角川文庫
結婚案内ミステリー風
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
心中志願
純潔志願
面影志願
決闘志願
幽霊志願
断絶志願
心中志願
カードにはこう記されていた。
〈申込者氏名・|小《お》|野《の》|貴《たか》|子《こ》、性別・女、年齢・二十七歳、生年月日・昭和二十六年十月十四日〉
年齢さえ分かれば、生年月日などどうでもいいようなものだが、それが一概にそうとも言えないのである。早生れの人間は依頼心が強いとか、寒い月の生れは体が丈夫だとか、色々と思い込んでいる人間もあるので、書き落とすわけにはいかない。
〈出身地・福岡市、上京した年齢・十八歳〉
彼は赤のボールペンを取り上げて、〈福岡市〉を〈|博《はか》|多《た》〉と直した。博多の女性は情が細かいといった通説があるので、大分イメージが違ってくるのである。もっとも彼自身がそれを確かめたわけではないのだが……。
〈出身校・福岡県立N高等学校、得意だった課目・物理〉
彼は舌打ちした。〈物理〉とはね! 話の種にもならない。国語、英語ぐらいなら、小説や、外国の話もできるものを。〈保健・体育〉なら言うことなしだ。さぞ健康で健全な女性だと思われるだろう。男の側が子供を欲しがっている時などは、特に気に入られるのだが。
〈クラブ活動・なし〉
これもまずい。協調性に欠ける、と取られるだろう。――彼はため息をついて、〈趣味〉の項目へ目を移した。
〈読書、映画〉
まあこれは平凡だ。たとえ読む物が女性週刊誌と漫画だけだって、読書には違いない。しかし、入社試験じゃないのだ。これだけでは困る。料理、編物、洋裁……。十八番の料理がラーメンだって、セーター一着編むのに三年かかったって構わないから、そう書いておけばいいのだ。――これでは家庭的な女性という印象がまるでない。
〈スポーツ・水泳〉
うん、これはいい。スタイルがいい、という印象を与える。もっとも一目で幻滅してしまうほど違っていては困るが。
〈身長、体重〉……中肉中背というところか。
〈家族構成〉問題なし……。
〈本人について〉の欄を一応見終ってから、彼は初めて添付されて来た写真を見た。いつも写真を最後に見ることにしているのは、写真の印象にどうしても左右されがちなのと、実物との落差が、あまりに大きい場合が、往々にしてあるからなのである。しかし、この女性の場合は、通常のマイナス分を差し引いても、まずなかなかの|容《よう》|貌《ぼう》と思われた。本当に半年以内の写真だろうか、とちょっと首をひねるほど若く見える。ボーイッシュに髪を切って化粧っ気もほとんどないせいかもしれない。丸顔の、目がクッキリと大きい、愛らしい顔立ちだ。――会ってみたら白塗りのオバケ、なんてことになりませんように……。
彼は|冷《さ》めかけたお茶を飲みながら、〈希望する男性側の条件〉の欄へ目をやったが、思わず手から|湯《ゆ》|呑《の》み|茶《ぢゃ》|碗《わん》を取り落とすところだった。
〈年齢・不問、身長・不問、太った人とやせた人では・どっちでも可、職種・何でも可、年収・多少にかかわらず可、飲酒・可、タバコ・可、趣味・何でも。無趣味、悪趣味も可。スポーツ……〉
これが変っていて、〈泳げない人[#「泳げない人」に傍点]〉
最後の〈特に男性に望む点〉はまさにとどめの一撃だった!
〈私と一緒に死んでくれる人[#「死んでくれる人」に傍点]〉
|深《ふか》|田《だ》|栄《えい》|一《いち》は大声で、
「|寺《てら》|沢《さわ》君!」
と呼んだ。
すぐ目の前のドアが開いて、寺沢|紘《ひろ》|子《こ》が入って来た。
「何かご用でしょうか?」
「うちは冷やかしはお断りだと前にも言っておいたじゃないか」
「分かってます」
「じゃこれは何だね?」
深田は今しがた見ていたカードを寺沢紘子の方へ投げて、「これが本気だと言うんじゃないだろうね?」
紘子はカードを一目見て、すぐに吹き出した。
「これですか!」
「これですか、じゃないよ。君が受け付けたんだろう? 困るじゃないか」
「あら所長さん、だってこの人本気なんですもの。私も一応|訊《き》いてみたんです。本当にこれでいいんですかって。――だって、何でも〈可〉ばっかりでしょ。これじゃ野郎[#「野郎」に傍点]なら|誰《だれ》だっていいみたいで――」
「何て言葉を使うんだね!」
深田は|眉《まゆ》をひそめた。紘子はペロッと舌を出して、
「すみません。――でも、ともかく確かめたんです。この人、本気です」
「条件が〈泳げない人〉で〈一緒に死んでくれる人〉……。確かなのかね?」
「ええ」
紘子はコックリ|肯《うなず》く。何もそんなに驚くほどのことでもないじゃないの、と言いたげな顔である。深田は首を振って、
「しかし……一体この女性にどんな男を引き合わせればいいんだね?」
「それなら決ってますわ」
「誰だ?」
「|松《まつ》|谷《たに》さんがいいじゃありませんか」
深田の顔に、なるほど、といった表情が広がった。当惑と腹立たしさを脱け出して、いささか面白がっている様子だ。
「彼か……。そいつは適切な考えだ」
「じゃ、私これで」
と出て行こうとする紘子を、
「寺沢君」
と深田が呼び止める。紘子がため息と共に振り返り、
「お断りします! 所長はいつでも妙な取り合わせの時には私を行かせるんですもの!」
「しかしこの――小野貴子という女性を受け付けたのは君なんだからね。結果をとくと見届けて来てくれたまえ」
紘子は少々ムクレながら肩をすくめて、
「分かりました。でも特別手当を付けて下さいね!」
「昼食一回だな」
「三回!」
「じゃ二回でどうだ?」
「――妥協しますわ」
紘子はそう言って勢いよく所長室を出て行った。
「ええと、こちらが松谷進さん。……で、こちらが小野貴子さんです」
「……どうも」
「よろしくお願いいたします」
紘子はホッと息をついた。実際、この引き合わせるタイミングほど難しいものはないのである。双方が相当に緊張しているのが普通だから、|却《かえ》ってあまりもったいぶってはいけないし、かといって、女性が化粧を直しに行く間も与えずに事務的に「はい、座って」とやるのもいい結果を生み出さない。――今日はまあ、なかなかいいムードじゃないかしら……。
寺沢紘子は二十三歳である。小柄でキュートな印象は、ちょっと一昔前の美人(?)。丸顔にクリッとした目。長い髪が無造作に後ろで束ねてある。深田栄一が所長をつとめる〈ブライダル・コンサルタント〉の唯一人の所員――所長秘書にして雑用係、お茶くみにして使い走り、というわけだ。短大を出て二年間、入る会社、入る会社が次々に倒産し、紘子はまるで自分が疫病神になったような気がして来た。今の職場へ勤めることにしたのも、何しろ自分以外は所長しかいないので、ここなら倒産しても被害者は一人だけで済む、と思ったからなのである。
しかし幸いにして、ほぼ一年になるというのに、まだ|潰《つぶ》れずに頑張っていた。
「ええと、お二人ともお互いの略歴などは一応ご承知だと思いますので、後はゆっくりお話をしていただいて――」
「いや、僕はとてもあなたのご希望の条件に興味を持ったんですよ」
松谷進がズバリと言い出した。こちらはあまりアガッてはいない。それも当然で、紘子の知っている限りでも、これが四回目の見合いなのである、|真《ま》|面《じ》|目《め》なふり[#「ふり」に傍点]をしている冷やかし組の一人で、深田はもう頭へ来て、登録から彼を外すと言ってきかなかったのだが、紘子が登録料はキチンと払っているのだから、と思いとどまらせていたのだった、――今年二十九歳になるちょっと二枚目の遊び人[#「遊び人」に傍点]。どうにも手に負えない会社社長のドラ息子の口である。
「いや、実にユニークだ。〈私と一緒に生きてくれる人〉なら当り前だけれど、〈一緒に死んでくれる人〉とはね! 僕は大変感心しましたね」
松谷が調子に乗ってしゃべるのを聞き流しながら、紘子は問題の女性、小野貴子をそっと観察した。――どうしてこの|女《ひと》が結婚相談所を訪れなければならなかったのか、紘子はいささか理解に苦しんだ。
二十七歳といっても、顔立ちの若々しさは二十三、四歳と言って通用するほどだし、チャーミングな大きい|瞳《ひとみ》、バランスの取れた体つきは、あらゆる男性とはいかないまでも、適齢期の独身男性を通りすがりに振り向かせるに充分な魅力を具えている。――ただ、紘子の見るところでは、化粧っ気の薄いわりには、着ているオレンジ色のワンピースはやや派手すぎる嫌いがある。実際、十代の少女でも着られそうな|可愛《かわい》いデザインなのだ。
「――あの」
小野貴子は、やや|苛《いら》|々《いら》した様子で、松谷の長広舌を|遮《さえぎ》った。「お話はよろしいんです。私の希望をよくご理解いただいたのかどうかだけ、うかがいたいんですけど」
「ええ、そりゃもう、充分に」
「じゃ、ご承知の上でここへいらしたんですね?」
「もちろんです」
松谷は女性の言葉を決して否定しない男なのである。
「それじゃ」
小野貴子は席を立つと、「ぐずぐずしていることはありませんわ。行きましょう」
「え?」
と松谷がキョトンとした顔で見上げる。
「早く二人きりになれる所に行きましょう」
「はあ……」
さしもの松谷が、完全に呑まれた格好だ。紘子の方もすっかり面食らっていた。この人、どういうつもりなのかしら? 見かけによらず、本当におかしいのかな? 二人きりになれる所といっても、まさかホテルのベッドに直行しようというわけではあるまい。――そう言えば、ここはホテルだったっけ。
二人は手を取り合って、というよりは小野貴子が松谷を引っ張るようにして、ホテルのコーヒー・ラウンジから足早に出て行ってしまった。
「どうなっちゃってんの?」
伝票と共に残された紘子は|呟《つぶや》いた。仕方なく支払いを済ませ、領収書を受け取る。もし男性側がコーヒー代を引き受けるというのなら、それに甘えるべしというのが所長の方針なのである。金回りのいい松谷だから、その点だけは安心していたのに……。
ラウンジを出た紘子は、二人がどこへ行ったのかと、あたりを見回したが、もうどこにも姿はない。まあ、二人が出かけてしまえば、もう紘子の関知するところではないのだが……。紘子は通りかかったボーイに、それらしい男女を見なかったかと訊いてみた。
「ああ、そのお二人でしたら、あちらの方へ……」
そのあちらの方[#「あちらの方」に傍点]へと歩いて行くと、紘子は中庭に面したガラス扉の所へ出た。中庭というのは、プールと、ちょっとした芝生で、夏は結構|賑《にぎ》わうのだが、今はもう晩秋、当然閉鎖されていて、人影も――。
「あら!」
プールの縁に立っているのは、あの二人ではないか。確かにここなら二人きりになれるには違いないが、何とも寒々として、話が|弾《はず》みそうもない。それにあんなに縁に寄って、落っこちたらどうするんだろう。まだ水が入ったままなのだ。
「変人と変人の組み合わせか」
と、紘子が肩をすくめて引き返そうとした時だった。
小野貴子と松谷が、水しぶきを上げてプールへ飛び込んだのである。
「ど、どうしてくれるんだよ!」
松谷が寒さに真っ青になり、歯をガチガチいわせながら文句を言った。|濡《ぬ》れねずみが毛布にくるまって震えているのだから、あまり威厳のある図とは言えない。
紘子は肩をすくめて答えなかった。
「せ、責任を取ってもらおうじゃないか!……ハクション!……あ、あんな、き、きちがい女を世話したのは、き、君の所なんだからな!……ハクション!」
「残念ですけど、松谷さん」
紘子が冷ややかに言った。「当方としては、お二人をお引き合わせするまでが仕事でして、それ以後のことについては、責任を負いかねます」
「何だと! そんな勝手な……ハクション!……いいか、|俺《おれ》はあの女にプールへ、つ、つき落とされたんだぞ!」
「一緒に飛び込んだように見えましたよ」
「あ、あいつが手を握ったまま飛び込んだんだ! お、俺は……ハクション!」
「だとしても当方では――」
「背広代ぐらいは、べ、弁償すべきだ!」
ホテルの従業員休憩室である。紘子がちょうど通りかかったボーイへ急報して、二人は引っ張り上げられたのだが、当然のことながらずぶ濡れで、小野貴子の方は今、別室で新しい服に着替えているところだ。その代金は、と言えば――深田所長が聞いたら目を回すだろうが――紘子が立て替えて、後で事務所の経費からもらうつもりだった。
「一体、何があったんですか?」
と紘子は訊いた。
「知るもんか! 何も言わないであそこまで連れて行って……『さあ、一緒に死にましょう!』って飛び込んじまったのさ」
なるほどね。〈一緒に死んでくれる〉〈泳げない人……〉
「でも松谷さん、あなた、あの人の出した条件を承知した[#「承知した」に傍点]っておっしゃいましたよ。だからあの人はそれを実行しただけじゃありませんか。あなたが苦情を言う筋合じゃないでしょ」
「そ――そんな――ハクション!」
そこへドアが開いて、小野貴子が入って来た。青ざめてはいるが、もう、しゃんとしている。服の方は極力安い物を|揃《そろ》えたので、別人の如く地味で野暮ったいが、やむを得ない。
「あの、小野さん、大丈夫ですか?」
紘子の言葉にコックリ肯く。
「服のお代は後で必ずお送りします」
「いえ……それは、まあ……」
小野貴子はキッと松谷をにらんで、
「あなたは|嘘《うそ》つきです!」
「な、何だと!」
「一緒に死ぬと承知したのに、いざとなると――」
「当り前じゃないか! 見も知らねえ女と心中なんかできるかよ!」
「だったら最初から私と見合いなんかしなければいいんです!」
小野貴子はピシリと決めておいて、紘子の方へ、「お手数かけました」
「いいえ、お役に立てませんで……」
あまりこの場にそぐわないセリフだとは思ったが、他に言いようもない。
「失礼します」
と小野貴子は紘子へ一礼した。
「あの、小野さん、濡れたお服はどうします?」
と紘子が訊くと、
「適当に処分なさって下さい」
とあっさり言って、ハンドバッグを手に――ハンドバッグは、飛び込む前にプールの傍へ放り出されていたので無事だったのだ――部屋を出ようとしたが、出口でもう一度松谷をにらみつけて、
「それに、あなた、泳げるじゃありませんか!」
そう言い捨てて、ドアを閉めた。紘子は、閉まったドアと、ポカンと開きっ放しの松谷の口を交互に眺めるうちに無性に笑い出したくなってしまった。
「笑い事じゃないぞ!」
深田は|怒《ど》|鳴《な》った。
「すみません」
「全く……。あんな妙な客を受け付けるからいかんのだ!」
「でも松谷さんは、これできっと脱退しますわ、自分から」
が、深田の関心は、|専《もっぱ》ら金銭の面に向けられているようだった。
「これ以上あの女がウンともスンとも言って来なかったらどうするんだ? 洋服代として君が立て替えた分はウチの経費とは認めんぞ! 君の給料から差し引く」
「所長、そんな――」
「君は事前に僕の判断を求めなかった」
「そんなこと言って! じゃ所長はあの人をずぶ濡れのままか裸で帰せばよかったとおっしゃるんですか?」
「通行人は喜んだろう」
深田は澄まして言った。「ま、何とか彼女から取り立てるんだな」
このケチンボ! 紘子は所長室を出てから、ドアへ向って思い切り舌を出してやった。
「あの……」
背中で声がして、紘子は|弾《はじ》かれたように振り返った。
「は、はい!」
受付のカウンターに、三十代半ばぐらいのサラリーマン風の男が立っていた。「――いらっしゃいませ」
紘子はいそいそと席に着いた。
「あの、このカードにご記入いただきたいんです。できるだけ詳しくお願いします。これは当方で保管するカードですので、見合いの相手の方の目には触れません。ですから、正直に、ありのまま[#「ありのまま」に傍点]をお書きになって下さい」
「あの……」
「カードと登録料をいただきますと、私どもの方で適当と思われる男性――あら、失礼、女性をご紹介します。その際に紹介料を別に申し受けます。料金はこちらの表にありますように――」
「ちょ、ちょっと待って下さい」
と男が遮った。「そうじゃないんですよ」
深田は、今年三十九歳になる子連れの未亡人のカードを眺めていた。やれやれ、最近は後家さんも変ったもんだ。子連れの再婚と言えば、まず生活の安定した中年男を望んだものだが、この未亡人など、〈できるだけ若い男性的な人〉で、〈精力|旺《おう》|盛《せい》な人〉と来た! 欲求不満の後家さんでは、よほどの男でないと骨までしゃぶられそうだ。
それはそうと。寺沢紘子も最近は大分女らしくなって来たな、と深田は横道にそれて考えた。つい顔を見るとからかってやりたくなる。――あのすねて唇の端をキュッとねじ曲げた顔が何とも言えないな。恋人はいるんだろうか? いや、電話のかかって来る様子もないし、特別親しい男はいないんだろう。最近の若者は、職場を神聖だなどと思っちゃいないから、社の電話で平然と「当り前よ、ウフフ……」なんてやっている。寺沢紘子みたいな|娘《こ》は、きっと男との関係もサバサバしてるんだろう。ああいう女の子と浮気できたら楽しいだろうな。しかし、そうなると事務所に二人きりというのはまずい。
「所長さん、書類ができました」
「ああ、そこへ置いて」
「それじゃ失礼します」
「ああ、寺沢君」
「はい? 何でしょうか?」
「ちょっと、こっちへおいで」
「はい……。あ、所長さん、いけません!」
「いいじゃないの……ほら……」
「でも……今、勤務時間中ですわ……」
「それなら業務命令だよ」
「所長さんたら……」
てな具合になりかねない。――深田が一人ニヤニヤしていると、ドアが開いて、
「所長、お客様です」
と紘子が顔を出した。地味なスーツの男がおずおずと入ってくる。
「さ、どうぞ」
と紘子が男に|椅《い》|子《す》をすすめると、「所長、こちらは小野貴子さんのご主人[#「ご主人」に傍点]です」
「すると奥さんは今までにも何度か自殺未遂を?」
深田が訊いた。
「はい……。三度やりました」
小野|明《あき》|雄《お》と名乗ったその男は、沈んだ口調で言った。
「一体どうして――」
「分かりません。神経の病気だと思うのですが、医者では異常なしと言われるんです」
「いつも誰かと一緒に死のうとなさるんですか?」
「いえ、それは今度が初めてです」
「なぜ今度に限って……」
「さあ……。相手の方は何という方ですか?」
深田が松谷のことを簡単に説明したが、小野は全く心当りがない、と首を振った。
「ともかく本当にご迷惑をかけました。いや、何しろ家内がまるで違う服を着て帰って来ましたものですから、びっくりして問いただすと、やっと事情を話しまして……。ああ、そうだ、忘れるところでした。家内に服を買って下さったのは――」
「私です」
紘子が慌てて言った。
「どうも申し訳ありませんでした……」
小野は言われた代金を払った。紘子もホテルから持って帰った貴子の服を小野へ渡して、
「この服、奥様にお返し下さい」
「分かりました」
「奥様にはちょっと派手すぎるようですわね」
小野は|曖《あい》|昧《まい》に笑って肯いた。
「やけに子供じみたところがありましてね、うちの家内は。いやどうもお世話になりました」
小野明雄が帰って行くと、深田は大きく息をついた。
「やれやれ、これで一つ厄介事が片付いたな」
「ええ……」
「何だ、えらく心配そうだな。ちゃんと金はもらったじゃないか」
紘子は深田をにらんで、
「所長ったら、私が高利貸か何かみたいなことおっしゃって」
「そうじゃないよ。でも、何か気になるのか?」
「何だかすっきりしないんです。どうして小野貴子さんは……」
「そんなこと、分かりきっとるじゃないか! あの亭主はまだまだ人生経験が足らんよ」
紘子はキョトンとして深田を眺めた。珍しい動物でも見るような目つきだ。
「自殺未遂なんてのはな、そう何度もくり返すものじゃない。本気で死のうとして、やり損なった人間は二度とやろうとはしないものさ。三度も四度も未遂をやるというのは、死ぬ気がないんだ。狂言[#「狂言」に傍点]なんだよ。亭主にかまってもらえない、自分が無視されてるような気がする――。女の手なんだ。よくある話さ」
深田はしたり顔でそう言って肯いた。
「ええ……まあ……」
紘子は考え込みながら、「それぐらいは私にも分かるんですけど……」
「じゃ何だって言うんだ?」
とたんに不機嫌になって深田が顔をしかめた。せっかくいいところを見せてやったのに!
「どうして今度に限って誰かを道連れにしようと思ったんでしょう?」
紘子は深田のデスクにひょいと腰を降ろして、「しかも泳げない人を。彼女自身は泳げる[#「泳げる」に傍点]んです。カードにあったでしょう? そしてホテルのプールに飛び込んだ……。これも妙ですよね。ホテルのプールで|溺《おぼ》れ死ぬなんてこと、考えられますか? これじゃ誰だって、彼女が本気で死のうと思ってないと分かりますよ。それじゃご主人に対する脅しにもならないんじゃありませんか。少しでも本当に心配させようと思うなら、一人で川にでも飛び込めばいいんです。人目のある所なら必ず助けが来るでしょうから、それまで適当に浮いたり沈んだりしてればいいんですもの」
「それはそうだが……」
「彼女が泳げない見合い相手と一緒にホテルのプールへ飛び込んだのは、何か他の理由[#「他の理由」に傍点]があったんじゃないでしょうか?」
「他の理由って何だ?」
「分かりません」
と紘子は肩をすくめた。
「ちょっとイカレてるのさ」
深田はあっさり片付けた。「それは我々の知ったことじゃないよ」
「ええ……」
紘子は、服の代金として受け取った金を何気なく数えてみて、
「あら!」
と声を上げた。
「どうした? 足らないのか?」
「一万円札が一枚多いんです」
「そいつは結構じゃないか! なに、手数をかけたからって、お礼のつもりなのさ」
「そうでしょうか……」
「そうとも、決ってるよ」
と深田は断を下した。「雑収入にしておきたまえ」
五時に仕事が終るということは、|即《すなわ》ち四時四十五分で仕事を終えていいという意味なのだと、紘子は自己流に解釈していた。
「だって、所長」
と、見とがめた深田に、紘子は言ったものだ。「仕事の片付けに七分はかかりますし、所長と私の湯呑み茶碗を洗うのに四分、トイレに……」
分かった、分かった、と深田は降伏して、それ以来何も言わなくなった。実際のところは、四時五十分からの十分間、すっかり身仕度も終えて、週刊誌を読むのが紘子の日課だったのだが……。
「あと三分か」
と、時計を見上げた時、ドアが開いた。
「やあ!」
「あら!」
紘子は目を丸くした。入って来たのは、何と松谷進だったのだ。もちろん新しい背広に着替えて、もう濡れねずみから、いつものしゃれ者に戻っていた。
「お風邪の方はいかがですか?」
と紘子が|馬《ば》|鹿《か》ていねいに訊くと、松谷は愉快そうに声を上げて笑った。
「おかげさまでね、たった三時間で全快したよ」
「それはおめでとうございます」
「ちょっとお願いがあって来たんだけどね」
「濡れた背広の弁償の件でしたら、所長と直接お話し下さい。たぶんお支払いできないとは思いますけど」
「ああ――いや、そんなことどうだっていいんだ。背広の一着や二着、どうってことないよ」
と松谷がえらくご機嫌なので、紘子は少々妙な気分だった。
「じゃ、何のご用ですか?」
「彼女[#「彼女」に傍点]に会いたい」
と松谷は言った。
「――誰ですって?」
紘子が思わず訊き返す。
「彼女さ。僕と共に洗礼を受けた聖なる乙女だ。小野貴子さんにね、すぐ会いたい」
「会って――どうなさるんです?」
「結婚を申し込むのさ」
紘子は耳を疑った。
「また悪い冗談ですか?」
「とんでもない! 僕らは見合いしたんだぜ。僕は彼女が気に入った。だから結婚したいんだ! そうなるように君らは苦労してるんだろ?」
「え、ええ……。そりゃそうですけど……」
「じゃ彼女の家かアパートの場所を教えてくれよ。電話でもいい」
「でも……それは……」
「いいじゃないか、何をためらってるんだい? そりゃ一度は頭へ来て怒鳴ったりしたけどさ、落ち着いてみるともう彼女のことが忘れられないんだ。そうさ、|惚《ほ》れちまったんだよ!」
どうなっちゃってるの? 紘子は困ってしまった。
「あの……申し訳ありませんが、彼女の方で交際を望んでいない場合はお教えできませんので……」
「なあに、そんな気持、五分で変えてみせるよ。さ、早く教えてよ!」
「それが……実は、彼女にはもうご主人がいらしたんです」
松谷の顔から徐々にご機嫌な笑いが消えて行って、やがて|囁《ささや》くような声が出て来た。
「――何だって?」
「彼女は人妻だったんです」
紘子は、小野明雄の話をくり返した。松谷は本当にショックを受けたようだった。しおれ切って、何だか紘子としても悪い事をしているような後ろめたい思いにさせられてしまう。
「こんな訳ですので……」
「嘘だ……嘘だ……」
と松谷はうわ言のようにくり返した。「そんな……そんなはずはない!」
「お気の毒ですけど――」
突然、松谷はカウンターをドンと手で|叩《たた》いて、
「嘘だ!」
と大声を上げた。紘子は椅子から数センチ飛び上った。
「嘘だ!」
松谷はくり返した。「あんな服[#「あんな服」に傍点]を着てたのに――。そんなはずはない!」
そして、入って来た時の倍の勢いで出て行ってしまった。
「何だね、一体?」
大声を聞きつけて深田が出て来た。「今のは例の松谷じゃないか」
だが、紘子は別のことを考えていた。
「あの人、私の気になってることを言ったわ……」
「フム? 足が太い、とでも言ったのかね?」
深田は紘子の視線から急いで目をそらして、
「――ち、違ったかな」
「服のことです」
「何だね?」
「小野貴子さんが、なぜあんな派手な服を着ていたのかって、私、ずっと気になってたんです」
と紘子は言った。「あの人には似合わないんです」
「フム、なるほど」
まるで分かってないのに分かったような顔で肯くと、深田は一つ|咳《せき》|払《ばら》いをして、「ええ……寺沢君」
「はい?」
「もう五時を回ってるよ」
「あら、いけない!」
紘子はびっくりして立ち上った。今の騒ぎでうっかり忘れていたのだ。「じゃ、お先に失礼します」
「あ、君ね、寺沢君」
「何か?」
「実はね……今、家へ電話をしたら、女房の|奴《やつ》、高等学校の同窓会とかで遅くなるらしくてね。外で夕食を取って帰らにゃならんのだが……どうかね、もし予定がなければ一緒に……」
「あら……所長が私とですか?」
「まずいかね? いや、他に約束があるのなら構わんが」
「そんなものありませんけど……。あ、分かった!」
「な、何だね?」
「さっき小野さんにいただいた一万円に目を付けたんでしょ?」
深田は憤然として、
「何を言うか! ちゃんと僕がおごる!」
「そうですか。――じゃ、お言葉に甘えて」
「よし。それじゃ戸締りをして帰ろうか」
と所長室へ戻りかけて、ふと振り向き、
「おい、さっきの一万円は雑収入じゃないのか?」
紘子は、しまった、口がすべったと思ったが、そんな様子はおくびにも出さず、
「現金を金庫へしまってから思い出したもんですから、明日処理しようと思ってたんです」
と澄まして言った。
中華じゃなあ……。
特大のシューマイをパクついている紘子を眺めながら、深田はため息をついた。――浮気するにも、中華料理を食べた後では、ちょっと色々|匂《にお》いが気になりそうだ。どうもこの|娘《こ》の方は、その気はなさそうだな……。
深田は四十二歳である。三十七歳の妻、二人の子供――上はもう小学校六年生、下は二年生だ。どちらも男の子。もう家へ帰っても、子供の相手をして遊ぶ元気はない。
妻の志津子に対して、別に不満があるわけではないのだ。それは自分でも承知していた。まあ強いて言えば、PTAの役員、町会の委員などを片っ端から引き受けて、人気タレント並みの忙しさ、おかげで妻自身の手料理が週に二回ぐらいしか食べられないことだろうか。
せっせと食事に忙しい紘子を見ながら、俺は|冴《さ》えない中年男なんだぞ、と深田は自分自身に呟いた。年齢からいって当然足は短く、腹はたるみ気味、髪は必死の手入れも空しく、年々頭の頂上へ向って後退しつつある。こんな若くて魅力的な女の子が、どうして俺の浮気の相手なんかしようと思うだろうか。身の程を知れ!
「――ああ、お|腹《なか》一杯になっちゃった!」
紘子は息をついて、「ごちそうさまでした、所長」
「なに、たまにはいいかと思ってね。いつも君には苦労をかけてるから」
「あら、珍しいセリフ!」
「冷やかすなよ」
「すみません!」
紘子はクスッと笑って、肩をすくめた。
「君はアパートから通ってるんだったね」
「はい」
「帰りの時間はうるさいの?」
「いいえ」
「そうか。――それじゃ、どうだね、僕のよく行くバーがある。一杯飲んで行かないか?」
「あら、いいんですか?」
「ああ、ボトルを置いてある」
「わっ、それじゃ――おともします」
こいつは、少しは希望が出て来たかな? 深田は内心ニヤリとした。酔った紘子が、彼の肩にもたれて来る。
「所長さん……」
「ん?」
「今夜は帰りたくないわ……」
「いいのかい?」
「ウン、いいの。私のこと好き?」
「ああ……好きだよ」
「私も……所長さんのこと……ずっと好きだったの……」
紘子は顔をもたげて、「キスして……」
深田の腕の中で若々しい体が息づく。長い長いキスが終ると、
「ああ、所長さん……私、もうどうなってもいいわ!……みんな所長さんにあげる!」
と抱きついて来る。タクシーは、とあるホテルへと二人を運び、ダブルベッドに横たわった彼女を、固く固く抱き締めて……。
「所長、大丈夫ですか?」
「ん? 何だ?」
「眠らないで下さい!」
「ウーン。……ここは?」
「タクシーの中ですよ」
「何だ、やっぱりホテルに行くことになったのか?」
「何言ってるんですか! バーですっかり酔っちゃって。半分眠ってるのを、やっとこタクシーに乗せたんですよ」
そうか。深田はモーローとした頭で考えた。彼女はベラ棒に強かった。で、結局彼の方が完全にダウン。――ホテルどころの話じゃない。
「夢は夢か……」
「何ですか?」
「いや、何でもない」
深田はタクシーの窓の外を見て、「見たような所だな」
「事務所のそばです」
「ん? もう出勤の時間か?」
「違います、私、自分の家の|鍵《かぎ》を忘れて来ちゃったらしいんです。このままじゃ帰っても家の中へ入れませんから、鍵を取りに戻って来たんです。――あ、そこで停めて下さい。所長さん、事務所の鍵ちょっと貸して下さい。このまま待ってて下さいね」
紘子はタクシーを降りると事務所のある貸しビルに入って、エレベーターで上って行った。
「やれやれ」
どこで鍵を失くしたか、はっきりは|憶《おぼ》えていなかったが、ここ以外に思い当る所もない。
「どうか事務所にありますように……」
事務所の鍵を開け、中へ入って明りをつけた紘子は、その場に立ちすくんでしまった。事務所の中は、まるでここだけ台風が直撃したようで、キャビネの書類、登録カードなどが全部引っ張り出され、床に、デスクに散乱している。
「どうなっちゃったの?」
中へ踏み入ろうとして、紘子はギクリとして足を止めた。床に一人の男が倒れていた。上等なスーツ、皮肉っぽい二枚目の顔。
倒れていたのは松谷進だった。
「ああ、|痛《いて》え、畜生……」
紘子が濡れたタオルを松谷の頭へのせてやりながら、
「大丈夫。まだ頭はちゃんと一つにつながってますよ」
と冷たく言い放った。
「きっとひび[#「ひび」に傍点]が入ってるんだ」
「そんなことより、ここで一体何をやってたんですか?」
「おい……僕は被害者なんだぞ! そんな訊き方ってあるか!」
「あら、失礼。でも、あなたがここにいたのは、どうも正当な理由がおありのようには思えませんけど」
「……分かったよ」
松谷は情ない顔で痛みをこらえながら、「僕は彼女――小野貴子の住所が知りたかったのさ。だからカードを捜そうと思って……」
「じゃ、あのカードボックスを荒らしたのは、あなたなんですね!」
「君が教えてくれないからだぞ」
「住居不法侵入、窃盗未遂、器物破損、これで五、六年は刑務所入りね」
「おい!」
松谷が青くなって、「冗談だろう? 僕はここのお得意なんだぞ!」
「盗みに入るお得意なんてあるもんですか」
紘子はいったん待たせておいてタクシーへ戻って、眠りこけていた深田を引っぱって来た。まだ足取りがややおぼつかない。
「ウム……。どうなってるんだ?」
「しっかりして下さいよ、所長」
紘子は深田をにらみつけた。「警察を呼びますか?」
「警察?――いや、そいつはまずい!」
深田は急にハッと目を見開いて、「ウチの評判に傷がつく!」
「そ、そうだとも」
すかさず松谷が口を出した。「な、このまま穏やかに済ませてくれたら、この相談所へ五十万寄付する!」
「五十万!」
深田は完全に酔いがさめた。「寺沢君! 松谷さんにお茶を|淹《い》れて差し上げなさい!」
「冗談じゃありませんよ!」
紘子はムクレて、「大体、あなたがなぜここでのびてたかって説明はまだ伺ってません」
「やられたんだよ。後ろからゴツンとね」
「誰に?」
「後ろからって言ったろう。分かりっこないじゃないか。カードをせっせと捜してたらいきなりさ」
「じゃ、他にも誰かがここに入り込んだんだわ。でも、一体どうして……。一晩に二人も空巣が入るなんて変だわ」
「僕は空巣じゃない!」
「似たようなもんじゃないですか」
そう言って、ふと紘子は荒らされ放題のままの部屋を見回した。「――松谷さん、あなた、なぜカードボックス以外[#「以外」に傍点]のロッカーや引出しまで引っかき回したんです?」
「僕が? 知るもんか。僕はカードボックス以外は手を触れなかったよ」
「それじゃ……もう一人の空巣が他のところを荒らしたんだわ! 所長、金庫は?」
「ン? 金庫がどうした?」
深田はポカンと突っ立っている。
「じれったいなあ! お金はやられてませんかって言うんですよ」
「か、金!――大変だ!」
深田はアワを食って所長室へ飛び込んで行った。
所長室も、デスクの引出しやら、傍のキャビネットの中身が景気よく床にぶちまけられて、何だか縁日の叩き売りといった雰囲気だ。金庫は、いささか芝居じみたやり方の好きな深田の発案で、壁に掛けたルノアールの複製画の額縁を扉のように開くと現れるように作ってある。深田は恐る恐る金庫の|把《とっ》|手《て》を引いた。
「開いてる! ああ、やられたんだ! どうしよう」
と中を|覗《のぞ》き込んで、「いや……しかし、手提げ金庫は残っとるぞ。……中身もそのままだ」
「金庫を開けておいて、金も持って行かないなんて……。この泥棒、一体何を捜しに来たのかしら?」
紘子は考え込んだ。
「じゃ、おやすみ」
タクシーを降りると、深田はちょっと手を上げて見せ、自宅の玄関へいそいそと消えて行った。きっと今頃は奥さんが|角《つの》を生やし、赤鬼みたいな顔でお待ちかねだろう。紘子は座席に座り直して、
「このまま真直ぐやって下さい」
と運転手に言った。本来なら深田がちゃんと紘子を送り届けなければならないところだが、ちょうど深田の家が途中でもあり、紘子にしても、これ以上深田の帰宅が遅れて、明日一日傷だらけの所長の顔を見ているのは気分のいいものではない。――大体、あの所長におごってもらったのが間違いよ。おごって、といえば……。
「あ!」
思わず紘子は声を上げた。このタクシー代[#「タクシー代」に傍点]、所長払わなかった!
「あの、すみません」
「は?」
「近くの駅で停めてくれませんか?」
――結局、駅へ出る道は車が通れないということで、仕方なく紘子はタクシーを降りた。
「明日、ちゃんと所長に払ってもらわなくちゃ!」
何千円かを払って、ブツブツ言いながら、紘子は近くの駅へ抜ける細い道を歩いて行った。もう十二時近いが、終電には間に合うはずだ。寒さが身にしみて思わず身震いする。――ケチしないでタクシーに乗っときゃよかったな。でも次の給料まで、まだ大分あるし……。
薄暗い、小さな公園の中を通り抜けようとした時、紘子は突然、背後に迫る足音に気付いた。ハッと振り向くと、黒いコートに身を包み、黒いソフトを目深にかぶった男が立っていた。大きなマスクをしている上に、サングラスをかけているので、まるで顔が分からない。
「何か用?」
「静かにしろ!」
マスクの下からくぐもった声がして、男の右手に何やら黒光りする物が……。ピストル[#「ピストル」に傍点]だ!紘子はゴクリと|唾《つば》をのんだ。
「静かにしていれば殺しはしない」
押し殺した低い声で言うと、
「その茂みの奥へ入れ」
と紘子を促した。――世間の水準から言ってかなり度胸はいいつもりの紘子だが、さすがに背筋がゾクゾクして、鼓動が早まるのが分かった。どうすればいいだろう? 大声を上げるか、いきなり相手の向うずねを|蹴《け》っとばしてやるか……。しかし、いくら紘子が機敏だからといって、ピストルの弾丸と競走するのはちょっと気が進まない。――けれど、本物のピストルなんて滅多にないものだ。
「妙な気を起こすなよ。それにこいつはモデル・ガンじゃないぜ。試してみてもいいが、後悔するまで生きちゃいまい」
すっかり紘子の考えはお見通しだ。紘子は言われる通りにする他はないと|諦《あきら》めた。男は落ち着き払って、少しもおどおどしたところがないのだ。どうやら本物のピストルらしい……。
「お金なら、このバッグの中に――」
「茂みの奥へ行くんだ」
「分かったわよ」
仕方なく砂利道の傍の茂みと木立の間へ入って行く。殺すつもりだろうか? しかし、いくら何でもここで撃てば音で近所の誰かが……気付かないだろうな、と紘子はため息をつく。きっと車のバックファイヤぐらいとしか思っちゃくれまい。そして明日になって死体が発見されると、|嬉《き》|々《き》として警官へ、
「銃声らしいものを聞きましたわ!」
なんて、善良な市民ぶって見せるのだ。
男は紘子の後ろにピッタリくっついて茂みの奥へ入って来ると、
「こっちを向け」
と言って、二、三歩後ろへ|退《さ》がった。
「どうしようってのよ?」
内心は、〈美人薄命、私もこれまでかしら……〉なんてビクビクしているのに、無理して強がって見せる。
「バッグをよこせ」
「だからさっきから言ってるじゃないの」
とふてくされてバッグを放り投げる。男は巧みに左手で受け取ると、
「よし」
とひとつ息をつき、「――さあ、服を全部脱いでもらおうか」
深田は風呂を出て、やっと落ち着くと、今度は無性に腹が空いて来た。妻にあれこれと弁解し、なだめすかして、やっと先に寝かせたところである。
「やれやれ、高くついたよ、今夜の一杯は」
今度の日曜日に洋服を買わされるはめになったが、まあヒステリーを起こされるよりはましだ。何しろ手入れの行き届いた|爪《つめ》で顔を引っかかれるんだから|敵《かな》わない。
「きっとあいつは猫の生れ変りなんだ……」
深田は湯を沸かし、冷やご飯をお茶漬にしてかっこみ始めた。もう一時か。明日出勤が|辛《つら》いな。
「――そうか」
事務所があの様子じゃ、明日一日は片付けるだけで終るだろう。どうせ休業だ。それなら何も早く行くこたあない、九時に電話して彼女に……。
「ん?」
深田ははし[#「はし」に傍点]を止めた。何かトントンと叩くような音がしたのだ。が、見回してみても、音源らしきものは見当らない。
「――気のせいかな」
と再びはしを動かし始めると――トントン。ダイニングから続いているリビングルームの方で音がする。明りがついてるのに泥棒でもあるまいとは思ったが、何しろ事務所を荒らされたばかりである。いささか緊張してテーブルを離れ、リビングへ足を踏み入れた。
――トントン。
リビングから庭へ降りるガラス戸だ。誰かが外から叩いている!
「だ、誰だ?」
我ながら情ないほど、声が震えている。恐る恐るカーテンの端をからげて外を覗いたが……。
「暗くって何も見えやしない……」
仕方なくロックを|外《はず》してガラス戸を細く開けてみた。
「所長!」
「え?」
仰天して深田は庭を見回した。今の声は……寺沢紘子だ!
「ど、どこだ?」
カーテンとガラス戸を広く開けると、室内の明りが庭へ落ちて、わずかばかりの|灌《かん》|木《ぼく》の茂みから、紘子が頭だけ出しているのが見えた。
「何してるんだ?」
|呆《あき》れて訊くと、
「所長! 中に入れて下さい!」
「し、しかし……」
「そこをどいて!」
深田は訳の分からぬままに身を傍へ寄せた。とたんに茂みのざわめく音がして、タッタッと足音が聞こえたと思うと、紘子が飛び込んで来た。
「おい――」
深田は絶句した。馬がタップを踏みながら入って来てもこれほど驚きはしないに違いない。紘子は一糸まとわぬ裸だったのだ。
「何か、着る物、下さい!」
「え?」
「着る物です! 何でもいいから! こっちを見ないで! 早く、着る物を!」
紘子は手で裸身の二箇所を隠しながら――大体こういう時に女性が隠す所は決っていて、それは鼻でもヘソでもない――|切《せっ》|羽《ぱ》つまった口調で言った。
「あ、ああ――着る物。――ええと――」
「ガウンでもゆかたでも、何でもいいんです! 早くして!」
ジェームズ・ボンドと違って、こんな事態に不慣れな深田は|茫《ぼう》|然《ぜん》自失の態で突っ立っている。そこへ、
「あなた……」
と階段の方から声がした。深田は飛び上って、
「女房だ! おい、早く、隠れてくれ!」
「だって、どこに?」
「そ、そこのドアを出ると風呂場だ。そこへ。さ、早く!」
危機一髪、紘子が裸のままでドアから消えると同時に、志津子が顔を出した。
「あなた、何してるの?」
「ん? いや、ちょっと外の空気を……」
「寒いじゃありませんか! 風邪ひくわよ」
「う、うん」
深田は|慌《あわ》ててガラス戸とカーテンを閉めた。
「何だか声がしたようだったけど」
「声?――ああ、テレビさ。深夜映画を見てたんだ」
「そうなの。でも早く寝ないと……」
「ああ、すぐ寝るよ」
「じゃ。……使ったお茶碗は水につけといてね」
「分かってるよ」
深田はホッと胸を|撫《な》でおろした。――風呂場から派手な水音が聞こえたのはその時である。
「あら! お風呂場だわ」
止める間もない。深田は慌てて志津子を追ったが、追いついた時、すでに風呂場の扉が開け放たれていた。湯舟から、足を滑らせた紘子が顔を出して、
「あ、あの――お邪魔してます」
と、愛想よく|微笑《ほほえ》んだ。「ちょっと、その……銭湯と間違えまして……」
「やれやれ……」
紘子はやっと体を起こして、一息ついた。もう十二時か。お昼にしなきゃね。床一面にぶちまけられていた登録カードを、汚れたものは書き直して、五十音順に並べ直すのは、並大抵の手間ではなかった。
紘子は所長室のドアを開けて、
「所長、お昼、どうしますか?」
「うん……。何か出前、取ってくれ」
「はい。――あの、まだ痛みます?」
深田は黙って、|頬《ほお》の傷テープに触れた。右の頬と首筋に傷テープ、額にバンソウコウ、左手の甲に赤チン……。紘子もさすがに気がひけて、愛想よく、
「あの……ラーメンですか、カツ|丼《どん》ですか?」
「ラーメン」
「はい。――ね、所長」
「何だ?」
「お宅のお風呂、立派ですね」
「早く注文しろ!」
――紘子と深田は所長室で黙々とラーメンをすすった。
「しかし、本当に[#「本当に」に傍点]大丈夫だったのか?」
「何がですか?」
「つまり――その――裸にされて、何も[#「何も」に傍点]されなかったのかね?」
「ええ、そうなんです。私もてっきり……これで私も|無《む》|垢《く》な体じゃなくなるんだわ、と覚悟したんですけど……」
「未経験だって? まさか――」
「何かご不審の点でも?」
と紘子が歯をむき出して、つかみかかりそうに身構える。
「いや、取り消す! 取り消すよ!」
深田は慌てて手を振った。これ以上傷がふえたら、表を歩けなくなる。
「――でも本当に妙な泥棒、下着まで持って行くなんて!」
「そういう趣味の奴じゃないのか?」
「たかが下着ドロがピストルまで持ち出しますかあ?」
「それもそうだな」
「ただ、ちょっと思ったんですけど……」
「何だね?」
「ここを荒らした犯人と同じ人物じゃないかって。だって、偶然にしちゃ妙でしょう? あの男、この事務所で何か[#「何か」に傍点]を捜してたんだわ。目当ての物が見つからなくて、今度は私を……」
「裸にしたのか? どうして?」
「分かりません」
紘子は肩をすくめた。
「――しかし、警察に届けなくていいのかい? 事務所荒らしにピストルの追いはぎだぞ」
「どこか妙なんですよ。金庫を開けて金も持って行かない。かと思うと、下着まで一つ残らず持って行く……。どっちも不自然だわ。これは警察で扱えるような平凡な事件じゃありませんよ」
「まあ、君に任せるよ」
ラーメンを食べ終えると、息をついて、「ただ今度は服の替えを持って歩くようにしてくれんかね。また裸で飛び込んで来られちゃたまらん」
そこへ受付の方から、
「おーい」
と声がした。紘子が出てみると、松谷である。すっかり元気を取り戻している様子だ。
「あら、今日は何の用ですか」
「頭の傷の具合を訊いてくれないのかい?」
「もうすっかり良さそうですね」
「冷たいなあ。ゆうべひっくり返したカード、元通りにするの、手伝おうと思って来たのに」
「ご親切に。でも結構ですわ。カードは部外秘ですから。あら、この包みは?」
紘子はカウンターの隅に、大きな紙包みを見つけた。「松谷さんが?」
「いいや、僕が来た時は置いてあったよ」
「何かしら?」
かさばる割には重くない。紘子は十文字にかけてあった紙ひもを手早くハサミで切ると、ゴワゴワした包装紙を広げた。
「――まあ!」
紘子は|呆《ぼう》|然《ぜん》として眺めていた。自分の服、バッグ、靴……。昨日|盗《と》られた物全部だ!
一つ一つ確かめて見た。どれも傷一つ付いていない。バッグの中身も、財布を始め、全く無事だった。
「どうなってるの!」
紘子は首を振った。下着もちゃんと入っていた。
「――へえ、そりゃまた変った話だね」
事の次第を聞いて、松谷が言った。「しかし残念だったなあ、君のヌードが見られたのに」
「冗談じゃないですよ。――こっちは殺されるかと思ったんだから」
「しかし、こうやって、ちゃんと返して来るなんて、なかなか紳士的じゃないか」
「分からないわ。一体どういうつもりなのかしら?」
「きっと開店早々のクリーニング屋で、客を集めてるんだよ」
紘子は松谷をにらみつけてやった。
「それじゃ昨日は何を着て家へ帰ったんだい?」
と松谷は一向に平気な顔で訊いた。
「所長の奥さんの服をお借りして」
「へえ。それじゃさぞかし地味なおばさん[#「おばさん」に傍点]になっちまったろうね」
「いいえ! それが、どの服も派手なの。私でもちょっと気恥ずかしくなるくらい」
そう言って、紘子はふっと考え込んだ。
「そうだわ。もしかすると……」
「どうしたんだい?」
「松谷さん! まだ彼女[#「彼女」に傍点]に会いたいですか?」
「ああ、もちろんさ!」
「じゃ、行きましょう」
「どこへ?」
「お見合いしたホテルです!」
「本当に彼女、現れるのかい?」
ホテルのロビーの少し引っ込んだ場所で、出入りする人間を監視しながら、松谷が言った。
「たぶんね。まだ彼女があれ[#「あれ」に傍点]を取りに来てなければ、ですけど」
「あれ[#「あれ」に傍点]って、何だい?」
「大体、気が付いてもよかったんだわ」
紘子は松谷の問いに答えず、ひとり言のように言った。「小野貴子が、まるで似合わない派手な服を着てたことに……」
「僕は気が付いたぜ」
「私だって気が付きました。でもその理由[#「理由」に傍点]までは考えてもみなかったんです。それに加えて、〈一緒に死んでくれる人〉っていう条件の見合い……」
松谷は肩をすくめて、
「僕にゃさっぱり分からないね」
「簡単ですよ。彼女が死ぬ気でなかったのははっきりしてます。ホテルのプールで飛び込み自殺する人なんていませんもの。そうなると他に飛び込む理由があったわけです」
「見当もつかないな。何だい?」
「単純な理由だと思いますわ。服を着替えるため[#「服を着替えるため」に傍点]です」
松谷は言葉を失って目をパチクリさせた。
「もし彼女が、何かの理由で常に監視され、尾行されているとしたらどうです?」
紘子は言った。「尾行している人間の眼をごまかすには、まず服装を変えるのが一番ですわ。わざと派手な服でこのホテルへ入り、地味な服で出て行く。髪型も、濡れて全く変ってしまうし、尾行しているのが男性だったら、まず同じ女性だとは思わないでしょう」
「それだけのためにあんな|真《ま》|似《ね》をしたっていうのかい?」
「きっと尾行に気付いて困り果てている時に、事務所の前を通りかかったんだと思います。それでふっと思い付いたんでしょう。とっても独創的な頭の持主だわ」
「気違いじみてる!」
「あら、どうして!」
「だってそうだろう。着替えるだけなら、どうしてそんな手間かけるんだ? 着替えを持って出て、デパートのトイレででも替えれば済むじゃないか」
紘子は|蔑《さげす》むような目つきになって、
「着替えがハンドバッグに入りますか? 靴だって替えようとなれば、どうしたって大きな紙包みになるでしょ。そんな物を抱えてたら尾行してる方だって気が付きますよ。――いいですか、ああいう方法を取ったことで、まず着替えを持ち歩かずにすむし、新しい服を自分で買い歩かなくていいし、脱いだ服をこっちへ預けておける。巧い手じゃありませんか」
松谷は首を振って、
「君の想像力も大したもんだね。で、君の名推理によると、彼女は何のためにここへ現れるんだね?」
「それはですね――」
と言いかけて紘子は、ホテルの玄関へ目をやった。
「ご覧なさい」
間違いなく小野貴子だった。昨日の、派手で野暮ったい服装とは打って変って、モダンなパンタロンスーツ。それがちゃんときまっているのは、もともと|洒《しゃ》|落《れ》たセンスの持ち主なのだろう。
「イカスね!」
松谷がため息をついた。「また惚れ直したぞ」
「後をつけてみましょ」
紘子は立ち上ると、松谷を促して歩き出したが、
「あら!」
と声を上げた。
「どうしたんだい?」
「今、入って来た男の人……ほら彼女の後をついて行くでしょう」
「誰なんだ?」
「彼女のご主人[#「ご主人」に傍点]ですわ」
小野明雄は|脇《わき》|目《め》もふらずに、小野貴子の後を追って行った。彼女の方は全く気付いていない様子だ。紘子と松谷が、またその後をつけて行く。
「あれが亭主だって?」
「自称[#「自称」に傍点]、ね」
松谷は紘子の顔を見て、
「何だって? すると――」
「しっ! もうすぐ分かりますよ」
「あれ、こっちを行くと、確か昨日の――」
「ええ、彼女が服を着替えた従業員休憩室の方ですね」
細い廊下をくねくねと|辿《たど》って行った紘子たちは、ある曲り角で、はっと足を止めた。小野明雄が、休憩室のドアの傍に身を潜めているのが目に入ったのだ。慌てて身をひいて隠れる。
「見られたかな?」
と松谷が囁き声で言うと、
「大丈夫。気が付いてません」
と肯いて見せ、そっと覗き込んだ。
休憩室のドアが開いて、小野貴子が出て来ると、待ち構えていた男が目の前に立ちはだかる。彼女がはっと息を|呑《の》んだ。
「あなたは……」
「ここにあったのか。さあ、それを早く渡してもらおう」
事務所へ来た時とは打って変った、ガラの悪い声だ。あら、と紘子は眉を寄せた。あの声は……。
「いやです!」
「何だと?」
「私……私にはできません! これは会社へ返します」
男はせせら笑って、
「馬鹿な奴だ。今さら返したってな、お前が盗んだことはばれずに済まないぞ」
「分かってますわ」
「それなら――」
「いいえ!」
小野貴子は激しく首を振った。「同僚たちを裏切ることはできません! 私はクビになったっていいんです。でもあなたには渡しません」
「何を子供じみたことを言ってるんだ。さあ、早くよこせ!」
「いやです!」
「力ずくでももらって行くぜ」
紘子は呟いた。
「やっぱりそうだわ」
「何が?」
「あの男です、昨日、私の服を盗んだ奴!」
「クリーニング屋じゃないようだな……」
「見て!」
男がピストルを取り出した。
「さあ、渡せ。けがをしたくなかったらな」
「撃てるもんですか! こんなホテルの中で!」
小野貴子も負けずに男をじっとにらみ返している。松谷が感心した様子で、
「いや、大した女性だなあ。うん、僕が惚れただけのことはある!」
「何を感心してるんですか、男でしょ。何とかしたら?」
「よし!」
いきなり松谷がずかずかと出て行ったので、男の方は一瞬|呆《あっ》|気《け》に取られて棒立ちになった。小野貴子が目を丸くする。
「あなたは――」
「もう大丈夫だよ」
とニヤリとするが早いか、松谷の右の|拳《こぶし》が男の|顎《あご》へ飛んだ。ガツンと鈍い音がして、男はアッサリ床へ大の字にのびてしまった。
「――一体何だったんだい?」
と松谷が訊いた。「君が盗んだ物って……」
「ここじゃちょっと……」
と小野貴子は顔を赤らめて周囲を見回した。
――三人はホテルを出て、松谷のなじみのスナックに入っていた。
「大丈夫ですよ、他にお客さんはいませんもの」
小野貴子は、まだしばらくもじもじしてから、やっと思い切ったようにバッグを開けた。
「これなんですの」
と、取り出したのは――まだ真新しいブラジャーだった。
「私、A――社の新製品開発グループのデザイナーなんです」
と小野貴子は、有名な女性下着メーカーの名を挙げた。「あの男は|土《つち》|田《だ》といって、いわゆる一匹〈お〉|狼《おかみ》の産業スパイで、企業の秘密を盗んでは他の企業へ売りつけていたんです。そうとも知らずに私は……映画館で席が隣り合って、たまたま同郷の人間だという彼の話にすっかり心を許したばっかりに、ずるずると……。そして彼は私に社の新製品の試作品を持ち出して来いと言ったんです。私もその時には土田の正体に気付いていました。でも、どうしても拒み切れなくて……」
「分かりますよ」
と紘子が励ますように肯く。
「で、とうとう私、これを持ち出してしまいました。ところが、社の方でもすぐに盗まれたことに気付いて、グループの中で盗み出す可能性のあった三人のメンバーに監視をつけたんです。それで持ち出しはしたものの、土田に渡すことができなくて……」
「それでウチの事務所へ――」
「ええ、たまたま前を通りかかって、とっさに思いついたんです」
小野貴子の説明が紘子の推察通りだったので、松谷は紘子の顔をまじまじと眺めた。
「――で、あなたはきっと濡れた服を事務所へお持ちになると思ったんです、それを土田が夫だと名乗って取りに行く。そういう手はずにしたんです」
「ところが、いざとなると、あなたにはできなかった」
「はい。一緒に苦労して来た同僚たちのことを思うと、とても……。それで濡れた服を着替えた時に、あの部屋のロッカーと壁の|隙《すき》|間《ま》へこれを隠しておいたんです」
「あの男は事務所から持って行った濡れた服の中に目当てのものがなかったので、事務所を荒らしたんですね」
「まあ! 本当ですか? 何も知らなくて、私――」
「いいんですよ」
紘子はちょっと松谷の方を見て、「ちょっと痛い目にあった人もいますけどね」
「なあに、さっきお返しさせてもらったよ。それより君をストリップさせたのも、それを捜してのことなんだな?」
「最初は小野さんが裏切ったとは思わなかったんでしょう。だから事務所を捜して、それでも見つからないものだから、私が持って行ったのかと……。でも結局それも違うと知って、小野さんの後をつけたんですよ」
「私のせいでずいぶんご迷惑をかけたんですね」
と小野貴子が申し訳なさそうに顔を伏せた。
「どういたしまして。私は風邪一つひかなかったから。むしろ被害者は所長の方ですわ。ま、そんなことより、これからどうなさるの?」
「辞表を書いて来たんです。これと一緒に今から会社へ持って行きますわ」
「残念ねえ……。何とかこっそり返せないんですか?」
「無理ですわ。なくなった時に隅から隅まで捜したんですもの。今さら返したって――」
「分かりゃしないよ!」
と松谷が言った。「そうだ、さっきみたいにロッカーと壁の間へでも放り込んでさ、後は知らん顔してりゃいいんだ」
「だめです。だって今でもずっと私、見張られてるんですもの。こっそり返すなんて、とっても……」
「今でも?」
「ええ。表にいるはずですわ。見えなくても必ず」
「そうか……」
「それじゃ、見張りの目をごまかしゃいいのよ」
と紘子が何かを思いついた様子で言った。
「松谷さん、近くでサングラスを二つ買って来て下さい」
「どうするんだい?」
「いいから早く!――ただし、お金は自分持ちですよ」
「おい、どうして――」
「小野さんのこと好きなんでしょう? それぐらいの出費が何ですか!」
「まさか……」
小野貴子が、じっと松谷を見つめた。「冗談でしょう?」
「冗談なもんか!」
松谷はちょっと気まりが悪そうに、しかし真面目くさった顔で言った。「僕は君が好きなんだ!」
「でも……私、あなたを水へ落としたり……」
「ちょっとひと泳ぎしたいと思ってたんだ」
「松谷さん……」
「進さん、って呼んでくれないかい?」
「進さん」
「僕と結婚してくれる? いや、仕事は好きなら続けたっていいんだよ」
「|嬉《うれ》しいわ、私!」
「じゃ、いいんだね?」
「ええ」
「よしきた!」
松谷は席から飛び上がると、「サングラスだって? 一ダースでも二ダースでも買って来るぞ!」
「二つでいいんです。――さ、小野さん、今のうちに――」
「どうするんですか?」
「ヘアブラシかクシはお持ち?」
「ええ……」
「髪型を私と同じようにするの。さあ!」
紘子は楽しそうに微笑んだ。
十分後、三人はスナックを出た。小野貴子と紘子は二人ともサングラスをかけている。タクシーを停めると、小野貴子が一人で乗って行き、紘子と松谷はブラブラと歩き出した。五、六分歩いて橋へやって来ると、二人はゆったり欄干にもたれて一休みした。
紘子が川面に見入るようにしながら、バッグに手を入れ小さな紙包みを取り出す……。
突然、大きな手が|有《う》|無《む》を言わせぬ力で紘子の腕をつかんだ。どこから出て来たのか、今まで全く目に入らなかった大柄ないかつい男が目の前に立っている。
「何するのよ!」
「だまそうたって、そうはいかねえぞ」
男はニヤリとして、「昨日はまんまとごまかされたが、二度は[#「二度は」に傍点]引っかからねえ。小野貴子だな? 服を着替えて入れかわったのは分かってるんだ!」
男が彼女のサングラスを取った。――紘子は男をにらみつけて、
「私が誰ですって?」
男の顎がガクンと下がった。
「――しまった!」
「この包みがほしかったらあげるわよ」
紘子は包みを開いた。「そんなにお腹がすいてるの?」
中身はサンドイッチだった。
「――それで巧くそのブラジャーを返せたのかね?」
深田は紘子の説明を聞き終えると、ゆっくりタバコをふかしながら言った。
「ええ。今日は休暇だったんですけど、忘れ物を取りに来たと言って巧くごまかして、何とかそれらしい場所へ落としておいたそうですわ。見つかってやれやれってことになるでしょう」
「そうか。例のホテルでのして来た男はどうしたんだ?」
「|拳銃《けんじゅう》不法所持で捕まりましたわ。ここを荒らされた件は言いませんでした。そう簡単に泥棒に入られるなんて思われたら、信用を失くしますものね」
「君もなかなかいい所員になったね」
と深田が相好を崩す。
「あら、だって潰れたらお給料いただけませんもの」
「ん……。ま、そりゃそうだ」
深田は一つ咳払いして、「しかし、君は分かってたのかね、その……小野貴子が何を[#「何を」に傍点]隠したのかを」
「だってこの事務所へ持って帰って来た時に彼女の服を一応見ましたもの。ただその時に、あれって思っただけですけど。あの人、ノーブラで歩くようには見えないなって。それで私が奥さんの服をお借りしたでしょ。その時に思ったんですの。あの人も別人のように見せるために、初め、わざと似合わない、派手な服を着てたんじゃないかって」
「まあ、ともかく」
と深田は満足げに言った。「これで一組成立したわけだな」
「ええ。成立料が入りますね」
「しかし、俺は日曜日に家内に服を買ってやらなきゃならん。あまりいい稼ぎにはならないよ」
「いいじゃないですか、たまには奥様孝行も」
「そうだ。君が身ぐるみはがれた件は警察に言わなかったのか?」
「とんでもない!」
と紘子は慌てて首を振る。
「どうして?」
「だって、そんなことが知れたら大変ですもの。何も[#「何も」に傍点]なかったって言っても、誰も信じちゃくれませんよ」
「うむ……。それもそうだな」
「嫁入り前の身で、あらぬ|噂《うわさ》を立てられちゃ困りますもの」
「|殊勝《しゅしょう》なこと言うじゃないか。――ま、ここに勤めていれば、そのうちいい相手が見つかること間違いなしだ」
「あら、私ここで捜す気はありませんわ」
「どうして? 見合いはいやか? 松谷たちみたいな例もあるぞ」
「ええ。そりゃ分かってますけど……」
紘子は椅子から立ち上って言った。「ここはあんまり当て[#「当て」に傍点]になりませんもの。捜すにしても、|他《よ》|所《そ》にしますわ」
深田はポカンとして、部屋を出て行く紘子の後ろ姿を見送っていたが、やがて、
「恩知らずめ!」
と閉まったドアに向って怒鳴った。
純潔志願
「例えば、だ。オリンピックのマラソンで優勝したいが、走るのは疲れるからいやだ。――こう言う|奴《やつ》がいたらどうだ?」
|深《ふか》|田《だ》|栄《えい》|一《いち》は言葉を切った。机の前に立っている|寺《てら》|沢《さわ》|紘《ひろ》|子《こ》はただ黙って|曖《あい》|昧《まい》に首をかしげた。深田は続けて、
「超高層ビルの展望台から下界を眺めてみたいが、エレベーターには乗りたくない。こんな言い草はまともか?」
「でも、その場合は階段という手があります」
「五十階も階段を上るのか!」
「丸一日かければ上れますよ」
「できるもんか!――いや、そんな話をしとるんじゃないぞ、今は」
「所長がおっしゃったんですよ」
「そ、それはだな、つまり――適切な表現を探し求めてのことだ」
「あんまり遠回しにおっしゃると、ますます分からなくなりますけど」
「つ、つまりだな――こういうのは困るんだ!」
深田は一枚の登録カードを紘子の方へ滑らせた。
「ああ、なんだ、これですか」
一目見て紘子が|肯《うなず》く。
「一体どういうつもりだ、その女は? 結婚相談所へ登録したからには、〈結婚したがってる女〉なんだろ?」
「それは確かですわ」
「し、しかし、その条件は何だ? 〈一切の肉体的接触をお断りします〉てのは」
「あら、簡単じゃありませんか。要するにセックス抜きでね、ってことですわ」
深田はドギマギして、
「君! 結婚前の娘が、そんな――」
「まあ、赤くなって。所長も見かけによらずうぶなんですね」
紘子が吹き出したくなるのを必死でこらえる。「かわゆーい!」
「馬鹿! ともかく、これは困る!」
深田は所長としての威厳を保つべく、何とかしかめっ|面《つら》をこしらえた。ただ一人の所員に尊敬されなかったら、一体上司たる意味はどこにあるのか、と|日《ひ》|頃《ごろ》から思いつめているのである。
「でも、所長――」
「デモもストもあるか! 結婚の目的の一つはだな、子孫を残すことにある! そのためにこそ神聖な夫婦の営みは――」
「仕方ないんですよ、この人の場合は」
「――どうしてだ?」
「お会いになれば分かりますわ。今日、おみえになる事になってます」
「今日来る? 何でそれを言わんのだ!」
「所長が一人で|怒《ど》|鳴《な》ってらっしゃるんですもの」
深田は|憮《ぶ》|然《ぜん》として腕組みをすると、
「何時に来るんだ?」
「十時ってお話でしたから……あら、誰か来たわ」
紘子は受付の方で、
「すみません……」
と声のするのを聞いて、
「きっとこの人ですわ」
と所長室から急いで出て行った。
深田はいささかはげ上った頭をハンカチで|拭《ぬぐ》った。全く、今の若い娘たちと話をするとこっちの方が恥ずかしくなって汗をかいちまう。――まあ、どやしつけはするものの、それでも寺沢紘子はまともな娘の部類に入るだろう。結構よく働くし、器量もよい。深田としては、個人的に、もっと密接な仲になりたい気分なのだが、それには彼女、いささか、鼻っ柱が強すぎるのである。
「さて、仕事、仕事」
深田はさっきからモメているカードを取り上げた。〈|江《え》|上《がみ》|恒《つね》|子《こ》・二十四歳〉――まあ、セックスを手軽に考える風潮の昨今では、そういう女性は|稀《きし》|少《よう》価値かもしれない。しかし、この結婚相談所がいかに在庫[#「在庫」に傍点]豊富でも、この条件でOKする男性が見つかるとは思えないが……。
「所長」
ドアが開いて、紘子が顔を出した。「江上恒子さんがおみえですが」
「ああ。お通ししてくれ」
と深田は答えて、上衣のボタンをはめ、ネクタイのゆがみを直す。こういうことを言ってくる女性は、きっと修身の教師みたいにカタブツであろう。
――〈修身〉とは古いね。
「どうぞ」
紘子が軽く会釈して、二人の客が入って来た。客を迎えるべく立ち上った深田の|顎《あご》がガクンと落ちた。床まで落ちるかと思ったほどの落ちっぷりだった。深田の|瞼《まぶた》は、モータードライブをつけたカメラのシャッターのごとく、一秒にほぼ二・五回の割合で開閉をくり返し、それが約七秒間続いた。従ってその間に一七・五回、|瞬《まばた》きをくり返した計算である。もっとも、深田がドサッと椅子に腰を落としたのは、それで疲れたせいではなかった。あまりに意外な客に|呆《あっ》|気《け》にとられたせいなのである。
二人の女性は――修道女[#「修道女」に傍点]だった。
「至って簡単なことです」
〈院長〉が言った。「ここにいるマリアをしかるべき適当な男性と結婚させてほしいのです」
「マリアというと……」
「私の洗礼名です」
江上恒子が言った。
「はあ」
「で、またすぐに離婚[#「離婚」に傍点]させてほしいのです」
と院長は続けて言った。
「――何ですって?」
「マリアはまだ見習ですが、行く行くは神にお仕えする身ですから」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ!」
と叫ぶように言って、深田は二人の女性をじっくりと眺めた。これが幻で、じっと見つめているうちに消えてしまうのではないか、と期待しているかのような|眼《まな》|差《ざ》しだった。
ここにも色々変った客が来る事はある。ホモの男が夫[#「夫」に傍点]を捜してくれと依頼して来たこともあるし、八歳の女の子が百円玉一つ握って、|旦《だん》|那《な》様を一人ちょうだいと買いに[#「買いに」に傍点]来たこともあった。しかし尼さんが来たのは初めてだ!
同じ修道女といっても、一人はもう六十歳近い婦人で、〈院長〉ともう一人が呼んでいるところからみても、相当に偉いのだろう。小柄ながら、至って顔の色つやもよく、カクシャクとしている。――問題の江上恒子は、ちょっとノッポでヒョロリとした若々しい女性で、顔立ちもやや面長ながら、なかなか悪くない。修道女見習とでもいうのか、院長のようにベールと修道服という完全な尼僧のいでたちではなく、ベールはかぶっているが黒っぽいワンピース姿である。
「いいですか」
深田はため息をついて、「ここは結婚相談所です。結婚相手を探してほしいというご希望なら、喜んでお力になります。しかし――結婚して、すぐ離婚したい、というのは、一体どういうことです?」
「院長様、少し事情をご説明しないと……」
「そうですねえ。じゃ、あなたが」
「はい」
江上恒子は深田の方へ向くと、「実は、私の叔父はいくつか山を持っていまして、数年前に亡くなった時、ただ一人の血縁だった私にそれを|遺《のこ》したのです」
「相当の財産で?」
「売れば数億円になるだろうと弁護士の方はおっしゃっています」
「はあ……」
深田はこういう話を聞くと、世の中の不公平を思ってとたんに不機嫌になる。
「でも相続するには条件がありまして、一つは私が二十五歳になるまで待つこと。――あと一週間で、私は二十五です。もう一つは、その時に私が結婚していること、というのです」
「ははあ」
深田は、やっと少し分かりかけて来た。
「その条件を満たしていないと、山は地元の町へ寄付されてしまうのです」
「それで結婚相手を探してくれ、と……」
「はい、でも私はごらんの通り、修道女として一生を送るつもりでおります。ですから、相続の手続きが終ったら、すぐ離婚していただきたいわけですの」
「あの――これは余計な心配かもしれませんが、あなたは修道院に入られるんでしょう? そんな財産を相続してどうするんです?」
「修道院へ寄付いたします」
「な、何億円を全部ですか?」
深田は目をむいた。まるで目の前にいるのが宇宙人か何かみたいな目つきだ。
「修道院は大分|傷《いた》みが来ておりまして……」
と院長が言った。「それで建て直すことができます」
深田は二つ三つ|咳《せき》|払《ばら》いして、
「しかしですね、結婚してすぐ離婚するなどという相手を探すというのは、そう簡単なことではありませんし、ここの基本方針にももとるわけで……」
「ここで無理なら他を当りますわ」
院長はさっさと立ち上って、「さ、マリア、まいりましょう」
「待って下さい!――分かりました、お探ししますよ」
客を逃したくない、という欲が勝った。
「では至急にお願いしますよ。一週間後には結婚していなければならないんですからね」
「二、三日内に何とかしましょう」
「明日までにお願いします」
「それは無理です!」
「料金は倍お払いします」
「はあ。――分かりました」
「では、お願いしましたよ」
と立ち上りかけた二人へ、|傍《そば》で話を聞いていた紘子が、
「あの、ちょっと――」
と声をかけた。「気になることがございまして」
「何でしょうか、お嬢さん?」
「結婚して、離婚されるわけですわね。でもカトリックは離婚を禁じられているのではありません?」
「その通りです。まあ、頭のいい方ね!」
と院長はオーバーに感心してみせる。「でも問題はありませんことよ」
「そうですか?」
「結婚とか離婚とかいっても、書類の上だけのことですわ。主のみ前で誓いを立てるわけではありませんもの。結婚とは認めません、従って離婚もないわけです」
「そんなもんでしょうか」
「主のみ心です。――では」
二人の修道女が所長室を出て行くのをポカンとして見送っていた深田は、やがてフウッと息をついて、
「狂ってる! 何億円だぞ! それを寄付するだって?――この相談所へも少し寄付してくれんかな」
「何言ってるんですか。でもあの院長さん、何となく面白い人ですね」
「フン、要するに金を巻き上げようてんじゃないか。なかなかガメツイ、抜け目のない婆さんだよ」
と言ったとたん、ドアが開いて、またあの院長が顔を出した。深田は慌てて立ち上ると、
「な、何かお忘れ物で?」
「申し忘れましたが、マリアの結婚はあくまで書類の上だけですからね。妻にしたからといって、肉の交りを持とうなどと|不《ふ》|埒《らち》な考えを抱くような男は避けて下さいよ!」
「はあ」
「では明日、ご連絡します。主のおはからいで、きっと適当な男性が見つかるでしょう」
――深田は顔の汗を拭って、
「やれやれ、今度は帰ったかな。――しかし参ったね。こんなのに当てはまる男がいるか?尼さんが結婚するなんて話、初めて聞いたぞ」
「見習だからでしょ。それに修道女っていうのは、みんなキリストの花嫁ってことなんですよ」
「ふん、一夫多妻か。さぞ疲れるだろうな」
そう言ってから、深田は急に心配顔になった。
「おい、大丈夫だろうな?」
「何がですか?」
「キリストから重婚罪で訴えられないだろうな?」
「久しぶりだなあ!」
懐しい顔が喫茶店へ入って来る。紘子はちょっと手を上げた。
「ハイ。元気そうね」
「とんでもない。君に振られてからは、生けるしかばね[#「しかばね」に傍点]なんだぜ」
「二年間も? じゃとっくに白骨になってるわよ」
「キツイこと言うなあ」
|冬《ふゆ》|木《き》|利《とし》|春《はる》は苦笑して、「でもまた会えて嬉しいよ」
「お仕事はどう?」
「まだ使い走りだからね」
冬木は紘子より一つ年上の二十四歳。紘子とは高校が一緒で、かなり親しい仲だったのだが、短大を出た紘子に冬木が結婚を申し込み、世の中へ出てみたかった紘子はそれを断った。
――それ以来、二年ぶりの再会だ。
冬木は中規模な商事会社に勤めるサラリーマンだ。まるで制服のようなグレーのスーツに身を包んだ彼を見て、紘子は何とはなしに寂しい思いをした。学生だった頃の、若々しさ、熱っぽさが、その姿からは感じられない。仕方のないことだけれど……。
「で、一体どうしたんだい?」
「ウン……。ちょっと言いにくいんだけど」
「借金の申し込みなら無理だぜ、こっちが頼みたいぐらいだ」
「失礼ねえ!――ね、冬木さん、あなたちょっと結婚してみない?」
冬木が目を丸くした。
「――と、まあこういうわけなのよ」
紘子は事情を説明し終えて、「で、あなたは一人で東京へ出て来てて、ご両親に知られる心配もないし……」
「しかし、また変った話だねえ」
「ウーン、それで困っちゃってるのよ。いくら名目だけだって、離婚歴一回ってことになるでしょ。ふつうの登録会員には頼みにくくって……」
冬木は楽しそうに笑って、
「ハハ、いいとも君の頼みじゃ断れない」
「冬木さん、悪いわねえ!」
「その代わり――」
「え?」
「それが済んだら僕と結婚してくれる?」
「えっ! そ、それは……」
と詰まる。冬木はニヤリとして、
「冗談だよ。――さて、それじゃその尼さんに会わせてくれよ。我が妻にね」
紘子はホッと胸を|撫《な》でおろした。
「あと一週間ですなあ」
弁護士・|那《な》|倉《くら》|清《せい》|一《いち》の事務所で、|匂《にお》いのきつい葉巻を|喫《す》いながらそう言ったのは、見るからに酒好きな赤ら顔の男だった。――弁護士の方は、黙々と手元の書類を眺めている。秀才型、というのか、青白い顔に冷たい眼が計算高く、メガネのレンズ越しに、向い合った赤ら顔をチラリと盗み見た。
「先生、本当に大丈夫なんでしょうな」
と赤ら顔がせり出した腹を撫でながら言った。
「心配ないと申し上げたはずですがね」
と那倉は無愛想に言った。「あの娘は修道院に入ってるんです。今はアーメンに夢中で、自分の誕生日だって忘れているかもしれない。それに結婚しようにもできないんですからな」
「そりゃ分かってますが……。万一、気が変って修道院を出て来たら――」
「ちゃんと私立探偵を雇って監視させていますよ。今のところ、何の変ったことも報告されていません」
「何だ、そうですか」
赤ら顔の男は|安《あん》|堵《ど》の息をついて、「先生もお人が悪い。早くそれを教えて下さったらこんなに心配しませんのに」
「私は自分のやり方を人に|洩《も》らすのが嫌いでしてね。町長、あなたには特別教えてさし上げたのですよ」
「分かっとりますよ。必ず先生にはそれ相応のお礼をさせていただきます。――何しろ三億からの山ですからな。あれが町のものになれば――」
「あなたの|懐《ふところ》が潤う、というわけですな」
「そうすれば先生の懐も……」
町長、と呼ばれた赤ら顔の男はクックッとニワトリみたいな忍び笑いを洩らした。
その時、弁護士のデスクの電話が鳴った。
「失礼」
立って行って受話器を取った那倉は、じっと話に耳を傾けていたが、やがて静かな口調で、「――よし、分かった。場所と時間を確かめろ。――そうだ。何とか調べ出して連絡してくれ」
電話を終えた那倉は、赤ら顔の町長の方を向いた。
「ちょっと|厄《やっ》|介《かい》なことになりましたよ」
「何です?」
「あの娘、結婚相談所へ相手を探しに行ったらしい」
「そ、そいつは大変だ!」
町長の赤ら顔が一瞬青くなった。「ど、どうします? だから私は大丈夫かと――」
「騒ぎ立てても、問題は解決しませんよ」
那倉はいとも落ち着き払っている。
「しかし、何とか手を打たないと……」
「分かっています」
那倉はソファに腰をおろして、しばらく目を閉じた。まるで眠っているかに見えるのだが、その実、コンピューターのような、というよりむしろキャッシュ・レジスターのような頭脳はフル回転を続けているのだ。
町長の方はのんびり座っていられないらしく、その辺を|苛《いら》|々《いら》と歩き回っていた。
「――よろしい」
那倉は目を開いた。「要は二十五歳の誕生日まで、彼女に婚姻届を出させなければいいわけでしょう」
「しかし、そんな手がありますか?」
「ちょっと荒っぽい手も、この場合、やむを得ますまい」
「すると……」
「あなたの秘書に、熊みたいなのが一人おりましたな」
「ああ、|熊《くま》|谷《がい》ですか。融通のきかん石頭で」
「町を愛する気持は人一倍だとか、以前伺ったことがありますが」
「ええ、そりゃもう。町となら心中でも駆落ちでもするでしょう」
「力持ちでしたな」
「上にバカが付きます。しかし奴が何か……」
「そういう男こそ、今の我々には最も必要なのです」
那倉はそう言って、薄笑いを浮かべた……。
「フム……」
院長が肯いた。「――まあこれならいいでしょう。マリア、あなたはどうです?」
江上恒子は院長から渡された冬木利春の身上書にざっと目を通し、
「ええ、結構だと思いますわ」
「ちゃんと事情は説明してあります」
と紘子は言った。「|総《すべ》て|呑《の》み込んでいますからどうぞ心配なく」
「で、その方は何時にここへみえるのです?」
「はあ、二時、と言ってありますの。――もう来るはずです。時間は正確に守る人ですから」
いつも利用するホテルのコーヒー・ラウンジである。客の姿は少ないが、院長の修道服はやはり目立つ。ラウンジを出入りする客がみんなチラッと見て行くのだった。
江上恒子は一応見合いの席でもあるので、今日はベールもなく普通の紺のワンピースだけ。こうして眺めると、紘子はふと、どうしてこの人、修道院に入る気になったのかしら、と思うのだった。もちろん修道女が|誰《だれ》も彼も、人生で何かにつまずいた人ばかりとは限らないが、こんなに若く、美しい女性がこの厳しい道を選んだのには、やはり何か理由があったのではないだろうか……。
「寺沢さん、とおっしゃったかしら」
院長の声で紘子は我に返った。
「は、はい!」
「この冬木さんという人は、あなたの個人的なお知り合い?」
「え、ええ……まあ、ちょっとした友達みたいな……はあ」
ドギマギしてしどろもどろに答える。
「さっき、あなたが〈時間を守る人だ〉とおっしゃる言い方を聞いて、ちょっとそんな気がしましてね」
「はあ……」
「何か無理をなさってるのじゃないでしょうね?」
「――といいますと?」
「あなたとこの方の間が、この結婚と離婚のせいで、気まずくなるようなことがあっては申し訳ありませんからね」
「いいえ! そんな仲ではありませんの」
紘子は慌てて言った。
「あなたはとてもチャーミングなお嬢さんね」
院長は|微笑《ほほえ》んで、「でもちょっと我の強いところがあって……」
紘子は困ってラウンジの入口を見た。早く来ないかしら冬木さん。
「でも若い方はそれでいいのよ。人にもたれかかるのを|潔《いさぎよ》しとせずに、自分の力でぶつかって行く。――それでいいのですよ」
院長の言葉を聞きながら、紘子はちょっと奇妙な印象を受けた。紘子へ向って話しかけていながら、それが紘子以上に、江上恒子へ向って言われているような――理由もなく、直感的に紘子はそう感じたのである。
その時、ラウンジへ入って来る冬木が見えた。上等な紺のスーツに明るいえんじのネクタイ。キリッと引き締ったエリートという感じである。
紘子は冬木を院長と江上恒子に引き合わせた。冬木は恒子に軽く微笑みかけて、
「どうぞよろしく。――ほんの一時でもあなたの夫になれるのは光栄ですよ」
江上恒子はちょっと|頬《ほお》を赤らめて顔を伏せた。
「ではお二人でごゆっくり――」
と、いつもの癖で言いかけた紘子は言葉を切って三人の顔を見回し、「あの……どうなさいますか?」
「早いところ届を出した方がいいのならそうしましょうよ」
と冬木が言った。「しかし、あれは戸籍謄本とか何かがいるんだと思ったけど」
「あまり早くするのも問題です」
と院長が言った。「少なくともあと五日たたねばマリアは二十五歳にならないのです。その前日にでも届を出せば充分でしょう」
「マリア?」
冬木が面食らった様子で|訊《き》き返した。紘子が江上恒子の洗礼名だと説明すると、
「ああ、なるほど。――マリアさんですか。きれいな名だ。あなたにぴったりの洗礼名ですね」
冬木の口調は温かかった。紘子はチラリと彼の方を見やった。いやな予感がした。冬木はじっと江上恒子を見ている。その視線が、何となくただの優しさとは違う熱っぽさを帯びているように、紘子に思えたのだ。
冗談じゃないわよ! 本気で[#「本気で」に傍点]|惚《ほ》れないでよ、冬木さん!
「で、|巧《うま》く行ったのか?」
深田が訊いた。――が、紘子の方は上の空。心、ここにあらずといった風で、受付にポケッと座っている。
「おい、寺沢君!」
「はい!」
大声で呼ばれて紘子は飛び上った。
「何をボンヤリしとるんだ?」
「すみません。あの、お昼のラーメンですか?」
「何を言っとる。今四時だぞ。どうしたっていうんだ?」
「いえ、別に……」
「例の尼さんのお見合い、何か問題があったのか?」
「いいえ、全然ありません」
「それならいいが」
「なさすぎて困るんですよね……」
「何だ?」
「いいえ。――それから、手数料ですが」
「ちゃんと倍額払ってくれたろうな?」
「いえ、それが、規定の料金だけで――」
「あの婆さん、約束を破ったな!」
深田は額から湯気を立てんばかりに赤くなって、
「君はそれで黙って引きさがって来たのか!」
「だってあの院長さん、『このお金には神の祝福が与えられていますから、二倍三倍の価値があるのですよ』って言うんですもの、怒るわけにもいかないじゃないですか」
「畜生! 食えない婆さんだ。その金持ってって、これは神様の下さったお金ですって、二倍の値段の物を買ったら、たちまちとっつかまる」
深田は肩をすくめて、「ま、いい。今からご機嫌を取っときゃ、死んだ時、天国行きの電車に席を取ってくれるかもしれん」
「シルバーシートなら誰か譲ってくれますよ」
と紘子は調子に乗って、深田ににらまれた。
「あーあ」
五時。紘子は相談所を出た。|陽《ひ》は大分長くなったとはいえ、まだまだ寒さの盛り。この日はひときわ木枯しが身を切るようだ。
冬木さんたら、本当にあの|女《ひと》に惚れちゃったんだわ。こんなこと頼むんじゃなかった!
後悔しても手遅れだけど。――紘子にはよく分かる。冬木が今日、あの見習修道女を見ていた目つきは、かつて彼が紘子を見ていた目つきそのものなのだ。
|甚《はなは》だ勝手な言い草ではあったが、
「裏切り者!」
と紘子は|呟《つぶや》いた。酔っ払いたい気分だった。
「思い切り、ぶっ倒れるまで飲むんだ!」
とヤケ気味に足を早めて、行きつけのスナックへ向ったのだが……。
「――冬木さん!」
「君か!」
スナックの片隅に、先客があった。
「何してるの?」
「飲んでるのさ。昔よく君とここへ来たじゃないか」
「飲みたい気分なの?」
「うん。君は?」
「酔っ払いたかったの。――冬木さん、あの|女《ひと》を好きになったんでしょ?」
「キリストのフィアンセだぜ。太刀打ちできやしないよ」
「それで飲んでるのね」
「そうでもないさ」
「――ごめんなさいね。私が変なこと頼んだばっかりに」
「何だよ、君らしくないぜ。酔えば大声で笑い出すのが君の飲み方だろ」
「久しぶりに飲む?」
「ああ、どっちが先に|潰《つぶ》れるか、競争だ!」
冬木と紘子は笑顔を見交わした。
二人がスナックを出たのは九時過ぎ。歩いているというより、よろめいている、といった方が近い状態であった。
「だ、大丈夫か?」
「平気よ、これしき。ヒック――まだまだ飲めるぞ! ヒック」
二人してよっかかり合っているので、辛うじて倒れずにすんでいるのだが、進む方向は子供のいたずら描きの線みたいに定まらず、めちゃくちゃ、回り回って、最初のスナックの前に出て来て、
「何だ、ちっとも進まねえぞ」
「大体、どこにヒック――行くのよ?」
「さて、それを決めてなかったぞ!」
二人は大笑いした。そしてまたフラフラと肩を組んで歩き始めたが、
「ん? おい、ここは行き止りだ」
「どうして? そんな――ヒック――馬鹿なこと」
「壁があるぜ」
壁――ではなかった。大きな男が、二人の目の前に立ちはだかっていたのだ。大きな、といっても、背はそうあるわけではない、だが、その幅たるや、正に壁といってもそう間違いではないという気になるほどだ。
「何だ、おい。壁君よ、ちょっとどいてくれよ」
と冬木が押しのけようとしたが、相手はびくともしない。逆に大男のグローブみたいな手が冬木の顔を覆ったかと思うと、冬木の体は突き飛ばされて、数メートルも後方へふっ飛んだ。
「冬木さん!」
駆け寄ろうとして、紘子は急に足が地面から離れるのを感じた。大男の腕にかかえ上げられているのだ。
「何すんのよ! 離して! 離して!」
と騒いで手足をバタつかせるが、まるで|応《こた》える様子もない。――大男は近くに停めてあったライトバンまで、軽々と紘子を運んで行くと、座席にドサッと投げ出した。
「何なのよ、一体!」
「静かにしてな」
大男はぶっきら棒に言った。「腕一本へし折るぜ」
紘子はゴクリと|唾《つば》を呑み込んだ。確かにこの男なら、それぐらいのこと、片手でやりかねない、と思った。
「私をどうする気?」
「おとなしくしてりゃどうもしねえ」
大男はライトバンをゆっくり走らせ始めた。こんな重そうな荷物[#「荷物」に傍点]を乗せて車がよく動くもんだと紘子には不思議に思えた。
「私を誘拐するの?」
「いいや」
「だって――」
「さらうだけだ」
「同じじゃないの!」
紘子は相手がからかっているのかと思った。
「私をさらっても、誰も身代金なんて払っちゃくれないわよ」
「しばらくじっとしててくれりゃ、それでいい」
「どういうことなの? あんた誰?」
「愛町者だ」
「アイチョウシャ?」
「町を心から愛してるんだ。そのためなら命も惜しかねえ!」
紘子はすっかり酔いもさめてしまって、〈愛町者〉とか名乗る大男の真意をはかりかねていた。町を愛する?――町内会の新手の勧誘かしら? それにしちゃちょっと芝居がかってるわ。
「ねえ、もう一つ訊いていい?」
「そしたら黙るか?」
「ええ」
「じゃ訊けよ」
「私を誰だか知ってて誘拐――いえ、さらったのね?」
「当り前だ。あんたは江上恒子[#「江上恒子」に傍点]。でっけえ山を持ってる娘だ」
紘子はゆっくりシートにもたれた。江上恒子と間違えているのだ。さて、どうしたらいいだろう? 違ってるわよ、と言ったところで信じるかどうか……。それに違うと知って、無事に帰してくれるとも限らない。
紘子は差し当っては、相手に誤解させたままにしておこうと決心した。向うが紘子を江上恒子だと思っている間は、本物は安全なのだ。
それにしても、数億円の山の相続。これがスンナリ行く方がどうかしている。財産をめぐって、恒子自身も知らない様々な思惑があるのに違いない。
「これも仕事のうちか……」
と紘子は呟いた。「誘拐されている間は超過勤務になるかしら……」
「何です、これは?」
深田は手にした手紙を読むと、目の前に座っている院長の顔を見た。「脅迫状じゃありませんか!」
手紙は|金釘流《かなくぎりゅう》の字で一字一字書かれたもので、文面は、〈江上恒子はしばらく預った。傷つけたり殺したりはしない。ただし警察へ届けた場合、恒子の命は保証しない〉とあった。
「こ、これは大変じゃありませんか!」
深田はやっと興奮して来て、「すぐに警察へ届けなくては。しかし――そうか、届ければ人質が危ない。これは難しい問題ですぞ」
「どうも妙な話でして」
と院長は言った。「どういうことなのか、さっぱり……」
「はっきりしてるじゃありませんか。誘拐犯は警察へ届けるなと言っている。この手紙が第一便で、次の手紙で身代金を請求して来るのが普通ですよ」
「でも妙なんです」
「どこが妙なんです?」
深田は所長室の入口のドアが開くのを見て、やれやれやっと来たか、と|安《あん》|堵《ど》した。無断でこんなに遅刻するとはけしからん。
「遅かったじゃないか。まずこちらのお客さんにお茶を――」
入って来たのは江上恒子だった。「あ、失礼しました。所員かと思ったものですから」
深田は頭をかいた。そして――しばしの沈黙。
「あなたは……ここにいるじゃありませんか!」
「ですから妙だと申し上げたのですわ」
院長が言った。「ただのいたずらでしょうか?」
「フム……。そうですなあ。現にこうしてここに無事でいられるんだから……」
「ですけども、私を誘拐したなんていたずら手紙を一体誰が作るでしょうか?」
「確かに妙ですな……」
深田は頭をひねった。大体があまり考えることは得意ではないと来ている。
その時、所長室へドタドタと駆け込んで来た男――。江上恒子が思わず立ち上って、
「冬木さん! どうなさったんです?」
冬木は頭に包帯をグルグル巻きつけていたのだ。
「いや、大したことはない。――あなたが所長さんですね」
「深田だが……」
「彼女は?」
「彼女?」
「寺沢紘子ですよ!」
「それが今日はまだ来とらんのだ」
「やっぱり!」
冬木は、ガックリと|椅《い》|子《す》に腰をおろした。
「一体どうなさったんです?」
江上恒子が訊いた。「教えて下さい!」
冬木は昨夜の大男の件を話して聞かせた。
「すごい力の男でね、僕は突き飛ばされて、頭をいやというほど歩道のへりにぶつけてのびちまったんだよ。彼女の姿は気が付いた時にはなかった。――あの大男が連れて行ったんだ!」
「院長様……もしかして……」
「どうやらそのようですね」
深田がキョトンとして、
「何の話です?」
「こちらのお嬢さんは、どうもマリアと間違えて、連れて行かれたようですね」
冬木は脅迫状を読んで、
「何てことだ!」
と息をついた。
「私の代りに、寺沢さんが……。どうしたらいいんでしょう?」
と江上恒子が両手に顔を伏せる。「私のせいで、あの方が、こんなことに……」
「マリアさん。自分を責めることはない。あなたのせいじゃないんだからね」
「でも……このままにしてはおけませんわ」
「どうなるって言うんだね?」
「犯人に人違いだと分からせて、私が寺沢さんと代ります」
「馬鹿言っちゃいけない!」
「でもこのままでは――」
「彼女は大丈夫!――切り抜けるよ、きっと。大丈夫だ」
冬木は自分に言いきかせるように言った。
「それより、犯人を見つければいいんだ。君に心当りはないの?」
「さあ……」
「君の相続するはずの財産にからんでいそうな気配だな。誰か君がいなくなって得をする人間はいないの?」
「思い当りませんけど……」
「よく考えるんだ! 誰か[#「誰か」に傍点]いるはずだ」
「でも財産は、私か、でなければ町が受け取るんですもの」
「財産管理に関係してる人間は?」
「弁護士さんですわ」
「弁護士か……。何という奴だ?」
「那倉さんといいます」
「よし、当ってみよう!」
「でも、そのおけがで」
「なに、包帯が大げさなだけさ。君は何も心配することはない。いいね?」
冬木は恒子の手を取って、元気付けるように握った。そして元気付けるだけにしては、握り合っている時間が長かった……。
暗い部屋の中に、紘子は置かれていた。手足を縛られていて、身動きもならない。
「冷えるなあ……」
と文句を言った。「これじゃ神経痛になっちゃう」
もう何時間たったろうか。あの大男も、紘子をここへ放り込んだきり、姿を見せない。紘子も冒険は嫌いな方ではないが、こう寒くてはやり切れない。
「毛布の一枚ぐらいないのかしら」
と苦情を言った時、急に部屋のドアが開いて、まぶしい光が紘子を照らし出した。男が二、三人いるようだったが、逆光になって見えない。
「おい! 何だこれは!」
一人が声を上げた。「この女は違うぞ!」
「馬鹿野郎! 何て役立たずだ! この無駄めし食いのウスノロめ! 月給泥棒のゴクツブシ!」
怒鳴っているのは、もともとの赤ら顔をますます赤鬼みたいにしている男で、別にお役所仕事の批判といった高尚なことを言っているわけではなさそうだった。
怒鳴られているのは紘子を誘拐して来た大男で、一言の口答えをするでもなく、じっとうなだれて|叱《しっ》|責《せき》を甘受している。紘子は縛られてしびれて来た手足をモゾモゾと動かしながら、何となく大男が|可哀《かわい》そう、と思い始めていた。
なりが大きいだけに、シュンとうなだれていると余計に|惨《みじ》めな感じなのである。赤ら顔の方はまだ腹の虫がおさまらないらしく、
「ウドの大木たあ貴様のこったぞ! こんな簡単な仕事もできないんだったら、トウフの|角《かど》に頭をぶつけて死んじまえ!」
と悪口雑言、言いたい放題。紘子は段々ムカムカして来た。いばりちらす上役というのが嫌いな上に(あまり好きな人間はいない)、ただおとなしく|叱《しか》られて、じっと|堪《こら》えている人間にもイライラして来るのである。
「貴様は町の恥さらしだ! 戻ったらただじゃおかねえぞ! 指でもつめろ!」
とヤクザまがいのセリフまで飛び出すに至って、我慢していられなくなった。
「ちょっと、あんた!」
と怒鳴ると、二人の男が面食らった様子で紘子を見た。
「そっちのゆでダコのおっさんの方よ!」
「ゆ、ゆでダコ?」
「さっきから聞いてりゃ、この人を馬鹿だのウスノロだの言ってるけどさ、あんたの方に手落ちはなかったの? ええ? 人をさらって来るのが〈簡単な仕事〉のわけないだろ! 大体ね、この人は私を|江《え》|上《がみ》|恒《つね》|子《こ》さんと間違えたくらいだから、彼女の顔もロクに知らないんだよ。それが分かってたら、ちゃんと彼女の写真ぐらい渡しておくもんだ! それもしないでこの人を責めるのは筋違いってもんじゃないか! 分かったか、このゆでダコ!」
赤ら顔の方は赤が飽和状態になって、次第に青くなって来るという不思議な状態を呈して来る。紘子は大男の方へ向いて、
「あんたもあんたよ! 部下ってのはね、ただ黙って言うこと聞いてりゃいいってもんじゃないのよ。言うべきことはちゃんと言う! それで分かってくれない上役なんかけっとばしちまえばいいの! 大きななりして何よ、水から上ったむく犬みたいにショボクレて! しっかりしなさいよ!」
「こ……この……」
と赤ら顔はワナワナと怒りに体を震わせている。
「怒れ怒れ! |脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》であの世行きだよ!」
「おい|熊《くま》|谷《がい》! この女、貴様の好きにしていいぞ!」
と怒鳴ると、赤ら顔はドタドタと足音を立てて出て行った。――紘子は、ちょっと言いすぎたかな、と後悔したが、口から出た言葉は消しゴムで消すわけにもいかない。部屋に残ったのは何人力かという大男と、縛られたか弱き美女。こうなると続くシーンは大体決っていて、哀れ美女は大男のえじきに……。映画だと、あわや、という所へ二枚目が飛び込んで来て美女を救い出すのだが、どうもその見込みは薄そうである。
熊谷、と呼ばれた大男は紘子の顔を眺めて、それからゆっくり近付いて来た。紘子は不自由な体で必死に後ずさろうと|空《むな》しい努力を続けながら、
「来ると、か、かみつくわよ! 私の歯は痛いのよ! ドラキュラの親類なんだからね!」
とおどかすが、てんで効き目なし。本人もあるとは思っていなかったが。
大男の手がぐいと紘子の両腕をつかんだ。ああ、これで私もおしまいだわ……と紘子は覚悟した。生きて戻れたら、深田所長に慰謝料請求してやる!
ところが――大男は紘子の体をヒョイと床から持ち上げると、部屋の奥にあったおんぼろ椅子の所へ運んで行き、チョンと座らせて、
「この方が少しは楽だろ」
「え?」
「縛り方がきつすぎたかな。俺、ぶきっちょなもんで……。荷物縛るのは慣れてんだけど」
「荷物と間違えないで」
どうやらナニ[#「ナニ」に傍点]される心配はなさそうだ、と少しホッとした。大男は意外に小さな、気の弱そうな眼をしている。何となくおずおずした感じで立っていたが、
「あんた……いい人だね」
と言うと、床を震わせんばかりの足音を立てて、出て行った。紘子は少々呆気に取られて見送った。
それはともかく、一体外はどうなってるのかしら? 所長や|冬《ふゆ》|木《き》さんは私のことを捜そうと必死になってくれているだろう。それとも……。
「あんなのは放っときゃいいよ」
なんて冬木さん、江上恒子の手を握って。
「君さえ無事なら、紘子なんか死んだって」
とか、所長なんて冷たいから、早速新聞に〈女性秘書募集〉なんて広告を出してるかも……。
「女性秘書募集、か……」
冬木は、〈弁護士・|那《な》|倉《くら》|清《せい》|一《いち》〉という表札の隣の|貼《は》り紙を見て呟いた。どこも人手不足なのかなあ。
「ごめん下さい」
とドアを開けて呼ぶと、奥の部屋から、メガネをかけた抜け目なさそうな顔が|覗《のぞ》いた。
「那倉さんですか?」
「そうです」
「冬木といいます。ちょっとお訊きしたいことがあって伺ったんですが……」
「そうですか。あまり時間がないのですが、まあどうぞ」
オフィスへ入って、デスクを|挟《はさ》んで向い合って座ると、
「さて、どういうご用件ですか」
「あなたの依頼人に、江上恒子さんという方がいますね」
「さて……。何しろ数が多いので。ああ、思い出しました。修道院へ入られた方ですね」
「そうです。彼女の財産の管理をしているのはあなたですね」
「ええ。それが何か……」
「僕は彼女の婚約者です」
那倉は|眉《まゆ》一つ動かさず、
「それはおめでとうございます」
「ところが、その彼女が誘拐されてしまったんです」
「何ですって?」
「彼女はあと四日で二十五歳になります。その時に結婚していないと財産の相続権を失う。そうですね」
「その通りです。するとそれを妨げようとする何者かが……」
「おそらくそうでしょう」
「それは大変なことになりましたね。警察にはお届けになりましたか?」
「いいえ。もし彼女に万一のことがあっては……」
「なるほど。しかし私ではどうもお力になれそうもありませんね」
「彼女が相続できなくなって得をする人間というのをご存知ありませんか?」
「さて……。江上恒子さんが相続されない場合、財産は町のものになるわけですから、個人的に利益を得る人はいないはずです」
「彼女の財産について何か問合せて来た人はいませんでしたか?」
「いや、思い当りませんね」
と言ってけんもほろろである。
冬木は|諦《あきら》めて那倉の事務所を出ると、院長と江上恒子を待たせておいた喫茶店へ入って行った。
「どうでした?」
と不安気な江上恒子へ、
「のらりくらりで話にならないよ。あいつ、どうも匂うなあ……。財産を管理しているとすれば、使い込んだとも考えられる。それがばれるのを恐れて君を誘拐しようとしたのかもしれない」
「財産なんかどうだっていいですわ。寺沢さんが無事なら……」
「彼女ならきっと大丈夫だよ」
「でも、もし人違いだと分かったらどうなるでしょう?」
「うん……」
冬木は考え込んだ。「彼女は犯人の顔を見てる。まさか、とは思うけど――」
「あら!」
と何気なく表通りへ目をやった江上恒子が声を上げた。
「どうしたの?」
「今、通って行った車……。あれに乗っていたのは町長さんだわ」
「町長?」
「ええ、郷里の……。でもどうしてこんな所に……」
「あっちは那倉の事務所だ。ちょっと臭いな。きっとあの二人、何か企んでるんだ」
「確かめる方法はありませんか?」
「さて、こっそり忍び込むってわけにもいかないし……。〈女性秘書募集〉って貼り紙はあったけれど、まさか僕が女装して行くわけにもいかない」
と真面目な顔で考え込む。
「じゃ私が行きますわ」
「だめだよ! もし連中が犯人なら、それこそ飛んで火に入る、だよ」
その時、院長が口を挟んだ。
「私が[#「私が」に傍点]行きましょう」
冬木と江上恒子が目を丸くした。
「私も一応女ですから。年齢の制限はなかったんでしょ?」
「し、しかし……」
「応募するぐらいいいじゃありませんの。中をチラリと覗いて来るぐらいのことはできますよ」
「無理ですわ、院長様。その格好で行けば、すぐ見破られますもの」
「着替えて行けばいいでしょ」
とアッサリ言う。「あなたと服を取り替えましょう。地味だから私にも合うでしょう。ただ頭がまずいわね。冬木さん。近くでできるだけ大きな帽子を買って来て下さい」
「院長様! そんなことをなさっては……」
「人の命がかかっているんですよ。それに、修道院の改築もね」
と片目をつぶって見せると、急に真顔で十字を切って、「主の|思《おぼ》|召《しめ》しです」
江上恒子と冬木は顔を見合わせた。
「こんなもんで悪いね」
熊谷が、紘子と差し向いで、縛られた紘子に、カップラーメンを食べさせている。何となく珍妙なスタイルである。
「おいしいわ」
紘子は微笑んだ。
「縄を解いてあげられるといいんだが、町長さんに叱られるから」
「町長? あの人が町長さん?」
熊谷が|慌《あわ》てて口をつぐんで、
「しまった!」
「いいわよ。黙っててあげる。……それじゃやっぱり江上恒子さんの財産を|狙《ねら》ってるのね」
「私利私欲のためじゃねえんだ。町は貧しい……。壊れかかった橋一つ修理できないで、子供が川へ落ちて死ぬこともある。学校もオンボロで、冬は木枯しが吹き抜けるくらい穴だらけ。……あの女の人の財産が町のものになりゃ、みんな良くなるんだ」
紘子はこの無骨な大男の一本気な純情さが気に入った。しかし、果して彼の望む通りになるだろうか?
「そうねえ……。あなたの気持は分かるけど、あの町長さん、そんなに偉い人なの?」
「そりゃ、町長さんだからね」
〈長〉と付けば尊敬する。そんな人がまだ今の日本にいたのか、と紘子は妙に感心した。だが、あの町長、どうみても町民のために一身を犠牲にしようという人格者とは思えない。
「ねえ、こんなことする前に何か手はなかったの? 江上恒子さんだって同じ町の人でしょう。頼めばそれくらいの寄付は……」
「だめだよ」
「どうして?」
「あの|女《ひと》は町には一文だって寄付しねえと言ってるそうだ」
「誰がそう言ったの?」
「あの|女《ひと》だよ」
「いえ、つまり――江上恒子さんがそう言ってるってのを、あなたはどうして知ってるの?」
「町の人はみんな知ってるよ」
「ふーん」
町長に吹き込まれたってわけでもなさそうだ……。しかしあの穏やかで優しい女性が言いそうなこととは思えない。もしかすると、彼女が修道院に入った理由と関係があるのかもしれない。
「もっと食べるかね?」
と熊谷が|空《から》になったカップラーメンを手に立ち上った。
「ええ、もう一つ。お|腹《なか》|空《す》いちゃって!」
「あんたは大した娘さんだなあ。立派だよ。あんたの彼に乱暴して悪かった。そう力を入れたつもりはなかったんだけど」
「酔ってたからよ。大丈夫、石頭なんだから、あの人」
熊谷は笑顔になって、
「面白い人だね、あんた。じゃもう一つ作って来よう」
「今度は|醤油《しょうゆ》味だと|嬉《うれ》しいんだけど」
紘子は言った。
「あらあら、地味はいいけど、やっぱりサイズは違うわね。お腹がきついわ」
俗人[#「俗人」に傍点]の服に、不つり合いな幅広の帽子をかぶった院長が、修道服にいかめしく身を包んだ江上恒子と一緒に化粧室から出て来た。冬木は何とも言うべき言葉が見つからなかった。しかし、何か言わねば、と思って、
「お、お似合いですよ」
とためらいがちに言ってから、「君も素敵だ」
と複雑な口調で江上恒子へ微笑みかける。
「さて、それでは早いところ行きましょうよ」
と院長は何やら張り切った感じで、「久しぶりでこんな物を着ると昔を思い出すわ」
「じゃ、事務所の前まで僕がご案内しますよ。君はここで待っててくれたまえ」
「はい、分かりました」
冬木は一瞬、彼女を見つめた。修道服に身を包んだその|清《せい》|楚《そ》な美しさに、前にも増して心|魅《ひ》かれる思いだった。そして同時に、急に彼女が自分から遠く離れた存在になってしまったような気がして、ふと胸苦しさを覚えた。
馬鹿だな、最初から分かってることじゃないか……。
「さあ、それじゃ行きましょうか」
冬木が院長と喫茶店を出て行くと、江上恒子はどことなく落ち着かない様子で座っていた。店へ出入りする客が、みんな物珍しげに彼女を見て行く。
――冬木たちが出て行って二、三分たった時、ジャンパーにジーパンというスタイルの若者が店へ入って来た。二十七、八歳だろうか、彫りの深い苦味走った顔立ちで、神経質そうな様子で店内を素早く|一《いち》|瞥《べつ》した。そして修道服姿に眼を止めると、単なる好奇心以上の熱心さで、じっと彼女を見つめていたが、やがてそろそろとその席に近付いた。
テーブルへ視線を落としていた江上恒子は、しばらくしてから、やっと目の前の若者に気付いて顔を上げた。若者の顔を見た彼女の口から、驚きの声が上った。
「まあ!……|和《かず》|彦《ひこ》さん!」
「やあ」
和彦と呼ばれた若者はこわばったような微笑を浮かべて、
「久しぶりだね」
「本当ね。いつ東京に?」
「ちょっと用でね。座っていいかい?」
「ええ」
和彦はゆっくり江上恒子の向いに座った。
「和彦さん……お元気そうね」
「え? うん、まあね。君は……とても立派に見えるよ」
江上恒子は自分の修道服姿をチラリと見降ろして、
「ありがとう」
「そうか。――もうすぐ誕生日だね」
「ええ、私、二十五になるわ」
彼女は挑みかかるような目つきになって、
「でも私、財産を町へは譲らないわよ。形式だけでも結婚して、自分の思い通りに使わせてもらうわ」
「それはもういいんだ」
江上恒子はやや|戸《と》|惑《まど》ったような表情になって、
「どういう意味なの?」
「君には関係のないことさ。町の人間じゃないんだから」
彼の言葉にちょっとムッとして、
「……あなたじゃないんでしょうね」
「何が?」
「私を誘拐しようとしたの」
「誘拐だって?」
和彦は目を見張って、「君を? 何か危ない目にあったの?」
「私と間違えられて他の人がさらわれたのよ。今頃どうしてるか……」
「まだ見つかっていないの? 一体誰がそんなことを……」
「私に分かるわけがないでしょう!」
と江上恒子は手厳しく言った。
「――町長の奴だ!」
「え?」
「きっとそうだよ。いや、実はね、僕が上京して来たのは、町長を追いかけてのことなんだ。町の税金が毎年何千万も横領されてるのが分かったんだよ」
「横領?」
「町長の奴なんだ。まず間違いない。町議会で問題になって大騒ぎさ。ところが肝心の本人が東京へ来てるというんでね、こうして僕が連れ戻すために出て来たっていうわけさ」
「何てことでしょう! あの町長さんが!」
「その使い込んだ金の穴埋めをするために、君の財産を狙ったのに違いない。何て奴だ!」
「町長さんなら、たぶん弁護士の那倉さんの所よ」
「どこだって?」
「すぐこの近く」
「よし行こう! 案内してくれ」
店内の客は、ジャンパーにジーパンの若者と修道女が、大急ぎで出て行くのを不思議そうに|眺《なが》めていた。
「人違いしたのは、あなたの責任ですぞ! 全く厄介の種をこしらえてくれる方だ」
那倉は皮肉な口調で、渋い顔の町長をやっつけると、「ともかく、さっきも彼女の婚約者という青年がやって来ましたしね」
「こ、婚約者?」
「そうです。私を怪しいとにらんでいるようですな」
「そいつは大変だ!」
「全くです。しかし、やりかけたのだから、最後までやり抜く他はありませんね」
「ど、どうするんです?」
「もう一度、本人を誘拐する。今度は間違いのないようにね」
「で、今誘拐してある娘はどうします?」
「まあ少し金を握らせ、脅して黙らせるんですな」
「とんでもない!」
町長は、まだ〈ゆでダコ〉と言われたのが腹立たしいらしい。顔をますます紅潮させて、
「あの娘がそんなことで黙るはずはありませんよ! とんでもないはねっかえりです」
「ほう、するとどうするつもりです?……殺人までやる覚悟ですか?」
「そ、それは……」
「だったら、逆に下手に出るのが得ですよ。町のためにどうしても必要なんだと深刻ぶって見せるんです。なに、若い娘なんてすぐに|騙《だま》されますからね」
「はあ」
「それにちょっと小遣いを握らせればいいでしょう」
「しかし、それが……」
「どうしたんです?」
「いや……あまり生意気で、腹が立ったものですから、熊谷の奴に、あの娘を好きなようにしろ、と……」
「何て馬鹿なことを!」
那倉は町長をにらみつけて、「暴行の共犯になってもいいんですか!」
「ど、どうしましょう?」
と町長はオロオロするばかり。
「今からでも間に合うかもしれない。行ってみましょう」
と急いで部屋を飛び出そうとドアを開けて、那倉は目の前に立っていた女性と危くぶつかるところだった。
「おっと!……こ、ここで何をしてるんだね?」
相手の女は――いやもう相当の年齢で、六十歳近いだろう――いとも穏やかな微笑みを浮かべて、
「秘書募集の広告がありましたので……」
「今は忙しいんだ! それに……もっと若い人でないと困る」
「あら、そうでしたか。それは失礼」
とまた馬鹿ていねいに頭を下げて、別に急ぐ様子もなく出て行った。ポカンとして見送っていた那倉は肩をすくめて、
「最近は妙なのが多いですな」
「今の話、聞かれたんじゃないかな?」
「立ち聞きしてて、いきなりドアを開けられりゃ、ギクリとしますよ。あんなに平気な顔をしてられる人間はいません。さあ、行きましょう!」
人間には常に例外があるということを、那倉は自信過剰の余り忘れていたのである。
院長は那倉の事務所を出ると、通りの向い側で待っている冬木の所へトコトコやって来た。
「どうです?」
「誘拐したのはあの人たちね。そう話してましたよ。あの女の方が何かひどい目にあわされているかもしれないとか……」
「か、彼女が?」
「今からそこへ出かけるらしいですよ。ほら、出て来たわ」
「よし! タクシーを拾って追いかけましょう!」
映画やTVでは、こういう時、ちょうど空車が通りかかって、悪漢の車を追跡できることになっているが、ここでは――やっぱり小説なので巧く空車が来て、冬木と院長は、那倉と町長の乗った車を追いかけた。
「あの車――」
ちょうど事務所へ向っていた江上恒子が、那倉たちの車に目を止めて、「町長さんが乗ってるわ!」
「よし、追いかけよう。タクシーだ!」
と、ここでも小説なのでタクシーが通りかかり、かくして三台の車が、紘子の監禁された場所へと向って行った。
「フルハウスで私の勝ち」
紘子が意気揚々とカードを並べた。
「やれやれ……」
熊谷は頭をかいて、「また負けか。どうしてあんたの所にばっかりいい手が行くんだろう?」
「勝負のカンってものなのよ。もう一勝負、どう?」
「もう、いくら負けてる?」
と熊谷が恐る恐る訊く。
「ええと、ね……」
紘子は手元のメモを見て、「しめて、三十二万四千円也」
「俺の月給の三か月分だ! もうやめとくよ」
と、熊谷が悲鳴を上げた。紘子が笑いながら、
「分割払いでいいわよ」
「そう願うよ」
ポーカーをやっていたことから分かる通り、紘子は手足の縄を解かれていた。しびれて色を失って来たので、
「少しだけ|緩《ゆる》めてくれない?」
と頼むと、熊谷が少しの間だけ、という約束で、ほどいてくれたのだ。そのうち、退屈しのぎにと、食糧のラーメンや何かと一緒に入っていたトランプでポーカーを始めたのである。
紘子はカードを箱へ戻しながら、
「あなた、結婚は?」
「ん? まさか!」
と大男が赤くなる。「俺なんか相手にしてくれる娘はいないよ」
「あら! そんなことないわ。町の人とは限らないでしょ。私、結婚相談所に勤めてるの。探してあげるわよ。あなたにその気があれば、だけど」
「ほ、本当かね?」
熊谷は半信半疑の様子である。
「本当よ。私、あなたって今時とても珍しい人だと思うの。悪い意味じゃないのよ。いい人を見つけてあげたいわ」
「でも……料金が高いんだろ?」
「さっきの分割払いに加えておくわ」
と紘子は微笑むと、「さて、そろそろ、あなたの親分さんが戻って来るんじゃないの? 縛っておかないと怒られるわよ」
そう言って、素直に両手を合わせて差し出す。熊谷はしばらくじっとその手を眺めていたが、やがてゆっくり首を振った。
「いや、もういいよ」
「縛らないの?」
「うん」
「だけど……あなたが困るんじゃないの?」
「あんたはいい人だよ。俺は恥ずかしい。どんなに立派な目的があっても、人をさらうなんて間違ってる!」
「熊谷さん……」
「さあ、町長さんの戻って来ねえうちに、逃がしてあげるよ」
二人は、紘子の閉じ込められていた部屋を出た。山小屋風の建物で、長いこと使われていない様子だ。|埃《ほこり》だらけの広間を通って玄関へ向って行くと、突然、ドアが開いて、見たことのない男が三人、入って来た。どことなく柄の悪そうな若者である。
「何だ、お前らは?」
熊谷が訊くと、ちょっとチンピラ風の三人はチラと目くばせして、急に熊谷へ襲いかかった。いかに怪力でも、反射神経は別で、熊谷はよける間もなく、脇腹にナイフを受けてうめいた。
「熊谷さん!」
ほとばしる血を見て紘子が叫んだ。男たちは熊谷の体が床へ崩れるのを見て、今度は紘子へ向って来た。逃げる間もなく、手足を捕まえられてしまう。
「何するのよ! 離して!」
|逆《さか》らうにも相手が三人では無力に等しい。どうして今度はこう何回も襲われるんだろう? まるで急に国際政治の重要人物になったみたいだわ。
その時、ウォーッとライオンの|咆《ほう》|哮《こう》のような声が聞こえたと思うと、三人組がアッという間に|弾《はじ》け飛んだ。熊谷が脇腹を血で染めながら、|凄《すさ》まじい形相で立っている。起き上って向って来る三人組を次々と取っては投げ、かついではふり回し、たちまち三人とも、広間のあちこちへ散ってのびてしまった。
「熊谷さん! 大丈夫?」
腹を押えてぐったりと床へ座り込んだ熊谷のそばへ駆け寄って、「今、救急車を――」
「いや、俺は大丈夫。早く逃げなさい!」
「だめよ! すぐ病院に行かなきゃ」
その時、ドアが開いて、町長と那倉が入って来た。町長が目を丸くして、
「こ、これは一体何だ!」
紘子はキッと町長をにらみつけ、
「何言ってるのよ! ぐずぐずしないで医者へ連れてかなきゃ! 早くして!」
「それは困る。お嬢さん」
那倉が落ち着き払って、「あなたにはおとなしくしていただく」
「この人が死んでもいいの!」
「そもそも、この男がヘマをやったんだ。それに、死んでもそう惜しい男ではない。ねえ町長?」
「ああ……」
紘子は眼を怒りでギラつかせながら、
「何てことを! あんたたちは……」
「まあ、落ち着きなさい。あなたは、江上恒子を手に入れるまでの大切な人質だ。別に危害は加えませんよ」
「残念ながら、そっちはそうでも、こっちが加えてやるわ!」
思い切り引っかいてやろう、と身構えた時、
「大丈夫か!」
と声がして、冬木が飛び込んで来た。
「冬木さん!」
「もう大丈夫だぞ! おい、弁護士先生に町長さん、もう諦めろよ」
そこへまた、
「あら、あなた、大丈夫でしたか?」
と声をかけて来た老婦人。はて、誰かなと紘子が首をひねってから、
「アッ! 院長さん!」
と声を上げた。「何ですか、その格好?」
冬木が代って、
「変装してこの弁護士先生の事務所へ潜入してくれたのさ。おかげでここが分かったんだ」
さすがの那倉が|唖《あ》|然《ぜん》とした。町長の方は、ただオドオドするばかり。
「せ、先生! どうします!」
「まあ、落ち着いて」
那倉は紘子たちを見回して、「まだ勝負はこれからです」
紘子が冬木へ、
「この人、けがしてるのよ。病院へ運ばないと」
「よし、分かった」
そこへ、最後の組、江上恒子と和彦が駆け込んで来た。
「寺沢さん!」
江上恒子は紘子を見ると、駆け寄って来て、
「よかった! 無事だったんですね」
「ええ、これぐらいで死ぬ私じゃありませんよ」
「言ったでしょ」
冬木がニヤリとして、「彼女は大丈夫だって」
紘子が和彦に気付いて、
「あの人は?」
「同じ町の人で、|百《もも》|瀬《せ》和彦さんというんです。――町長さん。あなたは町のお金を横領していたそうですね」
「何だと!」
和彦が代って言った。
「町長、もう町議会で|総《すべ》てが暴露されましたよ」
町長は一瞬よろけて、那倉へしがみついた。
「先生! これじゃ話が――」
「黙りなさい。今さら騒ぐのはみっともない」
「し、しかし……」
「もう諦めるんですな」
町長はヘナヘナと床へ座り込んだ。紘子がホッと息をついた。
「さあ、この人を病院へ――」
と言いかけて、言葉を呑み込んでしまった。和彦がいつの間にか拳銃を抜いて、銃口を紘子たちの方へ向けていたのである。
「和彦さん!」
口を開いたのは江上恒子だった。「これは一体何なの?」
「君には悪いけど、こうなる筋書だったのさ」
「何ですって?」
那倉がゆっくり歩いて行って、和彦と並んで立った。
「こんなことになって残念ですな。最初の計画では町長が江上恒子さんを誘拐して殺し、その後で横領の件が発覚したのを知って絶望して自殺、というはずだったのです」
「先生!」
町長が目を丸くした。
「ところが、そこの大男君が誘拐相手を間違えたおかげで、こんなに大勢、余計な登場人物が出て来てしまった」
江上恒子はじっと和彦を|見《み》|据《す》えて、
「和彦さん、あなたは……」
那倉が|遮《さえぎ》って、
「恒子さん、彼は私の、町での代理人でね。横領の帳簿上の操作をやっていたのです」
「まさか……」
紘子が口を挟んで、
「でも、この|女《ひと》を殺しても、お金は町へ入るのよ。それをどうして……」
「お金が入っても、それを記録し、支出するのはこの百瀬和彦君でしてね。今までは町長と半々だった副収入が今度は私一人の懐へ|転《ころが》り込むわけです」
「そう巧く行くか!」
冬木が言った。「これだけの人間を全部殺すつもりか? どうなんだ?」
「その点は大いに迷いました」
那倉が苦笑した。「二人殺せば何人でも同じだ、という結論に達したのです。幸いここは閑散とした季節外れの貸し別荘。それにそこには馬鹿力の大男もいる。彼が大暴れしたと見せかければ……」
「できるもんですか、たった二人で!」
「そこの三人組もそのうち目を覚ますでしょう。百瀬君の友人たちでしてね……。邪魔だからそのデカイ奴を片付けておけと言ったのですが、いささか油断したようだ」
油断したのは、那倉たちも同様だった。いや、初めから、六十歳の老婦人など、眼中になかったのである。それも無理からぬことではあったろう。まさか彼女が、手近にあった椅子を両手で持ち上げ、和彦の背後で高々と振り上げると、
「主よ、お許し下さい」
と呟きながら、振り降ろすとは、思ってもみなかっただろう……。
「町にいた時、私はあの人と恋に落ちました」
深田所長の部屋で、江上恒子は言った。「あの人」とは、百瀬和彦のことである。
「私は夢中になり、体まで……そうです、総てを与えてしまいました。ところがその後で、私は彼が町の長老たちから、礼金をもらって私を誘惑していたのだと知ったのです。狙いは私の財産を、彼と婚約することで、町のものにしてしまおうということでした。私は人間が信じられなくなりました。そして修道院へ入る決心をしたのです」
「それで町の人を恨んでいたのね」
と紘子が肯く。
「ええ。でも……馬鹿ですわ、私は。あんな目にあって、またあの人の話をうかうかと信じてしまって」
「そんなものですよ、女って」
「でも、よく考えてみると、町の人々も気の毒です。そんなことまでして、お金がほしかった……。その上、町長さんたちが横領していたなんて」
深田は深く息をついて、
「それで……明日があなたの誕生日ですが、どうしますね?」
「はい。冬木さんとの婚姻届を出したいと思います」
「そうですか。まあ、あなたの財産ですからね」
と、まだもったいながっている。
「その上で――」
と江上恒子は続けて、「修道院へ半分、町へ半分、寄付するつもりです。院長様、よろしいでしょうか?」
傍で、冬木と並んで立っていた院長はニッコリして肯いた。
「ははあ……」
深田は諦め切った表情で、「ではここに婚姻届の用紙があります。お二人で記入して下さい。ついでに離婚届も書いておいた方が、手間がかからなくて便利でしょう。日付だけあけて」
「そうですね」
江上恒子と冬木は順番に婚姻届へ署名、押印した。続けて江上恒子が離婚届へペンをおろそうとした時だった。冬木がいきなり離婚届の用紙を取り上げて、ビリビリと引き裂いたのだ。
「冬木さん!」
「恒子さん。あなたは人間を信じられない、という。でも僕を信じて下さい! いや、僕は、あなたが人間を信じられるようにしてみせる! お願いです、一生僕の妻でいて下さい!」
「そんな……だめですわ! 私は……純潔な体でもないし、それに一文無しになるんですもの」
「そんなものが何でもないことは、あなただって分かっているはずだ!」
冬木は彼女の肩をしっかりとつかんだ。
「院長様……」
と振り向いた顔に涙が光っていた。院長は肯いて言った。
「あなたのいいと思う道をいらっしゃい」
江上恒子は、冬木の熱っぽい眼に、ひたむきな眼を合わせた……。
二人が婚姻届を出しに行ってしまうと、紘子が言った。
「院長さん。こうなることをお望みだったんじゃありません?」
院長は静かに微笑んで、
「主のみ心のままに……」
と一礼して帰って行った。
「何だかんだ言っても、結局一組成立したな!」
深田はご機嫌である。「君も大変だったな。ご苦労さん」
「私、ちょっと出て来ます」
「何だ、傷心をいやしに飲みに行くのか? 付き合うぞ」
紘子は凄まじい眼つきで深田を震え上らせると、
「仕事です! 入院してる熊谷さんに結婚相手を捜すと約束したもんですから」
「君も物好きだな。君を誘拐した男だろう?」
「ええ、でも聖書にあります。『|汝《なんじ》の敵を愛せ』ってね」
深田は、紘子が行ってしまうと、心配そうに呟いた。
「あいつまさか……修道院へ入る気じゃあるまいな」
面影志願
「所長さんにお会いしたいのですけれど」
快く優しい声に顔を上げると、|年《と》|齢《し》の頃は四十前後。すっきりと|垢《あか》|抜《ぬ》けのした容姿に、上品な|藤《ふじ》|色《いろ》のスーツの女性が立っていた。
「はあ」
|寺《てら》|沢《さわ》|紘《ひろ》|子《こ》は、いつものくせで反射的に登録申込カードを取り出そうとして、その女性の白い指の結婚指輪に気が付いた。そういえばどう見ても、どこかの社長夫人といった趣がある。
「あの……|深《ふか》|田《だ》にご用ですか?」
「はい。私、|水《みず》|島《しま》|百《ゆ》|合《り》|香《か》と申します」
どうしてこんな魅力的な女性が所長なんか[#「なんか」に傍点]に会いに来たのかしら? 紘子は至って素直な疑問に首をひねったが、今はともかく――。
「実は今、所長はあいにく昼食に出ておりまして。間もなく戻ると思いますが……」
「そうですか。……お食事はこの近くで取られているんでしょうか?」
「え、ええ……そうです」
「場所を教えていただければ、私がそこへ参りますが、ご存知ですか?」
「はあ」
紘子は困ってしまった。まさかこの上品な女性を、深田がもの凄い勢いでカツ|丼《どん》を食べている店へ行かせるわけにはいかない。
「あの、すぐ戻ると思いますので、こちらでお待ちいただければ――」
と言いかけた時、入口のドアが勢いよく開いて、深田が入って来た。
「畜生!」
と|爪《つま》|楊《よう》|枝《じ》で歯を突っつきながら、「あそこのカツ丼の肉は小さい上に筋だらけなんだからな。|挟《はさ》まって取れやしない!」
「所長、こちらの方が……」
たった一人の所員として、いささか赤面しながら紘子は深田に注意を促した。
「ん?」
初めてその女性に気付いて、深田は足を止めた。水島百合香と名乗ったその女性は静かに頭を下げて、
「お久しゅうございます」
「はあ……」
深田は機械的に会釈して、「どなたでしたか?」
その女性は、|微笑《ほほえ》んだ。それは女の紘子でも思わずウットリするほどの、心をとろけさせるような微笑だった。深田の顔に、まさか[#「まさか」に傍点]という思いが、〈!〉マーク付きで広がった。いや〈!〉ぐらいかもしれない。爪楊枝が手から落ちた。
「ゆ、百合香さん……。いや、まさか……」
「百合香ですわ、栄一さん」
紘子は一瞬、|誰《だれ》か来たのか、と入口の方へ目をやった。――ああ、そうだったわ。栄一ってウチの所長の名だったわ。
「百合香さん! いや驚いたな!――まあ、こんな所で立ち話も何だ。中へ入りませんか」
「お仕事の邪魔ではありません?」
「いや、構いませんよ。寺沢君、お茶を」
「はい」
深田は所長室のドアを開けて、
「さ、どうぞ。散らかってますが……」
紘子はしばし、所長室の閉まったドアを見つめていたが、やがて|呟《つぶや》いた。
「今年の十大ニュース、ナンバー・ワン決定!」
湯沸し室へ行ってやかんを火にかけてから、果たして、所長とあの|謎《なぞ》の美人はどういう仲なんだろう、と考えた。どうも様子では昔の知り合いのようだが、それではどんな知り合いだったのか? 恋人同士? まさか! 親類か? あまりに似ていない[#「似ていない」に傍点]! では……令嬢と下男?
「ウン、これなら分かる!」
いい部下を持って深田も幸せである。
ともかく二人の話を聞きかじってやろう、と燃え盛る好奇心をじっと抑えて、湯の沸くのももどかしく、急いでお茶を|淹《い》れ、盆へのせた。
所長室のドアを開けながら、
「失礼します」
と入って行って……紘子は|唖《あ》|然《ぜん》とした。思わず盆を取り落としそうになって、|慌《あわ》てて持ち直す。
あの百合香という女性が、深田の胸に顔を埋めてすすり泣いているのである。深田は、普段からは想像もつかない深刻な表情で、その彼女を優しく抱きしめていた。
「失礼しました」
回れ右をして、受付の机へ戻ると、二人に出すはずだったお茶をガブリと飲んで、熱さに飛び上った。
「ああ……参った!」
何とも言いようがない。ふと思いついて、紘子は電話をかけた。もう結婚している友人の家である。
「――あ、もしもし。洋子? 私、紘子よ。――うん。ねえ、一つ|訊《き》きたいんだけどさ。――私の声、聞こえる?――本当に聞こえる?――やっぱり夢じゃないのか。ありがとう」
と受話器を置く。そこへ所長室のドアが開いて、まだ目を泣きはらした水島百合香と深田が出て来た。
「寺沢君、ちょっと出て来る。すぐ戻るからね」
「はい」
二人が出て行くのをぼんやり見送ってから、ヒョイと肩をすくめて仕事を始めた。――人生、何が起るか分からないものなのだ。そして、ふっと不安に襲われた。
「まさか……あの二人……」
「お帰りなさい」
「ああ」
深田はどことなく夢の中、といった様子で所長室へ入って行く。紘子は後から続いて入ると、
「お早い帰りでしたね」
「ん? そうか?」
「一時間足らずですよ」
「そうかな。よく分からなかったよ」
「お早くてホッとしました」
「どうして?」
「二時間以上になるようだったら、この辺のホテルへ片っぱしから電話しようと思ってたんです」
「おい! 何てことを言うんだ!」
「だって、お二人の様子、ただごとじゃありませんでしたもの」
「俺は妻帯者、向うも亭主持ちだぞ」
「だから心配したんじゃありませんか。お二人とも独身ならフレー、フレーって旗振ってあげますわ」
「余計な心配をするな!」
と深田は|怒《ど》|鳴《な》った。「とっとと席へ戻って仕事をしろ!」
「はいはい。それでこそいつもの所長ですわ」
深田は苦笑いして、
「君にはかなわん」
「あの方は……」
「俺の初恋の女性なのさ。もう二十年以上も昔の話だ」
と深田はしみじみとした口調で言った。
「そうだったんですか。……片思いに終ったんですね、その時は?」
「そうなんだ」
と|肯《うなず》いてから、「おい、どうして分かった?」
紘子は慌てて、
「い、いえ、何となく……」
「美しい娘だった。その地方の名家の令嬢でな。俺は一介の役人の息子で、とても相手にしてもらえないところだ。だが、彼女は時々道で会うと、|俺《おれ》を近くの野原へ誘ってくれて、そこで色々話をしたもんだ。……本当に優しい人だった」
深田の若き日というのを、紘子はどうしても想像できなかった。――で、彼女の脳裏の映像では、頭の薄くなりかけた四十男が、美しい少女を相手に、花の咲き乱れる野原で談笑しているという、いささか寒気を催すような場面となってしまった。
「そのうち、俺は大学へ行くために上京。次の休みに帰省した時には、もう彼女の家はなかった」
「どうしちゃったんです?」
「家が破産したのさ。やっていた事業に失敗してね。――彼女の父親は自殺。母親は東京の|親《しん》|戚《せき》のもとへ、夜逃げ同然に旅立った。むろん彼女も一緒にね。それきり彼女の消息はプッツリ途絶えていた」
「まあ、気の毒な……。でも、今はずいぶんいい生活をしてらっしゃるみたいじゃないですか」
「うん。彼女の夫は全国にスーパーのチェーンを持ってる大金持なんだそうだ」
「よかったですねえ」
と言って紘子は口をつぐんだ。深田がジロリとにらんだのだ。
「君は金さえあれば夫婦は幸福だと思っとるのか?」
「そうじゃありませんけど……。ないよりはあった方が……」
「君はセンパクだ!」
船舶? 私、船じゃありません、と言い返そうとして、やっと〈浅薄〉だと思い当った。
「彼女が泣いてたのを見ただろう! 夫は女をつくり、あまつさえその女を自分の家の離れに住まわせて彼女を追い出そうとしておるんだぞ!」
「はあ」
「何て|奴《やつ》だ! 男の風上にも置けん!」
「で、あの百合香さんって方は、所長に何のご用だったんです?」
「ただ、悩みを打ち明ける相手がほしかったのさ。たまたまこの前を通りかかって、うちの看板を見て、〈所長・深田栄一〉とあるので、もしやと思ったわけだ」
「そうでしたか。……よかったですね、懐しい方に会えて。ところで二時半に面会に来られる方ですけど――」
紘子は仕事の方へと深田の注意を引き戻した。よその家庭のいざこざに巻き込まれちゃ、ろくなことになりませんよ、と言ってやろうかと思ったが、やめておいた。どうせこれっきりなんだろうから……。
その三日後。土曜日は午前中で終りなので、紘子にしてみりゃ気分的には休日も同然。
「週休二日制にしましょうよ」
という意見も、深田の|如《ごと》き、仕事を取ったら何も残らないような男性には聞き入れられないのである。
「十一時か……」
来所は十一時で締切ることになっているので、紘子は入口のドアの外側に、〈土曜日は午前十一時にて閉所。月曜日にお越し下さい〉というプレートをかけに立った。深田は、どこかの喫茶店から〈準備中〉というのをかっぱらって来ればいいと言ったのだが、紘子が猛反対して作らせたのだ。
机へ戻ると電話が鳴った。
「はい、〈深田ブライダル・コンサルタント〉でございます」
「所長さん、おいででしょうか。水島と申しますが」
聞き間違いようもない、あの優しい声だ。
「お待ち下さい」
紘子は深田へ電話をつないだ。「水島様からです」
「ああ、分かった」
驚いた様子もなく、即座に答えたのが、紘子には気に入らなかった。あの二人、土曜日にまた会おうと約束してたんじゃないのかしら……。席を立つと、所長室のドアへそっと耳を寄せる。
「……うん。それじゃ……一時半に」
やっぱり! 紘子は首を振った。知らないからね、どうなったって!
「じゃ、失礼します」
と十二時になるとほとんど同時に紘子は所長室のドアを開けた。
「ああ、ご苦労さん」
「お帰りにならないんですか?」
「ちょっとやりかけの仕事があってな」
「お手伝いしましょうか?」
「いやいや、そんな必要はない」
と深田が慌てて手を振って、「帰っていいよ」
「じゃ、お先に」
へん、追っ払おうったって、そうは行かないわよ! 紘子は外へ出ると、道の真向いにある喫茶店へ入った。
「ミートソースとコーヒー。一緒に持って来てちょうだい」
いつ深田が出て来るか分からないので、早く食べてしまわなければ。
紘子が深田のことを気にするのは別に古めかしい道徳観念にのっとってのことではない。深田が浮気しようがどうしようが、そんなことは構やしないのである。それこそ他人の口を挟むことではない。深田が巧く妻へ隠してそんなことのできるような男だったら、紘子も放っておくところである。しかし浮気なんかしようものなら、赤の他人だって分かるような顔で家へ帰るに決っている。そうなれば後は……想像する必要さえないくらいだ。
まあ夫婦|喧《げん》|嘩《か》――といったって、妻の方の一方的攻撃に終始するに決っているのだが――くらいでことがすめばいいが、これがこじれて離婚にでも発展したらどうなるか? 結婚相談所の所長が人妻との浮気がばれて離婚なんて、みっともなくって、とてもやっちゃいられない。深田も、そういう点、しごく|真《ま》|面《じ》|目《め》に、突きつめて考える|性《た》|質《ち》だから、相談所を閉鎖してしまうに違いない。そうなると、紘子も失業。大してもうかってもいないから退職金もあまり出るとは思えない。するとたちまち生活に困ることになる。仕事を捜しても、この不況の世の中、すぐに自分に|適《ふさわ》しい職場が見つかるとは思えない。
「それに、美人[#「美人」に傍点]っていうのは、とかくトラブルの種になるから敬遠されるのよねえ……」
とため息をつく。そうなるとしばしの食いつなぎに、とホステスか何かになって、そのうちに身を持ちくずし、夜の女になって……と、まあこれは考えすぎというものだが、ともかく失業するのは断じて困る!――というわけで、こうして深田の後をつけてやれ、と見張っているわけだが……。
「お待たせしました」
スパゲッティが来ると、紘子は急いで食べながら、見逃してはならじと、相談所の方へチラチラと目を走らせていたが、その内に、自分と同じことをやっている人間がいるのに気が付いた。
その男は三十五、六の、あまり目立たない感じの男で、灰色のコートに身を包んでいた。ちょうど相談所を見る位置に座り、紘子と同じミートソースを同じ様にせかせかと食べている。食べながらチラチラと目を上げているのも同じだ。
相談所を見張っているのだろうか? まさか、とは思ったが……。
コーヒーを半分ほど飲んだところで、深田の出てくるのが目に入った。慌てて立ち上ろうとして、男が立ち上ったのに気付いた。
「――所長を尾行してるんだわ」
外へ出て歩きながら、紘子は呟いた。深田の後、少し間隔を置いて、そのコートの男は歩いている。そのまた後を紘子が歩く。深田はもちろんそんなことなど露知らず、気が|急《せ》くのか、しきりに腕時計を見ながら歩いている。
一体あの男は何だろう? 探偵社か興信所の男だったら?――まずいことになるわ、と紘子は首を振った。それにしても、いやに手回しのいいことだ。
「何か妙だわ……」
と紘子は男の後ろ姿を見ながら呟いた。
時計を見ると二時半だった。
「のんびりしてるわね、全く!」
と紘子はブツブツ言いながら、足踏みをした。立ちっ放しなのでだるくなって来たのだ。深田は、いつもなら決して足を向けないような高級なレストランへ水島百合香を連れて入っていた。
「私にはお昼だってめったにおごってくれないのに」
紘子は不平たらたら、道を行ったり来たりしながらレストランの入口を見張っていた。例のコートの男は、新聞を広げてバス停の近くに、バスを待っているような感じで立っている。紘子みたいにイライラと歩き回ったりしないところを見ても、相当に尾行に慣れた人間だという印象を受ける。
レストランから深田が出て来た。続いて百合香も。紘子は手近な街路樹の陰に身を隠した。二人は道端に立ってタクシーを待っている様子だ、深田がキョロキョロと車の流れを目で追っている。
「まさか二人でホテルへ直行なんて……」
ふとコートの男へ目をやって、紘子はハッとした。男が、新聞を広げながら、器用に片手で何やらやっている。新聞の下から手を出して……写真[#「写真」に傍点]を撮ってるんだわ!
やっぱり探偵か何かに違いない。百合香の夫が、彼女を追い出そうとしていると言っていたではないか。深田と一緒の写真を撮って、彼女の浮気の証拠に使おうというのだ。そうなったら深田だってただではすまない。
「何とかしなきゃ」
自分の生活がかかっているのだ! 紘子は男の方へ歩き出した。その時、バスが来た。
「そうだ……」
紘子はバスが停って客が降りるのを待ってから、
「ちょっと待って!」
と大声で言って駆け出した。「乗ります!」
そして思い切り、コートの男へ体当りした。男がよろけて、ひっくり返りそうになる。手の中から、小型カメラが道へ落ちた。
「あら! ごめんなさい!」
と言うなり、紘子はハイヒールのかかとでカメラを踏んだ。ガシャッと音がして……。
「あ――それは――」
と男が仰天する。紘子は一言、
「失礼! 急ぎますので」
とバスへ飛び込んだ。バスが走り出すと、紘子は、コートの男が慌ててカメラを拾い上げるのを見ながら、
「いい気味だわ」
とペロリと舌を出してみせた。それにしても所長たち、どうしたかな。
「どこまで?」
と運転手に訊かれて、
「あら、すみません」
とバッグから小銭入れを出し、「ええと……このバス、どこに行くんですか?」
次の日曜日、一人でいてもつまらない、と紘子は友達の家へ遊びに行こうとアパートを出た。気持よく晴れた春の一日、あてもなく散歩でもしたいという気分であった。
昨日は所長たち、どうなったのかしら……。気になったが、まさか自宅へ電話して、
「ホテルへ行ったんですか?」
と訊くわけにもいかない。まあ、明日になれば分かることだ。顔に奥さんの|爪《つめ》の跡か、バンソウコウやキズテープが残っていたら、まあ命に別条なかったと喜ばねばならない。姿を見せなくて、休むという電話もなかったら、これは警察へ通報するべきだ。
不意に、両側に、いやに体つきのがっしりした男が一人ずつ立ったと思うと、紘子はグイと腕をつかまれた。
「な、何するのよ!」
真っ昼間から|誘《ゆう》|拐《かい》でもあるまい、と思って、キッとにらみつけてやると、
「寺沢紘子さんですね?」
「そうよ。一体何の用?」
「ご同行願います」
と、相手は警察手帳を取り出して見せた。
「どういうことですか? 私――」
「署で説明します。さ、どうぞ」
気が付くと、パトカーが一台、走って来て、目の前に|停《とま》った。どうやら偽刑事でもないらしい。紘子は肩をすくめてパトカーへ乗り込んだ。
一体警察が私に何の用かしら?――紘子はあれこれ頭をひねったが、どうにも思いつかない。車は運転しないからスピード違反のはずはない。もう二十三歳だから未成年の飲酒、喫煙ってわけじゃない。人は殺していないし、泥棒もやっていないし、銀行を襲ってもいない。
「ねえ、私に何のご用ですか?」
と訊いても、二人の刑事は、
「署で聞いて下さい」
と答えるだけ。紘子は、ムッと腕を組んで座席にもたれた。
警察署へ着くと、紘子は応接室と書かれた薄汚れた部屋へ通された。角がすり切れて色の変ってしまったソファが置いてある。
「お茶ぐらい出ないのかしら」
と一人で文句を言っていると、
「お待たせしました」
と声がして――。
「あなたは……」
紘子は思わずソファから腰を浮かして、目を見張った。
「昨日はどうも」
あの〈コートの男〉が言った。「部長刑事の小宮といいます」
「あのカメラはドイツ製でしてね」
「はあ……」
「署の備品の中でも一番高価な物の一つだったんです」
紘子は小さくなってうつむいたまま、
「あの……おいくらなんでしょう?」
「さて、五十万ぐらいだったかな」
「五十……万!」
「それに、器物破損、公務執行妨害の容疑もあります」
紘子は観念して、
「どうぞ留置場へでもどこへでも……」
とうなだれた。すると、思いがけず、小宮部長刑事は笑い出した。紘子が面食らっていると、
「いや、おどかしてすみませんね。冗談ですよ。あのカメラは惜しかったが、もう少々旧式だったのでね、ちょうど壊してもらってよかった。新しいのを買ってもらえます」
紘子は|額《ひたい》の汗を|拭《ぬぐ》いながら、
「じゃ、私を逮捕しないんですか?」
「ま、してほしければできますがね」
「いえ! とんでもない!」
と慌てて首を振る。
「それなら、大丈夫ですよ」
昨日はいやにパッとしない中年男と見えたのだが、こうして面と向って見ると、まだ三十代の初めぐらい。なかなかいい男である。
「ただ、どうしてあなたがあんな|真《ま》|似《ね》をなさったか伺いたいんですよ」
と小宮は言った。
「はい。実は……」
紘子は深田のところへ水島百合香が訪ねて来た所から順を追って話をした。
「――そんなわけで、てっきりあなたが興信所か何かの人だと思ったんです」
「なるほどね。いや、しかし僕も不注意だったな。尾行されているのに気付かないとはね」
小宮は首を振った。
「あの……それにしても、どうして所長を尾行されたんですか?」
「ええ……。それがね、これは決して口外していただいては困るんですが」
「お約束します」
小宮はしばらく紘子を眺めていたが、やがてニヤリと笑って、肯いた。
「いいでしょう。ただし、一つ条件があります」
「何ですか?」
「昼食を付き合っていただけますか?」
――四十分後、紘子は、小宮と向い合って食後のコーヒーを飲んでいた。紘子は、小宮が極めて愉快な話し相手で、ユーモアのセンスを持っていることを知って驚いた。捜査の裏話や、犯人を追いつめた時のスリル、失敗話などを巧みな話術で聞かせてくれるのだ。食事を終えるまでには、紘子はすっかりリラックスしていた。
「日本の刑事さんって、みんなおっかない人ばっかりかと思ってました」
「刑事だって十人十色ですよ。そうでなくちゃいけないんです。犯人の方が実に多種多様になっている。――小学生からエリート官僚までね。その頭の動きを追うには、こちらにもそれだけの多様性が必要なんですよ」
紘子は|頬《ほお》|杖《づえ》をついて小宮の顔を眺めながら、
「失礼ですけど、小宮さん、おいくつですか?」
「僕? 三十三です」
「ご結婚は?」
「いや、残念ながら暇がなくてね」
「そうでしょうね」
「分かりますか、独身だってことが?」
「女性がそばにいらっしゃれば、そんな白いワイシャツなんか着せておきませんわ」
小宮は笑って、
「さすがは結婚相談所の方だ」
「探してさし上げますよ、いつでも」
「安月給ですからね。割引料金で願いますよ」
二人はゆっくりとコーヒーを飲んだ。
「ところで、さっきの話ですけど――」
と紘子は言った。「あの水島百合香という人はどういう人なんですの?」
「ええ。実はね、まだ確証はないのですが、どうもあの女性はご主人を殺そうとしているらしいのです」
紘子は驚きのあまり声も出なかった。
「半月ほど前のことです。一台の車がブレーキの故障で暴走し、危うく電車に衝突するところを、道のわきにあった工事用の土砂の山へ突っ込んで助かりました。車を運転していたのは水島幸一」
「あの|女《ひ》|性《と》のご主人ですね」
「そうです。その件はまあ、全くの事故として処理されたのですが、その後、警察へ一通の匿名の手紙が舞い込んだのです。それによると、あの故障は意図的に手を加えられたものだ、というのでした。――まあ、こういう投書は決して少なくありませんし、内容もでたらめがほとんどです。しかし一応調べてみようということになり、僕が水島氏を会社へ訪ねたのです。彼はそれを一笑に付し、あれは全くの事故だったのだと言いました。しかし……何というか、その口調の裏に、妙に何かに|怯《おび》えているような響きがあるような気がして、僕はひそかに水島家の内情を探ってみました」
「それで、どうでしたの?」
「まあ、水島幸一というのは、相当の財産家で、やり手ですが、また女にも目がない。その百合香という妻がおたくの所長さんに話した通り、広い邸内に離れを建て、そこに若い女を置いているのです」
「ずいぶんひどいことをするんですね」
「まあ、夫人との間に子供がないということもあるのかもしれません。その女――|入《いり》|江《え》|麻《ま》|美《み》という二十七、八の女ですが、夏には子供が生れるんですよ」
「まあ!」
「妻にしてみれば、ただでさえ夫の心が若い恋人へ傾いているのに、この上子供が生れたら、自分の地位が危うくなる。そう考えるのは当然のことでしょう」
「それでご主人を殺そうと……」
「そう断定しているわけではありません。しかし、その可能性はある。――警察というのは不便なものでしてね、何か[#「何か」に傍点]が起こらなければ動くことはできないのです。未然に防ぐというのは不可能に近いのですよ。しかし、これはどうも気になりました。それで手の空いた時にあの夫人の行動を監視していたわけなんです」
「何かつかめまして?」
「何もつかめない内に、水島幸一がまた事故に|遭《あ》ったのです」
「いつですか?」
「一週間前です。水島邸は今、一部を建て直しているんですが、その現場を歩いていて、急に頭の上の足場から、セメントの袋の山が落ちてきたのです」
「それでけがは?」
「危機一髪、何事もなくすみました。しかし、今度は水島も不安に思ったのか、警察へ調査を依頼して来たので、僕が出向きました」
「どうでしたの?」
「調べた限りでは、故意に落とされたものだという証拠はありませんでした。しかし、そこは、二階のベランダからすぐ近くで、たとえば、物干しざおか何かで突っついて、セメントの袋を落とすことは至極簡単なのです。そしてその時、夫人は二階に一人でいました……」
「どうもごちそうになって……」
レストランを出ると、紘子は言った。
「いや、とんでもない。――少し歩きませんか?」
「はあ」
紘子は肯いた。二人は昼下りの公園に行って、ベンチへ腰を降ろすと、そこここのアベックを眺めた。暖かい|陽《ひ》|射《ざ》しが眠気を誘うようだ。
「刑事さん」
紘子が言った。「所長を尾行されていた理由なんですが……」
「小宮と呼んで下さいよ」
と微笑んでから、「――もし、あの夫人がご主人を殺そうとしているのなら、男の共犯者[#「男の共犯者」に傍点]がいると思ったからです」
「なぜですの?」
「夫人は車を運転しません。車に細工をするには、車の構造を知っていなければできない。それに、あれだけ夫に冷たくされているのですから、夫人の方にも男がいて不思議はない」
「でも、所長は違いますわ!」
と紘子は言った。「所長は真面目で……本当にお人好しなんです。そんなことの共犯になるような人じゃありません!」
「あなたがそう言うなら間違いないでしょう」
と小宮は素直に肯いて、「僕としては一応夫人と一緒にいるのがどういう男か確かめたかったんです」
「邪魔しちゃってすみません」
「いいですよ、もう。気にしないで下さい。ただ……」
「何か?」
「あなたの目から見て、所長さんの様子がおかしいようなことがあったら、僕に知らせていただきたいんです」
紘子はちょっと迷ってから、
「分かりました」
と肯いた。
「約束してもらえますね?」
「お約束します」
小宮は大きく伸びをして、立ち上った。
「それじゃ、僕は署へ戻らないと」
「色々どうも……」
二人は公園の出口へブラブラと歩いて行ったが、小宮が急に立ち止まると、両手で紘子の右手を握った。びっくりして引っ込めようとする手を小宮は強く握ったまま離さず、
「また会ってもらえませんか? 仕事ではなく……お願いです」
紘子は突然頬がカッと燃え上り、胸が震えるのを感じた。
「ええ」
と目を伏せながら答える。我ながら驚くほど低い声。
「よかった。また電話します」
小宮はそう言うと、もう一度紘子の手を強く握ってから足早に去って行った。
紘子は歩き出した。むやみやたらと早い足取りで、次々と先行く人を追い越して、何かにせき立てられているようだった。歩きながらブツブツ呟いていた。
「何よ、だらしない! 十六や十七の女の子じゃあるまいし! 赤くなったりして! 馬鹿! 馬鹿!」
赤信号で立ち止って、まだ一人言を言っていると、隣にいた若い男がおずおずと、
「あの……」
「え?」
「僕、何かしましたか?」
「いいえ、どうして?」
「馬鹿って言われたような気がしたんで……」
月曜日。相談所はいささか開店休業の趣があった。所長と、ただ一人の所員が両方とも半ば夢うつつの状態で、さっぱり仕事に身が入らないのである。
「寺沢君、この組の成立料はもらってあるのかね?」
「ええ、もちろんです」
「じゃすぐ請求してくれたまえ」
「分かりました」
といった具合で、どっちもどっち。
それでも昼近くになると、さすがに紘子は普段の状態に戻っていて、深田の様子を気にするだけの余裕ができていた。
深田が無事に[#「無事に」に傍点]出勤してきたのは、水島百合香とそう深い仲になったわけでもないからだろう。しかし、朝からの様子はやはり普通ではない。
「所長」
「何だ?」
「そろそろお昼ですが」
「先に食事して来い、俺は電話する所がある」
「はい」
怪しいぞ。よほどのことでない限り、自分で電話したりする所長ではない。紘子はわざとぐずぐずして、出るのを遅らせた。所長室から声がした。ドアへ耳を寄せると、
「……予約してあるんだね?……うん。……何とか……」
と電話で話しているのが聞こえて来る。紘子はそっとドアから離れ、昼食に出た。
心配事が多いと食欲もなくなるものだ。紘子はいつもの店をやめて、サラダの店へ入った。しかし、それだけではさすがにちょっと物足らず、甘味の店へ回ってアンミツを食べ、まだ時間があったので、パーラーへ入ってストロベリー・パフェを食べた。
深田があの水島百合香という女性と会い続けていることは間違いない。もし彼女が小宮の言った通り、夫を殺そうとしているとしたら、深田はとんでもないことに巻き込まれてしまうかもしれない。
「人は|好《い》いんだけどね……」
何しろ、あの女性の|哀《かな》しい身の上話を頭から信じ切っているのだ。本当に彼女を救うためだったら、何だってやりかねない。――といって、どうすればいいだろう? ああいう人間がああいう状態にある時には、何を言ったって受け付けるはずがない。
結局、私が気を付けてるより仕方ないのかなあ……と紘子はため息をつき、世話の焼けるボスだこと、とグチった。
パフェを食べ終えると、口の中がスッキリしないのでコーヒーを頼んだ。
紘子は、小宮に握られた手の感触を思い出しては、頬へポッと朱のさすのを楽しんだ。こんな、快いときめきを感じるのは何年ぶりだろう?
刑事か……。結婚相談所所員としては、あまりお勧めできる相手とは言いかねた。労多くして報いは少なく、常に危険にさらされている。それだけに、充実した、張りつめた生き方が魅力でもあったが、恋人ならともかく、夫となると……。
「馬鹿ね!」
と呟いて肩をすくめる。結婚を申し込まれたわけでもないのに。――コーヒーを飲みながら、それでも自分があの小宮という男に魅かれていることは、素直に認めた。会ってほしいと言ってくれば、何を放り出しても会いに行くに違いないと分かっていた。
「小宮さん」
と低い声で呟いてみる。「そうだ、名前の方を聞いてなかったわ……」
紘子が戻ると、深田が訊いた。
「午後の面会の最後は何時だったかな?」
「四時です。新田さんですが」
「そうか……。すまんがちょっと用ができた。他の日へ変えてもらってくれ」
「分かりました」
「じゃ食事に出てくる」
「行ってらっしゃい」
深田が出て行くと、紘子は新田という客へすぐに電話をして日時を変更してもらった。
「申し訳ございません、こちらの都合で。――失礼します」
受話器を置いて、メモ用紙に新しい約束の日時を書き入れると、深田の机へ置きに行った。メモ挟みへ挟み込もうとして、下のメモの走り書きが目に止まった。ほとんどなぐり書きに近い字で、しかも×印で消してあるので、なおさら読みにくい。
「ええと……最初の字は〈入〉、終りは……〈美〉らしいわね」
はっとした。――入江麻美[#「入江麻美」に傍点]。確かにそう読める。水島が離れに住まわせている愛人の名ではないか!
これは一体どういうことだろう? この名前は水島百合香から聞いたのに違いない。するとさっきの電話は何の話だったのか?
「予約してあるんだね?」
と深田は言っていた。予約。ホテルの部屋か何かだろうか? 単に|逢《あい》|引《び》きするだけなら、なぜ入江麻美の名が出たのか……。
席へ戻ると、紘子は受話器を取り上げ、ダイヤルを回そうとした。――しかし、結局、そのまま受話器を置いてしまった。小宮との約束を忘れたわけではない。しかし、もっとよく確かめたかった。万一、深田が知らずしらず、水島百合香の計画に足を踏み入れているのだったら、警察に知られないうちに、深田をそこから救い出してやりたかったのである。
「ここが|潰《つぶ》れちゃ困るもんね……」
と言いながら、いくらかは本気で深田のことも心配していたのである。「――出来の悪い子ほど|可愛《かわい》いっていう心配と同じなのかな」
それからハンドバッグからコンパクトを取り出すと、鏡に映った自分の顔に見入りながら呟いた。
「意外に母性本能が強いのかしら、私って?」
深田がコソコソとそのホテルへ入って行ったのは、四時半だった。
紘子は、ヨーロッパの城を模したホテルの外観と、その上にケバケバしくきらめくネオンサインを見上げた。その俗っぽさ、安っぽいキンキラ趣味。
――深田でなくたって入るのにためらってしまう。
「さて、と。どうしたらいいのかしら?」
ここまで深田の後をつけては来たものの、ラブ・ホテルへ一人でのこのこ入って行って、
「深田さんの部屋、何号室?」
なんて訊いたって、教えてくれるはずもない。それに予約はあの水島百合香がしているのだから、抜け目なく変名を使っているに違いない。
仕方ないわ、いつになるか分からないけど、出て来るのを待とう。
――紘子はため息をついた。
ただ深田と、あの美しい人妻がここで逢引きしているだけならここまでしないところなのだが、深田のメモにあった〈入江麻美〉の名が、気にかかる。二人で話をしている時にその名が出ることはあるだろうが、逢引きの打ち合せに、憎い夫の愛人の名が出てくるのはちょっと|解《げ》せない話だ。
「もしかしたら……」
所在なくブラブラ歩いていた紘子はハタと足を止めた。「まさか!」
もし、水島百合香が、夫でなく、その愛人の方を殺そうと方針を変えたとしたら? 男を殺すより女――それも妊娠中の女――を殺す方が容易なのは考えるまでもない。深田はその片棒をかつがされているのかもしれない。
紘子は、ホテルを見上げた。あの一室で、呼び出されてやって来た入江麻美を水島百合香が冷酷に縛り上げ、青くなって震えている深田に早く首をしめろとそそのかしているのかもしれない……。
想像の過多は紘子の持病である。|一《いっ》|旦《たん》そう思い込むと、重いカーテンの下がった窓から、断末魔の叫びが|洩《も》れ聞こえて来るような気さえする。
「何とかしなくちゃ!」
あの、バカだけど人の好い所長を殺人犯にしちゃ|可哀《かわい》そう……。紘子は愛情|溢《あふ》れる思いで決心すると、ホテルへ向って歩き出そうとした。その時、誰かの手が肩へ置かれて、
「キャッ!」
と飛び上る。「あ……小宮さん!」
目の前に立っていたのは、小宮部長刑事だった。いたずらっ子をたしなめるように紘子をにらむと、
「約束を忘れたんですか? 所長さんに不審な行動があったら僕へ知らせてくれるはずだったでしょう?」
「す、すみません」
紘子は首をすくめた。「不審な行動かどうかを確かめてからと思って……」
「それじゃ遅いですよ」
小宮が笑顔になったので、紘子はホッとした。
「でも、小宮さんはどうしてここへ?」
「水島邸の裏門から入江麻美が出て来るのを見かけましてね。出かけるのを知られたくないのか、えらく用心しているので、妙だなと思ってつけて来たんです」
「彼女もこのホテルに?」
「ええ、そうです。それで様子を見ていたらお宅の所長さんも、ってわけで」
「私、心配なんです。もしかして水島百合香が所長を使って入江麻美を殺そうと……」
「まさか!」
小宮は目を見開いて言った。それから考え込んでホテルの方へ目を向け、
「まさか……とは思うけど……」
と呟いて、「万が一ってこともある。行ってみましょう!」
「ええ!」
二人は急いでホテルへ入って行った。
フロントには人影がなかった。小宮が置いてあった呼鈴を派手に鳴らすと、カーテンの奥から、えらく太った中年男がのっそりと出て来て、小宮と紘子を交互に見ながら、
「いらっしゃいませ!」
と愛想よく微笑み、「お部屋のご用ですな?」
「実は――」
「いや、ご説明には及びません。ご休憩、ちょっと疲れたので一休みですね? それともお連れの女性がご気分が悪い? そいつはいけませんな! なあに、このホテルの特製ベッドでお休みになればすぐ良くおなりですよ」
「そうじゃないんだ。僕は――」
「分かっております!」
と太った男は小宮を遮って、「お二人はただ誰にも邪魔されない二人だけの時間を持ちたい、そこでゆっくりとお話をなさりたい、とこういうわけですね? むろん、それも結構! 快適なソファもお部屋にございます。コーヒー、紅茶、アルコールの類もルームサービスいたします。快く酔って語らううちにふと眠気がきざして参りましたら、広々としたベッドでお休みになればよろしいので」
「おい! こっちは急いでるんだ!」
と小宮がイライラと怒鳴ると、太った男はいささかも慌てず、
「いやいや、お若い方はせっかちでいらっしゃる。ふっと燃え上って来た恋の炎を抑えかねてここへ飛び込んでおいでになったのですな? いや、無理もない、この美しい女性が一緒ではね。では早速お部屋の方をお決めいただきましょう。はやる思いを一気にとげて、それからゆっくりシャワーでも浴びて……その先は天国でございますからね!」
と男が何ともイヤラシイ笑いを浮かべると、紘子はもう真っ赤になって、うつむいてしまった。小宮は完全に頭へ来た様子で、警察手帳をフロントの男の目の前へグイとつきつけてやった。男が急に別人と入れかわったかのように真顔になった。
「失礼しました」
声まで変っている。紘子は、この人、物まねでもやったらいいんじゃないかしら、と思った。
「少し前に入って行った中年の男、何号室へ行った?」
「はあ……。中年の男といって……ここは中年のお客がほとんどですから」
「一番最後の客だ! 僕らが来る前にここへ来た」
「ああ! あの、えらくオドオドした、落ち着きのない方ですね?」
所長もラブ・ホテルのフロントにそう見られるようじゃおしまいね、と紘子は思った。
「四二一号室です」
「ありがとう!」
二人が急いでエレベーターの方へ歩いて行くと、フロントの男が声をかけた。
「お部屋はお取りしなくてよろしいので?」
「いらんよ!」
「警察の方は半額にします。いつでもどうぞ!」
エレベーターへ乗り込むと、小宮は首を振って、
「やれやれ、こんな所に割引があるとは思わなかった」
「学割もあるんでしょうか?」
「まさか」
四階で降りると、二人は廊下を急いで|辿《たど》って行った、ドアのプレートを、〈四一〇〉、〈四一一〉……と追って、
「この先だ」
と足を早めた時だった。ドアの一つが開いて、当の深田がフラフラとよろめくように廊下へ出て来たのだ。
「所長!」
と紘子が声をかけると、深田はハッと我に返ったように、
「寺沢君! 君がどうしてここに?」
「そんなことより、大丈夫ですか?」
「う、うん。俺は大丈夫……。その男は?」
と不思議そうに小宮を見て、「おい、寺沢君! まさか君はこの男とここへけしからんことをしに――」
「何を言ってるんですか!」
紘子はキッと深田をにらみつけた。よく言うわ、全く!
「僕は小宮部長刑事」
「刑事?」
深田はキョトンとして、「警察の刑事?」
「他に刑事はあまりいないと思います」
「そう……。それもそうだ。しかし、えらく手回しがいいね」
「――と言うと?」
「つまり、中で女が……」
最後まで聞かずに、小宮と紘子は部屋の中へ飛び込んだ。紘子は思わず声を上げそうになって口へ手を当てた。なぜといって――誰だって自分の想像した光景が、ソックリそのまま目の前に出現したら、びっくりしないわけにはいかないだろう。
普通のダブルベッドの倍近い大きなベッドの上に、女が横たわっていた。両手両足を縄で縛られている。そしてセーターから|覗《のぞ》く白い首のまわりには革のベルトが……。
「入江麻美だ!」
小宮は駆け寄ってベルトを外し、女の胸へ耳を押し当てた。紘子は息を|呑《の》んだ。小宮が顔を上げ、
「大丈夫、気を失ってるだけだ」
と息をつく。紘子も胸を|撫《な》でおろした。
小宮が麻美の縄を解いてやる。――入江麻美はなかなかの美人だった。|華《しゃ》|奢《しゃ》な印象は、水島百合香とどこか似通っている。水島という男の好みなのかもしれない。
深田は後から部屋へ入ってくると、ぼんやり突っ立っていた。紘子は振り向いて、
「所長、一体どうしたんですか、これは?」
「え?……いや、俺にもさっぱり分からんのだ。この部屋で入江麻美って女と会うことになっていた。その……彼女に頼まれてね」
「百合香さんですね?」
と紘子が深田をにらみつける。
「うん。つまり……この女と会って、水島との仲を清算するように話をつけるはずだったんだ」
「それがどうして――」
「分からんよ。ともかく部屋に入るなり、俺は頭へ一発食らってのびちまったんだからな」
「本当に?」
深田はムッとしたように、
「部下のくせに俺の言葉を疑うのか!」
「この場合、主従関係は問題になりません」
「じゃ、一体何だって言うんだ?」
紘子はふと、深田がしきりにズボンを引っ張り上げているのに気付いた。
「所長、ベルトは?」
「ん?……そうか、ベルトがないのか。どうも下がっちまうと思った」
「これでしょう」
小宮がベッドへ投げ出された革のベルトを指さした。
「ああ、それだ! ちょっと取ってくれ」
「それは入江麻美の首に巻きついてたんですよ」
紘子はまじまじと深田を見つめた。深田はしばし|呆《ぼう》|然《ぜん》としていたが、
「すると……」
「そうですよ、所長」
と紘子はため息をついた。深田もため息をついて、
「それじゃ新しいベルトを買わなきゃならんなあ」
紘子はいい加減頭へ来て、深田を|蹴《け》っ飛ばしてやろうかと思った。その時、入江麻美が目を開いて、ソロソロと体を起こした。
「もう大丈夫ですよ」
と小宮が力づけるように、「僕を|憶《おぼ》えていますか?」
「ああ……刑事さんね。いつかいらした……」
「そうです。一体何があったんですか?」
「ええ……私……」
と言いかけた麻美は、深田に気付くと、
「キャーッ!」
と悲鳴を上げて小宮へすがりついた。
「あの人よ! あの人が私を殺そうとしたのよ!」
「ち、違う!」
深田もさすがにびっくりする。「俺は何もしていないぞ!」
小宮が深田の方へ歩み寄って、
「深田さん。ともかく彼女の首に巻きついていたベルトのこともある。一緒に警察へ来ていただきましょう」
「何もしていないのに、どうして――。寺沢君! 何とかしてくれ!」
紘子はハムレットの上を行くジレンマに陥っていた。深田はこんなことをする男ではない。しかし状況は著しく不利だった。深田に味方したいのは山々だが、小宮が深田を連行しようというのも、この場合当然すぎるほど当然だ。
「所長、警察でよく事情を説明すればきっと分かってもらえますわ」
「寺沢君! 君まで俺のことを……」
ブルータス、お前もか、といったシーザーみたいに、深田はガックリと肩を落とした。
「所長……」
と慰めようとすると、
「放っといてくれ! 俺は警察へなど行かんぞ!」
と怒鳴ったかと思うと、深田は小宮へ殴りかかった。紘子は、自分の目が信じられなかった。深田が、小宮を殴り倒した[#「殴り倒した」に傍点]のだ! 深田自身も一瞬信じられなかったらしい。唖然として、床にのびた小宮を見下ろしていたが、素早く身を|翻《ひるがえ》すと、ズボンが落ちそうになるのを押えつつ、部屋を飛び出して行ってしまった。
「所長!」
後を追おうとして、紘子はためらった。自分の手で所長を警察へ引き渡すなんて、できない。
「ああ、とんでもないことになったわ!」
紘子はお手上げといった格好で呟いた。
「やれやれ、油断しましたよ……」
小宮は|顎《あご》をさすりながら、「必死になると人間、|凄《すご》い力を出すもんだな」
「すみません」
「いや、あなたが謝ることはない。しかし、お宅の所長さんを指名手配しなきゃなりませんね」
「小宮さん、所長はそんなことのできる人じゃありません!」
「しかし現に襲われた本人が……」
「私……興奮してしまって……」
と麻美がベッドから降り立つと、「本当のところ、あの人だったって確信はないんです」
「何ですって? それじゃ一体――」
「私、百合香さんから、二人で話したいことがあるのでここへ来てほしいと言われてやって来たんです。でも部屋へ入ってみても誰もいなくて、部屋の様子が珍しいので、バスルームを覗いてみたんです。そうしたらいきなり後ろから抱きつかれ、麻酔薬をしみ込ませたらしいハンカチを顔に押し当てられました。で、気を失い、気がつくと、手足を縛られ、ベッドへうつ伏せに寝かされていました。そして首にベルトが食い込んで来て……私、必死で暴れました。意識を失う直前に、足で何かを蹴飛ばしたような気がします……」
「それであの深田所長がのびてたのか」
「でも……確かにさっきの人だとは言いきれません。だって私、その人の顔は見なかったんですもの」
「じゃ所長じゃないかもしれないわ!」
紘子は勢い込んで言った。「その犯人が所長を殴って気絶させ、所長のベルトを取って、罪を着せようと……」
「ま、その可能性はありますがね。それにしても逃げちまったのはまずいなあ」
「小宮さん、お願い! 私を信じて下さい。所長、自分でも何をやったのか、きっと分かってないんですよ」
紘子の切々たる訴えに、小宮は渋々笑顔を作ると、
「分かりました、取りあえず僕個人の力で捜してみましょう。しかし所長さんでないとすると……」
小宮は麻美の方へ向くと、「あなたを襲ったのが女だった[#「女だった」に傍点]とは考えられませんか?」
「女? まさか!」
と言ってから、「でも……確かに麻酔薬をかがされて気を失ってたんですから、女の人かも……。まさか百合香さんだとおっしゃるんじゃないでしょう?」
「僕は誰だとも言っていませんよ」
小宮はそう言うと、「さあ、お宅までお送りしましょう」
と入江麻美を促した。
「ここはどうするんですの?」
「後で鑑識に調査させます。あなたはともかく一旦帰宅してお休みなさい」
「はい。一人で帰れますわ。大丈夫」
「しかし――」
紘子が口を|挟《はさ》んで、
「私が送って行きましょうか? タクシーを呼んで」
「そうしてもらえると助かります。麻美さんは構いませんか?」
「ええ、ご迷惑でなければ……」
タクシーに乗り込むと、入江麻美は疲れたように座席に身を沈めて息をついた。
「大丈夫ですか?」
と紘子が訊くと、微笑んで、
「ええ。ちょっとショックが残ってるだけですわ」
「大変でしたね。それに――お腹に赤ちゃんがいらっしゃるんでしょ?」
「そうなんです。――時々気分が悪くなるの、そのせいですね。何もさしさわりがないといいけど」
「念のために病院へ行った方が……」
「ええ、そうします。あなたは、失礼ですけど――」
紘子は自己紹介をして、深田と百合香夫人のことをごく簡単に説明した。
「まあ、そうなんですか。百合香さんも気の毒な方……」
と麻美は暗い面持ちになって、「私があの方の立場だったら、きっと私を殺してしまうわ」
「同情してるんですか?」
「女として、気持が分かるんです。でも私と水島の仲も、今さらどうすることもできません。何と言われようと別れたりはしませんわ。たとえ……殺されたって!」
入江麻美の言葉には気迫が溢れていて、紘子は何も言えなかった。
女の闘いか……。私は生涯独身で通そうかしら、と紘子は本気で考えた。
八時過ぎ、アパートへ夜道を辿りながら、一体、所長はどこでどうしているのかな、と紘子は考えた。
一応、駅前で食事をとってから、深田の家へ電話をしてみたのだが、志津子夫人が、
「急の出張だって、さっき電話がありましたよ、あなたご存知ないの?」
と不思議そうに訊いて来たので、慌てて、
「ああ、それじゃやっぱり……」
と適当にごまかして電話を切った。
「ちゃんと家へ電話を入れるのが所長らしいところだわ」
しかし、警察が本当に深田を指名手配でもしたら、もう出張だなんてごまかしてはいられなくなる……。紘子は、ふと思いついて、通りかかった電話ボックスへ入り、ダイヤルを回した。
「もしもし、小宮さんはいらっしゃいますか?」
「小宮はもう帰宅しましたよ」
とぶっきら棒な返事。
「そうですか。どうも……」
帰宅したというぐらいだから、別に指名手配といった大騒ぎにはなっていないのだろう。少し安心して紘子は電話ボックスを出た。とたんに、
「おい」
と声をかけられ、ギョッと立ちすくんだ。
「俺だ」
振り向くと、深田が暗がりから、恐る恐る顔を出した。
「所長!」
「君が帰りにここを通るだろうと思ってな。ずっと待っとったんだ」
「びっくりさせないで下さい!……でもどうしてこんな所に?」
「家へ帰ればサツの手が回っとるに決ってるじゃないか」
といっぱしの逃亡犯風の口をきいて、「といってホテルにも写真が行ってるかもしれん。で、仕方なく君の所へ来たんだよ」
「|呆《あき》れた!」
所長はそんな重要人物じゃありませんよ、と言おうとして思い直すと、「じゃともかく、私のアパートに」
「すまんな」
「男の人を入れたなんて分かったら、叩き出されちゃうんです。静かにしてて下さいね」
「俺はいつも静かだ!」
と深田は怒鳴った。
アパートの部屋へ深田を入れて、紘子はドアを閉めた。
「ふーん、なかなか小ざっぱりした部屋だな」
「あんまり見ないで下さい」
紘子は座り込んで、「今夜はどうするんですか?」
「ん? ああ……。ここに泊めてくれんか?」
「何ですって!」
紘子はゴクリと|唾《つば》を飲み込んだ。
「いや、大丈夫。妙な下心などないよ」
「当り前でしょ!」
紘子は、深田が逃げ出した後のことを話して聞かせた。「だから、お宅へお帰りになっても大丈夫ですよ。ちゃんと明日警察へ行って謝ってくれば」
「そうか……」
深田はやや複雑な表情で肯いた。――警察に追われずにすむのはありがたかったが、反面、かつてのTV映画「逃亡者」の主人公の如く(ちょっと古い話で恐縮)、かげ[#「かげ」に傍点]のある謎の男の役が演じられなくなったので不満なのだ。暗い過去を背負った男というのは、なぜかもてる[#「もてる」に傍点]。いつもは冷ややかな|軽《けい》|蔑《べつ》を込めた目で見ている紘子だって、〈可哀そうな人!〉とか言って、俺の胸へ身を投げて来るのではないか……なんて勝手なことを考えていたのである。
紘子の空想癖が深田へ伝染したのかもしれない。
「ともかく、今夜だけ泊めてくれ。女房へも出張で戻らんと電話しちまったんだ」
「分かりました」
紘子は渋々承知して、「ただし、ちょっとでも妙なことをしようとしたら、窓から叩き出しますからね!」
と宣言した。
「おい、ここは二階だろう?」
「ええ、窓の真下にゴミバケツもありますから」
と紘子は付け加えた。
「一体どうしてあんなことになったのかなあ」
と深田が首をひねった。――腹が減った、という深田へ、紘子が手作りのカップラーメン(つまり、お湯を沸して作ってやった)を食べさせてやりながら、
「私にもさっぱり分かりません」
ととぼけて見せた。深田の|想《おも》いを寄せる水島百合香が女殺人者だなんて知らせるのは、あまり気が進まなかったのだ。
「ともかく誰かがあの入江麻美って女を殺そうとした。なぜだ? それに犯人はどうして彼女があのホテルへ行くのを知ってたんだ?」
深田が珍しくまともに推理を働かせた。そしてしばらく考え込むと、
「きっと天罰だな」
と言って、ラーメンをすすり始めた。
大した推理ですこと。紘子は肩をすくめた。確かに誰かが入江麻美を殺そうとした。……しかし……そうだろうか? それならなぜ殺さなかった[#「なぜ殺さなかった」に傍点]のか? 麻酔薬をかがせ、手足を縛っておきながら、そして深田のベルトを使うという芸の細かいことをしておきながら、犯人は入江麻美を殺さなかった。なぜ?
紘子は頭をかかえた。もう少し、もう少し考えてみるんだ!
犯人は最初から入江麻美を殺すつもりはなかったのだ。本気で締めていれば、麻美が意識を取り戻してから、ああもケロリとしていられるはずがない。意識を失う直前に足で犯人を蹴ったなんて言ってるが、本当にそんなことができるだろうか? もしできたとして、犯人が一旦気を失ったとしても、少なくとも紘子たちが駆けつけた時には影も形もなかったのだから、すぐに意識を取り戻したはずだ。そして麻美はまだ気を失ったままでいる。ギュッとベルトを引っ張るぐらい簡単だ。それをしなかったというのは、やはり殺す気がなかったからだとしか思えない。
すると、なぜ犯人はあんな真似をしたのか? 麻美を脅すためか? それにしては手間がかかりすぎる。水島を|狙《ねら》った方法が二度とも事故と見えるように巧妙に仕組まれていたことを考えれば、やはり同じような手段を選ぶのが自然である。
何かおかしい。どこかが……。
「私、ちょっと出かけてきます」
と紘子は立ち上った。
「どこへ?」
「さっきのホテルです。一緒に来ますか?」
深田は目をパチクリさせて、
「う、うん。しかし……」
「もうラーメン食べ終ったんでしょ?」
「そりゃそうだが、俺は妻子ある身だからな、君の気持は分かるが……」
今度こそ紘子は本当に深田を蹴っ飛ばしたくなった。
「おや、さっきのお嬢さん」
フロントの太った男は紘子を見てニッコリした。
「今度はお部屋のご用で?」
「いえ、残念ながらそうじゃないの」
男は、紘子の後ろに立っている深田をチラリと見て、
「……でしょうね」
と肯いた。幸い、その意味は深田には通じない。
「ここは出入口は他にいくつあるの?」
「この他にですか? お客様のは――」
「全部よ!」
「従業員用の裏口は当然あります。それから地下の駐車場から直接エレベーターにも乗れます」
「さっき四二一号室にいた女性は一人で来たの?」
「もちろん。そちらの方とお待ち合わせだったんでしょう?」
「駐車場には誰かいるの?」
「係の者が」
「二、三伺いたいことがあるの」
「分かりました」
さっき小宮と一緒だったので、紘子のことも警察の人間だと思っているのか、太った男は至って素直だった。「呼びましょうか?」
「いえ、私が行くわ」
紘子と深田は教えられた階段を降りて行った。地下の駐車場は、ほぼ半分くらいが車で埋っている。入口の所に制服を着た老人がポケッと座っていた。
「ちょっと伺いたいんだけど……」
紘子は声をかけた。「フロントの人にも断ってあるわ」
「何です?」
「ここへ来る車はたいてい二人乗ってるでしょ?」
「ほとんど全部ね。たまにゃ三人ってのもあるがね」
「本当?――ま、いいわ。今日の夕方に、一人で[#「一人で」に傍点]ここへ入って来た人はいなかった?」
「さてね……何しろ客が多いもんで」
と老人は首を振る。紘子は敏感に察して、深田の方へ手を出した。
「何だ?」
「鈍いんだから、所長は」
と紘子は深田の背広の内ポケットへ手を突っ込み、財布を抜き出した。
「おい!」
「所長が捕まるかどうかの瀬戸際ですよ」
と他人の財布だから気を楽に五千円札を一枚抜いて、老人へ渡し、「何とか思い出してもらえない?」
「そうさな……」
老人は手早く札を引ったくり、ポケットへ押し込んだ。「一人の客はいなかった」
「確かに?」
「ああ、でもな、妙な客があったよ」
「妙な客?」
「男の方はエレベーターで行き、女の方はわざわざ表へ出て正面玄関から入ってった」
「それだわ! どんな様子だったか憶えてる?」
「うん……。何しろ薄暗いからねえ……」
深田は、自分の財布から千円札が三枚抜き取られるのを、今にも泣き出しそうな顔で見ていた。
「一体どういうことなんだ?」
タクシーの中で、深田が訊いた。
「分かりませんか? あの殺人未遂は狂言だったんですよ」
「狂言?」
「ええ、駐車場のおじいさんが見たのは確かに入江麻美です。彼女は一人で来たように見せかけるために、正面の入口から入り、一緒に来た男はエレベーターで直接上へ上り、部屋の前で彼女の来るのを待ったわけです。そして中へ入ると、男の方が彼女を縛り、所長が来るのを待ち伏せして殴り倒し、所長のベルトを彼女の首へ巻きつけて、さも殺そうとしたかのように見せたんです」
「一体どうしてそんなことを……」
「もっと大きな目的のために、ああ、間に合えばいいけど……」
タクシーが水島邸の前へ着くと、紘子は深田へ、
「料金払っといて下さい!」
「畜生、人の金だと思って……」
ブツブツ言いながら財布を取り出す深田に構わず、紘子はタクシーを飛び出して、水島邸の門を押し開けると、玄関へ向って走った。
玄関へ入るとすぐに強いガスの匂いがして、紘子は慌ててハンカチで鼻と口を|覆《おお》った。――どこだろう?
運よく、めちゃくちゃに飛び込んだ部屋に、水島と覚しき中年の男が倒れていて、部屋の隅ではストーブのガス管が外れて、シューシューとガスが景気よく吹き出している。紘子は急いでガスを止めると、部屋の窓を一杯に開け放ち、その近くのドアも窓も、片っ端から開けて行った。
チカチカと目を刺すような痛みも、匂いも、少しずつ薄らいで行く。
「おい、どうなってるんだ?」
深田が|咳《せき》|込《こ》みながらやって来た。
「その人、大丈夫ですか?」
「うむ?……これが水島か?……大丈夫だろう。息をしてるぞ」
「よかった! 間に合ったんだわ」
「ガス中毒か。――ストーブなんて、この暖かいのに!」
「ええ。もちろんわざと[#「わざと」に傍点]ストーブを使ったんです。事故に見せかけた殺人と分かるようにね」
「どういうことだ?」
「つまり誰かが水島さんを殺そうとしたんです。そして所長と百合香さんが犯人にされるところでした」
「何だと?」
「ともかく、救急車を呼びますわ」
と廊下へ出た紘子が電話を見つけて手をのばした時、
「電話されるのは困りますね」
と声がした。紘子が振り向くと、小宮部長刑事が立っていた。
「小宮さん……。やっぱりあなただったんですね」
「あなたにも分かってたのかな」
「ホテルでの殺人未遂が狂言だと気が付いた時に……。それにいくら何でもあなたのようなベテランの刑事さんが、所長に殴られたくらいでのびるはずがありませんもの。初めから所長を逃がすつもりだったんですね」
「その通り」
「百合香さんは?」
「偽電話で呼び出されて、今頃は待ち合わせの公園で不思議がってるでしょう」
「それで所長も百合香さんもアリバイがなくなる、というわけですね」
「そうです」
紘子はじっと小宮を見つめた。
「でもあなたはどうしてこんなことを……」
「僕と麻美は一年近く前からの仲でね」
小宮は淡々と言った。「麻美はもう水島に飽き飽きしていた。その時、僕たちは知り合って互いに夢中になったんです。……しかし水島には金がある。麻美は、水島が死んで、それを妻が殺したように見せかければ財産が自分のものになると考えたんです」
「でも子供は……」
「あれは水島の子供じゃないんです」
「何ですって!」
紘子は目を見開いた。
「僕と麻美のでね」
「そうだったんですか……」
「たまたま半月前に水島の車がブレーキ故障を起こした。で、これを利用しようということになってね。僕が、匿名の手紙が来たという話をでっち上げて水島を訪ね、夫人が命を狙っているらしいと吹き込んだんです。半信半疑ながら、水島は夫人を避けるようになる。そしてもう一つの建築現場での事故、あれは麻美と僕が仕組んだのですが、もちろんわざと外しました。まだ夫人に疑惑をかけるには充分な準備ができていなかったから。ところが巧いことに、夫人の格好の共犯者ができて……」
「所長ですね」
「その通り、これで夫人の方にも男がいたとなれば、動機は充分。ちょうど今日、夫人と麻美とあの所長さんをホテルで会わせるように手配したので、こちらはひと芝居うって、所長さんを逃亡犯人に仕立てました」
「私が目撃者の役をやらされたわけですね」
「そうです」
「でも、なぜ麻美さんに、所長でないかもしれないと言わせたんですか?」
「本当に正式の捜査になっては、こちらもボロの出る心配があったのでね。|曖《あい》|昧《まい》にしておいた方がよかったのですよ」
「……でも水島さんはまだ生きていますよ」
「分かっています。あなたがこんなに頭がいいとは思わなかった」
「どうするつもりですか?」
「気の毒だけど、ガス爆発の犠牲になってもらいます。所長さんが水島をガスで殺そうとして、誤って爆発させた、というわけです。あなたはあの所長さんを慕っていたと僕がそう証言すれば……」
紘子はゆっくり首を振った。
「恐ろしい人! 警察官なのに……」
「刑事だって人間ですよ。恋もするし、金もほしい」
小宮が拳銃を抜いて、銃口を紘子の方へ向けた。
「さあ、部屋へ戻るんです」
「待ちたまえ」
突然、小宮の背後で声がした。小宮がはっと振り向くと、二人の男が立っていた。小宮が呆然として、
「課長……」
「話は聞いたよ。表には警官がいる。入江麻美も逮捕した。もう諦めるんだ」
「どうして……分かったんです?」
「百合香夫人から私は内々に相談を受けていたのさ。ご主人が狙われているらしいとね。で、偽電話で呼び出されたらしいと連絡があったので、すぐかけつけて来たわけだ」
小宮はダラリと銃口を下げた。
「百合香夫人が……感付いているとは思わなかった!」
「女性の勘を馬鹿にしてはいかんよ」
「全くですね」
小宮は紘子を見て、苦い笑いを浮かべた。
「どうぞ」
紘子がお茶を置くと、水島百合香は微笑んで、
「ありがとう。……本当にあなたには何とお礼を申し上げたらいいのか……」
「いいえ、とんでもない」
紘子は首を振った。――昼下りの所長室。深田はいつになく|物《もの》|想《おも》う風情で、かつての初恋の人を見つめていた。百合香夫人は続けて、
「あなたのおかげで主人も命が助かりました」
「それは私どもも同じですわ。奥さんが警察へ知らせて下さらなかったら、今頃は所長も私も粉々になって吹っ飛んでますもの」
「呼び出された公園に誰も来ないし、家へ電話しても主人は出ない。不安になって警察へ連絡したんですの」
「全くひどい話ですな」
と深田が言った。
「すっかりお二人にご迷惑をかけてしまって……。でも、これで主人も目がさめたようですわ。少し仕事を休んで、二人でヨーロッパへ旅行することにしていますの。第二のハネムーンですわ」
「素晴らしいじゃありませんか」
紘子は言った。「楽しいでしょうね!」
――水島百合香が帰って行くと、深田と紘子はしばし黙っていた。
「……所長」
「ん?」
「もう、おいでにならないでしょうね、あの方」
「たぶんね。……来ないに越したことはないよ。幸福に暮らしている証拠だからな。……それに……俺にとっては若い頃の彼女の面影だけあれば充分さ。面影は|年《と》|齢《し》を取らんからな」
「にげ[#「にげ」に傍点]もしませんしね」
深田がジロリと紘子をにらんだ。紘子は慌てて所長室を出た。
小宮はなぜ紘子に近付いたのだろう? ただ利用するためにか。――紘子には、それだけではないように思えた。小宮の中にも、麻美との恋に狂っていない部分が少しはあって、それが紘子を求めていたのではないだろうか……。
「だからどうだっていうのよ」
肩をすくめて、紘子は呟いた。刑務所から出て来るのをひたすら待ってるなんて冗談じゃない! といって、所長みたいに面影を抱いて生きてるなんて柄でもないし……。
「おい、寺沢君」
深田が所長室から出て来た。
「何でしょう?」
「次の客までちょっと時間があるだろう。何か好きなものをおごってやるぞ」
「まあ! どういう風の吹き回しですか?」
「色々、心配をかけたからな。行くか?」
「ええ! お昼にちょうど甘いもの、食べそこなったんで……」
二人は一緒に外へ出た。
深田は思っていた。――百合香さんの代りにはならんが、こいつもなかなかいい娘だからな。まあ、話し相手になら……。
紘子は思っていた。――傷ついた乙女心をいやしてくれるには、ちょっとばかり魅力に乏しすぎるけど、まあ単純なだけに人は好いから……。
二人は顔を見合わせて微笑した。
決闘志願
「僕は絶対に彼女と結婚したいのです!」
入って来るなり、その青年は顔を紅潮させて言った。
「彼女というのは……」
|深《ふか》|田《だ》|栄《えい》|一《いち》は戸惑いながら、「君の恋人なんだね?」
青年は冷ややかに深田を見た。
「当り前でしょ」
「いいかね、君。ここは結婚相談所だよ」
「分かってますよ、それくらい」
「そいつは光栄だ」
深田はニヤリと笑って、「私は所長の深田。そこにいるのは秘書の|寺《てら》|沢《さわ》|紘《ひろ》|子《こ》君」
「秘書じゃありません!」
紘子は言い返した。「ただの事務員です。使い走りです。雑用係です。お茶くみです。電話番です。封筒書きです。それから――」
「分かった! 分かったよ!」
深田は慌てて手を振り回した。
「何もこんな時に――」
「いいえ、言わせていただきます。私のことを秘書[#「秘書」に傍点]だとおっしゃるのなら、それに|適《ふさわ》しいお給料を下さるべきです。今の給料のままなら、ただの[#「ただの」に傍点]事務員です!」
「分かったよ、後でまた相談しよう。な?」
紘子は肩をすくめて口をつぐんだ。ついさっき、給料を上げてくれと陳情して拒否されたばかりで、ムクレているのである。
深田はややはげ上った額の汗を|拭《ぬぐ》って、
「ええと……君の名前は?」
「|三《み》|好《よし》|哲《てつ》|夫《お》です」
まだうら若い――どう見ても二十二、三歳の青年だった。なかなかキリリとした顔立ちだが、背広姿の方は何となく板に付いていない感じだ。
「いいかね、三好君。ここは結婚相手を求める人が訪れる所だ。結婚はしたいが相手に恵まれない、相手を探す暇がない。色々と難しい事情があってなかなか結婚できない。そういう人に、よき|伴《はん》|侶《りょ》を見付けてあげるのがここの仕事だ。しかし君はもう結婚したい彼女がいる。それならここへ来る必要はないじゃないかね」
「でも、それじゃおかしいじゃありませんか!」
と三好という若者は眉を逆立てて言った。
「何がおかしい?」
「だってそうでしょう。結婚相手を探すのだけが仕事なら、〈結婚相手捜索所〉とか何とか名をつけるべきです。〈結婚相談所〉というからには、結婚についての、あらゆる相談に応じるべきじゃありませんか!」
深田はポカンとして言葉もなかった。永年この仕事をやっているが、こんなことを言われたのは初めてだ。
「――で、一体君は結婚の何を[#「何を」に傍点]相談しようっていうのかね?」
「彼女と結婚できるようにしてほしいんですよ」
「何か、結婚するのを妨げる事情があるのかね?」
「あるんです」
深田はため息をついた。あまり商売にはなりそうもないが、さりとて追い返そうにも、おとなしく帰るとは思えない。仕方ない。多少、時間があるから話でも聞いてやろうか。どうせ親に反対されてる、とでもいうのだろう。
「よろしい。話してみたまえ。一体何が問題なんだね?」
三好青年はあっさりと言った。
「彼女は僕のことを知らないんです」
深田はしばらくその言葉を理解すべく考え込んだ。
「……つまり、彼女は、君が結婚したがっているのを知らない、というわけかい?」
「いえ、僕のことを全然[#「全然」に傍点]知らないんです」
「ということは……直接に面識がないのかね?」
「僕は彼女を見てますが、彼女の方は見てないんです。だから……」
「じゃ、君はただ、見て知っている女性と結婚したいと――」
「でも、愛してるんです! 本気なんです!」
「話にならん!」
深田は頭へ来て机をバンと|叩《たた》いた。「それなら、まず彼女に交際を申し込むべきじゃないか! |総《すべ》てはそれからだ」
「それができないから相談に来たんですよ」
紘子は何だか分かったような分からないような二人の話をじっと聞いていたが、
「一体、その彼女ってどんな人なんですか?」
と三好青年へ|訊《き》いた。
「秋ひろみです」
「秋ひろみ、って……歌手の?」
「そうです。いえ、今や彼女は歌手だけでなく、女優でもありますし、エッセイストでもあるし、最近は喫茶店を開業したので、経営者でもあるんです!」
少しこの人、パーなんじゃないの、と紘子は思った。秋ひろみは今、確か十七歳の少女歌手だ。あどけない|美《び》|貌《ぼう》の中に、どことなく大人っぽい色気を漂わせて、単に若者だけでなく、中年おじさま族の間にも多くのファンを持つ、現在トップを行くアイドルである。
要するに、この単純素朴そうな若者は、秋ひろみの熱狂的ファンで、彼女と結婚したいと思いつめているのに違いない。まあ、ファン心理として、紘子には分からなくもなかったが……。深田にはとうてい理解できなかったらしい。顔を真っ赤にすると、ガバと立ち上り、
「ふざけるな! ここはファンクラブじゃないんだぞ! とっとと出て行け!」
と|怒《ど》|鳴《な》りつけた。
三好哲夫が、憤然と、
「詐欺だ! インチキ商法だ!」
と言い捨てて所長室を出て行くと、深田はニタニタ笑っている紘子をにらみつけて、
「何がおかしい!」
「だって……可愛いじゃありません? スターの虚像をそのままに信じ切って、|憧《あこが》れて結婚までしようなんて。純情じゃありませんか」
「馬鹿だ!」
深田は吐き捨てるように言った。「ブラウン管の向うとこっちの区別もつかんとは、学校で何の勉強をしとったんだ?」
「所長だって若い頃にはスターに憧れたことぐらいあるでしょう」
「本気で結婚しようなどと思ったことはないぞ! 全く、今の若い|奴《やつ》らと来たら――」
「そのセリフが出るとおトシですわね」
紘子は冷やかすように言うと、所長室を出た。
その日も、夕方まではもう何事もなかった。五時が近くなって来る|頃《ころ》には、紘子は三好という若者のことは、すっかり忘れていたのである。
|後《あと》十五分。――例によって、そろそろ帰り仕度を始めようかと思った時、入口のドアが開いた。こういう客が困るのよね。五時までってことは遅くとも四時半頃までには来てくれないと。〈オーダーストップ四時〉とでも書いとかなくちゃ。
「恐れ入りますが――」
と顔を上げて言いかけた紘子は言葉を切った。目の前に立っている娘に何となく見覚えがあったのだ。
「何のご用ですか?」
「ごめんなさい。もう閉まるお時間だとは思ったんだけど……」
とその娘は申し訳なさそうに受付の方へやって来た。|誰《だれ》だったかしら? 確かにどこかで見た顔だ。近くの喫茶店のウエイトレスか何かかな? それにしちゃ可愛すぎる。まるで……そう、秋ひろみみたいな顔じゃないの。
紘子は目を見張った。
「あなた……まさか……」
「私、秋ひろみ。ちょっと相談したいことがあるんだけど……」
紘子は所長室のドアを開けた。
「所長、お客様です」
「ん? もう時間だ。別の日を予約してあげてくれ」
「どうしても時間が取れないんですって」
深田はため息をついた。
「よし、通してくれ」
「秋ひろみさんですよ」
「ふーん」
気がなさそうに|肯《うなず》いてから、キッと紘子をにらみつけ、「おい、冗談もほどほどにしろ!」
紘子は黙ってわきへ退き、秋ひろみを通した……。
「――す、すると何かね? 当方であんたの結婚相手を探してくれと?」
「ええ、そうなの」
秋ひろみは、紘子が思っていたよりずっと小柄で、ほっそりした娘だった。TVや映画で見るより一まわり小さい感じだ。ごく当り前のワンピースを着ていると、本当に目立たない、どこにもいる女の子だった。
「でも――」
と紘子が言った。「まだ若いのに、どうして結婚しようなんて……」
「私、表向き十七歳だけど、本当はもう二十一歳なの」
「へえ! でも確か高校に……」
「子供の頃から私、体が弱くて、気管支炎や何かで、小学校で二年、中学で二年、休学してるの。それでまだ高校生ってわけ」
「そうなの。でも、それにしても結婚を急ぐほどの年齢じゃないでしょう」
「私、芸能界から引退したいの」
「まあ。今や人気ナンバー・ワンなのに!」
秋ひろみは、ちょっと寂しそうに|微笑《ほほえ》んだ。おじさま族をシビレさせる微笑だ。
「私だって初めのうちはいい気になってたわ。みんなにチヤホヤされて、何をやっても怒られないし、外車で送り迎えはしてくれるし、学校でも特別扱い。……スターになるって何て素晴らしいことなのかと思って、鼻高々だった。でも……」
秋ひろみはホッと息をつくと、「疲れちゃったの、私。ともかく自分の時間なんて一時間どころか十分だってないんだもの。忙しい時のスケジュールは分刻みなのよ。ここのインタビューは三分、写真撮影は二分、なんて具合。朝の六時から夜の一時、二時まで、マネージャーに引っ張り回されて、『次はTVで歌、その次は雑誌の表紙、次は……』って言われるのをハイハイと聞いてるだけ。――この三か月で、休みが一日しかなかったのよ」
「そりゃひどい!」
深田が思わず言った。
「一人で町に出ることないし、友達とおしゃべりする暇も……。それに友達なんていないの。そうでしょう、作る機会も時間もないもの」
「それはそうだろうねえ」
と深田はすっかり同情している様子。
「でも、結婚しようというのは、ただ引退したいから?」
と紘子が言った。「ただ、やめると言ったんじゃまずいの?」
秋ひろみはゆっくり首を振って、
「私、引退はしないわ。したいのはやまやまだけど、それはできないの。――だって私の属してるプロダクションは小さくて、稼げるタレントといったら私一人なんだもの。プロダクションの社員二十人、それに家族の人たちの生活がかかってるんだから、やめられないわ」
「フム、|辛《つら》いところだねえ……」
深田は何度も肯いた。
「それじゃ、結婚するというのは……」
「休み[#「休み」に傍点]を取りたいの」
秋ひろみの言葉に、深田と紘子は思わず顔を見合わせた。アイドル歌手は続けて、
「私が休みを取れる時といったら、病気になるか結婚するしかないもの。でも無理に病気になるのなんていやだし、仮病で入院でもすれば、すぐに〈妊娠中絶か?〉なんて書かれるに決ってるし……」
「休みを取るために結婚するっていうわけ?」
こんな話、聞いたことないわ、と紘子は思った。秋ひろみは肩をすくめて、
「だって新婚旅行なら一週間やそこらは自由な時間が持てるし、プロダクションの人も仕方ない、と|諦《あきら》めるでしょう」
「し、しかし、それは無茶だ!」
と深田が言った。「結婚は一生の伴侶を見つけるものだぞ! 休みを取りたいから結婚するなんて、結婚の大義にもとる行為だ」
秋ひろみが目をパチクリさせて、紘子の方を見た。所長ったら、今の若い人に、「大義にもとる」なんて言ったって分かりっこないじゃないの。
「つまりね、結婚本来の目的に反するってこと」
と解説すると、秋ひろみは、ああ、と肯いて、
「でも、だからこそここへ来たのよ。きっと、ちゃんとした人を探してもらえるだろうと思って。場合によったら、ずっとその人と一緒にいられるかもしれないもの」
「場合によったら?」
今度は深田が目をパチクリさせる番だった。
「結婚は大体が『ずっと』一緒にいるもんだ!」
「でも芸能界じゃ珍しい部類に入るもの、そういう人は」
と秋ひろみは平然と言った。「ぜひ、いい人を探してちょうだいな」
紘子は、ふと最近見た週刊誌の記事を思い出して、
「確か……あなたは映画スターの|梶《かじ》|峰《みね》|夫《お》と……|噂《うわさ》があるんじゃなかったかしら?」
「ああ、あれ」
と秋ひろみはクスッと笑って、「私のマネージャーの流した話なの」
「でも、マネージャーは記事がでたらめだ、とカンカンに怒ってると書いてあったけど……」
「一人芝居なのよ。書かせておいて怒ってみせる。噂を流して否定する。それで少なくとも二度、週刊誌のトップを飾る記事ができるでしょ」
「ははあ……」
深田と紘子は言葉もなかった。
「で、どうかしら? 探してもらえる?」
「そりゃ、こっちは商売だから探してもいいが……」
「料金はいくらでも払うわ」
「いや、そりゃ規定通りで結構! たとえ客がアメリカの大統領だろうと、高くふっかけたりはしない」
深田はぐっと胸をそらした。紘子が横を向いてペロリと舌を出した。
「まあ、お堅いのね。それからこれはもちろん秘密よ。守ってもらえる?」
「秘密厳守。これが守れなかったら、この商売はやって行けないからね」
とますます胸をそらす。そのうち引っくり返るんじゃないかしら、と紘子は思った。
「機密の安全なことではペンタゴンにだって負けんぞ!」
「ペンタゴン? それ、TVの怪獣か何か?」
「アメリカの国防総省よ」
「あら、そう。――何でもいいわ、ともかくここへ来るのにもマネージャーの目をごまかして大変だったの。あまり連絡する機会もないと思うから、そちらから来てもらえる? ファンに|紛《まぎ》れて楽屋へでも来てくれれば会えると思うわ。じゃ急いで探してね」
と立ち上りかける。
「ちょ、ちょっと!」
深田が慌てて、「探すといっても、そっちの希望とか色々と――」
「任せるわ。適当に[#「適当に」に傍点]探してちょうだいよ。それじゃ、私、本当に帰らないと」
「一つ伺っていいかしら?」
と紘子が口を|挟《はさ》んだ。
「何?」
「どうしてこの相談所へ?」
「ああ、それはね、この間、この前の道路でロケをしたの。TVの『赤いスキャンダル』ってあるでしょ。あの街頭シーンでね。その時、ここの看板を見て、こういう小さい[#「小さい」に傍点]所なら人目にも付かないな、と思ってたのよ。――それじゃ、よろしくね」
秋ひろみが出て行くと、深田と紘子はしばし押し黙っていた。
「……それで分かった」
と口を開いたのは紘子の方だった。
「何がだ?」
「あの三好とかいう人がここへ来たことです。きっと、そのロケの時、見物に来てたんだわ。それでここへ来る気になって……。いくら何でも偶然にしちゃ出来すぎですもの」
「そうか! あの男のことなど、すっかり忘れとった。――何だ、それならあいつを紹介してやりゃいい。簡単だ」
「所長ったら! 人の一生の問題ですよ。そんなに安易なことでいいんですか?」
「そりゃ、|俺《おれ》のセリフだ。しかし相手だって結婚を安易に考えとるんだ。構うもんか」
「そういう人に結婚の意義を認識させるのも、わが〈ブライダル・コンサルタント〉の使命じゃないんですか?」
深田と紘子の役割がすっかり入れかわってしまった感じである。
「……ま、そりゃそうだが……」
深田はただでさえ渋い顔をますます渋くして、「ともかく、ちょうどその当人と結婚したいという奴がいるんだ。当ってみても悪いこたあない」
「残念ですけど、あの三好さんって人、住所も何も聞いてませんから」
「そうか! 惜しかったな」
紘子は思わせぶりに、
「探そうと思えば、手はありますけど」
「どんな?」
「秋ひろみがTVの歌番組に出る時にでもTV局へ行ってみればいいんですわ。あれほど思いつめているんですもの。きっと顔を見せると思います」
「そうか、なるほど」
深田は感心して紘子を見た。「いい所に気が付くじゃないか」
「そうでしょう?」
紘子はにこやかに、「安月給で使うのは気がとがめるでしょ!」
帰りに、紘子は駅ビルの地下商店街へ寄った。夕食の買物である。といっても一人暮しだ。色々と材料を買い|揃《そろ》えて作っても、一人で食べられる量は知れている。結局余らして捨ててしまうことが多いので、最近はぐっと不精になって、出来合いのおかずを買って帰ることが多い。
「料理したってね……食べて喜んでくれる彼がいるわけじゃないし……」
衣をつけて揚げるばかりになったフライやら、焼鳥、天ぷらなどの並んだケースを眺めながら一人言。
「どうして世の男たちは目が悪いのかなあ。あんな、秋ひろみなんて野暮ったい女の子より、この寺沢紘子の方がよっぽどいいのに……」
結局、フライと天ぷらを何種類か買い込んで、混雑した地階からエスカレーターで上へ。
「そうだ……」
せめて音楽で孤独をいやすか。――上の階のレコード屋へ寄った紘子はショパンのレコードなどを選んだ。レジへ持って行こうとして、
「あら」
と足を止めた。今しも店員へレコードを差し出しているのは誰あろう、ボスではないか。
「所長に、レコード聞く趣味があったとはね」
と、気付かれないようにそっと見ていると、
「これが一番新しいレコードかね?」
と店員に訊いている。
「今、最新盤が出ていますよ」
「フム……」
「カラーポスター付きです」
「ポスター? それがいい。それにしてくれ」
「はいはい」
と店員は足下の箱から、秋ひろみのLPを出し、丸めたポスターを一緒に取り出した。
「|呆《あき》れた!」
紘子は断然頭へ来た。だから中年男って、いやなのよ!
TV局の前には、十代の女の子たちが二十人ばかりウロウロしていた。――もう六月だから寒いということもないが、朝からの雨は一向にやむ気配もない。じめじめと、ウンザリするような一日である。
紘子は、いささか照れくさい気分で、若い女の子たちと一緒に、TV局の建物の前、雨をよけられる程度の屋根のある車寄せの所に立っていた。――ここで歌番組の録画があるので、もう十分もすると、秋ひろみがやってくるはずなのである。
果してあの三好哲夫という若者も来るだろうか? 確信はなかったが、他に探す手立てもないのだから仕方ない。
紘子は近くにいる女の子に、どれくらい前に来たの、と訊いてみた。三時間前、と聞いて目を丸くする。――とっても、そんな熱意、ないなあ。私ももう若くないのかしら?
黒塗りのハイヤーが滑り込んで来て|停《とま》ると、女の子に人気のある若い男性歌手が姿を見せた。とたんに、待機していた女の子たちの半分以上が、
「キャーッ!」
と頭へ突き刺さるような金切り声を上げて駆け寄って行く。――ああいうのが中年になると、今度は特売場のブラウスやセーターへ殺到するんだわ、と紘子は思った。
「来てないかな……」
と見回すが、三好という青年の姿はない。まあ、どこだかに勤めていると言ってたから、そうそう見に来られないのだろう。雨の中を無駄足だったか……。
|馬《ば》|鹿《か》でかい外車が雨の中を静かに走って来た。周囲で、
「秋ひろみよ」
と|囁《ささや》き声がする。車が玄関前へ横づけになると、反対側のドアから降りた若い男が、急いで車をグルリと回って、ドアを開ける。秋ひろみが女王然として姿を現した。そういう所がいかにも身についているのは、やはりスターというものなのだろう。
「サインして下さい!」
数人の女の子が走って行ったが、やはりさっきの|凄《すさ》まじい勢いとは大分違う。秋ひろみも至って愛想よく微笑みながらサインをする。――そして、玄関の方へと、マネージャーらしき男性と一緒に歩き始めた時だった。
柱の陰から三好哲夫が姿を現し、
「ひろみさん!」
と声を上げて、彼女めがけて走り寄ろうとしたのだ。紘子はハッとした。彼の手に、何か銀色に光る物[#「銀色に光る物」に傍点]が――。
「やめて!」
叫ぶと同時に紘子は飛び出していた。秋ひろみが立ちすくむ。紘子と三好青年は、ちょうど秋ひろみを挟んで反対側から駆け寄った。紘子が近くにいたせいで、一瞬早く秋ひろみの体を手で押しやって、
「危ない!」
と立ちはだかる。三好青年が紘子にぶつかって来た。一瞬、紘子は目をつぶった。秋ひろみをかばって、代りに刺されるなんて! 世界の損失だわ! 間違ってるわ! ああ、放っときゃよかった……。
しかし、腹にナイフが食い込む痛みはなかった。ただぶつかられて、一緒に転がり、いやというほどお|尻《しり》を打っただけだった。
「ひどいですよ!」
三好哲夫が怒りに声を震わせて言った。「勘違いじゃすまない! あんたのおかげで、俺は暴行犯人扱いだ! 僕はただひろみさんへ万年筆をプレゼントしようと……」
紘子はすっかりしょげていた。
「それが銀紙で包んであったから、つい……ナイフだと思って……」
「僕が彼女を傷つけたりするはずがないじゃないですか!」
「ずいぶん思いつめてるみたいだったから、無理心中しようというのかと……。ごめんなさいね」
「もう遅いですよ!」
三好哲夫はプイと横を向いてしまった。
ここは、TV局のガードマンの控室。秋ひろみは、もうそろそろ収録を終える頃だ。
――何しろ、ガードマンやらTV局の人間やらがわんさと駆けつけて来て、上を下への大騒ぎ。
「秋ひろみが|狙《ねら》われた!」
「刺されそうになった!」
「全治一か月の重傷だって!」
とデマが飛び、たぶん真に受けて新聞へ載せている所もあるだろう。やっと誤解が解けて、警察|沙《ざ》|汰《た》にはならずにすんだが、TV局の方では、万一を考えて、三好哲夫と紘子を、秋ひろみがいなくなるまで、ガードマンの部屋へ閉じ込めてしまったのだ。
いささか早トチリだったな、と紘子は後悔したが、今さらどうしようもない。まあ、ともかくこうして三好哲夫には会えたのだが。
三好哲夫が、ふと紘子を見て、
「けが……ありません?」
と思いがけず優しい声で訊いた。紘子はゆっくり肯いて、
「ええ、大丈夫よ」
「|凄《すご》い勢いでぶつかったからなあ……。僕、途中で足を滑らして、止まんなくなっちゃったんですよ。下が雨で濡れてたでしょう」
「大丈夫よ、私、お尻の肉が厚いから」
二人は顔を見合わせると、何となく笑い出してしまった。紘子はホッとして、
「ごめんなさいね。私がオッチョコチョイなもんだから」
「いいんですよ」
と三好哲夫は微笑んだ。「渡そうとしても、受け取ってもらえなかったかもしれないし。――しょせん、すぐに忘れられるファンの一人なんですから」
紘子は少し間を置いてから訊いた。
「あなた……なぜ秋ひろみのファンになったの? 何かきっかけでも?」
「ええ。あの人、僕の姉さんによく似てるんです」
「お姉さん?」
「ええ。初めてテレビで彼女を見た時、ハッとしたんです。まるで姉さんが生き返って来たみたいで……」
「生き返って? じゃ、お姉さん、亡くなられたの」
「十七でした。僕は十五歳だった。――とても美人でね、学校でも評判だったんです。といったって、田舎の小さな学校でしたけど」
「どうして亡くなったの?」
「海で|溺《おぼ》れたんです。遠くまで泳いで行って、戻れなくなり……」
「まあ、気の毒に」
「僕も気が付いて助けに行ったんです。波間に見え隠れしている姉の頭へ、『もうちょっとだ! 頑張れ!』って声をかけながら、必死に泳ぎました。後、十メートル。本当に十メートル足らずの所まで来た時、姉さんが、スッと沈んでしまったんです。潜って探したんですが、とうとう見つからず、四、五日して、浜へ死体が流れ着きました」
紘子は、胸を締め付けられるような思いで、彼の話を聞いていた。その沈んだ口調で、姉の死に、彼が責任を感じているのがよく分かった。もう少し早く泳げば助かったのに……。彼はそう思っているのだ。
「秋ひろみさんをテレビで見た時、僕はこの人を幸せにしてやりたい、と心から思ったんです。馬鹿な話ですよね、別に彼女は姉さんじゃないのに。でも、それでもやはりその気持は捨て切れなくて……」
「三好さん」
紘子は言った。「ひょっとしたら、あなたの望みが|叶《かな》うかもしれないわよ」
「し、失礼!」
ドアを開けて、深田は上ずった声で言った。
控室は所狭しと置かれた荷物やら|衣裳《いしょう》やらで足の踏み場もなかった。その真中、辛うじて畳一枚分ぐらいのスペースで、秋ひろみが十七、八歳の少女二人と一緒にラーメンをすすっていた。
「あら! あなたこの間の――」
顔を上げた秋ひろみが言った。「早かったのねえ」
「迅速がモットーで」
「いやだ。ここのラーメン屋と同じこと言ってる」
と笑うと、「あなた方、ちょっと外へ出てて」と二人の、見るからに田舎から出て来た、という感じの赤ら顔の少女を出て行かせた。〈付き人〉とかいうやつなのだろう。
「わざわざ所長さんのお出ましなの」
とラーメンを食べながら、「ごめんなさいね、今食べとかないと、夜中までは時間がなさそうなの」
「どうぞどうぞ」
深田は|咳《せき》|払《ばら》いをすると、背中へ回していた手をそっと差し出した。小さな花束が握られている。
「まあ、私に?――ありがとう!」
「いや、どういたしまして」
深田は暑そうに額の汗を拭った。
「それで、誰か適当な人が見付かって?」
「それでこうしてやって来たんだがね」
深田は内ポケットから、三好哲夫の書いた身上書のコピーを取り出した。
「見せて。……へえ、二十三。……ごく当り前の人ね。写真ないの?」
「これだよ。見覚えないかね?」
深田が取り出した写真に、秋ひろみはしばらく見入っていたが、やがて、
「あら!」
と声を上げた。「この人、この間、私に飛びかかろうとした……」
「それは誤解だったんだよ」
「ええ、後で聞いたわ。何でもなかったんですってね」
「ちょっと慌て者がドジをやっただけでね」
深田は、〈今頃、紘子はクシャミしてるかな〉と思いながら言った。
「私もこの人、チラッと見て、なかなかすてきな人だな、って思ってたのよ」
「まあ、ともかくあなたに心から憧れているから、大事にはすると思うが」
「そうねえ、悪くないなあ」
「ま、一度会ってみて、後は二人で――」
「そんな暇ないわよ!」
と秋ひろみは、とんでもないと言わんばかりに、
「それに付き合うなんて無理よ、どこへ行くんだって誰かついて来るもの」
「じゃ、どうするんだね?」
「ウーン」
としばし写真に見入っていたが、やがて、思い切ったように、「よし! いいわ、この人で」
深田は|呆《ぼう》|然《ぜん》として、
「そんな……簡単に……。映画の相手役を決めるわけじゃないんだよ!」
「あら、相手役ならマネージャーが選んでくれるわ。結婚相手だから自分で選んだのよ」
「し、しかし――」
「変ねえ。そっちで探してくれた人にOK出してるのに、どうして文句言うの?」
「そんなこと言っても……少なくとも会って話ぐらいはすべきだ!」
「一回会って話したぐらいで何が分かるの? それなら全然会わなくたって同じことよ。うまく行かなきゃ離婚すればいいのよ」
もはや深田は反論する気力も失せていた。
「それじゃOKだと伝えるよ……」
「お願いね。式の日取りなんかは一切私の方で決めるから、そう言っておいてね」
「相談せずに?」
「だって|外《はず》せないスケジュールもあるし。そっちへ電話するわ」
「……分かったよ」
「じゃ、私、忙しいから。――未来の夫によろしく言ってね」
秋ひろみはそう言って、ニッコリ笑った。
「狂っとる!」
と深田は首を振りながら言った。
「そんなこと言って、彼女のポスターを眺めて喜んでるくせに」
と紘子がなじると、深田は顔色を変えて、
「な、何だと?」
「そんなことより、もうじき三好さんが来ますよ。どうするんですか?」
「うん……。まだ迷っとるんだ」
「彼女はOKしたんでしょ?」
「しかし、これで結婚したらどうなる? あの若者にとっちゃ地獄かもしれん。そんな結婚を仲介したなどと言われたら、ここの信用は地に|墜《お》ちる」
「ここはあくまで二人を引き合わせるだけ。その後のことは二人の責任ですわ」
「しかし、引き合わすこともできんのだぞ」
深田はお手上げという格好で、「これじゃ、我々が役割を果したとも言えん」
紘子は考えながら言った。
「でもね、所長、あの三好さんって人にとっては、秋ひろみと結婚するのは、死んだお姉さんへの罪滅ぼしなんですよ」
「それは間違っとる!」
「分かってますわ。でも、本人はそうしないと気がすまないんです」
「じゃ、結婚させちまえと言うのか?」
「ええ」
と肯いて、「そうしないと、あの人はいつまでも、お姉さんを死なせたという意識で苦しみますわ、きっと。秋ひろみと結婚して救われるなら、それでもいいじゃありませんか」
「しかし、あの二人が――」
「うまく行くかどうかなら、行くはずありませんわ。でも、それこそすぐ別れちゃえばいいんです。秋ひろみが休みを取るために結婚するのなら、三好さんは、過去を忘れるために結婚する。……どちらも実利的[#「実利的」に傍点]なところで、いいんじゃありません? 妙に一方がジメジメしないで」
「君の言うことも一理ある」
と深田は肯いた。「よし、彼女の言った通りをあの男に伝えよう」
ちょうどそこへ三好哲夫が入って来た。いささか緊張に青ざめた顔色である。
「どうでした?」
|挨《あい》|拶《さつ》も抜きに、開口一番、ズバリと訊いて来た。
「ああ、彼女はOKしたよ」
三好青年の|頬《ほお》が徐々に紅潮し、笑顔になった。
「素敵だ! ありがとう!」
「ま、ちょっと待てよ」
深田は秋ひろみの話を伝えた。三好哲夫は一向に驚く様子もなく、
「僕は構いませんよ。彼女と結婚できれば、それで」
「そんなものかね……」
深田が不服そうに|呟《つぶや》くと、デスクの電話が鳴った。
「はい。――私です。――ああ、これは……え?――分かりました。じゃ」
受話器を置くと、深田はニヤリとして、
「少しはまとも[#「まとも」に傍点]になって来たぞ」
「彼女ですか?」
と三好哲夫が身を乗り出す。
「そうだ。時間ができたから、今晩夕食を一緒に、とさ。こう来なくちゃいかん!」
「よかったわね。頑張って!」
と紘子が言うと、
「おい、我々も行くんだ」
「ええ? だって二人にしてあげた方が――」
「向うの希望だ。仕方ないさ」
とか言って、|嬉《うれ》しそうな顔しちゃって。紘子は何としても、早々に深田を引っ張り出そうと決めていた。
「彼女が来た!」
三好青年はそう言うと、席からガバと立ち上った。――秋ひろみが足早にやって来る。
「お待たせしてごめんなさい」
|洒《しゃ》|落《れ》た水色のドレスの秋ひろみは、三好哲夫とじっと目を見交わしながら言った。
「今まで二年間も待ったんですから、五分や十分、どういうことはありません」
「素敵ね!――さ、食事にしましょう」
出足は順調だった。四人は、北欧風の調度のレストランに笑い声を響かせながら、和やかに食事を進めた。
「よく時間が取れましたね」
と紘子が言うと、
「やっぱり未来の|旦《だん》|那《な》様に一度ぐらい会っておきたくて。対談が二時間の予定だったのを、三十分で切り上げてもらったの」
「無茶苦茶ね!」
「いいの。早口でしゃべったから」
と言って、秋ひろみは声を立てて笑った。
そこへ、
「おい!」
と男の声が飛び込んで来た。ヒョロリとノッポの男が、皮ジャンパーにジーンズ姿で立っている。秋ひろみが、目を丸くして、
「あら、梶さん、よく分かったわね、ここが」
梶峰夫だ。例の、ひろみとの仲を週刊誌に書かれたアクションスターである。TVでは刑事役だが、こうして見ると、むしろヤクザに近い。
「その男、何だよ」
ぶっきらぼうに、梶は言った。
「私のフィアンセよ」
「笑わせるな! お前は俺の女だぞ!」
秋ひろみが表情をこわばらせて、
「私、あなたの女なんかじゃないわ。邪魔よ。帰ってちょうだい」
「一緒に来い! 話がある」
「お断りよ」
「来いったら!」
ひろみの方へのばした手を、三好青年の手が押えた。
「彼女は行かないと言ってるんだ」
「……聞いた風なことぬかすじゃねえか」
三好が立ち上がった。座ったままの秋ひろみを間に、二人の男はしばし無言でにらみ合った。
「俺とやる[#「やる」に傍点]気があるか?」
と梶が言った。
「何をだ?」
「腕相撲じゃねえぞ。一対一の決闘だ」
「馬鹿らしい!」
と秋ひろみが声を上げた。「やめてよ、下らない!」
「いやならいいんだぜ」
梶がニヤリとして、「秋ひろみのフィアンセは腰抜けだとふれ回ってやる!」
「やらないとは言わないぞ」
三好青年はじっと相手を|見《み》|据《す》えた。「負けたら彼女につきまとうのをやめるか?」
「ああ、いいとも」
「よし、やろう!」
「楽しみだぜ。――今日は帰ってやる。後で連絡するからな」
梶が行ってしまうと、テーブルは、しばし重苦しい沈黙で包まれた。
「暴力はいかん!」
と深田が言った。「相手にしなければいいんだ」
「本当にそうよ」
と秋ひろみが言った。「やめてね、下らないことは」
三好は黙って微笑んだ。
|紘《ひろ》|子《こ》は、何か釈然としないものを感じながら、レストランの中を見回していた。
「準備はいいね」
深田所長が訊くと、紘子はしっかりと肯いた。深田は秋ひろみの方へ向いて、
「そっちは?」
「結構よ」
深田は一つ息をつくと、おごそかに言った。
「これは正々堂々たる決闘である。どちらかが死ぬか、あるいは傷付こうと、当局は一切関知しないからそのつもりで」
どっかで聞いたセリフだなあ、と紘子は思った。三好哲夫が、大きな|枕《まくら》みたいなクッションの上に古めかしい|拳銃《けんじゅう》を二|挺《ちょ》〈う〉乗っけて|捧《ささ》げ持って来た。
「銃を取りなさい」
深田の言葉で、紘子と秋ひろみは拳銃を手にする。冷たく、ずっしり重い感触がある。
「背中合せに立って!」
深田の声が|凛《りん》|然《ぜん》とあたりの空気を震わせた。紘子は秋ひろみと背中合せに立つ。
「双方とも十歩歩いて、振り向いて撃つ!……一、二、三……」
ザッ、ザッ、と地を踏む足音が刻まれて、
「……八、九、十!」
振り向いて、紘子は手を一杯にのばし、秋ひろみを狙って引金を絞る。――が、相手の方が一瞬早かった。秋ひろみの銃口から|疸《ほとばし》り出た水は紘子の顔に命中した。
紘子はハッと目を覚ました。
「――夢かあ」
と目をこすって、枕もとの時計を見ると、まだ四時半である。そろそろ夜が明けかけているのだろう、カーテンがほの白くなっていた。
「夜が明けるのって、こんなに早いのか」
大体、午前四時なんて時間が、この世に存在すると実感した事のない紘子である。「あーあ、眠いよ。もう一度寝よう!」
と目をつぶったものの、眠いけど眠れないという奇妙に中途半端な状態。やれやれ、とため息をついて目を開いた。
それにしても、あんな夢を見るなんて、やはり、昨晩のレストランの騒ぎが気になっているせいだ。梶峰夫の言った決闘というのは、一体どういう事なのか。それに、どう考えたって、恋人をめぐって決闘なんて、時代遅れもいいとこだ。
紘子はどうも気に入らなかった。――何もかもが、である。何だかイヤーな予感がしていた。
そこへ玄関のブザーが鳴った。一瞬、空耳かと思った。また鳴った。まだ夢を見てるのかと思った。また鳴った。いい加減にしろ、と思った。――何時だと思ってんのよ!
「はい、どなた?」
不機嫌、というのを音声で表現すればこうなるという声で訊くと、
「〈週刊××〉の者です!」
「はあ?」
何の用で? 大方他の誰かの部屋と間違えてるんだろう……。渋々ドアを開けると、
「寺沢紘子さんですね!」
と記者らしい男。隣にカメラを手にしたのがもう一人突っ立っている。
「そうですけど……」
「ぜひ、お話を伺いたいんです。――おい! 写真、どんどん撮れよ!」
「あの――」
「お手間は取らせません。秋ひろみと結婚する三好って人の事を伺いたいんです」
「はあ?」
びっくりしてアングリと口を開ける。そこへカメラのストロボが(パッ)と光った。
「あなたの勤めておられる結婚相談所で世話した話なんでしょ?」
「あの――それは(パッ)――依頼人の秘密ですから――」
「そんな固い事言わないで教えて下さいよ。おたくを通した話だってのは分かってんですから」
「だめですよ!」
(パッ!)
「その男の素姓、秋ひろみに|惚《ほ》れた理由、それに写真がありゃ|御《おん》の字ですがね。いや、何もロハで教えろたあ言いませんや。三万――いや五万出したっていい」
「だめ、って言ってるでしょ!」
「もっと出せ、ってんですか? この手のネタじゃこの程度が相場ですよ。何なら、ほら、あなたの写真もグッとでかく載せてあげます。何ならチイッとばかり修正してね」
「あら、そう」
紘子はニッコリ微笑んだ(パッ)。「じゃ、ちょっと待っててね」
そして台所へ行くと、朝食用に残しておいたミソ汁の鍋を手にして玄関へ戻って来た。
「これで目を覚ましなさい」
と言うなりミソ汁を記者の頭へぶっかけて、バタンとドアを閉め、鍵をかけた。「ふざけるんじゃないや!」
外の廊下で、パッ、パッとストロボが光った。
「……困るよ、寺沢君」
深田は所長室のデスクに広げた〈週刊××〉誌の記事を見ながら言った。「うちはね、よき妻、よき夫を紹介する仕事だ。その所員が……〈秋ひろみの結婚問題の|鍵《かぎ》を握る女性、大暴れ! 本誌記者へ暴行!〉なんて書かれたんではね……」
紘子は渋い顔で、
「だって、あんまり腹が立ったんですもの」
「まあ、気持は分かるが……。客が寄りつかなくなると困るからねえ」
「気を付けます」
「頼むよ。ところで秋ひろみと三好哲夫の話はどうなってるの?」
「さあ、こっちへは連絡がありません。秋ひろみがマスコミに三好さんを紹介して以来、公然とついて歩いてますからね。二人で相談してるんじゃないですか」
「ふーん」
深田はつまらなそうだった。秋ひろみに会えなくてガッカリしているのだろう。そこへ、
「こんにちは!」
と威勢のいい声がして、当の秋ひろみが入って来た。後ろに白いキザなスーツ、サングラスの男を従えている。今の今まで不機嫌な顔をしていた深田はピョンと飛び上るように席を立って、
「いらっしゃい!」
とヘラヘラ笑いかける。「さ、かけて。おい、寺沢君! お茶!」
紘子はムッとして、自分で|淹《い》れたらいいじゃないですか、と言いたいのを、英雄的努力でぐっと抑え、所長室を出ようとした。白のスーツにサングラスの男が、目の前を通ろうとした紘子へ、
「どうも、先日はお世話になりました」
と言った。その声……。紘子はまじまじとサングラスの顔を見つめて、
「三好さん!」
と思わず大声で言った。
驚くのも当然で、あのちょっと田舎くささの残る地味な青年が、まるでどこかのアンチャンみたいな格好をしているのだから!
ショックさめやらぬままにお茶を淹れていると、三好がいつの間にか後ろに立っていた。
「びっくりなさったでしょう」
「びっくりもいいとこよ。どうしてあなたがそんな格好を――」
「彼女の希望なんです」
三好はサングラスを外して、「僕もこんなの嫌なんですが、彼女を喜ばせるためなら仕方ありません」
「そんなもんかしら」
紘子は首を振って、「ま、どうでもいいけど。ところで、梶峰夫は何か言って来たの?」
「いいえ、一向に」
「ただイキがって見せただけなのかしら?」
「そうは思えませんけど」
「でも何があっても、あんな奴の相手しちゃだめよ! あなたはああいう手合とは違うんだから」
三好は苦笑いして、
「彼女ががっかりしますよ」
「がっかり?」
「とっても楽しみにしてるんです」
「決闘を? 呆れた!」
紘子は言った。「何て事なのかしら。でもこの間、レストランでは、『決闘なんて下らない』って……」
「ええ、今でも一応はそう言ってますよ。でも内心ワクワクしてるのがよく分かるんです」
三好は微笑んでいた。「――まだ子供なんですよね。自分のために誰かが命を|賭《か》けて闘う、っていうのがロマンチックだと思うんでしょう」
「そんなもんかしらね……」
お茶を運んで行くと、深田が大きな色紙に秋ひろみのサインをもらっていた。
「ど、どうも……。いや息子が大ファンでしてね。どうしても書いてもらってくれ、と言うものですから、ハハハ……」
|嘘《うそ》言ってらあ、自分がほしかったくせに。紘子は内心ペロリと舌を出した。
「で、式の方は決ったの?」
と紘子が訊くと、
「ええ、できるだけ早くと思ってるの。婚約期間があんまり長いとお互い退屈しちゃうでしょ」
あんまり長い、ったって、まだ何日もたってない。長い、短い、という感覚も、ちょっと常人とは違うらしい。
「まあ、あなたのスケジュールもあるだろうから、それはそっちで進めなさい」
深田が言った。「我々の仕事は、もう終ったわけで――」
その時、事務所のドアが、バンと派手な音をたてて開いた。何て失敬な客、と振り向くと、皮ジャンスタイルの梶峰夫が入って来た。
「おい、待たせたな」
と凄んだ声で、「逃げ出すんなら今のうちだぜ」
「逃げやしないよ。何をやろう、っていうんだ?」
三好の方は至って落ち着き払っている。
「一対一、素手の勝負だ」
「いいだろう」
「本当ならナイフといきたいところだが、サツが黙っちゃいめえからな。――いいな?」
「ああ、いつやる?」
「明日だ。朝七時に、A公園へ来い」
「分かった」
梶はニヤリとして秋ひろみを見ると、
「もったいなくって、こんな野郎にくれてやれるか、このいい女をよ」
「大きなお世話よ」
と秋ひろみは言い返したが、その口調はふざけ半分で、本当に腹を立てているという感じではなかった。三好の言った通り、秋ひろみはこの事態を楽しんでいるのかもしれない、と紘子は思った。
梶が芝居がかった足取りで、肩を揺らしながら出て行くと、紘子は秋ひろみを見て、
「お二人でどこかへ行きなさい」
と言った。
「え? どうして?」
「どうして、って、決ってるじゃないの。あなたは未来のご主人に、そんな馬鹿げた|喧《けん》|嘩《か》をさせたいの」
「あら、だって……」
と三好を見る。「挑戦されて逃げるわけにはいかないわよ、ねえ?」
「何が挑戦よ、下らない! ただの喧嘩じゃないの。どっちがけがしたって馬鹿らしいだけよ。あなたはこの人がけがをしてもいいと思ってるの?」
「そうじゃないけど……」
と秋ひろみはムクレてしまった。まるで駄々っ子みたいである。
三好が間へ入って言った。
「いや、いいんです。僕はあいつと決着を付けたいんですから」
「そうでしょう?」
秋ひろみは嬉しそうに、「気を付けてね。あんなの一発でのしちゃってね!」
イカじゃあるまいし、と紘子は思った。
その夜、ムシャクシャする気分を晴らそうと映画を見て、食事をしてから、ブラブラと歩いていた紘子は、ふと、決闘の場になるA公園が近いのに気付いて、行ってみよう、と思い立った。
格別な理由はないのだが、どうにも気になって仕方ないのである。あの好青年――むろん三好のことだ――に万一の事でもあったら……。
公園の前まで行ってびっくりした。TV局の名の入った大きな中継車が、デンと居座っている。
紘子は公園の中へ急いで入って行った。中継車から何本ものワイヤーやケーブルが走って、公園中央の芝生の周囲には忙しく人々が駆け回っている。
青白い照明に、TVカメラが見えた。二台、いや三台ある。芝生の周囲に、配置されているのだった。
「何かここでお祭りでもあるのかしら?」
それなら決闘は中止だけど、と思いながら、手近にいた人間を捕まえて、
「あの、すみません」
「何? 忙しいんだよ」
「ごめんなさい。あの――ここで何をやるんですか?」
「明日の朝、決闘がある、ってんでね。モーニング・ショーに生中継しようと思って、準備してるのさ」
「そうですか……」
紘子はガックリ来た。また秋ひろみの宣伝効果だろうか?
ちょっと偉そうな男が怒鳴っていた。
「いいか! 七時から最初はニュースがあるからな。決闘はCMの後、七時二十一分からにしてもらってくれよ!」
紘子は怒る気力も失せて、トボトボと公園を出て行った。
「勝手にしやがれ、だわ!」
と呟きながら歩いていると、
「紘子!」
と呼ぶ声がした。顔を上げると、学校時代の友人、|中《なか》|神《がみ》エリだ。
「まあ、久しぶりね!」
紘子は、パンタロン姿の、いかにもキャリア・ウーマン風の旧友を見て、「今、何やってるの、あなた?」
「私、週刊誌の記者なのよ」
紘子は複雑な表情で、
「そう……」
と言った。何しろミソ汁をぶっかけた手前……。すると中神エリの方で笑い出した。
「あなたの武勇伝、見たわよ! 相変らずだなあ、って懐しかったわ」
「あれは事実をねじ曲げてるのよ! 本当はねえ――」
「まあまあ。私の方が実態はよく分かってるわ。ああ、やりたくなる気持も分かるわよ。――ね、どう? その辺で一杯飲まない?」
紘子も大いに飲みたい気分だった。
「行こう、行こう!」
――紘子は、バーの片隅で、物静かにアイスミルクのグラスを傾けているエリを眺めて、
「あなた学生時代はお酒、強かったのに」
「こんな商売やってるとね、きりがないのよね。いくら飲んでも上には上がいて。おしまいには体がボロボロになっちゃう、と考えついて、思い切って、一切アルコールは口にしない、と決めて押し通すことにしたの」
「それでよく仕事勤まるわね」
「私も心配だったけど、やってみりゃ何とかなるもんなのよ」
「そんなもんかしら……」
カクテルのグラスを手にした紘子も、何となく意気上らない。その時、バーへえらく酔った、一見して土地のアンチャンと分かるのが入って来た。
「オーイ! 酒よこせ!」
と|喚《わめ》き出すと、バーテンがやんわりと、
「お客さん、ここではお静かに願います」
とたんにバーテンは|顎《あご》にパンチを食らってカウンターの奥へ引っくり返ってしまった。
「利いた風な事抜かすねえ! 何しゃべろうと俺の勝手だ!」
アンチャンはジロリと店の中を|一《いち》|瞥《べつ》して、紘子たちの姿に目を止めた。こういう手合はいささか苦手な紘子はヒョイと目を伏せたのだが……。
「おいネエチャン、いいもん飲んでるじゃねえか」
とブラブラ近寄って来る。エリのミルクに目を止めたのだ。
「何飲もうと勝手でしょ」
エリは平然と言い放った。
「ヘヘ……。気の強そうなネエチャンだな。俺の好みだぜ」
「あんたは私の好みじゃないわ」
「そうかい? |験《ため》してみなきゃ分からねえぜ」
と手をのばしてエリの|頬《ほ》っぺたにさわろうと――とたんにエリがその手をむんずとつかむと、目にも止まらぬ|早《はや》|業《わざ》で、エイッとねじ上げた。
「イテテテ……」
と悲鳴を上げるのを、
「頭を冷やしな!」
とグングン出口の方へ押して行って、力一杯|蹴《け》|飛《と》ばした。表の方でドシン、ガラガラとけたたましい音がした。
紘子は|呆《あっ》|気《け》にとられて、悠々と戻って来るエリを見ていたが、
「驚いた!」
と思わず言った。「あなた何かやってるの?」
「合気道をちょっとね」
「へえ……」
「こういう商売だと、身を守るのも仕事のうちでね。タレントの中には女癖の悪いのもいるでしょ。襲いかかられて、組んずほぐれつ大格闘って事もあるから」
「何でも仕事となると大変なのねえ」
と紘子はしみじみと言った。
「梶峰夫の時は大変だったわよ」
紘子は思わずドキリとした。
「え?」
「知ってるでしょ。あのTVの『太平洋にほえろ!』の刑事役」
「ええ。あれがどうしたの?」
「かなりひどいのよ、あの人も。取材に行って、次の仕事があるから途中の車の中で、って言われて、彼の車に乗ったのよ。何か妙だと思った時は、車は|人《ひと》|気《け》のない林の中。で、襲いかかられて――」
「ど、どうなったの?」
「外へ転り出て格闘よ。何しろあの人、|空《から》|手《て》やってるでしょ」
紘子はギョッとして、
「空手を! 梶峰夫が?」
「そうよ。|手《て》|強《ごわ》かったわ。双方秘術を尽くして渡り合い――」
「姿三四郎みたいね」
「結局はやっつけたけど」
「凄い! 決め手は上手投げか何か?」
「お相撲じゃあるまいし。簡単な手よ」
「というと?」
「急所を蹴り上げてやったの」
紘子は納得した。――しかし、何て|卑《ひき》|怯《よう》な男だろう! 素手で勝負だなんて、空手ができるのなら、「素手」とは言えない。
これは何とか明日の決闘はやめさせなくちゃ……。
「今、あの人は秋ひろみと噂があるんでしょ?」
と紘子は言ってみた。
「ああ、あんなのデッチ上げよ」
とエリはあっさりと、「噂を流しておいて、番組のPRにしよう、ってのね」
「番組?」
「そう。来月一杯で梶峰夫は『太平洋』をおりるのよ。で、秋ひろみと共演のTVドラマが始まるわけ」
「共演するの? あの二人が?」
「そうよ。『愛と嘘』とかって番組でね。秋ひろみが金持の令嬢で、梶峰夫が不良学生のリーダー……」
「どこかで聞いたような話ね」
「で、彼女をめぐって、もう一人の男性と命を賭けて決闘するとか、って話。時代錯誤も|甚《はなは》だしいわね」
「決闘……秋ひろみをめぐって?」
紘子が呆然として呟いた、これは偶然だろうか?
紘子は目を覚ますと、布団の中でウーンと伸びをした。
「ああ、疲れた……」
昨晩はだいぶん飲んだなあ。もっともエリのほうはミルクばかりで、まるで赤ん坊みたいだったけど……。
紘子はハッとした。
「しまった!」
と時計を見る。六時五十五分。六時に目覚しをかけておいたのに。知らないうちに止めちゃって、いつも通りに起きてしまったのだ。
「決闘を止めなきゃ!」
昨夜、何とか三好哲夫に連絡を取ろうとしたのだが、どうしても捕まらず、仕方ない、今朝、早く起きて……と思って[#「思って」に傍点]いたわけである。
顔も洗わず、髪にブラシも入れず、ともかく服だけ着込んで(当然の事だが)、紘子はアパートを飛び出した。
電車じゃ遠回り、ここは一発タクシーで、と通りかかったのを拾って乗り込み、
「A公園まで! 急いでね!」
と座席に落ち着いて息を|弾《はず》ませる。もう七時だ。でも、昨日、TV局の男が言ってたように、「モーニング・ショー」の時間に合わせて、七時二十一分から決闘が始まるのなら、たぶん間に合うだろう。紘子は、梶峰夫が決闘を挑んで来たのは、おそらく番組のPRのつもりではないか、とにらんでいた。ちょっと警察には怒られるかもしれないが、格好の話題作りには違いない。
「お客さん」
とタクシーの運ちゃんが言った。「こんな朝っぱらから、A公園に何の用です?」
「ちょっとね」
「ゆうべ忘れ物したんでしょ」
「え?」
「彼氏とデート、熱いムードで楽しくやってるうちに何か落っことして来ちまったんじゃないすか?」
「黙って走らせなさいよ!」
と紘子は怒鳴りつけた。――七時十分。間に合ってくれますように。
ところがタクシーは渋滞に引っかかった。遅々として進まない。
「いつもこんなもんですよ」
と運ちゃんは|呑《のん》|気《き》なものだ。
「早く……早く……」
とジリジリする紘子を乗せて、タクシーはノロノロと進んで行く……。
A公園へ着いたのは七時三十五分だった。千円札を渡し、タクシーを飛び出す。
「お客さん――」
と呼びかける運ちゃんへ、
「おつりはいらないわよ!」
と叫んでおいて、公園の中へ駆け込んだ。こんな時間だというのに人垣ができて、さかんに雑誌や週刊誌のカメラマンがシャッターを切っている。即席に組んだ足場の上ではモーニング・ショーのレポーターがマイクを握って、実況中継の最中らしい。
「何て連中だろ!」
エイッとばかり人垣へ体当り。はね飛ばし、突き飛ばし、人垣の内側へ飛び出すと――。
「遅かったわ!」
と思わず言った。梶峰夫が誇らしげな顔で突っ立って、三好哲夫は芝生に倒れていて、やっと片ひじを立てている。秋ひろみは、といえば、レポーターのいる足場の下の椅子にチョコンと腰かけて楽しげにこの光景を眺めているのだ。
三好がよろめきながら立ち上った。鼻血で顔が汚れている。
「おい! まだやる気かよ」
と梶がせせら笑うように、「それ以上やると鼻の骨をへし折るぜ。せっかくの二枚目が台無しだ」
紘子は三好の方へ駆け寄った。
「三好さん! だめよ! やめなさい」
「大丈夫……。まだ平気です」
と三好は弱々しく呟いた。
「そうじゃないの。これはね、番組のPRなのよ!」
「……何ですって?」
紘子は周囲の人垣へ聞えるように、
「これはあの人たちの共演するTV番組のための仕組まれたお芝居なのよ! あなたは話題作りに利用されただけなのよ!」
とたんにTV局の男が飛んで来て、
「あなた! 困りますよ!」
と紘子の腕を引っ張って行こうとした。
「何すんのよ!」
エリに教わった合気道の極意――か何か知らないが、紘子は思い切り男の|股《また》ぐらを蹴り上げてやった。
「うっ!」
と|呻《うめ》いて男が引っくり返る。
「へえ、|効《き》くもんね!」
と紘子の方がびっくりしてしまった。カメラマンたちが、このハプニングを見逃すはずはない。たちまちカメラの放列は紘子へ集中した。
一方、三好の方は、
「そうだったのか……」
と呆然として突っ立っていたが、やおらピンと背筋を伸ばすと、梶の方へ進んで行った。
「何だ、またやられてえのか?」
と愉快そうに言って、さっとくり出した鉄拳――と思ったとたん、梶の体は大きく弧を描いて、地面に叩きつけられていた。
誰もが呆気にとられて見守る中、立ち上った梶が、
「野郎!」
と突っかかって行く。三好の体がすっと沈んだと見ると、まるで梶が自分で空へ飛んだみたいに、軽々と宙を舞い、再びズシン、と落下。梶はのびてしまった。
「――梶さん!」
秋ひろみが立ち上って駆け寄る。一同がやっと我に返って騒ぎ出した時には、もう三好哲夫の姿はどこかへ消えていた。
ボンヤリと立っていた紘子の肩を誰かがポンと叩いた。振り向くと、さっき乗って来たタクシーの運ちゃんだ。
「あら、おつりはいらない、って言ったのに」
「冗談じゃねえ、料金不足だよ!」
と運ちゃんがしかめっつらで言った。
「何てこったい、畜生!」
と深田は首を振った。「俺たちも利用されただけなのか、結局は!」
「秋ひろみが最初ここへ来た時の会話も、彼女のバッグの中のテープレコーダーに入ってたらしいですよ。後で記事にする時使おうってわけで」
「それだから美人は信用できん?」
「あら、一般論で言うのは間違いです」
「そうか? じゃ、どこかにいるか? 美人で、誠実な人間が」
紘子は哀れむように深田を見て、
「所長は乱視なんですね」
「俺が? 馬鹿いえ! 俺はただの老――」
と言いかけて、|慌《あわ》てて咳払いし、「ともかく、あの女はふざけとる!」
「でも私たちはまだしもですよ」
と紘子は言った。「一番気の毒なのは三好さん」
「うん。そうか……」
「彼女に裏切られ、梶峰夫には殴られ……」
「しかし、本当はあんなに強いのに、何で殴られていたのかな?」
と深田が言った時、
「彼女がそれを喜ぶと思ったからです」
とドアの所で声がした。
「三好さん!」
「どうも……お世話をかけてしまって……」
今日の三好は、また以前の、|垢《あか》|抜《ぬ》けしない青年に戻っていた。
「TVでやったのを見た?」
と紘子が言った。「あなたが梶峰夫を投げ飛ばすところ、わざわざ分解写真でやってたわよ。それも、柔道の選手をゲストに招いて」
三好は笑って、
「全く怖い世界ですねえ」
「お茶、淹れるわ」
――三人は所長室でゆっくりとお茶を飲んだ。
「結局、秋ひろみと梶が組んだ狂言だったわけだな」
「まあ、実際に仕組んだのはマネージャーとか、プロダクションの方でしょうね」
と紘子は言って、「考えてみれば、あの二人だって言われる通りに動いてるだけなのよね」
「気の毒な人ですよ」
三好はポツンと言った。「素顔に戻る時間ってものがないんですから。――そのうちに、自分でも素顔を忘れてしまうでしょう」
「君は腹が立たないのか?」
三好は微笑んで、
「彼女とほんのしばらくでも一緒にいましたからね。彼女の言う通りにして、少しでも彼女を喜ばしてやろう、と……」
「それで、あなたは満足なの?」
「ええ。死んだ姉を喜ばせてるような気がして……。本当は彼女より僕のほうが悪かったのかもしれませんよ」
「どうして?」
「彼女は僕を利用しようとしたけど、僕だって彼女を姉の代り[#「代り」に傍点]として利用しただけなのかもしれません。彼女を責めることはできませんよ」
その時、急にドアの外で妙な声がした。紘子が立って行って開けると、
「まあ、あなたは――」
秋ひろみが、すすり泣いていたのである。
「――私、お|詫《わ》びがしたかったの。三好さんにはずいぶんひどい事をしてしまって……」
椅子にかけると、秋ひろみは、しょんぼりした様子で言った。
「もう済んだ事ですよ」
と三好は言って、「梶さん、大丈夫ですか?」
「ええ、ちょっと腰を痛めただけ。自業自得だわ」
「悪い事したな……。素人の人にあんな|技《わざ》をかけちゃいけないんだ。つい、カッとなって……」
秋ひろみはじっと三好を見つめた。
「あなたって、本当にいい人なのね。あなたみたいな人、初めてだわ」
「田舎者でしてね」
と三好は照れくさそうに言った。
「あの……」
秋ひろみは言い出しにくそうに、しばらくモジモジしていたが、「……私たちの結婚の話……あのまま進めるわけに行かないかしら?」
しばし、沈黙があった。深田が言った。
「――今日もテープレコーダーがバッグに入ってるんじゃないだろうね?」
秋ひろみはカッとなった様子で、ガバと立ち上り、
「疑うんなら、見てよ!」
とバッグを逆さにして、中身を深田のデスクの上へぶちまけた。
「これでも、まだどこかに隠してると思うんなら、裸になってあげるわ!」
とベルトを|外《はず》し始める。深田は慌てて、
「分かった! 分かったよ! 信用する!」
三好が穏やかに言った。
「あなたと僕じゃ、住んでる世界が違うよ」
「私、やめる! 歌手もタレントも、何もかも! それなら――」
「だめだよ、せっかくいい個性を持ってるのに。あなたのような地位へ昇りたくて昇れない若者が数え切れないくらいいるんだ。それを簡単に捨てちゃいけない」
「だって……」
「こうしよう。婚約者という事なら、それでもいい。まだどっちも若いんだ。何年かたって、まだお互いの気持が変らなかったら――」
「それならいいの? ワァ! 嬉しい!」
と秋ひろみは子供のように飛びはねて、「一年て三百六十五日だっけ? 誰か三日ぐらいに縮めてくれないかしら?」
その時、ドアがいきなり開いて、えらく派手なTシャツを着込んだ中年の男が入って来た。
「見付けた! やっと見付けたぞ!」
「何です、いきなり」
紘子がにらみつけると、男は慌てて、
「あ、こりゃ失礼! 私、〈〇〇プロ〉の者で……」
「私、他のプロの仕事はしないわよ!」
と秋ひろみが言うと、
「いえ、お願いしたいのはそっちの方で……」
三好が一瞬キョトンとして、
「僕のことですか?」
「ええ。いやあなたのみごとな技を拝見しましてね」
「僕は柔道家じゃありませんよ」
「ええ、実はね、今度うちで『姿三四郎』の続編ともいうべき、『姿三十郎』というのを企画していまして」
「何だか聞いたようなタイトルね」
と紘子が首をひねった。
「いえ、これは江戸時代を舞台に、お家騒動にからむ事件を、たまたま通りかかった素浪人で柔術の達人、姿三十郎がその手練の技でみごと悪人退治、また|飄然《ひようぜん》と立ち去って行く、という……」
「で、この人に何をやらそう、ってのよ?」
「むろん主人公の二枚目、姿三十郎です! このマスクとあの技なら、きっと受けます!」
「冗談じゃないわよ!」
秋ひろみが怒鳴った。「この人まで芸能界へ引っ張り込んだりさせるもんですか!」
「しかし――」
「しかし、も何もあるもんですか! 三好さん――哲夫さん、行きましょ!」
秋ひろみは三好の手を引っ張って、さっさと出て行ってしまった。
「やれやれ」
取り残された芸能プロの男は、汗を拭って、
「いいアイデアだと思ったんだけど……」
「残念でした」
紘子は言った。「もうご用がなければ、お引き取り下さい」
男が、「残念だ……」と呟きながら出て行くと、深田はフウッと息をついて、
「全く妙な世界だな!」
「でも、今度はあの二人、いいムードじゃありませんか」
「うん。……しかし彼女が結婚しちまうのは惜しいなあ」
「何言ってんですか。成立料が取れるんですよ」
「そうか! 秋ひろみの結婚相手を世話したとなればここの名も上る!」
「そうなるとお給料も上るんでしょうね」
深田は急に引出しを開けて、
「そうだ、急ぎの仕事を忘れとったぞ……」
「所長!」
紘子は深田をにらみつけた。
一週間ほどして、紘子が昼休みなので食事に出ようとしていると、
「ごめんください」
「はい!」
と振り向いたが、誰もいない。「あら……変ねえ」
と見回すと、カウンターの陰に隠れそうな七、八歳の女の子が立っていた。
「あら、お嬢ちゃん、何かご用?」
「ウン。ここに来るとスターと結婚できる、って聞いて来たの」
「あら、そう。でもねえ……あなたは……、一体誰と結婚したいの?」
少女は誇らかに言った。
「私、スーパーマンと結婚したいの!」
幽霊志願
「暑いなあ……」
|寺《てら》|沢《さわ》|紘《ひろ》|子《こ》はブツブツ言いながら、昼食を終えて事務所の方へと歩いていた。うんざりするような暑さが続いていて、紘子はいい加減グロッキー。
「大体ウチは厚生方面がなってないのよね」
と文句を言っても、所長一人に所員一人では|如何《いかん》ともしがたい。まさか|深《ふか》|田《だ》所長と二人で〈社員旅行〉なんてわけにもいかないしね……。
「そりゃあちらさんは鼻の下長くして『行こう、行こう!』って言うに決っているけど」
夏の休暇一週間とか、友達同士でハワイ旅行とか、北海道へ行こうよ、なんて、学生時代の友人から電話で聞かされ、誘われる度に、紘子は受付の机から奥の所長室へわざと聞こえるように大声で、
「でもねえ、うちは給料も安いし、夏の休みなんてないのよ! あなたハワイに行くの、いいわねえ!」
と言ってやるのだ、が深田の耳に念仏――というのかどうか、てんで反応なし。それより、電話の相手の方がびっくりして、
「まあ、紘子、どうしたの? もう[#「もう」に傍点]耳が遠くなったの?」
などと言い出す始末。
何しろ深田に言わせりゃ、夏こそは結婚相談所の稼ぎ時だ、という。
「分からんのか? 海辺にはビキニの可愛い女の子が|溢《あふ》れとる。暑さでみんなカッカしとる。こういう時こそ、みんな結婚したいなどという気違いじみた事を考えるもんだ」
「気違いじみてるんですか?」
「そうだとも。結婚なんぞは一時の狂気の結果に過ぎない」
と、哲学者めいた事を言って、
「だからだ、夏の間にウンと稼ぎまくって秋にゃ羽をのばすんだ」
と突如として次元が落ちる。
しかし、ともかく深田に言わせりゃ一年中が稼ぎ時であって、その割に稼ぎが少ないのは世の中の方が間違っているからなのである。
「何か、こうギョッとするような事ってないのかなあ……」
紘子は事務所の方へと顔を上げて、ギョッとした。
「何であんな所に……」
優雅な小豆色のロールス・ロイスが、事務所の前に停まるところだった。何となく場違いな感じ。
「うちの事務所にはせいぜいモーターバイクがいいところだけど……。まさかうちへ来たんじゃないでしょうね」
見ていると、制服の運転手が降りて来て、後ろのドアを開いた。静かに降り立ったのは、|年《と》|齢《し》の頃は四十五、六。いかにも大家の夫人といった様子の女性。夏だからミンクのコートってわけにはいかないが、涼しげなワンピースはどう見てもサンローランとか、ウンガロとか……。スーパーの|吊《つる》しを特価で買ったのとはやはり見るからに違う。
「まさか!」
と紘子が|唖《あ》|然《ぜん》としたのは、その婦人が、真直ぐに、ためらう事もなく、わが〈ブライダル・コンサルタント〉へ入って行ったからである。
紘子は駆け出した。
「所長ももう戻ると思いますので……」
紘子は冷たいお茶を出しながら言った。あのバカ、何してんだろう! 早く戻って来りゃいいのに!
「どうもありがとう」
その女性は、やや細面で、色が青白いが、どうしてなかなかの美人。決して無理に若造りしているわけではないのだが、そこは育ちの良さがにじみ出るというか、人を|魅《ひ》きつけるものを持っている。
「――おいしいわ」
と彼女はお茶を一口飲んで言った。「あなたはここの……?」
「はい、所員の寺沢と申します。所長は深田|栄《えい》|一《いち》と申しまして――」
「私は|関《せき》|根《ね》|恭《きょ》|子《うこ》。……息子の結婚相手を探していただこうと思って伺ったの」
「そうですか。お気に召す方が見つかるとよろしいですね」
「ええ……。息子はなかなか好みがうるさいものだから……」
と関根恭子はため息をつく。こういう女性がため息をつくと、憂いを|湛《たた》えていい感じである。所長がため息をつくと、あ、また小遣いがなくなったんだな、ぐらいにしか思えない。
「あなたはおいくつ?」
と関根恭子が|訊《き》いた。
「私ですか? 二十三です」
「そう。お若いわね。とてもおきれいだし、もう結婚していらっしゃるの?」
「い、いいえ!」
「でもお好きな方はいらっしゃるんでしょ?」
「まだまだですわ、私なんか」
「あら、もったいない!」
紘子が柄にもなく照れて、モジモジしていると、受付の方から深田の声がした。
「おーい、見たか? すげえ車が停まってるぜ! 乗り回してる|奴《やつ》の顔が見たいもんだな」
「所長!」
紘子は大声で|遮《さえぎ》った。「お客様です!」
数分後、深田は|真《ま》|面《じ》|目《め》くさった顔で、関根恭子の話に耳を傾けていた。
「――するとご子息は|関《せき》|根《ね》|昌《まさ》|和《かず》さん。二十四歳。職業には特についておられない、と……」
「はい。祖父の遺産がかなりありますので、それで充分生活していけます」
「はあ、結構ですな」
深田は、やや引きつったような笑いを浮かべる。他人がそういう幸運に恵まれているのが許せない男なのである。
「では、ご本人のご希望をこの用紙へ書き込んでいただいて……」
と深田は用紙を差し出しながら、「後ほど息子さんとじかにお会いして、詳しい事を――」
「その必要はございませんわ」
「とおっしゃいますと?」
「息子の希望は私がちゃんと分かっております」
「はあ。しかし――」
「私が[#「私が」に傍点]息子の相手を決めます」
「……なるほど」
深田は一つ|咳《せき》|払《ばら》いして、「しかしですね、こう申しては何ですが、結婚はやはり当人同士の気持でして、はたから、どんなに似合いの夫婦と見えても、どうしても巧く行かない事もありますし、逆にあの二人じゃ、もって一年と思っていたのが意外に円満にやっているという例もありまして、こればかりは親兄弟といえども――」
「そのご心配は無用ですわ」
と関根恭子はアッサリと言った。「私は息子に|総《すべ》てを任されて来たのですから」
「はあ……」
深田は肩をすくめて、「ま、よろしいでしょう。分かりました。ではここにご記入下さい。私どもで、これ[#「これ」に傍点]と思う相手を何人か選んで、その中で気に入った方とお会いいただきます。私どもが直接お世話申し上げるのはそこまででして、後はお二人の責任でお付き合いいただく事になりますが」
「結構です」
「で、息子さんのお写真か何か……」
「持って来ました。ちょっと前のものですが……」
とバッグから取り出した写真を深田はチラリと見て、すぐ|に傍《かたわら》の紘子へ渡す。ジロジロ見ては相手がいやがるので、そうしているのである。
紘子は写真を見た。――どこかの庭園で写したらしい。青年は二十一、二という所か。やや神経質そうだが、ちょっと母性本能をくすぐるような感じの二枚目である。
「では近日中にご連絡いたします」
関根恭子の記入した用紙を受け取って、深田は言った。「……差し当り、相談料として――」
「これをどうぞ」
関根恭子は封筒を取り出して深田の前へ置くと、
「少し多目かもしれませんが、色々とわがままを申すかもしれませんで、その分の迷惑料とお考え下さい。それでは」
といとも優雅な身のこなしで一礼して所長室を出て行った。
「おい、寺沢君」
「何です?」
「彼女は本当にあのロールス・ロイスで来たのか?」
「そうですよ」
「ふーん」
「何を感心しているんですか?」
「いや、ロールス・ロイスのタクシーってのはないだろうな」
「当り前でしょ!」
「高いんだぞ、あの車は。何千万もする……」
「お金って、ある所にはあるんですね」
「ウム。――いくら置いていった?」
「ええと……」
紘子は封筒から小切手を取り出した。「まあ! 十万円ですよ!」
「そりゃ|凄《すご》い!――おい、一番いいのを選んでやれよ!」
「あ――すみません、0を数え違えてました」
「何だ、一万円か」
深田はとたんにブスッとした顔になる。
「百万円です」
と紘子は言った。
「ご苦労様」
紘子はホテルのロビーへ入って行くと、落ち着かない様子で待っていた若い娘に声をかけた。「|野《の》|田《だ》|秋《あき》|子《こ》さんですね」
「はい。あの……」
「ブライダル・コンサルタントの寺沢です」
「よろしくお願いします」
野田秋子はまだ二十一歳、去年短大を出たばかりの若さである。現代っ子らしく、カラリと明るい美人である。
「私、お見合いなんて初めてなんです」
「お見合いっていうような堅苦しいもんじゃないんですよ。あまり緊張しないでね」
「ええ」
「約束は一時だから、そろそろ……」
「関根昌和さん、って言いましたね」
「ええ」
「お金持なんですか?」
「そうらしいですね」
「ちょっと心配だわ」
「どうして?」
「お金があるからって、遊んで暮らしてるような人って、私あまり好きじゃないんですもの」
この|娘《こ》、なかなかしっかりしているわ、と紘子は頼もしく感じた。それに引きかえ、ウチの所長と来たら……。
「失礼いたします」
紘子が顔を上げると、あのロールス・ロイスの運転手が威儀を正して立っている。
「あら、あなたは――」
「寺沢紘子様でいらっしゃいますね」
「ええ」
「お屋敷へお連れするように、との奥様のお言いつけで」
「あら。でもここで息子さんとお会いする約束に――」
「ホテルよりお屋敷の方が落ち着くだろうとおっしゃいまして。そちらの方が……」
「ええ。野田秋子さんとおっしゃって――」
「どうぞおいで下さい」
と、とっとと先に立って歩きだす。仕方なく、紘子たちもついて行った。あのロールス・ロイスがホテルの玄関に横づけされている。
「まあ凄い!」
と野田秋子が素直に驚きの声を上げた。
ロールス・ロイスに乗るのは紘子も初めてである。走り出すと、|呟《つぶや》いた。
「何だ、やっぱり真直ぐ走るんじゃないの」
当り前である。ロールス・ロイスだからって逆立ちしたり宙返りしたら大変だ。
車は一時間ほど走って、静かな郊外へと出た。まだ自然の木立がそこここに残って、所によってはうっそうとした感じで茂っている。さすがにゆったりした車内、冷房も適度にきいて、つい眠気がさして来る。
ウトウトしかけた所で、車が停まって、ドアが開いた。
「どうぞ」
運転手に促されてロールス・ロイスを降りると、目の前に|瀟洒《しょうしや》な邸宅が広がっていた。振り向いてみると、門からでも五、六十メートルは入っている。大変な敷地である。
「こりゃかなりの金持だわ……」
と呟いた。野田秋子の方はウットリとため息をついて、
「素敵! こんな所に住みたかったの、私……」
とさっきの見識もロールス・ロイスと大邸宅の前にあっては太陽の前の月の如し、という次第らしい。
玄関のドアが開いて、関根恭子が自ら迎えに出て来た。
「まあ、よく来て下さったわね!」
とにこやかに|微笑《ほほえ》む。
「どうもお迎えをいただいて」
「いいえ、ごめんなさいね、ホテルへ伺うつもりだったんですけど、息子がちょっと頭痛がすると言うもんですから……」
「まあ、それでは今日は――」
「いいえ、もう大丈夫なの。さ、暑いでしょ。ともかく中へ」
と二人を邸の中へ請じ入れた。
外観に|適《ふさわ》しい、渋くて、それでいて|垢《あか》|抜《ぬ》けしたインテリアの応接間へ通され、年代物のソファに身を沈めると、よく外国映画で見る執事といった風体の初老の男が、すぐに冷たい紅茶を運んで来た。
「で、こちらが――」
と関根恭子が野田秋子の方へ目を向ける。
紘子は急いで、
「野田秋子さんです。身上書をお送りしてあると思いますが……」
「ええ、拝見しましたよ。お写真よりずっとおきれいね」
「いえ、そんな……」
と当人は照れて顔を伏せる。
「ともかく|喉《のど》が乾いたでしょう。召し上がって」
室内の空気も冷房のせいか乾いていて、肌はサラサラと気持いいが、喉が乾く。紘子は紅茶を一気に飲みほしてしまった。
関根恭子の方は野田秋子へ、家の事、家族の事、学校の事などをていねいに訊いている。少し離れてソファにもたれていると、クッションの良さと、涼しさのせいか、段々|瞼《まぶた》が重くなって来た。
だめだめ! 何してるのよ、仕事じゃないの! しっかりして!
と言いきかせるのだが、どうにも眠くてたまらない。そろそろ相手の男性と引き合わせなきゃ、そこまでが仕事だから……などと考えているうちに、紘子は眠り込んでしまった。
――目が覚めて、しばらくは自分がどこにいるのか分からなかった。こんなカッコイイ部屋、どこにあったっけ? 寝ぼけまなこをパチクリすると、ハッと気付いて、
「いけない! 仕事中だわ!」
だが窓の外はもう夕暮れの気配。応接間には誰もいない。キョロキョロと見回していると、
「あら、お目覚めになったの?」
ドアが開いて、関根恭子が入って来た。
「どうも……申し訳ありません。あんまり気持がいいものですから、つい……」
穴があったら入りたい、という心境である。
「いいえ、仕事でお疲れなんですもの、構わないのよ」
「面目ありません」
「気になさらないで。目覚ましにコーヒーでも召し上がる?」
「いえ、あの……秋子さんと息子さんの方は……」
「あ、ごめんなさい。あなたをお起こししても気の毒だと思って、私が引き合わせたの」
「そうですか。それじゃ一応ご|挨《あい》|拶《さつ》だけして――」
「それがねえ……」
と言い淀む。
「あの、何か問題が?」
「いいえ、そうじゃないの。何しろ若い者同士でしょう。二人で出かけてしまったのよ、ごめんなさいね」
「そうでしたか。それならよろしいんですが。――じゃ私は失礼します。何だか居眠りに来たみたいで」
「いいのよ。いつでもいらして下さいね。じゃ送らせましょ」
「いえ、タクシーでも拾いますから」
「遠慮しないで、タクシーは滅多に通らないわ」
「でも車でお出かけになったんじゃないんですか?」
「ベンツで行ったの。ロールスは使えるから今用意させるわ」
「はあ……」
地下鉄が得か国電が得か、それが問題だ、なんて悩んでる人間には別世界の話のようである。
玄関へ出て待っていると、もう一台、別の車が門から入って来て、目の前に停まった。よく見るとやはりドイツのBMWである。
降り立ったのは五十前後の、いい仕立ての背広を着た紳士。紘子が頭を下げると、けげんそうな顔で、
「君は……」
「ブライダル・コンサルタントから参りました」
「ああ、君がその相手かね」
「いえ、私はご紹介させていただいたコンサルタントの者で――」
「あらあなた」
関根恭子が出て来て、「主人の|関《せき》|根《ね》|和《かず》|郎《お》ですの。こちらは寺沢紘子さん。昌和のことで色々と骨を折っていただいたの。―――あ、車が来ましたわ」
「どうも。では、失礼いたします」
紘子はロールス・ロイスに乗り込んで、関根邸を後にした。門を出る時に振り向くと、関根夫妻がまだ玄関に立って、こっちを見送っていた。
なぜか紘子はあの紳士が自分を見た時の目付きが気になった。――何か哀れむような、痛々しい思いを込めた視線のように、紘子には感じられたのである。
「今まで何をやっとったんだ?」
電話の向うの深田のしかめっつらが目に見えるようだった。
「寝てたんです」
と紘子は正直に言った。
「寝てた?――誰と?」
紘子は頭に来た。
「タチの悪い冗談はやめて下さい! 乙女心傷つけて平気なんですか!」
「い、いや、すまん。つい、何の気なしに言っただけだよ」
「全く中年男って、そんな事しか考えないんだから!」
とさらに文句を連ねてから、事の次第を説明したので、深田も怒るに怒れず、
「フム……。じゃ、向うの男を見てないんだな?」
「ええ、そうなんです。でも二人で出かけたくらいですから気が合ったんじゃありませんか」
「それなら、まあいい」
と渋々言う。「で、これから――」
「もう遅いですから、このまま帰ります。それじゃ」
と電話を切った。きっと向うで、「今の若い奴は、全く!」と電話に八つ当りしていることだろう、と思ってニヤリとした。
「行方不明?」
紘子は目を丸くした。
「そうだ!」
深田は|椅《い》|子《す》からジロリと紘子をにらんだ。
「野田秋子の両親から警察へ捜索願いが出て」
「でも……駈落ちにしちゃずいぶん急ですねえ」
「誰が二人ともだと言った?」
「え?」
「野田秋子の方だけだ!」
「関根さんの方では何と言ってるんですか?」
「二人で出かけて、関根の家へ戻ったのが七時頃、夕食をとって、八時にはロールス・ロイスで送り返したと言っとる」
「それじゃどこで……」
「野田秋子の家は狭い道を入った所なんだ。何しろロールス・ロイスはあの大きさだからな、かなり手前までしか入れない。彼女が大丈夫だと言うんで降ろしたらしい」
「それなら関係ないじゃないですか」
「そうも言っとられん。ウチで世話した見合いの帰りに行方不明だからな」
「だって、いくら何でも、そこまで責任持てませんよ」
「分かっとる。これは道義的な問題なんだ!」
「はあ……」
「法的に責任はなくとも、そこは浮世の義理ってもんだ」
「そんなもんですか」
あまり〈浮世の義理〉って言葉が適切とは思えなかったが、紘子は|曖《あい》|昧《まい》に|肯《うなず》いた。
「でもどうしちゃったんでしょうねえ……」
受付で電話が鳴った。所長の机の電話で取ってボタンを押す。
「はい。――あ、野田さんですか。お待ち下さい」
受話器を受け取った深田はじっと耳を傾けていたが、沈痛な表情で、
「そうですか。……いや、ご心配で……きっと無事ですよ。……いや、全くこちらとしても気になります。……どうも。元気をお出し下さい。……では」
「誘拐か何かですか?」
「分からん。車を降りたという場所から家までの道のわきで、彼女のバッグと……」
「バッグと、何です?」
「……下着が見つかったそうだ」
「まあ! じゃ暴行されて連れ去られたんじゃ――」
「でないといいが……」
「でもバッグと下着が勝手にそこへ歩いてくわけがないでしょう」
「君は人の不幸を前にしてよく冗談が言えるな!」
「私、別に……」
紘子はムッとして、「じゃ、何ですか、所長はそれが私の[#「私の」に傍点]責任だとでもおっしゃるんですか?」
「そんな事は言っとらん。――しかし、君が居眠りなどしなければ、そうならなかったかもしれんな」
「分かりました」
紘子は表情をこわばらせて、「どうも長い間お世話になりました」
「おい……」
「本日限りで辞めさせていただきます」
「待てよ。何もそんな――」
「明日、退職金をいただきに来ます」
その時、入口の所から、
「まあ、お辞めになるの? ちょうどよかったわ」
と声がした。びっくりして見ると、関根恭子が立っている。
「こ、これはどうも。さ、どうぞ。寺沢君、お茶!」
「いえ、いいんですの。あなたにもいていただきたいの」
と紘子を止めておいて、「昨日のお嬢さんは見付かりまして?」
「それが……」
深田が説明すると、関根恭子は顔を曇らせ、
「それはご心配ですね。……実は、今日伺ったのは……こんな時に何ですけども」
「どういうことで?」
「はい。息子の方は、あのお嬢さん、とてもいい方なんですが、結婚相手としてはどうも、という事で……」
「そうですか。いや、それは致し方ありませんな。ではまた改めて別の方と――」
「その事でご相談なのですが」
「はあ」
「こちらの寺沢さんに、うちの息子の嫁に来ていただけないかと、思いまして。こちらへ勤めておいでだし、ご無理なご相談かと思ったのですが、今お伺いしたら、お辞めになるとかで。それならちょうど……」
|呆《あっ》|気《け》にとられていた紘子は、やっと口がきけるようになった。
「ちょっとお待ち下さい。息子さんとは一度も私――」
「息子の方はあなたがお|寝《やす》みになっているのを見ていてね。寝顔がとても美しい、と心を魅かれたようなの」
これには紘子も言葉がない。深田の方も呆然としていたが、やっと口を開いて、
「しかし……これは……非売品[#「非売品」に傍点]でして……」
「一体どうする気だ?」
五時になり、机の上を片付けている紘子のそばへ来て、深田は訊ねた。
「さあ、どうしましょう?」
「全く、妙な話だな」
「あら、何が妙ですか? ちっとも妙じゃありませんわ。所長は私の寝顔を見た事があるんですの?」
「いや。見たいとは思っとるが」
「いやらしい!」
「しかし、本当にどうする? 明日には返事をすると言ったんだぞ」
「所長さんが心配する事ありませんわ、私の[#「私の」に傍点]問題ですから」
「ま、そりゃそうだが……」
「それにどうせ私は近々辞める身ですから」
「う、うん……ただ、ちょっと忠告しとこうと思ってな」
「あら、何をですか?」
「つまり……金持の息子の遊び人てのは、どうも結婚相手としては感心せん。それにかなり母親べったりの様子だし、どうもそこも気になる。金だけあっても気苦労が多くては、楽しい結婚生活が送れるとは思えんな。――ま、そんな所だ」
所長室へ戻って行く深田の後ろ姿を見て、紘子はそっと微笑んだ。人はいいんだ、あの所長は。すっかり本気で心配しちゃって。
紘子だって、あんな大金持の家へ嫁に行く気はなかった。ただ、すぐに断っちゃ悪いと思って、一日考えさせてくれと言っただけなのだ。
「さて、帰るか」
と席を立った時、電話が鳴った。
「寺沢さんかね」
低く押し殺した男の声だ。
「はい。どなたですか?」
「関根邸へ二度と行ってはいけない」
「どなたです?」
「野田秋子のような目にあいたくなかったら……」
「何ですって?」
「関根邸へ行ってはいけない」
「あなたは誰?」
電話が切れた。――かなり近い電話だ。直感的に、紘子は事務所を飛び出した。表通りへ出て、周囲を見回すと、電話ボックスの前から、|見《み》|憶《おぼ》えのあるBMWが走り去って行くところだった……。
紘子は帰り道、M新聞社へ寄ってみた。大学の先輩が記者をやっているのだ。
「オス! 珍しいなあ。お前生きてたのか」
と威勢のいい声と共に現れたのは、今年二十八になる|船《ふな》|山《やま》という経済記者である。
「忙しい? ちょっと訊きたい事があるの」
「いいとも、いくらでも答えてやるぜ。お前独身か?」
「ええ」
「そうか。今夜付き合えるといいんだが、あいにく取材があってな」
「何言ってるの。お茶でも?」
「ああ。そこへ入ろう」
手近な喫茶店へ入ると、紘子は、
「関根和郎って知ってる?」
「関根?――ああ、あの殿様[#「殿様」に傍点]の事だな」
「殿様?」
「父親譲りの財産で優雅に商売をしてる実業家さ。腕はなかなかのもんだが、育ちがいいせいか欲がない。しかし、なかなかよくできた男だよ」
「彼の家庭の事、知ってる?」
「さあね……」
船山はキュッと|眉《まゆ》を八の字に寄せて、
「あまりよくは知らないな。女房は元華族とかで、おっとりした上流婦人らしいな」
いかにもそんな感じだ、と紘子は思った。
「一体どうして、関根の事なんかに興味あるんだ?」
「実はあそこの息子と結婚しないかって言われてるの」
船山は目を丸くして、
「そいつは凄いじゃねえか!」
「でも、ちょっと何か妙なのよね……。で、あなたに訊けば何か分かるかと思って」
「俺は経済記者だからね。よく知らないんだ。――ちょっと待てよ。その辺に詳しい男がいる。訊いてやるよ」
「悪いわね。何かこう、ちょっと変った事があれば聞きたいの」
「よし、待ってな」
船山は喫茶店から|大《おお》|股《また》に出て行った。そして十分ほどして戻って来たが、どうも|冴《さ》えない顔色である。
「どうだった?」
「どうもこうも――」
船山はドサッと座ると、「そいつ、本当に関根の息子か?」
「どうして?」
「もし関根の息子だとしたら、そいつは幽霊[#「幽霊」に傍点]だ」
「どういう事?」
「関根の息子は三年前に死んでる」
「会いに行くのか?」
深田が椅子から紘子を見上げて言った。
「はい。結婚はともかく、お会いするだけなら、と思いまして」
「そうか。じゃ行ってこい」
「すみません」
深田は何となく寂しそうに、
「本当にここを辞める気か?」
「結婚となれば、そうなると思います」
と紘子は澄まして言った。
「そ、そうか……。ま、巧く行くといいな」
「ありがとうございます」
――紘子は約束のホテルのロビーで時間になるのを待ちながら、一体何が起こっているのだろう、と思った。あの母親は、死んだ息子のために[#「死んだ息子のために」に傍点]、花嫁を捜しに来たのか? 野田秋子はどうなったのか?
息子の事で|嘘《うそ》をついていたからには、野田秋子を送って行ったと言うのも嘘だという可能性が大きい。野田秋子は、何かとんでもない目にあわされているのではないか……。
紘子はこれが危険な仕事とは分かっていたが、そこは深田と似て〈浮世の義理〉というのか、やはり少しは自分にも責任があるという気持を捨てられないのである。
「私ももう旧世代[#「旧世代」に傍点]なのかなあ」
と物想いに|耽《ふけ》っていると、
「失礼いたします」
と声がした。見上げると例の運転手。
「あら、奥様と息子さんは?」
「それがちょっと来客で屋敷を離れられなくなりまして」
「まあ、それじゃ、また改めて――」
「いえ、ぜひ屋敷の方へお連れするように、とお申しつけになりましたので」
「お客様でお邪魔ではございませんの?」
「いいえ。そんなお気遣いは無用です」
「それじゃ……」
「どうぞ」
こうなるに決ってる、と最初から分かっていた。いない息子が来るはずないのだから……。
ロールス・ロイスは再び関根邸の門を入って行った。紘子は車を降りる時、一瞬ゾクッと寒気が走るのを覚えた。この中に、何が待っているのか……。
「まあ、よくいらしたわ!」
と玄関を出て来た関根恭子が愛想よく微笑んだ。
「ごめんなさいね、わざわざ来ていただいて」
「お客様ではありませんの?」
「いいえ、ついさっきお帰りになったの。不意の客は困るわ。さ、どうぞ」
紘子は応接間へ通された。また、例の執事が冷たい紅茶を運んで来た。紘子は警戒していた。一昨日、眠ってしまったのもこの紅茶のせいかもしれない、と思ったのだ。あんな時間に眠ってしまうというのは、今までになかった事だった。
紘子は紅茶へ口だけつけて、飲んだふり[#「ふり」に傍点]をした。
「まあ、息子が勝手を言ってごめんなさいね。――わがままな所があって。あなたに一目惚れしたらしいの」
「光栄ですわ」
「でも、とても気の優しい子なのよ。きっと気に入ってもらえると思うわ」
「で、息子さんはどちらに?」
「ええ、ちょっと待ってね。今、呼んで来るわ」
と関根恭子は立ち上って応接間を出て行った。
――紘子は深呼吸して、覚悟を決めた。何が起ころうと取り乱してなるか。バッグの中へ手を入れて、護身用に、と持って来た痴漢撃退用の目つぶしを触ってみる。口紅型のケースに、薬が入っていて、一瞬、相手の目を見えなくする効果がある。まあ、アメリカあたりだと、小型のピストルでも忍ばせるところだが、日本ではそうはいかない。
ドアが開いて、関根恭子が入って来た。
「ごめんなさい。息子が自分の部屋でお会いしたいと言ってるの。一緒に来て下さる?」
「ええ」
応接間を出て、紘子は二階へと導かれて行った。長い廊下を奥へ奥へ……。突き当りのドアを開けると、そこは部屋ではなく、ただの階段の上り口だった。
「息子の部屋はサン・ルームなの」
と言いながら、関根恭子は階段を上って行く。紘子も続いた。
「さあ、どうぞ」
上り切った所のドアを開けると、関根恭子は促した。
そこはかなりの広さの部屋で、天井は斜めのガラス張り。夏の|陽《ひ》|射《ざ》しが射し込んで、ムッとするような暑さだ。
「どこにいらっしゃるんですか?」
「――あら」
関根恭子は中を見回して、「いやねえ、どこに行ったのかしら? きっと服でも着替えてるんだわ。ちょっとここで待っていてね、すぐ来るわ」
ドアが閉まり、紘子は一人、取り残された。――部屋には、ベッド、机、本棚、ステレオなど、一通り、若者の部屋にある物は|揃《そろ》っている。
これは一体どういう事なのだろう? 死んだ息子が使っていた部屋を、そのまま取ってあるのだろうか? それとも他の誰かが使っているのか……。
「暑い……」
額に汗が浮かんで来る。
紘子はハンカチを出して|拭《ぬぐ》った、冷房も入っているのだろうが、何しろ温室のようなものだ。えらく蒸し暑い。
「まさか私を蒸し焼きにしようってんじゃないでしょうね」
と紘子は呟いた。こめかみを汗が伝い落ち、背中もじっとり汗ばんで来る。冷房の吹出し口を捜してみたが、それらしいものはない。――汗が背中や胸の間を伝って、何ともいえず気持悪い。
「いつまで待たせるんだろ」
と愚痴った時、ドアが開いた。
深田はどうにも気分が沈んでいた。年中喧嘩してはいても、紘子はいい所員である。いなくなると思うと、寂しくなる。
「全く、金持なんかと結婚してもろくな事はないのに」
とブツブツ言っていると電話が鳴った。
「はい。――え?――ああ、寺沢なら出かけてますよ」
「友人の船山と言いますが。どちらへお出かけで?」
「それは……ちょっと見合いがありましてね……」
「まさか関根和郎の所へ行ったんじゃないでしょうね?」
深田は面食らって、
「君、一体どうしてそれを――」
「やっぱりそうか! どうも彼女の様子がおかしいと思ったんだ」
「一体どういう事なんだ? 説明したまえ」
船山が手早く事情を話すと深田は真っ青になった。
「わ、分かった! すぐにやめさせる!」
船山が関根邸へ駆けつけると言って電話を切ると、深田は急いで関根邸へ電話をかけた。
――お話し中の信号音だ。
「畜生!」
深田は受話器を置くと、事務所を飛び出した。タクシーをつかまえて飛び乗る。
「あの命知らずめ! 全く無茶な奴だ。俺に一言いえばいいのに……」
とブツブツ言っていると、運転手が振り向いて、
「旦那、どこへ行くんですか?」
と訊いた。
「あなたは――」
紘子は、一瞬暑さも忘れて、サン・ルームへ入って来た人物を見つめた。
「なぜ来たんだ!」
関根和郎は、入って来るなり言った。「来るなと忠告しておいたのに!」
「言われたからこそですわ」
紘子も負けずに言い返した。「野田秋子さんがどうなったのか、知らなければなりませんもの」
「命知らずなんだな、全く!」
関根和郎はため息をついたが、
「ともかくここを出るんだ、早く!」
と紘子の腕をつかんだ。
「一体何があるっていうんです?」
「説明している暇はない」
と|苛《いら》|々《いら》した様子で、「早く行かないと――」と言いかけた時、ドアがきしんで、
「あら、あなたもいらしてたの?」
関根恭子が入って来た。「――寺沢さん、お待たせしてごめんなさいね」
「い、いいえ」
と紘子は|慌《あわ》てて言った。
「息子の昌和ですわ」
と関根恭子が傍へ身をよけた。そこには……誰もいなかった[#「いなかった」に傍点]。
「さ、昌和、寺沢紘子さんよ。ご挨拶なさい……」
紘子はどうしていいのか分からずに、関根和郎の方を見た。彼が、ちょっと肯いて見せる。どうやらここは相手に合わせるよりなさそうだ。
紘子は相手がいると覚しきあたりへ向いて、
「寺沢です。初めまして」
頭を下げた。
「ほら、とても礼儀正しいお嬢さんでしょう?――え?――ほんとにね、ホホホ」
何だか薄気味の悪い感じだった。これで、関根恭子が、髪振り乱し、目も|虚《うつ》ろ、といった様子なら|却《かえ》ってそれほどの事もないのだろうが、上流階級の夫人らしくきちんと身なりも整って、顔立ちが知的でさえあるのが、ぞっとするような怖さだった。
紘子は引きつったような笑顔をこわばらせて、立っていた。
「さあ、二人でお話しなさい」
と言われて、紘子は困ってしまった。透明人間が相手では、いかにおしゃべり好きな紘子でも言葉が出て来ない。そこへ関根和郎が口を|挟《はさ》んだ。
「お前、ここじゃ紘子さんも話ができないよ。男の部屋だからな。ともかく|一《いっ》|旦《たん》下へ行って、庭でも散歩しながら……」
「それもそうね! 私ったら気がきかなくて。――じゃ階下へ下りましょう」
紘子はホッと|額《ひたい》の汗を拭った。下へ行けば逃げ出すチャンスもある。しかし、野田秋子がどうなったのか、それを知らねば……。
温室のようなサン・ルームを出ると、冷房の効いた乾いた涼しい空気に生き返る思いがした。階段を下りながら、関根和郎がそっと紘子の耳元へ、
「庭へ出たら、奥に小さな別棟の部屋がある。そこで待っていなさい。後から行く」
紘子が肯いた。
「寺沢さん、何か召し上がる、お飲物でも?」
と関根恭子が一階へ下り立つと訊いた。
「いえ――」
と言いかけたが、まだ体中が汗でべっとりしている。「じゃ、何か冷たい物を――」
「すぐに持って行かせるわ。客間の方にいてちょうだい。昌和、ちゃんとお相手してね」
そこへ初老の執事らしい男が現れて、
「旦那様、お電話でございます」
「そうか。どこからだ?」
「会社の小沢様でございます」
「そうか! 忘れていた!」
関根和郎は舌打ちすると、「ではお嬢さん、ちょっと失礼」
と紘子の方へ肯いて見せた。
「あなた、寺沢さんには昌和がついているのよ。私やあなたは却ってお邪魔だわ」
と関根恭子が笑顔で言った。
「それもそうだな」
二人がいなくなると、紘子は客間へ入って行った。やっと一人になった、と思うとホッとため息が出る。いや、二人な[#「二人な」に傍点]のだ。関根恭子にとっては二人なのだ……。
息子を失ったのを信じられない母親の気持は、紘子にも分からぬではない。いや、むろん紘子に隠し子があったとかいうわけではないが、頭で理解することはできる。しかし、それが野田秋子の|失《しっ》|踪《そう》とどう結び付くのだろうか?
その答えは、関根和郎が出してくれそうだが……。
「失礼いたします」
ドアが開いて、初老の執事が盆に冷茶のグラスを二つ載せて入って来た。ソファに座った紘子の前に、グラスを二つ並べて立ち去ろうとする。
「あの――」
と紘子は声をかけた。
「何でございましょう?」
執事が振り返る。
「あの、一昨日、ここへ私と一緒に来た娘さんを憶えてます?」
「はい」
「ここから本当に帰ったんでしょうか?」
訊いたところでむだだとは思ったが、
「運転手にお訊きいただけば……」
という返事に、そうだ、と思った。――運転手は割合まとも[#「まとも」に傍点]に見えた。まさか幽霊ごっこに加わっているわけでもあるまい……。
「息子さんが亡くなられたのは三年前だったそうですね」
どう答えるかな、と思いつつ訊いてみると、執事は目を伏せて静かに、
「このお屋敷の中では、お坊っちゃまは生きておられるのです」
と言った。
「それは奥さんが――」
「奥様は、それはもうお坊っちゃまを可愛がっておいででした。お坊っちゃまも大変に素直なよい方で優しい性格の方だったのです。でもそれが却ってあだとなりまして……」
「何かあったんですの?」
「悪い女に|弄《もてあそ》ばれたのでございます。いわば全く免疫のなかったお坊っちゃまは、その女に夢中になってしまわれました。それはもう熱病のようなもので……。旦那様や奥様が何を申し上げても一切耳に入らない有様でございました」
「で、その末に……」
「お坊っちゃまは女に捨てられ、自殺なさったのでございます」
自殺だったのか……。しかし、それは一つには猫可愛がりし過ぎた母親の責任でもあるのだ。
「奥様は本当にいい方でございます」
と執事は続けた。「私どもも奥様の夢を壊すまいと、この屋敷の中では、お坊っちゃまが生きておられるように振舞っているのです……」
紘子にもその気持が分からぬではなかった。しかし、本当に関根恭子のためを思うのなら、早く目を覚まさせてやる方が大切なのではないか、という気もする。
執事が出て行くと、紘子は冷たいお茶をそっとすすった。妙な味はしない。――もし、一昨日の紅茶に何か薬が混ぜてあったのなら、あの実直そうな執事も怪しいという事になる。一体誰を信じたらいいのか?
「あら、お話が|弾《はず》んでるようね」
関根恭子がにこやかに微笑みながら入って来た。
「ええ……」
落語じゃあるまいし、一人でおしゃべりもできない。一体何が弾んでる[#「弾んでる」に傍点]のかしら?
「昌和、庭をご案内してあげたら?」
と紘子の隣の席へ声をかける。「狭い庭ですけど、見て行ってね。ここがあなたの家になるかもしれないんだから」
「ありがとうございます」
冗談じゃないわ! 札束をいくら積まれたってごめんだわね。幽霊の花嫁なんて。しかし、ともかく庭へ出れば、関根和郎が来てくれる。そうすれば、この事件もはっきりするだろう。
そこへ、執事が顔を出した。
「失礼いたします。寺沢様、お兄様が急用だとかで、おいでになられておりますが」
紘子は目を丸くした。
「は、はい!」
と慌てて返事をする。死んだ男と見合いしたり、いもしない兄が会いに来たり。一体どうなってるの?
玄関へ出てみて、紘子はびっくりした。|苛《いら》|々《いら》と足踏みしながら待っていたのは船山ではないか!
「紘子!」
「あ、あの――」
「お父さんが倒れたんだ」
「え?」
「すぐに来るように連絡があった。こちらのお宅には悪いけど……」
「まあ、それは大変」
と関根恭子が心配顔で、「寺沢さん、じゃともかく今日のところは早く帰ってあげて」
「は、はい」
何が何やら分からないうちに、誰もいない方へ向って、
「では、今日はとても楽しかったですわ」
と頭を下げ、船山に促されて、そそくさと関根邸を出る。ロールスを、という申し出を、
「外に車を待たせてありますので」
と船山が|断《ことわ》って、二人はやっと門を出た。
「全くお前って奴は、どうしてそう無鉄砲なんだ!」
と船山がにらんだ。
「あなたこそ何よ、出しゃばって!」
「相手は気が狂ってんだぞ、死にたいのか!」
「私の命ですからね! どうしようと私の勝手でしょ」
「この野郎……」
「それより、私の兄だなんて勝手に名乗らないでちょうだい。もし私に兄がいないと向うで知ってたら、却って怪しまれるじゃないの」
船山もさすがにグッと詰まった。――二人が路上でにらみ合っていると、タクシーが一台走って来て、そばで停った。
「あら、所長だわ!」
深田がタクシーの運転手と何やら押し問答をしている。
「所長、どうしたんですか?」
「君か! よかった、この運転手が実に物の分からん奴で――」
「冗談じゃねえよ」
と運転手はしかめっつらで、言った。「金が足りねえから分割払い[#「分割払い」に傍点]にしろ、ってんだ。そんなのあるかい」
「私が払います」
と紘子が代りに金を払って、「所長、あまり恥ずかしいことを言わないで下さいね」
「う、うん……」
と頭をかいていた深田はヒョイと紘子の顔を見て言った。「何だ、君、無事だったのか?」
「すると、あの夫人は完全にイカレてるんだな?」
喫茶店に入って、紘子が深田と船山に事の次第を話して聞かせると、深田がそう言った。
「イカレてる、なんて!」
紘子はムッとして、「母親の悲しみは深刻なものですよ」
「そりゃ分かっとるが……」
「しかし、その話はどうもおかしい」
と船山が言った。
「どういうこと?」
「いや、実際には関根昌和は自殺したんじゃない」
「何ですって?」
「殺された[#「殺された」に傍点]んだ」
「……本当なの?」
「調べ直してみたんだよ。ほら新聞のコピーを持って来た」
船山がポケットから取り出したのは新聞記事を複写したものの切り抜きだった。〈大学生殺さる――実業家関根和郎氏の子息――犯人は女友だちか?〉とあって、関根昌和が女子大生|牧《まき》|野《の》|麻《あさ》|子《こ》(二一)のアパートで、包丁で刺し殺されたことが報じられていた。
「犯人は捕まったの?」
と紘子は訊いた。
「ああ。その二日後にね。やはり、その女子大生だったよ」
「一体どうして、そんなことになったのかしら?」
「それも色々話を聞いてみたんだがね……」
船山はちょっと間を置いて、「どうもその〈可愛い坊っちゃん〉は外と内とで大分違う顔をしていたようだね」
「じゃ、本当は――」
「かなりのプレイボーイだったらしい」
紘子は肯いた。金を好きなように使えて、二枚目の大学生――とくれば、そうならない方が不思議だといえるだろう。
「彼を刺した娘も夏の軽井沢で彼に引っかけられた一人なんだが、なかなか素朴ないい娘だったらしくてね、彼も割合よくそのアパートへ行っていたんだ。ところがお定まりの妊娠――彼女の方はすっかり結婚してくれるものと当てにしてたってわけだ」
「それで彼の方は|堕《お》ろせ、と……」
「それどころか、手術代を含めて三百万ほど現金を持って来たらしい。それでもう手を切ろう、とね。娘の方がカッとなって……」
紘子は眉を曇らせた。
「いやな話ね。男なんてみんなそうなんだから。泣くのは女なんだわ」
「しかし、死ぬのは男だぞ」
と深田が言った。紘子がキッとにらむ。船山は慌てて、
「ま、それはともかく、非は関根の方にあったといってよさそうだね」
「それで、彼女の方はどうなったの?」
「さあね。そこまでは知らないけど……。何か今度の件と関係があるのかい?」
「女として見過ごせないのよ」
と紘子はぐっと身構えた。
「分かった。それじゃ調べてみよう」
と船山はメモを取って、「――さて、しかし、当面の問題は野田秋子がどうなったのか、という点だな」
「あの家と関係なく襲われたのか、それともあの家の中で何かがあったのか……。もうちょっとで何かつかめるところだったのに、妙な〈お兄さん〉が飛び込んで来るから」
「お前のことが心配だったんだ!」
「私なんか構わないのよ。別に死んだって誰も泣いてくれるわけじゃなし……」
「そんなことはないぞ」
と深田が言った。
「あら、所長、私が死んだら泣いて下さるんですか?」
「当り前だ。この金のない時に香典を取られるんだからな!」
この後、議論を進めるには、若干の意見の調整が必要であった。
「今の所はしかし、どうしようもないんじゃないかな」
と船山が言った。「警察へ言うにしても、何の具体的な証拠もないわけだし……」
「でも野田秋子さんのことが――」
「警察に任せておけよ。そのうち、ちゃんと犯人を見付けるさ」
「そうだ。その通りだ」
と深田も同調する。「我々素人が口を出すことではない」
「何です、所長が、野田さんの行方不明は私の責任だとおっしゃったんですよ」
「そんなことは言わん。ただ……」
としばらく考えてから、「ここのコーヒーは苦いな」
「苦くないコーヒーなんてあるもんですか」
「ウム。それもそうだ。だから君は関根昌和との縁談を、残念ですが、と言って断ればいいんだ」
と支離滅裂なことを言っている。
みんな無責任なんだから、と紘子は腹立たしい気持で腕組みをした。中年の深田、二十八歳の船山よりも二十三歳の紘子の方が責任感が強いのである。「今どきの若い者は……」というグチをそのままお返ししたいくらいだわ、と紘子は思った。
「はい、ブライダル・コンサルタントでございます」
と答えた紘子の耳に、
「やあ、昨日は失礼したね、関根だが」
と、ちょっと低音の、中年の渋さを匂わせる声が伝わって来た。
「あ、どうも。こちらこそ突然失礼してしまって……」
「いや、そんなことはどうでもいい。ともかく一度お話ししたい」
「はい。――野田秋子さんはご無事なんでしょうか?」
「今、会社なのでね」
と相手が声を低めた。
「分かりました。では……」
関根和郎は、ホテルのロビーを指定した。
「はい、では必ず伺います」
受話器を置くと、深田が所長室から顔を出した。
「誰からの電話だ?」
「別に。私用です」
「そうか。……関根恭子じゃなかったのか?」
「違います」
これは嘘ではない。
「ふん、それならいいが……。無茶をするなよ」
「ご心配をいただいてどうも」
と紘子は冷ややかに言った。また電話が鳴った。受話器を上げると、船山の威勢のいい声が飛び出して来る。
「オス! まだ殺されてなかったのか」
「残念ながらね。何か?」
「例の関根を殺した牧野麻子のことだ」
「ああ、何か分かって?」
「その後、服役してね。素直に罪を認めたこともあったし、何しろ相手が名だたるプレイボーイだったこともあって、五年の刑で済んだらしい」
「そうなの。よかった!」
「ただね……」
「何なの?」
「彼女、妊娠してたろう? 事件を起こした時、もう六か月になっててね。堕すことができなかったんだ。精神的にもまいってたし。それに彼女自身、生みたいと希望したそうなんだよ。その辺の心理はよく俺には分からないけどなあ。殺すほど憎い奴の子供なんて、どうして生みたいのか……」
「それで、生れたの?」
「うん。今は彼女の母親が育てているらしい。――ま、分かったのはこんなとこだな」
「ありがとう」
「いいか、もう危ない事に首を突っ込むなよ」
「OK」
紘子は電話を切った。――殺したいほど憎い、か。それほど愛していた、とも言えるわけだ……。
「寺沢君」
呼ばれて、所長室へ入って行くと、深田は珍しく愛想のいい笑顔になって言った。
「やあ、ちょっと相談があってね」
「何でしょう?」
「うん……。ま、いろいろ考えてみたんだが、夏の休暇をここらで実施しようかと思ってね」
「本当ですか!」
どういう風の吹き回しかしら、「で、どのくらい……」
「うん、ここは一つ思い切って……交替で一日ずつ休もうかと思うんだが、どうかね?」
「やあ、わざわざ来てもらってすまないね」
関根和郎はもうロビーで待っていた。「君に昨日の|詫《わ》びを言っておかねばならないと思ってね」
「別に私は――」
「いや、家内の態度には面食らったろうからね。君はそれを巧く扱ってくれた。大変に感謝しているよ」
関根和郎は微笑んだ。こうして見ると、なかなか素敵なロマンスグレーである。
「どうして脅迫めいた電話などおかけになったんですか?」
と紘子は訊いた。
「それはね……君が家内の様子を見て、警察へでも訴えられては困ると思ってね。しかしよく考えてみれば、あんなことを言ったら却って警察へ通報されるところだったな」
と笑って、「さあ、この上のレストランに席が取ってある。夕食を一緒にしよう」
紘子は面食らって、
「でも――」
と辞退しようとしたが、関根和郎の方は構わずにエレベーターの方へどんどん歩いて行ってしまう。仕方なく紘子も後からついて行った。
優雅なムードのフランス料理店で、紘子は最高級のワインを飲み、一流の料理をたらふく詰め込んで、すっかりいい気分になってしまった。
食後のコーヒーになると、関根和郎は静かに口を開いた。
「君に訊かれた、あの野田秋子という娘さんのことだけどね……」
「彼女がどうなったか、ご存知なんですか?」
「知ってる」
「まさか……」
「いや、死んではいない。そんなひどい目にあっているわけじゃないんだ」
「それじゃ……」
「一緒に来てくれるかね? 途中の車の中で説明するよ」
紘子は一瞬迷ったが、この実業家なら信じていいだろう、と思った。
「ええ、行きますわ」
ホテルの駐車場に、見憶えのあるBMWが停っていた。関根は助手席に紘子を乗せると車を夜の街へと走らせた。――しばらく走って、車の数が少なくなって来ると、やっと口を開いて、
「息子の死の事情については知っているかね?」
「ええ」
「そうか。調べたんだね? いや、君は利口な娘さんだから、当然分かっているだろうと思っていたよ。――息子は確かにプレイボーイだった。その点は親にも責任がある。それは私も否定しないよ。だが母親には事実、大変優しい息子でね、家内は息子を盲信していた。私もそれで別に何の問題も起こさなければ、と放置していたのだ。女とのいざこざで、百万程度の手切れ金を払ったことも三度あった。しかし、妊娠させたのは、あの牧野麻子という娘が初めてだった」
「彼女と別れるようにおっしゃったんですか?」
「むろんだ」
とやや強い口調で言い切る。「どちらも学生の身だし、息子は私の持っている事業を受け継がねばならん。――その妻としては、あんな娘は不適格だ」
紘子は口を開きかけたが、思い直して、関根和郎の話に耳を傾けた。
「それに息子も、どのみち結婚する気などなかった。お互い承知の上での楽しみだったのだ。――私には、どうもあの麻子という娘は初めから息子の妻の座を|狙《ねら》っていたのじゃないかと思えるんだ。息子の話では、相手の娘が、絶対に大丈夫な時期だからと言って、進んで身を任せて来たらしい。まあ、それはともかく、妊娠させたのは息子の責任だ。私は息子に三百万渡した……」
「でも彼女の方も、本気で息子さんを好きでなければ、刺したりしなかったでしょう」
「そうかもしれん。しかしそれはもう、今となっては、どちらでもいいことだ。――家内にとって息子の死がどんなにショックだったか、察しがつくだろう」
「ええ」
「家内には、息子が悪い女にだまされた、としか思えなかったのだ。だから自分で、息子に|適《ふさわ》しい嫁を見つけてやると決心した……」
「それはいつごろから?」
「つい最近だ。それまではただ、家の中に息子がいると信じているだけで満足していたのだが、二十四歳の誕生日に――むろん、生きていればの話だが――、『そろそろ昌和にもお嫁さんを見付けてあげましょう』と言い出してね。私は止めたのだが、勝手に君の所へ行ってしまったのだよ」
「で、野田秋子さんは……」
「屋敷の庭の別棟にいる」
「どうしてそんな所に?」
「花嫁修業[#「花嫁修業」に傍点]さ」
「え?」
「テスト、といえばいいかな」
「何のテストですか?」
「つまり息子の嫁に適しい女性かどうか、家事をやらせているんだ。あそこはちょっとした小屋になっていてね、一応台所仕事をできるようになっている。あの娘さんは可哀そうに、あそこへ監禁されて、息子の好物だったグラタンやら何やらを作らされているんだ」
「でも、それをどうして――」
「分かってくれ。家内を病院へ送りたくはなかったんだ。一日か二日で、あの娘を帰すだろうと思っていた。そうなったら、充分に償いをして……妻のことは口をつぐんでもらうつもりだったのだ」
と関根和郎は苦しげに言って、「しかし、家内は君までも同じように連れて来ようとした。――私も、これ以上放っておくわけにいかなくなった。今夜こそ彼女を逃がしてやろうと思っている。君に連れて帰ってほしいんだ」
「分かりました」
と肯いたものの、何となく紘子はすっきりしなかった。「なぜ野田秋子さんのバッグや下着を捨てさせたんです?」
「屋敷を家宅捜査されたくなかったのでね。私が運転手に命じてやらせたのだ」
「でも……奥さんは一人でそんなことを?」
「いや、家内には、あの執事がついている。家内に心から忠実な男でね。――ああ、もうすぐだ」
BMWは関根邸の門を入り、玄関へ車を寄せた。
「もうこの時間なら、家内は眠っているはずだ」
と車を降りて、ふと顔を上げると、「変だな。明りが|点《つ》いてる」
二人は玄関から入って、二階へ上って行った。
「ここが家内の寝室でね。……恭子」
と関根和郎は一つのドアをそっと開けて、声をかけた。「帰ったよ」
部屋へ入ると、奥のベッドで、関根恭子が安らかに寝息を立てている。ちょっと何やら当惑顔だった関根和郎は、
「ま、いい。ともかく、あの娘さんの所へ行こう」
と、紘子を促した。
庭の細い|小《こ》|径《みち》は、所々の水銀灯で照らされていた。目指す小屋は、ちょうど、ちょっとした山小屋くらいの大きさで、窓からは黄色い光が|洩《も》れている。
「ドアが開いてる!」
と関根和郎が声を上げた。「何かあったんだ!」
二人は足を早めて、小屋の入口へ近付いて行ったが――突然、ドアから誰かがフラッと出て来た。紘子は思わず悲鳴を上げるところだった。その男の、頭から顔へ、血がいく筋も流れていたからだ。
「どうしたんだ!」
関根和郎が|愕《がく》|然《ぜん》として叫んだ。
「やられました!」
その声で、紘子はその男がロールス・ロイスの運転手だと気付いた。「畜生! あの娘……。つい油断しました……」
「それで、娘は?」
「逃げました」
「馬鹿め!」
関根和郎は|怒《ど》|鳴《な》りつけた。「あんな小娘一人の見張りもできないのか!」
どうも様子がおかしい……。紘子は素早く屋敷の方へ駆け戻ろうとした。が、数メートルと行かないうちに、関根和郎が前に立ちはだかった。
「このまま帰すわけにゃいかない!」
と、さっきまでの紳士顔とは打って変って険悪な形相である。「畜生! とんだ計算違いだ!」
「あなたの話はでたらめなのね?」
「なに、最後の筋書が違うだけさ、そこにいる運転手の貝塚が娘を殺して、その血を、家内の手へなすりつけておくはずだった」
「何ですって!」
「家内は単純な女だからな。自分で眠っている間に殺したと思い込むだろう。巧く行けば自殺してくれる。自殺しなければ、こちらでそう見えるように細工するだけだ」
「ひどいことを……」
「これしか方法はなかったのさ。あいつと離婚するか、殺すか。――若い女がいるんだ。家内さえいなくなれば彼女と一緒になれる。離婚すれば、家内は自分の|莫《ばく》|大《だい》な資産を持って行く。そうなると、こっちにもかなりの痛手だからな。それはさせたくない」
「何て勝手な……」
「家内が狂っているという証言を君にしてもらうつもりだったんだが……」
「誰が、そんな証言するもんですか! あんたの方がよほど狂ってるわ!」
「もう証言しなくてもいい」
関根和郎はニヤリとして、「君には、逃げた娘の代りに、被害者[#「被害者」に傍点]になってもらう!」
紘子はゾッとして、逃げなければ、と思った。――が、いきなり後ろから抱きつかれ、
「離して! やめて!」
と叫んで暴れようとするが、運転手の腕はビクともしない。
「小屋の中へ入れろ!」
と関根和郎が命令した。「巧く片付けるんだぞ! 俺はもう一人の方を捜して来る!」
紘子はかかえ上げられるようにして小屋の方へ運ばれて行った。
「おとなしくするんだ! 今、楽にしてやるぜ」
「人殺し! この――」
「叫んだってここからじゃ聞こえやしねえさ」
運転手が紘子をかかえて小屋の入口を入ろうとした時、開いていたドアの陰から一本の腕がのびて来て、手に握った大きな石を力一杯、運転手の頭へ振り降ろした。
「うッ!」
と|呻《うめ》いて、運転手が地面へ崩れる。紘子がやっと立ち上ると、ドアの陰から、野田秋子が現れた。
「まあ、あなたは――」
「こいつを殴って、逃げようと思ったけど、どっちがどっちだか分かんなくて……。ぐずぐずしてるうちに、あなた方がやって来たんで、ドアの陰にずっと隠れてたの」
「助かったわ!」
紘子は野田秋子の肩を叩いた。「さ、早く屋敷の方へ!」
二人が小径を走って行くと、行く手を誰かの影が|遮《さえぎ》った。
「止まれ!」
「体当りよ!」
と紘子は野田秋子へ叫んだ。「それっ!」
二人の若さ|溢《あふ》れる娘が猛然とぶつかったので、相手はもののみごとに一回転してのびてしまった。
「何だ、だらしない」
と紘子は男の顔を覗き込んで目をみはった。
「所長!」
「わざとぶつかったわけじゃありませんよ」
と紘子は言った。「いきなり飛び出して来るんですもの」
所長室の椅子に座って、深田は額の大きなバンソウコウの×印をさすりながら、
「いや、あれは明らかに故意だ。|俺《おれ》への日頃の恨みを……」
「そうじゃない、ったら」
「いや、分かってるんだ。俺の本当の心を誰も理解しちゃくれないんだ。君は俺をただケチで、口やかましくて、頭が古くて、どうしようもない奴だと思ってるんだ」
大体当ってるわ、と紘子は思った。
「でも所長――」
と慰めようとした時、ドアが開いて、船山が入って来た。
「関根は捕まった?」
「うん。さっき連絡が入ったよ。それにしても君の大活躍だなあ」
「活躍したのは野田秋子さんよ」
と紘子はちょっと|謙《けん》|遜《そん》してみせる。
「奥さんも今度のショックが却ってよかったようだ。息子の死を認めて、ちゃんと供養をするとさ」
「そう。よかったわ」
「これを預かって来たぜ」
と一通の封筒を取り出す。
「小切手ですよ、所長」
「な、何だと?」
深田の目に、たちまち生気がよみがえった。
「いくらだ?」
「また百万円!」
「そうか……。幽霊の結婚を世話して、二百万とは悪くないぞ!」
深田はニヤニヤして、「おい、今夜飯でも食いに行こうか!」
紘子はじっとその小切手を見つめていたが、やおら深田の正面に立つと、
「所長、私、決心しました」
と真顔で言い出した。
「な、何だ、一体?」
「私、ここに定年まで勤めます」
深田は目をパチクリさせるばかり。
「そ、そりゃ結構だが……」
「ですから、退職金から百万円前借りさせて下さい」
「何だって!」
深田は椅子から飛び上った。
「この百万円を、関根さんへ返したいんです」
「何も、もらった物を返さなくても――」
「そしてそれを関根さんから牧野麻子さんの子供へ贈ってほしいんです」
しばらく、誰も口をきかなかった。――やがて船山がニヤリとして、
「お前らしいなあ、全く。――よし! それなら俺がこの小切手返して来てやる」
「所長いいですか?」
深田は今にも泣き出しそうな顔で、
「うん……まあ……それも……浮世の義理か……」
と|呟《つぶや》いた。
「今日は誰の見合いだ?」
と深田は訊いた。
「野田秋子さんです」
「何だ、君の命の恩人じゃないか」
「ええ、ですから場所もホテルのロビーじゃなくて、レストランにしました。食事代はこっち持ちで」
「おい!」
と深田の顔色が変った。
「ご心配なく。私が払います」
「そうか。いや――別にケチるつもりはないけど」
「いえ、それは私の個人的なお礼ですから。――あ、そうだ。所長、三千円にまけときます」
「何をだ?」
「この間のタクシー代です。ほら、関根さんの屋敷までの」
「しかし……あれは君を助けようと思って……」
「それはそれ、これはこれです」
深田から三千円受け取ると、紘子は、
「それじゃ行ってきます」
と出て行った。深田はため息をついて言った。
「定年まで勤める、って?――あいつがか?」
そして半ばやけ気味に、「その頃にはここも名前が変ってるさ。〈寺沢紘子高利貸商会〉ってな!」
断絶志願
「ABCがどうしたって?」
〈ブライダル・コンサルタント〉所長、|深《ふか》|田《だ》は顔をしかめて|訊《き》き返した。相手はただ一人の所員、|寺《てら》|沢《さわ》|紘《ひろ》|子《こ》である。
「えー、つまりですね、ABCDの四人の人間がいたとします」
紘子はできの悪い生徒を相手に悪戦苦闘している家庭教師よろしく、かんで含めるような調子で言った。「この四人のうち、ABとCDはそれぞれ親子で、ABはどちらも男性、CDはどちらも女性です」
「すると……」
と深田は考え込みながら、「つまりABってのは父親と息子。CDってのは母親と娘ってことなんだな?」
「そうそう! よくできました!」
紘子は拍手した。深田は真っ赤になって、
「ふざけるな! |俺《おれ》だってそれぐらいは分かる!」
と|怒《ど》|鳴《な》った。「それぐらいは分かる」ということは、「それ以上は分からない」という意味にも取れる。
「失礼しました」
紘子は澄ました顔で、続けた。「本来ならばこのBとDが線で結ばれるはずだったんですけど――」
「おい、頼むよ、ABCはやめてくれ。数学の時間を思い出す」
と深田がうんざりした声で言った。
「そうですか? この方が分かりやすいかと思って」
「そんなややこしい話なのか?」
「つまりですね、もともとは|明《あき》|野《の》|久《ひさ》|夫《お》さんと|北《きた》|原《はら》|常《つね》|子《こ》さんのお見合いだったんです」
「フーン」
深田はちょっと考え込んで、「――思い出したぞ! 明野ってのは、父親がくっついて相談に来た奴、北原常子てのは、母親同伴でやって来た娘だ」
「そうです。――で、所長が、面白そうだからこいつらをくっつけちまえ、とおっしゃって……」
「俺がそんなことを言うか!」
「そうですか? じゃ、ちょっと言葉は違うのかもしれませんけど、大して変りありませんわ。――それでですね、実は私、あの二人から別個に、それぞれ相談を受けてたんです」
「君が?」
深田はやや心外といった面持ちで、「しかし、どうして君が? ちゃんと俺がいるのに」
紘子は一つエヘンと|咳《せき》|払《ばら》いをして、
「ま、その辺の事情はともかくですね、二人の相談っていうのが、こういうことで……」
明野久夫は、約束通り、ぴったり十二時半に、紘子が昼食をとっている喫茶店へやって来た。
二十七歳。今、|正《まさ》に適齢期の二枚目盛り(こんな言葉なかったかな?)。自動車メーカーに勤める工業デザイナーで、同じデザイナーでも、ファッション界のそれは自らも珍奇ないでたちをすることが多いが、こちらは至って折目正しい背広上下。紘子がそのことを言うと、久夫は笑って、
「デザイナーといっても、一種の技術者ですからね。雇われてるという点では、一般の人と少しも変らないサラリーマンですよ」
と言った。――笑うと、その端正な顔が、驚くほど子供っぽい表情になるのである。母性本能の強い女性だったら、たちまちしびれてしまうに違いない。電気ウナギみたいなものだ。
「それで、私にご相談になりたいというのは、どういうご用件でしょう?」
「はあ、実は……」
久夫はしばらくためらっていた。
「ご心配なく、私も結婚相談所の所員ですもの、秘密は守りますわ」
紘子の言葉に久夫は首を振って、
「いや、そんなことを心配してるんじゃないんです。――ともかくお話ししましょう。せっかくの昼休みを|潰《つぶ》していただいているんですからね」
と一息をついて、言った。
「先日、僕が父とお伺いしたのをご存知でしょう」
「ええ。とても素敵なお父様ですわね。シャルル・ボワイエみたい」
紘子のために言い添えておくと、彼女はむろんリバイバル上映された「|凱《がい》|旋《せん》|門《もん》」などでボワイエを知っているのである。
「いや、驚きましたね。実は僕も以前、死んだお袋に訊いてみたことがあるんです。どうして父さんと結婚したのかってね。すると、あの人、若い頃は本当にボワイエそっくりだったのよ、って答えて笑ってましたっけ」
「ええ、本当によく似てらっしゃるもの」
「いい親父なんです。母が死んだ寂しさを紛らわそうとするのか、あれこれ、就職の時も熱心に駆け回ってくれました。ところが……」
「どうしたんです?」
「僕はかなり遅く生れたんです。もう子供はできないと|諦《あきら》めたところへ生れて来たっていうわけで。僕が大学を出た時、もう父は会社を定年で辞めていたんです。まあ暮しに困らない程度の蓄えもある。そこへ母が死んだものですから、父はともかく僕にいい花嫁を見付けることを生涯の目的にしてしまったわけなんです」
「生涯の[#「生涯の」に傍点]?」
「ええ。あらゆる親類や、かつての仕事関係の知人たちを頼って次から次へと話を持って来る始末で。――何しろ多い週は十二回も見合いをさせられたくらいですから」
「週に十二回!」
紘子は目を丸くした。「月に、の間違いじゃないんですか? 大体どうやって一日二回も――」
「多い日は午前、午後、夜と三回続けてやったこともあります」
「|凄《すご》いですね! それでも、気に入る相手がいなかったんですか?」
「いや、僕はまだ結婚したくないんですよ。できれば三十ぐらいで……。ま、それはともかく、僕があんまり断り続けるので、父の方も考えて、では他人様の目で選んでいただこうと、お宅へ伺ったようなわけです」
色んな苦労があるもんだ。紘子はホトホト感心した。
「で、ご相談というと……?」
「ええ。お宅はまあいわば結婚相手を見つけるプロでしょう?」
「そ、それは、まあ……」
「ですから僕にもぴったりの女性を探し出して下さるかもしれない。そうなると、僕も本気でその女性に|惚《ほ》れないとも限りません」
と妙な心配をしている。「しかし、そうなると父はどうなるでしょう? 僕の花嫁を探すという、一種の使命感のようなもので、気力を支えていたんですが、それがもう必要なくなったら、父が急に老け込み、ボケるのは目に見えている。それじゃ困るんです」
「なるほど」
「ですから僕の結婚後も父が何か心|魅《ひ》かれるような物を提供していただきたいんですよ」
「とおっしゃると……」
「つまり簡単に言えば、父と僕二人がこみ[#「こみ」に傍点]で、見合いのできる人たちを探してほしいんです。僕は僕、父は父で、相手がいるような人たちを。そうなれば、父も気分が若々しくなってボケずに済むでしょうからね」
「なるほど。分かります。でも、そういう人がうまく見付かればいいですけどねえ」
「そこを一つ何とかお願いします」
そこは気のいい紘子である。
「できるだけのことはしますわ」
と、任せとけ、というように|肯《うなず》いて見せたのだが……。
カードをめくりながら、分類別にチェックしてみたが、なかなか注文通りの客はない。――当然だろう。
だから、紘子が明野久夫と話をした翌日に、北原常子が母親といっしょに現れたのは、全く偶然のいたずらとでも呼ぶ他はなかった。
そうしてその次の日、紘子は北原常子から、
「ご相談したいことがありまして」
という電話を受けたのである。
北原常子は、やはり十二時半ぴったりに、同じ喫茶店に現れた。――常子は二十三歳。去年大学を出て、アルバイト程度の仕事をしている。
やや古風なうりざね顔、顔立ちもどちらかといえば日本的な美人で、和服の方が似合いそうだ、と紘子は思った。そして話というのは――。
「そんなわけで、母は私が嫁に行ったら、もう生きる目的をなくして死んじゃうんじゃないかと思うんです。ですから、私と一緒に、母の[#「母の」に傍点]結婚相手も探していただけませんか」
「はあ……」
と言ったきり紘子が黙ってしまったのは、あまりの偶然に|呆《あき》れてしまったからだ。――これで常子の母が、イングリッド・バーグマンにそっくりだったら、ちょっと話ができすぎになるところだ。
「そんなわけで、二組のお見合いを今日やって来たわけなんですが……」
「フム。いい取り合わせじゃないか」
「ええ。私もそう思ったんですが」
と言い|淀《よど》む。
「失敗だったのか?」
「そうですねえ。成功といえば成功で、失敗といえば失敗で……」
「おい、はっきりしろよ。どっちかに決ってるだろうが。何年ここにつとめてるんだ? 何となく二人の様子で、あ、これは巧く行くぞ、こいつはだめだな、と分からなくちゃ」
「所長の勘は当るんですか?」
「当り前だ!」
とぐっと胸を張る。「たまにゃ外れることもあるが……」
「ま、こんな見合いだったんですよ。いつも通り、四人を紹介して……」
「こちらが久夫さんのお父様の|明《あき》|野《の》|治《はる》|夫《お》さん。――常子さんのお母様、|北《きた》|原《はら》|弓《ゆみ》|子《こ》さんです」
和製ボワイエは、本当にロマンスグレーで、|小《こ》|粋《いき》な紳士だった。一方バーグマンの方は、あまり似てこそいなかったが、常子の顔立ちよりもむしろ鋭い現代的な彫りの深い顔で、なかなかの美人には違いなかった。
いつもの通り、紘子は当人たちを引き合わせて仕事は終ったのだが、今回ばかりは、いつもにも増して成り行きが気になって、そのホテルのラウンジに陣取り、四人が出て来る時の様子を伺っていた。
庭の散歩を終えて、四人は談笑しながらロビーへ出て来た。
「なかなかいい調子だわ」
と見ていると、四人が、紘子のいるラウンジへ入って来る。紘子は慌てて四人に背を向け、目につかないようにした。
四人は、一向に紘子には気付かない様子で、庭へ面したテーブルにつくと、にぎやかに談笑し始めた。その光景をそっと見やった紘子は、四人がまるで一つの家族のように見える、と思った。両親と二人の子供。――そう言っても、|誰《だれ》も怪しむまい。
話の方は、もっぱら和製ボワイエが引き受けている様子で、時折、にぎやかな笑いが起こった。この分なら二組のカップルがめでたく誕生するかもしれない、と紘子は思った。そしてバッグからコンパクトを出すと、鏡で四人の表情をそっと盗み見たのだが……。
「それがどうしたんだ?」
深田が言った。「結論を言え。結論を」
「それがですね」
紘子はため息と共に言った。「明野久夫さんも北原常子さんも、どちらもウットリした表情で、一目惚れってことが分かったんです」
「それなら結構な話じゃないか」
と深田は|椅《い》|子《す》にそっくり返った。「これで成立料が一件は間違いなく入るな」
「それが違うんですよ」
「何が違うって?」
「明野久夫さんがウットリと眺めてたのは北原常子さんじゃなくて、母親の弓子さんの方だったんです」
「何だと? じゃ母親の方へ惚れちまったってのか?」
「そうらしいんです」
と紘子はため息をついた。「それだけじゃありません。北原常子さんもウットリと眺めてたのは、久夫さんじゃなくて、父親の治夫さんの方だったんです」
深田は目をパチクリさせた。
「――狂っとる!」
「そうは思いますけど、恋の道ばかりは常識の通用しない世界ですもの」
とあたかもその道[#「その道」に傍点]のベテランのようなことを言って、「で、もしそのまま二組ともゴールインしたとすると、どうなると思います?」
「フム」
深田は額に深くしわを寄せた。「これは難しい問題だな」
「そう思いますか、所長も?」
「確かにな。――われわれが成立料を請求できないかもしれん」
紘子はキッと目をつり上げて、
「そんなこと言ってるんじゃありませんよ!」
「わ、分かっとるよ。そういう結婚は巧く行かんに決っとる」
「そうですよ。どちらも、欠けていた父親像、母親像を相手の中に見ているんですわ。それを本人たちは恋だと思ってる……」
紘子も少し悪乗りして考えすぎている。
「ま、そのうちに目が覚めるさ」
と深田は至って|呑《のん》|気《き》である。
「でも、ここで紹介したせいで、不幸の種をまくようなことがあったら……」
「ここはそこまでの責任は負わん。後は向うの問題だぞ」
「分かっちゃいるんですけど」
「あまり妙なことに巻き込まれるなよ」
紘子は肩をすくめた。――それはそうだ。人の恋路に水さす者は、か……。
「お嬢さん」
数日後の帰り道、デパートに寄って夕食のおかずを見ていると、紘子は声をかけられた。振り向くと、かの和製ボワイエである。
「あら、明野さん」
「どうも先日はお手数を」
「いいえ、こちらこそ。ご苦労様でした。……あの……久夫さんもお元気ですか?」
「おかげさまでね」
「それはよかったですね」
何がよかったのかよく分からない。――明野治夫は、渋い茶のツイードを小粋に着こなしていた。本当に、今どきめったに見かけない、正統派のロマンスグレーだ。
「よいところでお会いしました。いや、実はあなたにご相談したいことがありましてね」
「は? 私にですか?」
「そうです。お急ぎですか?」
「は――いえ、別に」
と紘子は首を振る。
「では、どこか落ちついて話のできるところで……」
「結構ですわ。――ちょっと待って下さい。今夜のおかずを買ってしまわないと、デパート閉ってしまいますから」
「いや、どこかで夕食をご一緒にいかがです?」
「私とですか?」
「ご迷惑なら無理にとは申しませんが」
「いえ……私は構いませんけど」
「では――」
と明野治夫は軽く紘子の腰に腕を回して促した。その仕草がいかにも優雅で、紘子は体がゾクゾクッとするのを感じた。気味が悪いゾクゾクでなく、むしろ快いスリル、といった方が近いゾクゾクである。
明野はタクシーで六本木の小さなレストランへ紘子を連れて行った。
テーブルが五つ。本当に小ぢんまりとした、しかし|洒《しゃ》|落《れ》た店だった。いわゆる高級レストランではないが、本当の「通」がひいきにするのは、きっとこういう店なのだろう。
紘子は|鴨《かも》だのカエルだのホロホロ鳥だの、今まで食べたこともないようなものを食べさせられた。それがまた少しも脂っこくなくてアッサリして|旨《うま》いのである。
ワインの酔いも適当に回って、明野の間然するところのない話術に耳を傾けていると、何やらホンワカした気分になってくる。――本当に、何て素敵な人なんだろう。北原常子がポーッとなっても当然だ、という気がした。
「さて……」
食後にデミタスコーヒーを飲みながら、明野は言った。「実はあなたに白状しなくてはならんのですが……」
「何でしょう?」
「あなたにデパートでお会いしたのは偶然ではないのですよ」
「それじゃ、初めから私に――」
「あなたが事務所を出られてからずっと後を|尾《つ》けていたのです。申し訳ありません」
「いえ……それは理由しだいでしょう。一体どうして私を……」
「どうしてもあなたを食事にお誘いしたかったものですから」
「そうですか」
おごってもらって文句を言う筋合はないが、
「何か特別な理由がおありだったんですか?」
と紘子は訊いた。
「これから一緒に行っていただきたいところがあるんですよ」
「といいますと……」
「私とホテルへ行っていただきたいんです」
紘子はゆっくりとデミタスコーヒーを飲んだ。青くもならず(ワインで酔っていたせいもあるだろうが)、手も震えなかったのは立派といっていいだろう。
紘子とて子供じゃないから、ホテルへ行ってトランプをやるのだとは思わない。しかし明野の言い方には、誘惑という脂ぎったところがない。これは何かわけ[#「わけ」に傍点]があるのに違いない、と思った。
「理由を話して下さい」
と紘子が言うと、明野はまじまじと彼女を見つめ、それからゆっくり|微笑《ほほえ》んだ。
「いや、さすがに私の見込んだ方だけある。――感服しましたよ」
明野は外国タバコに火をつけた。「普通なら怒り出すか、赤くなるか、平然と『いいわ』と言うかですが、あなたはちゃんと何か[#「何か」に傍点]あると見抜かれた。大したものです」
「一体どうして私とホテルへ行こうとおっしゃるんですか?」
「実はですね、大変困ったことになっているんですよ」
紘子は|咄《とっ》|嗟《さ》に事情が呑み込めたような気がした。
「北原常子さんのことですね?」
明野は目を丸くした。紘子は続けて、
「彼女があなたに夢中になっている。で、あなたは私とホテルへ行くのを、わざと彼女へ見せつけて、彼女が目を覚ますように、と……」
「いや、驚きましたね!」
明野は首を振った。「仰せの通りです。あなたには誠にご迷惑な話とは思いますが」
「そんなことありませんわ。私も気になっていたんです。お引き合わせした以上、責任がありますし」
紘子は、先日、ラウンジで四人の様子を見ていたことを話した。
「なるほど。しかしあなたの、人を見る目は確かなものですな。お若いのに大したものだ。感服しましたよ」
紘子は照れて肩をすくめた。
「で、常子さんには――」
「今日も電話がありましたので、ちょっと約束があって、と、女性と会うのを|匂《にお》わせておいたんです。このところずっとそうやっているので、彼女はかなりイライラしているはずですよ。――|可哀《かわい》そうだが、これも彼女自身のためです」
「じゃ、あなたの後を尾けて来ているんですか?」
「それは分からないが、そのうち、きっと怪しんで尾行してみようという気になりますよ」
「じゃ、私はどうすれば?」
「申し訳ありませんが、彼女が見届けたと分かるまで、何日か、お付き合い願いたいんですが」
「はあ……」
「あなたのような結婚前のお嬢さんに、無茶なお願いをしてはいけないとは分かってるんですが」
紘子は考え込んだ。――これが巧みな誘惑の手だったら? しかし、それはあるまい、と思った。誘惑するのに、そんな面倒な手を使うはずがない。この人の魅力をもってすれば、そう、私だってフラフラとその気になってしまうかも……。
何を言ってるのよ!――紘子は慌てて頭を振った。ともかく、明野の話を信じるとして、もしホテルに出入りするのを知人に見られたりしたら……。しかし、東京は広い。そんな可能性は万に一つだろう。
何よりも、ブライダル・コンサルタント所員としては、明野久夫と北原常子の結婚成立を推進する義務がある!
「結構ですわ」
と紘子は肯いた。
「それはありがたい! 本当に感謝しますよ、寺沢さん」
「紘子と呼んで下さいな」
と紘子は澄まして言った。「そうでないと、一緒にホテルへ行く仲に見えませんわ」
明野は愉快そうに笑った。
翌日。紘子はホテルのベッドで、裸で目覚めた――となると大変だが、実際はちゃんとアパートで目が覚め、むろんベッドには彼女一人。パジャマもちゃんと着ていた。マリリン・モンローじゃないから、シャネルの五番を身につけて寝るというわけにはいかない。
でも、ちょっとスリルがあって楽しかったわね、と朝のコーヒーを飲みながら紘子は思った。明野と二人で、ラブ・ホテルのフロントを通る時には、頬がカッカと燃え、胸が高鳴って、意外に(!)純情な自分を発見して安心した。
明野は至って紳士的で、大きな回転式ベッド(どうして回転する必要があるのか、紘子にはどうも分からなかった)のある部屋で、お茶を飲みながら、雑談した。
彼の話は巧みで、会社にいた頃、世界各地を歩き回ったらしく、珍しい見聞の話に、紘子は飽きることがなかった。二時間はたちまちすぎて、明野はタクシーで彼女をアパートの前まで送ってくれた。
そして今夜も事務所の近くで落ち合って、夕食をとり、ホテルへ行くことになっている。
「まあ、夕食代の節約にもなるしね」
紘子は出勤の支度をしながら|呟《つぶや》いた。
ただ、正直なところ、二時間、二人きりでいて、何も[#「何も」に傍点]なかったのが、ホッとすると同時にチョッピリ残念な気もした。――女とは勝手なものである。
出勤すると、紘子はお茶を|淹《い》れて所長室へ運んで行った。
「おはようございます」
とお茶を深田の机へ置くと、深田はいやに|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔で紘子を見上げ、
「寺沢君」
と言った。
「何ですか?」
「君に話がある。座りたまえ」
紘子は面食らった。所長がこんなに深刻ぶった顔をするなんて……。いよいよ来るものが来たのか。
「あの……ここ、つぶれるんでしょうか?」
と紘子が訊くと、深田は目をむいて、
「何を言うか!」
と怒鳴った。「つぶれるなんて、縁起でもない! わが〈ブライダル・コンサルタント〉は不滅だ」
とまるでジャイアンツの長島みたい。
「すみません。あんまり深刻な顔をなさってるんで、てっきり……」
「深刻だぞ。君にとっては」
「は?」
「君はクビだ」
紘子はしばしポカンとして、
「クビですって?」
「そうだ。――したくてするのではないが、やむをえん」
「でも、どうして――」
「自分の胸に訊いてみろ」
「胸に?」
ブラウスのボタンでも外れてるのかと、紘子は胸元を見下ろした。
「思い当ることがあるだろう!」
「さあ……」
と首をひねる。
「分からなきゃ教えてやる」
「お願いします」
「これは何だ、これは!」
深田は引出しから一枚の写真を出して机の上に置いた。
「これは……」
「どうだ、分かったろう」
「ええ。これは山口百恵の写真でしょ」
「ん?」
深田は写真に目を落として、「こ、これじゃない!」
と慌てふためいて引出しへしまうと、また別の写真を出した。
「これだ!」
紘子は息を呑んだ。――それは、紘子と明野がラブ・ホテルへ入ろうとするところの写真であった。
「――フーン」
深田は紘子の説明に、半信半疑で聞き入っていた。
「信じないんですか?」
とムクレる紘子へ、
「そういうわけじゃないが……。しかし、ホテルへ行って、二人きりで二時間もいて、何もなかったというのか?」
「本当なんですよ!」
「ふむ。――そんな奴もいるのかな」
「所長は自分を基準にして考えるからいけないんですよ」
「それもそうだ。――おい! 何を言うか!」
「私はここの所員として恥ずかしいことは一つもしていません」
と紘子がきっぱり言い切ると、
「分かった。信じよう」
と深田は息をついた。
「所長が所員を信じなくて、ブライダル・コンサルタントの発展はありません!」
「勝手なことを言うな」
へへ、と紘子は笑って、
「――でも、その写真、どうして所長の手もとに?」
「知るもんか。ここの郵便受けに入っとったんだ」
紘子は、一体誰がこんなことをしたのだろう、と思った。――北原常子か? しかし、|嫉《しっ》|妬《と》にカッカしている女性が、ちゃんとカメラを用意しておくというのも、何だかおかしい。
「で、今夜も行くのか?」
「ええ。その予定です」
「そうか」
深田は気づかわしげに、「油断するなよ。いくら紳士でも男は男だ」
「そこがスリルがあって面白いんですわ」
「何を言っとる。――しかし、まあ、相手が君なら向うも遠慮するかもしれん」
紘子は顔をこわばらせた。
「どういう意味ですか、それ!」
その日も、フランス料理の夕食をとり、紘子と明野はホテルへ行った。
部屋へ入ってから紘子が例の写真のことを話すと、明野は|眉《まゆ》をくもらせた。
「それは困った。あなたに迷惑がかかっては――」
「大丈夫です。所長はちゃんと納得してますもの」
「全く申し訳ありませんな」
「いいえ。でも一体誰がやったんでしょう?」
「さあ……。常子さんではないと思いますね。そんな風に隠し撮りのできるのは、ある程度その手の仕事に慣れた人間でしょう」
「じゃ、興信所とか――」
「しかし、そんな所へ彼女が頼むわけもないし……」
明野は首をひねった。「少し私の方でも調べてみましょう。あなたにあらぬ|噂《うわさ》でも立つと困る」
「そんなに重要人物じゃありませんわ」
と紘子は笑った。
「いや、冗談ではなく、本当に私の責任ですからね。あなたに恋人は?」
「え? 私ですか?」
紘子はどぎまぎして、「あの――ボーイフレンドぐらいは――でも、恋人なんて――」
「そうですか。いや、あなたはまだこれからだ。ご自分を大切になさい。私などはもう先の知れた身ですからな」
「そんなこと……。とてもお若いですわ」
「お世辞と分かっていても|嬉《うれ》しいですな」
と明野は笑った。
「あの……明野さんは、北原さんのお母様とご一緒になる気はありませんの?」
明野は目を見張って、
「あの女性と?――いや、それは考えてもいませんでしたね」
「若い女性の方がお好みですか」
「いや、死んだ女房への忠義立てといいますかね。――再婚しようとは思いませんな」
「そうですか」
紘子は言った。
「さて、何か飲み物でも取りましょう」
と明野はルームサービスのメニューを取り上げた。「妙な客だと思うでしょうな。ここへ来て飲み物だけ頼んで、ベッドもきれいなままで」
「本当ですね」
笑いながら、紘子はちょっと胸の鼓動が早くなるのを感じた……。
「――そろそろ行きましょうか」
明野が時計を見て言った。「二時間半たちましたね」
「そうですか。時間が早いわ。お話が面白いので」
「ありがたいですね。若い女性に喜んでいただけるのは何よりです」
二人はソファから立ち上った。紘子はちょっと回転式の円型のベッドへ目をやって、
「いつもお金ばかり払って、もったいないですね」
「じゃクッションでもためしてごらんなさい」
「ええ」
紘子は大きなベッドに座ってみた。思いの他、固い。
「こんな所に来るのは、どんな人たちなのかしら?」
「色々でしょうね。金だけでつながった男女、不幸な結婚生活から一時の息抜きを求める人、|倦《けん》|怠《たい》|期《き》を何とか乗り越えようとする夫婦……」
明野は紘子と並んでベッドに腰かけた。
「中には私たちみたいに変ったのも」
と紘子は微笑んで言った。
「そうですね」
ちょっと、ぎごちない沈黙が落ちた。紘子は急に何だかわけの分からないものに突き動かされて、明野の方へ身をもたせかけ、彼の目に見入った。明野の手が紘子の肩を抱いて、……二人の唇が触れた。紘子の胸が痛いほどに高鳴った。このまま――このまま、どうなっても……。
唇が離れると、
「さあ、行きましょう」
と明野は言った。
「私――」
と思わず言いかけた紘子の唇を明野は指で押えた。
「それを言う相手は私じゃありませんよ。もっとあなたに|適《ふさわ》しい人です」
紘子は目を伏せた。
「あなたは若い。この雰囲気に酔っているだけです。さあ、外の風に当れば、どうってことなくなりますよ」
そう言って、明野は立ち上った。「行きましょう」
紘子はぎごちなく微笑んで立ち上った。
次の朝、出勤してみると、深田は用で昼ごろ来るとメモを置いていた。
「鬼のいぬ間か」
とのんびりコーヒーを作って飲みながら、昨夜のことを思い出した。雰囲気に酔っただけ……。そうかもしれない。あのまま、決して後悔しないと思って行きつく所まで行ってしまっていても、今日になれば、きっと後悔していただろう。
本当に、素敵な人だ……。
しかし、一つどうしても分からないことがあった。あの父親について、明野久夫が言ったことである。息子の嫁捜しのために必死になっていて、それが終ってしまったら「ボケてしまう」ような人とは、とても思えない。
久夫は父親のことを誤解しているのではないだろうか?――ともかく、もう一度、話し合ってみる必要がありそうだ。
「そうだ」
思い付いて、紘子は郵便受けに、午前の分の郵便を取りに行った。
何通かの礼状、問合せ、請求書……。一つ、何も書いていない封筒があった。直接郵便受けに放り込まれたのだろう。
「また私たちの写真かしら……」
紘子は封を切った。一枚の写真が出て来た。それを見て、紘子は思わず目を疑った。それは、ラブ・ホテルを出て来る――深田と北原弓子だった。
「――じゃ、所長も私と同じように?」
「そうなんだ」
深田は複雑な表情で言った。「昨日、帰りに声をかけられてな。頼み込まれたんだ。あの明野の息子の方から言い寄られて困っているので、あなたとホテルへ行っているところを彼に見せてやれば諦めるだろう、ってな……」
「で、引き受けたんですか」
「仕方あるまい。これも仕事だ」
私にはクビだなんて言っといて、勝手なもんだわ、と紘子は内心ブツクサ言った。
「で、本当に何も[#「何も」に傍点]なかったんですか?」
「当り前じゃないか!」
「そうですね。相手が所長じゃ」
と紘子は澄まして言った。深田は苦虫をかみ潰したような顔になった。
「でも、この写真がもし奥様の目に触れたら……」
深田は真っ青になった。
「そ、そうか! 気が付かなかったぞ! そんなことになったら大変だ! もうやめるぞ!俺は断じてやめる!」
全くだらしのない話。――紘子はため息をついた。しかし、一体これはどういうことなんだろう?
どうも何か裏がありそうな気がする……。
その夜も、食事を終えると、明野と紘子はホテルへ向った。タクシーの中で深田と北原弓子のことを話すと、
「おやおや、そうでしたか。それは困りましたな」
「お心当りでも?」
「いや、あの人から相談を受けたんです。うちの息子も困ったもんで……。こんな時、叱りつければ、ますます反抗するだけですからね。で、私はこうやっていますとお話ししたんですがね」
「じゃ、それで北原さんも――」
「それにしても、全く同じ手を使うことはないのに」
と明野は苦笑した。
「所長は恐妻家ですから大変ですわ」
と紘子は笑いながら言った。「――でもあの写真は一体誰が……」
――ホテルへ着くと、フロントの男が、よくやるわい、といった顔で二人を眺めた。
「今日は大丈夫ですか」
と明野がエレベーターの中で言った。
「ええ」
紘子は微笑んだ。「でも、キスぐらい構わないでしょう?」
「そうですね。慣れて免疫を作るということもある」
エレベーターの中で二人はキスした。紘子も、それを楽しむ余裕ができてきた。
エレベーターが着くと扉が開いた。
「もうちょっと……」
紘子はエレベーターの〈閉〉のボタンを押した。扉がするすると閉まって、二人はもう一度唇を合わせた。
「――さ、今日はもう満足だわ」
紘子は微笑んで言った。「行きましょう」
二人は|鍵《かぎ》を開け、部屋へ入った。とたんに扉の陰からのびた腕が紘子の首に巻きつき、声を上げる間もなく、下腹を殴られて、紘子は気を失って床へ倒れた。
ウーン、と|唸《うな》る声を、紘子はぼんやりと聞いていた。――何かしら? 誰か寝ぼけてるのかな。それにしても、私は……私も眠ってるんだわ。でもあの唸り声は私のじゃない。それじゃ一体……。
紘子はようやく目を開いてモゾモゾと身動きした。お腹が少し痛い。――悪いものでも食べたのかしら?
見慣れない部屋の、それも床に寝ている。自分の部屋ではない。でも、どことなく見憶えのある……。
「そうだわ!」
思い出して、紘子はハッとした。明野治夫と、いつものようにこの部屋へやって来た。そしていきなり誰かに殴られたのだ。――明野は大丈夫だろうか?
「明野さん!」
と体を起こしながら呼びかける。
「気が付きましたか」
と声がした。びっくりして振り向くと、明野がバスルームのドアの所によりかかって立っている。左腕に血がべっとりと広がって……。
「明野さん! どうしたんですか?」
「いや……大したことはないんです」
明野はちょっと弱々しく笑って見せて、「申し訳ない。あなたのことも心配だったんだが、ともかく血を止めなければ、と思って……」
「一体何があったんです?」
「分かりませんな、私にも」
明野が首を振った。
「あなたが倒れる音がして、急いで部屋の明りをつけたんです。つまずいて転ぶかどうかしたのかと思いましてね。すると、見たことのない男が、いきなりナイフで切りかかって来て――」
「まあ!」
「これでも私は昔ボクシングをやったことがありますからね。そうやすやすとやられやしません。それでも腕を切られましたが、まあ年齢は争えませんな。動きが鈍くなっているので」
「そんな呑気なこと言って!」
「ま、ともかく、こちらも奴の|顎《あご》にパンチを一発おみまいしてやりましたからね。向うも相手が悪いと思ったのか、逃げて行きましたよ」
「けがは……」
「深い傷じゃありません、心配するほどのことでは――」
「警察へ知らせましょう!」
明野は首を振って、
「いや、それはいけません」
「だって――」
「警察|沙《ざ》|汰《た》になれば、当然あなたの証言も必要になる。私とこんな所にいたとあってはお困りでしょう」
「私は構いません! 何もやましいことはないんですもの」
「あなたのご家族の目にでも止まったら、それこそ大変ですよ。新聞は匿名扱いにしてくれるかもしれないが、週刊誌などで〈結婚相談所の所員が依頼人とホテルへ!〉とでも書かれたらこと[#「こと」に傍点]でしょう」
そう言われると、紘子としても何とも言いようがない。
「でも、このまま放っておいては……」
「放っておきゃしません。ただ……」
明野は眉を寄せて考え込んだ。「どうもただのホテル強盗というわけじゃなさそうですからね。ナイフをくり出して来るのにも、『金を出せ』とも何とも言わない。――明らかに私を殺そうとしたらしいですから」
「あなたを……殺す?」
「人の恨みを買う憶えはないのですがね」
と苦笑して、「ともかく、奴は誰かに頼まれてやって来たんでしょう。まるで憶えのない男ですから。――頼んだのは誰か。まずそれを自分で捜してみますよ」
「でも、気を付けて……」
「それは充分に。――あなたは大丈夫?」
「ええ。少々のことじゃ壊れません。それが取り柄ですから」
そう言ってニッコリして見せ、「でも、部屋の中に[#「中に」に傍点]待っていたっていうのが妙ですね。どうやって入ったのかしら?」
「そうですな、確かに。――こいつはフロントの男に確かめてみる必要がありそうだ」
「ともかく傷の手当てもしなくちゃ。出ましょうよ、ここを」
二人がフロントへ下りて行くと、係の男は明野の腕のけがを見て目を丸くした。
「どうしました?――こちらの方にかみつかれたんですか?」
「何ですって!」
紘子は頭へ来て目を|吊《つ》り上げると、「もういっぺん言ってみな! のど笛にかみついてやるから!」
男は青くなって二、三歩後ずさりした。
「まあまあ」
と明野は笑って、「ところで君にちょっと訊きたいことがあるんだが……」
と事件の話をすると、フロントの男は息を呑んで、
「それは……大変、申し訳ございませんでした! するとあの男が――」
「あの男?」
「そいつは白いサファリジャケットをはおった長髪の――」
「そうだ、その男だよ」
「そいつでしたら、あなた方のおいでになる三十分くらい前にやって来ましてね、芸能プロの名刺を出して、『ポルノ映画のロケをしたい』と言って来たんです。こちらも時々その手の仕事には料金を取って貸していますので、構わないと答えたんですが、ちょっと中を見て回りたいと言いますので、空いている部屋の鍵を二、三貸してやりまして、案内するような手もないから勝手に見てくれと言ったわけで……」
「でも、どうして私たちの部屋に入れたのかしら?」
と紘子が不思議そうに言った。
「うちの鍵は電子ロックではございませんので、どれも大体似たような型でして。――慣れた人間なら、ちょっと細工をすれば一つの鍵で他の部屋を開けられるかもしれませんです、はあ」
「|物《ぶっ》|騒《そう》ねえ」
と紘子が腹立たしげに男をにらみつける。
「すると、その男、またここを通って出て行ったのかね?」
「はあ。――そうですな、三十分ほど前でしたか、また連絡すると言って」
「大胆な奴だな」
「どうも大変な目に……。あの――警察へ通報いたしますか?」
「いや、今さら知らせてもむだだろう」
「さようで」
男はあからさまにホッとした表情になった。
「誠にどうも――。おけがの治療費はせめて当方で負担させていただきますので――」
明野はホテルを出ると苦笑いして、
「あの調子じゃ、手みやげでも持たせてくれるかと思いましたがね」
「ともかく病院に行って手当てをしないと」
「ここへ来る途中に何だか外科がありましたね」
二人は五分ほど歩いて、個人病院の玄関を叩いて、手当てを受けた。
「――今夜はとんだデートでしたね」
タクシーに乗ると、明野が言った。
「私はともかくあなたが――」
「いや、これくらいの傷、どうということもありません。ただ、一体誰がこんなことを……」
「しばらく、このデートは中止した方がよさそうですね」
「残念ながら、その方がよいようですな」
「本当に残念だわ」
と紘子は微笑んで言った。「本来の目的は達したのかしら? つまり、北原常子さんにあなたのことを諦めさせるという……」
「さて、どうでしょうか。しかしこのところ電話がかかって来ないのは事実です。きっとききめがあったんですよ」
「それならいいんですけど……」
すると、もうこの人との奇妙な楽しい|逢《あい》|引《び》きもおしまいか。そう思うと紘子は何となく寂しい気分になった。
「じゃ、気を付けて」
と明野が優しく声をかける。
「あなたこそ」
紘子はそう言って、走り去って行くタクシーの方へ手を振った。――夜。何だかちょっと雨もパラパラ降り出したようで、一層わびしい気分。
「夕食代が大分浮いたわ」
と強がりを言って、アパートへの道を歩き出す。――もうずいぶん遅い時間で、道もえらく暗い。
紘子が刺されなかったのは、全くの幸運という他はなかった。暗がりから飛び出して来たその人影は、紘子めがけてナイフを真直ぐに突き出して来たのだが、途中で足がもつれたのか、ドドッと|膝《ひざ》をついてしまったのだ。
紘子がやっと事態に気付いて後にさがると、相手も立ち上がって再び襲いかかろうと身構えた。
「誰なの!」
不意をつかれさえしなければ、紘子も度胸は決して男にひけを取らない。
「|闇《やみ》|討《う》ちとは|卑怯《ひきょう》であろう!」
とは言わなかったが、ハンドバッグをエイヤッと振り回しながら、相手を寄せつけまいとした。そのうちに、相手の顔が街灯の光を受けて――。
「まあ! あなたは――」
紘子は思わず声を上げた。必死の形相でナイフを構えているのは、北原常子であった。
朝からどうも深田の様子は普通でなかった。
「所長、おはようございます」
と紘子がお茶を持って行くと、いつもなら、上機嫌の時には軽口の一つも叩き、不機嫌ならムッとしたような顔で、動物的な唸り声を上げるのだが、今朝は何とも言わず、紘子がそこにいることに気が付かない様子で、目は|虚《うつ》ろに見開かれ、手は机の上の書類を機械的に|揃《そろ》えたりめくったりするだけ。完全に心ここにあらず、といった|風《ふう》|体《てい》なのである。
「変ねえ……」
席へ戻って、紘子はひとりごちた。「私みたいな美人が目の前に立っても気付かないなんて普通じゃないわ」
いささか勝手なことを言っている。しかし、ともかく深田の様子がおかしいのは事実である。一体どうしたというのか……。
「とうとう頭がイカレちゃったのかしら」
そうなると、次の勤め先を早く捜さねばならない。はっきりさせてもらわねば。
「あの、所長」
と紘子は深田の前に立って、じっと顔を|覗《のぞ》き込みながら、「大丈夫ですか?」
「う、うん?――何だ? 君か。お茶を頼む」
こりゃ、いよいよだめだ。
「もうそこに置いてあります」
「ああ、そうか。――昨日のじゃないのか?」
「まさか! いくら私でもそこまでは――」
「いや、君はいい娘だ。俺にとっては君だけが頼りだよ。いや、全く」
と今度はやけに殊勝なことを言い出す。
「所長、一体どうしたんです? また奥様に追い出されたんですか?」
「俺が? 馬鹿いえ、どうして亭主が女房に追い出されなきゃならんのだ? あれは俺の家だぞ! 俺が稼いだ金で買ったのだ! 女房の奴にでかいツラをされてたまるか!」
今度は突然暴君ぶって見せる。――やはり分裂的な傾向があるわね、と紘子は思った。
と、突然、深田はじっと紘子を見据えて、
「君、いくらぐらい貯金してるのかね?」
「いくらって……。そんなにありませんよ。ここのお給料じゃ、ためるほど余裕がないですもの」
「ちょっと貸してくれんか?」
「所長にですか?」
結婚相談所でありながら、結婚資金の貸付制度もない(所員一人では、制度もへったくれもないが)というのに、逆に所員から金を借りようとはどういう了見なのか。
「いくらお入用なんです?」
貸す気はなかったが、一応訊いてみることにした。
「うん……ほんの百万ほどでいいんだが……」
「百……万ですって?」
紘子は耳を疑った。
「今、一番金を持っとるのは若いOLだと週刊誌に出とったぞ。ないない、と言いながら、百万や二百万持ってるのはザラだってな。どうだ? 君もため込んどるだろう?」
「それは一流[#「一流」に傍点]企業のOLの話でしょ! こんなマイナス[#「マイナス」に傍点]一流企業のOLは赤字で年中苦労してますよ。とんでもないわ、全く!」
「そうか……」
と深田は深いため息をついた。
「一体そんなお金、何に使うんですか?」
「それがな……これを見てくれ」
と深田は、茶色の安手な封筒を取り出した。
「こいつが今朝、下の郵便受けに入っとったんだ」
それは脅迫状だった。やはり安物のありふれた便せんにボールペンの|金釘流《かなくぎりゅう》の字で、〈この写真を奥さんに見せたくなければ、百万用意しろ。今日中に事務所へ連絡する〉と書いてあった。そして同封されていたのは、例の深田と北原弓子がホテルを出て来る写真である。
「これを払う気なんですか、所長?」
「他にどうしようがある?」
「こんな手合は一度じゃすみませんよ。何度でも要求して来るに決ってます」
「それはそうかもしれんが……」
「絶対ですよ! 払っちゃいけません! 警察へ届けましょう」
「そ、それはまずい!」
と深田は慌てて言った。
「奥様には私からもよく説明しますよ」
「だめだ。いつか裸で飛び込んで来てから、君のことは信用しとらん」
「でも百万払うことを思えば……。少々ひっかかれたって、けとばされたっていいじゃありませんか」
と人のことだと思って気楽に言っている。
「それですみゃいいが……」
と深田は心もとなげに、「半死半生。――いや下手をすれば殺されるかも……」
頼りないご主人だこと。紘子は首を振った。
「それじゃ方法はただ一つですね」
「何だ?」
「犯人をとっ捕まえるんです。私たちの手でね」
「そんなことができるか?」
「だって、警察に頼むのはいやだ、って言うし――」
「そうだとも、これが新聞にでも出てみろ、この相談所の評判はガタ落ちだ」
「じゃ何とかして私たちで犯人をとっちめてやらなきゃ。所長は、電話がかかって来たら百万払うと言って、向うの指定する時間と場所を聞くんです」
「分かった。後は君がやってくれるんだな?」
紘子は腕組みして深田をにらみつけた。図々しい! これでも男かしらね、全く!
電話は十二時になる少し前にかかって来た。たぶんお定まりの、ハンカチで送話口を包むという手を使っているのだろう、ひどくこもった男の声。
「深田さんを頼む」
ははあ、来たな。紘子は素知らぬ顔で、
「どなた様でしょう?」
「友だちだよ」
「お名前は?」
「つないでくれりゃ分かるんだ!」
イライラした強い口調のせいか、ちょっと地の声の感じが出たようで、紘子は、あれ、と思った。どこかで聞いたことのあるような……。
「お待ち下さい」
と通話を保留してから所長室を呼び出す。
「所長、かかって来ましたよ」
「そ、そうか」
「巧くやって下さいね」
「分かっとる! 心配するな」
するなと言われても心配せずにはいられない。紘子は電話を所長室へつなぐと同時に、両方で話のできるようになるボタンを押して、送話口をふさぎ、耳を傾けた。
「深田さんかね?」
「そ、そ、そ、そうだ」
深田がえらく固くなっているのが分かる。
「手紙は見たろうな? 金は用意できるか?」
「できるとも!」
そんなに安請け合いしたら怪しまれるのに。
「じゃ、明日の昼、十二時半に日比谷公園へ持って来い」
「日比谷公園?――公園のどこに?」
「公園の中をブラブラしてりゃいい。こっちで見つける。いいな」
「し、しかし――」
深田が言いかけるのも構わず、電話は切れてしまった。紘子が入って行くと、深田は不安げに、
「聞いたか?」
「ええ、もちろん」
「どうしよう?」
「どう、って……。ともかく指定された場所へ行く他ないでしょう」
「金はどうする?」
「何かそれらしい包みを持ってりゃいいんですよ」
「君は気楽に言うが、持って行くのは俺だぞ」
と深田は渋い顔で、「その場で中を見て、金でないと分かったらブスッとやられるんじゃないか?」
「大丈夫ですよ」
と紘子は力付けた。「その時は私が奥様の再婚相手を探しますから」
「何だ? 恐喝?」
と船山が大声を上げたので、紘子は慌てて、
「静かにしてよ! そんな声出しちゃだめじゃないの!」
と腰をうかした。――幸い、M新聞社の喫茶室はザワついていて、誰も耳にとめなかったらしい。
「誘拐とか、そんな大事件じゃないのよ」
「それにしたって、恐喝は恐喝だ。それを特ダネにくれるってのかい?」
船山は二十八歳の、M新聞の記者。紘子にとっては大学の先輩に当る、気のいい青年である。
「あなた経済記者じゃないの」
「それでも記者には違いねえよ」
「これは報道してもらっちゃ困るのよ」
「何だ。じゃ、タダ働きしろってのか」
「そこは一つ、私のために……。ね?」
「ともかく事情を話してみろよ」
紘子はここまでのいきさつを手短に話して聞かせた。船山は何となく割り切れない表情で肯いて、
「ふーん。すると、お前はその助平じじいと一緒にホテルへ行って、しかも何も[#「何も」に傍点]なかったっていうんだな?」
「助平じじいはないでしょ!」
と紘子は憤然として、「それに、そんなこと事件の本質とは関係ないわ」
「そりゃまあそうだが……」
と船山は面白くなさそうに言った。
「その男を捕まえるのに手を貸してくれるの? どうなの?」
「分かった。力になるよ」
と船山は息をついて、「しかし、少しはお返しもしてもらうぜ」
「分かってるわよ」
「それならいいんだ」
「ここのお茶代、私が払うわ」
「ケチンボ!」
――紘子が明日の金の渡し方について話すと、船山は首をひねった。
「十二時三十分? 昼の? 夜のじゃねえのか?」
「確かに昼なのよ」
「しかし昼の十二時半の日比谷公園といやあ、昼休みのOLとサラリーマンで一杯だぜ」
「分かってるわ。私も変だと思うんだけど」
「しかし、犯人の方にしても、サラリーマン風のスタイルで歩いてりゃ、まず目立たずにすむからな。それが狙いなら分からないでもないがね」
「そうねえ……」
しかし、やはりちょっと常識外れな気がする。――まあ、脅迫なんてこと自体、あまり常識的なこととも言えないが。
もう一つ、今日の電話が十二時少し前にかかって来たというのも、紘子には引っかかった。昼食時になって相手がいなくなっては、と思ったのかもしれないが、そんな所に気が回るのは、ひどくサラリーマンらしいではないか。口調はヤクザぶって、凄んでいたが、自分自身、サラリーマンだから、ふとそんなことを考えてしまうのではないだろうか。
「で、俺は何をすりゃいいんだ?」
「所長の顔は憶えてるでしょ? だから様子を見てほしいのよ。そして犯人が現れたら、後をつけてちょうだい」
「その場で叩きのめしゃいいじゃねえか」
「また! それじゃ大騒ぎになるじゃないの」
「そうか。――じゃ、ともかくそいつがどこの誰かを突き止めりゃいいんだな?」
「そう。その上で焼くなり煮るなり、お好きなように」
「よし、分かった。明日は特別な予定もない。行ってやるよ」
「さすが先輩!」
「こんな時だけ先輩にしやがって!」
と船山は苦笑いした。
M新聞社からブライダル・コンサルタントへ戻ってみると、深田は外出していた。緊張のあまり明日になる前に引っくり返らなきゃいいけど……。
「精神安定剤でも買いに行ったのかもね」
とニヤッとして、席につき、郵便物を見ていると、入口のドアが開いた。
「あら!」
紘子はギクリとした。北原常子が立っていたのだ。
昨晩は、顔を見られて慌てたのか、飛び出して来た時と同じように唐突に逃げて行ってしまったのだが……。
今日の彼女は、しかし、昨夜とは打って変って、もの静かで、やや青ざめ、固い表情こそしていたが、ナイフを手に飛びかかって来る気配はなかった。
「あの……」
と北原常子がおずおずと言った。「昨晩は申し訳ありませんでした」
「いいえ。もう済んだことですもの。どうぞ入って」
「すみません……」
「所長がいませんから、所長室のソファに座りましょうよ」
「はあ……」
ソファに落ち着くと、常子はしばらく顔を伏せたまま黙っていたが、やがて思い切った様子で顔を上げた。
「実は、聞いていただきたいことがあるんです」
「何でしょう?」
「明野さんのことじゃありません。あの人のことはもう諦めがつきました。本当です。昨日、あなたを刺そうとして……あそこまで狂ってしまったのが、|却《かえ》って良かったのかもしれません。後では妙に落ち着いた気持になって……。本当に、諦めがついたんです」
紘子はゆっくり肯いた。――やれやれ、これで苦労も報いられたわけだわ。
「今日お話ししようと思ったのは母のことなんです」
「お母様の?」
「ええ。母はとんでもない詐欺師で、ペテン師なんですの」
「――何ですって?」
紘子は訊き返した。
「母だけがそうだとは言えません。私も[#「私も」に傍点]そうなんです」
「どういう意味なんです?」
「私たち、もともとゆすり[#「ゆすり」に傍点]を商売にして来たんです」
「ゆすり?」
「ええ、私が純情な娘を装って初老の紳士に近付き、二人でホテルに入る所を写真に撮ってお金をゆすり取るんですの」
「何ですって?……じゃここへ申し込んで来たのも……」
「そのために母にも結婚相手を、とお願いしたんですの。見合いをして、私の方がその人に言い寄る。男なら若い娘の方がいいに決ってますもの、きっとうまく引っかかると思ったんです」
紘子は呆れて何とも言いようがなかった。
「ところが」
と常子は続けて、「今度ばかりは、そうは行きませんでした。明野さんには、あなたという恋人ができるし、それに何よりも、私が本気であの人に恋してしまったんです」
「お母様は何と?」
「他の女にとられるのは腕が悪いからだと言って、叱られました。でも私にはこれ以上、こんな仕事はできません」
「そうよ! そんな生活、長くは続かないわ。やめて、真面目に働けばいいのよ」
「そうします」
常子は微笑んで肯いた。「母にも、何とか分からせますわ」
「力になれることがあったら、いつでも」
「ありがとうございます」
紘子はどうも事態が|混《こん》|沌《とん》としてよくつかめなかった。この常子の話は事実らしい。しかし……。
「一つ訊きたいんだけど」
「何でしょう?」
「あなたのお母さん、ここの所長をホテルへ誘ったでしょう?」
「ああ、あれですか」
「あれは何のつもりで――」
「半分は、本当に明野久夫さんに言い寄られて困ってたんです。母は若い男性が苦手なんですの。でも半分は、明野さんの方が失敗だったので、こちらの所長さんを今度は脅迫しようと……。私がいやだと言ったものですから自分で無理矢理に」
「じゃ、今日脅迫状を寄こしたのもお母さん?」
「今日ですって?」
常子がびっくりした顔で、「まさか! だって、一度お会いしたきりで、まだ写真も撮っていないと言っていましたけど」
それじゃ一体、あの写真を撮ったり脅迫しているのは誰なんだろう?
北原常子が帰って行くと、深田がほとんど入れ違いに戻って来た。
「あら所長、どこにいらしてたんですか?」
「ウム……」
深田はえらく深刻な顔で言った。「君を信じてもいいだろうな?」
紘子は面食らって、
「そんなのご自由ですけど」
「ま、いい。君のことは信じているからな。――これだ」
と封筒を取り出す。「百万円ある」
「所長! 銀行強盗でもやって来たんですか?」
「馬鹿を言え! 俺の金だ!」
「所長の?」
「総合口座だから定期の九割まで借りられる。それで出して来たんだ」
「これを明日持って行くんですか?」
「そうだ」
「でも何も本物でなくたっていいのに」
「いや、俺は|嘘《うそ》をつくのは嫌いだ」
変な所にこだわるんだから!
「ちゃんと犯人が捕まりゃいいけど、百万円と一緒に逃げられたらどうするんです?」
「その時は――」
「奥様にも当然ばれるでしょう」
「首を|吊《つ》るよ」
と真面目な顔で言う。
「じゃ、今日帰りに買っておきます」
「何を?」
「ロープです」
昼休みの日比谷公園なら、OLやサラリーマンが一杯だから目立つまい、というのが犯人の|心算《こころづも》りだったとしたら、そこには重大な欠陥があった。
その日は、朝からどしゃ降りの雨だったのである。
百万円の封筒を内ポケットに、傘をさした深田が、何とも惨めな様子で公園の中をうろついているさまは、ちょっと浮浪者じみて見えた。
「寒いわねえ」
紘子はベンチで身を震わせた。
「辛抱しろよ。記者はもっとひどい所でも夜明しするんだ」
と船山が言った。
二人は雨に打たれて、閑散としたベンチの一つに身を寄せ合って座っていた。レインコートは着ているものの、もうすっかり体の|芯《しん》まで冷え切っている。恋人同士らしく見せかけるため、一時間以上も前に来て、こうしているのである。
「早く犯人が出て来てくれないと凍え死んじゃうわ」
「もっとくっつけよ」
船山がここぞとばかり、紘子を抱き寄せる。紘子の方も、こういう状況下では暖かくなるためならオランウータンの腕の中でもいいと思っていたので、逆らわなかった。
「所長は」
「あそこを歩いてるぜ」
反対側の歩道をトボトボと歩く深田の姿を見て、紘子は寒いのも忘れて吹き出しそうになった。
「何だか、所長の方がよほど怪しい感じね」
「全くだ。――しかし、もう一時だよ。犯人も雨で、出て来るのをやめたんじゃないのかなあ」
「雨天順延とは言ってなかったわよ」
その時、深田のすぐ目の前の茂みから飛び出した男があった。二、三秒深田ともみ合ったと思うと、深田を突き飛ばして駆け出す。――もう、その時には船山は猛烈なダッシュでスタートを切っていた。
どうもその男、あまり走る方は得意でないらしい。スポーツマンの船山とはまるで勝負にならず、たちまち追いつかれて、組み伏せられてしまった。
紘子も遅れて駆けつけた。
「やったわね!」
「ざっとこんなもんだ。――どうだ? 見た顔かい?」
船山がぐいと引き起こした顔を見て、紘子はアッと声を上げた。――明野久夫だったのだ。
「それじゃあなたたち親子は――」
「ええ。金のありそうな中年の女に近付いて、あれこれ巻き上げて暮らしてるんです」
紘子は、寒さのせいばかりでなく、身体の震えるのを感じた。
「じゃ、相談所に来たのも、それが目当てで……」
「ええ。でも、まさかそんなピッタリの相手がすぐ見つかるとは思わず、あちこちに同じように声をかけていたんです」
「それで?」
「僕は北原弓子に言い寄ったんですが、どういうわけか、てんで相手にしてくれないんです」
久夫はため息をついて、「もう大分前から、僕はこんな仕事に嫌気がさしていました。以前は真面目なサラリーマンだったんですが、会社が潰れてからは、もうやけになって……。でも、人を|騙《だま》して生きて行くのは、やはり気の重いものでしてね」
「ホテルの部屋で私を殴ったのも――」
「僕です。すみませんでした」
「でも、どうしてあんなことをしたの?」
「僕はあの時、父を殺そうと思ったんです。父がいたんじゃ僕はだめになる、と……。で、ホテルで待ち伏せて父を殺し、ナイフをあなたの手に握らせておけば、|痴《ち》|話《わ》|喧《げん》|嘩《か》の果ての殺人と思われるだろう、と……」
「私に罪を着せる気だったの!」
「すみません」
とすっかりしょげ返っている。「でも、父には|敵《かな》わず、腕を傷つけただけで、殴り倒されてしまいました。そして俺の前から消え|失《う》せろ、と……」
「どうして所長を脅迫したりしたの?」
「金が欲しかったんです。父から離れるためにも金が必要だったんで……。北原弓子が僕の誘いに一向に乗って来ないんで、頭へ来て、尾行してみると、おたくの所長さんとホテルへ入ったんで、これは、と思って撮ったんです。あなたと父のも、ついでに。あなたがどこかの金持の娘、ってこともあるかもしれませんから」
「見当外れね。おあいにくさま」
と紘子は冷ややかに言った。
「父は……悪い人間じゃないんです。ただ、育ちが良過ぎて、昔の夢を忘れられないんです。あくせく働くなんて、父には堪えられないんですね」
「大勢……若い女の子たちを引っかけていたんでしょうね」
「いいえ!」
と久夫は首を振って、「父には一つの信念がありました。中年過ぎの女を騙すのは構わない。騙される方が悪いんだから。しかし、若い女性を騙すのは何よりも悪いことだというんです。今度も、北原常子さんに言い寄られて、本気で心配していました」
紘子は少しの間、黙っていたが、
「分かったわ。もう行っていいわよ」
「え?――警察には?」
「突き出したりしないわよ。でも、その代り、今度は本当に真面目になってよ」
「ありがとうございます!」
「あ、それから所長の百万円は?」
「|盗《と》っていませんよ」
「盗ってない?」
そばで船山も肯いて、
「確かに、持ってなかったぜ」
「だって必死に胸ポケットを押えて、テコでも動かないんですよ。とても無理だと諦めたんです」
「所長らしいわ!」
紘子は思わず笑った。――急いで走って行く明野久夫の後ろ姿を見送って、船山がつまらなそうに、
「何だ、もう少しとっちめてやりゃいいのに」
「いいわよ、もう……。ありがとう。助かったわ」
「なあに、お前のためなら、少々濡れても、ってところだが、寒いのは寒いや。ともかく、どこか屋根のある所へ行こう」
「所長、どこへ行ったのかしら?」
「さあ、見えないね……」
二人は急ぎ足で、雨の公園を出て行った。
一旦アパートへ戻って服を替えてから、事務所へ行ってみると、まだ深田は帰っていなかった。
「何してるのかしら?」
と|呟《つぶや》いて席につく。そこへ電話が鳴った。
「はい。ブライダル・コンサルタントです」
「寺沢さんですな」
明野治夫の声だった。
「何の……ご用でしょう?」
「息子から何もかも聞きました。さぞご立腹でしょうな」
紘子は答えなかった。
「ご迷惑をかけたことはお詫びします。しかしこれだけは言わせて下さい。あなたは大変素晴らしいお嬢さんだ。本当です。何十年も私が若返って人生をやり直せたら、またあなたにデートを申し込むでしょう。――もうお目にかかることはありますまいが、このことは忘れずに。世の中、私のような男ばかりではありません。今度のことで、男性そのものを信じられないなどとお考えにならないように……」
「ご心配いただいて恐縮です」
「では……」
紘子は、切れた受話器をしばらく見つめていた。
「じゃ、今まで警察に?」
「そうだとも!」
深田はふくれっつらで、「それなのに、君は俺を置いてさっさと帰ってしまう!」
「でも一体どうして?」
「公園を出ようとしたら、服が乱れていたせいで、警官に呼び止められたんだ。――そして百万円の封筒を見つけられたもんだからな。いくら自分の金だと言っても、なかなか信じてくれんのだ」
それも無理ないわ、と紘子は思った。
「で、犯人は誰だったんだ?」
紘子は、ちょっとためらってから言った。
「見たことのない、チンピラでした。ガタガタ震えてて、二度とやらないと言ってましたから、大丈夫でしょう」
「そうか。――それならいいが」
こういう人は扱いやすくていい。ちょっと考えれば、いろいろ妙な点が出て来るのに、まるで考えようとしないのだから。
「あ、それから――」
「何か?」
「明野さんと北原さんですけど、どちらも話を断って来られました。登録も取り消すそうです」
「何だ、人をこんな目にあわせといて! 世の中は正直者が馬鹿を見るようにできとるんだ!」
「所長、もう四時になりますよ」
「それがどうした?」
「その百万円、お家に持って帰るんですか?」
深田は青くなった。
「そうだった! 今から銀行へ行ってみる! 頼んだぞ!」
飛び出して行く深田を見送って、紘子は微笑みながら呟いた。
「これじゃ男性不信にも陥るわよねえ……」
|結《けっ》|婚《こん》|案《あん》|内《ない》ミステリー|風《ふう》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成12年9月1日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2000
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『結婚案内ミステリー風』昭和59年5月10日初版刊行