角川文庫
禁じられた過去
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
プロローグ
1 懐かしい声
2 |変《へん》 |貌《ぼう》
3 身勝手な依頼人
4 秘 密
5 刃物の光
6 切りつける
7 声をかけた女
8 愛 人
9 裏の裏
10 年月の重み
11 死 体
12 留守番
13 成り行きの男女
14 暴 行
15 予 知
16 罪の眠り
17 夜の叫び
18 銃 弾
19 軽やかな誘惑
20 |復《ふく》 |讐《しゅう》
21 命を|賭《か》ける
22 最後の銃弾
エピローグ
プロローグ
そのマンションが見えた所で、女は車を|停《と》めた。
道のわきへ寄せ、エンジンを切る。――深夜の道に、人通りはなかった。
女は車を出ると、コートの前をかき合せた。霧ともつかぬ細かい雨が降っていて、歩けば|濡《ぬ》れそうだったが、傘をさすのも面倒だったのだ。
ドアが、ちゃんとロックされているか確かめることも忘れなかった。
あのマンションか……。女は、夜の中にも白く浮き出て見えるその建物を、それ自身が憎いような目でにらんでいた。
夜道を歩き出すと、顔に雨が|貼《は》りつくように当って、冷たい。――秋といっても、まだ初秋である。その割には冷え込む夜だった。
マンションまで、約五分。
その明るいロビーへ足を踏み入れたとき、コートや髪はしっとりと濡れていた。
腕時計を見る。――午前二時三十分。
電話を受けて、二十分しかたっていない。時間をむだにしなかったことでは、自分を褒めてもいい、と女は思った。
エレベーターの方へ歩いて行くと、ブーンと音がして、エレベーターが下りて来る。女はとっさに、今は空っぽの受付のカウンターの中へ入ると、頭を低くして、身を隠した。
こんな時間に、|誰《だれ》が下りて来たのだろう?
まさかこのカウンターの中を|覗《のぞ》くことはあるまいが……。
息を殺していると、エレベーターの扉が開いて、ガシャンと大きな音をたてる。少し古いエレベーターなのだ。このマンション自体、決して新しくはない。外観の白さも、後から塗り直したものだろう。
ガサガサと音がして、パタパタ、サンダルのはねるような音が、わきの方へと遠ざかって行く。覚えのある音だ。ゴミ袋の音である。
共同のゴミ捨て場が、マンションの中にあるのに違いない。
夜中でも、置いておけば、翌朝来た管理人が外へ出しておいてくれる、というマンションの便利な点の一つである。
仕方ない。当然、今のサンダルをはいた住人は戻って来る。それをやり過す他はない。
女は、|苛《いら》|立《だ》つ自分を何とか抑えた。何分のことでもない。すぐに戻って来るはずだ。
――来た。
そう。早く行って! ぐずぐずしないで!
やっとエレベーターが上って行く。
女は、カウンターからそっと顔を出した。エレベーターは六階で|停《とま》っている。
もう大丈夫だろう。――エレベーターの上りボタンを押すと、ブーンとモーターの音がして、下りて来る。
四階と言ってたわね、あの人。
四階。〈405〉。そこで、彼は待っている。一人ぼっちで。震えながら。
一人ぼっちで? いや、正確には一人ではない。
エレベーターの中は、タバコの|匂《にお》いがこもっていた。中でタバコを捨てる住人がいるらしく、床にこげた跡がついている。
四階まで、エレベーターはのんびりと上って行く。
扉が開く、ガシャンという音に肝を冷やした。静かな廊下に響きわたるようだ。
階段で来れば良かったか、とチラッと後悔した。しかし、住んでいる人間は慣れているだろう。
あまり足音をたてないように、用心して歩いて行くと、〈405〉はすぐに見付かった。
コートのポケットから手袋を出し、はめる。ドアのノブを回してみたが、ロックされていた。
インタホンを鳴らすと、しばらくは返事がなかった。――早くして!
「誰だ?」
と、|囁《ささや》くような声が|応《こた》えた。
「私よ。開けて」
と、女は言った。
「ああ……」
すぐにドアの向うで物音がして、ドアが細く開いた。
「一人かい?」
片目を覗かせて|訊《き》く彼は、いつもの彼とは全く違っていた。
「さあ、中へ入れて」
「うん……」
女は、入ってロックすると、
「この匂いね」
と、言った。
「匂い?」
気付かないのだろう。そうだ。女の方は、ずっと前から気付いていた。
「他の女の匂い」に……。
「いいわ。どこ?」
「――こっちだ」
重苦しい足どりで、男は先に立って行く。
寝室。もちろん大して部屋数はないので、そこが一番広い部屋だった。
「ここ?」
と、女は訊いた。「暗くて見えないじゃないの」
「うん……。怖くてね……」
明りを|点《つ》ける。手袋をはめた手で。
寝室が明るくなったとき、女はまず、意外によく片付いているという印象を持った。
もちろん、それ[#「それ」に傍点]も目に入ったが、予期していたことだから、大してショックを受けはしなかったのだ。
死んでいるのは、ベッドの上。頭が、端から落ちて、逆さになっている。長い髪が、床へ届くかと思うほど。
死んでいることは、確かめる必要もない。
ガウンの胸から腹の辺りにかけて、赤く血が広がって、その真中に、ポカッと空虚な穴があいている。
「――|拳銃《けんじゅう》は?」
と、女は訊いた。「どこなの?」
「その……テーブルの上」
と、男が答える。
背広がだらしなく乱れ、ネクタイもゆるんでいる。混乱と当惑が、その服装から分る。
拳銃を、女はとり上げた。――重い。ずっしりと重い。
本物を手にとるのは、初めてだった。
「弾丸は残ってるの?」
「ああ……。五発入ってると思う。一発……使ったから、あと四発」
男の顔は|蒼《そう》|白《はく》で、今にも気を失いそうだ。
「しっかりして」
と、女は言った。「もうこの女は生き返らないわ。でも、逃げられるかもしれない。まだ|誰《だれ》も気付いてないんだから。分るわね?」
「うん……」
と、男が|肯《うなず》く。
「いいわ。じゃ、私の言うことに答えて」
女は男の手を引いて、ソファへ座らせた。「これはどこで手に入れたの?」
「買ったんだ。外国人から。どこの国の人間か知らない。弾丸五発しかないがいいか、と言われて、いい、と言った」
「そう。――後くされはないの? 確かなのね」
と、念を押す。「いいわ。ともかく、ここにあなたがいたっていう証拠を一切消さなくちゃ」
女は拳銃を、持って来た大きめのバッグの中へしまった。
「どうするんだ?」
と、男は不思議そうに訊いた。
「持って行くしかないでしょう。ここに置いて行けば、どんなことから足がつくかもしれない。――捨てるにしても、絶対見付からない所でないと」
女はバッグから男ものの布の手袋をとり出した。「これをはめて」
「え?」
「早くして。今でも、いやになるくらい、あなたの指紋がこのマンション中に残ってるはずでしょ。それをはめて、指紋を消して回るのよ」
「ああ。――そうか」
と、男は言われるままに、手袋をはめた。
「これで」
と、女が、バッグから使い古したタオルを取り出す。「触った所、全部、|拭《ふ》いて回って。いいわね」
「ああ……」
男はタオルを手に、どうしていいか分らない子供のように、座ったままでいる。
「どうしたの? しっかりして。捕まりたいの?」
「いや……。そうじゃないが……」
「じゃ、何なの? 良心の|呵責《かしゃく》? そんなもの何の足しにもならないわ。私とあの子[#「あの子」に傍点]はどうなるの? あなたが刑務所へ入ってる間、じっと堪えて待つの? そんなのはごめんよ。捕まらないことよ。要は、何の証拠も残さないこと。――この女のことは、やがて忘れて行くわ」
女の言葉は、男を圧倒した。男はゆっくりと肯いて、
「分った」
と、立ち上ると、「君も、指紋を拭くのか?」
「私は、ここにあなたの物とか、あなたのことが分るようなものがないか、徹底的に捜すわ。――いい? よく考えて、自分が触ったと思う所は全部[#「全部」に傍点]拭くのよ」
「うん」
男は、少し自分を取り戻した様子だった。
「そうのんびりしてはいられないわ。五時過ぎれば、新聞も来るし、朝早く出る人もいるでしょう。明るくなる前に、ここを出るのよ」
「分った」
二人は、それぞれに行動を開始した。
男は、ドアのノブから始めて、戸棚のガラス、テーブル、|椅《い》|子《す》、食器、と一つ一つ、タオルで拭いて行く。
女の方は、寝室のクロゼットから始めて、あらゆる戸棚、あらゆる引出しを探って行く。
荒らした、という風に見えないように、ていねいに元通りにした。
下着をしまった引出しの、ビニールの敷布の下から、小さなメモ帳を見付け、バッグへ入れる。
何枚あるか分らないほどの服、帽子の箱、バッグ、アクセサリーのケース。一つ一つを開けて行く。
帽子の箱の一つには、金属のケースが入っていた。開けてみると、注射器とガラスの皿が入っている。――何に使っていたかは明らかだ。
女は少し考えてから、その金属ケースを、下着の引出しの奥へ押し込んだ。すぐに見付かるだろう。
寝室を終えると、バスルーム。そしてダイニングキッチン……。
四時半を少し回ったところで、二人の「作業」は、一通りすんでいた。
「もう……大丈夫だと思う」
男は肩で息をして、額には汗が浮いていた。
「こっちも、いくつか収穫はあったわ」
と、女は言った。「――本当に大丈夫?」
「うん」
「じゃ、長居は無用だわ。行きましょう」
女は明りを消した。玄関へ出て、ふと思い付いたように、
「リモコンは? TVの」
「ちゃんと拭いたよ」
と、男が肯く。
「中の電池は?」
「え?」
「中の電池、換えてやったりしなかった?」
男は一瞬ポカンとして、
「――そうだ! リモコンがきかなくなった、とあいつが『何とかしてよ』って……」
「電池を抜いて持って来て」
と、女は言った。
――マンションを出ると、雨は上っていた。
車まで、二人は黙って歩いていた。
「早く乗って」
「ああ」
ドアへ手をかけ、「――すまん」
「今さら謝ってもらっても……。今は帰るのよ、急いで」
「うん……」
男は、助手席に乗った。女はバッグを後ろの席へ置いて、運転席に腰を落ちつかせた。
男が、女の肩へ手をかける。――ふと、女の肩が震えた。
「すまん……」
と、男は言った。「こんなことになるとは――」
女が、激しく男をかき抱く。
「離さない……」
と、女は祈りの言葉でも唱えるように、口走った。「絶対に、誰にも――誰にも渡さない……。私だけのものよ」
その言葉は、祈りのようにも、|呪《のろ》いのようにも聞こえたのだった……。
1 懐かしい声
「困ってるの。相談にのっていただけないかしら」
――かつての恋人から、こう頼まれて、断ることのできる男はそういないだろう。
山上忠男にしても、同様である。
電話に出てしまった以上、何とか返事をしなくてはならない。
山上は、ちょっと送話口を手で押えて、
「草間君」
と、秘書の方へ声をかけた。
「はい?」
顧客リストのチェックをしていた秘書の草間頼子は、顔を上げた。
「悪いけどね、下の売店に行って、|喉《のど》のアメを買って来てくれないか」
「はい。お風邪ですか」
と、草間頼子はメガネを外した。
「ちょっといがらっぽくてね」
と、山上が|咳《せき》|払《ばら》いをする。「悪いけど、頼むよ」
「はい」
草間頼子は、もう山上の下で三年以上働いていて、たいていのことはのみ込んでいる。
「下の売店へ」行って来てくれ、というのは、電話の内容を聞かれたくないときに、山上がいつも使う口実なのだ。
それでも、もらっているお給料の中には、「|騙《だま》され代」も入っている、というわけで、真面目に財布を手にオフィスを出て行くのだった。
「――ああ、もしもし」
と、山上は、背もたれの高い|椅《い》|子《す》に、少し体をずらして楽に座り直すと、受話器を持ちかえた。
「どなたか一緒だったの?」
と、電話の向うの声は言った。
「いや、秘書にちょっと買物を頼んだだけさ」
と、山上は言った。「久しぶりだなあ、君の声を聞くのは」
向うは少し黙っていたが、
「――怒ってる、私のこと?」
「怒るって……。もう昔のことじゃないか」
と、山上は言った。「困ってるって……どういうことで?」
「電話じゃ、ちょっと……」
「分った。会うのは構わないけどね。僕も結構動き回ってるんだ」
「知ってるわ。あちこちの雑誌とかで、よく写真を見るもの。偉くなったわね」
「偉くはないさ」
と、山上は苦笑した。「ただ、そういう仕事をしてるってだけだ」
「そっちへうかがうわ。もちろん、こちらがお願いするんだから。ただ――できるだけ、急いで会ってほしいの」
――そう。昔の彼女の面影が、その口調に残っている。
「分った。ただ、毎日、予定が詰ってるんでね。こうしよう。昼飯でも一緒に、どうだい? そのときに話を聞く」
「そうしてくれる? 助かるわ」
と、美沙は言った。
「じゃあ……明日? ――結構」
山上は、明日の昼、この近くの高層ビルに入っているレストランで会う約束をして、メモした。
「それから、連絡先は? 今、何て姓なんだい?」
「私? 倉林よ。昔の通り」
「しかし……結婚したって聞いたよ」
「未亡人なの。この三年ほどね」
「そりゃごめん。無神経な言い方して」
「いいえ。今は、息子と二人暮し。父も去年亡くなったもんだから」
「そうか。知らなかった」
「色々あって……」
と言いかけて、「詳しいことは、また明日ね」
「ああ、それじゃ、お昼に」
「私のこと、分らなかったら、太ったおばさんを捜してよ」
そう言って、倉林美沙はちょっと笑った。
その笑い声の響きは、山上忠男の胸を、|束《つか》の|間《ま》痛ませた。遠い青春の日のこだまを聞いたようだった……。
――数分して、草間頼子が戻って来ると、
「これでよろしいですか」
と、喉のアメをボスの前に置く。
「え?」
山上は、ちょっとキョトンとしていたが、「ああ。――うん、ありがとう。いくらだい?」
「二〇六円です。消費税こみで」
と言って、「二〇〇円におまけしておきます」
「どうも」
と、山上は百円玉二つを渡して、「明日、午後は何だっけ?」
「K商事の常務さんに呼ばれています」
「ああ、そうか。輸入代理店契約の話だったな。資料、来てる?」
「夕方には届くと連絡がありました」
「そうか。――時間、何時からだった?」
「一時半です」
「一時半ね……」
山上は、|肯《うなず》いて、少し考えてから、「少し遅らせてほしいと連絡してくれないか。あの常務はいつもどうせ暇だ」
「何時にします?」
「そうだね……。三時」
「電話入れてみます」
草間頼子には、山上がさっきの電話の女性と会うのだということが分っている。
そして、草間頼子がそれを知っていることを、山上も承知している。ややこしい話だ。
十二時に昼食の約束。――食事そのものはランチで、コースで取っても一時間もあればすむ。三時に先方へ出向くとして、ここを二時半に出れば間に合う。
一時間半の余裕[#「余裕」に傍点]を、山上はみていることになる。
積る話が山ほどある。一時間半あっても、長すぎるってことはないだろう。
そう……。美沙はおしゃべりだった。昔から、しゃべり出すと、止らなかったものだ。
積る話が……。
いや、話だけですまないことも――。未亡人だというし、別に彼女にしてみれば浮気ってわけでもないのだ。
そう。もしその場合[#「その場合」に傍点]でも、一時間半あれば……。
山上はちょっと笑った。――どうせ何も起らないに決っているのだ。|俺《おれ》にそんな度胸はない。
今の暮しを――妻と娘との三人の生活を危機にさらしてまで、昔の恋人と浮気してみたいとは思わない。それには失うものが多すぎるのである……。
「所長」
と、草間頼子が言った。「お昼の店、予約しておきますか」
この秘書には何でも分っている。
「頼むよ。――〈S〉にしてくれ。個室がとれたら、頼んどいてくれ」
「はい。十二時でいいですか」
「ああ、十二時でいい」
「その後の予約は?」
「その後?」
「ホテルとか」
「おい……」
「冗談です」
草間頼子は笑いをかみ殺して、言った。
草間頼子は三十歳。秘書としては有能である。
英会話も仕事に必要な程度は充分にこなせた。
山上が、それまで勤めていた大手の経営コンサルタント会社から独立して、一人でこのオフィスを構えたとき、草間頼子はちょうど勤め先が倒産して、この同じビルの中のオフィスから出なくてはいけなくなっていた。
今でも、山上はよく|憶《おぼ》えている。
越して来たばかりのオフィスで、ここは段ボールの山だった。――そして、その中に、ここのものでない箱が一つ、紛れ込んでいたのである。
どうしていいか困ったのは、中身が女性の私物で――中にはパンティストッキングまで入っていたからだ。
どうしたものかと迷っていると、
「あの……」
と、おずおずと声をかけて来た女性がいた。「すみません、こちらに私の持物が――」
「え? ああ、パンティストッキングの入った?」
彼女は真赤になった。
「ええ、たぶん……。持って帰るつもりで下に置いておいたら、なくなっちゃって」
「じゃ、うちの荷物を運んで来た運送屋が、間違って持って来ちゃったんだな。これです。――どうしようかと思ってた」
「すみません……」
と、その段ボールを受け取って――。「あの……」
「え?」
「ここ、新しく入られるんですか」
「ええ。まだ一人きりでね。これからコンサルタントの看板を出すんですよ」
と、山上は言った。
「何か――私にできる仕事、ありません?」
「あなたに?」
山上は面食らったが――話してみると、草間頼子は秘書として充分役に立つ技術を身につけているのが分った。
偶然が二人を引き合せた、ということになる。
といっても、もちろん二人は仕事の上以外で関係があるわけではない。草間頼子はなかなかきりっとした美人だが、何となく「女」を感じさせない。
山上の妻や娘とも年中会っていて仲がいいし、その点、山上も気が楽であった。
「所長」
と、草間頼子はレストランに明日のお昼の予約を入れた後、言った。
「うん?」
「来週の土曜日、憶えてらっしゃいます?」
山上は考え込んだ。
「何かあったかな」
「奥様のお誕生日ですよ」
山上はポンと額を|叩《たた》いた。
「そうか! 忘れてた。――よく憶えてるね!」
「日付を憶えるの、得意ですの」
と、頼子は言った。「どうなさいますか? お食事だけならいいですけど、温泉にでも行かれるんでしたら、予約を入れておきませんと」
「温泉か……。悪くないね」
と、山上は手帳をめくって、「どこか、適当な所を捜してみてくれる?」
「分りました。JTBに友人がいますから、|訊《き》いておきますわ」
頼子は|微《ほほ》|笑《え》んで言った。
「君に言われなかったら、完全に忘れてるところだよ」
「秘書の役目ですわ」
頼子は、楽しげに言った。
草間頼子は独身の独り暮しである。いや、少なくとも、山上の知っている限りではそうだ。もう三十だし、恋人の一人もいないわけではないと思うのだが、私生活に関しては語りたがらない。
いささか|謎《なぞ》めいたところのある女性だった。
「もうお出かけになった方が」
と、頼子は腕時計を見て言った。「N社のパーティです」
「おっと、そうだったな」
と、山上は机の上を片付けた。
「スピーチを頼まれています」
「うん、分ってる。あそこは適当に社長夫人を持ち上げてやりゃいいのさ」
「直接、お宅へお帰りですね」
「たぶんね。君も適当に帰ってくれ」
「適当にさぼらせていただきます」
と、頼子は言って微笑んだ。
「君もパーティへ来て、夕飯をすませるかい?」
「約束がありまして」
「デートかい?」
「そんな意外そうな顔をなさらなくても」
と、頼子が山上を軽くにらむ。
「いや、そうじゃないけどね」
と、山上は笑って、「じゃ、楽しくやりたまえ」
「恐れ入ります」
山上は、草間頼子のデートの相手は、どんな男なんだろう、と考えていた。どんな男でも不思議はないし、また、どんな男でも、どこかしっくり来ないようでもある。
要するに、頼子には「生活の|匂《にお》い」というものが、あまりないのだ。
「何を見てらっしゃるんですか」
と訊かれて、
「いや別に」
と、あわてて首を振る。
「私とデートするもの好きはどんな|奴《やつ》だろうって考えてらっしゃるんでしょ」
当らずといえども遠からずだ。
山上は、思わず笑って、メガネを外し、布で|拭《ふ》き始めた。――気分を変えたくなったときの、山上のくせなのである。
「君に|惚《ほ》れられる幸運な男ってのはどんな奴かな、と思ってたのさ」
「『不運な』の間違いじゃないんですか?」
「そういじめるなよ」
「私は――結構年下の趣味なんです」
「ほう。じゃ、弟のような?」
「息子のような、ってとこまでは行きませんけどね」
と、頼子は言った。「タクシーをお呼びします?」
「いや、いい。電車で行くよ。少し歩いた方が体にもいいし」
「少し風はありますけど、気持のいいお天気ですよ」
と、頼子が窓の方へ目をやって、言った。
「ああ……。二日酔にならないようにしないとね」
山上は、立ち上って、「じゃ、行ってくるよ」
と言った。
――もちろん、山上はこの日、自分がいわば「事件」の扉に手をかけたのだと、知る由もなかったのである。
2 |変《へん》 |貌《ぼう》
パーティはパーティで、それ以上でも以下でもない。
山上は、もうさっきからずいぶん料理を食べまくっていた。
四十二歳ともなると、調子にのって飲んでいると、しっかりそのつけ[#「つけ」に傍点]が次の日に回って来る。適当に周囲の人間と話しながら、手に皿を持っていれば、無理にアルコールをすすめられることもないと、パーティに二日に一度は出る身の、経験から来た対処法である。
今夜のパーティは大分出費している。ここの社長は|見《み》|栄《え》っぱりだからな、と山上は思った。
社外向けの行事やイベントは、いつも派手だし、女関係も華やかなので有名なのである。会社のパーティにも、自分より十センチは背の高い、モデル風の美女をエスコートして現われ、
「相変らずお元気なことで」
と、取り巻き連中からお世辞を言われていた。
しかし、コンサルタントとして、この社に|係《かかわ》っている山上はよく知っている。――「よそ行き」の顔は華やかでも、|中《うち》には厳しく、ケチに徹しているので、辞めて行く社員が多いこと。
もう一つ。連れている女も、いつも別だが、あれも社長の「見栄」で、当人は心臓病で女を相手にはできない体なのだ。こういうパーティのときは、側近がしかるべき女性を捜して来て、高いバイト料で、パーティの間、社長の「恋人役」をつとめさせるのである。
それには「口止め料」も含まれているので、一晩の「バイト料」は、この社の重役の月給より高い。――ブツブツ文句を言う側近も少なくないことを、山上はよく知っていた。
コンサルタントとして、山上は時には、そこの経営者を怒らせるような助言もする。しかし、それは必要なことで、常に「イエスマン」に囲まれている人間くらい、不幸なものはないのだ。
山上がコンサルタントとして、ここまで地位を固めたのも、その姿勢を貫いて来たからである。
「――お飲みものはいかがですか」
コンパニオンの女性がウイスキーの水割りをすすめる。一瞬、心が動きかけたが、
「車なんでね。食べるの専門にしてるんだ」
と、断った。
「こっちがもらうよ」
いい加減酔っている、赤ら顔の男が、そのグラスを受け取る。
危いな、と山上は思った。――飲みすぎている。
こういうパーティで「度を過ごす」のは、最もみっともないことだ。客の半分は、
「タダで飲み食いできる」
から来ている客だし、残りの半分は、
「義理で仕方なく」
来ている。
日本のパーティとは、しょせんそんなものだ。
山上は、ふと――今の、グラスを取って、もう半分も飲んでしまっている男の方を振り向いた。
「もしかして……。津田か?」
会場は、ともかくやかましい。
山上のスピーチはとっくにすんでいるが、耳を傾けていた人間が果して何人いたか。
話をするには大きな声を出さなくてはならない。
「津田だろ? ――|俺《おれ》だ。山上だよ」
肩を|叩《たた》いて、やっと相手の注意をひくことができた。
少し充血した目が、じっと山上を見つめていたが――。
「山上か!」
「ああ。びっくりした。お前――大丈夫なのか?」
大学時代の仲間の一人が、血を吐いて倒れたという話は、やはりショックである。それを聞いたのが、去年のことだった。
「ああ、見ての通りだ」
と、津田良治はグラスをちょっと上げて見せた。
「おい。――やかましいからな、ここは。ちょっとロビーへ出ないか。いいだろ?」
「ああ……。まだ、あんまり飲んでないんだけど」
「後でまた来りゃいいさ。な、ちょっと出ようぜ」
山上は、旧友の肩を抱いて、パーティの人ごみの間をかき分け、会場を出た。
――ロビーは、涼しくて、気持良かった。ソファに腰をおろすと、津田は、グラスの残りを|名《な》|残《ご》り惜しそうに飲み干した。
「グラス、貸せよ」
山上は、津田の震える手からグラスを受け取ると、傍のテーブルにのせた。「いや、心配してたんだ。手術したのか?」
「ああ。――胃にポカッと穴があいてると言われてさ」
と、津田は少し舌っ足らずな声で言った。
――津田はひどくやせて、やつれて見えた。
パーティで会ってすぐに分らなかったのは、そのせいもあった。髪がめっきり白くなり、同じ四十二歳のはずなのに、どう見ても五十代の後半だ。
その顔色も、この酔い方も、まともとは言えない。それが気になって、山上は津田をパーティから引張り出して来たのである。
「胃をとったんだ。――いや、少しは残ってるのかな? 何しろ自分で見たわけじゃないからな。そうだろ?」
と、津田は笑う。
「ああ。しかし、そんな体じゃ、そう飲んじゃいけないんじゃないのか」
「ああ……。分ってるさ」
と、津田は、フーッと息をついて、足を組んだ。「しかし……飲まなきゃやり切れないさ。お前はいい。何しろ『先生』だもんな!」
津田は、唇を|歪《ゆが》めて笑った。
「『先生』か! ――さっき、パーティで聞いててさ、|誰《だれ》のことかと思ったぜ。お前がね。いや、大したもんだ」
「よせよ」
と、山上は首を振った。「俺だって、個人企業だ。いつどうなるか分ったもんじゃないさ」
「しかし、会社の都合って、いい加減なもんで、我が身が紙風船みたいに飛んで行くってことはない。そうだろ?」
「津田。――何があったんだ」
と、山上は|訊《き》いた。
「今日だって、俺が招待されたわけじゃないんだ。招待状が来たのは課長――俺が面倒みてやった、三十いくつの若造だぜ。そいつがさ、『俺は今夜、約束があるんだ。津田、お前、タダ酒が飲めるぜ。代りに行けよ』って……。招待状を投げてよこした」
苦い言葉、苦い声だった。
「そうか……」
「入院してる間に、どんどん人事は動いちまったのさ。――もとはといやあ、仕事の上での上司の失敗を、俺がかぶった。違法すれすれのやり方でね。取り調べを受けたんだよ、俺一人。その三日間で、胃に穴があいた。放免になって、家へ帰り着いたとたん、血を吐いて倒れたんだ。それなのに……。三か月たって、体重を二十キロも減らして出社した俺は、もう上司にとっちゃ邪魔者だったのさ」
「それで」
「とんでもない部署へ回されて、ろくに仕事もない。やっと元へ戻ったと思ったら、昔の新米の下で[#「下で」に傍点]働け、と来た。これで飲まずにいられるか?」
山上は、ゆっくりと津田の肩へ手をかけて、
「気持は分るさ。俺だって、色々見て来たし、経験して来た。しかし、体をこわしたって、そんな連中を見返しちゃやれないぞ。自分を大切にしろ。転職するのもいいじゃないか。営業の仕事なら、いつでも求人はある」
津田は、山上の方を見て、ちょっと寂しげに|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「お前の気持はな……|嬉《うれ》しいけど。もう俺はだめさ」
「おい。まだ四十二なんだぞ。俺たちは人生の半分しか来てない。分るか?」
「半分か……。お前はな」
と、津田は言った。「俺はもう……幕が下りかけてるよ」
「そんなことはないさ。もう帰ろう。家へ帰って、ゆっくり休めよ」
すると、津田がパッと立ち上った。
「飲まなきゃ。せっかくタダなんだぜ」
「津田。――よせ」
山上の手を振り切って、津田はパーティへと戻って行った。少し足元が危い。
山上は、重苦しい気分で、しばしその場から動けなかった……。
十一時。――まだそう遅い時間ではない。
しかし、鳴らしたチャイムには、一向に返事がなかった。
「参ったな……」
山上は、タクシーの方をチラッと振り返った。
この家に間違いないはずだ。――ちゃんと|憶《おぼ》えている。〈津田〉の表札もある。
|酔《よ》い|潰《つぶ》れた津田をのせて、ここまで来たのである。
パーティで飲んだくれ、見知った顔に絡み始めた津田を放っておけず、山上は結局、自宅まで送って来たのだった。
しかし、家には誰もいないようだ。
確か津田のところには子供がない。しかし奥さんはいるし、山上も何度か会っている。
美人というのではないが、よく動く、|可《か》|愛《わい》い女性だった。
「――すまんね」
と、タクシーへ戻って、「こいつを中へ入れるから。少し待っててくれ」
ポケットを捜せば、玄関のキーは出てくるだろう。完全に酔い潰れてしまっている津田のポケットを探っていると――。
車が一台、近付いて来て、少し手前で|停《とま》った。――夜だったが、街灯の明りで、外車、それもたぶんポルシェだと分る。
ドアが開き、助手席から女性がおりて来た。靴音をたてて、やって来ると、
「何かご用ですか?」
と、山上へ声をかけて来る。
「――津田君の奥さんですね」
山上は、自分の声ではないような気がした。
「はあ……。あら、主人が?」
と、タクシーの中を|覗《のぞ》き込む。
「送って来たんです。――山上です」
その女は、ハッとしたように振り向いた。
「まあ。――本当だわ。山上さん? びっくりした……」
山上は、あのポルシェが静かに走り出すのを、見た。運転席には、少し|禿《は》げ上った、よく日焼けした顔の男が座っていた……。
「お手数かけて、すみません」
と、津田郁代は言って、「お茶もさし上げないで」
「いや、僕ももう帰らないとね」
と、山上は言った。「大丈夫ですか、彼は?」
「ええ……。いくら言っても、だめなんですの」
郁代は、記憶の中の彼女とは別人のようだった。
化粧も濃く派手になり、髪も染めて、金色のリングが指に光っている。
「病気の後、色々あったようですね」
と、山上は言った。
「ええ。――あの人も|可《か》|哀《わい》そうですわ」
郁代はタバコを出して火をつけた。「でも……いつまで人のせいにして恨んでいても、仕方ないでしょ? それを……結局、のり越えられなかったんです」
山上は、何も言わなかった。――津田を責めることも、自分にはできない。
「私も変ったでしょ」
と、郁代は言った。「主人をどうすることもできなくて……。入院していたときのお医者様に相談しました。私も寂しくて、誰かに頼りたかったんです」
山上は、ちょっと郁代を見つめた。
「ええ」
郁代は|肯《うなず》いて、「さっきのポルシェの人です。月に二、三度会って……。何も買ってもらったりしているわけじゃありません。ただ抱かれて、帰って来るだけです。それだけでも、何とかこの惨めさから、救われるんですもの」
山上は、何も言わない。――津田の気持、郁代の虚しさ。どちらも痛いほど、よく分る。
どっちを責めてすむという話ではない。
「ともかく――」
と、山上は立ち上った。「あんまり飲ませない方が……」
「ええ。気を付けますわ」
と、郁代は言った。「本当にすみません。お会いできて良かったわ。本当に、またいつかゆっくり……」
山上は、口の中で、どうも、と|呟《つぶや》いて、逃げるように玄関を出た。
妻のシルエットが、寝室の入口に浮んだ。
「――エリは寝てるか?」
と、山上が訊いたのは、一人娘のエリが、もう十四歳になって、結構夜ふかしすることも多いからである。
早く寝なさい、と口やかましく注意しても聞く年代ではなくなっている。
「ええ」
秀子は、静かにドアを閉めた。
廊下の明りが遮られて、寝室は暗く沈んだが、秀子の、白いネグリジェが空中を漂う霧のようにうっすらと見えた。
妻がわきへ滑り込んで来ると、山上は、その肩へ腕を回した。
「――ひどいことになってるのね、津田さんのところ」
と、秀子は言った。
「ああ……。あんなに陽気で、明るい奴だったのにな」
山上は、暗い天井を見上げながら、呟くように言った。
「今でも憶えてるわ。私たちの式のとき、あの人の歌の面白かったこと」
と、秀子がちょっと笑う。
「そうだった。みんな腹をかかえて笑ってたな」
遠い昔のことだ。いや、そんなに遠くはない。
たった十五、六年前の話だ。――その年月がこんなにも人を変えて行く。
「私、あんまり笑っちゃいけないと思って……。だって、花嫁が大口あけて笑うわけにいかないでしょ? 必死でこらえてて、お腹が痛くなっちゃったわ」
「その津田がなあ……。たぶん、君は会っても分らないだろう」
「奥さんも――可愛い人だったのに」
「幸福そうじゃなかった。全くね。誰が悪いんでもない」
――人は、四十、五十ともなれば、日々の暮し、充足感、幸福かどうかが、顔に出てくるものだ。
たとえどんなに疲れた顔をしていても、幸せそうな人もいるし、豪華な毛皮のコートをまとい、宝石に飾り立てられた夫人でも、顔に不幸がかげ[#「かげ」に傍点]を投げていることもある。
「あれじゃ、津田も遠からず、また体をやられるだろうな」
と、山上は言った。「止めることもできない。――そうだろ。津田は、ちゃんと知ってる。女房が、医者と会ってることも。だから帰りたがらない。それを、僕がどうしてやるわけにもいかないしね」
「そうね……」
「学生時代の仲間たち、か……。何の役に立つんだ、そんなことが?」
「あなた……」
秀子の柔らかい手がのびて来て、山上の顔に触れた。
秀子は三十八歳。山上忠男の四つ年下である。独立前の職場で、至って控え目なOLだったのが秀子だ。
子供のころ両親を亡くした秀子には、どこかさめたところ、人生を|諦《あきら》めているような雰囲気があった。
正直なところ、山上が秀子を好きになったのは、秀子を笑わせ、楽しくさせたいという希望を持ったからだった。その夢は、ある程度果されたと思うが、今でも秀子は至ってもの静かである。
その分、娘のエリが、一分間もじっとしていないほど元気で、飛び回っているが、最近は母親の方が少し娘から影響されたのか、車の免許をとったり、カルチャーセンターへ通ったりしている。
いいことだ、と山上は思っていた。秀子には、いつまでも若々しくいてほしい。
実際、少し小柄で、童顔の秀子は、三十八歳よりずっと若く見られる。――そうそう、来週には三十九歳になるのか。
「もうじき誕生日だな」
「え?」
と、秀子は当惑した様子で、「誰の? ――あ、私のだわ」
「おいおい」
と、笑って、「憶えとけよ、自分の誕生日くらい」
「忘れちゃうわよ、つい」
と、秀子も笑う。「三十九か……。あと一年で四十ね」
「どうだ、二人で温泉にでも行くか」
「エリは?」
「もう中二だ。一人で大丈夫さ」
「そうね……。お仕事はいいの?」
「構うもんか」
山上は、秀子を抱き寄せた。秀子が山上の胸に頭をあずける。
――夜の中で、山上は静かに妻を充たして行った。
3 身勝手な依頼人
「村内さん」
と、意外そうな声がした。
パイプをくわえて、寝室に立っていた男は、振り返った。
「君か」
と、村内刑事は言った。
「何してるんです」
と、入って来た安西刑事は、紺のスーツに身を包んだ、筋肉質の青年だ。
といっても、もう安西も三十四歳。そう若いわけではないが、スラリとした長身、脚が長く、胸板が厚くて、キュッと引き締った腰の辺り。――鍛えられた肉体を感じさせるのである。
村内の方は、対照的なタイプである。
中肉中背。一見してすぐに|憶《おぼ》えられるという男ではない。
「君の担当か」
と、村内は言った。
「ええ」
安西刑事は迷惑そうな様子を、隠そうともしていなかった。
「そうか。――|俺《おれ》もだ」
安西の顔がこわばった。
「冗談でしょう」
と、安西は言った。「相棒は田所さんと聞いてます」
「入院したよ」
と、村内は言った。「ゆうべだ。盲腸だとか」
安西は、ため息をついた。
「やれやれ……。で、村内さんが?」
「仕方ないさ。今の課長は新しい。昔のことは知らないよ」
と、村内は肩をすくめて、「難しい事件らしいじゃないか」
「本質は単純です」
と、安西は重い口を開いた。「男と女。それがこじれた」
「で、男が女を殺す。――凶器の銃は?」
「弾丸から手がかりは出ません。銃の方は見付かっていない」
「目撃者は?」
「捜してますよ、もちろんね」
安西はわざとらしく付け加えた。「言われなくてもやれます。僕のような新米でもね」
村内は相手にしなかった。
「どれくらいの付合いだったか知らんが、一度や二度は、男も出入りするところを見られてるはずだ。――気長にこのマンションの住人を当るんだね」
と、村内は言った。「被害者のことを教えてくれるか?」
安西は何か言いたげに、口を開きかけたが、やがて肩をすくめ、
「じゃ、居間へ。――座るところもない」
「うむ……」
村内は寝室を出ようとして、乱れて、血のしみの残ったベッドへ目をやった。
「――名前は水野智江子。定職はなかったようです」
居間のソファに座って、安西は言った。「色々アルバイトをやりながら、遊んで暮してた、というところですかね。もう二十九だったんですが」
「そこで犯人と知り合った、か」
「たぶん。――しかし、どのバイト先か、当るだけでも大変です。パーティのコンパニオンとか、臨時のホステスまがいのこともしていますからね」
「しかし、当るしかあるまい」
「友人関係に話を聞いています」
「――このマンションは?」
「賃貸です。家賃は、本人が現金で払っていたとか。当然、男にもらった金でしょうけどね」
「何年ぐらいここにいたんだ?」
「一年ほどだそうです。年中、出歩いては、夜遅く帰るというパターンで、ここの住人とも、ほとんど接触はなかったらしいですね」
「なるほど……」
村内は|肯《うなず》いて、「しかし、とっさの感情のもつれってわけじゃないな、銃まで手に入れてるんじゃ。暴力団関係者か」
「今、当らせてます」
安西の返事に、村内は、ちょっと|微《ほほ》|笑《え》んだ……。
「君もすっかり大人になった」
「三十四ですよ」
「もう? ――そうか、俺も五十二歳だからな、当然君もそんなものか」
村内は、居間の中を見回した。「何か手がかりらしいものは? 指紋は出たのかね」
「それです」
安西は手帳を閉じてポケットへ入れた。「指紋はどこからも採れませんでした。被害者のものはいくつかありますが、犯人らしいものは一つも」
「一つも? しかし、犯人は当然ここへ何度も来ているはずだろう」
「|拭《ふ》きとってあるんです。徹底的に」
と安西は言った。「ドア、戸棚、テーブル、|椅《い》|子《す》の背に至るまで、きれいなもんですよ」
「ふーん。すると計画的犯行か」
「冷静な犯人ですよ。どこも見落としていない」
と、安西は首を振って、「見て下さい。そのTVのリモコン。もちろん、このリモコンの指紋もふきとってありましたが、中の乾電池まで抜いて行ってるんです。|凄《すご》いと思いませんか」
村内は、じっと考え込んでいたが、
「|手《て》|強《ごわ》い犯人を相手にしているようだな」
と、言った。「協力して、犯人を見付けたいものだね」
安西の目は、冷ややかに村内を見つめた。
「上がどう考えても、関係ありません。村内さん。あなたと組む気はない。何をしようと勝手ですが、僕の邪魔はしないで下さい。いつかのようにね[#「いつかのようにね」に傍点]」
安西は、立ち上って、出て行く。
村内は、無表情のまま安西の言葉を聞いていたが、一人になると、ゆっくり居間の中を歩き回り始めた。
くわえたパイプが、細かく揺れていた……。
「忠男君!」
若々しい声が飛んで来て、山上は一瞬、自分が何十年か昔に戻ったような錯覚に陥ってしまった。
レストランの入口で、ちょうど入りかけたところだった。
彼女[#「彼女」に傍点]は、エレベーターホールから駆けて来た。
「今、来たの? 私、ちょっと迷っちゃって――」
と言いかけて、「あ、ごめんなさい。お久しぶりです」
頭をさげる倉林美沙に、山上は笑ってしまった。
「まあ、そんなこといいから、ともかく入ろう」
と、促す。「ちっとも変ってないじゃないか。太ったおばさんなんて言うから」
「あら、太ったのよ、これでも。あなたの方は――」
ちょうど二人は、出て行こうとする、巨大な|体《たい》|躯《く》の女性とすれ違った。「太ったおばさん」という山上の言葉が耳に入っていたのか、すれ違いざま、ジロッと二人をにらんで行く。
二人は顔を見合せ、一緒に笑い出した……。
――個室で、ランチをのんびりととる。
「ホッとしたよ」
と、山上は言った。
「あら、どうして?」
「もっとやつれてるかと思った。困ってる、ってことだったからね。しかし、元気そうだ」
「元気でなきゃ。一郎がいるもの」
「一郎君か。そうだった。いくつ?」
「今、十二歳」
「小学生か」
「六年よ。来年は中学。この十一月には受験を控えてるの。私立のね」
――倉林美沙は、少しも[#「少しも」に傍点]変っていなかった。
もちろん、年月の分、年齢はとっているが、その本質のところで何も変っていない。
ゆうべ、津田とその妻を見たばかりの山上には、そんな美沙の姿は、ホッとするものだった。
美沙も、津田のことはよく知っている。しかし、今日はやめよう、と思った。この席に津田の話を持ち出したくない。
せっかく明るいムードなのだ。それに、今日は、彼女の方の話を聞くのが目的である。
「――あなたは独立して、うまくやってるわね」
と、美沙は言った。
「今のところはね」
と、山上は肯いた。
しかし、美沙も、着ているものなど、充分に高価である。それも、少しも無理をしていない。
「ご主人はどうして……」
「事故。車でね。――でも、相手が一方的に悪かったから、補償金は充分にもらえたわ」
「しかし、亡くなった人は帰って来ないからね」
と、山上は言った。
「あなたのとこ、娘さんだっけ」
と、美沙が言った。
あまり夫のことは話したくないようだ、と山上は察した。
――食事もメインが終り、デザートが出て来た。
「ところで……」
と、山上は切り出した。「電話で言ってたことだけど。何だい、困ってることって」
「うん……」
美沙は、ちょっとためらいがちに目を伏せた。「あなたにこんなことお願いしてもね……。本当は、どうしようかって迷ったの。でも、久しぶりで会いたかったし。――会うだけでもいいか、と思って」
「話してみてくれよ。僕の力で何とかなることなら――」
「そうね」
美沙は、手早くデザートを食べ終えてしまうと、「今、私、恋人がいるの」
と言った。
「――そう」
何だか少し拍子抜けした気分で、「そりゃ良かった」
「ところが、その人が、ちょっと困ったことになっててね。あなたに相談にのってもらえないかと……」
「どんなことで?」
「その人の勤め先で、横領事件があって、今大騒ぎなの。彼は全然関係ないんだけど、警察は彼に目をつけているわ。もし、彼が逮捕されるようなことになれば……」
山上は、少し|眉《まゆ》を寄せて、
「待ってくれ。僕はただのコンサルタントで、弁護士じゃない。紹介してあげるくらいのことはできるけどね」
「そうじゃないの」
と、美沙は首を振って、「問題は女[#「女」に傍点]なの」
「女?」
「横領した重役の愛人で、私の恋人は、その重役に頼まれて、その女の住む所とか、色々細かいことを手配したの。その女が、横領事件の証拠になる帳面を預かってるはずなの」
「なるほど」
「でも、女は|怯《おび》えてて、一切口をつぐんでいるわ。その重役はもちろん、女のことなんか言い出さないし。――ね、山上さん。彼の代りに、その女に会って、帳面を警察へ渡すように説得してもらえないかしら」
山上は、しばし何とも言えなかった。
思ってもみない頼みである。――コーヒーの出て来るまでが、いくらか考える間を与えてくれた。
「しかし……どうして彼が行かないんだい?」
「彼が行ったら、その女をおどしたとも取られるでしょ」
と、美沙は言った。「それに今、彼の動きはずっと見張られてるの。動きがとれない状況なのよ。で、困って、私の所へ連絡して来たの。――でも、私にとてもそんな役はつとまらないし。それで、考えてる内に、ふっとあなたのこと、思い出して……」
「なるほど」
「ごめんなさい。本当に勝手ね、私って」
と、美沙は微笑んだ。「あなたのこと、振っといてね。とても、こんなこと、お願いできる柄じゃないんだけど……」
そこが君だ、と山上は心の中で言った。
自分本位で、わがままで、何でも自分の思い通りに行くと思っている女。
男が自分のために尽くしてくれて当り前と思っている女……。
しかし、美沙は魅力的だった。昔も今も、変らずに美しい。
いや、むしろ、かつての少しとげとげしい雰囲気が和らげられて、今、美沙は輝くような「女の|匂《にお》い」を発散していた。
「少し待ってくれないか」
と、山上は言った。「君の恋人の名前、勤め先を、書いてくれ」
手帳とボールペンを渡す。
「やってくれるの?」
「一応、その会社のことを調べてみる。それは僕の本業だからね」
「そうね」
美沙は、メモをして、山上へ渡すと、「これでいい?」
「ああ。――一日二日、待ってくれ。僕にできる仕事かどうか、考えてみる」
「当てにしてるの」
と、美沙は身をのり出した。
それは昔、何かというと山上をこき使ったころの、美沙とそっくりの仕草だった。
山上はちょっと笑って、
「君は相変らずだなあ」
と言った。
「そうね。――未亡人になって、何だか昔へ戻ったようよ」
そうかもしれない。
山上は、実のところ、美沙の頼みを断れないことは分っていた。
ただ――彼女の「恋人」のことを、知りたかったのである。
それは、山上の奥に、なおくすぶっていた灰をかきたて、小さな炎を、よみがえらせていた。
「――もう一杯、コーヒーはどう?」
山上は穏やかな表情で、そう言った。
4 秘 密
「また、その女の話ですか?」
と、不動産屋の男はうんざりしたように言った。
「仕事の邪魔になるようなら、閉めてからくるがね」
と、村内刑事は言った。
小さな、机一つの不動産屋である。経営者の名は栗山と言った。一日の内、三分の二は苦情を言っている、という顔つきをしている。
「だってね、その女のことはもう話しましたよ。若い刑事さんが来たときに。それで充分でしょ」
「安西刑事のことだね?」
と、村内は言った。「そりゃよく分ってるんだ」
「それなら――」
「しかし、人間、何回も同じことを話してる内に、今まで忘れていたことを、ポッと思い出したりするもんなのでね」
と、村内は淡々と言った。「今、まずければ何時ごろに来りゃいい?」
ちっとも「今、まずく」なんかないことは、栗山が週刊誌を読みかけていて、狭い店の中に、客の一人もいないのを見れば、|誰《だれ》の目にも明らかである。
忙しい、とはどう図々しい男でも言えないだろう。
「あれ以上、話すことはありませんよ」
と、栗山はため息をついて、「ねえ、刑事さん――」
「店を閉めるのは? そのころまた来ようか?」
と、村内は言った。「今日、都合が悪きゃ、明日来るがね」
栗山も、村内に引込むつもりがないことを悟ったらしい。
「分りましたよ。――どうぞ」
と、すっかりクッションの効かなくなったソファをすすめた。「お茶を出すにも、女の子が休みでね。無断で休んじゃ、そのまんま辞めたりする。大したもんですな、今の若い連中は」
「全くね。――こういう仕事は大変だろう。どんな客が来るか分らんし」
「そうなんですよ。|身《み》|許《もと》、身許ってうるさく言ってたら、客が逃げちまうしね」
「ま、迷惑だろうが、少し付合ってくれよ。水野智江子があのマンションを借りたのは一年前?」
「大体ね。一年と少し、かな」
「持主は?」
「外国にいるんです。仕事の関係でね。で、空けとくのももったいない、ってんで……。でも、あんなことになるんじゃ、空けといた方が良かった」
と、栗山は渋い顔で言った。
「持主は事件のことを知ってるのかね」
「ええ……。電話でガミガミ言われましたよ。何しろケチな|奴《やつ》でね。――ま、国際電話だったから、向うも長話したくなかったんで良かったですがね……。帰って来たら何て言われるか」
栗山は肩をすくめる。村内は、ゆっくりと足を組んで、
「あの部屋を契約したのは、本人だって?」
「そうですよ。あの刑事さんにも――」
「そりゃ分ってる」
と、村内は|肯《うなず》いた。「しかし、いずれにしても、男が水野智江子をあそこに囲っていたわけだ。その男と一度くらい、会うか話をするかしなかったのか?」
「別に。――必要ないですからね」
と、栗山は言った。「こっちは、毎月の家賃さえ、ちゃんと入れてもらえりゃ、文句はないんで」
「それはそうだろうね」
と、村内は言った。「あのマンションへ行ったことは?」
「もちろん、そりゃあ……。貸すときに、あの女を案内して――」
「いや、|訊《き》き方が悪かったな」
と、村内は笑った。「あの女に貸してからってことさ。訪ねて行ったことは?」
栗山が、少し考えながら、
「一、二度行きましたね。まあ、契約じゃいけないことになってるけど、結構部屋の中を勝手にいじくり回したりする奴もあるんですよ。一応確かめないとね」
「すると、入居して――どれくらい?」
「たぶん……。ひと月ぐらいして、じゃないかな。はっきりしませんが、大体いつもそれぐらいして、一応見に行きます」
「なるほど。大変だね、この仕事も」
と、村内は肯いた。「その後、訪ねて行ったことは? 他の用事で」
「さあ。――なかったと思いますね。家賃はいつもあっちが持って来たし」
「現金で」
「そうです」
「珍しいんじゃないかね」
「そうですね。でも、あの女は特別仕事もなさそうだったし」
と、栗山はちょっと意味ありげに笑った。
「察してただろ? 男がいるってことは」
「ええ、まあ……」
栗山は|曖《あい》|昧《まい》に、「でも、そいつが何してようと、こっちにゃ関係ありませんからね」
「それはそうだね」
村内は、一つ息をついて、「ま、何か役に立ちそうなことを思い出したら、知らせてくれよ。あの安西あてで構わん」
「ええ、そりゃもう」
栗山は、村内が立ち上るのを見て、腰を浮かした。
「そうそう。――この女、見たことないかね」
村内は写真を一枚とり出して、栗山に見せた。栗山はそれを手にとって眺めていたが、
「平凡な顔ですね。|見《み》|憶《おぼ》えないですが」
「そうか。ありがとう」
と、村内は写真をポケットへ戻し、「邪魔したね」
と、店の引き戸へ手をかけたが――。
「聞いてるだろ?」
と、村内は振り向いて、「あの女が、麻薬をやってたこと」
栗山がいやな顔になる。
「聞きました。持主が知ったら、また大騒ぎですよ。何とか耳に入らないように、祈ってるんですが」
「他にも祈ることがあるんじゃないのかね」
「え?」
「麻薬に使った注射器、ケースから、あの女のものじゃない指紋が出ている。――あんたのじゃないかね」
栗山は目を見開いて、
「とんでもない! 何で私がそんな――」
「調べりゃ分る。簡単なことだ」
と、村内は続けた。「あんたが今手にした写真に、しっかりあんたの指紋がついてる。うちの、『平凡な』女房の写真にね」
栗山の顔からサッと血の気がひく。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
村内は店の奥へ、栗山を追い詰めて行った。
「あ、あの……」
「薬をやってる女だ。金がいくらあっても足りるわけがない。家賃を払わなくなる。あんたが催促に行く。女としちゃ、体で払うしかない。そうだろ?」
「その……いや、とんでもない……」
栗山の顔に汗が光る。
「女と寝る。ついでに『ちょっと遊んでみようか』というわけで、薬にも手が出る。――そうだろう?」
村内の口調はほとんど変らないが、目つきが鋭く、射抜くようになっている。
栗山はドサッと古びた|椅《い》|子《す》に腰を落とした。すっかり血の気が|失《う》せている。
「話すんだね」
と、村内は言った。「殺しの容疑をかけられたくないだろ?」
「私はやってませんよ! 何もしてない! 本当だ!」
「何も[#「何も」に傍点]?」
――栗山は、ゆっくりと息を吐いて、それから頭をかかえた。
「あの女が……誘ったんだ。私は何も……何も……」
と、|呻《うめ》くような声が|洩《も》れる。
「分ったよ」
村内は、栗山の肩に手をかけると、「こっちは、あんたを麻薬で引張っても、何にもならない。目当ては殺しの犯人だ」
「私はやってない! 本当だ!」
と、栗山は村内にすがりつくようにして、「信じてくれ!」
「じゃ、話してもらおうか」
と、村内は言った。「あの子を囲っていた男のことを。――本当は知ってるんだ。そうだろう?」
栗山は、ゴクリとツバをのみ込んだ。
「それは……」
「言えない? ――いいかね。私はもう若くない。そう出世しようって野心もない。しかしね、あの安西ってのは若くて、色気たっぷりだ。あんたがあの女と寝てたと知ったら、大喜びでしょっ引くだろうね」
村内はやさしい声で言った。「あいつは厳しい。あんたはすぐ音を上げるよ」
栗山は、|怯《おび》えたような目で村内を見上げると、
「黙っててくれるんですか? ね、本当に?」
「あんた次第だ」
と、村内は言った。
栗山はクシャクシャのハンカチをとり出して、汗を|拭《ふ》いた。
「男は……初め、ここへ来ました」
と、少し震える声で言った。「女も一緒で――。金は即金。家賃も現金。その代り、女のことを誰かに訊かれても、絶対しゃべるな、と」
「口止め料を?」
「大した金じゃないが、もらいましたよ」
と、栗山は肯いた。「もちろん、こっちが文句をつける筋合のもんじゃない」
「どうして、女のことをしゃべるな、と頼んだのかな」
「さあ……。男の話じゃ、『この女にしつこくつきまとってる男がいるんで、捜しに来るかもしれないんだ』と言ってました」
「なるほど。で、その男のことだ。名前は?」
栗山は、手さげ金庫を開けると、その中をかき回し、メモ用紙をとり出した。
「これが――何か急な用事のあったときの、連絡先です」
メモ用紙に書いてあるのは、電話番号だけだった。
「名前は言わなかった。本当です。ただ――かなり立派な身なりでしたよ。紳士っていうのかね。表にゃベンツが|停《とま》ってた」
栗山は、肩をそびやかし、「|俺《おれ》が知ってるのはそんだけですよ」
「分った。これはもらっとく」
村内はメモをポケットへ入れた。
「刑事さん――」
「心配するな。あんたが殺してない限り、このことは黙っとくよ」
と、村内は言って、「ただ、あんたの指紋は、こっちの手の中にある。|下《へ》|手《た》に逃げたりしないことだ。――邪魔したね」
村内は、穏やかに言って、店を出た。
――栗山を一目見て、殺された水野智江子に「興味」を持ったに違いない、とにらんだのだ。その点、間違いはなかった。もちろん注射器のケースに指紋があった、というのは、はったりである。
村内は、これを安西へ教えたものかどうか少し迷ったが、しばらくは伏せておこう、と決めた。
安西を出し抜こうとしているわけではない。ただ、安西は若く、せっかちである。
こういう事件は、入り組んでいる。
愛したからこそ殺し、憎んだからといって、殺すとは限らない。男と女の間ほど、複雑なものはないのだ。
そう……。男と女[#「男と女」に傍点]。
苦いものが、こみ上げて来る。
俺だって、男と女のことを、どれくらい分っているか。
しかし、ともかく安西よりは分っているだろう。――安西は、きっとあの哀れな不動産屋を、すぐに引張って行き、犯人に仕立てあげかねない。
そうだ。黙っていよう。もう少し、何か|掴《つか》めるまで。
それから安西に話しても、遅くはない。
そう決めると、村内は歩き出した。――気持よく晴れた午後だった。
5 刃物の光
「所長」
草間頼子が声をかけた。「お電話が」
「今忙しい」
と、山上は言ったが、草間頼子だってそれはよく分っているはずだった。
来客と話をしている所へ、電話を取り次ぐことはめったにない。よほどの急用でない限りは。
「ちょっとお待ちを」
山上は客へそう言って、「こちらの項目を見ておいていただけますか」
と、付け加え、席を立った。
机に戻ると、
「|誰《だれ》から?」
と、頼子へ|訊《き》く。
「津田さんとおっしゃいました。女の方です。急用で、どうしても、と。切羽詰ったような声で」
津田? ――この間のパーティで|酔《よ》い|潰《つぶ》れた津田のことか? 女、ということは、あの女房の郁代だろうか。
ともかく出ないわけにもいくまい。
「――もしもし」
と、声を出すと、
「山上さん? 津田郁代です」
と、とり乱した感じの声。
「やあ、どうも」
「お願い、何とかして下さい! 主人が……。主人が……」
津田郁代が泣き出した。
草間頼子の方へ目をやると、頼子も親子電話で、話を聞いている。
「もしもし。――奥さん、落ちついて! どうしたんです? 津田の|奴《やつ》が何か――」
「刃物を持って出たんです」
と、涙まじりの声で言う。
「何ですって? 刃物?」
「ナイフが――登山ナイフが、なくなってるんです。台所の引出しに入ってたのに……。主人は――」
「待って下さい。それを津田が持ち出したと? しかし、何のために?」
「主人、あの人[#「あの人」に傍点]の所へ行ったんです」
「あの人、とは?」
「医者[#「医者」に傍点]です。――体の調子が、どうも良くないと言って……。主人を|診《み》ているのも、あの人[#「あの人」に傍点]です」
「つまり――奥さんの恋人の」
「ええ。電話で予約を入れて、出て行きました。でも、その後で気が付いたんです! ナイフがなくなってる……。山上さん、お願いです。主人を止めて」
津田郁代は泣き出してしまった。
山上は困惑した。――ヒステリックになっている郁代を、どうしたら落ちつかせられるか、見当もつかない。
草間頼子が、送話口を押えて、山上の方へ言った。
「私が代ります」
「君が?」
「事情は分りましたから」
早口に言って、「もしもし、奥さん。しっかりして下さい! 私は山上の秘書です。いいですね。これから訊くことに返事をして下さい。そのお医者さんのいる病院は? ――もっと大きな声で! 聞こえませんよ!」
頼子は|叱《しか》りつけるように言った。
「――はい。お医者さんの名前は? ――何科ですか? ――ご主人が家を出たのは? ――予約は何時ですか?」
頼子の右手はメモ用紙の上で猛烈なスピードで動いている。「――で、どうなさりたいんですか? 病院へ電話して、ご主人に会わないように言いますか」
山上は、頼子のきびきびした話し方に、すっかり舌を巻いていた。
自分では、とてもああはいくまい。山上は、頼子がいかにも事務的な調子で、話を続けるのを聞いていた。
「――分りました。ともかく、何か手を打ってみますわ。あ、それからご主人が病院に着くのは、何時ごろか見当がつきますか? ――分りました。落ちついて、待っていて下さい。――そちらの電話番号は? ――お宅のです。――はい。それでは、後で連絡します」
頼子は電話を切った。
「やれやれ、すまんね」
「病院、このすぐ近くですね」
と、頼子は言った。「電話してもいいですけど、どうしますか」
「うん……。困ったな」
と、山上は頭をかいた。「そんなことで相談を持ち込まれても……」
「私、行って来ましょうか」
「君が?」
「そのお医者さんは、津田という人を知っているわけですし、自分が奥さんと浮気しているんですから、話は簡単でしょう」
「うん。まあ、そりゃ確かだ」
と、山上は|肯《うなず》いて、「じゃ、悪いけど、行ってくれるか」
「できることなら、警察|沙《ざ》|汰《た》にならない方がよろしいんでしょう?」
「そうだな」
山上は、あのやつれ切った津田の顔を思い出していた。「たぶん、一時的にわけが分らなくなったんだと思うよ。たぶん、落ちつけば――」
「分りました」
頼子は手早く出かける仕度をして、「お任せ下さい。所長はお客様のお相手を」
「ありがとう。頼む」
山上は正直、ホッとしていた。
こんな場合は、むしろ第三者の頼子の方がうまく対処できるかもしれない。
頼子が急ぎ足で出て行き、山上は客の所へ戻ると、
「失礼しました。それで、決算の面から見ますと――」
と、口を開いた。
ポケットベルが鳴った。
中代は、舌打ちして、
「止めとくのを忘れたぞ。――うるさい、こいつ!」
と手を伸し、|上《うわ》|衣《ぎ》のポケットベルを止めてしまった。「これでよし、と。もう邪魔は入らない」
中代の下になった若い女がクスクス笑っている。
「何だ? 何かおかしいか」
と、中代は言った。
|禿《は》げ上った額が汗で光っている。――いささか下品なほどの派手な装飾のホテルの一室で、中代医師は、自分の患者の一人である、若いOLを抱いているところだった。
「だって……」
と、女は笑いをやっと抑えると、「お医者さんでしょ?」
「ああ。だから、いつも持って歩かなきゃならないのさ」
「でも、鳴っても止めるだけじゃ、役に立たないじゃないの」
「構うもんか。病院に医者は一人じゃない」
「でも、担当の患者が、急に危篤になったのかもしれないわ」
「天の定めだよ、そうなったら」
「こんなことしてるのも、天の定め?」
「もちろん」
中代は、女の豊かな胸に顔を|埋《うず》めた。女の方も、もちろん本気で中代に「意見」しているわけではない。
「ひどいお医者さんね」
と笑う。
「君の専属の医師さ、今はね」
「じゃ、どこを治してくれるの?」
「君の寂しさをいやしてやる」
「そうやって、何人も患者の女性を引っかけてるんでしょう」
と、女は言って、中代を抱きしめる。
――中代は、一応予約の時間をちゃんと頭に入れて、ホテルに入っていた。
そうだ、あの女の亭主が来ることになってたな。
「体調が悪くて……」
か……。
今のご時世、誰だって、どこかしら悪いところを抱えている。ああいう気の弱い男が、まず胃をやられ、次いで神経をやられるのだ。
正直なところ――中代は飽きていた。いや、夫の方にではなく、女房の、津田郁代の方に、である。
確かに、あの夫では、他の男へ走りたくなる気持も分る。どこか|可《か》|愛《わい》いところのある女で、中代にすがりつくようにして、助け[#「助け」に傍点]を求めて来た。
その郁代を、慰め、喜ばせてやるのは、それなりに楽しかった。しかし――今は、すっかり変ってしまった。
中代との仲に安心し切ってしまったのか、もろに疲れを見せるようになったのだ。それでは中代の方は少しも楽しくない。
楽しくない「浮気」なんか、何の意味もないだろう。
そろそろあの女とも手を切るころだな、と中代は思っていた。今日、あの男が来たら、うまいこと言って、担当を代えよう。それをきっかけに逃げてしまえばいい。
今でも、少し深入りしすぎたかな、と中代は気にしていた……。
「ちょっと! 何を考えてるのよ」
と、女が文句を言った。「どうせ、他の誰かさんのことでしょ」
「そんなことないさ。落ちつけよ」
と、中代は笑って言った。
――病院から車で五分のホテル。
大丈夫。時間はある。中代はその女にのめり込んで行った……。
「――ポケットベルで呼んでいるんですけど、連絡がありません」
と、看護婦が言った。
「そうですか」
草間頼子は肯いた。「午後、診察の予約が入っていますね」
「ええ。ですから、二時には戻られるはずです」
「分りました。待たせていただきます」
と、頼子は言って、待合室の|長《なが》|椅《い》|子《す》の方へ歩いて行った。
頼子の話を聞いていたらしい、入院患者の女性がフラッとスリッパの音をたてて、やって来た。
「中代先生を待ってんの?」
と、頼子に声をかける。
「ええ。急用で」
「そう」
と、その患者はクスッと笑って、「あんたも『その口』の一人?」
「何のことでしょう?」
「中代先生の患者?」
「いいえ。お会いしたこともありません」
と、頼子は首を振った。
「それじゃ、違うのね。――中代先生、今ごろは患者の誰かとお楽しみの最中よ」
「は?」
「有名なの。患者の女性に手を出すので。もちろん、ちょっとした胃炎とか、そんな人ばっかりだけどね」
「はあ……」
「今はね、二十五、六のOLってことよ。もう半年くらい続いてるらしいわ」
「そうですか」
「もう一方で、どこかの奥さんにも手を出してて、こっちはそろそろ飽きるころ、って専らの|噂《うわさ》。大したもんよね、全く」
「そうですね……」
頼子は|呆《あき》れたように言った。
「きっと今ごろはこの近くのホテルでしょ。車で行くと、すぐその手の[#「その手の」に傍点]ホテルが並んでるから。でも、大丈夫。ちゃんと午後の診療には戻るから。上がやかましいからね」
長い入院患者なのだろう。その手の話には精通しているらしい。
頼子は、その患者が行ってしまうと、ちょっと腕時計を見て、足早に公衆電話をかけにいった。
「――もしもし」
「やあ、草間君か」
山上がすぐに出た。「どうだった?」
「それが、肝心の中代っていう医者がいないんです」
「いない? でも、津田が予約を入れてるんだろ」
「ええ。お昼休みにお出かけのようで」
頼子が、今、患者から聞いた話を伝えると、
「何て奴だ」
と、山上は呆れた様子で、「じゃ、津田の奥さんも……」
「もうじき捨てられるんじゃないでしょうか」
「やれやれ。――君、それじゃ、医者が戻るまで待っててくれるかい?」
「はい。そのために来たんですから」
「よろしく頼む。悪いね」
「いいえ。特別手当をつけて下さい」
「そうだな。夕飯でもおごろうか。君の好きな店で」
「お昼で結構ですわ。夜は約束が目白押しでして」
と、頼子は言った。「では、後でまたご連絡します」
頼子が電話を切って、長椅子へ戻って行く。
――公衆電話のすぐわきで、壁にもたれて津田が立っていたのは、全くの偶然だった。
少し早く来すぎたので、どうしたものか、迷っていたのである。
あまり、看護婦などに見られたくもなかったので、電話の並んだコーナーの隅に立っていた。そして、偶然、頼子の話を聞くことになったのである。
――山上か。
今の女は、はっきり向うの名前を呼ばなかったが、たぶん山上の下で働いている女だろう。
妻の郁代が、ナイフのことに気付いたのだ。そして山上へ電話する。やりそうなことだ。
津田は、そっと上着の上から、内ポケットを押えた。固いものが胸に当る。
それは津田をずいぶん心強くさせた。
妙なものだ。――人間は、こんな刃物一つで、|逞《たくま》しくなったような錯覚に陥るのか。
他の男はいざ知らず、津田は自分が暴力的なタイプだと思ったことなど一度もなかった。しかし今、こうして刃物を懐に、あの医者がやって来るのを待っていると、久しく味わったことのない感情――力の|漲《みなぎ》った喜びの熱さを、覚えるのだ。
あの医者が郁代を抱いていることは知っていた。――しかし、今の女の話では、郁代もそろそろ捨てられることになっているらしい……。
そうだ。あんな奴は殺したっていい。どうせ、こっちも長いことはないのだ。
津田は、いつになく気分が良かった。
この分なら長生きできるかもしれないな、などと考えて、津田は一人で含み笑いをした……。
まだ、少し時間がある。
こっちの顔を|憶《おぼ》えている看護婦もいるだろう。――どこかに隠れていた方が良さそうだ。
津田は、そっと周囲を見回した……。
6 切りつける
〈三神貞男。三十歳〉
「三十歳だって?」
山上は思わず声を出してしまった。
「そうです」
面白くもなさそうな顔で、目の前に座った男は言った。「三十歳。間違いありません。それが何か?」
「いや……。ただ、こんなに若いとは思わなかったんでね」
と、山上は言った。「そうか。――じゃ確かに、この会社は大騒ぎになってるんだね」
「そうです」
と、灰色がかった服装の、パッとしない中年男は言った。「どうやら、問題は創立者で社長というのがいるんですが、その息子が、どうにもならん|奴《やつ》で……」
「じゃ、その息子が金を使い込んだ?」
「おそらく、そうだろうという|噂《うわさ》です」
――山上は、頼子が病院へ行っている間に、〈情報屋〉の訪問を受けていた。
財界や、企業の表裏に通じていて、どんな情報でも、「注文」に応じて集めてくる。
もちろん正規の職業ではないが、あらゆる場所にコネを持っており、普通では絶対に入手できない情報も、聞くことができるのである。
山上も、ちょくちょくこの男を利用することがあった。安くはないが、それだけの値打は充分にある男だ。
「横領した重役というのは――」
「その社長の息子にべったりの男で、それが証拠隠しに駆け回っているようです」
「すると、愛人というのは?」
「そこに書いてある女ですが……。お話のように、その女の所に証拠書類があるかどうかまでは分りません」
「それは当然だ。――いや、ありがとう」
と、山上は言った。「いくらだね?」
「請求書を送ります。――他に何か?」
「うん……」
山上は、ちょっと迷った。
その山上の気持を読んだように、
「三神という男について、調べますか」
と、〈情報屋〉は言った。
「うむ……。そうだね。何か特別なことがあれば――。何日かかる?」
「実は下調べはすんでいるので」
と、こともなげに、「明日にはお届けに上ります」
山上は苦笑して、
「分った。じゃ、頼むよ」
と言った。
〈情報屋〉は、「失礼します」とも言わずに出て行った。
山上は、もう一度、資料を見直した。
仕事は色々残っているが、とりあえず、病院の方がどうなるか、落ちつかない。今から行ってみようかとも思ったが……。
三神貞男という男のことを知りたいという気持に勝てなかった自分が、少し情ない。
いくら初恋の人とはいえ、倉林美沙は、もう十二歳の子供の母親なのだ。そして自分には秀子という妻がいる。
特別情熱的とは言えないが、申し分のない妻である。山上は、秀子を悲しませるようなことはしたくないと思っていた。
たとえ、倉林美沙に言い寄られても――退けられるか? 本当に?
山上は、ため息をついた。
四十二歳の美沙が、三十歳の男を恋人にしている。一回りも年下!
山上は、美沙が昔とちっとも変っていないことに、半ば|呆《あき》れ、半ばホッとしていた。
「さて、と……」
問題の、美沙からの依頼だ。
この女に会って、横領の証拠になる帳面を、警察へ渡すように説得する。
そんなことができるだろうか? 山上にとっては、「専門外」の仕事である。
女に何を保証してやれるか、そこにかかっている。――その点は山上にも分っていた。
こんな事件は危い。企業のスキャンダルは、暴力団にとって、正に「えじき」である。
|表沙汰《おもてざた》にされたくなかったら、金を出せ。
いくつの企業が、その脅しに屈して来ただろう。山上も、当然そんな例をいくつも見て来た。
コンサルタントとしては、
「断固拒否しなさい」
と言うしかない。
しかし、最終的な決断は、その企業のトップがすることで、山上には何の権限もないのである。
――この一件は、今のところまだ暴力団から目をつけられてはいないようだ。しかし、それも時間の問題だろう。長引けば、必ずヤクザの影が見えて来る。
仕方ない……。
倉林美沙の頼みを断ることはできない。それなら、何とか、彼女の望みを|叶《かな》える手を捜すことだ。
金か? しかし、女一人、どこか遠くへやって、暮して行けるだけの金といったら、相当のものだ。山上はもちろん、美沙や、この三神という男にも、とても用意できまい。
この女の弱味をつかむか。
脅迫はいやだが、役には立つ。
ともかく、話をつけるなら、一度でやってしまうことだ。
相手が|誰《だれ》かに助けを求めたり、考え直したりする余裕を与えず、言われた通りなるしかない、と思わせてしまうこと。
それが、唯一の方法だろう。
――電話が鳴った。
「はい。――やあ、草間君、どうした? ――何だって?」
思わず、山上は立ち上っていた。
それは中代医師自身の責任だった。
いや、原因を作った、というだけでなく、外から帰って来るときに、わざわざ裏口から入り、非常階段を使って、フロアへ戻って来たのである。
そのために、廊下で待っていた草間頼子の目には全く入らなかった。
中代は、レントゲン室を通り抜けて、自分の診察室へ入ったのである。
パッと白衣を着て、時計を見ると、津田の予約時間を十分過ぎていた。
「やれやれ」
と、|呟《つぶや》く。
コーヒーの一杯でも飲んでからにしたいところだが、まあ、そうもいくまい。
看護婦が入って来て、
「あ、先生、戻られてたんですか」
と、目を丸くする。
「ああ、そうだよ」
当然という表情で、「津田さんが来てるだろ?」
「ええ」
「じゃ、入れてくれ」
看護婦は交替したばかりだった。――頼子が中代の現われるのを待っていることなど、知る由もない。
「津田さん、どうぞ」
と、廊下に声が響いて、頼子はハッと立ち上った。
すると、別の科の入口で座っていた男が、立ち上って、ほとんど走るように、診察室の中へ――。
「危い!」
と、頼子は叫んだ。
「何するんだ!」
と、大声がした。「助けてくれ!」
「キャーッ!」
看護婦が飛び出して来る。頼子は入れかわりに飛び込んだ。
津田が、ナイフを振りかざし、白衣の男を追い回している。
「やめろ! 何だっていうんだ!」
医師の方は息を切らして、足がもつれていた。
津田の方も、診察室の中には物が多いので、邪魔されて、なかなか近付けない。
「こいつ! 女房の分もだ!」
津田が切りつける。
「ワッ!」
と、机の上にのけぞって、中代が腕から血をほとばしらせた。
「痛い! おい、やめてくれ!」
「麻酔でもかけるか?」
と言って、津田は笑った。「このヘボ医者め!」
ガーン、と音がした。
頼子が、置いてあった、スチールの折りたたみ|椅《い》|子《す》で、津田を殴ったのである。
津田は、一瞬ポカンとして突っ立っていたが――やがてドタッと床に倒れた。
「――ありがとう」
と、真青になった中代が言った。
「ご自分も反省なさることですね」
と、頼子が言った。
そこへ、ドタドタと若い医師が何人か駆けつけて来たのである……。
「――申しわけありません」
と、頼子は言った。「防ぐことができなくて」
「いや、仕方ないよ」
と、山上は言った。
連絡を受けて、病院へ飛んで来たのである。
「津田は?」
「あの部屋です」
と、ドアの一つを指して、「ここのガードマンが見ています」
「そうか。――医師の方は?」
「けがをしたので、手当を……。ああ、あの人です」
中代医師が、右腕に包帯をグルグル巻いてやって来る。苦虫をかみつぶしたような顔つきだった。
「――失礼」
と、山上は声をかけた。「中代先生ですね?」
「そうですが……」
「私は津田夫妻の友人で、山上と申しますが」
名刺を見て、中代はちょっとびっくりした様子だった。
「あの[#「あの」に傍点]山上さん? TVで見てますよ」
「どうも。――実は津田のことなんですが……」
「お友だちですか」
「古い友人でして。アルコールに大分|溺《おぼ》れていましてね。それに、奥さんが誰かと浮気していると……。いや、きっと思い過しだと思うんですが」
「はあ」
中代は|咳《せき》|払《ばら》いして、「いや、全く、同情の余地はあります」
「ありがとうごさいます。そう言っていただくと……。しかし、何といっても、刃物を振り回して、先生を傷つけたのですからね。やはり警察へ知らせなくては。当人にはよく言ってやります。もし、何かご希望があれば――」
「ああ、いや――」
と、中代はあわてて、「何といっても、酔って、錯乱状態だったわけですからな。これはわざわざ警察に届けるようなことでもないでしょう」
「いや、しかしそうは行きません」
と、山上は首を振って、「ちゃんと罪は償わせなくては。当人のためにもなりません」
「それほどのけがでもないし……。ま、反省してくれれば充分ですよ」
と、中代は早口に言って、「その代り、今後は別の病院で治療を受けるように言って下さい」
「それでよろしいんですか? せめて治療費なりと――」
「いや、私はここで治療しますからタダです! ご心配なく。あの男を連れて帰って下さい」
「では……。本当に? それはありがとうございます」
山上はオーバーに頭を下げた。
「いやいや。――じゃ、忙しいので、これで失礼」
中代医師は、あわてて行ってしまった。
そばで聞いていた頼子が、笑いをかみ殺して、
「お上手ですこと!」
と言った。
「世話の焼ける奴だ」
と、山上は言って、フーッと息をついたのだった……。
「何とお礼を言っていいか……」
と、津田郁代が頭を下げた。
「いや。しかし良かった」
山上は、居間のソファで、言った。「今は鎮静剤で眠ってるでしょう。起きたら、よく言い聞かせて下さい」
「はい」
郁代は顔を伏せて、「私も馬鹿でした」
「あの中代という医師、何人も、患者に手を出しているとか。――奥さんも、もう一回、津田とやり直して下さい」
「はい」
と、郁代は|肯《うなず》いた。「お忙しいところを、本当に……」
「じゃ、もう僕は失礼します」
と、山上は腰を上げた。
病院から、津田を自宅まで送って来たのである。放っておくわけにもいかなかった。
玄関で靴をはいていると、
「山上さん」
と、郁代が言った。「ナイフは[#「ナイフは」に傍点]……」
「え?」
「主人が持って行ったナイフですけど」
「ああ。――そうか。どこだろう? たぶん病院でしょう。捨てられたかもしれないな」
と、山上は言った。
「それならいいんです。――心配だったものですから」
「じゃ、失礼」
「わざわざどうも……」
山上は外へ出て、息をついた。
やれやれ……。妙な一日だよ、全く。
山上は首を振って、歩き出した。
7 声をかけた女
「バイバイ!」
山上エリは、手を振って、友だちと別れた。
――エリは、都内の私立中学へ通っていた。
女の子一人なので、というわけでもあるまいが、学校は共学。
「女子校では男を見る目が育たない」
と、山上が主張した(?)のである。
それに、確かにエリの方も、男女いた方が、にぎやかで好きだ。
小学生くらいだと、男の子と女の子はケンカばっかりしているが、中学二年生の十四歳、今のエリくらいの年齢になると、男子と女子の間は微妙に変って来るのだ。
エリは、ブレザーの制服に|鞄《かばん》をさげて、歩いていた。――同じ方向へ帰る子が少ないので、つまらない。
いないことはないのだが、クラブが違っていたりすると、帰りの時間もまちまちなのである。
エリは、活発な少女だった。
いつも母親の秀子から、
「あんたはどっちに似たのかしらね」
と言われている。
「私は私よ」
最近はそう言い返すことも|憶《おぼ》えたエリであった。
パパは忙しくて、あまり家にまともには帰って来ないが、休みはまとめてドカッととって、付合ってくれるし、ママはおとなしい性格なので、エリのことは何でもやってくれる。
エリとしては、パパが結構有名で、TVに出たりもするし、特に両親に不満はなかった……。
これで学校にテストってものがなけりゃ、申し分のない人生なんだけどね。
「ちょっと」
と、女の人の声がした。
エリは二、三歩行ってから立ち止った。自分以外に、周囲には呼びかけられる相手はいなかったのである。
「はい」
振り返ったエリは、女の人が一人、歩み寄って来るのを見た。――何となく、奇妙な感じの人だ。
季節外れに長いコート。スッポリと足首あたりまで隠れている。
そして手袋。帽子。――この帽子が、また大きくて、顔をスッポリと隠している。そうなるように、少し前へ傾けてかぶっているのだろう。
でも、何のために?
エリも、見知らぬ人に用心するだけの心構えは充分に持っている。
「何ですか」
少し怖い顔で、エリは言った。
「山上エリさんね」
と、その女は言った。
一瞬、エリはどう答えようかと思った。返事をしなくても良かったのだが、そこは子供で、|嘘《うそ》をつくのは、ついためらってしまう。
「――そうです」
と、少し間を置いて、言う。
「心配しないで。怪しい者じゃないわ」
と、女は少し笑みを含んだ声で言った。
「あの……」
「お母さんのこと、好き?」
唐突な問いに、エリは戸惑った。
「――ええ」
「そうでしょうね。でも――」
と、女は言いかけて、「やさしくしてくれる?」
「あの……どなたですか」
と、エリは言った。「学校で禁じられてるんですけど。知らない人と口をきくのは」
「知らない人、ね……」
と、その女は|呟《つぶや》くように言って、「ごめんなさい、邪魔したわね」
と、|肯《うなず》いて見せ、
「もう行ってちょうだい」
エリは、ちょっと会釈して、歩き出す。
そして――数歩行くと、女が、
「エリ[#「エリ」に傍点]!」
と、呼びかけたのである。
びっくりして振り向く。女は、パッと背を向けると、タタッと駆けて行ってしまった……。
エリ? ――エリ[#「エリ」に傍点]だって?
あんな呼び方……。どうして「見も知らない人」がするんだろう?
エリは、たちまちその女の人が見えなくなってしまっても、しばらくの間、ぼんやりとその場に立ったままだった。
「――大変だったのね」
と、秀子が言った。
「全くさ」
と、山上はため息をつく。「いくら古い友だちと言ってもな」
「でも、おかげで早く帰って来られたわけね?」
と、秀子は笑った。
「ああ」
山上はソファに背広のままぐったりと座ると、「もうすっかりくたびれて……。津田の|奴《やつ》を送ってくだけでひと苦労さ」
「でも、困ったわ」
と、秀子は少し困惑した様子。「何も用意してない。だって、あなた、今日は外で食べて来ると思ってたから」
「今日も[#「今日も」に傍点]、でしょ」
と、居間をエリが|覗《のぞ》く。
「何だ、帰ってたのか」
「当り前よ。パパみたいに夜遊びしないんだもん」
「何だ、その言い方は」
山上は文句を言いつつ、笑っている。「どうだ。何か食べに行くか、三人で」
「うん!」
と、エリが返事をした。
「でも……どこへ?」
と、秀子はちょっと落ちつかない様子。
「どこか――。そうだな、よく接待で行くイタリアンなんかどうだ?」
「いいね」
と、エリが山上の肩へ手をかける。「行こう! じゃ、着がえてくる!」
「ちょっと、エリ!」
と、秀子が呼んだときには、もう二階へ駆け上っている。
「いいじゃないか、たまには」
「でも……。何を着てけばいい?」
秀子は、あまり外へ出たがらないので、つい手間どってしまう。
「何でもいいさ。裸でなきゃ」
「いやね」
と、秀子は赤くなって、夫をにらんだ。
それからの三十分間、秀子の服を選ぶエリの声が、甲高く家の中に響いていたのである……。
「――すてきなお店」
と、秀子は、ホッとしたように言った。「もっと騒がしいのかと思ったわ」
「ママって変ってるね」
「どうして?」
「普通、こういう所の方が『堅苦しい』っていうんだよ」
どっちが親か分らないようである。
実際、イタリアンレストランにしては、静かで、インテリアも落ちついている。
客は結構入っているのだが、静かで、大声でしゃべるということはないようだった。
「新しい店なんだ。――さて、何にするかな」
と、山上はメニューを広げる。
「お腹空いた」
と、エリが言った。
「いくらでも食べろ」
と、山上は言った。「スパゲッティを沢山食べると、安く上る」
「ケチ」
と、エリは言ってやった。
オーダーをすませ、前菜が出て来ると、三人は食べ始めた。一口で食べられる、あったかいカナッペのようなもの。
「おいしい」
と、エリは言った。
「そうだろ? 日本人向けの味にしてあるからな」
山上も、外食の機会が多いし、いい店をずいぶん回っている。もちろん毎日フランス料理、イタリア料理では参ってしまうが。
「――ロマンチックだね」
と、エリは言った。「私、邪魔?」
「馬鹿なこと言わないで」
と、秀子は苦笑した。
「今日ね――」
「え? 何?」
エリは少し間を置いて、
「何でもない」
と、言った。
「変な子ね」
――エリ[#「エリ」に傍点]、とあの女の人は呼んだ。
あの呼び方は、「我が子」を呼ぶときのものだ。
エリにも、それくらいのことは分る。
あの女の人が言おうとしたのは……。
「――まあ、忠男さんじゃない!」
元気な声がした。
山上はびっくりして、
「君……」
倉林美沙が、やって来た。
「驚いた! ご家族で?」
「うん……」
「すてきね。――あ、ごめんなさい、お邪魔して」
と、美沙は屈託がない。
「昔の――学生のころの友人で、倉林美沙さん。――家内の秀子と、娘のエリだ」
「こんばんは」
と、美沙はエリに|微《ほほ》|笑《え》みかけた。
「君――一人?」
「ううん。一郎は母の所。連れが……。あ、こっち」
と、美沙が手招きして、やって来たのは――。
これが三神か、と山上は思った。
「三神さん。目下の恋人。いつまで続くかしらね」
と、美沙は笑って、「じゃあ、山上さん。例の件、よろしく」
「今、調査中」
と、山上は答えた。
三神はスラリと長身で、スポーツマンタイプである。しかし、顔立ちは若い。少し「坊っちゃん」という印象。
「――どなた?」
と、秀子がすっかり|呆《あっ》|気《け》にとられた様子で言った。
「パパの昔の恋人?」
と、エリが|訊《き》いた。
「友だちだ。――仕事をちょっと頼まれててね」
「独身なの?」
「未亡人。子どもが十二歳かな」
「そう。でも、あの三神さんとかいう人……若いわね」
「三十」
「――やる!」
と、エリが言った。
「お前は黙ってろ」
と、山上が言った。
食事が進む。――もちろん、テーブルは楽しく、にぎやかで、山上もワインで少し酔った。
しかし……時として、あの美沙の独特の、よく通る甲高い声を聞くと、ハッとするのだった。つい、そっちへ耳を向けている自分に気付く。
山上は化粧室へ立った。
少しほてった顔を洗って、スッキリさせると、化粧室を出た。
「あら」
隣の女子化粧室から、美沙が出て来た。
「大分ご機嫌だね」
「そうよ。人生、楽しまなくちゃ」
「君らしいよ」
と、山上は言って、「しかし、若いね。結婚するつもり?」
「そんなこと……。分らないわ」
と、美沙は肩をすくめ、「こっちには一郎がいる。いやがってるわ、三神と付合ってるのを」
母親らしいことを言い出すのがおかしい。
「君は好きにやる主義だろ、何ごとも」
「でもね……。子供の気持は――」
と言いかけて、「ね、例のこと、急いでね」
「うん。明日でも、あの女に会いに行く」
「|嬉《うれ》しい! さすがに山上さん――いえ、忠男さん」
そう言うなり、美沙は山上の|頬《ほお》にチュッとキスをした。
「おい! よせよ」
あわててハンカチで口紅を|拭《ふ》く。
「フフ……。大丈夫よ」
「大丈夫じゃないよ」
と、山上はゴシゴシこすって、「まだついてる?」
「もう何も」
と、美沙は言って、「――ね、山上さん」
「うん?」
「今度――二人で夜、会わない?」
「夜?」
「そう。紹介したい人がいるの」
「|誰《だれ》だい?」
「それは会ってのお楽しみ。じゃあね」
と行きかけ、「奥さん、|可《か》|愛《わい》いわ」
と言って、ウインクして見せる。
山上は、ふと我にもあらず、胸がときめくのを覚えたのだった……。
8 愛 人
「いやです」
と、女は言った。「お帰りになって」
顔を合せるなり、いきなりそう言われたのは初めてのことだ。
山上は、少し面食らって、
「いやと言われても――。何の話か分ってるんですか」
「もちろんです」
女は、まるで永年の敵に出くわしたかのような目つきで山上を見ていた。「絶対に私、別れません! 帰って!」
――女の名は大友久仁子。
二十七歳という年齢は、その少し疲れた表情から察せられない。三十は過ぎているように見える。
山上は、少し意外な気がしていた。
重役の愛人、というイメージからはほど遠い。地味な、ごく当り前にエプロンをして台所に立つのが似合っている感じの女である。
大友久仁子は、玄関の上り口にじっと身じろぎもせずに立って、
「お帰り下さい」
と、くり返した。「いくら言われてもむだです」
「――待って下さい」
山上は、ワンクッション置くように、|微《ほほ》|笑《え》んで見せたが、女の方は全く表情を変えなかった。
「どうも誤解があるような気がするんですがね」
山上は、マンション――といっても、かなり古いもので、大分ガタが来ていそうだ――の、大友久仁子の部屋をすぐに見付けた。
倉林美沙に頼まれた用事を果しに、やって来たのである。――美沙の恋人、三神の上司に当る、永田という重役の愛人が、この大友久仁子なのだ。
「誤解?」
と、女はいぶかしげに、「あなた、何の用で来たの?」
「話し合いにです」
と、山上は言って、相手が何か言い返しかけると、急いで続けた。「しかし、あなたに、永田さんと別れろと言いに来たわけじゃありません。本当です」
大友久仁子は、半信半疑の様子で――というより、ほとんどまるきり山上を信じていない様子でしばらく迷っていたが、ドアの外の廊下を、足音が通って行くと、あんまり玄関でもめているのは良くないと思い直したらしい。
「上って下さい」
と、投げつけるような口調で言うと、スリッパをポンと山上の前に置いた。
「――今、永田さんの会社が大変なことになっているのは、ご|存《ぞん》|知《じ》ですね」
と、山上は単刀直入に切り出した。
「ええ」
と、大友久仁子は素気なく言って、「でも、そんなこと、私とは関係ありません」
「そうはいかないでしょう。――永田さんの立場が危うくなれば、あなたも当然――」
「私はあの人を愛してるんです」
と、久仁子は遮った。「あの人がどうなろうと……。お金が入って来なくなったら、自分で働きます。あの人を食べさせてだっていけます」
どう見ても本気[#「本気」に傍点]だ。
山上は、大友久仁子が、いわゆる「愛人」とは少し違うな、と思い始めていた。
「金の切れ目が縁の切れ目」とはよく言うが、実際、こういう男と女の仲は、それで終ることが多い。
しかし、この女の場合はそうではないようだ。部屋の中の様子一つにしても、どこにもぜいたくをしている気配は感じられない。
いや、それだけなら、永田という男から充分な金をもらっていない、ともとれるが、大友久仁子は本心から永田を愛している様子である。
「――あなたが|誰《だれ》に頼まれてここへ来たのかは知りません」
と、久仁子は少し穏やかな口調になって言った。「でも、故郷から一人で出て来て、誰にも頼れず、病気で倒れていたとき、救ってくれたのが、永田さんです。――私の体はまだ元の通り健康になったわけじゃないし、ご覧の通り、年齢より老けて見えるでしょ? 私がいくつか、ご存知?」
「知っています」
「そんな私を、永田さんはもう二年以上もここに置いて、面倒をみてくれているんです。その永田さんのことを、|諦《あきら》めろと言われても――」
「いや、そうじゃないのです」
と、山上は首を振った。「私はあなたに、永田さんと別れろと言いに来たわけじゃない。会社が横領事件で揺れているのは、知ってますね」
「はい。でも、永田さんのしたことじゃありません」
「その逆の証拠もありますよ。ともかく、永田さんは、あなたに、証拠になる帳簿類を託している。それを出していただきたいんです。隠しておいてくれと頼まれたんでしょうが、それは無理ですよ。いずれ、警察が捜査令状を取ってやってくる。そうなれば、『帰って下さい』ではすまなくなる」
久仁子の目からは、山上への敵意のようなものが消え、代って戸惑いの表情が浮んだ。
「何のことですか。その『帳簿』とかって――」
「ここに永田さんが預けて行ったはずですがね」
自信たっぷりに、山上は言った。
正直なところ、ここにあるというのは、美沙の話でしかないが、何もかも分っているという態度で、相手を|呑《の》んでしまうしかない。
「私……知りません」
と、久仁子は首を振った。「確かに――何か包み[#「包み」に傍点]はあります。でも、中が何なのか、私にも分りません」
「おそらくそれでしょう」
と、山上はすかさず言った。「出して下さい。ここへ。その方が結局、永田さんを救うことになる」
これは出まかせだが、こうしてまくし立てなくては、向うは|頑《かたく》なになるだけだろう。
「そんな……」
と、久仁子は動揺している。
「永田さんは、一人で責任をかぶって、有罪になるかもしれない。彼を刑務所へ行かせたいんですか」
「そんなこと――」
「じゃ、その包みを出して下さい。あなたに悪いようにはしません」
よくあるセリフだ。――悪いようにはしません、か。どうとでも解釈できるのが、いいところである。
これで、女がどう出て来るか。――山上は息を殺して待った。しかし、結果はいささか肩すかしであった。
「何かお飲みになりますか」
と、立ち上ったのである。「私ったら、お茶もさし上げないで」
山上はそっと息をつくと、
「いただきます」
と、言った。
「何がよろしいかしら?」
「もし……選べるようでしたら、コーヒーを」
「もちろんですわ」
久仁子は、少し気が楽になった様子であった。どうしてなのか、山上には分らなかったが。
小さなダイニングキッチンから、やがてコーヒーの|匂《にお》いが漂って来る。
「お待たせして」
と、久仁子は、コーヒーカップを盆にのせて戻って来た。
カップも、いかにもその辺のスーパーで売っているような品で、それが|却《かえ》って似つかわしい。――山上はむしろ、好感を持ったのである。
「あなたのお顔、どこかで拝見したことがありますわ」
と、久仁子が言った。「TVか何かにお出になったことが?」
人違いです、と言いたかったが、久仁子の問いかけは、純粋に好奇心から来るもののようで、|嘘《うそ》はつきにくかった。
「――コンサルタントをしてますのでね。その関係で何度かTVにも出ました」
と、認めた。「タレントというわけじゃありませんよ」
「ええ、それは……。そんな感じじゃありませんもの。どっちかというと、学校の先生みたい」
「そうですかね」
と、山上は苦笑した。「――おいしいコーヒーだ」
「恐れ入ります。ずいぶん練習しました。あの人がコーヒーにはうるさいので」
「永田さんですか」
「そうです」
山上は、少し疲れた、この平凡な女を改めて見直した。――興味がわいて来た。
もちろん、女としてどうこういうわけではない。しかし、永田という男が、どうして大友久仁子を「愛人」にしたのか、何となく不思議でもあり、同時に分るような気もしていた。
「失礼ですが」
と、山上は言った。「永田さんとは、どういうきっかけで?」
大友久仁子は、少し間を置いて、言った。
「私が、あの会社のビルの清掃をやっていたんです」
「清掃というと――掃除ですか」
「ええ。あちこちのビルを、終業時間の後に掃除して回るんです。あのときも……。あの会社へ行き、床にワックスをかけていました。もう九時近かったでしょうか」
「それが仕事だったんですね」
「パートみたいなものですけど、他に正規につける所もなくて……。その晩は、ほとんどの人がもう帰った後で、会社の中は空っぽでした。私は、いつももう一人の若い人と組んで、ワックスがけをやるんですけど、その日は、その組んでいる人が休んでしまって――子供さんが病気ってことで、仕方なかったんですけどね」
「すると、一人で働いていた」
「そうです。ところが、力をこめて床を|拭《ふ》いている内に、ツルツルになっているでしょ? 自分で転んじゃったんです」
久仁子は笑った。――笑顔は、山上もハッとするほどやさしく、無邪気だ。
「したたか腰を打って……。立てませんでした。痛いけど、自分でもおかしくて――。床に座り込んだままでいたら……。エレベーターから、あの人が降りて来たんです」
「永田さんが」
「ええ。私の方へ、『どうしたの?』と声をかけて来て、『転んで腰を打って』と言うと、『横になった方がいい。応接室のソファへ行ったら』と、言って下さって」
「なるほど」
「で、私を立たせてくれようとして、手を貸して支えてくれた、までは良かったんですけど」
と、再び久仁子はクスクス笑って、「あの人も一緒にツルッと足を滑らして、二人とも転んでしまったんです」
「おやおや」
「で、二人とも、お|尻《しり》を打って、痛いやらおかしいやら……。永田さんは出張から帰られたところで、私はその日、あのビルが最後の仕事だったんです。で――待っててくれ、と言われて、夕食を、と誘われました」
「それで……」
「でも、そのときは食事をごちそうしていただいただけです。――私の境遇に同情してくれて、名刺をくれました。何か困ったことがあったら力になるよ、と言ってくれて」
「いい人ですね」
「ええ。本当に。――ちっとも魅力的でも何でもない私にやさしくしてくれて」
と、久仁子は言った。「いただいた名刺はとっておきました。でも使う気はなかったんです。ただ――あの人のことを忘れないように、と……。でも、その二か月ほど後、私、一人住いのアパートで寝込んでしまいました。ひどい熱が続いて、何も食べる物もなくなってしまい……。このままじゃ死んでしまう、と思いました。そのとき、あの名刺を思い出して、何とか外へ出て、公衆電話であの人の会社へかけたんです。――あの人は飛んで来てくれて……。そのまま車に乗せられ、入院しました。肺炎になっていて、放っておいたら危かったと言われました」
「そんなことがあったんですか」
「あの人は結局入院の費用から、全部面倒をみてくれて。――退院してみると、このマンションを借りていてくれたんです。ゆっくり休みなさい、と言ってくれました」
「珍しい人だ」
「本当です。――確かに……」
と、言いかけて、ためらい、「あの人と寝ることはあります。でも、それはここで私が元気になった、何か月も後のことで、私の方から、進んで抱いてもらったんです。――あの人の『愛人』と言われればその通りですけど、でも、私の中では違います。誰にも恥じないと思っています」
いつの間にか、久仁子の目は真直ぐに山上を見ている。力のある目だった。
「分って下さい」
と、久仁子が頭を下げた。「あの人が預けて行ったものです。あの人の許しがない限り、お渡しすることはできないんです。あなたはいい方だと思いますけど、でも――」
そう言って、途切れる。
久仁子は顔を伏せていた。山上は、その様子を見ていて、今日は負けだ、と思った。
手間はかかっても、永田の方から攻めるしかない、と判断した。
「分りました」
と、山上は立ち上り、「今日は引き上げます。――ごちそうさま」
「いいえ……」
久仁子は玄関まで出て来て、見送ってくれた。
――山上は、外へ出て、古ぼけたマンションを見上げると、|停《と》めておいた車の方へと歩いて行った。
結局、倉林美沙の頼みは果せなかったわけだが……。
しかし、不思議に山上の胸は|爽《さわ》やかだったのである。
9 裏の裏
筋だらけのカツを半分ほどやっと食べて、村内刑事は、ご飯をかっこんだ。
段々まずくなるな、ここのカツ丼は、と苦々しく首を振る。
|誰《だれ》かが、テーブルのすぐわきに来て立った。――顔を上げると、
「やあ、君か」
安西刑事が、冷ややかな目で、村内を見下ろしている。村内は、
「座れよ。何か食べちゃどうだい?」
と、言った。
「結構」
と言って、安西は向い合った席に腰をおろす。
「おい、ここはソバ屋だぜ。喫茶店じゃない。お茶だけじゃ|可《か》|哀《わい》そうだ」
安西はちょっと顔をしかめたが、お茶を持って来た女の子に、
「ざるそば」
と、ぶっきらぼうに言った。「――村内さん、何をしてるんです?」
「うん?」
村内は顔を上げ、「見ての通りさ。カツ丼を食ってる」
「そんなこと、|訊《き》いちゃいません。一人で何をかぎ回ってるんです」
村内は肩をすくめて、お茶をガブ飲みすると、フーッと息をついた。
「君も妙なことを言うね。一緒にやるのはいやだと言ったのは、そっちじゃないか」
「そうですよ」
と、安西は挑みかかるように、「しかし、勝手なまねはしないでくれ、とも言ったはずです」
「勝手なまねなんかしとらんよ」
「それなら結構」
安西は、いまいましげに村内を見ていたが、一向に反応がないので、運ばれて来たざるそばを荒っぽく食べ始めた。
「そばに恨みでもあるのかい」
と、村内はのんびりと言った。
「ありませんよ」
と、安西は言って、「課長からね、注意されました。どうして一緒に動かないんだ、とね」
「わけを話したのかね」
「いいえ。話したって仕方ない」
安西はアッという間にソバを食べ終えると、「――一緒に行動しましょう。仕方ない」
「そうか。気の毒だな」
「その代り、今度、あんなことがあっても、一切、あなたを助けたりしませんからね」
「結構だよ」
と、村内は|肯《うなず》く。「で、どこへ行くんだね、今日は」
安西は、お茶を一気に飲んで、
「殺された水野智江子の友だちに会いに行くんです。男のことを、何か聞いてるかもしれない」
「分った。――熱いお茶をあんまり急いで飲むと、胃に悪いよ」
「ご心配なく」
と、立ち上って、「自分の分は自分で払いましょう。お互いにね」
「そうだね……」
村内は、肩をすくめた。
安西が自分の代金をテーブルにのせて、さっさと出て行く。
「もう食べたんですか?」
と、店の女の子が目を丸くしていた。
「お帰りなさい、お電話が」
と、草間頼子が、サッとメモを山上へ渡した。
「うん」
倉林美沙からだろう。――山上があの女、大友久仁子を訪ねて、どうだったかを訊きたいのだ。
が、メモを見て、山上は|眉《まゆ》を寄せた。
「その人、情報屋さんでしょ?」
と、頼子が言った。
「うん。何だろうな?」
山上は席につくと、電話へ手を伸した。
ポケットベルで呼び出し、こっちへ連絡が来るということで、山上はとりあえず他の仕事を片付けることにした。
「――首尾はいかがでした?」
と、頼子が訊く。
「うん? ああ、可もなく不可もなし、ってところかな」
と、山上は答えておいた。
草間頼子には、美沙から頼まれたことの詳細は話していない。何といっても、これは仕事ではなく、個人的な「頼まれごと」にすぎない。
頼子から、いくつか連絡事項があって、それを聞いていると、電話が鳴り出した。
「僕だろう。――はい。もしもし」
「遅くなりまして」
と、〈情報屋〉が言った。
「いやいや。僕も今、帰ったところでね。君の方は何か……」
「三神貞男という男のことなんですが」
「うん」
「何かその――三神とお付合いはありますか?」
「いいや。僕は別にない。会ってはいるがね」
「そうですか」
と、〈情報屋〉は淡々とした口調で言った。「あまり深くお付合いされない方がよろしいようです」
「何かあるのか」
「一筋縄じゃいかない男ですね。永田という重役の下にいて、忠実な部下ということになっていますが、どうも眉ツバものです」
「何だって?」
「下心のあるタイプですね。あちこちで聞いた|噂《うわさ》を総合すると、あまり芳しいものではありません」
「待ってくれ」
山上は座り直した。「すると――例の話は?」
「調べ直した方がいいようです」
〈情報屋〉の口調に、多少悔しげなものが混った。「申しわけありません。どうも、わざと色々な噂を流していた気配があるんです」
「三神が?」
「その辺ははっきりしません。いずれにしろ三神自身で、あんな横領事件は起せないでしょう。金も自由にならないでしょうし。ただ、表面上三神が永田の下にいて、動いていたことになっていますが、そう見せかけておいて、実は別の誰かについていたというのは確かなようです」
「そうか……」
見たところは、「坊っちゃん」タイプだが、中身はしたたかなのかもしれない。
「調査を続けて構いませんか」
と、〈情報屋〉が言った。
「もちろんだ。よろしく頼む」
「では、できるだけ早くご報告します」
――〈情報屋〉は、その情報の信頼性が生命である。仕組まれた|嘘《うそ》を見抜くのは、プロの腕とカンだ。それをコロリと|騙《だま》されたのでは、プロとして許さないのだろう。
「ちゃんと料金は別に払う。とことんやってくれ」
と、山上は言って、電話を切った。
「厄介そうですね」
と、頼子は言った。
会話の断片からでも、中身の見当はつくのだろう。
「全くね」
と、山上は言って、ため息をつくと、「津田から何か連絡は?」
と、訊く。
「いいえ。体裁悪くて、かけて来られないんじゃありませんか」
「だといいがね」
体裁が悪いと思うくらい、まとも[#「まとも」に傍点]になってくれていればいいのだが。――津田のことを考えると、気が重くなる。
直通の電話が鳴った。この番号は、家族と草間頼子しか知らない。
「――もしもし」
「パパ?」
「何だ、エリか。どうした?」
「今、近くまで来てるの。ね、何か甘いものでもごちそうして」
そういえば声が近い。
「何だ。どうしてこんな所に?」
「社会科の見学。で、もう現地で解散ってことになったの。いいでしょ?」
いやと言えるわけがない。
「分ったよ。今どこだ?」
「Pビルの一階」
「ああ、そうか。じゃ――どこにするかな。ちょっと待て」
山上は送話口を手で押えて、「草間君。娘が近くに来てる。どこか喜びそうな店、ないかね。今、Pビルだそうだ」
「それでしたら……。そのビルの二十五階が、フランス料理のお店なんです。午後のこの時間はティータイムで、一つ千円のケーキが食べられますわ」
「ケーキが千円か!」
と、山上は目を丸くした。「ま、しかたないか」
苦笑して、エリにそう言うと、
「友だちと一緒なの。構わない?」
「ああ、いいとも。先に上ってなさい。すぐ行く」
山上は電話を切ると、「じゃ、草間君、悪いがちょっと出てくる」
「どうぞ。お嬢さんの方から誘って下さるのは、今の内ですよ」
頼子がいたずらっぽく笑う。
「なに、向うはこっちの財布がお目当てなだけさ」
と、山上は言って、オフィスを出た。
――Pビルまではほんの二、三分。
「二十五階か……」
エレベーターに乗るので待っていると、誰かがスッとそばに来て立った。
知らない人間にしては、いやにそばにくるので、ふと振り向く。
「――何だ、君か」
「フフ」
と、倉林美沙は笑って、「あなたのオフィスへ行こうとしてたら、ちょうど姿が見えたの。どこに行くの?」
「千円のケーキを食べにね」
「まあ」
と、目を丸くする。
「娘が待ってるんだ、上で」
「そうなの。――あの女の所へは行ってくれた?」
「今日ね」
と、山上は肯いた。「今日は帰って来た。無理押ししない方がいい相手だ」
「そう。じゃ、またやってみてくれる?」
「ああ」
エレベーターが来て、扉が開く。「悪いけど……」
「いいわよ」
と、美沙は肯いて、「明日の夕食、どう?」
「明日?」
「あの女のこととは別に」
と、美沙は言って、「また電話するわ」
と手を振って行ってしまった。
「おっと!」
危うく乗りそこなうところだ。
〈25〉を押して、フッと息をつく。――美沙と夕食か。
もちろん、互いに話は尽きないだろう。昔なじみで食事をしても、おかしくはない。
しかし――今、山上には別に気がかりなことができた。三神という男が、どうにもうさんくさいという、あの情報だ。
もし、あれが事実なら、美沙も騙されているのかもしれない。そのときは、大友久仁子から「包み」を取り上げても、|却《かえ》って美沙のためにはならないかもしれないのだ。
とりあえずは、三神のことがもう少しはっきりするまで待っていよう。――山上はそう決めた。
二十五階でエレベーターを降りると、
「山上様でいらっしゃいますか」
タキシード姿の支配人が待っている。
「そうです。娘が――」
「あちらでお待ちでございます」
案内されて行くと――食前のカクテルを飲むコーナーに、確かにエリがいた。
しかし……「友だち」というから、一人かと思ったのだが……。
「パパ!」
と、エリがソファからピョンと立って、駆けて来る。「私のクラスの子なの、みんな!」
十人……いや、十五人もいるだろうか。
一斉に女の子たちが、
「今日は!」
と、|挨《あい》|拶《さつ》するので、山上は圧倒されてしまった。
この店のケーキは、たぶん早々に「品切れ」になること、間違いなしだろう。
「ご案内申し上げます」
と、支配人が笑顔で言った。
「ああ。じゃ、みんな、中へ入ろう」
「すみません!」
「ごちそうになります」
と、口々に言って、
「私、三つ食べよう」
「私はダイエットしてっから二つ」
「それじゃ、同じでしょ」
と、話しているのが、山上の耳に届いて来た。
一つ千円のケーキね……。
フルコースの料理でなくて良かったよ、と山上は半ば本気で考えたりしていた……。
10 年月の重み
「何だって?」
安西刑事の言い方があまりに鋭いので、女はちょっとびくついてしまった。
やれやれ……。
そばで見ていた村内刑事は、「口を出さない」という約束をしたので黙っていたが、あれじゃ、恐れをなして、|係《かかわ》り合いたくないという気持になっちまうぜ、と思っていた。
「あの……ただチラッと聞いただけ」
バーのホステスをしているというその女は、殺された水野智江子と同級生だったというから、二十九歳なのだろうが、肌はカサカサで、どう見ても三十代の後半に見えた。
もっとも、出勤前の素顔である。これで化粧をすれば、夜のカウンターの前では、「美女」になるのかもしれない。
「確かに言ったんだね、『不動産屋』と」
と、安西が問いかける。
「ええ……。言ったと思うけど……」
と、口ごもると、
「言ったのか、言わないのか、どっちなんだ!」
と、安西がピシリと|叩《たた》きつけるように言った。
「言ったわ」
女は、少しやけ気味で言った。
――もうだめだ。たとえ、他に何か知っていることがあったとしても、この女は絶対に口にしないだろう。
安西はちょっと舌打ちした。
「畜生……。他に何か、男のことで?」
「知らない。それだけよ」
案の定、これ以上何か言って、引張られでもしたらかなわない、という表情だ。
「隠すなよ。隠してると、ろくなことはないぜ」
「隠してどうなるのよ」
と、女は言い返した。
「まあいい」
安西がパタッと手帳を閉じる。「――用があったら、また来る」
「ご自由に」
と、肩をすくめた。
「村内さん。――何か|訊《き》くことは?」
安西が、村内の方へ初めて顔を向ける。
「そう……。どの辺のバーだね」
「三丁目です」
「今、景気悪いんだろ」
と、村内はおっとりと言った。
「ええ。――ひどいもんです」
と、女は、少し気安い口調になる。「ママが|凄《すご》くうるさいの」
「仕方ないさ。ママの方も必死だよ」
と、村内は|微《ほほ》|笑《え》んで言った。
「ええ、そうね」
女はホッとしたように、村内を見ている。この人は分ってくれてる。その気持が、和んだ表情に出ていた。
「一度行ってみよう。何て店?」
「あ――これ、マッチです」
と、女が、タバコに火を|点《つ》けた残りのマッチを差し出す。
「ありがとう。――君、何といった、名前は?」
「令子。君原令子。お店じゃ令子です」
「令子か。――迷惑するかね、こんなのが行ったら」
「いいえ、ちっとも。待ってますわ」
と、明るい声になる。
「じゃ、あんまり絞り取らないでくれよ」
と、村内は言って、マッチをポケットへ入れた。
――アパートを出ると、
「村内さん」
と、車に乗り込みながら、安西は言った。
「うん?」
助手席に腰をおろす。「君も行くかい、あの子の店に」
「とんでもない」
と、にべもなく、「知ってたんじゃありませんか」
「何を」
「不動産屋のことです。あいつ――栗山っていったな。しょっぴいて、痛い目にあわせてやる!」
安西は車をスタートさせた。
「――どうして、|俺《おれ》が知ってたと?」
「顔の表情一つ変えなかったからですよ」
村内はちょっと笑った。
「いちいちびっくりしてられるかい? この|年《と》|齢《し》になると、何があってもびっくりしなくなるものさ。たとえ、あの水野智江子の恋人が君だったと言われても、『そうかい』ですんでしまうよ」
安西はチラッと村内を見て、それきり黙って車を走らせている。
――村内も、かつて[#「かつて」に傍点]は若かった。
安西の、功をあせる気持が分らないではない。若いころは、多かれ少なかれ、みんなそうだ。
ただ、安西は人一倍、野心家なのだ。
村内は、安西が大きな|犯《ホ》|人《シ》を挙げるのを、結局、邪魔したことになった。もう大分前のことだ。
――薄暗くなりかけた道を、車は走って行く。
村内は、そっと右の|膝《ひざ》に手をやった。今は薬で抑えているが、以前はひどく痛んだものだ。
若い人間には分らない。「老いる」ということの痛さ[#「痛さ」に傍点]が。
心の中での話ではない。体を酷使した結果としての、当然の「痛み」。
凶悪犯を張り込んでいた二人の前に、その犯人が姿を見せた。二人は追った。
そして、その犯人が振り向いて発砲した。――弾丸は、二人のどちらにも当らなかったのだが、その瞬間に、村内は右膝を鋭い痛みに襲われ、思わず声を上げて倒れてしまったのだ。
安西はてっきり村内が撃たれたと思った。そして、迷いはしたが、村内の方へ駆け戻ったのだ。
何でもないから、行け!
村内はそう叫んだ。安西はあわてて犯人を追って行ったが……。その何秒かの間に、すでに犯人は姿を消していた。
そして――さらに悪いことに――その犯人はその日の午後、パチンコ店の中で人を殺し、警官に射殺された。もし、あのとき安西が戻っていなかったら、その凶行は防げたかもしれない。
村内と安西は上司から|叱《しっ》|責《せき》された。もちろん村内は安西をかばったが、マスコミの攻撃の矢面に立っていた上司は不機嫌だった。
安西は、それ以来、村内を恨んでいる。
「たかが膝の痛みくらいで」
と言うわけだ。
たかが[#「たかが」に傍点]……そう。|誰《だれ》も分らないのだ。自分もいつか年齢をとる、という当り前のことが。
安西は赤信号で車を|停《と》めると、
「村内さん」
と言った。「僕に任せて下さい。いいですね」
「分ってるよ」
村内は逆らわなかった。
いつの日か、安西がこう言われる。
「安西さん、僕に任せて下さい」
と――。
信号が変り、車が勢い良く飛び出した。安西のはやる[#「はやる」に傍点]気持、そのもののように。
「――もう帰る?」
と、美沙が言った。
「君はいいのか」
「一郎は母の所よ」
美沙は、カクテルのグラスをテーブルに置いた。「こんな所、今でもあるのね」
「普通のナイトクラブじゃないか」
「ナイトクラブ、か……。懐かしくない、その言葉?」
と言って、美沙はちょっと笑った。
フランス料理を食べ、ワインを飲んだので、二人とも少し酔っている。
美沙は目の辺りをほんのりと赤くして、目が潤んで見えた。――危い危い。こんなときが一番危い[#「危い」に傍点]のだ。
「例の彼氏は?」
と、山上は言った。
「三神さん? そう毎晩会っちゃいられないわよ」
美沙は、フーッと息をついた。「こんなに酔ったの、久しぶり」
「もうやめとけよ」
「送ってくれるんでしょ?」
「ああ、もちろん」
山上はウーロン茶を飲んでいた。もうアルコールはやめどきだ。
「先生[#「先生」に傍点]だものね。――|下《へ》|手《た》に女には手が出せない、か」
「よせよ。――今の家庭を大切にしてるだけさ」
「奥さん、おとなしそうな人ね」
「うん。あまり外へ出ない」
「でも、ああいう人が怖いのよ。一度燃え上ると……。あなたはまさか、と思ってるでしょうけどね」
「正にね」
「私、テニスをやってたの。もうとっくにやめたけど。――私が誘って、同じテニススクールへ通ってた奥さんがいたのよ。ともかくおとなしくて、ご主人も、『少し何かやれよ』っていつも言ってたの。学生のころ、少しテニスをしてた、っていうんで、本人、渋々入ったんだけど……。半年して、そこのコーチと駆け落ち」
美沙は、ちょっと笑った。「みんな|唖《あ》|然《ぜん》としたわよ。三人も子供がいたのにね。――結局、一か月して戻って来て、離婚。それからどうしたのか、誰も知らない」
「――凄い話だ」
「あら、こんなこと、今はざら[#「ざら」に傍点]にあるのよ。男どもが知らないだけ」
「そうかね」
「そうよ……。でも、今も忘れられない。一か月たって戻って来た、彼女の顔」
「どうして?」
「別人のようだったわ。疲れてもいたし、悩んだせいか、目の下にくま[#「くま」に傍点]もあった。でも、輝いてたわ。引き締って、強くて……。以前の彼女には決して見られない顔だった……」
美沙は、いつしか独り言のように、語っている。
「――しかし、今の君は独りだ。誰と恋をしてもいいわけじゃないか」
「一回り年下でもね」
と、美沙は笑った。「よくやるよ、って思ってる?」
「まあね」
「悩むことはあるわ。十年たって、私は五十二歳。彼は四十……。二十年たつと――」
「そんな計算は君らしくない」
「そう。――そうよね」
美沙は突然不安げな様子で、山上の方へ身をもたせかけて来た。
「倉林君――」
「黙って。――あなたを浮気に誘おうと思っちゃいないわ。心配しないで。ただ……」
「何だい?」
「いいの。このまま――しばらくこうしていたい……」
美沙は、眠ってしまいそうに見えた。
山上は、こうしてかつての「恋人」を身近に感じながら、同時にひどく遠くに見ていた。
歳月は人を変えて行く。――この年月の間に、何があったか、互いに知りはしない。知り尽くせるものでもない。
山上は、指先で、そっと美沙の額にかかった髪を上げてやった。
「――お帰りなさい」
秀子が、居間から出て来た。
「何だ、起きてたのか」
と、山上は言った。「先に寝てても良かったんだぞ」
「そう遅い時間じゃないわ」
と、秀子はちょっと笑った。「うちへ電話した?」
「いいや、どうして?」
「お友だちと長電話してたから」
「エリがか」
「私が」
秀子は、そう言って、照れたように笑った。「カルチャーセンターで知り合った人なの」
「男じゃあるまいな」
と、山上はおどけて言った。
「女の人よ、馬鹿ね」
秀子は、ちょっと山上の上着に顔を近付けた。
「何だ?」
「|匂《にお》い。――香水でしょ」
「ああ。ちょっとクラブに寄って来たからな。付合いだ」
「怪しいもんだわ」
秀子が、いつになくはしゃいだ感じでいるので、山上は少々面食らっていた。
「ねえ、あなた」
「うん?」
「お|風《ふ》|呂《ろ》、一緒に入りましょうか」
山上がびっくりしていると、秀子は|頬《ほお》を染めて、
「昔は入ってたわ」
と言った。
「そうだな。確かに」
と、山上は|肯《うなず》いた。「――入るか」
「ええ」
|嬉《うれ》しそうに、秀子が腕を絡めてくる。――山上が初めて見る妻の「新しい笑顔」だった。
「あ、パパ、帰ったの」
と、エリが下りて来る。
「まだ起きてたの? もう寝なさい」
「まだ早いよ」
「それじゃ、邪魔するなよ。父さんと母さんは十何年ぶりかで、一緒に風呂へ入るんだ」
「――あ、そ」
エリは、ポカンとして、そう言ったのだった……。
11 死 体
「家には帰ってません」
と、安西が車へ戻ってくる。「全く、車に電話ぐらいつけてほしいや」
「遅くなる、と言ってたのか」
「特に何も。いつも遅くて当り前ってとこらしいですよ」
と、安西は息をついて、「店の方へ、もう一度行ってみますか」
「そうだな」
村内は|肯《うなず》いた。「しかし、店は真暗だった。勝手に中へ入るわけにはいかないぞ」
「ともかく、戻りましょう」
あの不動産屋、栗山の店へ行って閉っていたので、近くの電話から、自宅へかけてみたのだ。しかし、栗山は帰っていない。
車で、すぐ店の前へ着ける。
ガラス戸を何度も|叩《たた》くが、返事がない。
「――逃げたわけじゃあるまいな」
と、安西は言って中の様子を|覗《のぞ》こうとしたが、きっちりカーテンが引いてある。
「大方、どこかで飲んでるのさ」
と、村内がのんびりと言うと、安西はジロッとにらんで、
「よくそんな|呑《のん》|気《き》なことを言う気になりますね」
「焦っても仕方ないだろ? どうしろっていうんだい?」
「中へ何とか入れれば……」
安西としても、捜査令状なしに入るのはまずいと分っているのである。
「そんなのは簡単さ」
と、村内が言った。
「え?」
「通りかかったら、中で怪しい光の動くのが見えた。てっきり泥棒が入ってると思って、現行犯で逮捕しようと中へ入った」
安西は村内を見て、
「本当にそれでやるつもりですか」
「君が入りたいと言ったからさ」
安西は、ちょっと笑った。
「やりましょう。――証人になってくれますね」
「待ってくれ」
と、村内が進み出て、「こういうことは、|俺《おれ》の方が慣れてる」
引き戸の重なった部分の|隙《すき》|間《ま》にナイフの刃をこじ入れる。少し力を入れると、ガタッと音がした。
「安物の|鍵《かぎ》だ。古くなってる」
ガラッと戸を開けて、「入ろう」
と促した。
安西は、村内の手ぎわの良さに|呆《あき》れていたが、すぐに村内よりも先に店の中へ入った。
「明りを――」
「今、|点《つ》けます」
カチッと音がして、明りが点いた。
何しろ狭い店である。――すぐにそれ[#「それ」に傍点]は目に入った。
「何てことだ」
と、安西は息をのんだ。
栗山が、床に倒れていた。|椅《い》|子《す》ごとである。
「――死んでるな」
かがみ込んだ村内が、栗山の手首をとって言った。
「その傷は――撃たれてますね。畜生! 先を越された」
安西は急いで車へ戻ると、無線で本庁へ連絡している。
村内は、栗山を見下ろして立っていた。
なぜ殺されたのか? しかも、今[#「今」に傍点]殺されたのはなぜか。
村内は、チラッと表の方へ目をやると、ポケットを探り、メモ用紙をとり出した。栗山が渡してよこしたメモだ。水野智江子の部屋を借りた男の「連絡先」である。
でたらめかもしれない。しかし、一応かけてみる必要はあるだろう。
安西が戻って来るのを見て、村内はそのメモをポケットへ戻した。
「すぐ応援が」
と、安西は言った。「大分たってますね」
「少なくとも四、五時間だな」
と、村内は言った。「この辺に非常線を張っても、もうむだだ」
「そうですね」
安西は、ゆっくりと栗山の死体を見下ろして、「――もっとしつこく食らいつくんだった!」
「何か手がかりが残っているかもしれんよ」
「もちろん、引出しから棚から、徹底的に捜しますよ」
安西は、また張り切っている。
しかし、村内は全然別のことが気になっていた。
栗山が殺されたタイミングもそうだが、犯人が、机や戸棚を荒らしていない[#「荒らしていない」に傍点]のが不思議だ。
栗山は、水野智江子との関係だけで、事件に|係《かかわ》り合っている。当然、犯人の動機も、それとつながっているはずだが、犯人が、何も[#「何も」に傍点]捜そうとしていない――引出しもどこも、荒らされている様子がない、ということ。
そこが、村内には気になっていた。
「あの女だな」
と、安西が言ったので、村内は我に返った。
「何だね?」
「さっきの女ですよ。あいつが知らせたんだ。それで栗山の口をふさぐために――」
「君原令子か? おい、落ちつけよ。頭を冷やせ」
と、村内は言った。「あれから何時間たってる? この死体の様子から見て、その前に殺されてる」
安西はムッとした様子で、
「口を出さないでくれと言ったはずですよ」
「しかし、無茶をやるのは見ちゃいられない。大体、あんな風に脅しつけたら、知ってることもしゃべらなくなる」
「しゃべらせますよ」
と、安西は言った。「放っといてもらいましょう!」
安西が外へ出て行く。
村内は、ため息をついた。――安西も|苛《いら》|立《だ》っている。犯人に先を越されたわけで、これは上司をも苛立たせる。
村内は、パトカーがやって来るのを聞いて、表に出た。
安西が、てきぱきと指示を出している。
中へ入って行く人間たちに逆らって、村内は現場を離れた。安西はしばらく現場にかかり切りだろう。
その間に……。
村内は、あの君原令子がよこしたマッチを取り出して、眺めた。
秀子が寝返りを打つ。
白い肌が、薄明りの中で光った。少し汗をかいたのだろうか。――珍しいくらい、今夜の秀子は積極的だった。
「――ねえ」
と、秀子は言った。
「うん?」
「あの人……。恋人だったの?」
「あの人?」
「レストランで会った人」
「ああ……倉林美沙か。――片思いの相手だ」
「今夜、会って来たんでしょ」
山上は妻の方を見た。秀子が、
「私、|匂《にお》いには敏感なの。同じ香水の匂いだった」
と、言った。
「そうか」
と、山上は言った。「確かに食事して、昔話をして、少し飲んだ。しかし、何もなかったよ。本当だ」
「信じてるわ」
秀子が、山上の胸に頭をのせる。「――運動不足よ。心臓がドキドキいってる」
「そうだろ。日ごろ何もしてないしな」
と、山上は笑った。「――彼女にはちょっと仕事を頼まれてるんだ。その付合いさ。何しろ向うは一回り年下の恋人がいる」
「私も作ろうかしら」
「おいおい……」
山上は、今夜の美沙の話を思い出していた。
「冗談よ」
秀子は、起き上ると、「シャワー浴びてくるわ。あなたは?」
「後でいい」
山上は、妻がネグリジェを着て出て行くのを見送った。
いつもの秀子と、どこか違う。――何があったのだろう?
ただの|気《き》|紛《まぐ》れか。それとも、山上が美沙と会って来たと知って、対抗意識があったのか。
――いずれにしても、いつもの秀子と、どこか違っている。どこが、と問われれば、返事はできなかったが……。
下のバスルームから、シャワーの音が、かすかに立ちのぼって来た。
「――令子ちゃん」
と、マダムが呼ぶと、
「はあい」
マニュアル通りの声が返って来た。
「お客様よ」
「はい。――あら」
薄暗いせいもあるだろうが、確かに、君原令子は、「化けて」いた。
「さっきは邪魔したね」
と、村内は言った。「今、大丈夫?」
「ええ、どうぞ」
――隅のソファに村内は座って、
「水割りをもらおう、薄くていい」
と言った。
「言わなくても薄いわ」
と、令子は笑って言った。
「君も何か飲め」
「お茶で結構。――肝臓こわして、この間、知ってる子が死んだの。怖いわ」
「体は一つしかない」
「本当ね」
令子は、少し村内の方へ身を寄せて座った。「相棒の若い人、怖かった」
「若いのさ。やる気がありすぎる」
「でも……。こういう仕事してるってだけで、あの目つきが……」
「それより」
と、村内は、少し声を小さくして、「君の言ってた不動産屋だが、栗山というのか?」
「名前は聞いてないわ」
と、令子は肩をすくめた。「ただ、入居のとき世話してくれた不動産屋さんって……。分ったの?」
「殺された」
――令子はポカンとしていたが、
「うそでしょ」
と、笑った。
「本当だ。安西は君が|誰《だれ》かに知らせたんじゃないかと思っている」
「まさか!」
「まあ、君の所へも必ず来るだろう。覚悟しててくれ」
「いやだわ」
「逃げちゃいけない。それだけで『怪しい』ってことになるんだ。――いいね」
「ええ……」
令子はため息をついた。
「昼間、君が言わなかったことはないかね? 何か知ってたら、俺に話してくれないか」
村内の問いに、少しためらって、
「大してないわ。智江子は変っちゃったものね」
「つまり――」
「あんな暮し……。いくら楽でもいやね。まだこうしている方が――」
令子は、村内の方へそっと笑顔を向けた。
何となく分り合える二人、似たところのある二人なのだ。
互いに、そう知っていた。
「ねえ」
と、令子は言った。「お店、閉ったら、会ってくれる?」
村内は、ちょっと目を見開いた。水割りの薄さも、あまり気にならなかった……。
12 留守番
「じゃ、よろしく頼むよ」
山上忠男は、|椅《い》|子《す》から立ち上り、|鞄《かばん》にファイルを入れようとして、言った。
「はい。どうぞごゆっくり」
と、草間頼子が|微《ほほ》|笑《え》む。「奥様とお二人で旅行されるなんて、久しぶりなんでしょ?」
妻の秀子の誕生日を明日に控えた週末、山上は温泉に行くことにしている。
「そうだな」
と、山上は|肯《うなず》いて、「娘も誘ったんだが、何とかいうロックグループのコンサートがあるとか言って」
娘のエリも十四歳である。自分の生活に干渉されることを嫌う年ごろだった。
「お二人に気をつかっておられるんですよ」
と、頼子が言った。
「そうかね。まだそんなことまで考えてやしないよ」
と言いながら、もしかしたら、その通りかもしれない、と思う。
一人っ子のせいか、少々大人びて、親にも妙に気を回したりする|奴《やつ》だ。
山上は、鞄へ入れかけたファイルを、机の引出しにしまった。
「仕事のことは忘れよう!」
「そうですわ。旅先から仕事の電話なんかされたら、奥様に失礼ですよ」
頼子が、得たり、という表情で肯く。
「一応、エリにも、何かあったら君に相談しろと言ってあるんだ。すまないが……」
「ご心配なく。いつまでそうやって、突っ立ってらっしゃるつもりですの?」
山上は|愉《たの》しげに笑った。
――オフィスを出る。
まだ午後の三時で、すぐ近くのホテルのラウンジで、秀子と待ち合せていた。
こんな時間にオフィスを出ることはめったにない。あっても、仕事で外出するか、パーティに顔を出すか。
いずれにしろ、のんびりとビルの谷間から、頭上に|覗《のぞ》く青空を見上げるなんてことは、まずありえない。
しかし、やってみると、意外にそう大変なことでもなくて、しかも体に若さが戻って来たかのようですらある。
山上は、|大《おお》|股《また》に歩き出した。もし草間頼子が見たら、何か言って冷やかしたかもしれない。何しろ、慣れない|下《へ》|手《た》な口笛さえ吹いていたのだから。
ラウンジで、すぐ秀子は夫の姿を認めると、パッと立ち上って、
「あなた! ここ!」
と、大きな声を出して手を振った。
ラウンジの客がみんな振り向くので、秀子は真赤になって、あわてて座った。
「――すてきだよ」
山上もいささか照れつつ、言い慣れない言葉を口にした。
秀子は白のスーツで、いつもより若々しく見えた。これほどはつらつとした秀子を見るのは初めてのような気がする。
「まだ列車の時間には早い」
と、山上は腕時計を見て言った。「――ああ、コーヒーをくれ」
「大丈夫なの、お仕事の方?」
「うん。一日や二日、どうってことはないよ。僕がいなきゃ会社が|潰《つぶ》れる、ってこともない」
秀子はちょっと笑った。
「――何がおかしい?」
「だって……。あなた、いつも『|俺《おれ》がいなきゃ、あそこはだめなんだ』って言ってるじゃないの」
「そうだったか?」
と、山上はとぼけて見せたが――。
確かに、そんなことを言ったこともある。しかし、そんなに「何度も」言ったつもりはないのだが。自分でも気付かない内に、言っているのだろうか。
「――やあ、K社の社長だ」
と、山上は、ロビーで外国人と話している白髪の男に目を止めて言った。
「どの方?」
「あの男さ。ペラペラしゃべってるみたいだろ? 全然英語はだめなんだぜ」
「じゃ、何語でしゃべってるの?」
「日本語。――相手が分ろうと分るまいと、日本語しか使わないんだ。面白い人だよ」
「ご|挨《あい》|拶《さつ》して来たら?」
「うん? そうだな」
と、腰を浮かしかけて、「――やめよう。もう、今は休暇中[#「休暇中」に傍点]だ」
秀子が|嬉《うれ》しそうに笑った。
――むしろ、山上の気がかりなのは、倉林美沙の依頼に|係《かかわ》ることの方である。
美沙からは、一緒に食事をした夜以来、何の連絡もないし、美沙の恋人、三神貞男についても、〈情報屋〉から、
「もう少し待って下さい」
という電話が一度入って、それきりだ。
従って、三神の上司、永田と、その愛人の大友久仁子の方も、山上は手を出していなかった。
美沙の方の気が変ったのかもしれない。美沙が依頼を取り消せば、もともと専門外の仕事だ。山上もこれ以上首を突っ込む気にはならなかった。
医師に切りつける、という騒ぎを起こした津田は、その後、アルコールを断って、職場も移った。妻の郁代が支えている限り、うまく行きそうな気がする……。
しかし――何といっても「一番変った」のは、秀子である。
一体何があったのか山上にも見当がつかないのだが、ともかく突然若返ったかのように元気になり、どんどん出歩くようになった。
この一週間で、山上は音楽会に二回、お芝居に一回、引張り出された。こんなことも、以前の秀子なら面倒がって、めったにやらなかったものである。
まあ、山上としては、妻が若々しく魅力的になるのに、文句をつける気はさらさらなかった。たぶん、エリももう手がかからなくなり、少し外へ出始めたら、思いの他楽しかった、というところだろうか。
この温泉行にも、秀子はまるで女学生のようにはしゃいでいる。
「――もう行きましょうよ」
と、秀子が待ち切れない様子で言った。
「今出たら、ホームで待つぜ」
「いいわよ。お弁当買ったり、色々やってれば。それも旅の楽しみの一つ。ね?」
「分ったよ」
山上は笑って席を立った。
そう。――秀子はすっかり別人のようになったのだ。
「|凄《すご》かったね!」
と、何度同じ言葉が二人の間で行き交ったことだろう。
――山上エリは、ロックコンサートの帰り道、|未《いま》だ興奮さめやらず、といった面持ちだった。
一緒に歩いているのは学校の友だち、井上浩美。全体にふっくらとして、気のいい女の子である。
二人が感激しているのは、本格的なコンサートに行ったのは今夜が初めて、というせいもあった。――何万人というファンが、総立ちになって、一斉に手拍子をとって、思い切り叫べば、確かに気持がいいには違いない。
「いいの?」
と、浩美は山上の家の玄関で、言った。
「うん。一人なんだもん。構やしないよ」
と、エリは言った。「|誰《だれ》か泊ってくれた方がいいしね」
「じゃ、そうしよう」
エリが玄関の|鍵《かぎ》をあける。
「――冷蔵庫にジュースとか入ってるよ」
と、明りを|点《つ》けて、エリが居間へ入ると、電話が鳴り出した。
パパたちかな。――浩美んとこへかけて、いなかったからこっちへかけて来たのかもしれない。
「――はい。山上です」
と、出てみると、少し、向うは黙っていた。「――もしもし?」
「エリちゃん?」
と、女の声がした。
「え?」
ママではない。しかし、こんな呼び方をする人は――。
「エリちゃんね」
「どちら様ですか?」
と|訊《き》いて、エリはハッと思い出した。
学校の帰り、エリを呼び止めた、あの女の人……。そう。きっとあの人だ。
「あの……何の用ですか?」
と、エリは言った。
「エリちゃん。聞いてほしいことがあるの」
と、突然、女はせき[#「せき」に傍点]を切ったように話し始めた。「あなたにとっては、びっくりするような、信じられないことかもしれないけど――」
浩美が居間へ入って来て、
「エリ。――あ、ごめん、電話?」
その声が聞こえたらしい。
「誰かいるの? エリちゃん、一人じゃないの?」
と、その女は言った。
「友だちが……」
「そう。それじゃ――またかけるわ」
「もしもし。――もしもし」
パッと電話は切れてしまった。
「――どうしたの?」
と、浩美が訊く。
「何でもない」
と、エリは首を振った。「汗かいたね。お|風《ふ》|呂《ろ》に入ろうか」
「うん。パジャマ、貸してくれる?」
「いいよ」
エリは居間を出ながら、「座ってて」
と、浩美に声をかけた。
――誰だろう? あの女の人は。
お風呂にお湯をためながら、エリは考えていた。
エリに、「信じられないようなこと」を話す、と言っていた。
エリも、色々本とかを読むから、あの話し方、言葉の使い方で、何となく察しはついた。
でも――そんなこと[#「そんなこと」に傍点]、あり得ない。
エリの本当の「お母さん」があの女の人だなんてことは……。
エリは、自分の赤ん坊のころからの写真アルバムを、ちゃんと持っているし、今のママに抱かれた写真も沢山残っている。きっとあの人は、他人の子を「自分の子供に違いない」と思い込む病気[#「病気」に傍点]なんだ。そう。きっとそうだ。
そう思い付くと、大分気が楽になった。
「――浩美、お風呂、入んな」
と、呼びに行く。
バスタオルや着がえもエリの物を用意して浩美を先にお風呂に入れると、エリはコンサート会場で買ったプログラムをソファでめくっていた。
玄関のチャイムが鳴る。――こんな時間に?
インタホンに出ると、
「夜分失礼します。奥さんですか」
と、男の声がした。
エリはちょっと迷ったが、「両親は出かけてます」と返事をしたら、危いかもしれない、と思った。
「今、母はお風呂ですけど。どなたですか」
返って来た言葉は意外なものだった。
「警察の者です。ちょっとお話をうかがいたくて」
警官? どうしてそんな人が?
ともかく、放ってもおけず、玄関へ出て行ったが、チェーンをかけたまま、そっと細くドアを開け、
「――あの、すみませんけど、証明書、見せて下さい」
と言った。
「や、お嬢ちゃん? こりゃ失礼」
大分|年《と》|齢《し》をとった感じの男だ。エリの言うままに、ちゃんと身分証を中へ入れてくれた。
「村内さんですか」
と、エリは言った。「今、開けます」
ドアを開けると、村内という刑事は、チラッと並んだ靴を見た。
「ご両親は?」
と、訊く。
「あの――二人で旅行に行ってます。今、友だちがお風呂に」
「なるほど、いや、ここで充分」
と、エリがスリッパを出すのを止める。「お父さんの名は、山上……忠男?」
と、手帳を見ながら訊く。
「はい」
「見たことのある名だ」
「TVとか、出てますから、時々」
「ああ、それでね」
「コンサルタントです。経営者の人たち相手の」
「そうか。何度か見てるよ」
と、村内という刑事は肯いて、「君は……一人っ子?」
「はい。エリです。母は秀子」
「お母さんも旅行だね」
「はい。母の誕生日なんです。で、二人で温泉に」
「やあ、そりゃ|羨《うらやま》しい。君は留守番か」
「邪魔したくないし、父と母のこと」
エリの言い方に、村内は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「君のように理解ある娘がいるといいね」
「あの――何かご用ですか」
「いや、大したことじゃないんだが……」
と、村内は少しためらって、「――お父さんはいつ帰られる?」
「月曜日です。昼ごろには。でも、たぶんここへ寄らないでオフィスへ行くと思いますけど」
「そうか。――じゃ、そっちへうかがうことにしよう。なあに、大したことじゃないんだ。ここの家の電話番号が、ある事件に絡んで出たものでね」
「何の事件ですか」
「君は知らなくてもいいよ。きっと、でたらめに言った番号が、たまたまここと同じだったんだろう。――山上エリ君、といったかね」
「はい」
「びっくりさせてすまなかったね。――じゃあ」
村内という刑事が帰って行く。
エリは、鍵をかけながら、何だか落ちつかない気分だった。――刑事がやってくるというのは、やはり当り前のことではない。
居間に戻ると、電話が鳴った。
「――はい。――あ、ママ」
「どうしたの? 浩美ちゃんのところに泊るんじゃなかったの」
「浩美がこっちへ泊るって言うから、構わないでしょ?」
「そりゃいいけど。――ちゃんとご飯食べたの?」
「しっかりね。お腹一杯」
「そう。何も変ったこと、ないわね」
エリは少し間を置いて、
「うん。別にないよ。パパは?」
と、訊いていた。
そして、ふと思い付いた。
あの妙な女の電話……。あの女は、「エリちゃん、一人じゃないの?」と訊いた。
どうしてあの女は、エリが一人だと[#「一人だと」に傍点]思ったのだろう?
パパとママが出かけていることを、知っていたのだろうか……。
13 成り行きの男女
「あら、早かったのね」
スナックへ入って来た村内を見て、君原令子は言った。
「うん。――会いたい相手は出かけてた」
村内は、君原令子の隣の|椅《い》|子《す》に座って、「これからどうする」
「アパートに帰る」
君原令子はカクテルを飲み干した。「くたびれちゃったわ。あの人と話してるだけで」
「安西か」
村内は苦笑して、「困ったもんだ」
「笑いごとじゃないわ。犯人扱いだもの。頭にくるわよ」
安西にとっては、「手がかり」はどんな方法でも手に入れなくてはならないものなのである。証人を犯人扱いしていれば、快く協力してもらうわけにいかないが、安西ははなから、そんなことを期待してはいないだろう。
「これですむのかしら」
と、令子が不安げに、「お店にまで|訊《き》きにくるのよ。やめさせてくれない? ママが迷惑がってるし、|下《へ》|手《た》すりゃクビよ」
「|俺《おれ》が言ってもむださ」
と、村内は肩をすくめた。「その内、他に何かいいエサを見付けて食らいついて行く。それを待つしかないね」
「ありがたいお言葉」
と、令子がため息をつく。
スナックの料金は村内が払った。二人は外へ出ると、ちょっと立ち止る。
「送ろうか」
「でも、|狼《おおかみ》にならない?」
「ならないさ。刑事だぞ」
「|却《かえ》って心配」
と、令子は笑った。「じゃ、送ってくれる?」
令子が腕を絡めてくる。村内は少々照れた……。
タクシーを拾い、令子のアパートへと向う。
「今度の事件と関係あることで行ってみたの?」
と、タクシーの中で令子は訊いた。
「君には関係ない。余計なことは知らない方がいいよ」
村内は、その辺のけじめをつける。年齢のせいもあるかもしれないが、無用の危険に、関係者をさらさないための自制心である。
しかし、あの子――エリといったか――はしっかりしていた。仕事とは直接関係なくても、ああいう子に会うと、村内は|嬉《うれ》しくなってしまうのである。
しかし、本当ならこんな|呑《のん》|気《き》なことをしてはいられないのである。安西刑事の方は、今夜もたぶん捜査本部へ泊り込んでいることだろう。
水野智江子、そして不動産屋の栗山と続けて殺されたことで、事件は大きなニュースになりつつあった。
しかも、犯人の手がかりは一向につかめていない。水野智江子を囲っていた男が|誰《だれ》なのかも、さっぱり分らないままである。これでは、「上の方」が不機嫌なのも当然だろう。
捜査へ投入された人員がふえたおかげで、安西はますます村内のことなど気にしなくなっていた。村内の方は気が楽だ。
もちろん、安西は怒るだろう。あの栗山が渡した電話番号のメモを、村内は自分で持っているのだから。
しかし、村内はちゃんと電話の主がしばしばTVにも出る山上忠男だと調べていた。そして、どうやら山上と水野智江子の間に何の関係もないらしいということも、分っていたのである。
そこまで調べてから、今夜初めて会いに行った。相手は有名人だから、姿をくらます心配はまずない。
会えなかったのは残念だったが、実際のところ、山上が水野智江子を囲っていたとは思えなかったし、その男が適当な電話番号をでっちあげ、それがたまたま山上の所と同じだった、と考えた方が自然である、と村内は思っていた。
もちろん、一応、山上本人にも会う必要があるだろうが、大して意味はあるまい。
安西がもし、このメモを手に入れていたとしたら、何も調べずにいきなり山上を直撃し、半ば犯人扱いしたかもしれない。いや、きっとそうしただろう。この君原令子にしたのと同様に。
村内は、メモを安西へ見せなくて良かった、と本心から思っていた。あのエリという娘を傷つけずにすんだからである。
「――そこだわ」
と、君原令子が言った。
タクシーが道のわきへ寄せて|停《とま》る。
「じゃあ……」
と言って、君原令子は村内を見た。「もし良かったら……寄って行く?」
運転手が待っている。迷っている余裕はなかった。
「そうするよ」
と、村内は言って、料金を払い、タクシーを降りた。
夜の道に二人は突っ立っていたが、
「――いいのか?」
「だって、もうタクシー、行っちゃったわよ」
と言って、令子は笑った。
「そうだな」
村内は、君原令子の肩に手をかけて、歩き出した。
「お疲れさん」
と、津田は手を振った。
「飲んで行きませんか、津田さん」
と、若い同僚が声をかける。
津田は首を振って、
「医者に止められてるんでね」
と言った。「じゃあ」
「気を付けて」
――言ってしまえば簡単なものだ。
夜の道を歩きながら、津田は自分が何歳も若返ったような気がしていた。
皮肉なものだ。――前には、「まだ若い」と見せつけるために、わざと深酒を自分に強いたりしたものだ。しかし、今、自分が「もう若くない」と認めてしまうと、アルコールの誘いを断ることが苦でも何でもなくなった。
そして、アルコールを断ってから、津田は急に体が軽くなったような、快適な日を過しているのである。
職場を移ることを、あんなに怖がっていたのに、今となっては、どうしてこんなことが怖かったのか、不思議でならない。
ネオンの灯が背後に遠ざかって行く。
週末なので、少し長い残業をしていたが、ほとんど疲れは覚えていない。明日は郁代を連れて、どこかへ出かけようか、などと考えている。
前の会社にいたときは、思いもよらなかったことである。
確かに、新しい職場へ移った初日は、戸惑いも不安もあったが、女の子の多い職場で、前のような殺気立った空気はなく、三時には休憩時間にみんなでケーキを食べるという、おっとりしたムードだった。
それなりに給料は高くない。しかしアルコールに使っていた金を考えたら、たぶん手もとに残る金額はむしろ多いくらいだろう。
二、三日たつと、もう津田は女の子たちと冗談を言い合えるようになっていた。仕事にも慣れた。何より、互いの足を引張り合ったり、出世を|妬《ねた》んで口もきかないといった空気のないことが、嬉しかった。
それほど大きな会社ではなかったのと、今の社長が、
「趣味は各自で持って、休日には充分休む。休日の面倒までは会社ではみない」
という主義の持主だからだろう。
郁代も、すっかり元気になった。昔の郁代の面影が戻って来た。それは、津田にとっても、びっくりするほど感動的なことだったのだ……。
「――ねえ」
と、暗がりから声がした。
津田は少し行って、足を止めた。
「僕のこと?」
「そう」
女が一人――フラッと暗がりから現われた。
帽子を目深にかぶって、顔がよく見えない。
「何か用かい」
「少し付合って下さらない?」
女の話し方は、いわゆる「客を引く」類の、甘ったるい口調ではなかった。発音もきれいで、知的なしゃべり方だ。
「残念だけど、他を当ってくれ」
と、津田は肩をすくめて、行きかけた。
「少しでいいんだけど」
「その気はないよ。もっと元気のいいのを|狙《ねら》ったらどうだい?」
と、津田は言った。
「あなたでないとだめなの。津田さん」
津田は、面食らった。
「――誰だ、君は?」
「大切なお話が――。道端じゃ、話ができないわ」
津田は、どこかでその声を聞いたことがあるような気がした。――どこでだろう?
「何の話かね」
「あなたが前に勤めてらした会社のことで。情報がほしいの」
「あの会社のこと?」
「|只《ただ》で、とは言わないわ。ちゃんと支払いはする」
津田は首を振って、
「何を訊きたいのか知らないけどね、僕はそんな売れるほどの情報は持ってない。おあいにくさま」
と言うと、女に背を向けて、足早に歩き出した。
待てよ……。津田の足が止る。
「あの声――」
振り向いたとき、女の姿は目の前にあった。
アッと声を上げる間もない。刃物が津田の腹に突き立っていた。
「おい! 何を――」
鋭い痛みに、体を折った。女はタタッと小走りに去って行く。
「おい…。誰か……」
津田はよろけた。傷口を押えた指の間から血が|溢《あふ》れ出る。
津田は、冷たい路面に、倒れた。
何ごとだ? どうしてこんなことが俺に……。
激しく|喘《あえ》ぎながら、津田は意識の薄れて行くのを覚えた。そして――足音?
誰かが来てくれた。郁代だろうか?
郁代……。助けてくれ……。
近付いて来る足音は、本物なのかどうか、津田にはもう判別する力がなかったのである。
14 暴 行
「あら」
と、大友久仁子はドアを開けて、「三神さん」
「どうも」
と、三神貞男は会釈した。「すみません、朝っぱらから」
「いいえ」
久仁子は急いでスリッパを出した。「どうぞ。――もう起きてたんです」
朝っぱら、といっても、もう十時を回っている。いつも久仁子は九時ごろ起きていた。
「――でも、今日は日曜日ですからね」
と、三神はソファに座りながら、言った。
「あら、そうでしたっけ」
久仁子はちょっと笑って、「何曜日って感覚がさっぱり……。いやね、まだそんなとしでもないのに。コーヒーでも?」
「お構いなく」
と、三神が愛想良く言った。「――じゃあ、お茶を。冷たいの、ありますか」
「ええ。走ってらしたの?」
「そうじゃありませんがね」
久仁子は、冷たいウーロン茶をグラスへ入れた。
三神は永田の部下だ。久仁子は、忙しくて出られない永田に代って、何度か三神から生活費を受け取ったことがある。
なかなか二枚目で、そつ[#「そつ」に傍点]のない男だ。
「――どうぞ。お菓子も何もなくて」
「いいんです。これ……」
と、三神が封筒をテーブルにのせた。
「永田さんから?」
「そうです。ご承知の通り、今、会社の中が大変で」
「聞いてます」
「専務も気にしておられるんですがね。なかなかここまで足を運ぶ時間が作れない、と言って」
「そんなこと……。私は何とかやっていけますから、と伝えて下さい」
「金額は大したことないけど、とおっしゃってました。ポケットマネーだから、と。その内、ちゃんといつも通りに入れるようにする、ということです」
「ありがとうございます」
と、久仁子は封筒を受け取って、頭を下げた。
「いや、僕に礼を言われても」
と、三神は少し照れたように笑った。「しかしあなたも大変ですね」
「ええ……。でも、ずいぶん体の方は良くなりましたわ」
「専務があなたの所へ来たがるのが分りますよ。何となく気持が安らぐんですね」
「まあ、お上手ね」
と、久仁子は笑った。「――三神さん、独身でしょ?」
「はあ、そうです」
「結婚なさらないの」
「さて……。暇も相手もないんじゃ、いつのことになりますかね」
ウーロン茶を飲み干して、「さて、これをお渡しすれば……」
と、立ち上る。
「わざわざすみません。お休みだったんでしょ?」
「いや、一向に構いません。することもなくてね」
と、玄関へ出た三神は、「おっと! 忘れるところだった。専務から言いつかって来たんです。こちらへ預けてある包み、受け取って来てくれと」
「包み?」
久仁子は、ここへ「包み」を出してくれ、と言いに来たあの男のことを、思い出した。しかし――三神は永田の部下だし、久仁子のこともよく知っているのだ。疑う理由もない。
「ええ。すぐ出せますか」
久仁子は、ちょっと考えていたが、
「ええ、出せます。お待ちになって」
と、寝室へ入って行った。
布団類を入れた戸棚を開け、奥から、|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》に包んだそれ[#「それ」に傍点]を取り出す。
戻ろうとしたとき、電話が鳴り出した。居間と寝室、どっちでも取れるようになっている。
ベッドのわきの電話を取った。
「はい。――もしもし。――あ、どうも」
永田からである。心配してかけて来たのだろうか。
「どうしてる?」
と、永田が|訊《き》いた。
「ええ、元気です。あの――すみません、いつも」
「いつも?」
「今、三神さんがみえて……。まだ玄関においでです」
「三神が行った? 知らないな」
久仁子は戸惑った。
「でも――あなたからって、お金を……」
久仁子は、チラッと玄関の方へ目をやって、「で、包みを出してくれと――」
「包み? 君に預けたやつか」
永田の声が鋭くなった。
「そうです。あなたが、持って来いとおっしゃったって……。違うんですか?」
少し間があった。
「――久仁子。三神を信用するな。あいつはどうやら|俺《おれ》を追い落とそうとする連中についてる」
「まあ……」
「ともかく、その包みは渡さないでくれ。今、俺もそっちへ行く」
「分りました」
久仁子は電話を切った。――通話が、三神に聞こえなかっただろうか?
久仁子は、寝室の中を見回した。
――玄関へ戻ると、三神が少し|苛《いら》|々《いら》した様子で、立っていた。
「やあ、どうもお手数を――」
と言いかけて、久仁子が手ぶらなのに気付く。
「すみません。やっぱりお渡しできませんわ、私」
と、久仁子は言った。
「何でです?」
「永田さんから、そう言われています。自分以外の人間には渡さないように、と」
「ですから、僕は永田専務から――」
「ええ、分ってます。ごめんなさい。でも、やっぱり|一《いっ》|旦《たん》ああ言われた以上、たとえ三神さんでもお渡しできないんです」
久仁子は穏やかに言った。「ごめんなさい、本当に」
三神は、無言でしばらく久仁子を眺めていたが、やがてフッと笑みを見せた。別人のような、冷ややかな笑みだった。
「電話がかかったと思ったら……。専務だったんだな」
と、肩をすくめ、「間が悪い、ってやつか」
「帰って下さい。永田さんがこっちへおいでになるそうです」
「といっても、時間はかかる。そうだろ?」
三神は、玄関の|鍵《かぎ》をかけた。「そんなに近くにいるわけはないしね」
「帰って!」
久仁子は後ずさった。「人を呼びますよ」
「|誰《だれ》を?」
と、三神は笑いながら言った。
靴を脱いで上り込み、久仁子を居間の中へと追いつめて行く。
「何するの……。永田さんはあなたのことを――」
「もうあいつはおしまいさ」
と、三神は首を振った。「こっちもね、いつまでも負け犬に付合っちゃいられないんだよ」
久仁子は、居間の隅へ追いつめられた。
しかし、これは久仁子の思い通りだった。少しでも三神をあの包みから、遠ざけておきたかったのだ。
「さあ、素直に包みを出しな」
「いやです」
と、久仁子は真直ぐに三神を見つめた。
「そうか」
三神の手が、久仁子の首にかかる。
「おはよう」
布団から起き上った山上は、秀子が|浴衣《ゆかた》姿で入って来るのを見て、
「おい、もう入って来たのか?」
と、|呆《あき》れた。
「そうよ。温泉に来てるのよ」
と、秀子は|濡《ぬ》れたタオルを干して、「入らなきゃ面白くも何ともないでしょ」
「しかし……。ゆうべも三回も入ったじゃないか」
「ええ。あなたが寝てから、私、もう一回入ったのよ」
山上は笑って、
「降参だ。とてもついてけんよ」
「あなたも入って来たら? 朝は空いてていいわ」
「いや、そう入っちゃ、脂っけが抜け切っちゃうよ」
――和風の造りだが、新しい建物で、食事などはレストランで取るようになっている。気をつかわずにすむし、快適だった。深い緑の中にあって、空気も澄んでいる。
昨日一日、二人はのんびりと近くの山を歩いたりして過した。
二人で観光旅行をしたことはあるが、こんな風に「何もしない」休みは初めてだった。
山上も、自分がそろそろ忙しく駆け回ってばかりいるのに疲れて来ているのだ、ということに気付いたのである。
「――まだ今日一日あるわ。ねえ、何して過す?」
と、秀子が鏡台の前でブラシを使いながら言った。
「そうだなあ……」
山上は|欠伸《あくび》をした。「何でもいい。何もしないのもいいしな」
「そうね」
と、秀子は笑った。
山上は妻の浴衣の後ろ姿を、布団に寝そべって眺めていた。
「――何を見てるの?」
「いや、なかなか色っぽいな、えり足の辺りなんか」
秀子は、ちょっと声を上げて笑った。
「もう見飽きたでしょ。結婚して十六年もたつのに」
「いや、そんなことないさ」
「そう?」
秀子は振り向いた。
――秀子はどうしたんだろう? 山上は、今まで知らなかった妻の顔に、半ば驚き、同時に戸惑いも覚えていた。秀子はゆうべも自分から山上の布団の中へ入って来た。
新婚当時だって、こんなに熱心じゃなかったような気がする。いや、秀子はずっと、自分の気持を殺すことに慣れているところがあった。それが……。
山上は、鏡台の前から離れた秀子が浴衣の帯を解くのを、目をパチクリさせながら見ていた。
「――朝だぞ」
「誰も起こしに来ないわ」
秀子は、夫の方へかがみ込んだ。「それに、あなた、どうせお風呂へ入るんでしょ」
「ああ……。後でな」
「じゃ、その前に汗をかいて」
二人は折り重なって倒れた。――山上は、充分に汗をかくことになった。
「おはようございます」
――耳に快い声である。
レストランで朝食をとっている山上と秀子の所へ、この旅館の支配人がやって来た。
ホテル式に〈マネージャー〉という名札をつけた、紺のスーツの女性である。
「どうも……」
二杯目のご飯を口に入れたところだった山上は、あわててのみ込もうとして、目を白黒させた。
「失礼しました」
と、その女性は|微《ほほ》|笑《え》んで、「お邪魔するつもりではなかったんです。ごゆっくり召し上って下さい。いかがですか、ご滞在のご感想は?」
「とても落ちつきますわ。すてきな所」
と、秀子が答える。
「ありがとうございます」
山上のように、特別に有名人というわけでなくても、TVでいくらか顔を知られているというだけで、見知らぬ人から|挨《あい》|拶《さつ》されることは珍しくない。
しかし、このマネージャー――名札を見て、平松弓子という名前だと知ったが――のように、決して押し付けがましい印象を与えない人間は、珍しい方に属する。たいていはいやになれなれしいか、でなきゃ見当外れのお世辞で、山上をうんざりさせるのだ。
「申し遅れまして」
と、平松弓子は名刺を出して置いた。「何かございましたら、いつでもお申しつけ下さい」
「恐縮です」
と、山上は会釈して、「仕事のことは忘れようというわけで、名刺を持っていません。|悪《あ》しからず」
「それは理想的な休暇ですね」
と、平松弓子は言った。「ここにも、よく有名な方がおいでになりますけれど、ほとんど皆さん、ファックスだの電話だの、忙しそうになさっておいでです。あれじゃ、お休みにならないようですわ」
「忙しがることで、本人も安心してるんです、日本のVIPたちは」
「おっしゃる通りですわ。先生はどうぞ奥様孝行をなさって下さい」
平松弓子は一礼して、他のテーブルへ回って行く。
「――プロって感じだな」
と、山上は言った。
「そうね、五十歳くらい? きびきびして気持いいわ」
と、秀子も感心している。
「ああいう女性を見ると、男なんかかなわないって気がするな」
実際、一旦上に立つと、男はたいていその座に安住してしまい、努力というものを忘れてしまう。地道にやって来ることの多い女性の方が、その点、ずっと謙虚である。
「さて――どこか、少し車で回ってみるか」
と、山上は言った。
「そうね、私、どっちでもいい」
「どっちでも?」
「あなたのそばにいられれば、ってことよ」
それを聞いた山上の方が、少し顔を赤らめたりしている。
タクシーに乗ったのが|却《かえ》って失敗だった、と永田は思った。
電車にしておけば、もう少し早く着いただろう。日曜日で、いつもと道路の混み方が全く違うのを、計算に入れていなかったのだ。
やっとマンションの前でタクシーを降りて、中へ駆け込む。買物に出るらしい中年女性が、すれ違って目を丸くしていた。
大丈夫だろうか? ――久仁子!
「久仁子!」
玄関のドアを開ける。鍵はかかっていなかった。――上り込んで、
「久仁子! どこだ?」
と、居間を|覗《のぞ》き込み、息をのむ。
ソファもTVも引っくり返されて、室内は竜巻でも通り過ぎた、といった様子。
「久仁子……。三神の|奴《やつ》!」
吐き捨てるように言って、永田は、寝室へ入った。久仁子はベッドにうつ伏せになって動かなかった。全裸で、背中に血のにじんだ傷跡がいくつも見える。
「久仁子……」
永田がそっと近付くと、久仁子がかすかに頭を動かした。「――しっかりしろ」
永田は、久仁子の体を支えて、起き上らせた。背中の傷に触れると、久仁子は鋭く息を吸い込んだ。
「痛むか。――救急車を呼ぶから、じっとしてろ」
と、永田が言うと、久仁子は首を振った。
「大丈夫です……」
と、かすれた声が|洩《も》れる。「あの人が……」
「三神がやったのか! あいつ、ただじゃおかん!」
永田は顔を真赤にして、体を震わせた。
「抵抗したら……もっとひどい目にあうと思って……。すみません」
と、久仁子は細い声で言った。
「謝るのは、俺の方だ」
永田はため息をついた。「君に預けるんじゃなかった。こんなことになると分ってたら……」
「あの包み――」
「いいんだ。君のせいじゃない」
「いいえ」
久仁子は首を振った、「いいえ。――あの人、見付けられずに……。それで背中に傷を――。でも、私、言う前に失神してしまいました。きっと、まだあそこ[#「あそこ」に傍点]に」
「そうか。――隠してくれたのか」
永田は手を貸して久仁子を立たせると、「さあ……。傷の手当をしよう」
と、裸の体にそっとガウンをかけてやり、居間へ連れて行った。
「待って下さい」
久仁子は、よろける足どりで、台所へ入って行き、冷蔵庫を開けた。
「何してるんだ? 何もいらんぞ」
「いえ……。この中に包みを」
「冷蔵庫に?」
「当然、中も覗いたでしょう」
久仁子は冷凍庫を開けた。白い冷気がフワッと舞い下りてくる。
ビニールでくるんだ、大きな肉の塊があった。久仁子はそれを取り出すと、流しへ置き、中身を出した。
「薄切りの肉があったので、それでまわりを包んだんです」
凍ってはりついた肉をはがすと、あの包みが現われた。「急いでやったけど――おいしそうにできました」
久仁子の言葉に、永田は一瞬立ち尽くし、そして笑うと、背中に触れないようにして、そっと久仁子のかぼそい体を抱いた。
「すまなかった……」
永田は指で久仁子の髪を、そっとなでながら、そう言った。
15 予 知
「もう帰らないとな」
と、村内が言うと、台所に立っていた君原令子がちょっと笑って、
「ゆうべもそう言ったわよ、あなた」
と言った。
「そうだったか?」
村内もつられて笑う。
どうも、あまり人に見られていい格好とは言えなかった。村内は昨日から敷きっ放しの布団の中で、モゾモゾしており、君原令子は寝間着姿で冷凍の肉マンをふかしたりしている。
今日が何曜日で、今が何時なのか、村内にはよく分らなかった。いや、少し考えれば、日曜日の夕方で、たぶんもう五時か六時にはなる、と分るのだが、そんなことを知りたいと思わないのである。
本当なら、こんなことをしてはいられない。捜査本部へ戻らなくては。
大方、安西が村内のいないことに気付いて、また色々と想像をめぐらせていることだろう。
村内も、君原令子の所にこんなにのんびりするつもりはなかったのである。それがどうして――と|訊《き》かれても返事に困るのだが、要するに「君原令子と思いがけず気が合った」のだとしか言いようがない。
もう五十二歳になる村内から見れば、多少老けて見えるとはいっても、令子は娘のような年齢だ。それでも何だか昔なじみの女のように、いわば「フィーリング」がぴったりくるのである。
正直、村内は自分でもびっくりしていた。事件の関係者とこんな仲になることは、問題がある。そんなことは充分に承知だが――。
「はい、肉マン、ふかしたわ」
と、令子が、皿に熱い湯気を立てる肉マンをのせて持ってくる。「食べる?」
「そうだな……」
村内は、大きく息をついた。
「――変ね」
と、令子は|頬《ほお》づえをついて、村内を眺めた。「こんなに年齢が違うのに、何だかあなたといるとホッとする」
「ああ、こっちもだよ」
と、村内は言った。「しかし、これ以上になると、段々ボロが出る。この辺で引き上げた方が利口だな」
「用心深いのね」
「そうじゃない。潮どきを心得てるだけさ」
その割にゃ、落ちついているじゃないか。村内の中で、もう一人の村内がそう冷やかしている。
「|旨《うま》い」
村内は肉マン一つ、ペロリと食べてしまった。令子も食べながら、
「――その元気なら、もう一回ぐらい私のこと抱いてくれるでしょ?」
「おい、こっちの年齢を考えてくれよ」
と、苦笑しながら、村内は内心、あと一回どころか、二回でも――などと考えていた。
玄関のドアを|叩《たた》く音がした。
「はい?」
「お荷物です」
「はあい。ちょっと待って。――ね、布団に入ってて」
「うん」
村内は布団へ入り、頭までかぶったが……。
今の声。――あいつだ。
パッと顔を出すと、ドアが開いて、
「やっぱりね」
と、安西が言うのと同時だった。
「あんたなの」
と、令子がむくれた。「|嘘《うそ》ついて!」
安西は令子を無視して、
「村内さん。――課長が気にしてますよ。一体村内はどこへ行っちまったんだ、ってね」
「そうか」
と、村内は起き上った。「じゃ、報告するんだな」
「しますとも」
と、安西は厳しい目つきになって、「事件の関係者と、こういうことになるなんて、課長が一番いやがることだ。分ってるでしょ」
「あんた、言っときますけど、私とこの人のことは純粋にプライバシーの問題よ」
と、令子が口を挟んだ。
「村内さん」
安西は、あくまで令子に目もくれない。「こんな女にかばってもらえて、幸せですね」
「まあね」
村内はちょっと笑って、「すまなかった、もう捜査本部へ戻るところだったんだ」
「信じときましょう。表で待ってます」
「ああ。すぐ仕度して行く」
安西は、ちょっと肩を揺すって、部屋を出て行く。
――どっちも、窓に人影があって、中の様子をうかがっていることには気付かなかった。
「ごめんなさいね」
と、令子は、村内が服を着るのを見ながら言った。「私のせいで……」
「いや、君のせいじゃない。|俺《おれ》が悪い。安西に何と言われても仕方ないよ」
と、村内は上着に腕を通して、「楽しかった。ごちそうさん」
「肉マンのこと?」
「いや。どっちかというと、君のこと[#「君のこと」に傍点]だ」
令子が村内をひしと抱きしめて、胸に顔を|埋《うず》めた。
「また……来てくれる?」
「この次来るときは、失業中かもしれないぞ」
「いいわよ。食べさせてあげる」
村内は笑って、令子の鼻を、ちょんと指でつついた。
「こっちは海千山千さ。うまく言いぬけてみせる」
「そうね……」
「じゃあ」
村内は靴をはいて、表に出た。
――もう外は暗い。安西が足下の小石をけとばしていた。
「お待たせしたね」
と、村内が出てくると、安西は黙って歩き出した。
村内は、深呼吸をして、それから|大《おお》|欠伸《あくび》をした。
「――|呑《のん》|気《き》だな、村内さんは」
安西が、意外に好意を感じさせる口調で言った。
「すまんね、君一人に何もかもやらせて」
「そんなこともないですよ。――もう、事件に関しちゃ、僕の手を離れてる」
「離れた? どうしてだ」
「こう手がかりが出なくちゃね。上の方もやきもきしてます」
「そうか」
村内は|肯《うなず》いた。「栗山の事務所から、何か出たか」
「いえ。ろくなもんがありませんでしたよ。早晩、|潰《つぶ》れてますね、きっと」
二人はのんびりと歩いていた。安西も、もう急ぐ必要がなくなったのだ。
「まあ、焦らないことだよ。その内、どこかからポロッと意外な――」
村内の言葉を断ち切ったのは、夜の空気を貫く鋭い悲鳴だった。一瞬、二人は顔を見合せた。
「あれは、君原令子だ!」
村内が言った。
「行きましょう!」
安西が駆け出し、あわてて村内がそれを追って行った。
山上は、大浴場を出ると、ロビーのソファに|寛《くつろ》いでいた。
とはいえ、涼んでばかりいるわけにもいかない。――秀子は髪を洗うと言っていたから、まだしばらくかかるだろう。
山上はテレホンカードを持って来ていた。オフィスへかけてみるためである。
部屋の電話でかければいいようなものだが、「仕事を忘れる」と言った手前、秀子の前ではかけにくかった。
オフィスの電話へかける。草間頼子がメッセージを残してくれているはずである。
ピーッと音がして、向うでテープが回り始めた。
「奥様との旅、いかがですか」
と、ちゃんと頭に入っているのが、頼子らしいところだ。
「おかげさまで」
と、山上は小声で|呟《つぶや》いた。
いくつか、仕事上の連絡はあったが、明日、東京へ戻ってからで充分間に合う。
「よし」
と、切ろうとすると、頼子が追加のメッセージを入れていた。
「ニュースで見ましたが、津田さんが|誰《だれ》かに刺されました」
津田が? 刺された?
山上は突然の話に、面食らっていた。
「犯人は不明です。酔った上でのケンカか、とも言われているそうですが」
と、頼子は吹き込んでいた。「傷の具合、分り次第、テープに入れておきます」
津田が、刺されたって? どういうことだ!
「――病院が分りました。S大学病院です。重傷ですが、命は何とかとりとめそうという話です。詳しいことはお帰りになってから、また」
ピーッ、と鳴って、メッセージが終る。
酔ってケンカ、か。――しかし、もう酒はやめたと言っていたのに。
山上は、部屋から津田のうちへかけてみようと思った。重傷というのは気になる。
しかし、秀子を待っていなくてはならないし……。迷っていると、
「山上様」
「あ、どうも」
マネージャーの平松弓子である。山上は、
「夜も勤務ですか。大変ですね」
と言った。
「はあ。――奥様は、ご入浴でいらっしゃいますか」
「そうです」
「実は、ちょっとご相談したいことがありまして。お手間はとらせません」
「僕にですか? いや、構いませんけどね。家内が出てくるのを――」
「すぐすみます。よろしいでしょうか」
平松弓子の口調は、ただの相談ではない、という印象を与えた。何ごとだろう?
「いいですとも」
と、山上は肯いた。
「こちらへ」
平松弓子は、奥の細い廊下へと、先に立って歩いて行き、突き当りのドアを開けた。
小さな応接室のようなものだ。
「こんな所で失礼ですが」
「いや、別に……。それで、何ですか、ご相談というのは?」
と、山上は古びた|椅《い》|子《す》に腰をおろした。
平松弓子は、少しためらっていたが、
「――お気を悪くされては困るのですけど」
と、言い出した。「私も旅館業にもう三十年以上、たずさわって来ました。色々なお客様を見て来ましたし、あらゆる事件にもひととおり出会って来ました」
「そうでしょうね」
平松弓子は、ちょっと息をつくと、
「時間もありませんので、失礼を承知ではっきり申し上げます。奥様は死ぬおつもりだと思いますが」
――しばらく沈黙があった。
「今……何と? 家内が――死ぬ?」
「印象です。奥様のいつものご様子を、私は存じませんが、いつもあのように――はしゃいでおられますか」
山上はドキッとした。
「いや……。まあ、確かに、いつになくはしゃいではいますが……」
「これは直感だけで申し上げるのです。間違っているかもしれませんし、その方が、と思います。ただ――何度か、私も見たことがあります。心中するつもりでやって来た男女のお客様を」
「心中……」
「奥様のあの興奮のなさり方、せかせかと、くり返し入浴なさっているところ。――いつもああでしたら、とんでもない見当違いでしょうが、一見してハッとしたものですから……」
平松弓子は、目を伏せて、「お怒りは覚悟の上です」
と、付け加えた。
「いや……。あなたのように、長いこと大勢の客に接して来られた方の言葉ですからね。たとえ違っていたとしても、ご心配いただいたことには感謝しますよ」
「そうおっしゃっていただくと……」
「しかし、僕には妻がそんなことをする理由が思い付かない。――僕が知らないだけ、ということはあるでしょうが」
「とてもおとなしい奥様ですね。たぶん、自分の気持をじっと隠しておかれる方ではないでしょうか」
「その通りです」
その秀子が、このところ、何度も夫を求めて来る。山上は当惑しながらも、喜んでいたのだが……。
「――明日、お|発《た》ちですね。もうお帰りになるのですか」
「そうです。そうか、ということは、もし妻が本当に――」
と、山上は言いかけて、言葉を切った。
そして立ち上ると、
「もう出てくるころかもしれない。――恐れ入りますが、女湯の方で、呼んでみていただけますか」
「かしこまりました」
ロビーへ戻って、見回してみたが、秀子の姿はなかった。先に部屋へ帰るということはしない秀子だが、一応、山上は部屋へ行ってみた。戻った様子はない。
ロビーへもう一度出てみると、
「もう、浴場にはいらっしゃいません」
と、平松弓子が足早にやって来た。
「部屋にもいません。――どこへ行ったんだろう?」
山上の表情がこわばって来る。
平松弓子が駆けて行くと、玄関前の受付の女性と話をして、すぐに戻って来た。
「――奥様はお出かけになったということです」
「出かけた?」
おかしい。一人で黙って外出したりするはずがない。
「タクシーを呼ばれたそうです。どこへ行かれたか、調べましょう」
「お願いします」
山上の顔から、血の気がひく。いつしか、|膝《ひざ》が小刻みに震えていた……。
16 罪の眠り
旅館の車が|停《とま》ると、山上はドアを開けるのももどかしく、外へ飛び出した。
「ご主人で?」
と、タクシーの運転手らしい男が頭を下げる。
「山上です。あの……家内は――」
「中においでです。何もおっしゃろうとせんので……。こちらです」
「ありがとう」
山上は、その運転手について行った。
小さな町のタクシー会社である。いい加減古い型の空車が四、五台並んでいて、その奥にモルタル二階建の建物があった。どうやらそれが会社らしい。
ガタつく戸を開けて、
「どうぞ」
と、通してくれる。
中へ入ると、山上はすぐに秀子が隅の|椅《い》|子《す》に座っているのを見付けた。
運転手が数人、思い思いに時間を|潰《つぶ》している。――あとは事務机が二つ並べてあるだけだ。
秀子は、夫が入ってくるとチラッと顔を上げたが、目が合ったのは一瞬だけで、すぐにうつむいてしまった。
「――無線で連絡があったもんでね」
と、秀子を乗せていた運転手は言った。「途中、ちょっと停めたんです。便所へ行ってくるって言ってね。で、公衆電話からここへかけたら、奥さんが自殺しようとしてる、ってんで、仰天してね。――とっても、そうは見えませんでしたがね」
山上は、ともかく助かったんだ、と自分へ言い聞かせた。秀子は助かったのだ。
もちろん、なぜ秀子が死のうとしたか、山上には想像もつかない。しかし、ともかく今は助かっただけで充分だ。
「色々、おしゃべりもしましてね、ええ。そりゃこんな時間に、|燈《とう》|台《だい》へ何しに行くんだろ、とは思いましたよ。でも、まさかねえ。あそこは飛び下りの多い所なんだって知っちゃいますがね」
――山上は、秀子の前まで行って、しゃがみ込んだ。
この何日間かの、まるで子供のようにはしゃぎ、若返った秀子は、もうそこにはいなかった。――突然、十年も老け、少し小さくなったような妻の姿があるだけだった……。
山上が秀子の手にそっと自分の手を重ねると、白い小さな手はびくっとして、引っ込められた。山上はそれを追うように、しっかりと握った。冷たい手だった。
「秀子……。うちへ帰ろう」
秀子が顔をそむけた。放心したようにうつろだった顔に、切なげな表情が浮んだ。
「何も心配するな。エリも待ってる。そうだろ?」
秀子は、震える唇を、固くかみしめた。しかし、沈黙は少しも変らない。
「さあ。――行こう」
逆らうかと思ったが、意外に素直に立ち上ると、秀子は、夫に体重を預けるようにすがりついて、小さな歩幅で歩き出した。
運転手たちがじっと見ている。その視線を、山上は痛いほど感じた。
「――お邪魔しました」
と、外へ出るときに山上が声をかけると、
「よく見ときなせえよ」
と、運転手の一人が声をかけた。
よく見とけ、か。――全くだ。
あの旅館のマネージャー、平松弓子が出してくれた車に、秀子を乗せる。運転はホテルの従業員の男性がやってくれていた。
「――じゃ、旅館へお願いします」
車が夜の道をゆっくりと走り出す。
秀子の手を、山上はじっと握りしめていた。何も言わずに、秀子は外の|闇《やみ》を見ている。いや、たぶん目は向けても、何も見てはいなかったのだろう。
山上は、自分を責めていた。――|俺《おれ》は何をしてたんだ?
夫婦でいながら、妻が死ぬ決心をするまで悩んでいることに、全く気付かなかったのか。俺の目は節穴だったのか。
しかし――しかし、なぜだ?
なぜ、お前は……。秀子の横顔は、青ざめてひときわ白く、美しくさえあった。
「――奥様はおやすみになっておいでです」
と、平松弓子が、抑えた声で言った。「精神安定剤のせいで、ぐっすり眠られると思います」
「いや……何とも」
山上は、旅館の廊下を、一緒にゆっくりと歩きながら、「あなたのおかげです。何とお礼を言っていいか……」
「私はこういう仕事で慣れているからです」
と、平松弓子は、それでも|嬉《うれ》しそうではあった。
「それにしても、亭主の私が全く気付かなかったのに。お恥ずかしい次第です」
「ご無事だったんですから」
と、平松弓子は言った。「お宅へ戻られて、ゆっくりとお話を聞いて上げて下さい」
「そうしましょう。秀子も、子供に会えば、気が変ると思うんです」
「ぜひ、お元気になられて、またおいで下さい」
と、平松弓子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「――山上さん、少しおやすみにならないと」
「今夜はずっと家内のそばにいますよ」
「そうですか」
平松弓子は、それ以上すすめなかった。「もしお疲れで、眠られるようでしたら、いつでもフロントの者に連絡して下さい。代りに奥様のご様子を見ているように申しておきますから」
その心づかいは山上の身にしみた。
「そのときはよろしく」
と、ていねいに頭を下げる。
平松弓子は、初めて少し顔を赤らめた……。
――部屋へ戻ると、山上は妻の眠っている布団のわきにあぐらをかいて、座った。山上の分の布団もちゃんと敷いてあるのだが、やはり今夜は眠る気になれなかった。
眠っていると、秀子は無邪気にさえ見える。改めて、山上は秀子が助かって良かった、と思った。
もしあのまま秀子が自分の命を絶っていたら、山上はただ|呆《ぼう》|然《ぜん》とするだけで、一生なぜ妻を死なせてしまったか、悩みつづけなくてはなるまい。もちろん、これで家へ戻ったとしても、秀子がわけを話してくれるとは限らない。
しかし、どんな心の傷であっても、生きてさえいれば、いつかいやすことができる……。
秀子は静かな寝息をたてていた。――眠っている間は、幸せなのかもしれない。この数日、自分から夫を求めて来た秀子の気持が、いじらしかった。
「――そうか」
ハッと気付いた。もしかすると……。
秀子の荷物は小さなボストンバッグにつめてある。山上はその中身を一つずつとり出してみた。
「――これか」
白い、あて名もない、封書。中身が入っていることは、手触りで分る。
これが「書き置き」なのだ、おそらく。
山上はチラッと秀子の方へ目をやって、手もとの明りだけを|点《つ》け、少し緊張しながらその手紙の封を切った。
中には二枚入っていたが、二枚目は白紙である。そして一枚目は――。
〈 あなた。エリ。
こんなことをして、ごめんなさい。
何も|訊《き》かないで。何も調べないで下さい。
ただ、私が自分の罪を償ったのだというこ
とだけ、知っていて下さい。
幸せを祈っています。
[#地から2字上げ]秀子 〉
――これでは、あまりに簡単すぎる。
しかし、「罪を償う」とはどういう意味だろう? 死んでまで償わなくてはならない罪というのは、何のことなのか。
山上は、ますますわけが分らなくなって、穏やかな妻の寝顔にじっと見入っているのだった……。
「――本当に、もう大丈夫ですから」
と、大友久仁子は言った。
「しかし……」
永田はためらっている。
「ちゃんと|鍵《かぎ》もかけますし、|誰《だれ》が来ても、絶対に開けません」
と、久仁子は言って、少し笑みを浮かべ、「借金とりでも、知らんぷりしてますわ」
永田はちょっと笑って、
「分ったよ」
と、|肯《うなず》いた。
そして、永田の顔は怒りに|歪《ゆが》んだ。
「三神の|奴《やつ》! ただじゃおかん」
「ね、乱暴なことはやめて下さいね」
と、久仁子は永田の肩へ手をかけた。「何かすれば、向うの思う|壺《つぼ》です。何くわぬ様子でいて。――お願い」
「分った」
久仁子のマンションである。
三神につけられた、久仁子の背中の傷は一応病院へ行って、手当してもらった。うつ伏せに寝なくてはならないかもしれない。
「もうお帰りにならないと」
と、久仁子は言った。「お宅で心配されています」
「うん……。遅くなる、とは言って来てあるがな」
と、永田は言って時計を見る。
「でも、もう夜中です」
「どうせ女房は起きちゃいない」
と、永田は苦笑した。「帰らなくても、気にしやしないさ」
「でも、私が[#「私が」に傍点]気になるんです」
と、久仁子は言い張った。「ちゃんと帰って下さい」
「ああ。帰るよ」
永田はそっと久仁子の額に唇をつけた。「君はやさしいな」
久仁子は何も言わず、ただ微笑んだだけだった。
「じゃ、車を呼ぼう」
と、永田は電話を取ると、いつも使っているハイヤーをこのマンションの下へ呼んだ。
たいてい十五分ほどでやってくる。
「タクシーを拾ってもいいが、三神の奴、こっちの敵に回ったことを、もう知られてると分っているわけだからな。とんでもないことをしかねない」
「用心して下さい」
「ああ。――お茶でももらおうか」
久仁子が|嬉《うれ》しそうに、はい、と答えて台所へ立つ。
久仁子は、永田とあまり深刻な話をしない。――永田がここへ来るのは、気持を休めたいからだ。ここでも久仁子にあれこれグチを聞かされたらたまらないだろう。
だから、久仁子はできるだけ明るく、とりとめのない|噂話《うわさばなし》や、TVで見た芸能人の話題などをしゃべる。永田も、結構楽しげにそれを聞いているのだ。
「――ねえ」
と、久仁子はお茶をいれながら、言った。
「何だ?」
「これから――会社の方、大変なんでしょう」
「そうだな」
永田は肩をすくめて、「会社は大丈夫。その代り、誰かがクビを切られるのさ」
「あなたが?」
「どうかな。――ありがとう」
と、お茶を飲んで、「横領の事実はもう隠せない。となると、誰がいけにえ[#「いけにえ」に傍点]になるかだ」
「もし……」
と言いかけて、久仁子はためらった。
「うん?」
「私のことで、あなたが不利になるようだったら……。いつでも言って下さい。一日で、姿を消します」
永田は、ゆっくりと首を振って、
「そんなことはしない。大丈夫だ」
「もしも、です」
「もしも、でも、だ」
永田は、そっと久仁子の肩を抱いて、自分の方へ抱き寄せた。久仁子の細い体が、永田の腕の中へ倒れ込んでくる。
「君を泣かせたりしないよ」
と、永田は言った。
久仁子は、永田の胸にそっと耳を押し当てて、その鼓動を聞いていた。
永田の鼓動は、「|嘘《うそ》発見器」みたいに、早くなったり、遅くなったりする。久仁子にはよく分っていた。
永田に抱かれるようになってから、久仁子はあることに気付いていた――永田には他に「女」がいる。その女のことで、永田は苦しんでいる。
そういうことに、女は敏感なものである。ちょっとした|匂《にお》い、さりげない言葉、しぐさ、そして|愛《あい》|撫《ぶ》のときの、小さな手順の違い。
一つ一つの細かい破片をつなぎ合せると、久仁子にはちゃんと分るのだった。しかし、もちろん自分は永田の妻でも何でもない。そんなことで、永田を責める気にはなれなかった。
「――そっと」
と、背中へ回った永田の手を気にして、久仁子は言った。
「すまん。つい……」
「もうじき車が来ます」
「待ってるさ」
「でも――」
久仁子の口を、永田の口がふさぐ。久仁子は、逆らわずに、身を|委《ゆだ》ねた。
永田に呼ばれたハイヤーは、マンションの下で、三十分ほど待つことになった……。
17 夜の叫び
「パパ」
エリが、当惑したような顔で、立っていた。
「エリか。――学校は?」
「うん。もう終ったの」
エリは学生|鞄《かばん》を下げている。「クラブだけ休んで、帰って来た」
「そうか」
山上は|肯《うなず》いた。
病院は明るく、清潔で、あまり薬の|臭《にお》いもしなかった。しかし、それでもやはりそこは病院なのである。
「ママは……」
と、エリが言いかける。
「うん。――電話で言った通りだ」
「どういうこと? 自殺未遂なんて……」
「おいで」
山上は、エリの肩を抱いて、ソファを置いた一角へと連れて行った。
山上の話に、エリはただポカンとしているばかりだった。
「――じゃ、その旅館の人が言ってくれなかったら……」
「ああ。たぶん母さんは生きていなかったろう」
「――|嘘《うそ》みたい!」
と、体中で息をつく。「ママに、何があったの?」
「分らん」
山上は重苦しい表情で首を振った。「見当もつかない」
「――何か言ってないの、ママ?」
「黙ったままだ」
山上は、病室の方へチラッと目をやって、
「医者とも相談したが、ともかく本人はまだ『死にたい』と思っているだろう。うちへ置いても、一日中母さんのことを見張っているわけにはいかない」
「じゃあ……ずっとここに?」
と、エリは少し|怯《おび》えたように言った。
「とりあえず、だ。薬で気分を楽にさせ、あとは看護婦が見ていてくれる。――ここの院長はよく知ってる。母さんを大切に見てくれるはずだ」
そう言いながら、山上の目に突然涙があふれた。「――いや、すまん」
あわててハンカチを出して|拭《ふ》くと、
「ふがいない亭主だと思って、情なくてな」
と、苦笑する。
「でも――どうしてそんなこと……」
「これから調べてみる。そして、母さんが何をしたにしても、死ななきゃならんほどのことじゃない、と分らせてやる」
山上は力強く言った。「分るな」
「うん」
「よし。じゃ、お前も力を貸してくれ。できるだけ母さんを見舞って、そばにいてやってくれ。自分が大切な人間だってことを、母さんに納得させなきゃならん」
「分った」
エリはもう、ショックから立ち直っていた。しっかりと父親の目を見つめている。
「母さんが、早く退院できるように、頑張ろうな」
山上は、エリの肩をつかんだ。
「そうだね」
エリは肯いて、「――ね、パパ」
と、ふと思い付いたように、言った。
「何だ?」
「私、ママの本当の子だよね」
山上は面食らって、
「当り前だ。――よく似てるじゃないか。どうしてだ?」
「あのね……妙な女の人が――」
エリは、学校帰りに声をかけて来たり、この週末にも電話をして来た女性のことを、父に話した。
山上は、|眉《まゆ》を寄せて聞いていたが、
「妙な話だな。そんなこと、聞いたこともない」
と、首を振った。「――エリ。もし、今度その女から電話があったり、声をかけられたりしたら、どこかで会う約束をしろ。二人で会いたい、と言うんだ。そして、父さんに言え。いいな?」
「分った」
と、エリは言って、「パパ……浮気してるとか、そんなこと、ないよね」
「当り前だ!」
と、山上は力強く言って、つい声が大きく出すぎた。
「お静かに」
と、通りかかった看護婦にたしなめられて山上は赤くなった。
山上の顔を見ると、草間頼子は、
「メモ類は机の上です」
と言った。「アポイントメントは、一応全部保留にしてあります」
「ありがとう」
山上は、この有能な秘書が、同情の言葉などかけずに、仕事の話に入ってくれたのがありがたかったのである。
山上は|椅《い》|子《す》に座ると、一枚ずつメモを見て、返事を要するものと、単に断ればいいものに分けて行った。
たぶん、草間頼子にも、その区別はあらかたつけられるだろうが、あえてそれを分けておかず、山上の判断を仰いだところが、逆に頼子の気のつかい方なのだ。
「――こっちは断ってくれ」
と、山上はメモの一方の束を机の端に置いた。「あとは返事を考える」
「かしこまりました」
頼子が、その束を取って、早速処理し始める。
二人は沈黙したまま、しばらく仕事をつづけた。――口を開いたのは、山上の方だった。
「津田はどうした? その後、何か分ったかい」
頼子は顔を上げると、
「まだ意識がはっきりしないとか。――津田さんの奥様からもお電話が」
「そうか。こっちも、それどころじゃない」
と言うと、山上は、大きく息を吐いて、椅子の背にもたれた。「――疲れたよ」
「いかがですか、奥様?」
頼子が、初めて|訊《き》いた。
「しばらく入院だ。また[#「また」に傍点]やる恐れがあるからね」
と、山上は言った。「――コーヒーをいれてくれないか」
それがいわば「合図」のようだった。
コーヒーを一緒に飲みながら、山上は温泉地での出来事を語った。
「――私も責任を感じますわ」
「君が? どうしてだ」
「旅をおすすめしたのは私ですもの」
「ああ。しかし、どこにいても同じだったろう。それに、自殺しようとした原因が分らなきゃ、同じことだ」
「奥様は何もおっしゃらないんですか」
「貝のように口をつぐんでる。――古い言い回しかな」
と、山上はちょっと笑って、「ともかく、何にしろ亭主の僕に責任がないとは思えないよ」
「でも、所長。責任は奥様だけでなく、コンサルタントをされている各企業に対してもありますわ。お仕事をやめられてはいけません」
頼子の言葉に、山上はハッとした。――そう。山上の指導を待ってくれている中小企業もあるのだ。
少々のことではびくともしない大企業は放っておいてもどうということはない。しかし、小さな個人経営の事業主は、一日の違いで倒産することもあるのだ。
「――そうだな」
と、山上は肯いた。「仕事を絞って、つづけよう」
「お手伝いします」
と、頼子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「でも、毎日、遅くなっても、必ず奥様の所へお見舞に行かれることです」
「ああ。そのつもりだ」
山上は、コーヒーを飲み干した。心配しているだけで、秀子は元気にならない。きちんと仕事もこなしておくことだ。
「しかしね……。ともかく原因を探りたい。何か理由があるはずだ」
「お手伝いできることはいたします」
「すまんね。余計な仕事で」
「いいえ。でも、調べて分ったことを、私にはおっしゃらないで下さい。奥様の一番プライベートな部分に触れることですもの」
「そうしよう」
山上は、頼子の明快な言い方に感心していた。「――そうだ。倉林美沙さんから、何か言って来なかった?」
「特に何も。もう解決したんじゃありませんか? それならそれでご連絡があるかもしれませんけど」
「いや、片付きゃそれきりって女さ、あれは」
と、山上は言って仕事に戻った。
もちろん、今は倉林美沙と十二歳年下の恋人のことなど、構ってはいられない。しかし、何も言って来ないというのが、逆に少し気にはなった。
それに――あの〈情報屋〉からも何も言って来ない、というのは妙である。何か出たにせよ出ないにせよ、連絡はして来ているはずだ。
「この郵便、急ぐので、出して来ます」
と、頼子が出て行くと、じき電話が鳴った。
「もしもし」
〈情報屋〉の声である。
「やあ。今、ちょうど考えてたところだ。どうなってる?」
「すっかり手間どりまして」
と、少し恐縮している様子。「お出かけでしたか」
「うん、ま、色々ごたごたしてね。それはともかく――」
「三神はとんでもないコウモリですな」
「コウモリ?」
「永田という重役に罪をかぶせる|企《たくら》みだったようです。永田も、やっとそれに気付いて、反撃に出るってところですね」
「そうか……」
三神の正体を、美沙は知らないだろう。山上は少し気が重かった。何とか時間を作って、話してやるべきかもしれない。
「それから――」
と、〈情報屋〉が言いかけて、「今、お一人ですね」
「うん」
「実は、永田という重役の身辺を洗っている内に、意外なことが出て来まして」
「何だね?」
少し間があった。
「お目にかかって、お話ししたいんですが」
「分った」
と、山上は言った。
相手がそこまで言うのだ、出向いて行くしかあるまい。
「いつ、会える?」
珍しく、〈情報屋〉はためらっている。
「確証がほしいので……。三日後でいかがでしょう」
「結構。何かあったら、連絡してくれ」
「はあ。そのことは、くれぐれもご内密に」
と、念を押して電話を切る。
いやに声が近かった。この近くからかけていたのだろうか。
山上はちょっと首をかしげた。
永田という重役のこと、そしてあの大友久仁子のことを、ふと考える。――久仁子が、どこか妻の秀子を思わせるからである。
少し寂しげなかげ[#「かげ」に傍点]を持っていること。そして、自分の感情を殺すのに慣れた印象があること。
山上は、ふと、大友久仁子にもう一度会ってみてもいい、と思った。――しかし、ともかく妻のことが先決である。
山上が、メモにあった仕事について、一つずつ返事を考えていると、草間頼子が帰って来た。
「何かお電話、ありました?」
と、頼子が訊く。
山上は口を開きかけ、ちょっと迷ってから、
「いや。別になかったよ」
と、答えた。
「――お帰り」
エリが、玄関へ出て来た。
「ああ。――何か食べたか」
「うん」
山上は上って、「母さん、どうだ」
と、言った。
「泣いてたよ」
「泣いて?」
山上は振り向いた。「何か言ったか」
エリは黙って首を振った。
娘の様子が、普通じゃないということに、山上は気付いた。
「どうした。何かあったのか」
「別に」
エリは目をそらした。
「隠すな。母さんがあんなことになってるんだ。隠しごとなんかしてる場合じゃない」
「パパ」
エリは、真直ぐに父親を見て、「居間のテーブルに……」
「何だ?」
居間へ入ると、テーブルの上に、妙なものがのせてあった。
細かく裂かれた手紙である。それを、ジグソーパズルでもやるように、つなぎ合せ、テープで|貼《は》り合せてある。
「これは?」
「ママのクロゼットの|屑《くず》|入《い》れの中にあったの」
と、エリは言った。「それをティシューにくるんで、ギュッと丸めて、底の方へ押し込んであった」
「捜したのか」
「何かあるんじゃないかと思って……。でも――本当なの?」
山上は、貼り合されたその手紙を読んだ。かなり乱暴な、書きなぐった字である。
〈 秀子へ。
長いこと会ってないな、元気でやってるか。
オレの方はどうも具合が良くない。少し都合してくれないか。
お前に迷惑はかけたくないが、こっちも困ってるんだ。お前の亭主に、子供がオレの子だと知られたくないだろ?
オレも、そんなことはしたくない。とりあえず、百万ほど用意してほしい。
また手紙を書くよ。
[#地から2字上げ] 黒木 〉
何度も、山上は読み返した。
顔から血の気がひいたが……。しかし、何度読み返しても、当然のことだが、文面ははっきりしていた。
「パパ……」
と、エリが言った。「私、その人の子なの?」
「馬鹿な!」
と、山上は即座に言った。「こんなのはいたずらだ!」
「パパ――」
「当り前だろう。お前は|俺《おれ》の子だ!」
エリが山上の胸に飛び込んでくる。山上は細かく震える娘の体を、しっかりと両腕で抱きしめてやった。
18 銃 弾
もう夜中、二時を回っている。
少し、また|膝《ひざ》が痛んだが、我慢できないほどじゃない。村内は少し身をかがめて、膝をこぶしで|叩《たた》いた。痛みがあまり感じられない代り、しびれるような感覚があった。
こんな日は、仕方ないな。
湿り気の多い夜である。村内刑事は、駐車してある車にもたれて、少し離れたバーのネオンが消えるのを、眺めていた。
閉店か。――じきに出てくるだろう。
両手を、ゆっくり開いたり閉じたりしていると、血のめぐりが少し良くなるようでもある。
村内は、ホッとため息をついた。
「|俺《おれ》もやきが回ったか」
TVの刑事物にでも出て来そうなセリフを|呟《つぶや》いてみる。
――ゆうべ、君原令子のアパートを後にしたとき、突然の悲鳴に、安西刑事と一緒に駆け戻った。
令子は階段から転り落ちて、起き上れない様子だった。
二人で令子を助けて、部屋へ戻したが……。
令子の様子はただごとではなかった。青ざめ、明らかに|怯《おび》えていた。
「何があったんだ?」
と、村内は|訊《き》いた。「話してみろ」
村内は、少なくとも令子が自分を信じてくれていると思っていた。だから、
「足を踏み外しただけ」
という令子の答を聞いたときには、がっかりしてしまったのだ。
「そうじゃないだろう。|誰《だれ》かに突き落とされた。――そうだろ?」
やさしく訊いた。俺が守ってやる。そう言ったつもりだった。
しかし、令子の返事は同じ。
「自分で足を踏み外したのよ」
――村内にとってはショックだった。
令子とは、分り合っていると思っていたのである。単に寝た相手だからというのではなく、お互い、共通するものを持っていたのだ。
しかし、それも結局、何の役にも立たなかった。
そして、安西は冷ややかな笑みを浮かべて、そんな村内の傷心ぶりを眺めていたのだ……。
――今夜、令子はいつもの通り店に出ている。
村内は令子が出てくるのを待っているのだった。待っていてどうするのか、自分でも良く分らない。ともかく来ないではいられなかったのである。
店の明りが消え、一人、女が出て来た。目をこらしたが、令子ではない。
そのとき、ふと人の気配に振り返った。
「君か」
安西が、ポケットに両手を突っ込んで立っていたのである。
「こたえませんか、体に」
と、安西は言った。
「俺の勝手さ」
と、村内は肩をそびやかす。「どうしたんだ」
「いや、どうせ暇でね」
捜査が行き詰っているのは事実である。水野智江子、栗山、と二人も死んでいるのに、手がかりらしい手がかりもない。
上の方からは、大分|苛《いら》|立《だ》った指示も出ていた。しかし、指示が出たからといって、何が変るわけでもない。
「出て来ましたか」
「いや」
と、村内は首を振って、「――俺が甘かったのかな」
と、呟くように言った。
「分りませんよ、僕だってね」
安西は、いつになく淡々としている。
「何かあったのか」
と、村内は言った。
「別に何も」
安西の言い方は、とらえどころがなかった。「――誰か出て来ますよ」
出て来たのは、どうやら君原令子らしい。
「おやすみなさい」
と、店の中へ声をかけている。
「あいつだ」
と、村内は|肯《うなず》いた。
「どうですかね。もし、あの女が突き落とされたとしたら、犯人がまた|狙《ねら》ってくると思いますか」
「どうかな」
村内も、それは考えていた。しかし、令子がそんなに重要なことを知っていたのだろうか? 村内には不思議だった。
「|尾《つ》けましょう。せっかく見張ってたんだ」
「ああ、そうだな」
二人はちょっと顔を見合せ、そして笑った。
二人の間の「わだかまり」のようなものが、フッと消えたようだ。
少し間隔を置いて、二人は令子の尾行を始めた。
こんな時間の尾行は楽ではない。人ごみに紛れて見失うという危険はない代り、近付きすぎるとすぐに気付かれてしまう。
令子は、足どりを速めて、帰りを急いでいるという様子だ。不安げではない。周囲を気にしているとも見えなかった。
では、やはり突き落とされたのではないのだろうか?
村内は、微妙に揺れる気持のまま、令子の足どりに合せるのに苦労していた。
膝が痛む。何とかこらえてはいたが、足どりが速くなると、少し|辛《つら》い。
「大丈夫ですか」
と、安西が言った。「僕一人で行きましょうか」
「いや、平気だよ。いつもの付合いだ。そういう痛みとは、付合い方ってもんがある」
村内は自分へ言い聞かせるように言った。
道は暗い。あまり離れると、見失ってしまいそうだ。
「少し間をつめよう」
と、村内が言ったときだった。
バン、と短く、乾いた音が響いて、令子がよろけた。――一瞬、村内と安西は棒立ちになった。
「撃たれた!」
「畜生!」
暗がりの奥に、タッタッと足音が聞こえた。二人が一斉に駆け出す。
村内の膝に「一撃」が来た。銃弾を撃ち込まれたかと思うほどの痛さ。思わず声を上げてよろめく。
「村内さん! その女を!」
安西が振り向いて叫んだ。「僕が追います!」
「気を付けろ!」
と、村内は安西の背中へ向けて怒鳴ったが、聞こえていたかどうか。
村内は、痛む足を引きずるようにして、うずくまっている令子の方へと急いだ。
「おい、大丈夫か!」
と、声をかける。
「あ……。痛い……」
と、うめくように言って、令子は村内を見上げた。「血が……」
「どこだ?」
抱き起すようにして、令子の傷を見る。「腕だ。大丈夫。死にやしない」
「死ななきゃいいの? 痛いのよ!」
と、令子は泣きべそをかいている。
「待ってろ。すぐ救急車を呼ぶ」
ハンカチをとり出し、令子の腕のつけ根をきつく縛った。
「乱暴にしないでよ……」
と、令子が文句を言った。
「文句を言う元気がありゃ大丈夫」
そこへ足音がして、
「まあ、令子ちゃん、どうしたの?」
あのバーのマダムである。
「良かった。救急車を呼んでくれ」
と、村内は言った。「撃たれたんだ」
「ええ? 大変! じゃ――お店に戻ってかけるわ。その方が――」
「頼む。急いでくれ」
マダムが駆け戻って行く。
「立てるか?」
「痛い……」
「よし、じっとしてろ。ここへ来てもらおう」
村内はホッとしていた。
いや、撃たれた令子の方はホッとするどころではないだろうが、ともかく命には別状なかったのだ。もし、これが心臓でもやられていたら……。改めて村内はゾッとした。
そのとき――銃声がした。
大分離れてはいたが、反射的に頭を下げようとする。そうだ、安西の|奴《やつ》!
令子を残して行くのもためらわれて、迷っていると、あのマダムが戻って来た。
「今、救急車が来ます」
と、息を弾ませて、「令子ちゃん、大丈夫?」
「ちょっと見ててくれ。もう一人が犯人を追いかけてるんだ」
村内はそう言って安西の後を追った。すると、
「気を付けて!」
と、令子が声をかけてくれたのである。
その一言が、痛む膝のことを、|束《つか》の|間《ま》忘れさせてくれた。
しかし――数メートル行った所で、村内は足を止めた。安西がフラッと戻って来たのだ。
「おい、どうした? 銃声がしたぞ」
「ええ」
安西は、何だか少し酔ってでもいるような歩き方をしていた。
「逃げられたのか」
「そう……。待ってやがったんですよ。畜生! 暗くてよく見えなかった……」
「安西――」
村内は自分の目を疑った。安西が――あの頑丈そのもののような体が――フワッと紙きれか何かのように倒れたのだ。
「おい。――安西。大丈夫か」
大丈夫でないことぐらい、分っていた。しかし、そう思いたくなかったのである。
やめてくれ! やめてくれ! こんなことが……。こんなことがあるはずはない。
村内は、痛む膝をかばいつつ、かがみ込んで、安西の手を取った。
うつ伏せに倒れた安西の体の下に、血だまりが広がって行く。
もう、脈拍も感じられなかった。
「こんな……。馬鹿げてる」
と、呟くと、村内は立ち上った。
膝の痛みは消えていなかったが、それは誰か全く別の人間のもののようだ。
道に座り込んでいる君原令子が、戻って来る村内を見て、
「どうしたの、あの刑事さん?」
と、弱々しい声で言った。「けがでもした?」
「死んだ」
ポカンとした、間。
「――|嘘《うそ》でしょ」
「俺よりずっと若かったのに……。俺の膝が――。畜生! 俺の膝が……」
村内は、よろけて、電柱にぶつかった。そして電柱を|拳《こぶし》で殴りつけた。
「ねえ。――やめて!」
と、令子が叫ぶ。「お願いよ。やめて!」
村内は殴りつづけた。拳は焼けるように痛んだが、それがむしろ救いのように感じられていたのだ。
「やめて……。やめてよ」
令子が泣き出した。
遠くから、救急車のサイレンが聞こえて来る……。
19 軽やかな誘惑
この辺りか……。
住所を書いたメモを見直して、山上は半ば絶望的な気分に陥りかけた。
並んでいる、というより、「ひしめき合っている」と言った方が正確かもしれない安アパートの群。――少し大げさに言えば、目の前の光景はそういうことになる。
もっとも、アパートは互いに支え合ってでもいるようで、もし一つがとり壊されたら、一斉にバタバタと倒れてしまうかと思えた。
「――しっかりしろ」
と、山上は自分に向って言った。
はっきりさせるのだ。秀子のためにも、エリのためにも。
山上は、一つ一つのアパートの名前を確かめながら、歩き出したが、それがまた容易なことではない。何しろ、アパートの名や住所の表示がまともに読めないのである。消えかかっていたり、いたずら書きでほとんど見えなくなってしまっていたり……。
しかし、一つ一つ、丹念に見ていけば、その内には必ず……。
障害はそれだけではない。夕方の買物どきにぶつかってしまったらしく、大きな買物袋やショッピングカートを引いた(それもたいていは|錆《さ》びついてギイギイ耳ざわりな音をたてている)奥さんたちが、ぶつかり合わんばかりに行き来していたり、立ち止ってはおしゃべりしていたりするのだ。
これらのアパートのどこかにいる。――あの男は。
〈黒木〉という名前には|憶《おぼ》えがあった。
山上が勤めていた――ということは、秀子も勤めていた――会社にいた、いくらか山上より年上の男である。
もちろん、別の〈黒木〉である可能性もあるわけだが、ともかく山上はその〈黒木〉に当ってみることにしたのだ。
かつての同僚に連絡をとり、|訊《き》いてみると、黒木は体を悪くして辞めたとのことだった。そうなると、秀子へ来た手紙の〈黒木〉が、その男ではないかという気がしてくる。
何人かの知人に当って、やっと黒木が今どこにいるか、訊き出すことができた。いや、今、ここにいるとは限らないのだが、ともかく分る限りで、この辺りのアパートが、黒木の一番「新しい」住いなのだ。
それにしても……。あの手紙が秀子の自殺未遂の原因だったとしたら、内容は全くのでたらめでもなかったのだろう。
黒木と秀子……。当時、そんな|噂《うわさ》は全く山上の耳には入らなかった。もし、エリが黒木の子だとしたら、秀子は山上と結婚してからも黒木と付合っていたことになる。
これはやはり山上としてはショックだった。
――しかし、その疑問を、今の秀子へぶつけることはもちろんできない。今は、秀子を立ち直らせるのが第一だ。
その上で、エリにも、事実をきちんと告げて、納得させなくてはならない。大丈夫だ。エリは利口な子である。きっと、分ってくれるだろう。
「――これかな」
何度も、山上はその崩れそうなアパートの入口の看板を見直した。板が三分の一ほど欠けてしまっているが、ともかく周りに似た名前のアパートはない。
「何か用?」
と、髪をくしゃくしゃにした奥さんが、うさんくさげに山上を見た。
山上はきちんとした背広姿だが、こんな場所では、むしろこういうスタイルの方が「怪しげ」なのかもしれない。
「ここは――〈|相模《さがみ》|荘《そう》〉ですね」
と、山上は訊いた。
「そうよ。あんた何? 地上げ屋?」
「違いますよ。黒木って人はいますか」
「黒木? ああ、いるわよ」
山上はホッとした。
「どの部屋ですかね」
「一階の一番奥。――電球切れてて暗いから、気を付けてね」
「どうも」
と、会釈して中へ入ろうとすると、
「黒木さんと話そうっていうんなら、午前中でなくちゃ」
と言われた。
「どうしてです?」
「午後はいつも酔っ払ってるのよ」
山上は|呆《あき》れて、
「いつもですか」
「そう。何日も部屋から出て来ないこともあるわ」
山上はチラッと薄暗く、|埃《ほこり》っぽい廊下の奥へ目をやった。
「黒木さんは一人で住んでるんですか?」
「たぶんね」
「たぶん?」
「ときどき――といっても最近だけど、女の人が出入りするのを見かけたわよ。でも奥さんって感じじゃないわね。いい服を着てた」
「どうも」
と、山上は礼を言った。
向うが酔っていたとしても、話をするぐらいはできるだろう。もし話もできないくらいであれば、どこかへ連れ出してもいい。
山上は歩いて行って、奥のドアまで行く間に、何度もけつまずいた。古ぼけた自転車だの、洗濯機だのが出したままになっているのである。
「――ここか」
山上は、ドアの前に立つと、|却《かえ》って落ちついた。講演のときのようだ。ステージに出ると、気持がしずまるのである。
ドアを|叩《たた》いてみる。――もとより、チャイムなんてものはついていない。
三回叩いたが、返事はなかった。
|酔《よ》い|潰《つぶ》れているのか。それともどこかへ出かけているのか。
ドアを開けてみた。――|鍵《かぎ》はかかっていなかった。
カーテンを引いたままなのだろう、部屋の中は暗い。そしてムッとするようなアルコールの|臭《にお》い。
かびくさく、湿った空気とアルコールの臭いが混り合って、吐気をもよおすようなひどさだった。
「黒木さん」
と、何とかこらえて声をかける。「黒木さん。――いますか」
明りは? 手探りで見付けたスイッチを押すと、裸電球が|点《つ》いて、さびれた室内を照らし出した。
ほとんど「空っぽ」といってもいい部屋である。タンス、ちゃぶ台代りの段ボール。
そして布団が敷きっ放しで、そこに男が一人、下着姿で引っくり返っていた。
山上は、上り込んで、その無精ひげの男の顔を見下ろした。――努力して見分けなければ、かつて知っていた顔だと分らなかったろう。
ひどく老け込み、肌はかさかさに乾いて、音をたてて破れてしまいそうだ。
「黒木さん」
と、かがみ込んで、言った。「黒木さん、聞こえますか」
ウイスキーのびんが、畳の上に何本も転っている。――それを眺めて、山上はふと|眉《まゆ》を寄せた。
転っているびん、どれも決して安いウイスキーではない。こんなものを買う金があったのだろうか?
「黒木さん」
もう一度呼ぶと、黒木は低く|呻《うめ》いて、身動きした。しかし、目は開けない。
息づかいが荒い。――様子がおかしい。
山上は、黒木の手首の脈をみた。かなり弱い。
山上は廊下へ出ると、電話を捜しに駆け出したのだった……。
「――おとり込み?」
倉林美沙が、オフィスの入口に立っていた。
山上は、仕事の手を止めて、
「いや、構わないよ」
と、息をついた。「いつ来たんだ?」
「二、三分前から、こうやって、あなたが仕事してるのを見てたの」
と、美沙は笑って言った。「一人なの?」
「うん。秘書は用事で出てる」
山上は、上着を取って、「お茶でも飲もうじゃないか」
「ええ」
美沙は、いつもの通り、屈託のない表情を見せている。
山上は、美沙と近くのコーヒーハウスへ行った。落ちついて話をするにはいい場所である。
「――ずっと連絡しないで、ごめんなさい」
美沙は熱いおしぼりできれいな手を|拭《ふ》く。「子供が熱を出しちゃって、大変だったの」
「そうか。もういいの?」
「ええ。――あんまり私が遊び歩いてたから、その罰かしら」
と、笑って、「でも、治ったらまたこうやって出て来てる」
「それが君らしいところさ」
と、山上は言った。「例の件、気にはしてるんだが」
「何だか――奥さん、入院なさったって?」
「そうなんだ。まあ、少し長くなりそうなんでね」
「大変ね。――ごめんなさい、そんなときに面倒なことを」
「その後、三神君とは?」
美沙がちょっと複雑な表情を見せた。
「それが……。何だかよく分らないの」
「何かあったの?」
「ええ……。付合っていて、どうも私の思っていたような人じゃないのかも、って気がして」
どうやら、美沙も三神に疑いを持ち始めたらしい。
山上としては、少し気が楽になった。
「実はね、三神君のことも、少し人に頼んで調べてもらった」
と、コーヒーを飲みながら言った。「どうやら、永田という重役に横領の罪をかぶせようとしているらしいね」
美沙は、そうびっくりした様子もなかった。
「じゃ、永田さんがやったことじゃないの?」
「少なくとも、永田個人の責任じゃない。どうも内部での権力争いだね、これは」
山上の言葉に、美沙はため息をついた。
「いやね……。男って、どうしてそんなに『力』がほしいの? お金、力、女……。女は力で手に入れるもんだと思ってるのね」
「みんながそうというわけじゃない」
「でも、たいていはそうだわ」
と言って、「――あなたは違うわね」
「そのつもりだがね」
と、山上は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
――どうだろう?
|俺《おれ》は秀子が充分に幸せだと思っていた。しかし、あんなに悩んでいることに、全く気付かなかったのだ。
黒木とのことが事実かどうか。
いずれにしても、黒木がああして秀子から金をせびったということが、山上には信じられない。
黒木は、救急車で運ばれ、入院している。アルコール漬の体は、神経までおかされて、とてもまともには話もできない状態である。
奇妙だった。山上はあのアパートの住人とも話してみたのだが、黒木は、少なくともあの一週間ほど前には、外出もし、食事もして、アパートの住人とも話もしていたらしい。
ところが、この何日か全く外へ出て来なくなっていた。そして、あのウイスキーのびん。
もちろん、もともとアル中ではあったのだろうが、金がないから高いウイスキーなど、まずめったに手に入らなかった。それが、あの部屋には、他の場所にあったものも含め、十二、三本ものウイスキーの空きびんが転っていたのだ。
――|誰《だれ》かが、ウイスキーを持ち込んで、黒木に与えた、と見るのが正しいだろう。
その「誰か」は、黒木に、あの手紙を書かせたのではないか。もしそうなら、なぜそんなことをしたのか。
「――どうかした?」
美沙に訊かれて、ハッと我に返る。
「すまん。心配ごとでね」
「お互い、大変よね」
と、美沙は言った。「人間、|年《と》|齢《し》をとると、いやでも迷うのね。黒とか白とか決められないことにぶつかって。――疲れるわ」
「珍しいこと言うじゃないか」
「ひどいこと言って」
と、美沙は笑いながらにらんだ。「――ねえ、私もあなたも大人よね」
「たぶんね」
「大人同士の……。お互いにいたわり合うだけの関係って、どう?」
山上は、ちょっと戸惑って、
「どういう意味?」
と、訊いた。
「時間が少しあるの。――これから二時間くらいだけ、私たち、恋人同士になる。胸のつかえがスーッとしたら、それでおしまい。後をひかない、割り切った遊び。いえ、『慰め』というか、グチの言い合いね。ホテルへ行って。――どうかしら?」
美沙の目は、いたずらっ子のようで、かつての若い日そのままだった。
突然の誘いに、山上は揺れた。
秀子の入院。エリをめぐる問題。――山上は疲れていた。
いいじゃないか、これぐらいの「息抜き」は。向うもそのつもりなのだ。こだわるほどのことでもない。
美沙と寝る。――何度その想像に酔ったことか。
「構わないでしょ?」
美沙の一言が、山上を押し切った。
それでも、
「一度だけだね」
と、念を押している自分に、そっと苦笑していたのである……。
20 |復《ふく》 |讐《しゅう》
「何を考えてるの?」
暗い部屋の中で、倉林美沙が言った。
「うん……。大したことじゃない」
山上は、じっと天井の|暗《くら》|闇《やみ》を見上げていた。
「私たち……若い恋人たちみたいね」
ベッドの中で、美沙は山上に肌をすり寄せてくる。その肌はしっとりとして滑らかで、かすかに汗ばんでいた。
「そうかい?」
「こんなに真暗にして。――太った私を見たくないわけ?」
山上はちょっと笑って、
「分るかい。――僕は若いころ、空想の中で何度も君を抱いた。それが現実になったんだ。こんなことも、人生にゃあるんだな」
「|嬉《うれ》しいこと、言ってくれるわね」
と、美沙は指で山上の鼻をつついた。
「正直に言ってるのさ」
「がっかりしなかった?」
「いや。――想像していた通りの君だ」
山上は本気でそう言ったのである。
ほんの遊び。――そのつもりでの、このひとときだったが、山上は本気[#「本気」に傍点]になってしまいそうな自分を感じて、怖かった。
「いけないわ」
と、美沙は言った。「奥さんが具合悪いっていうのに」
「うん……。分ってる」
そう言いながら、山上はもう一度激しく美沙を抱いた。
「時間が……」
と、|呟《つぶや》いて、美沙は、しかし逆らおうとはしなかった。
むしろ、自分の方から、山上を強くかき抱きさえしたのである。
時は、止ったように見えた。
時は、流れた。
山上は、寝入っていた。美沙の中に全精力を注ぎ尽くしたかのように、深い眠りに落ちていた。
美沙はゆっくりとベッドに起き上った。山上の方へ目をやったが、全く目覚める気配はない。
美沙は、静かに大きなベッドから滑り出ると、ソファの辺りに投げ散らかしてある下着を身につけ、服を着る。
その間も、時々ベッドの山上へ目をやったが、深い寝息をたてているばかり。これなら大丈夫だろう。
美沙は、バッグを開けた。バッグの底から、布にくるんだ、重い包みを取り出す。
表情は、いつもの美沙とは全く違っている。青ざめ、固く唇を結んで、自分に決意を確かめさせているようでもある。
布をそっと開くと、冷たく光る|拳銃《けんじゅう》が現われた。美沙は、ありふれた布の手袋をはめると、拳銃を手にした。
ベッドへ近付く。――山上がちょっと身動きしたので、美沙はギクリとして拳銃を背中へ隠した。
しかし、山上は仰向けになっただけで、少しも起きる気配がなかった。
美沙の額に汗が光っている。拳銃を握りしめると、両手でつかみ、銃口を、山上のこめかみに向けた。
手が、銃口が震えた。汗が、背中を流れ落ちて行く。何度か深呼吸して、美沙は固く唇を結ぶと、銃口はそっと山上のこめかみに近付き、ほとんど触れそうになる。
引金に指がかかった。美沙の顔が汗で光っている。息づかいが荒くなり、手も足も震える。
美沙は、大きく息を吸い込むと、息を止め、ギュッと拳銃を握り直した。
「ごめんなさい」
と、美沙は呟く。
そして、美沙の白い指は引金を引いた。
包帯をした右手を見下ろすと、村内は胸にしめつけるような痛みを覚えた。
タクシーの窓から、夕方になりかけた町並を眺める。――胸が痛むのは、むしろ幸いだった。
安西を死なせてしまったこと。その|辛《つら》さを、自分自身で確かめることになるからだ。
包帯に包まれた手は、あのとき電柱を殴りつけて、傷を負ったのである。
安西……。すまん。
|俺《おれ》は結局、お前を死なせてしまった。
自分が死ねば良かったのだ。安西では、ひどすぎる!
悔んでも、遅い。それは分っているのだが……。
村内の中に、怒りが燃え上っていた。必ず犯人をこの手で捕えてやる。そう決心していた。
上司からは少し休めと言われていたが、そうはいかなかった。安西の死の光景が、決して村内を眠らせないだろう……。
「――そこだ」
と、村内は言った。
タクシーを降りると、村内はその病院へと入って行った。入院患者の病室を|訊《き》き出すのは簡単だ。
「山上秀子さんですね」
と、看護婦は、すぐに調べてくれた。
「ありがとう」
と、村内が行こうとすると、
「一応、先生とお話になって下さいね」
「ああ、もちろんですよ」
村内は、平然と|嘘《うそ》をつく。これでなきゃ、刑事というやつはつとまらないのだ。
病室のドアを開けると、ベッドのそばで花を花びんにさしていた少女が振り向いた。|憶《おぼ》えがある。山上の娘だ。
「何か……」
と、少女はやってくると、「母は眠ってるんです」
「私を憶えてるかね」
と、村内は言った。「エリ君、だったかな」
「刑事さんですね」
と、エリが|肯《うなず》く。
「そうだ、ちょっと君のお母さんに訊きたいことがある。――お父さんにも」
「今、母は……」
「聞いてる」
と、村内は言った。「しかし、殺人事件の捜査だ。悪いが、何としても話を聞く必要がある」
村内はこの前と別人のように厳しい口調で言った。――エリはキュッと唇を結ぶと、
「じゃ……少し待って下さい。私じゃいけませんか。母は自殺未遂を起して、不安定な状態なんです」
エリの目は|臆《おく》さず、村内を見返した。その強さ――母を守るのだという意志の表われに、村内は打たれた。
「分った。ともかく君の話を」
二人は、病室を出て、休憩のできるスペースのソファに腰をおろした。
「学校の帰りかね」
「そうです」
「お母さんの自殺未遂というのは、どういう事情だったんだね? 詳しいことが知りたい。何でも、どんなことでもだ」
と、たたみかけるように、「相棒だった刑事が殺された。まだ三十四歳で、何もかもこれからだったんだ」
「それが……父と何か関係あるんですか」
「ないと思っていた。それまではね」
と、村内は言った。「しかし、奥さんが自殺未遂となると、事情は変ってくる。そうだろう? これが偶然かどうか」
「父は――」
「オフィスへ連絡したが、いない。秘書も、どこへ出かけたか分らないと言ってる」
村内は、じっとエリを見つめて、「君に友人[#「友人」に傍点]として訊く。言いにくいこともあるだろうが、何もかも話してくれないか。決して、口外はしない。私はね、年下の同僚を失った。その復讐をしたいだけなんだよ」
エリは、村内の言葉を信じた様子だった。
「分りました」
と、肯くと、母の自殺未遂と、その原因になったと思える、「黒木」という男の手紙のことも話した。
「――すると黒木も入院中?」
「父はそう言っていました。どこの病院かは知りません」
「調べれば分るだろう。救急車で運んだというのならね」
村内はメモを取ってから、「君には、いやなことを訊いてしまったね」
と、言った。
「いいえ。――もし、本当にその黒木って人が父親だとしても、私には関係ありません。私を育ててくれたのは、今の父と母です」
きっぱりとした言い方は、いかにも|爽《さわ》やかで、村内はいささかの気負いがむしろ気恥ずかしい気分だった。
「でも、刑事さんは何の事件を調べてらっしゃるんですか」
と、エリは言った。
「うん。――ある女が殺された。水野智江子というんだ。聞いたことは?」
「ありません」
「そうか。たぶんある男に愛人として囲われていたんだ。その男の名前も顔も分らないんだが、連絡先として、その女のマンションを借りてやるとき、君の家の電話番号を教えている」
エリは、じっと村内を見て、
「じゃ……父がその人を愛人にしてたと?」
「分らん。その男がでたらめに書いた番号が、たまたま君の家の番号だったのかもしれないと思っていたんだが、君のお母さんが自殺未遂したというのを聞いてね。これは偶然じゃないのかもしれない、と思ったんだ。そうなると、水野智江子と、君のお父さんの関係も、もう一度洗い直してみる必要がある」
エリは、やや青ざめていたが、
「父は――そんなことしていません」
と、言った。「外に女の人を作るなんてこと……」
「そうだといいんだがね」
と、村内は肯いた。「じゃ、また出直してくるよ。もしお父さんがここへ来たら、私が会いたがっていたと伝えておいてくれないか」
「分りました」
と、エリが立ち上る。「母のそばに戻っていたいんで……」
「ああ、悪かったね」
エリと話している内に、村内の気持も大分和らいでいた。「この番号へかけてくれれば、いなくても、捕まる。頼むよ」
「はい」
「じゃあ……。しっかり看病してくれよ」
村内は、エリの肩を軽く|叩《たた》いて、歩いて行った。
「黒木」という男のことはすぐに分った。
村内は、公衆電話からその病院へ電話を入れたが、黒木は意識不明で、危険な状態ということだった。
「分りました。もし容態に変化があったら、ご連絡を」
村内は、そう頼んで電話を切った。――黒木の入院がはたして偶然かどうか。
外へ出て歩き出すと、もう辺りは薄暗い。
村内はやや落ちついて来て、改めて考え直していた。安西を目の前で死なせたショックから、やっと立ち直ろうとしていたのである……。
山上のような「有名人」が愛人を置いているのは、別段珍しいことではない。もし、水野智江子が山上の「愛人」だったとして、何かでもめた挙句に殺したとしたら……。
不動産屋の栗山が殺されたのは、不思議でもない。男の顔をはっきり見ているのだし、口をふさぐしかあるまい。
しかし、あのホステスの君原令子は? どうして命を|狙《ねら》われたりしたのだろう?
そして黒木という男の存在。――あのエリの本当の父親だとしても、今になってなぜ、そんなことを言って来たのか。
あれは文字通り脅迫である、山上秀子が自殺を図ったのは分らないでもない。
むしろ奇妙なのは黒木が入院してしまったこと。入れたのはどうやら山上らしいが、黒木の容態は普通ではないらしい。
「何かあるな」
村内の長年の勘はそう告げている。これは何か裏のある話なのだ。
ピーッピーッと村内のポケットベルが鳴り出した。
「おっと」
手近なビルへ入って、一階の公衆電話へ。
「――もしもし、村内だ」
連絡を聞いて、村内は、「何だって?」
と、思わず大きな声で訊き返し、隣で電話していたOLらしい女の子を飛び上らせてしまった。
「どこだ? ――分った。そのホテルの部屋はそのままにしといてくれ」
と言って、急いで切る。
そのホテルまで十五分もあれば……。
村内は駆け出すような勢いで歩き出した。
美沙が拳銃の引金を引いた。
カチッ。
金属の乾いた響きがして、それだけだった。弾丸はでなかった。
美沙はもう一度引金を引いた。――カチッ。
弾丸が出ない。美沙は、|呆《ぼう》|然《ぜん》として、手にした重い鉄の塊を見下ろしていた。すると、山上がゆっくり顔を向けて、目を開いたのである。
「弾丸は抜いたよ」
と、山上は言った。
「山上さん……」
「自殺に見せかけるつもりだったのか」
美沙は、よろけるように後ずさって、ソファにぐったりと腰を落とした。
コトッと音をたてて、拳銃が床に落ちる。
「偶然だよ」
と、山上は言った。「君がシャワーを浴びているとき、バッグが落ちそうになっていてね。それを直したら、いやに重いじゃないか。普通の重さじゃない。で、中を見たら、それ[#「それ」に傍点]が入ってた」
山上はベッドを出てガウンをはおると、落ちた拳銃を拾った。
「びっくりしたよ。どう見ても本物だ。それで、ともかく弾丸を抜いて、元に戻しておいたんだ」
山上は、ベッドに腰をかけると、「どういうことなのか、話してくれないか。僕が何をした?」
山上の口調は、少しも怒りを感じさせないものだった。
「何も……」
と、美沙は言った。「あなたは何もしてやしないわ」
「じゃ、どうして僕を殺そうとしたんだ?」
「ごめんなさい……」
美沙は泣き出した。――山上は、ため息をついて、
「泣かないで。――さあ」
と、美沙の肩に手をかける。「怒っちゃいないよ。君は僕にとって、いわば永遠の恋人さ。君になら殺されても文句は言いたくない。しかしね、僕は一人じゃない。分るだろ? 妻もいるし、娘もいる。そう簡単に死ぬわけにはいかないんだよ」
倉林美沙は、しばらく声を殺すようにして泣いていたが、やがて顔を上げると、
「――ある人[#「ある人」に傍点]を守りたかったの」
と、言った。
「三神かい?」
「違うわ」
と、美沙は首を振った。「私の愛している人……」
「君の愛してる人、か。――じゃ、もともと君が持ち込んで来た話も、目的は別にあったんだな」
山上は、首を振って、「まあ、時間はある。ゆっくり聞こう」
山上は涙で汚れた美沙の顔を見ると、
「そんな顔は君に似合わない」
と言って、バスルームへ入り、タオルを水で|濡《ぬ》らした。
ギュッと絞って、美沙へ持って行ってやる。
「これで顔を|拭《ふ》いて」
「ありがとう……」
と、見上げた美沙の目が、山上の背後[#「背後」に傍点]を見ていた。
振り向く間もない。タオルを濡らすのに水を出していたわずかの間に、|誰《だれ》かがこの部屋に入って来たのに違いない。
山上は後頭部をしたたかに殴られ、そのまま気を失って床へ崩れるように倒れたのである。
21 命を|賭《か》ける
「気が付きましたか」
と、村内刑事が言った。「どうです、気分は?」
「何とか……。痛い!」
起き上った山上は、顔をしかめた。
「ホテルの従業員がね、たまたまこの中の騒ぎを聞いていて、あんたは命拾いしたんですよ」
と、村内は言った。
「刑事さん……ですね」
と、山上はやっとベッドに起き上り、息をついた。
「何があったんです? 泥棒にしちゃ、どうも妙だ」
「いや……よく分らないんです。突然ガンとやられて」
山上は、部屋の中を見回して、「財布をやられたかな」
「無事なようですよ。女の二人組[#「女の二人組」に傍点]で、|拳銃《けんじゅう》を持っていたとか」
山上は、村内を見た。
「女が二人[#「女が二人」に傍点]?」
「そうです。ホテルのボーイが見ている」
「そうですか……」
山上は後頭部のこぶ[#「こぶ」に傍点]に触って、顔をしかめた。
「レントゲンでもとってもらうんですな、山上さん」
「僕のことをご|存《ぞん》|知《じ》で――」
「ええ。実はあなたにお会いしたいと思っていたんですよ」
「というと?」
「今日、奥さんの入院されている病院へ行って来ました。娘さんとも話しましたよ」
山上は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「何のことです?」
「水野智江子」
と、村内は言った。「この名前に|聞《き》き|憶《おぼ》えは?」
「水野? ――さあ、一向に」
「殺された女です。あるマンションに愛人として囲われていた。犯人は相手の男と思われますが、今のところ、見付かっていない」
「その事件と……」
「この部屋に弾丸が一発落ちていました」
と、村内は、ハンカチの上にのせた弾丸を見せた。「凶器と同じ口径の弾丸です。そして捜査に当っていた刑事を射殺したのとも」
山上は、やっと刑事の言わんとすることが分って来た。
「僕が犯人だと?」
「そうは言っていません。あなたはここで殴られてのびていた。銃は女が持って逃げている。もっとも、後ろ姿だけで、人相は分りませんがね」
「それで……」
「水野智江子がマンションを借りるとき、男は不動産屋に会っている。連絡先、といって渡した電話番号はあなたの自宅の電話だった」
「そんな――。もし僕なら、女房もいるのに、自宅の電話など教えませんよ」
「まあ、そうでしょうな。しかし、どうもあなたが何か[#「何か」に傍点]の形で、|係《かかわ》り合っているのは確かなようだ」
山上は、ゆっくりと立ち上った。
「ちょっと――失礼して、顔を洗いたいんですが。服も着がえていいですか」
まだ裸の上にガウンをはおったきりなのである。
「どうぞ」
と、村内は|肯《うなず》いた。
山上は、服をかかえて、バスルームへ入ると、ドアを閉め、ロックした。
大きな鏡に向って立つ。いくらか顔色は悪いが、そうひどい様子ではなかった。
顔を洗って、服を身につけ、くしで髪を整えると、何とか普通の状態に戻った。
――美沙。
何があったんだ? 君は何に巻き込まれてるんだ?
美沙が――若いころの山上にとっては、永久に手の届かない存在だったあの美沙が、泣いていた。その姿は、山上の胸を|抉《えぐ》った。彼女が哀れというだけではなかった。自分自身の青春が、無残に滅びていくようだった。
女を殺した拳銃。あれがもしその凶器なら、それで山上が自殺したと見せかけようとしたということは……。美沙がその女を殺したか、それとも、「愛している人」が女を殺したか、だろう。
そして、その罪を、山上にかぶせてしまおうというのが、美沙の行動の意味だろう。それ以外には考えられない。
しかし、それにしくじって、拳銃を持って逃げた。女二人[#「女二人」に傍点]で。
してみると、もう一人の女が、美沙と共謀しているということになる。|誰《だれ》だろう?
あの刑事は一体どこまで知っているのか。美沙と山上の過去については? いや、美沙の名すら、出てはいないはずである。
美沙。――僕を殺そうとした美沙。
しかし、山上には、美沙を憎むことも、怒ることもできなかった。何もかもが「自分の思い通りに行く」ことに慣れていた美沙にとって、「追いつめられる」ことの恐怖はいかばかりだろう。|誰《だれ》も助けてくれない、という事態は、そもそも美沙の人生にはなかったはずなのである……。
今、美沙は逃げている。当然、山上が警察に話し、警官が逮捕に来ると思っているだろう。|怯《おび》え、絶望しているだろう。
「美沙……」
と、山上は|呟《つぶや》いた。
――バスルームを出ると、
「いや、申しわけありません」
と、山上は言った。「石頭で幸いでした」
「それで――お話をうかがいたいんですがね」
と、村内刑事が言った。
「あなたを殴って逃げた女。誰なんですか?」
山上は、ちょっと息をついて、言った。
「知りません」
村内は、当惑した様子で、
「それはどういう意味ですか」
と言った。
「本当に知らないんです。ホテルのバーで飲んでいて……。昼間からお恥ずかしいんですがね。家内のことはお聞きでしょう? どうにも気が滅入っていまして。そこで声をかけて来たのが、その女なんです」
「偶然に?」
「かどうか――。向うは知っていたのかもしれませんね。その不動産屋に男が渡した電話番号のことからいっても、いや、当然、僕をここへ誘い込んで、殺すつもりだったんでしょう」
「で、その女と寝たわけですね」
「――そうです」
と、目を伏せて、「家内にはすまないと思いましたが」
「で……」
「女は僕のこめかみに銃を当てて、撃とうとしました。僕が眠ってると思ったんでしょうね。僕は争って、銃を取り上げました」
「女は何と言いました?」
「何も」
と、山上は首を振って、「僕が女を問いつめてやろうと、洗面所で顔を洗って戻ってくると、いきなり後ろから、頭をガン、というわけです」
「もう一人の女の方は、全く見なかったんですか?」
「一緒に入ったわけじゃありませんからね。洗面所で顔を洗っている間に、女がドアを開けて、もう一人を中へ入れたんでしょう」
「ふむ」
村内は、じっと山上を見ている。――信じてはいない。当然だろう。
しかし、山上も、その村内の視線を真直ぐに受け止めて動揺しない自信はあった。
「――分りました」
と、村内は長い沈黙の後に言った。「じゃ、その女の顔を、大体憶えてらっしゃいますね」
「何とか……。でも、部屋は暗かったし、バーだって明るくはないですからね。はっきりとは……」
「それはそうでしょう」
と、村内は言った。
少し、口調がよそよそしい。山上は敏感に、村内の気持の変化を感じ取った。村内は、山上をただの「被害者」とは見ていない。
裏に何かあるのだ、と思っている。
山上は、ちょっと息をついて、
「家内を見舞ってやりたいんですが、構いませんか」
と言った。
「もちろん。パトカーで送りましょうか」
「いや、結構です。タクシーで行きますよ」
と、山上は言った。
「山上さん。どうしてこれ[#「これ」に傍点]が落ちていたんですかね」
村内はハンカチの上の弾丸を見せて、言った。
「さあ……。争ってるときにでも、落ちましたかね」
「憶えていますか?」
「いや、夢中でしたから」
「そうでしょうな」
と、村内は肯いた。「いや、ご苦労さん。ちゃんと病院へ行かれた方がいいですよ」
「そうしましょう。何かありましたら、いつでもどうぞ」
「そうしましょう」
山上は部屋を出た。
ホテルを出ると、すっかり夜になっている。
タクシーを拾って、秀子の入院する病院へと向った。エリも心配して待っているだろう。
もちろん、警察の尾行があることは分っていた。
あのホテルで山上が気を失っていたというだけで、あの刑事が飛んで来たということ自体、山上に監視の目が光っていることをうかがわせるに充分である。
――しかし、いくら自分が怪しまれても、美沙を告発することはできなかった。
美沙。君は何をしようとしているのか。あの拳銃を持って、どこへ行ったのか。
あの部屋で、村内という刑事は、実弾を一発見付けたが、山上が拳銃から抜いた弾丸は二発[#「二発」に傍点]だったのである。
病室のドアを開ける前に、看護婦が、
「あの、山上さん」
と、声をかけて来た。
「はあ」
「ご伝言です」
と、メモを渡してくれる。
「どうも」
夜の病院である。つい、やりとりの声も小さくなる。山上はメモを広げた。
〈黒木は今夕死亡〉
短い一言だった。――山上はポケットにそのメモをたたんで入れ、病室へ入って行った。
「――あなた」
秀子がゆっくりと夫の方へ顔を向ける。
「やあ。――エリは?」
「さっきまで……いてくれたけれど」
と、秀子は言って、「ごめんなさい、あなた」
「早く元気になれよ」
山上は、妻の力のない手を握った。
「でも……私……」
「黒木は死んだ。今、病院から知らせがあったよ」
秀子は目を見開き、じっと山上を見つめている。
「もう何もかもすんだことだ。忘れよう。三人で暮すのが、僕たちには一番向いてるよ」
「私……黒木と、関係が……」
「うん、分ってる。しかし――」
「結婚してから、少しして黒木は私を呼び出したわ。いやだと言えば、昔のことをばらすと言って。――二回。二回だけ、黒木に誘われて強引に……」
「分った。――分った」
と、山上は肯いた。
「そのころ、エリを身ごもったわ。――あなたの子か、黒木の子か、私には分らなかった……」
「どっちでもいい。同じことだ。エリは僕らの子で、それに違いないんだ。そうだろう?」
「あなた……。でも、あの子が――」
「あの子も知ってる。あいつはしっかりしてるさ。大丈夫。こんなことでへこたれる|奴《やつ》じゃない」
山上は、妻の方へかがみ込んで、額に唇をつけた。
「あの……」
看護婦がドアを細く開けていて、おずおずと声をかけて来た。「失礼します」
「はい」
山上はあわてて体を起した。
「お電話が。山上忠男さん……でいらっしゃいますね」
「そうです」
山上は立ち上った。
「こちらです」
と、先に立って案内してくれる看護婦は、「TVでよく拝見しますわ」
「それはどうも」
「私、株をやってますの」
と、ニッコリ笑って、「先生に教えていただきたいわ」
山上はちょっと笑った。
「そういう方面にはさっぱりでしてね。――これですか」
「はい。ランプのついてるボタンを押して下さい」
と、言って、看護婦は足早に歩いて行く。
「――もしもし。山上です」
少し間があって、
「山上さん。よく聞いて」
低く、かすれた女の声。
「どなた?」
「娘さんは預かったわ。警察に何も[#「何も」に傍点]しゃべらないこと。いいわね」
女の声は淡々としている。――山上の顔から血の気がひいた。
「君は――誰だ!」
押し殺した声が震えた。
「誰でもいいわ。ともかく、娘さんは私たちの所にいる。分ったわね」
山上は廊下へ目をやった。――もちろん、エリの姿はない。学校の|鞄《かばん》は、秀子のベッドのそばに置いてあった。
「何が望みだ」
と、山上は言った。「金か?」
「いいえ。――これから言う所へ来てちょうだい」
と、女は言った。
「分った」
山上は、必死で自分を落ちつかせる。
エリ! 何てことだ!
向うのはったりとは、思いもしなかった。女の話し方には、疑いを抱かせないものがあったのである。
メモを取ると、
「〈405〉だな」
と、山上は言った。「すぐに行く」
「そこでお会いしましょう」
事務的な声。プツッと電話は切れて、山上は震える手で受話器を戻した。
エリ! ――エリ!
山上は、廊下を歩いて、エリがどこかにいないかと捜した。しかし、そう時間をむだにもできない。
さっきの看護婦が戻ってくる。
「山上さん、何か捜しものですか?」
と、|呑《のん》|気《き》に|訊《き》く。
もちろんそれは当然のことだ。腹を立てても仕方ない。
「ちょっとね」
と、山上は言った。「出て来ます。家内をよろしく」
「はい。お任せ下さい」
と、看護婦は快く肯いて、「戻られるんですか、また?」
山上は行きかけた足を止め、
「ええ。――戻ります」
と言った。「そのつもり[#「つもり」に傍点]です」
そしてエレベーターへと急いで歩いて行った……。
22 最後の銃弾
カチャッ、と|鍵《かぎ》の回る音がした。
ドアがゆっくり開くと、暗い部屋の中へ、廊下の明りを背にした女の影が伸びた。
「――いる?」
と、呼びかける。
「ええ」
暗がりの奥から、もう一つ、女の声が答えた。
「少し明りを|点《つ》けて。――カーテンは閉めてあるでしょ」
「もちろん。でも……外から見えない?」
「小さな明りだけ点ければいいのよ」
「そうね……」
カチッと音がして、居間の様子が、小さな明りの下に浮かび上る。
「これで大丈夫」
と、女が言った。
「――こんなことして、いいのかしら」
と、美沙は言った。
「他に方法がある?」
「ええ……。分ってるけど」
「やるしかないわ。もう後戻りはできないんですもの」
と、女は言って、「そろそろ来るころでしょ」
美沙はふと思い付いたように、
「娘さんは――大丈夫?」
「心配しないで。無事よ。手荒なことはしないわ」
「そう? お願いよ。娘さんに手は出さないでね」
「あなたは自分のことを心配すればいいの。――自分と彼[#「彼」に傍点]との未来をね」
美沙は、ソファにぐったりと身を沈めると、両手で顔を覆った。
「こんなことになるなんて……」
「しっかりして。ここで水野智江子の死体を見付けたときのあなたは、もっと強かったでしょ?」
「でも……あれは私が殺したわけじゃないもの。それに――必死だったのよ。彼との生活を夢見てて」
「今も同じよ」
「でも――今度は違うわ。自分が[#「自分が」に傍点]殺すのよ」
「仕方ないわよ」
と、女が言った。「いずれ忘れて行くわ。人間はね、忘れっぽい生きものなの」
足音が、表の廊下に響いた。
「――来たわ」
と、美沙が立ち上る。
「銃は持ってる?」
「ええ」
「じゃ、私は奥にいるから。――しっかりするのよ」
女は、奥の部屋へ姿を消した。
美沙は、玄関のドアが静かに開くのを見ていた。
「――|誰《だれ》かいる?」
山上の声がした。
「上って」
美沙はそう言って、深呼吸をした。
薄暗い居間に、山上が入ってくる。
「君か」
美沙は黙っていた。山上は真先に、
「エリは、無事か」
と、|訊《き》いた。
「ええ。終れば、ちゃんと帰すわ。約束する」
「そうか」
山上は、居間の中を見回した。「ここで女が死んだ。そうだね?」
「ええ。寝室でね」
「そうか。犯人は君の彼氏[#「彼氏」に傍点]というわけだ」
「女の方がいけないの。麻薬に手を出して、お金ほしさに、彼の企業の秘密を売ろうとした。それを|咎《とが》められると、奥さんへ電話すると言い出したのよ」
「で、射殺した、か」
「そう……。私はここへ駆けつけた。そして指紋を|拭《ふ》いて、証拠を消したわ。必死だった。――あの人を守りたかった」
山上は、じっと美沙を見ていたが、
「君は変ったね」
と言った。「非難してるんじゃないよ。以前の君は、そんなことまで、とてもできなかっただろう」
美沙は、目をそらした。
「色々あったのよ。――主人とのひどい暮しもね」
「そうだったのか」
「力になってくれた人がいたの、それで立ち直れたのよ」
「彼[#「彼」に傍点]のことかい?」
「いいえ、女性よ」
と、美沙は首を振った。「――もう、すんだこと。その後、彼[#「彼」に傍点]と出会った。妻子はあるけど、やさしい、すてきな人だった」
山上は、ソファに浅く腰をおろした。
「今日、あの後、警察が来た」
と、山上は言った。「聞いたよ、ここでの事件も。僕の家の電話番号が、なぜかこの部屋の借り主の連絡先ということになっていた」
美沙は、じっと山上を見つめて、
「しゃべったの、私のこと」
と、訊く。
「いや」
「本当に?」
「知らない女だ、と言った」
「どうして?」
山上は、小さく肩をすくめて、
「どうしてかな。――君が手錠をかけられたりするのを、見たくなかったのかもしれないね……」
と言ってから、座り直し、「さあ、言ってくれ。僕に何をしろと言うんだ?」
美沙は、バッグを開けると、中から布にくるんだ|拳銃《けんじゅう》を取り出し、山上の前のテーブルにのせた。ゴトッと音がする。
「弾丸は一発だね、あと」
「ええ」
「これを――」
美沙は、真直ぐに山上を見つめて、
「あなた自身で、あなたの頭に撃ち込んで」
と、言った。
山上は、しばらく拳銃と美沙を交互に見ていたが――。
「ここで自殺すれば、犯人だということになる、か……。遺書もあった方がいいだろう」
山上はポケットから分厚いビジネス手帳を取り出すと、「この白いページがいい。リアルだろ?」
と、ビリッと破り取る。
「何か書くものを持ってるかい?」
美沙は、バッグからボールペンを出して渡した。
「何と書くかな。――殺された女、何ていったっけ? 水野か」
「水野智江子。――〈智江子〉よ」
美沙はテーブルの上に、指で文字を書いて見せた。
「ああ、分った。〈私は水野智江子を殺した。良心の|呵責《かしゃく》に堪えかね、自ら罪を償うことにする。山上忠男〉と……。これでいいだろう。そうくどくど書くのは、良くない」
山上は、拳銃を手に取った。「――重いもんだね」
「山上さん――」
「約束してくれるね。言う通りにしたら、エリには手を出さないと」
言葉は穏やかだが、山上の視線は矢のように美沙の胸を貫いた。
「――約束するわ」
美沙は震える声で言った。
「君を信じよう」
と、山上は言うと、拳銃をゆっくりと持ち上げ、こめかみに銃口を当てた。
引金に指がかかる。
美沙は体を震わせた。そして、
「やめて!」
と、叫ぶように、「――できないわ! 私には……。山上さん……」
泣き出すような声である。
「私……私……」
「倉林君」
と、山上は言った。「僕は自分がどう見えるか分らない。しかし、決して悔しくも、不服でもないよ。本当だ」
美沙の|頬《ほお》を、涙が伝い落ちた。
「確かに、ここへ来たのは、エリの身が心配だからだ。しかし、今、自分で引金を引くのは、娘のためじゃない。君のため[#「君のため」に傍点]だ」
と、山上は言った。「君は僕の|憧《あこが》れの人だった。君を愛し、君のために死ぬ役を、僕は何度も空想の世界で演じて来た。――僕は今でも、本気で思っているんだ。君のために死ねたら、本望だとね」
山上は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
美沙は、涙に|濡《ぬ》れた顔で、じっと山上を見つめた。
沈黙は不思議に穏やかで、平和だった。
「君の幸せを」
と、山上は言って、再び銃口をこめかみに当てる。
――数秒の間。
銃声が薄暗い居間に響き、すぐに消えた。
静寂の後、少しして、奥のドアがゆっくりと開いた。
「すんだのね」
と、草間頼子[#「草間頼子」に傍点]は言って――立ちすくんだ。
「すんだよ」
山上が[#「山上が」に傍点]、体を起こした。
床には、しっかりと両手で拳銃を握りしめて、美沙が倒れている。その胸もとに、静かに血が広がって行った。
山上は立ち上った。
「僕の手から銃をもぎ取って――心臓を撃ち抜いたんだ」
草間頼子は、青ざめて、|呆《ぼう》|然《ぜん》と美沙を見下ろしている。
玄関のドアが開いて、
「おい! 何があった!」
と、あの村内刑事の声がした。
山上は、玄関の方へ歩いて行く。
「刑事さん」
「あんたか! 尾行していたんだ。今の銃声は――」
山上は、ちょっと居間を振り返って、言った。
「最後の一発ですよ」
「――やあ」
と、声がして、ソファでウトウトしかけていた山上は目を開けた。
「刑事さん。――どうも」
「疲れてるようだね」
と、村内は言った。「病院ってのは、どうも苦手だ。もっとも、ちゃんと|膝《ひざ》を|診《み》てもらわんといかんのだがな」
休憩所は、他に居眠りしている老人が一人いるだけだった。
「奥さん、どうだね」
と、病室のドアへ目をやる。
「ええ。大分元気になってます」
「そりゃ良かった」
村内は、コートを脱いで、「――|可《か》|哀《わい》そうなことをしたな、あの女は」
「彼女らしい、と思います。息子さんが気の毒だ」
「そうだなあ」
と、村内は|肯《うなず》いた。「永田公郎が、水野智江子殺しを自白したよ」
「そうですか……」
山上は、もう一人の「愛人」、大友久仁子のことを思い出していた。――彼女はたぶん、永田を見捨てまい。罪を償って出てくるのを、じっと待っているだろう……。
「気の弱い男なんだな、結局。社内の抗争で、ずいぶん色々あったようだ」
「草間頼子はどうです?」
と、山上は訊いた。
「ああ。あれは大した女だ」
と、村内は肯く。「以前、倉林美沙が亭主とうまくいかなくてノイローゼ気味だったとき、草間頼子と知り合ったんだ。二人は一時、同性愛の関係にあった。草間頼子は男に興味がなかったらしいね」
「そういう雰囲気でしたが……。しかし、僕も人を見る目がなかったんだな」
と、山上がため息をつく。
「まあ、人間誰しも、心の中までは|覗《のぞ》けんよ」
と、村内は言った。「草間頼子も、初めから何か|企《たくら》んでたわけじゃない。しかし、一人で暮し、あれこれ遊びに金をつかう内、君の所の仕事で、色々、企業の知られてまずい所を知ることができる、と気付いたんだ。それを利用して、企業の総務関係者などをゆすり、金を取る。――金額としては大したことがないので、下の方で適当に処理していたから、どこでも発覚しなかったんだな」
「情ない話です。コンサルタントの秘書がね!」
「そう自分を責めるなよ」
と、村内は言った。「ところが、草間頼子の所へ、倉林美沙が泣きついて来て、事情が一変する。頼子は何とかして美沙を救いたい。話をする内、美沙が、あんたのかつての憧れの人だったことを知って、驚いた」
「それで、僕に罪を着せる計画を?」
「頼子一人が計画し、美沙は言われた通りにした、というところだろうな。永田のことが知れないように、不動産屋の栗山を殺す。栗山は麻薬絡みで金に困っていたから、永田に金をたかろうとしていた。そこから足がつくのを恐れたんだな」
「家内と黒木とのことも?」
「そう。――あんたを犯人に仕立てるには、あんたが愛人を作っていて当然、という状況が必要だ。奥さんのことを調べている内、黒木のことが浮んで来て、それを利用したわけだ」
「なるほど」
「一方で、三神という男に美沙は近付いて、永田追い落としの計画を防ごうとする。それも頼子にとっては、金になる話だったしね。どっちにとっても、得だったわけだ」
と、村内は言った。「それに、水野智江子の友人だった、ホステスの君原令子は、誰が智江子の恋人か、聞いていなかったんだが、美沙は心配していた。君原令子の口をふさごうとして、頼子は安西刑事を撃ってしまった……」
村内はため息をついた。
「気の毒なことでしたね」
「ああ。――悔んでも悔み切れんね。草間頼子のことは、許せん」
と、村内は強い口調で言った。
「僕の友人の津田が刺されたのは……。あれも頼子ですか?」
「津田ってのは、頼子がゆすったことのある会社で、正にその係だったんだ。もちろん、津田には分らなかったろうが、頼子はいつか津田が自分のことを思い出すんじゃないかと心配だった」
「そうですか。――でも、大した傷じゃなかったようで、幸いでした」
「娘さんも無事で何よりだったね」
「ええ……」
草間頼子が、どこか、心のずっと奥底で、山上のことを「好きだった」のではないか、と……。甘いかもしれないが、今も山上は思っている。
エリに「自分が母親だ」とほのめかした女も、おそらく草間頼子だろう。黒木のこととは矛盾するが、あれは頼子の屈折した「愛」の表現だったのかもしれない。
「永田が不動産屋に君の電話番号を渡したのは、彼がたまたま車の中で、雑誌にのった君の記事と連絡先を見たせいらしいよ。とっさに記憶に残った番号を書いたんだろうな」
「一刻を争うこともありますのでね。時には自宅の電話を教えることもあるんです」
村内は立ち上った。
「さて、また来てもらうことになると思うよ」
「いつでも伺います」
と、立ち上って、「ありがとうございました」
「いや……」
村内刑事はちょっと首を振って、「これは私自身の戦いだったんだ」
と言った。
「それじゃ」
――山上は、その初老の刑事が見えなくなるまで見送っていた。
美沙……。
あの後で、〈情報屋〉が、永田と美沙との仲を、調べ出して来てくれた。もう少し早く分っていれば、美沙は生きていただろうか?
山上は、ちょっと肩をすくめて、妻の病室へと歩いて行った。
エピローグ
エリは、病室のドアを開けて、
「お母さん。具合――」
と言ったきり、目をパチクリさせている。
母が、普通のスーツ姿で、紙袋に荷物を詰めているのだ。
「あら、エリ。今日は早いのね」
「うん……。どうしたの?」
「退院するのよ」
エリは、
「本当? ――やった!」
と、飛び上った。
「下の患者さんがびっくりするわよ」
と、秀子が苦笑する。
山上が入って来た。
「何だ、エリ、来たのか。――おい、タクシーが来てる」
「荷物、持つわ」
と、エリが両手に紙袋を下げた。
「じゃ、行こうか」
と、山上が言うと、
「あ、そうそう、エリ」
と、秀子が言った。
「うん?」
「この間、調べてもらったでしょ。あんたはやっぱり、私とお父さんの子よ」
エリは、ちょっとの間、父と母を眺めていたが、
「そんなこと分ってるわよ!」
と言って、「学校の成績を見りゃ、|一目瞭然《いちもくりょうぜん》! さ、帰ろう、お母さん!」
勢いよく病室を出たエリが、どんどん先へ行ってしまったのは、|頬《ほお》を伝い落ちる一粒の涙を、両親に見られたくなかったからかもしれない。
本書は、一九九四年十二月、双葉文庫として刊行されました。
|禁《きん》じられた|過《か》|去《こ》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年 7月13日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2001
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角川文庫『禁じられた過去』平成11年12月25日初版発行