角川文庫
過熟の実
[#地から2字上げ]赤川次郎
目次
1 点 数
2 恋にならない恋
3 影
4 自己紹介
5 初デート
6 行き止り
7 曇った日
8 病室にて
9 ホール
10 慰 め
11 行方不明
12 ライター
13 外 泊
14 朝の光景
15 夕 食
16 過 去
17 二つの会話
18 背 信
19 長い夜
20 熱 気
21 語らい
22 脅迫者
23 隠れた視線
24 衝 撃
25 見舞客
26 家 出
27 涙のあと
28 夜にからまる
29 雨
30 隠す心
31 孤独な夜
32 傷
33 三 人
エピローグ
過熟の実
1 点 数
|叔《お》|母《ば》から電話があったとき、|希《き》|代《よ》|子《こ》はちょうど特集記事のタイトルをめぐって、編集長の|倉《くら》|田《た》とやり合っているところだった。
「希代子さん、お電話!」
と呼ばれて、
「はい!」
と怒鳴るのが先か振り向くのが先か――。
「ともかく、古くさいんですよ、これじゃ!」
ドンと編集長のデスクを|叩《たた》いて、自分の席へ戻る。パッと電話を取って、
「はい、|篠《しの》|原《はら》です。――あ、叔母さん」
急に肩の力が抜けてくる。「――ううん、いいの。ちょっとバタバタしてただけ」
電話の向うで、叔母の|津《つ》|山《やま》|静《しず》|子《こ》が笑っている。
「おっかない声出して。そんなんじゃ、男が寄りつかないよ」
と言ってくるので、
「それくらいでちょうどいいの。少しふるいにかけないと、整理がつかない」
と、笑ってやった。「で、何か用?」
「うん……。できたら、今日でもちょっと帰りに寄ってくれない?」
「今日?」
「いつもの日じゃないのは分ってるの。もしどうしても忙しいってことなら……」
叔母が無理を言ってくることは珍しい。希代子は少し迷ったが、
「|奈《な》|保《ほ》ちゃんのこと?」
と、確かめた。
これで、変な「お見合いの話」でも持ち出されたらかなわない。
「そうなのよ」
「分った。寄るけど、少し遅くなるわ」
「構わないわよ」
「たぶん……十一時ごろかな」
「ええ、待ってるわ」
静子はホッとしている様子だった。
「じゃあ、後で」
「悪いわね」
電話を切ると、希代子は取りあえずパッと頭を切りかえた。
「編集長! どうします?」
と、|大《おお》|股《また》に歩いて行くと、
「分った分った」
倉田は苦笑して、「そう攻めて来るな。怖いよ」
「失礼な! こんなやさしい女をつかまえて!」
パッと校正刷を取り上げて、「じゃ、赤字の通りでいいですね」
「分った!」
と、倉田はお手上げという顔で、「|俺《おれ》一人がクビになりゃすむことだ」
「そうそう」
と、希代子は笑って、「そのための編集長でしょ」
自分の|椅《い》|子《す》に戻って、すぐ印刷所へファックスを入れる。倉田の気が変らない内に、というわけだ。
「希代子さん、ポジ上ってるよ」
ポンと封筒が飛んで来る。
「はいはい。どう?――使えるかな」
写真のポジを見ながら、どれが使えそうか見て行く。その間、ファックスはカタカタと音をたてながらせっせと仕事をしていた。
――篠原希代子は二十八歳。このS社の編集部に席はあるが、正式な社員ではない。契約社員という立場で、単なるフリーのライターやエディターよりは安定している。
しかし、万一の保証などは全くないし、編集長が倉田のようなタイプならいいが、全然別のタイプがその椅子に座ると、希代子の座も危い。
何しろ、言いたいことをポンポン言って平気で|喧《けん》|嘩《か》を売るので、嫌われる相手からは、
「顔も見たくない」
などと言われたりする。
しかし、自分の感覚を信じてやるしかない。それがこういう仕事の宿命である、と希代子は思っている。
割合長身だが、骨太でしっかりした体つき、髪は短く切って、ボーイッシュな印象である。ちょっと逆三角形の顔は目が大きい。
美人、と見られることも、ときどき(?)ある。しかし、あまりにパワフルな印象の方が強烈なのだ。
「――はい、OK、と」
希代子は、編集長の倉田が帰り仕度をしているのを見て、「あ、もう帰るんですか」
「おい、俺にゃ妻も子もあるんだ」
「部下もいます。――冗談ですよ、早く帰ってあげて」
「追い出すなよ」
と、倉田は笑って、「じゃ、後は頼む」
「はい。ご苦労様」
希代子は手を振った。
倉田は、年齢の割に髪はほとんど白くなっている。その何十分の一かは自分のせいかもしれない、と希代子は思ったりもするのだった。
十時を少し回っている。
「私もそろそろ帰るわ。カズちゃん、明日はこっち?」
と、若い編集者の男の子に声をかける。
「はい。昼からですけど」
「私、明日、外回ってくるから、夕方、途中で電話入れる」
「分りました」
――編集の仕事は、出社時間などあってなきが|如《ごと》し。特にこのセクションはそうである。
希代子のように半分フリーという立場の人間は、さらに自由なのである。
机の上を片付けて、帰り仕度は手早い。
「じゃ、お先に」
と、残っている数人に声をかけて、オフィスを出る。
途中何か食べて行く余裕はない。コンビニで何か買うか。
実のところ、叔母のうちで何か出してくれないかと期待しているのである。
表に出てタクシーを拾うことにする。――この仕事はタクシーを使い慣れているので、ついどこへ行くにもタクシーということになってしまう。
空車が一台来た、と思うと、大分手前で拾われてしまう。肩をすくめた。ま、その内来るだろう。
その一台が、目の前を横切って行ったが――。
「あれ?」
倉田だ! 一人じゃない。一緒に乗っていたのは、確か何とかいう経理の女の子。
何が「妻も子もある」よ!――|呆《あき》れた。
呆れていて、危うく次の空車を拾いそこねるところだった。
タクシーに乗ると、反射的に眠くなる。
いつも寝不足をタクシーの中で補っているせいだ。
叔母の所までは、眠るほどの距離ではない。――希代子は、頭を振って窓の外へ目をやった。
希代子は独身、マンションに一人住いである。いつ帰っても、いつ起き出しても、誰も困らない。
しかし、それだけに自分の中できちんと一線を引いておかないと、ただひたすらだらしなくなって行ってしまう。希代子にとって、その一つが、叔母に頼まれて、その娘の奈保の家庭教師をつとめていることだった。
雑誌の進行の関係で比較的空けやすい木曜日を一応、奈保を教える日ということにしてある。仕事で前後することもあるが、できる限り、その約束は守っていた。
今日は火曜日である。叔母が来てくれというのは、何かよほど当惑しているからだろう……。
仕事から離れると――文字通り、「離れて」行くにつれて、体がほぐれて行く。
自分ではそれほど|肩《かた》|肘《ひじ》張って生きているつもりはない。こんな生き方が性に合っていると思うし、楽しんでもいるつもりだ。
それでも、「一人になる」ことの快感は、希代子の中に確かに残っているらしい。
「――どの辺ですか」
と、運転手に|訊《き》かれ、
「あ、その先の信号、右折して」
と、希代子は言った。
津山家は、まあ世間一般の水準から言えばなかなかの構えの家を持ち、余裕のある暮しをしていると言えるだろう。
門柱のインタホンを鳴らすと、返事の代りに、和服姿の叔母が玄関から出てくるのが見えた。
「希代ちゃん、悪いわね」
と、門を開けてくれ、「入って。――夕ご飯は?」
「うん……。一応食べたけど」
「まだ入るでしょ。お|寿《す》|司《し》があるの。食べてって」
「やった」
と言って、希代子は笑った。
玄関を上ると、居間へ通してくれる。
「叔父さんは?」
「九州。このところ、ほとんどうちにいないわ」
叔母、静子は希代子の母の妹である。希代子の母は少々がさつなほど元気な人だが、この妹は名前の通り、もの静かでおとなしい。
「――さ、お|腹《なか》|空《す》いてるんでしょ」
希代子が来るかどうか分らない内に、出前を取っておいてくれたのだ、と分る。静子はそういう性格なのである。いざとなれば何とかなる、という希代子の母とはタイプが逆。
「――おいしい」
と、寿司をつまんで、わさびにちょっと涙ぐんだりしながら、「奈保ちゃんは?」
「もう部屋に」
と、チラッと上に目をやって、「眠ってはいないと思うけど」
「どうかしたの?」
「この間、実力テストがあって……」
「ああ、先週ね。それで?」
「先生に呼ばれたの。――なぜだか急に点が落ちたって」
と、静子は少し声をひそめた。
「落ちた?」
希代子もびっくりした。これではもろ[#「もろ」に傍点]自分の責任ということになるではないか。先生に呼び出されたというのは、相当ひどかったのだろう。
「待っててね」
静子が立って行って、すぐに戻ってくる。
実力テストの成績表を見せられて、希代子は目を疑った。
「これ――本当に、奈保ちゃんの?」
「そうなのよ。だから来てもらったの」
静子は、そう言って、|肯《うなず》いて見せた。
奈保は十七歳、高校三年生である。同じ女子校に小学校から通っているが、ここは短大しかない。四年制の大学へ進むためには来年が受験ということになる。
今はまだ五月で、時間はあるにしても、高一の末からずっと希代子がみて来て、こんなひどい点は取ったことがなかったのだから、やはり心配になって当然だろう。むしろ、奈保はそこそこでも安定した成績を取るタイプで、その辺は希代子ものみ込んでいるつもりだった。
「まだ取り返せるとは思うけど、何か原因があるのなら、よく話し合って下さい、って先生がおっしゃるもんだから」
「原因って――何か思い当ることでも?」
「さあ……。あの子も、もともとそう何でもしゃべる子じゃないしね。急に問い詰めたりするのもいけないかと思って」
一人っ子の奈保よりも、むしろ、静子の方が末っ子で気弱なところがある。希代子にもそれはよく分っていた。
静子は自分の代りに、希代子に奈保と話してほしいのだ。
「分ったわ」
と、希代子は肯いて、「奈保ちゃんと話してみる。まだ起きてるわよ、当然」
お茶を飲み干して、
「ごちそうさま」
と立ち上って、「叔母さん、でもね。もし奈保ちゃんとざっくばらんにしゃべるんだったら、お母さんには絶対内緒ってことになるかもしれないわよ。それは承知しといてね。もしこっそりしゃべったりしたら、もう二度と口もきいてくれなくなるわ」
「任せるわ、希代ちゃんに」
と、静子はホッとした様子で言った。
ドアを叩くと、
「はい、どうぞ」
と、すぐに返事があった。
母親にこんな言い方はしないから、希代子が来ていることは分っていたのだろう。
「――何してるの?」
と、中へ入って、希代子はちょっと戸惑った。
奈保はパジャマ姿でベッドにひっくり返っている。――いつも、勉強するときの奈保しか見ていないので、妙な感じである。
「FM聞いてた」
リモコンでラジカセのスイッチを切ると、
「お母さんたら、大げさだから」
「大げさじゃないわ。あの点数なら、教育ママだったら、卒倒してるかも」
希代子は、勉強机の奈保の椅子に腰をおろした。
「忙しいんでしょ」
と、奈保は言った。
「いつもの通り」
「いいの、こんな所に来てて」
奈保は、じっと天井を見上げている。
「奈保ちゃん」
と、希代子は言った。「起きて、こっちを見て」
奈保は、ゆっくりと起き上った。
十五歳のころから見ている――いや、もちろん|従妹《いとこ》としてはずっと小さいころから見ている少女だが――希代子の目にも、十七になって奈保の体つきが日ごとに(と言っていいくらい)変って来ているのが分った。
ふっくらと丸みを帯びて、肩の線、スラリと伸びた足など、もう大人の女の香りを漂わせている。それに奈保は父親に似ている。なかなかきりっとした二枚目の父親だけに、奈保も美人である。
少し潤んだような目は母親から受け継いだのかもしれない。
「ね、希代子さん」
奈保は、いつもこう呼ぶ。「お母さん、何か言ってた」
「別に」
と首を振って――希代子にはもう分っている[#「分っている」に傍点]ような気がしていた。
「そうだよね」
と、奈保はまたベッドに|仰《あお》|向《む》けに寝てしまう。
「奈保ちゃん」
「うん……」
「今、勉強手につかないくらい、気になってることがあるのね」
「うん」
「男の子」
「――うん」
「好きなんだ」
「うん」
「いいなあ」
奈保は、ゆっくり希代子の方へ頭を向けた。
「何が?」
「私には恋人なんかいないぞ。子供のくせに、生意気な!」
奈保がちょっと笑った。
――これが、すべての始まりだった。このなごやかな会話が。
2 恋にならない恋
部屋へ入ると、明りを|点《つ》ける前に留守番電話の点滅が目についた。
妙なもので、同じ点滅でも、日によって|嬉《うれ》しくなるときとうんざりするときがある。
希代子は今日、誰からでもいい、親しげなメッセージの入っていることを期待したい気分だった。
ロックしてチェーンをかける。女一人、都会で暮して行くにはこれが「本能」のようにならなくてはいけない。
カーテンをきちんと引いて、少々だらしない格好になってもいい状態にしてから、やっと留守電の再生ボタンを押した。
「三件です」
妙なアクセントの合成音が、入っている件数まで教えてくれる。これはちょっとやりすぎよね、と希代子は思ったりもする。
服を着がえながらテープを聞く。一件目はもう夕方には解決のついた、仕事上の問題、二件目は、
「倉田だけど」
編集長? 耳をそばだてると、
「明日は出社が夕方。打ち合せをその前に入れないでくれ」
それだけ?――希代子は録音の入った時間に耳を澄ました。
「十時五十二分です」
じゃ、倉田はあの若い彼女と一緒だ。たぶんホテルの部屋からでもかけているのだろう。
自宅には、「遅くなって、泊る」とでも連絡を入れて。
「男ね」
と、希代子は|呟《つぶや》いた。
もう一件は? ピーッという信号音の後、少し間があった。何も入っていないのかと思った。
慣れない人は、留守電に録音するのを恥ずかしがる。その気持は希代子にも分る。
しかし、切れる前に、男の声が入っていた。
「希代子……。元気でやってるかい」
誰だろう? 希代子は|眉《まゆ》を寄せた。
「僕は、二、三日前に東京へ出て来た。一度会いたい。分るね。――白石だよ」
希代子は立ちすくんだ。
ピーッと音がして、再生が終った。
しばらく、その音が部屋の中を巡っているかのようだった。
ハッと我に返ると、急いで留守電のボタンを押す。シュルシュルと音をたててテープが巻き戻り、同時に、録音されていた声は消去されている。
もう一度聞くべきだったか?――そんなこと! 必要ないわ。
希代子は、じっと電話を見下ろしていた。まるで電話が何かを知っている、とでもいうように。
頭を振って、バスルームへ行く。――あまり遅くなると、下の部屋の人に気がねで、風呂へ入れなくなってしまうので、急ごうと思った。
下も割合遅いので、午前一時ころまでは大丈夫である。
浴槽にお湯を出しておいて、希代子はキッチンに立った。風呂上りのジュースを作るのである。
習慣というものは、特に一人住いの女にとっては大切だ。
一度会いたい、分るね。
分るもんか! 誰が!
胸が騒ぐ。それはときめきでは全くなかった。不快な、いやな予感といったものだ。
白石がなぜここの電話番号を知っていたのだろう?――いや、不思議じゃない。
S社にいることは知っている。編集部へかけて、いかにも「仕事のことで」という口ぶりで訊けば、誰でもこの番号くらいは教えるだろう。
気にしても仕方ない。希代子は肩をすくめた。
風呂に入り、じっくりとあたたまると、大分気分も落ちついてくる。
白石は、その気になればここを突き止めてやってくるだろう。でも、こっちさえしっかりして、突き放してやれば、それですむことである。
そう。――もう大丈夫。
希代子は、湯上りにいつもよりやや大きめの音で、アンドリュー・ロイド・ウェバーを歌うサラ・ブライトマンのCDをかけた。
――電話が鳴る。
留守電の応答テープが回り、かけて来た人間が吹き込む声も聞こえる。
「ただいま留守にしております」
応答テープは男の声。女の声だと、女の一人暮しと思われて、いたずら電話がかかるからだ。この声は、編集部の〈カズちゃん〉である。頼んで吹き込んでもらったのだ。
ピーッという音の後に、
「今晩は。まだ帰ってないだろうと思ったけど、一応かけてみました。もし――」
「もしもし」
希代子は受話器を上げていた。
「やあ」
と、相手はびっくりした様子で、「今日は早いね」
「そう? いつもこれくらいには帰ってるわよ」
と、コードレスの受話器を持って、ベッドに引っくり返る。
「どう? 元気かい」
「まあね」
――大した話はない。分っているのだ。
|藤村涼《ふじむらりょう》はフリーのライターで、その世界では売れっ子の一人である。まだ三十二歳という若さ。方々の雑誌で署名入りの記事を何本も書いている。
希代子は、今の雑誌の前に編集に|係《かかわ》っていた少女向けの雑誌で、藤村に原稿を頼んでいた。
――人間、何となく波長が合うということがある。希代子と藤村も、いわばそんな間柄なのである。
「何かあったね」
と言われてギクリとする。
「どうして?」
「分るよ。長い付合いだ」
「そう長くないわ」
「そうかな。しかし、長いつもり[#「つもり」に傍点]さ」
確かに、藤村はもっと「長い付合い」の友人よりも、彼女のことを分っていてくれる。
「ちょっとあってね」
「何か仕事の悩み――じゃなさそうだね」
「まあね、その内、ゆっくり話すわ」
「いつでも聞くよ。ところで、この間、〈M〉ってミュージカル、見た?」
こういう話になると、二人は一時間でも平気でしゃべっていられる。
しかし――決して希代子と藤村は「恋人同士」というわけではないのである。藤村には今年二十歳という若い奥さんがいて、二つになる子供もいる。
何しろ結婚したとき、まだ花嫁は高校生だったのだ。希代子が藤村を知ったのは、その少し後だった。
今は藤村の家にもよく出入りし、奥さんとも親しい。恋人同士には決してなれないのである。
正直なところ、藤村に「男」を感じ、ときめいたこともある。たとえ報われなくても、「大人の関係」になっていたいと思ったこともある。
もし藤村がそうしてくれと言ったら、喜んで従ったろう。でも――それは無理だった。
結局、希代子は藤村と「よき友」でいる道を選んだのである。それが辛くなかったわけではないが、少なくとも藤村と別れるよりはまし[#「まし」に傍点]だったと言えるだろう。
「――じゃ、またね」
適当に切り上げておく。その方が、また話す楽しみが残るから。
切ってから、希代子はちょっと苦笑した。――何だか|侘《わび》しいわね、私の生活も。
そして、奈保のことを思い出す。
あの子は今、|真《まっ》|直《す》ぐに恋をしているのだ。希代子のような屈折した恋とは違う。若い日にしかできない恋を。
|水《みず》|浜《はま》|邦《くに》|法《のり》。――これが、奈保の恋の相手である。
青空。芝生。――そして女学生たち。
大学は今、花園のようだった。
もちろん、男子学生もいるわけだが、何といってもこの風景を形造っているのは、色とりどりのファッションに身を包んだ女子学生である。
希代子は、その大学のあまりの広さに、途方にくれていた。
編集者のいけないのは、どんな所でも行けば何とか捜し当てられる、という自信を、いつの間にか身につけているところである。だからろくに地図も見ないでパッと出かけたりする。
それでも何とか捜し当ててしまうところが実際ほとんどなので、つい大丈夫と思ってしまうのだろう。
今日も、とにかく「N大の文学部キャンパス」はここ、ということだけ調べて、出かけて来た。そうそう時間があるわけでもないので、この中を歩いて捜し回るのは、とても無理だ。
「でも……広い!」
と、ため息をつく。
都心の、狭苦しい大学で学んだ希代子にとっては、このまぶしいばかりの環境は、「大学」のイメージを一新するのに充分なインパクトを持っていた。
しかし、問題は、この広さの中で、水浜邦法をどうやって捜すか、ということ。
適当に誰か捕まえて訊けば分るだろうという計画(?)はまず通用しそうにない。
といって何時間もこのキャンパスの中を捜し回る時間はとてもない。
希代子は、しばらくキャンパスの芝生の真中に突っ立って考えていたが……。
「――よし」
と肯くと、勢いよく歩き出した。
もう迷うことはない、とでもいった様子だった。
十分後、休み時間になったキャンパスの中に、放送が流れた。
「文学部三年の水浜邦法さん、水浜邦法さん。お姉さんがおいでですので、文学部事務室までおいで下さい。くり返します。文学部三年の水浜邦法さん」
――いささか気は|咎《とが》めたが、他に思い付かなかったのである。
謝ってすむことなら、やってみる。――これが編集者の「好奇心」を発揮するときの判断基準と言ってもいいだろう。
「どうもすみません」
と、希代子は事務の女の子に礼を言った。
「表で待っていますから」
「ここでお待ちになっても――」
「いえ、大丈夫です」
と、事務室の外へ出る。
見られたくないのである。当の水浜邦法はびっくりしているだろうから。
外へ出入りするホールに立っていると、大勢の学生たちが忙しく行き交う。次の講義へと教室を移動しているのだろう。
どれが水浜邦法なのか、見分けようもないのである。
やれやれ……。とんでもないことを引き受けたのかもしれない。
すると――少しためらいがちに事務室の方へやって来た若者がいた。
ちょっとインテリっぽいと言うとおかしいが、頭の良さそうな子である。背はそう高くないが、スタイルはなかなかいい。
事務室の窓口の前で、声をかけようかどうしようかと迷っている様子。もしかすると……。
「失礼」
と、希代子は言った。「水浜君?」
その男の子は、びっくりして振り向いた。
「そうですけど」
「良かった」
と、希代子は息をついた。「私、あなたの『お姉さん』」
水浜邦法は目を丸くして希代子を眺めた。
「――ああ、津山奈保ね」
と、水浜は|肯《うなず》いた。「|憶《おぼ》えてますよ」
「そう。私、あの子の従姉なの」
「へえ。全然似てない」
「それ、どういう意味?」
と、希代子は笑った。
学生食堂は、昼休みというわけではないので閑散としていた。
「次の授業、あるんでしょ」
「いいですよ。別にさぼれないことないから」
「でも――」
「せっかく、『お姉さん』が会いに来てくれたんだし」
そう言って、水浜は笑った。
なかなか気の合いそうな子だわ、と希代子は思った。
二十一歳。――三年生。希代子には遠い昔のことである。
「じゃ、奈保ちゃんのこと、憶えてるのね」
「ええ、コンサートの帰りに一緒にお茶飲んで……。でも、僕のこと好きだなんて、聞いたことなかった」
と、水浜も面食らっている様子。
「言えないもんよ、本当に好きなら」
「そうかなあ」
水浜は、希代子の話を面白がって聞いていた。
「ともかく――それで、僕にどういう用だったんですか」
「私は奈保ちゃんの家庭教師として、彼女があなたのことばっかり思い詰めて何も手につかなくなると困るの。分るでしょ?」
「ええ」
と、水浜は肯いて、「つまり、奈保と付合うなってことですか。でも、現に付合ってないんですよ」
「逆よ。付合ってほしいの」
「え?」
と、水浜はびっくりしている。
「こういうことは、我慢しろって言っても無理なの。だから、ある程度のお付合いはしている方が、当人も生活に励みが出て、いいと思う」
「そんなもんですか」
「私は恋のベテラン――でもないけど、少なくとも、奈保ちゃんの年齢を通過した一人の女として、言ってるの」
「分りました。じゃあ……」
「お付合いしてくれる?」
水浜は、少し考えていたが、
「奈保と付合って――どうするんです?」
「彼女の夢を、ほどほどに|叶《かな》えてあげてほしいの。でも、もしあなたの方に本当の恋人がいて、そんなの無理ってことなら、どうしても、とは言えないわ」
「別に……いませんよ、恋人なんて」
「あら、そう?」
「もてないんです、僕みたいな文学青年のタイプって」
「そうかもしれないわね」
「言いにくいこと、はっきり言いますね」
水浜は少しムッとした様子で希代子を見ると、すぐに笑い出した。
「面白い人だなあ、あなたって」
と、水浜は言った。「何してるんですか、お仕事」
「何だと思う?」
水浜は、しばらく希代子を眺めていたが、やがて、うん、と肯いて、
「――タレントのマネージャー?」
と言った。
3 影
「マネージャー扱いされちゃったわよ」
と、希代子は電話で言った。
「じゃ、私のこと、話したのね? いやだ!」
と、奈保は言った。
「いやだ、じゃないでしょうが。話してくれって言っといて」
もちろん希代子にも奈保の気持は分っている。
彼に自分の気持を知ってほしいが、同時に知られて迷惑がられるのを恐れているのである。
「じゃ、詳しいことは明日、そっちへ行ったときにね」
「そんな! 何て言ってたか教えてよ、意地悪!」
全くね。損な役回りだ。
「あのね、お付合いしてもいいって」
「本当?――やった!」
向うでは飛びはねているだろう。
「でもね、ちゃんと私の言うことを聞くのよ。でなきゃ、どこかへ閉じこめる」
「はあい、希代子さん、大好き!」
と、奈保は甲高い声を出して、「やった!」
と、また叫んだ。
「若いっていいわね」
と、電話を切って、希代子は肩をすくめる。
会社の一階、公衆電話でかけている。私用電話をかけるのは自分がいやなのである。
――編集部へ出て行くと、
「おい、希代子」
と、倉田が呼ぶ。
「何ですか、編集長」
と、行ってみると、
「これ……、上の方で|賞《ほ》められた」
希代子の主張した見出しである。
「やっぱりね」
と、|肯《うなず》いて、「フランス料理でいいです」
「おい、何ももらったわけじゃないんだぞ」
と、倉田は苦笑した。「俺をクビにさせないでくれよ」
「はいはい。妻も子もあるんですものね」
よっぽど、「恋人もある」と言ってやりたかったのを、何とかこらえた。
席へ戻って、〈カズちゃん〉こと、|太《おお》|田《た》|和《かず》|也《や》へ、
「ね、何か私に伝言は?」
「はい……。これ……。何かよく分んないんですけど」
と、メモをよこす。
希代子は、メモを見た。〈連絡をとりたい。Pホテルに泊っている。白石〉
希代子は、
「この人、いつ電話して来た?」
と、訊いた。
「昼過ぎです。二時くらいかな」
「そう」
「知り合いですか?」
「昔のね」
と言って、希代子はそのメモをグシャッと握り|潰《つぶ》し、クズカゴへ捨てた。
「――ね、カズちゃん」
と、希代子は言った。
「はい」
「もし、白石って人からかかって来て、出たら、私はいつも留守よ」
太田は、ちょっと面食らっている様子だったが、
「分りました」
と、肯いた。
いちいち、うるさく言わないのが、この青年のいい所なのである。
「――はい編集部。――は?――ちょっと捜してみます」
太田は、希代子の方へ、「かかって来てるんですけど」
「白石?」
希代子は緊張した。
「いえ、別の人です」
「別の人?」
「でも、男の人で……。津山っていいましたけど」
津山? 奈保の父か?
「――もしもし」
と、出てみると、
「やあ、希代ちゃんか」
やはり津山|隆一《りゅういち》である。
「どうも。九州じゃないんですか」
「今帰ったところさ。奈保が色々手間をかけたそうだね」
「いいえ、仕事の内です」
「どうだい、今夜、夕食でも」
「私と……ですか」
「うん。いつも世話になってて、気にしていたんだ。良かったら、迎えに行くよ」
断り切れない内に、電話は終ってしまっている。――希代子は、いくらか割り切れないものを残しつつ、受話器を置いた。
津山隆一か。確かに、ちょっとすてきな中年ではある。
しかし、希代子はそれだけで男に|惚《ほ》れるほど若くもない。
いや、津山が「そんなつもり」だとは思わないが、以前からどこか希代子に興味を示していることは、感じていた。
でも――まあ、食事くらいなら構わないか。
希代子は、できるだけ気楽に考えることにした……。
「おい、希代子」
と、倉田がまた呼ぶ。
「大安売りしないで下さい。何ですか?」
「すぐに人を脅す!――全くね」
「すみませんね」
と、希代子は言ってやった。
「このページのコラム、変えたい」
と、倉田はめくったページを指して言った。
「え?」
希代子は戸惑った。藤村の書いているコラムなのである。
「いけませんか。面白いと思うけど」
「少し高級すぎる。上からそう言われたんだ」
「でも――この人、今人気があるんです。こっちから断ったとしたら、もうやってくれませんよ」
「分ってる」
倉田の言い方は変らなかった。「ともかく交替だ」
これはだめだ。――希代子にも、それは分った。しかし、「友情の|証《あかし》」として、ささやかな抵抗をせずにはいられなかった。
「じゃ、次の人は編集長見付けて下さいね。私、これ以上の人は思い付けません」
と言ってやった。
「ああ。もう見付けてある」
と、倉田はメモを渡して、「ここへ頼んでくれ」
聞いたことのないオフィスである。
「分りました」
気は進まないながら、言われたら、そうするしかない。
ともかく、藤村の所へ電話を入れた。
「――あ、藤村さん? 篠原です」
「やあ、どうしたの? 次の締切、まだだろ?」
「それがね……」
と、言い渋ったが、ちゃんと伝えなくてはならない。
話を聞いて、藤村は別にショックではないようだったが、
「君に会う口実がなくなるね」
と、笑った。
「ごめんなさい。編集長の命令で」
と、小声になって言うと、
「いいさ。仕事だもの。しょうがないよ」
と、藤村は気楽に言った。「じゃ、また――」
「ええ。それじゃ」
とは言ったが……。
どうにも納得できなかった。
倉田が指示した新しいライターの書いたものを、いくつか捜して読んでみた。どう見ても藤村以上ではない。
しかし、今さら倉田に何か言ってもむだだろう。
希代子は、何か事情があるのだ、と思った。必ず、調べ出してやる!
そして倉田の方を盗み見たのだが、どこかいつもより老け込んで見える。
なぜだろう? 希代子は首をかしげた……。
「さ、飲んでくれ」
と、津山隆一がワインを希代子のグラスに注ぐ。
「どうも……」
たぶん、このワインだけでも、希代子の月給の何分の一かは飛んでしまうだろう。
名の知れた高級なフランス料理店である。
「――どうしてこんなこと」
と、食事しながら、希代子は言った。
「どうして? どうしてかな。君を誘惑する気じゃない。安心してくれていいよ」
と、津山は言った。
しかし、冗談めかしているものの、それが決してジョークではないと希代子には分っていた。
津山のセリフは、「君がそう望むのなら、構わないけどね」と付け加えているのである。
「――奈保のことだが」
と、津山は言った。「恋してるんだね」
「ええ。でも、あの年代なら、自然なことです」
「分ってる。しかし、あの子は子供だ。相手は?」
「それは……。言わないと約束しているから」
と、希代子は言った。
もちろんフランス料理で買収される希代子ではない。
「分るよ」
と、|微笑《ほほえ》んで、「そこが君のいい所だ」
「賞めてるんですか?」
と、希代子は笑った。「秘密って楽しいわ」
「うん、確かにね」
津山は、何となく意味ありげな言い方をした。
「叔父さん。――違ってたらごめんなさい。もしかして、誰か女の人がいる?」
津山は、ちょっと目を見開いた。
「――いる、と言ったら?」
「別に……。私の口出すことじゃないもの」
いるのだ。希代子はそう確信した。
「ところで、希代子ちゃん」
と、津山は言った。「以前、君が九州にいたころ知ってた男……。白石といったっけね」
食事の手が止る。
「――もう忘れたわ」
と、肩をすくめる。「白石がどうかした?」
「東京へ来ている」
「へえ」
「会いたいかね」
「ちっとも」
と、首を振って、「忘れた、と言ってるでしょう」
「それならいい」
と、津山は肯いた。
「でも――どうして白石のことを叔父さんが?」
「仕事でつながりができた。本当に偶然だがね」
「白石と? そう……」
希代子は、食事を続けて、「でも、私は関係ないでしょ」
「もちろんさ。何かあったら言って来たまえ。僕でも役に立つことはあると思う」
――二人はしばし無言で食事を続けた。
「叔父さん」
と、希代子は言った。「今夜のこと――こうして私と二人で食事してるってこと、叔母さん、知ってるの?」
津山は、不思議な目で希代子を見ていた。
「いや、言ってない」
「良くないわ」
「そうかね。しかし、僕はね、希代子ちゃんと秘密を作ってみたいんだよ」
津山の言葉に何があるのか、希代子にはつかみ切れなかった。
しかし、料理の味はともかく、重苦しいものが、希代子の胸にはたまりつつあるようだった……。
4 自己紹介
編集室のドアを開けると、
「あ、カズちゃん一人?」
と、希代子は言った。
「あれ、帰ったんじゃないんですか」
太田和也が机で顔を上げた。
「そのつもりだったけどね」
希代子は自分の机へ行くと、ショルダーバッグをドサッと机の上にのせて、|椅《い》|子《す》に腰をおろした。――編集者のバッグは「何でも屋」だ。重くなるのである。
肩に食い込むようなその重さが、大して苦にならなくなれば、編集者も一人前ということかもしれない。
希代子は、大きく息をついて、頭を振った。
「どうかしたんですか」
と、太田が|訊《き》く。
「ワインで酔ったの。少し悪酔いね」
「へえ、強いのに、篠原さん」
「相手による」
「気に入らなかったんですか」
「まあね」
――津山隆一と食事をして、「送って行こう」と言うのを逃げるために、
「仕事、残して来てるの」
と言って、会社へ戻って来たのである。
ごちそうしてもらったのはありがたいが、味なんか正直なところよく分らなかった。
津山が希代子を誘惑しようとしているのは見えすいていたし、そんな気持が、とても希代子には理解できない。もちろん、津山隆一と希代子は血がつながっているわけではないにしても、|叔《お》|父《じ》と|姪《めい》の関係であり、しかも希代子は津山の娘の家庭教師だ。
「何を考えてんだか、全く」
と、つい口に出して|呟《つぶや》く。
「はあ?」
と、太田が不思議そうな声を上げた。
「いいの。何でもない」
ここまで来たものの、酔いが残って仕事をする気にもなれない。やらなきゃいけないことは色々あるのだが。
「カズちゃん、帰らないの」
「もう少し。――明日、休むんですよ」
「あら、そう。デート?」
「だといいんですけど」
と、太田が笑う。
気持のいい青年である。仕事と私生活をきちんと割り切ることを心得ている。
「私、帰ろうかな。もう少し酔いがさめたら」
と、伸びをすると、編集長のデスクの電話が鳴った。「直通だ。誰かしら」
「出ましょうか」
「いいわよ」
希代子は立って行って電話に出た。「はい、〈C〉編集部です」
「あの……倉田の家内ですが」
少しおずおずとした声が言った。
「あ、編集長の――。篠原です」
「希代子さん? まあ、どうもごぶさたして」
と、向うがホッとしたように言った。
倉田の妻は希代子も知っている。何度か仕事のことで倉田の自宅にも行ったことがあるからだ。
希代子は誰にでも同じように明るく接するので、何かとつい気楽に話し相手になってしまう。
「いつも主人が」
「いいえ、とんでもない」
と、希代子は笑って、「いつもご主人に苦労をかけてますわ」
「まあ」
と、倉田の妻も笑った。
何といったっけ。――倉田|雅《まさ》|代《よ》。そう雅代さんだ。
「あの――主人、今夜どこへ行ってるか分るかしら」
「編集長ですか。待って下さい」
希代子は、倉田の机の上を見た。特に外出のメモはない。すばやく送話口をふさぐと、太田の方へ、
「カズちゃん、編集長どこ回ってるか、分る?」
と訊く。
「いや……電話――」
「大丈夫」
と、ふさいだ送話口を見せて、「彼女と二人?」
「ええ。知ってるんですか」
「ゆうべ見かけたの。今夜も?」
「らしいです。何か、|噂《うわさ》じゃ結構深刻みたいですよ」
「そう……」
どう言おう? 少し考えて、希代子は、
「あ、お待たせして。特に何も書いてってないんですけど、残ってる子の話だと、ライターさんの所へ回るとか。どこかへ飲みに出てるんじゃないですか」
「そう」
と、倉田雅代は言った。「ちょっと――娘が熱出して」
「あら、いけませんね」
「今夜は早く帰る、と言ってたんだけど……。ごめんなさい、お邪魔して」
「いいえ。何か連絡入ったら、お伝えしときます」
「ええ」
雅代は少し黙った。そして、
「希代子さん」
「はい」
「主人……女ができたんじゃない?」
感情を殺した、静かな声だった。
「さあ……。私はよく知りません。あんまり編集部にいないし」
逃げるしかない自分が、少し情なかった。
「お願い。本当のことを教えて」
と、雅代が早口に言った。「もう――分ってるの。このところ、ずっと様子がおかしくて……。ね、希代子さん。あなたなら、本当のこと言ってくれるわよね」
希代子は、重苦しいものに押し|潰《つぶ》されそうな気がしていた。倉田との間がまずくなれば、ここにいられなくなるかもしれないのだ。
それはやはり今の希代子にとって、|辛《つら》いところだった。
しかし、倉田の妻にこう言われてしまうと……。
「――奥さん」
と、しばらくしてから、希代子は言った。「本当にどうなのか、私、知らないんです。ただ……噂があるのは事実です。すみません。それ以上のことは、私には申し上げられないんです」
「そう……。そうよね。ごめんなさい。私が無理を言ってるんだわ。分ってるの。ただ――」
雅代が言葉を切る。「そう……。ごめんなさい。あなたに迷惑かけたみたいで……」
「そんなことありません」
と、希代子は言った。「奥さん。――元気出して下さい」
「ええ。ありがとう」
電話は切れた。
希代子は、ため息と共に受話器を置いた。――編集長ったら! はた迷惑だわ、本当に。
「知ってるんですか、奥さん」
と、太田が言った。
「分るわよ。夫婦ですもの」
希代子は、独身らしからぬことを言った。
「太田君……知ってる?」
太田は|肯《うなず》いて、
「経理の細川さんでしょ」
「細川っていったっけ」
「細川幸子。――でもね、まずいんですよ」
「そりゃそうでしょ」
「いや、それだけじゃなくて」
「というと?」
「細川さん、専務とも」
「え?」
専務といえば……。事実上、S社の出版を動かしているのは専務の西山である。
「西山専務と?」
「前からです。たぶん、編集長、それを知らないで……」
倉田は、そういう話には結構うといところがある。
「どうなるの、それじゃ」
「大変じゃないですか、専務の耳に入ったりしたら」
太田が知っているのだ。西山の耳に、やがて届かないわけがない。
希代子はふと、倉田が昼間、ひどく老けて見えたのを思い出した。
疲れた……。
自分のマンションに戻り、部屋へ入ってソファにいささかだらしのない格好で引っくり返る。
自分で働いて疲れたとか、何か自分のしくじりの後始末で駆け回ったというのならともかく、他人の浮気の言いわけでくたびれるというんじゃ……。
加えて、奈保の父の誘い。
よく言われることだが、「|隙《すき》がある」と見られているのだろうか。二十八になって、男の一人や二人、いないわけがないとか。
散々遊んでるから結婚する気になれないのだろう、とよく酔った男性から言われる。
「ご想像に任せます」
と、いつも希代子は言ってやるのだが。
「フン、鏡見てから、口説いてみろって」
と、希代子はやけ気味に呟いた。
ピーッと音がして、ファックスがカタカタと動き始めた。――何だろう?
起き上って、ファックスの方へ歩いて行くと……希代子は首をかしげた。しかし、
〈篠原希代子さんへ〉となっている。
〈僕のプロフィールです。身長一七〇センチ。体重五六キロ。視力左右とも〇・八。
特技 三分間息を止められる。
他に、N大オーケストラ、コンサートマスター。
他に何かききたいこと、ありますか? 何でもきいて下さい。
[#地から2字上げ]水浜邦法〉
飛びはねるような、元気のいい字。
あの子か!――渡した名刺に、確かにファックス番号も入っている。
今の学生、自分用のファックスぐらい持っていておかしくはない。
|微笑《ほほえ》みながらそのファックスを眺めていると、希代子の重苦しかった気分が、ずいぶん軽くなっている。特に〈N大オーケストラ、コンサートマスター〉という言葉に、思わず、
「へえ」
と、呟いていた。
コンサートマスターは、オーケストラの第一ヴァイオリンのトップである。つまり、オーケストラ全体のリーダー的な存在。もちろんヴァイオリンの腕も優秀でなければ、つとまらない。
あの子、ヴァイオリンひくのか。――見かけによらず、と言っては|叱《しか》られるかもしれない。奈保から。
希代子は、着がえをして、もう一度ファックスを眺めた。
希代子もヴァイオリンをひく。いや、かつてひいていたことがある。
小さいころ、両親が習わせたのが初めだが、途中中断し、大学でもう一度やった。オーケストラにも入ったし、仲のいい子たちと室内楽で合せたりもした。
そう……。まだヴァイオリンはここの戸棚で眠っている。
水浜のファックスを見ている内、ふと懐しいものが希代子の中にこみ上げて来た。
音程、ちゃんと取って!
セカンドヴァイオリン、|揃《そろ》ってないぞ!
シンコペーションだぞ、ここは!
――先輩や、指導の先生たちに怒鳴られていた日々。
それでも、「定期演奏会」でブラームスとかメンデルスゾーンとかをやると、自分がウィーン・フィルかベルリン・フィルのメンバーにでもなったみたいな気がして、気持が高く高く|翔《と》んで行くように思えたものだ……。
大学時代、か。
わずか四年。――でも、他に換えがたい四年だった、あのころ。
ふと、胸が痛んだ。
ちょっとちょっと。感傷に浸るには少し若過ぎない?
でも、大学へ入ったとき、十八歳。今、希代子は二十八である。もう十年前のことなのだ。
希代子は、津山家へ電話をかけた。
「津山です」
津山隆一が出た。――希代子は、黙って切ってしまった。
何とも言いようがない。「ごちそうさま」とでも?
奈保にかけてやりたかったのだが、仕方ない。――どうせ明日会うのだし。
しかし、思い立つと、何だか落ちつかなかった。今のこの胸の痛み――いや、痛みを連れた快感とでもいうか――がせつないほどにうずいてくる内に、奈保に知らせてやりたかったのである。
十五分待って、もう一度かけた。今度津山が出たら、もう|諦《あきら》めよう。
「――はい」
幸い、奈保が出た。
「あ、奈保ちゃん、私」
「希代子さん。どうしたの?」
「今しがたね、水浜君からファックスが届いたの」
「え? 私のことで?」
「まだそこまではね。取りあえず自己紹介」
「見たい!」
「明日、持って行ってあげる。なかなか面白そうな子ね」
「だめよ、希代子さん、|惚《ほ》れちゃ」
と、奈保が笑いながら言った。
「ちょっと! 大人をからかって」
と、希代子も笑う。「じゃあ、明日ね」
「はい! あ、お父さん、帰ってるの」
知ってる、と言いかけて、あわてて口をつぐむ。
「そう。良かったわね。じゃ、おやすみ」
代る、と言い出さない内に、希代子は電話を切った。
忘れないように、ファックスをたたんでバッグへ入れておく。
――この夜、希代子は棚からヴァイオリンを取り出して、かすかな音を響かせてみた……。
5 初デート
広い吹抜の空間に、|日《ひ》|射《ざ》しが一杯に入る。
甲高い女の子たちの話し声、笑い声が、かげろうのように立ち上る。――日曜日。
希代子は、少しめまいを覚えた。
若さが、もう自分にはまぶしいのである。
それは少しショックだったが、しかしそんな様子を見せるわけにはいかない。
何しろ奈保が一緒である。笑われてしまいそうだ。
「ごめんね、希代子さん」
と、奈保が言った。「せっかくお休みなのに、出て来てくれて」
「ちっとも悪いと思ってないよ、その言い方は」
と、希代子は冷やかした。
「へへ」
と、奈保が舌を出す。
|可愛《かわい》い。――もちろん、二十八の希代子が十七の奈保と「若さ」を競うのは無理というものだ。それは分っていても、今日の奈保は正に輝くようだ。
「恋してる!」
と、大声で叫んでいるみたいだった。
「まだ、時間?」
と、奈保が訊く。
「あと五分で約束の二時。――この人出じゃ、ちょっと迷うかもね」
「もっと分りやすい所が良かったかなあ」
「大丈夫。ちゃんと来るでしょ」
と、希代子は言って、「――あ」
花束が一つ、希代子の目の前に差し出された。
「待ちましたか」
と、水浜邦法は言った。
「いいえ。いつ来たの? 気付かなかった」
実際、水浜は大学で見たときと全く違う印象だったので、希代子はすぐそばに来ても分らなかったのである。
「これ、どうぞ」
と、水浜は花束を希代子に渡した。
「私に?」
「ええ。――やあ」
と、奈保の方へ向いて、「君にはこっち」
背中へ回していた左手が出ると、希代子のもらったのよりずっとカラフルな花束が現われた。
「ありがとう! きれい!」
奈保がポッと|頬《ほお》を染めた。
「何だ。私は引き立て役ね、要するに」
と、希代子は言って、「じゃ、水浜君、奈保ちゃんをよろしくね」
「はい」
と、水浜は|肯《うなず》いた。「夜、八時までにお宅にお送りします」
「八時なんて! 子供じゃないんだから」
と、奈保が口を|尖《とが》らす。
「ま、初めてのデートよ。我慢しなさい。水浜君、お花ありがとう」
「いいえ」
水浜は、ずいぶん大人びて見えた。こんなきざなやり方が、少しもいやみにならない。
何だか不思議な子だ。
「じゃ、私、これで」
と、希代子は言った。「それじゃ、奈保ちゃん」
「うん。ありがとう」
と、奈保は言ったが、もう心は希代子のことなど忘れている。
希代子は歩き出して、足を止め、振り返った。
奈保と水浜はおしゃべりしながら歩いて行き、とりあえず、これからどうするか決めようとでもいうのか、目の前の喫茶店に入って行った。
コーヒー一杯、紅茶一杯で何時間でも過せるのが、若いということなのかもしれない。津山隆一のように、高級フランス料理の店に連れて行けば、女はなびくとでも言わんばかりの男よりもよほど健全というものである。
奈保たちは、ちょうど表から見えるテーブルについていた。――もう、奈保はテーブルに|肘《ひじ》をつき、身をのり出すようにして、話し込んでいる。
水浜は軽く足を組んで、小さく肯いている。
もう、ずっと前から付合っている、とでもいうような二人だった。
希代子はしばらくその二人を眺めていた。当然、二人からも、ちょっと目を表の方へやれば希代子が見えたはずだが、一向にその気配はない。
「恩知らずめ」
と、笑って呟くと、希代子は足早に歩き出した。
「――どうも、ご苦労様」
希代子は、そのスタジオへ入って行くと、顔見知りのカメラマンに軽く頭を下げた。
「やあ、どうも」
大分中年になって腹の出たカメラマンは、格別暑いわけでもないのに、汗をしきりに|拭《ぬぐ》っている。
「おい、おしぼり!」
と、助手に怒鳴って、「今日は編集長、来るの?」
「そのはずです」
と、希代子は肯いた。「大切なイメージカットですから」
「モデル次第で決るね。――ま、あんたたちが選んだんだ。間違いないだろう」
「もう来ると思うんですけどね」
と、希代子は腕時計を見た。
売れっ子とはいえ、モデルという仕事は大変だ。時間に遅れるなんてことは許されないのである。
「おはようございます」
噂をすれば、で、モデルが大きなバッグを肩からさげてやって来た。
二十三、四の、若いが切れ味のいいポーズを作るモデルで、今売れている。こういうモデルを使えること自体、雑誌が一流の証拠になる。
「――じゃ、仕度して。スタイリスト」
「奥に」
と、助手がおしぼりをカメラマンに渡す。
「よし。――どうする。編集長、来てないけど」
「始めて下さい。追っつけ来ますよ」
と、希代子はためらわずに言った。
少しでも多いカットをとっておくべきだ。何十本ものフィルムを使って、一枚使えるかどうか。それが当然の世界である。
「おい、バック、もう少し暗めに!」
カメラマンも仕事に入った。「その辺に椅子。――うん、それだ」
希代子は、スタジオの隅で立っていた。
カメラマンが立って忙しくやっているときに自分が座っているわけにはいかないのである。
しかし……時間はもう五分前。倉田はどうしたのだろう。
まだ少し間がある。そう判断して、希代子はスタジオの入口にある公衆電話へと走った。
「――もしもし」
倉田の自宅へかける。「――あ、篠原です。ご主人、いつごろ出られました?」
雅代が、少し黙っていてから、
「ゆうべ、帰ってないの」
と言った。
「え? でも……。そうですか、すみませんでした」
「希代子さん」
と、雅代は言った。「話をしたの、おとといの夜。でも、主人は何もないと言うだけで」
重苦しい声。ほとんど眠っていないのではないか。
「そうですか。――困った人ですね」
少し軽く言ってみる。「でも、ちゃんと奥さんの所へ戻りますよ」
「でも――もう本当におしまいかも」
「そんな……」
希代子は、スタジオの前にタクシーが|停《とま》るのを目にした。倉田だ。――ここで倉田を出すわけに行かない。
「じゃあ、奥さん。もしみえたら、奥さんが心配なさってたと伝えますから」
少し唐突だったかもしれないが、電話を切ると、急いで表へ出る。
「編集長。もう始まりますよ」
「ああ、すまん」
と、倉田が肯く。
「モデルの服を――」
と言いかけて、タクシーからもう一人[#「もう一人」に傍点]降りて来るのを見て言葉を切る。
「知ってるだろ。細川君だ」
と、倉田は言った。
細川幸子は小さく会釈した。
「じゃ、中へ」
希代子は先に立ってスタジオの中へ入って行った。
「やあ!」
カメラマンが手を振る。「何だ、|白髪《しらが》がふえたな」
「苦労が多くてね」
と、倉田は笑った。「今日はカラーとモノクロ、両方頼む」
「分ってる。何か、小さいものに使う予定あるか? テレホンカードとか」
「さあ……。万一のために、それ向きのもとっといてくれ」
「分った。あんまりのんびりしてられないな、そうすると」
希代子は、隅に立っていた。
細川幸子は、さらに隅の方へ引っ込んで、バッグを手に持ったまま、じっと倉田の方を見ている。
希代子は、少しためらってから、
「ね、座ってた方がいいわよ。疲れるわ」
と、小声で言った。
「あ……。でも、大丈夫」
「私たちは仕事だから座れないの。でも、あなたは……。そこへ座ってれば大丈夫よ。邪魔なときはそう言われるわ」
「ありがとう」
細川幸子には、希代子の示してくれた親切が意外だったらしい。ちょっと見せた笑顔は本心からのものだった。
モデルが現われた。――カメラマンがポーズをつける。モデルがさらに自分でそれをデフォルメして行く。
「OK。始める」
ライトが|点《つ》く。助手が露出計片手にモデルとカメラの間を振り子のように往復する。
カメラマンも、もう流れ落ちる汗を拭おうともしない。プロの現場なのである。
倉田も、そばで次々に注文を出す。――もう細川幸子の存在など、忘れてしまっているようだった。
「――よし! じゃ、|衣《いし》|裳《よう》を変えて」
と、カメラマンが言って、一息ついた。
倉田が希代子の方へやってくる。
「どうだ?」
「いいんじゃないですか」
と、希代子は言った。「ちょっとモデル、可愛すぎるような気もするけど」
「大丈夫。写真になると大人にうつる子だ」
と、倉田は自信ありげだ。
「編集長。――細川さん、放っといていいんですか」
「ああ……。いや、ちょっと――」
と、口ごもって、「君……何かその辺で飲ましてやってくれないか」
「いいですよ」
「な。ここにいても面白くないと思うし」
「じゃ、ご自分でおっしゃって下さい」
「うん」
倉田が細川幸子の方へ行って、かがみ込んでしゃべっている。
カメラマンがチラっと希代子の方を見ると、小指を立てて見せた。希代子は小さく肩をすくめる。
「じゃ、希代子、頼む」
「ええ。それじゃ、行きましょ。――三十分くらいで戻ります」
「ああ」
細川幸子は黙って希代子についてスタジオを出た。
外へ出ると、
「この近くに、生ジュースのおいしい店があるの。そこ、どう?」
と、希代子は言った。
「ええ」
――意外に、細川幸子は控え目な女性だった。
二十七歳というから、希代子の一つ下、というだけだが、見たところずいぶん若く見える。
この子が、専務の愛人?――少々信じられないような話ではあった。
――ジュースは、いつもながらおいしい。
「どう?」
「ええ。おいしい」
と、細川幸子が肯く。「大変ですね、編集って」
「そうね。でも、自分の仕事が形になって残るから」
「そうですね」
「ああ、でも、もちろん、経理だって大切じゃない。ものは考えようよ」
と、急いで言った。
細川幸子は、ちょっと微笑んだが、それだけだった。
二人はそれきり黙ってジュースを飲み、飲み終ると、何となく目をそらしていた。
「――三十分て長いわ」
と、細川幸子が言った。「待ってる三十分って」
「そうね」
「私……二十七年間、待ってた」
細川幸子の言葉が唐突で、希代子は戸惑った。
「あのカメラマン、|凄《すご》い汗かきですね。いつも?」
と、話が変る。
「ええ。太ってるせいかな。あれだけ汗かいても、やせないの」
「でも……プロだな、って思う」
と、細川幸子は表の方へ目をやって、「私は何のプロなんだろう、って思うの」
「あなただって……」
「愛人のプロ? そう言いたいんでしょ」
呟くような言葉だった。挑むようでも、卑下するようでもない。
「そんなこと思ってないわ」
と、希代子は首を振った。「人、それぞれに事情があるし、特に好きとか嫌いとかは、人が口出すことじゃないもの」
細川幸子は少しホッとしたように希代子を見て、
「ありがとう。やさしい人ですね、篠原さんは」
「|係《かかわ》り合いたくないだけ。編集長の奥さんもよく知ってるし」
「ええ」
と、幸子は肯いて、「私も知ってます」
「奥さんを?」
「ええ。私、雅代さんの|従妹《いとこ》ですから」
思いもかけない言葉だった。
「倉田さんが私のこと、心配してくれたのも、初めはそのせいだったんです。妻の従妹が、会社で専務の愛人になってる、って……。それで、奥さんにはそう言えなくて」
「じゃあ、編集長、それを知ってて?」
「もちろんです。何とか西山専務との間を清算させようとして……。その内に私と……」
幸子の|眉《まゆ》がくもった。「倉田さんにとっては命とりなんです。専務に嫌われたらどうなるか。――でも、あの人はそれでもいいと言って……」
意外な話に、希代子は当惑した。
「じゃあ……クビを覚悟で?」
「ええ。本人はもうそのつもりです」
希代子は、沈黙した。何を言うことがあろう。何が言えるだろう。
でも――倉田の妻のことはどうなるのか。
人と人。愛と憎しみと。
希代子には、触れたくない世界だった……。
6 行き止り
タクシーの中で、希代子はまたウトウトしていた。
疲れているという自覚はなかったのだが、体より、むしろ気疲れだったろう。
食事はすませた。もう夜も十時を回ってしまっている。
ふと、思う。奈保と水浜の初デートはどんな風だったのだろう?
若い二人。――世のしがらみや、力や金と無縁の愛情。それは何て単純で、しかし快いほど|爽《さわ》やかだろう!
希代子は、夕方、藤村の所を訪ねた。
突然だったのだが、歓迎してくれ、夕食も一緒にと言われた。本当のところ、希代子はそのつもりもあって訪ねたのだが、いざ藤村と若い妻と幼い子供を目の前にすると、何だか目に見えない壁が自分とその三人をへだてているような気がして、
「仕事を思い出した」
という最低の言いわけをして、失礼して来てしまったのである。
そして、自分がいない方が、あの人たちだって本当はホッとしているのだと……。別にいじけるわけではないが、そう思ったりもした。
一人、夕食をとって、マンションへ帰る前に軽く飲んだ。
そしてタクシーの中だ。
長い一日だった……。希代子はつくづく思った。
「――どうも」
と、運転手がおつりをくれる。
希代子は、タクシーを出て、マンションへ入って行く。
それを見ている男の姿は、暗がりの中に溶け込んで、希代子には全く見えなかったのである。
――部屋へ入って、希代子は明りを点けた。
今日はちゃんと着がえをするまで、立っていられた。
ファックスが三枚来ていた。一枚は仕事の打ち合せ時間の変更。
一枚は水浜からのもので、
〈奈保さんを無事、自宅へ送り届けましたのでご安心下さい。八時を少し回ってしまいましたが、申しわけありません。
[#地から2字上げ]水浜〉
「愛想ないのね」
と、肩をすくめる。
もう一枚を見て、希代子はハッとした。
〈会いたい。白石〉
B5の用紙に、大きな字でそれだけ。
どこか、普通でない気がして、希代子はゾッとした。
電話が鳴った。留守電になっている。
ピーッと鳴って、
「希代子さん。奈保よ」
と、声が聞こえた。
急いで受話器を上げる。
「やあ、不良娘」
「希代子さん! 帰ってたの!」
「今ね。どうだった?」
「雲の上にいるみたい」
「言いたいことを言って」
と、笑うと、「ちゃんとこの間の宿題、やっとくのよ」
「はあい」
「どうしたの、あれから?」
「美術展とか見て……。何してたんだろ? ともかく――彼と一緒だったの」
好きにしろ、とでも言ってやりたい。
「で、次はいつとか?」
「あの人、希代子さんの許可取らないといけないと思ってるみたい」
「当然よ。ま、そっちで決めてもいいけど、知らせてね」
「うん。分ってる」
と、奈保は言った。「彼、ヴァイオリンひくのよ。希代子さんもやるって言っといたわ」
「やめてよ。あっちはコンサートマスター。こっちは超素人よ」
「私、何だかさっぱり分んないけど、今度コンサートあるんですって。彼がひくの。行くんだ。希代子さん、行かない?」
「あら、私がいちゃお邪魔じゃないの?」
と、希代子は言ってやった。「もし時間があればね」
「一緒に行こう! ね?」
「はいはい。デートまでお手伝いさせられるの?」
と、笑って、「じゃ、よく寝るのよ」
「無理よ! 幸せすぎて眠れない」
と、奈保は天に舞い上りそうな声で言った。
電話を切ると、希代子は苦笑した。
これで、奈保が落ちついて勉強に身を入れてくれるといいのだが。
――風呂へ入って、のんびりとお湯につかりながら、やっと一日の疲れが抜けて行くのを感じた。
いや、むしろ騒いでいた血が鎮まって行くという感じだろうか。
奈保と水浜。倉田と細川幸子。
あまりに違う二組の恋を、身近に見てしまった、その興奮だったろうか……。
奈保と水浜を会わせたのは、むろん一つの|賭《か》けである。奈保がますます勉強なんか手につかない、という状態になることも多分にあり得る。
しかし、今のところ、水浜は信用していいように思えた。見た目より、ずっと大人である。
奈保をうまくリードして、決して踏み外さない付合いをしてくれそうな気がする。
ともかく始めてしまったのだ。しばらくはこのままやっていくしかない。
風呂を上ると、希代子は早々にベッドへ入り、そのまま眠り込んでしまった。そして次の日の昼過ぎまで、一度も起きなかったのである……。
「やあ」
編集部へ入って行くと、希代子は太田和也の方へ声をかけ、ついでに|大《おお》|欠伸《あくび》した。
「寝不足ですか」
と、太田が笑う。
「逆。寝過ぎ」
と言って、「編集長まだ?」
「ええ。連絡ないです」
「たるんどる」
と、空の席をにらんでやった。
「昨日、どうでした、撮影?」
「うん、良かったよ。編集長ものって[#「のって」に傍点]たし」
と、椅子にかけ、机の上のメモを手早く見る。
急ぎの連絡をすませて、ホッと息をついていると、
「ちょっと!」
と、編集部の女の子が一人、駆け込んで来た。
「大変! 編集長交替ですって」
一瞬、ポカンとした間。
「えーっ!」
「うそ!」
と、女子学生みたいな声が上る。
希代子は、思わず、空の椅子へと目をやった。
「誰が言ってたの?」
「今、廊下に掲示が出た」
ワッとみんな立って出て行く。
太田と希代子は残っていた。
「――やっぱりね」
と、太田が首を振って、「やばいと思ってた」
「そうね」
希代子は、編集長の机の電話が鳴り出して、急いで駆け寄った。「――はい!」
「希代子さん?」
「あ、奥さん。今、編集長のこと――」
「主人、会社にいる?」
「いえ。見ていません」
「帰ってないの。それだけじゃなくて、何だかおかしい……」
「おかしい?」
「ゆうべ妙な電話入れて来たりして」
「ご主人が?」
「ええ」
間があった。怖いような間が。
「希代子さん。――主人、死ぬつもりかもしれない」
と、雅代は言った。
「奥さん……」
希代子は、さほどびっくりしていない自分が意外だった。「落ちついて。ともかく心当りに電話を」
「ええ。――ええ、そうね」
「私もかけてみますから」
希代子は、まず経理へ内線をかけて、細川幸子が休んでいることを確かめた。
そのころには、編集長が代るということは社内中に広まっていた。
希代子は、仕事の関係で倉田と親しくしていた人たちへ次々に電話をかけまくったが、誰も倉田から連絡をもらった者はいなかった。
倉田が自殺? いや、細川幸子と心中したのかもしれないという思いと、同時に、そんなこと、するはずがない、という思いとが相半ばして、希代子も迷っていた。――でも、万が一ということもある。
もちろん席で電話すれば、その噂が社内をかけ巡るだろうから、下の公衆電話を使った。
希代子が一つ電話を終えて、テレホンカードを抜くと、
「希代子」
と、後ろで声がした。
振り向く前に、分っていた。
「どうも」
と、希代子は言った。
白石は、軽く息をついて、
「やっと会えたな」
「用なんかないでしょ」
と、希代子は言った。「忙しいの」
「どうして連絡してくれない」
「用がないから」
とくり返す。「何しに来たの?」
「君に会いに、じゃいけないか」
白石は、ずいぶん老けて見えた。
「帰って。忙しいの」
と、希代子は言った。
「分った。今は帰る。――いつ、会える?」
「分らないわ」
「希代子。――君が怒ってるのは分る。しかし、俺は――」
背広姿の白石は、どこか弱々しい平凡な男だった。かつて、希代子を捕えた|逞《たくま》しさは、どこにもない。
「篠原さん!」
太田が駆けて来て、足を止めた。
「どうしたの?」
「あの――電話が。編集長から」
「行くわ!」
希代子は駆け出した。
「希代子! また来るぞ」
白石の声は、もうずっと後ろにあった。
「やあ」
と、倉田が言った。
「編集長……」
希代子は、ドアを押えてくれる倉田のそばを抜けて、その部屋の中へ入った。
小さなマンションの一室。
カーテンを引くと、薄暗かった。
「ここは?」
と、希代子は上って言った。
「彼女の部屋さ」
「細川さんの?」
「うん。――彼女自身の部屋じゃないが。ここは西山専務が買って、彼女と会うのに使っていた所だ」
「へえ……」
陰気な部屋だ。――道ならぬ恋にはぴったりなのだろうか。
「座ってくれ」
と、倉田は言った。
「編集長――」
「もう僕は編集長じゃないよ」
「でも……やっぱり私には編集長です」
と、希代子は言った。
「ありがとう」
と、倉田は肩を落として、「疲れたよ」
「そうでしょうね」
「いや、彼女とのことに、じゃない」
と、倉田は首を振った。「どんなに辛くても、彼女との恋は楽しかった。女房にすまないという気持はあったが」
「じゃ、仕事に疲れたんですか」
「上役の顔色をうかがうことに疲れたのかな」
と、倉田は笑った。「君が|羨《うらや》ましいよ。君は自由で、しかも才能がある。何ものにも縛られない」
「言いたいことはあるけど、やめときます」
「僕がいないと、後は大変だと思う。次の編集長はたぶん外から来る。――君、やめないで、あそこにいてくれ」
「編集長……」
「君までいなくなったら、あの雑誌はやっていけない。みんなが苦労する。やりにくいだろうが、頼む」
希代子は、倉田を見て息をつくと、
「できるだけのことはやります」
と言った。「それ以上はお約束できません」
「分った。充分だよ」
倉田は肯いて、「ありがとう」
「いいえ」
希代子は、首を振って、「奥さん、心配されてますよ」
「分ってる」
「細川さんは?」
「今、出かけてる。じき戻るだろう」
「まさか――死ぬつもりじゃないですよね」
と、口に出してみる。
「死ぬ、か……。死んで貫ければ、愛なんて楽なもんだ」
と、倉田は言った。「後に|遺《のこ》される者のことを考えたら、死ねない。それが普通じゃないか?」
「ええ。――生きていれば、やり直せます」
と、希代子は言った。「死が美しいのはドラマの中だけ」
「うん」
と、倉田は肯いた。「そうだな」
二人はしばし黙った。
「悪かった。わざわざ来てもらって」
と、倉田が立ち上った。
「どうするんですか、これから」
「ゆっくり考えるよ。――女房に、心配するなと言ってくれないか」
「無理ですよ」
と、苦笑して、「ご自分が帰らなきゃ」
「ともかく、僕が生きてるってことだけでも、頼む」
「分りました」
希代子は立って、玄関へ出た。「――じゃ、編集長……」
「ありがとう、色々と」
――そのマンションを後にして、少し行くと、希代子は足を止めた。
倉田はなぜあそこにわざわざ自分を呼んだのだろう? あの話なら、電話でもすみそうなものだ。
でも……。
歩き出して、少し行ってまた止り、希代子はマンションへと戻って行った。
不安がふくらんで、自然、足どりは速くなって行った……。
7 曇った日
仕事は休まない。
たとえ、社員の誰かが悲劇的な死をとげたとしても、仕事はそんなことなど見向きもしないのである。――仕事は休まないのだ。
たとえ社員が浮気をしようが、ノイローゼで会社を休もうが、虫歯が痛かろうが、仕事はそんなことにはお構いなしだ。
何があっても、仕事は休まないのである。
「――篠原君」
と、やけにオー・デ・コロンの|匂《にお》いのきつい男は言った。「ちょっと来てくれ」
「はい」
希代子は、立ち上った。電話でもかかって来てくれたら、「今忙しいんです」と言い返せただろうに。
「会議室へ来てくれ」
と、久保田は言って、ファイルを抱えるとさっさと先に立って歩いて行く。
「気が重いわね」
と、希代子は顔をしかめて|呟《つぶや》いた。
「頑張って」
と、太田和也が言った。
「何を頑張るのよ」
と、希代子は苦笑した。
「だって、新編集長のお呼び出しですよ。希代子さん、何か言いたいこと、あるんじゃないですか」
「私は平社員でさえないのよ」
と、希代子は言い返した。「ともかく、行かないわけにもいかないしね」
〈C〉の編集部を出て、会議室へ足を運ぶ。足どりは、つい重くなった。
「座ってくれ」
と、久保田は立ったまま言った。
空いた会議室である。――いくらも座る所はあったが、希代子はドアに近い|椅《い》|子《す》をかりて腰をかけた。
「色々……大変だったね」
と、久保田は言った。「僕も突然のことでね、戸惑ってる」
久保田は、きちんと三つ|揃《ぞろ》いにネクタイというスタイルで、およそ編集者という雰囲気ではない。
希代子は何も言わずに、久保田が言葉を続けるのを待っていた。
――頭では分っている。「仕事は休まない」のだ。
しかし、倉田との間がうまく行っていたせいもあって、突然今日から久保田が編集長と言われても、ピンと来ないのである。
「実際に、〈C〉の編集で一番古かったのは君だろう」
「古いといっても……。私は契約社員ですし」
「分ってる。君にあれこれ責任をしょい込ませるつもりはない。責任はあくまで僕が負うことになる」
と、久保田は言った。「しかし、とりあえず君に全体を見ていてほしいんだ。他にはやれる人間もいない。それに――」
と、少し間を置いて、久保田は続けた。
「君を正社員にすることも考えている。ちゃんと上司にもその辺のことは話してある。ただ、今は難しい時期だからね、すぐというわけにはいかないだろうが」
馬の目の前にニンジンをぶら下げて、ってわけか。――希代子は、当然こんな話も出るだろうと思っていたので、特に驚きはしなかった。
「それで――」
と、久保田がファイルを開いていると、ドアが開いて、
「編集長、お電話ですが」
「分った、篠原君、待っててくれ」
久保田が急いで出て行く。
希代子は一人になると、ホッと息をついた。
分っている。倉田の後に編集長になったからといって、何も久保田が倉田を追い出したというわけではない。久保田のことを嫌ったりすげなくしたりするのは筋が通らないだろう。
それでも――どうしても、抵抗がある。
妙なものだ。あくまで「ビジネス」と割り切っているつもりだったが……。
希代子は、立ち上ると、広い窓の方へ寄って、表を眺めた。
どんよりと曇った日で、何かいやなことが起りそうな午後である。
「いやなことなら、もう昨日充分に起ったでしょ」
と、希代子は呟いた。
昨日?――あれは、昨日のことだったのか。まるで何日もたっているかのようだけれど。
――倉田のいたマンションへとって返した希代子は、倉田と細川幸子が二人で薬をのんで人事不省に陥っているのを発見したのだった。
もちろん救急車を呼び、やれるだけのことはした。取り乱して、連絡が遅れたということもない。
それでも、希代子は自分を責めないわけにはいかなかった。どうしてああなることを予想しなかったのか。もう少し早く、気付かなかったのか……。
二人は入院し、もちろん倉田の妻、雅代は病人にずっとついている。夫と、その恋人――自分自身の|従妹《いとこ》に。
「死なない、って言ったのに」
と、恨みごとのように希代子は言った。
同情しながらも、腹を立てていたのだ。あんなときに、|嘘《うそ》をつかなくたっていいじゃないの、と――。
久保田が戻って来た。
「病院からだ」
と、|肯《うなず》いて見せて、「二人とも、手当が早かったので、助かったそうだよ」
希代子は、少し間を置いて、
「そうですか」
と言った。
|嬉《うれ》しかったが、すぐには喜ぶ気になれない。ともかく、生きていたということ、それは本当にすばらしいことだが。
「ひと安心だな」
と、久保田は息をついて、「前任者に何かあったら、こっちもいやだからね」
いかにも久保田らしい言い方である。
ともかく――良かった。希代子は、この先のことを考えると、気が重かったが……。
何といっても、倉田と雅代、そして細川幸子の三人は、この後も問題を抱えて生きて行かなければならないのだ。
「君の連絡が早くて、助かったと言ってたよ」
久保田の言葉は、思いがけないものだった。
「――本当ですか」
「うん、奥さんが、くれぐれもよろしく言ってくれってことだった。君は落ちついてるんだなあ。さすがだ」
それを聞いて、突然希代子の目に涙が|溢《あふ》れて来た。自分でも、思いもよらない涙だった。
「すみません。――ちょっと失礼します」
希代子は急いで会議室を出ると、洗面所へ駆け込んで、顔を洗った。
「しっかりしなさい! この泣き虫が」
と、鏡の中の自分に向って言って、大きく息をつく。
何かが、希代子の中でふっ切れたようだった。倉田も、雑誌のことを頼む、と言っていたのだ。
この社内でのごたごたで誌面の力が落ちたら、倉田も嘆くだろう。ともかく、できるだけのことはやろう、と、希代子は思った。
「――失礼しました」
と、会議室へ戻ると、久保田がいやにリラックスした様子で椅子にかけている。
「いや、いい涙だった」
と、久保田は暖かい笑顔を見せて言った。
「見ないことにするもんですよ、女の涙は」
と、希代子は久保田をにらんで、笑った。
「いや、君が倉田君のお気に入りだったことは知ってるし、何しろ有能な編集者というので、こっちも少々身構えてた。しかし、君は本当にいい人だなあ」
「いい人、ってほめ言葉になってません」
と、希代子は椅子にかけ、「さ、仕事の話ですね」
「うん。――とりあえず今の態勢で行くとして、分担はどうしたらいいと思う?」
「それは新編集長がどれくらい早く、仕事を憶えられるかによりますね」
「おいおい、そうプレッシャーをかけるなよ」
と、久保田は苦笑した……。
「――よし」
と、希代子は奈保のやった練習問題を見終えて肯いた。「できてる。この調子なら、この間のひどい点は取り返せるわ」
「これが実力」
と、奈保が、力こぶしを作って見せる。
「恋の力でしょ、違う?」
「希代子さんたら、からかって!」
と、奈保は声を上げて笑った。
この前、この津山邸へ来たときの奈保とは別人のよう。「もの思う人」から「宙を舞う人」という感じだ。
「この字ね。見て、よく読めないわ。せっかく合ってるのに、こんなことで点を引かれたらもったいない。もっとていねいに書いて」
「はあい」
「素直になってよろしい」
と希代子は奈保の頭を軽くなでてやった。
「子供扱いしないで」
と、奈保は希代子をにらむ。
「はいはい、もう恋人もいるんだものね」
「そうよ」
と、奈保は得意げに言って、「でも――苦しいのね、恋って」
「何よ、いきなり」
「電話がかかってくると、胸がときめくでしょ。でも、何日かかかって来ないと、どうしたのかしら、具合でも悪いのかしら、って心配になる。電話で話してても、ちょっと間が空くと、向うが退屈してないかしら、私と話してて、がっかりしないかしら、って心配になるの」
「ふーん。恋も大変だ」
「そう! 大変なのよ、恋って。知ってた、希代子さん?」
「こら。いくつだと思ってるんだ」
と、希代子は奈保のおでこをつついてやった。
「さ、次は国語。教科書を出してね」
――今のところ、奈保と水浜を会わせてやったことはいい結果を生んでいる、と希代子は思った。
奈保はいい点を取って、水浜と安心して出かけたいと思って頑張っているのだ。
こういうえさ[#「えさ」に傍点]でつるのは感心できることではないにせよ、恋はどうしたって止めておくわけにはいかないのである。それならいっそのこと、恋がうまく楽しみになるようにコントロールしてやることだ。
それにしても――希代子はくり返し、考える――この恋と、倉田と細川幸子の恋。どっちも「恋」でありながら、こんなにも遠く離れているのだ。
「ね、希代子さん、大変だったんだって?」
と、奈保が中休みのお茶菓子を食べているときに言った。
「え?」
「お父さんから聞いた。編集長が自殺しかけたって? 女の人とだってね」
どこから津山がそんなことを聞いたのだろう。――希代子は肩をすくめて、
「大人になるとね、色んなことがあるのよ」
と言った。「恋をしてること自体を、悪いって責めても始まらないの」
「うん、分る」
と、奈保が肯いて、「人を好きになるって、理屈じゃないよね」
「分ったようなこと言って」
と、希代子は笑った。「でも、恋する気持はいつも同じよね」
「希代子さん――。今、誰かに恋してる?」
「今?」
そう|訊《き》かれることは、あまりない。少々面食らった。
「そうねえ……。してるといえばしてるし、してないと言えばしてない」
「ずるいよ、そんな言い方!」
「奈保ちゃんはね、自分の恋だけ見つめていなさい」
と、希代子は言った。「いつだっけ、あの子の出るコンサートって」
「来週の土曜日。行くでしょ、希代子さんも?」
「そうね……。仕事が入るかどうか。でも今のところ大丈夫だと思う」
「行こう! 私、何の曲聞いても、クラシックってみんな同じに聞こえちゃう」
「私が説明してあげるわよ」
「水浜さん――上手なのかな、ヴァイオリン」
「そりゃそうでしょ。何か一曲弾いてもらえば?」
「うん。今度頼んでみよう」
と、楽しげに言って、「ね、希代子さんのヴァイオリンって、聞いたことない」
「お聞かせするほどのもんじゃありません」
と、希代子は澄まして言ってやった。
「――これ、チラシ。私、持ってるから、あげるね」
と、奈保が四つにたたんだチラシをくれる。
開いてみて、写真も何もない、ただ〈N大管弦楽団定期演奏会〉という文字に、目をひかれる。
ふと、懐しさがこみ上げてくる。懐しい大学生のころの「若さ」が。
きっと、行こう。仕事は何とかなる。
行ってみよう。――そう、希代子は心に決めていた。
8 病室にて
何でこうややこしいの?
――希代子は、病院の廊下を、矢印を追って歩きながら、ため息をついた。
古い建物で、増築をくり返したのだろう、廊下から階段、渡り廊下、と迷路のようにつながっている。
「――これじゃ、見舞客が心臓発作ね」
と呟いて、それでもやっと目指す病棟へ行きついた。
「ええと、〈305〉か」
と、部屋の番号を見て行くと、少し先のドアが開いて、背広姿の男が出て来た。
どこかで見たような、と思っている内、その男は、希代子の方へ歩いて来て、すれ違ったが……。
そうだ。専務の西山だった!
希代子も、もちろん何度か顔は見ているのだが、正社員ではないから、話したこともないし、そんな機会もない。
では、今西山が出て来たのは、細川幸子の病室だろうか?
考えていると、西山がふと足を止め、振り向いて希代子を見た。
「君……もしかして、篠原君か」
と、西山は言った。
「ええ、そうです」
「やっぱりか」
西山は、戻って来て、「見たところ編集者だな、と思ったんだ。それに社内で一、二度会ってるしな」
「はい」
「君――幸子を助けてくれたそうで、感謝してるよ」
西山は、あまり押し付けがましくない口調で言った。
「いいえ……」
と、希代子は首を振って、「何も特別なことは」
「いや、医者からも聞いた。全く、お礼の言いようもない」
西山はそう言ってから、少しためらって、
「君……少し時間はあるかね」
「私ですか。ええ……。十五分くらいでしたら」
十五分を、普通「時間がある」とは言わないかもしれない。西山はちょっと笑って、
「じゃ、十分ですませる。相談にのってほしいことがあるんだ」
と言った。
――二人は病院の喫茶室に行った。
「ひどいな、ここのコーヒーは」
と、西山は一口飲んでやめる。
「席料ですよ」
と、希代子は言った。「専務、お話って何でしょう」
「うん、幸子とのことは、君も知っているだろう」
「漠然とですが」
「倉田君も|可哀《かわい》そうだった。優秀な男なのにな」
西山は首を振った。「私がやめさせたわけじゃない。当人が辞表を出して来たんだ。本当だ」
「私には――」
「関係ないか。それはそうだな」
西山はガタつく|椅《い》|子《す》に座り直して、「実は、君に頼みがある」
「何でしょう」
「幸子のことだ。あれは君のことをずいぶん親切にしてくれたと言って、頼りにしている。あれが|田舎《いなか》へ帰るのを、送って行ってやってくれないか」
「は?」
希代子はびっくりした。「待って下さい。どういうことですか?」
「幸子は、退院したら故郷へ帰したい。これ以上東京にいては、本人のために良くない。しかし、本人は帰りたがっていないんだ。いや、説得はしたが、まだ気は進まない。君がついて、送って行ってやってほしい」
希代子は|呆《あき》れた。――どうしてそんなことまでしなきゃいけないの?
「専務――。私は何の関係もない部外者ですから」
「だからこそだ。幸子も、君なら安心してついて行くと思う。どうかね。もちろん別に礼はする」
腹立たしい気持が、うまく隠せたとは思わないが、ともかく口実はいくらもある。
「とても無理です。今、編集長が代って、中は大混乱です。私が何日か抜けたら、雑誌が出なくなりますよ」
少し大げさかとも思ったが、決して嘘ではない。
「そうか。――ま、確かにそうかもしれんな」
と、西山は難しい顔で肯いた。「分った。いや、引き止めて悪かった。倉田君の見舞だろ? 行ってくれ」
「失礼します」
希代子は、喫茶室を出た。
――西山の言葉。希代子はどことなく引っかかるものを感じていた。
なぜ、自分の愛人を故郷へ帰すのに、ろくに知ってもいない希代子に話そうと考えたのか。首をひねらないわけにはいかなかった。
ともかく、今は倉田の見舞に来ているのだ。
病室へ入ると、すぐに倉田のベッドが目に入った。そして、希代子はホッとすると同時に笑い出しそうになってしまったのである。
「――やあ、希代子か」
と、手を上げて見せる。
「やあ、じゃないわ。何してるんですか」
と、希代子はベッドのわきの椅子に座って言った。
「見りゃ分るだろ、本を読んでる」
「そりゃ分りますけどね」
と、呆れてしまう。
ベッドの両わきに、本が山積みになっている。わきだけではない。ベッドの上にも本や雑誌がいくつものっているのだ。
「お医者さんに|叱《しか》られますよ」
と、希代子は言った。「ここはね、編集部じゃないんですから」
「しかし、本に囲まれてないと、体の回復も遅くなるんだ」
「全く……。人に心配かけといて」
と、苦笑いする。
「おい、どうだ編集部の方は」
やはり気になっているのだろう。その気持は希代子にも分った。
久保田と相談して決めた役割分担を説明すると、倉田は少し考えていたが、
「うん、大体いいだろう」
と肯いた。「ただ、近藤はもう少し仕事を回しても大丈夫、あいつはよそで経験があるからな。グラビアは一人で任せても大丈夫やれる」
「分りました」
と、希代子は言った。
二人の間に、少し沈黙があった。
「――希代子。すまなかった」
「編集長」
そう、つい呼んでしまう。「私に謝ってもしょうがないわ。奥さんと、彼女[#「彼女」に傍点]に」
「うん」
と、倉田は肯いた。「うん。――分ってるよ」
「もう……ふっ切れましたか」
倉田は、遠くを眺める目つきをした。
希代子は、倉田の中ではまだ整理がついたわけではないこと、この本の山も、何とかしてそこから脱出しようとする試みなのだと知った……。
「そのつもりだ」
と、倉田は言った。「女房には、すまないことをした。しかし――あの子を愛したことは、後悔していない」
希代子は何も言わなかった。何を言えるだろう。自分自身、その身になってみないで、何が言ってやれようか。
「西山専務とそこで――」
と、希代子が言うと、倉田は顔を向けて、
「会ったのか」
「ええ。でも何だか妙でしたよ」
西山の頼みごとを話してやると、倉田は少し複雑な表情になって、
「そうか……。まあ、西山さんも、あの人なりに心配してはいるんだ」
と言った。「それで、断ったのか」
「もちろん。こっちはそれどころじゃないわ」
「そうだな。しかし――」
と言いかけて、口をつぐむ。
「何ですか」
「いや……」
「まあ、篠原さん」
と、声がした。
妻の雅代が、エプロンをして入って来た。
「どうも、お邪魔して。すぐ失礼します」
「いいえ、どうぞごゆっくり」
「そうしてもいられません。入稿が近いんで」
「そうだ。発売日は待っちゃくれんぞ」
と、倉田は言った。
希代子は笑って、
「ちっとも変りませんね、じゃ」
と手を振って病室を出る。
「――ちょっと」
と、雅代が追って出て来た。「篠原さん。本当にありがとう」
「そんな……。頭なんか下げないで下さい」
と、照れて、「奥さん、ともかくご主人に何か仕事を。老け込まないためには一番です」
「ありがとう」
と、雅代は言って、目頭を指先で|拭《ぬぐ》った。「ともかく――生きていてくれたのが嬉しいの」
「やり直せますよ、きっと」
「そうだといいけど……。ね、希代子さん、あの子にもやさしくして下さったそうね。お礼を言うわ」
「細川さん……ですか」
「まさか、主人の相手があの子だとは思わなくて。分ったときは目を疑ったわ」
と、雅代はため息をついた。「――あの子のことも見舞ってやって下さる?」
「ええ……いいんですか?」
「もちろん」
二人は一緒に歩いて行った。歩きながら、雅代は、
「妙な立場よね。夫と従妹。どっちも憎むわけにいかない」
と、|微笑《ほほえ》んだ。「でもね――幸子さんも、可哀そうな子なの。父親がいなくて」
「いなくて?」
「誰なのか、よく分らないのよ。田舎のことで、母親もあの子も、ずいぶん肩身の狭い思いをして暮して来たらしいわ」
「そうですか」
ふと、希代子は、二人でジュースを飲んだとき、幸子が言ったことを思い出した。
「私……二十七年間、待ってた」
と、幸子は言ったのだった。
あれはどういう意味だったのだろう。
「――じゃ、顔だけ見て帰ります」
と、希代子は病室のドアの前で雅代と別れた。
中へ入って、希代子はすぐに窓側のベッドに寝ている細川幸子を見付けた。
しかし、さっき見た倉田とは対照的な姿がそこにはあった。
ベッドのシーツは、しわ一つない感じで、患者がほとんど身動きしていないことが分る。
細川幸子は、窓の方へ頭を向けて、じっと外を眺めている様子だった。
希代子は、もしかして幸子が眠っていたら、と思い、そっと近付いた。
幸子がゆっくりと顔をめぐらし、
「あ……。篠原さん」
と、力のない声で言った。
少なくとも、表面的には元気一杯だった倉田と違って、ほんの何日かで幸子はやせて、青白い顔色になっていた。
「どう、具合?」
と、希代子はできるだけ屈託ない調子で語りかけた。
「色々……ご迷惑かけて」
と、幸子は言った。
「本当。これ以上はごめんよ」
と、明るく言って、「何かほしいもの、ある? いつになるか分んないけど。それより、きっと退院の方が早いわね」
「篠原さんには……ご親切にしていただいて……」
「やめて。何も特別なことはしてないわ」
「いえ……。もし――甘えてよろしければ、もう一つ、お願いしたいことが」
「何かしら」
幸子は、|枕《まくら》の下に、手を入れると、封筒を取り出した。
それを希代子の方へ差し出すと、
「この封筒を……この住所の所へ届けてほしいんです」
封筒の中からメモを取り出す。
「送っちゃいけないの」
「ええ、できたら……届けていただけると」
幸子の口調は、ほとんど哀願に近いものがあった。
住所を見て、希代子は、
「へえ。私のよく行く写植屋さんの近くね。――明日でもいい?」
「もちろんです」
「じゃあ、届けてあげるわ」
「ありがとう!」
初めて、幸子の言葉に力が入った。
「じゃ、これは預かって――」
希代子は封筒をバッグへ入れようとした。
「おっと」
封筒が落ちた。床に落ちた勢いで、中から写真が一枚滑り出した。
「ごめん。落としちゃった」
と、急いで拾って――。
希代子はハッとした。その写真に写っているのは、二つか三つの赤ん坊だったのである。
9 ホール
早過ぎてしまった。
「――珍しいこと」
と、自分で自分をからかってみる。
編集者は、待ち合せとかの時刻に遅れることはめったにないが、逆に早すぎるということもない。
出なれていて、目的地までの時間が読めるということもあるが、むだに相手を待つほどの余裕がない、というのも本音だろう。
希代子も、その点ではベテランの名に恥じない。大体勘で行っても、プラスマイナス五分の範囲内で着くのだ。
その希代子が、今日ばかりは勘が狂った、と言うべきか。
「――あ、今日は」
と、声をかけられて振り向く。
「やあ、君か」
と、希代子は水浜邦法を見てホッとした。
N大の定期演奏会の会場。ホールとしては千人ほどのキャパシティ。まあほどほどというところだろう。
「――早いんですね」
ヴァイオリンのケースをさげた水浜は、言った。「これからリハーサルですよ」
「勘違いしちゃったみたい」
と、希代子は笑って言った。「いいわ。その辺で時間を|潰《つぶ》してるから」
「入って下さい。構いませんよ」
と、水浜は言った。
「でも、お邪魔でしょ」
「ちっとも」
と、水浜は肩をすくめて、「そんなご大そうなアーティストが出るわけじゃないですから」
「でも――いいの?」
「はい。こっちへどうぞ。楽屋口から入りましょう」
「編集者にとっては魅力的な言葉ね」
と、希代子は微笑んで言った。「裏を|覗《のぞ》くのが、私たちの仕事ですからね」
「怖いな。――といって、記事になるほどのこと、ありませんけどね」
二人は、〈楽屋入口〉というドアから中へ入った。
折りたたみの椅子だの、楽器のケースだのが並んでいる狭苦しい通路を抜けて、階段を上って行くと、パッと目の前が開ける。
いつの間にやら、希代子はステージの|袖《そで》に立っているのだった。
「おはよう」
と、水浜が声をかけると、オーケストラのメンバーが口々に答える。
オーケストラの椅子は半分ほど埋っていた。まだみんなおしゃべりしている段階。
中で、特に|真面目《まじめ》なのが数人、譜面を見てさらっている。
「――水浜、連れは彼女[#「彼女」に傍点]か?」
と、誰かが声をかける。
「失礼だぞ。花の編集者だ」
と、水浜が答えた。
「へえ。取材?」
と、フルートの女の子が言った。
「そうじゃない。知り合いさ。――篠原さん、どうぞ適当に」
水浜はケースからヴァイオリンを出しながら、言った。
「ありがとう。気にしないで」
こういう立場には慣れている。希代子は、オケのメンバーに適当に話しかけたりもして、何となくこの場の雰囲気に溶け込んで行った。
徐々にメンバーも|揃《そろ》って来て、あと数人というところで、二十七、八の青年が分厚いスコアを手に現われた。指揮者である。
「揃ってないな。――誰だ?」
と、顔をしかめる。
「第二ヴァイオリンが二人と、クラリネットですね」
と、水浜が言った。
「またクラリネット? しょうがないな!」
と、舌打ちして、指揮者はスコアを広げた。
「始めるぞ。クラリネット抜きだ」
希代子は、ステージから下りると、客席の隅の目立たないところに席を占めた。
「第一楽章はこのテンポ。いいね?」
指揮棒が譜面台をコンコンと|叩《たた》く。
オーケストラが鳴り出す。――希代子はフッと胸をしめつけられるような気がして、思わず目を閉じた。
この曲……。メンデルスゾーンの「スコットランド」。
希代子は大学のとき、正にこの曲をやらされた。――本当に、この曲だった!
練習はしばしば中断し、指揮者の注意が入った。
聞いていて、希代子は指揮者の細かい注意が、|却《かえ》ってオケのメンバーを「のりにくく」しているという印象を受けた。もう少し全体を通してやった方が、分りやすいだろう。
四十分ほどやって、休憩になる。
「――どうです?」
水浜が客席に下りて来て、希代子に声をかけた。
希代子が感想を述べると、
「そうなんですよ」
と、水浜は|嬉《うれ》しそうに、「みんなそう言ってて……。でも、言うと怒るんです、あの人。プライド高くて」
「大変ね」
「コンマスなんて、憎まれ役。会社なら中間管理職だな」
適切な表現に、希代子は笑ってしまった。
「――水浜さん!」
と、飛びはねるように、奈保が入って来た。
「やあ、来たね」
「あ、希代子さん、ずるい! だめよ、水浜さんに手を出しちゃ」
「何よ、そのいい方」
と、苦笑して、「早く着いちゃったから、入れてもらったのよ」
しかし、奈保は希代子の言うことなど聞いていない。
「ね、ステージの上に上ってもいい?」
と、水浜の腕にぶら下がらんばかり。
「ああ。でも、練習始まったら、おとなしくしてろよ。指揮者に怒鳴られるぞ」
「はいはい。お人形さんのようにじっとしてるわ」
二人は通路をステージの方へ歩いて行く。
希代子は、席を立って、ロビーへと出て行った。
外はもちろん明るい。――午後のコンサートだ。どれくらいの客が入るものやら、見当もつかない。
希代子は、ロビーのソファに腰をおろして息をついた。ガラスばりの正面には、何人か集まって来ている学生たちの姿が見える。
客のほとんどは、同じN大の学生たちだろう。中にはオケのメンバーのガールフレンドらしい女の子たちもチラホラ見えて……。
希代子は、ふと、その若者たちの間に混って見えている男に目を止めて……。
「まさか」
と、呟く。
しかし――間違えようもない。あれは白石だ。
向うも、希代子と目が合って、入口の方へやって来る。希代子はちょっとためらったものの、ここから逃げ出すわけにもいかず、仕方なく白石の入って来るのを見ていた。
「――やあ」
休みの日で、ラフなセーター姿の白石は、却って老けて見えた。
「どうしてここへ?」
と、希代子は訊いた。
「会いに来ちゃいけないか」
白石は、ロビーのソファに座った。
「まさか……。私を|尾《つ》けて来たの?」
「まあな。このところ、何度か尾け回してたんだ」
白石は笑って、「気が付かなかったか? |俺《おれ》の腕もまんざらじゃないな」
「やめてよ。――もう別れたじゃないの」
と、目をそらす。
「君がそう言ってるだけだ」
「いいえ」
と、希代子は白石を見て、「客観的に見ても同じよ。あなたは、もう、私と何の関係もない人」
「そうかな」
と、白石は言った。「一時は一緒に暮したじゃないか」
「ほんの数日でしょ。――それに何よ、今さら。あのとき、私を捨てておいて」
希代子の言葉はともかく、口調は穏やかで、今日のお天気のことでも話しているみたいだった。
「あの場合は仕方なかった」
「勝手ね」
と、希代子は笑って、「ともかく、もう私はあなたを卒業[#「卒業」に傍点]したのよ」
「俺は君を手放した覚えはない」
白石の目は真剣だった。
「――お願い。帰って」
いつ、奈保が出てくるか、気が気じゃなかった。
「ゆっくり会いたいんだ」
「むだよ」
「話してみるだけならいいだろう」
「もうやめて。尾け回すのも、しつこくするのも」
希代子は立ち上った。「あなたが出て行かないのなら、私が行く」
希代子の視線に、何の妥協も許さない「拒否」を見た白石は、ちょっと顔をひきつらせた。
「希代子……。女房は死んだ」
希代子は、一瞬、|愕《がく》|然《ぜん》とした。
「亡くなったって……。いつ?」
「二年になる」
「そんなに?」
胸をふさがれる気がした。「どうして?」
「胃をやられて。ガンだった」
と、白石は言った。「アッという間にやせてね」
「そう……。お気の毒だったわ」
「君のことを気にしてた。――俺が悪いってことは、あれにも分ってたんだ」
白石は、暗い情熱をたたえた目で、希代子を眺めていた。
「それならなおのこと……。もう私とのことは消し去るべきだわ」
と、希代子は言って、「失礼するわ」
ホールの中へ入りかけ、
「もう、現われないで」
と一度念を押した。
中へ入ると、また練習が始まっていた。
コンサートマスターの席で、水浜は汗を拭っていた……。
拍手がホールを埋めた。
客席も八割は埋り、希代子もホッとした。
大学のオーケストラのコンサートなど、ガラガラなのも珍しくない。
希代子は、これだけ客が入っているので、自分のことのようにホッとしたのである。もっとも、並んで座っている奈保にとっては客の入りなど、どうでもいいようで、ただひたすら水浜を見ていれば、それでいい、というわけだった。
「――上手だった?」
と、ホールを出ながら、奈保は言った。「私、ちっとも分んないけど」
「どうせ、曲なんか聞いちゃいないんでしょ?」
と、希代子は冷やかして、ついロビーに白石がいないか、探していた。
どこにもそれらしい姿はない。希代子はホッとした。
「楽屋へ行くの」
と、奈保は言った。「希代子さんも行こうよ」
「私はいいわ。奈保ちゃん、送ってもらうんでしょ?」
「でも、希代子さんがついて来ないと、途中で寄り道するかもしれない」
「もう! 人をからかって」
と笑って、それでも結局はついて行くことになる。
楽屋では、もうどんどん着がえをすませたメンバーが帰り始めていた。
「――水浜さん!」
奈保が、もう普段の服になった水浜を見付けて引張ってくる。
「お疲れさま」
と、希代子は言った。
「いえ、どうも……。どうでしたか」
「私の入ってた大学のオケよりは|遥《はる》かに上」
と、希代子は言った。「もっとも、うちの大学よりひどい所って、そうないみたいだったけど」
「裏から出ましょう。|旨《うま》いラーメン屋があるんだ」
と、水浜と一緒に、さっき入って来た楽屋口から外へ。
さすがに、もう暗い。
「一緒にいてもいいの?」
と、希代子は言った。
「ええ。ラーメン、好きですか?」
「もちろん」
と肯いて、歩き出し、希代子はそこに白石が立っているのを見て、思わず息をのみ、足を止めていたのだった。
10 慰 め
立ちすくんでいる希代子に気付かず、奈保と水浜は何やら笑いながら歩いて行ったが――。
水浜の方が気付いて、足を止めると、
「どうかしたんですか?」
と、振り向いて言った。
「希代子さん? 何してるの」
と、奈保も声をかけて来た。
「先に行って」
と、希代子は言った。「いえ、もう私、ここで帰るから」
「でも――」
と、奈保が当惑している。
白石は、少し薄暗がりになった所に立って、希代子の方をじっと見つめていた。
「水浜君、悪いけど奈保ちゃんをお願い」
と、希代子は早口で言った。「私、ちょっと用があるの」
白石が希代子の方へ進み出て来た。
「希代子――」
「ここでは話なんかできないわ」
「うん。じゃ、どこかへ行こう」
白石はホッとした様子で、「二人になれる所に」
白石の言葉を、もちろん奈保たちも聞いている。大人の男と女が「二人きりになれる所」に行くと言ったら、どう思うか。希代子は|苛《いら》|立《だ》って、
「話すことなんかないって言うためよ。間違えないで」
と急いで言った。
「何でもいい。ともかく行こう」
白石が腕を取ろうとするのを、希代子は振り払った。
「やめて。図に乗らないで」
と、厳しい口調で言ってやる。
白石の顔が険しくなった。明りの届く場所にいて、その白石の表情はかつて希代子が付合っていたころには見せたことのないものだった。
「希代子。|俺《おれ》にそんな口をきくのか」
白石の顔は引きつっていた。「昔のことを忘れたっていうのか。俺たちが――」
「やめて!」
と、希代子は遮った。「聞きたくないわ。やめて下さい」
奈保と水浜がじっとこっちを見ている。希代子は、あの二人の目に自分と白石はどう映っているだろう、と思った。
「ともかく来い。一晩中ゆっくりかけて話したいことがあるんだ」
命令口調は、わがままだった以前のそれと同じだ。しかし、かつてはどこかのんびりとした「坊っちゃん」くささがあって、苦笑いして許せるところがあったのだが、今の白石はややヒステリックに自分を守ろうとする意識だけが感じられた。
しかし、これ以上奈保たちの前で白石とやり合いたくはなかった。ともかく、二人と別れて、それから考えよう。
希代子が口を開きかけたときだった。
「篠原さん」
と、水浜が明るい口調で声をかけて来たのだ。「先約ですよ」
「え?」
「僕らに付合ってくれる、って先約が入ってるんですよ」
水浜は白石の方へ向くと、「すみませんけど、この次にして下さい。篠原さんはこれから僕らと出かけることになってるんです」
と、さりげなく言ってのけた。
「子供にゃ関係ないんだ。あっちに行ってろ!」
「そうはいきませんね」
水浜は、ごく当り前の口調で続けた。
「何だと?」
「篠原さんは、あなたと行くより僕らと一緒の方が楽しいんですよ。お引き取り願えませんか」
希代子も、|呆《あっ》|気《け》に取られていた。奈保が少し離れて不安げに水浜を見ている。そして、チラッと希代子へ目を向けて来た。
ハッと我に返って、「いけない」と思った。白石は、かつての白石ではなくなっている。「危険な男」なのだ。
「水浜君――」
と、口を挟んだときだった。
突然、白石が|拳《こぶし》を固めて、水浜の顔を殴りつけた。希代子は思わず声を上げた。水浜は素早く上体をそらしたが、完全にはよけ切れず、|顎《あご》の片側辺りを殴られて、よろけた。
「何するの!」
希代子が白石の前に飛び出して、「気でも違ったの? 警察を呼ぶわよ!」
ほとんど無意識に、そう叫んでいた。
「篠原さん、危いですよ」
と、水浜が希代子を押しのける。「僕なら大丈夫」
「とんでもない! あなたには関係ないことなのよ」
希代子は、じっと白石をにらんで、「帰って。――二度と姿を見せないで」
と言った。
白石は、暗く燃えるものを目の底に感じさせながら、それでも声を上げて笑った。
「――悪かった。いや、俺もついむきになったよ」
と、後ずさりするように希代子から離れて、
「そうだな。――子供を相手に本気になってもしょうがないもんな。そうだろ? お前のことなら、俺が一番よく知ってるんだ。俺はお前の最初の男なんだからな」
希代子は顔が燃えるように熱くなるのを覚えた。
「なあ、希代子。|憶《おぼ》えとけよ。お前の隅から隅まで、俺は知ってるんだ。分ってるだろうな」
白石はもう一度笑うと、「じゃあ……。またな、希代子」
と、手を振って、フラッと酔ってでもいるように、歩いて行った。
白石の後ろ姿はじきに暗がりの中へ消えたが、希代子の目にはいつまでも暗い影となってチラついて見えた。
「――希代子さん」
いつの間にか、奈保がそばに来ている。
「奈保ちゃん。水浜君のこと、見てあげなさい。――けが、してない?」
「大丈夫ですよ、あんなの」
と、水浜は軽く顎をさすって、「こう見えても、丈夫にできてるんです」
「奈保ちゃん、水浜君と一緒に行って。ごめんなさいね、とんだ巻き添えで」
と、希代子が言うと、
「だめですよ」
と、水浜が言った。「篠原さんも来なくちゃ」
「そうよ。希代子さんも一緒に。ね?」
「だけど――」
「あんな男のために、|旨《うま》いラーメン食べそこなうなんて、間違ってますよ」
水浜の言い方に、希代子はちょっと面食らい、そして笑い出してしまった。
「それは正しいかな」
と、希代子は首を振って、「おいしいラーメンは、いい男と同じくらい珍しい」
「そうですよ。しかも、高くない」
「分ったわ」
希代子は奈保の肩を軽く抱いて、「じゃ、私のおごり。それでいいわね」
「じゃ、遠慮なく」
水浜が|嬉《うれ》しそうに言った。「二杯食べようかな」
「大丈夫よ。希代子さん、お金持だもん」
と、奈保が笑って言った。
希代子は、水浜が心配してくれているのだと察していた。白石が、まだどこかで待っているかもしれない。希代子を一人で帰したくないのである。
二十一歳の大学生にそんな風に気をつかわれるのは少々気がひけたが、不思議とそういうことがさま[#「さま」に傍点]になるのが水浜の変ったところなのかもしれなかった。
――結局、ラーメンに付合い、希代子も二杯食べてしまうはめになったのである……。
マンションへ入るとき、希代子はつい辺りを見回していた。
もちろん、白石がいるかもしれない、と思ったのである。しかし、それらしい人影は見えなかった。
――部屋へ入って、きちんとドアをロックし、やっと安心する。
それにしても……。
一人になって落ちつくと、希代子は|却《かえ》って重苦しい気持になるのを避けられなかった。――それは、一つには白石がいつ現われるかもしれないという不安、それから逃れられないという|辛《つら》さでもあり、また白石その人の変りようへの失望でもあった。
「元気出して!」
と、希代子は声に出して言った。
そうだ。仕事もある。月曜日までに片付けようとして持ち帰った仕事があるのだ。
頑張らなくては。「仕事は休まない」のである。
お風呂にお湯を入れながら、希代子は何かのメロディを口ずさんでいた。
「何だっけ、これ?」
しばらくメロディを続けてみた。やっと気が付いた。今日、水浜たちの演奏したメンデルスゾーンの「スコットランド・シンフォニー」の一部だ。
でも――不思議な子だわ、あの水浜って子。
妙に大人のようで、それでいて奈保ともちゃんと話を合せていられる。どこか覚めていて、それでいて単純明快でもある。
「二十一か……」
と、希代子は|呟《つぶや》いた。
「あと、三つ四つ年が行ってればね。――惜しかった!」
と呟いて、自分で笑ってしまう。
風呂に入って、ゆったりとお湯に浸り、大分気分も軽くなった。
白石のことはもう忘れよう。そう決めたのだ。それを、いつまでもくよくよしていては仕方ない。
今日、白石が現われて動揺したのは、奈保たちに自分の過去を知られるのが辛かったせいだ。それはよく分っていた。
でも、ラーメンを食べながら、白石のことなどちっとも話に出なかったし、あの二人の、希代子を見る目も変りはしなかった。
考えてみれば、水浜も奈保も小さな子供ではない。人間、二十八にもなれば、「過去」の一つや二つ、背負っていて当り前だということ――生きる、ということが、少しは分っている年齢である。
でも、ありがたかった、あの水浜の気のつかい方が。
奈保が夢中になるのも当り前かもしれない。水浜は、もっと年上の男性のように、奈保と接している。
奈保は水浜に夢中だが、水浜の方は必ずしも「恋」を意識しているわけではないように見える。もちろん、恋というのは、たいていそんなもので、双方が一緒に熱くなるわけではない。
それでも、希代子はちょっぴり奈保のことを|羨《うらや》ましいと思った。
湯上りで、バスローブをはおって息をつきながら、
「あら、ファックス」
何か入っている。――取り上げてみて、目を見開いた。水浜からだったのである。
〈篠原希代子様
今日は「定演」を聞きに来て下さって、ありがとうございました。
おまけにラーメンまでおごっていただいて。|図《ずう》|々《ずう》しく甘えてしまいました。
奈保さんはちゃんとご自宅へ送り届けましたので、ご安心下さい。そちらは大丈夫でしたか? 心配になったので、ファックスを入れてみました。
僕のような子供が余計な口を出して、気を悪くされていないといいのですが。
僕の父はヴァイオリン奏者でしたが、僕が中学生のころ、家を出てしまって、今もどこにいるのか分りません。
今日の男の人を見て、何だか父とよく似ているので、つい黙っていられなくなってしまったのです。
でも、希代子さんにとっては、まだ忘れられない人なのでしょうか。
これも余計なことでした。
ではいずれまた。
[#地から2字上げ]水浜邦法〉
希代子はくり返し、そのファックスを読んだ。
胸が熱くなる。――水浜の「身上話」のせいではない。もちろんそれもないではなかったが……。
むしろ、希代子の心を打ったのは、〈希代子さん〉と呼んでくれたことだった。
「キザな子」
と、照れて一人で呟くと、そのファックスをていねいにたたんで、机の引出しへしまう。
すると、電話がルルル、と鳴って、ファックス受信の信号音がピーッと聞こえた。
仕事かな。土曜日だっていうのに。
カタカタと音をたててファックスが出てくる。――短いファックスだった。
〈おやすみなさい             水浜〉
希代子は、しばし、そのファックスを手に、立ちすくんでいた。
心が騒いだ。――これは、何だろう?
水浜が、なぜわざわざこんな言葉を……。
いや、とり立てて特別な意味はないのだ。ただ、ちょっと思い付いただけなのだ。
しかし、希代子はその短いファックスを、同じ引出しにしまって、
「おやすみ」
と、呟いたのだった……。
11 行方不明
「もう少し待って、ね?――分ってるけど、こっちも人手がないのよ、何とか引張ってよ。お願い!」
毎日毎日、何度こんなセリフをやりとりしていることだろう。
言う側に立つこともあれば、言われる側に立つこともある。言う方としては、向うが|呑《の》んでくれなくては困るし、言われる側としては、「そこを何とか」と、もう一押しする。
矛盾しているようでも、これが仕事というものである。
週があけて、〈C〉は次号の校了とその次の号の入稿の時期に入った。希代子はもちろん、スタッフはほとんど連日、午前二時三時まで働いている。
編集長の久保田も「慣れていない」なんて言っていられなくなり、顔を真赤にして動き回っていた。
希代子は判断に困ると、時々こっそり病院へ電話を入れて、倉田の指示を聞いたりした。
久保田には悪いが、いちいち事情を説明していられない場合だってあるのである。
「――チーフ、夜食は?」
と、太田和也が声をかけて来たのは、夜中十二時を回った辺り。
久保田に頼まれて全体をまとめるようになって、ごく自然に「チーフ」という名で希代子は呼ばれることが多くなっている。
「何のチーフ? ハンカチーフ[#「チーフ」に傍点]?」
などとふざけたりしながら、希代子も別にいやがってはいない。
「夜食?――今夜はパス」
と、希代子は手を振って、「カズちゃん、頼んでいいわよ」
「あれ。お|腹《なか》、もつんですか」
「少し我慢しなきゃ。こう毎晩食べてたら太って困るわ」
写真選びを|一《いっ》|旦《たん》休んで、電話へ手を伸ばす。コラム原稿をライターに催促しなくてはならない。
「それじゃあ、僕、頼みますよ」
と、太田が言って、行きかける。
「カズちゃん! 待って! 私もやっぱり食べる」
マンションに、ほとんど食べるものが置いていなかったことを思い出したのである。
「はい」
と、太田が笑って|肯《うなず》いた。
――こういう徹夜仕事が続くと、食事が息ぬきになる。てきめんに太ってしまうのだ。
入社一年で六キロも太った、と嘆いている女の子もいる。ぎりぎりの限界までくたびれ果てているというのに、よく太れるもんだ、と誰もが首をかしげるのである。
「――もしもし。〈C〉編集部の篠原ですが、原稿の方、どうですか」
例の藤村涼から交替したライターのオフィスである。
希代子は|苛《いら》|々《いら》していた。藤村のことは別としても、どうも要領を得ない。
「チーフ、電話です」
太田がわざわざそばへ来て、小声で言った。
白石かと思った。送話口を手で押え、
「誰?」
「編集長です。元[#「元」に傍点]、編集長」
「つないで。――また、後で連絡入れます」
ポンと切って、外からの電話をつなぐ。
「――もしもし」
「希代子か」
と、倉田の声が聞こえた。
「病院ですか? どうしたんです」
「希代子、すまんが……」
と、倉田が口ごもる。
「どうかしました?」
「彼女が――幸子がいなくなった」
「いなくなった、って……」
「病院から出て行ってしまったらしい。看護婦さんが今捜し回ってる。――自殺の|怖《おそ》れがあるというんだ」
「そんな!」
希代子は|愕《がく》|然《ぜん》とした。
「すまん、希代子。行ってみてもらいたいところがある」
「それは――」
と言いかけて、「あそこ? 写植屋さんのそばの」
と、思い付いて言った。
「知ってるのか」
「この間手紙を頼まれて。どういう人なんですか」
「会ったか」
「いえ。ポストへ入れて来ただけです」
「そうか……」
「ともかく今は……。校了のゲラ、見ないといけないし」
「俺がそっちへ行ってもいい。すまんが、行ってくれ」
そこまで言われては、希代子も断れない。
「分りました。編集長は来なくていいですよ」
と言ってしまってから、チラッと久保田の方を見る。
大丈夫。何か仕事の電話で夢中になって話している。
「いいですね。おとなしく入院してなきゃだめですよ」
「分った分った。そうおっかない声を出すな」
「もともとこういう声です」
と、希代子は言ってやった。
電話を切って、
「カズちゃん、ちょっと出てくる。悪いけど、この写真、見といて」
「はい」
と、太田が肯く。「何かあったんですか」
「あったかもしれないし、なかったかもしれない」
と、もう手早く出かける用意。
もちろん机の上を片付けるわけにはいかない。何時になるとしても、戻って続きをやらなくてはならないのだ。
「――じゃ、よろしく」
と、希代子は駆け出して行く。
「おい! どこへ行くんだ」
久保田の声が追いかけて来たが、希代子は答えなかった。
タクシーを拾おう。
会社を出た希代子は、車の来るのを待とうと思った。ところが――。
「雨?」
昼過ぎから曇って来てはいたが、ビルを出て、パタパタと肩を打つ感覚があった。
「参ったな……」
タクシーも、晴れた夜は楽に拾えるが、こんな風に夜になって降り出したとなると、いくら不景気な時期とはいえ、たちまち空車はなくなってしまうだろう。
一旦編集部へ戻って、無線タクシーを呼ぼうか、と考えていると、タクシーではない普通の車が希代子のわきへスッと寄って来て|停《と》まった。
「失礼ですが――」
どこかで聞いた声だ、と思って目をやった希代子は、目を疑った。
「水浜君じゃないの!」
確かに水浜が車の窓から、希代子のことを眺めているのである。
「やっぱり。何だか後ろ姿が似てると思ったんです」
「でも――どうしてこんな所にいるの?」
そう|訊《き》いているうちに、雨は勢いよく降りだした。水浜はパッとドアを開けて、
「早く! 乗って下さい」
迷っている余裕はなかった。希代子は、慌てて車に乗り込んだのだった。
「この間は、ありがとう」
と、ハンカチで|濡《ぬ》れた髪を|拭《ぬぐ》いながら希代子は言った。
「え?」
「この間のファックス」
忘れているのだろうか。もちろんそうかもしれない。水浜の「彼女」は奈保で、希代子ではないのだ。
「ああ、いや――後でちょっと後悔しました。後で後悔した、っておかしいかな、言い方が」
「後悔? どうして?」
「あんなことでファックスなんか使って。お仕事の邪魔になりませんでしたか」
「いいえ、ちっとも」
と言って、「嬉しかったわ、本当よ」
「良かった」
水浜はニッコリと笑った。
「――悪いわね、こんな時間に」
と、希代子は言った。「この雨じゃ、タクシーが拾えそうもないし」
本当に、かなりの雨である。
「いや、ちょうど通りかかったんですから。お役に立って良かったですよ」
と、水浜の方は結構深夜のドライブを面白がっている様子。
「でも、本当にいいの?」
「もちろんです。忙しければ、僕もちゃんとそう言います」
「ならいいけど……」
あの細川幸子から預かった手紙を届けた住所を、水浜がドライブマップで捜しているのである。
「こう見えても勘はいいんです」
と、水浜は、自慢した。「任せて下さい。見付けて見せます」
「ありがとう。ともかく一度行っているから、近くへ行けば分ると思うわ」
窓の外へ目をやりながら、言った。
車は、夜の町を駆け抜けて行った。――長い長いトンネルのようだ。
「――何かあったんですね」
と、水浜は言った。
「うん……。奈保ちゃんから聞かなかった? 編集長の事件」
「女の人と一緒に死のうとした……」
「そう。その人のことで」
――希代子は、いきさつを水浜に話して聞かせた。別に訊かれたわけでもないのだが、話さずにはいられなかったのである。
それに、奈保から聞いた話は相当に不正確だろう。水浜には、倉田のことを、きちんと分っておいてほしい、と――どうしてかは分らないが――希代子はそう思ったのである。
「その女の人、どこへ行ったんでしょうね?」
と、水浜は言ってから、「これから行く所に?」
チラッと希代子を見る。
「さあ……。いてくれるといいんだけど」
「死のうとしてるんでしょ」
「そこまでは分らないけど――。ただ、あの赤ん坊の写真が気になってるの」
そうだ。それに、専務の西山が、希代子に細川幸子のことを頼もうとしたのもどこか妙だ。
たぶん、この裏にはもっと何か入り組んだものがあるのだ。
希代子はそう思いながら、窓に当る雨の粒がゆっくりと後方へ滑って行くのを、眺めていた。
「|嘘《うそ》はつかない方がいいですね」
と、水浜が言った。「偶然通りかかったわけじゃありません。たまたま近くで友だちと会ってたのは本当ですが、篠原さんのお勤め先はこの辺だと思ったんで、捜してたんです。そうしたら、急に姿が見えて……」
希代子は、水浜の横顔を見た。
しかし、何も言わなかった。言ったところで何になるだろう。
水浜は奈保の「彼氏」なのだ。それにまだ二十一。希代子が本気でその存在を考えるには、あまりに若い。
「どんな所で仕事をしてらっしゃるのかな、と思って……。好奇心が|旺《おう》|盛《せい》なんですよ、僕って」
「結構なことだわ」
と、希代子は言った。「編集者に向いてるかもしれないわね」
水浜がちょっと笑った。
自分のことについては、それ以上何も話さなかった……。
「――この辺です」
と、水浜は言って、車のスピードを落とした。
「この辺ね……。たぶんそうだわ」
希代子は窓の外の風景に目をこらした。
昼と夜では、町の顔は全く違う。しかし、確かに部分部分に見憶えのある目印を見付けることができた。
「停めて!」
と、希代子は言った。「――少しバックしてくれる?」
車がバックすると、希代子はドアを開けて外へ出た。雨はこの辺りではもう上っていた。
「これだわ。でも……」
希代子は、その古い造りのアパートの前に立って、呟いた。
これが、あの手紙を届けたアパートである。それは間違いないが、この間来たときには、その看板は目に付かなかった。
そこには〈編集プロダクション〉という消えかかった文字があり、その名前は、正に今しがた希代子がコラムの原稿を催促していたライターのオフィスそのものだったのである。
12 ライター
「勝手を言ってごめんなさい」
と、希代子は言った。
「君が謝ることはないじゃないか」
と、藤村が、コーヒーをゆっくりと飲む。
「そうはいかないわ。私は〈C〉の編集部を代表してあなたの所に来ているんだもの。私自身の指示でないにしろ、謝るのは私の仕事」
「希代子さんは律儀ね、相変らず」
と、藤村の妻、|百《ゆ》|合《り》|子《こ》が紅茶をいれてくれる。
二十歳という若さだが、もう二歳の子供もあるせいか、二十四歳くらいには見える。といっても、「若々しさ」は隠しようもない。
「全く、損な性分だな」
と、藤村は笑って言った。
「それより……。どうかしら? 無理は承知なの。新しい編集長に言って、原稿料も上げさせるわ」
と、希代子は確約した。
もちろん、久保田の承認を受けての話ではない。しかし、承知させる自信はあった。
「何しろ今日頼んで明日まで、って話ですもの」
と、希代子は言った。「見っともなくて、よそじゃ話せないわ」
藤村は、別に気を悪くしている様子もなく、
「毎回それじゃ困るけど、今度は特別だものな」
と言った。
「じゃ、やってくれる? ありがとう!」
と、頭を下げる。
「あら、長いお付合いですもの。ねえ、あなた」
と、百合子が言った。「もう書いてあるんじゃなかったの?」
「え?」
と、希代子が目を丸くしていると、
「おい、黙ってないと、高く売れないじゃないか」
と、藤村は、魔法のように封筒をテーブルの上に置いて見せた。「中に入ってる」
「藤村さん……。じゃ、電話入れて、ここへ私が来るまでの間に?」
「元から書くつもりでいたから、題材はあったんだ。そう感謝されるほどのことはないよ」
藤村は少年のように照れている。
希代子は、
「ありがとう! もう二度とコラムは打ち切らせないわ、あなたがライターを続けてる限りは。信じて」
と、強い口調で言った。
「分った。君のことは信じてるよ」
君のことは、と言ったのは、希代子くらいではどうしようもない「上の決定」というものがあると、藤村もよく分っているからであろう。
「――じゃ、その女の方、見付からずじまいなの?」
と、百合子が訊く。
「ええ。今のところ。心配は心配だけど、仕事しなきゃいけないし」
「倉田さん、辛いだろうね」
と、藤村が言った。
もちろん、ライターとして倉田のことも良く知っている。
「ともかくありがとう」
と、希代子は立ち上った。「すぐ入稿するわ。このまま印刷所へ回るから」
「ああ、それじゃ、ゲラが出たらファックスしてくれ」
「見てもらう時間は……二、三時間ね、せいぜい」
「それでも一応目を通したい」
「分ったわ。何とかする」
小さなコラムでも、自分の書いたものに対しては責任がある。藤村のようなライターは、しかし、現実には少ない。
「じゃ、これで」
希代子は、藤村の家を辞した。
やがて薄暗くなってくる。あの大騒ぎから、丸一日もたっていないとは、信じられないようだ。
印刷所までタクシーを飛ばし、その車の中で指定の赤字を入れる。――ともかく、ベテラン編集長の抜けた今の〈C〉編集部で、一つのコラムでも、「思ったより早く入稿できた」意味は大きい。
印刷所へ寄って、入稿をすませると、編集部へ電話した。
「あ、チーフ、ご苦労様です」
と、太田が出る。「どうでした、藤村さん?」
「もう入稿した」
「え? |凄《すご》いな、それ!」
と、太田が、仰天している。「藤村さん、チーフのこと好きなんですよ、きっと」
「こら、余計なこと言わなくていい。何か伝言は?」
「今は何も」
「じゃ、悪いけどマンションに帰って少し寝るわ。夜中に出るから」
「はい。じゃ、緊急のとき以外、電話しません」
「頼むわよ」
昨日から一睡もしていない。さすがに頭痛がした。
タクシーを拾って、マンションへ向おうと思ったが――。気が変った。
希代子は、津山家に立ち寄ることにしたのである。
奈保の家庭教師も、このところそれどころではなく、休んでいるし、水浜のこともあるし……。
タクシーの中の自動車電話で、
「これから行く」
と津山家に連絡した希代子は、道を運転手に説明した後、フッと目を閉じると、そのまま、ぐっすり眠ってしまい、運転手を少々心配させたのだった……。
「救急車呼ぼうと思ったんだって!」
と、希代子は笑って言った。「あんまり良く眠れるのも考えもんね」
「じゃ、コーヒーで目を覚まして」
と、津山静子が笑ってカップを置いた。「ブラックでね」
「そうするわ。――叔母さん。叔父さんは?」
「明日帰るの。札幌へ飛んでるわ」
と、静子は言った。
「奈保ちゃん、どうこのごろ?」
「ええ、明るくなって、元気だし……」
と、静子は言ってから、「でも……心配もあるわ」
と、少し上目づかいに希代子を見る。
「男の子のこと?」
「ええ。近ごろ年中電話で話しているし、うちも理解のある方だと思うんだけど……」
「希代子さん!」
と、居間へ奈保が入って来た。
「やあ。しっかり勉強してる?」
「うん。もちろん」
「その割に、どうして間違いがふえているんだ?」
と、希代子は言ってやった。
「ね、お母さん。今から彼が来るの。会うぐらいだったらいいでしょう?」
「彼って……」
と、静子が面食らって、「あの人?」
「うん。大丈夫。ちゃんと夕ご飯は食べてくるって」
「そんなこと言って……」
と、静子が言いかけると、玄関のチャイムが鳴った。
「あ、来た」
と、奈保が、いそいそと出て行った。
「希代子ちゃん……」
静子の情ない顔に、希代子はふき出しそうになった。
「叔母さん、大丈夫よ。私が目を光らせてるわ」
「お願いね」
と、渋い顔の静子は、ため息をつく。
希代子が居間を出ると、水浜がヴァイオリンケースを手にして上って来たところ。
「あ――」
と、希代子を見て、「どうも……」
と、目を伏せるだけの|挨《あい》|拶《さつ》をする。
「どうも」
希代子は、同じ言葉で返した。
「二階に来て」
と、奈保が促して階段を上って行く。「希代子さんもどう?」
「仕事が山ほど残ってる」
と、希代子が答えた。「それに少し寝るの」
「じゃ、また」
奈保がトントンと階段を上って行く。
水浜は、階段に一段、足をかけて振り向き、
「昨日のことは――奈保ちゃんには黙っていた方が」
と言った。
「黙って? なぜ?」
「やかれます[#「やかれます」に傍点]よ。奈保ちゃんに引っかかれたりしたら大変だ」
と笑って、上りかける。
「水浜君」
と、つい呼びかけていた。
「はい?」
途中まで上って、足を止め、振り向く。
「あの――とても助かったわ。いつかお礼に食事でも、と思っているんだけど」
こんなことを言うつもりではなかった。
いや、そもそも何か言おうという気もなく、つい名前が出てしまったのであろう。
「ありがとう。――光栄です」
「よしてよ。|平《ひら》の編集部員の月給で出せる所って限られてる。期待しないで」
「でも、楽しみですよ」
水浜の声が小さくなる。「奈保ちゃんには言いません」
「――そうね」
静子は送りには出ないで、玄関の手前――本当はそれで充分なのだが――で、希代子を見送った。
玄関を出た希代子は胸苦しいほどのときめきを覚えていた。
表の通りへ出ると、タクシーが来てちょうど目と鼻の先に停った。
「やあ」
札幌にいるはずの津山隆一が、窓から顔を出していた。「どうだい、一杯飲みに行かないか」
もちろん希代子としては気が進まない。しかし、叔父から、何か白石のことを訊き出せるかもしれないと思った。
「じゃ、一杯だけね」
と、希代子は肯いて、そのタクシーに乗り込んだ。
13 外 泊
どこででも眠れる。
これは編集者として便利な特技の一つである。少なくとも、この「武器」があるとないでは、ずいぶん疲れ方も違うだろう。
けれど、その武器が逆に困った事態をもたらすことにもなる、ということを、希代子はこの晩痛感した。
叔父の津山隆一が、希代子をホテルのバーへ連れて行ったのは、果して下心があったのかどうか。しかし自宅には「明日帰る」と言っていたことを考えると、やはりそこまで考えてのことだったかもしれない。
ともかく、バーへ行った希代子は軽く水割りなど飲んだのだが……。
とても、白石のことを津山から|訊《き》き出すどころじゃない。津山家へ向うタクシーで眠ったとはいうものの、寝が足りているわけでなし、寝不足プラスアルコールプラス薄暗いバーとくれば、眠くならない方がどうかしている。
津山が何を話したかも、ろくに|憶《おぼ》えていない。たぶんアッという間にウトウトし始めていただろう。
「叔父さん……。ごめんなさい。今夜はくたびれてて、だめ……」
何がだめなのか、はたで聞いたら誤解されそうなセリフも少々もつれて、津山は苦笑いし、
「じゃ、帰るか。それとも泊ってくかい?」
「泊って、って……。だめ。だめよ。叔父と|姪《めい》なのよ」
「分ってる。君だけ泊ってくか、って意味だ。それなら部屋を取ってあげる」
「どうも……。ご親切に」
と言ったところまでは憶えている。
でも――次の記憶は、ベッドの中。いつものクッションとは微妙に違っていて、特に|枕《まくら》が違う。
目を開けて――。まだ、夜中?
そう思ったのは、部屋の中が真暗だったからだ。しかし、何だか違う……。
「そうか」
起き上って、クラッとした。
ここはホテルだ! もちろん、いかがわしいホテルじゃなくて、一流の都心のホテルではあるが。
ナイトテーブルの時計を見ると、一時半。――夜とは思えない。
ゾッとして、ベッドから出ると、カーテンを開けに行った。まぶしい光が|溢《あふ》れて、目をつぶってしまう。
「お昼過ぎ!」
自分で|呆《あき》れた。――着たものはそのまんま。靴だけは誰かが脱がしてくれたらしい。
服はしわくちゃ、髪もボサボサで、鏡を見るのが怖い。
「ああ……。参った!」
やはり叔父に付合うんじゃなかった、とため息をつく。
テーブルにメモがあった。
〈ぐっすり眠ったかい? この部屋は、僕がホテルのメンバーなので午後二時までは超過料金なしでいられる。部屋代は払ってある。希代ちゃんは寝顔が|可愛《かわい》いということを発見したよ。しかし、こっちは紳士的にふるまったからね。信じてくれ。
また連絡する。
[#地から2字上げ]津山〉
二時までね……。
希代子は、頭を振ると、取りあえず服を脱いでバスルームへ行き、シャワーを浴びた。
目を覚まさなくちゃ! 見た目がどうかは二の次だ!
――やっと少しさっぱりして、しわくちゃの服を着ていると、電話が鳴って、フロントから。
「すぐチェックアウトします!」
超過料金を取られたらたまらない。希代子はあわてて部屋を出たのである。
マンションに戻って、とりあえず会社へ電話を入れる。
〈C〉の編集部はまだ半分くらいしか出社していないというので、少しホッとした。
「急な用は?――ない? じゃ、もう少ししたら行くから」
電話を切ると、ファックスが何枚か入っていた。一枚は倉田からである。病院からファックス? 希代子は笑ってしまった。
〈幸子の手がかりは、まだない。色々すまん。
[#地から2字上げ]倉田〉
とだけ。
細川幸子は、あの家にもいなかった。
倉田がライターとして頼んだのは、幸子が一時世話になっていたというオフィスだった。しかし、それが幸子の頼みだったのかどうか、希代子は確かめていなかった。そんな余裕もなかったのである。
ともかく、藤村の代りをつとめるには力不足で、本人から辞退して来て、希代子はあわてて藤村の所へ駆けつけるはめになったのだった。
幸子のことが心配でないわけではないが、ともかくやらなくてはならない仕事が山ほどあって、他の誰にも任せるというわけにいかなかった。
細川幸子……。なぜ、病院から消えてしまったのか。
|欠伸《あくび》しながら、次のファックスを見て、ソファに腰をおろす。
〈希代子さん。
何度か電話してみましたが、出られないので……。
ぐっすり眠っておられたら、すみません。それとも――恋人とどこかに泊ったのかな? 希代子さんの彼氏はどんな人ですか。興味があるな。
ゆうべは、奈保ちゃんの家庭教師をさせられました。『点が落ちると会わせてくれなくなる!』と奈保ちゃん、本気でしたよ。
では。
[#地から2字上げ]水浜〉
そして追伸風に、〈食事できるのを楽しみにしています〉とあった。
わざわざファックスしてくる用件があったわけではない。それでも、水浜の字がこうして見られると、希代子はとても懐しい感じがした。
〈希代子さんの彼氏〉か……。
いないはずがない。――どうしても、そう見られてしまう。
そんな人、いないのよ。そう言ったところで、きっと水浜も信じてくれないだろう。
でも、ゆうべ〈恋人とどこかに泊ったのか〉と気にしてくれているのが、何だかくすぐったいようだった。
「あーあ」
と、伸びをして、思い出した。「そうか。お|腹《なか》が空いてたんだ」
これだから、彼氏と縁がないのかもしれない。――希代子は自分で笑ってしまった。
ともかく出かける仕度をし、着替えて気分も変える。格別忙しいときほど、お|洒《しゃ》|落《れ》をしたい、といつも思う。
髪振り乱して仕事をしている、と見られたくない。希代子の中には、いつもその気持があった。
いや、なりふり構わず仕事に没頭している姿も、それなりに美しいと思うが、仕事だけの人生ではないという気もある。
どんなに忙しくても、余裕を持っていたい。それが仕事のときのお洒落になる。
でも、それにも限度がある。あと一日二日、この忙しさが続いたら、もう自分がどんな格好をしているかも忘れてしまうだろう……。
「――さあ、お昼を食べに行くか」
と、口に出して言って、ふと、「そうか。水浜君と……」
水浜と、どこで食事しようか。誘っておいて、そこを考えていなかった。
水浜は大学生だ。堅苦しいフランス料理なんて、いやがるだろうか。
でも、彼の雰囲気には何となく合っているような気もする。
それとも、やはり若さに任せて、お腹一杯食べられる所の方がいいかな?
希代子は、マンションを出ながら、何となく心楽しい気分になっていた。少なくとも、仕事以外の予定が一つはある。
それがこんなに珍しいことだというのは、ちょっと寂しくもあったけれど。
外へ出ると、もう午後もそろそろ夕方に近付いてくるころ。けれども、空は青く色濃く、よく晴れ上っていた。
「おはよう」
と、編集部へ入って太田和也に向って言ってから、「いやだ、芸能人ね、まるで」
と笑う。
「夕方出社で『おはよう』ですか」
と、太田も笑って、「チーフ、ゆうべは外泊ですか」
と少し小声になる。
そういうデリカシーは持ち合せている男である。
「どうして?」
と訊き返したのは肯定と同じ。
「編集長が何回か電話してました」
「久保田氏ね」
分り切っている。けれども、希代子の中では「編集長イコール倉田」なのだ。だからつい念を押してしまう。
「今は出かけてます。でも、もう帰る時間かな」
太田が腕時計を見る。
「時計を止めたいわ」
と、希代子は言った。「何の用だろう?」
「さあ。あれだけ必死になってましたからね。結構急な用だったのかも」
「へえ」
初耳である。しかも、留守番電話には何も入っていない。本当に久保田は電話してきたのだろうか? でも、太田が|嘘《うそ》をついて何になるというのか。
希代子は首をかしげた。
「――他に何か?」
「インタビューページの写真、文句つけて来たそうですよ、先方が」
「ええ? 今さら、どうしようもないわよ」
「でも、えらく気を悪くしてるって。出版の重役に直接苦情が行ったらしいんだけど」
「やれやれね。――この前のブラウス屋さんの広告よりはずっとましでしょ」
「そう思いますけどね」
「老けて見える、って言われても、本当に老けてるんだもの、仕方ないわよね。もうあの人、六十二、三でしょ」
「でも、怒らせると本の売れ行きに響く、そう心配してるんですよ。編集長も、ピリピリしてます」
「OK。何かお気に入りの古い写真でごまかすわ」
と、希代子は言って、ため息をついた。
「どこかから借りないと。――ええと、どこか貸しのある編集部、ないか!」
と手帳をめくった。
そんなときは、顔の広さと、普段の付合いがものを言う。
あちこち電話をかけまくって、やっと適当な写真を貸してもらえた。
ホッとしているところへ、久保田が現われると、
「おい、篠原君!」
口を開くなり、こうだ。
「はい……」
あれはどうなった、と言われて、「もう片付きました」と答えられるのは快感である。その一言が言いたくて、希代子は頑張るのかもしれない。
「インタビューページの写真――」
と、久保田は言いかけて、自分の椅子にドカッと座る。
「別のと差しかえます。K社から借りる手はずを整えました」
と返事をされて、
「そうか……。いや、それなら……」
久保田は少し顔をあからめている。
「その前に、マンションに電話いただきました? 何の用だったんですか。私、ゆうべは遅くて」
「うむ? いや、何でもない」
と、あわてて首を振って、それでも汗がふき出す。
何だかおかしいわね、と希代子は思った。
もちろん、前の編集長のようなことは、まさか[#「まさか」に傍点]もうないだろうけど……。
14 朝の光景
「おい、篠原君――」
と、久保田が立って来る。
「はい」
希代子は、受話器を置いた。――たった今、待たせておいた最後のページを、
「そのまま刷って」
と、印刷所へ連絡したところである。
久保田は、何だか一歩間違えば浮浪者のようだった。――ワイシャツはしわくちゃで、ネクタイは単に首に絡みつく布にすぎなくなっている。
そしてボサボサの髪、不精ひげ。
「何ですか、編集長」
と、希代子は言った。
体が宙に浮かんででもいるようだ。
「うん……。後はどこが残ってるんだ、校了?」
と、久保田が少し上ずった声で言った。
「もうありません」
希代子は進行表を久保田の方へ差し出した。「全部消しました。みんな終りです」
「そうか」
久保田はちょっとの間、ポカンとしていたが、「じゃ……終ったのか」
「ええ。とりあえず今度の号は。でも、次の号も、その次の号もあるんですよ」
「そうか……終ったのか」
久保田は、ちょっと笑った。「これが編集か。――結構やれるもんだな」
「言ってくれますね」
と、希代子は笑って言った。
編集部の中に笑いが起った。――もちろん全員が残っている。
「ともかく……すんだか」
久保田は、腰に手を当てて、編集部の中を見回すと、「ご苦労さん。――よくやってくれた」
と言った。
ごく自然に……拍手が起った。
何だか変だ。毎日毎日くり返している仕事なのに、どうしていちいち拍手なんか……。
でも、希代子にもみんなの気持は分った。倉田の突然の事件で、やはり不安だったのだ。
果してやれるのだろうか、と。――それが、何とかいつもの月より何時間か遅れただけで、やりとげた。その|安《あん》|堵《ど》の思いが、拍手となったのである。
互いへの拍手、自分への拍手でもあるし、
「やればできるじゃないか」
という気持の現われでもあるだろう。
「篠原君、ありがとう」
久保田が言った。「君のおかげだ」
ちょっと照れくさいが、|嬉《うれ》しかった。
「どういたしまして」
希代子は、引出しからバッグを取り出すと、
「今日は何があっても夕方まで起きない!」
と宣言した。
もう窓の外は明るくなっている。当然だろう。午前七時である。
「――さ、片付けて帰ろう」
久保田の言葉で、みんながガタガタと音をたてながら立ち上り、机の上を片付け始めた。
床には|紙《かみ》|屑《くず》が山になっているが、誰も気に止めやしない。
希代子は、太田へ、
「カズちゃん、出て来る?」
と訊いた。
「ええ。夕方、一件取材が入ってますから」
「ご苦労様」
「そのまま出かけていいですか。デートなんで」
「いいわよ。何時の約束なの?」
「十時です」
「夜の? ひどいデートね」
「普通なら、|呆《あき》れられちゃいますよね。何の商売してるんだって」
と、太田は笑った。
「まともじゃないよね。朝の七時に会社を出るなんて」
と、希代子は首を振って、「編集長。明日――あ、今日か。夜のパーティは出なくていいですか」
「何かあったか」
久保田は、何とかネクタイをしめ直して、格好をつけようとしている。
「会社のですよ。私、正社員じゃないし」
「ああ、構わん。晩飯を食いたい奴が出ればいい」
久保田もすっかり言うことが「編集の人間」である。――希代子も、久保田を抵抗なく「編集長」と呼べるようになっていた。
電話が鳴ったが、ちょっとの間、誰も出ようとしなかった。何か問題でも起ったのかと思うと、「出たくない」のである。
しかし、放っておくわけにもいかず、太田が取る。
「――あ、どうも」
希代子には分った。何も言わずに太田から受け取る。
「――もしもし」
「希代子か」
倉田である。「どうだ?」
「今、終りました」
少し間があって、
「――そうか。ご苦労。問題なかったか」
「特に何も。これから帰るところです」
「良かった。希代子。ありがとう」
「こんな時間に起きるなんて、時差ボケ起しますよ」
と、希代子は言ってやった。
「お前も入院でもしてみろ。いやでも早寝早起きだ」
と言って、倉田は笑った。
ホッとした笑いではあるだろうが、希代子はその裏に寂しげな響きを聞いたような気がした。
自分なしでも、無事に雑誌が出るということ。――それは倉田にとっては寂しいことなのである。
「早く寝て、ちゃんと治らなきゃ、どこも雇ってくれませんよ」
と、希代子は言ってやった。
「ああ。――希代子。ありがとう」
倉田の礼の言葉は、色んな意味を含んだものに違いなかった。
――会社の「通用口」を出ると、希代子は|欠伸《あくび》をしたが、眠気はあまりない。
神経がたかぶっているので、眠くならないのだ。いつものことなので、分っていた。
「篠原君」
と、久保田も出て来た。「疲れたろう」
「いいえ、私は毎月やってますから」
と、希代子は言った。「久保田さんこそ、初めてでしょ。こんな時間に帰るの」
「ああ……。うちで女房が心配してる。突然連日の朝帰りだからな」
「説明してあげますよ。あらぬ疑いをかけられたときは」
タクシーが来る。「久保田さん、どうぞ、早く帰った方が」
「いや、君が乗れ」
と、久保田は首を振った。「せめて編集長らしいことをさせろよ」
「じゃ、お言葉に甘えて」
希代子も、あえて逆らわなかった。「お先に」
「お疲れさん」
――これからも、何度「お疲れさん」を聞くことになるだろうか、と希代子は思った。
タクシーの座席に身を|委《ゆだ》ね、どうせ眠れはしないのだが、目を閉じた。
朝日が、ときどきまぶしく|瞼《まぶた》を照らして行った。
マンションに戻った希代子は、朝刊を手にソファに座った。
せっかく活字から解放されたのに、と思うが、どうせ眠れないのだ。TVを見るのもくたびれる。
お茶をいれて飲んでいると、電話が鳴り出して、びっくりした。――こんな時間に? 白石かもしれない、という思いが頭をよぎった。
用心しながら、留守電を解除せずに聞いていると、
「――水浜です」
という声。
急いで受話器を上げた。
「あ、いらしたんですか」
と、向うがびっくりしている。
「今、帰って来たところ」
「へえ」
と、珍しそうに、「吸血鬼みたいな生活なんですね」
「他に言いようないの?」
と、笑って、「何か?」
「あの、奈保ちゃんのことなんですが、明日テストなんです。もし時間があったら」
「ああ、ずっと放ったらかしちゃったから」
と、希代子は言った。「気にはしてたんだけど。明日、何のテスト?」
「生物です」
「分った。じゃ、今夜行くわ」
「お願いします」
「あなたに、そんなマネージメントまでやらせちゃって、悪いわね」
「いえ、ちっとも」
「あの……」
と言いかけて、「夕食の約束だけど」
「でも――お忙しいんでしょ」
「今朝で一区切りなの。夜なら……明日でも」
「僕はいつでも構いません」
「じゃあ……明日の夜?」
「はい」
「会社の前で待っててくれる? 七時くらいでどうかしら」
「分りました」
――希代子は、あまりに簡単に決ってしまったので、|却《かえ》って拍子抜けした。
「これから大学?」
「そうです。――どうなりました、この間の女の人?」
細川幸子のことだと気付くのに、少しかかった。
「まだ、行方がわからないの。心配してはいるんだけど……」
そうだろうか。水浜と出かけることで頭が一杯になってはいなかったか。
しかし、電話を切って、希代子が第一にしたことは、自分の分厚い手帳を開いて、水浜とどこの店に行くか、考えることだった……。
「――ね、すてきでしょ?」
と、奈保が写真を見せた。「よくとれてるわ、あの人[#「あの人」に傍点]」
あの人ね。――希代子は、ちょっと笑って、
「さ、今は勉強。明日のテスト、大変よ、このままじゃ」
「はあい」
と、奈保は口を|尖《とが》らして、「ああ、早く卒業したい。テストがなくていいわね、希代子さんは」
「何言ってるの」
――大人になれば、もっともっと大変なことが待ち受けている。そう言ってやることは簡単だ。しかし、人間誰から言われたところで、自分自身がそうなってみなければ分りはしない。
――久しぶりの勉強で、教える希代子の方もみっちりと身が入った。奈保にとっては迷惑だったかもしれない。
「ご苦労様」
と、叔母の静子が軽い食事を運んで来てくれる。「少し休んでね」
「どうも。――叔父さんは?」
「今は大阪。ほとんど家にはいないわ」
と、静子は言った。
「――嘘じゃないかなあ」
と、静子が行ってしまうと、奈保はサンドイッチをつまみながら言った。
「嘘って?」
「お父さん――大阪へ行くって、きっと口実。あの女と一緒だよ」
希代子は食べかけた手を止めた。
「どうして?」
「たぶん……。お母さんの様子見てると、分るもの」
希代子は何も言わなかった。たぶん、奈保の察した通りかもしれないのだ。
「本気で誰か他の人、好きになった、っていうのなら、しょうがないけど」
と、奈保は言った。「どう思う?」
「さあ……。恋の形は人それぞれだから」
「そうだね」
と、奈保は|肯《うなず》いて、「私だって――」
「うん?」
奈保は、ちょっとためらってから、それを振り切るように言った。
「希代子さん。この間――あの人とキスした」
希代子は、ゆっくりとサンドイッチをかみ切った。
「――そう」
「いいよね、それくらい」
「そうね……」
「それ以上は絶対しないから」
「そうね。絶対よ」
「うん」
と、奈保は肯いて、「――キスだけなら、してもいいよね?」
と訊いたのだった。
15 夕 食
「飲めるのね」
希代子は、ワイングラスを空けた水浜を見て言った。
「強くはないです。――といっても、普通、くらいかな」
「若いものね」
と、希代子は首を振って、「私も……水浜君くらいのときは、いくら飲んでも平気だったわ」
「今だって、若いじゃありませんか」
「そう? 信じておくわ」
と、希代子は笑った。
結局、静かなフランス料理の店を選んだのは、騒がしくて話のできないのを心配したからだが、ここはまた静かすぎて、話しにくいくらいだった。
「――いいお店ですね」
と、水浜が言った。
「そう? 大学生には少し物足りないかもしれない」
「そんなこと……。そんなに大食いじゃないですよ」
と、水浜は笑った。
希代子は、何だか妙に緊張してしまって、話が続けられない自分を感じていた。
むしろ、水浜の方が大学での話や、オーケストラのことなど、希代子を話の中へ引き込んでくれる。
少々情ないようでもあった。
食後、デザートを食べながら、
「ゆうべ――」
と、希代子は言った。「奈保ちゃんから聞いたわ」
水浜が希代子を見る。
「キスした、って……。空に舞い上りそうだったわ」
水浜はちょっと目を伏せて、
「すみません」
と言った。「いけないな、とは思ったんですけど」
「でも……。まあ、好きならね」
希代子もつい水浜から目をそらしていた。「でも、その先は、あなたが抑えてね。もし、奈保ちゃんが――」
「大丈夫です」
と、水浜は希代子を|真《まっ》|直《す》ぐに見て言った。「大丈夫です。だって――」
と言葉を切る。
「だって?」
「いえ……。何でもありません」
と、首を振ると、水浜は口をつぐんでしまった。
食事はおいしかったが、その後は、あまり話も弾まなかった。
キスのことを言い出したのを、希代子は後悔した。
「――帰り、送るわ」
と、希代子が席を立とうとすると、
「僕が送ります」
と、水浜が言った。「それくらい、させて下さい」
「分ったわ。でも……電車で帰りましょうね」
「はい」
やっと、二人は自然に|微笑《ほほえ》むことができた。
「あなた、いつかファックスに書いてたわね」
もうマンションに近い。夜道は人影もあまりなかった。
「私の彼氏がどんな人かって」
「ええ」
「いない、って言っても信じてくれないんでしょ」
「まさか」
「ほらね」
「でも――」
「本当なんだから」
と肩をすくめて、「時間はめちゃくちゃ、休みもあってないようなもんだし、これでデートするのは至難の業」
「そうですか」
と、水浜は肯いて、「でも、きっと希代子さんがその気になったら、相手なんかすぐ見付かると思う。今はその気がないんですよ」
「決めつけないで」
と、希代子は笑った。
「仕事が楽しいから、あえていらないんでしょ、恋人」
「そんなの……ちょっと寂しいわね」
「でも、そんな風に見える」
「そう? でも、恋人ができれば、何としてでも時間を作るでしょうけどね」
「そうでしょうね」
二人は、何となく黙った。
「――そこのマンションよ」
と、足どりをゆるめる。
水浜は、足を止めて、
「僕のために時間を作って下さって、ありがとう」
と言った。
「とんでもない。――ね、水浜君」
「何ですか」
「さっき、レストランで言いかけてやめたのは……。何を言おうとしたの? 言いたくなければ、いいんだけど」
「それは――」
と、水浜は言いかけて、希代子の肩越しに視線を投げた。
振り向いた希代子は、白石が、少し離れて突っ立っているのに気付いた。
「――この前の小僧か」
と、白石がフラッとやってくる。
「酔ってるのね。相変らず」
「酔ってでもいなきゃ、生きてけないぜ」
と、白石は言って、目はじっと水浜の方を見ている。
白石は、しかし少なくとも身なりは小ざっぱりしていた。
やはり津山隆一との仕事が、うまく行っているのだろうか。
改めて、津山に白石とのつながりをはっきり訊く必要があると思った。
「ずいぶんとまた、若いのに趣味が変ったじゃないか」
と、白石が|歪《ゆが》んだ笑みを浮かべた。
「誤解しないで。そんな仲じゃないわ」
「そうか? とてもそうは見えないぜ。いかにも二枚目ってのが、お前の好みだろう」
「もう帰って。二度と姿を見せないで、と言ったはずよ」
「お前の希望だろ? 人間、歩み寄りが大切さ。こっちの希望も聞いてくれ」
「あなたの希望?」
「お前を誰にもやらない[#「やらない」に傍点]ってことさ。他の男に指をくわえて持っていかれるほど、お人好しじゃない」
「もう充分でしょう。――帰って」
と、希代子はくり返した。
「分った……。しかし、そんな青二才よりも俺の方がどんなにまし[#「まし」に傍点]か」
「人間の出来の問題よ。それが分らないのね」
「その内分る。お前の職業だって、まともじゃない。エリートを捕まえるのはまず無理だろう」
「大きなお世話」
と言い返す。
「じゃ……行くぜ」
「どうぞ、どこへでも」
白石がフラッと行ってしまった。
「――ごめんなさい」
「謝っちゃいけない。そうでしょ」
「ええ」
ともかく、用心に越したことはない。水浜は、希代子の部屋のドアの前まで送って来てくれた。
「ありがとう」
と、玄関の前で希代子は言った。
「いえ……」
と行きかけて、「希代子さん」
「なあに?」
「さっき言いそびれた言葉ですけど」
と、水浜は言った。「『だって』と言いましたよね」
「ええ」
「その後を聞きたい?」
「ええ」
「僕が奈保ちゃんにキスしたのは……。だって、希代子さんにはキスできないからです」
じゃあ、と水浜は足早に行ってしまう。
希代子は、しばしぼんやりとしていた。
私にキスできないから……。
そんなの――お世辞だ。年上の女を喜ばせてくれるのが上手なのだ。
でも、もしかしたら……。
もしかしたら、本当に水浜は私のことが好きなのかもしれない……。
希代子は部屋へ入り、しっかりとドアをロックした。
水浜の最後の一言が、胸を騒がせている。
しばらく、希代子はソファに身を沈めていた。そして、やっとファックス受信の音が聞こえて、立ち上った。
「編集長?」
と、ファックスを見る。
倉田のことである。
〈幸子が見付かった。もし良ければ、明日、病院へ来てくれ。                   倉田〉
とあるだけ。
どこで、どんな様子で見付かったのか、何も書いていない。
ともかく、良かった。――ホッとして、とたんに眠くなった。
いくらでも眠れそうな、そんな気のする希代子だった。
16 過 去
靴音が響かないように、用心しながら希代子は病院の廊下を歩いて行く。
ともかく、もう面会時間はとっくに過ぎているのだ。その辺は、「働く女性」同士の共感があって、
「仕事が忙しくて、急な約束が入ってしまって……」
と話せば、たいていは入れてくれる。
もちろん、それはでたらめではない。
希代子は、藤村のコラムのカットのことでどうしても出かける必要があったのである。意外に手間どって、倉田に頼まれていたように、「病院へ寄る」のが、こんな時間になってしまった。
もちろん、編集者にとっては遅い時間でもないのだが、世間一般の人にしてみれば、夜もやや更けた、という時刻であろう。
倉田の病室へ顔を|覗《のぞ》かせると、
「何だ、今来たのか」
と、倉田は相変らずベッドで本を読んでいる。
「目が悪くなりますよ」
と、希代子は忠告した。
「そんなことより……大変だろ、校了の合間も」
「いつものことです」
と、希代子は|椅《い》|子《す》を持って来て座ると、「それで、幸子さんは?」
「うん、大丈夫だ」
と、心からホッとしている口調で、「今は鎮静剤で眠っている」
「何があったんですか?」
「うん……」
倉田はチラッとドアの方へ目をやって、息をつく。「――お前、見たのか、赤ん坊の写真」
「え?――ええ、ほんのチラッとですけどね」
と、希代子は|肯《うなず》いた。「あれが何か?」
倉田はちょっと言い出しかねている様子だったが、同室の入院患者の耳に入れたくないということもあったのかもしれない。
「廊下へ出よう」
と、倉田はベッドから出てスリッパをはいた。
「いいんですか、起きて。――ま、ファックスなんか送ってんだものな」
希代子の言葉に、倉田はちょっと笑った。
――廊下の奥のソファに身を|委《ゆだ》ねて、倉田は軽く息をついた。
ちょっとした休憩所のような場所だが、そばに公衆電話があって、ほとんど白髪になった|寝衣《ねまき》姿の女性が声を殺してしゃべっていた。「うん……」「それでね」といった言葉しか聞こえない。
「色々すまんな。忙しいのに」
と、倉田は言った。
「そう謝らないで下さい。子供じゃないんですから」
と、希代子は言った。
実際、倉田がやたら謝るようになったのが、ひどく老けたという印象を与えているのかもしれなかった。
人間、本当に忙しく、精一杯やっているときには、人を巻き込んでも、そう「すまない」とは思わないものだ。
「うん……。子供[#「子供」に傍点]か」
と、倉田は|呟《つぶや》いた。
「あの写真の赤ん坊は……幸子さんの子供なんですか」
と、希代子は|訊《き》いた。
「察しはついてたろ?」
「ええ、まあ……。編集長の、じゃないですよね」
「おい、いつそんなことをしたっていうんだ」
と、顔をしかめておいて、「ま、偉そうなことは言えないけどな」
「そうですよ」
「あの赤ん坊は――幸子が|二十歳《はたち》のころに産んだ子だ」
「そんな若いころに?」
「うん。|俺《おれ》も、女房の|従妹《いとこ》といっても、幸子のことをよく知ってたわけじゃないから、詳しい事情は知らん。ともかく、子供ができて、|堕《おろ》すこともできず、といってその相手と結婚もできなかった、というところだろうな」
「それで……」
「子供は生まれたが、結局、養子に出すことになった。幸子にとっては、そのことがずっと傷になって残ってるんだ」
「それはそうでしょうね」
「どこへもらわれて行ったのか、俺は知らんが、幸子は聞いていたらしい。幸子はその子に会いに行ったんだ」
と、倉田は言った。「いや、見に行った、と言うべきだろうな。向うは何も知らないんだから」
「二十歳のころの子、ってことは――もう七つぐらいになってるんですね」
「うん。だから、下手に顔を出すわけにもいかないんだろう。――結局見られたのかどうか、聞かなかったが、一応納得して帰って来たらしい。疲れ切って、体力を回復させるのが第一だ」
「そうですね、じゃ――あの、コラムを頼んだプロダクションの人が何か知ってたんですか」
「うん。その子供をもらってくれた家の|親《しん》|戚《せき》なんだ」
と、倉田は肯いた。「藤村君には悪いことをした」
「大丈夫。私がうまくやりましたから」
「希代子、藤村君が好きなんだろう」
突然そんなことを言われて、希代子はどぎまぎした。
「何ですか、いきなり!――妻子持ちなんて趣味じゃないです。今は大学生と付合ってるんですから」
「大学生?」
と、倉田が目を丸くしている。
「こっちの話です」
ピーッピーッと音がして、公衆電話からテレホンカードを抜くと、あの白髪の女性がゆっくりと引きずるような足どりで病室へ戻って行くところだった。
「――ここの電話が口をきけたら、さぞドラマチックだろうな」
と、倉田が言った。「年中家族が見舞に来てくれる患者は少ない。この電話だけが、外の世界へ通じてる窓口、って者が大勢いるんだ」
希代子はこの年齢まで入院の経験がない。――特に丈夫、というわけでもないが、そこは若さというものだろう。でも、いつか自分もガタの来るときはあるはずだ。
「幸子の所に、もしできたら顔を出してやってくれ」
と、倉田は話を戻して、「あれは君のことを頼りにしてる」
「人に頼られるばっかり。少しは頼ってみたいわ」
と、希代子は少し冗談めかして言った。
「できたら、明日でも寄ってみます」
「うん。頼む」
倉田はホッとした様子で、「次の号は順調に行ってるか?」
「編集長」
「何だ」
「――いえ、別に」
希代子は、倉田の髪が一段と白くなっていることに、改めて気付いた。しかし、もう冷やかしてやる気にもなれない。
「仕事の話になると、急に元気そうになりますね」
と、わざと言ってやって、倉田の笑みを見て|安《あん》|堵《ど》する希代子だった……。
会社へ行って、一時間ほど仕事をしてから、希代子は帰ることにした。
編集者の仕事は、会社でなくてもできる部分も多い。その代り、仕事と私生活のけじめのつけにくいところはある。
この日も、帰ってから読もう、と書評欄で取り上げる本を|鞄《かばん》に入れて、会社を出た。
奈保の所へ寄って行こうと思い立ったのは、タクシーに乗ってから。昨日のテストのできも気になったし、今が少し息のつける期間でもある。
奈保の家庭教師は自分で、水浜じゃないのだ。水浜に負担をかけるようなことは避けたかった。
「――どうも」
タクシーを降りて、希代子は津山家のインタホンを押した。
二度、三度と鳴らしたが、なかなか出ない。――出かけたんだろうか?
じゃ、今日はマンションへ帰ろうかと思ったとき、
「はい」
と、奈保自身の声がした。
「あ、奈保ちゃん。希代子よ」
と言うと、
「希代子さん。あの――少し待ってて」
と、奈保が言った。「すぐ……。二、三分待って」
「うん。いいわよ」
外で待っていて寒いという季節じゃない。お風呂にでも入ってたのかしら。
実際には五分ほどかかって、奈保が玄関から小走りに出てくるのが見えた。
「ごめんなさい!」
「いいのよ。突然来ちゃったから」
「お母さん、出かけてるの。今夜は遅くなるって」
「じゃ、一人?」
奈保は答えなかった。
玄関を上ろうとして、希代子は、見たことのある靴に気付いた。
「今晩は」
と、水浜が出て来て、言った。
「――今晩は」
と、希代子は言って、上ると、「来てたの」
「テストのこと、心配して来てくれてたの」
と、奈保が言った。「何か飲む?」
「そうね」
「じゃ、紅茶いれる。――邦法さん、飲むでしょ?」
「うん」
「リビングで待ってて」
奈保が軽やかにダイニングキッチンへと駆けて行く。
希代子は、ソファに身を沈めると、
「水浜君が来てたのなら、わざわざ来ることもなかったわね」
と言った。
「そんなこと――。僕は苦手ですよ、理数系は」
と、水浜は少し照れたように、「でも、|凄《すご》いですね、篠原さん。もう学校出られて何年もたってるのに」
「もう限界よ。奈保ちゃんの家庭教師っていっても、こっちの頭がさびつかないようにやってるだけ。やらせてもらってる、って言った方が正確かな」
希代子は、息をついて、テーブルの上の夕刊に手を伸した。「――新聞なんて、何日分もため込んじゃう」
「忙しいんですね」
「そう……。忙しい、って言っちゃったら、何でも逃げられる。それを言っちゃいけないのよね」
と言って、希代子はゆっくりとページをめくる。
でも、記事の内容は少しも頭に入って来ない。新聞を手に取ったのは、たぶん――自分でもよく分っていないが――水浜と目を合せないための口実だったのだろう。
希代子は大人で、そして奈保が水浜のことを好きだと知っている。母親も外出して、二人きりで家にいて……。
希代子がインタホンのボタンを押したとき、なぜ奈保が出るまでに手間どったのか。そして、それからなお五分もたって、やっと玄関から出て来たのはどうしてなのか。
考えてはいけないことを、つい考えてしまう。そして、希代子自身、自分の想像が、必ずしも見当外れのものでないことを、直感的に察していた。
「――お待たせ」
と、奈保が紅茶をいれて運んでくる。
「ありがとう」
「クッキー、食べる?」
「ううん、いいわ。それより、テストはどうだったの?」
奈保の態度も、自然なものとは言えなかった。もし、何も[#「何も」に傍点]なかったのなら、|却《かえ》って、
「私たちの邪魔して!」
ぐらいは言うはずである。
それが、文句らしいものは口にせず、こうして紅茶をいれて来たりするのは……。
邪推、と言われればそうかもしれないが、希代子は自分の直感の方がたぶん正しいだろうと知っていた。
二人がすでにキスまでは行っていたことも承知している。いくら「そこまで」と言っておいても、この家の中で二人きりになって、大学生と高校生に「理性を持て」と言っても難しいことかもしれない。いい悪いではなく、現実の問題として、だ。
奈保がテストの問題について、あれこれ文句をつけるのを聞きながら、希代子の注意は|脇《わき》にいる水浜へと向いている。
水浜は一切口を挟もうとはせず、そして希代子の方を見ようともしなかった。
「――もう行くわ」
と、希代子が腕時計を見て言うと、
「じゃ、僕も」
と、水浜は先に立ち上った。
奈保も、それは分っていたらしく、すぐに立って、
「じゃ、そこまで行く」
「いいわよ。帰りが一人じゃ、却って心配。家にいて、ちゃんと戸締りしておきなさい」
希代子の言葉に、奈保は特に逆らわなかった……。
17 二つの会話
「タクシーを拾うわ」
と、希代子は歩きながら言った。「水浜君は?」
「僕は電車で」
と、水浜は言って、「学生ですよ」
と|微笑《ほほえ》んだ。
「それもそうか。じゃ、駅まで一緒に行きましょ」
歩くと十五分ほど。苦になるほどの距離ではなかった。
夜道を歩きながら、何となく二人とも黙りがちだった。
「――そうだ」
と、希代子は言った。「行方の分らなかった幸子さん、見付かったのよ。無事で――といっても、また入院してるけど」
「そうですか。良かったですね」
「少し気が楽になった、ってところかな」
と、希代子は言って、「――水浜君」
「はい」
希代子は言いかけてためらった。
「大丈夫よね。――あなたのこと、信じていても」
水浜は、少しの間、何も答えなかった。そして、口を開くと、
「その幸子さんって、どうして姿を消してたんですか」
と訊いた。
「子供を見に行ってたんですって」
「子供?」
「二十歳のころ産んで……。里子に出した子がいたのね。一度死のうとして、どうしても子供の顔を見たくなったらしいわ」
「その子供も、もう……」
「七つぐらい。小学校へ入るかどうか、ってころじゃない?」
「で、会えたんですか?」
「それは知らないわ。本人は眠ってて。――いくら若いころのことで、育てることもできずに、そうして人手に渡したといっても、いつまでも忘れられはしないでしょうね」
「そうでしょうね……。二十歳か。今の僕より若かったんだ」
と、水浜は言った。「希代子さんは……」
「うん?」
「子供って、ほしいですか」
希代子は、少し当惑し、同時に照れて、
「誰の子でも、ってわけにはいかないな。誰かを好きになって、その人の子がほしい、と思うんじゃないかしら」
と言ってから、「――さっきは『篠原さん』って呼んだでしょ」
「あ、気が付いてました?」
と、いたずらっぽく笑う。「奈保ちゃんの前じゃ、呼びにくくて」
二人は、また少し沈黙し、駅への道を|辿《たど》って行く。――逆に駅の方から歩いてくる人の流れを、よけて通らなくてはならない。疲れて、重い足どりの人々がほとんどだった。
「――希代子さんって、プロですね」
「何よ、急に」
「いつも、疲れたところなんか全然感じさせないじゃありませんか。たぶん、こうやって帰る人の誰より忙しいと思うけど」
希代子は少し肩を揺すって、
「疲れるのは同じよ。ただ――自分が好きで選んだ仕事でしょ。忙しいとか、面倒くさいとか文句を言ってても、どこか楽しんでるところがあるもの。それが救いね。疲れてても、どこか違う」
希代子は、やっと水浜の方をはっきり見ることができた。「だけど、私だって疲れて誰かそばにいてほしいと思うときがあるわ」
水浜は少しためらってから、
「でも……希代子さんは強い人ですよ」
「強い――かなあ」
心外だわ、と思う。強いんじゃない。そう見えているだけ。
人に弱みを見せない、弱音を吐かない、というくせ[#「くせ」に傍点]がついているだけ。それが、一人でやって行くための、自分に課したルールのようになってしまった。
二人は駅まで来ていた。
「じゃあ――」
と、水浜は言った。
「ご苦労様」
つい、「年上の女」を演じてしまう。一番気にしていることを、訊く度胸もないのだ。
水浜は電車の切符を買って、
「じゃあ、また……」
と会釈した。
「気を付けて」
これでいいんだろうか? でも、何と言えばいいだろう?
水浜と奈保の間を取り持ったのは、他ならぬ自分ではないか。
水浜は改札を通り抜けようとして、振り向いた。
「希代子さん」
と、少し離れて呼びかけるように、「奈保ちゃんとは何もありません。この前と同じです。それだけです」
と早口に言った。
そして、ちょっと手を振ると改札口を抜けて駆け出して行く。ちょうど電車の来る音が聞こえたのだ。
希代子は、笑ってしまった。急に気持が軽くなって、もう水浜の姿は見えないのに、
「おやすみ」
と声に出して言うと、駅前のタクシー乗り場へと足早に歩き出した。
そう。心配することなんかなかったのだ。奈保は何といっても、まだ子供だし、どんなに背伸びしたところで、希代子が心配するようなところまでは行くまい。
それに水浜とは、ちゃんと約束してある。希代子との約束を破ったりしないだろう。
心配していた自分が馬鹿みたいで、タクシーに乗った希代子は自分への照れ隠しに鼻歌を口ずさんで、運転手から、
「ご機嫌ですね」
と、言われてしまった……。
マンションの部屋へ入ったとき、もう電話は何度めかのコールをくり返していた。
明りをつけて、留守番電話のテープが回り出すのを聞く。
「――希代子。聞いてるか」
白石の声だ。希代子は動きを止め、まるで向うがこっちを覗いて見てでもいるかのように、息を殺した。
「お前には俺しかいないんだ。聞いてるんだろ? 素直になれ。俺はお前を|諦《あきら》めやしないぞ。いやでも俺の所へやって来ることになるんだ。――周りに『迷惑』がかかる前に、俺の所へやって来い。待ってるぞ」
白石はそう言って、短く笑うと、「聞いてるんだ、すぐそこで。そうだろ? 俺には分ってるんだ」
と言った。
プツッと電話が切れる。
希代子は、息を吐いた。――白石が、どうしてこうもしつこくつきまとうのか。
希代子は留守電のテープの再生ボタンを押してみた。
「十二件です」
と合成音声が言ってテープが巻き戻った。
十二件? 一体何がそんなにかかって来たのだろう。希代子はメモ用紙を手に取った。
しかし――再生が始まると、希代子はメモを取ろうと構えていた手を下ろしてしまった。
次々に出てくるメッセージは、すべて白石のもので、しかも、どれもほとんど同じ内容なのだ。
重苦しい気分で、希代子はどんどんテープを早送りして行った。白石以外の録音はわずかに二件。太田和也と久保田からだった。
白石が、そう簡単には引き下がらないだろうと思うと、希代子の気持はまた重苦しく沈んだ。
編集部へ電話を入れてみる。
「あ、カズちゃん? 希代子よ。電話くれた?」
「大丈夫ですか?」
と、太田和也がいきなり訊く。
「大丈夫って……。何が?」
「例の白石って人です。編集部へやって来たんですよ」
「何ですって?」
希代子の顔から血の気がひいて行く。「何か――騒ぎが?」
「いえ、別に、騒ぎってほどのことじゃなかったんですけどね。ともかく、希代子さんが何ともなけりゃいいんです」
太田の心づかいが、|嬉《うれ》しかった。
「ありがとう。でも……何とかしなきゃね、考えるわ」
「いや、放っといた方がいいんじゃないですか? そうやって希代子さんが出てくるのを向うは待ってるんだから。もし、白石に会うのなら、一人じゃだめですよ。僕も一緒に行きますから」
「カズちゃん、ありがとう」
と、心から言って、「こっちの留守電にも、十回も同じことを吹き込んでたわ」
「そんなことだと思いましたよ。何回かけても、お話し中だったから。心配で、見に行こうかと思ってたとこです。ちゃんと、|鍵《かぎ》をかけて、夜中にでも押しかけて来るようなことがあったら、一一〇番するんですよ」
そう言われて、希代子はハッとした。警察へ知らせることなど、考えたこともなかった。やはり、どこかで白石とのことは自分で何とかしなくてはならないと思っているせいだろう。
「そうするわ」
と、希代子は言った。「久保田さんは?」
「もう帰りました。何か用ですか?」
「いいえ。やっぱり留守電が入ってたから。それならいいの。何か言ってくるでしょ、用なら」
「じゃ、気を付けて下さい」
「うん。まだ仕事?」
「ええ。あと二、三時間はいるつもりです。何かあったら、電話して下さい」
まさか、仕事の邪魔をするわけにはいかない。でも、希代子は、
「ありがとう。そうするわ」
と言って、電話を切った。
ため息をつく。――白石のことを、放っておくわけにはいかない。
確かに、白石に会いに行ったりすれば、それこそ向うの思う|壺《つぼ》なのかもしれないが、それでも他人に迷惑をかけるのを放ってはおけない。
「戯れに、恋はすまじ、か」
と、呟く。
バスルームで、バスタブにお湯を入れていると、また電話がかかって来た。
「――久保田だけど、自宅に電話を」
という声に、急いで駆けて行って、
「もしもし」
と、受話器を取った。
「やあ、いたのか」
と、久保田がホッとしたように、「心配してたんだ」
「さっき、太田君と話しました。ご迷惑かけてすみません」
「じゃ、聞いたんだね。いや、迷惑をかけてるのは、あの白石って男で、君じゃない。君が謝ることはないよ」
久保田の言い方は、いかにも彼らしく、理屈で割り切ったという感じだった。
「そうもいきません。昔の恋人ですし」
「向うは妻子持ち?」
「奥さんがいて……。もう亡くなったそうですけど。でも、もうとっくに私の方は忘れてたんです」
「しかし、あっちは忘れちゃいないようだ。用心した方がいいよ。暴力を振るうってのは、困ったもんだ。酔ってるせいばかりでもないらしいし」
「暴力を?」
と、希代子は息をのんだ。「あの――編集部で何かしたんですか」
「聞かなかったのか?」
と、久保田は当惑した口調で、「――そうか、君が気にすると思ったんだな、きっと」
「え?」
「太田君を殴ったんだ、その白石が」
「何ですって?」
「まあ、太田も口の端を切ったくらいで、何でもないというんで、一一〇番しなかったんだがね。本当なら、訴えてやってもいいところだよ」
「カズちゃん、そんなこと、何も……。そうでしたか」
「ま、ともかく君も用心して」
「はい……」
何とも言いようがない。
「そうそう。明日の夕方の対談は君、出てくれるか」
「はい、出ます。カメラマンの手配もすんでます」
「じゃ、頼む。僕も出ようと思ってたんだが、用事ができてね」
「私だけで大丈夫です。速記の人もよく知ってますし」
「うん、よろしく」
電話を切って、希代子は急いでもう一度編集部の太田へかけようとした。しかし――太田はわざと黙っていたのだ。その太田の気持を、大切にしておいた方がいいかもしれない。
思い直して、受話器を置く。
「ありがとう」
と、希代子は呟いた。
別に恋人でも何でもない太田が、ここまで希代子に気をつかってくれる。
一人で生きてるんじゃないんだ。――いささか、教訓めいた感想を、希代子はしみじみと抱いたのだった。
「――あ、お風呂!」
思い出して駆けつけると、危うくお湯が|溢《あふ》れそうになっていた……。
18 背 信
忙しくないときほど忙しい。
|謎《なぞ》|々《なぞ》みたいだが、編集者の暮しの中では現実[#「現実」に傍点]のことなのである。
「これから打ち合せなの。何か連絡とか伝言は? ファックスは入ってない?」
自分でも、いやだなと思うのだが、ついまくし立てるようなしゃべり方をしているのは、別に電話代を節約しているのではない。ともかく一分でも時間が惜しいからで、一つ約束をこなした後、次の打ち合せの場所へ行く前に編集部へ連絡を入れているのである。
「次の打ち合せはFホテル。――そう。何かあったら、ラウンジにいるから呼び出して。二十分で行けると思うわ。約束は四時。――え?――何とかなるわよ」
二十分で行くと言って、四時の約束。今はもう三時五十分。これで何とか間に合ったりするのが面白いところだ。
パッと電話を切ると、テレホンカードの戻る間さえ、待ち遠しい。急ぎ足でタクシー乗り場へ。
希代子は、タクシーに乗り込んで、
「Fホテル」
とひと言言うと、息をついた。
わずかに、移動のタクシーの中でだけ息がつけるというのも、決してオーバーではない。
編集の作業そのものも、もちろんないわけではないが、校了間近の時ほど追われてはいない。そういう期間に、先の記事の打ち合せや対談、インタビューなどをこなしておかなくてはならないので、印刷所相手の攻防に神経をすり減らすのとは全く別の意味で忙しい日々なのである。
特に、この時期では、「相手の都合」というものがあって、自分で時間を調整することは難しい。
白石が編集部へやって来て太田を殴るという事件があってから、もう一週間たっていたが、土曜日曜も休みなしに駆け回っていた希代子は、太田にゆっくり|詫《わ》びる暇もなかった。もちろん、太田の方では彼女に何も言ってほしいわけではないだろうが。
その後、白石からは留守電一つ入って来ていなかった。気にはなっていても、インタビューや打ち合せから戻って原稿を書いたりしているともう夜中。
叔父の津山隆一に会って、白石のことを話そうという気持はあっても、とても時間がなかった。
一日一日が、それこそめまぐるしいコマ落しの画面のようなスピードで過ぎ去って行く。
タクシーの窓から、少し傾いた|日《ひ》|射《ざ》しがまともに射し込んで、希代子はまぶしさに目を細めた。これで、次の打ち合せがすめば、もう夜になるだろう。
食事までは付合ずにすませたいが、成り行き次第ではそうなるかもしれない。食事だけですめばともかく、その後、どこかで飲もうということになると、何時間もむだにしてしまう。
希代子は次の打ち合せの資料を取り出して、目を通し始めた……。
そうこうする内にFホテルにタクシーが着く。腕時計に目をやると、四時三分。車の流れが順調だったらしい。
これなら、遅れた言いわけを考えなくてもすみそうだ。
希代子が急いでホテルの正面玄関から入ろうとすると、中から出て来た男とぶつかりそうになった。
「失礼しました」
と一言、そのまま行こうとすると、
「希代子ちゃん」
と呼ばれて振り向く。
「あ――」
叔父の津山である。
こんな所で! しかし、今はとても話している時間がない。
「忙しそうだな」
と、津山が笑って、「風でも巻き起しそうな勢いだよ」
「人と待ち合せてて」
と、希代子は言った。「叔父さん。あの――」
「分ってる。白石のことだろ」
と、津山は肯いて、「立ち話ってわけにもいかない。今は時間が?」
「今は無理。叔父さん、今夜は?」
「パーティに出ている。来るかね。T会館で七時から」
「七時……。何時までいるの?」
「さあ。君が来るなら、待ってるよ」
少しためらったが、これを逃したら、いつ機会を作れるか分らない。
「行くわ。八時までには」
「分った。待ってるよ」
津山はそう言って、タクシーが待っている方へと歩いて行った。
希代子は気を取り直して、ラウンジへと急いだが、行ってみると、相手から伝言が入っていて、三十分遅れるという。
「何だ」
と呟いて、しかし、人を相手にしている以上、こんなこともある。
オレンジジュースを頼んで、大きな鞄からノートを出し、打ち合せの要点をメモしたページを開けて眺めていると、パサッと目の前に封筒が置かれた。
びっくりして顔を上げると、津山が立っている。
「叔父さん……」
「思い出してね。それ、白石から預かったんだ。君へ渡してやってくれと」
「白石から?」
「うん」
津山は向いの椅子にかけると、「僕もすぐ行かなきゃならん。――ああ、何もいらないよ」
と、ウェイトレスに断る。
「叔父さん、白石は――」
「うん、僕も困ってたんだ。酔うとまともじゃなくなる。一応こっちの仕事にとってメリットがある間はね、それでも何とか付合ってられたが」
「今、白石は?」
「さあ……。故郷へ帰るようなことを言ってたがね。ともかく、プツッと消えちまったんだ」
「消えた?」
「これを置いてね」
と、封筒を見て「中に何が入っているのかは知らない。ともかく君に渡してくれと言われただけさ。じゃ、これで行くよ。詳しいことは、もし今夜来られたら」
と、腰を浮かす。
「叔父さん。白石はいついなくなったの?」
「つい二、三日前さ。たぶん東京にいるだろう、まだ」
「どこに泊ってるとか――」
「ホテルは引き払ってる。それ以上は僕にも分らない。じゃあ、もう行くよ」
「ええ……」
津山が行ってしまうのを見送って、希代子は首をかしげた。
叔父が何かを隠しているという印象を受けたのである。――大体、あの白石が叔父の仕事に何の役に立ったのか。
やはり、津山とはじっくり話す必要がある、と希代子は思った。
そして、封筒を取り上げ、少しためらってから、封を切った。手紙だけというわけではないようだ。
いずれにしても、白石がよこしたものなのだから、希代子にとっては気の重くなるようなものだろう。
手紙が一枚出て来て、広げると、走り書きで、
〈希代子。この写真を見たら、お前も考えが変るかもしれない。
俺は、お前のために苦労してこれをとった。お前は|騙《だま》されてるんだ。
それが分らないのは、まだお前が子供だってことさ。
分っただろう。お前には俺が必要なんだ。必ずお前を連れに行く。      白石〉
乱れた字だった。
ふと、希代子の胸が痛んだ。――昔の白石の字を、|憶《おぼ》えていた。とっくに忘れてしまったと思っていたのに。
くせのある字ではあったが、どこか型破りなエネルギーを感じさせる字だった。しかし、今は……。
これはただ「乱れている」に過ぎない。ペンを持つ手を、制御できないのだ。
どこか哀れで、希代子は胸がふさいだ。
封筒から三枚の写真が落ちた。
拾い上げて、希代子は悪い夢でも見るように、その写真を見た。
どれも、少しぶれたりぼやけたりしていたが、はっきりと顔は分る。――水浜と、奈保。
奈保は学校の帰りだろう。制服で、鞄をさげている。
こんなことが……。まさか!
一枚は、二人がホテルへ入って行くところ。あとの二枚は、二人が同じホテルを出てくるところと、その|類《たぐい》のホテルが立ち並ぶ細い道を肩を並べて歩いて行く後ろ姿だった。
「――やあ、待たせて」
打ち合せの相手が目の前に座っても、希代子はしばらく言葉が出て来なかった……。
「カズちゃん、悪いけど――」
と、希代子は言った。
太田が、仕事から顔を上げて、
「――何です?」
希代子は、少し充血した目で頑張っている太田を見ると、何とも言えなくなってしまった。
「ううん、何でもないの。ごめん、手を止めさせて」
「ちっとも」
と、太田は言って、「大丈夫ですか?」
「え? 何が?」
「何だか少しボーッとしてますよ」
「そう?」
と、笑って、「もともとじゃないかな、ボーッとしてるのは」
電話が鳴って、太田が、出ると、
「――少しお待ち下さい」
と、送話口を押えて、「電話ですよ、水浜って人」
希代子は、一瞬言葉が出なかった。
「どうします? いない、って言いますか?」
「いいえ、出るわ」
まさか、逃げるわけにはいかない。希代子はちょっと呼吸を整える必要があった。
「もしもし」
「あ、水浜です」
「どうも」
「忙しいんでしょ。すみません」
「構わないわ。何か?」
「実は、ちょっと――。お話ししたいんですけど。夜遅くてもいいんです。もしお時間が取れたら」
「そうね……。ちょっとこのところ忙しくって。何時に帰れるか、見当つかないの」
「そうですか」
と、水浜が残念そうに、「いつごろでしたら、都合つきそうですか」
「うん……。来週くらい、かな。週末にならないと分らないけど」
「分りました。じゃ、週末にでもお電話しますよ」
「そうしてくれる? 私も連絡するけど」
「はい。またファックスを入れます」
水浜は楽しげに言った。
希代子が電話を切ると、太田はちょっと不思議そうに、
「今、そんなに忙しいんですか?」
「そうでもないけど……」
希代子は机の上のものを片付けながら、「外出先から直接帰るわ。電話入れる。カズちゃん、ずっといる?」
「十時ごろまでは、必ず」
「じゃ、よろしく」
希代子は、席を立つと、「ちょっと取材の下見で出てくる」
「はい、ご苦労さま」
太田の、その何でもないセリフが希代子の耳にはありがたく聞こえた。
希代子は社を出ると、タクシーを拾って、明日、取材しなくてはならない劇場へと向った。
タクシーの中で、一人になった安心感からだろうか、バッグから、あの写真を取り出して、眺める。
そして、希代子は笑った。泣きたいような気分なのに、笑ったのである……。
19 長い夜
「ここで……。ありがと」
希代子は、料金を払って、タクシーを降りた。「おつり、いらないわ」
「どうも」
運転手は愛想が良かった。きっと大分余計に払ったのだろう。
希代子は、自分がいくら払ったのか、よく分っていなかった。
少し足下が頼りない。――少々酔っていたのである。
希代子は酔ってもそう無茶をしたり、したことを後で憶えていないということはない。楽しい酒であり、陽気になる。
ま、時には街路樹によじ上って、一緒に飲んだ仲間に引きずり下ろされる、といったこともあるが、ご|愛敬《あいきょう》というものだ。
しかし――今夜はどうしても楽しい酒にはなりようがなかった。
マンションのロビーへ入って、足を止める。
「帰ったな」
小さなソファがロビーに置かれている。そこから白石が立ち上った。
希代子は、深く息をついた。
「――何してるの」
「酔ってるのか。やけ酒か」
と、白石は笑った。
「心理学者に転向したの? それとも名カメラマンか」
「津山さんに電話したら、今日お前に渡したと言ってたんでな。どうせこんな風になって帰るだろうと思ってた」
「それで?」
「部屋へ行こう。介抱してやる」
希代子は、声を上げて笑った。
「――私を[#「私を」に傍点]介抱? やめてよ。いつも私が介抱してあげて来たわ」
「分ってる。だからあの二人の写真をとった」
「へえ。人の後を|尾《つ》け回して?」
「お前は、人が|好《よ》すぎるんだ。黙って見てられやしないよ。――な、入ろう」
希代子は、白石が寄って来て、肩を抱くのをはねのけようとはしなかった。そうしても良かったし、そうしたかった[#「したかった」に傍点]のだが、しなかったのである。
「妙だな」
と、白石がニヤリと笑って、「いつもなら、俺が酔ってて、お前はそれを|軽《けい》|蔑《べつ》するような目で見てる」
「一緒にしないで」
と、強い口調で遮った。「あんたとは違うわ」
「しかし、責任を感じてる。そうなんだろう? あのガキと女の子――津山さんとこの娘だって?」
希代子は、目をそむけて、
「やめて、用がなきゃ帰ってよ」
「用があるのは、そっちだろ」
白石が、肩を抱く手に力を入れた。「今夜は男がいるさ。――そうだろ」
希代子は何も言わなかった。
「さあ、中へ入れてくれ」
と、白石がくり返す。
「待って下さい」
突然、背後で声がした。
振り向いた希代子は、水浜が立っているのを見て、目を疑った。
「水浜君、どうして――」
「電話の様子が、何となくおかしかったから……」
水浜はロビーへ入って来ると、「その人を離してください」
と、白石へ言った。
「子供は引っ込んでろ!」
白石は邪魔されて真赤になっている。
「やめて」
希代子は、白石の手を、力をこめて外すと、「帰って」
と、白石へ言った。
「お前は――」
「この子に暴力を振るったら、警察を呼ぶわよ」
と、希代子はきっぱりと言った。「帰らないのなら、この間、編集部の太田君を殴ってるんだから、訴えたっていいのよ」
白石は、じっと希代子をにらんでいたが、やがて|歪《ゆが》んだ笑みを浮かべると、
「お前も甘くなったもんだ」
と言って、「これですんだわけじゃない。――そうだとも」
小さく肩をすくめてマンションから出て行く。
ロビーには、希代子と水浜の二人が残った。
「希代子さん――」
「入って」
と、希代子は遮って言った。
――希代子の部屋へ入って、ソファに身を委ねるまで、二人とも何も言わなかった。
「写真って……」
と、ポツリと水浜が言う。
希代子は黙ってバッグを開け、あの三枚の写真を水浜の前に置いた。
水浜は手に取らず、そのまま見下ろして、息をついた。
希代子は、もう酔いなどどこかへ消えてしまっていた。
「水浜君――」
「すみません」
「どうしてなの……」
「僕のせいです。――奈保ちゃんを責めないで下さい」
「誰のせいとか訊いてるんじゃないわ。あなた、約束してくれたじゃないの」
「ええ……」
「たったこんな時間で……。奈保ちゃんと、いつからこうなったの?」
水浜は目を伏せたまま、
「この間……希代子さんが急にいらしたとき、そうなりかけたんです。でも、|一《いっ》|旦《たん》は希代子さんの気持を考えると……。結局、あの日は何もなく過ぎました。『何も[#「何も」に傍点]』ってことはないけど……」
水浜は少し照れたように頭をかいた。
「それで?」
「次の日に――。あの晩、遅くに電話を入れて、奈保ちゃんの気持が変らないと確かめると、もうそのまま……」
「じゃ、それが初めて?」
「ええ。――この写真は二度めです、きっと」
希代子にとって、次に訊くことは明らかだった。
――あなた方は、何回寝たの?
しかし、言葉は出て来なかった。
「希代子さん――」
と、水浜が口を開きかけるのを遮って、
「結局、私が間違ってたんだわ」
と、言った。「奈保ちゃんとあなたを近付けたのは、私だもの。そう……。あなたと奈保ちゃんを近付けて、何も[#「何も」に傍点]なしでいろ、と言う方が無理だったのかもしれない」
水浜は目を伏せた。
「――もう、これ以上はくり返さないで」
と、希代子は言った。「すんでしまったことは、取り戻せない。でも、母親にも、とても話せやしないわ。ショックでしょうからね」
「はい」
「会えばくり返すことになるわ。もう、奈保ちゃんと会わないで」
「はい」
「奈保ちゃんが大騒ぎするかもしれないけど、すべて私が引き受けて、できる限り、お母さんに気付かれないようにするわ」
「ええ」
「もう……二度と会わないで」
そう言いながら、希代子には奈保にこのことをどう説明したらいいのか、見当もつかなかった。
「――ご心配かけて、すみません」
と、水浜がくり返す。
しばらく、また二人が黙ってしまう。
「もう……帰ります」
と、水浜は立ち上った。
「そうね……。その方が――」
「大丈夫ですか。あの白石って男……」
「私は平気。扱い慣れてるもの。――水浜君」
「はい」
「下まで送るわ」
二人は玄関へ出ようとして、自然に足を止めた。
「希代子さんを裏切ることになって――」
「もういいの。――やめましょ、もう会うことないかもしれない。そうでしょう」
「ええ……」
「じゃあ、気を付けて」
と、ドアを開けて、「下までは送らないわよ」
と言った。
「はい」
水浜が靴をはいて、「――すみません」
と、もう一度言った。
希代子は、急に涙がこみ上げて来た。
「希代子さん」
「行って!」
「でも――」
「行って!」
押し出すようにして、水浜を廊下へ出すと、希代子はドアを力をこめて閉め、ロックした。――急に体の力が抜けたようで、上り口にペタッと腰をおろしてしまう。
なぜ涙が? どうしてだろう。
水浜は私の恋人でも何でもないのに。
それでも、涙を抑え切れずに、|拳《こぶし》で|拭《ぬぐ》った。
水浜の足音は聞こえなかった。ドアの前にじっと立っているのだろうか。
ゆっくり立ち上って、もう一度ドアを開けると、水浜はドアの方を向いて立っていた。
「――どうして、帰らないの」
と、希代子は言った。「ともかく……入って」
「希代子さん」
と、水浜は言った。「僕は……」
「いけないわ」
「分ってます。奈保ちゃんにとっては残酷です。でも、本当なんです」
「水浜君。私を……」
「希代子さんの恋人にはなれない。そうでしょう。それが分っていたから、僕は奈保ちゃんを――」
「そんな言い方、ひどいじゃないの。私の代りにあの子を?」
「分ってます、|卑《ひき》|怯《よう》なやり方だと。でも、あのときは、そうするしかなかったんです」
水浜が、希代子の腕をつかむ。
希代子は、何も考えず、ほとんど反射的に、水浜と唇を重ねていた。
堤防が一気に崩れるように、希代子は水浜の肩に頭をのせ、身を預けた。
「上って……」
とだけ、希代子は言った。
奈保のことを、二人とも考えてはいただろうが、しかし、口に出さないことで、今は互いのことだけに没頭することができた。
長い夜が――二人にとって、長い夜が始まって、それはやがて空が白み始めるまで、終らなかったのである。
20 熱 気
「希代子さん!」
と、太田が声をかける。「今日戻りますか」
編集部を出ようとしていた希代子は振り返って、
「向うの状況次第ね。撮影に手間どるかもしれない。帰れるかどうか、電話入れるわ」
と言った。
「分りました。行ってらっしゃい」
カズちゃん、こと太田和也は、必ずこうして声をかけてくれる。希代子にとって、ありがたい後輩である。
希代子は足早に廊下へ出た。顔見知りの編集者に会って、
「やあ、どう?」
「相変らず」
と、誰にでも通用しそうな言葉を交わして、お互い、それで別れる。
どっちも忙しい。のんびりと立ち話をしている暇はないのである。
エレベーターの中で手帳をめくり、予定と行先を確認する。いくつもの仕事を並行してこなしていると、間違って|憶《おぼ》えていることがあるのだ。必ず書きとめたものを見て確かめる。
エレベーターの扉がガラガラと開く。希代子は|大《おお》|股《また》に外へ踏み出して行った。
ビルを出ると、一瞬まぶしい|日《ひ》|射《ざ》しに顔をしかめた。
暑いというわけではないが、もう日射しの強さはすっかり「初夏」。|梅雨《つゆ》が、今年は短くあけて、夏の盛りの水不足が、もう話題になっていた。
急ぐ仕事だ。タクシーは使えなかった。地下鉄を乗りこなした方が早くて確実。
仕事柄、希代子は都内の地下鉄路線図をほとんど正確に頭の中に思い浮かべることができる。
「――やれやれ」
と、|空《す》いた地下鉄の座席に腰をおろして息をつく。
仕事に追われて、毎日が飛ぶように過ぎて行く。一週間がアッという間。そして次の月も、ひと息つく間もなくやってくる。
これで一年がたちまち過ぎ、二年三年とたつと――もう希代子は三十を過ぎる。
人の一生なんて|儚《はかな》いもんだわ、などとこのところしばしば考えるのはどうしてだろう……。
地下鉄って良くないな、と思ったりもする。何も見えない、閉ざされた空間の中で、人はつい色んなことを考えてしまう。
考えるのは悪いことではないだろうが、でも、考えたくないことも考えてしまうという点が問題なのである。
考えたくないこと……。今の希代子にとって、それは「考えていたいこと」と分ちがたく一つに合さっていた。
でも――今はともかく仕事! 仕事だ。
希代子は手帳を出して眺めた。
毎日毎日、手帳の欄が狭苦しく見えるくらい、予定がびっしりと詰っている。それはうんざりさせられると同時に、どこかホッとする光景でもあった。
自分が必要とされている、という幻想を、その細かい文字のつらなりは与えてくれる。本当は――厳密な意味で希代子でなくてはならない仕事は一つもない。
でも、そう考えることは、ひどく恐ろしいことだった。
私は必要とされている。そう思わなければ、こんな忙しい仕事をこなしてはいけない。
そう。私は必要とされている。――それとも、必要としているのか? 誰を……。
希代子はパタッと音をたてて手帳を閉じた。
「あと、もうワンカット」
と、カメラマンが言った。
「くたびれちゃった」
と、モデルが文句を言う。
半分素人の女の子だ、カメラマンの注文に|応《こた》えるのは確かにハードだろう。
「少し休めない?」
と、希代子が声をかけると、カメラマンは渋い顔をしたが、
「ま、いいか」
と、肩をすくめた。「おい、バック、変えてとろう」
助手に言って、ポジションをいじる。――これで何分かは休める。
「大丈夫?」
と、希代子はモデルの子に声をかけた。「もうちょっとだからね」
「大変なんですね」
と、その子はペタッと|椅《い》|子《す》にかけて、「ずっと立ってると、めまい起すの」
「そうね。プロになって、お金を稼ぐのって大変よ」
「本当! モデルなんて、とってもつとまんない」
と、ため息と共に言ったので、希代子は笑ってしまった。
スタジオの中は、そう暑いという温度ではなかったが、やはり「閉じこめられている」感じがあって、疲れる。
希代子は、スタジオから出ると、外の公衆電話へと急いだ。
「――もしもし」
と、すぐに向うが出た。
「いたの」
と、希代子はびっくりして、「留守電に入れようと思ってた」
「オケのリハーサルがなくなって。指揮者の都合なんですけど」
と、水浜邦法は言った。「希代子さん、今日は――」
「原稿入るのが明日になって……。直接帰れる。今、スタジオでカメラマンと一緒」
「希代子さんをとってるんですか?」
「まさか」
と、希代子は笑った。「出て……来られる?」
「ええ。どこに行けばいいですか」
「じゃあ……何か食べるものは買って帰るわ、私の所で食べましょ」
「分りました。何時ごろ?」
「そうね……。八時には帰れると思う」
「待ってますよ、下で」
希代子は、つい、
「悪いわね」
と言っている。
別に悪いことをしているわけではない、と……。そう。水浜に対しては、少なくとも。
「じゃ、後で」
と、水浜が言った。
本当なら、自分の方で切らなくてはいけなかった、と希代子は思った。いつもそう思うのに、切ってくれるのは、彼の方である。
スタジオへ戻ると、新しいポジションにカメラを据えて、カメラマンがモデルにポーズをつけている。さっきは、相当にうんざりしているのが、はた目にも分ったが、今はもう|諦《あきら》め顔。
「――そう! いいぞ」
カメラマンがファインダーを|覗《のぞ》いて、声を上げた。「それだ!――もう少し目を上に。――そう!」
カメラマンが、本気でのって[#「のって」に傍点]来ているのが分った。珍しいことだ。
しかし、見ている内に希代子にも分った。たぶん、くたびれてしまって、モデルの女の子に「気取る」だけの余裕がなくなったのだろう。それが|却《かえ》って自然な魅力を見せる結果になったのだ。
「――いいな! 初めからその表情がほしかった」
と、カメラマンが言って、「――とり直してもいいかい?」
希代子は、モデルの子が絶対に拒否するだろうと思った。ところが、
「はい」
と|肯《うなず》いたのだ。「良くなりますか?」
「ああ、絶対になる! コツをつかんだな。それでいいんだ」
「はい! じゃ、お願いします」
さっきブツブツ言っていたのとは別人のよう。
くたびれて、うんざりして、それを通り抜けたところで、彼女はプロの味わう興奮に触れたのだ。
「よし! スタイリストに言って、前の|衣裳《いしょう》をもう一回着させてくれ」
「はい」
と、希代子は肯いた。
カメラマンもモデルも、のって仕事をしている。こんなときはきっといい出来栄えになるのだ。やらせておくに限る。
時間がオーバーするのでいやな顔をしているスタイリストに頼み込んで、初めからやり直し。
「途中でモデルが発作起して死んじゃった、と思えば」
と言ってやると、スタイリストの女性はふき出して、
「希代子さんにはかなわないなあ」
と、てきぱき動いてくれる。
――おかげで、撮影が終るのが大分遅れた。
しかし、|真《まっ》|直《す》ぐ帰れば充分八時には間に合うだろう。念のため編集部へ電話を入れる。
「――カズちゃん? 私よ。何か伝言とかある?」
「はい。三つあります。いいですか?」
太田は全くむだのない話し方のできる男なのである。
二つの用件は明日連絡すれば充分だった。
「それから三つめは……。津山さんから、ぜひ家に電話を、とのことです」
「津山?」
津山隆一かと思った。「男の人?」
「女の人です。津山……静子さん」
「叔母だわ。ありがとう」
「じゃ、今日はもうご帰宅ですか?」
「とんでもない。打ち合せ。二日酔いになりそうな、ね」
「分りました。飲み過ぎないで下さい」
と、太田が笑って言った。
希代子は、少し迷ってから津山家へ電話を入れた。
「――希代子ちゃん、ごめんなさいね、忙しいのに」
すぐに叔母が出て、そう言った。
「いいえ。何か用?」
「それが……。奈保のことで」
希代子はドキッとした。
「奈保ちゃん、どうかしたの?」
「何だか変なの。二、三日前からふさぎ込んで、あんまり食事もしないし、どうしたらいいか分らなくて。――ね、例のボーイフレンドのことで悩んでるんじゃないかしら」
「何か、それらしいこと、言ってるの?」
「そうじゃないけど……。他に思い当らないもの。ね、悪いんだけど、奈保と話してみてくれない?」
希代子は少し間を置いた。何くわぬ調子でしゃべるには、多少の準備が必要だった。
「じゃ、帰りに寄るわ。――叔父さんは?」
「うちの人? さあ……。このところ、帰って来たり来なかったり」
と、静子は言って、「何してるんだか分らないわ」
諦めているというより、こんなことのために気をつかうのがいやだ、と思っているらしい。叔母のその気持も、希代子には良く分った。
「じゃあ……。後、用事があるの。あんまり長くいられないかもしれないけど」
「ええ、もちろん分ってるわ。ごめんなさいね。お食事は外で?」
「ええ。ご心配なく。それじゃ、三、四十分で行くわ」
と言って、電話を切る。
正直、気は重い。
しかし、行くと言った以上、行かなくては。――希代子はタクシーを使うことにした。
タクシーで落ちつくと、目をつぶってしまう。眠いわけではないが、余計なものを見たくないという気分だった。
昼の長い季節に入っている。冬ならもう真暗な六時半過ぎだが、まだずいぶん明るい。――水浜を自分のマンションへ初めて泊めてからもうひと月近くになる。
自分が何をしているのか、よく分っていた。自分と水浜と二人だけのことならいい。しかし、そこに奈保が絡んでくると、そう単純にはすまなくなる。
奈保に対して、自分がどんなに残酷なことをしているか、希代子はよく承知していた。しかし、水浜との仲はまだ始まったばかりで、希代子はその「終り」を想像することさえできない。
――奈保は、何か[#「何か」に傍点]を感じている。当然のことだ。
恋している人間は、相手の裏切りに敏感である。それに水浜は、希代子と奈保と、両方とうまく遊べるような男ではない。
奈保に何と言えばいいのだろう?
希代子は、何度か教えに行っているから、奈保に会っていないわけではない。しかし、奈保の方が、水浜との仲がどこまで行っているか知られたくないからだろう、水浜のことを話題にするのをあえて避けていた。
それは希代子にとっても都合のいいことだったのだが……。
タクシーの中でじっと目を閉じている内、希代子はふっと浅い眠りに落ちていたらしい。
ついさっき、スタジオで見た撮影の風景が、フラッシュバックのように次々に目の前を横切って行った。
スタジオの中の熱気さえ感じられて、希代子は汗をかきそうだった。
現実に、あのモデルの女の子は、|頬《ほお》を上気させて、輝いていた。
あの熱気。――「仕事に打ち込む」ということを初めて肌で感じたときの、あの興奮は、若いときにしか訪れないものだ。
今の希代子にとって、それは「青春」をかえりみるようなものだった。
今の仕事に愛着はあっても、あの「熱気」が自分を|捉《とら》えることは、もうあるまい、と……。少し寂しい気持で、希代子は|呟《つぶや》くのだった。
――タクシーが|停《とま》って、ふっと目を開くと、もうそこは津山家のすぐ近くの信号で、希代子は何だかSFに出てくる「瞬間移動」でもして来たような気がして、面食らったのだった。
21 語らい
ドアをノックしようとして、一瞬ためらう。
「――奈保ちゃん」
と、声をかけて、「入ってもいい?」
すぐにドアが開いた。
「希代子さん。待ってたの」
と、奈保がホッとしたような表情で言った。
それを見て、希代子は奈保が何も[#「何も」に傍点]気付いていないと分った。安心すると同時に、胸も痛んだが――。
「食欲ないんだって?」
と、中へ入って、「だめよ。奈保ちゃんの年ごろは、何があっても食欲はあるっていうのが普通」
「うん。――お|腹《なか》はペコペコ」
「じゃ、どうして食べないの?」
「何となく。食べると、彼が逃げてっちゃいそうで」
理屈ではない。自分が苦しめば相手に通じるという、いわば「願かけ」の精神だ。そんな奈保の気持も分らないではない。
「水浜君がどうしたっていうの?」
と、希代子は奈保の勉強机の前の|椅《い》|子《す》に座り、奈保はベッドに腰をかけた。
「ここんとこ……会ってくれない」
と、奈保はしょげている。
「忙しいんじゃないの?」
「うん……。そう言ってるけど。レポートが重なったり、定演が近いし、とかって」
「定演」とは「定期演奏会」の略だ。クラブのメンバーはそう呼ぶ。希代子もそうだった。
「じゃ、仕方ないわよ。何といっても、彼は学生なんだもの」
「うん……。分ってる。だけど――」
「だけど?」
奈保は、少しためらっていたが、
「でも……。何となく分るの。私に会いたがってないってことが」
「それは――」
「気のせいじゃないわ。電話して、私だと分っても、前みたいに楽しそうに話してくれないし、いつごろになったら会えるか、はっきり言ってくれない」
奈保は、じっとカーペットの模様を足の先で|辿《たど》りながら、「きっと……他に好きな子ができたんだわ」
「そんなこと……。分らないでしょ。忙しくて|苛《いら》|々《いら》してるだけかも。コンサートマスターって仕事は、オケの中のゴタゴタをうまく解決して、まとめていかなきゃいけないのよ。そういう悩みは、奈保ちゃんに話してもしょうがないし、ついそんな風になっちゃうんじゃない?」
「――そうかなあ」
奈保も、何から何まで打ち明けられないもどかしさを感じている。希代子にもそれはよく分った。
奈保は、自分と水浜がもう寝てしまった間だということを、決して希代子に知られてはいけないと思っている。だから、自分の印象が「絶対に正しい」と言い切れないのだ。
「希代子さん」
と、奈保は言った。「|訊《き》いてみてくれない?」
「何を」
「あの人[#「あの人」に傍点]に。――誰か好きな人ができたのかって」
希代子は、すぐには言葉が出て来なかった。
「――そんなこと、だめよ」
奈保がゆっくりと希代子を見る。
「どうして?」
「どうして、って……。私が訊いたって、本当のことを言ってくれるとは限らないもの。そうでしょ?」
「でも、私よりは言いやすいはずよ。あの人、希代子さんのこと、尊敬してるし」
「尊敬?」
「よく言ってるもの、『プロだなあ、あの人』って。これからは女の人もあんな風でなくちゃって。――だから、きっと希代子さんになら本当のことを言ってくれる」
「もし……訊いてみて、もしも、よ。水浜君が、他に好きな子がいる、って言ったら、どうするの?」
奈保は、唇をかんでじっとうつむいていた。――残酷な質問だった、と希代子は後悔した。奈保に、そんなときの心の準備をしておけと言っても、十七歳の少女には無理なことだ。
「分んないけど……」
と、ゆっくり言葉を捜しながら、「でも、はっきりしなくて不安でいるより、その方がいい」
そうだろうか? 奈保が期待しているのは、自分の不安を否定してくれることで、心配が事実と知らされるよりも、何も知らない方が良かった、ということにもなりかねない。
しかし、今の奈保は、そう言うしかなかったのだろう……。
「お願い希代子さん」
と、奈保がまた希代子を見つめる。
希代子は、「第三者」として、その視線を受け止めなければならなかったのである。
「お願い」
と、奈保はくり返した。
「待たせてごめんなさい」
と、希代子はマンションのロビーに足早に駆け込んだ。
「忙しいんでしょ」
と、水浜が立ち上る。「本、読んでたから、大丈夫ですよ」
「色々あって……。お弁当、すぐそこで買っちゃった。もう少しまし[#「まし」に傍点]なもの、用意するつもりだったんだけど」
「いいですよ」
と、水浜は笑顔で言った。
一時間近くも水浜を待たせてしまった。
「――これが仕事の約束なら大変」
と、部屋のドアを開けて、「上って。少し暑いくらいだったわね、昼間」
「ええ。何か手伝いましょうか」
「座ってて。やってもらうほどのこともないわ」
と、希代子はそっと言った。
ファックスがカタカタと音をたて始めた。
「ファックスが入ってますよ」
「いいの。放っとく。まだ帰ってないことになってるんだから」
希代子は寝室へ入ると、手早く着がえた。
お茶をいれただけで、あとはお弁当を食べる。楽といえば楽だ。
「何があったんですか?」
と、水浜が言った。
「どうして?」
「何だか無口だから」
「いつも、そんなにおしゃべり?」
と、少しおどけて訊いてから、「そうね……。いつも私ばっかりしゃべってるかもしれないわね」
「そんなことないですよ」
「話し相手ができて、|嬉《うれ》しいのかな、たぶん」
「いくらでも聞きますよ」
と、水浜は言った。
「ありがとう」
希代子は|微笑《ほほえ》んで、「でも――今日は話すのは後にしましょう」
と言って、またお弁当を食べ始めた。
何の後に[#「後に」に傍点]?――もちろん、二人ともあえて言わなくても分っていたのだ。
もう、何度めになるだろう。
軽くキスしてから、希代子が先にシャワーを浴び、ベッドに入る。水浜がシャワーを浴びている間、何かCDをかけて二、三曲聞き、シャワーの音が止ると、音楽も止める。
そんな「手順」ができ上っていた。それは、まだ長くない恋人たちにとって、通り慣れた道を行くような安心感をもたらした。
今夜も、そのパターンは守られるだろう。希代子には分っていた。
肌がほてって、かすかに汗の|匂《にお》いが「男」を感じさせた。
「――奈保ちゃんの所に寄ってたの」
と、希代子は言った。
「そうですか。――何か言いました?」
こんな仲になっても、水浜は言葉づかいを変えない。そこがいかにも水浜らしくて、おかしかった。
奈保に頼まれたことを話すと、水浜は当惑した様子で、
「そんな風に思ってたのか」
と、呟くように言った。「普通に話してるつもりだったんですけど」
「でも、会わないようにしてるでしょ」
「それは……。どんな顔をして会えばいいんですか」
「ええ……。分ってるけど」
希代子は、毛布を胸まで引張り上げて、「ともかく、奈保ちゃんを放っておくわけにいかないでしょ」
「そうですね。だからって……」
「もちろん話せやしないわ、本当のことは。絶対に知られちゃいけない」
「分ってます」
希代子は水浜を抱き寄せた。――若い水浜が女に慣れているわけはない。白石との間は、何の楽しみもない、ただ|辛《つら》いだけのものでしかなかったが、それからここで一人暮す間、ずっと男がいなかったわけではない。
けれども、結局、ただ楽しむために男と寝ることが自分にはできそうにないと気付いてから、もうずいぶん長いこと、男に触れたことがなかった。
水浜の、子供のようにすべすべした肌は、希代子の多少おずおずとしがちな反応に良く似合った……。
「――離れたくない」
と、水浜は希代子の胸に頭を埋めて、|囁《ささや》くように言った。
「私もよ」
希代子は、自分に向って言うように、小さな声で言った。水浜に聞こえてほしくないみたいだった。
「――泊って行ってもいいですか」
「大丈夫なの?」
「ええ。明日は十一時ごろまでに大学へ行けばいいから」
「じゃあ……朝のコーヒーをいれてあげる」
と言って、希代子は笑った。
こんなTVドラマのようなセリフを口にするのが、楽しかった。
夜、水浜は深く眠り込んでいる。
希代子は、そっとベッドから出ると、手早くパジャマを着て、寝室を出た。
それほど神経を使うこともないのだ。|一《いっ》|旦《たん》寝入ってしまったら、水浜はそう簡単に目を覚ましたりしない。
ファックスに目を通し、何本か電話をかける。もちろん真夜中を過ぎているが、みんな遅くなら、何時でも起きているという人間ばかりだ。つくづく妙な世界にいるのだと思う。
急ぎの仕事が入っているわけでもなく、ホッとした。
台所へ行き、冷蔵庫からジュースを出して飲む。――普段なら、一番張り切って仕事をしている時間だ。目が|冴《さ》えてしまうのは、水浜と愛し合ったところで、どうにもならなかった。
ワープロを運んで来て、ダイニングのテーブルにのせると、簡単なグラビアのキャプションを打ち始める。大体決ったパターンがあるので、楽な仕事だ。
倉田が編集長だったときには、いくつか打って持って行かないと文句を言われたものだが、久保田になってからは、何しろ希代子の方がベテランだ。そういう点、楽ではあるが、責任も感じてしまう。
電話が鳴って、留守の応答テープが回る。誰だろう?
耳を傾けていると、
「希代子ちゃん。津山だ。いたら出てくれないか」
津山隆一である。少し迷ったが、希代子は駆けて行って、受話器を上げた。
「――はい」
「やあ、いたのか」
と、ホッとしたような声。
「家で仕事してるんです」
と、希代子は言った。「何か?」
「ちょっとそっちへ行っていいか。話したいことがあるんだ」
声が近い。
「今、どこ?」
「君のマンションから五、六分の所だ」
「ここは……。編集部の人が泊ってるの、二人も」
と、とっさに言った。
お互い、忙しいときは泊り込むこともよくある。
「じゃ、出て来られないか。大して時間は取らせない」
と、津山は言った。
希代子はずっと白石のことを気にしていた。
編集部の太田を殴ったり、水浜のことにしても脅しに近いことをやっている。心配だった。
自分の身はともかく、水浜にもし何かあったら、と思うと、このまま放っておけない。あれ以来、白石からは連絡も途絶えているが、簡単に諦める男ではないことも分っていた。
「いいわ。マンションの下で待っていて」
と、希代子は言った。
寝室へ戻ると、水浜の寝息が聞こえていた。――若いころでなくては、こんな風に眠ることはできない。
希代子は、パジャマを脱いで、薄暗い中で服を引張り出した。
22 脅迫者
「今――何て言ったの?」
と、希代子は訊いた。
はっきり聞こえてはいたのだが、自分の耳が信じられなかったのである。
つい、声が高くなっていたらしい。
「希代子ちゃん。もう少し小さい声で」
と、津山隆一は言った。
希代子は周囲へ目をやったが、ホテルのラウンジは半分ほどしか客がいないので、聞こえる気づかいはない。
「叔父さん……。白石に脅迫されたって――。それ、どういうこと」
「希代子ちゃんに直接関係はない」
と、津山はコーヒーを飲みながら言った。「白石は、僕の所へ仕事を持って来た。誰の紹介で来たのか、どこで僕の名を聞いたのか、さっぱり分らないが、ともかく会うことにした。ところが――そこで白石は君とのことを持ち出した。つまり君の叔父に、自分と|係《かかわ》りのある仕事をしている人間がいると調べて来たんだ」
「でも、そんなことで脅すなんて――。はねつけてやればいいのよ」
「分ってる」
と、津山は肯いて、「もちろん僕もそうしたさ。そんな仕事はいらない、と言ってね」
「それで?」
「すると、白石はニヤッと笑って……。まあ、ずいぶん手間ひまかけて、僕のことを調べていたらしい」
希代子は、白石が水浜と奈保の写真をとったことを思い出した。
「何か叔父さんの弱味をつかんだのね」
と、希代子は言った。「女の人?」
「それだけなら、女房もそうびっくりしないさ」
と、津山はとぼけた。「が――子供となると」
「子供?」
「これはオフレコ[#「オフレコ」に傍点]だ。君もジャーナリストだろ。秘密は守ってくれよ」
希代子は|呆《あき》れて、
「叔父さん、どこかに子供作ってたの?」
「うん。――ま、うちの社のOLと付合っている内にね。次の仕事を見付け、部屋も借りてやって、子供は堕(おろ)してくれと言ったんだが、聞きやしない。それを白石はどうやってか調べ出し、僕も一緒にいるところを写真にとっていた」
「そう……」
「認知してくれとしつこく言われてる。女房が知ったら、やっぱりただじゃすまないだろうからね。白石の話にのるしかなかったんだ」
「それは――叔父さんが何をしようと、私の口出しすることじゃないでしょうけど、そのせいで私、ひどく迷惑したわ」
「分ってる。しかしね、僕の身にもなってくれ。奈保は難しい年ごろだし、そんなことで家の中がもめるのは避けたかった」
奈保の名前を聞くと、希代子は何とも言えなくなってしまった。
もちろん、津山がこんな所で奈保を引張り出すのは|卑《ひき》|怯《よう》と言うしかないが、といって、自分は何をしているのか。
津山のしたことより、希代子のしたことの方が、奈保にとっては辛いはずだ。
「それで……」
と、希代子は言った。「白石は今、どこにいるの?」
「分らん」
と、津山は首を振った。「君にあの封筒を渡して、白石から電話があったのでそう言った。――それきり、白石からはプッツリと連絡が途絶えた。君、何か知らないか?」
「何も」
と首を振って、「あんなに長いこと、会ってなかったのよ」
「ふむ……。な、希代子ちゃん、君も白石とのことでは、色々人に知られたくないこともあるだろう。もし白石から何か言って来たら、僕にすぐ知らせてくれないか」
要するにそれが言いたかったのか。――希代子は笑い出したくなった。
「分ったわ」
と、希代子は肯いた。「それだけ?」
「まあね」
津山は少しホッとした様子で、「君が僕の誘いにのるとは思えないからね」
「それは正しいわ」
と、言ってやって、「でも――どうするつもりなの、その子供のこと」
「さあね」
「勝手な……」
「もちろん、そうさ。分ってる」
と、津山は言った、「しかし、あの子を一時は本気で好きだったんだ……」
|嘘《うそ》ではないだろう、と希代子は思った。
津山のような男は、いつも自分は「本気」で、だから「正しい」と信じている。そんなことをしながら、「罪の意識」に苦しむことなど、ないのだろう。
「もう帰るわ」
と、希代子はコーヒーを飲み干して、「ここだけ払って。タクシーで帰るから」
「送るよ」
「結構」
と、席を立って、「叔父さんも、明日会社があるんでしょ」
そう言って、希代子は足早に歩き出した。
「どこへ行ってたんですか」
居間に、水浜が座っているのを見て、希代子はびっくりした。
「起きたの。――ごめんなさい、叔父さんから電話で……」
「心配しましたよ。白石と会ってるのかと思って。こんな時間だし」
「そうね。悪かったわ」
水浜は不機嫌そうに、
「メモでも置いてって下さい。気が気じゃなかったんですから」
「ごめんなさい」
希代子は、水浜の隣に座って、「でも――そんなに心配してくれるなんて、嬉しいわ」
「あなたに何かあったら……」
水浜が希代子の手を取って唇をつけた。
希代子は水浜の肩を抱いた。二人は抱き合って、そのまま――ソファから落っこちてしまった。
そして一緒に笑い出した。
一緒に笑える。――何てすてきなことなんだろう、と希代子は思った。
泣くのは一人でいい。悩むのも。喜ぶのも。しかし、一緒に笑う相手がいるかいないかでは大違いなのである。
「希代子さん!」
「なあに?」
「お腹が空いちゃったんですが」
「ええ? それで起きたの? 夜食でも作って、一緒に食べる?」
「僕もやります」
と、水浜は張り切って言ったのだった。
――ラーメンを作って食べながら、
「お弁当屋さんのお弁当とラーメンじゃ、ロマンチックとはほど遠いわね」
と、希代子は言った。
「関係ありませんよ、僕は希代子さんと会えればいいんです」
「でも――この次は少しちゃんと食事しましょ」
「それより、叔父さんって、奈保ちゃんのお父さんでしょ?」
「ええ」
「何の話だったんです?」
希代子は少しためらって、
「白石のこと。行方が分らないってことで、こっちに何か言って来てないかって」
「どうしてその叔父さんが白石のことを気にするんです?」
「さあね。――よく分んないわ。何かわけがあるんでしょ」
津山の話を、すべて水浜にしゃべることはできない。もちろん、水浜を信じていないのではなくて、津山が子供のことを打ち明けたのは、希代子ならしゃべらないと思ってのことだと思うからだ。
「あなたはもう、白石のことなんか忘れて」
と、希代子は言った。
「奈保ちゃんの方は……。どう答えるんですか?」
「さあ……」
希代子は考え込んで、「一晩寝てから決めるわ」
と言った。
しかし、翌日、午前十時ごろ起き出した希代子は、結局、何の決心もついていなかったのである。
水浜の姿はもうなくて、コーヒーがいれてあり、メモで〈大学へ行きます。また会って下さい。水浜〉とあった。
コーヒーの匂いが、居間にも漂ってくる。
「やれやれ……」
と呟いて、希代子は|大《おお》|欠伸《あくび》をしながら顔を洗いにバスルームへ入って行った。
――編集部へ入ったのは、十一時を少し回っていた。
「おはようございます」
と、太田がもう仕事をしている。「編集長が会議室へ来いって」
「遅刻で|叱《しか》られるのかしら? いやね」
と口を|尖《とが》らし、「ゆうべだって、ちゃんとキャプション打ってたのよ」
と、プリントアウトしたものを編集長の机の上に置いた。
「会議室ね?」
「そうです」
希代子は|大《おお》|股《また》に歩いて行って、会議室のドアを開けたが――。
「編集長!」
希代子は目を丸くした。――倉田が椅子にかけていたのだ。
「おい、遅いぞ」
と、倉田は言って笑った。「今日、退院したんだ」
「おめでとうございます」
と、希代子は椅子を引いて座ると、「少しやせましたね」
「このところ、さっぱり来てくれんから、こっちから来た」
と、倉田は言った。「色々、世話になったな」
「どういたしまして」
「次の仕事がやっと決った。来週から出社する」
「それを待って、病院でさぼってたんですね」
「かもしれんな」
「あの――幸子さんは?」
倉田は少し表情をくもらせて、
「あれはまだ入っている。当人に、早く元気になりたいという気持が欠けている、と医者に言われたらしい」
「治る気がないんですか」
「どうかな」
と、倉田は首を振って、「見舞ってやりたいが、|却《かえ》って良くないかもしれんと思ってな……」
「良くありません」
「こいつ!」
と、倉田が笑ってにらむ。「しかし、順調に動いてるようじゃないか」
「まあ、何とか助け合いの精神です」
と、希代子が言うと、倉田は頭を下げて、
「色々、お前に負担がかかって悪かった」
「やめて下さい。――私は自分でやれることをやっただけです」
と、希代子は言った。「今、幸子さんは誰がみてるんですか」
「女房ができるだけ行っているが、でも毎日は無理だし」
「そうですよ。誰か人を雇った方が早いけど、いい人を見付けるのは大変ですよね」
トントンとドアを|叩《たた》く音がして、希代子が立って行って開けると、
「――やあ」
と、西山専務が言った。
「専務」
と、倉田が立ち上る。
「まあいい。かけてくれ。来てると聞いて、顔を見に来た。――これからどうするか、当てはあるのか?」
「K社へ行きます」
「何だ、同じ業界か。あんまり変り映えしないな」
「それしかできませんし」
と、倉田は言って、「専務、細川君のことは――」
「うん。故郷へ帰したいんだが、本人がいやがっている」
西山は希代子の方へ、「君も大変だな」
と、声をかけた。
――だめだ、と希代子は思った。
専務自身が諦め切っていないのに、口先だけで話しても、幸子を説得することができないのは当然だ。
「じゃ、今日病院へ行ってみる」
と、西山は倉田の肩を叩いて、「大切にしろよ、体」
「どうも」
西山が出て行く。
「――さて、仕事の邪魔になるな」
と、倉田も立ち上って廊下へ出る。
希代子は、それについて受付の方へ歩きながら、
「また遊びに来て下さい」
「うん、久保田君によろしく」
倉田は、そう言ってエレベーターへと歩いて行く。その後ろ姿はやはり疲れ、老けて見えた……。
23 隠れた視線
十一時に目が覚めた。――午前の十一時である。
日曜日にしては早い方だ。特にゆうべは夜もレイアウトのことでデザイナーと打ち合せ。ついでに(?)アルコールも加わって、午前二時くらいまで飲んでいた。
帰って来てシャワーを浴び、一息ついてベッドへ潜り込んだのが午前三時半。この一週間は忙しかったので、くたびれた。
十一時に起きたといっても、パジャマ姿のままでファーと|大《おお》|欠伸《あくび》をしつつソファで朝刊を開くという、誰か訪ねて来たらあわてなくてはいけない格好。
冷蔵庫から出したグレープフルーツのジュースのすっぱさが、希代子の目を覚ましてくれる。
新聞を開きながら、目はつい記事より雑誌広告の方へ向く。扱っているテーマ、切り口、執筆者の顔ぶれ。――一つ一つを、自分のところの雑誌と比べる。時にはギョッとするほどよく似た企画に出くわすことがあって、そんなときは、
「みんな似たようなことを考えるのね」
と思って、ややがっかりする。
やはりそこは契約社員という「フリー」に近い立場だ。「安全確実」よりは「ユニーク」を|狙《ねら》う方が性に合っている。
しかし、ともかく今日のところは類似の記事にはお目にかからなかった。とりあえずホッとする。
新聞をテーブルに投げ出し、空になったグラスを手にして台所へ行きかけ、ファックスが来ているのに目を止める。――字を見るとすぐに分る。水浜からだ。
〈希代子さん、おはよう! もう昼ですか?〉
「よくご存じで」
と、希代子は|呟《つぶや》いた。
〈今日はオケのリハーサルで、一日中先日と同じホールにいます。午後三時には終りますが、その後どこかで会えませんか?
一応、ホールのロビーを捜してみます。無理はしないで下さい〉
無理はしないで、か……。でも、好きな相手なら、「無理を言ってほしい」と思うものだ。無理をすることが楽しい。
そして、希代子は喜んで無理するつもりだった。
現金なもので、急に頭もスッキリして目が覚める。天気を見るとまずまずの「晴れときどき曇」。
何か軽くお|腹《なか》に入れて、あのホールへ少し早めに着こうとすれば、それほどのんびりしてはいられない。希代子は、洗面所へ行って顔を洗った。
タオルで顔を|拭《ふ》いていると、電話の鳴るのが聞こえた。――水浜かな?
急いで駆けつけると、
「――はい」
「あ、希代子さん、いたの」
奈保である。
「あ……。今日は。どうしたの?」
「うん……」
と言いにくそうにしている。
無理を頼んでいる、と自分でも分っているのだ。
「ごめんね、忙しくて今週、まだ水浜君と話してないの」
「うん、いいの。それは別に」
と、早口に言う。
もちろん、それが|訊《き》きたかったのに決っている。だが、|怖《おそ》れていた返事を聞くより、「まだ話してない」と言われた方が気楽なのだ。
少しでも希望を持てるからである。
「あのね、今日、映画見に行くんだ」
と、奈保は言った。
「へえ、いいわね。一人で?」
「二枚、チケットあるんだけど、希代子さん行かないかな、と思って。今日も仕事なの?」
「うん。ごめんね、付合えなくて、インタビュー抱えてて。お友だちでも誘ったら?」
「そう。じゃ、そうするかな」
たぶん、奈保は水浜の所へ電話している。そして、留守電になっているのを知って、「電話して」と吹き込み、待っていたのだろう。
でも、結局、水浜からはかかって来なかった。だからこうして希代子の所へかけて来たのだ……。
「何を見るの?」
と、希代子は訊いた。
奈保が言ったのは、あまり恋人同士には向かないと思えるコメディだった。でも、二人にとって切実な問題でもあることを、スクリーンで見たくなかったのかもしれない。
「――ごめんね、邪魔して」
と、奈保は言った。
「ううん。ちっとも構わない。連絡するわね、できるだけ早く」
「うん。お願いします」
「じゃあ」
「今度、木曜日は来られる?」
「たぶんね。電話するわ、そのことも」
と、希代子は言った。
少なくとも、木曜日には奈保に水浜の「返事」を伝えないわけにはいくまい。何を、どう言えばいいのか、希代子には何の考えもなかった……。
ともかく今は出かける仕度だ。希代子はことさらに急いで外出の用意をした。
電話かファックスで「急用!」と呼び出されない内に、という気持ももちろん希代子をせかしたのだが、早く電話から離れたくもあったのである。奈保がすぐそこにいて、じっと電話を通して、こっちを見ているような気がして……。
重い扉を、力をこめて開けると、大きな音の塊がぶつかって来た。
ちょうど曲の終りの部分だったらしい。シンバルが派手に打ち鳴らされ、金管楽器が高らかに鳴って、弦楽の音はほとんどかき消されてしまいそうだった。
希代子は、空っぽの客席の隅の方に立って、指揮者が「OK」と言うように|肯《うなず》いて見せるのを眺めていた。
「――じゃ、ここで三十分休み」
と、指揮者が言った。「後は第三楽章を重点的にやろう」
ザワザワとして、みんなが立ち上る。
コンサートマスターの席にいた水浜は、目ざとく希代子を見付けていたらしい。ヴァイオリンを|椅《い》|子《す》の上に置くと、ステージからポンと飛び下りてこっちへやって来た。
「――早いですね」
「少し練習が見たくて。迷惑じゃない?」
「ちっとも」
と、水浜は首を振った。「ロビーへ出ましょう」
二人は、人のいない明るいロビーに出て、ソファに腰をおろした。
「何時ごろまでかかりそう?」
「少しのびて……。でも、後は大して手間どらないと思います」
と、水浜は言った。「仕事、大丈夫なんですか」
「大丈夫だから来たの」
「そうか。――大丈夫じゃないけど、来たって言ってくれたら、もっと|嬉《うれ》しいな」
希代子は笑って、
「根が正直なの。仕方ないでしょ」
と言ってやった。「夕ご飯、食べましょうか」
「ええ」
水浜は、ちょっとためらってから、「奈保ちゃんと――話しましたか」
「出て来るとき、電話があったけど、まだあなたと話してない、って言ったわ。――胸は痛むけど、しょうがないでしょ」
こんなことを言っている自分が信じられなかった。
自分は大人で、水浜よりずっと年上で、奈保を守ってやる立場にあるのに、こうして傷つけている。平気で、とは言わないにしろ、水浜と会う楽しみが、奈保への後ろめたさを圧倒していた。
ソファの上で、希代子の手が水浜の手に触れた。柔らかく握りしめてくるその手の感触と暖かさは、|真《まっ》|直《す》ぐに希代子の心臓を射抜く矢のようだった。
「不思議ね」
と、希代子は言った。「こうしてると落ちつくの。自分の部屋にいるよりずっと」
水浜は何も言わずに|微笑《ほほえ》んでいるだけだった。
「今日は――少し遅くなっても、大丈夫?」
と、希代子は訊いた。
「ええ。来週は忙しいんでしょ」
「そう……。校了に入るからね。連日朝帰り、ってことになるわね。今月は入稿遅れてるのが多いし」
「じゃあ……今日、少しゆっくりしましょう」
正直、仕事に追われてくたびれ果てて帰っても、水浜に会いたくてたまらないときがある。けれども、朝の五時や六時に水浜を|叩《たた》き起こして会うわけにはいかないし、たとえ六時に寝ても昼前には起きて出勤だ。とてもそんな余裕はなかった。
「本番はいつ?」
と、希代子はホールの方へ目をやって訊いた。
「次の日曜日です」
「今度の日曜かあ……。仕事、残ってるだろうな」
「無理しないで下さい。希代子さん、体でも壊したら大変だ」
「ええ……。でも、できたら聞きたいわ」
希代子は水浜のツルツルと光った額や頬(ほお)を眺めた。肌の若々しさ、それはやはり二十代初めの若者のものだった。
足音がして、二人はパッと手を離した。
「水浜さん」
と、下級生らしい男の子がやってくる。
「何だ? 時間あるだろ、まだ」
と、水浜が振り向く。
「ええ。楽屋口にお客さんです」
「客?」
「あの女の子ですよ、前に来てた」
水浜と希代子は素早く目を見交わしていた。
「――どうしますか?」
「うん。すぐ行く。待ってて、と言ってくれ」
「はい」
と、その男の子が戻って行く。
希代子は腰を浮かして、
「こっちへ来たら――」
「大丈夫でしょう。でもどうして……」
「ここのこと、どこかで聞いたんだわ、きっと。ね、行って。ここへ来たら困るわ」
「でも、希代子さんがいたって――」
「だめ。今日は仕事って言っちゃってある」
「分りました」
水浜は、心残りな様子だったが、足早にホールの扉の方へ戻って行く。
前にもここへ来て、奈保も中の様子を知っている。案内される前にここへやって来たら?
希代子は足早にロビーの奥の方へと駆けて行った。
「――やあ」
と、水浜が言う声。
「何してるの?」
奈保が、自分で扉を開けて出て来たところだった。
「一息いれてたのさ」
「まだ時間ある?」
「うん。――中へ入ろう」
水浜が重い扉を押えて、奈保は中へ戻って行った。水浜がそれについて中へ入り、扉を閉めようとしてロビーの方を向く。
希代子は、胸に手を当てて、何度も息をついた。――奈保は気付かなかっただろうか?
水浜の体に隠れて、ロビーを見渡すことはできなかっただろうが……。しかし、一瞬その気になれば希代子の姿を見られただろう。
希代子は、ロビーの壁に並んだ自動販売機のかげに身を隠したのだった。
扉が閉じて、ロビーへもう二人の声は洩(も)れて来なかった。
希代子は、そのまま化粧室へ行くと、息をついた。まるで何百メートルも走った後のようで、ぐったりと疲れた。
もちろん、奈保は単に気が変ったというだけのことだろう。どこかで今日ここでリハーサルがあるのを知って――もしかしたら、水浜自身が前に話していたのかもしれない――やって来てみたのかもしれない。
それにしても……。もしここで顔を合せていたらどうなったか。
そうなればなったで、隠していなくてもいい、とも思い、奈保の受けるショックを考えれば、とんでもないことだとも思った。
――少し落ちついてから、希代子は化粧室を出た。
ロビーで足を止め、どうしたものか迷ったが、わきの階段から二階席へと上って行った。
扉の一つを開けて、足音をたてないように中へ入ると、またメンバーたちが戻って来て、めいめい楽器を鳴らしている。
色々な旋律や和音や音階が入り混って、不思議な音楽のように立ち上ってくる。
一階席をそっと見下ろすと、水浜と奈保が座席に並んで座ってしゃべっている。
そして、水浜は立ち上るとステージへ戻った。奈保は前の座席の背に両腕をのせ、身をのり出すようにして眺めていた。
水浜がヴァイオリンを手にして弦を弾く。周りの何人かがからかったらしい。水浜は苦笑いした。
希代子は、そっと扉の方へ戻り、外へ出た。
下のロビーから楽屋を抜けると、裏手に出る。ふと足を止め、|一《いっ》|旦《たん》また中へ戻った。
楽屋口の電話の番号を書き止めて、外へ出ると、希代子は数分歩いて電話ボックスへ入った。
かけながら振り向くと、ホールの建物が見えている。
「――あ、もしもし。恐れ入りますが、今リハーサル中のオーケストラのコンサートマスターをしている水浜さんを呼んでいただけませんか」
と頼むと、三、四分待たされた。
待っている間に腕時計を見る。――向うが出た。
「はい、水浜です」
「私よ」
「今――どこですか?」
「外にいるの。もう大分歩いちゃった」
と、希代子は言った。「奈保ちゃん、何か言ってた?」
「いえ……。いつも通りですよ」
「わざと明るくしてるのよ。何か言って、あなたを怒らせないように」
「でも――」
「聞いて」
と、希代子は遮った。「今日は、ともかく奈保ちゃんを安心させてあげて。ずっと一緒にいなくても、ともかく心配することはないんだと思わせるように。――いいでしょ?」
「だけど、僕は……」
と、水浜はためらった。
「気持は分るわ。奈保ちゃんを|騙《だま》すことになるし、それがいいことかどうか分らないけど……。今はともかくそうするしかない。ね、分るでしょ」
「――分りました」
「お願いね。また……会えるわ」
「今日は――」
「もう帰るわ。寄る所があるし」
と、希代子は急いで言った。「夜でも、電話するから……」
不意に言葉に詰って、希代子は電話を切ってしまった。
そして、電話ボックスを出て歩き出すまでに、数分の時間が必要だったのである……。
24 衝 撃
「今晩は」
と、小さく呼びかけると、うっすらと目を開けていた細川幸子は、ゆっくりとベッドの上で頭を向けた。
「ああ……。希代子さん」
と、幸子は言った。
「どう? 少しは元気になった?」
希代子は、ベッドのわきの|椅《い》|子《す》に腰をおろした。――前に来たときは、幸子は「篠原さん」と呼んでいた。
名の方を呼ぶようになったことが、いっそう心細さを感じさせた。
「ご心配かけて……」
病室の中、ということはあるにせよ、まだそう遅い時間ではない。夕食が早いから、「夜」ではあるが、明りも|点《つ》いているし、同じ病室の他の患者も起きていた。
「声に力がないわねえ。ちゃんと食べてる?」
と、希代子は首を振って、「いつまでさぼってる気?」
と、少しおどけて言った。
幸子は|微笑《ほほえ》んで、
「希代子さんはいいなあ」
「何が?」
「いつも元気だし……。そばにいると私にも元気がうつってくるみたい」
「何だか複雑ね」
と、希代子は苦笑いした。「私だって、人知れず泣くこともあるのにな」
「本当に?」
幸子があんまり本気でびっくりしているので、希代子は少々気を悪くした。
「女じゃないと思ってるんでしょう」
と口を|尖《とが》らす。
隣のベッドで雑誌を読んでいた中年のおばさんが笑い出した。
幸子も、ちょっと笑った。そのおばさんが希代子の方へ、
「その人が声たてて笑ったの、初めてよ。あんた、才能あるんじゃないの」
「お笑いタレントじゃありませんよ」
と、希代子は言い返した。
「――希代子さん」
「うん?」
「今、好きな人、います?」
希代子は赤くなって、
「今度は何よ、出しぬけに」
「もしいたら……。逃げないで、飛び込んで行って下さいね。何があっても。――好きって気持が|嘘《うそ》でない内に」
「嘘でない内に?」
「ええ。――自分をごまかしたり、言いわけしたりしてる内に、段々好きな気持に嘘が混り始めて、濁って来ちゃうから……。ためらわないで、|真《まっ》|直《す》ぐに飛び込んで下さいね。私はもう……たぶん、そんな恋はできないだろうけど」
「何言ってるの。私より一つ年下のくせして」
と、希代子が言ってやっているところへ、看護婦が検温に来た。
「じゃあ」
と、希代子は立ち上って、「また来るわ。――じゃ、この次はケンカでもするつもりでね」
「ありがとう、希代子さん」
と、幸子は言った。
希代子は廊下へ出て歩きかけたが――。ふと、足を止めて、病室を振り返った。
誰かが呼んだような、そんな気がしたのである。声が聞こえたというわけではなかったのだが。
病室から看護婦が出て来て忙しげに歩いて行く。
希代子は肩をすくめて、出口の方へと歩き出した。
「何だ。――珍しいじゃないか」
と、藤村涼は言った。「上れよ」
「お休みのところ、ごめんなさい」
と、希代子は上って、「奥さんは?」
「子供を連れて実家へ行ってる」
と、居間へ入って、「|俺《おれ》一人さ、座れよ」
「へえ、珍しい。――いいの?」
「構うもんか」
藤村はコーヒーをいれてくれた。
「アルコールの気分か?」
「そうじゃないけど……。やっぱりまずいわよ。百合子さんのいないときに」
「おいおい、妙にこだわるね」
と、藤村が笑って、「俺に気があったのか、さては?」
「あったわよ」
と、希代子は言った。「知ってたくせに」
沈黙がしばらく続いた。――藤村は、
「クリームは?」
と訊いたが、希代子は黙って首を振った。
「たとえ知ってたとしても、君は俺に向かないよ」
「決めないで」
と、コーヒーをゆっくりと飲んで、「私は、そう他の人に百パーセント分られちゃうほど単純な人間じゃないわ。あなたの知らない所も、想像のつかないような面も、いくらも持ってる。――そんな風に見えないとしたら、私がそう見せてないからよ」
「なるほど」
と、藤村は肯いた。「いや、すまん。君のことを、俺はいつも見てる通りの人だと思ってたからな」
「私って、よっぽど名優なんだ。みんなそう思ってるんだから」
と、希代子は笑って、「恋のためなら、嘘をつくし、人を傷つけたって平気よ」
「恋愛中か」
「藤村さんのことは|諦《あきら》めなきゃしょうがないからね。今や大学生の男の子と恋愛中。|凄《すご》いもんでしょ?」
「ほう。大学生? いくつだ?」
「二十一。――高校生の|従妹《いとこ》の彼氏を奪っちゃった」
「やるね」
「恨まれるだろうなあ、もし分ったら。殺されるかもしれない」
「覚悟の上か」
「死にたくないわね、まだ。でも、だからって、好きだって気持を止められる?」
藤村は何も言わなかった。――希代子は、ちょっと息をついて、
「ごめんなさい。酔ってもいないのに、あなたに絡んで」
と、笑った。
「いや、いいさ」
「――帰るわ」
と、希代子は立ち上った。
タクシーの中で、希代子は目を閉じていた。
眠っているわけではない。何か運転手から余計なことを話しかけられたくなかったのである。
――覚悟を決めなければならない。
奈保を傷つける覚悟か。それとも自分が傷つく覚悟か。
希代子は、今日、奈保が突然現われたときの、自分のうろたえように、自分でもショックを受けたのである。今まで、自分はもっと冷静に立ち回れると思って来たのではないか。
あのときだって、とっさに言いわけを用意するくらいのことはできたろう。
出がけに水浜からファックスが来て、仕事の前に寄ってみたの、とか……。
そんな口実を思い付くぐらい、いともたやすいことだったのに。それなのに、実際には希代子は見っともなく逃げ出して隠れていたのだ。
あれは一体何だったのだろう?
――マンションに着くと、希代子はロビーへ目をやった。
水浜が待っていてくれるかもしれないと思ったのだ。しかし――ロビーには人影がなかった。
ちょっとがっかりしている自分に苦笑しながら、料金を払い、タクシーを出た。
部屋へ戻りながら、ファックスか留守電が入っているだろう、と思っていた。
部屋へ入って明りをつけると、ファックスは入っていないが、留守電のメッセージが点滅している。
急いでボタンを押した。再生が始まり、ピーッと甲高い音がすると、
「希代子。――俺だ」
一瞬、希代子は青ざめた。白石のことは全く忘れていた。
「もうそろそろ、お前も考え直したころだろう。俺は、いつまででも待ってる。電話してくれ――」
希代子はメモを取らなかった。白石の言う番号が聞こえないように耳をふさいだ。
録音は、それ一つだ。
希代子はテープを巻き戻した。これでテープは消去されている。
希代子は、ソファにぐったりと座り込んだ。
――急に、ひどく疲れが押し寄せて来て、希代子を圧倒した。
水浜はどうしたのだろう。――希代子は、水浜の部屋へ電話をかけてみたが、留守電の応答テープが回っている。
そのまま切った。たぶん、帰ったらかけて来るだろう。
希代子は、電話が鳴るのを、じっと待っていた……。
希代子はハッと目が覚めた。
電話?――電話が鳴っただろうか?
電話を待っている内、ソファで眠ってしまったのだ。立って行ってみたが、留守電は入っていなかった。
時計へ目をやる。もう夜中の三時だった。
水浜は、もう寝てしまったのだろうか。
希代子は、諦めて風呂へ入ろうとバスルームへ歩いて行った。――もう遅い。シャワーだけにしておこうか。
服を脱いで、シャワーを出し、熱くなるのを待って、思い切り浴びる。全身を、熱いお湯が包むように流れて行く。
電話……。電話?
かすかに、鳴っているのが聞こえるようだった。急いでシャワーを止めると、ルルル、と電話の鳴っているのが耳に届いた。
急いでバスルームを飛び出し、バスタオルを体へ押し当てただけで居間へ駆けて行った。
留守電の応答テープが回っていたが、その途中で受話器を上げた。
「――もしもし?」
間があって、
「希代子か」
「え?」
一瞬、白石かと思った。
「倉田だ」
「ああ……。びっくりした!」
|濡《ぬ》れた髪からポタポタと水が落ちてくる。「こんな時間に、どうしたんですか」
と、希代子はタオルで頭を拭きながら言った。
「今、病院から電話で――」
「え?」
「幸子が死んだ」
希代子は、しばらくその意味が分らなかった。
「そんな……。今日――というか昨日、会って来たんですよ、私」
「そうか。――今夜、病院の屋上から飛び下りたそうだ」
と、倉田は言った。「これから行ってくる」
「飛び下りた……。幸子さんが?」
声がかすれた。
「何があったのか分らんが……。ともかく、知らせておこうと思ってな」
「大丈夫ですか」
「ああ。――こんな時間に、すまん」
「あの……。私も行った方が?」
「いや、大丈夫だ」
「でも――行きます。起きてるんで、今」
「そうか? すまんな」
倉田は力なく言った。
希代子は電話を切ると、急いでバスルームへ駆け戻った。
幸子が――。死んだ。
やっとその事実が実感されて、髪を乾かすドライヤーを持つ手は震えていた……。
25 見舞客
「日曜日で、看護婦の数も足りなかったんですけどね」
と、中年の医師が言った。「まあ、しかし相手は大人ですから。こちらとしては二十四時間見張っちゃいられませんし……」
「分ってます。よく承知しています」
と、希代子は言った。
何も言ってはいない。病院を責めたりしているわけではないのだ。
医師が、「病院の責任を問われても困る」と言いたげにくり返すのを聞いて|苛《いら》|立《だ》っていたのである。
どんな苦情を言ってみたところで、死んだ幸子が戻って来るわけではない。
病院に着いたのは希代子の方が先だった。追っつけ倉田も来るだろう。自殺というので、警官もやって来ている。
希代子は、ここへ来てやっと幸子の死が本当なのだと知った。昼間、見舞ったときには笑い声まで上げていたのに……。
「――家族の方ですか」
と、警官に|訊《き》かれて、
「いえ……。知り合いです。今――親類の者がこっちへ来ると思います」
倉田の妻が細川幸子の|従姉《いとこ》だから、倉田を「遠い親類」と呼んでも、間違いでもないだろう。
いずれにしても、誰か「身内の人」がいてくれないことには、警察の方でも困るのだろうと希代子は思った。
専務の西山は知っているのだろうか? こんな夜中に、知らせたとしてもここへ駆けつけるわけにはいくまい。
だが――。希代子は薄暗く、寒々とした病院の廊下を眺めて、思った。人の死ぐらい、予感できないものはない。
大人が、「死のう」と本気で決心したら、それを止めることは誰にもできない。
あの幸子の明るさは、すでに「心を決めて」しまったための明るさだったのか……。
警官が当直の医師と話を始めて、希代子はごく自然に幸子のいた病室へと足を向けていた。――入ってもいいものだろうか?
見ていると、看護婦が一人、足早に廊下をやって来て、よその病室へ入って行った。
「どうしました?」
と、患者に訊く声が聞こえてくる。
希代子は、病室の名札に、〈細川幸子〉の名を見て、胸が痛んだ。そっとドアを開ける。――眠っている他の患者を起こしてはいけない。
暗い中、そっと足を進めると、毛布をめくった幸子のベッドが目に入って来た。たった今、ベッドを抜け出て行ったような……。
そのベッドのわきに立って、そっと手をシーツへ当ててみると、錯覚だったろうが、少し暖かいような気がした。
「ねえ」
と、急に声をかけられ、びっくりして声を上げそうになる。
「すみません、起こしちゃいましたか」
と、希代子は小声で言った。
「いえ、起きてたのよ」
昼間、幸子を見舞ったとき、話を交わした中年の女性である。
「あなた――昼間、来てた人でしょ」
と、低い声で訊く。
「ええ」
「幸子さん、亡くなったのね」
希代子は言葉が出なかった。その女性は続けて、
「聞いたわけじゃないのよ。自殺なんて、みんな、決して口にしないわ。でも、なんとなく分るもんなのよ」
「そうですか」
と、希代子は、少しためらって、「あの――」
「何だかおかしいな、とは思ってたの」
と、その女性は天井を見上げて、「ずっと落ち込んで、元気なかったのが、少し明るくなってたでしょ?」
「ええ……」
「何かあったな、って思ってね」
「何かお心当りでも?」
「いいえ。少なくとも、あんたのせいじゃないわね。あのときには、もう死ぬつもりでいたのよ」
「だとしても……最後の見舞客だなんて、辛(つら)いですね」
と、希代子は幸子のベッドを見た。
「昨日来た人が……」
「昨日?」
「そう。正確に言うと、おととい?――何だかあの人が決心させたのかもしれないわね」
希代子は、ちょっとためらって、
「それって――男の人ですか」
「そうみたい。というか、直接は見ていないの。看護婦さんが呼びに来て、廊下の休憩所で会ってたみたいだから」
誰だろう?――倉田ではあるまい。いや、確かめたわけではないが、倉田ならそう言うだろうし。では専務の西山か?
他の男が幸子を訪ねて来ることもないとは言えないにしても……。
「その人と幸子さん、長く話してたんですか?」
「いいえ。そんなじゃなかったわよ。せいぜい五分かな。戻って来たとき、あの人、真青だった」
「何か言ってませんでしたか」
「何も。――訊かれたって、何も答えなかったでしょうけど」
「そうですね」
と、希代子は言った。「もし――」
病室のドアが細く開いた。ちょっと覗(のぞ)き込むシルエットで、倉田だと分る。
希代子は急いで廊下へ出た。
「すまん。遅くなって」
と、倉田は言った。
「警察の人が――」
「うん、分ってる。今話した」
と、倉田は|肯《うなず》いた。「君にも悪いことをしたな」
「そんなこと、いいの」
と、首を振って、「何か、それらしい徴候、あった?」
「分らん」
と、倉田は首を振った。「何があったのか……。しかし、彼女は結局、何も変っていなかったからな」
「変る、って?」
「状況が、さ。俺は別の仕事も見付けて、少なくとも自分を忙しくさせてる。しかしあの子は……」
「いけないわ」
と、希代子は倉田の肩に手をかけた。「結局、本当の理由は、当人にしか分らないんだから。想像して自分を責めちゃいけないわ」
「うん……」
と、倉田はため息をついた。「分った。――君の言う通りだろう」
「専務はこのことを?」
倉田はちょっとためらって、
「知ってる。――それで来るのが遅くなったんだ」
と言った。
「どういうこと?」
「自宅の電話へかけた。専務の専用の番号があるんだ。しかし誰も出なくて、奥さんにことづけるわけにもいかないし、困ったんだが……。それで、もしやと思って他の番号へかけてみた」
「他の番号?」
「うん……」
倉田が目を伏せた。希代子にもピンと来た。
「女の所?」
「ああ。もう前に切れた女を知ってたから、万に一つ、専務がどこにいるか知ってるかもしれないと……」
「かけてみたら、そこ[#「そこ」に傍点]にいたってわけね」
「よく分るな」
「分るわよ」
と、希代子は腕組みをした。「ぶん殴ってやりたい」
「むだだよ」
「そうね」
と、希代子は肩をすくめた。「そういう人だと思うしかないのね」
希代子は、倉田を見て、
「で、何て言ってた?」
「専務か? 『すぐには行けない』と言っただけだ。連絡してくれと頼まれたけど」
「そう……」
「そんなものさ」
もし、幸子が死んだのが、西山のせいだったとしたら……。
幸子の死を「むだ」だと言うのは、彼女にとって、もっと不幸を重ねることになるのだろうか。
希代子は、空しさばかりを抱いて病院を後にした。
「――遅れてごめん」
と、希代子は編集部へ入って言った。
「あ、チーフ。メモがそこに」
と、太田和也が言った。
「ありがとう」
出社したのは、もう午後の二時。メモには、電話しなくてはならない用件が七つも並んでいた。きちんと時間も書き込まれていて、後からどんどん書き足しているのが分る。
その点、太田は全く理想的な部下である。
希代子は、せっせと電話をかけまくった。――七件の用事、全部をすませるのに、三十分もかかった。
「四時に打ち合せだ」
と、時計を見て、「大変!」
「おい、篠原君」
と、久保田が呼んだ。「手は空いたか」
「は? ちっとも。――でも、耳だけなら、何とか」
「専務が呼んでた。今いるかどうか分らんが、連絡してみてくれ」
希代子はチラッと久保田を見て、
「分りました」
と言うと、電話へ手をのばし、全く別の所へかけた。
十分ほどして切ると、編集部を出る。
西山の部屋へ行ってみると、秘書の女の子が、いぶかしげに、
「どなたですか?」
と、希代子を見上げる。
「そっちから言って来たのよ、用があるって。――篠原希代子」
「ああ、篠原さんですか。専務、さっきまで待っておられたんですけど、お出かけになってしまわれました」
「そう。じゃ、いいわ」
と戻りかけて、
「今、出社ですか?」
と訊かれた。
「そうよ。何しろ吸血鬼の血を引いてるんで、朝は弱いの」
と言って、さっさと編集部へ戻る。
「あ、ちょうど――。電話です」
と、太田が言った。
「ありがとう。――はい、篠原です。――もしもし?」
白石か、と身構えた。
「僕です」
水浜の声に、希代子は一瞬で気分が変った。
「――昨日はごめんなさい」
と、小声になって言う。
「いえ……。夜、電話したかったんですけど、何だか、かけ辛くて」
「良かったのよ。夜中、急用で出てしまってたから」
「何かあったんですか」
「会って話すわ。――あれからどうした?」
「久しぶりで、ホットドッグなんか食べて、奈保ちゃん、ずいぶんご機嫌が直ったみたいでした。よく笑ったし」
よく笑った。――そう聞いて、反射的に幸子のことを思い出す。
笑っていたからといって、本当に楽しんでいたとは言えないのである。
「でも、用心して」
会社の電話だ。希代子は、
「また今夜かけて」
と言って電話を切ったが、心は重苦しかった。
「チーフ、大丈夫ですか、時間?」
と太田に言われ、
「大変だ! 行ってくる!」
希代子は編集部を飛び出したのだった。
26 家 出
夕方から雨になった。
打ち合せを終えた希代子は、夕食を誘われたが、
「編集部へ戻らないと」
と言って断り、一人で食事をした。
――何だかんだと言って、結局、こうして一人で食事するのが一番気楽なのだ。
もちろん水浜との食事は楽しいが、奈保への「申しわけない」という気持がいつもあるし、といって、仕事仲間と、原稿や印刷所のことで文句ばっかり言いながら食べるのもおいしくない。
それならいっそ一人の方が――。
一人の方が? でも、そう言っている内に、いつまでも一人のままで終ってしまうのかもしれない。
二人だったら、たとえ気はつかって疲れたとしても、何か他にかけがえのないものを手に入れることがあるかもしれない。「楽なこと」が人生を楽しいものにしてくれるとは限らないのだ。
「だからって……どうすりゃいいのよ」
と、希代子は|呟《つぶや》いた。
仕事が終って、社を出るのが午前二時、三時なんて時間で、まともにデートなんかできるだろうか?
疲れて何もしたくない、ただひたすら眠りたい、というとき、二枚目も何も関係ない。
――文句を言ってもしょうがない。厄介なのは、こういう生活を、希代子自身が結構楽しんでいるということなのかもしれない……。
「ちょっと、ワインをグラスで。――赤ね」
と、希代子は注文した。
編集部へ戻ると、半分以上の人間が残っている。
これが当り前の状態なのだ。
「篠原君」
と、久保田が言った。「専務の方はどうした」
「|伺《うかが》いましたけど、お出かけで」
と、希代子は言った。
「そうか。また捜してたぞ」
久保田としては、気になるのだろう。
「こんな時間ですよ。もういないでしょ」
と言ったとき、編集部の入口に、西山の姿が現われた。
「遠くから見えたんだ」
と、西山は言った。「今、ちょっといいか?」
忙しいんです、と言ってやろうとしたが、やめた。大人げないことだ。
「はい」
と、立ち上ると、「――どこで?」
「僕の部屋へ来てくれ」
と、西山は言った。
――専務室は、もちろん秘書ももう帰っている。
「かけてくれ」
と、西山は言った。「幸子のことでは、色々迷惑をかけた」
「いいえ」
と、希代子は言った。「残念です」
「ああ、僕もだ」
西山は、自分の席につくと、「君から見れば、僕はとんでもない男だろうね。――しかし、あの子の方から僕を父親のように慕って来た。本当だ」
希代子は、ちょっと間を置いて、
「どうしてそんなことを私に?」
「さあ……」
と、西山は目を伏せて、「君には本当のことを知ってほしいからだ。――しかし、僕にも分らん。幸子がなぜ死んだのか」
「幸子さんの所へ、おととい行きましたか」
と訊くと、西山はいぶかしげに、
「いや、行ってない。どうしてだね」
「誰かが、おととい会いに行ってるんです。その後、ショックを受けてるみたいだったと」
「そうか……。いや、それは僕じゃない」
「それならいいんです」
「君は……心配してくれてたね、幸子のことを」
「女同士です。でも――ある人を尊敬できるかどうかは、男も女も関係ありません」
と言って立ち上ると、「他にもご用がありますか」
「幸子の葬儀は、郷里の方でやることになった」
「そうですか」
「私は行くわけにいかない。――倉田君が行ってくれるそうだ」
「専務。忘れないで下さい。結局、もともとの原因は、専務にあったということを」
希代子はそう言って、「失礼します」
と一礼して部屋を出たのだった。
「――あら」
マンションのロビーに水浜の姿を見て、希代子は足を止めた。
もう午前二時である。――いつから待っていたのか。水浜はロビーの|椅《い》|子《す》で眠り込んでいた。
希代子は、ちょっと笑って、水浜を揺すって起こした。
「――あ、希代子さん」
と、水浜は目を覚まして、「眠っちゃったんだ、僕」
「そうらしいわね。上って」
「ええ」
水浜は希代子の肩を抱いて、|大《おお》|欠伸《あくび》をした。――希代子は笑いながらエレベーターのボタンを押した。
希代子の部屋へ上って、水浜は、
「何だか気になって」
と言った。「様子がおかしかったから」
「私の? そうだった?」
「何かあったんでしょう」
水浜は、じっと希代子を見つめていた。
「――ともかく、後で話すわ」
希代子はバッグを投げ出して、水浜をしっかり抱きしめた……。
――やがて朝になろうかという時間に、やっと希代子は眠った。
水浜は、レポートがあると言って、帰って行った。そんな無茶ができるのは、若さのせいだろう。
希代子は、水浜を送り出して、すぐにベッドへ潜り込み、すぐに眠りに落ちた。
水浜には、簡単に幸子のことを話しておいた。しかし、水浜に話したことで、ずいぶん気は楽になった。
スッと引き込まれるように眠って、目を覚ましたのはお昼の十二時ちょうど。まるで時計で測ったかのようだった。
予定を確かめてから、編集部へ電話を入れる。
「――カズちゃん? 希代子よ。何かある?」
と、新聞を広げながら訊く。
いくつか仕事の連絡はあったが、そう急ぐものでもなかった。
「じゃ、二時ごろ行くわ」
と切りかけると、
「チーフ、実は――」
と、太田が声をひそめる。
「どうしたの?」
「編集長がさっき専務に呼ばれて行って、まだ戻らないんですけど」
「――そう」
「何か……」
「大丈夫よ。雑誌には関係ないわ」
と言って、電話を切った。
西山が、希代子のゆうべの態度に腹を立てているとしても、おかしくない。久保田に何か言っているのだろうか。
クビならクビで結構。――どこか、行く所はある。
希代子は軽く歌をハミングしながら、バスルームへ行ってシャワーを浴びる。
こうも気分が軽いのは、水浜と寝たせいだと――認めるのは照れくさいが事実だった。
単に疲れているのをいやしてくれたというのではない。水浜との時間が、希代子を人間に戻してくれるのである。
シャワーを終えて出てくると、電話が鳴っていた。
「――はい」
と、出てみると、
「希代子ちゃん? 私」
と、津山静子の声だ。
「あ、叔母さん。どうしたの?」
「奈保、どこにいるか知らない?」
希代子は一瞬、青ざめた。――訊き返すまでもない。
「知らないわ」
「今日、いつもの通りに出たんだけど……。さっき学校から電話があって、来ていないって……」
「叔母さん、落ちついて。警察へは?」
「まだ何も……。ね、事故に遭ったのかしら?」
静子は声が上ずっている。
「ありえないことじゃないけど、まだそう心配しなくても。ただ、ちょっとどこかへフラッと遊びに行ってるのかも」
そう言いながら、希代子は信じていなかった。奈保は、理由もなくそんなことをする子ではない。
「どうしたらいい?」
と、静子はオロオロするばかりである。
「そうね。私が当ってみる。叔父さんは?」
「いないわ。たぶん……どこかの女の所だと思う」
「そう」
「奈保がそんなことを知って、いやになって……」
「そうじゃないと思うわ。奈保ちゃんはもっと大人よ」
希代子は、静子を説得できないまでも、いくらか気持を鎮めることには成功した。
「家にいて。何か分ったら連絡するわ」
と言って、希代子は一旦切ると、急いで出かけられる仕度をした。
そして、水浜のいるN大へと電話して、呼び出してもらった。
水浜が出るのにしばらくかかったが、やっと捕まった。
「――奈保ちゃんが?」
水浜はびっくりしている。
「何か言ってなかった?」
「さあ、何も……。どうします?」
「そっちの大学へ行くかもしれないと思うの。もし行ったら、連絡して。いいえ、話を聞いてあげて」
と、希代子は言った。
「まさか――」
と言いかけて言葉を切る。
どっちも分っていた。何を言おうとしているのかが。
「ともかく」
と、希代子は言った。「奈保ちゃんを無事に見付け出さないと。分るわね」
「ええ」
「じゃあ……。何もなければ、また今夜連絡するわ」
と、希代子は言った。
「分りました」
――希代子は息をついた。
奈保が……。勝手にどこかへ行ったとすれば、その理由は一つしかない。希代子と水浜の仲に気付いたのだ。
――取り返しのつかないことになったら、どうしよう?
希代子は、ともかくまず新聞社の友人へ電話を入れて、警察の方を当ってくれるように頼んだ。
しかし、その先は――。何ができる? 奈保がどこにいるのか、どうやって知ることができるだろうか。
編集部へ電話した希代子は、太田が出たので、少し遅れると言った。
「――チーフ。さっき、電話がありましたよ。三十分くらい前かな」
と、太田が言った。「女の子でした」
「女の子?」
希代子は息をのんだ。「高校生くらいの?」
「そんな感じでしたね。希代子さん、いますかって」
「奈保ちゃんだわ。私の|従妹《いとこ》。何か言ってた?」
「いいえ。来ていないと言ったら、そうですかって……。この近くにいたようです」
「会社の近く?」
「声の感じが。それに、車の音とか、どうもすぐ近くって気がしたんですけど」
「すぐ行くわ! ね、もしまたかかって来たら、すぐ来るから、って言って」
電話を切ると、希代子はバッグをつかんで玄関へと駆けて行った。
靴をはきながら、ドアを開けて――。
「奈保ちゃん」
と、希代子は言った。
奈保が学校の|鞄《かばん》をさげて立っていたのである。
「――お母さんから?」
と、奈保は言った。
「さっきね。――上って」
「いい?」
「当り前でしょ! さあ」
奈保は、目を伏せたまま、上って来た。
「でも、良かった! 事故にでもあったんじゃないかって……。ね、お母さんへ連絡してもいい?」
「え? でも――」
「警察へ連絡してたりしたら大騒ぎよ」
奈保は、小さく肯いた。
「そう。座ってて」
希代子は、すぐに叔母へ電話を入れた。
「――心配しないで。私がちゃんと話を聞くから。――ええ、そう言うわ」
希代子が電話を切ると、
「怒ってた?」
と、奈保が訊く。
「いいえ。寿命が縮まったかもしれないけどね」
希代子には分らなかった。
奈保は知っているのだろうか? もしそうなら、ここへ来るだろうか。
「奈保ちゃん。――お|腹《なか》空いてない?」
と訊くと、奈保は急に両手で顔を覆って泣き出したのだった……。
27 涙のあと
希代子は、奈保が泣きやむのを待っていた。――待つ以外に何ができただろうか。
奈保は、十分近く泣いていたが、やがてゆっくりと顔を上げると、
「顔……洗ってくる」
と言って立ち上った。
その奈保の様子からは、果して希代子と水浜のことを知っているのかどうか、判断がつかなかった。
奈保が顔を洗っている間、希代子はまるで判決の出るのを待っている被告のような気分だった。もちろん、そんな立場になったことはない。けれども、自分が奈保に対して、罪を犯していることは事実である。
「――ごめんね」
と、戻って来た奈保が少し無理はしているにせよ笑顔を見せたとき、希代子は|安《あん》|堵《ど》した。
奈保の目に、希代子に対する恨みは感じられない。奈保は知らないのだ。
しかし、それを喜ぶというのも、身勝手なことに違いなかった……。
「何もかも馬鹿らしい」
ストンと座って、奈保は意外なことを言った。
「何のこと?」
希代子の声は、少し重苦しく聞こえた。気のせいか、自分だけにそう聞こえるのか。
「私……希代子さんに|嘘《うそ》ついてた」
と、奈保は言った。
希代子は黙っていた。――お願い、謝ったりしないで。お願いよ。
「あの人と……ホテルに行っちゃった」
と、奈保は言って、固く両手を握り合せた。
「でも、いい加減な気持だったんじゃない。本当よ。好きだし、後悔してない。でも……いくらかは、こうしたら彼が私だけのものになる、って思ってたのかもしれないけど」
奈保は、少し言葉を捜すように間を置いて、
「――でも、一番気になったのは、希代子さんのこと。だって……信じてくれてたのに。私たちのこと。でも――」
と、急に不安になった様子で、
「あの人に怒らないで、あの人のこと、|叱《しか》ったりしないでね。私が……行こうって言ったんだし、いいよ、って言ったんだもの。ね? しょうがないよね、男の人は」
奈保が早口に言って希代子の顔を見た。
「それは……どうかしらね。でも、ともかく、私が水浜君に何か言ったりはしないわ。心配しないで」
「ごめんなさい」
と、奈保は言った。「――もちろんお母さんには話せないし、それに一番気になったのは希代子さんのこと。だって、希代子さんが私と彼のことを……お母さんに請け合ってくれたんだものね。だから、言いにくくって……」
謝らないで。謝られれば、それだけ胸が痛くなるのだ。
「それで――どうしたっていうの? こんな風に家を出て来て」
と、希代子は言った。
「私――日曜日に行ったの。オーケストラの練習してるとこへ。あの人、そんなに相手してはくれなかったけど、でもやさしくて……。終った後は一緒にホットドッグ食べて別れたの。幸せだった。でも……」
「でも?」
「今朝、駅で声かけられて。――あの人と一緒のオーケストラの人で、私も何となく顔を|憶《おぼ》えてて……」
「そう」
「その人が言ったの。日曜日、女の人が来てたんだって。私が行く前に。――あの人、その女の人と会ってたのよ。そこへ私が行って――。でも、あの人、そんなことおくびにも出さなかった。いつもとちっとも変らない様子で。私って何なんだろうって思って。あの人、どう思ってるんだろうって……」
せき込むような口調になった。「好きか嫌いか、でしょう? もう――ただの友だちじゃないのに。それなのに、他の女の人がすぐそばにいるのに、素知らぬ顔して。そんなことができるなんて。――信じられない!」
奈保は、少し荒い息をしていた。
「――奈保ちゃん」
と、希代子は言った。「水浜君はその女の人と、何でもないかもしれないじゃない。何かの知り合いとか、遠い|親《しん》|戚《せき》とか。オーケストラの仕事で知り合っただけかもしれないわ。でも、二人で話してるとこへ奈保ちゃんが来たら……。奈保ちゃんが誤解してしまうかもしれないって、そう心配したのかも。ね。そう悪い方へばっかり想像してちゃ、良くないわ。学校をさぼったりして。――お母さんに説明しなくちゃいけないのよ」
奈保のため、という名目が立たなかったら、とてもこんなことは言えない。自分でも、言葉がこんなにもそらぞらしく響くのを初めて聞いた、と思った。
それにしても、奈保がその「女の人」のことを、希代子かもしれないと思い当らないのがふしぎだった。いや、今の言い方で、ピンと来たかもしれない。
一体誰があんないい加減な慰めを真に受けるだろうか。
「そう……。そうよね」
と、奈保は|肯《うなず》いて、「希代子さんの言う通りだと思うんだけど……。好きなのに、どうして信じられないんだろう、って思うんだけど」
好きだからこそ信じられないのだ。それでいて信じたいと思うから苦しいのだ。
そんなことも、奈保はまだ知らない。子供なのだ。たとえ体だけは女になっていても。
「奈保ちゃん。ともかく帰ろう。――ね。お宅へ帰って、お母さんを安心させないと」
奈保が、急に希代子に抱きついて来た。泣きはしなかったが、希代子の胸に顔を|埋《うず》めて、
「このままにさせといて……」
と、|呟《つぶや》くように言った。「お願い。――こうさせておいて」
拒むわけにはいかなかった。
希代子は、母親のように奈保を抱いていた。しかし、知っていたのだ。どっちも、心の中では同じ男を抱いているのだと。
「――ええ、大丈夫。年ごろの子には色々あるわよ」
希代子は電話で叔母を慰めた。「――ええ、今、私のマンションで寝てるわ。くたびれたみたい。そっとしといた方が。――帰って、ちゃんとそっちへ送るから、大丈夫よ、心配しないで」
希代子はくり返した。
編集部は三分の一も人がいないので、静かだった。久保田もいない。
希代子が出社して来たとき、もう久保田は会議でいなかった。
「カズちゃん」
と、希代子は受話器を戻して、「編集長、何か言ってた?」
「専務の話ですか? いいえ」
と、太田がクルッと|椅《い》|子《す》を回して、「チーフが来たら、連絡とれるようにしといてくれ、って。出かけるんですか?」
「いいえ。今日はここで仕事してる。急な連絡さえなきゃね」
机に向ってやらなくてはならないことも山ほどある。ただ、いつもは外へ出る仕事が多くて、机に向うのはその合間合間になってしまう。
今日はくたびれていた。
「大変ですね」
と、太田が言った。「チーフの|従妹《いとこ》って、見付かったんですね」
「聞いたでしょ、今の電話」
「難しい年ごろですね」
「そうね」
難しい?――そうじゃない年ごろなんてあるのだろうか。
人は、十三、四の子を、「難しい」と言い、十七、八の子を、「難しい」と言う。それを言うなら、二十八の女だって、「難しい」。
しょせん、人は一生のどこを取っても、「易しい」存在になどなることはないのだろう……。
電話が鳴って、赤ペンを持ったまま、希代子は出た。
「もしもし」
「やあ、藤村だ」
「あ……。この間は――」
と言いかけてためらう。
日曜日、水浜の所をあんな風に逃げて、希代子は藤村の所へ行ってしまった。
「失礼しまして」
と、希代子は言った。「百合子さん、もう帰られた?」
「いや、もう少し実家にいる」
と、藤村は言った。
「何かあったの?」
と、少し心配になって、希代子は言った。
「二人目が生まれるんだ」
「なあんだ。心配して損しちゃった」
と、希代子は笑った。「おめでとう」
「どうも。つわりがひどくてね。母親の所で気がゆるんで、余計なんだろ。生まれるまで向うにいるかもしれないよ」
「一時的独身? 危いな。気を付けるのよ、悪い虫に」
と、希代子は言ってやった。
心から、|嬉《うれ》しいと思った。藤村の所まで何かあったら、やり切れないだろう。自分が心を寄せていた男なのだ。それだけのことはある、と思わせてほしい。
「二人目が生まれるとなると、生活も厳しいしね。何でもいい、仕事があったら言ってくれ」
「じゃんじゃん回すわ」
「片っ端から片付けてやる」
と、藤村は笑った。「今度コラムをまとめた本が出る。二冊本の予定でね」
「へえ。すてき。紹介するわ、雑誌の本のコーナーで」
「頼む。その営業で電話したんだ」
「何だ。友情の|証《あかし》かと思った」
「友情も営業の|助《すけ》|太《だ》|刀《ち》さ」
「お役に立てるなら、何でも言って」
と、希代子は心から言った。
藤村との電話を終えて切ると、
「篠原君」
いつの間にか、久保田がドアの所に立っている。
「はい、遅くなって」
「ちょっと来てくれ」
と、久保田が促した。
二人は|空《あ》いた会議室へ入り、手近な椅子を引いて腰をかけた。
「どうだ」
と、久保田は言った。「俺も大分編集者らしくなって来たか」
「そうですね」
と、小首をかしげて、「人相が大分悪くなって、それらしくなったかな」
久保田は笑った。そして、
「実は西山専務に呼ばれてね」
「ええ、カズちゃんが言ってました」
「君をうちの正社員にしたいということなんだ。午後の会議でも、みんな異議はなかった。――どうだね」
希代子は|呆《あっ》|気《け》に取られていた。まさか、そんなことを聞かされようとは思わなかったのだ。
「それを……専務が?」
「うん。しかし、君に言っておいてくれってことだった。今度の一件とは関係ない。君の実力と実績を評価すれば当然のことだ、とね。気がねなく受けてほしい」
西山が「口止め」のつもりで言った、とまでは思いたくない。それに幸子のことは希代子に限らず社内では|噂《うわさ》になっていて、今さら口止めでもあるまい。
倉田がいなくなった後、慣れていない久保田を支えて頑張って来た。その点、決して自分を過小評価することはない、と希代子は思っていた。
もちろん、正社員となれば、何かと面倒なこともあるだろう。しかし、病気をしたときのことでも考えると、ずっと安定した身分である。
いささか年寄くさいが、とも思いつつ、今の希代子は、「安定」の値打も少し分りかけて来ていた。
「――はい。よろしく」
と、希代子は軽く頭を下げた。
「良かった。何とか君に受けてもらわんと、専務に叱られるところだ」
西山も、希代子には感謝しているのだろう。
「それで、君を編集部のデスクにしたい。いいだろ?」
希代子は目を丸くして、
「今だってチーフなんて呼ばれて、お|尻《しり》がムズムズするのに!」
デスクはここでは「副編集長」のことである。
「いいじゃないか。もう君は実際その仕事をしてる」
「責任って嫌いなんです。いい加減に無茶をやって、責任は上に押しつける、っていうのが趣味なんです」
と、希代子は言ってやった……。
――席に戻って、希代子はさめたお茶を一口飲むと、編集部を見渡した。
この先、何年も――ひょっとすると何十年も、ここにいることになるのだろうか。
そう考えると、見慣れた編集部の光景が、いつもと少し違って見える。
「チーフ」
と、太田が振り向いて、「何でした、話?」
「うん。――どうってことじゃないの」
希代子は赤ペンを取り上げた。
今日は妙な一日だ、と思ったりしながら……。
28 夜にからまる
「|凄《すご》い! おめでとう」
と、電話の向うで、奈保は飛び上らんばかりの声を出した。
「奈保ちゃん。耳が痛いわ。そんな大声出したら」
と、希代子は笑って、「ね、一緒にお祝いしてくれる? シャンパン買って帰るから」
「うん! やろうやろう!」
――どうやら、泣き疲れて希代子のマンションで眠った奈保は、いつもの元気を取り戻したようだ。
希代子は少しホッとして、電話を切ると会社のビルを出た。今日は珍しく早い。といっても、夜の九時。
つくづく、まともな生活じゃないな、と思う。
ともかく、帰ってから、奈保を家へ送って行かなくてはならない。希代子はタクシーを拾って、マンションへと向った。
夜までには、希代子が正社員になるということは社内に知れ渡り、他のセクションの人から、
「おめでとう」
と電話が入ったりもしたが、そうなると少々ひねくれて、
「そんなに喜ばなきゃいけないの?」
と言いたくなる希代子だった。
太田たち、編集部の面々が喜んでくれるのは、素直に受け止められたのだが。――これも年齢のせいで、ちょっと素直でなくなった、ということかもしれない。
タクシーの中で、水浜へ電話しておけば良かった、と思い付いた。きっと、奈保のことを気にしているだろう。
電話しておくつもりで忘れてしまうというのは、やはり自分も少しは「舞い上って」いるのだろうか。
――タクシーがマンションの前に着く。
途中、高級スーパーで買ったシャンパンを手に、足どり軽く部屋へと急いだ。
「――ただいま。奈保ちゃん。玄関、ドアが|鍵《かぎ》かかってないわよ」
と、中へ入って上ると、「――奈保ちゃん?」
「お帰り」
と、奈保が台所で振り向く。「もうじき、ピザの出前が来るから、開けてあるの」
希代子は、テーブルに皿を並べている水浜を見ていた。
「――いらっしゃい」
と、希代子は言った。
「お帰りなさい」
水浜は|微笑《ほほえ》んで、「電話してみたら――」
「私のこと、心配して来てくれて」
と、奈保は|頬《ほお》を紅潮させている。「一時間くらい前に来たの」
「そう」
希代子は肯いて、「これ――シャンパン」
「私も飲んでいい?」
「酔っ払わないでね」
と言って、希代子が寝室へ行きかけ、振り向くと、奈保が、
「あ、それじゃない方が。――もう少し大きい器、ない?」
と言っているのが聞こえた。
「これかな」
「そうね。それがちょうどいい」
楽しげにしている二人を後に、|一《いっ》|旦《たん》寝室に入る。
着がえる気にもなれず、少しの間ぼんやりと立っていたが、
「――水浜君」
と、戻って声をかけ、「ちょっと、明日会社の人が何人か来るの。飲物、買って来たいんだけど、お願いしていい? 近くのコンビニまで」
「ええ、もちろん」
と、水浜は言った。
「すぐ戻るわ。奈保ちゃん。ピザが来たら、これで払って」
と、テーブルにお金をのせる。
「はあい。遅くならないでね。冷凍のスープ、溶かしてるから」
希代子は玄関を出て、さっさと歩いて行く。ついて来る水浜の足音が、自分の心臓の鼓動と重なるようだった。
ロビーへ出ると、足を止めて、
「何も知らないわ」
と言った。「あの子は何も気付いてない」
「希代子さん」
「いつ……来たの?」
「一時間くらい前ですよ」
「奈保ちゃん、そう言ったけど――。本当に?」
「ええ。――本当に、ってどういう意味ですか」
希代子は、ロビーに置かれた|椅《い》|子《す》に腰をおろすと、
「奈保ちゃんがあんなにはしゃいでるから……。もしかして……」
「そんな!」
「キスぐらいしてあげなさいよ」
と、希代子は言った。
「できるわけないじゃないですか」
と、水浜は怒ったように、「あの部屋で? 無理ですよ」
「でも……奈保ちゃんは私に抱きついて来たのよ。私も奈保ちゃんを抱いた。この胸にね」
水浜が右手をそっと希代子の頬に当てる。その手を取って、希代子は固く握りしめた。
「――奈保ちゃんに話しましょう」
と、水浜は言った。
「だめ。絶対に言わないで」
「それがあの子のためですか」
「いいえ」
と、希代子は首を振って、「いいえ。――私のためよ。自分のためよ」
立ち上って、
「さあ。行きましょう」
と促すと、水浜は黙って希代子について来る……。
ふと、体が不安定に揺れて、希代子は目を覚ました。
眠ってしまった。――もう何時だろう?
十二時をとっくに回って、シャンパンのボトルは|空《から》になっていた。
不安定なのも当然で、希代子はソファの上で眠っていたのである。格別酔ったという気分ではなかったが、疲れてもいたのか、それとも酔って二人の方を気にせずにすませたいと思ったのかもしれない……。
二人は?
起き上って見回すと、水浜が一人がけのソファで眠り込んでいた。
奈保は?――家には電話を入れて、明日の朝早く、送って行くと断っておいた。母親も、奈保の上機嫌な声に安心していたようだ。
寝室を|覗《のぞ》いた希代子は、自分のベッドに潜り込んで寝ている奈保を見付けた。
制服はもちろん脱いで下着姿で毛布を抱きかかえるようにして眠り込んでいるのは、大分シャンパンを飲んだせいでもあるだろうか……。
希代子は、少し口を開けて眠っている、十七歳の従妹の顔を見下ろしていた。水浜に抱かれて、奈保はどんな表情でいたのだろうか?
急に、胸苦しさにせき立てられるように、希代子は玄関からコートをつかんで飛び出した。
夢中で夜の中へと駆け出して、しかし自分自身の足音にびっくりして足どりをゆるめる。
何とかしなくては。――何とか。
少し行って振り返ると、マンションの、自分の部屋の窓を見上げた。
明りの|点《つ》いた部屋はそう多くないので、あれがそうだとすぐに分る。
すると――明りがフッと消えたのである。見間違いではない。確かに自分の部屋だ。でも、どうして?
たぶん、希代子が部屋を出た物音で水浜が目を覚まし、中を見て回って、寝室の中も覗いたのだろう。
希代子がいないと知って――。どうしたのか。
あのあどけなく眠っている奈保を、水浜は抱きしめたいと思わないだろうか……。
希代子は再び歩き出した。マンションから離れたかった。離れたら、自分の悩みからも離れられるような気がした。
足を止める。
足音が聞こえる。――気のせいかしら?
いや……本当だ。足音だ、追っかけてくる。
その足音を背中に聞きながら、振り返るのが怖かった。それが誰であっても、怖かったのである。
足音が止った。――息を弾ませて、
「希代子さん」
「大丈夫よ」
と、希代子は振り向かずに言った。「私は大丈夫」
「心配ですよ。――あの白石のことだってあるし。こんな風に出歩くなんて」
白石のこと? そう。忘れていた。あんな男のことは、思い出しもしなかった。
振り向いて、
「どうして来たの?」
「どこへ行くのかと思って」
「どこへ……」
希代子は目を伏せて、「どこへ行くのか……。自分でも分らない。私はどこへ行くのか……」
どこへ行くべき[#「べき」に傍点]なのか。そして現実にどこへ行くのか。
「希代子さん――」
「放っておいて」
と、首を振る。「一人にして。――放っておいて」
「離れないで下さい」
「一人にして……」
希代子は、近寄り、自分を抱く水浜の若々しい腕を拒まなかった。自分から水浜をかき抱き、唇を|貪《むさぼ》るように押し付け合った……。
「――さあ、急いで」
と、希代子は、奈保をせかした。「学校の仕度もしなきゃいけないのよ」
「うん。大丈夫」
「ちっとも大丈夫じゃないわ」
と、苦笑して、「タクシー、下で待ってるかしら」
「見て来ましょう」
と、水浜が言った。「僕ももう出ないと」
結局、三人がほぼ一緒にマンションを出ることになった。
タクシーが待っていて、希代子は奈保を先に乗せると、
「水浜君、駅まで」
と言った。
「いえ、歩きます」
と、水浜は首を振って、「じゃ、奈保ちゃん」
「いいの?」
と、希代子は念を押した。
「ええ。目が覚めるし。歩く方がいいんですよ」
軽く手を振って、水浜は歩いて行った。
「またね!」
と、奈保がタクシーの中から呼びかけると、水浜がちょっと振り返って手を上げる。
希代子は、タクシーが走り出すと息をついた。
「朝早いし、そう時間はかからないでしょ」
「うん。――希代子さん。ごめんね。色々心配かけて」
と、奈保は|爽《さわ》やかそのものという様子である。
「落ちついた?」
「うん。どうでもいい、って気持なの」
と、奈保は前方を見つめて、「水浜さんが、どうでもいいんじゃないのよ。あの人が私をどう思ってるか、結局は心の中なんて分らないじゃない」
「そりゃね」
「だったら、心配して|苛《いら》|々《いら》しても仕方ない。――自分の気持ははっきり分ってるんだから、それでいい。そう思ったの」
希代子は、奈保の割り切った言い方に少々圧倒されそうだった。
けれども、この落ちつきも長くはもつまいと分っているからこそ、そんな従妹を|可愛《かわい》いと思った。
「お母さん、何て言うかな」
「大丈夫。奈保ちゃんが元気でいれば、それで安心なのよ」
奈保は希代子の肩にもたれて、
「希代子さんいなかったら、私、どうしていいか分らない」
――二人の手が|膝《ひざ》の上で触れ合って、タクシーが朝の閑散とした町を抜けて行く。
二人は、それきり無言だった。
29 雨
「デスク、これを見て下さい」
と、太田がイラストの色校正を持って来る。
「カズちゃん――」
と、希代子は言いかけて、やめた。
確かに、今自分は「デスク」なのだ。太田はそういう点、|几帳面《きちょうめん》なだけなのである。それをにらんでみても仕方ない。
「――そうね。もう少し明るくした方がいいんじゃない、この文字」
と、希代子は言った。
「そうですね。僕もそう思ったんですが」
と、太田は言って、「四時から対談なのであと十五分くらいしたら出ます」
「分ったわ」
太田には何も念を押す必要はない。ちゃんと手落ちなくやれるからだ。
希代子は、読んでいたゲラを置いて、ウーンと背筋を伸した。
「疲れてるんですか」
と、太田が言った。
「お|尻《しり》が痛い。――一日中座ってるのって、|辛《つら》いわね。ね、誰か忙しかったら私が原稿取りに行ったげるよ」
もちろん冗談だが、希代子としては半分本音でもあった。
〈デスク〉という肩書がついてしまったおかげで、さっぱり出歩かなくなってしまった。
それでも、普通のOLのデスクワークに比べると出歩く方かもしれないが、以前からは考えられない毎日。現場に慣れた希代子にとっては、退屈で仕方ない。
「カズちゃん。対談、一緒に行こうかな。いい?」
「ええ、もちろん。でも、校了の方は大丈夫なんですか?」
希代子の気持を分っている太田はニヤニヤしている。
「平気よ。半日くらい待たせたって」
希代子は、こうして人をある程度「動かす」立場になってみて、一人一人の個性みたいなものに気付いた。
よく動く者、できるだけ|椅《い》|子《す》にかけたままですませようとする者、外出が好きで、たぶん息抜きも外出中にしている者、外出が嫌いなのに年中外へ出される者……。
色々である。――そこに、人の集まりとしての編集部の面白さがあった。
正直、デスクになって迷惑という気持と、人の仕事が見えてくる面白さとが半々というところだったろう。
「――戻り|梅雨《つゆ》ってやつかな」
と、編集部へ戻って来た久保田が言った。「篠原君」
「はい」
「これから一緒に来てくれないか。印刷所とお盆休みのための進行で話し合うんだ」
「――はい」
そんなこと、編集長が決めて下さい。そう言いたいのはやまやまだったが、久保田ではよく分らないところがあるのも確かだった。自分が行くしかないだろう。
「カズちゃん、悪いけど――」
「はい、分ってます」
「何だ。用だったのか?」
と、久保田が|訊《き》く。
「カズちゃんの荷物持ちをやることになってたんです」
と、希代子は言った。「何時ですか、印刷所との話?」
「三時半だ。一時間もあればすむだろう」
と、久保田は席について、書類へ目を通し始める。
夏のお盆の時期、印刷所は十日近く、全くストップする。月刊誌にとっては十日の休みは影響が大きいので、事前に印刷所と話し合うのである。
といっても、休日を「休むな」とは言えないので、希代子たちの方で入稿などを早めるしかない。希代子たちはともかく、藤村のようなライターなどは大変だ。他の雑誌も同様に進行がくり上るので、どのコラムも早く仕上げなくてはならない。
もちろん藤村はプロである。そんなことぐらいよく承知しているはずだ。
「お電話です、デスク。3番」
「はい。――もしもし」
と、希代子は少しホッとして言った。
デスクになって、もう一つつまらないのが、自分へ直接かかって来る電話の数がずっと減ってしまったことだ。
電話がかかって喜んでいるなんて、私もどうかしてる、と希代子は苦笑いした。
「倉田だ」
「あ、どうも」
すぐに思い出した。「今――もう東京ですか」
「うん」
「ご苦労様でした」
倉田は、死んだ幸子の葬儀に行っていたのだ。
「今、下にいる。ちょっと会えるか」
「下? ここの? じゃ、行きます」
希代子は急いで編集部を出た。
倉田は、知った人間の目を避けているかのように、玄関ホールの奥の方に立っていた。
「――上って来ればいいのに」
と、希代子は言った。
「いや、仕事が待ってる。すぐに行かんと」
倉田は、上着のポケットから何か封筒に入ったものを出した。
「何ですか?」
「お前にあてたもんだ」
確かに、封筒の表に小さな字で〈篠原希代子様〉とあった。
「手紙?」
「遺品の中にあって、家の人が持って帰ってしまっていたらしい。この人をご存知ですか、と向うで訊かれて、預かって来た。もちろん読んでない」
「――どうも」
希代子は、その封筒を手にして、「倉田さんは……」
「|俺《おれ》には思い出がある」
と言って、ニヤリと笑い、「キザだろ」
傷口にしみる痛みを笑っている。そう分る笑いだった。
「じゃ、もう行く」
と、歩きかけて、「――デスクか」
「え?――あ。ええ。何だかそんなことに……」
「良かったな。頑張れ」
「次は社長ですよ」
と笑って見せ、希代子は手を上げた。
倉田が忙しげに出て行く。逃げて行くように見えていないかどうか、たぶん気にしていただろう。
希代子は、細川幸子の手紙を、こんな所で読む気にはなれなかったので、そのまま持って編集部へ戻った。
途中、窓から見ると雨は本降りになっていた。――倉田の肩が|濡《ぬ》れていたことを、初めて思い出した……。
「――よく降るなあ」
と、水浜が言った。「弦楽器にはいやな天気です」
「そうね」
希代子は雨の音に耳を澄ました。
二人にとって、今、雨は「音」でしかなかった。暗い部屋で身を寄せ合っている二人だったから。
夜といっても――昼と少しも変らない。こういうホテルの部屋には「夜」しかないのである。午後二時の夜も、午後三時の夜もある……。
「――お|腹《なか》、|空《す》いた?」
と、希代子は少し体を起こして訊いた。
「うーん、まだもう少し大丈夫」
「元気ね」
と、希代子は笑った。
――デスクになって良かったことの一つ、と言っては|叱《しか》られるか。帰りの時間が、以前より正確に分るようになったので、水浜が何時間も待ち|呆《ぼう》け、ということは少なくなった。
希代子は水浜と週に一度は必ず会っていた。
木曜日にはいつもの通り奈保の家庭教師をつとめている。奈保は落ちついていた。希代子の教えることもよく聞いているし、成績も上って来ている。|叔《お》|母《ば》もホッとしている様子だ。
津山隆一とはこのところ全く会っていないし、もちろん会いたいとも思っていない。――津山家の中も、微妙なバランスを保ちつつではあるだろうが、まず平和だった。
そう。――微妙なバランス。
誰もが、少しでもそれをつつけば大騒ぎになると知っているから、手を出さない。
「今のままが一番いい」
と、誰もが自分に言い聞かせている……。
「電話してる、奈保ちゃんに?」
と、希代子は|枕《まくら》に顔を半分|埋《うず》めながら訊いた。
「ええ。元気そうですよ」
「そうね。分るわ、私も毎週見てて。安定してる、っていうか……。どこかふっ切れたみたいね」
「あの子のことは言わない約束でしょ」
「ごめん。――そうね。二人だけの時間だからね」
希代子の指が、すべすべした水浜の胸を滑る。
「くすぐったい」
と、水浜が笑った。
――希代子はマンションには、あれから一度も水浜を泊めていない。
いつまた奈保がやって来るかもしれないし、その可能性がないとしても、希代子は水浜と会うのを、こういう日常でない空間の中に限っておきたかったのだ。
それが少しは希代子の気持を軽くした、と言ってはあまりに安直かもしれないが、少なくとも、この部屋の中と外[#「中と外」に傍点]とで、生活を区切ることができた。
自分を|騙《だま》しているだけだ。奈保にとっては、二人がどこで寝ようが関係ない。――そう分っていても、希代子自身にとっては確かに違っていたのである……。
「もう行きましょう」
と、起き上りかけた希代子を引き戻すと、水浜の重みが自分を押えつける。「もう……行かないと……」
希代子の唇をせっかちな唇が封じる。希代子にも分っているのだ。こういう展開になることは。
同じ順序。同じ手順。同じ動作。――自分がどう反応し、どうなるか分ってくると、少しずつ前倒しに快感が深まる。慣れるというのとは少し違って、くり返しそのものが新しくなる。
ずっとずっと長いこと忘れられていた水源が、新たに掘り起されて、濁った水が次第に澄んで、豊かに流れ出す。
希代子は思い切りその水を飲んだ。浴び、浸って、泳いだ。人魚にでもなったように、希代子の体はしなやかに波打った……。
「傘は?」
「大学で|盗《と》られちゃった」
「あら」
と、希代子は笑った。「じゃ、入れてあげるわ」
「すみません」
二人で入るには、少し小さすぎる傘だったが、そう長く歩くわけでもなかった。
「――来週、クラブの旅行なんです」
と、水浜が言った。
「へえ。どこに行くの?」
「河口湖。――要するに飲んで騒ぐだけなんです」
と、水浜はため息をついた。「希代子さんといる方がよっぽどいい」
「でも、そういうお付合いも必要でしょ。何日間行ってるの?」
「火水木……。二泊三日です。でも、その前後、忙しくて、会う時間がないかもしれない」
「そう……。寂しくて泣いてるわ、一人で」
と、希代子は言って微笑んだ。「私も来週辺りは忙しいから――。帰ったら、電話してちょうだい」
「ええ」
地下鉄の駅まで来ていた。「――じゃ、僕はここで」
「気を付けて。飲み過ぎないでね」
「大丈夫ですよ」
と、水浜は笑った。「行く前に電話しますから」
「ええ。それじゃ」
水浜が、希代子の傘の下から飛び立つようにして、地下鉄の駅への階段を駆け下りて行った。
希代子は、水浜のいなくなった後の空間をそのままにしておきたいような気がして、自分の肩が濡れるのも構わず、傘を動かさなかった。
ふっと、我に返る。
こんなことで風邪でもひいたら馬鹿みたい! さ、帰りましょ。
タクシーを使うことにした。雨なので拾えなければ別だが。
幸い、すぐに空車が見付かって、希代子は座席に落ちついた。
タクシーが走り出す。――眠気はなかった。
来週、会えないということ。たぶん、水浜よりも希代子の方がそれを忘れるために必死に何かしているだろう。
快いけだるさが手足に残っていた。
眠くはなかったが、目を閉じる。――恋か。私は水浜に恋しているのだろうか。
「遊び」を気どるつもりはない。男に慣れたふりをしたところで、誰も感心してはくれないのだ。だから、素直に言うことができる。
水浜と会うことが、今の希代子にとっては生活の一部になって、だから自然なのだ。
奈保にとってどうか、ということは別として……。
奈保のことを考え、何の連想か、倉田から渡された細川幸子の手紙を思い出した。
今? こんなタクシーの中で読んでもいいものだろうか。
――少しためらったが、思い出すと気になる。
バッグから取り出すと、封を切った。
便せん二枚の短い文面の手紙と、写真が一枚。――あのときに見た赤ん坊の写真だった。
これを私に? 希代子は戸惑ったが、ともかく手紙を広げた。
〈篠原希代子様
お世話になりました。
希代子さんを驚かせることになろうと思い、心配ですが、お許し下さい。
今日、親戚の者が来て、子供が死んだと知らせてくれました。友だちと駆け回っていて、道へ飛び出し、車にはねられたそうです。
どうしてあの子が。他の子でなく、あの子だったのか。
私には守ってやることができなかった。私が死のうとして生きているのに、あの子は生きようとしていて死んだのです。
一緒に生きてやれなかった私は、せめて一緒に旅立ってやります。
希代子さんのご親切は、身にしみて、この胸に抱いて参ります。
どうか私を哀れと思わないで下さい。私は救われに行くのですから。
お幸せを。
――希代子は、その手紙をくり返して読んだ。
何度か読む内、いつしか目は幸子の書いた「文字」を見ていた。ていねいではなく、急いで書いたようだったが、しかし少しの乱れもない字だった。
雨の|叩《たた》く窓へと目をやる。――窓が、希代子の代りに泣きくれていた。
30 隠す心
「希代子ちゃん」
と、叔母が玄関へ出て来た。
「ごめんなさい、遅くなって」
と、希代子は息をついた。「忙しくって。もういいんだけど。――どうかしたの?」
ただごとではなかった。
津山家の玄関に立って、希代子は、上っていいものかどうか、迷っていた。
今日は木曜日で、奈保に勉強を教える日である。ちゃんといつもの時間に来るつもりだったが、急に打ち合せが入って、遅れてしまったのだ。
「会社へ電話したんだけど、もう出た後で……」
と、静子は言った。
「そう。――今夜は帰ろうか?」
と、希代子は訊いた。
「上ってよ」
と、奈保が出て来た。「希代子さんにも、聞いてもらった方がいいよ」
「でも……」
「ね、上って!」
奈保は、母親のためらいを無視して、希代子の手をつかんで引張った。
「分ったわ。上るから待って」
と、やっと靴を脱ぎ、「上に行く?」
奈保が、居間のドアへと希代子を引張って行った。
津山隆一が顔を向けて、
「やあ」
と言った。「ご苦労さん。――出世したって?」
女が一人、ソファに堅い表情で座っていた。
そうか。――希代子には、分った。
「奈保。あなたは希代子ちゃんと上に行ってて」
と、静子が言った。
「いやだ」
と、奈保は言った。「私だって、聞く権利あるでしょ」
津山は、そっと希代子を見た。苦笑いを浮かべながら。
「奈保ちゃん」
と、希代子は言った。「お母さんの言う通りにして。後でゆっくり聞けばいいわ」
奈保は、しばらくためらっていたが、希代子が、もう一度、
「さあ」
と促すと、二階へと上り出した。
「希代子ちゃん、お願いね」
と、静子が小声で言う。
「大丈夫。心配しないで」
希代子は階段を上って行った。
――奈保の部屋へ入ると、ベッドの上に引っくり返った奈保が、
「お父さん……子供作ってたんだって」
と言った。「あの女の人がね、子供をちゃんと認知してくれって」
「大変ね」
後ろ手にドアを閉めて、「お母さん、そっとしといてあげて。奈保ちゃん以上にショックよ、きっと」
「うん……」
奈保は、じっと天井を見上げて、「お父さんに女の人がいることは分ってた。お母さんも知ってた。でも、子供がいるなんて思わなかった」
「そうでしょうね。――急に訪ねて来たの?」
「うん。お父さんがいやにあわてて帰って来て……。どうしたのかな、と思ってたら、すぐあの女の人が……」
彼女を止められないと分って、津山はあわてたのだろう。――希代子は、前に津山から聞いているので、びっくりはしないが、静子や奈保がどう思うか、気になった。
「ね、いつも通り勉強しよう」
と、希代子は言った。「それが一番いいのよ」
奈保は、ゆっくりと起き上った。
「――そうかもしれないね」
「そうよ」
「じゃ……。やろう!」
奈保は、パッとはね起きて、机の前に座った。
「その調子!」
希代子は、いつものように奈保の机のそばへ|椅《い》|子《す》を寄せて、勉強を始めた。
むしろ、いつもより熱中しているという気分だった。
「――はい、ここはもう分ったわね」
と、希代子は|肯《うなず》いた。
奈保は、ふと手を止めて、
「子供がね、もう三つなんだって」
と、言った。「幼稚園に入れなきゃいけないって。それであの女の人も必死なんだよね」
「そうでしょうね」
「気持、分るな。――お母さんは怒るかもしれないけど。もし自分に子供がいて、学校に行かせるのに困るんだったら……。押しかけてくな、私も」
そう。――結局、津山もその子を認知せざるを得まい。叔母は、きっとそんなことがなかったかのように自分に言い聞かせて、変りなく暮して行くだろう……。
「別れちゃえばいいのに」
と、奈保は言った。「お母さんと二人で、ちっとも困んない。どうせ年中いないんだもの」
「――さ、勉強の続き」
「うん」
奈保は、ボールペンを握り直して、「――ね、彼、今日帰って来る」
「え?」
「旅行だったんだ。私、ずっと祈ってた。飲み過ぎて湖へ落っこちませんように、って」
希代子は笑ってしまった。笑っていてはいけないのかもしれないが、今は自然にふるまうのが一番大切なのである。
「――明日、会えるんだ」
と、奈保が言ったので、希代子はハッとした。
「明日?」
「そう。帰りに会って、お茶飲むだけよ。いいよね?」
「ええ。もちろん」
と、希代子は言って、「さ、次は社会科。教科書は?」
と促した……。
「ごめんなさい、何も出さなくて」
と、叔母が玄関で言った。
「いいの。何だか|却《かえ》って迷惑かけたみたいで」
と、靴をはいて、「じゃあ……」
「奈保、何か言ってた?」
と、静子は声をひそめる。
「奈保ちゃんも子供じゃないわ。色々分ってるわよ。――叔父さん、いないの?」
「あの人[#「あの人」に傍点]を送って行ったわ」
「そう……。元気出して」
「ありがとう」
静子は、少しホッとした様子で、「怖い注射をしたときみたいね」
「注射?」
「前から、どんなに痛いかって想像してたから、いざとなるとそうひどくは痛く感じない。でも、後になって、きっとひどく痛むのね」
希代子は、叔母の手を軽くとって、それから玄関を出た。
叔父に会いたくないと思って、急いで歩いた。今の希代子には、あまりに|辛《つら》い話題だった――。
「もしもし」
眠ってはいなかった。電話が鳴って、すぐに出ると、
「帰りました」
と、水浜が言った。
「お帰りなさい。――無事だった?」
「何とか。二日酔だけは避けられませんでしたけど」
と、水浜は笑って言った。「こんな時間になってすみません」
「まだ十二時よ。私には早いわ」
「仕事ですか」
「本を読んでたの。書評のね」
と、希代子はソファに寝そべって、「――忙しい?」
「学生ですから、ちっともお金にならない忙しさですけど」
「今度は……来週ね」
「ええ。――いいですか?」
「大丈夫。明日、ちゃんと起きられそう?」
「何とか起きないと。朝の内にやっとかなきゃいけないレポートがあるんです」
「ご苦労様。少し早く帰って寝た方がいいわよ」
「先輩と会うんで。また飲まなきゃいけないかもしれない」
「無理しないで」
と、希代子は言った。「若くても、体はこわすのよ」
「ええ。――じゃ、週末に電話します」
「待ってるわ」
電話を切って、本のページに目をやる。しかし、少しも集中できなかった。
明日、彼と会う。そう言った奈保の表情は|嘘《うそ》ではなかった。
それならなぜ水浜もそう言ってくれなかったのだろう。
いや、水浜としては希代子に気をつかっているのかもしれない。――希代子だって、奈保がああして落ちついたのは、水浜と時々話しているからだと分っていたのではないか。
ただ、それを口に出して訊きはしなかった。水浜の方から言い出さなかったといって、不平は言えない。
でも――と、つい考えてしまう。奈保と会うのだということぐらい、言ってくれてもいいのに。
それを聞いて、やきもちをやくとでも思っているのだろうか。
もちろん……もちろん、会ったとしても、二人はもう……。
パタッと本を閉じる。
奈保は、水浜とお茶を飲むだけだと言った。でも、それが本当かどうか。
自ら、嘘をついている身で、希代子は奈保や水浜に正直であることを要求はできなかった。
自分は大人で、奈保は子供だという言いわけも、通じない。水浜に対しては、自分も奈保も一人の女であって、何の変りもないということに、希代子は気付いたのである……。
「――もしもし?――どなたですか?」
「カズちゃん? 私」
と、希代子は言った。
「あ、デスク。どうしたんですか。遅いんで、心配してたんですよ」
太田の言い方は自然で、その|真《まっ》|直《す》ぐな言葉が希代子の胸に痛かった。
「ごめん。ちょっと――|風《か》|邪《ぜ》ひいたみたいなの。気分が良くないから、このまま帰るわ、今日は」
「大丈夫ですか?」
太田がびっくりしている。当然だろう。いくら具合が悪いといっても、会社へ戻らずに帰るということはない。
「悪いけど、机の上、片付けといて」
「いいですけど、そんなこと……。迎えに行きましょうか?」
太田は本当に心配そうだった。
「ううん、そんな必要ないわ。心配かけてごめん。本当に大丈夫だから」
「そうですか……」
大丈夫なら、直接家へ帰るなんてことはないだろう。太田の方も、ただの「風邪」ではないことを察したのかもしれなかった。
「じゃ、編集長にそう言っときます。お大事に」
と、太田は言った。
「ありがとう」
ごめんね、カズちゃん。――電話を切って、電話ボックスから出ると、希代子は空を見上げた。
皮肉なくらい、きれいに晴れ上っていた。
電話を切ったとたんに、後悔していた。ちゃんと仕事に行くべきだ。外出先から回って来てしまったが、こんなこと、大人[#「大人」に傍点]のすることじゃない。
今から編集部へ戻ろうか? 太田は面食らうかもしれないが、それでも何かあったんだな、と思ってくれるだろう……。
しかし、結局希代子は動かなかった。――どこか、そのホテルを見ていられる場所があれば、と思ったが、そう都合良くドラマのようにはいかない。
それに、大体が細いくねくねと入りくんだ道の両側に、同様のホテルが固まっているのだ。ホテルを出てから、どっちの道へ出るかも分らない。
仕方ない。――少し離れた場所で、置いてあるのか捨ててあるのかよく分らない鉢植えのそばに、希代子は立っていた。
今、奈保と水浜があのホテルに入っている。
奈保が学校を出るのを、希代子は待っていて、後をつけて来たのだ。尾行? そんな風に呼ぶのは何だかいやだった。自分がひどく|惨《みじ》めな気がして。
そう。――ただ、奈保を見守っているだけだ。心配だから、離れて見ているだけ……。決して、決して|嫉《しっ》|妬《と》ではない。そんなものじゃない。私は大人で、あの子は子供なんだから。
水浜と奈保は、待ち合せた場所で会うと、お茶の一杯を飲むでもなく、真直ぐにここへやって来た。迷いもためらいもなしに。
それを責められる身ではない。分っていても、希代子の中には血をにじませるような痛みがあった。
二人は、もう何度もここへ来ている。慣れていて、そこを選ぶのも決っているのだ。一度や二度でないことは、二人の様子で分る。
希代子は笑いたい気分だった。奈保が「落ちついて」思えたのは、こうして定期的に水浜と会っていたからだった!
考えてみれば分りそうなものだったが、しかし、あえて考えようともしていなかったのである。
日が当ると、少し肌に暑く感じるくらいで、希代子は日かげを捜したが、手近な所には見当らなかった。
猫にでもなれたら、どこかその辺の隅の日かげで丸くなっていても、誰も目を止めないのに……。
人通りは、決して少なくなかった。
みんながみんな、ホテルを捜しているわけではなかったろうが、しかし半分以上はカップルで、二つ三つのホテルを|覗《のぞ》いてから、そのどれかに入って行くとか、初めからここ[#「ここ」に傍点]と決めてあって、足早に入って行くとか――。
明るい太陽の下では、その姿はいかにも屈託がなく、少しも暗さは感じられなかった。
希代子は、こんな明るい時間に水浜とホテルへ入ることはそうなかったが、それでもたまにそうしたときにはあんな風に見えたのだろうか、と思った。
一人で立っているのは、辛かった。通って行く男女は、希代子のことなど目も向けない。何の関心もないのだろう。もちろんそうだ。
これから愛し合おうという恋人たちにとって、他人の痛みなんか、知ったことではない……。
腕時計を、ほとんど五分おきに見ていた。電話ボックスへ行って、大して急ぎでもない電話を何本もかけ、やっと一時間半ほどが過ぎた。
――奈保が先に出て来た。たぶん、二人で別々に歩いて行くのだろう。
だが、そうではなかった。すぐに水浜も出て来て、二人は一緒に歩き出した。腕さえ組んで。
二人の後ろ姿を見送って、希代子は立ち尽くしていた。
駆け寄って、|叱《しか》ってやるか。それとも――。
それとも?
「私の彼を盗らないで!」
とでも言ってやるか?
とんでもない! 盗ったのは自分の方ではないか。
そう。奈保には、堂々と水浜の腕をとって歩く権利があるのだ。
そう考えると、希代子は軽くめまいさえ覚えた。――水浜と奈保が並んで歩く姿は、自分が一緒にいるのよりもずっと自然に見えるだろうと思ったのである。
二人の後をついて行く気にもなれず、希代子はしばらく待ってから歩き出した。
どうしても同じ方向へ行くことになるのだが、追いついてしまう心配はないだろう……。
だが――。曲りくねった道を|辿《たど》って、希代子は足を止めた。
二人が――水浜と奈保が立ち止っている。
希代子を待っていたわけではなかった。
二人の背中越しに、希代子は見知った顔を見付けた。――白石だ。
「分ったか」
と、白石は冷笑していた。「ちゃんと見てるんだぜ、俺は。な、色男。女二人、手玉にとっていい気分だろ?」
希代子は青ざめた。――白石は、希代子と水浜のことも知っているのだ。
「放っといて下さい」
と、水浜は言った。「あなたの知ったことじゃないでしょ」
「おお、放っといてやるとも。お前はその小娘といい女と、うまく使い分けて楽しみゃいい。邪魔はしないさ」
と、白石が笑った。
希代子は、出て行こうとしてためらった。今自分が出て行っても、これ以上悪く[#「悪く」に傍点]なることはないと分っていたが、二人を「見張って」いたと知られるのは、辛かった。
すると、奈保の方が口を開いたのだ。
「消えてよ」
と、少しも|怯《おび》えた様子もなく、「この人を殴ったんだからね、いつか。警察へ届けてやってもいいんだから」
「気の強い奴だな」
と、白石は愉快そうに、「そういう女が好みか、お前? 希代子もよく似てたぜ、若いころにゃ」
「行こう」
と、水浜が促して、「こんな奴、放っとこう」
「うん」
二人が歩き出すと、白石が前をふさぐ。希代子は心配になって、出て行かざるを得なくなった。何をするか分らないのだ。
「もう充分でしょ」
と声をかけると、白石が目をパチクリさせた。
「――いたのか」
奈保と水浜は、希代子を見ても何も言わなかった。
「用があるのは私でしょ。この子たちとは関係ないわ」
「ああ……。俺にはお前のことが――」
「希代子さん」
と、奈保が言った。「行こうよ、一緒に」
白石は、チラッと奈保たちの方を見た。――どういう気分だったのか、ちょっと肩を揺すって、
「今度は電話に出ろよ」
と希代子の方へ言い捨てると、足早に歩き去った。
希代子は、何ごともなかったことでホッとしていたが、残った三人にとっては「何ごともない」ではすまないことも分っていた。
「――今、こんな所で話もできないわ」
と、希代子は言った。「仕事があるの。またね」
小走りに、広い通りへと、二人のわきをすり抜け、靴をカタカタ鳴らしながら駆け出して行く。
二人とも何も言わず、黙って見送っていた。
三人三様に、言いたいこと、言わなくてはならないこと、そして聞かなくてはならないことを、抱いていたのだ。
タクシーを止め、自分のマンションへと向いながら、希代子は冷房の入ったタクシーの中、額の冷たい感触で、初めて自分が汗をかいていたことを知ったのだった。
31 孤独な夜
「大丈夫ですか、デスク?」
と、太田が心配そうに言った。
「そんなに飲んでる、私? ちっとも酔ってないわよ」
と、希代子は言った。
実際、そう酔うほど飲んでいなかったのだ。
「そうじゃないんです。大して飲んでないことは分ってますけど、何だか様子が……」
と言いかけて太田はためらった。
「――ありがと、カズちゃん」
と、希代子は|微笑《ほほえ》んだ。「私のことを、よく分ってくれてる」
「デスクのそういうところ、珍しいですもの」
太田の言葉に、希代子はちょっと目を伏せて、
「デスク、デスク、か……。カズちゃんにとっちゃ、私は女じゃないんだ」
太田は困ったように|曖《あい》|昧《まい》に笑って、
「デスク、って呼ばれるの、嫌いですか」
と言った。
「ううん、構わないの。カズちゃんには、つい何でもグチっちゃう。ちゃんと聞いてくれるんだもの。内心どう思ってるのかな。『いい加減にしてくんないかな』って?」
「まさか」
と、太田は首を振って、「でもね、あんまり聞いちゃうと|辛《つら》くなることもありますよ」
「辛くなるってどういう風に?」
「つまり……デスクは、何でも真剣だから。それがいけないって言ってるんじゃないですよ。でも、人って、どこかでいい加減にしとかないと、疲れちゃうと思うんです。自分も、だけど、周りの人間も」
何にでも真剣?――そうだろうか。
いや、希代子としては、それが当然と思って、そうして来ただけなのである。少なくとも、「仕事のプロ」として、ある程度自分にも厳しくしなければやって来れなかったから。
でも、それが間違っているのだろうか? いや、そのこと自体が「目的」になってしまったところが、いけなかったのかもしれない……。
「生意気なこと、言いましたかね」
と、太田は言った。
「そんなことないわ。――カズちゃんは、そうして思ったことを言ってくれるから、好きよ」
「といっても、デスクにとって、僕は男じゃない、でしょ?」
希代子は笑った。
――胸の痛みは消えない。どうしたところで、一人で消すわけにはいかない痛みなのである。それは、「人に痛みを与えている」という痛みだからだ。
水浜と、奈保。――二人のどちらとも、まだ話していない。週末は過ぎて、水浜から留守電に一度だけ、「またかけます」と入っていたが、それだけである。
週が明け、仕事が大分忙しい時期に入っていた。希代子は、月、火と午前二時、三時に社を出る生活で、明日の木曜日もどうなるか……。
いや、「どうするか」迷っていた。
仕事はいくらでもあり、叔母に電話して、
「今週はちょっと忙しくて行けない」
と言うのはやさしい。
でも、奈保から見ればどうだろう。こんなときに逃げる希代子を|卑怯《ひきょう》だと思うかもしれない。
水曜日の夜。――珍しく十一時ごろ編集部を出た希代子は、太田を誘ってこのバーへ寄った。明日、どうするか……。決めるのを先へのばしていたのかもしれない。
「――もう行きます」
と、太田が言って、立ち上った。
「ごめんね、引張って来て」
「いえ、これからちょっと彼女に会うんで」
「いつも遅いのね」
「あっちの方が遅いくらいなんですよ。同業者だから」
と、太田が笑う。
「そう。――そうね、普通のOLさんじゃ、夜中の一時からデートなんてわけにはいかないし」
「デスクは帰らないんですか?」
「帰るわよ。デートする相手もいないしね」
と、希代子がおどけて見せると、
「デスクの彼って――」
「え?」
と、面食らって顔を上げると、
「|凄《すご》く若い人ですか、大学生くらいの?」
と、太田は言った。
「ええ。――いけません?」
と、ちょっとふざけて、「でも、どうして?」
「社の外で待ち合せてたことがあるでしょう? たまたま見たんです。あれ、息子さんがいたのかな、とか思って」
「カズちゃん!」
「でも、本当に若くて|可愛《かわい》くて」
「私もまだ二十八なのよ、言っとくけど」
「ええ」
太田は、少しためらっていたが、「――デスク」
と、また座り直した。
「どうしたの?」
「言ったものかどうか――。でも、あんまりデスクは真剣だから」
「何のこと?」
「僕も……たまに彼女と行ってるんですけど……ホテルに」
「あら、カズちゃんはもっと|真面目《まじめ》かと思ってた」
と、からかって、「それで?」
「――見かけたような気がする[#「気がする」に傍点]んです。あの男の子」
希代子は、太田の表情をじっと見つめていた。
「そう……。でもふしぎはないわね」
「相手はデスクじゃありませんでした」
希代子は|肯《うなず》いて、
「知ってるわ」
と、グラスを|空《あ》けた。「それで胸を痛めてるのよ」
太田は肯いて、
「高校生の|従妹《いとこ》っていう女の子でしょ」
と言った。「たぶん、そんなことだろうなって思ってました」
「鋭いわね。――十歳も年上の……いえ十一歳か。ともかく、私の方が大人なのに、こんな風に悩むなんてね。今まで何してたんだ、って思うの。大人になったはずなのに、どうしてなんだ、って」
太田は、黙ってテーブルの上の水滴を見つめている。希代子は、
「行かなくていいの? 彼女が待ってるんでしょ」
と言った。
「ええ」
と、太田は言って立ち上ると、「じゃあ……。あ、そうだ」
と、財布を取り出すので、
「やめてやめて。せめてデスクらしいことをさせてよ」
と、押える。「さ、早く行った行った」
「すみません。じゃあ」
と、太田は会釈して店を出て行きかけたが、またテーブルの所へ戻って来ると、
「あのとき、デスクの彼が――彼らしい[#「らしい」に傍点]男の子が一緒だったのは……。ホテルに一緒に入って行ったのは、そんな若い女の子じゃありませんでした。少なくとも勤めている女の子です。たぶん――二十二、三かな。それで気になってたんです。すみません、もし他人の空似だったら……」
「ありがとう」
と、遮って、「もう行って」
「おやすみなさい」
と、軽く頭を下げて行ってしまう。
「カズちゃん。――彼女によろしくね」
と、希代子は言った。
太田に聞こえていただろうか。希代子には分らなかった。
しかし、もうそれはどうでもいいことだったのである……。
「――水浜です」
という声が受話器から聞こえて、
「私、希代子よ。あの――」
「ただいま外出しておりますので、ご用の方は、信号音の後に――」
留守番電話か。希代子は、勢い込んで話しかけようとした自分が少し恥ずかしかった。
ピーッと信号音が聞こえた。希代子は、ためらった。|一《いっ》|旦《たん》切ろうとしたが、思い直して、
「もしもし」
と言った。「私……篠原希代子です。この間は……ごめんなさい。週末、忙しくてマンションにいなかったの。また――電話します。今、外の電話ボックス……」
何を言ってるんだろう、私は? どこで電話をかけようが、そんなこと水浜には何の関係もないはずだ。
そう。帰って、部屋からかけりゃいいのに、と思うかもしれないが、どうしても希代子は今、かけたかったのだ。今、水浜の声が聞きたかったのだ。
しかし、そんなことを、テープに吹き込むわけにはいかない。
電話を切って、戻ったテレホンカードを抜くと、希代子は定期入れにしまい込もうとして、ふと気が変り、もう一度水浜の所へかける。
「水浜です。ただいま外出しておりますので、ご用の方は、信号音の後にお話し下さい」
ピーッという音。
希代子は、黙ってそのまま電話を切った。
そして、
「おやすみ」
と|呟《つぶや》いて、電話ボックスを細かい雨が|濡《ぬ》らしているのに気付いたのだった。
傘……。傘を会社へ置いて来た。
まあいい。タクシーを拾わなくては帰れないのだし。少しくらい濡れても、大丈夫。
希代子は電話ボックスを出た。
――タイミングが悪いのか、タクシーはなかなかやって来なかった。少し待つと意地になって待とうとする。
無線タクシーを呼べばいいと思ったが、もう少し、もう少し待ってみよう、と思っている内、いい加減濡れてしまった。
どうしよう。迷っているとき、
「希代子ちゃんじゃないか」
と呼ばれて、
「あ。――何してるの?」
藤村涼が、傘をさして立っている。
「何してるの、って、ひどいなあ。君の社でカンヅメになってたんだぜ」
と、藤村は苦笑した。
「あら。そうだったの」
「風邪ひくぜ。空車、待ってるのか?」
「なかなか来なくて」
と身震いする。
「いけないよ。僕の車で帰ろう。この先の駐車場に入れてあるんだ。君の所が閉めちまってたから」
「でも、車のシートが濡れるわ」
「放っときゃ乾く。――さ、行こう」
さしかけてくれた傘に、希代子はありがたく入れてもらうことにした。これくらいの幸運には恵まれてもいいだろう。こんなときには。
「ハクション!」
と、希代子は派手にクシャミをした。
――大して「幸運」とも言えないかもしれない。
「ごめんなさい」
と、希代子は息をついて、「さっぱりした!」
「それは客用の浴衣だ。気にしないでいいよ」
と、藤村は言った。「何か飲むか?」
「冷たいもの。ウーロン茶でもある?」
「うん、あるはずだ」
希代子は、浴衣姿でソファに腰をかけた。タオルで、濡れた髪をせっせと|拭《ふ》く。
あんまり雨に濡れてしまったので、藤村の所へ寄って、お風呂に入れさせてもらったのである。
「――今、乾燥機で乾かしてるからね、君の服」
「ごめんね。傘くらい持って歩かなきゃ。編集者失格だな」
「どうして?」
「雨に降られて、風邪でもひいたら、進行が遅れて迷惑かけるわ。あなただって、気を付けてるでしょ?」
「そりゃ、風邪ひきたいと思っているわけじゃないけどね」
と、ウーロン茶を入れたグラスを希代子に渡して、「でも、人間は病気もするし、気がのらなくて仕事が進まないことも、どうしても見たい映画をTVでやってりゃ、つい見ちまったりもする。そんなもんだと思ってるぜ」
希代子は、ウーロン茶を一気に飲み干して、
「――さっきカズちゃんにも、同じようなこと言われちゃった」
「何だって?」
「私は何にでも真剣すぎる、って」
「そう。――ま、それが君の個性だ」
「でも……そんなこと考えちゃいないんだけどな。結構いい加減なんだけど」
「でも、普通は、はなから満点とろうとは思わないもんさ。君は違う。いつもパーフェクトでないと気がすまないんだ」
「だって、そうでなきゃやって来れなかったんだもの! そうしなきゃ――誰かがそうしないと、雑誌が出なかったんだもの」
つい食ってかかるような調子になって、「――ごめん。あなたに言ってもしょうがないのにね」
「それが君らしいところなんだよ」
希代子は、チラッと時計に目をやって、
「もう二時半?――夜の二時過ぎにこんなことしてて、当り前と思ってる職業って、凄いよね」
「仕方ない。そういう仕事なんだ」
「でも――おかしいと思わなくなるのが怖いわ。それが、たとえば……男との間を遠くするってことだって、あるかもしれない」
「男との間?」
「たとえば、今こうして二人でいるけど、こんなことだって、普通だったらどう思われるか……。とんでもないことよね。奥さんが実家へ帰ってる間に」
「おい待てよ。百合子は君と仲良しなんだ。君がここにいても、何とも思わないさ」
「そうかしら。それは、百合子さんが知らないからよ。私があなたのことを好きだった、ってこと。あなたもそれを知ってるってこと……」
希代子は、藤村のわきへ移ると、もたれかかった。「――こうさせてて。これだけでいいの」
「何かあったのか」
「あったって当然でしょ。二十八なのよ。何かあっても当り前でしょ」
希代子は、藤村の肩に顔を伏せると、「疲れたわ……。何もかも放り出して――どこかへ一人で行っちゃいたい」
と、呟くように言った。
「だから?――そうしたきゃ、そうすればいい。人にはそんなことも必要さ」
希代子はちょっと笑って、
「意地悪ね。私にそんなことできないって、よく知ってるくせに」
「だから言ってみたんだ」
「ひどい奴」
二人は、軽く笑った。
「――ね、どんなに好きでもさ、二十四時間、見張っちゃいられないのよね」
「もちろんそうだ」
「百合子さんも、ここにあなたを置いて、何をしてるか、気になることもあると思うけど……。それとも気にしない? 信じ切ってる?」
「どうかな。――信じてる、っていうのとは少し違うだろう。ずっとカメラで監視してるわけにいかないんだから、ある程度のところで|諦《あきら》めるしかない。そんなところじゃないか」
「そうね……。みんな、そうなんでしょうね。どんな大事な人にでも、打ち明けられない秘密を、それぞれに抱えてる」
「そりゃあ、大人だからな。言えないこともあるさ」
「そうね。――こんなことも、言っちゃだめよ」
希代子は、藤村の肩にぐっと頭をのせて目を閉じていた。
もし――ここで藤村に抱かれていたとしても、希代子は構わなかったろう。でも、後になれば……。
後で悔むことになる。――後で。
いつもそう思ってしまうのだ。後で、後で、と。
いっそ、そんな風に引きずるのなら、何もしない方が、と思ってしまう。
「――大丈夫か」
と、藤村が言った。
「ええ」
ふしぎに、水浜を抱くように自然にはなれない。そういう欲求がわいて来ないのだ。
百合子に悪いとか、そういう気持とは別のようだった。
藤村といて居心地がいいのは、結局「男と女」であって、そうでないという、微妙なバランスを楽しんでいるせいなのだろう。
もっとのめり込み、|溺《おぼ》れてみたくても、それには藤村は「仕事でのつながり」の部分が大きすぎる。
「もう行くわ」
と、希代子は体を離して言った。
「乾いてるかな。見て来よう」
立って行く藤村は、明らかにホッとしていた。それが希代子にとっては小さな快感だったのである。
32 傷
「デスク、電話です」
と、太田が言った。
「はい。どこから?」
「津山さんです」
津山。――叔母か奈保か。
「もしもし」
と、希代子は言った。「篠原です」
「やあ、この前は」
津山隆一だった。
「あ……。どうも」
と、希代子は少し声を小さくして、「ごめんなさい。忙しいの。急ぐの?」
「忙しいのは分ってる」
と、津山隆一は言った。「簡単に言うよ、面白い話じゃないが。――白石が会いたいと言って来てね」
希代子は座り直した。
「叔父さんに?」
「金を出してくれと言うんだ。こっちも、君の知っての通り、大変でね。とてもそんな余裕はない」
「だったら、そう言ってやれば?」
「言ったよ。それに、どうせ子供のこともばれてる」
「それで?」
「ともかく会いたいの一点張りでね。来なきゃ家へ押しかけてくると言うんだ。やりかねないからな」
「そう……」
希代子としても、白石のこととなると知らん顔をしてはいられない。
「で、結局、今日会うことにした。君、一緒に会ってくれないか」
「私?」
もちろん会いたくはない。しかし、自分は関係ない、と言って澄ましてもいられない立場である。特に水浜のこともある。
「いつ、どこで?」
と、メモ用紙を手もとに持って来る。
「今夜の七時に、Fホテル。そこに泊ると言ってた」
「Fホテルね。――七時はちょっと無理かもしれないわ」
「ああ、少し遅れても、来てくれるのなら話がしやすい」
と、津山はホッとしている様子。
「できるだけ間に合うように行くわ。外から回るので、予測が立たないの」
「うん、分った。部屋はフロントで|訊《き》いてくれ」
「ええ。それじゃ――」
と言いかけて、「叔父さん、どうしたの、彼女の子供のこと?」
「ああ、女房も同情して、認知してあげなさいと言ってくれた」
叔母はやさしい人である。それに、悪いのは夫の方、という気持なのだろう。
「子供には責任ないんだから」
「分ってる。ま、これでおとなしくするさ」
と、津山は苦笑いしている様子。
「それがいいと思うわよ。――あ、仕事だから、切るわね」
「ああ、忙しいとこ、すまん」
津山が切って、すぐに希代子は回されて来た電話に出る。
「はい、いつもお世話になっております」
決ったセリフは、全く別のことを考えていてもスラスラ出てくる。仕事というのは、そんなものだ。
「――カズちゃん、これ、OK。進めて」
と、色校正をポンと投げる。
太田がパッと受け取ってニヤリと笑った。
テンポ。――仕事は、テンポにうまくのせれば、気持よく運ぶのである。
忙しさが、日を追って、|溢《あふ》れる川のように増してくる。堤防は決壊寸前ってとこか、と希代子は思った。
「インタビュー記事、どうなってるの!」
「ライターが捕まらないんです」
「ともかく早く入稿しないと! 何とか見付けて!」
と、希代子は言って、「待って。――〈R〉の編集部に訊いてごらんなさい」
「〈R〉でやってました?」
「記事は書いてないけど、彼女[#「彼女」に傍点]があの編集部にいる」
「へえ! よく知ってますね」
「同じ飲み屋に来てたのよ。電話入れてみて」
希代子は、席を立って編集部を出た。
廊下を急いで歩いて行くと、
「篠原君」
と呼び止められた。
「あ、専務」
西山である。
「幸子のことでは色々ありがとう」
と、西山は言った。
「いいえ」
「知ってるかね。どうしてあれが――」
「もう、そっとしておいてあげた方が」
と、希代子は言った。「せっかく、子供さんと会えた[#「会えた」に傍点]んですから」
「――うん、そうだな」
西山は肯いた。「君の言う通りかもしれん」
「失礼します」
希代子は、走るような勢いで廊下を進んで行った……。
用をすまして編集部へ戻ると、
「デスク! いましたよ。あのライター! 凄い勘ですね」
「だて[#「だて」に傍点]に長くやってない」
と、希代子は言ってやった。「カズちゃん、きりがついたら、ちょっと」
「つきません」
と、太田は振り向いて、「ですから、いつでも同じです。――何ですか?」
希代子は、七時にFホテルへ行くことを、簡単に説明した。
「大丈夫ですか?」
「一人じゃないもの。でも、何しろ向うはまともじゃないし。カズちゃんにも迷惑かけてるからね」
「そんなこと、いいんですけど」
「もし――あんまり帰らないようだったら、Fホテルへ連絡して、部屋を|覗《のぞ》いてもらってちょうだい」
「デスク……」
太田は、ため息をついて、「素直に、『一緒に来て』と言って下さいよ!」
と言った。
結局、三十分ほど遅れてFホテルに着いたのは、希代子が不意の来客でどうしても出られなかったせいであった。
フロントでルームナンバーを聞き、太田と二人で急ぐ。
「でも、デスク」
と、エレベーターの中で太田が言った。「世の中、色んな人間がいますよね」
「急に何?」
「いや、あの白石って男にしても……。まだデスクに|惚《ほ》れてるわけでしょ」
「さあ、それはどうかしら」
と、希代子は首を振った。
二人はエレベーターを出た。
「白石のような男はね、自分のことが好きなだけ。だから、一度自分に惚れた女は、ずっと自分のものだと思うの。別れたって平気よ。ただ、自分のプライドが傷つくだけなのよ」
「そうかな……。あ、この部屋ですね」
太田が足を止め、「僕が前にいますから。デスク、後ろにいて下さい」
「だけど――」
「いいから」
チャイムを鳴らして待ったが、返事がない。
「――出ちゃったのかしら」
「さあ」
と、太田がもう一度チャイムを鳴らしたとたん、ドアが開いた。
「希代子……」
「叔父さん。――どうしたの!」
希代子は、津山の右手が真赤になっているのを見て、息を|呑《の》んだ。
「入ってくれ! 大丈夫だ」
と、津山は首を振って、「白石はいない」
二人は中へ入り、ドアを閉めた。
「叔父さん……」
「いきなり……切りつけて来た」
津山は右の腕を押えて、顔をしかめた。
「手当しないと」
と、太田は言った。「警察へ連絡しましょう」
「いや、待ってくれ」
と、津山は止めた。「大丈夫だ。大した傷じゃない」
「でも、白石がやって逃げたんでしょ」
「ああ。しかし――誤って傷つけたということにしてくれ。警察は困る」
津山はくり返して、「頼む。右の腕のつけねを縛ってくれないか。出血を止める」
「やりましょう」
太田が、バスルームのタオルを持って来て、一旦津山の上着を脱がし、右腕を縛った。
「――すまん」
と、息をついて、「病院へは自分で行く。大丈夫だ」
「叔父さん……」
「な、こんなことが警察|沙《ざ》|汰《た》になったら、会社に知れる。うまくないんだ」
「そりゃ分るけど……」
「会社を辞めたら、奈保も|可哀《かわい》そうだし、もう一方の子供の面倒もみてやれなくなる」
と、津山は早口に言った。「な、分ってくれ」
切られてけがをした本人がそう言っているのだから、希代子としても無視して行動するわけにいかない。
「ともかく病院までは行くわ」
と、促して、「カズちゃん、付合ってくれる?」
「ええ、もちろん。――でも、白石は戻って来ますかね」
「ここには戻らんだろう」
と、津山は言った。「手間かけて、すまない」
「何があったの?」
「何も。ただ、金を出してくれという白石の頼みを断った。それでカッとなったらしい。いや、例の子供のことがまだ知れてないと思ってたのに、あて[#「あて」に傍点]が外れたんでカッと来たんだろう」
「気を付けて。――痛む?」
「大丈夫……。痛くないとは言わないがね」
と、津山は少し情ない笑顔を作って見せた。
「――でも、警察へ届けないとまずいんじゃないですか」
と、エレベーターの中で、太田が言った。「本人はやけになってるかもしれないし。他の誰かを傷つけでもしたら……」
確かに太田の言う通りである。しかし、津山としては、ことが表沙汰になるのは何としても避けたいだろう。
「カズちゃん、ごめん。私に任せてくれる?」
「いいですけど……。デスクが一番危いんですよ」
「分ってるわ」
希代子は、心配していた。むろん。――水浜のことを、である。
今の希代子を傷つけるには(心を、ということだが)、水浜を|狙《ねら》うのが一番いいということを、白石はよく分っている。
「カズちゃん、この人をお願い。私、ちょっと行きたい所があるの」
太田も察したらしい。
「分りました。こっちは任せて下さい」
と肯いたのだった……。
〈楽屋口〉と書かれたドアから、ゾロゾロと楽器を手にした若者たちが出てくる。
希代子は首をのばして、その中に水浜の姿を捜した。――夜といっても、その辺りは明るく、一応何とか見分けられる。
今夜は大学のオーケストラの演奏会。大学へ問い合せてそうと知った希代子は、何とかコンサートの終る前にここへやって来た。
そして、ちょうど〈楽屋口〉を見られるスナックへ入って、じっと出てくるのを待っていたのである。
「あ……」
水浜の姿が見えた。
希代子は、急いで席を立とうとしたが――。何と水浜が、他の数人の子たちと一緒にこっちへやって来たのである。
またあわてて座る。どう見ても、この店に来るのだ。
「――いらっしゃいませ」
ドアの開く音。がやがやと入って来た数人は、空いたテーブルを二つくっつけて作った席に落ちついた。
希代子は、ちょうどそのテーブルへ背中を向けている格好だったが、チラッと振り向いてみると、水浜も希代子の方へ半ば背を向けている。
どうしよう? 希代子は迷った。
しかし、ここにいる間は安全だし、出ればみんな別れ別れになるのだろうから……。
「ジンフィズ」
と、水浜の声が聞こえて来た。「くたびれたよな」
「もう手が上んないよ」
と、苦情が出る。
「テンポ、コロコロ変るんだもん、リハーサルのときと」
「ねえ」
男の子が三人と女の子二人。――みんな弦楽器のメンバーらしい。
「アンコールまでに、もうちょっと間がほしいわ」
「言っとくよ」
と、水浜が言った。
飲物が来て、乾杯している。――希代子は、その笑い声の勢い[#「勢い」に傍点]、その若々しさに感動した。いや、圧倒されたと言う方が近いかもしれない。
「――今日の指揮のT先生。めぐみとこの間デートしたって」
と、女の子の一人が言い出した。
「え? 本当? 趣味悪いのね」
「どっちが?」
ワッと笑いが起って、
「指揮者っていいよなあ。何もひかなくていいし」
「怒鳴ってりゃいいんだもんね」
「そのくせ、もてる、か」
――誰しも、指揮者がそんなに気楽な立場でないことは分っているのである。しかし話の種としては、格好の素材でもある。
「でも、指揮者って、いやだな」
と、女の子の一人が言った。「恋人にしたらさ、何でも自分の言う通りにさせようってタイプなんじゃない?」
「それは単純でしょ」
「悪かったわね、単純で」
「何でも、か? ベッドにいるときも指揮してるのかな」
「ワルツのテンポで、とか?」
女の子の|甲《かん》|高《だか》い笑い声。
「コンマスだってもてるさ。なあ、水浜」
「ちっとも」
と、水浜はあんまり関心のなさそうな声を出した。
「ちっとも、ってことないだろ」
と、他の男の子がからかって、「聞いたぜ。この前、事務所の陽子さんと泊ったんだって?」
「よせよ」
「へえ!――だって、水浜さん、他にいたんじゃないの?」
「いたって構わないのさ、こいつは。何人だって同時進行だもん。そうだろ」
「気軽に言うなよ」
と、水浜は言い返した。
「陽子さんかあ……。意外な取り合せ」
女の子の一人は、どうやら水浜に惚れているという雰囲気。
「この間の人、どうしたの?」
と、女の子が訊く。
「年上の女か。――何しろ、七つ八つも年上のと、高校生と両方だもん、水浜も忙しいよな。それに加えて、陽子さん、と」
「よせって。――陽子さんとは一回きりだ」
と、水浜は言った。「遊びって割り切ってたんだ」
「遊びで割り切っても、割り切れないことの方が多いじゃないの。水浜君って凄い」
「ベテランさ」
と、からかう一人。「その二十八……だっけ? キャリアウーマンの彼女から恋の手ほどきを受けてんだろ? 楽しそうだよな、畜生!」
「編集者だっけ? 私、雇ってくれないかなあ。何でもするのに」
と、女の子の一人が言って、「その人とも遊び[#「遊び」に傍点]?」
と訊く。
「さあ……。どうかな。少なくとも向うは違うと思うよ」
「真剣か。でも、困るんじゃないの、その内」
「かもね。だけど、今さらいやだとも言えないさ」
「高校生の子は?」
「もうよそう」
と、水浜は言った。「先に帰るよ、まだみんないるのなら」
「分った。陽子さんとデート」
水浜は、答えずに苦笑いしているだけだった。
――二十八……。遊び。
希代子は、じっと座っていた。
水浜が散々冷やかされながらレジへ行き、自分の分だけを精算しているのがガラスに映って分った。
しかし、ここで声をかけるわけにはいかなかった。いや、かけたくなかった。
今、水浜に見られるのは辛かった。たぶん、そうと知ったら水浜の方も困るだろう。
「彼女[#「彼女」に傍点]によろしくな!」
と、席に残った男の子が、出て行く水浜に声をかける。
「どの彼女[#「彼女」に傍点]?」
「畜生、一人回せって」
「文句言ってるような人の所には、女は寄って来ないのよ」
と、女の子が言って、「ね、ビールもう一本」
――希代子は、ゆっくりと立ち上って、レジの方へ行った。
もう水浜には追いつけないかもしれない。
でも――希代子は、店にいて、それ以上自分の話が出るのに堪えられなかった。
外へ出ると、少し風が強くなっていた……。
33 三 人
「ともかく、何とか間に合せて!」
希代子の声が編集部に響き渡って、一瞬、みんな仕事の手を止めてしまった。
言うと同時に、「しまった」という気持になる。怒鳴ったところで、できないものはできないのだ。
「夕方の五時がデッドライン。いいわね?」
そう言って、パッと電話を切る。
電話の向うでは、さぞかし、
「勝手ばっかり言いやがって! あの女!」
と悪口を言っているだろう。
それでいいのだ。聞こえない所でなら、いくらでも悪口を言っていい。仕事というのはそんなものだ。
仕事をしていて、誰からも好かれるなんてことは、しょせん無理なのである。
「――デスク」
と、太田が振り向いて、「ちょっと打ち合せに出たいんですが、いいですか。三十分で戻ります」
本当なら、それどころじゃない。後にして、と言うところだが……。
「いいわよ。行先、残しといて」
「はい」
太田も、きっと必ずしも今でなくていいのだろう。ただ、外出の許可を出すことで、希代子が自分のいつものペースを取り戻すと分っているのだ。
「――篠原君。大丈夫か」
と、久保田はストレートに|訊《き》いてくる。「疲れてるんじゃないか?」
間で太田と話していなければ、久保田に、
「疲れてるに決ってるじゃないですか!」
と食ってかかっていたろう。
疲れてたら休みでもくれるんですか、と。――しかし、希代子はもう自分を取り戻していた。
「何とか校了まではもたせます」
と言って、「その後、編集長のワラ人形に五寸|釘《くぎ》を打ち込みます」
「おいおい」
久保田は苦笑しているが、同時にホッとしているのが分る。実際、希代子が「切れて」しまったら、収拾がつかなくなる。
「――デスク、お電話です」
と、ていねいに「お」をつけるのはまだ新人の女の子。
「はい。――もしもし」
これだけ忙しいと、当然仕事の電話だと思ってしまう。他の世界の出来事など、入りこむ余地がないのである。
「もしもし?」
と呼んで、初めて〈もしかして白石?〉と思った。
結局、水浜とも会わずに帰ったのがおとといの夜だ。昨日は、奈保の所へも行かなかった。
「私……」
と、奈保の声。
「何だ。誰かと思った」
希代子は座り直した。「昨日はごめんね。忙しくって、今――」
「写真が来たの」
と、奈保が言った。
「え?」
「あの人……白石っていったっけ。たぶん、あの人よ。私と……彼の写真を、うちへ送って来たの」
希代子は、机の上の校正刷に目を落とした。手が赤字を入れている。
「で……お母さんが見て……」
「今、どこ?」
「家よ。――今、彼に連絡したとこ」
「水浜さんに?」
「こっちへ来るわ。お母さんに言われたら……来ないわけにいかないでしょ」
希代子は、来るべきものが来たと知った。――奈保と男の子のことは自分に任せてくれと叔母に言った手前、責任は自分にある。
「私も行くわ」
と、希代子は言った。「たぶん――三十分したら出られると思う」
「希代子さん」
と、奈保は言った。「それだけじゃないの」
「まだ何かあるの?」
「写真……。それだけじゃないの」
聞かなくても分った。――白石は、希代子と水浜の写真をとっていたのだ。
「ともかく、行くわ」
希代子は、腕時計に目をやった。「どうなっても、逃げるわけにはいかないから」
「――待ってる」
と奈保は言って、「ごめんなさい、希代子さん」
電話が切れて、希代子は何秒間か受話器を戻さなかった。
奈保は、何を謝ったのだろう?――希代子には、答えられなかったが、同時に、自分が奈保の立場だったら、やはり謝っていたような気がしていた。
しかし、叔母に対して何と説明しよう?
もう|嘘《うそ》をついているときではない。奈保も、もう知っているのだ。それだけが、希代子にしてみれば救いだった。
三十分、と言ったのは出まかせである。今の状況なら、三十分も三時間も同じだ。
しかし、ともかく|一《いっ》|旦《たん》はここを出て、津山家へ行かなくてはならない。
希代子は一心に手もとの校正刷を見ていた。これを戻して、それから対談のテープ起しを見て、ページにうまく納まるように削って……。それだけで、二時間はかかる。
「――篠原君」
いつの間にか久保田がそばに来ていて、びっくりした。
「何か?」
「出かけて来い」
「え?」
「それ、|俺《おれ》がやっとく。大丈夫だ。俺だって、一応は編集長だ。誰かに訊きながら、やるさ」
「でも――」
と言いかけて、希代子はフッと息をついた。
「すみません。お願いします。できるだけ早く戻ります。この赤字、戻しがあと三十分ですから。それとこの対談の原稿、四ページに削っといて下さい」
「四ページ?」
「カズちゃんに訊いて下さい。字数でやって行けばいいんです」
「分った。勉強するよ」
「ちゃんとやって下さいね」
ありがたいと思いつつ、ついそう言ってしまう自分が、少し情なかった。
「――どうも」
タクシーを降りて、おつりを受け取ると、希代子は、津山家の門の前で一旦足を止めた。
叔母から何と言われても仕方ない立場である。――忙しくて疲れていても、こればかりは人に任せて逃げるというわけにはいかないのだ。
希代子は、津山家の玄関へ歩いて行こうとして……。ふと人の気配を感じた。
振り向いて、周囲を見回したが、もう暗くなっているせいもあって、誰も見えない。――気のせいだろうか?
玄関のドアの方に向いて、チャイムを鳴らしかけたとき、
「希代子さん」
と、呼ばれて振り返った。
「――今、来たの?」
と、希代子は水浜に訊いた。
「ええ。タクシーから降りるのが見えて……。走って来ました」
水浜は、実際少し息を切らしていた。
希代子は、何とか|微笑《ほほえ》んで見せた。
「ともかく……奈保ちゃんのことを第一に考えなきゃ」
「ええ……」
水浜は目を伏せて、「僕が悪いんです。――奈保ちゃんとのことも、希代子さんとのことも」
それに、もう一人の「遊び相手」は? 希代子は、そうは訊かなかった。
水浜に、自分にだけ誠実であってくれと要求するのが無理なことだったのだ。
今、玄関の明りの下で見ると、水浜が、急に子供のように見えてドキッとした。
ずっと、私は対等な恋の相手だと思っていた。それなのに……。私が恋していたのは、こんな男の子だったのか。
「やめて」
と、希代子は首を振って、「私は大人で、あなたは学生よ。あなたのせいにして逃げるなんてこと、できないわ」
そう。――当然のことだ。
水浜が友人たちに、「二十八の女と付合ってるんだ」としゃべったとしても、それを|咎《とが》めることはできない。水浜にとって、希代子は「珍しい体験」の相手だった。それは当然の受け止め方だ。
「僕らのことも――」
「ええ。すべて分ってるらしいから。もう今さら隠すこともないわけね」
「そうですね」
「話は私がするから。――任せて」
水浜は何も言わなかった。
希代子は玄関のチャイムを鳴らした。
しばらく、何の応答もなかった。――いやに長い気がしたのは、希代子の気のせいだったろうか。
「はい」
叔母の声がした。
「希代子です」
「あ、待ってね。すぐ行くわ」
叔母の口調は、いつもの通りに聞こえた。あまり感情的に激することのない人である。それだけに、希代子としては顔を合せるのが|辛《つら》い。
カチャリと音がして、玄関のドアが開いた。
「忙しいのに……。ごめんなさい」
と、静子は言って、水浜に気付いた。
「今――ここで一緒になって」
と、希代子が言うと、
「そう。――じゃ、どうぞ」
と、静子はさすがに水浜から目をそらしている。
希代子は、玄関へ入ろうとして、男ものの靴がいくつも並んでいるのを見て当惑した。
「お客様?」
と訊くと、
「うちの人のことで。けがしてたでしょ」
「ええ」
「警察の人がみえてるの。ホテルから届が出たらしくて」
静子の顔が、初めて|歪《ゆが》んだ。「見っともない! 警察|沙《ざ》|汰《た》なんて」
それは、めったに聞くことのない、叔母の本音の腹立たしさだった。
「ともかく、上って」
「ええ……」
希代子が玄関へ入ると、奈保が出て来た。
「奈保ちゃん、自分の部屋で待ってなさい」
と、静子が言ったが、奈保の目は水浜の方を見ている。
「やあ」
と、まだ表に立っている水浜が|肯《うなず》いた。
「やあ」
と、奈保が精一杯微笑んで見せる。
「じゃ、失礼して――」
希代子がスリッパを|揃《そろ》え、靴を脱いで上ると、奈保が、突然、
「え?」
と、声を上げるのが耳に入った。
「どうしたの?」
希代子は奈保の視線を追って、水浜の方を振り返った。
水浜が、半ば振り向こうと身体をねじって、
「こいつ!」
と、叫ぶように言った。
――白石が立っていた。
希代子はそのとき、さっき感じた気配が白石のものだったと知った。どうして分らなかったのだろう!
「俺の女だ」
と、白石は言った。「希代子は俺の女だ」
コトンと音がして、玄関の前のみかげ石の上にナイフが落ちた。
「水浜君!」
希代子は駆け寄った。水浜が苦痛に顔を歪めて、玄関の内側へよろけて来る。
血がナイフについているのに、希代子は気付いていた。
「どこ? どこを――」
「背中が……」
奈保が悲鳴を上げた。
「いや!――いやよ!」
と、飛び下りて来る。
「叔母さん! 救急車を!」
立ち上った希代子は、水浜を支えた右手に血がついているのに気付いた。
「――どうした!」
津山が出て来た。
津山に続いて、がっしりした体つきの男が二人出てきた。刑事だろう、と希代子は思った。
「刺されたんです! その人が――」
希代子は玄関の開いたドアから、白石がよろけるように歩いて行く後ろ姿を見た。
「分りました」
と、刑事らしい男たちの一人が素早く外へ出て行き、「おい! ナイフだ!」
と、もう一人の方へ声をかけた。
「叔母さん――」
と振り返って、希代子は静子が、まだ上り口にぼんやりと立っているのに気付いた。「叔母さん! 救急車を呼んで」
「あ。――ええ、そうね」
静子が居間へ入って行く。
「大丈夫かな、あいつ」
津山が、その後からついて行った。本当に妻のことを心配もしたのだろうが、この場にいたくなかったのかもしれない。
「死なないで!」
奈保が、水浜の体を自分の|膝《ひざ》で支えながら、ぎこちなく両腕に彼の頭を抱いていた。
「奈保ちゃん――」
と、希代子は言いかけたが、サッと自分を見上げた奈保の視線に、体が止った。
「触らないで」
と、奈保は言った。「放っといて。あんた[#「あんた」に傍点]のせいで、こんなことになったんだからね。もうこの人に構わないで」
叫んでいたわけではなかった。怒鳴られたのなら、まだ楽だったろう。
そうではなかった。奈保は、「大人の女」として「大人の女」に言ったのだった。
希代子は体を起し、玄関から外へ出た。
白石が二人の刑事に両腕を取られて、何かブツブツ言いながら連れ戻されて来るところだった。
「――大丈夫ですか」
と、刑事が希代子に言った。
「その人を……」
「ちゃんと捕まえています。すぐパトカーも来させますから」
「はい……」
希代子は、白石がもう自分のことを見ようともしないのに気付いた。白石の目は、ただ|虚《うつ》ろに宙を見ているばかりだった……。
体を揺られて、希代子はハッと目を覚ました。
「叔母さん?」
――静子が自分の方を|覗《のぞ》き込んでいる。
一瞬、自分がどこにいるのか分らなくなった。
「ここ……会社よね」
と、薄暗い部屋の中を見回す。
そうだ。会議室の一つに、ソファを持ち込んで仮眠していたのだった。
「起こしてごめんなさい」
と、静子は言った。「編集部の太田さんって方に訊いて」
「カズちゃんか……。いいのよ、もう起きないと」
体を丸めて眠っていたせいで、腰や背中が痛い。「――今、何時?」
「そろそろ三時」
「三時?――夜の?」
「午後よ」
「そうか……」
希代子は、ソファに座り直して、深呼吸した。そして、ふっと――。
「叔母さん」
「知りたいだろうと思って」
と、静子は言った。「あの水浜って人、命には別状ないって」
「――そう」
たぶん、そうだろうと……。傷の位置から見当はついていたが、やはりそう聞くと安心する。
「奈保が、そばにくっついて離れないの。主人もお説教できる身じゃないし」
と、静子は苦笑した。「ゆっくり話すわ。あの人のお母様も出てみえるそうだし。学校まで休んでそばにいさせるわけにいかないわ」
「叔母さん。私のせいなの。ごめんなさい」
と、希代子は言った。「白石のことまで……。まさかあんなことになるなんて」
奈保と水浜のこと、そして水浜を白石が刺してしまったこと。――もとはと言えばすべて希代子が原因を作ったようなものである。
「希代ちゃん。――謝らなくてもいいわ」
と静子は言った。「あなたは疲れすぎてる。今は何も考えないで。あなたは大人なんだから、したいようにしていいのよ」
「叔母さん――」
と言いかけたとき、会議室のドアが開いて、太田が顔を出した。
「すみません、デスク」
「いいわよ。何?」
「印刷所から、カラーページのことで」
「分った。すぐ行くわ」
希代子は、立ち上ると、「叔母さん。もう心配かけないようにするわ。ただ――奈保ちゃんのことは、もう私には手伝えない。悪いけど。よく話し合って」
「ええ、そうするわ」
希代子は、会議室を出ようとして、「――叔母さん」
と、振り向いた。
「え?」
「水浜君って、いい子よ。ちゃんと話せば、分ってくれる」
静子も肯いて、
「そうだといいと思うわ」
と言った。
希代子は、急いで編集部へ戻ると、自分の机の電話を取った。
「――あ、もしもし。ごめんなさい。――ええ、会議室で居眠りしてたの。――え? そうね。とても人には見せられたもんじゃないわよ」
印刷所のなじみの営業マンと話している内、ボーッとしていた頭も、少しずつはっきりして来た。
電話しながら編集部の中を見渡すと、女の子が二人、自分の机に突っ伏して眠ってしまっている。あの二人も、ゆうべは家に帰っていないのだろう。
――よくやってるわ。
希代子は、小さく首を振って思った。
ともかく、みんな必死でやっているのだ。誰もが恋をしたり、家族の中に問題を抱えたりしながら、それでも机の上で眠って、頑張っている。
私が失ったのは何だろう?――そもそも|真《ま》|面《じ》|目《め》に相手にしてくれないのが当り前の若い恋人一人。
そう。――私は、元に戻っただけだ[#「元に戻っただけだ」に傍点]。
それだけなのだ……。
電話を切ると、
「カズちゃん! 進行表見せて!」
と呼びかける。
その声で、居眠りしていた女の子が一人目を覚まし、
「もうご飯?」
と、寝ぼけた声を出したので、次の瞬間、編集部は爆笑の渦に包まれたのだった。
エピローグ
一瞬、目の前の女の子が誰なのか、希代子には分らなかった。
「希代子さん」
「奈保ちゃん!」
と、目をみはって、「驚いた!」
と言うしかなかった。
ゆるくウェーブした髪、くっきりした|眉《まゆ》が顔の印象をずいぶん変えていたが、いたずらっぽく光る眼は以前の通りだった。
銀座通りのティールームで人と待ち合せていた希代子は、少し早く着いてしまって、明るい窓側の席で本を読んでいたのである。
「花の女子大生だ」
と、希代子は言った。「お祝いもあげてないわね」
「そんなこと……」
奈保は向いの席に座って、水を持って来たウェイトレスに、「あ、すぐ行きますから」
と言った。
「仕事、忙しいの?」
と、奈保が訊く。
「相変らずよ。一年なんてすぐたっちゃう。――もう、奈保ちゃんが大学生だものなあ」
奈保は、水浜と同じN大の文学部へ入った。今は一年生。変って当然ではあるだろうが、|垢《あか》|抜《ぬ》けして、輝くように目立つ子になった。
「水浜君と会ってる?」
と、希代子は訊いた。
「うん。――今日もこれから」
と、奈保は微笑んだ。
「そう。――まさかここで待ち合せ?」
「この表で。ちょっと冷たいもの飲もうかと思って、中を覗いたら、希代子さんが見えたから」
「そうか。でも、水浜君、もう四年生でしょ? 忙しいでしょう、そろそろ」
「それが、あのけがで入院してて、出席が足らなくてね。また三年生をやってる[#「やってる」に傍点]の」
「あら」
「だから、二年間一緒にいられる。希代子さんのおかげ」
「冗談じゃないわよ」
と、苦笑いする。
「希代子さん」
と、奈保はちょっと目を伏せて、「ごめんなさい。――一度、きちんと謝らなくちゃ、って思ってた」
「みんな恋をしてただけ。そうでしょ? 何も悪いことなんかしてないんだから、謝ることないわよ」
「だけど……あんなひどいこと言っちゃったし」
「一応、ひどかったと思ってるわけ?」
と、希代子は笑って、「成長したんだ、奈保ちゃんも」
奈保はホッとした様子で、
「私……彼がよく私のことを選んでくれたなあ、って思って。――希代子さんになんて、とてもかなわないのに」
「お世辞まで上手になって」
「本当よ!――今、恋人いるの?」
「ズバリと訊かないでよ」
希代子は本をパタッと閉じて、「もう若くないんだから、そうさっさと立ち直れないのよ。叔父さん、どうしてる?」
「うん……。時々帰ってくる。大体向うの|女《ひと》の所にいるわ。お母さん、最近は色々習いごと始めて忙しくしてる」
「へえ」
「おかげで、こっちは何も言われなくて助かるけど」
「もし――叔父さんに会ったら伝えといて。白石は刑が確定したって。体を悪くしてるから、そう長くないかも……」
「うん、分った」
奈保は、じっと希代子を見ていたが、「――また、水浜君のオーケストラ、聞きに来ない?」
と訊いた。
「|汝《なんじ》、試すなかれ、よ」
と、人さし指を突きつけて、「聞くなら、もっとうまいオーケストラを聞く」
「あ、ひどい!――チケット、何枚か預かってるんだ。買ってくれる人、いなくて」
「何だ。どっちがひどいのよ」
二人は一緒に笑った。
――希代子は、奈保が大きくなった、と感じた。
水浜と希代子の関係を知って、何とも思わなかったはずはない。けれども、それを乗り越えたことで、大人になったのだ。
今、二人は同じことで笑える。それは二人が対等ということである。
これだけが、自分の恋の「効用」だったのか?
そう考えるのも、少し寂しい。
だが、あのままなら、みんなが傷つくだけで終ってしまったかもしれない。それが、こんな形でうまく「生きのびた」のなら、それで満足するべきなのだろうか。
「――あ、来た」
と、表を見て、奈保が言った。
希代子が目をやると、水浜が明るい通りに立って、奈保が先に来ていないかと左右を見回している。
「早く行ったら?」
と、希代子が言った。「待たせちゃ|可哀《かわい》そうよ」
「うん」
奈保は立ち上るのに、少し間を置いた。「じゃあ……」
「私と会った、なんて言わないのよ」
「どうして?」
「もう終ったんだから、思い出さない方がいいの。分った?」
「うん……。じゃ、そうする」
奈保はホッとしている様子だった。迷っていたのだろう。水浜に言うべきかどうか。
「それじゃ、また」
と、奈保は言って、足早に店を出て行く。
――希代子は、表へ目をやった。
水浜が明るい|日《ひ》|射《ざ》しを浴びて立っている。
時折、希代子のいる方へも顔を向けるが、こっちの方が暗いので、ガラスには外の風景が映っていて、中は見えにくいはずだ。
奈保が駆け寄る。水浜は安心したように何か言って、奈保を促した。
今、明るい光の中にいる二人は、希代子からは鮮やか過ぎるほどはっきりと見えるのに、向うはこっちを見られない。
それは、ちょうど希代子と奈保たちの間を形にしたようだ。透き通ったガラスのはずなのに、視界すら一方通行にしてしまう。
二人は、たちまち人ごみの間へ紛れて行った。
希代子が店の中へ視線を戻すと、まぶしい光の残像で店の中がはっきり見えない。少し目を閉じていると、大分おさまって来た。
「――失礼」
と、男の声がした。「S社の方ですか?」
「はい。失礼しました」
希代子はあわてて立ち上ると、名刺を取り出した。
「どうも」
「どうも」
二人は互いに言い合って、腰をおろした。
――ガラスの内側では、仕事が始まったのである。
|過熟《かじゅく》の|実《み》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年5月11日発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2001
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角川文庫『過熟の実』平成10年7月25日初版刊行