薄暗い病院だった。
仁美は、あまり病院という所が好きでない。入院の経験もなかった。
しかし、今はそんなことを言ってはいられない。
父の乗って帰って来たタクシーで、やっと捜し当てた総合病院である。――あの町からは少し離れていたが、夜で、道も空いているので、二十分ほどで来た。
その時間の長かったこと!
「――お茶、どう?」
年輩の、夜勤の看護婦が、仁美に紙コップを差し出した。
「すみません」
仁美は、手に伝わる熱さに、少し心の|和《なご》むのを感じた。
「今、先生が|診《み》ているから。もう少し待ってね」
「はい」
優しい看護婦の笑顔に、仁美は救われたような気がした。――気持の上だけでも、ずいぶん違うものだ。
「――どう?」
と、母の千代子が、トイレから戻って来る。
「まだ」
と、仁美は首を振った。
父は家に残って、千代子と二人で、武彦をここへ連れて来たのだ。
「傷が|化《か》|膿《のう》したのかしら」
と、千代子が、仁美と並んで|長《なが》|椅《い》|子《す》に腰をおろした。
最近では見かけることのない、ツルツルのビニールが所々裂けた長椅子である。
「でも、一週間もたってるのよ」
と、仁美は言った。「化膿するなら、もっと前にしていない?」
「お母さん、よく分らないけど……」
と、千代子は首をかしげて、「確かに、治りかけてるみたいだったのにね」
「おかしいわ」
と、仁美は言った。「武彦をあの町へ連れてったせいで……」
「落ちついて」
と、千代子が仁美の肩を優しく抱いた。「そんなに悪いわけじゃないかもしれないでしょ」
「うん……」
だが、確かに奇妙だった。――あの女の子が、なぜ突然武彦にかみついたのか。
あの子は間違いなく、田所ルミだ。
仁美は、武彦に言われて、女の子にかみつかれたのだということを、父と母には黙っていた。犬にかまれたことにしてあったのだ。
当然、田所ルミのことも、父や母は知らない。
しかし、これはやはり話しておくべきかもしれない、と仁美は思った。――田所ルミはどこかに入院していることになっている。しかし実際には、浮浪児のように、あの山の中に潜んでいるのだ。
これは、あの町の「秘密」とも関係があるのかもしれない。
「――お母さん」
と、仁美が口を開きかけた時、廊下に医師が出て来た。
仁美と千代子は反射的に立ち上がった。
「どうも」
と、髪の少し白くなった中年の医師は、穏やかな声で言った。「ご家族?」
「友だちです」
と、仁美は言った。
「うちで、事情があってお預りしてるんです」
と、千代子は付け加えて、「どんな具合でしょう?」
「妙な具合です」
と、医師が|眉《まゆ》を寄せて言ったので、仁美の顔から血の気がひいた。
「そんなに悪いんですか」
「ああ――いや、今は熱も下がって、落ちついてます」
仁美はホッとして、体の力がぬけてしまった。
「しかし、どういう熱なのか……。傷口は化膿してもいないし、ふさがりかけている。熱も、自然に下がったんですよ」
「じゃ……一時的なものですか」
と、千代子は言った。
「狂犬病とか、そんな心配はありません。しかし確かにここへ運ばれて来た時には、あの傷は熱を持っていた。――気になります。二、三日入院して様子を見た方がいいと思いますね」
仁美は、母とちょっと目を見交わした。
「――今、会えますか」
と、仁美は|訊《き》いた。
「構いませんよ」
仁美は、診察室へ入って行った。
白い光に照らされた固いベッドの上に、武彦が横になっている。
「――お前か」
と、仁美を見て、「もう平気だ。帰ろうか」
「待ってよ」
と、仁美は|呆《あき》れて、医師の話をくり返した。
「――入院? 冗談じゃないよ」
と、武彦は顔をしかめて、「何のために|俺《おれ》が一緒にあの町へ行ったと思ってるんだ?」
「しっ。小さな声で」
と、仁美は言った。「傷のこと、犬にかまれたって言ったんでしょ?」
「ああ」
「お医者さん、何て?」
「かなり大きな犬だね、って。よく分らねえんだろ、ヤブだから」
「馬鹿!」
と、仁美はコツンと武彦の頭を叩いた。
「いてえ。何すんだよ?」
「人間の歯と犬の歯よ。違いなんて、見りゃ分るんじゃない、誰だって」
「だけど――」
「ねえ、私、家庭教師に行ったでしょ、今夜」
「ああ。成績下げに行ったんだろ」
元気になると、口の悪いこと。
「黙って聞いて!」
田所ルミという女の子の写真が、武彦をかんだ子とそっくりだったことを話すと、
「じゃ、その子は入院してる、ってことになってんのか」
「そう。でも、まず間違いないわ。あの子よ」
「どういうことだ?」
「分らないわ。でも調べる必要があると思うの」
「じゃ、ますます帰らなきゃ」
と、武彦がベッドから下りようとする。
「待ってよ。――ともかく、その傷を治さないと。完全に良くなるまで、ここにいてよ」
「もう大丈夫だよ」
「いいえ。治りかけてた傷が、急に熱をもったり……。やっぱりどこか変よ。少し様子を見た方がいいわ」
「だって……。こんな所に入院するのか?」
と、情けない顔になる。
「いい先生じゃない。私もそばについててあげるから」
武彦の顔が、急に明るくなった。
「ずっと?」
「現金ね」
と、仁美は笑って、「――心配なのよ。武彦に何かあったら……」
「じゃ、一日だけ入院しよう」
「二日。――いい?」
「分った」
「その間にね、看護婦さんと、仲良くなっといて」
「何だって?」
武彦は面食らって、「そんな|可《か》|愛《わい》いの、いるか?」
「何考えてんの?――いい? 聞いて。同じような傷の人が、この病院へ来たことがないか、訊き出すのよ」
「なるほど」
「あの町の人で、他にもあの女の子にかまれた人がいると思うわ。この辺、大きな病院ってそんなにないし……。もし、何人もかまれているとしたら、当然、ここにも一人や二人、来ていると思うの」
「分ったよ。うまく話を持ってく」
「じゃ、今、入院の手続き取るわ」
と、仁美は言って、「明日、また来るからね」
「おい」
「え?」
「キスしろよ」
「病院よ」
「病人だぜ」
仁美は笑って、素早く武彦にキスすると、診察室を出て行った。
何の音だ?
三神は、斜面の捜索を、途中で|一《いっ》|旦《たん》切り上げることにした。
頭上の道で、何か低い|唸《うな》りが聞こえていたからだ。あれはまるで……。
草をつかんだりして、充分に気を付けながら、斜面を上って行く。
「――やっぱりか」
と、三神は|呟《つぶや》いた。
オートバイのエンジン音だ。それも、十四、五台。
三神が置いて来たベンツの周囲に集まっている。そして、三、四人がベンツの、ロックを外そうとしている様子だ。
「おい、待て!」
と、三神は声をかけた。
オートバイのライトが正面から当って、三神は目を細めた。
「何をしてるんだ」
「お前の車か」
と、一人が言った。
「そうだ。傷つけるなよ」
と、三神は言って、歩いて行った。
「――何だ」
と、一人が言った。「三神じゃねえか」
三神は、まずい、と思った。
以前、知っていた暴走族だ。もっとも、三神はこういうグループが嫌いで、加わったこともないが……。
「その格好、面白いぜ」
リーダーの男が笑った。乱暴な男だ。
一対一なら、三神も怖くない。しかし、十四、五人が相手では……。
「働いてるんだ。この車の運転手さ。邪魔しないでくれ」
と、三神は言った。
「ほう。自動車泥から足を洗ったのか」
「そうだ」
「フン、根性のねえ野郎だ」
「|俺《おれ》の勝手だろ。行けよ。こんな車、お前たちの好みじゃあるまい」
「まあな」
と、リーダーの男が肩をすくめ、「お前とは古いなじみだ。こいつは|諦《あきら》めるか」
「助かるよ」
と、三神は言った。
「――よし、行くぞ」
リーダーの男は、自分のオートバイにまたがった。
三神も、うまく行き過ぎると思っていた。怪しい。
いきなり、後ろからチェーンが飛んで来て、三神の後頭部を直撃した。
思わず|膝《ひざ》をついたところへ、一斉に四、五人がのしかかって来て、アッという間に押え込まれてしまう。
数が違いすぎた。――観念した。
「おい、ポケットからキーを出せ」
と、リーダーの男が命令した。
ポケットの中を乱暴に探られて、キーホルダーを抜かれる。
「車はいただいて行くぜ」
と、リーダーの男がニヤリと笑った。「ベンツは、仕立て直して、高く売れる」
「よせ」
と、三神は言った。「俺の車ならやるが、それは違う」
「知るか」
リーダーの男は、地べたに押えつけられた三神を冷ややかに見下ろした。「――飼犬になった気分はどうだ?」
ブーツの先が、三神の|顎《あご》をけった。唇が切れて、血が流れ出す。
「運転手か。――おい、手を押えつけろ」
リーダーの男が、三神の右手に、ブーツを当てた。「使えないようにしてやるぜ」
三神は、目を閉じた。――やめてくれ、と頼む気はない。
骨を砕かれたら、もうハンドルは持てないかもしれないが、何と言っても、やめるような相手ではなかった。
「声を上げてもいいんだぜ」
と、笑いながら、リーダーの男は足に力を入れた……。
「待って」
――突然、女の声がした。
誰もが|唖《あ》|然《ぜん》とする。
三神は、頭を起こして、あの女――小西の娘と言った女が、白い服を風に波立たせて立っているのを見た。
「引っ込んでろ!」
と、三神は怒鳴った。
女は、三神の声など耳に入らない様子で、
「その人を傷つけないで」
と、平板な声で言った。
「何だ、お前?」
と、リーダーの男は|呆《あっ》|気《け》に取られている。
「その人を助けてあげて」
と、女はくり返した。「代りに私を好きにしていいわ」
三神は、女が白い服を脱いで行くのを、|愕《がく》|然《ぜん》として見ていた。
「――やめろ! 逃げるんだ!」
三神は叫ぶように言ったが、次の瞬間、わき腹を誰かに強くけられて、息の止るような苦痛の中、意識を失ってしまった。
チラッ、と一瞬、あの女の白い裸身が残像のように揺らいで消えると、後はただ暗がりの中に、光の点が乱舞して、それもやがて溶けるように消えて行った。
苦痛も、怒りも、その|闇《やみ》の中へ引きずり込まれるように……。
12 暴れる女
心臓が打つ度に、わき腹に苦痛が走った。
――三神は、ゆっくりと体を起こそうとして、思わず|呻《うめ》き声を上げた。
何が起こったのか、しばらくは分らなかった。気を失っていたことは確からしい。
車は目の前にあった。
そうか。――思い出した。
暴走族たちは、姿を消していた。この車は持って行かなかったようだ。自分たちのバイクもある。こんな車を盗んでも、|却《かえ》って扱いに困るだろう。
――三神はハッとした。
あの女! あの女はどうしただろう?
立ち上がると、目の回りそうな苦痛があったが、それはやがて治まって行った。
周囲は闇だった。足下に懐中電灯が落ちていて、拾ってみると、ちゃんと点灯した。
あの女……。どうしてあんな|真《ま》|似《ね》をしたのだろう。
|俺《おれ》のことなんか、ろくに知りもしないのに。あんな奴らの前に体を投げ出すなんて、正気じゃない!
――捜すほどのこともなかった。
道から少し外れた草むらの中に、女は倒れていた。もちろん裸で、何も身につけていない。
急いで手首をつかんでみると、脈は打っていた。
懐中電灯の光の中に、あざや引っかききずだらけの、柔らかい肌が浮かんだ時、三神は、息をのんだ。
十四、五人の、獣のような連中だ。どんな目に遭わされたか……。
「馬鹿め!」
三神は思わず口走っていた。「何てことしやがるんだ!」
三神は、女の体を起こし、肩にのせると、急いで車へ運んだ。
どこか――病院へ運ぼう。
見たところ、ひどいけがはないようだが、診察してもらわなくては……。
毛布をトランクから出して来て、後部座席に寝かせた女の体にかける。
運転席に戻って、エンジンをかけ……。
病院? それなら、あの病院へ連れ戻せばいい。
そうだ。本当なら、とっくにこの女をあの病院へ送り届けているところなのだから。
しばらく、三神はエンジンをふかしながら、じっと前方の闇を見つめていた。
そして、車を大きくUターンさせると、スピードを上げた。
――この女は、逃げ出したのだ。あの病院へ戻りたくないから、と。
それなのに、三神を助けるために戻って来た……。
理由が何なのか、どういうつもりで、この女があんなことをしたのか、それは三神にもよく分らない。
ただ、この女が命の危険まで犯して、三神を救ってくれたのは事実である。
それなのに、この女をいやがっている場所へ送り返すわけにはいかなかった。
女が、少し大きく息をついて、動いた。
三神は、チラッと後ろを振り向いた。大丈夫、眠っているようだ。
病院か……。そうだ。あそこがいい。
三神が昔からよく知っている医者がいる。ケンカでけがなどすると、いつもそこへ行って、手当してもらったものだ。
あそこなら、秘密を守ってくれる。
三神は、行先がはっきりすると、アクセルを更に強く踏み込んで、夜の道を突っ走った……。
――もちろん、都内へ入ると、そう飛ばすわけにもいかなくなる。
赤信号で車を停めていると、後ろの席で動く気配がした。
「――気がついたか」
と、三神は振り返って言った。
女は起き上がって、毛布をしっかりと引き寄せ、
「どこなの?」
「俺の知ってる医者の所へ行く。大丈夫。あの病院へは送り返さないよ」
「本当に?」
「約束する」
女はホッとした様子だった。
「――大丈夫か? ひどい目にあわせたな。すまない」
「あなたのせいじゃないわ」
と、女は淡々とした調子で、「あなたに迷惑をかけたくないと思っただけよ」
「――変った女だぜ、あんたは」
と、三神は言った。
「お医者さんって……」
「心配するな。気心の知れた仲だ。口も固いしな」
「私なら、大丈夫よ」
「いや、一応|診《み》てもらってくれ。俺の気がすまない」
と、三神は言った。
女は、少し間を置いて、
「分ったわ」
と、|肯《うなず》いた。「でも、その後は?」
「さあ……。小西さんは今日は家にいない」
「そう」
「どこか、行く所はあるのかい?」
と、三神は|訊《き》いた。
「いいえ」
「俺のアパートへ来るか」
三神はそう言って、「もちろん、変な意味で言ってるんじゃないぜ」
と、付け加えた。
「ええ」
驚いたことに、女は、即座に言った。「連れて行って」
女の声には、感情が――どこか暖かい、ホッとしたような気分がこめられていた。
三神は、女が寂しいのだ、と思った。
誰かを求めている。誰か、安心してよりかかれる相手を。
おそらく、ずっと年上のこの女に、三神は奇妙にひかれるものを覚えていた。
「オス」
病院のドアを開けて、仁美は言った。「おとなしくしてるか?」
「どうしようもねえだろ」
と、武彦はむくれている。「腹が減って死にそうだい」
「ごめん。仕度に手間取ってさ」
入院したはいいが、簡単な朝食ぐらいしか出ないとあって、仁美が昼食を運んで来たのである。もちろん、作ったのは大部分、母の千代子だった。
「個室だね」
と、|椅《い》|子《す》にかけて、仁美は包みを開いた。
「――ちょっと! がっつかないでよ!」
武彦は、見る間におにぎりを三つ、ペロリと食べてしまった。
「――|呆《あき》れた」
「お茶くれ」
「はいはい」
仁美は持って来たポットのお茶を、紙コップに入れてやった。
入院患者など、他に一人もいないので、病室は四つのベッドがあるのだが、武彦の個室みたいなものだったのだ。
「――具合は?」
と、仁美は訊いた。
「今朝、少し熱があったけど、もう下がった」
「そう。でも、心配ね。やっぱり」
「何てことないさ」
と、武彦は肩をすくめた。
「ねえ」
仁美は声を低くして、「何かつかめた?」
「それとなく話してみたけどな」
と、武彦はお茶を一気に飲み干して、「――もう一杯」
「よく飲むわね」
「このところ、犬にかまれた患者ってのは見てないそうだぜ。今時珍しいわね、とか言われちまったよ」
「そう」
「例の女の子のこと、何か分ったのか」
「まだ。――小西さんにあの娘のこと、知らせて調べてもらおうかと思って」
「それがいいな。色々ルートも持ってるだろうし」
「あの進って子とね、もう少し打ちとけられれば、何か訊き出せると思うんだけど」
「恋仲になるなよ」
「小学五年生よ、向こうは」
「冗談だよ」
と、武彦は笑った。
「病人とも言えないね、その元気じゃ」
と、仁美は冷やかした。
「あの山には入るなよ」
と、武彦が真顔になって言う。
「うん。――でも、いざとなったら、あの子を捜して見付けるしか……」
「あの女の子だけ[#「だけ」に傍点]だとどうして分る?」
と、武彦は言った。「大人[#「大人」に傍点]だっているかもしれないぜ」
「それは……そうね」
仁美も、渋々|肯《うなず》いた。「ともかく、小西さんに電話してみようと思うの。向こうがどう言うか――」
仁美は言葉を切った。
「何だ、あれ?」
と、武彦が言った。
――叫び声が聞こえる。
病院の入口辺りだろうか。
叫ぶ、といっても、何か言葉とか悲鳴とかではない。|喉《のど》の奥から絞り出すように、意味のない、|呻《うめ》き声に近いようだった。
「何かしら」
と、仁美は立ち上がった。
「ここにいろ」
武彦がベッドから出ると、急いで病室を出て行った。もちろん、仁美もおとなしく待ってはいない。
「誰か、手を貸して!」
と、あの看護婦が叫んでいる。
仁美は|唖《あ》|然《ぜん》とした。――まるで獣のような声を上げて、暴れているのは、四十ぐらいの女性なのだ。
そう体も大きくないし、力もないようだが、看護婦が二人がかりでも、押え切れないでいるのだった。
何かの発作?――仁美には、初めて見る光景だった。
武彦が駆けつけて、女を背後からしっかりと抱いて押える。
「そのまま!」
医師が注射器を手に、飛び出して来た。
「腕を押えろ」
腕をまくって、針を射すのも一苦労だった。
しかし、何とか鎮静剤らしい注射をうつと、やがて女も、肩で何度か息をつきながら、静かになって行った。
「――眠ったみたい」
と、看護婦が汗を|拭《ぬぐ》う。
「寝かせておけ」
と、医師は息をついて、「いや、すまんね、手伝わせて」
「そんなこといいです」
と、武彦は言った。「何ですか、この女の人?」
仁美も近寄って見た。
ごく普通の、主婦に見える。――どこかで見たことがあった。
「同じ町の人だわ」
と、仁美は言った。
「そうだよ」
と、医師は言った。「私も知ってる。経理の仕事をして、子供を育ててる未亡人だ」
「町ですれ違ったことがあるわ」
と、仁美は言って、「でも――どうしたのかしら」
「分らんね」
医師は首を振った。「これから調べてみるよ」
「前にもこんなことが?」
と、武彦は|訊《き》いた。
「いや、初めてだ。――さっき電話をもらってね。犬にかまれたから、|診《み》てくれないか、と言って来た」
武彦と仁美がハッと目を見交わした。
「ここまでは普通にして来たんだ。看護婦が、上がって、と言うと、突然暴れ出した」
「何か――犬にかまれたせいで、病気に?」
「いや、こんな風になるってのは、聞いたことがないね」
と、医師は肩をすくめて、「君の傷とは全然違うと思うよ。心配することはない」
「大丈夫です」
と、仁美は言った。「暴れ出したら、フライパンで頭を殴ってやって下さい」
「人のことだと思って」
と、武彦はふくれっつらで、言った……。
病室へ戻って、仁美は、
「武彦も、もしひどくかまれてたら、ああなったのかもしれないね」
と、言った。
「ゾッとしねえな」
「ともかく、おとなしく寝てなさい。私、急いで小西さんに連絡を取ってみる。あなた、あの患者のこと、気を付けてて」
「分った。――おい、何かデザートないのか?」
「お昼から?」
「じゃ、夕飯は?」
「食べることしかないの?」
仁美はすっかりむくれて、言った。「キスしてやらない!」
電話が鳴った。
小西は、すぐに目を覚ました。反射的に時計を見ている。
八時か。――八時に、三神に電話しろ、と言ってあった。
女と一緒かもしれない、という三神の勘は当っていた。広いダブルベッドの中で、女の裸身が寝返りを打った。
電話くらいで起きることはないだろう。
「――小西だ」
と、受話器を取って言う。
「おはようございます、三神です」
「やあ。――九時半に、会議がある。ここから三十分で行くか?」
「大丈夫です。ベッドからでなきゃ」
と、三神が言ったので、小西は笑った。
「九時に、ホテルの正面だ」
「分りました」
小西は、ベッドの中で伸びをした。
年々、体が固くなる。――健康だし、エネルギーもあるが、方々の「部品」にガタが来るのは、防ぎようがないようだ。
若い女と寝るのは、小西にとって、「潤滑油」を注入するようなものだった。
ベッドを離れて、バスルームへ入る。
熱いシャワーを浴びるのは、いつでも快いものだ。
小西は、シャワーのコックをひねった。
まだ、知らないんだ。
三神は、小西への電話を切って、思った。
あの病院から連絡が入っていれば、たとえ何時でも、三神は|叩《たた》き起こされただろう。
小西は、高級ホテルのスイートルームで目覚めたのだが、三神の方は、ごく当り前のアパート。
もちろん、一人住いには充分過ぎるほどのアパートだ。
二人[#「二人」に傍点]でも。
あの女は、眠っていた。
医者は、三神が女に手荒な|真《ま》|似《ね》をしたのか、と目を|吊《つ》りあげたが、幸い、すぐ誤解はとけた。
診察の結果、三神が心配していたほどひどくやられてはいなかったらしい。
医者は、「精神的ショック」の方を用心しろ、と三神に言った。
このアパートへ連れて来ると、女は落ちついた様子になり、小さな風呂に一時間もかけて入ると、男物のパジャマを着て布団に入り、たちまち寝入ってしまったのだ……。
――どうしたものか。
ともかく、何にせよ、三神はこの女に「借り」があった。それを返すまでは、女のしたいようにさせてやるのだ。
出かけなくては……。三神は洗面所へ行って、顔を洗った。
タオルで顔を|拭《ぬぐ》って、ふと見ると、女が起き上がっている。
「起こしたか」
と、三神は言った。「悪いな。|俺《おれ》の顔の洗い方は、やかましいんだ」
「いいの」
と、女は首を振った。「出かけるの?」
「ああ」
「父の所に?」
三神は、ちょっとためらって、
「まあな」
と、言った。「しかし……。怒るなよ。小西さんの娘さんは亡くなったと聞いたぜ」
「ええ。表向きはね」
と、女は|肯《うなず》いた。
「じゃ――隠してあるのか」
「そうなの。――ね、出かけていいわ。私、外へ出ないから」
女が、小西の所へ連れて行け、と言い出すかと思っていた三神はホッとした。
「じゃ、誰か来ても、出なくていいぜ」
「ええ」
女は、|微《ほほ》|笑《え》んだ。「――ここ、何だか落ちつくの」
「そうかい?」
「私が……夫と住んでた家も、こんな風に暖かかったわ」
女は、夢見るように、そして少し寂しげに言った。
13 招 待
小西は落ちつかなかった。
なぜ落ちつかないのか、なぜ会議に集中できないのか、自分でもよく分らないだけに、いっそう、不安が募った。
九時半に始まった会議が、予定の十二時になっても終らない。――小西は珍しく|苛《いら》|立《だ》って、説明に立った部長に、
「もっと要領良くやれないのか」
と、きつい言葉を|叩《たた》きつけたりした。
居並ぶ重役たちも、小西がいつもに比べて苛々していることに気付いて、首をすぼめている。そんな重役たちの態度が、ますます小西を腹立たしい思いに駆り立てるのだった……。
十二時を十五分ほど過ぎた時だった。小西が、手もとの書類を見ながら、口を開きかけると、会議室の電話が鳴った。
秘書の女の子が、あわてて電話へ駆けつける。よほどのことでない限り、会議中に電話はつながせないことになっているのだ。
「――はい、会議室。――社長は今、お出になれませんが。――はい?――分りました。お待ち下さい」
秘書は、いつ怒鳴られてもいいように、キュッと表情を固くして、
「社長、お電話が。急を要するということです」
「そうか」
正直なところ、小西もホッとしたのだ。
|却《かえ》って、外の人間と話した方が、気持が落ちつくような気がした。
「――小西だ」
と、受話器を取って言う。
会議室の中に、ホッと|安《あん》|堵《ど》の息が|洩《も》れた。中には、顔を見合わせて、肩をすくめている者もいる。――怖いな、社長は。無言の会話が、そこここで交わされていた。
「いつだ、それは!」
突然、小西の鋭い声が会議室に響き渡って、みんな、飛び上がりそうになった。小西は、青ざめていた。
「――捜したのか?――どうして、すぐ連絡しなかったんだ!」
その声は、たとえ電話を通してでも、相手を震え上がらせているに違いなかった。
だが、小西も、やっと自分がどこにいるか、思い出した様子だった。普通の声に戻って、
「分った。今からすぐそっちに行く。――そうだ。もちろん、そうしてくれ」
小西は電話を切って、席に戻った。会議室の中は、|咳《せき》|払《ばら》い一つ出ない。
「今日はこれで終ろう」
と、小西は穏やかな声で言った。「急用で出なくてはならなくなった。後は追って連絡する。長期出張の者は、メモを秘書に渡して行ってくれ。これで終る」
小西は足早に会議室を出る。秘書が走って追いついて来た。
「車を」
小西が、書類を秘書へ渡す。
「はい!」
秘書の女性は、手近な電話へと駆けて行った。急いで地下の駐車場を呼ぶ。
「――あ、もしもし。社長の車を大至急!――え? 昼食?――もう下へ向ってるのよ、社長は。急いで捜して!」
小西は早くもエレベーターに乗って、一階へと向っていた……。
――三神には、やはり予感があったのだろうか、五分ほどで、近くのソバ屋から戻った。
駐車場の係が飛んで来るのを見ただけで、聞かなくても分った。
「おい!」
「社長だな。すぐ出すよ」
「もう、玄関へ出られるころだ」
三神は車へと駆け出した。
ベンツがビルの正面へ着くのと、ビルから小西が|大《おお》|股《また》に出て来るのと同時だった。
「出なくていい」
小西は自分でドアを開け、乗り込んだ。「病院だ」
「はい」
「急いでくれ。しかし、白バイに捕まって、手間取ったら却って面倒だ。加減しろ」
「分りました」
三神は、頭の中に、この時間、渋滞に引っかからず、かつパトカーや白バイに見付からずにスピードを出せるルートを描き出した。
ベンツは表通りから一気にビルのわきを回って裏手へ出た。
「どこへ行くんだ?」
小西が面食らった様子で言った。
「ビルの駐車場を次々に通り抜けて行くんです。近道です」
「なるほど」
「駐車料金を取られるかもしれませんが」
「構わん」
小西は、三神に任せて、息をついた。それから手帳を取り出すと、車内の電話を手に取った。
二、三件、電話をかけると、小西は少し落ちついた様子だった。
車はもう広い道に出て、かなりスピードを上げて走っている。
「――こんな道があったのか」
と、小西は言った。
「大分研究しました」
と、三神が答える。「少し距離はありますが、早いんです」
「そうか。――熱心だな」
「下心があるんです。給料を上げてもらおうと思って」
三神の言葉に、思いがけず、小西は笑った。その笑いが、大分小西の気持を楽にしたようだった。
「いい運転手を見付けたよ」
と、小西は言った。
車の中の電話が鳴った。
「私が出る」
と、小西は取って、「もしもし」
「あ、小西さんですか」
若い娘の声に、小西は一瞬戸惑った。向うもその気配を察したのか、
「あの、白浜仁美です」
「そうか。すまん、ちょっと取り込んでいたものでね」
「かけ直しましょうか」
「いや、構わんよ。何かあったのかね」
「実は、変なことがあるんです」
と、仁美が言った。「この町で、犬にかまれる人がいて、かまれた人がひどく暴れたりして」
小西の顔が厳しくなった。
「君も、かまれたのかね?」
「いいえ。でも、ボーイフレンドが――あの、勝手について来ちゃったんですけど――その子が、やっぱり山の中で、小さな女の子にかまれて、傷が熱を持ったんです。お医者さんも首をかしげました」
「――妙な話だね」
と、小西は慎重に言った。
「その女の子のこと、今、調べてるんですけど、山の中に、誰か他にもいるんじゃないかと思って。――大人に[#「大人に」に傍点]かまれたら、きっとひどい症状が出るんじゃないでしょうか」
仁美はそう言ってから、「あの――もちろん、これ、私の想像だけかもしれないんですけど」
と、付け加えた。
「いや、君の話は、とても興味がある」
と、小西は励ますように言った。「調べてみてくれたまえ。ただ、充分に気を付けるんだよ」
「はい。お嬢さんの事件も、このことと何か関係があるんじゃないかと思います」
「頑張ってくれ。頼むよ」
「はい。またご連絡します」
――小西は、電話を戻すと、
「いいもんだな、若い子と話すだけでも」
と、言った。
しばらく、三神は黙って車を走らせていたが、やがていつも通っている道に出ると、
「あと十五分ほどです」
と、言った。
「なるほど、早いな。――この辺に、大分詳しくなったか」
「多少は」
「そうか」
小西は|肯《うなず》いた。
三神が、少しためらってから、
「社長。病院で何があったんですか」
と、|訊《き》いた。「あの――もちろん、僕には関係ないことですが」
「そうだな」
小西は少しの間、窓の外を見ていたが、「秘密は守れるか」
と、言った。
「もちろんです」
「君も、察しているんじゃないか?」
と、小西は言った。「その病院には、私の身内が入っている」
「そうですか」
「その一人が逃げ出したのだ」
「逃げた……。何か危険でも?」
「もちろん、当人[#「当人」に傍点]も危険だ。まともじゃないからな。しかし、それだけじゃない」
「――というと?」
小西は、ちょっと首を振って、
「他の人間に害を与える心配があるのだ。それが怖い」
害を?――三神はそれ以上、訊かなかった。しかし、三神のアパートで、おとなしく待っている女。
あの女が、果してどんな危害を加えるのだろう?
「――いつか、君に飛びかかった女を覚えているか」
と、小西は訊いた。
「はい」
「あの女だ。あれが逃げ出した。どうしても見付けなければ。君も力を貸してくれないか」
「もちろんです。しかし……」
「遠くへは行っていないはずだが、何といっても、林の中にでも逃げ込んだら、行方が分らなくなる。早く見付けないとな」
病院が見えて来た。
三神は、それ以上、何も訊かなかった。
「――二千八百円です」
と、雑貨屋の奥さんが言った。
財布をあけて、もうお金を用意していた白浜千代子は、
「あら」
と、思わず言った。「でも、細かいお金が……。二千八百と四十……」
「結構ですわ、おまけします」
と、その奥さんは、ニッコリ笑って、言った。
その言い方が、いかにも自然で、押し付けがましくもないので、千代子は|嬉《うれ》しくなってしまった。
「まあ、すみません」
「いいえ。――新しく越して来られたんですよね」
と、その奥さんは言って、「私、|馬《ま》|渕《ぶち》紀子です。よろしく」
「白浜千代子です」
と、お金を払っておいて、「静かな町ですね。今までずっとにぎやかな所にいたものですから」
「まあ、そうかしら」
と、馬渕紀子は笑って、「――ね、もしよろしかったら、ちょっとお上がりになりません?」
「でも、ご商売が――」
「お客さん? そう来ませんし、来れば、すぐ分りますもの。ね、お茶でも一杯」
「じゃあ……。お言葉に甘えて」
と、千代子は、奥へ上がった。
「どうぞ、楽にして下さいな」
と、馬渕紀子は言って、台所へと入って行った。
千代子は、古びた茶の間を見回して、ゆっくりと座った。
馬渕紀子は、たぶん千代子とほぼ同年代だろう。小太りの、のんびりした感じの女性である。
千代子が、馬渕紀子の誘いを断らなかったのは、一つには、小西から頼まれてここへ来たことを考えたからでもあった。
自分たちは、死ぬところを小西にいわば「買われた」のである。――この町での生活も、少し慣れて来た。
そろそろ仕事[#「仕事」に傍点]にかからなければならない。
千代子は、自分自身が楽しんでいたことを、いささか恥じていた。
いや、もちろん、この町に何か恐ろしいことが起こっているのかもしれないということは、よく分っている。決して、忘れたわけではなかった。
しかし、今の千代子は、一度死を覚悟したことが信じられないくらい、生きることを楽しんでいたのである。――生きていることはすばらしい!
千代子は、今になってみると、あんなにも簡単に死のうと決めたことが、不思議でならない。どうして、もっと頑張ってみようとしなかったのか。
生きて、闘った上で死ぬのなら、まだ|諦《あきら》めもつく。でも――今、千代子は「死にたくない」と思っていた。
絶対に、死にたくない、と。
「お待たせして」
と、馬渕紀子が、お茶をいれて運んで来る。
「まあ、お構いなく」
と、千代子は言った。
「いいえ、何もありませんの」
――ひとしきり、社交辞令と、|身《み》|許《もと》調査風の会話が続いた。
千代子は、この気の良さそうな主婦から、何か役に立つことを聞き出せるのではないかという気がしていたのである。
紀子は、子供がなく、夫と二人暮しということだった。
「ご主人はお勤めなんですか」
と、千代子は|訊《き》いた。
「いえ、このお店をやってるだけなんですよ。二人きりですから、別にぜいたくもしませんしね」
「まあ、そうですの」
千代子は、しかし何となく家の中に、「男の|匂《にお》い」みたいなものがない、と感じていた。
タバコの匂いとか、読みかけの新聞とか、どこかに置いたままのメガネとか……。
男が一人いれば、何かその辺りに放り出してあったりするものである。
「主人は今、実家の方へ行ってまして」
と、紀子は言った。「母親が倒れたもんですからね。家を手伝いに。もう一カ月くらい帰って来ていないんです」
「まあ。お寂しいですね」
「でも、少々見飽きましたから、ちょうどいいですわ」
と、紀子は言って笑った。
「まあ、そんなこと」
千代子も一緒になって笑う。「この辺の方、夜は外食とかされないんですの?」
「夜ですか?――ええ、あまり外へ出ませんね。行くところもありませんし」
「そうですか。でも、静かでよろしいですね、本当に」
「若い人は退屈してますよ。高校ぐらいから、もう東京の方へ出て行って……。段々年寄りばっかりになりそうですね、この町は」
――何となく話が途切れた。
千代子は、何かもう少し訊いてみたいという気もしたが、初めからあまりしつこく話し込んで嫌われても、|却《かえ》って良くないかもしれない、と思い直した。
「じゃ、そろそろ主人が帰ると思いますんで、私、これで――」
と、腰を上げた。
「そうですか? あんまりお引き止めしてもね。――じゃ、またいつでもいらして下さいな」
店先まで送ってくれて、千代子はちょっと恐縮した。
「じゃ、どうも」
と、会釈して、千代子は家へ向った。
とても良さそうな人だわ。なにかの時には、相談相手になりそうな。
千代子は、なかなか心楽しい気分だった。
――千代子の遠ざかる姿を見送っていた馬渕紀子は、店に戻ると、レジの所の電話を手に取った。
今時、どこを捜しても見当らないような、黒い重い電話機で、長話をしていると、手がくたびれて来るやつである。
紀子はダイヤルを回した。
「――もしもし。――あ、馬渕です」
と、紀子は言った。「どうですか、あの男の人は。――じゃ、大丈夫ですね、今夜は。――そうなんです。今、例の江田さんのとこへ越して来た奥さんが。――ええ、上がってもらって話したんですけどね。なかなか良さそうな人ですわ。――決めたわけじゃありませんけど、次は[#「次は」に傍点]あの人なんかどうかしら、と思って。――ええ、もちろん、もう少しよく知ってからでないと。ただ、越して来たばかりでしょ。こんな町に越して来るなんて、きっと、あんまり人に知られたくない事情があるんですわ。――ええ、私もまた話してみますから。――はい、それじゃ夜に……」
紀子は受話器を置くと、深く息をついて、両手で顔を覆った。
まるで、一気に十歳も老け込んだように見えた……。
ところで――仁美と千代子の二人に町のことを任せて、夫の白浜省一は別に遊んでいたわけではない。
一応、通勤しているように見せかけるために、十時ごろから出かけて行ったり、夜遅く帰ったりという暮しをしていたが、もちろん小西からの依頼を、忘れてはいなかった。
「――ここか」
と、白浜省一は、〈市立図書館〉というプレートに目をやって、|呟《つぶや》いた。
ここに、小西の娘の夫、江田が勤めていたのである。
ここへ来てどうしようという、はっきりした考えがあったわけではない。ただ、そもそもの事件の発端になった出来事を、よく知っておきたい、と考えたのである。
白浜の性格というものかもしれなかった。
図書館の建物は、まだずいぶん新しかった。入口もきれいだし、廊下はツルツルに光っていて、中はシンとして、物音もないという感じだ。
スリッパにはきかえて入って行くと、入口のすぐわきの机から、
「カード」
と、声がかかった。
「え?」
思わず|訊《き》き返すと、その気難しい顔の年寄りは、|苛《いら》|々《いら》した様子で、
「利用カードだよ。カードをここで見せるんだ。それぐらい分ってるだろ」
と、言った。
「ああ。あの――いや、ただ見学したいんです、中を。いけませんか」
と、白浜は言った。
その老人は露骨にいやな顔をした。
「あのね、何かあったら、こっちの責任になるんだよ。分る?」
「ただぐるっと見て回りたいだけですよ」
「ちゃんと許可を取ってもらわんとね」
と言ったが、〈ご自由にお入り下さい〉という玄関の札のことを、知らないわけでもないらしい。「――どこかの記者とか、そんなんじゃないね?」
「違います。この近くへ越して来ることになりそうなので、この辺りを見て回ってるんですよ」
と、白浜は穏やかに言った。
「ふん……。ま、いいよ。あんまり長くかからんようにしてくれよ」
と、老人は言って、週刊誌に目を落とした。
――白浜は、苦笑しながら、書架の並ぶ間を歩いて行った。
まあ、お役人というのは、えてしてああいうものだ。「責任」という言葉にアレルギーでも持っているのだろう。
白浜は、歩きながら、|俺《おれ》も変ったな、と思っていた。
以前なら、ああいう手合いとはすぐ|喧《けん》|嘩《か》になったものだ。しかし、今はこうして、笑ってすませることができる。
死を覚悟したことは、人間をこんなに変えるのだろうか?
――利用者の姿は、ちらほらとしか見えなかった。あんな口うるさい年寄りに見張られていては、クシャミ一つで、追い出されそうだ。
あの女性? いや、違うな。あれはどう見ても、二十四、五歳だ。いかにも司書然としている。
江田が言い寄っていたというのは、十八歳の女の子ということだった。
もうやめてしまったのだろうか。名前も分らないのでは、|訊《き》くわけにもいかない。
すると、そのメガネをかけた司書らしい女性が、
「泉さん」
と呼んだ。
「はい」
本棚のかげから、ヒョイと顔を出したのは、少しふっくらとした感じの、十八、九の娘だった。
あれかもしれない。
「悪いけど、このコピーを市役所まで届けて来て」
「はい。今ですか?」
「ええ。そっちはまだ明日でもいいから」
「分りました。じゃ、ちょっと手を洗ってから」
本というのは、|埃《ほこり》になるものである。
あの娘は出かけるのか。ちょうどいい機会かもしれない、と白浜は思った。
先に外へ出て待っていよう。――さっきの老人に、
「どうも」
と、声をかけると、老人は無言でジロッと白浜を見た。
目が白浜の上衣を探るように見ていたのは、どこかに本を隠して持っていないか、と疑っていたからだろう。
ああも人間が信じられないというのも|可《か》|哀《わい》そうだな、と図書館を出ながら、白浜は思っていた……。
14 飛び出した男
泉、と呼ばれたその娘は、パーラーの前で迷っていた。
入って何か飲んで行こうか。でも、遅くなると|叱《しか》られるかしら……。はたで見ていても、悩みが聞こえて[#「聞こえて」に傍点]来るようだ。
「ちょっと」
と、白浜が声をかけると、娘はギクッとした様子だった。「ああ、びっくりしないで。ちょっと話を聞きたいんだけどね。中で何か食べながら、どう?」
でも――どうして――いやだわ――だって――。娘は、ブツブツ言いながら、結局、パーラーへとすんなり入ってしまったのだった……。
白浜は娘が、ちゃんと昼食も食べたというのに、甘いものだけでなく、サンドイッチまで取って、いとも簡単に平らげてしまうのを見て、びっくりした。
「――江田さんのこと?」
と、その娘――泉というのは姓の方で、泉佐和子というのだった――が、目を丸くして、言った。
「うん。江田君の奥さんと、ちょっとした知り合いだったんだ」
「ああ……。ひどかったですね。あのニュース聞いて、まさかあの[#「あの」に傍点]江田さんのことだなんて、思わなかった」
「君に言い寄ってたって、本当なのかい?」
白浜が訊くと、泉佐和子は、少し複雑な表情になった。
「ええ、まあ……」
「はっきりしないね」
「今でもよく分らないんです」
と、泉佐和子は首をかしげた。
「どういうことが?」
「あの人――江田さんって、そりゃあいい人でした。正義感が強くて、何というのかな……そう、奉仕の精神、ってのに徹してましたもん」
「なるほど」
「あの受付に座ってるおじいさんと年中、やり合ってました。あの人は、図書館に来る人はみんな、目を離すと本を盗もうとしてる、と信じてるんです」
「じゃ、江田君は違ってた?」
「ええ。あの人は、『僕らは公務員なんだ。奉仕するのが仕事で、監視することじゃないんだ』って言ってたんです」
「なるほど。正しいけど、そう考えてる人はまれ[#「まれ」に傍点]だろうね」
「だから私――」
と言うと、いきなり泉佐和子がグスグス泣き出したので、白浜はびっくりした。
「ね、君――。落ちついて」
「ええ……。大丈夫です」
と、涙を|拭《ふ》いて、「――あと、チョコレートパフェ、食べてもいいですか?」
「いいよ、もちろん」
白浜には、とてもついて行けなかった……。
「――私、本当は、江田さんのこと、好きでした」
と、泉佐和子は「告白」した。
まあ、チョコレートパフェを食べながらの「告白」では、いささか切実な印象には欠けていたが。
「だから、変だな、と思ったんです」
「というと?」
「あんな風に――人目につくように私のこと誘ったり、抱きついたりしなくてもよかったんです。お昼休みとか、帰り道とかで、そっと誘ってくれたら、私、どこだってついて行ったのに」
「なるほど」
娘の言い方には、ちょっとついて行けなかったが、言わんとするところは分った。「江田君は、君に好かれてるってことを、知らなかったんだろうね」
「いいえ」
と、首を振って、「私、自分で言ったんですもの。江田さんがおかしくなる前に[#「前に」に傍点]」
「前に?」
「ええ。好きです、って。でも、江田さんは、笑って、取り合ってくれませんでした」
妙な話だ。――すると、江田はわざと[#「わざと」に傍点]目につくように、泉佐和子にちょっかいを出していたことになる。
「でも君は、言い寄られて困る、と言ってたんだろ?」
「そりゃあ、いくら何でも、職場の人の目の前で抱きつかれたりしたら……。そんな所で、ホテルに行ってからにしましょ、なんて言えませんよ」
「そりゃそうだね」
と、白浜は|肯《うなず》いた。「その話を、誰かにしたかい?」
「いいえ。だって、別に訊かれなかったし。――あの事件があって、やっぱり江田さん、おかしくなってたんだなあ、と思いました。お付き合いしてたら、今ごろ、私も殺されてたかも……」
と言って、泉佐和子は、ため息をつくと、
「でも、江田さんになら、殺されても良かった!」
と、|呟《つぶや》いた。
「ありがとう。いや、直接、君の話を聞いてみたくてね。仕事中に、悪かったね」
「いいえ、いいんです。仕事中ったって、みんな、外出したらどこかで遊んでるんですもん。――ごちそうさま」
と、泉佐和子は頭を下げた。
大分、予算はオーバーしたが、ともかく、それだけのことはあった。
白浜が支払いをして外へ出ると、泉佐和子が、ふと言った。
「本当に、江田さん、死んだのかなあ」
「どうして?」
白浜は、面食らった。
「私――一度見かけたんです」
「誰を?」
「江田さんです」
泉佐和子はあっさりと言った。白浜は、|愕《がく》|然《ぜん》としていた。
「あ、もちろん、人違いかもしれないんですけどね」
「しかし――どこで見たんだい?」
「あの図書館、寝たきりのお年寄りとかに、出張貸出しっていうのを、やってるんです。ほとんど頼まれることないんですけどね。だって、寝たきりのお年寄りが相手なのに、一週間以内に本を返すこと、なんていうんですもの。無茶ですよね」
「なるほど。それで?」
「あ、そうか。――江田さんのことでしたっけ。私、あの事件の後、少しして、あの町へ行ったんです。その本の貸出しで」
と、泉佐和子は、のんびりと歩きながら言った。「江田さんの家、閉めたままになってて、ちょっと前を通ったんですけど、気味悪かったわ……。その帰り道に――。私、自転車で行ったんですけど」
「江田を見たの?」
「はっきりしませんけど……。林の間の道を走ってると、急に誰かが飛び出して来たんです。びっくりして、ひっくり返りそうになっちゃいました」
と、大げさな身ぶりを見せて、「それでも何とか倒れずにすんで、誰が飛び出して来たのかと思って見たら……。江田さんだったんです」
白浜は胸の高鳴るのを覚えた。
「それは確か?」
「だと思うんですけど……。でも、見たのはほんの一、二秒だし……」
しかし、いつも江田を見ていた人間なのだ。他の人間と見間違えることはあるまい。
「でも、|凄《すご》く妙だった、江田さん」
「どういう風に?」
「髪がボサボサで、|不精《ぶしょう》ひげがのびて、服もボロボロで……。何だか浮浪者みたい」
「君を見てた?」
「ええ。私のこと、分ったんじゃないかと思います。パッと駆け出して、林の中へ消えちゃったけど」
「その話を、誰かにした?」
と、白浜は言った。
「いいえ」
「黙っていてくれ。誰にもね」
白浜は、財布から五千円札を抜いて、「これで、何かお菓子でも買いなさい」
「ええ? いいんですか?」
と言いながら、もう五千円札は、彼女の手の中に握りしめられていた。
「君の連絡先、教えてくれるかな?」
「いいですよ」
娘のアパートの電話番号を聞いて、白浜はメモした。
「じゃ、ごちそうさま!」
と、手を振って、駆け出して行く。
あんな話をした後で、元気よく走って行けるというのは、やはり若さなのだろうか。
それにしてもとんでもない話を聞いてしまったものだ。
もちろん、あの女の子の見間違いという可能性もないではない。しかし……。
「ん?」
パチンコ店の前を通りかかった白浜は、ふと足を止めて、店の中を|覗《のぞ》き込んだ。「おやおや……」
店の中へ入って行くと、相変らずの苦虫をかみつぶしたような顔でパチンコの玉をにらんでいる老人の肩を、ポンと|叩《たた》いて、
「出ますか?」
と、声をかけた。
あの図書館の入口にいた老人である。白浜の方を不審げに見て、それからギョッとする。
「お昼休みにしちゃ、妙な時間ですね」
と、白浜は言ってやった。「ま、いいです。記事にしないでおきますよ」
ポンと肩をもう一度叩いて、
「じゃ、頑張って」
|呆《ぼう》|然《ぜん》としている老人を残して、白浜はさっさとパチンコ店を出た。
実にいい気分だった……。
「帰るぞ」
と、小西が、三神の肩をつかんで揺さぶった。
ソファで眠っていた三神は、ハッと目を覚まして、
「あ、すみません」
と、起き上がった。「すぐ車を」
「うん。――そう急がなくてもいい」
小西は、腕時計を見た。「八時に会食だ。それに間に合えばいい」
「もうそんな時間ですか」
三神は頭を振って、「夜になったんですね」
「ああ」
「何か……手がかりは?」
「だめだ」
と、小西は首を振った。「こう暗くなっては、捜してもむだだろう」
「そうですね……。じゃ、車を正面に回します」
三神は、病院の玄関を出て、わきに停めたベンツへと急いだ。
気が|咎《とが》めないこともない。――あの女は、三神のアパートにいるのだ。
しかし、あの女には借りがあった。三神としては、それを返すまでは、小西に女のことを話すわけには行かなかった……。
ベンツを玄関前に寄せて、ドアを開けて待っていると、小西が病院の医師と一緒に出て来た。
「――手を尽くしますので」
と、医師が言っている。
「よろしく」
小西は会釈した。
玄関のドアが開いていて、そこから奇妙な声が――まるで|狼《おおかみ》の|遠《とお》|吠《ぼ》えのような声が、聞こえてきた。
小西が動揺した。
「閉めて下さい! 早く!」
と、医師に向って叫ぶ。
医師が、急いでドアを閉じると、その声は、ほとんど聞こえなくなった。
しかし、小西は急いで車に乗り込みながら、
「早く出してくれ!」
と、叫ぶように言った。
車が走り出しても、小西はしばらく、両手でしっかりと耳を|塞《ふさ》いでいた。まるで、あの声が追いかけてでも来るかのように……。
――やがて、耳から手を離すと、
「何か音楽をかけてくれ」
と、小西は言った。
「はい」
小西の声は、潤んでいた。――泣いているのだ。
あの強い男が。
三神は、おそらく、孫のことだろうと思った。小西を、こんなにも動揺させるというのは……。
あの声。遠吠えのような奇妙な声が、きっと孫のものだったのではないだろうか。
だからこそ、小西は聞いていられなかったのだ。
――静かなクラシック音楽が流れると、小西も少し落ちついた様子だった。
「ご心配ですね」
と、三神は言った。
「うむ……」
小西は、窓の外へ目をやった。「親というのは、たとえどんな風になっても、我が子に生きていてほしいと思うもんだ」
どんな風になっても……。
ふと、三神は不安になった。あの女は、息子と同じ病気なのだろうか?
だとしたら、今ごろアパートで……。
あの女に、何か異変が起こっているかもしれない。
しかし、まさか小西を乗せたまま、アパートへ駆けつけるわけにはいかない。
焦る気持を抑えて、三神は何とか車を、不自然でないスピードで走らせていた。小西は、いつしか後ろの座席で、眠っているようだった……。
15 白い夜
八時から会食。――それなら、終るのはどんなに早くても九時半になる。
三神は頭の中で計算していた。アパートまでこのベンツで走って、レストランの駐車場へ戻るのに、一時間はかかるまい。
「――社長。もうすぐです」
車を、歩道側の車線に寄せながら、三神は言った。
小西は、病院を出てから、ずっと眠っていたのだが、三神のごく普通の声で、すぐに目を覚ました。
「――何だ、眠っちまったか」
と、息をつく。
「お疲れじゃないんですか」
「ゆうべは女と一緒だったんだがな」
と、小西は、自分をからかうように言った。「――車は駐車場へ回しといてくれ」
「はい。社長」
と、三神は車をレストランの正面につけて言った。
「何だ?」
「一時間ほど……この車で行って来たい所があるんですが」
「ふーん」
と、小西は|肯《うなず》いた。「今日だけなら、構わん。どこへ行くんだ?」
「女の所です」
|嘘《うそ》ではない。小西は怒るかと思えば、笑って、
「そうか。一時間で足りるのか?」
と|訊《き》いた。「一時間半は充分かかる。行って来い」
「すみません。今日だけです」
「ああ」
レストランの人間が駆けて来て、ドアを開ける。小西は降りようとして、
「おい、車の中ではよせよ。腰を痛めるぞ」
と、言った。「まあ頑張れ」
「はあ」
小西が、レストランの支配人に出迎えられて、中へ入って行く。三神は店のボーイに、
「ガスを入れて来ますから」
と声をかけ、車をスタートさせた。
アパートまで三十分、と思ったが、意外に道はよく流れて、二十五分ほどで、近くまで来た。
しかし、こんな大きなベンツを置く場所などないので、少し離れた空地に、取りあえず車を入れた。こんな車なら、少しぐらい置いておいても、みんな文句は言わない。
三神は、アパートへと急いだ。――あの女は大丈夫だろうか? 何か変ったことが起きていないか……。
いやに明るい夜だ、と歩きながら思った。街灯がついているのかと思った。
そうではなかった。夜空を見上げて、三神は月の明るさに、びっくりした。――まるで作りもののような大きな月が、白い光を放ちながら、夜空にかかっている。
「満月[#「満月」に傍点]か」
と、三神は|呟《つぶや》いた。
ふと、背筋に冷たいものが走った。この明るさは、どこかまとも[#「まとも」に傍点]じゃないような気がしたのだ。
いや、もちろん――どこでも、晴れている場所なら、同じこの月の光が降っているわけで、何も特別なものではないのだ。
もちろんだ。ただ、気のせいなのだ。
三神は自分に言い聞かせた。
もちろんさ。まさか、月から誰かがあの女を迎えにやって来る、ってわけじゃないだろうしな。
ことさらに、冗談めかしたことを考えてみたが、一向に不安はおさまらなかった。道にのびる、黒々とした自分の影が、まるで生きものみたいに、勝手に動き出しそうに見える。
しかしアパートまでの道は、そう遠くない。三神は、少し息を弾ませて、自分の部屋のドアの前に立った。
なぜ、こんなに不安なんだ?――心臓がどうして高鳴っているんだろう?
何てことはないのに。ただ、女が一人中にいるというだけじゃないか……。
|鍵《かぎ》を回す手が、少し震えた。
ドアを開けるのに、勇気が必要だった。
「――あら」
と、女が言った。「びっくりした。早かったのね」
――三神は、ポカンとして立っていた。
あの女が、少しも変りなく[#「少しも変りなく」に傍点]、三神のTシャツとジーパンという格好で、台所に立っていたのだ。
「勝手に借りて着ちゃったけど」
と、女は、少し照れたように言った。
「ああ。構わないよ、何でも」
|俺《おれ》は何を考えてたんだ? この女が、とんでもない化物か何かになって、|牙《きば》をむいているとでも? SF映画じゃあるまいし!
「何してるんだ?」
「ちょっとお|腹《なか》が|空《す》いちゃったの」
と、女は笑って、「ラーメンがあったから、作ろうと思って」
「そうか。――悪かった。気が付かなかったよ」
ホッとすると同時に、三神は恥ずかしくなった。「待ってろ。弁当でも買って来るから」
「でも――」
「いいんだ。忘れてたよ」
「え?」
「俺も腹が空いてたんだってことをさ」
と、笑って、「何がいい? すぐ近くだ。何でもあるぜ」
と、三神は訊いた。
「何でもいいわ」
「じゃ、普通の幕の内みたいなもんにしよう。お茶でもいれといてくれ」
「ええ」
女は、|嬉《うれ》しそうに肯いた。
三神は、表に駆け出した。――現金なもので、今度は満月のことなど、まるで気にもならなかった。
――三神が弁当屋に駆けて行くのを、少し離れた物かげから二人の男が見ていた。
「――今、聞こえたか」
と、一人が言った。
「ああ。女の声だったな」
「あの女かな」
「そうだろう」
三神たちを襲った暴走族の二人である。
「知らせるか?」
「ああ、お前、知らせて来いよ。俺はここで見張ってる」
「よし」
オートバイのエンジンが|唸《うな》った。――一台が、夜の道を滑るように駆け抜けて行った……。
三神と女は、アッという間に弁当を空にしてしまった。
「もう一つずつぐらい、買って来りゃ良かったな」
と、お茶を飲みながら、三神が言って笑った。
「私はもう沢山。――あなたは、また出かけるんでしょう」
と、女は言った。
「うん。しかし、三十分ありゃ、向うへ着く」
三神は時計に目をやって、「四十分ぐらいはのんびりしても大丈夫」
三神は、ネクタイを外した。
「休む時にゃ、苦しいな」
「片付けるわ」
と、女が立ち上がった。
「放っとけよ。今でなくても」
女は、手早く片付けると、畳にきちんと座った。
「今日一日、まるで生き返ったようだったわ」
「そうか。まあ、病院なんて、楽しい所じゃないだろうからな」
「ええ……。|辛《つら》いわ、鉄格子の中にいるのはね。特に――」
女は言いかけてためらった。
「無理に話すな。別に聞かなくてもいいよ」
と、三神は言った。「あんたにゃ、借りがあるからな。好きなだけ、ここにいるといいさ」
女は、カーテンを引いた窓の方へ目をやった。
「――明るいわね」
「うん。満月だ。昼間みたいに明るい」
「満月ね……」
と、女は独り言のように|呟《つぶや》いた。
「なあ」
と、三神は女を見た。「ここにいるのは構わない。だけど、どこか具合が悪いのなら……。いいのか、医者に|診《み》せなくて?」
「お医者様でも、どうにもならないのよ」
と、女は首を振った。「私も――久弥も」
「久弥?」
「私の子よ」
「そうか」
「父が何か言っていなかった?」
「いや。――別に」
「そう」
女は、カーテンの合せ目の細い|隙《すき》|間《ま》を、じっと見ていた。ふと立ち上がると、明かりを消す。
「おい……」
カーテンの合せ目から、一条の白い光が、描いたような鮮やかさで、部屋を横切る。
「抱いて」
と、女が言った。「今夜、ゆっくり眠りたいから」
「だけど――」
「時間はあるでしょ」
女が、手早く服を脱いだ。目が慣れて、女の白い肌のつやも見分けられた。
「だけど……」
「黙って」
女は、三神の肩に両腕をのせた。「お願い。黙って……」
――三神は黙っていた。
女を抱きしめて、我を忘れて行くのに、言葉はいらなかった。
ただ一言、
「布団を敷こう」
と、言った以外は――。
武彦のそばにいれば良かった。
仁美は寝返りを打ちながら、そう思った。
――眠れない。
まだ、そう遅くはないから、眠れなくても不思議ではない。しかし、何か、目に見えない大きな手が胸を押えつけているかのようで、胸苦しさに、汗すらかいてしまいそうなのだ。
なぜだろう?――何が起ころうとしているのか。
そう。何か[#「何か」に傍点]を感じていたのだ。仁美は目を開けて、暗い天井を見ていた。
オーン、ウォーン……。
また[#「また」に傍点]聞こえて来る。
犬が鳴いている。――犬? いや、あの声は、犬じゃないようだ。
もちろん、仁美は狼なんて見たこともないが、でも、もし狼が月に向かって|吠《ほ》えるというのが本当なら、あんな声なのに違いない、と思った。
今までも、夜中に時々、あれに似た声を聞くことはあった。でも、今夜は……。
ひっきりなしに聞こえる。それも、一匹や二匹ではない。じっと耳を澄ましていると、何種類もの鳴き声が混っているのが分って来る。
何があったんだろう?
――仁美は起き上がった。どうせ眠れないのだ。|苛《いら》|々《いら》しているよりも、ベッドを出た方がいい。
結構寒いような気温である。仁美はカーディガンをパジャマの上にはおった。
表を|覗《のぞ》いてみようと思った。――玄関のわきの小部屋の窓がいい。
廊下をそっと歩いて行きながら、仁美は両親の部屋を覗いた。
ぐっすり寝ちゃって!
まあ、仁美も父と母が仲良くしてくれることに異議はない。しかし……。
どうも、自殺決行のつもりだった夜に、ホテルで愛し合って以来、両親は新婚時代の感激を取り戻してしまったらしいのである。
これから弟か妹でもできるなんてことになったら……。ま、いいけどね。ともかくここから無事に出られなきゃ仕方ないんだから。
小部屋の|襖《ふすま》をそっと開けて、仁美は、中へ入った。表の通りに面した窓の前に座り込んで、カーテンの端をそっとからげて見る。
――一瞬、何か照明でも用意されているのかと思うほどの明るさに戸惑った。
月光なのだ。満月である。
満月。――|狼《おおかみ》。
武彦をかんだ、あの少女……。
馬鹿げてるわ! これはただの月明りじゃないの。
仁美は自分にそう言い聞かせた。
通りに人影はなかった。みんな、家に閉じこもっているのだろうか。
しかし、気が付くと、目に入る家々のほとんどで、一つ二つ、窓に明りが見えていた。
起きているのだ。
そして、あの|遠《とお》|吠《ぼえ》えが一段と入り乱れ、高まった。――今や、何匹ではない。何十匹の声だ。
窓ガラスを震わせるほどの力で、その声は町の中を、高い天空を、駆けめぐった。
そして――不意に、ピタリと声は|止《や》んだ。
あまりにも突然で、仁美は驚いた。
どうしたのかしら? なぜ急に……。それもパチッとスイッチでも切ったように、一斉に止んだのだろう?
今度は、完全な静寂が来た。
いや、それは「静寂」ではなく「沈黙」だった。
何かが息を殺している。この「白い夜」の中で。――仁美も、いつしか、固くカーテンの端を握りしめていた……。
そして、一軒の家の玄関が開いて、誰かが出て来た。男だ。ジャンパーを着込んで、手袋をして、革のブーツ。
もちろん、夜はかなり寒くなるが、それにしてもいささか厳重すぎるような格好であった。そして、手には太い鉄パイプのようなものが光る。――いや、光っていたのは銃身だ!
散弾銃だろう。映画やTVでしか見たことはないが、二本の銃身が並んで光っているさまは、どこかゾッとするほど美しく見えた。
男たちが――四人、五人、と集まって来た。
十人近くになっただろうか。みんな一様に分厚く服を着込んで、出ているのは、顔だけという様子。
そして、手に手に、銃をかかえている。中に二、三人、手ぶらの男もいた。
集まった男たちは、低い声で話し合っているようだったが、やがて一人が声をかけ、ゾロゾロと一緒に歩き出した。
男たちが視界から消える。――どこへ行くんだろう?
仁美は、何が起こるのか、もちろん知らなかった。しかし、きっとそれはとんでもなく恐ろしいことのようで……。
とても、ここから出て、一人で見物[#「見物」に傍点]に行けるようなものでないことは、仁美にも、分っていたのだ。
このまま、表を見ていれば、男たちは戻って来るだろうし――。
何か[#「何か」に傍点]が、暗がりで動いた。仁美は目をこらした。
小さな人影が、暗い所を選んで、進んで行く。――誰だろう?
じっと見ていると、その人影は、明るい月明りの下を、パッと駆け抜けた。
間違いない。仁美が家庭教師で教えに行った、田所進である。
進は、銃を手に出かけて行った今の男たちの後を|尾《つ》けているようだった。
――仁美は、立ち上がった。
迷っている暇はなかった。急いで自分の部屋へ戻ると、パジャマを脱ぎ捨てて、服を着た。あの男たちのことを思い出して、厚着をする。
玄関の|鍵《かぎ》は、台所の引出しに入っていたはずだ。
物音で両親が起きるかと思ったが、一向にその気配はない。――あれじゃ、何が起こったって、目は覚めないだろう。
玄関から出るのに、少しためらった。他の家の人たちが、表を|覗《のぞ》いているのではないかと思ったからだ。
ドアを細く開けて、外を覗く。
ためらっていても仕方ない。ぐずぐずしていると、田所進に追いつけなくなってしまうだろう。
思い切って外へ出ると、手早く鍵をかけ、その鍵をジャンパーのポケットへしまった。
無鉄砲な、と自分でも思うのだが、どうにも止めることができなかった。――何が起ころうとしているのか、知りたかった。
その気持が、恐怖や警戒心を圧倒してしまったのである。
もちろん、進の姿はもう見えなかった。しかし、町の通りは一本しかない。その方向へと歩いて行けば、追いつけるだろう。
足を早めて、進の姿を、暗がりの中に捜して進んで行く。
いたいた。
何といっても、相手は子供である。大体、身を隠そうとする場所の見当はつく。
そろそろ町の外れだった。
大きな木の下へ、進は駆けて行った。――仁美にも、ずっと先の方に、固まって歩いて行く、あの男たちの姿が見えた。
進が、木の幹にもたれて、少し身をひそめている。すると――。
「おい」
突然男の声がした。仁美はびっくりして息が止りそうになったが、その男は、仁美に声をかけたわけではなかった。
「何してるんだ」
と、男が進に言った。「帰るんだ。家へ」
手に、バットか|杖《つえ》らしい物を持っている。
「放っといてよ」
と、進は言い返した。
「そうはいかねえよ。知らせるつもりなんだろう、連中に?」
「関係ないだろ!」
進が、男の手を振りはなして、パッと逃げた。
「待て!」
男が追いかける。――月光の下、小さな進が素早く右へ左へと逃げ回るのを、男は杖を放り出して、必死で追いかけている。
それは何だか奇妙な光景だった。舞台のドタバタコメディか何か見ているようで。
しかし――とうとう、進は男に捕まって、腕をねじ上げられてしまった。
「痛いじゃないかよ!」
と、進が甲高い声を上げる。
「静かにしろ!――ぶん殴られたいのか、おい!」
仁美は、自分でも格別子供好きと思ってはいないが、ともかく大の大人が、子供に乱暴している、と思っただけで、やたらに腹が立って来た。
「はなせよ!」
「うるさい!」
バシッ、と男が進を殴る音がして、進の体が地面に転がった。仁美は駆け出していた。地面に落ちていた、男の杖を拾うと、
「ワーッ!」
と叫びながら、男に背後から打ちかかった。
ポカッ、とみごとに男の頭を直撃。
「いてえっ!」
男は悲鳴を上げた。そして急に、
「やめろ! よせ、助けてくれ!」
と、金切り声を上げると、町へ向かって、一目散に走って行ってしまったのだ。
「――何よ、あれ?」
仁美の方が面食らっていると、
「あ……。先生?」
と、進が起き上がった。
「大丈夫?」
「うん……。でも、|凄《すご》いね、先生」
先生なんて呼ばれるのも、少々照れくさかったが、ともかく今は急がなくてはならない。
「あの男たちの後を|尾《つ》けてるんでしょ? だったら、早くしないと、見失うよ」
と、仁美は言った。
「うん。――一緒に行くの?」
「いい?」
「いいけど……」
「その代り、話を聞かせて。あなたの妹のこと」
進は、仁美を見て、
「じゃ、歩きながら」
「OK。行こう」
仁美は、進の肩をポンと|叩《たた》いた。「この杖、持ってようか」
「杖じゃないよ」
「え?」
「刀だよ[#「刀だよ」に傍点]」
――仁美は、自分の手にしているのが、白木のさやにおさまった日本刀だということに気付いて、青くなったのだった。
月の光のおかげで、もともと青白く見えてはいただろうが……。
16 取り囲む影
「あなた……名前は何ていうの?」
と、女が暗がりの中で訊いた。
「三神」
「名の方は?」
「つまらない名だよ。一郎っていうんだ」
少し照れていた。
「私は宏子」
「宏子か」
「江田というのよ」
「|旦《だん》|那《な》の名?」
「ええ。――もし生きてれば」
宏子は、かすかに首を振った。「いつか、あなたにも話す時が来るかもしれない……」
「いいさ」
三神は、宏子の裸身を抱き寄せた。「身を寄せ合ってるだけでもな」
――充実した時が、ゆっくりと流れて行った。
三神は、時計を見て、起き上がった。
「もう行かなきゃ。親父さんを待たせるわけにゃいかない」
何時間もたったような気がしていたが、実際は三十分ほどのものだったのだ。
時間ってのは、不思議なものだ、と三神は思った。
「間に合う?」
「ああ。|俺《おれ》の運転の腕は一流だぜ」
三神はそう言って笑った。
宏子が明りを|点《つ》けた。毛布を体に巻きつけて、
「先にシャワーを浴びて行って。私は後でいい」
と、言った。「若いのね」
「二十歳だよ」
「遠い昔だわ」
と、宏子は笑った……。
――十分で仕度を終えた三神は、アパートを出る時、玄関で言った。
「電話する時は、|一《いっ》|旦《たん》、三度鳴らして切るからな。それからすぐにもう一度、かけ直す。そしたら俺だ」
「分ったわ」
宏子は三神にキスした。
三神は、ベンツまで走って、急いで車を出した。――よほど、事故でもない限り、間に合うだろう。
ベンツの姿が見えなくなると、方々の道の角から、オートバイが進み出て来た。その数十三台。
「――さて」
と、リーダーの男が、唇を|歪《ゆが》めて笑った。「女を訪問するか」
何時だろう?
広沢は、半分眠っているような状態の中で、考えていた。
昼か夜かも定かでない。――いや、夜だろう。
この白い光は、たぶん月明りだ。
広沢は、ビールの空びんを転がした。子供じみた|真《ま》|似《ね》でもしていなくては、気が狂ってしまう。
「畜生……。あの女、しめ殺してやる!」
と、|呟《つぶや》いてはみるが、果してこの家から出られるのかどうか……。
――白浜一家の後を|尾《つ》けてこの町へやって来た広沢だが、妙な子連れの女の誘いにのって、この町外れの家へやって来たのがとんでもない間違いだった。
女と寝て、目覚めた時には、一人でこの家に閉じこめられてしまっていたのだ。
たかがボロ家と、何とか戸や窓を|叩《たた》き破ろうとしてみたが、むだな努力だった。頑丈の上にも頑丈に、外から打ちつけられてしまっているのである。
そして――もう何日たったろう?
もちろん、飲まず食わずなら、広沢はとっくに死んでいただろう。
奇妙なことだが、広沢をここへ閉じ込めた誰か[#「誰か」に傍点]は、毎日きちんと、廊下の一番上の高い窓から、食事や飲物を投げ入れて来るのだ。
それも三食分、もちろん高級レストラン並とはいかないが、決して少食とも言えない広沢がちょっと持て余すほどの量なのである。
それが投げ込まれる時にでも、どんな奴が来ているか、|覗《のぞ》いてやろうかと思うのだが、いつも夜中――それも深夜の二時前後で、いくら頑張っていても、広沢は眠り込んでしまうのだった。
飲物にしても、お茶や缶ビール、カップ酒まで|揃《そろ》っていて、アルコールをとらせるのは眠らせるためもあったのかもしれない。
それにしても……。
気味が悪いのは、なぜ自分がこんな所へ閉じこめられるのか、広沢には全く思い当らないことで、日がたつにつれ、|苛《いら》|立《だ》ちはつのって来た。もちろん、|誘《ゆう》|拐《かい》して身代金を取るのに、広沢ほど不適当な人質はいないだろうし、大体、ここの誰にせよ、広沢のことを知っているとは、とても思えない。
「やれやれ……」
広沢は、ゴロリと横になった。
まあ、何かやらかして、留置場へでも入っていると思えば、我慢できないこともないが、それにしても、口をきく相手が一人もいない、というのはこたえた。
どんなつまらない奴でも、もし目の前に出て来たら、広沢は抱きついていたかもしれない。
いやに今日は月の光が明るい。――満月なのかな。
そういえば、犬が盛んに|吠《ほ》えているようだったが……。満月の夜には、多少犬もおかしくなるのかもしれない。
広沢はいつしかウトウトしていた。――時計は何だか知らないが止ってしまっていて、役に立たないのだ。
何時ごろになったか……。
メリメリ……。何か板の裂ける音で、広沢は目を開いた。
何だ?――耳の方がおかしくなったのかな。
いや、そうではなかった。キーッ、と板のきしむ音がする。バリッ、と板が割れる。
どこか、戸を開けようとしている奴がいる!
広沢は起き上がって、耳を澄ました。――どこだ? もう一度やってくれ!
メリメリ……。バン、と板が弾けるように割れる音。
玄関の方だ! 広沢は立ち上がって、用心しながら、玄関へと出て行った。
誰かが入って来るのかもしれない。広沢を助けてくれるためとは限らない。用心が必要だった。
そっと玄関を覗くと、表にタタタッと駆け去る足音が聞こえた。
しばらく待ってみる。――人の気配はなかった。
広沢は玄関へ下りた。格子戸にそっと手をかけ、力を入れてみる。
ガラッ、と戸が開いた。広沢はびっくりして、思わず声を上げてしまうところだった。
――こんなことがあるのか?
夢ではない。――目の前に、外の風景があった。
広沢は、靴をはくと、外へ出た。
「やった……」
自分の力で出たわけではないが、しかし|呆《ぼう》|然《ぜん》としつつも、何度も外の空気を吸っては吐いた。
かなり寒かったが、そんなことは気にもならない。ともかく、この家から出られたのだ!
寝込んでいたわけでもないのに、足もとが少しふらついた。
記憶が定かでない。どっちが町の方向だったろう?
ま、いい。ともかく道を|辿《たど》って行きゃ、どこかへ出るさ。
広沢は大きく、思い切り伸びをして、歩き出した。
「たぶん、井戸なんだ」
と、進は言った。
「井戸?」
仁美は|訊《き》き返した。「――シッ。こっちへ隠れて」
進の手を引いて、傍の茂みの中へ身をひそめる。
男たちが、少し先に立ち止って、何か話し合っている様子だった。
「井戸って……」
と、仁美は低い声で話を続けた。「あなたの家の?」
「庭に、古い井戸があったんだ」
と、進はしゃがみ込んだまま、言った。「板でふたがしてあって、大きな石がのせてあった」
「その井戸が、どうかしたの」
「ルミの奴、中がどうなってるのか、知りたがった。たぶん、板のどこかが、割れかけてたんだよ」
「ふーん」
「ルミが中を|覗《のぞ》こうとして、井戸のふたを開けた。たぶん、そこに何か[#「何か」に傍点]いたんだ」
「何か、って?」
「分んないけど……。みんなを狂わせちゃうもんさ」
仁美も、進が|真《ま》|面《じ》|目《め》に話していることはよく分っていた。普通なら化物の話なんかを、すぐには信じられない。
しかし、仁美も、この町に起こっていることが、普通の理屈ではとても割り切れないものかもしれない、と感じていたのだ。
「――ルミちゃんは、病院じゃないのね」
と、仁美は言った。
進は、黙って肯いた。
「山の中?」
「――どうして知ってるの?」
「会ったの」
「そう」
と、進は大して驚く様子もなく、|肯《うなず》いた……。
「私の友だちがかまれたの」
進がギクリとして、仁美を見た。
「かまれた? ルミに?」
「うん。大した傷じゃなかったけど」
「熱は出た?」
「しばらくしてからね。もう下がったけど」
「今日は?」
「今日?」
「昼間、熱が出てなかった?」
「夕方まで一緒だったけど、何ともなかったわ」
進は、少しホッとしたように、
「じゃ、大丈夫かもしれないね」
と、言った。
「ねえ。――何なの、一体? 病気?」
進は、首を振った。
「知らないよ、僕も。でも……熱が出て、段々、犬のように|唸《うな》ったりするようになって……。歯が|尖《とが》って来て……」
仁美はゾッとした。――狼男[#「狼男」に傍点]?
そんなのは、映画か小説の中だけの話だ!
「そしてね――満月の夜に――」
と、進が頭上の月を見上げる。
その時、鋭い叫び声が二人の耳を打ったのだった。
「――やられた!」
男たちの一人が、金切り声を上げた。「かまれたぞ!」
「逃がすな!」
「そっちだ!」
銃が火を吹いて、銃声が夜を震わせた。
「追いかけろ!」
何人かが、木立ちの中へ駆け込んで行く。
一方で、
「深追いするな!」
という声も飛んだ。
「早く手当だ!」
と、誰かが叫ぶ。
「町へ戻るんだ! 早く血を吸い出さないと……」
「|俺《おれ》がついて行く」
「分った。任せる」
「送って行って、すぐ戻るよ」
「よし。じゃ、みんな先を急ぐんだ」
木立ちの中へ入って行った数人も戻ったらしい。――腕をかまれた男が、ハンカチで手首の上の辺りを縛って、銃を手にしたもう一人の男に付き添われて戻って来る。
「奥へ」
と、仁美は、進をつついて、促した。
今の場所では、戻って来る二人に見られてしまう。
仁美と進は、木立ちの間をそっと通って、その奥に身をひそめた。
「誰だ!」
と、銃を持った男が叫んだ。
しまった、と仁美は思った。――枝を踏んだ音を、聞かれてしまったようだ。
「――音がしたぞ。待ってろ」
「それより手当てを……」
「分ってる。その辺に隠れてるかもしれないじゃないか」
銃を構えて、その男が、「おい。誰かいるのか?」
と、声をかけた。
仁美は息を殺した。――日本刀は持っているが、もちろんここで争っても仕方ない。
「撃つぞ。――死んでもこっちは知らないぜ」
仕方ない。出て行こうか。
ここで殺されちゃったらかなわない。
仁美は、進の手をつかんで、軽く握りしめると、立ち上がろうとした。
その時――全く気付かなかったが、ほんの数メートル離れた木のかげから、黒い影が猛烈な勢いで飛び出したと思うと、銃を構えた男に飛びかかった。
声を上げる間もなかった。引金が引かれて、夜の中に赤い火が爆発した。
頭上の枝が吹っ飛んだのか、バラバラと雨のように降って来る。仁美は、進の頭をかかえ込むようにして、伏せた。
|呻《うめ》き声、唸り声――。どっちも人間の声のようではなかった。
二つの影は、地面で激しくもつれ合った。
タタタッ、と足音がした。さっきかまれて、けがをした男が逃げ出したらしい。
悲鳴が、枝さえ震わせた。それが突然、ピタリと止って、低い、声というよりは「物音」のような、持続音に変った。
仁美と進は、ゆっくりと頭を上げた。
激しい息づかいが聞こえる。――男に飛びかかったのは、女のように見えた。白い服が汚れて裂け、白い腕をむき出しにしている。
長い髪が、肩に揺れていた。
|仰《あお》|向《む》けに倒れた男は、もう動かなかった。その上に重なっていたその女は、体を起こして、仁美たちに背を向けたまま、肩で息をしていた。
――その時、男たちが進んで行った先の方で、銃声がした。二度、三度。
その女はハッと立ち上がると――駆け出して、木立ちの中を影となって走り去った。
信じられない早さ!
仁美は、今、自分の見たものが、幻ではなかったのか、と問いかけたかった。
「――あの人は?」
と、進が言った。
「ここにいる?」
「一緒に行くよ」
仁美にとっても、ありがたかった。
――月の光が、男を照らしていた。かみ裂かれた|喉《のど》がパックリと口をあけ、血潮は池のように広がっている。
「ひどい……」
仁美は、気を失わないのが、不思議だった。
しかし、月の、あまりにも明るい光の下で、その死体が異様な美しさ[#「美しさ」に傍点]を感じさせるのも事実で、それが|却《かえ》ってリアリティを奪っていたのだろう。
銃声に混って、悲鳴が聞こえて来た。
「僕、行くよ」
と、進が言った。
「分ったわ」
仁美は肯いた。――ここまで来て、引き返すわけにはいかない。
二人は、道へ出ると、走り出した。
17 襲う影
二、三度、激しく揺さぶられただけで、さして頑丈とは言えない|鍵《かぎ》は壊されてしまった。
ドアが開くと、女は部屋の中に座って、顔を伏せていた。
「――やあ」
と、暴走族のリーダーが言った。「また会ったな」
意外だったのは、女が大して驚いた様子も見せなかったことだ。三神のものらしいセーターを着て、ジーパンをはき、部屋の中央に、きちんと座っていた。
部屋の明りは消えて、カーテンを一杯に開けた窓からは、白い月の光が射し込んで、女の影を畳の上に落としている。
「三神の奴は、行っちまったぜ」
と、リーダーの男は言った。「助けにゃ来てくれないだろうな」
女が、ゆっくりと顔を上げた。
「――分ってるわ」
と、女は平板な声で言った。
「|俺《おれ》たちが来るのを知ってたのか?」
と、男は少し緊張して言った。
三神も気付いていたのだろうか。こっちは人数が多いが、三神には用心する必要があった。
「三神さんは知らないわ」
と、女は、まるで相手の考えを見すかしているように言った。「私だけが、気が付いてたの」
「ほう。どうして分ったんだ?」
「|匂《にお》いがしたわ」
「何だって?」
「あなたたちの匂いが。――ゆうべの匂いと同じ匂いよ」
「なるほど」
「獣の匂いだわ」
女の声に嫌悪の思いがこもった。
「悪かったな」
と、男は上がろうとした。「また、たっぷり匂いをかがせてやるぜ」
「上がらないで」
女の言い方は、ごく普通の調子だったが、どこか、男の足を止めさせるものがあった。
「ここはあの人の部屋よ」
「だから、何だ?」
「下の部屋や、隣の部屋にも、人がいるわ。ここで乱暴なことをしたら、警察が来ることになるわよ」
女は、ゆっくりと立ち上がって、窓から射す月光を正面から浴びて立つと、「――外へ行きましょう」
「外へ?」
「人の来ない所に。――いいでしょう? 目当ては私なんだから」
「逃げようって気なら――」
女は、背を向けたまま笑った。
「そんなに大勢いて、女一人、逃がすのが心配なの?」
男は口を|歪《ゆが》めて笑った。
「よし。じゃ、出て来い」
「行くわ」
クルッと女が振り向いた。
暴走族の男たちは、戸惑っていた。女が少しもためらわずに外へ出て来たからである。ゆうべ、されるままにえじきになった、これが同じ女だろうか?
「どれに乗ればいいの?」
と、女は集まったオートバイを見回した。
「おい、お前、後ろに乗せろ」
と、リーダーが部下の一人に言った。「逃げないように縛るか」
女は、またちょっと笑った。
「飛び下りて大けがするほど馬鹿じゃないわよ」
「よし、乗れ。――おい、N公園だ。裏手の林へ行くんだ」
十三台のオートバイのエンジンが一斉に|唸《うな》りを立てる。次々にオートバイは走り出した。
月明りの下、オートバイの影がもつれ合うさまは、広げた網の上をオートバイが走り続けているようにも見えるのだった……。
「――参ったな」
と、|苛《いら》|々《いら》して、三神は|呟《つぶや》いた。
これじゃ、とても小西を迎えに行くのに間に合わない。――いや、小西の会食も時間通りに終るとは限らないのだが、車が遅れた時に限って、早く用事がすむというのは、世のならいである。
いくら三神がすぐれたドライバーでも、突然の事故を予知することはできない。
トラックを追い越そうとした小型の乗用車が、対向車線にはみ出して、バスと衝突したのである。
さらにトラックもその乗用車に追突、結局、乗用車はバスとトラックにはさまれる格好で、めちゃくちゃになってしまった。
道はほとんど完全にふさがれて、車はもう何キロもつながっている。――このままではあと一時間はかかると思わなくてはならないだろう。
通れるのはたった一車線。そこを交互通行で両方から車を通しているので、一向に進まないのである。
時計を見て、三神は首を振ると、車内の電話を取った。小西のいるレストランへ、かけてみる。
小西を呼び出すと、すぐに出て来た。
「三神です」
「君か」
小西がホッとしたような声を出した。小西が、病院からの連絡かと思ったのに違いない、と三神は気付いた。
「申し訳ありません。戻る途中で、事故に巻き込まれまして」
「そうか。こっちもまだしばらくかかる。焦らなくても大丈夫だ」
「そうですか」
三神は少しホッとした。「できるだけ早く戻ります」
「分った……」
電話を切って、三神は息をついた。――今夜はいやに事故が多いようだ。
アパートへの往復でも、ずいぶん救急車のサイレンを耳にした。やっぱり普通の人間も、月明りに浮かれたりすることがあるのだろうか?
少なくとも、血が騒ぐ、といったことはあるのかもしれない。
宏子のことを思い出した。どうしてあの女は俺に身を任せて来たのだろう。――しなやかな、すばらしい体だったが。
ふと、思い付いて、三神はもう一度電話に手を伸ばした。どうせ待つしかすることがないのだ。
アパートの電話へかけてみる。――三度鳴らして|一《いっ》|旦《たん》切り、それからもう一度かける。
呼出し音が続いた。誰も出ない。
何してるのかな? もう眠ってしまったのか。
もう一度、やってみた。三度鳴らして一旦切り、またかける。
やはり同じだ。――いくら鳴らしても、誰も出なかった。
三神は首を振った。狭いアパートである。あれだけ呼んで気付かないはずがない。ということは……。
部屋にいない?――なぜだ? どこへ行くというんだ?
三神はハンドルに手をかけて、じっと考え込んだ。何もなければ、あの女が家を出るはずはない。
もし出たとすれば……。もう戻らないつもりかもしれない。だからこそ、三神に身を任せたのかも……。
迷いは短かった。小西を迎えに行くことなど、誰でもできる。しかし、あの女は――しかも、あの女は小西の娘なのだ。
三神はハンドルを思い切り回した。強引にUターンして、他の車がクラクションを鳴らす。もちろん、そんなことを気にする三神ではなかった。
ぐいとアクセルを踏み込んで、三神は再びアパートへと車を走らせた。
――まだそれほど来ていなかったので、十分ほどでアパートに着く。
ドアの|鍵《かぎ》が壊れているのを見て、何かあったな、と察した。
隣の部屋のドアを|叩《たた》いてみた。
「――何ですか?」
いつも眠そうな顔をした奥さんが顔を出す。「ああ、お隣の人ね」
「知り合いがいたはずなんですが、戻ってみると、姿が見えなくて。何か変ったことはありませんでしたか」
と、三神は|訊《き》いた。
「さあ……。ずっとTVを見てたから……。歌番組とか、いつも大きな音でかけてるもんですからね」
「そうですか。――どうも」
と、三神が行きかけると、
「ああ、何だかオートバイの音がしてたわね」
と、その奥さんが言った。
「オートバイ?」
「ええ。それも一台や二台じゃなくて。――十台ぐらいはいたんじゃないかしら。|凄《すご》い音たてて走ってったわ。きっと暴走族ね、とか話してたんだけど」
三神の顔がこわばった。
「そうですか。そのオートバイの連中、どっちへ行ったか、分りますか?」
「たぶん……。そうね。あっちの方よ」
と、指さす。
「どうも」
三神は、外へ飛び出した。
あいつらが、またやって来たのだ! 畜生!
宏子をどこへ連れ去ったのか。見当もつかないが……。
しかし、希望がないわけではなかった。何といっても、けたたましい爆音をたてて走る十台以上のオートバイである。相当に目につくに違いない。
方向だけでも分れば。――そう遠くへ行くはずがないし、しかも人気のない場所を選ぶだろう。
三神はベンツを、オートバイが向かったという方向へ向けて、ともかく、アクセルを踏んだ。何とか、手遅れにならない内に、見付け出すのだ。
しかし、三神は、自分が追い求める先に待っているものが何なのか、何も知ってはいなかったのである。
あれは銃声か?
広沢は、足を止めて、耳を澄ました。さっきから、何度か聞こえている。
それに叫び声のようなものも。――しかし、遠すぎてはっきりしなかった。
あの閉じこめられていた家から出て、もう十五分ぐらい歩いただろうか。
月明りの下なので、歩くのに不便はなかったが、ともかく、一向に町は見えて来ないし、道はますます山の奥へ入って行くような気がした。
方向を間違ったのかもしれないな、と思った。戻って、反対の方角へ歩いてみるか。
それとも、どうせこんな夜中なのだ。どこかで腰をおろして、明るくなるのを待つか。眠るだけは充分に眠ったから、朝まで起きているのは|辛《つら》くない。しかし――。
突然、広沢は、誰かが道の真中に立っているのに気付いて、ギョッとした。いつ出て来たんだ?
まるで地面から飛び出して来たかのように、その女の子は広沢の行く手に、立っていたのだ。
月明りに照らされたその女の子は、五、六歳に見えた。白のブラウスと、濃い赤のスカート。そして、なぜか少女は裸足だった。
「どこから来たんだ?」
と、広沢は声をかけた。
「家へ帰るの」
女の子は、意外にしっかりした声で答えた。
「そうか。――こんな時間に外に出て、何してたんだ?」
「ご用事」
「なるほど」
と、広沢はちょっと笑った。「家は町の中かい?」
「うん」
と、女の子は|肯《うなず》いた。「そっち」
指さしたのは、広沢の斜め後ろの方角だった。
「そうか。道に迷っちまったんだよ、|俺《おれ》も。連れてってくれるかな」
「うん」
女の子は近付いて来ると、広沢の手を握った。小さな体に似合わず、強い力で、ギュッと握って来る。
「この道を戻るのか」
「そっちに近道がある」
「ふーん」
広沢も、用心はしていた。何しろ、あの妙な女にコロッと|騙《だま》されて、ひどい目にあったのだ。
しかし、これは小さな女の子だ。騙すといっても……。それに、広沢も腕力には自信があった。あんな風に油断していればともかく、今度は充分に用心している。
何が来たって、やられやしないぜ、と広沢は|挑《いど》みかかるように空を見上げた。
「|凄《すご》い月だな」
と、広沢は思わず言っていた。
こんなに、白い、まぶしいほどに輝く月を見たのは初めてだ、と広沢は思った。
「お月様って好き?」
と、女の子が|訊《き》いた。
「さあな。こんなにでっかいと、何だか気持悪いや」
「そう? 私、大好き」
道は、少し細くなって、木立ちの間へ入って行った。しかし、ゆるい下りになっているし、少し先は開けているようで、本当に町に近付いているのかもしれない、と広沢は思った。
「おい」
広沢は足を止めた。
「どうしたの?」
「何か聞こえなかったか?」
「なんにも」
「――いや、音がしたんだ」
左右の黒い木立ち。月明りが、枝の間から細く、いく筋か忍び入っている。その中を、黒い影が動いていた。草を踏む音。木の幹に何かがこすれる音。
右から、左から。――一つや二つではない。
黒い影は十、二十という数のようだった。
「誰だ!」
広沢は怒鳴った。「こそこそしてねえで、出て来い!」
女の子が、広沢の手を離すと、静かに、背後に回った。広沢は全く、気にも止めなかった。
「隠れてるのは分ってるぞ。出て来たらどうだ!」
影たちは、動きを止めていた。身を潜め、息を殺している。
何か武器になるものでも持っていれば良かった、と広沢は思った。あまり大勢が相手だと面倒だ。二人、三人なら、負けやしないんだが――。
「|俺《おれ》に何の用だ? 出て来ないと――」
突然、右のふくらはぎに、激痛が走った。叫び声を上げて、振り向いた広沢は、目をむいた。
あの女の子が、ふくらはぎにかみついている。|凄《すさ》まじい勢いだった。歯が食い込み、血がほとばしるのを感じた。
「はなせ! こいつ!」
広沢は、女の子の髪の毛をつかんで、引っ張った。女の子が悲鳴を上げて、顔を離す。
月明りに、口の囲りを血まみれにした少女の顔が見えた時、広沢はゾッとした。
女の子は、両手を振り回し、足で、自分がかんだ広沢のふくらはぎをけった。広沢が苦痛に|呻《うめ》いて手をはなすと、女の子は駆け出した。
まるで飛びはねるような勢いだ。人間ではないような駆け方だった。
血が流れ出している。広沢は、苦痛に歯を食いしばりながら、歩き出した。
とんでもない所へ来てしまったのだ。逃げなくては。ともかく、逃げるのだ。
片足を引きずるように……。
木立ちの間から、黒い影が一つ、飛び出して来た。
「ワッ!」
よけそこなって、|仰《あお》|向《む》けに倒れた広沢の上に、それ[#「それ」に傍点]はのしかかって来た。
女だ。髪をふり乱し、目を血走らせた女だった。
「何だ――やめろ! 何をする!」
女が口を開いた。鋭く|尖《とが》った歯が見えた。|牙《きば》、と呼んだ方がいいような。
女の歯が、広沢の肩に食い込む。骨に当るガリッという音がした。
広沢は叫んだ。女を押しのけようとしても、腕がしびれていた。
土を踏む音がした。次の瞬間、右の|太《ふと》|股《もも》に、鋭い|刃《やいば》を突き立てられるような激痛。かまれたのだ。その歯は、肩に食い込む女の歯の何倍も巨大なように、広沢には思えた。
広沢はめちゃくちゃに暴れた。黒い影たちが、次々に飛び出して来て、広沢の上を覆う。月の光が、広沢の視界から消えた。
腕をがっしりつかまれたと思うと、いくつもの歯が同時に肉を貫いた。筋を裂き、骨を砕いた。
広沢は、苦痛の頂点から、ゆるやかに下り始めた自分を、ぼんやりと感じていた。――良かった。助かるんだ、と思った。
単に、激しい出血で、たちまちの内に意識が消え入り、命が絶え入ろうとしているのだとは、考えられなかったのである。
広沢は身を激しく震わせた。太股に食い入った歯が、肉を食いちぎる音を、広沢の耳はかすかに聞いた。
何だ? 俺はどうしてこんなことに……。
プツリ、と糸が切れるように、広沢は死んだ。
しかし、さらに体が裂かれ、血が|溢《あふ》れても、なお広沢の手は何かをつかもうとするように、指を動かし続けていた……。
18 死 闘
「その先を曲れ!」
先頭を走っていたリーダーの男が、振り向いて叫んだ。
オートバイのスピードが落ちる。
公園の裏手。――月明りがなければ、|闇《やみ》に包まれる場所だろう。
先頭のオートバイがクルッと向きを変えた。
宏子を後ろに乗せたオートバイは、十三台の、ちょうど真中辺りにいた。カーブを切って、スピードを落とす。
と――宏子の体がオートバイから大きく|弾《はじ》けるように飛んだ。
「おい!」
あおりを食らって、そのオートバイが横倒しになる。誰もが|呆《あっ》|気《け》に取られていた。
宏子は信じられないほど高く宙を飛んで、ピタリと地に四つん|這《ば》いになって下りた。
それはとても人間では不可能な、しなやかな|四《し》|肢《し》を持つものの動きだった。
そして、アッという間に、宏子の姿は公園の木立ちの間へと吸いこまれるように消えていた。タタッという足音[#「足音」に傍点]。いや――走ったのではない。
四つ足で、しなやかな獣のように、走り去ったのである。
「――何だ、あいつは!」
と、リーダーの男が|唖《あ》|然《ぜん》として、言った。横倒しになったオートバイから転げ落ちた男が、倒れたままなので、リーダーの男はオートバイを寄せて、
「おい。――だらしないぞ!――おい」
気絶しちまったのか?
「おい、起こしてやれ」
一人がオートバイをおりて近寄ると、かがみ込んだ。
「ワッ!」
叫び声を上げて、飛び上がった弾みに、ヘルメットが外れてガラガラと音をたてて転がった。
「どうしたんだ」
「――血が[#「血が」に傍点]」
声が震えていた。
「何だと?」
リーダーの男は、自分もオートバイをおりて、歩み寄った。
倒れた部下を引っ張り起こす。――頭がぐったりと後ろへ落ちた。
白目をむいて、死んでいる。首の後ろから、血が溢れるように流れ出ていた。
「――畜生!」
「どうしたんだ?」
「何か隠してたんだろう、武器を」
誰もが、呆気に取られているばかりで、実感がないようだった。
「妙な傷だ」
と、リーダーの男が|呟《つぶや》いた。
刃物ではない。突いた傷でも、切った傷でもなかった。
ぎざぎざの、まるで引き裂いたような傷なのである。
あの女が? こんなことをやったのか?
「――あの走り方、見たか」
と、一人が言った。
「犬みたいだったぜ」
「いいか」
と、リーダーの男が声を荒げた。「仲間を|殺《や》られたんだぞ! 何が何でも、見付けるんだ! 八つ裂きにしてやれ!」
オートバイのエンジンが|唸《うな》った。
「どうします?」
「手分けして捜せ。公園の中へ逃げ込んだからな。どこかに隠れてる。――いいか、見付けたら、思い切りクラクションを鳴らせ」
リーダーの男はヘルメットをかぶり直した。
「――よし、行け!」
一斉にオートバイが走り出す。
公園へ入る、幅の広い階段を、次々にオートバイは駆け上って行った。
そして左右に分れ、さらに散って行った。――公園はかなりの広さがある。
中央の広場に、大きな丸い池と噴水があって、その周囲のベンチは、夏のころにはアベックの名所になる。この季節にも、五、六組のアベックが体を寄せ合っていたが、爆音をたててオートバイが何台も駆け抜けて行くと、みんなびっくりして、あわてて立ち上がり、公園から出て行ってしまった。
十三台の――いや、今は十二台になったオートバイも、広い公園の中に散れば、ほとんど互いに目には入らない。
木立ちや茂みの多い公園の中、遊歩道がくねくねと続いている。隠れる場所はいくらもありそうだった。
夜の公園に、オートバイの爆音が、こだまのように響き合っている……。
あれは何だったんだろう?
あの飛び方、四つ足の走り方。――あれは人間じゃない。
それじゃ何だっていうんだ? ゆうべは、あの女を兄貴たちが犯したじゃないか。あの時、あの女は確かに、生身の女だったんだ。
でも……。さっきの、あの女は、まるで別の生きものみたいだった……。
サブは、さっきリーダーに言われて、倒れていた仲間を起こそうとして飛び上がった。
あの女が、刃物を持っていたとしても、あんなに素早く、行動できただろうか?
サブは|怯《おび》えていた。――だらしのない話だが、左右の木立ちの|闇《やみ》が、怖くてたまらなかったのだ。
サブは十九歳である。このグループでは、一番若くて、下っぱということになる。
だから、ゆうべだって、あの女を犯すのには加わらなかった。いくらかは残念だったが、内心ホッとしてもいたのである。
女は嫌いじゃない。しかし、あんな風に、無抵抗の女を大勢で犯すというのは、サブの好みじゃなかった。
しかし、今夜のあの女は、はっきり、ゆうべとは違っている。何が起こったのか分らない。もちろん、「人間じゃない」と思ったのは理屈じゃなく、直感的なもので、じゃあ何なのか、と|訊《き》かれたら、サブにも答えられなかったろう。
ともかく――今夜はどこか狂ってるんだ。
こんな夜は、早く帰って寝ちまうのが一番だ。
そう思っても、もちろん勝手に帰ったりするわけにはいかないのだ。
「ワッ」
カーブを曲って、目の前に誰かが突っ立っているのを見て、仰天する。
キーッとタイヤが鳴った。危うく、引っくり返らずに済んだ。
「――何だよ。はねちまうところだぜ」
と、息をついて、サブは言った。
オートバイが見当らない。ヘルメットが転がっていて、その仲間は、サブの方に背を向けて、ぼんやりと突っ立っているようだった。
「おい。――どうしたんだよ」
手をのばして、肩を|叩《たた》くと、その仲間がゆっくりと振り向いた。
「助けてくれ……」
と、その男は言った。「死んじまうよ……」
サブは真青になった。仲間の腹が、獣に食い破られたように裂けて、血が|溢《あふ》れ出していた。
「サブ……」
一歩前に出て、そのまま、その男は倒れてしまった。血だまりが、池のように広がって行く。
どうなってるんだ! こんなことが……。あの女がやったのか?
サブは、仲間を捜そうとした。知らせなきゃ。また誰かがやられる!
サブはオートバイを駆って、中央の池までやってきた。
「おい! 誰か!」
と、怒鳴ってみる。
オートバイのエンジンの音は、公園のあちこちから聞こえて来る。みんな走り回っているのだ。一人ずつ[#「一人ずつ」に傍点]、ばらばらに。
危い。何人か固まっていないと、やられるかもしれない。
オートバイの音が、近付いて来た。
良かった! 誰かここへ来る。
木立ちの間から、オートバイが進んで来た。いやにゆっくり、真直ぐに走って来る。
木立ちの陰からそれ[#「それ」に傍点]が抜け出して来た時、サブは目を疑った。――何の冗談だ?
誰がやって来たのか、サブには分らなかった。
オートバイにまたがったその男には、首がなかった[#「首がなかった」に傍点]からだ。
やがてゆっくりとオートバイは横倒しになって、火花が飛んだ。
車輪が回り続けている。
サブは叫び出したかった。――やめてくれ! もうやめてくれ!
「――おい」
突然、後ろから声をかけられて、サブは叫び声を上げた。
「何をびびってるんだ」
「兄貴……」
サブは息をついた。グループでは、リーダーに次いでナンバーツーの男だ。
「あれは?」
「今、フラッと走って来たんだよ」
「――首がないぞ」
「向こうでも一人やられた」
「何だと?」
「オートバイを持ってったらしいよ」
と、サブは言った。
「畜生!――あの女がやったのか、こんなことを?」
「あの女、普通じゃねえよ」
「どうでもいい! このまま逃がすわけにゃいかねえぞ。一緒に来い」
「うん」
サブはほっとした。一人でないというだけで、救われたような気分になる。
木立ちの間を、少しゆっくり走らせる。
「よく左右を見てろよ」
「うん」
サブは、つい、後ろにも目をやってしまう。誰かがついて来るような気がするのだ。
「いたぞ」
「兄貴、どこに?」
|訊《き》くまでもなかった。――行く手に、あの女がオートバイにまたがって、片足を地面に下ろし、立っていた。
こっちを見ている。――離れてはいたが、女の上半身が血で光っているのが見えた。返り血だ。サブはゾッとした。
「兄貴。みんなを呼ぼう」
「|俺《おれ》一人で充分だ」
バシッと音がしてナイフが光る。「駆け抜けざま、あいつの首をかっ切ってやる」
エンジンが|唸《うな》り、サブは、「兄貴」があの女に向かって突っ込んで行くのを見送っていた。――いやな予感がした。
女が、まるで動こうともしなかったからだ。
突然、途中でオートバイが転倒した。油だ! ガソリンをまいてあったのだ。
ちょうど影になった所で、目に入らなかったのである。
投げ出された兄貴が、立ち上がった。
その時、女が、何か光るものを投げるのが見えた。火が――一面の炎が、サブの視界を覆った。
炎の中に、「兄貴」が転げ回り、飛びはねるのが見えた。そしてすぐに、「兄貴」は動かなくなった……。
サブは身震いした。全身から汗がふき出す。
もう……もう沢山だ!
サブはオートバイを投げ出し、駆け出した。
逃げることしか、サブの頭にはなかった。見えない影に追われて――。
仁美と進は、道を進んで行った。
一体、あの銃声と悲鳴の下で、何が起こっているのか、考えたいとも思わなかった。考えたところで、何の役にも立たない。
今はともかく、何も恐れず、何にも|怯《おび》えないことだけが必要なのだ。
仁美は、日本刀をしっかりと握りしめていた。何もないよりはましだろう。
――銃声がやんだ。
「終ったのかしら」
進は、
「ルミが――」
と、言ったきり、言葉を切った。
ルミが殺されたかもしれない、と思っているのだろう。たとえ獣の歯を持っていても、妹は妹なのだ。
二人は足を止めた。
月光の下で、三人の男が倒れていた。死んでいるのは一目で分かる。
一人は、|喉《のど》を食いちぎられていた。
他の二人は――撃ち殺されている。何発も弾丸を撃ち込まれたのだろう。ずたずたになって、顔もほとんど見分けがつかない。
「ひどい……」
と、仁美は|呟《つぶや》いた。「この人たちは……」
「あれだった[#「あれだった」に傍点]んだよ」
と、進が言った。
「そう……」
町の男たちが殺したのだ。
「他の人たちはどこに行ったのかしら?」
「先だよ、もっと。ルミもいる」
「そう。――町の人たちは、かまれてしまった人を、皆殺しにしようとしてるのね」
「うん」
進は|肯《うなず》いた。「しょうがないのかもしれないけど、でも、ルミが撃ち殺されるのなんていやだ!」
「でも……進君を見ても、分るの?」
進は黙って首を振った。進にも、それは知りようのないことなのだろう。
「ごめんね、悪いこと|訊《き》いて」
と、仁美は進の肩を抱いた。「じゃ、行こう」
「うん」
二人は歩き出した。
少し行って、足を止める。
「――向こうで声がしたね」
と、仁美は言った。「その細い道の奥じゃない?」
「危いかもしれないよ」
と、進が仁美を見る。「僕一人で行く」
「何言ってるの」
仁美は、|微《ほほ》|笑《え》んで言った。
どうして、こんな時に落ちついていられるんだろう、と仁美は自分でも不思議だった。
「一度、死ぬつもりだったのよ、私」
と、細い道へ入りながら、仁美は言った。
「どうして?」
「うん……。色々あってね。一家で死のうとしてたの」
「それで……やめたの?」
「そう。だけどね、一度そういう覚悟をすると、強くなるのよ、人間って」
「そうでなくとも、強そうだよ」
「まあ、何よ、その言い方」
と、仁美はポンと進の頭を|叩《たた》いた。
「――ね、明りが」
「隠れよう」
二人は木立ちの中へと入って身を潜めた。
足音がして、町の男たちが三、四人、やって来る。
「――また、やり直しか?」
「仕方ないだろう」
「それまでが長いぞ」
「ああ、分ってる」
話しながら、仁美たちの目の前を通り過ぎて行った。
「――もっといたよね」
「うん。他の方へ行ってるのかもしれないけれど」
「そうか。でも、もう少し待ってみよう」
二人は、しばらくじっと息を殺していた。しかし、続いて誰かがやって来る気配はなかった。
「行ってみようか」
「うん」
二人は、そっと道へ出ると、さらに奥へと足を進めた。
ゆるい曲りだった。そこを曲った時、それ[#「それ」に傍点]が目の前にあった。
仁美も、さすがに青ざめて、よろけた。目をそむけずにはいられない。
もう、それが誰だったのか、見分けることなどできなかった。それは単に|残《ざん》|骸《がい》にすぎなかったのだ。
「町の人じゃないと思うよ」
と、進が言った。
「じゃ、誰?」
「分んないけど、たぶん、おびき寄せるためのえさ[#「えさ」に傍点]だったんだ」
「そこを|狙《ねら》うつもりで」
邪魔が入って、間に合わなかったのだろう。何人かが(あるいは何匹[#「何匹」に傍点]かと言うべきか)、町の男たちを途中で妨害する役目だったのだ。
「じゃあ、もう今日は引き上げたのね、町の人たち」
と仁美は言った。
「そうじゃないぞ」
突然、背後で声がした。
とっさのことだった。仁美は、
「逃げて!」
と、進を押しやった。
進が木立ちの中へ飛び込む。仁美は反対側へ駆け出そうとして、銃声と共に目の前の地面がえぐれるのを見た。撃たれる!
「動くなよ」
と、男が近付いて来た。「おとなしく手を上げろ。そいつを捨ててな」
仕方ない。進はうまく逃げたようだ。
仁美は両手を上げた。
銃声を聞いたのか、男たちが五、六人、駆けつけて来た。
「どうした?」
「この娘が|尾《つ》けて来てたんだ。例のガキと二人で」
「顔を見せろ」
月明りの方へ、仁美は向いた。
「新しく越して来た家の娘だ」
と、一人が言った。「どうして尾けて来たんだ?」
仁美は答えなかった。
「――困ったな。どうする?」
「何かあるんだ、こいつも。仲間かもしれない」
「そうじゃないだろう……」
「おい、待て」
と、仁美に銃を突きつけた男が、言った。
「いい機会だ」
「何のだ?」
「もう一度[#「もう一度」に傍点]、チャンスがあるってことさ」
しばらく、男たちは黙っていた。
「――この娘を?」
「悪いか? 次の満月までに、また誰かやられるかもしれん」
「そうだ。どうせよそ者だ」
男たちが肯く。――仁美は|膝《ひざ》が震えた。
「気の毒だな」
と、男の一人が仁美の後ろへ回った。「さぞいい|匂《にお》いがするだろう」
次の瞬間、仁美は後頭部を殴られて気を失い、地面に倒れていた。
19 穏やかな死
見当はついていた。
運が良かったのだ。――三神がたまたまよく寄るガソリンスタンドの男が、ちょうどそれらしいオートバイが十何台か駆け抜けて行くのを、見ていたのである。
「そうだ。一台は後ろに女をのっけていたよ」
と、言ったので、まず間違いはないだろうと三神は思った。
あの連中だ。女は小西宏子に違いない。
オートバイが向かっていた方向から、三神は行先の見当がついた。大きな公園がある。
人にあまり見られたくないことをやろうとすれば、あの公園の裏手だろう。
三神はベンツを、スピード違反など構わずにぶっ飛ばした。大型車だけにスピードを上げても安定感がある。
あの女――小西宏子は、まだ無事でいるだろうか?
三神は決心していた。必要とあらば、この車で、オートバイをけちらしてやる。
――公園が近付いたので、少しスピードを落とした。それでなかったら、殺していただろう。
突然、道へ飛び出して来た男を見て、反射的にブレーキを|叩《たた》きつけるように踏む。体が|歪《ゆが》むような圧迫感があって、それでも車はスピンもせずに停った。その直前、ガクン、と衝撃が来た。
はねたな! 男が路面に転がるのがチラッと目に入った。
車を出て駆け寄ると、あの暴走族の連中の一人だ。まだひどく若い。
「おい。――大丈夫か?」
「足が……。足が……」
と、男は|呻《うめ》いた。
真青になって、汗がふき出している。
「折れてるかな。足が折れたって死にゃしねえさ」
と、三神は言った。「|俺《おれ》が分るか」
「ああ……」
「女を連れてったな?」
男は、身震いした。
「どうしたんだ?」
と、三神は言った。「――おい! しっかりしろ!」
「あの女が……女が……」
と、途切れ途切れに言って、男は泣き出してしまった。
「おい! 折れた足をけとばしてやろうか?」
「やめてくれ!」
と、金切り声を上げる。
「じゃ、言え。どこにいる?」
「公園の――中だよ」
「他の連中は?」
「死んだよ」
「何だと?」
「どんどん死んでくんだ。あの女――化物だよ!」
三神の顔から血の気がひいた。|嘘《うそ》をついているとは思えない。
「兄貴たちも殺された……。俺、逃げて来たんだよ、必死で」
と、声が震える。「腹が裂けてたり……首がなかったり……」
あの女が? そんなことをやったのか?
「公園の中だな」
「ああ」
三神が車へ駆け戻る。
「――俺を放っとかないでくれよ!」
と、泣き声で訴える。
「待ってろ。後で拾ってやる」
三神はそう言って、ベンツへ乗り込んだ。
公園までは、数百メートルだ。――入口の辺りに停めて、三神は車を降りた。
公園からは、オートバイの音らしいものは聞こえて来なかった。静かなものだ。
三神は入口の幅の広い階段を駆け上った。
階段状の池があって、水が落ちている。水は濁っていた。
池の中央に、暴走族の一人が浮いていた。首の周囲が鋭くえぐられて、|溢《あふ》れ出た血が、池の水を染めているのだ。
公園の中へ入って行くと、ガソリンの|匂《にお》いや、漂う煙の匂いに気付く。
木立ちの間の焼けこげた死体。――木のない枝に、まるで|釘《くぎ》で打ちつけたようにぶら下がっている死体。
中央の池まで出ると、首のなくなった死体が、転がっている。
三神も、|膝《ひざ》が震えた。何があったんだ? 一体何が……。
足音がして、ハッと振り向くと、リーダーの男が、よろけるような足取りでやって来るのが見えた。
「お前か……」
三神を認めたらしく、唇を引きつらせて笑った。「やったぞ。――あの化物を……やっつけた」
手にしたナイフは、血を浴びて、手首まで|濡《ぬ》れていた。
しかし――胸から腹にかけて、ジャンパーは引き裂かれて、血がふき出すように流れ落ちている。歩いているのが不思議だった。
「畜生……」
と、リーダーの男が|呟《つぶや》くように、「死なねえぞ、俺は――」
そのまま、バタッと倒れる。
|呆《ぼう》|然《ぜん》としていた三神は、急いで、その男がやって来た方向へと駆けて行った。オートバイが倒れて、タイヤはフルスピードで回転していた。
女は――道の中央に、倒れていた。
「――宏子!」
三神は駆け寄った。
ナイフで切り裂かれた傷が、胸から|喉《のど》もとへ、口をあいて、血潮が三神の男もののシャツを染めている。
もう、息はなかった。――三神は、そっと宏子の体を抱き起こした。がっくりとのけぞるように落ちた宏子の顔を、青白い月明りが照らし出す。
――この女が「何もの」だったのか、三神には分らない。この|凄《せい》|惨《さん》な有様を見れば、何かとんでもないことが起こったのだということは、疑いもなかった。
しかし、この|凄《すさ》まじいほどの月光の下で、今は眠りについた宏子の顔は、ごく当り前の――いや、穏やかな美しさをたたえた、一人の女のそれに過ぎなかった。
三神は、宏子の体を抱えて、立ち上がった。おそらく、やがて警察も駆けつけて来るだろう。
宏子を、好奇の目にさらしたくはなかった。何があったのか、誰にも分るまい。
あの若いやつが一人で何を言っても、誰も信じないだろうし、おそらくしゃべりたくもないだろう。
宏子を、ベンツの中へ運び込んで、三神は、深々と息をついた。
俺が用心していれば……。いや、病院へ早く返していれば、と思わないではなかったが、しかし、これで良かったのだ、という思いの方が、なぜか強かった。
宏子は、自分でこの道を選んだのだ。今の宏子の顔に見られる穏やかさは、満足感そのもののように、三神には思えた。
――車を少し公園から離して停めてから、三神は小西へ電話をかけた。
小西がやって来るのに三十分ほどかかった。
その間、何台かパトカーがサイレンを鳴らして通り、救急車も通り過ぎた。もちろん、誰も助かるまい。
タクシーの明りが見えて、三神はベンツのライトを二、三度点滅させた。
小西が、タクシーを降りてやって来る。三神は外へ出て、待った。
「――宏子は?」
「後ろの席に」
と、三神は言った。「殴られても、殺されても構いません」
「馬鹿を言うな」
小西はドアを開けて、中へ入った。宏子の手を取ると、両手でそっとさするようにして、
「これで良かったのかもしれん……」
と、|呟《つぶや》いた。
「申し訳ありません」
と、三神は頭を下げた。
「家へ帰ろう」
「はい」
「話はそれからだ」
小西は、娘の体をしっかりと抱き寄せて言った。
ベンツが走り出すと、三神が、
「一人、生き残ったのがいますが」
と、言った。
「どこにいる?」
「足を折って、たぶんこの少し先に……。まだいると思います。若いチンピラです」
「そうか」
「どうしますか」
小西は少し間を置いてから、
「殺してやりたいな」
と、普通の口調で言った。
「やりましょうか」
と、三神は言った。
「本気か?」
「もちろんです」
少し間があって、小西は首を振った。
「いや……。話が聞きたい。拾ってやれ。病院へ連れて行こう」
「はい」
と、三神は|肯《うなず》いた……。
道端で、ほとんど失神状態だった、あの若い男を拾って助手席へ乗せると、近くの救急病院へ運ぶ。――その途中、小西は宏子が暴走族を相手に、人間とは思えない戦いぶりを見せた様子を、聞いた。
「――分った」
と、話がすむと、小西は肯いて、「病院でおろしてやる。入院したら費用も持ってやる。その代り、今夜見たことを、一生口に出すな。分ったか?」
「頼まれたって、しゃべりません……」
と、男は泣き出しそうな声を出した。
「よし。もう、暴走族なんかに入るんじゃないぞ」
「オートバイなんて、見るのもいやですよ」
どうやら本音らしかった。
――病院へ寄ってから、ベンツは小西の自宅へと向かった。
もう夜の道は|空《す》いていて、車はひたすら走り続けた。言葉を交わす必要がないのは、三神にとっても小西にとっても、いいことだったかもしれない。
小西の家に着くと、二人で宏子の体を寝室へ運んで、白いシーツで覆った。小西はしばらくその遺体の前で、身じろぎもしなかったが、やがて三神の方を振り向いた。
「車のガソリンは充分か」
「はい」
「急いで行ってもらいたい所がある。急を要するのだ。信号も無視しろ。パトカーも振り切れ。できるか」
「はい」
「よし、出かけよう」
小西の声には、再び力が――生命力が|漲《みなぎ》って来ていた。三神は体が|芯《しん》から熱して来るのを感じた。
絶望も、悲しみも、この男を|叩《たた》きのめすことはできないのだ。――何という怪物だ、この小西という男は!
小西はベンツの後部座席に座ると、
「事故を起こしたら心中だな」
と、言った。
「悔やみません」
三神はぐいとアクセルを踏んだ。深夜の町を、ベンツは巨大な弾丸のように、疾駆して行く。
「――電話だ」
白浜は布団に起き上がった。
「本当。こんな夜中に……。誰かしら?」
千代子も起き上がって、「出るわ」
と、急いで布団から出て行った。
白浜も後からついて行く。千代子は受話器を取った。
「白浜さんかな? 小西です」
と、小西晃介の、よく通る声がした。
「まあ、小西さん。白浜の家内です。何か――」
「今、そちらへ向かう車の中からかけてます。無事ですか、そっちは?」
「はあ……。何か事件が?」
「娘さんは?」
「仁美ですか?――あなた、仁美を見て来て!」
白浜は飛んで行ったが、すぐに戻って来ると、
「いないぞ、出かけたらしい!」
と、青ざめた顔で言った。
「出かけたって……。どこへ?」
「奥さん。聞いて下さい。急いで娘さんを捜すのです」
「小西さん、娘に何が――」
「満月の夜です。お宅の娘さんは何かを探りに出たのかもしれない。いいですな、武器になるものを持って、捜すんです! こっちもあと一時間ほどでそっちへ着くはずです」
「はい!」
――電話を切って、白浜と千代子は顔を見合わせたが、
「ともかく、仁美を見付けるんだ!」
と、白浜があわてて寝室へ駆け戻り、服を着る。
「あなた、武彦君を呼びましょう。病院にいるわ」
「うん、そうだ、駆けつけてくれと言うんだ。――武器か。包丁でも持つか」
白浜が台所の包丁を布でくるんで持って来る。その間に千代子は病院へ電話をして、武彦を呼び出した。
「――え? いない?」
千代子は目を丸くした。「あなた。武彦君が病院にいないんですって!」
「おばさん」
ヌッと、当の武彦が顔を出したので、
「キャッ!」
と、千代子は飛び上がってしまった。
「すみません!――玄関があいてたんで」
「あの……仁美は?」
「いないんですか?――あいつ! 勝手に何かやらかしてるんだ」
「ともかく、外へ出てみよう」
と、白浜が言った。
白浜と千代子、そして武彦の三人は、表の通りへ出た。
「|凄《すご》い満月だ……」
白浜は、夜空を白く染め上げんばかりに輝きわたる月を見上げて、ゾッとしたように言った。
「何かにかまれて入院してた女が、猛烈に暴れて、押えて鎮静剤を射ったら、死んでしまったんです」
と、武彦が言った。「ともかく、この月はまともじゃない。心配になって、やって来たんです」
「そうか。しかし、どこへ行けば?」
「小さな女の子に手をかまれた場所の方へ。たぶん、あの辺りにいるんですよ」
「いるって……何が?」
と、千代子が|訊《き》く。
「ともかく、行こう。仁美が心配だ」
武彦を先頭に、三人が町の外れ辺りまでやって来た時だった。
茂みがガサッと揺れて、男の子が飛び出して来た。そして、三人を見るとハッとして、
「――あの先生[#「先生」に傍点]の?」
と、息を弾ませる。
「仁美が家庭教師をしてる子ね、あなた」
「大変だよ!」
と、男の子は叫ぶように言った。「殺されちゃうよ、先生!」
20 月を染める
手の甲が、地面にざらざらとこすれる感覚で、仁美は意識を取り戻した。
頭が痛い。――そうだ。殴られたんだ。
町の男たちに……。そして――どうなったんだろう?
地面に寝ている。起き上がろうとして、ハッとした。体が動かないのだ。真上には、月が――あの異様に光る月が、まるで巨大な|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》のように、仁美を見下ろしていた。
手足を縛られている。それも、両手両足を大きく大の字に広げた格好で、手首足首から、ピンと伸びた縄が、木立ちの幹に結びついているのだ。
とても、自分の力で解けるものではなかった。――どうなるんだろう?
ふと、小石を踏む音を耳にして、ゾッとした。ぼろぼろに食い尽くされた死体のことを思い出したのだ。
「目が覚めたのか」
仁美を殴った、町の男たちの一人だ。「気絶してる方が楽だぜ」
「縄を解いて!」
「気の強い娘だな」
と、男は笑った。「悪く思うなよ。こっちも命がけなんだ」
男がナイフを取り出した。仁美は青ざめた。
「殺すの?」
「いや、死んじまったもんは食いに来ないからな、奴らも。活き[#「活き」に傍点]のいいやつでないと」
仁美は理解した。自分は、人狼と化した人間たちをおびき寄せる、えさ[#「えさ」に傍点]なのだ。
「やめて……。人殺しよ、こんなこと!」
「分ってるとも。やらなきゃこっちがやられる。――戦争なんだ。犠牲はつきもんさ」
男が、両手で仁美の服の胸元を左右へ引き裂いた。
「子供の割にゃ、いい体じゃねえか」
と、男は言った。「味わってるひまがないのが残念だぜ」
ナイフの切っ先が、仁美の乳房の間をスッとたてに走って、仁美は痛みに悲鳴を上げた。
「我慢しな、もうすぐ楽になる」
男は立ち上がると、足早に姿を消した。
仁美は痛みに涙がにじんで来たが、もう声は出さなかった。
おそらく――血の|匂《にお》いで「奴ら」を引きつけるのだ。そのために傷をつけて行ったのだ。
武彦!――助けに来て!
必死でもがいたが、手首と足首を縛った縄は、食い込んでくるばかりだった。
だめだ! とても……。
ここで死ぬんだろうか? 獣になった人々に、この体を食い尽くされて……。
想像力が、恐怖で凍りついたのだろうか。汗も出なかった。涙も、止った。
そうだわ。――私は死ぬつもりだったんだ。みんなと一緒に。それが何日か遅れただけ……。
誰も助けに来てはくれない。ここを知っているのは――あの男の子、田所進だけだ。一人でうまく逃げたのだろうか?
誰かを呼んで来てくれたら……。でも、町の人たちは、仁美を助けようとはしないだろう。たとえば後で仁美の死体が見付かったところで、一体誰がこんな出来事を信じるだろうか。
――ふと、何かの気配を、仁美は感じた。
誰かがいる。すぐそばに。
不意に、目の前に、顔が出て来て、仁美は短く声を上げた。――月の光を遮ったその顔は暗くかげっていたが、子供のように見えた。
「――ルミちゃんね? そうでしょう?」
その女の子が、体を起こして、月明りが顔を照らし出す。ルミだ。しかし――口のまわりから、|顎《あご》、胸の辺りにかけて、黒く汚れがこびりついているのは、血だろう。
仁美はゾッとした。でも、この子のせいではないのだ。何か[#「何か」に傍点]が、この女の子を変えてしまったのだ。
「聞いて。ルミちゃん。進君を|憶《おぼ》えてるわね? あなたのお兄ちゃんを。心配してる。悲しんでるわ。お兄ちゃんの所へ帰って。――ルミちゃん」
進という名を聞いた時、ルミが一瞬たじろいだのを、仁美は見た。分っているのだ。
「ルミちゃん――」
仁美は、ルミが胸の傷の上にかがみ込んで、顔を近づけるのを見た。ルミの舌が、胸の傷をゆっくりとなめて行く。仁美は身震いして、目を閉じた。もう何もかもおしまいだ。
目を閉じると、父と母の顔でなく、武彦の顔が浮んだ。
もう少し――せめて、武彦と結ばれる年齢になるまで、生きていたかった。思い切り抱きしめられてみたかった……。
ルミが、体を起こした。目を開けると、ルミは仁美の顔を間近に|覗《のぞ》き込んだ。その目は、どこか悲しげだった。
悲しげな、「子供の目」だった!
「ルミちゃん……」
ルミは、そっと息をついて、首を振った。それは、まるで絶望した大人のようなため息だった。父が破産して、死を覚悟した時のため息に似ていた。
「――分ってるわ」
と、仁美は言った。「いいのよ。私が死んでも、ルミちゃんのせいじゃないわ」
ルミは、じっと仁美の目に見入っていたが、やがて頭を上げて、ゆっくりと左右を見回した。
「町の人たちが……待ち伏せしてるわよ」
と、仁美は言った。
そう知れば、やって来ないだろうか?
ルミは、仁美の顔に、顔を寄せて来た。血の|匂《にお》いがする。
しかし――ルミはかみつきはしなかった。仁美の|頬《ほお》にキスしたのだ。そして、その時、ルミの唇から|洩《も》れた言葉を、仁美ははっきりと聞いた。
「ママ……」
という言葉を――。
ルミが木立ちの奥に姿を消して、どれくらいの時間がたっただろうか。
たった数分か、それとも一時間か。――仁美にとっては永遠のように長い時間だった。
月はゆっくりと、確実に動いていた。それは手術台の上の仁美を照らす照明のようだった。
――来た[#「来た」に傍点]。
仁美は、地面から直接に、足音を感じた。一人や二人ではない。
何人――いや、何十人の、忍ぶような足運びが、目に見えるようだった。
仁美は、目を閉じた。――覚悟を決めるしかない。
苦痛は長く続くまい。こらえずに、思い切り叫んでやろう。町の人々の耳の奥底に、いつまでも声が残るように。
茂みが揺れた。一人が近付いて来る。仁美の様子をうかがうように、ゆっくりと周囲を回った。
さあ、どう? 活きがいいでしょ?
仁美はふざけて呼びかけてやりたかった。
次の一人が。そしてまた一人が――。
町の男たちは? おそらく、もっと大勢出て来るのを、待ち構えているのだ。しかし、勝てるのだろうか? 人間でなくなった、この人たちを相手にして。
仁美を囲んだ三人が、動かなくなった。
そして……次々に誘われるように飛び出して来る、影、また影。五つ、六つまでは数えたが、もう数えられなかった。
仁美のそばへ寄って来たのは、ルミだった。
「ルミちゃん……。早く死なせてね」
通じないだろうとは思いつつ、仁美はそう言った。
ルミが、奇妙な|唸《うな》り声を出した。すると、他の人たちがじりじりと仁美の周囲へと寄って来る。――不思議な印象を、仁美は受けていた。
ルミの言葉に、他のみんなが「従っている」ように聞こえたのだ。この女の子に?
そんなことがあるだろうか?
しかし、進は何と言ったろう。ルミが古い井戸を開けた、それがすべての原因だった、と……。
ルミが、もしかしたら、この人々全部をひきいているのかもしれない、と仁美は思った。誰もが、「まさか」と思うだろうが、しかし、ルミのような子供にこそ、その何か[#「何か」に傍点]の支配は絶対のものになるかもしれない。
仁美の周囲に、今や人々はひしめき合っていた。命令一つで、仁美の肉体は、食いちぎられ、アッという間に骨と化してしまうだろう。
仁美は、目をつぶって、キュッと唇をかんだ。体の震えは、おさまっていた。
ルミが、突然、甲高い叫び声を上げた。
次の瞬間――仁美の周囲に固まっていた人々が一斉に、反対側の林に向かって、突っ込んで行ったのだ。
叫び声が上がった。銃が火を吹いて、一人が宙にはね上がるようにして血を吹き出した。
しかし、林の中は|凄《せい》|惨《さん》な戦いの場と化していた。
町の男が、首筋にかみついた女を振り払えずに、よろけながら林から出て来ると、倒れた。その男の上に、さらに二人の女が、飛びかかった。
仁美は、恐怖に凍りつきながら、目を離すことができなかった。男の肉が食いちぎられるのを、じっと見ていた。
これは現実なのか? 悪夢じゃないのだろうか?
林の中で、悲鳴が次々に上がった。
仁美は、急に足の片方が自由になって、ハッとした。――ルミが、縄をかみ切ったのだ。
「ルミちゃん!」
続いてもう一方の足も。ルミは、鋭い歯で、仁美の右手の縄も、たちまちかみ切ってしまった。
「ありがとう!」
左手首の縄を自分で解くと、仁美はよろけながら立ち上がった。
ルミが、仁美を一瞬見つめてから、林の中へと飛び込んで行く。
「ルミちゃん! 待って!」
仁美の叫びは、届かなかった。
――逃げるんだ。早く。
縛られていたせいで、足がしびれていたが、ともかく駆け出していた。
「待て!」
目の前に、仁美を縛った町の男が立ちはだかった。手にした日本刀の刀身が、月の光を受けて白く光っている。
「貴様もあいつらの仲間だな!」
刀が振り上げられた。よけるだけの余裕は、仁美にはなかった。両手を思わず前へ突き出すだけだった。
と、黒い影がその男にわきから体当りした。
「この野郎!」
ガッ、と|拳《こぶし》が当る音がして、町の男はのびてしまった。
「武彦!」
「無事か!――逃げるんだ!」
「ルミちゃんが……」
と、仁美は言いかけて、進がいるのに気付いた。
進は、男が落とした日本刀を拾って、両手で持った。
「進君――」
止める間もない。進は日本刀を手に、駆けて行った。
その先に――ルミが立っていた。
月の光を受けて、返り血を浴びたルミは、まるで赤い衣を着た人形のようだった。
進が、刀を頭上に振りかざして、真直ぐに妹へ向かって突っ込んでいく。
「進君!」
と、仁美は叫んだ。
ワーッと叫んだのが、進だったのか、どうか。シュッと刀が空を切る音が、仁美にも聞こえたような気がした。
仁美は、目をそらして、月を|仰《あお》いだ。吹き上げる血潮が、月へも届くばかりに、宙を飛んだ。
「仁美!」
武彦が仁美を抱く。仁美は武彦の胸に顔を埋めた。
激しく泣きじゃくる声は、仁美ではなく、進のものに違いなかった……。
車が揺れて、仁美は目を覚ました。
「武彦!」
「起きたのか」
「うん」
武彦の肩にもたれて、眠っていたのだ。
もう、夜は明けている。助手席の男が振り向いた。小西だった。
「大丈夫かね」
「小西さん……。父と母は?」
「心配するな。別の車で、東京へ戻るところだ」
「そうですか……」
体が、動けないほど疲れ切っている。
「君たちには、|辛《つら》い思いをさせたね」
と、小西が言った。「しかし、もう終ったんだ」
終った?――そうだろうか?
町はどうなるんだろう? あれだけ大勢の人々の死をどう説明するのか。
――ルミの死で、人狼と化していた人々は次々に、失神して倒れた。駆けつけた白浜たち、そして、小西と、運転手の三神がいなかったら、町の男たちは、彼らを皆殺しにしていただろう。
彼らの多くは、まだ眠りつづけている。しかし目覚めた者は、自分が長い間、何をしていたのか、忘れてしまっているのだ。
「町の人たちは……」
と、仁美が言うと、小西は|肯《うなず》いて、
「不幸なことだった。しかし、これは悪い夢だったんだ」
悪い夢……。しかし、進が妹を自分の手で殺したのは、「事実」なのだ。
「私の力で、できるだけのことはしたい」
と、小西は言った。「その井戸も、埋めてしまおう。一体何がいたのか分らないが……」
「小西さん」
と、仁美は言った。「知っていたんですか、あんなことが起こっていると」
「うん。――しかし、君らに話しても、信じてくれなかっただろう」
「でも、知らなければ、みんな死んでいたのかも……」
「分っているよ。もう、一家族が死んでいるのだ」
と、小西は言った。「娘たち一家は、あの時死んだのではなく、娘の夫の江田は、宏子と久弥が異常な行動を見せ始め、自分もそうなりつつあるのを知って、私に話しに来た。――私は、宏子と久弥を病院へ入れ、原因を探ろうとしたんだ。江田は姿をくらましてしまったが」
「何かにかまれたせいで?」
「それが分っても、治す手立てはない。そのために、江田の一家の代りに、君たちと同様、一家心中しようとしていた一家に、身代りになってもらったのだ。しかし、そこの夫が、やはり狂って、妻子を殺し、自殺してしまった」
「じゃ、娘さんたちは――」
「娘は死んだ。江田も、町の男に殺されていた。孫だけは、無事に元に戻れるだろう……」
小西は、低い声で言った。「――君らの力で、あの町も救われたわけだ。感謝するよ」
「いいえ」
と、仁美は首を振った。「町を救ったのはあの進君です」
「ともかく、君らの〈仕事〉は終った」
と、小西は言った。「約束通り、君らの借金は、すべて私が肩代りする。君らは新しい生活を始めたまえ」
――父と母と、三人の、新しい生活。
それは、仁美にとって、夢のようなことだったが、しかし、あまりに悲しい出来事の後では、喜ぶ気持にはなれなかった。
「だけど……何だったんだろうな、結局」
と、武彦が言った。
もちろん、答えられる人間は、一人もいなかった。
ベンツは、明るさを増す道を、人家の密集する町へと、走り続けている……。
エピローグ
「ただいま」
学校から帰った仁美は、マンションの玄関を上がった。
「仁美?――お客様よ」
と、母の千代子が顔を出す。
「客って?」
と、居間を覗くと、
「やあ」
武彦が、ソファに座っている。
「何だ、武彦か」
「がっかりしたか?」
「見飽きたよ」
「こいつ!」
仁美は笑って、
「待ってて」
と、|一《いっ》|旦《たん》自分の部屋に戻った。
このマンションは、小西の買ってくれたものだ。――借金の肩代りに加えて、小西は、白浜の仕事まで探してくれた。今、白浜は中規模の会社の課長である。
白浜のような性格には向いているらしく、社長だったころより、ずっと|活《い》き|活《い》きしていた。
あの出来事から三カ月たっていた。
小さな町を襲った奇妙な出来事は、あまりマスコミにも知られずに終った。集団ヒステリーといった説明で、片付けられたようだ。
小西は、娘たちの身代りに死んでしまった一家の件で、取り調べを受けているようだったが、警察も、真相を知ることは、決してないだろう。
町の人々も、一様に口をつぐんでいるのだから。
部屋を出て、仁美は、武彦とぶつかりそうになった。
「何してるの?」
「いや……。ちょっと|挨《あい》|拶《さつ》したくてさ」
「こんな廊下で?」
「だって……お袋さんの前じゃ、まずいだろ?」
仁美は笑って、武彦とキスした。
最近は武彦もいやに|真《ま》|面《じ》|目《め》になって、将来はエンジニアになる、と言っていた。
冷やかし半分、仁美も|嬉《うれ》しいことには変りない。
二人で部屋へ戻ると、母がお茶をいれているところだ。
「あら、武彦君」
「はあ」
「口紅がついてるわよ」
「え?」
あわてて口を|拭《ぬぐ》う。仁美がふき出して、
「馬鹿、引っかかって!」
「あ、そうか。お前、口紅なんかつけてるわけないしな」
「当り前でしょ」
と、仁美はソファにかけて、「お母さん、からかわないでよ」
「ごめんなさい」
と、母は笑って言った。「でも、あんまり進まないようにしてね」
「何の話?」
と、仁美はとぼけてやった。「――コーヒーの方がいいのに」
「私、しばらくコーヒーはやめるわ」
と、母が言った。「飲みたきゃ、自分でいれてね」
「へえ……。どうして?」
「あなたにね、弟か妹ができるの」
そう言って、母は台所へ。――|呆《あっ》|気《け》に取られた仁美は、
「|呆《あき》れた! 少しは恥ずかしそうに言ってほしいわね」
と、言ってやった。
「いいじゃないか」
と、武彦が笑う。
「うん……。だけど……」
仁美は、ふと思った。もし妹ができたら、その子に「ルミ」と名をつけよう。
仁美たち家族が、あの町で経験した長い夜から誕生する子なのだから。
「ねえ、武彦」
「何だよ」
「男の子と女の子、どっちがほしい?」
「ほしいって……。|俺《おれ》たち、そんなこと[#「そんなこと」に傍点]してないだろ!」
武彦は、何を勘違いしたのか、真赤になって言ったのだった。
|長《なが》い|夜《よる》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年1月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2000
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『長い夜』平成9年8月10日初版刊行
平成11年5月20日7版刊行