角川文庫
輪舞―|恋《こい》と|死《し》のゲーム
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
第一話 雨
第二話 誘 拐
第三話 輝 く
第四話 強 盗
第五話 客
第六話 雨、再び
第一話 雨
雨は、意地の悪い教師の質問のように、久美子の上に降り続けていた。
――私の上にだけ、沢山降ってるんだわ、と久美子は思った。
用心深い久美子の性格からいって、当然今日のように朝から雲が――それも灰色の、重たげな雲だった――出ているときには、傘を持って家を出る。それが、今朝は……。
お父さんは、顔を合せても「おはよう」とも言わず、お母さんは|苛《いら》|々《いら》して、久美子に当る。
そんなときは、こっちも負けずに言い返してやりゃいいんだ、と……いつも考えてはいるのだが、久美子はつい、何とか父と母に話をさせようとして、素直にニコニコ笑ったり、大した用もないのに、二階の自分の部屋へ、
「忘れものした!」
と、言って駆け上ったりする。
お母さんは、それでやっと笑ってくれた。苦笑いではあったが、ともかく笑いには違いない。久美子は、その笑いを見て、少しホッとして家を出ようとした。でも、そのときに――。
雨は、尽きることのないお|祖《ば》|母《あ》さんのぐち[#「ぐち」に傍点]のように、久美子の髪、制服のブレザー、そしてその下のブラウスまで、すっかりしみ通って、なおも落ち続けている。
十一月に入っての、冷たい雨は、すっかり久美子の肉付きがいいとは言えない体を、凍えさせてしまっていた。
駅を出て、バスに乗るまで、五分ほど歩く。この駅で一緒に降りる友だちはいなかったし、もう高校三年生の冬だ。みんな予定を抱えて忙しい。
「家まで送ってあげるよ」
とは、言ってくれなかった。
それでも、バス停までは、銀行とかスーパーとかの軒下を、まるでネズミがちょこちょこと走るような感じで伝って歩いて、それほどはひどく|濡《ぬ》れずにすんだ。
バスを降りて――少しは小降りになっているかという久美子の期待は、あっさりけとばされて、雨はさっきの倍ほどの勢いで、降り続けていたのだ。
新興住宅地の一画にあたるこの道では、雨宿りするコンビニエンスや、雨を避ける軒先とてない。|諦《あきら》めて、雨に打たれて歩き出すしかなかった。
一緒に降りた、どこかのおばさんは、久美子と同じ方向へ歩き出したが、買物して来た品物が濡れないかと心配で、小柄な高校生の女の子のことなど、目にも入らない様子。
――今、そのおばさんとも道が分れて、久美子は、横断歩道で信号が変るのを待っていた。
車なんか全然来る気配がないのだから、赤信号だってパッと渡ってしまえばいいようなものだが、どうせここまで濡れたら同じだ、と思っていた。信号を、きちんと守ってやれ。
馬鹿正直に。――馬鹿。あんたは馬鹿よ。風邪でもひいたら、どうするの?
構うもんか。娘が風邪で熱出して、肺炎にでもなったら……いや、それでも、きっとお父さんとお母さんは|喧《けん》|嘩《か》しているだろう。
もし――もし、私が死んでしまいでもしたら、やっと二人は一緒に泣いてくれるかもしれない。それとも、「お前のせいだ!」とお父さんが|怒《ど》|鳴《な》り、お母さんは泣きわめいて……。
私、静かに死んでもいられないかもしれない。
「――おい! どうしてこの背広をクリーニングへ出しとかなかったんだ!」
朝の、お父さんの怒鳴り声が、まだ耳もとで聞こえているような気がする。
「言ってくれなきゃ、分りっこないじゃありませんか」
と、お母さんの言い返す声も|甲《かん》|高《だか》くて、ちょうど玄関を出ようとして、あ、雨が降りそうだな、と思って、振り向こうとした久美子の手を止めさせた。
「いつも、そこへかけてあるんだ。見りゃ分るだろう!」
「知りませんよ、そんなこと。口紅でもついてるのなら、自分で出したらいいでしょう」
本当は、折りたたみの傘をとろうと思っていた。でも、二人の口論が、表に聞こえてしまうと思うと、恥ずかしくて、やり切れなくて、そのまま久美子は玄関を飛び出し、力一杯|叩《たた》きつけるようにドアを閉めていたのだ。
それで良かった。歩き出した久美子の耳に、聞き慣れた音が――お父さんがお母さんを|殴《なぐ》る、バシッという音が聞こえて来たからである。久美子は足を速めて、遠ざかった。自分の家から、逃げるように、遠ざかって行ったのだった……。
信号は、いつまでたっても変らないような気がした。
こんな冷たい雨の中で待っているから、よけいに長く感じるんだわ、と久美子は思った。
それにしても、こんなに雨に濡れたのは初めてだ。スカートまで、雨を含んで、重い。靴も、中に雨がたっぷり入って、歩く度に中で水が泡立っているみたいな気がする。
|身《み》|震《ぶる》いした。本当に、風邪をひいてしまうかもしれない。でも、熱出して、ベッドで寝てれば、夫婦喧嘩を聞いていなくてもすむってものだ――。
不意に、雨がピタッと止んだ。
え?――戸惑った久美子は、顔を上げた。雨は降り続いている。でも、頭にも肩にも、一滴の雨も当らないのだ。
やっと、誰かが、傘をさしかけてくれたのだと分った。
「大丈夫かい?」
と、その男の人は|訊《き》いた。「すっかり濡れてるね」
「どうも――すみません」
声を出してみて、びっくりした。声がまともに出ない。寒くて、|顎《あご》が震えているのだ。
「渡るんだろ?」
そう言われて、やっと信号が青に変っていることに気付いた。
「はい……」
お父さんよりは、ずいぶん若いが、それでも三十は過ぎているだろう。紺の、ごくありふれた背広を着ていた。ネクタイは、お父さんの持っている内の一本と、よく似ている。
その傘に入れてもらって、久美子は信号を渡った。
渡った所で足を止めると、
「君は、どっちへ行くの?」
と、その人は訊いた。
久美子は、家の方へ続く、ゆるい上りの道へ目をやって、
「あの先です」
と、言った。
「そうか。僕は左へ行くんだ」
「ありがとうございました」
と、久美子は頭を下げた。
「待って」
と、行きかける久美子を、引き止めるように、「送るよ」
「でも――」
「一時間は歩かないだろ」
そう言って、その男は笑顔になった。
「五、六分です」
と、久美子もつい笑っていた。
「じゃ、送ろう。五、六分でも、ずっと降られて歩くより、いいだろう。それに上りじゃ、走るのも大変だ」
「いいんですか。――すみません」
「この傘は大きいからね」
確かに、最近ではあまり見かけないくらい、大きな傘だった。久美子が入っても、そう|窮屈《きゅうくつ》という感じはしない。
上りの道を、並んで歩きながら、久美子は少しずつ体が暖かくなって来るのを感じていた。雨が当らなくなったせいだが、それだけでもないかもしれない。
「遠いんですか」
と、久美子が訊いた。
「十分くらいかな。次のバス停との、ちょうど中間辺りでね。どっちで降りても大して変らないんだ」
と、その人は言った。「今日は手前で降りて良かった」
久美子は、こんなに寒いのに、|頬《ほお》がポッと熱くなるのを感じた。――何てやさしい言い方だろう。
そっと盗み見ると、おっとりとした、穏やかな横顔が、目に入った。童顔、というのかもしれないが、いつもお父さんの顔に見られる、気難しげなしわ[#「しわ」に傍点]や、苛立ちの表情は、どこにもうかがえない。
「寝坊したの?」
と、急に訊かれて、久美子は、あわてて目を前方へ戻した。
「いや、今日は降りそうだったじゃないか、朝から。傘を持ってないのは、寝坊してあわてて家を飛び出したせいかな、と思ったんだよ」
もちろん、気楽なおしゃべりで、別に答えを期待している風ではなかった。
「いいえ……。そうじゃないんです」
と、久美子は答えていた。「あの――傘、持ってたんですけど……とられたんです」
「とられた? 電車の中で?」
「え――あ、そうです。あの――ちょっと立てかけといたら、なくなって……」
「それはひどいなあ」
と、その人は首を振った。「全く、世の中には、信じられないような人間がいるね」
「ええ……」
家が近付いて来た。――もっと遠ければいいのに、と久美子は思った。
「届けたの?」
「え?」
「いや、その傘のこと。駅の人にでも」
「いいえ。――どうせ、古い傘なんです」
「そう」
と、その人は|肯《うなず》いた。「じゃあ……きっと戻って来ないだろうな」
「ええ」
家の前まで来ていた。――久美子は足を止めた。
「どうかしたの?」
久美子は、急に胸苦しさを覚えた。言えない、と思った。言いたくない。「さようなら」とは言いたくない。
それは初めて経験する気持だった。言葉が、まるで鎖ででも縛りつけられたようで、出て来ない……。
「――久美子!」
玄関のドアが開いて、お母さんが出て来た。傘を広げて、タッタッとやって来ると、
「まあ、濡れて。――送っていただいたの? すみません、どうも」
「ああ、いや、どういたしまして」
久美子は、ふっと息をついた。
「ありがとうございました」
と、小さな声で礼を言う。
「いや、どうってことないよ。でも、風邪をひかないようにね」
「はい」
「本当に」
と、お母さんが言った。「降りそうなのに、傘を持って行かないんだから。駅から電話でもすれば良かったのに」
久美子は、青ざめた。――お母さん! どうしてそんなこと言うの!
「――本当にありがとうございました」
「いいえ、とんでもない」
その人[#「その人」に傍点]は、|微《ほほ》|笑《え》んで、道を戻って行った。
久美子は、急に体の力が抜けたようで、ぼんやりとその場に突っ立っていた。
あの人は、私が|嘘《うそ》をついたと思ってる。嘘つきだ、と。
そうじゃない……。私は――私は――。
「何してるの」
と、お母さんがせかせるように言った。「中へ入って。早く着がえるのよ」
久美子は、無言で玄関を上った。
「ほら、靴下もここで脱いで。――靴の中、水びたしよ。乾くかしら」
お母さんの手が、自分の靴下を脱がしてくれるのを、久美子はぼんやりと感じていた。
嘘つき。――久美子の嘘つき。
久美子の目から、涙が|溢《あふ》れて、次々に頬を落ちて行った。
「何を泣いてるの」
と、お母さんは|呆《あき》れて、「子供じゃあるまいし! 早くしなさい」
でも、久美子は、なおしばらく、泣き続けていたのだった……。
その人は、すぐに目についた。
同じ電車から降りて来る人は、大勢いる。でも、その人は「特別」だった。久美子の胸は、まるで百メートルを思い切り走った後のように、高鳴っていた。
バス乗り場には、ちょうどバスが来ている。その人が足早に歩いて行くのを見て、久美子は駆け出した。
バスは、途中まで、大分混んでいる。――久美子は、たいていもっと早い時間に帰るので、こんな混み方は、あまり経験したことがなかった。
これじゃ、捜すに捜せない。――少し|焦《あせ》ったものの、降りるのがどこか分っているから、落ちついて、立っていることにした。
二つ三つ、バス停を数えている内に、大分空いて来て、ホッとした。――どこにいるだろう、あの人?
立っている人の間をすり抜けるようにして、奥の方へ入って行こうとすると、ガクンとバスが揺れた。
座っている人の上に倒れそうになって、何とか窓に手をついて支えた。
「すみません!」
「やあ、君か」
目の前――ほんの何センチかの間近に、その人[#「その人」に傍点]の顔があった。
「あ……。どうも」
久美子は真赤になった。自分でも、はた目におかしいだろうと思ったが、どうしようもない。
「風邪ひかなかった?」
と、その人は言った。「座るかい?」
「いいえ!」
と、久美子はあわてて首を振った。
「いつもなら、座れないんだけどね。今日は目の前の人がさっさと降りて」
と、その人は言った。「今日はいい天気だね」
もう、|黄《たそ》|昏《がれ》を過ぎて、夜になっていた。
「あの……ありがとうございました、この間は」
バスの中は、意外にやかましい。少し大きな声を出さなくてはいけなかった。
その人は首を振って何か言ったが、久美子には聞こえなかった。ちょうど、次のバス停を知らせるテープが回っていたのだ。
何てやかましいんだろう! もう少し静かにできないのかしら。久美子は、腹を立てていた。
「――今日は遅いね」
と、その人が言った。
「ええ」
と、久美子は言った。「クラブがあって」
そう言ってから、ハッとした。また[#「また」に傍点]嘘をつこうとしている。私ったら!
「そうじゃないんです。あなたのこと、待ってたんです」
久美子は急いで言った。
「僕を?」
「あの――この間のお礼が言いたくて」
久美子は、顔を上げた。――もうじき、久美子の降りるバス停だ。
その人は手を伸して、ボタンを押した。
「降りるんだろ?」
「はい。でも……」
「僕も降りよう」
と、微笑んで立ち上る。
久美子は幸せだった。――幸せ、というのは、ただ同じバス停で降りるだけでも、感じることができるものなのだ。
――風もない、静かな夜だった。
「すみません」
歩きながら、久美子は言った。「本当はもう一つ先で……」
「前にも言っただろう。どっちで降りても同じなんだよ」
久美子は、この道が無限に長ければいい、と思った。
「私のこと……嘘つきだと思ってるんでしょう?」
「嘘つき?」
その人は、本当に面食らった様子だった。
「どうして?」
「傘のこと……。私、とられたなんて――」
「ああ」
と、|肯《うなず》いて、「そんなこと、誰だって言うじゃないか。僕だって言うさ。会社の同僚と飲んで帰っても、付合いで、仕方なかったんだよ、ってね」
奥さんに――そう。ちゃんと久美子は見ていた。その人の左手のくすり指に、リングがはまっているのを。
「そうじゃないんです」
久美子は、|鞄《かばん》を開けて、小さな折りたたみの傘を取り出して見せた。「――今日みたいに、晴れるって予報が出てても、持って歩くんです、いつも」
「用心深いんだね」
久美子は、あの横断歩道へ来ていた。ここに立つ度、突然止んだ雨を、思い出す。
「毎朝、お父さんとお母さん、喧嘩するんです」
と、久美子は赤信号を見ながら、言った。「あの朝も――。だから、傘を取りに戻れなかったんです。喧嘩してるの、見たくなくって」
信号が変った。――二人は無言で渡った。
私はあの道を上り、この人は、左へ曲る。
でも、今日は――今日だけは。
「お願い」
久美子は自分でもびっくりしていた。こんなこと[#「こんなこと」に傍点]が言えるなんて。
「一緒に歩きたいんです」
やさしい目が、久美子を見ていた。
「じゃ、行こう」
「そっちでいいです」
と、その人の行く方向を指さす。
「迷子にならずに帰れるかい?」
「ひどい。十八ですよ、もう」
久美子は、自然に笑った。
その人も一緒に笑った。――信じられなかった。こんな風に、二人で[#「二人で」に傍点]笑えるなんて!
久美子は、その人と肩を並べて、歩き出した。
久美子は寝つけなかった。
でも、本気で眠りたいとも、思っていなかったのだ。あの人[#「あの人」に傍点]と交わした言葉の一つ一つ。歩いた一歩ずつの足どりまでも、思い出し、かみしめて、心に焼きつけたかったから……。
何度も何度も、ベッドで寝返りを打った。
「本当にね……」
と、小さく|呟《つぶや》いてみる。「どうしてもう少し早く産れなかったんだろ」
でも、久美子は、充分に幸福だった。
あの人の幸福が、そのまま久美子の幸福だった。
「じゃ、おやすみ」
別れるとき、あの人はそう言った。
そして、明りの|点《つ》いた玄関へと――。久美子は、道の暗がりに引っ込んで、じっと見ていた。
玄関のドアが開くと、シルエットで、女の人の姿が見えた。お帰りなさい、とその人は言って……。
シルエットでも、その女の人のお腹が大きいことが、よく分った。
「もう来月産れるんだよ」
と、歩きながら、あの人は嬉しそうに言ったっけ。「できるだけ早く帰ってやらないとね」
その、祝福されたシルエットを見たとき、久美子の中にいささかも|嫉《しっ》|妬《と》の思いが走らなかった、と言えば嘘になる。
あそこに立って、
「お帰りなさい」
と言っているのが、私だったら。
でも――いいんだ。そんなことは考えたって仕方ない。ただ、あの人とあんなに歩き、話せたこと。それで充分だ……。
久美子は目を閉じた。
すると――夜の静寂を縫って、低い忍び泣きの声が、聞こえて来た。
お母さん? お母さんだろうか。
久美子は、起き上った。夜中に両親が喧嘩することも、珍しくはない。でも、今聞こえる忍び泣きの声は、いつものそれとは違っていた。
どこが、とははっきり言えない。でも、どこかしら、「ただごとでない」気配だったのである。
そっとカーデガンをはおって、スリッパをはくと、久美子はドアを開けた。――階下から、はっきりと聞こえて来る。お母さんの泣いているのが。
「――いい加減にしろ」
と、うんざりしたようなお父さんの声。「見当ついてただろう、お前だって」
「だって……どうするの?」
「どうするも何もない。あっちには金をやって何とかするさ」
「あなたは……」
「何だ。――珍しくもないぞ、こんな話。出て行くなら行け」
「何て言い方よ」
お母さんの声が|震《ふる》えている。「よその女に子供まで作って――」
「だから、そっちの始末はつけると言ってるだろうが」
と、うるさそうに言って、「それ以上、どうしろって言うんだ?」
「――私はいやよ」
と、お母さんが言った。
久美子には見えた。――いや、実際には階段に座っていたのだから、目に見えていたわけではないのだが、はっきりと目に浮んだ。お母さんの、あの恨みを一杯にためた目が。
喧嘩のときは、たいていそんな目になる。
「いや、とは何だ」
「そんな女のためにお金なんか出さないわよ」
――いやな沈黙があった。
「俺の|稼《かせ》いで来た金だぞ。どこに使おうと、俺の勝手だ!」
お父さんは、いつもああやって怒鳴る。たぶん、あの声は表にまで聞こえているのだ。でも、そんなこと、二人の頭にはまるで思い浮ばない。
ドタドタと足音がして、久美子は、あわてて、自分の部屋へ戻ろうとした。でも、そんな必要はなかったのだ。
お父さんは二階へは上って来ずに、玄関から、出て行ってしまった。バタン、と隣近所にも響きわたる音をたてて、ドアが閉った……。
久美子は、下りて行って、お母さんを|慰《なぐさ》める気にもなれなかった。――大体、何と言えるだろう?
お母さん、悪い男と一緒になったと思って|諦《あきら》めるのね、とでも? それとも、男なんてあんなもんよ、とでも言うのか……。
久美子は、部屋へ戻ると、ベッドへ潜り込み、毛布を頭からかぶった。――お母さんの泣く声が、聞こえて来ないように。
やめて。――今夜だけでも。せっかくすばらしい思い出のできた日なのだから。
でも、どんなに強く毛布をかぶっても、お母さんのすすり泣く声は、久美子の耳まで届いて来て、いつまでも眠らせてくれなかった……。
肌寒い、曇った日だった。
「おはよう」
と、声をかけたものの、お母さんは、ゆうべ一睡もしていないわけで、何の返事もしてくれない。
久美子だって、同じようなものだったのだが。それでも、できるだけいつもと同じように振舞おうとした……。
「ごめんなさい、久美子」
と、お母さんが言った。「今朝は気分が良くないの。お昼は何か買って食べて」
「うん、いいよ」
と、久美子は言った。「寝てれば?」
「そうね。――あんたが行ったら、そうするわ」
お母さんは、疲れ切った様子で、そう言った。
久美子は、トースト一枚食べただけで、家を出た。
「久美子。――傘は?」
と、お母さんが訊いた。
「うん、持ってる」
久美子は、「行ってきます」
と、足早に、家を離れた。
ご近所から、同じ方向へ――もちろんバス停の方へだが――歩いて行く人たちがいる。誰もが、ゆうべの騒ぎを知っていて、久美子の方をそっと眺めているような気がした。
どうして――どうして、うちだけ[#「だけ」に傍点]が、あんな風なのだろう? 当り前の家のように、やさしく、明るくやっていけないんだろう?
バス停には、もう人が並んでいる。駅へ行くバスは、結構混んでいるのだ。
久美子も、その列についていると、反対側へ行くバスが、やって来た。そっちは、もちろんガラガラである。
――突然、自分でもよく分らない内に、久美子は道を駆けて渡って、反対側のバス停へと走った。
通過しかけていたバスが、急いで停った。
久美子が乗ると、運転手が不思議そうな顔で見る。――それはそうだろう。こんな時間に、この方向のバスに、女学生が乗っているのだから。
すぐ次のバス停で、久美子は降りた。
あの人[#「あの人」に傍点]は、朝はいつもここから乗って行くと言っていた。もちろん反対方向のバスだが、そこも列ができていて、その中に、あの人の姿はなかった。
久美子は、急いで歩き出した。――息を|弾《はず》ませるほどの勢いで。
あの人に会いたい。それだけを考えていた。――もうとっくに出かけてしまったかもしれないが、それでも……。
肩で息をついて、足を止める。
あの人の家の前だ。窓のカーテンが開いて、そのガラスに、人の影が動いている。あの人だろうか。
と、玄関のドアが開いた。久美子は、反射的に、電柱のかげに身を隠していた。
「じゃ、行って来る」
あの人[#「あの人」に傍点]が、玄関で靴をはいている。
奥さんが、上り口に立って、それを見送る。――久美子は、心の和むのを感じた。
そう。これなのだ。私が見たかったのは。
久美子は、このまま、あの人が出かけて行くのを見送って、それだけにしよう、と思った。これで充分だ。
「帰りは早い?」
と、奥さんが訊いている。
「ああ、たぶんね」
何てやさしい声だろう。久美子は胸が熱くなって、いつしか、ギュッと鞄を抱きしめているのだった。
「これを――」
「ああ」
あの人が、大きなビニール袋――ごみを入れた袋だ――をつかむ。出がけに、表に出して行くのだろう。
そして、あの人は、玄関を出ようとした。
「何を持ってるの?」
そのとき、少し|甲《かん》|高《だか》い声が、玄関の奥から聞こえて来た。「――まあ! 何してるの!」
少し髪の白くなった女の人が、玄関まで出て来た。
「いけませんよ。置いてらっしゃい」
と、厳しい口調で言う。
「母さん――」
「男がごみの袋を出すなんて! ご近所に笑われますよ。和子さん、どうして自分で出さないの」
「すみません。つい、出がけに――」
「それが主婦の役目でしょう。大したこともしてないのに、うちの子に、ごみまで出させるのね」
「すみません……」
「さ、務ちゃんは、そんなものそこへ置いて、早くお仕事に行きなさい。ちゃんと、和子さんが出しておいてくれますよ」
その女の人は、あの人のことを「務ちゃん」と呼んだ。
「いくらお腹が大きくてもね、昔はもっと重いものでも運んだものよ。今の人は、楽をすることしか頭にないんだから、本当に!」
「申しわけありません」
「私が出しましょうか、あなたがいやなら」
「いえ、私がやります」
「じゃ、そうしてちょうだい」
――あの人は、自分の母親と妻とのやりとりを、聞いていた。聞こえていないはずはなかった。
でも、あの人は何も言わなかった。その場にごみの袋を置いて、黙って歩き出した。その足どりは、何かに追われてでもいるかのようだった。
奥さんは、サンダルをはいて、ごみの袋を重そうに持つと、大きく息を吐いて、一つ先の角、ごみの集めてある場所へと運んで行く。歩くのが、辛そうだ。
久美子は、次第に体が冷えて行くのを感じた。この前、雨に濡れたときとは逆に、体の内側から、冷えて来るようだ。
奥さんは、自分の家の玄関へと歩く途中、ふと足を止めると、両手で顔を|覆《おお》った。――でも、すぐに頭を振ると、手の甲で目を|拭《ぬぐ》って、戻って行く。
「――袋の口をちゃんと結んである? ご近所の方から、苦情が来ますよ」
あの女の人は、上り口で、待っていた。
「ええ、お|義《か》|母《あ》さん、大丈夫です」
そう言って、奥さんは、中へ入りドアを閉めた。
――今から、あの奥さんは、夫の母親と二人で一日過すのだ。どんなに長い時間だろう。
久美子は、道へ出て、遠くに小さく見えている、あの人の後ろ姿を、見ていた。
振り返ろうともしないその男の姿は、まるで別人のもののように、久美子には思えた……。
――ずいぶん長く、久美子は立っていた。
歩き出す元気が、なかったのだ。
やさしい人? あれが「やさしさ」なのか。
自分に関り合いのない人にはやさしい。でも、奥さんをかばってあげることもできない。
久美子は、突然、一人ぼっちで見知らぬ町の真中へ投げ出されてしまったように感じた。
――足が勝手に動き出して、バス停へと歩いて行ったが、もう今から行っても、遅刻だ。
といって……どこへ行けばいいだろう。
学校で、何と言うのか。
「両親が喧嘩してたので、遅刻しました」
とでも?
それとも、
「お父さんが、よその女の人に子供を作ったので、遅刻しました」
か――。
久美子は笑い出した。そう言ったとき、先生がどんな顔をするか、想像して、おかしかったのである。
笑いながら、久美子は駆けるように、歩き出した。そして、ふと思い付いたように、鞄を開けると、中から折りたたみの傘をとり出し、道端へ投げ捨てた。
軽やかに歩いて行く久美子は、もう笑っていなかった。涙さえ流れないほど、久美子は大人になっていた……。
第二話 誘 拐
その少女が傘を投げ捨てるのを、若木健一は双眼鏡で見ていた。
何してるんだろう?
首をかしげつつ、その少女が遠ざかって行くのをずっと追っていたが……。
「おい、何かあるのか」
急に後ろから声をかけられて、若木はびっくりした。
「ああ……。村中さん」
と、少しホッとした表情になって、「何か連絡ありましたか」
「ありゃ、もっとあわててるさ」
村中は、|禿《は》げ上った|額《ひたい》をツルッとなでて、「どこか|覗《のぞ》いてたのか? 風呂場でも見えるか」
と、若木の肩越しに窓から外を覗いた。
「まさか! 村中さん、いくら何でも、僕がそんなことするわけないじゃありませんか!」
と、ムッとして見せたものの、実のところ、通りを歩いて行く女学生をずっと見ていたのだ。あまりいばれたもんでもない。
「そうか。――しかし眠いな」
と、村中は|欠伸《あくび》をした。「おい、コーヒーをいれてくれてるぞ。いただいて来い」
「はい」
と、若木は肯いた。「村中さん、見ててくれるんですか」
「ああ。朝シャワーを浴びるのがはやってるっていうからな。一軒ぐらい、覗けるかもしれん」
どこまで本気なのか、村中は若木から双眼鏡を受け取った。
「怪しい奴は見当りません」
と、若木は言った。
「見るからに怪しきゃ、苦労しないさ。見かけで言やあ、俺たちの方がよっぽど怪しい」
村中の言い方に、若木はちょっと笑ったが、すぐに顔をひきしめた。
いけないいけない。――こんなとき、笑顔なんて見せちゃ。
何といっても、一人娘を誘拐されて、不安と悲しみに打ちひしがれている家なんだ。
若木は、居間へ入って行った。
この家の主人、宮前雄治が、コードレスの電話で、会社へ連絡を入れているところだった。
「――ああ、どうにも気分が悪くてな。――そうだな。よろしく頼む」
がっしりした体格は、若いころ、柔道でもやっていたのかと思える。
若木も、もちろん刑事だから一応柔道とかやってはいるが、あまり好きにはなれなかった。射撃訓練の方が、まだいい。何となくゲーム気分でやれるからだ。
実際に犯人と撃ち合ったりしたことは一回もなかったし、そんなときには、「ゲーム」なんて|呑《のん》|気《き》なことは言っていられないだろう。
しかし、若木としては、まだ死にたくなかった。何しろやっと二十六歳になったばかり。独身である。付け加えると――本人は付け加えてほしくないかもしれないが――恋人と呼べる女性も、今のところいない。
「――あ、刑事さん」
と、反対側のドアが開いて、宮前の夫人が入って来た。「どうぞ、コーヒーをおいれしました。こちらへ」
「恐縮です」
と、若木は言った。
「あなた、飲みますか」
「俺はいらん」
と、電話を終えた宮前は、ソファに身を沈めた。「どうして何も言って来んのだ!」
「あなた、落ちついて……」
「分っとる」
宮前は、腕組みをして、目をつぶった。ガウンを着て、少しひげが黒々として来ている。
「あの――どうぞ」
夫人が、若木を、隣のダイニングへ案内してくれた。
コーヒーの匂いがすると、それが刺激になったのか、若木のお腹がグーッと鳴った。夫人にも聞こえたに違いない。若木は真赤になった。
「まあ、お腹が空いてらっしゃるんでしょう?」
「いや、大丈夫です」
と、若木はあわてて言った。
「お若いんですものね。申し訳ありません、気付きませんで」
「いえ、本当に――」
「何もなくて、あいにく……。そうだわ」
夫人が、キッチンの戸棚を開ける。「――娘が、よく夜中に食べるので、カップラーメンがありますの。これでよろしかったら、召し上ります?」
「いや、結構――」
と言いかける若木を裏切って、お腹がグーッと再び悲鳴を上げた。「すみません。じゃ、いただきます……」
――夫人の宮前晴子は、もう四十代半ばというのに、若々しく、色白で、「可愛い」という表現さえできそうだ。
宮前雄治が、ひげも当らず、目を充血させているのに比べ、宮前晴子はきちんと和服を着こんで、一分の隙もなく、身だしなみを整えていた。
もちろん、娘のリカを誘拐されて、心配していないわけじゃないのだ。人前に、見っともない姿で出て行けない、という思いの故なのだろう。
「さあどうぞ」
と、晴子がカップラーメンと割りばしを持って来てくれる。
「恐れ入ります……」
若木は食べ始めると、アッという間に、カップを空にしてしまった。――食べるまでは、自分がこんなに空腹だったとは、思ってもいなかったのだ。
顔を上げると――|唖《あ》|然《ぜん》とした夫人の顔があった。
「どうも……あの……ごちそうさまでした」
と、小声で言って、若木は更に赤面した。
「いいえ……。|羨《うらやま》しいですわ、その勢いで召し上れる若さが」
皮肉という口調ではなかったが、若木はますます恐縮して赤くなった。これ以上赤くなったら、ほとんどゆでダコである。
「あの……ご心配ですね」
と、とりあえず当り前のことを口にする。
「ええ。――一人っ子で甘やかして来たんです。大学へ入って、ずいぶん夜遊びも覚えて。でも、やっぱりこんなことになると……。子供は子供ですわね」
晴子が、そっとため息をつく。――若木はドキッとした。
こんなときに不謹慎な、と自分を戒めるのだが、晴子の横顔が、うれい[#「うれい」に傍点]に沈んでいる、そのさまは、男としての若木を身震いさせるほど――言葉は適切でないかもしれないが――色っぽかった。
「あの子……そりゃあ寝相が悪いんですの。小さいころから、一緒のベッドで寝ると、必ず夜中にこっちのお腹をけとばしたり、胸が苦しくて目を覚ますと、足がこっちの胸にドカッとのっかってたり……。早々に部屋を与えたんです。そして特大のダブルベッドを入れて。――いくらリカでも、あれなら落っこちることはありませんものね」
確かに、若木も、そのベッドは見た。目をむくような大きさで、まるで若木が独り住いしているアパートより広いみたい(はオーバーにしても)。
「それに、いい|年《と》|齢《し》して、よく寝ますの」
晴子はふっと微笑んだ。「普通、あの年代の子は夜ふかしでしょう? リカも夜遅く帰ることはありますが、そんな翌日は、放っておくと夕方ぐらいまで寝てますわ」
「健康な証拠ですね」
と、若木は、我ながらつまらないことを言った。
「本当に」
と、晴子は言った。「心配ですの」
「はあ」
「誘拐した人たちが、ちゃんとリカを寝かせてくれているかどうか……」
急に晴子の声が低くなり、涙がはらはらと頬を伝い落ちた。「――あの子、生きてるでしょうか」
「奥さん……」
「正直におっしゃって下さい。こんなとき、たいてい、もう殺されているんですよね」
「いや――」
「リカは小さな子供じゃありません。犯人の顔だって憶えてるだろうし……。たぶん、今ごろは、もう……」
晴子は、急いでハンカチを取り出すと、目に押し当てた。
若木は、胸をしめつけられる思いで、晴子の忍び泣く姿を見ていた。そして――ゲップをしたのだった……。
ことの起りは、ゆうべ晴子が外出から帰って来たときである。
帰って来たといっても、夜の十一時過ぎ。いつもいつも、晴子がこんなに遅くまで出歩いているわけではない。といって、一年に数えるほど、というわけでもなかった。
ま、週に一度は、午前零時に限りなく近い時間まで出歩くのが、晴子の日常であった。
遊んでいるのか、と訊かれれば、否定するわけにいかないだろうが、しかし、そればかりでもない。何しろ、交際範囲が広がるにつれて、何かとお付合いもふえて来る。そして、晴子は、必ずしも出かけるのが嫌いではなかった。
「――ああ、くたびれた!」
帯をといて、体が楽になると、晴子は居間のソファに体を投げ出すようにして、座った。
出かけるときはたいてい和服。――家にいるときも和服が多いのは、やはり夫の関係で来客も多いせいだ。
疲れることは確かだが、夫の好みでもあり、もう何十年もこれでやって来ているから、苦にはならない。
夫は――今夜もまだ帰っていない。何といっても、妻以上に帰宅が遅いから、晴子が何時に帰ろうが、文句も言わず、大体、晴子がいつも家にいるのだと思っているのかもしれない。
晴子は|欠伸《あくび》をした。――親しい奥さん同士で夕食をとり、ついでにワインの二、三杯も入って、少しいい気分である。
リカ……。帰ってるのかしら?
ふと気が付いて、玄関へ出てみると、リカの靴が、隅っこの方でひっくり返っている。
――これはいつもの正常[#「正常」に傍点]な状態なのである。
「もう寝たのかしら……」
晴子は、二階の方を見上げながら、呟いた。
あんまり静かなので、少々不安になった。リカの部屋からは、たいてい音楽が聞こえているからだ。
音楽といっても、晴子などにはとてもついていけない、ハードロックとかいうやつ[#「やつ」に傍点]で……。
晴子は、階段を上りかけて、電話が鳴り出すのを耳にした。
「主人かしら」
急いで居間へ戻って、コードレスの電話を手に取った。「――もしもし。――宮前でございますが。――もしもし?」
向うは黙っている。いたずらかしら、と晴子が顔をしかめて、もう一回、
「もしもし」
と言うと、
「よく聞きな」
と、低い男の声が聞こえて来た。
「は?」
「お宅のお嬢さんは、預かってるからな」
「何ですって?」
びっくりしたというよりは、よく聞こえなかったのである。
「娘を預かってるんだよ」
「娘が、何か預けたんですか?」
晴子の問いに、向うも絶句した様子だったが、
「――また連絡するからな。身代金を五千万用意して、待ってな」
と言うと、切ってしまった。
晴子は、しばしポカンとして、突っ立っていたが――やがて、向うの言っていたことの意味[#「意味」に傍点]が、やっと分って来た。
「――まさか!」
二階へと駆け上る。リカの部屋のドアをパッと開けると――。
ダブルベッドは空っぽで、毛布は、壁との|隙《すき》|間《ま》に落ちてしまっている。そして何より――窓が開け放してあった。
こんな季節に、おかしい!
晴子は、窓へと駆け寄った。窓の下は、小さな植込みになっているが、夜でも、表の街灯の明りで、植込みが踏みにじられ、めちゃくちゃになっているのが、見てとれた。
――晴子は、青ざめた。
「大変だわ!――あなた!」
と、わけも分らず階下へ駆け下りると、ちょうど夫の宮前雄治が、帰って来たところだった。
そして――一夜が明けたのである。
「大丈夫です!」
突然、若木が大声を上げたので、すすり泣いていた晴子は、びっくりして顔を上げた。
「お嬢さんは生きておられます」
と、若木が言った。「必ず、この手で、救い出してごらんに入れます。ご安心下さい!」
「刑事さん……」
晴子は、その若い刑事を、感謝の目でじっと見つめた。
若木は、その視線が、眠気も空腹も(まだ腹が減っていたのだ)一度に吹きとばしてしまうのを、感じていた。若木の体の奥底から、今まで、全く知らなかった闘志が、立ち上って来た……。
犯人からの連絡は、昼近くになっても、なかった。
宮前も、さすがに疲れ果てて、少し眠ると言って二階へ上り、刑事たちも交替で仮眠をとっている。
一人、目をらんらんと輝かせて、テープをセットした電話をにらみつけているのは、若木だった。
――そろそろ、何かお昼を出さなきゃ。
晴子は、そう考えながら、二階へと上って行った。
リカの部屋。ドアを見て、開けようとして、ためらう。
何もかもが、夢だったら……。ドアを開けると、いつも通り、リカが、毛布をはねとばし、パジャマがまくれ上って、おへそを出したまま、グーグー眠っていてくれたら……。
でも、そんなのは夢だ。――現実を見つめなくちゃ。
晴子は、ドアの前から離れようとして……。ふと、聞いたのだ。
ファーッ、グーッという、聞き慣れた音を。それは、リカの派手な寝息だった。
「まさか!」
パッとドアを開けると……。
ベッドには、やはり誰もいなかった。
「空耳だったんだわ……」
と、晴子は肩を落とした。
聞きたいと願っている音が、本当に聞こえたように思えてしまったのだ。――可哀そうなリカ。今ごろ、どんなひどい目に……。
「アーア」
大欠伸。――しかも、その声(というか音というか)は、空耳にしては、あまりにはっきり聞こえた。
晴子は、部屋の中へ入った。今のは――本当に[#「本当に」に傍点]、リカの欠伸のようだった。
でも――。と、特大のダブルベッドの方へ目をやると……。
壁との隙間、毛布がごっそり落ちていた、その隙間から、ヒョイと顔が覗いたのだ。
ボサボサの髪をくしゃくしゃっとやって、目をパチクリさせ、
「ママ。――おはよう」
と舌っ足らずな声で言ったのは、どう見ても、リカ当人だった!
人間、あんまり意外なことに出くわすと、すぐにはびっくりできないものである。
「おはよう……」
晴子も、半ば――いや九割方|呆《ぼう》|然《ぜん》としたまま、リカに答えていたのだ。
「どんくらい寝たんだろ?――あれ?」
と立ち上ったリカは、「やだ! 私、こんな狭い所に寝てたの? どうりで窮屈だと思った!」
ハッハッハ、と威勢よく笑う。その声が、晴子をパッと現実へ引き戻した。
「静かに!」
と、晴子はあわててドアを閉めると、「あんた……リカ……」
「どうしたの?」
キョトンとして、リカは母親が、酸欠の金魚の如く、口をパクパクやっているのを眺めている。
その内、リカは、自分の格好に気付いた。
パジャマの上は、一応[#「一応」に傍点]着ている。しかし下の方はといえば……。
「あ、いけね」
と、リカは舌を出した。「つい、眠っちゃったんだ」
リカは、毛布を引張り上げて、その間からパジャマのズボンの方を見付けたが、
「いちいちはくことないか。どうせ着替えんだもんね。アーア」
と、また大欠伸。「ママ、本当にどうかしたの? 青くなったり赤くなったりして」
「何言ってるのよ! あんた、どうしてこんな――」
「ゆうべねえ、ちょっと飲んだの。で、酒の勢いって怖いわね。達也とさ――ほら、水戸達也って、知ってるでしょ? お父さんが国際線の機長やってる。あの子がね、送って来てくれて……。悪いじゃない、すぐ帰れって言うのも。で、上ってもらったのね。そしたら何となく――二階に上って来て、ついでにこのベッドにも上って来て、そんでもって――」
「リカ!」
晴子は、力なく、床に座り込んじまったのである。
「どうしたの? そんなにショックだった? でもさ、正直に言うと、私、もう高校のときに体験済みだったのよ。相手はほら、山中君。憶えてるでしょ? ゆうべもグループの中にいたんだけどね。何しろ水戸君に比べると、足も短いし、センスも悪いし――」
「少し黙んなさい!」
と、晴子は金切り声を上げた。
リカが目を丸くして、黙った。――晴子はハアハアと|喘《あえ》いで、
「とんでもないことに……。あんたが誰と寝てようが、そんなこと構やしないの。いえ、構わないわけじゃないけど、今はそれどころじゃないの」
と、晴子はあわてて言った。
「じゃ、どうしたの?」
「あんた……誘拐されて身代金……刑事さんたちが……お父さんが五千万……」
喘ぎつつの話なので、とぎれとぎれで、リカは何がなんだか分らない。
「ママ、少し落ちついてよ。――誘拐って、何のこと?」
と、母の前にしゃがみ込む。
「だからね、あんたのことを――」
と、晴子が言いかけたとき、ドアをノックする音がした!
「奥さん。どうかなさいましたか?」
あの若い刑事だ! 晴子はあわてて立ち上ると、
「あの――何でもありません!」
と、ドア越しに怒鳴った。「入らないで下さい! 今――着がえをしているので」
リカは、|呆《あき》れて、
「着がえなんてしてないじゃない」
「リカ! 早く服を着て!」
と、晴子は、低く押えた声で言った。
「私、シャワー浴びてからにしたいんだけど――」
「いいから、早く!」
晴子の剣幕に押されて、リカはパジャマを脱ぐと、クロゼットを開けた。
「どれがいい?――今日のお天気があんまり良くないから、少し派手めのにするか……」
「地味なの! うんと地味なのに!」
晴子は、至って地味なスカートとセーターをつかんで、「これにしなさい!」
「ええ? どうして?」
「いいから早く!」
晴子は、リカがスカートとセーターを身につけると、髪の毛に手をつっこんで、くしゃくしゃにした。
「キャッ! ママ、何すんのよ!」
「静かに!」
晴子は、リカをベッドの方へ引張って行って、「シーツや毛布を直してるふり[#「ふり」に傍点]をしなさい!」
リカは完全にママが狂った、と思った様子で、かえって逆らうと怖いと思ったのだろう、言われた通り、シーツのしわ[#「しわ」に傍点]をピンと引張って、のばし始めた。
晴子は、胸を押えて|呻《うめ》くと、ドアの方へ歩いて行き、深呼吸して、パッと開けた。
「あ、奥さん」
若木が、顔を真赤にして、立っている。「失礼しました。誰かとお話なさってる気配がしたので。お着がえ中とは知らず、失礼しました!」
「いいえ。何しろずっと和服って、窮屈で、くたびれるものなんですの」
と、晴子は笑顔を作った。
「そうでしょう。色々ご心配で……」
若木がトンチンカンな同情をして、中を|覗《のぞ》くと、「――あの方は?」
ベッドを直しているリカの後ろ姿に目を止める。
「うちのお手伝いの子ですの。何しろ広い家ですし、全部お掃除して回るだけでも、時間をとられますので」
「ごもっともです」
若木は、「何か僕でお手伝いできることがあれば……」
と、言い出した。
「とんでもない!――刑事さんには、誘拐された可哀そうなリカを、無事にとり戻していただかなくては。犯人からの身代金要求の電話はまだございませんの?」
晴子は、リカに聞こえるように、わざと大きな声で言った。
「残念ながら、まだです」
と、若木は首を振った。「しかし、どんな小さな手がかりでも、必死で食らいついて、必ずや犯人を挙げてごらんに入れます。いや、もちろん、お嬢さんがご無事で戻られるのが、何より大切なことです。お|嘆《なげ》き、ご心痛はお察ししますが、きっとお嬢さんは生きておられます」
「ありがとうございます。あなたにそうおっしゃっていただくと、何だか気持が明るくなりますわ」
と、晴子が言った。「あの――もう少し一人にしておいて下さいますか。気持が落ちついたところで、下へ参ります」
「かしこまりました。いや、申し訳ありません。奥さんのお気持を察することもできず、勝手に上って来まして」
「いえ、とんでもない」
「では、失礼いたします」
若木は、深々と一礼して、階段を下りて行く。
晴子は、若木の行ってしまったのを確かめてから、ドアを閉め、フーッと息をついた。
「ママ……」
リカが、狐につままれたような顔をしている。「説明して。どうして私が『誘拐』されたわけ?」
「座んなさい」
母と娘はベッドに並んで腰をおろした。
「どう話したらいいのかしら」
と、晴子はため息をついて――ともかく、ゆうべからの一部始終を、語って聞かせたのだった。
「――信じらんない」
と、リカは、しばらくして、やっと口を開いた。「どうしてもっと捜さなかったのよ!」
「だって……あんな電話があったし。五千万用意しろ、とか。それに、窓の下の植込みがめちゃめちゃになってたわ」
リカは、頭をかかえた。
「たぶん……その電話は、山中君ね」
と、リカは言った。「私が水戸君と親しくしてて、頭に来てたの。根に持つ奴なのよ」
「あんたもいい加減なんでしょ」
「そりゃまあ、ママの子ですもん」
「それもそうね」
いいとり合せである。晴子は、
「でも、窓を開けてたのは? いくら――その――水戸君とやらと頑張って[#「頑張って」に傍点]たかもしれないけど、暑くて窓を開けたわけじゃないでしょ」
「ママ、帰ったのが十一時過ぎ、って言ったわね」
「そうよ」
リカは、思い当った様子で、
「ぼんやり憶えてる。――あのね、達也が――水戸君がバタバタして騒いでたみたいだったの。私、夢を見てるのかと思ってたけど……。そうじゃなかったのね」
「何で騒いでたの?」
「ママが帰って来たからよ」
「私が?」
「二階へ上って来て、ここを覗いたんでしょ? 彼、きっとママの足音を聞いて、あわてて洋服をかかえ――」
「窓から飛び下りたっていうの?」
「考えられるでしょ」
それはそうだ。しかし、あの状況で、そんなことまで想像できるわけがない!
「――ともかく、一応の説明はつくわね」
と、晴子は肯く。
「じゃ、刑事さんたちに説明して、帰ってもらったら? それに、お腹空いちゃった、私」
「呑気なこと言って……」
晴子は、頭をかかえた。「そう簡単にはいかないわよ」
「どうして?」
「お父さんがどうすると思う? あんたがここで何をしてたか、しゃべらないわけにいかないのよ」
「そうか。――やばいね」
「修道院行きね、さしずめ」
「じゃ、どうする?」
「お母さんだってね、こんなことが、もし世間に知れてごらんなさい。お花やお茶や英会話やエアロビクスやゴルフやテニスやフランス語の仲間に、顔向けできないわ」
リカが唖然として、
「ママ、いつの間にそんなに沢山……」
「そんなことはとりあえず関係ないの。――リカ。ともかく、あんたがこの家の中にいちゃ困るわ。外へ出てらっしゃい」
「でも……お腹空いたよ」
リカは情ない顔で言った。
「どこか近くで食べりゃいいでしょ!」
「この辺、何もないよ。駅まで出なきゃ」
「じゃ、出なさいよ」
「タクシー代と食事代ちょうだい。ゆうべ、お金なくてホテルに入れなかったの。ああいうホテルって、カードがきかないのね」
「変なことに感心しないで」
晴子は、財布を取り出すと、「いい? 人目につかないように家を出るのよ。――そうだわ、ついでに駅前のピザ屋さんで、刑事さんたちに出すピザを注文して来て。ここへ配達してもらうように」
リカは、口を|尖《とが》らして、
「誘拐された哀れな子に、お使いまでさせるわけ?」
「何が哀れな子よ。あんたの寝相があんなにひどくなけりゃ、こんなことにはならなかったんだからね!」
晴子の言葉に、リカは言い返すことができなかった。
「でも、ママ……。どうする気? 犯人[#「犯人」に傍点]から連絡なんて、もう来ないよ」
「考えるわよ、何とか。ともかく……誘拐の線で、できるだけ引張るのよ。いいわね。あんたも協力するのよ」
母と娘の奇妙な「作戦会議」は終った。
リカは、コーヒーをたて続けに二杯飲み干して、やっと少し頭がすっきりした。
駅前のレストラン。といっても、よくあるファミリーレストランなので、|洒《しゃ》|落《れ》ているとは言いかねた。
いつものリカなら、こんな店には決して入らないのだが、今は空腹を満たす方が先決。味はどうでも良かった。
少しでも早く出るもの、というので、カレーライスを頼んだ。
「それと、コーヒー、もう一杯」
と、リカが頼むと、
「カレーはやめてハヤシライス」
と、わきから割り込んだ男がいる。「ハヤシを二つね。僕もコーヒー」
リカは、その声に聞き憶えがあった。
「あの……」
「宮前さんのお手伝いさんだね。服装で分ったよ」
「刑事さん……ですね」
「若木というんだ。君は?」
「私? 私はあの――令子」
目が、奥のキッチンの冷[#「冷」に傍点]蔵庫に向いていたので、とっさにそう名のった。
「何してるんですか?」
「うん。お腹が空いてね。君は?」
「私もお腹が空いて」
二人は笑った。
「――いや、どこか近くにないかと思ってバスの中からずっと見てたんだけど」
「ないんですよ、駅まで来ないと」
と、リカは言った。「だけど、どうしてハヤシライスに変えたんですか?」
「このチェーン店はね、カレーがひどいんだ」
と、若木は少し声をひそめて言った。「食べられるのは、ハヤシライスだけ」
「詳しいんですね」
「独り者だし、それに張り込みとかで、ずっと外食ってことが多いしね」
若木は欠伸をした。「――いけない!」
「え?」
「誘拐された、あの家の娘さんや、ご両親の気持を考えると、欠伸なんかしてられなかったよ」
リカとしては、困ってしまう。どうせ、後になれば、ばれてしまうことだ。
「若木さん……でしたっけ」
と、リカは言った。
「うん」
「大変でしょ、刑事さんって」
「そうだね。でも――何だって大変さ。人間、他人の仕事は楽に見えるよ」
若木は、来たコーヒーを、ゆっくりと飲んだ。「――お宅でいれていただいたコーヒーの方が、ずっと|旨《うま》い」
「そりゃあ、高い豆を使ってるもの」
と、リカは笑った。「――笑っちゃいけなかったわね」
何となく、この若い刑事に対して、申し訳ない気持になってしまうのは、どうしてだろう。
リカは、たいていの場合、他人が自分のために何かしてくれることを、当り前だと思って来た。
「――教えてくれないか」
と、若木が言った。「お嬢さんって、どんな人だい?」
リカは、飲みかけたコーヒーで、少しむせた。何て答えりゃいいんだ?
「あの――どうしてそんなこと訊くの?」
「興味があるんだ。あの奥さんを見ていると、どんな娘さんなのか、ってね」
リカは、少し間を置いて、言った。
「あんまり、似てるとは言いにくいわね……」
そう。何といっても、あの母の忙しさは、リカにもとてもついて行けないものだ。
「でも、あんなすばらしい女性の娘さんだ。きっとすてきな人だと思ってる」
若木の言い方は、至って|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》で、リカの方が少々照れてしまうくらいだった。
「だけど、ママは――あ、いえ、あの――奥様[#「奥様」に傍点]は、ともかくほとんど家にいないの。毎日出歩いてる。帰りだって、夕食どきにいるのは週の半分。だから……娘さんの方も、自然、夜遊びに走るわよ」
「夜遊び?」
「そう。でも仕方ないでしょ、何しろ両親がろくに顔も合せないのよ。しかも――父親の方には、愛人がいるしね」
リカも、こんなことまでこの刑事に話すつもりじゃなかったのである。ただ、じっとこっちの目を見つめて話に聞き入っている、その若木刑事の|眼《まな》|差《ざ》しが、ついリカの口を動かしてしまうのだった……。
「あんなすてきな奥さんがいるのに?」
と、若木が心から不思議そうに言うので、リカはおかしくなった。
「男の人って、そうみたいよ。奥さんがどんなに魅力的でも、外に女を作る。ちょっとお金とか地位ができるとね」
「そんなことはないよ」
若木は憤然として言った。「僕は――そんなことはないと思う」
「信じてるのね、人間を」
リカは、いつになく、真面目にしゃべっている自分に驚いた。
友だち同士で、決してこんなことは話さない。こんな「かったるい」話題は避けて通るのだ。
「奥さんはご存知なの?」
と、若木が訊く。
「愛人のこと? 当然知ってるでしょ」
「娘さんも?」
「――ええ。たぶんね」
若木が、ふっと眉をくもらせた。
「――どうかした?」
「いや……。きっと凄いショックだったろうと思って、ね」
リカは、コーヒーカップに目を落とした。
ショックかって? そんなことない。大人なんてそんなもんよ、と友だちには言ってやった。
でも……それまで、心の中のどこかで信じていた「家」ってものが、崩れて行く音を、リカははっきりと聞いたのだった……。
「そうね。――でも、今はもう大学生で、本人だって同じようなことやってるわ。血は争えないわね」
「いや、そうじゃないよ」
と、若木は言った。
「何が?」
「それはね、|復讐《ふくしゅう》だよ。仕返ししてるんだ。自分の親に対してね。でも、そんなことは間違ってる。人間は自分のことを大切にしなきゃ。親がどうだからって、タバコや酒や……。そんなもので自分をだめにするのは、いけないことだよ」
この若い刑事から、そんな「人生訓」を聞こうとは思ってもいなかったリカは、すっかり面食らってしまった。
「あなた、学校の先生でもやれば?」
と、言ってやった。
ハヤシライスが来た。確かに、食べられる味だ。
「――いいこと教えてもらったわ」
と、食べながらリカは言った。「今度から、ここではハヤシライスにする」
若木は、自分もせっせと食べていたが、ほとんど半分近く一気に食べてから、
「――お袋がね、よく作ってくれた。その味に似てて」
と、少し照れながら言った。
「あら、そう。ママは――奥様は、こんなもの、絶対に作らないわ」
と、リカは言って、「お母さんとは一緒?」
「いや、お袋はもういない」
「亡くなったの?」
「うん……。僕の親父も刑事でね、正月だって、何だって、ろくに家には帰らない。色んな負担が、全部、母だけにかかってた。――早死にしたよ」
「そう……」
「あの奥さんが、毎日出歩くのも分るよ。ご主人がいない家なんて、寂しいじゃないか。何かで気を紛らわさなくちゃ」
若木はそう言って、少し頬を赤らめた。「僕に女性の気持が分るわけじゃないけどね」
リカは、|唖《あ》|然《ぜん》とした。――この人、うちのママに|憧《あこが》れてるんだ。
「でもね」
と、若木は続けて言った。「こんなこと言っても仕方ないことだけど、死んだお袋にも、もっと好きなことをさせてやりたかった、とね……。親父はもう停年でやめたけど、寂しそうだよ。一人で、いつも。お袋に生きててほしかったと思ってるだろ、今は。生きてる内は、自分が仕事から帰って留守になんかしてようもんなら、お袋を怒鳴りつけたもんだ。いつ亭主が帰っても、ちゃんと食事や風呂の仕度をしとくのが、女房ってもんだ、と言ってね。――で、お袋は、さっぱり他の奥さんとの付合いもなかった。たぶん、親父は後悔してると思うよ。少しぐらい悪妻だって、長生きして、今も一緒にいてほしかった、ってね……」
若木はハッとして、
「ごめん。妙な話ばっかりして。――君、急ぐんだろ?」
「別に。――というか、他に用事があるの。あなたたちに出すお昼のピザを注文しに行くのよ。でも……食べられる? ハヤシライス食べちゃって」
「大丈夫!」
と、即座に答えてから、急に――。
リカは、面食らった。若木刑事の顔が歪んだと思うと、突然、涙が頬を伝い落ちたのである。
「あの……ピザ、嫌い?」
と、リカは訊いたが……。
「いえ……。大好きだよ。特にサラミののったやつが」
「サラミね」
「ただ……こんなことしていていいんだろうか、と……。あのやさしい奥さんのお嬢さんが誘拐されて、今、どんな目に遭っているかもしれないっていうのに。満足に食べるものさえ与えられていないかもしれない、っていうのに……。僕だけが、こんなに散々食ってしまって、申し訳ないと思ったんだ」
「そんな……。だって、食べて元気をつけてもらわなくちゃ。そうでしょ? 犯人を捕まえることになったら、体力が必要よ」
「ええ。でも――それだけじゃないんだ。こんなときに、我々の昼食のことまで気をつかって下さる奥さんの心が、胸に迫って……」
と、また若木は涙ぐんでいる。
リカは唖然として、この「珍しい生きもの」を眺めていた。
この若い刑事は、これまでリカが知っていたどの男の子とも違っていた。もちろん、リカの知っている男の子は、たいてい似たようなタイプだが、それにしても、こんな男がいると知ったこと自体、カルチャーショックと呼ぶにふさわしいものがあった……。
「じゃ、僕はもう戻らないと」
と、若木は立ち上って、「犯人をこの手で逮捕してやりたいからね。そしてお嬢さんを助け出す。あの人[#「あの人」に傍点]を、安心させ、喜ばせてあげたいんだ」
では、と若木は行ってしまった。
リカは、ポカンとして、しばし座っていたが……。
「あの人、自分の分、払ってかなかった」
と、|呟《つぶや》いて、ちょっと笑った。
席を立って、店の入口のわきにある公衆電話で、家へかける。――もちろん、居間の電話へかけるわけにはいかない。
母との打ち合せで、リカの部屋の電話(リカ専用である)で連絡をとる、ということになっている。
「――リカ?」
と、母親の晴子が出た。
「私。どうなってる?」
「最悪よ。――あと半日待って、身代金の請求がなかったら、公開捜査に踏み切る、って」
「公開捜査?」
「あんたの写真とかが、TVや新聞に出るのよ。ポスターで、〈この人を知りませんか〉とか、あちこち貼り出されて」
「待ってよ。じゃ、どうすりゃいいの?」
「あんた、外国へでも逃げる? エスキモーの所へでも行けば、かくまってくれるかもしれないわ」
「冗談じゃない! やめてよ。私が何かしたってわけじゃないのに。それにね、あの若木って刑事さんと会っちゃったのよ」
「ええ?」
リカが事情を手短かに説明して、
「だから、むだよ。写真が出りゃ、あの刑事さんには、すぐばれちゃう」
「どうして生かして帰したのよ?」
晴子も凄いことを言っている。
「でも――ねえ、ママ」
「何よ?」
「あの人、いい人だね」
「そうね。今どき珍しいタイプよね」
「ママのこと、好きなのよ」
「知ってますよ、それぐらい」
と、晴子はアッサリ言った。
「私も好きなの」
「私を?」
「あの若木って人よ。話してたら、何となく……。胸が熱くなって来ちゃった」
「リカ……。本気なの?」
「いけない?」
「いけなかないけど――。そうね」
晴子は何か思い付いた様子で、声を低くした。「いい手があるわ! 若木って人、こっちへ戻ったのね?」
「うん。バスでそっちへ向ってると思う」
「リカ」
晴子は、自信に満ちた口調で言った。「うまく行くかもしれないわ。何もかも」
「そう?」
「ただし、あんたが、あの若木って人と結婚する気があればの話だけど」
リカは絶句した。
「――どうなの?」
「だって……そりゃ、好きだけど……」
「後で飽きたら別れりゃいいのよ。じゃ、構わないわね?」
「うん……」
「じゃ、あと一時間したら電話して。――ピザ、忘れずに注文してね」
リカは、電話を切ってから、首をかしげて、呟いた。
「亭主ってのも、結構簡単に注文[#「注文」に傍点]できるもんなのね」
「五千万円、いつでも持って行けるように、用意してあります」
と、宮前雄治は、ボストンバッグの口を開いた。
中には札束が――覗いた刑事たちの間から、そっとため息が|洩《も》れた――無造作に詰め込んである。
「それなのに、犯人は一向に何とも言って来ない! どうなってるんだ、一体!」
宮前は、|苛《いら》|々《いら》と居間の中を歩き回った。
「宮前さん」
と、村中刑事が言った。「大変申し上げにくいことですが……。万一、犯人が金目当てでなく、お嬢さんを誘拐したとしたら、一刻も早く公開捜査に踏み切って、目撃者の通報を待つのが最良の手段と――」
「待って下さい!」
と、宮前は言った。「犯人は、五千万円という金額まで指定して来ている。何かの理由で、電話が遅れているだけかもしれません」
「宮前さん――」
「もし、犯人が金の渡し場所を指定して来る前に、TVで公開してしまったら……。それこそリカは殺されるかもしれない。そうでしょう?」
「はあ……」
「もう少し待ちましょう。もう少し」
と、祈るように言って、宮前はソファに身を沈めた。
「分りました。お考えの通りにしましょう」
と、村中は言った。「ただ、公開捜査に踏み切る場合のために、お嬢さんの写真をお借りしたいのです。複写して、各TV局へ回す必要があります」
そこへ、晴子が言葉を|挟《はさ》んだ。
「あの――恐縮ですが、ピザをお昼に取らせていただきました。どうぞ、皆様、お腹がお空きでしょう」
「そりゃどうも……では、お写真の方を、よろしく」
「かしこまりました」
と、晴子は頭を下げた。
「できるだけ最近の、鮮明なものにして下さい」
「はい。――あ、どうぞ、テーブルにおつき下さい。買って来たもので、申しわけございませんが。コーヒーはそのポットに。どうぞご自由に召上って下さい」
「いや、お気づかいいただいて……」
晴子は、最後にダイニングへ入って来た若木の腕をそっとつかんだ。
「食べたら、二階の娘の部屋へ」
と、低い声で|囁《ささや》く。
「は?」
若木は面食らっている。
「いいから。他の人には内緒ですよ」
「はあ……分りました」
と、若木は戸惑いながら肯いた……。
晴子は居間へ入って、夫の肩にそっと手を置いた。
「あなた……」
「天罰だな」
と、宮前は呟くように言った。「散々好きなことをして、お前にも、リカにも辛い思いをさせて来た。そのつけ[#「つけ」に傍点]が回って来たんだ」
「いけないわ、そんな風にご自分を責めたりしては。今はともかく――」
「そうだ。リカさえ、無事に戻って来てくれれば、それでいい。リカが無事に戻ったら、俺は二度と、浮気はしない」
晴子は口の中で小さく、
「たぶん一か月くらいはね」
と、呟いてから、「――あなた。ずっとここにいるの?」
「ああ。電話を待ってる。少しでも希望がある間はな」
「私……少し横になってるわ、上で」
「ああ、そうしなさい。疲れただろう」
晴子は、夫のこんな言葉を、初めて聞いたのだった……。
若木は、ピザをきれいに食べてしまうと、再び後ろめたい思いに|捉《とら》えられた。
しかし――まあ、食べてしまったものはもう戻らないのである。
晴子の言葉は、もちろん憶えていた。
他の連中が、二杯目のコーヒーでホッと息をついている間に、ダイニングを出ると、階段を上って行った。――娘の部屋、と言ってたな。
ドアをノックすると、
「どうぞ」
と、夫人の声がした。
ドアを開けて、若木は戸惑った。――カーテンが引いてあり、明りも点けていないので、いやに暗いのである。
「あの……」
「入って、ドアを閉めて下さい」
と、声は、あの特大のダブルベッドの辺りから聞こえて来ている。
「はあ……。おやすみなんですか? ご気分でも?」
「どうぞ、こっちへおいでになって」
声の方向へと歩いて行き――少し目が慣れて来ると……。
「奥さん……」
若木は、呆然として、立ち尽くしていた。薄いネグリジェだけ[#「だけ」に傍点]をまとった夫人の白い影が、若木の前に立っていた。
「若木さん……」
と、柔らかな腕が、若木の肩にかかる。
香水が匂って、やがて暖い吐息が頬にかかると、若木の頭にはカーッと血が上って、膝がガクガク震え出した。
「落ちついて……」
と、夫人の声が囁く。「何も心配いりませんわ……。ベッドへ入って……」
「何を……こんなときに! とんでもないことですよ、奥さん!」
言葉だけ聞くと、拒んでいるようだが、若木はまるでぬいぐるみみたいに、おとなしくベッドへ寝かされていたのだった。
「静かに……」
と、暖い体が、上にかぶさって来た。「声を立てないで……」
――声を立てたかどうか、どっちが立てたのか、結局、若木は後になっても、何も思い出せなかった。
電話が鳴ると、晴子はすぐに取った。
「リカ?」
「ママ、どうしたの、その後?」
「万事順調よ。若木さんがね、力を貸して下さることになったの」
「へえ。じゃ、どうすりゃいいの?」
「今、どこ?」
「駅の近くの喫茶店」
「名前は?――ああ、そこなら知ってるわ。――じゃ、そこで待ってて。いいわね?」
「いいけど……」
「心配いらないわよ」
晴子は、自信たっぷりに言って、電話を切った。そして、カーテンを開けると、
「若木さん、服を着た方がいいわ、もう」
自分は、きちんと和服を着込んでいる。
「奥さん……」
「あなたにお願いがあるの。――さ、ワイシャツ。ネクタイ、しめて上げます」
「奥さん、僕はとんでもないことを――」
「いいから聞いて」
と、晴子は言った。「私の言う通りにして下されば、決して悪いことはないわ」
「何のことです?」
「いやだとおっしゃれば、ここであったことを、あなたの上司へ申し上げるだけ」
「それは――」
「困るでしょ? じゃ、聞いて。これから、外へ出て、下の居間へ電話をかけて下さい」
「何ですって?」
「誘拐犯だと名のって、五千万円の受け渡し場所と時間を指定するんです」
若木は、ただ唖然として、晴子の話を聞いている。
「――しかし、奥さん」
「いいの。私の言う通りにすれば、あなたには、いいものが手に入ります」
「いいもの?」
「花嫁と、五千万円の持参金」
若木は、悪い夢でも見ているかと疑うように、自分の腕を思い切りつねって、飛び上った……。
「ねえ、どうしたの?」
と、リカが言った。
「いや……」
若木は、情ない顔で、夜の公園の中を見回した。
「心配することないわ。うまく行くわよ」
と、「誘拐された当人」が「犯人」を励ましているという、奇妙な場面である。
まさか真っ昼間に、というわけにもいかず、五千万円の受け渡しは、夜中、この公園でということになった。といっても、晴子がそう決めたのである。
若木の内部では、かなり迷いがあったことは事実だったが、結局、晴子には逆らい切れなかった。
もちろん、分っている。
刑事として、こんなことはすべきでない。しかし……。
「何だか、変ね」
と、リカは、ベンチにかけて、若木にもたれかかっている。「つい昨日までは、全然知らない同士だったのに」
若木も、晴子から、事情はすっかり聞いていた……。
「いいですか。何も法に触れることをしてるわけじゃないの。うちのお金を、あなたと娘の結婚祝に差し上げるんですからね」
晴子の言い方は説得力があった。そして、そのしなやかな肢体は、もっと[#「もっと」に傍点]説得力を持っていた……。
「君が、あそこの娘さんだったなんてね」
ベンチに座った若木は、金の入ったボストンバッグを、膝の上にのせていた。
「ごめんね、|騙《だま》して。でも、成り行きよ、仕方なかったの。分るでしょう?」
仕方なかった、とはとても言えないと思うが、それでもこの母娘にかかると、「仕方なかった」ような気にされてしまうところが、若木の若さだろうか。
それに――否定しても仕方のないことだ。あの夫人と寝てしまったのだし、夫人とは結婚できないし、このリカという娘も、金持のわがまま娘ではあっても、決してひねくれてはいない。若木は、リカの持っている、あまり世間のことを知らない者特有の|爽《さわ》やかさにひかれてはいたのである。
「今、何時?」
と、リカは訊いた。
「十一時五十五分。――そろそろだね」
若木が、金を運ぶ役。そして、リカは誘拐犯の手を逃れて、無事に戻って来る、という筋書。
問題は、「犯人」がどう逃げたことにするか、である。公園の周囲は、当然のことながら、私服の刑事で固められていて、何かあれば一斉に公園の中へ駆け込んで来るだろう。
「この辺で最近、通り魔が出てるんだよ。知ってるかい?」
と、若木は訊いた。
「ええ。聞いてるわ。|喉《のど》を切り裂かれて死んだとかって……」
「そうなんだ。普通狙われるのは女性だろ。これは男[#「男」に傍点]が狙われている」
「犯人は?」
「今のところ、見当もつかないらしいね。――さ、そろそろ行動開始だ」
「頑張ってね」
リカが、若木にそっとキスした。
「君を手に入れるためだ。精一杯やるよ」
若木も、踏ん切りをつけた様子。「じゃ、君はどこかへ隠れてて」
「その植込みのかげに入ってるわ」
「分った。――じゃ、打ち合せ通りにね」
「ええ」
リカが、ベンチの後ろの植込みの裏側へ回り込む。若木は、バッグを手に、公園の中心にある池の方へと歩き出した。そこが「犯人」との待ち合せ場所である。
――リカは、半分、ゲームでもやっているような気分で、植込みのかげにしゃがんでいた。
静かではあるが、車のよく通る道を背にしているので、車の音はひっきりなしに聞こえる。
そして――ザッと茂みの揺らぐ音。
リカはびっくりして声を上げそうになった。
「声を出すなよ」
と、低い声でその男は――いや、男の子は言った。
「――山中君じゃないの!」
リカが結局振ってしまったボーイフレンドである。「こんな所で何してるの!」
「君にゃ、ひどい目に遭わされたからね」
と、山中は言った。
見た目は坊っちゃんタイプで、なかなか可愛いのだが、リカは付合っている内に、段々|苛《いら》つくようになり、結局、ゆうべのようなことになってしまったのである。
「山中君でしょう、私のこと誘拐した、なんて電話したのは」
「そうさ」
と、山中は面白そうに言った。「君が水戸の奴とベッドに入ってるのを知ってたからね。ちょっとびっくりさせてやったのさ」
「ずっと後を|尾《つ》けてたの? しつこい人ね」
「ああ、その後も、ずっと見てた。刑事が来て、君がえらく地味な格好で出て来たのも。――何をやってるのか、さっぱり分んなかったけど、今、そこのベンチでの君らの話を聞いて、あらかた分ったよ」
「盗み聞きだけは達者なのね」
「何とでも言うさ。君らも、警察に本当のことを知られちゃまずいんじゃないか?」
リカはぐっと詰った。
「どうしろって言うのよ」
「身代金を五千万円ってのは、僕が言い出したんだよ。そうだろ? こっちへいただかないとね」
「山中君……。どうかしてるんじゃない?」
「そうとも」
山中の顔が、近付いて来ると、リカは身震いした。いつもの顔なのに、そこには凍りつくような憎悪が感じられた。
「金なんかどうでもいい。ただ、君らがいつもびくびくしてるのを見て、楽しみたいのさ。本当のことをぶちまけられたら……。あの刑事はクビ、君の両親も離婚だな。そうだろ。君はどうなるかな。母親ともども、こんなに警察を振り回したんだ。ただじゃすまないよ」
「卑劣な人ね! 振られたからって、人のせいにばっかりしないでよ!」
リカは腹を立てて言った。
「こっちが弱味を握ってるんだ。怒らせない方がため[#「ため」に傍点]だよ」
山中は、いきなりリカを押し倒した。
「何するの! やめてよ」
リカは必死で押し戻そうとした。
「大声出すかい? やってみろよ。君も、家族も、とんでもない恥をさらすことになるぜ」
山中は、まともではなかった。
リカは、山中の言葉よりも、この暗がりの中でもぎらついて見える目に、ゾッとしたのだった。
これが、いつもおとなしい、あの山中だろうか?
山中の左手が、リカの口をふさぐ。リカは、山中の右手が自分の太腿をまさぐるのを感じて、目をギュッとつぶった。
そのとき――また、ザッと茂みが揺れる音がした。
悲鳴が聞こえたとき、若木刑事は、公園の池の前で、腕時計を見ていた。
いささか自信は揺らいでいたものの、今さら放り出すわけにはいかない。思い切って、やっつけるしかない。
若木は、「犯人」の指定通り、バッグを公園のくず入れの中へ落として、歩き出した。
そのとき、
「キャーッ!」
鋭い悲鳴が、公園の中を突き抜けた。
その方向が、リカのいる方だと知ると、若木は駆け出した。何ごとなんだ!
「リカ!」
と、叫びつつ、あのベンチの方へ駆けて来ると、植込みのかげから、リカが転るように出て来た。
「助けて……」
若木は駆け寄って、息をのんだ。リカが血まみれだ!
「どうしたんだ! どこをやられた?」
「違うの……。私じゃないの……」
リカは、若木にすがりついた。
「――おい、何だ!」
村中刑事が駆けて来る。
「あ――。これが娘さんです」
「無事か? 犯人は?」
「その植込みの中……」
と言って、リカは両手で顔を覆った。
村中が植込みのかげへ飛び込んで、
「何だこりゃ!」
と、叫んだ。
「リカ!――リカ!」
宮前と、妻の晴子が駆けて来る。他の刑事たちも。
若木は、リカを両親へ任せて、植込みのかげを覗いた。
若い男が、仰向けに倒れていた。――喉がパックリと傷口を開いて、血が溢れ出ている。
「例の通り魔かもしれん!」
と、村中はやっと我に返った。「急いで手配するんだ!」
「はい!」
若木は駆け出した。
リカが、父親の胸に抱かれて、やっと落ちつきを取り戻し始めていた。
「ママ……」
「心配しないで。――あなた、車を公園の前に」
「ああ、すぐ回す」
父親が走って行くのを見て、リカは息を吐き出した。
「怖かった……」
「もう大丈夫よ。でも――どうなってるの?」
晴子は、リカの話を聞いて、|肯《うなず》くと、「ともかく、これで、誘拐事件の方は影が薄くなるわね。もう安心よ」
と、娘の肩を抱いた。
「ママ……。この次は――」
「何?」
「ちゃんとベッドから落ちてないか、見てから一一〇番してね」
晴子は、肩をすくめて、
「それより、あの人をけっとばさないようにするのね」
「大丈夫よ……。ママ、あのお金は?」
「後で取って来るのも面倒だったから、若木さんが持っていく前に、もう別にしといたの。あの中は古新聞」
「ママ」
リカは呆れて言った。「元は泥棒か何かだったんじゃないの?」
母と娘は、父親がドアを開けて待ちうける車の方へと、足を早めたのだった……。
結果として――少なくとも世間的には、面目を|潰《つぶ》したのは警察だけだった。
誘拐犯は何者かに殺された。その犯人は取り逃し、かつ、バッグの中身の五千万円は、古新聞とすり換えられていたのだ。
警視庁では、異例の記者会見が開かれ、警視総監が遣憾の意を表明した。
若木は辞表を出し、村中などは思い止まるように言ったが、結局、辞表は受理された。
その半年後、〈宮前〉という名前に目をひかれて、経済新聞を覗き込んだ村中は(電車の中で、隣の男が読んでいたのだ)、宮前家の一人娘、リカが婚約、挙式は大学を卒業次第という記事を読んだ。
そうか。――良かった。
村中は、ある感慨に|耽《ふけ》っていた。あのとき無事に戻れなければ、このおめでたい話もなかったわけだ。
良かった、良かった……。
村中は、一人、肯いていて、その記事の先を読まなかった。それで良かったのだ。
宮前リカの結婚相手として、かつての部下の名を見たら、やはりショックを受けただろう。
かくて……まあ、誘拐犯にされてしまった挙句、殺されてしまった山中には、少々気の毒だったにしても、ありもしなかった誘拐事件が、一組の男女を結びつけたのである。
リカと若木健一のために、晴子は特別に大きなダブルベッドを製作するよう注文した。そして、壁へぴったりつけて置くように、娘にはよく言い聞かせたのだった……。
第三話 輝 く
「では、これでいいね」
と、宮前雄治は細長い円形になったテーブルを見渡した。「――何か他に議題にしたいことはあるか」
重役会も、このところ、少し雰囲気が変って来ている。若い新入社員が、末席に加わっているからだ。
その「若木」という新人が、宮前の娘の婚約者だということは、重役の誰もが知っているので、別にギクシャクしたりすることはない。それに、若木は素直に分らないことを|訊《き》いたりするので、なかなかの好青年、と好感を持たれていた。
「若木君、何かあるか?」
宮前も、この青年を気に入っている。今どき珍しいくらい、骨|惜《お》しみせずに働く。
娘の結婚相手という点では、多少、「この野郎」と思わないでもないが、それはまあ、あまり表に出してもみっともない。それに、宮前の方だって……。
リカが誘拐されていたときの「誓い」も何のその。結局、一週間後には女の所へ行っていた。娘の恋人にやきもちをやくには、宮前は現役[#「現役」に傍点]の方で忙しいのである。
「いえ、何もありません」
と、若木が少し申し訳なさそうに言った。「よく分らないことが多すぎて」
「正直でいい」
と、宮前は言った。「今から全部分られていたら、俺は君にこの席をのっとられる心配をしなきゃならんよ」
どっとみんなが笑った。そして――宮前はそのとき、一人だけ[#「一人だけ」に傍点]笑わない男がいることに気付いたのだ。
「――永野君。どうかしたかね?」
宮前のその言葉も、ろくに耳に入っていないらしく、営業部長の永野隆士は、ぼんやりと手もとの資料を見つめていた。
隣の専務につつかれて、永野はハッと我に返った様子だった。
「失礼しました。――あの――」
「具合でも悪いのか」
と、宮前は言った。
「いえ……。昨日、ニューヨークから戻りましたので、少し時差ぼけで」
と、永野は言った。「申し訳ありません」
「それならいい。じゃ、これで重役会は終りにする」
みんながゾロゾロと席を立つ。宮前は、永野が、ゆっくりとファイルを閉じて、最後に席を立つのを見て、首をかしげた。
いつもなら、真先に会議室を飛び出して、宮前が社長室へ入るころには、電話の二、三本もかけている、という男だ。
忙しいことがエネルギーになっている。永野はそんなタイプの男なのである。
営業部長に、これほど向いた男はいないだろう。そして事実、永野は立派にその職務を果している。
宮前は、気にしないことにした。ドアを開けて待っている若木の肩をポンと叩いて、
「どうだ、リカとはうまく行ってるか」
と、声をかけた。
「はあ。明日、式場の下見に行って来ます」
「そうか。――ま、式の前に孫の顔を見せんようにしてくれよ」
若木が赤くなった。宮前は笑って、廊下を歩いて行った。
永野隆士は、最後に会議室を出た。
眉が深くしわを刻み、足どりは重かった。
営業部は、戦場のようなものである。――永野は、いつもなら、電話やファックスやテレックスの音をマーチのように聞いて、心が躍るのだったが、今日ばかりは、そういうわけにいかなかった……。
「部長! S商事の件の決済、お願いします!」
「見積りを机の上に」
「K不動産の社長が至急連絡を、と」
席へ着くまでに、三つも四つも声が飛んで来る。
分った、分った。今やるさ。俺はどんなときでもうまくやってのける。そうだろう?
これまでだって、何度も危い|淵《ふち》に立たされたが、その都度切り抜けて来た。今度だって大丈夫だ。
永野は、チラッと時計を見た。――三時だ。もう出なくては。
しかし、永野は机の上に積まれた書類に手を伸した。仕方ない。仕事なのだ。
あいつは、待っていてくれるだろう。そうだとも。
永野は書類を見て、赤いサインペンで注意を書き込みながら、秘書へ命じてK不動産へ電話させた。
アッという間に、三、四十分は過ぎて行って、永野は、ほとんどそれ[#「それ」に傍点]を忘れそうになった。しかし――忘れるわけにはいかない。
胃が、重く痛んだ。
「君」
と、秘書に声をかける。「ちょっと出て来る。三十分ほどで戻る」
「あの――」
女性秘書は、ちょっと面食らった様子で、「もうじき、安井様がみえますが」
そうだった! 永野は舌打ちした。
すっかり忘れていたのだ。
「何時の約束だった?」
「四時です」
「そうか。――分った。待とう」
永野は立ちかけた椅子に、再び腰をおろした。
怖いんだな、お前は。――永野の中の「声」が|囁《ささや》く。怖いんだろう。
違う! 俺は怖がってなんかいない。
いや――やはり怖いのか? 行かない言いわけを捜している。四時に約束があることをちゃんと知っていて、わざとぐずぐず席を立たずにいたのだ。
たぶん……俺は怖がっているのだ。
永野の目は宙を見つめて、動かなかった。
病院へ入ったのは、もう五時を回っていた。
「――岡崎先生と約束が」
と、受付に声をかけると、
「どうぞ。お部屋はお分りですね」
「ええ」
階段を上って行きながら、永野は、遅刻して教室へ入って行く学生のような気分だった。
薬の匂い。忙しく行き交う看護婦。
永野は、おずおずとドアを開けた。
誰もいない。――机と椅子はあるが、空っぽだった。
もう帰ったのかな。ということは、大したことはなかった、ってことだろう。
永野は、少しホッと息をついた。そして――部屋の隅に、カーテンで仕切られた場所があり、ベッドが少し|覗《のぞ》いていて、女の足が見えているのに気付いた。
そっと近付いて、カーテンの端から覗いてみる。
彼女が、スーツ姿で、横たわっていた。顔が青白い。目を閉じているが、眠っているようには見えなかった。
しかし……どうしてこんな所に?
永野には、彼女の胸が全く上下していないように見えた。――まさか!
すると――千夏は目を開いて、永野を見た。
「何だ」
と、永野は言った。「眠ってるのかと思った」
「遅刻よ」
と、千夏は言った。「今、何時だと思ってるの?」
「すまん。急な仕事が入って、どうしても出られなかったんだ」
「私に謝っても仕方ないわ」
と言って、千夏はゆっくり体を起こした。
「おい。――大丈夫なのか」
千夏が目を閉じて、ちょっと|辛《つら》そうに眉を寄せるのを見て、永野が言った。
「大丈夫。待ちくたびれて、少し気分が悪くなっただけよ」
皮肉めいた言い方だが、表情は怒っていなかった。
「やせたな」
と、永野は、千夏の頬に、そっと人さし指を当てた。「もっと食べろよ」
「食べても食べても、追いつかないの」
と、千夏は言った。「私を[#「私を」に傍点]食べてる悪いやつがいるから」
永野はキュッと胃をしめ上げられるような気がした。
「今日はもう暇なんだ。どこかへ行くか」
「先に先生とお話してよ」
「ああ、もちろん分ってる。そのために来たんだ」
ドアが開いた。
医師の岡崎が、入って来る。永野を見ると、
「お、来たか」
と、言った。「賭けをしてたんだ。お前が来るか来ないか。千夏さんとな」
「どっちに賭けたんだ?」
「それは――内緒だ」
岡崎は、千夏を見て、ニヤッと笑った。「な?」
「ええ。――この人、ショックに弱いから」
久米千夏はベッドから降りた。「すみません、大分楽になりました」
「急がなくていいよ」
岡崎は、古びた木の椅子に疲れたように座ると、「そこへかけろよ」
と、永野に言った。
「うむ……」
岡崎は、永野と高校生のころからの友人である。もっとも、岡崎は成績優秀で、この大学の医学部へ一発で入っていた。永野の方は、成績より、調子の良さが売り物で、そのころから、営業向きだったのかもしれない。
「彼女も、いていいのか」
と、永野が|訊《き》くと、
「私も聞くって、約束。――そうでしょ、先生?」
「まあ、隠しても仕方あるまい」
岡崎は、カルテを机の上に広げた。「精密検査の結果だが……」
久米千夏は、永野のそばへ寄って立った。
永野は、肩に置かれた千夏の手の感触に、気をとられていた。
四十六歳の永野と、二十四歳の千夏。――もちろん、二人は夫婦ではない。永野には、一つ年下の、由利香という妻があり、子供も二人いる。
由利香は、永野の前の部長の娘で、それが営業部長へのステップを一つ二つ省略させたことは事実だが、その点は別にしても、美人で、いい妻だった。
久米千夏との間は、ある意味で、合意の上の、「大人の関係」だった。あるパーティで知り合ってから、二人の仲は、もう一年余りになる。
千夏も確かに美人だ。妻の由利香が、いかにも古風に、きちっと家を守る義務感に裏打ちされた美しさだとすれば、千夏は、何ものにも|捉《とら》われない、自由な鳥のそれである。
もちろん、千夏には「若さ」がある。それは、妻にないものだった。
超多忙で、食事の時間さえ、充分にとれないほどの永野が、どうやって千夏との関係を続けて来たのか。――それは当人ですら、よく分らなかった。
しかし、今、何もかもがくつがえろうとしている。永野は、岡崎の話を聞きながら、世の中には予定通りに動かないこともある、と初めて知ったような気がした……。
「――こういうことだ」
岡崎は言った。「千夏さんは若い。それだけに、病気の進行も早かった。まあ、よほどいいタイミングで検査を受けていればともかく、不運というしかない」
永野は、肩をつかむ千夏の手に、次第に力が加わるのを感じていた。
しばらく沈黙があった。――誰が口を開くべきなのだろう?
永野は、こんな場面に出あったことがない。
「――手術はむだですね」
と、千夏が言った。
しっかりした声だ。永野はホッとした。
「してもいいが、むだ、と言わざるを得ないね。何か月ものばすことはできない」
「じゃ、痛い思いするのは、いやだわ」
と、千夏は言った。
「しかし、入院の必要はあると思う」
と、岡崎は言った。
「どうしてですか。同じことなんでしょ」
「痛みが来ると思う。遠からずね。――かなりひどいと覚悟しておいた方がいい」
肩をつかむ手が震えた。
「――入院して、何か効果が?」
と、永野はやっと口を開いた。
「今は、麻酔薬を使って、できるだけ痛みを和らげる方法があるんだ。これだと、食事もとれるし、楽なときは好きなことができる。――そのためには、入院して、麻酔薬の量を、厳密にチェックする必要があるんだ」
永野は、肩に置かれた千夏の手に、自分の手を重ねた。
「いつ、入院すれば?」
と、千夏が訊いた。
「早い方がいい。色々検査もあるからね。麻酔薬のきき方も調べなくてはいけない」
「分りました」
「ベッドはえらく混んでるが、何とか割り込ませるよ」
「頼む」
と、永野は言った。
話は終った。――いや、千夏と二人で、話さなければならないことはあったが、岡崎医師との話はすんだのである。
「それじゃ」
と、岡崎が重苦しい口調で言った。「ベッドがとれ次第、連絡する」
――廊下へ出て、永野と千夏は、無言で歩き出した。
何か言ってやらなくては、と思っても、言葉が出て来なかった。こんなときのセリフは、営業のマニュアルにはない。
「病院に来ると、病人って沢山いるんだなあって思うわね」
と、千夏が言った。「外を歩き回っている間は、そんなこと、考えもしないけど」
「ああ……」
「まさか――自分が入院することになるなんて思わなかった」
永野は、千夏の肩に手を回した。
「大丈夫よ。私。――何とか――受け止めてみせる」
千夏の声には、力がなかった。
「これから――」
と、言いかけたとき、永野のポケットでピーッと|甲《かん》|高《だか》い音がした。「ポケットベルだ! うるさいな」
と、ボタンを押して止める。
玄関近くへ来ていた。千夏は足を止めた。
「電話して来たら?」
と、言った。
「ああ……。すぐ戻るから」
永野は、待合室の隅の電話へと走って、会社へ連絡した。
「社長が捜しておいでです」
と、女性秘書が言った。「どうしますか」
永野は、少し迷った。用件は見当がついていたし、今日でなければ、というわけではないはずだ。
気分が悪くて、帰る、とでも言えばすむことだった。千夏に、ついていてやらなくては。――それが当然だ。
「分った。三十分ほどで戻る」
永野は、電話を切って、千夏の所へ戻って行った。
「――すまないが、|一《いっ》|旦《たん》社へ戻らないと。社長のお呼びでね。せっかちだからな、うちの社長は」
「そう」
「どこかで待っててくれないか。そう時間はとらないと思うんだ」
千夏は首を振って、
「いいの。私、一人で帰る」
「しかし……」
「今は一人でいたい。本当よ。強がりじゃないの」
と、千夏はくり返した。「行って。一人で帰れるわ」
「大丈夫か」
「今すぐ死ぬわけじゃないわ」
千夏は青ざめた笑いを見せた。
――千夏をタクシーに乗せ、先に出すと、またすぐに空車が来た。
永野は会社の場所を説明すると、シートに身を委ねて、息を吐き出した。
前の、千夏の乗ったタクシーと、赤信号の手前で並んでしまった。千夏は、永野に気付いていない。目は、じっと何かを見ているようで、何も見てはいなかった。
赤信号は、永遠に変らないかと思われたが、やがて、やっと青になり、二台のタクシーは左右へ分れる。
永野は、車窓の外の風景を、ぼんやりと眺めていた。
会社に近付くにつれ、気持が落ちついて来る。仕事があるということは、すばらしいことだった。
そうだ。いくら心配してみたところで、千夏の病気が良くなるわけじゃない。今は仕事のことだけを考えよう。俺はプロなんだから……。
永野は、自分でも不思議なほど、自然に千夏のことを、頭から消しているのだった……。
「ええ、本当にね。いいお天気ですものね。――本当、楽しみですわ。――ええ、それじゃ、東京駅で、また。――ご主人様によろしく」
永野由利香は、ていねいに頭を下げて、電話を切った。台所へ戻ろうとして、気が付くと、娘の香子がパジャマ姿で立っている。
「ああ、びっくりした」
と、由利香は言った。「今まで寝てたの?」
「うん。休校日よ」
十七歳の香子は、一番夜ふかしをする年ごろである。
「それは分ってるけど……もう一時よ」
と、壁の時計に目をやる。
「あれ、進んでる。今、五分前くらいだよ」
と、香子は、|欠伸《あくび》しながら言った。「あの時計、パパが会社からもらったやつでしょ」
「そうよ」
「じゃ、進むわけだ。せっかちだもんね」
「何言ってるの」
と、由利香は笑った。「何か適当に食べてね。――ママ、出かけるから」
「はいはい」
娘の方も、もう慣れている。「帰りは?」
「明日。温泉よ」
「ふーん。カルチャーセンターのグループ?」
「そうじゃなくて、父母会の親しい方たち」
由利香は、もう出かける仕度を終えていた。
「ごゆっくり」
香子は、ソファにひっくり返って、TVのリモコンを捜している。
「そんな格好で。風邪ひくわよ。――ええと、チケットは持ったし、カードもあるし……」
「パパ」
「え?」
由利香は、夫が本当に[#「本当に」に傍点]居間のドアの所に立っているのを見て、びっくりした。
「あなた……」
「急な出張だ」
と、永野隆士は言った。「お前――出かけるのか」
「そう言ったでしょ。温泉に。――あなた、どこへ?」
「大阪だ。一日で帰る。仕度は自分でするからいい。ただ……」
「何?」
永野は、妻と視線を合せないようにして、ソファに座った。「香子。二階へ行ってろ」
「どうして?」
「二人で話があるんだ。――二階へ行ってなさい」
妙な空気を察したらしい香子は、肩をすくめると、居間を出て行こうとして、
「昨日の肉マン、あったっけ」
と、由利香へ訊いた。
――香子が行くと、由利香は、
「そろそろ出なくちゃいけないのよ。何なの?」
と、浅く腰をおろす。
「岡崎を知ってるな」
「岡崎さん? あの病院のでしょ」
「うん。――今日、入院させなきゃならん人間がいる。向うでは待ってる。俺がついて行くはずだったが、急な出張だ。他の人間には任せられないんだ」
「入院?」
「お前……悪いが、代りについて行ってくれないか。手続きの問題もあるし、一人でやるわけにはいかないんだ」
由利香は、面食らっていた。
「あなた……。私、旅行なのよ。みなさんと待ち合せて、もう出なきゃ――」
由利香は、夫が自分と目が合わないようにしていることに、気付いた。
改めて、真直ぐに夫を見ると、
「誰なの、入院する人って」
と、|訊《き》いた――。
そのアパートを見付けるのに、由利香は少し手間どった。
ややこしい細い道の奥にあって、夫の説明だけでは、とても見付けられなかった。
通りかかった女性に、アパートの名前を言うと、偶然その女性の住んでいる家の隣だったのである。
やっと、そのドアの前に立っても、由利香はすぐにチャイムを鳴らすことができなかった。――ドアは、塗りのはげかけた、古いもので、手入れがいいとはとても言えなかった。アパートそのものが、管理の良くない印象である。
表札は、〈久米千夏〉と、手書きの札がかけてあった。〈千夏〉か。――由利香は、〈久米〉という姓しか聞いていない。
しかし、ともかくここであることは間違いないだろう。
由利香は、深呼吸をして、自分へ言い聞かせた。事務的に。あくまで冷静に。
そう。相手は若い女なのだ。夫の「恋人」といっても、ほんの遊び相手だったのだ。
妻である自分が、取り乱すようなことがあってはならない……。
由利香はチャイムを鳴らした、ポーン、ポーンと、室内に音が鳴り渡って、しばらく待ってみる。
しかし、返事もなく、人の出て来る様子もない。もう一度チャイムを鳴らしてみる。
――いないのか。
約束の時間――もちろん夫が[#「夫が」に傍点]約束したわけだが――より、ずいぶん遅れているので、一人で病院へ行ったのかもしれない。それならありがたいようなものだが……。
由利香は、もう一回チャイムを鳴らして、誰も答えなければ、帰ろうと思った。いつまでも、こんな所で時間を潰してはいられない。
今夜の内に温泉へ着くように出かけなくてはいけないのだ。せっかくの旅行だっていうのに……。
「あの――」
と、声がした。
振り向くと、スーパーの袋をかかえた若い女が、立っている。ジーンズ姿で、サンダルをはいていた。
「何かご用でしょうか」
この女か。――その「若さ」には、由利香もいささかたじろいだが、すぐに背筋を伸して、
「久米さんというのは、あなた?」
と、言った。
「久米ですが……」
「永野隆士の妻です」
女の顔から、サッと血の気がひいた。
「まあ……。どうも……。すみません。――あの、今、開けます」
ドアの鍵を開けると、久米千夏は先に入って、買って来た物を入り口のわきへ置き、
「どうぞ」
と、ドアを手で押えて、言った……。
――話は、長くかからなかった。
「夫に言われて、代りに来たんですよ。来たかったわけじゃないけど」
と、由利香は言った。「岡崎さんに失礼ですからね、あなた一人でやったら。私も、あの先生はよく存じあげてますから。――私が車を運転して、病院まで送ります。入院の手続きをして、帰りますから。それだけです」
久米千夏は、畳に正座して、話を聞いていた。いや、聞いているのかどうか、由利香には分らなかった。――その女の視線は、じっと、色あせた畳の表面に固定されていたからだ。
「分りましたね?」
と、由利香は念を押した。
すると――久米千夏は、ゆっくり顔を上げて、それでも目は由利香を避けたまま、
「じゃあ……あの人は、来ないんですね」
と、言った。
「急な出張が入ったの。そう話したでしょう」
「はい」
千夏は、|肯《うなず》いた。――何かがふっ切れたように、真直ぐ由利香を見ると、
「ご面倒をかけて、すみません」
と、頭を下げた。
「今さら謝ってもらってもね……。ともかく、私も今日から旅行へ出る予定だったの。一人で遅れて行く、と連絡するのが大変だったんですよ。早く、出たいの。もう、仕度はできてるんですか」
「はい。――ちょっと足らない物を、急いで近くへ買いに行ってたんです」
千夏は早口に言って腰を上げた。「入院って、色んなものがいりますから……。本当に……」
「すぐ出られるの?」
「はい。あの――五分ほど。この格好では何ですから、着がえて行きたいと思います」
「そうですね。岡崎さんの手前もありますから、きちんとしてね」
由利香は、立ち上った。「車は、その細い道を出た所に停めてありますからね。待ってますから、急いでね」
「はい。あの――お茶もさし上げなくて、すみません」
出されたって飲むもんですか。そう言いたいのを、何とかこらえて、由利香は久米千夏の部屋を出た。
――あの女、もし夫が迎えに来ていたら、夫の目の前で着がえるつもりだったんだわ、と思った。それぐらい平気でしょ。愛人をやってられるような女なら。
足早に、まるでそこの空気に染まるのを恐れてでもいるかのように、由利香は、そのアパートを離れたのだった。
自分の車に戻り、運転席に腰をおろすと、由利香は、息をついた。
夫の愛人に会う。――これは、由利香にとっても(もちろん向う[#「向う」に傍点]にしてみれば、恋人の妻に会ったわけだが)、大変な出来事である。
初めての経験だった。――そして、予想もしていないことだった。
そうか? 果してそうだったか。
フロントガラスの向うに、三輪車で遊んでいる、小さな女の子がいた。母親がそばで、他の奥さんとおしゃべりをしている。その母親は、お腹が大きくて、たぶん七、八か月だろう、と由利香は思った。
そう。――憶えている。
下の子、香子を妊娠しているとき、永野が香水の匂いをさせて、夜遅く帰って来た。妊娠中は、匂いに敏感である。
問いつめる由利香に、夫は、バーへ寄っただけだ。客の接待だと言ったが、由利香には分った。その嘘が。――理屈でなく、直感的に分ったのだ。
由利香は泣いた。一晩、泣き続けた……。
「お待たせして」
と、声がした。
ハッと我に返り、由利香は、トランクを開けるボタンを押した。
車が動き出し、助手席に座った久米千夏は、シートベルトをした。
地味なスーツを着ていた。短い時間に、髪もきちんと整え、化粧もして来ていた。
少し疲れて見えるのは、病気のせいか、それとも、由利香の先入観があるせいか。
――正直なところ、少し意外だった。
夫とは、やり合う時間もなく、この気の進まない仕事を引き受けたのだが、細かいことは何も聞いていなかった。
しかし、あのアパートを見る限りでは、夫が金を出していたとは思えない。部屋の中は、みごとなほど片付いていた。いつもああなのか。それとも、入院するというので、片付けたのか。
|几帳面《きちょうめん》な性格なのだろう。――それは、見れば分るものだ。
赤信号で車が停ると、久米千夏が、何か言いたそうに口を開きかけ、ためらった。
「――なあに?」
と、由利香が言った。「忘れもの?」
「いえ……」
「何かあったら、はっきり言って。今日は夫の代理で来てるだけですからね」
「もし……できたら、寄りたい所があるんですけど」
と、小さな声で言った。
「どこへ? 時間がかかるの?」
「多少は……。すみません、ご主人が――来て下さると思っていたので……。午後は時間があるということでしたから、そのつもりで……」
「あんまり時間がかかると困るわね。――どこへ寄るの?」
「あの――ここを左へ曲って。三十分くらいの所です」
はねつけても良かった。何も、そこまで、この女のためにしてやる必要もない。夫に頼まれたのは、この女を病院へ連れて行くことだけだ。
しかし、一方で、由利香は少し興味を持っていた。この女がどこへ寄ろうというのか、見てやりたかった。
おそらく、いくらかの安心感――この女はもう[#「もう」に傍点]夫の愛人ではなくなる、という安心感が由利香を寛大にもしていたのかもしれなかった。
「道を説明してね」
左へハンドルを切って、由利香は言った。
「すみません」
と、千夏は頭を下げた。
車は狭い道をくねくねと|辿《たど》って、思いがけない場所で停った。
「ここ?」
「はい。すぐ戻りますから」
千夏が足早に入って行ったのは、図書館だった。――区立図書館。
駐車スペースへ車を入れると、由利香は車を出て、図書館の中へ入ってみた。
小さなロビーがあって、掲示板には、やたら沢山の紙が|貼《は》りつけてある。
由利香は、本好きな子供で、小さいころはよく近くの図書館へ行って、本を借りて来たものだ。もちろん、こんなに近代的ではなく、カラフルでもなかった。
「――何とか考えましょう」
と、穏やかな女性の声がした。
「すみません、勝手言って」
久米千夏だ。――白髪の、上品な婦人と二人で、奥から出て来る。
「でも、ご病気じゃ仕方ないわ。早く治して、また来て下さいね」
「ありがとうございます。やりかけのテープですけど……」
「あと少しでしょ。せっかくやっていただいてるんですもの。退院されて、来られるまで取っときますよ」
と、その婦人は言った。
「でも……」
と、千夏が言いかけて、ためらう。「できたら、他の方に」
「ほとんど終ってるのに、もったいないわ。入院は、長くなりそうなんですか」
千夏は、|肯《うなず》いて、
「たぶん」
と、言った。「――もううかがえないかもしれません」
白髪の婦人が、両手をしっかりと握り合せた。――千夏の言いたいことを、察したようだ。
「分りました。でも、とっておきますよ、あなたのやりかけのテープは」
と、肯いて言った。「来られるかもしれないわ。そうでしょう」
千夏は、ちょっと目を伏せて、
「そうですね。――色々、お世話になって」
と、頭を下げると、「じゃ、車、待ってもらってるので」
あわただしく、受付の女性にも挨拶をして、出て行く。
由利香には、全く気付かなかった。
外へ出ると、千夏は車のそばに立っていた。
「用事、すんだの?」
「あ、どうもすみませんでした」
と、千夏は言った。
少し目が潤んでいるが、微笑を浮かべていた。
「わがまま言って」
「乗って」
由利香は、座席につくと、「――図書館で働いてたの?」
と、|訊《き》いた。
「いえ。テープを吹き込んでたんです。盲人用の、本を朗読したテープです。ボランティアで。大学生のころから、やらせていただいてて……」
千夏は、そう言って、ちょっと笑った。
「ファンレターが来たことがありますわ、声を聞いて好きになったって。色んなことがありますね」
確かに、千夏の声は涼しげで、|明《めい》|晰《せき》である。よく通る声だ。
「じゃ……。お待たせして、すみませんでした」
千夏がシートベルトをする。由利香は、エンジンをかけ、道へ出ようとして、左右へ目をやった。車は来ない。いつでも出られた。
しかし、アクセルの上の足は動かなかった。
エンジンを切る由利香を、千夏は不思議そうに見ていた。
「――やり残したテープがあるんでしょ」
と、由利香は言った。「どれくらいかかるの?」
「あの――」
「すぐ終るの?」
「たぶん――一時間はかからないと思います」
「じゃ、どこかで待ってるから、すませてらっしゃい」
由利香は、図書館の方へ目をやって、「中に座る所ぐらいあるでしょ」
と、言った。
「どうぞ」
思いがけなく、お茶が出て来て、由利香はびっくりした。
さっき、千夏と話していた、白髪の婦人が出してくれたのである。
「どうも……」
古びたソファに腰をおろして、二十分ほどになる。
「久米さんについて来られた方ですね」
と、その婦人は言った。
「はあ」
「お待たせして、どうも。久米さんが、喜んでました」
「そうですか」
まさか、由利香と千夏の間柄がどうなのか、知っているわけではあるまい。
「――久米さんはずいぶん熱心に、力を貸して下さって」
と、その婦人は、向い合ったソファに腰をかけた。「とても評判がいいんです、あの人の吹き込んだテープは」
「そうですか」
とでも言うしかない。
「なかなか難しいものなんですの。棒読みでもだめ、ドラマチックすぎてもだめです。小説のようなものだと、本当に、慣れた人でないと……。久米さんのような若いボランティアは、少ないんです」
「そうでしょうね」
「あの――病気は重いんでしょうか」
由利香は、首を振って、
「私はただ、頼まれただけで、詳しいことは分りませんの」
と、言った。
「そうですか。――すみません、妙なことをうかがって」
「いいえ」
これ以上|訊《き》いてもむだ、と思ったのか、白髪の婦人は、軽く会釈して、席を立って行った。
――由利香は、いささか自分に腹を立てていた。
本当に、お人好しにもほどがある! 夫の愛人に、こんなに気をつかってやってどうするんだろう。
しかし――待っている、と言った以上は、仕方ない。退屈した由利香は、出してもらった薄いお茶を飲んでしまうと、立ち上って書棚を眺めて行った。
そこは雑誌のコーナーで、目につくものをいくつか手に取ってみたが、大して面白くもなかった。
それにしても……。あの久米千夏が、由利香の想像していた「愛人」のイメージから、かけ離れていたことは、否定できない。もちろん、見た目だけでは分らないが、至って地味な、堅実な生活をしていたように見える。
どんなきっかけで、夫と関係ができたのか、由利香には想像もつかなかった。
まあ、それを知ったところで、仕方のない話だが。――あの女とのことでは、夫ともゆっくり話していない。病気だという点、同情しないわけではないが、入院の費用、治療の費用、すべてをこっちで負担するとなると、少々の金額ではすまないだろう。
久米千夏にだって、両親はあるのだろうが、病気だということを、知らせていないのだろうか?――入院中の世話はどうするのだろう。
至って現実的な心配が、由利香の頭には、まず浮んだ。
それに……。由利香は、久米千夏が入って行った廊下の奥の方へ、チラッと目をやった。
彼女のガンは進行が早くて、あとせいぜい三か月ということだ。――考えるのはいやだが、もし葬式まで永野が出すことになったら……。
由利香は、さすがに、そんなことを考えた自分に後ろめたいものを感じて、頭を振った。
入院して、回復することだって――。いや、そうなればなったで、由利香としては別の心配も出て来るわけだが。
その廊下の方へと、由利香は歩いて行った。廊下の手前で、靴を脱いで、スリッパにはきかえるようになっている。
〈この先は録音室です。大きな音や声を出さないようにお願いします〉
という貼り紙があった。
細い廊下を歩いて行くと、片側が細かく仕切られた部屋になっている。――使っていない部屋はドアが開いているので、由利香は中を|覗《のぞ》いてみた。
ドア自体が防音用で、分厚く、重い。がっしりと閉められるように、力を入れてコックを押す形になっている。
中は狭いが、それでも三畳間くらいの広さはあるのだろうか。機械が置いてあるので、狭く感じられるのかもしれない。
大きなテープレコーダー。今どきほとんど見かけなくなった、オープンリールという形式である。
机と、椅子一脚。スタンドに、大きな辞典類が何冊か。そして、ずいぶん使い古した感じのマイクが、スタンドにセットされている。
こういう録音室が、五つ、六つ並んでいて、今は三つ、〈使用中〉の札がかけてある。
ドアには小さな窓がついていて、中を覗くことができた。スリッパだから大丈夫なのだろうが、それでもつい忍び足になる。
一つの窓から覗いてみると、もう六十を過ぎていると思える女性が、マイクに向って吹き込んでいる最中だった。開いた本は、何だか難しそうな、分厚い学術書のようなものらしい。
正面で、あのオープンリールのレコーダーがくるくると回っている。あれに吹き込んで、たぶんカセットへコピーするのだろう。
今は、点字の本より、テープの利用が多いと、いつか新聞で読んだことがあった。
二つ目の部屋では、もう少し若い、五十代らしい主婦が、録音の最中だった。どうやらこれは小説らしい。
すると、久米千夏は一番奥の部屋を使っているのか。――少しためらったが、やはり覗いてみたいという気持には勝てなかった。
窓の、少し汚れて白っぽくなったガラス越しに、千夏の横顔が見えた。
テープが回っている。テープの残りは、少なくなっていた。――千夏自身の人生のように。
明るい光に照らし出された千夏の顔は、|活《い》き活きとしていた。もちろん、声は一切聞こえて来ないが、その口が豊かに表情を浮かべて、動いている。
もちろん、由利香の視線になど、気付くはずもなく、ひたすら、千夏の目は文字を追っている。
それはたぶん――子供のための読みものだろう。開いた右ページの片側に、カラーの絵が見えたからだ。
熱中しているせいか、それともライトの熱のせいか、青白い千夏の頬に、赤みがさして、そこには、さっきまでの彼女には見られなかった、「生命」の輝きとでも言うものが、感じられた……。
見ていて、何が分るわけでも、面白いわけでもない。もう戻ろう。
そう思いつつ、由利香の足は、そのドアの前から動かなかった。
じっと見ていると、不思議な気持になって来る。――それは、まるで、由利香の方がどこかに「閉じこめられて」いて、ガラスの向うの千夏が、「外の」世界にいるかのような……。そんな気分だった。
千夏は、あまりにも表情豊かで、生きていた。本の中の人生を、精一杯に生きているのだ、と由利香は思った。
しかし、その喜びは、由利香の耳には届かない。二人を、到底壊すことのできない壁が、|遮《さえぎ》っている……。
ページをめくり、目は絶えず文字を追う。一心に、無心に、本の中へ入りこんでいる千夏は、おそらく自分の病気のことも、消えかかっている生命の灯のことも、忘れているのだ。
不意に、由利香は涙で視界が曇って、驚いた。――その娘は、由利香の手の届かない所にいた。
勝ち負けではなく、由利香は千夏を許す気持になった。――自分がこんなにも輝いたことはあるだろうか? これほど必死で生きたことがあるか。
もし、夫が、この千夏の「輝き」にひかれたのだとすれば、それを責めることは、由利香にはできなかった。
由利香は静かに、足音をたてないように、その場を離れた。
「いいんですか、お時間?」
と、千夏が言った。「ご旅行なんでしょう?」
「私が入りたかったんだから、いいのよ」
と、由利香は言った。「お腹が空いちゃったの。それだけよ」
「すみません、お待たせしちゃって」
「メニューは大して沢山ないけどね、お茶漬がおいしいの」
「いいですね」
和風のインテリアの、このお茶漬屋は、以前、由利香がよく来た店である。
図書館を出て、ふと、この店が近いことを思い出して、寄る気になったのである。
「――岡崎先生には、伝言入れといたから」
と、注文してから、由利香は言った。「向うは夕方までに入ってくれればって。五時を過ぎると、事務が閉るんで、できればその前にしてくれってことだったわ」
千夏は、お茶を一口飲んで、
「おいしい」
と、言った。
「静岡から直接入れてるお茶なの。おいしいでしょ」
「ええ。――よく味わっとかなくちゃ」
と、千夏は言って、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
そう。たぶん、この娘がこんなお茶を飲むことは、もう二度とないのだ。
「――不思議ね」
と、由利香は言った。「あなた、どうして主人と?」
千夏は、笑みを消して、
「すみません。つい、いい気になって甘えていて」
「いいの。別に責めてるわけじゃないの。本当に不思議なだけなの。あなたみたいな人なら、若い男の人がいくらでも言い寄って来るでしょう」
千夏は、少し当惑気味に、由利香を見ていたが、
「たぶん……父親のような人を、求めてたんだと思います。――小さいころから、父は家にいなくて……」
「父親ね」
由利香は肯いた。「でも、頼りがいのある『親父』って感じでもないでしょう、うちの人」
「そうですね。――神経質で」
「細かいのよ、凄く。新聞の連載記事とかね、読み出すと、一回でも欠けると気に入らないの。わざわざ販売店まで買いに行かされたもんだわ」
「分ります、何となく」
「やっぱり、あなたといても同じ? ま、人の性格なんて、変らないわよね」
「いつか――フランス料理のレストランで、食事中に、新聞にのってたクロスワードパズル、始めちゃって……。もう閉店するっていうのに終らないもんですから、私、気が気じゃなくて」
「やりそうだわ、あの人」
由利香はクスクス笑い出した。千夏も、一緒になって、笑った。――奇妙な光景ではあったが、二人の笑いは、よく似ていた。
お茶漬が来て、二人は食べ始めた。
二人の席は窓際で、午後の陽射しが暖かく二人の女を包んでいる。
「――おいしかった」
千夏は、息をつくと、「ありがとうございました」
と、頭を下げた。
「私が作ったわけじゃないわ」
「連れて来ていただいて……。本当に嬉しかったんです」
と、千夏が言った。「奥さん」
「なに?」
「あの――ご主人が悪いわけじゃないんです。私の方が、ずっと離れようとしなかったんです」
由利香は、その言葉を信じる気にはなれなかった。夫のことは分っている。
「もういいの。あなたは自分のことを考えていれば」
「はい」
千夏は、目を自分の膝へと落とした。
由利香は、ことさら明るい声で、
「他にどこか回りたい所は? こうなったら、とことん付合ってあげる」
と、言った。
顔を上げた千夏が、微笑んだ。
「そこ! 何をボーッと突っ立ってるんだ!」
扉を開けたとたん、凄い声が飛んで来て、由利香はびっくりした。
しかし、千夏は、少しも驚いていない様子で、笑顔でその光景を眺めている。
――小さな劇場。たぶん二百人も入らないだろう。
由利香は、千夏の声が、よく通って、言葉がきれいに聞きとれる理由を、ここへ来て知った。
「この劇団にいたことあるんです、私」
と、劇場の前で車を降りたとき、千夏は言ったのだった。
舞台は、今、何のセットもない。ただ、数人の男女が、まちまちの格好で、台本らしいものを手に、「突っ立って」いた。舞台の上は明るいが、座席の方は暗くなっているので、由利香たちが入って来たことに、しばらくは誰も気付かなかった。
「状況に応じて、ちゃんと動け! いちいちそんなことまで言われなきゃできないのか、おい!」
怒鳴っている男は、客席の通路に立って、舞台を見ていた。――演出家なんだわね、きっと、と由利香は、扉のそばに立って思った。
千夏は、ごく自然に舞台の方へひき寄せられて行くかのように、ゆっくりと通路を進んで行った。
「今の場の頭からやり直しだ!――おい、分ったのか?」
舞台の上の誰かが、千夏に気付いたらしい。ざわついて、舞台の前の方へ出て来る。
「千夏!」
「やっぱりそうだ!」
演出家らしい男が、振り向いた。――千夏は足を止めた。
「今日は」
と、千夏が言った。
「やあ」
演出家の声は、ぶっきらぼうだった。
しばらく、二人は黙ったままだった。
「――ごめんなさい」
と、千夏は言った。「邪魔するつもりじゃなかったの。続けて」
「いいさ」
髪を肩まで長くのばした、その男は、肩をすくめた。「少し休みたかった。喉が|嗄《か》れてね」
「〈かもめ〉――でしょ?」
「ああ。これであさって初日だ。信じられるか?」
「三枝さん、少し髪が白くなってる」
と、千夏は言った。
「白くなるさ。この能なし連中と付合ってれば」
三枝と呼ばれたその男、たぶん三十歳前後だろう、と由利香は思った。
「少し休憩だ」
と、三枝は舞台の方へ声をかけて、「君も、あんまり長くいないでくれ」
と、千夏の方へ言った。
由利香がドキッとするほど、冷ややかな言い方だった。――同時に、由利香には分った[#「分った」に傍点]。
「千夏!」
「上ってよ、舞台に!」
袖の方からも、何人か女の子たちが出て来て、千夏はたちまち舞台へ引張り上げられ、囲まれてしまった。
女の子たちのおしゃべりは、もうただの騒音にしかならない。
しかし、千夏が、この小さな劇団で、人気者だったことは、よく分った。
三枝という男はそれに加わろうとはせず、空っぽの客席の一つに腰かけて、タバコに火を|点《つ》けた。
歓声と笑い声が、元気よく小さな劇場内に響く。三枝は、すぐ後ろに立っている由利香に気付いた。
「――何か?」
「久米千夏さんの知り合いです」
と、由利香は言った。
「ああ」
三枝は、大して気にもとめていない様子で会釈した。
「楽しそうですね」
と、由利香は舞台を見て、言った。
「あのエネルギーがね、いざ芝居となると、どこかへ飛んでっちまうんですよ。全く」
と、首を振って、「これでも何とかして、あさってには幕を上げなきゃいけない」
「千夏さんは――ここに長くいたんですか」
三枝は、少し間を置いて、
「いや……。しかし、彼女には才能もあったし、『華』もあった。声もよく通る。努力家で、よく稽古したし……」
「どうして、ここをやめたんですか」
「さあね。――ある日突然、〈もうここにいられません〉という手紙が来て……。誰かが見かけたと言ってましたよ。どこかの重役風の男と腕を組んで歩いてるのを。――ホテル街でね」
夫のことだ、と由利香は思った。
この男は、千夏を愛していた。千夏もそれを知っていて、だから、他人の愛人でありながら、ここにいることができなかったのだろう。
「馬鹿な話だ!」
と、三枝はタバコを投げ落として、靴でギュッと踏み|潰《つぶ》した。「あんな才能のある女が、男のために……。下らない!」
吐き捨てるように言って、
「いや、失礼」
と、笑った。「きっと今じゃ、ぜいたくな暮しをしてるんでしょう。こんな貧乏劇団にいやけがさすのも、理解できますがね」
丸めた台本を、三枝は広げた。
「〈かもめ〉っておっしゃった?」
「チェーホフの、有名な……。ご存知でしょ」
正直なところ、題名しか知らない。まあ、それでも知っている内に入るのかもしれないけど。
「一度、彼女は〈かもめ〉のニーナをやった。すばらしかった。涙が出たもんです、袖で見ててもね」
過去が、三枝の声に苦いものを混ぜていた。
「――さて、稽古のつづきだ」
三枝が立ち上ると、
「待って」
と、由利香は止めた。「もう少し、ここにいさせてあげて下さい」
「どうして……」
「あの人を好きだったんでしょ」
三枝は、薄暗い中でも分るほど、赤くなった。
「すんだことですよ」
「千夏さんは、もうすぐ死にます」
三枝が、ゆっくりと由利香を見た。
「今、死ぬ、とおっしゃったんですか?」
「これから入院するんです。最後にここへ寄りたいと言って。――もう手遅れなんです。せいぜい、もって三か月」
三枝が、体を震わせた。やっと、自制できた様子で、
「知ってるんですか、本人も」
と、訊く。
由利香は黙って|肯《うなず》いた。
三枝は、よろけそうな足どりで、それでも何とかしっかりと体を支えながら、舞台の方へと歩いて行き、ポンと飛び乗った。
「あ、ごめんなさい」
千夏は、三枝の方へ歩いて行って、「もう失礼するわ」
と、言った。
「見て行かないか、稽古を」
「見たいけど……行く所があるの」
「公演、見に来てね」
と、女の子の一人が、声をかける。
「ありがとう。――約束できないけど……。できるだけ、見せてもらうわ」
千夏は、微笑んで、女の子たちを見回すと、
「じゃあ……」
と、舞台の前へ出て来た。
「ニーナ[#「ニーナ」に傍点]」
と、三枝が呼びかけた。
ハッと、胸をつかれたように、千夏は立ち止った。
「僕が、いつまでもニーナに恋するトレープレフだったら――」
「いいえ!」
千夏は激しく頭を振った。「トレープレフは自殺してしまう。――この〈かもめ〉では、死ぬのはニーナよ」
誰もが、当惑したように、じっと舞台に立ち尽くす千夏を、見つめていた。まるで、千夏のいる場所だけが、少し薄暗くなっているような気がした。
千夏は、肩を落とし、うなだれた。
「とても疲れたわ! 休みたい……休みたいわ!」
それから、千夏は頭をゆっくりともたげて、遠い空間へ目を向けた。「私はかもめ……違う。私は女優だわ。ええ、そうなの!」
りん[#「りん」に傍点]とした声が、劇場の空気を震わせた。
「私はもう本当の女優よ。喜び楽しんでお芝居をしているし、舞台の上で|陶《とう》|酔《すい》して、自分をすばらしいと感じるんですもの。――今では私、はっきり分って、知っているのよ。私たちの仕事で大切なのは、名声でもなければ、華やかさでもないし、かつて私が夢見ていたようなものでもなくて、じっと|堪《た》えてゆく能力なんだわ。おのれの十字架を背負ってゆくすべを知り、信じなければいけないのよ。私は信じているから、そんなに辛くないし、自分の使命を思うと、人生もこわくないわ……」
言葉が、涙そのもののように、由利香の、そしておそらく誰もの心の中へしみ込んで来た。
三枝が、駆け寄ろうとすると、千夏はパッと振り向いて、手を伸して止めた。
「私、行きます。さようなら。私が大女優になったら、見にいらしてね。約束してくださる? でも、今は……今は……」
涙が、千夏の頬を流れ落ちた。
千夏は、舞台から飛び下りて、通路を駆け抜けた。
由利香は、急いで千夏を追って、劇場を出た。
車の所へ行くと、千夏は、車にもたれ、由利香へ背を向けて、両手で顔を|覆《おお》っていた……。
車の中で、二人はともに無言だった。
辺りはもう、大分暗くなり、車もライトを点けて走らなくてはならなかった。
千夏は、じっと前方を見つめたままで、涙はもう乾いていたが、頬にいくすじか、跡を残している。
病院は、もう近かった。
由利香は、車を道の端へ寄せて、停めると、千夏を見た。
「話して」
と、由利香は言った。「なぜ主人と……。あんなすばらしい人たちがいるのに」
千夏は、じっと前方から目をそらさずに、口を開いた。
「お金がなくて……。あの劇団も赤字ですから、いつも。――三枝さんに内緒で、私と何人かの女の子は、パーティコンパニオンのアルバイトをしていました。そのパーティに、あの人[#「あの人」に傍点]がいて……」
「あなたを誘ったの?」
「飲まされて、気分が悪くなり、車に乗せられて――気が付くと、ホテルでした。逆らう気力もなくて……。それでお金をもらってしまうと、もうあの仲間の所へは、戻れなかったんです。その内、ご主人の方から電話が。――そのまま、ずるずると……」
由利香は、千夏が事実を話していると分っていた。
「そう……。分ったわ」
「奥さん」
「どこか――行きたい所がある?」
「でも……時間が」
「明日にした、と連絡しておけばいいわ」
と、由利香は言った。
千夏は、しばらくたって、ゆっくりと首を振った。
「いいえ……。もう充分です。こんなに、わがままを聞いて下さって……」
「主人の犠牲になったようなものね」
と、由利香は言った。「あなたも。――たぶん、私も」
千夏は、ゆっくりと由利香の方へもたれかかって来た。由利香が肩を抱いてやると、千夏は、声を押し殺して、泣いた。
怖い[#「怖い」に傍点]のだ。――当り前のことだ。もし自分がこの子の立場だったら、どうだろう。
体を震わせて、泣き続ける千夏を、しっかりと抱いてやる。涙が、スーツを濡らし、肌まで通って冷たかったが――いや、むしろその涙は、温かかった。由利香の心を、熱いもので満たすほどに、温かかった……。
どれくらい時間がたっただろう。
「――すみません」
と、千夏は、体を起こして、「もう……大丈夫です。すっきりしました」
千夏は涙を|拭《ぬぐ》って、
「時間、過ぎちゃいましたね」
「そうね。今夜は――帰る?」
ふと、由利香は思い出した。「この辺に、友だちのマンションがあったんだ。ニューヨークへ行っててね。留守なの。いつでも使って、と言われてて、鍵も預かってる。そこへ泊りましょうか」
「でも――そんなこと」
「構やしないの。どうせ私は旅行に出ることになってたし。娘も、私がいない方が、気楽なのよ。どう? うちの人の悪口でも言い合うっていうのは」
千夏は、おかしそうに笑った。――いかにも若い女性らしい笑いだった……。
――そのまま病院へ連絡を入れ、友人のマンションに、二人で泊ることにする。
由利香は、千夏に、まるで妹を見るような気がしていた。妙なものだ。夫の愛人だというのに……。
夜、ベッドに入ってから、千夏が言った。
「あの人[#「あの人」に傍点]は、出張と言ったんですね」
「ええ。どうして?」
「きっと、嘘だと思います」
由利香は戸惑った。
「つまり――」
「私について来たくなかったんです。――分ります。私に腹を立ててるんです」
淡々とした口ぶりだった。明りを消した部屋の中で、千夏の表情までは見えなかったが、由利香は半信半疑だった。
「あの人は、優しい、いい人です」
と、千夏は続けた。「でも、それは自分の決めたスケジュール通りに、会っていられる間のことで、ですから私の病気があの人の予定を狂わせてしまったことで、あの人、怒っています」
由利香は、千夏が夫の性格をよく知っているのにびっくりした。
「でも、本当は怖いんですわ。私について来るのが、怖いんです。やり切れないんだと思います。ですから、逃げ出したんだと思いますわ」
「でも……あなたに対してはひどい仕打ちよね」
「私はそういう立場ですから」
と、千夏は言った。「もう――いいんです。すみません、妙なこと言って。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
と、由利香は言った。「ゆっくり寝てね。起こしてあげるから」
「はい……」
「千夏さん。あなたと、一日一緒にいられて、良かったわ」
「私もです」
二人は微笑んだ。――お互い、暗がりの中でも、相手が微笑んでいることを、知っていた。
そして、どっちが先だったか、二人は眠りに落ちて行った……。
由利香が目を覚ましたのは、朝、まだ早い時間だった。
カーテンを通した光で、寝室の中はほの白く見えて、隣のベッドに、千夏の姿はなかった。
もう起きたのかしら? いや、眠れなかったのかもしれない。それは当然のことだろう。
「千夏さん。――千夏さん」
と、居間のドアを開けて……風が抜けて行った。
どうして風が?
由利香は、その理由に思い当ったとき、|愕《がく》|然《ぜん》とした。
居間へ入って行く。
ベランダへ出るガラス戸が、半ば開いたままになっていて、レースのカーテンは音もなく揺れていた。
ここは、マンションの八階[#「八階」に傍点]だ。
「千夏さん……」
膝が震えた。レースのカーテンは、まるで生きもののように波打ち、ゆっくりとたなびいて、由利香を手招きしていた……。
「――失礼します」
と、由利香は、〈受付〉の女性に声をかけた。
「はい。ご用件を承ります」
「あの永野の家内です。――営業部長の永野の」
「部長の奥様でいらっしゃいますか、失礼いたしました。すぐお呼びいたします」
「いえ、あの――」
と、由利香は急いで言った。「大阪へ出張していると思うんですが……。いつごろ戻りますでしょうか?」
受付の女性は、ちょっと不思議そうに、
「大阪出張ですか?――いえ、出張はなさっておられませんが」
と、手もとのノートを見る。「今朝、お会いしたときも何も……。今、たぶんお席にいらっしゃると思います」
「いるんですか」
由利香は、低い声で言った。「営業部は、どちらですか」
「この突き当りのセクションですが……」
「ありがとう」
好奇の目を背負いながら、由利香は、オフィスの中を歩いて行った。
「そうじゃないだろ! 何度言ったら分るんだ?――ああ、当り前じゃないか、それぐらいのこと、そっちでやっといてくれんと困るよ」
夫の声が、響きわたっている。
家では聞くことのない、自信たっぷりの声だった。
「何も、お宅ばかりじゃないんだから、うちが取引をしてるのは――」
永野が、由利香に気付いた。「――ともかく、また電話してくれ。――ああ」
電話を切ると、永野は、由利香の方へやって来た。
「何だ。会社だぞ。中へ入っちゃ困るじゃないか」
「大阪へは行かなかったのね」
営業部のど真中である。残っている社員は、みんな手を止めて、永野たちの方を眺めている。
「外へ行こう」
と、永野が腕をとると、由利香はそれを振り払った。「おい……」
「長くはかからないわ」
と、由利香は言った。「自分で行きたくなかったから、私に行かせたのね。千夏さんはあなたを待ってたのに」
「よせ。こんな所で……。忙しかったんだ。もう――すんだんだろ。それならいいじゃないか」
「何もかもすんだわ」
と、由利香は言った。「千夏さん、亡くなったわよ。飛びおりて死んだの」
永野は、ちょっとポカンとしていたが、
「そうか」
と言った。「――分った」
「他に言うことはないの」
「まあ……どうせ助からなかったんだ。楽だったかもしれないな。――お前、どうしてそんなにむきになるんだ。ホッとしてもいいじゃないか」
永野は席へ戻って行こうとした。「忙しいんだ。後のことは、帰ってから話そう」
由利香は、夫の方こそ、ホッとしているのだ、と分った。
千夏の考えた通りだった。この狭い空間の中でだけ、夫は一人前なのだ。マニュアルにないことに対応する勇気は、持ち合せていないのである。
「帰ってくれ、俺は仕事がある」
由利香は、いきなり平手で夫の頬をバシッと打った。
営業部が、シンと静まり返る。――永野は痛みよりも驚きで、動けないようだった。
「何も分ってない人ね」
と、由利香は言った。「ずっと、あなたには分らないのね、人の心が」
由利香は、足早に営業部を出た。
――永野は、部下が好奇心に目を光らせて自分を見ているのを感じると、
「女ってのは怖いね」
と、引きつったように笑って見せて、席へと戻って行った。
誰も、笑わない。ただ黙々と仕事を続けているばかりだった……。
第四話 強 盗
三枝は、一人で飲んでいた。
酒を、と誰もが思うだろうが、三枝はまるきりの下戸だった。――一人、お|汁《しる》|粉《こ》をすすっていたのである。
一人でいるのも道理というものだろう。孤高の演出家が、上演後、苦い思いをかみしめるのにお汁粉では、人に見せられたものではない。
役者たちは、もう帰っていた。公演は今日だけで終るわけではない。明日もあさっても続くのである。
熱いお茶を飲んで、三枝は息をついた。
「――お汁粉、もう一杯」
店の女の子が|呆《あき》れている。外見とは裏腹に、お汁粉を三杯も頼んでる!
やけ酒――いや、「やけ汁粉」というわけではなかった。
〈かもめ〉の上演は、奇跡的な成功をおさめたのである。――リハーサルでは、どうにもならなかったニーナ役の女優が、まるで別人のような演技を見せた。
ほぼ満員の客席には、すすり泣きの声が|洩《も》れていた。――いくら〈かもめ〉が〈喜劇〉であっても、やはりあのニーナには哀しさが必要だ。
それに、あの涙は、いわゆる「お涙ちょうだい」の仕掛で泣かせるのとはわけが違う。
誰もがそこに己れの若き日を重ね、遠くへ去った夢と、現実のもたらす幻滅を思って、泣くのである。
それにしても……。
千夏が現われて、|稽《けい》|古《こ》の雰囲気はガラッと変った。千夏の病気のことは、三枝一人の胸の内におさめておいたのだが、みんな何かを感じていたようだった……。
千夏。――今夜の〈かもめ〉を演出したのはお前だ。
三枝は、三杯目のお汁粉が来ると、誰もいない、向い側の席に向って、お椀を持ち上げて見せた。
「お祝いだ。――珍しいよな」
そう呟いて笑うと、三枝は、割りばしをバリッと割った。きれいに割れて、とげ[#「とげ」に傍点]を残さなかった。そんなことでも、気持のいいものだ。
食べ始めようとしたとき――誰かが目の前に座って、椅子がガタンと音を立てた。
一瞬、三枝は千夏がそこに来てくれたのかと思ったが、目を上げてみて、がっかりした。
千夏がどんなに凝ったメイクをしてみても、五十歳近くにはなっていそうな、いい加減頭の|禿《は》げ上った、いやにギラついた目つきの男にはなれないだろう。
「おい、お前、芝居を書いてんだな」
男はいやに早口で言った。「そうだろう? 隠したってだめだ。俺はちゃんとさっきの〈からす〉って芝居を見てたんだからな」
〈かもめ〉ですよ、と言ってやりたかったが、きっと、この男にとっては、どっちでも大した意味はないのだろう、と思い直した。
ともかく、その男は、えらく興奮している様子だったのである。
「別に僕が書いたわけじゃありませんがね」
と、三枝は言った。「それがどうかしましたか」
「俺はな、今、人間ってものが信じられなくなってるんだ」
三枝は面食らった。まさか、その男からこんな言葉を聞こうとは思わなかったのである。
「俺の話を聞いてくれ。なあ、構わないだろ?」
と、身をのり出すようにして、「聞いてくれたら、もう一杯汁粉をおごるぜ」
「僕はもうこれで充分です。あなたも甘党ですか」
「いつもは違う」
と、男が首を振って、「しかしな、今は汁粉でも食わなきゃいられない気分なんだ。――おい! ここに汁粉一つ!」
店中に響きわたるような大声で、その男は注文した。
「いけねえ、つい声がでかくなっちまうんだ。――いつも、あんまり大声を出せない仕事をしてるもんでな。出すときは、とてつもなく、でかくなっちまうのさ」
男は、少し落ちついて来て、自分のことを笑う余裕が出て来たらしい。
「いい声ですよ、なかなか」
と、三枝は言った。「お仕事は?」
「強盗だ」
と、男は、当り前のことのように言った。「心配するな。お前のことをどうこうしようってんじゃない。だが、話を聞いてほしいんだ。それだけだ」
少しイカレてるのかな、とも思ったが、至って正直に(?)話しているようでもある。
ともかく三枝がこの男に関心を抱いたのは当然のことだろう。
お汁粉が来ると、男は、ゆっくりとすすり始めた。
「――もち[#「もち」に傍点]はな、残しといて、最後に食べるんだ。それが正しい食べ方なんだぜ」
「そうですか」
「ばあさんに教えてもらったのさ。よく小さいころ、ばあさんの作ってくれた汁粉を食ったもんだ。もちろん、こんな上品な味じゃなかったけどな」
――どうやら、この男は本当に[#「本当に」に傍点]強盗らしい、と三枝は直感的に思った。冗談やからかいの類ではない。ともかく、何を話したいのか、聞いてやろう、と思った。
それにしても、どうして強盗が〈かもめ〉を見に来て、演出家をとっつかまえて話をしようというのか。
もしかすると、強盗は、自分とどこか相通ずるものを、「芝居」という、うさんくさいものに見たのかもしれない。もし、そうなら、この強盗の感性はなかなか鋭い、ということになる。
「俺はな」
と、男は言った。「今日、一軒、入って来たんだ」
「入って来た?」
「だから、押し入って来たってのさ。分るか?」
「ああ。――分りました」
押し入った、ね。まるで忠臣蔵の討入りみたいだ。
「その家は、俺が大分前から目をつけてたんだ。いいか、俺は一軒入るときにゃ、下調べに一か月もかけるんだぜ」
と、自慢げに、「一か月、ずっと一軒の家を見てりゃ、いつごろ現金があるか、大体分るもんなんだ。それに、外見だけ派手で、中身は火の車、なんて家もある。もちろんそんな家は入ったりしねえよ」
「なるほど」
と、三枝は肯いた。
「今日の家は、下調べの時点じゃ、まあ理想的だった。亭主と女房、二人きり。しかも、相当に立派な家で、高い塀に囲まれてる。ありゃ、両刃の剣なんだ。外から入りにくいのは確かだけど、中で何か起っても、外には分らねえ」
「そうですね」
「亭主は、毎日、決った時間に家を出る、朝は七時五分。帰りは、どんなに早くても、夜の十時だ。大変だな、サラリーマンって奴はよ」
「ええ」
「亭主は四十歳。女房は五つ下の三十五歳――子供はいない、当然、女房は昼間はえらく暇さ。しかし、この女、最近にゃ珍しく、外出したがらない、いや、もちろん、たまにゃ出かける。しかし、あんまり付合いってもののない女らしい。――ま、子供を産んでないってこともあるんだろうけど、スタイルも良くて、パッと目立つタイプじゃないが、なかなかの美人だ。――想像つくだろう?」
「ええ」
「ま、そんなこといちいち話してたら、きりがねえや。――ともかく、今日の夕方、俺はその家へ押し入ったんだ」
「夜中じゃないんですか」
「夕方が一番なのさ。亭主が帰って来る心配もない。セールスの類は、そんなに遅く来ない。宅配の荷物とかもな。――実際、ああいうのが、俺の仕事にとっちゃ、一番の泣きどころなんだ。いつ勝手にやって来るか分らねえんだからな」
強盗の方がよほど「勝手」だろう、と三枝は思ったが、黙っていた。
「そうそう。それに、ピザの配達。あれでときどき間違って来るのがある。あれも頭に来るんだ」
と、男は顔をしかめた。「そんなことはいいや。ともかく夕方は、炊事をやってる。水の音ってのは大きいからな。少々玄関の方で音がしても、分らないものなんだ。――もちろん、俺はまるで気付かれることなしに、家の中へ入った。台所の方で、水の音がしていた……」
「現金は……これだけです」
と、女房は言った。
体がガタガタ震えている。それはどう見てもお芝居じゃなかった。
「これだけか」
「はい……」
俺はものも言わずに、手の甲で女房の顔を殴った。女は、アッと短く声を上げて床に倒れ、したたか腰を打って|呻《うめ》いた。
何だ?――どうして、そんな乱暴なことするんだ、って?
あのな、俺は「強盗」なんだぜ。少々手荒なことをしなきゃ、強盗にならねえだろ。黙って聞きな。
女は、目を真赤にして、やっとこ起き上った。手首を縛り上げられてるんで、起き上るのも簡単じゃないのさ。
頬が赤く染っていた。俺の一撃は、男だって応えるくらいなんだぜ。
「どこだ」
と、俺は言った。「こんな、四、五万のはした金でごまかせると思ってるのか?」
俺が近寄っただけで、女房は|怯《おび》えて体をすくめると、
「お願い。ぶたないで」
と、情ない声を出した。「でも――本当にここにはそれしか……」
俺には、それはでたらめだと分っていたんだ。
なぜって、前の日――つまり昨日だな、俺はちゃんとこの目で見てるのさ。銀行の奴が二人で訪ねて来て、現金を置いて帰ったのをな。
もちろん家の中を|覗《のぞ》いたわけじゃないが、帰るとき、出て来た銀行の奴が、
「物騒だよな、あんな現金を」
と、言ってるのを、聞いたんだ。
「家の中に置いとくってのは、良くないっていつも言うんだけどな。――ま、人はそれぞれさ」
そう言って、二人は銀行の白い小型車で帰って行った。
分るだろ? 亭主が帰って来たのは夜の十一時。そして今日、家を出たのは、亭主だけだ。会社へ行くんでな。会社に、自分の家の現金を持ってく奴はいないだろ。
だから、現金はこの家の中にある、と。
どうだい、理屈に合ってるだろ。
「俺にゃ分ってんだぜ」
と、ていねいに言ってやったよ。「現金がどっさり、この家の中にある、ってことがな。その場所を言わないっていうのなら……可哀そうだけどな」
俺は、ナイフを取り出した。――小さいけど、よく|砥《と》いであって、えらく切れ味がいいんで、いつも持って歩いてる。
見せてやろうか?――いい? そうかい。
そのナイフを女房の顔へ近付けると、
「やめて……」
と、かすれた声で言いやがった。
「やめてほしきゃ、しゃべるんだな」
俺は手を止めなかった。ナイフの刃先が、女房の頬をつつく。
「お願い……。お金は……あります」
女房が、細い声で言った。
「そうか。じゃ、そこへ案内してもらおうかな」
「でも――」
と、女房は何か言いかけて、ナイフがまた自分の頬をそっとなでたので、「分りました……。立たせて」
と、小声で言った。
「早く言や良かったのさ」
俺は、女房の腕をつかんで、立たせてやった。「なあ、人間、素直が一番だよ」
俺の言うことも、なかなかため[#「ため」に傍点]になるだろ? あの――〈からす〉とかいう芝居ほどじゃないかもしれねえけどな……。
「二階です」
と、女房は言った。
「そうかい、じゃ、行こうぜ」
ちょっとしたハイキング、は大げさでも、ともかくでかい家だ。
「迷子にならねえか?」
と、俺は|訊《き》いてやった。
ガタガタ震えてる女房を、ユーモアで、少しリラックスさせてやろうと思ったんだけどな。あんまり効きめはなかったようだな、うん。
「どうして、こんなでかい家に住んでるんだ?」
と、俺は訊いた。
女房は、階段を上りながら、
「主人の実家が、お金持なんです」
と、言った。
「そうか。遊んで暮せる。いいご身分だな」
女房は何も言わなかった。
二階へ上ると、すぐとっつきの部屋のドアを、女房は縛られた両手で開けた。
「主人の寝室です」
――そう広いって部屋じゃない。いや、そう見えたのかもしれないな。
何しろ、でかいベッドが、どんと入ってるんだ。ダブル? そんなもんじゃねえな。ありゃ、四人は充分寝られるぜ。
「お前も、ここで寝てるんだろ」
「いいえ。私は奥の方に別に……」
夫婦別々か。――見かけも、新婚ホヤホヤってほど仲良くは見えなかったが、どうも隙間風が吹いてるらしい。
ま、そんなことは俺にゃどうでもいいことだ。――そのときは、そう思った。
「この中に金庫があります」
と、女房は言った。
俺が喜び勇んで、その戸棚を開けたのはもちろんだ。ところが――確かに金庫はあった。
しかし、でかい! しかも、壁に埋め込まれていて、もちろん、それごと持ってくなんてことは不可能だ。
金庫は、ダイヤルとキーの二つで開けるようになっていた。
「おい、ダイヤルの番号は?」
と、金庫の前にしゃがみ込んで訊くと、
「知りません」
と、女房が答えた。
「何だと?」
「主人しか知らないんです。私には教えてくれません」
「じゃ――キーは? どこに置いてあるんだ?」
「ここにはないと思います。主人が持って歩いてて」
「そんなことはないだろう! 急に金の必要があったときは、どうするんだ?」
「だから、いつも下に四、五万円、置いておくんです。それ以上のお金は、私には使わせてもらえません」
女房は、俺がまた怖い顔で立ち上るのを見て、後ずさった。
「本当です。――知ってれば、言います」
|怯《おび》えた表情は、本物だった。
俺は、困ってしまった。よくドラマに出て来るような、金庫破りの名人とか、そんな特技はない。それにキーも、今は電磁ロックで、ピンで開けられる時代じゃない。
俺は、女房の手首を、ベッドの頭柱にくくりつけて、逃げられないようにしておいて、何とかその金庫を開けようとした。
一か月も下見に潰して、それで収入[#「収入」に傍点]が四、五万じゃ、食ってけないぜ。
生活のための闘いだったんだ。
俺は、必死で、その金庫と取り組んだのさ……。
だけど、結局何にもならなかった。
汗びっしょりになり、金庫の鍵を壊そうとしてみたり、こじ開けようとしたり……。
そうそう。どこかに金庫のキーが隠していないかと、寝室中の引出しを引っくり返してもやった。
一時間にも及ぶ、猛烈な運動だった。
しかし、結局、何もかもむだ。――まあ、そんなことで壊れるようじゃ、欠陥商品だろうけどな。
「畜生!」
俺は、あんまりそういう汚ない言葉は使わないことにしてるんだ。だから、〈からす〉なんて芝居も見るようにしてるんだよ、たまには。
しかしな、このときは本当にそう言いたかったんだ。
女房の方は、ベッドに座って、俺があちこち荒らして回るのを、眺めていた。
「宝石か何かないのか」
と、俺はハアハア息をしながら言った。「少しぐらい、持ってるんだろう」
「私、ちっとも出かけないもんですから」
と、女房は申しわけなさそうに言った。「それに、主人は、そんなもの、決して買ってくれませんし」
「ケチな亭主だな」
ともかく、こうしていても、らち[#「らち」に傍点]があかない。
選ぶ道は二つ。――一つは、今ある現金だけ持って出て行く、もう一つは、当の亭主の帰りを待つことだ。
亭主が戻りゃ、金庫も開けられる、しかし、それには、たぶん五、六時間も、ここで待つことになる。
長居は無用、これが俺の哲学だ。――え?
もちろん、強盗にだって、哲学は必要さ。これでも、歴史の勉強もしたんだぜ。漫画でだけどな。
それはともかく、どっちの道を選ぶか、迷った。――すんなり行かないときにゃ、|諦《あきら》める。これが捕まらない第一の条件なんだ。
しかし、諦めるのもしゃくだった。
そして俺は、ベッドに腰をおろしている女房へ目をやった。――金がだめなら、代り[#「代り」に傍点]にもらって行くか。
俺は、女房をベッドの上に押し倒した。女房の両手首は頭柱にくくりつけてあるので、抵抗はできないのさ。それに怯えてて、暴れるどころじゃねえだろう。
「やめて下さい……。お願い」
「亭主を恨みな」
俺は、女の体の上にまたがった。「金がすんなり手に入りゃ、何もしなかったんだ」
女房は、何も言わなかった。どうせ逆らっても、どうにもならないと思ったんだろう。
前にも言ったかな。この女房、結構いい女なのさ。ベッドに押し倒されると、スカートがめくれて、つやのある太腿がむき出しになってた。
俺も男だし、女にかけちゃ、ちょっと自信がある。
「おとなしくしてりゃ、もう痛い目にあわなくてもすむぜ」
俺は、女房のブラウスに手をかけて、左右へ引き裂いた。――それぐらい簡単に金庫が開くと良かったんだが、女房の「胸の眺め」も悪くなかった。
女房はじっと目を閉じて、観念してるようだ。俺は、女房の体の上にのしかかって行った……。
ところが、そのときだ。
チャイムが鳴ったのさ、ポーンポーンってな。
邪魔が入って、俺は舌打ちした。
女房の手首の縄を、ベッドの頭柱から外してやると、
「出ろ」
と、言った。「妙なことは言うなよ、その顔でいたかったら」
「はい……」
二階にもインタホンがついている。――女房は、インタホンに出た。
「はい。――どちら様で」
という声は、落ちついていた。
「俺だ。開けてくれ。荷物があるんだ」
その声を聞いて、女房が青ざめた。
「主人だわ! どうしてこんなに早く……」
俺の方はニヤリとした。これで、何時間も待たずにすんだわけだ。
「じゃ、早く開けてやろう」
と、俺は言った。「良かったな、お前も無事にすんで」
「おい、早くしろ!」
と、亭主が|苛《いら》|々《いら》と怒鳴った。
「返事してやれよ」
と、つつくと、女房は、
「今――行きます」
と、答えた。
で、俺は女房を亭主の寝室へ連れ戻すと、もう一度手首をベッドの頭柱にくくりつけておいて、階段を下りて行った。
玄関の鍵をあけてやると、
「何をぐずぐずしてるんだ」
と、ブツクサ言いながら、亭主が入って来た。「急に出張になったんだ。――君は何だ?」
と、俺の顔を見て、ポカンとしている。
「お邪魔してるぜ」
と言うと、俺はパンチを一発、そいつの顔におみまいしたってわけだ。
見せたかったぜ。一発KO、わずか三秒で試合終了だ。
――ま、それから、のびた亭主を引きずって行って、台所の隅まで持って行き、縄で、しっかりと|縛《しば》り上げた。
二階までこいつをかつぎ上げるのは、ちょっと大変だからな。もちろん、その間に、上衣を脱がせ、ズボンのポケットから、キーホルダーを取り出していた。
たぶんこの中に金庫のキーもあるだろう。後はこいつから、ダイヤルの番号を訊き出しゃすむことだ。
亭主がのびてるんで、その間に二階へ戻ると、女房はベッドの上で、情ない顔をしている。
「亭主も仲良く縛られてるぜ」
と、俺は言ってやった。「一緒にしてやれなくて、悪いな」
「主人は……」
「殴って気絶させただけだ。安心しな。何といっても、金庫のダイヤルの数字を教えてもらわねえとな。――さて、このキーホルダーの中にあるだろう」
確かに、金庫のキーもそのホルダーについていた。後はナンバーだけだ。
「そろそろ気が付いてるだろう。――さ、ちょっと亭主と話し合って来るぜ」
俺は、一階へと下りて行った。
台所へ行くと、亭主が目をパチクリさせている。何が起ってるのか、良く分ってない様子だ。
「おい」
と、俺は言った。「二階の金庫の金をいただきに来たんだ。キーはこっちへもらった。後はダイヤルだけだ。番号を教えてもらおうか」
亭主は、それでも一応強気で、
「馬鹿なことはやめろ。逃げられると思ってるのか!」
とか、アホなことをぬかすんで、一発けりを入れてやった。もちろん苦しそうに|呻《うめ》いてたよ。
「余計なこと言うんじゃねえ。――俺は金庫のダイヤルの数字を知りたいだけだ。早く言いな」
と、見下ろして言ってやると、亭主もやっと、俺が、良心に訴えてもむだな相手だと悟ったらしい。
「家内は……どうしたんだ」
と|訊《き》くから、
「二階にいるぜ。ベッドに縛りつけてある。――安心しな。あんたの女房にゃ、手をつけてねえよ」
と、俺は言った。「しかしな、お前が素直に数字を教えなかったりすると……。どうなるか分らないぜ。お前のかみさんは、なかなかいい女だからな」
こう言やあ、いくらケチな亭主でも、数字を教える。そう思うのが普通だろ?
「さて、どうする?」
と、俺は勝ち誇って、亭主を見下ろしてやった。
亭主は、まだけられた腹が痛むのか、顔をしかめていたが――。その内、俺を見て、何と言ったと思う?
「少し考えさせてくれ」
と来た!
これにゃ、いくら辛抱強い俺も、カッと来たね。考えさせてくれ、だって? ふざけやがって!
「そうかい。そっちがそのつもりなら――」
と言って、俺はとっとと二階へ上って行った。
亭主があわてて、
「待ってくれ! 数字は教えてやるから、待ってくれ!」
と、叫ぶ――と思うだろ?
ところが、結局そいつは何も言わねえんだ。
で、俺としても、今さら後には引けない状況になったわけさ。
女房は、入って来た俺を見て、
「どうなりました?」
と、訊いた。
「どうもこうもねえ。お前の亭主は、別にお前がどうなってもいいらしい。『考えさせてくれ』ってさ。考えるにゃ時間がいるだろう。その間、ボケッと待っててもつまらねえからな……」
俺は女房をもう一度ベッドの上に横たえて、上にまたがった。「――亭主に考える時間をたっぷりやろうじゃねえか」
てわけで――まあ、そこで俺はその女房をいただいたってわけさ。
まあ、自慢じゃないが、女の方にゃ自信がある。――前にも言ったっけ?
ま、いいや。ともかく、女房の方も別に逆らいもしなかった。
察するところ、あの亭主にゃ、めったに可愛がってもらってないんだな。あんな薄情な亭主じゃ、熱も入らないだろうぜ。
で……どれくらい頑張ったかな、俺もいい加減、汗をかいた。金庫を相手に汗をかくよりゃ、大分ましってもんだ。
「――さてと」
俺は服を着て、言った。「亭主ともう一回話して来るか」
すると、女房は――もちろん裸で寝てたわけだが――ポツリと言ったんだ。
「むだよ」
とな。
俺は面食らって、
「むだ?――そんなことはねえさ。今度はお前の命をいただくとか。安心しろ、殺しはやらねえよ。ただ、おどかすだけだ。それでだめなら、亭主に痛い思いをさせてやる」
すると、女房が――どうしたと思う?
クックックッと、笑い出したんだ。本当だぜ、泣いてるのかと思って見たら、笑ってやがるんだ。
「何がおかしいんだ」
「主人に――痛い思い、って言うから……」
と、まだ笑いながら、「私にしたのと同じこと[#「同じこと」に傍点]するのかと思って……」
「馬鹿!」
こっちが赤面したぜ。「そんな趣味はねえんだ!」
すると、女房が、息を弾ませながら、俺を真直ぐに見つめたんだ。――まるで別の女のように、怯えとか、恐怖とかはみじんもなくなってた。
「聞いて」
と、女房は言った。「主人を殺してちょうだい」
――俺は仰天したぜ。
耳を疑った。こんなことを言うなんて。このおとなしそうな女房が。
「おい、何を言ってるんだ?」
と、俺は目を丸くして言った。
「本気よ。――もううんざりしてたの、あの人には。分ったでしょう? 女房にはケチなの。私がこんな目にあっても、あの人には痛くもかゆくもない。本当よ。外に女がいて、その子にはマンションを買ってやり、毛皮だの宝石だの……。ちゃんと知ってるんだから、私!」
女房は、せきが切れたみたいにしゃべりまくった。――亭主へのぐち[#「ぐち」に傍点]をな。よくまあこんなに出て来るもんだと|呆《あき》れるくらいに。
「そんなにいやな奴なら、別れりゃいいだろう」
俺は何と、人生相談までやらかしちまったんだよ!
「冗談じゃない! 離婚して何が手に入る? 一文だってくれやしない。何やかやと手を打って、私の浮気の証拠でもでっち上げるでしょ。それぐらいのこと、平気でやる人よ」
女房は、鼻で笑うと、「――ずっと夢に見てたわ。あの人が、夜道で強盗に出くわして殺される。私は警察に呼ばれて、主人の死体を確認する……。泣いて、死体にとりすがって見せるわ。それぐらいのこと、できるのよ。私、お芝居が上手なんだもの。そして、帰って来て、慰めに来てくれるお客さんたちがみんな帰ったら、この家の中で、一人で思い切り笑ってやる!」
女房は、天井へ向って声を上げて笑った。――背筋が寒くなるような光景だった。
手首を縛られて、裸にされた女が、大声で笑ってる。――俺は正直に言うが、ゾッとしたよ。
「ねえあんた」
と、女房は俺の方へ顔を向けて、言った。「主人を殺して。もし金庫の数字を、どうしてもしゃべらなくても、主人が死ねば、中身は私のもの。後で、ちゃんとお金は払うわ。いくらほしい? 五百万? 一千万? 言って。いくらなら、やってくれる?」
女房の口調は、とてもお芝居とか冗談とは思えなかった。しかし、突然そんなこと言われて、すぐ決められるか?
「待てよ」
と、俺は言った。「なあ、ともかく――亭主から、ダイヤルの数字を聞き出せるかどうかやってみるからよ。それから相談したって遅くない。そうだろ?」
「怖いのね? そうでしょう」
女房は、俺を見て、薄笑いを浮かべてやがった。「逃げ出す気? 男のくせに! 大金がほしかったら、それだけのことをしなきゃだめなのよ!」
俺は、何だか混乱して来て、寝室を飛び出した。
考えてみりゃ、馬鹿らしいこった。どうして俺の方がびくびくしなきゃならないんだ? こっちは強盗で、向うはただの女なんだ。
それなのに……。
ともかく、俺は台所へ戻ってみた。
亭主の方は、さっきと変らない格好で、俺を見上げた。
俺が黙ってると、亭主は言った。
「家内を……やったんだな」
「ああ。――傷つけちゃいないぜ。抱いてやっただけさ。お前のせいだ。すぐに数字を教えねえからだよ」
俺は、奴の前にしゃがみ込んだ。「言う気になったか?」
亭主は、じっと俺を見ていた。さっきとはどこか違った目で。
「ものは相談だ」
と、亭主は言った。「あんた――うちの家内を殺してくれないか」
それを聞いて、俺がどんな顔をしてたか。
鏡を見てたわけじゃないから分らないが、まあ、|呆《あっ》|気《け》にとられたのは確かだ。
そうだろう? たった今、当の女房に、亭主を殺してくれと頼まれたばっかりだ。
どうなってんだ、この夫婦は?
俺がものも言えずにいると、
「金は出す」
と、亭主は言いやがった。「聞いてくれ。僕には女がいる。ともかく何のかのと買ってやらなきゃならない。家内にはうんざりしてるところだったんだ。女二人に使うんじゃ、いくら金があっても足りないよ。分るだろ?」
「女房と別れりゃいいだろ」
と、こっちでも俺は「正しい意見」を言ってやった。
「まあね。しかし、僕と家内は、両方の親同士で決めた縁談だ。別れる、なんて言っても、僕の父が許さない。家内の家も金はないけど、名門の家系でね。気位だけは高いんだ。離婚はできない。しかし――」
と、俺を見て、「強盗に殺された、となりゃ、話は別だ。そうだろ?」
俺はドカッとあぐらをかいた。
「それに家内には保険もかけてある。――保険金が入りゃ、ずいぶん助かるってもんさ。あんたにも充分礼をする。そりゃ、今、金庫には三百万ほどの金が入ってる。しかし、そんなもんでいいのかい? もっと、ドカッと|儲《もう》けようと思わないか?」
俺は、とりあえず、こっちが動揺していることを気付かれないように、関係ないことを訊いてみた。
「現金をここへ置いて、どうするんだ?」
「僕はギャンブル好きでね。ギャンブルなら何でもやる。それには現金がいるからね」
と、亭主は答えて、「どうだろう? 簡単だろ? 家内の首をギュッとしめて……。僕は気を失ってて、あんたのことは全然見てなかったってことにする。金は後で必ず払うよ。約束する」
首をギュッと? ニワトリをしめるんじゃねえぞ。気楽に言いやがって!
ともかく俺はどうしていいか分らなくなって来た。
「金庫のダイヤルの数字を教えろ! 話はそれからだ」
と、言ってやると、
「あんたが金庫を開けちまったら、僕が気を失ってたってことにはできないよ。そうだろ?」
俺は、そいつをはり倒してやりたくなった。しかし、今はそんなことをしても仕方ない。
どうするか。――俺は決めかねて、立ち上った。
「待ってろ」
と言うと、俺は台所を出た。
「どうなってるんだ?」
思わずそう呟いたよ。当然だろ?
こんなもんが夫婦なのか。こんなでかい家に住んでて、いい暮しをして……。
はた目にゃ何不自由ない夫婦が、一皮むきゃ、このざま[#「ざま」に傍点]だ。
とんでもねえ家へ入っちまったもんだ。――俺はため息をついたぜ。
笑うな。こっちは深刻だったんだ。
ともかく俺は二階へ上って行った。
寝室へ入ると、女房は、相変らず裸で寝たままだ。じっと俺の目を見ていた。少しも気後れする風でもなしにな。
「――分ってるわ」
と、女房は言ったんだ。「あの人、言ったんでしょう。私を殺してくれって」
「どうして分った?」
俺が唖然として言うと、
「そういう人なのよ。邪魔な私がいなくなり、保険金も入る。でもね。忠告しとくけど、あの人を信じたら、後悔することになるわよ。あの人は、そりゃあずる賢いんだから」
と、唇を歪めて笑った。「私は、あなたと寝た体よ。主人よりは、信じてくれてもいいでしょう」
――俺は正直、迷っていた。
俺は強盗で、人殺しはやったことがない。こりゃ決定的に違うんだ。人を殺すってのは、全然別のことだ。
このまま逃げちまおうか、とも思った。しかし、たった四、五万の稼ぎじゃ、面白くねえ。
それに、ここまで巻き込まれると、どうしたって途中で抜けるわけにゃいかない、って気になって来る。
俺は、考えた。――そして、どうしたと思う?
ナイフを取り出した。例の、よく切れるやつさ。
それを手にして、ベッドの上の女房へと近付いて行った。
鋭い刃の先を、女房の喉へつきつける。――女房は、どうしたと思う?
泣くか、わめくか、失神するかと思った。
いや、そのどれでもなかったんだ。
女房は、眉一つ動かさずに、じっと俺を見上げてた。凄い度胸だ。
俺はしばらく、そのままじっとしていたが、やがてナイフで、女房の手首を縛ってた縄を切ってやった……。
台所へ入って行くと、亭主がすぐに、
「やってくれたのか」
と、|訊《き》いた。
だけど、すぐに亭主の顔色が変ったよ。俺の後から、ガウンをはおった女房が入って来たからさ。
「お前……」
「あなた」
と、女房は言った。「私を殺してくれと頼んだそうね、この人に」
亭主は真青になったが、
「よせよ!――本気じゃないさ。当り前だろ。何だっていうんだ?」
俺の手にはナイフがあった。
「おい……。やめろ、まさか――」
「ひどい人!」
と、女房はキッと凄い目で亭主をにらんだ。「あんたこそ、死ねばいいんだわ!」
「よせ!――分った。金庫の数字を教えてやるよ。――なあ、やめてくれ! そんなことしても……。そんな女を信じてるのか! 男を作って歩いてる女なんだぞ!」
「嘘つき!」
「本当だ! 知らないと思ってるのか……自分の名義の貯金をおろして、何につかってるんだ! 言ってみろ!」
「あんた……。人のことを、そんなに調べてるの」
「分ってるんだ! 若いホストに熱を上げてるくせに!」
「何言ってんの! 自分で女を囲っといて!――早く殺して!」
と、女房は俺の腕をつかんだ。「さあ! こいつの喉を切り裂いてやって!」
俺は、亭主の方へ近付いて行った。――そうだ、決めたんだ。この女の側につく、と。
やってやる。このナイフの切れ味を、見せてやる……。
「よせ! 助けてくれ!」
亭主は足をバタつかせた。「おい! やめてくれ!」
――言っとくけど、俺は度胸のいい男だ。自分で言うのも変かもしれないけどな。
しかし、さすがに、初めて人を殺すとなると、こっちも必死になる。いや、大変だったんだ。
誰しも殺されたくないだろう。その亭主も、それまでとは別人のように、猛烈な勢いで暴れやがった。こっちが面食らうくらいの勢いでな。
俺は何とか押えつけて、やっつけてやろうとした。しかし、両手を縛られていながら、けとばそうとするわ、かみつこうとするわ、ともかく近寄るだけでも大変だ。こっちもたじたじ、ってくらいだった。
手こずってると――女房が、それを見て、どうしたと思う?
パッと亭主に駆け寄って、俺の方に気をとられている亭主の頭を後ろからギュッと押えつけたんだ。
そしてその頭を両腕にかかえ込むようにして、ぐっと後ろへのけぞらせた。つまり、亭主の喉がさらけ出されたわけさ。そして、
「やって!」
と、叫んだ。「さあ、早く殺して!」
そのときの女房の顔といったら……。
俺は、あんなに恐ろしいと思ったことはない。女が、あんな怖い顔になれるもんだってことも、知らなかった。
もしあの女房が口から牙をむいていたとしても――俺はびっくりしなかっただろう。
古い言い回しだが、「鬼のような」とでも言うしかない、そんな顔だったんだ。
俺の手は止った。
もし、この男を殺したとしても、この女と二度と会いたくない。とんでもない話だ。きっと次にはこっちがこの女に殺されるだろう。そう思った。
俺は立ち上ると、ナイフを床へ投げ出した。
「俺はいやだ!」
と叫ぶ声は、我ながら情ないが、震えてたよ。「自分でやれ! 俺はいやだ!」
俺は、その家から逃げ出した。
そうなんだ。笑ってくれてもいいんだぜ。このベテランの強盗が、風をくらって逃げ出したんだ。
無我夢中で走って……。気が付くと、ずいぶん遠くまで来ていた。
汗だくになって、胸も苦しかった。ともかく、どこかで休みたい、と思った。どこでも、体を休められるのならいい、と。
そして、ふっと目に入ったのが、〈からす〉……だっけ? 違ったかな。まあ、何でもいい。ともかく、お前のとこの芝居だったんだ。
ちょうどすぐ始まるところで、劇場の中なら、一人で座ってても、誰からも見られることはないし、しばらく呼吸がしずまるのを待つのにいいかもしれない。――そう思ったんだ。
眠ってもいい。中は暗いだろうし、と思って、金を払い、中へ入った。
しかし、結局最後まで見ちまったよ。なかなかのもんだったぜ。
特にあの女――ニーナだったか? あいつの言ってることなんか、こっちにもピンと来たしな……。
ともかく、大分気持が落ちついたのさ。それで、終った後も、しばらく劇場の前に立ってたんだ。
お前が出て来た。で、俺はその後をつけて――。
「どうして僕に話す気になったんです?」
と、三枝は言った。
「さあな……。たぶん、お前なら、色んな芝居で、あれこれ、とんでもない話を聞いてるだろう。だから、俺の話も、嘘だと思わずに聞いてくれるかもしれないと思ったんだろうな」
男は、まるで長いこと胸につかえていたものが、やっと下りて行った、という様子で、フーッと息をつくと、
「おい、お茶!」
と、店の子に怒鳴った。
「いや、実に凄い話でしたよ」
と、三枝は言った。
「そうだろう? なあ。――こんな言い方しちゃ妙かもしれねえが、強盗なんて、可愛いもんだ。あんな風に、長いこと積り積った恨みとか、憎しみの怖さにくらべりゃ、どうってことはない」
「で、結局――」
と、三枝は言った。「大した仕事にはならなかったわけですね」
「ああ」
と、男は笑って、「たまにゃいいさ。いつもうまく行ってると、感激もなくなる。当り外れがあって、面白いのが人生ってもんだよ」
「それはそうかもしれませんね」
「しかし、二度と、あんな思いはしたくないもんだな」
男の言葉には、実感がこもっていた。
「だけど――その後、夫婦はどうしたんでしょうね」
「さあね。考えたくもないぜ」
男は、ウーンと背筋を伸すと、「さて、悪かったな。長いこと相手をさせて」
「いいえ。――あ、汁粉代、僕がもちますよ。面白い話を聞かせてもらったんですからね」
「そうかい? 悪いな。――じゃ、ごちそうになるぜ」
汁粉一杯だ。大した金額でもない。
「じゃ、まあ頑張れ。明日も〈からす〉ってのは、やるんだろ」
「ええ」
三枝は、あえて訂正しなかった。
「客が入るといいな」
「ありがとう」
「じゃ、また会おう」
別に、本当に「会いたい」わけじゃないだろう。男は、ちょっと手を上げて見せ、店を出て行った。
――三枝は、少し遅れて、金を払うと、店を出た。
もちろん、あの「強盗」の姿はどこにも見えない。
三枝は歩き出した。
あれは本当の話だろうか? でっち上げにしては、まるで目に浮ぶように話してくれた。
本当だとして……あの後、女房はどうしたろう?
三枝は気が付いていた。もしその女房が、縛られている亭主を殺したとして、ナイフはあの強盗のものだし、女房も現実に暴行を受けている。
夫を殺しておいて、やったのは強盗だと言えば、たぶんそれで信用されることだろう。
警察へ届けるべきか?
しかし、どこの何という家かも分らないのに、どうやって届けるんだ? それに、あの男はこっちを信じて話してくれたのだ。やはり、それを裏切ることはできない。
もし、あれが本当のことだとしても、女房が亭主を殺すとは限らないんだから。
三枝は、肩を少しすぼめて、歩いて行った。
風は冷たい。――誰も風邪をひかなきゃいいが……。
三枝の思いは明日の〈かもめ〉のことに移っていた。
今井邦夫と千代子は、しばらく、座ったまま、動かなかった。
夫の邦夫の方が動かなかったのには、理由がある。強盗に両手を縛られてしまっていたのだ。
千代子の方は――台所の床にペタッと座ったきり、放心したように、宙を見つめている。
強盗が出て行って、もうずいぶん時間がたっていた。――しかし、それまでの何十分かに比べれば、ほんのわずかにも感じられた……。
二人とも汗をかいたが、今はそれもすっかりひいている。
あの、|凄《すさ》まじいほどの狂乱の瞬間、その|余《よ》|韻《いん》は、台所の空気の中に|漂《ただよ》っているかのようだったが、それもすでに消えつつあった。
夫と妻。――どっちも、今初めて相手を見る思いでいたのである。
動いたのは、千代子の方だった。まるで能役者か何かのように、スッと立ち上ると、夫の方へ近付いて来て、強盗が投げ捨てて行ったナイフを拾った。
邦夫が青ざめた。
「おい……千代子、お前――」
ナイフを手に近付いて来る妻を、邦夫は恐怖の思いで見た。しかし、千代子の顔は全く無表情で、夫の顔には目もくれず、ナイフで、夫の手首を縛っていた縄を切ったのだった。
手が自由になっても、しばらくは、思うように動かせない。――邦夫は、壁にもたれて、千代子がナイフをポンと投げ捨てるのを見ていた。
千代子が、夫を見る。――二人の目が合うと、千代子は笑った。いかにもおかしそうに。
邦夫は、妻がこんな風に声を上げて笑うところを、見たことがなかった。
「――どうするの?」
と、千代子は当り前の口調で言った。「私を殺す?」
邦夫は、答えられなかった。千代子は肩をすくめて、台所の椅子に腰をかけた。
「これで、お互いに、相手が何を考えてるか分ったわけね」
と、千代子は言った。「あなたは私に保険をかけてある。私はあなたが死ねば遺産が入る……」
「どうしてやらなかった」
と、邦夫は、やっと口を開いた。
「やってほしかった?」
と|訊《き》いて、千代子は笑った。「ごめんだわ。あなたのために刑務所へ入るなんてね」
「僕だってそうだ」
「あなたはケチだから。――私を愛するのも、もったいなかったんでしょ」
邦夫は、立ち上った。めまいがして、頭を振る。
「あの強盗に抱かれたんだな」
「ええ。――すてきだったわよ、荒々しくてね。あなたの、手順通りの無味乾燥なやつとは大違い」
「そうか。僕だって同じだ。他の女のときは、大違いだ」
千代子は、息をつくと、
「やめましょ。――もう、あれこれ言い合っても仕方ない。そうじゃない? 何しろ、殺すか殺されるか、まで行ったんだから……」
「そうだな」
邦夫は言った。「僕は女の所へ行って泊る。とても眠れそうもないからな、ここじゃ」
「私に殺されると思ってるの?」
「やられなくても、夢でうなされそうだ」
「そうね」
「後のことは……」
と、邦夫は言いかけて、少し考え、「また相談しよう」
「何か持ってく?」
「何か、って?」
「着がえとか、カミソリとか。――あなた、たいていネクタイピンを忘れるわ」
「ああ……。持ってく」
千代子が立ち上ると、
「小さなボストンに詰めてあげる」
と言って、台所を出ると、トントンと軽い足どりになって、二階へ上って行った。
邦夫は、何とも不思議な気持で、それを見ていた。
ついさっき殺そうとした――確かに本気で、「殺して!」と叫んでいた――夫のために、荷物を作る? それも、女の所へ泊りに行くというのに。
今井邦夫は、首を振った。――女って奴は、分らない。
しかし、ともかく……このひどいなり[#「なり」に傍点]じゃ外へは出られない。あの男に殴られたあともひりひり痛む。命の心配がなくなると、とたんに痛み出したのである。現金なもんだ――。
邦夫は、まだいくらか心配だったが、ともかくバスルームへ行って、シャワーを浴びた。汗くささを落として、殴られたあとのあざ[#「あざ」に傍点]に、クリームをつけた。
バスルームを出ると、洗面所に、ちゃんと下着の替えがのせてある。バスタオルも、洗濯して乾かしたのがかけてあった。
千代子の奴……。
確かに、そういう点では、千代子はどんなものでも手を抜くことなく、こなして来た。この広い家を、いつもきちんとしておくだけでも、容易なことではないだろう。
しかし、その代りに、夫を殺そうというのでは、いくら何でもやり過ぎだ!
「――これ」
新しいスーツで、玄関へ出て行くと、千代子が、ボストンバッグを置いた。
「ああ……」
「現金、いるのなら、自分で出してね。私は金庫開けられないんだから」
「分ってる。今夜はいいよ。持ってる」
「そう」
千代子は|肯《うなず》いたが、「――待って」
と言うと、急いで二階へ上って行った。
何だろう、と待っていると、千代子はネクタイを一本、手にして下りて来た。
「そのスーツに、そのネクタイじゃ、合わないわよ!」
「そうかな」
「全く、そういうセンスのない人ね」
千代子は、邦夫がしめていたネクタイを外し、新しいネクタイをしめてやった。
「――着がえは二組入ってるわ。今夜はもういいでしょ。三日もつわ」
「うん」
「明日、遅刻しないでよ。こっちへ電話が入るんですからね」
「分った」
邦夫は、靴をはいて玄関を出た。つい、行って来るよ、と言いそうになる。
外へ出て、タクシーを拾うには、少し歩かなくては。
風が冷たかった。――こうして歩いていると、ついさっきの出来事が、果して現実だったのか、という気がして来る。
いや、事実、起ったことなのだ。――ちょっと笑ってしまう。
互いに「殺してやる」とやり合ったのを見て、あの強盗はどう思っただろう?
最後には、怖くなって逃げ出してしまった強盗のことを思い出すと、おかしくなって来る……。
――邦夫は、奇妙なことだが、あのとき、自分を殺せと強盗に迫っている千代子を見て、「美しい」と思った。
もちろん、あのときはそれどころじゃなかったのだが、今になって思うと、確かにあのときの千代子は、ハッとするほど、美しかった……。
もうすぐ広い通りへ出る。――邦夫は少し足を速めた。
だが、邦夫の中では、たぶん女の所へ行っても、二日とは過さないだろう、という気持が、生れていた。
たぶん、千代子の所へ戻ることになって……。別れるかどうか。
今は何とも言えなかった。――やり直せそうな、そんな気もしていた。
誰か[#「誰か」に傍点]が、背後に迫っていることに気付いたのは、そのときだった。
振り向く間もなかった。がっしりした腕が、邦夫の首を後ろから捉えた。
誰だ? 千代子じゃない。しかし、あの強盗でもないはずだ。
おい――。やめてくれ。もう今夜は[#「今夜は」に傍点]ごめんだ……。
「――気を確かに」
と、刑事が言った。
千代子は黙って肯いた。
刑事の手が、白い布をそっとめくると――男の顔が現われた。
それは恐怖に|歪《ゆが》んでいて、とても夫のものとは思えなかったが……。
「いかがです?」
と、刑事が|訊《き》く。
事務的な口調だった。
「主人です」
と、千代子は答えた。
「間違いありませんね」
「はい……」
「どうも。――いや、喉を切られて、ひどいもんです。しかし、ほとんど即死だったろうと……。奥さん……」
千代子は、泣いていた。立っている力もなく、死体をのせた台に、すがりつくようにして、声を上げて、泣いていた……。
そこは、ひどく暗かった。
もちろん、夜だからでもあったのだが、それだけではなく、昼間でも、日の射すことのない、地下室だった。
じめじめと、空気は重く|淀《よど》んで、奇妙な腐臭が漂っている。
その入口の扉が、きしみながら、開いた。
外の明り――ほんのわずかのものだが――が洩れ入って、地下室へ入って来る男のシルエットを作った。
「私だよ」
と、男は言った。
そっと、|囁《ささや》くように。――まるで、淀んだ空気を乱すのを心配している、とでもいった風に。
「さあ……。持って来た。新鮮だからね。これを飲んで、元気をつけてくれ」
再び扉が閉じると、ほとんど完全な闇の世界だったが、男は、中の様子をよく知っている足どりで、進んで行った。
暗がりの奥で、それ[#「それ」に傍点]の動く気配があった。
「起きてたかい?――まだ夜中だものな。さあ、ここに……。器にあけよう。――なかなか見付からなくてね」
男は、かがみ込んで、金属の深い皿を見付けると、持って来た大きなびんのふたを開けて、中身を、ていねいに皿の中へとあけた。
「――あんまり若いとは言えない男だったけどね、他に見付からなかったんだ。何しろ若い男の子ってのは、たいてい何人かで群れてるからね。それに朝まで、どこかしらふらふらしてるし。――どうだい?」
それ[#「それ」に傍点]は身をのり出して、皿の中へ顔を埋めるようにしながら、皿に注がれたものを、飲み始めた。
「――良かった。飲めそうだね。――意外に手近な所で見付けたもんだからね。まだ新しいだろ?――また、もっと若くて新鮮な血[#「血」に傍点]を捜して来るからね。待っててくれよ」
男は嬉しそうに言った。
それ[#「それ」に傍点]は、男の言葉を聞いているのかどうか、夢中で、血をすすり続けていた……。
第五話 客
その朝、木谷仲弘は、たいていの日曜日と同じように、堤防へ出て、釣糸をたれていた。
その先に釣針もエサもついていなかったのも、いつもと同じだった。
朝もやの異常に濃い日で、足下の波さえ、定かに見えないほどである。――木谷は自分の車でここまでやって来たのだが、途中はそれほどでもなかった。
ところが、ここへ来て、腰を落ちつけると――いくらかもやってはいたのだが――急に濃いもやが辺りを包み始めた。
それはほとんど毎週のように、ここへやって来ている木谷としても、初めて見る光景だった。
しまいには、波の音はするものの、どっちが陸地で、どっちが海なのかさえ分らなくなりそうな、少し普通でない、と思えるもやだった。
しかし――少し待てば晴れて来るだろう。木谷は、|呑《のん》|気《き》に考えていた。
木谷は三十八歳である。ごく普通のサラリーマンだ。独身で、日曜日の早朝から、こんな所へ来ているのでも分るように、恋人らしい恋人もいない。
しかし、本人も自分にはそれが向いている、と思っていたのである。
大体、こんな妙なことを毎週くり返しているのも、上司や同僚に、ゴルフとか旅行とかに誘われるのがいやで、
「日曜日は釣に行くんです」
と、つい答えてしまったせいである。
本当に好きなわけではないので、友人の中古のさおを借りて、何もつけずに、こうして海へたらしている。
|律《りち》|儀《ぎ》というべきか、これが木谷の性格なのだ。
それに、今ではこの時間が気に入っていた。
日曜日は、たいてい昼まで寝坊していたのだが、これを始めてからは、一日が長い。
ここで、ぼんやりと波の音を聞いているのは、気持の休まるものだった……。
好きな本を読むこともある。そしてお昼近くになると、やめて引き上げるのだ。アパートへ帰っても、まだやっと午後の一時二時。充分に何かやれる余裕があった。
――キイ、キイ。
何か、きしむ[#「きしむ」に傍点]音が聞こえた。
しかし、凄いもやの中では、どこか海の方から聞こえて来た、としか分らない。
何だろう?
ぼんやりと眺めていると――。やがて、もやの一画が薄れて、波の上に何か黒いものが浮んでいるのが見えて来た。
そう大きなものではないが、ボートだろうか? よく分らないが、ボートにしては、少しおかしいようでもある……。
それは少しずつ、岸へ近付いているようで、波間に揺られて、キイ、キイ、と音をたてているのだった……。
木谷は、それが自分のいる辺りへと流れついて来るのを知って、立ち上った。帰ろうかと思った。
何によらず、面倒くさいことに巻き込まれるのが、嫌いなのだ。しかし、帰るにしても、もやが濃すぎて、車も出せまい。
それ[#「それ」に傍点]は、ゆっくりと、もやをかき分けるように近付いて来て……。木谷は目をみはった。
小さなボートか何か、長方形を少しいびつにしたような、箱みたいなもので、そこのへりから、一本の腕が――白い、どう見ても女性のものにしか見えない腕が、だらりと外へたれていたのである。
むき出しのその腕の白さが、なぜかもやを通しても、よく分った。
やはり、放っておくわけにはいかなかった。
木谷は、堤防から、コンクリートの斜面を、危なっかしい足どりで、下りて行った。
波が、パシャパシャとはねるように打ちつけて来る。落ちないように用心しながら見ると、それは、まるで計算したように、あるいは木谷に引き寄せられるかのように、近付いて来た。
手を伸して、それを引張ると、ガリガリと音をたてて、コンクリートの上にのり上げる格好になる。
中を覗き込んで、木谷は仰天することになった。
白い腕を箱の外へたらしていたのは、確かに女――それも、どう見ても十七、八の少女で、細長い箱の中に、|仰《あお》|向《む》けに横たわっていたのだ。
しかも少女は裸で――まるきりの裸だった。それだけでなく、木谷を驚かせたのは、少女の体が、血に覆われていたことだった。
それはほとんど全身くまなく、と言ってもいいほどで、少し丸顔の、青白い頬にも、血がついていた。
外へたれていた腕だけは、たぶん海水で洗い落とされたのだろう。
「大変だ……」
と、木谷は呟いた。
少女自身が、けがをしていて、その血なのかと思った。しかし、よく見ると、どこもけがをしている様子がない。
ともかく――このまま放っておくわけにもいかず、木谷は、苦労してバランスをとりながら、少女の体を、下に手を入れて、かかえ上げた。
木谷は、運動部できたえていたこともあって、腕力はある。少女の体を、何とか両手でかかえ上げることに成功した。
そして、足もとに力を入れながら、堤防を上って行った。
やっと上り切ると、さすがにホッと息をつく。
改めて見下ろすと、少女は死んではいないようだ。肌もつやがあって、胸がかすかに上下している。
そのとき、バリバリと木の裂ける音がして、見下ろすと、あの箱[#「箱」に傍点]が、波間に沈んで行くところだった。――どうしたんだろう?
そのとき、初めて木谷は思った。あの箱は、棺によく似てたな、と……。
本当に、どうかしてる。
――沢井|充《みつ》|子《こ》は、会社のお昼休み、外線直通の電話の前で、のんびりと週刊誌を広げていた。
今日は、お昼の〈電話当番〉に当っているのだ。――もちろん、受付、交換手がお昼休みの間、こうして、かかって来る電話に出ればいいのである。
昼休みには、どこの担当者も席にはいない。だから、充子の仕事も、ほとんど、
「後ほどお電話いたしますので――」
と、相手の名前を聞いておくことだけ。
至って呑気にやっていられて、お昼休みは一時からとれる。当番といっても、これは〈歓迎される当番〉なのである。
しかし――今日の沢井充子は少し落ちつかなかった。当番の仕事とは関係ない。
「本当に、少しおかしいわ……」
と、週刊誌を閉じて、充子は|呟《つぶや》いた。
充子は手もとの伝票を見た。――至って簡単な出金伝票。その金額を二けたも間違って書いている!
充子が事前に気付いて、書き直して出しておいたからいいようなものの、このまま課長へ出していたら、雷が落ちていただろう。
木谷さん、こんなこと、決してない人だったのに……。
充子は、木谷の机の方へ目をやった(大して広いオフィスではないのだ)。
もちろん今はお昼なので、席にいない。
だが、机の上がこのところ雑然としていることは、充子にもよく分る。以前なら、いつも木谷の机の上はきちんと片付いていた。
ただ単に、木谷も|年《と》|齢《し》をとって、不精になっただけなのか。それならいいが、どうもこのところ、話しかけても上の空ということが多いし、連絡を忘れたり、物を失くしたりする。
今のところ、|大《おお》|事《ごと》にはなっていないが、このままだと、その内、とんでもないことをやらかしそうな気がする。
まあ――もちろん、充子としては、別に木谷のことに気をつかわなければならない立場にいるわけではない。
沢井充子は二十九歳。独身で、目下、恋人もいない。――家の事情や何かで、それどころじゃなかったのである。
木谷は三十八歳。充子から見ても大分年上ではあるが、二人は確かに気が合った。
といっても、|専《もっぱ》ら、充子の方が木谷に声をかけているのだが。
二人とも、職場では地味な存在である。特に嫌われるということもなく、「おとなしい」という点でも、共通していた。
だから、充子としては木谷のことが気になるのだ。木谷が何か失敗して、上司に|怒《ど》|鳴《な》られる、という場面を見たくないのである。
でも――本当にこのところ、木谷さん、どうかしてる……。
電話が鳴って、充子は我に返った。
そう。当番としては、たまには電話にも鳴ってほしいよね。
「はい。〈S建材〉でございます。――は? 木谷……ですか」
相手は、相当に機嫌が悪い。充子は、チラッと周囲を見回して、
「本日は外出しておりまして、戻りませんが、何か……」
と、言った。
「いない? じゃ、上役を出してくれ!」
口やかましい客だろうか? 何かあったのだろう。
充子としては、何とかして、自分のところで食い止めたかった。
「あの――課長も出ておりまして。私、代りに承りますが」
「女じゃしょうがねえ」
向うの言い分にムッとしたが、
「私、木谷の先輩でございます。何か不都合がございましたでしょうか」
と、|甲《かん》|高《だか》い声で言ってやった。
「うむ……。まあ、いいや。俺はね、木谷さんにアパートを貸してる者だよ」
「大家さんでいらっしゃいますか」
「持主というかね。――俺はアパートにいるわけじゃないんだが。分るだろ?」
「はい」
「実はね、困ってるんだよ、木谷さんにゃ」
充子にとっても、思いがけない話だった。
木谷は、むしろ几帳面で、こまめに掃除などする方である。
「どういうことで……」
「あそこには、独り者ってことで入ってもらってるんだ。家賃だって、そう高くはとってねえつもりだ。しかしね、こっちに黙って、女を住まわせるってんじゃ、他の部屋の人にしめしがつかないんだよ」
充子は|唖《あ》|然《ぜん》とした。――木谷が女[#「女」に傍点]を?
「あの――それは本当ですか」
と、つい|訊《き》いてしまった。
「嘘ついて、どうするんだね」
「いえ――あの、もちろん、そういう意味では。――確かに女の人を置いているんでしょうか?」
「そうさ。それもまともじゃないんだよ。あの人は。留守中に絶対部屋へ入るな、と、凄い顔で管理人のじいさんを怒鳴りつけたっていうんだからね」
あの穏やかな木谷が! 充子には信じられなかった。
「しかも、昼間もカーテンを閉めっ放しにしてるっていうし。どうもね、変な女を隠してんじゃないかって、アパート中の人が不安がってるんだ。誰もその女を見てないんだよ。おかしいだろ? 何とかしてほしいんだがね」
と、その「大家」は言った。
「お話はよく分りました」
と、充子は言った。「木谷とよく話をして、善処いたしますので」
「頼んだぜ。こっちはね、何もケンカしたいわけじゃないんだ」
くどくどと文句を言うのを、何とか謝って打ち切らせると、充子は息をついた。
「木谷さんが……」
まさか、という思いと、最近の木谷の様子がおかしいことに納得がいった、という思いの間で、充子の気持は揺れていた。
ともかく――この話を、何とか上司の耳に入れないようにしなくてはならない。
充子は、木谷がちょうど戻って来るのを見て、立ち上った。
「――木谷さん」
と、呼びかけると、少し間を置いて、
「ああ、沢井さん。当番?」
と、返して来る。
これは以前からのことである。大体ワンテンポずれている人なのだ。
充子は、木谷のそういうところに、人間くささを感じているのだが。
「ええ。――木谷さん、最近眠そうね」
「そんなことないよ」
と、言うそばから|欠伸《あくび》をして、笑い出す。「ま、ちょっと寝不足でね」
「あら、珍しい。夜遊び? それとも恋人でもできたかな」
と、さりげなく言うと、
「僕にかい? まさか」
と、木谷は笑ったが、充子は彼が目をそらして、少し頬を赤くしたのを、見逃さなかった。
やっぱりか。「女」ができたのだ。
充子は別にやきもちをやいているわけではなかった。少なくとも、自分ではそのつもりだ。
「ねえ、木谷さん。ちょっと相談があるの。今日、帰りに、話を聞いてくれない?」
と、充子は言った。
「帰りに?――いや、悪いけどね」
木谷は、自分の席につくと、「急いで帰らなきゃならないんだ。悪いね」
「ほんの三十分くらいでいいんだけど。それでも?」
木谷の顔は、真剣だった。
「うん。だめなんだ」
「そう」
「――悪いけどね」
木谷は、充子と目が合わないようにしている。
充子は、木谷が変ってしまった、と思った。こんな風に|頑《かたく》ななところはなかったのに。
「昼休みとかじゃ、いけないのかい?」
木谷は、気がひけたのか、そう言った。
「いいの。――ごめんなさい。しつこくして」
「いや……」
充子が当番の席に戻る。
やはり、何かよほどのことなのだ。――木谷を、あそこまで変えてしまうというのは。
少しして、そっと振り向くと、木谷は席で居眠りをしていた。
――どんな女なんだろう?
しかも、昼間もカーテンを引いて、誰にも見せないというのは……。普通じゃない。
充子は、考え込んだ。
早急に何とかしなければ、あの「大家」は、またここへ電話して来るだろう。
充子は、時計を見た。――昼休みが終るのが、いやに遅く感じられた。
どんなに深刻に思えたことでも、一晩たつと大したことじゃないように思えて来るものだ。
沢井充子の場合もそうだった。
その晩、ほとんどまんじりともしないくらい、あれこれ考え込んでいたのに、一旦眠ると、十時過ぎまで寝てしまって、目を覚ますと、体が半分も軽くなったような気がした。
――今日は休暇をとったのである。
充子ほどのベテランになると、休暇届を出しても「だめ」と言われることは、まずない。
充子の方でも、前の日に急に休暇届を出すことは珍しい。もちろん、今日の休みは、木谷のためである。
あんまりのんびりしていたのでは、休みをとった意味がなくなる。
それでも、つい、「休んだからは」と、自分の部屋の掃除を始めてしまうのが、充子の性分というもの。
朝も昼も、食事抜きで、掃除を終えたのが午後一時。急いで仕度をして、出かける。
木谷のアパートへ、真直ぐに向うつもりだったが、さすがにお腹が空いて、途中、そば屋へ飛び込んだ。
木谷のアパートへは、前に一度行ったことがある。といっても、もちろん色っぽい話ではなく、出張に出る(珍しいことだが)木谷に、資料を届けに行ったのだ。
充子は、方向感覚には自信がある。今日も、うまく捜し当てて見せる、という気持だった。一度行ったのは三年も前だ。それでも、まるで知らずに行くのとは、わけが違う。
だが――自信も、時には裏目に出ることがある。
まず、木谷のアパートの近くまで行くはずのバスの路線が、大幅に変更になっていた。充子は、|焦《あせ》って、一旦逆方向のバスで元に戻り、改めて路線図を見直さなくてはならなかった。
しかも、やっともよりのバス停で降りてみると、目を疑うほどの変りようだ。三年たっているのだから、多少の変化は覚悟していたものの、これほどとは……。
立ち並ぶマンションは、すっかり辺りの風景を変えてしまっていた。
「確か、小学校の方へ歩くんだったわ」
と、勘を頼りに歩き出したが、いくら歩いても、見憶えのある場所には出ず、|諦《あきら》めて戻るはめになる。
結局、何軒かのお店で訊くという|屈辱《くつじょく》(?)を忍んで、やっと分ったのは、今、自分が歩いて行った方向が正しかったということ。ただ、途中、一つ信号がふえていたので、曲る角を間違ってしまっていたのである。
かくて――へとへとになりながら、充子がやっと木谷のいるアパートを見付けたときは、もう日の傾きかけた四時過ぎになっていたのだ。
しかし……。どこが木谷の部屋かは、外から一目見て分った。
カーテンを閉めてあるだけではない。窓ガラスそのものに、目隠しのように黒い紙がびっしり|貼《は》ってあって、カーテンさえ、端の方にかすかに覗いているにすぎないのである。
これは、あの「大家」も言っていないことだった。たぶんゆうべ――木谷が急いで帰って行ったのは、あの黒い紙を貼るためだったのかもしれない。
そう思うと、充子は一瞬、寒けを覚えた。昼日中、完全に窓をふさがれた真暗な部屋に、じっとひそんでいる女。
考えただけで、まともではない。木谷はどうしてしまったんだろう?
充子は、しばらく迷っていた。自分が口をさし|挟《はさ》むべきことではないかもしれない。何といっても、自分は木谷の単なる「同僚」にすぎないのだから。
でも――ここまで来て、何も確かめずに帰っていいだろうか?
「何をびくびくしてるのよ」
と、充子は自分に向って言った。
そう。――私は大人なんだ。暗いところが怖いと言って、泣いたりしない。
アパートの階段を上って行く。できるだけ足音をたてないように気を付けるのは、同様のアパート住いをしている人間の習性みたいなものである。
木谷の部屋のドアに近付くにつれ、足どりは重くなった。そして――やっと、ドアの前に立ったとき、充子はドキッとした。
ドアに貼り紙がしてある。誰の手とも分らない文字だった。太いサインペンで、黒々と、〈頭の狂った奴は出て行け!〉
――充子は、そっと左右のドアの列を見渡した。
このアパートの住人の誰かが書いて、ここに貼ったのだろう。充子は重苦しい気分で、それを眺めた。
今も、このドアの前に立つ自分を、誰かが見ているのだろうか?
木谷のやっていることも、普通ではない。それは確かだ。しかし、この貼り紙も、気味の悪い、隠れた悪意を感じさせた。
やはり、何とかしなければ……。このままでは、木谷はこのアパートにいられなくなるだろう。
充子は、一度深く息を吸い込んでから、木谷の部屋のチャイムを鳴らした。
チャイムを押して、充子はしばらく待った。
しかし、中からは何の返事もない。誰もいないのだろうか?
もう一度、ボタンを押してみる。そして、ふと気付いた。――それほど広いアパートではないのだから、部屋の中でチャイムが鳴れば、その音がドアの外にも少しは|洩《も》れ聞こえて来るはずである。
しかし、今は、いくらボタンを押して耳を澄ませていても、何も聞こえて来ない。もしかすると――。
「押してもむだですよ」
急にすぐ後ろで声がして、充子はびっくりして思わず声を上げそうになった。
「――ごめんなさい。びっくりした?」
と、エプロンをかけて、髪もボサボサ、一向に構わない感じの女性である。
「私、お隣の市川というの。あなた……」
「木谷さんと同じ会社の者です」
と、充子は自己紹介して、「ここ――チャイムが外してあるんですか」
「そうなのよ」
四十くらいか、男っぽく、サバサバした感じの、その市川という主婦は、ちょっと顔をしかめた。「ねえ、ちょっと変でしょ? 私も心配してるの。木谷さん、どうしちゃったのかしら、ってね」
「実は私も……」
と、充子は言って、相変らず応答のないドアへ目をやった。
「ね、お茶でもどう? そうそう。ちょうどコーヒー、いれたとこなの。良かったら、よって行かない?」
充子も人を見る目には自信がある。この主婦は、妙な噂に惑わされるタイプじゃない、と判断して、その言葉に甘えることにした。
「――よく片付いてますね」
と、その部屋へ上って、充子は感心した。
「そうでしょ? 何しろ独り暮しだから」
「え?」
充子は、ちょっと戸惑った。
「未亡人なの。ま、四十じゃね。もっと早く未亡人になってりゃ、何とか次の口[#「次の口」に傍点]も見付かったかもしれないのに」
「まあ……。存じませんで。失礼しました」
と、充子は頭を下げた。
「いえいえ。だから、時間を持て余しちゃって。――さ、どうぞ」
と、コーヒーをすすめる。
「恐れ入ります」
その主婦――いや未亡人は、市川百合子といった。
「主人の葬式を出したのが、つい十日前。やっと昨日からね、部屋の片付けを始めたの」
「そうでしたか」
充子も、木谷が〈葬儀に出るため〉という理由で早退していたことを、思い出していた。きっと、ここのご主人だったのだろう。
「ご病気でしたか」
と、充子が訊くと、
「いいえ。知らない? このところ、いくつか起ってる、通り魔」
「ええ、TVで……。じゃ、あの事件で?」
市川百合子は肯いて、
「普通、通り魔って、可愛い女の子とか、女の人を襲うもんでしょ? でも変ってるわよね。うちの主人みたいに、四十代半ばの男なんて、どうして狙うのかしら」
その話は、もちろん充子も聞いている。TVのニュース特集とかで、ずいぶん取り上げられていた。
殺されたのは、男ばかり。しかも、みんな同じように、刃物で喉を切り裂かれている。はっきりしているだけで、すでに四人の犠牲者が出ていた。その一人が、ここのご主人だったのだ。
「そう帰りが遅いわけじゃなかったのよ」
と、市川百合子は言った。「夜……十時少し過ぎくらいだったかしら」
「犯人はまだ――捕まっていないんでしたね?」
「ええ。警察もね、動機の分らない殺人っていうのが、一番手こずるらしいわ。主人の事件も下手すると迷宮入りね」
さりげない口調に、悔しさがにじみ出ている。「――ひどい傷だったわ。喉を切られて、さぞ痛かっただろうと思って……。凄く、痛がりでね、歯医者に行くのも怖いって言って、なかなか行こうとしなかったのよ」
市川百合子の目に涙が光った。
「ひどい話ですね」
とでも言う他はなかった。「早く犯人が捕まるといいけど」
「そうね……。ごめんなさい。せっかく上っていただいて、こんな話を聞かせて」
「いいえ……」
「――お隣のことは、私も心配してるの」
と、市川百合子は、気をとり直したように言った。「木谷さんは、そりゃあ常識のある方だったのに。ひと月くらい前から、突然ガラッと人が変ったようになって」
「そうなんです。――このままじゃいけないと思って」
「木谷さんのことを心配して? そうね。でも――もうむだかもしれないわ」
と、市川百合子は言った。
充子は、ちょっと詰った。
「あの――本当に、木谷さんの部屋には誰かいるんですか」
「いるわ」
と、市川百合子は即座に肯いた。「それは確かなの。私は隣だし、こんなアパート、壁も薄いでしょ。昼間でも、時折、何か動く物音がするのよ」
「何か――動物を飼ってるとか、そんなことじゃないんですか」
「そうじゃないと思うわ。――誰も姿は見てないけど、夜、遅く帰る人もいるでしょ? 何人かの人が、ドア越しに、かすかだけど、女の人の声を聞いてるの」
「TVの声とか、そんなことは……」
「木谷さんと話していたって。たぶん確かでしょう」
やはり事実だったのか。――充子は、ため息をついて、
「分りました。でも――どうしてそんなにしてまで隠さなくちゃいけないんでしょう」
「それなのよ。ちゃんと説明してくれればいいんだけどね。木谷さん、何も言ってくれないの」
充子は窓の方へ目をやった。――夕暮れどきになって、少しほの暗くなりつつある。
「どうもお邪魔して」
と、充子は腰を上げた。
「いいえ。何か分ったら、教えてあげるわ」
「ありがとうございます」
充子は一応名刺を置いて行くことにした。
「――ご主人を殺した犯人、早く捕まるといいですね」
と、玄関で言うと、
「ええ。――警察は発表してないけど、とっても妙なことがあるのよ、あの一連の事件には」
「え?」
「血をね、何かいれものにとって、持ち去ってるらしいの。――警察は、異常なマニアの犯罪かもしれない、って言ってるわ。〈吸血鬼[#「吸血鬼」に傍点]〉ものを読みすぎておかしくなった、とかね」
と、市川百合子は言った。
廊下へ出て、一人になると、充子はまた木谷の部屋の前で、足を止めた。
止めずにはいられない。この中に何がいるのか?
いや、人間の女だとしたら、なぜ木谷は隠しているのか。
充子は、もちろん木谷の身を案じてもいたが、同時に、強烈に好奇心を刺激されてもいたのである。
アパートの廊下に、赤く、夕陽が射し入っている。――そろそろ夕食の仕度にかかった家もあるのか、換気扇から流れ出した料理の匂いも、廊下に漂い始めた。
充子は、ドアを叩いた。――コンコン、コンコン、と小さく、何度か叩いた。
期待していたわけではない。どうしても、そうせずにいられなかったというだけなのである。
そう。もちろん反応はなくて……。
充子は立ち去ろうとして――聞いた。
何か、引きずるような音、ドアの向うに、何か[#「何か」に傍点]が動いている!
充子は、ドアに耳を押し当てた。――ザッ、ザザッ、と畳の上を、引きずるような音が、ドアの方へ近寄って来る。
何だろう? いや、誰だろう、と問わなくてはならないのか。
息を殺して、ドアへ耳を押し当てていた充子は、はっきりと気配[#「気配」に傍点]を感じた。ごく近くにそれ[#「それ」に傍点]はいる。
たぶん、ドアのすぐ向うにいて、こっちの様子をうかがっているのだ。
気のせいかもしれないが、充子は、その息づかいさえ、聞こえるような気がした。
充子は、思い切って、
「ここを開けて」
と、言った。
ドアの向うで、ハッと息をのむ気配がした。
「話があるの。――ここを開けて」
と、くり返す。
しかし――ドアは開かなかった。すぐ向うにその「何か」はいる。だが、なぜか充子に対して、ドアを開こうとはしない。
「何もしないから。心配しないで」
と、充子は言った。「私は、木谷さんの友だちよ。ここを開けて。どうしても話さなきゃいけないことがあるの」
返って来るのは、|頑《かたく》なな沈黙だけ。
突然、廊下が暗くなった。――日が落ちたのである。
同時に、空気が急に冷たくなったようで、充子は軽く身震いした。
どうやらむだらしい。充子は|諦《あきら》めて、引き上げることにした。
階段の方へと歩いて行くと――カチャリ、と背後で音がした。
まさか[#「まさか」に傍点]。そんなことがあるわけないわ……。
振り向いた充子の目に入ったのは、細く開いている、木谷の部屋のドアだった。
チェーンが、揺れている。細い隙間は、闇でぬりつぶされていた。
なぜ、ドアを開けたのだろう?
その細い隙間には、何も見えなかった。しかし、充子はじっとこっちを見ている目を、感じた[#「感じた」に傍点]。待ち受けている「誰か」を、感じた。
ドアが開いたのだ。中へ入って、その女[#「その女」に傍点]と話をしよう。
そう思っても、なぜか充子の足はなかなか動かなかった。廊下の暗さが増すと、まるでそれに合せて動くかのように、ドアはまた[#「また」に傍点]少し開いた。
呼んでいる。――こっちへ来て、と。
音にならない声を、聞いたような気がする。こっちへ入って……。
充子は、ゆっくりと、ドアへ向って、いや、暗いその隙間へ向って、足を進めた。
まるでその隙間が、ブラックホールのように自分を引き寄せている、と充子は感じた。
さあ。――さあ、もう少しよ[#「もう少しよ」に傍点]!
そのとき、自動的にセンサーが作動したのだろう、廊下の蛍光灯が、チカチカと光を放って、パッと廊下を照らし出した。
そのとたん、ドアはバタンと強く閉じた。
ハッと充子は我に返った。まるで――ほんのわずかの間、眠っていたかのようだ。
夢だったのか? ドアが細く開いて、誰かが|招《よ》んでいる、と感じたのは、ただの妄想だったのか……。
廊下に、充子が立ち尽していると、
「沢井さん!」
と、階段の方から声がした。「何してるんです、こんな所で?」
木谷が、そこに立っていた……。
「そんなことまで……」
木谷は、呟くように言って、首を振った。「知らなかった」
「ね、木谷さん。周囲じゃ大変な騒ぎになってるのよ。会社でも、あなた、最近様子がおかしいわ。このままエスカレートしたら、どうなるか……」
近くの喫茶店で、充子は木谷に関する心配を打ち明けた。
木谷はおとなしく聞いていた。時々、表に目をやる他は、身動きもしない。
「――ね、木谷さん。どんな女の人をあそこへ置いてるのか、私に話してちょうだい」
と、充子が身をのり出すようにして熱心に言うと、木谷は、しばらく考え込んでいる様子だった。
そして――ふっと笑った。
その笑いは、木谷が会社で見せたことのない|類《たぐい》の笑いで、必ずしも不愉快なものではなかった。
「いや、良く分った」
と、充子に|肯《うなず》いて見せると、「僕は必ずしも特別なことをしていた、というわけじゃない。ただ、人を助けただけで。――それも僕の|従妹《いとこ》でね」
「従妹?」
「今、高校生で、受験のためと言って、上京して来たんだ。しかし、この子は何度もノイローゼになってね……」
と、木谷は|淀《よど》みない口調で言った。
「まあ」
「ともかく、はれものに触るように扱われて来た子でね。僕も、その子の両親に世話になったことがあるんで、本当はまずいと思ったんだけど、やっぱり断り切れなかったのさ。ところが、やって来ると、やはり緊張するんだろうね。部屋から一歩も出ないし、アパートの他の人とも会いたくないと言うし……。ともかく、何かあって、そのせいで受験にしくじった、なんて言われても困るしね」
「そう……」
「昼間寝て、夜中に勉強してるんだ。それも、すっかり真暗にしないと寝られない、って言うんで、あんな見っともないことを……」
「でも、どうしてアパートの人や、大家さんに、そう話さないの?」
木谷は、ちょっと困ったように肩をすくめて、
「大体、いつも付合いがないしね、別に訊いて来た人もいないし。管理人じゃないのかな、妙なことを言い出したのは。もともと口やかましいじいさんでね。人に文句を言うのを楽しみにしてるような人間なんだ。きっと、自分の勝手な想像を、家主に吹き込んだんだよ」
木谷の説明は、一応筋が通っている。
「それならいいけど……。ホッとしたわ。どうなっちゃったのかと思ってた」
と、充子は言った。
「心配させて悪かったね。まさか、そんなことになってるなんて、思ってもいなかったから……」
木谷は照れながらも、「でも、僕のために休暇まで取ってくれて。――嬉しいよ」
と、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「あら」
充子も少し赤くなって、「同僚でしょ。それぐらいのこと」
そして、息をつくと、立ち上った。
「じゃ、もう失礼するわ。――さっき、お隣にお邪魔してたの」
「ああ、市川さんの所? あの人も気の毒にね」
「本当ね。木谷さんも気を付けて。中年男もやられてるのよ」
「全くだね。――あ、僕が払うから、いいんだよ」
「それじゃ……」
ここまでの交通費の方が、余計にかかっている。まあ、お茶の一杯ぐらい、ごちそうになってもいいだろう。
店を出て、別れようとした充子は、
「木谷さん、今日は早退して来たの?」
と|訊《き》いた。
「うん。歯医者に寄ってね。意外に早くすんだんだ」
「そう。じゃ、明日」
「ああ。どうもありがとう」
木谷は笑顔で手を振った。
――何てことなかったんだわ。
バス停へと歩きながら、充子は、すっかり気が楽になっていた。
訊いてみれば、分らないでもない。きっと木谷自身も、その女の子に振り回されて|苛《いら》|々《いら》しているんだろう。
勝手にあれこれ想像して、心配するもんじゃないわね、と充子は思った……。
しかし――帰り道、自分のアパートへ戻るころになると、充子の気分は、変化していたのである。
木谷の説明で安心したのは、自分が「納得したがっていた」からで、本当に得心が行ったわけではなかった、ということに気付いたのだ。
一つには――木谷の説明が、あまりに淀みなく、まるで、予行演習をくり返しでもしたかのようだったこと。それは、いつもの木谷とは全く違っていた。
それに、会社での木谷の変りようを、あの説明だけで、理解し切れるだろうか?
しかし、何よりも充子にとって引っかかるのは、自分の受けた、あの強烈な印象。――ドアが細く開いて、まるで見えない糸で引き寄せられるように、充子が近寄って行った、あのときの何とも説明のできない気持であった。
あそこには、何か[#「何か」に傍点]があった。
単に受験生がいるというだけではない。
おそらく……木谷は誰かに、「その女」のことを説明しなくてはならなくなるのを予期して、必死であの筋書を考えたのではなかったか。
何度も頭の中でくり返し、練習しておいたのではないか。
それでなかったら、あれほどスムーズに言葉は出て来なかっただろう。
充子は、また気が重くなったが、ともかく今日はどうすることもできない。明日、会社へ行ったら、もう一回話してみよう。
アパートへ帰り着くと、充子はひどく疲れていた。
夕食もとらずに、充子はそのまま布団へ潜り込んでいた……。
「充子さん」
と、昼休みの〈電話当番〉の子が、呼び止めた。
充子は、昼食から戻ったところだった。
「なあに?」
「電話があったわよ。ええと――市川百合子さん」
昨日の、隣の部屋の主婦だ。
「ありがとう。何か言ってた?」
「至急、電話下さいって」
「分ったわ」
充子は、|一《いっ》|旦《たん》オフィスを出て、公衆電話へと急いだ。――しかし、三台しかない電話は、お昼休み、OLたちのデートの打合せで一杯である。
何人も並んでいるのを見て、充子は諦めて席に戻ることにした。
たまには私用電話も仕方ないだろう。
だが、市川百合子の所へかけると、呼出音は聞こえたものの、いくら待っても、誰も出なかった。――どこかへ出かけたのかしら。
木谷の机へ目をやる。いやにきれいに片付いていた。昼休みには話をしようと思っていたのだが、仕事にとり紛れて、機会がなかったのだ。
充子は、立って行って、木谷の机に〈早退届〉が置かれているので、ドキッとした。
「――ね、木谷さん、いつ早退した?」
と、充子は当番の子に訊いた。
「ああ。――二十分くらい前かな」
と、時計を見て、「その市川さんって人の電話があって、少しして、女の人からかかって来たの、木谷さんあてに」
「女の人? 名前、言った?」
「訊いたけど、言わなかったわ。木谷さん、ちょうど戻ったとこで、その電話に出て、すぐ木谷さん、早退してっちゃった。ずいぶんあわててたわよ」
「そう……」
市川百合子の電話。女からの電話。――それはたぶん、あの部屋の中にいた女だろう。そして、木谷があわてて早退。市川百合子は部屋にいない……。
偶然か? それとも――。
充子は、もう一回、市川百合子の所へかけてみた。やはり誰も出ない。
もう、ためらわなかった。充子は、早退届を書いて、課長の机の上に置くと、ロッカールームへと駆けて行った。
――今度は迷わずにアパートへ着いた。
外から、木谷の部屋を見上げて、一瞬足を止めた。窓が割れている。
何があったのだろう?
充子は階段を駆け上り、市川百合子の部屋のドアを叩いた。何の手応えもない。
木谷の部屋へ入るのは、怖かった。しかし、今はそんなことを言っていられるときではない。
ドアを叩く前に、ノブをつかんでいた。開くような予感があった。
ドアは、開いた。――割れた窓から、風が抜けて行く。
割れた窓から、光が入って、部屋の様子は一目で見てとれた。
異様な匂いが、部屋そのものにしみ込んでいる。――生ぐさい、奇妙な匂い。
そして、部屋の中には、木谷も、「|謎《なぞ》の女」も見当らなかった。
「市川さん」
と、充子は呼んだ。「市川さん! いるんですか?」
ここへ来たのに違いない。玄関に、充子は昨日見たサンダルを見付けた。
「市川さん。――市川さん」
捜すといっても、そう広いアパートではない。浴室を|覗《のぞ》いた充子は、そのまま戻りかけて――ふと足を止めた。
浴槽にふたがしてある。普通、昼間は空にして、ふたは外しておくだろう。
充子は、浴槽へ近付いて、ふたを外した。
市川百合子が、膝を立て、背中を丸めた格好で、押し込まれていた。そして浴槽の底には血がたまっている。
充子は、よろけるように部屋を出て、廊下にしゃがみ込んだ。――全身が震えて、立つこともできない。
「どうしました?」
通りかかった奥さんに声をかけられて、充子はやっと、震える声で、
「警察へ――一一〇番へかけて下さい」
と、言った……。
疲れ切って、充子はアパートの自分の部屋へ入った。
もう夜中だ。
警察で事情聴取をされて、やっと戻ったところである。あのショックの後で、長い時間、木谷のことで、あれこれ話さなければならないのは、辛かったが、逃げ出すわけにもいかなかった……。
部屋へ上っても、服を脱ぐ元気もなく、ペタッと畳の上に座ってしまう。――今も、あの浴槽の中の血だまりが、目の前をチラついていて、消えない。
何という結果になってしまったのだろう。
こんな――こんな恐ろしい出来事を、一体誰が想像したか。
いや、あの未亡人は、市川百合子は、なぜか気付いていたのだ。隣室にひそむ「女」が夫を殺したのだということに。
浴槽の中の市川百合子の死体も、これまでに殺された男たちと同様に、喉を切り裂かれていたのである。
そして木谷は――その「謎の女」と共に、姿をくらました。当然共犯にされるだろう。
どうしてこんなことになってしまったのか。充子には見当もつかない。
――三十分近くも座っていて、やっと充子は着がえのために立ち上った。明日、会社へ行けるかどうか……。
きっと今夜は一睡もできないに違いない。
何とかして気持を落ちつかせようと、お湯を沸かし、お茶をいれた。
こんなときは、できるだけ細々したことに気持を集中させるに限る。忘れることはできなくても、そのこと[#「そのこと」に傍点]だけ考えていなくてもすむというものだ……。
ゆっくりお茶を飲んでいると、電話が鳴り出して、充子は心臓が止るかと思うほどびっくりした。
「はい。――もしもし。――どなた?」
「僕だよ」
受話器を持つ手が震えた。
「木谷さん!」
「――聞いたね。あそこで何があったか」
「私が見付けたの。アパートへ行って」
「そうか……。ショックだったろうね」
と、木谷は言った。「悪かった」
「ねえ……教えて。何があったの?」
木谷は、少し間を置いて、語り始めた。釣りに行って、一人の少女を海から救い上げたことを。
「――その女の子が、あなたの部屋にいたの?」
「うん。そうなんだ」
「でも――どうしてあんなむごいこと……」
「彼女はね、吸血鬼なんだ」
と、木谷は言った。
ごく当り前の口調で、それが|却《かえ》って恐ろしかった。
「吸血鬼?」
「うん。日本から海外へ出ようとして、木箱の中に棺を入れ、それを荷物にして船に積み込んだが、怪しまれて、海へ投げ捨てられてしまった。棺が浮いて、あの海辺へ打ち寄せられたんだ」
木谷は、少なくとも信じている。その女の話を。
「彼女はまだせいぜい十七、八に見えるが、実際は二百歳以上なんだ。絶えず新鮮な血をとっていないと、ひからびて、灰になってしまう」
木谷は狂ってしまったのだろうか? それとも、これは現実の話なのか。
「どうしてそんな女を――」
「僕にもね、よく分らない」
と、木谷は言った。「ただ……彼女は僕が守ってやらなきゃ、生きて行けないんだ。分るかい? 恐ろしい吸血鬼といったって、昼間の光を浴びただけで、命を失ってしまうんだよ」
木谷の声はやさしかった。いつもと少しの変りもない。
「彼女には、僕が必要だった。――こんなことは初めてだ。僕が必要とされたことなんてね。だから、僕は何とかして、彼女を守ってやりたいと思った……」
「木谷さん……」
「彼女は夜になると、外へ出て行った。もちろん、ここは中世のヨーロッパとは違う。夜も人が通り、町は明るい。そんな中で、彼女が命を保って行くための、最小限の人間を見付けるのも、容易じゃなかった。結局、僕も手伝う[#「手伝う」に傍点]ことにした」
充子は目を閉じた。
「――分ってるよ」
と、木谷がつづけた。「僕は怪物になった。でも、怪物も恐れてる。分るかい? いつ発見され、滅ぼされるかもしれない、という気持に、いつも怯えている」
「でも――なぜ、隣の奥さんまで……」
「ああ、あの人には本当に気の毒なことをしてしまった。ご主人だとは知らなかったんだ。後でそうと知ったときの、僕の動揺を、奥さんが目にとめていて……昨日、昼間に、僕の部屋へ入ったんだ。鍵をこわして」
「それで――」
「中は真暗で、あの奥さんは窓を叩き割った。外の光が射し込んで……。彼女は夢中で、あの奥さんを殺してしまった」
「木谷さん、聞いて」
と、充子は言った。「今、どこにいるのか分らないけど、聞いて。私はあなたを信じたい。でも、世間は違うわ。あなた[#「あなた」に傍点]が、喉を切り裂いた殺人犯だと思ってる」
「分ってる。それでいいんだ」
と、木谷は言った。「彼女は光を浴びて、今、ひどく弱っている。――ずっとそばについていることになるだろう。もう、僕は彼女と同じ[#「同じ」に傍点]だ。君が心配してくれて、嬉しいよ」
「どうするの、これから」
少し間があって、
「ともかく逃げて、隠れるよ、昼間は暗い所に。夜中になったら、狩り[#「狩り」に傍点]に出かけるさ」
充子は身震いした。
「やめて、木谷さん……」
「もう戻れないんだ」
と、木谷は淡々と言った。「でも僕は――」
「なに?」
「いや。――何でもない。君には、本当のことを言っておきたかった」
木谷はそう言った。「じゃあ。――また、いつか、生きていたら、電話するかもしれないよ……」
充子は、プツンと電話の切れる音を聞いても、じっとして動かなかった。
この話を警察へしたところで、むだだろう。一体誰が信じるだろうか?
吸血鬼。
本当に、「彼女」が存在するのか、それとも、木谷の幻想なのか。会社へ電話してきたのが、その「彼女」でないという可能性もある。
だが、少なくとも充子は信じた。それが、木谷にとって、唯一の慰めになるだろうという気がしたのだ……。
まだついて来てるわ。
充子は、もうこのところ慣れっこで、あんまり腹も立たなくなっていた。
実際、向うだって大変だろうと思う。何か成果があるかどうかも分らないのに、何か月もの間、ずっと一人の女を尾行しつづけるなんて、
その刑事は、まだ若くて、たぶん充子より三つ四つ年下だろうと思えた。時には、別の刑事が交替していることもあるが、すぐにまた元に戻る。
少し太り気味で、よく汗をかいている、
何となくユーモラスな感じさえ与える男である。もっとも、充子にとっては、そんな呑気なことを言っていられない状況ではあるのだが。
会社の帰り、充子は、いつもの食堂へ入った。――家庭的な味と、値段も安いので、充子のように独り暮しの人間にとっては、ありがたい店である。
「いらっしゃいませ」
人当りのいい、ここの女主人が、充子の顔を見て、ニッコリ笑う。
「今晩は。――あら、今日は混んでるのね」
と、店の中を見回して言った。
「珍しくね、この辺のお店が二軒ほど休んじゃったんですよ。それでね。――でも、その奥、空いてますから、どうぞ」
「すみません」
充子は、奥のテーブルについた。四人がけのテーブルに一人で座っているのは、何となく気がひけるものだ。
充子は、荷物を隣の椅子に置いて、メニューを眺めた。日替りの定食があり、いつもそれを頼んでいるのだが、一応こうしてメニューを眺めるのも、「儀式」のようなものだ。
「いらっしゃい」
と女主人が言った。
入って来たのは、あの刑事。
「一杯ですけど、相席でよろしければ」
刑事は、もちろん、という様に肯いている。
充子は、
「ここへどうぞ」
と、声をかけた。
刑事は、ちょっとためらっていたが、今さら知らん顔をしていても仕方ないと思ったのだろう、テーブルの間を通って、やって来た。
「どうも……」
と、挨拶するのが、何だか妙でもある。
「ご注文は?」
と、女主人がやって来る。
「私、定食」
「はい」
「じゃあ……僕も」
と、刑事が同調する。
「ご一緒ですか?」
「いえ、別よ」
女主人は、何だか不思議そうに、充子とその刑事を見て、戻って行った。
――二人とも、何となく黙り込んでいたが……。
「よくこの店に入りますね」
と、刑事が言った。
「ええ。ずいぶん昔からね。すっかり顔なじみ」
と、充子は笑顔で言った。
「いや、いいなあ、こういう店があると。僕もいつも外食ですからね」
「あら、お独り?」
「そうです」
と、少し刑事は照れたように、「まだ二十六ですから」
「あら。落ちついてらっしゃるから、もっと行ってるのかと思いましたわ」
「僕――落ちついてますか?」
「ええ、お腹の辺りが特に」
刑事は、ちょっとポカンとして、それから笑い出した。
「ひどいなあ。そんなに太ってますか、僕?」
「ごめんなさい。つい、からかってみたくなったの」
充子は、お茶を一口飲んで、「大変ね、お仕事も」
と、言った。
「いや……。まあ僕は上から言われてやってるだけですから。でも、おいやでしょ、つけ回されて」
「気持良くはありませんね」
と、正直に言う。
「すみません。――おごりましょうか、ここ?」
「結構。安いんでしょ、月給?」
刑事は、苦笑して、
「かなわないな! まあ、事実ではありますが」
と、言った。
でも――本当にどこにいるんだろう?
充子は、もうあのショックから立ち直っていたが、あの後、会社を一週間休んだ。
悪夢にうなされて、眠れない夜がつづいた。
「――何か手がかりはありませんの?」
と、充子は刑事に訊いていた。「あっても、教えてはいただけないわね。私のこと、共犯ぐらいに思ってるんだから」
「いや、そうじゃありません。――僕は、少なくとも」
この刑事も正直そうである。
「でも会社で噂になって、大変なんですよ」
「何がです?」
「あなたが、外出のときも、お昼休みもいつも私について歩いてるでしょう。だから、私のことを警察は疑ってるって」
「そんな! そんなことはありません」
「でも、会社の中では、専ら私はのけ者。上司からはっきり、辞めてくれとまで言われました」
刑事は唖然としていた。充子は首を振って、
「社員がずっと刑事に尾行されてて、喜ぶ会社があると思います?」
と、言ってやった。
「そりゃまあ……。しかし、すみませんね。これから目立たないようにします」
珍しく低姿勢な刑事である。
色々事情を聞かれる中で、充子はほとんど犯人扱いされて、しばしば唇をかみしめたものだ。
「しかし、もう大丈夫なんですか……。クビの方は?」
「辞められませんわ。食べていかなくちゃならないし。何言われても平気でいなきゃ。――落合部長は、とてもやかましいんです、うちの課長をつついて、あれこれ言わせて。分ってるんです」
「落合っていうんですか」
「部長ですけど、ともかく女ぐせの悪い人で、取引先のおつかいで、ちょっと可愛い子が来ると、すぐお茶に誘ったり。――愛人を何人もとりかえてるって話です」
「へえ」
「奥さんとは別居同様で、娘さんが家を出て、帰らないとか。――よく分りますわ」
と、充子は言って、「――どうかしまして?」
と、何だか妙な顔をしている刑事を見た。
「あの……僕も落合[#「落合」に傍点]といいます」
充子は唖然として――二人は一緒に笑い出していた……。
「本当に、悪い人じゃなかったんです」
食事をすませて、お茶を飲みながら、充子は言った。「その〈彼女〉を守ってやりたい。――それだけなんですわ、きっと」
「しかし、はっきりしているだけで、もう六人ですからね」
「ええ、分ってます。罪は罪です。でも、木谷さんは、異常者というのとは、少し違います。一人でいるのが好きな、内気な人でした……」
落合刑事は、ゆっくりと肯いた。
「分ります。でもあなたはやさしいんですね。そうやって、ずっと木谷のことを……」
「あの人の気持が良く分るだけです」
と、充子は少し顔を赤らめた。
「しかし、どこに隠れているのか、本当に手がかりがないんです。まあ、遠くへは逃げていないはずですけどね」
刑事は、ゆっくりとぬるくなったお茶をのみ干した。
「あの――ちょっと」
と、女主人が、充子に声をかけた。
「は?」
充子は、当惑して、立ち上った。
女主人について、店の奥へ入って行くと、
「あのね、今、電話が」
「電話?」
「沢井充子さん、ですよね」
「ええ、そうです」
「伝えてくれって。K町の倉庫で待ってるからって」
「K町の倉庫?」
「そう言ってくれれば分るって、切っちゃったんです。男の人で、名前も言いませんでしたよ」
充子の顔から、スッと血の気がひいた。
女主人がびっくりして、
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫。――ありがとう。分りました」
と、充子は言って、席へ戻った。
「――どうかしましたか?」
と、刑事が訊く。
「いいえ。何でも。――くたびれたわ、もう少し座ってようかな。あなたは?」
「僕はあなたについて行くだけです」
「それはそうね」
と、充子は笑った。
「ちょっと失礼して、トイレに――」
と、刑事が席を立って、奥へ入って行った。
充子は、少しの間動かなかった。それからパッとバッグをとると、お金をテーブルに置いて、足早に店を出た。
タクシーを拾う。
「K町へ。――近くまで行ったら言います」
と、早口に言った。
木谷! 木谷だ。間違いない。
K町の倉庫というのは、充子たちの勤めている会社が、かつて持っていた、古い建物である。
今はもう使っていないはずで、どうなっているのか、充子も知らなかった。
ただ、以前に、充子と木谷がK町の倉庫の整理にかり出されて行ったことがあるのだ。|埃《ほこり》まみれになって大変だったが、結構楽しい思い出でもある。
だから、木谷は、「K町の倉庫」だけで、充子には分かる、と思ったのだ。
あの店にはよく木谷とも入ったことがある。電話して来ても不思議はない。
しかし――落合という刑事を置いて来てしまったのは、本当ならまずかっただろう。
でも……充子は、どうしても木谷を警察へ自分の手で引き渡すのはいやだった。せめて、せめて、彼には自分から警察へ行ってほしい。
でも――彼は変っているだろうか?
充子は、怖いような気持だった。
倉庫は、そこにあった。
夜なので、不気味な建物に見えたが、昼間見れば、どうということのない、古ぼけたビルに過ぎないのだ。
タクシーを降り、一人で倉庫の建物の前に立つ。――そこへ来て、中へ入るかどうか、迷った。
この中に隠れているのだろうか?
ビルの入口は小さい。その中の暗がりを覗き込んでいると、
「来てくれたね」
と、背後で声がした。
「びっくりした! 木谷……さん?」
「ああ」
月明りしかなかった。
しかし、木谷の髪が白くなり、別人のように|老《ふ》け込んでしまったことを見てとるには、月明りで充分だった。
「大丈夫?――どうしてるの」
妙な訊き方だったかもしれない。
充子は、今自分が恐ろしい殺人犯と会っている、などとは、全く考えなかった。
そこに立っているのは、古びたコートをはおって、疲れた、一人の男……。まるで、十年も老け込んだようだ。
「迷惑をかけたね」
と、木谷は言った。「申しわけないと思ってるよ」
「木谷さん……」
「もう、おしまいだ」
と、木谷は、|呟《つぶや》くように言った。
「おしまい、って……。じゃ、彼女[#「彼女」に傍点]は?」
「もうすぐ死ぬだろう」
と、木谷は言った。「結局、僕は彼女を守ってやることさえ、できなかった」
「でも……」
「近付かない方がいいかもしれないよ」
と、木谷は言った。
「どうして?」
「血の匂い[#「血の匂い」に傍点]が移る。――このところの殺人は、ずっと僕がやっていたんだ」
当り前の口調だった。「もう彼女には、狩り[#「狩り」に傍点]をするだけの力がない。僕は男を殺して、その血を、彼女のところへ運んだ」
「もう終るんでしょう、でも? 木谷さん、終らせなきゃ!」
と、充子は、木谷の方へ進んで行った。
「止って!」
と、木谷が言った。
「どうして?」
木谷が、コートのポケットから手を出した。カミソリが――月明りに白く光った。
充子は、青ざめた。しかし、逃げようとは思わなかった。
「君に頼みがある」
と、木谷が言った。「わざわざここまで来てもらったのは――」
突然、タタッと足音がした。
「動くな! カミソリを捨てろ!」
落合刑事が、拳銃を、両手を一杯にのばして構えていた。「それを捨てろ!」
「刑事さん!」
充子が、木谷の前に立った。
「どいて! どくんだ!」
「いいえ。――私が説得します。だから待って! 撃たないで」
充子は必死で叫ぶように言った。
「そこにいちゃいけない」
と、木谷が言った。「――さあ、わきへ」
「でも……」
「いいから」
木谷は、左手で、充子を押しやった。充子は傍へ退いた。――どうするのだろう?
「カミソリを捨てろ!」
落合刑事の声は、震えている。当然だろう。こんな場面に出くわしたのは初めてに違いない。
汗が、刑事の額に光っている。木谷の方は、顔色一つ変えていない。
「ちょうどいい所へ来てくれた」
と、木谷は言った。「困ってたんだ。男[#「男」に傍点]が見付からなくてね。君なら、まあいいだろう」
木谷は、ゆっくりと落合刑事の方へ進んで行く。
「撃つぞ!――止れ!」
刑事の方がじりじりと後ずさっている。「撃つぞ!」
「撃てるもんか」
と、木谷は笑った。「ガタガタ震えてるじゃないか。――さあ、その喉を切り裂いて、たっぷり血をもらってやる。ちゃんときれいに洗ってあるかい?」
カミソリがキラッと光った。
同時に、落合刑事の拳銃が発射されて、短い爆発音が、充子の耳を打った。
木谷が、後ろへよろけた。カミソリが落ちて、チリン、と音をたてる。
わき腹を押えて、木谷は|呻《うめ》きながら、何とか踏み止まった。そして、
「下手だなあ……。こんな近くから撃って」
と、木谷は言うと、信じられないような勢いで駆け出した。
刑事の方は、とても追いかけるだけの余裕はなかった。その場に、ペタッと座り込んでしまう。
「刑事さん……」
充子は、近付いて、「大丈夫?」
「逃がしちまった……」
と、刑事は言った。「早く……手配しないと……」
「あの人は、わざと撃たれたのよ」
刑事が充子を見た。
「何ですって?」
「分かったわ、私には」
木谷は、充子に頼もうとしていたのだ。
自分の血を[#「自分の血を」に傍点]――。
「さあ……持って来たよ」
木谷は、よろけつつ地下室へ入って行くと、喜びに溢れた声で言った。「新鮮な血だ[#「新鮮な血だ」に傍点]! 君は生きられる!」
ほとんど手探りで、木谷は進んで行った。
「さあ、早く――この血を……」
木谷は、それ[#「それ」に傍点]の上に、覆いかぶさるように倒れた。――血はとめどなく流れ出して、その上に注いで行った。
地下室は、いつまでも続くような闇の中にあって、静かだった。
木谷は、自分の体の下で力強く脈打つ鼓動が、聞こえているような気がしていた。やがて、何もかもが、木谷自身の深い闇の底へと消えて行った……。
第六話 雨、再び
「もしもし、あなた?」
「――伸子か」
と、落合和男は言った。「何だ」
「久美子のこと。それらしい子を見かけたって、知り合いの奥さんが」
落合は、電話しながら、タバコをくわえて、ライターで火を点けようとしていた。しかし、いくらやっても、うまく火が出ないのである。
「あなた――」
「聞いてる」
|諦《あきら》めて、タバコを灰皿へ置く。「確かに久美子なのか?」
「見かけただけだって。でも、久美子のことをよく知ってる奥さんだし」
「しかし……。まあいい。どこだって?」
落合はメモをとった。「――そんな所で女の子一人見かけたからって、捜せやしないぞ」
「でも、やってみて」
「ああ、分った」
「電話して下さいね。――必ず」
と、伸子は言った。
「分ってる」
落合は、妻からの電話を、切った。
もう一度ライターをためすと、すぐに火が出た。タバコにつけて、一服する。
アームチェアで、体を伸すと、少し視界がはっきりしたようでもある。
初めて、机の上の一通の封書に気付いた。
〈辞職願〉と、きれいな字で書いてある。
沢井充子か。――やっと辞めるのか。
落合は、沢井充子が何となく気に入らなかった。もちろん、仕事の上ではベテランであり、辞められれば、あれこれ困ることもあるだろう。
しかし、落合は、沢井充子が一向に上役のご機嫌をとろうとして来ないのが、気に入らないのだ。むしろ、腹の中では見下している風ですらある。
木谷の事件に|係《かかわ》っていることで、クビにもできた。しかし、それは面白くなかった。あくまで向うに辞めてほしかった。
いい具合だ。――落合は、中も見なかった。すぐに課長を呼び、手続きをとるように言いつける。
「かしこまりました」
と、課長は頭を下げて、「しかし、木谷はどうしたんでしょうかね。あんな妙なことが――」
「知るか」
と、落合は手を振って、「沢井充子には、いつでもいいと言っとけ。今日辞めても構わん」
「しかし、仕事の引継ぎが――」
「それぐらいお前ができるだろう」
落合がジロッとにらむと、課長は、
「はい!」
と、あわてて答えて、出て行った。
落合は、メモを見た。――久美子か。
自分の娘のことだ。心配していないわけではない。しかし、久美子を捜して、東京中の盛り場をうろつき回るなんて暇は、落合にはない。
伸子は、すぐにこうやって電話をかけて来る。――それも交換手を通して。
直通の電話があるのに、だ。
分っている。伸子は、わざわざ「家内です」と言いたいのだ。まだ別れていないんですよ、というわけだ。
落合は、妻の所――つまり自分の家には帰っていない。今は別の女のところから通っている。
伸子のように、やたら泣いたり、わめいたりしない女だ。――もっとも、こっちもいつまでおとなしいか。
女はみんな同じだ。少し甘くすると、つけ上る。
インタホンが鳴って、
「木谷さんのことで、取材の人がみえていますが」
と、受付の声。
「断れ」
と、即座に言った。「木谷はとっくに、うちの社員じゃない」
やれやれ、全く……。
今どき「吸血鬼」騒ぎか。――馬鹿げてる。
木谷の死体は、取りこわされることになっているビルの地下室で見付かった。木谷の死体の下には、白い灰のようなものが広がっていたらしいが、警官が中へ入ったとき、けちらして、何だか分らなくなってしまった。
沢井充子の話をもとに、その灰が「吸血鬼」の死体だ、などとTVに出たりして、言ってる奴がいる。気楽なもんだよ、全く!
それでも「仕事」で、金を稼ぐんだからな。こっちはそんな連中の何倍も働いてるのに。
こんなストレスを解消するには、女の一人や二人、仕方のないことだ。
伸子には何も分っちゃいない。
久美子が家を出たのも、父親のせいだと言っているが、伸子から年中父の悪口を聞かされてりゃ当然そうなる。
それでいて、久美子が不良と付合い出して、外泊するようになると、伸子は青くなって、
「何とかして! あなたの娘でしょ!」
と、こっちへわめきちらすんだ。
人間は、いつか自分でつけ[#「つけ」に傍点]を払うときが来る。久美子が、今、ぐれていれば、将来必ず、そのことで支払いをしなくてはいけないのだ。
もう十八だ。放っておくしかない。
落合はそう思っていた。
「――部長」
と、ドアが開いて、受付の女性が入って来た。
「どうした?」
「取材の人は帰りました。ただ……」
「何だ」
「警察の方が。部長にお会いしたいと言ってみえてます」
「そうか。――じゃ仕方ないな」
と、落合が肩をすくめる。「応接へでも通しとけ」
「はい、あの……」
と、何やらクスクス笑っている。
「どうした?」
「その刑事さんも、落合っておっしゃるんです」
受付の子が笑いをかみ殺して出て行くと、落合は|呆《あき》れて、しばらく立ち上れなかった……。
「では何とぞよろしく」
と、落合[#「落合」に傍点]刑事は馬鹿ていねいに頭を下げて帰って行く。
「ご苦労様です」
と、落合は一応頭を下げて見送った。
刑事がいなくなると、落合は顔を真赤にして、
「おい、沢井君を呼べ!」
と、怒鳴った。
「――お呼びですか」
応接室へ入って来た沢井充子は、いつもと変りない様子をしていた。
「君は、木谷のことで、社にずいぶん迷惑をかけた。今度は脅迫か」
「何のことでしょう」
「とぼけてるのか? 今、落合とかいう、若い刑事が来たぞ」
充子は目をみはって、
「存じませんでした」
「本当か?――何と言ったと思う? 君をクビにしないでくれ、とさ」
落合は首を振った。「刑事とも仲がいいのか。吸血鬼から刑事まで、幅の広いことだ」
「私は何も言っていません」
「君の辞表が出た日に来るってのは、妙じゃないか」
「それは偶然です」
「怪しいもんだ。――いいか、いくら刑事が何か言っても、引き止めたりせんぞ」
「引き止められても、残りません」
と、充子は言い返した。「ご用はそれだけですか」
「あの刑事とも寝たのか」
充子は、テーブルに置いてあった、落合刑事の飲みかけたお茶を、落合に叩きつけるようにかけた。
「何をする!」
「クビになさるならどうぞ」
充子は、キッと落合をにらんで、出て行った……。
落合は、ハンカチを出して、顔や首すじを拭いたが、シャツまで濡れてしまっていた。
「畜生!」
クビになりたきゃ喜んでそうしてやる! 一文だって退職金なんか出すもんか。
しかし、夜には、業界のパーティがある。
落合はチラッと時計を見た。――大丈夫、間に合うだろう。
急いで会社を出て、落合はタクシーでマンションへ向った。今、女といるマンションである。
会社から近いし、こんなときには便利だ。
落合は、窓から外を眺め、空を見上げた。
「降りそうですね」
と、運転手が言った。
「ああ……」
今夜、久美子を捜しに行くのはやめよう。伸子には、
「見付からなかった」
と言えばすむことだ。
「そこの右だ。――ああ、ここで、ちょっと待っててくれ。もう一度、さっきのビルへ戻る」
「はい」
運転手は肯いて、落合がマンションへ入って行くと、すぐに居眠りを始めた。
――落合は、エレベーターで五階へ上り、自分の部屋へと急いだ。
こんなときは、伸子の方が便利だ。何と何を、どう組み合せればいいか、いちいち落合が考えなくても決めてくれる。
しかし、|寿《とし》|代《よ》は、そういう点、特殊なセンスをしているので、全く役に立たないのである。
ま、いい。適当に見つくろうさ。
チャイムを鳴らすのも面倒で、落合は鍵でドアを開けた。
「おい。――寿代。――おい」
留守か? よく遊びに行くからな。
落合はクロゼットのある寝室のドアを開けた。寿代はいた。他の男と――愛し合っている最中だった。
「――キャッ!」
落合に気付いた寿代がはね起きた。「あなた……。ど、どうしたの?」
あわてて下着をかき集める。
男の方は、ポカンとして、毛布で腰から下を覆っている。――どこかで見たことのある……。
「そうか。銀行員だな」
と、落合は言った。
真青になっている男を尻目に、落合は、クロゼットから、ワイシャツやスーツを出した。
「ね、あなた……」
寿代が、ベッドから出て来た。「ごめんなさい……。あの……つい……」
「忙しいんだ。後にしろ」
落合は、青くなっている銀行員の方へ、「預金は全部よそへ移す。そのつもりでいろ」
と、言った。
落合は、スーツやネクタイ、ワイシャツと一揃い持って、寝室を出た。もちろん、本当はここで着がえて行くつもりだったのである。
何てことだ! 畜生!
落合は、マンションのドアを、思い切り足でけって閉めてやった。
――誰だ?
うるさいな。放っといてくれ。
落合は、寝返りを打った。
そして気付いた。うるさいのは、自分のいびきだった。
目を開ける。――ひどい状態だった。
頭が割れそうに痛い。したたか飲んで、酔った。久しぶりのことだ。
パーティでも、いい加減飲み、その後バーへくり出して飲み、それから――。それから?
どこかで飲んだ。それは確かだ。
ぼんやりと思い出す。――可愛い子がいますけどね……。
そうさ。酔ってりゃ、誰だって可愛く見える。一夜明けたら「お化け」かもしれないが。
ぼんやりと、部屋の中が見えた。――どこだ?
マンションではない。あそこは寿代が使ってて、たてこんでる[#「たてこんでる」に傍点]。もちろん自宅でもないし……。
そうか。どこかに泊ったんだ。ホテル。どこのホテルか……。
もう朝になっているらしい。カーテンの隙間から白い光が洩れ入っている。少し身動きすると、また頭が痛んだ。そして、|欠伸《あくび》しながら、ふとわきを見ると――こっちへ背を向けて、女が寝ていた。
そうか……。そうだった。
可愛い子が――。結局、金を払ったんだ。何万だったか。何も憶えてないんじゃ、丸損だな。
落合は、そろそろとベッドから出て、スリッパをはいた。落ちていたバスローブを拾って、はおる。
降りそうですね。――何だか知らないが、あの運転手の言葉を思い出した。
窓の所へ行って、カーテンを少し開けると、ずっと下に、朝の町が広がった。ずいぶん高い階に泊ったんだな。
曇ってはいたが、雨は降っていなかった。何時だろう?
下を見ると、サラリーマンやOLたちが、ゾロゾロと歩いている。九時前らしい。これから仕事という感じだ。
ちょっと頭を振ると、声を上げたくなるくらい、痛んだ。
休むか、今日は。――昨日の寿代のこと、伸子の電話、沢井充子にお茶をかけられたこと……。最悪の一日だった。
今日は――そう、今日はもう少しまし[#「まし」に傍点]な日になるだろう。
ベッドの方で、音がした。振り向くと、女が、寝返りを打って、窓の方へ顔を向け、また寝入った。
そして――何もかも[#「何もかも」に傍点]、頭痛も、下界の光景も、最悪の一日も、怒りも、苛立ちも、すべてが消し飛んだ。
ぐっすりと寝入っている、その女の――いや少女の顔を見た瞬間に。
「――久美子[#「久美子」に傍点]」
と|呟《つぶや》く声は、かすれ、震えていた。
「どうも……」
と、その少し太った若い男は言った。「私――落合と申します」
「はあ……」
伸子は、別に何とも思わなかった。自分の姓と同じだということに、気付かなかったのだ。
「ちょうどあの前日にお目にかかりました。とても貫禄のある、立派な方で――」
「ありがとうございます」
「しかし……何もお心当りは……」
「はあ」
「そうですか。――いや、本当に、お気の毒でした」
「どうも」
その男が出て行ってから、伸子は、ふと思った。
今の人、落合っていったかしら?
――告別式は、終りに近かった。
大勢の人がやって来たが、残っている人は少ない。どうしても、自殺というせいで、遠慮してしまうのだろう。
夫の写真を捜すのに大分苦労した。
たいていは、怒ったような、不機嫌な顔をしていて、葬儀には向かなかったのである。結局使ったのは、少し昔の、家族でとった一枚から拡大したものだった。
家族で。――でも、みんないなくなってしまった。久美子も。夫も。
伸子は、隣の椅子に誰かが座るのに気付いて、顔を向けた。――黒のワンピースの久美子が、少し青白い横顔を見せて、座っていた。
「久美子……」
幻かと思った。しかし久美子は、伸子の方を向いて、ちょっと|微《ほほ》|笑《え》んで見せると、
「ただいま」
と、言った。「遅れてごめんね。美容院が混んでて」
「久美子……」
伸子の手に、久美子の手が重なった。
帰って来た。久美子は帰って来たのだ。
涙が、重ねた二人の手の甲に落ちて、はねた。
「――久美子、お父さんは……」
「知ってる。聞いたよ」
「そう」
伸子は、写真の方へ目をやった。「――どうしてあんなことしたのかしら……」
久美子は、黙って、白木の棺を見ていた。
――出棺になると、会社の若い男性たちが、棺を運んだ。
「久美子。――あなた写真を」
「うん」
久美子は、父の遺影を体の前に持って、ゆっくりと棺に従った。
――あの夜[#「あの夜」に傍点]。
久美子は、暗い部屋の中で、男[#「男」に傍点]を待っていた。何度も経験した「アルバイト」だった。酔って入って来た男は、明りもつけず、ものも言わずに、久美子にのしかかって来た。
それが父だと知ったのは、もう止めようもなく、顔が間近に迫って来て、酒くさい息を吐きかけ、久美子の中へ押し入って来ようとする、その間際だった。
やめて、お父さん! 私よ!
なぜ、あのとき、叫ばなかったのだろう。
もし、大声で、そう叫んでいたら……。
しかし久美子は黙っていた。そして父の体に寄り添って眠ったのである。
父への仕返しか。そうだったかもしれない。
翌朝、父が、自分のしたことを知って|愕《がく》|然《ぜん》とし、よろめきながら出て行くのを、久美子はちゃんと知っていたのだ。そしてベッドの中で、笑って、それから泣いた。
父が「払った」金で、仲間たちと飲んだ。
そして、スナックのTVのニュースで、父が電車に飛び込んだことを知ったのだった。
あの夜。もし、何もなかったら……。
私が――私が[#「私が」に傍点]お父さんを殺した。
「久美子、車に乗って」
と、母が言った。
「うん……」
「あら、雨が」
重苦しい灰色の空が、堪え切れなくなったように、大粒の雨を降らせ始めた。
残っていた人たちが、受付のテントの下へ駆け込む。棺を早く入れようと、男性たちが焦っていた。
「久美子、濡れるわ。早く車に」
「お母さん。大丈夫」
と、久美子は、母に遺影を渡して言った。「少し、外にいたいの」
母は戸惑ったように久美子を見たが、何も言わなかった。久美子が、そんなしゃべり方をするのを、初めて聞いたのかもしれない。
雨は、久美子の肩や、美容院でトリートメントしてもらった髪を濡らした。
ふと、雨が当らなくなる。振り向くと、会社の若い男性社員が、傘をさしかけてくれていた。
「ありがとう」
と、久美子は言った。
「これ、どうぞ」
緊張した様子で、久美子に傘を手渡すと、その男性は、テントの方へ駆けて行った。
久美子は、あの日[#「あの日」に傍点]の雨を思い出した。そう遠い昔のことではないが、今となっては、はるかに昔のこと。
久美子は、傘をさして、表の道へ出た。
坂を見下ろす。今は雨でけむっている坂道を、あの日、二人で上って来た。
帰りたい。あの日に。
もし――もしあの日、彼が傘をさしかけてくれなかったら……。
いや――これでいい。
父は死を選ぶことで、娘への、最後の愛情を、証明しようとしたのだろう。それは確かに、久美子をこの家へと連れ戻した。
無理にではなく、久美子は自らの意志で、帰って来たのだ。
これでいい。これで良かったんだ。
ふと――久美子は、坂を上って来る二つの人影を認めた。
大人と子供との二人。父親と、小さな女の子。
そう! あれはお父さんと私だ[#「あれはお父さんと私だ」に傍点]!
思い出した。――雨が途中から降り出した夕方、大きな父の傘をかかえ、真赤なレインコートにゴム長靴をはいて、下のバス停まで父を迎えに行ったこと。
自分の黄色い、目立つ傘。父の、大きな傘。
父は嬉しそうに、久美子の傘はたたませて、自分の大きな傘の下へ一緒に入れた。
その傘は、父と久美子を充分に|覆《おお》って、まだ余裕があるくらいだった。
雨が、あんなに楽しかった日があっただろうか? わざと飛びはねてやると、父のズボンの|裾《すそ》にはねが上って、でも、父は笑っていた。
――やって来る。坂を上って来る。
久美子の頬を、涙が落ちて行った。
どうして人は大人になるのだろう。いつまでも、一つの傘の下で、二人も三人も入っていられないのだろう。
そのとき、久美子の胸に烈しくこみ上げ、突き上げて来るものがあった。
涙を、力をこめて|拭《ぬぐ》うと、もう坂を上って来る父と娘の姿は消えていた。
お父さん……。
久美子は、傘を投げ捨てると、空へ顔を向けた。
雨が落ちて来る。雨が、久美子を洗い流して行く。
雨は、久美子と父との間にわだかまっていたもの――憎しみも、怒りも、幻滅も、すべてを洗い浄めようとするように、勢いを増して降り続けていた。
本書は一九九一年十一月カドカワ・ノベルズより「|輪舞《ロンド》」として刊行したものを改題致しました。なお、第三話の「かもめ」の台詞は原卓也訳「集英社ギャラリー・世界の文学」から引用させていただきました。
|輪舞《ロンド》―|恋《こい》と|死《し》のゲーム
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年7月13日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『輪舞』平成 6年7月25日初版発行
平成10年5月30日 9版発行