角川文庫
虹に向って走れ
[#地から2字上げ]赤川次郎
目次
1 訪ねて来た少女
2 裸の付合い
3 フレームの中
4 アイドル
5 抜かれたフィルム
6 二人のテーブル
7 記者会見
8 スタジオの闇
9 ダーツの少女
10 危険な坂
11 いとこ同士
12 甘い夢
13 再び──
14 姉と弟
15 キスの副産物
16 二つの顔
17 危険な日
18 秘密
19 落ちる
エピローグ
1 訪ねて来た少女
「お疲れさん」
と、声が|交《か》わされる。
「はい、また|明日《あした》」
と、|欠伸《あくび》しながら、スターは手を振った。
あまりファンには見せられない顔である。
「おい! 明日は六時起きだよ。早く寝てくれよな」
と、|監《かん》|督《とく》が|怒《ど》|鳴《な》った。
「分りました」
と、返事をしたのは、スターではない。
|既《すで》にスターは、エレベーターの方へと歩いて行っていた。
ホテルのロビーといっても、二十四時間、人の絶えない都心のホテルとは違い、ロケ先の地方の小都市のホテルだ。一番遅くまで開いているバーでも十一時まで。そこで十二時まで|粘《ねば》って、やっと各自、|部《へ》|屋《や》へ引きあげるところなのである。
もう、ロビーにも、フロントにも人の姿はない。バーから出て来た、ロケ隊のスタッフとキャスト、合わせて二十人ほどが、何ともここでは|場《ば》|違《ちが》いなグループに見えた。
「そうだ、ケイちゃん」
と、監督が呼ぶと、スターの後からついて行こうとしていた若い女性が、足を止めて振り返った。
「はい。――何か?」
と、少しも面倒がらずに、すぐ監督の所まで小走りに戻って来る。
「あのね……。ちょっと頼みがある」
と、監督は、ケイという女性を|促《うなが》して、ロビーのソファに腰をおろした。「――やれやれ、腰が痛いよ。もう|年齢《とし》だ」
ロビーから、他のスタッフがいなくなるのを待っているのだ。
「明日、晴れるといいですね」
と、ケイという女性が言った。
「どしゃ降りでも、|撮《と》らにゃならん。明日の夜まで|泊《とま》る金はないんだ。上の方からの強いお達しでね」
監督は、|峰《みね》|川《かわ》|大《だい》|吾《ご》。監督になって二十五年のベテランである。もう六十に近いが、「肉体労働」だけあって、|至《いた》って元気ではあった。しかし、グチが出るように、あちこちガタが来ているのも事実である。
「それに、|剣《けん》|崎《ざき》さん、明日の夜にはドラマのビデオ|録《ど》りが入ってますから」
「そうか。――しょうがないな。午前中で何とか撮り上げよう」
と、峰川大吾は言った。「そのためにも、朝、できるだけ早く入りたい。何とか六時二十分までには、彼を食堂へ引っ張って来てくれ」
「分りました」
と、ケイは笑顔で言った。「おぶってでも連れて行きます」
峰川は、|微《ほほ》|笑《え》んで、
「君は頼りになるよ。いや全く、君なしじゃ、とてもこのスケジュールはこなせなかった」
と、|素《す》|直《なお》に言った。
「何しろ頼りになる体格ですから」
と、ケイが両腕にヤッと力こぶを作って見せる。
峰川が楽しげに笑った。――昼間、スターの気まぐれやわがままでたまった|苛《いら》|立《だ》ちを、一気に解消するような笑い声だ。
峰川大吾は、業界の人間なら知らぬ者のない存在だが、一般にはほとんど知られていなかった。かつては、恋愛、アクション、時代劇、ホームドラマ、とあらゆるジャンルの映画をこなした職人である。
この十年ほどは、劇場用映画の方から、お呼びがかからず、|専《もっぱ》らTV用の二時間ものの監督で|稼《かせ》いでいた。
TVでドラマを見る人なら、たとえ名前は知らなくとも、峰川の作品に、一度や二度はお目にかかっているはずだ。
「それで――監督、お話って?」
ケイ、という愛称で呼ばれている彼女。たいていの人間は、かなりよく知っているつもりでも、|水《みず》|浜《はま》|啓《けい》|子《こ》という、彼女の名を知らない。
「うん……。まあ、君が剣崎のことは一番よく知っているからな。実はゆうべ、東京の事務所の|奴《やつ》と電話で話したんだが、どうやら、また例の写真週刊誌が、剣崎をつけ回してるらしいんだ」
「またですか」
と、水浜啓子はうんざりして、「つい先週追い返したばっかりなのに」
「あれとは別口らしいよ」
「でも、まだ来てませんよ」
「うん。私も見かけない。しかし、用心してくれよ。今、TV局は極度に神経質になってるからな」
峰川は、酔いもさめてしまった様子で、「せっかく撮っても、スキャンダルでオクラ入りじゃ、|虚《むな》しいからね」
「ご心配は分りますけど」
と、啓子は言った。「剣崎|隼《はや》|人《と》はもう二十九です。十代のアイドルとは違いますもの。恋人がいたからって――」
「そりゃそうだ。私が心配してるのは、そんなことじゃない」
峰川は首を振った。「東京にいて、|誰《だれ》とホテルへ入ろうが、誰のマンションから出て来ようが、そんなものは|却《かえ》って話題作りさ。問題はこういうロケ先だ」
啓子にも、峰川の言わんとするところが分って来た。
「こういう所では、警戒心も|緩《ゆる》みますしね」
「そうだ。調子に乗って、未成年の女の子にでも手を出してみろ。ばれたら、剣崎は半年はどこにも出られなくなる」
そう。――十五、六の女の子が、十八とか十九と|嘘《うそ》をついて、スターの|泊《とま》ったホテルへ押しかけて来ることは|珍《めずら》しくない。
つい、そんな女の子をベッドに連れ込んだりしたら、知らなかった、では通らない。
たとえ女の子が嘘をついていて、見たところ、十八、九だったといっても、責任は男の側にあるのだ。
訴えられるかどうかはともかくとして、スターのイメージは大幅にダウンする。その回復には、長い時間が必要なのである。
「ご心配なく」
と、啓子は言った。「私が目を光らせてますわ。そのために、剣崎さんの隣に部屋を取ってるんですもの」
「よろしく頼むよ」
峰川は、少し安心した様子で、「君が頼りにできるので、気が楽だ。本当だよ」
「カメラマンを見付けたら、私が放り出してやります」
――水浜啓子は(年齢も、みんな知らないのだが)二十六歳。剣崎隼人の|付《つ》き|人《びと》になって二年になる。
剣崎隼人は、二十三、四のころから、若手のアクションスターとして売り出した二枚目である。刑事物、スポーツ物などで、一時期は寝る間もないほどの|忙《いそが》しさだった。
それが、|潮《しお》がひくようにブラウン管から消え、一年ほどのブランクの後、今度はメロドラマの二枚目役で再び人気者になった。
今は、いわば「中堅スター」の一人として、忙しく|駆《か》け回っている。
大スターになると、ギャラが高いので、そう仕事も回って来ない。といって無名の役者では視聴率が取れない。――というわけで、顔も売れて、そこそこのギャラ、という、剣崎クラスが、実際には最も忙しいのである。
剣崎は独身で、恋の|噂《うわさ》は、いつも、といっていいくらい、週刊誌やスポーツ紙上を、にぎわしている。もっとも、そのほとんどは宣伝用の「やらせ」か、「でっち上げ」なのだが。
「――じゃ、監督も、早くお|寝《やす》みになって下さい」
と、啓子は立ち上った。
「ありがとう。おやすみ」
「おやすみなさい」
啓子は、重いバッグを、ジャケットの肩に軽々とかけて、歩き出した。
身長は百七十以上、体重は――当人に|訊《き》く勇気のある者は、まだいない。
|太《ふと》っているのではなく、がっしりして、|逞《たくま》しい。よく|陽《ひ》|焼《や》けした顔は、ほぼ完全な円形(?)で、どこかのんびりした表情をいつも浮かべている。
初めて啓子と会った人は、何だかポケッとしていて、|大丈夫《だいじょうぶ》なのかな、こんな|娘《こ》で、と不安を|抱《いだ》くのだが、少し|一《いっ》|緒《しょ》に仕事をしてみると、その正確なこと、物|憶《おぼ》えのいいことに、すっかり|感《かん》|服《ぷく》してしまうのだ。
剣崎の仕事については、事務所にマネージャーがいるのだが、よく事情の分っている人間は、必ず啓子にも話をして、頼んでおく。その方が、確実に話が伝わると分っているのである。
――エレベーターが下りて来るのを待ちながら、啓子は腕時計を見た。
「十二時十分か……」
剣崎が早く寝てくれるといいけど……。よく深夜のTV映画を見ていて、三時ごろまで起きていることがあるのだ。
もし、それらしい音が聞こえたら、寝るように言ってやらなくちゃ……。
エレベーターが下りて来て、|扉《とびら》が開いた。
「――やっと行ったか」
と、ロビーの柱の|陰《かげ》に隠れていた|太《おお》|田《た》|一《かず》|哉《や》は、ホッと息をついた。
危いところだった。あの女に見付かったら、ここから|叩《たた》き出されてしまうところだ。
太田は、カメラのバッグを肩にかけた。
「さて、と……」
どこから|狙《ねら》ったものだろう?
やっと剣崎隼人のルームナンバーを突き止めたのだ。何とか写真をものにしたい。
「しかしなあ……無茶な話だよ」
|空《から》|手《て》で帰れば、編集長に|怒《ど》|鳴《な》られる。しかし、|締《しめ》|切《きり》は明日なのだ。
今夜ここへやって来て、明日までに、剣崎隼人が女と会っていたという証拠の写真を|撮《と》って来い、というのだから。
そう|都《つ》|合《ごう》|良《よ》く、向うだって女を連れ込んじゃくれまい。
しかし、ここでぼんやりしていても、ともかく何も撮れない。泊っている七階へ行って、|廊《ろう》|下《か》のどこかで|粘《ねば》ってみるしかあるまい。
太田は、|欠伸《あくび》しながら歩き出した。――ゆうべも二、三時間しか寝ていない。
アパートでグウグウ眠っているところを、電話で起こされてしまったのだ。いくら二十七歳で、若いからって、これじゃ体の方がもたないよ……。
太田は、エレベーターの方へと歩いて行ったが、途中、ホテル入口の|扉《とびら》の開く音に、ふと振り向いた。
入って来たのは、十六、七と見える女の子で――太田がカメラマンだからということもあるだろうが、思わずハッと目をとめる。|可愛《かわい》い女の子だった。
少し|小《こ》|柄《がら》で、顔立ちはふっくらしているが、太ってはいない。髪は長く、肩からずっと下へと流れ落ちている。
ロビーへ入って来たその女の子は、足を止めて、|当《とう》|惑《わく》した様子で周囲を見回していた。
待てよ。――太田の頭に、|閃《ひらめ》くものがあった。あの娘、もしかすると……。
「――ねえ、君」
と、太田は女の子の方へ歩いて行った。
「私ですか?」
と、女の子が、|珍《めずら》しい動物でも眺めるような目つきで、太田を見た。
「うん、君しかいないじゃないか」
「そりゃそうですけど……」
と、女の子は、太田の肩から下げているバッグを見て、「カメラマン?」
「うん。そうなんだ。君、もしかして――剣崎隼人に会いに来たんじゃないの?」
「そうです。でも……」
と、ちょっと|可愛《かわい》く|眉《まゆ》を寄せて、「どの|部《へ》|屋《や》だか分らないの」
「そうか」
太田は、しめた、と思った。
このタイプの女の子は、剣崎の|好《この》みだ。太田は、そんなに剣崎の好みに|詳《くわ》しいわけではなかったが、今まで|噂《うわさ》になった相手で、「本物」らしいと言われたのは、たいてい、かなり若い「美少女タイプ」ばかりだったからである。
「ねえ君」
と、太田は声を少し低くして、「剣崎の部屋を教えてあげようか」
「本当?」
「信じないね。本当だとも。――教えてあげるから、一つ頼みを聞いてくれないか」
女の子は、別に目を|輝《かがや》かせるでもなく、ワクワクしている様子でもなかった。しかし、まあ今の若い子は、こんなものかもしれないけどな、と太田は思った。
熱狂してもさめて[#「さめて」に傍点]いる、というのか……。何だか|矛盾《むじゅん》した言い方だが、その通りなのだから。
「何をすればいいの?」
と、女の子は|訊《き》いた。
「剣崎の部屋まで行ったらね、彼が出て来るだろ。君と|一《いっ》|緒《しょ》の所を写真に|撮《と》りたいんだよ」
「私も?」
「そう。剣崎と二人の写真。――どう?」
「悪くないわ」
と、女の子はアッサリ言った。「でも……」
「何だい?」
いくらかよこせ、とか言うのかな。今の子は言いかねない。――しかし、その女の子、そうは言わなかった。
「出て来るの、明日の朝になるかもしれないよ」
と、言ったのである……。
壁越しに、|隣《となり》のバスルームの水音が聞こえて来ると、剣崎隼人はホッとした。
「やれやれ……」
と、安心してTVのボリュームを上げ、ベッドに引っくり返った。「全く、うるさいんだからな……」
早く寝ろ、とさっきも電話して来たばかりである。
少しぐらい息抜きさせてくれなきゃ、かなわないよ。――さっき、バーで飲んでいたときも、そう言っていたのだが。
剣崎隼人。――誰もこれが本名とは思わないが、実は本名なのだ。
時代劇の若手スターを捜していたプロデューサーが、まず、この「|剣《けん》|崎《ざき》」という名前に目を止めた、というのだから、幸運な名前とも言えるだろう。
もっとも、当人は子供のころから、この|芝《しば》|居《い》がかった名前が、いやで仕方なかった。クラスではからかわれるし、それに大体、アクションスターということにはなっているが、あまり運動神経は鋭い方じゃない。
走るのが遅いのに「|隼《はや》|人《と》」なんて名前で、よくみんなにからかわれたものである。
父親が時代小説のファンだった、というので、「隼人」なんてつけられたのだ。今は、父親に感謝してもいいかな、という気分になっている。
本質的に、剣崎はあまり勤勉な性格ではないし、自分でもそれを知っていたから、ブツブツ言いながら、水浜啓子がいないと、何もできないと分ってはいるのである。
ただ、やはり人間、つい楽な方へ楽な方へと走りがちで――特に、剣崎の場合、一番の弱点は、「女性に弱い」ことだった……。
トントン。――ん? 剣崎は、ベッドで|眉《まゆ》を寄せた。何の音だ?
トントン。TVの中の音じゃないようだ。
隣の部屋で、啓子が|風《ふ》|呂《ろ》に入っているので、水音に|紛《まぎ》れてよく分らなかったのだが――トントン。
やっぱり。この部屋のドアだ。
剣崎はためらった。――出たものかどうか。
こういうロケ先で、ホテルに|泊《とま》っていると部屋へ|誰《だれ》かが|訪《たず》ねて来ることも|珍《めずら》しくはない。大体、小都市の場合、泊るホテルは限られているし、簡単に捜し当てられるのだ。
しかし、これが、ただのファンで、
「サイン下さい」
ぐらいならいいのだが、時には、
「私は当地代々の旧家の主で――」
なんて、|凄《すご》い|爺《じい》さんが訪ねて来たりする。
そして、自分の家系を延々としゃべりまくった|挙《あげ》|句《く》、家に伝わる秘蔵の品を安く|譲《ゆず》るから買ってもらえないか、なんて話になったりするのである。
トントン。――さて、どうしたもんかな。
ケイのやつ、のんびり風呂なんか入って。こういう時に出て来てくれなきゃ!
勝手なことを思いながら、剣崎は、そっと足音を殺して、ドアへと近付いた。|覗《のぞ》き|穴《あな》から見て、相手次第では、知らんぷりを決め込もうというわけである。
もちろん、パッと目がさめるような美少女が立ってるなんてことも……あるわけないけどな。この状態の目をパッとさまさせるには、相当の美少女でなきゃ、無理というものだ……。
剣崎は、覗き穴に、そっと目をあてた。そして――目がさめた!
トントン。――あわてて、鏡の前へ飛んで行って、乱れた髪を直す。ヒゲは?――ま、今さらそこまではやってられない。
「はい」
と、初めて気付いたような声で、「どなた?」
「すみません。ファンの者なんですけど」
見た目にふさわしい、涼しげな声だ。これがヴァイオリンなら、ケイの声は、ドスのきいたコントラバスみたいなもの。
「ちょっと待って」
剣崎は、隣の部屋の様子に耳を|澄《す》ました。
――まだ風呂だ。大丈夫。
剣崎は、「営業用」の笑顔を作ると、ドアを|開《あ》けた。
「今晩は」
と、その少女は頭を下げた。
目の前に見ると、いっそう|可愛《かわい》い、同時にどこか|大人《おとな》びた|魅力《みりょく》も|具《そな》えた美少女である。――要するに、剣崎の大好きなタイプなのだ。
そして大きなその|眼《め》! キラキラと|輝《かがや》く黒い宝石のような|瞳《ひとみ》……。
剣崎は胸がキュッと痛くなるのを|覚《おぼ》えた。こんなことは初めてだ。
「お疲れなのに、すみません」
と、少女は言った。「どうしてもお会いしたくて」
「そう。――いや、いいんだよ。|僕《ぼく》も若い人と話すのは好きだからね」
と、剣崎は言って、「しかし……そうだね、もうどこも開いてないからね、お茶でもごちそうしたいけど」
「いいえ。ただ、お話しできれば、それでいいんです」
と言って、「――入ってもいいですか?」
|拒《こば》む理由もない。いや、本当はある[#「ある」に傍点]。しかし、剣崎は、「ファンを大切にしよう」というモットーに忠実なのである。
「ああ。いいとも。――|構《かま》わないよ」
ドアを大きく開けて、少女を通す。
|爽《さわ》やかに、石ケンの|匂《にお》いがした。――うっとりしていた剣崎は、廊下の少し離れた所で、カシャッと音がしたことなど、まるで気付かなかった。
2 裸の付合い
「きれいな部屋」
と、少女は、中へ入って見回すと、「ここ……お一人なんですか?」
「うん。もちろん。どうして?」
と、剣崎は|訊《き》いた。
「だって……」
と、少女がベッドの方へ目をやる。
なるほど。ツインルームなので、ベッドが二つ並んでいるのだ。
「二人用の部屋を、一人で使ってるんだ。疲れるからね」
「へえ。もったいない」
少女は|何《なに》|気《げ》なくそう言ったのだろうが、剣崎はドキッとした。そう、もったいないからね、泊って行けば?
「まあ、|座《すわ》りたまえ」
と、小さな応接セットの方へ手を振って、「何もないけど――」
「いいんです」
少女は、シャンと背筋を|伸《のば》して、端然と|椅子《いす》に座った。――その姿も、|惚《ほ》れ|惚《ぼ》れするほど美しい。
「こんなに遅い時間に出歩いて、大丈夫なの?」
と、剣崎は、少女と向い合った椅子に身を|任《まか》せて、言った。
「はい。うち、親がいないんで」
「いない?」
「事故で|亡《な》くなったんです」
「へえ、そいつは……」
「弟と二人で住んでます。だから、いくら遅くても、|叱《しか》られることないし」
「そうか。しかし大変だねえ」
剣崎は心からそう言った。|健《けな》|気《げ》に生きる美少女、というやつには、特別弱い。
「でも気楽です。二人だけっていうのも」
「うん……。しかしねえ……」
ふと、|目頭《めがしら》が熱くなる。――やたら涙もろいのも性格である。
「剣崎さんって本名なんですね」
と、少女が言った。
「うん、そうなんだよ。変った名前だろ?」
「この町に、前にもいらしたでしょ?」
「前に?」
剣崎は、ちょっと考えて、「――ああ! そうか。撮影じゃなくて、何かのキャンペーンだったかな」
「ええ。一年くらい前に」
「そう。そうだったね」
と、剣崎は|肯《うなず》いた。
そうか。この少女に言われるまで忘れていた。それで、このホテルも|見《み》|憶《おぼ》えがあったのか。
何しろ、剣崎はただ啓子に言われる通りに|駆《か》け|回《まわ》っているだけで、明日どこへ行くのかもよく知らないのである。
「その時も会ったかな」
と、剣崎は言った。
いや、会っていれば憶えていないわけがない。
「私はお会いしてないんですけど、友だちが――」
「友だち? 君の?」
「そうです。このホテルへ訪ねて来たと思うんですけど」
「そうだったかな……」
剣崎は頭をかいた。「いや、何しろ方々駆け回ってるんでね。すぐ忘れちゃうんだよ。――じゃ、君はその友だちに聞いて?」
「ええ、その子の代りに来たんです」
と、少女は立ち上った。「あなたを殺しに[#「あなたを殺しに」に傍点]」
少女がポケットからナイフを取り出すのを見て、剣崎は目を丸くした。反射神経も、どっちかといえば|鈍《にぶ》い方だが、こういうときは別である。
「ワッ!」
と飛び上ると、「おい、君! 落ちついて!」
「みっともないわね、いさぎよく死になさいよ!」
少女がナイフを突き出して来る。のけぞった剣崎は、|椅子《いす》ごと後ろへ引っくり返った。
「――助けて! 人殺し!」
と、隣の部屋の壁を、ドンドンと|叩《たた》いた。「ケイ! 助けてくれ!」
「逃げるな!」
「おい、落ちついて――」
どっちが落ちつくんだか分りゃしない。
剣崎は、ベッドへ飛び上り、床に|転《ころ》がり落ちて、何とか逃げ回った。
「ぼ、僕が何をしたっていうんだ!」
「白ばっくれて! ルミ子はあんたのために死んだのよ!――あんたも後を追いなさい!」
「――待て! 待ってくれ!」
剣崎は、ハアハア息を切らしながら、「そんな――そんな子のことは――」
「忘れたっていうの? それなら、ますます許せない!」
と、ナイフが|空《くう》を切る。
「キャッ!」
剣崎は四つん|這《ば》いになって、逃げ回った。
何しろ、逃げるといっても狭い部屋の中である。ドアを開けて出るには、少女が間近に迫り過ぎている。
「|誰《だれ》か来てくれ!――誰か!」
剣崎が|喚《わめ》いた。
と――ドアにガン、と|凄《すご》い音がしたと思うと、|鍵《かぎ》が吹っ飛んで、誰かが転がり込んで来た。
「ウーン」
と、うめいて気を失ったのは――カメラマンの太田である。
「待ちなさい!」
水浜啓子が飛び込んで来た。――|風《ふ》|呂《ろ》に入っていたところを飛び出して来たので、裸にバスタオル一つ巻きつけただけである。
|唖《あ》|然《ぜん》としている少女の手から、パッとナイフを取り上げた。
「――た、助かった!」
剣崎が、ヘナヘナと床に|座《すわ》り込んでしまった。
「こいつ――人殺しだ! 一一〇番!」
「どっちが人殺しよ!」
と、少女が、剣崎にかみつくように言った。「ルミ子をあんな目に|遭《あ》わせて! ルミ子、自殺しちゃったんだからね!」
「そんなこと、僕は知らない!」
と、剣崎がわめく。
「ちょっと静かにして」
と、啓子が顔をしかめて、「他のお客に|迷《めい》|惑《わく》でしょ」
「それどころじゃないだろ! 僕を殺そうとしたんだぞ!」
「大体、こんな若い女の子を部屋へ入れるのが|間《ま》|違《ちが》いなのよ」
と、啓子がピシャリと言った。「びっくりして|廊《ろう》|下《か》へ出たら、こいつが――」
と、のびている太田を|見《み》|下《お》ろして、
「何だかオロオロしてるの。だから、一緒にドアに体当りしたのよ。――私とドアの間に|挟《はさ》まれて気絶しちゃったみたいね」
少女はベッドに|座《すわ》り込んで、
「警察へでもどうぞ突き出してちょうだい」
と言った。「覚悟はできてるわ」
「ともかく、隣の部屋へ行きましょ」
と、啓子が|促《うなが》した。「剣崎さん、早く寝てよ。明日は早いんだから」
「こんなときに寝られるかって」
と、ふくれている。
「眠らせてあげる?」
啓子がグイと|拳《こぶし》を突き出すと、剣崎はあわてて、
「分った! 寝る!」
と、ベッドへ飛び込んだ。
「――これ[#「これ」に傍点]を廊下へ出して、と」
太田の両足をつかんで、廊下へズルズルと引きずり出し、「ま、|風《か》|邪《ぜ》引くぐらいは、カメラマンなら我慢しなきゃね」
と|呟《つぶや》いた。
カメラからフィルムを出して、パトローネから全部引張り出して感光させ、
「返すわよ」
と、ポンと投げておいて、「さ、あなた、こっちへ来て」
少女は、ふてくされた顔で、肩をすくめると、言われたままに、啓子の部屋へ入った。
「――こっちはシングルだから|狭《せま》いけどね」
と、啓子はドアを閉めて、「ま、ベッドにでもかけて」
「あなたは?」
「私? |水《みず》|浜《はま》|啓《けい》|子《こ》。|剣《けん》|崎《ざき》|隼《はや》|人《と》の付き人をやってるの」
「用心棒?」
「まあ、そんなとこね」
と笑って、「――ハクション!」
と、|派《は》|手《で》にクシャミをした。
「あらあら、こんな|格《かっ》|好《こう》でいたら、風邪引いちゃうわ。――私、お風呂の途中だったの。失礼して入って来るから」
「――どうぞ」
と、少女は、やや|呆《あっ》|気《け》に取られた様子で、言った。
「そうだ。ねえ、あなたも入らない?」
「私?」
少女が目を丸くする。
「そう。剣崎と追いかけっこして、汗かいたでしょ。さっぱりして話しましょうよ。大分気の持ちようも変って来るわ」
「でも――」
「いいから。ね?」
と、啓子は、少女を引張って一緒に狭いバスルームへ入ると、「まだお湯、そんなに冷めてないと思うのよね」
と、さっさとバスタオルを取って、湯の中へ身を沈めた。
「――うん! ちょうどいいわ。気持いいわよ。あなたも入ったら?」
あまり大きな|浴《よく》|槽《そう》ではない。少々体を持て余した感のある啓子は、ヤッと足を出して、浴槽のヘリにのっけた。
見ていた少女が、思わず笑い出した。
「――何かおかしい?」
「だって……。そこへ私が入ったら、お湯、|溢《あふ》れちゃう」
「|大丈夫《だいじょうぶ》よ。――まだこんだけ|余《よ》|裕《ゆう》あるもの」
と、お湯の表面と、浴槽のヘリの十五センチほどの差を指で|測《はか》って、「あなた一人なら溢れない」
「溢れますよ」
「じゃ、|賭《か》ける?」
「賭ける、って――何を?」
「あなたが入って、お湯が溢れなかったら、あなたは、何もかも事情を話して、|総《すべ》て私に任せる。溢れたら、あなたは自由に帰っていい。――どう?」
少女は、ちょっと|唇《くちびる》を結んで考えてから、
「受けた!」
と言うと、パッと服を|脱《ぬ》ぎ出した。
「――ドブンと入っちゃいけないのよ。そっと……。そう。ほら、この間へ足を入れて。――ゆっくり沈むのよ。――そうそう」
小さな浴槽は、ただでさえ大柄な啓子と、小柄とはいえ十六、七の女の子が二人で入ったのだから、身動きもできないくらい、|一《いっ》|杯《ぱい》になってしまった。
しかし、お湯は、ぎりぎりまで上って来たものの、わずか二、三ミリのところで溢れなかった。
「ほら、私の勝ち!」
と、啓子が言った。
「残念!」
少女が息をついた。
そして――二人して顔を見合わせ、一緒に笑い出したのだった。
「――あなたって|面《おも》|白《しろ》い人」
と、少女が言った。「私、|永《なが》|谷《たに》|聡《さと》|子《こ》です」
「水浜啓子。『ケイ』って呼ばれてるわ。――あなた、|可愛《かわい》いわね。タレントに、とか誘われたこと、ない?」
「向いてませんもの」
と、少女は言った。「でも、ちょっと|窮屈《きゅうくつ》ですね」
「そうね。私、もう体は洗ったの。先に出てるから、ゆっくり入ってらっしゃい」
よいしょ、と啓子が起き上って、|浴《よく》|槽《そう》を出ると、
「アアッ!」
少女――永谷聡子は足が|滑《すべ》って、引っくり返った。
「あら、大丈夫?」
「ええ。――何とか」
頭までお湯につかってしまった永谷聡子は、むせながら体を起こした。「お湯、足します」
啓子が出たので、すっかりお湯が少なくなってしまったのだ。
「ごゆっくり」
啓子は|微《ほほ》|笑《え》んで、「私、このタオルで|拭《ふ》くから、あなた、バスタオル使ってちょうだい」
「でも――」
「いいのよ」
啓子が出てしまうと、少女は|蛇《じゃ》|口《ぐち》をひねってお湯を出した。――|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》に素直な笑みが、その愛らしい顔に浮かんでいた……。
「――永谷聡子さんね」
と、啓子が言った。「事情、話してもらえる?」
「ええ」
永谷聡子は|肯《うなず》いた。
「ジュース、飲んで」
冷蔵庫から取り出した缶ジュースをコップに|注《つ》いでやる。
「すみません」
と、聡子は言った。「――|喉《のど》、乾いてたんです」
「そうでしょう? お友だちが|亡《な》くなったとか……」
「はい。去年、剣崎隼人がここへ来たときです」
聡子は、ちょっと息をついた。「ちょうど今夜の私のように、ルミ子は――|東《あずま》ルミ子っていうんですけど――このホテルへやって来ました」
「ファンだったの?」
「ええ、|熱《ねつ》|烈《れつ》な。――私は、割とさめてるというか……。両親亡くして、弟と二人ですし、そんなことに夢中になってる余裕ないんです」
「そりゃそうでしょうね」
と、啓子は肯いた。
「でも、ルミ子が喜ぶからと思って、私にも、サインもらって来てよ、と言いました。ルミ子、『絶対にもらって来るからね』って言って――」
聡子は、ふと言葉を切る。
「何があったの?」
「すぐには分りませんでした。その日は私、アルバイトで忙しくて……。次の日は日曜日だったので、お昼近くまで寝てたんです。私、弟に起こされて――お|腹《なか》|空《す》くと、うるさいんです」
聡子は、ちょっと|微《ほほ》|笑《え》んだが、その笑みは、すぐに消えた。「で、お昼を食べてから、思い出しました。ルミ子のこと。それで……」
「――ルミ子、いますか」
と、聡子は、ルミ子の家の玄関へ入って、出て来た母親に|訊《き》いた。
「それがね……」
と、母親は心配そうに、「まだ帰らないのよ」
「出かけたんですか」
またどこかへ行ったのかしら、と思った。|剣《けん》|崎《ざき》|隼《はや》|人《と》は、今日どっかよそへ行っちゃってるはずだけど。
「いえ……。ゆうべから帰らないの」
「ゆうべから?」
聡子も、これにはびっくりした。
ルミ子は、甘えん坊のところがあって、気が小さい。結構遊びにも出るが、それでもこんな小さな都市では、夜九時にもなれば行く所もなくなってしまう。
「決して、夜遊び、外泊なんて、する子じゃなかったのに……」
と、母親も、どうやら一睡もしていないらしく、目を赤くして言った。「聡子さん、あの子がどこに行ってるか、分りません?」
聡子は、ちょっと迷った。スターの所へ行っているとは言いにくいので、ルミ子も、黙って出たらしい。
「私、ちょっと捜してみます」
と、聡子は言って、東ルミ子の家を後にした。
といって――どこを捜せばいいのやら……。
しかし、まず、剣崎隼人に会いに行ったことははっきりしているのだから、そのホテルへ行くしかない。
ホテル――といっても、そんなに大きくはない。この町で|唯《ゆい》|一《いつ》の近代的ホテルではあるけれど。
聡子たちのような高校生には、ちょっと入りにくい場所でもあった。
しかし、今は、そんなこと言っていられない。
ホテルの前まで来ると(といっても、歩いて十分ぐらいのものなのだ)、顔を知っている近所の人が、玄関の掃除をしていた。このホテルで働いているのである。
「こんにちは」
と、聡子が声をかけると、ホースで水を流していた手を止めて、
「やあ。|珍《めずら》しいね」
と、笑顔を見せた。
「ねえ、あの――剣崎隼人って、ここに泊ったんでしょ?」
「ゆうべね。何だ、もう行っちゃったよ。もう少し早く来てくれりゃ|良《よ》かったのに」
「ううん、私は別にいいの。ただ――」
と、言いかけて、聡子は口をつぐんだ。
ホテルから、フラッと出て来たのは、ルミ子だったのだ。
何だかぼんやりして、すぐ目の前にいる聡子にも気付かないようである。
「ルミ子……」
と声をかけると、
「――ああ、聡子」
と、表情のない声で言って、「どうしたの?」
「どうした、って……。ルミ子今までどこにいたの?」
ルミ子が、急に、足早に歩き出した。聡子はあわてて、
「待って! ルミ子!」
と、後を追う。
二人は、町の中の公園に入ったところで、足を止めた。
ルミ子が、ドサッとベンチに腰をおろす。何だか、疲れ切った大人のような|座《すわ》り方だった。
聡子は、少し離れて座ると、ルミ子が口を開くのを、待っていた。
「――ごめんね」
と、ルミ子が言った。
「え?」
「サイン、もらってあげるの、忘れちゃった……」
「そんなこと、いいのよ。でも、ルミ子、どうしたの? ゆうべ、帰らなかった、ってお母さんから聞いて……」
「帰れない……」
「――ルミ子」
「私、帰れない」
と言うと、ルミ子は両手で顔を|覆《おお》って、泣き出した。
「ルミ子……。ルミ子、しっかりして! 私がついてるから。――ルミ子」
聡子は、ルミ子の肩を抱いて、ギュッと力をこめた。
「つまり――」
と、啓子は言った。「剣崎に乱暴された、と……」
「ええ。部屋へ入れてくれて、お酒をすすめられたんだそうです。もちろん、アルコールなんて全然飲んだこともないルミ子ですから、フラフラになって……」
「まあ」
「気が付いたときは……服を|脱《ぬ》がされて、部屋の|床《ゆか》に|転《ころ》がってたそうです」
聡子は、一つ息をついて、「――でも、ルミ子、落ちついて来たので、私もそのことは|誰《だれ》にも言わない、と約束して、交通事故みたいなもんだから、忘れようって……。ルミ子も一度は明るくなったんです。ルミ子のお母さんにもうまく事情を話して」
「それで?」
「でも――三か月して、ルミ子は、|妊《にん》|娠《しん》してることに気が付いたんです」
啓子は、言葉がないようだった。
「ルミ子、|充分《じゅうぶん》気を付けて、遠くの町のお医者さんに行ったんです。私も|付《つ》き|添《そ》って。でも――やっぱり、パッと話が広まって……」
「それで……」
「ルミ子――川へ身を投げて……」
聡子の目に涙が浮かんだ。いかにも|気丈《きじょう》な子である。めったなことでは泣くまい。
聡子はすぐに涙を|拭《ぬぐ》って、
「私、黙っていました。――そのときに剣崎のせいだと言っても、誰も聞いてくれなかったでしょう」
「そうね」
「自分でも、責任、感じてたんです」
と、聡子は首を振って、「あのとき、すぐに訴えていれば……。でも、ルミ子も、人にそんなこと知られるの、たまらないようだったし、私もそれに同調して……。だから、私にも責任があることなんです」
「そんなことないわ。あなたがしたようにするのが当然よ」
「そうでしょうか。でも――」
と、言いかけて、「ともかく、許せないのは剣崎です。私、必ずいつか|仇《かたき》を|討《う》ってやろうと思いました。ルミ子の代りに。|大人《おとな》になったら、東京へ出て、必ず会うチャンスを作って、と……」
「それが意外に早く来た、ってわけね」
「そうです」
聡子は両手をギュッと|握《にぎ》り合せた。「殺せなかったけど、でも、いいんです。私、警察で何もかもしゃべります。剣崎のこと。マスコミが飛びつけば、あの人ももう――」
と言いかけて、
「あなたには……すみませんけど」
「ううん。私はそりゃ、剣崎の付き人だけど、あの人がそんなことをしたのなら、女として許せないものね」
と、啓子が言うと、聡子は、
「本当にいいんですか?」
と、目を輝かせた。
「|構《かま》わないわ。――事実[#「事実」に傍点]なら」
「え?」
「残念だけど、あなたのお友だちをそんな目にあわせたのは、剣崎じゃないわよ」
と、啓子は言った。
聡子はキッと啓子をにらみつけて、
「|嘘《うそ》つき!」
と、鋭い声で言った。
「信じないかもしれないけど――」
「信じないわ!」
「待って。――私、そのときも、剣崎と一緒にここへ来ていたわ。今夜と同じように、|隣合《となりあわ》せに部屋を取った。どうしてか分る? そういう事件を防ぐためなの」
「でも――」
「あなたが彼の部屋へ入ったのは、私がお|風《ふ》|呂《ろ》へ入っている間でしょ?」
「ええ。――あのカメラマンが、その方がいいって」
「前にもつまみ出されてるから、分ってるのよね」
と、啓子は肯いた。「でも、あなたとの騒ぎを、私、ちゃんと聞きつけたでしょ? そのルミ子さんという子、部屋へ入って、お酒をすすめられ、酔ったところを乱暴されたんでしょうけど、それだけのことが、十分や十五分の間には起るわけないわ」
啓子の言葉に、聡子は、|眉《まゆ》を寄せて、
「でも、それじゃ、一体――」
「たぶん、これは想像だけど、ルミ子さんを部屋へ連れ込んだのは、剣崎じゃなくて、一緒にいたスタッフの中の誰かだと思うわ。――剣崎が来るから、と、ルミ子さんに、アルコールをすすめて、もうすぐ来るから、って……。酔ったら、もうわけが分らなかったでしょうからね」
聡子は、完全には|納《なっ》|得《とく》できない様子だった。
「でも、その中に剣崎がいたかもしれないわ」
「そうね。その可能性はある」
と、啓子は認めた。「ただ、これは――あなたには信じてもらえないかもしれないけど、剣崎は、そんなことのできる男じゃないの」
「でも――」
「分ってるわ」
と、啓子は|肯《うなず》いて、「あの人はプレイボーイで有名。でもね、本当は気が小さくて、結構お人好しなのよ」
聡子は、キュッと|唇《くちびる》を結んだ。
「そう。あなたにしてみれば、私は剣崎の側の人間だし、信じられないでしょうね」
と、啓子は言った。「でも、スターってものは、たいていは作られたイメージなの。本当は、全然違うタイプの人が多いのよ」
「それぐらい、私にも分ります」
「そうね。あなたは頭のいい子だし。――でも、私は二年間、ずっと剣崎と一緒に行動して来て、あの人のことなら、ほとんど分ってるわ」
啓子は、ちょっと剣崎の部屋の方へ目をやって、
「ほら! 聞き耳立ててるくらいなら、こっちへいらっしゃい!」
と言った。
聡子が目をパチクリさせていると、ドアをノックする音がした。啓子が立って行って|開《あ》けると、剣崎が、きまり悪そうにして入って来る。
「――ね?」
と、啓子は言った。「普通の奥さんなら、|旦《だん》|那《な》が出勤している間のことは分らないでしょ。でも、この仕事だと、ほとんど丸一日、一緒にいるわけ。女房より、よほどよく知ってる、と言えると思うわ」
「話、聞いたよ」
と、剣崎は言った。「――友だちは、気の毒だったね。でも、それは僕じゃない。本当だ」
「でも、私のことを、部屋に入れたわ」
「そうよ」
と、啓子は剣崎をにらんで、「日ごろの行いで、こういうときに信用してもらえなくなるのよ」
「うん……」
剣崎は頭をかいた。
「ただね、聡子さん」
と、啓子は言った。「確かにこの人、お調子者で軽薄で、女の子にすぐコロッといくって人だけど、それは相手が積極的に寄って来た場合なの。そうでない子を、酔わせて手ごめにするなんてことは、しない人よ」
「うん。――ま、僕もあんまりいばれたもんじゃないことは承知してる。でも、そんな|卑《ひ》|劣《れつ》なまねはしないよ。信じてくれ」
聡子は、とても信じられない様子で、啓子と剣崎を交互に見ていた。
「――いいわ」
と、聡子は、しばらくしてから言った。「私にも、本当にあなたがやった、って証拠があるわけじゃないんだし。でも、だからってこのまま、放っておけない」
「当然よ」
と、啓子が|肯《うなず》いた。「私たちで、本当の犯人を捜しましょう」
「捜すって? どうやるんだい?」
「去年、一緒に回ったスタッフは、|調《しら》べりゃ分るわ」
「うん……。しかし――なじみの連中ばかりだぜ」
「でも、その中に、そんな卑劣なことをした|奴《やつ》がいるのよ。私だって、|見《み》|逃《のが》しちゃおけないわ!」
と、啓子が|拳《こぶし》をドンとテーブルに|叩《たた》きつけた。
「|壊《こわ》すなよ。――しかし、どうやって調べる? |訊《き》いてしゃべりゃいいけど……」
「しゃべりっこないわ。立派な犯罪だし、立証できなくても、そんなことがどこかで記事になれば、この世界でやっていけなくなるもの」
「うん。――|難《むずか》しいな」
「そこを、何とか調べるのよ。時間はかかるかもしれないけど」
「私がやるわ」
と、聡子が言った。「その人たち、教えて下さい」
「無理よ。それに、スタッフといっても、私たちの事務所の人ばかりじゃなくて、よそのスタッフも|色《いろ》|々《いろ》入ってる。その人たちが、今どこにいて何をしてるか。それをまずつかむだけでも大変よ」
「そんなこと言って、私に|諦《あきら》めさせるんでしょ」
「違うわ」
と、啓子は首を振った。「ねえ。――今、考えたんだけど、あなた、私たちと一緒に来ない?」
「一緒に?」
聡子は目を丸くした。
「ええ。だって、犯人を捜すとしたら、やっぱりそういう人たちのいる所へ行かなきゃ。――弟さんと二人?」
「ええ……」
「弟さん、いくつ?」
「十四ですけど」
「身軽でしょ? じゃ、一緒に東京へ行きましょうよ。二人の住む所ぐらい|手《て》|配《はい》してあげるわ」
「でも……」
「そうするといいよ。僕のことも見張っていられる」
「この人は|放《ほ》っといていいの。私が責任を持って、あなたの働き口も見付けてあげる」
「だけど……」
「費用は、剣崎にもたせりゃいいのよ」
「おい――」
「あなたの名前で、女の子が一人、人生をめちゃめちゃにされたのよ。それぐらい|罪《つみ》|滅《ほろ》ぼしだと思いなさい」
啓子に言われて、剣崎は、情ない顔で、
「分ったよ」
と言った。「経費になるかな……」
「――どう?」
|訊《き》かれて、聡子、少し考えていたが、
「分りました」
と、言った。「行きます。明日、弟に話して、急いで|仕《し》|度《たく》しますわ」
「じゃ、約束ね。――犯人を見付けるまで、私たち、力を合わせて行きましょう」
啓子と聡子が、手を握り合った。
「やあ、白くて|可愛《かわい》い手だね」
と、剣崎が手を伸すと、聡子はその手をピシャリと|叩《たた》いて、
「あなたは、まだ完全に疑いが晴れたわけじゃないんですからね!」
と言った。
啓子が、笑いをかみ殺して、
「ほら、早く寝て。明日のロケは早いのよ」
と、剣崎をつついてやった。
3 フレームの中
「おい! まだか!」
監督の峰川の声は、|苛《いら》|立《だ》ちを通り越して、すでにヒステリーの|域《いき》に達していた。
「もうちょっと待って下さい」
と、返事が返って来る。
「|畜生《ちくしょう》!――同じことばっかり言うな!」
峰川は、タバコを地面へ|叩《たた》きつけて、ギュッと靴で踏みにじった。
「|参《まい》りましたね」
と、啓子は言った。
「うん……。君の方は?」
と、峰川が|訊《き》く。
「確かめておきました。二時の列車に乗れば間に合います」
「そうか。それにしても……」
もう十二時を回っている。――このロケ地から、駅まで車で十五分としても、二時の列車に間に合わせるためには、一時四十分には撮影を終えておく必要があるのだ。
「朝からかかって、たったワンシーン! |全《まった》く!」
と、峰川が顔を|真《まっ》|赤《か》にしている。
「――今夜のTVがなきゃ、もっとお付合いするんですけどね」
と、啓子が言っていると、剣崎がやって来た。
「おい、どうなってんの?」
「仕方ない。まだアカネの頭痛が|治《おさま》らないんだ」
「もう何時間頭痛がしてるんだ?」
と、剣崎は顔をしかめた。「こっちは無理して六時に起きて|頑《がん》|張《ば》ってるのに」
「いばらないの」
と、啓子が言った。「私が叩き起こしただけじゃないの」
ロケ地には見物人がつきものだ。
小さな湖のほとり、なかなかきれいな所で、春の|陽《ひ》|射《ざ》しもほどよい暖かさ。天気にも恵まれ、風もない、と絶好のロケ|日和《びより》なのだが……。
剣崎の相手役、|緑《みどり》アカネが、朝から頭痛がするといって、車から出て来ないのである。
一応、周囲の風景や、剣崎一人のカットは|撮《と》り終えたのだが、後は、相手役なしではどうにもならない。
見物人たちは、何だか分らないので、ザワザワとしているばかり。
一人、苛立っているのは監督の峰川なのである。
緑アカネのマネージャーが、走って来た。
「おい、どうだ?」
と、峰川が言った。「もうかからないと時間がない」
「分ってるんですが……。どうにも頭痛がひどくて、出られない、と言うんです」
「じゃ、どうしろっていうんだ?」
「ここは一つ――改めてロケに来るか、設定を変えて、スタジオで――」
「おい! |冗談《じょうだん》じゃないぞ。ここでなきゃ話が成り立たないんだ!」
「でも、無理なものは……」
と、マネージャーも困り果てている。
「ねえ」
と、啓子が低い声で言った。「頭痛じゃないんでしょ、本当は」
「え?」
マネージャーがギクリとした。
「セリフを|憶《おぼ》えてないんじゃない?」
マネージャーは頭をかいて、
「実は――そうなんです」
「やれやれ……」
と、峰川はため息をついた。「カットごとに撮るんだ。一言二言のセリフだぞ」
「|二日《ふつか》|酔《よい》もあるんです。で、とても憶えられないって――」
「僕一人で芝居するのかい?」
と、剣崎は言った。
「ともかく、まだ撮影は始まったばかりだ。今からそれじゃ――」
「監督」
と、啓子は言った。「大きなパネルにセリフを書いて、読ませましょう」
「だめですよ」
と、マネージャーが言った。「彼女、|凄《すご》い近視ですから。それに、この見物人の前でそんなことをしたら……」
「あ、そうか」
啓子も腕組みをした。「困ったわね」
「ともかく、このロケは一回きりしかできないんだ。ここで二人が会ってくれないと、話にならん」
峰川は、湖の方へ目をやって、「――仕方ないな。|誰《だれ》か、代りに立っててくれ。|後《うし》ろ姿で行こう。セリフは後で入れる」
「でも、顔は?」
「うむ。――別に|撮《と》ってはめ込むさ。それしかない」
ひどいことになってしまった。
「僕はどうすりゃいいんだ?」
と、剣崎が両手を広げて、「黙ってる相手と演技するのかい?」
「できるでしょ」
「そりゃできるけど……。テンポが食い違うよ」
「誰かにしゃべらせりゃいい。――おい、カメラの位置を変えるぞ!」
と、峰川は、カメラマンの方へ歩いて行った。
「ここじゃだめですか?」
「二人の位置が悪い。一方が完全に後ろ姿でないとな。――見せてみろ」
と、峰川はファインダーを|覗《のぞ》いた。「おい、だめだ、これじゃ。見物人が入ってるじゃないか」
「すみません。すぐ――」
「おい! 待て!」
「はあ?」
「待て!」
峰川は、じっとファインダーを覗いていた。レンズをズームさせて、
「――おい、ケイ! ちょっと来てくれ」
と、啓子を手招きする。
「何です? カメラをかつぐんですか?」
「そうじゃない。――覗いて見てくれ」
「私が?」
「そうだ」
啓子はファインダーに目を当てた。
「――あら」
永谷聡子が、ちょうどフレームに入っている。ボストンバッグを下げて、隣にいる男の子としゃべっていた。きっと、あれが弟だろう。
「その子、どう思う?」
「どう、って……」
「いいじゃないか」
「ええ。|可愛《かわい》いですね」
「いくつかな。十七か八か」
「それくらいでしょ」
「――どうだ。あの子を使おう」
峰川の目は|輝《かがや》いていた。
「使うって?」
「剣崎の相手だ」
啓子は目をパチクリさせて、
「でも――無理ですよ。緑アカネの後ろ姿にしちゃ、あの子、ほっそりしてますもの」
「代役じゃない! 役者として、やらせてみるんだ」
啓子はポカンとして、
「――|素人《しろうと》に?」
「素質がある。|俺《おれ》には分る」
「でも……」
啓子は、少し考えてから、「――賛成ですわ」
と言った。
「ありがとう!」
峰川は、ニヤッと笑って、「君、連れて来てくれないか」
「ええ、いいですよ」
「ただ、代りに立ってるだけだと言って、OKさせるんだ」
「セリフは?」
「その場で何とか教え込む」
啓子は、面白くなって来て、大急ぎで見物人たちの方へ走って行った。
「どうも」
と、|聡《さと》|子《こ》が頭を下げた。「これ、弟の|恵《けい》|一《いち》です」
ピョコンと頭を下げた恵一は、あまり姉には|似《に》ていない。メガネをかけた秀才タイプである。
「ね、聡子さん、ちょっと来て」
「どこへですか?」
「こっち。――いいから」
と、|戸《と》|惑《まど》っている聡子を引張って行く。
「――うん、なかなか立ち姿がいい」
峰川の言葉に、聡子は何だか照れくさそうに、
「こうやって立ってりゃいいんですか?」
と訊いた。
「そう。――おい、剣崎! 出番だ」
「はいはい」
と、剣崎がやって来て、「やあ」
と、|微《ほほ》|笑《え》む。
「|似《に》|合《あ》うよ」
「何だか変だわ」
と、聡子は、着せられたコートと、ハイヒールを見下ろして、「歩きにくいし」
「仕方ないよ。二十三歳の役だからね」
「立ってればいいんですね」
「――おい、剣崎、しゃべってみてくれ」
と、峰川が声をかける。
「はい。――君にとって、この湖はどんな意味を持っていたんだろう。答えてくれないか」
聡子は、ただ突立っている。
「なるほど」
と、剣崎は|肯《うなず》いて、「じゃ、もう何もかもすんだことなんだね。――何だって?」
「どうかしました?」
と聡子が目を丸くする。
「いや、そういうセリフなんだ」
「あ、ごめんなさい」
と、聡子は頭をかいた。
「――監督。やっぱり、セリフをしゃべってくれないと、やりにくいよ」
「やっぱり無理だわ、私なんか」
と、聡子がコートを脱ごうとする。
「いや、待った」
と、峰川がやってきた。「――君、もの|憶《おぼ》えはいい方?」
「私ですか? そう悪くもないです」
「じゃ、一つセリフをしゃべってみてくれないか」
「私が?」
「後で、女優の声と入れかえる。しかし、一応ちゃんとしゃべってくれないと、|間《ま》が取れないんだ」
「セリフって、どんな……」
「これだよ。――この赤い|印《しるし》が君だ」
「こんなに長いのを?」
と、聡子は目をみはった。「一度にずっと通してやるんですか?」
「うん、そうだ」
峰川の言葉に、剣崎が目を見開いた。細かくカットを割って、撮るはずなのだ。
「じゃ、すみません。十分ください。その間に憶えてみます」
と、聡子が言った。
「いいとも」
峰川は|微笑《びしょう》した。
聡子は、台本を手に、弟と啓子のいる方へ歩いて行った。
「――おい」
と、峰川は、剣崎へ、「あの子とうまく合わせてくれ。できれば使いたい」
「やってみるよ。――少なくとも|二日《ふつか》|酔《よい》の、セリフも入ってないのより、やりやすいや」
と、剣崎は言った。
――十分、正確にたつと、聡子が戻って来た。台本を峰川へ返して、
「一通り、憶えました」
「すまんね、無理言って。――ちゃんと感情をこめて、本当に芝居するつもりでやってくれ」
「学芸会以来だわ」
と、聡子は、照れたように言った。
――啓子は、峰川が、スタートの声をかけるのを、じっと見守っていた。
聡子は、|驚《おどろ》くべき才能を|発《はっ》|揮《き》した。|全《まった》くセリフをとちらないばかりか、剣崎のセリフまで憶えていて、|面《めん》|食《く》らった剣崎がつまると、ちゃんと教えてやるぐらいだった。
もちろん、感情をこめるといっても、|素人《しろうと》だからぎこちないところはあるが、しかし、セリフがはっきりと聞き取れるのは、びっくりするほどだった。
通してテストをした後、峰川は、|半《なか》ば|呆《ぼう》|然《ぜん》として、
「カット!――いや、君……いい声をしてるよ」
と、やっとのことで口を開いた。
「合唱やってたんです」
と、聡子は言った。
「そうか。よく通る声だ」
「こんなぐあいでいいんですか?」
「うん。――そうだな。このところをね、少し低いトーンでやってくれないか」
――峰川の説明を聞く聡子を見ていて、啓子は、まるでプロの役者を見ているような気がした。
「お姉ちゃん、役者になりゃいいや」
と、弟の恵一が言った。
「ねえ。私も同感」
「お姉ちゃん、シェークスピアの『ロミオとジュリエット』、全部暗記してるんだよ」
啓子は目を丸くした。
時間のたつのも忘れて、峰川は、聡子への指導に熱中していた。
啓子は、時間を気にしてはいたが、もし二時の列車に間に合わなければ、連絡を入れておこう、と思った。とても、今の峰川を|邪《じゃ》|魔《ま》する気にはなれない。
「――よし! 本番!」
と、峰川が|怒《ど》|鳴《な》った。
――演技はスムーズに進んだ。
カットを割るはずだったのを、峰川は、レールを敷いてカメラを動かし、ワンカットで撮ることにしていた。
二人の会話は、ごく自然な情感で運ばれ、やがて、剣崎が、聡子の肩を抱いて、湖に向って立つ後ろ姿……。
「――いいぞ」
と、剣崎がそっと|囁《ささや》いた。
「あんまり力を入れないで」
と、聡子が低い声で言った。
「君は天性の役者だ」
「私はただのアルバイト」
「そうじゃない。――分らないのか? 峰川は本当に君を使う気だ」
「まさか……」
「君にとっても、悪くない」
「――どういう意味?」
と、聡子は|訊《き》いた。
「去年、ここへ来たスタッフの中に、峰川もいたからさ」
剣崎の言葉に、びっくりした聡子が動きかけた。
「じっとして!」
と、剣崎は言った。
「――カット!」
と、峰川の声が飛んだ。「すばらしい! OKだ!」
聡子は振り向いた。――啓子が、手を振って、大きくウインクして見せる。
聡子の人生が、大きく変った|瞬間《しゅんかん》だった。
4 アイドル
「あ、お姉ちゃんが来た」
と、|永《なが》|谷《たに》|恵《けい》|一《いち》が、車の窓から外を見て言った。
「そう? じゃ、運転手さん、出して」
と、|水《みず》|浜《はま》|啓《けい》|子《こ》は、運転手に声をかけた。
マイクロバスを改造した車なので、やはり人目にはつく。あまり学校の近くに寄せておくわけにはいかないのである。
校門の方へと車が寄って行くと、永谷|聡《さと》|子《こ》が、|一《いっ》|緒《しょ》に出て来た友だちに手を振って、車の方へと|駆《か》けて来た。
「――ごめんなさい!」
聡子が息を|弾《はず》ませながら乗り込んで来る。「クラブで遅くなっちゃって」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。間に合うわよ」
と、啓子は|肯《うなず》いて、「じゃ、TKSのスタジオね。急いで」
車がぐんとスピードを上げて走り出す。
聡子は、窓から顔を出して、友だちに手を振った。
「――一緒に帰りたい?」
と、啓子は言った。
「うん……。でも――」
聡子は、|椅子《いす》に腰をおろして、「お仕事だもの。でも、みんないい人ばっかり」
「学校の話でしょ?」
「もちろん」
と言って、聡子は笑った。「――恵一、宿題やったの?」
と、弟の方を振り返る。
「今やってるとこ。大丈夫だよ。いい家庭教師がついてるもん」
「へえ。|誰《だれ》?」
「――僕さ」
ヒョイと奥から顔を出したのは、|剣《けん》|崎《ざき》|隼《はや》|人《と》だった。
「何だ! びっくりしたわ」
「どうせ一緒だからね」
剣崎は、聡子を|眺《なが》めて、「いや、いいなあ!」
と、ため息をついた。
「何か?」
「そのセーラー服。いや、実にいい!」
「相変らずなんだから」
と、聡子は笑った。
「|放《ほ》っときなさい」
と、啓子が振り向いた。「聡子ちゃん、|着《き》|替《が》えといてね」
「はい」
聡子は、学生|鞄《かばん》を開けると、中から何やら紙を取り出して、「啓子さん、これ、すみませんけど」
と、差し出す。
「なあに?」
「調査票。家族とか、住所、家までの地図」
「ああ、分ったわ。やっとくから、任せて」
と、受け取って、
「宿題は?」
「着替えてからやります。たぶん三十分あれば」
「剣崎に手伝わせるのはやめなさいよ。みんな違ってるかもしれないわ」
「ひどいなあ」
と剣崎は苦笑したが、別に|怒《おこ》る|風《ふう》でもなく、楽しそうだった。
「じゃ、着替えて来ます」
と、聡子が席を立つ。
「手伝おうか?」
「引っかかれたきゃどうぞ」
と、聡子は剣崎へ言い返した。
――この車は、聡子のために作られた移動用の専用車である。
普通のマイクロバスに手を加えて、勉強のできる|机《つくえ》を入れたり、ベッド、トイレからシャワーも|浴《あ》びられるようになっている。
スケジュールがびっしりと|詰《つま》った日本のアイドルを象徴するような車である。
この車でTV局から撮影所、ロケ先、と移動しながら仮眠を取り、食事も中で取る。――そんな生活にも、やっと|慣《な》れて来たところだ。
車の後ろ半分は完全な部屋になっている。聡子がそこへ入ってドアを閉めると、啓子は、車内の電話で、TKSへ連絡を入れた。
「――今、そっちへ向ってます。――そうね四十分あれば。少し道が|混《こ》んでいるので。――はい、よろしく」
剣崎が、啓子の|隣《となり》へ腰をおろした。
「|頑《がん》|張《ば》ってるじゃないか、あの子」
「そうね。よくまあ、これだけスケジュール入れるもんだわ、うちの社長も」
と、啓子は、書き込みで|真《まっ》|赤《か》になった予定表を眺めた。
「仕方ないさ。|久《ひさ》|々《びさ》の金になる新人だ」
「でもね、あの子は、お金のために俳優になったわけじゃないのよ」
「そりゃそうだが……」
「――気になってるの」
と、啓子が言った。
「何が?」
「あの子との約束よ」
啓子は、恵一に聞こえないように、低い声で言った。
「ああ、例の犯人[#「犯人」に傍点]か。――でも、あの子、何も言わないぜ」
「でも考えてはいるわ。私には分ってるの。でもね、忙し過ぎて……」
「勉強もできるんだろ? 大したもんだ」
「本当ね。|誰《だれ》かさんとは大違い」
剣崎は|咳《せき》|払《ばら》いして、表を見た。
「大分暑くなって来たな……」
「ごまかさないで」
と、啓子は笑って言った。「それにね、聡子ちゃん、何やら熱心に書いてるのよ」
「書いてる? 何を?」
「日記でもないみたいだけど……。よく分らないの」
と、啓子が首をかしげる。
「君に分らないとは|珍《めずら》しいじゃないか」
と、剣崎がやり返した。
「私が行くとパッと隠すの。――まあ、私やあなたへの悪口かもね」
「おい、僕は何もしてないぜ」
「彼女[#「彼女」に傍点]にはしてなくても、|他《ほか》の子には、|色《いろ》|々《いろ》ちょっかい出してるじゃないの」
「たとえば?」
と、後ろから声がして、ギョッと振り返った。
「恵一君! 立ち聞きはだめよ!」
「聞こえちゃうよ、こんな車の中じゃ。宿題一応|済《す》んだんだ」
「じゃ、予習でもやっとけば?」
「ねえ、誰にちょっかい出したの?」
恵一の問いに、剣崎はとぼけて、
「いや、世間には、色々無責任な|噂《うわさ》を流す|奴《やつ》がいるからね」
と、|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔で言った……。
車は、|渋滞《じゅうたい》に巻き込まれつつあった。
もうすぐ七月になろうとしている。
永谷聡子が、故郷の湖のほとりで、初めてカメラの前に立ってから、三か月が過ぎていた。
もちろん聡子自身にとって、今まで経験したこともない三か月だったに違いないが、啓子にとっても、それは同じだった。
剣崎の属しているプロダクションは、あまり大きいとは言えない。何といっても剣崎が|稼《かせ》ぎ|頭《がしら》で、あと数人、|脇《わき》|役《やく》クラスの役者をかかえているくらいだった。
大体、社長の趣味もあって、|素人《しろうと》同然の女の子を、金をかけたキャンペーンでスターに仕上げるというやり方は取ったことがない。
啓子が強く頼まなければ、聡子のことだって、引き受けなかったかもしれないのだ。
しかし、啓子と剣崎が一緒になって、
「絶対に人気が出る」
と主張したので、渋々承知したのである。
|山《やま》|内《うち》(というのが社長の名だが)は、それでもできるだけ安いアパートを捜せ、と啓子に言ったくらいだ。
しかし、|緑《みどり》アカネの代役で出た初めてのドラマで、聡子は、素人離れした演技と、新鮮な清潔感を強烈に印象づけてしまった。他のドラマや映画の出演依頼が殺到し、山内社長は|仰天《ぎょうてん》した。
まずはCMに出そうということになり、大手の清涼飲料水のCFに登場、それが流されると、永谷聡子の人気は爆発的になって、すでに一人歩きを始めてしまった……。
それからはもう、一日が本当に二十四時間なのかと、半ば本気で啓子と聡子が顔を見合わせる毎日が続いた。二十四時間もあれば、こんなにすぐたってしまうわけがないし、二十四時間しかなければ、こんなに色々な仕事をこなせるわけがない。――これが、二人の実感だった。
聡子と恵一のほうは、わずか一か月で、モルタルのアパートから|六《ろっ》|本《ぽん》|木《ぎ》のマンションに「昇格」した。啓子も同居である。
余分な人手などないので、啓子は、聡子と剣崎隼人の両方の面倒をみなくてはならず、そうなると必然的に、剣崎の方は|放《ほ》ったらかしになる。――山内社長は、|苦《く》|肉《にく》の|策《さく》として、できるだけ剣崎と聡子を一緒に出演させるような企画を作ることにしたのだ……。
だから、啓子の進言で、やっと買い入れたこのマイクロバスも、一応は剣崎と聡子、二人が使うということになっていた。
――でも、本当に不思議な世界だわ、と啓子は思った。
そろそろ暑くなって来る。そして夏になると、学校は「夏休み」に入る。
普通の学生にとっては「休み」のはずの四十何日間だが、聡子には、いつもの倍も忙しい時期である。
今、都内の高校へ通っている聡子は、平日には放課後しか仕事ができない。徹夜、寝不足はいつものことだが、聡子はよく音を上げもせずに|頑《がん》|張《ば》っている。
夏休みになると、フルに仕事が入れられる、というので、山内社長などは手ぐすね引いて待ち|構《かま》えている。
啓子が、激しい言い合いの|挙《あげ》|句《く》、――|殴《なぐ》り合いは、一歩手前で山内の方が[#「山内の方が」に傍点]、思い|止《とど》まった――やっと三日間の夏休みを聡子にもぎ取ってやったが、それ以外は毎日、びっしりのスケジュール。
しかも、レコードの第一弾も夏休み直前の発売で、大ヒットは確実と見られていたから、TVの歌番組への出演もあるかもしれなかった。
もっとも、今のところは、聡子自身が、自分は役者だから、と言って、レコード以外の場で歌う気になれないと言っていた。その言い分で、いつまで山内を|抑《おさ》えておけるかは怪しいものだったが……。
しかし、これほどの短期間にスターになった子というのは、啓子の知っている限りでは、他にいない。
|峰《みね》|川《かわ》|大《だい》|吾《ご》が監督として|見《み》|出《いだ》したスターの素質は、その予想の何倍にもなって、花開いたのだった……。
「――遅れそう?」
と、啓子は運転手に声をかけた。
「あと少しで、この渋滞からは出られると思うよ」
「そう。――聡子ちゃん、|仕《し》|度《たく》できたのかな」
啓子は、立って行って、細長いドアをノックした。「聡子ちゃん。――どう?――入っていい?」
返事がない。啓子はそっとドアを|開《あ》けた。
「あら……」
小さなベッドに、聡子は横になって眠っていた。セーラー服は|脱《ぬ》いでハンガーにかけてあり、|肌《はだ》|着《ぎ》のままだ。ちょっと横になるだけのつもりが、眠ってしまったのだろう。
無理もない。ゆうべはたぶん二時間ぐらいしか寝ていないはずだ。
「――どうした?」
と、ヒョイと剣崎が顔を出した。
「見るな!」
啓子がドンと突き飛ばしたので、剣崎はみごとに引っくり返った。
啓子は出て来てドアを閉めると、
「そんなに急がなくてもいいからね」
と、運転手へ声をかけた……。
「なあ、ケイ」
と、剣崎が言った。「いくら何でも、ありゃひどいよ」
「分ってるわよ。でも、しょうがないでしょ。私がキャスティングしたわけじゃないんですからね」
――スタジオの中は、もうくたびれ切った空気が|漂《ただよ》っていた。
そろそろ十時を回るところだ。もちろん夜の十時である。
「ぶん|殴《なぐ》ってやりたい!」
と、剣崎が珍しく|怒《おこ》っている。
大体おっとりしていて、あまり本気で怒るということのない男である。
「そうねえ」
啓子もさすがにくたびれている。
体力はまだ大丈夫、|余《よ》|裕《ゆう》があるが、精神的な面が……。
今日の収録は早々と終るはずだった。そう|難《むずか》しい場面ではないし、準備に手間のかかるシーンもない。
今夜は少し早く帰って、聡子を休ませてやれるかな、と思っていたのである。それが……。
「これは合わないんだってば! 何度言ったら分るのよ!」
|甲《かん》|高《だか》い声がスタジオの中に響く。「何か捜して来てよ。私、肩の張ったデザインは嫌いなの!」
ごねているのは、もう三十代も半ばの女優だった。――美人女優として、数年前までは年に必ず二、三本は映画を|撮《と》っていた。
「聡子ちゃん」
と、啓子は手招きした。
ブレザー姿の聡子は、セットから出て、啓子の方へやって来た。
「――どうせ当分は始まらないわ。どこかで休んでましょう」
「そうするといいよ」
と、剣崎が|肯《うなず》いて、「始まりそうになったら呼んであげる」
「でも……」
と、聡子はためらっていたが、啓子に|促《うなが》されるままに、スタジオを出ると、|休憩室《きゅうけいしつ》へ入った。
休憩室といったって、|椅子《いす》と机、それに自動販売機が並んでいるだけなのだが。
「何か飲む?」
「いいです。汗が出るから」
と、聡子は首を振った。「でも、あの人、どうしてあんなにごねてるんですか? それにみんな何も言わないし」
「そう。――困ったもんね。あの人、誰でも知ってる某大スターの愛人なのよ」
「へえ」
「だから、ああして強気なわけ。みんなも、それを知ってるから、何も言えないしね」
「そんなことって、あるんですね。――ドラマの中の話だけかと思った」
「結構、まさか、と思うことが、起ってるものなのよ」
「そうですね……」
聡子は、ちょっと目を伏せて、「ルミ子のことだって――」
「私もね、気にはしてるの。ただ、今は社長がすっかり舞い上ってるから」
と、啓子はため息をついた。
「分ってます。こんな風になるなんて、私も思ってなかったし……」
聡子が、ふと言葉を切った。
|誰《だれ》かが、休憩室の入口に立って、聡子たちの方を|眺《なが》めていたのだ。
五十がらみの、がっしりした体格の男で、なぜだかサングラスをしている。
「あ、どうも――」
と、啓子は立ち上って、頭を下げた。「永谷聡子の――」
「うん。知ってるよ」
と、男は言って、休憩室へ入って来た。
男がサングラスを外すと、聡子も、ちょっと目をみはって、
「|松《まつ》|原《ばら》|市《いち》|朗《ろう》さんですね」
と、腰を浮かした。
「うん。まあいいよ。|座《すわ》っていなさい」
日本映画の代表的なスターは、意外に背は高くなかった。
「いつもお若いですね」
と、啓子が言った。
「いや、大分頭の方は薄くなったよ」
と、松原市朗は笑った。
聡子は、|微《ほほ》|笑《え》んで、
「何だか、いつも時代劇を拝見してたので、|妙《みょう》な感じがします」
と言った。
「このところ、時代劇も不作だよ」
と、松原市朗は肩をすくめた。「君、しかしいいものを持ってるね。いや、本当だ。――|真《ま》|弓《ゆみ》が、食われる、と言っていやな顔をしてたよ」
真弓というのは、今、スタジオでごねている女優のことだ。――愛人の某大スターというのが、この松原なのか。
聡子は、ちょっと啓子と目を|見《み》|交《か》わした。
「セリフがはっきりしてるし、声が腹から出ている。若い子には|珍《めずら》しい」
「合唱をやってたので。故郷の学校で」
と、聡子は言った。
「どこなの、故郷は?」
「はい。――C市です」
「あそこか」
松原市朗は、啓子の方を見て、「去年、行かなかったかね。剣崎と一緒に」
と|訊《き》いた。
「ええ、そういえば、ご一緒でしたね」
と、啓子が答える。
聡子は、改めて松原市朗を見直した。――では、この人も去年、あのホテルに泊っていたのだ!
「剣崎君も、このところはメロばっかりじゃないか。もったいないねえ」
「ええ。当人も、たまには時代劇でもやりたいとこぼしてますわ」
「そうだろう。――剣崎君は二本差しがさまになるんだ。まだ腰はフラついてるが、そりゃあ、今の若い役者、誰でもそうだからね」
「いいお仕事がありましたら、ぜひ――」
「うん。今、考えてる企画がある。スタッフも、今の内に集めておかないと、もう時代劇のやれる人間がいなくなる……。おい、どうしたんだ」
ちょうど、休憩室の前を、真弓――|井《い》|関《せき》真弓が、ふくれっつらで通りかかったところだった。
「まあ! 来てたの? |嬉《うれ》しい!」
と、井関真弓は、松原に|駆《か》け寄って、首に抱きついた。
「おい、よせ。――もう終るころかと思って、寄ってみたんだ」
と、松原は|苦《にが》|笑《わら》いしながら言った。
「それが――見て。こんな|衣裳《いしょう》でやれって言うのよ」
「気に入らないのか」
「私には|似《に》|合《あ》わないのよ、この黄色は。他の色を捜せって言ってるの」
「でも――」
と、聡子が、口を開いた。「セットの色にはそれが一番よく合います」
井関真弓が、キッとなって、聡子をにらんだ。
「あんたの知ったことじゃないわ!」
「そうとんがるな」
と、松原が言った。
「主役はセットじゃないのよ。私だわ」
「真弓さん、すみません」
と、演出助手が呼びに来た。「ディレクターがちょっと――」
「なあに? 私は絶対このままじゃやらないわよ」
松原がいるので、ますます強気になっているのだろう。
「ええ。ともかく、ちょっと話が……」
「分ったわよ」
井関真弓は、松原の方へかがみ込んで、「じゃ、待っててね」
と、甘ったれた声を出すと、スタジオの方へ戻って行った。
「――しょうのない|奴《やつ》だ」
と、松原が照れたように笑った。
「私、ちょっと顔を直して来ます」
と、聡子が席を立って|休憩室《きゅうけいしつ》を出て行く。
松原が、その後ろ姿をじっと見送っていた。
「いかがですか」
と、啓子は言った。
「うん? 何だい?」
「あの子。――私、スターになる素質があると思うんですけど」
「うん。いいね」
と、松原は|肯《うなず》いた。「立ち姿、歩き方、話す時に真直ぐ目を見るところ……。昔のスターはみんなああだった」
松原の口調には、いくらかの|寂《さび》しさがこめられていた。
啓子にも、松原の気持はいくらか分るような気がする。――かつては日本を代表するスターだった松原も、映画界全体の低迷と、若者志向の中で、徐々に出番を失いつつある。
もう今の十代の少年少女にとって、松原市朗は、TVで放映される旧作に出て来るだけの名前なのだ。
ギャラも高すぎるし、そう小さな役では頼めない。
結局、この一、二年、松原は、ほとんど目立った仕事をしていないのだった。
その点では、かつて松原と映画で共演した女優たちも同じことだ。TVや映画にはめったに顔を出さなくなって、時々、舞台に出る程度。
過去の日々を思えば、松原が寂しい気持になるのも当然のことだった。
「――ケイちゃん」
と、松原が言った。
「はい」
「あの子、見付けたのは|誰《だれ》?」
「峰川さんです」
「峰川大吾? |懐《なつか》しい名前だなあ。――元気でやってるのかい、おっさん」
「ええ。二時間ものをよくとってますから」
「そうか……。仕事ができるってのは、いいことだなあ。たとえ、色々不満のある仕事でも、何もしないよりよっぽどいい」
松原は、ちょっと考えて、「――峰川大吾か。悪くないな。まだ一緒にやったことはないが」
「力のある人なんですけどね。本編をやりたいっていつも言ってますわ」
「本編」というのは、劇場用の映画のことである。TVの仕事は、あくまで「|仮《かり》のもの」という思いが、映画の人間にはあるのだ。
「――一つ、企画してみるか」
と、松原は言った。「峰川大吾。松原市朗、井関真弓。――それに、永谷聡子」
「楽しくなりそうですね」
と、啓子は笑顔になった。
もちろん、色々と専属やスケジュールの関係で、そんな企画は九十九パーセント成立しないことは承知している。しかし、もし実現すれば……。
「――あの子は、疲れてるんだろうな」
と、松原が言った。
「聡子ちゃんですか? ええ、ほとんど寝ずに|頑《がん》|張《ば》ってますからね」
「そうか。――スタジオを|覗《のぞ》いて来よう」
と、松原が立ち上った。
戻って来た聡子を促して、啓子は、少し後からスタジオへ入って行った。
相変らず、井関真弓はセットの真中で腕組みをして突っ立っている。
「いつまでそうやってるんだ?」
松原が出て行くと、スタッフがみんな顔を見合わせた。
「だって、どうしても聞いてくれないのよ」
と、真弓はディレクターの方を指して、「何とか言ってやってよ。新米のくせに大きなこと言って!」
若いディレクターも、困り切った表情だった。
松原がセットへ上ると、部屋の中を見回した。
「――あの子の言う通りだ」
と、松原は言った。「その服が、このセットには合う。それでやれよ」
誰もが|面《めん》|食《く》らった。――しかし、一番びっくりしたのは井関真弓に違いない。
「だって……。私、こんな色、|嫌《きら》いだもん」
と、口を|尖《とが》らした。
「お前のためにドラマをやってるんじゃない。ドラマのためにお前が働いてるんだ。一人で文句を言ってる内に、見ろよ。みんなくたびれ切ってる。これじゃろくなものができないぞ。お前の評判だって落ちる。いいものに出てこそ、役者だ。それでやれ。文句を言うな」
真弓は青ざめた。――|顎《あご》を|震《ふる》わせて、今にも爆発しそうだったが、しかし、何とかそれを|抑《おさ》えている。
「おい、始めてくれ」
と、松原がディレクターに向って言った。「口出しして悪かったな」
松原がセットを下りて、スタジオを出て行く。――しばらくは、誰も動かなかった。
「早く始めましょ! どんどん遅くなるわよ!」
ポンと手を打って、叫んだのは啓子である。
それをきっかけに、みんなが|一《いっ》|斉《せい》に動き出した。たちまちスタジオに活気が|溢《あふ》れて、井関真弓の|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》など、その中に|呑《の》み込まれてしまった。
5 抜かれたフィルム
バスルームからは、シャワーの音が聞こえている。
|太《おお》|田《た》|一《かず》|哉《や》は、|欠伸《あくび》をしながら、ベッドに起き上った。
「何だ――ウトウトしちまったのか」
やれやれ。ぐっすり眠り込まなくて良かった。せっかく、彼女とこのホテルへ入るところまでこぎつけたのに、眠っちまっちゃ、元も子もない。
疲れているのは確かである。何しろ同じカメラマンでも、スタジオで女性のヌードを|撮《と》っているのとはわけが違う。
太田は、写真週刊誌に、あれこれスターのゴシップ写真をのせているのだ。
そう。――永谷聡子と剣崎隼人の写真をとろうとして、あの「女用心棒」にのされてしまったカメラマンである。
「やれやれ……」
と、太田は、伸びをした。
今でも、あの時の写真は惜しかった、と思っている。まさかあの女の子が、こんな大スターになるとは、思ってもいなかった。
あの写真が、もし手もとにあったら、今なら、大評判になっただろうに……。
しかし、今さら、あんな話を週刊誌へ持ち込んでも、出し遅れの証文に過ぎない。それに……。ひどい目には遭ったが、太田は個人としても、永谷聡子のファンなのである。
あの時もびっくりするほど|可愛《かわい》かったけれど、今はさらに輝きを増して、たまにTV局などで見かけても、ちょっと近寄りがたいほどだ。
まあ、差し当りは、あの子も忙しくて男どころじゃあるまい。しかし、一年もすれば、当人も大分色気づいて来る……。
色気か。――彼女、シャワーを浴びてるんだな。
そうだ。一緒に入ってやろう。
やっとここまでこぎつけたんだ。大いに活用しなきゃ。
実際、ここまで持ち込むために、高いフランス料理やドライブ、観劇など、ずいぶん金をつかっている。このホテル代ぐらい、どれほどのものでもない。
シャワーを浴びりゃ、目も覚めるしな。
太田は、服を|脱《ぬ》ぐと、バスルームへ入って行った。――シャワーカーテンが引いてあって、その向うでぼんやりと人影が動いている。
そうだ……。そっと近寄って、ワッとおどかしてやろう。
含み笑いをしながら、太田は、そっとカーテンに手をのばした。
それ!
サッとカーテンを開けると、目の前にあったのは、編集長の、かみつきそうな顔だった!
「貴様! 写真はどうしたんだ!」
「ワッ!」
|裸《はだか》で太田は引っくり返って――。
ハッと目が覚めた。
「|畜生《ちくしょう》……。夢か!」
と、胸をなでおろす。
それにしても――リアルな夢だったな。
「そうか……」
起き上ったベッド、そして部屋の中の様子は、夢で見たのと同じだった。
そうだ。――彼女とここへ来たのは本当だったんだ。
しかし、彼女の姿はなかった。そして、バスルームの方でも、シャワーの音はしていない。
太田は頭を振って、ベッドから出た。――彼女、どこにいるのかな?
テーブルの上に、何やらメモらしいものがあった。取り上げて、目をこすりながら読んでみる。
〈シャワー浴びてる間にグウグウ寝ちゃうような人、とてもじゃないけど相手できないわ。さよなら!〉
太田は、時計に目をやった。――六時だ。
六時? ホテルへ入ったのが夜の十一時ごろだから……。朝の[#「朝の」に傍点]六時までぐっすり眠ってたのか!
「――畜生!」
ホテル代が|丸《まる》|損《ぞん》である。
しかも、悪いのはこっち。彼女が|怒《おこ》って帰ってしまったのは当り前だ。
太田は頭に来て、|椅子《いす》をけっとばし、向うずねを打って悲鳴を上げた……。
――太田が、カメラを入れたバッグをかかえて、部屋を出ようとしたのは、三十分後のことだった。
せめて、風呂ぐらいは入って行こう、というので、たっぷり入浴していてのぼせてしまったのである。
「やれやれ……」
太田は、これまでの投資[#「投資」に傍点]が、|総《すべ》てむだになったことを考えると、やり切れない気分だった。それもこれも、日頃が寝不足のせいだ!
畜生! 編集長に|一《いっ》|杯《ぱい》おごらせてやる。
太田はドアを開けて、ふと、いつものくせで、部屋の中に忘れものはないか、見回した。
その時、ちょうど、隣のドアが開く音が聞こえたのである。
「――誰もいないかしら?」
と、女の声がした。
はてな? あの声は……。
どこかで聞いたぞ、と太田は思った。
同時に、ドアをぎりぎりまで細く開けて、そっと廊下を|覗《のぞ》いた。
「――大丈夫らしいよ」
男の声だ。その声にも、聞きおぼえがあった。
「本当? ちゃんと確かめてよ」
女の方はかなりびくついているらしい。
「よし、ちょっと待ってろ」
男が一人で廊下へ出て来た。太田はドアをきっちりと閉めた。
このドアは外を覗く穴がついていないので、細く開けて見るしかないのである。
足音が、ドアの前を通り過ぎて、また戻って来る。
その時になって、太田はやっと、あの声の主に思い当った。しかし――しかし、まさか[#「まさか」に傍点]そんなことが!
芸能界のたいていの噂には通じている太田である。しかし、この二人[#「この二人」に傍点]のことは、耳にしたこともない。
これがもし本物[#「本物」に傍点]なら……。
「大丈夫。――誰もいない」
「そう。じゃ、出ましょう」
女の声が答える。「あ、待って。腕時計忘れちゃった」
太田は、バッグを下ろして、中から急いでカメラを出した。レンズシャッター付きの小型カメラだ。
一眼レフのフォーカルプレーンに比べると、レンズシャッターは、切ったときの音が小さいので、隠しどりには向いているのだ。
手が|震《ふる》えた。――こいつは|凄《すご》い! めったなことで、こんな場面にはお目にかかれないぞ!
「待ってろよ……。待っててくれよ……」
フィルムは――入っている!
よし。一発勝負。二枚はとれない。
二人がエレベーターで下りるとすると、その前で待っているところが、|狙《ねら》い目だろう。
太田は、隣のドアが閉る音を耳にした。
「――行こう」
「ええ」
二人は向うへ歩いて行く。角を曲って、エレベーターがある。
もう、いいかな……。
太田は、ドアをそっと開けた。二人が、角を曲って姿を消すところだった。
太田は靴を|脱《ぬ》ぐと、ドアが閉じないように、|挟《はさ》んでおいた。
靴下の方が、足音もしないので便利だ。
早くしないと――エレベーターに乗ってしまったらおしまいだ!
太田はカメラを手に、そっと曲り角へと近付いて行った。
「――今日は何時の仕事?」
と、女が|訊《き》く。
「十時からだ。帰って少し休めるよ」
「私はだめ。台本を見ておかないと……」
角から、そっと顔を出してみる。
二人は、|斜《なな》め後ろを向いて立っている。
これなら気付かれる心配はないだろう。カメラの距離計を、勘でセットする。|絞《しぼ》りは少し絞り気味。
できるだけピントを深くしておきたいのだ。
明暗は、現像で救える。
「――のんびりしたエレベーターね」
と、女が言った。
「来たよ」
太田はレンズを覗かせた。二人の横顔がファインダーに入っている。
ガラガラ、とエレベーターの|扉《とびら》が開くと同時にシャッターを切った。すぐに引込む。
やった!
エレベーターの扉が閉る音がした。
息を|吐《は》き出し、急いで部屋へと戻った。
「――|凄《すご》いぞ! こいつはボーナスものだ!」
|興《こう》|奮《ふん》していた。カメラをバッグへ入れ、靴をはいた。
いや、すぐに出たら、下で出くわすかもしれない。
太田は、ベッドのわきの電話で、写真週刊誌の編集部へかけた。
どんな時間でも、|誰《だれ》かいるはずだ。
「――はい、もしもし」
と、眠そうな声。
「あ、カメラマンの太田ですが。デスクはいる?」
「ちょっと待って……。寝てるよ」
「そうか。じゃ起きたら伝えてくれ! トップを|空《あ》けといてくれって」
「トップ?」
「凄いのをとった! |正真正銘《しょうしんしょうめい》だよ。今からそっちへ行く! 三十分だな」
「三十分ね……」
「それまでにデスクを起こしといてくれ」
太田は、電話を切った。
五分待った。――もう大丈夫だろう。
向うも、いつまでもこんな|辺《あた》りにうろついているわけがない。
「とんだ拾いものだ」
太田は、すっかりいい気分で、|口《くち》|笛《ぶえ》など吹きながら、部屋のドアを開けた。
目の前に、男が立っていた。
「――写真をとったね」
と、男が言った。
「いや……」
「フィルムを渡してもらおう」
太田は、とっさに考えた。――何とかごまかすんだ。
「でも――」
「早く出してくれ」
「分った。分りましたよ」
太田は肩をすくめて、バッグを開けた。中から、一眼レフを取り出すと、フィルムを巻き取る。
「――残念だなあ」
「|全《まった》くだね」
と、男は言った。
太田は、フィルムを取り出すと、男に渡した。
「フィルムは消せるがね――」
と、男はフィルムをポケットに入れて、「君の記憶は消せない」
突然、男の両手が太田の首をがっしりと|捉《とら》えた。そのまま床へ押し倒された太田は、振り離そうともがいたが、その抵抗は、ほんのわずかしか続かなかった。
「――ツイてなかったな」
と、男は、息を|弾《はず》ませながら、立ち上った。
ドアが開き、閉じる。
小型カメラは、太田のバッグの奥に、そのまま押し込まれていた。
「――おはよう」
昼ごろ起き出して来た聡子は、啓子の顔を見て、言った。「遅刻かと思って、|焦《あせ》っちゃった」
「日曜日よ」
「そうなんですね。何だか曜日の感覚がなくなっちゃって……」
聡子は大|欠伸《あくび》をした。
「――ファンにゃ見せられないね」
と、弟の恵一がからかった。
「|馬《ば》|鹿《か》!」
「今日は夜の撮影よ」
と、啓子が言った。「夕方までのんびりしましょう」
「でも、インタビューが入ってたんじゃないんですか?」
大体、平均して日に二、三件のインタビューが入る。
これほど世の中に雑誌が|沢《たく》|山《さん》あるということに、聡子は|唖《あ》|然《ぜん》としたものだ。
「まとめたの。マネージャーの特権でね」
と、啓子はニヤリと笑った。「三人で、おいしいもんでも作って食べよう」
「|嬉《うれ》しい! ありがとう、啓子さん!」
聡子は、啓子の首に抱きついた。
「――こっちも抱きついていいよ」
という声に振り返ると、剣崎が立っている。
「ちゃんとチャイムを鳴らして、って言ってるでしょ!」
と、啓子がにらんだ。
聡子は、パジャマ姿のままなので、あわてて、寝室へ|駆《か》けて行った。
「いや、もう起きてると思ったんだ。――やあ恵一君、テストは?」
「まあまあ」
と、恵一が言った。「この間教えてくれたとこ、間違ってたよ」
剣崎は|咳《せき》|払《ばら》いした。――聡子がセーター姿で出て来る。
「おい、見たか、今朝のニュース」
と、剣崎が言った。
「|誰《だれ》か、また離婚したの?」
と、啓子がコーヒーをいれながら、訊いた。
「そんなんじゃないよ。太田ってカメラマン、|憶《おぼ》えてるだろう?」
「ああ。例の、聡子ちゃんと会った時にいた|奴《やつ》ね」
「啓子さんにのされちゃった人ね。――あの人が何か?」
「また訴えられたの?」
「いや。殺された」
――啓子と聡子は、顔を見合わせた。
「|嘘《うそ》……」
「本当だ。ホテルで|絞《し》め殺されているのが見付かった。昼のニュースでもやるよ、きっと」
啓子がTVをつけた。
「犯人は?」
「分らないらしい。――カメラから、フィルムが抜かれていた」
「それじゃ……」
TVのニュースをしばらく見ていると、太田の事件が取り上げられた。
「ホテルだったのね」
と、啓子が|肯《うなず》く。「でも――問題じゃない、これ!」
「どうしてですか?」
と、聡子はピンと来ない様子だ。
「つまりね、太田は君も知っている通り、芸能ネタのカメラマンだ。たまたま女とホテルへ入って、いざ出ようとした時、誰か[#「誰か」に傍点]を見たんだな」
「その誰か[#「誰か」に傍点]が、太田って人を殺したんですか?」
「フィルムが抜かれてるってのは、それしか考えられないよ」
と、剣崎は言った。
「だけど……」
聡子が、信じられないという顔で、「恋人と一緒の所を写真にとられたからって、殺すなんてこと――。そこまでやるかしら?」
「人によるだろうな。フィルムを出せ、出さないで争いになれば……。カッとなりゃ分らないぜ」
「何だか、見てたようなこと言うのね」
と、啓子がからかう。「さてはあんたがやったの?」
「よせよ。このかよわい[#「かよわい」に傍点]男を|捕《つか》まえて」
と、剣崎が|澄《す》まして言うと、「お昼をごちそうになりたいね。――いいだろ?」
「いいけど、高いわよ」
と、啓子は言った。「恵一君、そこのスーパーへ行って、これ買って来てくれる?」
「OK! |任《まか》しといて」
恵一はメモを啓子から受け取ると、「あそこね、今日は調味料とトイレットペーパーが安いんだよ。少し買って来とく?」
「じゃ、お願い。ケチャップとみりん」
「了解」
恵一がさっさと|財《さい》|布《ふ》を手に出て行く。
「さて、こっちはお|鍋《なべ》を用意して、と」
啓子は台所へ入って行く。
「私も手伝う!」
聡子も喜んでエプロンをつけた。
「聡子ちゃん、でも、手をけがしたりしちゃいけないから、包丁は持たないでね。――お肉、冷凍庫から出して解凍してくれる?」
「はい」
――ポケッと見ていた剣崎は、感心した様子で、
「恵一君も君も、よくやるねえ」
と言った。
「ずっと二人でやって来たから。恵一はね、スーパーの特売日を|憶《おぼ》えるのが特技になっちゃったんです」
「へえ」
「ま、そこで突っ立ってる誰かさんより、よっぽど役に立つってもんよ」
と、啓子が言った。「これを火にかけて、と――。お昼は軽くスパゲティにしましょうね。夕食にたっぷり時間をかけて……」
「撮影中に眠くなりそう」
と、聡子が笑った。
「そういえば」
と、剣崎が|椅子《いす》を引張って来て腰をおろすと、言った。「松原市朗のプロで、本編を一本やりたいって、社長に話があったらしいぜ」
「へえ! じゃ本気だったのかしら」
と、啓子は言った。「この前スタジオに来たとき、そんな話をしてたのよ」
「うまく行くかもしれないぞ。社長割と乗り気だし」
「あなたも出るの?」
「おい」
と、剣崎がふてくされて、「僕が出ないで誰が出る!」
「何を|気《き》|取《ど》ってんのよ」
「ま、僕も聡子君も、ってことさ。井関真弓も出るらしいけど、聡子君に食われるだろうな」
「でも、私、時代劇なんて、やったことないわ」
と、聡子が笑った。「正座する練習しなくちゃ」
「時代劇じゃないよ。現代物さ。サスペンスだって」
「あら」
「時代劇は金がかかり過ぎるって。本当は、やりたいんだろうけどね」
「じゃ、具体的な|企《き》|画《かく》なの?」
「うん。監督、峰川大吾。――悪くないだろう? 峰川さんも、久々の本編で、泣いて喜ぶよ、きっと」
「ね……、待って!」
と、啓子がパチンと指を鳴らした。「例の話――聡子ちゃんとの約束、これで一気に果せないかしら?」
「というと?」
「これがうまく行けば、松原、峰川、それにあなた。去年の例のキャンペーンで一緒だったメンバーが何人も|揃《そろ》うわ。他のスタッフも、去年と同じになるように揃えるのよ」
「それなら、撮影中に犯人[#「犯人」に傍点]捜しができるわ」
聡子も目を輝かせた。「ねえ! それ、何とか実現してみましょうよ!」
「だけど……」
「何よ、あんた、いやだっていうの?」
「|凄《すご》むなよ。――僕はいいけど、しかし、撮影中に、もし、あの一件の犯人が分ったとして、それで映画がお流れになったら、どうする?」
「大丈夫です」
と、聡子は言った。「私、プロの俳優ですもの。たとえ誰がルミ子を死なせたか分ったとしても、映画が完成して、公開されるまで、決して口にしません」
「でもそいつと演技しなきゃいけないかもしれないんだぜ」
「分ってます」
聡子は|肯《うなず》いた。「割り切ってやります。――映画は私一人のものじゃないんですから」
「よし!」
啓子がポンと聡子の肩を|叩《たた》く。「それでこそプロ!――ね、剣崎さん、あのときのスタッフ、集めるようにプロデューサーにかけあってよ」
「簡単に言うけどね――」
「約束したでしょ、この子に」
とにらまれ、
「分ったよ」
と、剣崎は両手を上げた。「じゃ、|憶《おぼ》えてる限り、連絡を取ってみよう」
「すぐ電話!」
「はいはい」
|逆《さか》らってもむだと分っているので、剣崎はおとなしく居間へと歩いて行った。
――聡子たちがスパゲティをゆで上げ、皿に盛っていると、ちょうど恵一が帰って来た。
「あ、ちょうど|良《よ》かったわ。恵一君、食べようよ」
「うん」
恵一は、買物の|袋《ふくろ》を、ドサッとテーブルに置いて、
「お客だよ」
「お客さん?」
「玄関にいる。――表に立ってたから、引張って来ちゃった」
「まあ。誰?」
「刑事だって」
聡子と啓子は、顔を見合わせた。
6 二人のテーブル
「ぼ、僕を尾行?」
剣崎の顔が|真《まっ》|赤《か》になった。「|失《しっ》|敬《けい》な! どうして僕が――」
「あのホテルの常連だという証言があったもんですからね」
と、刑事に言われて、
「それは――」
と、剣崎もぐっと|詰《つま》った。
「だから、日ごろの行いが問題なんだよ」
と、恵一が言った。
啓子は吹き出しそうになったが、
「――刑事さん。まあ、剣崎はあのホテルへよく行ってるかもしれませんし、太田ってカメラマンともトラブルは起してます。でも、おとといの夜は、九州だったんですから。私もついて、ロケへ行ってました。プロダクションの方へ確かめて下さい」
「そうですか。いや、はっきりしてりゃいいんです。一応、よくあのホテルを使う芸能人ってことで、片っ端から当ってるだけですから」
見るからに刑事――いや、むしろヤクザかという感じの、がっしりした大男だった。頭も短くスポーツ刈りにしているので、余計ヤクザ風に見える。
ただ、目が細くて、笑わなくても一本の線みたいなので、何だか|怖《こわ》くはなかった。
「太田ってカメラマンのことは、よくご存知でしたか」
と、刑事は|訊《き》いた。
「僕も何度か|狙《ねら》われました。でも、ああいうのと口をきくことはありませんからね」
「私も、たま[#「たま」に傍点]に体当りするくらいで」
と、啓子が言うと、刑事は細い目を|一《いっ》|杯《ぱい》に見開いた……。
「いや、分りました」
と、刑事は手帳を閉じると、「一応、念のためにプロダクションの方へ問い合せることがあるかもしれませんが……。まあ、大丈夫だと思います」
「ご苦労様でした」
「どうも」
――と、これで席を立つのが普通だが、その刑事は、何となくキョロキョロしたり、エヘン、オホン、と|咳《せき》|払《ばら》いしたりして、一向に立ち上ろうとしない。
「あの……」
啓子が、|恐《おそ》る恐る、「まだ何か?」
「いや――まあ、実は、これは今回の事件と特に関係ないのですが……」
「何でしょう?」
「つまり――その――」
刑事は、何だかもじもじしながら、「永谷聡子さんのサインをいただけないか、と……」
「は?」
|図《ずう》|体《たい》の大きな刑事が|真《まっ》|赤《か》になっている。啓子は、笑い出してしまった。
「――どうぞ」
聡子が、キャビネ判のポートレートに、サインして差し出すと、刑事はニコニコして、
「いや良かった! これで娘が大喜びする」
「お嬢さんが?」
と、聡子が言った。
「ええ。いや、まだ一歳ですが、やっと」
聡子と啓子が|唖《あ》|然《ぜん》とすると、
「あ、しまった!――正直に言うと、私がファンなんです」
と、刑事が頭をかく。
大笑いになってしまった。そしてついでに、ここで一緒に昼食を、ということになったのである。
「――じゃ、太田さんって人、居眠りしてて?」
「そうなんです。彼女が|呆《あき》れて帰ってしまったんですな」
刑事は、体にふさわしい|豪《ごう》|快《かい》な食べっぷりで、スパゲティを一皿、たちまち|空《から》にしてしまった。「――ごちそうさま」
「お代りでも?」
「いや、それは|申《もう》し|訳《わけ》も……。じゃ、せっかくですから」
と、結局二皿目をもらって、「朝まで眠っちまったようです」
この刑事、|畠《はた》|中《なか》という名だった。見かけよりは若く、まだ三十代半ば、ということである。
「僕もあるな、二、三度」
と、剣崎が言った。「ロケ疲れでね。彼女が|長《なが》|風《ぶ》|呂《ろ》でさ、待ってる間にグウグウ……。そりゃ|怒《おこ》るよ、相手は」
「しかし、太田にとっては不運でしたな」
と、畠中刑事は首を振って、「そうでなければ、そんな早朝に目は覚まさなかったでしょうから」
「全くだ。――犯人、見当つかないんですか?」
「何しろ、死体の見付かったのが、昨日、午後になってからですからね。他の部屋は、もう他の男女が使っているし、どこの部屋にいたのか、見当がつかないんです」
「なるほどね」
「でも――」
と、啓子が考え込んで、「太田が、わざわざデスクへ電話して、『トップを|空《あ》けとけ』と言ったぐらいだから、よほどの大物だったのね」
「そうだなあ。――しかし、今、そんなの、いるかね?」
「それはそうね。考えても、パッとは思い浮かばないから」
今、どのスターも、あの手の写真誌に|狙《ねら》われておかしくはない。
「だから、きっと、フィルムをよこせ、と言って争ってる内に、つい殺しちゃったんだろう」
と、剣崎が言った。
「いや、そうではないようです」
と、畠中刑事が言った。
「というと?」
と、啓子が食べる手を休める。
畠中の方は、もう二皿目をほとんど、|空《から》にしていた。
「争った形跡はほとんどありません。犯人は、太田が油断しているところを、いきなり首を|絞《し》めて殺したんです」
「じゃ、初めから殺すつもりだったんでしょうか」
と、聡子が言った。
「たぶんね。フィルムを取り上げておいて、その上で。――よほど見られちゃまずいカップルだったんだな」
聡子は、少し考えてから、
「変ですね」
と言った。
「何が?」
剣崎がキョトンとして聡子を見る。
「だって、太田は、編集部へ電話したんでしょ? ということは、その時にはもう写真をとってたってことだわ」
「しかし――」
「たとえ隣に|誰《だれ》かいると分っても、うまくとれるとは限らないじゃありませんか」
「それはそうよ」
と、啓子が同意した。
「そうやって電話したぐらいですから、もうとった後だったんです。そして、問題の二人は、先にホテルを出る。太田は、たぶん、写真をとって、|一《いっ》|旦《たん》部屋に戻り、少し間を置いて出るつもりで――」
「その間に編集部へかけたのよ」
「でも、相手は、写真とられたことに気付いて、戻って来たんだわ。――そのときには、殺すつもりだったんですよね、きっと」
「そうでしょうね」
「でも、分らないわ……」
聡子が首を振った。「殺すなんて……。そこまでやるのに――」
「そりゃ、色々事情はあるさ」
と、剣崎が言うと、聡子は、
「いえ、そのことじゃないんです」
と言った。「見られちゃまずい、って人はいくらもいると思います。でも、殺さなきゃいけないほどってのは、よっぽどのことですわ」
「見付かれば、|捕《つか》まるとか――」
と、啓子が言った。「そうよ! きっとそうだわ! 女の方が未成年だったんじゃない?」
「そうかもしれませんな」
と、畠中が|肯《うなず》いた。
「でも、それならなおさらです。どうして、そんなホテルへ行ったんでしょう?」
聡子の言葉に、啓子も剣崎も、考え込んでしまった。
「おかしいと思いません? だって、こうして刑事さんが剣崎さんの名前を聞いて来て、|調《しら》べに来るぐらいですもの。そのホテル、結構、芸能人も使ってるんでしょ?」
「まあね」
と、剣崎が肯く。「近いからね、TV局とか。だから僕はこのところあまり利用しない」
「変なことでいばらないの」
と、啓子がつついた。
「そんな所へ、どうしてそんなカップルが入ったのか、おかしいですよ」
聡子の言葉に、畠中も考え込んだ。
「うむ。――その通り。さすがに星の王女様だ」
聡子がTVでやった役のあだ名である。
――しかし、啓子は、もう一つ別のことを考えていた。
もし、その男が未成年の女の子に手を出したのだとしたら……。ちょうど、去年、|東《あずま》ルミ子という子が、誰かの手にかかったように……。
「――本編か」
山内社長は、今一つ、踏み切れない、という様子である。
劇場映画をやるということは、かなりの時間を|拘《こう》|束《そく》されることでもあるから、売れっ子のタレントは、なかなか出ない。
その間に、いくつもCFやレコード、リサイタルをやれるからだ。
「でも社長」
と、啓子は|粘《ねば》った。「聡子ちゃんは役者ですよ。今が大切な時です。ここで一つ、いい仕事をしておけば、これから、持ち込まれる話が違って来ます」
「うむ……」
山内は、古びてギイギイ鳴る|椅子《いす》にかけたまま、考え込んだ。
「社長だって、おっしゃったじゃありませんか。『聡子はタレントではない。あくまで俳優だ』って」
「そうだったかな」
と、山内はとぼけたが、「しかし、夏休みのスケジュールはもう一杯だぞ」
「TVドラマの方は単発ですし、話をつけます。レコードは動かせますよ。それに、CF撮りはスケジュールを|詰《つ》めれば――」
「もっと|忙《いそが》しくなるぞ」
「でも、聡子ちゃんはやりたがっています」
「そうか」
山内は、ため息をついた。「いいだろう。しかし、主題歌は聡子だ。いいな」
「話してみます」
啓子は、元気よく立ち上った。
と、社長室のドアが開いた。
「何だ、ノックをしてから――」
と、言いかけて山内は目を丸くした。「こりゃ――松原さん!」
「やあ」
松原市朗は、啓子を見てニヤリと笑った。
「――私と食事?」
聡子は、いやにドレスアップして、何だか落ち着かない様子だった。
「そう。松原市朗が、二人きりで食事したいって」
啓子は、車の中で、聡子の髪を直してやった。
「断るわけにもいかないしね」
「|怪《あや》しいな」
と、剣崎は|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》である。「聡子君、大丈夫かい?」
「平気ですよ」
と、聡子は笑って、「何も取って食われるわけじゃなし」
「どうかな。――おい、ケイ、君らしくもないぞ」
「どうして? 高級フランス料理店よ。しかも、帰りはちゃんと私が店まで迎えに行くし。――大丈夫。聡子ちゃんは、あなたとは違うわ」
「変なところで僕を引張り出すなよ」
と、剣崎が渋い顔になった。「おい、聡子君、いざ、となったら、相手の向うずねをけっとばしてやれ。こいつはきくぞ」
「何度もやられたんでしょ」
と、啓子は言った。「――ま、リラックスしてね」
「はい」
と、聡子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
――店は、静かな、明るい装飾で、女性好みのインテリアだった。
個室に案内されると、もう松原が先に来て待っていた。
「遅くなりました」
と、聡子は頭を下げた。
「いや、こっちが早く着いてね。――よく来てくれた。忙しいだろう」
「ええ。でも……こういう所も、少し慣れないと」
聡子は席についた。そしてハンドバッグから、何やら細長い物を出して、テーブルの上に置いた。布で巻いてある。
「――何だね?」
と、松原が|訊《き》いた。
「|懐《かい》|剣《けん》です」
「何だって?」
「|操《みさお》を守るために持ってろ、って啓子さんがくれました」
松原は、目を丸くして、それから大笑いした。
「――いや、あいつにはかなわんな!――大丈夫。そいつはしまってくれ。僕も、|可愛《かわい》い女の子は大好きだが、そうせっかちじゃないよ」
「はい」
聡子は素直に、それをバッグへ戻した。
「――今度の話は、どうだね」
メニューを見て、オーダーを|済《す》ませると、松原が訊いた。
「社長さんが色々……」
「うん。無理もない。君は今、|稼《かせ》ぎに稼いでいるからな」
「でも、私は、どんな役でも|構《かま》いません。映画のお仕事は初めてですし、やってみたいんです」
「そう言ってくれると|嬉《うれ》しい」
松原は肯いた。「君のような子は、段々少なくなって来た。大事に使いたいね」
個室のドアが開いた。
「あら、ここにいたの」
井関真弓が立っていた。「来てるって聞いたの」
「仕事の打合せだ」
松原は、不機嫌な顔で言った。
「二人きりで?――さぞ、話が進むわね。私は兄と一緒よ。どうぞごゆっくり」
井関真弓は、バタンとドアを閉めた。
「|怒《おこ》ってらっしゃるんじゃないんですか?」
と、聡子は訊いた。
「放っとけばいい」
「お兄さんって……」
「真弓の兄だ。|小林準一《こばやしじゅんいち》だよ」
「知ってます、よくドラマで……。ご|兄妹《きょうだい》なんですか」
「うん。この世界の人間なら知ってるよ」
「へえ……。似てないなあ」
と、聡子が素直な感想を述べる。
ワインが来た。
「少し飲むか?」
「ほんの少し……」
聡子はグラスに|注《つ》がれるワインを、じっと見ていた。
「――今度の映画だが」
と、松原が言った。「君が主役だ。ぜひ、やってくれ」
聡子は、グラスへ出しかけた手を止めて、まじまじと松原を見つめていた。
7 記者会見
「どうかしら、私?――ね、|啓《けい》|子《こ》さん、おかしくない?」
|聡《さと》|子《こ》は、いつになく神経質になっている。
啓子にも、その気持はよく分った。こんな時に必要なのは、自信をつけさせることだ。
「――|驚《おどろ》いた」
と、啓子は、少し離れて聡子を|眺《なが》めると、ゆっくり首を振って、言った。
「何が?」
「この一週間で、聡子ちゃん、別人のようになったわね。もう『聡子さん』って呼ばなきゃいけないかもしれない」
「また……」
聡子は、照れたように笑った。
「本当よ。この一週間で、急に|大人《おとな》びて来たわ」
「|上手《じょうず》なんだから、啓子さん」
と言いながら、聡子は|嬉《うれ》しそうだった。
|誉《ほ》められて|怒《おこ》る人間はいない。誉めて自信がつけば、本当にその通りになることだって珍しくはないのだ。
もっとも、啓子の経験によると、それも人による、というのが事実だった。もともと良くなるだけの余地を持たないタレントを、いくら誉めても、鼻が高くなるばかりである。
しかし、聡子は……。聡子には、予想がつかないほどの、伸びて行く「空間」が用意されていた。
「――じゃ、ともかく、|控室《ひかえしつ》へ」
と、啓子が|促《うなが》す。
ホテルのロビーを通って行くと、パッ、パッとフラッシュが光る。
「だめ!」
と、啓子がにらむと、カメラマンたちが、
「すみません」
と、ペコンと頭を下げる。
聡子について来るようなカメラマンなら、啓子のことはよく知っているのである。
「すみません!」
と、中学生ぐらいの女の子が二人、|駆《か》けて来ると、「握手して下さい!」
聡子は、ファンに対しては、決していやな顔を見せない。|快《こころよ》く握手してやって、
「よろしくね」
と、|微《ほほ》|笑《え》む。
「さ、急ぐからね」
こういう、「通りすがりのファン」から、悪い印象を与えないように聡子を引き離すのも、啓子の仕事の内である。
エレベーターに乗って、階数のボタンを押す。――乗っているのは二人きりだ。
「ホッとするわね」
と、啓子が言うと、聡子も、
「本当」
と、笑顔で|肯《うなず》いた。
「ゆうべ、何時間寝た?」
「三時間ぐらい。――|興《こう》|奮《ふん》してて、なかなか寝つけなくて」
そうは思えない、精気の|漲《みなぎ》った顔をしている、と啓子は思った。
本当に、この一週間。――見違えるほど、というのはオーバーでも、聡子は変って来た。
一週間前、正式に聡子の映画デビューが決ったのだ。
|松《まつ》|原《ばら》|市《いち》|朗《ろう》のプロが製作。|山《やま》|内《うち》は、共同製作にしたかったらしいが、資金力が違う。
結局、〈協力〉というタイトルに落ちついた。松原市朗の、隠然たる力のせいか、出演者の交渉もスムーズだったし、スタッフも、集まった。
|既《すで》にシナリオは第三稿に入り、今日の製作発表から一週間後にはクランク・インの予定になっている。
「でも、聡子ちゃん」
と、啓子は言った。「|井《い》|関《せき》|真《ま》|弓《ゆみ》が|一《いっ》|緒《しょ》だからね。あの人、あなたのこと、相当頭に来てるから、用心して」
「ええ、分ってます」
聡子は肯いた。
昨日まで、聡子は学校でテストだった。それを終えて、すぐに映画だ。若くなければできない生活である。
啓子にだけは分っている。聡子が、こんなにも興奮しているのは、ただ映画にデビューするからではなく、一年前の約束を――死んだ友人への約束を果すチャンスがやって来たからだということを……。
「――さ、着くわよ」
と、啓子が言った。
エレベーターが、スピードを|緩《ゆる》めて、目的のフロアに着くと、聡子は、キュッと顔を引き締めた。――スターの顔になる。
エレベーターの|扉《とびら》が開いた。
「聡子ちゃん!」
今日の記者会見のスタッフが、駆けて来る。
「遅くなってすみません」
と、聡子は頭を下げた。
「いや、大丈夫。まだ|御《おん》|大《たい》が来てないからね」
「松原さん、まだ?」
と、啓子が|訊《き》く。
「うん。――あ、|控室《ひかえしつ》、こっちだから。きっと、井関真弓がごねてんじゃないかな」
「記者の質問が、あんまり聡子ちゃんに集中しないようにしてね」
「やってみるけど、やっぱり多少は仕方ないよ。今は聡子ちゃんにみんな目が行くからね」
聡子は、足早に、控室へと向った。
「その角を曲った所――」
と言われて、クルッと角を曲った聡子は、|誰《だれ》かにぶつかった。
「キャッ!」
「ワッ!」
同時に声を上げて、聡子も、相手も|尻《しり》もちをついてしまった。
「聡子ちゃん!」
啓子はあわてた。白のワンピースが|汚《よご》れたら……。しかし、急いで立たせると、別に目につく汚れはついていなかったので、胸を|撫《な》でおろした。
「ご、ごめん……」
相手も立ち上って、「つい、びっくりして――」
「あ、あなた……」
初対面の「恋人」だった。
映画で、聡子の恋人になる、|君《きみ》|永《なが》はじめだった。――いわゆるアイドルの一人で、いかにも「坊っちゃん」風の甘い顔つきをしている。
「あ、|永《なが》|谷《たに》聡子君だね。僕、君永はじめ」
「どうぞよろしく」
と、聡子は頭を下げた。
「こっちこそ」
君永はじめは、ヒョロリとした長身を折り曲げるようにして、「あの――ちょっと、電話かけて来るんで、また後で」
「ええ」
君永はじめを見送って、聡子は、ちょっと笑った。「面白い。いちいち私に|断《ことわ》んなくてもいいのに」
「あがってるのよ。あの子も確か映画、初めてだから」
「そうなの?」
「私もよく知らないけど。――ま、何度出たって、|上《う》|手《ま》くはならないわよ」
「ひどい」
と、聡子は笑って言った。
控室へ入ると、元気のいい笑い声が聞こえて来た。
啓子は、|面《めん》|食《く》らった。|剣《けん》|崎《ざき》が先に来ていたのにもびっくりしたが、話している相手が、|峰《みね》|川《かわ》|大《だい》|吾《ご》だったのに、またびっくりしたのである。
もちろん、峰川はこの映画の監督だから、当然ここへ来るべき人物だ。ただ、まるで別人のよう――聡子なんかとは、全然違う意味で、別人のように見えた。
「やあ、ケイちゃん!」
峰川が、二人に気付いて飛んで来た。
「監督、ずいぶん張り切ってますね」
と、啓子は冷やかすように、「その赤いシャツ!」
「ちょっと|派《は》|手《で》だったか?」
と、峰川は、わざとらしく気取って見せた。
「よくお|似《に》|合《あ》いです」
「聡子ちゃんは、分ってくれる!――どうだろう! これがあの時、ファインダーの中に立ってた子か!」
峰川は、二、三歩|退《さ》がって、聡子を眺めた。頭から|爪《つま》|先《さき》まで、じっくりと眺めたのだ。
「どうです? 自分で掘り当てた宝石は?」
と、啓子は言った。
「|俺《おれ》は、とんでもない怪物を掘り出したんだな」
と、峰川は|呟《つぶや》くように言った……。
「――|座《すわ》れよ」
と、剣崎が手招きする。
聡子も、知っている人間のそばが気楽なのだろう、剣崎と並んで、ソファに腰をおろした。
啓子は、|邪《じゃ》|魔《ま》にならないように、控室の隅に立って、中の顔ぶれを見回した。
――もちろん、映画の製作発表に、全部のスタッフ、キャストが集まるわけではない。というより、全部のキャストが決っていないのだ。
撮影スケジュールのずっと遅いシーンだけに登場するような役なら、まだ今から役者を決めておく必要もない。
ここに集まっているのは、そもそもの初めから、企画に加わる面々なのである。
やはり、目立つのは剣崎と聡子の二人、これは当然のことだ。――ああ、それに今、電話をかけて戻って来た、君永はじめ。
確か、まだ十八か九。アイドルスターの年齢は、二、三歳ごまかしてあることも少なくないが、君永はじめの場合は、むしろ逆に、水まし[#「水まし」に傍点]してあるのではないか、と思うくらいで、至って坊っちゃんくささの抜けないタイプである。
聡子より少し前のデビューで、歌はとても聞けたものではなかったが、ヒョロリと背が高くて、足の長い体つきと、甘いマスクで、そこそこの人気は得ていた。
正直なところ、聡子の相手で映画デビューには、少々役不足という感じだったが、結局出演が決ったのは、君永が、松原市朗のプロダクションに属しているからである。
人は悪くなさそうだわ、と啓子は思った。
今も、聡子の隣に座って、反対側に座っている剣崎が渋い顔をするのにも|構《かま》わず、
「ね、君は永谷、僕は君永。『永』の字が共通だね、何か縁があるのかもしれないよ」
などと|馬《ば》|鹿《か》なことを言っている。
ドアが開くと、部屋の方々から、
「どうも――」
「お世話様です」
といった声が飛んだ。
松原市朗が入って来たのである。ダブルの背広を着こなしている。その腕に軽く片手をかけているのは、言うまでもなく、井関真弓だった。
啓子は、真弓が、部屋へ入って来るなり、聡子の方へ、鋭い視線を投げたのを、見落としてはいなかった……。
「社長!」
と、|真《まっ》|先《さき》に松原の所へ飛んで行ったのは、君永はじめだった。
小犬が、帰って来た主人の足下へ喜んでじゃれつく、という感じである。
「どうだ、やっとるか」
と、松原は、君永の肩をポンと|叩《たた》いて、「しっかり頼むぞ」
「はい」
「ミスキャストだなんて、言われないようにな」
「|頑《がん》|張《ば》ります」
アイドルが一番多く使う単語といえば、「えーと」と「頑張ります」ではないかしら、と啓子は思った。
もちろん、聡子も、松原が入って来ると同時にソファから立ち上っていた。松原は、さすがに真弓を|怒《おこ》らせたくなかったのか、聡子の方には、笑顔で手を上げて見せただけだった。
聡子が、|丁《てい》|寧《ねい》に頭を下げる。真弓は、松原の腕を引張るようにして、ずっと離れたソファの方へと連れて行った。
「――ああ、待て」
松原は、真弓の手をほどくと、峰川監督の方へ歩いて行った。
「どうも、監督」
松原の方から声をかけたのだ。
「どうも……」
峰川の方も、かなり緊張している。「よろしくお願いします」
「いや、こっちの方こそ。年寄りをいじめないように、お手やわらかに願いたいですな」
二人は笑って、握手を|交《か》わした。
ホッとしたような空気が、控室の中に流れた。――正直なところ、みんなも不安がっていたのである。峰川大吾はベテランとはいっても、「巨匠」と言われるような監督ではない。
松原なら、もっと有名な監督とも組める。峰川との取り合せを不思議がる者も少なくなかった。
それだけに、松原がここでどんな態度を取るか、注目されていたのである。
「――会場の用意ができてます」
と、配給を担当する映画会社の宣伝部の人間が、告げ知らせる、という調子で、声を張り上げた。
「そして、ヒロインの少女を演じるのは、今、人気爆発のアイドル、永谷聡子ちゃんです!」
司会者が、オーバーに声を上げると、カメラマンや記者の前に並べられたテーブルの方へと、聡子が歩いて来た。TVカメラのライトが当り、フラッシュが光る。
聡子は、少し|緊張《きんちょう》しているのが分る表情を見せながら、自分の席へと歩いて行く。
啓子は、会場の壁にもたれて、その様子を眺めていた。――大丈夫。聡子は落ちついている。
あの、緊張した表情は、もちろん本物[#「本物」に傍点]だが、その顔を、ちゃんと見せているのは、必要以上にあがっていないからだ。本当にあがってしまったら、意味もなくニコニコするか、青くなってニコリともできないか、である。
その点では、君永はじめの方が、よほどあがっていた。
松原市朗と井関真弓は、もうこんな席など慣れたもので、平然としている。席が離してあるのは、松原の考えだろう。黙って、宣伝の人間がそんなことをするわけがない。
――キャストの側では、松原、剣崎、君永の男三人、そして女は聡子と真弓である。
スタッフとしてテーブルに顔を出しているのは、峰川の|他《ほか》に、シナリオの|今《いま》|川《がわ》|公《きみ》|子《こ》、そしてカメラマンの|宮《みや》|内《うち》|英《ひで》|史《ふみ》である。
今川公子は、一見すると男か女か分らないようなタイプ。髪は短く切って、いつもジャンパーにジーパンという|格《かっ》|好《こう》で、どこにいてもタバコを|喫《す》っている。顔つきも、|顎《あご》|骨《ぼね》が張っていかつい感じなので、余計に男っぽい。
だから、初めて彼女を見て、男だろうと思っていた記者などは、彼女が急に|優《やさ》しい声でしゃべり始めると|仰天《ぎょうてん》する。
既にシナリオ・ライターとして十五年近いキャリアがあり、年齢は四十を越えていることだけは確かだった。いわゆる売れっ子のライターではないが、書くものは一本|芯《しん》が通っている、と定評があった。
今川公子は、松原が持って来たライターである。松原の映画を、これまで二本ほど書いている。
カメラマンの宮内英史は五十代の半ば。|穏《おだ》やかな目をして、無口である。峰川とよく組んでいるので、今度も頼まれて参加したのだ。峰川同様、久しぶりの「本編」のはずだった。――みんなと同様、目の前に置かれたオレンジジュースを少しずつ飲んでいる。
「――撮影に当っての抱負を、皆さんに一言ずつ」
司会者の言葉で、啓子は、ふと我に返った。
考えていたのだ。――不思議な運命とでもいうのだろうか。
今川公子が、聡子と松原のために書いたシナリオというのが、一人の少女が、殺された親友の|敵《かたき》を|討《う》つべく、その死の|謎《なぞ》を探って行き、最後に、黒幕の松原と対決する、という話だったのである。
もちろん、|既《すで》にシナリオは第三稿に入り、手直しはなされているが、大筋の変更はない。
まるで、聡子は自分自身の姿を、この役の中に見る思いでいるに違いない……。
松原は、当り前の製作|意《い》|図《と》を、|紋《もん》|切《き》り型の言葉で述べた後、付け加えて言った。
「久しぶりの本編ですから、少々、|勘《かん》が鈍っているかもしれない。ベテランの峰川さんに、少し|怒《ど》|鳴《な》りつけてもらって、若返りたいもんです」
笑い声が起きた。大スターとしては|珍《めずら》しい言葉である。それに加えて、
「その分、髪も戻るといいんだがね」
と言ったので、会場がドッと|湧《わ》いた。
峰川が、松原の話で大分気が楽になった様子なのを、啓子はみていた。
君永はじめは、例によって決り文句の、
「一生懸命、|頑《がん》|張《ば》ります」
これが芸能週刊誌では、「|初《うい》|々《うい》しい」という表現になるのだ。
井関真弓の番になると、記者たちの方も、少し身を乗り出した。当然、松原との関係も知っているし、聡子にライバル意識をもやしていることも承知だからだろう。
しかし、そこはスターである。
「久しぶりの映画のお仕事で、緊張しています」
と、にこやかに言ってのけた。
記者の方が、
「聡子ちゃんとの共演について一言――」
と水を向けると、
「とてもいい|刺《し》|激《げき》になると思います」
と、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「刺激」の一言を、もっと、スポーツ紙や週刊誌が、面白おかしく工夫して書くだろう。
――最後が聡子の番だった。
「永谷聡子です」
と、わざわざ名乗った声は、マイクにそう口を寄せているわけでもないのに、よく通った。
初めて聡子に会った人は、まずたいてい、そのよく通る声と、はっきりした発音で|驚《おどろ》く。|舌《した》|足《た》らずなアイドルのしゃべり方に慣れているからだろう。
そして、
「この子は、ちょっと他のアイドルとは違うな」
と思うのである。
「映画には、ずっと出てみたいと思っていました」
と、聡子は続けた。「でも、ただ|可愛《かわい》い子とか|優《やさ》しい女の子、といった役はやりたくなかったんです。愛情とか憎しみとか、裏切り、殺意――。青春の中には、何でもあります。そんな青春を描くものに出たいと思っていました。その夢を|叶《かな》えて下さった、松原さんに、心からお礼を申し上げたいと思います」
アイドルの|挨《あい》|拶《さつ》にしては、少々異例である。メモを取る記者たちも必死だった。
あまり意味のない質疑応答の後、写真撮影になった。
――フラッシュが光り、シャッターの音が雨のように降り注ぐ中、一かたまりになって立っている面々……。
あの中に、|東《あずま》ルミ子を死へ追いやった男がいるのだろうか?
啓子は、上気したいくつもの顔を、眺めながら立っていた。
8 スタジオの|闇《やみ》
「カット!」
峰川の声が響いた。――|一瞬《いっしゅん》の間。
峰川が音声の方へ目をやる。そして、
「OK」
と、|肯《うなず》いた。
ホッと息をつく。|誰《だれ》しも、である。
「ご苦労さん」
と、声が|交《か》わされる。
もう、夜の十一時だ。――他のスタジオに、人の気配はなかった。
「やれやれ……」
松原が汗を|拭《ふ》いた。「いや、しんどい仕事だ」
「どうもすみません」
と、聡子がやって来て、|謝《あやま》った。
「いや、君のせいじゃない。僕がどうしてもセリフにくせ[#「くせ」に傍点]が出ちまうのさ」
と、松原が言った。
「でも……」
聡子は|戸《と》|惑《まど》っていた。
セットは松原の|扮《ふん》する実業家の屋敷の居間だった。――クライマックスの対決はまだだが、前半部分のドラマの山場の一つだ。
ワンシーンを、峰川はワンカットで|撮《と》った。つまり、途中で切らず、カメラを回しっ放しにして移動させながら、撮影するのである。
数分間の長いやりとりだから、どこか一つでもセリフがつかえたりすると、全部やり直しになる。
役者もだが、スタッフも緊張を強いられる場面だった。
このシーンに、昨日から、丸二日かけたのである。峰川はしばしば、聡子のセリフの言い方に注文をつけた。
「いや、あれはね」
と、松原が言った。「監督としては、僕に言いにくいんだ。だから、君に向って言っているように見せて、実際は、こっちに注意してくれと|促《うなが》してるんだよ」
「でも……」
「本当だ。でなきゃ、もっと|怒《ど》|鳴《な》ってるさ」
松原は、啓子の肩越しに、「おお、来てたのか」
と、言った。
振り向くと、今日は出番のないはずだった、君永はじめである。
「拝見してました」
「どうだ。よっぽどしっかりしないと、この子に勝てないぞ」
「はい」
と、君永が頭をかく。
「じゃ、また明日」
松原が、聡子の肩をポンと|叩《たた》いていく。
「お疲れさまでした」
と、みんなが声をかけた。
「――本当かしら、今の話?」
聡子が啓子を見た。
「私もそう思ってたわ。でも、松原さんがあなたにそう言ったのにはびっくりした」
「さすがに大物?」
「あなただから、よ。あなたが変に考え込んで、演技に|妙《みょう》なくせをつけないように、心配してるんだと思うわ」
「そうかしら……。でも、|充実《じゅうじつ》してた」
聡子も汗をかいていたが、|爽《さわ》やかな顔だ。
「帰りましょうか」
と、啓子が言うと、
「先に帰って」
と、聡子が答えた。
「どうして?――ああ、そうか」
どうしてわざわざ君永がここへ来たのか、やっと分ったのだ。
「ちゃんとマンションまで送りますから」
と、君永が言った。
「もう遅いわよ。一時間で帰して」
「分りました」
君永が、聡子の腕を取る。
「ご心配なく。――じゃ」
と、聡子が啓子に手を上げて見せる。
「――早く帰るのよ」
と、啓子は、もう一度声をかけた。
スタジオの中のライトが一つ、一つ消えて行く。
足下が見えなくなると危いので、啓子は急いでスタジオを出た。
夜中の撮影所、というのも|侘《わび》しいものである。――スターの|華《はな》やかさとも、スクリーンの夢とも無縁の、殺風景な工場街のような風景だ。
「ケイちゃん」
と、足音がして、峰川がやって来た。
「あら、監督」
「聡子君には|可哀《かわい》そうだったな」
「いいんです。分ってますわ、あの子」
「そうか、|利《り》|口《こう》な子だ」
峰川は、|肯《うなず》いた。「|天《てん》|性《せい》の役者だよ。大したもんだ。打てば響くように、反応して来る」
「――|真《まっ》直《すぐ》、お帰り?」
と、一緒に歩き出しながら、|訊《き》く。
「そのつもりだが……。あの子は?」
「即席のナイトと一緒」
「君永か」
峰川が渋い顔をした。「どうしてあんなのと付き合せとくんだ?」
「聡子ちゃんは大丈夫。しっかり者ですから」
「次のシーンでいびってやる」
「監督ったら!」
と、啓子は笑った。「どこかで一杯――」
「いいな、ただし、ウーロン茶だ」
啓子は|面《めん》|食《く》らった。
「そういえば、あんまり|二日《ふつか》|酔《よい》の顔、見かけませんね」
「撮影を始めてから、一滴も飲んでないよ」
「へえ!」
「疑うのか?」
「びっくりしてるだけです。本当ですよ」
「体調がこんなにいいのは何十年ぶりって気がする。ケイちゃんだって、抱いてやれるぞ」
「ギックリ腰はアルコールを|絶《た》っても、なりますよ」
と、啓子は冷やかした。「じゃ、もったいないから、喫茶店にしましょ」
「ああ。僕はホットミルクだ」
「雪でも降るかしら」
と、啓子は大げさに言って、夜空を見上げた。
やっと、昼間のほてりが、アスファルトから抜けたようで、夜の空気がひんやりと涼しい。――もう真夏日が一週間も続いていた。
撮影が始まって十日。
普通はロケから入って、スタジオになるのだが、今度の場合は、
「できるだけシナリオの順に撮りたい」
という峰川の希望で、変則的な方法を取っていた。
しかし、来週からはロケに入る。そうなればスケジュールに追われて、かなりの無理も覚悟しなくてはならない。
「――ロケに入るまでに、慣らしておきたいんだ」
本当にホットミルクを飲みながら、峰川が言った。
「聡子ちゃん、ちゃんとついて行きますよ」
啓子は、薄いアメリカンコーヒー。
「分ってる。あの子のことじゃない。この僕さ」
「監督?」
「こんな風に仕事をしたのは、本当に久しぶりだからな。つい、二時間ものの調子で、こんなもんでいいか、とやりそうになる」
峰川の正直な言い方に、啓子は笑った。
「いや、本当にね……。|俺《おれ》は幸せだ」
と、峰川は|肯《うなず》いた。
「ミルクで酔ったんですか?」
「からかうなよ。――本気だ。もう、二度とこんな仕事はやれないと思ってたからな」
誰かが、啓子の|傍《そば》に立った。
「失礼します」
見上げて、啓子は、意外な顔に、
「あら」
と、言っていた。「刑事さん。|畠《はた》|中《なか》さん、でしたね」
「どうも、その節は」
と、その大柄な刑事は、恐縮している様子だった。
「おかけになりません?」
啓子は、畠中を、峰川に紹介した。
「刑事さん?――ケイちゃんは、ずいぶん|珍《めずら》しい友人を持ってるんだな」
「そんなんじゃないんですよ。でも――畠中さん、よくここが分りましたね」
「いや、たまたまです。――あ、コーヒーを。胃には悪いが、眠気をさましませんとね。――何の話でしたっけ」
「よくこの店が……」
「ああ、そうか。そうでした。いや、撮影所へ行こうとして、通りかかったんです。そしたら、中にあなたの顔が見えたので」
「|憶《おぼ》えていて下さって、光栄ですわ」
「刑事は、それも商売の内です」
「でも、こんな時間に、何のご用で?」
「撮影ってのは、いつも夜中までやってるもんかと思ったんです。そうじゃないんですか」
「それじゃ、身がもちませんわ。――あの事件のことで?」
「そうです」
畠中は、ため息をついた。「全く、何の手がかりもないんですから、困ったもんだ」
「何の話だね?」
と、峰川が訊いた。
「ほら、聡子ちゃんを見付けた時、ホテルに剣崎を追いかけて来てた――」
「ああ。君がのしたカメラマンか。殺されたって話は聞いた。じゃ、あのことか」
「のした[#「のした」に傍点]、って言わないで下さいよ」
と、啓子は苦笑して、「よっぽど私が強いみたいじゃないですか」
「いや、今度の事件で、何人か、同じような仕事をしてたカメラマンに会いましたがね、何度かあなたの名前が出ましたよ」
「いやだわ。本当に?」
「ええ。あの女なら、|絞《し》め殺したかもしれない、って」
啓子は顔を|真《まっ》|赤《か》にして、
「どこのどいつですか! |叩《たた》きのめしてやるわ!」
と言ってしまってから、あわてて、「あの――注意してやりますわ、やさしく」
と言い直した。
「しかし、困った話です。まるで手がかりがつかめない。――例の恋人たちの|噂《うわさ》でも、お耳に入っていませんか?」
「一向に。というより、このところ、聡子ちゃんの映画で忙しくて」
「ああ、そうですね!」
畠中が急に顔を|輝《かがや》かせた。「〈殺意のプリズム〉! いいですねえ。五回は見よう」
峰川が、|呆《あっ》|気《け》に取られた様子で、この一風変った刑事を眺めている……。
畠中が、撮影所へ行こうとして、啓子を見付けた、と言ったように、この店は、撮影所の門の真向いにある。
啓子がこの店の、しかも、門が正面に見える席を取ったのは、もし聡子が出て来ることがあったら、見えるようにと思ったせいだった。
「彼女はもう帰ったんですか」
と、畠中が|訊《き》く。
「今、デート中です」
「デ、デート?」
と、畠中はショックを受けた様子で、「|誰《だれ》とですか?」
「共演してる、君永はじめです。デートといっても、ご心配なく。ただのリハーサルですから」
「リハーサルというと?」
「君永君、ともかく|下手《へた》ですから、お芝居が」
「素質がゼロじゃ、どうにもならん」
と、峰川が肩をすくめた。
「いつも、明日、出番というと、スタジオに来て、聡子ちゃんとリハーサルするんです。ほとんど出番は、聡子ちゃんと一緒ですから」
「しかし……二人きりで?」
畠中は本気で心配しているらしい。「それは危い! 危険ですよ!」
「大丈夫ですよ。彼も、そんな|馬《ば》|鹿《か》なこと、しませんわ」
「いや、分りませんよ。男は男です、何といっても」
「な、見ろ」
と、峰川まで調子に乗って、「だから言ってるんだ。あんなのは|放《ほ》っとけ、と」
「そうは行きませんよ。松原さんの所の子なんだから」
「それなら、今度から、|俺《おれ》がリハーサルをしてやる!」
「監督とラブシーンをやるんですか?」
と、啓子がふき出す。「さぞ、気分が出るわ」
「ラブシーンのリハーサル? それはますます危険だ」
畠中は、コーヒーを一気に飲み干してしまうと、
「峰川さん――でしたね。一つ、聡子さんが無事かどうか、確かめに行きませんか」
「行こう行こう! それでこそ、市民のための警察だ!」
「きめ[#「きめ」に傍点]の|細《こま》かいサービスがモットーです」
|漫《まん》|才《ざい》みたいなやりとりをしながら、|呆《あき》れている啓子を置いて、二人で喫茶店を出て行ってしまう。
「コーヒーとホットミルクで酔っ払ってりゃ、世話ないや」
と、啓子は首を振って、仕方なく自分もついて行くことにした。
代金を払って、店を出ると、撮影所の通用門を入って行く二人を、あわてて追いかけて行った。
「――夜の撮影所ってのは、|寂《さび》しいもんですね」
と、畠中が言った。
「こんな夜中ですもの、どこだって寂しいんじゃありませんか?」
「まあ、それもそうだ」
「人はいませんし、いやにごみごみしてますからね。――ああ、第3スタジオでしょう、きっと」
「この次のやつだな」
「そう。そうだわ。明りが|点《つ》いてるし……」
三人が、第3スタジオの入口へと歩いて行った時だった。
中で、ドーン、と|凄《すご》い音がした。三人は、|一瞬《いっしゅん》足を止めて、顔を見合わせた。
「今の音――」
「何かあったのかしら!」
啓子が、駆け出そうとした時、スタジオの|扉《とびら》が開いて、君永が飛び出して来た。
「君永さん!」
「あ――ケイさん! 中で――彼女――」
「どうしたの?」
「セットが――|崩《くず》れたんだ。彼女、下敷きになってる」
「何ですって!」
啓子は中へ飛び込んで行った。
いくつかのライトが|灯《とも》っていて、中は暗くはなかったが、白い|埃《ほこり》が煙のように舞い上っていて、何も見えなかった。
啓子は|咳《せ》き込みながら、
「聡子ちゃん!――聡子ちゃん!」
と|怒《ど》|鳴《な》った。
「――あの――屋根の|辺《あた》り」
と、君永が指さす。
家の二階部分のセットが造られていた。|瓦《かわら》をのせた屋根までついている。それが、上から巨人に|押《お》し|潰《つぶ》されでもしたように、潰れてしまっていた。
「手伝って!」
と、啓子が叫んだ。
「私も――」
畠中が、駆けて来る。
「じゃ、そっち側から回って下さい!――監督! 一一九番にかけて!」
「わ、分った!」
峰川が、スタジオから駆け出して行った。
――啓子も、さすがに青ざめていた。
この下敷きになったのでは、少々のけがではすむまい。よくても重傷……。悪くすれば、命にかかわる。
「何とか持ち上げられませんか」
と、啓子は言った。
「やってみましょう。――おい君!」
と、畠中は君永を呼んで、「このはり[#「はり」に傍点]を持ち上げるんだ」
「はい。でも、|凄《すご》く重いですよ」
「三人でやれば、少しは上るかもしれん。――あなたも」
「もちろん!」
啓子が腕まくりした。
三人で、倒れているはり[#「はり」に傍点]を、肩にのせて、一気に力をこめて持ち上げた。
しかし、大変な重さである。やっと、二、三十センチ、持ち上っただけだ。
「これ以上は――だめか!」
畠中が切れ切れに言った時、
「そのまま、支えてて!」
と、足下の方で、声がしたのだった。
「聡子ちゃん!」
「――出て行くから、支えてて」
「分ったわ! 出られる?」
「大丈夫。何とか……」
「よし、|頑《がん》|張《ば》れ!」
畠中が、顔を|真《まっ》|赤《か》にさせて、力をこめると、あと十センチほど、屋根が持ち上った。
と――聡子が、サッと素早くその下から|這《は》い|出《だ》して来た。
屋根が、ガタン、と音を立てて、再び落ちた。――聡子は、起き上って、息をついた。
「大丈夫?」
啓子が駆け寄る。
「ええ……。奇跡みたい! ちょうど三角形の|隙《すき》|間《ま》の所だったの。けがもしてないと思うわ」
「|良《よ》かった!」
啓子も、一緒になって|座《すわ》り込んだ。
「良かった!」
君永もヘナヘナと座り込む。
「良かった!」
畠中が、肩を押えて、うずくまりながら、言った。
「――結局、救急車がむだになって、|謝《あやま》っただけですんだけどね」
と、啓子は言った。「――どう? しみる?」
「ううん、大丈夫」
いくら無事だったといっても、すりむくぐらいのことはしていて――しかし、これで|済《す》んだのは、全く奇跡といっていいだろう。
「だから、やめとけ、って言ったじゃないか」
剣崎も、珍しく本気で|怒《おこ》っている。「大体、君永はじめなんてのと付き合うのが間違いだ」
「あの子のせいじゃないんだから」
と、啓子は言って、「――さて、これでよし、と」
消毒液をしまい込んで、啓子は、居間へ戻って来た。
啓子たちの暮しているマンションである。
「傷、目立つ?」
と、聡子が|訊《き》いた。
「大丈夫。全然分らないわ」
「良かった! 撮影のスケジュールが狂うものね」
聡子はホッとした様子で言ってから、「|恵《けい》|一《いち》、寝てる?」
と訊いた。
「見て来ようか?」
「お願い」
啓子が出て行くと、剣崎が聡子の方へ少し寄って行って、
「君永の|奴《やつ》、君に変なことしてないか?」
と訊いた。
「さあ、どうでしょう」
聡子は笑顔で、「恋した方が、役者は大成するって、剣崎さんが言ったんですよ」
「分ってるけど――君は別」
「そんな……」
と、聡子は声を殺して笑った。
「大丈夫よ、寝てるわ」
啓子は戻って来ると、「あなたも、早く寝ないと。それに、剣崎さんは、早く帰って下さいな」
「分ってるよ。明日――いや|今日《きょう》か、出番があるものな」
もう夜中の二時である。
「私ね、啓子さん」
聡子が言った。「殺されかけたんじゃないかと思う」
啓子と剣崎が、安心して少し眠くなっていたとしても、この一言で、たちまち目が|冴《さ》えてしまった。
「聡子ちゃん。今、『殺されかけた』って言ったの?」
「それ、どういう意味だ?」
「誰かが、あのセットを|壊《こわ》したんだと思うの」
聡子は平然として言った。
「どうして分るの?」
「あんな風にきれいに|潰《つぶ》れるなんてこと、ある? それに、あの少し前に私、音を聞いたような気がするの」
「音?」
「どこかのネジを抜くか、どうかしていたんだと思う。――君永さんとセリフのやりとりしていたら、キーッ、キーッ、って、音がしたの」
「じゃ、誰かがわざと?」
「そう思うわ。――誰か逃げるのを見なかった?」
「だって……あなたのことで、手一杯だったからね」
そう。それに、|埃《ほこり》が立ちこめて、ほとんど何も見えなかったのだ。
確かに、君永、畠中と三人で、聡子を助けようとしている間に、誰かがあのスタジオから出て行ったとしても、気付かなかっただろう。
「だけど――君を殺そうとする|奴《やつ》なんて、いるかい?」
「もし、私が、犯人を捜してるんだと知ったら」
「つまり……君が捜してる、例の男?」
「ええ。私を殺そうとするかもしれません」
聡子は、続けて、「もしかしたら、全然別の方かも。井関さんとか……」
「井関真弓? まさか」
と、剣崎は言った。「いや――確かに、君に相当頭には来ているよ。しかし、殺そうとするってのはどうかな」
「分らないわよ。女の|嫉《しっ》|妬《と》は|怖《こわ》いわ」
「同感です」
と、聡子は言った。「それに、いつもは出番なくても、たいてい松原さんの近くにいらしてるでしょ。でも、今日はいませんでした」
そうか。――啓子はびっくりした。
聡子が、あの演技をこなしながら、そんなことにまで気が付いていた、ということに、である。
「でも、それじゃ、よほど用心しなくちゃ」
「ええ、でも私、自分の身は守れますから」
聡子は、当り前の口調で言った。
啓子の方が、圧倒されていた……。
撮影所での事故[#「事故」に傍点]は、大々的に報道された。
もちろん、芸能レポーターも駆けつけたし、TV局が入って、|潰《つぶ》れた屋根のセットを撮ったり、原因について、勝手な想像を流していた。
そのTV局の都合で、|却《かえ》って壊れた屋根のセットをバラせなくて、撮影所の方が困る始末である。
しかし、もちろん、どの報道でも、これが故意のもの、との意見は見られなかった……。
「――見て、この記事」
と、啓子は言って、週刊誌を渡してやった。
聡子は、記事にざっと目を通して、
「まあ、ひどい」
と、笑った。
聡子が、〈ロミオとジュリエット〉を|気《き》|取《ど》って屋根に上ったのではないか、という記事だった。大体、ジュリエットが立っていたのはバルコニーで、屋根の上じゃない!
――移動用の車の中で、昼食を取っていた。
「宿題は?」
と、聡子は恵一に訊いた。
「やってるよ。お姉ちゃんは?」
「合間を見てね。――ロケの間、恵一、どうするの?」
「ついてっていいんでしょ?」
啓子も少し迷ったが、
「仕方ないわよ。一人じゃ置いて行けないしね」
「時間をきちんとしなくちゃ」
と、聡子は弟に説教している。
その間に、啓子は今夜の予定を見ていた。
撮休――つまり、今日は撮影が休みだ。その分、聡子は|却《かえ》って忙しい。TVの仕事や、CF撮り、といった仕事が山のように入っている。
「レコードも、トップになったし、これで映画が当ればいいね」
と、恵一が一人前のことを言い出した。
「あんたは、そんなこと、気にしなくていいの」
と、聡子は弟の頭を|叩《たた》いた。
恵一が奥の部屋へ入って行くと、啓子は、
「ねえ、聡子ちゃん」
と、言った。「あなた、前、何かノートによく書いてたでしょう。あれ、最近はやめたの?」
「もう、必要ないんです」
「というと?」
「あれが、今度の映画のストーリーになってるんです」
啓子は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「じゃ――今川さんのシナリオの?」
「プロットのアイデアは私です。少しは変ってますけど」
「驚いた!」
「だって、何かなくちゃ、相手に分らないでしょ」
「相手?」
「ルミ子を殺した男です」
「それじゃ――あなた、その男が|狙《ねら》って来るように、わざわざあんな話を作ったの?」
「そうです」
聡子は平然と言った。「こっちから調べるなんて、時間ないし、どうしたらいいか、って考えたんです。それで思い付いたんですけど……。うまい手でしょ?」
「殺されかけたかもしれないのに!」
「でも、もしそうなら、狙いが当ったってことですもの」
――この子は、何を考えてるのかしら?
啓子は、分らなくなって来た。
ロケ先で、果して無事に済むだろうか……。
9 ダーツの少女
「いよいよ|佳境《かきょう》だね」
と、|剣《けん》|崎《ざき》が、|啓《けい》|子《こ》のいれたコーヒーを飲みながら言った。
「何を|呑《のん》|気《き》なこと言ってんのよ」
と、啓子は顔をしかめた。
「だって、そうじゃないか。いよいよロケだぞ」
剣崎は、ウーンと|伸《の》びをした。「ま、スケジュールはきついけど、ロケってのは緊張感があっていいね。――天候待ちとか、むだな時間があるけど、何が起るか分らないってスリルがあるじゃないか」
「そりゃね、いつ雨が降るか、ぐらいのスリルならいいわよ。だけど、いつ殺されるか、なんてスリルじゃありがたくもない」
――|聡《さと》|子《こ》たちのマンションである。
明日からはロケに入る。今日の夕方、飛行機で九州へ飛ぶのだ。
「仕度は|済《す》んでるの?」
と、剣崎が|訊《き》いた。
「聡子ちゃんは大丈夫。それより、あなた忘れ物ない?」
「|俺《おれ》か? 大丈夫! 今度の仕事は意気込みが違う」
「|怪《あや》しいもんね」
いつかはシナリオを忘れて来たこともある。――以来、啓子は必ず何部か余分に取っておく。
「そろそろ出かけなくていいのかい?」
と、剣崎が時計を見て言った。
「うん。車が来ることになってるのよ。|今《いま》|川《がわ》さんと一緒」
「今川|公《きみ》|子《こ》女史?」
剣崎がびっくりした様子で、「どうして彼女が?」
「だって、〈殺意のプリズム〉のライターじゃないの」
「そりゃ分ってるけど……。ロケにまでついて来るのかい?」
「|峰《みね》|川《かわ》さんの希望よ。現場で手直しする時に立ち合ってほしいって」
「へえ」
剣崎は首を振って、「|驚《おどろ》いたね。巨匠、本気だな」
「|賭《か》けてるわよ、この映画に。もう二度とやれないだろうって」
「少しリラックスした方がいいと思うけどなあ」
「あんたがその分、リラックスしてるじゃない」
「ひどいなあ」
と、剣崎が顔をしかめる。
「あ、今川さんかな」
玄関のチャイムが鳴ったので、啓子は、急いで立って出て行った。
「――お待たせ」
と、今川公子がのっそり[#「のっそり」に傍点]という感じで入って来る。
「まだ時間ありますよ。荷物は?」
「車の中。待たせてあるわ」
「じゃコーヒーでも|一《いっ》|杯《ぱい》いかが?」
「いただくわ。ありがたい」
今川公子は、居間へ入って来ると、剣崎をチラッと見て、「どうも」
とだけ言った。
「――寝不足?」
と、啓子がコーヒーを|注《つ》いでやると、
「まあ……ね」
今川公子は|欠伸《あくび》しながら、「峰川のオヤジさんには|参《まい》っちゃう。『ここ、もうちょっとどうにかならない?』って毎晩電話がかかって来るんだもの」
「どのシーン?」
「あちこちよ」
と、今川公子は肩をすくめた。「それも、『こう直して』じゃないの。ただ、『どうにかしてくれ』だもんね。私は峰川さんじゃないんだからね、って言ってやった」
啓子は、ちょっと笑った。
峰川の気持はよく分る。欲が出るのだ。もっと良くなる、もっと良くなる、と……。
「でも、この暑い時期に九州へ行かなくたってね」
と、今川公子は顔をしかめた。「|地《じ》|獄《ごく》だよ、真夏の|雲《うん》|仙《ぜん》なんて!」
「何とか地獄ってのがあるじゃないか」
と、剣崎が言った。「いつか見て回って、がっかりしたけど」
「聡子ちゃんは?」
と、今川公子が|訊《き》いた。
「もう仕度できてると思うけど。――弟もいるから」
「|利《り》|口《こう》な子ね。役者にしとくにゃ|惜《お》しいや。シナリオ書かせたい」
「うちの社長が聞いたら目を回すわ」
と、啓子が笑った。「呼んで来ましょ」
「僕が行くよ」
剣崎は、|珍《めずら》しくパッと立って、聡子の部屋の方へ歩いて行ったが……。
ドアの前に立って、ちょっと|面《めん》|食《く》らった。
「――おい、ケイ」
「どうしたの?」
「何だ、これ?」
ドアに|貼《は》り|紙《がみ》がしてあって、〈いきなり開けるな! 命は保証せず〉と、サインペンで大書してある。花やマンガの顔でふち取りがしてあった。
「ああ、聡子ちゃんね、ダーツをやってるのよ」
「ダーツ? ああ、あの、羽のついたのを投げる……」
「そう。ドアの内側に|標的《ひょうてき》がかけてあるから、いきなり開けると、ダーツが飛んで来て|刺《さ》さることもある、ってわけ」
「|怖《こわ》いね」
と、剣崎は首をすぼめた。
ちょうどドアにズシン、と何かが当る音がした。
「やってるようね」
啓子は、ドアをノックして、「聡子ちゃん、入るわよ」
「どうぞ」
と、返事がある。
ドアを開けて、啓子は、
「そろそろ出かけるわよ」
と、声をかけた。
「はい、いつでも」
聡子は、軽快に立ち上って、やって来た。
「当ったかい?」
剣崎が部屋へ入って来て、ドアの裏側を見ると、目を丸くした。「――おい、聡子ちゃん、これ……」
かけてあるのは、確かにダーツの標的だが、そのど|真《まん》|中《なか》に突き刺さっているのは、小さな、しかし、どう見ても切っ先鋭いナイフ……。
「ああ、これ?――護身用」
と、聡子はナイフを抜くと、手の中で軽く|弄《もてあそ》んでいる。
「危いよ! けがするぜ」
「私、小学生のころから、ナイフ投げの練習してたの。いい腕なのよ」
聡子は、ヒョイと振り向いた。同時にその手からナイフが飛んだと思うと、壁のカレンダーに突き立った。
「八月一日。今日の所に刺さってるでしょ?」
剣崎は、歩いて行って、
「本当だ!」
と、目をみはった。「こいつは|凄《すご》い!」
「毎日練習してんだもの」
「聡子ちゃん」
と、啓子も|呆《あき》れて、「一体何を考えてんの?」
「犯人と対決することがあったら、こっちも何か武器がないと。シナリオみたいに、うまく|誰《だれ》かが助けに来てくれるとは限らないでしょ」
「|物《ぶっ》|騒《そう》ねえ……」
啓子としても、聡子の気持は分る。しかし、逆に聡子が殺されることだって、あるかもしれないのだ……。
「いいじゃないの、好きにさせてやりなさいよ」
と、声がした。
振り向くと今川公子が立っている。
「今川さん。じゃ、あなたも――」
「聡子ちゃんから聞いたわよ。そんな|奴《やつ》、許せないものね。力になるわよ」
剣崎は、ナイフを壁から抜くと、戻って来て聡子に渡した。
「頼むから、僕を|的《まと》にして練習しないでくれよな」
と、半ば本気である。
「信用してよ」
と、聡子は笑った。「じゃ、出かけましょうか。――|恵《けい》|一《いち》! |仕《し》|度《たく》、できたの?」
聡子は自分のバッグを手に取ると、大声で言った。
「さあ、出発、出発!」
啓子がパンパン、と手を|叩《たた》く。
五分とたたない内に、マンションから全員出て行った。
夏休みである。――世間一般では、の話だが。
羽田空港は、旅行客でごった返していた。大体、ただでさえ狭いところへ夏の帰省や家族旅行の客、団体のツアー。そこへ今や天下のアイドルとなった|永《なが》|谷《たに》聡子が現われたら、どんな騒ぎになるか、想像がつこうというものだ。
スタッフや何人かのキャストは、一つ前の便で|発《た》つことになっていた。
啓子たちは、|一《いっ》|旦《たん》近くのホテルに入って、ぎりぎりの時間まで待ってから、入ろうということになっている。空港内での混乱を避けるためである。
「暑いわね、本当に」
と、今川公子が、ホテルのラウンジで、落ちてくる汗を|拭《ぬぐ》った。
「暑さには弱いんですか」
と、聡子が訊く。
「シナリオ・ライターなんて、|机《つくえ》の前に|座《すわ》りっきりの仕事だからね。外へ出るのは|苦《にが》|手《て》よ」
「その点、役者は大変さ」
と、剣崎が言った。「この暑さの中で、オーバーを着て、寒い寒い、って|震《ふる》えてなきゃいけない」
「今度は大丈夫よ。そんな無茶をやるシーンはないわ」
と、公子が言った。「聡子ちゃんは、危いシーンもあるけどね」
「私なら大丈夫です。暑い時は暑い方がいいの。変に涼しいと|却《かえ》ってつまらない」
「十代の内よ、そう言ってられるのは」
と、啓子が笑った。「あら、監督だ」
峰川がバッグを下げてやって来る。
「やあ、ここじゃないかと思ったんだ」
「どうしたんですか、監督。前の便じゃなかったの?」
と、公子が|呆《あき》れたように、「二日酔でしょう」
「アルコールは絶ってるよ」
と、峰川は笑って、「連れ[#「連れ」に傍点]ができたんで、君らと一緒の便にしたんだ」
「連れ?」
啓子は、面食らって、「誰ですか」
「分った。峰川さんもやるな」
剣崎がニヤリとして、「ズバリ、女[#「女」に傍点]でしょう」
「残念ながら、そんな色っぽい話じゃないんだ」
峰川は、啓子たちの隣のテーブルについた。「もっと|無《ぶ》|粋《すい》な連れさ」
「|申《もう》し|訳《わけ》ありませんね」
と、少し遅れてラウンジに入って来たのは、何と|畠《はた》|中《なか》刑事だった。
「まあ、畠中さん。じゃ、私たちと一緒に――?」
「お|邪《じゃ》|魔《ま》でしょうが、まあ、できるだけ目立たないようにしますから」
「いえ、そんなことありません。ありがたいんですけど、でも……」
「ご心配なく」
と、畠中は|微《ほほ》|笑《え》んで、「これは純然たる私用ですから」
「私用?」
「休暇を取ってあります。何といっても、永谷聡子ちゃんのロケについて歩けるという、めったにない機会ですから」
この刑事、どこまで本気なのかしら、と啓子は思った。
いくらファンだからといって、カメラマンの|太《おお》|田《た》|一《かず》|哉《や》が殺された事件も未解決だというのに……。
しかし、もちろん啓子としては安心である。大歓迎、というところだった。
「軽く何か食べておきましょう」
と、啓子は、メニューを広げた。「飛行機の中じゃ、ジュースぐらいしか出ませんからね」
「サンドイッチでもつまむか」
と、剣崎が言って、みんなそれに賛成すると、
「――|珍《めずら》しい! 僕の言うことがスンナリ通るなんて!」
大げさな言い方に、みんなが大笑いした。
「|松《まつ》|原《ばら》さんはいつ?」
と、今川公子が|訊《き》く。
「|御《おん》|大《たい》は一週間遅れでロケに参加だよ」
と、峰川が言った。「しかし、実に助かるよ、あの人がよく動いてくれるんで」
峰川の気持は、啓子にもよく分る。
松原|市《いち》|朗《ろう》ほどの大物だと、よほどの大監督でもない限り、言うことを聞かないことが多い。しかし、この映画に限っては、松原は実に素直に峰川に言われた通り、何度でもやり直すのだ。
松原が言うことを聞いている限り、他のスターたちも、そうしないわけにはいかない。峰川がありがたがるのも当然といえた。
「本当ね」
と、今川公子がタバコに火を|点《つ》けながら、「あの|井《い》|関《せき》|真《ま》|弓《ゆみ》も、借りて来た|猫《ねこ》みたいじゃないの」
「しっ! おい――」
峰川がチラッと周囲へ目をやって、「その辺にいるかもしれないぞ」
「あら、真弓さんは何か|他《ほか》の仕事が入っていて、明日のはずよ」
と、啓子は言った。
峰川が|眉《まゆ》を寄せて、
「本当か?――じゃ、|妙《みょう》だ」
と、首をひねる。
「どうして?」
「今朝見かけたよ、ここで」
「今朝?」
「うん。――ああ、|俺《おれ》はゆうべここへ泊ったんだ。一人になって、コンテを立てたかったからな」
コンテ、というのは、シナリオよりずっと|詳《くわ》しい、撮影用の台本のことだ。
「へえ、乗ってますね」
と、剣崎が冷やかすと、峰川は照れたように、
「よせよ」
と、言った。
「じゃ、朝見かけたってことは……」
と、聡子が考えて、「真弓さん、ここへ泊ったってことですね」
「そういうことになるな。もちろん、一人じゃあるまい」
啓子は、ちょっと不安になって来た。
「監督、相手の男、見ました?」
「いや、見てない」
「そうですか」
峰川も気にしている。それは当然だった。
もし井関真弓が、ゆうべこのホテルに男といたとすると、その相手は、松原でないのは確かである。
松原と会うのなら、こんな所まで来る必要は全くないのだから。
真弓が、このところ松原に腹を立てていたことは、みんな知っている。他の男に手を出す気になってもおかしくはない。
ただ、問題は、それを松原が知った時である。松原はプライドの高い男だ。真弓が他の男と寝たと知ったら、黙ってはいまい。
しかも、その相手は――このホテルに、ゆうべ泊ったということは、一便早く九州へ発った、他のメンバーの一人である可能性が高いのである。
ロケ先で、もしこれが発覚して、松原が|怒《おこ》ったら……。撮影の中断も、ありえないことではない。
「もめないといいけどな」
と、剣崎が言った。「製作中止なんてことになったら――」
「やめてよ」
と、啓子が顔をしかめる。「監督、こうなったら、どんどん|撮《と》っちゃいましょう。三分の二まで行けば、誰もやめようなんて言いませんよ」
「全くだ」
「それじゃ、私と|君《きみ》|永《なが》君のラブシーンを後回しにした方がいいわ。きっと長くかかりますよ」
と、聡子が言ったので、みんなが笑って、大分ホッとした気分になる。
そうこうする内、サンドイッチや飲物が来て、話は他のことに移って行った。
でも、と啓子はため息をついた。
聡子の「|探《たん》|偵《てい》業」はともかく、松原と井関真弓、そして畠中刑事の同行。――色々、波乱含みではあるわ、と啓子は思ったのである……。
「通して!――はい、ごめんなさいね! ちょっと通して下さい!」
啓子の|馬《ば》|鹿《か》でかい声が、こういう時には大いに役に立つ。
きっかけは、やはりどこかの中学生らしい女の子だった。
五、六人のグループで、空港のロビーを、キャアキャア言いながら歩いていた。
そこへ、聡子たちが行き合わせたのである。こういう点は、実に目ざとい。
「あーっ! 永谷聡子!」
|辺《あた》りに響きわたる声を上げた。――まずい、と啓子が、聡子へ、
「急ごう」
と|促《うなが》した時は、すでにワーワーと何百人という人が集まって来てしまったのである。
「ほら! 聡子ちゃんを向うから守って!」
剣崎があわてて聡子のそばに|寄《よ》り|添《そ》って、ロビーを突っ切って行く。
剣崎だって、いい加減顔は知られているはずだが、この際はガードマンに徹することになった。
「早く!――ちょっと、ちょっとどいて下さい!」
啓子も汗だくだ。やっと、|搭乗口《とうじょうぐち》から入って、手を振ったり大声で、
「聡子ちゃん!」
と叫ぶ女の子たちへ、聡子も振り返って手を振る余裕が出来たのだった。
「――しかし、|凄《すご》いな」
剣崎も汗を|拭《ぬぐ》った。
「すみません、ご|迷《めい》|惑《わく》かけて」
と、聡子が頭を下げた。
「いいのよ、聡子ちゃんが悪いわけじゃないんだから。人気商売の|辛《つら》いところね」
「僕には誰も気が付かないね」
と、剣崎がふくれて見せる。
「ま、聡子ちゃんにゃ勝てないわよ」
「分ってます」
と、そっぽを向く。
そこへ、中年のおばさんが一人、カメラを手にやって来ると、
「すみません!」
と、剣崎へ、声をかけた。
「はい?」
「シャッター切っていただけません?」
「――いいですよ」
剣崎の顔が引きつっているのを見て、啓子は笑い出すのを必死でこらえていた……。
10 危険な坂
「オーケー、じゃ、本番行こう」
峰川は、直射日光などまるで気にしていない様子だった。
啓子は、首を振って、
「大丈夫かしら、峰川さん」
と、|呟《つぶや》いた。
「これ、|撮《と》り終えたら、死んじまうんじゃないのか」
と、剣崎が言って笑った。
「本当にね。そうなりそう」
啓子と剣崎、それに聡子は、|日《ひ》|陰《かげ》になった場所で、休んでいる。少し風はあって、日陰はまだしのぎやすいが、日なたへ出ると、天ぷらにでもなってしまいそうな暑さだ。
「聡子ちゃん、いいかい?」
峰川の声に、聡子は、
「はい」
と、よく通る声で返事をして立ち上った。
「あ、待ってね」
メイクの女性が、聡子の|額《ひたい》の汗をそっと|拭《ふ》き取る。
「じゃ、車の中から出て来るところだ。おい、ちゃんとブレーキかけてあるだろうな」
「大丈夫です」
と、若い助監督が答える。
「よし。カメラが動き出して、僕が手を上げたら、車から降りて来る。いいね」
「はい」
と、聡子が|肯《うなず》く。
手順ののみ込みの早さは、|大人《おとな》もかなわないほどである。――誰しも安心していた。
「よし。じゃ、車に乗って」
――急ぐ必要があった。
この自動車道路、今は結構通る車が多いのである。それを|一《いっ》|旦《たん》ストップさせて|撮《と》っているから、助監督の何人かは、ずっと遠く、カメラのフレームに入らない所まで行って、車を止めている。
「じゃ、本番行こう」
と、峰川が言った。
坂道である。ずっとなだらかな下りの道で、山腹を巻くように道は続いている。その途中に、乗り捨てられたように車が一台|停《と》まっていて、そこから聡子が出て来る。
聡子は、車の方へと小走りに歩いて行って、後部席のドアを開けた。峰川がブレーキのことを心配しているのは、車が下りの方へ向いて停めてあるので、もしブレーキが外れると勝手に動き出してしまうことがあるからだった。
聡子が車の中へ入る。
「よし。――雲がかからない内にやろう」
カメラマンの|宮《みや》|内《うち》|英《ひで》|史《ふみ》が、黙って肯く。
もうベテランで、峰川がどんな「絵」をほしがっているか、ちゃんとのみ込んでいる。
「よし。――用意!」
スタッフがシン、と静まり返る。
カメラは短いレールの上にのって、横へ移動することになっている。
峰川が、スタート、と声を張り上げようとした時だった。
「キャーッ!」
と、悲鳴が聞こえた。
車の中だ!――|一瞬《いっしゅん》、誰も動けなかった。
|真《まっ》|先《さき》に飛び出したのは、畠中刑事だった。続いて、啓子――。
パッとドアが開いて、聡子が|転《ころ》がるように飛び出して来た。
「どうした!」
と、畠中が、聡子をかばうように背中へ押しやる。
「クモ……クモが」
と、聡子は|真《まっ》|青《さお》になっている。
「え?」
「車の中に大っきなクモがいた!」
――啓子がポカンとしていると、
「お姉ちゃん、クモにゃ弱いんだよ」
いつの間にやら、恵一がそばに来ている。
「クモ?――あの、虫のクモ?」
畠中が車の中へ頭を突っ込むと、
「ああ、これか」
と、クモをつまんで取り出した。「心配ない、普通のクモだよ」
緊張がほぐれて、みんなが笑い出した。
「だって――|怖《こわ》いんだもの」
聡子一人が、まだ、青くなっていた。
「びっくりしたわ。もう大丈夫よ」
「ええ」
聡子は、胸に手を当てて、「ああ! 死ぬかと思った! だって、あれ[#「あれ」に傍点]が私の手の上をノソノソ|這《は》って行ったんですもの」
と、まだ|震《ふる》え出さんばかり。
「少し間を置く?」
と、啓子が|訊《き》くと、聡子は、大きく深呼吸して、
「いえ――もう大丈夫」
と、|肯《うなず》く。
「でも、青い顔してるよ」
「いいえ。だって、そう通行止めにしておけないでしょ。――大丈夫です」
聡子も、やっと落ちついたらしい。
心配してやって来た峰川に、
「すみません。いつでも大丈夫です」
と、|微《ほほ》|笑《え》んで見せた。
「そうか。じゃ、行くよ」
「はい」
聡子は、それでもまだこわごわ車の中を|覗《のぞ》いてから、後部席に乗り込んだ。
「――へえ、意外なことに怖がるのね」
啓子は戻りながら言った。
「お姉ちゃんの|唯《ゆい》|一《いつ》の弱点さ」
と、恵一が言った。「恋人になったとき、わざとクモを用意して怖がらせてやりゃ、抱きついて来るかもしれないよ」
「変なこと教えてくれなくていいわよ」
と、啓子は笑った。
でも、何となく啓子はホッとした。
妙なものだが、聡子があんまり「出来すぎて」いるので、付合うのに少々息づまるのも確かだったから、こんなことがあると、聡子も普通の女の子だ、と思ってホッとするのである。
「――よし、じゃ、本番」
峰川がもう一度言った。「――用意!――スタート!」
カメラが回りカチンコが鳴る。――カメラをのせた台が、ゆっくりと横へ動き始める。
とはいえ、もちろん人力[#「人力」に傍点]である。
すると……。あれ?――誰もが初めは|錯《さっ》|覚《かく》かと思った。
まさか! そんなこと、あるわけがない……。
聡子の乗った車が、ゆっくりとだが、動き出していたのである。カメラの宮内が、
「車が動き出した!」
と、|怒《ど》|鳴《な》った。
「止めろ! 誰か、早く行け!」
峰川が怒鳴る。――助監督が駆け出した。
同時に、畠中も、啓子も走り出していた。
ブレーキが外れたのだ。
坂道を、車はゆっくりと、しかし加速度をつけながら走り始めていた。
「――追いつけ!」
峰川の声が飛ぶ。若い助監督が、車に追いつき、ドアを開けようとして、足がもつれて、転倒した。
車が、ぐんぐんスピードを加えた。道がカーブしている。
車は、道の端にタイヤを乗り上げながら、勢いをつけてカーブを曲った。
「|危《あぶな》い! 落ちるわ!」
その先がヘアピンカーブになっている。車は、もうとても止められるようなスピードではなかった。
あのままじゃ、ガードレールを突き破って、下へ落ちる。――啓子は必死で走りながら、あの下は道路だったわ、と考えていた。
道路へ車が鼻先から落ちたら……。とても無事では済まない。
|下手《へた》をすれば、もっと下まで落ち続けるかもしれない!
「聡子ちゃん!」
啓子が、聞こえっこないのを承知で、叫んだ。
畠中が、足を止めると、|片《かた》|膝《ひざ》をついた。手に|拳銃《けんじゅう》がある。両手を一杯にのばして|狙《ねら》いを定めると、引金を引いた。
バン、と|衝撃音《しょうげきおん》が耳を打って、車が、キーッと音を立てて傾いた。タイヤを|撃《う》ち抜いたのだ。
車はガードレールへ|真《まっ》|直《す》ぐにはぶつからず|斜《なな》めに突っ込んで、前の車輪がガードレールを突き抜け、車は|辛《かろ》うじて|停《と》まった。
ドアがパッと開くと、聡子が飛び出して来た。
「聡子ちゃん!」
啓子が駆け寄る。
聡子は、アスファルトの路面に座り込んで息をついたが、すぐに、
「あつい!」
と、飛び上った。「やけどしそう!」
「聡子ちゃん……」
「ブレーキ、外れたみたい」
「うん。――そうね」
と、その時、車がミシミシときしむような音をたてて、あっという間に、下の道へと転落して行った。
ドーン、という大きな|太《たい》|鼓《こ》を|叩《たた》くような音がした。――啓子と聡子は、顔を見合わせると、
「落ちた……」
「うん。落ちた」
と、言い合った。
啓子は、汗を|拭《ぬぐ》った。
もちろん、|駆《か》けて来たせいもある。しかし、冷汗の方が多かった。
これは偶然の事故なのだろうか?
峰川が、助監督を|怒《ど》|鳴《な》りつけている。もちろん、ブレーキのかけ方が甘かった、ということもあるかもしれない。
しかし、あのセットが崩れた事件といい、これといい、ただの偶然では片付けられないものが……。
「畠中さん」
聡子の方は、さっきのクモの時よりよほど早く立ち直っていた。
「けがは?」
「大丈夫です」
「そうか! 良かった」
タイヤを撃ち抜くとは、|凄《すご》い腕だ。
啓子は改めて、この刑事を見直した。
加えて、こうして拳銃を持って歩いているというのは、「私用」で来ているわけではない、ということだろう……。
「聡子ちゃん、今日は終りよ。帰ろう」
と、啓子は促した。
「――やれやれ」
峰川が、ホテルのラウンジに姿を見せた。
「どうでした?」
と、啓子が|訊《き》く。
「うん? いや、まあ別に|叱《しか》られたわけじゃないが、あれこれ大変だ」
峰川は、ソファにドサッと腰をおろして、「アイスコーヒーをもらおう」
と、言った。
「あの子は?」
「聡子ちゃん? 部屋で弟の宿題をみてますわ」
「そうか。――大した子だな」
峰川は首を振った。「普通なら大騒ぎだろう」
「マスコミも、九州だから静かなもんですけどね」
と、啓子は言った。「話を聞きつけて来ても、もう何も残っていないし」
「後片付けは大変だったらしいよ」
「その費用は?」
「さあ、プロデューサーの方へ何か言って来るかな」
ラウンジは、|閑《かん》|散《さん》として、人の姿は他にはなかった。
リゾート地のホテルなので、食事にしても部屋にしても、そう大したことはないが、しかし、撮影のためには便利だった。
「――あの刑事にはびっくりしたな」
「ええ、私も」
「ただ者じゃないぞ。あの腕前!」
「|噂《うわさ》をすれば、ですわ」
と、啓子が少し声を低くする。
畠中が、ラウンジへ入って来て、啓子たちの方へやって来た。
「お|邪《じゃ》|魔《ま》して|構《かま》いませんか」
「もちろん!――聡子君の命の恩人だ」
「いや、お役に立てば|嬉《うれ》しいですよ」
と、少し照れたように言って、ウエイトレスにミルクティーを注文した。「甘党でしてね」
「でも、刑事さん――」
「畠中で結構です」
「畠中さん、どうして|拳銃《けんじゅう》を?」
畠中は、|肯《うなず》いて、
「そのご説明をしようと思いましてね」
と言った。
「じゃ、やはり何かあるんですね」
「あの車は、今、ここの県警が引き取って行っています」
「あの車を?」
「なぜですの?」
「ブレーキに、故意の細工が加えられた形跡がないかどうか、調べてもらおうと思いましてね」
「じゃ、わざと誰かが?」
「その可能性を調べています」
啓子と峰川は顔を見合わせた。
「でも、畠中さん、なぜ……」
「私は本当に、あの子のファンなんですよ」
と、畠中は言った。「しかし、仕事でもありましてね」
畠中がポケットから、折りたたんだ紙を出した。
「これはコピーです」
広げると、|定規《じょうぎ》で引いたような、角張った字で、
〈永谷聡子はもうすぐ死ぬことになる。あとのことを、よく考えておけ〉
と、あった。
「これがどこへ?」
「プロダクションの社長の所へです」
「|山《やま》|内《うち》社長の?」
啓子はびっくりした。「でも――どうして私に黙ってたのかしら」
「さあ、それは分りませんね」
と、畠中は首を振った。「ともかく、この手紙を警察へ持ち込んだわけです」
「私に黙って! 何考えてるんだろ」
啓子はちょっぴりふくれている。
「いや、この手の手紙も、有名人となると、そう|珍《めずら》しいものでもないでしょうからね。しかし、私も、この間の撮影所での事故もあるし、全くこれを無視するわけにはいかない、と上司に進言したわけです」
「じゃ、それでここまで……?」
「いや、確かにこれは休暇なんです。正式にこの手紙に関して捜査しようというわけじゃありませんのでね」
「でも心強いですわ」
「まあ、いないよりはましかもしれませんがね」
と、畠中は|控《ひか》え|目《め》に言った。「しかし、撮影中はいくらでもあんなことは起り得るわけですから」
「それは確かだ」
と、峰川が肯いて、「危い場面は、スタンド・インを使おう」
「でも、聡子ちゃん、いやがるわ」
「危険は避けなくては」
「いやと言ったら、それを通す子ですから」
「|我《われ》|々《われ》が周囲に目を配ります」
と、畠中が言った。
「我々?」
「私と、|水《みず》|浜《はま》さんです。監督には、映画のことだけ考えていただけばいいんです」
峰川は、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
啓子は、こんな時、必ず入口の方が見える席に座る。ちょうど入口の向う、ホテルのロビーに入って来た男が目に入った。
「あら――」
と、腰を浮かすと、向うも気付いて、やって来た。
「やあ、遅くなって」
松原市朗だった。「暑いな、頭が焼けそうだよ」
峰川が立ち上って、松原としっかり握手した。
「何か事故だって聞いたが」
松原が|座《すわ》って言った。
「車がね――」
峰川の話で、松原は青ざめた。
「それで大丈夫だったのか?――何てことだ!」
「当人は至って平然としてます」
と、啓子が言うのも耳に入らない様子だった。
「そんなドジをやった助監督は、昔なら即座にクビだ!――映画ってのが、どんな小さな仕事でも手を抜いたら、成り立たんものだってことを、今の若い|奴《やつ》らは知らんのだ」
腹立たしげに言って、「いや――失礼。ついカッとなって」
と、顔を赤らめた。
「松原さん。真弓さん、お出迎えには?」
「来なかったよ」
松原は、さりげなく、言った。
「――また同じとこ、間違えて」
と、聡子は、弟の宿題の採点をして、「ほら、ここ、もう一度やってみて」
「うん……」
恵一は、あまり気のない返事をすると、「お姉ちゃん、大丈夫?」
と言った。
「何が?」
「命は一つだよ」
「余計な心配しなくていいわよ」
と、聡子は言って、ベッドに引っくり返った。
「少し眠る? TV消そうか」
「いいよ、どっちでも。そんなもんで眠れないほどやわ[#「やわ」に傍点]な神経してない」
聡子は目を閉じたが、眠るより早く、電話が鳴り出した。
「――はい」
と、寝たまま受話器を取って耳に当てる。
「どなた?」
「聡子ちゃんだね」
男の声。いやに遠い感じだ。
「どなたですか?」
できるだけ、いつもとは違う声で話す。別人のように思わせた方がいい。
「分ってるんだよ。聡子ちゃん」
低く、|囁《ささや》くような、気味の悪いしゃべり方だった。
「どなたですか?」
聡子もくり返した。
「君の友だちは、なかなかいい体をしてたぜ」
聡子の顔が、こわばった。
「そっちは?――|誰《だれ》なの?」
「君と|比《くら》べてみたいもんだね」
その男は、低く忍び笑いをした。「どう思う?」
「誰なの? |卑怯《ひきょう》者! 名乗りなさいよ」
「君も、僕と付合えば、きっと喜んでくれると思うよ。会うのを楽しみにしてる」
「あなたは――」
「いや、もう[#「もう」に傍点]会ってるんだよ」
男は、フフ、と笑って、「じゃあね、聡子ちゃん」
と、言った。
電話は切れた。
「どうしたの?」
恵一が言った。「どうかした?」
「ううん」
聡子は首を振った。「何でもない」
ベッドに|仰《あお》|向《む》けに寝て、目を閉じる。
ルミ子……。必ず、犯人は見付けてやるからね。
もう会っている[#「もう会っている」に傍点]。
ということは(もし、それが本当なら、だが)、この撮影に加わっている誰か、ということだろう。
|狙《ねら》いは間違っていなかった。しかし、向うも、それを知っている。|充分《じゅうぶん》に用心することだ。
ドアをノックする音で、目を開いた。
「どなた?」
「ごめん。休んでたかな。僕、君永はじめだよ」
聡子は、立って行ってドアを開けた。
「やあ。――どう? 事故のこと、聞いて、びっくりしてさ」
「お見舞?」
「まあね」
「わざわざどうも」
と、聡子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「明日は一緒の出番があったわね」
「そうだね。トチっちゃいそうだな、本番じゃ」
「リラックスして。――少し散歩でもしようか」
「いいね!」
「恵一、ちゃんと、その問題やり直すのよ」
「OK」
恵一はTVから目を離さずに言った。
「すぐ行くわ。待ってて」
聡子は、洗面所へ入ると、ちょっと髪を直し、それから、小型ナイフをスラックスのポケットに入れた。
鏡を見る。――そこに、二人の聡子が映っていた。
一人は、にこやかに微笑むアイドルスター。もう一人は……。
もう一人は?――それは聡子自身にもよく分らない、十七歳の少女だった。
11 いとこ同士
「ねえねえ!――ちょっと!」
と、大声で|囁《ささや》きながら(本当にそう言うしかない)、|吉《よし》|原《はら》|伸《のぶ》|子《こ》が走って来る。
「また、伸子は」
友人ながら、伸子の「何でも大事件病」にはいつも恥ずかしい思いをしている|芳《よし》|村《むら》|志《し》|乃《の》は、思わず|呟《つぶや》いた。
「ねえ、今、|誰《だれ》を見たと思う?」
と、吉原伸子は、ドカッと志乃にくっついてソファに|座《すわ》った。
「暑いよ。くっつかないで」
と、志乃は、少しそっけなく言ってやった。
「あ、そう。――フン、それなら教えてやらない」
と、伸子がそっぽを向く。
「いいよ、別に。私、芸能人なんて興味ないもん」
と、志乃は言った。
「すぐ、お高く止っちゃって」
「誰が。――伸子はね、大体、騒ぎ過ぎよ」
と言いながら、志乃は伸子が本当に|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》になりそうかどうか、様子をうかがっていた。
「じゃ、いいわよ。志乃は勝手に本でも読んでれば?」
志乃も、それ以上|逆《さか》らうと伸子がつむじを曲げるな、と分って、少し譲歩することにした。――本当に疲れんのよね、伸子って!
「何よ、誰がいたっていうの?」
「興味ないんでしょ」
と、伸子はむくれている。
志乃と伸子はいとこ同士である。――半年違いの生れで、学年は同じ。学校も同じで、今、高校一年だが、クラスも一緒になってしまった。
本当のところ、志乃としては、うわっついて甘えん坊の伸子は|苦《にが》|手《て》な相手だったのだが、母親同士が姉妹では、付合わないわけにもいかない。特に、この夏の旅行は、必ず二家族一緒で、中学一年の時から、毎年の行事になっているから、来ないわけにもいかなかったのだ。
この高原で一週間過ごす。うまく伸子が男の子でも見付けてくれると、志乃も助かるのだが、文句は言うくせに、何かというと、伸子は志乃にべったりくっついて来る。
「お母さんたちは?」
と、志乃は話をそらすことにした。
「テニスコート、借りに行ったみたい」
と、伸子は言った。「好きなんだから、本当に!」
「そうね」
でも――仕方ないんじゃないかな、と志乃は思った。
伸子も志乃も一人っ子。もう十六ともなれば、そうそう母親の話相手はしてくれない。
どちらも夫はエリートサラリーマンで、連日帰宅は真夜中である。休日はゴルフ、でなければ何かの接待。
実際、志乃だって時には父親の顔を忘れちゃうんじゃないか、と本気で心配になるくらいだ。妻[#「妻」に傍点]の方だって、退屈してしまって当然である。
この旅行も、お互いに亭主抜き。テニスにでも狂ってりゃ、家庭は平和ってもんだわ。少なくとも、男なんか作られるよりは。
志乃たちが四人で、伸子の母親の運転するBMWに乗って、このホテルに着いたのは、お昼少し前だった。昼食を取っている間に、部屋の仕度ができるということだったのだが、午後二時になっても、まだチェックインできずに、このロビーで待っているのだ。
ホテルの入口の辺りが、ガヤガヤし始めて、志乃は振り返った。
「あ!――来ちゃった!」
と、伸子があわてて、「ね、|永《なが》|谷《たに》|聡《さと》|子《こ》なのよ! 永谷聡子!」
せっかく、びっくりさせてやるつもりだったのが、その当人が、ロビーへ入って来たのである。
「へえ! 撮影かしら」
と、一応、志乃もびっくりして見せた。
びっくりしてやらないと、また伸子がむくれるという心配もあったのだが、本当に[#「本当に」に傍点]、いくらかはびっくりもしたのである。
これまで、伸子が、
「ねえねえ! 見ちゃった!」
と、ご|注進《ちゅうしん》に飛んで来た中では、永谷聡子は一番の大物だった。
「ね、|可愛《かわい》いね、本当に!」
と、伸子が言った。
ちょっと可愛いぐらいのアイドルなら、伸子も|小《こ》|馬《ば》|鹿《か》にしているのだが、確かに永谷聡子の場合は、妙に作った愛らしさではないので、あまり抵抗を感じることがない。
志乃も、永谷聡子のことは好きだった。
「あら、あの男の人――」
と、志乃は、ゾロゾロと入って来るそのグループの最後の方についている男を見て言った。
「|剣《けん》|崎《ざき》|隼《はや》|人《と》よ。私、にやけてて好きじゃないわ」
「違うの。剣崎隼人は知ってるわよ。――あ、やっぱり|松《まつ》|原《ばら》|市《いち》|朗《ろう》」
「誰?」
と、伸子は顔をしかめて、「ああ、あの|禿《は》げたおじさん?」
「私、好きだったんだ、あの人の時代劇」
「へえ。年上の趣味ね」
「何言ってんのよ」
と、志乃は笑った。
「あ、ほら、|君《きみ》|永《なが》はじめ」
「え? ああ、あのノッポの子?」
「何か、少し|鈍《にぶ》いんと違う? 馬鹿みたい」
と、伸子も男の子の好みはうるさい。
「映画の撮影ね、きっと」
と、志乃は、やはり好奇心もあって、ロビーで何やら打合せをしている一団を眺めていた。
「あの赤いドレス、誰かしら?」
と、伸子が言った。
「|井《い》|関《せき》|真《ま》|弓《ゆみ》よ」
「どこかで見たなあ。――何だっけ?」
「何に出てたかまでは|憶《おぼ》えてないわ」
「こっちに来ないかなあ、永谷聡子」
伸子の期待に反して、永谷聡子は、大柄な女性と一緒に、エレベーターの方へと歩いて行った。
「ケイちゃん、夕飯は六時半だよ」
と、|誰《だれ》かが声をかけると、その大柄な女性は手を上げて、
「分ったわ。一眠りするから、|邪《じゃ》|魔《ま》しないでよ」
と答えた。
残ったのは、ジーパンスタイルの、スタッフたちで、出演者は大体、部屋へ戻ったらしい。
「ちょっと、宮ちゃん、夜のシーンで話があるんだ」
と、かなり年齢の行った男が、誰やらを手招きしている。
「監督ね、きっと、あの人」
と、志乃が言った。
「つまんない。スターはみんなお昼寝かあ」
と、伸子は口を|尖《とが》らしたが、「ね、何号室なのかなあ」
「知ってるわけないじゃない、私が」
「ね、サインもらって来ようか?」
「よしなさいよ。寝てるっていうのに」
と、志乃は言った。「あの様子なら、まだ何日かは泊ってるのよ、きっと」
「そうかなあ」
映画のロケ。――どんなものなんだろう?
志乃も、全く関心がないわけでは、もちろん、なかった。
「――お母さんたち、何やってんだろ?」
と、伸子が、|苛《いら》|々《いら》している様子で言った。「ちょっと見て来る」
「うん」
志乃は、伸子がぶらぶら歩いて行くのを、見送っていた。テニスコートとは全然違う方向へ歩いている。
きっと、永谷聡子がどこに泊っているか、誰か知ってるかもしれない、と、探りに行ったのだ。――物好きなんだから、と志乃は苦笑した。
志乃は、ロビーのソファに座っていた。あのロケ隊のメンバーも、今は一人もいなくなっている。
誰かが歩いて来た。――|何《なに》|気《げ》なく顔を向けると、スラックス姿の、スラリとした女性……。
井関真弓だ、と気付くのに、少し時間がかかった。さっきの赤い服を替えて来たのだろうが、まるでイメージが違う。
もちろん、志乃に見られているのも承知の上だろうが、決して目を合わせたりしない。隣のソファに腰をおろして、足を組むと、タバコを出して、火をつけた。
そういう格好が、まるで映画の一場面のように決るのは、さすがに女優である。
――志乃は、若いくせに好きなスターというと、中年の渋い男優で、若いアイドルたちには、興味がなかった。もちろん、個人の好みだから、誰が誰のファンだって、|構《かま》やしないのだが。
ホテルの玄関前に、タクシーが|停《とま》った。
降りて来たのは、四十ぐらいかと思える男で、白っぽいブレザーにサングラス。やっぱり、どことなく、「芸能人」らしい。
タクシーのトランクからスーツケースを出すと、ホテルのボーイが、それを運んで来る。
男は、ロビーへ入ると、サングラスを|外《はず》した。
あ、|小林準一《こばやしじゅんいち》だ、と志乃は思った。きっと伸子なら、顔は知っていても、名前が出て来ないだろう。TVでよく見る、ちょっと渋い|脇《わき》|役《やく》である。
小林準一が、自分の方へ歩いて来たので、志乃はちょっとギクッとした。
もちろん、そうじゃなくて、小林準一が笑いかけたのは、隣の井関真弓だったのである。
「何だ、もう終ったのか」
と、小林準一が言った。
「夜、またやるの」
と、井関真弓が立ち上って、「お兄さんの部屋、隣にしてもらったからね」
「お前の? いいのか」
「その方がいいの」
と、小林準一の腕を取って、フロントの方へ歩いて行く。
「へえ」
と、志乃は思わず|呟《つぶや》いていた。
「お兄さん」だって!――井関真弓と小林準一が兄妹だったなんて。
志乃は、伸子が戻って来たら、教えてやろう、なんて思いながら、ロビーを見回した。
まだ、伸子は戻って来ない。――が、振り向いた志乃は、自分を見ている男の目に気付いた……。
|啓《けい》|子《こ》は、ガクッと頭が動いた|拍子《ひょうし》に、目を覚ました。
「いけない……。眠っちゃったんだ」
と、頭を振る。
夕食は六時半だったっけ。時計を見て、まだ四時を少し回ったところなので、ホッとする。
|炎《えん》|天《てん》|下《か》の暑さたるや、いくら丈夫な啓子でも、いい加減、参ってしまうくらいである。
もっとも、その下で、演技している聡子はもっとくたびれているだろうが。――でも、若いんだから、彼女は。
啓子は、ベッドの方へ目をやった。
ベッドは|空《から》だった。
「――聡子ちゃん」
と、啓子は呼んでいた。
トイレにもいない。出て行ったのだ。
啓子は、ドアを開け、廊下の左右を見回した。どこかから話し声が|洩《も》れて来るかもしれない、と耳を澄ましたが、むだだった。
剣崎の所だろうか? しかし、剣崎も大分|参《まい》っていた。きっと、啓子が|叩《たた》き起こしに行くまでは、ぐっすり眠っているだろう。
弟の|恵《けい》|一《いち》は、スタッフの若い男の子と一緒に、近くのスーパーマーケットへ、買い出しに行っている。
いくら聡子が元気でも、ゆうべ、ほとんど徹夜の状態で、今日の炎天下の追跡シーン。
これで、また夜間も撮影がある。――この時間に眠っておかなくては、後で|応《こた》えるはずだ。
啓子も、聡子がベッドに横になって、すぐに寝入ったのを見届けている。なぜ起き出したのだろうか?
啓子は、階段を下りて行った。
ロケ隊の部屋は三階に固まっている。
こういう場所のホテルは、大体、あまり高層には造らない。ここも四階までしかないので、エレベーターもあるが、下る時は階段の方が早い。
ロビー階へ下りて行くとちょうど階段を上りかけた|畠《はた》|中《なか》刑事と出くわした。
「どうかしましたか?」
と、畠中が|訊《き》く。
「聡子ちゃん、見ませんでした?」
「いや、見かけません」
「眠ってるとばっかり……。どこかしら?」
「今、食堂の方から来たんですが、会いませんでした。――すると逆の方向か」
「庭へ出たのかしら? でも、この暑さの中で」
「行ってみましょう」
畠中は、先に立って歩き出した。
この聡子の大ファンでもある刑事、ずっとロケに付合って、しかも、いつも|上《うわ》|衣《ぎ》を着ている。さすがに、ネクタイはしていないが、上衣の下に、|拳銃《けんじゅう》をつけているのを、他の人間には見せたくないのだろう。
啓子としては、畠中がいてくれて、大分気が楽であった。――聡子が一体何を考えているのか、本当の目的は、この刑事も知らないのだが、どうやら聡子の身に危険が迫りつつある、という点は感じているらしい。
「――さっき、井関真弓が誰かと食事していましたよ」
と、庭への出口に向って急ぎ足で歩きながら、畠中は言った。「新顔の男性でしたが」
「じゃ、小林準一だわ、きっと。今日から入るはずですもの」
「ああ、そうか!」
と、畠中は|肯《うなず》いた。「小林準一だ。どこかで見た顔だと思った」
「本人の前で、そんなこと言わないで下さいね」
「ええ。――いや、てっきり、|凶悪犯《きょうあくはん》の手配写真で見たのかと思って、考えてたんです」
「まあ、|可哀《かわい》そうに」
と、啓子は笑った。
庭へ出るドアを開け、二人はまぶしい|陽《ひ》|射《ざ》しに、目を細くした。
「こりゃ、捜すのも面倒だな」
高原に建ったこのホテル。――庭も、|天《てん》|然《ねん》の林を残した、|木《こ》|陰《かげ》の多い、その代り、見通しの良くない遊歩道になっているのだ。
「ともかく、手っ取り早く呼んでみましょう」
啓子は、大きく息を吸い込むと、「聡子ちゃーん!」
と、畠中が思わず飛び上ってしまうほどの|凄《すご》い声を出して呼んだ。
こういう仕事をしていると、どうしても声は大きくなるのである。
と――かなり遠くから、
「はあい!」
と、聡子の返事が聞こえて来た。「ここよ!」
ああ、やれやれ!――啓子は、ホッと息をついた。
「行ってみましょ」
「ええ」
と、畠中は|肯《うなず》いて、「しかし、凄い声ですね」
「付き人の条件の一つですわ、大声で他人を圧倒できる、ってことが」
二人は歩き出した。
もちろん、啓子は知るはずもなかった。
自分の呼び声が、聡子に向って突き出されようとしていたナイフを、押し|止《とど》めたことを。そして、そのナイフを握った手は、そっと木立ちの陰に引っ込んだのだった。
「――聡子ちゃん、どうしたの?」
と、かなりホテルの建物から離れた所まで来て、やっと聡子を見付けると、啓子は言った。「心配したわよ」
「ごめんなさい」
聡子は、シナリオを手にしていた。「夜のシーン、自信がなかったから、ここで練習してたの」
「部屋でやればいいのに」
「だって、啓子さん、気持良さそうに眠ってるし、起こしたら悪いと思って」
「行方不明になられたら、もっと悪いわ」
「ごめんなさい」
と、もう一度聡子は|謝《あやま》った。
「いいわよ」
啓子は、聡子の肩を軽く|叩《たた》いて、「少し眠らなきゃ。参っちゃうわよ」
「うん……。じゃ戻って眠ろうかな」
と、言って、|欠伸《あくび》をする。「啓子さん見たら、眠くなって来た」
「どういう意味よ」
と、啓子は笑った。
「畠中さんまで、すみません」
「いや、それより――」
と、畠中は|真《ま》|顔《がお》で、「今、誰かと一緒でしたか?」
「私? いいえ」
「誰かが、走って行った」
と、畠中はホテルの建物の方を振り向いた。
「足音が、聞こえましたよ」
「気が付きませんでした」
「もちろん、ここのホテルの客かもしれないし、あなたの顔を一目見ようというファンかもしれない。しかし、用心に越したことはありません。こういう所で一人にならないようにした方がいいですな」
「分りました」
聡子は、素直に|肯《うなず》いた。
もちろん、畠中は、聡子のナイフ投げの腕前のほども知らないのだが……。
三人はホテルの建物の方へと歩き出した。
「畠中さん」
と、聡子が言った。「東京でカメラマンが殺された事件、何か手がかりはつかめました?」
畠中は、ちょっと|眉《まゆ》を寄せて、首を振った。
「だめですね。かなり長引くと思った方がいいようだ」
「楽じゃありませんね」
と、啓子は軽い口調で言った。
その点、啓子も気にはしていた。なぜ、別の殺人事件を捜査中の刑事が、わざわざ一アイドルスターの身を|護《まも》るために、休みを取って、やって来たのか。
もちろん、畠中の説明通りなのかもしれない。しかし、もしそうでなかったら?
あの、太田というカメラマンが殺された事件に、このロケ隊の誰かが、かかわり合っていたとしたら……。
そう。その可能性はあるわ、と啓子は思った。ただ聡子のことで、わけの分らない|脅迫状《きょうはくじょう》が来たというだけで、刑事が九州までついて来るとは考えにくい。
啓子は、畠中が|拳銃《けんじゅう》で、暴走した車のタイヤを撃ち抜くのを見て以来、この見たところは|呑《のん》|気《き》そうな刑事が、実はただ者ではないのだとにらんでいたのである……。
「それはそうと、今夜は何のシーンですか?」
と、畠中が、いつもの人なつっこい笑顔を見せながら、言った。
12 甘い夢
|枕《まくら》もとで、電話が鳴っていた。
その男は、目をこすりながら、ベッドに起き上った。
「何だよ、|畜生《ちくしょう》……」
時計を見ると、まだ夕食の時間には大分あった。――もっとゆっくり眠っていられたのに!
「はい。――|誰《だれ》?」
と、男は、声だけでも充分に|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》さの伝わる調子で言った。
頭をかいていた手が止って、男はパチッと目をあけた。
「あ! どうも……。――いえ、眠ってたもんで。――え?」
男の顔が、少し|歪《ゆが》んだ。|触《さわ》られたくない傷をつつかれた、という様子だ。
「いや、そりゃ……。まずいですよ。――なぜって……。あの子はうすうす気が付いてるかもしれません。――ええ、まあ、しら[#「しら」に傍点]を切り通しゃ、済むことですけど……」
向うの話に、男は、息を|呑《の》んだようだ。
「――そんなやばいこと!――一体、誰を?――でも、もしばれたら……」
男の顔に、迷いの色が現われた。損得|勘定《かんじょう》のソロバンが頭の中で音をたてている。
「――そううまく行きますか?」
と、男は言ったが、|諦《あきら》めの口調になっていた。
しばらく、相手の話に耳を傾けていたが、ため息をついて、肩をすくめると、
「分りました。――何て|娘《こ》です?」
メモ用紙に手をのばす。「――|芳《よし》|村《むら》――|志《し》|乃《の》ですね。――ええ、分りました。何とかしますよ。でも――」
男は、少し声を低くして、
「くれぐれも、無茶はやめて下さいね。去年みたいなこと……。後で、また苦労しますからね。――ええ、分りました」
受話器を置くと、男はすっかり眠気もさめた様子。メモを手にして、
「芳村志乃か」
と、|呟《つぶや》くと、首を振って、「|可哀《かわい》そうに」
と、もう一度ため息をついた。
「志乃。――ねえ、志乃」
|伸《のぶ》|子《こ》がくり返して呼ぶと、やっと志乃は我に返った。
「ん? どうしたの?」
「何よ、人が話しかけてんのに、聞いてないんだもの」
「ごめん。ちょっと考えごとしてて」
志乃は、食事を続けた。
夕食のテーブル。――もちろん、志乃と伸子の母親たちも一緒だが、母親は母親同士、娘は娘同士でしゃべっている。
母親は|専《もっぱ》らテニスの話、娘は例のロケ隊の話では、かみ合うわけがない。
しかし、その娘同士の話でも、志乃の方は、心ここにあらず、という様子だったのである。
「フン、どうせ私にゃ分らない、高尚なことを考えてたんでしょ」
と、また伸子がすねる。
「何ですか、伸子、その言い方」
と、母親も、注意する時だけは娘の方を向く。
「いいんです」
と、志乃が言った。「私が、ちょっとぼんやりしてたから」
もちろん、志乃がぼんやりしていたのには理由がある。伸子には、想像もつかなかっただろうが。
「ね、志乃」
と、伸子が、身を乗り出して、「私、突き止めちゃった」
「何を?」
「|永《なが》|谷《たに》|聡《さと》|子《こ》の泊ってるルームナンバー」
「そう」
「今夜、サインもらいに行こうかなあ。――志乃、行かないでしょ?」
「そうね。行ってもいいわ」
「無理しなくてもいいわよ。興味ないんでしょ」
「そんなことないよ」
と、志乃は、ナイフとフォークを置いて、「めったなことじゃ、会えないもんね」
「そうよ。じゃ行く?」
「うん。でも、今夜、撮影とか言ってたじゃない」
「このホテルの裏でやるんだって、ロケ」
「へえ。よく調べたね」
と、半ば|呆《あき》れて、「遅くまでやるんじゃないの?」
「いいじゃない。明日昼まで寝てりゃ」
こういうことに関しての、伸子の熱心さには、とてもかなわない。
「OK。付合うわ」
と、志乃は笑って、言った。
もちろん、母親たちはいい顔をしないだろう。でも、テニスの話で夢中だ。志乃たちが何を話していたって、耳になんて入りゃしないのである。
「ほら!」
と、伸子が言った。「出て来た!」
志乃が振り向くと、ちょうど、永谷聡子や|君《きみ》|永《なが》はじめが、食事を終って、奥の部屋から食堂の中を抜けて出て行くところだった。
志乃の目は、永谷聡子を追っていた。
周りをスタッフらしい人たちに囲まれていても、永谷聡子は目立っている。ハッと人の目をひくものが、そこにはあるのだ。
アイドル。――スターの|輝《かがや》き。
私も[#「私も」に傍点]、と志乃は思った。私もああして[#「私もああして」に傍点]、輝くようになるかもしれない[#「輝くようになるかもしれない」に傍点]。
君はスターになれるよ。
本当かしら? ただのお|世《せ》|辞《じ》かもしれない。
でも、まるで見も知らない人が、どうしてお世辞なんて言う必要があるだろう?
東京へ出て、タレントになってみないかい? 歌や映画、TV。――|一《いっ》|旦《たん》人気が出れば、何でもやれるよ。
あの人[#「あの人」に傍点]はそう言った。
でも――そんなこと、可能かしら?
志乃は、その時、
「私、そんな気持、ありませんから」
とは、答えなかったのだ。
代りに、口から出ていたのは、
「母がうるさいから……」
という言葉だった。
「説得してあげるよ。その点は任せてくれ」
と、自信たっぷりに、その人[#「その人」に傍点]は言った。
「学校も私立だし、うるさいんです」
そう言いながら、志乃は、それが言いわけにならないことを、知っていた。東京へ行けば、当然学校だって変らなくてはならないのだから。
「そのまま平凡に卒業して結婚なんて、つまらないじゃないか。君には、もっと充実した青春を送る資格がある」
青春……。そう、一度ぐらい、人生の中に何か変ったことが、冒険があってもいいんじゃないかしら?
「――ね、志乃、見に行かない? 撮影の準備してるよ、きっと」
と、伸子が言った。
「え? ああ、そうね」
志乃は|肯《うなず》いて、「でも、外は結構涼しいわよ。虫にさされるのもいやだし……」
「そんなこと言って! 行きたくないんでしょ」
「そうじゃないの。着替えようよ。寒くないように。ね?」
実際、夜になると、昼間の猛暑が|嘘《うそ》のように涼しくなる。何度もここへ来て、よく分っているのだ。
「いいわ。じゃ、行こう」
「うん」
志乃は、席を立つと、「お母さん、部屋に戻って着替えるから、キーちょうだい」
「はい。――だけど、あの人なんか、いくらテニスやっても、ちっともやせないじゃないの!」
母親は、ろくに志乃の言葉など、聞いていない。
――志乃たちは、それぞれ部屋へ戻った。
「あら」
志乃は、明りをつけて、ドアの下にさし込まれていた白い紙を拾い上げた。
メモだった。――それを見て、志乃の胸が高鳴った。
やっぱり! |冗談《じょうだん》でも何でもなかったんだわ!
志乃は、鏡の中を|覗《のぞ》き込んだ。――|頬《ほお》を紅潮させた一人の少女。
|可愛《かわい》いわよ、あんた。きっとスターになれる。
そう。永谷聡子みたいに、付き人がついて歩き、「次はインタビュー……。それからTVの録画、グラビアの撮影……」
忙しいわねえ。少しは休みたい!
しょうがありませんよ。人気があるんだから。人気がね! ファンが求めてるんだから!
そう。――ファンの夢を裏切っちゃいけないわ。どんなに疲れていても、ファンには笑顔で手を振ってあげなくちゃ。
鏡の中の自分に、志乃は、ニッコリと笑いかけた。――このえくぼ[#「えくぼ」に傍点]が、とっても|魅力的《みりょくてき》なのよね。
ドアを|叩《たた》く音がして、
「志乃! 行こうよ!」
と、伸子の声がした。
「待って!」
志乃はあわてて、そのメモを|握《にぎ》りつぶし、くずかごへ放り込んだ。それから、ちょっとためらって、またそのメモを拾い上げ、
「すぐだから、待って!」
と、ドアの方へ声をかけておいて、メモを今度はきちんと折りたたむと、鏡の裏側へと押し込んだ。
着替えるのには五分とかからない。
「――お待たせ」
と、ドアを開けると、もう伸子は、ふくれっつらだ。
「早く行こうよ!」
「うん」
二人は、|廊《ろう》|下《か》を足早に歩いて行った。
夜、七時半になるところだった……。
ドアをノックする音で、|啓《けい》|子《こ》は目を開けていた。――すぐに聡子の方を見る。
聡子は眠っていた。時計を見ると、朝の七時過ぎだ。
|誰《だれ》かしら?
腹立たしげに、息をついて、啓子はベッドを出た。――ツインルームに、エキストラベッドを入れて、聡子と|恵《けい》|一《いち》、それに啓子の三人で眠っているのだ。
トントン、とドアをノックする音が、また聞こえた。
これでもし、ファンか何かが、
「サイン下さい」
とでも、顔を出そうものなら、啓子にジロッとにらみつけられるに違いない。
何しろ、聡子の眠ったのが、午前五時。やっと二時間前のことだ。
夜間の撮影が、のびにのびたのである。
聡子と|君《きみ》|永《なが》はじめのラブシーンで、長くなることは、誰しも予想していた。しかし、いくら何でも四時半過ぎまでかかるとは……。
君永はじめが、ガチガチに緊張していたのが原因で、|峰《みね》|川《かわ》はカンシャクを起すし、見に来ていた|松《まつ》|原《ばら》は渋い顔で口もきかないし、正に、夜中なのに、汗だくの撮影になってしまった。
もっとも、君永にしても同情の余地はある。松原がにらんでいる前で、しかもラブシーンなどめったにやらない。やっても手軽なTVドラマの中のラブシーンで、適当に|格《かっ》|好《こう》をつけておけば|済《す》むくらいのものばかりだったのだ。
それが今度ばかりは通用しない。
峰川は、これが「|生涯《しょうがい》最後のチャンス」と思っているから、絶対にいい加減なところではOKを出さないのである。
「命がけでやれ!」
と、|怒《ど》|鳴《な》られても、アクションシーンが「命がけ」ならともかく、ラブシーンを「命がけ」というニュアンスは、ただ、人がいいだけが|取《と》り|柄《え》のアイドルスターには、とても理解できないに違いなかった。
聡子も、疲れを見せずによく|頑《がん》|張《ば》って、やっと「OK!」が出たのが四時半だった。
もう少しすると、空が白んで来る。そのぎりぎりのところだったのである。
啓子は、ひたすら聡子の体が心配で、君永に腹を立てていたが、当の聡子が、
「そんなこと言っても、無理よ」
と、啓子をたしなめる始末だった……。
ともかく、「命がけのラブシーン」がやっと済んで、このロケも一つの山[#「山」に傍点]を越した感じだった。
今日は一日「|撮休《さつきゅう》」――つまりお休みで、聡子を、好きなだけ眠らせてやろう、と啓子は思っていたのだ。そこへ――ドアのノック。
啓子が、渋い顔になったのも、当然と言えるだろう。
啓子が、ガウンをはおってドアの方へと急ぐと、少し強くノックの音がくり返された。
「はい、どなた?」
と、啓子はドアに顔を寄せて、言った。
「すみません」
と、女性の声がした。「あの――永谷聡子さんのお部屋、こちらでしょうか」
少し|年《ねん》|輩《ぱい》の女性らしい。
チェーンをかけたまま、啓子は少しドアを開けた。
「今、眠ってるんです。何かご用でしたら――」
「すみません」
四十代らしいその女性は、啓子同様、ガウン姿だった。「こんな時間に、ご迷惑だと思ったんですけど……」
どうやら、サインをくれ、という|類《たぐい》の話ではないらしい。啓子は、チェーンを外すと、自分が廊下へ出た。
「あの――娘がいなくなってしまって」
と、その女性は言った。「あ、私、芳村|久《ひさ》|子《こ》といいます。娘は志乃といって、十六なんですけど――」
どうやら、本当に心配そうだ。
一緒に、|親《おや》|娘《こ》らしい二人連れが立っていた。
「私、志乃と約束してたんです」
と、|吉《よし》|原《はら》伸子というその娘が言った。「ずっとロケを見て、その後で、聡子ちゃんのサインをもらおうって」
「でも、この部屋を――」
「ホテルの人から聞いて、知ってました」
「そう」
と、啓子は|肯《うなず》いた。「でも、ここにはみえてませんよ」
「困ったわ……。どこへ行っちゃったのかしら」
と、その母親は|途《と》|方《ほう》にくれている様子だった。
「ずっと、見ていたの? 終りまで?」
と、啓子は、その娘に|訊《き》いた。
「ええ……」
伸子というその娘は、目をそらしていた。
何か隠している、と啓子は直感した。
「それから?――二人で来るつもりじゃなかったの?」
「ええ……。でも、もう遅かったし、明日にしようか、って…‥」
「それだけ?」
と、啓子は言った。「本当に?」
伸子が、|唇《くちびる》をかみしめた。――涙がこぼれる。
「何か知ってるのね」
と、啓子は|優《やさ》しく言った。「話してちょうだい」
「志乃が……行かなきゃいけないって言って」
「どこへ?」
「誰かの……|部《へ》|屋《や》です」
志乃の母親が、目をみはった。
「まさか――男の人の部屋に?」
「いえ、そういうんじゃなくて」
と、伸子は首を振った。「志乃、『|内《ない》|緒《しょ》だからね』って、打ちあけてくれたんです」
「何を?」
「声をかけられたって。スターにならないかって」
啓子は、息を|呑《の》んだ。
「それは――誰が? 誰がそう言ったの?」
伸子はまた首を振った。
「聞かなかったんです。ただ――ロケに来た人の誰かだってことは分ってたけど」
「じゃ、その人の部屋に?」
「呼ばれてる、って。――夜の撮影が終ったら来てくれって言われてるんだって。|止《と》めれば良かった!」
啓子は、ゆっくりと息を|吐《は》き出した。
誰がそんなことを言ったにせよ、朝の五時ごろのはずである。そんな女の子が部屋へ来たら、明日、改めて、と帰すのが当然だ。それが帰っていないということは……。
いやな予感がした。
聡子の親友だった|東《あずま》ルミ子も、部屋へ入れられて、乱暴されたのではないか。
今、七時過ぎだ。もし、志乃という子が、その「甘い言葉」を|囁《ささや》いた男の所へノコノコ出かけて行ったとしたら、もう手遅れだろう。しかし――。
「お待ちになっていて下さい」
啓子は、そう言って部屋の中へ入ると、電話の方へ駆け寄った。
「――もしもし、交換台? ロケ隊の関係者の部屋へ全部電話をかけて、ロビーに大至急集まるように言って下さい。――そう。一つ残らず。急いでね」
受話器を置くと、聡子が起き上っていた。
「どうしたの?」
「あなたの親友の二の舞かもしれない」
と、啓子は言った。「ともかく、ロビーへ全員集めたわ」
「誰が?」
「うちの誰かが、泊り合せた女の子に、『スターにしてやる』ってもちかけたのよ」
聡子は、それで事情を察したらしい。すぐベッドを出て、パジャマ姿の上に、カーディガンをはおった。
「じゃ、ロビーに行きましょう。誰が遅く来るか、見た方がいいわ」
「そうね。恵一君は寝かしとくから」
二人は廊下へ出た。
13 再び――
「おい、一体何だよ」
と、|剣《けん》|崎《ざき》がぼやきながらやって来る。
「やっと来たわね」
と、|啓《けい》|子《こ》は言った。「一番最後よ」
「仕方ないだろ」
と、剣崎はロビーに集まったスタッフ、キャストの顔を見回して、「朝まで付合ってたんだ。それにもう若くないんだぜ」
「説明してほしいわね」
と、むくれているのは|井《い》|関《せき》|真《ま》|弓《ゆみ》である。
「ケイちゃんが、いい加減なことで、みんなを起すわけはない」
と、|松《まつ》|原《ばら》が言った。「何があったんだ?」
「すみません、突然、|叩《たた》き起こして」
啓子は、みんなを見渡しながら、「実はここに泊り合せた女の子が、姿が見えないんです」
啓子は、このロケ隊の誰かが、その娘に、「スターになれる」と声をかけたらしい、と説明した。
「勝手にどこかの男の所へ行ってんじゃないの?」
と、スタッフの一人がグチった。
「よせ」
と、|峰《みね》|川《かわ》がたしなめる。「母親がそこに来てるんだぞ」
「はあ」
「ケイちゃんの言う通りだ。もし、この中の一人が、妙な下心でその女の子を|誘《さそ》ったとしたら、大問題だぞ」
「監督の言う通りだ」
と、松原が|肯《うなず》く。「ケイちゃん、見当はついてるのかい?」
「いいえ」
啓子は首を振った。「申し訳ありませんけど、全部のキーを貸して下さい。私が、全部の部屋を調べて回ります」
「何ですって!」
と、真弓が|甲《かん》|高《だか》い声を上げた。「あんた、何のつもり? たかが|付《つき》|人《びと》のくせに!」
「いいじゃないか」
と、松原が言った。「別に調べられて困ることもあるまい」
「もちろんよ! だけど――」
「お待ち下さい」
と、声があった。
「|畠《はた》|中《なか》さん」
啓子が振り向いて、「起きてらしたの?」
「廊下が騒がしかったので、目が覚めましてね」
畠中は、今まで眠っていたとは思えない、いつもと少しも変らない顔つきだった。
「じゃ、話を聞いてらしたんですか」
「ええ。――あなたの処置は大変適切だったと思います」
「どうも」
「いかがでしょう。その役は、私が引き受けましょうか」
啓子としても、それはありがたい申し出だった。何といっても、スタッフの間のプライバシーに踏み込むことになるので、内心気が重かったのである。
「じゃ、お願いしますわ」
と、啓子は言った。「ベテランの刑事さんなら、安心ですし」
「あまり買いかぶらないで下さい」
と、畠中は照れくさそうに言って、「もし異議がなければ、早速キーを集めたいと思いますが」
今度は、|誰《だれ》からも|文《もん》|句《く》は出なかった。
キーを受け取って、ルームナンバーと名前をメモすると、畠中は急ぎ足でロビーから姿を消した。
――誰もが口をきかなかった。
|聡《さと》|子《こ》は、離れた所に座っていた|吉《よし》|原《はら》|伸《のぶ》|子《こ》の方へ歩いて行った。
「心配ね」
と、聡子が声をかけると、伸子は、黙って|肯《うなず》いた。
聡子は、並んで腰をおろすと、
「――|志《し》|乃《の》さんっていったわね、その子? どんな人に声をかけられたのか、言わなかった?」
と、|訊《き》いた。
伸子は首を振って、
「何も……」
「そう」
「そんなこと、全然興味のない子だったのに……。私の方がミーハーで、いつも一人ではしゃいでて……。まさか志乃が――」
「落ちついて。きっと何でもないわよ」
と、聡子は、伸子の肩を、そっと|叩《たた》いて言った。
――しかし、約三十分の後、畠中は、結局何一つ得るところなく、戻って来たのである。
聡子が目を覚ましたのは、もう午後の二時だった。
朝の騒ぎで起き出して、また寝直したら、こんなに寝てしまったのである。
「啓子さん……」
と、起き上って部屋の中を見回したが、啓子も|恵《けい》|一《いち》も見当らない。
テーブルに、ルームサービスの昼食が、用意してあるのを見たとたん、聡子のお腹がグーッと鳴った。
「いやだ!」
と、|呟《つぶや》くと、ベッドを出て、バスルームへ行く。
シャワーを浴びて、スッキリすると、昼食をアッという間に平らげてしまった。
コーヒーを飲んでいると、ドアが開いて、恵一が入って来た。
「お姉ちゃん、起きたの」
「今ね。――啓子さんは?」
「庭にいる」
「庭に?」
聡子は|訊《き》き返した。「あの暑い所に?」
いくら木は多くても、昼間は暑い。
「警察の人と|一《いっ》|緒《しょ》だよ」
と、恵一が言った。
「警察? 畠中さん?」
「ううん。ここの警察」
「――どうして庭に?」
「今朝、何かやってたんだろ? 女の子がどうとか」
「それが?」
「見付かったって。――殺されてたんだ、庭で。だから……」
聡子は、二、三分で服を着て、部屋を出た。
庭へ出てみると、木立ちの奥に、人が集まっているのが見える。
聡子は、足早にそこへ向って歩いて行ったが、
「|永《なが》|谷《たに》聡子だ!」
と、誰かが|叫《さけ》んだと思うと、たちまち、カメラマンや記者に取り囲まれてしまった。
「聡子ちゃん! 事件について、何か一言!」
「被害者はファンだったって聞いて、どう思った?」
次々に質問が飛んで来る。しかし、答える気にはなれなかった。
「――何とか言ってよ!」
「聡子ちゃん、カメラの方に――」
と、声が飛び交っているところへ、
「どいて!」
と、割り込んで来たのは、啓子だった。「聡子ちゃんは、事件のこともまだ知らないんですよ! ほら、どいて!」
啓子が力まかせに記者を押しのけ、
「来るのよ!」
と、聡子の腕をつかんで、ホテルの方へ戻って行く。
「聡子ちゃん! 何かコメント」
「一言でいいから!」
と、追いすがる記者たちを振り切って、啓子と聡子は、ホテルのラウンジへ逃げ込んだ。
「――ごめんなさい」
と、聡子は、ソファにかけて、「考えなかったわ」
「いいのよ。――聞いた?」
「恵一から」
聡子は啓子を見て、「――やっぱり?」
「あの奥で、乱暴されて殺されてたわ」
聡子は、思わず目を閉じた。
啓子は続けて、
「今のところ、うちのスタッフが犯人らしいってことは、まだTVも新聞もかぎつけていないわ。撮影は予定通りにやるでしょうね」
「殺された子の親はどう思う?」
と、聡子は言った。
「気持は分るけど、仕方ないわよ」
啓子は、慰めるように、「私たちが何もしないでここにいても、捜査の役には立たないわ」
「それはそうね」
聡子は、ゆっくりと息をついて、言った。「でも――きっと同じ|奴《やつ》ね、犯人は」
「あなたの友だちの時と? そう。可能性は高いと思うわ。もちろん、別の人間ってこともありうるし、あの子がたまたま庭へ出て、ちょうど|居《い》|合《あ》わせた男に襲われたとか……」
しかし、この説にかなり無理があることは、啓子自身も認めないわけにはいかなかった。
「そうじゃないわ」
と、聡子は言った。「やっぱり、やったのはロケ隊のメンバーの一人よ。そして、ルミ子をあんな目に|遭《あ》わせた奴だわ」
「聡子ちゃん」
啓子は、聡子の言い方に、ふと不安を|覚《おぼ》えた。
「何か隠してることがあるの?――ねえ?」
聡子は、少し間を置いてから、|肯《うなず》いた。
「部屋に電話があったの。向うも知ってるのよ、私がルミ子のこと、調べてるのを」
「何ですって?」
――啓子は、聡子の話を聞いて、青くなった。
「どうしてすぐ言わなかったのよ!」
「ごめんなさい」
と、聡子は謝った。「でも、ルミ子のことは、私の|闘《たたか》いなんだもの。できるだけ、啓子さんにも|迷《めい》|惑《わく》かけたくなくて」
「そんな風に気をつかってくれるのが、|却《かえ》って迷惑よ」
「そうね」
「それに、成り行きで、こんなことになっちゃったけど、今、あなたのファンが、日本中に何十万人もいるのよ。忘れないで」
「うん。――分ってる」
と、聡子は|肯《うなず》いた。
ロビーの方がざわついた。
聡子が、立ち上って、ロビーの方へ目をやる。――少女の死体が運び出されるところなのだ。
フラッシュが|光《ひか》り、TVカメラのためのライトがロビーの中に飛び交う。
母親が、泣くのも忘れたように|呆《ぼう》|然《ぜん》として、|付《つ》き|添《そ》っている。
「――二度と」
と、聡子が言った。「もう、二度と」
「そうよ」
啓子が肯く。
「啓子さん」
聡子は、ゆっくりと腰をおろすと、「私、何もかも畠中さんに話そうかと思うの」
啓子は、考えてもいなかったので、ちょっとびっくりした。
「あなたの友だちのこと?」
「もう、私一人の仕返しじゃなくなったわけだし。――今度は、はっきりした人殺しなんだから」
「そうね。それがいいかもしれないわ」
啓子も、同意した。「――あ、畠中さんだわ」
ちょうど、畠中が警察の車を見送って、ロビーに戻って来るのが見えた。
呼ばれなくても、啓子たちの姿を見かけてやって来る。
「――いや、気が重いですよ」
畠中は、腰をおろして、コーヒーを注文した。
「少し頭をスッキリさせたい」
それから、気が付いて、
「お邪魔じゃありませんか?」
と、二人の顔を見た。
「いいえ。ちょうどお話ししたいことがあったんですの」
と、啓子は言った。「ね、聡子ちゃん」
「ええ。――畠中さん。今日の犯人はきっと、私の友だちも殺してるんです。いえ、直接にじゃないけど、殺したも同然なんです」
畠中は、|座《すわ》り直した。
「話して下さい」
聡子は、東ルミ子の身に起ったことを、話し始めた……。
「――何てことだ」
一通りの話を聞き終えて、畠中はまずそう言った。
「そんな危いことをしてたんですか、あなたは」
「私は用心してますもの」
聡子は言った。「啓子さんもついていてくれるし。――それより気になるのは、今日殺された子のことです」
「|芳《よし》|村《むら》志乃のことですね」
「もし――犯人が、私に対して見せつけようとして、あの子を襲ったのだとしたら……。そうだったら、私がその子を殺したようなものですから」
聡子は、目を伏せた。
啓子も、そこまでは考えていなかった。確かにその可能性はある。そう認めるのは、聡子にとっては|辛《つら》いことだろうが。
「いいですか」
と、畠中が言った。「『殺したようなものだ』というのと、『殺した』というのは、天と地ほど違うんです。自分を|叱《しか》るエネルギーを、犯人への怒りに加えるべきですよ」
聡子は、ゆっくりと目を上げ、畠中を見ると、
「そうですね」
と、|肯《うなず》いた。「ありがとう。そうおっしゃっていただいて、少し気が楽になりました」
畠中が|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「天下のアイドルにそう言われるとは、光栄ですね」
天下の、とはまた古くさいが、この刑事には、いかにも|似《に》|合《あ》った言い方である。
「――では」
と、畠中が手帳を取り出すと、「そのお友だちがひどい目に|遭《あ》った時に、その町にいた人たちの中で、今、このホテルにもいるのは、|誰《だれ》と誰です?」
「ええと……」
啓子が、考え込んで、「大勢います。そのために集めたスタッフですもの」
「ともかく、|挙《あ》げてみて下さい」
「役者さんでは、うちの剣崎、それに松原さん。当然、井関真弓も|一《いっ》|緒《しょ》でした。――ただ、その日[#「その日」に傍点]に一緒だったかどうかは分りません。ずっとついて歩いていたわけではないので」
「そうでしょうね。もし一緒だったら、松原はそんなことをしなかったでしょう」
と、畠中は言った。「あの若いのは?」
「|君《きみ》|永《なが》はじめですか?――まさか!」
と、思わず啓子は言った。「まだデビュー前でしょう。でも……」
「どうしました?」
「そう。――もしかしたら、松原さんにくっついて来ていたかもしれません」
啓子は首を振って、「たいていあれぐらいのスターになると、何人か連れて歩いていますから。デビュー前なら、イメージも今とは違うでしょうし」
「でも、ずいぶん若くない?」
と、聡子が言った。
「そうでもありませんよ」
と、畠中が言った。「調べさせました。君永はじめ、実際には二十四歳です」
「二十四!」
啓子と聡子は、一緒に声を上げていた。
「見かけほどの世間知らずの|坊《ぼ》っちゃんではありません。高校を中退して、一時はかなりグレていたようです」
「どことなく、|粗《そ》|暴《ぼう》な印象は受けましたわ。でも――二十四なんて!」
と、聡子が首を振る。
「付合う時はそのつもりで」
「用心します」
「――他は、役者さんでは?」
「他にはいないと思います」
「小林準一は?」
「あの人はいませんでした。いれば|憶《おぼ》えていますわ。他には、峰川監督、後、助監督が何人か……」
「同じ人が?」
「ええ。剣崎が集めたんです。――|却《かえ》って犯人捜しが面倒になりましたね」
「いや、何も手がかりがないのに比べれば、あり過ぎた方がいい」
と畠中は言った。「検死の結果で、血液型などが分るでしょう」
「調べますか、全員を?」
「いや、そこまでやる必要はないと思いますね」
と畠中は言った。「撮影を中止することになってしまうんじゃありませんか、それでは」
「そうですね」
「でも、中止した方がいいのなら、そうすべきだわ」
と、聡子が言った。
「いや、続けていただいた方がいいんです」
「そうでしょうか」
「もし、中断して帰京されてしまったら、それこそ捜査が進まなくなります。ロケの間は少なくとも、全員がここから動かないわけですからね」
なるほど、と啓子は思った。
「――ケイちゃん」
と、峰川がやって来る。
「監督。何ですか?」
「聞いたよ。今朝の子のことだろ?」
「そうです」
「ひどい|奴《やつ》がいるもんだな」
峰川は、ため息をついた。「――聡子君、すまないが、今夜、少し|撮《と》っておきたいんだ」
「分りました」
と、聡子は即座に言った。
「シーン32だ。セリフは入ってるかね?」
「大丈夫だと思いますけど、やっておきます」
「頼むよ。この騒ぎで、影響が出ないとも限らん」
峰川は気が気でない様子だった。せっかくここまで順調に来たのに、という思いがあるのだろう。その気持は啓子にもよく分った。
「全く、あんなことをした奴が、うちのスタッフにいたら、|俺《おれ》がしめ殺してやる!」
「監督、カッカすると体に悪いですよ」
と、啓子は言ってやった。「何もそうと決ったわけじゃないんですから」
「そりゃそうだけどな」
「何時からにします?」
「そうだな。七時にはテストをやりたい」
「分りました」
「じゃ、後で電話するよ」
峰川は、ちょっと手を上げて見せ、歩いて行った。
「――大変ですな」
と、畠中は言った。
「ええ。これをライフワークにするんだといって……。終ってガックリ来ないか心配ですわ」
啓子の言葉に、畠中は|微《ほほ》|笑《え》んで、
「私は、無事に終ってくれなけりゃ、ガックリ来ますね」
と言った。
「刑事としてですか?」
「ファンとしてです」
畠中は、軽く聡子に向って|会釈《えしゃく》した。
14 姉と弟
しかし、その夜の撮影は、いつになく熱気もあって、順調に進んだ。
結局、撮るつもりのなかったシーンまで、勢いづいて撮ってしまったくらいである。
|啓《けい》|子《こ》としては、あんな事件の後でもあり、みんな気が乗らないのではないかと気にしていたのだが……。
|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》なもので、みんな気にしているからこそ、|却《かえ》って仕事に打ち込んで、余計なことを考えまいとするのである。
いつもなら不平ばかり言っている|井《い》|関《せき》|真《ま》|弓《ゆみ》までも、|峰《みね》|川《かわ》が|冗談《じょうだん》に、
「どうしたんだ、今日は?」
とからかうほど「乗って」いた。
そして、乗って来れば、さすがに真弓も日本の代表的な女優の一人と言われるだけの光るものを見せてくれるのだった。
「――いいことだ」
と、|松《まつ》|原《ばら》が、腕組みをしながら言った。
「え?」
啓子は、松原がそばにいるのも知らなかったので、びっくりして振り向いた。
「いや、真弓のことさ」
松原は、一つのカットを撮り終えて、カメラの位置をかえる間、のんびりと林の中を歩いていたのだ。
「――真弓さん、今夜はいいですね」
と、啓子が言うと、
「うむ」
松原は|肯《うなず》いて、「何より、あの子が、いい|刺《し》|激《げき》だよ」
「|聡《さと》|子《こ》ちゃんですか?」
「自分にも、あんなころがあった、と思い出せば、人間、たいていのことはやれるもんさ。特に役者はね」
「でも、もともと光るものを持ってなきゃ無理ですわ」
松原は、ちょっと笑って、
「|俺《おれ》はここ[#「ここ」に傍点]に持ってる」
と、薄くなった頭を|叩《たた》いて見せた。
「まあ」
啓子は笑った。
近寄りがたいと思われているスターが、こんな風に気さくなところを見せてくれると、ホッとするものである。
「――心配なのは、|君《きみ》|永《なが》だ」
と、松原が言った。「|俺《おれ》の目に狂いはない、と言いたいところだがな……」
「光るものが?」
「あると思うかね、ケイちゃんは」
「さあ」
啓子は首をかしげた。
「正直に感想を言ってくれ。――君はああいう新人を、ずいぶん近くで見て来ただろう」
「ええ、まあ……」
「俺はだめだよ。役者だからね。人の素質を見抜くなんてのは、柄じゃない」
「まあ、今のままだと、役者としての大成は|難《むずか》しいんじゃありませんか?」
と、啓子は言った。「でも、アイドルタレントとして、そこそこにはやって行けると思いますけど」
「うん。俺もそう思う」
松原が肯いた。「この映画も、やっぱり荷が重かったかな」
「でも、峰川さんが、|粘《ねば》ってますから」
「充分な出来とはいえまい。――まあ、いつか|詫《わ》びとこう」
松原は、ふと誰かがそばへ来るのに目をとめた。「何だ、|小林《こばやし》君か」
小林|準一《じゅんいち》である。いつも、役柄が地味なせいもあるだろうが、何となく、どこにいても目立たない男だ。
「どうも」
と、松原に|会釈《えしゃく》すると、「妹がいつも」
「いや、このところ、少々|隙《すき》|間《ま》|風《かぜ》でね」
と、松原が気楽に言った。「言っていなかったかい?」
「そうですね。妹は何とも」
「君の出番は?」
「明日からです」
「そうか。よろしく頼む」
小林準一は、ただ黙って頭を下げると、また、いつの間にか、という感じで、どこかへ行ってしまった。
「――不思議な人ですね」
と、啓子は言った。
「あの男は、好かない」
と、松原が顔をしかめる。
「どうしてですか?」
「何を考えているのか、よく分らないんだ。|愛《あい》|想《そ》|良《よ》くはしてるが、内心、俺のことは憎んでるはずだ」
「まさか」
「本当さ。ただ、俺に|逆《さか》らうと|損《そん》だと思って、ああしておとなしい」
「真弓さん、やっぱり聡子ちゃんのことで怒ってるんですか?」
「それもあるだろうが、もともと限界さ。わがままなもんだからな。スターなんて|奴《やつ》は」
松原は苦笑した。「今、真弓には男がいるはずだ」
「今?――このロケ地にもですか?」
「来ているはずだ。誰だか知らんが、様子を見てりゃ分る。男と寝た翌朝の顔はな」
そうか。それで、今朝、全員の部屋を啓子が調べると言った時、|猛《もう》反対したのだ。
たぶん男がいたか、少なくとも部屋の中が、そうと分るようになったままだったのだろう。
でも|誰《だれ》が?
もちろん、もし見ていたとしても、|畠《はた》|中《なか》は何も明かすまいが、それにしても、松原が同じホテルにいると知っていて、真弓の部屋へ|忍《しの》んで行くとは、相当の度胸の持主である。
「――啓子さん」
と、聡子がやって来て、松原に頭を下げる。
「いいね。一日ごとに良くなる」
「ありがとうございます」
「どうしたの?」
「汗かいちゃって。――シャワーを浴びて来るわ」
「じゃ、行きましょう。松原さん、失礼します」
啓子は、聡子と一緒に、ホテルの部屋へと戻って行った。
「|恵《けい》|一《いち》、ちゃんと宿題やってんのかしら」
と、聡子がドアをノックする。「恵一。――開けてよ。恵一!」
返事がない。
「どこかに行ったんじゃないかしら」
と、啓子は言った。「キーは?」
「持ってないわ。だって、恵一がいるから……。眠ってるのかも。――恵一!」
強くドアを|叩《たた》いたが、何の反応もない。
「しょうがないわ。フロントで、キーを借りて来ましょ」
「全く! 何やってんのかしら!」
と、聡子はため息をついた。
と、何かが足に当る。
「あら。キーが落ちてる」
「本当だわ」
なぜこんな所に?――啓子は首をかしげて、拾い上げた。間違いなくこの部屋のキーだ。
ともかく、中へ入ってみる。
「恵一――」
と、言いかけて、聡子は息を|呑《の》んだ。
「まあ」
部屋の中に、恵一の勉強道具が散乱していた。|椅子《いす》も引っくり返っているし、スタンドも床に|転《ころ》がっていた。
「何があったのかしら?」
「分らないわ。――恵一!」
聡子は、バスルームを|覗《のぞ》いた。
「ただごとじゃないわね」
啓子は、椅子を起こして戻すと、「聡子ちゃん。――聡子ちゃん」
バスルームへ入ったきり、出て来ないのだ。啓子も、バスルームへ入って行った。
聡子が、じっと鏡を見つめている。
「どうしたの?」
鏡へ目をやった啓子は、ギクリとした。鏡の上に、口紅で文字が書かれている。
〈弟は預かった。言う通りにしないと〉
思わせぶりに、そこで終っている。
「何てこと! 恵一君を……」
聡子は、固い表情で、
「私のせいだわ」
と、言った。「私が、一人でいい子ぶったりするから!」
「聡子ちゃん……。大丈夫よ。恵一君、しっかりしてるから」
「そんなこと、どうして分るの!」
聡子が、啓子の手を強く払って、「いい加減なこと言わないで!」
――聡子は、大きく息を|吐《は》いた。
「ごめんなさい」
「いいのよ。本当だわ」
と、啓子は、聡子の肩を抱いた。「でも、あなた一人で責任をしょっちゃだめ。私と二人の責任よ。何とか考えましょう」
「ええ」
聡子は、|肯《うなず》いた。
「これはこのまま残しておいた方がいいわ」
と、啓子は鏡の文字を見て、「何かの手がかりになるかも」
「でも――明日、お掃除の人が入ったら、見られてしまうわ」
聡子は、部屋へ戻って、ベッドに腰をおろした。
「でも、|妙《みょう》ね」
と、啓子は考え込んだ。「何の目的で恵一君をさらったりしたのかしら?」
「それは私の――」
「例の犯人を見付けようとしているのをやめさせるため? でも、恵一君は、ロケ隊の人なら、みんなの顔を知っているわ。そんなの逆効果じゃない?」
「恵一を殺すつもりかしら」
「まさか!」
「でも、顔が分ってもいいと思っているのなら……」
「そんな無茶をしないと思うわ。いくら何でも――。殺人狂ってわけじゃないんだから」
「ええ……」
聡子は、しばらく、顔を伏せたまま、動かなかった。
電話が鳴った。聡子がハッと飛び上るように立ち上った。
「私が出るわ」
啓子は受話器を取った。「――はい」
「ケイちゃんか」
峰川の声だ。「聡子君の用意は? できればやってしまいたいんだ」
「あの――監督、実は――」
「どうした?」
「ちょっと聡子ちゃん、頭が痛いんですって」
「本当か? そりゃいけないな」
「今夜は大事を取って、寝かせてやりたいんですが」
「そうか。――うん、分った。大分無理してるからな」
「すみませんが――」
と、啓子が言いかけると、
「啓子さん」
と、聡子がやって来た。「私、やるわ」
「でも――」
「大丈夫。セリフは入ってるし。いつまでもここにいても、どうにもならないもの」
啓子は、聡子の目を見つめて、
「やるのね?」
と、念を押した。
「ええ。シャワーを|浴《あ》びる間、待ってもらって」
「いいわ。――監督、聡子ちゃん、やるそうです」
「大丈夫か?」
「何とか。三十分待って下さい」
「分った。待ってるから、あわてなくてもいいよ」
啓子が受話器を置いた時には、もう聡子は服を|脱《ぬ》いで、シャワーを浴びにバスルームへ入って行っていた。
――何とかして、私が恵一君を取り戻さなきゃ、と啓子は思った。
聡子が、安心して演技に打ち込めるようにするのが、啓子の役目である。となれば、この事件も、啓子が何とかするべきかもしれなかった。
もちろん、まず恵一を安全に取り戻すことだ。
しかし――犯人も、ここへロケ隊[#「ロケ隊」に傍点]の一人として来ているのだろう。
そうなると、恵一をさらって、どこに[#「どこに」に傍点]置いておくのだろうか?
ホテルの中に監禁するなんてことはできっこない。ということは……。
それに犯人の目的も、よく分らない。
「そうだわ」
と、啓子は|呟《つぶや》いた。
今、夜間の撮影に出ていない[#「出ていない」に傍点]誰かがやったに違いない。――そうなると、可能な人間は|絞《しぼ》られて来るわけだ。
ドアをノックする音がした。
「どなた?」
「僕だよ」
|剣《けん》|崎《ざき》の声だ。
「今、聡子ちゃん、シャワーよ」
ドア越しに答える。「何か用?」
「ちょっと、ニュースがあるんだ」
「待って」
啓子は、ドアを開けて、|廊《ろう》|下《か》へ出ると、チェーンを|挟《はさ》んで、ドアが閉じないようにした。
「どうしたの?」
「今ね、ちょっと廊下を歩いてて、見かけたのさ」
と、剣崎は言った。
「誰を?」
「井関真弓の部屋から、こっそり出て来る男[#「男」に傍点]をね」
「真弓さん、今は|撮《と》ってる最中よ」
「十五分ばかり前に休憩で戻ったのさ。見てたよ」
「じゃ、その間に?」
「たぶんね」
「男って、誰?」
「誰だと思う?」
剣崎はニヤリと笑った。「あの|可愛《かわい》い坊やだぜ」
「|君《きみ》|永《なが》はじめ?」
啓子は目を丸くした。
「そう。大胆な|奴《やつ》じゃないか。ボスの彼女に手を出すなんて」
啓子にしても、信じられないような話である。
松原は知っているのだろうか? いや、知っていれば、すぐにも君永を|叩《たた》き出すに違いない。
「――お待たせして」
聡子の声がした。
啓子はドアを開けた。
「あら、剣崎さん」
聡子は、みごとに|微《ほほ》|笑《え》んで見せた。
15 キスの副産物
十一時だった。
夜中である。――いや、|剣《けん》|崎《ざき》の感覚で言えば、そう遅い時間ではない。しかし、こういう場所では、十一時は、もう真夜中なのである。
ただ、その真夜中の一角に、「昼間」があった。まぶしいライト。人々の熱気。
「――OK!」
と、|峰《みね》|川《かわ》が声を上げた。「よし、今ので決りだ」
剣崎はホッと息をついた。
「|監《かん》|督《とく》、もう今夜は寝ていいね?」
「ああ。明日は予定通りだから」
と峰川が手を|振《ふ》って、すぐに、「|聡《さと》|子《こ》君、いいかな?」
「メイクが途中です」
と、助監督の声が返って来る。
「よし。――十五分したら始めよう。おい、レールを、少し動かしてくれ。こっち側へのばすんだ」
峰川は、|正《まさ》に息を|継《つ》ぐ間もなく、次のシーンの準備に入っている。
剣崎は首を振って、
「お気を付けて」
と|呟《つぶや》いた。「――ケイ」
|水《みず》|浜《はま》|啓《けい》|子《こ》の姿が見えない。剣崎は、ちょっと|妙《みょう》な気がした。
色々、|物《ぶっ》|騒《そう》なことがあったのだし、ケイがいないなんて、おかしいじゃないか……。
しかし、もちろん、スタッフは大勢周囲にいるのだし、それにあの|畠《はた》|中《なか》という|刑《けい》|事《じ》もいる。木立ちの|陰《かげ》に、ほとんど目につかないように立っている。
大した男だな、と剣崎は感心した。何気なく立っているようで、畠中の位置からは、常に聡子を見ていられるし、万一、彼女の身に危険が迫っても、大きな障害なしに、|突《つ》っ|走《ぱし》って行けるのである。
ちゃんと、計算した上で、場所を選んでいるのだ。
剣崎は、ホテルの建物の方へと|戻《もど》って行った。もちろん、聡子の弟が|誘《ゆう》|拐《かい》されたなどということは、知らない。
知っていれば、当然、啓子が姿を見せないのはそのせいだと分るのだが、啓子も剣崎にそこまで教えてはいなかったのである。
「――寝るか」
ロケに来ると、することがない。特にこんな山の中では、ホテルといっても、至って早じまいである。
部屋へ戻って寝るぐらいしか、することがないのだ。――いやでも健全な生活を送ることになる。
廊下を歩いて行くと、かすかな足音が後ろからついて来た。振り向くと、若い女がピタッと足を止めた。
「何か?」
と、剣崎は|訊《き》いた。
「あの……。すみません。サインしていただけますか」
「ああ。いいですよ」
剣崎は、|可愛《かわい》い女の子の頼みは、原則として断らない。「何か書くものを?」
二十歳を少し出たぐらいだろうか。少し太った体つきだが、なかなか可愛い顔立ちである。
しかし――どこかで見たような気がする。
差し出された色紙に、サインペンでサラサラとサインをし、日付を書き加える。
「すみません! 大事にします」
「君……。どこかで、会った?」
これは、|下手《へた》な|口《く》|説《ど》き文句の一つである。まるで会ったことのない、しかも声をかける、必然的な理由の全くない女性に何としても話しかけたい時、頭にまずこれ[#「これ」に傍点]を使うと、ともかく、一応のやりとりだけはできるのだ。
しかし、今の場合は、剣崎が正直に|訊《き》いてみたセリフだった。
「あの――」
と、女の子は、ちょっと照れくさそうに、「お|部《へ》|屋《や》のお|掃《そう》|除《じ》で」
「ああ! そうか」
毎日、部屋の掃除に来ている、ここの従業員なのだ。「制服じゃないと、分らないよ。でも、どこかで見たな、と思ったんだ」
女の子は、照れたようにうつむいた。――その|風《ふ》|情《ぜい》が、なかなかいい。剣崎は、|眠《ねむ》|気《け》がさめてしまった。
「待っててくれたの?」
と、剣崎が訊く。
「はい。夕方で終りなんですけど」
「じゃ、夕方から、今までずっと? そりゃ大変だったね」
「|撮《さつ》|影《えい》が始まったんで、二階の窓から、見てました」
「じゃ、僕の出番の終るのを見て?」
「そうです」
「いや、それぐらい気をつかってくれると、ありがたいな」
剣崎は、ちょっと周囲を見回して、「――ちょっと何か飲める所ってないかな。|一《いっ》|緒《しょ》にどう?」
と、言った。
「私、ですか……」
と、目を見開く。
「うん。こっちも一人で飲むんじゃつまらないしね。でも、バーはもう閉ってるんだろう?」
「開けられますよ。フロントの人に頼めば……」
「そうかい? じゃ、|一《いっ》|杯《ぱい》|付《つき》|合《あ》ってくれないか?」
「私……あんまり強くないんですけど」
「一杯だけさ。|構《かま》わないだろ?」
剣崎が|微《ほほ》|笑《え》みかけると、その女の子の口もとにも、笑みが|浮《うか》んだ。
「――|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「うん?――ああ、平気だよ」
剣崎は、|真《まっ》|直《す》ぐ歩いているつもり[#「つもり」に傍点]だった。「どうして、この廊下、こう曲ってるんだい?」
要するに足下がふらついているのだ。
一時間ほど飲んだだけなのだが、このところ、あまりアルコールをまとめて飲んでいなかったせいもあって、よく効いた[#「効いた」に傍点]。
おまけに、付合った女の子が、やたらに強くて、今もほんのり|頬《ほお》を赤くしているだけなのだ。
「君――強いじゃないか」
「そんなこと……」
「いや……。僕が弱くなったのかなあ。そうかもしれんね」
剣崎は、ふらっとよろけると、壁にぶつかった。「――おっと!」
「危い!」
と、女の子が、抱きかかえるようにして支えて……。
剣崎は、彼女の顔を両手で|捉《とら》え、キスしていた。相手も、別にびっくりした風でもなく、おとなしくキスされるままになっている。
「君……|可愛《かわい》いね」
と、剣崎はニヤついた。
「そうですか?」
「うん。――どう? 今夜、もうちょっと、|付《つき》|合《あ》わないか」
「あなたの|部《へ》|屋《や》で?」
「うん」
と言ったが、「いや、うるさい|奴《やつ》がいるからな、何しろ。どこか、いい所、ないかい?」
「部屋は、|鍵《かぎ》かかってますよ」
「そうか」
「かかってないのは、備品室ぐらい」
「何だ、それ?」
「毛布とかシーツをしまっておく部屋です。ちょっと|窮屈《きゅうくつ》ですけど、|居《い》|心《ごこ》|地《ち》は悪くないんですよ」
「へえ。経験済み?」
「いやだ」
と、笑って、「ここで働いてる子で、ちょくちょく使ってる子がいるから、聞いたんです」
「本当かな?」
「本当ですよ」
「よし。じゃ、一つ試してみるか」
「こっちです」
どこをどう曲ったのか、剣崎にはさっぱり分らなかった。
|頑丈《がんじょう》そうなドアが一つあって、そこを開けると、中に短い廊下があり、その両側にドアがある。
「こっちです」
「――|誰《だれ》か使用中ってことは?」
「こんな時間は、|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」
「そうか……」
そのドアを開けると、中は、意外なほど広く、毛布やシーツがたたまれて、山のように積んである。
「なるほど。こりゃいいや」
と、剣崎は笑った。
「ちょっと|埃《ほこり》っぽいですけど」
「なに、暗きゃ分らないさ。――寝るには不自由しないね」
ドアを閉めると|真《まっ》|暗《くら》になる。いくら何でもこれじゃ……。
「ちょっと暗すぎるんじゃないか?」
と、剣崎は言った。「|間《ま》|違《ちが》って毛布にキスしちまいそうだ」
「待って下さい」
と、声がして、|天井《てんじょう》の小さな灯がつく。
「うん。いいムードだ」
剣崎は、積んである毛布の上に腰をおろした。
「君――ちょっと|脱《ぬ》いでみてくれよ」
「|恥《は》ずかしいわ……」
なんて言いながら、どうにも|純情可憐《じゅんじょうかれん》とは|縁《えん》|遠《どお》い手つきで、サッサと服を脱いだと思うと、
「見ないで!」
と言いながら、剣崎に飛びついて行く。
「ワッ!」
剣崎が、圧倒されて引っくり返った。
ラブシーンというよりは、むしろプロレスでもやってる感じで、|正《まさ》に組んずほぐれつ、の|大《だい》|奮《ふん》|戦《せん》。
だが、二人ともいささか|派《は》|手《で》に転げ回り過ぎた。|奥《おく》の方に、ぐっと|盛《も》り高く、天井まで届くかというくらいに積み上げてあるシーツの山が、二人の動きで|揺《ゆ》さぶられ、|徐《じょ》|々《じょ》に、傾いて来たと思うと――ドッと二人の上に|崩《くず》れて来る。
「お、おい――どうなってるんだ!」
たかがシーツや毛布といっても、何十枚、何百枚となれば|結《けっ》|構《こう》な重さである。
二人は、必死で押しのけ、かき分けて、顔を出すと、フーッと息をついた。
「ああ、死ぬかと思った」
剣崎は頭を|振《ふ》った。
「大変だわ。これ――元の通りに積んどかないと」
と、女の子が、うんざりしたような声を出す。
「そうか。僕も手伝うよ」
と、剣崎の方も、つい人がいい。
「|優《やさ》しいんですね!」
と、女の子がキスして来る。
「ね――君、ちょっと。――やっぱりここじゃ、落ちつかないよ。部屋へ行こうよ。こういうことはベッドの上でないと、何だか……」
剣崎が言葉を切ったのは、相手の女の子が、何やらポカンと口を開けて、びっくりしたように目を見開いていたからだ。
「あれ、何かしら?」
「あれって?」
剣崎は女の子が見ている方へ目をやったが……。
「おい!」
|崩《くず》れて来たシーツの山の向こう、壁との|隙《すき》|間《ま》に、押し込まれるようにして、|誰《だれ》かが|倒《たお》れている。いや、|縛《しば》られて、|猿《さる》ぐつわをかまされているのだ。
「明りを! ドアを開けて明るくしてくれ!」
「だって、私――」
女の子はもう|裸同然《はだかどうぜん》の格好なのである。
「それじゃ服を着ろよ」
「|脱《ぬ》いだもの、シーツや毛布の下になっちゃった」
剣崎は、弱い光の下で、シーツの海(?)をかき分けるようにして進んで行った。
「やっぱりか! おい、しっかりしろ!」
|恵《けい》|一《いち》だった。手足を縛られて、猿ぐつわ。気を失っている様子だ。
「何てひどいことを!」
剣崎も、こういう子供がいじめられているのを見ると|猛《もう》|烈《れつ》に腹が立つ。「おい! 手伝ってくれよ。この子を運び出す」
「はい……」
二人がかりで、恵一をかついで、ドアの方まで運んで来ると、|床《ゆか》へおろした。
「――死んでるの?」
と、女の子がこわごわ|覗《のぞ》き込む。
「いや。――|大丈夫《だいじょうぶ》。|失《しっ》|神《しん》してるだけだ」
「知ってるんですか、この子?」
「|永《なが》|谷《たに》|聡《さと》|子《こ》の弟だよ」
「え?――あの[#「あの」に傍点]聡子ちゃんの?」
「そうだ。いや、助かった! 君のおかげだよ」
剣崎は、女の子に|素《す》|早《ばや》くキスした。「僕はこの子をともかく運び出す。君……」
と、チラッと|眺《なが》めて、
「いい体してるね。しかし、今は残念だけど時間がない」
「じゃ、また今度? きっとですね」
「もちろん!」
またのんびりと二人がキスなどしているのを、もし恵一が見ていたら、後できっと|恨《うら》まれただろうが……。
「剣崎さん!」
聡子は、剣崎に飛びつくと、思い切りキスした。剣崎が目を白黒させる。
「ありがとう! 何てお礼を言っていいのか――」
「いや……。まあ、運が良かったのさ」
剣崎はニヤニヤしながら、「何なら後でゆっくりもう一度……」
「もうそれで|充分《じゅうぶん》」
と、啓子が冷ややかに言って、二人を分けた。
「そうです。今は恵一君の話を聞くのが先決ですよ」
と、畠中刑事も、少々ふくれっつらで言った。
聡子が剣崎にキスするのを目の前で見せられて|面《おも》|白《しろ》くないのだ。
「それに、大体――」
と、啓子が言った。「あんな所で何をやってたのよ」
「そんなこといいじゃないの」
と、聡子が取りなすように、「大切なのは結果だわ」
「そうだそうだ」
剣崎が手を|叩《たた》く。
いささか|大人《おとな》げないやり取りが続いた後、
「――恵一、大丈夫?」
と、聡子はベッドに寝ている恵一の方へかがみ込んだ。
「うん……」
恵一はメガネを直して、「ちょっと寝過ぎたみたいだよ」
と言った。
「|呑《のん》|気《き》なこと言って!」
聡子はポンと弟の頭を叩いた。
――しかし、恵一の話では、一向に誰がやったのかは分らなかった。
「ともかく、トントンってドアを叩く音がしたんだ」
「開けちゃったの?」
「うん。だって、まさか……」
それはそうだ。まさかこんな所に押し込みが入るとも思えない。
「で、開けたらさ、スポッと何だか布の袋みたいなのかぶせられて――」
「じゃ、相手の顔は見なかったの?」
「うん。でも一人じゃなかったよ」
「そう。声とかは?」
「全然。そのまま、中へ連れ込まれて、薬みたいなのかがされて……」
畠中と聡子は顔を見合わせた。
「――これじゃ手がかりにならないな」
と、畠中は言った。「もちろん、恵一君のせいじゃないけどね」
「せめて話の断片でも、耳に入らなかったの?」
「|無《む》|茶《ちゃ》言わないでよ」
と、恵一は顔をしかめた。「こう見えても|怖《こわ》かったんだぜ」
剣崎がつい笑い出して、みんなにジロッとにらまれた。
「ともかく、犯人側も|焦《あせ》っているな」
と、畠中は|肯《うなず》いて、「こんな|危《あぶな》いことをして。――しかし、恵一君をエサにして、何をするつもりだったんだろう」
「私が|狙《ねら》いでしょ」
と、聡子は言った。「でも、よく分らないわ。|一《いっ》|旦《たん》口をふさぐくらいじゃ、どうしようもないのに」
「つまり――」
と、啓子が言った。「永久に[#「永久に」に傍点]口をふさぐってことだわ」
「私を殺して? そうね。――もう、犯人の方としては、それしかないんでしょうね。ずっと恵一を|捕《つか》まえとくわけにもいかないんだから」
「他の手で、聡子ちゃんの口をふさぐってわけにはいかないことが分ったのよ、きっと」
「しかし、あの殺された|芳《よし》|村《むら》|志《し》|乃《の》という子といい、この恵一君の|誘《ゆう》|拐《かい》といい、犯人も|大《だい》|胆《たん》だな」
と、畠中は首を振った。「これはもしかすると……」
「何です?」
聡子が見ると、畠中は、ちょっと目を見開いて、
「犯人は恵一君をあそこへ押し込んで、どうするつもりだったんだろう?」
と、言った。
「え?」
「いや、つまりですね、恵一君をあそこへどれくらいの時間、|隠《かく》しておけたか、ということです」
「どうかな」
剣崎が腕組みをして、「もし恵一君が、目を|覚《さ》まして|暴《あば》れたら、いくら手足を|縛《しば》られてても、誰かが気付くだろうね」
「ということは、今夜の内に、恵一君をどこかへ移すつもりかもしれない」
「――そうだわ!」
と、聡子も目を|輝《かがや》かせて、「朝になったら、もう人目があるもの」
「でも、それならどうして初めから、どこかへ運んで行かなかったのかしら」
と、啓子が言った。
「庭を通って運ぶとすれば、無理ですよ」
と、畠中が言った。「庭じゃ、ロケの最中だ」
「それが終るのを、待ってたんだわ」
聡子は、窓へ|駆《か》け|寄《よ》った。
庭では、まだ|後《あと》|片《かた》|付《づ》けの最中である。人が大勢いる。
「今、午前二時半だ」
と、畠中が言った。「朝までは間がありますよ」
「じゃ、犯人は、恵一が助け出されたことを知らないんだから……」
「あの備品室へやって来る!」
畠中はパチンと指を鳴らした。「よし。そこで待ち|伏《ぶ》せしよう。きっと現われますよ」
「いいわ」
啓子が指をポキポキ鳴らした。「取っ|捕《つか》まえて、あばら骨の一本もへし折ってやらなきゃ」
「おっかねえ……」
と、恵一が|呟《つぶや》いた。
「聡子ちゃんはだめよ」
と、啓子が言うと、聡子はむくれて、
「どうして?」
「当り前でしょ! けがでもしたらどうするの?」
「うん……。分ったわ」
「剣崎さん。あんたはね、ここで聡子ちゃんと恵一君の|護《ご》|衛《えい》」
「分ったよ」
剣崎は大体、暴力の苦手なタイプである。ホッとしたように、|肯《うなず》いた。
「でも、例の女の子がしゃべらないかな」
「そうね。ペラペラしゃべりまくられたら、困るわ。――じゃ、剣崎さん、ここへ呼んで、お話でもしていれば?」
「ここで?」
「何ならラブシーンでもいいよ」
と、恵一が言った。「見学してるから」
16 二つの顔
問題は、ないわけではない。
啓子は、畠中と二人で、備品室の中に、身を|潜《ひそ》めていた。――もちろん、弱い明りだけはついていたが、|隅《すみ》の方は暗がりになって、そこに身を潜めると、まず目につかない。
|崩《くず》れ落ちたシーツや毛布の山も、何とか元に近い形まで、回復[#「回復」に傍点]していた。
「聡子ちゃんの気持は分りますがね」
と、畠中が、低い声で言った。「しかし、こうなっては、もう内密に、というわけにはいかないでしょう」
「ええ」
啓子にも、その点は分っている。――あの暴行殺人があって、事情は大きく変った。
聡子は、もし犯人が|捕《つか》まって、それが映画「殺意のプリズム」のメインキャストかスタッフだった場合、映画そのものが、ここまで来て、「中止」という結果になるのを心配していたのだ。
しかし、聡子の個人的な|復讐《ふくしゅう》を|越《こ》えて、今や、新しい殺人にまで発展してしまっている。――もう、ことは映画一本の運命を越えてしまっているのである……。
峰川さんには気の毒だけど、と啓子は思った。何といっても、ライフワークとして張り切っている。
これが中止にでもなれば、がっくり来ることだろうが、|仕《し》|方《かた》あるまい。
「――しっ」
と、畠中が|囁《ささや》く。「足音です」
そう、足音だった。もちろん廊下はカーペットなので、かすかにしか音がしないのだが、それでも、畠中の|敏《びん》|感《かん》な耳は、それを聞き取っていた。
|近《ちか》|付《づ》いて来る。――そして足音は、備品室の前で止った。
来た! 啓子は息を殺して、ドアが開くのを待っていた。
ドアがカチャリと音をたて、そっと細く開いた。廊下の明りが、細い光の筋になって、|床《ゆか》へ|伸《の》びる。
中を|覗《のぞ》き込んでいる。
そして、ドアはゆっくりと開いた。
中へ入って来たのは、男だった。シルエットに近いので、良く分らなかったが。
男は、ちょっと|戸《と》|惑《まど》ったように左右へ目をやった。
その時、男の顔が見えた。――啓子はアッと声を上げそうになって、あわてて口を|押《おさ》えた。
|小林準一《こばやしじゅんいち》だ! |井《い》|関《せき》|真《ま》|弓《ゆみ》の兄である。
しかし、なぜ彼が?
自分でも気付かない内に、啓子は、何か音をたてていたらしい。――小林準一は|振《ふ》り向いて、
「|誰《だれ》かいるのか?」
と、声をかけたのである。
畠中が立ち上った。
「小林さんですね。畠中です」
「ああ」
小林は、びっくりした様子で、「|刑《けい》|事《じ》さんですね。――こんな所で、何を?」
「小林さん」
啓子も立ち上ると、「何しに来たんですか、ここへ?」
「やあ、これは……。いや、僕は――」
小林が頭をかく。「手紙がね」
「手紙?」
「そう。ここで待ってるからって……」
「誰から?」
「いや、分らないんだ。部屋へ戻ったら、ドアの下に、これが差し込んであってね」
と、小林がポケットから|紙《し》|片《へん》を出す。
「見せて下さい」
畠中は、それを受け取って広げた。
女の字だろうか。走り書きだ。
〈|撮《さつ》|影《えい》が終ったら、備品室でお待ちしています〉
「誰だろう、と思ったんですがね」
と、小林は肩をすくめて、「でも、まあ行くだけ行ってみようかと」
畠中は、その手紙をポケットへ入れると、ドアから廊下へ出て、左右を見回した。
「やられたな」
と、畠中は|呟《つぶや》いた。「これじゃ、待ってもむだだ」
「犯人の方が一枚|上《うわ》|手《て》ですね」
と、啓子は言った。「小林さん。でも、用心なさった方がいいわ。こんな時ですもの」
「うん……」
小林は、わけが分らない様子で、ポカンとして突っ立っていた……。
朝食は、それでも十時ごろになった。
前の晩、遅くまでやっていたので、みんな眠そうだったが、一応、食堂に全員の顔は|揃《そろ》っていた。
「――全く、しゃくに|触《さわ》るな」
と、畠中が、|珍《めずら》しくしかめっつらをしている。
「でも、本当に小林さん……」
と、聡子が、低い声で言った。
「そう。もちろん可能性はありますよ」
畠中が|肯《うなず》いて、「わざと、あのメモを自分で書いて持っていれば、言いぬけられますからね」
「でも、もし本当に犯人があれを小林さんの部屋へ入れておいたのなら、頭のいい|奴《やつ》だわ」
と、啓子はコーヒーを飲みながら言った。
「そうですね。小林さんを行かせておいて、自分はどこかに隠れて様子を見ている。何でもなければ、小林さんも、あのメモがいたずらだったんだろうと思って帰って行く。その後から入って、恵一君を運び出せばいいんですから」
「僕、どこへ運ばれることになってたのかなあ」
と、恵一が言った。「どうせなら、宿題をやる前にしてほしかった」
「何言ってんの」
と、聡子は恵一をつついた。「あの世へ運ばれてたかもしれないのよ」
「それはちょっと困るな」
恵一の言い方に、同じテーブルについている啓子や剣崎が笑い出した。
「おはよう」
峰川が、早々と食事を終えて、聡子たちのテーブルの方へやって来た。
「|監《かん》|督《とく》、おはようございます」
「今日も暑そうだ。――外で大変だが、頼むよ」
「はい」
聡子は、ニッコリと笑った。
「少しセリフを|削《けず》ったんだ。後で届けるからね」
「分りました」
峰川は、助監督とカメラマンの|宮《みや》|内《うち》を連れて、先に食堂を出て行った。
「――今日は何のシーンですか」
と、畠中が言った。
「今日は大変ですわ」
と、啓子が言った。「ヘリコプターも使うし、かなり|危《あぶな》い場面なんです」
「しかし、もちろんスタンド・インが……」
「用意はしています。でも、聡子ちゃん、自分でやると言ってますから」
「役者ですもの。やらなきゃ」
と、聡子は言った。
「しかし、心配だな、それは」
と、畠中が顔をしかめて、「できるだけ、スタンド・インでやって下さい」
「何とかやれますわ」
と、聡子は言った。
「火薬なんかも使うのよ」
と、啓子は心配そうに、「やけどでもしたら大変」
「もし犯人が何かをしかけて来るとしたら――」
「今日は絶好ですわ。もちろん、犯人の方にも知識が必要ですけど」
「忘れないで下さい。スタジオでセットが|崩《くず》れて来た時のことを」
と、畠中が言った。「私じゃ、聡子さんの代りはできないしな」
半分は本気らしい。
「でも、今のカメラって性能がいいですからね。相当のロングショットでも、顔が見えてしまいます。スタンド・インを使うのも楽じゃないんですよ」
「しかし、聡子さんに万一のことがあっては……」
「大丈夫です」
と、聡子は|微笑《びしょう》した。「|充分《じゅうぶん》気を付けますから」
「僕も目を光らしてるよ」
と、剣崎が言った。
「女の子に、でしょ」
啓子がからかう。
そろそろ立とうか、と思っていると、
「おはようございます」
と、制服姿の、昨夜の女の子がやって来た。
「やあ。ゆうべは――」
と言いかけて、剣崎はあわてて口をつぐむ。
「あの、ちょっとお話が……」
「お二人で?」
と、啓子が冷やかした。
「これ[#「これ」に傍点]なんです」
と、その女の子が取り出したのは、小さなくしゃくしゃの紙きれだった。
「何だい?」
「お|掃《そう》|除《じ》してたんです。あの――昨日、殺された女の子のいた部屋」
と、低い声になって、「そしたら、鏡の裏側に何か見えるので、手を入れてみたら、これが|押《お》し込んであって……」
「見せて」
と、畠中は受け取ると、広げて、「これは――」
と、言葉を切った。
「何ですか」
「呼び出す手紙だ。あの女の子を」
「じゃ、|誰《だれ》が書いたか……」
「いや、そこまでは書いていませんね。しかし、筆跡で分るでしょう。調べてみます。いいものを持って来てくれた」
「どうも」
と、女の子は照れている。
「剣崎さん」
啓子がつついて、「今夜こそ、|付《つき》|合《あ》ってあげたら?」
「そんな……。ねえ、君?」
剣崎だって、|満《まん》|更《ざら》ではないのである。
聡子は、ベッドに横になっていた。
ロケの現場までは車で十分。向こうの準備がしばらくかかるので、まだ出る必要はないのだ。
「――少し眠ったら?」
と、啓子は、スケジュール表を|眺《なが》めて、あれこれやりながら、声をかけた。
「もう眠くないわ」
「恵一君は?」
「ゲームセンター。|大丈夫《だいじょうぶ》。今、ホテルは混んでるもの」
「そう」
啓子は、息をついて、「帰ってから、大変だわ。夏休みの終りまで、全然休みはないわね」
「そんなの|構《かま》わない」
と、聡子は言った。「ただ――無事にすめば」
「|撮《さつ》|影《えい》が?」
「何もかも」
聡子は、じっと|天井《てんじょう》を見上げながら、「ねえ、啓子さん」
「なあに?」
「充分用心するけど……。万全ってわけにはいかないんだし、私でなきゃできない所もあるし……。もし、私に万一のことがあったら、恵一をお願いね」
「ちょっと。――やめてよ、変なこと言わないで」
「ごめん」
と、聡子は笑った。「ただ、念のため、よ」
「大丈夫。あなたは長生きするわ。そういうエネルギーを感じるの」
聡子は、ちょっと笑った。
――しかし、一体誰が恵一を|誘《ゆう》|拐《かい》しようとしたのだろう?
犯人が一人でない、ということが確かなら、つまり|東《あずま》ルミ子に乱暴を働いた人間の内の何人かは、少なくとも、ここへ来ている、ということだろう。
「かなり思い切ったことをやるわね」
と、聡子は言った。
「え?」
「犯人よ」
「ああ。――そうね。|波《は》|乱《らん》|含《ぶく》みね」
「この映画も、どうなるか……。|一生懸命《いっしょうけんめい》やって、オクラ入りじゃね」
電話が鳴った。啓子が取る。
「はい。――え?――あ、社長!」
と、目を丸くして、「いらしたんですか? じゃ、行きます、今」
聡子が起き上る。
「社長さん?」
「ああ、びっくりした」
啓子は首を|振《ふ》って、「|眠《ねむ》|気《け》がさめちゃったわ」
――二人してロビーへ出て行くと、社長の|山《やま》|内《うち》が、ロビーのソファに引っくり返って、ハアハア息をついている。
「いや、暑いな!」
「社長、どうしたんですか」
と、啓子が言った。「|突《とつ》|然《ぜん》みえるんですもの」
「悪いか? 心配になったんだ」
山内は、いつもながら、心配性の顔をしている。
「事件があったんだって?」
「ええ。――でも、今のところは、|撮《さつ》|影《えい》も|順調《じゅんちょう》です」
「ということは、もし、これで何かあれば、損害は大きいってことだ」
「また、社長は心配性なんだから」
啓子は、ニヤリと笑って、「|禿《は》げますよ」
「頭の心配など、してもらわんでもいい」
と、山内は顔をしかめた。「おい、どうだ調子は?」
聡子は|微《ほほ》|笑《え》んで、
「はい。体調もいいです。ここ、空気がいいんですよ」
「そうか」
聡子の元気そうな様子を見て、山内は、やっと安心したようだった。
「社長、お部屋は?」
「まだだ。空きの一つや二つ、あるだろう」
「このシーズンですよ! |訊《き》いて来ます」
啓子が|駆《か》けて行って、フロントにねじ込み、やっと一部屋、もぎ取って来た。
「満室ですよ、表向きは。何とか確保しましたけど」
と、キーを渡す。
「すまん。思い立って出て来たんでな」
山内は、ふと思い出したように、「そうだ、何かニュースがあったぞ」
「何ですか?」
山内は、ちょっと首をかしげて、
「何だったかな」
「社長、もうぼけたんですか?」
「変なことを言うな。――ああ、そうだ」
と、山内は肯いて、「例のカメラマン殺しさ」
「|太《おお》|田《た》っていうカメラマン?」
「そんな名前だったな。あいつがもう一台カメラを持ってたそうだ」
「カメラを?」
「フィルムが|抜《ぬ》かれていたのは|一《いち》|眼《がん》レフだったらしいが、もう一台、レンズシャッター付のカメラが、バッグに入っていて、それに誰かが写っていたらしい」
「へえ!」
啓子は、目をみはって、「じゃ、わざと|違《ちが》うカメラを――」
「そうだろう。フィルムを抜かれたくなかったんじゃないか」
「|隠《かく》しどりなら、レンズシャッターの方ですね。音が小さいから」
「じゃ、誰がうつってたんですか」
と、聡子が訊く。
「それは知らん。――まだはっきり割り出せていないらしい」
啓子は不思議そうに、
「でも、どうして社長、そんなこと、知ってるんです?」
「今、あの畠中とかいう刑事に聞いた」
「畠中さんに?」
「どこだかへ行かなきゃならんから、話してやってくれ、と言ってたぞ」
啓子と聡子は、顔を見合わせた。
畠中は、こんな時にどこへ行ったのだろう?
「――ここにいたのか」
峰川がやって来て、声をかけた。「そろそろ出かけるよ」
「はい」
聡子は、はっきりと答えた。
17 危険な日
|暗《くら》|闇《やみ》の中を、何かが突っ込んで来る。
炎だ。火の|塊《かたまり》だった。――いや、そうではない。火に包まれた車だ。
まるで紙か木ででも出来ているようにその車は、すっかり炎に包まれていた。まるで炎に飾られているかのようだ。
その車が、|啓《けい》|子《こ》に向って、突進して来る。
啓子は、ただ立ちすくんで|呆《ぼう》|然《ぜん》とそれが|真《まっ》|直《す》ぐ自分の方へ向って来るのを見ていた。
そして――そう、|誰《だれ》かが中に乗っている。
手を振っている。何か叫んでいる。
|聡《さと》|子《こ》……。聡子ちゃんだ。
聡子ちゃん!
「啓子さん!」
聡子が叫んでいた。「助けて! 焼け死んじゃう! 助けて!」
「聡子ちゃん!」
啓子は駆け出した。だが、なぜか車は一向に近付いて来ないのだ。
そして、聡子の姿は、炎の中に|呑《の》み込まれて行く……。
「聡子ちゃん!」
啓子は叫んだ。「――聡子ちゃん!」
――啓子は、ハッと起き上った。
激しく身震いする。全身に、汗がふき出していた。
夢だ。――もう何日も、この夢をみていた。
啓子は、大きく息を|吐《は》いた。
部屋の中は、小さな明りが|灯《とも》って、ぼんやりと明るい。もう何時だろう?
いやに、部屋を広く感じる。
そう。――ここはマンションなのだ。
ずっと九州のホテルにいたので、この部屋を広く感じるのだった。
啓子は、ベッドに座って、両手で顔を|覆《おお》うと、しばらく呼吸を整えた。
立ち上って、隣の部屋のドアを開ける。――ベッドで、|恵《けい》|一《いち》が眠っていた。
啓子は、洗面所へ行って、顔を洗った。
まだ、夏は続いて、寝苦しい暑さだったが、それだけではない。長い長い夏になりそうだ……。
鏡の中の顔をじっと見つめると、啓子は、|呟《つぶや》いた。
「役立たず」
はい、離れて下さい!――離れて!
助監督たちは、炎天下、くたびれ切った様子で、見物人を整理していた。
まず、それが誤算だったのだ。|凄《すご》い数の見物人が集まって来て、地元の警察官は、みんなそっちに取られてしまった。
なだらかな山の斜面に、車が用意され、ヘリコプターが上空を旋回している。
「――準備OKです!」
二時間以上も待って、やっと本番になった。アクションシーンである。
「聡子ちゃん」
啓子は、心配になって声をかけた。
「はい」
聡子は、いつも通り、落ちついた顔で、木かげに腰をおろしていた。
「大丈夫? 危いわよ」
と、啓子はかがみ込んで、「代ったら?」
「私、こう見えても身が軽いんです。高い所も平気だし」
「だけど……。もし、ヘリコプターの方が手順でも間違えたら……」
「まさか。超ベテランですってよ」
「そりゃそうかもしれないけど」
「気分がいいじゃない。やってみたかったんだ、アクションシーン」
啓子は苦笑した。
「言い出したらきかないんだから。この頑固者!」
「お互いさま」
と、聡子は言い返した。
「じゃ、充分に気を付けて」
「はあい、お母様」
「人をからかって!」
冗談を言ったりするのは、逆に、緊張しているせいかもしれない。危険な撮影に、緊張するのは当り前だし、悪いことではないのだ。
むしろ危いのは、気のゆるみである。
「――聡子君」
と、監督の|峰《みね》|川《かわ》がやって来る。
「はい」
聡子は立ち上った。メイクの係が飛んで来て、汗を取った。
「いいかね? 段取りは頭に入ってるね」
「大丈夫です」
「リモコンは、充分にテストしてあるはずだが、もし、少しでもおかしいと思ったら、ドアを開けて飛び出せ。いいね?」
「はい」
聡子は|肯《うなず》いた。「じゃ、車の方に――」
「ああ。頼むよ」
聡子は、三、四人の助手たちと一緒に、なだらかな斜面を下りて行った。
「――やれやれ、だ」
と、峰川は首を振って、「これで大体、主なシーンは終りだよ」
「そうですね」
啓子は、|微《ほほ》|笑《え》もうとしたが、何となく顔がこわばっていた。「監督。――大丈夫でしょうね」
「うん。何度もテストしたよ。もちろん、百パーセントとは言わない。しかし……」
峰川は、カメラマンの|宮《みや》|内《うち》に呼ばれて、手を振った。「じゃ、ケイちゃん、見ててくれよ」
「はい」
啓子は、木かげに立って、腕組みをしていた。
「どうした?」
|剣《けん》|崎《ざき》がやって来る。
「別に」
「何だかおっかない顔してるじゃないか」
「どうせ」
と、啓子は言ってやった。「――聡子ちゃんのことが心配なのよ」
「大丈夫さ。あの子ならやるよ」
「分ってる。でも、車のブレーキが外れたりしたことを考えると……」
「しかし、当人がやると言ってるんだ。仕方ないじゃないか」
「そうね。ただ、気になってるの」
「何が?」
「あの刑事さんよ。姿が見えないでしょ?」
「ああ、なるほど」
と、剣崎は肯いた。「そういえば……。どこへ行ったのかな」
「こんな肝心の時に。――何だかいやな気分だわ」
「考え過ぎだよ。|禿《は》げるぜ」
啓子は、|肘《ひじ》で剣崎のわき腹をつついてやった。
「いてっ!――|凄《すご》い迫力だな」
「あなたが代りにやれば?」
「一体、何をやるんだって?」
「あの車よ。今、聡子ちゃんが乗って……。あれが走り出すと、ヘリコプターが追いかけて来て、縄ばしごが下りて来るの」
「車の上に?」
「そう。車の上が開いて、聡子ちゃんが屋根へ|這《は》い上り、縄ばしごをつかむ。車の中に火が|点《つ》いて、車は燃え上りながら走り続ける」
「それで?」
「ヘリコプターが聡子ちゃんを|吊《つ》り上げ、車はそのまま火の玉になって、向うの|崖《がけ》から転落する、って段取りなの」
「凄いな」
「許可を取るのが大変だったのよ」
「そりゃそうだろう。僕にゃとても無理だな!」
と、剣崎は首を振った。「車は? 誰が運転するんだ?」
「リモコン。真直ぐ走るだけだから。でも、危険な仕事よ」
「カメラは三台?」
「そう。一台は、崖の向うから落ちる車を|狙《ねら》ってるわ」
スタッフの動きが、あわただしい。助手たちが車から離れた。
「――はい、用意!」
と、峰川が怒鳴った。「スタート!」
「凄い気合」
と、剣崎が|呟《つぶや》いた。
車が走り出した。初めはゆっくりだが、徐々にスピードが上る。
崖に向って、下り斜面だから、余計にスピードも出るのだ。
ヘリコプターが高度を下げ、爆音が鼓膜を打った。車の上に並ぶと、縄ばしごがスルスルと下りて、車の屋根へのびる。
「――屋根、開いてるのか」
と、剣崎が言った。
「そのはずよ」
車が、突っ走る。――やや間があった。
「聡子ちゃん……出て来ない!」
と、啓子が一歩前へ出た。
「車が――」
炎が上った。車が、アッという間に火に包まれる。
「大変だ!」
啓子は駆け出した。剣崎も後を追う。
「おい! 車を追え!」
峰川も駆けながら怒鳴っていた。スタッフは|唖《あ》|然《ぜん》として、動けない様子だ。
いや、動いたところで、とても間に合わなかった。
啓子は、転がりそうな勢いで斜面を駆けて行った。しかし、車は猛然と崖に向って突っ走り、そして――フッとその向うに消えてしまった。
啓子は足を止めた。
ドーン、と太鼓を打つような音がした。
黒い煙が、立ち昇って来る。
「――何てことだ」
剣崎が呆然として、「こんな|馬《ば》|鹿《か》な!」
ドアをノックする音がした。
啓子は、空耳かと思った。こんな夜中に?
またノックする音。誰か来たのだ。
ドアの所まで行って、啓子は、
「どなた?」
と、声をかけた。
「峰川だよ」
「まあ。――ちょっと待って下さい」
啓子は、急いで上にシャツを着た。
ドアを開けると、峰川が、ぼんやりした顔で、立っている。アルコールの|匂《にお》いがぷんと|漂《ただよ》った。
「監督。――飲んでるんですね」
「うん。ちょっと……休ませてくれるか」
「どうぞ」
啓子は、峰川を中へ入れ、恵一の寝ている部屋のドアを、きっちりと閉めた。
「――どうだ、あの弟の方は?」
「ええ。元気です。まだ、聡子ちゃんと確認されたわけじゃないから、って……」
「そうか」
「水、飲みますか?」
「レモンでも絞ってくれるか。うんとすっぱくして飲みたい」
「分りました」
氷を入れた冷たい水にレモンをたっぷりと絞って入れた。
「――お仕事だったんですか」
「うん……。編集だよ」
「何とかなりそうですか」
「そうだな」
峰川は、肩をすくめた。「何とかなるだろう。取り残したシーンは、シナリオの手直しで、何とか他にやりようもある。完成させられるだろう」
「そうですか」
「会社のお偉方は、一日でも早く、とせっついて来る。――死んじまえば、どんなスーパーアイドルも、忘れられるからな、だとさ。全く!」
峰川は、腹立たしげに言った。「こっちはやり切れんよ。フィルムの中で、あの子が|活《い》き|活《い》きと動いてるのを見てると、こいつをどうして切れるんだ、と思っちまう」
「そうですね。――でも、立派に完成して下さい。聡子ちゃんのためにも」
「うん……」
峰川は、ぐったりしてはいるものの、酔っているようには見えなかった。
「本当に、聡子ちゃん、死んだのかしら」
と、啓子は言った。
「どうしてだ?」
「焼死体が見付かったって、警察は発表しましたけど、その後、さっぱり何も言わないし」
「|身《み》|許《もと》の確認か。しかし、あの場合には……」
「ええ、分ってるんですけどね。何だか、聡子ちゃんがフラッと帰って来そうな気がして――」
啓子は、涙がこみ上げて来て、あわてて手で|拭《ぬぐ》った。
「腹が立つのは、あの刑事だ」
「|畠《はた》|中《なか》さんですか」
「どこへ行ったのか、さっぱり姿を見せんで! 肝心の時に、いなくなって。――全く、役人ってのはあんなもんか」
その点は、啓子も気にしていた。畠中が、事件の後、啓子たちに何の連絡も取って来ないのが不思議だ。
畠中を、ああして身近に見ていた啓子としては、ただ責任逃れで姿を見せずにいるとは思えなかった。
「――|松《まつ》|原《ばら》さんは、何かおっしゃってましたか?」
「いや。公式には、プロダクションの側からコメントが出ただけだ。――もし、追加の撮影が必要ってことになれば、あと二、三日は付合うだろう」
「うちの社長は、聡子ちゃんのテレホンカードを作ったり、キャラクター商品を出す、とか言ってます」
「怒ってるだろうな」
「ええ、金の卵を踏み|潰《つぶ》された、って」
啓子は肯いた。「でも、私にとっては――妹みたいな子だったわ」
二人は、黙り込んだ。
それぞれに、聡子の思い出にふけって、何時間も、座り込んだままだった……。
18 秘 密
啓子は、TV局のロビーに座って、ウトウトしていた。
剣崎が、トーク番組に出ているので、終るのを待っているのである。
時々、啓子を知っている人間が、
「やあ、ケイちゃん」
と、声をかけて行く。
啓子は、
「どうも……」
と、適当に生返事をしていた。
「ケイちゃん、元気?」
「まあね……」
うるさいんだから。――放っといてよ。眠いのに。
「ケイちゃん――」
「どうも」
今の誰だっけ? ま、大した|奴《やつ》じゃないさ。
「啓子さん」
「あら、聡子ちゃん……」
聡子ちゃんか。今日は何の仕事だっけ?――聡子……。
「――聡子ちゃん?」
啓子は、パッと目を開いて、立ち上った。
ロビーを忙しげに行き来する人間たち。
今の……夢だったのかしら?
「ああ、びっくりした」
と、|椅子《いす》に座り直して、息をつく。
「あら」
と、声がして、振り向くと、|井《い》|関《せき》|真《ま》|弓《ゆみ》がやって来るところだった。
「どうも」
と、啓子が|挨《あい》|拶《さつ》すると、
「大変だったわね。せっかく|儲《もう》かってたのにね、あの子も。――でも、どうせ長くないわよ、ああいうアイドル人気は。他を捜すことね」
と、真弓は、早口にまくし立て、「じゃ、またね」
さっさと行ってしまう。
「イーだ」
と、舌を出してやった。
「相変らずですな」
愉快そうな声に振り向くと、何と、畠中刑事である。
「まあー」
「すっかり失礼してしまって。――捜していたんですよ」
「私も。お目にかかりたくて」
「知っています。いや、あちこち飛び回っていたもんですから」
畠中は、椅子に腰をおろすと、「今日は剣崎さんの?」
「ええ」
「ご案内したい所があるんです。何時に終りますか」
「今でも構いません」
と、啓子は即座に言った。
「しかし、待っていないと――」
「構やしません。子供じゃないんですから」
と、啓子はさっさと立ち上った。
畠中の車に乗って、啓子は、
「どこへ行くんですか?」
と、|訊《き》いた。
「よくご存知の所ですよ」
畠中は、いつもと変らぬ、おっとりした調子である。
そろそろ夕方だ。
といっても、まだ日は長く、青空が広がって、暑かった。
「いや、暑かったですね、九州では」
と、畠中は言った。
「そんなことをおっしゃりたくて?」
「いや、すみません。そう怒らないで下さい。――こっちもファンとして、大いに悩んだんですから」
「犯人は分ったんですか?」
と、啓子は訊いた。
「どの犯人です?」
「もちろん、聡子ちゃんを殺した犯人です」
「ああ。そうですね」
と、畠中は少し考えてから、「たぶん、捕まらないんじゃありませんか」
「|呆《あき》れた!」
助手席に座った啓子は、ムッとして前方をにらんだ。「初めっから|諦《あきら》めてるなんて! それでも警察ですか」
と、後ろから、
「そう怒らないで、啓子さん」
と、声があった。
啓子は、そろそろと後ろを向く。――聡子が、いたずらっぽい笑顔を見せて、啓子を見ている。
「聡子ちゃん……」
「ごぶさたいたしてまして」
聡子はペコン、と頭を下げた。
「――ちょっと! 畠中さん! 車を|停《と》めて下さい!」
と、啓子は大声を出した。
車が道のわきへ寄って停ると、啓子は急いで後ろの座席へと飛び込んだ。もちろん、|一《いっ》|旦《たん》外へ出てから、である。
「もう! 人を心配させて!」
と、啓子は涙ぐんでいる。「お|尻《しり》をぶつわよ!」
「ごめんなさい。でも、畠中さんと相談して――」
「私が悪いんですよ」
と、畠中が振り向いて、言った。「私のお尻をぶちますか?」
「やめときますわ」
――三人が、一緒に笑い出した。
再び車が走り出すと、啓子は大きく息をついて、
「やっぱりね! 私、信じてなかったのよ、死んだなんて。聡子ちゃんが死ぬなんて、ありえないもの。恵一君は知ってたの?」
「ええ」
「あの子! 私の前じゃしおらしくしてたのに。かなわないわ、あなたたちには」
と、啓子は苦笑いした。「恵一君も、役者の素質があるんじゃない?」
「どうかしら。――でも、大変だったでしょ。ごめんなさいね、本当に」
「何かわけがあってのことでしょ。仕方ないわよ。だけど、あの燃える車から、どうやって抜け出したの?」
「初めから、乗っていなかったんです」
「何ですって?」
「あの時の助手たちは、うちの刑事でしてね。何人もいるから、現場じゃ分らないし」
「じゃ、車の方へ行って……。でも、乗るのを見てたわ、私」
「一緒に戻ったのよ、その刑事さんたちと。中でパッと服を替えて。あの周囲、大勢が準備で駆け回ってたから、一人ぐらいふえたって分らないし。私、途中から向きを変えて、斜面の向うへ隠れたんです。そこで――」
「私が待機していた、というわけですよ」
と、畠中が言った。
「あんな肝心の時にいないって、どういうことかな、と思ってたんですよ」
「すみません」
と、今度は畠中が謝っている。「そこから私が聡子君を連れ去った、というわけで」
「でも、どうしてそんなことを?」
「あの車がね」
と、聡子が言った。「細工してあったの。屋根が開かないで、点火してしまうようにつなぎかえてあったのよ」
「まあ、それじゃ――」
「犯人は、私が計画通り死んだと思ってるでしょうね。もちろん中に焼死体なんてなかったんだけど」
「一体誰がそんなことをやったの?」
「細工をした人間は分ってます」
と、畠中が言った。「小道具の係でね。しかし、そいつを捕えても仕方ない。やらされただけですからね」
「じゃ、やらせた人間がいるわけね」
「そう。――その小道具係も、たぶん、ルミ子に乱暴した一人だったのよ、きっと」
「一体、悪いのは誰なの?」
「もうすぐ分りますよ」
と、畠中が言った。
啓子は、初めて窓の外の風景に目をやって、「あら、ここ……」
「撮影所が、もうすぐです。今日は、〈殺意のプリズム〉の追加シーンの撮影のはずですよ。――聡子君」
と畠中は言った。「君はもう少し隠れてて」
「はい」
聡子が、座席に横になり、丸くなって、上から毛布をかぶった。
「私がいちゃ、窮屈そうね」
と、啓子は少々気がひけて、言った……。
やがて撮影所の門が見えて来る。
「畠中さん、例のカメラマンの|太《おお》|田《た》。あのカメラにうつってた人って、分ったんですか」
「ええ。それが少しぶれた写真でしてね。その点を確認するのも手間取ったんです。しかし、はっきり分りましたよ」
「じゃあ――」
「しかし、写真にうつっているだけで、犯人とは決められませんからね」
それはそうだ。――啓子は、撮影所の門へ目をやって、
「一体、どうするつもりなんです?」
と、訊いた。
「さあ、どうしたもんでしょうかね」
と、畠中はのんびりと言った。
啓子は、後ろから畠中をにらみつけてやった……。
「ケイちゃんじゃないか」
峰川が、スタジオへ入って来た啓子を見て、声をかけて来た。
「どうも」
啓子は会釈して、どことなくざわついているスタジオの中を見回した。
「わざわざ見に来たのかい」
「ええ。――だって、やっぱり気になるんですよ、この作品」
「うん。気持は分るよ。|俺《おれ》だって同じだ」
啓子は、ふと、一人の女の子に目を止めた。後ろ姿が、聡子とよく似ている。
「監督、あの子は?」
「うん。聡子君の代りだ。後ろ姿だけ、見せるようにして、何とかうまくつなごうと思ってるんだよ」
「苦労しますね」
「いや――」
と、少し声を低くして、「本当に苦労するのは、あれ[#「あれ」に傍点]さ」
白いスーツで、一人、きざなポーズを取っているのは、|君《きみ》|永《なが》はじめである。
話相手は、さっきTV局で会った、井関真弓だった。ここへ来るところだったのか。
「今日の出番はあの二人ですか?」
「御大もそろそろ来ると思うよ」
言っている内に、スタジオ中から、
「おはようございます」
と、挨拶が飛んだ。
松原|市《いち》|朗《ろう》である。峰川の方へやって来ると、
「やあ。――ケイちゃんも来てたのか」
「ご苦労様です」
「今日が最後だね、正真正銘の」
「そうですね」
「いや、あんな将来性のある子を失って、いやな気分だ。俺のせいかもしれないと思うとね」
「そんなことありませんわ」
と、啓子は言った。
啓子も、ここでは名優[#「名優」に傍点]だった。あんまり楽しそうな顔をしていてはいけない。
「――監督、カメラの位置を」
と、声がかかる。
「分った! じゃ、失礼」
峰川が|大《おお》|股《また》に歩いて行く。松原は、啓子のそばに立ったままだった。
意外な気がした。真弓の所へ行こうとしないのである。
真弓とは、決定的に別れたんだな、と啓子は察した。
――三十分ほどで、テストに入る。
セットは、松原の屋敷の居間である。
カメラがローアングルになって、見上げるようにとるので、天井が半分ぐらい造られていた。画面に入る部分、ということだ。
シャンデリアも本物が下がって、きらめいている。安くはあるまいが、本物を使うことで、重味が出る。
ガウンを着た松原が、セットのソファにかけて、時間をつぶしている。――峰川は、井関真弓に演技をつけていた。
君永はじめは、人の目を意識しているのか、やたらにはしゃいでいる感じだった。
「おい」
と、松原が君永を呼んだ。
「はい!」
と、君永はじめが飛んで来る。
「少し落ちついてろ。みっともないぞ」
「すみません」
君永はじめは、ペロッと舌を出した。――それがみっともないんだ。松原の苦々しい顔は、そう言っていた。
「――はい、テスト行きます!」
と、助監督が大声で言った。
スタジオの中の空気が変る。峰川が、カメラのわきに立った。
啓子は、腕組みをして、その光景を、じっと見守っていた。
19 落ちる
「もっと息せき切って駆けつけて来るんだ!」
と、峰川が怒鳴った。「それじゃ、隣の部屋から来ましたって感じだぞ」
「はい」
君永はじめは、息を弾ませながら、頭をかいた。
「もう一度。――おい、松原さんの顔、直してくれ」
居間の中に、松原が座っている。ホームバーのカウンターがあって、そのカウンターに向っているのが、聡子の役の少女で、背中を向けたままだ。
井関真弓は、反対側の隅に立っている。
そこへ、君永はじめが駆け込んで来る、という場面。
君永はじめは、聡子の身を心配して、危険を覚悟でやって来るのだ。その緊迫感が、どうしても出ない。
テストは、いつもそこでストップしていた。
「はい、用意!――スタート!」
と、峰川もいい加減くたびれた様子。
真弓が、松原とセリフを交わす。そして、少し間があって、君永はじめがドタドタと駆け込んで来た。
今度はまあまあだった。峰川は、ずっと通すと、
「OK。じゃ、これで本番だ」
と、|肯《うなず》いた。「メイク、もう一度直してくれよ」
ライトが強いので、つい汗をかく。
聡子の代役の少女が、一旦セットを出て行き、すぐにまた戻って来た。髪を直したようだ。
「本番行きますので。静かにして下さい」
と、助監督が周囲へ声をかけた。
「一発で決めよう。――用意!」
ふと、啓子は、カウンターにもたれて背中を向けて立っている聡子の代役の子に目をやった。あれは……。
「スタート!」
と、峰川の声が響いた。
真弓と松原のやりとり、そして君永はじめが駆け込んで来る。今度はかなりの迫力だ。
君永はじめが松原に迫る。――真弓が、松原の前に立ちはだかるように、二人の間に割り込んだ。
セットの奥の方には、君永はじめ一人が、立つことになる。
その時――。
ギーッ、と何かがきしむ音がした。
「危い!」
誰かが叫んだ。
セットの天井が、一気に落ちて来た。
凄い音だった。スタジオの中に反響するので、余計に大きく聞こえるのだろう。
そして、白い煙のような|埃《ほこり》が舞った。――誰もが唖然として動かない。
「おい、君永が……」
と、松原が立ち上る。
天井の真下に、君永がいたのだ。とても無事とは思えなかった。
「何てことだ!」
峰川が呆然として、言った。「おい! みんなで持ち上げるんだ!」
その声で、やっとみんな我に返ったようだった。一斉に、落ちた天井のセットへと駆け寄る。
しかし、重さは相当なもので、ほとんど持ち上る様子はなかった。
「救急車の手配だ!」
と、峰川が怒鳴った。
助監督の一人が、駆けて行こうとする。そのとき、
「その必要、ありませんよ」
と、女の子の声がした。
誰もが、信じられないような顔で、声の方を振り向いた。
「――聡子君!」
峰川が、今にも引っくり返りそうな声を出した。――聡子が、あのカウンターの上に腰かけていた。代役の子と入れ替っていたのだ。ややこしい話だが。
「ご心配かけました」
と、聡子はカウンターから、ピョンと身軽に飛び下りて来た。
「生きてたのか!」
峰川が声を上ずらせた。「こいつ! こっちが死んじまうところだったぞ!」
「ごめんなさい、監督」
聡子が、峰川へ駆け寄ると、|頬《ほお》にチュッとキスした。「――これで勘弁して下さい」
「許してやらんぞ! もう一回してくれないと」
峰川は笑いながら、聡子を抱きしめた。
「いや、どうも申し訳ありません」
と、セットの奥から、畠中が現われた。
「君か」
「私のせいです。何とか、犯人を捕まえたかったものですからね」
「なるほどな。しかし……。君永はどうしたんだ?」
「大丈夫ですよ。そこにいます」
頭から埃をかぶった君永はじめが、フラッと出て来た。
「――ああ、びっくりした!」
「よく助かったわね」
と、井関真弓が歩み寄って、「けがはない?」
「何とか……。天井が落ちて来ると同時に、セットの床が抜けて、下に落ちたんです」
「下に?」
「私が、そう細工しておいたんですよ」
と、畠中が言った。
「じゃ、君は、これを知ってたのかね?」
と、峰川が、落ちた天井を指して言った。
「そうです。誰がこの細工をしたかも分っていますよ」
「細工だって? じゃ、天井をわざと落とした奴がいるのか」
「そんなこと……」
と、君永はじめが笑って、「ただの事故ですよ。そう珍しいことじゃない」
「そうかな?」
と、畠中が言った。
「だって――ここにいる人たちは、みんなこの映画を完成させようと、一生懸命やって来たんです。そんなことしやしませんよ。それに、僕は狙われるほどの大物じゃないし」
畠中は肯いて、
「なるほど。大変に立派な説だが、残念ながら、まともには受け取れないね」
と、言った。「君を狙った人間がいる。それなのに、君はそんなことはない、という。どうも逆のような気がするがね」
「それは――」
「それはね」
と、聡子が言った。「犯人が分ると、あなたも困るからなのよね」
「どういう意味だい?」
と、君永は聡子を見た。
「あなたが、私の親友に乱暴したから。そして、あの|芳《よし》|村《むら》|志《し》|乃《の》という子を殺したから」
――沈黙があった。
「本当か、聡子君」
と、松原が言った。
「ええ、それを知っている人がいます。でもその人も、君永さんに秘密を知られていたから、口には出せなかったんです」
「誰だ、それは?」
松原がセットに立って、ジロッと周囲をにらむと、やはり迫力があった。
「――このセットが壊れるように細工した人間ですよ」
と、畠中が言った。「捕まえてあります、ここに」
制服姿の警官が、引張って来たのは、|小林準一《こばやしじゅんいち》だった。
「お兄さん!」
井関真弓が青ざめた。
「小林が?」
松原は唖然として、「しかし――なぜ小林がこんなことを?」
「君永はじめを殺そうとしたんですよ」
と、畠中は答えた。「この先、ずっと君永はじめにゆすられるでしょうからね」
「やめて!」
井関真弓が、うずくまって、泣き出した。
「――金じゃなかったんだ」
と、小林は言った。「金じゃなかった。こいつは、真弓を自分の思い通りにしやがったんだ!」
君永は、青ざめていた。じっと畠中の様子をうかがっている。
「――君永さんは、知っていたのよ。小林さんと真弓さんが、兄妹で、かつ恋人同士[#「恋人同士」に傍点]だってことを」
誰もが、押し黙って、顔を見合わせた。
「そうか」
と、峰川が肯いた。「あのカメラマンが撮ったスクープっていうのは……」
「普通の恋人同士なら、殺してフィルムを奪うほどのこともありませんがね」
と、畠中は言った。「しかし、それが兄と妹となると、そうはいかない。大変なスキャンダルになる。小林は太田を殺してフィルムを奪ったんです。しかし、太田もさるものでね。実際に使ったレンズシャッターのカメラは隠して、一眼レフの方の、違うフィルムを渡したんですよ。そこに、小林と真弓がちゃんとうつっていた」
「君永さんは、二人の仲を知っていたから、太田を殺したのが小林さんだと気付いた。――それに、君永さんたちが私の友だちに乱暴した時、真弓さんも、それを面白がって眺めていたんです」
「一緒に加わった助監督が、何もかもしゃべったよ」
と、畠中が言った。「あのロケで、聡子君の乗る車の屋根が開かないように細工したところを、私がちゃんと見ていたのでね」
「ひどい人ね。それだけでなく、私が、友だちの事件を調べていると気付いたあなたは、あの芳村志乃という子にまで手を出した」
「やり過ぎるのは、失敗のもとさ」
と、畠中が肯いて、言った。「君は、聡子君に挑戦するつもりだったのか?」
君永は、ふっと体の力を抜いたように見えた。そして唇を|歪《ゆが》めて、ちょっと笑った。
アイドル、「君永はじめ」には見られなかった顔だ。
「くせ[#「くせ」に傍点]になるんだよ、若い子ってのは」
と、君永は言った。「もちろん、真弓みたいな女も悪くないけどね」
「貴様――」
松原が、顔を真赤にして、君永の方へ歩み寄る。
「危い!」
と、聡子が叫んだ。
君永の手に、ナイフが光った。扱いなれた手つきだ。
ヒュッ、と風を切る音がしたと思うと、
「アッ!」
と、君永が手を上げて、よろけた。
白い|上《うわ》|衣《ぎ》の腕に、聡子の投げたナイフが突き立っている。
畠中が駆け寄って、君永の手のナイフを取ると、
「痛いか?」
と、言った。「貴様に乱暴された少女、殺された女の子は、もっと苦しかったんだぞ!」
――畠中が、君永と小林、そして井関真弓を連れて、スタジオを出て行く。
しばらくは、誰も口をきかなかった。
聡子が、松原の前に立つと、
「ご迷惑をかけてすみません」
と、頭を下げた。「松原さんのお力で、何とかこの映画が上映中止にならないように、していただけませんか」
「謝るのはこっちだよ」
と、松原が苦い顔で、言った。「君永の奴……。それに真弓もだ」
「しかし、まあ、聡子君の|復讐《ふくしゅう》は果たせたわけだな」
と、峰川が言った。「それだけでも良かったよ。――俺は別に金を損するわけじゃないけどな、こいつがオクラになっても」
「とんでもない!」
と、松原が強い口調で言った。「誰がこんな傑作を。――何としてでも上映させてやる!」
スタジオの中に、少し活気が戻った。
「おい、監督」
と、松原が言った。「どうしても撮らなきゃいかん場面はあるのか?」
「聡子君が戻ってくりゃ、何とでもなりますよ」
「じゃ決りだ」
松原が笑顔になる。「追加分の製作費は、俺がひねり出す。監督、あんたの満足が行くまで撮ってくれ」
峰川が、急に十歳も若返ったように見えた、というのは、その場に居合せた、全員の意見である。
そこへ、
「おい、ケイ!」
と、不機嫌な顔で入って来たのは、剣崎だった。
「あら、どうしたの」
「どうしたの、じゃないよ。TV局に置き去りはないだろ。何があったんだ? パトカーがずいぶん走って行ったぜ」
「うん……。まあ、色々とね」
「追加撮影に、僕の出番はないのか?」
「今から作ろうか」
と、峰川が言った。「聡子君とのラブシーンでも」
「幽霊とキスするのかい?」
と、何も知らない剣崎が苦笑すると、
「おいやですか」
と、聡子が後ろから声をかけた。
剣崎は振り向いて――。
「情ない二枚目ね」
と、啓子が言った。
「そう言うなよ。純情なんだ」
剣崎は、照れ隠しに、ウィスキーをせっせとやって赤くなっている。
「それにしたって、気絶するなんて!」
「見たかったなあ」
と、恵一が言った。
――聡子たちのマンション。
撮影所での騒ぎから、丸一日たった夜である。
TVも雑誌も大変な騒ぎだった。それは当然だろう。死んだと言って大騒ぎしたアイドルが生きていて、しかも、乱暴されて自殺した親友の|敵《かた》|討《きう》ちを果たした、というのだから。
「記者会見、取材を、一日でいくつやったかしら?」
と、聡子が言った。「疲れちゃった!」
「お疲れさま。でも、良かったね、聡子ちゃんが無事で」
「全くです」
と言ったのは、一緒に食卓を囲んでいる畠中刑事である。
「恵一を誘拐したのも、その助監督だったんですね」
「君永に小づかいをもらってたらしい。もちろん、|東《あずま》ルミ子君が乱暴された時に加わっていて、それ以来、何かと悪いことは一緒にやっていたらしいです」
「ひどい奴!」
と、聡子が言った。
「社長さんの所に来た脅迫状は、誰が出したのかしら?」
と、啓子が言うと、畠中が少し照れくさそうに、
「あれは実をいいますと私の手製[#「手製」に傍点]で」
「ええ?」
「いや、山内社長から、相談されましてね。聡子君のことが心配だ、と。それで二人で相談の結果、ああいう手紙をこしらえ、出張の口実にしたんです」
「まあ、|呆《あき》れた」
と、啓子は言ってしまった。「大変な刑事さんね」
「私の部屋へ、犯人だといって電話をして来たのも、君永の仲間の助監督だったのね」
と、聡子は言った。「声を聞いても、分らなかったわけだわ」
と、聡子は言った。「女の子をもてあそんで、自慢するなんて!」
「しかし、ちゃんと罰は受けるさ」
剣崎は、大きく息をついた。「ともかく――これで、事件は解決した、というわけだ」
「そうね……。でも、何だか終ったような気がしないわ」
と、聡子が言った。
「どうして?」
「この映画の仕事が終らないと」
聡子は、少しワインを飲んで、頬を染めた。「私がこの世界に入ったのは、ルミ子の敵を討つためだった……。それは終ったわ」
「おい」
と、剣崎が不安そうに、「まさか、これで『普通の女の子に戻ります』なんて言うんじゃないだろうね」
「考えてるの」
聡子の言葉に、剣崎と畠中は顔を見合わせると、
「反対だ!」
と、同時に叫んだ。「絶対反対!」
「断固、粉砕!」
と、畠中までが、|拳《こぶし》を振り上げる。「引退したら逮捕します!」
「そんな無茶な!」
啓子は、ふき出しながら、「ねえ、聡子ちゃん」
「そうね」
聡子はいたずらっぽく笑って、「畠中さんに、今度の映画の切符、千枚ほど買っていただきましょうよ」
と、言った。
「千枚?」
畠中が青くなった。「あ、あのですね、公務員の給与というのは……」
エピローグ
「どう?」
と、聡子が訊く。
「大丈夫。食い入るようにスクリーンを見てるわよ、みんな」
啓子が、控室へ入って来て、言った。
「そう……」
完成した映画「殺意のプリズム」のプレミアである。
ロードショー館の事務室には、松原、峰川を始め、主なキャストが|揃《そろ》っている。もちろん、君永や真弓はいないけれども。
普通なら、舞台挨拶の後で、映画が上映されるのだが、今日は逆だ。観客の反応を、峰川が知りたがったのである。
「あと五、六分で終りだな」
と、松原が言った。「こんな気持になったのは、久しぶりだよ」
峰川が、ふと立ち上ると、
「どんな結果になるかは分らないが、ここでみなさんにお礼を申し上げときたい」
と、口を開いた。「もう一生、こんな映画はとれないかもしれない。満足ですよ」
「そんな、監督」
と、聡子が言った。「また、とって下さらないと、私、引退しちゃいますよ」
「こりゃ大変だ」
と、松原が笑った。「いや、峰川さん。――まだこれからだよ。我々のような者が、聡子君たち、若い世代を盛り立てて行こう。それが我々の仕事だ」
「全くですな」
峰川が肯いた。
「――お願いします」
と、宣伝部の人間が顔を出した。「もうすぐ終りですので、舞台の|袖《そで》に」
全員が立ち上り、事務室を出て、閑散としたロビーを抜けて行く。
舞台の袖に入ると、スクリーンの音が聞こえて来た。ラストシーンだ。
聡子は、そっと啓子に、
「私、あんな声してるの?」
と訊いた。
「そうよ」
「へえ」
聡子は面白そうに、「結構いい声ね」
「――お姉ちゃん」
恵一が顔を出した。
「何だ、見てないの?」
「もう終りだろ。結構面白かったよ」
峰川が、楽しそうに、
「こりゃ、自信がついた」
と、笑った。
「僕の出番が少ないよ」
と、剣崎が文句を言った。
「人気次第よ」
啓子に言われて、剣崎は、
「そりゃ分ってるけどね」
と、肩をすくめた。「聡子君とラブシーンができりゃ、ワンカットしか出なくても満足だ!」
「――しっ、終りよ」
と、啓子が言った。
エンドタイトルが出る。
拍手が起った。――たちまちそれが広がって行く。
「やった」
と、剣崎が肯いて、「試写で拍手が来るのは珍しいんだ」
「やったんだ」
松原が、聡子の肩に手をかけた。「おめでとう」
「ありがとうございます」
聡子は素直に言った。
館内が明るくなる。――合図が出て、
「さ、舞台へ出て」
と、啓子が言った。「松原さんから」
「いや、我らのスターが先頭さ」
松原が、聡子を押しやる。
聡子も逆らわなかった。
一つ深呼吸をすると、舞台の中央に向って歩き出す。
まぶしいスポットライトが、今、聡子を|捉《とら》えて、そのドレスを|虹《にじ》|色《いろ》にきらめかせると、観客の歓呼と拍手が、それをたちまち押し包んで、さらに大きく盛り上ったのだった……。
|虹《にじ》に|向《むか》って|走《はし》れ
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年1月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2000
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『虹に向って走れ』平成2年2月25日初版刊行
平成8年4月25日11版刊行