角川文庫
血とバラ 懐かしの名画ミステリー
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
忘れじの面影
血とバラ
自由を我等に
花嫁の父
冬のライオン
忘れじの面影
1
|物《もの》|憂《う》い、春の昼下りである。
|志村良平《しむらりょうへい》は、永く|奉職《ほうしょく》した警視庁警部の職を一月前に辞して、今は老いのきざす身を私室の|揺《ゆ》り|椅《い》|子《す》の上で持て余す身分であった。
広いガラスの窓の外には、わずかばかりの|芝《しば》|生《ふ》があって、|一人娘《ひとりむすめ》の|衣《きぬ》|子《こ》が、|洗《せん》|濯《たく》|物《もの》を干している。その足もとを走り回っているのは、二|歳《さい》半になる孫の|優《すぐる》で、その|忙《いそが》しく動き回るのを|眺《なが》めていると、|飽《あ》きることがない。――孫が生れた時、「優」などという字は男の子らしくない、と反対したのだが、パパの知ったことじゃないわ、と衣子に片付けられてしまった。
三年前に妻を亡くし、|一人《ひとり》|身《み》になって我が家とてなく、娘夫婦の家の一室に世話になっている身では、あまり口を出すわけにもいかないのである。
年を取ると、なぜ早く目がさめてしまうのだろう。全くうまく行かないものだ。早く起きる必要がなくなると、早く目がさめる。そして今日は一日、何をして過ごそうか、とため息をつくのだ。
|志《し》|村《むら》警部といえば、|捜《そう》|査《さ》一課の名物男とまでいわれた|腕《うで》|利《き》きで、その|鋭《するど》い|勘《かん》と、「にかわ[#「にかわ」に傍点]も顔負け」といわれた|粘《ねば》り強さで、数々の難事件を解決して来た。現場の一線から退きたくない、と|昇進《しょうしん》も断り続けて来た。――その|彼《かれ》が、今は|揺《ゆ》り|椅《い》|子《す》を揺らしながら、|所《しょ》|在《ざい》なく、ぼんやりと外を|眺《なが》めている。
「新聞でも読むか……」
しばらくしてからよいこらしょ、と立ち上って、居間――いや、|衣《きぬ》|子《こ》流にいうとリビングルームへ行く。
「あらパパ、どうしたの」
洗濯を終えて、|掃《そう》|除《じ》|機《き》を当てていた衣子が顔を上げた。
「いや、ちょっと新聞を……」
「ね、今日、私、学校時代のお友達の所へ遊びに行くの。|留《る》|守《す》お願いね」
「ああ、いいよ。|優《すぐる》はどうするんだ?」
「連れてくわよ、もちろん」
「そうか……」
|良平《りょうへい》はちょっとがっかりしてソファに|腰《こし》を下ろした。孫の相手をしていれば、気も|紛《まぎ》れるのに。しかし、衣子は優をあまり良平に任せようとはしない。
「パパが|甘《あま》やかすから、あの子がわがままになって困るわ」
と年中こぼしているのだ。
「――いいかしら、パパ?」
「うむ?」
良平は新聞から顔を上げた。「今、何か言ったか?」
「いやねえ、パパ。耳が遠くなったの?」
実の|娘《むすめ》だけに、気は使わずにすむのだが、こういう言いにくいことをはっきり言うので、ドキリとさせられる。|慌《あわ》てて、いや、新聞に気を取られていたんだ、と弁解する。
「お友達の家の帰りに|銀《ぎん》|座《ざ》で|繁《しげる》さんと待ち合せて夕ごはん食べて来ようと思うんだけど……」
繁さんというのは、むろん衣子の夫で、|磯《いそ》|野《の》繁という、広告代理店に勤めるサラリーマンである。
「繁君、そんな|暇《ひま》があるのか。|珍《めずら》しいじゃないか」
「今日はたまたま夕方の仕事が延期になっちゃったんですって。こんなことって|滅《めっ》|多《た》にないから……」
「いいじゃないか、ゆっくりしておいで」
「そう? パパ、夕ごはんどうする?」
そうか。自分の夕食という問題があったんだな。
「なに、|俺《おれ》はどこか駅前の店ででも食べるよ。心配するな」
「そう? それじゃ、そうさせてもらうわ」
「ああ……」
結局、|俺《おれ》は|留《る》|守《す》|番《ばん》か……。|愚《ぐ》|痴《ち》るつもりはないが、つい口に出そうになる。元|捜《そう》|査《さ》一課の|猛者《もさ》が、今や留守番しか能のない老人なのだ。
よそ行きの服に|着《き》|替《か》えた|衣《きぬ》|子《こ》が|優《すぐる》の手を引いて出て行くと、|良平《りょうへい》はため息をついた。さて、これから何をすればいいのだろう。仕事一筋に生きて来た良平には、|趣《しゅ》|味《み》らしい趣味もない。酒も、若い|頃《ころ》に|酔《よ》って仕事で大失敗をしてからは一切絶っている。
|盆《ぼん》|栽《さい》いじりだの、|釣《つり》だのといったことには全く|食指《しょくし》が動かない。――人間を追う、という仕事を何十年も続けて来た者にとって、そんな趣味は|退《たい》|屈《くつ》の|極《きわ》みでしかないのだ。
仕方ない。本でも読むか。
|玄《げん》|関《かん》に|鍵《かぎ》とチェーンを|掛《か》けて、|戻《もど》ろうとして、郵便受の一通の手紙に気付いた。取り出してみると、|宛《あて》|名《な》は「|志《し》|村《むら》良平様」となっている。裏に差出人の名はない。女文字で、字の|崩《くず》し方などからみると、年配の女性の手だろう。
手紙を見れば、つい|鑑《かん》|識《しき》の目で見てしまうのだ。良平は苦笑した。何かの広告かダイレクトメールかもしれない。養老院の広告かもしれないぞ。
「まさか……」
リビングルームへ戻ると、良平は|封《ふう》を切った。|封《ふう》|筒《とう》を逆さにして手に受けてみる。――良平は|呆《あっ》|気《け》に取られた。それから封筒の中を|覗《のぞ》いてみた。|空《から》である。
「何だ……これは?」
良平は目を丸くして、手にした物を見つめた。数枚の――正確には四枚の一万円|札《さつ》であった。ただし……。
「やあ、警部! お元気ですか!」
電話の向うで、|八《はっ》|田《た》刑事の|威《い》|勢《せい》のいい声が|響《ひび》いた。
「おい、そんなでかい声を出さなくても、|俺《おれ》はまだ耳は遠くなっていないぞ」
「すみません。そんなつもりじゃ――」
「分ってるよ。ところでな、八田、お前、俺が担当した事件でニセ札がからんだ事件があったかどうか|憶《おぼ》えてないか?」
「ニセ札ですか? さて……思い当りませんねえ」
しばらく考えてから八田刑事は答えた。
「そうか」
良平は|肯《うなず》いた。|人《ひと》|並《な》み|外《はず》れた|記憶力《きおくりょく》を持つ八田が憶えていないというのなら、そういう事件はなかったに|違《ちが》いない。
「警部、何かあったんですか?」
やや|真《しん》|剣《けん》な|口調《くちょう》になって八田が|訊《き》いた。
「いや、|大《たい》したことじゃないんだが……」
「何です、警部?」
「そう警部、警部と呼ぶな。もう|俺《おれ》は警部じゃないんだぞ」
「申し訳ありません。でも|他《ほか》に呼びようがないもんで」
「それもそうだな」
呼ばれて、そう悪い気はしないのも事実である。「ところでな、実は今日、俺あてに|誰《だれ》かが四万円送って来た」
「へえ! |老《ろう》|齢《れい》年金か何かですか?」
|良平《りょうへい》は|怒《ど》|鳴《な》りつけたくなるのを|辛《かろ》うじて|抑《おさ》えた。あいつにはユーモアのセンスってものがないのだ。
「ところがな、そいつが本物の|札《さつ》じゃないんだ」
「何ですって! ニセ札ですか。そりゃ大変だ! 分りました。今から出かけるんですが、後でお宅へ|伺《うかが》いますよ。早速|鑑《かん》|識《しき》へ回して調べさせます。じゃ、失礼します」
「おい、|八《はっ》|田《た》! |違《ちが》うんだ! おい、八田……」
もう電話は切れている。あいつは|全《まつた》く……|物《もの》|憶《おぼ》えは|大《たい》したもんだが、早とちり[#「早とちり」に傍点]でいかん。もう一度かけ直そうかと思ったが、|諦《あきら》めた。きっと|今《いま》|頃《ごろ》は|部《へ》|屋《や》を飛び出し、階段を|駆《か》け降りているに違いない。
良平はテーブルに並べた四枚の一万円札を|眺《なが》めた。オモチャの一万円札[#「オモチャの一万円札」に傍点]、本物よりずっと小さい、一目でオモチャと分る一万円札なのだ。
こいつは一体、何の意味だ?――良平は考え|込《こ》んだ。自分で|挙《あ》げたニセ札犯から来たお礼参りの予告かと思ったが、そんな事件は|扱《あつか》っていない。となると、誰かのいたずらなのだろうか。しかし子供のいたずらにしては、|封《ふう》|筒《とう》の文字が|大人《おとな》の手なのはおかしい。
この札に何かあるのか……。取り上げて、手ざわりを試したり、すかして見たり、マッチの火でちょっとあぶってみたが、何も起こらない。どう見ても、ただのオモチャである。――良平は〈発行・こども銀行〉とあるのを見て、思わず苦笑した。
そこへ、玄関のチャイムが鳴った。
「――お|初《はつ》にお目にかかります」
初老の婦人が、しっかりとよく通る声で|挨《あい》|拶《さつ》した。和服姿がいかにも上品に決って(こういう言い方は|娘仕込《むすめじこ》みだ)いて、|髪《かみ》には相当白いものも混っているが、顔はつややかで、|老《ふ》け込んだ感じはなかった。若い|頃《ころ》は美人だったに違いない。今でもよく整った顔立ち、|涼《すず》しげな微笑は、|魅力的《みりょくてき》とすら呼べるほどであった。
「まあ、どうぞ」
リビングルームへ通して、良平は|慌《あわ》ててお湯を|沸《わ》かし、日本茶を|淹《い》れた。
「まあ、どうぞお|構《かま》いなく」
「いや、|娘《むすめ》がちょうど外出しておりまして……。ところでご用件は?」
「あの、|甚《はなは》だぶしつけなお願いで、|恐縮《きょうしゅく》とは存じますが……」
「何でしょうか?」
「私の――夫になっていただきたいのでございます」
「すると何ですか? あなたはご家族の|誰《だれ》かに命を|狙《ねら》われておられる。それで、元警官の私に夫のふり[#「ふり」に傍点]をして、犯人を|捜《さが》してほしい、とこうおっしゃるんですね?」
「さようでございます」
|良平《りょうへい》は息をついて|額《ひたい》の汗を|拭《ぬぐ》った。|一瞬《いっしゅん》、相手が本気でプロポーズして来たのかと思ったのである。まあ、そういうことなら話は分る。しかし……
「私は|藤《ふじ》|原《わら》|百《ゆ》|合《り》|子《こ》と申します」
良平が口を開く前に、その婦人が話を始めた。「夫とは七年前に死に別れまして、今は|田園調布《でんえんちょうふ》の宅に、|息子《むすこ》二人、|娘一人《むすめひとり》、それに息子の|嫁《よめ》と|一《いっ》|緒《しょ》に|暮《くら》しております。――ところがこのひと月ばかり、私の身辺に|妙《みょう》なことばかり起きるのです」
「例えば?」
「私はまだ幸い足の方はしっかりしているものですから、|寝《しん》|室《しつ》は二階にあるのですが、夜中に目を覚ますと、|階下《した》へ降りて行って、お茶を|一《いっ》|杯《ぱい》飲むことがよくあります。普通はお茶をいただくと目が|冴《さ》えると申しますが、私の場合は逆に、気分が落ち着きますせいか、|却《かえ》ってよく|眠《ねむ》れるのでございます」
「そういうことは聞きますね。私が子供の|頃《ころ》、|隣《となり》に住んでいた年寄りが、よくそう言っていましたよ」
「まあ、私一人でないと|伺《うかが》って安心しましたわ」
藤原百合子と名乗った婦人はお茶を一口|含《ふく》んでから続けた。「――で、ちょうどひと月ばかり前になりますが、夜中にどうも|眠《ねむ》れないものですから、いつもの通り、|階下《した》へ行こうと、階段を降りかけました時、張ってあった糸のようなものにつまずいて|転《ころ》んでしまったのでございます。|危《あやう》く下まで転げ落ちるところでしたが、段にしがみついて、二、三段|滑《すべ》り落ちただけで止まりました。下まで転げ落ちていたら、たぶん命はなかったでしょう」
「糸が張ってあった、と……」
「おそらく」
「確かめられなかったのですか?」
「転んだ|拍子《ひょうし》に、|傍《そば》の|陶《とう》|器《き》の置物を飛ばしてしまいまして、それが大変大きな音をたてたものですから、すぐ子供たちが|駆《か》けつけて来まして|大《おお》|騒《さわ》ぎで……。後で一人で見に行ったのですが、何もございませんでした」
「足を滑らせたというのではないのですね」
「はい。はっきり、何か細い糸のようなものに足が引っかかったのを憶えております」
良平も今は真剣に藤原百合子の話に聞き入っていた。この婦人は|被《ひ》|害《がい》|妄《もう》|想《そう》に|陥《おちい》るタイプではない。まず本当のことと思ってよさそうだ。
「次は半月ほど前のことでございます」
彼女は話を続けた。「私は自分の|部《へ》|屋《や》に一台テレビを置いております。まあ、まだ一日中テレビのお世話になるほど老い|込《こ》んではいないつもりでございますが、一応の時間|潰《つぶ》しにはなりますので。ところが、この日、朝起きまして、いつも見るニュースを見ようと、手元のリモコンのボタンを押しましたが、テレビがつきません。立って行ってスイッチを入れようと立ち上りかけますと、ちょうど家政婦さんが入って来ましたので、テレビをつけて下さいと|頼《たの》んだのです。ところが、その家政婦さん、スイッチを入れたとたん、|叫《さけ》び声をあげて、|床《ゆか》に大の字に倒れてしまったのでございます」
|藤《ふじ》|原《わら》|百《ゆ》|合《り》|子《こ》は、やや間を置いて、続けた。
「テレビの配線がどうかしてあったらしくて――私にはよく分りませんが――スイッチの金属の部分に強い電流が流れたらしいのです」
「その家政婦は?」
「幸い右手でスイッチを入れたので、ショックで気を失っただけですみました。もし左手だったら、心臓を通るので、命にかかわったかもしれない、とお医者様はおっしゃっておいででした」
「|誰《だれ》が|細《さい》|工《く》をしたか分らなかったのですか」
「調べる前に子供たちがさっさと電気屋を呼んで修理させてしまったので……」
「けしからん!」
|良平《りょうへい》は|憤《ふん》|然《ぜん》として言った。「いや、失礼しました。お続け下さい」
「三日前のことでございます。ちょうど子供たちが|留《る》|守《す》の時、電話がかかりました。ある薬局からで、先日お買上げいただいた|殺《さつ》|鼠《そ》|剤《ざい》について、店員が新入りで使用上の注意を申し上げなかったようなので、お電話をさし上げました、というのです。私は何かの間違いではないかと言いました。家は確かに古いのですが、ネズミが出るとは聞いていません。誰が買ったのか|訊《き》いてみたのですが、〈藤原〉とあるだけで、店員も|憶《おぼ》えていないという返事です。一応話を聞いて電話を切り、|嫁《よめ》の|澄《すみ》|代《よ》さんにもそれとなく訊きましたが、ネズミなどいない、という話です」
「|殺《さつ》|鼠《そ》|剤《ざい》はかなりの毒性がありますよ」
「はい。それで、私、この二日間、食事は外で取っているのでございます。取り越し苦労とは思うのですが……」
「いや、当然の用心ですよ」
藤原百合子はほっとした|様《よう》|子《す》で、
「そうおっしゃっていただくと、安心でございます。自分一人の|妄《もう》|想《そう》かと不安でしたもので」
「いや、大変|賢《けん》|明《めい》でした。――しかし、あなたは、その細工をした人物が、子供さんの中にいるとお考えなのですか?」
「私の実の子たちではございません」
良平は、やや間を置いて|肯《うなず》いた。
「私が亡くなりました藤原と|結《けっ》|婚《こん》いたしましたのは、やっと十年前でございました。三年ほどの短い|夫《ふう》|婦《ふ》だったのです」
「では全部、あなたご自身のお子さんではないんですね」
「はい」
「しかし、だからといって、なぜあなたの命を……」
「夫の財産でございます。夫はかなりのものを|遺《のこ》しましたが、子供たちは私に財産の大半が|譲《ゆず》られたのが不満なのです。その気持は分らないではありません。晩年の再婚の相手で、しかも三年しか|一《いっ》|緒《しょ》に|暮《くら》さなかったのですから……。私も子供たちに財産を譲って、自分は食べて行けるだけのものさえあれば、とは思っているのですが、残念なことに、子供たちの|誰《だれ》一人として、正しいお金の使い方を知りません。あの子たちに金を渡すのは、|却《かえ》ってあの子たちを|駄《だ》|目《め》にすることになります。それに……理由はどうであれ、私の命を|狙《ねら》っているのがあの子たちの|一人《ひとり》だとしたら、やはり財産を譲るのはどういうものか、と思いますし」
「当然ですよ。少なくとも、その犯人が分るまではそんなことをしてはいけません」
|良平《りょうへい》はきっぱりと言った。「しかし……私に、あなたの夫になれ、というのは、どういうことです?」
「|甚《はなは》だ勝手なお願いなのですが……あなたは警視庁でも有名な警部さんでいらっしゃったとか。私があなたを|再《さい》|婚《こん》の相手に選んだ、明日にも|籍《せき》を入れるつもりだと子供たちに|紹介《しょうかい》すれば、犯人は急いで行動に出るでしょう。私が結婚してしまってからでは、私が死んでも、財産はほとんど夫の手に渡ってしまうわけですから」
「犯人を追いつめて、引っ張り出そうというんですね? ずいぶん危険じゃありませんか」
「はい。けれども、いつ食事に毒を入れられるかとハラハラして毎日過ごすよりは、多少の危険はあっても早く真相を知りたいと思っております」
「そのお気持は分りますが……」
「それにあなた様がついていて下されば、何の心配もございません」
「い、いや、待って下さい」
良平は|慌《あわ》てて言った。「お話はよく分りました。ご心配はごもっともです。私がお役に立てれば、とは思いますが……何といっても、私はもう引退した身です。それにあなたの身の安全を考えれば、これは警察へ任せるべき仕事ですよ。私がよく事情を説明すれば、|充分《じゅうぶん》な手を打つはずです」
藤原百合子はきっぱりと首を|振《ふ》って、
「警察|沙《ざ》|汰《た》にはしたくございません。だからこそあなた様にお願いに参ったのです」
「しかし……」
「失礼とは存じますが、お礼も充分差し上げます」
「いや、別にそういうつもりで――」
「どうぞお気を悪くなさらずに。仕事をお願いするからには|報酬《ほうしゅう》をお支払いするのは当然のことです」
「はあ……」
藤原百合子はハンドバッグを開けると、|分《ぶ》|厚《あつ》い|封《ふう》|筒《とう》を取り出した。
「ここに四十六万円あります」
「四十……」
良平は絶句した。
「先にお送りしておいた分と合わせて五十万円になります。どうぞ|納《おさ》めて下さい」
「先に?」
「そこにございますでしょう」
藤原百合子は、テーブルに置いたままになっている四枚のオモチャの一万円|札《さつ》を指した。
「では、これはあなたが?」
「はい。とりあえず手元にあったお金をお送りしたのでございます」
良平はしばし言葉を失って相手を見つめていたが、やがて気を取り直して、
「では|遠《えん》|慮《りょ》なく」
と|封《ふう》|筒《とう》を取り、中から|札《さつ》|束《たば》を出した。どれも、〈発行・こども銀行〉の、オモチャの一万円札であった。
2
長男の藤原|彰一《しょういち》は、少なくとも見た所では、|浪《ろう》|費《ひ》|癖《へき》のあるぐうたら|息子《むすこ》とは思えなかった。
「初めまして、長男の彰一です」
「やあ」
良平は極力|愛《あい》|想《そ》よく|微《ほほ》|笑《え》んで|会釈《えしゃく》した。
「お母さんも人が悪いなあ。前に一度ぐらい家へご招待して、|紹介《しょうかい》しておいてくれなきゃあ」
三十|歳《さい》をやや過ぎたところであろう、なかなかの|男前《おとこまえ》、|渋《しぶ》いカーディガンにスラックスという|服《ふく》|装《そう》も、リラックスしながら、いささかの乱れもない。
「そう言ってもねえ、|彰一《しょういち》さん」
藤原|百《ゆ》|合《り》|子《こ》は、笑顔で良平を見ながら言った。「本当に私だって、今日この人[#「この人」に傍点]に会ったばっかりなのよ。でも一目で分ったわ。五十年前と変らない。|優《やさ》しい|眼《め》、ちょっとはにかんだような笑顔……。ねえ、志村さん」
良平は、
「う、うん」
とぎごちなく|肯《うなず》いて、引きつったような笑顔をひねり出したが、顔がかっかとほてっている。
「ほら、|恥《は》ずかしがり屋さんだったのよ、|昔《むかし》から……。さ、居間でくつろいで下さい。私もすぐ行きます」
死んだ藤原という男は、|投《とう》|機《き》で当てて、かなりの財を成したらしい。|田園調布《でんえんちょうふ》の高級住宅地の一角に、その|豪《ごう》|壮《そう》さで周囲を圧するような大|邸《てい》|宅《たく》があった。|造《つく》りは洋風で、|玄《げん》|関《かん》を入ると、コートなどを|脱《ぬ》ぐ小部屋、それを|抜《ぬ》けて広々としたホールへ出る。正面から|幅《はば》の広い階段が二階へ続き、左右にドアがある。
久しぶりの背広、ネクタイ姿は何とも|窮屈《きゅうくつ》でやり切れない。しかし、通された広間の重厚な調度、王朝風|長《なが》|椅《い》|子《す》には、ランニングにステテコ姿はどう考えても似つかわしくなかったので、そのままのスタイルで|我《が》|慢《まん》することにした。
「さて……」
|一《いっ》|体《たい》どうしたものか。|一人《ひとり》になって、考えれば考えるほど、分らなくなって来る。もし、藤原|百《ゆ》|合《り》|子《こ》がオモチャの|札《さつ》を取り出さなかったら、|良平《りょうへい》はここへ来なかっただろう。地元の警察へ|総《すべ》てを任せたに違いない。しかし、あの時に事態は一変してしまったのだ。
|彼《かの》|女《じょ》はまとも[#「まとも」に傍点]ではない。それは――あの|気丈《きじょう》な外見からは全く考えられないことだが――残念ながら疑いのないところだ。そこで二通りの考え方ができる。一つは、総ての事件が、彼女の|狂《くる》った頭脳の生み出した|妄《もう》|想《そう》である、という考え方だ。常識的には、これが|妥《だ》|当《とう》な所かもしれない。しかし、良平の中には、どうしてもこの考えに同調し切れない何かがあった。
狂人は、どこか一点で、常人と|違《ちが》っているだけだ。そんなことを、精神科の医師から聞いたことがあった。どこか一か所で常識を|踏《ふ》み|外《はず》しているが、それ以外は全く通常の人間と同じ生活をし、正しく判断を下し|得《う》るのだ、というのである。
藤原百合子の話は、永年の刑事生活で、|嘘《うそ》と真実を聞き分ける熟練者となっている良平に、|一瞬《いっしゅん》たりと疑いを起こさせることがなかった。その態度、話の細部、表現の適確さ……。どれも申し分ない証人のそれであった。良平はその印象を、あのオモチャの札だけで総て否定し去る気には、どうしてもなれなかった。
彼女も一点で狂っているだけなのかもしれない。――もし、そうだとすると、子供たちの|誰《だれ》かが、本当に彼女を殺そうとしていることになる。
良平がここへ来る決心をしたのは、果してどちらが真相なのか、判断がつかなかったせいであった。その|選《せん》|択《たく》を警察へ任せるのは危険だった。藤原百合子が狂っていると知れば、もうそれだけで警察は彼女の話を|真《ま》に受けないだろう。
かくて良平は、百合子に言われるままに、彼女の幼なじみで、今日、たまたま|巡《めぐ》り会い、かつての秘めた|想《おも》いが再び燃え上った、という、|老《お》いらくの|恋《こい》|人《びと》を演ずるはめになった。|正《まさ》に|冷《ひや》|汗《あせ》ものである。
|誰《だれ》かが広間へ入って来た。
「いらっしゃいませ」
やせて顔色の悪い女だった。美人といえなくもないが、病的な印象を受ける。良平に|紅《こう》|茶《ちゃ》を出しながら、
「|彰一《しょういち》の|家《か》|内《ない》、|澄《すみ》|代《よ》でございます」
良平は、さっきの彰一から受けた、|如《じょ》|才《さい》ない好青年のイメージを書き変えられる思いだった。澄代の冷ややかな無表情には、体の不調だけではない、精神的な苦痛の|跡《あと》が見られる。妻にこんな顔をさせておく男は、夫として失格だ。
「これはどうも……。志村良平です」
固くなって|挨《あい》|拶《さつ》すると、澄代はちょっと笑顔になって、
「そんなにご|丁《てい》|寧《ねい》に……。お|義父《とう》さまになられるのに」
良平はちょっと|面《めん》|喰《くら》ったが、そう言われてみればその通りだ。
「うん。まあ……あんたやご主人から見れば、どうも突然|妙《みょう》な|奴《やつ》がやって来たようなもんだと思うが」
「いいえ。お|義母《かあ》さまはいい方です。今からでも幸せを見つけられれば、私、とても|嬉《うれ》しいんです」
|澄《すみ》|代《よ》の言葉には真実の情がある、と良平は感じた。一つ、それとなく探りを入れてみるか。
「まあ、変に誤解をされてはいけないから、言っておきたいんだが……私は|百《ゆ》|合《り》|子《こ》さんの財産には興味がない。私も|充分《じゅうぶん》、不自由のない|暮《くら》しをしているし、この|年齢《とし》だ。そうそうぜいたくをしようとも思わん。百合子さんともよく相談して、財産は子供たちに分けようかと思っているんだよ」
澄代の顔がこわばった。
「いいえ! それはいけません」
「どうしてだね?」
「主人には何一つ|渡《わた》さないで下さい!」
澄代のあまりに|真《しん》|剣《けん》な口調に、良平は|戸《と》|惑《まど》った。
「どうしてなんだね? わけを聞かせてくれないか」
「それは――」
澄代が言い|淀《よど》んだ。
「無理には|訊《き》かないよ」
と良平は言った。
ドアが開いて、百合子が入って来た。|澄《すみ》|代《よ》が立ち上って、
「お|義母《かあ》さま、夕食は何になさいます?」
「そうね、今日はこの人をみんなに|紹介《しょうかい》する意味もあるし、外へお食事に出ましょう」
「はい」
「|建《けん》|二《じ》さんと|恒《つね》|子《こ》さんが|戻《もど》ったら、そう伝えて下さいな」
「分りました」
「――なかなか素直そうな人だ」
澄代が出て行くと、良平は言った。
「ええ。彰一さんが、いつまでも定職につかないので、気の毒ですわ。どこかへ勤めても、すぐに|喧《けん》|嘩《か》してやめてしまうんです。なまじ少し自分の財産があるので、よくないんでしょうね」
良平は、夫に何一つ渡さないでくれ、と言った澄代の気持が分るように思えた。彰一は、百合子の財産をあてにしているのだ。ここで良平と百合子が結婚すれば、彰一も|諦《あきら》めて、少しは|地《じ》|道《みち》に働くようになるのではないか。――澄代は、それを期待しているのだ。
「あとの二人の子供は勤めているんですか?」
「いいえ」
百合子は苦笑して、「建二さんは|競《けい》|馬《ば》や|競《けい》|輪《りん》通い、恒子さんは料理学校へ行っていることになっていますが、実際は友達と|盛《さか》り場をふらついているようですわ」
|百《ゆ》|合《り》|子《こ》は、良平の前の紅茶の|盆《ぼん》を見て、
「あら、|澄《すみ》|代《よ》さん、お砂糖を忘れて来たのね。今持って来ますから」
と広間を出て行った。
財産か。良平は思った。|俺《おれ》にはそんなものがなくて幸いだ。幸いなるかな貧しき者、だ……。
ドアが勢いよく開いた。はて、年寄りにしては、元気がいい――と|振《ふ》り向くと、赤い火柱が立っていた。その火柱は二十四、五|歳《さい》、燃え立つような赤い服、絵具を|塗《ぬ》りたくったような|爪《つめ》の先、|唇《くちびる》のどぎつい赤、そして良平の|度《ど》|肝《ぎも》を|抜《ぬ》いたのは、まるで燃え盛る|炎《ほのお》のような赤いちぢれ|髪《がみ》だった。
「あんたなのね!」
その火柱[#「火柱」に傍点]が|叫《さけ》んだ。「財産目当てのコソ|泥《どろ》は!」
良平は、もし彼女が本当に料理学校へ通っているのなら、きっとどの料理も真っ黒こげになるに|違《ちが》いない、と思った。
「|恒《つね》|子《こ》さんだね」
良平はおっとりと言った。こんなことで|驚《おどろ》いていては、|刑《けい》|事《じ》という職業は務まらないのである。
「気安く呼ばないでよ!」
彼女はツカツカと良平の前へ歩いて来ると、両手を|腰《こし》へ当てて、良平をキッとにらみつけながら、
「いいこと、あんたなんかに家の財産を持って行かせやしないからね!」
そうまずい顔でもない。良平は、もしこの|娘《むすめ》が|殺《さつ》|鼠《そ》|剤《ざい》を買ったのなら、店員はきっと忘れないだろう、と思った。
「料理学校へ行っているそうだね。|花《はな》|嫁《よめ》修業かな?」
恒子は人を|小《こ》|馬《ば》|鹿《か》にしたような笑いを口元に|浮《う》かべると、
「|腕《うで》|前《まえ》を見たい?」
「ぜひ食べてみたいね」
「得意の料理を教えてあげましょうか」
恒子はもっともらしく腕組みして言った。「|青《せい》|酸《さん》カリ入りのビーフシチューと|砒《ひ》|素《そ》入りのオムレツよ。食べてみる?」
そこへ百合子が砂糖を持って入って来た。
「あら、恒子さん、帰ってたの。――何のお話?」
恒子はツンと顔を上げて、
「お母さんのフィアンセに何かおいしい料理を作ってあげようと思ってね」
「まあ、それは結構ね。でも今夜は外でお食事よ。|仕《し》|度《たく》をしていらっしゃい」
恒子は鼻を鳴らして出て行った。
「あの子、失礼を申しませんでした?」
百合子は砂糖入れを良平の前に置いた。
「いや、今の若者に〈礼〉を求めるのがぜいたくというものでしょう」
「お砂糖を……」
と|蓋《ふた》を取って|勧《すす》め、「ずいぶん物分りがよくていらっしゃいますのね」
「私にも|娘《むすめ》がいますからね」
|良平《りょうへい》はニヤリとして、砂糖をすくった。変った砂糖だな。グラニュー糖らしく、細かくてサラサラしているが、色が灰色なのだ。まあ、こんな毒薬はないから、心配することはないが……。おおかた新製品なのだろう。
「|建《けん》|二《じ》さんもそろそろ|戻《もど》ると思います。さっき電話があったようですわ」
「会うのが楽しみですね」
「まあ。楽しみ?」
「楽しみ、というのは変かもしれませんが……」
良平はカップを取り上げながら言った。「|捜《そう》|査《さ》を進めて行く途上で事件の関係者の人々に会うのは、確かに一つの楽しみですよ。世の中には、実に色々な人間がいるもんだ、と驚かされますからね」
「お|仕《し》|事《ごと》|柄《がら》、ずいぶんひどいことを見て来られたんでしょう」
|百《ゆ》|合《り》|子《こ》は静かに言った。「人間|嫌《ぎら》いになってしまうようなこと、ありません?」
「いいえ」
良平は首を|振《ふ》った。「私はどんな犯罪者にも、何か救いはあるものだと信じてやって来ました。人間は弱いものですからね。――私だって、どこかで一歩間違えば、犯罪を犯す側の人間になっていたかもしれない、とそう自分を|戒《いまし》めることにしていたんです。――こんなこともありました。どんなに厳しい|訊《じん》|問《もん》にも口を割らなかった|凶悪犯《きょうあくはん》が、|昔《むかし》、高校野球のヒーローだったことがあると知って、その話をしたんです。|奴《やつ》も熱心にその時の試合の様子なんかを話し始めました。ところが、急にふっと話を切ると――泣き出したんです。自分の美しい思い出に対して、今の自分が|恥《は》ずかしくなったんですね。何もかも自白しましたよ」
「いいお話ですこと」
「私が、もともと気の弱いせいもあるでしょうがね」
「|優《やさ》しい方ですのね」
「さあ……」
良平は苦笑した。「|娘《むすめ》には、いつもお|人《ひと》|好《よ》し、と|馬《ば》|鹿《か》にされてますよ」
と言いながら、紅茶をスプーンでかきまぜ、一口すすって、とたんに、ぎょっと目を丸くした。
「どうかなさいまして?」
「い、いや――別に、何も――」
良平は口の中のザラザラした感触に必死に|堪《た》えた。顔に出すまい、とした。
灰色の砂糖は――ただの砂[#「ただの砂」に傍点]であった。
呼出し音を十回数えてから、良平は|諦《あきら》めて受話器を置いた。まだ、|衣《きぬ》|子《こ》たちは|戻《もど》っていないようだ。|黙《だま》って出て来てしまったので、心配するといけないと思って、かけているのだが。
「仕方ない。また後でかけるか……」
食事の席へ戻る前に、良平は赤電話の前に置いてあるソファへ腰を下ろして、タバコに火をつけた。
気分が落ち着かなかった。|藤《ふじ》|原《わら》|百《ゆ》|合《り》|子《こ》は、本当に殺されかけているのだろうか? 階段で転んだのも、テレビの感電も、ただの事故ではなかったのか。――そうした|騒《さわ》ぎがあったのは事実で、今も|食卓《しょくたく》で話題になった。もっとも、当然のことながら、年寄りに階段は危い、とか、感電した家政婦はツイてなかった、といった話しか出ない。
次男の|建《けん》|二《じ》は、二十六、七というところか、|肥《ひ》|満《まん》タイプの神経質そうな男である。暑くもないのに、|汗《あせ》が気になるのか、絶えずハンカチで額を|拭《ぬぐ》っては、落ち着きのない視線であたりを見回している。
静かなフランス料理の店で、かなりの顔なじみと見えた。子供たちは肉料理だが、良平と藤原百合子は魚にしておいた。
「しかし、お母さんもなかなかやるね」
長男の|彰一《しょういち》が言った。「こう手っ取り早く決めちゃうとはね」
「ぐずぐずしていたら、あの世行きですもの。あなた方と違って、残された時間は少ないのよ、私たちには」
「本当に|素《す》|敵《てき》なことですわ」
と|澄《すみ》|代《よ》が言った。「心からお祝いを申し上げます」
「ありがとう、澄代さん」
「で、いつ|頃《ごろ》式を|挙《あ》げるんですか?」
次男の建二が、お義理に、という感じで口を開いた。
「そんなものはしませんよ」
と百合子は|微《ほほ》|笑《え》んで良平を見た。「ねえ、|志《し》|村《むら》さん」
「あ、ああ――そう。今さらこの|年齢《とし》で|三《さん》|三《さん》|九《く》|度《ど》でもないでしょう」
良平が|冷《ひや》|汗《あせ》をかきながら、調子を合わせる。
「それじゃ、|内《うち》|々《うち》で、簡単なお祝いの席を……」
と彰一が言い出すと、百合子が手でテーブルをぐるりと指して、
「今、やっているじゃないの」
「ええ? じゃ、これがそうなの?」
「これで充分ですよ。二、三日の内に届け出を|済《す》ませて、それで|面《めん》|倒《どう》なことは終り」
百合子がこう言った時、食事の席に一瞬、何か|緊《きん》|迫《ぱく》したものが走ったのを、良平は感じた。永年の|勘《かん》というのか、何かが起こりそうだという予感が良平を|捉《とら》えていた。
|果《はた》して、あれが殺意の予感だったのだろうか? タバコをふかして、良平は考え|込《こ》んだ。いずれにせよ、三人の子供の|誰《だれ》もが、母親の|結《けっ》|婚《こん》を喜んでいないのは事実である。といって、それが|直《ただ》ちに殺人に結びつかないのも、また当然だ。差し当り、それを確かめるには、子供たちの反応を待つ|他《ほか》ないわけだが……。
さて、そろそろテーブルへ|戻《もど》るか。|灰《はい》|皿《ざら》へタバコをもみ消して立ち上ろうとした時、|彰一《しょういち》がやって来た。
「志村さん」
「やあ、彰一君。今戻ろうと思ってたところだよ」
「ちょっとお話があるんですが」
「何かな?」
「ちょっとトイレに行くといった|格《かっ》|好《こう》で席を立って来たんで、あまり時間がないんです。で、|率直《そっちょく》に言いますが――あなたは、何の目的で母のフィアンセと名乗ってらっしゃるんですか?」
「何の目的といって……」
「|隠《かく》さないで下さい。志村警部[#「志村警部」に傍点]さん」
良平が目を丸くすると、彰一は、得たりとばかりにニヤリと笑った。
「|僕《ぼく》は新聞記者をちょっとの間ですが、やったことがありましてね。その時に、あなたにもお会いしてるんですよ」
「なるほどね」
「母はあの階段の事故と、テレビの感電事故以来、ちょっとおかしくなっているんです。どうやら自分を|誰《だれ》かが殺そうとしていると思い|込《こ》んでいるようですね。そのことであなたのところへ行ったんじゃありませんか? 本当のことを教えて下さい」
「まあ、私の身分を承知では仕方ないな。その通りだ」
「やっぱりね……」
「あれは本当に事故だったのかね?」
「確かですよ。|僕《ぼく》も実はあとで調べてみたんです。階段には何の|細《さい》|工《く》の|跡《あと》もありませんでしたよ」
「テレビの方は? すぐ電気屋を呼んで修理させてしまったそうだね。誰が電気屋を呼んだ?」
「僕です。だって危険じゃありませんか。|漏《ろう》|電《でん》でもしていたら火事の危険もあるし、あの通り古い家ですからね」
「電気屋は何と言ってたね?」
「どこやらの線がくっついて、電流が変な方へ流れちまったんだそうですよ。僕にはチンプンカンプンですがね」
「|珍《めずら》しい事故だと言っていたかね?」
「ああ、なるほど。いえ、古い型にはたまにあるとか……。僕だけじゃない、みんなそれは聞いてましたよ」
新品を売りつけるために、電気屋はよくそう言うものだ。あまり当てにはならない。
「もう|戻《もど》らないと」
|彰一《しょういち》はせわしなく言って、「今夜、家へお|泊《とま》りですね?」
「そう|勧《すす》められてるからね」
「じゃ夜中にちょっとお|邪《じゃ》|魔《ま》したいと思うんで……。その時に、また」
彰一が行ってしまうと、少し間を置いて、良平は席へ|戻《もど》った。
「今、お|義母《かあ》さまから、お二人のなれそめ[#「なれそめ」に傍点]をお聞きしていましたの」
|澄《すみ》|代《よ》が笑顔で良平へ言った。良平は|曖《あい》|昧《まい》に笑った。良平自身、そんなことは知らないのである。|百《ゆ》|合《り》|子《こ》が言った。
「子供の|頃《ころ》、といっても、本当に四|歳《さい》か五歳ぐらいの頃、私の家はこの人の家のお|隣《となり》でね。よく|一《いっ》|緒《しょ》に遊んでもらったものでしたよ」
「そうだったね」
「あなたは軍人の子供なのに、気立ての|優《やさ》しい男の子で、|他《ほか》の子たちのように、女の子をいじめたりしなかったし、それよりも、女の子たちに|混《まじ》って遊ぶことの方が多かったわね」
良平は|驚《おどろ》いた。どう推量したのか、百合子の話は事実、その通りであったのだ。海軍士官であった父に、|女《め》|々《め》しい|奴《やつ》だと、いつも|苦《にが》い顔をされていたものである。しかし、ヨーロッパに留学した経験を持つ父だからこそ、良平が女の子と遊んでいても、そうひどく|叱《しっ》|責《せき》もしなかったのだろう。それに海軍の人間は、やや思想的には西洋風なところがあったのだ。百合子が続けた。
「私の父は教員をしていたのだけど、私が五つの時、九州へ行くことになって、私も当然一緒に行ったわけ。で、それきり音信も|途《と》|絶《だ》えて……」
「私は海軍の士官学校へ入学し、そして戦争というわけだ」
「でも本当に、あなたのことはよく|憶《おぼ》えていましたよ。今日、あなたをお見かけした時、おやっと思ったの。本当に私の想像の中で成長し、年を取ったあなたとあまりぴったりだったんですもの」
「君も変らないよ」
良平はごく自然な口調でそう言って、自分で驚いた。藤原百合子の話を聞いている内に、本当に彼女が幼なじみのような気がして来たのだ。
3
本が|膝《ひざ》の間をすり抜けて|床《ゆか》に落ちた。良平ははっと目を覚ました。――|部《へ》|屋《や》の中を見回す。いつもの六|畳間《じょうま》とは|様《よう》|子《す》が違う。
「おい、|衣《きぬ》|子《こ》……」
と呼びかけようとして、やっと思い出した。ここは藤原百合子の家の二階の一室なのだ。
もう何時だろう? ベッドの|傍《そば》のテーブルの時計は、一時を少し回っていた。ずっと起きているつもりで本を読んでいたのに、すっかり|眠《ねむ》ってしまった。
「もう|年齢《とし》だな、|俺《おれ》も……」
アームチェアから立ち上って|腰《こし》をのばすと、|鈍《にぶ》い痛みが|刺《さ》すように走って、顔をしかめた。|刑《けい》|事《じ》時代には|徹《てつ》|夜《や》の|張《はり》|込《こ》みなどお手のものだったが、神経痛、低血圧、老眼と来ては、それも今は昔の夢物語、というところか。
この|部《へ》|屋《や》は、ドア一つで|百《ゆ》|合《り》|子《こ》の|寝《しん》|室《しつ》につながっている。|彼《かの》|女《じょ》のフィアンセとしては、この部屋に|泊《とま》って何の|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》もないわけであるが、護衛役としても、|格《かっ》|好《こう》の場所だ。もっとも、|眠《ねむ》ってしまっては、何にもならないわけだが。
「さて、どうするかな……」
長男の|彰一《しょういち》が、夜中に話があるからと言っていたのを思い出した。来るなら、そろそろ来そうなものだが。――彰一と|澄《すみ》|代《よ》の寝室は階下にある。こっちから行くわけにもいかない。
その時、ドアに小さなノックの音がした。細く開くと、
「僕です。――お|寝《やす》みでしたか?」
と彰一が顔を|覗《のぞ》かせた。
「いやいや、起きていたよ」
何食わぬ顔で言うと、ドアを開ける。
それから起こったことは、良平自身、後になっても、よく思い出せなかった。目の前の、|愛《あい》|想《そ》|笑《わら》いを浮かべていた彰一の顔が、見る間に敵意を|漲《みなぎ》らせたと思うと、両手で何かを頭上に|振《ふ》りかざした。それは後で、重い銅の置物だと分ったのだが、ともかくそれは|真《まっ》|直《す》ぐに良平の頭へ打ち下ろされる――はずだったのである。良平は|呆《あっ》|気《け》に取られてそれを|眺《なが》めていた。防ぐために手を上げた覚えもない。それなのに、実際のところ、良平は相手の|胸《むな》|元《もと》へ飛び|込《こ》んで体当りをくわせ、彰一が、よろけて|廊《ろう》|下《か》へ|踏《ふ》み出した所へ、首筋に|手刀《てがたな》が飛んで、彰一は一声うめいて置物を取り落としたのだ。それは永年|鍛《きた》えられた体の方が意識より早く、反射的に行動を起こしたのであろう。明らかに、彰一はこの引退した元警部を、すでにもうろくした老人としか見ていなかった。それが大きな|手《て》|抜《ぬ》かりだったのである。
彰一は置物を落とすと、身を|翻《ひるがえ》して|駆《か》け出した。
「おい!」
良平も後を追ったが、足の方はやはり自信もないし、本気で追いつく必要もなかった。相手が何者か分っているのだから、ここで|逮《たい》|捕《ほ》する必要はないのだ。彰一は廊下を駆け抜けて、階段へ足を踏み出した。
アッ、と短い声がそのまま急に吸い|込《こ》まれるように……後を追う良平の視界から、彰一の姿が消えた。続いて、何かが|激《はげ》しくぶつかる音。
良平が階段の上に立った時、彰一の体は下のホールの床に、|妙《みょう》にねじれたように横たわっていた。階段を転げ落ち、途中の|踊《おど》り場で|一《いっ》|旦《たん》手すりにぶつかって、その勢いでそのまま手すりを|越《こ》えて|床《ゆか》まで|叩《たた》きつけられたのだ。――永年死体を見て来た直感で、死んでいる、と思った。息があれば、あんな姿勢でじっとしていられるわけがない。
階段を下りようとして、ふと思いつき、身をかがめて、階段の両側を調べてみた。すぐに見つかった。小さな|釘《くぎ》が床から十センチほどの所に打ちつけてあり、切れた糸が結びついていた。
「警部! こんなところで何をしておられるんです?」
|八《はっ》|田《た》|刑《けい》|事《じ》が|良平《りょうへい》を見て|唖《あ》|然《ぜん》としている。
「いや、ちょっと|妙《みょう》な|関《かかわ》りがあってな」
「それにしても……。お|嬢《じょう》さんが心配しておいでですよ」
「しまった! 電話するつもりだったんだ!」
良平は頭を|叩《たた》いた。「こう忘れっぽくなっちゃ終りだ」
「それに夕方、私がお|伺《うかが》いしたら、お|留《る》|守《す》でしたでしょう。ニセ|札《さつ》の件があったから、ニセ札犯に|誘《ゆう》|拐《かい》でもされたのかと、私も心配で」
「|俺《おれ》を誘拐してどうするんだ」
「そうは思ったんですが、夜になって、お嬢さんから、警部が行方不明だと言ってくるし……。でも、まさか殺しの現場でお会いしようとは思いませんでしたよ」
「まずいな……」
良平は頭をかいた。今から電話したら、|衣《きぬ》|子《こ》がかんかんに|怒《おこ》るに決っている。
「おい、八田」
「は?」
「悪いけどな、家へ電話して、衣子に、うまく言っといてくれんか。その……つまり、ちょっとした事件で特別に手を貸したとか何とか言って」
「分りました」
八田はニヤリと笑った。「ところで、例のニセ|札《さつ》の件はどうなったんです? この家がニセ札団の本部か何かで?」
「違うんだ。そんな話じゃないんだよ」
良平はこれまでの|経《けい》|緯《い》を八田へ話してやった。
「――すると、そのイカレた|婆《ばあ》さんの話もまんざらでたらめじゃなかったわけですね」
「そうだ。死んだ長男は、要するに何をやらせてもだめな|奴《やつ》だったらしい。人当りはいいが、中身は|空《から》っぽってところかな」
「無気力、無関心、|無感症《むかんしょう》って奴ですね」
「無感症? 無責任だろう」
「あ、そうでしたか。――しかし、どうしてまた警部を|狙《ねら》ったんでしょう?」
「奴は、ともかく財産が手に入れば、自分も一人前の男になれる、と思い|込《こ》んでいたんだろう。せっかく母親を殺す決心をして、もう一歩というところへ、|俺《おれ》がやって来た。しかも、警察の人間だと知っていた。夢が|一《いっ》|気《き》に|崩《くず》れて、もうやけになってしまったのかもしれない。それとも俺と母親を一度に片付けるつもりだったのかもしれんな」
「今、奴の部屋を|捜《そう》|査《さ》させています」
「|殺《さつ》|鼠《そ》|剤《ざい》をよく|捜《さが》すように言ってくれ。それから薬局の方にも|明日《あした》にでも|誰《だれ》かをやるように」
「分りました」
良平ははっとして、
「いや、こいつは――すまん! |俺《おれ》はもう警察の人間じゃなかったんだ! つい|昔《むかし》の気分になっちまってな。|八《はっ》|田《た》、お前の好きなようにやってくれ。悪かった」
「好きなようにやってますよ」
八田は楽しそうに、「ベテランの意見は|拝聴《はいちょう》すべし、です」
「年寄りの、だろう」
良平は|苦《にが》|笑《わら》いした。「――一つ|頼《たの》みがある」
「何でしょう?」
「上の老婦人のことだ。|何《なに》|分《ぶん》、|年齢《とし》だし、ショックもあるだろう。何か|訊《き》きたいことがあったら、|俺《おれ》にそう言ってくれんか。俺の口から訊いてみる」
「いいですとも。大体、私は女は|苦《にが》|手《て》でしてね」
八田は|大《おお》|真《ま》|面《じ》|目《め》に言った。
「いかがです、気分は?」
|寝《しん》|室《しつ》へ入ると、良平は言った。「少しは|眠《ねむ》りましたか?」
「ええ、少しウトウトと……」
ベッドで、|藤《ふじ》|原《わら》|百《ゆ》|合《り》|子《こ》が弱々しく|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「ちゃんと眠らないといけませんよ。私に任せておいて下さい。こういうことには|慣《な》れています」
「申し訳ありません、本当に」
「いや。私がいながら、こんなことになるのを防げなくて……。残念です」
「いいえ、そんなことはありません。……|彰一《しょういち》さんは意志の弱い人でした」
「ええ、確かに」
「でも……よく私には分りませんけど……彰一さんは、階段から落ちたのでしょう? そして、糸が張ってあった」
「その通りです」
「それじゃ、糸を張ったのは、一体|誰《だれ》なんでしょう?」
「彰一君自身[#「彰一君自身」に傍点]だったと思います」
「――分りませんわ」
「彼は前のように、あなたが夜、階下へ下りるのを期待してあそこへ糸を張っておいたのです。ところが昨夜は、あなたは起きなかった」
「ええ。ぐっすり|眠《ねむ》ってしまいました」
「それで命拾いされたわけですよ。あそこは暗いし、それに糸はちゃんと黒糸を使ってありましたからね。かがんで見ないと分りません」
「でも、なぜ彰一さんが張ったのだと分りますの?」
「それはですね」
良平はゆっくりと言った。「彰一君の部屋は階下です。だから私を|襲《おそ》いに来るにも、階段を上って来なくてはならない。もし糸を張ったのが彰一君でなければ、つまり、あそこに糸があるのを知らなければ、彰一君は上って来た時[#「上って来た時」に傍点]に、必ずあの糸に引っかかるはずです。ところが実際は、|逃《に》げる時に引っかかって転落している。つまり、上って来た時は、ちゃんと用心してまたいで通ったのが、逃げる時には|慌《あわ》てていたので、ついうっかり糸のことを忘れていたのですね」
「すると、これまでの事件は全部彰一さんが……」
「おそらく。――|彼《かれ》は電気製品のことは|詳《くわ》しかったのですか?」
「ええ。よくラジオなどを自分で組み立てていましたわ」
「そうですか。私には、テレビの配線などさっぱり分らないと言っていましたがね」
「そんなはずはありません。家中の電気製品は、一度はどれも彰一さんが修理したものです」
|奴《やつ》にもそういう|取《と》り|柄《え》があったのか。なまじ財産などなかったら、電気屋でも開いて|成《せい》|功《こう》していたかもしれない。
「ネズミ取りの方は?」
「朝になったら|殺《さつ》|鼠《そ》|剤《ざい》を買った店へ|刑《けい》|事《じ》が行って顔写真を見せることになっています」
百合子は深く息をつくと、|天井《てんじょう》を見上げた。
「亡くなった主人に申し訳が立ちませんわ。子供が殺人犯だなんて。――私が母親としての誠意に欠けていたんです」
「おやめなさい」
良平は少し強い口調で言った。「子供、といったって、三つ四つじゃありません。みんな立派な|大人《おとな》です。もうあなたの責任の|傘《かさ》の下から出て行った人ばかりです。何があろうと、あなたが責任を感じる必要はありませんよ」
「あなたにそう言っていただけると、本当に心が安まります。ありがとうございました」
「いえ、当然のことをしただけですよ。さあ、もう少しお|寝《やす》みなさい」
「今、何時ですの?」
「そろそろ七時半|頃《ごろ》。もう外は明るくなっているでしょう。でも、少し|眠《ねむ》っておかないと、体に悪い。いいですね」
「はい」
百合子は素直に目を閉じた。良平は静かに|寝《しん》|室《しつ》を出て、ドアを閉じた。
「一体どうなるんだろう?」
|建《けん》|二《じ》が|寝《ね》|不《ぶ》|足《そく》の目に不安を|湛《たた》えながら、言った。
「|検《けん》|死《し》、|訊《じん》|問《もん》、新聞……。当分は外に出られやしないわ」
|恒《つね》|子《こ》が|吐《は》き捨てるように言った。|日《ひ》|頃《ごろ》の強がりはどこへやら、|化粧《けしょう》っ気のない顔は、|驚《おどろ》くほどあどけなく、火が消えたように、元気がない。
「|澄《すみ》|代《よ》さんは?」
良平が|訊《き》くと、建二が|肩《かた》をすくめた。
「朝食の仕度をすると、|部《へ》|屋《や》へ|戻《もど》っちまったよ。無理もないけどな」
それでも朝食の準備をするとは、立派なものだ、と良平は感心した。
「それにしても、彰一兄さん、|馬《ば》|鹿《か》ね。どうしてあんなことを……」
|呟《つぶや》くように言って、恒子は良平を|恨《うら》みを|込《こ》めてにらんだ。「兄さんを殺しておいて、よくいられるものね!」
「おい、恒子、よせよ。兄さんは自分の|仕《し》|掛《か》けた|罠《わな》で命を落としたんだ。この人を恨んでも仕方ないよ」
「そんなこと言ったって――」
「建二さんの言う通りよ」
百合子が食堂の入口に立っていた。
「おはよう」
良平が|椅《い》|子《す》を引いてやると、百合子はゆっくり|腰《こし》をおろした。
「建二さん、恒子さん。二人にお話があります。――|志《し》|村《むら》さんも聞いて下さい。昨夜の事件はとても悲しい出来事でした。でも|却《かえ》って私に、一つの決心をさせてくれました。それは……私が主人から引き|継《つ》いだ財産を、あなた方二人と、|澄《すみ》|代《よ》さん、それに私の四人で等分に分けようと思うのです」
恒子と建二は耳を疑う様子で顔を見合わせた。百合子は続けて、
「正直に言って、それがあなた方のためにいいことかどうか、私には自信がありません。でも、あなた方も、もう子供ではないし、自分の生活には自分で責任を持つようにしなければいけません」
現金なもので、建二も恒子も、急に目が|輝《かがや》いて、|活《い》き|活《い》きして来た。
「何か不満はあって? 四等分しても、かなりのまとまった額になると思うけど」
「いや、その……何と言ったらいいかな……」
建二が額を|拭《ぬぐ》いながら、「礼を言うよ、本当に。そうとも、決して、|馬《ば》|鹿《か》なことにゃ使わない! |競《けい》|馬《ば》や|競《けい》|輪《りん》は|一《いっ》|切《さい》おさらばするさ。ちゃんと仕事を見つけるよ、|嫁《よめ》さんももらうし……」
「私は小さな店を持つの! |洒《しゃ》|落《れ》た小物を売るのよ。きっと評判になるわ。そりゃ、初めの|内《うち》は赤字でしょうけど……」
「まあ、何に使うかは、あなた方の自由。私は口出ししません」
百合子はそう言って、朝食に手をつけた。およそ食欲のなさそうだった建二と恒子も食べ始める。良平は、つくづく人間は経済的動物だ、とため息をついた。
「あら、まだこんな時間?」
恒子が|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見た。「いやだ、|停《とま》ってる。テレビで合わせよう」
席を立って、食堂の|奥《おく》にある、大型テレビの方へ歩いて行く。それを|眺《なが》めていた良平の心に、ふと何か[#「何か」に傍点]がはじけた。自分でも分らぬままに、声を上げていた。
「おい、|触《さわ》るな!」
「え?」
|振《ふ》り向きながら、恒子がテレビのスイッチに手を|触《ふ》れた。急にばね|仕《じ》|掛《かけ》の人形のように、恒子の体が、はじき飛ばされて、|床《ゆか》へバタンと|倒《たお》れた。
何秒間か、|誰《だれ》もが|凍《こお》りついたように立ちすくんでいた。良平が|駆《か》け寄った時、初めて百合子が、声を上げた。
「何てことでしょう!」
「医者を! 医者を呼ぶんだ!」
良平は|呆《ぼう》|然《ぜん》としている建二へ|叫《さけ》んだ。
「ぼんやりするな! 早く、医者を!」
建二が|慌《あわ》てふためいて食堂を飛び出して行った。
「――|大丈夫《だいじょうぶ》ですの?」
百合子が|恐《おそ》る恐る|訊《き》いた。良平は静かに首を振った。――|恒《つね》|子《こ》は左手でスイッチに触れたのだ。
「考えておくべきでした」
良平は沈痛な口調で言った。「彰一君は、以前使ったのと同じ、糸を張るという手段を使おうとした。とすれば、もう一つの手段も、準備してあると見るべきだったのです」
「死んでしまった人が、人を殺したんですのね」
「そうです。私の不注意でした。私はやはり過去の人間なんですよ」
「あなたのせいではありませんわ」
百合子が手をのばして、良平の手に重ねた。その暖かさが良平の胸を打った。
「私がいけなかったのですわ。あなたを無理にこんな事件に引張り込んでしまって」
「あなたはいい方ですね」
良平は心から言った。たとえ少しおかしいところがあっても、|素《す》|晴《ば》らしい人だ、と思った。
「では、これで私は失礼します」
良平は立ち上った。
「また、ぜひいらして下さいね」
「ええ、ぜひ、その|内《うち》に」
――藤原|邸《てい》を辞した良平は、百合子が、いつまでも窓から彼を見送っているのに気付いた。
「不思議な|女《ひと》だ。全く……」
良平はそう|呟《つぶや》いて、藤原邸に背を向け、足を早めた。
4
良平は子供|部《べ》|屋《や》を|覗《のぞ》いた。
「何してるんだ?」
「分る、パパ?」
|衣《きぬ》|子《こ》が笑顔で子供の|優《すぐる》を見ながら、「ほら、お|隣《となり》のター君が遊びに来てるのよ」
良平は|狭《せま》い部屋の中をキョロキョロ見回して、
「どこに|隠《かく》れてるんだい?」
「いやね、パパ。どこにもいやしないわよ」
キョトンとしていると、
「ね、ほら、|一生懸命《いっしょうけんめい》コップやお|皿《さら》を並べてるでしょ。ター君が遊びに来て、ごちそうしてるつもりなのよ」
そう言えば、|優《すぐる》が何やらブツブツ言っているのは、どうやら|一人《ひとり》|芝《しば》|居《い》らしい。
「へえ、こんな小さな|頃《ころ》から、相手がそこにいると想像して遊ぶなんてことができるんだな!」
「ええ、|大《たい》したものね、子供って」
衣子は編物をしながら、「これでもう少し大きくなったら、おままごとを始めるのね」
「男の子がままごとかい」
「あら、いいじゃないの。将来マイホーム型の男性になるわよ、きっと」
良平は苦笑した。
「そうとは限らないぞ」
「あら、どうして?」
「|俺《おれ》も子供の頃、よくままごと遊びをやったものさ」
「パパが? 本当?」
「本当だよ。よく近くの女の子と遊んだよ。しかし、てんで家庭を|顧《かえり》みなかった」
「仕事が仕事だったからでしょ」
「それもそうだ」
ずっと|記《き》|憶《おく》の底に|眠《ねむ》っていた断片が、一ひら、二ひら、水面にチラリと|覗《のぞ》いては、また消えて行く。――ままごと遊び。そうだ。地面にござを|敷《し》いて、ここが|玄《げん》|関《かん》、ここが庭、と決めておく。〈お客様〉、〈|旦《だん》|那《な》様〉、〈|奥《おく》さま〉……めいめいが、その役になり切って、見よう見まねで、|大人《おとな》と同じ|挨《あい》|拶《さつ》をし、言葉|遣《づか》いをする。
|昔《むかし》の子供たちは、ああやって、大人の|礼《れい》|儀《ぎ》|作《さ》|法《ほう》のようなものを、知らず知らず|憶《おぼ》えていたのかもしれない……。
そういえば、いつも彼の〈奥さん〉になってくれた女の子がいた。何といったろう?――よく憶えていないが、女の子の中でも大人しい子供で、いつも彼のそばに小さくなって|座《すわ》っていたっけ。毎日、家へ|戻《もど》る時に、
「さよなら良ちゃん」
と手を|振《ふ》っていた。
「さよなら、ユッコ」
ユッコ。――そうだ。そう呼んでいた。ユッコ。|裕《ゆう》|子《こ》か。いや、そうじゃなかった。何という名前だったろう?
「――|百《ゆ》|合《り》|子《こ》。百合子[#「百合子」に傍点]だ!」
「え? 何なの?」
|衣《きぬ》|子《こ》がびっくりして良平を見上げた。
「い、いや、何でもない……」
良平は|慌《あわ》てて言うと、「出かけてくる」
と|部《へ》|屋《や》を飛び出した。
事件から、半月が過ぎていた。藤原|邸《てい》は、ひっそりとして、まるで無人かと思われた。それでもノッカーを|叩《たた》くと、しばらくして、ドアが開いて、|澄《すみ》|代《よ》が顔を出した。
「まあ、|志《し》|村《むら》さん!」
「今日は。――|奥《おく》さんはおいでですか?」
「ええ、もちろん。さ、どうぞ」
夫の死にもかかわらず――いや、そのせいで、と言おうか、澄代は見違えるように生気のある表情をしている。先に立って歩きながら、
「よくあなたのことを二人でお話ししますのよ。何しろ女二人でしょう。一日中、おしゃべりをして過ごすほどですわ」
「|建《けん》|二《じ》君は?」
「それが、|行方《ゆくえ》が分らないんです。まあ、ご|兄妹《きょうだい》を急に失って、大変ショックだったんでしょう」
と階段を上って行く。「どこへ行ってしまったのやら……。きっとどこかの競馬場にでも入りびたってるんですわ」
「自分の財産は持って行ったんですか?」
「いいえ。それが全然。|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》なことに」
澄代はドアをノックしてから開けると、
「お|義母《かあ》さま。お客さまです」
良平が入って行くと、|揺《ゆ》り|椅《い》|子《す》に座っていた|百《ゆ》|合《り》|子《こ》が顔を輝かせた。
「まあ、志村さん!」
「やあ、ユッコ[#「ユッコ」に傍点]」
百合子の顔に不思議な|歓《よろこ》びの表情が広がった。
「気付いて下さったのね!」
「やっとのことで、ね」
「あ――ごめんなさい。立ち上りもしないで」
「いや、|構《かま》わんよ」
良平は椅子を引き寄せ、|腰《こし》を下ろした。「全く、どうして気付かなかったのか、自分でも不思議だよ。あなたは全く正常だった。それなのに、オモチャの|札《さつ》を出し、紅茶に砂を入れる。――何か特別な意味がある、と考えるべきだったよ。そうとも、木の葉のお金、砂を|盛《も》ったご飯、それに何よりも〈奥さま〉、〈旦那さま〉を演じる[#「演じる」に傍点]点で、今度の私たちは、ままごと遊び[#「ままごと遊び」に傍点]の|夫《ふう》|婦《ふ》そのものだった」
「きっと分って下さると思っていました」
「なぜ、隣にいた百合子だと、名乗らなかったの?」
「あなたが忘れておいでだったら、|惨《みじ》めですもの。あんな方法で、何とか思い出していただこうと思ったのですわ」
「よく私のことを――」
「私はずっとあなたが好きでした。子供の|頃《ころ》から、私の|結《けっ》|婚《こん》相手は、あなた|一人《ひとり》と決めていたんです。でも、すぐに別れ別れになって……。それでも、|決《けっ》して忘れはしませんでした。機会あるごとに、あなたの消息を|捜《さが》し求めました。分るまでは、絶対に結婚しない決心でしたの。――藤原と結婚したのは、病身の母を|看《み》るのにお金が必要だったからです」
「それでは、ずっと独身でいたのは、私のためだ、と?」
「はい。その通りです」
良平はまじまじと、百合子を見つめた。
「誤解なさらないで下さいね」
百合子が言った。「私はあなたを|恨《うら》んだりはしていません。あなたが幸福な結婚をされ、今はお孫さんもいらっしゃるのは、私にとっても、本当に|嬉《うれ》しいことなんです」
ドアが開いて、澄代が入って来た。
「コーヒーを……」
「ありがとう」
「お|義母《かあ》さま、何かご用は?」
「いいえ、もう何もありません。ありがとう……」
「失礼します」
澄代が|退《さ》がると、百合子は|疲《つか》れたように目を閉じた。
「具合が悪いのかね?」
「|葬《そう》|式《しき》やら何やらが続いて、無理をしたものですから、心臓が……もともと弱かったのです」
「それはいけない。医者には――」
「ええ。あと三か月持つまい、ということでした」
「何だって!」
「いいんです。こうしてあなたが、私のことを分って下さった。もう思い残すことはありませんわ」
「しかし、何か方法が――」
「いいえ、これも|天《てん》|罰《ばつ》ですわ」
「天罰[#「天罰」に傍点]?」
「|彰一《しょういち》さんと|恒《つね》|子《こ》さんを殺したのは私なのです」
「私が最初あなたにお話ししたことは全部本当です。階段に糸を張ったのは、たぶん恒子さんでしょう。後でそれらしい糸の燃え残りを、恒子さんの|部《へ》|屋《や》の|灰《はい》|皿《ざら》で見つけました。テレビに|細《さい》|工《く》をしたのは彰一さんに違いありません。――私は財産を子供たちに分けてしまおうか、と考えました。殺されるよりは、と思ったのです。ところが、そんなある日、私はあなた[#「あなた」に傍点]を、町で見かけたのです。あなたのことはお写真を新聞で見たことがあったので、一目で分りました。何十年たっても、あなたは変らなかった。……私が子供たちと|闘《たたか》う決心をしたのは、あなたのためだったのです。あなたが今は|奥《おく》|様《さま》がいないこと、|娘《むすめ》さん|夫《ふう》|婦《ふ》のお宅に、|肩《かた》|身《み》の|狭《せま》い思いで住んでおられることも、調べて分りました。――私の胸はときめきました! 子供の|頃《ころ》の|夢《ゆめ》が、今、|叶《かな》えられる、と。そのためにも、殺されるわけにはいきません。財産も、手放せません。私は、|澄《すみ》|代《よ》さんが彰一さんのためにひどい苦労をなめて来たのを見ていました。そして二人で話し合って、計画を進めることにしたのです。――まずあなたをこの家へ連れて来ました。澄代さんは、彰一さんに、あなたが例のテレビの件で調査に来たらしい、とほのめかしました。彰一さんはもともと単純な、信じやすい性格です。追いつめられて、あなたを殺さなければ、自分の|破《は》|滅《めつ》だと思い込みました。でも、あなたは|警視庁《けいしちょう》のベテラン。彰一さんは逆にやられて逃げ出すのがおちだと、見当はつきました。そこで、夜の早い|内《うち》に、澄代さんが、階段のわきに釘だけ[#「釘だけ」に傍点]を先に打ちつけておきました。そして|眠《ねむ》ったふりをして、彰一さんが|部《へ》|屋《や》を出ると、すぐに後に続きます。そして彰一さんが二階へ上って、あなたの部屋へ行くまでの間に、用意しておいた糸を手早く|釘《くぎ》へ結びつけたのです。ほんの十秒もあれば|済《す》むことですわ。そして急いで部屋へ|戻《もど》ります。後はご存知の通り……」
そうだったのか! 同じ手を二度使うのは、何か|妙《みょう》だとは思ったのだが……。
「じや、あのテレビは?」
「澄代さんは、よく彰一さんの電気器具の修理を|間《ま》|近《ぢか》で見ていましたから。それに|彼《かの》|女《じょ》も少しは配線のことが分るんです。|昔《むかし》、そういう関係の会社に勤めていたことがあるので……。朝、食堂のテレビをつけるのは、|恒《つね》|子《こ》さんと決っていましたから、あれは楽でしたわ」
「あれがあなたの部屋のテレビでなかったのを、疑問に思うべきだった……」
「いいえ、あなたの手落ちではありませんわ」
「建二君は? まさか――」
「いえ、あの人は自分で出て行ったんです。たぶんこうなるとは思っていました。|臆病《おくびょう》な人で、自分も殺されると思い込んでいましたからね。――計画は成功しました。財産も私と澄代さんのもの。ところが、この心臓が……」
百合子は|疲《つか》れたように口をつぐんだ。
良平は、目を|伏《ふ》せてじっと考え込んでいたが、やがて、口を開いた。
「百合子さん。――こんなことを言っていいのかどうか分らないが、私は今の話を聞かなかったことにしておこうと思う。あなたはもう永くない命だというし、澄代さんも、罪の重荷を背負って生きる。――それで|充分《じゅうぶん》だ、と私は思う」
「本当に|優《やさ》しいかたね、あなたは」
|百《ゆ》|合《り》|子《こ》はコーヒーを飲みながら、「でも、あなたにはもう時間がありません。このコーヒー……。|殺《さつ》|鼠《そ》|剤《ざい》を買ったのは、私なんです」
良平は自分の|空《から》になったコーヒーカップを見下した。
「許して下さいね、良平さん。私は、やっとあなたと|一《いっ》|緒《しょ》になれるんですわ……」
良平の手からカップが落ちて、|床《ゆか》に|砕《くだ》けた。
「あなたが好きです……」
|呟《つぶや》くように言って、百合子はコーヒーを飲みほした。
血とバラ
1
「|彼《かの》|女《じょ》、最近おかしいんじゃないのか?」
そう言い出したのは|入《いり》|江《え》だった。
「そうかい?」
|中《なか》|神《がみ》|紳《しん》|二《じ》はとぼけて見せると、カクテルグラスを|一《いっ》|気《き》にあけた。
「確かにおかしいな」
ちょうど近くにいた|吉《よし》|川《かわ》も話に加わって来る。「以前の|素《もと》|子《こ》さんなら、こんなパーティの時は結構|一《いっ》|緒《しょ》に|踊《おど》ったり、楽しんだもんだ」
「ヨーロッパ旅行から帰って以来だね」
入江は|肯《うなず》くと、「中神、君は気付かないのか?」
「まあね……」
紳二は|曖《あい》|昧《まい》に|肩《かた》をゆすった。「旅行の|疲《つか》れがまだ取れないのさ」
「そうかなあ。どうもそれだけじゃなさそうだけど……」
「そんなことより、|吉《よし》|川《かわ》、君の方のフィアンセはどうだい?」
|紳《しん》|二《じ》は|殊《こと》|更《さら》に大きな声で話題を変えた。
「あいつは元気すぎる|位《ぐらい》元気さ」
吉川は|苦《にが》|笑《わら》いした。「この前、ドライブに出たら、車の中で服を|脱《ぬ》ぎ出すんだ。こっちがびっくりしちまった」
「積極的でいいじゃないか」
と|入《いり》|江《え》が冷やかす。
「場所によりけりだ。高速道路を百キロで走ってたんだぜ! おまけに目の前をパトカーが走ってるってのにさ!」
「お|巡《まわ》りがバックミラーに見とれてたんじゃないか」
紳二は|他《ほか》の二人と|一《いっ》|緒《しょ》になって笑ったが、内心、少しも面白くなかった。
本当に彼女はどうしちまったんだろう……。ヨーロッパから|戻《もど》って以来、確かに彼女はおかしい。そんなことぐらい、入江や吉川に言われるまでもなく、紳二には分っていた。何といっても紳二は|実《さね》|吉《よし》|素《もと》|子《こ》の|恋《こい》|人《びと》――いや、事実上の|婚《こん》|約《やく》|者《しゃ》なのだから。
実吉|邸《てい》からほど近いホテルの一室を借りて行われたこのクリスマス・パーティは、素子にとっては|従兄《いとこ》に当る、実吉|博《ひろ》|志《し》の婚約|披《ひ》|露《ろう》の|宴《えん》でもあって、博志の学友――紳二もその|一人《ひとり》だ――、博志のフィアンセである|楠《くす》|本《もと》|清《きよ》|美《み》とその友人たちなどの若い顔ぶれが|誠《まこと》に|華《はな》やかであった。博志の両親、素子の両親、楠本家の家族などはパーティのあまりの|賑《にぎ》やかさに頭痛でも覚えたのか、|隣《となり》の静かな小部屋に引っ|込《こ》んでしまっていた。
|実《さね》|吉《よし》家は銀行家の一族であり、二十四|歳《さい》の|博《ひろ》|志《し》も今は支店勤務だが、将来、父親を|継《つ》ぐのは|既《き》|定《てい》の事実となっている。――|結《けっ》|婚《こん》相手の|楠《くす》|本《もと》家は業界でも一、二を争う大手電機メーカーの経営陣を|占《し》める一家で、清美はその次女に当る。
|家《いえ》|柄《がら》、財産などからいっても、どこからも異のあろうはずもないこの結婚は、|華《はな》やかな祝福の内に、明春には|執《と》り行われることに決っていた。
ただ|一人《ひとり》、この熱気の満ちたパーティの席に、重く|沈《しず》んだ|様《よう》|子《す》で|部《へ》|屋《や》の|一《いち》|隅《ぐう》に|隠《かく》れるように立っているのが、素子だった。
彼女の|眼《め》は暗い情熱を|秘《ひ》めて、軽快なリズムに乗って|踊《おど》る婚約者たちをじっと追っていた。――紳二はぶらぶらと歩いて行って、
「やあ――何をすねてるんだい?」
とわざと|冗談《じょうだん》めかした言い方で声をかけた。
「あら……」
素子は気のない様子で紳二を見ると、「来てたの」
「おい! それはないだろう。さっき入って来た時に手を|振《ふ》ったじゃないか」
「ああ、そうだったわね。ごめんなさい」
「ねえ君、|一《いっ》|体《たい》どうしたっていうんだ?」
紳二はチラリと周囲に眼を走らせて、近くに|誰《だれ》もいないのを確かめてから続けた。「ヨーロッパへ行って来てから、何だか少し変だぜ。|僕《ぼく》が|誘《さそ》っても、ちっとも出て来ちゃくれないし」
「疲れてるのよ」
「もう二週間もたってるのにかい?――向うで何かあったの?」
|素《もと》|子《こ》は思いがけない|激《はげ》しさでキッと|紳《しん》|二《じ》を見返すと、
「何もないわよ。|一《いっ》|体《たい》何があったっていうの?」
「いや……別に、僕は……」
素子の|剣《けん》|幕《まく》に、紳二はちょっとしどろもどろになった。
「変にかんぐらないでちょうだい!」
素子はピシャリと言い残して、パーティの会場から出て行ってしまった。
「――おい|中《なか》|神《がみ》、どうした?」
紳二がぼんやり突っ立っていると、|踊《おど》りを終えた今夜の主役、|実《さね》|吉《よし》|博《ひろ》|志《し》が声をかけて来た。一メートル八十を越える長身、|大《おお》|柄《がら》な|体《たい》|躯《く》に、人なつっこい|童《どう》|顔《がん》が|載《の》っていて、サッパリと陽気な|気性《きしょう》は|誰《だれ》からも愛されていた。勤め先でも、|頭《とう》|取《どり》の|息子《むすこ》という、ねたまれやすい立場にありながら、ほとんど敵というものを作らないでいられるのは、生来のおっとりとした性格のゆえであろう。
「どうもこうも……。君の|従妹《いとこ》は一体どうしちまったんだ? まるで旅行を境に別人になっちまったみたいだぜ」
「素子が?――|彼《かの》|女《じょ》がどうしたんだ?」
紳二は肩をすくめて、
「|俺《おれ》が話しかけてもけんもほろろでね、相手にしちゃくれないんだ」
「そいつは|妙《みょう》だな。いや、この所、|忙《いそが》しくてね、僕もほとんど素子には会ってないんだよ。……彼女、どこに行った?」
「|廊《ろう》|下《か》へ出て行ったようだ」
「話してみよう。きっと|大《たい》したことじゃないさ」
「|頼《たの》むよ。このままじゃせっかくのクリスマス・プレゼントが|泣《な》くからな」
「任せとけよ」
博志はホテルの廊下へ出て左右を見回した。廊下の|奥《おく》の小さなロビーに、白いカクテルドレスが見えた。
暗い庭園を見下ろすガラス窓に、じっとたたずむ素子の|影《かげ》が|映《うつ》っている。博志は深い|絨毯《じゅうたん》を|踏《ふ》んで、彼女の方へ歩いて行った。
「素子」
|振《ふ》り向いた素子の顔が|輝《かがや》いた。
「博志さん!」
「どうしたんだい、こんな所で」
「別に……。ちょっと人いきれで気持が悪くなったもんだから……」
「|大丈夫《だいじょうぶ》かい?」
「ええ、――|清《きよ》|美《み》さんを一人にしておいていいの?」
「今さら|浮《うわ》|気《き》しやしないよ」
と|博《ひろ》|志《し》は笑った。|素《もと》|子《こ》もぎごちない笑顔を作った。
「|中《なか》|神《がみ》の|奴《やつ》が、君にクリスマス・プレゼントがあるってさ」
「そう……」
素子が顔を|伏《ふ》せた。
「――どうしたんだい? あいつと|喧《けん》|嘩《か》でもしたの?」
「いいえ」
「でも何だかおかしいよ。――ヨーロッパ旅行で何かあったの?」
素子はクルリと博志へ背を向けて、暗い窓辺に立った。そして、やや間を置いて、
「博志さん……。どうして私の旅行中に|婚《こん》|約《やく》を発表したの?」
「素子……」
「私にヨーロッパへ行って来いって言ったのは博志さんだったわ。そして帰ってみたら、みんながその|噂《うわさ》でもちきり。知らないのは私だけだったわ。どうしてなの? 私を……わざとヨーロッパへ追い|払《はら》ったの?」
「何を言うんだ」
博志が素子の|肩《かた》に手を置いた。素子が|微《かす》かに体を|震《ふる》わせる。
「|彼《かの》|女《じょ》の家の方からぜひ婚約を発表してほしいって希望があったんだ。君がヨーロッパへ|発《た》ってすぐだった。彼女のお|祖《じ》|父《い》さんの具合が一時悪化してね、万一の場合、発表が|大《おお》|幅《はば》に|遅《おく》れかねないというんで、急いだのさ。まあ結局は、幸いそんなことにはならなかったがね。――|決《けっ》して君を|除《の》け者にしたわけじゃない。君にすぐ知らせなかったのは悪かったよ。旅の行程が分らなかったものだからね……」
素子がゆっくりと|博《ひろ》|志《し》の方へ向き直った。博志は不意に胸を|衝《つ》かれた思いだった。素子の|瞳《ひとみ》が|濡《ぬ》れている。そして、つい|昨日《きのう》までの、十八|歳《さい》の少女、素子が、今は十八歳の女、素子になっていた……。
「博志さん、私――」
言いかけた素子を、
「ここにいたの」
と明るい|声《こわ》|音《ね》が断ち切った。「|捜《さが》したわよ。――あら、素子さん」
「今晩は」
「ヨーロッパ、面白かった?」
と|訊《き》いておいて、答えなど聞こうともせずに、|楠《くす》|本《もと》|清《きよ》|美《み》は博志の|腕《うで》を取ると、「博志さん、|叔《お》|父《じ》があなたにお話があるそうよ。ほら、M不動産の|取締役《とりしまりやく》をやってる」
「ああ、あの叔父さんね。大勢いるからこんがらがっちまうよ」
「だめじゃないの、ちゃんと|憶《おぼ》えておいてくれなきゃ。将来きっとプラスになるわ」
「分った、分った。行くよ。――素子」
「はい」
「|中《なか》|神《がみ》の所へ行ってやってくれ。|一人《ひとり》でわびしそうだからな」
「ええ……」
|素《もと》|子《こ》は|婚《こん》|約《やく》者たちの後姿をじっと見送っていた。小柄な清美は博志の|傍《そば》で子供のように見える。それでいて生来の|派《は》|手《で》好きと活発な性格が、清美をどこにいても男性たちの人気の|的《まと》にしてしまう。むろん、ちょっとこましゃくれた顔つきも|小悪魔風《しょうあくまふう》の|魅力《みりょく》を|振《ふ》りまいているのだが。
素子は清美とは対照的に、やせ|形《がた》のヒョロリとした体つき、やや貧血質の青白い顔色は、本か、ピアノに向っている時、一番幸せそうに輝く。そして|従兄《いとこ》――幼い|頃《ころ》から兄のように|慕《した》って来た博志と会っている時にも……。
パーティ会場へ消えて行く二人をじっと見つめる素子の|眼《まな》|差《ざ》しは、悲しみと、|嫉《しっ》|妬《と》と、|諦《あきら》めの入り混じった情感に濡れていた。
「――行かなくちゃ」
自分に言い聞かせるように|呟《つぶや》いて、重い足取りで、素子はパーティの席へと|戻《もど》って行った。|部《へ》|屋《や》へ入ると、すぐに|紳《しん》|二《じ》が彼女を見つけてやって来る。いささかやくざっぽい青年だが、金持の坊っちゃんらしく、人は|好《よ》い。不良ぶっても、ついまとも[#「まとも」に傍点]な地が出てしまう、という青年だ。
「紳二さん。さっきはごめんなさい」
と素子は笑顔を作った。
「気にしちゃいないよ。――クリスマス・プレゼントがあるんだ。受け取ってくれるかい?」
「ありがとう。いただくわ」
「クロークに預けてある。|一《いっ》|緒《しょ》に来てくれよ」
「いいわ」
二人は|廊《ろう》|下《か》へ出て、|人《ひと》|気《け》のないロビーを|抜《ぬ》け、クロークで小さな包みを受け取った。
「さあ、これだ」
「何なの?」
「|骨《こっ》|董《とう》|品《ひん》なんだがね、僕の知り合いの人から|譲《ゆず》ってもらったんだ。かなり古い物らしい」
「まあ! 楽しみだわ」
素子は古い美術品や、|遺《い》|跡《せき》からの出土品を集める|趣《しゅ》|味《み》がある。その辺は|紳《しん》|二《じ》もよく承知しているのだった。
「開けてみていい?」
「いいとも。――じゃ、あそこで」
廊下から少し引っ|込《こ》んだ所に、ソファを置いた|喫《きつ》|煙《えん》|室《しつ》らしい場所があって、素子と紳二は|並《なら》んで|腰《こし》を降ろした。素子が包みのリボンを解き始めると、紳二はそっと手をのばして素子の肩を|抱《だ》いた。そして彼女の顔を向けさせて|唇《くちびる》へ唇を重ねる。――素子は|逆《さか》らわず、されるままになっていた。キスぐらい許し合う仲ではあるのだ。
「――メリー・クリスマス!」
紳二がニヤッと笑った。|素《もと》|子《こ》の顔に、やっと自然な|微笑《びしょう》が浮かぶ。
「さ、開けてみて」
「ええ」
細いしなやかな指が動いて包みを開き、木の長方形の|箱《はこ》を取り出した。|蓋《ふた》を取って――その手が止まった。箱の中には綿に|半《なか》ば|埋《う》もれるように、古びた|木《き》|彫《ぼ》りの|十字架《じゅうじか》が納まっていた。
「少なくとも十七世紀ぐらいの物らしいよ。東ヨーロッパの旧家の持物だったとか言ってたな。黒ずんでいるのは一度火事に|遭《あ》ったかららしいと……素子さん! どうしたの?」
素子の顔から血の気が|失《う》せていた。|眼《め》を見開き、じっと箱の中の十字架を見つめている。そして突然、箱を|床《ゆか》へ放り出した。
「持って行って!」
と立ち上る。
「素子さん――」
「見たくないわ! こんな物[#「こんな物」に傍点]、捨ててしまって!」
「一体どうしたのさ? あの十字架が――」
「やめて! もう何も言わないで!」
|叫《さけ》ぶように言って、素子は|駆《か》け出して行った。
「素子さん!」
もう素子の姿は廊下のはるか奥へと小さくなっている……。
「それでやけ酒ってわけか」
|紳《しん》|二《じ》の|叔《お》|父《じ》、|中《なか》|神《がみ》|賢《けん》|造《ぞう》は笑いながら言った。
「やけにもなりますよ。安くなかったんですからね」
紳二はすっかりふてくされていた。「何か月も前から|掘《ほり》|出《だ》し物を見つけてくれって、顔見知りの古美術商に頼んでおいたんです。つい四、五日前に、やっと目ぼしい物が手に入ったって連絡があって……」
「女心は複雑さ」
「叔父さんのように|達《たつ》|観《かん》していられる人はいいですよ」
「おいおい」
と中神賢造はたしなめるように、「私はまだまだ|悟《さと》り切るほどの|年齢《とし》じゃないよ。君の|恋《こい》|人《びと》の素子さんにしたって、君が手を引くなら自分で立候補したいくらいだ」
中神賢造は今年四十七|歳《さい》。独身でいるのは、あまりに気まぐれな性格が|結《けっ》|婚《こん》に向いていないからだ、と自分では説明していたが、数少ない知人の間では、青年時代に恋した女性の|俤《おもかげ》を、今も忘れかねているのだという|噂《うわさ》だった。――その|真《しん》|偽《ぎ》はともかく、そんなことがあってもおかしくないと思わせる、|妙《みょう》にロマンの|香《かおり》を|漂《ただよ》わせる中年|紳《しん》|士《し》である。
ある大学の歴史学の講師を務めている|他《ほか》は仕事らしいこともせず、|親《おや》|譲《ゆず》りの財産で、気ままに|暮《くら》していた。紳二を子供の|頃《ころ》から|可愛《かわい》がってくれ、紳二の方も、叔父の生き方そのものにまで|憧《あこが》れた時期もあって、今でも一番の話し相手なのである。
「その|十字架《じゅうじか》とやらを見せてみたまえ」
ルイ十四世が使っていたと言っても通りそうな、ロッキングチェアから立ち上って、賢造はソファで|寝《ね》そべっている紳二の方へやって来た。
「どうぞ、どうぞ」
投げやりに言って、紳二はポケットを探り、「こんな物、二度と見たくない!」
と|木《き》|彫《ぼ》りの十字架を叔父の方へ差し出した。賢造は、早くも|白《しら》|髪《が》の|混《ま》じりかけた|髪《かみ》をかき上げながら、火に|焙《あぶ》られたように黒ずんだその十字架を見つめていたが、やがて、クスッと笑いを|洩《も》らした。
「君はこれを|彼《かの》|女《じょ》にクリスマス・プレゼントだって|渡《わた》したのかね?」
「ええ」
「それじゃ彼女が|怒《おこ》るのも当り前だ」
紳二はソファに起き上って、
「――どうしてです?」
「よく見たまえ。この十字架に、首にかける|鎖《くさり》を通すための穴が開けてあるだろう」
「ええ」
「どこかおかしいと思わんかね?」
紳二は|酔《よ》いのさめ切らぬ頭をブルブルと|振《ふ》ってから、まじまじと十字架を|眺《なが》めた。
「――穴が下の端[#「下の端」に傍点]についてる」
「そうだ」
「じゃ、出来そこないですか?」
「|違《ちが》う」
「でも、このまま|鎖《くさり》を通して下げたら……逆さになっちまう」
「そうだ」
賢造はゆっくりと|肯《うなず》いた。「これは確かに|十字架《じゅうじか》には違いない。しかし、こいつは逆十字[#「逆十字」に傍点]だ」
「逆十字?」
「|悪《あく》|魔《ま》|崇《すう》|拝《はい》の|儀《ぎ》|式《しき》に使われたものだよ」
紳二は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「何てことだ……。|畜生《ちくしょう》! あの古物屋め!」
「いや、その美術商だって|嘘《うそ》をついたわけではないよ。確かにこれは|珍《めずら》しい物に違いない。しかし|恋《こい》|人《びと》へ、それもよりによってクリスマス[#「クリスマス」に傍点]に|贈《おく》るには、ふさわしいとは言いかねるね」
「やれやれ……」
紳二は頭を振った。「彼女に何と言って言い訳しよう」
「素子さんはクリスチャンかね?」
「いいえ」
「そうか。――しかし、それほど強い反応を示すとは、ちょっと|妙《みょう》だな。クリスチャンでなければ、そう|怒《おこ》る理由もなさそうだが……」
|呪《のろ》われた|十字架《じゅうじか》を見つめる|賢《けん》|造《ぞう》の目は、もう笑っていなかった。
|紳《しん》|二《じ》は、|泊《とま》って行けという賢造の|勧《すす》めを|断《ことわ》って、夜中の二時|頃《ごろ》、賢造の家を出た。|酔《よ》いのさめた身に、厳しい寒気は|応《こた》えた。
「|畜生《ちくしょう》!」
ツイてないぜ。紳二は身を|縮《ちぢ》めて急ぎ足で歩き出した。|叔《お》|父《じ》の家から自分の家までは徒歩で十五分足らずだ。
「そうだ……」
紳二は、思い立って|途中《とちゅう》の道を折れた。少し寄り道にはなるが、五分も行くと、|素《もと》|子《こ》の家なのである。もう|寝《ね》てしまっているだろうか? いや、ヨーロッパ旅行から|戻《もど》って以来、すっかり夜ふかしになったと|彼《かの》|女《じょ》の母親が文句を言っていたから、まだ起きているかもしれない。
せっかくのクリスマスだ。何とか彼女に|機《き》|嫌《げん》を直してもらいたかった。
素子の|部《へ》|屋《や》の窓が見える所まで来て、紳二は|舌《した》|打《う》ちした。明りが消えていたのだ。
「今日はどこまでもツイてないよ!」
引き返そうとした時、ガチャガチャと音がして、|塀《へい》のずっと先にある、裏木戸が開いた。――こんな時間に、一体|誰《だれ》だろう? 紳二は反射的に|物《もの》|陰《かげ》へ身を引いた。
現れたのは素子だった。――黒いコートを着て、灰色のネッカチーフをかぶっている。表へ出ると、素早く左右へ視線を投げて、足早に歩き出した。紳二は声をかける気にもなれずに見送っていた。彼女がこんな夜中に、どこへ行くのか? それにどうも|人《ひと》|目《め》を|憚《はばか》る様子が見える。
「よし」
決心して、紳二は素子の後をつけて歩き出した。しかし、深夜の、全く人通りの絶えた道である。近付きすぎてはすぐ気付かれてしまうだろうと思うと、相当に|距《きょ》|離《り》を取らざるをえない。――素子の方は背後の足音を聞きつけていたのかどうか、早いペースでどんどん歩いて行く。
紳二の|尾《び》|行《こう》は五分と続かなかった。ある曲り角で、フッと素子の姿が消えてしまったのだ。|慌《あわ》ててあちこちの|小《こう》|路《じ》を|覗《のぞ》いてみたが、どこにも黒いコート姿は見えなかった。
「やれやれ……」
紳二は肩をすくめて帰路についた。寒さが一段と厳しくなったような気がした……。
|笹《ささ》|田《だ》|直《なお》|子《こ》は、ほてりの残った|頬《ほお》を手で|触《ふ》れて、ため息をついた。
「飲みすぎちゃったなあ……」
いつもなら、どんなに|遅《おそ》くても十二時には家へ帰り着くのに、今夜はもう二時をすぎてしまっている。
「クリスマス・パーティだもん。仕方ないわよ」
自分で自分に言い訳して聞かせながら、フラつく足を|踏《ふ》みしめた。「しっかりしなきゃ! あれ位のお酒で」
直子は二十六|歳《さい》のOLだ。会社のクリスマス・パーティ兼忘年会を三次会[#「三次会」に傍点]まで付き合って帰宅する所なのである。|誰《だれ》か男の社員に送ってもらうんだった、とも思ったが、送り|狼《おおかみ》になられるのも|怖《こわ》いからな、と思い直す。それにこの辺は一流の住宅地だから、そう危険なことはないはずだ……。
大きな|欠伸《あくび》をして少し足を早めた直子は、ふと自分以外の足音を耳にしたような気がして、立ち止まった。――|振《ふ》り向いても、|寂《さび》しく街灯が照らし出すのは無人の街路だけだ。気のせいか、それとも自分の|靴《くつ》|音《おと》の|反響《はんきょう》か、と|肩《かた》をすくめて歩き出したが、十歩と進まない|内《うち》に、また足を止めた。――|違《ちが》う。|空《そら》|耳《みみ》ではない。確かに誰かの足音だ。そろそろと振り向いても、|人《ひと》|影《かげ》は見えない。
直子はすっかり|酔《よ》いがさめて、急に|身《み》|震《ぶる》いした。寒さのせいか、|恐怖《きょうふ》ゆえなのか、自分でも分らなかった。
家までは|後《あと》数分の道のりだ。――なに、こんな住宅街だ。悲鳴を上げれば一帯に|響《ひび》き|渡《わた》る。|怖《こわ》がることなんかあるもんか。
直子はもう振り返るまいと決めて、ほとんど小走りに歩き出した。いつの間にか走っていた。見えない力に追い立てられるように、夢中で走った。自分自身の靴音と、|喘《あえ》ぐような|息《いき》|遣《づか》いしか聞こえない。――自分の家の|玄《げん》|関《かん》が見えて来て、初めて足がゆるんだ。
前庭の植込みを|抜《ぬ》けて玄関のチャイムを鳴らした直子は、やっと後ろを振り向く|余《よ》|裕《ゆう》ができた。足音も、人影もなかった。
「やれやれ、だわ……」
結局、ただの思い過ごしだったのかもしれない。
「――何やってるんだろ?」
もう一度チャイムを鳴らす。|鍵《かぎ》を二、三日前に|失《な》くしてしまって、まだスペアを作っていないのだ。直子は|苛《いら》|々《いら》とチャイムを鳴らし続けた。
「早く起きてよ!」
と文句を言った時、|傍《そば》の|植《うえ》|込《こ》みがガサッと音を立てた。
2
「あら、お|珍《めずら》しい!」
|素《もと》|子《こ》は新来の客の顔を見て、思わず声を上げた。
「やあ、素子さん。久しぶりだね」
|中《なか》|神《がみ》|賢《けん》|造《ぞう》は|優《やさ》しく|微《ほほ》|笑《え》みかけた。「紳二の|奴《やつ》が|遅《おく》れそうだというもんだから、代理でやって来たわけだ。すぐに失礼するよ」
「いいじゃありませんか、ずっといらして下さいな」
素子は賢造の|腕《うで》を取って、広間の一|隅《ぐう》へ連れて行った。――|実《さね》|吉《よし》家の広間には若者たちが群れている。ホテルのクリスマス・パーティと違って、ぐっとラフなスタイルが目立つのは、若者だけの|内《うち》|輪《わ》のパーティのせいだろう。
「カクテルをお持ちしましょうか?」
と|素《もと》|子《こ》が|訊《き》いた。
「いや、私は結構」
「まあ、お飲みにならないの? どこか具合でも?」
「いや、|至《いた》って元気だよ。ただいつもワインやウイスキーを飲み続けてるんでね、パーティに出た時ぐらいは、飲まずにいようと思ってるんだ」
「変な|理《り》|屈《くつ》」
と素子は笑った。
「元気そうだな、君も……」
「え? ええ……」
素子はちょっと目を|伏《ふ》せて、「|紳《しん》|二《じ》さんが何か私のことを言ったんですね?」
「心配してるよ」
「悪かったわ、この間は。本当に、|後《こう》|悔《かい》してるんです。――ちょっと|苛《いら》|々《いら》してたものですから」
「今は|大《だい》|分《ぶ》顔色もいい」
「ええ。――紳二さんもみえるんでしょう? |謝《あやま》りますわ」
「一つキスでもしてやれば、それで|有頂天《うちょうてん》さ、男なんて|奴《やつ》は」
「いやな賢造さん!」
素子は声を上げて笑った。――賢造と素子は紳二を通して知り合った仲だが、歴史への興味が共通していることもあって、実の|叔《お》|父《じ》と|姪《めい》以上に打ち解け合って話のできる|間柄《あいだがら》なのである。
賢造は、|紺《こん》のセーターに|紫《むらさき》のスカートというあっさりした服装の素子を|眺《なが》めやって、
「君ももう少し若々しい服を着たらどうかね?」
「あら、そんなに年寄りじみてます?」
「いや、そうじゃないが、少なくとも活動的な印象は与えないよ」
「私、目立たない方がいいんです。できるだけ人の関心をひかない所に引っ|込《こ》んでいたいんです。――あの人とは逆に」
賢造は素子の視線を追った。絶えず数人の青年に囲まれて笑い声を上げる|楠《くす》|本《もと》|清《きよ》|美《み》がいた。
「|博《ひろ》|志《し》君のフィアンセだね」
「ええ。――|素《す》|敵《てき》な人でしょう?」
素子の声には否定してほしいと願っているような|響《ひび》きがあった。
「確かにね。――だが、私が話のできる相手じゃなさそうだ」
清美は白のパンタロン・スーツに、胸元に金細工の|蝶《ちょう》をきらめかせていた。いやでも目につく存在である。
「叔父さん!」
声をかけて、|紳《しん》|二《じ》が勢いよくやって来た。
「やあ、早かったじゃないか」
「悪友をまいて[#「まいて」に傍点]来ちまったんです。年が変る時には|恋《こい》|人《びと》のそばにいたいですからね」
「紳二さん。――この間はごめんなさい」
「なに、気にしてないよ。たった三日間|眠《ねむ》れなかっただけさ」
と紳二はいたずらっぽくウインクして見せた。
「まあ! |冗談《じょうだん》ばっかり!」
素子はほっとした様子で|微《ほほ》|笑《え》むと、「カクテル、持って来ましょうか?」
「うん、お願いしたいね」
素子が行くと、紳二はパーティの席を見回しながら、
「|叔《お》|父《じ》さん、この間の殺人事件のこと、ご存知ですか?」
「若いOLが|喉《のど》を切られて殺された件かね? 現場はこの割合近くなんだろう?」
「ええ。ちょうど|僕《ぼく》が叔父さんの家から帰った頃なんですよね、事件が起こったのは」
「そうか。|大丈夫《だいじょうぶ》、アリバイは私が証明してやるよ」
「いやだな、叔父さん!」
広間の中央がドッとどよめいた。博志の友人の一人がテーブルの上に飛び上ると、大声を張り上げた。
「諸君! 静かに! お静かに!――今年も残りわずか数分となった。今年最大のニュースは何といっても我が|実《さね》|吉《よし》|博《ひろ》|志《し》の|婚《こん》|約《やく》である!」
|拍《はく》|手《しゅ》と|口《くち》|笛《ぶえ》が飛ぶ。「――そこで今夜のパーティを記念して、お二人に今年最後の|接《せっ》|吻《ぷん》のチャンスを与えたい! このテーブルの上で、その幸せなところをご|披《ひ》|露《ろう》していただこうじゃないか!」
拍手と歓声が広間を|埋《う》めた。賢造はふと、カクテルグラスを手にしたまま、途中で|凍《こお》りついたように立ちすくんでいる素子に気付いた。顔は青ざめ、|顎《あご》が小刻みに|震《ふる》えているのが、|離《はな》れていてもよく分った。
拍手が|湧《わ》き起こった。博志と清美がテーブルの上に|押《お》し上げられてしまったのだ。博志の方はすっかり照れて赤くなっていたが、清美はむしろ面白がってさえいるように見える。
「――さあ、早くしないと新年になっちまうぜ!」
せき立てられて、清美の方から、博志に|抱《だ》きつき、|唇《くちびる》を寄せて行くと、博志の方も思い切った様子で清美を固く抱き|締《し》めた。――賢造は、素子の眼が光るのを見た。手からグラスが床へ落ちる。|分《ぶ》|厚《あつ》い|絨毯《じゅうたん》はその音さえも吸い取って、|誰《だれ》の注意もひかなかった。
素子は身を|翻《ひるがえ》して広間から走り出て行った。
テーブルの上では、婚約者同士の長い接吻と|抱《ほう》|擁《よう》が終って、一同の|喝《かっ》|采《さい》を浴びた。
「よし、もう一分余りで午前|零《れい》|時《じ》だ!」
どうやら今夜の幹事役をつとめているらしい、さっきの青年が|叫《さけ》んだ。「零時になると同時に明りを消す。そしたら一分間、|誰《だれ》でも手近な相手にキスして構わないぞ!」
「相手が男だったら気味悪いぜ!」
「それぐらい|触《さわ》ってみりゃ分るだろ!」
笑いと女の子たちの|嬌声《きょうせい》が広間をけたたましく飛び|交《か》った。
「よし、あと五十秒だ!」
賢造は広間を出て、素子の姿を|廊《ろう》|下《か》に|捜《さが》した。廊下は静まりかえって、人の気配もない。|邸《てい》|宅《たく》内をあまり勝手に歩き回るわけにも行かず、賢造は|諦《あきら》めて広間へ|戻《もど》った。
「……あと十秒!」
賢造は、広間から庭へ出る大きなガラス|扉《とびら》が開くのを視界の|隅《すみ》で|捉《とら》えた。広間の壁に沿って、そっちへ歩いて行く。
「……七、六、五、四」
扉は閉まっていた。|誰《だれ》かが出て行ったのか。それとも入って来たのか……。
「三、二、一。――新年おめでとう!」
部屋が|闇《やみ》に閉ざされた。何やらロックらしい曲が大ヴォリュームで鳴り始めると、広間はけたたましい笑い声と|嬌声《きょうせい》の|坩《る》|堝《つぼ》と化した。賢造はおとなしく|隅《すみ》へさがっていようとして、誰やら分らぬ女性につかまり、思い切りキスをされた。
「やれやれ……」
こんなことで喜ぶには、少々|年齢《とし》を取りすぎたよ、と苦笑して、壁にもたれ、目の前の|暗《くら》|闇《やみ》で展開する馬鹿騒ぎに聞き入ることにする。
一分後――といっても正確に一分だったのかどうかは分らないが、ともかく突然に広間に光が満ち、音楽もやんだ。みんなが目の前の相手を見て、悲鳴を上げたり、大笑いしたり、さらにひとしきり|騒《さわ》がしさが続く……。
賢造は、ふと流れ|込《こ》んで来る冷たい風に気付いた。庭へ出るガラス扉が開いている。そしてそこに立っているのは|楠《くす》|本《もと》清美だった。と誰かが、
「あら! 清美、服を替えて来たの?」
と言う声が聞こえた。白いパンタロン・スーツの上着が、赤になっている。賢造は息を|呑《の》んだ。あれは――。
清美は目を飛び出さんばかりに見開いて、|棒《ぼう》|立《だ》ちになっていた。ザワついていた広間が、|徐《じょ》|々《じょ》に|沈《ちん》|黙《もく》へと|沈《しず》み|込《こ》んで行く。賢造は女の子の一人が上げた悲鳴で、やっと|呪《じゅ》|縛《ばく》から解放された。|凍《こお》りついたように立ちすくむ若者たちをかき分けて、清美の方へ走った。
清美は赤い上着を着ているのではなかった。|喉《のど》がパックリと切り|裂《さ》かれていて、|溢《あふ》れ出た|血《ち》|潮《しお》が白い上着を|真《しん》|紅《く》に染め上げていたのだ。
清美が|床《ゆか》へくずおれると同時に、賢造は|駆《か》け寄った。――完全に死んでいる。しかし、できるだけのことはしなければ。賢造は|呆《ぼう》|然《ぜん》と立ちすくんでいる若者たちの方へ|振《ふ》り向いて、
「警察を呼べ! それに救急車だ!――早くしろ!」
と一向に動き出さない若者を、|怒《ど》|鳴《な》りつけた。
やっと二、三人が広間を飛び出して行った。
「賢造さん……」
気が付くと、目の前に|素《もと》|子《こ》が立っている。
「清美さんは――」
「死んでる」
「何か私にできることは?」
「ああ。何か布を持って来て、かぶせてやってくれないかね」
「はい」
素子は急いで立ち去った。しっかりした|娘《むすめ》だ、と賢造は思った。しかし、さっき出て行って、いつここへ|戻《もど》って来たのだろうか?
じりじりと|退《さ》がって行く|人《ひと》|垣《がき》の中から、博志がよろめくように進み出て来た。
「|実《さね》|吉《よし》君。――気の毒だが、彼女は死んだよ」
「死んだ……。死んだ[#「死んだ」に傍点]って?」
「ああ……」
「そんな……死ぬなんて……そんなはずはない!」
博志はヨロヨロと死体の前に歩いて行くと、|床《ゆか》にガックリと|膝《ひざ》をついた。「そんなはずは……死ぬなんて……」
とうわ言のようにくり返している。広間は静まり返って、みんな|息《いき》|遣《づか》いさえも|控《ひか》えているかのようだ。
素子が白い家具カヴァーの布を持って来た。
「今、警察を呼んでいます」
「そうか。――その布をかけよう」
「私がやります」
素子は手を|震《ふる》わせもせず、ていねいに清美の死体を布で|覆《おお》った。
「ひどいことになっちまった」
|紳《しん》|二《じ》が首を振りながら言った。
|元《がん》|旦《たん》の、すでに午後になっている。警察の|訊《じん》|問《もん》と報道陣の|執《しつ》|拗《よう》な|追及《ついきゅう》を、やっとの思いで乗り切って、賢造の|部《へ》|屋《や》へ|戻《もど》って来たところだ。
「叔父さん……。|一《いっ》|体《たい》何事なんでしょう? 突然、理由もなしにあんな事件が――」
「理由は必ずあるよ」
賢造は|遮《さえぎ》った。
「でもあのOLと|楠《くす》|本《もと》清美の間には何の関係もないらしいじゃないですか」
「そう……。あのOLはたまたま|狙《ねら》われただけだろうが、清美さんの場合は明らかに彼女が目標になっていたと見るべきだろうね」
「それとも……あの広間にいた女性なら、|誰《だれ》でも可能性があったんじゃ……」
「私もそれは考えた。特に庭とのガラス扉が開いて、そこに彼女が立っていたことを考えると、犯人が外部から|忍《しの》んで来て、あのガラス扉の外で待ち|伏《ぶ》せ、広間が暗くなると同時に中から手近にいた彼女を庭へ連れ出して殺したとも思える。白い服[#「白い服」に傍点]を着ていた清美さんが選ばれたのも、暗がりの中で目立ったからかもしれない」
|紳《しん》|二《じ》は目を|輝《かがや》かせた。
「そうだ、そうですよ! きっとそうだ! 犯人は|僕《ぼく》らの仲間じゃない。外の変質者ですよ! |叔《お》|父《じ》さん、どうしてそれを警察へ……」
「心配するな。ちゃんと言ってある。警察の方でも、庭へ忍び|込《こ》んだ者がいたかどうか、よく調べると約束してくれた」
「何だ、叔父さんも人が悪いな。早く言ってくれればいいのに」
「うむ……」
賢造は|曖《あい》|昧《まい》に|呟《つぶや》いた。「それなら本当に|嬉《うれ》しいんだが……」
「何か?」
「いや、どうもね。――|楠《くす》|本《もと》清美が偶然[#「偶然」に傍点]殺されたというのは、話ができすぎて[#「できすぎて」に傍点]いるような気がしてね」
「どういう意味です?」
賢造は答えずに話題を変えた。
「それにしても素子さんは|大《たい》した|娘《むすめ》さんだな。あんな時でも取り乱さずに落ち着き|払《はら》っている」
「ええ。|僕《ぼく》なんかただぼんやり突っ立ってただけですからね。全く|恥《は》ずかしいですよ」
「しっかり者だな。ああいう女性を|奥《おく》さんに持つと、男は|却《かえ》って大変かもしれん」
「どうしてです?」
賢造はニヤリとして、
「そう|仏頂面《ぶっちょうづら》をするなよ。君たちはお似合だと断言できる」
「何だか|妙《みょう》な言い方だなあ……」
「|彼《かの》|女《じょ》はヨーロッパに一人で行ったのかい?」
「大学の友達と|一《いっ》|緒《しょ》です。|浅《あさ》|見《み》|友《とも》|子《こ》といって、両親がドイツにいる子なんですよ。だから彼女の両親の家へ|泊《と》めてもらって、そこから方々へ足をのばしたらしいですね」
「どの辺を回ったのかな」
「さあ、ゆっくり|訊《き》く機会もなかったんで……。それに彼女、今回はあまり話したがらないようなんです。今まではヨーロッパへ行って来ると、|色《いろ》|々《いろ》細かく見て来た物のことを話してくれたんですが」
「おみやげもなし、か」
「そうなんです」
と紳二は|苦《にが》|笑《わら》いして言った。「絵ハガキ一つくれないし。向うで|素《す》|敵《てき》な男にでも会ったんじゃないかと、気が気じゃないんですよ」
賢造はゆっくりと|伸《の》びをして、
「さて、私は少し|寝《ね》るよ。君はどうする?」
「僕はとっても|眠《ねむ》れそうもありません。少し|街《まち》を歩いてみます」
「正月の街だ。静かでいいかもしれん」
「あ、そうか。今日は|元《がん》|旦《たん》なんですね」
紳二は初めて気付いたように言った。
3
「お正月早々、呼び出したりしてすまないね」
と賢造は言った。「私は中神賢造といって――」
「ええ、知ってます。|素《もと》|子《こ》がいつも話してる|素《す》|敵《てき》なおじさんって、あなたのことでしょう?」
|浅《あさ》|見《み》|友《とも》|子《こ》はいたずらっぽく笑った。|大人《おとな》びた素子に比べると、ずいぶん若く見える。|小《こ》|柄《がら》で愛らしい顔立ちなのと、ジーパンスタイルのせいもあるのかもしれない。
「少し時間をもらって|構《かま》わないかね?」
「ええ。いくらでも。|退《たい》|屈《くつ》で仕方なかったんです。ちょうど出て来れて助かっちゃった。パパもママもドイツから帰って来ないし、|親《しん》|戚《せき》の家じゃ気づまりで……」
「分るよ」
賢造は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
素子に知られないように浅見友子と連絡を取るにはどうすればいいか、散々考えたあげく、賢造は知人の|娘《むすめ》が素子と同じ大学へ通っていたことを思い出した。早速電話をかけて、大学の学生|名《めい》|簿《ぼ》を|捜《さが》してもらい、浅見の|姓《せい》を見つけたのだった。幸運というものであろう。
ホテルの|喫《きっ》|茶《さ》|室《しつ》には、所々、晴着姿の若い娘たちの|華《はな》やかな姿も見えて、正月らしい気分を|醸《かも》し出している。
「素子のことでお話って、何ですか?」
「うむ。実はね――」
賢造は、ヨーロッパ旅行から|戻《もど》って以来、素子の様子がおかしいのが気にかかっていると説明して、「どうも旅行先であったことが原因じゃないかと思えるんだが。|一《いっ》|緒《しょ》に旅行していて、何か気付かなかったろうか?」
「そうですね……。一緒っていっても、私は本当に遊びに行っただけですけど、素子は歴史に|詳《くわ》しいでしょ、だから|遺《い》|跡《せき》や何かばっかり見て回るわけ。私はそんなの退屈だから、ビヤホールへ行ってビール飲んだりして……。ずっとくっついて歩いてたわけじゃないんです」
「どの辺を中心に回ったの?」
「ええと、東ヨーロッパです。チェコとかルーマニア……」
「それは素子さんの希望で?」
「大体はそうです。彼女が熱心に計画を立てて、私は任せちゃってました。そうだわ、彼女、とっても見たがってた所がありました。ペンシルヴァニア……だったかな」
「――トランシルヴァニアかね?」
「ああ、そうです。ほら、例のドラキュラの産地[#「産地」に傍点]」
「産地、ね……」
「|吸血鬼《きゅうけつき》の伝説がずいぶん残ってるんですね。彼女、とっても熱心に見て回ってたわ」
「ふむ……。その辺で何か変った出来事はなかったかね?」
「そうね……。別にドラキュラも訪ねて来なかったし」
と|真《ま》|面《じ》|目《め》くさった顔で言って、「そういえば、ちょっと――」
「何だね?」
「大したことじゃないんですけど……」
「それでもいい。話してみてくれ」
「ええ。――トランシルヴァニアで、山の中の小さな町に何日か|泊《とま》ったんです、私たち。本当に|片《かた》|田舎《いなか》ですけど、町の人は親切で、とっても楽しかったわ。その町についた時、私たち馬車で出かけました。森の|奥《おく》にポツンと忘れられたような美術館があるんです。私、びっくりしました。だってそんな所、案内書にも出てないのに、素子はちゃんと知ってて、道順まで教えられるんですもの。素子は、ホテルの人に聞いたんだと言ってましたけど」
浅見友子は|記《き》|憶《おく》を引っ張り出そうとするように、|一《いっ》|旦《たん》言葉を切って考え|込《こ》んでから、続けた。
「別にどうってことのない美術館のように私には見えました。ごく普通の家ぐらいの広さしかなくて、案内人もいないし、ただ入口に入場料を受け取るお|婆《ばあ》さんがいるだけでした。|陳《ちん》|列《れつ》してあった絵や|彫刻《ちょうこく》、古美術品の|類《たぐい》も私にはちっとも面白くありません。で、もう帰ろうって素子へ声をかけると、|彼《かの》|女《じょ》、一枚の|肖像画《しょうぞうが》の前にじっと立ったきり動かないんです」
「肖像画?」
「|部《へ》|屋《や》の一番|奥《おく》に|掛《か》けてあったんで、私は見過ごしていたんです。本当にちょっと薄暗い|片《かた》|隅《すみ》で、何だかわざわざ目に|触《ふ》れない所に置いてあるようにさえ思えましたわ。素子があんまり熱心に見てるんで、私も|眺《なが》めてみました。――何だか気味の悪い絵だったわ」
浅見友子はちょっと|身《み》|震《ぶる》いした。「今、思い出してもゾッとします。やせた男の人の絵で……目だけが|妙《みょう》に大きくって……。大きく見えただけなのかもしれませんけど、ともかく、本当にじっとこっちを見つめてるような気がするんです。そして何だか私、射すくめられたように動けなくなってしまって……。素子に、早く行こうよって声をかけると、|彼《かの》|女《じょ》、まるで|夢《ゆめ》からさめたみたいにはっとして、私の方を向くと、『私、どうしたのかしら』って言うんです。『こんな所、早く出ようよ』って私は素子を引っ張って、その美術館を出ました。――それきり二人ともそのことは一度も話しませんでしたわ」
賢造はじっと話に聞き入っていたが、
「――素子さんが、それ以来、どこかおかしいようなことはなかったかね?」
「さあ……。特別に気付きませんでした」
賢造は、更に二、三質問してから、
「いや、ありがとう。とても参考になったよ」
「そうですか」
「素子さんにはこのことは|黙《だま》っていてほしいんだが」
「分りました。――彼女も身近であんな事件が起こって、いやでしょうね」
「元気付けてやってくれよ」
「ええ。明日にでも行ってみますわ」
「そうしてくれると喜ぶだろう」
「あの殺人事件の犯人、去年のクリスマスの事件と同じかしら?」
「警察はそう見ているようだね」
「|怖《こわ》いわ! 早く|捕《つか》まらないかしら」
さほど怖がってもいない口調である。「ねえ、ご存知?」
「何を?」
「|噂《うわさ》。――といっても、きっとまだみんな知らないだろうけど」
「何の噂だね?」
「クリスマスの晩に殺された女の人の死体が夜中に歩き出した[#「歩き出した」に傍点]って噂」
「何だって?」
賢造は思わず浅見友子を見つめた。
「私の高校時代の友だちがあの殺された人のお|隣《となり》なんです。で、お|通《つ》|夜《や》の時、友だちのお母さんも手伝いに行ってたんだけど、翌朝になったら|大《おお》|騒《さわ》ぎ……」
「何があったんだね?」
「お|棺《かん》の|蓋《ふた》が|外《はず》れてたんですって。それに中の遺体も動いたように姿勢が変ってたとか。それに白い人影が庭を歩くのを見たとか言い出す人もいて、大変な|騒《さわ》ぎになったんです。でも遺族の人が、|妙《みょう》な|噂《うわさ》を立てられては困るってみんなを説得して、何とか|内《ない》|々《ない》に|済《す》ましたそうだけど、こういう話って、すぐに広まるんですよね」
「そうだね。――しかし、まあ、それはただ、|誰《だれ》かが誤って棺を動かしてしまったせいだろう。白い人影なんて話はいつだって出て来るものさ」
「ええ、そうですね。それに|幽《ゆう》|霊《れい》が出るには季節外れですものね」
浅見友子はあっさりと言った。
「――何と言ったんだい?」
|紳《しん》|二《じ》は|呟《つぶや》くように言った。
「もう会わないことにしましょうって言ったのよ」
素子の言葉は|穏《おだ》やかだが、はっきりとしていた。
「しかし――」
言いかけて、紳二は口をつぐんだ。言うべき言葉が見つからないのだった。彼女の言葉は一点の|曖《あい》|昧《まい》さもない。もう考える余地はない、と彼女は言っているのだ。
|実《さね》|吉《よし》|邸《てい》の客間だった。警察の|捜《そう》|査《さ》、つめかける報道|陣《じん》……。素子はここに残ってあれこれと手伝っていたのである。
夜になって、やっと静けさが|戻《もど》った|頃《ころ》、|紳《しん》|二《じ》は|素《もと》|子《こ》がまだここだと聞いてやって来た。そして彼女の口から聞いたのが、別れの言葉だったのだ。
「――分ったよ」
紳二はやっとの思いで言葉を|押《お》し出した。「君がそう言うのなら……」
「紳二さん。――あなたはいい人だわ。とても親切にしてくれたし」
「やめてくれ」
紳二は|苛《いら》|立《だ》って言った。「そんなのは|慰《なぐさ》めの言葉にならないよ」
「ええ。分ってるわ。でも言っておきたいの。あなたが悪いんじゃないっていうことを。私が――私が、|他《ほか》の人を好きになってしまったからなのよ」
「そんなことだろうと思ったよ」
紳二は皮肉っぽい笑みを見せて、「その運のいい|奴《やつ》は|金《きん》|髪《ぱつ》かい?」
「紳二さん……」
「ま、|僕《ぼく》には関係ないことだがね。――国際|結《けっ》|婚《こん》でも何でもしてくれよ」
素子がじっと|唇《くちびる》をかみしめて顔を|伏《ふ》せた。紳二は|肩《かた》をすくめて、
「まあ、ともかく幸せを|祈《いの》ってるよ。――じゃあね」
と行きかけて、素子の|肩《かた》が小刻みに|震《ふる》えているのに気付いた。――泣いているのだ。
「素子さん……」
紳二はそっと彼女の|肩《かた》に手を置いた。「悪かったよ、意地悪な言い方をして。何も君は悪い事をしたわけじゃない。好きになるってのは意志の力でどうなるってものじゃないからね。――何も気に病むことはないんだよ」
素子はゆっくりと顔を上げた。泣き|濡《ぬ》れた|瞳《ひとみ》がじっと紳二を見つめる。
「紳二さん――」
素子が言いかけた時、客間のドアが開いた。
「やあ、来てたのか」
|博《ひろ》|志《し》が|疲《ひ》|労《ろう》の色の|濃《こ》い様子で入って来た。
「|大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「ああ……。ちょっと参ったよ。しかし、大丈夫。心配かけてすまん」
「いいさ。――じゃ、また来るから」
「もう帰るのか。|彼《かの》|女《じょ》の|葬《そう》|儀《ぎ》に出てやってくれよ」
「必ず行くよ。それじゃ、素子さん」
「さようなら」
紳二は足早に|実《さね》|吉《よし》|邸《てい》を出た。
「やれやれ、|畜生《ちくしょう》! またやけ酒だ!」
「素子さんが博志を?」
|紳《しん》|二《じ》は目を丸くした。「本当ですか?」
「何だ。知らなかったのか?」
「全然。だって――二人は|従《い》|兄《と》|妹《こ》同士ですよ!」
「そんな例はいくらでもあるよ」
賢造はロッキングチェアを|揺《ゆ》らしながら言った。
「じゃ、清美さんがいなくなって、|彼《かの》|女《じょ》には幸いだったわけですね。いや、これは変な意味で言ってるんじゃありませんよ」
「客観的にはその通りだな」
「それじゃあの晩も、彼女、あいつの所に……」
「あの晩?」
「クリスマス・パーティの晩ですよ」
紳二はここからの帰路、素子が家の裏口から出るのを見かけた話を|叔《お》|父《じ》へ聞かせた。
「――きっと彼女、博志に会いに行ったんだ!」
「おいおい、その時はまだ清美さんは殺されてないんだぞ」
「あ、そうか」
と紳二は頭を|叩《たた》いて、「でも、そうすると、彼女、一体どこへ行ったんだろう?」
その時、電話が鳴って、賢造が待ち構えていたかのように、すぐ受話器を上げる。
「はい、中神。――やあ、すまんね、新年早々。ぜひ君に|訊《き》いてみたいことがあってね」
「何だい、一体?」
電話の向うの若々しい声は、賢造の旧友、|猪《いの》|俣《また》であった。「チェスのことか。それとも心理学か」
「チェスのことならこっちが教える方だぞ」
と賢造は笑って、「心理学的なことで君の意見を|訊《き》きたい」
「分った。何だね?」
「何かの絵を|観《み》ただけで、|催《さい》|眠《みん》状態になったり暗示をかけられたりする事があるかね?」
「一般論では答えられんよ。具体的に言ってくれ。どんな絵だったんだ?」
「|肖像画《しょうぞうが》だ」
「肖像画か。よほどよく|描《えが》けている必要があるな。特に眼[#「特に眼」に傍点]が」
「その点は証言がある。|充分《じゅうぶん》だ」
「絵がうまいだけでもだめさ。その絵の置かれた|環境《かんきょう》、その日の天候、絵に対する光線の具合……。しかし何よりもまず、本人に、暗示を受けたい[#「受けたい」に傍点]という|潜《せん》|在《ざい》|的《てき》な欲求があることが必要だな」
「なるほど」
「昔|観《み》た〈将軍たちの夜〉って映画を|憶《おぼ》えてるか?」
「ああ。――うろ憶えだが」
「あの中でサディストのナチの将軍が、美術館でゴッホの自画像を見る|度《たび》に|狂気《きょうき》に走る場面があっただろう。そういう形での、自己暗示のきっかけになることは考えられるね」
「そうか。すると――あり得る[#「あり得る」に傍点]、ってことだな」
「可能性の問題だがね。現実に起こる確率は|極《きわ》めて低いが|0《ゼロ》ではない、というところかな」
「ありがとう。――休みの最中にすまなかった」
「いや、なに。その内、今年最初の手合わせと行きたいね」
「待ってるよ」
賢造は受話器を置いた。紳二が不思議そうに、
「一体何の電話です? 暗示だの、|肖像画《しょうぞうが》だのって……」
賢造はそれには答えず、
「|楠《くす》|本《もと》清美さんの|葬《そう》|儀《ぎ》はいつか知ってるかい?」
「ええ。明日がお|通《つ》|夜《や》で、明後日が|葬《そう》|式《しき》のはずです。でも、なぜです?」
賢造は|黙《だま》ってロッキングチェアへ|戻《もど》ると、目を閉じたままゆっくりと|揺《ゆ》らし始めた……。
4
「|叔《お》|父《じ》さん、一体これは――」
「シッ! 声をたててはいかん!」
「どういうことなのか、教えてくれたっていいじゃないですか」
紳二が言うのも、もっともだった。
深夜に|及《およ》んだ|楠《くす》|本《もと》清美の|通《つ》|夜《や》の席も、今は人影が絶え、明りも消されて、|薄《うす》|暗《ぐら》い二十|畳《じょう》ほどの広間には、|座《ざ》|布《ぶ》|団《とん》だけが|並《なら》んでいる。
楠本家の親族が明りを消して行った時、賢造と紳二の二人は、部屋の|奥《おく》の|衝《つい》|立《たて》の|陰《かげ》に身を|潜《ひそ》めていた。そしてすでに三十分近く、じっと|窮屈《きゅうくつ》に身を|縮《ちぢ》めたままなのである。
「もう少し待つんだ」
賢造は押し殺した声で言った。
「何を[#「何を」に傍点]待ってるんですか?」
「|誰《だれ》かが、あの死人に会いに来る」
――楠本清美の遺体は、二人がいる広間の反対側に安置されている。
「|叔《お》|父《じ》さんらしくもない。|曖《あい》|昧《まい》なことばっかり言って」
「来たぞ!」
|廊《ろう》|下《か》がかすかにきしんで、|襖《ふすま》が開いた。
「あれ、博志の|奴《やつ》、帰ったと思ったのに……」
思わず紳二が|呟《つぶや》いた。黒い背広に黒いネクタイをしめた博志は、ゆっくりと広間を見渡すと、|奥《おく》へ向って歩き出した。死人に会いに来るというのは博志のことか? それなら別に|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》でもない。|婚《こん》|約《やく》|者《しゃ》だったのだから、みんながいなくなった所で感傷に|浸《ひた》りたいのだろう……。
紳二は賢造の顔をチラリと見たが、賢造は鋭い|眼《まな》|差《ざ》しでじっと博志を追っている。
博志の方は、清美の|眠《ねむ》る白木の|棺《かん》の前まで行くと、もう一度|振《ふ》り向いて、人の気配のないのを確かめ、棺の上にそっと手を置いた。
「清美」
呼びかける声が、|囁《ささや》くようなのに、静かな広間を|貫《つらぬ》いて紳二たちの耳にも届いた。
「――清美」
|博《ひろ》|志《し》はくり返して、「もういいよ。|誰《だれ》もいない。もう出て来てもいいよ[#「もう出て来てもいいよ」に傍点]」
紳二は冷水を浴びせられたようにゾッとした。博志の声音は、確かに博志のものであって、またそうでなかった。異様に|優《やさ》しい|猫《ねこ》|撫《な》で声は、紳二の聞いたことのないものだった。
「さあ、起きるんだ[#「起きるんだ」に傍点]。――もう夜中だ。僕らの時間[#「僕らの時間」に傍点]だよ。出ておいで」
正気の声ではない。紳二は額に|汗《あせ》がにじみ出るのを感じた。――|棺《かん》に向って、死人に向って、起きて、出て来いと言っているのだ!
本当に[#「本当に」に傍点]あの棺の|蓋《ふた》が開いたら? そして|蒼《あお》|白《じろ》い顔にあの笑みを浮かべて清美が起き上ったら? 紳二は本当にそうなるかもしれない、と|半《なか》ば思い始めていた。
「清美……。清美。さあ、気を持たせないで。出ておいで」
と博志がくり返した……。
「博志さん」
女の声がした。紳二は思わずワッと声を立てそうになった。清美が棺の中から|脱《ぬ》け出て来たのかと思ったのだ。だが――その女は|襖《ふすま》を開いて、広間へ入って来たのだった。
「誰だ?」
博志が険しい声で問いかける。
「私よ」
女は、|素《もと》|子《こ》だった。
「君か。――|邪《じゃ》|魔《ま》をしないでくれ!」
「博志さん、清美さんは死んだのよ。出ては来ないわ」
「死んだ?」
博志は|戸《と》|惑《まど》ったように、「しかし……そんなはずはない! |僕《ぼく》は――」
「死んだのよ、博志さん。出て来ないでしょう?」
「うん……。それじゃ、また僕はしくじった[#「しくじった」に傍点]のか?」
「いつも|巧《うま》く行くとは限らないわ。そうでしょう?」
博志は深いため息をつくと、棺の前にペタンと座り込んでしまった。素子は博志の傍に|膝《ひざ》をついて、彼の肩をそっと|抱《だ》いた。
「いいじゃないの、博志さん。私がいるわ。清美さんがいなくても、私がいるじゃないの……」
「君は優しいね。――僕には君が|頼《たよ》りだ。素子……」
博志は素子を|畳《たたみ》の上に横たえると、上へのしかかって行った。――紳二は賢造を見た。賢造の手が紳二の|肩《かた》を強く押える。|我《が》|慢《まん》していろ、と言っているのだ。紳二は混乱と|嫉《しっ》|妬《と》の|渦《うず》の中で、身動きもならなかった。あいつは|気《き》|狂《ちが》いだ! そのあいつが素子さんを抱いている。しかも死者の――|婚《こん》|約《やく》|者《しゃ》の|棺《かん》の前で、だ!
「止めなきゃ、|叔《お》|父《じ》さん!」
「じっとしているんだ!」
賢造の言葉には|有《う》|無《む》を言わせぬ力があった。紳二は燃えるような視線で二人を見守った。――しかし、どこか|妙《みょう》であった。博志は素子の服を|脱《ぬ》がせるでもなく、|愛《あい》|撫《ぶ》するでもない。ただじっと素子に|覆《おお》いかぶさっているだけなのだ。そして時折、素子の|呻《うめ》くような声が切れ切れに聞こえて来た。
それがどの位続いただろうか。博志はそろそろと身体を起こして、
「|大丈夫《だいじょうぶ》かい?」
と言った。
「ええ。もう行って。私は大丈夫……」
「でも――」
「早く行かないと、人が来たら困るわ」
「うん。分ったよ。それじゃ……」
博志はフラフラと立ち上り、よろめく足取りで広間を横切って来た。手でしきりに口を|拭《ぬぐ》っている。|襖《ふすま》を開けた時、|廊《ろう》|下《か》の明りが博志の顔を照らし出した。――|唇《くちびる》から|顎《あご》へ、こびりついているのは赤黒い血だった。
紳二は|卒《そつ》|倒《とう》するかと思った。時間が進むのをやめたかと思う|一瞬《いっしゅん》。――何分かの空白があったのに違いない。我に返った時、広間の中央で、素子と賢造がじっと向き合っていたのだ。
素子は青白い顔をいっそう|蒼《そう》|白《はく》にして、賢造を見ていた。一瞬、|逃《に》げ出しそうな|身《み》|振《ぶ》りをしたが、紳二が出て来るのを見て、|諦《あきら》めたのか、その場へ力なく座り込んでしまった……。
近付いてみて、紳二は|慄《りつ》|然《ぜん》とした。素子の首筋の傷からは、まだ血がにじみ出ていたのだ。
「|彼《かれ》の異常に気付いたのは、いつ|頃《ごろ》だね?」
賢造は|穏《おだ》やかな口調で|訊《き》いた。
「ずっと――ずっと前のことです。まだ彼の少年時代でした。彼は|吸血鬼《きゅうけつき》の物語に夢中になっていたんです。映画を見たりする|度《たび》に、自分で吸血鬼の|真《ま》|似《ね》をして、私を|犠《ぎ》|牲《せい》|者《しゃ》に仕立てて遊びました。もちろん……それはただの遊びで、どうということはなかったんですけど」
「それが変って来たのは?」
「はっきりとは分りません。ある日……|邸《やしき》の庭へあの人を|捜《さが》しに出た時、|物《もの》|陰《かげ》で、死んだ小犬を|埋《う》めているのを見つけたんです。彼があんまりおどおどした様子を見せたので、変だと思いました。そして後でこっそり小犬の|死《し》|骸《がい》を|掘《ほ》り出してみたんです。――小犬は|喉《のど》を切られて死んでいました……」
「それで、君はどうしたの?」
「どうもしません。――きっと一時の好奇心で、|大人《おとな》になればすっかり忘れてしまうだろう、と思ったんです。でも、それからも時々ご近所で|猫《ねこ》や犬がいなくなって、そんな時、彼の|様《よう》|子《す》がいつもと違っていることがありました。よほど気を付けていなければ分らなかったでしょうけど……。その|度《たび》に私は苦しみました。でもあの人に正面切って問いつめることはできません。とても気の弱い人なんです。いつも|虚《きょ》|勢《せい》をはって生きている人なんです……」
「それで?」
「――でも、そんなことも大学へ入る|頃《ころ》にはパッタリとなくなって、私はホッと救われた思いでした。銀行へ勤め、あの人なりに|巧《うま》くやっていましたから……。つい四か月前までは」
「何があったんだね?」
「彼は仕事で東ヨーロッパへ出かけたんです。ついでに少し観光旅行も楽しんで来ると言って出発したんですけど……帰った時は、もう以前のあの人ではなかったんです。|他《ほか》の人は――たぶんご両親だって気付かれなかったでしょう。でも私には分りました。時々、ふっと遠くを|眺《なが》めるような|眼《まな》|差《ざ》しになることがあって、そんな時の彼の|眼《め》はまともでなかったんです。一体旅行先で何があったのかと思って、私は同行した銀行の方にお話を|伺《うかが》いに行きました。そこで――」
「トランシルヴァニアの山中で小さな美術館に行ったことを聞いたんだね」
素子は目を見張った。
「どうしてそれを――」
「|浅《あさ》|見《み》友子さんから聞いたのさ」
「そうだったんですか……。でも、あの|肖像画《しょうぞうが》の恐ろしさは、どう説明してもお分りにならないでしょう。一目で|惹《ひ》きつけられ、もう目を離せなくなってしまうんです。私にはすぐに分りました。この絵があの人を支配している[#「支配している」に傍点]、と。私でさえ、一瞬、自分を失いかけたほどだったんです」
「きっと伝説の|吸血鬼《きゅうけつき》を天才的な画家が|描《えが》いたのだろうね」
「――帰国してみると、あの人は|婚《こん》|約《やく》を発表していました。あの人を失うのは|辛《つら》かったけど、これであの人が立ち直るなら、そう思って|堪《た》えました。けれど、あの殺人事件が……」
素子は言葉を切った。
「クリスマス・パーティの夜だね?」
「ええ。――私は、紳二さんに見せられた|逆十字《ぎゃくじゅうじ》のことが気になって|眠《ねむ》れませんでした。何か悪いことが起こるという予言だったような気がして……。それで夜中に家を出ました。あの人に、はっきりと|肖像画《しょうぞうが》のことを言って、呪い[#「呪い」に傍点]を――笑わないで下さいね。本当にあの絵をご覧になれば分っていただけますわ。その|呪《のろ》いを破ってしまわなければ、と決心したんです。でも、|手《て》|遅《おく》れでした。私はあの人が夜道を|戻《もど》って来るのに行き合ったんです。返り血を浴びて……」
「一体なぜ、あの女性を殺したんだ?」
「あの人は――試してみたかったんですわ。吸血鬼に殺された人間が、|不《ふ》|死《じ》|身《み》になるということを」
「そうだったのか……。それで|棺《かん》を開けてみたりしたんだね」
「ええ。――でも私には彼を警察へ突き出すことはできませんでした! せめて|他《ほか》の人でなく、私が|犠《ぎ》|牲《せい》になれば……。そう思って、私はあの人に自分を投げ出しました」
賢造は素子の首の痛々しい|傷《きず》|跡《あと》をじっと見つめた。
「彼は本当に君の血を吸ったのか?」
「大したことはありませんわ。――別に歯が|尖《とが》っているわけでもないし、殺そうとすればナイフを使うしかなかったんですもの。その位の|真《ま》|似《ね》ごとで満足していてくれるなら、と私は思っていました。でも――」
「清美さんまで、やってしまった」
「ええ……。あのパーティで、二人がみんなの前で|抱《だ》き合ってキスした時、私はあの人の|眼《め》つきが|普《ふ》|通《つう》でないことに気が付きました。急いで庭へ出て庭の方から広間へ入って、すぐそばにいたあの人の手を取りました。広間が暗くなったら、何をするか分らない、と思ったんです。暗くなると同時に私はあの人を庭へ引っ張り出しました。ところが、清美さんがそれに気付いていて、私たちを追って出て来てしまったんです!――止める間もありませんでした。あの人はいつの間にかナイフを手にしていて、|一《いっ》|気《き》に清美さんの|喉《のど》を……。返り血を浴びなかったのは、清美さんが切られると同時に広間の方へ向いたからなんです。とっさに|逃《に》げようとしたんでしょう」
「そして君たちはまだ広間が暗い間に、|廊《ろう》|下《か》を回って、広間に明りがつくと同時に中へ入って来た」
「ええ、その通りです」
「ナイフはどうした?」
「|一《いっ》|旦《たん》、|廊《ろう》|下《か》の壁にかけた絵の後ろへ|隠《かく》しておいて、清美さんを|覆《おお》う布を取りに出た時、自分の|部《へ》|屋《や》へ隠しました」
「まだ持っているのかね?」
「いいえ。捨ててしまいましたわ」
「そうか……」
しばし、|沈《ちん》|黙《もく》が支配した。紳二は|悪《あく》|夢《む》の中にいるんだ、と自分に言い聞かせた。こんなこと、あるはずがない!
「君も分っているだろう、素子さん」
賢造が言った。「これで終るはずはない。|彼《かれ》は必ずくり返す。そして今度の|犠《ぎ》|牲《せい》者は君かもしれない」
素子は何も言わなかった。
「それに、すでに犯した二つの殺人の罪も|償《つぐな》わなければならない。――いや、彼は|刑《けい》|事《じ》責任を問われることはあるまい。きっと病院へ収容されるだろう。彼のためにもその方がいい。君にとっては|辛《つら》いことだとは思うが――」
|突《とつ》|然《ぜん》、女の悲鳴が|静寂《せいじゃく》を切り|裂《さ》いた。
「――しまった!」
賢造の顔がさっと青ざめた。「またやったんだ!」
「|博《ひろ》|志《し》さん!」
三人はほとんど同時に広間を飛び出した。
「庭だ!」
「庭へ|逃《に》げたぞ!」
起き出して来た人々が次々に|廊《ろう》|下《か》から庭へ飛び出して行く。
「|眠《ねむ》ってたら、突然首にかみつかれたんです! 目を開けたら|悪《あく》|魔《ま》みたいな顔が……」
血のにじむ首を押えて、女はヒステリックに|叫《さけ》んでいた。賢造たちも庭へ出たが、深夜、それもかなりの広さがある日本庭園で、|植《うえ》|込《こ》みや|灌《かん》|木《ぼく》が多いので、探し出すのは容易なことではない。しかし、裏口もすでに固められているし、見つかるのは時間の問題であった。
「いたぞ!」
|叫《さけ》び声が上った。博志が裏口で行く手を|遮《さえぎ》られたのだろう、庭を突っ切り、建物の方へ|駆《か》け|戻《もど》って来る。近くにいた若者が一人、博志の足へ飛びついて、二人はからみ合うようにして|倒《たお》れた。
その時、|素《もと》|子《こ》が賢造のわきから飛び出した。手に何か光る物がある。
「ナイフを持っていたんだ!」
賢造と紳二が後を追って駆け出した時、すでに素子は倒れてもみ合う二人の所へ駆け寄っていた。ナイフが|一《いっ》|閃《せん》して、博志を押え|込《こ》んでいた男が|腕《うで》を押えて|転《ころが》った。素子は博志の手を取ると、
「早く!」
と引きずるように立たせて家の中へ|駆《か》け込んだ。――ほんの数秒|遅《おく》れて、賢造と紳二が、そしてすぐに大勢の男たちも続いた。
本当に数秒の差だったのに、素子と博志の姿は見えなくなってしまった。一瞬、賢造と紳二は顔を見合わせた。他の男たちは、|玄《げん》|関《かん》へ向ったが、賢造は首を振って、
「いや、そんなに早く行けるはずがない。……そうだ、来たまえ」
と紳二を|促《うなが》すと、清美の|棺《かん》のある広間へと|戻《もど》って行った。
二人はそこにいた。――その光景を紳二は一生忘れないだろう。
素子は棺にもたれかかって座り、博志はまるで昼寝でもしているように、素子の|膝《ひざ》に頭を|載《の》せて横になっていた。博志を見下ろす素子の顔には|穏《おだ》やかな|微《ほほ》|笑《え》みがあった。|彼《かの》|女《じょ》の右手はしっかりとナイフを|握《にぎ》りしめており、博志の喉は|鮮《あざや》かに切り開かれて、胸元へ|夥《おびただ》しい血潮が流れ出ている……。
賢造と紳二が近付いて行くと、素子はゆっくり顔を上げた。
「私……言って聞かせたんです。|誰《だれ》も私たちを殺すことはできないのよ、って。――だから|一《いっ》|旦《たん》|眠《ねむ》って、夜中になったら起き出してみんなを|驚《おどろ》かせましょう、そう言ったんです。|彼《かれ》、とても面白がって……」
「素子さん」
賢造が厳しい口調で言った。「君は死んではいけない!」
「ええ。私、自分のした事の責任は取ります。罪を|償《つぐな》った時に……」
「その時にはきっと、生きたいと思うようになるよ」
賢造が差し出した手へ、|素《もと》|子《こ》はおとなしくナイフを|載《の》せた。
「ええ……そうかも知れません。私には分らないけど……」
「さあ行こう」
素子は、|壊《こわ》れやすい物を扱うように、そっと博志の死体を横たえた。紳二が彼女の方へ手を差しのべた。素子は首を|振《ふ》って、
「だめよ。手が血で|汚《よご》れているもの」
「構わないよ」
紳二は|肯《うなず》いた。素子は紳二の手に自分のそれを預けて立ち上った。
「|叔《お》|父《じ》さん」
「うむ?」
「もし……」
紳二は言い|淀《よど》んだ。――素子を乗せたパトカーのサイレンが、やがて白々と明けようとする寒空に|尾《お》を引いて消えた。
「何だね?」
「その|肖像画《しょうぞうが》を何とかしなくちゃ。もし|他《ほか》にも同じように……」
「それはその通りだがね」
賢造は肯いて、「その絵を焼き捨てることで問題は解決しないんじゃないかな?」
「よく分りませんが……」
「その絵を|滅《ほろ》ぼすには、その絵を見ても平気でいられるようになることしかない、ということさ。――どうだね、君も素子さんと|新《しん》|婚《こん》旅行に行く時には、トランシルヴァニアに寄って、その絵を見て来たら?」
自由を我等に
1
「金持に比べて|貧《びん》|乏《ぼう》|人《にん》のいい所ってのは何だか分るか?」
パトカーのシートにそっくり返って、|俺《おれ》は|訊《き》いた。
「分りますよ、そりゃ!」
と|長《なが》|倉《くら》|刑《けい》|事《じ》が|即《そく》|座《ざ》に応じた。「|靴《くつ》が一足しかないから、毎朝どれをはくか迷わないで|済《す》む。背広が一着しかないから、どれを着るか迷わなくて済む。それから――」
「もうよせ」
と俺は|遮《さえぎ》って、「次はパンツが一枚しかない、って言うんじゃないだろうな」
「いくら俺が独身だって、それはないですよ警部。二枚持ってます、ちゃんと」
俺はため息をついて、
「お前が何枚パンツを持ってようと、そんなことは構わん。俺が言いたかったのはだな、もっと重大な点についてだ」
「ははあ」
「つまり、貧乏人は金持に比べて殺される確率が低いってことさ」
長倉は感心するかと思いきや、首をかしげて、
「そうですか?」
「|違《ちが》うっていうのか?」
「|田舎《いなか》のお|袋《ふくろ》はいつも言ってますよ、『お前はいつ殺されるか分らないんだから』って。すると|俺《おれ》は金持なんですか?」
俺はもう何も言う気がしなくなった。
暖かい五月の昼下り。窓の外は真っ暗だった。つまりパトカーはトンネルに入っていたのである。トンネルを出ると外は当然明るく、道はなだらかな上りになって、小高い|丘《おか》の上に、メキシコやスペインでよく見かけるような(といって俺が見かけたのは、もっぱら映画とTVの中だが)白壁の、えらく|瀟洒《しょうしゃ》な|邸《てい》|宅《たく》が近付いて来た。
「あれですね」
と長倉が分り切ったことを言う。
「大した|邸《やしき》だな」
と俺も分り切ったことを言った。
「でも真っ白ですね。ペンキ代をケチったのかな?」
――緑のゆるやかな|起《き》|伏《ふく》に、|石畳《いしだたみ》の道はゆるくうねりながら続いている。パトカーはやがて、白い邸宅の正面へと乗りつけて|停《とま》った。円形の広場のようになった|玄《げん》|関《かん》|前《まえ》には、中央の|花《か》|壇《だん》に目に|鮮《あざ》やかな花が咲き乱れ、|邸《やしき》のどこからか|響《ひび》いて来るピアノの調べが、抜けるような青空へと|溶《と》けて行く。
こんな平和な風景に、パトカーの姿は何とも不似合であった。ちょうどスマートな|俺《おれ》に|長《なが》|倉《くら》が不似合なように。
玄関は重々しい木の|扉《とびら》で、中央にライオンの頭の形をしたノッカーがついている。俺は長倉にひょいと|顎《あご》をしゃくって見せた。長倉は|肯《うなず》いてノッカーの|環《わ》に手をかけると――力まかせに引張っ[#「引張っ」に傍点]た! メリメリッと音がしたと思うと、長倉が環っかを手にポカンと|突《つ》っ立っている。
「おい!」
俺は|怒《ど》|鳴《な》った。「それは|叩《たた》くんだ、引張るんじゃないぞ!」
何しろ長倉はヘラクレスというあだ名のある大男のバカ力で、そのせいで助かることもまれには[#「まれには」に傍点]あるのだが、助からないことの方がむしろずっと多い。
「叩くんですか?」
とちぎり取ったノッカーの環を持って、ドアをドンドンとノックした。俺は|慌《あわ》てて、
「|馬《ば》|鹿《か》!――ともかくそれをしまえ! 見つかったら|弁償《べんしょう》させられるぞ!」
長倉がノッカーの環をポケットへ入れると同時にドアが開いた。デップリ太った中年の女がジロリと我々を|眺《なが》めて、
「人間だったの」
と言った。「馬がドアを|蹴《け》ってるのかと思ったわよ」
「あの――」
俺はやや|威《い》|儀《ぎ》を正して、「先ほどお電話をさし上げたN署の者です。|滝《たき》|川《がわ》さんにお目にかかりたいんですが」
「ああ、|刑《けい》|事《じ》さんね」
と女は軽くいなして、「どうぞ」
俺と長倉は|邸《やしき》の中へ入った。ホールは|吹《ふき》|抜《ぬけ》になっていて、屋根の一部がガラス張りなので、明るい光が|射《さ》し込んでいた。客間へ通されると、これがまたぐっとシックな調度を|揃《そろ》えた広々とした|部《へ》|屋《や》で、ウカウカしているとこの中で|迷《まい》|子《ご》になりそうだ。
「今、|旦《だん》|那《な》様をお呼びして来ます」
と女が行ってしまうと、俺はソファへゆったりと|寛《くつろ》いで、
「|大《たい》した|邸《やしき》だな……」
「ええ。3DKぐらいですかね」
長倉にとって、住居とはそれぐらいの広さ以上のものは考えられないらしい。――そこへドアが開くと、
「表のパトカー、どうしたの?」
と若い女の声がした。|振《ふ》り向くと、スッキリした体つきの二十四、五の|娘《むすめ》が立っている。
「あら、ごめんさない。父がいるかと思って……」
「いや、構いませんよ。|滝《たき》|川《がわ》さんのお|嬢《じょう》さんですか?」
|俺《おれ》は|優《やさ》しく言って、|可愛《かわい》い女の子にだけ見せる、取っておきの|笑《え》|顔《がお》を作った。
「ええ。|滝《たき》|川《がわ》|陽《よう》|子《こ》です」
「N署の|佐《さ》|和《わ》警部です。こっちのフランケンシュタインは|長《なが》|倉《くら》|刑《けい》|事《じ》」
滝川陽子は笑顔になって、
「面白い方ね。父にご用ですの?」
「ええ、ちょっとお話が――」
と言いかけた所へ、当の滝川が姿を見せた。
「何だ、ここにいたのか」
と|娘《むすめ》の方へ、「お前は席を|外《はず》していなさい」
「はい」
と行きかけた陽子は、ふと足を止めて、「|館《たて》|野《の》さんがお父さんに|訊《き》いてくれって言ってたわ。いつから仕事にかかればいいのか」
「その時はこっちから言うと言っといてくれ。気にするな、と」
「分ったわ」
陽子が行ってしまうと、滝川はゆっくりとソファの方へやって来た。五十前後なのだろうが、|髪《かみ》には白いものが目立ち始めている。大|企業《きぎょう》のトップにしてはインテリ風で、社長というより大学教授という印象だ。
「お待たせしました」
|俺《おれ》は自己|紹介《しょうかい》をしてから、ズバリと話を始めた。女を|口《く》|説《ど》く時と|違《ちが》って、仕事では遠回りはしない主義だ。
「実は、あなたの命が|狙《ねら》われているという|匿《とく》|名《めい》の電話が署の方へかかって来ましてね。それでこうして|伺《うかが》ったわけです」
滝川がごく自然な程度に意外そうな顔をした。
「何かお心当りは?」
俺の質問に滝川は|当《とう》|惑《わく》した様子で首を|振《ふ》った。
「一向に思い当りませんね。ええと……|佐《さ》|和《わ》警部でしたか?」
「そうです。すると、|例《たと》えば|脅迫電話《きょうはくでんわ》、手紙といった|類《たぐい》のいやがらせは特になかったのですね?」
「ええ、ありません。それはまあ、私も|企業《きぎょう》の社長ですから、敵がないとは言えない。しかし、殺されるような覚えはありませんな」
「そうですか」
「匿名の電話とおっしゃったが、その電話は男ですか女ですか?」
「|囁《ささや》くような声で、どちらとも判別できなかったのです」
「そうですか、ではきっとただのいたずらでしょう……」
「それにしてはちょっと気になることがありまして」
「とおっしゃると?」
「その電話はこう予告したのです。『今夜十二時までに|彼《かれ》の命はない』とね」
ちょっと間を置いて|俺《おれ》は続けた。「ただのいたずらでは、なかなかそこまでは言わないものです」
「分りました、せいぜい用心いたしましょう」
と|滝《たき》|川《がわ》はあまり熱のない|口調《くちょう》で言った。「どうもご苦労様でした」
と席を立とうとする。俺は一つ|咳《せき》|払《ばら》いをして、
「まだお話しすることがあるのですが」
「ほう?」
「実は我々は署長からじきじきに命令を受けて来たのです。あなたはこの辺でも|随《ずい》|一《いち》の名士でいらっしゃるので、署長としても、何か間違いがあっては責任問題になるというわけで」
「なるほどね」
滝川は|愉《ゆ》|快《かい》そうにまたソファへ|腰《こし》を降ろして、「すると警官隊をくり出してこの|邸《やしき》を取り囲もうというわけで?」
「いや、そこまではとても。しかし、この|長《なが》|倉《くら》|刑《けい》|事《じ》は優に警官五人分ぐらいに|匹《ひっ》|敵《てき》する男でして。――つまり私と長倉が今夜一晩、あなたの護衛に当りたいのです」
「そんな必要はないと思いますがね。……しかし、まあ、あなたの立場がなくなるのも気の毒だ。――よろしい。護衛をお願いすることにしましょうか」
かくて、護衛の押し売り[#「押し売り」に傍点]に成功、俺はホッと息をついた。必要ないと言われて、そうですかとアッサリ帰ったら署長がカンカンになるに決っている。――といって俺自身も、そう本気で事件が起こると心配しているわけではなかった。推理小説の中ならいざ知らず、現実に予告して人を殺す|奴《やつ》なんているものではないのだ。
「私は今からちょっと社の方へ出かけますので……」
滝川はそう言って、「どなたが護衛して下さるわけですか?」
とニヤリとした。私は長倉へ|肯《うなず》いて見せた。
「車が|狭《せま》くなって|恐縮《きょうしゅく》ですが、長倉を|一《いっ》|緒《しょ》に行かせます。――お|留《る》|守《す》の間に|邸《やしき》の中を拝見していてよろしいですか?」
「どうぞ、構いませんよ」
滝川と長倉が客間を出ようとすると、あのデップリ太った女が顔を出して、
「旦那様」
「何だい、|猪《いが》|谷《や》さん?」
「玄関のドアのノッカーから|環《わ》がなくなっちゃったんですが……」
と猪谷という女(谷[#「谷」に傍点]の字がなくてもいいような気がした)はジロリと俺の方をにらんだ。長倉が|慌《あわ》ててワザとらしくソッポを向く。俺は|澄《す》まして言った。
「きっとライオンが腹を|空《す》かして食べちまったんじゃないですか?」
その声は、ちょっとした池のほとりの|植《うえ》|込《こ》みの|陰《かげ》から聞こえて来た。――といって、|妙《みょう》な|濡《ぬ》れ場など期待されては困る。それに|俺《おれ》が立ち聞きの趣味の持主と思われるのも|心《しん》|外《がい》だ。俺はただ、滝川|邸《てい》の、広々とした庭――といったって、|妙《みょう》に人工的に区画整理したんじゃなくて、自然の草原をそのまま残した、ちょっとした裏山という感じなのだが――をブラブラ歩いていたのだった。
「あなたは何も感じないの?」
女の|詰《きつ》|問《もん》するような声で、俺は足を止めた。そっと首をのばすと、|茂《しげ》みの向うに、草の上へ|並《なら》んで|腰《こし》をおろした男女の後ろ姿が見えた。女の方はさっき会った滝川陽子だ。
「そりゃ、ありがたいと思ってるよ」
男の方が答えた。
「ありがたい、ですって!」
「うん。……何しろこっちは失業してアパートも追い出され、のたれ死に寸前だったんだからね。君のお父さんに助けてもらわなければ、|今《いま》|頃《ごろ》はどうなってたか……」
「父がどういうつもりであなたを助けたか、分らないの?」
陽子の方は|苛《いら》|々《いら》した口調だ。「あなたに自分の成功を見せつけたかったのよ。金持が|乞《こ》|食《じき》に|施《ほどこ》すように、あなたをここへ住まわせて、仕事もさせずに|恵《めぐ》みを施しているんだわ!」
「たとえそうだとしても、君のお父さんの親切に感謝しなくてもいいとは思えないよ」
男の方は、もうかなりの年配のように見えた。髪も少し|薄《うす》くなりかけており、たぶん滝川と同じぐらいの年配であろう。
「あなたったら!」
陽子が|堪《こら》え切れなくなった様子で、立ち上った。|俺《おれ》は見つからないように急いで身をかがめる。
「少しはくやしいと思わないの! プライドっていうものがないの? それでも男なの!」
「陽子さん」
男の方は一向に熱する気配もなく、「私は君のように若くはないんだ。ゼロからやり直す勇気はとてもないよ」
「あなたは……あなたは……」
陽子は声を|震《ふる》わせていた。そして身を|翻《ひるがえ》すと、一目散に|邸《やしき》の方へ走って行ってしまった。|涙《なみだ》を見せたくなかったのだろう。
男の方は、彼女の後を追うでもなく、深くため息をつくと、立ち上って、ブラブラと池の周囲を歩き出した。俺はわざと勢いよく足音を立てて近付いて行くと、
「やあ!」
と声をかけた。男は別にびっくりした様子もなく、
「どなたですか? そこにいらしたのは気が付いていたんですが」
「おや、そうでしたか。別に立ち聞きするつもりではなかったんですが、つい通りかかったもので……」
「滝川君の会社の方ですか?」
「いや、警察の者です。|佐《さ》|和《わ》といいます」
「警察? それはまた……」
男は|眉《まゆ》を上げて、「私は|館《たて》|野《の》といいます。ここの|居候《いそうろう》でして」
どことなく、|滝《たき》|川《がわ》と似た所のある男だった。滝川の知的な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が、こっちはもっと徹底していて、その代り、精力的な所がまるでなく、大分|老《ふ》け|込《こ》んで見える。
俺がここへ来た事情を話すと、館野は表情を|曇《くも》らせ、
「滝川君が|狙《ねら》われているとは……。|誰《だれ》がそんなことを……」
「失礼ですが、あなたと滝川さんとはどういうご関係で?」
「大学時代の友人なのです。本当に心を許し合える友、といいましょうかね」
「お|嬢《じょう》さんの方はそう思っていないようですな」
館野は|苦《にが》い笑みを|浮《うか》べて、
「あの|年《とし》|頃《ごろ》は親を見る目が厳しいものですよ。特に母親が幼い頃に亡くなっているので、それだけしっかりしていると同時に|気丈《きじょう》な性格で」
「|彼《かの》|女《じょ》の話は本当なのですか?」
「そうですね……滝川君が私を|黙《だま》ってここへ住まわせてくれているのは事実です。いや、若い頃、私と滝川君は共に|左《さ》|翼《よく》の運動に一身を|捧《ささ》げた同志だったのですよ」
「ほう! 今の滝川さんからは想像がつきませんね」
「|彼《かれ》はもともと大資産家の|跡《あと》|取《と》りだったのです。で、どうしても父親の事業を引き|継《つ》がなくてはならず、活動から離れて行ったのです。――私の方は|貧《まず》しい農家の四男|坊《ぼう》で、別にそういう制約もなく、活動家として|弾《だん》|圧《あつ》と戦って来ました。しかし、それもやがて|挫《ざ》|折《せつ》し、|辛《かろ》うじて教師の職を見つけ、家族もなく細々と生活していたのです」
「それがまたどうして|路《ろ》|頭《とう》に迷うはめに……」
「ええ……。一度、政治的な活動に身を|挺《てい》した経験があると、それが忘れられないものでしてね。私の勤めていた私立学校にも学園|紛《ふん》|争《そう》が起こったのです。そうなると私も、学生たちの姿に、|昔《むかし》の自分を見るような気がして、学生たちの側に立ったのです」
「それが学校側に気に入らず……」
「ええ。また悪いことに、私の所へいつも遊びに来ていた生徒が内ゲバ殺人に巻き|込《こ》まれて|逮《たい》|捕《ほ》されてしまったのです。彼に本を貸したりしていたので、私も関連ありと見られて取り調べを受けました。――結局疑いは晴れたのですが、学校側としては当然クビ、しかもこういう事情ですから他校でも|雇《やと》ってはくれません。困り果てて、あてもなく|街《まち》を歩いていると、|誰《だれ》かに声をかけられ……。それが|滝《たき》|川《がわ》君だったというわけです。もっとも、こちらは|不精《ぶしょう》ひげにくたびれた背広、彼の方はベンツに乗っていましたがね」
「で、ここへ住むようになったというわけですか」
「ええ。何か私に向いた仕事を|捜《さが》してやると言われて、着のみ着のままでやって来て、もう半年近くになります」
「あの|娘《むすめ》さんはそれを滝川さんが故意にやっているのだと思っているようですね」
「|彼《かれ》はいそがしいですからね。――そんな風に|曲解《きょっかい》しては気の毒ですよ」
|俺《おれ》は、あの|娘《むすめ》の言っていた事の方が当っているような気がした。いくら|忙《いそが》しいったって、同じ|邸《やしき》の中に、何の役にも立たない男を半年も置いておくだろうか? それに、この男もそれを本当に善意の現れだと信じているのだろうか?
「邸の方へ|戻《もど》りましょうか」
と歩き出した|館《たて》|野《の》へ、
「この邸には|他《ほか》に|誰《だれ》がいるんですか?」
と|訊《き》いた。
「私の他には、|猪《いが》|谷《や》さん――お会いになったでしょう?――それと|通《かよ》いの使用人が数人……」
「他には?」
館野がちょっとためらうように言葉を切ったので、俺は念を|押《お》した。――が、返事を待つまでもなかった。
「そこにいたの!」
とかん高い声がして、邸の方から、女が|大《おお》|股《また》に歩いて来た。陽子がいかにもお|嬢《じょう》様然としているのに比べ、こちらは|六《ろっ》|本《ぽん》|木《ぎ》か|原宿《はらじゅく》あたりのショーウインドからマネキン人形が飛び出して来たみたい。ググッと胸元の開いた|真《ま》っ|赤《か》なシャツに、どうやってはいたのかと|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》になるようなピッチリと足にはりつくスラックス、|髪《かみ》は台風の中をくぐり|抜《ぬ》けて来たかと思うほどふくらんで、何とも言えず|薄《うす》|気《き》|味《み》の悪い|紫色《むらさきいろ》に染めてある。
「その人|誰《だれ》?」
近付いて来ると、女は|俺《おれ》の顔を見て|訊《き》いた。
「警察の|方《かた》だよ」
「へえ! なかなかいい男ね!」
顔も|盛《せい》|大《だい》に|塗《ぬ》りたくってあるので、定かには分りかねたが、|年《ねん》|齢《れい》は三十二、三|歳《さい》という所か。ベタベタと塗り上げなければ、そう見られない顔でもないように思えるが、いかに|悪《あく》|趣《しゅ》|味《み》をもって鳴る俺も、いささか敬遠申し上げたい気分だった。
「今夜のパーティには出るんでしょうね?」
と女は|館《たて》|野《の》に訊いた。
「さあ……。私は酒も飲まんし、あまり気が進まないんだがね」
「出なきゃだめよ。あの人が、必ずあなたも引張り出せと言ってたわ」
「分ったよ。それじゃ出ることにしよう」
「いい子[#「いい子」に傍点]ね」
女は指でチョイと館野の鼻を突っつくと、
「じゃ、私、あちこちに電話するわ」
と言って歩きかけ、私の方へ|振《ふ》り向いて、
「|刑《けい》|事《じ》さんもよろしかったらどうぞ」
とウインクした。|俺《おれ》はその後ろ姿を見送って、
「――|誰《だれ》なんです?」
「|関《せき》|根《ね》|淳《あつ》|美《み》という女です」
「はあ」
俺が聞きたかったのは名前だけではない。
「すると、|滝《たき》|川《がわ》さんの……?」
「ええ。この|邸《やしき》に住んでいるんですよ」
あの滝川ってのも、ずいぶん|趣《しゅ》|味《み》の悪い|奴《やつ》だな、と俺は思った。
「パーティってのは何ですか?」
「淳美が、|有《ゆう》|閑《かん》マダムやら|得《え》|体《たい》の知れない遊び人を集めて時々やらかすんですよ。何しろ|退《たい》|屈《くつ》しきってるんで」
「それを今夜やろうっていうんですか? そいつはまずいな!」
「やめさせようとしても無理ですよ。しかし、滝川君はパーティへはめったに顔を出しません」
「それにしても、そんなに|多《おお》|勢《ぜい》の人が集るのではね……。しかし、|彼《かの》|女《じょ》、どうしてあなたをパーティへ出したがるんです?」
「私が|苦《にが》|手《て》なのを知って、面白がってるんですよ」
「|妙《みょう》な趣味ですな」
「以前はあんな風じゃなかったんですがね」
俺は|館《たて》|野《の》の顔を見た。
「以前は、と言うと……」
「|昔《むかし》、私の|恋《こい》|人《びと》だったのですよ、彼女は」
と館野は|寂《さび》しげに|微《ほほ》|笑《え》んだ。
2
パーティは九時|頃《ごろ》から始まった。
パーティといっても、上流階級の、きらびやかでお上品なのとは訳が違う。あの広い客間の|他《ほか》、同じくらいの広さの居間、食堂、それに、庭にまでテーブルが持ち出されて、要するに|邸《やしき》中がパーティ会場になったようなものだった。
|部《へ》|屋《や》にはけたたましいダンス音楽が流れ、タバコの|煙《けむり》が|淀《よど》んだ中で、|豪《ごう》|華《か》なイブニングドレスの女性から、その辺の|道《みち》|端《ばた》から拾って来たヒッピーみたいな|薄《うす》|汚《ぎた》ない男まで、もうゴッタ混ぜの男女が七、八十人は下らないだろう。――ま、要するに、ホテルのラウンジと居酒屋とディスコをみんな|一《いっ》|緒《しょ》くたにしたような|有《あり》|様《さま》だった。
これには俺も|度《ど》|肝《ぎも》を抜かれた。|長《なが》|倉《くら》に至っては、|夢《ゆめ》を見ていると思ったのか、三度も顔を洗いに行ったくらいだ。――俺は、|邸《やしき》の中でただ一つ、静かな|書《しょ》|斎《さい》へ入って行った。
「あなたですか……」
ナイトガウンを着た|滝《たき》|川《がわ》が読みかけの本から顔を上げた。「夕食はいかがでした?」
「満腹しましたよ」
「|一《いっ》|緒《しょ》に食べていただこうかと思ったのですが、|却《かえ》って気づまりかと思いましてね」
「いや、こちらは勤務中でアルコールはいただけませんからね。別で助かりました。何しろ|長《なが》|倉《くら》は飲み出すと湖一つぐらい飲まないと気の|済《す》まない|奴《やつ》でして」
と|俺《おれ》は手近なソファへ腰をおろした。
「確か十二時までというお話でしたな」
と滝川は時計を見て、「あと二時間半ですね」
「あのパーティのおかげで、こっちも気が|抜《ぬ》けませんよ」
「ご一緒にいかがです?」
「楽しむのは|嫌《きら》いじゃありませんが、クビになるのもあまり好きでないので……」
滝川は笑って立ち上ると、書斎の一角の洋酒|棚《だな》の方へ行き、
「少しなら構わんでしょう? 何にします?」
と俺を|誘《ゆう》|惑《わく》した。俺は約三秒間抵抗したが、結局ウイスキーを|頼《たの》んだ。目に入る|銘《めい》|柄《がら》が、どれも一生の|内《うち》に何度飲めるか飲めないかといった|代《しろ》|物《もの》ばかりだったからだ。
「……しかし、よくあんなパーティをやらせておきますね」
「|淳《あつ》|美《み》の|娯《ご》|楽《らく》ですよ。私の|趣《しゅ》|味《み》ではないんですが」
「あの|館《たて》|野《の》さんという方は、彼女の恋人だったとか」
「そうです」
「ここへ来たのは|偶《ぐう》|然《ぜん》ですか?」
「いや、そうではありません。……館野は|昔《むかし》、|彼《かの》|女《じょ》にぞっこん|惚《ほ》れ|込《こ》んでいたのです。彼女はまだ十八ぐらいで、美しい――本当に清純な|娘《むすめ》でした」
清純な娘と今の|淳《あつ》|美《み》では、魚とカマボコぐらい|違《ちが》う。
「館野は運の悪い男です。自分に生活力がないため、彼女のことも|諦《あきら》めなければならなかった。――私は、ここへ住むようになった館野を見て、ともかく人生を諦め切ったように|老《ふ》け|込《こ》んでいる。これではだめだと思ったんです。|誰《だれ》か|彼《かれ》を必要とするような人間がいなくては、と……。そんな時、たまたま淳美の消息を耳にしたのです。|結《けっ》|婚《こん》したものの、夫が女ぐせが悪く、|離《り》|婚《こん》して|一人《ひとり》で生活しているというのでした。私はそれを知って、彼女を館野に会わせてやろうと思ったんです。二人とも、それで生きる支えができれば、と……。ところが、年月は彼女をすっかり変えてしまっていました。|虚《きょ》|栄《えい》|心《しん》ばかり強くて、頭の|空《から》っぽな女……。昔の彼女の|面《おも》|影《かげ》はありませんでした。そして|図《ずう》|々《ずう》しくここに居ついてしまったのです」
「ですが、彼女はあなたの愛人じゃないのですか?」
「まあ……そういうことになりますかね。私も何人も女を|替《か》えました。あれはその一人です。それだけですよ。向うがここにいたい一心で言い寄って来たので、それに乗るふりをするのも面白いと思っただけで、それ以上のことはありません」
金持の感覚はこんなものか。俺は白けた気分でグラスを|傾《かたむ》けた。――その時、|廊《ろう》|下《か》から、
「キャーッ!」
と|鋭《するど》い悲鳴が聞こえて来た。|滝《たき》|川《がわ》が、ハッとして、
「あれは陽子だ!」
|俺《おれ》はグラスを投げ出して、|書《しょ》|斎《さい》から飛び出した。
|廊《ろう》|下《か》で、ヒッピー風の男に|抱《だ》きつかれた陽子が、
「放して! |触《さわ》らないでよ!」
と必死に身を|振《ふ》りほどこうとしている。俺は男のえり首をつかんで、グイと引き寄せると、|顎《あご》へ|握《にぎ》りこぶし[#「こぶし」に傍点]を力|一《いっ》|杯《ぱい》|叩《たた》き込んだ。|奴《やつ》はトランポリンの上で飛びはねるみたいな勢いで、もののみごとに引っくり返って、のびてしまった。
「|大丈夫《だいじょうぶ》?」
俺が|訊《き》くと、陽子はまだショックで身を|震《ふる》わせながら、|微《かす》かに|肯《うなず》いた。
「陽子!」
|駆《か》けつけて来た滝川が|娘《むすめ》の|肩《かた》へ手をかけようとすると、
「やめてよ!」
さっと身を引いて、父親をにらみつける。
「お父さんのお客様じゃないの! 私をご自由にとでも差し出したらどうなの?」
「陽子……」
くるりと背を向けて走り去ってしまう娘を見送って、滝川はため息をついた。「全く子供は厳しいもんですな」
「しかし、こんなことがあっちゃ娘さんが腹を立てるのも当然でしょう」
そこへ|長《なが》|倉《くら》がやって来た。のびている男を見て、
「あれ? 警部、何かあったんですか?」
「ん?……ま、ちょっとな」
|俺《おれ》は、長倉へ、代って滝川の護衛を任せると、陽子が走って行った方へと足を運んだ。どうやら|彼《かの》|女《じょ》は庭へ出て行ったようだ。
「|妙《みょう》だな」
あんな目にあった後なのに、わざわざ暗くて危険な庭へ出て行ったのは不自然に思えた。実際、庭へ出てみると、もういい加減|酔《よ》った連中が、|抱《だ》き合ったり、キスをしたり、草の上で|戯《たわむ》れている。――彼女の姿を|捜《さが》して歩いて行くと、急に足をぐいとつかまれてギョッとした。|寝《ね》っ|転《ころ》がった若い女が俺の足首をつかんだのだ。
「ねえ、私にカクテル持って来てちょうだい……」
と大分ろれつの回らない口調だ。俺は、
「ああいいよ」
と手近なテーブルへ行って、空のグラスに水をなみなみと|注《つ》ぐと、女の所へ持って行き、
「たっぷり飲みな」
と顔の上へ|一《いっ》|気《き》にあけてやった。
「キャーッ!」
と悲鳴を上げるのを後に、もう|邸《やしき》の明りの届かない庭の暗がりへと入っていく。
しかし、|闇《やみ》|夜《よ》で、ともかくほとんど何も見えないのでは|捜《さが》しようもない。大体の見当で、昼間陽子と|館《たて》|野《の》が話をしていた池の方へも行ってみたが、|彼《かの》|女《じょ》の姿はなかった。
|諦《あきら》めて邸の方へ|戻《もど》ろうとした時、どこからか人の声らしいものが耳に入った。しばらく立ち|止《どま》って耳を|澄《す》ますと、その声の方が近付いて来て、聞き取れるようになって来た。
「君の|邪《じゃ》|魔《ま》をするつもりはないよ」
館野の声だった。「元気のいい若者と|寝《ね》たらいいじゃないか」
「あんたはどうなの?」
女の方は|淳《あつ》|美《み》らしい。「私と寝たくないの?」
「|昔《むかし》の君なら……そうしたかったかもしれないがね」
「フン、気取っちゃって、何よ! あの|娘《むすめ》っ子となら寝るって顔に書いてあるわ」
「陽子さんはまだ子供だ」
「あんたに首ったけよ。気が付いてないとは言わせないわよ!」
「彼女がどうでも、今の私には女なんか|縁《えん》がないんだ。――邸へ戻ろう」
「どうぞお|一人《ひとり》で。私は誰か|素《す》|敵《てき》な人が現れるのを待ってるわ」
「|風《か》|邪《ぜ》を引かないように」
「大きなお世話よ!」
決然とした足音が、庭の別の方向へと消えて行った。こっちも帰るか、と歩き出そうとして|驚《おどろ》いた。急に、|淳《あつ》|美《み》のすすり泣く声が聞こえて来たのだ。そしてすぐに、彼女は声を上げて|激《はげ》しく泣き出した。……あの|軽《けい》|薄《はく》そのものの女の泣き声とは、とても思えない、胸をえぐるような絶望的な声だった。
「どうも、|誰《だれ》もかれも見かけ通りとは行かないようだな……」
|邸《やしき》へ|戻《もど》りながら、|俺《おれ》は|呟《つぶや》いた。――|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見ると、十時を少し回っていた。|後《あと》二時間だ。
|書《しょ》|斎《さい》へ|戻《もど》ってみて、俺は目を丸くした。ソファで高いびきをかいているのは|長《なが》|倉《くら》だ! |滝《たき》|川《がわ》の姿は見えない。俺は長倉を|揺《ゆ》さぶった。
「おい! 起きろ!」
「ム……ウーン」
と長倉は目をショボつかせて、「警部、おはようさんです」
「|馬《ば》|鹿《か》! 何やってたんだ? 滝川はどこだ?」
「は?」
大体が|鈍《にぶ》い所へもって来て、起き抜けに話の通じるはずもない。ブン|殴《なぐ》りたいのを必死にこらえて、|奴《やつ》の頭が回転を始めるのをひたすら待った。
「ああ、そうか。滝川さんですね」
「そうだよ!」
「|一《いっ》|杯《ぱい》飲ましてくれたんです。いえ、もちろん勤務中だって断ったんですが、警部もお飲みになったと聞きまして……。俺だけ断っちゃ警部に悪いと思って……」
「変な所に気を使うな! |畜生《ちくしょう》! 一体どこへ行きやがった!」
そこへ|書《しょ》|斎《さい》の入口から声がして、
「|旦《だん》|那《な》様なら、もうお休みになりました」
振り向くと、あの|猪《いが》|谷《や》というデップリ太った女だ。
「もう|寝《ね》た?」
「はい、寝ずの番をするのなら、|部《へ》|屋《や》の前に|椅《い》|子《す》が出してあるから、とお伝えしろと言われました」
「分りました。二階ですね?」
「階段を上って、右へ行った突き当りの部屋です」
「ありがとう。――おい、長倉、行くぞ!」
「はあ……。私が先に見張りましょう。警部、どこかで休んでて下さいよ」
そう言うそばから、部屋中の空気を吸い込んじまいそうな|大《おお》|欠伸《あくび》。
「いや、一晩だ。二人で起きてることにしよう。おい、そこの小さな椅子を一つ持って来い」
と言って、俺は二階へ向った。階段を上りながらこっちも特大の欠伸が出る。欠伸は伝染するってやつだ。
食べ過ぎ、飲み過ぎは胃腸に悪いのは当然だが、|張《はり》|込《こ》みにも悪い。|眠《ねむ》くなるからである。
十一時を回る|頃《ころ》から、|眠《ねむ》|気《け》は|間《かん》|断《だん》なく|襲《おそ》って来て、五分おきに|椅《い》|子《す》から立ち上って|廊《ろう》|下《か》を歩き回る始末。そうしていないと|寝《ね》|込《こ》んじまいそうなのだ。――長倉は、と言えば、こっちは|椅《い》|子《す》に座ってものの十分とたたない|内《うち》にゴーッと地下鉄みたいな|響《ひび》きをたてて眠っちまった。|叩《たた》き起こしても、ムニャムニャと|呟《つぶや》くだけでまたゴーッ。ついに|俺《おれ》も|諦《あきら》めた。
しかし、問題の十二時は、ともかく無事に過ぎた。一応朝まで見張りは続けるとして、まず一安心だ。安心すると、えらく|喉《のど》が|渇《かわ》いて来た。夕食がちょっと|辛《から》かったせいかもしれない。
俺はしばらくためらったが、ほんの二、三分だ、と階下へ下りて行った。――下は何ともひどい状態であった。
一応静かにはなっているが、それはパーティが終ったという意味ではない。ソファの上、|絨毯《じゅうたん》の上、所かまわず、男と女がからみ合って、眠ったり、愛し合ったり……。|薄《うす》|気《き》|味《み》の悪い|囁《ささや》きと、笑い声、熱っぽい|呻《うめ》き。いわゆる|乱《らん》|交《こう》パーティというやつにお目にかかったのはこれが初めてだが、とても好きになれそうもなかった。こんな、けだるく、しびれ切ったような|淀《よど》んだ|雰《ふん》|囲《い》|気《き》の中で女を|抱《だ》いたって何が楽しいもんか。
居間からアベックを|踏《ふ》みつけないように気を付けながら、テラスへ出て、テーブルの氷水をガブ飲みした。――少し頭がスッキリしたようだ。
ホッと息をついて、何の気なしに周囲を見回した時、|書《しょ》|斎《さい》の窓から、かすかに光が|洩《も》れているのに気付いた。書斎はさっき明りを消して出たはずだが……。調べてみるか、と思った時、その書斎の明りで、滝川陽子が庭をこっちへ歩いて来るのがチラリと見えた。
「やあ」
|彼《かの》|女《じょ》が近付いて来ると、|俺《おれ》は声をかけた。陽子はちょっとギクリとした様子で足を止めたが、すぐに気付いて、
「あなただったの。――さっきはありがとう」
「いや、まぐれでパンチが命中しただけでね」
と俺は|謙《けん》|遜《そん》し、「もう十二時を過ぎたよ」
「そう? 気が付かなかったわ」
「時を忘れてたのかい?」
彼女は|黙《だま》って|肩《かた》をすくめた。
「恋人と|一《いっ》|緒《しょ》?」
「どうかしら」
陽子はちょっと|警《けい》|戒《かい》するような目で俺を見た。警官だというだけで、人から信用されない!こんなことがあってもいいのか?
「君はあの|館《たて》|野《の》って男を愛してるんだろう?」
と、俺は|率直《そっちょく》に|訊《き》いた。
「……ええ」
「もう一人の|淳《あつ》|美《み》って女も|彼《かれ》を愛してるようだよ」
「|可哀《かわい》そうな|女《ひと》よ。父が、|館《たて》|野《の》さんに見せつけるために連れて来て、自分のものにしてしまった。そしてあんな|派《は》|手《で》な服装をさせて……館野さんの持っている夢や大切な|想《おも》い出を、父は一つ残らず打ち|壊《こわ》そうとしてるんだわ!」
「君はそう思い|込《こ》んでいるようだけど――」
「信じないの?」
「理由は何だい? 君のお父さんは成功者で、何でも持っている。しかし館野は無一文の、言うなれば人生の敗残者だ」
「ひどいことを言うのね!」
「しかし客観的な事実だよ。そのお父さんがどうしてそんなことをしなきゃならないんだ? 逆なら話が分らないでもないが」
「それは――」
陽子が何か言いかけた時、|鋭《するど》い|銃声《じゅうせい》が夜の|闇《やみ》を|貫《つらぬ》いた。そして同時にガラスの|砕《くだ》ける音。|俺《おれ》は|一瞬《いっしゅん》立ちすくんだ。
「何かしら?」
と陽子も不安げに見回す。俺は、|書《しょ》|斎《さい》の窓から|洩《も》れていた光がもう見えないのに気付いた。
「書斎だ!」
と|叫《さけ》んで居間へ飛び|込《こ》む。|寝《ね》っ|転《ころ》がっていたアベックを二、三組|蹴《け》とばして|廊《ろう》|下《か》へ出ると、書斎へ走った。ドアを開けると、|部《へ》|屋《や》は真っ暗だ。手さぐりでスイッチを|押《お》す。
|滝《たき》|川《がわ》は窓の前に|倒《たお》れていた。ナイトガウンを着ている。窓は粉々に砕け、破片が部屋の中に飛び散っていた。滝川に|並《なら》んで、電気スタンドが転がっている。さっきの光はこれだったのだろう。|俺《おれ》は滝川へ|駆《か》け寄って様子を見た。胸から腹にかけて、ひどくやられている。しかし、まだ息はあった。
「お父さん!」
|遅《おく》れてやって来た|陽《よう》|子《こ》が声を上げた。「どうしたの?」
「|散弾銃《さんだんじゅう》だ。庭から|誰《だれ》かが|撃《う》った。まだ息がある。電話を!」
「わ、分ったわ」
陽子は電話を取り上げた。俺は|上《うわ》|衣《ぎ》の下から|拳銃《けんじゅう》を引っこ|抜《ぬ》くと――一応そんな物を持っているのである――|壊《こわ》れていない窓の一つを開けて庭を見た。しかし、真っ|暗《くら》|闇《やみ》で何も見えない。これじゃ犯人がバレエを|踊《おど》ってたって目に入るまい。
仕方ない。危険なことは好きでないのだが、商売上、そんなことも言っていられない。窓を乗り越えて、エイッと庭へ飛び下りた。
当てもなく、闇の中へとソロソロと進んで行く。散弾銃は|普《ふ》|通《つう》二連式だから、もう一発はあるわけで、それが俺の頭をふっ飛ばすんじゃないかと気が気じゃない。いかに二枚目でも顔がなくちゃ女にももてない。|長《なが》|倉《くら》あたりなら、|却《かえ》ってない方がいいかもしれないが……。
何か固い物を|踏《ふ》みつけて、俺はかがみ|込《こ》んでみた。――まだ銃身の熱い散弾銃だ。犯人はどうやらこれを投げ出して|逃《に》げたらしい。
|俺《おれ》はともかくホッとして、|一《いっ》|旦《たん》、|邸《やしき》の中へ|戻《もど》ることにした。しかしあの窓からまた戻るのも大変だ。また居間を|抜《ぬ》けて行くことにして、テラスから入って行くと、さっき俺が|蹴《け》っ飛ばした|奴《やつ》らしいのが、
「一体何やってやがんだよ、出たり入ったりしやがって!」
と文句を言った。
「つべこべ言うな! いいか、ここを動くなよ!」
と俺は|怒《ど》|鳴《な》り返したが、悪いことに|拳銃《けんじゅう》を持ったままだった。相手の男がそれに気付いて、
「ピ、ピストル|強《ごう》|盗《とう》だ!」
と悲鳴を上げて飛び上った。「逃げろ!」
|部《へ》|屋《や》にいた連中が|一《いっ》|斉《せい》にキャーッと悲鳴を上げながら、|我《われ》|先《さき》にドアから飛び出して行く。
「おい、待て! 俺は警察の人間だ! 強盗じゃないぞ! 止れ! みんな、動くな! おい!」
俺が声を|嗄《か》らしても|無《む》|駄《だ》だった。居間だけでなく、|他《ほか》の部屋にいた連中にも|騒《さわ》ぎは広まって、みんな一斉に|玄《げん》|関《かん》へと走って行く。中には|裸同然《はだかどうぜん》のスタイルのもいた。――この七、八十人の集団を、俺一人でどうやって止められようか。せめて|長《なが》|倉《くら》でも戸口に立ちふさがってくれたら……。
俺は連中が|邸《やしき》の前に|停《と》めておいた車に乗って一目散に逃げて行くのをなすすべもなく見送っていた……。
3
「やあ、署長、ご苦労様です」
|俺《おれ》のねぎらいの言葉も、署長には通じなかった。|普《ふ》|段《だん》でも苦虫をかみつぶしたようなしかめっつらが、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》と|眠《ねむ》|気《け》とで倍加――いや百倍加[#「百倍加」に傍点](こんな言葉があるのかどうかしらないが)され、まるで俺のことを親の|仇《かたき》みたいににらみつけた。
「|貴《き》|様《さま》、一体何をやっとったんだ!」
怒りの声を|震《ふる》わせて、署長が言った。「かすり傷一つ負わずに、護衛した相手が殺されるのを見とったのか!」
「|滝《たき》|川《がわ》さんはまだ生きてますよ」
「うるさい!」
と|怒《ど》|鳴《な》って、「貴様は職務|怠《たい》|慢《まん》で処分してやる! |覚《かく》|悟《ご》しとけ!」
まあ、正直なところ、俺も自分の失敗はよく承知していた。いくら十二時を過ぎたからといって、グウグウ|眠《ねむ》っている長倉一人を|部《へ》|屋《や》の前へ残して持場を|離《はな》れてしまったのは、確かに|軽《けい》|率《そつ》という|他《ほか》はなかった。
「よく承知しております。辞表を書きますよ」
俺の|悲《ひ》|壮《そう》な宣言も、署長には一向に|感《かん》|銘《めい》を|与《あた》えなかった。
「フン」
とせせら笑って、「貴様の辞表で犯人が|捕《つか》まるか!」
「じゃ、署長の辞表なら捕まるかもしれませんよ」
お|世《せ》|辞《じ》のつもりで言ったのだが、|却《かえ》って相手はムッとしたようだった。
「――容疑者は?」
「まだ、これといって……」
「何か|手《て》|掛《がか》りはあるのか?」
「|凶器《きょうき》と思われる|散弾銃《さんだんじゅう》が残っていました。何か分るでしょう」
「せいぜい|祈《いの》っとるんだな」
|書《しょ》|斎《さい》は警官や|鑑《かん》|識《しき》課員でごった返していた。|他《ほか》の|刑《けい》|事《じ》がやって来て、
「警部、他の部屋はどうなってるんです? ひどいドンチャン|騒《さわ》ぎでもやらかしたんですか?」
「パーティがあったのさ」
署長が聞きとがめて、
「おい、何のパーティだ?」
「いえ、よくあるやつですよ。ヒマを持て余してる連中が集って、飲んだり寝たり……」
「事件のあった時はもうみんな引き上げとったのか?」
「いえ、まだいました」
「そいつらはどこにおる?」
「それが、帰っちまったんです」
|俺《おれ》は署長が何か言い出す前に、「ま、落ち着いて下さい。みんな招待客ですから、ちゃんと分りますよ」
それは自分を|慰《なぐさ》める言葉だった。
「|貴《き》|様《さま》! どこまで|抜《ぬ》けとるんだ!……客は何人ぐらいだったんだ?」
「ええ……。|大《たい》したことはありません。ほんの七、八十人で」
|唖《あ》|然《ぜん》としている署長を残して俺は居間へ向った。テラスから外へ出ると、今は警察のライトがいくつもまぶしい光を投げて、|書《しょ》|斎《さい》の窓から、|銃《じゅう》のあったあたりまでは真昼のような明るさだ。
「警部!……」
振り向くと、|長《なが》|倉《くら》が頭をかきながら立っていた。
「えらいことになりましたね……」
「まあ、お前の責任じゃない。気にするな。俺が腹でも切りゃすむことさ」
「腹を切るんですか?」
と長倉は|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔で、「じゃ俺は|爪《つめ》でも切ろうかな」
俺は|怒《おこ》る気にもなれず|肩《かた》をすくめた。人間逆境の中にいると|却《かえ》って|寛《かん》|大《だい》になれるものだ。
「でも、警部、あの滝川って男、いつの|間《ま》に書斎へ下りて行ったんでしょうね?」
「決ってるじゃないか。俺が下へ来てる間にだ」
「でも、それなら俺が気が付くはずです」
「お前は、高いびきで|眠《ねむ》ってたんだぞ。気が付くわけないじゃないか!」
「いいえ。警部が下へ行かれる時に目がさめたんです。本当ですよ。ちょうど後ろ姿が見えたんで、あ、こりゃもう朝かと思って腕時計を見たんです。まだ十二時過ぎだったんで、あ、こりゃ起きてなきゃいけないと思って……」
「起きてたのか? ずっと?」
「ええ」
「本当か?」
「本当ですよ。|俺《おれ》が|嘘《うそ》をついたことがありますか?」
確かに長倉は嘘をつく男ではない。いい加減なことは言うが、それは本人にとっては確かなことなのである。
「すると、|奴《やつ》はいつ下へ……。そうだ!」
俺は居間へ|戻《もど》った。食堂の方へ行ってみると、|仏頂面《ぶっちょうづら》をした|猪《いが》|谷《や》って女が|黙《もく》|々《もく》とお茶を|淹《い》れている。
「やあ、大変だね」
「あんたですか」
「ちょっと|訊《き》きたいんだがね」
「何です?」
「あんたは|滝《たき》|川《がわ》さんが|寝《ね》たと教えてくれたね。そして|俺《おれ》たちに|廊《ろう》|下《か》の|椅《い》|子《す》に座っているように伝えろと言われた……」
「ええ、申しましたよ」
「滝川さんはどこで[#「どこで」に傍点]そう言ったんだね?」
「階段の途中です。私が|寝《ね》|床《どこ》の|仕《し》|度《たく》を終えて下りて行きますと、上って来られて……」
「すると、あんたは滝川さんが実際にベッドへ入るのを見たわけじゃないんだな」
「ええ、それは……」
「滝川さんがその後で下へ下りて来てもあんたには分らなかったわけだ」
「そりゃそうですよ。私はそのまま自分の|部《へ》|屋《や》へ寝に行っちまいましたからね」
廊下へ出ると、長倉が|訊《き》いた。
「――一体どういうことなんです、警部?」
「つまり滝川は最初から寝ちゃいなかったのさ。俺たちは|空《から》っぽの部屋の前で張り番をしてたわけだ」
「でもどうして……」
「さあな。滝川はあの|書《しょ》|斎《さい》で何か[#「何か」に傍点]用があったのに違いない。俺たちを遠ざけたのは、わざとだったのかどうか……」
そういえば、自分を護衛してくれる人間に酒を|勧《すす》めるというのも|妙《みょう》なものだ。長倉を|眠《ねむ》らせたのも、|寝《しん》|室《しつ》へ行くのについて来られては困るからだろう。そうなると、滝川の意図が何だったのか。疑問になって来る。
「おい、長倉」
|俺《おれ》は言った。「こいつはどうも|一《ひと》|筋《すじ》|縄《なわ》で行く事件じゃなさそうだぞ」
「はあ。そうですね」
長倉が分っているのかどうか、俺ははなはだ心もとなかった。
朝になって、報道|陣《じん》やら何やらの|騒《さわ》ぎも大分おさまった。中にはてっきり滝川が死んだと早トチリして、おくやみを言いに来る|馬《ば》|鹿《か》がいて、あの大女に|叩《たた》き出されていた。
俺は、きちんと片付けられた居間に|陣《じん》|取《ど》って、取りあえず|邸《てい》|内《ない》の人間を一人ずつ取り調べることにした。
|娘《むすめ》の陽子は固い表情で俺の前に座った。
「病院の父の様子はどうなんでしょう?」
「今の所、まだ意識不明という話だよ」
「命は……助かりますか?」
「五分五分という所らしい。手を|尽《つ》くしている。――話が終ったら、病院へ行っていいよ」
「ありがとう」
「で、事件の話だが……君はまあアリバイがある。ともかく銃が発射された時、|僕《ぼく》と一緒にいたんだからな」
「いくら父が|嫌《きら》いでも、殺したりはしませんわ」
「常識的にはそうだ。しかし、大体が殺人ってのが常識的なものじゃないからね」
と|俺《おれ》は言って、「君に|訊《き》きたいことは一つだけだ。――あの時まで、どこに、|誰《だれ》といたのか」
陽子は目を|伏《ふ》せた。
「どうだい?」
「……答えたくありません」
「答えてもらわないと困るね」
「事件に関係ないわ」
「そうかな?……答えないと、こっちで色々勝手な想像をするよ」
「ご自由に」
「ねえ、いいかい」
俺はため息をついた。「君は|書《しょ》|斎《さい》の窓の前を通ってテラスの方へやって来た。ということは、犯人がいた方から来たとも考えられるってことだ。|僕《ぼく》はそう思っちゃいないがね。しかし|隠《かく》せば|却《かえ》って|館《たて》|野《の》さんに疑いがかかるだけだよ」
「あの人は犯人じゃないわ!」
「そう思うなら言いたまえ」
陽子は気持を|鎮《しず》めるように息をついて、
「ええ……。館野さんと|一《いっ》|緒《しょ》にいました」
「何時|頃《ごろ》から?」
「|廊《ろう》|下《か》であなたに助けてもらってから……」
「あの足で会いに行った?」
「ええ。庭の|外《はず》れの方に、|木《こ》|立《だち》に囲まれたベンチがあって、よく私たちそこで話をするんです。あの時も、そこで待ち合わせていました。|彼《かれ》は少し|遅《おく》れて来たわ」
「それから、ずっとそこに?」
「ええ、でも私たち、何もやましいことはありませんわ。ただ話をしていただけなんですから!」
|俺《おれ》はニヤリとした。陽子は険しい目で俺をにらんで、
「信じられないのね?」
「いや、〈やましい〉なんて、何とも|懐《なつか》しい言葉を聞いて|嬉《うれ》しくなっただけでね。――まあ、あの彼ならそういうこともあるだろう」
俺は|肯《うなず》いて、「で、|戻《もど》って来る時は別々に?」
「ええ」
「君が先か、それとも館野さんか?」
「私です」
「すると、事件の時、館野さんはまだ庭にいたことになる」
「でも――」
「分った、分った」
と彼女を押えて、「その点は本人から聞くよ」
陽子が出て行くと、少しして|館《たて》|野《の》が入って来た。
「|滝《たき》|川《がわ》君の具合はどうです?」
「まだはっきりしません」
「そうですか……」
館野は暗い面持ちで首を|振《ふ》った。
「ところで、あなたにも二、三|伺《うかが》わなくちゃならないんですがね」
「どうぞ」
「事件のあった前後、どこにいらっしゃいました?」
むろん陽子の話と|矛盾《むじゅん》がないかを聞くわけである。館野の話は陽子のそれと一致した。
「陽子さんが出てから、どれくらい|遅《おく》れてその場所を離れたんですか?」
「二、三分でしょう。計ったわけじゃありませんが」
「すると、あの|発《はっ》|砲《ぽう》があった時には、どこに?」
「あの窓の少し手前です」
「|銃《じゅう》の発射する火は見えましたか?」
「いいえ。ともかく暗いので、うつむいて歩いていましたから」
「銃声は聞いた?」
「ええ。何事かと思いましたが、まさか|銃《じゅう》とは思わず、そのまま歩いて行きました」
「その時、人影とか物音に気付きませんでしたか?」
|一瞬《いっしゅん》ためらってから、館野は、
「別に……」
と答えた。
「そうですか。では結構です」
|怪《あや》しい、と思ってもすぐに追及しないのがベテランというものである。立ち上った館野は居間を|一《いっ》|旦《たん》は出て行きかけたが、ドアの所でややためらい、また|戻《もど》って来た。
「正直に申し上げた方がいいですね」
とソファへ|腰《こし》をおろす。
「そうですね……」
内心ちょっとガッカリしながら|俺《おれ》は|肯《うなず》いた。〈貴様、何を|隠《かく》してるんだ!〉と問い|詰《つ》める楽しみがなくなっちまったじゃないか、|畜生《ちくしょう》!
「実は銃声を聞いて、そのままテラスの方へ|戻《もど》った時、ちょうど庭の|奥《おく》から歩いて来るのが見えたのです」
「|誰《だれ》が?」
「|淳《あつ》|美《み》がです」
――|関《せき》|根《ね》|淳《あつ》|美《み》は何やら捨てバチな感じだった。何がどうなろうと構うもんかって様子だ。
「館野さんと? ええ、池のあたりでしゃべってたわ。あんた立ち聞きしてたの?」
「いやそういうわけでは……。あの後、どうしました?」
「|寝《ね》たわ」
「すぐに?」
「ええ」
|俺《おれ》は内心ニヤリとした。待望の矛盾[#「矛盾」に傍点]が出て来たのだ。
「それはちよっと|妙《みょう》ですね」
と俺は言った。
「あらそう?」
「事件のあった少し後に、あんたが庭の方から歩いて来るのを見た人がいるんですよ」
俺は淳美の反応を|窺《うかが》った。だが、|彼《かの》|女《じょ》はいとも|涼《すず》しい顔だ。
「別に妙じゃないわ。その通りよ」
「その通り?」
「ええ、居間へ|戻《もど》る途中で|銃声《じゅうせい》を聞いたわ。何事かと思った」
「しかしさっきあんたは、館野さんと別れてすぐ寝た、と――」
「|誰《だれ》が|部《へ》|屋《や》で寝たって言った?」
淳美は平然と、「庭で寝てたのよ。――男とね」
やられた! 俺は|唇《くちびる》をかんだ。
「その時の状態を|詳《くわ》しく話しましょうか? |彼《かれ》がジャンパーを|脱《ぬ》いで草の上に広げ、私がそこへ|仰《あお》|向《む》けになったの。で、彼が私のスラックスを脱がして――」
「もういいです!」
俺は|遮《さえぎ》って、「ワイセツ罪で|逮《たい》|捕《ほ》しますぞ!」
「殺人|未《み》|遂《すい》|罪《ざい》じゃないの?」
「やったんですか?」
「やらないわよ。あの人を殺したら、せっかく手に入れたこの生活を失っちゃうじゃないの」
俺は息をついて、まじまじと淳美を見つめながら、
「……あんたは|館《たて》|野《の》さんの|恋《こい》|人《びと》だったそうですね?」
「|昔《むかし》ね。遠い昔よ……」
「今でも彼のことを|想《おも》ってる?」
「あんたに関係ないでしょ」
「でなきゃ、なぜここへ来たんです?」
「滝川さんに呼ばれたからよ。ここにいれば何不自由のない生活ができる。|一人《ひとり》|暮《ぐら》しに|疲《つか》れた私には、こんないい話なかったわ」
「ここへ来て何をしろと言われたんです?」
「別に……。ただ、いつもできるだけ|派《は》|手《で》な服装をしていてくれ、と……」
「一体どうして?」
「そんなこと、私知らないわ」
|淳《あつ》|美《み》は立ち上って、「もういいでしょ?」
「いや、ちょっと待って下さいよ」
「何なの?」
「その……相手の男は|誰《だれ》です?」
「そんなの、分るわけないでしょ!」
と淳美は笑いながら、「ああいうパーティは誰かれかまわずですからね!」
「しかし……|見《み》|憶《おぼ》えはないんですか?」
「真っ暗だったしね。お|互《たが》いに満足すりゃそれでいいんじゃないの」
|俺《おれ》はため息をついた。
「ま、その満足[#「満足」に傍点]の方はこっちは関係ないですよ。しかし、あんたのアリバイを立証できるのはその男なんですからね」
「こっちが暗くて分らなかったんだから、あっちだって分るわけないでしょ」
「……なるほど。それではもう一つ。昨夜のパーティの客を教えて下さい」
「私、知らないわ」
「何ですって?」
「お友達三人だけよ、知ってるのは。それ以外にその友達が連れて来た友達、そのまた友達、その友達……」
「分るだけでもいい!」
と俺はわめいた。「ともかく分る名前だけでもメモにして来るんです!」
「はいはい」
てんで|応《こた》えない様子で|淳《あつ》|美《み》が行ってしまうと、|俺《おれ》はグッタリ疲れてソファへへたり|込《こ》んだ。
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですか、警部?」
と|傍《そば》でメモを取っていた|長《なが》|倉《くら》が|訊《き》いた。
「ああ。ちょっと毒気に当てられただけだ」
「残念でしたね」
「何がだ?」
「あの場面はもう少し|詳《くわ》しくメモしたかったです」
「何を言ってる!」
その時ドアが開いて、|館《たて》|野《の》が入って来た。手に一枚の紙きれを持っている。
「警部さん。今、|部《へ》|屋《や》へ|戻《もど》ってみると、これがテーブルに……」
受け取ってみると、〈今夜十二時に|書《しょ》|斎《さい》へ来てくれ。話がある。|滝《たき》|川《がわ》〉とある。
「滝川さんの字ですか?」
「ええ、|彼《かれ》の字です」
「するとこれは昨夜の|内《うち》に……」
「考えてみると私は昨夜一晩、ずっと|部《へ》|屋《や》へ|戻《もど》っていなかったんです。十二時過ぎに戻りかけた時、あの|銃声《じゅうせい》がして、それからずっとこっちにいましたからね」
「すると……滝川さんは、あなたを待っていたのか、|書《しょ》|斎《さい》で」
「そうらしいですね」
「そんな夜中に、何の用だったんでしょう?」
「さあ……」
「思い当りませんか?」
「特に、これ、といって……」
「フム。すると犯人は、この手紙を読んで、十二時に滝川さんが書斎にいるのを知っていたんだ。そうでなければ、あんな夜中に、外から|狙《ねら》うなんてことを考えるはずがない」
「というと、どういうことに……」
「あなたの部屋はどこです?」
「一番建物の|外《はず》れですよ」
「昨夜のパーティの客の出入りするような場所ではないようですね。つまり、犯人はやはりこの|邸《やしき》の中に住んでいる人ということでしょうね」
|至《し》|極《ごく》当然の結論を|俺《おれ》は引き出した。
4
昼|頃《ごろ》になっても、|滝《たき》|川《がわ》の容態ははかばかしくなかった。相変らず意識不明の状態が続いている。
|俺《おれ》は|邸《やしき》に残って、|書《しょ》|斎《さい》や、|銃《じゅう》の落ちていた庭の付近を調べ直すことにした。
書斎も今はガラスの破片が取り片付けられている。ただ滝川の|倒《たお》れていた位置に、例の人の形が描かれているのが、いつ見ても気持のいいものではない。
俺は|壊《こわ》れた窓へ近寄って、庭を|眺《なが》めた。窓際にテーブルがあって、そこにスタンドがあったのだ。そのスタンドも、|散《さん》|弾《だん》をくらって|砕《くだ》けてしまったが……。暗い外から見れば、スタンドの明りに照らされて、滝川の姿がくっきりと|浮《うか》んで見えるに違いない。
しかし――俺はふっと思った。なぜ[#「なぜ」に傍点]、滝川はスタンドをつけていたのだ[#「滝川はスタンドをつけていたのだ」に傍点]? 書斎の明りは消えていた。|館《たて》|野《の》を呼んで話をするのに、なぜそんなに暗くする必要があったのか……。
「何かあるぞ、こいつは」
推理小説の|名《めい》|探《たん》|偵《てい》よろしく、俺は|呟《つぶや》いた。(名探偵が「こいつ」なんて言わないかな?)
俺は庭へ出ると、銃のあった場所へ行ってみた。そこはゆるい下りの|斜《しゃ》|面《めん》になっている。実際に腹ばいになってみると、ちょうど具合よく斜面から顔が出て、銃を構えても非常に安定がいい。少し窓を見上げる|格《かっ》|好《こう》になるが、視界を|遮《さえぎ》る物もなく、少し距離はあるが、銃の|腕《うで》に少しでも自信があれば|外《はず》すことはあるまい。
しかし、|都《つ》|合《ごう》よく窓際に滝川が姿を見せなかったら、どうするつもりだったのだろう?
俺は書斎へ|戻《もど》ると、|鑑《かん》|識《しき》に結果を聞こうと受話器を上げかけて――また戻した。例のテーブルの足の方へ目が行ったのである。かがみ込んでみると、|絨毯《じゅうたん》に、テーブルの足が食い込んだ|跡《あと》がついている。今の位置から五十センチほど横にずれているのだ。
その跡から見ると、テーブルはごく最近、今の場所へ動かされている。――|偶《ぐう》|然《ぜん》だろうか?もし、元の場所のままだったら、テーブルは窓まで届かない。つまり、スタンドも、窓の前へは出ていないことになるのだ。
|俺《おれ》は立ち上って、|上《うわ》|衣《ぎ》のごみを|払《はら》った。さっき|腹《はら》|這《ば》いになったおかげで、草がくっついてしまっていた。せっせと払って、もう一度受話器を上げると――|他《ほか》の電話で通話中だった。俺は耳を傾けた。
「でたらめ言わないで!」
と突き|刺《さ》さるような声は|関《せき》|根《ね》|淳《あつ》|美《み》だ。
「でたらめだと思ってるのかい?」
相手の男の声はどうもかなりのワルと聞こえた。「俺があんたと楽しんでるとこを、俺のダチが赤外線フィルムで写してたんだぜ」
「何ですって!」
「あんたのヌードがバッチリさ。これをあの男へ送ってやろうか」
「待って! それは……」
「へへ……。どうするね? あんた|次《し》|第《だい》だ」
「いくらほしいのよ?」
「差し当り五十万だな」
「無理よ! そんな……」
「いいかよく聞け、場所と時間を言うからな……」
|俺《おれ》はよく聞いて、メモを取った。
午後四時。――N公園は大学生らしい男女で結構にぎわっている。
「来ますかね?」
と|長《なが》|倉《くら》が言った。
「|間《ま》|違《ちが》いなく来るさ。彼女、金の|工《く》|面《めん》に走り回ってるんだろう」
「俺なんかいくら工面したって……五千円だな」
「わびしくなるようなこと言うなよ」
「でも、警部、こんなことしてていいんですか?」
「何がだ?」
「殺人|未《み》|遂《すい》の方は――」
「分ってるよ! しかしな、どんな所から解決するか分らないんだ。何事もおろそかにせずに――おい、来たぞ!」
俺と長倉は、誰だか聞いたことのない|奴《やつ》の銅像の台の陰へ隠れた。長倉がはみ出すんじゃないか、と俺は心配だった。
関根淳美は落ち着きのない足取りで、周囲をキョロキョロ見回しながらやって来た。すると、今まで学生風に、ベンチで本を手に談笑していた二人の若者が立ち上って、さり|気《げ》なく|彼《かの》|女《じょ》を前後から挟むようにすると、話を始めた。
「行きますか?」
と|訊《き》く長倉を、
「待て。彼女が金を渡してからだ」
と|抑《おさ》える。淳美がバッグから|封《ふう》|筒《とう》を取り出して、若者の|一人《ひとり》へ|渡《わた》した。
「よし、行こう!」
|俺《おれ》と|長《なが》|倉《くら》は|大《おお》|股《また》に三人の方へ近付いて行った。最初に淳美が気付いてハッとした。封筒の中身を|覗《のぞ》き込んでいたその若者も、やっと気付いて、
「|畜生《ちくしょう》! サツだ!」
と|駆《か》け出す。それぞれ反対の方へ駆け出した二人を、俺と長倉が追いかけて……ものの十秒とはかからなかった。ともかく長倉は|逃《に》げる|奴《やつ》のえり首をグイとつかんで、ネコの子みたいに持ち上げてから、バタバタ暴れるそいつをドシンと地面におっことした。
「イテテ……」
と|腰《こし》を|押《おさ》えてひっくり返る。|一丁《いっちょう》上り。俺の方はもう少し|格《かく》|闘《とう》らしい格闘の結果、ちょっと手こずったが、|手刀《てがたな》を一発胸へくらわすと、のびてしまった。……ダテに警部をやってるんじゃねえぞ。
「|大丈夫《だいじょうぶ》か?」
青くなって|震《ふる》えている淳美へ、俺は言った。
「ゆすりには一度応じるときりがない。……任せておきなさい」
「すみません……」
と淳美は顔を|伏《ふ》せた。
「さあ、立て!」
俺はその若者を引っ張って起こしてやったが、その時、若者の服に草がついているのが目に|止《とま》った。――ここはレンガ|敷《じき》の|舗《ほ》|道《どう》だ。草のつくはずがない。その草は、さっき俺が滝川|邸《てい》の庭で|腹《はら》|這《ば》いになった時、服についたのと同じように見えた。
「おい、長倉!」
俺は|奴《やつ》へ|手錠《てじょう》をかけながら、「こいつを連れてって、手から|硝煙《しょうえん》反応が出ないか調べさせろ!」
若者はキッと俺をにらんだが、すぐにガックリして、言った。
「分ったよ。……俺だよ、|撃《う》ったのは」
実際、何事もおろそかにしてはいけないのだ。
滝川が意識を取り|戻《もど》したと聞いて病院へ|駆《か》けつけたのは、夜に入ってからだった。病院の|廊《ろう》|下《か》では、署長が|苛《いら》|々《いら》と動物園の|熊《くま》みたいに歩き回っている。
「署長! どうです具合は?」
「|俺《おれ》の具合なら最低だ!」
と|喚《わめ》いて、「どうなっとるんだ、|捜《そう》|査《さ》の方は?」
「犯人は|逮《たい》|捕《ほ》しました」
署長は目をパチクリさせて、
「何だと?」
「|秋《あき》|本《もと》っていうチンピラですよ。|滝《たき》|川《がわ》さんに会えるんですか?」
「あ……ああ」
「じゃ、手っ取り早く|済《す》ませましょう」
俺は署長を従えるという感じで(実にいい気分だ!)病室へ入って行った。ベッドの|傍《そば》に、|館《たて》|野《の》と|陽《よう》|子《こ》が立っている。
「滝川さん」
俺はゆっくりとベッドに近付いて、「あなたを撃った男を|捕《つか》まえましたよ」
滝川が|一瞬《いっしゅん》、目を見開いた。陽子が、
「まあ、よかった!」
と声を上げる。
「|誰《だれ》ですか?」
と館野が|訊《き》いた。
「秋本というチンピラで、|射《しゃ》|撃《げき》の|腕《うで》だけは割にいい|奴《やつ》です」
「しかし、どうして滝川君を……」
「金で|頼《たの》まれたのです」
|一瞬《いっしゅん》、重苦しい沈黙があった。
「誰ですの、頼んだのは?」
と陽子が|訊《き》いた。|俺《おれ》はベッドの滝川へ視線を向けて、言った。
「滝川さん[#「滝川さん」に傍点]です」
俺はちょっと間を置いて、「どうもこの|狙《そ》|撃《げき》には|妙《みょう》な所が多すぎましたよ。|書《しょ》|斎《さい》のテーブルをわざわざ窓の方へ動かし、スタンドの光が外から見えるようにしたり、書斎の明りを消してスタンドだけつけてあったり……何だか、滝川さんがわざと[#「わざと」に傍点]標的になったように見えましてね」
「まさか!」
と館野が言った。「自殺しようとしたとおっしゃるんですか?」
「いや、違います。これは|手《て》|違《ちが》いだったんです」
「手違い?」
「殺されるのは、館野さん、あなたのはずでした」
「何ですって!」
「秋本は、こう頼まれたのです。『十二時過ぎに、あの窓を見ていると、スタンドの明りを|点《てん》|滅《めつ》させる。その後に、窓へ姿を現した男を|撃《う》て』とね。秋本は滝川さんの顔もよく知らなかった。その辺は滝川さんも|抜《ぬ》かりなく、|後《あと》くされのないように、|巧《うま》く秋本へ|接触《せっしょく》したのですね。しかし、顔を知らないだけに、秋本は依頼主を撃ってしまったというわけです」
滝川が力なく|呟《つぶや》いた。
「|馬《ば》|鹿《か》め……。スタンドを点滅などさせなかったのに……」
「お父さん……」
陽子が|呆《ぼう》|然《ぜん》と呟いた。俺は続けた。
「滝川さんは自分で警察へ電話をし、自分の命が|狙《ねら》われている、と告げた。そうしておいて、館野さんが撃たれれば、滝川さんと間違って[#「滝川さんと間違って」に傍点]撃たれたのだと思われるに違いないという計算だったのです。館野さんを|書《しょ》|斎《さい》に呼び出しておいて、入って来たらスタンドを点滅させる。そしてさり|気《げ》なく話をしながら、館野さんに、窓から外を|覗《のぞ》かせる……。口実は何とでもつけられます」
陽子がゆっくりと首を|振《ふ》った。
「お父さん……。なぜ? なぜ、そんなことを……」
滝川はじっと館野を見上げながら、
「館野……。私は君が|憎《にく》かったんだ」
「滝川君……」
「君は自分の主義を|貫《つらぬ》いた。しかし私は|挫《ざ》|折《せつ》し、志とは正反対の道を歩いてしまった。……君が自分の主義に忠実だったために職を失ったと知って、私は君に負けた[#「負けた」に傍点]と思ったんだ」
「何を言うんだ!」
「社会的には私が成功者で、君は敗残者かもしれん。しかし、君がそうして|不《ふ》|遇《ぐう》に|甘《あま》んじている限り、私はいつまでも〈裏切り者〉なんだ。――私は君を養い、|部《へ》|屋《や》を与え、服を与えた。そうだ。陽子の言う通り、君が私の成功を|羨《うらや》むように仕向けたんだ。君が私を|憎《にく》んでくれれば……私も君への敗北の意識で苦しまずに|済《す》む。君の|恋《こい》|人《びと》を連れて来て、わざと|蓮《はす》っ|葉《ぱ》な格好をさせ、君の夢を打ち|砕《くだ》こうとした。自分の愛人にもした。……しかし、君は私を憎んではくれない。そして陽子までも、君を愛するようになってしまった。……分るか。これは私の完全な敗北だ。私は君を自分と同じ所へ引きずり下ろしたかったのに、君はいつも|超然《ちょうぜん》としていた。……残された手段は、君を殺すことだけだったんだ。しかし、それも、こんなザマだ!……君には勝てなかったよ、ついに」
|館《たて》|野《の》は、|驚《おどろ》いたことに、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「滝川君。君がそんな風に考えることはないんだ。君には守るべき財産や地位があったが、私には何もなかった。それだけのことさ。私は自由な立場だった。……君のように、生れながら責任を負わされた人間とは違うんだ。それだけのことじゃないか……」
館野は滝川の手を|握《にぎ》った。――やれやれ、世の中には|奇《き》|特《とく》な|奴《やつ》もいるものだ。殺されかけても、友情を捨てないとはね。こうなると|俺《おれ》もお手上げだ。|可愛《かわい》い|娘《むすめ》がそんな男に|夢中《むちゅう》になるのも許せるって気がして来る。
「でも、警部」
|長《なが》|倉《くら》が病院を出ると、言った。「あの|秋《あき》|本《もと》って|奴《やつ》は、確かにスタンドが点滅したから撃ったんだと言ってましたよ」
「ああ」
「どっちが本当なんでしょう?」
「どっちもさ」
長倉が〈?〉マークを絵でかいたような顔をする。
「いいか、あの時、何があったか、よく考えてみろ。秋本の奴は草の上へ|腹《はら》|這《ば》いになって今か今かと待っていた。そこへ、あの|娘《むすめ》が、|書《しょ》|斎《さい》の窓の前を[#「窓の前を」に傍点]通ってテラスの方へ歩いて行ったんだ。昨晩は|闇《やみ》|夜《よ》で、真っ暗だった。秋本には彼女の姿は見えなかった。しかし、彼女は、秋本と書斎の窓の間を横切った。つまり、彼女の姿で、スタンドの光が遮られた[#「光が遮られた」に傍点]わけだ」
「なるほど、それで点滅したと|勘《かん》|違《ちが》いして……」
「そう。そこへ滝川が庭の様子が気になって顔を出した。すかさず秋本は引金を引いたってわけだ」
「|偶《ぐう》|然《ぜん》ってのは面白いですね」
「全くな。――おい、もう一つ発見したぞ。|貧《びん》|乏《ぼう》|人《にん》の方が金持よりいい点をな」
「何です?」
「貧乏人の方が自由だ!」
「そうですか? でも|俺《おれ》、借金で首が回らないんですけど……」
と長倉が情ない顔で、「|夜《よ》|逃《に》げの自由ってのはありませんかね」
花嫁の父
1
「お早うございます」
|大《おお》|江《え》は〈|銀《ぎん》|鳳《ぽう》|閣《かく》〉の正面|玄《げん》|関《かん》を入ると、ボーイの|栗《くり》|田《た》に|挨《あい》|拶《さつ》した。「〈|花《か》|壇《だん》・その〉でございます」
「ああ、〈その〉さんね」
栗田は|面《めん》|倒《どう》くさそうに|肯《うなず》いて見せると、|大《おお》|欠伸《あくび》をした。「運んどいてよ」
「はい、今……」
大江が、|盛《せい》|花《か》や|花《はな》|束《たば》を積んだ店のトラックの方へ|戻《もど》ろうとすると、栗田が、
「おーい! あんたの所ね、この前も|枯《か》れてる花が混じってたよ」
「それはどうも申し訳ございません」
「困るんだよね、お客さんに|怒《おこ》られるの、こっちなんだからさ」
「よく気を付けますので……」
「おっさん、古いのと入れ|替《か》えて余計に|浮《う》かして|懐《ふところ》に入れてんじゃないの?」
|大《おお》|江《え》は笑って、
「とんでもありませんよ。そんな事したら形が|崩《くず》れちまって、使い物になりません」
「何でもいいけどさ、ちゃんと|活《い》きのいいのを持って来てよね」
「はいはい、かしこまりました」
大江は玄関前の階段を急いで降りて行った。|栗《くり》|田《た》は追いかけるように、
「おい! ゴム|長《なが》|靴《ぐつ》で|汚《よご》すなよ! 大理石の階段なんだからな!」
フロントの方へ|戻《もど》りかけて、目の前のタキシード姿に気付き、ギョッとして、「あ、支配人! お早うございます」
「お早う」
|藤《ふじ》|木《き》は軽く|肯《うなず》いた。もう五十|歳《さい》になっているが、若い栗田と同じくらいの|背《せ》|丈《たけ》があり、がっしりとした体格で、目の前の部下を|威《い》|圧《あつ》する印象があった。
「今のは〈その〉の大江さんだな」
「は、はい。最近、ちょっと花が古いのが目立つので……注意してやったんです」
「注意はいいが、口のきき方に気を付けなきゃいかん。たとえ出入りの業者でも、向うはお前の父親の|年《ねん》|齢《れい》だぞ。それなりの口のきき方があるだろう」
|口調《くちょう》が|穏《おだ》やかなだけ、藤木の言葉は口答えを許さぬものがあった。
「は、はい……」
と栗田はすっかり小さくなっている。
「もう行っていい」
と|栗《くり》|田《た》を行かせると、|藤《ふじ》|木《き》は|玄《げん》|関《かん》へ出た。|大《おお》|江《え》が|花《はな》|束《たば》を入れた大きなポリ容器をかかえてやって来る。
「やあ、大変だね」
「どうも、お早うございます」
「|腰《こし》の方はもういいのか?」
「ええ、おかげさまで、|大《たい》した事はありません。|怠《なま》けちゃいられませんや」
大江はもう六十|歳《さい》を過ぎていた。決して|頑《がん》|健《けん》な体ではないので、花の|運《うん》|搬《ぱん》も楽ではなかった。しかし|一人《ひとり》|暮《ぐら》しの身では、職を失えば、たちまち明日から食べる物にも困る。正直、腰の痛みは去っていなかったが、三日間休んでから出勤した時の、店主の冷ややかな視線は骨の|髄《ずい》まで|突《つ》き|刺《さ》さった。これ以上休んだら、「もう来るには|及《およ》ばないよ」と言われるのは目に見えている。――そうなったら、この年齢で、一体どこで使ってくれるだろうか。
「――ご苦労さん」
藤木は、花束を運び終えた大江の手に、千円|札《さつ》を|握《にぎ》らせた。
「そんな……いつも申し訳ありません」
「いいんだ。それより、若い連中の言う事は気にしないでくれよ」
「この|年齢《とし》になっちゃ、怒るのに元気を使ってた日にゃ長生きできませんや」
「全く、年上の人間を敬うという事を知らんのだから!」
大江は話を変えて、
「今日は|大《たい》|安《あん》ですね。花も多いわけで」
「おかげでこっちはてんてこ|舞《ま》いさ。何しろ社長はつめ込めるだけつめ|込《こ》め、っていう主義だからね」
「はあ……。|並《なら》んでますねえ」
大江は|腰《こし》に|挟《はさ》んだ|手《て》|拭《ぬぐ》いで額に|浮《う》いた|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》いながら、〈本日の挙式〉と書かれた下にズラリと|並《なら》んだ|札《ふだ》を|眺《なが》めて感心した。
「式場はフル回転だよ。|花《はな》|嫁《よめ》か|花《はな》|婿《むこ》が|遅《おく》れたりしたら大変だ。次がつかえてるからね」
「ご|繁盛《はんじょう》で結構じゃありませんか……」
と笑顔で言った大江の言葉が、ふと|途《と》|切《ぎ》れる。〈中山家・頼野木家〉と書いた|札《ふだ》が目に|止《とま》ったのである。
「……これは……変ったお名前ですね」
と、ややぎごちない口調になる。
「ん? ああ、それかい? |頼《より》|野《の》|木《ぎ》というんだ」
「頼野木……」
「東大の教授なんだよ、父親はね。|一人娘《ひとりむすめ》の嫁入りだとかで、ずいぶん熱心に相談に来られてな。私も直接父親にお会いしたが、なかなか人格者だった」
「一人娘……。そうですか。|寂《さび》しいでしょうなあ……」
「だろうね。私は|娘《むすめ》がないから分らんが……」
大江はふと我に返ったように、
「あ、すっかりお|邪《じゃ》|魔《ま》しまして……。では、またよろしくお願いいたします」
「休みの日にでも遊びに来なさい」
と|藤《ふじ》|木《き》は暖かく|微《ほほ》|笑《え》みかけた。
トラックへ|戻《もど》ると、運転席の|兼《けん》|造《ぞう》が|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な顔で、
「何のんびりしてんだよ。|遅《おく》れたらまたオヤジにドヤされるぜ」
「ごめんごめん」
大江は素直に謝って、「支配人とつい話してしまってね」
「|俺《おれ》はいいけど、オジサン、困るだろ? クビになったらよ」
兼造はまだ二十二|歳《さい》の若者で、口は悪いが、|心根《こころね》の|優《やさ》しい男である。以前、|途中《とちゅう》で大江が気分が悪くなって配達が遅れた時にも、車の故障で、と店主に言ってかばってくれていた。
「|済《す》まん。気を付けるよ」
「|後《あと》三つ回らなきゃならねえな。|大丈夫《だいじょうぶ》かい? きつかったら手伝うぜ」
「ありがとう。大丈夫だよ。あんたに手伝ってもらったりしたら、それこそわしはお|払《はら》い箱さ」
花を積んだ小型トラックは、朝の町へと走り出して行った。午前八時。まだ町は|寝《ね》ぼけて|瞼《まぶた》も開ききらないでいる。
|頼《より》|野《の》|木《ぎ》。東大教授。――|間《ま》|違《ちが》いない。大江は窓の外へ目を向けながら、何も見てはいなかった。――そうか。|嫁《よめ》に行くのか。
「|岐《みち》|子《こ》……」
大江はそっと|呟《つぶや》いた。
岐子は階段を上って来ると、自分の|部《へ》|屋《や》のドアを開け、その場に立って、部屋の中をゆっくりと見回した。
「ずいぶん殺風景になっちゃったな……」
それはそうだ。ビートルズのポスターも、自分の|下手《へた》な油絵も、みんな|外《はず》してしまったのだから。もう何だか自分の部屋ではないような、よそよそしさを感じて、ちょっとばかり|寂《さび》しくなる。
部屋へ入ると、ドアを閉めて、ベッドの上に|腰《こし》を降ろした。このクッションの感覚、マットレスの小さな|裂《さ》け|目《め》、そんな事が|妙《みょう》に楽しい。目を上げると、高校の時からずっと使った机がある。当世風の、あれやこれやと完備したのではなく、ただの四角い、重い木の机である。岐子はこの机が好きだった。父がこれを選んで買ってくれた時には、本当に父を|抱《だ》き|締《し》めて喜んだものだ。――まだ助教授だったあの|頃《ころ》は、生活もそう楽ではなかった。その時に、モダンな机よりずっと高価な、この重々しい机を買ってくれたのが、後でピアノを買ってもらった事より|嬉《うれ》しかった。
|岐《みち》|子《こ》は立って行って、机に向って座った。表面の|手《て》|触《ざわ》り、インクのしみ、ナイフの|傷《きず》|跡《あと》……。ここに岐子の青春がしみ|込《こ》んでいる。広い家に住めるのなら、持って行くんだけど、と岐子は思った。
「岐子、いるのか?」
ドアの外から、父の声がした。
「いませんよ」
父は笑いながら入ってきた。|頼《より》|野《の》|木《ぎ》|夏《か》|一《いち》は、|髪《かみ》が白くなっているせいで、|年《ねん》|齢《れい》より五、六|歳《さい》は|老《ふ》けて見えた。
「そろそろ出かける時間だぞ」
「ウン。別れを|惜《お》しんでたとこ」
岐子は父親の顔を見て、「ねえ、お父さん、この机、|誰《だれ》にもあげたりしないでね」
「当り前だ」
「ならいいけど。――広い所に住めるようになったら持って行くんだ」
「アパートに入らないのか」
「|冗談《じょうだん》じゃないわよ。机の上に|布《ふ》|団《とん》|敷《し》いて寝なきゃなんない」
「だからマンションを買ってやると言っているのに……」
「その|内《うち》、自分たちの力で買うわ。――ごめんね」
「お前の好きにするさ」
|頼《より》|野《の》|木《ぎ》は岐子の|肩《かた》を|叩《たた》いて、「さ、行こう。母さんが|苛《いら》|々《いら》してるだろう」
――階段を降りながら、頼野木はふと気になった様子で、
「あの男、どうしたかな。ほら――」
「|神《かん》|田《だ》君?」
「そうそう。このところ、手紙も電話もないな」
「結婚する、って言ってやったから|諦《あきら》めたんでしょ」
「それならいいが……。ずいぶんしつこく付きまとってたからな」
「そう悪く言っちゃ|可哀《かわい》そうよ」
と|岐《みち》|子《こ》は|苦《にが》|笑《わら》いして、「何でも思いつめる|性質《たち》なのよ、神田君は。|真《ま》|面《じ》|目《め》で|一《いち》|途《ず》で、結構いいところもあるのよ。頭もいいし」
「しかし、どうも私は好きになれんね」
「お父さんは私のボーイフレンドはみんな好きになれなかったじゃないの」
二人は|一《いっ》|緒《しょ》に笑った。母の|絹《きぬ》|江《え》が顔を出して、
「二人とも何やってるんです! 早く支度して! 岐子、お前の|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》なのよ」
「はーい」
「旅行のトランクは? 忘れ物ないの? 飛行機の|切《きっ》|符《ぷ》は?」
やれやれ、ムードないんだから、と岐子はため息をついた。
「はい、|銀《ぎん》|鳳《ぽう》|閣《かく》でございます」
「もしもし、ちょっと|伺《うかが》いたいんですが」
「どういうご用件でしょう?」
「今日、そちらで|頼《より》|野《の》|木《ぎ》さんという|方《かた》の結婚式があると思うんですが。招待状を|失《な》くしてしまって……。時間が何時からだったか分りますか?」
「お待ち下さい。より……?」
「頼野木。|頼《たの》む、という字に、野原の野、木です」
「分りました。……お式は午後三時、|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》は四時からでございます」
「どうも」
「いいえ。お待ちしております」
感じのいい|交《こう》|換《かん》|手《しゅ》だな、と|神《かん》|田《だ》|規《のり》|夫《お》は思った。|岐《みち》|子《こ》さんもいい所を選んだものだ。
指が痛んだ。何しろ、都内の主な結婚式場へ、|片《かた》っ|端《ぱし》から電話をかけたのだ。しかし、二十何度目かで、|巧《うま》く見付かったのは幸運だった。幸運といえば、岐子の|姓《せい》が頼野木という変った名なのもそうだ。これが佐藤とか田中だったら、とても調べられまい。
式三時、披露宴四時か。|充分《じゅうぶん》に時間はある。これも幸運の内だろうか。――幸運というのも|妙《みょう》だな、と神田は苦笑した。一体|誰《だれ》にとって幸運なのか。自分にとってか、岐子にとってか……。
神田は自分の部屋へ|戻《もど》った。母はまだしばらくは帰って来ないだろう。あれだけ電話をかけても|大丈夫《だいじょうぶ》だったのは|都《つ》|合《ごう》よく母が出かけていたからで、それも幸運の内に入るだろう。神田はハンガーにかけた背広のポケットから定期入れを出し、中から一枚の写真を取り出した。
|岐《みち》|子《こ》が笑っている。夏の|軽《かる》|井《い》|沢《ざわ》だ。赤いTシャツ、白いショートパンツ、すらりとのびた足がまぶしい。あの|頃《ころ》は、岐子は|髪《かみ》を短く切っていた。顔だけを見ると、あどけない美少年のようで、|二十歳《はたち》には見えない。けれどもTシャツの下の胸の|膨《ふくら》みは、もう|彼《かの》|女《じょ》が|充分《じゅうぶん》に成熟した女性である事を示していた。――それは岐子との出会いの時の写真だ。
テニスを習い初めだった彼女が、とんでもない方向へ球を飛ばし、一人で野原に|寝《ね》|転《ころ》がっていた神田の目の前に球が落ちて来たのである。びっくりして起き上ると、彼女が、走って来て、
「すみません! 大丈夫でしたか?」
と|訊《き》いた。純白のテニスウェアの岐子が突然目の前に立ち現れた|瞬間《しゅんかん》に、神田はもう心を|奪《うば》われてしまった。この出会いが、|彼《かれ》の人生を決めてしまったのだ。
その日一日、神田はテニスコートの|金《かな》|網《あみ》の囲い|越《ご》しに、じっと彼女を|眺《なが》めていた。若々しさ、軽やかさ、|輝《かがや》かしさ……。その日の岐子には、青春の|総《すべ》てがあった。神田もまだ二十四|歳《さい》だったが、高卒で小規模な会社に勤めていたから、すでに六年間の社会人生活を送っていたわけで、もう、二十七、八|歳《さい》に見えた。そして彼自身、自分がもう若くないのだと思っていた。毎日が|疲《つか》れるばかりで、張り合いも、生きがいもない。会社でも大学卒の社員が多い事もあって、付き合いもなく、|孤《こ》|独《どく》だった。幼い頃に父親を亡くし、母と二人で|暮《く》らして来たという事情も一因だったのかもしれないが、彼はどこか生気に欠けていて、目立たない存在であった。
自分が|恋《こい》をする事があるなどとは、考えた事もなかった。――それなのに、運命は(彼は本心から運命だと信じていた)彼を|岐《みち》|子《こ》に引き合わせたのだ。
出会った日、テニスコートから彼女の後を|尾《つ》けて、|泊《とま》っているホテルを確かめた神田は、その夜、ホテルのロビーで彼女を待ち受けた。そしてあたかも|偶《ぐう》|然《ぜん》の出会いのように|驚《おどろ》いて見せ、|一《いっ》|緒《しょ》に夕食を、という彼女の|誘《さそ》いをためらいながら受け容れた。むろん|食卓《しょくたく》は二人だけではなく、彼女の友人たち数人と同席の|賑《にぎ》やかなものだったが、彼にとっては岐子一人しか存在していないも同然であった。
彼女が東京の女子大生と知って、彼は再会を約して別れた。それは|生涯《しょうがい》最高の一日だった……。
東京へ|戻《もど》って、二人はたまにデイトするようになった。しかし、恋は|歓《よろこ》びや幸福のみを運んでは来ない。|嫉《しっ》|妬《と》、|苛《いら》|立《だ》ち、自己|嫌《けん》|悪《お》、|憎《にく》しみ……。そういったものまでも、|伴《ともな》ってやって来る。三度とデイトを重ねない|内《うち》に、神田はすでに、暗い|行《ゆく》|手《て》を見通す事ができた。
若い、|好《こう》|奇《き》|心《しん》が|旺《おう》|盛《せい》な岐子にとっては、神田は余りに常識人で、年寄りじみていて、|退《たい》|屈《くつ》だった。面白い場所へ連れて行ってくれるでもなく、|愉《ゆ》|快《かい》な話をしてくれるでもない。|真《ま》|面《じ》|目《め》で、誠実ではあるが、岐子は道徳の教師をボーイフレンドに持つのは|嫌《いや》だった。
神田にも、岐子の気持はよく分っていた。しかし、分っても、どうする事もできない。今さら無理に若返る気もなかったし、そんな事をしても、ますます自分が|惨《みじ》めに見えるだけだろう、と思った。――案の|定《じょう》、次第に岐子は彼の誘いを、何かと口実を作って|断《ことわ》るようになり、たまに会っても、早々に帰ってしまう、という具合だった。
彼は身を引いた。たまの手紙のやりとりと、電話で話すだけで心の|渇《かわ》きをいやす事にしたのだ。それは彼が冷静に判断した結果というわけではなかった。ただ、|岐《みち》|子《こ》から、決定的な言葉を聞くのが|怖《こわ》かったのである。|絆《きずな》を完全に断ち切られるよりは、たとえ細々とでもつながっていれば……そう、その内に、岐子も大学を出て社会へ出て行けば、男性への|眼《め》も変わるかもしれない。神田は、わずかな望みをそこへ|託《たく》していたのである。
その|夢《ゆめ》までもが|砕《くだ》かれたのは、二か月前の事だ。岐子から来た|封《ふう》|書《しょ》の手紙を見て、いやな予感がした。いつも彼が長い手紙を書くと、二、三週間してからハガキの返事が来るのが常だったのだが、こっちから手紙も出さないのに、彼女が手紙を寄こすとは、いい話のはずがない。内容は|恐《おそ》れていた通りのものだった。〈大学を卒業したら、六月×日に結婚します。相手は、一年ほど前にお見合して以来お付合いして来た人で、エレクトロニクスのエンジニアです。短いご交際でしたが、ありがとうございました。神田さんも早くいい方を見つけて下さい。……〉
|後《うし》ろめたさがあるのか、いつになく文面は|愛《あい》|想《そ》が良かった。だか、結果は同じだ。首を|絞《し》めるのに、太い|荒《あら》|縄《なわ》ではなく、ストッキングを使ったというだけだった。
長い|孤《こ》|独《どく》に|堪《た》えて来た後だけに、そのショックは大きかった。同時に、自分がいかに|彼《かの》|女《じょ》を愛しているかを思い知った。その夜一晩、彼女の手紙を見つめて明かした後、神田は心を決めた。
――母が戻らない内に出かけよう。神田は岐子の写真を定期入れに戻すと、背広を|着《き》|込《こ》み、ネクタイをしめた。
台所へ行って、小型の肉切り包丁を取り出し、きっ先の|鋭《するど》さを確かめてから、ていねいにハンカチでくるんだ。それを内ポケットに入れて、家を出る。
十一時だった。
「どうだ?」
|克《かつ》|美《み》はリナの方へ向き直った。黒のダブルの上下、シルバータイ。胸元に|覗《のぞ》くハンカチ。「借り物の背広だから、ちょっとダブダブしてるけどな」
「でも分んないわよ、そう言われてみないと」
リナはベッドから|裸《はだか》の上半身を出して、克美を|眺《なが》めていた。「そんな格好してると三十くらいに見えるよ」
「そこが|狙《ねら》いさ」
「気を付けてよ」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。今日は|大《たい》|安《あん》だぜ。どこの式場も超満員さ。一人くらいどこへ|紛《まぎ》れ込んだって気付かれやしない」
と克美は自信たっぷりだ。
「今日はどこへ行くの?」
「三、四か所回ってみるつもりさ」
「|大丈夫《だいじょうぶ》?」
「任せとけって。|稼《かせ》ぎ時だからな」
「無理して|捕《つか》まっちゃ元も子もないよ」
「少々の危険は覚悟の上さ。この間みたいに一か所で百五十万なんて所もあるからな。やめられねえ商売さ」
克美は結婚式場をうろついて、受付にたまった|祝儀袋《しゅうぎぶくろ》をそのままちょうだいして来るのが商売[#「商売」に傍点]であった。だから当然、混み合った式場、客数の多い|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》の受付を|狙《ねら》う事になる。今は出席者も祝金を一万円は出すから、客の半分が祝儀袋で出したとして、百人の会場なら五十万の|稼《かせ》ぎになる。
そもそものきっかけは、|克《かつ》|美《み》がアルバイトに式場のボーイをしていた時である。披露宴が始まり、受付をやっていた|振袖姿《ふりそですがた》の女の子が、受付をたたんで会場へ入って行く時、祝儀袋が一つ落ちたのに気付かず、そのまま行ってしまったのだ。見ていた克美は拾って追いかけようとして、ふと周囲に|誰《だれ》もいない事に気付いた。このままポケットへ入れてしまっても、誰も気付くまい。後になって、あの人から祝儀が来ていない、と首をひねるとしても、常識的に考えて、その当人に|訊《き》いてみる事はないだろう。もし訊いてみて、なくなったのが分っても、それが|盗《ぬす》まれたのだと届け出るだけの|証拠《しょうこ》もないはずだ。
そこまで思いついた時、克美はためらわず祝儀袋をポケットへねじ込んだ。そしてトイレへ行って、中身だけを取り出し――三万円入っていた――袋の方は細かく引き|裂《さ》いて流してしまった。予想通り、何も問題にならずに|済《す》んだ。
以後はエスカレートする一方で、半年とたたない内に、克美は式場|荒《あら》しで大いに|稼《かせ》ぐようになっていたのである。スナックで知り合ったリナと|同《どう》|棲《せい》するようになり、割合に広くて小ぎれいなアパートも借りた。
「じゃ行って来るぜ」
「帰りにウイスキー買って来てよ」
「いいよ。おっと、忘れるところだった、|肝《かん》|心《じん》の商売道具」
|克《かつ》|美《み》はタンスの引出しから、|引《ひき》|出《で》|物《もの》を包むのに使う|紫《むらさき》の|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》を出してポケットへ入れ、軽く|口《くち》|笛《ぶえ》を吹きながら部屋を出た。
2
「式が三時、|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》が四時ですね。どうもありがとうございました」
|大《おお》|江《え》は受話器を置くと、|戻《もど》って来た十円玉をポケットへ入れて、テーブルへ戻った。食べるのが早い|兼《けん》|造《ぞう》は、もうカレーライスを三分の二は食べてしまっている。
「何の話だい?」
と兼造は|訊《き》いた。「|銀《ぎん》|鳳《ぽう》|閣《かく》へかけたんだろ、聞こえたぜ」
「耳がいいんだなあ」
と大江は笑って、カレーライスを食べ始めた。「なに、ちょっと知ってる人があそこで今日式を挙げるもんだから……」
「へえ、偶然だね」
「全くね。|珍《めずら》しい名前なんでね、支配人の藤木さんに|訊《き》いてみたら、確かにその人だった」
「|親《しん》|戚《せき》か何か?」
「まあ……そんなもんだ」
「おじさん、呼ばれてないのかい?」
大江はちょっと笑って、
「わしは親戚の間じゃ、もう死んだも同然の|扱《あつか》いだからな。|幽《ゆう》|霊《れい》を呼んじゃくれないさ」
「なるほどね」
「電報でも……打ってやろうかと思ってね」
「幽霊からの電報じゃ向うもびっくりするだろうな」
「全くだ」
大江は笑った。――電報か。しかし何という名で打てばいいのだ。〈大江〉では|誰《だれ》の事か分るまい。といって〈父より〉と打つわけにも行かない。|岐《みち》|子《こ》は何も知らないのだろうから。
「今日の午後はどこを回るんだったかな」
「|大《おお》|塚《つか》とかあっちの辺だろ」
「そうか……」
もうカレーを食べ終えて、スポーツ新聞を|眺《なが》めていた兼造は、ちょっと目を上げて、
「|銀《ぎん》|鳳《ぽう》|閣《かく》へは回れないよ。遠すぎる」
大江は|慌《あわ》てて、
「わ、分ってるよ。そんなつもりで|訊《き》いたんじゃない」
大江は黙々とカレーを口に運んだ。まるで味を感じなかった。――これでいいのかもしれない、と思った。今さら|娘《むすめ》の姿を見てどうしようというんだ……。
気が付くと、兼造が自分の方を|眺《なが》めていた。
「ああ、ごめんよ……。急いで食べちまうから」
兼造は黙って、スポーツ新聞の方へ目を戻した。
|黒《くろ》|川《かわ》は喫茶店へ入ると、混み合ったテーブルを見回した。|奥《おく》の席で、手が上る。|神《かん》|田《だ》の顔が見えた。
「やあ、久しぶりだな」
黒川は神田と向い合って座ると、コーヒーを注文しておいて、「どうだい、その後?」
「元気だよ」
神田は|微《ほほ》|笑《え》んで、「せっかく昼休みなのに悪いね」
「いや、どうせ昼は他人の|将棋《しょうぎ》を眺めるしかする事がないんだ。今日は仕事かい?」
「いや、休みを取ってね」
「いいなあ。|俺《おれ》は休もうにも休めんよ」
「奥さんと|真《ま》|佐《さ》|子《こ》ちゃんは元気かい?」
「相変らずだ。|娘《むすめ》はもうすっかり悪くなってね。手に負えんよ。あれで女の子かね」
言いながらニヤニヤ笑っている。「――お前も早く|嫁《よめ》さんをもらえよ」
「ああ……」
「いつかの女子大生はどうした? 大分前に一度|新宿《しんじゅく》でひょっこり会った時、|紹介《しょうかい》してくれたろう」
「|岐《みち》|子《こ》さんか」
「そんな名前だったな。なかなか美人だったじゃないか」
「|素《す》|敵《てき》な人だよ」
「どうなってるんだ? まだ学生かい?」
「今年卒業したよ」
「じゃ|狙《ねら》えるじゃないか!」
「嫁に行くそうだ」
黒川は、じっと神田の顔を見つめて、
「――悪い事|訊《き》いたな」
「いや、いいんだ。女は何も|彼《かの》|女《じょ》だけじゃない」
「そうだよ。どんな美女も、|女房《にょうぼう》になればみんな五十歩百歩さ」
黒川はホッとした様子で言った。「今日は何か用だったのかい?」
「いや、近くまで来たんでね。ちょっと顔を見たくなって」
高校時代を通じて、ほとんど友人というものを持つ事がなかった神田の、|唯《ゆい》|一《いつ》の親友が黒川だった。もっとも、神田にとって唯一でも、スポーツマンでハンサムで、女の子にも大いにもてた黒川にとっては、神田は|多《おお》|勢《ぜい》の中の一人に過ぎなかったわけだ。ただ、|生《せい》|来《らい》気のいい黒川は、何かと神田の事に気を使い、卒業してからも、|時《とき》|折《おり》自分の方から電話をしたりしていた。
「お母さん、元気かい?」
「うん。よく君の話をしてる」
神田は母の話をしてほしくなかったので、すぐに話題を変えた。「|銀《ぎん》|鳳《ぽう》|閣《かく》って知ってるかい?」
「結婚式場だろ? 半田が式を挙げた所だ」
「あ、そうだったっけ」
神田は、その半田という|奴《やつ》を思い出せなかった。
「|俺《おれ》が司会をやったんだ」
「そうだったのか。よく|頼《たの》まれるんだなあ」
「よほど|図《ずう》|々《ずう》しいと見られてんのさ」
と黒川は笑って、「お前の時だってやってやるぞ」
「ありがとう」
「銀鳳閣へ行くのかい?」
「まあね。ちょっと知人の結婚式があって……」
「あそこはね、地下鉄で行くとすぐだ」
黒川は手帳を取り出すと、手早く地図を書き、破って渡した。「ここだよ」
「ありがとう。何しろ方向|音《おん》|痴《ち》なんでね」
神田はメモをポケットへ入れた。――最後に一度会っておこうと、やって来たのに、いざ顔を合わせると何を話していいのか分らない。黒川には何もかも打ち明けてしまいたいと思ったが、それはできない事だ。
「さあ、そろそろ一時か」
と黒川は時計を見て|腰《こし》を浮かした。
「そうだね」
神田も立ち上った。二人で伝票を|奪《うば》い合ったが、神田は、
「今日は|払《はら》わせてくれ。……頼むよ」
と|真《しん》|剣《けん》な口調で言った。せめて、それぐらいの事はしたかった。黒川は|肯《うなず》いて、
「じゃ、ごちそうになるよ」
神田は、ちょっと|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「いつも世話になってるからな」
「何言ってんだ」
二人は|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》を出た。黒川の会社のあるビルの前まで行って、別れると、神田は黒川がエレベーターへ消えるまで見送っていた。
結局、何も言えなかったが、それでいいんだ。|彼《かれ》ならきっと少しは……分ってくれる。少しは……。
黒川は事務所へ|戻《もど》って机についても、何となく落ち着かなかった。|神《かん》|田《だ》の様子が気にかかったのだ。いつになく|沈《しず》んで、投げやりな様子なのが、心にひっかかった。――あの|岐《みち》|子《こ》とかいう女子大生にふられたのが、かなりの痛手だったろうとは想像できる。しかし、|失《しつ》|恋《れん》してガックリ来ているのなら、相手にあれやこれやとこぼしたがるものだ。それが安全弁になる。神田は|昔《むかし》から自分の中に|総《すべ》てを|押《お》し|込《こ》めてしまう性質で、|決《けっ》して他人の前で自分をさらけ出さない人間だったが、黒川にだけは正直に、思うところを話すのだった。その神田が、今日はどうも何か一番言いたい事を胸にしまい込んでいる、という印象を、黒川は受けたのである。
気にはなったが、どうしようもない。ふと、神田の母親へ電話をかけて|訊《き》いてみようかと思った。電話へ手をのばそうとした時、
「おい、黒川、会議だぞ」
と声がかかった。
「あ、そうだったな」
まあ、そう急を要するわけでもあるまい。黒川は書類つづりを手に席を立った。
「ただいま」
玄関を入って、|神《かん》|田《だ》|恵《けい》|子《こ》は|息子《むすこ》へ声をかけた。ふと足下を見ると、|靴《くつ》がない。出かけたらしい。
「せっかくいいお|菓《か》|子《し》を買って来たのに……」
そうぐちったものの、本当のところ、会社を休んでも家でゴロ|寝《ね》ばかりされたのでは、|却《かえ》って心配だ。あの子には少し気晴らしが必要なのだ。恵子は、|規《のり》|夫《お》がこの何日か、いつにも増してふさぎ込んでいるのが気になった。夫を亡くした後、女手一つで息子を育てて来た恵子は、ついぞ息子とじっくり話し合う機会を持たなかった。そういう習慣がないので、何かあったのではないかと心配になっても、それを切り出すすべがないのだ。
しかし、会社を休んでどこかへ遊びに出るようなら大丈夫、心配はないだろう。
「それじゃ|一人《ひとり》でいただきましょうか……」
湯を|沸《わ》かして、お茶を|淹《い》れると、恵子はダイニングのテーブルに座って、熱い茶をすすった。
あの子も二十六になった。そろそろ結婚の事を考える時期だ。いつかお付合いしていたお|嬢《じょう》さん……何といったろう? 何だか変った名前だったけど……。どうもその人とは|巧《うま》く行かなかったらしい。
「あの子は内気だからねえ……」
自分で相手を見付けて来るのを待っていたら、いつになるか分らない。|誰《だれ》かいい人を世話してくれるような……。
恵子は買って来た|羊《よう》|羹《かん》を食べようと、包みを開いて、包丁を取りに立った。
「――あら」
包丁差しに肉切り包丁が見当らない。「どこへ置いたのかしら……」
台所を探してみたが、どこにも見付からず、首をひねった。
「いやねえ……。何かと|一《いっ》|緒《しょ》に捨てちゃったのかしら? 確か昨日、洗ってそこへ差して置いたと思うけど」
恵子の|記《き》|憶《おく》も定かではなかった。「仕方ないわ。その内出て来るだろうし……」
羊羹を食べながら、|失《な》くなったら、|近《こん》|藤《どう》さんの|奥《おく》さんにまた頼んで買ってもらおう、と思った。弟が|刃《は》|物《もの》|類《るい》の店をやっているので、高級な品が安く手に入るのだ。
「そうだわ!」
と恵子は思わず声を上げた。「近藤さんの奥様に頼んでみよう」
包丁の事ではない。|規《のり》|夫《お》の結婚相手の事だ。
「あの方なら……。そうだわ、早速電話してみよう」
もう失くなった包丁の事など、すっかり忘れている。急いで電話メモを見て、ダイヤルを回した。
「もしもし。――あ、近藤さんの奥様でいらっしゃいますか? 私、神田でございます。――どうもすっかりご|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》をしておりまして。――いいえ、とんでもない。皆様お変りございませんか。――そうですか。それは本当に。――いえ、相変らずでございまして、ホホホ……」
大体、この年代の女性の電話は、本題に入る前の方が長いと決っている。恵子が、
「ところで、実はちょっと奥様にお願いが……」
と切り出したのは、もう二十分近くたってからだった。恵子の予想通り、世話好きな相手は喜んで話に乗って来た。
「今度の日曜にでも、これと思う方の写真を二、三お持ちしますわ」
と気の早い返事だ。
「まあ、そんなお手間を――」
「いいえ、とんでもない。あなたのお顔をしばらくぶりに見たいし、ぜひ|伺《うかが》わせてちょうだい。いらっしゃる?」
「ええ。おりますわ」
「じゃ、日曜日に……」
さらに十分近く、あれこれ話が続いてから、やっと受話器を置く。恵子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。あの人なら顔も広いし、一人ぐらいはいい人を見つけてくれるだろう……。
電話の所を離れようとして、恵子は、ふと|傍《そば》のメモ用紙に目を止めた。ボールペンで強く書いたせいだろう、白紙の上にくっきりと上のメモの|跡《あと》が残っている。――あの子は字を書く時に力を入れすぎるんだわ。……〈式〉という字が読めて、メモを取り上げてみた。〈式三時、|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》四時――|銀《ぎん》|鳳《ぽう》|閣《かく》〉
「まあ、|誰《だれ》かお友達が結婚するのかしら」
もしかすると、その用で出かけたのかもしれない。恵子は台所へ戻ると、|羊《よう》|羹《かん》の残りを食べながら、あ、と思った。
「あら、いけない。包丁の事、頼むの忘れちゃったわ」
|輝《てる》|美《み》は一人で受付に残されて、心細げに座っていた。結婚式の受付なんて初めてだった。いやだ、いやだと言うのを、兄に無理に押し付けられてしまったのだ。
「ただ座ってりゃいいんだから」
と言われて|渋《しぶ》|々《しぶ》引き受けたのだが、|一《いっ》|緒《しょ》にやってくれる男の人は、最初ちょっと席にいただけで、すぐどこかへ行ってしまった。司会をやる事になっている男性が、親切に手伝ってくれて、大方の客は|捌《さば》いてくれたのだが、|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》の始まる時間が近付いて来たので、その人も打ち合せに行ってしまった。――もう来ていない客は二、三人だったが、それでも輝美はどうかもう一人も来ませんように、と心の中で手を合せているのだった。
ふと顔を上げると、黒のダブルにシルバータイの男性が急ぎ足でやって来る。――ここじゃないといいな。|隣《となり》の会場の人だといいな。だが、|祈《いの》りも|空《むな》しく、その男はつかつかと|真《まっ》|直《す》ぐにやって来た。輝美は悲しげにため息をつくと、
「どちら様でしょうか?」
と|蚊《か》の鳴くような声で|訊《き》いた。
「|三《み》|沢《さわ》さんのご親類ですね?」
男は訊いた。
「は、はあ……」
「下のフロントで、何か|駐車《ちゅうしゃ》場の事で問題があったらしくて、すぐ来てほしいそうですよ」
「え?」
「急いでるようですから、すぐ行った方がいいですよ」
「でも……」
輝美はオロオロと|周《まわ》りを見回した。
「車が入れなくて困っているらしいんです。早く行ってあげないと」
「は、はい」
男のきびきびした口調にせき立てられて、輝美は|慌《あわ》てて|駆《か》け出した。
「一階のフロントですよ!」
その後姿へ声をかけておいて、|克《かつ》|美《み》はニヤリと笑った。三十分以上前から、この受付の様子を|窺《うかが》っていたのである。ああいう、まるで疑う事を知らない|娘《むすめ》が一番|扱《あつか》いやすい。素早く周囲へ視線を走らせてから、ポケットから|紫《むらさき》の|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》を取り出し、テーブルへ広げて、祝儀袋の|束《たば》を手早く包む。――受付に座っていた女の子が行った方とは逆の方向へ足早に歩き出し、階段を|駆《か》け降りて行くまでに、一分とかからなかった。
一階へ降りると、さっきの娘に会わないように、裏の方の出入口から外へ出て、タクシーを拾う。座席に落ち着いて、ホッと緊張が|緩《ゆる》んで行くのが感じられた。チョロイもんだぜ、全く! 会心の笑みが|洩《も》れる。
タクシーは五分ほど走って、あるホテルの前で|停《とま》った。予約しておいた|部《へ》|屋《や》へ入ると、ネクタイを|外《はず》し、くつろいでから、ルームサービスでウイスキーを運ばせる。緊張の後の|息《いき》|抜《ぬ》きである。
ウイスキーを飲みながら、|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》を開け、|祝儀袋《しゅうぎぶくろ》から中身を取り出して行く。中規模程度の|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》だったが、その割には祝金の額が大きい。三万、五万と入っているのもある。
「きっと金持の次男坊あたりの結婚式なのかな……」
袋の数が四十三。金額はしめて九十万にもなった。悪くない|稼《かせ》ぎだ。今|頃《ごろ》あの女の子は泣きべそをかいているだろうが……。
金を持参の|封《ふう》|筒《とう》へつめ、祝儀袋の始末にかかる。これがちょっと|厄《やっ》|介《かい》なのだが、早く|証拠《しょうこ》は処分するに限る。バスルームへ行って、袋を一枚一枚細かくちぎっては、水洗トイレへ流す。根気のいる作業だが、九十万の|報酬《ほうしゅう》にしては楽な仕事という|他《ほか》はない。とても|馬《ば》|鹿《か》らしくて、まともな仕事はできないぜ、と|渦《うず》の巻く水の流れにクルクルと|踊《おど》りながら吸い|込《こ》まれて行く白い紙片を|眺《なが》めながら、思った……。
「さて、と」
ウイスキーを飲みほして、「次はどこにするかな」
手帳をめくってみる。まだ一度もやっていない所で、かなり混み合っていそうな……。〈|銀《ぎん》|鳳《ぽう》|閣《かく》〉こいつはまだだったな。割合名は知れているし。こいつを一丁やっつけるか。もう九十万|稼《かせ》いだのだから、後一軒やったら今日は打ち止めって事にしよう。
大きく|伸《の》びをして、|克《かつ》|美《み》は|支《し》|度《たく》にかかった。
輝美はすすり泣きをやめて、顔を上げた。
「|年《ねん》|齢《れい》は三十|歳《さい》ぐらい。中肉中背。黒のダブル、シルバータイ……」
|刑《けい》|事《じ》がため息をついて、「これじゃ手配しようにも、どうしようもありませんな。一つの披露宴にこんな人は五、六人もいる」
「すみません……私が……私が|馬《ば》|鹿《か》だったんです……」
輝美が泣き|伏《ふ》した。そばについていた若者が肩を|叩《たた》いて、
「君のせいじゃないさ。そう気にするなよ。|僕《ぼく》がずっと一緒にいればよかったんだ。……悪かったよ」
刑事は支配人の方へ、
「ともかく|他《ほか》に被害が|及《およ》ぶのを防がねばなりませんな」
「はい。主な同業の責任者には連絡を取りました。|怪《あや》しい客には注意するように伝達しているはずです。ただ何しろ今日は大安で、どこも|狂《くる》いなく運営するだけで|手《て》|一《いっ》|杯《ぱい》でしょうから、どの程度|効《き》き目がありますか……」
「そこが犯人のつけめですな」
刑事は首を|振《ふ》った。「しかし、従来の例から見て、犯人は同じ日に必ず二、三か所で仕事をしています。今日も必ずどこかでやりますよ」
若者は|輝《てる》|美《み》の手を取って、
「本当にひどい|奴《やつ》だな。君みたいな人を|騙《だま》すなんて……。心配しなくてもいい。必ず|捕《つか》まるさ」
輝美は自分の手を包む手の暖かさ、|優《やさ》しさに、顔を上げた。力づけるように|微《ほほ》|笑《え》んだ青年の目は、ハッとするほど美しかった。輝美は急に|頬《ほお》を染めて、またうつむいたが、今度はもう泣いてはいなかった。
3
「おい、今日はずいぶん飛ばすね」
大江は運転席の|兼《けん》|造《ぞう》へ言った。「わしはもう先の短い身だから構わんが、あんたは若いんだぜ」
「そんな言い方、よしなよ!」
兼造は|怒《おこ》ったように言った。「おじさんはまだ生きてんだぜ。それを自分で半分死人みたいにしちまってんだ。もっと|我《が》を張れよ! |俺《おれ》みてえな若いのをガンガン|怒《ど》|鳴《な》ったらいいじゃねえか! 俺の三倍近くも生きて来たのに、何で俺に|遠《えん》|慮《りょ》するような口きくんだよ? デンと構えてりゃいいんだよ。|疲《つか》れてたら俺にやらせりゃいいんだよ。どうしてそう元気がねえんだ? もっと胸を張れよ!」
大江はじっと兼造の横顔を見つめていたが、やがて、深く息をついて、車の前方へ目を向けた。
「……あんたは|優《やさ》しいな。……|嬉《うれ》しいよ。そんな事を本気で言ってくれるのは、あんただけさ。……でもなあ、わしはとっても胸を張って生きてられるような人間じゃないんだ」
「|誰《だれ》だって、|巧《うま》く行かない事もあるさ」
「いや、自分で失敗して自分で苦しむのは勝手さ。しかしな、わしは自分のわがままのために、|多《おお》|勢《ぜい》の人間を泣かせちまった。その|償《つぐな》いをしてやる事もできなかった。――人間として失格さ」
「そんな事あるもんか!」
「……誰にも言った事はないんだが、聞いてくれるかい」
「何だい?」
「信じちゃくれないかもしれないが……」
そう言って、大江は笑った。「本当に、今じゃ自分だって信じられないくらいさ。わしは若い|頃《ころ》、東大で、助教授にまでなった学者だったんだよ。……その|頃《ころ》は優秀な学者で、行く行くは教授の座も確保されているようなものだった。大いに|威《い》|張《ば》りくさっていてね。特に大学でも大変な権力を持つ教授の|娘《むすめ》と|婚《こん》|約《やく》していたから、誰一人わしに逆らう者はなかったってわけだ。ところが……わしは自分の研究室に来ていた若い女の助手に手をつけて、|妊《にん》|娠《しん》させてしまった。女が打ち明けた時はもう|堕《おろ》す事もできない状態だったんだ。困ってしまってね。もし教授に知れたら終りだ。……その時、わしの助手の中に|頼《より》|野《の》|木《ぎ》という|真《ま》|面《じ》|目《め》な男がいた。わしは将来自分が教授になったら、必ずもり立ててやるとそいつを説得して、その女と|結《けっ》|婚《こん》させてしまった。これで地位は|安《あん》|泰《たい》とのんびりしていたら……ある日|突《とつ》|然《ぜん》、教授に呼びつけられ、女との関係の事を問い|詰《つ》められた。否定しようにも、向うは何もかも知っている。わしは教授に大学を|叩《たた》き出された。……これはてっきり、あの|頼《より》|野《の》|木《ぎ》の|奴《やつ》が教授に告げ口をしたのに違いない、と思ったわしは、奴を|恨《うら》んだ。そして彼の妻の子は|俺《おれ》の子なんだと言いふらして歩いた。むろん大学中でその事実を知らぬ者はなくなった。だが頼野木は一向に気にしないんだ。いとも幸せそうに、生れて来る赤ん坊の事を楽しげに|同僚《どうりょう》に話している。……その内に、教授が事実を知ったのは、実はこっそり妊娠を確かめに行った産科の医者が教授の知り合いで、その時、外で待っていたわしの顔を見て|憶《おぼ》えていたからだったんだ。わしは東大を出ると、地方の私立大学へ移った。しかし、たった一度の|挫《ざ》|折《せつ》でも、初めての味は苦かった。わしは酒に|溺《おぼ》れるようになり、職を失った。……後はただ落ちる一方だ。そして二十何年かたって……今はこういう有様ってわけさ」
|兼《けん》|造《ぞう》はただ、じっと前方を注視していた。|大《おお》|江《え》は続けて、
「今日、|銀《ぎん》|鳳《ぽう》|閣《かく》で〈頼野木〉の名前を見たんだ」
兼造がチラッと大江を見た。
「すると――」
「|娘《むすめ》が結婚するんだ。わしの娘が……」
「それでおじさんは……」
「|岐《みち》|子《こ》、って名のはずだ。|頼《より》|野《の》|木《ぎ》は女の子ならそう付けると言ってたからな」
兼造はトラックをぐいとカーブさせた。大江がびっくりして、
「おい! どこへ行くんだい?」
「今から行きゃ三時の式に間に合うぜ」
「……兼造」
大江が声をつまらせた。
「後の配達は|俺《おれ》がやっとく。気にすんなよ」
「しかし――」
「オヤジの|奴《やつ》がガタガタ言いやがったら、俺がかけ合ってやるよ、心配すんな!」
「ありがとう! しかし、どうせ見られやしないんだよ」
「遠くからチラッと見るだけでもいいじゃねえか。おじさんの、自分の|娘《むすめ》なんだろ! 一生一度の|花嫁姿《はなよめすがた》ぐらい見とけよ。後になって|悔《く》やまないようにな」
大江は何も言えず、ただ|肯《うなず》いた。じっと正面を|見《み》|据《す》える目は|涙《なみだ》で|曇《くも》って、何も見えなかった。
「ほら、あの人」
「え?」
「あそこ。四人で笑ってるでしょ。その向うの席に座ってる人……」
と|山《やま》|内《うち》|浩《ひろ》|子《こ》は低い声で言った。
「あの男の人? あの人がどうかしたの?」
と|竹《たけ》|田《だ》|典《のり》|子《こ》は一向にピンと来ない様子。
二人は|岐《みち》|子《こ》の高校の時からの友人で、|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》に呼ばれているのだが、早く着きすぎて、こうして|銀《ぎん》|鳳《ぽう》|閣《かく》の向いの|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》へ入っているのである。
「|見《み》|憶《おぼ》えない?」
と|浩《ひろ》|子《こ》は言った。「ほら、|岐《みち》|子《こ》が二年生の|頃《ころ》から少し付き合ってた人……」
「ああ、サラリーマンの。あの人が? そうかしら。私、分らないわ」
「確かあの人だと思うんだけどなあ……」
「よく|憶《おぼ》えてるわね、浩子」
「うん、ちょっとわけありなの」
「へえ」
「私が会社の用で時々行く所にね、あの人と同じ高校の人がいたの。何か雑談してる時に、たまたまその高校の名が出たのよ。で、私の親友のボーイフレンドで、その高校出た人がいます、って話をしてみたら、『それなら|僕《ぼく》の同級生だ』っていう事だったの」
「まあ、面白いわね」
「それで何となく憶えてるのよ。たぶんあの人だと思うわ」
「何してるのかしら?」
「岐子が結婚するっていうのをどこかで聞いて、一目見に来たのかもね」
「|未《み》|練《れん》があるのか。|可哀《かわい》そうに」
「男ってロマンチストだものね」
「岐子は男好きのするタイプなのよ」
と|典《のり》|子《こ》は、ちょっとやっかみ半分に言った。
――いつ、やるか。|神《かん》|田《だ》は、まだ考えを決めていなかった。チャンスはそう多くない。式場から|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》会場へ向う|廊《ろう》|下《か》。お色直しの時。そして、最後に新婚旅行へ|発《た》つためにロビーへ出て来た時である。
廊下では難しいかもしれない。大体、中の様子が分らないのだし、ウロウロしていて|怪《あや》しまれてはまずい。その点、ロビーなら、|多《おお》|勢《ぜい》の人間が|新《しん》|郎《ろう》|新《しん》|婦《ぷ》の出て来るのを待っているはずだし、|誰《だれ》がいてもおかしくはない。かなり待たなくてはならないにしても、それが一番確かな方法のように思えた。――待っていても、ほんの数時間だ。今までの何か月かの日々に比べれば……。
神田は、ふと自分を見ている視線に気付いた。二人の|娘《むすめ》が|彼《かれ》の方を見ている。見るからに結婚式に招かれた客と分る、明色のワンピースを着た、ちょうど岐子と同じくらいの|年《ねん》|齢《れい》の娘たちだ。目をそらしたところを見ると、別に他意はないのだろう。――しかし、しばらく考え|込《こ》んでいる内に、どうも、どこかで見た顔のような気がして来た。岐子の友人か? まさか、とは思うが、ここにいても|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》ではない……。
万が一、という事がある。神田は席を立った。
「――出て行ったわ」
|浩《ひろ》|子《こ》が言った。
「そう」
|典《のり》|子《こ》が、さして気が無さそうに、「私たちがジロジロ見たんで、きまり悪くなったのかしら」
浩子が|黙《だま》ってじっと考え込んでいるので、典子が、
「どうしたのよ、難しい顔してさ」
「――え? うん……。どうも気になるの」
「何なの? 苦労性ねえ」
浩子は思い切ったように、席を立った。
「ちょっとごめん。電話かけて来るわ」
「どうぞ」
典子は、赤電話の方へ行く浩子の後姿を見送って、「やれやれ、|白《しら》|髪《が》が増えるぞ!」
「黒川さん、お電話です」
と|隣《となり》の席の女性が受話器を差し出す。「|山《やま》|内《うち》さんからです」
「山内?」
「若い女の方ですよ」
冷やかすような口調に|眉《まゆ》をしかめて答えながら、黒川は受話器を受け取った。
「黒川です」
「あの……私、〈A商会〉の山内浩子と申しますが」
思い出すのにちょっと時間がかかった。
「――ああ、山内さん。どうも」
「あの、私の事、ご記憶でしょうか?」
「ええ、もちろん。何のご用ですか?」
「あの……ちょっと|妙《みょう》な事をお|伺《うかが》いするようですが……」
「何です?」
「以前、お話をした時に、黒川さんが高校の時同級だった方が、私の友達のボーイフレンドにいるという話になって……」
「ええ、そうでしたね」
「そのお友達のお名前、何とおっしゃいましたでしょう?」
「|神《かん》|田《だ》です。確か、何とかいう難しい名前のお友達の……」
「|頼《より》|野《の》|木《ぎ》さんです」
「あ、そんな名だったな。で、神田が何か?」
相手はしばし|黙《だま》りこくってしまった。「もしもし?――どうしました?」
「あの……これは大変失礼な事かと思うんですが、どうか|怒《おこ》らずに聞いて下さい」
「はあ……」
「実は今日、|頼《より》|野《の》|木《ぎ》|岐《みち》|子《こ》さんの|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》で、私も出席する事になっているんです。まだ時間が早いので、今、式場の向いの|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》にいるんですが、ここで|神《かん》|田《だ》さんをお見かけしたんです」
「神田を?――待って下さい、式場はどこです?」
「|銀《ぎん》|鳳《ぽう》|閣《かく》です」
それでは|間《ま》|違《ちが》いなさそうだ。
「それで?」
と黒川は|促《うなが》した。
「はあ……こんな事、申し上げるのは、本当に失礼だとは思うんですが……。何だかあの方の様子がどこかおかしく思えて……」
「おかしく?」
「ええ。……もし……|岐《みち》|子《こ》に何か」
黒川は笑って、
「なるほど、分りました」
「黒川さんは、お友達として良くご存知でしょう? まさかそんな事は――」
「お気持は分りますよ。しかし、|彼《かれ》の事は心配ありません。間違っても、妙な事をする|奴《やつ》じゃないですからね。ま、そこで式を挙げるのを聞いて、一目チラリと見たい、ぐらいは考えたかもしれませんが」
「そうですか。そう|伺《うかが》って安心しました。すみません。お友達の事を何だか……」
「いや、当然ですよ。気にする事はありません」
「そうおっしゃっていただくと、助かりますわ」
電話が切れてから、黒川は考え|込《こ》んだ。ああは言ったものの、本当に自分でそれを心底信じているだろうか? 自分自身、今日神田に会った後、何かおかしいと感じたのではないか。――まさか、とは思うが、あのどこか思いつめたような表情、わけもなく黒川に会いに来た事、そしてコーヒー代を|払《はら》うと言い張った事。こう考えて来ると、あの|山《やま》|内《うち》|浩《ひろ》|子《こ》の心配も、全くの|杞《き》|憂《ゆう》とは言い切れなくなる。黒川は手帳を取り出し、神田の自宅の電話番号を捜すと、ダイヤルを回した。
母親に確かめてみよう、と思ったのだ。
「もしもし」
「神田でございます」
「黒川です」
「まあ、お|珍《めずら》しい! お元気ですか?」
「おかげさまで――」
「それはそれは。実は|規《のり》|夫《お》、まだ|戻《もど》らないんですのよ」
「ええ、存じてます。昼に|僕《ぼく》の会社の近くへ来ました」
「まあ、そうでしたの? 何も言わずに出て行ったものですから」
「いえ、それでですね、どうも規夫君、元気がないような気がして、ちょっと気になったものですから、こうしてお母さんにお電話をしたわけです」
「それはご心配をかけて――」
「最近、どこか具合いが悪いとか……」
「いいえ、そのような事はありません」
「そうですか。何か|悩《なや》み事のようなものは?」
「それは……」
と母親は言い|淀《よど》んで、「もともとあの子はご承知の通り無口で、思っている事を言わない性質ですので」
「そうですね」
と黒川は言った。「あの……|規《のり》|夫《お》君、何か[#「何か」に傍点]持って出ましたか?」
「持って、ですか?――さあ、出かける時は、私、おりませんでしたので」
「そうですか……」
黒川は、電話を切ってから、しばらく仕事が手につかなかった。考えれば考えるほど、不安が|膨《ふく》らんで来るのだ。
「まさか!」
と思わず口に出して|呟《つぶや》いていた。いくら何でも、そんな事までは……。
支配人の|藤《ふじ》|木《き》は、ゆっくり首を|振《ふ》った。
「|大《おお》|江《え》さん、それはできないよ。式場に|他《ほか》の人間を入れるわけには行かない」
「ええ、そりゃもうよく承知しております」
大江は|肯《うなず》いた。「――ですから、そのお二人が式場から出て来られるところをチラッとでも拝見させていただければ……」
藤木は困ったように息をついた。
「大江さん、悪いんだが、今日はこの通りの戦場のような|忙《いそが》しさなんだ。式の様子を見るのなら、もう少し|暇《ひま》な時にしてくれないかね。そうしたら、|詳《くわ》しく説明しながら案内してあげる」
大江はためらった。親切な藤木にこれ以上無理押しして|迷《めい》|惑《わく》をかけるのは申し訳ない。――しかし、今日[#「今日」に傍点]でなければならないのだ。もう三時を少し過ぎている。式は始まってしまったのに|違《ちが》いない。
「お願いです、藤木さん」
大江は|震《ふる》える声で言った。「|頼《より》|野《の》|木《ぎ》さんの|娘《むすめ》は、私の実の娘なんです」
藤木は目を見張った。
「何も|騒《さわ》ぎを起こそうっていうんじゃありません。ただ通りすがりに一目でも……」
「大江さん」
と|藤《ふじ》|木《き》は|遮《さえぎ》って、「どうしてそれを先に言わないんだ!」
「藤木さん……」
「来なさい」
藤木は、大江を連れて、上の階へと上って行った。
「ここには色々な形の式場があってね。神前もキリスト教もできるようになっている。|頼《より》|野《の》|木《ぎ》さんの所はキリスト教式の挙式だ。……さ、こっちだ。中へ入るわけには行かないが……」
「ええ、それはもう」
藤木は|狭《せま》い通路を|抜《ぬ》けて、一見|舞《ぶ》|台《たい》の楽屋裏のような部屋へ大江を連れて行った。
「ここは式場の準備室なんだ。――ほら、オルガンの音が聞こえるだろう。今、|花《はな》|嫁《よめ》が入場して来るところだ」
藤木は|踏《ふ》み|台《だい》を持って来ると、「これに乗って、そこの小窓から見なさい。よく見えるはずだ」
「すみません!」
「ただ――くれぐれも、|誰《だれ》にも気付かれないようにね」
「はい」
藤木は足早に|戻《もど》って行った。大江は震える足で台を踏みしめ、そっと上に上った。いくらか|埃《ほこり》に|汚《よご》れたガラス窓――ステンドグラスだ――から、式場全体が|眺《なが》めわたせた。
教会の中と同じ造りの、小ぢんまりとした式場だった。正面の|祭《さい》|壇《だん》の前で、牧師が待ち構えている。新郎は、もう牧師の前に立っていた。視線をめぐらせて、大江は息を|呑《の》んだ。
ウェディングドレスに身を包んだ花嫁が、白い|輝《かがや》きとなって、中央のバージン・ロードをゆっくりと進んで来る。オルガンが低く、静かに鳴っていた。
「|岐《みち》|子《こ》……」
大江は、一秒たりと見落すまいとするかのように、じっと目をこらしていた。
「支配人」
藤木は、ボーイ長に呼び止められて振り返った。
「何だ?」
「今、警察の方から連絡があって、祝金の持ち逃げが他の式場で起こっているので、注意するようにと……」
「またか!」
藤木は首を|振《ふ》った。「めったな事で客の身体検査をするわけにもいかんしな。現場を|押《おさ》えるにしろ、客にけがでもさせたら大変だ。――ともかく全員に注意しておけ。そして万一、現場を見かけたら、他の客の姿のない所で取り押えるように」
「分りました」
藤木はフロントの方へ歩き出した。
|克《かつ》|美《み》が正面玄関から入って来たのは、|正《まさ》にその時だった。
4
|恵《けい》|子《こ》は、時間を見た。――もう六時だ。
「変ねえ……」
|遅《おそ》くなる時は、必ず電話してくるのに。それに、友達の黒川からの、何だか|妙《みょう》に|含《ふく》んだような電話。一体どういう事なのだろうか。
「|様《よう》|子《す》がおかしい……」
恵子の目にはそうは|映《うつ》らなかったが、親よりも友人の方へ、より心を開く事は、あるかもしれない。しかし、何か持って出なかったか、というのは、どういう意味なのだろう? 一体何を心配しているのか。
恵子は、|規《のり》|夫《お》の|部《へ》|屋《や》へ入って行った。|息子《むすこ》とはいえ、一人前の|大人《おとな》なのだ。勝手に机の中を|覗《のぞ》いたりしてはいけない、と恵子は、|掃《そう》|除《じ》する時も、決して中の物を動かさず、また見たりする事もしなかった。しかし、今は……今は特別だ、という気がした。
机の引出しを|恐《おそ》る恐る引いてみて、恵子はギクリとした。別に、何が入っていたというのでもない。だが、それ以上にはっと息を|呑《の》ませたのは、引出しの中が、今まで見た事もないほど、きれいに整理されていた事だった。今まで、規夫が何かを出し入れする時にチラッと見ていた限りでは、引出しの中は、適当に雑然として、つい片付けてやりたくなるほどだったのに、今は……これ以上、片付けようがないほどに整理されてしまっている。
恵子は、どんなポルノ写真を見つけるよりもショックを受けた。不安が、氷の|塊《かたまり》のように背を走り|抜《ぬ》けた。その時、|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴った。
「――まあ」
玄関へ出た恵子は、|驚《おどろ》いて言った。「黒川さん」
「|突《とつ》|然《ぜん》お|邪《じゃ》|魔《ま》してどうも……。帰りがけ、つい、気になってここの駅で降りてしまったんです。規夫君はまだ――」
「ええ。上って下さい」
恵子は、黒川を規夫の|部《へ》|屋《や》へ連れて行くと、整理された引出しを見せた。
「私、今これを見て、急に不安になってしまって、一体あの子は――」
「これは|取《と》り|越《こ》し苦労かもしれないんですが……」
黒川は、神田が、|恋《こい》していた女性の|結《けっ》|婚《こん》式場へ行っているらしい事を説明した。「もし……彼が死ぬ気であそこへ……」
「死ぬ気で……」
恵子はふっとよろけた。
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「まさか!」
恵子が息を|呑《の》んだ。「包丁が――」
「え?」
「小さな肉切り包丁が見当らないんです……。どこかへやるはずもなし、|妙《みょう》だと思っていたんですが……」
「肉切り包丁。小さな……先の|尖《とが》った?」
「そうです」
|黒《くろ》|川《かわ》は、|恵《けい》|子《こ》を残して、|神《かん》|田《だ》家を飛び出して行った。
神田はロビーへ入って行った。
長かった。この三時間の、何という長さだったろう。まるで、初めて|岐《みち》|子《こ》に出会ってから、これまでの二年間に|匹《ひっ》|敵《てき》するような気さえした。
さっきの二人の女性に見つかってはまずい。神田は、ロビーの一番|隅《すみ》の方へ行って、ソファに身を|沈《しず》めた。六時だ。そろそろ|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》も終る|頃《ころ》だろう。|花《はな》|婿《むこ》はともかく、|花《はな》|嫁《よめ》の方は、出て来るのに三十分はかかるはずだ。まだ待たなくてはならない。
結局、|俺《おれ》の人生は待つ事ばかりだったな、と神田は思った。何かいい事がないか、何か幸運がやって来ないか、と、待ち続けた……。今日も大分待たされる事になるだろう。神田は|微《ほほ》|笑《え》んだ。何しろ、デイトの時も、岐子はいつも平気で一時間ぐらい|遅《おく》れて来たのだから……。
|克《かつ》|美《み》は|苛《いら》|々《いら》と歩いていた。――こうもタイミングが悪いのは初めてだ。これぞと思う部屋の前には、ボーイがデンと居座っているし、それがいなくなると、今度は受付に三人も四人も人が|並《なら》ぶ。一度は|空《から》っぽの受付に出くわし、チャンスだと飛びつこうとしたのだが、後ろから、「すみません、受付を|留《る》|守《す》にしちゃって」と男が|駆《か》けつけて来て台無しになってしまった。
克美は、少しアルコールが入っているせいもあって、意地になっていた。何も無理してやる必要はないのだ。九十万も|稼《かせ》いだのだから。それに、気のせいかどうか、従業員たちの数がやけに多いように思えた。建物の造りにもよるのだろうが、どこの受付のあたりにも、人の姿が絶えるという事がないのだ。
もうやめておけ。今日は引き上げろ、と克美の頭は言っていた。しかし、体はどうしても、ここを|離《はな》れようとはしないのだった。
|大《おお》|江《え》は、一階へ降りて来た。――何か、こう、何十年来の重荷が消えてなくなったような思いだった。なくなってみて、初めて、今までそれを背負っていたのが分る。それほどに永い日々だったのだろう。
「やあ、どうだったね」
|藤《ふじ》|木《き》が大江を見付けて近寄って来た。
「ありがとうございました」
「あの人があなたの|娘《むすめ》さんとはね……。色々事情があったんだろうねえ」
「|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》でございますよ」
と大江は笑った。「本当に――もうこれで死んでもいいような気持です」
「|馬《ば》|鹿《か》言っちゃいけない!」
「式だけを見て店へ|戻《もど》る気だったんですが、ついつい長居しちまって……。これで|間《ま》|違《ちが》いなくクビですよ。でも|後《こう》|悔《かい》はしません」
藤木はじっと大江を見ていたが、
「あんたはかなり教育のある人だと、私は見ているんだよ。どうかね、ここで働いてみないか。大した給料じゃないが、食ってはいける」
「とんでもない! これ以上、ご親切に|甘《あま》えるわけにゃいきません」
「親切じゃない。事務の方で人手を|捜《さが》しているんだ。本当だよ」
「私のような年寄りは……」
藤木は|微《ほほ》|笑《え》んで、
「その気になったら、いつでも私に言ってくれ」
「ありがとうございます。――|娘《むすめ》が出発するのをここで見送らせていただいてよろしいでしょうか」
「いいとも、じゃ、また」
大江は藤木の後姿に手を合わせたいくらいの気持だった。――ロビーへ降りて来る階段のわきの、柱にもたれて、|岐《みち》|子《こ》が降りて来るのを待った。やっと|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》が終ったばかりだ。まだしばらくかかるだろう……。
タクシーが|銀《ぎん》|鳳《ぽう》|閣《かく》の前に|停《とま》ったのは、六時二十分だった。黒川は金を|払《はら》うと、つり銭も取らずに飛び出した。正面玄関を入り、ロビーを|見《み》|渡《わた》す。そこここで、花婿、花嫁を囲んで談笑するグループが見える。――まだ何も起こってはいないようだ。黒川はホッと胸を|撫《な》で降ろした。
その時、小走りにやって来る女性が目に止った。
「|黒《くろ》|川《かわ》さん!」
「やあ、|山《やま》|内《うち》さんですね」
「どうして……ここへ?」
山内|浩《ひろ》|子《こ》は固い表情で|訊《き》いた。黒川は答えずにロビーを見回した。浩子は重ねて訊かなかった。黒川がここへ来ている事で、事情は分る。
「あなたのお友達――ええと、|岐《みち》|子《こ》さん、だったかな?」
「はい。まだ|着《き》|替《が》えをしていて、降りて来ません」
「そう。神田を見かけましたか?」
「いいえ」
「どうも……|刃《は》|物《もの》を持って出たらしい」
浩子の顔がさっと青ざめた。「いや、別にそうと決ったわけじゃない。|騒《さわ》がないで下さい。いいですね」
「はい」
「ともかく、|他《ほか》の方と同じように|振《ふ》る|舞《ま》っていて下さい。神田の事は僕に任せて。――|捜《さが》してみます」
「お願いします」
「もし目についたら、|僕《ぼく》に教えて下さい」
「分りました」
黒川は、ゆっくりとロビーを歩き始めた。
神田は、黒川がロビーへ入って来るのを見て、素早く席を立っていた。――まさか黒川に|邪《じゃ》|魔《ま》されるとは! 一体どうして|怪《あや》しまれたのだろう? しかし今はともかく見つからない事が先決である。
神田はロビーの|隅《すみ》の席を立って、|奥《おく》へ通じる|廊《ろう》|下《か》の方へ進みかけたが、奥へ入っていたのでは、岐子が降りて来る時にここにいられない心配がある。迷った。どうすればいいだろう? 黒川はロビーをブラブラ歩くようなふりをして、神田の姿を捜している。
「一か|八《ばち》かだ」
神田は、太い柱にピタリと身を寄せて、黒川が近付いて来るのを待った。
|克《かつ》|美《み》は、ハタと足を止めた。|一瞬《いっしゅん》目を疑った。|空《から》っぽの受付が、目の前にあった。|祝儀袋《しゅうぎぶくろ》が山と積まれている。昼間手にした倍――おそらく百近くあるだろう。|唇《くちびる》をなめ、素早く周囲を見回した。|誰《だれ》の姿も見えない。
今だ! やるんだ! さあ、手早く片付けろ!――克美は受付のテーブルへ歩み寄ると、|紫《むらさき》の|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》を広げ、祝儀袋の山を移した。いつになく手が|震《ふる》えて、いくつかパラパラと床へ落してしまう。
「落ち着くんだ、|馬《ば》|鹿《か》!」
拾って山へ|戻《もど》し、素早く包みを作ると、足早にそこを離れようとした。
「待って! 何するのよ!」
|甲《かん》|高《だか》い女の声がした。|振《ふ》り向くと、|振袖姿《ふりそですがた》の女が目を丸くしている。
「|泥《どろ》|棒《ぼう》! 泥棒よ!」
女が|叫《さけ》んだ。|克《かつ》|美《み》は|夢中《むちゅう》で|駆《か》け出した。
「いないようだ」
|黒《くろ》|川《かわ》はロビーを一回りして|戻《もど》って来ると、心配顔でやって来た|浩《ひろ》|子《こ》に言った。「ともかく|僕《ぼく》はその辺にいて気を付けてますからね。どこから降りて来るのかな?」
「あの階段だと思いますけど」
「分りました。じゃ、任せて下さい」
「お願いします」
黒川は手近なソファに軽くもたれるようにして立っていた。
「|神《かん》|田《だ》……|馬《ば》|鹿《か》な事をしないでくれよ」
|祈《いの》るような思いで|呟《つぶや》いた。
神田は、|巧《たく》みに黒川の背後へと移動して、見つからずに|済《す》んだ自分の|手《て》|際《ぎわ》に満足していた。|俺《おれ》が何かを|巧《うま》くやれるなんて、全く信じられないようだ。――もう降りて来る|頃《ころ》だ。神田は内ポケットから、肉切り包丁を取り出し、包んだハンカチを開くと、包丁を持った手を|上《うわ》|衣《ぎ》の下へ入れて|隠《かく》した。|彼《かの》|女《じょ》を殺して、自分も死ぬ。|一瞬《いっしゅん》で|総《すべ》ては終るだろう。
|大《おお》|江《え》は、|頼《より》|野《の》|木《ぎ》と|絹《きぬ》|江《え》が、階段を降りて来てロビーの方へ行くのを見た。
「あいつも|老《ふ》けたな……」
しかし、|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》な印象だけは変らない。絹江も太ったが、|昔《むかし》の|面《おも》|影《かげ》は|充分《じゅうぶん》にあった。|懐《なつか》しさが胸苦しいほどにこみ上げて来る。――その時、|岐《みち》|子《こ》が、夫と|一《いっ》|緒《しょ》に階段を降りて来た。
|当《とう》|世《せい》の若者らしく、パンタロン・スーツに身を包んで、若々しく、まぶしいような美しさだ。大江は、何か信じ難いような思いで、目の前、ほんの数メートルの所を横切って行く岐子を見送った。
「――あ、来たわ!」
|娘《むすめ》たちの間に声が上る。黒川はハッと身を起こした。|見《み》|憶《おぼ》えのある娘が、いかにもエリート然とした男性と歩いて来る。神田はどうしたのだろう? どこかに|潜《ひそ》んでいるのか。それとも思いとどまって引き上げたのか。そうであってくれればいいが……。そう思った時、黒川の目は神田を見ていた。神田はロビーに|並《なら》んだソファの間を足早に進んでいた。片手を|上《うわ》|衣《ぎ》の下へ入れている。新郎新婦と、ちょうど出くわすタイミングだった。
「神田!」
|黒《くろ》|川《かわ》は大声で呼んだ。|一瞬《いっしゅん》、ハッと|誰《だれ》もが歩みを止めた。黒川が飛び出す。|神《かん》|田《だ》が岐子たちへ向って|駆《か》け出した。神田の手が包丁を|振《ふ》りかざしている。岐子も、その夫も、|凍《こお》りついたように動かなかった。黒川の、スポーツで|鍛《きた》えた足が、一瞬早く神田に追いついた。
「神田! やめろ!」
後ろから組みついて、二人はドッと|床《ゆか》へ転がった。が、次の|瞬間《しゅんかん》、黒川の|左腕《ひだりうで》を包丁の切っ先が切りつけていた。黒川が左腕を押えて神田から|離《はな》れた。血が|迸《ほとばし》って、床へ散った。飛び起きた神田は、|岐《みち》|子《こ》へ向って行った。
「|逃《に》げろ!」
黒川が|叫《さけ》んだ。岐子はよろめくような足で|駆《か》け出した。夫が神田の前へ立ちはだかったが、|突《つ》き飛ばされて、二、三メートルも先まで転がって行ってしまった。
岐子は柱を背にして立ちすくんだ。
「神田君……」
岐子は父と母が走って来るのを見た。しかしとても間に合わない。目を血走らせた神田はまるで別人のように見えた。包丁を|構《かま》えて駆け寄って来る。
「やめて! やめて!」
その時、階段から|誰《だれ》かが駆け降りて来た。
|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》包みをかかえたその男は、駆け降りて来た勢いで、神田へ真横からぶつかった。二人は折り重なって|倒《たお》れる。風呂敷包みが飛んで、中から|祝儀袋《しゅうぎぶくろ》が飛び散った。
|大《おお》|江《え》は、一体何事が起こったのか分らなかった。|呆《ぼう》|然《ぜん》として見ていると、岐子が|逃《に》げて来て、誰か、|刃《は》|物《もの》を持った男が後を追って来るのが見えた。
「岐子!」
大江は我知らず飛び出していた。しかし、間に合いそうもなかった。そこへ|誰《だれ》かが横から飛び込んで来たのだ。|大丈夫《だいじょうぶ》だ! 間に合うぞ!
神田は、いきなりぶつかって来た男を押しのけると、包丁を|握《にぎ》り直した。岐子の両親が走って来るのが目に入った。やめられるか!
やめるもんか! 飛び起きて、岐子の前へ。――岐子が顔を両手で|挟《はさ》むようにして、
「やめて!」
と|叫《さけ》んだ。神田は突き出した|刃《やいば》を止める|暇《ひま》がなかった。岐子の前へ、|覆《おお》いかぶさるように身を投げ出した男へ、包丁が突き立った。
|愕《がく》|然《ぜん》とした神田を、太い腕が|押《おさ》え|込《こ》んだ。|藤《ふじ》|木《き》だった。ボーイたちが、ワッと|駆《か》け寄って来る。
|総《すべ》ては十秒足らずの出来事だった。
|呆《ぼう》|然《ぜん》自失の|態《てい》の神田がボーイたちに連れ去られると、岐子は母親に|抱《だ》きついて、すすり泣いた。|絹《きぬ》|江《え》は、
「さあ、後は任せて……。忘れてしまいなさい。さあ……」
と|娘《むすめ》を|抱《だ》きかかえるようにして、友人たちの方へ連れて行った。――藤木は、苦しげな息をつく大江を、
「今、医者が来るからな」
と力づけた。大江が|微《かす》かに|肯《うなず》く。医者が|駆《か》けつけて来た。
「救急車は?」
「呼んである」
「よし。……ともかく今は応急処置だけだ」
「あっちの若い人も頼むよ。|腕《うで》をけがしてる」
「分った」
藤木が立ち上ると、|頼《より》|野《の》|木《ぎ》がやって来た。
「あのお年寄りは、|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「分りません。傷が深いようで――」
「気の毒に……。|娘《むすめ》の恩人ですよ」
藤木は|黙《だま》って目を|伏《ふ》せた。
「――あなた」
|絹《きぬ》|江《え》がやって来た。
「どうした、|岐《みち》|子《こ》は?」
「ええ、大丈夫。少し落ち着いたようよ。あの方は?」
「今、お医者さんが|診《み》ている。大変な事になったよ、全く」
絹江は、歩み寄ると、医者の方へかがみ込んで、
「いかがでしょう?」
と|訊《き》いた。
「何とも……」
医者は首を|振《ふ》った。「かなりの傷ですから」
「お礼を申し上げたいのです」
「どうぞ」
医者はわきへどいた。絹江は老人の|傍《そば》へ|膝《ひざ》をついて、
「ありがとうございました。|娘《むすめ》が、おかげさまで……」
大江は目を開くと、そっと|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「絹江……」
「え?」
目を見開いて、じっとその顔を見入っていた絹江はハッと息をつめた。「あなたは……」
「岐子は大丈夫か?」
「え?」
「立派な……|娘《むすめ》になったな……」
絹江はややあって、ゆっくり|肯《うなず》いた。
「ええ……」
「少しは……この父親も……役に立ったわけだ……」
大江が|咳《せき》|込《こ》んだ。医者が急いで寄って来た。絹江は青ざめた顔で立ち上った……。
|頼《より》|野《の》|木《ぎ》は、|絹《きぬ》|江《え》が|戻《もど》って来るのを見て、岐子の側を離れた。
「どうだね、あの人は?」
「亡くなったわ」
頼野木は思わず横を向いた。
「何て事だ!」
「あなた。あの人は……大江先生よ」
「――何だって?」
「すっかり|年齢《とし》取ってしまって……」
「そうだったのか……」
二人は、医者が|聴診器《ちょうしんき》を|外《はず》して立ち上るのをじっと見ていた。救急車が玄関へ着いた。
「|奴《やつ》は、決して悪い男ではないんです」
|黒《くろ》|川《かわ》は、頼野木へ言った。左腕を|吊《つ》っている。
「ただ、気の弱い、言いたい事も言えない男なんです。――どうか許してやって下さい」
「あなたが謝る事はない。あなたも|娘《むすめ》の恩人なのですから」
黒川はゆっくり一礼して、正面玄関から出て行った。
絹江は救急車が走り去って行くのを、じっと見送っていた。大江は娘を助けた満足感で、幸せに死んで行った。それでよかったのかもしれない。大江は知らなかったのだ。彼の娘は結局死産だった事、頼野木との間に、二年後に生れた娘に、やはり|岐《みち》|子《こ》という名を付けた事を。
|克《かつ》|美《み》は何が何やら分らないままに、|銀《ぎん》|鳳《ぽう》|閣《かく》を飛び出して、何とか|逃《に》げのびた。夜の|街《まち》を歩きながら、
「やれやれ、せっかくの|収穫《しゅうかく》がフイになっちまった。しかしまあ、ムショ|暮《ぐら》しになるよりゃいいや。それに――昼間|稼《かせ》いだ九十万があらあ」
胸の所を|押《おさ》えて、克美はハッとした。|慌《あわ》ててポケットを探る。|空《から》だ。……さっき、ひっくり返った|拍子《ひょうし》にポケットから飛び出したのに|違《ちが》いない。
「|畜生《ちくしょう》め!」
克美はやたらに|拳《こぶし》を|振《ふ》り回した。
冬のライオン
1
|小《お》|倉《ぐら》|高《たか》|志《し》が会社から帰ったのは、いつもより早く、それでも八時を回っていた。アルコール|抜《ぬ》きなのは別に心がけのせいではなく、ただ|懐《ふところ》が一足早く北風吹き抜けるありさまになっていたからだ。
|疲《つか》れ切った足取りで|玄《げん》|関《かん》を上ると、妻の|昭《あき》|子《こ》が出て来るなり、
「来たわよ」
と言った。――|一瞬《いっしゅん》、小倉は妻が何を言わんとしたのか分りかねてポカンとしていたが、いつもなら|退《たい》|屈《くつ》げに|淀《よど》んだ感じの彼女の目に、|妙《みょう》に|脂《あぶら》ぎった光があるのを見てハッと思い出した。
「そうか。――もうそんな時期だったか」
「何を言ってるの」
昭子はうんざりしたように、言った。「私なんかこの二週間、今日来るか、今日来るかって指折り数えてたのに。あなたときたら、そんな風に欲のないことじゃ仕方ないわよ」
「|忙《いそが》しいんだよ」
|小《お》|倉《ぐら》は茶の間へ入って書類を投げ出し、ネクタイを、まるで首に巻きついた|毒《どく》|蛇《じゃ》か何かのように、引きちぎらんばかりの勢いで|外《はず》した。
「|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》なもんだな」
ワイシャツのボタンを外して首まわりをゆるめると、小倉はドサッと座り|込《こ》んだ。「会社にいる間はネクタイのことなんか気にもしない。それが一歩家へ入ると、もう一分も|我《が》|慢《まん》できなくなるんだ。自分がそれほど割り切った人間だとも思わないがね。――悲しきサラリーマンの習性ってやつかな」
「あなたさえその気になれば、そんな生活から|抜《ぬ》け出せるのに」
小倉は|唇《くちびる》の|端《はし》をゆがめた。笑ったつもりだった。
「君の|親父《おやじ》さんの前で|尻尾《しっぽ》を|振《ふ》ってチンチンして見せるのか?」
「いいじゃないの」
昭子は事もなげに言った。「結局は金を持ってる者の勝ちなんだから。尻尾を振って、心の中で笑ってやりゃいいのよ」
「|僕《ぼく》はごめんだ」
小倉はゴロリと|仰《あお》|向《む》けに|寝《ね》た。「そこまで割り切れないんだよ、僕は」
「いざとなって泣きついて行くのとどっちがいいの?」
小倉は、自分を見下す妻の険しい目をチラッと見返した。
「そうなると決まったもんでもないさ」
|彼《かれ》の言葉には、半ば自分へ言い聞かせているような|響《ひび》きがあった。「腹が減ってるんだ。飯にしてくれよ」
と話を打ち切るように言うと、|昭《あき》|子《こ》は何か言おうとして口を開きかけたが、|諦《あきら》めたように|肩《かた》をすくめ、台所へ姿を消した。
|小《お》|倉《ぐら》|高《たか》|志《し》は三十四|歳《さい》である。中規模の|繊《せん》|維《い》会社の係長をしている。|不況《ふきょう》の波をもろ[#「もろ」に傍点]にかぶって、今、会社は|沈《しず》みかけた船も同然だった。昭子にそこまでは言っていない。不景気だから、|暮《くれ》のボーナスは出ないかもしれない、という程度の話だけをしたが、実際には、その|頃《ころ》までに会社が|倒《とう》|産《さん》しないとは言い切れなかった。
昭子は三十歳。子供を生んでいないせいか、まだ二十代に見える。五年前、小倉は海外出張したパリで昭子に出会って、二人は|激《はげ》しい|恋《こい》に落ちた。小倉は昭子のことを、どこかの会社の重役の|娘《むすめ》か何かだろうと想像していた。二人は|結《けっ》|婚《こん》の|約《やく》|束《そく》をして日本へ|戻《もど》ったが、そこで初めて、小倉は昭子の父が、数十の会社を手中にしている財界の大物の一人、|牧《まき》|野《の》|浩《こう》|三《ざぶ》|郎《ろう》だと知ったのである。
牧野浩三郎は、別に|娘《むすめ》の結婚相手に異議は|唱《とな》えなかった。ただ、自分の持っている会社の一つへ、課長として来ないか、と|誘《さそ》った。小倉は若かった。妻の父親の|威《い》|光《こう》で課長になるような男を|軽《けい》|蔑《べつ》していたから、その申し出を|丁重《ていちょう》に断ったのだ。
あの時は、昭子もそんな小倉を、男らしいと|誇《ほこ》らしげに見てくれたものだったが……。
「あいつも変った……」
小倉は、台所から聞こえて来る、|鍋《なべ》や|皿《さら》の|触《ふ》れ合う音に耳を|傾《かたむ》けながら思った。しかし、そもそもが無理な相談だったのかもしれない。|富《ふ》|豪《ごう》の|令嬢《れいじょう》として、好き勝手に|暮《くら》すのに|慣《な》れて来た昭子が、2DKのアパート暮しをいつまでも楽しめるはずもなかった。結婚生活が|物珍《ものめずら》しい|内《うち》はまだよかったが、やがて色あせ、|疲《つか》れて来ると、子供もない単調な日々は|次《し》|第《だい》に|堪《た》え難いものになって来る。――その限りでは、昭子はそれなりに努力し、よくやっている、とむしろ小倉は妻を|賞《ほ》めてやりたい気分だった。
小倉は、起き上ると、|食卓《しょくたく》の上に、わざとさり気なく置かれた白い|角《かく》|封《ふう》|筒《とう》を手に取った。中身は例年通りの決まり文句だった。
〈親愛なる小倉|高《たか》|志《し》、昭子夫妻へ。
[#ここから2字下げ]
今年も私の|誕生日《たんじょうび》が近付いて来た。今年、私は七十歳になる。普段なかなか顔を見る機会もないが、今年も例年通り、誕生日に君らを招待してささやかなパーティを開きたい。ぜひ出席してくれたまえ。
念のため申し|添《そ》えておくが、プレゼントなどの心づかいは無用だ。私は欲しいものは|総《すべ》て持っている。「若さ」だけは別にして。
では顔を見るのを楽しみにしている。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]牧野浩三郎
[#ここから2字下げ]
|追《つい》|伸《しん》、私の誕生日は十二月二十五日だ。念のため〉
[#ここで字下げ終わり]
ごていねいな手紙だ。小倉は苦笑した。|直《じき》|筆《ひつ》ではない。カーボンコピーである。|冒《ぼう》|頭《とう》の〈親愛なる……へ〉の名前の所だけがペンで書き込んである。|他《ほか》の子供の所へも全く同じ手紙が行っているわけだ。
「行くんでしょう?」
|昭《あき》|子《こ》が茶の間へ入って来るなり|訊《き》いた。
「ああ、もちろん。――行かないわけにもいくまい」
「それまでに会社が|潰《つぶ》れていないといいけどね」
昭子の|冗談《じょうだん》に、小倉は|一瞬《いっしゅん》ドキリとした。
「そんなことはないさ」
さり|気《げ》なく言った時、電話が鳴った。昭子が立っていった。
「はい、|小《お》|倉《ぐら》です。――あ、お兄さん」
昭子の声が軽く|弾《はず》んだ。兄弟と話す時には、|疲《つか》れた人妻から|大《たい》|家《け》の|令嬢《れいじょう》に|戻《もど》るのかもしれない。
「え?――ああ、来たわよ。もちろん行くわ。お兄さんも行くんでしょ?――え?――いいわよ。分った。――それじゃ」
「何の用だい?」
昭子は、ちょっと|当《とう》|惑《わく》|顔《がお》だった。
「兄よ。――父の誕生日の前に、会って話したいことがあるんですって」
「何だろう?」
「分らないわ。――母も来るって」
「お母さん?」
小倉は思わず|訊《き》き返した。「それはまた……久しぶりだね」
「半年以上会ってないわね」
昭子はちょっと考えて|肯《うなず》いた。
「一体|俺《おれ》たちに何の用だろう?」
「知らないわ。――また|愚《ぐ》|痴《ち》を言いたいんじゃないの。今度の日曜に|一《いっ》|緒《しょ》に夕ご飯を食べようって」
昭子のあげたレストランの名を聞いて、小倉は|一瞬《いっしゅん》、|湯《ゆ》|呑《の》み|茶《ぢゃ》|碗《わん》へのばした手を止めた。行ったことはないが、高級な店としてよく知られていたからだ。
「そんな所へ行くのか?」
「支払いは母持ちよ、心配しないで」
昭子は|愉《ゆ》|快《かい》そうに言ってから、「ねえ、ちょっとその手紙で気付いたことない?」
と|訊《き》いた。小倉は牧野浩三郎からの手紙をよく見直した。
「さあ……。別に何も……」
「鈍いのねえ。字を見てごらんなさいよ」
「――そうか」
「分るでしょう? 去年までは父自身の、右上りの字だったのに、今回はどうみても女の手よ」
「きっと秘書でも|雇《やと》ったのさ」
「秘書なら|熊《くま》|谷《がい》さんがいるわ。――一体|誰《だれ》が書いたのかしら?」
「お兄さんは何も言ってなかったのか?」
「ええ。……でも気付かないはずはないと思うけど」
と昭子は考え込んだ。
「おい、腹が減ってるんだがね」
「分ったわよ」
昭子はため息をついて、茶碗へご飯をよそった。
「お|義父《とう》さんに女が?」
思わず|訊《き》き返したのは|牧《まき》|野《の》|光《みつ》|枝《え》だった。|浩《こう》|三《ざぶ》|郎《ろう》の長男、|明《あき》|夫《お》の妻だ。|小《お》|倉《ぐら》の一番|嫌《きら》いなタイプの|有《ゆう》|閑《かん》夫人だった。ダイヤをきらめかせたネックレスやらブレスレットで|着《き》|飾《かざ》ってはいるが、|却《かえ》って、シックな店のムードには水と油だ。その点は、服こそ|冴《さ》えないが、昭子の方がさすがに|雰《ふん》|囲《い》|気《き》になじんでいた。
「そうなのよ」
ゆっくりと|肯《うなず》いて一同を見回したのは、牧野|八《や》|重《え》|子《こ》である。
高級フランス料理店の一室は、しばし重苦しい|沈《ちん》|黙《もく》に支配された。――テーブルを囲んでいるのは、|牧《まき》|野《の》|浩《こう》|三《ざぶ》|郎《ろう》の妻、|八《や》|重《え》|子《こ》、|明《あき》|夫《お》と|光《みつ》|枝《え》の|夫《ふう》|婦《ふ》、|小《お》|倉《ぐら》と|昭《あき》|子《こ》、それに|末《ばつ》|弟《てい》の牧野|正治《しょうじ》の六人である。
「どんな女なんだい、母さん?」
と明夫が|訊《き》いた。
「――|中条美幸《ちゅうじょうみゆき》といってね、熊谷さんがこの間アメリカへ一か月出かけている間、臨時に|雇《やと》った秘書だそうよ」
「若いのかい?」
「二十八だといってたわね」
急に笑い声が上った。弟の正治である。
「七十|歳《さい》と二十八歳か。――|親父《おやじ》もやるじゃないか!」
「笑い事じゃないぞ!」
明夫が弟をにらみつける。
「その通りよ」
と八重子が|真《しん》|剣《けん》な表情で|肯《うなず》く。「これは大問題だわ」
「しかし――」
と小倉が初めて口を挟んだ。「お|義父《とう》さんに愛人ができたといっても、これが最初というわけでもないでしょう。なぜ今度だけ心配するんですか?」
「今度はどうも、ただごとじゃないようでね」
と|八《や》|重《え》|子《こ》は|苦《にが》|笑《わら》いした。「すっかり、その若い女にのぼせ上ってるようなのよ。いい|年齢《とし》をしてね、全く!」
小倉はふっと顔をわきへ向けて|唇《くちびる》の|端《はし》に|笑《え》みを|浮《う》かべた。「いい|年齢《とし》をして」と言っている当の八重子が、若い男を囲っているのはみんなが知っていることだからだ。人間って|奴《やつ》は勝手なもんだ……。
「で、何か具体的な問題があるのかい?」
長男に|相応《ふさわ》しく、というべきかどうか、明夫は父親の持っている会社の一つで部長を務めている。しかしまだやっと三十五|歳《さい》になったばかりの若さで、|貫《かん》|禄《ろく》にも商才にも欠けていた。明夫を見る|度《たび》に、小倉は、こんな上役が自分の会社にいなくてよかったと思った。
八重子は明夫の質問に答える代りに、ハンドバッグから一枚の書類を取り出した。手をのばして取り上げた明夫が目を|瞠《みは》って、
「これは|離婚届《りこんとどけ》じゃないか!」
と言った。「――じゃ、親父はその何とかいう女と|結《けっ》|婚《こん》する気なんだね」
「|中条美幸《ちゅうじょうみゆき》よ。――そうらしいわね。そこで今夜集まってもらったのよ」
八重子はもう一度、一同の顔を|眺《なが》め回した。五十四歳の、|厚化粧《あつげしょう》がややこっけいですらある初老の女。八重子が夫と別居してマンション|暮《ぐら》しを始めたのがいつ|頃《ごろ》なのか、小倉は知らない。金以外には、夫に何の|未《み》|練《れん》もなさそうな、|普《ふ》|段《だん》の口ぶりを聞いていると、夫とうまく行っていた時期などあったのだろうかと思えて来る。
「一体どうしようっていうの?」
と昭子が|訊《き》いた。
「簡単よ。その女は私たちにとって|邪《じゃ》|魔《ま》な存在だわ。いまになって、あの人が死んだ時、遺産をどっさり持って行かれた日には、たまらないからね。そうでしょう?」
「そりゃそうだけど、まさか女を殺すわけにもいかないだろう」
正治がおどけた|口調《くちょう》で言った。――小倉はこの弟の方が、兄の明夫よりも親しみが持てた。|風《ふう》|来《らい》|坊《ぼう》で、二十七|歳《さい》になるが、独身、無職。それでいて金に困ることのない、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》な才能を持っている。要するに女好きのするちょっとくずれた二枚目で、金のある女性の間を|渡《わた》り歩いて|暮《くら》しているのだが、それがいとも自然に感じられる男なのだ。
「そうかしら?」
八重子が事もなげに言った。「私は殺したっていいくらいに思ってるけど」
|一瞬《いっしゅん》、ギョッとみんなが口をつぐんで息を|呑《の》んだ。八重子が、それくらいのことはやりかねない女だと知っているせいだろう。
「まあ、そういうわけにもいくまいね」
と八重子は|澄《す》まして続けた。――ホッとみんなが息をつく。
「でも、ともかく放ってはおけないでしょう」
と光枝が言った。金の話となると目の色が変る。八重子にはお気に入りの|嫁《よめ》である。
「私も離婚届に|黙《だま》って判を|押《お》すほど|馬《ば》|鹿《か》じゃないわ。――そこで相談なのよ。中条美幸という女をいかにして主人から引き|離《はな》すか」
「そういう女だ。財産目当てに決まってる」
と|明《あき》|夫《お》が言った。「それを認めさせれば……」
「お父さんはそんなにボケちゃいないわ」
|昭《あき》|子《こ》が明夫の言葉を|遮《さえぎ》った。「もし本気でその女と|結《けっ》|婚《こん》する気だとしても、女が金目当てだってことは承知の上に違いないわ」
「姉さんの言う通りだと通うね」
と|正治《しょうじ》が|肯《うなず》いた。「父さんにしてみりゃ、何が目的だろうが、自分に|尽《つ》くしてくれているだけで満足なのさ」
「じゃ、正治さんはどうしようっておっしゃるの?」
と光枝が問いかけると正治は苦笑して、
「考えるってのは|僕《ぼく》の日課に入ってないのでね」
「あなたの日課は、女を|誘《ゆう》|惑《わく》することと女と|寝《ね》ることのくり返しでしょ」
昭子が皮肉っても、正治は|怒《おこ》る様子もなく、ただニヤリとするだけだった。
「そこなのよ、私が考えたのは」
と八重子が言った。|他《ほか》の面々が|戸《と》|惑《まど》って顔を見合わせていると、八重子は|微《ほほ》|笑《え》んで、
「いくら、女が財産目当てなのを主人が承知しているといっても、その女が他の男と関係していると知ったら、やはり|穏《おだ》やかじゃないでしょう」
「他の男って……。それ、僕のことかい?」
「そう。正治、あなたよ」
「よしてくれよ! 僕にその女を|誘《ゆう》|惑《わく》しろって言うの?」
正治は目を丸くした。
「あなたの専門でしょ?」
「しかし……そんなに|巧《うま》く行くわけが……」
「やってみるのよ。一度でも巧く|寝《しん》|室《しつ》へ連れ|込《こ》めたら、そこを主人に見せてやればいいわ」
「僕はどうなるのさ? |親父《おやじ》に殺されちまう!」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。私たちがついてるわ」
「正治さん、いい考えだと思うけど」
と|光《みつ》|枝《え》が目を|輝《かがや》かせる。
「よせよ、人のことだと思って!」
正治は|渋《しぶ》い顔で言ったが、それ以上|拒《こば》む気もないようだった。――小倉は|呆《あき》れていた。何とも次元の低い争いじゃないか。義母の八重子が、売春宿のやり手|婆《ばあ》さんみたいに見えて来た。
「――仕方ないじゃないの」
帰宅|途中《とちゅう》のタクシーの中で、昭子が言った。「母にしてみれば、妻の座だけは絶対に|譲《ゆず》れないんだから」
「しかし、やり方ってものがあるだろう」
小倉は首を|振《ふ》って、ため息をついた。「あれはいささかえげつないよ。そうじゃないか?」
「見方によるわね」
「君は気にならないのか?」
「そもそもお金を欲しがるってこと自体、あまり高い|志《こころざし》とは言えないでしょ? 目的が目的だもの、手段だけ気取ってみたところで仕方ないわよ」
「そんなもんかね……」
「|正治《しょうじ》ならきっと|巧《うま》くやるわよ」
「どんな女でも|彼《かれ》のようなタイプが好みとは言えないぜ」
「それはそうよ。その時は――」
「どうする?」
昭子は夫を見てニヤリと笑うと、
「あなたが代ったら?」
「――|冗談《じょうだん》じゃないぜ!」
小倉は目をむいた。それからタクシーのメーターに気付いてギョッとすると、
「おい、どこか近くの駅で降りよう!」
と言った。昭子が顔をしかめて、
「何を言ってるのよ。このタクシー代は母持ちなの。心配しないで」
「あ、そうか。忘れてたよ」
「これだからいやなのよ、|貧《びん》|乏《ぼう》|暮《ぐら》しは」
と昭子はため息をついた。
2
その日は、クリスマスらしく雪が降った。もっとも小倉はいささか|憂《ゆう》|鬱《うつ》であった。義父の|邸《てい》|宅《たく》を訪ねるからというより、雪のおかげで、自宅からタクシーを利用するはめになったからだ。今度は母親持ちではない。
昭子の方は対照的に心が|弾《はず》んでいるようだった。本人は夫に気を|遣《つか》っているのか、あまりそうしたそぶりを見せないようにしていたが、言葉の|端《はし》|々《ばし》に、つい|浮《う》かれたような調子があった。――まあ、無理もないことかもしれない。|牧《まき》|野《の》|邸《てい》の門をくぐりさえすれば、彼女は|一《いっ》|介《かい》の平凡な主婦でなく、「お|嬢様《じょうさま》」なのだから……。
「正治、|巧《うま》くやると思う?」
|屋《や》|敷《しき》が近くなった|頃《ころ》、昭子は言った。
「知らないね」
と小倉は|肩《かた》をすくめた。
「あなたったら、自分は無関係のような顔をして……」
「事実、そうじゃないか」
「とんでもないわ。父の財産といったって、無限にあるわけじゃないのよ。その若い女がいい気になって、金を使いたい放題に使い始めたら……」
「君はまるでその女が|妖《よう》|婦《ふ》だと思い|込《こ》んでるみたいだね」
|昭《あき》|子《こ》はちょっと言いすぎたと思ったのか、
「別にそういうわけじゃないけど……」
と言葉を|濁《にご》した。
「僕は君の|親父《おやじ》さんの金など当てにしちゃいないよ。ちゃんと|人《ひと》|並《な》みの生活をしてる。それで|充分《じゅうぶん》じゃないか」
「人並みの生活? そりゃ世間一般から見ればそうでしょうね。でも私はね、周囲[#「周囲」に傍点]並みの生活がしたいの!」
昭子にそう言われると、|小《お》|倉《ぐら》は何とも言えなかった。確かに、見も知らぬ人々と|比《ひ》|較《かく》しても何の意味もない。問題は自分の付き合う人々の中での位置である。
それきり、二人は牧野|邸《てい》へ着くまで黙りこくっていた。
「私たちが最後だったみたいね」
門の内側に|停《と》めてある三台の車を見て昭子は言った。|八《や》|重《え》|子《こ》のベンツ、明夫の国産車、正治のものらしい赤いスポーツカーが|並《なら》んでいる。車を持っていないのは小倉だけだ。それも昭子には面白くないらしい。
二人がタクシーを降りて|玄《げん》|関《かん》の方へ歩いて行くと、ドアが開いて正治が顔を出した。
「やあ、来たね。窓から見てたんだ」
「あなた、あのスポーツカー、どうしたの?」
「プレゼントさ。女が色々と買ってくれたがるもんだからね。――さ、入んなよ。みんな居間にいる」
|屋《や》|敷《しき》は時の重みすら感じさせるような洋館で、小倉は中へ足を|踏《ふ》み入れる度に、|気《き》|後《おく》れに近いものを感じるのだった。
小倉の住んでいる2DKが丸ごと入ってまだおつりの来そうな居間には、八重子を始め、先日レストランに集まった顔ぶれが|揃《そろ》っていた。
「お父さんは?」
昭子が|訊《き》いた。
「まだ出て来ないのよ」
「何をしてるのかしら!」
「さあね、|大《おお》|方《かた》、若い|恋《こい》|人《びと》と語らってるんじゃないのかしら」
「|僕《ぼく》の仕事はどうなるんだい?」
と正治はホームバーのセットから勝手にスコッチのびんとグラスを出して来た。「|幻《まぼろし》の恋人はいずこに、ってとこだね」
「その女もさっぱり現れないんでね」
「|熊《くま》|谷《がい》さんは?」
と昭子はソファにゆったりと|寛《くつろ》ぎながら訊いた。八重子は首を|振《ふ》った。
「出かけてるらしいよ」
「それじゃ|兼《かね》|代《よ》さんに言って……」
「もう言ってあるのよ。すぐ呼んで来ると言ったんだけどね……」
|黒《くろ》|川《かわ》|兼《かね》|代《よ》は、この牧野家の家事をきりもりしている五十|歳《さい》前後の婦人である。良き使用人の見本とでもいうのか、余計なことには口を出さず、用のある時はいつもすぐ身近にいる。当節では天然記念物にしてもいいような女性だ。
「父さんは|書《しょ》|斎《さい》かもしれないよ。行ってみようか」
と正治は言った。
「そうねえ……」
昭子は夫の方へ、「あなた、ちょっと見て来てよ。場所は分るでしょう」
「ああ、いいよ」
所在なく突っ立っていた小倉は、むしろホッとする思いで居間を出た。どうもあの一家の中にいると、自分だけが違う国語をしゃべっているような気にさせられてしまうのだ。
|廊《ろう》|下《か》を|辿《たど》って書斎のドアの前へ着くと、小倉は一つ|咳《せき》|払《ばら》いをしてからノックした。
「はい」
女の声が答えた。小倉はドアを開けた。
居間の半分ほどの広さの|部《へ》|屋《や》に、|書《しょ》|架《か》と机、|椅《い》|子《す》、ソファがゆったりと|按《あん》|配《ばい》されている。ちょっと週刊誌を読むのは気がひける|雰《ふん》|囲《い》|気《き》である。ソファの一つで|分《ぶ》|厚《あつ》い本を開いていた若い女性が立ち上った。
「失礼、|牧《まき》|野《の》さんは……」
「お部屋でお|寝《やす》みだと思いますけど」
「そうですか」
と急いで出ようとすると、
「あの――」
と若い女が急ぎ足で近寄って来る。「小倉さんじゃありません?」
「え?」
小倉は驚いて女の顔を見た。
「|吉《よし》|本《もと》です。吉本|美《み》|幸《ゆき》です」
「ああ!……吉本君か! 確かにそうだ!」
「お久しぶりです」
「しかし君は……|結《けっ》|婚《こん》したんじゃなかったの?」
「ええ。それが二年目で主人に死に別れまして」
「そうか。――中条美幸。君のご主人は中条さんといったんだね」
「ええ。……でも、小倉さん、どうしてここに?」
すぐには返事をせず、小倉は中条美幸を|眺《なが》めた。もう十年近くも前のことになるだろうか、吉本美幸が高校を出たばかりの、右も左も分らない新入社員として彼の下に配属されて来たのは……。初日にセーラー服姿でやって来て、小倉は思わず目を|瞠《みは》ったものだ。
かれこれ三年近く、勤めていただろうか、故郷の方で見合をした人と|結《けっ》|婚《こん》するから、というので退職して行ったのだが……しかし今、目の前に立っているのは――落ち着いたワンピースのしっくりと|似《に》|合《あ》う、女の|魅力《みりょく》を|湛《たた》えた美人だった。
「|驚《おどろ》いたな、こんな所で会うとは!」
小倉はため息と共に言った。「――君が|牧《まき》|野《の》|浩《こう》|三《ざぶ》|郎《ろう》の|婚《こん》|約《やく》|者《しゃ》なのか」
「小倉さんは……」
「|僕《ぼく》の|女房《にょうぼう》は牧野浩三郎の|娘《むすめ》なんだ」
「まあ!……ちっとも知りませんでしたわ!」
「そりゃそうだろう。しかし、困ったことになったね」
「何がですか?」
「女房を始め、一家みんなで君のことを追い出そうと|企《たくら》んでるぞ」
「小倉さんもですか?」
小倉はちょっと間を置いてから、
「そうだね……。|僕《ぼく》自身はそんなことに|関《かかわ》りたくない。しかし、|女房《にょうぼう》はそれでは|済《す》まないだろう」
小倉は中へ入ってドアを閉めた。「――君は本当に牧野と結婚する気なのかい?」
「あの人がそう望んでいるんです」
「君はどうなんだね?」
「私はまだ決心がつかないんです」
と|美《み》|幸《ゆき》は言いながらソファに|腰《こし》をおろした。
「あの人は|寂《さび》しい人なんです。|奥《おく》さんも、子供さんたちも、あの人をただの預金口座としか思っていないんですもの。――あ、すみません、小倉さんの|奥《おく》さんも――」
「いいんだ。君の言う通りに|違《ちが》いないよ」
「私があの人と結婚すれば、財産目当てと言われるのは百も承知ですわ。――でも、私は|貧《びん》|乏《ぼう》|暮《ぐら》しには|慣《な》れているけど、こんな生活はどうにも落ち着けないんです。財産なんか欲しくもありません。みなさんに、そのことをよく説明しようと思っているんですけど……」
「信じないだろうな、きっと」
「ええ……たぶん、そうだとは思いますけど……」
美幸は小倉を見上げた。「小倉さんも信じませんか?」
「いや、僕は信じる」
小倉はためらわずに言った。――その時、ドアが開いて、黒川|兼《かね》|代《よ》が顔を出した。
「こちらにおいででしたか」
「ああ、兼代さん。久しぶりですね」
「|旦《だん》|那《な》|様《さま》が居間へおいでになりました。美幸様もどうぞ」
「ええ、今行きます」
|廊《ろう》|下《か》へ出ると、美幸は小倉をじって見て言った。「少しも変りませんね、小倉さんは……」
「|性質《たち》の悪い女だわ、全く!」
昭子は|吐《は》き捨てるように言った。
「そうかね。|僕《ぼく》はそれほどには思わなかったけど……」
「見る目がないのよ、男はね!」
と昭子は決めつけると、鏡の前へ座った。
客用の|部《へ》|屋《や》についている浴室を出て、昭子はバスタオル一つの|格《かっ》|好《こう》だった。
「彼女は財産はいらないと言ってるんだぜ」
「そんなことをまともに信じてるの? |馬《ば》|鹿《か》らしい!」
昭子はまるで取りあわない。「金のためでなくて、|誰《だれ》が四十も年上のおじいさんと|結《けっ》|婚《こん》するもんですか!」
「しかし、ちゃんと相続権を|放《ほう》|棄《き》すると――」
「そんなの、いくらでも後から変えられるわ。ともかく差し当っては、妻の座におさまることだけが、あの女の目的なのよ。|一《いっ》|旦《たん》そうなれば、やりたい放題、好き勝手ができるわ。大体、財産がいらないのなら、何も結婚しなくたっていいじゃないの。そうでしょ? 愛人としてここに住んでりゃいいのよ」
「その点はお|義父《とう》さんが――」
「父が言い出したことだって言うんでしょ? そんなのでたらめよ。あの女が父にそう言わせてるんだわ」
「そうかね……」
あるいは昭子の言うことが正しいのかもしれない。そう思いたくはなかったが、小倉も子供ではないのだ。十年前、純情な娘だったからといって今も純情だといえないことぐらいは分っている。美幸も結婚し、夫と死別し、口には出さないが、あれこれと苦労を重ねて来たに|違《ちが》いない。その|彼《かの》|女《じょ》が十八|歳《さい》の少女のままだったら、むしろその方がおかしいと言うべきだろう。
「あなた、ずいぶんあの女の|肩《かた》を持つじゃないの」
と昭子が言い出したので、小倉は|慌《あわ》てて、
「い、いや、別にそういうわけじゃ……」
と弁解しようとした。昭子がからみ始めるとしつこいのだ。おまけに今夜はちょっとワインが入っている。|普《ふ》|段《だん》、家ではとても飲めない|年《ねん》|代《だい》|物《もの》だ。
「ま、そんなこといいわ」
と昭子は思いの|他《ほか》あっさりと話を打ち切った。小倉はホッと胸を|撫《な》で下ろし、
「じゃ、僕もひと|風《ふ》|呂《ろ》浴びて来るよ」
と急いで浴室へ入って行った。
クリスマスの夜は、この屋敷へ|一《いっ》|泊《ぱく》するのが習慣である。小倉にとっては年末の|忙《いそが》しいさなかに、二日も|潰《つぶ》されるのは|迷《めい》|惑《わく》だったが、仕方ない。――それに、いくら忙しいといっても、|倒《とう》|産《さん》がほぼ確定的となっている状態では、むしろこうして会社から|逃《に》げて来ている方が|賢《けん》|明《めい》かもしれない……。
|小《お》|倉《ぐら》は、まだ|昭《あき》|子《こ》に何も話していなかった。今はともかく時期が悪い。明日、家へ|戻《もど》ってから話すとしよう。――一体何と言われるだろうか。だから私があれほど言ったじゃないの! そう|叫《さけ》ぶ昭子の金切り声が、もう聞こえて来るようだ。
「今から心配しても仕方ない」
と|呟《つぶや》いて、小倉は|浴《よく》|槽《そう》に身を|沈《しず》めた。洋式の|風《ふ》|呂《ろ》なので浴槽がえらく浅い。もうちょっと体を|寝《ね》かさないと……。その|拍子《ひょうし》にツルリと手が|滑《すべ》って、頭までお湯にもぐってしまう。|慌《あわ》てて|這《は》い上り、目をこすりながらむせていると、男の声がした。
見上げると、|牧《まき》|野《の》|浩《こう》|三《ざぶ》|郎《ろう》が、ガウン姿で浴室の入口に立っていた。――この年代の日本人には|珍《めずら》しく、|大《おお》|柄《がら》で、肥満体でもない。健康そうな体つきをしている。|髪《かみ》は白くなっているが、顔の色つやは、|下手《へた》な中年よりも若々しいほどで、これなら二十八|歳《さい》の|花《はな》|嫁《よめ》を|迎《むか》えたって|大丈夫《だいじょうぶ》じゃないかと小倉は内心ひそかに思ったほどだった。
その牧野浩三郎がニヤッとして、浴槽の小倉を見下ろすと、言った。
「突然すまんね。ちょっと君らに話があるんだ。ゆっくりしてくれ、|部《へ》|屋《や》で待っているから」
「はあ……」
浴室を出て行きかけて、浩三郎はちょっと足を止めると、
「|溺《おぼ》れないように気を付けてくれよ」
と|真《ま》|面《じ》|目《め》くさった口調で言ってから、「会社の方はもう溺れかかっているようだが……」
と付け加えた。
小倉はタオルで顔を|拭《ぬぐ》った。――知っているのだ。彼の会社が|潰《つぶ》れかかっていることを。小倉はいやな予感がした。
風呂から出て借り着のガウンをまとい、部屋へ|戻《もど》ると、案の|定《じょう》、昭子がキッと目を|吊《つ》り上げて|彼《かれ》をにらんだ。
「どうして今まで|黙《だま》ってたのよ!」
「まあ待ちなさい」
と浩三郎は|娘《むすめ》を制して、「男にとっては言いにくいことだよ。自分が遠からず失業しそうだ、などとはね」
「別に|隠《かく》すつもりはなかったんだよ」
と小倉は言った。「ただ、今は時期が悪いと思ったんでね」
「潰れてから言ったんじゃ、|手《て》|遅《おく》れでしょう!」
昭子は語気|荒《あら》く言った。「一体どうするつもりなのよ?」
「どうもこうも……。新しい勤め先を探すさ。二、三、心当りもないじゃないし……」
「そう意地を張ることもないさ」
と浩三郎は小倉の肩を|叩《たた》いた。「ちょうど君にぴったりのポストがあるんだ。課長の|椅《い》|子《す》が一つ|空《あ》いていてね。君なら立派に務めてくれると思う。――どうかね?」
小倉は昭子の顔を見た。
「まさか|断《ことわ》るんじゃないわね?」
昭子がぐっとにらみをきかせる。――小倉も、これ以上逆らいようはないと|悟《さと》っていた。次の勤め先に心当りがあるなどというのはまるきりの出まかせなのだ。
小倉はゆっくり|肯《うなず》いた。
「分りました」
「それはよかった」
浩三郎は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「ところで、その代りに、と言っては何だが、君らにちょっとした|頼《たの》みがある」
「分ってるわ」
昭子は|腕《うで》|組《ぐ》みをして言った。「お父さんがあの女と|結《けっ》|婚《こん》するのに賛成しろっていうのね?」
「お前は昔から察しがよかったな」
「仕方ないわね。裏切り者になっても、|路《ろ》|頭《とう》に迷うよりはましだもの」
「それでこそわしの|娘《むすめ》だ」
浩三郎は昭子に微笑みかけてから部屋を出て行った。小倉はため息をついて、広いベッドに引っくり返った。
「……何も言わないのか?」
「何を言うの? まあ、悪いことばかりでもないわよ」
昭子の声は意外に|上機嫌《じょうきげん》だった。「これであなたもいい会社へ入れるんだし、あの女の方は正治が|巧《うま》くやるかもしれないわ。――まあね、何と言ったって、財産を持ってるのは父なんだから、父の気に入られるのもいいことよ。もしあの女がずっとここにいることになれば、私たちが味方になったのを感謝するでしょうからね。私たちもここに住めるかもしれないわ」
やれやれ……。会社も家も女房持ち[#「女房持ち」に傍点]か。小倉はため息をついた。
「ねえ、あなただって、あんな|狭《せま》い2DKより、この広い家の方がいいでしょう?」
「……まあね」
「私、ここへ来ると落ち着くのよ、本当に」
昭子はそう言うと、ガウンの帯を解いて、ガウンをスルリと足下へ落とした。まだたるみの少ない、若々しい|裸《ら》|体《たい》が現れる。
「久しぶりに、こういう気分にもなるのよ……」
昭子は、そう|囁《ささや》きながら、ベッドに上って来た。
|枕《まくら》もとの時計に目をやると、午前一時を少し回っていた。小倉は|隣《となり》で|眠《ねむ》っている妻の様子をそっと|窺《うかが》った。久しぶりの交わりに|堪《たん》|能《のう》したのか、全裸のままでぐっすりと|寝《ね》|入《い》ってしまっている。
小倉はそろそろと毛布から|抜《ぬ》け出した。下着をつけてガウンをはおると、もう一度昭子の方へ目をやってから、部屋を出る。
二階の廊下はシンと静まりかえって、|洩《も》れ聞こえる声もない。階段をゆっくりと降りて行くと、小倉はあたりを見回した……。
「今夜、二人だけでお話しできますか?」
|中条美幸《ちゅうじょうみゆき》が小倉の|腕《うで》を取り、声をひそめて言ったのは、気まずく冷ややかな|雰《ふん》|囲《い》|気《き》の内に夕食が終って、居間へ|戻《もど》ろうとした時だった。
「それはいいけど……」
と言い|淀《よど》む小倉にはかまわず、
「一時に、あの|書《しょ》|斎《さい》で!」
と早口に|囁《ささや》くと、美幸は小倉から|離《はな》れて行ってしまった。――小倉は昭子を|抱《だ》きながらも、割合冷静にチラチラと時計を|眺《なが》め、|大丈夫《だいじょうぶ》かな、一時までには終るかな、と心配していたのだが……。幸い、昭子もすっかり|寝《ね》|入《い》って、こうして階下へやって来た、というわけだ。
別に足音を殺さなくてもいいのだが、つい抜き足差し足になる。書斎の前へ来ると、ドアが細く開いているのに気付いた。一時を十五分ばかり過ぎているだろう。もう先に来て待っているにちがいない。そっとドアを開けて中へ入る。明りは|点《つ》いているが、美幸の姿は見当らない。
「変だな……」
|彼《かれ》が|遅《おく》れたので、部屋へ帰ってしまったのだろうか? しかし、それならそれで明りを消して行くはずだ。まあいいや。今から来るのかもしれない。――小倉はゆっくりと部屋を横切り、|奥《おく》のソファへ|腰《こし》をおろして待つことにした。
十五分待って、もう|書《しょ》|斎《さい》の時計は一時半に近くなっていたが、一向に美幸はやって来ない。小倉は|退《たい》|屈《くつ》しのぎに|書《しょ》|棚《だな》へ立って行って、目についた|分《ぶ》|厚《あつ》い本を手に取るとソファへ|戻《もど》った。何やら難しそうな経済書である。読むでもなくページをめくっていると、間から|栞《しおり》がハラリと落ちて足下へ|舞《ま》った。
「おっと……」
栞はソファの下へ|滑《すべ》り|込《こ》んでしまった。小倉は本を|傍《かたわら》へ置いて、|床《ゆか》へ|膝《ひざ》をつき、ソファの下を|覗《のぞ》き込んだ。
中条美幸が目を見開いて、横たわっていた。ソファの下へ、かなり無理に押し込まれたらしい。足が|奇妙《きみょう》にねじれていた。それでも、もう苦痛を感じることはない。もう息がないことは一目で見て取れた。
小倉が膝の|震《ふる》えをこらえて何とか立ち上った時、入口の方から、突然声がした。
「一体、こんな所で何をしてるの?」
|驚《おどろ》いて|振《ふ》り向くと、昭子がガウンの前をかき合わせるようにして立っていた。
3
重苦しい|沈《ちん》|黙《もく》が居間を支配していた。
午前三時、ガウン姿のままで、全員が顔を|揃《そろ》えている。|誰《だれ》も、進んで口を開こうとする者はない。みんなソファに中途半端に|腰《こし》をかけたままで、|床《ゆか》へ視線を落として、|黙《だま》り込んでいた。ただ|一人《ひとり》、立って全員の顔を見回しているのは、牧野浩三郎だ。
「……|彼女《あれ》は死んだ」
|殊《こと》|更《さら》に感情を殺した声で、言った。「殺されたのだ。――この中の|誰《だれ》かに。|他《ほか》ならぬ、わしの妻や子供たちの誰かにな」
「そう決めつけるのは早いでしょう」
と|遠《えん》|慮《りょ》がちな声で言ったのは、|明《あき》|夫《お》である。
「|強《ごう》|盗《とう》か何かの|仕《し》|業《わざ》かもしれないし……」
「強盗だと! 馬鹿らしい!」
浩三郎は明夫の言葉を|一蹴《いっしゅう》した。「強盗がわざわざ死体をあんな風に隠して行くか? 大体、強盗なら、どこから入って、どこから出て行ったんだ? どの窓も破られていないし、どの|鍵《かぎ》も|外《はず》れていない。|荒《あら》された|跡《あと》も、|盗《と》られたものもない。これでも強盗の仕業だと言うのか?」
明夫は|黙《だま》ってしまった。――|八《や》|重《え》|子《こ》が静かに言った。
「でも、あなた、たとえそんなことがありえなくても、警察にはそう言っておかなくては……」
「ほう。なぜだ?」
浩三郎はじっと妻へ|鋭《するど》い目を向けた。
「決まってるじゃありませんか。あなたはこの家族の中から、誰かを殺人犯として引き|渡《わた》す気なんですか?」
「わしは一向に|構《かま》わん」
「そんな!」
「いいか、|美《み》|幸《ゆき》は殺されたんだぞ! 美幸の首を|締《し》めた人間を、目をつぶって許してやれと言うのか?」
「牧野の一族から|逮《たい》|捕《ほ》|者《しゃ》を出すなんて!……世間の目というものがあります。そんなことになれば、|他《ほか》の家族も|肩《かた》|身《み》の|狭《せま》い思いをするんですよ」
「|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》というもんだ」
浩三郎が冷ややかに言った。「お前らはどうせみんな、これで財産を|横《よこ》|奪《ど》りされずにすむ、とホッとしとるんだろうが」
返事をする者はなかった。浩三郎はみんなの顔を|眺《なが》め回して、
「では警察へ通報するぞ。文句はないだろうな?」
「待って」
と八重子が口を出した。
「まだ何かあるのか?」
「私たちはいいわ。でも孫はどうなの? 明夫の所には、小学校の子が二人いるのよ。あの子たちがどんな思いをするか……。幼い子供たちまで傷つけてはいけないわ」
|小《お》|倉《ぐら》は思わず苦笑した。八重子が、|普《ふ》|段《だん》、孫のことなど、まるで見向きもしないのを知っていたからだ。しかしその言葉は浩三郎の方には|効《き》き目があったようで、その額には迷いのしわが刻まれた。――このクリスマスの集まりには連れて来ていないが、たまに孫の顔を見るのは、浩三郎も|人《ひと》|並《な》みに楽しみにしているのである。
お袋さん、なかなかいい所を|突《つ》いたじゃないか……。小倉はじっと浩三郎の|様《よう》|子《す》を見守っていた。――長い間、身じろぎもせずに考え|込《こ》んでから、浩三郎はやっと大きく息をついた。
「よし、分った。……しかし、殺した犯人には、わしが[#「わしが」に傍点]責任を取らせるからな」
「ちょっと待って下さいよ」
と小倉は思わず口を出した。みんなの視線が|一《いっ》|斉《せい》に集中して、ちょっとたじろぐ。
「あ、あの……これは、その、殺人事件ですよ。|僕《ぼく》らはただ警察へ通報して、後は警察へ任せればいいんじゃないですか?」
「あなたは牧野家の人間じゃないから分らないのよ」
と昭子がアッサリと言った。
「し、しかし、そんなことは関係ない! 僕らには市民としての義務がある!」
小倉はむきになって言ったが、返って来るのは、ただ冷淡な|眼《まな》|差《ざ》しばかり。――ここは常識の通用しない世界なのだ、と小倉はため息をついた。
「別に警察へ知らせないと言っているわけではないよ、安心したまえ」
浩三郎は静かに言った。「ただ、知らせ方というものがある、ということだ」
「|強《ごう》|盗《とう》が入ったということにすればいいでしょう」
と明夫は言った。よほど強盗が好きらしい。
「少し室内を荒らして、適当に|被《ひ》|害《がい》を申告しておけば、|誰《だれ》も疑いはしませんよ」
「今の警察はそんなに単純なものじゃないわよ」
と、さすがに昭子の方がまだ少し頭が回るようだ。「実際に入ってもいないものを……。ばれた時が|面《めん》|倒《どう》よ」
「そうですとも」
小倉が|肯《うなず》いた。「警察は|馬《ば》|鹿《か》ではありませんよ。変に話をデッチ上げたってすぐに|見《み》|抜《ぬ》かれてしまいます」
小倉は立ち上ると窓の方へ歩いて行き、カーテンを開けた。
「ご覧なさい。外は雪が積もってるんですよ。それも昨夜の早い|内《うち》にやんでいる。強盗が入ったのなら|足《あし》|跡《あと》が残るはずです。家の中だけ荒らしたってだめですよ。一体どう説明するんです? まさか空を飛んで来たわけじゃあるまいし」
浩三郎は窓の所まで来て外を|覗《のぞ》くと、
「なるほど、君の言う通りだ」
と肯いた。「君もなかなか頭がいいね」
「ですから、正直に警察へ届けるべきですよ」
と小倉は言った。「殺人があったんです。家の名前がどうこうと言っている場合じゃありません」
|浩《こう》|三《ざぶ》|郎《ろう》は|小《お》|倉《ぐら》を見て、
「ところで、|美《み》|幸《ゆき》を見つけた時、君は|書《しょ》|斎《さい》で何をしていたんだね?」
と|訊《き》いた。小倉はちょっとギクリとしたが、
「それは……ただ、ちょっと|眠《ねむ》れなかったものですから……」
「本当かな? そんなことを言っておいて、もし後で、君と美幸が知り合いだったなどということが分ったら、君の立場は|甚《はなは》だ危くなるんじゃないのかね」
確かにそうだ。小倉は肩をすくめた。
「分りました。――ええ、|彼《かの》|女《じょ》は|昔《むかし》会社で|僕《ぼく》の下にいたのです」
「あなた、そんなこと言わなかったじゃないの!」
昭子が目をむいた。
「別にわざわざ言うほどのこともないと思ってね。――何も特別の仲だったわけじゃないんだから」
小倉は、美幸が話したいことがあると言っていたので、書斎へ行ったのだと説明した。
「――で、死体を見つけたというわけです。彼女が一体何を話すつもりだったのかは分りませんね」
「あんたが殺したんじゃないのかい?」
|正治《しょうじ》が|冗談《じょうだん》めかして言った。「昔の関係を姉さんにばらすと|脅《おど》されて……」
小倉はカッとなった。自分が中傷されたということより、美幸の死を冗談にしてしまう正治の神経に腹が立ったのである。
「|貴《き》|様《さま》、もう一度言ってみろ!」
と|拳《こぶし》を構えて|詰《つ》め寄ると、正治は|慌《あわ》ててソファの後ろへ|逃《に》げた。
「ぼ、暴力はいけないよ!」
「やめなさいよ、あなた」
と昭子が顔をしかめる。
「――君こそどうなんだ、色男君。計画通りに彼女を引っかけようとして抵抗され、つい夢中になって殺しちまったんじゃないのか?」
「馬鹿言うな!」
八重子が慌てて、
「|黙《だま》んなさい、二人とも!」
と|叫《さけ》んだが、浩三郎は素早く聞きとがめて、
「計画[#「計画」に傍点]とは何のことだ?」
と|鋭《するど》い口調で問いかけた。――小倉は、レストランでの会合の話をして聞かせた。浩三郎はゆっくりと一同を|眺《なが》め回し、
「全く|呆《あき》れた|奴《やつ》らだな!……美幸は財産などいらんと言っておった。本心からそう思っていたのだ。それをお前たちは……」
|一《いっ》|旦《たん》言葉を切ると正治をジロリとにらんで、「どうなんだ? 本当に美幸に手を出したのか?」
「そ、そんなことしませんよ! 本当です!」
と正治は|慌《あわ》てて首を振った。「そりゃ、声ぐらいかけました。でもてんで取り合おうとしません。――ああいう女は|僕《ぼく》の手には負えませんよ」
それはそうだろう、と小倉は思った。美幸はそんな遊び人タイプの男にひかれるような女ではないのだ。
「そんなことより、今は|強《ごう》|盗《とう》の件を片付けてしまいましょうよ」
|八《や》|重《え》|子《こ》が話を自分に|都《つ》|合《ごう》の悪いことからそらそうとするように言った。「強盗の入った|跡《あと》がないのなら、今からそれを作ればいいのよ」
「じゃ、|誰《だれ》かが強盗の|真《ま》|似《ね》をして|忍《しの》び|込《こ》めって言うわけ?」
|昭《あき》|子《こ》がさすがに|驚《おどろ》いた様子で言った。
「だって|他《ほか》に手がないじゃないの」
と八重子は至って平然としている。「誰かが|一《いっ》|旦《たん》外へ出て、|塀《へい》から忍び込んで来て窓を|壊《こわ》して|書《しょ》|斎《さい》へ入り込む。中を適当に|物色《ぶっしょく》してから|逃《に》げ出すのよ。|足《あし》|跡《あと》もちゃんと残るし、私たちも疑われずに|済《す》むじゃないの」
そう|巧《うま》く行くものかどうか、小倉は首を|振《ふ》ったが、別に口は出さなかった。何を言ったところでむだなことだ。
「問題は誰がそれをやるか、だ」
と|明《あき》|夫《お》は言った。「|僕《ぼく》はだめだ。|塀《へい》をよじ登るなんて芸当はとってもできない」
「正治、あなたが一番若いんだから、あなたやりなさいよ」
昭子に言われて正治は目をむいた。
「と、とんでもない! 姉さんだって知ってるだろ、僕は高所|恐怖症《きょうふしょう》なんだ! 塀なんかによじ登ったら、目を回して落っこちて首の骨を折っちまうよ!」
「何てだらしがないの! それでも男?」
「あの……部屋の中を|荒《あ》らすぐらいならやってもいいよ……」
と正治はおずおずと言った。
「――そうなると、やる人は|一人《ひとり》しかいないわね」
小倉はしばしみんなの視線が自分へ集まっているのが分らなかった。長男もだめ、次男もだめ、と来たら、|後《あと》残っているのは……。
「――おい! |冗談《じょうだん》じゃない!」
小倉は立ち上って言った。「どうして僕がそんなことをやらなきゃいけないんだ?」
「いいじゃないの、あなた」
昭子は夫の|肩《かた》に手をかけて、「学生時代は山登りもしたんでしょ?」
「まあ、それなら打ってつけだわ!」
と八重子が手を打つ。
「そうだ。君以外にできる者はないよ」
明夫はニヤニヤしながら、「牧野家の|名《めい》|誉《よ》は君にかかってるんだよ」
「しかし……」
と|抗《こう》|議《ぎ》しかけた小倉の耳へ、昭子が|囁《ささや》いた。
「会社が|潰《つぶ》れかけてるのを忘れないで」
小倉はゴクリと|唾《つば》を飲み|込《こ》んだ。――これが課長の|椅《い》|子《す》の|代償《だいしょう》なのか。
「――分ったよ、|畜生《ちくしょう》!」
小倉はやけ気味に言った。
もう四時近くになっている。冬の朝はいくら|遅《おそ》いといっても、あまりぐずぐずしていたのでは人の目につかないとも限らない。おまけに雪明りでずいぶんと明るいので、折りたたみ式の|梯《はし》|子《ご》をかついで門を出て、|一《いっ》|旦《たん》|屋《や》|敷《しき》から離れ、また屋敷の裏手の|塀《へい》へ|戻《もど》って来るまでの間、|誰《だれ》かに見とがめられはしないかとハラハラものだった。雪はおよそ十五センチほどに積もって、物置から|捜《さが》し出して来た古いズック|靴《ぐつ》はたちまち|濡《ぬ》れて足首まで|凍《こお》るような冷たさ。
「畜生!」
何度毒づいてみても、やらずにすむわけではない。ともかく早く|済《す》ませてしまうに限る。
小倉は梯子をのばして塀に立てかけると、しっかり固定しているかどうか、何度か|揺《ゆ》すって確かめてから、こわごわ登り始めた。キイキイと金具が|耳《みみ》|障《ざわ》りな音をたてて梯子がしなる。やっと塀の上に|辿《たど》りついて、
「やれやれ……どうして|俺《おれ》がこんな|真《ま》|似《ね》をしなきゃならないんだ?」
とグチりながら、塀をまたいで、一つ息を吸い込み、
「エイッ」
と身を|躍《おど》らせる。二メートルほどの高さだが、雪の上なので、思いの|他《ほか》、|衝撃《しょうげき》は小さかった。その代り、雪の中へ転がったので、全身雪だらけ。一日|遅《おく》れのサンタクロースみたいになってしまう。――やっとの思いで起き上ると、庭を|突《つ》っ切って、明りの|洩《も》れている|書《しょ》|斎《さい》の窓へと|真《まっ》|直《す》ぐに進んで行く。
ポケットからドライバーを取り出し、その|柄《え》で、書斎の窓ガラスを|叩《たた》き|割《わ》った。あたりが静まりかえっているので、その音が自分で飛び上るほど大きく聞こえて|肝《きも》を|潰《つぶ》した。
手袋をはめた手を割れたガラスの穴から差し込んで、手探りで|鍵《かぎ》を|外《はず》し、窓をそっと開けた。――別にそっと開けなくともいいわけなのだ。何しろ公認の[#「公認の」に傍点]|泥《どろ》|棒《ぼう》なのだから。しかしそこが|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》なもので、書斎の中へと入り込みながら、小倉はつい左右の|様《よう》|子《す》を|窺《うかが》っている自分に気付いた。
書斎の|床《ゆか》に、美幸の死体があった。ここで本を見ていて、入って来た強盗に殺されたことになるわけだ。まことしやかに、死体の|傍《かたわら》には本が一冊、読みかけのまま床に落ちた、という|格《かっ》|好《こう》で置いてある。小倉は美幸の傍に|膝《ひざ》をついた。
一体|誰《だれ》が彼女を殺したのだろう?――彼女は会社でも、誰からも好かれ、|重宝《ちょうほう》がられていた。男性にも女性にも等しく人気があるというのは|珍《めずら》しいことなのだ。それほど裏のない、素直な明るい性格の|娘《むすめ》だった。その美幸が、今は無残に殺されて横たわっている。そして自分はその犯人を警察の目からかくまう手助けをしているのだ……。
牧野浩三郎は、犯人にその|報《むく》いを受けさせると言ったが、しかし実際に自分の妻なり|息子《むすこ》なりが犯人だと分った時、本当に自分の手で断罪できるのだろうか。殺すわけにもいくまいし、どうするつもりだろう?
何となく、犯人が分らないまま、|曖《あい》|昧《まい》に終ってしまうのではないか……小倉はそんな気がした。――それでいいのか。美幸の死が、結局、単なる|邪《じゃ》|魔《ま》|者《もの》の死で終ってしまっては、美幸があまりに|可哀《かわい》そうだ……。
小倉がため息をついて立ち上った時、|書《しょ》|斎《さい》のドアが開いた。
「ああ、お|義父《とう》さん、今から――」
言いかけて、小倉は口をつぐんだ。牧野浩三郎が、ガウン姿で、|猟銃《りょうじゅう》を手にして立っていた。その銃口は、|真《まっ》|直《す》ぐに小倉へ向けられている。
「……びっくりさせないで下さいよ」
小倉は、やっと笑顔を作って言った。「まさか|弾丸《たま》が入ってるんじゃないでしょうね」
「入っているとも」
浩三郎はごく当り前の調子で言った。「|散《さん》|弾《だん》が二発な」
「|物《ぶっ》|騒《そう》ですね……。暴発したら危いから、銃口を下へ向けて下さいよ」
「暴発はさせない。心配することはないよ」
「でも……」
「ちゃんと君を|狙《ねら》って引金を引く」
小倉は目をパチクリさせた。
「僕を……狙って……ですって?」
「その通り」
「でも一体……」
「すまないが、君には美幸殺しの犯人として死んでもらう」
「何ですって?……まさか、本気じゃないでしょうね?」
「|冗談《じょうだん》は言わんよ」
そう言うなり、|猟銃《りょうじゅう》が火を吹いて、小倉の目の前のソファが吹っ飛んだ。クッションの中の|詰《つ》め物が宙に散乱して|舞《ま》い上る。
「一発外しておけば、いかにも、たまたま命中したように見えるだろう」
浩三郎は平然と言った。――小倉は顔から血の気がひいて行くのが分った。冗談でも|芝《しば》|居《い》でもないのだ!
「一体……どうしてなんです? さっきの話では……」
「わしらとて、こんな茶番で警察の目をごまかせると思っとらんよ。実際に|誰《だれ》かを犯人に仕立てない限りは、な」
「で……僕を?」
「気の毒だが」
「無茶ですよ! 大体どうして僕が――」
「君は|美《み》|幸《ゆき》と関係があった」
「何ですって?」
「ところが君の会社は|倒《とう》|産《さん》。わしに|頼《たよ》って職を見つける|他《ほか》はなくなった。そうなると美幸との仲を清算しなければならない。だが美幸の方は別れるのを承知しなかった。そこで君は|泥《どろ》|棒《ぼう》を装ってここへ|忍《しの》び|込《こ》み、美幸を殺した。わしは美幸の悲鳴を耳にして|銃《じゅう》を手にやって来ると、君がちょうど窓から外へ出ようとしていた。|脅《おど》かすつもりで引金を引くと、運悪く命中してしまったというわけだ」
「そんな……。誰も信じやしませんよ!」
「そうかな?」
「当り前です! いいですか、さっき居間で話したことはみんなが知ってるんですよ」
「家族だけさ」
「それにしたって――」
と言いかけて、「それじゃ……みんなこのことを承知で?」
「ゆっくり話し合って決めたことだ。君|抜《ぬ》きでね」
「いつの間に……?」
「君がせっせと泥棒のいでたちを整えている時だよ。もともとあんな計画をわしが本気で実行すると思ったのかね?」
「しかし――しかし、一体どうして僕が死ななきゃならないんです?」
「君は牧野家の人間ではないからだよ」
小倉は|唖《あ》|然《ぜん》とした。それだけのことで殺されるのか?
「それに君は美幸を知っていたしな。殺す動機も作り|易《やす》い」
「待って下さいよ! それじゃ、|昭《あき》|子《こ》も承知なんですか? 僕が殺されても構わないと――」
「すぐには賛成しなかったよ。安心したまえ」
「……そりゃご親切に」
「だが結局はあれも牧野家の人間だからな」
小倉は急に全身の力が抜けて行くような気がした。昭子まで、自分よりも牧野家の|娘《むすめ》であることを選んだのだ。夫が殺されるのを認めたのだ! |畜生《ちくしょう》! こんな|馬《ば》|鹿《か》な話があるか!
「昭子のことは心配するな」
と浩三郎は言った。「わしがちゃんと面倒を見て、|然《しか》るべき時間が過ぎたら、ちゃんと|再《さい》|婚《こん》させてやる」
「そいつは結構なことで」
と精一杯の皮肉を|込《こ》めて言った。「美幸さんも|可哀《かわい》そうに。こんな|奴《やつ》のことを本気で好いていたなんて」
「誤解してくれるなよ」
と|浩《こう》|三《ざぶ》|郎《ろう》は首を|振《ふ》って、「わしは本当に美幸を愛していた……。しかし、牧野の家から犯罪者を出すわけにはいかんのだ」
小倉は口を開きかけたが、思い直した。何を言ってもむだなことだ。とても聞く耳を持っているとは思えない。
「じゃ、|誰《だれ》が殺したか、あんたは知らないんですね」
「ここは一応君だということにしておこう」
浩三郎は一つ息をついて、言った。「さあ、窓の所へ行って背中を向けてもらおうか」
小倉は仕方なく、開け放したままになっている窓の方へ歩いて行った。恐怖の実感が一向に|湧《わ》かない。今になっても半信半疑という気持なのだ。しかし、もし本当に牧野浩三郎が|銃口《じゅうこう》を自分の方へ向けて引金を引けば、それで|一《いっ》|巻《かん》の終りだということは小倉も理解していた。
「こんなことをして、きっと|後《こう》|悔《かい》しますよ」
どうも我ながら|陳《ちん》|腐《ぷ》なセリフだとは思ったが、|他《ほか》に言葉が思い付かない。
「君は後のことなど心配しなくていいんだよ」
それもそうだ。いや、感心している場合じゃない。小倉は浩三郎の背後へ目を向けて、
「おい昭子、お|義父《とう》さんを|殴《なぐ》るんだ!」
と大声を出した。それこそ全く|陳《ちん》|腐《ぷ》な手だったが、これがみごとにきいた[#「きいた」に傍点]。浩三郎がハッと背後を|振《ふ》り返る。小倉は身を|翻《ひるがえ》して窓から飛び出した。雪の中へどっと転がり|込《こ》む。同時に銃声が|轟《とどろ》いて、窓が粉々に|砕《くだ》けた。小倉は立ち上ると、庭の暗がりへ向って|一《いち》|目《もく》|散《さん》に走り出した。
4
|咄《とっ》|嗟《さ》にどうしてそんな考えが|湧《わ》いたのか、小倉自身もよく分らなかった。――ともかく迷っている|暇《ひま》はない。牧野浩三郎が銃に新たな|弾《だん》|丸《がん》を込めて追って来るのは必至だ。庭を探されたらたちまち見つかってしまうに違いない。大|邸《てい》|宅《たく》といっても、庭にジャングルがあるわけではなく、|隠《かく》れていられる場所もない。それにこの雪明りである。|塀《へい》を乗り|越《こ》えようにも、|梯《はし》|子《ご》は外に立てかけたままだ。
家の中へ入り込もう。小倉はふと思い付いたのである。しかし表の|玄《げん》|関《かん》から入るわけにはいかないし、裏口も|鍵《かぎ》がかかっているだろう。窓だって|戸《と》|締《じま》りは至って|丁《てい》|寧《ねい》である。
「……そうだ」
ただ一つ、入れる場所がある。たった今、自分が飛び出して来た窓だ!
小倉は|身体《からだ》を低くして、|壊《こわ》れた窓の下へ近付いて行った。――耳を|透《す》ましたが、人の声も物音もしない。思い切って|書《しょ》|斎《さい》を|覗《のぞ》き込んでみた。人の姿はなかった。
ガラスの破片に気を付けながら中へ入り込むと、小倉はホッと息をついた。――しかし、これから一体どうすればいいだろう? 警察へ知らせるか? しかし彼の話をまともに受け取ってくれるだろうか。浩三郎がまことしやかにデッチ上げた話の方を信じるのではないか。何と言っても、牧野浩三郎は財界の大物で、それに引きかえ、|小《お》|倉《ぐら》は|倒《とう》|産《さん》寸前の会社の係長に過ぎない。それに、小倉は現にこうして|妙《みょう》ないでたちで|屋《や》|敷《しき》へ|忍《しの》び込んで来たのだ。警察がどっちの言い分を信じるかは分り切っている。
一体どうすればいいのか……。小倉は|途《と》|方《ほう》にくれてソファに|腰《こし》をおろした。どうせ今ごろはみんな総出で庭を|捜《さが》し回っているに|違《ちが》いない。|畜生《ちくしょう》! 殺人一家め!
「あなた、どうしたの?」
突然呼ばれて顔を上げると、|昭《あき》|子《こ》がガウン姿で立っている。小倉は昭子をにらみつけて、
「どうしたもないぞ。――さあ、みんなを呼んだらいいじゃないか!」
昭子はキョトンとした顔で、
「何を言ってるのよ?――役目は|済《す》んだの? 部屋を少し荒らさなきゃいけないんでしょ。それに来る|足《あし》|跡《あと》だけじゃおかしいわ。出て行く足跡だってなくちゃ。早くしないと夜が明けるわよ」
そう言って、昭子はさっき|散《さん》|弾《だん》でめちゃめちゃにされたソファと窓に気付いた。「どうしたの、これ?――|呆《あき》れた! 荒らすっていっても、何もこんなにしなくたっていいじゃないの!」
小倉は何が何やら分らなくなって来た。昭子がよほどの名優でない限り、|彼《かの》|女《じょ》の言っていることは、さっきの居間での打ち合せ通りだ。
「それは|猟銃《りょうじゅう》で|撃《う》ったんだよ」
と小倉は言った。
「猟銃で? じゃ、さっきの銃声? 私、てっきり車の音だと思ってたわ。でもどうして銃なんか……」
「君のお父さんが撃ったんだよ。僕を|狙《ねら》ってね」
「何ですって?」
いよいよおかしい。昭子の|面《めん》|喰《くら》った顔はどう見ても本物である。小倉は、牧野浩三郎に|危《あや》うく殺されかけた一部始終を話して聞かせた。
「そんな……そんな話を、あなた、信用したの?」
「だって……」
「私があなたを殺すのに賛成した、ですって?」
「いや……そんなはずはない、とは思ったんだがね……」
「そんなに私が信じられないの?」
昭子は夫をキッとにらみつけて、「今なら本当に賛成してやるわ!」
「おい、待てよ。今はともかくお|義父《とう》さんの方だ。――あれがまるきりの作り話だとすると――」
「変ね。父がそんなことを……」
「しかし僕を殺そうとしたのは事実なんだ」
「信じられないわ! どうしてあなたを殺すの? 理由がないわよ!」
小倉はふと|眉《まゆ》を寄せて、考え|込《こ》んだ。
「もしかすると……」
「何なの?」
「|中条美幸《ちゅうじょうみゆき》を殺したのはお|義父《とう》さんかもしれない」
昭子は目を見開いて、
「まさか!」
「お義父さんは、|彼《かの》|女《じょ》が、|僕《ぼく》に会うためにこっそり|寝《しん》|室《しつ》を|抜《ぬ》け出すのに気付いた。――年を取ると|眠《ねむ》りが浅くなるからね。お義父さんは疑ったんだ。男と密会するために出かけるんだ、とね。そして彼女の後をつけた……」
「でも、まさか殺すなんて!」
「いや、そんなに意外な話じゃない。人間、年を取ったからといって、|嫉《しっ》|妬《と》の感情を失うものじゃないよ。特にあんなに若い女を愛したら、彼女がいつ自分のもとから|逃《に》げて行くかという不安に絶えずさいなまれていたに|違《ちが》いない。正式に|結《けっ》|婚《こん》したがったのがお義父さんの方だったというのも、単に愛人として置いておくのでは不安だったからだろう。結婚で彼女をつなぎ止めておきたかったんだよ、きっと」
「でも、|書《しょ》|斎《さい》へ来て待っていたというだけで、殺したりするかしら?」
「それはそうなんだが……」
そこへ、入口の方から、
「それだけではなかったんだ」
と声がした。
「お父さん!」
昭子が声を上げる。――牧野浩三郎が|銃《じゅう》を手にして立っていた。
「それだけではなかったんだよ」
と浩三郎はくり返した。「……わしは美幸の姿がベッドにないのに気付いて下へ下りて来た。そして、書斎のドアの中から声が|洩《も》れ聞こえて来るのを聞きつけたんだ。男と女の、愛し合う声が。わしはカッとなってドアを開けた。中は明りが消えて|真《まっ》|暗《くら》だった。スイッチを手探りしていると|誰《だれ》かがわしにぶつかって|廊《ろう》|下《か》へ飛び出して行った。そして明りを|点《つ》けた時――美幸が一人で立っていたのだ」
「お父さん……」
昭子は低い声で言った。「あの|女《ひと》を……殺したの?……」
「そうだ。わしはあれを|他《ほか》の男に渡したくなかったのだ……」
昭子が思わず両手で口をふさいだ。
「それで相手が僕だと思ったんですね」
と小倉は言った。
「そうだ。君自身も認めたじゃないか」
「違います! 一時にここで会う約束はしましたが、僕は生きた彼女には会っていません」
「しかし――」
「妙ですよ。僕と一時に約束しておいて、|他《ほか》の男と密会するなんてことがあるでしょうか?」
「分らん……。だが、本当に男とここにいたのだ!」
小倉はしばらく考え|込《こ》んでいたが、やがてふと顔を上げると、
「お|義父《とう》さん、明りを点けた時、美幸さんはどこに立っていましたか?」
と|訊《き》いた。
「窓のそばだ」
「窓の?――この辺ですか?」
小倉は|壊《こわ》れた窓の前に立って見せた。
「そうだな……もう少し|真《まん》|中《なか》の……窓寄りだったかもしれん」
「そうですか」
と小倉は|肯《うなず》く。昭子が不思議そうな顔で、
「それが一体どうしたの?」
「つまりね、もし美幸さんが男と密会している所を見られたんだとしたら、どこかへ身を隠そうとするか|逃《に》げ出そうとするかしただろうと思うのさ。少なくとも、真正面に突っ立っているようなことはない」
「それじゃ――」
「こうじゃなかったかと思うんですがね、お義父さん。美幸さんは一足先にここへ来て、|一人《ひとり》で僕を待っていた。|退《たい》|屈《くつ》なのでこの窓から外を|眺《なが》めている。そこへ僕じゃない人間の声がしたので、|慌《あわ》ててカーテンの|陰《かげ》に身を隠したのです。そうとは知らず、入って来た男女がいた。そして明りを消してソファの上で愛し合い始めた。――彼女は今さら出るに出られず困っていたでしょう。そこへお|義父《とう》さんが飛び込んで来たので、男の方はびっくりして逃げます。女の方はきっとソファの裏側へでも隠れたんでしょう。明りが点いて、美幸さんはカーテンの陰から出て来た。あなたはそこを見たんですよ。そして、今ソファで男と愛し合っていた女だと思い込んだ……」
浩三郎は青ざめた顔で、|呟《つぶや》くように言った。
「では……思い違いだったというのか? わしの……」
「そうとしか考えられませんよ」
「でも、そうするとその男女っていうのは……」
と昭子が言いかけた時、
「やあ、どう?」
と場違いな明るい声をかけて、|正治《しょうじ》が|書《しょ》|斎《さい》へ入って来た。「もう終ったんですか、|泥《どろ》|棒《ぼう》ごっこは?」
|小《お》|倉《ぐら》は正治を見て、
「兄さんの妻を|寝《ね》|取《と》るというのは感心しないね」
と言った。正治が青くなった。
「な、何の話だい?」
「分ってるだろう。君と|光《みつ》|枝《え》さんのことを言ってるんだ」
「|誰《だれ》が――そんなでたらめを――」
「光枝さんが何もかもご主人に打ち明けたよ。君が力ずくで光枝さんを意のままにしたんだと……」
「何だって! ふざけるなよ! あいつの方から|俺《おれ》を|別《べっ》|荘《そう》へ呼びつけたんだぞ!」
と|叫《さけ》んでから、正治は、ハッと口をつぐんだ。昭子がじっと弟をにらんで、
「正治……あなたって人は……」
「待ってくれよ、姉さん! これにはわけがあるんだ」
「言い訳は無用よ!」
「そうじゃない。兄さんは――もうだめ[#「だめ」に傍点]なんだ。去年の病気以来、不能になっちまってるんだよ。だから光枝さんも気の毒なんだ。つい同情して……」
「もういい!」
と|遮《さえぎ》ったのは浩三郎だった。「部屋へ行っていろ!」
正治は急いで書斎から出て行った。――長い|沈《ちん》|黙《もく》があって、浩三郎はソファにぐったりと身を|沈《しず》めた。
「お父さん……」
と昭子が言いかけるのを、
「何も言うな」
と浩三郎は押し止めた。「お前たちも部屋へ|戻《もど》っていろ」
「どうするつもりなの?」
「やること[#「やること」に傍点]がある。――その前に色々と整理もしなくてはな。君にはすまないことをしたね」
と小倉へ声をかけた。「危く殺してしまうところだった」
「いいえ……」
「|年齢《とし》は取りたくないものだ。|昔《むかし》は、自分のすることに間違いはない、と、絶対の自信を持っていたのだが。|大《だい》|分《ぶ》ガタが来ているようだな」
と笑った。
「お父さん。――考えていることは分るけど――」
「心配するな。|睡《すい》|眠《みん》|薬《やく》の飲み過ぎだ。楽なものさ。――小倉君、昭子を部屋へ連れて行ってやってくれないか。それから、|芝《しば》|居《い》の仕上げを頼むよ」
「分りました。――さ、行こう」
小倉は妻の|肩《かた》へ手をかけ、そっと|促《うなが》した。
「|美《み》|幸《ゆき》さんは|強《ごう》|盗《とう》に殺され、お|義父《とう》さんはたまたま同じ日に睡眠薬の飲み過ぎで死亡。――ずいぶん無理な話だな」
朝食のテーブルで、新聞を見ながら小倉は言った。
「父は警察の人にも色々知り合いがいたから……」
昭子はコーヒーを|淹《い》れながら言った。「きっとこのままでうやむやになってしまうと思うわ」
「それが一番いいのかもしれないね」
小倉はゆっくりとトーストをパクついた。
「……あなた、やっぱり|断《ことわ》るの?」
「うん。どうもあの兄さんの下で働く気にはどうしてもならないんだよ」
小倉は妻の顔を|窺《うかが》うようにして、「|怒《おこ》ったかい?」
「いいえ」
昭子は笑いながら言った。「もう|諦《あきら》めたわ!」
「きっと会社も何とか持ち直すよ」
|奇《き》|跡《せき》|的《てき》に、小倉の会社は|倒《とう》|産《さん》を|免《まぬが》れた。銀行からの|融《ゆう》|資《し》が認められたのである。|牧《まき》|野《の》|浩《こう》|三《ざぶ》|郎《ろう》が、死ぬ前に銀行あてに手紙を書いて、|口《くち》|添《ぞ》えしてくれたことを、小倉は承知していた。
「あなたの好きにするといいわ」
昭子は|微《ほほ》|笑《え》みながら言った。「父もそうしてあそこにまでなったんですもの」
「お義父さんに比べられたら困るよ。あちらがライオンなら僕は|猫《ねこ》だ」
「いいじゃないの。ライオンを|飼《か》うにはここは|狭《せま》すぎるもの」
と昭子は言った。
|血《ち》とバラ
|懐《なつ》かしの|名《めい》|画《が》ミステリー
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成12年12月8日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2000
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角川文庫『血とバラ 懐かしの名画ミステリー』昭和56年10月10日初版刊行
平成10年2月10日60版刊行