角川文庫
花嫁の時間割
[#地から2字上げ]赤川次郎
目次
花嫁の時間割
1 プロポーズ
2 三通の招待状
3 燃えたポルシェ
4 間違ったチケット
5 殺 人
6 危機一髪
7 ライバル
8 長い風呂
9 キャンセル
10 裏返った男
エピローグ
透き通った花嫁
プロローグ
1 地味な恋人
2 幻の花嫁
3 死体のある部屋
4 窓の人影
5 静かな街
6 第二の女
7 母と娘
8 食 卓
エピローグ
花嫁の時間割
1 プロポーズ
シュッ、とコロンの一吹き。
これで|完《かん》|璧《ぺき》だ! 真田明宏は、姿見に映る|己《おの》がスタイルに満足して|肯《うなず》いた。
白いスーツ、そのえりにさした一輪のバラ。もちろん、色は鮮やかな|真《しん》|紅《く》でなくてはならない。
ヘアスタイルもカチッと決って、一筋の乱れもない。今日は風も強くないし、大丈夫、このまま行けるだろう。そうそう、ポケットチーフがもう少し形よく、それでいて、さりげない感じで|覗《のぞ》けて見えなくては。
真田明宏は、念を入れて、もう一度、鏡の中の自分の姿を、文字通り頭の|天《てっ》|辺《ぺん》からつま先まで、見直した。──大丈夫。一分の|隙《すき》もない、というのは、このことだろう。
「行くか」
彼女はいつも時間に遅れるのだが、こっちはきちんと時間通りに行って、待っていよう。それが男というものである。
軽く口笛を吹きながら、真田明宏は自分のマンションの部屋を出て、ドアの|鍵《かぎ》をかけると、エレベーターで地下の駐車場へ下りて行った。そこにはもちろん真赤なポルシェが、主人を待っている。
エンジンのチューニングも完璧。
これでドライブして、海を見下ろすレストランで食事。ムードの盛り上がったところで、さりげなく取り出すエンゲージリング……。
演出は決っている。これで彼女は百パーセントOKだろう。
もし彼女が拒まなければ、そのままどこかの高級ホテルのスイートルームへ?──いやいや、焦っちゃいけない。
あの子は、その辺の遊び慣れた女の子とは違うのだ。プロポーズにも、即座にOKはしないかもしれない。しかし、せっつくことはやめよう。たとえ心で決めていても、すぐにウンと返事をするのは恥ずかしい。そういう子なのだ……。
ポルシェに乗り込み、真田明宏はウットリとした表情で|呟《つぶや》いた。
「ゆかり[#「ゆかり」に傍点]……。僕の頭の中は君で一杯だ!」
そしてエンジンをかけたが……。
「いけね! ガソリン入れとくの忘れた!」
真田明宏は青くなった。
「おい八代」
と、課長の品川が呼ぶと、
「はい!」
まるでコマ落しの映画でも見ているような素早さで、八代紘一は品川の机の前に立っていた。度の強いメガネの奥から、一杯に見開いた目が品川を見つめている。
「何かご用でしょうか?」
八代が|訊《き》くと、普通の口調でも、何だか「詰め寄っている」という感じで、品川はいささか身をひいた。
「この伝票は……何だ?」
と、品川は机の上にのせてあった伝票を、八代の方へ向けた。
「私の〈外出届〉ですが」
「そりゃ分っとる」
と、品川は肯いて、「しかし、時間は六時からじゃないか。終業後なんだから、何も届を出す必要はないぞ」
「分っております」
と、ほぼ直立不動の姿勢の八代は言った。
「ですが、いつも残業しておりますので、今日帰らせていただくにつき、課長のご了解をいただきたいと存じまして」
「そうか……。ま、構わん。お前はよく働くからな。この──外出届の〈理由〉の欄にある〈プロポーズ〉ってのは、何のことだ?」
「結婚の申し込みの意味です」
品川だって、それくらいのことは知っている。しかし、そんなプライベートなことを、いちいち伝票に書くのは、八代ぐらいのものだろう。
「すると──結婚するのか」
「万一、プロポーズを受けていただけた場合ですが。その場合は、やはり仕事の上にも多少影響が出ると思いますので、一応、こうしてお知らせしておいた方が、と思いまして……」
「なるほど」
品川は、半ば|呆《あき》れ、半ば好奇心にかられていた。この八代と付合っていた女がいるのか! 見てみたいもんだ。
「ま、頑張れよ」
と、品川は言って、〈外出届〉の用紙を八代へ返した。「これは必要ない。うまく話がまとまったら、俺にも彼女を紹介してくれ」
「はい。ありがとうございます」
八代は、まるでコンパスでもたたんでるような、上体を|真《まっ》|直《す》ぐにしたおじぎをすると、自分の席へと戻って行った。
当然、二人の話は課内に聞こえている。
あちこちで、ヒソヒソと|囁《ささや》き交わす声が、品川の耳にも入って来る。
「八代さんに彼女がいたの?」
「信じらんない!」
「一度見てみたいもんだな」
「どうせ振られるよ……」
──品川は、いつもと変りなく仕事に没頭している八代の後ろ姿を眺めながら、八代が女の子の前にひざまずいて、花束を|捧《ささ》げていたり、抱きしめてキスしたりしているところを想像しようとしたが、どうしても絵にならない。
八代は|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》なビジネスマンタイプの男で、みんな、彼が会社で働いている姿しか知らない。
帰りの酒の付合いとか、社員旅行とかには全く顔を出さないが、それでも文句を言いにくい雰囲気が、この八代にはあるのである。
「あいつはきっとサイボーグなんだ」
などと、同僚が|噂《うわさ》するのが、何となく本当らしく聞こえるくらいだった。
しかし、八代もやっぱり人間だったのだ。でなきゃ、結婚しようなんて考えないだろうし。
それとも、八代がプロポーズする相手も、サイボーグなんだろうか?
──五時のチャイムが鳴った。
八代の机の上は、信じられないほどのスピードで片付けられ、周囲へ、
「お先に失礼します」
と、一言投げかけると、八代の姿はアッという間に消えていたのである……。
「宇野君」
と、笠木恭子は隣の席へ声をかけた。「もう行った方がいいんじゃないの?」
「うん……」
宇野良男は、時計の方へ目をやって、「まだ三十分あるから……」
「あの時計は十五分遅れてるの。知ってるでしょ」
と、笠木恭子はため息をついて、「ね、思い切って行ってらっしゃい!」
「でもね──仕事のきりがつかないし」
と、宇野良男は、口の中でモゴモゴと言った。
たぶん、この宇野の呟きを聞きとれるのは、もう五年以上も隣の席で仕事をしている、笠木恭子だけだろう。
「きりがつかないって……。私が代りにやっといてあげるわよ。ね。だから早く行ってらっしゃい。プロポーズするのに、相手を待たせるなんて、最悪よ」
宇野は、少し上目づかいに壁の時計を見上げると、
「どうせ……同じことさ。断られるに決ってる。それなら、ちゃんと仕事をして──」
「やってみなきゃ分らないでしょ」
と、笠木恭子は辛抱強く言った。「ともかく、プロポーズするにしてもしないにしても、約束の時間に遅れて行くのは良くない。そうでしょ?」
恭子の言葉に、宇野は仕事の手を止めると、
「──分ったよ」
と、言った。「行って来る。もし断られたら──」
「初めっから、そんなこと考えてちゃだめよ!」
と、恭子は|叱《しか》りつけるように言った。
ま、実際、笠木恭子は宇野より三つ年上の三十二歳で、夫も子供もいる身だった。
この市役所の出張所は、恭子と宇野との二人だけがいる。小さな部屋で、また、二人でも時には時間を持て余すほど暇だったので、家庭のある身には都合が良かったのである。
宇野は、まるで裁判所から呼び出されてでもいるかのように、ノロノロと帰り仕度をした。
恭子は、内心ため息をついた。──これじゃ、十中八九、断られるだろう。
悪い人じゃないのだ。仕事はよくやるし、細かいことにもよく気が付く。しかし、どうひいき目に見ても二枚目とは言いかねるし、二十九歳にしては、少し頭も薄くなっているし……。
宇野のいいところは、恭子のように、何年も机を並べていて、初めて分って来る、という類のものだった。──ほんの半年か一年、それもごくたまに付合うだけの若い娘に、宇野の良さを理解することは難しいに違いない……。
それでも、宇野に「彼女」ができたと知ったときには、恭子は──正直なところ──びっくりしたものだ。しかし、宇野がそれで明るくなるかと思えば、逆に、ますます引っ込み思案、かつ沈みがちになってしまった。
恋をしたらしたで、今度は自分がいつ振られるかと不安になってしまうらしい。
「じゃあ……早退します」
と、宇野はわざわざ恭子の方へ頭を下げている。
「はいはい。気楽にね。そんな顔しないで、少しは楽しそうになさいよ」
「分ってるんだけどね」
と、宇野は、頭をかいた。「どうせ断られる。そのときは、電話するから」
「吉報を待ってるわ」
精一杯、笑顔で送り出してはやったものの、まあ、九十九パーセント、断られるのは間違いあるまい。誰だって、
「僕みたいなつまんない男と結婚なんてしてくれないでしょ?」
と言われて、それを心からのプロポーズとは受け取るまい。
宇野は、きっとそんな調子でプロポーズするに違いないのである。
──ともかく、私がここでやきもきしてたってしょうがないんだわ。笠木恭子は、気をとり直して、仕事に戻ったのだった。
──午後の五時。
窓口を閉めて、入口の鍵をかけていると、電話が鳴り出す。
「──はい、×町出張所です。──もしもし?」
しばし、相手は何も言わなかった。そして……。
「笠木さん……。僕だよ」
「あら、宇野君?」
声の調子で、見当はつく。宇野はしばし黙っていたが、やがてすすり泣くような声が聞こえて来た。
「宇野君……。元気を出して。ね? また機会があるわよ。──え? 何て言ったの?」
「そうじゃ……ないんだ。彼女……ゆかり[#「ゆかり」に傍点]さんが、承知してくれたんだ……」
「承知したって……。じゃ、プロポーズをOKしてくれたの? 凄いじゃない! おめでとう!」
「ありがとう……。早く笠木さんに知らせたくて……」
「私なんかどうでもいいわよ! 彼女を大事にするの。分った? まさか──それきり放って来たんじゃないでしょうね」
「いや……向うで待ってる」
「じゃあ、早く行ってあげなさい。話は明日でもゆっくり聞くから。いいわね?」
「うん……。笠木さん」
「え?」
「これ──夢じゃないのかな」
恭子は、胸が熱くなった。我がことのように嬉しい。
「大丈夫よ。自信を持って。ね。彼女もちゃんとあなたのいいところを認めてくれたんだから。さ、早く行ってあげなさい」
「うん……。笠木さん。ありがとう!」
宇野の声が、初めて|弾《はず》んだ。
電話が切れると、恭子は、つい口笛など吹きながら、出張所のロッカーの鍵をかけて回った。
ゆかりさん、っていったっけ。
どんな子なんだろう? 宇野の話では、まだずいぶん若い子だとか……。確か、二十一歳とか二歳とかだった。
宇野は二十九。相手は大学生だから、すぐ結婚というわけにはいかないだろう。付合っていく内に、きっと宇野も自信をつけて来るに違いない。
「良かったわ、本当に」
と、恭子は呟いた。
まるで自分の息子のことでも心配しているような、本当にそんな気がしていたのである。
「さあ」
と、恭子は呟いた。「今夜のおかずは何にしようかしら」
2 三通の招待状
二人の美女が、太もも[#「太もも」に傍点]もあらわに昼寝をしている。そのわきに寝そべるダックスフント。
──ルノアールの絵を連想された方には少々お気の毒だが、このシーンはやや[#「やや」に傍点]優雅さに欠けていたのである。
「クゥーン……」
と、寝返りを打ったダックスフントは、もちろんおなじみのドン・ファンで、ほとんど眠りながらも、目の前のスラリとのびた足をペロッとなめていたのである。
「くすぐったいわねえ……」
と、寝ぼけながら文句を言っているのは、ドン・ファンの飼主である女子大生、塚川亜由美。
もう一人、カーペットに引っくり返って、親友の亜由美にならって昼寝しているのは、神田聡子だった。
「ちょっと……。なめないでよ……」
と、亜由美はドン・ファンを手で押しやった。
「クゥーン……」
邪魔にされて機嫌をそこねたのか、ドン・ファンがムックリと起き上がり(起き上がっても大して高さ[#「高さ」に傍点]はない)、神田聡子の顔のそばまで行くと、スースーと息をしている、その唇に鼻先をくっつけた。
「ちょっと!──何すんのよ! キャーッ! 痴漢!」
聡子が、叫びながら、あわてて跳び起きる。亜由美も目が覚めてしまった。
「聡子! どうしたのよ!」
「誰かが……。キスしたの、私に。──亜由美?」
「私、そんな趣味ないわよ!」
と、亜由美は言って、「分ってるじゃないの。──ドン・ファン!」
と、見回すと、当のドン・ファン、もうそ知らぬ顔で、隅のソファでタヌキ寝入り。
──犬でもタヌキ寝入りなのだろうか?
「フン、ごまかしたってだめよ! 全く、しょうのない犬」
と、亜由美は言って|欠伸《あくび》をした。「アーア、いくらでも眠れそうね」
ここは、塚川家の二階、亜由美の部屋である。
亜由美と聡子の二人は、いつもここでぐうたらしているみたいで、作者としては心苦しいのだが、一応今は秋十月、テストも終って、のんびりしていられる時期なのである。
二人とて、テストの前には必死で勉強しているのだということを、強調しておこう。
「どこか出かける?」
と、亜由美が言った。
「どこへ?」
「どこでもいいけど……。もう四時か。少し散歩でもしないと、お腹|空《す》かないでしょ」
「そうねえ」
|呑《のん》|気《き》な会話を交わしていると、ドアが開いて、
「亜由美。起きたの?」
と、母の清美が顔を出した。
「お母さん。あのね──」
「ノックしてから開けて、でしょ。あなたが男の子でも連れて来るようになったら、そうしてあげる」
母の清美も、亜由美に劣らず(?)ユニークな人間である。
「何か用? 聡子と、ちょっと散歩に出ようかって話してたの」
「まあ、ちょうど良かったわ」
と、清美がニッコリ笑って、「じゃあ、ついでに夕ご飯のおかず、買って来てくれる? ついでに料理して、ついでに片付けもしてくれるとありがたいけど」
「お母さん。──私に何か恨みでもあるわけ?」
「いいえ」
清美は心外、という様子で、「私はあなたを心から愛してるわよ」
「母親以外の人から聞きたいセリフね」
「そりゃ、あなた自身の責任でしょ」
と、清美がやり返す。「いつまでたっても、恋人一人できない。殺人事件に首は突っ込む。留置場には厄介になる……」
「分ったわよ」
と、亜由美が口を|尖《とが》らした。「何持ってるの?」
「ああ、これ? あなたがショックを受けないように、ゆっくり渡そうと思ってたの」
清美は、その白い封筒を、振って見せた。「結婚式の招待状。──それも、三通[#「三通」に傍点]もね!」
「三通?」
亜由美は聡子と顔を見合せた。「聡子、知ってる?」
「全然」
「お二人とも、これを見て、少しは焦っていただきたいわね」
清美は、その三通の招待状を亜由美の前に置くと、「これが買物のメモ。──じゃ、よろしく」
母が出て行くと、亜由美は首をかしげて、
「招待状と買物のメモと、何の関係があるわけ?」
「知らない。でも、誰なの、一体? 三人も一度になんて!」
「ねえ。──これ、ゆかり[#「ゆかり」に傍点]からだ」
と、一通をとりあげて封を切る。「ほら。──城之内ゆかり」
「あの[#「あの」に傍点]ゆかり?」
二人は信じられない、という思いで、顔を見合せた。
城之内ゆかりは、亜由美たちと同じ高校にいた女の子だ。
「あの、人間離れしたゆかりが結婚?」
と、聡子が言った。「相手は?」
「ええと……〈真田明宏〉だって」
「知らない人ね」
ゆかりは亜由美たちとは別の大学へ進んでいるので、このところ会ったことはない。
しかし──|正《まさ》に「世間知らず」を絵にかいたような女の子で、おっとり、を通り越して、何ごとも人任せ。家もいいので、それですんでしまうのである。
「大方、名門同士の結婚ね。──他のは?」
と、聡子が|訊《き》く。
「うん……」
亜由美は二通目の封を切った。そして中の招待状を見ていたが……。
「誰なの?」
と、聡子が訊く。
それには答えず、亜由美は三通目の封を切った。
「──どうなってるの?」
と、亜由美が|唖《あ》|然《ぜん》としている。「見て! これも、それからこっちも、ゆかりの結婚式の招待状よ」
「じゃ、間違ってダブったんじゃない?」
と、聡子は手にとって見たが……。
二通目は、〈城之内ゆかり〉と〈八代紘一〉の結婚式の、三通目は〈城之内ゆかり〉と〈宇野良男〉の結婚式の招待状なのである。
二人は、しばし言葉もなかった。
「──どういうこと? 何かのいたずらかしら?」
と、聡子は言った。「亜由美、ゆかりと結構親しかったでしょ?」
「うん……。でも、この三人の男は、まるで知らない。──式の日取りは全部同じ。一つはKホテル。こっちはNホテル。こっちがホテルP……」
「時間は?」
「うん……。真田明宏って人とのが、Kホテルで午前十時。八代紘一って人とが、Nホテルで午後一時。宇野良男って人とのが、ホテルPで午後四時……」
「ちゃんとずれてるね。──ゆかり、かけもちするのかしら」
「結婚式よ! タレントがTVに出るのとは違うわ。きっと──何かの間違いよ」
「どんな間違い?」
亜由美とて、答えられるわけがなかった。
「ともかく、返事出せやしないわね、これじゃ」
亜由美は、三通の招待状を、もう一度見直して、首を振った。
こんな妙な話ってある?
ドン・ファンが、まるで亜由美の心の声を聞いたかのように、
「ワン」
と、鳴いた。
ゆかりは、ちっとも変っていなかった。
いや、もちろん亜由美だって、ゆかりが三人の男を手玉にとってもてあそぶ「悪女」に変身したとは思っていない。しかし、一応[#「一応」に傍点]結婚しようとしているのだから、もう少し大人びた感じになっているのかしら、と思っていたのである。
「亜由美! 懐しいわね」
と、待ち合せたホテルのラウンジで、ゆかりはにこやかに立ち上がった。
「どう? 元気?」
「うん。亜由美、少しも変んないのね」
ゆかりにそう言われて、亜由美は少し焦ったが、何とか立ち直り、ミルクティーを注文した。
城之内ゆかりは、ふっくらした丸顔の、可愛い女の子である。中学生のころからこんな顔で、おっとりした笑顔は、正に人柄の通り。
「ね、ゆかり」
と、亜由美は言って、バッグから三通の招待状を取り出した。「これが来たの。あなた、出したの?」
「あら、もう届いたの?」
と、ゆかりはてんであわてる様子もなく、「びっくりしたでしょう」
「当り前よ。本当に三つとも[#「三つとも」に傍点]、あなたの?」
「うん」
と、ゆかりが|肯《うなず》く。
「でも──どういうこと? 三人の男性と結婚するつもり?」
「式の時間はずらしてあるでしょ」
「だからって……。どういうことなの?」
「私もね、迷ったのよ」
と、ゆかりは言った。「ちょうどあの三人とお付合いしていて、ほとんど同時にプロポーズされたの」
「プロポーズ……」
「真田さんってね、|凄《すご》く面白い人なのよ」
と、ゆかりはニッコリ笑って、「ポルシェに乗ってね、パリッとしてるんだけど、右と左で靴下違ったのはいてたりして。でも、本人は凄くプライドが高いの。自分はもてるって信じ込んでて、プロポーズしても、断られるわけない、と思ってるのね。で、何かお断りするのが気の毒で。きっと、凄く傷つくだろうと思って。結構ナイーブなところのある人なのよ」
「へえ」
「八代さんってねえ、真面目で|几帳面《きちょうめん》の典型なの。お勤めなんだけど、無遅刻、無欠勤、何でもきちんと予定を立ててるの。私にプロポーズしたときも、ちゃんと手帳を見ながら、決めた時間に申し込んだのよ」
「凄い」
「しかも、結婚したら、ハネムーンはどこへ行って、ホテルはどこ、費用はいくらで消費税がいくら、まで計算してあるの。子供は二人で、一人は将来税理士、もう一人はピアニストにするんですって」
「そんな予定[#「予定」に傍点]まで立ってるの?」
「そこまで聞いたら、予定を狂わすのが申し訳ない気になって。で、いいです、って言っちゃったの」
「ゆかり……」
「宇野さんって、とても可哀そうなの。二十九歳で、お役所勤めなんだけど、気が弱くて、女の人と付合ったことなんかまるでなくて。プロポーズのときだって、もうすっかり諦めてるのよ。『僕は振られるのには慣れてるんです。いつも想像の中で振られてますから』ですって。だから、気楽に断って下さいね、って言われて……。でも目がね、とっても哀れで。傷ついた小犬みたいだったの」
「小犬ね……」
「断ったら、この人、死んじゃうかもしれない、って思って。で、承知してあげたら、宇野さん、泣き出して。──私、とってもいいことをした気がしたわ」
「ゆかり……。分ってるの? 三人の男性は、みんな自分だけ[#「自分だけ」に傍点]があなたと結婚すると思ってるんでしょ?」
「そうね。──たぶん」
「だけど、あなたはその内の一人としか結婚できないのよ!」
「そうね」
「どうするの?」
「式がすんだら、三人でジャンケンでもしてもらおうかと思ってるんだけど」
ゆかりの言葉に、亜由美は引っくり返りそうになった。
「──あら、来たわ」
と、ゆかりが顔をラウンジの入口の方へ向ける。
やって来たのが、真田明宏だということは、亜由美にもすぐ分った。
何ともキザで、ふき出したくなる格好をしている。
「やあ、ごめんよ、待たせて」
と、やって来るなり、サッと花束を差し出す。
「まあ、ありがとう。──あの、こちら、塚川亜由美さん。古いお友だちなの」
「これはどうも。真田です」
「はあ……」
「式のときはご出席いただけますね」
「え、ええ、まあ」
「亜由美、スピーチしてね」
と、ゆかりは|呑《のん》|気《き》なことを言っている。
「三回[#「三回」に傍点]やるの?」
と、亜由美は言ってやった。「じゃ、私、これで」
「じゃあね、亜由美」
「うん……」
──亜由美は、ラウンジを出て、ロビーを歩いて行った。
どうなっちゃうんだろ?
「あんなキザな奴、私ならお断りだけどな……」
と、|呟《つぶや》きつつ、歩いて行くと──。
突然、ギュッと腕をつかまれて、
「キャッ!」
と、声を上げた。
「お静かに」
と、その男[#「その男」に傍点]は言った。「逮捕します」
亜由美は、目をパチクリさせて、
「殿永さん! 何してるんですか、こんな所で」
と、言った。
3 燃えたポルシェ
「じゃ──真田明宏の後を|尾《つ》けてるんですか?」
と、亜由美は訊いた。
殿永刑事は、亜由美の方を見ずに、黙って|肯《うなず》いた。別に亜由美のことを無視したわけではない。車を運転していたのである。
殿永刑事は、亜由美とは浅からぬ仲で──といっても、このシリーズをお読みの方はご存知だろうが、別に「恋人同士」などというわけではない。なぜかいつも亜由美が事件に首を突っ込み、殿永が冷汗をかいている、という間柄なのである。
殿永の車の少し前を、真田明宏の運転するポルシェが走って行く。昼間なので、見失う危険はないのだが、何しろ向うはポルシェ、こっちはいささかくたびれた中古車。
下手をすると、アッという間に引き離されてしまう心配があるので、殿永もかなり真剣だったのである。
「でも──どうして?」
と、亜由美は、殿永の気持など気に留めずに|訊《き》いた。「真田明宏に何かあるんですか?」
「まあね」
「隠さないで教えて下さい。城之内ゆかりとは古い友だちですし、真田明宏はそのフィアンセなんですよ。友人として、訊く権利があると思いますけど」
「話さないとは言ってません。ただ、もう少し待って下さい。もう少し行くと、道が混んで、ポルシェもゆっくり走らざるを得なくなるでしょう」
殿永の言葉に、亜由美はさすがに少々赤面した。
「せっつくつもりじゃなかったんです。ただ──せかしただけで」
自分でも、どう違うんだろう、と首をかしげたりした……。
やがて尾行される方もする方も、道が混雑して来て、ゆっくりと走らせることになった。
「──そのお友だちは、かなりいいお家の娘さんですか」
と、殿永は口を開いた。
「ええ。うちとは大分違います」
そばに母親がいたら、文句をつけたかもしれない。
「いや、実は、匿名の投書というやつがありましてね」
と、殿永は言った。「本当は、他言してはいかんのですがね」
「私は特別でしょ。殿永さんの可愛い人ですもの」
「こらこら」
殿永は、その大きな体で赤くなった。「大人をからかっちゃいけません。──しかし、どうしたってあなたは話を聞き出すでしょうからね」
「体を張っても」
言うだけは気楽である。
「真田明宏は結婚詐欺師だというのです」
「詐欺師?」
「それだけでなく、新婚早々に花嫁を殺して、財産を手に入れるのが目的だ、と……。城之内ゆかりを狙っている、と名前をあげての投書だったんです」
「まあ」
「もちろん、真田に前科はありません。今、過去に付合った女性のことなど、調べさせていますが、差し当り本当だとして、相手の女性を確かめておこうと思ったんです。まさか塚川さんのお友だちとは──」
「また何かやらかすんじゃないか、と心配なんでしょう?」
と、亜由美は先回りして訊いた。
「あなたがやらかすことぐらい、たかが知れています」
と、殿永は言った。「せいぜい留置場から請け出してくれば、それでいい。しかし、あなたが、やられたら[#「やられたら」に傍点]、これは困りますよ。世の中から、有能な美女が一人、失われることになる」
亜由美は別に照れもせずに、
「いつからそんなにお世辞がうまくなったんです?」
と、訊いてやった。
「それに、お宅の母上に絞め殺されないとも限りませんしな」
と、殿永は付け加えた。「おや、高速へ入るようだ」
ポルシェがウインカーを出して、高速入口へと車線を変えている。殿永もそれにならったが──。
「困ったな。スピードを出されると、追いつけない」
と、殿永は顔をしかめた。
しかし、二人の心配は無用らしかった。
「高速道路」は、その名を恥じて赤くなる(わけはないが)くらい、混んでいて、ノロノロと走る車がつながっていたのである。
「──変ってますな、あなたのお友だちも」
と、殿永は言った。
「私の友だちだから[#「だから」に傍点]、変ってる、と言いたいんですか?」
「絡まんで下さい。いくら塚川さんでも、三人の男とは結婚しないでしょう」
「どうせ一人もいませんからね」
と、亜由美はムッとした。
「いや、そんな意味では──」
「どうせもてないんです。ええ、そうなんです。私なんか、もう──」
大人げなく、むくれていたが……。「重婚罪になります?」
「届を出せば、確かにね。しかし、式をあげただけでも、相手から訴えられる可能性はありますよ」
「ゆかりに話していただけません? 何しろあの子、本当に[#「本当に」に傍点]、三人に同情して、結婚すると言ってるんです」
「ご両親は? 何も知らんのですかな」
「父親はずっとヨーロッパです。母親は……いると思うんですけど」
「気が付いてないんですかね。──ま、金持ってのは、往々にして変っているもんですが」
「でも、分ってれば、何か言いそうなものだと思いません?」
「同感です。──おっと、|空《す》いて来たな」
車の流れが良くなって、ポルシェがぐんとスピードを上げた。その力強さといったらない。
あわてて殿永はスピードを上げたが、見失わないのがやっと。
「どんどん郊外の方へ出て行くと、引き離されそうだな」
と、殿永は言った。
「|紐《ひも》でもつけときます?」
犬じゃあるまいし。「──でも、不思議ですね」
「城之内ゆかりさんのことですか?」
「いいえ。混んでた道が、どうして急に空くんでしょう?」
殿永は、目をパチクリさせただけだった。
──心配は現実となって、やがてポルシェの姿は、見えなくなってしまった。
「どうします?」
「さて……。高速ですから、どこからでも下りられるわけじゃない。しかし、どの辺まで行く気なんですかなあ」
殿永もお手上げである。
「もう少し高い車にしたら?」
「上役に言って下さい」
かくて、「尾行」はいつの間にやら、殿永と亜由美のドライブということになってしまったが……。
「──何かあったな」
と、殿永が言った。
車の流れが悪くなった。前方で何かあったらしい。
「殿永さん……。煙が」
と、亜由美が指さすまでもなく、前方に黒煙が上がっているのが見えている。
「事故らしい。起ったばかりですな」
殿永が|肯《うなず》く。亜由美は、目を見開いて、
「ゆかりかもしれない! ね、殿永さん、急いで!」
「は?」
「ゆかりたちの車だわ、きっと」
「どうしてそんなことが──」
「勘です! ともかく他の車を追い越して。上を飛び越えてもいいから!」
「無茶を言わんで下さい」
ともかくクラクションを派手に鳴らし、車の間を縫って、殿永は先を急いだ。
道がカーブしている、その曲った辺りに車が──ポルシェ[#「ポルシェ」に傍点]が、火に包まれているのが目に入った。
「やっぱり……。ゆかり!」
亜由美は青ざめた。
「こりゃいかん」
殿永が車の無線を取る。亜由美は、少し手前で車が|停《とま》ると、外へ出た。
「塚川さん! 気を付けて下さいよ!」
殿永が呼びかけるのなんか、耳には入っても頭には入らない。
燃える車の方へと駆け寄ったが……。とてもそばまでは行けない。今から火を消しても、中の人間を助け出すことは不可能だ。
「ゆかり……」
亜由美は肩を落として、「可哀そうに……」
と|呟《つぶや》く。
「本当ね」
「あの若さで……。世間知らずの子だったけど」
「車が?」
「え?」
亜由美は振り向いて──そこに当の城之内ゆかりが立っているのを見て、|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「いや、全くわけが分りません」
真田明宏は、まだ興奮のおさまらない様子で言った。顔は血の気がひいていて、頭もめちゃくちゃに乱れている。
プレイボーイも、さすがに気どっている余裕がないようだ。
目の前には、「かつてポルシェだった」ものが、哀れな姿で横たわっている。火はもう消えているが、もちろん、「消した」というより「消えた」という方が正確かもしれない。
「──すると、ブレーキが急に効かなくなった?」
と、殿永が訊いた。
「そうなんです」
真田は身震いした。「こんなことは初めてですよ。相当スピードが出ていたし。──急にブレーキが効かなくなって。カーブを曲るのも必死でした」
「よく無事に出られましたね」
「幸い、エンジンを切って、勢いが弱まるまで何とか操れたので。──しかし、このカーブはとても曲れない、と思って、とっさに彼女を車から突き落としたんです」
「よくけがしなかったわね」
と、亜由美は|呆《あき》れて言った。
「スカートが破れたけど」
と、ゆかりはのんびりしたものだ。
「で、車を壁にこすりつけるようにして……。何とか停りましたが、やはり照明灯の支柱にぶつかって。あわてて飛び出したら、火が……」
「ムチ打ちの検査をお受けになった方がいいですな」
と、殿永はおっとりと言った。「私の車で送りましょう。オンボロですが、ブレーキは効きます」
「それが何よりです」
真田の言葉には実感がこもっていた。「しかし、君が無事で良かった」
「私って運が強いの」
ゆかりがたぶん一番落ちついていただろう。のんびりと|微笑《ほほえ》んで、いつもとちっとも変らないのである。
真田とゆかりが殿永の車に乗る。亜由美は、殿永をつかまえて、
「どう思います?」
「何とも」
と、首を振って、「ブレーキの効かないふり[#「ふり」に傍点]をして、彼女を突き落とすこともできたでしょうが、それじゃ意味がない」
「そうですね。まだ結婚しているわけじゃないんですものね」
「車に誰かが細工をしたか……。ともかく、鑑識が調べますから、その結論を待ちましょう」
「誰かが二人を[#「二人を」に傍点]殺そうとした?」
「何とも言えませんね」
と、殿永は首を振った。「問題は、我々がどうして後を尾けていたか、説明することです」
ゆかりはきっと気にもしてないだろうけど、と、亜由美は思った……。
「まあ、ゆかりが? そんなことがあったんですの。ちっとも存じませんでしたわ。何しろうちでは親も子も、互いに干渉しない主義なものですから」
城之内ゆかりの母親は、殿永や亜由美が目を丸くするほどの早口で言った。「で、ゆかりがどうしたんですって?」
「つまり──事故にあわれて──」
「死にましたの?」
「いや、そうじゃありません」
「じゃ、大けがでも?」
「いえ、ちょっと|膝《ひざ》をすりむいたくらいですが──」
「良かったわ。それなら入院の必要はないわけですのね」
「まあ……確かにその必要はないと思いますが……」
「じゃ、ゆかりに用心しなさい、と伝えて下さいませんか。私、もう出かけませんと」
「お出かけですか」
「ちょっとこれからパリへ。夕食の約束をしていますの」
「パリというと……フランスのパリで?」
殿永が|呆《あっ》|気《け》にとられて訊く。
「そうですわ。他にもあるのかしら? ともかく飛行機に乗り遅れてしまいますので」
「ちょっと待って下さい」
と、亜由美があわてて引き止めた。「ゆかりが──ゆかりさんが、三人の男性と結婚式をあげるの、ご存知ですか?」
「三人? もう離婚したんですか?」
「いえ、そうじゃなくて、同じ日に三人の男性とです」
「あら、それは初耳ですわ。一応日が決ったとは聞いていますけど……。じゃ、ゆかり、誰とハネムーンに行くんでしょうね」
「問題はですね、三人がそれぞれ、自分だけがゆかりさんと結婚できると思っていることなんです」
と、殿永は言った。「トラブルになることは避けられませんよ」
「あの子は大丈夫。何があっても気にしませんもの。──じゃ、本当に飛行機に乗り遅れてしまいますわ。パリから電話を入れて、ゆかりと話してみます」
「しかし……」
ゆかりは今、同じ屋敷の中にいるのである。
「では失礼します。友永[#「友永」に傍点]さん。それから塚田[#「塚田」に傍点]さんでしたわね。じゃ、また」
──アッという間にいなくなってしまう。
殿永と亜由美は、唖然として顔を見合せたのだった。
「ごめんなさい」
と、ゆかりが居間へ入って来た。「母、出かけた?」
「ええ。──今しがた」
「だと思った。彼女の香水が廊下に匂ってたから」
「パリでお食事ですって」
「いつもあんな風なの」
と、ゆかりは言った。「それで、真田さん、ムチ打ちの方は大丈夫だったのかしら」
「検査していますよ」
と、殿永は言って、「しかし、もし、あれが車に細工されたせいだとしたら……」
「ポルシェはホッとするでしょうね」
ゆかりの発想も相当なものだ。
「誰かが、あなたたちの命を狙った、ってことなのよ」
と、亜由美が言うと、ゆかりは、目をパチクリさせて、
「TVの二時間ドラマの撮影だったのかもしれないわね」
と、言った。
亜由美と殿永は、もう何も言わないことにしたのだった……。
4 間違ったチケット
「ねえ宇野さん」
と、ゆかりが言った。「どこか気分でも悪いの?」
ゆかりの方が気をつかうというのは、よほどのことである、といわなくてはならない。
宇野良男は、ずっと黙りこくって、うつむいていたのである。
ずっと──といっても、半端ではない。
今日はゆかりと二人で映画を見に行くことになっていて、役所の出張所が閉まると同時に、飛び立つようにして出て来た。
もちろん、唯一人の同僚[#「同僚」に傍点]、笠木恭子に励まされて。
時間通りに待ち合せ、二人して映画館までやって来たのはいいが……。チケットを出したら、もう一回後、最終回の指定席券だったのだ。
そこで、先に夕食をとろうというので、近くのレストランに入ったのだが、宇野は入ってから、一言も口をきかない。
おかげで、ウェイトレスはさっきから四回もオーダーをとりに来ては、空しく戻って行ったのだった……。
「ねえ、宇野さん──」
「ゆかりさん」
思い詰めた様子で、宇野が顔を上げると、言った。「長い間、付合って下さって、ありがとうございました」
「長いってほどでも……。それに、どうしてお礼を言うの?」
「これでお別れしようと思っているからです」
と、宇野が青ざめた顔で言った。
「そう……。でも、どうして?」
「いや──分ってます。あなたはやさしい方だから、隠してらっしゃるけど、僕がどんなにだめな人間か、よくお分りになったでしょう」
「よく……分らないけど。何かあったんですか?」
「見ていたでしょう。僕の買ったチケットが、今の回のじゃなかった! でも、確かに僕は五時二十分の回のチケットを買ったつもりだったんです。それなのに、実際は七時半の回のだった。──僕は映画のチケット一枚、まともに買えない、つまらない男なんです。どうか、僕のことは忘れて、別の立派な男性を見付けて下さい」
──宇野は心底、真面目に言っているのだった。
で、その言葉を、数メートル離れた席で聞いている、妙な格好の女の子が二人いた。茶色と紫に染めた髪、革のつなぎに、ブーツ。馬鹿でかいサングラスをかけた、一見パンク風ファッションで、あんまり似合わない(?)ハンバーグなど食べている二人は、亜由美と聡子だった……。
「アホかね、ありゃ」
と、聡子が言った。
「シッ。大きな声出さないで」
と、亜由美がたしなめる。「それにしても、あんなことで、よくあそこまで落ち込めるよね」
ゆかりは、少し身をのり出して、
「宇野さん、気にしないで。たかが映画のチケットじゃないの。後で食事するつもりだったのを、先にしただけ。そんなに自分を責めちゃいけないわ」
「しかし……僕は自分が情ない……」
宇野は手の甲で涙を(!)拭うのだった。
聡子が|呆《あき》れて、
「トーフの角に頭ぶつけて死んじゃえ」
と|呟《つぶや》いた。
「世の中にゃ、あんな男もいるのね」
と、亜由美は首を振って、「うちの親父の方が、ずっとまし[#「まし」に傍点]だ」
亜由美の父、塚川貞夫はインテリで、技術者だが、|涙《るい》|腺《せん》のボルトをしめ忘れたのか、TVの少女アニメを見て泣くのが趣味、という、変り者。
まあ、よくいえば純情なのかもしれない。しかし、宇野の方は、少々度を越している。
「宇野さん」
と、ゆかりが慰めて、「大丈夫。私、こんなことで、あなたとの結婚、断ったりしないから」
宇野は、まじまじとゆかりを見つめて、
「本当ですか……。本当ですか、ゆかりさん!」
「しつこいね」
と、聡子が呟く。
「本当よ。だから安心して食事しましょ」
「ありがとう! 僕は……僕は幸せ者です! 世の中で、僕ほど幸せな人間はいない……」
と、また泣き出す。
「死ね」
と、聡子がまた呟いた。「──ね、亜由美」
「うん?」
「こんな奴について歩くの? 私、発狂しちゃうよ」
「落ちついて」
と、亜由美の方は笑いをかみ殺している。「聡子と結婚するわけじゃないんだしさ」
「当り前でしょ。十億円つまれたって、あんなのごめん」
「大きく出たわね」
──亜由美と聡子は、殿永刑事の依頼で、ゆかりの他の二人の結婚相手について、調べている──のではなかった。もちろん(!)殿永の言葉を無視して調べてやろう、ということになったのである。
二十分後、やっとゆかりと宇野良男は料理を頼んだ。──それだけ時間をとったので、食べ終えたころには次の回にちょうどいい時間になっている。
「さて、出かけるみたいよ」
と、亜由美が言った。
亜由美たちは、早々に食事を終えていたので、ここまでコーヒーを三杯も飲んでしまった。
レストランを出て、映画館はすぐ目の前。
ちょうど、前の回が終って、客がゾロゾロと路上に出て来ている。
「中まで入る?」
「当然でしょ」
「見たくないけどな、こんな映画」
「我慢しなさいよ」
文部省選定。動物もの、というやつである。客の入りがそういいとも思えない。
亜由美たちがチケットを買って中へ入ると、ゆかりと宇野は、指定席へ案内されているところで……。
「ハハ、格好悪い」
と、聡子が笑った。
一般席もずいぶん空いていて、指定席に座っているのは、わずかに三、四人……。
ところが──肝心の、宇野の買った席に、誰かが座っている。
案内の女の子が、
「お客様。失礼ですが──」
と、声をかけたが、どうやら眠っている様子。
「お客様」
と、係の女の子がその男の肩を|叩《たた》くと……。
男はゆっくりと前かがみになって、動かなくなる。
「あの……」
と言ったきり、女の子は声が出せなくなった。
亜由美は、足早に駆けて行った。
「あの……この人……」
と、係の女の子がヘナヘナと座り込んでしまう。
「何してるんだ?」
と、宇野が不思議そうに、「寝てるのかな──」
亜由美は、座席の間を抜けて、その席へと近寄った。
「聡子!」
と、大声で呼ぶ。「救急車! それから警察へ連絡してもらって!」
「どうしたの?」
「この人──刺されてる」
あちこちの客が一斉に立ち上がった。
「まあ」
と、ゆかりが言った。「亜由美じゃない。ずいぶん変った格好してるのね」
亜由美は、サングラスを外して、
「宇野さんでしたっけ?」
と、言った。「あなたの買った席は?」
「僕のは……これですが」
わけの分らない様子の宇野の手からチケットを受け取る。
同じ番号。ただ、上映時間が一回違っているだけだ。
「もしかすると、あなたが刺されていたかもしれないんですよ」
と、亜由美は言った。
「僕のせいで……こんなことに……」
宇野は、また[#「また」に傍点]落ち込んでいた。
「死ね」
と、聡子が呟く。
映画館のロビーのソファ。
亜由美が立っていると、殿永が急ぎ足でやって来た。
「塚川さん……。また[#「また」に傍点]ですか」
「私が犯人じゃありませんもの」
「いばらないで下さい」
と、顔をしかめる。「連絡を聞いて、仰天して飛んで来たんです」
「刺された人は?」
「今、問い合せました」
と、殿永は|肯《うなず》いた。「幸い、傷は急所をそれていて、命に別状ないそうです」
「良かった!」
「病院で|訊《き》いたところ、時間|潰《つぶ》しに入って、指定席が空いているので、映画が始まってから、暗い中でそっと移った、と言っています。普通のサラリーマンですよ」
亜由美は、落ち込んでいる宇野に代って、状況を説明した。
「──すると、買い間違えたので、命拾い、というわけですな」
と、殿永は首を振った。「傷の具合から見て、犯人は後ろの席に座って、席と席の|隙《すき》|間《ま》から、斜めにナイフで刺したと思われます。暗い中で後ろからだ。この人と間違えたのかもしれませんな」
「僕のせいで……」
と、宇野がすすり泣きを始めた。
「宇野さん。──元気出して」
ゆかりが励ましても、あまり元気が出るとは思えない。
「ともかく今日のところは、パトカーで送ります」
と、殿永がゆかりに言った。「こちらの方は──」
「私はハイヤーを呼びますから」
と、ゆかりが言った。「この人を送ってあげて下さい」
「そうね」
聡子が肯いて、「トーフの角にぶつかって死ぬかもしれないもんね」
「分りました。そうしましょう」
殿永も、宇野の落ち込んだ様子を見て、納得したらしかった。
「あの……」
と、女性の声がした。「何かあったんでしょうか」
地味なスーツ姿の女性が、おずおずとやって来る。
「笠木さん」
と、宇野がびっくりした様子で、目をみはる。
「宇野さん。何かあったの?」
と、その女性は心配そうに訊いた。
「とんでもないことになったんです……。僕のせいで……」
宇野がまた泣き出し、聡子は、見てらんない、という様子で外へ出て行ってしまった。
残ったゆかりと亜由美、笠木という女性は、当惑して、泣いている宇野を見下ろしているばかりだったのである……。
「そうでしたか」
笠木恭子というその女性は、亜由美の話に、肯いた。「よく分りました。──宇野さんも、いい人なんですけどね。ただ、気が弱くて、いつも謝ることに慣れてしまっているんです」
ロビーの隅で、亜由美は、いかにも仕事をしている女性らしい、しっかりした感じの笠木恭子に事の次第を話していたのだ。
宇野は?──相変らず涙ぐんでいて、向うのソファで、ゆかりに慰められている。
「でも──」
と、笠木恭子は|眉《まゆ》をくもらせて、「あの娘さんが三人と結婚の約束をしているってこと、初めて聞きました。どうなるんでしょう」
「さあ」
亜由美とて、どうにもならない。「あれも悪い子じゃないんですけどね」
立場が逆になってしまった。
「悪気がないのは分ります」
と、笠木恭子は言った。「世間知らずって感じですものね、見るからに」
「困ったもんです。──まさか三人でジャンケンしろとも言えないでしょ」
「そうですねえ……」
「宇野さんには──」
「黙ってて下さい」
と、笠木恭子があわてて言った。「今、そんなことを聞いたらどうなるか分りませんもの。もし──どうしても話さなくちゃいけない時が来たら、私から話します。それが一番いいと思いますから」
「助かります」
|他人《ひと》|事《ごと》ながら、亜由美は礼を言った。
「──私も、子供のころは気が弱くて泣き虫だったんです」
と、笠木恭子は、宇野の方へ目をやって、言った。「でも、両親を一度に事故で亡くして──。それでいやでもしっかりせざるを得なくなったんです。弟もいましたし……。宇野さんを見ていると、昔の自分を見ているようで」
笠木恭子は、ちょっと|微《ほほ》|笑《え》んで、
「失礼しました」
と、|頬《ほお》を赤らめた。
「──もう遅いですね」
と、亜由美は言った。「宇野さんをよろしく。私、ゆかりを連れて帰ります」
我ながらお節介とは思うが……。
ま、これが性格というものだ。聡子が、さぞ|苛々《いらいら》して待っているだろう、と思いつつ、亜由美はゆかりたちの方へと歩いて行った。
5 殺 人
「課長」
と、八代紘一が言った。「私の婚約者、城之内ゆかりさんをご紹介します」
品川はあわてて立ち上がった。
「おい! そんなこと何も言わなかったじゃないか」
と、八代をにらんでおいて、「こりゃどうも」
と、その娘に頭を下げる。
「初めまして、城之内ゆかりと申します」
おっとりした口調で、その娘は言った。「よろしくお願いいたします」
「いや、どうも。こちらこそ」
と、品川はまた頭を下げた。「──ま、かけませんか」
会社の入っているビルの一階。喫茶室があって、たいていは、来客との話に使っている。
昼休みがあと十分というとき、品川課長は、八代に請われて、ここへ下りて来たのである。
「お前の話だけ聞くより、こうして彼女にお目にかかれて良かったよ」
と、品川は笑って言った。
「時間がありませんので、早速ですが」
八代がパッと手帳をとり出して開く。「披露宴の際、課長にはぜひスピーチをお願いしたいと存じまして」
「俺に?──まあ、断るわけにもいかんだろうな」
と、品川は|肯《うなず》いた。「少しは悪口を言ってもいいか?」
「どうぞ」
八代も少し笑顔になった。
「しかし──ゆかりさん、でしたか。八代みたいのと付合ってると、予定、予定で、うるさくて大変でしょう」
品川は、からかうように言った。
「いいえ」
と、ゆかりは言った。「八代さんは、先の先まで、ちゃんと分ってらっしゃるので、安心ですわ」
「なるほど。しかし、人間、予定通りに行くもんじゃないってことを、少し八代にも教えてやって下さい。仕事の上じゃ申し分ないが、一緒にいると息がつまる」
「私が並外れて|呑《のん》|気《き》ですから」
と、ゆかりはおっとりと言った。「八代さんと一緒だと、ちょうどいいかもしれませんわ」
「なるほど」
と、品川は笑った。「いや、そうおっしゃるのなら、こっちがご忠告する必要もなさそうだ」
「課長」
と、八代が少し改まって、「予定にはありませんでしたが、午後、早退してもよろしいでしょうか」
「早退?」
「式場の打ち合せに参りますので」
「ああ。──構わんよ」
と、品川は肯いた。「お前の早退か。入社以来、初めてじゃないか?」
「初めてです」
と、八代は言った。「早速、届を出しますので」
「分った」
品川は、席を立った。「ま、ゆっくりしてろ。せっかく来ていただいて、一時になったからさよなら、じゃ失礼だぞ」
「はあ」
「じゃ、お嬢さん、ごゆっくり」
「どうも……」
ゆかりが頭を下げる。
八代は、手帳を見ながら、
「十五分、待っててくれるかい? それから式場へ行って、少しはゆっくりできると思うんだ」
「ええ、構わないわ」
と、ゆかりが肯く。
その喫茶室の様子を──やはり亜由美が眺めている。
真田明宏、宇野良男と来て、ついでだ、もう一人も見ておこう、という気になった。
もっとも、今は表に立って、ガラス越しに八代の顔を見ただけ。
「ワン」
と、足下でドン・ファンが鳴く。
「可愛い子に目がないんだからね、全く!」
と、亜由美は言った。「あんた、ここで待ってな」
「クゥーン」
ドン・ファンは不満げである。人間扱いしてくれないと機嫌が悪い。
しかし、亜由美はドン・ファンを外で待たせて、中の喫茶室へと入って行った。
八代が入れかわりに出て行く。
「ああ、亜由美」
と、ゆかりが気付いて、「この間はありがとう」
「いいえ」
亜由美は、椅子にかけて、「今のが、三人目?」
「式の順序からいうと二人目」
「まだ、お互いに知らないんでしょ? あんたも罪なことするわよねえ」
「そうかしら……」
と、ゆかりは心配そうだ。
「そうよ。いい加減、三人の内、一人に絞らなきゃ。それとも全部白紙に戻すか」
「三人とも?」
「そう! だって、ゆかり自身が、この人[#「この人」に傍点]、と思えなきゃいけないのよ」
「分ってるけど……」
ゆかりは困ったように、「でも、三人とも、特に嫌いってわけじゃないの」
亜由美はため息をついた……。
あれが八代の婚約者か……。
課長の品川は、大いに心を動かされていた。──もう四十八歳というのに、二十歳そこそこの若い娘が好みである。
あの、城之内ゆかり。──ぴったり来たのだ!
といって……。八代の結婚相手だ。
手を出すわけにはいかない。
席に戻っても、品川はしばし仕事が手につかなかった。それほど、あの娘の出現はショックだった。
どうして、しかし、よりによって八代の奴に? 俺の方がよほどいいに決ってる。
八代なんて、血が通ってるかどうかも分らない、ロボットだ。
俺があの子に手を付けたら……。呼び出したって、おかしくはない。
スピーチの中身のことで、とか、理由はいくらでもつけられるだろう。どこかへ呼び出して、ホテルへ連れ込む。
なに、今の娘は、表向き大人しくても、結構、経験は豊富だったりする。あれもその口かもしれない。
ま、八代の「予定」に引っかからないようにしなきゃな。
そう思って、品川は一人で軽く笑った……。
八代は、〈早退届〉を出して、席を離れた。
机の上は、新品の机みたいにきれいになっている。
「八代の早退」を二度と見られないかもしれない、というので、誰もが手を休めて、眺めている……。
もちろん、八代もよく知っていた。自分がどう見られ、どう言われているか。──誰も分っちゃいないさ、俺のことなんか。そうだとも。
八代は、エレベーターに乗ろうとして、洗面所へ寄ることにした。
鏡の前で、髪を整える。──みっともなく髪が逆立っていたりするのが一番いやだ。
八代は、もちろん生れつき、予定をきちんと立てて動くことが好きだ。しかし、会社での八代は、その点、ややオーバーである。
故意に、几帳面を誇張している。目立つし、何の取り柄もない社員よりは、役に立つだろう。
むろん、仕事の面でも、その几帳面さを発揮しなければ意味がないが、今のところ、充分に役柄[#「役柄」に傍点]を演じおおせている。
しかし、「恋人」に対しては別だ。
八代は、ゆかりに恋していた。一目見たときからである。
絶対に自分のものにしてみせる、と決心している。
「びっくりさせてやる……」
と、鏡の中の自分へと|呟《つぶや》く。「ゆかり、待ってろよ……」
ゆかりも、八代のことを、何でも予定で動く、「スケジュール表」みたいな男と思っているだろう。
しかし、今日は[#「今日は」に傍点]違う。
八代は、手帳に書き込んでいないことをするつもりだった。
ゆかりと、式場の打ち合せをして、それから、彼女をホテルへ連れ込むつもりなのである。
ゆかりはのんびりしている、いざ、部屋へ入って二人きりにならなくては、一体どういうことなのか、見当もつくまい。
そのときはもう遅い。いやがっても、力ずくで、従わせてみせる。俺が「予定表」通りの人間でないことを、思い知らせてやるのだ……。
鏡の中の八代は、別人のように、目の輝きを見せていた。
そうとも。──今日、ゆかりを俺のものにする。何が何でもだ。
八代は、ネクタイの曲りを直した。
しかし、──むだだったのだ。どうせ、八代は……。
洗面所のドアをパッと開けると、目の前に誰かが立っていた。
見分ける暇はなかった。ナイフの鋭い刃が、八代の腹にスッと刺し込まれてしまったのである……。
救急車のサイレン。パトカー。
「何かあったみたいね」
亜由美は、ついサイレンに敏感になっている自分に気付く。
「八代さん、変ね。もう二十分たつわ」
と、ゆかりが首をかしげる。
ドン・ファンが、いつの間にやら、喫茶室に入って来ている。
「ワン」
「どうかした、ドン・ファン?」
ドン・ファンが表を見ている。
ビルの正面に、パトカーと救急車が|停《とま》ったのだ。中から、警官や白衣の男たちがストレッチャーを押して入って来る。
「人が殺されているという連絡があった」
と、警官がフロントで言っているのが耳に入って、亜由美はパッと立ち上がった。
「どうかした?」
と、ゆかりが顔を上げる。
「ここにいて。動いちゃだめよ」
亜由美は、「おいで、ドン・ファン」
と声をかけて、エレベーターの方へ駆けて行き、救急隊のストレッチャーと一緒にエレベーターに乗ることができた。
──現場は? 男子トイレ。
亜由美は、犬を連れているせいか、文句も言われず、現場を見せてくれた。
男子トイレの冷たいタイルの床に、八代は横たわっていた。タイルの冷たさは、もう感じられないだろう。
血が──タイルの床に広がって、なお広い面積を覆い尽くしている。
やられたのだ。
とうとう、三人のフィアンセの内、一人が欠けてしまった。いつかこんなことが、とは思っていたが……。
「ワン」
と、ドン・ファンが|吠《ほ》える。
「やあ、またですか」
殿永である。「今来たところでして」
「そうですか……。殿永さん、新しい犠牲者が──」
「さよう」
かがみ込んで、殿永は、八代の様子を見ている。
「──死んでいる。刺されてね」
「でも、大胆な犯行だわ」
「全くです。──ロビーから、誰か出て行くのを見ませんでしたか」
あの人数である。とても無理だ。
「会社が沢山入ってますからね」
と、殿永が自分で言って、「腹の刺し傷、手慣れた感じですね」
「映画館で宇野を狙った犯人と、同じでしょうね」
答えを聞く気はなかった。
ついに──殺人[#「殺人」に傍点]?
しかし、なぜだろう? こんなサラリーマンを殺して、何の得が?
「クゥーン……」
何か考えでもあるのか、ドン・ファンが甘えるような声を出した。
「何?」
「ワン」
ドン・ファンは、八代の死体の方へ近付くと、上衣の匂いをせっせとかいでいる。
「何かしら?」
「調べてみましょう」
亜由美は、殿永が八代の上衣のポケットを探るのを見ながら、ふと思った。
これ[#「これ」に傍点]も、八代の「予定」の中に入っていたのかしら、と……。
6 危機一髪
「それで──」
と、神田聡子は言った。「殺された八代って人のポケットから、何が出て来たの?」
「何も」
と、亜由美は首を振った。「札入れとか、定期券とか、手帳とか。──特別なもんは何もなかったのよ」
「じゃ、ドン・ファンが匂いをかいで回ってたってのは、どうして?」
「知らないわ。本人[#「本人」に傍点]に|訊《き》いて。──しっ。そろそろおしまいじゃないの」
亜由美と聡子の会話は、小声で交わされていた。
何といっても、お葬式のときに、部屋で寝そべってしゃべっているような調子では話せない。
「──時間になりましたので」
と、会葬者の前に出て口を開いたのは、どうやら、殺された八代紘一の上司らしかった。
焼香に来た八代の同僚たちが、その男のことを、「課長」と呼んでいたからである。
「八代君は大変時間に|几帳面《きちょうめん》な男でした。きっと、時間通りにきちんと終らせた方が、彼も喜んでくれると思います」
「──ちょっと脂ぎった感じね、あの課長」
と、聡子が言った。
「しっ。聞こえるわよ」
──城之内ゆかりも、もちろん[#「もちろん」に傍点]、やって来ていた。
黒のワンピース姿のゆかりは、その独特の幼さと、服装から来る大人びた落ちつきが、奇妙なバランスを見せて、ひときわ目をひいた。
しかし、ゆかりの存在が人目をひいたというのは、他にも理由がある。──ゆかりの他の「二人の婚約者」、真田明宏(ポルシェは焼けたが、レンタカーの外車でやって来ていた)と、宇野良男も、ここへ来ていたのである。
八代が殺されて、当然事件の報道の中で、八代がゆかりと婚約していたことが公にされた。その時点で、ゆかりが「三人かけもち結婚式」の予約をしていたことが、マスコミの格好の話題になったのである。
亜由美と聡子は、果してゆかりがここへやって来るかどうか、と思っていたのだが、二人が来たときにはもう、ゆかりは前の方の椅子にちょこんと腰かけており、亜由美たちに気付くと、小さく手を振ってみせさえしたのだった……。
「──外へ出よう」
と、亜由美は聡子を促した。
香の匂いが立ちこめた斎場の中は、息が詰りそうだった。
「──ああ、外へ出るとホッとする」
と、亜由美は深呼吸した。
秋晴れで、殺された八代には少し気の毒なくらいだった。
「出棺までいるんでしょ」
と、聡子が言った。
「問題はその後。──マスコミも来てるしね。ゆかりを連れ出さないと、簡単に取っ捕まるよ」
「どうなっちゃうんだろ?」
「知らない」
と、亜由美は肩をすくめた。「だってさ、もとはと言えば、ゆかりが三人と結婚するなんて無茶をしたからだし」
「といって、放っとけない」
「そうなんだよね……」
と、亜由美はため息をついた。「我ながら人の|好《よ》さに感心する。──ねえ、ドン・ファン?」
足下で待っていたドン・ファンに声をかけると、
「同感です」
と、ドン・ファンが──言うわけはないので、顔を上げると、殿永が黒のダブルというスタイルで立っていたのだった。
「殿永さん。何か手がかりはつかめましたか?」
「いや、どうにも動機がはっきりしませんのでね」
と、殿永は顔をしかめた。「実はこの後、例の真田明宏、宇野良男のご両人と話すことになっとるんです。──それにお友だちも含めてね」
「ゆかりですか」
「いよいよジャンケンか」
と、聡子が言った。
「殿永さん。それじゃ──残る二人のどっちかが、ライバルの一人を殺した、と考えてるんですか?」
「ありそうもないことですが、一応は動機になり得ますからね」
殿永は、少し照れた様子で言った。
こういうときの殿永は怪しい。何か、ちゃんと狙い[#「狙い」に傍点]を定めていることが多いのである。
しかし、亜由美がそれ以上何も言わない内に、出棺となって、会葬者がゾロゾロと出て来た。
すると──斎場の門から、ワーッと数十人の男たちが一斉に駆け込んで来たので、亜由美たちは|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「いかん!」
殿永が飛び上がった。「中へ入れるな、とあれほど言っといたのに──」
新聞記者、週刊誌、TV局のレポーターに、カメラマンを加えて三十人は下るまい。
「危い、どいて! ドン・ファン、踏みつぶされちゃうわよ!」
と、亜由美は怒鳴った。
亜由美たちは、ちょうど、殺到するマスコミ陣と、外へ出て来た、ゆかりを結ぶ直線上に立っていたのである。
「ワン!」
ドン・ファンがあわてて短い足で必死に駆け出す。亜由美たちも左右へ分れて、何とかはね飛ばされるのを避けることができた。
「城之内さん!」
「ゆかりさん!──今のお気持を一言!」
「顔をこっちへ!」
「泣いて下さい!」
ゆかりを取り囲んだ記者やカメラマンからは、無茶苦茶な要求も出ている。
「──これじゃどうにもならん」
と、殿永がお手上げという様子で、「記者会見の席でも設けますか」
「ゆかりを連れ出しましょ」
と、亜由美が言った。「聡子」
「何よ」
「その辺で裸になりな。みんなそっちに気をとられる」
「自分でやんな」
と、聡子は舌を出した。
「じゃあ……悲鳴でいい」
「──ま、いいか」
と、聡子は|肯《うなず》くと、大きく息を吸い込んで、「キャーッ!」
数キロ四方に届くほど(はオーバーだが)の|凄《すさ》まじい声を出した。そしてパッと普通の顔に戻ると、
「何、今の声?」
──記者たちが、さすがにシンとして、
「おい、何だ今の?」
「悲鳴かな」
「近かったが」
と、やっている。
「あっちから聞こえたわ!」
と、聡子が指さした方へ、記者たちがゾロゾロと移動する。
その間に、亜由美はさりげなくカメラマンの間をすり抜け、
「ちょっと──失礼します」
と、ゆかりの手を取り、「おいで」
あんまり自然にやっているので、誰も止めようともしないのである。
一旦、人の輪から脱け出すと、亜由美は他の会葬者の間を縫って、ゆかりを、斎場の裏手へと引張って行く。
「──さ、車の間に隠れてるのよ」
駐車場の車の列の間へ、ゆかりを押し込むと、「いい? 呼びに来るまで、ここに隠れてて」
「うん……」
ゆかりは、今になっても、自分がどういう状況に置かれているか、よく理解していない様子だった。
「でも、亜由美、八代さんのご家族にご|挨《あい》|拶《さつ》しなくていいかしら」
「そんなのは後! いいわね、ここにいるのよ」
「分った」
ゆかりは、コクンと肯いた。
「二人[#「二人」に傍点]の婚約者も、きっとマスコミに捕まってるわ。殿永さん、大汗ね」
「よろしく言ってね」
返事をする気にもなれず、亜由美は急いで戻って行った……。
残ったゆかりは、車のかげで中腰になっているとくたびれるので、ヨイショと立ち上がり、ウーンと腰を伸したりしていた。
すると──。
「ああ、ここにいたんですか」
と、やって来たのは……。
誰だっけ? ゆかりは、人の顔を、さっぱり|憶《おぼ》えない。
「八代君の上司だった品川です」
「ああ、課長さんですね。失礼しました」
「いや、とんでもないことになって」
と、品川は首を振って、「しかし、ここにいると、カメラマンたちに見付かりますよ」
「でも──」
「さあ、どこかへ離れないと。──僕の車がある。あれで行きましょう」
品川は、ゆかりの腕をとって、自分の車へと引張って行く。
「でも……あの……」
ゆかりは困ってしまって、「今、亜由美がここにいろ、って」
「心配することはありませんよ。後でちゃんと電話すればいいんですから。そうでしょう?」
「ええ……。そうですね」
と、ゆかりは何だかよく分らない内に、品川の車へ乗せられていた。
「──さ、僕に任せて」
品川はニヤリと笑ってみせると、車をスタートさせた……。
ゆかりは、仕方なく、助手席にじっと座っていたが、車はいやにややこしい道を抜けて、どこか公園の裏手らしい、人気のない道で|停《とま》った。
「ここから電話するんですの?」
と、ゆかりが訊くと、品川はエンジンを切り、息をついて、
「いや、あんたとね、二人きりになりたかったんですよ」
「はあ?」
「八代は可哀そうなことをした。しかし、あんな奴に──と、仏の悪口を言っちゃいけないかな。だが、実際、あんたはあの男にゃ、もったいない」
「そうでしょうか」
「そうですとも。──もっとふさわしい男が、ここにいます」
品川がぐっと迫ると、ゆかりもやっと危機感に襲われたらしく、
「何をなさるんです?」
と、身を硬くした。
「まあ、落ちついて。ここで乱暴しようってわけじゃない。──いいじゃありませんか。どうせ一度は経験するんだ。この近くに、なじみのホテルがあります」
「人間がいやしく[#「いやしく」に傍点]できてらっしゃるのね」
と、ゆかりは言った。「あなたのような方とは、手を触れるのもいやです」
「ほう、なかなか手厳しい」
と、品川は笑った。「しかし、あんたの力じゃ、拒み切れやしない。痛い思いをするより、ここはおとなしく、言うことを聞いた方がためですよ」
「お断りします」
と、ゆかりは品川をにらんだ。「無理に、とおっしゃるのなら、舌をかんで死にます」
「面白い子だ」
と、品川は楽しげに、「なに、すぐにいい気持になるんだ。そんなものなんだから、女ってのは」
品川の手が、助手席のリクライニングを倒した。
「キャッ!」
仰向けになったゆかりの上に、品川は素早くのしかかった。
「諦めなさい。──こういうことにかけちゃ、ベテランでね」
つまらないベテランもあったものである。
「やめて下さい!」
と、ゆかりは品川を押し戻そうとしたが……。
「観念して、言うことを聞くんだ。こんな所で裸にされるのもいやだろ? それなら、ホテルでおとなしく俺に抱かれることさ。──ほら、おとなしくしな」
と、ゆかりの手足を押えつけて、キスしようと顔を近付けて行く。
「やめて!」
ゆかりは顔をそむけた。
「ハハ……。そうやって顔をしかめたところも可愛いぜ」
と、品川は顔を近付けたが──。
二つの顔の間に[#「間に」に傍点]、ヌッともう一つ、別の頭が入って来た。
品川は、ゆかりの柔らかい唇の代りに、毛の生えた、茶色い肌(?)にキスすることになったのである。
「ワッ!」
と、品川は頭を上げて、その拍子に天井でしたたか頭を打った。
ガン、という音がして、品川は目を回しそうになる。
「ワン!」
後ろの座席に隠れていたドン・ファンが、品川の腕に、勢いよくかみついた。
「ワーッ!」
品川が悲鳴を上げ、「助けてくれ!」
ドアを開けて外へ飛び出すと、転がるように逃げて行った。
「クゥーン」
ドン・ファンは、ちょっと胸をそらして(?)、ゆかりの方を、「大丈夫かい?」というように振り返った。
「ありがとう……。あなた、亜由美のところの……。ドン[#「ドン」に傍点]・カン[#「カン」に傍点]だっけ?」
「ワン」
と、ドン・ファンは不機嫌そうな声を出した。
「助かったわ! 本当にありがとう」
ゆかりは、ドン・ファンの鼻先にチュッとキスした。
ドン・ファンは、お返しに、ゆかりの頬に鼻先をくっつけて、ペロッとなめたのだった……。
7 ライバル
「あんたは立派よ」
と、亜由美は言った。「飼主よりよっぽど偉い。ええ、そうでしょうとも。うちの養子になる? 私が出てきゃいいんでしょ、フン」
「亜由美ったら、よしなよ」
と、聡子が|呆《あき》れて、「ドン・ファンにやきもちやいたって仕方ないでしょ」
「誰もやいてなんかいないわよ!」
亜由美がかみつきそうな顔で言うと、ドン・ファンはギョッとした様子で、頭を低くした。
「ほら、殴られるのかと思って、|怯《おび》えてる」
「怯えたりするもんですか。格好だけよ」
──ともかく、亜由美はご機嫌斜め。
ドン・ファンが、ゆかりの危いところを救ったというので、すっかり「ヒーロー」になってしまった。
「いや、あの品川ってのも、とんでもない奴だ」
殿永が電話を終えてソファに戻った。
ここは、塚川邸──というとよく分らないかもしれないが、要するに、亜由美の家の居間である。
マスコミ攻勢を避けて、ゆかりと二人[#「二人」に傍点]の婚約者が、じっくり話のできる場所というので、色々考えた結果、亜由美のところが一番便利だ、ということになったのだった。
居間には、着替えた亜由美と聡子、そして、黒いスーツのままの、殿永と、真田、宇野。──ゆかりは、二階の亜由美の部屋で着替えているところだ。
「まあどうも、ご苦労様」
と、母の清美が紅茶など出してくれる。「ドン・ファンも、お手柄だったわね」
ドン・ファンを|誉《ほ》めると亜由美がむくれると分っている殿永が、あわてて、
「いや、それはやはり飼主の功績です。亜由美さんの勇気と行動力が、ドン・ファンにもうつったんですな」
と、持ち上げた。
いささか見えすいたお世辞ではあったが、亜由美は少し機嫌を直した。要は単純なのかもしれない。
「品川が、八代さんを殺したんですか?」
と、聡子が訊く。
「それはどうかな。それほどの度胸のある男とも思えませんがね」
と、殿永は言った。「それに、八代を殺すことはできたとしても、映画館で宇野さんを狙ったのは、品川ではないでしょう」
「あ、そうか。じゃ、要するに品川は女ぐせの悪い奴、ってだけなんですね」
「おそらくね」
と、殿永は|肯《うなず》いた。
「本当に用心しませんとね」
と、清美が話を聞いていて、言った。「でも、うちの亜由美みたいに、女ぐせの悪い男からも目をつけられない子もいますけど」
「ちょっと、お母さん!」
と、亜由美は頭に来て言った。
「こちらのお二方が、城之内さんの結婚相手?」
「そうよ」
「じゃ、どちらか余った方[#「余った方」に傍点]の人に、もらっていただいたら?」
「数が合えばいいってもんでもないでしょうが!」
「それに、私は余り[#「余り」に傍点]ますし」
と、聡子が付け加えた。
「ともかく、品川は、充分に絞り上げて、汗をかかせてやりましょう」
と、殿永が言った。
「どこへ逃げたのかしら?」
「プロの犯罪者ってわけじゃありませんからね。すぐに捕まりますよ」
品川はドン・ファンにかみつかれて、逃げ出したきり、まだ見付かっていないのである。
「じゃ、亜由美、獄中でその人と結婚したら?」
と、清美がさらに無茶なことを言い出した。「よく週刊誌とかに、美談で出てるわ」
「お母さんは、あっちに行ってて」
「あっちもねえ……」
と、清美がため息をついた。「お父さんがいるのよ」
「いいじゃない、夫婦水入らずで。お邪魔はしませんよ」
「水入り[#「水入り」に傍点]なの」
「何が?」
「お父さん、ダイニングのTVで、アニメを見て泣いてるの」
「そう」
亜由美は少し考えて、「じゃ、お母さん、お風呂にでも入ったら?」
聡子がわきを向いて、
「親子で似たもんだ」
と、|呟《つぶや》いた……。
そこへ、普通の(といっても、少々時代遅れなセンスの)ワンピースのゆかりが入って来た。
「ごめんなさい、お待たせして」
そういえば、三十分近くも着替えにかかったことになる。
「無理もないよ」
と、真田が口を開いた。「襲われかけたんだから。ショックだったろうね。もう大丈夫。僕が君を命にかえても守ってあげるからね」
聞いていて、聡子がわざとらしく|咳《せき》をした。
「いえ……。私、ちょっと、横になってたもんだから」
と、ゆかりは当惑気味に言った。
「貧血でも起こしたの?」
と、亜由美が訊くと、
「そうじゃなくて……。可愛いベッドだから、寝心地はどうなのかしらと思って、横になってみたの。そしたら、ウトウト眠っちゃって……」
どうやら、乱暴されかけたことの「心の傷」は、あまり深くは残っていないようだった。
「品川は何か言いましたか。たとえば、八代さんが殺されたことについて、とか」
「いいえ。ただ、自分の方が八代さんよりずっといい男だと信じているようでしたわ。きっと|凄《すご》く目が悪いんじゃないでしょうか、あの人」
と、ゆかりはのんびりと言った。
「──さて」
殿永はポンと膝を一つ|叩《たた》いて、「問題は、八代殺し、そして映画館での傷害事件、真田さんのポルシェのブレーキに細工がしてあった事件。この三つは果して同一犯人か? そして原因は、城之内ゆかりさんが三人の男性と婚約してしまったことにあるのか、ということです」
「車のブレーキは、やっぱり誰かの細工だったんですか」
と、亜由美が訊いた。
「それが、焼け方がひどくて、どっちとも断定できないんです。しかし、故意に壊してあったという可能性は否定できません」
──その他にも、真田がゆかりを結婚後に殺そうとしているという匿名の投書があったわけだ。もちろん、そのことは、真田も知らない。
「──でも、元はといえば、私がいけなかったんですね」
と、ゆかりが、さすがに多少[#「多少」に傍点]責任を感じている様子。「でも、三人ともいい人で……。お断りするのが気の毒だったんですもの」
「いや、君が悪いんじゃない!」
と、真田がここぞとばかり、声をはり上げた。「そうだとも、君はただ、やさしすぎただけだ。君が自分を責める必要はないんだよ」
全く、その必要がないかどうか、亜由美には少々疑問に思えたが、ともかくゆかりの方は心を打たれた様子で、
「ありがとう……。真田さんの言葉で、私、救われたような気がするわ」
と、涙を|拭《ぬぐ》った。
「何も心配することなんかないんだよ」
と、真田はやや自己陶酔気味に、続けた。「これからは僕が君のことを守ってあげる。ずっと、一生ね。君はただ黙って、僕について来ればいい」
亜由美は、そっと聡子と目を見交わした。──真田は、ゆかりが自分と結婚すると信じ込んでいる様子だ。それに対して、宇野の方は、といえば……。
真田の言葉が耳に入っていないかのように、じっと身じろぎもせず、ソファに座っていた。目はテーブルの上の一点を見つめて、動かず、表情はどこか暗い。──いや、「暗い」のはもともとだったが、亜由美の目には、どことなく、前の宇野とは違っているように感じられた。
真田は、ちょっと咳払いをすると、隣の宇野の方へと体を向けて、
「宇野君、でしたね。──いや、君も心からゆかりさんを愛しているに違いない。しかし、今聞いた通り、ゆかりさんは僕と結婚することになっているんです。誠に申し訳ないことですが──」
真田が言葉を切ったのは、宇野が笑った[#「笑った」に傍点]からだった。──確かに、それは思いもかけないことだった。
「真田さん」
と、宇野は|真《まっ》|直《す》ぐに真田を見つめて、言った。
「ゆかりさんがいつ、あなたと結婚する、と言いました?」
「何だって?」
「今は、あなたも僕も、ゆかりさんの婚約者です。対等の立場だ。その選択をゆかりさんに迫るのは気の毒です。ここは、僕とあなたの間で、結着をつけるしかないんじゃありませんか」
亜由美たちは──ゆかりも含めて──|唖《あ》|然《ぜん》としていた。
あの、「落ち込み人間」の宇野が、まるで別人のように、しっかりした口調で、真田に対して、挑みかかるような口をきいているのである。
「──結着をつける、というと?」
と、やっと立ち直った真田が言った。
「もちろん、僕とあなたのどっちが、ゆかりさんを、より深く愛しているか、ということになるでしょう」
「そんなことを、どうやって決めようというんだ?」
と、真田が戸惑い顔で言った。
「ゆかりさんに乱暴しようとした男がいたんですよ。その男に対して、何も感じないんですか」
「何も、って……。決ってるじゃないか! 頭に来てるさ」
「それなら、二人で競争しましょう」
「何を?」
宇野は、唇に薄く笑いさえ浮かべて、言った。
「二人のどっちが、先に、品川を殺すか、です」
「何だって?」
「あなたが、そんなことはできないとおっしゃるのなら、結構。別に、無理にとは言いません。僕一人でやります。──ゆかりさんはそんなことを望んでおられないかもしれない。しかし、僕の心が、それを許しません。その男を殺さずにはいられないんです」
宇野はパッと立ち上がった。
「待って──」
ゆかりは、さすがに焦っていた。「宇野さん、そんなことを……」
「これは僕自身の問題なんです」
と、宇野は言った。「失礼します。今度お会いするときは、品川の命を、この手で奪っているでしょう」
「待て!」
聞いていた真田が、真赤になって立ち上がると、「僕だって──品川への怒りは、君以上だ」
「じゃ、やりますか?」
「当り前だ!」
「どっちが先に品川を殺すか」
「よし! 受けて立とう」
二人の男の視線が火花を散らした、と思うと──アッという間に二人とも出て行ってしまったのだ。
居間の中は、しばし沈黙した。
「──参った」
と、殿永が、やっと言った。「何てことだ! あまりびっくりして……」
「今、私、夢見てたんじゃない?」
と、ゆかりが言った。
「呆れたもんね」
亜由美は首を振って、「人を殺すのが、愛の証し? あの二人、決闘でもやらかすかもしれないわよ」
「でも、まさか──」
と、聡子が言った。「本当に[#「本当に」に傍点]、品川を殺したりしないでしょう?」
「もし、やったら大変だ」
と、殿永があわてて立ち上がった。「電話を借ります。──何て厄介な婚約者だ!」
「ワン」
ドン・ファンが、同感の意を表すように、鳴いた。
8 長い風呂
こっちを見てるわ。
品川圭子は、できるだけさりげなさを装って歩いていたが、見知った奥さんたちと会うことは、もちろん避けられない。
いつもなら、買物ついでに、
「ねえ、ちょっとお茶飲んでかない?」
と、誘って来る奥さんたちも、今日は圭子に気付いても、知らん顔をしている。
スーパーでも、その近くでも、圭子ははっきりと、自分の方へ向けられる好奇の目を感じた。
ひそひそ話、忍び笑い。──それが、どんな大声よりも、圭子の耳につく。
「旦那さん、若い女の子に乱暴しようとしたんですって」
「ねえ。|呆《あき》れたわね。しかも、もしかすると人殺しまでやってるかもしれないっていうじゃないの」
「部下の婚約者が可愛いからって……。もともと、ちょっとおかしな感じの人だったわよ……」
「そうそう。ご夫婦そろって、ちょっと変ってるものね」
──聞こえなくたって、話の中身はあらかた分る。
圭子の被害妄想というわけではなかった。
こういう新興の住宅地では、様々なサークルがあり、ほとんどの主婦は、そのどれかに入っていた。しかし、もともと人付合いの得意でない圭子は、どれにも入らず、誘いも断ってしまっていた。
子供がいれば、幼稚園や小学校で、母親同士の付合いもできたかもしれないが、品川夫婦には子供がなかった。
かくて──そういう夫婦は、決って「変り者」というレッテルを貼られるのである。
それにしても……。
圭子は、自宅が見えて来ると、ホッとして、足を速めた。
でも、家の前には車が一台、ずっと|停《とま》っていて、中には刑事が乗っているのだ。夫が姿を現すのを待っているのである。
それにしても──と、圭子は再びため息をつく。
部下の婚約者を無理やりに──。何てことをしたんだろう!
このところ、夫との間は冷え切っていて、この半年近く、夫は圭子に手を触れたことがない。
外に女を作っているのか、とも思ったが、それほどのお金もないはずで、たぶん、時たまの浮気で我慢しているのだろうと思っていた。まさか──若い女の子を襲うなんて!
八代という部下を殺したのが夫だとは、圭子も考えていなかった。そんなことのできる人ではない。
玄関の|鍵《かぎ》を開けて、中へ入る。
どこへ逃げて、隠れているんだろう?
心配にならないといえば嘘になる。自業自得とはいいながら、やはり自分の夫なのである。
玄関の上がり口に、買物して来た物を上げて、ドアをロックしようとすると、タッタッと足音がして、パッとドアが開いた。
髪を赤く染めた、大柄な女が入って来た。
「どなたですか。いきなり──」
すると、その女はパッと髪の毛を外した。
「あなた!」
圭子は、女の格好をした夫を見て、目を丸くした。
「表に刑事がいるんで、なかなか入れなくて……。この服、近くの家へ忍び込んで、かっぱらって来たんだ」
品川は、玄関に、ヘナヘナとしゃがみ込んでしまった。
「あなた──」
「待て。ともかく、何か食わしてくれ。腹が減って死にそうなんだ……」
品川は情ない声を出した。
圭子は少しためらってから、玄関のドアをロックし、チェーンをかけたのだった……。
「──呆れた」
と、圭子は、夫が丼一杯のご飯をたちまち空にするのを見て、|呟《つぶや》いた。
「──生き返った! おい、もうないのか」
「炊かなきゃないわよ」
「そうか。──いてて」
品川は、腹を押えて、|呻《うめ》いた。
「急に食べるからよ」
と、圭子は肩をすくめた。「かまれた傷、どうなの?」
「痛むさ。病院へ行ったら、やばいと思ってな」
「見せて。──ひどいわね」
ハンカチを巻いており、血がにじんで、汚れ切っている。「ともかく、消毒しないと」
「風呂へ入りたい。──そして眠りたいんだ。なあ、圭子、俺は……」
品川は、疲れ切った顔で言って、「悪かった……」
「やってしまったことでしょ」
圭子は、両手をせわしなく握り合せて、「本当にやったのね」
「八代の婚約者だった娘を──車の中で、手ごめにしようとした。それは認める」
「情ない人!」
「しかし、八代を殺したりはしてないぞ。本当だ」
圭子は、ひげがのび、髪もボサボサで、一歩間違えたら浮浪者みたいな夫の姿を、じっと眺めていた。
「──ともかく、傷口を消毒するわ」
と、圭子は立ち上がった。「それから、そこにビニールを巻いて、お風呂へ入るのね。先のことは、その後で」
「ああ……。どうかしてたんだ、俺は」
品川は、深々と息をついた。
「気が付くのが、少し[#「少し」に傍点]遅かったみたいね」
と、圭子は言った。
窓のカーテンを引き、夫の腕の傷口を消毒する。品川は、痛みで悲鳴を上げそうになるのを、真赤になって、こらえた。
大体、気の弱い男なのである。
そして、お風呂の湯を入れる。──もうすぐ夜になるところだ。
圭子は、夫を警察へ突き出す気にもなれなかったが、しかし、早晩見付かるだろう、と思った。
それなら、明日にでも、自分がついて、自首して出た方がいい。今夜は──あんなに参っている。一晩、ぐっすり眠らせてやってもいいだろう……。
「──どう?」
と、圭子は、風呂へ入っている夫に、ガラス戸の外から声をかけた。
「ああ。──いい気持だ」
と、品川の声が、少しエコーをかけて聞こえて来た。「このまま眠っちまいそうだよ」
「|溺《おぼ》れないで」
と、笑って言って、圭子は台所へ戻った。
片付けものをしていると、玄関のドアを|叩《たた》く音がした。
圭子は表情を硬くした。もしかして──。
「どなたですか」
と、ドア越しに|訊《き》くと、
「警察の者です」
やっぱりか。開けないわけにもいかない。
ドアを開けると、昼間やって来た、太った刑事である。
「殿永です。度々どうも」
そうだった。そんな名だっけ。
「あの──何か?」
「ご主人はお風呂ですか」
さりげない訊き方だが、ちゃんと分って言っているのだと圭子にも感じられた。
「はい……。でも、ひどく疲れてるんです。お願いです。明日まで──今夜だけ、うちで寝かせてやってはいけませんか」
「お気持は分ります」
と、殿永という刑事は言った。「しかし、ご主人の話を、至急聞く必要もあるんです。これは、ご主人のためでもあります。後で保釈もできますよ、婦女暴行未遂だけならね」
「分りました。じゃあ……呼びます」
「お願いします」
圭子は、お風呂のガラス戸の前へ行って、
「あなた」
と、声をかけた。「警察の方が──。一緒に来てほしいって。行った方がいいわ。あなた」
返事はなかった。──圭子は、戸をそっと開けた。
「あなた……。眠っちゃったの?」
と、|覗《のぞ》くと、湯気が立ちこめて、よく見えないが……。
やがて、湯気が薄らいで来ると、圭子は、立ちすくんだ。
|浴《よく》|槽《そう》の中に、品川は沈んでいた。そして、湯は、赤く濁って、その中で、品川の首筋に鋭く切り裂かれた傷口が見えていた。
圭子は、叫んだ。悲鳴を上げた。
殿永が駆けつけて来るのに、十秒とはかからなかったが、しかし、圭子の悲鳴は、おさまらなかった。
体を震わせ、叫び声を上げ続けながら、圭子は、殿永刑事がお湯の中へ服のまま飛び込んで、夫の体をかかえ出すのを見ていた。
「何てことだ!」
殿永は、風呂場の窓を見た。ロックが外れている。
ずぶ濡れのまま、殿永は廊下へと飛び出して行った。
「困ったことになりました」
と、殿永はため息をついた。
「まあ、落ちついて。あったかい内にスープを」
と、清美がすすめる。「服もじきに乾くと思いますから」
「こりゃどうも……」
塚川家のダイニングで、|浴衣《ゆかた》姿の殿永は、しきりに恐縮して、「ハクション!」
と、派手にクシャミをした。
「──大丈夫ですか?」
と、亜由美が入って来る。「上に毛布でもかけます?」
「いや……。少々の鼻風邪ぐらい、どうってことはありません」
殿永は、スープをゆっくりと飲んで、「いや、|旨《うま》い! すばらしい味ですな、奥さん!」
と、息をついた。
「まあ、恐れ入ります」
と、清美はニッコリ笑って、手をエプロンで|拭《ふ》きながら、「最近のインスタントって、結構おいしくできてるんですよね」
「お母さんは、それを言わなきゃいいんだけどね」
「あら、どうして? 正直なだけよ」
と、清美が言った。
「私もお腹|空《す》いてるの。夕ご飯は?」
「あら、食べるの? じゃ、買物に行って来なきゃ」
「いいわよ。何かあるもので」
と、亜由美は諦めて言った。「ちゃんと、ドン・ファンの分はあるんでしょ」
「ええ」
「こういう親だから」
亜由美は冷凍食品をいくつか電子レンジで解凍することにした。
「──すっかりご迷惑をおかけして」
と、殿永が言った。
品川の家で、お風呂の中へ飛び込んだので、そのままでは風邪をひく、というわけで、なぜか、この家へやって来たのだった。
「何となく、来やすいんですよ、お宅は」
「行きにくい、と言われるよりいいですわ」
と、清美が|微《ほほ》|笑《え》む。「殿永さんも、何かお食べになる? 冷凍のピラフ、グラタン、色々揃ってます」
「変なこと自慢しないでよ」
「ではピラフを」
と、殿永は遠慮なく注文した。
「──とうとう本当に殺されちゃったんですね」
と、亜由美は言った。
「いや、品川が下手に目をごまかして家へ入ったりするものですから……。監視していた刑事が、ベテランなら見破ったと思うんですがね」
「犯人は、お風呂場の窓から?」
「浴槽のすぐ上に窓があるんです。たぶん犯人は家の裏手から、あの窓の外へ回り、ガラスを|叩《たた》いたんでしょう。何と声をかけたのか知りませんが、品川は浴槽の中で立ち上がって窓を開けた。そこで刃物が品川の首筋を切り裂いた、ということでしょうね」
「じゃ、犯人は、中へは入らずに、殺せたんですね」
「そうです。足跡とか、捜していますが、今どき、足跡の残る、柔らかい土は、まずありませんからね」
亜由美は|肯《うなず》いて、
「例の二人は?」
「真田と宇野ですか? 今のところ二人とも見付かっていません」
「どこに行っちゃったんでしょうね」
「さて……。真田の方は、自由業というか、何だかよく分らない仕事をしていますが、ま、もともと親の|遺《のこ》した財産で暮してるんですね。どこかをふらついていても、おかしくないんですが、宇野の方は、公務員ですからね。──仕事に出ていないというのは……」
「でも、本当にあんなことで、人を殺したりするんでしょうか」
「世の中には、色んな人間がいますから」
と、殿永は首を振って言った。
「──殿永さん」
と、清美が声をかけた。「お電話ですよ」
「や、こりゃすみません」
急いで、殿永が電話に出る。「──ああ。──何だと?」
殿永の顔がこわばった。そして、ふっと息をつくと、
「──よし、分った。──ああ、すぐ行くから」
声には力がなかった。電話を切った殿永へ、亜由美は声をかけた。
「どうしたんですか?」
「今──真田の借りていた車が見付かったそうです。川に落ちているのが」
「まあ。──それで、真田は?」
「車の中にはいなかったそうですが、川の流れが速いので、流されたのかもしれません。早速行ってみます」
「でも、まだお洋服、乾いていませんわ」
と、清美が言った。
「半乾きでも、びしょ濡れよりはましでしょう」
と、殿永が言った。
「私のもの、着て行きます?」
と、亜由美はやさしく訊いてみたのだった……。
9 キャンセル
カウンターで仕事をしていた笠木恭子は、入口の扉が開くと、顔を上げ、反射的に、
「いらっしゃいませ」
と言っていた。「──あら」
「どうも」
と、亜由美は言った。「犬も入って構いません?」
「どうぞどうぞ」
と言ったものの、「──どこにいるんですか?」
「ここに」
笠木恭子は伸び上がって、やっとドン・ファンを見ることができた。
「まあ、きれいな犬。とても毛並のいい犬ですね」
「毛並[#「毛並」に傍点]もそうですけど、人並み[#「人並み」に傍点]に扱わないと機嫌が悪いんです」
と、亜由美が言った。「お仕事のお邪魔じゃありませんか」
「いいえ。ご覧の通り、一人でいても、忙しいことなんて、めったにないんですよ」
と、いかにもお役所風の事務服をはおった恭子は、立ち上がって、「どうぞ、カウンターの中へ入って下さい。今、お茶でもおいれしますわ」
亜由美は、言われた通り、カウンターの中へ入って、|正《まさ》に「猫の額みたいな」小さなスペースに、窮屈そうに座った。
「──税金からお給料をいただいてて、こう暇じゃ、申し訳ないみたい」
と、恭子は、亜由美にお茶を出した。
「どうも」
「ワンちゃんにあげるものはなさそうね、ごめんなさい」
「ワン」
ドン・ファンは、なまじ妙なものをもらっても、口にしない。
「宇野君の|行方《ゆくえ》、まだ分りませんの?」
と、笠木恭子は|訊《き》いた。
「ええ。こちらにも連絡は?」
「全然。──もう五日ですものね。あの子、無断で休むなんてこと、なかったんです」
「どこに隠れているか、お心当りはありませんか」
と、亜由美は訊いた。
「さあ……。でも、あの子が人殺しをしたなんて、とても信じられません」
と、恭子は首を振った。
「彼がやったとは限りませんわ。でも、真田明宏も行方不明ですし」
「車が川に落ちたとか」
「でも、死体が見付かったわけじゃないんです。──八代、品川と続けて二人殺されたわけですから。それに、映画館での事件もあります」
「間違って、刺された、という人ですね」
「あの事件から考えると、宇野さんも、狙われていたかもしれないんです。そうなると、一体犯人が誰なのか」
「さっぱり分りませんわ」
「ただ、気になるのは……。八代のお葬式の後、宇野さんが急に別人のようになったことなんです」
と、亜由美は、あのときの宇野の様子を説明して、「何か、きっかけになるようなことがあったんじゃないかと思うんですけど、思い当ることはありませんか?」
笠木恭子の表情に、何か微妙な変化が現れたように、亜由美には思えた。──しかし、それは一瞬の内に消えて、
「私にも、宇野君の心の中までは分りませんわ」
と、静かに言っただけだった。
そのとき──ガタン、と大きな音がして、亜由美はびっくりして見ると、
「まあ、ドン・ファン! 何してるの!」
ドン・ファンが、笠木恭子の机のわきにあったくずかごを引っくり返してしまったのだ。中の紙くずが飛び散ってしまっている。
「あらあら」
と、恭子が笑った。「何しろ狭いですものね」
「しょうがないわね! ドン・ファンったら! すみません、本当に」
亜由美が急いで、飛び出した紙くずをくずかごへ入れる。
「ああ、私がやりますから。──大丈夫ですよ」
「ごめんなさい。──ドン・ファン、ちゃんとお詫びしなさい」
「クゥーン……」
ドン・ファンが、ペタッと床にお腹をつけて、上目づかいに恭子を見る。恭子は笑い出してしまった。
「全くもう……。じゃ、これで失礼します。宇野さんから何か連絡があったら──」
「ええ、お知らせしますわ」
と、恭子が|肯《うなず》く。
亜由美は、ドン・ファンを連れて、出張所の建物を出た。
「──あんたらしくもないわね。あんなくずかごなんかに何の用だったの?」
ドン・ファンが、足を止めた。──足に何か小さな紙片がはりついている。
「いやね。何をくっつけて来たの?」
亜由美は、かがみ込んで、ドン・ファンの足にくっついたその紙片をとってやったが……。
「これは──」
亜由美は、その紙片を見て、目をみはった。
「くたびれた……」
と、ゆかりが言った。
「何言ってんの。一つすんだばっかりじゃないの」
と、聡子が|呆《あき》れて言った。「あと二つ、残ってるんだからね」
「ねえ、聡子」
「何?」
「残りは明日にしない?」
「だめよ。今日の内にやっちゃうの。そうしないと、取り消された方が困るのよ、遅れた分だけ」
「分ったわ……」
と、ゆかりは、すっかり疲れはてた様子で言った。「私、もう二度と婚約なんかしないわ」
──二人は、Nホテルで、ゆかりと八代との式と披露宴をキャンセルして来たところだった。
何しろ相手が死んでしまったのでは、話にならない。
そして、真田、宇野との式も、とりあえずキャンセルしようということになって、ゆかり一人では頼りないので、聡子がついて歩いているのだった。
「さ、次はKホテルへ行きましょう」
と、聡子がメモを見て言った。
「でも、聡子」
「何?」
「申し訳ないみたいね、キャンセルするってこと」
「今さら何言ってんのよ。──この次のときは、もっとじっくり考えてから、決めるのね」
二人は、Kホテルまで歩いて行くことにした。歩いても、三つのホテルは、それぞれ十分ほど。
「お互いに近い所にしたの。次に移るとき、便利でしょ」
と、ゆかりは妙な自慢をしている。
「大学の講義じゃないんだからね。一時限はここ、二時限はあっち、なんてわけにゃいかないのよ」
と、聡子は言った。「そこ、右へ上がるとKホテルだ。ここは──真田明宏と式を挙げることになっていたのね」
「そうだった?」
「人に訊かないでよ」
二人は、Kホテルへ入って行くと、〈結婚式相談コーナー〉へと向った。
こういうとき、ゆかりは気が弱くて、てんでだめである。仕方なく、聡子が、係の女性に声をかけた。
「あの──すみません」
「はい、何か?」
と、にこやかに応対されると、何となく聡子もひけめを感じる。
「あの──この結婚式なんですけど」
と、真田明宏との式の招待状を出し、「事情がありまして、キャンセルにしたいんです。よろしく」
係の女性は、ちょっとそれを眺めていたが──。
「あら、確か……」
と、テーブルの上の大きなファイルをめくって、
「──そう。これですね。真田明宏さんと、城之内ゆかりさん」
「はい、そうです。私じゃなくて、この子なんです」
と、つい余計なことを言ってしまう。
「これは、もうキャンセルされてますよ」
と、係の女性が言った。
聡子とゆかりは顔を見合せていたが、
「──いつ、キャンセルされたんですか」
と、聡子が訊いた。
「午前中ですわ、確か。女の方[#「女の方」に傍点]が来られて、キャンセルの手続きを……」
「女の人?」
聡子は、首をかしげた。──誰だろう?
しかし、ともかくもうキャンセルされているというのだから、ゆかりたちのすることはない。
「失礼しました」
と、頭を下げて相談コーナーを出る。
「また[#「また」に傍点]どうぞ」
と、声をかけてくれたのを、二人は複雑な思いで聞いた。
「──おかしいわね。誰がやったんだろ」
と、聡子が首をひねっている。「私、亜由美に連絡してみる」
「私、ちょっと化粧室へ行ってるわ」
「じゃ、ここで待っててね」
二人は別れて──聡子は電話を捜しに、ゆかりは化粧室を……。もちろん、ホテルのロビーの中である。
ゆかりは、化粧室で手を洗い、鏡の中の自分の顔に見入った。──いくら世間知らずのゆかりでも、この一件が、もとはといえば自分のせいだということは、分っている。
「もう少ししっかりしなきゃ」
と、|呟《つぶや》くように言って、鏡の中の自分を見ていたが……。
誰かが、背後に立った。鏡に映ったその顔を見て、
「あら……。確か宇野さんの──」
と、ゆかりは振り向いた。
「静かに」
と、笠木恭子は言った。「声をたてると、これがあなたのお腹に刺さるわよ」
恭子の手には、鋭いナイフが握られていた。
「あの……」
「黙って、ついて来るのよ」
ゆかりは肯いた。
「出たら、右へ。エレベーターで駐車場へ下りるの」
背中に、ナイフが突きつけられていては、ゆかりも言われる通りにするしかない。いや、ちっとも恐怖感は|湧《わ》いて来なかったのだ。
ただ、何が何だか分らないというだけで……。
ともかく、言われるままに、ゆかりはロビーへ出ると、エレベーターの方へと歩いて行く。笠木恭子は、ぴったりとその後ろについて、ナイフを持った手に、折りたたんだコートをかけて隠していた。
「あの……」
と、ゆかりがおずおずと言った。
「何?」
「お名前、何でしたっけ?」
と、ゆかりは言ったのだった……。
10 裏返った男
何だか、古ぼけて|侘《わび》しい感じのホテルだった。
レンタカーでここまで来て、ゆかりは、笠木恭子に促されるままに、そのホテルの中へ入った。
その一室。ドアを恭子が|叩《たた》くと、
「誰だ?」
と、中から声がした。
「私よ」
ドアがすぐに開く。
「──やあ、来たね」
「宇野さん……」
ゆかりは、部屋の中へ入った。昼間だというのに、カーテンを引いてあって、薄暗く、少し|埃《ほこり》っぽい匂いがした。
「何してるの、宇野さん? みんな心配してるのよ、あなたがいなくて」
と、ゆかりは言った。
「心配? そんな必要はないさ。僕は生れ変ったんだ。何もかもうまく行く」
宇野の話し方は、別人のようだった。
「宇野さん、私……。あなたとの婚約もキャンセルするつもり。ごめんなさいね。でも、結婚って、もっと大変なことだったのよね。私がいい加減で──」
「その必要はない」
と、宇野は遮った。「君は僕と結婚すればいいんだ。あの真田みたいな、生っちょろい奴とじゃなくてね」
ゆかりはすっかり面食らっていた。宇野は続けて、
「真田との式はこの女[#「この女」に傍点]がキャンセルして来たよ。だから君は予定通り、僕と結婚すればいいんだ」
と、自信たっぷりの口調で言った。
「この女、って……。宇野さん、この人はあなたの先輩でしょう。そんな口のきき方しちゃいけないわ」
「先輩だって女は女さ。今は僕のものだ」
ゆかりは恭子を見た。──恭子は青ざめて、うつむいている。
「じゃあ……宇野さん……。でも、この人には、ご家族があるんでしょう」
「もう僕とは切れない[#「切れない」に傍点]のさ。何しろ僕のために、人殺しまでしてくれたんだ」
「何ですって?」
恭子が顔を上げると、
「やめて、宇野君。いけないわ。こんなこと──」
「何言ってるんだ。あんたは僕の言う通りにしてりゃいい」
宇野は、ゆかりの方へと近付いて行った。ゆかりは、後ずさったが、狭い部屋だ。すぐに部屋の角へ追いつめられてしまう。
「宇野さん……。何するの?」
「決ってるじゃないか。君を僕のものにする」
「そんな──」
「おとなしく、言われた通りにするんだ。いいかい、君は僕のことを、前のようないくじなしだと思ってるんだろう? そうじゃない! 僕は、あいつをやっつけてやったんだ」
「あいつ?」
「君に乱暴しようとした品川さ。手ぎわよく、スパッとナイフで首筋を切り裂いてやった。見せてやりたかったよ。君の前に奴の首をさげて帰りたかった」
得意げに話す宇野は、まるでホームランを打ったと言って喜ぶ子供のようだった。
「何てことしたの!」
「男はね、強い者が勝つのさ。君にも、そのことを教えてあげる。男の強さをね。さあ、ベッドへおいで」
宇野が差し出した手を、ゆかりはじっと見て、首を振った。
「いやよ。──宇野さん。以前のあなたは、やさしかったわ。すぐ落ち込んで、頼りない気もしたけど、でも人間らしかったわ。今のあなたは狂ってる」
宇野の顔がサッとこわばった。
バシッと音がして、宇野に平手で|頬《ほお》を打たれたゆかりが、アッと声を上げて、倒れた。
「宇野君、だめよ!」
と、恭子が叫んだ。
「引っ込んでろ!」
と、宇野が怒鳴る。「これが男なんだってことを、教えてやるんだ」
宇野は、ゆかりを引張って立たせると、ベッドの方へ投げ出した。
「やめて……。宇野さん──」
「おとなしくしてろよ。今に、僕から離れられなくなるんだ」
宇野は、ゆかりの上にのしかかって行った。
「いやよ!──やめて!」
と、ゆかりが叫ぶ。
「黙れ!」
宇野がゆかりの首に手をかけた。「死にたいのか? 俺が妻にしてやると言ってるんだ。ありがたいと思え」
恭子が泣き出した。そして──走って行くと、スチールの灰皿をつかみ、宇野の頭へと力一杯振り下ろした。
ドアが激しく叩かれたのはそのときだった。
「開けろ!」
殿永の声がした。そして、ドアが壊れそうな勢いで開いた。
──宇野は床に倒れていた。
ベッドに起き上がったゆかりは、|呆《ぼう》|然《ぜん》として、宇野を見下ろしており、笠木恭子が、重い灰皿を手に、立ったまま泣いていた。
「──ゆかり! 大丈夫?」
亜由美が駆け寄る。
「亜由美……。その人が──」
「分ってる。もう大丈夫よ」
亜由美は、ゆかりを助け起こすと、抱きかかえるようにして、部屋から連れ出した。
殿永は、笠木恭子の肩に手をかけて、
「さあ、ゆっくりお話しましょうか」
と、静かに言った。
コトン、と音をたてて、恭子の手から灰皿が落ちた……。
「じゃあ……」
と、母の清美が言った。「その人は、夫も子もいる身で、年下の男に惚れちゃったの?」
「手っとり早く言えばね」
と、亜由美が肯く。
「そう……」
清美は、考え深げに肯くと、「分るわ、その気持」
と、言った。
「──お母さん、お茶でもいれてよ」
「はいはい」
清美が居間を出て行った。
「全く、面白い方だ」
と、殿永刑事が言った。「心が|和《なご》みますよ、あなたのお母さんを見ていると」
「こっちは、疲れます」
と、亜由美は言った。「で……結局、八代を殺したのは──」
「笠木恭子だったんです」
と、殿永は言った。
聡子とゆかりも、ソファに座って、神妙に話を聞いている。
「恭子は、宇野のことが心配だったんですな。まるで自分の弟のような気がした、と言っています」
「何となく分りますね」
「その宇野が、ゆかりさんにプロポーズして、何と、OKしてもらった。恭子は、我がことのように喜んだのです。ところが……」
「ゆかりは他に二人の男とも婚約していた、と」
「恭子は、ゆかりさんがどんな娘さんか気になって調べたんですね。ところが、結婚相手が三人もいると知って、困った。──何とかして、宇野を、好きな人と一緒にさせてやりたい、と思った。それが、すべての始まりだったわけです」
と、殿永は言った。
「じゃ、真田が結婚詐欺師だと投書したのも?」
「もちろん、彼女です。しかし、それぐらいでやめておけば、どうってことはなかったんですがね」
「ポルシェに細工もしたんですか」
と、聡子が訊いた。
「当人は否定しています。──ま、ゆかりさんまで死んでしまっては、元も子もない。あれは、たぶん真田の整備が悪かったんでしょう」
「やりかねない」
と、亜由美が肯く。
「でも、宇野さんの代わりに映画館で刺された人が──」
と、ゆかりが言った。
「あれからです。恭子の方も、まともでなくなったのは」
と、殿永が首を振った。「たぶん、恭子の中で、宇野を幸せにしたいという思いが、異常なまでにふくらんで来たんでしょう」
──清美が紅茶をいれて来た。
「これがね、あの出張所のくずかごに入ってたの」
と、亜由美が、小さな紙片を、テーブルに置く。
聡子が取り上げて、
「映画の指定席券じゃない」
「そう。宇野が買った、五時二十分の回の券」
「じゃあ……」
「恭子は、自分で七時半の回のチケットを買っておいて、すりかえたのよ。チケットは、宇野の上衣に入っていて、ロッカーにかけてあったわけだから、すりかえるのは簡単だったのよ」
「ワン!」
と、ドン・ファンが鳴いた。
「分ったわよ」
と、亜由美がにらんで、「これ、ドン・ファンの足にくっついてきたの」
「もっと早く捨てときゃ良かったのにね」
「捨てたんですよ」
と、殿永が言った。「ところが、たまたまその一枚は、こぼれたお茶か何かで濡れてしまって、くずかごの底にはりついていた」
「よくあるわね」
と、聡子が言った。「濡れ落葉、か」
「これで分ったわけ」
と、亜由美が言った。「恭子は、わざと宇野が狙われているように見せかけて、彼に疑いがかからないようにしたのよ。運悪く、その席に座った人を、軽く傷つけるつもりで刺して逃げた。──でも、思いの他、ひどい傷になってしまった」
「もう、戻るに戻れなくなったんですね」
と、殿永が続ける。「──や、こりゃ|旨《うま》い紅茶だ。──その後、恭子は、八代を殺した。八代のことも調べ上げていて、あの日、ゆかりさんをホテルへ連れ込むつもりだと知ったからです」
「あの八代さんが?」
と、ゆかりが目を丸くした。
「ホテルに予約の電話を入れているのを、聞いてしまったんですよ、会社のビルの下でね」
「それで殺したのか」
聡子は、ため息をついて、「自分のためでもないのに」
「そう。恭子も、命がけになっていた。宇野が相変らず落ち込んだままなので、恭子は何とかして、自信をつけさせたいと思い、思い切って自分から彼をホテルへ連れて行き、抱かれたのです」
「──|凄《すご》いことするのね」
と、聡子は|唖《あ》|然《ぜん》としている。
「ところが……思いもかけなかったことが起きた。──宇野が、それを境に、ガラッと変ってしまったのです」
「男は力だ、と思ったのね。力ずくでものにすりゃ、女はついて来る、と」
亜由美は首を振って、「要するに、屈折していたものが、全部一度に裏返ったのよ」
「今度は、宇野が、恭子を支配し始めたのです。恭子が八代を殺したのも知っている。宇野としては、女一人、自分の思いのままになる面白さに、酔っていたんでしょう」
「|虚《むな》しいことです」
と、清美が言った……。
「恭子も悩んでいました。よかれと思ってやったことが、宇野の狂気を誘い出してしまった。──品川を殺す、と言い出し、恭子は止めようとしたのですが、宇野は実行してしまった」
「それで宇野は、ますます自信をつけてしまったのね」
と、亜由美が言った。「真田の方は、一旦、宇野の言葉にのって、品川を殺すなんて言ってみたものの、後になって、とてもやる気にならなくなった。そして実際に品川が殺されると、怖くなって、姿を隠してしまったのよ。次は自分が殺されるかもしれない、と思ったのね」
「じゃ、わざと車を落として?」
「そう。──宇野が捕まって、やっと出て来たわよ。どこかの女のマンションに隠れてたんですって」
「情ない男」
と、聡子が顔をしかめる。「ねえ、ドン・ファン」
「ワン」
「ともかく、このチケットを、塚川さんが発見して下さったので、我々も笠木恭子の方へ目をつけたわけです。で、尾行してみると、案の定、ゆかりさんをさらって、宇野の所へ案内してくれた」
「怖かったわ」
と、ゆかりは言った。「でも──怖いより、気の毒だった。女は力で従えればいい、なんて信じてる宇野さんが、哀れだった」
「殺されるとこよ、下手すりゃ」
「分ってるけど……」
「しかし、一番哀れなのは、笠木恭子ですな。宇野におどされて、言うなりになっていたが、やはり、黙って見てはいられなかった」
「宇野の傷は?」
「大したことはありません。石頭だったようでしてね」
「あの|女《ひと》、私を助けてくれたのよね」
と、ゆかりは言った。「いくらか、罪が軽くなるでしょうか」
「たぶんね」
と、殿永が肯いた。「彼女のご主人にも会いました。事情をよく説明しておきましたよ。彼女の出所を待つ、と言っていました」
「──少し、救われたわね」
と、亜由美が紅茶を飲んで、息をつく。「でも、ゆかり、今度婚約するときは、ちゃんと事前に私に相談しなさい」
「そうするわ」
「いけませんよ」
と、清美が口を出した。「いい人だったら、亜由美が横どりするかもしれません」
「お母さん!」
亜由美がにらむと、ドン・ファンが、
「ワン!」
と、笑った[#「笑った」に傍点]のだった。
エピローグ
「ゆかりさん!」
明るい声がして、ゆかりは足を止めた。
「ゆかりさん! こっちこっち」
──赤いポルシェ。その窓から手を振っているのは、真田だった。
「あのプレイボーイ、まだこりないのね」
と、亜由美が言った。
亜由美とゆかり、それに(勝手について来た)ドン・ファンの三人[#「三人」に傍点]で、青山の通りを歩いているところだった。
「真田さん」
と、ゆかりは、ポルシェの方へ歩いて行って、「この車は?」
「今度は大丈夫! ね、ドライブしないか? 他の二人はいなくなったし、僕との婚約を復活させる相談でもしようよ」
真田は以前の通りの、調子のいい二枚目に戻っている。
「悪いけど──」
と、ゆかりは首を振った。「当分、婚約は見合せることにしてるの」
「そう……。しかし、デートぐらい、いいんだろ? 最近オープンしたばっかりのね、|洒《しゃ》|落《れ》たレストランがあるんだ。ぜひ連れて行ってあげたいんだ」
「そう」
ゆかりは、亜由美の方へ手を振って、「ねえ! 食事をごちそうしてくれるんですって!」
「そう!」
亜由美とドン・ファンがやって来るのを見て、真田、
「あ──いや──」
と、口ごもっている。
「今度からね、私のデートには、必ず亜由美に付き添ってもらうことにしてるの。いいでしょ?」
「付き添いつきのデート?」
「文句あるの?」
と、亜由美が凄んだ。
「いえ……。どうぞどうぞ」
「じゃ、失礼」
亜由美とゆかりが後ろの席に、助手席にはドン・ファンが座った。
「私がしっかり採点するからね」
と、亜由美が言った。「何してんの? 早く車を出したら?」
「はい……」
真田が情ない顔でポルシェをスタートさせた。
「運転、下手ね。六十点」
と、亜由美がメモする。
「ワン!」
と、ドン・ファンが同意するように一声、鳴いたのだった……。
透き通った花嫁
プロローグ
塚川亜由美は、|苛《いら》|々《いら》しながら、人を待っていた。
珍しいことである。約束をうっかり忘れてすっぽかしたり、待ち合せの時間になってから家を飛び出したりというのは、亜由美の側であることが多い。しかし、今日に限っては、亜由美はもう十分も[#「十分も」に傍点]待たされているのだった。
「亜由美、何してんの?」
と、やって来たのは、同じ文学部に通う親友の神田聡子。
「聡子か」
「悪かったわね、私で」
「そうじゃないの。|幸《ゆき》|枝《え》を待ってるところだから」
「幸枝って──牧口幸枝?」
「そう。何だか私に相談があるっていうから待ってるのに、ちっとも来ないのよね」
と、亜由美は口を|尖《とが》らしている。
ま、口を尖らしてもふくれても、美人は可愛い、と亜由美は信じている。
ところで、この二人がここで会ったのは、偶然とはいえ、決して珍しいことではない。何といっても、ここは二人の通う大学の学生食堂なのだから。
「午後の講義、あったっけ?」
と、聡子が亜由美の隣に腰をおろす。
「ないよ。この前、休講って言ってたじゃない」
「じゃ、待っててもいいじゃないの」
「いやよ。せっかく早く帰れると思ってたのに」
「何か用があるわけ?」
「用がなきゃ、家にいちゃいけないの?」
──二人は決して漫才をやっているのではない。ただ、仲がいいので、いつもこんな調子になってしまうのである。
「十五分も過ぎた」
と、亜由美が腕時計を見て、言った。
「三十分くらいまでは勘弁してやんなさいよ」
聡子が苦笑して、「あの子が亜由美に相談したいなんて、よほどのことよ」
「どういう意味、それ?」
ちょうど午後の講義の始まる時間で、学生食堂にいた学生たちがゾロゾロと出て行き、急に静かになる。
「あーあ、静かになるとホッとするわね」
と、亜由美は、お世辞にもおいしいとは言いかねる(安いから仕方ないけど)コーヒーを飲みながら、言った。
「本当。頭痛くなっちゃうよね、あんまりやかましくて」
こういうことを言う当人に限って、人並み以上にやかましいのである……。
「でも、何だろね、幸枝が相談ごとって」
と、聡子はコーラを飲んでいる。
「おこづかい貸してくれとか、ノート写させてとかでないのは確かだね」
「私たちとは違うわよ、幸枝は」
と、聡子は笑った。
──牧口幸枝は、この二人に比べれば至っておとなしい。いや、亜由美に比べると、たいていの子は「おとなしい」範囲に入ってしまうだろうが、幸枝の場合は、一般の水準から言っても、とてもおとなしいのである。
可愛い顔立ちなのだが、地味好み。亜由美がからかって、
「幸枝おばさん[#「おばさん」に傍点]」
なんて呼ぶくらい地味ななり[#「なり」に傍点]をしていることが多い。
成績はオールAに近い優秀さで、その点、亜由美も聡子も、ちょくちょくお世話になっており、そのせいで、亜由美も帰るに帰れないというわけだった。
「でもさ」
と、聡子が言った。
「最近、恋人できたらしいって|噂《うわさ》だよ」
「へえ! 相手は?」
「知らない。風のたより、ってやつで、当人に確かめたわけじゃないから」
「ふーん。幸枝の恋人じゃ、きっとコンピューターの技術者とかさ、でなきゃ税務署の役人とか。ともかく、きっとえらくお堅い所の男ね」
「分んないよ。あんたの所のドン・ファンみたいなプレイボーイにコロッと引っかかってんのかもしれない」
「ドン・ファン好みだね、幸枝って。一度、会わせてやろう」
と、亜由美は面白がっている。
ドン・ファンといえば、もちろん伝説のプレイボーイであるが、亜由美の家に居座っているドン・ファンは、ダックスフント──つまり犬の名なのである。もっとも、そういう名がついているのはだて[#「だて」に傍点]じゃなくて……。
いや──説明は後回しにしよう。何か騒ぎが持ち上がった様子。
「──何かしら?」
「騒がしいね」
二人して顔を見合せる。好奇心にかけてはお互い負けていない二人である。早速学食を飛び出したのは、言うまでもない。
「──ね、どうしたの?」
と、外へ出て、手近な男子学生を捕まえて|訊《き》く。
「あ、何だ。友だちだろ! 大変だぜ」
「何の話よ?」
と、亜由美は言った。
「ほら、講堂の|天《てっ》|辺《ぺん》の鐘の鳴る所あるだろ。あそこから飛び下りるって」
「飛び下りる?──TVの番組か何かなの?」
「まさか! あんな所から飛び下りて助かるわけないだろ。自殺だよ、自殺!」
「誰が自殺?」
「牧口だよ、知ってんだろ」
「幸枝? 牧口幸枝?」
亜由美は仰天した。聡子が|肯《うなず》いて、
「来ないわけだ、いくら待っても」
「感心してないで! ね、もう飛び下りちゃったの?」
「いや、まだじゃないかな。俺もこれから行くとこなんだよ」
と言うなり、その男子学生は駆け出して行ってしまった。
──亜由美たちは、まだ少々|呆《あっ》|気《け》にとられていたが、
「どうする?」
「行かなきゃ!」
と、どっちがどう言ったのか、ともかく二人同時に駆け出していたのである。
1 地味な恋人
「もうちょっと顔出してくれるとなあ。光が当ってないから、表情が良く見えないんだ」
すぐ後ろで、そんな声がして、亜由美は振り返った。
どこかのカメラマンらしい。望遠レンズで講堂の天辺を狙っている。
亜由美は手を出して、レンズをふさいでやった。もちろん、ファインダーが何も見えなくなっちまうわけで、
「おい! 何するんだ」
と、カメラマンは文句を言った。
「勝手なこと言うんじゃないわよ! 今にも女の子一人、死ぬかもしれないってのに、顔が見えないとは何よ! もう一回言ってごらんなさい!」
怒鳴っている間に、徐々にボリュームとトーンが上がって行く。カメラマンはすっかり圧倒された様子で、他の学生たちの間をすり抜けて逃げて行ってしまった。
「全く、何考えてんだろ!」
亜由美は、腹立たしげに言って、まぶしげに目を細め、講堂の天辺を見上げた。
屋根の先に、カリヨンと呼ばれる鐘を自動的に鳴らす場所があって、そこはいわゆる鐘楼のようになっている。そこに、牧口幸枝がいるのである。
もちろん話を聞きつけて、講堂の前は何百人もの学生が集まって来ている。
「何とかなんないの?」
と、聡子が言った。
「あそこへ上がるの、大変なのよ。細いはしごみたいなの上がって行かないといけない。下手に近付くと、あの子、飛び下りちゃうかもしれないしね」
「亜由美に何を相談するつもりだったのかしら? 相談して絶望した、っていうのならまだ分るけど……」
「何よ、それじゃ、私になんか相談しても、むだだって言ってるみたいじゃないの」
「そういう意味じゃないけど……。あ、動いたよ」
「そう?」
亜由美は二、三歩後ずさったが──ぐい、と誰かの足をふみつけてしまった。「あ、ごめんなさい」
「いや、ふみつけられるのは、慣れていますから」
その男は、大学生にしてはいやに|年齢《とし》をくっていた。──そして、亜由美のよく知った顔だったのである。
「殿永さん!」
亜由美は目を丸くした。「何してるんですか、こんな所で?」
「あなたに会いにです」
と、何かと事件の度に会うことになる、この気のいい刑事は、いつもの淡々とした口調で言った。「そうすると、この騒ぎだ。塚川さんと神田さんは、どうもどこでも騒ぎに巻き込まれる運命のようですな」
「|呑《のん》|気《き》なこと言ってないで、何とかして下さい! 警官でしょ」
「そりゃそうですが……」
と、殿永刑事は頭をかいた。「あそこに上がっているのは、牧口幸枝という子なんですね? そこで聞きました」
「そうなんです。何か私に話がある、って言って……。でも、あんなことする子じゃないんです、本当に」
「ふむ」
殿永は、ちょっと|顎《あご》を手でさすりながら、「しかし、人間は理由もなしに、あんなことはしませんよ。──どうです。彼女と話してみませんか」
「先生が、今説得しようとしてます」
「それは無理でしょう。友人になら打ち明けるかもしれないが。──入口はどこです?」
亜由美と聡子は、殿永を案内して、講堂の裏口へと回った。
「──いや、何も言ってくれない」
|禿《は》げた教授が、汗を|拭《ぬぐ》いながら出て来た。「おお、塚川君。君のことを呼んでくれと言ってたよ」
「大丈夫ですか、幸枝?」
「まあ、今のところはな。しかし、どうしてあんなことをしてるのか分らんのでは、手の打ちようがない」
亜由美は、ちょっと深く呼吸してから、
「じゃ、私が上がります」
と、言った。「──怖そう」
「下を見ないことだね」
教授はありがたい忠告をしてくれた。そう言われたら、いやでも見てしまう!
ともかく、亜由美たちは鐘楼へ上がるべく、講堂の裏手の階段を、延々と、息を切らしつつ、上がって行ったのである。
「──誰?」
ほとんど垂直に近い、急な狭い階段の上から、声がした。
「幸枝。私、亜由美よ。聞こえる?」
「うん」
「何してんの? もう充分見物したでしょ。下りといでよ」
「亜由美……。私、よくよく考えた上でのことなの。止めないで」
「そう。──でも、何か相談があったんでしょ?」
「ええ……。じゃ、上がって来てくれる? でも、一人でね」
と、急いで付け加える。「お願い。無理に連れ戻そうとかしないで」
「分った。約束するわよ」
亜由美は聡子と殿永の方を見た。殿永は|肯《うなず》いて見せ、低い声で、
「ここで聞いています」
と、言った。
亜由美は一息ついて、
「じゃ、行くわよ」
と、上に呼びかけ、しっかり手すりにつかまりながら、階段を上がって行った。
風が吹き抜けて行く。──鐘楼へ上がると、急に周囲に空間が広がる。
「亜由美」
幸枝が、少し離れて、腰をおろしている。低い手すりで、向うへ倒れたら、そのまま地面に|叩《たた》きつけられることになる。
「幸枝……。どうしたのよ。あんたらしくもない」
「うん。──分ってるの」
髪が風にはためく。
「話してみなよ、ともかく」
あまり近付いてはいけない。亜由美は、上がった場所にそのまま座り込んだ。
「私、恋をしたの」
と、幸枝が言った。
「そいつが何かひどいことしたの? そしたら、私がぶっとばしてやるわよ」
「ありがとう。でも、そんなんじゃないの」
幸枝は、いつものように穏やかで、内気な笑みを浮かべていた。どう見ても髪ふり乱して、半狂乱になっているようには見えないが、それが|却《かえ》って怖いのかもしれない、と亜由美は思った。
「その人ね、雨宮真一っていうの」
と、幸枝は言った。「小さな法律事務所に勤めてて、二十八歳。見たとこ、あまりパッとしない、地味な人なの。でも、とってもいい人なのよ。──少なくとも、そう思ってた」
「恋をしたっていうんだから、そうでしょうね。で、何があったの?」
「とっても妙な話なの。雨宮さんが嘘をついてるとしか思えない。でも、もし本当だとしたら……。嘘なら、私は|騙《だま》されてることになるし、本当なら、どう考えていいか分らないの」
「面白そうね。──ごめん、幸枝には面白いどころじゃないでしょ。でも、興味あるわ。ね、話してみて」
亜由美は本当に好奇心を刺激されたのである。きっと、階段の下で、殿永が苦笑しているだろう。
「雨宮さんの話だと、こうなの……」
と、幸枝は口を開いた。
ああ、やれやれ……。
雨宮真一は、アパートの階段を、やっとの思いで上がると、自分の部屋のドアの前で、一息つかねばならなかった。
クタクタに疲れ切っている。いつものことと言ってしまえば、それまでだが。
疲れにも色々ある。充実した疲れと、|虚《むな》しい疲れとがあるのだ。雨宮の場合、今の疲れは|正《まさ》に「虚しい」疲れだった。
事務。──それも特別の資格を何も持っていないので、雑多な、本当に単純作業としか呼べないような仕事ばかりである。
自分が努力しないから、と言われればその通りだが、何しろ学生時代から、要領の悪さと、頭の回転の鈍いことにかけては定評があった(?)。それでも、結構友人に恵まれて来たのは、おっとりした人柄の良さゆえであろう。
いくら人が良くても、疲れはとれない。──一人暮しの雨宮としては、アパートへ帰って来たところで、身も心も安らぐというわけにはいかなかった。
|鍵《かぎ》をあけ、ドアを開ける。もちろん中は真暗だ。
明りのスイッチの辺りへ見当で手を伸した。明りを|点《つ》けたところで、目に入るのは、敷きっ放し──というか、朝跳び起きた時の状態を、ストップモーションの画面みたいにとどめている、冷え切った布団と、ちゃぶ台の上のカップラーメンの器。
ちゃんと目覚し時計の鳴るのに合せて起きていれば、これを片付ける余裕はあるはずなのだ。しかし──こうして毎日くたびれて帰って来て、床に入って……。朝だって、パッと快い目覚めを迎えるってわけにはいかないのである。
おかげで、こうして帰って来ても、疲れは倍加するばかり。──悪循環って奴だね。分っちゃいるんだけど……。
カチッとスイッチを押すと、敷きっ放しの布団と、ゴミの|溢《あふ》れた|屑《くず》カゴが……。
「──あれ?」
思わず声を出していた。
間違えたかな、部屋? いや、それなら鍵のあくはずがない。
部屋は──きれいだった。
布団はない。ちゃぶ台の上も、チリ一つない。一瞬、空巣にでも入られたのかと思ったが、いくら熱心な(?)空巣でも、あんなボロ布団を持っては行かないだろう。それに、カップラーメンの容器を片付けたりするわけがない!
「変だな……」
首をかしげて、ともかく自分の部屋である、恐る恐る上がって、押入れを開けてみると、布団はちゃんとたたまれて入っていた。
してみると……俺は今朝、ちゃんと布団を上げ、部屋を片付けてから出たのかな?
そんな日も、年に数回、ないではない!
でも、どう考えたって、そんな記憶はないのだが……。現実にちゃんと片付いているのだから。
肩をすくめて、押入れの布団をポンと叩く。
──ん? 感触が……。
手で触ってみて、面食らった。フワッとして暖かいのだ。日に当てたのだろう。──誰が[#「誰が」に傍点]?
雨宮は、屑カゴの中を|覗《のぞ》き込んだ。空になっている。小さな、申し訳程度の台所も、生ゴミ一つ残っていない。ビニール袋は新品になっているし、湯呑み茶碗からコーヒーカップから、どれもきれいに洗って、棚に納まっているのである。
──間違いない。留守の間に、誰かが入って、掃除して行ったのだ。
しかし──誰が[#「誰が」に傍点]?
雨宮は何となく気味が悪くて、広くもない六畳間の真中に突っ立っていた。
雨宮の母親は、もうとっくに亡くなっているし、父親は遠く四国にいる。兄弟といっても、東京に今いるのは自分一人で、こんなことをしに来てくれそうな人間の心当りが全くないのである。
何だかゾッとする気分で、ともかく背広を脱ぎかけると、玄関のドアをトントンと叩く音がして、雨宮は、
「ワッ!」
と仰天して飛び上がってしまったのである……。
「──妙な話ねえ」
と、上がり込んで、雨宮の話に耳を傾けていたのは、隣の部屋の住人、山本有里。
こっちも一人暮しで、ホステスをやっているので夜が遅い。つい十分前に帰って、回覧板が入っていたので、雨宮の所へ届けに来た、ということだった。
「気持悪いですよ」
と、雨宮は首を振って、「山本さん、誰か見かけませんでしたか?」
「そうねえ……。お布団を干した、ってことは昼間の内に来てた、ってことでしょ。でも、気が付かなかったなあ。夕方までは部屋にいたけどね、私も」
雨宮より十歳ぐらい年上の山本有里は、サバサバした気性の、面白い女性だった。
「そうですか……。こんなことしてくれる女性なんて、全然思い当らないんですよ」
「ひそかにあんたを恋してる子がいるんじゃない?」
と、山本有里は冷やかすように言って、「でもさ、きれいにしてってくれたんだから、|儲《もう》けものと思っときゃいいじゃない」
「でもね、どうやって、ここへ入ったんだと思います? 鍵をあけたってことですよ」
「あ、そうか」
「ね。だから気味が悪いんです。知らない人間がここの鍵を持ってるなんて……」
「ウーン、難しいわね。ここの鍵持ってる人っていえば、一号室の田口さんか」
こんなアパートであるから、管理人がいるわけではない。ただ、一階の一号室にいる田口という、ちょっと偏屈な老人が、「代理」をつとめている。
「あの人が掃除なんてやるわけないし。いちいちそんなこと訊きに行くのもね。──ま、仕方ないな。今夜は寝ます。でも……やっぱりすっきりしない」
雨宮は、|呑《のん》|気《き》な性分ではあったが、これはやはり気にしないで放っておくわけにはいかなかったのである。
気味が悪い、と言いながら、いささか恥ずかしいことに、雨宮はその夜、暖かくフワフワの布団で、もう何か月も味わったことのないような快い眠りを味わったのである。
目覚し時計が鳴る。
「──畜生! 人がせっかく……」
ブツブツ文句を言うのは同じである。しかし、手を伸してベルを止めた後、雨宮はいかにも頭がスッキリして、爽やかな気分で目が覚めている自分を見出したのだった。
「やれやれ……」
誰か知らないが、昨日ここを掃除して、布団を干してくれた人間に、一応感謝しなきゃいけないかもしれないな。こんなにぐっすりと気持よく眠ったのなんて、久しぶりだぜ。
ウーンと伸びをして……。
部屋の空気も、|埃《ほこり》っぽくなくて、吸い込むのをためらわなくてすむ。そして──この匂い[#「匂い」に傍点]は?
ミソ汁か。隣の部屋かな?
いや、山本有里はまだグーグー眠っている時間だし。ひょっとすると下の部屋か。
下は確かこの間、新しい住人が入って来たばかりだ。新婚かい? ちゃんと朝起きてミソ汁を作ってくれる奥さんなんて、今どきいるのか……。
しかし、匂うな。まるですぐそばで匂ってるみたいじゃないか。やり切れないな、独り者は……。
アーアと|大《おお》|欠伸《あくび》して起き上がった雨宮は、目をこすって……。
「何だ?」
ちゃぶ台の上に、朝食の用意[#「朝食の用意」に傍点]がしてある! 匂うわけだ。ミソ汁から湯気が立っているのである。
白いご飯、そして焼魚。漬物、お茶。
何度も頭を振り、何回も見直した。しかし、その幻は[#「幻は」に傍点](幻としか思えない)一向に消え去る気配がない。
「誰だ!」
と、思わず雨宮は声を上げていた。「誰なんだ?」
ともかくそいつ[#「そいつ」に傍点]は、たった今まで、ここにいたに違いない。こんなにミソ汁が熱いってことは。
跳び起きた雨宮は、パジャマ姿で部屋の中を隅から隅まで──といっても、アッという間に終る──見て回った。
しかし、どこにもその誰か[#「誰か」に傍点]の姿はなかった。そして玄関のドアには、ちゃんと鍵もかかっていたのだ。
「──参った!」
雨宮はペタンと畳の上に座り込んだ。
俺は夢を見てるのか? しかし、夢でこんなに|旨《うま》そうな匂いがするものかどうか。
「畜生! こんなもの食えるか、気持悪い!」
と、雨宮は言った。
──十五分後、台所の流しには、きれいに食べてしまった皿が、重ねられていた。
そして、雨宮は別に毒で死ぬこともなく、至って優雅な気分で、アパートを出ていたのである……。
2 幻の花嫁
「妙な話ね」
亜由美は|肯《うなず》いた。「──ね、幸枝。下に行って、ゆっくり話さない?」
幸枝は首を振った。
「気にしないで。私、高い所って好きなの」
「あ、そう」
亜由美は、鐘楼から遥か下を見下ろした。
下の見物人はさっきの倍近くにふくれ上がっている。
下ではさぞかし、気をもんでいることだろう。上で、亜由美が必死の説得を試みていると思っているに違いない。
「でもさ、幸枝、そんなことでどうしてあんたが死ぬわけ? 要はそいつが嘘ついてるかどうかってことじゃないの?」
「私にとっては、大切なことなの」
と、幸枝が淡々と言った。「私ももう二十歳になったから、親の許しがなくても結婚できるわ」
「そりゃそうね」
「でも、馬鹿じゃないつもりよ。そりゃ、世間知らずかもしれないけど、人柄の良し悪しぐらい、見分けがつくつもり」
「ふんふん」
「だからあの人ともベッドを共にしたんだし……」
「ふーん」
と肯いて、「──ちょっと、幸枝! 今、何て言った?」
「ベッドを共に、って言ったの。亜由美、意味分らないの?」
「分るから、念を押したんでしょ!」
ムカッとして、亜由美は言った。しかし、幸枝が……。人は見かけによらないもんだ!
「父は反対してるの。エリートとの縁談がいくらもあるのに、って。でも、いくらお金があっても、好きになれない人と結婚するのなんていやだわ。亜由美だって、そう思うでしょ」
「うん……」
ま、やたら元気はいいが、「殺人事件」ならともかく、「恋愛事件」にかけては、てんで出遅れている亜由美としては、あんまり分ったようなことは言えないのである。
「で──幸枝、その彼と、どうなったわけ?」
と、亜由美は|訊《き》いた。
「彼は結婚しようって言ってくれたわ。でもね──」
幸枝はため息をついた。
「はい、お茶」
と、目の前に、事務所用の湯呑み茶碗が置かれる。
「や、ありがとう」
雨宮は、重い紙袋を足下に置いて、額の汗を拭った。──まだ春先で暑いという陽気じゃないのだが、今日の会議のための資料が、大変な重さになってしまった。
ゆうべ、この事務所でやるつもりが間に合なくて、アパートへ持って帰ったのである。
「夜中までかかっちゃったよ、これを作ってたら」
と、紙袋を見下ろして、「それで会議のときは、一分と説明しないで、『はい次』だからね」
「仕方ないわよ」
と、笑ったのは、お茶をいれてくれた、楠木リカ。
ここの雑用係、という点では、雨宮とそう大して違わない立場である。二十五歳で、雨宮より三つ下だが、この事務所には結構古いのだ。
小柄で、コマネズミのようによく動き回っている。細かいことにあれこれ気をくばり、よく気の付くことでは事務所内の貴重な存在である。
美人とは言えないが、丸顔で素顔。誰からも好かれるのだ。
「でも、雨宮さん、このところ、ずいぶん爽やかな顔してるわよ」
と、楠木リカが雨宮を眺めながら言った。
「そうかい? 相変らず寝不足だけどね」
と、雨宮は言った。
「うん、まあ眠そうではあるけどね。でも──何て言ったらいいのかなあ。同じ眠そうでも、くたびれ切った『眠そう』と、元気そうな『眠そう』があるの。雨宮さん、最近は元気そう」
「よく分らないけどね……」
と、雨宮はお茶を飲んだ。
「恋人、できたんじゃない?」
雨宮は、ちょっと詰ったが、
「そんな優雅な話がありゃいいけどね」
と、言ってやった。
「──あ、おはようございます」
楠木リカは、事務所のボスが出勤して来るのを見て、言った。そして、
「雨宮さん、資料、会議室へ持ってっとく?」
「あ、悪いね。僕が──」
「いいの。どうせお茶いれに行くから」
「重いよ」
「力はあるのよ、こう見えても」
確かに、楠木リカは、雨宮でも少々身構えないと持てないような、その紙袋を、大して苦労もせずに運んで行った。
ホッと息をつく。
正直なところ、「恋人ができたのか」と訊かれてドキッとしたのである。
いや、恋人はいる[#「いる」に傍点]。──あの女子大生、牧口幸枝である。
雨宮から見れば、「どうしてこんなすてきな娘が俺なんかに?」と、正直なところ戸惑ってしまうような子だが、ともかく向うが夢中だ。
この間はついに、二人してホテルに入ってしまったし……。幸枝はすがりつくように雨宮に身を|委《ゆだ》ねて、彼としても、この子を一生放すまい、という気持になった。
あの子のことなら、まあ年齢が若いことを除けば、この事務所の中で、隠さなければいけない理由はない。そうではないのだ。
問題は──あの「幻の女房[#「女房」に傍点]」なのである。
帰ってみると、布団を干して押入れにしまってあった、あの夜から、もう一週間たっていた。
雨宮は、結局玄関の鍵を変えたわけでもなく、必死に「侵入者」を捜し回ったわけでもない。──毎日、帰ると、掃除も洗濯もすんでおり、布団もたたんである。朝起きると朝食の仕度ができていて、スーツにもアイロンがかけてあったりする。
雨宮は、いつか犯人[#「犯人」に傍点]を見てやろうと、毎晩思いつつ、結局、この状態を受け|容《い》れてしまった。それにくたびれて帰り、フワッとした布団に入ると、侵入者を見届けてやろうという|企《たくら》みは、強烈な眠気の誘惑に、いつも負けてしまうのである。
──毎朝、雨宮は、誰とも知れぬ「新妻」が用意してくれた朝食をしっかりとって、きれいに磨いた靴をはき、アパートを出て来る。
このままじゃいけないな。そう思いつつ、この生活の快適さに、慣れて来てしまっているのである。
しかしなあ……。幸枝のこともあるし、いつまでもこうしちゃいられない……。
「さっ、仕事だ」
雨宮がファイルを机の上で開いて、ページをくっていると──。誰かが机の前に立った。
顔を上げると、楠木リカが、いやに怖そうな顔をして、立っている。
「どうかしたかい?」
と、雨宮が|微《ほほ》|笑《え》んでも、相手はニコリともせず、
「資料の袋にこんなもの[#「こんなもの」に傍点]入れて! 怒られますよ、せっかく作ってくれた彼女[#「彼女」に傍点]に!」
雨宮の前に、楠木リカが置いたのは──ピンクのハンカチにくるんだ弁当箱だった!
「私に見せつけたかったんですか?」
「いや……そんなことじゃないんだ」
「恋人がいるならいると、はっきりおっしゃいよ! こっちはちっとも構いませんからね」
「あの──楠木君!」
弁当箱を置いて、楠木リカはさっさと行ってしまった。
何だ、これは? いや、答えるまでもない。──あの「幻の女房」の作った、弁当なのだ。
こんなことまでやったのは初めてだ。
雨宮は、ちょっと恐ろしくなった。──誰だか知らないが、この女は一体どこまでやるつもりなんだろう?
雨宮は、事務所の人間がみんな自分の方を見ているのに気付いて、あわててその弁当箱を引出しにしまった。──分っていた。昼休みになったら、きっとこの弁当を食べることになるだろう、と……。
「今夜は──そんなに遅くなれないの」
うつむき加減の幸枝の顔が、そう言ってカーッと赤くなった。
雨宮の方は胸が熱くなる。
「うん……。いいんだよ。僕らは先が長いんだから」
「そうね」
幸枝はホッとした様子で、肯いた。
二人で食事をして、外へ出たのは、九時近くだった。──雨宮は、なかなか早く帰れない。幸枝とのデートも、せいぜい二週間に一度。
貴重な時間である。少しでも長く、一緒にいたいという気持はあったが、幸枝を困らせたくはなかった。
「じゃあ……もう帰るかい?」
と、雨宮は夜道を歩きながら、訊いた。
「そうね。──あと少しなら」
幸枝は、雨宮の方へ身を寄せて来る。雨宮は幸枝の肩に手を回した。
「──ねえ」
と、幸枝がふと思い付いたように、「あなたのアパート、近いんでしょ?」
「うん? まあ……。そうだね。バスで十分くらい」
「行ってみたいわ、私」
と、幸枝は言い出した。
「え? でも──ボロだよ」
「いいじゃないの。いつもあなたがどんな所で寝てるのか、見たい。構わないでしょ?」
いやとは言えなかった。それに、例の「幻の女房」のおかげで、いつもアパートの部屋はきれいに片付いている。
二人は、バスに乗って、アパートへ向った。バスも、もう|空《す》いて来ている。
「あら、雨宮さん」
と、声をかけられて振り向くと、少し離れた席に、池畑厚子が座っていた。
池畑厚子は、雨宮の下の部屋へ越して来た女性である。十二、三歳の、ちょっと神経質そうな娘と二人暮し。
「夫を亡くして」
という説明だったが、その手の情報に詳しい山本有里の話では、会社の倒産で、亭主は蒸発してしまったのだそうである。
この池畑厚子は「元社長夫人」というわけだが、確かに、身につけるものなど、趣味の良さが出ている。今は自分が勤めに出て、娘は中学生、というわけだ。
「あ、どうも」
雨宮は会釈して……。その場の成り行き上、幸枝を紹介しないわけにはいかなくなった。
「──まあ、学生さん? お若いわね」
と、池畑厚子が言った。「雨宮さんがとても楽しそうなのは、そのせいだったんですね」
「いや、勘弁して下さい」
と、雨宮は頭をかいた。
池畑厚子は楽しげに笑って、
「うちへもご一緒に遊びにいらして下さいね」
と、幸枝へ声をかけた。「みどりが喜びますわ、きっと」
「お嬢さんですか」
「ええ。一人っ子なもので、人見知りで。中学生にもなって、困ってるんですけどね」
と、池畑厚子は言った。
冗談めかしてはいるが、娘のことが心配には違いないだろう。
やがて、バスを三人で降りると、アパートはすぐ目の前。
「──お母さん」
と、声がして、ヒョロッとした女の子が暗がりからやって来た。
「みどり。何してるの?」
「ゴミ捨ててたの。バスが見えたから……」
「ほら、上の雨宮さんよ」
「今晩は」
と、少女は会釈した。
「やあ、どうも」
「それと──牧口さん、でしたわね」
「牧口幸枝です。今晩は」
幸枝が声をかけると、少女ははにかみながらピョコンと頭を下げた。
「じゃ、おやすみなさい」
池畑厚子が、みどりと一緒に部屋へ入って行く。
二階へ上がりながら、
「良い人みたいね」
と、幸枝は言った。
「うん。気持のいい人だよ。色々苦労してるんだろうけどね。──ここだ」
雨宮は、鍵をあけた。「さ、入って。今明りを|点《つ》けるから」
スイッチを押すと、六畳間が一目で見わたせた。──雨宮は立ちすくんだ。
ちゃぶ台に、夕食[#「夕食」に傍点]の仕度ができていたのである。お茶は熱く湯気を立てていた。
「雨宮さん……」
幸枝の顔から、血の気がひいた。
「待ってくれ! 説明するよ。これは──」
「そういう人がいたのね。ごめんなさい、私……」
「違う! そうじゃないんだ!」
雨宮は、幸枝の腕をつかんで、「お願いだから、聞いてくれ!」
と、くり返した……。
「──で、そういう話をしたわけか」
亜由美は肯いた。「確かに、妙な話よね」
「あの人を信じたいとは思うわ」
と、幸枝は言った。「でも、信じられる? そんなこと、あると思えないわ」
「うん……。でもね、幸枝、いずれにしてもさ、あんたが死ぬほどのこととも思えないけど」
風が出ていた。この高さでは、相当な強さになる。亜由美は髪がめちゃめちゃになっていた。
「ね、下りて、ゆっくり考えようよ。私、ちゃんと謎を解決してあげるから。いいでしょ?」
「ありがとう」
幸枝は微笑んだ。「でも、もういいの」
「もういい、って?」
「あの人に裏切られて、生きていたくないの。──ね、亜由美。私が死んだら、ノート使っていいからね」
突然、幸枝が手すりから身をのり出した。下の人たちがどよめく。亜由美はとっさのことで、動けなかった。
「さよなら、亜由美」
「馬鹿!」
亜由美は、飛びかかった。
一瞬、もしかしたら幸枝と一緒に死ぬかもしれない、という思いが、頭をかすめた……。
3 死体のある部屋
「まあ。それで亜由美は死んだんですの?」
と、塚川清美は言った。
「生きてるわよ!」
と、亜由美は玄関の外から顔を出した。
「あら、生きてたの」
と、清美は目をパチクリさせて、「良かったわ。今、黒のスーツ、人に貸してあるから」
「──あれでも母親か」
と、居間へ入って、亜由美はブツクサ文句を言った。
「いや、あれはお母さんなりの心配の仕方なんだろうね」
と、殿永が|微《ほほ》|笑《え》む。「しかし、良かった。二人とも軽いけがですんで」
亜由美は、幸枝に抱きついて床へ転がったので、したたか頭をぶつけ、こぶ[#「こぶ」に傍点]を作ってしまった。幸枝の方は、失神して、救急車で病院へ運ばれたのである。
「だが、あなたは全く運の強い人ですな。ぜひ刑事になってほしいところだ」
「いやです」
と、亜由美は言った。「どうせ安月給でしょ」
「はっきり言わんで下さい」
「クゥーン」
と、足下で[#「足下で」に傍点]笑った(?)のは──茶色の、しっとりした毛並のダックスフント、ドン・ファンである。
「何だ、お前か」
と、亜由美はドン・ファンの頭をなでて、「助けに来てくれなかったくせに」
「キャン」
「そりゃ無理というもんですよ」
と、殿永が笑った。
「でも──あの、幸枝の話、どう思いました? つまり、雨宮の話、ってことですけど」
「確かに、ありそうもないことです」
と、殿永は言った。「しかし、嘘にしては妙だと思いませんか。あまりにありそうにない。食事の仕度がしてあるのをごまかすだけなら、あんなややこしい話をひねり出す必要はないと思いませんか」
「そうですよね。私もそう思ったんです。でも、それじゃ一体誰が、勝手に部屋へ入って、あんなことをして行ったんでしょう?」
そこへ、清美がお茶をいれて来た。
「どうぞ。──亜由美も、今度自殺するときは、人さまにご迷惑にならないようにしてね」
「お母さん! 私は助けた方! 自殺しかけたのは、別の子なの!」
「あらそう。おかしいと思ったわ。何があっても、あんたは自殺する子じゃないものね」
「いや、全く立派なお嬢さんですよ」
|賞《ほ》めてくれるのは、殿永くらいである。
「ありがとうございます。でも、一向に男の子と縁がないようで……」
「大きなお世話」
と、亜由美はむくれた。「──殿永さん、その雨宮って奴を問い詰めに行きません? ぶっとばして、胸をスッとさせたいんです」
「亜由美、そんな風だから、いつまでも恋と縁がないのよ」
「あるわよ。他人の恋なら」
「でしょうね」
と、清美はため息をついた。
「いや、実はですね」
殿永はソファに座り直した。「雨宮には会いたくても会えないんです」
「え?」
と、訊き返してから、亜由美は、殿永がなぜ大学へ来ていたのか、聞いていなかったことを思い出した。
「今日、あなたの所へ伺おうと思ったのは、あの牧口幸枝のことを、お訊きしたかったからなんです」
「幸枝のこと?」
「実はね、雨宮は姿をくらましているんですよ」
亜由美は、|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「姿を、って……。どうして?」
「当人に訊く必要はありますが……。彼の部屋で、女の死体[#「女の死体」に傍点]が発見されたのです」
と、殿永は言った。
「まあ」
清美が目をみはって、「亜由美が殺したんですの?」
と、訊いた……。
「確かに、きれいに片付いてますね」
と、亜由美は言った。
──雨宮のアパート。
夕食を亜由美の家で食べてから、殿永ともどもここへやって来たので、もうすっかり暗くなっていた。
「殺されていたのは、隣のホステス、山本有里です」
と、殿永は言った。「この部屋の真中で、刺し殺されていました」
亜由美は、一瞬ギョッとして、畳の上を見た。
「いや、布団がね、敷いてあったんです。その上で倒れていたのでね。血は布団が吸いとってしまった」
「そうですか……」
亜由美は息をついた。「で、雨宮真一が殺した、と?」
「それはまだ分りません」
と、殿永は首を振った。「しかし、死体が見付かり、その部屋の住人が姿を消していたら……」
「普通なら犯人ですね」
「そう受けとられてもしょうがないでしょうな」
「でもどうして? 雨宮が、山本有里を殺す動機ってあります?」
「考えられないことはありません」
と、殿永は腕組みをして、「雨宮の話が本当だとして、その『幻の女房』が、山本有里だったとしたら」
「そうか」
亜由美は考え込んで、「──山本有里のおかげで、幸枝との恋に破れてしまった。そのことで、山本有里をなじったとして……」
「言い争っている内に、つい──ということです」
「それが真相でしょうか」
「いや、もちろん色々考え方はありますよ。──雨宮の話はでたらめで、実はもともと雨宮と山本有里は関係があった、とかね」
「山本有里が、雨宮と幸枝の間を邪魔しようとした……。それで、二人は争って、というわけですね」
亜由美は、たいして広くない、雨宮のアパートの中を見て回った。
「ただ、その説には欠点があります」
と、殿永は言った。
「時間でしょ? 山本有里は夕方から出かけて、真夜中に帰って来る」
「それから床に入る。雨宮の朝の仕度をするのは大変ですよ」
「そうですね。でも昼間いたんだから、お布団を日に当てたりするのは簡単だった」
「そこです」
と、殿永は|肯《うなず》いた。「奇妙だと思いませんか。布団を干したりすれば、誰かの目についてるはずだ」
「見た人はいないんですか」
「当ってみました。このアパート、この周りの家、誰も見ていません」
亜由美は、首をかしげた。
「──殿永さん。ここの死体が見付かって、どうして私のところへ来たんですか?」
「ああ、失礼。その説明をしませんでしたね。机の引出しから、手紙が出て来たのです。牧口幸枝からのね。その文面に大学の名があって、どこかで聞いたことがあるな、と思ったら、何とあなたの通っておられる大学じゃありませんか」
「で、私の所へ? 私、興信所じゃありませんよ」
「しかし、やはり係わりがあったじゃありませんか」
そう言われると、亜由美も何とも言えない。
「ただね……」
殿永は難しい顔になって、「他の可能性もあります。牧口幸枝はなぜ自殺しようとしたか」
「それは雨宮と……。殿永さん!」
亜由美は目を見開いて、「あの子が──幸枝が山本有里を殺した、と考えてるんですか?」
「可能性の問題です。普通、男に裏切られたといって、あんな所へ上がったりはしません」
「それはそうでしょうけど……」
幸枝がたまたまこの部屋で山本有里と出くわす。山本有里は三十八歳。雨宮より十歳も上だが、恋のできる年齢である。
雨宮をめぐって、二人の女の対立……。
「確かに、可能性はあると思いますわ。でも、やっぱり、考えられません」
と、亜由美は言って、ふと殿永が緊張するのに気付いた。
同時に、亜由美も、ドアの外に、かすかな物音を聞きつけていたのである。
誰かいる。──殿永の合図に従って、亜由美は話を続けた。
「牧口幸枝は、そりゃあおとなしい子なんです。もし、恋人が他の女といるのを見ても、カッとなって引っかくより、『失礼しました』って謝って帰る子ですわ」
殿永が、足音を殺して玄関へ近付くと……パッと勢いよくドアを開けた。
「アッ!」
ヒュッと風を切って、バット[#「バット」に傍点]が振り下ろされた。殿永は危うくのけぞって、
「ワアッ!」
と、ひっくり返った。
「あ──刑事さんだ」
バットを握って立っているのは、ヒョロッとしたやせ型の女の子。
「君か! びっくりした!」
と、殿永は、息をついて立ち上がった。
「こっちこそ。だって、頭の上でミシミシ音がするんですもの」
これが、下の部屋の子か、と亜由美は思った。池畑──みどりだったわね、確か。
「捜査に来てたんだよ。──ああ、こちらはね、塚川亜由美さん」
「池畑みどりです」
と、女の子は頭を下げて、「やっぱり、雨宮さんの恋人だったんですか?」
「私は違うわ」
と、亜由美はきっぱり言った。「単なる関係者」
「いや、この人はね、知る人ぞ知る、名探偵なんだ」
「へえ! じゃ、ピストルとか、持ってるんですか?」
「そんなもん持ってないわ」
「じゃ、空手何段とか?」
亜由美は渋い顔で、
「あのね、本当の名探偵は、頭だけで勝負するもんなの」
と言ってやった。「それと、顔[#「顔」に傍点]でもね」
と、付け加えたのは、多少格好をつけたかったのかもしれない。
「みどり君」
と、殿永が言った。「何か妙な物音とか、人影とか、気が付いたことはなかったかね?」
「だから今、聞こえたんで、こうやって、バットを持って──」
「いや、もちろん、我々を除いてってことさ」
「このアパート、あんまり丈夫じゃないでしょ。あっちこっちで、いつもガタガタミシミシ言ってますもの」
「まあ、そりゃそうだ」
殿永は苦笑した。
「でも……やっぱり雨宮さんが殺したんですか?」
と、少女は訊いた。
「どうかね。はっきりそうとは言いきれないが」
「あなたは、学校から帰って、家にいるんでしょ?」
と、亜由美は言った。「この部屋を掃除したり、お料理を作ったりする女性が誰だったか、心当りはない?」
「その話は、こちらの刑事さんから聞きました」
と、みどりは肯いて、「不思議ですよね、もし本当なら。でも、私、いつも帰ると、買物に行くんです、夕ご飯の。戻ってから、お料理の下ごしらえして、それからお洗濯とお掃除をします。お母さんが帰るの、早くても九時ごろですから。──だから、上のこの部屋で何かやっていても、気が付かないと思います」
──亜由美は何とも言えなかった。
「──塚川さん」
「放っといて下さい」
と、亜由美は殿永の言葉を遮って、「どうせ私は役立たずです。そうおっしゃりたいんでしょ?」
「いや、そうじゃなくてですね──」
「そりゃ、私は怠け者です。十三歳の女の子と比べても、何もやらない能なしです」
「そうひがまないで下さい」
もう、八つ当りである。
二人は雨宮のアパートを出て、殿永の運転する車で、亜由美の家へ向っているところであった。
「しかし……|健《けな》|気《げ》な子ですねえ」
と、殿永が感心している。
「そうですね」
プイと外の方へ顔を向けて、「いっそあの子を警視庁へ迎えたらいかが?」
と、無茶を言い出す。
「塚川さん」
「まだ何か?」
「何か食べて帰りませんか」
「お腹一杯です」
と、亜由美は言って、「──甘いものなら入るかもしれません」
結局──殿永は、亜由美に付合って、〈おしるこ〉を食べることになった……。
「でもね、人間、そういう立場に立たされりゃ、やるもんですよね!」
「そうですよ。塚川さんだって、結婚なされば、たぶん……」
「たぶん、ってのは、どういう意味ですか」
と、にらんでおいて、亜由美は笑い出す。
アルコールでなく、甘いもので上機嫌になるというのも、面白い性格である。
「ともかく、雨宮真一を見付けるのが先決です」
と、殿永は言った。「果して犯人なのかどうか。どうも、今一つ、ピンと来ないんですよね」
「幸枝のこともありますものね。──人殺しがあったこと、伝えた方がいいかしら?」
「少し落ちついてからの方がいいでしょう、何といっても、今は情緒不安定ですから。──おっと!」
殿永のポケットベルが、ピーピーと音を立てた。
「ちょっと失礼して」
殿永がレジの方へ立って行く。
亜由美は、正直なところ、あの少女に感心していたのだ。もちろん、母に知られたりしたら、また何と皮肉られるか分らないが、かつて「社長令嬢」だったはずの、池畑みどりが、ああして忙しく働く母親を支えている姿は、やはり感動的だった。
──それにしても、雨宮という男、もし自分が殺していないのなら、なぜ姿をくらましているのか。
やっぱり犯人なのだろうか。もしそうなら、幸枝には可哀そうなことになるが……。
殿永が戻って来る。──亜由美の見憶えのある、むずかしい表情をしていた。
「殿永さん……」
「とんでもないことになりました」
と、殿永は言った。
「というと?」
「まさか、こんなことになるとは……。牧口幸枝です」
「幸枝が? どうしたんですか」
と、身をのり出す。
「病院から消えてしまったんです」
亜由美は唖然とした。殿永はくやしげに、
「明日までは意識が戻らない、と聞いていたので……。油断していました!」
「でも──どうして?」
「新聞[#「新聞」に傍点]を見たのだそうです」
「というと──」
「雨宮が姿をくらましたことを、知ったわけです。病院を抜け出して、どこへ行ったのか……」
亜由美は、せっかく命がけで助けたのに、命を粗末にしたら、許さないわよ、と心の中で、幸枝に文句を言ってやった。
もちろん、聞こえるわけではないにしても……。
4 窓の人影
「何か?」
と、声をかけて来たのは、小柄な、事務服姿の女性だった。
「あ、どうも」
と、亜由美は言った。「こちらに──雨宮さんという方が──」
「また[#「また」に傍点]ね!」
と、その女性はムッとした様子で、「取材ならお断りです!」
「いえ、そうじゃないんです」
「うまいこと言って! 何のかのと言って、話を聞き出そうとするんだから」
「本当に違うんです。私──女子大生なんですよ。ほら」
亜由美は学生証を見せた。
その女性は、大学の名を見て、ハッとした様子だった。
「じゃ……あなた[#「あなた」に傍点]なの?」
「え?」
「雨宮さんがお付合いしてた女子大生って……」
法律事務所の入口の狭いスペースでは、立ち話もままならなかった。
「あの──どこかでお話しできませんか」
と、亜由美は言った。「楠木リカさんですね」
その女性の顔が一瞬こわばったのを、亜由美は見逃さなかった。
「そうです。──雨宮さんから聞いたのね?」
楠木リカは、亜由美のことを、幸枝と勘違いしているのだ。ということは、雨宮が女子大生と付合っていることは知っていて、大学の名前も分っているが、名前までは聞いていなかったということになる。
そう思っているのなら、そう思わせとこうと、亜由美は決めた。
「そうです」
「近くに喫茶店があるわ。待ってて。ちょっとメモを置いて来る」
楠木リカは、事務所の中へ入って行った。
いかにもしっかり者という印象。──幸枝が話してくれた通りである。もっとも、幸枝も、雨宮の話を聞いただけなのだが。
「ごめんなさい」
出て来た楠木リカは、愛想良く、落ちついて見えた。
──亜由美は、殿永に頼まれてここへ来たわけではない。
また、危いことを、と殿永には|叱《しか》られそうだが、幸枝のことがどうしても心配で、つい首を突っ込まずにはいられないのだ。
幸枝が病院から姿を消して、丸二日たっていた。
──どこへ行ったか、手がかりはない。
しかし、幸枝が、雨宮のアパートでの殺人と係わり合いがあることは、マスコミも知らないので、幸枝が病院を抜け出したことは、ニュースにもなっていなかったのである。
雨宮の行方も、まだ知れない。──世間的には、雨宮が山本有里を殺したと見られているのだった。
「──どうも、お仕事中に、すみません」
亜由美は、喫茶店に落ちつくと、できるだけ「雨宮の恋人」らしく見せようと、しおらしくして見せた。
「いいのよ。大変なことになったわね」
楠木リカは、穏やかな表情である。しかし、亜由美が彼女の名を口にしたときの表情は、はっきり、敵意に近いものを持っていた。
つまり──亜由美がいかに恋に関して遅れていても、これぐらいのことは分る。楠木リカも、雨宮にひかれているのだ。
「私も、TVや新聞で言ってることしか知らないけど、雨宮さん、見付かってないの?」
「そうなんです」
亜由美は、深刻な顔で|肯《うなず》いた。「あの──何か、楠木さんの所にでも、連絡がなかったかと……」
「どうして私のところに?」
「あの──雨宮さんが、よく話してたんです、楠木さんのこと。とてもいい方だ、って」
楠木リカの顔に、ちょっと微妙なかげ[#「かげ」に傍点]が見えた。
「確かに、よくお話しとかはするけどね」
と、ゆっくり紅茶を飲んで、「でも、恋人のあなたに分らないことを、私に|訊《き》かれても……」
「そうですか」
亜由美は、がっくりと肩を落として見せながら、しっかりコーヒーは飲み干していた。
「でも……。あんなこと、信じられないわねえ」
楠木リカは、息をついて、「雨宮さん、そりゃあおとなしくて、いい人じゃない。何があったにしても、人を殺すなんて」
「あの人がやったんじゃないと思ってます、私」
「そう。──私もそう思うわ」
楠木リカは肯いた。
「あの──雨宮さん、あの女のことで、何か言ってませんでしたか」
「うん……。警察にもね、そう訊かれた。もちろん、何も知らないって答えたんだけどね。ただ……」
「何かあったんですか」
亜由美は身をのり出した。
「事件の起る三日くらい前だったかな。いやにふさぎ込んでたの。『どうかしたの?』って訊くと、あの人、ため息をついて、『いや、もてて困ってるんだ』って……。私、結構ね、って笑ってやったんだけど、もしかすると、本当だったのかもしれないわね。あなたと、あの山本有里って女の間で、板挟みになって、本当に苦しんでたのかもしれない」
「でも、それじゃ、やっぱり雨宮さんが殺したことになります」
「そうね。──やってないと信じたいわ、私も」
楠木リカは、ちょっと複雑そうな表情で言った。すると、
「楠木さん、いらっしゃいますか」
と、ウェイトレスが店の中を見回しながら声を上げた。
「誰かしら。──はい」
と、楠木リカが立ち上がる。
「お電話です」
「はいはい。──ボスが呼んでるんだわ、きっと」
と、苦笑して、駆けて行く。
亜由美は、その後ろ姿を見ていた。
「──はい、楠木です。──もしもし?──え?」
楠木リカの背中を見ているだけでも、彼女がハッと息をのむのが分った。
何だろう? 楠木リカは、急にしゃべる声を低くしたので、亜由美には全く聞きとれなかった。
四、五分話して、楠木リカは戻って来た。
「ごめんなさい。ちょっと古いお友だちからで……」
「すみません、お邪魔して。もう失礼しますから」
と、亜由美も立ち上がった。
店を出て、別れてから、亜由美はこっそり隠れて、楠木リカの様子を見守っていた。
亜由美の姿が見えなくなったと思ったのか、楠木リカは、急いで公衆電話へと駆け寄った。
──おかしいわ。
亜由美は、今の電話が、楠木リカにとって、何か特別なものだと察していた。
そう。──もしかすると、雨宮からの電話かもしれない……。
「物好きねえ、聡子も」
と、亜由美が言うと、
「どっちが! ねえ、ドン・ファン」
と、聡子が言い返す。
「ワン」
と、ドン・ファンが同意[#「同意」に傍点]した。
「殺人現場を見るなら、死体のあるときでなきゃ」
と、亜由美が少し気どって言うと、
「それは単なる悪趣味っていうのよ」
と、聡子がやり返した。
二人は──いや、人間扱いしないと怒るという変った犬、ドン・ファンを加えて三人[#「三人」に傍点]は、雨宮のアパートへと向っていたのである。
もう夜になっている。──レポートの提出を明日に控えて、亜由美の家で勉強に励んでいたのだが、亜由美の話を聞いた聡子が、
「どうしても、その謎の部屋を見たい!」
と言い出してきかない。
で、早めにレポートを仕上げて(やる気になれば、できるのである)、こうして出かけて来た、というわけ。
もちろん中へ入るのは、殿永の許可が必要だ。そのため、二人は殿永を、ここへ呼び出したのである。
刑事さんも大変ね、と亜由美は勝手なことを心の中で|呟《つぶや》いていた。
「──このアパート?」
と、表から聡子が見上げる。
「そう」
「ボロね」
「そりゃそうだけど、そうはっきり本当のこと言ったら怒るわよ、住んでる人が」
どっちの言い分がひどいのだか……。
「殿永さん、まだみたいね」
と、聡子は言った。
「そうね。遅れて来たら、罰金とっちゃおうか」
ひどい話である。
「──あの窓よ、今は暗いけど」
と、亜由美が指さす。
「ふーん。何となく人が殺されそう」
聡子もいい加減なことを言っている。「ね、亜由美、私、家へ電話して来るね」
「うん、いいよ」
「殿永さんが来ても、待っててよ」
「分ってる」
「確かあっちにあったわね、電話」
聡子が、夜道を駆けて行った。
亜由美は、ドン・ファンと二人で、夜道に立って、殿永の来るのを待っていた。
もちろん雨宮の部屋は|鍵《かぎ》がかかっていて、殿永が鍵を持って来ないと入れないのである。
「アーア……」
と、亜由美は|欠伸《あくび》をした。
そうそう。殿永が来たら、楠木リカのところへかかった電話のことも話しておこう。もちろん、事件とは関係ないかもしれないが、わずかでも、可能性があれば……。
それにしても、雨宮という男、幸枝の話ではパッとしない平凡なタイプということだったが、幸枝と楠木リカ、それに「幻の妻」と、少なくとも三人の女から心を寄せられていたことになる。
そこへ、殺された山本有里を加えてもいいかもしれない。すると四人[#「四人」に傍点]!
もてないどころじゃない。──雨宮という男、見かけほど地味な[#「地味な」に傍点]タイプではないのかもしれないぞ、と亜由美は思った。
「ワン」
「何よ、うるさいわね」
「ワン!」
「ちょっと! いつもは、犬らしくしろって言っても、|吠《ほ》えやしないくせして。何よ、こんな所で──」
ドン・ファンはアパートの方を見上げていた。そして、亜由美もアパートを見上げて、|愕然《がくぜん》としたのだ。
あの窓──間違いない! 雨宮の部屋の窓だ。
明りが|点《つ》いている。そしてシルエットが窓に映っているのだ。女[#「女」に傍点]。──女だ[#「女だ」に傍点]!
一体誰が?
「行こう、ドン・ファン」
と、亜由美は歩き出そうとして、聡子が戻って来ていないことを思い出した。
しかし、あの女[#「あの女」に傍点]は、すぐにもいなくなってしまうかもしれないのだ。今すぐなら、捕まえられるかも──。
亜由美は、決心して階段を上がって行った。あまり足音をたてないようにして……。それでも、階段が少しきしむのは仕方ない。
しかし、まだ人の出入りのある時間だから、大丈夫だろう。
亜由美は、雨宮の部屋のドアの前まで来た。ドアの下から、光が|覗《のぞ》いている。
確かに、中に誰かいるのだ。亜由美は、大きく息を吸い込んで、突っ込む前に、足下のドン・ファンを見下ろした。
あんた、頼りにしてるわよ、と目で言ってやると、ドン・ファンは力強く肯く──代りに、欠伸をした。
だめな奴! 亜由美はノブをつかむと、ドアをパッと開けて──と思ったが、鍵がかかっている!
当然中へ入った誰かが、中から施錠することを、予測するべきだった。ノブをガチャッといわせたので、中にいる女は気付いただろう。
失敗したわ!
ガタガタ、と音が聞こえた。──窓だ!
窓から飛び下りるつもりだわ!
「おいで」
と、ドン・ファンに言って、亜由美は階段を駆け下りた。
窓の側へ回ると──聡子が戻って来て、
「あら、亜由美も電話?」
「違うのよ! 女が窓から──」
と言って、窓を見上げたが……。
「開かなかったわよ、別に」
と、聡子が不思議そうに言った。
「ひっかかった! ドン・ファン、もう一度玄関よ!」
「亜由美、待ってよ!」
聡子もあわてて亜由美の後を追った。
階段をドタドタと駆け上がり(後で苦情が三件来た)、雨宮の部屋のドアを──。
「開いた!」
パッと中へ入ると、明りが消えていて、真暗である。
スイッチ。──スイッチは?
散々捜して、スイッチを押すと、正面の窓が大きく開いていた。
「亜由美……」
「またひっかかった!」
二人をこっちへ来させて、今度こそ窓から逃げたのだ!
「悔しい! 人のことを馬鹿にして!」
亜由美が両手を振り回していると、
「あの……」
と、声がした。
振り向くと、池畑みどりが立っている。
「あ、みどりさん」
「エアロビクスか何かですか?」
と、みどりは訊いた。
「いえ……。まあ、ちょっとした体操ね」
と、亜由美はごまかした。
「どなただったの?」
と、もう一人の声がした。
「お母さん。ほら、この間話した、|凄《すご》く元気のいい学生さん」
何か他に言いようはないのか、とも思ったが、これでも|賞《ほ》められているのだ、と自分を慰めつつ、
「どうも。塚川です」
「池畑厚子です」
その母親は、みどり以上に、愛らしい、というか、穏やかで、好感の持てるタイプだった。
「今日は帰りが珍しく早いの」
と、みどりが言った。
「良かったね」
亜由美もつい|微《ほほ》|笑《え》んでいる。
そこへ足音がして、
「おや?──もう中へ入ってたんですか」
と、殿永が姿を見せた。
「遅かったわ、殿永さん。幻の女は、逃げちゃいましたよ」
亜由美の言葉に、殿永は目をパチクリさせ、ドン・ファンは、
「ワン!」
と、一声鳴いたのだった……。
5 静かな街
「亜由美……」
と、母の声がした。「亜由美。電話よ」
あのね……。亜由美はベッドで寝返りを打つと、電話は起きてる間にかけて来い、って言ってよね、と思った。
思っただけであるので、当然のことながら、母の耳には入っていない。
「亜由美。──お電話よ。どうするの? 出るの? 出ないの?」
と、くり返し|訊《き》かれる。
こうなっては、亜由美としても、態度をはっきりせざるを得ない。
「お母さん……。非常識な時間にかけて来るな、って言ってやって。どこの馬鹿か知らないけど」
と、トロンとした目で、不機嫌そのものという声を出した。
「そう?」
と、母の清美は目をパチクリさせて、「でも、非常識な時間っていっても……。今、一時よ」
「一時なんて……。そんな夜中にかけて来るなんて、おかしいわよ」
「昼の一時よ」
──亜由美は、ガバと起き上がった。
カーテンは引いてあるが、それでも部屋の中はいい加減明るい。昼の一時なら当り前だろう。
「大変だ! どうして起してくんなかったのよ! 遅刻じゃない!」
「今日は日曜日よ」
「──何で先にそう言わないのよ!」
「無茶な子ね、あんたは。電話の方はどうするの?」
「あ、そうか。──誰から?」
「幸枝さん[#「幸枝さん」に傍点]とか」
亜由美は母の言葉を、頭の中でくり返した。
幸枝? 幸枝って……もしかして、幸枝かしら?
まだすっかり目が覚めていないのである。
「──大変!」
亜由美はベッドから飛び出した。
「今日は日曜日よ……」
と、清美がくり返したが、もう亜由美は部屋を飛び出していた。
「──もしもし! 幸枝? 幸枝なの?」
受話器をつかむなり、そう呼びかけると、少し間があって、
「亜由美……」
と、幸枝の声が、かぼそく聞こえて来た。
「幸枝! どこにいるの、今? 大丈夫? 弱ってるの? 気を確かにね!」
と、亜由美が夢中で呼びかけると、
「私、大丈夫」
と、幸枝が言った。「ただ……亜由美の声があんまり凄いんで、びっくりしただけなの……」
「あ、そう」
亜由美は、エヘンと|咳《せき》払いをした。「それは失礼」
「心配した? ごめんなさい」
「当り前でしょ。勝手に病院抜け出したりして! 何してたのよ?」
「病院、抜け出したりしないわ」
と、幸枝は心外という口調。
「だって──」
「もう大丈夫だと思ったから、自分で退院[#「退院」に傍点]したのよ」
「あのね、そういうのは『退院』って言わないの!──ま、いいわよ、お宅じゃ死ぬほど心配してるわよ」
「うん。さっき電話しといた」
と、幸枝はあっさりと言った。「でも、母が出たんで、『お母さん、私、元気よ』って言ったら、『幸枝』って言っただけだったわ。それきり何も言わないの。しょうがないから切っちゃった。そんなに心配してなかったみたいよ」
それはたぶん、母親が気絶したのだろうと思ったが、亜由美は話を変えた。
「今、どこで何してんの?」
「雨宮さんをね、ずっと捜してたの。知ってる? 雨宮さんの隣の部屋の人が殺されて──」
知ってるどころの騒ぎじゃない!
「それで幸枝──見付けたの?」
「これからね、行ってみるつもりなの」
「行くって……どこへ?」
「たぶん[#「たぶん」に傍点]、あそこにいると思うんだ、あの人。もちろんね、あの女の人、殺したのは雨宮さんじゃないと思ってるわ。でも──もし、あの人が私を|騙《だま》してたんだとしたら、あの女の人も殺したかも……」
「幸枝──」
「あの人が殺人犯だとしたら、私のことも殺すかもしれないでしょ。だから、その前に亜由美に、色々迷惑かけたお詫びを言いたくて、電話したの」
「そう」
どう聞いても、これから「殺されるかもしれない」人間の話し方じゃない。しかし、幸枝はそういうタイプなのだ。
「じゃ、亜由美。元気でね」
「待って! 待ってよ! 切らないで!」
亜由美は必死で言った。「どこにいるの? 私、そっちへ行くから! ね、一分で飛んでいくから! 幸枝! 聞いてるの?」
切れてはいないようだったが、また少し時があってから、
「──亜由美って凄い声が出せるのね」
と、感心している様子の、幸枝の声がした。
「電話、壊れそうよ」
何、|呑《のん》|気《き》なこと言ってんだ!
「どこにいるのか教えなきゃ、もっとギャーギャーわめいて、電話線をオーバーヒートさせて焼いちゃうからね! 早く教えなさい!」
たとえ、本当に電話線が切れても、幸枝は別に困らないだろう。
「──分ったわ。でも一分じゃ来らんないと思うわ」
「いいから、早く!」
「一つ、約束して」
「いくつだってするわよ!」
「一人[#「一人」に傍点]で来て。ね?」
亜由美はぐっと詰った。当然、殿永へ知らせなくてはならないと思っていたのだ。しかし、今、幸枝に「いや」とは言えない。
「約束する」
「絶対ね」
「もちろん!」
──かくて、亜由美はやっと、幸枝の居場所を聞き出したのである。
電話を切ったときには、すっかり亜由美は|喉《のど》が痛くなっていた。
「──お父さん。何してんの?」
亜由美は、父が居間から顔を出して、こっちをにらんでいるのに気付いたのだ。
「お前にはデリカシーというものがないのか?」
と、父が言った。「少女クリスティーヌが、母と死に別れる場面に、何てでかい声を張り上げるんだ。信じられん──」
亜由美の父親は、優秀なエンジニアであるが、少女アニメを見ては泣くのが趣味なのである。
「はいはい、失礼しました」
慣れている亜由美は素直に謝って、階段を駆け上がって行った。
──そうか。一人で[#「一人で」に傍点]行きゃいいわけだ!
部屋へ入った亜由美は、
「起きろ、用心棒!」
と、大声で怒鳴った。
「ウー……」
ドン・ファンが、仏頂面で(?)起き上がった。──さっきの亜由美とそっくりだった。
楠木リカは、バスを降りた。
日曜日なので、バスの本数が少なく、来るのが大分遅くなってしまった。でも──十五分くらい、予定よりかかっただけだ……。
たぶん、彼は待っているだろう。
リカは、両手にさげた紙袋を、よいしょ、と持ち直した。晴れていて良かった。雨だったら、袋の底が抜けていたかもしれない。
リカは、ちょっとまぶしげに、晴れた空を見上げた。
何だか寂しい場所だった。──建物はあるが、ほとんどが倉庫とか、廃屋になったビルらしい。人の姿というものが、まるで見えない。
もちろん、バス停があるのだから、乗降客もあるのだろう。──そう、今日は日曜日だから、この辺りに多い工場も、みんな休みだ……。
バスを降りて、進行方向へ百メートルくらい。その信号を右へ曲る。
リカは、すっかり頭に入っている、雨宮の説明を、くり返し思い出していた。
歩道の敷石の|隙《すき》|間《ま》に、雑草が|覗《のぞ》いている。用心しないと、石の割れ目につまずきそうだった。
でも──どうしてこんなことをしてるんだろう、私?
楠木リカは、自分でも不思議だった。
ニュースでは、雨宮をほとんど殺人犯扱いしている。確かに、隣室の女性が、雨宮の部屋で刺殺されて、雨宮が姿をくらませば、犯人かと疑われても仕方ないだろう。
喫茶店にいたリカへかかって来た雨宮の電話では、
「信じてくれ。俺じゃないんだ」
と、言っていた。
もちろん、犯人が[#「犯人が」に傍点]そう言っても、おかしくはない。リカだって、そんなことは承知している。
それでも、
「必要な物を、持って来てほしいんだ」
という彼の頼みを即座に断らなかったのはなぜだろう?
いや、現にこうして、彼の着替えだの、靴だの、カミソリにドライヤーまで……。わざわざ買い揃えて運んで来たのは、やはり、心の底では、雨宮が人殺しでないと信じているせいだろう。
「──ここを右ね」
道を渡って、少し細い道を入って行く。
片側はずっと工場の長い塀が延々と続く。
「逃げてるんだ」
と、雨宮は押し殺した声で言った。「僕は殺される!」
誰に? そう|訊《き》くだけの時間はなかった。
ここの場所を聞くので、精一杯だったのである。
キイ、キイ、と耳ざわりな金属音が待っていた。落ちかけて、ぶら下った看板に、〈××製版所〉の文字がかすれている。
ビルといっても、三階までしかない、小さなものだ。表面のモルタルがはげ落ちて、かつては何色だったのか、見当もつかない。
リカは、ここまで来て、急に不安になった。もし、本当に雨宮が殺人犯で、今も刃物を手に、リカを待ち受けているとしたら?
こんな所で殺されるなんて、いやだ。どこでだって、殺されるのはいやだが、殊にこんな寂しい所で……。
たぶん何日も──ことによると何か月も、死体は見付からないだろうし。
リカは激しく頭を振った。
何を考えてるのよ! 一緒に仕事をして来た仲でしょう。雨宮さんのことが、好きだったくせに。それなら信じることだって、できるでしょう。
リカは、道を見渡した。のっぺり続く工場の塀。反対側は、雑草の茂った空地だが、鉄条網で囲ってあって、入れないようになっている。
リカは肩をすくめた。──何だっていうのよ? ここまで来て、あれこれ迷っても仕方ないじゃないの。──ねえ。
度胸を決めて……。さあ、入るのよ。
リカは、その古ぼけたビルの中へと、入って行った……。
カン、カン、と靴音が乾いた響きをたてる。
「──雨宮さん」
と、リカは呼んだ。「私。楠木リカよ。──いるの?」
開け放したドアから中を覗くと、空っぽの、かつてはオフィスだったらしい部屋。
床にポカッとあいている穴は、大方、電話線を出していたのだろう。
そのとき、頭上で、ガタッ、と何かが動く音がした。階段の下へ行って、
「雨宮さん?」
と、見上げてみる。
階段を、この荷物を持って上がるのかと思うと、ちょっとため息をついたが、追われている身になれば、そう気軽に下りては来られないだろう。
リカは階段を上がり始めた。
二階で足を止め、周囲を見回していると、コトッという物音。──やはり、上だ[#「上だ」に傍点]。
三階にいるのね。リカは、また階段を上がり出した。
亜由美はタクシーを降りると、
「ほら、おいで」
と呼んだ。
ドン・ファンがノソノソと降りて来る。長い足をスッと出して、とはいかない。
「──確かこの辺よね」
亜由美は、信号のある四つ角に立っていた。
「ワン」
「幸枝はいない? あんた、可愛い子見付けるの得意でしょ。捜しなさいよ」
「ウー……」
そんなこと言ったって、というところだろうか。
「何か寂しい所ね。──工場が並んでるのか。ま、デートコースにゃ向かないね」
亜由美は呑気なことを言っていた。
ドン・ファンが、ふと顔を上げ、
「ワン」
と、|吠《ほ》えた。
「来た?」
と、ドン・ファンの見る方へ顔を向けると──。
人影がスッと動いて、どこかの工場らしい建物を囲む金網の向うへと消えた。
「今の……人?」
本当にチラッとしか見えなかったのである。何かコートのような物がフワッと風に広がるのが、目に入ったような気もするが。
でも──どうやって金網の向う[#「向う」に傍点]へ消えるんだろう?
「クゥーン」
と、ドン・ファンが鼻を鳴らす。
「何よ。やめとけって言うの? だったら、初めから見付けないでよ」
亜由美はいつもながら無茶を言って、その人影が消えた辺りへと歩いて行った。
「なあんだ」
金網が破れていて、充分に人一人入れるのである。──お化けじゃなかったのだ。
「誰だったのかしら? ね、ドン・ファン、どう思う?」
と振り向くと、ドン・ファンはさっきの場所に座ったまま動いていない。
「何よ、もう! この薄情者!」
文句を言われて、渋々という感じで、ドン・ファンがやって来た。
「中へ入ってみようか? どう?」
「ワン」
「賛成ね? じゃ、いい? いざってときは、あんたが犠牲になって、私を守るのよ」
「ウー……」
たぶん、ドン・ファンは反対したのであろう。しかし、亜由美がさっさと金網の破れ目から中へ入って行ったので、仕方なくその茶色い用心棒も、それについて行くことになったのである。
「──工事中か」
広い工場である。その一画、人影が消えた方へ入って行くと、高い足場が組んであって、鉄骨は五、六階の辺りまで達している。もちろん日曜日なので、工事現場にも、人はいない。
「ワン」
「何よ。──ね、大体さ、安っぽいミステリーとかだと、こういう所へ、頭の上から鉄材か何か落ちて来るのよね。そしてヒロインは危うく難を逃れる──」
と、亜由美が頭上へ目をやると──本当に[#「本当に」に傍点]鉄材が落ちて来るところだった。
あ……。危い。危い。
亜由美はパッと飛びのこうとして、でも、まさか[#「まさか」に傍点]という思いで、足が動かなかった……。
鉄材は|真《まっ》|直《す》ぐ亜由美めがけて落下して来た。
6 第二の女
「亜由美ったら! 危うく死ぬとこだったじゃないの。もっと命を大切にしなくちゃ!」
厳しい口調でお説教されている亜由美であったが、本当なら、いくらでも言い返せたのである。
私がここへ来たのは、誰のためだと思ってんのよ! 命を大切に、ですって? 自殺しそこなって、私の頭にこぶ[#「こぶ」に傍点]こしらえたのは、どこの誰なのよ!
──でも、口には出せなかった。
相手はおとなしい幸枝だったから、別に何を言ってやっても構やしなかったのだが、ともかく、口がきけなかったのだ。
全身から血の気がひいてしまった、という感じで、ペタンと地面に座り込んでいる。
目の前、ほんの二、三メートルの所に、重い鉄材が数本、転がっている。もし、幸枝が駆けて来て亜由美を突きとばし、自分も一緒に転がっていなかったとしたら……。
今ごろ確実に亜由美は|儚《はかな》くあの世行きだったに違いない。
ドン・ファンは? もちろん無事で、しかし、主人に忠実なせいか(?)やはりペタンと腰を抜かして、座り込んでいるのだった。
「──でも、危かったね」
と、幸枝が言うと、亜由美の全身からどっと汗がふき出した。
「立てる?」
「何とか……」
亜由美は、よろけながら立ち上がった。|膝《ひざ》がガクガク震えている。
「一体誰がやったのかしらね」
と、幸枝は上を見上げた。
とっくに逃げているだろう。何しろ、二人とも(いや、一匹も含めて)、たっぷり五、六分は座り込んで動けなかったのだから。その間に、犯人は|悠《ゆう》|々《ゆう》と逃げられたはずである。
「──少なくともね」
と、亜由美はやっと普通の口調になって、「幸枝が犯人じゃないってことだけは、分ったわ」
「亜由美ったら……。冗談言ってるの?」
「せめて冗談でも言わなきゃ……。馬鹿らしくて、やってらんないわよ」
亜由美はハンカチをとり出して、汗を拭った。
「幸枝、どこにいたの?」
「ちょうど、亜由美があの金網の所から入ってくのが見えたの。で、追いかけて来て……。でも、良かった、追って来て」
と、幸枝はしみじみとした調子で、「亜由美って、とても可愛いわよね?」
そう|訊《き》かれても、亜由美とて、即座に「うん」と答えるには少々度胸がいる。
「そう……。まあ、そういう人もいるわね」
と、いつになく控え目な表現に|止《とど》まったのだった。
「でも、いくら可愛くても、あんな物の下敷きになって死んだら、きっとお葬式出すときに困るものね」
何を考えてるんだろ、この子は?
亜由美は、自分も相当に変っていると思っていたが、やはり上には上がある、ということを発見したのだった。もっとも、死にかけた割には、大した発見ではないような気もしたが……。
「──ともかく、雨宮って人がいそうな所へ行きましょうよ」
と、亜由美は言った。「危うく忘れるとこだった」
「そうね、そう遠くないのよ」
「じゃ……。ドン・ファン、何してんのよ」
ドン・ファンは、腰を抜かしたついでに(?)そのまま昼寝の体勢に入っていた。亜由美ににらまれて、渋々起き上がると、脇を向いてとぼける。
「全くもう! しっかりしてよ」
と、亜由美はブツクサ言いながら、幸枝と一緒に歩き出したのだった……。
「──じゃ、幸枝、病院を出てから、どこにいたの?」
と、道へ出て、やっと足どりもしっかりして来た亜由美が訊いた。
「友だちの所。──ほら、最近よくあるでしょ。女子学生会館っていう、女子大生専用のマンション」
「ああ。月に何十万円とかふんだくるんですってね」
「そう言っちゃ気の毒よ」
と、幸枝は笑って、「安全料っていうのかな。セキュリティもしっかりしてるし、食堂から、プールまであって。──で、外部の人間の出入りは凄く厳しくチェックされるでしょ。だから、隠れてるには絶好なの」
「なるほどね……」
およそ、そんなマンションと縁のない亜由美としては、|羨《うらや》ましそうな顔は意地でもできない。「そこの友だちに?」
「そう。2DKあるの、一人でいるのに。だから、ゆっくり休めて」
「へえ」
「ただ困ることもあるの。──友だちが彼氏を連れて来ちゃって。私、居場所がなくて困っちゃったわ」
「だって、男は入れないんでしょう?」
「その彼氏、女の子の格好して入って来たのよ」
──今の大学生ってのは、何て暇なんだ!
亜由美は自分のことは棚に上げて嘆いたのだった……。
「──あのビルだわ」
と、幸枝が言った。
「もう人がいないんじゃないの?」
「でなきゃ隠れてられないわ」
「そりゃそうね」
幸枝にこんなこと教えられるようじゃ、おしまいだ。──亜由美は、内心ひそかに絶望し、探偵業は、これを限りに廃業しようと思った……。
「どうしてこんなビルにいるって分るの?」
「来たことがあるの。通りかかっただけだけどね。──雨宮さん、このビルでバイトしてたことがあるんですって、学生時代」
「なるほどね」
「で、冗談でね、『身を隠すにゃ、もってこいの場所だね』って……。そう話したのを思い出して」
「ここにいる、って?──でも、分んないじゃない。そんなの、本人だって忘れてるかもしれない」
「うん……。でもね。感じるの。愛する人が近くにいるって、直感的に」
「へえ……」
亜由美としては、まだそれほどのめり込んでの恋愛の経験はない。幸枝の言葉に、「へえ」と言うぐらいしかできないのである。
「ともかく入ってみましょ」
と、亜由美はその古びたビルの中へと足を踏み入れる。「人がいるって様子じゃないけどね」
「上の階かもしれないわ」
幸枝が階段をさっさと上がって行こうとする。
「ちょっと! 幸枝、待ちなさい。危いわよ」
「何が?」
「だって……もしかして、その雨宮ってのが本当の人殺しだったとしたら……」
「だったら、死ぬだけよ」
と、幸枝はあっさり言って、上がって行く。
亜由美は、「恋は人を強くする」という実例を見せられた気分だった……。
まさか、幸枝一人を行かせるわけにもいかず、ドン・ファンを促して、階段を上がり始める。──後で殿永さんが知ったら、嘆くだろうな、と思いつつ。
二階へ上がり、そこにも人の気配がないので、三階へ上がろうとした三人[#「三人」に傍点]は、ドサッという物音で足を止めた。
「誰かいる!」
幸枝の目が輝いた。「──雨宮さん!」
「幸枝! 一人で行っちゃ危いよ」
亜由美は、階段を駆け上がって行く幸枝を、あわてて追って行った。もちろんドン・ファンも──短い足をフルに動かして──亜由美の後を追う。
「幸枝ったら──わっ!」
亜由美は、危うく幸枝に追突しそうになった。
「危いじゃないの! 急に止らないで──」
亜由美の目にも見えた[#「見えた」に傍点]。
倒れている女。──血に染まって、もう一目で息が絶えていると分る女。
「この人……」
と、亜由美は言った。「楠木リカさんだわ!」
「この人が……」
幸枝は、青ざめていたが、失神するでもなく、楠木リカの方へ近寄った。
「幸枝。触っちゃいけないわ。警察を呼ばないと」
「うん……。でも、せめて目を閉じさせてあげたい」
亜由美は、ちょっと息をついた。
「そうね……」
幸枝は、手を伸して、楠木リカの|瞼《まぶた》を、静かに閉じてやった……。
「全く困ったもんだ」
と、殿永は首を振って、「いいですか、塚川さん。私はね、あなたの死体にこうして布をかけたりなんてことだけはしたくないんです」
「ごめんなさい」
と、亜由美もしおらしく謝っている。
「しかも、何です? 命を狙われた?」
「まあ……。たぶん。鉄材が私を恨んで落っこちて来たのかもしれません」
「鉄に恨まれる覚えでも?」
「このところ、セラミックの包丁ばっかり使ってるんで、ステンレスの包丁が、振られた腹いせに……」
こんなときに、よく冗談が言えると、我ながら感心してしまう。
殿永は苦笑いして、
「あなたにゃかないませんな!」
と、息をついた。「それと、牧口さん! もう姿をくらまして、人に心配かけないように」
「はあ……」
幸枝はいつも通りおとなしい。
「でも、殿永さん」
と、亜由美は言った。「やったのは、雨宮真一だと?」
「何とも言えませんよ。しかし──見て下さい」
楠木リカの倒れていた場所に、黒い血だまりが広がっている。殿永は、そこを慎重によけて、歩いて行くと、何やら拾って、戻って来た。
「何かしら?──カミソリ?」
「替刃です」
と、殿永は|肯《うなず》いた。「当然、これを使う本体そのものもあったはずですね」
「落ちてたんですか?」
「この辺り、下の|埃《ほこり》が大分乱れてるでしょう。たぶん、楠木リカは、大きな袋か何かをさげていたと思われます。それが落ちて、倒れた拍子に中から、これが飛び出した」
「袋は犯人が拾って行ったんですね」
「これを見落としたんでしょう。──察するところ、楠木リカは、雨宮に頼まれてここへ必要な品物を届けに来たんじゃありませんかね」
「たぶん、そうですね。でも──」
「そうなると、雨宮が楠木リカを殺したとは考えにくい。雨宮にとっては、信用できる人間だったということですから」
「殺す理由がないですものね」
「いや、それは分りませんよ。二人の間がどういう関係だったのか、誰も知らないんですから。ただ、もし雨宮が犯人なら、もっと楠木リカを利用したと思います」
「待って下さい」
と、急に幸枝が話を遮った。「そんな……。雨宮さんを犯人と決めつけないで下さい」
「もちろんです」
殿永はなだめるように|微《ほほ》|笑《え》んで、「しかし、あなたはともかくお宅へ帰って下さい。送りますよ、パトカーで。いいですね」
「──はい」
少し不服げではあったが、幸枝は肯いたのだった……。
「──疲れた!」
ドサッと亜由美はベッドにひっくり返った。
「亜由美ったら、本当にこりないね」
と、聡子が笑った。
亜由美が帰ると、ちょうど聡子が遊びに来ていたのである。
「笑わば笑え。──もしかしたら、死体で戻ったかもしれなかったんだからね」
「──そのときは前もって知らせてね」
と、ドアが開いて、母の清美が入って来た。「はい、お茶とお菓子」
「あ、すみません」
「お母さん。娘が危うく殺されかけたのよ。もうちょっと喜んだら?」
と、亜由美が言った。
「殺されかけて、喜ぶの?」
「違うわよ。助かって喜ぶの!」
「ああ、それなら分るわ。──今夜のおかずに、シューマイを足したげるからね」
母が出て行くと、
「どこまで本気か分んないよ」
と、亜由美は苦笑した。「──お菓子、食べよ」
「うん……。おいしい。──でもさ、亜由美、これからどうなっちゃうの?」
「知らないわよ」
と、首を振って、「まあ、幸枝にゃ可哀そうだけど、犯人は雨宮ね、きっと」
「どうして?」
「だって犯人でなきゃ、どうして逃げ回ってるわけ?」
「そうか……。でも、私、犯人もだけど、例の『お化け』にも興味あるな」
「お化け?──ああ、雨宮の部屋を掃除したりしてたって女のことね」
「雨宮が殺人犯かどうかはともかく、そういう女は存在したらしいじゃないの」
「そうね……」
亜由美も、目の前の殺人事件に気をとられて、忘れかけていた。
もちろん、あれが全部雨宮の作り話という可能性もないではない。しかし、殺された楠木リカは、雨宮の持って来た紙袋の中に、どう見ても女性が用意した弁当箱を見付けている。
あれがすべて雨宮の話通りだったとしたらどうなるだろう?
山本有里、楠木リカ……。あんなことをしそうな女は二人とも[#「二人とも」に傍点]殺された。これは偶然だろうか?
それとも他に、雨宮を想っている女がいたのか……。
「──まさか」
と、亜由美が|呟《つぶや》いた。
「え?」
「そんなこと、ないよね」
「何が?」
「雨宮の部屋で、お掃除したり、朝ご飯作ってたりしたのが──池畑厚子だってこと……」
「池畑って──あの、下の部屋の?」
「そう。同じアパートだし、雨宮のことも知ってたし」
「でも、あのお母さん、ずっと仕事に出てるんでしょ。それなら、無理じゃない」
「そうか。──そうだよね」
と、亜由美は肯いた。
「クゥーン……」
「あら、ドン・ファン、何を鳴いてるの? 亜由美が冷たいの? 私が代りに可愛がってあげる。──ちょっと! くすぐったい!」
聡子が、キャッキャと声を上げる。
ドン・ファンが聡子の|膝頭《ひざがしら》をペロペロなめているのである。
「変なこと言うと、すぐその気になるんだから、やめてよ」
と、亜由美が言った。
すぐその気に……。すぐ……。
亜由美は、|眉《まゆ》を寄せて考え込んだ。
「まさか……。でも……もしかして……」
と、一人で呟いている。
「亜由美。大丈夫?」
聡子が不安そうに、「殺されかけたショックでどうかしちゃったんじゃないの?」
「どうかしてるのはもともとよ」
「そりゃ分ってるけど……」
「出かけて来る。──聡子、来る?」
と、亜由美は立ち上がった。
「どこに行くの? また危い目に遭いに?」
「もしかしたらね」
「物好きねえ、本当に!」
と、聡子は首を振って、「私も行くわよ」
「ワン」
と、ドン・ファンは笑った(?)のだった……。
7 母と娘
「全く、いい加減にしてほしいもんだね」
と、その老人はブツブツ文句を言った。「こっちは忙しいんだよ」
どう見たって、忙しいわけはない。現に、今だって、亜由美が何回もチャイムを鳴らして、やっと出て来たのだが、トロンとした目で、「今まで居眠りしてた」と言わんばかり。TVはつけっ放し。
亜由美がシャーロック・ホームズでなくても、この老人がTVを見ながら、眠っていたことぐらい、推理できるというものである。
「またあの部屋を? 警察の人から、勝手に開けちゃいかんと言われてるんだ」
田口というこの老人、人に文句を言うのを生きがいにしている、という類の年寄りだった。
人間って、不思議なものね、と亜由美は思った。他人からひどい目に遭わされた(と当人は思っている)人に限って、他人をいじめて喜ぶものである。──こういう人は、人生で成長したのではなく、ひねくれただけなのだろう。
「私はその刑事さんと親しいんです。大丈夫ですから」
と、亜由美が言っても、
「万一のときの責任は誰がとってくれるんだね?」
と来る。
「万一のときって、何です?」
「そりゃ、もしものときだよ」
「もしものとき、って?」
「万一のときだよ」
漫才やってるんじゃない!──亜由美は|苛《いら》|々《いら》して来た。
「いいですか。私があの部屋へ入れなかったら、そのことで、また人が死ぬかもしれないんですよ。そのときになって、あなたが入れてくれなかったからだって文句言われても知りませんよ」
「わしを脅迫する気か!」
と、ますます喧嘩腰になる。
「分りました。じゃ、電話貸して下さい。警察の人の了解とります。それなら、いいでしょ?」
「うちの電話を使うのか? 電話代はどうしてくれる!」
亜由美は、相手が年寄でなければ、とっくにぶっとばしていたに違いない。
そこへ──。
「どうしたんですか?」
と、声がした。
「あら、みどりさんね」
池畑みどりが、立っていたのである。
「やあ、今帰ったのかね?」
亜由美は、田口という老人の態度がガラッと変って、ニコニコし始めたので、びっくりした。
「買物してたんで、遅くなって……」
池畑みどりは、学生|鞄《かばん》をさげ、もう一方の手に、スーパーの袋を持っていた。「亜由美さん、でしたよね」
「こいつ[#「こいつ」に傍点]を知っとるのかね?」
こいつ、ってことはないだろう。亜由美はジロッと田口をにらんだが、相手はまるで気にしていない様子だった。
「ええ、よく知ってます」
みどりは|肯《うなず》いて、事情を聞くと、「田口さん、この人なら大丈夫ですよ。雨宮さんの所、開けてあげて」
と、言った。
驚いたことに、
「そうか。みどりちゃんがそう言うのなら」
と、田口老人は奥へ入って、さっさと|鍵《かぎ》を手に戻って来たのである。
亜由美は、腹を立てるのも忘れて|呆《あき》れていた。
「待って。私も行っていいですか」
と、みどりが言った。
「もちろんさ。構わんよ」
亜由美は聡子と顔を見合せ、肩をすくめて見せたのだった……。
みどりは、自分の部屋へ入ると、二、三分で普段着にかえて出て来た。
「──すみません、お待たせして」
「いいのよ」
と、亜由美は首を振って、「行きましょうか」
田口老人が先に立って、階段を上がって行く。
「──何を調べるんですか?」
と、みどりが|訊《き》いた。
「うん……。ちょっとね、思い付いたことがあるの」
「そういえば、新聞で見ました。雨宮さんと同じ会社の人が殺されたんですってね」
「そうなのよ。──死体を見付けたのは私なの」
「ええ? 本当ですか!」
みどりが目を丸くした。「|凄《すご》い! 私なんか、きっと腰抜かしちゃう」
まさか本当に腰を抜かした(その前のことだが)とも言えず、亜由美は黙っていた。
「──さ、開けたよ」
と、田口老人が、鍵をあけて、わきへどく。
「どうもありがとう」
亜由美は、わざと馬鹿ていねいに言ってやった。
そして、ドアを開けると──。
「何かいい匂い、しない?」
「ワン」
と、ドン・ファンが応じる。
カチッと明りを|点《つ》けると、玄関へ入って来た誰しもが、|唖《あ》|然《ぜん》として立ちつくした。
雨宮の部屋の中央に、ちゃぶ台が置かれ、そこには、食事の仕度ができていたのである。──おかず、ミソ汁、ご飯。
どれもが、まだできたてのように、湯気を上げていた。
「──どうなってるの?」
と、聡子が言った。「ね、亜由美!」
「知らないわよ。──やった人に訊いて」
と、亜由美は首を振って、「味見したいとは思わないわね……」
池畑厚子は、電話を切ると、ちょっと軽いめまいを覚えて、目を閉じた。
疲れているのだ。──それは、自分でもよく分っていた。
当然だろう。この何年か、夢中で働いて来た。
忘れるために。──過去の、あの華やかな生活を。
厚子は、大きく息をついて、事務所の中を見回した。暗くて、|侘《わび》しい空間。
節約して、明りも机の上のスタンドだけ。昔の厚子には考えられないことだった。
──昔ね。もう忘れたつもりでも、つい比べてしまう。「昔はどうだったか」と。
この小さなオフィスは、雑誌やPR用パンフレットの企画、製作を担当しているが、もちろん、「下請け」の仕事であり、条件は厳しく、そしてお金は大して入って来ない。
それでも、厚子は必死で働いて来た。仕事をしていることが、自分の生きるための「空気」か「水」ででもあるように、絶え間なく頑張って来た。
何とか、みどりとの暮しも落ちついて来ている。
──何といっても、厚子の一番気にしているのが、みどりのことだ。
夫の会社の倒産、そして夫の蒸発。
ゆとりのある、のんびりした暮しは、台風で吹き飛ばされる雲のように、どこかへ消えてしまった。そして、母娘二人での、アパート暮し。
みどりが、何一つ不平も言わず、新しい生活に慣れてくれたこと、帰りの遅い母を心配して、中学生の女の子としては、考えられる限り、家事をやってくれることに、厚子はいくら感謝しても足りないくらいだった。
これで、もし、帰ってから食事の仕度から、掃除洗濯まで、厚子が全部やっていたとしたら、とても長くは続かなかっただろう。
「今日はもう……帰ろうかしら」
と、時計を見て、厚子は|呟《つぶや》いた。
仕事は残っているが、明日でも間に合うものばかりだ。何もそういつもいつも、張りつめている必要はないだろう。
帰り仕度を始めると、机の上の電話が鳴った。──まさか、急な用事じゃないでしょうね。
少しためらいながら、受話器を上げる。
「──もしもし?」
「池畑さんですか」
その声で、すぐに分った。厚子の胸が、ちょっとときめいた。
取引先の社長で、まだ四十そこそこ。しっかりした、頼りになる男性だ。
「どうも……」
「いや、もしかしたら、まだ残ってるかな、と思って、かけてみたんだ」
「これから帰るところでしたの」
「じゃ、良かった。間に合って」
「何か、CFのことで?」
「そうじゃない。純然たるプライベートな電話さ」
と、相手は笑った。
「はあ」
「実は、君のオフィスの目の前の車からかけてる」
厚子はびっくりして、電話に出たまま、窓の所まで行って外を見下ろした。
道の向い側に、見憶えのあるBMWが|停《とま》っている。
「君を食事に誘いたいと思ってね」
「でも──娘が──」
みどりが待っている。夕食の下ごしらえをして。それを分っていて、外で食べて帰るわけにはいかない。
「すぐに送るよ。どうだい、一時間ぐらいなら」
厚子は、チラッと時計を見た。そして考えた。──ほんの数秒間。
体が熱くなって来るのが分る。そう、たまには……。時には母から一人の女に戻ってもいいだろう。
「もし、私が今夜はゆっくりできるとしたら、どうします?」
と、厚子は訊いた。
「もちろん夕食をとるさ」
「その後は?」
「──その後か。そうだね……。まあ、成り行きによっては……」
「私をホテルに誘いますか」
少し間があって、
「ぜひ、誘いたい」
と、向うが言った。
声は真剣だった。相手には妻子がある。厚子も承知していた。
「それじゃ」
と、厚子は言った。「ホテルにだけ[#「だけ」に傍点]、誘って下さい。一時間で帰れるように」
BMWが停ると、
「もうここで降ります」
と、厚子は言った。
「しかし──」
「近くまで行くと、アパートの人に見られますから」
「そうか……」
「今夜はありがとう」
「いや、礼は僕の方が言うんだ」
厚子は、彼の頬に軽く唇をつけて、
「おかげで、夕ご飯がおいしくいただけそう」
と、笑った。
「もし、また気が向いたら──」
「ええ。もしも、ね」
厚子はドアを開けて、外へ出た。「おやすみなさい」
「おやすみ」
ちょっと手を振って見せて、彼のBMWはたちまち夜の中へと消えて行った。
それを、少し見送っていた厚子は、腕時計を見た。──一時間、と言ったが、とても無理だった。二時間近くたっていて、夕食には遅すぎる時間だ。
厚子は、急いで歩き出した。たぶん、みどりは食事をせずに、母の帰りを待っているだろう。
胸が痛んだ。自分は、胸につかえていたもの、くすぶっていたものを、一気に燃やし尽くして来た。しかし、みどりの方はどうか。
みどりを放っておいて、こんな時間になってしまったことで、厚子は罪悪感に追い立てられるように、走っていた。
すると──足音が、追いかけて来た。一瞬、ギクリとする。アパートで殺された女のことが、頭をかすめる。
「お母さん」
と、声がした。
振り向くと、みどりが息を|弾《はず》ませて、やって来る。
「みどり! どうしたの?」
「どうしたの、じゃないよ」
と、みどりは笑って、「お母さんたら、駆け出すんだもの。びっくりしちゃった」
「急いで帰ろうと思ったのよ。遅くなって、あなたが心配してるだろうと思ったから。──でも、どうしてこんな所に?」
「お友だちの所へ行ってたの。私にだって、お友だちぐらいいるのよ」
「そりゃ分ってるけど……。でも良かったわ。お腹|空《す》いたでしょ」
「お友だちの所で、カップラーメン食べた」
「そう。──じゃ、帰ってゆっくり食べましょ」
厚子は、みどりの肩に手をかけて、歩き出した。
「お母さんもお友だちと出かけてたの?」
みどりの言葉に、厚子は、ちょっとドキッとした。
「仕事の関係の人と会ってたのよ」
「車から降りるの、見てたんだ。うちの車と同じだったね」
もちろん、「かつてのうちの車」のことだ。厚子は、みどりが、母親の「お友だち」を見ていたのだろうか、と思った。
「そうだったわね」
厚子は、みどりの肩を抱く手に、少し力をこめた。
「お母さん」
「うん?」
「お風呂に入った?」
厚子は、そう訊かれて、一瞬たじろいだ。肯定したようなものだ。
「みどり……」
「いいよ、別に」
と、みどりは言った。「お母さんだって、寂しいでしょ。お友だちがいないとね」
「みどり……」
厚子は胸をつかれた。「寂しくなんかないわ。みどりさえいれば。──本当よ」
「それじゃ困るな」
「どうして?」
「いつか、私、お嫁に行くもん」
厚子は、ちょっと笑った。
「いいわ。それからゆっくりお友だちを捜すから」
二人は一緒に笑った。
母と娘は、アパートへの道を、急いで行った……。
8 食 卓
亜由美は、その小さなビルを見上げて、ちょっと入るのをためらった。
あの、楠木リカが殺されていたビルを思い出したからである。こっちの方が新しかったが、小さなオフィスを一杯詰め込んだ雑居ビルは、どことなく似た雰囲気を持っていた。
階段を上がって行くと、忙しげに降りて来る人とすれ違う。向うは亜由美の顔も見ていなかった。
やれやれ……。忙しいことが、楽しみにつながる者もいれば、ただ、報われることのない疲労にしか結びつかない者もある。
こういう小さなビルには、「疲労」が詰っているような気がした。
そのドアを開けて、中を|覗《のぞ》き込むと、ごみごみした部屋の奥で、タバコをくわえて何やら書いている男がいた。
亜由美が、ちょっと|咳《せき》払いすると、男は顔を上げ、タバコを灰皿へ押し|潰《つぶ》した。
「何か用?」
「あの──さっきお電話した者ですけど、池畑さんは……」
「ああ。今、電話があってね、あと五分もすりゃ戻るでしょ。良かったら、そこへかけてて」
「すみません」
亜由美は、空いた椅子の一つに腰をおろした。──タバコの煙がいつまでも残っているような空気だ。換気が悪いのだろう。
「──あんた学生さん?」
と、大分頭の薄くなったその男は、仕事の手を止めて、訊いた。
「そうです」
「池畑さんとは知り合いなの?」
「ええ、ちょっとしたことで」
「そうか。──不思議な人だね、あの人も。何てったって、元社長夫人だろ。よく働くよ。びっくりするくらい」
「娘さんもしっかりしてますから」
「ああ。──一度、ここへ来たことがある。毎日、買物とかして来るんだってね。大したもんだ」
亜由美も同感だった。しかし、子供は子供である。「それ以上」であることを、自分に強制するのは、間違っている……。
正直なところ、亜由美は気が重かった。どうしてこんなことに係わり合っちゃったんだろう、と嘆いていたのである。
「──遅くなって」
ドアが開いて、池畑厚子が入って来ると、「ね、これ、すぐにタイプしてくれる所ないかしら? 明日までにできないかって」
「明日?」
「やってあげれば、来月の仕事も回してくれるって」
「そうだなあ……。今はどこも無理がきかないからね」
「そこを当ってみてよ」
「分った。──ああ、お客さんだよ」
「え?」
池畑厚子は、やっと亜由美に気付いた。
「あの──どなた──」
と、言いかけて、
「ああ! 塚川さん、でしたっけ」
「そうです」
と、亜由美は立ち上がった。「ちょっとお話があって」
「今、忙しいんですの。今日中に戻さなきゃならないゲラがあって……。仕事の後じゃいけないかしら」
「今すぐに、聞いて下さい」
と、亜由美は静かに、しかし、はっきりと言った。「娘さんのことです」
厚子は、ちょっと亜由美を見つめた。
「みどりのこと……ですか」
「そうです。大切なことです」
厚子は、|肯《うなず》いた。
「分りました」
そして、男の方へ、「これ、悪いけど、もし電話があったら──」
「任しとけ。大丈夫だよ」
と、男は肯いて見せた。「一回や二回、遅れたって、世界がひっくり返るわけじゃないさ」
厚子はちょっと笑った……。
「──世界がひっくり返るわけじゃない、か……」
厚子は、表へ出て、小さなベンチに亜由美と並んで腰をおろすと、言った。
「いい言葉ですね」
「ええ。──私、以前は働くことなんか、全く考えなくて、のんびり遊んでました。でも、いざ働くようになると、あの人も|呆《あき》れてたように、めちゃくちゃに……。どうしてなのか、自分でもよく分らないんです」
池畑厚子の気持が、何となく亜由美には分るような気がした。必死に働くことで、池畑厚子は、かつての生活を思い出すことを、防いでいるのではないだろうか。
「──で、みどりのことって、何でしょうか?」
と、厚子は訊いた。
「実は──」
亜由美は、言いにくかった。しかし、言うしかない。
「みどりちゃん、今日は学校へ行っていません」
厚子が、目を見開いた。
「でも……ちゃんと、朝、出て行きましたけど」
「学校へは行っていないんです」
と、亜由美はくり返した。
「じゃあ……どこへ?」
「ある男の人の所へ行っています」
「男の人……」
厚子は、そう言って、目を閉じた。
「──みどりちゃんが寂しかったのは、お分りでしょ? お父さんがいなくなって、お母さんはいつも遅くて……。もちろん、みどりちゃんはしっかりした子です。でも、自分でも、そうなろうと努力して、しすぎてるんですよ」
厚子は、ゆっくり息をつくと、
「よく分りました……。みどりとゆっくり過す時間がなくて。私も、少し考えないと。もちろん、みどりを|叱《しか》ったりはしません。でも、あの子がその男の人と、とんでもないことにでも──」
「大丈夫。みどりちゃんは十三ですよ」
「そう。──そうですね」
厚子は、ちょっと笑った。「つい、大きい子みたいな気がしてて。いつも、あの子はいい子[#「いい子」に傍点]でした。それが本人にとっても、辛かったのかもしれません」
「そうですね」
亜由美は、肯いた。厚子は、じっと亜由美を見て、
「あなた……その男の人が誰なのか、ご存知なんですか」
と、訊いた。
亜由美は肯いて、
「たぶん、みどりちゃんが彼[#「彼」に傍点]を紹介してくれるでしょう。今夜にでも」
「今夜?」
「ええ。──今夜です」
なぜだか、亜由美は、明るい昼間なのに、急に夜の気配に包まれたような気がして、身震いした。
「ただいま」
厚子は、ドアを開けた。「──みどり。ただいま」
部屋の中は明りが|点《つ》いていた。靴も玄関にある。帰っているのは確かだった。
しかし、上がってみても、みどりの姿はなく、台所でも夕食の仕度を始めた様子はなかった。
どこへ行ったのだろう?
厚子は、不安に駆られて、部屋の中を歩き回った。
あの子が男の人の所へ……。もちろん、それを責める資格は自分にもない。ただ、みどりが、傷つく結果にならないか、と、それだけが気がかりだったのだ……。
ミシ、ミシ、と天井で音がした。
厚子はハッと天井を見上げる。二階の雨宮の部屋に、誰かいる。
厚子は、少しためらってから、サンダルをはいて、部屋を出た。二階へと足音を殺して上がって行く。
明りが、雨宮の部屋の窓から洩れていた。
厚子は、ドアの前まで来て、ためらった。しかし──もしかして──。
ドアを、思い切って開ける。
「あ、お母さん。早いね、今日は」
みどりが、ちゃぶ台にお|鍋《なべ》をのせるところだった。
厚子は、|呆《ぼう》|然《ぜん》として突っ立っていた。──ちゃぶ台についているのは、雨宮当人だったのである。
「お母さんも一緒に食べようよ。ね? ちょうど良かった」
みどりは、台所へ駆けて行って、ガスの火を止めた。「──大丈夫。ちゃんとおかずは足りるわ」
厚子は、部屋へ上がった。雨宮は、何とも言えない顔で、厚子を見ていた。
「久しぶりだね、三人一緒の夕ご飯なんて」
と、みどりは、茶碗を出して来ると、「お母さん、おはしがないから、この割りばし。いいでしょ?」
「ええ……」
厚子も、ちゃぶ台の前に座る。
「お父さん[#「お父さん」に傍点]は、これね。──あ、おミソ汁、もういいかな」
みどりは、またガステーブルの方へと急ぐ。
厚子は雨宮を見た。雨宮は低い声で言った。
「僕のことをお父さんだと思ってるんです。──どうしていいのか」
みどりは、厚子も驚くほどの手ぎわの良さで、食事の用意をしてしまうと、自分も座って、
「じゃ、ご飯よそうわね。──お父さん、山盛りでしょ」
「ああ……」
「はい。──お母さんも、ちゃんと食べなきゃね」
「そうね」
「いつもくたびれてちゃいけないのよ。お父さんが、他の女の人の所へ行っちゃうわ」
みどりは、ちょっとおどけたように言った。「でも、大丈夫! 私がしっかり見張ってるからね」
「みどり──」
「さ、いただきます、と!」
みどりは勢いよく食べ始めた。
厚子と雨宮も、食べ始める。厚子はびっくりした。いつの間に、こんなにちゃんと料理をするようになったのだろう?
「おいしいよ」
と、雨宮が言った。
「そう? 良かった。──これはね、初めてだったのよ、作ったの。でも、お父さんのために作ったんだから、ね。他の人には食べさせない」
みどりは、パクパク食べながら、「──あの女[#「あの女」に傍点]みたいに、|図《ずう》|々《ずう》しい人もいるんだからね。でも、ちゃんとやっつけちゃったから、もう大丈夫」
厚子は、食べる手を止めて、
「みどり……。図々しい人って?」
「隣の人よ。ここのお隣。──私がせっかく作ったご飯を、食べちゃったのよ! お父さんのために作ったのに。ひどいわ」
みどりが顔をしかめる。
「みどり……。山本さんを──やっつけちゃった、って、どういうことなの?」
厚子の顔から血の気がひいていた。
「お母さん、知らないの? あの人、死んだのよ」
と、みどりは言った。「天罰てきめん。ねえ、いい気味だわ。──お父さん、お代りは?」
「ああ、いや……。じゃ、もらうか」
「はい。──うんと食べてね」
みどりは、ご飯をよそいながら、「お母さん、どうしたの? 何で泣いてるの?」
と、訊いた。
「いえ……。ね、みどり……下へ行かない?」
「下へ……どうして?」
「あなたにね、買って来たものがあるの。早く見たいでしょ」
みどりの顔がパッと明るくなる。
「洋服? ブラウス?」
「ええ、そうよ」
「やった!──じゃ、お父さん、待っててね」
「ああ」
みどりは立ち上がると、母親の手をつかんで引張るようにして立たせて、
「早く行こう!」
と、せかした。
厚子とみどりは、階段を下り、下の部屋へ入った。
「どこにあるの?」
と、部屋へ上がって、見回す。
「今、出して来るから、目をつぶって」
「大げさねえ。──じゃ、いいわ」
みどりが目をつぶる。
「ちゃんとつぶってるのよ……」
厚子は、台所へ行くと、先の|尖《とが》った包丁をつかんで戻って来た。「目をつぶっててね……」
涙が|溢《あふ》れて来る。震える手が、包丁をつかんで、ゆっくりと上がった……。
「ワン!」
玄関で、犬が|吠《ほ》えた。
「──あら、ドン・ファンじゃない」
みどりが、目を開けて、玄関を見た。
「間に合って良かった」
と、言ったのは、もちろんドン・ファンでなく、殿永だった。「いけませんぞ、奥さん。いや、池畑さん。とんでもないことだ」
「申し訳ありません」
厚子の手から、包丁が落ちて、ストン、と畳に突き刺さる。「この子のせいじゃありません。私の……私の責任です!」
「いやいや」
殿永は首を振った。「あなたのせいでも、お嬢さんのせいでもありませんよ」
厚子は戸惑って、殿永を見た。
玄関から、雨宮が顔を|覗《のぞ》かせた。
「雨宮真一さんですな」
と、殿永が言った。
「はあ」
「山本有里、並びに楠木リカ殺害の容疑で逮捕します」
雨宮は青ざめた。
「いや、僕は──」
「この娘さんに、山本有里を殺したのを見られてしまったものの、あんたを父親と思っているのをいいことに、この子に罪をなすりつけようとした。そううまくはいきません」
「そんなことは──」
「楠木リカを殺したのが間違いでしたな。もし、あれもこの子がやったのなら、彼女が持って来た、身の回りの物を、持って行くはずがない。あんたの面倒は自分がみる、と決めていたのですから、この子は」
雨宮が玄関から飛び出そうとして──。
ゴーン、という鐘のような音がした。
「──また、塚川さんですな」
と、殿永がため息をついた。「危いことばかりやるんだ」
亜由美が、顔を出した。手に大きなフライパンを持っている。
「ここでのびてますけど、どうします?」
「後は任せて下さい」
と、殿永は言った。「私の立場というものもあるんです」
「ワン」
と、ドン・ファンが鳴いた。
エピローグ
「でも、やっぱり、例の『幻の妻』は、あの女の子だったんでしょ」
と、聡子が言った。
「そうよ」
二人は盆を手に、学生食堂のテーブルについた。
「じゃ、どうして──」
「ともかく、池畑みどりは自分が負ってるものから逃げたかったのね。可哀そうに。引越して来て、雨宮を見たとたん、父親だと思い込んだのね。鍵は、あの田口って老人に言えば、いつでもあけてもらえる。──雨宮の身の回りのことを、できる限りやってあげようとした、ってことね」
「哀れな話ね」
と、聡子は、スパゲッティを食べながら言った。
「でも──雨宮が山本有里を殺したっていうのは?」
「自白したそうよ。山本有里も前から雨宮に好感を持ってた。ところが、誰かが雨宮のために世話をし始めたのを見て、|却《かえ》って燃え上がっちゃったのね」
「なるほどね」
「あの夜、山本有里はみどりが食事の仕度をしてから出て行った後に、雨宮の部屋へ入ったの。食事の用意ができていて、雨宮はまだ戻ってない。──山本有里は、作ってあったものを全部捨てちゃったのよ」
「ひどい」
「そして、お皿や茶碗を洗って片付けようとした。そこへ、雨宮が帰って来たわけ」
「そうか。雨宮は、山本有里が『幻の妻』かと思ったのね」
「そう。そして山本有里もそう言ったのよ。彼が感激してくれると思ったのね。ところが、雨宮は、幸枝との間をぶちこわされて、頭に来ていた」
「それで……」
「お酒も入ってて、カッとなったんでしょうね。山本有里を刺しちゃった。そして、呆然としてるのを、入って来たみどりが見たのよ」
「じゃ……知ってたの?」
「雨宮は、みどりが実は食事の仕度とかしていたことを、初めて知ったわけ。そして、とっさに、山本有里が、みどりの作ったものを食べてしまったんで、怒って刺したんだ、と言った。みどりは、お父さん[#「お父さん」に傍点]が悪いんじゃない、と信じ込んで、ともかくどこかへ隠れて、と言ったのね。雨宮も、一旦姿を隠して、それからどうしようかと考えたってわけ」
「その挙句が、みどりに罪を着せる? ひどい奴!」
「そうね。なまじ、すぐ捕まらなかったから、何とかして逃げようと思ったんでしょ。楠木リカに、必要な物を持って来てもらって、それは良かったけど、彼女を抱こうとして、争いになった」
「あんな所で?」
「それまでもてないと思い込んでたのが、急にもてる男[#「もてる男」に傍点]になったわけよ。リカも自分の逃亡を手伝ってくれるぐらいだから、当然自分の思い通りになるだろう、と……」
「甘かった、ってわけか」
「リカは、本当に雨宮が殺人犯と知って逃げようとして、殺された。──そこへ、みどりが、やって来たのよ」
「で、雨宮は逃げて……。でも、亜由美の頭上から鉄材を落としたのは?」
「それは、たまたまでしょ」
と、亜由美は言った。「偶然ってこともあるわよ」
「まさか! だって──。そうか……」
聡子は肯いて、「みどりが、雨宮を逃がそうとして……」
「偶然の事故よ。分った[#「分った」に傍点]?」
「うん」
「よろしい。──雨宮は、みどりを犯人に仕立てあげることにして、計画を練った。みどりだけが、雨宮の隠れ場所を知ってたわけね。そこで、雨宮は、『一家でまた夕ご飯を食べよう』と言って、厚子さんが、みどりを殺人犯と思い込むように仕向けて行ったわけ」
「厚子さんは思い詰めて、娘を殺して自分も死のうと……」
「その通りになるところだったのよ」
と、亜由美は言った。「そうすれば、雨宮は二つの殺人を、死んだみどりの罪にしてしまうつもりだったんでしょう」
「許せないわ、そんな奴」
と、聡子は憤然として言った。「でも、みどりは?」
「今、病院で治療を受けてるわ。大丈夫。きっと立ち直るわよ」
「そうね」
聡子は、ちょっと考えて、「──ね、一緒に雨宮の部屋へ二度目に行ったとき、食事の仕度がしてあったのは?」
「あれはね、私が[#「私が」に傍点]やったの」
「ええ?」
「というか、殿永さんと相談してね、用意してもらったわけ。みどりがどう反応するか見たかったのよ」
「いつも私に内緒にして!」
「そう怒るな。ともかく、無事に一件落着したんだから」
「そうでもないんじゃない?」
「何が?」
「あの子[#「あの子」に傍点]のことは?」
と、聡子が指さした方を見ると、牧口幸枝がやって来る。
「幸枝には、可哀そうだったけどね」
と、亜由美は言った。
「ここにいたの」
と、幸枝は二人の隣に座った。
「幸枝……。ショックだろうけど、もう飛び下りたりしないでね」
と、亜由美は言った。
「え?──ああ、雨宮さんのことね。私って、男を見る目がないのかしら」
「そんなことないよ。たまたま、運が悪かっただけで。──ねえ、聡子」
「そうよ。幸枝なら、いくらでも男が寄って来るって」
「そうかなあ……」
と、幸枝は呟いて、「ね、亜由美」
「何?」
「雨宮がね、今度の連休に温泉のホテルを予約してたの。キャンセルするの、もったいないし、あなた、誰か男の人を見付けてよ」
亜由美が目を丸くして、
「私、男と二人で温泉になんて──」
「そうじゃなくて、私に[#「私に」に傍点]。ね? 亜由美の目を信用するから。連休までに、いい人、見付けといてね。それじゃ」
幸枝はさっさと行ってしまう。
|呆《あっ》|気《け》にとられていた亜由美は、聡子がふき出すのを見て、ムッとしたように言った。
「冗談じゃないわよ! 自分の恋人もいないのに、どうして他人の恋人を捜さなきゃいけないの?」
「頼りにされるタイプなのよ、亜由美は」
たまにゃ、頼ってみたい!
亜由美はしみじみとため息をついたのだった……。
|花《はな》|嫁《よめ》の|時《じ》|間《かん》|割《わり》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年2月9日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『花嫁の時間割』平成7年4月25日初版刊行
平成10年5月10日10版刊行