角川e文庫
赤いこうもり|傘《がさ》
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
プロローグ
1 かくて、武勇伝始まる(土曜日)
2 幻の調べ(土曜日)
3 死体登場(日曜日)
4 誘拐された楽器(日曜日)
5 展 開(月曜日)
6 公園にて(月曜日〜火曜日)
7 決 闘(火曜日〜水曜日)
8 裕 二(水曜日)
9 暗闇の闘い(木曜日)
10 新しい朝(木曜日)
11 箱根へ(木曜日)
12 幕 間(木曜日)
13 ロープウェイ(金曜日)
14 危 機(金曜日)
15 凱 旋(金曜日〜土曜日)
16 演奏会の夜(土曜日)
17 真 相(土曜日)
18 死者の微笑み(土曜日〜日曜日)
19 パーティーの夜(日曜日)
20 別 れ(月曜日)
エピローグ
プロローグ
ドーヴァー海峡を深い霧が流れていた。
霧笛が息苦しいような叫びを上げて、ドーヴァー連絡船は霧の中を進んでいる。ロンドンからパリヘ向かう列車を丸ごと飲み込んだ巨体は、なおも、その他に自動車、一般乗客も乗せて、いかにも重たげに波を押し分けて行く。
霧の冷たい午後で、甲板にもほとんど人影がなかった。ただ一人、グレーのコートに身を包んだ中年のイギリス紳士が手すりにもたれて、白い霧の壁を眺めている。そのうち、紳士はふと、背後の足音に気付いて振り返った。
甲板にも霧が立ちこめているので、足音の主の姿はかすかな輪郭が見えるだけだ。イギリス紳士はしばらく相手の様子をうかがっていたが、霧の裂け目に黒いコート姿がのぞくと、声をかけた。正確な|英国英語《キングズ・イングリッシュ》である。
「ドーヴァーはいつも霧ですな」
黒いコートの男が答えた。
「ロンドンは晴れでしょう」
ドイツなまりの、固い英語であった。
紳士の方は、ほっと肩の力をゆるめて、
「新しい顔なので、ちょっと心配したよ」
と|微《ほほ》|笑《え》んだ。黒いコートの男は、ゆっくり歩を進めて、イギリス紳士と並んで、手すりに両手をのせた。
際立った対照の二人である。イギリス人の方は長身で、大柄。ビール好きらしい赤ら顔に、人の好さそうな笑みを浮かべた四十代半ばの中年男だった。一方の黒いコートに身を包んだ男は、年の|頃《ころ》こそ同じに見えたが、透き通るような金髪に、|狐《きつね》を連想させる細い|碧《あお》い眼と、|尖《とが》った鼻。薄い唇は無表情に結ばれたままだ。中肉中背の体つきは、見るからに|敏捷《びんしょう》そうで、強いバネを内に秘めているようだった。
イギリス人は言葉を続けて、
「『伯爵』に伝言してほしい。――彼の相手は日本へ|発《た》った、と」
「日本へ?」
「女王陛下の日本ご訪問に関連した任務のようだが、詳しい事は分からない」
黒いコートの男はゆっくり|肯《うなず》くと、
「確かに伝えよう」
「――君は伯爵を知っているのか?」
イギリス人がタバコに火をつけながら|訊《き》いた。黒いコートの男は、相手の勧めるタバコを手を振って断ると、
「いくらかは知っている」
と答えた。
「そうか。私は|噂《うわさ》しか聞いていない」
イギリス人は首を振って、「もっとも、直接顔を合わせた時は死ぬ時だそうだから、会いたくもないが。……優秀な殺人者だそうだね」
「プロだというだけさ」
「殺人を楽しむ男だと聞いたよ」
「そんな事はない」
「赤ん坊を殺した事もあるというじゃないか。私はいかに祖国のためと言われても、そこまではやりたくない。――スパイとしては失格かもしれないが」
「伯爵も普通の人間だ。ただ、仕事をしている時はプロに徹する。それだけの事だ」
「――ずいぶん伯爵のことに詳しいようだね」
「そうさ」
黒いコートの男はイギリス人の顔を真っ直ぐ見|据《す》えて、「私が伯爵だからね」
イギリス人は一瞬目を見開いて、相手を見つめたが、次の瞬間にはその鈍重な印象からは思いもよらぬ素早さで、黒いコートの男から数メートルも離れた所へ飛びすさった。同時に、右手に鋭いナイフが光る。
「君を殺すように言われて来た」
『伯爵』と名乗った黒いコートの男は静かに言った。「――すまないが」
その手にも、いつしかナイフの刃が銀色の光を放っている。二人は油断なく身構えると、三メートルほどの間隔をじりじりとせばめて行った。そして、イギリス人が躍りかかるように飛び出して来ると、伯爵の方は巧みにその下をかいくぐって、相手の背後へ出る。だがイギリス人もすぐに向き直って、鋭く突き出される刃をかわした。
濃い霧が流れ込んで来て、甲板を白く覆い始めると、争う二人の姿もしだいにその中へ溶け込んでしまう。
物静かな戦いである。助けを求める声も、ののしり合いもなく、ただ聞こえるのは二人の荒い息づかいと、甲板をこする靴音ばかり。突然、霧のヴェールを通して、激しくもつれ合う格闘の音が響いた。そして絞り出すような、かすかなうめき声が……。三十秒足らずで決闘は終わった。霧はますます濃くなるばかりである。
静寂が戻ってから、ややあって、何かが水に落ちる音がした。それから、落ち着き払った足音が霧の奥へと遠ざかって行き、やがてそれも絶えた。
当分晴れそうもない、濃霧のドーヴァー海峡を、連絡船はのろのろと進んで行く。――霧笛が|哀《かな》しげに鳴った。
1 かくて、武勇伝始まる(土曜日)
東京の電車は何時になっても、およそがら空きという事がない。早ければ早いなりに、遅ければ遅いなりに、乗客が集まり、結構席が埋まってしまうのだ。
東京の国電山手線のその車両も、一通り席は一杯で、その他数えるほどの乗客が、そこここの吊り輪につかまっていた。時間はもう夜の十時半頃である。――だが、今、その車両は重苦しい沈黙にのしかかられて、|誰《だれ》一人口をきく者もいない。
それというのも、二駅ほど前から乗って来た二人のヤクザが、いくらかアルコールが入っているせいもあるのだろう、車両の中をいきがって歩き回りながら、乗客に片っぱしからちょっかいを出しているのだ。
中年のサラリーマンと見れば、
「よっ! 親父さん、ご苦労だねえ!」
と肩を叩き、相手が嫌な顔でもしようものなら、とたんにがらりと態度を変えて、
「おい! てめえ、そのツラ、何だよ」
と絡んで来る。
そのうち、二人は、ちょっと可愛いOLを見つけると、しつこく言葉をかけ始めた。最後には、彼女の両側の席の男を追い出して、二人で彼女を間に挟んで座ると、わざとぐいぐい身体を押しつけ始めた。娘は、もう泣きべそをかいているのだが、車内の乗客は誰一人、口を出そうとはしない。――運が悪いんだな、といった目つきで、チラチラその方を眺めては、自分は極力目立たないように身動きもしないのだった。
次の駅のプラットホームが見えて来ると、その娘はハンドバッグをつかんで立ち上がろうとしたが、隣の男に肩をつかまれて、
「おい、逃げるなよ!」
と押さえ付けられてしまった。
「だって……私……降りるんです……ここで……」
娘が震え声で言うと、ヤクザの一人は有無を言わせぬ力で彼女の肩を抱いて、
「そう言わねえで付き合えよ、な!」
娘がすすり泣きを始めた。その時、電車がホームに停まり、ドアが開くと、高校生らしい女の子が一人、乗り込んで来た。
年齢は十八歳ぐらい、高校三年生といったところだろう。セーラー服ではないが、何かの制服らしい、紺のブレザーに、同色のスカートをはいている。やや小柄で、均整のとれた体つき、ちょっと見には冷たい感じさえする整った色白の顔立ち、髪は長く肩へ自然に流してある。彼女は左手にヴァイオリンのケースを下げ、右手には、赤いこうもり傘を持っていた。外はまるで雨の気配などなかったが、そんな事は全く気にしない様子でヴァイオリンを網棚に乗せると、ドアのすぐわきにもたれて立った。
――電車が動き始めた。
その女子高校生は、すぐに車内の妙に気づまりな雰囲気を敏感に感じ取ったようだ。大声で歌ったり笑ったりしている二人のヤクザヘ目をやると、彼女はちょっと|軽《けい》|蔑《べつ》するように|眉《まゆ》をひそめた。
ヤクザたちはますます増長して、間に挟まれた娘の胸にさわったり、バーのホステスでも相手にしているように楽しみ始めた。
その時、一人の若者が席を立つと、つかつかと男たちの前へと歩いて行った。車内の空気がピンと張りつめ、誰もが目を向ける。
「いい加減にしたらどうです!」
二十歳になるかどうかの、その若者は、上ずった声で言った。二人のヤクザがニヤリとして目を見交わす。
「――おい、坊や、今、何か言ったのかい?」
「そんな事はよせと言ったんだ!」
「へえ……なかなか勇ましいなあ」
小馬鹿にするような口調で言うと、男の一人が立ち上がった。
「もう一ペん言ってみな」
「だから、もうやめろと――」
いきなり男の|拳《こぶし》が若者の腹へめり込んで、若者はウッとうめいて床へ膝をついてしまった。男は鼻先でせせら笑うと、静まりかえった車内を、|挑《いど》みかかるような目付きで見回した。――誰もが目を伏せ、顔をそむける。可哀そうに、と思いながら、下手に手を出してけがでもしたら……俺には女房も子供もあるんだ。そう意気地のない自分を弁護しているのだ。
さっき乗り込んで来た少女は、と見れば、これも若者が殴られた時は、はっと息を|呑《の》んだが、すぐに目をそらして――だが、どこかその様子は他の乗客とは違っている。唇を固く引き締めて、眼差しは並々ならぬ決意を秘めた輝きを放って、窓の外、正確には電車の前方に向けられていた。
「誰か他に文句のある奴はいるか!」
調子に乗ったヤクザが、車内へ大声で呼びかける。「俺たちはこの女をいただいてくぜ。構わねえのかよ?」
もう一人の方は声を上げて笑った。
「可哀そうに、誰もお前を助けちゃくれねえようだぜ」
男の腕にがっしり押さえられたOLは、もう泣きじゃくるばかり。殴られた若者は、床に|身体《 からだ》を折り曲げて倒れたままだった。
次の駅が見えて来た。――赤いこうもり傘を手にした少女は、ゆっくり向き直ると、突っ立ったヤクザの一人の方へ歩き出した。
「おや、何か用かい、お嬢さん?」
男は、相手が可愛い娘と見てニヤつくと、「俺たちに付き合ってくれるのかい?」
少女は真っ直ぐに男の目を見返して、
「あなた方は虫けら[#「虫けら」に傍点]だわ」
と言った。
きっぱりした、冷静そのものの口調だった。男の方は目を丸くして、
「何だって?」
と訊き返した。自分の耳が信じられないのだろう。少女は至って穏やかに、
「見かけによらず年寄りなのね。耳が遠いの?」
男の顔色が変わった。座っている方のヤクザが、
「おい! 痛い目に会わせてやれ!」
と声をかける。言われなくとも、と男が少女の方へ手をのばしかけた――その時、少女は手にしていた赤いこうもり傘の先で、思い切り相手の足の先を突いた。
「痛えっ!」
男が思わず片足を抱え込んでうめいた。ちょうどその時、電車がホームヘ滑り込んでブレーキがかかり、一本足になっていた男は体のバランスを失ってよろけた。少女の手の先でこうもり傘が一回転して、今度は先端の方をつかむと、丸くなった|把《とっ》|手《て》を、男の首へ引っかけ、体重をかけて、えいっと振り回した。男は|堪《たま》らず、ドアの方へどっと倒れ込む。
その時、ちょうどドアが開いて、男はそのままホームヘ転がり出てしまった。
「この野郎……」
|唖《あ》|然《ぜん》として成り行きを見ていたもう一人が、OLから手を離して立ち上がった。「よくも、生意気な真似を――」
二、三歩踏み出したとたん、少女の鋭く突き出すこうもり傘が腹へ食い込んで、ウッと男が身体を折る。その時、今まで床に倒れていた若者がばね仕掛けの人形のように飛び起きると、思い切り体当たりを食らわしたから、男は仲間に続いてホームヘ飛び出してしまった。
ドアが閉まり、電車が動き出した。――車内にざわめきが広がって、乗客たちは、たった今、目の前で起こったことをしばらくの間、信じられない様子だった。
やっと解放されたOLが、
「ありがとう!」
と涙声で言うと、少女はちょっと微笑んで、
「いいえ」
と|肯《うなず》く。それから、少女は若者と顔を見合わせ、
「大丈夫?」
「ああ、もう何ともない」
二人ともまだ息を弾ませている。何となく微笑をかわして、少女の方が|頬《ほお》を染めた。
「フェンシング? そうか、それで……」
若者が肯いた。
「もうよしましょう、そんな話」
少女はきまり悪そうに、「先生にばれたら、破門だわ」
「でも勇気あるねえ。大したもんだよ」
「じっとしてられないの、ああいうのを見てると」
コーヒーが来た。――二人は何となく次の駅で降りて、駅前の喫茶店に入ったのである。
「そのために、そのこうもり傘、持って歩いてるのかい?」
「護身用でもあるけど、それだけじゃないの。死んだ父のプレゼントだから、いつも持ち歩いてるのよ」
「お父さん、亡くなったの?」
「飛行機事故で。――母も一緒だったわ」
「そうか……」
少女は明るく、
「もう三年前のことよ。――それより、あなた、お名前は?」
「え?」
「私、|島中瞳《しまなかひとみ》」
「瞳さん、か。素敵な名前だね」
「私みたいなお転婆には似合わないって、いつも言われるの」
「そんな事ないよ。ぴったりだ」
「|嬉《うれ》しい! そう言われたの、初めてよ」
「僕は――|裕《ゆう》|二《じ》っていうんだ」
「裕二さん?」
「僕らは共通点がありそうだね」
こんな笑顔をかわして、お互いを見つめ合った。
「そうね、一つは正義感の持ち主」
瞳が言った。「もう一つはヴァイオリン」
二人の傍に、ヴァイオリンケースが置かれている。
「本当だ、偶然だな」
「裕二さんは、どこのメンバー?」
「いやいや、僕はほんの趣味さ」
裕二は慌てて手を振って、「君のように、名門、T学園に学ぶ人とは比べられないよ」
「あら!」
「そのブレザーに付いてるマークぐらい、僕だって知ってるさ」
「あ、そうか」
と瞳は自分の服装を見降ろした。
「第一ヴァイオリン?」
「こう見えてもコン・マスなのよ」
「へえ!」
裕二が目を見張った。コン・マス――コンサート・マスターの略である。コンサート・マスターはオーケストラの第一ヴァイオリンのトップ奏者で、技術的にもむろん優れていなくてはならないが、それだけでなく、オーケストラ全体のまとめ役という、重要な地位なのだ。単なる演奏の腕前の他に、リーダーとしての責任感と行動力が要求される。
「T学園オーケストラのコン・マスとは、大したもんだね!」
裕二はまじまじと目の前の美しい少女を眺めた。そして、フッと思いついたように、
「そうか……島中さんっていったね。それじゃ、君のお父さんは|島《しま》|中《なか》|正《まさ》|雄《お》?」
「ええ。ご存知?」
「知ってるさ。僕だって少しはヴァイオリンをかじってる人間だもの」
T学園が送り出した数多くの音楽家の中でも、その国際的なスケールの活躍で際立っていた天才ヴァイオリニスト、島中正雄。イギリスに客演の帰路、飛行機事故で島中夫妻が死んだ時、日本の楽壇は大きな失望を隠し切れなかったものである。
「お父さんの後を継いで、頑張ってるわけだね」
「別に、そんな風には考えてないわ。ただ好きだからやっているだけ。――そりゃあ、何かにつけて父の事を持ち出されるけど」
「今はどこに住んでいるの?」
「|佐《さ》|野《の》先生のお宅。ヴァイオリンの恩師で、父とも親しかった人なの」
「そう。――こんなに遅くなって、大丈夫かい?」
裕二が腕時計を見た。「十一時過ぎだよ」
「平気よ。このところ毎晩これくらいですもの」
「何かあるの?」
「ほら、今度エリザベス女王が日本へみえるでしょ。その行事の一つで、BBC交響楽団の演奏会があるんだけど、日英親善ってことで、T学園の高校オケ(オーケストラの略)とBBCとで共演するのよ」
「そりゃ|凄《すご》いね!」
BBC交響楽団といえば、イギリス唯一の国立オーケストラで、その演奏水準の高さは世界のトップクラスに属している。
「で、毎夜特訓ってわけ」
瞳は楽しげに、「でも嬉しいわ。こんなチャンス、めったにあるわけじゃないし」
「本当だね」
しばらく、二人はオーケストラ談義に花を咲かせた。――話に夢中になって、気が付くともう十二時近くになってしまっている。
「送って行くよ」
「ありがとう。私なら大丈夫よ」
「それもそうだ。僕が送ってもらおうかな」
二人は笑って立ち上がった。
「ちょっと、ごめんなさい。頭、直して来るから」
瞳はトイレに行って、いささか乱れた髪を整えた。裕二は両手に二つのヴァイオリンを持って待っていた。
喫茶店を出ると、二人はタクシーを拾って、そう遠くない、瞳の家に向かった。
「――どうもありがとう」
立派な門構えの前で、二人は向き合った。
「遅くまで引き止めて悪かったね」
「いいえ、佐野先生、そんな事はちっとも気にしない人なの。とっても楽しかったわ」
「僕もだ。いつか君に教えてもらいたいな」
「ヴァイオリン? それともフェンシング?」
「ヴァイオリンだけにしといた方が無難のようだな」
と裕二は笑った。「――じゃ、これで」
「私も教えてほしいことがあるんだけど」
「僕に? 何だろう?」
「キスの仕方、教えてちょうだい」
あまりあっさり言われたので、裕二は思わず、
「え?」
と訊き返した。
「おやすみのキスってどうするの?」
「それは――つまり、その――」
裕二はまじまじと瞳の顔を見つめて、「本気なのかい?」
「ええ。一度してみたいと思ってたの」
瞳の方はあっけらかんとしている。
「だけど……僕らは知り合ったばかりだよ」
「あら、いいじゃないの、何もホテルヘ行きましょうって言ってるわけでもあるまいし」
裕二は目を丸くして、
「びっくりしたな、もう……。君って……」
「先生がね、よく言うの。恋を知らなきゃ、ヴァイオリンなんて弾けないって。恋人を抱きしめるように、ヴァイオリンを扱わなくちゃいけないんだっていうのよ。だから、一度経験[#「経験」に傍点]してみないと」
「気楽に言うね」
裕二も思わず笑い出してしまった。「じゃ、今夜のところはキスだけにしておこうよ」
「そうね。――はい」
瞳は目を閉じて、裕二のキスを唇に受けた。
2 幻の調べ(土曜日)
「キスして来ました、先生」
居間へ入るなり、瞳は言った。ソファで本を読んでいた佐野|俊《とし》|夫《お》は顔を上げ、
「お帰り。何だって?」
「今、そこでキスしました」
「今? 相手は誰だね?」
「裕二さんです」
「――知らないな」
「ええ、今夜知り合ったばかりですから」
「また急だったね」
「変な人じゃありません。ヴァイオリンをやってる人なんです」
「そうか。それなら悪い人間はいない」
生徒も生徒なら教師も教師である。
「で、どんな感じだったね?」
「何だか、よく分かりませんでした」
「何も感じなかったのか?」
「胸がドキドキしましたけど」
「ならいい。初めての時はそんなもんだ」
「この次はもっと気を付けて、色々研究してみます」
「研究など必要ない。成り行きに任せればいいんだ」
「でも、それじゃあんまり自主性が無さすぎませんか?」
瞳は不満げに言った。――他人が聞いたら、一体何の話をしているのか、さっぱり分からないに違いない。
佐野俊夫はT学園の理事で、弦楽科の教授も兼ねている。五十代の半ばというところだが、およそ繊細な芸術家というイメージからは程遠い外見であった。
ずんぐりとした体つき、よく陽焼けしたいかつい顔は、その辺の工事現場でよく見かける感じである。半分白くなった髪が、洗いっ放しのようにボサボサに突っ立っていて、ちょっとくし[#「くし」に傍点]の歯も通らないのではないかと思われた。
佐野は瞳の父、死んだ島中正雄とは親友の間柄で、ヴァイオリンの兄弟弟子として、子供の頃からの付き合いだった。しかし佐野は三十代の初めに、ヴァイオリニストにとって致命的な腕の筋肉の病気にかかり、ほぼ回復はしたものの、プロの演奏者の道は断念せざるを得なかったのである。だが佐野には優れた教育者の資質が備わっていたらしく、母校T学園のヴァイオリン教師として、次々に優秀な人材を送り出していた。そして瞳もまたその一人、というわけである……。
「――風呂に入って、早く寝なさい。疲れていては、ヴァイオリンも良く鳴ってくれんぞ!」
「はい、先生」
瞳は素直に肯いた。「おやすみなさい」
「おやすみ」
佐野は独身である。女嫌いというわけではない。むしろ次々と違う女性を恋するあまり、ついつい結婚せずに来てしまった、といったところだ。通いの家政婦に家事一切を任せ切って、夜は一人のんびりと読書やレコードに時を忘れている。
瞳が居間を出て行くと、佐野は読みかけの本を取り上げて、ページをめくった。
風呂から出ると、花柄の可愛いパジャマにガウンをはおって、瞳は二階の部屋へ行った。六畳ぐらいの広さの洋間に、ベッドと机、それにファンシーケース、譜面台などがところ狭しと置かれている。十八歳の女の子にふさわしく、ベッドの上にパンダのぬいぐるみが転がっていたりしているが、机の上には、写真立てに入った両親の写真だけが置かれていた。
瞳は机に向かうと、引き出しから日記帳を取り出した。もう時間はずいぶん遅かったが、これだけは一日も欠かしたことがない。瞳は新しいページにペンを走らせた。
「お父さん、今晩は。今日は色々報告することがあって、何から始めたらいいのか、困っちゃうくらい。国電の中で、タチの悪い酔っぱらいを二人やっつけたし、生まれて初めてキスもしたし……。でも、ともかく学校のことから始めるわね。
BBCとの共演まで一週間。みんなやる気十分で張り切っています。BBCは昨日、九州で公演して、たまたま出張していて聴いて来た先生が、凄い凄いと舌を巻いていたわ。こっちも負けずに頑張らなきゃ。BBCまで行かなくても、せめてCCD[#「CCD」に傍点](?)ぐらいには、ね。でも本当にかなりアンサンブルも良くなって来て、これなら恥ずかしくない演奏ができると、コン・マスとしては自負しております。エヘン!……」
瞳はこうして、毎夜、両親ヘ一日の出来事を報告する。兄弟もなく、身近に|親《しん》|戚《せき》もない彼女には、このひとときが一家の団らん[#「団らん」に傍点]であった。――時折、寂しい思いがその胸を北風のように吹き抜けることもあったが、そんな時、瞳はヴァイオリンで、思い切りセンチメンタルなメロディーを弾くのだった。
お転婆といわれ、オーケストラの人気者、アイドル的な存在ではあっても、一方では、やはり十八歳の多感な少女なのである。
「……こういうわけで、私のキスの初体験は終了。お母さん、気が気でないんじゃない? 瞳ちゃんはまだ子供なのに、って。心配しないで。私、もう|大人《 おとな》なんですもの。お父さんなら分かってくれるわね? そうだ、佐野先生は恋を知ると音につや[#「つや」に傍点]が出て来るって、いつも言ってるけど、本当かどうか、|験《ため》してみましょうか? 一曲弾いてみたら分かるかな。クライスラーの『愛のよろこび』でも」
瞳はペンを置くと、ヴァイオリンのケースを取った。一人、部屋で|奏《かな》でるのも悪くない――瞳はケースを開けた。
「何だって?」
佐野が目を丸くした。
「ヴァイオリンが入れ替わってたんです」
瞳はすっかりしょげていた。
「だが、ケースは……」
「ケースは私のです」
「すると、つまり――」
「あいつ[#「あいつ」に傍点]がすり替えたんです。私がちょっと席を外している間に」
「あいつ? 誰のことだ?」
「分かりません。――今夜会ったばかりで」
「すると、お前が初めて――」
「言わないで下さい!」
首筋まで真っ赤にして、瞳は叫んだ。「ああ! 恥ずかしいわ! 私、泥棒なんかと……」
「まあ、そう自分を責めるな」
「だって、せっかく先生からいただいたヴァイオリンだったのに……」
「代わりに入っていたヴァイオリンを見せなさい」
「はい……。きっと安物なんですわ」
瞳からヴァイオリンを受け取ると、佐野は裏返しにしたりして眺めていたが、そのうち、いやに熱心に目をこらして調べ始めた。そして、急に立ち上がると、ヴァイオリンを手に居間から出て行った。
瞳が|呆《あっ》|気《け》に取られて、立ちつくしていると、少しして佐野が戻って来たが、その顔には、何とも言いがたい奇妙な表情が浮かんでいた。
「先生、どうしたんですか?」
「これを弾いてみたかね?」
「いいえ」
「では、ちょっと弾いてみなさい」
「はい……」
少々面食らったものの、瞳はヴァイオリンを受け取ると弦をピンと張り、軽く指ではじいてから弓を手にして、
「何を弾きますか?」
「何でもいい。そうだな、できるだけメロディーのよく歌う曲がいい」
「はい」
ハンカチを添えて|顎《あご》当てを挟むと、瞳は静かに弓を弦に当てた。ちょっと迷ってから、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の第一楽章のテーマを弾き始める。――しかし、瞳は一小節を弾き終えないうちに弓を止めた。すばらしく豊かな音が流れ出したのに驚いてしまったのである。
「先生!」
と思わず声を上げた。「これは――」
「良く鳴るじゃないか」
「信じられません! こんなのは初めてです」
「そうだろう」
佐野は肯いて、「わしには|見《み》|憶《おぼ》えがある。たぶん間違いあるまい。それはストラディヴァリだよ」
「ストラ……」
終わりまで言わずに、瞳は手にした楽器をまじまじと見つめた。
ストラディヴァリ! ヴァイオリンの銘器中の銘器として、あまりにも有名である。買うとなれば、何千万、何億……いや、もう値段のつけようもない、宝物のようなものだ。ストラディヴァリというのは十七世紀から十八世紀にかけて、ヴァイオリン製作で優れた作品を残した職人の名前である。その手になるヴァイオリンで現在残っているのは三百数十個といわれ、一流の奏者たちは全財産を抛っても、手に入れようとする。
そのストラディヴァリが、今、自分の手の中にある! 瞳が呆然としたのも無理はない。
「でも……そうすると、あいつは、いえ、あの人は、わざわざ――」
「そうだ。わしの持っていた大して値打ちもないヴァイオリンの代わりに、何千万の銘器を置いて行ったわけだ」
「どうしてでしょう? どうして、そんな事を?」
「わしにそんなことが分かるはずはなかろう。大体、そんな若者が、なぜストラディヴァリを持っておったのか、それも問題だな」
瞳は考え込んだ。――あの「裕二」という若者――それも本当の名前かどうか――どうみてもヴァイオリン泥棒には見えなかった。それに泥棒であろうとなかろうと、どうしてヴァイオリンをすり替える必要があったのか。
瞳には、何が何やら、さっぱり分からなかった。
「先生、どうすればいいんでしょう?」
「そうだな」
佐野も、さすがに考え込んだ。「――まあ明日の新聞を見てみるんだな。誰かが盗まれたか、失くしたかしていれば大騒ぎだろう。それを見てから届け出ればいい」
「そうですね」
「少なくとも今夜一晩はお前の手にあるわけだ」
佐野はニヤリと笑って、「ま、一生に二度とない事かもしれん。たっぷり弾いておくんだな」
3 死体登場(日曜日)
翌日は日曜日だった。前の晩、三時過ぎまで起きていたので、瞳が目をさましたのは、もう十時半に近かった。もうろうとした頭で、どうして今朝はこんなに眠いのかしら、と考え考え、カーテンを開ける。
十月も半ば。|爽《さわ》やかな秋晴れである。
「気持ちいい!」
思わず口に出る。えいっと存分にのびをして、家にいるのがもったいない日だな、と考える。どこかに出かけたい。でも、どうせ午後からは学校へ行かなくちゃ。練習がある。
そう考えてきて、はっとした。ストラディヴァリ! そうだった!
「新聞だわ!」
瞳はパジャマのまま部屋を飛び出し、|階《し》|下《た》へ急ぐ。食堂へ飛び込むと、佐野がトーストをかじりながら、新聞を広げている。家政婦のおばさんが目を丸くして、
「まあ、何です、お嬢さん、そんな物凄い勢いで」
でっぷり太った、このおばさんの名前を、未だに瞳は知らない。「おばさん」とだけ呼んでいるし、またそう呼ぶのがぴったりなので、名前を知りたいとも思わないのだ。
「先生、何か出ていますか?」
「いや、さっぱりだな」
佐野は首を振って、瞳へ新聞を渡した。
「一体何の騒ぎです? 先生の記事でも出てるんですか?」
おばさんがゆで卵を瞳の前へ置きながら言った。
「それどころじゃないのよ、おばさん」
瞳はせっせとページをめくったが、新聞には「ストラディヴァリ」の「ス」の字もなかった。
「先生、どういう事なんでしょう?」
「さてな。……わしにもさっぱり分からん」
「何が分からないんです?」
とおばさんが口を挟む。
「何が何だかさっぱり分からんのさ」
「まあ、よく分かったお話で」
瞳はアメリカン・コーヒーにミルクを注いで、ゆっくりかきまぜながら、
「どうしたらいいんでしょう?」
「わしに任せておきなさい。今日、会うことになっている友人が、かなりストラディヴァリに詳しいから、事情を説明してみよう。お前は一応、まだ誰にも言わずにおきなさい」
「はい」
「まあ、また電車が停まるんですか?」
とおばさんが口を出した。佐野と瞳が顔を見合わせると、
「だって、今『ストライキ』がどうとかおっしゃってたじゃありませんか」
佐野が出かけてしまうと、瞳は部屋へ戻って、もう一度新聞を詳しく見直した。
もしあのストラディヴァリが、何かいわく[#「いわく」に傍点]のある物だったら、盗難や紛失を公にしたくない事情があるのかもしれないと思ったのだ。「尋ね人」の広告、「求人広告」の欄を読んで行くうちに、ふっとある欄に目が止まった。
「求・VN・中古可。価格面談。乞連絡。クレモナ」
とあって、電話番号が入っている。VNはVnでヴァイオリンの略号だから、ただ単に中古のヴァイオリンを買いたいという広告なのかもしれない。しかし、瞳は「クレモナ」という名に引っかかった。クレモナはストラディヴァリだけでなく、アマティ、ガルネリといったヴァイオリン作りの名人たちがその作品を作った土地の名前なのである。
「怪しいな……」
瞳は人一倍好奇心の強い性質である。しかも、初めてキスした相手が何やら怪しげな男だったと知って、甚だプライドを傷つけられている。ここは一つ、探偵の真似事をしてみよう、と思い立った。
思い立つとすぐ行動に移さねば気の済まない瞳である。早速、広告の番号へ電話しようとしたが、ふと考えた。
「そうだ! もっといい手があるわ」
瞳の|従姉《 いとこ》で、電電公社の電話交換手をしている|英《ひで》|子《こ》というのがいる。ちょうど昼休みの時間だったので、瞳は英子に電話した。
「あら、瞳ちゃん、久しぶりね」
従姉といっても、もう二十四歳のOLである。たまに会えばセーターの一枚ぐらい買ってくれるので、瞳も姉代わりによく会っていた。
「今日は。忙しい?」
「ううん、別に。何の用事?」
「ちょっとね、調べてほしいの。電話番号から住所を」
「いいわよ。何番?」
ちょっと時間はかかったが、住所は|青《あお》|山《やま》の一角、マンションの一室らしいと分かった。
「ありがとう、英子さん」
「いいえ。でも何なの、一体?」
「ちょっと、ね」
「ボーイフレンドか何かの電話なの?」
「そんなところ。また遊びに行きます」
――瞳は時計を見た。今、出かければ、青山を回って、十分時間までに学校へ着けるだろう。
その住所へ行ってどうするという考えもなかったが、ともかく瞳は出かける支度をした。ヴァイオリンは仕方ないので、昔自分が使っていたのを持って行く事にする。まさか何千万円の品を持ち歩くわけにも行かない。
「今日はまた、早いお出かけですね」
おばさんが、玄関で靴をはいている瞳へ声をかけた。
「ちょっと寄る所があるの。じゃ、行って来ます」
いつもの通り、右手に赤いこうもり傘、左手にヴァイオリンケースというスタイルで、瞳は元気よく家を出る。「ちょっと寄る所」で何が待ち受けているのか、晴れ渡った空に口笛を鳴らしながら歩く瞳には予感すらなかった……。
十五階建て、レンガ色の外観をした、豪華なマンションを見上げて、瞳はしばしためらった。――住所の最後は「一五〇四」だったから、最上階の四号室ということだろう。それにしても、行ってどうすればいいのか。
「ストラディヴァリを拾った[#「拾った」に傍点]んです」といって、向こうがどう出て来るか見当がつかない。それに佐野が、自分に任せるようにとも言っていたし……。
でも、せっかく来たのに、とそそのかす声もする。ここまで来て帰ったんじゃ、何のためにわざわざ足を運んだのか分からない。ともかく部屋の表札だけでも見てこよう。
瞳は玄関のホールを抜けて、正面のエレベーターに乗り込んだ。「15」のボタンを押すと、静かに箱が上がり始める。
「そうだ」
ふっと思いついた。何もストラディヴァリのことを持ち出さなくたっていい。新聞で広告を見たので、このヴァイオリンを買ってもらいたくて来ました。――そう言えばいいのだ。値段がどうも、といって帰ってくれば、何も怪しまれることはないだろう。
――十五階に着いて、扉が開く。瞳は静かな廊下へ足を踏み出した。何気なく頭をめぐらすと、ちょうど隣のエレベーターの扉が閉まるところだった。中に乗っているのは外国人で、扉が閉じるまでの、ほんの一瞬、瞳とその外人の視線が合った。
ドイツ人だ、と瞳は思った。父の海外演奏旅行について、何度かヨーロッパを回ったことがあるので、直感的に分かるのである。
明るい金髪、鋭い顔の輪郭、切れ長の碧い目、薄い唇。典型的なドイツ人の顔だ。瞳は、ほんのチラッと見ただけの、その外人から、しかし何か得体の知れない強烈な印象を受けた。一|分《ぶ》の隙もない身だしなみ。そして無表情な顔立ちから、何かぞっとするような冷酷さを感じたのである。
考えすぎよ! 緊張してるから……。瞳は息をついて、廊下を歩き出した。「一五〇一」「一五〇二」……。ここだわ。「一五〇四」
表札は空白になっている。瞳は|咳《せき》|払《ばら》いして、ちょっと呼吸を整えると、チャイムに手をのばした。押すと、ドアの奥で、チャイムの鳴るのが、かすかに聞こえる。しばらく待ったが、|応《こた》えがない。
「留守かな」
もう一度押してみよう、と手をのばしかけた時、急にドアが開いた。
「――あ、あの――すみません」
瞳が慌てて頭を下げる。立っていたのは、がっしりした体つきの中年男で、驚いたような目つきをしていた。
「あの――新聞の広告で見て来たんですけど……」
瞳は口をつぐんだ。相手の様子がどこかおかしかったからだ。目は|虚《うつ》ろで、どこか遠くを眺めているようだった。一体どうしたんだろう?――突然、男は二、三歩後ずさりすると、絞り出すような声で、
「伯爵[#「伯爵」に傍点]!」
と言った。そして崩れるように、その場に倒れてしまった。瞳は自分の見ている物が信じられなかった。目の前に男が倒れている。そしてその背中には深々とナイフが突き刺さって、柄が不気味に飛び出ているのだった。
どれぐらいの間、そこに立ちすくんでいたのだろうか。我にかえった瞳は、必死に|膝《ひざ》の震えを押さえると、どうすればいいのか、考えた。
「警察――警察だわ!」
口に出して言ってみる。そうしないと、自分で考えをまとめられないのだった。――けれど、どうやって連絡すればいいだろう?
電話? 部屋の中へ入らなくてはならない。初めて瞳は部屋の中を見回す余裕ができた。そこは簡素なオフィスのようで、机と|椅《い》|子《す》、ソファなどが、がらんとした部屋に置いてあるだけだった。机の上に電話がある。勇気をふるい起こして、瞳は部屋の中へ、恐る恐る足を踏み入れた。倒れた男は、もうピクリとも動かず、はっきり死んでいると分かった。瞳は極力死体から遠くを回って、奥の机の方へと歩いて行った。
電話へ手をのばしかけた時、廊下を近付いて来る靴音が耳に入った。かなり足早にこっちへやって来る。それも一人ではない。一瞬迷った末、瞳は、長いソファの後ろへ飛び込んで、壁との狭い隙間に伏せて身を隠した。危機一髪、足音が戸口でピタリと停まった。
「何てことだ!」
|喘《あえ》ぐような声がして、倒れている男へかけ寄る気配がする。もう一つの靴音が入口で一旦停まって、それからゆっくり部屋の中へ入って来た。
「デッド?(死んでるか?)」
イギリス人だわ、と瞳は思った。
「イエス」
二人の会話は英語になった。瞳は父の教育と海外旅行のおかげで、英会話には不自由しない。じっと身動きもせず、息を殺して、瞳は二人の話に耳を傾けた。
「気の毒に……」
とイギリス人が|呟《つぶや》く。
「彼は優秀だったのに」
「相手はよほどのプロだな」
「ナイフが変わってるな」
「ドイツの品だ。よく切れる」
「一体何者だろう?」
「分からない……」
しばらく沈黙があって、日本人の方が言った。
「警察へ届けるかね?」
「それはできない」
相手はきっぱりと言った。「極秘で処理してほしい。――気の毒だが」
「分かった」
日本人はため息をついて、「仕方あるまい」
「しかし不思議だ。――ヴァイオリンの盗難と、この殺人がどう結びつくのだろう?」
ヴァイオリンの盗難! 瞳は息を呑んだ。では、やはりあのストラディヴァリが関係しているに違いない。それにしても、この二人はどういう人間なのだろう。殺人を警察にも届けないという。ともかくまともな手合いではないに違いない。
瞳は改めて、自分の立場を考えてぞっとした。いつまでここに、こうして隠れていられるだろう? 見つかったら、どうなるだろうか。ああ、まさかこんなことが、自分に[#「自分に」に傍点]起きるなんて! いくら冒険好きでも、これはちょっと行き過ぎ[#「行き過ぎ」に傍点]だわ!
二人の男は、部屋の中を調べ始めた。足音が、ソファのすぐ前を行き来する度に、瞳は肝を冷やし、じっと息を殺していた。
「――手掛かりらしい物もなさそうだな」
イギリス人の方が言った。「ここを出よう」
日本人の男が、ちょっと驚いたように、
「死体を置いて行くのか?」
「|鍵《かぎ》をかけて行くさ。後は君の部下に任せるよ」
「――分かった」
二人は部屋を出て行った。ドアがカチリと音をたてて閉まり、足音が廊下を遠ざかって行く。
助かった! 瞳はほっと息をついた。そろそろとソファの後ろから|這《は》い出し、立ち上がったが、長い間、身動きしなかったので、体のあちこちが痛んだ。いつの間にか額は玉の汗、こうもり傘とヴァイオリンケースを握りしめた手も、じっとり汗ばんでいる。
「――こうしちゃいられないわ」
早く出て行かないと、今の男たちが、ここへ誰かをよこすと言っていた。ともかくここから早く遠くへ離れること。警察へ連絡するのはその後だ。
鍵がかかっているといっても、内側からはいつでも開く。ノブをそっと回すと、カチリと音がして、鍵が外れた。何か落とした物でもないかと、部屋の中を見渡してから、素早く廊下へ滑り出た。――思わず立ちすくむ。左右にさっきの二人が立ちはだかっていたのだ。
しまった! 瞳は唇をかんだ。ソファの後ろに隠れているのを気付かれていたのだ。まんまとトリックにかかってしまった。
男たちの方も、瞳を見て面食らったように、顔を見合わせた。
「子供じゃないか!」
と日本人の方が|呆《あき》れたように言う。
「見張るドアを間違えたかな」
イギリス人が壁にもたれて、皮肉っぽい微笑を浮かべた。
「おい、一体この部屋で何をしていたんだ?」
日本人の男がつかつかと歩み寄って来て、乱暴に瞳の左腕をつかんだ。瞳はカッとした。右手につかんだこうもり傘で思い切り男の腹を突くと、男はウッとうめいて身体を折った。瞳は素早く男のわきを駆け抜けて、廊下を突っ走る。一瞬、呆気に取られていたイギリス人が瞳を追って駆け出した。
廊下が長すぎた。何といっても男の足にはかなわない。たちまち瞳は追いつかれて、壁を背に、イギリス人と対した。思い切って突き出したこうもり傘を、相手は驚くような身軽さでかわすと、瞳の腹へ拳の一撃を与えた。鈍い痛みが襲いかかって来て、瞳の視界が不意に暗くなる。そして、そのまま意識を失ってしまった。
4 誘拐された楽器(日曜日)
瞳はふと目を見開いた。――見慣れぬ天井が見えた。頭が重く、みぞおちのあたりに、鈍い痛みがかすかに残っている。
そうだ。あのマンションの廊下で殴られて……。一瞬で、すべてを思い出した。そうすると、ここはどこなのだろう。あのイギリス人らしい男に運ばれて来たに違いないが……。
瞳は、長いソファに横たえられていた。別に、手足も縛られてはおらず、自由だった。そろそろと頭をめぐらせてみると、純英国風の調度――本棚、サイドボードなどが目に入った。それほど大きな部屋ではないが、優雅で、風格のある部屋だ。とてもギャングの巣には見えない。
瞳はソファから起き出した。部屋には誰もいないし、ひどく静かだ。部屋の奥にどっしりとしたデスクがあった。近づいてみると、きれいに片付いた机の上に、便せんの束が重ねてある。便せんに刷り込まれた文字を何気なく|覗《のぞ》き込んで、瞳は思わず目を疑った。
「英国大使館」
とあるではないか!
その時、ドアが開いた。はっと振り向くと、あのイギリス人が立っている。瞳を見ると彼は微笑んだ。少しも敵意や警戒心を感じさせない、|愉《たの》しげな笑顔だった。
「ダイジョウブ?」
イギリス人が、かたことの日本語で言った。
「アー……ナオッタカ?……ソノ……」
瞳は英語で、
「何ともありません。ただ、ここがどこなのか、あなた方がどういう人なのか教えて下さい」
と言った。|淀《よど》みない英語に、イギリス人が目を丸くした。
「これは……大変美しい発音だ」
「ありがとう」
「それなら安心して話ができる。まあ、ソファに座りなさい」
彼は瞳と向かい合って腰を降ろすと、「ところで、あんな目にあわせたお|詫《わ》びを、まずしておこう。しかし君がなかなか|手《て》|強《ごわ》かったのでね。――フェンシングをやるのかね?」
「少し」
「そうだろう。あの突き[#「突き」に傍点]の鋭さは並み大抵ではなかった。|会《あい》|田《だ》は――一緒にいた日本人だが、まだ痛みが取れないと言ってる」
「すみません。だって私、てっきり、あなた方が何か怪しい人だと思って」
「怪しい、といえばお互いさまだ」
相手は軽く笑って、「まず、こっちから説明すると、ここは英国大使館の中、私は大英帝国の下僕の一人だ。――ジェイムスと呼んでくれないか」
「ジェイムス……」
「ジムと略さずにね。ところで君の方は、身分証明書を見せてもらったところでは、学生さんだね。それも音楽部の」
「ええ」
「どうしてあの部屋にいたんだね?」
瞳は新聞広告で、ヴァイオリンを買ってもらえると知り、電話よりは直接行った方がいいと思って、住所を調べて尋ねて行ったのだと説明した。むろんストラディヴァリの件には触れない。
「それで、君が行った時、あの男はもう死んでいたのかね?」
「いいえ、ドアを開けてから倒れたんです」
ジェイムスと名乗ったイギリス人は、それを聞くと、思わず身を乗り出して、
「では、彼は何か言わなかったかね? 倒れる前に、犯人が誰なのか言わなかったか?」
「さあ……。犯人のことを言ったのかどうか分かりませんけど……」
「何か言ったんだね?」
「ひと言、『伯爵』と……」
「伯爵!――確かだね?」
「ええ」
ジェイムスが真剣な表情になって、肯いた。
「そうか。……とうとうやって来たな」
と呟く。「それにしても、よりによって、こんな時に……」
「知ってるんですか?」
ジェイムスは、もとの優しい表情に戻って、
「いや、君は知らなくていいことさ。忘れるんだ、あの部屋で見たことも聞いたことも」
「でも、人が殺されたのに!」
「分かっている。しかしこれは警察の力でどうなるものでもないんだよ。君は不服だろうが、そこは――」
その時、ドアが開くと、瞳が傘でやっつけた、あの日本人が入って来た。
「おや、剣豪[#「剣豪」に傍点]のお目ざめか」
会田という、その男は瞳の身分証明書、ヴァイオリンケース、それにこうもり傘をかかえていた。「さあ、君の持ち物を返すよ」
「すみませんでした、さっきは」
瞳が頭をかくと、
「いやいや、油断したこっちが悪いのさ。もう何ともない。――ジェイムス、何か分かったのか?」
「犯人がね」
「誰だ?」
「『伯爵』だよ」
会田という男は、何かを思い出そうとしているように、|眉《まゆ》を寄せて、
「待てよ。君が言おうとしているのは、あのドイツ人のことじゃないんだろうね?」
「正にそのドイツ人さ。殺された長田は、伯爵を知っていた」
「しかし――まさかあの伯爵が――」
「それ以上は言うな」
ジェイムスが遮った。「彼女は英語が分かる」
会田は|慌《あわ》てて口をつぐんだ。瞳は、ジェイムスに向かって、
「あの……今、ドイツ人っておっしゃいましたね」
「言ったが……心当たりがあるのかね?」
「私があの階でエレベーターを降りた時、入れ違いに隣のエレベーターで降りて行った外国人がいたんです。ドイツ人だったと思いますわ」
「どんな男だった?」
瞳は、あの金髪の、冷酷な印象を与えた男のことを説明した。聞いていたジェイムスはゆっくり肯いた。
「間違いない。君は殺人者と顔を合わせていたんだよ」
「教えて下さい。あの部屋で、あなたが話していた、ヴァイオリンの盗難って、どういうことなんですか?」
瞳、ジェイムス、会田の三人は、大使館の美しい庭に面したロビーに腰を降ろして、紅茶を飲んでいた。午後三時、お茶の時間である。瞳の問いに、会田は困ったように顔をしかめたが、ジェイムスはあっさり、
「いいだろう」
と肯いた。「君は信用できる女の子だと思うよ」
「決して口外しません」
「そう願わなくては」
ジェイムスはチラリと周囲に視線を投げた。ロビーに人影はまばらで、近くの席には誰もいなかった。
「さて、君も聞いているかもしれないが、今、我が国のBBC交響楽団が日本各地で、公演を行っている」
瞳は胸が高鳴るのを覚えた。
「一週間後には、女王陛下のご臨席の下に、東京で記念公演がある。ところで、BBCは一昨日、九州で公演を行って、それから休養のため、|箱《はこ》|根《ね》へ向かった。ところが、|博《はか》|多《た》から|大《おお》|阪《さか》へ向かう新幹線の中で、大変な事件が持ち上がったんだ」
「何があったんです?」
ジェイムスはちょっと間を置いて、
「楽器を盗まれたのだ」
「ヴァイオリンを?」
「ヴァイオリンとヴィオラ、合わせて十二台」
「そんなに?」
瞳は目を丸くした。「どうしてそんなことに……」
「楽器類を楽団員の乗っているのと別の車両に集めておいたんだ。そして日本側の関係者の一人が見張っていたが、その男は殴られて気を失っていた」
「まあ」
「犯人はもちろん一人じゃあるまい。たぶん博多を発って早々に、見張っていた男を襲い、|広《ひろ》|島《しま》、|岡《おか》|山《やま》などに着くたびに少しずつ降ろしていたんだろう」
「でも一体誰がそんなことを?」
「分からない。ただし――一つだけ分かっているのは、犯人が誰にせよ、そいつはヴァイオリンに詳しい奴だ」
「どうしてです?」
「盗まれた十二台の楽器は、ストラディヴァリ、アマティ、ガルネリといった楽器ばかりなんだ」
瞳は息を呑んだ。
「でも……でも……何のために、楽器を?」
「金さ」
「お金……」
「いわば楽器誘拐事件だ。連中は身代金[#「身代金」に傍点]を要求して来たんだよ」
「まあ、ひどい!」
「確かにいい所に目を付けたよ。楽器なら、人間と違って、どこにでも隠せるし、顔を憶えられる心配もないわけだ」
「どれくらい要求して来たんですの?」
「一億円」
瞳は思わず、ソファに座り直した。しかし考えてみれば、盗まれた楽器の一つ一つが、一億円しておかしくない銘器なのだ。決して多額な要求とはいえない。
「払うんですか?」
「もし払わなければ楽器を破壊すると言っている」
瞳は猛烈に腹が立った。ヴァイオリンを愛する者として、許せない、と思った。
「もちろん、この件は一切公表を控えている」
ジェイムスは続けた。「楽器を無事に取り戻すのが第一だし、それに女王陛下のためのコンサートに水をさすようなことになっては困る」
「でも、そんな奴、ぜひ捕まえなくちゃ!」
「まあ、むろん、それが一番望ましいんだがね」
「何か手掛かりは?」
「今のところは、何もない。犯人側から、具体的な、金の支払い方法などの指示が来るのを待っている段階だよ」
「それじゃ、あの新聞広告は犯人への連絡だったんですね」
「その通り。あそこは会田の事務所でね、殺された|長《おさ》|田《だ》は、彼の部下なんだ。まあ、日本における英国の出先機関というかな」
瞳はさめかけた紅茶を飲みほすと、
「私、昨日、拾い物をしたんです」
「ほう。何だね?」
「ストラディヴァリです」
「その若者がすり換えたのは確かなんだね?」
「ええ」
会田の運転する車が、今、佐野の家へ急いでいた。ジェイムスは瞳から詳しい事情を聞くと、すぐに大使館の車を回させたのである。
「BBCから盗まれた楽器でしょうか?」
「ストラディヴァリなんて、そうあちこちにあるというものじゃないからね」
「そうですね……」
けれども、あの裕二という若者。電車の中で見せた正義漢ぶりを見ても、とても楽器泥棒だとは瞳には信じられなかった。それに、万一盗んだ楽器だったとしたら、なぜ瞳のそれとすり換えたのか?
|謎《なぞ》だ。――でも、と瞳は思った。謎といえば、このジェイムスと名乗った男も、多分に謎めいた人間だ。年齢は四十歳前後だろうか、ほっそりとした体に、いかにも|強靭《きょうじん》な筋肉を持っているのが分かる。顔立ちは二枚目というより、やや冷たい感じさえ受ける。でも、たまにふと見せる笑顔は思いがけないほど人なつっこく、暖かい……。
「一つ訊いていいでしょうか?」
と瞳は言った。
「いいとも」
「あの伯爵という男はどう関係してくるんですか?」
「彼は、これとは全く関係ない。彼が用があるのは私だけさ」
「あなた?」
「彼は私を殺すために[#「殺すために」に傍点]来ているんだ」
ジェイムスは事もなげに言う。
「なぜ?」
「伯爵は金で殺人を請け負う殺し屋なんだ。それもヨーロッパで屈指の殺人のプロだ。私を狙って日本までやって来たというわけさ」
「どうしてあなたを狙うんです?」
ジェイムスはニヤリとして、
「これでも、その筋ではちょいと目立つ存在なのでね。それに、伯爵は私を殺すことを、自分の一つの目標にしているんだ」
「それで、どうするんです?」
「なに、どうしようもない。こっちは自由には動けないからね、今のところ」
「気を付けて下さい」
「ありがとう」
瞳は外の景色に気付いて、運転席の会田へ声をかけた。
「あ、その先を左へ入るんです。――そう、そこです」
佐野邸の門が見える所へ来て、車は急に停まった。
「おい、パトカーだ!」
門の前に三台のパトカーが停まっている。赤いランプが明滅し、制服警官が、集まって来る野次馬を散らしていた。
「何かあったんだわ!」
つい数時間前、死体を見たばかりの瞳は、急に佐野のことが心配になった。
「先生!」
車を降り、門へと急ぐ。ちょうどそこへ、佐野が苦虫をかみつぶしたような顔で現れた。
「先生! どうしたんですか?」
「なんだ、君か。いや、空き巣に入られてな」
「空き巣? じゃおけがは?」
「わしゃ大丈夫だ。ところが大変なことになったよ」
「どうしたんです?」
佐野は肩をすくめて、
「例のストラディヴァリを盗まれたんじゃ」
5 展 開(月曜日)
「では第三楽章の|冒頭《 あたま》から」
指揮科の|土《つち》|屋《や》教授が指揮棒を取り上げると、みんな、一斉にパラパラと楽譜をめくる。
「言うまでもないことだが、この楽章は、この交響曲の中で、最も難しいところだ。他の楽章はそれぞれ軽快なリズムがあり、|憶《おぼ》えやすいメロディーがあり、変化がある。だが第三楽章はちょっと気を抜くとたちまち平板で退屈なものになってしまう。分かるかね?」
みんなやれやれといった顔で土屋先生の話を聞いている。何しろ練習に入る前に、必ず短い演説が付くのが、この先生の癖なのだ。――そんなこと言われなくたって分かってますよ、先生。早く始めて下さい。瞳はそう言ってやりたいところだったが、コンサート・マスターとしては熱心に聞いているふり[#「ふり」に傍点]をしなくてはならない。辛いところである。
曲はベルリオーズの「幻想交響曲」。海外のオーケストラが、よく公演曲目に取り上げるのは、この曲がオーケストラの実力を見せるのに適しているからで、言いかえれば、それだけ高度の演奏技術を要する曲だということになる。
天下に冠たるBBC交響楽団を向こうに回して、この曲をやろうというのだから、それはちょっと無謀な企画と言ってもよかった。実際の共演の形態は、この曲の時だけBBCの弦楽セクションをT学園弦楽オーケストラとまるまる入れ替えるという、大胆な試みになるはずだった。トランペットを始めとする金管楽器、ティンパニなどの打楽器などは、とても高校生の体力ではもたないので、BBCのメンバーが残る。木管――フルート、クラリネットなどは、第二以降をT学園のメンバーが受け持つことになった。
この曲はプログラムの最後に置かれているから、BBCだけの演奏と比較されることになる。瞳を始めとするメンバーたちが必死にトレーニングを重ねているのも、当然の話だった。
土屋先生のタクトが動いて、練習が始まった。ガランとして人気のないT学園ホールの中に、美しい弦の調べが立ちこめる……。
一段落ついて、ほっと手を休めると、瞳は後輩の男子学生の方を振り向いて、
「|五十嵐《いがらし》君、G線の音が合ってないわよ」
「はい」
「私のに合わせて」
合奏していて、一人のメンバーの音程の狂いに気付くのは、やはり瞳の、持って生まれた音感というものだ。
「よし、十分ばかり休憩」
ああ、やれやれ。とたんに緊張が解けて、オーケストラは騒がしい高校生の集団に変わった。瞳は何気なく空っぽのホールの方を眺めて、思わず、
「あら」
と言った。目立たない隅の席から、ジェイムスがこっちを眺めている。急いでステージを降りて行く。
「やあ」
「何があったんですの?」
「いや、ただちょっと演奏を聞かせてもらおうと思ってね」
とニヤリとする。
「ああ、何だ。何か起こったのかと思って……。事件の手掛かりは?」
「今日あたり犯人から金の支払いについて何か言って来るはずだよ」
「じゃ、こんなところでのんびりしてて、いいんですか?」
「猟師は|獲《え》|物《もの》が動くのを待つものさ」
瞳は思わず|微《ほほ》|笑《え》んだ。不思議な人だわ。命にかかわるような仕事をしているらしいのに、少しも肩を張ったところがない。リラックスして、いわば危険を楽しんでいるようだ。
「演奏はいかがですか?」
「素晴らしい」
即座に言う。「目を閉じて聞いていたら、世界でも有数の名門オーケストラだと思うよ」
「まさか!」
「いや、本当さ。ただ――」
「ただ?」
「もう少し気楽にやったらどうかな。あまり必死にならないで」
「ええ。そうですね」
瞳もコンサート・マスターとして、それは気にしているのだが、つい固く、気負ってしまうのだ。
「演奏」という言葉は英語ではプレイであり、ドイツ語ではシュピーレンである。つまりどちらも「遊ぶ」という言葉を使っているのだ。本来、音楽は、演奏する人間も楽しむ遊び[#「遊び」に傍点]でなくてはならない。ところが日本人は「演奏」とは崇高な使命であるかのように身構えてしまう。
「――あ、また始まりますから」
「何時に終わるの?」
「今日は大学オーケストラの演奏会があるんで、六時ごろには終わります」
「じゃその頃、迎えに来るよ」
「何か私にご用ですか?」
「昨日、気絶させたお詫びに夕食をおごろうと思ってね」
ジェイムスが出て行くと、瞳は訳の分からないときめきに頬を上気させながら、ステージヘ戻った。座ろうとして、思わず足が止まった。自分の席に、二つ[#「二つ」に傍点]ヴァイオリンが置いてある。一つは今日持って来た古いヴァイオリンだ。もう一つは……ストラディヴァリとすり替えられた自分のヴァイオリンではないか!
「ね、このヴァイオリン、誰が置いていったの?」
瞳は周囲の学生に訊いてみたが、誰もが休憩中で、特別気が付いた者はいなかった。そのうち、一人の女学生が、
「何だか男の人が置いてったみたいよ。学生さんかと思って気にもしなかったけど」
裕二が来たのだ! 瞳は急いでステージの|袖《そで》へ走って行ったが、もう誰の姿もない。戻って来たヴァイオリンは傷一つなく、元のままだった。ふと気が付くと、弦に小さく折りたたんだ紙片が挟んである。取り出して広げてみる。鉛筆の走り書きだった。
〈君の愛器を無断で借りてお詫びします。裕二〉
どう考えていいのか、瞳は途方にくれてしまった。
「瞳、始まるわよ」
学友の声に、瞳はコンサート・マスターの席へ戻って行った。
「――そうか、君のお父さんは、あのマサオ・シマナカなのか」
「ご存知ですか?」
「実際には残念ながら聞いたことがない」
ジェイムスはワイングラスを置いた。「確か、今度BBCを振っているサー・ジョンは君のお父さんがBBCに客演した時の指揮者だったろう」
「ええ、そうなんです。お目にかかるのが、とても楽しみで……。でももうきっと憶えておられないでしょう」
サー・ジョン・カーファックスは今年七十八歳。英国指揮界では、サー・エードリアン・ボールトと並ぶ大御所である。
「いや、そんなことはないよ。たまたま私はサー・ジョンを知っていてね、よく彼は君のお父さんのことを口にしている」
「本当ですか?」
瞳は目を輝かせた。
「惜しい天才だった、と口癖のように言っているよ。君が娘さんだと知ったら喜ぶだろう」
ホテルのレストランの一隅に、二人は席を取っていた。
「十分食べてくれよ、君は若いんだから」
「ええ、遠慮なく」
大きなステーキに取り組みながら、瞳はちょっと照れくさそうに笑った。
「その裕二という若者、一体何者なんだろうね」
「さっぱり分からないんです」
瞳は首をかしげた。「悪い人じゃないと思うんですけど」
瞳は土曜日の夜の、国電での出来事を話した。
「なるほど。勇気のある若者らしいね」
「ええ……」
「君の恋人というわけじゃないんだろう?」
瞳は首筋まで真っ赤になった。
「おやおや、怪しいね」
「別に……ただ、ちょっとキスしただけです」
「なるほどね。君がキスしたくなるような男性なら、ますます悪人ではなさそうだ」
ジェイムスは|真《ま》|面《じ》|目《め》くさった顔で、「私も悪人じゃないんだがね」
「でも……何だか、得体が知れません、あなたって」
ジェイムスは心から愉しそうに笑った。
デザートを終え、コーヒーを飲んでいると、急にジェイムスのポケットでブザーが鳴った。
「おやおや、ちょっと失礼」
ジェイムスは席を立つと、公衆電話で、ほんの三十秒ばかり話して戻って来た。
「気のきかん犯人だ。コーヒーを飲み終わるまで待っていればいいのに」
「連絡があったんですの?」
「そうらしい。大使館へ戻らなくては。途中、家まで寄ってあげよう」
「私なら大丈夫です」
そう言ってから、ちょっと様子をうかがうように上目づかいになって、「あの……ついて行っちゃいけませんか?」
「君が?」
「事件がどうなるか見届けたいんです」
「しかし、少々危険だがね」
「でも、もし楽器が戻らなかったら、せっかくの記念コンサートが中止になるかもしれないでしょう? 私、T学園のコンサート・マスターとして、実現に努力する義務[#「義務」に傍点]があると思うんです」
「いささかこじつけだね」
ジェイムスは苦笑した。「まあいいだろう。一緒に来たまえ」
「ありがとう!」
二人は早々にレストランを出た。エレベーターで地下の駐車場へ降りる。滑らかな曲線のポルシェが、メタリックな輝きを放っている。練習を終えてホールを出た時、瞳がこの車に乗って行ってしまうのを、学友たちは|唖《あ》|然《ぜん》として見送っていたものだ。
「さ、乗って」
ジェイムスがドアを開ける。乗り込もうとした瞳は、ふと少し離れて立っている人影に気付いた。
「あら!」
思わず叫んだ。「裕二さん!」
裕二は車から十メートルばかり離れた柱の陰から瞳を見ていたが、瞳に気付かれたと知ると、慌てて駆け出した。
「待って!」
「あの若者か?」
「そうです」
ジェイムスと瞳は裕二の後を追って走った。広い地下駐車場に、三人の足音が入り乱れて反響する。
裕二がゆるやかなカーブを曲がった時だった。突然、一台の大型乗用車が飛び出して来た。よける間もなかった。裕二の体がはね上げられて、車のボンネットにバウンドして床へ叩きつけられる。瞳が短い悲鳴を上げた。
「裕二さん!」
車はそのまま走り去ってしまった。駆け寄ったジェイムスが、裕二を抱き起こす。
「――大丈夫?」
瞳がのぞき込むと、裕二がかすかに目を開いた。|喘《あえ》ぐような息づかいで、
「君か……」
「しっかりして!」
「聞いてくれ……犯人は……」
「え?」
「あれを……盗んだのは……楽団の[#「楽団の」に傍点]……」
苦しげにうめいて、裕二はがっくりと頭を落とした。
「裕二さん!」
「死んではいない。救急車を呼ぶんだ」
「はい!」
瞳は、エレベーターヘ向かって走った。
「――楽団の? そう言ったんだね?」
救急車が走り去って、ジェイムスの車で、大使館へ向かいながら、瞳は裕二の言葉をジェイムスに伝えた。
「ええ。確かに」
「そうか。――そんなことじゃないかと思っていたんだ」
「というと?」
「内部の人間が楽器を盗む手配をしたに違いないということさ」
「まさか! BBCのメンバーがですか!」
「メンバーとは限らない。マネジメントの人間もいるし、日本側の関係者もいる。いずれにせよ、彼が意識を取り戻せばはっきりするだろう」
「助かればいいけど……。でも、やっぱりあの人も盗んだ一味だったんですね」
「しかし今は違うようだ」
「どうしてです?」
「命を狙われているからさ」
「え? まさか、あの――」
「あの車が事故でぶつけたと思っているのかい? いや、地下の駐車場で、あんなにスピードを出す|奴《やつ》はいないよ」
「ひどいわ!」
「病院にも監視をつけよう。生きていると知ったら、またやって来るかもしれない」
瞳は急に疲れを感じて、シートに身を沈めた。――何てことかしら! まるでマフィアの映画にでも迷い込んでしまったみたいだわ!
6 公園にて(月曜日〜火曜日)
「聞いてくれ」
会田がテープを回した。低い男の声だ。
「金は用意したか?」
「した。場所と時間は?」
返事をしているのは会田の声である。
「新宿のN公園へ持って来い。今夜、午前一時だ」
「公園のどこだ?」
「中をゆっくり歩き回っていれば、こちらで見つける。見張りなど置くなよ」
「分かっている。こっちの目印は?」
「白いボストンバッグに入れて持つんだ。それから持って来るのは女[#「女」に傍点]にしろ」
「女だって? しかし――」
「女だ。分かったな。ただし婦人警官などはだめだぞ。見ればすぐに分かる。少しでも怪しいことがあれば、ヴァイオリンはただの板っきれになって戻る」
電話は切れた。会田はテープを止めて、
「逆探知はしなかった」
「結構だ。どうせ無駄さ」
ジェイムスは瞳が話を英語で説明すると、顔をしかめた。
「女か。――大使館の職員を使う他なさそうだな。場所はどんな所だ?」
「|巧《うま》い所を選んでるよ」
会田は|口《く》|惜《や》しげに、「夜はアベックで満員になる。張り込むのは難しい。もっと人気のない所ならいいのにな」
「向こうには向こうの事情があるさ」
ジェイムスはニヤリと笑った。
「アベックのふりをして張り込めばいいのに」
瞳が口を出した。会田は首を振って、
「人手がない。警察の協力は得られないんだ。ここだけで処理しろという命令だ」
「ともかく時間がない。金を持って行く人間を決めよう」
「俺が女装してもむりだろうなあ」
会田は残念そうに言った。
「熊の毛皮なら似合うかもしれないがね」
ジェイムスがからかった。「さて、そんなことのできる女性がいるかね?」
「ここの事務に女性はいるが、事情を打ち明けないわけにはいかんし……」
「口外されてはこと[#「こと」に傍点]だな。大使の秘書あたりにいないか?」
「日本では有能な女性秘書は少ないんだ。口を閉じていられるほどのはいないね」
「あの……」
瞳が口を出した。「よかったら私が……」
「それはだめだ!」
会田がびっくりして、「君は部外者で、しかも子供だ」
瞳はむっとして、
「私は事件のことを知ってるし、もう大人です!」
「しかし、危険すぎる」
「いいじゃないか」
ジェイムスが言った。
「おい!」
「他に適当な女性はいないよ。彼女なら大丈夫だ」
「ええ! 必ず、ちゃんとやってみせます!」
「頼むよ。ただし、犯人を捕らえようとか、尾行しようとか、妙な考えを起こしては困る。いいね?」
「分かりました」
「まあ、その赤いこうもり傘を持って行くぐらいはいいだろうがね。護身用に」
「じゃ、我々はどうするんだ?」
と会田が訊いた。
「そうだな……。何とか公園に極力近い所で見張る他はあるまい」
「それぞれ公園の出入り口に、乏しい部下を配置しよう。くそっ! もっと人手が使えたらなあ! これじゃ破れた網で魚を取るようなもんだ」
「魚は手だって取れるさ」
ジェイムスが至って|呑《のん》|気《き》に言った。
高校生売春から中学生売春。最近では小学生までそんな事件がある。瞳だって人並みにそんな話題に興味があるから、週刊誌などで記事を読むこともある。でも、週刊誌の取り上げ方はいささか大げさで、興味本位だ、と思っていた。実際、そんなことをしている学生なんて、ほんの一部のまた一部で、大部分は自分のように(!)真面目に学校へ通っているんだと信じていた。大体親や兄弟、友だちだっているのに、その目を盗んでそんなことできるわけがない……。
しかし――しかし、である。この夜、十二時四十分に、右手に赤いこうもり傘、左手に白いボストンバッグを下げて、N公園へ入って行った時、瞳は自分の信念が激しくぐらつくのを感じた。
いるわいるわ……。ほの暗い街灯の下、ずらりと並んだベンチは、まだ若いアベックが鈴なりといっていいほどの盛況ぶりだ。よくもこれだけ集まるものだと呆れてしまった。
しかし、のんびり見物している暇はないのである。瞳はボストンバッグをしっかり握り直した。手に汗がにじんでいる。別にアベックを見たからではない。何しろ中身は一億円である! 札束を入れる手伝いをしながら、思わず額の汗を|拭《ぬぐ》ったものだ。
瞳は目立つように、明るいクリーム色のセーター、オレンジ色のパンタロン、それにいざというとき走れるように、軽いキャンパスシューズをはいている。
ゆっくりと公園の砂利道を進みながら、胸元のペンダントに軽く触れてみる。何の変哲もないペンダントだが、小型マイクになっているのだ。
「聞こえるかね?」
いきなり耳もとで声がして、飛び上がりそうになる。――あ、そうだ、イヤリングに受信機が仕掛けてあるんだっけ。
「は、はい、聞こえます」
「もっと小さな声で」
ジェイムスの声がした。「|囁《ささや》くぐらいで、十分聞こえる。耳が痛くなっちまうよ」
「分かりました」
「そう、それでいい。どうだね、様子は?」
「今の所、何も」
「まだ少し時間が早い。ゆっくり歩いていてくれ」
「はい」
瞳の胸が次第に鼓動を早める。身代金の運搬なんて初めてだし――当たり前のことだが――、ジェイムスに言われていたものの、もし犯人が暴力でも振るおうとすれば、このこうもり傘で叩きのめしてやろうと秘かに考えていたのだから、それも無理からぬことだったが、そればかりでもない。
何しろ、両側に並んだアベックたちへ、この中に犯人がいるかもしれないと思いつつチラチラと目を走らせて行くのだが、目に入るのが凄い光景ばかり。肩を抱き寄せたり、手を握り合ったりなんて、おとなしいのは一組もなくて、抱き合い、キスしているのはまだいい方で、ブラウスのボタンを外して胸元ヘ手を入れていたり、スカートがまくれ上がって太ももも|露《あら》わなのも目につく。
周囲がやっているので、みんなお互い大胆になってしまうのだろうが、ハアハア荒い息づかい、甘えるような笑い声……もう瞳は公園の中心まで着かないうちに、いい加減くたびれてしまった。
公園の中央には噴水が七色の照明に照らされて美しい幻想的なバレエを踊っている。
「中央の噴水に来ました」
瞳は囁いた。
「よし、そこで一時になるまで少し座っていてくれ」
「はい……」
困っちゃったな。座っててくれったって、ベンチはみんなアベックで一杯。噴水の周囲は水しぶきが夜風に乗って飛んで来るし、こっちの様子も知らないで、座ってろなんて!
空いたベンチを捜して、空しくあちこちうろうろしてから、瞳は|諦《あきら》めて、植え込みの前の芝生ヘハンカチを敷いて腰を降ろした。腕時計を見ると、十二時五十分だった。油断なくあたりに気を配っているうち、瞳はとんでもない場所に座ってしまったことに気付いた。後ろの植え込みの陰で何やらゴソゴソ音がすると思ったら、どこやらのアベックが、さすがに人前ではできかねるようなことをやっているらしいのだ。極力無視していたが、そのうち、女の喘ぐ声が段々高くなって来て、瞳はいたたまれなくなってしまった。
「どこか他を捜そう……」
と立ち上がって、腹立ちまぎれに、植え込みの方へ、「もうちょっと静かにしてよ!」
と言ってやると、歩き出そうとした。
「待ちなよ!」
声に振り向くと、植え込みの陰から、高校生らしい娘が立ち上がった。セーラー服姿である。――何てことだろう!
「何か用?」
瞳はツンとして訊いた。
「今、何て言ったのさ?」
「少し静かにしろって言ったのよ」
「フン、もてないからって|嫉《や》いてやがるんだね」
これは相当の不良だな、と瞳は思った。男の方が立ち上がった。これは大学生らしい。やはり学生服の、それも柔道でもやっていそうな大男だ。
「何か文句あるのかい?」
と女学生がしつこく絡んで来る。瞳は胸がムカついたが、今は、こんな連中と喧嘩してはいられない。
「勝手にしなさい。失礼するわ」
とくるっと背を向けて歩き出した。三歩と行かないうちに、突然凄い力で後ろから抱きつかれた。
「何するのよ!」
馬鹿力で、男は瞳をかかえ上げると、植え込みの陰へ放り出した。はね起きようとするところへ、巨体がどさっとのしかかって来る。
「やめて!」
叫ぼうとするのを、女学生の方が瞳の顔にハンカチを押し当てて口をふさぐ。
「さあ、やっちまいな! 構やしないよ」
男の手が瞳のセーターをたくし上げる。瞳は必死で、女学生の顔のあたりに見当をつけ、|拳《こぶし》を振り回した。ガツンと手応えがあって、
「痛えっ!」
女学生が仰向けに倒れる。瞳は大男の片手を引っつかむと、思い切りかみついた。
「ワッ!」
|堪《たま》らずうめいて、男の力がゆるんだのを見て、瞳は力一杯、体をねじった。フェンシングで鍛えた体のばねである。大男が横倒しに転がった。はね起きた瞳は植え込みを飛び越し、落ちていたこうもり傘をつかんだ。――さあ来い!
女学生の方が形相も凄まじく追って来る。
「こいつ!」
つかみかかって来るのをやりすごして足を払うと、相手は地べたへ転がった。立ち上がろうとするところへ、鋭い突き[#「突き」に傍点]が決まって、女学生は気を失って倒れた。植え込みを押し分けて男の方が現れると、瞳は身構えた。その時、どこから現れたのか、ジェイムスが間に割って入ったと思うと、強烈なパンチが飛んで、あの大男が完全に三十センチも躍り上がって、のびてしまった。
「大丈夫か?」
「ええ……」
瞳は肩で息をしながら、「すみません……」
「様子がおかしいんで飛んで来たんだ」
ジェイムスも走って来たせいか、息を切らしている。「――ボストンバッグは?」
「さっき抱きつかれた時、ここに落として――」
瞳は見回してハッとした。バッグがない!
「ないわ! 傘は落ちてたのに」
ジェイムスは胸のネクタイピンヘ、
「誰かがバッグを持ち去ったぞ! 見張るんだ!」
ジェイムスは瞳の腕を取って、「さ、捜そう。遠くへ行くはずはない!」
瞳とジェイムスは急ぎ足で公園の中を歩き回った。
「――いない」
「外へ出たんでしょうか?」
そこへ会田の声がした。
「ジェイムス、どうだ?」
「そっちは?」
「|誰《だれ》も出て来ないよ」
「よし、それならまだ中だ。植え込みの陰や木の間を捜すんだ!」
二人は隈なく植え込みの後ろや小径の奥まで捜し回った。しかし見つかるのはアベックばかり。
「だめだ。夜中だし、これ以上捜しても無駄だろう」
「どうするんですの?」
「出口を徹底的に見張るんだ。朝までにはきっと出て来る」
二人は公園を出て車へ戻った。
「すみません」
瞳はすっかりしょげていた。「私が、あんな騒ぎを起こしたばっかりに……」
「いいさ。君の身の安全の方が大切だ。こっちも悪かったんだよ」
「でも……」
「きっとバッグを持って出て来るさ」
しかし徹夜の見張りも|空《むな》しかった。それらしい荷物を持った人間は出て来なかったし、明るくなってから全員で公園の中を捜し回ったが、ついに白いバッグは見つからなかったのだ。
大使館へ戻った一行を待っていたのは、犯人からの新しい要求だった。
「妙な奴らを張り込ませやがったな。……一億円は罰金としていただいておく。……あと一億円用意しろ。支払い方法はまた連絡する」
7 決 闘(火曜日〜水曜日)
瞳は裸になってシャワーの下に立った。熱い雨が勢いよく降り注いで、汗ばんだ肌を快く洗い流して行く。――|稽《けい》|古《こ》の後のシャワーの気持ち良さに、うっとりすることがある。まるで、シャワーを浴びるためにフェンシングをやっているみたいだわ、と時々思うほどだった。
髪にたっぷり湯を含ませ、指を通すと、溢れ出る流れが、背中を落ちて行く。
「ああ、いい気持ち……。あ、そうだ。あんまりゆっくりしていられないんだわ」
ジェイムスが待っているのだ。瞳はもう一度、ひとしきり湯を浴びると、シャワーを止め、バスタオルで体を拭った。
もう夜の十時になっていた。ここしばらく、忙しくて稽古場へ来ていなかったので、少し遅かったが、オーケストラの練習の後、ジェイムスに送ってもらって、やって来たのだ。
ジェイムス……。不思議な人だ。鏡の前で身づくろいしながら、瞳は思った。私みたいな子供を食事に誘って、面白いのだろうか。とても女性にもてそうだし、事実、洗練されたその物腰を見ていると、女性の扱いに慣れていることがよく分かる。
そう、きっと珍しいのかもしれない。――日本の女。それもまだ若い娘がどんなものか、興味があるんだろう。それだけのことだ、きっと。
「それだけよ」
口に出してみる。自分でも驚くほど弱々しい呟きだった。言いたくない、信じたくない、と思っているかのようだ……。
稽古場へ戻ると、ジェイムスが剣を手に、|手《て》|馴《な》れた様子で、型を鏡に映している。
「あら! 上手なんですね!」
ジェイムスは微笑して、
「いやいや、余り得意じゃないんだ」
「でも、とても型がきれいでしたわ」
「お|賞《ほ》めにあずかって嬉しいよ」
「先生は帰られました?」
「ああ、さっきね」
「そうですか。悪かったわ、遅くまでお引き止めしちゃって」
「いや、君のことを、弟子一番の腕前だと言っていたよ」
「あら、また冗談ですか?」
「本当だよ」
瞳はちょっと考えてから、
「――ね、一勝負いかが?」
「私と?」
「ええ、稽古をつけて下さいな」
「とんでもない。私が教えてもらう方だよ。ではちょっとやってみるかね」
「このままでいいでしょ? 軽く――」
「分かった」
ジェイムスは、とても瞳のかなう相手ではなかった。瞳がどんなに鋭く踏み込んでも、軽く払われてしまう。
「ちょっと暑くなったね」
ジェイムスが軽く息を弾ませた。「もっとやるかね」
「もう少し!」
せっかくシャワーを浴びたのに、とも思ったが、瞳はもう夢中になっていた。せめて一本でも取りたい、と思った。
「よし、ちょっと待ってくれ。|喉《のど》が乾いた」
ジェイムスは稽古場の隅の、自動販売機で缶入りコーラを出して、一口飲んでから傍の台へ置くと、
「よし、もう一勝負行こう」
「必ず一本取りますからね」
「取れるかな?」
額に汗が浮くのも構わず、瞳は懸命に攻めた。――二人が熱戦をくり広げている間に、稽古場の開いたままのドアから、一つの人影が音もなく滑り込んだ。二人とも全く気付かなかった。その人影は、二人の目に付かぬよう、物陰を伝って、そっとコーラの販売機の陰に身を潜めると、手をのばして、ジェイムスが飲みかけのままにしておいたコーラの缶の中へ、小さな錠剤を落とした……。
「一本!」
瞳の剣の先がジェイムスの腕をかすめた。
「お見事!」
「――わざと取らしたんじゃないんですか?」
肩で息をしながら訊いた。
「いや、今はこっちも本気だったよ」
ジェイムスは顔をハンカチで拭った。「大した気迫だった」
「ああ疲れた! すみません、勝手言って」
「いや、とても楽しかった。久しぶりだよ、こんなに手合わせしたのは」
「じゃ行きましょう」
「運動してお腹が空いたろう?」
ジェイムスは飲みかけのコーラをぐいと飲みほした。
「とっても!」
「それじゃ今夜は特大のステーキだな。ぐっと分厚く」
「二人前食べるかもしれませんよ」
「こいつは大変だ! 英国政府に給料を上げてもらわなくちゃ」
「あら、私、またあなたは生まれながらの財産家かと思ってました。――ジェイムス! どうしたんですの?」
ジェイムスが胸を押さえてうめいた。顔が苦痛にゆがんでいる。瞳は慌ててかけ寄ったがジェイムスはそのまま床へ崩れるように倒れてしまった。
「ジェイムス! ジェイムス! しっかりして!」
顔は|蒼《そう》|白《はく》で、玉のような冷や汗が顔から噴き出している。苦痛がひどいせいか、かみ合う歯がギリギリと音を立てた。
「お医者さんを――救急車を呼んで来ます! 待ってて!」
立ち上がって駆け出そうとした瞳は、凍りついたように立ちすくんだ。――目の前に、黒いスーツを着た男が静かに立っていた。金髪、澄んだ|碧《あお》い眼、薄い唇……。忘れたくても忘れようもない。「伯爵」だった。
伯爵の右手に、黒く鈍い光を放つ拳銃があった。――瞳はその銃口がジェイムスヘ向けられるのを見て、思わず間へ立ちはだかった。
伯爵は|焦《いら》|立《だ》たしげに、拳銃を動かして、瞳にどけと合図したが、瞳は動かなかった。
「|卑怯者《ひきょうもの》!」
瞳は英語で言った。伯爵はちょっと眉を上げると、やはり英語で、
「英語が分かるのか。それなら話しやすい。さあどくんだ」
「いやです」
「死にたいのかね、一緒に?」
瞳は黙って伯爵をにらみ返した。顔から血の気がひいて行くのが分かる。
「君のように無関係な人間は、極力殺したくない。まだ若いんだ。命を大切にしたらどうだね」
「さっさと|撃《う》ったらどうなの!」
瞳は叫んだ。「どうせ抵抗できない相手しか殺せないんでしょう。『伯爵』ですって? とんでもないわ。相手に薬を飲ませてから殺すなんて卑劣なことをするのが、伯爵なの? 最高の殺し屋だっていうから、もっともっと正面から闘うかと思ってたけど、こんな卑怯者だとは思わなかった。さあ撃って! 日本で無抵抗の娘を殺したって、ヨーロッパヘ帰って自慢したらいいんだわ!」
仮面のように無表情のまま、瞳の叫びを聞いていた伯爵は、しばらくじっと押し黙っていたが、やがて、
「いいだろう」
と呟くように言って、拳銃を背広の下のホルスターヘ収めた。「ここには真剣がおいてあるかね?」
「ええ。どうして?」
「私と勝負して、私を傷つけることができたら、ここは手を引こう。その代わり、君の命も保証しないぞ」
「いいわ」と肯く。
「真剣を取って来い」
稽古場に真剣など置かないのが普通だが、ここの正面の壁に、一種の装飾として、二本の真剣が交差して掲げてある。瞳は台に乗ってそれを外すと、一本を伯爵へ投げた。伯爵は冷ややかに笑って、
「けがをして泣き言を言うなよ」
瞳は剣を手に、構えた。伯爵の剣がヒュッヒュッと空を切って、伯爵も左手を腰へ当てて構える。――瞳は背筋を鋭く戦慄が走るのを覚えた。相当な腕前だ、と分かったのだ。しかし、今さら後には退けない。
闘うのよ! ジェイムスの命がかかってるんだわ。どうせさっき撃ち殺されるところだったのよ。命はないものと思って。――闘うのよ!
「えい!」
思い切って突いて出る。伯爵は軽くかわすと、逆に激しく攻め返して来て、瞳は慌てて後退した。伯爵は深追いせず、まるで楽しむように瞳が突っ込んで来るのを待った。瞳は猛然と打ち込んだ。
剣の触れ合う金属音が稽古場に響き渡る。瞳は思い切り息を吸い込むと、息を止め、刺し返されるのを覚悟で、相手の胸元へ飛び込んだ。伯爵の体が横へ飛んで、瞳が泳ぐように態勢を崩したまま踏みとどまる。向き直るより早く、伯爵の剣の先が、左腕をかすめた。セーターが切れたが、肌までは届かない。
瞳は必死に呼吸を整えつつ、身構えた。危ないところだった。――今度は落ち着いて!
「そら行くぞ!」
突然、伯爵が一気に攻撃に出た。息つく間もなく、鋭い突きが襲いかかって来る。何本もの剣が一度に向かって来るようで、瞳は必死に払いのけながら、どんどん後ずさりしていき、背中が壁についてしまった。
横へ逃れようとしても、伯爵の方も素早く動きながら攻めて来るので、動きが取れない。もう剣の雨は防ぎきれないほどになっていた。追いつめられたままでは、殺される! 瞳は反動をつけて思い切り飛び出した。ほとんど伯爵へ体当たりするようにして、辛うじて稽古場の中央へ転がり出る。
やった! 切り抜けた、と思ったのが|隙《すき》を作った。はね起きた瞳が身構えるより早く、伯爵の剣先が胸元へ白い光の筋を引いてのびて来る。アッと飛びすさった時は遅く、瞳は左の胸に鋭い痛みを感じた。白いセーターにゆるやかなふくらみを見せる左の胸から、赤く血がにじんで来る……。
「どうだね?」
と伯爵はほとんど息も弾ませずに言った。
「まだやるのかね?」
大した傷じゃないわ。瞳は自分にそう言い聞かせた。しかし、もう瞳は限界に来ていた。疲れ切って、肩で息をしている。剣がひどく重かった。足もしびれたように、言うことをきかない……。
床に倒れていたジェイムスが、かすかに目を開いた。かすんだ視界に、剣を交える姿が見えたのか、必死の形相で、身を起こそうともがいた。辛うじて仰向けになると、震える手で左のわき下のホルスターから、拳銃を抜く……。
伯爵はネズミを|弄《もてあそ》ぶ猫のように、疲れ切った瞳を徐々に壁際、それも角へと追いつめて行った。
もうだめだ、と思った。手にした剣が震えている。
「覚悟はいいかね」
伯爵が、攻めの構えに入った。
銃声が響きわたった。伯爵が左の腕を押さえた。ジェイムスが横になったまま、震える手で引き金を引いたのだ。
伯爵がジェイムスと瞳ヘチラリと視線を投げた。
「今日は引き上げる。運がいいぞ!」
伯爵は剣を投げ捨てると、足早に稽古場から出て行った。
「――ジェイムス!」
「大丈夫か?」
「ええ……ええ……」
再び稽古場は静まりかえった。瞳の耳には、自分自身の激しい息づかいと、鼓動しか聞こえない。――手から剣が落ちた。
瞳は、壁へもたれたまま、ずるずると床へ座り込んでしまった。頭の|芯《しん》までしびれたようで、何も考えられない。全身、汗だくで、まるで水をかぶったようだった。
やっと目が覚めたのは、もう昼も十二時近くだった。広いベッドで一人、起き上がって部屋を見渡す。――ああ、そうだ。ここはホテルなんだ。
瞳は、あの後、会田へ連絡して、ジェイムスともども病院へ運んでもらった。そして、もう遅いというので、近いホテルヘ泊まることにしたのだ。
けだるい気分だった。昨日、命がけで闘ったのが、まるで夢のようだ。――あれは現実だったのだろうか? 夢だったような気がする。ずっと昔にみた夢のような……。
のびをしようとして、左の胸が痛んだ。
「あ痛っ。――夢じゃなかったんだわ」
医者で手当てしてもらう時の恥ずかしかったこと、本当に、こんな所を刺されるなんて! 思いだしただけで、瞳は頬が赤らむのを感じた。
下着にガウンをはおって、瞳はベッドから出ると、カーテンを開けた。ずっと眼下かなたに、東京の町並みが広がっている。
「あ、学校――」
今日は休むことにしたんだっけ。佐野先生に電話した。あれは夢じゃなかったかな?
ドアの開く音がした。振り向くと、ジェイムスが、いつもの笑顔を浮かべて立っている。スマートなスーツ姿、血色の良い顔色、いつものままだ。
「もう大丈夫かい?」
瞳は急に何かが激しく胸をつき上げて来るのを感じた。安心感と、疲労感と、喜びと、腹立たしさと――すべてが入り混じって、津波のように彼女を呑み込んでしまう。
瞳はいきなり駆け出すと、ジェイムスの胸に身を投げ出した。そして、すすり泣いた。自分でも訳が分からなかったが、ただ|堰《せき》を切ったように、涙が溢れ出て止まらないのだ。
ジェイムスはいつまでも、彼女が泣くに任せておいた。
「――ごめんなさい」
泣き|濡《ぬ》れた笑顔で、瞳が見上げた。「背広汚したわ」
「君は命の恩人だ。スーツの一着が何だい」
「ほんとだわ。――少しは、いばっていいのかしら? ジェイムス」
「はい、お嬢さま」
「お願いを聞いて」
「何なりと」
「キスして下さい」
「抱きしめると、傷口が痛くない?」
「構いません」
「また血が出るよ」
「やめて!」
瞳は|逞《たくま》しい腕に抱きしめられ、唇を重ねた。――初めてのキスとは違っていた。燃え立つような、情熱的なキスだ。胸の傷がチクリと痛んだが、少しも苦にならなかった。
「ああ……ジェイムス……あなたが好きです」
瞳は訴えるように囁いた。「昨日は、あなたのために死のうと思いました。でも……今は、愛してほしいんです!」
ジェイムスは黙って瞳を見つめた。
「……あなたは……大勢女の人を知ってるんでしょう? 私なんかより、ずっときれいな人を……。でも、私だってもう子供じゃありません」
瞳は息をつくと、「――いけないかしら?」
と呟くように言った。
「いけない。――今は」
「なぜ?」
「君はまだ昨日のことで、気持ちが|昂《たか》ぶってるんだ。当たり前だよ。命をかけて闘うなんて、君には初めての経験だろう。――そんなところへつけ込むのは、私の主義に反する。それになにしろ――」
と微笑んで、「まだ昼間だ」
瞳は目を伏せて、何度か息をつくと、笑顔になって、肯いた。
「分かりました」
「いい子だ」
「子供じゃありません!」
すかさず、瞳が応じた。
8 裕 二(水曜日)
「どこへ行くんですか?」
ジェイムスの運転するポルシェに乗って、瞳は|訊《き》いた。
「病院だ」
「病院?」
「あの裕二という青年の入院している病院さ」
「意識を取り戻したんですか?」
瞳は思わず声を弾ませる。
「ニュースによると、間もなく意識を取り戻しそうだということでね」
「まあ、よかった!」
ジェイムスが続けて言った。
「実際は全く見込みが立たない」
瞳が当惑顔でジェイムスの顔を見た。
「時間の問題なんだ」
ジェイムスが説明した。「残された時間は明日、明後日の二日間しかない。もしヴァイオリンが戻らなかったら、演奏会は中止になるだろう」
瞳にもそれはよく分かっていた。|素《しろ》|人《うと》が考えれば、他のヴァイオリンで弾けばいいようなものだが、世界的な銘器が十台以上も抜けたら、オーケストラの音は大きく変わってしまうだろう。
たとえ聴衆のほとんどがその音色の違いに気付かなかったとしても、演奏者自身が納得しないに違いない。一流であることの誇りが、そんなごまかし[#「ごまかし」に傍点]を許さないのだ。
「犯人から連絡は?」
「まだない。しかし、もう一億円払っても、ヴァイオリンが無事に戻るという保証はない」
「それじゃ……」
「裕二という若者に犯人を教えてもらう他はないわけだ」
「でも、意識を取り戻す見込みが立たないって……」
「そうだ。我々としては、彼が目覚めるまでいつまでも待ってはいられない。ともかく時間を切られているわけだからね。そこでニュースだ。ホテルの駐車場ではねられた被害者が意識を取り戻すのは時間の問題とみられています、とね」
瞳はやっと理解した。
「おびき寄せるんですね。犯人を?」
「その通り」
「また裕二さんを殺しに来ると……?」
「わざわざ車で後をつけてひき殺そうとした|奴《やつ》だ。諦めはすまいよ」
瞳はちょっと考え込んで、
「――でも、危険じゃありませんか。もし本当に裕二さんが殺されてしまったら?」
「万全の警戒はするよ」
ジェイムスは厳しい顔つきで言った。「しかし、あまり厳重にすれば、犯人が手を出すまい。――ある程度の危険はやむをえない」
「分かります。でも……」
「何だね?」
「もし殺されてしまったら……」
「大丈夫だよ」
ジェイムスは肯いてみせた。
「担当の|工《く》|藤《どう》です」
まだ三十代前半と思えるその医師は、清潔な白衣の似合う好青年で、滑らかな英語を話した。
「患者の容態はどうでしょう?」
ジェイムスが訊いた。
「何とも言えません」
工藤医師は首を振って、「酸素吸入をしていますが……」
「助かりますか?」
瞳が訊いた。
「五分五分というところです。若いので体力がありますから、希望は持てますが」
「|昏《こん》|睡《すい》からいつさめるかは……」
「それは予測がつきませんね」
「そうですか」
ジェイムスは一つ|咳《せき》払いして、
「実はそのことで、お願いが……」
工藤医師のデスクの電話が鳴った。
「あ、ちょっと失礼」
医師は電話で何か話していたが、そのうち、
「何だって?」
と声を上げた。「そんなニュースは聞いてないぞ。もちろん発表もしていない。だから――」
工藤医師が言葉を切って、目の前に座っている二人を、まじまじと見つめた。そして、再び口を開くと、
「ちょっと待ってくれ。後でこちらから、かける」
受話器を置くと、工藤医師は、一つため息をついて、
「これはどうやら、あなた方の|仕《し》|業《わざ》のようですね」
「ですから、その件について説明しようとしていたんですよ」
「ご説明を伺いましょう」
工藤医師は苦り切った表情で、ひじかけ椅子にもたれた……。
「――とんでもない!」
工藤医師が目を丸くした。「患者をおとり[#「おとり」に傍点]に使うんですって? 全く論外です」
「そこを何とか――」
「だめです! いいですか、万に一つでも患者に危険を及ぼすようなことを許すわけにはいきません」
「警戒は我々で万全の体制を――」
「何と言われてもだめです! 犯人を見つけたいのは、私も同様です。しかし、そんな危険な計画に加担するわけには行きません」
ジェイムスの言葉にも、工藤医師は極めて頑固だった。ジェイムスはお手上げ、といった顔で、席を立つと、
「ちょっと電話をお借りします」
「どうぞ」
ジェイムスはダイヤルを回した。しばらくのやりとりの後、やっと目指す相手につながったらしい。簡単に事情を説明すると、受話器を工藤医師に渡した。
「イエス?」
工藤医師はあまり気乗りのしない様子で受話器を取ったが、ふたことみこと、しゃべると、
「イ、イエス・サー!」
と、急にどやしつけられたように椅子に座り直した。
「イ、イエス・サー。……イエス・サー……」
こわれたレコードのように同じ文句をくり返しているばかりで、それでいて目はカッと大きく見開き、白昼夢を見ているのではないかと疑っている様子。
「イエス・サー」
最後の「イエス・サー」が終わって、受話器を戻すと、工藤医師は額を拭った。
「――分かりました」
と、やっとの思いで口を開く。「協力しますよ。しかし十分気を付けてやって下さいね。何かあれば、私が全部の責任を負うことになるんですから」
「ご心配なく、決して危険はありません」
ジェイムスは力強く肯いて、言った。
「では、まずどうすればいいんですか?」
「あのニュースは全部事実であると、ドクターに認めていただきたいんです。できるだけ、すぐにも意識を回復しそうな印象を与えるように」
「分かりました」
工藤医師は諦めたように肯いた。
K大学病院は鉄筋の真新しい八階建てで、色とりどりの花壇が美しい前庭、回復期の患者が思い思いに散歩や日光浴を楽しむ、広々とした芝生など、都内の病院とは思えない、ゆったりとした造りになっている。
瞳は八階の窓から、広い芝生を見降ろしていた。そろそろ|黄《たそ》|昏《がれ》|時《どき》で、風の冷たさに、患者たちが|慌《あわ》ててえりをかき合わせながら、病棟へ戻って来る。
瞳は振り向いて、ベッドに眠りつづける裕二を見やった。――青ざめた血の気のない横顔が、ビニールの膜の中に見えている。胸がかすかに上下して、弱々しくではあるが、呼吸しているのが分かる。そうでないと、まるで死んでしまったのではないかと思えるほど、裕二は身動き一つしないのだ。
「頑張ってね、裕二さん」
瞳はそっと声をかけた。――楽器泥棒の一味なのかもしれないが、瞳には彼が悪い人間だとは思えなかった。ストラディヴァリを瞳のケースヘ入れたり、瞳のヴァイオリンを、きちんと返して寄こしたりするのだから、泥棒にしても妙な泥棒である。
それに……何といっても、初めてキスをした相手なのだ。本当に、会ったばかりの裕二に、どうしてあんな気持ちになったのか、瞳自身、不思議でならなかったが、ともかくこの人なら構わない、と瞳に思わせる何かが、裕二にはあった。直感的な信頼感といったものだ。
今は、瞳の胸は、あの不思議なイギリス人のことで一杯だが、裕二を忘れてはいなかった。ジェイムスに対しては、情熱が燃え上がれば燃え上がるほど――反対に、決してこの恋は|叶《かな》うはずがないという思いも深まった。イギリス人で、四十代の男盛り、危険に身をさらす職業の中で、人生を巧みに楽しんでいる男……。そんな男が、日本の、まだ高校生の小娘を本気で相手にするはずはない。可哀そうだと思うから、――いや、あえて言えば、任務[#「任務」に傍点]に必要だから、その間だけ、慰めていてくれるのだろう。
別にそれでも構わないわ、と瞳は思った。この恋がほんのひとときの閃光で終わっても、悔いはない……。
裕二のベッドの傍に、大きな酸素ボンベが置かれていて、吸入装置を通して、ビニールの膜の中へと酸素を送り込んでいる。
裕二さんが元気になったら、瞳は心の中で|呟《つぶや》いた。きっといいお友達になれる。恋人にだって――いつかは――なれるかもしれない。
ドアが開いて、ジェイムスと会田が顔を出した。
「やあ、具合はどうだね?」
会田が訊いた。
「相変わらずのようですけど」
「いや、君の方さ。昨日は大奮闘だったというじゃないか」
「いいえ! 大したことじゃ……」
と頬を染める。
「どこか、けがしたって? 大丈夫なの?」
「大丈夫です!」
もっと真っ赤になりながら、瞳はジェイムスをにらみつけた。ジェイムスは涼しい顔で、
「警備の方の態勢は整えたよ」
「人数は少ないが、優秀な連中だ」
と会田が誇らしげに言った。
「ところで、君にはすまないんだが、今夜一晩、この部屋にいてもらえないだろうか?」
ジェイムスに言われて、瞳は快く|肯《うなず》く。
「もちろん、そのつもりです」
「まず危険はないと思うが……」
「これがあります」
瞳は赤いこうもり傘をひょいと持ち上げて見せた。会田が、
「こわいなあ、あまり見せないでくれよ」
と腹をさする。その様子があまり実感が出ていて、瞳はふき出してしまった。
「この病室にいれば、まず危険はないと思うよ」
ジェイムスは窓を開けて、頭を突き出し、上下を見やった。
「のっぺりした壁だから、昇って来るのはまず不可能だしね。屋上からロープで降りて来るにしても、高い金網の|柵《さく》を乗り越えなくてはならない。屋上には二人配置してあるから、心配ないよ」
「あなたはどこにいるんですか?」
会田がおどけて、
「こいつは常に女のそばさ」
「おい!」
ジェイムスが苦笑して、「私はこの階の当直室にいる。ガラス戸越しに廊下がずっと見渡せる所だ」
「分かりましたわ」
「それでは、戦いの前に、腹ごしらえ、といこうじゃないか」
「お二人でどうぞ」
と会田が言った。「ここは俺が見ているよ」
「その心掛けなら出世するぞ」
ジェイムスがからかった。
「あの若者の身元が分かったよ」
大学病院の地下食堂で夕食をとりながら、ジェイムスが言った。
「どんな人なんですか?」
「名は|東《あずま》裕二。九州から上京して来て、一人で暮らしている音楽大学の学生だ。親からの仕送り一切なしで、アルバイトだけで学費と生活費をまかなっていたらしい」
「無理だわ! とても高いのに」
「そうだろうな。大学ではかなり成績も優秀だそうで、教師たちの評判も非常にいい。それが、あんな事件に関わったのは、たぶん金のためだろう」
「でも一体どうして……」
「彼の父親はヴァイオリン製作者なんだ。腕はいいらしいが、職人|気質《 かたぎ》というか、自分の気に入らない作品は、タダ同然でくれてやってしまうので、暮らしは苦しいようだ。しかしそんな環境で育って来たせいか、彼にはヴァイオリンを見分ける力があるらしい。そこが一味に目を付けられたところだろうね」
瞳は肯いた。自分のように、両親を亡くしても、こうして好きな音楽に打ち込んでいられるなんて、恵まれているのかもしれない……。
「ご両親には知らせたんでしょうか?」
「いや。申し訳けないが、まだだ」
ジェイムスは首を振って、「今、ここへ来られては、我々の仕事がやりにくくなる。もちろん、これがすめば、すぐ飛行機を予約して来ていただく。――ひどい奴だと思うだろうね」
瞳はちょっとためらってから、
「思います。でも――あなたはあなたの仕事をやっているだけですもの」
「人間味のない仕事だがね」
「きっと――裕二さん、助かりますわ」
「そう願うよ」
「ニュースは、もう……?」
「流してある。敵が動き出すとすれば、今夜だ」
二人はそれきり、黙って食事をつづけた。
9 暗闇の闘い(木曜日)
瞳は、ふっと目を覚ました。
いつの間にか、椅子に座ったままウトウトしていたらしい。病室の中は薄暗くて、静かだった。ベッドの傍の小さなスタンドと、奥に座っている瞳のそばにあるテーブルに、やはり折りたたみ式のスタンドが灯っている。
「何時かな」
腕時計を見ると、夜中の一時になるところだった。もう木曜日になってしまったのだ。今日と明日。二日の間に、巧く楽器を取り戻すことができるだろうか?
きっとジェイムスならやってくれる。瞳はそう信じていた。
眠気ざましに、病室を横切って、窓から外を眺める。――外の芝生には、ほの白い水銀灯の光が落ちて、草色のカーペットが広がっているように見える。病院なのだから、庭に照明など必要ないようなものだが、患者にとっては、窓の外が真っ暗というのは、あまり気持ちのいいものではないらしい。
「本当に静かだわ」
口に出して呟いてみる。――この静かな建物の中で、大勢の人々が病気と闘っているなんて信じられない……。ふっと微笑が|洩《も》れる。私だって闘ってるんだわ。
ドアにノックの音がして、「私だよ」とジェイムスの声がした。ドアを開けると、
「コーヒーだ。そろそろ眠くなる頃だろうと思ってね」
と紙コップを手渡す。
「ありがとう! でも、ちょっと眠っちゃった」
「おやおや、大丈夫かね?」
「ええ、もう眠らないわ」
「あまり固くなっちゃいけない。かえって少しリラックスしている方がいいんだ。緊張しすぎると周囲に気を配れなくなる」
「あなたは看護婦さんばかり眺めてるんでしょう」
「いつからそんな皮肉屋さんになったんだい?」
ジェイムスはニヤリとした。
「会田さんは?」
「彼は一階の出入り口を張っているよ」
「面白い人ですね」
「そう、気のいい奴だ」
ジェイムスはひと息ついて、「さて、もう一時すぎか。そろそろ――」
その時だった。突然、明かりが消えた。二つのスタンドだけではない。外の芝生も、廊下も、当直室も、すべての明かりが一斉に消えてしまったのだ。塗りつぶしたような闇の中で、瞳は凍りついたように立ち尽くした。
「ジェイムス!」
「動くな。慌ててはいけない。目を慣らすんだ」
「どうしたんでしょう?」
「停電かな。しかし――」
廊下へ出ると、ところどころに取り付けられたカドニカ電池の非常灯が、何とか足もとを照らすぐらいの光を投げている。
「よかった。明かりがあるのね!」
当直室の方から、大きな懐中電灯を二つ手にして、白衣の男が走って来た。近くに来ると、工藤医師と分かった。
「大丈夫ですか?」
とジェイムスヘ懐中電灯を一つ手渡す。
「ありがとう、ドクター。何事です?」
「分かりません。電気系の故障だと思いますが……」
「しかし、こういう大病院では、停電の場合に備えて、自家発電の装置があるのではないのですか?」
「あります。電気が止まると、十秒以内に動き出すことになっているんですが」
「なぜ動かないんです?」
「分かりません。今、下へ人をやってあります。何しろエレベーターも動かないので」
「でも、これだけでも明かるければ、大丈夫でしょう」
と瞳が言うと、工藤医師は首を振って、
「いや、お嬢さん、この明かりはカドニカ電池で灯ってるんです。問題は機械類が停止してしまうことなんですよ」
「どういうことです?」
「例えばあなた方のこの患者にしても、この停電で酸素の供給装置は停止してしまっているんです」
「まあ! それじゃ早く何とかしないと――」
思いもかけない事実に瞳は|慄《りつ》|然《ぜん》とした。
「いや、四、五分はビニールの中の空気はまだ清浄ですから大丈夫」
「それ以上になると?」
ジェイムスが訊く。
「何とも言えませんね。直接ボンベから吸入させるのは、圧力が高すぎて、かえって危険です」
「ジェイムス、まさかこれ[#「これ」に傍点]が犯人の仕業じゃ……」
「だとすると、まんまと裏をかかれたわけだ。自家発電装置が無事だといいが」
「もしやられていたら大変です!」
と工藤医師が青ざめた。「他にも大勢の患者が、二十四時間、色々な装置に守られて生きのびてるんですよ。――みんな死んでしまう」
「神様!」
「落ち着くんだ。ドクター、電話で、下の様子を訊いてみてもらえませんか?」
その時、廊下の奥の階段から、人影が飛び出して来た。ジェイムスが拳銃を抜いて、懐中電灯の光を向ける。
「止まれ! 誰だ!」
「おい! 俺だよ!」
会田が息を切らして走って来る。
「何があった?」
とジェイムスが鋭い口調で訊くと、会田は|喘《あえ》ぎ喘ぎ、
「ちょっと待てよ、地下からここまで階段を上がってきたんだぜ……苦しくて……。誰だか知らんが、裏から地下へ潜り込んだ。そして配電盤をぶっこわしやがった」
「自家発電装置は?」
「それが大変なんだ。電気が消えた時、俺と部下はすぐ、それと察して地下へ飛んで行った。犯人は発電機にも細工をしようとしていたんだが、俺たちに見つかると、発砲して来た。そして発電機室へ立てこもっちまった」
「じゃ、発電機は?」
「OFFにしてあるだけで、まだ壊されてはいないと思うが、犯人が発電機の陰に陣取ってるんでどうしようもないんだ。下手に撃てば発電機が壊れてしまう。人質を取られてるようなもんだ」
「そいつは困ったな。犯人は一人か?」
「二人だ。ヤクザ風だったよ。たぶん、金で雇われた連中だろうが」
「今はどうしている?」
「俺の部下を見張りに残してあるよ」
「よし、すぐに行く。君はここに残って病室を警戒してくれ」
「俺がかい?」
「そうだ、この騒ぎは陽動作戦かもしれん」
「なるほど」
「ドクター、あなたは最悪の場合に備えて、準備をして下さい」
「わ、分かりました!」
工藤医師は慌てて走って行った。
「君は私と一緒に来るかね?」
「はい!」
「階段を降りよう。会田、後を頼む」
「任しておけよ!」
「急ごう!」
ジェイムスに促されて、瞳も、足早に階段を駆け降りる。知らぬ間にこめかみを汗が一粒伝った。――あと四、五分! その短い時間に、裕二の命がかかっているのだ!
「様子は?」
一階のロビーヘ出ると、待っていた会田の部下へ、ジェイムスは声をかけた。
「どちらも動きが取れません」
「そうか。――時間がないんだ。四、五分の内に何とかしないと患者の命にかかわる」
「しかし、どうします?」
「催涙弾はないのか?」
「ありません」
「――よし、ともかく行ってみる。案内してくれ」
「こっちです」
一階の廊下を奥へ走ると、地下へ降りる階段がある。カタカタと足音をたてて降りて行く。
「一体どうして入られてしまったんだ?」
「分かりません」
若い部下は首をひねった。「見逃すはずはないんですが……」
「よし、そのせんさくは後回しだ」
地階へ降りると、寒々としたコンクリートの廊下へ出る。「機械室」を示す矢印に従って行くと、つき当たりに鉄板の扉が半開きになっていて、手前に三人ほど、会田の部下たちが固まって身を隠している。
「気を付けて!」
部下の一人が叫ぶと同時に、中で銃声がして、廊下の壁を弾丸がはじけた。
「体を低くするんだ!」
ジェイムスは瞳に叫んだ。瞳は慌てて身をかがめて、鉄の扉の陰へ飛び込む。
「どんな具合だ?」
「あっちからは撃って来ますが、こっちは手も足も出せないんですよ、畜生!」
ジェイムスがそっと顔を出して中を|覗《のぞ》き込んだ。瞳も怖いもの見たさで、片目を出してみる。
思ったより狭い部屋で、中央に大きな発電機が鈍く光っている以外は何もないが、部屋自体が、発電機より少し大きいくらいなので、機械の周囲に人一人通れる空間があるだけなのだ。
部屋の様子を見て取ると、急いで首を引っ込める。とたんに銃声が響いて、弾丸が扉に当たってかん高い音をたてた。
「近付くな!」
中から男の叫び声がした。
「いい加減で諦めろ!」
会田の部下が呼びかける。「逃げられはしないぞ! 銃を捨てて出て来るんだ! 今ならまだ間に合う! 殺人犯になりたいのか!」
「うるせえ! 黙ってやがれ!」
「後三分ぐらいのうちに何とかしなくては」
ジェイムスが唇をかんだ。
「――私に何かできること、ありますか?」
瞳が訊くと、ジェイムスは首を振って、
「いや。ここでは危ない。君は上へ行っていたまえ」
「でも……」
「大丈夫。必ず何とかするよ。上で、明かりがつくのを待っていたまえ」
「――はい」
かえって邪魔になっては、と瞳は諦めて廊下を戻り、一階へ上がった。何とかする、といって、一体どうするのだろう。もし強引に踏み込んで犯人たちを殺したとしても、その時、銃撃で発電機が壊れてしまったら、やはり患者たちの間に死者が出るだろう。
「あと、たった三分だわ……」
瞳は呟いた。裕二は死んでしまうだろうか。
――ああ! 何とか助けてあげたい。
「神様……」
傍のベンチヘ腰を降ろして、祈るように両手を握りしめる。
「神に祈るのは時間の無駄だな」
急に英語で話しかけられ、瞳はびっくりして立ち上がった。
「あなたは……」
伯爵が立っていた。
「昨日は――いや、一昨日というべきかな。いい勝負だった」
「何をしに……ここへ……」
「私の目的は常に一つ。殺すことだ」
「よりによって、こんな時に!」
「何の事情かは知らんが」
伯爵は、薄暗い廊下を見回して、「どうやらさっきは銃声もしたようだ。何があった?」
「どこかの気狂いが電気を切ってしまって、自家発電機の部屋に立てこもっているんです」
「彼が|関《かか》わっているのなら、どこかの気狂いということはあるまい。ともかく、そんなことは私には関係ない。仕事を済ませるにはもってこいの状況だな」
「やめて! 今はやめて! たった三分足らずのうちに何とかしないと、大勢の患者さんが死ぬのよ」
「それは気の毒に。しかし、私には関係ない」
瞳は素早く飛びすさると、赤いこうもり傘を構えた。
「邪魔させないわ」
「勇ましいお嬢さんだ」
伯爵が苦笑いした。「勇気のあることは認めるが、命は大事にするものだ。それとも、どうしても勝負の続きをやりたいのかね」
三分間食いとめられれば、と瞳は思った。伯爵の右手に、きらりと銀色の刃が光った。刃渡り二十センチ近い、細身のナイフだ。瞳は身構えた。ナイフは剣よりも短いが、投げることができる。油断はできない。ナイフを低く持って、伯爵がじりじりと近付いて来る。
その時、奥の階段からジェイムスが駆け上がって来た。
「危ない、ジェイムス!」
瞳の叫びに、はっと足を止める。伯爵とジェイムスがじっと向き合った。
「久しぶりだ」
とジェイムスが言った。
「全くだ」
伯爵が肯く。まるで旧い友人のような挨拶だが、二人の視線は火花を散らすようだった。
「伯爵、すまんが今は相手をしていられないのだ。一秒を争う。この件が片付くまで待ってほしい。終わったら必ず相手をする」
「どれくらい待てばいい?」
「長くて三分」
「――よし。分かった」
「感謝するぞ!」
「立てこもっているのは何人だ?」
「――二人だ。なぜ訊く?」
「訊いてみただけだ。どうするつもりだ?」
「何とかやっつけるさ」
「自分の命を捨てても、か」
「そんなところだ」
「英雄か。私は英雄という奴が大嫌いでね」
「話をしている暇はない!」
と行きかけるジェイムスを、
「待て!」
と伯爵が呼び止めた。「相手は物陰にいるのか?」
「発電機の陰だ。へたに撃てば発電機が壊れる」
「なるほど。それで撃ち殺せないわけか。……となると、一気に飛び込んで片付ける他ないようだな」
「分かっている」
「しかし相手は二人だぞ」
と伯爵。「もう一人がすぐに見つかるのか?」
ジェイムスは答えなかった。
「私が一緒にやろうか」
「なぜ君が?」
「他の奴に君を殺されては困る。君を殺すのは私しかいないのだ」
ジェイムスはちょっと考えて、
「よし、頼む」
「案内しろ。もう二分もないはずだ」
瞳は事の成り行きを呆然として見守っていた。あの敵同士が一緒に犯人に対するというのだ。何て奇妙な話だろう!
二人の後を追って、瞳は地下へ急いだ。
10 新しい朝(木曜日)
薄暗い廊下を行くと、ジェイムスと伯爵の二人が、会田の部下たちをどかせている。
「ここは我々二人でやる」
ジェイムスが言った。「君らは|退《さ》がっていたまえ」
「しかし……」
「他にやってもらうことがあるんだ。さあ、早く!」
「はい」
部下たちが、廊下を手前へ戻って来た。
「まず相手の位置だな」
伯爵が言うと、驚くべき大胆さで、鉄の扉から、ひょいと身をのり出した。とたんに中から弾丸が飛んで来たが、それより早く伯爵は扉の陰へ戻っていた。
「よし、分かった」
「同時にしとめなくては」
「当然だな」
「君はこっち側を頼む。私は向う側から飛び込む」
「よし」
ジェイムスが、後退して見ている会田の部下へ、
「いいか、私が合図したら、上の非常灯を撃ち壊すんだ」
「壊すんですか?」
と目を丸くする。「真っ暗になりますよ」
「それでいいんだ」
「はあ……」
ジェイムスと伯爵が拳銃を取り出す。瞳は息を|呑《の》んで見守っていた。この一瞬が勝負なのだ。伯爵が扉の陰でひざをついて肯く。ジェイムスはいつでも飛び出せる態勢になると、一つ深呼吸した。そして、会田の部下へ肯いて見せる。
会田の部下が拳銃で天井の非常灯を狙った。銃声と共にガラスの破片が散って、真っ暗になる。
「ワン」
ジェイムスの声。
「ツー」
今度は扉の反対側から聞こえた。
「スリー!」
床を|蹴《け》る足音がひびく。そして二つの銃声がほとんど同時に暗闇を貫いた。短いうめき声が部屋の中から洩れる。
「ライトだ!」
ジェイムスの声が中から鋭く響く。会田の部下が慌てて懐中電灯をつけて飛び出して行った。――静寂がやって来た。不気味な静けさである。瞳は汗ばんだ手を握りしめた。今にも中から銃声が聞こえて来そうな気がする……。
どれくらいの静けさの後だろうか、ブーンという唸りが聞こえた。何だろう? 瞳が耳をすました時だった。頭上の蛍光灯がチラチラとして、一斉に灯った。廊下にまぶしいほどの光が溢れた。
発電機が動いたんだ! 瞳は思わず躍り上がった。助かったんだ!
部屋からジェイムスが出て来た。
「ジェイムス!」
「済んだ。もう大丈夫だ」
さすがに緊張の面持ちだったが、軽く微笑んで見せる。会田の部下たちが急いで部屋へ入って行った。ライトを持って飛び込んだ男が、興奮した様子でしゃべっていた。
「見ろよ! あの暗闇の中に飛び込んで、犯人たちを一発で仕止めたんだ! 神業だよ! 信じられないくらいさ!」
「やれやれ、離れ業だったが、巧く行ったよ。しかし、さすがに伯爵の腕は凄い」
とジェイムスが感嘆する。瞳は思わず周囲を見回した。
「――伯爵は?」
伯爵の姿は、どこにもなかった。
「『伯爵』ってどういう人なんですか?」
八階の当直室で紙コップのコーヒーを飲みながら、瞳が訊いた。
「私も|噂《うわさ》以上のことは知らないんだが……」
ジェイムスは言った。「見たとおりドイツ人だが、第二次大戦中、彼の父親はナチに殺されたのだ」
「ナチに……」
「彼の父は優秀な外科医だったらしい。ナチは父親にアウシュヴィッツ収容所で、ユダヤ人の生体解剖をやらせようとした」
瞳は思わず息をつめて聞き入った。
「しかし」
ジェイムスは続けて、「彼の父は断固として拒んだ。ナチの脅迫にも頑として屈しなかった。――ついに親子三人は、ユダヤ人の印をつけた服を着せられた。収容所に入れられたのだ。父親と母親は、息子の目の前で殺された」
「何てむごい……」
「彼も当然殺されるはずだった。だが、間一髪、連合軍の進攻で救われたのだ。――だが命は助かっても、彼にとって、もう世界は憎悪の対象でしかなかったのだろう。ローマ法王庁は、共産主義を怖れるあまり、ナチの暴虐に見て見ぬふりをした。連合国にしたところで、建前と本音は大きな違いがあった」
「そういえば――」
瞳は思い出して、「さっき伯爵は『神に祈るのは時間の無駄だ』と言っていましたわ」
「そうなるのも当然だろうね」
ジェイムスはコーヒーを飲みほした。「彼が『伯爵』と名乗って登場して来たのは、今から七、八年前のことだ。国際的な殺し屋として、その名を聞くだけで、各国の情報部員は震え上がったものだよ」
「情報部員?」
「つまりスパイさ。――伯爵はスパイ専門の殺し屋なのさ」
「じゃ、どっち側の人間なんですの?」
「どっち側でもない。そこが彼の独得なところでね。金さえ払えば、彼はどの国のスパイでも殺す。それも確実に。速やかに。つまり昨日殺したスパイの雇い主から依頼されて今日は敵国のスパイを殺すというわけさ」
「そんなこと……信じられないわ」
「だろうね。それが当然だよ。まあ今のは極端な話でね、実際に一番多いのは、敵に寝返っていたスパイ――二重スパイや、大きなミスをしでかしたスパイを消す仕事だ」
瞳は急に怖いほどの寂しさを覚えた。ジェイムスとの、住む世界の余りに大きな違い。
「どうした?」
「いいえ。何でもありません」
瞳は無理に微笑んだ。「――下の方は、どうしたかしら」
「警官や報道陣で満員だろうね」
ここまで事件が広がっては、警察に伏せておくわけにもいかない。ただ、ジェイムスはあくまで一切関わりのない立場であった。
「明日の新聞には『暴力団員、病院に乱入!』とでも載るだろう」
「裕二さんの件と結びつかないかしら?」
「その心配はあるまいね。会田が巧く処理してくれるはずだよ。犯人二人は警官と撃ち合って死んだ、ということになっている」
「犯人は誰なんでしょう?」
「さて……。殺してしまったから、もう聞き出すこともできないな。この監視は失敗だ。まあ、たぶん若い血の気の多いヤクザを金で雇っただけだろうがね。たとえ生きていても、連中から事件の主犯を聞き出すのは、たぶんむりだったと思うよ」
その時、当直室から、廊下を見通す窓の外に、工藤医師が立っているのに気付いて、ジェイムスは言葉を切った。工藤医師は話があるらしく、ジェイムスヘ肯いて見せた。何かひどく落ち着かない様子である。
「ちょっとごめんよ」
ジェイムスが出て行くと、工藤医師は彼を廊下の少し離れた所へ引っ張って行って、何か熱心に話し出した。瞳はガラス越しに、二人の様子をうかがっていた。どこかいわくありげな話しぶりに、やや不安が募る。
ジェイムスが何か言うと、工藤医師は固い表情になって肯き、急ぎ足で去って行った。戻って来たジェイムスの顔は、厳しかった。
「何かあったんですか?」
瞳の質問に、ジェイムスは目を伏せた。
「――裕二君が死んだ」
瞳は震える手で紙コップをテーブルヘ戻した。
「そんな……。だって、機械は動いたのに……」
「一時的にせよ、停止したのがショックを与えたらしい。――ついに目を覚まさなかったそうだ」
「だって……あんなに若くって……元気で……」
ジェイムスは瞳の肩に手を置いた。
「――休みたまえ。もう見張りは終わった」
朝の町へ、瞳は一人、歩み出た。――まだ空には最後の星が光っている。歩道には、人影もなく、紙くずや木の葉が風に吹かれていた。あてどもなく歩き出すと、涙が頬を伝って落ちた。心は空っぽで、何も感じない。悲しみも、苦しさもないのに、涙が次から次へと溢れて止まらないのだ。
何てひどい! 瞳は、自分から飛び込んだ危機だと承知しながら、疲れ果てていた。ついこの間まで、ごく当たり前の一女学生だったのに、今はどうだろう。目の前で次々に人が殺され、しかも、まるで何事もなかったかのように処理されていく。命をかけた決闘で傷つき、恋を知り……。
自分自身、ついて行けないほど、瞳は一日ごとに大人になって行った。少し休みたかった。思い切り、子供に返って、平凡な日々に浸りたかった。
「馬鹿ね!」
そうしたければ、いくらでもできるじゃないの。もう何もお手伝いしたくない、とジェイムスに言えば、それでいい。決してあの人は無理強いなどしないだろう。しかし、それで、もう二度と彼に会うことはあるまい。
後ろから車の音がして、追い越した所でピタリと停まった。ジェイムスのポルシェだった。窓からジェイムスが顔を出す。
「一人で黙って出て行ってしまうから心配したよ」
「すみません」
「お宅まで送ろう。乗りなさい」
「ええ……」
瞳はジェイムスの隣に座った。――エンジンをかけようとする手を押さえ、自分から彼の胸に身を投げかける。
「どうした?……しっかりしなさい」
瞳はもう何も聞こえなかった。夢中で彼にすがりついた。やがて|逞《たくま》しい腕が、力強く瞳を抱きしめ、唇が触れ合った……。
「お父さん、お母さん、しばらく日記お休みしてごめんなさい。色々なことがあって――本当に色んなことがあったのよ。全部詳しく書いたら、この日記帳全部使ったって足らないでしょう。
私、恋をしています。今までのように、ほのかな憧れとか、片想いとは違って、本当に大人の恋です。相手の男性はお父さんみたいな、とても粋な紳士です。でも結婚はできないでしょう。その人とは、ほんのわずかの間のことかもしれないけど、それでもいいの。私が満足して、幸せなんだからいいでしょ?
本当に、佐野先生じゃないけど、恋人を抱くように、ヴァイオリンを抱けっていう言葉が、よく分かるような気がして、さっき『ユーモレスク』を弾いてみました。何だか、ヴァイオリンが自分の一部になったようで、とても良く弾けました。
お父さんの言ったように、本当にヴァイオリンは『歌い』『すすり泣く』んですね。技術だけではどうしようもないことがあるんだな、と初めて思いました……」
11 箱根へ(木曜日)
「瞳、なんだかいやにきれいよ、今日は」
学友に言われ、
「そう?」
と眉を上げて見せる。「別に心当たりないけど」
「ほんと? 怪しいぞ。恋人でもできたんでしょ」
「私の恋人は弦と弓よ」
ととぼけながら、内心、女ってどうしてこういう事に関しては勘が鋭いのかな、と驚いた。
「いよいよあさってね」
「え?」
「演奏会よ」
「ああ。――本当ね」
「あっという間だったなあ。でも、ずいぶん良くなったと思わない? コンサート・マスターとして、どう思う?」
「ええ、アンサンブルはとっても良くなったわ。BBCだって、きっと舌を巻くわよ」
「楽しみねえ」
演奏会まで、あと一日。――果たして、演奏会は開けるのだろうか。BBCは明日、金曜日の夜には東京へ向かうはずだ……。
何も知らずに練習に打ち込んでいる学友たちを見ていると、瞳は、何となく後ろめたい思いであった。
土屋先生が指揮台に立つ。いや、厳密に言うと、椅子に腰かけるのだが。
「えーと、今日、明日は最後の仕上げである。一度通して演奏する。いいね。細かい注意はあとでまとめてする」
楽譜をめくる音、音合わせなどがひとしきり続き、やがて静かになる。
「じゃ、初めからいくぞ。――いいかね」
指揮棒が上がって――そのまま止まってしまった。何やら大きな音が聞こえて来たのだ。
「あれは何だ?」
音は頭の上から聞こえて来た。
「ヘリコプターじゃない?」
メンバーの一人が言った。
「本当だ!」
「近付いて来る!」
「おい! みんな落ち着け!」
と土屋先生が声を上げても、そこは高校生である。
「見に行こう!」
と一人が席を立つと、ワッと後に続く。
「おい!――こら! 席へ戻れ!」
空しく土屋先生の声は、ヘリコプターの|轟《ごう》|音《おん》にかき消されてしまう。しかし、コンサート・マスターという立場にある瞳は、当然――最初に席を立ったのである。
校庭へ出た瞳は目を見張った。ヘリコプターが風を巻き起こしながら着地するところで、しかも中にはジェイムスが乗っているではないか。
着陸すると、ジェイムスが瞳を見つけて、手招きした。瞳は学友を押しのけ、頭を下げてヘリコプターヘ駆け寄った。
「ジェイムス! どうしたんです?」
轟音に負けないように大声を出す。
「こうもりとヴァイオリンを取って来るんだ! すぐ飛び立つ」
「今? どこへ行くんですか?」
「箱根だ!」
何が何やら分からないが、ともかく、駆け戻って、こうもり傘とヴァイオリンを取って来ると瞳は急いで狭い機内へ乗り込んだ。ベルトをしめると、ジェイムスが操縦士に、
「OK。やってくれ」
と声をかける。回転翼が一段と回転を早めたと思うと、ヘリコプターはフワリと宙に上がっていた。もちろん瞳には生まれて初めての経験だ。エレベーターで昇って行くような気分だったが、もっと足もとの覚つかない感じがする。
見降ろすと、|呆《ぼう》|然《ぜん》と見上げている学友たちがどんどん小さくなって行く。
「驚かせて悪かったね」
ジェイムスが瞳にキスして言った。
「もう、何があったって驚きません」
瞳はそう言って笑った。「――でも、一体何事?」
「犯人が金の要求をして来た」
「払うんですか?」
「今のところ仕方ない。病院で死んだ二人についても調べてはいるが、明日までに何か分かるとは思えんしね」
「支払いの場所は?」
「箱根」
「まあ! それでこんなことを……。でも、どうして箱根なんかにしたんでしょう?」
「BBCの一行が今、箱根にいる。そのせいだと思うがね」
「あ、そういえば、裕二さんは『楽団の――』と言ったんですね」
「そうなんだ。何か分かるかもしれない」
「でも箱根っていっても広いわ。どこなんですか?」
「ロープウェイを知ってるかね?」
「ええ……。|早《そう》|雲《うん》|山《ざん》から|大《おお》|涌《わく》|谷《だに》を通って、芦ノ湖の方へ降りて行くロープウェイでしょう?」
「そいつだ。金の渡す場所はロープウェイのゴンドラの中なんだよ」
「時間は?」
「明日の昼、十一時」
「じゃ今夜はどうするんですか?」
「BBCと同じホテルに部屋を取ってある。むろん君のもね」
「分かりました」
「差し当たり、君には、T学園オーケストラ代表として、BBCのサー・ジョンに|挨《あい》|拶《さつ》してもらう」
「明後日は演奏会ですね」
「明日、何としても犯人を捕らえてやる。裕二君が死んだ今となっては、奴らは殺人犯だからね」
ジェイムスは強い口調で言った。
「何かいい手がありまして?」
「そのために、このヘリコプターを使わせてもらうことにしたのさ」
「私を連れて行くのは、どうして?」
「それは……」
と言い淀むと、瞳は肯いて、
「分かった、私がお金を持って行く役なんですね?」
「また犯人から女性に持たせるように指示が来ているんだ。――君にはすまないと思っている」
「やめて。私、嬉しいんです。少しでも手助けができれば」
「危険はないと思うがね」
「もう慣れました」
皮肉っぽく言って、瞳は笑った。
地上の景色を眺めるうち、ヘリコプターはたちまち箱根の上空へと近付いて行った。
「いや、全く懐かしい!」
サー・ジョン・カーファックスは、まるで自分の孫でも見ているかのように目を細めて、瞳を眺めた。
「ミスター・シマナカはすばらしいヴァイオリニストだった! 私が指揮生活を送った五十年の中でも、彼との共演は、最もすばらしい出来事の一つだよ」
「ありがとうございます」
「その娘さんが、わしのタクトで演奏するとは! 運命とは面白いものだ。ジェイムス、君はそう思わんか」
「全くです、サー・ジョン」
サー・ジョンはホテルの私室のソファに腰を降ろしていた。瞳は指揮台で見た感じより、彼がずっと小柄なのに驚いた。こうして向かい合っていると、本当にどこにでもいる老人の一人にすぎないように見える……。
「わしも今度の共演は大変楽しみにしている。指揮する相手が若いと、こちらも若返る。何しろいつも、いい|年《と》|齢《し》の連中にばかり振っとるからな」
そう言って、サー・ジョンは大笑いした。ドアがノックされ、二人のイギリス人が入って来た。一人はもう五十代半ばらしい、白髪の小柄な男、もう一人はまだ三十代半ばらしく、ブラウンの髪、ほっそりした長身で、銀縁のメガネをかけている。社長秘書といったタイプだ。サー・ジョンが、初老の男はBBCのコンサート・マスター、ウイリアム・ヒギンズ、若い方は副指揮者、ジャック・ローマーだと紹介し、瞳のことを二人に教えた。
「ミスター・シマナカのことはよく憶えていますよ」
コンサート・マスターのヒギンズが肯いた。
「すばらしい演奏だった。ローマーさん、あんたは憶えていますか?」
「いや。残念だが、私は本番はやらないのでね」
副指揮者というのは、いわば縁の下の力持ちで、オーケストラのトレーニングを始め、公演曲目の下練習を受け持つ。つまり、指揮者のために、ある程度の地ならしをするのだ。地味な仕事だが、将来、正指揮者になるための修業、といってもいいだろう。中にはアメリカのレナード・バーンスタインのように、正指揮者が急病で倒れ、|急遽《きゅうきょ》指揮台に立って大成功を収め、一夜にして人気者になってしまう例もある。
「どうだろう、お嬢さん」
サー・ジョンが言った。「何か一曲弾いてみてくれないかね」
「ここでですか?」
「そう。コンサート・マスターとしての君の腕も知っておきたい」
瞳が思わず振り返ると、ジェイムスが力づけるように笑顔で肯く。瞳はヴァイオリンを取り出すと、弦の音を合わせた。
「――何を弾きましょう?」
「君の好きなものでいい。――いや、もしよければ、バッハを弾いてもらえるかな。お父さんがアンコールで弾いたバッハが忘れられないのだ」
「分かりました」
瞳は呼吸を整えてから、静かに弓を弦に当てた。バッハの「シャコンヌ」が狭い部屋の中にしみ入るように流れ出す。瞳は、じっと目を閉じて弾いていた。父の好きだった曲。父がまだ幼かった瞳によく聞かせてくれた曲だ。――父の面影が流れ去る音譜にダブって見えた。
演奏が終わり、瞳は弓を降ろした。誰もが身動きもしない。瞳は戸惑った。――何か間違ったかしら? ひどい演奏だったのかしら?
急にサー・ジョンが立ち上がると、瞳の手を両手で温かく包んだ。
「すばらしかった!」
老指揮者は目を|潤《うる》ませていた。「お父さんはあなたの中に[#「中に」に傍点]生きているようだ!」
数少ない聴衆が拍手を送った。
「――驚いた」
コンサート・マスターのヒギンズが言った。
「誰もがこんなにうまいのでは、我々もよほど心してかからねば」
「今夜、食事をしながら、ゆっくり打ち合わせることにしよう」
サー・ジョンの言葉に、瞳は、
「ありがとうございます」
と一礼して部屋を退がった。
「ああ、気が気じゃなかった」
瞳はジェイムスと廊下を歩きながら、「あんな大指揮者の目の前で演奏するなんて、生まれて初めて」
「しかし、とてもよかったよ」
「そうですか? あなたにそう言ってもらうのが一番|嬉《うれ》しいわ」
「ところで、我々の本来の任務の方も考えなくてはね」
「サー・ジョンは、あなたが事件の調査に来たことをご存知なんですか?」
「今、部屋にいた三人だけは私のことを知っている。それ以外のメンバーには、私はサー・ジョンの友人で、君はT学園のオーケストラの代表だ」
「分かりました」
「ともかく一旦部屋へ落ち着こう。せっかく部屋を取ってあるんだ」
二人はフロントで鍵を受け取って、エレベーターを待った。
エレベーターに乗り込み、八階のボタンを押す。扉が閉まる寸前に、女性が一人、駆け込んで来た。
「ごめんなさい!」
息を弾ませて、彼女は八階がもう押してあるのを見ると、同乗の二人の顔を眺め回した。――三十代半ばといったところだろうか、有能な職業女性特有の、きびきびした動作、シンプルなワンピース、角ばったメガネ――。小柄ながら、エネルギッシュなものを内に秘めている感じだった。
「楽団の関係の方?」
その女性は、瞳の手にしたヴァイオリンを見て訊いた。
「え、ええ……」
瞳がどぎまぎすると、
「いえね、八階は全部BBC関係の人で部屋を抑えてあるの。だからそう思ったんだけど」
瞳は自己紹介した。
「あらそう!」
相手の女性はオーバーに声を上げて、「私、今度の日本公演の世話役をしている|水《みず》|島《しま》|早《さ》|苗《なえ》。よろしくね」
「こちらこそ」
「で、この方は……」
ジェイムスの方へ目を移した水島早苗は、まじまじとその顔を見つめていたが、メガネを外しながら、
「……まあ……ジェイムスじゃないの!」
と英語で言った。「私を憶えてる?」
「忘れるものか」
ジェイムスは彼女の手を取って軽くキスすると、「エレベーターにあんな勢いで飛び込んで来る女性は、世界中にも、そうざらにはいないよ」
「相変わらずね!」
「ご存知の方、ジェイムス?」
瞳がややこわばった口調で口を挟んだ。
「七、八年前にロンドンでね。彼女はある会議で通訳をしていたんだ」
「懐かしいわ、本当に」
瞳はキュッと唇を結んで黙り込んだ。水島早苗が、メガネを外すと、なかなかの美人であることに気付いて、瞳の胸はしめつけられるように痛んだ。――初めて味わう、|嫉《しっ》|妬《と》の苦痛である。
12 幕 間(木曜日)
「それで、ジェイムス、ヴァイオリンを取り戻すことはできそうかね?」
サー・ジョンがワインを満足気に飲み込んで言った。
サー・ジョンの夕食の席には、副指揮者のローマー、それに――瞳の食欲を著しく阻害したのだが――水島早苗が同席していた。昼間見た時とは見違えるような、派手なドレスを着込んで、真正面に座ったジェイムスヘ、いわくありげな視線を向けている。
「明日、犯人たちともう一度交渉します」
ジェイムスが淡々と言った。
「|巧《うま》く行きそうかな?」
「何とも申し上げられませんね、サー・ジョン。何しろこちらは連中のことが何一つ分かっていないのですから」
「これだけ時間がありながら、一体何をやっていたんだ」
副指揮者のローマーが口を挟んだ。質問ではなく、非難の口調だった。瞳はムッとした。ジェイムスは命がけで闘っているのに……。
しかし当のジェイムスは平然として、
「一億円ばかり犯人に進呈しましたがね」
「しかし取り戻せなかったんだろう?」
「その通りです」
「我々英国民の税金だぞ! 何たる無駄づかいだ!」
瞳は目の前のコップの水をローマーヘひっかけてやりたくなった。
「まあ待て、ジャック」
サー・ジョンがローマーを制した。「ジェイムスは決して仕事を怠ける男ではない。それは私がよく知っている」
「本当にその通りですわ」
水島早苗があいづちを打つ。
「ありがとう」
ジェイムスが微笑む。瞳は、はなはだ面白くなかった。
「ミスター・ローマー」
ジェイムスは、|仏頂面《ぶっちょうづら》の副指揮者へ向かって言った。「|誘《ゆう》|拐《かい》事件の基本は、まず何よりも第一に、人質を無事取り戻すことです。犯人を捕えるのは第二の目的でしかありません」
「しかも、人質は、人間よりもずっと傷つきやすいときておる」
サー・ジョンが嘆息した。「いや、人間より大切だというのではないぞ。ただ、人間は少々のけがなら回復するが、ヴァイオリンは一旦傷つけば元には戻らん」
「本当に、貴重な品ばかりを……」
早苗が眉を寄せて、「憎らしい犯人だわ」
「たとえ犯人を捕らえても、ヴァイオリンが破壊されてはどうにもならない」
とサー・ジョンは言った。「しかし、たとえヴァイオリンが戻っても、そのために人命が失われては何にもならない。――ジェイムス、十分に気を付けてくれ」
「ありがとう、サー・ジョン」
瞳はこの老指揮者に心から尊敬の念を覚えた。心の広がりに包み込まれるような気がした。
「明日はどこで金を渡すことになっておるのかな?」
「ロープウェイです」
「ああ、大涌谷へ行く――」
早苗が肯いた。「でも、どこで?」
「分からない。金を持ってゴンドラに一人で乗れと言われているだけでね。犯人がどこで待っているのか、分かっていないのです」
「確かいくつか途中に駅があるわね」
「早雲山から大涌谷、|姥《うば》|子《こ》を経て、|桃《とう》|源《げん》|台《だい》へ着く」
「その間のどこか、というわけね」
「駅とは限らないな」
ローマーがしたり顔で口を出す。
「当たり前よ。駅なら、張り込まれると誰だって考えるでしょう」
「しかし駅でないとすると、どこだ?」
とサー・ジョン。
「たとえば……途中ですれ違うゴンドラに渡す、とか」
「ゴンドラとゴンドラの間はかなり離れていますよ、ミスター・ローマー。金の入ったボストンバッグを渡すのは難しい。窓がほんの少ししか開かないし、ゴンドラは秒速二メートルで動いている。すれ違う時は合計秒速四メートルの速度ですからね」
「たとえば、の話さ」
ローマーが肩をすくめる。
「地上で待っていて、落とすか……」
「大涌谷の上空では高さは百三十メートルにもなる。むろん、地上ほんの数メートルの場所もあるがね」
「あれはどれくらい乗ったかしらね? 二十分くらい?」
と早苗が誰にともなく訊く。
「三十三分」
ジェイムスが答えた。
「まあ、さすがによく調べてるのね」
と早苗が甘えるような笑顔になる。瞳はそっとにらみつけた。
「君が金を持って行くのかね、ジェイムス」
「いいえ」
「すると誰が?」
「犯人から、金を持って来るのは女性と指定されていましてね」
「まあ」
と早苗が目を丸くする。
「そこで、このお嬢さんにお願いしてあります」
瞳はちょっと背筋をのばして、控え目に、しかし誇らしげに肯いて見せた。
「――いけないわ!」
突然、早苗が声を上げた。
「どうしてですか?」
瞳はムッとして言った。
「だって、危険じゃないの。こんな若い娘さんが……」
「大丈夫です!」
「でも、何が起こるか分からないのに。ねえ、サー・ジョン?」
「うむ……」
老指揮者は考え込んで、「――君はかけがえのない人だ。ジェイムス、誰かこういう仕事に慣れた女性を行かせるわけにはいかないのかね?」
「警察の協力は得られませんので、婦人警官は使えませんし……」
「だったら、私が[#「私が」に傍点]行きましょう」
早苗が言った。
「君が?」
「私だって、そりゃあ、こんな仕事、慣れてるわけじゃないけれど、今回の公演には責任もありますし、私の方が年長ですもの」
瞳はカッとした。この出しゃばり女!
「私、大丈夫です!」
「いえ、だめよ。あなたのような若い方、もし万一のことでもあったら……」
ここで、もしこうもり傘を持っていたら、一撃で叩きのめしていたことだろうが、残念ながら手元にないので、瞳はコップの水をグイグイ飲みほして、必死に気を鎮めた。
「ジェイムス、どうかね?」
「はあ……」
ジェイムスはやや考えてから、「いいでしょう。では早苗さんにお願いしよう」
瞳は唇をかみしめた。ジェイムスったら、タダ[#「タダ」に傍点]じゃおかないから!
「そう怒るなよ」
ジェイムスが苦笑いして、「サー・ジョンにああ言われては仕方ないじゃないか」
瞳はツンとして、ソッポを向いていた。
「何か飲むかい?」
瞳はウエーターが傍で待っているので、渋々言った。
「チョコレートパフェ!」
腹が立つと、やたら甘い物をほしくなるのが瞳のくせなのである。太ることなど物ともせず、瞳は猛然とパフェに|挑《いど》みかかった。
「――君のことも心配でね。やはり何といっても危険が伴うし」
瞳は知らん顔で、サクランボを食べる。
「私はヘリコプターで、上空を飛んでいることにする。実は今度はバッグの底についている突起に、小型の発信機を取り付けてある。ヘリコプターのレーダーでその信号を追いかけるつもりだ」
瞳は何やら口をモゾモゾ動かしている。
「今度こそヴァイオリンを取り戻さねば。BBCのメンバーたちも落ち着かない様子だよ。……何してるんだね?」
瞳は口から何かをつまみ出した。サクランボの枝が、結び目になっている。
「これを舌だけで作ったのかい?」
ジェイムスが目を丸くした。
「驚いたね、こいつはスパイの訓練にもなかったぞ」
瞳は軽く笑って、
「怒ってないわけじゃありませんよ。ちゃんと償いをしてね!」
「分かってるよ」
「あのひと、あなたの何だったんですか?」
「ほんの少しの間だが、付き合ったことがある」
「付き合ったことがある、のね。――分かりました」
「昔の話さ」
「あちらはそうでもないみたい」
「それは考えすぎだよ」
「そうかしら?」
瞳はチョコレートパフェを平らげて、息をついた。
「――さて、明日の朝はそうゆっくりしていられない。もう休んだほうがいいよ」
「ええ」
二人がラウンジを出ようとすると、レジの係りが、
「島中様。島中瞳様、お電話です」
と呼んだ。
「あら、きっと佐野先生だわ。学校から連絡が行ってびっくりしてるんじゃないかしら」
「巧く説明しておくんだね」
「何て言います?」
「秘密情報部の仕事で忙しい、とでも言っておきたまえ」
瞳は笑って、
「きっと先生なら『ああ、そうか』っていうだけよ。先に行ってて下さい」
「分かった」
瞳はレジの電話を取った。やはり佐野からであった。
「すみません、先生、無断で」
「土屋君が今にも発狂しそうだったぞ。会田とかいう、先日来た人から電話があってな。そのホテルにいると聞いたんだ。――箱根なんかで何をしとる?」
「ええ……ちょっと、BBCの方と打ち合わせで」
「そこに泊まっとるのか? なるほど」
佐野先生は納得したようだったが、さすがに、
「しかし、何でヘリコプターで飛んで行かにゃならんかったんだ?」
と訊いて来た。
何とか佐野をごまかして――瞳にはお手のものだ――部屋へ向かう。ジェイムスの部屋へ行ってみよう、と思った。わざわざ隣の部屋[#「隣の部屋」に傍点]を取ったくらいだもの。きっと彼だって待っているんだ……。さっきまで腹を立てていたのも何のそのである。
足取りも軽く、エレベーターを降りて廊下を小走りに……。部屋のドアが細く開いたままになっている。
「ジェイムス――」
部屋へ入って行った瞳は言葉を呑み込んだ。部屋の真ん中で、ジェイムスと、水島早苗が抱き合って、熱烈なキスの最中だったのである。
「あら」
早苗が涼しい顔で瞳を見ると、「子供が見るものじゃなくってよ」
瞳は部屋を飛び出した。
「ウイスキー!」
「は?」
ウエーターがびっくりして、「あの……お客様はまだ未成年でいらっしゃいましょう、失礼ですが……」
「私?」
瞳は昂然と顔を上げて、「私、もう二十五よ! 水割り!」
「それはどうも……」
瞳はため息をついてテーブルの上を眺めた。ジェイムスにとっては、私はほんの子供にすぎないんだわ。――それでもいい、と割り切ったつもりだったが、やはりそう単純なものでもなかった。恋はやはり恋で、|嫉《しっ》|妬《と》や独占欲がつきものだ。
「子供、子供か……」
やっぱり私には、一晩だけ一緒に過ごして、さらりと別れるなんていう大人の恋はできない。まだ本当に子供なんだろうか……。
「いいわ、うんと酔っ払ってやるから」
「お待たせしました」
瞳の前にクリームソーダ[#「クリームソーダ」に傍点]が置かれた。
「何、これ……?」
瞳が|呆《あっ》|気《け》に取られていると、
「私がオーダーを変更してね」
急に声がして、「伯爵」がすぐ後ろに立っていた。
「子供の飲み物ではないよ、ウイスキーは」
伯爵は瞳の向かい側に座った。
「放っておいて!」
「血の気の多い娘さんだ。彼と|喧《けん》|嘩《か》でもしたのかね」
「あなたには関係ないことでしょう」
「それはそうだが」
ウエーターが来て、伯爵の前にコーラ[#「コーラ」に傍点]を置いて行った。瞳はびっくりして、
「お酒、飲めないの?」
「アルコールは反射神経を鈍らせるからね」
とコーラを一口飲んで、「クリームソーダは嫌いかね?」
「いいえ……」
さっきチョコレートパフェを食べたばかりだったが、こういうものはいくらでも入るのである。
「――でも、どうしてここが……」
「商売さ。どこへ行こうと逃がしはしない」
「なぜ、あなたはあの人を狙うの? お金のため?」
「いや。別に彼を殺せとは依頼されていない」
「じゃ、なぜ……」
「彼が|手《て》|強《ごわ》い相手だからだ」
「それだけ?」
「それで十分だ。一度彼に邪魔されて、仕事を仕損じたことがある。――それ以来、彼を殺すのを念願にして来た」
「負けるのが嫌いなのね」
「完璧でないのが堪えられないのだ」
「でも――私に何の用なの?」
「君のそばにいれば彼が来るだろうと思ってね」
「まさか、いくらあなたでもこんなところで殺せないでしょう」
「私の右手は今、テーブルの下で拳銃を握っている。――動かないことだ。じっとして、彼を待つんだ」
瞳は、伯爵の右手がいつの間にかテーブルの下へ隠れているのに気付いた。
「こんな場所で銃声がしたら……」
「消音器がついているさ、むろん」
「でも……あなたが犯人だってこと、すぐ分かっちゃうわよ!」
「なぜ?」
「なぜ、って……。ウエーターが顔を見てるし……」
「この薄暗い場所で、かね。それに慣れない目には外国人は誰も同じように映るものだ。箱根は外人客も多い。ことに、ここにはイギリスのオーケストラが泊まっている」
瞳は唇をなめた。
「逃げられっこないわよ!……警察が全部の客をチェックすれば……」
「私はここの泊まり客ではないんだ。残念ながらね」
瞳の顔から血の気がひいて行った。本気だろうか?――自信に溢れた伯爵の表情からは、殺意を読み取ることはできなかったが、どうせ伯爵にとっては日常|茶《さ》|飯《はん》|事《じ》にすぎないのだろう。
伯爵がふと目を入り口の方へ向けた。
「やっと君の恋人が来たようだ」
振り向くとジェイムスがこっちへ歩いて来る。――来ちゃいけない!
「これはこれは」
ジェイムスは瞳の背後に立って、伯爵を見降ろした。「よく会うね」
「静かに座ってもらおう。さもないとこのお嬢さんを撃つ」
「なるほど。テーブルの下で拳銃を握ってるんだな?」
「そんなところだ」
「私も今、拳銃を持っている。彼女の体の陰にね。彼女を撃てば君を撃つ」
「だが、彼女が死ぬぞ」
「君も死ぬ」
ジェイムスったら! 私を弾丸よけか何かみたいに! 瞳は生きた心地がしなかった。
「――分かった」
伯爵は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「今日のところは、見送ることにしよう」
瞳は体中でため息をついた。ジェイムスが横の席へ座りながら、
「ところで、本当に拳銃を構えていたのか?」
「むろんだ」
瞳の目に、伯爵が黒光りするものを背広の下へ収めるのがチラリと映った。
「君は?」
と伯爵が訊いた。
「もちろん」
ジェイムスが小型の拳銃をショルダーホルスターに入れながら答えた。
本当に、二人とも銃を抜いてたんだ! 瞳は改めてゾッとした。
「昨夜は世話になった」
ジェイムスが言った。「礼を言っておくよ。大勢の患者たちが救われた」
「よせ。人助けのつもりでやったわけじゃない」
「分かった。――勝負はいつつける?」
「仕掛けるのはこっちだ。そちらは用心さえしていればいい」
伯爵はコーラを飲み終えて立ち上がった。
「では、お嬢さん。命は大切に」
伯爵の後ろ姿を見送って、
「不思議な人――」
と瞳は|呟《つぶや》いた。
「全くだ。何をやっても一流になれただろうに」
瞳はジェイムスの方へ向き直ると、
「そうだったわ。私、怒ってるんですからね!」
ジェイムスはなだめて、
「まあ、待ってくれよ。彼女が勝手に押しかけて来たんだ。本当さ」
「そんな風には見えませんでした!」
「困ったね。どうしたらご機嫌が直るかな」
瞳はちょっと考えて、
「チョコレートサンデーを注文して。それから後でキスしてくれること!」
13 ロープウェイ(金曜日)
「一緒に行っちゃいけないの?」
「だめだめ」
「どうして?」
「ヘリコプターのレーダーで犯人を追跡するんだ。場合によっては撃ち合いになるかもしれない」
「じゃ私は何してればいいんですか?」
「部屋でおとなしくしていればいいのさ。それじゃ出かけて来るよ」
「ジェイムス! 気を付けて」
ジェイムスはちょっとウインクして見せると、ホテルの玄関を出て行った。
瞳はロビーで時計を見た。九時半だ。犯人の指定して来たのは十一時だが、ヘリコプターがかなり離れた場所に置いてあるので、早目に出かけたのだ。
ラウンジヘ行ってハムエッグの朝食を取っていると、
「おはよう!」
と声がして、水島早苗が元気よく歩いて来た。
「おはようございます」
瞳は冷ややかに言った。
「いかが、元気?」
「ええ」
「そう、よかった」
と瞳の向かい側へ座り込む。「もうそろそろ出発するんだけど、コーヒーを一杯飲んでおきたくてね」
「お気をつけて」
ゴンドラから落っこっちゃえ、と心の中で舌を出す。
「ね、ジェイムスってすてきな人でしょ? まあ、あなたなんかまだ若いから、よく分からないでしょうけど……」
早苗がコーヒーを飲みながら、わざとらしく、「大人の恋のできる女性でないとだめなのよ。あの人と付き合おうと思うとね」
瞳は頭にきて、
「どういう意味ですか?」
「別に、ただ、ちょっとそう思っただけ」
とコーヒーをぐっと飲みほし、「さあ、大切な任務を済ませて来ましょう。あなたはもう東京へ戻るんでしょ?」
「いいえ!」
「あら、そう。じゃ後でね」
瞳はカッカしながら、ハムエッグを平らげると、ロビーに出た。会田が白いボストンバッグを手に、早苗と何やら話をしていた。一億円をもって東京から飛んで来たのだ。それを眺めながら、瞳は口惜しさに唇をかんだ。私が行くはずだったのに……。あの出しゃばり女が。
「そうだわ」
瞳は、思わず呟いた。あの女一人に行かせてなるものか。瞳は自分の部屋へ駆け戻ると、こうもり傘を持って来た。ちょうど会田と早苗の乗った車がホテルの正面から走り去るところだった。瞳は玄関から飛び出し、待っているタクシーヘ飛び込むと、
「あの車について行って下さい!」
車は|強《ごう》|羅《ら》へ出た。ここからケーブルカーで、ロープウェイのある早雲山へと十分ほどで登るのだ。
すばらしくいい天気で、風が|爽《さわ》やかだった。旅行にはいい季節だが、今日は平日のせいか、ケーブルカーもガラ空きである。
太いワイヤーに引っ張られて、ケーブルカーが急な斜面を上がって行く。この車両は、それ自体が傾けて作ってあり、中は階段状になっている。
早苗と会田は一台前のケーブルカーで上がっていっている。しかしまだ時間が早い。きっとロープウェイの乗り場で追いつけるだろう。
早雲山でケーブルカーを降りれば、ロープウェイの乗り場にすぐ連絡している。
十一時二分前だ。もう早苗は乗り込んでいるだろうか。
急いで切符を買った。
瞳は狭い階段を上がりかけて、会田が降りて来るのに気付いた。慌てて物陰に身を隠してやりすごし、階段をかけ上がる。そこはロープウェイの折り返し点で、巨大な歯車が油にまみれながら回転し、外からやってきたゴンドラは、そのままUターンして再び出て行くのである。
ゴンドラが一つ空中へ送り出されて行くところだった。六十秒の間隔で、すぐに次の箱がやって来るのだ。じっと目をこらすと、二台前のゴンドラに、早苗の姿が見える。
「はい、乗って」
係員の声で、瞳はゴンドラヘ乗り込んだ。幸い、他に客はいない。瞳の乗ったゴンドラはグラリと一揺れすると、空中へ出て行った。
ゴンドラは初めのうち、地面からそう高くないあたりを進んで行った。自動車道路がすぐ下を走っていると思うと、山道を行くハイカーたちの姿が手に取るように分かる。
瞳は、何か犯人の合図らしいものはないかとじっと眼下に目をこらした。
やがてゴンドラは大涌谷の上へとさしかかる。それまで数十メートル間隔で立っていた支えの鉄塔が、ここは数百メートルにわたって、一本もない。つまり完全に谷の間はワイヤーにぶら下がったままで進んで行くのである。
荒涼とした雄大な光景が眼下に広がっている。岩だらけの谷底には、方々から湯気が立ち昇り、谷全体が硫黄の色に白っぽく塗り上げられている。湯気の噴き出しているあたりでは、絵の具を落としたように鮮やかな黄色が、陽光にまぶしいほどであった。
ここは犯人だって出て来られないだろう。
瞳も、初めてではないが、いつ見ても壮大な景観に見入った。
何しろ地面からの高さが百三十メートルあるのだ。――ここから落ちたら、などと考えただけで、足がすくむ思いである。
すれ違うゴンドラから、子供が手を振っているのを見て、瞳も手を振った。
やがて大涌谷の展望台が近付いて来る。
「やれやれ……」
ここまでは犯人も現れなかった。大涌谷からゴンドラは山の深い木々を見降ろしながら、次の姥子駅へ向かう。
瞳がはっとしたのは、ゴンドラが、ちょうど大涌谷駅と姥子駅の中間あたりにさしかかったときだった。
早苗の乗ったゴンドラが近付いて行く鉄塔の上に人影があった。鉄塔はどれも修理のできるように、ワイヤーのすぐ下が足場になっていて、鉄のはしごで登り降りができる。その足場の所に皮ジャンパーを着て、サングラスをかけた男が待ち受けていて、ゴンドラが近付いて行くと、ハンカチを振った。
早苗がボストンバッグを手に、ゴンドラがその鉄塔の真上へさしかかるのを待っていた。
早苗がドアを開いて、ボストンバッグを放り出す。下の男は巧くバッグを抱き止めた。
瞳は窓から、男の様子を見守った。男はかがみ込んで何か忙しそうに動いている。
「何してるのかしら……?」
男は鉄塔を素早く降り始めた。その手には布の袋がある。白いボストンバッグは足場に残ったままだ。
「入れかえて行ったんだわ!」
瞳は、|唖《あ》|然《ぜん》とした。敵も用心したのだろう。あれではレーダーも役に立たない。
「みすみす一億円くれてやるのもシャクだなあ」
どうしよう? 瞳は一瞬迷ったが、すぐに決心した。今の男を追いかけてやる。次の鉄塔で飛び降りればいい。大した高さじゃない。
次の鉄塔はもう目前だった。ためらっている暇はない。ドアを開けて、ゴンドラから身を乗り出す。そして一旦、両手でぶら下がると、足場の真上へさしかかった時、エイッと飛び降りた。二メートルほどの高さで、ショックはあったが、何とか足場の囲いの中へ落ちた。すぐに立ち上がって細いはしごを降りて行く。
金を持って行った男の姿は、深い木立に遮られて見えなかったが、まだそう離れてはいないはずだ。急げば追いつける。
はしごを降り切って、駆け出そうとした瞳は、ギクリとして足を止めた。周囲の木立の陰から、皮ジャンパーの男たちが数人、姿を現したのだ。
しまった、と思った。――相手は五人いた。手に手にナイフやチェーンを持っている。瞳は思い切って正面の相手に突っ込んで行った。一人の投げた棒きれが足にからまり、瞳はうつ伏せに倒れた。起き上がる間もなかった。瞳はどっと上から押さえ込まれてしまった。
どれくらい気を失っていたのか、瞳は体中の刺すような痛みに意識を取り戻した。
「――おい、気がついたようだぜ」
若い男の声がした。頭を振って目を開く。山荘風の居間らしい部屋だった。長椅子に皮ジャンパーの若者たちが寝そべっているのが目に入った。まだずいぶん若い。みんな二十歳前だろう。
身動きしようとして、瞳は手足を縛られているのに気付いた。血が通わないので、しびれて感覚が失くなっている。
「まあ、我慢しなよ」
若者の一人が立ち上がって近寄って来た。まだほとんど童顔といってもいい顔立ちである。
「あなたたちは一体何なの?」
声が弱々しく震えている。こんなことでどうするの! 瞳は気持ちを引きしめた。
「悪く思うなよ。俺たちも頼まれてやってるだけなんだ」
「おい! しゃべるな!」
厳しい声が飛んで来た。声の方を見ると、部屋の入り口に、やや年長の若者が立っていた。皮ジャンパー姿は同じだが、年齢は二十三、四というところだろう。ほっそりとして、背が高く、リーダー格らしい落ち着きがある。
「余計なことをしゃべるなと言われてるだろう」
「分かったよ」
童顔の若者が肩をそびやかして長椅子へ戻った。
「お前も口を開くな、いいか」
リーダーらしい若者が、瞳の前へ来て言った。瞳はまっすぐその目をにらみ返した。その若者の顔立ちに、瞳はどこか見憶えがあった。――誰だろう? 会ったことがあるのだろうか? どこで見たんだろう?
「痛い目に会いたくなかったら、おとなしくしてるんだ。分かったか」
と背を向けて行きかける。
「待って! 教えてちょうだい。ヴァイオリンは戻ったの?」
リーダーの若者は小馬鹿にしたような笑みを浮かべて振り向くと、
「あそこさ」
と|顎《あご》でしゃくって見せた。斜め後ろを振り返ると、ヴァイオリンのケースが十個余り、壁際に無造作に積んである。
「初めから返す気はなかったのね!」
「こっちの知ったことじゃない」
「そうさ」
他の若者が口を挟んだ。「まだまだ安いって話じゃねえか」
「今、何時なの?」
「夕方の四時さ」
間もなく、BBC交響楽団の一行は、東京へ発つはずである。ついに楽器は戻らなかった。明日の朝には、演奏会の中止が発表されるだろう。瞳は体中から力が抜けてしまうような気がした。
いや、まだ諦めてはいけない。ジェイムスが救いに来てくれるかもしれない。――だが、バッグに仕掛けた発信機は何の役にも立たない。広い箱根の山中で、果たして見つけることができるだろうか?
その時、ドアが開いた。――リーダーの若者がソファから立ち上がって、
「気が付いたぜ、この娘。どうするんだ?」
「さあ……」
部屋へ入って来ると、水島早苗は笑顔で言った。「どうしようかしら」
14 危 機(金曜日)
「そうにらまないでよ」
早苗はウイスキーのグラスを|弄《もてあそ》びながら言った。「恥ずかしくなるじゃないの」
「あなたにも恥じる気持ちがあるの?」
「威勢のいいことね」
部屋から皮ジャンパーの若者たちを出してしまって、早苗は瞳と二人きりだった。縛られていなければ、めちゃくちゃにやっつけてやるのに! 瞳は歯ぎしりした。
「私を恨むのはお門違いよ。あなたが勝手に飛び込んで来たんですからね。こっちだって、余計な手間だわ」
瞳は自分を|呪《のろ》った。何て馬鹿だったんだろう! ジェイムスの言う通り、おとなしくホテルにいればよかったのに……。
「一体どうしてそんな真似をしたの?」
瞳は訊いた。
「金のためよ。決まってるじゃないの。外来オーケストラの世話役なんて重労働でね、そのくせ安月給。どんどん|年《と》|齢《し》ばかりとって行くし……。で、ふっと思いついたのよ。楽器の|誘《ゆう》|拐《かい》をね。楽器なら人間と違って、食事をやったりする必要もないし、犯人の顔を憶えられることもない。それでいて、何億円もの値打ち……。これだ! と思ったわ。そしてずっとチャンスを待ってたの」
早苗はウイスキーをひと口飲んだ。
「そこヘエリザベス女王の訪日、BBC交響楽団の記念演奏会。これこそ待ちに待ったチャンスだと思ったわ。国立のオーケストラだから金は出るだろうし、記念演奏会を控えて何とか取り戻そうとするだろうしね。女王のスケジュールとの都合で、一週間空きができたのもよかったわ。|恐喝《きょうかつ》に十分な時間が取れたものね」
「金を受け取ったのに、なぜ楽器を返さないの!」
「そんな危険をどうして冒すの? 馬鹿馬鹿しい! 誘拐犯は殺せば殺人だけど、楽器を壊したって殺人罪でもなんでもないわ」
「でも、あなたは裕二さんを殺したでしょう!」
「ああ、あれね。――あれは私の知らないことよ」
「今さら何よ!」
「本当だから仕方ないわ。確かにあの裕二って若者、盗み出した楽器を確認させるのに雇ったんだけど、|怖《お》じ|気《け》づいちゃってね、せっかく盗んだうちの一台を持って逃げちまったのよ。それを東京の私の相棒が見つけてね、やっちゃったわけよ」
「相棒[#「相棒」に傍点]?――誰なの?」
「あなたの知ったことじゃないわ」
「それで二度に分けてお金を払わせたのね」
「まあ、そんなところ」
「あの若者たちは?」
「ああ、あれは暴走族のグループでね、この計画を思いついた|頃《ころ》から接触してたのよ。実際の盗みや金の受け取りは自分じゃできないものね。――あのリーダー、なかなかいい男でしょう? 信用できるわ。金も十分払うから、口外される心配もないし」
「そう巧く行くかしら」
「だめだめ」
早苗は冷笑して、「そんなこと吹き込んだって、だめよ。もう|諦《あきら》めるのね」
「私をどうするの?」
「それを考えてるのよ」
早苗は頭をかしげて、まるで美術品でも眺めるような目つきで瞳を見た。
「――あなたが|羨《うらやま》しいわ。若くて、ピチピチしてて。どう頑張ったって、若さにはかなわないわね」
「何が言いたいの?」
「きっと連中、喜ぶと思うわ。あなた、可愛いし、いい体してるもの」
瞳の顔から血の気がひいた。背筋を|戦《せん》|慄《りつ》が駆け抜ける。
「何を――させるつもり?」
声がこわばっている。
「連中、LSDとか、そういったもの持ってるの。私は経験がないけど、きっといい気分にしてくれるわよ」
瞳は歯を食いしばったが、身体が震えてくるのをどうしても押さえ切れなかった。
「連中だって、あなたを殺せと言ったら、きっとためらうでしょうね。でも、薬の射ちすぎで死んだら……そんなことは珍しくないわ」
「悪魔!」
「あら、ずいぶん古いセリフを持ち出したわね」
「逃げ切れると思ってるの!」
早苗は立ち上がった。
「もちろんよ!」
言い捨てて、皮ジャンパーの若者たちが消えたドアから出て行った。
瞳は必死で縄をゆるめられないかともがいたが、手足はもうしびれ切って力が入らない。
「ああ、ジェイムス……」
祈るように言った。
ドアの開く音がして、顔を上げた。
五人、六人――皮ジャンパーの制服[#「制服」に傍点]が、瞳を眺めている。リーダーの若者がゆっくり足を踏み出すと、他の五人もそれに続いた。
瞳は身をよじって、顔をそむけた。
「いいなあ! 若くてよ!」
童顔の一人がため息をつく。
「何からやる?」
「待てよ。その前に脱がしちまわなきゃ」
ひきつったような笑いが|湧《わ》いた。獲物を目の前にして、興奮しているのだろう。
「――ねえ、兄貴、早くやっちまおうぜ!」
「そうだよ。順番はクジで決めよう!」
「そいつはねえぞ! 古顔からだ!」
「汚ねえぞ! 俺とお前と三日しか違わねえのに!」
「黙れ!」
リーダーが一喝した。シンと静まりかえる。よほど恐れられているのだろう。――瞳はそろそろと顔を向けた。
リーダーの男は、不気味なほど表情を殺した目つきで瞳を見降ろしている。
どこかで……。瞳の頭に再び同じ思いがよぎった。どこかで見た顔だ。どこかで。――どこだったろう?
「――おい」
リーダーが傍の一人に言った。「ナイフ、貸せ」
「へい」
瞳はびくっと身を縮めた。ビン、とバネのはねる音がして、十五センチ近い刃が銀色に光った。――瞳は目を閉じた。もう、どうにもならないのだ。
手と足が急に緩んだ。驚いて目を開くと、手足の縄が切られている。
「ヴァイオリンを弾くんだって?」
リーダーの男が言った。瞳は黙って|肯《うなず》いた。
「おい! ヴァイオリンを一台持って来てやれ!」
「兄貴、何するんだい?」
呆気に取られた様子で、一人が言った。
「ヴァイオリンを弾かせるんだ」
「つまらねえよ、そんな――」
「持って来るんだ」
断固とした口調だった。――童顔の若者が、渋々歩いて行って手近なケースを取り上げると、リーダーの男が、
「馬鹿! それはヴィオラだ!」
と叱りつけた。「小さい方だ」
瞳は驚いた。この皮ジャンパー姿のリーダーが、そんなことを知っているなんて。
瞳のそばへ、ストラディヴァリが一台、無造作に投げ出された。
「弾いてみろ」
「待って……。手がしびれていて……動かない……」
「よし。待ってやる」
リーダーは長椅子に腰を降ろした。他の連中も諦めたように思い思いに座り込んだ。
「どうしてヴァイオリンを弾かせるの?」
瞳は訊いた。
「死ぬ前に一度弾きたいだろうと思ったのさ」
「ご親切に」
「――まだか」
「もうちょっと待って……」
瞳はゆっくりと指を曲げたりのばしたりした。
「長い指だな。骨ばってる」
「ヴァイオリンをやると、そうなるわ」
「左手の指先はもう切れないか」
「固くなっているから……」
答えて瞳ははっとした。このリーダーの男はヴァイオリンをやったことがあるのに違いない。でなければ、あんな質問は出ないはずだ……。
「もう大丈夫だろう」
「ええ」
瞳はケースからヴァイオリンを取り出し、弦を張った。――向こうが、ただ弾かせてからかうつもりだったら、弾くまいと思ったが、リーダーの若者は、それだけではなさそうだ。それに少しでも時間を稼がなくては。最後まで希望を捨てずに頑張るのだ。
音を合わせて、
「何を弾くの?」
と訊いた。
「好きなのを弾け」
「分かったわ」
「――この世の弾きおさめだ。巧く弾けよ」
瞳は息を吸い込み、静かに弓を引いた。ストラディヴァリは朗々と鳴る。曲はベートーヴェンのロマンスだ。
固くこわばった指が、不思議によく動いた。瞳は、演奏しながら、部屋の様子をうかがった。六人を相手にして勝てる見込みはない。しかも、ドアは彼女から一番遠く、間に長椅子があるのだ。走っても逃げ切れまい……。
「もういい!」
突然、リーダーの男が立ち上がった。瞳は弓を降ろした。
「俺も昔、ヴァイオリンを弾いていた」
呟くように、彼が言った。「だが、ある日、不良たちに殴られ、ナイフで腕を切られて……それきりだ。仕返しに、俺はそいつを刺した」
話しながら、瞳の手からヴァイオリンと弓を取り上げる。間近にその若者の目を見て、瞳ははっとした。この目は……。
「押さえつけろ!」
命令と同時に、四人の男が一斉に瞳に飛びかかる。
「やめて! 放して!」
もがいても、力では到底かなわない。
「注射の用意だ」
「もうやってるよ、兄貴」
舌なめずりせんばかりに、脂ぎった顔の太った男が笑った。小さな注射器が手の中にあった。
「腕をまくり上げろ!」
「いや! いや! やめて! いやよ!」
白い腕がむき出しにされる。注射器を持った太っちょがのしかかってきた。
「暴れるな! 針が折れちまう! おい、もっとしっかり押さえつけろよ!」
「やめて!」
瞳は叫んだ。「裕二さん[#「裕二さん」に傍点]!」
「――待て!」
太っちょを押しのけて、リーダーの男が顔を出した。「今、何と言った?」
「裕二さん……。東裕二……。あなた、そっくりだわ」
「弟を知ってるのか?」
「裕二さんのお兄さん?」
「――そうだ」
「なのに、こんなことにあの人を引きずり込んだの? お兄さんなのに!」
「あの女にヴァイオリンを見分けられる奴と訊かれて、捜すのも面倒だから弟を呼んだ。ところがブルっちまって、逃げちまいやがった。意気地のない奴だよ」
「彼女、あなた方が兄弟だと知ってるの?」
「あの女かい? いいや、別に説明をしなかったからな」
「やっぱりね。知っていたら……」
「何だ? はっきり言えよ」
瞳はまっすぐに男を|見《み》|据《す》えた。
「裕二さんは死んだわ」
「何だと……」
「あの女の相棒が殺したのよ。裕二さんがしゃべってしまうのを恐れて、車ではねて、それで死ななかったんで、病院を襲って、とうとう殺してしまったのよ!」
「|嘘《うそ》だ!」
「嘘じゃないわ! あの女に訊いてみなさい!」
リーダーの男は、こわばった顔で、じっと瞳を見つめていたが、やがて大きく息をつくと、
「よし、そうしよう。おい、この女、もう一度縛っておけ」
「おあずけかい、兄貴?」
「それはないよ」
「そうさ、せっかく――」
不満の声が上がる。
「待てと言ってるんだ!」
厳しい声が飛ぶ。
「――分かったよ」
肩をそびやかして、二人がかりで、瞳の手足を縛った。
「俺は出かけてくる。戻るまでその女に手を出すなよ」
裕二の兄は、部屋を飛び出して行った。少しして、オートバイの爆音が遠ざかって行くのが聞こえた。
「――畜生!」
「どうかしてるぜ、兄貴」
「弟のこととなるとムキになるんだ」
「|殺生《せっしょう》だよ、目の前にエサを置いて、手を出すな、なんて!」
しばらく、沈黙があった。
「おい!」
口を切ったのは、あの童顔の男だった。みんなの顔を見回しながら、
「やっちまおうぜ、俺たちだけで」
「でも、兄貴が怒るぞ」
「なに、怒ったって、やっちまった後ならどうしようもないさ」
「そうだ、ちっとは俺たちの好きにやってもいいじゃねえか!」
瞳は息を呑んだ。五人が一斉に立ち上がって近付いて来る。
「やめて……。何するのよ!」
「注射する前に楽しんでやるのさ」
「順序はどうする?」
「クジにしよう」
「よし、ともかくまず俺だ。文句ねえな!」
と童顔の男が他の顔を見回す。
「まあ、いいや」
「よし! おい、太っちょ、残りの奴のクジを作っとけよ」
「よし」
「それじゃ……悪いけどな……」
「いや! やめて!」
「おとなしくしろ!」
童顔の男が瞳の上へのしかかって来た。瞳は身動きもできず、じっと歯を食いしばった。
――終わりだわ! 何もかも!
その時、何かズンという鈍い音と共に、窓ガラスが割れる音がした。急に、上になっていた男がぐったりとして、床へずるずると滑り落ちる。背中に血が広がっていた。
「撃たれたんだ!」
「みんな隠れろ!」
「窓からだぞ!」
「拳銃を持つんだ!」
混乱した声が飛び交う。長椅子に放り出された瞳は隠れることもできない。誰だろう?
ジェイムスか?
太っちょが、一旦隠れた机の陰から走り出て、奥のサイドボードヘと急いだ。もう一度、鈍い音がして、太っちょが足を押さえて転がった。
15 凱 旋(金曜日〜土曜日)
「おい! 逃げよう!」
震え上がった声で一人が言った。
「ああ……」
残った三人は、とても、もう闘うどころではない。一斉に物陰から飛び出すと、我先にドアヘかけつける。先頭を切った一人が、ドアの所で、まるで壁にでもぶち当たったようにはじき飛ばされてしまった。
瞳は目を見張った。
「――ジェイムス!」
あっという間に残る二人も床にのびていた。
「大丈夫か? すまなかった、遅くなって」
瞳は急に気が抜けて、そのまま失神してしまった。
「――目を覚ましたね」
「ジェイムス」
気が付いて周囲を見回した瞳はびっくりした。ヘリコプターに乗っているのだ! 外は暗い夜が広がって、はるか眼下に、町の灯が星くずのように散らばっている。
美しい、と思った。そして、生きてるんだ、まだ、と今さらのように気付いた。
「そうだわ! ジェイムス! あの女――」
はっとして言いかけると、ジェイムスが肯いて、
「分かってる。捕らえた連中から聞いたよ」
「彼女、捕まったの?」
「BBCの一行と一緒に列車で東京へ向かった後だったんだ。東京駅では会田たちが出迎えているさ」
「よかった。――あの憎らしい女! 一度こうもり傘でやっつけてやりたかったわ」
そう言って、ふと、「あ、そうだ。こうもり傘――なくなっちゃった」
ゴンドラから飛び降りて、襲われた時、どうかなってしまったに違いない。父のプレゼントだったのに……。
「ジェイムス。ごめんなさいね。言うこと聞かないで、あんなことになって」
「あまり素直に謝られると、気味が悪いね」
「ひどいわ!」
瞳は笑った。「――どこへ向かってるのかしら?」
「東京さ。むろん」
ジェイムスは腕時計を見て、「今から行けば、少々遅いディナーに間に合うだろう」
「ヴァイオリンは?」
「後ろを見たまえ」
振り向くと、ヴァイオリンのケースが分厚く重ねた毛布の上に並んでいた。
「少々季節外れのサンタクロースってわけさ」
ジェイムスが微笑んだ。
「間に合ったのね! よかった!」
「君が命がけで頑張ったからさ」
「へへ……」
瞳は照れて、ちょっと舌を出した。
「そうだわ。どうしてあの場所が分かったんですか?」
「発信機を|辿《たど》って行ったのさ」
「でも、ボストンバッグは――」
「札束の一つは、中がくり抜いてあったんだ。そこにもう一つ発信機がセットしてあった」
「え? じゃ、始めから彼女を疑っていたの?」
「特別疑っていたわけじゃない。しかし、楽団の関係者が犯人である以上、彼女も例外ではないからね。もし犯人ならば、当然、ボストンバッグは捨てていくに違いない」
「そうだったの……。でも、それにしては来るの、遅かったのね」
「発信機が谷間へ入って、一旦見失ってしまったのさ。焦ったよ」
「こちらだって焦ってたんですよ」
「どんな様子だったか聞かせてくれ」
瞳はいささかオーバーに危機を強調しながら、説明した。
「ふむ、あの裕二君の兄がリーダーだったのか」
「まだ捕まっていないの?」
「まだだ。きっと早苗を追って東京へ向かっているんだろう」
「あの人――根は悪い人には見えなかったけど……」
「少しは人間らしいところがあるようだね」
「ミスター・ジェイムス、無電が」
操縦士が、レシーバーをジェイムスヘ渡した。
「ジェイムスだ。――会田か。どうした?――そうか。――では途中で降りたな。――分かった。もう人質[#「人質」に傍点]は取り戻した。警察の手を借りて、空港などを見張ってもらってくれ。――ああ、彼女は無事だ。ここにいる。――伝えるよ」
「どうしたの? 早苗が逃げたんですね?」
「ああ、どうも途中で降りてしまったようだ。なに、遠からず捕まるさ」
「伝言ってなにかしら?」
「会田がね、君を情報部にぜひほしい、とさ」
操縦士が言った。
「東京です」
行く手に光の海があった。夜空を白々と染めるばかりに、大都会が輝いていた。
瞳は深々と深呼吸した。――帰って来たんだわ!
ヘリコプターは英国大使館の庭へ着陸した。会田が手を振って出迎えた。
「やあ! 大変だったね」
「これぐらいのことじゃ死にません!」
「その元気だ!」
建物に入った三人はシャンパンで乾杯した。
「しかし、会田」
ジェイムスが言った。「事件はまだ片付いていないぞ」
「分かってる。あの女を捕まえなきゃな」
「それに東京の方で金を受け取った『相棒』は誰なのか。裕二の兄の行方も分からない。それから――伯爵ともケリをつけなくてはな」
「まだ忙しそうだな、当分は」
「全くだ」
「ああ、お嬢さん、君に会ってほしい人がいるんだ」
「誰でしょう?」
「報道関係者さ。この楽器誘拐事件が公表されたんでね、今や大騒ぎってわけだ」
「私が――出て行くんですか?」
「そう、我々は表へ出られない人間なんでね。だから、君も決して我々のことを言ってはいけないよ」
「分かりました」
新聞に出るのかな? |凄《すご》い! 少々俗っぽい期待に胸ふくらませ、会田に連れられて、報道陣の待つ部屋へ向かった。ドアから入ったとたん、唖然として立ちすくんだ。強烈なライトが浴びせられ、居並ぶカメラマンが一斉にシャッターを切り、TVカメラが向けられる。三十人はいるだろう。
気が付くと、サー・ジョン・カーファックスが、にこやかに寄って来て、彼女を抱いて頬にキスをした。
「サー・ジョン……」
「よくやってくれた! 君は英国の宝を取り戻してくれた。ジェイムスから何もかも聞いたよ」
「私、そんな……」
どぎまぎして逃げ出しそうになる。しかし、サー・ジョンは彼女を抱きかかえるようにして、マイクが数え切れないほど並んだテーブルの前に連れて行った。
晴れがましいやら照れくさいやら、瞳は報道陣の質問にもうわの空。一体何を答えているのか分からなかった。入って来たドアの方を見ると、細く開いた隙間から、ジェイムスの笑顔が覗いている。
「犯人たちと大乱闘になったって、本当ですか?」
「え? いえ、――そんな――」
「こうもり傘で叩きのめしたんですって?」
「私が?」
「フェンシングの達人だっていうじゃありませんか」
「そうでもありません」
「やって見せて下さい!」
「とんでもない! 私、とても――」
「いや、いいじゃないですか」
「お願いしますよ」
「おーい! 誰か相手になれ!」
瞳はポカンとしているうちに、カメラの放列に囲まれて、どこから捜して来たのやら、フェンシングの練習用の剣を持たされていた。TV局の人間らしい物好きが一人、相手になろうと飛び出して来た。
「さあ、行きますよ!」
「待って下さい、私――」
めちゃくちゃな構えで突っ込んで来る相手をかわして、「いやです! こんな、みっともない!」
「いや、いいじゃないですか。一躍スターになれるかもしれない!」
「冗談じゃないわ!」
瞳はムッとした。
「有名になって悪いことはないでしょ」
「だって、私、ヴァイオリニストですもの、こんな――」
「まあまあ、俳優だって、まずCMで顔を売る時代ですよ。ほら!」
「やめて!」
と相手の剣を払う。
「そのうち、インスタント・コーヒーの宣伝に使ってくれるかもしれませんよ」
瞳はカッとなった。言わせておけば……。
「エイッ!」
鋭い声と共に一気に突きまくり、相手が慌てて後ずさりするのを追いつめる。剣の先が円を描くと、相手の剣が宙へ飛び、胸元へとどめの一撃! 相手はテーブルの向こうへ、もんどり打って転げ落ちてしまった。
一斉に報道陣から歓声が湧く。
「やっちゃった……」
瞳は頭をかいた。
翌日、久しぶりに佐野の家で目を覚ました瞳はパジャマのまま、階下へ降りて行った。
「お嬢さん」
とおばさんが得意げに言った。「新聞に出てますよ! ほら!」
「そう?」
恐る恐る広げると、目に飛び込んで来たのは、あのTV局の男をやっつけた瞬間の大きな写真と、「少女剣士、銘器を取り戻す!」という大見出しだった。
「まあ、大したもんですけどねえ……」
とおばさんは、少々ためらいがちに、「でも、お嫁に行くときゃ、隠しといた方がいいですよ、この新聞」
16 演奏会の夜(土曜日)
「いよっ! 女剣豪!」
「サインして!」
「ヒトミちゃん!」
学校へ行くと、学友たちの冷やかしの声が飛ぶ。瞳はフン、と無視して、コンサート・マスターの席についた。
今日はいよいよ本番である。昨日までの冒険はもう忘れて、いい演奏をすることに全力を傾けなくては。
やがて十時半になるところだった。サー・ジョンがリハーサルに現れる時間だ。
「みんな、静かにして!」
大指揮者を迎えるというので、一人でアガっている土屋先生が、必死に声をはり上げている。
「いいかね、音程をちゃんと合わせて! くれぐれも失礼のないように! 君たちの態度いかんで、日本の楽壇が評価されるんだぞ!」
瞳は吹き出しそうになるのを慌ててこらえた。
「まさか」
「オーバーだよな」
と声が洩れると、土屋先生、いきり立って、
「黙らんか! こら!」
と顔を真っ赤にする。
「音を合わせましょう」
と瞳が立ち上がると、みんな一斉に楽器を手にする。オーボエのAに合わせて、各楽器が鳴ることしばし、
「終わりました、先生」
瞳はそう言って着席した。
「よろしい」
土屋先生も少し落ち着いた様子で、
「いいかね、大指揮者だからといって、あまり固くなってはいかんぞ。うん、静かに、余裕を持って接することだな」
一番余裕のないの、先生だと思うけどな、と瞳は思った。他のメンバーも同感らしい。そっと顔を見合わせて、笑いをかみ殺している。
「それから付け加えておくが」
土屋先生、続けて、「サー・ジョン・カーファックスの、この曲に対する解釈には、むろん私のそれと違っておるところが若干あると思われる」
「かなり、じゃないかな」
瞳の後ろで、そっと|囁《ささや》くのが聞こえる。幸い先生の耳には届かなかったようである。
「しかし、戸惑ってはいけない。すぐにサー・ジョンの指示に従うことだ。いいね。優れたオーケストラは、指揮者が変わればすぐにその望む通りに演奏できなくてはいかん」
やれやれ、早くサー・ジョンがみえないかな、と瞳はため息をつく。
「君らには、十分その力がある!」
土屋先生の話はもう演説に近かった。
「いいか、日頃の実力を出し切れば、それで十分だ。君たちは優秀なオーケストラなのだ。自信を持って|臨《のぞ》みたまえ!」
と、ここで一息つくと、さらに続けた。
「しかし、自信過剰になってはいかん!」
ああ、やれやれ……。
「常に謙虚に、楽譜に忠実に――」
そこへ、ステージの袖から、若い教師が顔を出した。
「土屋先生。おみえになりました」
「そうか! では、すぐ行く」
指揮台の椅子から降りると、いそいそとステージから出て行ったが、途中で振り向いて、
「いいか! 静かにしとれよ!」
と叫んで行った。
「ああ、うるさい」
「どうだろね、あのアガりよう」
「よくあれで先生がつとまるわね」
手厳しい批評が続出する。
「もうすぐ停年よ。ガマンしてやりましょ」
などという残酷なのもある。
ややあって、サー・ジョンが土屋先生に案内されてステージヘ姿を現した。みんなシンと静まりかえる。
サー・ジョンは茶色のツイードの下にグレーのスポーツシャツという軽装。土屋先生の方は、今日のために、ボーナスはたいてあつらえた三つ揃いである。何ともチグハグな感じであった。
サー・ジョンは瞳を見つけると嬉しそうに寄って来た。
「君か! よかったよ、会えて。君が通訳してくれたまえ。なに、大して言うことはないと思う」
「はい、サー・ジョン」
サー・ジョンは静かな一同を不思議そうに見回すと、
「今日は葬式でもあるのかね?」
「いいえ! サー・ジョンがおみえになるので、みんなちょっと固くなっているんですむ」
「おやおや、少しリラックスしてほしいね。音楽は楽しむものだ」
瞳はサー・ジョンの言葉をみんなに伝えた。ほっと少し緊張が解ける。
「それでは、と……」
サー・ジョンは持って来た指揮棒を手に、指揮台に上がり、譜面をめくろうとして、そこに置いてあった鉛筆を取り上げた。
「これは新型の指揮棒かね?」
瞳は笑いをこらえて、
「サー・ジョンのご注意を書きとめるように、全員に配られたんです」
「注意なら譜面に書いてある! それ以上のことは何もないよ。鉛筆を集めなさい」
メンバーの何人かが、慌てて鉛筆を集めて回る。傍で、土屋先生、渋い顔である。
「では始めから通して……」
サー・ジョンのタクトが上がった。
全曲に約四十八分。――終わってほっとひと息つくと、
「じゃ、今ので、大体わしのテンポはのみこめたと思う。後は指揮棒をよく見て、演奏してくれればいい」
とサー・ジョン、さっさと立ち上がる。
「じゃ、今夜会おう!」
みんな呆気に取られてしまった。さぞ厳しい練習になると覚悟して来たのに……。これで終わり?
「あ、あの、サー・ジョン」
土屋先生が慌てて呼び止めると、たどたどしい英語で、「何かご注意は? その……いろいろご不満なども……」
「それだけの腕があれば十分さ。後は本番の緊張の中で、何か[#「何か」に傍点]が付け加わる」
サー・ジョンはポンと土屋先生の肩を叩いて行ってしまった。先生はアングリと口を開けて見送っている。
「あの人らしい話だ」
ジェイムスが笑って言った。
「ほんと! あの時の先生の顔ったら、見せたかったわ!」
瞳も、思い出して吹き出しそうになる。
午後一杯、リハーサルの予定が、すっかり空いてしまったので、ジェイムスをホテルヘたずねて来たのである。
「何か分かりまして?」
「いや、水島早苗はまだ見つかっていないよ。何とか金も取り戻したいものだが」
「逃げちゃったのかしら?」
「そんなことはあるまい。警察が張り込んでいるからね。見逃しはしないよ」
「でも、あのストラディヴァリ、どこへ行っちゃったのかしら」
例の、瞳が最初に見た、あのストラディヴァリのことである。佐野邸から盗まれて、それきりなのだ。山荘で見つけた中には入っていなかった。
「東京の『相棒』というのが盗み出したのか、それとも、たまたま入った空き巣が、値打ちのあるものだと思って盗って行ったのかもしれない」
「そうですね……。でも、売ろうなんてしたら、たちまち足がつくでしょう?」
「処置に困っているかもしれないね。壊してしまわなければいいが」
最後の和音が大ホールに響き渡って、「幻想交響曲」は終わった。
瞳は、ほっと息をついた。――終わった。やっと終わったんだ。今さらのように、自分がやはりコンサート・マスターとしての責任を負っていたことの重みを感じる。
それにしても――いやに静かだな。拍手も起きない?
そう思ったとたん、大ホールを揺るがすような拍手と「ブラボー!」の声が轟いた。サー・ジョンが胸のハンカチで額の汗を拭いながら、客席の方を向いて頭を軽く下げた。オーケストラの全員も起立して拍手を受ける。サー・ジョンは指揮台を降りると、瞳の手を強く握りしめた。
「すばらしかった!」
サー・ジョンはひとこと言ってステージの|袖《そで》へと消える。拍手は鳴りやまなかった。サー・ジョンは、三度、四度とステージに呼び戻され、客に微笑を返した。
「ずいぶん長いわね」
瞳の隣の女の子がそっと言った。「アンコール曲もないのに」
「何かやると思ってるのよ、お客さん」
「あら、これ、何?」
「幻想」の楽譜をめくり終えて、誰かが言った。
「こんな楽譜、どうして置いてあるの?」
瞳も驚いて覗くと、バーバーの「弦楽のためのアダージョ」の楽譜である。もともと室内楽の一楽章を弦楽合奏用に編曲したものだ。美しい曲で、もちろん瞳もよく知っている。しかし、どうしてこの楽譜が……。
サー・ジョンがステージヘ出て来ると、瞳に声をかけた。
「わしの言うことをお客に通訳してくれんかね」
「は、はい!」
サー・ジョンが指揮台に上がると、客の拍手は波が引くように静まった。客に向かって、サー・ジョンは口を開いた。
「私は五十年以上指揮生活をして来ましたが、今夜のように興奮したことはありません。演奏する諸君の若さが私に乗り移ったのかもしれない。――お聞きの通り、彼らはすばらしい能力を持っています。正に世界に通用するといってもいい!」
客席から拍手が湧いた。サー・ジョンは手で制して、
「そこで私は、ちょっといたずらをしました。今、彼らは譜面台に見慣れぬ楽譜を見つけて、びっくりしているでしょう。今日、アンコール曲をやるなどとは、全く聞いていないからです。私はわざと伏せておきました。練習も予告も全くなしで、演奏をさせようと思ったのです。これは彼らの力を何よりも良く示すはずです」
瞳は通訳しながら、青くなった。大変だ!
巧く行くだろうか? サー・ジョンは続けた。
「曲はバーバーの『弦楽のためのアダージョ』であります。これはしばしば鎮魂の曲として演奏される曲で、女王陛下ご臨席のこの場で演奏するのは、いささか不適当かもしれません。しかし、私はこれを一人の日本人に捧げたい。若くして世を去った天才ヴァイオリニストにして、今このオーケストラのコンサート・マスターの父親である、マサオ・シマナカにであります。女王陛下もお許しいただけると存じますが」
客席二階の正面に、ユニオンジャックの旗が下がり、女王の姿があった。瞳は女王がサー・ジョンに向かって肯くのを見た。
「では、用意して」
サー・ジョンが言った。
「はい」
瞳は胸が一杯で、何も考えられなかった。みんなが楽譜をめくり、タクトを見つめる。
――サー・ジョンの小柄な姿が、途方もなく大きく見えた。
タクトがゆっくりと動いた……。
17 真 相(土曜日)
楽屋口を出ると、ジェイムスが待っていた。
「どうだった?」
と瞳は訊いた。
「君の通訳はすばらしかったよ」
「まあ、失礼ね!」
「君らの演奏については、何よりの答えが、あの拍手じゃないか」
「ええ……。でも、本当に今日は、みんなよく乗って[#「乗って」に傍点]たわ。こんなに一体になって演奏したって感じたの初めて」
「君に伝えることがあるんだ」
「何ですか?」
「明日開かれる女王陛下主催のパーティーに、君を招待したいというお言葉でね」
瞳は息を呑んだ。
「私?――私が?」
「そう。オーケストラ全員を呼びたいところだが、そうも行かない。代表として出席してほしいとのことでね」
「だって……私、着る物もないし……」
「なに、盛装でなくてもいいさ」
「そんなこと言ったって……。あなたは出るんですか」
「私はそういう席には出られない。規則なんだ」
「それじゃ、私一人? 心細いわ」
「大丈夫。サー・ジョンもいるしね」
ジェイムスは瞳をポルシェに乗せると、
「それじゃ今から青山へと参ります」
「青山? 何をしに?」
「君に簡単なイブニングドレスを買ってあげる。気にしなくていい、官費で落とすからね」
「まあ、ジェイムス! こんな夜遅く。もう十時よ。店なんか閉まってるわ」
「平気平気。開けさせるよ」
ポルシェが走り出すと、距離を置いて一台のオートバイがその後をついて走り出した。
「ああ、こんなに買ったの初めて!」
瞳は、ポルシェの後部座席に積んだ箱の山を見て声を上げた。
「ドレス、靴、ハンドバッグ、ブレスレット……」
「これで一通り揃ったろう」
ジェイムスが言った。
「すっかりお姫様の気分よ」
「では次へ参りますか」
「どこへ?」
「少し空腹だな。何か食べよう。君はどう?」
「本当だ。忘れてたわ。お腹空いて死にそう!」
「この近くにステーキの店がある」
「それも官費?」
「もちろんさ!」
と|真《ま》|面《じ》|目《め》くさって肯く。
レストランの入り口で瞳を降ろすと、
「じゃ車を駐車場へ入れてくるからね。ちょっと待っててくれ」
「ええ」
ポルシェが店の裏手へと姿を消すと、瞳はヴァイオリンを手に、ぼんやり道に立っていた。
背後に誰かが立ったのに気付いた時は、もう冷たいナイフが首に押し当てられていた。
「声を出すな」
低い囁くような声が耳元で聞こえた。
「誰?」
「おとなしくしてろよ」
思い当たって、はっとする。
「裕二さんのお兄さんね!」
「そうだ。一緒に来い」
「どこに行くのよ?」
「黙ってついて来るんだ!」
ナイフの刃がぴったり首筋に当てられていては、、暴れるわけにもいかない。
「歩け」
夜の道を、二人はそろそろと歩き出した。
「もっと早く!」
「そんなこと言ったって、これじゃ……」
ゆっくり歩くんだ。ゆっくり歩けば、車を入れ終わったジェイムスが出て来る。
「それに乗れ」
黒光りするオートバイが道端に停めてあった。七五〇cc[#特殊文字「cc」はt-code sjis=#8774 face="秀英太明朝KIGO"]の、いわゆるナナハンと呼ばれる大型車だ。
「私……こんなのに乗れない」
「後ろにだ」
ああ、こうもり傘があったらなあ。
「早く乗れ!」
しかたなく後ろの席に座ると、裕二の兄はナイフを瞳の脇腹に押し当てたまま、オートバイにまたがった。
「両手を前へ出せ」
瞳が男を後ろから抱きかかえるように腕を回すと、男は素早く両手首をしばり上げた。
「しっかりつかまってろよ! 振り落とされるぞ」
爆音が夜の街路に轟いて、オートバイは競馬のスタートのような勢いで飛び出した。ジェイムスが店の表へ出て来たのはその時だった。オートバイが目の前を猛スピードで駆け抜ける。
ジェイムスは、はじかれたように駐車場へ向かって駆け戻って行った。
「ど、どこに行くの!」
瞳は叫んだ。
「黙ってろ!」
オートバイは猛スピードで夜の街を駆け抜けて行く。――どれぐらい走ったのか、オートバイは走り出した時と同じように突然止まった。
手首の縄を解かれる前に見上げて、瞳は驚いた。レンガ色の豪華なマンション。
「ここは……」
「知ってるのか?」
「どうしてここへ来たの?」
「あの女が山荘から電話をかけてる時にここの住所をメモしていたんだ。――何かの場合にと思って下のメモ紙に跡がついたのを取っておいたのさ」
忘れようもない。このマンションは、瞳が新聞広告を見て訪れ、死体に出くわした所である。この「一五〇四号室」だ。
「ルーム・ナンバーは?」
「一五〇四」
瞳は息を|呑《の》んだ。その部屋は会田の私的なオフィスなのだ。この住所を早苗が知っていたとは、どういうことなのか……。
オートバイを降りると、若者は瞳を促した。
「行こうぜ」
「――待って」
「どうした?」
「あれは……」
明るい一階のロビーの奥に、エレベーターが見える。それに一人の女が乗り込むところだった。
「あの女だ!」
「行ってみましょう」
二人はエレベーターの前へ駆けつけた。階数表示のランプがどんどん上がって、最上階の「15」で止まった。
「あの部屋へ行ったんだな」
上りのボタンを押して、降りて来るのを待つ。瞳はふと、若者を見た。
「名前、何ていうの?」
「俺か?――|宏《こう》|一《いち》だ」
「宏一。裕二。――長男、次男ね」
「そうさ。――君は?」
「瞳」
「きれいな名前だ」
「裕二さんもそう言ってくれたわ」
「弟は本当に――死んだのか?」
「ええ。気の毒だけど」
「そうか」
エレベーターが降り始めた。
「どうするつもりなの?」
「誰が弟をやったのか、あの女に訊く」
「そして仕返し? 今度はあなたが人殺しになるのよ」
「分かってる」
「警察へ知らせましょう! すぐここを取り囲んで逮捕してくれるわ! あなたは逃げればいい。もし捕まっても、私の危ないところを助けてくれたって証言してあげるわ。そうすれば大した罪にはならずにすむわ」
「警察は信用できねえ!」
エレベーターが降りて来て、扉が開く。乗り込もうとして、二人は足を止めた。
「――何てことなの!」
瞳が思わず口を押さえる。エレベーターの中に、水島早苗が倒れていた。胸が血に染まって、一目で死んでいると分かる。
「上に行くんだ!」
宏一は瞳を引きずり込むようにエレベーターヘ乗せると、十五階へと向かった。瞳は極力死体から目をそむけていた。見開いた目が、まるで自分を見つめているように思えたのだ。
十五階に着くと、二人は死体を残して廊下へ出た。一五〇四号のドアが、少し開いている。宏一がゆっくりドアを引いた。
会田が奥のデスクで電話のダイヤルを回そうとしていたが、宏一の姿を見ると、すぐに拳銃を抜いて構えた。
「誰だ!」
会田は瞳に気付くと、「何だ、君か」
「会田さん、あなたがあの女を撃ったの?」
「エレベーターで逃げようとしてね、扉が閉まる間際に一発撃ったんだが」
「死んでいましたわ」
「そうか?――足を狙ったつもりだったんだが」
瞳は傍の床の上に置かれた布袋を見た。
「あの袋は――」
「俺たちが金をつめかえた袋だ!」
会田が宏一をじっと見て、
「そうか、お前が、あの裕二って奴の兄だな?」
「会田さん、それはあの女が持って行った一億円でしょう?」
「そう。今ここへ持ってやって来たのさ。金は返すから見逃してくれというから、そいつはだめだと警察を呼ぼうとすると、逃げ出した。それで撃ってしまったんだ。死ぬとは思わなかったよ。可哀そうに」
「嘘だわ」
瞳は言った。「私、一階であのひとがエレベーターに乗るのを見たのよ。あの女は、袋なんか持ってなかったわ!」
会田は黙っていた。
「会田さん……。彼女の言ってた東京の相棒は、あなた[#「あなた」に傍点]だったのね。それで何もかも分かるわ。――公園でお金を持って行かれてしまったのも、病院に監視の目をくぐって、ヤクザが入り込めたのも、早苗が東京へ着く前に列車を降りてしまったのも……。あなたが共犯だったのね!」
「何を言ってるんだ。馬鹿馬鹿しい!」
「それじゃ……お前なんだな、弟を殺させたのは」
ナイフを手に宏一が進み出た。会田が銃口を向ける。
「近寄るな! 撃つぞ!」
「貴様……弟の借りを返してやる!」
宏一は拳銃など目に入らない様子で、じりじりとつめ寄って行く。
「やめて!」
瞳が叫ぶと同時に会田が引き金を引いた。銃声が響いて、宏一が右腕を押さえてうずくまった。
「大丈夫?」
と瞳が宏一のそばへ駆け寄る。「会田さん! あなたは……」
「遊びは終わりだ、お嬢さん」
会田が突き放すような口調で言った。「深入りしすぎたよ、君は」
「やっぱりそうなのね。あなたが……」
会田が銃口を瞳に向けた。
「私を撃ったら、ジェイムスが黙っていないわよ」
「撃ちはしない。その男のナイフを使う。男が君を刺して、俺がそいつを撃った、ということだ」
「そんなに巧い具合にいくもんですか!」
「彼とは古い友達だ。信じるさ」
ドアがわずかに音をたてた。会田が目を向けて、
「ジェイムス!」
「会田、銃口を下げろ」
ジェイムスの手に拳銃があった。
「おい、ジェイムス――」
「会田、私だって、少しは日本語が分かるんだ。ちゃんと聞いたよ。銃口を床へ向けておけ」
会田がダラリと銃を下へ向けた。
「なあ、ジェイムス、聞いてくれ――」
「何も言うな」
ジェイムスは部屋へ入って来ると、ソファヘ腰を降ろした。
「仕方がなかったんだよ」
会田が言った。「金がほしかったんだ。あの女とは前から顔見知りで……。BBCの詳しい日程や行動を知らせてやる条件で仲間に入った」
「それだけか」
「じゃ……何だと言うんだ?」
「どうでもいい。同じことだ」
ジェイムスが上着の内ポケットから円筒形の消音器を取り出し、拳銃の銃身へとはめ込んだ。
「待ってくれ……ジェイムス……頼むよ」
会田の顔から血の気がひいて行く。「ほら、この通りだ!」
と拳銃をデスクの上へ投げ出して、
「なあ、撃たないでくれ……俺は武器を持っていないんだぞ……」
「持っていてくれると撃ちやすいのに」
「おい! 友達だろう?」
「この仕事に友人などない」
「ジェイムス……」
「好きで撃つわけじゃないぞ」
瞳はたまらなくなって叫んだ。
「やめて! 人が死ぬのはもう沢山だわ! ジェイムス! 撃たないで!」
ジェイムスの顔は仮面のように、表情がなかった。
「君は部屋を出ていたまえ」
「ジェイムス……」
「その若い男も一緒にだ」
「でも……」
「早く行くんだ!」
ジェイムスが一瞬、視線を瞳へ向けた。会田の手がデスクの拳銃をつかむ。
鈍い銃声。
会田の体がはね上がって、デスクの向こう側へ転がり落ちた。ジェイムスがソファから立ち上がる。
撃ったのは、入り口に立っている男だった。
――伯爵。
18 死者の微笑み(土曜日〜日曜日)
「やあ」
伯爵は部屋へ入ってくると、瞳へ|微《ほほ》|笑《え》みかけた。
「また会ったな」
「全く、よく会うな」
ジェイムスは拳銃をしまいながら、
「なぜこいつを撃ったんだ?」
「悪かったかな?」
「私でも撃てた。――それともこっちが撃ちにくいだろうと同情してくれたのか?」
伯爵は笑って、
「君はそんな甘い奴じゃないだろう」
「それならなぜ――」
「仕事さ」
「仕事?」
ジェイムスは眉を寄せた。「それじゃ、君が日本へ来たのは――」
「むろん、君と結着をつけるためでもあったさ。しかし、それだけじゃない。その男を殺せと依頼を受けてたんでね」
「依頼……」
「君のボスからだ」
「まさか!」
「残念だが本当だ」
「それじゃ、上層部では会田のことを……」
「疑っていたようだな。金に困って逆スパイしていると判断したようだ」
ジェイムスは会田の死体を見降ろした。
「そこまで落ちていたのか」
「君も知らされていなかったのか、何も?」
「何も」
「そうか。皮肉なもんだ。俺のようなフリーの殺し屋の方が、内情を知ってるというのはな」
「全くだ」
「さて、仕事は片付いた」
伯爵が拳銃を収めて、「そういつまでも日本にはいられないよ」
ジェイムスは伯爵の目をじっと見た。
「いつ、カタ[#「カタ」に傍点]をつける?」
「いつでも構わんぜ」
「今、やるか、いっそ」
「いや」
と伯爵は瞳を見て、「このお嬢さんのいる所ではやりたくない。敵が二人になるからな」
と苦笑する。
「それじゃ、場所と時間を決めよう」
「連絡する」
「よし、ホテルは知ってるな」
「もちろん」
伯爵は足早に姿を消した。ジェイムスは、右腕を押さえてうずくまっている宏一を見て、瞳に、
「彼を病院へ連れて行こう」
「ええ」
「どこの病院まで行くの?」
瞳が不思議そうに訊いた。「近くにいくらでもあるのに……」
「一刻を争うほどの傷じゃないだろう」
「それはそうだけど」
「もうすぐだ」
ポルシェが停まった時、瞳は驚いた。
「この病院……」
裕二が死んだK大学病院だ。
「さ、入ろう」
宏一が当直の医師に手当てを受けている間に、ジェイムスはどこかへ姿を消してしまった。瞳はジェイムスの気持ちが分からなかった。宏一をなぜわざわざ弟の死んだ病院へ連れて来たんだろう? 思いやりのつもりだろうか。
腕を吊った宏一が出て来た。
「どう?」
「大したことはないさ」
宏一は肩をすくめた。「でも、こんなけがに、何でこんな病院へ連れて来たんだ? あの外人、変わってるな」
「あのね――実は――」
「やあ、済んだかね」
ジェイムスが戻って来た。一緒にいる白衣の男は、工藤医師だ。
「ジェイムス……」
けげんな顔の瞳に、
「さ、一緒に来るんだ。その病人も」
「どこへ」
「入院が必要なのさ」
「まさか!」
「いいから、こっちだ」
工藤医師の後を、三人はついて行った。
「俺が入院? 刑務所の間違いじゃないのか?」
「分からないわ、私にも」
工藤医師が病室のドアを開けて、わきへどいた。
病室へ入って、瞳は思わず声を上げた。
「裕二さん[#「裕二さん」に傍点]!」
「やあ、君か」
裕二がベッドの上で微笑んだ。「兄さんも一緒か!」
「君にまで黙ってて、ひどい奴だと思ってるんだろう?」
「ええ、当たり前でしょ!」
ジェイムスのポルシェでホテルヘ向かいながら瞳はむくれっ放しだった。
「あの時ね、工藤医師が来て、どうも誰かが裕二の装置に細工したらしいという話だった。危ないところで助かったがね。その時に考えついたんだ。彼が死んだことにしておけば安全だとね。工藤医師の協力のおかげで、うまく行ったよ」
「よかったわね」
とそっぽを向く。
「おい、彼が生きてて嬉しくないのかい?」
「もちろん嬉しいけど……」
「君に知らせなかったのはね、秘密を知るのは、それだけ危険を増すからなんだ。君を危険な目に会わせたくなかったんだよ」
「でも――それじゃ裕二さんが意識を取り戻した時に、もう犯人は水島早苗だって分かってたんですか?」
「それが、彼の意識が戻ったのは、つい今朝のことでね。――いや、もう午前二時か。じゃ、昨日の朝ってことになる」
と苦笑して、「もう少し早く目が覚めてくれていたら、こんなに手間がかからなかったんだがね」
瞳は窓の外を流れ去る夜の町並みへ目をやりながら、
「よかったわ、助かって……」
と|呟《つぶや》いた。「――ねえ、ジェイムス」
「何だね?」
「どうしても伯爵と闘うの?」
「向こうがその気だ。仕方ないさ」
「お願いよ! 何とかやめられないの?」
「いずれはやらなきゃならん相手だ」
「くだらないわ!」
瞳は叫んだ。「西部劇のガンマンじゃあるまいし! どっちが死んだって、何にもならないじゃないの」
ジェイムスは黙って車を走らせていた。
「――家へ送って」
と瞳は言った。
「分かった」
ジェイムスは車をUターンさせた。
「それじゃ、明日――いや今日の夕方、大使館から迎えの車が来るからね」
ドレスや靴などの箱を全部運び終えると、ジェイムスが言った。
「あなたは来てくれないの?」
「もし私が迎えに来れたら来る。はっきり約束はできないがね」
「生きていたら、でしょ」
「そう悪く考えるな。伯爵の気が変わるかもしれない」
ジェイムスは瞳の額にキスして、「おやすみ」
と車へ戻りかける。
「ジェイムス、イギリスヘ帰る前に会える?」
「もちろん。また呼び出すよ」
車のドアを閉めようとして、「生きていたら、ね!」
笑顔を残して、ポルシェはたちまち夜道を消えて行った。
ぼんやりと道に立って、車の消えた方を見ていた瞳は、ため息をつきながら、家へ入って行った。
瞳は、日記に|細《こま》|々《ごま》と、演奏会の模様をつづった。
「……『弦楽のためのアダージョ』がお父さんに捧げられた時には、私、胸が一杯になって、泣けてしまいそうだったわ。でもコン・マスとしては、何より演奏をしっかりやらなくては、と、もっぱらそれだけを考えるようにしたの。演奏もすばらしかった――自分で言うのも変だけど、そう思います。どんなに練習を積んでも出ない“何か”が、あそこにはあったみたい。それを引き出したサー・ジョンには心から敬意を払わずにはいられません。ところで、私、明日の女王主催のパーティーに呼ばれてるのよ。お母さん、目を回さないでね。私としては、民主主義の立場から王室反対! でも、T学園の代表として出席させてもらうつもりです。え? 着ていく物があるのかって? 大丈夫。ちゃんと用意してくれました。
ところで、私の恋は――もう終わりみたい。今日つくづく二人の世界の違いを思い知らされたんですもの。彼は一瞬先のことも知らずに、現在を生きている人です。でも私は長い将来のことを考え、結婚や、赤ちゃんや、そんなことを考えて生きてる。最初からそれは分かってたことだけど、いえ、そんなに違うからこそ、心|魅《ひ》かれたのかもしれないわ。ともかく、後はグッドバイを言うだけです。もし、言えたらだけど……」
「はい、佐野でございます」
「もしもし」
「もしもし」
「瞳さんかい?」
「あ――裕二さんのお兄さんね。どうですか、具合は?」
「弟は順調だよ。一か月もすれば退院できるらしい」
「よかったわ! あなたのけがは?」
「けが? ああ、こいつか。忘れてたよ」
「まあ。その分なら大丈夫そうね」
「あんたに、その、礼が言いたくてね。お詫びと」
「いいのよ。終わったことだわ」
「今から警察へ行こうと思ってるんだ。手下たちが捕まってるのに、こっちが知らん顔できないしね、待ってたけど捕まえに来そうもないから、こっちから出かけるよ」
「そう。――それがいいわ。きっと大した罪にはならないわよ。私も応援する」
「ありがとう。ついでに、|図《ずう》|々《ずう》しい頼みなんだが……」
「何かしら?」
「俺がいない間、時々弟を見舞ってやってくれないか」
「ええ、もちろんよ! 安心して」
「すまねえな。ほっとしたよ」
「いいえ、何でもないことよ」
「それから、あの妙な外人にも礼を言いたいんだけどね、どこに行けば会える?」
「あの人? あの人は……」
と言い|淀《よど》んでから、ふと、「そうだわ。ね、警察へ行く前に一つお願いを聞いてくれない?」
「いいとも。何だってやるぜ」
「あの人のホテルを教えるわ。だから、こっそり見張っててほしいの」
「へえ。どうしてだい?」
「どこかへ車で出かけたら、オートバイで後をつけてほしいのよ」
「いいよ。お安いご用だ」
「そしてすぐ私に知らせてちょうだい」
「分かった。家にいるね?」
「夕方からは英国大使館にいるわ」
「へえ!」
「女王主催のパーティーに出てるの」
「驚いたな! 高貴な生まれなのかい?」
「まあね。――じゃお願いね」
「任せといてくれ」
瞳は電話を切った。
私なら止められるかもしれない。あの二人の争いを。――瞳はその希望を捨てきれなかった。
19 パーティーの夜(日曜日)
大広間には、きらびやかな、節度のある騒がしさが満ちていた。決して華美なものではなく、むしろ想像していたよりは簡素なパーティーであったが、それはけばけばしい豪華さよりもずっと快いものだった。必要なだけ華やかに、しかし、それ以上は悪趣味になる。その境界を、ちゃんと心得たパーティーであった。
瞳は一人でぼんやりしていた。立食パーティーなので、みんな思い思いに談笑しているのだが、何しろ年齢のいった客ばかり。瞳の話のできそうな相手はとんと見当たらないのである。
頼りはサー・ジョン一人だが、何しろ旧友だか何だかに会って、どこかへ行ってしまい、さっぱり戻って来ない。
早く終わってくれないかな……。瞳は所在なさに思わず呟いた。
広間の一隅には小さな壇が設けてあり、BBC交響楽団のメンバーが数人、室内楽をごく控え目な音量で演奏している。仕方なく、瞳はその近くに立って、演奏に耳を傾けていた。
「ヒトミ! ここにいたのか」
サー・ジョンが人をかき分けてやって来た。
「捜してしまったよ。ウォール・フラワーじゃあるまいし、こんな所で一人で立っていてはだめじゃないか」
ウォール・フラワー。「壁の花」――ダンスパーティーで、パートナーがいなくて、一人で壁際に寂しく立っている娘のことだ。
「でも、サー・ジョン、私、どなたも存じ上げないんですもの」
「それなら紹介してあげよう、来なさい」
「どなたに、ですの?」
「陛下に、だ」
「ちょ――ちょっと待って下さい」
瞳はびっくりして足を止めた。
「どうした?」
「女王陛下に――ですか?」
「そうだよ」
「私……あの……とっても、そんな……」
と、どぎまぎして尻込みする。
「何を固くなっとるんだ? 心配するな。実は、我々BBCのメンバーから君へ、お礼の品を上げたくてな」
「お礼なんて、そんな……」
「なに、君がいなかったら、あの銘器たちは、全部失われていたかもしれないんだ。いくら礼を言っても足りないほどさ」
「お気持ちだけで十分です」
「まあ、そう遠慮するな」
サー・ジョンは瞳の肩を抱いて歩きながら、「ストラディヴァリを一台――といいたいところだが、あれは我々の貴重な財産で、そうもいかん。で、どうかね、最近アマティを手に入れたメンバーが、前に持っていたガイセンホーフを君に譲りたいと言っているんだがね」
「ガイセンホーフですって?」
ウィーンのストラディヴァリと呼ばれるガイセンホーフの作品は、あの名門、ウィーン・フィルハーモニーなどに愛用され、練絹のような音を奏でているのだ。
「私なんかに――もったいない!」
「いや、君なら立派に使いこなせる」
サー・ジョンが立ち止まった。「――陛下」
瞳はその婦人[#「その婦人」に傍点]の前に、慣れない動作で腰をかがめた。
「まあ、あなたですね。昨日はとてもいい演奏を聞かせてくれてありがとう」
「恐れ入ります、陛下」
「これを――」
差し出されるヴァイオリンと弓を、瞳は恐る恐る受け取った。
「収めて下さい。BBCがぜひあなたに、ということです」
「はい……。では、遠慮なくちょうだいします」
「何か、弾いてくれませんか?」
「ここで、でしょうか?」
「ええ、ぜひ聞きたいと思います。サー・ジョン、あなたは?」
「同感です、陛下」
周囲から拍手が起こった。――瞳は足が震えて、生きた心地もない。サー・ジョンに促されるまま、BBCのメンバーと入れ替わりに隅の壇に上がった。場内がシンと静まりかえる。
お父さん、とんでもないことになっちゃったわよ、と瞳は内心呟いた。――間違えずに弾けますように!
音を合わせてから、目を閉じて、弾き始める。曲は「ロンドン・デリー・エア」――あのアイルランド民謡。「ダニー・ボーイ」として知られた曲である。父は演奏会場ではやらなかったが、家でよくこれを弾いていた。哀愁を帯びた旋律が大広間を巡って、みんなじっと聞き入っている。
三十分もかかるソナタを弾いたような気がした。終わると、拍手が続いた。
「よかったぞ、ヒトミ!」
サー・ジョンが彼女を抱きしめる。瞳は息をふうっと吐き出した。胃に悪いわ、本当に!
「島中瞳様でしょうか」
クローク係が立っていた。
「はい」
「お客様が玄関に」
「分かりました」
ヴァイオリンをサー・ジョンヘ預けて、瞳は広間を出た。
待っていたのは、やはり宏一であった。皮ジャンパー姿が何とも場違いで、落ち着かない様子だった。
「やあ」
宏一は瞳を見て、「凄い格好だなあ」
「それより、あの人は?」
「出かけたよ」
「今どこに?」
「代々木だ。競技場のあたりで、誰かを待ってるみたいだったぜ」
「大して遠くないわね。――ね、連れて行って!」
「君を? それじゃ、タクシーでも拾って――」
「オートバイがあるんでしょ」
「その格好で乗るのかい!」
と目を丸くした。
「そんなこと言ってる場合じゃないのよ!」
「分かったよ!」
門衛が目を見張るのを尻目に、イブニングドレスの瞳を後ろに乗せて、宏一のオートバイは走り出した。
「『卒業』の|真《ま》|似《ね》かと思われそうね」
瞳が呟いた。
すでに夜も十時を回って、競技場のあたりには人影もなかった。
「どこにいるの?」
「さあ……さっきはあの辺に車を停めてたんだけどね」
「歩きましょう」
オートバイを道のわきへ停め、二人はあたりを歩き回った。
「どこにもいないじゃないの」
「またどこかへ行ったのかな」
夜風が冷たく吹き渡って、瞳はちょっと身震いした。イブニングドレスなるものは大体あまり暖かくできてはいないのだ。
瞳はもしや芝生の上に、ジェイムスか伯爵の死体が横たわっているのではないかと、気が気ではなかった。
「あそこに車がある」
宏一が言った。道が下りになった植え込みの陰にジェイムスのポルシェが、かすかに光って見える。
「行ってみましょう」
瞳は先に立って車へ近付いて行った。
「何をしてる」
突然、背後から声をかけられて瞳は飛び上がった。
「ジェイムス! びっくりさせないで」
「ここで何をしてるんだ?」
植え込みの間から、ジェイムスが道へ出て来た。「その格好は――パーティーを抜け出して来たのか?」
「心配でたまらなかったんですもの!」
「何てことを! さ、早くパーティーヘ戻るんだ」
「だって、あなたはここで伯爵と――」
瞳はジェイムスが手にしている物を見て口をつぐんだ。
「それは、何?」
「見た通りさ。ライフルだ」
照準器をつけたライフルの銃身が黒光りしている。
「それで伯爵を?」
「そうだよ」
「だって――隠れて狙い撃つなんて――」
「早く行くんだ。こんな所にいてはいけない」
「ジェイムス、そんなのいけないわ! 一対一で正面からやるんだと……」
「いいか、これは個人的な闘いじゃない。任務[#「任務」に傍点]なんだ」
「――任務?」
瞳が問い返した。
「その通り」
「どういうことですか?」
「つまり、私が会田のことを聞いていなかったように、伯爵も聞いていないことがあるのさ」
「何を?」
「私は伯爵を殺せという命令[#「命令」に傍点]を受けているんだ」
「――分からないわ」
「いいかね、会田を殺さねばならない。しかし、それを私に命令したら、仲間同士の殺し合いになる。引き金を引くのをためらうかもしれんし、他の部員たちの気持ちを動揺させることにもなる。だから伯爵にやらせた。そして今度は私が伯爵を殺す。他の部員から見れば、会田の|仇《あだ》をとったことになる。――分かるか」
「そんな……ひどいわ……」
瞳は|愕《がく》|然《ぜん》とした。「せめて……せめて、伯爵と、正々堂々と闘って! |卑怯《ひきょう》じゃないの!」
「仕方ないさ。失敗は許されない。確実に殺さなくてはならないんだ」
「ジェイムス!」
宏一が瞳の腕を取った。
「行こう。何だか分からないけど、俺や君のいるところじゃなさそうだよ」
瞳は逆らう気力もなかった。――あまりに違う世界だった。人の命がチェスの|駒《こま》のように取られ、捨てられる世界だ。瞳にはとうてい割り込むことのできない世界だった。
瞳はゆっくりと歩き出した。
ゆるやかな斜面の上に、人影が小さく現れた。瞳ははっとした。伯爵だ! 瞳は宏一の手を振り払って飛び出した。
「危ない!」
瞳は叫んだ。「逃げて! 早く逃げて!」
人影が立ち止まった。次の瞬間、乾いた銃声がして、人影がはね上がるように転倒した。
瞳が駆け寄った時、すでに伯爵の息はなく、右手はもう拳銃を握っていた。瞳は傍にひざをついて、ぼんやりと静かな死に顔を見降ろした。
「さ、行こう」
宏一がやって来て肩を叩く。
「あの人は?」
「行っちまったよ」
「そう……」
「早く行こう。巻き込まれると大変だ」
促されるままに立ち上がって、瞳はゆっくり歩き出した。
「タクシーを拾ってくれる?」
「いいよ」
しばらく待って、タクシーがつかまると、瞳は乗り込んで、
「じゃ、ありがとう」
と微笑みかけてドアを閉めた。
運転手に行き先を告げ、シートにもたれると、急に張りつめていた気持ちがゆるんで、涙がこみ上げて来る。……
佐野邸の玄関を上がると、ヴァイオリンの音が居間から聞こえて来た。
先生だわ。――音色がいつもの楽器とまるで違う。そうか、と思った。きっとサー・ジョンが、ガイセンホーフを届けてくれたのに違いない。
居間へ入って行くと、佐野が気付いて、
「おお、お帰り」
「ただいま、先生」
「パーティーは楽しかったか」
「まあ……」
「途中でいなくなったそうじゃないか。気分でも悪くなったのか?」
「え――ええ、ちょっと」
「そうか。大使館から来た使いの人が心配しとったぞ」
「すみません」
「わしに謝ることはない。――疲れたろう。座ったらどうだ」
「ええ」
瞳はソファに体を沈めた。
「いいヴァイオリンをいただいたな」
「ええ。ガイセンホーフです。いい音でしょう?」
「だろうな。まだそこに置いてある。お前のものだからな、手をつけとらんぞ」
瞳はサイドボードの上に、ケースが乗っているのを見て、
「あら! それじゃ、先生、今弾いてらっしゃるの、何です?」
「ああ、これか」
佐野はニヤリとして、「例のストラディヴァリだよ」
瞳が|呆《ぼう》|然《ぜん》としていると、佐野は続けて、
「なに、一度手にしてしまうと、なかなか手放すのが惜しくなってな。ま、ちょっと空き巣に入られたと狂言をやっつけたんじゃ」
「先生――!」
「いや、ずっと持っとるつもりではむろんなかったさ。そろそろBBCも帰国だし、明日でも返しに行こうと思ってな、今、弾きおさめをしとったんだ。……ところで、これは何の罪に当たるのかな? 盗品を盗んだというか、拾った物を届けなかったというか……。いずれにしろ刑務所行きだな」
「先生ったら!」
瞳は|呆《あき》れて、「先生は有名なウッカリ屋ですもの。どこかへ置いて来たのを忘れてたといえば、みんな信用しますわ」
「ふむ。そうかな?」
「ええ、絶対」
「そんなにわしはウッカリ屋か?」
「それにおとし[#「おとし」に傍点]ですし」
「そうだな。わしも、もう……」
と、しばらく考え込んで、「わしは、いくつだったかな?」
「先生!」
瞳は大声で笑い出してしまった。佐野もつられて笑った。二人の笑い声がいつまでも響いていた。
20 別 れ(月曜日)
「やあ」
ベッドで裕二が微笑んだ。
「具合、どう?」
瞳はベッドのわきの椅子に腰を降ろした。
「大丈夫。まだ少し頭痛がするけどもね」
「そんなのふっ飛ばしちゃいなさいよ。電車で、ヤクザに体当たりした勢いで、さ」
裕二は笑って、
「君が助太刀してくれないとね」
「何をするの?」
「ちょっとキスしてくれれば」
「だめ! 興奮すると体によくないのよ」
瞳は笑いながら、軽く裕二の額にキスした。「これだけ」
「なんだ、がっかりだな。――学校の帰り?」
「そうよ」
「ああ、土曜日の演奏会の評が夕刊に出てたよ」
「ほんと? 何だって?」
「日本の音楽教育の水準の高さを示すものだってさ」
「ふーん」
「|嬉《うれ》しくないの?」
「ありきたりな|賞《ほ》め方じゃないの。何か他に言い方がありそうなもんだわ」
「欲張りだなあ」
と裕二が笑った。
「ええ! 私、とっても欲張りよ。何でも知りたいし、何でもやってみたいの」
「あれだけ冒険したのにかい? 兄貴から聞いたよ」
「ああいうのは、もう沢山」
瞳は首を振って、「二度とごめんだわ」
「でも君のことだ、何か事件に出くわしたら、また飛び込んじまうんじゃないの?」
「そうね……。分からないわ。その時はその時よ」
瞳は肩をすくめた。「何か私でできることある? また明日来るわ」
「もう行くの?」
「今夜BBCが帰国するの。空港へ見送りに行かなきゃ」
「そうか。気を付けてね」
「じゃ、また明日ね。果物でも買ってくるわ」
「ねえ」
「なに?」
「あの赤いこうもり傘は?」
「失くしちゃったのよ。冒険の最中にね」
「じゃ、付き合ってても安心だ」
「まあ、失礼ねえ!」
とふくれて見せて、「それじゃ」
「見舞い、ありがとう」
瞳は一回病室を出たが、また思い直したように入って行った。
「忘れ物かい?」
「ちょっとね」
つかつかとベッドヘ近付くと、瞳は身をかがめて、裕二の唇に唇を重ねた。
「――早く元気になってね」
「大分よくなったよ」
「調子がいいのね!」
ドアの所で、「エヘン」と|咳《せき》払い。慌てて立ち上がると、工藤医師が真面目くさった顔で立っていた。
「今日は、|医《せん》|師《せい》」
瞳はにこやかに|挨《あい》|拶《さつ》した。
「脈をみようと思って来たんだがね」
と工藤医師が言った。「今測っても、正確な脈搏は分からないようだな」
「サー・ジョン!」
瞳が呼びかけると、サー・ジョン・カーファックスは|相《そう》|好《ごう》を崩してやって来た。
「来てくれたのか、ヒトミ! 嬉しいよ」
「色々お世話になりました」
「いや、楽しかったよ」
「こちらこそ、すばらしいヴァイオリンをいただいて」
「君に使われれば幸せだと、あのガイセンホーフも言っとったよ」
「まさか!」
二人は笑った。
「ところで、ヒトミ、君はイギリスヘ来る気はないか?」
「サー・ジョン!」
瞳は面食らって、「一体何の――」
「イギリスで勉強してみないか。きっと君のためにもいいことだと思うが」
「そんな――突然で――」
「今、返事をしてくれとは言わんよ。また手紙を書く。考えておいてくれ。いいね?」
「はい」
サー・ジョンが他の関係者へ挨拶に行ってしまうと、瞳は胸の|動《どう》|悸《き》を鎮めようと何度も息をついた。突然のイギリス行きの話のせいばかりではない。混雑するロビーで、目はついジェイムスを捜してしまうのだ。
コンサート・マスターのヒギンズや、副指揮者のローマーと話をしているうちに、搭乗の時間になった。
サー・ジョンが来て、瞳の頬にキスして別れる。――BBCのメンバーの姿が次々に通路へ消えて行った。
「いないわ……」
もうとっくに発ってしまったのだろうか。
「……便にご搭乗の方はお急ぎ下さい」
アナウンスが、出発の間近なことを告げている。
ぼんやりと立っていると、
「お嬢さん」
突然、背後から英語で呼びかけられた。振り向くと、ジェイムスが立っていた。
「お嬢さん、これをお忘れになりませんでしたか?」
彼が差し出したのは、赤いこうもり傘だった。父にもらったのとそっくりな、真新しい傘だ。瞳は黙ってそれを受け取った。
ジェイムスはそのまま急ぎ足で、搭乗用の通路へと消えて行った。
瞳はこうもり傘を手に、しばらくそこに立ち尽くしていた。
エピローグ
「諸君!」
土屋先生は指揮台に上がると、こう呼びかけた。
「いやにもったいぶってるわね、今日は」
隣の学友の|囁《ささや》きに瞳は肩をすくめた。
「音楽の歴史でも語ろうっていうんじゃないの」
「聞いてくれたまえ!」
聞いてるよ、とみんなが目で返事をした。
「すばらしいニュースがある! 来年の三月、卒業の前に、諸君はヨーロッパヘ演奏旅行を行う!」
一瞬の空白、しかし、若者の反応は素早い、たちまちステージは混乱と絶叫の場と化した。女の子たちはキャアキャア叫んで隣の学生の肩を叩き、男子学生は、標的のゴリラみたいにウォーと|唸《うな》って両手を上げる。ごく一部の心配性の学生だけが、旅費の計算に余念がなかった。
「静かに!」
土屋先生が何回目かに叫んで、やっと少し騒がしい程度におさまった。
「日程、その他、詳細については、後日発表するが、期間は約一か月の予定。なお、イギリスではサー・ジョン・カーファックスがタクトを振って下さる!」
サー・ジョン……。瞳は懐かしさが胸にこみ上げて来るのを感じた。あれから二か月。くぐり抜けた火の輪の熱さは、まだ忘れられはしない。
ジェイムス……。瞳は手にしたガイセンホーフを眺めながら、あの日々のことを思い出した。
「――帰る時、学校側から、諸君のご父兄へあてた手紙を持たせる。手渡していただきたい」
「請求書ですか!」
の声に、ドッと笑いが起こった。
「――素敵じゃないか」
裕二が言った。
お互い、学校の帰りにこうして待ち合わせて散歩するのが日課のようになってしまった。
「いい思い出になるよ、きっと」
「そうね」
「イギリスにも行くんだろう?」
「その予定よ」
「彼に会えるかもしれないよ」
「そんなこと――もう終わったことよ」
「でも、いいじゃないか。|懐《なつ》かしいだろう?」
「あなたって……」
と瞳は笑った。
「何だい?」
「底抜けのお人好しか、鈍感か、どっちなの?」
「おい! ひどいなあ」
「だって昔の恋人に会って来いなんて言う人、聞いたことないわ」
「なに、比べてみれば僕の方がずっといいことがよく分かるさ」
「呆れた! うぬぼれ屋ね、ずいぶん」
「色々仕度が大変だろうね」
「女の子はみんな何を着ていくか、大騒ぎしてるわ」
「君は?」
「私は、今持ってるのを着て行くからいいわ」
「どうして?」
「中身がいいもの」
「うぬぼれはいい勝負だな」
二人は声を上げて笑った。
「それにね、私、紳士の国へ行っても平気よ!」
瞳が言った。「何しろ、このこうもり傘がありますからね!」
|赤《あか》いこうもり|傘《がさ》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成14年6月14日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2002
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『赤いこうもり傘』昭和58年6月10日初版発行
平成12年5月30日53版発行