角川e文庫
自選恐怖小説集 滅びの庭
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
家庭教師
砂に書いた名前
シンバルの鳴る夜
知らない私
滅びの庭
家庭教師
1 事 故
降り始めたばかりの雨。車。|喧《けん》|嘩《か》。
ともかく――条件は|揃《そろ》っていたのだ。
雨は、降り始めると同時に、本降りになっていた。春の雨、といっても、濡れて行く気には到底なれない、激しい降りだった。
どちらかというと、初夏の雨に近い、荒々しさを感じさせる雨で、しかも、風も出ていた。およそ、ドライブ|日《び》|和《より》とは言い難かったのである。
「朝の内に出ておけば良かったのよ」
と、|信《のぶ》|子《こ》が言った。
「もう分った」
|寺《てら》|山《やま》が言い返す。――どちらも、|苛《いら》|立《だ》ちを隠そうとしない。
一つには、閉め切った車内が、うんざりするほど蒸し暑い、ということもあった。肌がべたつくような不快感。
家へ帰り着くまでに、まだ道のりは半分以上もあるという思いも、いっそう苛立ちをつのらせていた。
「あなたが、寄り道しようなんて言い出さなきゃ、とっくに東京へ着いてたんだわ」
信子は、少し間を置いてから、そう言った。
「今さらそんなこと言っても仕方ないだろう!」
寺山は、ほとんど怒鳴るように言った。
もちろん、その点だけ[#「だけ」に傍点]を取れば、妻の言う通りなのである。しかし、寺山にしてみれば自分の勝手な用で回り道をしたわけではない。
大体が期待外れの旅だったのだ。|泊《とま》った旅館も、パンフレットとは大違いの古びた宿で、しかも、宴会場の大騒ぎが、もろに聞こえて来る場所だった。
見物した場所にしても、どこも大したことはなく、二人の子供――|淑《よし》|子《こ》と|定《さだ》|男《お》も、退屈し切っていた。だから、せめて少しは子供が面白がる所に連れて行こうとして、少し遠回りになるが、水族館に立ち寄ろうとしたのである。
たまたまそこが工事で休館中だったことや、元の国道へ出る抜け道が、ひどく渋滞していたのを寺山のせいと責めるのは酷な話だった。
子供たちはまだいい。疲れて、後部座席で眠り込んでいた。しかし妻の信子にしてみれば、この旅行のために、お金をためていたのに、という思いが抜けないのだ。
信子とて、夫を責めてどうなるわけでもないことは百も承知だ。しかし、不満をぶつける相手が他にいないから、つい口から出てしまう。
そして寺山の方も、今度の旅行の計画を立て、決めたのが自分だという後ろめたさがあるだけに、ついむき[#「むき」に傍点]になってしまうのだった……。
――車は、激しく降りしきる雨の中、うんざりするくらいに続く林の中の道を辿っていた。
渋滞はない。ほとんど他の車を目にすることもなかった。
東京へ戻るには遠回りな道なので、あまり利用されないのだ。
「これでまた――」
と、信子は雨が叩きつけるフロントガラスを見ながら言った。「半年はどこにも出られないのね」
格別皮肉をこめて言ったわけでもなかったこの一言が、寺山を爆発させた。
「それが何だ! 俺のせいだって言うのか!」
と、寺山は怒鳴った。「俺だって、残業残業で、やっと休みを取ったんだぞ! 旅行がつまらなかったからって、それが俺のせいなのか!」
「誰がそんなこと言ったのよ!」
と、信子が怒鳴り返す。
「じゃ、さっきから何だかんだと言ってるのは何のつもりなんだ! 俺に当てつけてるだけじゃないか!」
「やましいから怒るのよ」
「何だと、俺は――」
「黙って運転したらどうなの! 早く家へ着けるように」
夫の方へ向けていた顔を、信子は前に戻した。「――あなた!」
信子の顔がこわばる。寺山が前方へ注意を戻したのは、その後だった。――遅すぎたのだ。
「しまった!」
と|哲《てつ》|夫《お》が言った。
「どうしたの?」
ちょっとウトウトしかけていた助手席の|梨《なし》|江《え》が目を開いた。「忘れ物?」
「飲物を仕入れて来るの、忘れたよ」
哲夫は舌打ちして首を振った。
――まだ大学生ながら、性格的に、安全第一の運転をする哲夫は、口をききながらも、決して目を前方からそらしたりはしなかった。雨の中となれば、なおさらである。
「あ、そうか!」
梨江が頭をポンと叩いた。「ドジねえ。私も全然気が付かなかったわ。あんなに売ってる所を通ったのにね」
「参ったな。この先、どこかあるかなあ」
「そうねえ」
「ちょっとロードマップを見てくれよ」
「うん」
梨江はロードマップを広げた。
哲夫と梨江は、同じ大学の三年生と二年生。高校も同じで、クラブの先輩後輩の間柄だった。
高校時代から、半ば「公認」のカップルであったが、それが大学に入ってからも順調に続いているのは、どちらも生来、気の優しい性格で、考え方や行動のテンポも一致するところが多かったからだろう。
親同士も、二人の交際を認めていたから、梨江が大学を卒業したら、結婚することになるのは、当人たちだけでなく、友人たちもほとんどが承知しているのだった。
しかし、このドライブは、別に二人だけの婚前旅行というわけではなかった。大学のゼミの仲間での旅行なのである。
幹事を|任《まか》された二人、一足先に、目的地へと向っているところだった。
「ありそうもないわね」
と、梨江は首を振った。「でも、戻る時間はないでしょ?」
「真夜中になっちまうよ。――どこかで電話借りても……もう、みんな出発してるな」
――何しろ、全部で八人いるのだ。缶ビール、コーラ、ジュースの類をドサッと積んで行かなくては間に合うまい。
「現地で調達するしかないんじゃない?」
と、梨江は言って、長い髪をかき上げた。
これが梨江のくせ[#「くせ」に傍点]なのである。
「店が開いてりゃいいけどな……」
「そうねえ。――閉ってたら、何とか頼んで開けてもらうしかないわよ」
「そうだな」
と、哲夫はため息をついたが……。
「ねえ、ちょっと! あそこ!」
と、梨江が声を上げた。「自動販売機じゃない?」
「そうかも――よし!」
車は、もうその場所を行き過ぎていた。哲夫は、車を|一《いっ》|旦《たん》停めると、バックさせて行った。
「ほら、そこ! ビールもあるわ」
「よし。――細かいの、あるかい?」
「うん。電話やなんかに使うと思って、百円玉、沢山持って来たの」
「そりゃいいや。じゃ、買えるだけ買い込もう」
「ビールばっかり買わないで、コーラとかジュースもね」
アルコールのだめな梨江の注文に、哲夫はちょっと笑った。
「分ってるよ。じゃ、百円玉――よし、これだけありゃあ……」
「車、向うへ寄せる?」
自動販売機は、道の反対側に並んでいたのだ。しかし、そちらの側には、車を寄せておくだけのスペースがない。
「いや、こっちでいいよ」
と、哲夫は、ちょっと考えてから、言った。
「でも、道を渡らなきゃいけないのよ。濡れるわ」
「ほんのちょっとじゃないか」
「傘、出しましょうか?」
「傘さしてたら、そう何個も持てない。パッと行って戻るよ」
「でも、ずいぶん降ってるわ」
「大丈夫。ドア、開けてくれよ、戻ったら」
哲夫は、車を出て、雨の中を、自動販売機の方へと駆けて行った。
梨江は、ドアを閉め、哲夫が販売機に次々と百円玉を入れるのを、窓越しに見ていたが何といっても一度には一缶しか出て来ないのだから、いくら急いでも、限度がある。雨はひときわひどくなったように見えた。
梨江は、見ていられなくなって、折りたたみの傘を取り出すと、半開きにして、車を出た。大粒の雨が、顔や肩を打ちつける。
これじゃ、たちまちシャツまでずぶ濡れだわ、と梨江は思った。
傘を広げて、走って行く。
「まだかかるの?」
と、傘をさしかけてやる。
「何だ。待ってればいいのに」
「ひどい雨じゃないの!」
「もう、あとはジュースを三つも買えば百円玉がなくなるよ」
「じゃ、早く。私も運ぶから」
「OK。じゃ、頼むよ」
哲夫は、既に買った分の半分くらいを、梨江の、空いた左手に、かかえ込むように持たせた。ギュッと、体と左の腕で挟むようにして、梨江は何とか支えた。
「先に戻ってろ。すぐ行くから」
と、百円玉をジュースの販売機に入れながら、哲夫が言った。「これぐらいは運べるから大丈夫」
「じゃ、早くね」
右手で傘を、左手は重い缶をかかえて、梨江は、車の方へ戻りかけた。
「あ――」
雨で濡れているせいか、しっかり抱きかかえたつもりの缶が、滑り落ちそうになる。梨江は、足を止めて、持ち直そうとした。
哲夫は、最後の一枚の百円玉を入れて、ボタンを押すと、梨江の方へ目をやった。
――車が突っ走って来る。
この雨の中では、信じられないようなスピードだ。そして梨江はまだ道の真中に突っ立っている……。
「危い!」
哲夫は叫んだ。
哲夫が、両手一杯にかかえていた缶を全部投げ出して駆け出すのと、車が梨江を空中高くはね飛ばすのと、同時だった。
梨江のかかえていた缶の一つが飛んで来て、哲夫の額に当った。一瞬目がくらむほどの痛みで、哲夫はよろけた。
手をやると、血らしいものがついて来たが、何とか立ち直った。車は、数十メートル先で、スリップしながら、やっと停った。
そして梨江は……。道の真中に倒れて、雨に打たれている。
「梨江!」
哲夫は叫んで、駆け寄った。
ハンドルを握った寺山の手が細かく震えていた。
もう車は停っているのに、寺山の右足は、一杯にブレーキを踏み続けている。
「あなた……」
信子が、かすれた声で言った。「はねたのよ」
「ああ……。分ってる」
寺山のこめかみを汗が流れ落ちる。――蒸し暑い車内が、まるで冷蔵庫の中のように、スーッと冷えて行くようだった。
「どうするの? どうしたら――」
「分るもんか!」
寺山は、振り返った。もう何十メートルも走って来てしまった。
「死んだのかしら?」
と、信子は、言った。
寺山は、何も答えなかったが、まず、生きていないだろう、と思っていた。
ブレーキは踏んだが、それは、はねた後[#「後」に傍点]のことだ。寺山にも、その記憶は、はっきりとある。
「罪になる?」
信子は、夫の顔を、うかがうようにしながら言った。
「わき見してたんだ。ブレーキも踏まずにはねた。――当り前だよ」
「どうするのよ!」
「落ちつけ!」
もし、死んでさえいなかったら……。奇跡的に、大したけがではなかったとしたら……。
しかし、そんなことは万に一つもあり得ないことを、寺山はよく知っていた。
「逃げるのよ」
と、信子が言った。
「――何だと?」
「逃げましょう。誰も見てないわ」
「連れがいたじゃないか」
「この雨よ。車の型やナンバーなんて、憶えてやしないわ。――逃げるのよ!」
「しかし……」
「刑務所に行きたいの? 私はいやよ!」
寺山は、大きく息をついた。
「逃げれば――もっと罪が重くなるぞ」
「どんなに軽くたって、殺せば刑務所でしょう」
「――よし」
寺山は|肯《うなず》いた。手の甲で、額の汗を拭う。
こうなったら同じことだ!
エンジンをかける。横向きになった車を、まずバックさせ、ハンドルを切った。
行くぞ! 逃げてやる! 自分の運に賭けるんだ!
寺山は、ギヤを入れかえた。
そのとき、激しく窓を叩く音がして、寺山はギョッとした。信子が悲鳴を上げる。
若い男が、ドアを開けようとしている。怒りの形相は、額から流れ落ちる血に汚れて、ゾッとするほど凄かった。
「逃げるのよ! 走らせて!」
信子が叫ぶ。
その若い男は、ロックされたドアを激しくガタつかせ、もう一方の手を拳にして、窓ガラスに叩きつけた。足でドアを蹴っているらしく、ガン、ガン、という衝撃が、車体を揺るがさんばかりだ。
「殺されちゃうわ! 早く車を出して! 早く!」
信子が叫び続ける。寺山は、アクセルを踏み込んだ。タイヤがきしる。
車は走り出した。――が、あの男は、車のドアにしがみついていたのだ。
「振り落とすのよ!」
と、信子が、ほとんど悲鳴に近い声を上げた。「スピードを上げて!」
寺山は、男の方を見ないようにした。一心に前方を見つめる。――畜生! 諦めろ! とっとと消えてなくなれ!
どうした弾みか、ドアのロックが外れた。カーブに来ていて、ドアは大きく、振り出されるように開いた。
しがみついていた若い男の体は宙へ投げだされると、大きな木の幹に叩きつけられて、下へ落ちた。
「ドアを閉めて!」
寺山はブレーキを踏んで、車を停めると、大きく開いたドアを閉めようと、降り込む雨に顔をしかめながら、手を伸した。そして後ろを振り向く……。
「あいつ――」
寺山が目を見張った。
木に叩きつけられ、道路に転がったあの若い男が、動いているのだ。
顔を上げ、寺山の車の方へと這いずって来る。
「こっちへ来るぞ……。何て奴だ!」
寺山はドアを閉めた。
「生きてるの?」
「こっちへ這って来るんだ」
寺山は、恐怖を覚えた。
「バックするのよ」
と、信子が言った。
寺山は妻の顔を見た。
「助けるのか?」
「殺すのよ」
と、信子は言った。「生きてたら、私たちのことをしゃべるわ」
寺山は、信子が、仮面のように表情のない顔で、しかも、しっかりした声で言うのを聞いて、耳を疑った。
「ひき殺せって言うのか!」
「ここまでやったのよ! もう同じことじゃないの!」
寺山はハンドルを、砕けんばかりの力で握りしめた。
「よし。――分った」
ギヤをバックに入れる。
その瞬間、ガクン、と思いがけないほどの衝撃があった。
寺山は、ゆっくりと息を吐き出した。
「やったぞ……」
「そうね」
と、信子はじっと前方を見つめたまま、言った。
後部座席で、定男がウーン、と声を上げた。寺山と信子は、ギクリとして振り返った。二人の子が、後ろで眠っていることを、忘れかけていたのだ。
「――大丈夫よ。眠ってる」
と、信子が言った。「行きましょう」
寺山は、何も言わずに、車をスタートさせた。もはや、後ろを振り返ろうともしなかった。
雨は、なお激しく降り続き、目の前でワイパーが忙しく踊っている。雨滴を拭い去りながら、それは寺山の心の痛み[#「痛み」に傍点]をも、拭い去っているようだった。
東京へ着くと、もう雨は上っていた。
子供たちも目を覚まして、お腹が空いた、と言い出したので、寺山は車を、チェーンレストランの一つに入れた。
本当は、車に事故の跡がないか気になっていたので、真直ぐ家へ戻りたかったのだが、子供の方は待ってくれない。
車から最後に出ると、寺山は、グルリと一回りしてみたが、目立つ凹みなどは見当らなかった。
――子供たちは、ぐっすり眠った後のせいか、良く食べた。
姉の淑子は十一歳、定男は八歳である。どちらに似たのか、二人はよく似た、可愛い顔立ちをしている。
夕食を取っていると、大分寺山も落ちついて来た。
二人の子供のためにも、この事故のことが知られてはならない。俺には責任があるんだ……。
都合のいい理屈と承知の上で、自分を納得させる。
車は買い替えよう。どうせ古くなっていて、あと一年、使えるかどうかだ。買い替えても誰も変だとは思うまい。
帰ったら、ともかく、詳しく傷や血痕などを調べてみる。――幸い雨だったから、そう残っていないだろうが。
「姉さんの所に電話しなきゃ」
と、信子が、食べ終ると言った。
「何か用事か?」
「明日、パン教室に誘われてたの。今日の帰りがあんまり遅くなったら、行けないかもしれないと思って、戻ったら電話するって言っといたのよ」
「で――やめるのか?」
「行くわよ、もちろん」
信子は、小銭入れを手に、立ち上った。
寺山は、信子がこんなに「強い女」だとは思ってもいなかった。まるで別人のようだ、と呟いた。
「お父さん、アイスクリーム食べていい?」
と淑子が言った。
「ああ、いいよ」
「僕も」
と、定男がすかさず言った。
寺山は、ウェイトレスを呼んで、自分もコーヒーを注文した。信子は、時によって、コーヒーにしたり紅茶になったりする。戻るのを待とう。
「もっときれいに食べなさいよ」
「お姉ちゃんだって残してるじゃないか」
と、淑子と定男が、やり合っている。
――信子が戻って来た。
何だか、|頬《ほお》を上気させて、妙な顔をしている。
「コーヒーか紅茶か分らないから、まだお前の分は頼んでないぞ」
「え?――ああ、そう」
信子は、心ここにあらず、という様子だ。
「どうしたんだ? ぼんやりして」
「明日、会社休める?」
「何だ、いきなり。明日は――」
「お葬式よ。伯父さんが急に倒れて、亡くなったんですって」
「そうか。――じゃ仕方ないな。まだそう年齢でも……」
「七十は越えてたわ。それよりね――」
信子は、興奮を隠し切れないように、身を乗り出した。「あの伯父さん、子供がいないの。姉さんと私が遺産を継ぐんですって」
「ほう。そいつは……」
良かった、とも言いにくいので、寺山は言葉を切って、「多少はまとまって入るのか?」
「姉さんがね、呼ばれて聞いたの。不動産も含めると、何億だって」
「億……。おい、本当か?」
「そうよ! 独り暮しで、使いようがないから、結構貯め込んでたみたい。預金も何千万かあるんですって!」
「凄いじゃないか、そいつは」
「税金のことはあるけど……。姉さんも声が上ずってた。そんなに遺してるとは、思ってなかったのよ」
「そうだろうな。それにしても……」
二人は、しばし、黙って、顔を見合わせていた。
あんな出来事の後に、こんなニュースが待っていたとは。何という運命の皮肉だろう!
「大丈夫よ、あなた」
と、信子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「私たち、ツイてるんだわ」
寺山は、黙っていた。――目の前にコーヒーが置かれた。
「私もコーヒーをちょうだい」
注文する信子の声は、もういつもの声に戻っていた……。
2 姉 弟
まどろむ間もなかった。
|森《もり》|川《かわ》|邦《くに》|子《こ》は、ベッドから手を伸して、自分の腕時計を取った。
「そんなに急ぐのかい?」
と、|篠《しの》|原《はら》が眠りかけていたのを起こされて言った。
「そうじゃないの。起こしてごめんなさい」
邦子は、ふっと息をついた。「何だか、眠っちゃってたような気がして、ハッとしたの」
「何時だい?」
「まだ三時前よ」
「いや、君が戻る時間さ」
「五時。――この近所だから、三十分前に出れば充分だわ」
部屋の中は薄暗かった。――どうせ、こういうホテルなのだから、明るいままだっていいようなものだが、少しほの暗い程度の方が、邦子は落ちつくのである。
部屋の中は、適度に冷房が効いて、快適だった。いや、むしろ空気が乾いているせいで、汗ばんだ肌が、すぐにサラッと乾くのが快いのかもしれない。
外は、もちろん暑い盛り。――このホテルから出るときのことを考えると、うんざりした。
「――どうしたんだ?」
と、篠原が訊いた。
「別にどうも……」
「いつもと違うよ、様子が」
邦子は、ベッドの中でうつ伏せになると、重ねた両手に顎をのせた。
時間が止ったような、いや、そこまではいかないまでも、急に、歩みがのろくなったような、そんなひとときだった。
森川邦子は二十一歳。大学の三年生である。
ショートカットにした髪、ちょっと気の強そうな顔立ち。しかし、そこにはとげとげしさや、冷ややかなものはなく、あくまで「自然」である印象を与えた。
同じベッドに、仰向けになって、両手を頭の上に伸している篠原の方は、邦子よりもずっと年上の三十八歳である。年上なのも当然で、篠原は、邦子の通う大学の助教授なのだ。
教師と教え子、という、あまり学校側としてはいい顔をしない取り合せだろうが、篠原はまだ独身なのだから、非難される筋合ではない。
篠原とて、独身主義者というわけではなかったが、ただ、結婚したいと思う女性に、なかなか出会えないのと、たまに出会っても、どうもタイミングが合わない、ということのくり返しで、この年齢になったのだった。
「アルバイトのことでね……」
と、邦子は、少し間を置いてから言った。
「例の子守り[#「子守り」に傍点]かい?」
「家庭教師よ、失礼ね」
と、邦子は、ちょっと篠原をにらんだ。
「しかし、両親が海外旅行中、その家に住んで子供二人の面倒をみてくれっていうんだろ?」
「でも、家のことは、家政婦さんが全部やってくれるのよ。こちらはただ、午前と午後、決った時間に勉強させればいいだけ」
「じゃ、その二人のガキが、ろくでもない小生意気な奴なのか」
「そんなことないわ。珍しいくらい、素直で、可愛いの」
「へえ。――君は大体子供好きだものな」
「ええ。両親は、俗物の典型って感じだけど、子供たちは本当にいい子なのよ」
「分らんね」
篠原は首を振った。「それでいて、君は思い悩んでる。なぜだ?」
邦子は、ぼんやりと薄暗がりの中に見えている、少々刺激的な絵の方へ目をやりながら、言った。
「――怖いのよ」
「君が?」
「私が怖がっちゃ、おかしい?」
「君は滅多なことで『怖い』と口にしないだろう。内心怖がっててもね。よほどのことだな、それは」
「そうね……」
邦子は、少しためらってから、言った。「ねえ」
「何だい?」
「いつもあなた、一休みしてからまた私のこと、愛してくれるけど、今日は私の話を聞いてくれる?」
「そうだな……。ちょっと残念な気もするけど、一回ぐらいは諦めてもいい」
「もったいぶって」
邦子は手を伸して、指先で、篠原の鼻をつついた。
「――何が問題なんだい?」
篠原は、ちょっと笑いながら言った。
「最初に言っとくけど、これは、ありのままの話なのよ。私の空想とか、夢とか、そんなものじゃないの。事実、あの家で起こってることだけを話すから、そのつもりで聞いて」
「分ってる」
と、篠原は、|肯《うなず》いて見せた。「君は自分で作り出した幽霊に|怯《おび》えるタイプじゃないからな」
「幽霊が出て来るわけじゃないのよ」
と、邦子は言った。「ともかく、今のところはね[#「今のところはね」に傍点]」
雨が降り始めた。
「ついてないな」
と、邦子は呟いて、ワイパーを動かした。
それほどひどい降りではないのだが、霧と雨の中間とでも言うような降り方で、却って車を走らせるには危い雨だった。
もちろん、ここは東京といっても都下――それもかなり外れの方で、走っている車も多くない。でも、それだけに油断しがちではあるし、スピードも、つい出してしまうのだ。
いずれにしろ、邦子は、かなり時間の余裕を見て出て来たので、そうあわてることもなかった。安全速度で運転を続ける。
道は一本で、迷いようがない。その点、気が楽である。
邦子は、友だちから借りた小型車を、自分の車のように、落ちついて運転していた。車であれ人であれ、相手のくせを呑み込むのが早いのだ。
その能力は、家庭教師をやるときには、大いに役に立った。女の子からは姉のように慕われ、男の子には憧れの人のように……でも、けじめは心得ていたから、これまで、もめごとを起こして、やめたことはない。
いつも喜ばれているという実績があるから、こういう、「割のいい」仕事を回してくれる、というわけである。
割のいい――少なくとも、この時点では、邦子はそう思っていた。
夏休みは、まだ始まったばかりだった。後半――特に九月に入ってから、実質的に大学の始まる中ごろまでの、比較的空いた期間に旅行でもしようと思うと、夏休みの初めのころ、頑張ってアルバイトをしておかなくては資金を調達できない。
去年は、ろくな仕事がなくて――家庭教師といっても、夏はあまり需要がないのだ――、方々の売り子をやったりしてクタクタになってしまった。だから、今度の話があったときは、飛びつくようにして承知したのだ。
本当は恋人の篠原と二、三日、どこかへ行くつもりだったのだが――まあ、仕方ない。そう都合のいいことばかりはないものである。
二週間、両親が海外へ出ている間、二人の子供の勉強を見てやる、という仕事で、泊り込みだから、食事も向う持ち。それに、ちゃんと住み込みの家政婦がいるから、こちらが雑用でこき使われることもない。
何とも結構な話だった。しかも、払いはちょっとびっくりするくらい、いいのだ。
「あんまり話がうますぎるんじゃないのか?」
と、篠原が心配していたが、
「話が違うようなら、さっさと帰って来るわよ」
と、邦子は笑って言った。
実際、そういう点は、きっぱりした性格なのである。
心配といえば、面倒をみる当の子供たちが、どうにも手がつけられないほどわがままとか、そういう点だけだった。特に上が女の子で十一歳、下が男の子で八歳というのは――いつも勉強をみている子供たちに比べても小さいのだ。
まあ、何とかなるわよ。
邦子は、自分にそう言い聞かせた。子供の扱いには自信もあったし、それに、いくら想像でくよくよしていても、何にもならないのだ……。
相手から送られて来た地図は、あまり正確なものとは言えなかった。道の右側にあるものが左側に書いてあったり、T字路が四つ角になっていたり……。ほんの百メートルほどの距離が二、三キロもあるようになっていたりもした。
しかし、これも邦子の方は慣れっこである。初めての家を捜すのも得意だ。
もっとも、こんな、林ばかりの道となると、少々勝手は違うし、それに雨も降っているが。
「――あれだわ」
〈寺山〉という、矢印のついた立て札を見付けたときは、邦子もホッとして、思わずそう呟いていた。
林の奥へ、何だかいやに細い道が続いている。――変だわ、と邦子は思った。
もらった地図によると、楽に車の入れる道、ということだったのに。これでは、この小型車もぎりぎりの幅だ。
でも、ちゃんと立て札があるのだし……。
走って来た道路から、林の中へと分れるその角で車を停めると、邦子はちょっと考え込んだ。
この雨だ。出て歩くのも気が進まないけれど。――でも、身動きが取れなくなるよりはいい。
決心すると、邦子は、靴の上にビニールのカバーをはいて、傘を手に、外へ出た。ひどい降りというほどでもなかった。
立て札に歩み寄って、手で押してみる。いやにぐらつく。あまり深く埋め込んでいない感じだ。
やっぱりね……。
よく、こういういたずらをする者がある。立て札や標識を引っこ抜いて、全然別の所に立ててみたり、向きを変えてしまったり。
これも、どうやら、その類らしい。
邦子は、林の中へと目をやった。――この中には、何があるのだろう?
念のためだ。邦子は、その細い道を、ぬかるみに足を取られながら、進んで行った。
十メートルほど入ったところで、いきなり、足首まで泥の中にズブッとめり込んでしまって、バランスを崩した。
「キャッ!」
と邦子は思わず声を上げた。
足を抜こうとして、思いの他、むずかしく、よろけて、横向きに倒れてしまったのだ。
――何とも、結果は悲惨だった。
体の右側が、ベッタリと、特大の刷毛でも使ったように、泥だらけになってしまったのだ。傘も落ちて、泥にまみれてしまった。雨でびしょ濡れになりながら、邦子はやっと起き上った。
泥に埋っていた足をやっと抜くと、邦子はため息をついた。
それにしても……何て|性《た》|質《ち》の悪いいたずらだろう!
道は、そこが少し低くなっているのか、見たところはそれほどでもないのだが、泥がたまって、かなりの深さになっているらしい。もし車で強引に入って来たら、ここで車輪を取られて、動けなくなっていただろう。
それよりはまだまし[#「まし」に傍点]だわ。――邦子は、自分へそう言い聞かせて、車へと戻った。
まさか、こんな泥だらけの格好で、向うの家へ行くわけにいかない。
車へ戻って、ドアを開けたものの、このまま乗れば、座席が泥で汚れてしまう。自分の車ではないのだ。
邦子は、迷った挙句、思い切って、全部着替えてしまうことにした。大体、雨をまともに浴びて、下着までしみ通っているのだ。
ドアを開けたままにして、手を突っ込み、着替えを詰めたボストンバッグを後ろの座席から引張り出す。その中から、タオルを出して、手の泥を拭き取り、洗濯物を入れるビニール袋を出して、座席に置いた。
そして――少々迷ったが、思い切りよくやるしかない、と心を決めて、車の外で、雨に濡れながら、急いで服を脱ぎ出した。
脱いだ服をどんどんビニール袋へ詰め込む。どうせ、誰も見てやしないんだ、と、下着まで脱いで裸になる。雨に打たれると、こんな場所だというせいもあるのか、かなり冷たい。
後は車の中へ転がり込んで、タオルで体を拭き、着替えを引張り出して、身につければいい……。
と――ちょうど丸裸になったとたん、邦子は、雨の中に立っている人影に気付いた。
傘をさして、ポカンとした顔で突っ立っているのは、五十代も半ばかというおばさんで、――おじさんでなくて幸いだった――雨の中でストリップをしている女性を見て|呆《あっ》|気《け》に取られている様子だった。
「あ、あの――」
と、邦子はあわてて言いかけた。
「森川先生でいらっしゃいますか」
と、そのおばさんは言った。
「はあ」
「迷われてるかもしれないから、見て来いと言われまして……。私、家政婦をしております、|村《むら》|上《かみ》|八《や》|重《え》|子《こ》と申します」
「ど、どうも――あの――こんな格好で、すみません」
格好も何も、裸なのだから!「実は――その奥で転んで泥だらけになったもんですから――」
「まあ、そうでしたか」
と、村上八重子は笑った。「どうぞ早くお入り下さい。風邪を引かれますわ。この辺、結構、気温が下りますもの」
この瞬間、邦子は、このおばさんがすっかり気に入ってしまった。
この人はいい人に違いない。そう邦子に確信させる何かが、その笑いには現われていたのである。
無事に(?)服を着終えた邦子は、村上八重子を助手席に乗せて、車を動かした。
「この、ほんの少し先なんですよ」
と、村上八重子は指さして、「広くて、ちゃんと舗装のある道ですから」
「助かりましたわ」
邦子は、ハンドルを握って、言った。
「でも、あの立て札が……。誰だか知らないけど、ひどいことをするのがいますねえ」
と、村上八重子は腹立たしげに言った。
「前にも、こんなことが?」
「二度くらいございましたかしら。このところはなかったんですけれども……」
「暇を持て余してる人がいるんですね」
と、邦子は笑った。
そう。――別に今日邦子が来ることを知っていて[#「知っていて」に傍点]、あんなことをしたわけではないのだ。あまり気にしないことにしよう。
「そこを曲って下さい」
村上八重子に言われるまでもなく、邦子はハンドルを回し始めていた。
「――そろそろ出かけようかと思ってたの」
と、寺山信子は、髪型を気にしながら言った。
「ちょうど良かったわ。一応挨拶ぐらいはして行かなきゃ、と気になってたから」
――邦子は、この家が気に入っていた。
都心にもマンションがある、ということだったが、静かな木立ちに囲まれたこの家の方が、ずっと子供にとってはいい環境である。
造りは、ちょっと北欧風というのか――前の持主が外国人だったと、後で知って納得した――木の香りを漂わせた山荘といった趣になっている。
親子四人に、家政婦を住まわせても、ちょっと広過ぎるかと思えるほどの建物だ。
造りも、外見のデザインもなかなか垢抜けしていていい。その割には――内装、装飾品の類が、どうにも成金趣味で、邦子を苦笑させたのだが、出て来た寺山信子を見て、納得させられた。
どう見ても、似合うとは思えない、ブランド物ばかりを身につけて、髪を少々染めたりしているのだが、およそさま[#「さま」に傍点]になっていないのである。
「大学の学生部でうかがったら、あなたが一番ということで、推薦してくれたの。家庭教師はよくやるの?」
「はい。割合自信があります」
「そう。――まあ、よろしくお願いするわ。上の淑子は、なかなかよく出来てるんだけど、定男の方はちょっと――こう、何て言うのかしら――のんびりしてるのね。頭が悪いわけじゃないんだけど」
「よく分ります。男のお子さんが一人だけだと、のんびりしがちですわ」
「そう、そうね。本当にそうなの。――あ、あなた」
寺山が居間へ入って来た。ちょっと疲れたサラリーマンに、やたら若々しい服装をさせている、という印象。
「こちら、家庭教師をお願いした森……田さん?」
と、信子が邦子を見る。
「森川です。どうぞよろしく」
邦子は微笑んで頭を下げた。子供に好かれると同時に、その父親にも、まずたいていは気に入られるという自信がある。
寺山も、愛想良く笑顔を見せたが、
「あなた、忘れ物のないようにしてよ!」
と妻に言われて、早々に出て行く。
妻に、いいように引きずり回されている感じだ。いかにも気の弱そうなタイプである。
――寺山信子は、邦子にくどくどと、子供たちの時間の使い方や、TVを見る時間、ベッドに入る時間などを指示した。
二年間も留守にするみたいだわ。おとなしく耳を傾けながら、邦子は思った。
「あら、来たのね」
と、信子が居間のドアの方を見て、「ご挨拶なさい。森田[#「森田」に傍点]先生よ」
邦子は、後で訂正しようと思いながら、子供たちの方へ歩いて行った。
「こんにちは。二週間、仲良くやりましょうね」
「うん」
男の子が|肯《うなず》く。姉がちょっとつついて、
「ちゃんとご挨拶するのよ。――淑子です」
「定男です、ぼく」
二人の子供たちの第一印象は、大いに結構だった!
淑子の方は十一歳にしては背も高く、少し大人びた感じさえする。「長女」というイメージによく似合う女の子だった。しかも、なかなか整った顔立ちで、成長したら美人になるだろうと思える。
弟の定男は、むしろ八歳にしても幼い感じだ。甘えん坊らしさが、表情に出ていて、しかし、そこがまた可愛い。
どっちも、妙にませたり、ひねくれた印象は全くなかった。――この二人となら、うまくやって行ける。
邦子は、そう確信した。
「――出かけて来るわよ」
仕度を終えて、信子が声をかけると、子供たちが、玄関まで出て来た。
「パパは?」
と、定男が訊く。
「今、駐車場からベンツを出してるとこよ」
ただ、「車」と言わないのが、いかにもこの奥さんらしいわ、と邦子は思った。
「――おい、行くぞ」
寺山が玄関のドアを開けた。「二人とも、言うことを聞くんだぞ」
「うん、行ってらっしゃい」
と、定男が手を振る。
「行ってらっしゃい」
淑子は、微笑みながら言った。「雨だから、事故を起こさないでね」
3 真夜中の会話
手にしていた週刊誌が、パタ、と膝に落ちて、邦子はハッと目を覚ました。
「いやだ……」
つい、ウトウトしていたらしい。
邦子は頭を振った。――村上八重子が、居間へ入って来る。
「コーヒーでも、お飲みになりますか、先生?」
「すみません。いただきますわ」
邦子は、両手を上に突き上げて、伸びをした。「――もう何時かしら?」
「二時を少し回ったところです」
「二時。――二人は?」
「お庭で何かゲームを」
村上八重子は、カップにコーヒーを注いだ。
「ミルクとお砂糖はお使いになりませんね、先生?」
「ええ、結構です。――村上さん、その『先生』ってやめて下さいな。何だか落ちつかなくて」
「でも、私にはお呼びしやすくて」
と、村上八重子は笑った。
「一緒にいかが? まだ夕食の仕度には早いんでしょ?」
「はあ。じゃ――私もいただきますわ」
村上八重子は、初めからそのつもりだったらしく、もう一組のコーヒーカップを仕度して来ていた。
邦子は、コーヒーをゆっくりと口に含んだ。
表は光が降り注いでいる。もちろん、暑い盛りだが、この緑に囲まれた家は、思いもかけないほど涼しい。冷房も完備しているが、邦子も、寝ていてクーラーを入れることはほとんどなかった。
「もう一週間たったのね」
と、邦子は呟くように言った。
「いかがですか」
と、村上八重子は親しげに言った。「お二人とも、先生のこと、大好きなようですよ」
「私だって!」
と、邦子も笑顔になって、「いい子たちだわ、本当に。勉強の方のスケジュールは少々遅れてるけど――でも、予定って、半分も終ればいい方だと思うんですよ。自分自身がそうでしたもの。その点から言えば、ちょっとうまく行き過ぎみたい」
「本当に、いいお子さんたちですわ」
「村上さんは……もうこの家に長いんですか」
「いいえ。この三か月ほどです」
「まあ。――何年もいらっしゃるんだと思ったわ」
「このお宅自体が、まだつい最近なんですよ、こうして余裕のある暮しをなさるようになったのが」
「そんな気がしてました」
「何でも、ご親戚の遺産が相当に入ったとかで……。そんなことを、ご主人がおっしゃってました」
「なるほどね」
邦子は|肯《うなず》いた。「じゃ、それ以前のことはご存知ないんですね」
「ええ、ほとんど。――何か?」
「いいえ。別に、大したことじゃありませんわ」
一つ、邦子が訊いてみたかったのは、寺山が、以前に車で事故を起こしたことがあったのだろうか、ということだった。
寺山夫妻が出かけるとき、淑子が、「事故を起こさないように」と言った。それを聞いた寺山が、目に見えて、ギクリとしたのである。
淑子の言い方は、特別意味ありげなものではなかったのだから、父親が、そんなに目立つほどの反応を示したのは、意外であった。
寺山は、何か事故を起こした経験があったのだろうか、という考えが、邦子の頭をかすめたのだった。
しかし、それも大して頭を悩ませたわけではない。むしろ、他に、気になるようなことが一つもなかったから、頭に残っていたのだと言ってもよかった。
それだけ、この一週間が平和だったという証拠だろう。
実際、邦子としては、何の不満もない毎日が続いていた。村上八重子の料理の腕も大したもので、邦子は、これでお金をもらっていいのかしら、などと、しっかり者にしては珍しいようなことを考えていたくらいだ。
淑子も定男も、印象通りの子供たちだった。
きちんとけじめのつけられる淑子と、ちょっとだらしのないところのある定男。
しかし、それでいてどちらも「子供らしい」のである。
邦子は、あまりに大人びた意味での「いい子」というのは好きでない。子供は、そうそう何事も「けじめ」をつけられるものではないのだ。
いや、その点なら、大人だって同じことだ。仕事と遊び、公人と個人のけじめのつけられない大人が、何と多いことだろう!
子供にとっては、勉強の最中だって、珍しいもの、面白い音に、気を取られるのは、むしろ、自然なことなのである。
ただ、邦子がちょっと気になったのは、二人の子供たちが、できすぎている――と言ったら、ぜいたくかもしれないが、あの両親、寺山と信子に比べると、およそ似ても似つかぬ、素直さを持っていることだった。
もちろん、邦子とて、寺山夫婦と言葉を交わしたのは、ほんの数分間に過ぎないのだが、相手の根本的な人間性をみて取るのに、そう時間は必要としないものなのだ……。
でも、淑子も定男も、邦子の前だからといって、「いい子」を装っている気配は、全くない。
きっと、私の考え過ぎなんだわ、と邦子は思った。それだけ、素直な子供に出会うことが珍しくなったのかもしれない。
「――先生!」
と、定男の声が響いたと思うと、ドタドタッと足音をたてて、居間に駆け込んで来る。
「そんなにお家の中で駆けっちゃ、いけませんよ」
と、村上八重子がたしなめた。
「はあい。――ね、先生、バレーボール、しようよ。二人じゃつまらないんだ」
「バレーボール? いいわよ!」
少し体も動かしたかった。
邦子は、立ち上ると、両腕を振り回した。
「見てらっしゃいよ、うまいんだからね!」
邦子は村上八重子の方へ、「ちょっとご一緒にやりません?」
と声をかけた。
「まあ、こんな年寄りじゃ、腰が抜けてしまいますわ」
「いいじゃないの! 村上さん、やろうよ!」
定男に手を引張られて、村上八重子は、笑いながら立ち上った。
ところが――裏庭の草地で、邦子と姉弟、それに村上八重子の四人が、もちろんチームに分れるほどでもなく、ただ輪になって、夏のまぶしい空へ向けて、バレーボールを打ち上げたのだが――驚いたことに、抜群にうまいのは村上八重子だったのである。
「まあ、凄いじゃありませんか!」
定男が、ボールを拾いに行っている間に、邦子は息を弾ませながら言った。
「昔、ちょっとやったことがあるんですの」
村上八重子は、少し照れくさそうに言った。
「でも、大したことはないんですよ」
「上手よ、村上さん、凄い!」
淑子が、真赤な顔をして、髪の毛をかき上げた。――興奮して来たりすると、無意識にそうするのがくせらしい、と邦子は気付いていた。
「行くぞ!――えい!」
定男が、少し遠くからボールを打った。
「私が打つ!」
淑子が、やたら大きく打ち上げたボールを追って、叫ぶと、駆け出した。
「木があるわよ! 気をつけて!」
と、邦子は大声を出した。
アッ、と思ったときは遅かった。――ボールの方ばかりを見ていた淑子は、まともに、大きな木の幹に体ごとぶつかってしまったのだ。
淑子は、そのままバタッと伏せて倒れた。――その前に、白いボールが落ちて、大きくはねた。
一瞬、邦子も動けなかった。大変だ。何とかしなきゃ。そう思っても、体の方がついて行かないのだ。
ワーッと声を上げて、真先に駆け出していたのは、定男だった。淑子の所へ駆け寄ると、びっくりするような力で、姉を抱き起こして、
「しっかりして! どうしたの!」
と叫ぶように言った。
「淑子さん!」
村上八重子が、急いで駆け寄る。結局、行動を起こしたのは、邦子が最後だった。
「――気を失ってるだけです。大丈夫」
と、村上八重子が、淑子の体をかかえ上げる。
邦子も急いで手を貸した。
「ともかく居間へ運びましょう」
二人で淑子を運んで行く間、定男は、泣き出しそうな顔で、
「僕が――僕のせいだ。あんなボールを打ったから――」
と呟いていた。
邦子が、この姉弟に、初めてふと奇妙なものを感じたのは、このときだった。
風のない、少し寝苦しい夜だった。
この家へ来て、一番暑い夜だったろう。都心の暑さとは、むろん比べものにならないが、一週間もここにいて、夏とは思えない涼しい夜に慣れてしまった邦子には、少し暑苦しく思えたのかもしれない。
邦子は、二階の客用の寝室を使っていた。むろん一人である。
バスルームが専用についていて、トイレもあるので、ちょっとしたホテルの感じだ。
家族用の大きな風呂は一階にあるのだが、気楽なので、邦子は、小さいけれども快適な専用のユニットバスを使っていた。
ここだと昼間でも、少し汗ばんだときなど、ザッとシャワーを浴びることもできる。
窓を開け忘れたのかしら、と邦子は思った。――といっても、女子供ばかりだ。大きく窓を開け放して寝るわけにはいかないが、二階でもあり、細目に開けるぐらいは構わないだろうと思っていたのである。
薄暗がりの中で、時計を見ると、午前一時を少し回っている。
邦子も、平均的大学生の生活パターンに忠実で――つまり、夜ふかしの朝寝坊型なのだが、ここへ来てからは、至って健康的な、早寝早起きの生活になっていた。
昼間たっぷりとあの二人の相手をしていると、いい加減くたびれてしまうのも事実だったのである。
ベッドから出ると、邦子は窓の方へ歩いて行った。――ちゃんと、細く開けてある。
ドアを少し開けておけば、風が抜けて行くかもしれない、と思った邦子は、|欠伸《 あくび》をしながら、部屋を横切って、ドアを開けに行った。
ドアを開けて……邦子は、ちょっと戸惑った。
何か聞こえて来る。――微かに、だが、音楽のようだ。
こんな時間に、誰が?
しかも、聞こえて来るのは、間違いなくモーツァルトだ。
たぶん、一階の、居間だろう。あそこにしかステレオはない。
邦子は、当世の大学生には珍しく、クラシックもよく聞くのだが、この家にはあまりレコードそのものがなかった。ステレオは、一応きちんとした装置だが、たぶん寺山か、信子がインテリアの一つぐらいのつもりで買い込んだのだろう。あまり活用されているとも思えない。
淑子や定男は専らTVだし、その主題歌を集めたレコードなどは、もうジャケットがボロボロになって、キャビネットに並べてあった。でも――モーツァルトなんてあったかしら?
どうでもいいことなのかもしれないが、邦子には、何だか妙に気になった。
そう。もしかすると、FM放送か何かが、つけっ放しになっているのかもしれない。
淑子と定男にしても、村上八重子にしても、あまりモーツァルトの交響曲二五番を聞くという感じではない……。
つけっ放しで、誰も気が付かないのなら、止めておかなくては……。
しかし、邦子も、内心ではそう思っていなかったのだ。理由は分らないが、階段を降りる足取りは、あくまでひそやかだった。
――やはり居間の方から、音は聞こえて来た。意外に小さな音だった。
二階で聞いたときの方が、はっきりと聞き取れた。たぶん相対的な位置関係のせいだろう。
居間のドアが、細く開いている。中から光が洩れていた。誰かが聞いているのだ。
邦子は、足音を忍ばせて、その隙間へと近付いて行った。
自分でも理由の分らない緊張に捉えられて邦子は、激しく心臓が高鳴るのを感じた。
誰だろう? こんな真夜中にモーツァルトを聞いているのは……。
考えてみれば、これは奇妙な疑問だった。
この家に、邦子の他には、淑子と定男、そして村上八重子の三人しかいないのだから。
そう。他に[#「他に」に傍点]誰もいるはずがないのだから……。
第二楽章になっていた。
音楽が静かな呟きになって、その合間を縫って、低い話し声が聞こえて来た。でも、その内容までは聞き取れない。
ただ、その声は……。
「――何を怒ってるんだい」
突然、はっきりした言葉が飛び出して来て、邦子はぎくりとした。
「分ってるでしょう」
と、もう一つの声が答える。「不注意だわ」
「――仕方ないじゃないか」
「それじゃ済まないわ」
「どうすればいいんだい?」
その声には少し|苛《いら》|立《だ》ちがあった。「君のことが心配だったんだ! だから、つい――」
「たとえ何があっても、私たちの役割[#「役割」に傍点]を忘れちゃいけないのよ」
少し、重苦しい沈黙があった。
「――分ったよ。よく気を付ける」
「そうね」
「でも、君も変だぞ」
「――何が?」
「この二、三日、何だかおかしい」
「あら、そうかしら?」
「何かあるのなら、言ってくれよ」
「別に」
と、冷ややかにはね返す。
「それならいいけど……」
「何もないわよ」
再び、音楽だけが聞こえて――それから、唐突に、曲が途切れた。
「もう寝ましょう。誰か起きて来るとまずいわ」
「うん。――そうしようか」
その口調には、もう少し話を続けたい気持が、くすぶっているようだった。
その二人[#「その二人」に傍点]が居間から出て来るのだ、という当り前のことに、邦子はなかなか気付かなかった。
ハッとして、急いで階段の下へ、|潜《もぐ》り込むように、身を|潜《ひそ》める。
居間のドアが開いた。いやに素早く開いたようだった。
「どうしたんだい?」
「今――足音がしたみたいだったわ」
「ここで?」
「そう。気のせいかしら」
「誰もいないじゃないか」
「そうね……」
二つの足音が、邦子の頭上を通り抜けて行く。――と、先に立った方の足音が止って、
「そうだわ。あの新聞は捨てた?」
「切り抜いた後の? ちゃんと捨てたよ」
「そう。――焼き捨てれば良かったわね」
「大丈夫さ。戻るまでには処分されてるよ。それに、こんな暑いときに燃やしたりしたら、却って変じゃないか」
「そうね。じゃ、いいわ」
足音が、徐々に遠ざかるにつれて、邦子の全身を、針金のように貫いていた緊張が、少しずつ緩んで来た。
やがて、ドアが開いて、閉る微かな音。だが、邦子はホッとしたわけではなかった。
いや、むしろ今になって、言いようのない恐怖が、足下から這い上って来るのを感じて、身を震わせたのである。
あれ[#「あれ」に傍点]は、誰だったのだろう?
口調も、話し方も、話の中身も、若い男女――二十代か、せいぜい三十そこそこの男女のものだった。しかし――しかし、邦子を愕然とさせたのは、それが全く見知らぬ男女でありながら、同時に見知らぬ男女ではなかった[#「なかった」に傍点]ことである。
あんな話し方をする二人はこの家の中にはいない。しかし、あの声[#「あの声」に傍点]は……。
聞き違いようはない。あの声は、淑子と定男のものだったのだ……。
「――何だって?」
篠原は、ちょっと間の抜けた声を出した。
「ほら、私のこと、どうかしてると思ってんでしょ」
邦子は、ベッドに半分起き上った格好で、篠原をにらんだ。「でもね、これだけのんびり話せるのは、あれから三日たってるからなのよ」
「というと?」
「――次の日だったら、私、怖くて誰にも言えなかったかもしれない」
邦子は、沈んだ声で、そう言った。
篠原は、邦子の方へ顔を寄せてキスした。
「――聞き間違いじゃないのよ」
と、邦子は言った。
「分ってる」
「私だって、どんなに、間違いだったらいいと思ったか知れないわ。でなければ、夢を見てただけだ、って信じられればいいと……」
「しかし、それは、どういうことなんだろう?」
「分らないわ」
邦子は首を振った。「ただ、確かなのは、あの姉弟が、ただの十一歳の少女と八歳の男の子じゃないってことだわ」
篠原は、少し間を置いて言った。
「二重の人格か……」
「私もそれを考えたの。でも、いくら二重でも、それが姉と弟に同時に現われるなんてこと、考えられる?」
「そうだなあ。僕は専門家じゃないから、断言はできないが、本来大人である人間に、子供の人格が宿ることはあるかもしれないけど、子供に大人の人格とはね」
「そうなのよ。でも、確かに、あの二人の場合、子供の肉体が、大人の会話を交わしてたんだわ」
「妙なことだな。――それに、その二人の会話から察すると、二人の『子供の顔』は、意図的に、装ってるものみたいじゃないか」
「そうなのよ。だから、昼間、これまでの通りに接してるつもりなんだけど、どうしても気味が悪くて……。何となく自信がないの」
「その二人がもし本当は大人だったら[#「大人だったら」に傍点]、君の動揺を見抜くかもしれないね」
「どうしたらいいのかしら、私?」
邦子は、自分へ問いかけるような調子で言った。
「あと――四日か」
「ええ」
「早く切り上げて、誰かに替ってもらえばいい。理由はいくらでもつけられるじゃないか」
「そうね。でも……それはできないわ」
「責任感かい?」
「それもあるし――やっぱり気になるのよ。真相は何なのか、知りたい。このまま忘れるわけにはいかないの」
篠原は|微《ほほ》|笑《え》んで、
「それでこそ君だ」
と言った。
「仕方のない奴だ、と思ってんでしょう」
「そういう君に惚れてるんだからね」
「――好きよ」
邦子は、篠原の胸に|頬《ほお》を寄せた。それから、
「そうだ、忘れるところだったわ!」
と起き上ると、「あなたに頼みたいことがあるの」
「何だ?」
邦子はベッドから出ると、自分のバッグを取って来て、中から、小さく折りたたんだ新聞紙を出した。
篠原は、部屋の明りを点けた。邦子があわてて裸体の上にバスローブをはおる。
「その新聞はもしかして……」
「そう。たぶん、あの二人が話してたのは、これだと思うの」
邦子が広げて見せると、その一部が、四角く切り取られていた。「やっと見付けたのよ」
「二人が切り取ったというのは――」
「それを調べてほしいの。私、とてもそんな時間がないし」
「分った。任せてくれ」
「大学の図書館で調べられる?」
「うん。今は夏休みだから閉ってるかもしれないが、なに、研究に必要と言って、開けさせるさ」
「じゃ、頼むわ」
邦子は微笑んだ。「さあ、シャワーを浴びて来よう」
「今、その二人は何してるんだい?」
「親戚の家にいるの。昨日、村上さんが突然やめちゃったもんだから」
「やめた? その家政婦が?」
「ええ」
と、邦子は、ちょっと眉を寄せた。「それもちょっと気になってるの」
「何かあったのかい?」
「よく分らないの」
と、邦子は首を振った。「ただ……昨日は何となく妙な雰囲気だったのよ」
「家の中が?」
「ええ。――それまでと、どこか違っていて……。何だか、みんながピリピリしてるみたいだった――」
邦子の声は、いつしか、低い呟きのようになっていた……。
4 地下室の暗闇
自分の神経のせいばかりではない。
午後になって、邦子にもやっとそう確信が持てた。
午前中から、何となくギクシャクしていたのが、午後になって、はっきりと形を取って現われて来たのだ。
「何よ、そんなことも分らないの!」
と、淑子が、ちょっとヒステリックな声を上げた。
邦子は、一瞬ヒヤリとした。淑子が、弟に向って、そんな口のきき方をしたのは初めてだったのだ。
それはあの夜[#「あの夜」に傍点]の、あのときの話し方に似ていた。
定男が顔を真赤にして、姉の方をにらんだ。
午前中の勉強時間にも、姉弟の間はどことなくよそよそしかったのだが、それが一気に爆発したという感じだった。
邦子は、辛うじて笑顔を作ることができた。
「怒っちゃ可哀そうだわ、淑子ちゃん。定男君はちょっと眠そうだもの。ねえ?」
「ぼんやりしてるからだわ」
と、淑子は、険しい声で投げつけるように言った。
「何がだよ!」
と、定男が言い返す。
「分ってるくせに!」
「僕が何だっていうんだ!」
「ぼんやりして、馬鹿みたいよ、あんた」
邦子は、急いで、
「淑子ちゃん、そんなこと言っちゃいけないわ」
とたしなめた。
淑子が、いきなり、鉛筆を机に叩きつけるようにして、立ち上った。その弾みで、椅子が後ろに倒れた。
「先生は……先生が……」
邦子は、淑子が、激しい怒りをこめた目でじっと自分の方をにらんでいるのに、言葉を失った。声が、怒りで震えている。
「淑子ちゃん、座って!」
と、邦子は、きつい口調で言った。
「知らないわ!」
淑子は|甲《かん》|高《だか》い声で叫ぶと、ドアの方へ歩き出した。そしてノブに手をかけると、邦子と定男の二人に目を向けて、
「二人にしてあげるわよ! 満足でしょう!」
と言い捨てて、出て行ってしまった。
――邦子は、呆然として座っていた。
今の、あの言葉は何の意味だろう? あの淑子の恨みのこもった視線は――。
定男が立ち上った。
「定男君――」
「僕、捜して来る」
止める間もない。定男は、駆け出して行ってしまった。
追いかけるだけの余裕もなく、邦子はそっと冷汗を拭った。
今の淑子は、確かに「あの夜の顔」を見せていた。つまり「いい子」でいられなくなって、つい、感情をむき出しにしてしまったのだ。
何が淑子にそうさせたのだろうか?
――ドアが開いて、村上八重子が顔を|覗《のぞ》かせた。
「先生、どうかなさったんですか? 今、坊ちゃんが凄い勢いで駆け出して行かれましたけど」
と、当惑顔だ。
「ちょっと、姉弟喧嘩みたいなものです。すぐ戻って来ると思いますわ」
と、邦子は、さり気なく言った。
「あの二人が。まあ、珍しい」
「たまには、喧嘩して当り前ですよ」
邦子も立ち上って、伸びをした。「どっちの方へ行きました?」
「さあ。坊ちゃんは裏庭へ出て行かれたようですけど。――お呼びしてみましょうか」
「放っておけばいいわ。すぐ戻るでしょう」
――二人の勉強室は、一階の応接間があてられていた。
邦子はそこを出ると、居間の方へ歩いて行きながら、
「すみません、何か冷たい飲物をいただけますか? 今日はちょっと蒸し暑いわ」
「すぐお持ちしますわ。紅茶か何か?」
「ええ。ミルクもガムシロップも入れないで下さい」
居間へ入ると、邦子はソファに座り込んで、息をついた。――いやに体がだるい。
ゆうべ、よく寝ていないのだ。あのモーツァルトの音楽がどこからか聞こえて来るような気がして、つい目が覚めてしまう。
|曖《あい》|昧《まい》な状態というのが、邦子には一番苦手なのである。たとえどんなに危険な状態であれ、立ち向うべきもの、するべきことがはっきりしていれば、決して|怖《おじ》|気《け》づくことはない。
しかし――今の状態は、どう考えたものか、良く分らなかった。果して、何か危険があるのかどうかすら、分らない。
あるのは、ただ、何かが起こりそうだという予感だけであった……。
邦子は、ちょっとお行儀が悪いとは思ったが、ほんのしばらく、というつもりで、ソファに横になった。クッションを枕代りにして、目を閉じる。
眠るつもりではなかった。――村上さんが紅茶を持って来てくれるのだ。
そう、ちょっと目を閉じて休むだけ……。
邦子は、見えない穴に落ち込むように、眠りに入って行った。
雷が鳴った。
村上八重子は、台所の窓から表に目をやった。つい、数分前までは、まぶしいような陽光が溢れていたのに、今は突然夜が押し寄せて来たかのように、薄暗くなっている。
「道理で……」
と、八重子は呟いた。
蒸し暑かったわけだ。雷雨がやって来て、少しは涼しくなるかもしれない。
でも――そうだわ、あの二人はどうしたろう?
八重子は、居間へ行ってみた。森川邦子はまだ眠っている。
テーブルにのせておいたアイスティーの氷が、すっかり溶けてしまっていた。
あの二人、どこにいるのかしら? もう一時間以上たつが、戻って来た様子はない。もし外にいるのだとしたら……。
突然、青白い光が窓の外を走った。一瞬の間を置いて、足下を揺るがすような雷鳴。そして、叩きつけるような雨が、視界を白い水の幕で覆ってしまった。
窓辺に立って、八重子は外を見ていた。しかし、降りは激しく、木立ちがぼんやりかすんで見えるくらいだ。あの二人がどこかにいるのかどうか、とても見分けることはできなかった。
八重子は、ソファの方へ目をやった。雷鳴で、邦子が起きたかと思ったのだが、少し身動きしたくらいで、また寝入ってしまったようだった。
若いというのは羨しい、と八重子は思った。
邦子を起こそうかと少し迷ったものの、結局八重子はそのまま居間を出た。
急に、家の中が暗く沈み込んで見えた。
どうせ、駆け抜けて行く嵐だろうが、一応廊下の明りを点けた。
「あら――」
電球の一つが、点いたとたんに、ジジッと青白い光を放って、切れてしまった。
「電球の買い置きが……」
どこかにあったはずだ。八重子は台所へ戻ると、引出しをいくつか開けてみた。――あった。最後の一つだ。
取り替えてしまおう、と思った。あの二人のことも、もちろん気になっていたが、こういう細かいことは、すぐにやらないと忘れてしまう。
電球と、小さな椅子を手に、廊下へ出ると、切れた電球の下まで行って足を止めた。
スリッパを脱いで、椅子に上ろうとしたとき、何か、声らしいものが、耳を捉えた。
どこだろう? 見回して、八重子の目はちょうどすぐ右手のドアに止った。
そこは地下室への入口になっている。地下室といっても、部屋として使っているのではなく、貯蔵庫と言った方が正しい。
しかし、食料などを大量に買い込んでおく習慣のない日本人には、むだなスペースだった。実際、今ではただの物置、役に立たない物を入れておくだけになっている。
しかし、確かに、声はそのドアの向うから聞こえたようだった。誰だろう? いや――あの二人しかいないはず[#「はず」に傍点]だが……。
八重子は、廊下に備えてある非常用の懐中電灯を外して、手にすると、地下室へのドアをそっと開けてみた。足下を照らしながら、そろそろと階段を降りる。
少し、埃っぽい、|淀《よど》んだ匂いがした。懐中電灯の光を向けても、やたらに、ガラクタが並んでいるので、奥の方までは見通せないのである。
泣き声のようなものが、暗がりの奥から洩れて来た。――淑子だろうか?
目が慣れないので、少しずつしか進めない。それに、外の激しい雨音が、少々の音はかき消してしまっていた。八重子の足音をも。
不意に、雨足が遠のいた。ラジオのボリュームを絞るように、雨音が静かになって行く。
そして――その声が、八重子の耳にはっきりと届いて来た。
八重子は頬を紅潮させた。これは? これは一体……。
まさか! そんなことがあるはずがない!
大きな、古びて捨てられたタンスの裏側に、懐中電灯の光が這い込んで行った。白いものが光った。
懐中電灯の中で、それが上下に別れた。
二つの顔が、八重子の方を、まぶしげに見つめていた。
「あなたたち……」
八重子の声は震えていた。
目の前に見ているものが、信じられなかった。重なり合っている二つの白い体――淑子と定男だった。
しかし――しかし、そんなことがあるのだろうか? 八歳の男の子と十一歳の女の子が? しかも、二人は姉弟なのだ!
「何をしてるんです!」
八重子の声は、ほとんど叫び声に近くなっていた。
「驚くことないじゃない」
下になっていた淑子が、起き上って、言った。「私たち、結婚することになってるんだもの」
「そうだよ」
と、定男が笑った。
八重子は、身震いした。これは――これは、淑子と定男ではない!
この話し方、その笑い方……。まるで大人のもののようだ。
「あなた方は……誰なの? 坊ちゃんお嬢ちゃんじゃないわ!」
「そうよ」
と、淑子の声[#「淑子の声」に傍点]が答えた。「あの二人は死んだのよ」
「――また夕立ちになりそうね」
ハンドルを確実に操作しながら、邦子は言った。「あっちの家は面白かった?」
「別に」
と、定男が言った。「くたびれたよ」
「あら、そう」
邦子は笑った。「じゃ、二人とも寝てていいわよ。着いたら起こしてあげる」
――黒い雲が出ていた。また雷雨が来るかもしれない。
昨日、昼間眠ってしまったことを、邦子は悔んでいた。
目が覚めたとき、居間のテーブルには、もうすっかり氷の溶けたアイスティーがおいてあり、そして、村上八重子はいなかったのだ……。
淑子が言ったように、急な用事で村上八重子が辞めて行くこと自体は、もちろんあり得ることである。
しかし、ただ昼寝しているだけの邦子を起こしもせず、一言の挨拶もなしにいなくなるとは、とても考えられなかった……。
一体何があったのだろう?
肝心のときに眠ってしまうなんて!――邦子は、自分自身に腹を立てていた。
後部座席の淑子と定男は、ずっと黙り込んでいた。眠ったのかしら、と邦子は思った。
あと十分ほど、という辺りで、激しい雨がフロントガラスに叩きつけて来た。ワイパーを動かして、少しスピードを落とす。
邦子は、大胆ではあっても、無謀ではないのだ。そのとき、後ろから、
「気を付けて運転してね」
と、淑子が声をかけた。
邦子はハッとして、一瞬、叫び声すら上げそうになった。眠っているかと思っていたのだ。
「起きてたの」
できるだけ平静を装って、邦子は言った。
「静かだから、寝てるんだと思ったわ」
「そんなに寝られないわ」
淑子は、無関心な声を出した。
邦子は、やっと落ちついて、
「今日の夕ご飯はさっき買って来たけど、明日の朝だけは仕方ないわね」
と言った。「みんなで、何か作って食べましょう」
「どうでもいい、明日のことなんて」
淑子は、静かに言った。
明日のことなんて、か……。
その言葉には、何か特別な意味があるのだろうか、と邦子は考えていた。
しかし、ふと、さっき淑子が「気を付けて運転してね」と言ったのを思い出し、その方に注意をそらされた。――淑子は、父親にも、同じことを言ったのだ。
ただの夕立ちではなかった。
雨は、もう六時を回ろうかというころになっても、降り続けている。雷鳴が時々、空気を揺さぶって、その余韻が遠くへと消えて行く。
淑子と定男は、いやに物静かだった。
いつもなら、TVを見たりするのに、めいめい、自分の部屋にこもっていたのだ。邦子は、あえて二人を引張り出す気にもなれず、一人で、居間に座っていた。
少しべたつくような、蒸し暑さだ。
「お風呂にでも入ろうかな……」
と、邦子は呟いた。
あの二人は……。でも、あの二人が、子供でない[#「ない」に傍点]としたら、風呂ぐらい勝手に入るだろう。邦子は、ちょっと肩をすくめて、立ち上った。居間を出ようとしたとき、電話が鳴った。
「――はい。――寺山でございます」
つい、森川ですと言いそうになってしまう。
「君か」
篠原の声だった。「良かった!」
「まあ、こんな時間に――」
「今、大学の図書館にいるんだ」
「今? もう夜よ」
「係の奴がいなくてね。開けさせるのに手間取ったんだ」
「悪かったわね。それで、何か分った?」
少し、間があった。
「そっちは大丈夫か?」
「ええ、今は別に……。あの――例のことは、どうだった?」
邦子は、少し声を低くして、ちょっと廊下の方に目を向けながら訊いた。
「交通事故の記事だよ、切り抜いてあったのは」
「事故。――どんな?」
「事故というより犯罪だな。ひき逃げだ。しかも、一人をはねて、もう一人を、わざわざ戻ってひき殺したらしい」
「何てひどい……」
邦子は顔をしかめた。
「死んだのは大学生の男女。田辺哲夫と河合梨江という名前で、恋人というより、婚約者だったらしい。哀れなもんだよ」
「で――その車は?」
「はねた方はそのまま逃げた。――実は、その後どうなったか、調べていたんで、余計に遅くなったんだ」
「見付かったの?」
「いや、結局、今のところ、まだ分っていない。迷宮入りになりそうだな」
「何か手掛かりはないの? そういうのって、ちょっとした塗料のかけらか何かで割り出せるんでしょう?」
「いつもとは限らないよ。その日はかなりの雨だったんだ」
「雨――」
邦子は思わず息を呑んだ。
「どうかしたのかい?」
「いえ、別に……。その二人は、確かに死んだのね?」
「新聞にそうなってるんだから。――つまり、君が言いたいのは――」
「待って!」
廊下に、かすかな足音がした。「誰か来る。切るわ」
「おい――」
篠原が何か言いかけたのも構わずに受話器を置く。しかし、誰も姿を現わしはしなかった……。
邦子は部屋に戻った。蒸し暑いほどの陽気のはずなのに、どこか冷え冷えとして感じられる。
ベッドに腰をおろして、邦子は考え込んだ。篠原の話と、自分自身が耳にした、淑子と定男の会話から考えると、何とも怪談めいた結論が出て来てしまう。
つまり、田辺哲夫と河合梨江という二人の大学生をひき殺したのは寺山で、その二人の恨みが、寺山の二人の子供たちに乗り移った……。
「そんな馬鹿な!」
と、邦子は呟いた。
邦子自身は石頭の合理主義者ではない。この世の中に、理屈で割り切れないところがあっても、それはそれで許しておくこともできるのだ。しかし、「迷信」となると話は別である。
今、自分が直面しているのは、何なのだろう?
いずれにしても、あと二、三日で、自分の仕事は終る。寺山夫婦が帰国すれば、もう、ここにいる理由はないのだ。
放っておけばいいのだろうか? 自分には関係のないことなのだから。――そう、それに、こんな話をしてみたところで、一体誰が納得してくれるだろうか?
笑い飛ばされるのがオチだろう。
邦子は頭を振った。――ともかく風呂に入って、少し寛ごう。じっと考え込んでいるだけでは、何も解決しない。
邦子はバスルームに入って、浴槽にお湯を入れ始めた。そう大きな浴槽ではないので、一杯になるのにあまり時間はかからない。
蛇口を止めて、ベッドの所へ戻って服を脱ごうとしたとき、かすかにドアをノックする音がした。
「――はい?」
邦子は、手を止めて、「誰?」
と声をかけた。
ドアの方へ歩いて行き、開けてみる。――誰もいなかった。確かに音がしたようだったのに……。
邦子は肩をすくめた。少し神経がピリピリしているのかもしれない。
ドアを閉め、手早く服を脱いで、バスルームへ入った。
熱い湯に足を浸して、少し慣れるのを待ってから、ゆっくりと身を沈める。――邦子は風呂好きだった。篠原とホテルに行っても、後でのんびり風呂に入るので、篠原から、
「僕と風呂とどっちが目当てだ?」
とからかわれたりする。
少し熱めの湯に顎までつかって、軽く目を閉じる。手足を一杯に伸せるほどの大きな浴槽でないのは残念だが、それでもしばらく湯につかっていると、不自然な緊張感が、少しずつ溶けて流れ出して行くように、体も心もほぐれて来る。
邦子は、浴槽のヘリに頭を軽くのせて、天井を見上げた。――通風口が、真上に開いている。
その細かい網目の向うで、二つの目が、じっと邦子を見下ろしていた。
邦子は、叫び声を上げて立ち上った。一瞬にして、その目は消えた。
あれは?――あれは何だったろう? 幻か? いや、確かに、はっきりと見えたのだ。
誰かが、通風口から見下ろしていたのだ!
邦子は、手を伸してバスタオルをつかむと、急いで浴槽から出て、バスルームのドアを開けた。
ハッと、後ろに退がったのは、淑子だった。
邦子はバスタオルを体に巻きつけて、
「何してるの?」
と訊いた。
「教えてあげようと思ったのよ」
「何を?」
「お風呂を|覗《のぞ》かれてるってこと。でも気が付いたみたいね」
淑子の目は、邦子をたじろがせるほどの敵意をひめていた。
「覗いていたのは――定男ちゃん?」
「ええ、そうよ! もう何度も! あなた[#「あなた」に傍点]がここへ来た日から!」
淑子は、両手を背中へ回して、立っていた。――淑子の、邦子を見る目は、激しく、挑みかかるようだった。
そう、これは、嫉妬[#「嫉妬」に傍点]の目だ。
「あなたは……」
邦子は、ほとんど無意識に、淑子の目を見つめながら言った。「本当は[#「本当は」に傍点]河合梨江さんなのね。そうでしょう?」
淑子の表情は、その名を聞いても変らなかった。いや、すぐには変らなかったのだが……やがて、少しずつ、その表情に変化が見えて来た。
敵意が、徐々に、それと分らないくらいにだが、しかし確実に、和らぎ、消えつつあった。同時に、目に燃え上っていた怒りの火は、哀しく濡れた光へと変り、やがてその目には、涙すら浮んでいたのだ。
淑子が口を開いて、何か言いかけたときだった。玄関のチャイムが鳴るのが聞こえて来た。二人は、一瞬ハッとした。
「――もう遅いわ!」
と、突然淑子は叫ぶと、部屋を飛び出して行った。
5 暗い雨
誰だろう?
やっと我に返った邦子は、ろくに体も拭かず、急いで服を着ると、一階へと降りて行った。
「まあ」
階段を降り切った所で、邦子は思わず声を上げた。玄関から、寺山夫婦が上って来たところだったのだ。
「お帰りになったんですか」
「いや、ひどい雨だ」
寺山は、濡れた上衣を脱いで、息をついた。
「村上さんはどうしたのかしら?」
と信子が、ちょっと|苛《いら》|立《だ》つように言った。
「昨日、辞められましたよ」
「何ですって?」
邦子の説明に、信子は顔色を変えた。ムッとした様子で、
「何て無責任な人! あの子たちを誰がみてくれるって言うんでしょ!」
と、怒鳴るように言った。
どうも様子がおかしかった。邦子に、ご苦労様の一言も言わない。しかも、予定より早く戻って来ているのだ。
「子供たちは?」
と、寺山が邦子に訊く表情は、深刻そのものだった。
不安なのだ。何かに怯えている。
「お部屋――だと思いますけど」
と、邦子は言った。「どうして急に戻られたんですか」
「いや、実は――ちょっと手紙をね」
と、寺山は|曖《あい》|昧《まい》に言った。
「あなた。きっとあの人がやったのよ」
信子が断定するような口調で言った。
「あの人って?」
「村上さんよ。だから逃げ出したんだわ」
二人は、居間へ入って行く。邦子も、それについて行った。
「でも――ともかく、あの子たちが無事で良かった」
寺山が、自分に向って言うように、「あの子たちには関係ないんだ……」
「あなた」
と、信子がたしなめるように言って、邦子の方を見た。「――ご苦労様でした。明日、料金の残りをお払いしますから」
邦子に、話を聞かれたくないのだ。邦子の方としては、淑子と定男に「何もなかった」とは言えないのだが、しかし、どう説明したらいいのか、見当もつかなかった。
「もうお休みになって。私たち、適当にやりますから」
信子は、邦子に出て行ってほしいという気持を隠そうとせずに、続けて言った。
「雨、でしたか、外は」
と、邦子はゆっくりと言った。
「かなりひどい雨ですよ」
寺山の方は、まだ邦子に笑顔を見せる余裕があった。「運転もくたびれます」
「事故を起こさなくて良かったですね」
邦子の言葉に、寺山の笑顔は、かき消すように無くなった。
「先生……」
「行った手紙というのは、新聞の切り抜きでしょう。雨の日のひき逃げ……」
信子は、目を大きく見開いて、
「あなただったの!」
と、叫ぶように言った。
「いいえ。私は切り抜かれた新聞の、残りを見付けて調べたんです」
邦子は、やっと、胸の中に、怒りの火が熱く燃え出すのを覚えた。「一人をはねて、もう一人を、わざわざ戻って、ひき殺すなんて! 何てひどいことを!」
「あんたの知ったことじゃないわ!」
信子はヒステリックな声を出した。
「卑怯は承知だ」
寺山は、疲れたように、ソファに腰をおろした。「しかし、私たちも平気だったとは思わんで下さい。隠し通すのが、家族のため、子供たちのため、と自分に言い聞かせていたが……。正直なところ、辛かったのですよ」
「あなた、そんな気の弱いことを――」
「お前は強い女だ」
と、寺山は妻の方を見て首を振った。「しかし、今でも、俺には忘れられない。あの男をひき殺したとき、車が乗り上げた、あのショックをな……。たぶん、あの感覚は、一生忘れられないだろう」
「滅多なことを言わないで!」
と、信子がキッと邦子の方をにらんで、「何か下心があるの? 私たちをゆするつもり? いくらおどかしたって、もう何の証拠もないんですからね」
と、まくし立てた。
「切り抜きを送ったのは、私じゃありませんわ」
「じゃ、誰がやったの?」
邦子が返事をしかけたとき、目の前を何かが落ちて行った。――一つ、また一つ。
水滴だ。床のカーペットに落ちて、パタッ、パタッと音を立てている。天井を見上げると、黒々と、濡れたしみ[#「しみ」に傍点]が広がっていた。
一瞬、血痕かとヒヤリとしたが、そうではないようだ。しかし、どうしてこんなに……。
この上は――私の部屋だわ!
邦子はそう思い付くと、足早に居間を出て階段を駆け上った。
部屋のドアを開けて、邦子は目を見張った。バスルームのドアが開いて、水が溢れて出て来ている。それが床から一階へとしみ通ったのだ。
「――どうしたの、これは?」
邦子の後からやって来た信子が、呆れたように言った。
「分りませんわ、さっきはこんなことには……」
邦子は、床に広がった水の中へ踏み込んで、バスルームに入って行った。浴槽の蛇口が、出しっ放しになっている。
止めなくては。――手を伸して、浴槽の上に身を乗り出したとき、浴槽の底から、邦子を見上げている村上八重子が目に入った。
こんな所で何をしてるのかしら?――邦子も、一瞬ぼんやりしていたらしい。
それ[#「それ」に傍点]が意味するものにも気付かず、いつしか、ちゃんと水を止めていたのだ。
「キャッ!」
耳元で、信子が声を上げ、邦子は、やっとそれで自分を取り戻した。
「死んでるじゃないの!」
信子が後ずさった。
そう。死んでいたのだ。邦子は、やっと、落ちついて村上八重子を見下ろした。
狭い浴槽に、体を丸めて縮こまっている。首に、細く線を引いたような、跡があった。首を絞められたのではないか。
苦悶の跡を止めた表情にも、それで納得が行く。しかし、肝心なのは、一体誰がこれをやったのかということだ。
邦子は、やはり自分で気付かない内に、ひどくショックを受けていたのだろう。自分が使っていた部屋で、村上八重子の死体が見付かった。――何も事情を知らぬ寺山夫婦が、それを見てどう考えるか、そこまで頭が働かなかったのである。
部屋の中へ戻った邦子は、寺山が、ちよっとびっくりしたような顔つきで、目の前に立っているのを見た。信子の方はどこにいるのか……。
全く、気配も感じなかった。邦子は、いきなり後頭部を、何か重い物で殴られ、たちまち意識を失って、水の広がった床に倒れる冷たさも感じなかった。
割れるような痛みが、頭の中を駆け巡っていた。
邦子は、押し潰されるような息苦しさに、目を開いた。――部屋が、傾いて見える。
床に倒れているのだった。頭がズキズキと痛む。――そうだ。殴られたのだった。
起き上ろうとして、邦子は、手足がしびれたようになっているのに気付いた。いや、縛られているのだ。
両手を背中で、足も足首のところを、きつく合わせた形で縛り上げられている。
きっと、寺山と信子がやったのだろう。
邦子にも、やっと事情が呑み込めた。村上八重子を殺したのが邦子だと思ったのだ。
殴って気を失わせておき、縛り上げた。そして――どこへ行ったのだろう?
そのときになって、やっと邦子は、自分の倒れているのが、階下の居間の床だと気付いた。気を失っている間に、運ばれたらしい。
しかし、寺山たちはどこへ行ったのか。
やっと少し頭がはっきりして、邦子は、手足を縛ってある縄を、何とかゆるめようとやってみた。いくらかは動くのだが、自由になるところまでは、とても行かない。
それでも、何とか動かし続けていると、
「むだだわ」
と、頭の上で声がした。
邦子は顔を上げた。淑子が、少し離れたところに立って、邦子を眺めている。
「――お父さんとお母さんは?」
と、邦子は訊いた。
「あの人たち[#「あの人たち」に傍点]は、外にいるわ」
淑子は、邦子の方へ歩いて来ると、床にしゃがみ込んだ。「――頭のけが、痛む?」
「少しね。ひどい?」
「血が出てるわ」
淑子の口調は淡々としていた。
「外で、何をしてるの?――警察を待ってるのかしら」
「警察?」
淑子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「警察なんか、あの人たちが呼ぶはずはないじゃない」
「でも――」
と言いかけて、邦子は、改めて淑子を見つめた。「村上さんは、あなたたちが殺したの?」
「見られたから。――仕方なかったのよ」
淑子は目を床へ落とした。
何を見られたのか、邦子は訊かなかった。
「私も――殺すの?」
「さあ……。あの人たちは、その気よ」
邦子は、顔から血の気のひくのを覚えた。寺山たちにとっては、邦子が家政婦を殺したことよりも、自分たちのひき逃げの真相を知っていることの方が、怖いのだ。
生きたまま邦子を警察へ引き渡すはずはない。
「じゃ、あの人たちは外で何を……」
と、邦子は言った。
「埋めてるのよ」
と、淑子は答えた。
何を?――もちろん、村上八重子の死体だ。何もかもを、葬ってしまうつもりなのだ。
「雨の中で。――風邪引かなきゃいいけど」
と、淑子は皮肉っぽく言った。
「事故も起こさないでね」
淑子は、邦子の顔をじっと見た。
「何もかも分ってるみたいね」
「分っていても、信じられない気持だわ」
「でも、分らないこともあるわ、あなたにだって」
淑子は、宙に目を向けた。「――私と彼とは、みんなに祝福されて、結ばれるはずだった。私たちは幸福で、本当に愛し合ってたんだわ。きっと、世界一幸せな夫婦になれたはずだった。それを――あの人たちが、踏みにじったのよ」
「残酷な目にあったのね」
「あの人たちは、彼を、ひき殺した。――人間じゃない! いいえ、獣だって、あんなことはできないわ」
淑子の――いや、梨江の――声は、震えた。
「そのときに、あなた方は……」
「どうなったのか、分らないわ、私たちにも」
と、首を振って、「ただ、車にはねられ、死ぬんだと悟った瞬間、私、何か[#「何か」に傍点]に必死になってしがみついたの。『死にたくない!』と叫び続けた……。そして、まるで夢から覚めるように、意識が戻って来たわ。そのときには、私はこの体に移って[#「移って」に傍点]いたのよ」
「じゃ……子供たちは? 二人の子供たちはどこに行ったの?」
邦子の問いに、淑子は首を振って、何も言わなかった。
「――どうするつもりなの」
と、邦子は言った。「復讐?」
「ええ。――だって、罰せられて当然でしょう」
「もちろんよ。でも、どうやって?」
淑子は、ちょっと|苛《いら》|立《だ》った口調で、
「あなたに関係ないでしょ」
と言い返した。「私たちを恨まないでね。あなたを殺したいわけじゃないわ。でも、あの二人を、ただ警察の手に渡すだけじゃ、私たちの復讐にはならないのよ。もっともっと苦しめてやるんだわ」
「そして、どうなるの? 復讐を果したら、その後は?」
淑子は顔をそむけた。
意外なことだった。――その|頬《ほお》に、涙が光っていたのだ。
「――私には、どうしたって逃げるすべがないわ」
と、邦子は言った。「本当のことを話しても、寺山たちが信じるはずもないし、この有様じゃ、どうしたって、おとなしく殺されるしかないもの。――あなたたちは、絶対の強味を握ってるのよ。それなのに、どうして泣くの?」
淑子は、涙に濡れた目を、邦子の方へ向けた。
「こんなことになるなんて……思わなかったのよ! 彼が……彼が、あなたに心を移すなんて!」
そうだったのか。――淑子と定男との間に見られた冷ややかさ、あの深夜の居間での会話は――そういう意味だったのか。
「いっそ、死んでいた方が良った! 彼が他の女を恋するようになるのを見るより、その方が……」
「よせよ」
と、ドアの所で声がした。
定男が立っていた。
「哲夫[#「哲夫」に傍点]……」
と、淑子は呟くように言った。
そして、立ち上ると、涙を拭って、
「あなたの好きなようにして。――この人を助けたければ、そうしたらいいわ。私、止めない。あなたに、憎まれたくないわ」
と、はっきりした口調で言った。
定男は、淑子の|頬《ほお》に手を当てた。
「僕はこの人に|魅《ひ》かれた。――それは否定しないよ。どうしようもなかったんだ。でも、もういい。僕らにはやらなきゃならないことがあるんだから」
それは不思議な光景だった。八歳の男の子が、十一歳の女の子を、優しくかき抱いて、慰めている。
邦子は、こんな場合だというのに、奇妙に心を動かされるのを感じた……。
「――さあ、もうすぐ戻って来る」
と、定男が言った……。
淑子は、邦子の方を見ると、
「ごめんなさい」
と言って、足早に居間を出て行った。
定男は、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと邦子の方へ歩み寄って来て、床に膝をついた。
少年の顔が、そして若者の目が、邦子を見下ろしていた。――顔が降りて来ると、邦子の唇に、定男の柔らかい唇が触れた……。
――定男が居間から出て行って、ほとんど入れ替りに、寺山と信子が、戻って来た。
「気が付いてたの」
信子が、激しく息を弾ませている。――二人とも、ずぶ濡れで、くたびれ切っているように見えた。
寺山の方は、手が泥にまみれている。
「もう一つ、やることがあるのよ」
信子は、夫に向って言った。「手を洗ってらっしゃいな」
「なあ信子――」
「言われた通りにして」
寺山は、黙って肩を落とすと、居間から出て行った。
信子は、ぐったりとソファに腰を落とした。
「あの人は気が弱くて……」
と、呟くように言った。「でも、私は違うわ。先のことを考えて、今、鬼にだってなれる女なの」
「大学生をひき殺したときも?」
と、邦子は言った。
「ええ、そうよ!」
信子は言い返した。「主人に刑務所へ行かれたら、どうなるのか。それを考えれば、他人のことに同情なんかしていられないわ」
「ご主人は苦しんでるわ」
「ええ。でも、もし刑務所へ行ってれば、もっと苦しんだでしょう。――今も、あの人は、あなたを助けたいのよ。でも、私が許さない! あなたの口から、ひき逃げのことが知れたら、総ては終り。そうよ」
信子は、ゆっくりと居間の中を見回した。
「せっかく、この生活を手に入れたのに! 私は、絶対に手離したくないの」
「あなたは自分が可愛いだけだわ」
「違うわ!」
と、信子は、邦子をにらんだ。「もちろん自分のことだって大切よ。人間なら当り前でしょう。でも、子供たちのためよ。あの子たちに惨めな思いをさせるわけにいかないわ」
その子供たちが、実は子供たちでないと知ったら、どう思うだろう?
もちろん、邦子がそう言ったところで、信子が信じるはずもないが。
――やがて、寺山が戻って来た。
「じゃ、始めましょう」
信子は、当り前の口調で言った。「この子をベンツに乗せるのよ」
「どこへ連れて行くの?」
「あなたには事故を起こしてもらうわ」
と、信子は言った。「うちの車を盗んで逃げる途中、この雨でハンドルを切りそこねて立木に激突、というわけ。車もだめになるでしょうけど、仕方ないわ」
信子は夫の方へ向って、
「あなた。足の縄だけ解いて。連れ出すのよ」
寺山は、無表情のまま、邦子の方へやって来ると、かがみ込んだ。
「悪く思わんでくれ」
と、邦子の耳元で囁く。「こうするしかないんだ」
邦子は、寺山が、足首の方へ、不安定な格好で手を伸したとき、はね起きざま、寺山の胸を力一杯手で突いた。寺山の体は、大きくのけぞって、転がった。
縄が落ちる。邦子は、居間のドアへ向って駆け出した。
さすがに、これは信子にとっても不意打ちだった。愕然として、ソファから立ち上ることもできない。
邦子は、居間を飛び出すと、玄関へ走った。玄関のドアを開けるのに、少し手間取った。
「――追いかけるのよ!」
と、信子が叫んでいる。
邦子は、外へ出た。
暗い夜を、まるで押し包むように、激しく雨が降っている。
邦子は暗い道を駆け出した。
不運だった。ほんの十メートルも行ったところで、足を滑らせて転倒したのだ。思わず声を上げるほどの痛みが、左の足首を襲った。
縛られていたせいで、少し動きも鈍かったのかもしれない。
やっと立ち上ると、左足を引きずるようにして、前進する。全身が泥にまみれて、余計に動きが不自由になった。
雨が、正面から叩きつけるように降って来る。それが目に入るのと、明りがないせいで、どっちへ向っているのか、よく分らなかった。
ともかく、林の中へ入ってしまえば……。でも、どっちだろう?
――突然、ライトが背後から邦子を捉えた。
振り向くと、二つの光が、猛獣の目のように、邦子を追って動き出していた。
向うは車だ。邦子は、向き直って、また進み出した。
背後のライトは、邦子の前方をも照らし出してくれる。木立ちの重なり合う林が、明りに浮んだ。
ほんの何メートルかだ。邦子は痛みをこらえて走り出した。
太い枯枝を踏んで、前のめりに倒れる。ハッと体を起こして、振り向くと、ライトが真直ぐに邦子へ向って来た。
加速していることが、邦子の目にも分った。――間に合わない! ひき殺される!
邦子は、動けなかった。
そのとき、ライトを、何かが、――いや、誰かが、遮った。
両手を広げて、車の前に立ちはだかった。そのシルエットが、ライトに浮んだ。――定男だ!
「危い!」
邦子が叫ぶのと同時に、もう一つの声が、同じ言葉を叫んでいた。
もう一つの影が、定男の影に重なった。次の瞬間、二つの影は大きく宙に舞い上っていた。車が停った。邦子の、ほんの数十センチ手前に、寺山のベンツが停ったのだ。
車のドアが開くと、寺山が、よろけるようにして、降りて来た。
邦子は、体を両手で支えながら、やっと起き上った。
――何が起ったのか、やっと理解できた。
車の前に、定男が立ちはだかり、それを見た淑子が、駆け寄ったのだ。助けるつもりだったのだろうか。それとも……。
――邦子の手足の縄を解いてくれたのは、定男だったのだから。
いや、正しくは、哲夫、と呼ぶべきかもしれなかった。
その二人[#「二人」に傍点]は、雨に打たれて、地面に横たわっていた。仰向けに倒れた定男と、その上に覆いかぶさるように伏せた淑子……。
寺山が、二人の傍に、座り込んだ。放心したような表情で、目の前のわが子を見ている。
邦子は、片足をひきずりながら、そこまで歩いて行った。
二人の上にかがみ込んで、手首の脈を取ってみる。
「――寺山さん!」
と、邦子は声を上げた。「かすかに、脈がありますよ! 早く――救急車を呼んで!」
だが、寺山は、ぼんやりと座っているばかりで、動こうともしない。邦子は、立ち上ると、家の方へ歩き出した。
信子が、家の方からやって来る。
「どうしたの? 何かあったの?」
察しているのだろう、その声は震えていた。
「ご自分で見て下さい」
邦子はそう言って、必死で歩き出した。
雨が、いくらか小降りになっているのに気付いた……。
「――頼りない恋人なんだから」
と、邦子は篠原をにらんでから、笑った。
「仕方ないじゃないか。君はあの家の場所も言って行かなかった」
「まあいいわ。済んだことだもの」
邦子は、木陰のベンチに腰をおろした。少し秋らしい風も吹いて来る。
でも、昼下りの陽射しは、まだまだ強烈だった。
「足の方はまだ痛む?」
と、篠原が訊いた。
「少しね。――おかげでこの夏はお金を使わなかった」
「妙な体験をしたもんだね」
「そうね……」
邦子は、公園を散歩している、高校生ぐらいのカップルに目をやった。
「結局、その姉弟はどうなったんだ?」
と、篠原は少し間を置いて言った。
「両親は自首したらしいけど、罪は軽くないもの。――子供たちは、退院したら、どこか親戚のところへ引き取られるでしょう」
「そうじゃないよ。僕が訊いてるのは――」
「分ってるわ」
と、邦子は遮った。「でも、答えられないのよ。私にも分らないの」
助かったのは、どっち[#「どっち」に傍点]の二人なのか? 淑子と定男なのか、それとも、哲夫と梨江なのか。
それは、邦子にも知りようのないことだった。
寺山夫婦は、村上八重子も自分たちが殺したと供述した。それについては、邦子も沈黙を守っていたのだ。
そう。それは一つの賭けだった。あの姉弟の未来に、賭けたのだ。
「――ねえ」
邦子は、微笑むと、篠原の方を見て、言った。「今度の試験のときには、私、あなたに乗り移ろうかしら」
砂に書いた名前
1
彼女がそんな反応を見せるとは、僕は思ってもいなかったのだ。
そりゃ、びっくりするのは当然だ。――そこまでは予想通りだった。
ところが、その後が、ちょっと[#「ちょっと」に傍点]、思いがけないことになってしまった。
「|朋《とも》|子《こ》」
と声をかける。
彼女が振り向く。そして、僕を見て|唖《あ》|然《ぜん》とする。
それから、顔を笑いで一杯にして、
「|丈二《じょうじ》君!」
と駆け寄って来て、僕の胸へ飛び込む。
――と、まあ、これが僕の筋書だった。
ところが、僕を見て目を丸くした朋子は、ちっとも笑わなかった。
そのまま、僕の方へ大股に歩いて来たと思うと、何と、僕の|頬《ほお》を、平手でひっぱたいたのである。
痛さはともかく(といっても、もちろん痛いけど)、僕はただもう、びっくりしていた……。
「何しに来たのよ!」
と、朋子は、押し殺した声で言った。
「だって――招待してくれたじゃないか」
と、僕は言った。
「招待? あなたを?」
朋子が眉を寄せる。
「うん。お父さんがさ、君の」
「父が――」
「手紙をくれたんだ。夏の間に、ぜひ一度、島へ遊びに来てくれ、と……」
僕は、ポケットから、くしゃくしゃになった手紙を取り出した。
小さな船に揺られている間に、すっかり、つぶれてしまったのである。
「分ったわ」
と、朋子が言った。「私に黙って……。でも、あなただって、私が言ったことを忘れたの?」
「ここへ来るな、っていうんだろ? でも、反対してるからって言ってた、当のお父さんの招待なんだぞ」
「ええ。――そうね」
なぜか、朋子は、急に、どうでもいいような口調になった。「どうせ、もう戻る船もないしね」
僕は、ちょっと気になった。
「怒ったの?」
「いいえ」
朋子は、やっと|微《ほほ》|笑《え》んだ。「ごめんね、ぶったりして」
「いいさ」
と、僕は無理をした。「――君のうち、どこなんだい?」
「案内するわ。来て」
朋子は先に立って歩き出した。
――僕は、|大《おお》|木《き》丈二、大学二年生だ。
|日《ひ》|野《の》朋子は、僕の同級生。
今は、もちろん夏休みで、僕は、せっせとバイトに精を出し、旅行資金をためていた。
そこへ朋子の父親から、ぜひ、島へ遊びに来て下さい、という手紙をもらったのである。
タダとくれば、飛びつかない手はない、というものだ。
ただ、文面では、このことは娘に|内《ない》|証《しょ》なので、びっくりさせてやって下さい、とあって、何だか子供っぽい人だな、と思ったのだった。
でも――ともかく朋子に会える、となれば、タダの旅でなくても、やって来たに違いない。
今、目の前を歩いて行く朋子の、ショートパンツからスラリとのびた足と、そして均整のとれた体つきは、さっきの平手打ちのショックを差し引いても充分余りがあるすばらしい眺めだった。
「――ここ、大きな島なの?」
と、僕は訊いた。
「いいえ、小さいわよ。別荘がせいぜい十戸ぐらい」
「へえ。じゃ、静かだろうね」
「そうね。今のところ、誰もいないの」
「誰も?」
「そう。私たちだけなのよ、この島にいるのは」
「へえ!」
白い砂浜の、きれいな海岸に出た。――ともかく、人の姿が全くないのだ。
「すてきだなあ!」
と、僕は思わず言った。
「でしょ? 海もきれいよ」
「うん。来る途中の船で、よく分ったよ」
「|潜《もぐ》るんだっけ?」
「少しね」
「じゃ、楽しめるわ」
朋子は足を止めた。「――あれが、うちの別荘よ」
――砂浜が、ゆるい斜面になって、上って行った、その上に、白い、小ぎれいな建物が建っていた。
「すてきだなあ」
と、僕はくり返した。
他に言葉を知らないのは、この世代の欠点だろうな。
「ともかく、父に会って」
と、朋子はまた歩き出した。
砂の斜面を、少し苦労して上ると、別荘の入口に出る。
ちょうどドアが中から開いて、スラリと長身の紳士が出て来た。
「朋子――」
「お父さん、大木君よ」
「やあ、これはこれは」
日野氏は、僕の手を力強く握った。
もう、髪は少し白くなりかけているというのに、その力は、若者のようだった。
「私に黙って、招待したのね?」
と、朋子は父親をにらんだ。
「お前だって、私と二人でいても退屈だ、といつも文句を言ってるじゃないか」
と、日野氏は笑って、それから僕を中へ請じ入れた。
――中は、冷房が適度に入って、快適だった。
日野氏が、軽いカクテルを作ってくれた。
「――母親を早く亡くしてから、朋子は、主婦代りだったのでね」
と、日野氏は、椅子にかけて言った。「料理の腕も、なかなかのものだよ」
「初耳だなあ」
と、僕は言った。
「胃の薬もありますからね」
と、朋子は笑顔で言った。「さあ、あなたの部屋へ案内してあげる」
二階の、一番奥の部屋へ、僕は通された。
海の見える、いい部屋だった。
「――最高だな!」
と、相変らず平凡なセリフを口にする。
「まだ陽が落ちるまで、間があるわ。砂浜に出る?」
「うん」
――着替えるのに、五分とはかからない。
海水パンツだけになった僕と、背中の大きくあいた水着姿の朋子は、砂浜へと一緒に駆け下りて、そのまま、青い海を突き破らんばかりの勢いで、飛び込んで行った……。
もちろん、多少、気になっていたこともある。
なぜ、ここへ着いたとき、朋子が、あんなに怒ったのか。そして前から、ここへは来ちゃいけない、と何度も言っていたのは、どうしてなのか……。
でも、そんな小さな疑問は、たちまち、青い海と、白い砂の中へと溶けて消えて行ったのだった。
「――少し横になろう」
僕は、息を|弾《はず》ませて、砂浜に引っくり返った。
「もう、ばてたの?」
と、朋子が笑いながらやって来る。
「そうじゃないよ」
「やっぱりいいわね、一人じゃないっていうのは」
朋子は青空を仰いで、目をつぶった。
「すてきなお父さんだね」
「――でしょう? だから、男を見る目がきびしくなるの」
「僕への当てつけかい?」
「気にしてるな?――コンプレックスがある証拠ね」
僕は笑って、
「お父さん、何の仕事をしてるの?」
と訊いてみた。
「好きなことしてるわ。財産があるから、あんまり働く必要がないの」
「へえ」
そういう人が、あんなにカッコいいのだ。
人生は不公平だな、と僕は思った。
夕食も、文句なしに楽しかった。
「あんまり、いい材料がないの。手に入らなくて」
と、朋子は言っていたが、どうして、味も結構なものだった。
もちろん、僕とて、東京の超一流レストランの味に通じているわけではない。
しかし、マクドナルドとかデニーズとかに慣れた舌には、充分においしかった。
「魚でもとればいいんだが」
と、日野氏は笑顔で、「そういう趣味がないものだからね」
「でも、凄くおいしいです」
と、僕は正直な感想を述べた。
ワインなどあけて、いい加減酔っ払った僕は、日野氏ともすっかり打ちとけて、おしゃべりに興じていた。
突然、派手なロックの音楽が、僕らの声をかき消してしまった。
びっくりして振り向くと、朋子が笑顔で立っている。
「踊ろう!」
と、音楽に負けない大声で言った。
「よし!」
――本来、あまりリズムに乗れる方ではないのだけど、このときは面白いように踊りまくった。
一体何曲ぐらい踊っただろう? 僕はくたびれ果てて、床に尻もちをついてしまった。
それを見た朋子が、愉快そうに笑い声を上げる。
すると――日野氏が立ち上って、
「もう今夜は寝た方がいい」
と言うと、さっさと歩いて行って、レコードを止めてしまった。
それまで、部屋に充満していた音が、急に断ち切られて、何だか、突然眠りから覚めたような気分になる。
しかも、日野氏の態度が、さっきまでの、愛想のいい、友好的なものから一変していたのが、僕を戸惑わせた。
顔は無表情で、しゃべり方も|素《そっ》|気《け》ない。そして、ほとんど僕の方を見もせずに、
「おやすみ、大木君」
と言って、二階へ上って行ってしまったのだ。
やっと我に返って、
「おやすみなさい」
と言ったときは、もう日野氏の姿は、階段の上に消えていた。
僕と朋子は、何となく、どうしていいのか分らない感じで突っ立っていたが、朋子の方が、飲物のグラスを片付け始めて、やっと重苦しさが消えた。
「手伝うよ」
と僕は、グラスのいくつかを、盆にのせて台所へ運んで行った。
朋子がグラスを洗い始める。
「――ねえ」
と僕は言った。「お父さん、怒ったのかな?――あ、僕が拭くよ」
「いつものことよ」
と、朋子が肩をすくめる。
「いつも?」
「最初のうちはいいの。愛想良くしてるわ。でも――娘とボーイフレンドが、あんまり仲良くしていると、段々面白くなくなるのよ」
「そうか……」
父親の心理としちゃ、当然なのかな、と思った。「悪かったなあ、それじゃ」
「大丈夫よ。朝になりゃ、また元に戻ってるから」
と、朋子は僕を見て微笑んだ。
その笑顔に見とれていて――ばかりでもないんだけど、手が滑って、コップが一つ、床へ落下。あえない最期をとげた。
あわてて拾おうとして、またドジをやってしまう。
「痛い!」
指先をちよっと刺してしまったのだ。
「――大丈夫?」
「うん。やれやれ、これだからだめなんだよな、僕って」
「私が破片を拾うから、そのままにしておいて。薬をつけてあげるわ」
「大丈夫だよ」
「いいから、こっちへ来て」
朋子が僕をリビングルームへ引っ張って行った。座らせておいて、薬箱を取って来る。「見せて」
「ちょっと切っただけだよ」
指先に、小さく血が玉のように浮いていた。
朋子が、じっとそれを見つめている。
「ねえ――」
と僕は言いかけて、言葉を切った。
朋子が、まるで僕のことなんか忘れてしまったみたいに、じっと、指先の血の出た所を見つめているのだ。
まるで別人のように、朋子の表情が変っていた。
目を見開いて、唇が少し開き、|喘《あえ》ぐような息が|洩《も》れている。|顎《あご》が少し震えていた……。
どうしたんだろう?
僕はただ戸惑って、朋子の、ただならない様子を見ているだけだった。
朋子は、突然、僕の、けがをした左手を両手で握りしめると、血の出た指を、口の中にくわえ込んだ。
僕は仰天した。呆然として、動けなかった。
が――それは、ほんの二、三秒のことだった。
すぐに、朋子は顔を離すと、いつもの表情に戻った。
「――傷って、なめると、一番治りが早いのよ」
と、少し照れたような顔で言う。
「そうだね」
僕は微笑んだ――つもりだったが、果して笑顔になっていたかどうか……。
2
次の日は、前日とは打って変った曇り空で、風も強く、波も大きくて、とても海へ入る気分ではなかった。
前夜のワインがきいたのか、昼近くまで眠り込んでしまって、やっと|欠伸《 あくび》をしながら降りて行くと、
「ゆっくりやすめたかね?」
と、日野氏が笑顔を見せた。
僕は少しホッとした。
「遅くなっちゃって、すみません」
「いや、ちょうどこっちも今、朝昼兼用の食事中だよ」
日野氏について、食堂へ入りながら、
「あいにくの天気みたいですね」
と僕は言った。
「いや、私はこういう天気の方がいいんだよ」
と、日野氏は言った。
「そうですか」
「あまり強い陽射しに当るのは苦手なんだ」
と、席につく。
朋子が、コーヒーやハム、トーストなどを用意してくれる。
「ありがとう」
と、僕は言った。「でも――ゆうべは何も言わなかったけど、そう長くはいられないんだ」
「来たばっかりじゃないの」
「うん。もちろん、すぐに戻らなきゃいけないわけじゃないけど……」
別に、予定があるわけじゃないんだが、父親の気持を考えると、せいぜい三日間ぐらいで、引き上げるのが賢明かな、と思っていたのだ。
「ゆっくりしていくといいよ」
と、日野氏が言った。「どうせ、この波では、二、三日、ボートは来られない」
「潜れば、底の方は静かよ」
と、朋子が言った。「後で案内してあげるわ」
「水の中を?」
「そう。水先案内ね、本当の」
と、朋子は笑った。
いいムードに戻った。僕は安心して、焼きたてのトーストにかみついた。
――潜るのは楽しかったが、やはり、そうベテランというほどでもないので、二時間ほどしたらくたびれてしまった。
砂浜で休むには、少々風が強くて寒いので、
「もう上るよ」
と、彼女に声をかけた。
「どうぞ」
「君は?」
「もう少しここにいるわ」
「大丈夫?」
「慣れてるもの」
と、朋子は笑顔でウインクして見せた。
僕は、肩で息をしながら、別荘の方へと上って行った。今にも、雨が降って来そうだ。
玄関のドアをそっと開けたのは、別に何か考えがあってのことではない。
ただ、日野氏が、よく読書に|耽《ふけ》っていると聞いていたので、その邪魔をしないように、と思っただけだった。
――話し声がして、僕はちょっとびっくりした。
誰か来てるのかな?
が、すぐにそれは、日野氏が、電話でしゃべっているのだと分った。
「――ええ、確かにここです」
と、日野氏は言っていた。「しかし、そういう人はみえていませんよ。――そうですか。妙ですね、それは。途中で気でも変られたんじゃありませんか。若い人は気まぐれですからな。――いや、どうも。――もちろん、おいでになれば、お電話のあったことは伝えますよ」
――誰からの電話なんだろう?
僕は、バスルームへと歩いて行った。
シャワーを浴びて、砂や海水を落とし、服を着て出て来ると、日野氏が、びっくりしたような顔を|覗《のぞ》かせた。
「おや、戻っていたのかね」
「すみません、黙って――」
「いや、構わないよ。朋子の奴はまだ?――仕方がないな、本当に」
と苦笑する。
二階へ上ろうとして、僕はふと足を止め、
「あとで、家へ電話しておきたいんですけど、いいですか?」
と訊いた。
日野氏は振り向いた。
「それは残念だな」
「え?」
「いや、今しがた私も電話をかけようと思っていたんだが、不通になってるんだよ」
「不通ですって?」
「心配することはない。よくあることなんだ。海底ケーブルで引いているから、海が荒れると、時々、調子が悪くなる。二、三日すれば元に戻るさ」
「そうですか」
僕は、階段を上って、部屋に戻った。
ベッドに寝転がって、なぜ日野氏が嘘をつくんだろう、と考えてみた。
ついさっき、当人が電話で話をしていたじゃないか!
あの電話、もしかしたらうちからじゃないか、と思った。
日野氏は、僕がここへ来ていない[#「来ていない」に傍点]と返事をしたのだ。
一体どうなってるんだ?
僕は、何だか不安になって、ベッドから出た。そっと部屋を出て、階段の途中まで降りて来る。
日野氏だって、リビングルームを出ることがあるはずだ。その間に電話をかけられるかもしれない。
幸い、五分と待たない内に、日野氏がトイレに行くのが見えた。チャンスだ!
僕は|裸足《 はだし》のまま、素早く、リビングルームへ入り、電話に駆け寄った。
受話器を上げ、ダイヤルを――。しかし、その手は止った。
何の音も聞こえない。――電話は、本当に不通になっていたのだ。
日野氏が戻って来る様子に、僕はあわてて受話器を戻した。
「――やあ、どうしたね?」
日野氏は、別に怪しんでいる様子もなく、笑顔を見せた。「退屈じゃないか、こんな何もない所では?」
「いいえ、とんでもない」
と、僕はあわてて言った。
「ちょうどいい。少し話がしたいと思っていたところだ。座りなさい」
「はあ」
僕は、ソファに腰をおろした。
日野氏は、ちょっと斜めに僕を見て、
「娘とは、どの程度の仲なんだね?」
と訊いた。
「――友だちです」
「友だち、か」
日野氏は両手を組んで、少し考え込むようにしながら、「もう、一緒に寝たかね」
と訊いた。
僕はびっくりして、
「いいえ! そんなこと!」
と、首を振った。
「怒らないから、本当のことを言ってくれ」
「本当ですよ」
「そうか。それならいい」
日野氏は、ちょっと笑って、「父親というのは、うるさいものだと思うだろうね」
「いいえ。父親なら当然だと思います」
「君はなかなかいい青年だ」
日野氏は、窓辺に歩いて行った。
そこからは砂浜が見下ろせる。――僕も並んで、ちょうど海から出て来た朋子を、見下ろした。
「――あれは、君に、この島へ来るな、と言ったかね」
「ええ」
「理由を言ったか」
日野氏は、じっと朋子から目を離さない。
「あの――父親がいやがる、と……」
「なるほど」
日野氏は|肯《うなず》いた。「それなら、君はまだ大丈夫かもしれん」
「どういう意味ですか?」
僕は戸惑った。
「いいかね、大木君」
日野氏は、ソファの方へ戻りながら言った。「君は私からの招待の手紙を見て、ここへ来たんだね」
「そうです」
「しかし、私はその手紙を書かなかったんだよ」
と、日野氏は言った。
昨夜の食卓がアメリカ風なら、今夜はヨーロッパ調だった。
何となく物静かで、会話もそうなると、知的になったりして、
「アメリカの大統領選の行方は――」
なんてことをしゃべったりしていた。
食事の後はロックではなく、軽いダンス音楽。――昨夜のこともあるので、僕はあまり朋子とくっつかないように気をつけた。
ところが、朋子の方から、ぴったりと身をすり寄せて来る。
こちらとしても、押し返すわけにもいかない。困ったな、と思いつつ、チラッと日野氏の方を見たのだが、こちらは、何か考えごとでもしているのか、まるで僕らの方など、見もしないのである。
大人ってのは分らん、と僕は思った。
ダンスは一時間ほど続いた。――ああ、今夜のところは無事に終ったな、とホッとする。
「――じゃ、私は先に部屋へ行かせてもらうよ」
「おやすみ、お父さん。後は片付けるから」
「すまんね」
「僕も手伝いますから」
「じゃ、よろしく」
と、日野氏が出て行く。
朋子が、お皿やナイフ、フォークを運んで行き、僕はグラスなどをいくつか両手にかかえて、朋子の後からついて行こうとした。
そのとき、日野氏が急に戻って来たのだ。
「あの――」
と言いかけた僕へ、黙って、という仕草をして、ちょっと台所の方へ目をやり、僕の方へと急いで歩み寄って来る。
そして、僕の方へ顔を寄せて、低い声で、|囁《ささや》いた。
「今度は、部屋のドアに鍵をかけておきたまえ」
「え?」
訊き返す間もない。日野氏は、また素早く出て行ってしまった。
朋子が戻って来る。
「ほら、さぼってないで、早く運んで!」
「うん、分ってるよ」
僕はあわてて台所へと入って行った。
あの日野氏の言葉は何だったんだろう?
その夜は、どうにも気になって、なかなか寝つけなかった。
ドアの鍵、といっても、簡単な、カンヌキに過ぎないが、まあ、かけておいて悪いこともあるまい、と、一応かけてからベッドに入った。
しかし、まるで眠くならない。
さして得意でもない潜水などをやって、かなり疲れているとは思うのだが、一向に|瞼《まぶた》がくっつかないのである。
これが試験中なんかだと、何もしてなくても眠くなるのに、不思議なもんだ。
そんなことはともかく――何時間ぐらい、そうして寝返りばかり打っていただろう。
やっと、ウトウトし始めたとき、急に、何かの物音で、目が覚めた。
足音だ。――僕が足音なんかで目が覚めるというのは、正に前代未聞のことだった。
ただ、それはとても奇妙な足音だったのである。重たく、引きずるような足音。
誰だろう?――日野氏とも、もちろん朋子とも思えない。
だが、ここには僕以外、その二人しかいないのだ。
足音は、ゆっくりと、僕の部屋の方へと近付いて来た。
そしてドアの前で、止った。――沈黙。
僕はベッドに、そっと起き上った。ただならない緊張感が、部屋の空気を凍らせたようだった。
ドアを開けようとして、ガタガタ動かす音がした。
カンヌキがかかっていると知ると、その「誰か」は|苛《いら》|々《いら》したように、更に激しく、ドアを揺さぶった。
僕は、ゴクリとツバを飲み込んだ。――あの勢いでやられたら、カンヌキが|壊《こわ》れちまう!
しかし、僕が思っていたより、カンヌキは丈夫だったらしい。何とか堪えて、ドアを守った。
その「誰か」は、|諦《あきら》めたらしく、ドアは静かになった。そしてまた、重く、引きずるような足音が、今度はゆっくりと遠ざかって行く……。
完全に、足音が聞こえなくなっても、しばらくは、闇が震えて音を出しているかのようだった。
僕は、やっと、普通に息をした。――いつの間にか、体中が汗でびっしょりになっていた……。
3
次の日は、またきれいに晴れ上った。
それが、何とも僕の気分を滅入らせた。
ゆうべの後で、思いっ切り楽しく泳ごうなんて気分になれるだろうか?
僕は|専《もっぱ》ら、砂浜に引っくり返っていた。
「どうしたの?」
朋子が海から上って来た。「泳がないのね、ちっとも」
「うん……」
「もう|年《と》|齢《し》なの?」
そう言って、朋子は笑った。
僕の傍に、横になった朋子は、気持良さそうに目をつぶった。
「――ねえ」
と、僕は言った。
「うん?」
僕は、少しためらってから言った。
「あの別荘に、誰かいるの?」
「誰か、って?」
「つまり、君とお父さん以外に、さ」
「あなたがいるわ」
僕は、ちょっと笑った。
「つまり、その三人以外に、だよ」
「いないわよ。どうして?」
「ゆうベ――足音がしたんだ」
朋子は目を開いて、僕を見た。真剣な目つきだ。
「話して」
――僕は、ゆうべの、あの重々しい足音のことを説明した。しかし、あの気分だけは、どうしたって説明できない。
朋子は、上体を起こして、砂地に|肘《ひじ》をつき、じっと海の方を見つめていた。
僕が口を開きかけると、朋子が言った。
「あなたは何も知らない方がいいわ」
「どうして?」
「どうしても」
朋子は僕を見た。「今日、帰って。その方がいい」
「朋子――」
「黙って、ここは言う通りにして」
朋子は立ち上った。「来て。モーターボートのある所を教えるわ」
「ここにあるの?」
「島の裏手よ。――こっち」
朋子について、海岸をぐるっと回る。
裏側の海岸は、岩が多かった。
「その岩の向うにボートがつないであるのよ」
と、朋子が身軽に岩の上を飛んで行く。
僕は、ついて行くのが精一杯だった。
「――いやだ!」
と、朋子が声を上げた。
「どうしたの?」
「ボートがないわ」
僕も、高い岩の上に立った。
そこから下へ降りた所に、確かに、即製の船着場らしきものがある。しかし、ボートは影も形もなかった。
「きっと昨日、海が荒れたから、流されたんだよ」
と僕は言った。
「台風でも流されなかったのよ」
朋子は、クルリと向き直って、戻り始めた。
再び砂浜に着くと、朋子も今度は、海に入る気になれないようで、腰に手を当てて、しばらく考え込んでいた。
今度は僕の方が気をつかって、
「ねえ、海に入ろうか」
などと言っていた。
ともかく、気が弱いのである。
「そうね。少し泳ぎながら話しましょう」
「何を?」
「きっと父が上から見てるわ。――見ちゃだめ! 楽しそうに泳いでいるように見せないと……」
何だか、よく分らないけど、ともかく水へ入って、少し泳いで行くと、小さな岩が、水面に出ている。
そこで一息ついた。朋子が僕を見て、言った。
「父はあなたを殺すつもりだわ」
僕は、岩から落っこちそうになった。
「――殺す?」
「そう。だから、私、あなたに、来ないで、と言ったのよ」
「でも、お父さんが――」
「父は、会ってみたかったんだわ。いつもそうなの。会って、大した男じゃない、私が本気で相手にしていないと分ると安心するのよ。でも――この男は、と思うと……」
「――誰かを殺したことがあるの?」
「まさか! みんな危うく命拾いして、逃げて帰るわ」
「みんな、って――何人ぐらい?」
「あなたで四人目よ」
「四人……」
四人。「四」。「死」。――馬鹿らしい!
「じゃ、ゆうべの足音は……」
「父よ」
「そうかなあ。まるで違うように聞こえたけど」
それに日野氏が、あのドアを開けようとしたのなら、なぜわざわざ、寝るときは鍵をかけろなんて言ったんだろう?
「父は病気なのよ」
と、朋子は言った。「一種の夢遊病に近い……。だから、あなたを殺そうとするとき、父は父であって、父でないの。理性的な判断ができない状態なのよ」
「でも――じゃ、どうしたらいいんだい?」
朋子は首を振った。
「あと二日したら、定期的に、この島へ来るボートがあるわ。それで帰って。それまでは、夜の間、用心するしかないわ」
そう言われたって……。
僕は情ない顔をしていたに違いない。朋子が僕を見て笑い出した。
「大丈夫よ。ちゃんとドアにカンヌキさえかけておけば。父は、そう力のある方じゃないもの」
「――そうするよ」
「さあ! 私、また潜ろう! あなた、どうする?」
「付き合うよ」
と、僕は言った。
あの別荘へ、一人で戻る気には、とてもなれない。
昼食の後、朋子はベランダに出て、デッキチェアに横になった。
日野氏は、ちょっと朋子を見に出て、すぐ戻って来た。
「――眠ってるよ。全く、若いってのはいいもんだ」
「そうですね」
と僕は言った。
日野氏が、真顔になった。
「今日は様子がおかしいね」
「え? いえ――別に――」
「何かあったんだろう」
「何も――ありません」
「隠すことはない」
「僕、別に……」
日野氏は、ゆっくりと腰をおろした。
「ゆうべ、鍵をかけて良かっただろう」
「は、はい」
「足音を聞いたね」
「え?」
「ほら、ギクリとした。返事したのも同じだよ」
僕はあわてて目をそらした。
「重い、引きずるような足音。――違うかね?」
僕は何とも言わなかった。日野氏は、深々と、息をついた。
「それはね、実は朋子なんだ」
僕は仰天して、日野氏を見た。
「朋子さんが?」
「そうなんだ。――このことは、黙っていてくれるかね。誰にも!」
「え、ええ……」
「朋子は、病気なのだ」
と、日野氏は言った。「一種の精神病だが、原因は分らない。きっと、無意識の奥深くに何か理由があるんだろう」
「どんな病気なんですか?」
と、僕は訊いた。
聞くのが|怖《こわ》いようでもあったが……。
「あの子は――本気で好きになった男を、殺そうとするんだ」
僕は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
そんなにあっちこっちで殺されちゃ、たまんないよ!
「これまでにも、何人かの男の子が、この島へやって来た」
と日野氏は続けた。「しかし、誰もが三日といずに帰って行ったんだ」
「でも――殺されなかったんでしょう?」
と僕は訊いた。
「私が用心していたからね」
確かに、ドアに鍵をかけろと言ったのは、日野氏である。しかし――父と娘の両方から、そっくりの話を聞くなんて!
「あの子にとっては、自分ではどうしようもないことなのだ。本気で好きになりそうな人間を殺そうとする! 女にとっては、どんなに|辛《つら》いことか。君にも察しがつくだろう」
「はあ」
「だから、あの子は、君に来ないでくれと言ったんだ」
「でも、招待の手紙を出したのも――」
「いわば、娘には二つの顔がある。時として、一方が勝ち、また他のときには、もう一方が勝つ、というわけだ。――いいかね。あれはかなり本気で君のことを想っている。だからこそ、用心しなくてはならないんだよ」
僕はベランダの方へ目をやった。
朋子の話と、日野氏の話。どちらを信じたらいいんだろう?
ただ、確かなことは――どっちにしろ、殺され役は僕だ、ってことである。
恐怖の夜がやって来た。
吸血鬼の映画なんか見てると、やたらにすぐ夕方になるものだが、実際、こういう微妙な立場に置かれると、いやに夜が早く来るような気がするというのは、事実である。
――夕食のときも、何となく互いに遠慮がちで、静かだった。
そして、今夜はダンスパーティもなく、早目に床に入ることにしたのである。
しかし、だからって眠れるものじゃないし、いくらカンヌキをかけても、それで万全とは思えない。
現に、ゆうべの「訪問客」は、かなり激しくドアを揺らしていた。あの調子だったら、ドアのカンヌキぐらい、吹っ飛んでしまうかもしれない。
そうなったら、日野氏だろうが朋子だろうが、入って来た相手[#「相手」に傍点]に殺される――いや、闘えばいいのだろうが、果してそんな度胸があるかどうか。正直なところ、自信はなかった……。
映画のヒーローとは違うんだから、そうカッコいい真似はできない。
しかし一方では、強烈な好奇心に駆られていたことも事実だ。やはり若いせいだろう。
ただし、命の危険と引きかえというのは困る。
何とか安全に、相手の正体を確かめるすべはないものか、と、僕は思った。
――まだ真夜中までは間がある。
何か、うまい手はないかな……。
慣れない「考え事」などをしたのが、いけなかった。あんなに目が|冴《さ》えていたのが、考えている間に、眠くなってしまったのだ。
そして――眠っちゃいけないぞ、と思っている内に、つい、ウトウトしてしまった……。人間というのは、何とも皮肉にできているのである。
――ハッと目を覚ましたとき、その足音[#「その足音」に傍点]はドアの前まで来ていた。
そして、ドアを開けようとする音。
ゆうべにも増して凄い。ガタガタとドアが揺さぶられ、カンヌキどころか、ドアごと|外《はず》れてしまうんじゃないか、と思った。
僕は、ベッドに起き上って、ただじっと息を殺しているだけだった。
駆けて行って、ドアを押えるとか、何かすることはありそうなものだったが、しかし、体の方がいうことをきかないのである。
ガタガタ、ガタガタ、と少しずつ間隔を置いて、ドアが揺さぶられる。
それがどのくらい続いただろうか?
ふと、音は|止《や》んだ。――諦めたのだ。
また、引きずるような足音が、遠ざかって行く。ゆっくりと……。
突然、僕は頭がおかしくなった。いや、とてもそうとしか思えない。
ドアを開けて[#「開けて」に傍点]、その誰か[#「誰か」に傍点]という奴を、この目で見てやりたいという衝動に、いつの間にか、体の方が従っていたのだ。
だめだ! やめろ!
頭の方はそう叫んでいたが、僕はベッドから降り、足音を立てないように、そっとドアへと近付いて行った。
あの足音は、大分遠くなっていた。
僕は、カンヌキを、そっと外した。――危いぞ!
そして、ノブを静かに回すと、ゆっくり、ドアを引いた……。
廊下に、それ[#「それ」に傍点]の後ろ姿が見えた。
長い、マントのような黒い布で、スッポリと身を包んだそれは、よろけるような足取りで、歩いて行く。
しかし――それは、どう見ても、朋子でも、日野氏でもなかった。
凄い大きさだ。身長は二メートルを優に越え――たぶん二メートル半はあっただろう。
ほとんど天井にくっつきそうな大きさだった。
僕は、ただ|唖《あ》|然《ぜん》として、ドアの|隙《すき》|間《ま》から、それを見ていた。
すると、それは、視線を感じたのか、足を止め、ゆっくりとした動作で振り向こうとした。
僕はドアを閉じ、震える手で、再びカンヌキをかけた。
――化物だ!
僕はベッドへと飛び込んで、頭から毛布を引っかぶった。
4
逃げなくちゃ!
翌日の僕は、そのことばかり考えていた。
朋子も、日野氏も、信じられない!
いくら可愛いガールフレンドだって、殺されてまで、そばにいたくはない。
しかし――さて、どうしたらいいのか。
逃げるったって、ボートも何もないんだから……。
僕は、頭が痛いと称して、遅い朝食の後、部屋に戻ることにした。
「飲み過ぎじゃないの?」
と、朋子がからかう。
「無理しないで寝ていた方がいいよ」
と、日野氏が言った。「何か薬でもあげようか?」
「いいえ、大丈夫です」
僕はあわてて言った。「寝てりゃ、すぐ良くなりますから」
「でも、一人じゃ、泳いでてもつまんないしなあ」
と、朋子は伸びをして、「じゃ、大木君のそばについててあげよう」
「いや、悪いからいいよ。せっかく天気もいいことだし」
「でも――」
と、朋子が口を|尖《とが》らす。
すると、日野氏が、言った。
「今日は体の調子がいい。私が少し泳ぐよ」
「まあ、珍しい! じゃ、仕度するわ」
と、朋子が笑顔で言った。「大木君も、もし気分が良くなったら、後でいらっしゃいよ!」
「うん。そうするよ」
僕は、部屋に戻って、ベッドに寝転がった。
二人ともいなくなる。――逃げるチャンスだ。
方法なんか考えていなかったが、ともかく決心だけはしていた。
決心に乗って、逃げられりゃ言うことはないのだが。
僕は、しばらく待った。
別荘の中が静かになる。――開け放した窓から、朋子の笑い声が風に乗って入って来た。
僕は、そっとベッドから出て、砂浜を|覗《のぞ》き込んだ。
青い海の、少し離れた所に、朋子と日野氏の頭が出ている。――この分なら、しばらくは大丈夫だろう。
僕は急いで荷物をまとめた。それから、もう一度、砂浜を見下ろした。
二人の姿は見えない。もう戻って来るのかな?
そのとき、奇妙なものに気が付いた。
砂浜に、字が書いてあるのだ。
木の枝か何かで書いたのだろう。それは――〈大木丈二〉と読めた。僕の名だ。
そしてその名は、四角く、囲ってあった。ちょうど、黒枠の文字のように……。
僕はゾッとした。
朋子が書いたのか、それとも日野氏か。
そんなことはどっちでもいい。ともかく、ここにいちゃ、殺される!
僕は荷物を手に、部屋を出た。
別荘を出て、キョロキョロと左右を見回す。あんまりいい格好じゃないだろうが、そんなこと言っちゃいられないのだ。
しかし、どこへ行こう? 別荘を出たとたんに立ち往生である。
よし。――ともかく、あのボートがつないであったという岩の所。あそこへ行ってみよう。
特別の考えがあったわけじゃない。他に行く所がなかったという、それだけの理由なのだ。
あの二人が戻って来ても、しばらくは僕がいなくなったことに気付かないでいてくれるとありがたいけど、と思った。
現実は、なかなかそううまく行かないものだが。
僕は岩の上を、足が滑らないよう、用心しながら進んで行った。
せっかく殺人者の手から逃れても、岩から落ちて首の骨を折ったんじゃ、笑い話にもならない。
「まだだったかな、おい」
と、僕はハアハア息を切らしながら、呟いた。
すると、いきなり、あの場所へ出ていた。そして――そこにボートがあった!
夢じゃないか、と僕は何度も目をこすった。
しかし、そのボートは消えてなくなりもせず、木の葉に変りもしなかった。
ただし、それはモーターボートではなく、オールでこぐ、ごく普通のボートだった。
でも、この際、文句は言っていられない。
僕は、おっかなびっくり、ボートに乗り込んで、つないだロープを外した。
すると、波に乗って、ボートがスッと海の方へと出て行く。――よし、うまく行きそうだぞ!
僕は、あまりボートをこいだことがない。しかし、人間必死になると、たいていのことはできるようになるもので、力一杯こいでいると、何とか進み始めた。
陸と島とは、そう近いわけではないが、こいで行けないほどの距離ではない。
少しこぎ出してから、陸地の方角を見定めて、向きを変えた。
この分なら、夕方になる前に着くかな、と僕はホッとしながら思った。
朋子には悪いような気もしたが、命がかかっているのだ。まあ、|臆病《おくびょう》者と笑われても、死ぬよりはいいものな。
――しかし、あの二人、どうして、あの大きな男がいることを、隠してるんだろう?
それに、昼間はどこにもいる気配がないのに、真夜中を過ぎると、どこから出て来るんだろう?
そして二人がお互いに、相手を殺人狂だと言ったのは、なぜなのか。
どうにも、分らないことばかりだ……。
まあ、いい。ともかく早く島から離れることだ。そうすれば……。
「ん?」
いやにお尻が冷たい。――下を見て、ギョッとした。
水が入って来ている! 穴が開いているのだ!
僕は|焦《あせ》った。どこに穴があるのか、分らない。水は急速に増えつつあった。
それこそアッという間に、ボートは沈んだ。
こうなったら泳ぐしかない。
しかし、いかにも、沈んだ場所が悪かった。
陸にも遠いが、島からも、ずいぶん来てしまった。
もちろん、僕も泳げるが、何キロもの遠泳というのは、やったことがなかった。
決心しなくてはならない。――よし! 陸地を目指して泳ごう!
十五分ほど泳いで、後悔した。たぶん、島の方が、ずっと近かったのだろう。
一向に陸地は近付いてこない。いい加減、腕が疲れてきた。
畜生!
殺されなくても、こんな所で|溺《おぼ》れ死ぬんじゃ、頭にくる。
男の意地で、さらにしばらく泳いだ。でも――あまりに先は長かった。
だめだ……。もう、力がない。
僕は水に沈んだ。そして、意識が薄らいで行く。
目を開いて、最初に感じたのは、失望[#「失望」に傍点]だった。
天国って、意外にリアルなんだな。
どこかで見たような部屋だ。
――ハッとした。頭がはっきりする。
ここは――朋子の別荘だ。しかも僕のいた部屋である。
夢だったのか? ボートで海へこぎ出したのも、ボートが沈んだのも……。
いや、そうじゃない。あれは現実だ。
すると、僕がここにいる、というのは……。
ドアが開いた。
マントですっぽりと包まれた、あの大きな男が立っていた。
こうなると、やけくそで、
「何だ貴様は!」
と怒鳴っていた。「顔を見せろ、化物め!」
マントの頭の部分がスルリ、と|外《はず》れた。
天井に届くような高さから、僕を見下ろしているのは、朋子の顔だった。
僕が|唖《あ》|然《ぜん》として、ものも言えずにいると、朋子が笑い出した。
別に無気味とか、|凄《すご》|味《み》のある笑い方ではなく、ごく当り前の笑いだ。
そして――もう一つ、お腹の|辺《あた》りから、笑い声が聞こえてきた。
「びっくりさせて、ごめん」
と、朋子は言った。「まさか、あなたが、あんな無茶をするとは思わなかったんだもの」
「君は――」
マントが、スルリと完全に下へ落ちた。
朋子を肩車[#「肩車」に傍点]して、立っているのは、日野氏だった。
「いや、すまん、すまん。少し薬がききすぎたな」
と、日野氏は言って、朋子を下へ降ろした。
「じゃあ――真夜中に来たのは、お二人の――?」
「そう。きっと大木君のことだから、吸血鬼とか、狼男とかを本気にするわよ、って言ったの。でも、あんな穴の開いたボートで海に出るなんて……」
「でも、どうして?」
と、僕は言った。「どうしてそんなことしたの?」
「ごめん。ともかく、夏は退屈なの。父も私も、前からお芝居が好きで、誰か一人、ゲストを呼んで、うまくだましちゃえ、ってことになったの」
「じゃ、僕はからかわれてただけなのか」
と、呟く。
「ごめんね、悪気はなかったのよ」
「いや、申し訳ないことをした」
と、日野氏が言った。「娘に言われると、いやとも言えなくてね。まあ勘弁してくれよ」
「僕を助けてくれたのは?」
「娘が気付いてね、二人で急いで駆けつけたんだ。間に合って良かった」
僕は、当然腹を立ててもいい。
そんなに馬鹿げたことをやらされ、いい恥さらしだ。
でも、僕はいつの間にか笑っていた。
僕も、朋子も、日野氏も、一緒になって、笑っていたのだ……。
ホッとしていた。――これで、殺されなくて済む。
そして――大木丈二は眠り込んだ。
朋子と、父親の二人は、こっそりと顔を見合わせ、ふっと笑った。
「これで、大木君も、疑ったりしなくなるわよ」
「そうだな」
と日野氏は|肯《うなず》いた。
「もう今夜は、部屋のドアにも、カンヌキをかけないだろう。二人で、ゆっくり訪問[#「訪問」に傍点]しようじゃないか。恐怖を経験すると、いっそうコクが出て、おいしくなる」
「そうね」
と朋子は言った。
そしてウットリしたように、
「大木君の血っておいしいのよね!」
――そのころ、潮の満ちた砂浜では、大木丈二の名前が、波にさらわれて、消えて行った。
シンバルの鳴る夜
1
音楽は聞くものだと思っている人間がいる。
とんでもない話だ!
ベートーヴェンだって、モーツァルトだって、自分の音楽を「音だけ聞く」人間がいるなどとは思ったこともなかっただろう。
将来、音だけを四角い箱に閉じこめて人に聞かせる装置が現われるなんて、いかに想像力豊かなワグナーだって、考えなかったに違いない。
レコードなんてものがあったら、果たしてベートーヴェンはあの数々の名作をかいたかどうか。――何しろ、彼の傑作のほとんどは、耳が聞こえなくなってからのものなのだから。レコードでみんなが音楽を楽しんでいるのに、自分には何も聞こえない、となったら、あの怒りっぽいベートーヴェン、やけ[#「やけ」に傍点]を起して大酒を飲んで早死にしていたかもしれない……。
ま、それはともかく――音楽、特にオーケストラの音楽こそ、目で見て面白いものなのである。
特に私の位置からは、まことによく、オーケストラが見渡せる。――申し遅れたが、私は今、このオーケストラの指揮を取っている指揮者である。
オーケストラも人間の集まりである以上、そこには色々ドラマがある。
たとえば――第二ヴァイオリンの三列目の二人は夫婦だが、ゆうべ夫婦|喧《げん》|嘩《か》をやらかしたらしい。それとも(こちらの可能性の方が高いが)亭主の方が、このところ、ハープの女の子に色目をつかっているので、女房が頭に来ているのかもしれない。
何しろ全然目を合わせようともしないし、本当なら、私から見て右側の席の女房の方が譜面をめくる役なのに、一向にめくろうとしないので、仕方なく亭主の方がめくっている。
他のメンバーも、事情を知っているらしく、その光景を横目で眺めてニヤニヤしている……。
それに、ホルンの第二奏者。ゆうべは徹マンか、飲み過ぎか。ともかく|欠伸《 あくび》ばかりしている。――挙句のはてに、コックリコックリしだして……。おい! いい加減にしろ!
隣のホルン首席に突っつかれてハッと目を覚ましている。全く、しようがない|奴《やつ》だ!
第一ヴァイオリンの一番後ろの列の奏者は、さっきから二度も弦を切って、舞台から引っ込んでいる。――オーケストラの団員が貧乏なのはよく分っているが、古い弦をいつまでも使うなよ。
同じ奴が二度も弦を切ったというので、客席で、ヒソヒソ|囁《ささや》き合っているのが分る。
指揮者の耳は鋭いのだ。
今度弦が切れたら、おそらくドッと笑いが起るだろう。――頼むぜ、全く。
ただでさえ、みんな曲の方には退屈している――と言っちゃいけないのだが。
しかし、今日の客の九八パーセント以上は、後半に私の指揮するマーラーの交響曲を聞きに来ているのである。九割はチケットが売れているというのに、七割方しか席が埋っていないのも、前半の「現代物初演」をパスしようという客が少なくないことを示している。
正直なところ、私も、旧知の友人の作曲家に頼まれなければ、この曲を振ろうとは思わなかったに違いない。楽壇の大物の息子である彼は、この曲で、何とかいう(名前も|憶《おぼ》えていない)賞をもらった。
その審査員の十人中八人が、彼の父親の弟子なんだから、まあ、受賞は初めから決っていたようなものだ。
それにしても……。たった一つのテーマを、考え詰め、考え詰めて、あの〈第五交響曲〉をかいたベートーヴェンの情熱は、この時代には求むべくもないものなのだろうか?
何しろ、今振っているこの新作は、〈オーケストラとシンバルのためのソナタ〉というのだが、大体、シンバルというものは、オーケストラの中にもともと含まれているものである。
このタイトルからして、シンバルが大いに活躍するだろうと、誰もが想像するに違いない。ところが――何とシンバルは曲の最後の最後で一回、バァーンと鳴るだけなのだ!
もはや音楽は「肩すかし」を「|粋《いき》」ととり違え、「|不《ふ》|真《ま》|面《じ》|目《め》」を「ユーモア」と勘違いした、とんでもないものと化してしまったのだろうか……。
肝心のシンバルを叩く奴も哀れなものだ。
たった一回のバァーンのために、十七、八分もの間、じっと椅子に座ってなきゃならない。
音楽する喜びをオーケストラの団員に与えようという作曲家はいないのだろうか?
やれやれ……。グチったところで仕方ない。
ともかく、曲はやっと終りに近付いていた。指揮しているこっちも、|欠伸《 あくび》が出そうである。
そろそろシンバルの出番が近付いて来た。
――長い間ご苦労さん、やっと出番だよ。
おい。――おい!
私は青くなった。シンバルの奴、じっと腕組みして動かないと思ったら、眠ってる!
冗談じゃない、起きてくれよ。いくら何でもこれでシンバルが鳴らなかったら……それこそ大爆笑である。
シンバルを打つ打楽器奏者は、一番後ろにいる。だから、誰も気付かないのだ。
頼む! 起きてくれ!――あとスコアにして一ページしかない。
私は、必死で顔をしかめて、シンバルの前にいるファゴット奏者に合図した。――気が付け! 早く!
ファゴットの奴がキョトンとして私を見ている。当然だ。もうファゴットの出番はないはずなのに、私がしきりに指さしているのだから。
後ろだよ、後ろ! 叩き起せ!
――ファゴット奏者がチラッと後ろを振り向いて、やっと事態をのみ込んだ。私の方へかすかに|肯《うなず》いて見せる。
ファゴットの|筒《つつ》は長い。それをそっとかかえて、後ろの「シンバル屋」の足をつっついた。
ハッと目を覚ます。――やった!
馬鹿め! キョロキョロしてやがる。
私の|凄《すご》い視線と目が合って、やっと己れの立場を悟ったらしい。
早くシンバルを取れ!――やれやれ、間に合った。
オーケストラが、盛り上り、何となく終りそうだな、ということが客にも分ったらしい。ホッと息をつく者、目が覚める者……。
シンバルを持った奏者が、ブルブルッと頭を振った。
間違えるなよ……。この曲の唯一の「音楽らしい」ところなんだからな!
私は、少しテンポを早くして、クライマックスを作って行った。――よし! 構えろ!
シンバル奏者が、こっちをじっと見つめる。
いいか――一、二――。
曲は、思いもよらぬクライマックスを迎えることになってしまった。
シンバルが、今まさに打ち鳴らされようとした時、突然、客席に、女の声が|甲《かん》|高《だか》く響き渡ったのである。
「やめて!」
その声は、オーケストラの響きを圧した。「シンバルを打たないで!」
シンバル奏者が|唖《あ》|然《ぜん》とした。オケのメンバーも。
かくて――新作初演は、第二の〈未完成〉になってしまったのである。
2
巨大なティンパニーが空中で乱打されたようだった。
「雷か」
と、私は言った。
「雨になるわね」
と、妻の|久《ひさ》|子《こ》が前方から目をそらさずに言う。
そらされては困るのだ。――車を運転しているのは、久子なのだから。
真暗な夜道――それも、かなり深く山の奥へと分け入って行く道でも、久子は一向に|怖《おじ》|気《け》づく様子がなかった。
運動神経も抜群にいいのだが、初めての場所でも、道がどう続くのかを直感的に察知する才能を持っているらしい。
私が、複雑なマーラーのスコアの中へと分け入って行くように、だ。もっとも、そう言うと、久子は必ず反論する。
「あなたが指揮を間違えたって、別に人が死んだり重傷を負ったりするわけじゃないでしょ」
まあ、ある意味では久子の言うことも、もっともである。
何しろ私は運転免許を持っていないのだ。世の中に、指揮者の数と、車の免許を持っている人間の数を比較したら、当然、後者の方が、はるかに多いに違いない。しかし、私にはどうしてこんなに大きな物を苦もなく操れるのか、不思議でならないのだ。
指揮者、|谷《たに》|原《はら》|清《せい》|士《じ》として、音楽の世界では、四十一歳の若さで世界を駆け回る「天才」と呼ばれている私も、こと、外出する時には妻のご機嫌を取って車を出してもらわなくてはならない。
全く、世の中というのは……。
「もうそろそろよ」
と、久子は言った。
「しかし、君も初めてだろう。もうそろそろって、どうして分るんだ?」
と、私は言った。
とたんに、助手席にいる私の目にも、人家の明りが前方に見えて来るのが分った。
「ほらね」
と、久子は言った。
全く、こういう勘にかけて、久子は人間離れしている。
久子は私より九つ年下の三十二歳。結婚して七年。――あるオーケストラのヴィオラをひいていた彼女を、私はいわば「引っこ抜いた」わけである。
まあ、指揮者として率直に言わせてもらえば、久子はヴィオラ奏者としてよりは、妻として、また運転手として(亭主の運転[#「運転」に傍点]も含めて)の才能の方が、|遥《はる》かに大きかったのだ……。
子供はいないが、久子は二十五歳のころと少しも変らず、若々しくて、|可《か》|愛《わい》い。多分に男女関係でトラブルの起きやすい商売ながら、至って私たちの間はうまく行っていた。
「――凄い屋敷」
と、久子は言った。
山の奥に、それはまるで怪奇映画のセットみたいな趣で、突然現われた。
古びた洋館。――何十年もたっているだろう。
「何だかホラー映画みたいね」
と、久子が言った。
「怪奇映画」と言わずに「ホラー」と言うところが、久子と私の世代の差を現わしているのかもしれない。
「――着いたわ」
堂々とした太い柱に支えられた玄関前の車寄せに車を入れると、まるで待ちかねていたように、激しい雨が地面を叩き始めた。
「――では、あの時の叫び声が?」
私は、コーヒーのデミタスカップを手にして、目を丸くした。
「本当にお恥ずかしい話です」
と、|香《か》|取《とり》|佐《さ》|和《わ》|子《こ》は言った。「あのコンサートを台無しにしてしまったお|詫《わ》びをと思いまして、こうして……」
――夕食は、すばらしかった。
こんな山奥の屋敷で、本格的なフランス料理にお目にかかれるとは、思ってもいなかったのである。
久子は、いくら甘いものを食べても太らないという、羨しい体質で、夫が忙しく海外を駆け回っている間、東京中のレストランのツアー[#「ツアー」に傍点]をやって歩いているのだが、その久子にしても、大いに今夜の食事には満足している様子だった。
「おい」
居間で、|寛《くつろ》いでいた私たちの所へ、香取|安《やす》|成《しげ》が顔を出した。「ちょっと送って来る」
「ええ。ひどい雨だし、気を付けて」
「大丈夫だよ」
この屋敷の主人、香取安成は、五十近いはずだが、髪がほとんど白くなっていることを除けば、至って童顔で、「いい家の坊っちゃん」がそのまま成長したという雰囲気であった。
「あの、どなたか……」
と、久子が、気にして言いかけると、
「あの料理を作ってくれた方です」
と、香取佐和子が言った。
「まあ、それじゃ、料理人を外から――」
「よく知っているシェフで……。父の代から、何か大事な催しなどの時には頼んでいたんですの」
「そんな方をわざわざ、私どものために? 恐縮ですね、全く」
と、私は思わず言った。
「いいえ。指揮者としての、谷原さんのキャリアにとんだきずをつけてしまったのではないかと気になって……」
「とんでもない。――あのまま曲が終って、やっと終ったか、という拍手をパラパラもらうより、良かったかもしれません」
「まあ」
と、佐和子は笑った。
私とほぼ同年代のはずだが、いくらか彼女は老けて見えた。こういう場所に引込んで暮らしているせいかもしれない。
しかし、物腰の優雅で、|滑《なめ》らかなこと、動作といい、言葉づかいといい、おっとりしていて、急がないところは、元子爵の家柄の令嬢というイメージにぴったりだった。
古ぼけた、私より背の高い時計が、少しくすんだ音で、十一時を告げた。
「今夜はお泊りいただけますわね」
と、佐和子が言った。
「二日間ほどは予定もありませんので、私たちは構いませんが、ご迷惑では――」
「とんでもない。主人も私も、お客様がみえるのを楽しみにしているのですから。それに、この古ぼけた家も、部屋だけは充分に余っておりますから」
「すてきですわ」
と、久子が言った。
お世辞ではない。都心のマンション住いの身にとって、こういう屋敷には、|憧《あこが》れをかき立てるロマンの香りがあるのだ。
「しかし――」
私は、ソファで寛ぎながら、「どうしてシンバルを打つな、とおっしゃったんですか? まあ、あれはいかにも退屈な作品ではありますが」
「いえいえ」
と、佐和子は急いで首を振った。「作品や演奏の良し|悪《あ》しとは全く関係のない話なんですの」
「では――」
「あなた」
と、久子が私の腕をつついて、「無理にお訊きするもんじゃないわよ」
「いいえ、よろしいんです」
佐和子は、立ち上った。そして、マントルピースの方へ歩いて行くと、写真立てに入ったキャビネ判ほどの大きさの二枚の写真を手にして戻って来た。
「これは私の息子です」
と、差し出された一枚を見る。
十二、三歳か、いかにも利発な感じの、目をキラキラ輝かせた少年が|微《ほほ》|笑《え》んでいる。
「まあ|可《か》|愛《わい》い」
と、久子が声を上げたのは、全く妥当な感動の表現だったろう。
「笑ったところが、よく似ていらっしゃるんですね」
と、私は言った。「今、おいくつで――」
「亡くなりましたの」
と、佐和子は言った。「十二歳でした。その写真を|撮《と》った半年後のことです」
「それは……失礼しました」
と、私は言った。
招待されたからには、少し香取夫妻のことを、誰かに訊いて来るべきだったのだ。
といって、私たちは、まるで知らない人間の招待に気軽に応じたわけではない。香取夫妻は、あのオーケストラの貧しい財政にとって、少なからぬ援助をしてくれているスポンサーなのである。
「いいえ、このことは、よほど親しい方にしか、お話ししていません」
と、佐和子は言った。「主人も、あまり話さないようにと申すのですけど……。ただ、この間の失礼を許していただくには、やはりお話しするしかない、と思ったものですから」
私は、別に失礼などと、とんでもない、と言おうとしたのだが、久子にギュッと足を踏まれて、目をむいた。
久子は、すっかり香取佐和子の話に、好奇心を刺激されているのだ。
十二歳で死んだこの家の息子と、シンバルと、どんな関係があるというのか。――確かに、それは興味をそそる取り合せだった。
「こちらの写真をご覧になって下さい」
と、佐和子が差し出したもう一枚の写真は、大分古くなって、少し色もあせて来ていた。
十四、五歳と思える、少年少女たちが寄り集まって、手を振ったり舌を出したり、思い思いにカメラに向っている。
「――これ、奥様ではありません?」
と、|覗《のぞ》き込んでいた久子が、際立って可愛い一人の少女を指して言った。
「まあ、よくお分りですね」
と、佐和子が微笑む。
私は、びっくりしてしまった。確かに、そう言われて見れば、そう見えるが……。
「この、端で照れくさそうにしているのが、主人です」
と、佐和子は言った。「父はこの家に、毎年クリスマスになると、主だった親類を全部集めて、パーティを開いたんです。――もちろん、父が亡くなってからは、開かなくなりましたし……。それぞれ、色んな人生がありましたから」
香取佐和子は、ちょっと沈んだ声で言った。
「ご主人も、ご|親《しん》|戚《せき》だったんですか?」
と、久子が訊いた。
「ええ。といっても、かなり遠縁で。ただ、近くに住んでいたのです。主人は養子で、このころは、|松《まつ》|永《なが》という姓でした」
あの夫が養子だということは、私も聞いていた。
「――それで、この写真が何か……」
と、久子が促すように言った。
さっきは、無理に訊くな、と言っておいて!
「ええ。――この写真の後ろに立っている男の子を見て下さい」
そう言われて、初めて私はその少年に気が付いた。
妙な話だが、その少年は、目立たないように、ひっそりと立っていたのである。
他の子たちのように笑っても、はしゃいでもいない。ただ、少し頭を斜めに傾けて、視線も、カメラの方ではない、どこか遠くを見ていた。
「――この子は、|純《すみ》|男《お》といいました」
と、佐和子は言った。「やはり遠縁の子で例年のパーティにはあまり顔を見せませんでした。この時は四、五年ぶりでやって来ていたのです」
「何だか――少しぼんやりした感じの子ですね」
と、久子が言った。
「ええ。――五つの時、高熱を出したのがもとで、脳に何か障害を受けていたのです。この時、十二歳でしたけど、知能は五、六歳というところではなかったでしょうか」
「なるほど」
「でも、純男は、悪い子ではありませんでした。おとなしいし、優しい子で、体はご覧の通り大きかったのですが、決して乱暴なことはしませんでした……」
佐和子の口調は少しずつ、私たちに語るというより、自分自身に向って話しているようになって来た。
「本当に――子供というのは残酷なものですわ」
と、佐和子は言った。「また、ここに集まったみんな、残酷なことを、それと知らずにやる年代だったのです……」
3
「あなた」
久子がハッと起き上った。
「――どうした?」
と、私は目を覚まして訊いた。
いや、目を覚ました、というのは正確ではないかもしれない。久子が起き上るのをちゃんと見ていたのだから、いくらかウトウトしてはいても、眠っていたのではなかったのだろう。
「何か――聞こえなかった?」
と、久子はじっと耳を澄ましている。
「何か、って?」
「何だか――シンバルの音が聞こえたみたいだったの」
「よせよ」
私は苦笑して、「あの奥さんの話のせいでそんな気がするだけさ」
「そうね……」
久子はまたベッドに横になった。
「それに、こんな|嵐《あらし》の夜だ。古い屋敷だし、色々音がしても不思議じゃないよ」
「そりゃそうだけど」
久子は、納得しがたい様子だ。
多少|苛《いら》|立《だ》っているらしい、と私は思った。久子は私に比べて、ドライだし、合理的な人間だ。
怪談めいた話は好きだが、あくまで話として好きなのだ。――そんなことを、つい気にしてしまう自分に苛立っているのだろう。
もっとも、私の方だって、偉そうなことは言えない。いつも、寝つきのいい私が、しかも旅慣れていて、どこででも、自分の家のベッドと同じようにパッと寝られる私が、こんな風に起きているということ自体、私も、あの話を気にしている証拠である。
――ゆったりとした、広い寝室だった。
客用の部屋で、バスルームもついている。
もちろん、いつも使っているというわけではないのだろうが、我々が泊ると分っていたからか、きれいに掃除してあった。
ダブルベッドは、ちょっと目をみはるほどの大きさだ。――いつもの私なら、グッスリと眠っていただろう。
「やり切れない話よね」
と、久子が天井を見上げながら言った。
「うん……」
――子供たちの、残酷さ……。
お父様たちのために、何かみんなで合奏しましょうよ。
そう言い出したのは、佐和子当人だった。
私がピアノ、僕はヴァイオリン、私は歌うわ……。
みんながあれこれ言い出して、たいていの子は何かできたし、できない子もハーモニカとか、それもだめでも、一緒に歌うことはできる。
話はまとまった。簡単な曲で、即席の歌詞をつけ、メリークリスマス、で終らせりゃいい……。
佐和子には、そういう才能があった。
みんなは、屋根裏部屋に集まって練習することになった。古いピアノが置いてあったからだ。
そこに、カスタネットとかタンバリンとかも|埃《ほこり》をかぶって、箱に入っていた。
歌だけで不満そうだった子は、大喜びで、それを叩くと言い出した。
こういう時、リーダーシップを取るのは、やはり「上手な子」で、ここでは佐和子だった。
一、二度、みんなで適当に合わせているうち、何とかさまになって来る。佐和子も少し興奮して来た。
何の気なしに、言い出したのだったが、これはすばらしいことになるかもしれない、と思ったのだ。
「もっと、きちんと揃えてやりましょうよ! きっと、凄くすてきになるわ!」
声も|上《うわ》ずってしまっていた。――みんな大いに乗っていた。
「僕も」
その一言で、みんなは何となく静かになってしまった。
そうだった!――忘れていたのだ、純男のことを。
大体、そこに純男がいることさえ、佐和子は気が付いていなかった……。
佐和子は、決して純男のことを嫌ってはいなかった。むしろ、他の子よりは、純男のことを気にかけて、みんなで何かして遊んでいる時、純男が一人、ポツンと離れていると、
「一緒にやろうよ」
と、声をかけてやるくらいだった。
だから純男も、佐和子の言うことはよく聞くのだった。
しかし――しかし、今度ばかりは……。
音楽なのだ。やるからには、ちゃんと揃った演奏をして、
「上手ね!」
と、大人から拍手されたい。
しかも、その責任は自分にある、と佐和子は思っていた。
「純男君は無理よ。そこで聞いてて。ね?」
できるだけ優しく、佐和子は言った。
しかし――純男のがっかりした様子を見ると、佐和子は|可《か》|哀《わい》そうになってしまった。
「でも……。何か純男君にできるもの、ある?」
他の子たちは、いやな顔をした。――でも、もし何か簡単なもので、純男が参加できるのなら……。
純男は、顔を輝かせると、走って行って、あのがらくたの箱から、何やら取って戻って来た。――シンバルだった。
もちろん、本物のやつではない。オモチャだった。しかし叩けば一応、それらしい音がする。
「いいわ。それじゃ、そこに立って」
と、佐和子は言った。「いい? 私がこうやって見せたら、叩くのよ」
と、|肯《うなず》いて見せる。
「じゃ、みんなでやってみましょ」
佐和子は、また古ぼけたピアノの前に座った。
――「演奏会」は、全員の食事の後、居間で寛いでいる時に開くことになった。居間には、立派なグランドピアノもある。
「あいつ、|外《はず》そうよ」
食事の前、佐和子は、こっそり他の二、三人と集まって、相談した。
「でも――今から?」
佐和子は、ためらった。
「だって、あいつがいたら、めちゃくちゃだよ」
そうなのだ。――純男は、佐和子の合図から、遅れてシンバルを叩く。だから、音楽は台無しになってしまうのである。
佐和子も、何とかして純男に一緒にやらせてやりたかった。しかし……。
「やめろ、なんて言えないわ」
「じゃ、シンバルを隠しちゃえ」
と、一人が言った。「何もなきゃ、できないだろ」
「だめよ」
と、佐和子は言った。「じゃ――純男君と話してみる。むやみに叩かないように……」
「だって――」
不満が残ってはいたが、ちょうど食事の合図の鐘の音がして、子供たちはダイニングルームへと入って行った……。
食事が終ってから、佐和子は、純男を小部屋へ引張って行った。
「いい? シンバルって大きな音がするから、あんまり叩いちゃいけないのよ」
と、佐和子は言い含めた。「私が純男君の方を見て、こうやって手を振ったら、パン、って叩いて。いい? 手を振ったらよ。他の時は絶対に叩いちゃだめよ」
「うん」
純男は、真剣な顔で|肯《うなず》いた。もう手にはしっかりシンバルを持っている……。
何度も同じことを言い含めて、佐和子は居間へ戻った。
――初めから、そんなつもりだったわけではない。
しかし、いざ演奏が始まると、それは|奏《ひ》いている自分でもウットリするくらいの、すばらしい出来栄えで、ここで場違いなシンバルが鳴ったら、と思うと……。佐和子は、純男に合図を出すことができなくなってしまった。
時々、チラと純男の方へ目をやる。
純男は、しっかりと両手にシンバルを構えて、いつでも打てるように、待っている。じっと佐和子の合図を、食い入るような目で見つめながら、待っているのだ。
佐和子の胸は痛んだ。しかし――このすばらしい合奏を、何とか無事に終らせたかった……。
佐和子がチラッと見る|度《たび》に、純男はいよいよかと顔を紅潮させた。しかし、佐和子は合図をしなかった。
そして――音楽は終った。
大人たちは上機嫌で拍手してくれた。
すばらしいよ! 佐和子が考えたのか?
お前は天才だな!
父の言葉が佐和子は|嬉《うれ》しかった。こんな気持になったことは、初めてだ。
さあ、ケーキを。――子供たちがワッと食べ始めて、佐和子は初めて純男のことを思い出した。
居間から、純男は出て行くところだった。
あのシンバルを両手に持ったままで……。
「悪気はなかったとしても――」
と、久子が言った。「その子は、からかわれたと思ったんでしょうね」
「うん。まあ、奥さんの気持も、分らないじゃないがね」
「それにしても――怪談めいた話ね」
ベッドの中で、久子は体をすり寄せて来た。
その純男という少年は、姿を消して、帰って来なかった。
さすがに大騒ぎになり、捜し回った結果、この屋敷の裏の池に浮かんでいるのが見付かったのだった。もちろん、もう手遅れで。
大人たちは、ただの事故と思ったようだ。純男の死と、あの演奏を結びつけて考えた大人はいなかった。
ただ、佐和子には分っていた。自分が純男を殺したようなものだということが……。
しかし、これだけでは怪談にはならない。悲しい話ではあるが奇妙な出来事というわけではないだろう。
一つ、不思議だったのは――確かに、純男はあのシンバルを手にして、居間から出て行ったのに、後で見たら、シンバルはちゃんと屋根裏の箱に戻っていたのだった。
純男がそこへ返したのか? 佐和子は首をかしげたが、そんなことは、すぐに忘れてしまった。
そして、何年も――いや、十年以上も、思い出さなかった……。
二十四歳の時、佐和子は松永安成と結婚した。
姓も香取のままで、二人はこの屋敷に住んだ。
男の子が生れ、|光《みつ》|哉《や》と名付けたのは、佐和子の父である。――父は、光哉が五つになった時に、亡くなった。
十二歳。
光哉が、ちょうどあの時の純男の年齢になった時、それ[#「それ」に傍点]が起った。
光哉が、朝、いやに眠そうにしているのに気付いて、佐和子が訊くと、
「やかましくて眠れなかったんだ」
と、光哉はふくれっつらをした。
「やかましくて?」
「うん。ジャンジャン、音がしてて」
「まあ、何かしらね」
「分んないけど」
学校へ行った光哉は、授業中に居眠りして先生に|叱《しか》られたということだった。しかし、佐和子も、別にそれが大したことだなどとは思っていなかったのである。
毎晩、光哉が、母親のところへ、
「うるさくて眠れないよ」
と、やって来るようになった。
佐和子の耳には、もちろん何も聞こえなかったのだが……。
光哉は、寝不足と神経の両方で、見る見るやせて、弱ってしまった。
佐和子は夫と共に、あらゆる医者の所を訪ねて回ったが、何の役にも立たなかった。
シンバルの音。――そのころには、光哉ははっきりそう言うようになっていた。
頭の中でシンバルが鳴り続けて、眠らせてくれないんだ、と泣いて訴えた。
まさか、とは思ったが……。佐和子は、あの時以来、足を踏み入れたことのない屋根裏部屋へ上ってみたのである。
そして、がらくたの箱を|覗《のぞ》くと――あのオモチャのシンバルは、入っていなかった。
眠りを奪われた光哉が、日に日に衰弱して行くのを、佐和子はどうしてやることもできなかったのだ。
そして――光哉は死んだ。
葬儀の日。|呆《ぼう》|然《ぜん》としている夫を居間に残して、再び屋根裏部屋へ上った佐和子は、あの箱の中に、オモチャのシンバルが入っているのを見付けたのだった……。
4
「あの音――」
久子がベッドに起き上った。
「ん? 何だ、どうした?」
今度は、私もぐっすり眠っていたのだ。目を開けても、何だか頭の方はボーッとしていた。
「音よ。ほら、誰かドアを叩いてる」
「ドアを?」
「下の。――玄関だわ、きっと」
なるほど。どうやら、久子の言う通りらしい。
しかし、ここは私たちの家ではないのだ。
「誰か客だろ」
と、私は言った。
寝返りを打って、
「放っとけよ、よその家だぜ」
「何時だと思ってるの? 夜中の三時よ」
私は時計に目をやった。確かに三時を少し過ぎている。
こんな夜中に、一体誰が?
それに、頭が少しすっきりして来ると、あの玄関のドアの叩き方は、ただごとではないと分って来た。
誰か出たのだろう。ドアを叩く音は|止《や》んだ。
「何かしら?」
「さあな……」
久子は、起き出して、部屋に用意してあったガウンをはおっている。
「おい、どこへ行くんだ?」
「向うが来るのよ」
「どこへ?」
「ここに決ってるでしょ。あなたも起きといた方がいいわ」
「おい、何も――」
こんな時間に客を起したりするものか、と言いかけた時、廊下にせわしげなスリッパの音がして、ドアがノックされた。
「ほらね」
と、久子が言った。
全く、我が女房ながら、時々恐ろしくなるよ!
「はい」
と、久子が返事をすると、
「申し訳ありません。こんな時間に……」
香取佐和子の声だ。かなりうろたえている様子だった。
「お待ち下さい。――あなた! 早く起きてよ」
「分ったよ……」
私は、ベッドから出て、久子とお揃いのガウンをはおった。
久子がドアを開けると、佐和子が、居間にいた時の服装のままで立っていた。
「今まで起きてらしたんですか?」
と、久子がびっくりして言った。
「ええ、主人が戻らないものですから」
「まあ、とっくに戻られたものだと思って……。起して下さればよろしいのに」
「今、誰かが?」
と、私も口を挟んだ。
「山の下の駐在所のお巡りさんです。主人が戻らないので、連絡したら、今、上って来て下さったんですが……」
佐和子の顔は青ざめていた。
「何かあったんですか」
と、私は言った。
「途中で――何かが|崖《がけ》|下《した》へ落ちたらしい跡がある、と……」
「まあ」
と、久子は言った。
「もし――あの、もし、よろしければ」
と、佐和子は言った。「一緒にそこまで行っていただけませんでしょうか」
「もちろん参りますわ。すぐ、仕度をして下りて行きます」
「申し訳ありませんね、お客様にこんなことをお願いして……」
と、佐和子は、動揺しながらも、何度も頭を下げた。
仕度をして下りて行くのに、五分とはかからなかった。
初老の警官が玄関の所で待っていてくれた。
「車を出します?」
と、久子が訊く。
「お願いできますか、何しろ自転車なもので」
自転車であの山道を上って来たのでは、くたびれているだろう。久子が急いで車を出しに表へ出た。
――幸い、もう雨は上って、少し風は強かったが、雲も切れ始めて、月明りが射していた。
久子の運転する車に、私と香取佐和子、それに初老の警官が乗って、山道を下って行ったが――。
「――もう少し先ですよ」
と、警官が言った。
「事故でしょうか」
と、佐和子が言った。
「この道は慣れておられるはずですがなあ……」
と、警官が首を振る。
確かに、初めての人間には難所と見えるかもしれないが、そう道幅は狭いわけでなく、それにカーブも曲り切れないほど急という所はない。
しかし、崖から落ちたとすれば……よほどの幸運に恵まれない限り、助かるまい、と私は思った。
雨が上っているとはいえ、かなり道はぬかるんでいる。場所によっては、地盤がゆるんだりもしているのかもしれない。
「そこらです」
と、警官が言った。「その木が折れていましょう」
「本当だわ」
車を停めて、私たちは、少しの間、言葉もなかった。――立木が、いかにも押し倒されたという感じで、崖の外側に向って折れている。
「見に行きましょう」
と言ったのは、佐和子だった。
「奥さんは危いかもしれん。ここにおられた方が――」
と、警官は言いかけたが、
「いいえ、私の夫ですもの、もし、生きていれば声をかけてやらなくては」
佐和子の声は、もう取り乱してはいなかった。
「分りました。では足下に気を付けて」
「あなた、懐中電灯を」
「うん」
月明りはあったが、わずかなものだ。
足がぬかるみに取られそうになるので、用心して歩かなくてはならなかった。
「――気を付けて。滑って落ちでもしては大変です」
と、警官が言った。
「下を|覗《のぞ》けるかな」
「気を付けて下さい」
こういう時、自分が有名人であるという自覚があると(もちろん、この警官は、私のことなど知るまいが)、つい、無理をしてしまう。
私も、高所恐怖症の気があるのだが、こんな時には、つい先に立って、行動してしまうのだ。
「――何か見える?」
と、久子が訊く。
そう。――久子はもっとひどい高所恐怖症で、高い所にいる時だけ[#「だけ」に傍点]は、私のことを頼りにしてくれる……。
「いや、何も――」
懐中電灯の光では、崖の下まではとても届かない。「しかし……。枝や木が折れてるね。やはりここを落ちたんじゃないかな」
「転がり落ちたのなら、望みはある」
と、警官は言った。
「そうですね。しかし、明るくなってからでないと、とても――」
月の明りが、一瞬、崖の下を照らした。かすかにだが、車の、引っくり返った腹が、照らし出された。
「車だ」
と、私は言った。「あった」
「大分下の方?」
「ああ。――とてもあそこまでは……」
「どこかその辺に引っかかってるとか」
アクション映画じゃあるまいし!
「とても無理だよ。大体、そんな大きな木はないし――」
と、光を崖のすぐ下へ向けると――。
突然、ヌッと真黒な顔が現われて、私は、
「ワーッ!」
と大声を上げて、飛び上ってしまった。
そして、足がズルッと滑って――崖からは落ちなかったが、泥の中にまともに|尻《しり》もちをつくという、悲惨な結果になってしまったのだ……。
「――しっかりしろ!」
警官が、その泥だらけの男の手をつかむ。
「あなた! 手伝って!」
久子に怒鳴られて、私はやっとこ立ち上ると、一緒になって、その男を引張り上げたのだった。
「――まあ」
と、佐和子は言った。「シェフですわ、一緒に乗っていた」
よくここまで|這《は》い上って来たものだ。
「――奥さん」
息も絶え絶えという様子だったそのシェフは、やっと言葉を押し出した。
「主人は? 車から逃げ出したんですの?」
シェフは、ゆっくりと首を振った。
「とても……。私も、一人で這い出すのがやっとでした。ご主人は――動きませんでした……」
佐和子が、一瞬よろけた。
「奥さん、しっかりして下さい」
と、久子が、急いで支える。
「ともかく、人手がいる」
と、警官は言った。「お宅へ戻りましょう。電話をお借りして、すぐに人手を集めますから」
それは最も現実的な提案だった。
私は、泥だらけの格好だったが、そのシェフはもっとひどい。私の方がまだましだった。
久子の運転で、私たちは|一《いっ》|旦《たん》、香取邸へと引き返したのだった……。
「一時間もすれば、応援が来ます」
と、警官は言った。「それに、準備ができるころには、明るくなって来るでしょうし……」
「どうもお手数をかけて」
佐和子は、大分落ちついていた。――半ば|諦《あきら》めていることが分る。
「――いや、どうも」
二階のバスルームでシャワーを浴びて来たシェフが、居間へ入って来た。
「すぐ救急車も来ますから」
「私は大丈夫。かすり傷です」
バスローブ姿のシェフは、もう六十代の白髪の男である。
「何があったんでしょう?」
と、佐和子は言った。「主人がハンドルを切りそこねて?」
「いや……」
シェフは、久子のいれた熱い紅茶を飲んで、ホッと息をついた。「うまい!――こんなにうまいものを初めて飲みました」
ベテランシェフが言うので、いかにも実感がこもっている。
「――何が起ったのか、よく分らないんですよ」
と、少し間を置いて、首を振りながら、言った。「あの道は、よく慣れておられる。しかも、ご主人は、慣れているからといって、無茶をなさる方でもないし……」
「では、何が――」
「どう説明したらいいのか」
と、肩をすくめて、「ともかく、ごく普通に車は道を下って行きました。私とご主人は、近ごろのフランス料理のレストランの傾向のことなど話していて……。でも、決して運転をおろそかにする、ということはなかったのです。――ところが」
と、シェフは言葉を切った。
「何ですの?」
と、佐和子が訊く。
「突然、ご主人が頭をかかえて、『うるさい!』と叫ばれたんです。私はびっくりしました。何事かと――」
シェフは、今も信じられない様子だった。「そしておっしゃったんです。『シンバルだ! シンバルを鳴らすな!』と……」
佐和子の顔から、血の気が引いた。
おそらく、私たち夫婦も同じだったろう。
「――何ですかな。そのシンバル、というのは?」
と、警官が一人でキョトンとしている。
「聞き間違いかもしれません」
と、シェフは言った。「確かに、しかし、そう聞こえたのです」
「分りました」
と、佐和子は|肯《うなず》いた。「それで主人は車を――」
「頭が猛烈に痛んだのかもしれません。両手で頭をかかえて、叫ばれるので……。ハンドルは放してしまっています。私はあわててハンドブレーキを引こうと……。しかし、間に合いませんでした……」
シェフは、ため息をついた。「気が付くと、車は逆さになって、しかし、奇跡的に、私は手足を動かせたのです。何とか車から外へ這い出し、ご主人のことも呼んでみました。しかし、ご返事がなくて……」
「分りました」
佐和子は、静かに肯いた。「主人のために、とんだ目にあわれて……」
「いや、とんでもない。ご無事だといいのですが」
と、シェフは言った。
そうこうするうちに、警察の応援が着いて、屋敷の中はあわただしくなる。
「――奥さんは?」
久子が、言った。
私も、シャワーを浴びて居間へ戻って来たところだった。
「知らないよ。いないのか?」
「見なかった?」
「いや、全然」
久子は、天井へ目をやった。
「もしかして――」
二人とも、同じことを考えていた。
私たちは、階段を上って、二階の廊下へ出ると、さらにその奥から、階段を上った。
やはり、そのドアは開いていた。
「――失礼します」
と、久子が、ドアを大きく開けて、言った。
「奥さん……」
屋根裏部屋は、思っていたより、ずっと、きれいだった。
もっとクモの巣などの張った、埃っぽい所を想像していたのだ。
――香取佐和子は、奥の方に、たたずんでいた。
「勝手に入って来て、すみません」
と、久子が言うと、佐和子はゆっくりと顔を向けて、
「いいえ」
と、言った。「これがその箱です」
ちょうど、押入れに入る|衣裳《いしょう》ケースほどの大きさの木の箱で、いかにも古そうだった。
「――シンバルは?」
と、久子が訊いた。
「ありませんわ」
と、佐和子は言った。「主人の耳の中で、まだ鳴っているのかもしれません」
「なぜ、捨ててしまわなかったんですの?」
と、久子が訊くと、佐和子は、ゆっくり首を振った。
「むだですわ」
「むだ?」
「捨てようと埋めようと、ここへ戻って来ます」
佐和子は、息をついて、「さ、警官の方が捜しているといけませんから」
と、先に立って歩いて行く。
私たちは、そのがらくたの箱をなおしばらくかき回してみた。
しかし、確かに、シンバルはそこには入っていなかったのである。
5
結局、次の日一日、私たちは、香取安成の捜索に付き合わされることになってしまった。
捜索といっても、場所はもう分っているのだから、引上げ、ということだ。
引上げ。――遺体の引上げである。
先に、一人がロープで降りて行って、車の中で、香取が死んでいることを確かめたのだった。
それを聞いた時も、佐和子は取り乱さなかった。予想はしていたはずである。
――現場はやはり足下が危いというので、佐和子と私たちは、屋敷で待っていた。
「申し訳ありませんね、本当に」
と、佐和子は、恐縮していた。「とんだご招待になってしまって」
「いや、とんでもないです」
と、私は言った。「こちらこそ……。何だか、あの曲のせいで、こんな――」
「そんなことはありません」
と、佐和子は首を振った。「いつかはこんなことがあるかと思っていました」
「でも……」
「私のせいですのに」
と、佐和子は、力なく、肩を落として、「私を真先に殺せばいいのに。子供を。そして主人を……。生きている方が|辛《つら》いようですわ」
「そんなことを……」
久子も、さすがに言葉がない。
玄関の方で、声がした。
「戻ったのかもしれません」
と、佐和子が立ち上る。
佐和子が玄関へ出て行くと、私は言った。
「どうする? 失礼するかい、僕らも」
「そうねえ」
久子は、首を振った。「でも、あの奥さんを一人で置いてくの?」
「そりゃ、気の毒だとは思うけど……。ずっとここにいるわけにはいかないんだし」
「ええ、それは分ってるけど」
と、久子は|肯《うなず》いて、マントルピースの、あの写真の方へと歩いて行った。
足音がして、香取安成の遺体が運び込まれて来た。
「|一《いっ》|旦《たん》、そこのソファへ」
と、佐和子が言った。「主人はそこが気に入っていましたから」
「――残念です」
と、あの警官が言った。
「どうも……」
佐和子は、布に|覆《おお》われた夫の遺体を、じっと見下ろしていた。
そして、
「主人は苦しんだんでしょうか」
と、呟くように訊いた。
「いや、落ちたショックで首の骨を……。一瞬のことだったと思います」
「そうですか」
佐和子は、息をついて、「まだ良かったわ……」
私は、久子に腕をつつかれて、振り返った。
「何だ?」
「これ、見て」
マントルピースの方へ引張って行かれて、あの古い写真を見せられる。
「これが、どうかしたのか?」
「よく見て、あのご主人のところ」
――なるほど、若いころの香取安成の、首の辺りが、少し裂けている。
「古い写真だからな」
「昨日見た時は何ともなかったわ」
「そうか? 僕はよく|憶《おぼ》えてないけどな」
「絶対よ。破れていれば、気が付くわ」
「そうかな。――しかし、だからって、これと何か――」
「関係ないと思う?」
それじゃ、本当に怪談じゃないか。
私は、自分自身、結構迷信深いし、縁起をかつぐ人間のくせに、他人がそういうことを信じているのを見ると、|苛《いら》|々《いら》して来るのである。
私は、ただ黙って肩をすくめただけだった……。
「――何だって?」
私は、思わず訊き返していた。「あれ[#「あれ」に傍点]をやれっていうのか? もう一度? 冗談じゃないよ」
リハーサルのためにホールへ着いた私は、オーケストラの事務局長から、思いもかけない話を聞いて、|唖《あ》|然《ぜん》としてしまった。
「お願いしますよ」
と、局長は困り切った様子で、「ともかく、作曲者もカンカンで。分るでしょう?」
「僕のせいじゃないぜ」
「分ってます。ともかく、一度、ちゃんとした形で演奏すりゃ、気がすむんですから」
「しかし――」
「オケの連中には、少し手当をつけますよ。一曲、序曲を省いて、代りに入れれば。――ね? まだこの間やったばかりで、頭に入ってるでしょう」
私は、控室の椅子に、腰をおろした。
香取安成の葬儀が今日のはずだ。――もちろん、私には仕事もあり、ていねいに詫びを言って、帰って来たのである。
しかし、またこんなところで、「シンバル」の問題にぶつかろうとは……。
「ね、いいでしょう。あの父親を怒らすと怖いですから」
と、局長は拝まんばかりだ。
確かに、曲の出来はともかく、作曲者としては、この間の「初演」は、不本意だろう。
それは分るが、こっちにも、色々事情というものがあるのだ……。
「お願いです! この通り」
局長の頼みを断るわけにはいかなかった。
もちろん渋々ではあったのだが。
リハーサルに入ろうとしていると、電話がかかって来た。
「――もしもし、あなた?」
「久子か。何だ?」
「あのね、行かないつもりだったけど、やっぱり気になるから、行くことにするわ、香取さんのお葬式」
「そうか……。分った。よろしく言っておいてくれ」
「ええ。夜には帰るから」
久子は、はっきりした口調で言った。
私は何となく不安だった。――もちろん、何もあるわけがない。
何も起るわけがない……。
香取安成の起した事故だって――ただの「耳鳴り」のせいかもしれなかったのだし。
当人の意識の中に、「シンバル」への恐怖があったから、それがとてつもなく大きな音に思えたのではないか。
そう考えれば、何も怪談めいた話にする必要はないのだ。――そうだとも。
私はゆっくりと指揮棒を手に、リハーサルに臨むため、歩き出していた。
曲目の変更が告げられた時も、別に不平の声は上らなかったようだ。
今日のメインは、後半のブルックナーで……。最近はマーラーかブルックナーでないとクラシックじゃない、という気分の客が多いのである。
妙な時代になったものだ。
リハーサルでは、あの曲も問題なくやれた。
シンバルは景気よく鳴って、こっちの目を覚ましてくれたし、二度目のせいか、私も、前よりはいくらか、この曲がそう悪くもないように思えて来た。
オケのメンバーの方も同様だったらしく、今度は大分熱を入れてやっている。
しかし、もう一回やったら、前よりうんざりしてしまいそうではあった。
「――いい入りです」
と、局長が、ホッとした様子で、ステージの|袖《そで》から戻って来た。「これで作曲者も気がすむでしょ」
「でなきゃ困るよ」
と、私は言った。「ネクタイ、曲ってないかい?」
「ええ、大丈夫です」
ステージでは、オケの音合せが終った様子だ。――さて、行くか。
もう、香取家では葬儀も終っているだろう。
私は一つ深呼吸をして、歩き出した。
拍手がホールを満たす。
曲は、スムーズに始まった。
新作というので、演奏する方も身構えると、客の方も疲れてしまう。今日は、もともとやる予定ではなかったので、オケの連中も、|却《かえ》って気楽で、客もリラックスしているようだった。
――いいぞ、この調子だ。
思いがけないほど、難しいパッセージがスラスラと進む。
この前のことがあるので、今夜はシンバルの担当の男も、じっと目を開けて、こっちを見ている。――まあ、頑張ってくれよ。
今日は、邪魔が入るってこともないはずだ。
曲は進んで、やがてクライマックスにさしかかる。――客も結構、この珍しい曲を楽しんでいるらしいのが、背中で感じられる。
シンバルの出番が近付いて来た。
奏者が、シンバルを両手に持って、ちょっと肩をほぐすように持ち上げた。
よし。――うまく行くぞ!
体が熱くなって来た。みんな「乗っている」のだ。いいムードだ。
あと一ページ。
私はチラッとシンバルの方へ目をやった。
そこには――あの少年が立っていた。オモチャの小さなシンバルを手に、一心にこっちを見つめて、私の合図[#「合図」に傍点]を、今か今かと、待ち構えている。
目を見開き、しっかりと両足を踏まえて……。
何だ、これは? 幻か?
機械的にタクトを動かしながら、私は何度も目をつぶっては開けた。しかし――そこには、十二歳の少年が立って、早く合図を、と無言の訴えをこっちへ向って投げているのだ。
こんなことが……。こんなことがあるのか?
私は、その少年に向って、合図を出そうとした。しかし――タクトは止ってしまった。
あれ[#「あれ」に傍点]が鳴ったら、何かが起るような気がした。何か恐ろしいことが起るような――。
オーケストラのメンバーが、戸惑って私を見上げた。いくら何でも|間《ま》が空きすぎる。
私は、一瞬、迷った。このままずっと止めておくわけにはいかないのだ。しかし、もし[#「もし」に傍点]何かが起ったら? もし――誰かの死が……。
意志の力ではなく、体の方が、先に反応してしまった。気が付いた時には、私はタクトを、振り下ろしていたのだ。
シンバルが|炸《さく》|裂《れつ》した。その音は、まるではっきりと目に見えるように、私の視界を真赤に覆った。それは血の色のようだった……。
――拍手の音で、私は我に返った。
全身に汗をかいている。――シンバルの奏者は、いつもの通りの顔だった。ホッと息をついている。
私は、半ば放心状態のまま、客席の方へと向いた。拍手は、決してお座なりのものではなかった。
「ブラボー」
という声もかかった。
何だって? ブラボー? やめてくれ!
私は頭を下げ、指揮台から下りると足早にステージの袖へと戻って行く。
「――すばらしかった!」
事務局長が、顔を真赤にして、手を叩いている。
いつでも、「すばらしい」と言う男なのだが、今日は、まんざら冗談でもないらしい。
「いや、驚きましたよ! 最後の長い|間《ま》はすごいですね! 即興の|閃《ひらめ》きですか」
「まあね」
と、私は言った。
「さ、ステージへ戻って!」
「もういいよ」
「何言ってるんです? あの拍手ですよ!」
私は押し出されるようにして、ステージへ出た。
しかし、私の中には、得体の知れない不安がふくれ上って、とてものんびりと拍手を受けていられる気分ではなかった。
再び袖へ入ると、
「電話をかける。急用なんだ」
と、私は言った。「オケを少し休ませといてくれ」
「分りました」
と、局長は不思議そうに言った。
――楽屋へ駆け込んだ私は、手帳を捜し出して、あの香取家の電話番号を調べ、電話をかけた。
しばらく呼出し音が続いたが、誰も出ない。――|苛《いら》|々《いら》と待っていると、
「はい」
と、聞き憶えのある声がした。
「久子か?」
「あなた? どうしたの」
と、久子はびっくりした様子で、言った。
「何もないか、そっちは?」
「何も、って……。どうして?」
「いや――何でもなきゃいい」
私は、息をついた。「ちょっとその……胸騒ぎというやつかな」
「そう」
少し間があって、「でも――そういえば、奥さん、どこにいるのかしら?」
「いないのか?」
「ここ、居間なの。ここにいると思ってたんだけど。廊下を歩いてたら、電話の鳴ってるのが聞こえたんで、出たのよ」
「まだ客は?」
「何人か残ってるわ。私、そろそろ失礼しようかと思ってたんだけど」
「そうか。――もうステージへ戻らなきゃならん。何かあったら、知らせてくれ」
「分ったわ。ちょっと気になるから、奥さんのこと、捜してみる」
「そうしてくれ」
私は電話を切った。
さっきの、あの少年の幻は……。幻だったのか?
「――お願いしますよ、そろそろ」
と、局長が顔を出す。
「分った」
私は立ち上った。「――何を振るんだっけ、次は?」
局長が|呆《あき》れたように、
「モーツァルトですよ。〈ディベルティメント〉。――大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ」
私は、その曲の冒頭を思い出せなかったが、ともかくステージへと出て行った。
しかし、この夜の演奏は、私のキャリアの中でも、最も批評家に絶讃されたものの一つになったのだった……。
ブルックナーが終り、何度もステージへ呼び戻される。
客も満足しているようだった。拍手に熱がこもっている。
何度目かにステージへ出た時、客席の隅に、久子が立っているのに気付いた。
私は、コンサートマスターの肩を叩いて促し、メンバーをステージから引き上げさせた。やっと、客が帰り始める。
「――良かったですね、今日は」
オケのメンバーも、口々に言って行く。
いくら商売とはいえ、みんな音楽の好きな連中なのだ。
私は、楽屋へ入ると、
「ちょっと、一人にしてくれ」
と、局長に言った。「家内が来たら、入れてくれないか」
「分りました」
と、局長の方も上機嫌である。
タオルで顔の汗を|拭《ぬぐ》っていると、ドアが開いた。
「久子か」
「ええ」
久子の様子を見ただけで、私にはピンと来た。
「亡くなったんだな」
「ええ」
「そうだと思った」
「どうして?」
私が、あのステージでの出来事を話すと、久子は、ゆっくりと|肯《うなず》いた。
「きっと、その時間だったのかもしれないわね。奥さんは屋根裏部屋へと上って行ったのよ」
「それで」
「きっと、あのシンバルを壊してやろうと思ったんじゃないかしら。自分の身のことが心配だったからじゃなくて、息子と夫を奪ったから。――いくら、もともとは自分のせいといっても、あそこまでの仕返しはひどいと思ったんでしょうね」
「壊すって、どうやって?」
「ハンマーを持っていたようよ。――そばに落ちていたわ」
「見たのか」
久子は|肯《うなず》いた。
青ざめている。――久子としては、珍しいことだ。
「どうして死んだんだ?」
と、私は訊いた。
「私……あなたの電話の後、もしかしたらと思って、屋根裏部屋へ上ってみたの。一人じゃ心細くて、あの時の警官が来てたので、一緒に来てもらったのよ。そして階段を上って……」
久子は身震いした。「ドアを開けたら――シンバルの片方が足下に落ちていたわ。まるで宙を飛んで来て、ドアにぶつかり、下へ落ちた、という格好で。端がへこんでいて、そして――」
久子は、少し間を置いて、
「血がついてたの」
と、言った。「捜したわ、奥さんがどこにいるのかと思って……。奥さんは、あの箱と、ドアの間に、倒れてたわ。箱から逃げようとしたみたいに、ドアの方を向いて、うつ伏せに」
「もう死んでたのか」
「そう。――首がなかったの」
「何だって?」
私は、|甲《かん》|高《だか》い声を上げていた。
「首が――ずっと離れた所に、転がっていたわ。あのシンバルが、刃物みたいに、奥さんの首を切ったんだわ」
「何てことだ……」
私は、口を押えた。
久子は、ゆっくりと首を振った。
「気を失うかと思った。でも、|辛《かろ》うじて大丈夫だったわ。何だか、悪夢のようで、本当のこととは思えなかったせいかしら」
「あの少年が|復讐《ふくしゅう》を果たした、ってわけだな……」
「そうね」
久子は、バッグから、何かを取り出した。「これを見て」
「何だい?――写真?」
「ええ。あの写真よ」
「どうしてそんなものを……」
「あなたにも見てほしかったの。私の錯覚じゃない、ってことを、知りたくて」
少年少女たちの、あの写真だ。
私はそれを手に取ってみた。――香取安成の所だけでなく、佐和子の首の辺りが、もっとはっきりと裂けている。
それは私も予期していたことだったが……。
「この顔――」
「そうでしょう?」
と、久子は言った。
あの、シンバルを打てなかった純男の顔――表情もなく、ぼんやりと遠くを見ていたはずの顔が、今は真直ぐにカメラの方を見て、快活に、利発に、明るい笑顔を見せていたのだ。
「あなたもそう思うでしょう?」
と、久子は訊いた。
「ああ」
私は、その写真をゆっくりと机の上に伏せて置いた。「やっとシンバルを打てたんだ。――これで、あの少年は仲間に入れたんだよ」
私は立ち上って、息をついた。
「さて、シャワーを浴びて、着替えて来るか」
「待ってるわ」
私は、ドアを開けようとして、ふと思い付き、
「あのシンバルはどうした?」
と、訊いた。
「警官が持って帰ったわ。凶器ですものね」
「そうか」
私は|肯《うなず》いた。
しかし、私たちには分っていたのだ。あのシンバルが、きっとあの箱の中に戻っているだろうということが。
「あなた」
「何だ?」
「食事をして帰る?」
「そうだな、そうしよう」
私は久子の|頬《ほお》に軽くキスして、シャワールームの方へと歩き出した。
知らない私
1
どうしてこんな所にいるわけ?
――|三《さえ》|枝《ぐさ》|真《まさ》|美《み》は、人いきれで汗ばむようなバーの、薄くもやがかった空気の向うに、確かに|木《き》|元《もと》|重《しげ》|夫《お》の不機嫌な顔を見付けて、一瞬目を疑った。
しかし、ここにいる理由はともかく、それが木元であることだけは間違いなく、こんな所でバッタリ会うのはまずいことも確かだったのである。
真美は木元から目をそらして、隣の椅子へ目をやった。武井は今電話をしに出ている。じきに戻って来るだろう。
それにしても……。
「――やあ、ごめん」
|武《たけ》|井《い》が人の間をすり抜けるようにして戻って来た。「――混んでるな」
「流行ってるからね、ここ」
と、真美はカクテルを空けて、「雑誌で紹介されたりしたから。テーブルをふやしてぎりぎり一杯に入れてる」
「今度はどこか別の店を捜そう」
と、武井は言った。
「用はすんだの?」
「ああ、携帯電話なんて不便なもんだ。どこにいても、お構いなしでかかってくる」
そう言いながら、スイッチを切ろうとしない武井だ。真美には、文句とは裏腹に、こんなときに呼び出されることに快感を覚えている武井の気持がよく分っていた。
そう。本人はどう思っているか分らないけど、格好をつけているだけで、中身はありきたりのサラリーマンと大して違わない。せこい奴なんだ。
ただ、今のところ、大学三年生の真美にとっては、大学の男の子よりも金持で、おいしいものは食べられるし、こうして洒落たデートもできる。
武井が事業に失敗でもして一文無しにでもなれば、すぐに「バイバイ」するところだが、まあ今はまだ大丈夫らしい。
「――ね、空気が悪くて頭が痛くなるわ」
と、真美は言った。「出ない?」
「よし。ホテルに行こう。いいんだろ?」
少し迷った。今夜はこのバーで長く粘って、
「明日、一限から出なきゃ」
とやって逃げようと思っていたのだ。
しかし、これ以上長居して、木元に見付かってもまずい。
仕方ないか。――ここ三回ほど、武井には「おあずけ」を食わせている。毎度「食い逃げ」もうまくない。
「――いいわ」
と、真美は|微《ほほ》|笑《え》んで、「でも、頭痛が鎮まるまではおとなしく待っててね」
「ああ、大丈夫。すぐ治るさ」
と、人のことを勝手に請け合って、武井は席を立つと、「タクシーを呼んどく」
「支払いを忘れないでね」
と、真美は本気で[#「本気で」に傍点]言ってやった。
――チラッと木元のいた辺りへ目をやったが、人のかげに隠れて、よく見えない。
ともかく早く出よう。真美はバッグを手に、席を立った。
武井とは、この一年ほどの付合い。今年四十歳の「社長」である。今夜は飲むので乗っていないが、いつもはベンツで迎えに来てくれる。
妻子持ち。不倫というわけだが、どっちも「遊び」と承知の仲だ。妙にベタベタしないですむのが真美にとってもありがたかった。
バーを出て、ホッと息をつく。――本当に少し頭痛がしかけていたので、冷たい夜気を何度か大きく吸い込んだ。
「車はすぐ来る」
と、武井がやって来た。「待っててくれ。電話を一本かけてくる」
「ええ」
真美は、バッグからタバコを出して火を点けた。――時折、ポーズを決めるのに喫うくらいだが、今夜は珍しく深々と吸い込んで、
「おいしい!」
と感じた……。
誰かが斜め後ろに立った。
「もうすんだの?」
と、振り向くと――。
木元重夫が立っていた。
外の街路は薄暗い。とっさのことで、真美は、
「何か?」
と、素知らぬ顔で言った。
「何してるんだ、こんな所で」
と、木元は言った。「しかも、タバコなんか喫って……」
「どなたかと勘違いなさってません?」
|一《いっ》|旦《たん》とぼけた以上、それで押し通すしかない。
「何言ってるんだ!――真美君、驚いたよ。君がこんな所にいるなんて」
「困ったわね」
と、笑って見せて、「それに、『こんな所』って、あなただっているんじゃないの」
「僕は会社の仕事で来てる。――いいだろう。君を家まで送って行く。待ってるんだ。今、断ってくるから」
「あのね――」
と言いかけた真美は、武井が出て来て、こっちへやって来るのを見て、参った、と思った。
「どうした? 誰なんだ?」
武井は、木元を見て言った。
「いいの。人違いなのよ。私が誰かと似ているらしいわ。あ、タクシーよ」
〈予約〉の文字を光らせたタクシーが店の前へ寄せて停った。
「行きましょ」
と、武井の腕を取る。
「待て!」
木元が、真美の肩をつかんで、「どこに行くんだ?」
「やめて。触らないで下さい」
と、冷淡に、「はっきり言っとくけど、あなたのことなんて全然知らないわ」
「君、しつこくつきまとうのはやめたまえ」
武井は偉そうに言って、木元の胸を押した。
危い! 真美はドキッとした。木元は、見たところ中肉中背の普通の体型だが、学生のころずっと柔道をやっていて強いのである。
「こんな所でケンカなんて、みっともないわよ」
と、わざと笑って見せ、「さ、行きましょう。相手になるだけむだよ」
さっさとタクシーに乗り込む。――早くドアを閉めて!、早く出して!
武井が行先を告げて、やっとタクシーが走り出したとき、真美はそっと息をついた。汗をかいている。こんなに涼しいのに。
「――変な奴が多い。気を付けろよ」
と、武井が言った。「頭痛はどうだい?」
それどころじゃないわ!
真美は笑顔を作って、
「ありがとう。もう治ったわ」
「そうか」
武井の片手が、真美のミニスカートから|覗《のぞ》く白い太腿にそっと置かれた。
2
カチャリ、と鍵をかけ、チェーンをかけると、真美は|欠伸《 あくび》しながら玄関から上った。
ただいま、と言っても答えるのは冷蔵庫のモーターの唸りくらいだ。一人暮しの侘しさである。
とはいえ、もちろん大学へ入るとき「上京して、どうしても一人で暮したい!」と親の反対を押し切った手前、グチなどこぼせないし、ここの家賃も親がかりである。
「――くたびれた」
カーテンを引いて、ベッドの上に引っくり返る。服を脱ぐにも少し休まなくては……。
このところ太り気味で、服がきつくなって来た。――用心しないとね。
それにしても……。
今日の出会いはまずかった。
「他人の空似」で押し通すことができるだろうか?
しかし、ただ見かけたというだけでなく、話もしているのだから、声までそっくりとなると……。
「参ったな」
と、真美は呟いた。
木元重夫は二十六歳。真美にとっては大学の先輩だ。
五つ年齢が違うのは、木元が高卒で|一《いっ》|旦《たん》働きに出て、二年間勤めてから大学へ入ったからで、その経歴からも想像がつくように、ともかく「真面目人間」で、努力の人である。
真美とて、そういう木元の長所を認めていないわけではない。尊敬もしているし、将来は結婚を、という木元の言葉にも、「前向きに」(政治家とは違って本心である)考える、と返事している。
しかし――付合うには何とも面白味のない男で……。同じ大学の女の子たちがあちこち遊びに行っているのを見ると、博物館だの美術展だのにしか連れて行ってくれない木元は、退屈至極な男に見えてしまう。
バイト先で知り合った武井と、今のような付合いになって、木元に対して多少申しわけないという気持も――初めの内こそ、あったものの、今は何とも思っていない。
まあ、木元に振られたとしても、死ぬほど悲しくはないだろう。ただ困ったことには、真美の両親は上京したとき、木元に会って、また両親がすっかりこの「堅物」を気に入ってしまったのだ。
木元と別れた、なんて言おうものなら、もともとあんまり娘を信用していない(?)父親など、「一体なぜ別れた!」と言ってくるに決っている。もし木元の口から、真美が中年男と不倫中らしいなどと伝わろうものなら、父親がカンカンに怒って、真美を連れ帰りに来るのは目に見えていた。
そして真美は座敷牢に入れられ、頭を丸めて尼さんに――というのは大げさにしても、親にばれるのだけは何としても避けたかった……。
あれこれと考えている内、真美は呑気にウトウトしていたらしい。
電話の鳴る音にびっくりして飛び起きてしまった。何も考えずに出て、
「――もしもし」
と言うと、
「真美君」
木元の声! いっぺんに眠気はふっ飛んでしまった。
「あっ……。木元さん? 今晩は。しばらく電話がないから、病気してるのかと思った。元気?」
真美は、いつもと変らない声で何とかそう言った。ちょっと息をついて、ここは何としてもごまかし通そうと決める。
「――真美君。君……今夜は?」
「え? 今夜? レポートがあって、ずっと友だちの所でやってたの。もうクタクタ! 今、帰って来て引っくり返ってるところ。とっても木元さんには見せられない」
と、笑って、「――もしもし? どうしたの?」
「なあ、真美君。僕は嘘をつかれるのが一番嫌いだ。君もよく知ってるだろ」
「何ですか、突然?」
「本当のことを言ってくれ。君、今夜六本木の〈R〉ってバーにいなかったか」
「え?」
と、呆気に取られるふりをして、「有名な店ね。でも、行ったことないわ。誰も連れてってくれないし。木元さん、誰かと行ってたの?」
「仕事だ」
「本当かな」
と、冷やかすように言って、「それで? どういうことなのか、話して」
木元の話を聞きながら、真美は自分には芝居の才能があるらしいと考えたりしていた。
「そんなに私とよく似てた?」
「うん。声もね。そりゃ、他人でよく似た子もいるかもしれないが、あそこまで似ていて、しかも声もそっくりなんてこと、考えられないよ」
「それじゃ――」
「いや、君が嘘をついてると言うんじゃない。ただ――自分の記憶を疑いたくなっちまう。それくらいよく似てるんだ」
真美は、ちょっとの間ためらっていた。――ホテルの部屋で、武井とまた少し飲んだ。その酔いも残っていたのだろう。
自分でも迷っている内、言葉が勝手に飛び出していた。
「木元さんが会ったの……きっと妹です[#「妹です」に傍点]」
3
探るような視線を感じた。
木元だ。視界の隅に、しっかり木元の姿を捉えながら、真美はタバコに火を点けた。
都心のホテルのロビー。待ち合せの客で、ほとんどのソファが埋っている。
真美は、木元がすぐそばに来て立っているのは分っていたが、一向に気付かないふり[#「ふり」に傍点]をして、足を大胆に組み、ぼんやりとロビーの華やかなシャンデリアを見上げていた。
咳払いが聞こえる。――まだまだ。
「失礼ですが……」
こわばった木元の声に、真美はふき出しそうになるのを何とかこらえた。
「――え?」
と、間を空けて木元を見上げ、「ああ。――あなた?」
「木元重夫です」
「そう。あのときの人? よく憶えてないわ。酔ってたしね」
真美はタバコを大理石の磨き上げられた床へポンと落として、ギュッとハイヒールで踏んだ。
「姉がいつもお世話になってるそうで」
と、真美は言った。「私、マミよ。私の方はカタカナなの」
「初めまして……というわけでもないか」
木元は何を言っていいか分らない様子だった。
「お話があるんでしょ? どこへ行く?」
と、真美は立ち上った。
「どこでも、僕は……」
「じゃ、この下のバーにしましょ。近くていいわ」
と、歩き出すと、「――何してらっしゃるの?」
「いや……」
木元は、真美が踏みつけたタバコの吸いがらを拾うと、「ちょっと待っていて下さい」
と、小走りに屑入れへと捨てに行った。
「――失礼しました」
と、戻った木元へ、
「姉の言ってた通りの人ね」
と、笑って、「私のことは何か言ってた?」
「いや、特に何も……」
「悪口しか言えないから、黙ってるんでしょうね」
と、真美は言った。
――二人は、時間が早いのでまだ人気のあまりないバーに入った。
「それで……。姉からお聞きになったんでしょ?」
「ええ……。双子で産まれて、事情があってあなたの方は里子に出されたとか……」
「お互い、何も知らなくてね。ある日、町中でバッタリ会ってびっくり。いくら何でも、他人じゃこうまで似ないね、ってわけで色々調べてみると、そういうことだったの」
「ショックだったでしょうね」
木元がしみじみと同情している様子なので、おかしくて仕方なかったが、
「それはまあ……。十八でしたからね。でも、子供じゃないから、親には親の事情もあるわけだし」
と言ってから、「木元さん、だっけ? 真美の両親には決して言わないでね。私に会ったなんてこと。姉と二人で、秘密にしておこうって決めたんです」
「分っています。決して口にしません!」
と、木元は誓った。
「外見はそっくりだけど、姉と私は正反対。別に私だってグレてるってわけじゃないのよ。私の周りの女の子たちは、みんな似たようなもの。姉の方が例外なの。分って下さいね」
「ええ、それは……」
木元はソフトドリンク。真美は水割りを飲んでいた。いつも、木元の前ではほとんど飲まないようにしている。
「マミさん……。何だか変だな。呼び方が同じだと」
と、照れたように笑う。
「そうでしょ? でも、同じにした親の気持も分るわ」
「ええ、ええ。よく分ります! きっと、あなたを手放すのは、死ぬほど辛かったでしょう」
「そうね。でも、今の私には関係ないことだわ」
と、真美は肩をすくめて見せた。
「でも――。一つ、伺っていいですか」
「どうぞ」
「あのとき一緒だった男性……。あの人はかなり年上だったようですが」
「そうね。ま、父親って言ってもいい年齢かしら」
「あの男は……独身ですか」
どう見ても真剣そのもの。
「いいえ。奥さんも子供もいるわ」
「じゃ……。あなたと結婚する気はないんですね」
「でしょうね。こっちもないし」
「そんなことはいけません!」
と、木元は顔を真赤にして、「傷つくのはあなたです。そんな付合いは不毛です。人の道に外れたことです」
「あのね――」
と、少しうんざりして、「お説教しに来たの? じゃ、もう帰って。私はちゃんと自分のしていることぐらい分ってます。ご意見は伺いましたわ」
「いや……どうも」
と、木元は息をついて、「すみません。つい、真美君を前にしているような気がして」
「姉にも、いつもこんな調子で説教なさるの?」
「いえ、決して――」
「そうでしょうね。姉は私と違うわ。姉とホテルに泊ったりしてる?」
「とんでもない!」
と、木元はむきになって、「親ごさんとも固く約束しています。結婚までは、決してそういうことはしないと」
「面白い人」
と、真美は笑って言った。「姉はきっと、あなたのような人にはぴったりね。真面目人間で」
自分で言って、少々照れてしまう。
「僕は、あなたのことが心配なんです。生活を改めないと、今に取り返しのつかないことになります」
真美はびっくりした。そして、なぜだか自分もむきになって、
「あなたは私の恋人でも何でもないのよ。そんなことまで言われる筋合はないわ」
と、言い返していたのである。
木元は、ちょっと詰って、
「――すみません。つい……。あなたが他人のように思えないんです」
と、頭を下げ、「失礼なことを言いました。許して下さい」
そう言われてしまうと、真美の方も少々申しわけない気がする。
「いいんです。――いい方ね、本当に」
と、真美は言った。
「いや……。お節介なんですよ。どうしても。自分でもよく分ってるんですが。――ともかく、お会いできて良かった」
「ええ……」
「どうも。――それじゃ、僕はこれで」
いい加減水っぽくなったジュースを飲み干して、木元は伝票を取ろうとした。
「あ、私、自分の分は――」
「いや、とんでもない」
手が伝票の上で重なった。木元がどぎまぎしている。
「ここは僕が。――では」
と立ち上って、木元は逃げ出すように行ってしまった。
真美は、急に夢から覚めたように、しばらく身動きもせずに座っていた。
「――うそ[#「うそ」に傍点]」
と、呟く。
木元が、「マミ」にひかれている[#「ひかれている」に傍点]。――真美ははっきりとそう感じたのだった。
4
「――どうしたの?」
と、真美は訊いた。「落ちつかないわね」
「え?」
木元は、間の抜けた感じで、そう訊き返すと、「ああ……。いや、そんなことないよ」
と、首を振った。
「でも、さっきから時計を見てるわ」
真美は、ゆっくりとコーヒーカップを受け皿へ戻し、「何か用事でもできたの? それならそう言って」
木元は、しばらく黙っていたが、
「――実は、そうなんだ。急な仕事が入ってね。君には申しわけなくて……」
「じゃ、そう言ってくれればいいのに」
「すまん」
「いいのよ。私も少し疲れてるの」
と、真美は言った。「早く帰って、寝るわ」
「そうしてくれ。僕は……」
「また電話して。行っていいわよ。仕事に遅れると困るでしょ」
「じゃあ……。悪いね」
木元は、そそくさと喫茶店を出て行った。
真美は、ゆっくりとコーヒーの残りを飲み干した。
あわてることはない。分っているのだから。木元は、たとえ一時間でも二時間でも待っている。「マミ」が現われるまでは。
六時半。――マミが木元と約束しているのは七時である。木元は必死で駆けつけるだろう。
いつもマミがたっぷり一時間は遅れてくると知っていても、自分は遅れまいとするだろう。そういう男なのである。
「――馬鹿げてる」
と、真美は呟いた。
冗談半分の嘘が、今は真美をがんじがらめにしつつあった。
「真美とマミ」の二役をもはや楽しむどころではない。
木元は今、本気になって「マミ」に恋している。そして、真美に対して罪の意識に苦しんでいるのだ。
そんな木元に、今さら、
「冗談だったのよ」
などと言えるものか。
木元の生真面目さが、今は厄介の種だ。
でも――放っておくわけにはいかない。
行かなくては。「マミ」として、木元との待ち合せの場所に。
喫茶店を出ると、真美は地下鉄の駅へと急いだ。そこのコインロッカーに、「マミ」の服や靴の一式が入れてある。
こんなこと……。いつまでも続きはしない。いずれ、木元に事実が知れる。
何とかしなくては。――何とか。
真美は駅の階段を、小走りに下って行った。
「いいの? こんなことしてて」
と、真美は――いや「マミ」は言った。
「いいとか悪いとかじゃない。僕にもそれがやっと分ったよ」
木元はそう言って、真美の肌に自分の汗ばんだ肌を重ねた。
とうとう。――こんなことになってしまった。
真美の方から誘ったというわけでもないのだが、ごく自然にこうなってしまったのである。まさか木元が、という気持はあったが、一方では「マミ」を演じていることで、つい木元を誘う結果になってしまったのかもしれないと思う。
だが――どうしよう? 今夜は今夜として、これからどうしたらいいだろう。
「狭い部屋だな」
と、木元は初めて入ったホテルの部屋の中を珍しそうに見回した。
「そりゃ仕方ないわよ。ベッドさえありゃいいんですもの、結局は」
「うん……。君はすてきだ」
「ありがとう。でもだめよ、姉に言っちゃ」
「まさか……」
木元は辛そうに顔をそむけた。
「ねえ、木元さん。――もう別れた方がいいんじゃない、私たち?」
と、真美はさりげなく言った。
「君……。僕じゃ不服かい?」
「そうじゃないけど――。姉の気持を考えると、これ以上深みに入らない方がいいと思うの」
「ね、マミ。君は……どうだろう」
木元は、彼女の手を握りしめると、言った。「僕は、君と[#「君と」に傍点]結婚したい」
真美は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「――何を言ってるの!」
「真美君とは……君の姉さんとは別れる。僕が悪いんだ。姉さんには謝るよ。よく話して分ってもらう。ともかく、自分の気持はどうすることもできないんだ。――君に恋してしまったんだ」
「とんでもないわ! 私――私、そんなことできないわ!」
「マミ――」
「間違えないでね。私は遊んだだけよ。あなたのことを本気で好きなわけじゃないわ」
真美は、木元を突き放して、ベッドから飛び出した。
「待ってくれ! 謝るよ。――マミ」
「私にはね、ちゃんと好きな人がいるの。あなたは姉と結婚すればいいのよ!」
急いで服を着ると、真美は、「もう二度と会わないから!」
と、叩きつけるように言って、ホテルの部屋を出たのだった。
とんでもないことになっちゃった……。
真美は、重い足どりでアパートに帰り着いた。もちろん、タクシーなんてぜいたくはできない。
木元は、すっかり「真美とマミ」の話を信じ切っている。
――まさか、こんなことになるなんて!
玄関の鍵を開け、中へ入ろうとすると、
「真美!」
という声。
「え?」
と振り返ると、暗がりから誰かがやって来た。
「こんな時間に、すまん」
武井である。
「どうしたの?」
と言ったものの、廊下で話していたのでは他の住人に聞かれる。「入って。――そっとね」
部屋へ上り、明りを点けた真美は、改めて武井を見て驚いた。
武井は別人のようだった。――不精ひげで顔は薄汚れ、スーツもしわくちゃだ。
「どうしたの、そのなり?」
と、真美が言うと、武井はペタッと座り込んで、
「まあ……。ちょっとね、まずいことがあって。――な、何か食わしてくれないか。ちょっと――ここんとこ、食事してないんだ」
|頬《ほお》はこけ、目の下にはくま[#「くま」に傍点]ができている。
「待ってて」
真美は冷凍庫を開け、冷凍のピラフがあったので、フライパンで炊めてやった。
武井は見る間に食べ尽くして、息をついた。
「――ありがとう! 旨かった」
「何があったの?」
「大したことじゃないんだ。ちょっと手形が落ちなくてさ。いや、手違いなんだよ、ただの。金がないわけじゃないんだ。あと二、三日すりゃ入ってくる。分ってるんだ。だけど、今は何しろ不景気だろ? 銀行も色々やかましくてね。散々、俺のおかげでいい思いしといて、危くなるとパッと逃げ出すんだよ。いやなもんだね」
と、一人で|肯《うなず》いている。
「破産したの?」
「破産? いや、そういうことじゃないんだよ。うん、そんなことじゃないんだ」
武井は伸びをすると、畳の上にゴロリと横になった。「気持いいなあ。――いや、君はいい子だ。信じていられるのは、君だけだよ……」
呆れて眺めている真美の前で、武井はたちまちいびきをかいて眠り込んだ。
真美は、頭を抱えてしまった。
このところ、武井と連絡したくてもできなかったのは事実だ。しかし、この有様は……。
事業が失敗して、破産。借金取りに追われているのだろう。少なくとも、それに近い状態であることは確かだ。
まさかここに居座る気じゃないでしょうね。
「冗談じゃないわよ!」
と、真美は思わず情ない声を上げていた……。
5
真美は玄関のドアを開けて、中へ入った。
「――私よ」
と言って上ると、押入れの戸が開き、武井が出て来る。
「遅いじゃないか」
「仕方ないでしょ。友だちと約束があったんだもの。――はい、お弁当」
と、コンビニの袋を武井の前に置く。
「またコンビニの弁当か」
武井は顔をしかめた。
「文句言わないで。いやなら出てってよ」
「分ったよ」
武井は弁当を食べ始めた。
「――お隣の人から言われたわ。『昼間、TVの音がしてたわよ』って。気を付けてって言ってるじゃないの」
「どうしろってんだ? TVでも見なきゃ、何もすることなんかないじゃないか」
「武井さん。――言っとくけど、もう五日間もここに居座ってるのよ。いい加減にしてちょうだい。男の人を置いてるなんて知られたら、出てかなきゃならないんだから」
正面切って、真美は武井をにらんだ。
「――おい。俺にどれだけ金を使わせたと思ってるんだ?」
「勝手にそっちが使っただけでしょ。恩着せがましいことを言わないでよ」
真美は立ち上って、「ともかく、明日には出てって。分ったわね」
と言い捨て、買って来たものを冷蔵庫へ入れようとした。
突然、武井が真美に襲いかかった。
「何するの!――やめて!」
二人はもつれ合って倒れた。
「俺を馬鹿にしやがって! 俺の力を知らせてやる!」
武井が真美の服を引き裂く。真美は必死で武井の顔に爪を立てた。
武井が呻いて、ひるんだところを、力一杯突き飛ばす。そして玄関へ――。
裸足のまま、ドアを開けて、真美は立ちすくんだ。――目の前に木元が立っていたのである。
「どうしたんだ?」
「助けて! あの男が――」
武井がよろけながらやって来る。
「何をしてる!」
と、木元は真美をかばって、「お前か!」
武井を憶えていたのだ。
「この人、私を殺そうとしたの!」
と、真美は叫んだ。「妹に[#「妹に」に傍点]振られて、腹いせに私を――」
「何言ってるんだ! お前は俺の女だ!」
武井が木元を押しのけようとした。「邪魔するな!」
木元が拳を固めて、武井を殴りつけた。
武井は呆気なく尻もちをついて、
「やりやがったな!」
と、台所の方へ這って行くと、包丁をつかんで、「殺してやる!」
と、立ち向って来た。
二人の男がもみ合って転がる。――真美は息を殺して、目の前の信じられないような光景を見つめていた。
呻き声が上った。
真美は、思わず目をつぶっていた。
「じゃ……」
と、真美は言った。「卒業を待って結婚するってことでいいのね」
「ああ。それが何よりだ」
と、父親が|肯《うなず》く。「女は下手に給料なんかもらわない方がいい」
「あなた。そんなのは古いわよ」
と、母が笑って、「でも、木元さん。娘のことはどうかよろしく」
「はい。引き受けました。ご安心下さい」
木元は、いつもながら、きちっとスーツにネクタイ姿である。
「――ともかく、これで一安心だ」
と、父が言った。「一人で放っとくと、ろくなことがない」
「お父さん」
と、真美は父をにらんだ。
「――そろそろ列車の時間です。出た方が」
木元は、レストランの伝票をつかんで立ち上った。
東京駅のレストランで、真美たちは両親と食事をしたところだった。
上京して来た両親に、木元と結婚したいと話したのである。
もともと父も母もそう願っていたのだから、反対はなく、時期の点だけを話し合って、帰る両親を駅まで送って来たところだ。
――ホームへ上ると、もう両親の乗る列車は停っていた。
「それじゃ」
と、父が言った。
「荷物を入れましょう」
木元が|一《いっ》|旦《たん》列車の中へと入って行く。
真美は、穏やかな気持だった。――そう、これで良かったのだ。
木元と共通の秘密を抱いていることが、二人を結びつけた、と言っていいのかもしれない。
木元は武井を殺した。――真美は、木元と二人で武井の死体を夜中に運び出し、車で遠い湖へ運んで捨てた。
「マミとのことが分ったら、警察は正当防衛とは認めてくれないかもしれないわ」
と、真美は言ったのだった。
死体は、いつか発見されるかもしれないが、破産して暴力団に追われていた武井である。真美や木元が疑われることはまずあるまい。
――その夜、木元は真美のアパートに泊った。真美は初めて[#「初めて」に傍点]木元に抱かれたのだ。
木元も、夢から覚めたように、「マミ」のことは言わなくなり、「結婚しよう」と言ってくれた……。
「――もう出るわ」
列車から出て来た木元と、真美は手をつないで窓の中の両親へ手を振った。
ベルが鳴り、見送りの人たちが列車から離れる。
そのとき――スラリとした女性が、スーツケースを手に二人のそばを通って行き、近くの乗降口から列車に乗った。
「――どうしたの?」
と、真美は木元が何かに気をとられているのに気付いて、
「ね、どうかした?」
「マミ[#「マミ」に傍点]だ」
「え?」
「今、列車に乗った女……。見ただろ? マミだった」
「そんな――。違うわよ」
「いや、そっくりだった」
と、木元は言い張った。
そして、突然木元は真美の手を振り払って駆け出した。
「待って!」
戸が閉る直前、木元は列車に乗り込んでしまった。
呆然とホームに立ちすくむ真美の前から、ゆっくりと列車が去って行く。
「こんなことって……」
と、真美は呟いた。
列車はスピードを上げ、すぐに見えなくなった。
――私が[#「私が」に傍点]、あの人を奪った。私から[#「私から」に傍点]。
真美は笑い出した。
ホームを後に、ゆっくりと階段を下りて行きながら、真美は笑い続けていたのだった……。
滅びの庭
1
「君に任せる」
冗談の一つも言わずに、|大《おお》|崎《さき》がカルテを渡して来たとき、|山《やま》|之《の》|内《うち》はちょっと心配になった。
「どうかしたのか」
「いや。――なぜだ?」
訊き返されると困る。大崎の様子は明らかに普通ではなく、げっそりとやせ、やつれていたが、当人に向ってそう言うのはためらわれる。
山之内は肩をすくめて、
「いや、君は患者を途中で他の医者へ任せたがらないじゃないか」
と言っておいた。
「ああ……。そうだな」
大崎は、少しぼんやりとして、「疲れてるんだ。きっと、休んだ方がいいんだろう」
「そりゃいい。奥さんと旅行でもして来いよ。君はエジプトとか中近東が好きだろう」
「ああ……。いいね」
大崎の顔にも、やっと笑みが浮んだが、そのときになって、山之内は診察室に日が射し込み、旧友の髪がハッとするほど白くなっていたことに初めて気付いた。
「――ともかく、よろしく頼む」
大崎は立ち上って、「君向きの患者だと思うよ」
どういう意味か訊く前に、大崎はめまいでもしたのか、目を閉じて、椅子の背につかまった。
「おい、大丈夫か」
山之内が急いで立って歩み寄ると、
「何ともない……。もう、今日は帰る」
「それがいい。二、三日ゆっくりしろよ。君のとこは軽井沢に豪華な別荘があるじゃないか」
大崎は、ふと独り言のように、
「あれか……。あれは女房のだ」
と言って、「じゃ、また」
と、まるで逃げるようにあわてて出て行ってしまう。
山之内は、少しの間立ちつくしていたが、やがて自分の椅子に戻ると、カルテを開き、電話の内線をかけた。
「――山之内だけどね。今、大崎先生から引き継いだ患者……。〈|安《あ》|部《べ》|綾《あや》|子《こ》〉か。ここへ連れて来てくれないか。――ああ、頼む」
君向きの患者……。どういうことなんだ?
山之内は、椅子の背を少し倒してゆったりと寛いだ。
――大崎も|可《か》|哀《わい》そうな奴だ。
同期のスタートで、初めの七、八年は秀才の大崎が圧倒的に山之内を引き離していた。特に、当時精神科部長だった教授のお気に入りで、将来はほとんど約束されたも同様だったのだ。
それが……。最後の仕上げ、とも言うべき教授の娘との結婚が、皮肉なことに大崎の「運」を奪ってしまった。
美人だったが、一緒に暮せば地獄のようだったろう。――山之内は、その教授の娘と一時関係を持ったこともあるが、三か月で逃げた。
その|典《のり》|子《こ》と、大崎は結婚した。
今、山之内も大崎も共に四十七歳だが、どう見ても山之内の方が十歳も若い。
――安部綾子か。十七歳。
うちの|美《み》|加《か》と同じか。――山之内は、鏡の方へ立って行って、髪にクシを入れた。
第一印象というのは大切だ。一度「敵だ」と思い込まれると、その囲いを外すのは容易なことではない。
やや|黄《たそ》|昏《がれ》れかけた気配で、診察室が夕日の色に染って来た。
ドアが開いて、ベテラン看護婦の|花《はな》|井《い》|里《り》|江《え》が立っていた。患者を連れて来たにしては早い。
「山之内先生――」
表情は、ただごとでない。
「どうした?」
「大崎先生が……。今、病院の前でトラックにはねられて」
山之内は一瞬立ちすくんだ。|愕《がく》|然《ぜん》としながら、どこかで予期していたようでもある。
「様子は?」
一緒に小走りに廊下を急ぎながら訊く。
「分りません。本当に――もろにはね飛ばされて……」
花井里江も落ちつきを失っている。
病院の広いロビーを抜けて行く間に、表の人だかりが見えていた。
「――動かすな! じっとして!」
救急病棟の医師の怒鳴り声が聞こえる。
人垣を分けて入って行くと、大崎が路面に仰向けに寝かされているのが目に入った。
その顔色を見て、「だめだな」と思った。
「急ブレーキ、かけたんだよ! 本当だよ!」
上ずった声に振り向くと、中型のトラックが歩道にのり上げるようにして停っており、運転手が警官と話している。
「じゃ、事故じゃないって言うのか?」
「飛び出して来たんだ。ね、見てた人に訊いて下さいよ!」
青ざめ、冷汗を浮かべた運転手は哀れだった。
山之内がじっと見ているので、警官が近付いて来て、
「事故、目撃しました?」
と訊く。
「いや。今、来たところです。ここの医者で、はねられた男とは同僚です」
「ああ、なるほど」
山之内は、大崎のそばへ|膝《ひざ》をついた。
「頭を打ってる。たぶん、もう何をやっても……」
「らしいね」
山之内は大崎の耳もとへ口を寄せて、「大崎。――聞こえるか、大崎。しっかりしろ」
大きめの声で言ってみた。
もう何も聞こえまいと思っていたのだが、大崎は|瞼《まぶた》を震わせつつ開いたのだ。
「大崎。分るか? |俺《おれ》だ」
旧友は何度か苦しげに息をついた。そして……。
「庭……」
と、|囁《ささや》くように言う。
「何だ?――庭がどうかしたのか」
「庭……」
と、くり返し、大崎は急に体を突っ張らせた。
山之内は立ち上った。
友人の死。――大事件が、あまりにあっさりと終ってしまった。
こんなに? こんなに簡単に人は死ぬものなのか。医師にしては妙な感慨かもしれなかった。
一番早く落ちつきを取り戻したのは、さすがに花井里江で、
「ご自宅へお知らせします」
と言って、急いで中へ入って行った。
人垣は散りつつあった。忙しい都会の人間にとって、人一人の死など、五分以上足を止めていることではなかったのだ。
「庭か……」
死にぎわの人間が何を考えているか、どんな大先生でも分りはしない。庭を手入れしなくては、とでも思っていたのか、それともどこかの庭が美しかったと回想でもしていたのか。
山之内は半ば無意識のまま、病院の中へ戻り、診察室へ入っていた。夕日がさらに傾いて、中は少し薄暗くなっている。
晩秋の日は短い。――明りを|点《つ》ける気になれず、その薄暗さのまま、机の上の電話へ手を伸した。
「――はい」
と、若い声が飛び出してくる。
「ちゃんと『山之内です』と言え」
「何だ、お父さん」
何を言われたって、美加は気にもとめない。
「早いじゃないか」
「今日、試験だもん」
「そうか。――母さん、いるか?」
「うん。お母さん!」
美加の声が遠くなる。パタパタと聞き慣れたスリッパの音。
「あなた?」
「|信《のぶ》|代《よ》。今、病院なんだが」
「どこか悪いの?」
そう訊いてから、信代は自分で笑い出してしまった。「――私ったら、ごめんなさい」
「いや……。今、事故があってな。大崎が死んだ」
「大崎……。大崎先生? まあ!」
「トラックにはねられてな。――二、三日の間に通夜と告別式だろう。黒いスーツ、出しといてくれ」
「ネクタイとね」
「そうだ。クリーニングに出てたかな」
「ええ、たぶん……。でも――奥様もお気の毒ね」
そうだ。大崎典子はまだ知らないかもしれない。むろん、早く分ったところで、もう夫と話せるわけではない。
「じゃ、何か分ったら、また電話する」
山之内はそう言って切ると、タバコを一本出して火を点けようとした。
「タバコの|匂《にお》い、嫌い」
ハッと息を|呑《の》んだ。タバコが口から落ちる。
診察室の奥まった暗がりに、少女は座っていた。
「誰だ?」
反射的に言葉が出ていた。
「あなた、山之内先生? だったら、あなたが私のこと、呼んだんじゃないの」
少女は淡々とした口調で、言った。
そうか。――そうだった。
「すまん」
山之内は、机の上のライトを点けた。「安部綾子君だね」
青白い、髪の長い女の子が弱い明りの中に浮かび上った。ジーパンをはいていて、たぶん椅子を自分で隅へ運んだのだろう。
「悪かった」
と、山之内は首を振って、「ちょっとショックなことがあって……」
「聞いてたわ。大崎先生、亡くなったのね」
「うん。事故だ。――ちょうど、君のことを話して行った後でね。古い友だちなんだ」
「そう……」
安部綾子は、大して関心を示さなかった。当然だろう。心を病んでいる人間に、人の不幸を思いやっているゆとりはない。
山之内は、気を取り直した。
さあ、戻るんだ。いつものお前に。お前は医者だ。
山之内は、いつもなら自分がゆったりと構えて患者に対するのに、今は自分の方が弱みを見せてしまったことで、やや焦りを覚えていた。――しっかりしろ!
「タバコは嫌いか」
「うん」
「お父さんはタバコを喫う?」
「喫わない。でも、私、|凄《すご》く匂いに敏感なの」
安部綾子は、診察室の中を見回して、「入って来たとき、すぐ匂いに気が付いたわ。先生がタバコを喫う人だってこと」
「じゃ、君と話すときはやめておこう」
山之内は、自分の|椅《い》|子《す》を患者のそばへ持って行った。「――何を見てる?」
綾子は、壁のいくつかの写真が気になっているようだ。その一つを指して、
「あれ、何なの?」
と訊いた。
「ああ。箱庭さ。ここへ話しに来た人たちが作ったんだ」
「へえ……。どんな風にして作るの?」
「やってみる?」
「今? できるかな」
「できるとかできないってことじゃない。どんな風でも、君の好きなものを作ればいいんだ」
山之内は、〈外出恐怖症〉のこの少女の目に、はっきりと興味と好奇心の色が浮ぶのを見て、心が躍った。
好奇心を持てば、自然、外を[#「外を」に傍点]見たくなってくる。
「じゃ、今、|仕《し》|度《たく》しよう。――明るくしてもいい?」
「ええ。でも、ブラインド、下ろして」
言われる通りにして、山之内は部屋を明るくすると、戸棚から箱庭のための箱を取り出した。
「さあ、このテーブルのそばへ来て」
と、テーブルに箱を置く。「重いよ。砂が入ってるからね。待って。今、中に入れる物を出す」
小さな箱に沢山分けて入れた「材料」を取り出し、テーブルに並べる。
「人間、犬、猫……。木、花、レンガ……。面白いだろ?」
と、ふたを取る。「まだまだあるぞ」
「どれを使ってもいいの?」
「もちろん。君の頭の中に浮んだ通りを作ってごらん」
綾子は、男と女の人形を左右の手に持って、珍しそうに眺めた。
――〈箱庭療法〉は、心理療法の一つの手段として、このところかなり一般的になりつつある。
単純といえば単純。57〓[#特殊文字「〓」はt-code sjis=#8770 face="秀英太明朝0208"]×72〓[#特殊文字「〓」はt-code sjis=#8770 face="秀英太明朝0208"]×7〓[#特殊文字「〓」はt-code sjis=#8770 face="秀英太明朝0208"]の木箱に砂が入っている。そこに、患者がミニチュアの人間や動物、家や橋など、色んな物を自由に置いて、〈作品〉を作っていくだけのことだ。
もともと、ロンドンの小児科医、ローエンフェルトが考案したものを、ユング派の心理学者が取り入れて発展させたものである。
今は日本でも〈箱庭療法学会〉まで存在するほど普及した。
綾子は、男の人形と女の人形をそっと砂の真中へ並べて寝かせると、しばらくじっと眺めていた。
「――何か欲しいものがあったら言ってくれれば、次までに|揃《そろ》えておくよ」
と、山之内は言った。
「形が……」
と、綾子は言った。
「形?」
「真四角でしょ、これ。こんな庭って、ないよね」
「なるほど。じゃ、形を変えるか。どこかに道を引いて、形を変えるかな」
「うん」
綾子は、箱の一隅を斜めに切るように指で線を引いた。
「その二人は庭でお昼寝?」
と、山之内が訊くと、綾子は当り前のように、言った。
「違うわ。死んでるのが分らない?」
2
「お疲れさま」
と、誰にでもなく声をかけると、山之内はコートをはおって廊下を歩いて行った。
病院の夜は早い。――八時を少し回ると、夕食もとっくにすんで、どの病室も大分静かになっている。
今日の病院は、大崎のこともあって特に沈んでいるように山之内には感じられる。むろん総合病院のことだ、毎日のように死ぬ患者はいる。しかし、医師が、それもはた目には自殺としか思えない死に方をするというのは……。
|噂《うわさ》も|臆《おく》|測《そく》も、止めることはできない。
山之内は、いつもと比べてもそう忙しかったわけではないのだが、何とも言いようのない疲労感に捉えられていた。
薄暗い外来待合室を通り抜けようとして、向うからやって来る人影に気付いた。
山之内も足を止め、向うも止めた。
「――あなたね」
「どうも……」
山之内は、とりあえず頭を下げた。「とんでもないことになって……」
笑い声に、戸惑って顔を上げる。
「みんなもう知ってるんでしょ? 自殺だったってこと?」
「その噂はあるがね」
典子の表情は暗くかげって、良く見えなかった。「今、来たの?」
「ええ」
典子はことさらにはっきりと、「出かけていたの。家へ帰って、伝言を聞いて……。これでも急いで来たのよ。――主人、どこに?」
「霊安室のはずだ。訊いてあげよう」
と、戻りかけると、
「いいの!――いいわ。自分で訊く」
典子は、山之内とすれ違って、二、三歩行くと、「あなたは、私が大崎を殺したと思ってるでしょ」
背を向けたまま言った。
「いや……。大崎も子供じゃない。何とかすることはできたんじゃないかと……」
「あなたには分ってない」
典子が顔だけ振り向けて、「あの人は私のせいで死んだんじゃないのよ」
明りが典子の顔を照らして、ゾッとするような深い疲労を浮かび上らせていた。山之内は、初めて見る女のように、典子を見た。
「私はあの人を愛そうとした……。愛したかったのよ」
典子は肩を震わせた。山之内は思わず歩み寄りかけ、
「典子」
と、|伸《のば》した手を、典子はハッと避けて、
「お通夜に来て下さる?」
と、言った。「お願いすることがあるかもしれない。あなたしかいないわ、分ってくれる人は」
意味を問う間もなく、スリッパの音をことさら響かせて、典子は背筋を伸し、歩いて行った。
「明日は『友引』だ」
と、山之内は手帳を見ながら言った。「たぶん、お通夜はあさってだろうな」
「そう」
信代は、夫にお茶を注いだ。「あなた――」
「あ、お父さん、帰ってたの」
美加が顔を出す。「ね、お正月の休みにスキーに行っていい?」
「誰と行くんだ?」
「マコたち。いつものメンバーよ」
「気を付けろよ」
ほとんど意味もなく言っている。美加はそう危いことをするタイプでもなく、山之内もその辺は信じていた。
「じゃ、おこづかい、よろしくね!」
と言っておいてサッと消えてしまう。
「全く……」
と、山之内は笑った。
「あなた」
「うん。――何だ?」
信代は真顔で夫を見つめている。
「今日……。私の気のせいかもしれないんだけど……」
「何だ? そこまで言ってやめるなよ」
山之内は、あえて軽い口調で言った。大崎の死で重苦しくなりがちな気分を、少しでも引き立てたかった。
「ええ」
信代は、少し心細い感じで|微《ほほ》|笑《え》むと、「何だか、今日誰かがこの家を|覗《のぞ》いてるみたいだったの」
「何だって?」
思いがけない言葉に、山之内は一瞬当惑した。「怪しい奴でもいたのか」
「よく分らないの……。誰かがいた、ってわけじゃないんだけど、何だか人に覗かれているような……。ずっと気味が悪かったの」
信代には、思ったことをはっきり言わないところがある。おとなしい性格でもあるが、|芯《しん》はしっかりしていて、いい加減なことは言わない。――矛盾しているようだが、事実そういう風なのである。自分で確信の持てることしか言わない。だから却って口数が少なく、言い足りないということにもなるのだ。
「用心しろよ。ちゃんと|鍵《かぎ》、かけてるか」
「ええ、もちろん……。変ね。自分でもおかしいと思うのよ。妙な人でもうろついてれば気になるでしょうけど、そんなこともない。でも、ずっと不安だったわ、夕方ごろから」
「そうか。――自分でも気付かない内に、やっぱりそう感じることがあったんだよ、きっと。何かあれば、友だちにでも来てもらえば?」
「いいえ、そんなことじゃないの」
と、自分で不安を打ち消すように、「ごめんなさい。心配しないで」
山之内は、信代の肩を軽く抱いて、
「少し疲れてるんじゃないか? 早く寝た方がいい」
と言った。
――この家は、山之内の父親の持っていた土地に建てたもので、建てた当初は、いささか分不相応な広さと、庭を持ち、同僚のねたみを買ったものだ。
父も母も既に亡く、親子三人で住むには少し広すぎるような家だった。
「典子さん、寂しいわね」
と、信代が言った。
「――そうだな」
「お子さんもいないし。まだ……四十?」
「それくらいだ」
「そんな年齢で、連れ合いに先立たれたら……。しかも、車にはねられて、なんて」
信代は夫の胸に顔を埋めた。「気を付けて……。死なないでね、あなた」
「おい、どうしたんだ」
山之内は、信代の肩を抱く手に力をこめた……。
「いいか?」
と、山之内は声をかけた。
「待って。――おかしくない?」
信代は黒いスーツで立った。
「大丈夫だ。もう出よう」
信代は、二階へ、
「美加。ちゃんとご飯食べてよ」
と、声をかけた。
山之内は先に玄関を出ると、ガレージから車を出した。
信代がバッグの中を見ながら、
「お香典、持った、と……」
と呟いて、車の助手席に乗る。
山之内は車を表通りへ向け、角を曲った。
道幅が狭いので、カーブが切れるように、もともとほぼ真四角だった土地の一隅を、斜めに切るようにして道幅を広げてある。それでも、時々はトラックなどが塀をこすって行った。
今は山之内もBMWで、車体が長いので、自分自身、用心しなければならない。
四角い土地なんて……。
誰が言ったんだっけ?――山之内はふとそんな言葉を思い出していた。
ああ、そうか。あの安部綾子が言ったんだ。そういえば、角を斜めに切って道にしたっけ。
ちゃんと車がカーブできるように、考えたのかな。
「あなた。――何を笑ってるの?」
信代に言われて、
「笑ってる?――いや、ちょっと患者のことを思い出しただけさ」
「患者さんのことが面白いの?」
「そうじゃない。大崎から回って来た女の子でね。美加と同じ十七だが、一風変ってるんだ」
「どこが悪いの?」
「外出恐怖症というんだが……。どうもそれとも少し違うみたいだ。外出が怖いんじゃなくて、面倒だっていうか……。そんな感じなんだ。むろん、十七の子が学校も遊びも面倒っていうんじゃ問題だが」
信代は黙って前方を見つめている。
「――どうかしたのか」
「別に」
信代の表情は、言葉と裏腹に重苦しく沈んでいた。
「山之内先生」
黒のスーツでは、一瞬見違えてしまう。
「あ、花井さんか」
「お手伝いにと思って。――あ、信代さん」
「まあ、どうも」
信代は元看護婦で、花井里江とは親しかったのである。
信代が古い友人の顔を見てホッとした様子なので、山之内もやや安堵した。
大崎の家は古いが、広さでは山之内の所の倍近くあろうか。むろん、典子の生家である。
大勢が通夜に来ているのは、大崎その人の知人というより、典子の死んだ父親の知り合いだった年輩の人々が多いせいだったろう。
山之内は、記名すると、
「信代」
と呼んだ。「――お焼香しよう」
「ええ。すぐ帰る?」
「そうはいかないさ。どうせ病院の幹部も何人か来てる。お前、花井君とでも話してればいい」
「そうするわ。懐しい。何年ぶりかしら」
信代の|頬《ほお》にやや赤みがさしていた。
――立派な祭壇ができていた。
大崎の写真は、適当なものがなかったのか少し暗い、陰気な感じのものだった。
典子は、|親《しん》|戚《せき》などと離れて、一人で座っていた。色白な横顔がいっそう白く見えたのは明りのせいだろうか。
山之内と信代が入って行くと、典子はすぐに気付いて、小さく|会釈《えしゃく》した。
お通夜にいらしてね。――そう言われたことを思い出す。なぜだったのだろう。
典子は、山之内が焼香して、前に立つと、目を上げてじっと見つめた。――未亡人にしては不自然な様子だった。
「――とんだことで」
と、信代が言うと、
「わざわざすみません」
パッと「世間並の未亡人」へ切り換えて、典子はハンカチで軽く目の端を|拭《ぬぐ》いさえした。
「何でも……お力になれることがあったら、おっしゃって下さい」
「ありがとうございます」
山之内は、何となく気がかりで、妻と典子のやりとりを聞いていた。
かつて、典子はあの病院の実力者の娘、信代は看護婦だった。とても対等に口をきく間柄ではなかったのだ。
気位の高い典子の中には複雑なものがあったろう。一方、信代の方では今でも典子に対して|気《き》|後《おく》れしている風なところがあった。
「――山之内さん。後でご相談したいことがあるんです」
と、典子は声をかけた。「残っていて下さる?」
「もちろん」
「奥様は――」
「花井さんと話がしたいようです」
「ああ……。じゃ、よろしく」
と、典子は軽く頭を下げた。
「すっかり奥様ね」
と、花井里江が言った。
「ちっとも……。あなた、立派ね。私はやりとげられなかった」
「あら。私だって、山之内先生を射止められたら、その方がずっと良かった」
と、里江は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「あなたも、いい看護婦だったわ」
二人は、大崎家の台所で話をしていた。
弔問客にお茶を出したりする人が、時々出入りするだけで、広い台所は少し寒々として、静かだった。
「――里江さん」
と、信代はためらいがちに、「あなたは知ってたでしょ」
「何を?」
「典子さんと……山之内のこと」
里江は、ちょっと面食らったように、
「山之内先生と?――ええ、ずっと昔のことよ」
「でも、本当だったのよね」
里江は信代の手をつかんで、
「馬鹿ね。そんなこといつまで気にしてるの? もう山之内夫人を十七――十八年もやって来たんじゃないの」
「ええ……。分ってる」
「自信持って! ご主人と、何かあったの?」
と、少し声を低くする。
「分らない。少し疲れてるのかしら。何もしてないのにね。――このところ不安なの」
「何が?」
「分らないけど……。いつも誰かに見られているような気がする」
「まあ……」
里江は心配そうに、「あなた、何か見たの?」
「そうじゃないから、余計に気になるの。自分がどうかしてるのか、って思うのは、|辛《つら》いわ」
信代は、呟くように言った。
「信代――」
と、里江が言いかけたとき、山之内が顔を出した。
「ここにいたのか。もう失礼しよう」
「ええ……。典子さんのご用はすんだの?」
信代は立ち上って言った。
「うん。病院の方の大崎の部屋を整理してほしいと言われた。花井さんも手伝ってくれ」
「はい、もちろん」
「じゃ、行こう」
と、山之内が信代を促す。
玄関へ出ると、典子が送りに出て来ていた。
「信代さん、どうもありがとう」
「いえ……。それじゃ、これで」
当然、明日の告別式にも出なくてはならない。
信代は、再び重苦しい気分に捉えられていた。
帰りの車で、
「久しぶりで花井さんと話せて良かったわ」
と、明るく振舞って見せるだけ、内側では沈み込んで行く。
「大崎も、まだ若かったのにな」
と、山之内は言った。「――疲れたろう。眠ってもいいぞ」
「眠くはないわ。でも、目をつぶってるから、もし眠ってたら、起して」
「少しシートを倒せ。楽だろ。後ろは誰もいないんだから」
「ええ……」
シートが電動で滑らかに後ろへ傾く。――目を閉じたものの、本当に信代は眠くなかったので、その分、他の感覚に注意が向いたのかもしれない。
この香り……。
これは、典子の香りだ。――信代は、香りに敏感である。さっき言葉を交わしたときに、典子のつけている香水らしい香りをかいで|憶《おぼ》えていた。
その香りが、なぜ車の中に?
信代は、そっと薄目を開けた。――運転している夫の顔がぼんやりと見える。
見られていると思っていない夫の表情は、厳しく、どこか険しくさえあった。友人を失ったせいか。それとも、他の理由からだろうか。
信代は再び目を閉じた。
|闇《やみ》の中に、夫の腕の中で崩れるように抱きすがる典子の姿が浮んでは消えていたのだった……。
3
ドアを開けようとして、山之内は中に人の気配を感じて手を止めた。
耳をドアへ寄せると、ガタガタと何かをいじっている音。
そっと音をたてないように細く開けて覗くと、看護婦が一人、ドアへ背を向けて、戸棚の中を何か捜している様子で、
「何してるんだ?」
振り向いたのは花井里江で、山之内は、「なんだ、花井さんか」
と息をついたが、どうして彼女が危うく叫び声を上げそうになるほど驚いたのだろう、と思った。
「先生……。いつおいでに?」
「今だよ。誰かいるみたいだったから……。いや、つい三日も放っといたんで、気になってね。ちょっと手が空いたんで、来てみたんだ」
大崎の部屋である。典子の父のこともあって、かなり広い部屋を与えられてはいたが、中はやや雑然としていた。
「――ここを片付けるったって、容易じゃないな」
と、山之内は白衣姿で中へ入って来ると、「花井さん、何か捜してたの?」
「いえ……。患者さんのプライバシーに係るものもあるかと思いまして」
「ああ、そうだね。気がつかなかった。――それ、箱庭かい?」
棚の上の方に、箱庭療法の木箱がいくつか重ねてあった。
「ええ。でき上った作品を、大崎先生、よく取っておいででしたわ。写真だけじゃよく分らないよ、とおっしゃって」
「そうか……。どうしたもんかな」
と、山之内は腕組みして考え込んだが――。
「じゃあ、僕の所へ運ぼう。僕も見てみたいんだ。外部の目に触れてもうまくないだろう?」
「ええ、そうですね」
と、里江は少しホッとした様子で、「じゃ、私、誰かにやらせておきますわ」
「いや、大丈夫。それだけだろ? 自分でやるよ」
山之内は|椅《い》|子《す》を一つ持って来ると、その上にのって、棚の木箱を下ろし始めた。下で、里江が受け取って机に置く。
「――これだけかな」
と、息をついて、「いかんな。これくらいで息切れしてちゃ」
と笑った。「やあ、奥の方にもう一つある」
それはわざと奥へ押し込んであるかのようだった。手を精一杯|伸《のば》して、やっと届く。
「先生……。大丈夫ですか?」
「うん。――さ、こいつだ」
と、山之内は、それを下ろそうとして、手を止めた。
「――先生、どうかしまして?」
「いや……。妙な箱庭だ」
その木箱を持ったまま、山之内は椅子から下りた。
シンプルそのものの箱庭だった。――砂地に、二本平行に線が引かれて、そこにトラックが少しはみ出すように置かれていた。トラックの前輪の間に、男が倒れていた。
「トラックにひかれた、って格好だな」
山之内は呟くように言った。「こんなもの、誰が作ったんだ?」
「先生……」
と、里江が言いかけたとき、
「花井さん。――花井さん。至急ナースセンターへご連絡下さい」
と、アナウンスが流れた。
「何かしら。――じゃ、私……」
「ああ、後はやるよ」
里江は出て行きかけて振り向くと、
「奥様に気を付けてあげて下さいね」
と、早口に言って、小走りに行ってしまった……。
「やあ」
と、山之内は椅子にかけた。「進んでるかい?」
「見ないでね」
と、安部綾子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「見せてくれないと、僕の方は商売にならないんだけどね」
この程度のジョークは平気で受け容れる子だと山之内は思っていた。
「そう? クビになっちゃ|可《か》|哀《わい》そうかな」
「そうだよ。僕には奥さんも娘もいる」
「恋人も?」
山之内は、綾子の無邪気な視線に一瞬たじろいだ。
「君は面白い子だね」
と、逃げたが、動揺を見てとられなかっただろうか。
布をかぶせた綾子の箱庭を、もう山之内は何週間も見ていなかった。綾子が見せたがらなかったのである。
「見せてあげようか」
「ああ、頼むよ」
と、山之内は椅子に腰をおろした。
綾子が布をスッと外した。
その瞬間、目の前が暗くなったように感じて、山之内はハッと目を閉じてしまった。
――どうしたんだ? 座っていて立ちくらみもないだろうが。
「見ないの?」
「いや……。ごめん。ちょっとめまいがしてね」
と、ごまかし、「ほう。こりゃ大した家だ――」
言葉が唐突に途切れた。
こんなことがあるのか? こんな馬鹿なことが……。
「おかしい? 私、頭が変だって出てる?」
「いや……。そんなことはないさ」
家は、四角いブロックを積んで作られている。芝生は、緑の粉を薄くまいてある。木と茂み、そして隅の花壇。
偶然だ。きっとそうなのだ。
しかし……。庭の一隅を、角を落すように道を広げた位置までが、すべて山之内の家のままだ。
「これは……どこか君の知ってる家かい?」
山之内は何とかさりげなく聞こえるように言った。
「夢に出てくるの」
「夢に?」
「そう。毎晩見る夢の中に」
そうか。――大崎だ。大崎はこの子をずっと|診《み》ていた。
大崎が山之内の家のことを、何かの機会に話したのだろう。それが綾子の頭に残っていた。きっとそうだ。
「どこかでこんな家を見たんだね」
「見なくても、できるよ」
「どういう意味だい?」
「私、夢の中で出歩けるんだもん。――外出するなんて必要ないんだ。いつでも、眠ればどこへでも行けるからね」
綾子の言葉は明るかった。
山之内は、ふと大崎の部屋で見付けた箱庭を思い出した。
道路をはみ出して停っているトラック。その車輪の下の男。あれは大崎の死、そのものを予言したかのようだった。
本当にこの子は、初めて箱庭を作ったのだろうか?
「――ちょっと、この木の枝、邪魔だね」
と、綾子が言った。「折っちゃおうか」
ポキッとミニチュアの木の枝が折り取られた。山之内はその音にギクリとした。
「この方が格好がいいよね」
「そう……。そうだね」
と、山之内は言った。
「――お帰りなさい」
と、信代が玄関へ出てくるなり、「あなた、大変だったのよ、今日」
「何が?」
と、山之内は靴を脱いで上る。
「来て」
信代は夫の手を引いて居間へ入ると、カーテンを開けた。
山之内は、庭の明りに青白く浮んで見える木を眺めた。――そうだ。分っていたのではないか。
「太い枝が折れたの。この間、風が強い日があったでしょ。きっと、あのとき折れかけてたのね。今日、突然折れて」
「そうか。しかし、仕方ないじゃないか」
「それだけじゃないのよ。あの枝、塀の外へ張り出してたでしょう。折れて、外の通りへ落ちたの。ちょうど下を自転車で通りかかってた奥さんに当って、自転車ごと倒れて……」
「けがしたのか?」
「ええ。もちろん、すりむいたくらいだったけど、買物の帰りで、ミカンだの何だのが道に転がって……。手当は私がしたわ。お|詫《わ》びに明日伺うことになってるんだけど」
「そうか。――それは行かなきゃならんな」
「あなた、行ってくれる?」
信代は心細そうに夫を見た。
「ああ、もちろん行くよ」
と、山之内が肯くと、信代は胸に手を当てて息をついた。
「――折れた枝は片付けたのか?」
「庭の隅に入れてあるわ。捨てるに捨てられないし」
「そうか。今度、休みの日にでも燃そう」
山之内はコートを脱いで、「食事にしてくれ」
「あ、ごめんなさい。私ったら、あの枝のことばっかりに気をとられてて。――でも、温めるだけなの。すぐできるから」
「そう急がなくていいよ」
山之内は、二階へ上った。
――枝が折れる。
そんなことは珍しくもない。ただの偶然だとしてもふしぎはない。
馬鹿な! 偶然と考えるのが当り前なのだ。
あの十七歳の少女に、何か超能力のようなものがあるとでもいうのか?
着がえて廊下へ出ると、
「お父さん、電話」
と、美加が自分の部屋からコードレスホンを持って出て来た。
「何だ。いつも持って入ってるのか」
と、苦笑いして、「――もしもし」
「山之内先生。花井です」
「やあ。今帰ったところでね」
と、話しながら、階段を下りる。
「すみません、ご自宅にまで」
「いや、ちっとも。何か急な用?」
「いえ……。夜勤なんで、今、休憩室です」
それで少し声をひそめているのか。
「――先生。今、安部綾子という子を診ていらっしゃいますね」
山之内は、チラッとダイニングの方へ目をやってから、居間へ入った。
「それが何か?」
「あの子は妙なところがあるんです」
「というと?」
「大崎先生が、ノイローゼのようになられたのは、あの子を診られるようになってからです」
「大崎が――何か言ってたのかな」
「いえ……。でも、それがおかしいんです。いつもなら、私にあれこれ話して下さるのに、あの子に関しては『心配しなくて大丈夫』っておっしゃるだけで」
山之内は少し考えて、
「あの子が大崎のとき、箱庭療法をやっていたかどうか、知ってるかね」
「たぶん、やっていたと思います。でも、詳しいことは分らないんです」
「なるほど」
「先生。――私、気になってるんです。奥様がこの間、『誰かに見られているような気がする』とおっしゃったので」
山之内もそれを思い出した。しかし、あれからは特に信代も言っていない。
「ああ、君にも言ったのか」
「はい。大崎先生のお通夜の席で」
「それが――」
「大崎先生も、おっしゃっていたんです。『誰かにずっと見られている気がする』って」
山之内は、すぐには何も言えなかった。
「あなた、もう食べられるわ。――あら、電話?」
と、信代が顔を出す。
「後でまたかけるよ。どうもありがとう」
「いえ……。奥様に気を付けてあげて下さい」
「そうしよう。ありがとう」
山之内が電話を切ると、
「病院から?」
と、信代が訊く。「いいの、切って?」
「急ぎの用じゃない。大丈夫さ」
と、山之内は信代の肩に手をかけ、「一緒に食べないか」
「私……さっき食べたのよ、美加と二人で。でも、一杯ぐらいなら」
信代は|嬉《うれ》しそうに言った。
山之内はふと振り向いた。
「どうしたの?」
「いや、カーテンをきちんと閉めてなかったな」
山之内は庭にもう一度目をやって、カーテンを引いた。
山之内自身が、今、誰かの視線を感じていたのである。
4
「どうしたの?」
と、典子は言った。「何があったの?」
何か[#「何か」に傍点]あったの、と訊くのではなく、何が[#「何が」に傍点]あったのか、と訊く。――女の勘は鋭いものだ。
特に男の気持の揺らぎを捉える感覚は、指先の感触一つを見分ける。
「――気が重いんだ」
山之内はベッドで仰向けになった。
「奥さんが何か言った?」
「いや……。しかし、もし気付いたら、信代は君とは違う。どうかなってしまうだろう」
典子は裸の胸まで毛布を引張ると、ちょっと笑った。
「おかしいか」
「私は何も感じない女だと思われてるのね」
「そうは言わないが……。君は何でも持ってるじゃないか」
大して考えもせずに口にしたのだが、典子はびっくりするほどむきになって、
「私が?」
と、山之内へ詰め寄った。「私が何もかも持ってるって?――一体何を持ってるっていうのよ!」
「いや……」
「お金? 家? そんな物、眺めてたって面白くもない。恋人? ここに一人いるわ。びくびくして、いつ逃げ出すか分らない、情けない恋人がね」
山之内は何も言えなかった。
「――信代さんはいいわよ」
と、典子は少し落ちついた様子で、「おとなしくて、ちょっとはかなげにして見せるだけで、男は『守ってやらなきゃ』と思う。でも、その実、どう? 看護婦から、今の立場になったのよ。お金だって不自由しない。広い家。夫。娘。これで何が不足?」
山之内は黙って天井を見上げていた。
「――私は夫を亡くした。子供も……。流産して、もう子供はできない。信代さんと比べて、私が『何でも持ってる』なんて言える?」
「いや……。すまん。そんなつもりじゃなかったんだ」
「――分ってるわ」
典子は山之内の胸にすがるように寄り添った。「ごめんなさい。時々、ついわがままを言っちゃうわ。一人で寂しいんだもの。分ってね」
「ああ。分ってる」
山之内は典子の体をしっかりと抱きしめた。
四十でもまだ若々しい肢体は、しなやかに山之内の腕の中で波打った。
少し遅刻したせいで、午後の診療はやや延びた。
一区切りついて、ホッと机に向うと、メモが目に止った。
〈山之内先生。あの患者さんのことで、お話があります。夜勤ですので、午後七時には参ります。できたらお目にかかりたいのですが。花井里江〉
時刻を見て、山之内はもう二十分も早く戻っていれば彼女に会えたのだと分って舌打ちした。
典子は、夢中になると周囲など目に入らなくなる。その性格は昔のままだ。
典子は今も|妖《あや》しいような美しさを|具《そな》えていて、通夜の晩にすがりついて来たとき、山之内は突き放せなかった。
それは自分の責任である。だが一方で、かつては互いに若く独り身だったが、今は家庭を持つ身になって、それと承知の上だという甘えもあった。
しかし、典子は変っていなかった。むしろ大崎との満たされない暮しの中で、典子はさらに自分の内側へこもって行ったようでさえある。
危険を感じた。これ以上、典子へのめり込むのは危い。しかし、今から典子との仲を断ち切れるだろうか。
花井里江は七時に来る。――時計を見て、山之内は立ち上った。
一時間ほどある。少し眠りたかった。
仮眠する部屋はむろんあったが、誰かに邪魔されたくない。――患者を寛がせる|寝《ね》|椅《い》|子《す》を一杯に長く伸し、ほとんど平らに倒して横になった。
たぶん、花井里江の方でやって来るか、電話をくれるだろう。
山之内は、明りを消せば良かったと思ったが、わざわざ立って行くのも面倒で、目を閉じた。このまま眠れそうだ……。
空白の時間があって――それとも、あったような気がしただけか。
不意に――自分が宙へ浮いたようだった。
いや、視点だけが高く浮かび上って、空中で停ると、寝椅子を見下ろした。
山之内は、自分が[#「自分が」に傍点]寝椅子に寝ているのを見ても別にふしぎに感じないので、これは夢なんだろうな、と思った。
そう。夢の中では何でも起り得るのだから……。
山之内の〈目〉はそのまま窓も何も通らずに、どこか暗い空間を抜けて、外へ出ていた。
見たことのある家が、眼下にあった。夜の暗がりの中でも、自分の家を見分けることはできる。一瞬、あの箱庭を見ているような気になったが、家には明りも灯り、人影がカーテンに動いている。
こんな夢は初めてだ。
山之内は、まるで自分に羽根でも生えているように、空中を漂いながら、我が家の二階の窓へと近寄って行った。
夫婦の寝室の窓から、明りが|洩《も》れている。信代が|点《つ》けっ放しにしているのか。――よく明りを消し忘れると言って照れるが、本音のところは、一人でいるとき、明りを消してしまうと心細いのである。
山之内は、しかし信代のその小さな|嘘《うそ》を笑って受け容れていた。
カーテンに人影が動く。信代?――だが、どことなくその動き方には違和感があった。
カーテンの細い|隙《すき》|間《ま》に目を当てて|覗《のぞ》くと、ベッドに横になっている信代が見えた。
ちょっと横になっている間に、眠り込んだのだろう。すると、今動いていたのは誰だろう?
わずかな隙間からは、見える範囲が限られていて、寝室の中を動く人物までは視野に入らなかった。
不安がつのった。――「誰かに見られている」という信代の言葉を思い出す。
不意に、ベッドの傍に大崎典子が現われたのを見て、山之内は息をのんだ。
典子! どうしてこんな所にいるんだ? どうやって中へ入ったんだ?
ともかく、今典子はベッドの傍に立って、眠っている信代を見下ろしている。その視線は信代を刺し貫くようで、なぜ信代が目を覚まさないのかふしぎなほどだ。
典子は、大きな柔らかい|枕《まくら》を手につかんでいた。両手でしっかりと握りしめると、信代の上にそっと身をかがめていく。
山之内はゾッとした。典子の目には殺意が――見間違いようもない殺意と歓び[#「歓び」に傍点]の色が浮んでいる。
「やめろ! 典子! やめるんだ!」
山之内は叫んでいた――声が届くかどうか、考えもしなかった。
「信代! 目を覚ませ!」
顔に枕を押し当てられようとしたとき、信代が軽く息をついて頭を振った。典子がギクリとして身をすくめる。
だが、信代はまた寝入ってしまった。
「典子。やめてくれ。頼む!」
――典子は、ふと顔を上げ、不安げに周囲を見回した。まるで誰かがそばにいるとでもいうように。
「――そうだ。馬鹿げたことはやめるんだ。そんなことで、愛する男を奪えると思うのか?」
典子が|眉《まゆ》をひそめ、窓の方を見る。――|俺《おれ》が見えるのか? 典子。
だが、典子と目は合わない。典子は、ゆっくりと、用心深く窓へ近付いて来て、カーテンを開けた。
目の前に典子がいる。そして、典子もまた目の前に誰かがいる[#「いる」に傍点]気配を感じ取っている様子だった。
不安げな目が、窓の外を探って、それから深く息をついた。
もう大丈夫。――典子の体からは緊張が解けている。
そうだ。それでいい。
典子は、枕を床へ落とすと、信代の方へチラッと目をやって、素早く寝室を出て行った……。
助かった! 信代!
「――あなた」
と、眠っている信代が、呟くように言った。「あなた……。どこ?」
「ここだ。ここにいるぞ。――信代」
信代……。俺はお前を守ってやるぞ……。
「――信代」
「先生」
「信代?」
「先生。――大丈夫?」
ハッと目を開くと、安部綾子がこっちを覗き込んでいる。
「君……。君か」
起き上って、山之内は頭を振った。
「女の人の名前を呼んでたよ。『のぶよ、のぶよ』って」
「家内さ。――夢を見てね」
汗をかいている。山之内は苦笑した。
医者が夢でうなされてりゃ世話ない!
「君……どうしてここへ?」
「今日、診察の約束だったでしょ」
「――そうだったかな?」
山之内は机の方へ行った。予定表に、〈安部綾子〉の名がある。
さっきは気付かなかった。いや、なかった[#「なかった」に傍点]はずだ。あれば見落とすはずがない。
「何か約束でも入ってる?」
と、綾子に訊かれて思い出した。花井里江が、七時ごろには来るとメモを――。
机の上にメモはなかった。
「先生?」
「ああ……。もちろん大丈夫さ。君は夜の方が強いようだな」
「ええ。夜は何でも包み隠してくれるものね」
「そうか。――それで、どうだね、箱庭の様子は? 何か変ったことでもあったかい」
「これ[#「これ」に傍点]が邪魔なんだ」
と、綾子がつまんでいるのは、女の人形だった。「肝心のところに出て来て邪魔するんだよ」
「じゃあ、片付けとこう」
と、山之内が手を出すと、綾子は人形をその手にのせたが、ふと、
「片付けても、きっと邪魔するよ。私、分るんだ」
と言った。
「人形が?」
「うん。ね、先生、その人形を壊して」
「壊す?」
「うん。床へ落としてくれればいいよ。ね? やってくれるでしょ」
物を壊すということは、この少女にとって、何か心の|闇《やみ》を照らすために扉を開ける意味があるのかもしれない。むろん、そのために人形一つ、壊すのはたやすいことである。
「分った」
山之内は、人形を持った手を高く上げて、人形を離した。人形は床へ落ちると、パキンと、|呆《あっ》|気《け》ない音をたてて壊れた。
「――さあ、これでいいかな?」
「ありがとう」
綾子は|微《ほほ》|笑《え》んだが、その笑顔を見たとき、山之内はドキッとした。
「君……誰かに似てるね」
「そう? 誰に?」
「いや……。今、一瞬チラッとそう思ったんだ。笑顔がね、僕の知ってる誰かとよく似ていて……」
「先生の初恋の人かな?」
と、いたずらっぽく綾子は言ったが、もうあの誰かの面影は戻って来なかった。
「それじゃ、最近の見た夢のことを話してくれるかな」
山之内はゆったりと椅子に座り直したが、そのとき、ふと目が床に落ちて、あの壊れた人形へ釘付けされた。
何だ? ただの粘土で作った人形だ。それなのに、なぜ血を[#「血を」に傍点]流してるんだ?
床の、人形の周囲へ広がったものは血としか思えない色をしていた。折れた腕。足。そしてねじ曲った首……。
こんな馬鹿なことが――。
ドアを|叩《たた》く音がして、返事もしない内に、
「先生!」
と、看護婦があわてふためいて顔を出した。「大変です。今――」
「何だ?」
山之内は、チラッと綾子の方を見て、急いで立つと廊下へ出た。「どうした?」
「あの……今、花井さんが……」
看護婦は青ざめていた。「飛び下りたんです、屋上から」
山之内は、黙って駆け出した。他の看護婦たちも何人か廊下を走って行く。
――花井里江は、コンクリートの歩道に倒れていた。頭から流れ出た血が、青白い光の中に広がって、ねじれた首は、山之内の方に、じっと訴えかけるような目を向けていた。
人形と同じだ。あの、床へ落ちた人形と同じだ。
山之内はめまいがして、よろけ、やっと踏み止まった。
5
山之内はドアを開けた。
明りは消えていた。ドアを閉め、明りのスイッチを押したが、|点《つ》かなかった。
「まあいい。――どこにいる? この部屋にいるのは分ってるんだ」
と、山之内は言った。「君は何者なんだ! 出て来い!」
すると、突然、暗闇の中に光るものが浮んだ。山之内はギクリとしたが、それは何か恐ろしい獣の目が光ったように見えたからだった。
そうではない。――家だ。明るく光っているのは、家の窓から|洩《も》れる明りである。
山之内は、その精巧に作られた我が家[#「我が家」に傍点]へと歩み寄って行った。
木箱の砂の上に建てられた家は、あたかも山之内の家をそのまま縮めたかのようで、ドアも窓もそっくりそのまま作られていた。
いや……そうじゃない。これは、俺の家そのものだ。
明るい居間を|覗《のぞ》き込むと、薄いレースのカーテンを通して、ソファにかけている典子が見えた。
典子。何してるんだ? 俺の家でどうしようというんだ?
すると居間のドアが開いて、信代が盆を手に入って来た。
「――紅茶をいれたわ」
と、信代は言った。「主人、もう帰ると思うんですけど」
「いえ、いいの。――どうせなら会わないで帰った方が」
「典子さん……」
「ありがとう」
と、典子は頭を下げていた。「分っていて、黙っていてくれてたんでしょう?」
信代は目を伏せて、
「言ったところで……。心の離れて行くのは止められません」
と言った。
「私はあなたが|羨《うらやま》しかった。――大崎との暮しは、何一つ面白いことなんかなかったわ」
「典子さん……」
「でも――もう心配しないで。もう私は、あなたのご主人から手を引くわ」
と、典子は言って、紅茶を飲んだ。「おいしいわね」
「本当に?」
「私の方から身をひくんじゃないの、残念ながらね。ご主人の方が、もう私から逃げ出そうとしてるのよ」
典子は微笑んで、「そうなると、私も一応プライドというものがあってね。捨られる前に、きれいに別れようと思ったわけ」
信代の顔に赤みがさした。
「ありがとう!」
「――おいしかった。これ、何ていう紅茶? 名前を教えて下されば、メモしていくわ」
「あ、どうぞお持ちになって。今、持って来ます」
信代が言って出て行くと、典子は素早くバッグから小さな紙袋を取り出し、ピッと端を裂いて、信代の紅茶へ白い粉をサーッと流し込んだ。そして手早くスプーンでかき混ぜると、ソファへ戻った。
「――これ、いただきものなの」
と、信代が紅茶の入ったガラス器を持って戻ってくる。「良かったらどうぞ、持って行って」
「本当? |嬉《うれ》しいわ、ありがとう」
典子は、その器を受け取って肯いた。
「私も、まだ飲んだことないの、本当は」
信代が自分のティーカップを手に取った。
「――やめろ!」
と、山之内は叫んでいた。「飲むな。信代!」
部屋の明りが点いた。
ハッと振り向くと、綾子が立っている。
「君……。家内を助けてくれ! 止めてくれ!」
「先生」
綾子は、穏やかに微笑んで、「何を騒いでるの?」
山之内は「家」へ目を戻した。
そこにあるのは、箱庭として作られた家だった。山之内の家と似ているのは、建物の配置だけで、ブロックを積んだ家には窓もドアもない。
山之内は、汗がこめかみを伝い落ちるのを感じた。
「君は……」
「私、人助けをして来たんだよ」
「人助け?」
「大崎先生は死にたがってた。それも苦しまないで、一瞬で死ねるように、願ってた。だからトラックにはねられて死ぬようにしてあげた」
「君は花井君を――」
「人助けを邪魔しようとしてたんだ、あの人」
綾子は首を振って、「ちっとも分っちゃいなかったんだよ」
「あの人形が……」
と、床へ目をやると、粘土の人形は前見た通りに砕けていたが、血は流れていなかった。
「先生は分ってくれると思ってた」
「分るって?」
「私のしてること。だって、先生も手伝ってくれたんだものね」
「僕が何をした!」
「分ってるでしょ」
山之内は、綾子の目の中に、誰かと似たものを、また見たような気がしたが、そのイメージはまたスルリと手の中から逃げて行ってしまった。
「――僕は家内を助けたい」
と、山之内は言った。「力を貸してくれ」
「二人と一人。――二人のどっちかが死ななきゃすまないんだよ」
と、綾子は言った。「どっちを残す?」
「信代だ。もちろん信代だ。――しかし、典子は毒薬を紅茶に……」
「大丈夫。向う[#「向う」に傍点]の時間は止ってるよ」
綾子は、箱庭へ近付くと、その「家」を作っている四角いブロックをゆっくりと外していった。
中に人形が二つ、置いてあった。
「これが奥さん」
と、一つを取り出して、庭の芝生へ置く。
「こっちが、もう一人[#「もう一人」に傍点]」
女の人形は、山之内の前に差し出された。
「さあ。――やって[#「やって」に傍点]」
山之内は思わず身をひいた。
綾子は笑って、
「だめだなあ。怖いの?」
と言うと、「壊すのがいやなら、じゃ、こうすればいい」
綾子は、箱庭の庭の隅に人形を寝かせると、周りから砂を取った。手の中につかんだ砂を、砂時計のように細い糸にして落として行く。人形の姿は少しずつ砂に隠れ、やがてすっかり見えなくなった。
山之内は息をついた。――ほとんど息を止めて見つめていたことに、初めて気付いた。
「――もう、この人は邪魔しないよ」
と、綾子は言った。
砂は少し乱れて、波頭がそのまま固まったような形になっていた。山之内はふと手を伸して、その砂地を平らにならした。
すると、突然、砂の下から人形の手が突き出されて、山之内の手に触れた。
山之内は叫び声を上げて手を引っ込めた。
はっきりと見えた。砂の中から突き出た人形の手が、苦しくあえぐように宙をつかみ、助けを求めて震えるのを。
「やめてくれ!」
山之内は、箱庭を突き飛ばした。
箱庭は逆さになって落ち、砂もブロックも床一杯にぶちまけられた。
山之内は部屋の中を見回した。――綾子の姿はどこにも見えなかった。
廊下へ出ると、看護婦が急ぎ足でやって来る。
「先生、今、何か大きな音が……。大丈夫ですか?」
「何でもない」
山之内は、深呼吸をした。「もう――帰る。中はそのままにしといてくれ」
「はい……」
「それから――安部綾子という患者について、調べといてくれないか」
「はあ……」
戸惑い顔の看護婦を後に、山之内は走るように――いや、逃げるように立ち去った。
「――ただいま」
玄関を上って、山之内は声をかけた。「信代。いないのか」
家の中は静かだ。居間のドアが開いていた。
山之内は中を見るのをためらった。――病院を出てから思い付いたのだ。綾子は二つの人形のどっちが信代でどっちが典子か、本当の[#「本当の」に傍点]ことを言っていただろうか? もし、わざと逆に言ったとしたら?
俺は信代を殺してしまったのではないか。いや、それとも典子の盛った毒薬で、信代が死んでいるのではないか……。
だが、居間は空っぽだった。
テーブルに、二つのティーカップが置かれていて、一つは空になり、もう一つは口をつけられていない様子だった。
山之内は、紅茶の入ったカップを手に取ると、庭へ出る戸を開け、中身を庭へ振りまくように捨てた。
「――あなた」
信代が居間のドアの所に立っていて、「何してるの?」
「いや……。お前、大丈夫か」
「大丈夫よ。どうして?」
山之内は駆け寄ると、信代を抱きしめた。
「あなた……。どうしたの……」
戸惑いながら、信代は夫の唇に自分も強く唇を押し付けた。
「典子が――」
「もういいの。終ったんでしょ?」
「ああ、終った」
「じゃ、何も言わないで」
山之内は、妻を折れんばかりに抱きしめた。
――|咳《せき》|払《ばら》いの音がして、二人がびっくりして離れると、
「邪魔して悪いけど」
と、美加が澄まして言った。「明日、クラブの合宿費、払うんだ。お金ちょうだい」
「はいはい」
信代は赤くなりながら、あわてて台所へ駆けて行った。
居間の電話が鳴っていた。
下りて来ていた山之内は、居間の明りを点け、受話器を取った。
「あ、先生ですか。夜中にすみません」
さっきの看護婦である。
「いや、構わんよ」
と、山之内は言ってバスローブの|紐《ひも》を引いた。
「安部綾子という子ですけど、先生、その子が何か――」
と、口ごもる。
「何だね? 言ってくれ」
「はあ。その子、もう亡くなっています」
山之内は絶句した。
「――大崎先生がトラックにはねられて亡くなった日ですけど、その日の朝、死亡しています」
「確かか」
「はい。記録ではそうなっています。身よりのない子だったとかで、大崎先生の奥様がお葬式も出されたとか」
典子が……。典子は綾子を知っていた?
綾子は大崎を死なせた。それも、もしかしたら典子に頼まれたのかもしれない。そして典子が綾子を殺したとしたら……。毒薬を持っていた典子……。
「先生?」
「ああ、大丈夫だ。――ありがとう。明日、また」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
山之内は息をつき、そっとカーテンを開けて庭を見た。――青白い光が芝生を照らしている。
あの少女は、典子に仕返ししたかったのかもしれない。花井里江だけが真相に気付いていて、あの少女の霊に殺された……。
殺したのは俺じゃない。俺は人形を落としただけだ。
すべては幻だったのだ。――信代が紅茶を取りに行って戻ってみると、もう典子はいなかったという。
典子はどうしたのか。帰ったのか、それとも車にでもはねられたか。
いずれにしても関係ない。もう典子とのことは過去の中へしまい込まれたのだ……。
山之内はシュッとカーテンを閉めた。
信代は、夫が戻ってくるまで、とても起きていられそうもない、と思った。
本当に久しぶりに、夫に抱かれ、満たされて、身も心も解きほぐされたようだ。
夫を信じて、じっと我慢していたかいがあった。夫は戻ってきてくれたのだ。
暗い寝室とベッドの暖かさが、信代を眠りの中へ引きずり込んで行く。
「おやすみ、あなた……」
そこにいない夫へ呟くと、信代は目を閉じた。
眠りに入るほんの数秒の間に、ふと思い出した。
何か夫に言っておくことがあったと思っていたのだ。今まで忘れていた。
庭にもっと花を植えたい。少し暗くなった一隅に、もう一つ花壇を作ろう。――そう思い付いて、実はもう職人を頼んであるのだ。
明日は、職人が入って、あの隅の土を掘り返し、レンガを並べて可愛い花壇を作ってくれる。
――信代は、庭に咲き競う花々の色鮮やかな光景を、夢の中にくっきりと見ていたのだった。
<初出一覧>
家庭教師 光文社文庫「遅れて来た客」(一九八五年九月)
砂に書いた名前 集英社文庫「湖畔のテラス」(一九八八年四月)
シンバルの鳴る夜 集英社文庫「哀愁変奏曲」(一九九三年四月)
知らない私 早川書房ミステリマガジン臨時増刊号「現代日本ミステリ作家25人作品集」(一九九五年十一月)
滅びの庭 書き下ろし
自選恐怖小説集
|滅《ほろ》びの|庭《にわ》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成14年8月9日 発行
発行者 福田峰夫
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2002
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角川文庫『滅びの庭』平成 8 年4月10日初版発行
平成12年6月20日 8 版発行