角川文庫
消えた男の日記
[#地から2字上げ]赤川次郎
目次
1 研 修
2 第一夜
3 地蔵の谷
4 奇妙な泥棒
5 読めない日記
6 本の虫
7 二枚のチケット
8 成り行きの二人
9 妨 害
10 空からの音
11 爆 発
12 罠
13 逃 亡
14 大胆な作戦
15 女友だち
16 死 線
17 囚われの咲江
18 脱 出
19 父と娘
20 裏切り
21 活 路
22 奇 襲
23 裁 き
24 エピローグ
1 研 修
列車が、いかにも「息切れ」するような揺れ方をして、停った。
体が前のめりになり、入江はあやうく座席から落っこちそうになって、目を覚ました。ブルブルッと頭を振って、
「びっくりした!」
と、思わず口走る。
クスクス笑う声がして、顔を上げると、目の前の座席で、柴田|依《より》|子《こ》が笑っている。
「何だ、おい! 人が悪いな。起こしてくれりゃいいじゃないか」
と、入江は顔をしかめて、文句を言った。
「だって――」
と、柴田依子はまだ笑っている。「あんまりよく眠ってらっしゃるんですもの。起こすのも気の毒で」
「こんな固い|椅《い》|子《す》で、よく眠れたもんだ。我ながら感心するよ」
と、入江は座り直した。「どうして停ったんだ? 駅じゃないようだけどな」
窓の外は、ほとんど黄昏れて、木立ちの輪郭さえ定かではなくなっていたが、どう見てもプラットホームらしきものは見えない。
「単線の区間ですから」
と、柴田依子は言った。「すれ違う列車をここで待つんですわ」
「――なるほど」
と、入江は|肯《うなず》いた。「単線か」
「十五分ぐらい停るんだそうです」
と、依子は、ガイドブックらしいものを取り出して見ながら言った。「|呑《のん》|気《き》ですね」
「全くだ。――何だ、いつの間にか、|俺《おれ》たちだけか」
もともと、他には四、五人の客しかいなかったのだが、今や、その客車には、入江たち以外誰も乗っていなかった。
「大内は?」
と、入江は|訊《き》いた。
「デッキに。――腰が痛くなった、って、出て行きました」
「若いくせに」
と、入江は|眉《まゆ》を寄せて、「運動不足だぞ、全く。――刑事が運動不足じゃ、困ったもんだ」
「私のほうが、よっぽど運動してますわ、きっと」
と、依子は笑顔になって、「毎週、泳いでるし、ゴルフにも行くし……。でも、今度は係長も大内さんも、充分、運動の時間がありますよ」
「それもそうだな」
と、入江は笑った。「――俺も腰を伸ばして来るか」
と、立ち上る。
「どうぞ。荷物は見てますから」
と、依子は言って、どこの駅で買ったのか、女性週刊誌を広げて、読み始めた。
入江は、通路を歩いて行くと、扉を開けようとした。――扉の、白くまだらに汚れたガラス窓に、自分の姿が映っている。
ガラスそのもののように、くすんで、くたびれた姿が。
入江は、ふと思い出した。
今日は俺の誕生日だ。――五十歳。
昔なら、「人生五十年」で、もう大往生してもいい|年齢《とし》だったのだ。
しかし――半分以上白くなった髪は、年齢以上に、入江を老けて見せている。
入江鉄郎[#「鉄郎」に傍点]という名の通り、小柄に見える体は、頑健で、何十人、何百人の犯罪者を相手に、殴り合い、取っ組み合いをくり返して来た。
刃物で刺されたことも二回ある。打ち身やかすり傷は、限りない。それでも、入江は、ほとんど休みというものを取ったことがなかった。
――そういえば、誕生日のことを、それが来る前に[#「前に」に傍点]思い出したことなど、この何十年か、なかったのではないか。いつも、気が付くと、一つ|年齢《とし》を取っていたのだ。
それほど、県警での入江の仕事は、忙しかったのである。
しかし、今は……。
ガラッと扉が向うから開いて、入江はびっくりした。
「何だ、警部、起きたんですか」
と、大内が言った。
大内栄二。二十八歳。入江がこの数年、自分の総ての経験と情熱を、伝えようとして来た、一番の部下である。
ヒョロリと長身で、いささか頼りなげな二枚目(自称であるが)だが、頭もいいし、身が軽く、射撃の腕では県警一と言われていた。
「お前がデッキに出てるっていうから……」
「寒いですよ。警部にゃ|応《こた》えるんじゃないですか」
と、冷やかすように大内が言う。
「年寄り扱いするな!」
大内と入れかわりに、入江はデッキへ出た。細長い窓が開いていて、確かに、冷たい空気が吹き抜けていく。
まだ何両か車両はつながっていたが、人の姿は見えなかった。
目を覚ますのに、ちょうどいいや。――いささか負け惜しみの感もあったが、入江は、窓から顔を出した。
――静かだ。
異様な、と思うほどの静けさである。騒々しい都会の、それも盛り場を年中駆け回っていたから、そう思うのかもしれない。
世の中には、こんな所もあったのだ、ということに、入江は気付いたのだった。
少し冷えて来た。席へ戻ろうかとも思ったが、大内に冷やかされそうで、もう少し頑張っていよう、と思い直す。
それに……。そう。大内と柴田依子、二人で話したいこともあるだろう。俺のいない所で。
依子は二十七歳。大内と一つしか違わないのだが、職場では先輩だし、見たところも、ずっと落ち着いて見える。
依子は、入江にとって、かけがえのない「女房役」だ。上[#「上」に傍点]の機嫌をそこねた時は、適当に取りなしてくれるし、入江が説明のつけようのない出費でも、うまく処理してくれる。
入江にとっては、娘ぐらいの年齢だったが、実際には頭の上らない女房みたいな存在であった。
しかし……。
遠くから、かすかに、地を|這《は》うように近付いて来る音があった。
どうやら、反対方向の列車が近付いて来るらしい。それが行ってしまうと、この列車もまたのんびり目を覚まし、動き出すのだろう。
――胸が痛んだ。
俺のせいで……。俺があの二人の「未来」を踏み|潰《つぶ》してしまったのだ。
入江は、ほんのわずかの間に、すっかり暗くなってしまった外の空間へ目をやりながら、こみ上げて来る苦いものを、何度もかみしめた。
音が徐々に大きくなり、やがて、黒い塊が目の前をかけ抜けて、風を巻き起こして行った。
入江は目を閉じた。風が、|叩《たた》きつけるように顔に当る。
――県警でも、|凄《すご》|腕《うで》として知られた入江が、そのポストを追われたのは、ある殺人事件の捜査がきっかけだった。
麻薬の売人が殺され、その事件を洗う内、浮かび上って来たのは、黒幕として、資金源になっていた、ある大物政治家だった。
県知事の|親《しん》|戚《せき》であり、東京の警察庁にも有力な知人を持つ、その政治家は、入江が捜査の手を伸ばそうとしていることを知って、圧力をかけて来た。
入江はもちろん、上司の勧告を一切無視して突っ走った。――そして、|罠《わな》にはまってしまったのだ。
密告屋からの呼び出しに、一人で出かけて行った入江は、誰かに殴られ、発見された時には、そのポケットに、ヘロインが入れられていた。
入江の住むアパートの、戸棚の奥からもヘロインが出て来た。もちろん、入江は罠だ、と上司にかみついた。
県警の上層部は、入江に、〈特別研修〉の講師を命じた。小さな田舎町の警察署へ出向いて、そこの警官たちに、捜査の方法を教えろという……。
しかも、その期限は、「無期限」だった。つまり、停年まで、あっちの町、こっちの町と渡り歩いて、戻らせない、ということなのだ。
県警内で孤立した入江の味方は、大内と、柴田依子の二人だけで――結局、その二人にまで、「入江と同行して、補佐すること」という命令が出されたのだった。
――入江自身に悔いはない。
いや、結局こんなはめに陥ってしまったことは、悔しかったが、だからといって、圧力に負けて、捜査を打ち切っていたら、もっと悔んでいただろう。
自分のことはいい。ただ、――大内と、柴田依子のことは……。
|俺《おれ》があの二人の将来を閉ざしてしまったようなものだ。そう思うと、入江の胸は痛むのだった。
扉が開いて、柴田依子が顔を出した。
「係長。――風邪引きますよ」
そうだ。いつの間にか、また列車は動き出していたのである。
「うん……」
入江は、|肯《うなず》いて、「なに、目が覚めて、良かったよ」
「風邪でも引かせたら、咲江さんに私が|叱《しか》られるんですからね。さ、席へ戻って下さいな」
と依子は、入江の腕をつかんで、強引に引張った。
「分った。――行くよ」
と、入江は両手を上げて見せ、「連行される側になったか」
「観念するんですね」
と、依子は、真面目くさった顔で言った。
「いや、大内と君の邪魔をしたくなかったんだ」
「それ、ジョークのつもりですか?」
と、依子は入江をにらんだ。「私にも選ぶ権利はあります」
入江は通路を歩きながら、笑い出していた。
――咲江は、入江の娘である。一人っ子で、今、東京の大学に通っている。二十一歳。
入江の妻は、咲江が中学生のころ、ガンで亡くなっていた。咲江は、家事の一切をこなして、父親の面倒を見ていたのである。
その咲江を、大学入学と同時に東京へ送り出して、入江は独り暮しになっていた。
もちろん寂しかったが、表には、そんな気配も見せなかった……。
「弁当を食べましょう」
と、大内が言った。「あと三十分で着きますよ、警部」
「警部と呼ぶのはよせ」
と、入江は席に落ちついて、言った。「小さな町で、『警部』なんて肩書きをしょって歩いたら、誰も近寄って来ない」
「じゃ、どう呼びます?」
「何でもいい。『入江さん』でもいいさ」
「感じでないなあ。――父さん[#「父さん」に傍点]も変だし」
「俺はお前の親父じゃないぞ」
「じゃ、パパ[#「パパ」に傍点]は?」
と、依子がからかって言った。
「好きにしろ」
と、入江は苦笑した。
――大内と、柴田依子の二人が、何一つ不平も言わず、楽しげにしているのを見ていると、入江はますます辛くなって来る。
おそらく、半年や一年は、上層部も考えを変えるまい。しかし、せめてこの二人だけでも、再び第一線に戻れるように、話してみよう。――時機を見て、必ず。
二人には何も言っていなかったが、入江はそう決めていた。
――冷たくなった弁当を三人で食べている内に、目的地は近付いていた。
ガクン、と揺れて、列車は急にスピードを落とした。
「そろそろですね」
と、大内が立って、「やれやれ、日本も広いや」
「オーバーね」
と、依子が笑って、「さ、大内さん、重い荷物は全部持ってよ」
「おい、俺だって荷物ぐらい持てる」
と、入江が抗議した。「君の荷物を持ってやろうか」
「結構ですわ」
と、依子は言った。「女の荷物には、色々男性には見せられないものが入っておりますので」
「彼氏とか?」
と、大内が冷やかす。
――全く、と入江は思う。この二人も、奇妙なもんだ。
年齢的にも、ぴったりだと思うのだが、仲は良くても、「恋人」という関係には一向にならない。
柴田依子も、化粧っ気こそないが、美人である。ただ、いかにも有能な印象で、少々近寄りがたいのかもしれない。
まあ――みんなこれまで忙し過ぎたのだ。
凶悪犯とばっかり「お見合」していては、恋を語る気分にもなれない。
これからは、いくらでも時間がありそうだ。――大内と柴田依子も、変るかもしれない。
どっちにしろ、俺のような「老兵」の口を出すことではない。色恋の話など、一番苦手なところである。
「――着きましたわ」
と、依子が言った。
ガタン、ガタン、と二、三度大きく揺れて列車は停った。
「行こう」
と、入江はコートをはおって、スーツケースを手に、言った。
――ホームは、殺風景だった。
屋根もない。ただ、中央の、改札口の辺りが、山小屋みたいな駅舎になっているだけである。
「その内、消えるな、こんな駅」
と、大内が言った。
「係長、誰か……」
と、依子が言った。
「――俺たちを迎えに来たんじゃなさそうだ」
と、入江は言った。
ホームに、たった一人、立っていたのは、十二、三歳と思える少女だった。
「何だろう?」
と、大内が言った。
この寒い中で、その少女は、ブラウスとスカートという格好だった。
そして、停っている列車の中を|覗《のぞ》き込むようにしながら、ホームを歩いている。
「――誰かを探してる、って感じね」
と、依子が言った。
「そうらしいな。しかし――」
と、入江が言いかけて、言葉を切った。
少女が、三人に目を止めて、ハッとしたように足を止めたのだ。
それから――少女は、こわごわと、一歩一歩に大変な努力を要するような足取りで、三人の方へ近付いて来た。
「何かご用?」
と、依子が声をかけたが、少女の耳には入らなかったようだ。
少女は真直ぐに、入江の方へ向って歩み寄った。――入江のすぐ前に来て、立ち止ると、まじまじと入江の顔を見つめる。
ホームの真中に、ポツンと立った電柱から、電球の光が少女の顔に当っていた。
――少女は、普通ではなかった。
髪は、もう何か月もブラシを通したことがないようにボサボサだったし、ブラウスのボタンも、二つ三つは取れてしまっている。
大きく見開いた目は、ある希望をこめて、入江を見つめているようだった。
「――お父さん[#「お父さん」に傍点]」
と、少女が、|呟《つぶや》くように言った。
「何だって?」
「お父さん……」
と、少女はくり返した。
すると、
「だめだよ」
と、声がして、入江たちはそっちへ顔を向けた。
ホームをやって来たのは、背広姿の初老の男で、その歩き方や姿勢には、どこか入江と似たところがあった。
「入江さんですか」
と、その男は言った。
「そうです」
「署長の水島です」
と、その男は手を差し出し、入江の手を握った。「お迎えに上りました」
「どうも。――部下の大内と、柴田君です」
入江は、チラッと少女の方を見た。
少女は、どこか物哀しい目で、入江を見つめている。
「だめだ。――この人は、お前のお父さんじゃないんだ」
と、水島が、少女に言った。「さあ、行って。早く、帰るんだ!」
強い口調で、水島が言うと、少女はびくっとしたように身を縮め、一気に、駆け出して行ってしまった。
「すみません、どうも」
と、水島は笑って、「――お荷物は?」
「これだけですから。いや、大丈夫、運びます」
「では、どうぞ。宿へご案内します」
水島は改札口の方へと歩き出した。「――小さな町です。明日になれば、一目で町のことはお分りになるでしょう」
依子が、
「今の女の子は、どうしたんですの?」
と|訊《き》いた。
「ああ、気にせんで下さい。父親を捜しとるんです。――少しこっちの方がね」
と、頭を指して見せる。「退屈かもしれませんな、こんな田舎町では」
改札口には人がいない。四人とも、素通りである。
暗い、町の通りを歩いて行きながら、依子は、ふと駅の方を振り向いた。
あの少女が、四人を見送っている。そのシルエットは、なぜか依子の目を捉えて、離さなかった……。
2 第一夜
「――いい風呂だった」
と、|襖《ふすま》を開けて、入江は言った。「おい、お前も入って来たら――」
部屋の中は真暗だった。
入江は、長年の習慣で、一瞬の内に、頭を低くして、身構えた。暗い部屋の中に、誰かがいる!
これは、普通[#「普通」に傍点]の状態ではない。ここは大内と入江の部屋なのである。
もしかすると――入江たちを警察から追い出そうとした連中が、ここまで追って来たのかもしれない、という思いが、頭に浮かんだ。
「誰だ!」
と、入江が鋭く声をかけると――。
パッと明りが|点《つ》いた。
入江はキョトンとして、目の前の、およそこんな田舎町の旅館に似合わないものを見つけていた。――それは、五本のローソクを立てた、バースデーケーキだった。
「誕生日、おめでとうございます」
と、依子がパチパチと拍手をした。「大内さん、ローソクに火つけて」
「よし」
大内がライターで、五本のローソクに次々に火を点けて行く。
「五十本にしようかと思ったんですけど、一度に消えないといけないので」
と、依子が言った。
「警部にショックを与えちゃいけませんからね」
「おい、よせよ……。五十にもなって、ケーキか?」
「あら、何歳になっても誕生日は誕生日ですもの」
と、依子は入江の背中を押して、「さ、一息にフーッと。――ほら、大内さん、カメラ、カメラ」
「写真まで撮るのか?」
と、入江は、情けない顔になって、「だったら、せめて背広に着替えて――」
「それで充分ですよ! 三脚は?」
「抜かりないさ」
大内は、三脚でカメラを固定し、「さ、セルフタイマーをセットするよ。――いいかい?」
シャッターボタンを押すと、ジーッと音がした。大内が急いで、入江の左側につく。
入江を、依子と大内が左右から挟んだ格好である。
ジーッという間が長過ぎて、少ししらけたが、ストロボが光り、シャッターが切れると、入江もホッと息をついた。
「やれやれ。――これを消すのか?」
「そうです。大内さん! 写真!」
大内がカメラを手に取って、構える。
仕方ない。――とてもじゃないが、咲江の|奴《やつ》には見せられないな、と入江は思いつつ、フッと一気にローソクの火を吹き消した。同時にストロボが光る。
「――大内さん、写った?」
「大丈夫、僕の腕を信用しろよ」
「あなたの腕だから、心配なのよ」
と、依子は言った。
――夕食の用意もできていた。
三人は、純和風の夕食と、バースデーケーキという奇妙な取り合わせの食卓に向ったのである。
「しかし、このケーキ、どうしたんだ?」
と、入江は言った。
「係長、いくら小さな町だって、ケーキぐらい売ってますよ」
と、依子が笑って言った。「――さ、ビールでも」
「ああ……」
「柴田さんが、|予《あらかじ》め、この町のパン屋の電話を調べておいて、ケーキを注文しておいたんです」
「大内さん」
と、依子が大内をつつく。
「そうか……。面倒をかけたな」
「いいえ。この程度のことで、面倒なんて言ってたら、係長の部下は勤まりません」
依子の言葉に、入江と大内は笑った。
ありがたい、と入江は思った。――もちろん、このケーキを、後で食べることを考えると、それだけで胸やけがしたが、しかし、ありがたいという気持に変りはない。
今さら入江のことに気をつかっても、何の得にもならないのだ。それなのに……。
ふと目頭が熱くなって来て、入江はあわててお茶をガブ飲みして、むせ返った。
「大丈夫ですか?」
と、依子が|呆《あき》れたように、「お茶飲んで、死なないで下さいね」
「誰が死ぬか!」
と、入江は言い返した。「ともかく――」
ありがとう、と言いかけて、なまじそんなことを言わない方がいいのだ、と思い返した。
「あの――あの女の子は、妙だったな」
とっさに、言うべき言葉がなくなって、思い付きを口にした。
「警部のことを、『お父さん』と呼んでた子ですか。十二か三、ぐらいでしょうね」
「十四歳。小さく見えるけど、十四ですってよ」
「どうして知ってるんだ?」
「この旅館の人に|訊《き》いたの。|笠《かさ》|矢《や》祥子《しょうこ》っていうんですって」
「柴田さんは、素早いなあ」
と、大内が笑って言った。
「気になったのよ」
「何がです? あの水島って署長も言ってたじゃありませんか。少しおかしいんだって」
「私、あの水島って人、好きになれないわ。――あの女の子を怒鳴りつけたりして」
「父親を捜してるのか」
と、入江は言った。
「もともと、少し変った人だったみたいです。――この旅館のご主人にさっき訊いたんですけど、町外れに、あの女の子と二人で住んでた男で、町の人ともほとんど付合いがなかったとか」
「ふーん。何をして暮してたんだ?」
「分りません」
と依子が言うと、入江はちょっと|眉《まゆ》を寄せた。
「そりゃ妙だな」
「ね、そう思うでしょ」
大内は、わけの分らない様子で、
「何で妙なんです?」
「こんな小さな町だぞ、隣の猫が妊娠したって話も、すぐに伝わる。それなのに、男一人、何をして暮してたのか分らんというのは、妙だ」
「知ってて隠してるのかも」
「そういう様子じゃなかったわ」
と、依子は首を振った。
「――ちょっと気になるな」
と、入江は言った。
「係長さん、お食事を」
――三人とも、列車で弁当を食べていたわりには、しっかり、旅館の食事もお腹に入れてしまった。
「なかなかいい食事ですね」
「今日の分は特別のようですわ。あの水島って人が、歓迎してくれたつもりなんじゃないでしょうか」
と、依子は、入江にお茶を注いで、「係長、その笠矢という男ですけど……」
「うん。当ってみたくなるな」
と、入江は、お茶を一口飲んだ。「手配中の犯人が、身分を隠して暮してたってことも、考えられる」
「なるほど」
と、大内が|肯《うなず》いた。「すると、盗んだ金で?」
「可能性さ、あくまで」
と、入江は言った。「で、どうして姿を消してしまったんだ?」
「そこまでは、訊く時間がなくて」
「――明日、あの水島ってのに訊いてみよう」
「答えてくれないかもしれませんわ。そんな気がしません?」
「うん」
入江は、ゆっくりと肯いた。
何か、疑問に思うことがあると、すぐに調べてみたくなる。これは、長年の刑事暮しから来た習慣なのだろう。
「――さて、寝るか」
と、入江は言った。「二部屋だ。おい、君らで一つ、|俺《おれ》で一つにするか?」
と、わざと訊く。
「僕の方は構いませんけどね」
「大内さん、冷たい廊下で寝ることになりますよ」
入江は笑い出した。もちろん、大内と入江で一部屋、柴田依子が一部屋、ということになったのは、言うまでもない……。
コトン。――コトン。
依子は、ふと目を覚ました。
何の音だろう? 枕もとの弱いスタンドの光で、時計を見ると、夜中の一時を少し回っている。
コトン。――窓の方だ。
二階の部屋である。窓の外に誰かいるわけもないが。
コトン。――石だ[#「石だ」に傍点]。
誰かが、窓に向って、石を投げている。
依子は、布団から出ると、そっと窓へ|這《は》い寄って、カーテンを少し開けてみた。
暗い庭に、ぼんやり白い物が――。
よく見ると、人間だということが分る。
カーテンが開いたことに気付いたのか、もう石は飛んでこなかった。
あれは……。もしかすると……。
依子は、カーテンを大きく開け、部屋の明りをつけた。
窓から|洩《も》れた光が、下の庭に投げかける白い一角に、その人影が移動した。――やっぱり!
あの少女――笠矢祥子だ。じっと、窓の方を見上げている。
依子は、少し迷ったが、少女がこっちを見ているのが分ると、手で、そこにいろ、と合図をした。
少女が首を振る。指で窓の方を指さした。開けろ、と言っているようだ。
確かに、こんな時間に外へ出て行けば、旅館の人が気付くだろう。
依子は、窓を開けた。――凍るような冷気が流れ込んで来る。
少女が、窓の方へと進み出て来た。そして、何か白い物が飛んで来た。
依子が、あわてて頭を下げると、ヒュッと耳もとをかすめて、それは部屋の中へ飛び込んで来た。
もう一度下を見ると、あの少女が、闇の奥へと、逃げるように駆け込んで行くところだった。
――依子は窓を閉めた。
小石を紙でくるんでいる。――手紙である。
依子は、それを開いた。
〈ぜひお話ししたいんです! 地蔵の谷へ来て!〉
少女らしい、丸っこい字だが、「頭のおかしな子」の書くものではない。
「やっぱりね……」
と、依子は|呟《つぶや》いた。
あの駅から町へ入る三人を見送っていた少女の様子に、何か必死で訴えかけるようなものを感じていたのである。
笠矢祥子。――あの少女は、何か、わけがあって、「おかしくなった」ふり[#「ふり」に傍点]をしてるのだ。
どんなわけ[#「わけ」に傍点]なのか。それはもちろん、見当もつかなかったが。
依子は、その手紙を、ていねいにたたむと、財布の中へしまって、明りを消し、布団へ入った。――すっかり、体が冷えてしまっている。
ほとんど頭まで布団をかぶって、目をつぶっていると、やっと依子は眠りに落ちていった……。
ガタッ、と廊下の側の|襖《ふすま》が音をたてて、依子は目を開けた。
寝入ったところで、まだ体の方は完全に眠ってしまっていなかったのだろう。
襖が開く。――誰だろう?
誰かが入って来たのが、気配で分る。
泥棒?――こんな所に、泥棒が?
依子も、一通り、護身術などは身につけている。布団の中で身構えていると……。
布団をはごうとする手を、依子はパッとつかんだ。
「ヤアッ!」
かけ声と共にはね起きて、相手の腕をねじると、
「いてて!」
と、|呻《うめ》いて、引っくり返ったのは――。
「大内さん!」
「おい――やめてくれ!」
と、大内は悲鳴を上げている。
依子は手を離した。
「何しに来たの?」
と、依子は腕組みをして、大内をにらみつけた。「係長がああ言ったからって――」
「違うよ!」
大内は、フウッと息をついて、「――トイレに起きて……。寝ぼけてたんだ。てっきりここが僕の部屋だと思って」
「怪しいもんだわ」
「本当だ! 誓うよ」
と、大内は大げさに、胸に手を当てて、言った。
依子は肩をすくめて、
「ま、いいわ。一度だけは信じましょ。その代り、二度やったら……」
「もうやらないよ!」
「その方が、身のためね」
と、依子は言って、「――せっかく来たんだから、話があるの」
「話? お説教かい、また?」
「失礼ね。いつ私がお説教したのよ」
と、依子は顔をしかめた。
「さっき」
「あれは、優しい忠告。お説教じゃありません」
「まあ、そうかな……」
「ね、聞いて」
依子は、チラッと隣の部屋の方へ目をやって、「係長、今度のことで、とてもガックリ来てるわ」
「当然だよ」
「でもね、それ以上に、私たちのことを気にしてるの」
「僕たちのこと?」
「そう。自分のせいで、私たちまで、こうして左遷[#「左遷」に傍点]ってことになったから。――悩んでるのよ」
「こっちは勝手に警部について来たんじゃないか。別に、警部の責任じゃない」
「私だってそうよ。でも、係長、私たちにすまないと思ってるわ。私には、よく分るの」
「なるほど」
「だから、係長の気が紛れるように、何か面白い謎にぶつかって行く必要があるわ。分る?」
「うん」
と、大内は|肯《うなず》いた。「何といっても、捜査してる時が、あの人は一番元気がいいからな」
「そうよ。――これを見て」
と、依子は、さっき、あの少女が投げて寄こした手紙を見せてやった。
「――すると、あの女の子、あんな風に装ってるだけなのか」
「そう! どう? 面白そうでしょ」
「なるほど」
と、大内は手紙を眺めて、「〈地蔵の谷〉ね。何となく、わけあり[#「わけあり」に傍点]じゃないか」
「だからね、この事件を第一の目標にするのよ」
と、依子は熱心に言った。「もちろん、調べてみりゃ、どうってことないのかもしれないわ。父親は、ただ女ができて行っちゃっただけなのかも。――でも、ともかく差し当り、係長の興味はひくと思うのよ」
「そうだな。――じゃ、我ら、特別捜査隊の初仕事ってことにするか」
「なかなか、いい勘してるじゃない」
「そりゃね」
と、大内はとぼけて、「何しろ、しつけ[#「しつけ」に傍点]が行き届いてるからね、誰かさんの」
「失礼ね」
と、笑いながら言って、依子は、「じゃ、おやすみなさい、心強き同志さん」
と、丁重に、大内を部屋から送り出したのだった。
そして――朝まで、もう依子の眠りは邪魔されることはなかった……。
3 地蔵の谷
「地蔵の谷?」
と、水島署長は、昼食の弁当を食べる手を止めて、「――ええ、ありますよ。しかし、どうしてご存知なんです?」
「旅館の人に聞いて。――私、旅に出ると、よくお地蔵様の写真をとるんです」
と、依子は言った。
「なるほど」
水島は肯いて、「しかし、期待なさってると、がっかりしますよ。ポツリポツリとあるだけで、大したもんじゃありませんからね」
「いいんです。どうせ時間もありますから。どの辺なんですの?」
「町の外れで……。うちの巡査を一人、案内につけましょう」
「とんでもない! 大体教えて下されば、一人で参りますから」
「そうですか」
水島は、メモ用紙に、簡単な地図をかいて、「――これで、たぶんお分りになると思いますよ」
と、差し出した。
「すみません。明日にでも、行ってみますわ」
と、依子は、|微笑《ほほえ》んで、言った。
――研修は、至って退屈なものだった。
教える入江の方に、大体熱が入っていないのだから、面白いわけがない。
聞いている、十人ほどの署員も、眠気をこらえるのに苦労している様子だった。
しかし、まあそれは当然のことで、事件の捜査などというものは、現実に事件にぶつかってみないと、教えようがないものなのである。
入江たちは、署の食堂で、用意してくれていた弁当を食べていた。
「――署長、お電話です」
「そうか、では、ちょっと失礼」
水島が行ってしまうと、入江たちはホッと息をついた。
「やれやれ」
と、入江は首を振って、「一日を一か月にも感じるよ」
「初日としては、悪くなかったですよ」
と、大内は言った。
「馬鹿言え。しゃべってる|俺《おれ》の方が恥ずかしくて逃げ出したくなったぞ」
と、入江は言った。
「しょうがないですわ、係長。話すのが仕事じゃないんですから」
「そうだな」
と、入江は肯いて、「しかし、こんなことをいつまでも続けてたら、気が狂っちまうぞ、全く」
入江は行動の人間なのだ。研修の講師などには最もふさわしくない性格なのである。
「――午後はどうします」
と、大内は言った。
「俺は、旅館に戻って寝る」
と、入江は即座に言った。
すると、水島署長が急ぎ足で戻って来た。
「恐れ入りますが、入江警部」
「何です?」
と、仏頂面で|訊《き》く。
「実は今、この町の郵便局に泥棒が入ったという知らせで。――ちょうどいい機会ですし、実地に、ご指導いただけませんかな」
と、水島が言うと、入江と大内は顔を見合わせた。
「そっちは専門ではないんですが……。結構です。やりましょう」
と、入江は立ち上って、「おい、大内、行くぞ」
「はい」
大内は、あわててお茶を一口飲んで、立ち上った。
「気を付けて」
と、依子が大内に、手を上げて見せる。
食堂を出ながら、入江が、
「で、被害は?」
と、水島に訊いてるのが聞こえて来て、依子は微笑んだ。
実際の犯罪に出くわせば、たちまち元気になってしまうのが、入江なのだ。
大内もついているし、入江の方は大丈夫だろう。
依子は、ゆっくりお茶を飲み干すと、席を立った。
食堂で働いている、近所の奥さんらしい人を捕まえて、
「すみません」
と、依子は、さっき水島のかいたメモを見せた。「地蔵の谷って、この通りですか、場所?」
その女性は、メモを眺めて、
「――ここんとこ、右じゃなくて左へ行くんですよ。間違ってるわ、この地図」
「そうですか」
「ま、右へ行っても、地蔵さんは二つ三つありますよ。でも、地蔵の谷ってのは、左の方です」
「ありがとう」
――依子は、署の古い建物を出た。
郵便局に入った泥棒、というのも、この町では大事件らしい。
依子は、町の短い通りを歩いて行った。
水島は、わざと[#「わざと」に傍点]間違った地図をかいたのだろう。――ここに長く住んでいる人間が、右と左を間違えるわけがない。
なぜか、水島は、地蔵の谷に、依子を行かせたくなかったのだ。
ゆうべ、大内に話した通り、これも何でもないことなのかもしれない。しかし、水島の奇妙な態度を考えると、本当に[#「本当に」に傍点]何か隠された事情があるのかもしれない、と思えて来た。
その笠矢という男が、もし逃亡犯か何かだったら? 水島がなぜそれを隠すのだろうか。
ともかく、地蔵の谷へ行ってみることだ。あの少女が、待っているかもしれない。
依子は少し足を早めて、さりげなく、後ろを見た。
大丈夫。|尾《つ》けられていない。
――|山《やま》|間《あい》の町は、風が冷たかった。
確かに、そこは〈地蔵の谷〉としか、名付けようのない場所だった。
――何百体あるだろう?
谷の両側の斜面に、大小の地蔵が立ち並んでいるさまは、圧倒されるような光景だった。
「――|凄《すご》い」
と、依子は思わず|呟《つぶや》いた。
カメラを持って来るんだったわ、と思った。
しかし、なぜこの場所を、水島は隠そうとしたのだろう?
谷の底に細く続く道を、依子は歩いて行った。
もちろん、谷といっても、そんなに大きなものではない。深さはせいぜい十メートルぐらいのものだろう。
以前はきっと川が流れていたと思える道だった。小さな、丸い石が多くて、歩きにくい。
あの少女――笠矢祥子は、どこにいるのだろう?
あの手紙は、時間を指定してはいなかったが、夜中に、外から来た人間がここへ来られるわけもなし、おそらく、少女はこれぐらいの時間を、考えていたはずである。
それにしても――この沢山の地蔵は何なのか?
それは、ちょっと見たところでは、まるで墓石が並んでいるかのようで、あまり気持のいい眺めとは言えなかった。
パラパラと……、小石が落ちて来た。
誰かいるのかしら?
依子はそっちへ顔を向けて――目をみはった。
岩が――ひとかかえもある岩が、転がり落ちて来る。しかも、真直ぐ、依子の方へ向って。
立ちすくんでいた依子は、駆け出した。よけられると思った。充分に、タイミングとしては、間に合うはずだ。
だが、丸い石だらけの道を駆けるのは、容易ではなかった。
アッ、と思った時には、足が滑って、転んでいた。――岩が、向って来る!
体を起こすのが、やっとだった。
間に合わない、と思った。――ほんの一秒くらいのものだったろうか、依子は、覚悟した。
しかし――岩は、自分のいびつな形のせいか、それとも、地形の凹凸のせいか、急に向きが変って、依子から二メートルほどの所に落ちて来て、小石をはね飛ばし、止った。
――依子は、息を吐き出した。
今のは、何だろう?
立ち上って、依子は、何度も息をついた。
落ちてきた岩を、そばで見ると、ゾッとした。もし、これがまともに当っていたら……。
たぶん、命はなかっただろう。
偶然落ちて来たとは、とても思えなかった。
ということは……。
石を踏む音がして、依子はギョッとして振り向いた。
あの少女――笠矢祥子が立っていた。
「あなた――」
と、依子が言いかけると、少女はクルッと背を向け、さっさと歩いて行く。
依子は、それについて歩き出した。
もし、今の岩を落とした人間が、上からこの様子を見ていたとしたら、ここで少女と話をしない方が利口である。
少女は、谷を抜けて、林の中へと分け入って行った。
枝に顔をぶつけないように用心しながら、少女について行く。足首を少しねじったので痛みはあったが、今は緊張しているせいか、ほとんど感じない。
道ともいえない道を|辿《たど》って、十分ほど行くと、少女は、振り向いた。
「警察の人ね」
と、少女は言った。
その目は、昨日、プラットホームで見た、あのどこか哀しげな、うつろな目ではなかった。
「ええ」
と、依子は|肯《うなず》いた。「県警の、柴田依子よ。入江警部って人の部下なの」
「ゆうべ会った人?」
「そう。――あなたが、『お父さん』って呼びかけた人」
少女は、ちょっと照れたように目を伏せると、
「ごめんなさい。びっくりさせちゃって」
と、言った。
「いいえ。また会いたいと思ってたのよ。|嬉《うれ》しいわ」
「本当?」
「笠矢さんというのね」
少女は名前を知っていてくれたのが嬉しいらしく、笑顔になって、
「来て」
と、また歩き出した。
道は、入りくんでいた。とても一度では|憶《おぼ》えきれそうにない。
「ちゃんと帰りは送るわ」
と、少女は依子の心配を見抜いたように言った。
「どこへ行くの?」
「私の家」
と言って、「お父さんの家よ、もちろん」
と、付け加える。
――目の前に、急に、木造の一軒家が現われて、依子はびっくりした。
二階建で、家族四、五人なら充分に住めそうな大きさに見える。
「ここがあなたの家?」
と、依子は|訊《き》いた。
「ええ」
と、少女は言って、「入って。――私のこと、祥子と呼んでいいわ」
大分古い家だわ、と依子は思った。
もちろん、ずっと前からここにあったのを改装して……。
しかし、玄関から入って、依子はびっくりした。外見は古びて見えるが、中はまるで、建ったばかりのように真新しいのだ。
「どうぞ」
と、少女は上って、言った。
「失礼します」
と、つい依子は言っていた。
居間は広々として、ソファや家具も、立派なものだった。
依子は、|呆《あっ》|気《け》にとられて、居間の中を見回していた。――かなりいい暮しの家庭の居間である。
飾り棚の上に、写真立てがあった。
男と、あの祥子がうつっている。――これが父親なのだろう。
二、三年前のものらしい、と依子は見当をつけた。
男は、あの少女に面影をのこしている。なかなかの好男子で、洒落たツイードを着こなしていた。
一見して、学者というか、研究者タイプだと思った。サラリーマンには見えない。それとも医者か。
「――かけて下さい」
祥子の声に振り向いて、依子はまたびっくりすることになった。
祥子が、セーターにスカート、髪もきちんととかして、いかにも上品な娘になって入ってきたからである。
「――どうぞ」
と、紅茶の盆をテーブルに置く。
「ありがとう」
依子は、ソファに腰をおろした。「あなた、いつもブラウス一つなの、あの町の中では」
「ちゃんと、下に暖かい肌着を着てます」
と、祥子はいたずらっぽく笑った。
「そう。――風邪引かないのかな、と思ってたのよ」
「頭が変になったから、風邪も引かない、と思われてるんです。――面白いですね。|一《いっ》|旦《たん》そう思いこむと、みんなそう信じて、私が下に何か着てるんじゃないか、とか考えないんですもん」
なかなかしっかりした少女である。
「さっき、岩が落ちて来たわ」
「ええ。でも、途中、出張りのある所へ落ちたんで、大丈夫、と思って、駆けつけなかったんです」
「じゃ――初めから、それると?」
「ええ、きっと、落とした人間も、分ってたと思います」
依子は、ゆっくりと紅茶を飲んだ。
「――不思議な家ね、ここは」
「ええ。お父さんも、ここを魔法の家、と呼んでました」
「お父さんがいなくなったって……」
「そうなんです」
と、祥子は言った。「誰かに助けてもらいたくて、ずっと待ってました。警察の人が話してるのを聞いて……。県警の人が三人、やって来るって」
「じゃ、昨日は分ってて駅に?」
「そうです。何とかして、私のことに注意を向けてほしかったんです」
――奇妙なことだ。
こんな余裕のある生活をしながら、なぜこの少女は、あんな格好をして、町を歩いているのだろう?
「話を聞いてもらえますか」
と、祥子が訊いた。
「そのために来たのよ」
と、依子は言って微笑んだ。「話してちょうだい」
祥子は、立ち上ると、居間を出て行き、少しして、一冊の本のようなものを手に戻って来た。
「これ、お父さんの日記帳なんです」
と、祥子は、テーブルに置いた。
「お父さんは、何をなさってたの?」
「知りません」
と、祥子は首を振った。「――話してくれたこともなかったんです」
「でも――どんな関係の仕事とか……」
祥子は、日記帳のページをめくると、
「元は、お父さん、研究所に勤めていたんです」
と、話し始めた……。
4 奇妙な泥棒
「あら、おばさんが……」
という、若い女子職員の一言が、入江の足を止めさせたのだった。
「おばさん?」
と、入江は訊いた。「誰のことだね?」
「ええ、あの……。いつもお昼から手伝いに来てくれるおばさんなんです」
と、郵便局の野暮ったい制服を着た、その女の子は、キョトンとした顔で、「いつも時間通りに来てくれるんだけど」
もう午後の二時を回っている。
「電話してみたらどうかね」
と、入江はごく当り前のことを言った。
「あ、そうですね。そうします」
と、女の子は、机の電話を手に取った。
入江は、大内がやって来るのを見て、
「どうだい?」
と、声をかけた。
「裏の方が少しぬかるんでるんです」
「そいつは結構じゃないか」
「ところが――」
と、大内は顔をしかめて、「ここの警官が歩き回ったもんですから、足跡がめちゃくちゃで、参りますよ」
「そうカッカするな」
と、入江は笑った。「ま、ともかく見に行くか」
二人は、一体何十年前に建ったのかと思うような郵便局の古い建物を出ると、裏の方へ回って行った。
事件としては単純そのものだった。
夜の間に郵便局の裏口をこじ開けて、誰かが忍び込み、現金書留など、二十万ほどを盗んで行ったのである。
大した事件ではないが、この小さな町では大事件らしい。――確かに、町中の人間がみんな知り合いで、その暮し向きも知っているわけなのだから、犯人の見当も、容易につきそうなものだった。
「――手がかりより、聞き込みだけで犯人は挙げられそうですね」
と、大内が言った。
「うむ。こういう所じゃな。しかし、まあ一応、基本通りにやってみるさ」
入江は、それでもずいぶん心が弾んでいるのを感じて、我ながら苦笑しているのだった。
何といっても、事件にぶつかっている方が|俺《おれ》は元気なのだ。
「――ちょっと失礼」
と、入江は警官たちの間を割って、ぬかるみの方へと歩いて行った。
「――この足跡が怪しいですね」
と、大内が言って、足跡の一つを、指さした。
「小さいな」
「ええ。靴の裏の模様も、警官のものとは違っています」
「しかし、こう端しか残ってないんじゃな」
と、入江は首を振った。
「どうも……あの……申し訳ありません」
と、そばに立った、若い巡査が言った。
「君は、吹田君だったね」
「は、はい!」
名前を言われて、その若い巡査はびっくりしたようだった。
入江も、いくらやる気がないとはいえ、しゃべる以上は、警官の一人一人の名前ぐらいは|憶《おぼ》えておこうと思って、頭に入れておいたのである。
入江らしい生真面目さでもあり、また、仕事柄、人の名を憶えるのは得意だったのだ。
「私が、何も気付かず、この辺を歩き回ってしまいまして……」
「そうか。まあ、あんまり感心したことではないね」
と、入江は言った。「しかし――」
「どうかしましたか」
「いや……。犯人は、あの裏口をこじ開けて侵入した。中で金を盗んだ。――まあ、それは分る。しかし、出て来て今度は……。どこへ行ったんだ?」
「足跡は、木立ちの方へ向ってます」
「しかし、裏口から、真直ぐ木立ちの方へ向うのなら、このぬかるみは通らない。犯人はわざわざここを通って、斜めに、木立ちの方へ向っている」
「そう言われてみれば、そうですね」
と、大内は|肯《うなず》いた。「何か理由がある、と?」
「偶然ってことも、ないじゃない。しかしな、普通、泥棒をした|奴《やつ》は、早く人目につかない所へ逃げたがるもんだ」
「それなら真直ぐに進む、というわけですか」
「うん……。もしかすると、この足跡は、何の意味もないものなのかもしれんな」
「まさか。――目をくらますために?」
「あなどっちゃいかん。こういう平和な町だって、知能犯はいるんだ」
「林の中を捜索しています」
と、吹田という巡査が言った。
「どの辺を?」
「この足跡の向っている辺りです」
郵便局の裏手が、もう、すぐに林なのだ。大分都会とは違っている。
「おい、吹田君」
「はあ」
「二、三人連れて、あっちの方を調べてみるんだ」
入江が指さしたのは、足跡の向ったのとは正反対の方角だった。
「分りました!」
吹田は、張り切って、駆けて行った。
「――なかなか真面目そうで、いいですね」
と、大内が吹田を見送って、言った。
「うん。俺の話を、一番熱心に聞いていたのが、あの男だった」
と、入江は言った。「お前も昔はああだったがな」
「警部。皮肉ですか」
と、大内は言って笑った。
「まあ、ともかく任せておこう。土掘りまでやる気もせん」
と、入江は大内に言って、「お前、見ててくれるか」
「任せて下さい。警部、中でお茶でも飲んでて下さいよ」
「年寄り扱いするなよ」
と、入江は言ってやった。
ところが、入江が表に回って、郵便局の中へ入ると、さっきの若い女の子が、
「あ、お茶いれましたので、どうぞ」
と、言ってくれて、入江は思わず吹き出してしまった。
「――どうかしましたか?」
「いや、何でもない。ありがとう」
入江はガタガタ言っている|椅《い》|子《す》に腰をおろすと、「さっきの『おばさん』はどうしたね?」
と、|訊《き》いた。
「それが、電話しても出ないんですよ」
と、女の子は首をかしげている。「一人住いだから、気になって……」
「心配だね。見て来ちゃどうだい?」
「でも……。警察の人がみえてるのに……」
「大丈夫さ。家は近いんだろ?」
「十分もありゃ、戻って来られます」
「じゃ、行って来たまえ。私はここにいるから」
「そうですか? じゃ――すぐに戻って来ます」
女の子は嬉しそうに言って、制服姿にサンダルばきのまま、駆け出して行った。
入江は、ゆっくりとお茶を飲んだ。
別に、あの女の子に親切にしたかったというわけではない。入江自身、「いつもと違う」ということに、敏感だったせいでもあるのだ。
人間は、よほどのことがない限り、いつもの習慣を狂わすものではない。それは、入江が長い刑事生活で得た「真理」の一つだった……。
もちろん、ここに手伝いに来ている「おばさん」が、たまたま今日休んでいることと、ゆうべの泥棒とが、何の関係もないだろうということは分っている。
「――警部」
と、大内が、入って来た。
声の調子で、おや、と思った。大内の奴、興奮してる。
「見て下さい」
土まみれになった布の袋。その口を開くと、中には、現金書留の封筒が沢山入っていた。
「どこにあった?」
「警部の言った方へ、五、六メートル林を入った所です。埋めてありました」
「感激です!」
と、吹田巡査が顔を紅潮させている。
「良かったな」
と、入江は言った。「手を洗って来いよ」
「はあ」
泥だらけの手に気付いて、吹田はあわててトイレに走って行った。
「――封も切ってません」
と、大内が言った。「どう思います?」
「うむ」
入江は考え込んだ。「――妙だな」
「隠しておいて、後で取りに来るつもりだったんですかね」
「何キロもある金塊を持って歩くわけじゃないぞ。それに大した量じゃない。ポケットへねじ込んだって、何とか隠せるくらいの量だ」
「すると、どういうことでしょう?」
「――分らんな」
入江は首を振った。
こんな小っぽけな町のこそ泥がなぜこんなことをしたのか……。
「ともかく、女の子が戻ったら、ここに、盗まれた現金書留が全部|揃《そろ》っているかどうか、当らせよう」
「どこへ行ったんです?」
「おばさんの様子を見に行ったのさ」
「はあ?」
大内が目をパチクリさせた。
吹田が戻って来ると、まだ興奮さめやらぬという面持ちで、
「いや、さすがは警部殿で。ピタリと言い当てられたのには――」
「よせよ」
と、入江は笑って、「偶然さ。しかし、金も抜かれていないようだし、良かったじゃないか」
「全くです! 犯人の指紋を――」
「この状態じゃ、無理だろう。それより、何か君に心当りはないかね」
「とおっしゃいますと……」
「この小さな町に、一度にこんなに現金書留が届くってのは、よくあることなのか?」
吹田は、首をかしげて、
「さあ……。自分はよく分りません」
「そうか」
入江は、その封筒の一通ずつを見て行ったが、「――大内」
「はい」
「差出人の住所と名前を控えとけ」
「分りました、全部ですか?」
「どれも同じだ」
大内は封筒をいくつか見て、
「本当だ。――誰でしょうね」
と、手早く手帳にメモした。「東京ですよ。名前は……〈永井かね子〉か」
「個人名で、それも同じ日にこの町の住人、二十人近くに現金を送る、どういうわけかな?」
「調べますか」
「まあ待て。もう少し様子を見よう」
と、入江は言った。
入江の目は輝いていた。――わけの分らないことの裏には、きっと、隠された事情というものがある。
これは意外に面白い事件になるかもしれない、と入江は思った。
「――やあ、どうだった?」
入口から、あの女の子が入って来るのを見て、入江は声をかけたが……。入江は立ち上った。
「おい、どうした?」
ただごとではなかった。――女の子は|呆《ぼう》|然《ぜん》として、何も耳に入っていない様子だったのだ。
「何かあったのか?」
と、入江が大声で言うと、女の子はハッと我に返った様子で、
「あの――おばさんが――首を|吊《つ》って……」
「何だと?」
入江は目を見開いた。「吹田君」
「はい!」
「ここの手伝いに来てた女の家、分るね」
「ええ。あの人が首を?」
「一緒に見に行ってくれないか、俺と」
「はい。もちろん」
「警部――」
「大内、お前はその子に、書留で、なくなっているのはないか、すぐに当らせてくれ。いいか、すぐに[#「すぐに」に傍点]だ」
「分りました。――君、しっかりしてくれ」
大内に揺さぶられて、女の子は、
「はい――はい、大丈夫です」
と、|肯《うなず》いた。
「よし、盗まれた現金書留が見付かったんだ」
「あら……」
「全部、揃っているかどうか、記録と当ってくれ。今すぐ、分るね?」
「はい」
女の子は、机に向って、引出しをあけた。
こんな風にショックを受けている時には、心配してやるよりも、何かやらせておいた方が、早く立ち直るのである。
入江はその辺のことを、よく|呑《の》み込んでいるのだった。
「――どうだい?」
と、大内は言った。
「ええ……。大体ありますけど」
「じゃ、ないのもある?」
「一通だけ。――ええ、そうです、一つだけなくなってます」
「ふーん。誰あての一通?」
「ええと……笠矢さんあてだわ」
笠矢?
大内は、ちょっと|眉《まゆ》を寄せた。――あの、駅のホームに立っていた、「父親を捜している」という女の子の名ではないか!
「差出人は、同じ人かい?」
と、大内は言った。
「ええ。同じです。他のと」
「この人――永井かね子って人から、いつもこんなに現金書留が来るの?」
「さあ……」
女の子は首をかしげて、「私、まだ現金書留とか、扱い始めたばっかりだから……。よく分らないんです」
「そうか」
と、大内は肯いた。
すると、そこへ、署長の水島が、部下を連れて入って来た。
「やあ、大内さん」
「どうも。今、ちょうど――」
「聞きましたよ。いや、さすがはベテランの方々ですな。どうもお手をわずらわせてしまって」
と、水島は早口に言った。「後は我々が引き受けます。どうぞ、引き上げていただいて結構ですよ」
「はあ……」
「――書留の控は? これか。借りて行くよ。こっちで調べるからね。いいか、君は公務員だ。秘密を守る義務がある。誰に何を|訊《き》かれても、答えるんじゃない。分ったね」
「はい……」
女の子は、ポカンとして、答えた。
「じゃ、これを持って行くよ」
と、水島は、現金書留の入った袋を手にして、言った。
「あの――配らなくていいんですか?」
と、女の子が言うと、水島はジロッと見つめて、
「これは証拠品だ。調べがすんだら、こっちで渡しておく。余計な心配はするな」
「はい」
水島たちが出て行く。
「――どうも妙だな」
と、大内は首を振った。
今の水島の態度は、はっきり、大内や入江に、手を引いてほしがっていた。
「頭に来ちゃう!」
と、女の子が突然言った。
大内は、ちょっと笑って、
「全くだね。もうショックから立ち直ったようだな」
と言った。
女の子は赤くなって、あわててメガネを出してかけたのだった……。
5 読めない日記
「おい、おかわり」
と、入江が空の|茶《ちゃ》|碗《わん》を差し出す。
柴田依子は呆れて、
「係長、大丈夫なんですか? もうご飯、四杯目ですよ」
「もうないのか?」
「ありますけど……」
「じゃ、入れてくれ」
と、入江は言った。
旅館での夕食。――入江の食欲は、依子や大内の目をみはらせるものがあった。
「警部は、本当に事件があると人が変ったみたいに、元気になるんだから」
と、大内は笑って言った。
まあ、入江としては否定もできない。
人が死んだのだから、あんまり|嬉《うれ》しがるべきことではないのだが。
「確かに自殺なんですか、その女の人?」
と依子が訊くと、大内が、
「だめだよ、ますます嬉しがらせるようなことを訊いちゃあ」
と、からかった。
「そこだ」
入江は、ご飯を一杯によそった茶碗を受け取りながら、「あの郵便局の娘の話じゃ、一人暮しとはいえ、とても明るくて元気な人で、とても自殺するなんて思えないというんだ」
「詳しい検死は――」
「どうかな。県警まで乗り出しちゃ来ないだろう」
と、大内は言った。「どう思います?」
「同感だな」
と、入江は言って肯いた。「あの水島ってのは、ともかく厄介事になってほしくない、とだけ願ってる。わざわざ、事を荒立てるようなことはしないさ」
「じゃ、殺人かもしれない、と?」
「分らん」
と、入江は首を振った。「しかし、詳しく調べれば、何か出て来るだろう。それだけは確かだ」
「妙ですね。大内さんの話だと、水島さんは何かを隠そうとしてる」
「うん。――あの笠矢という男のことに、触れてほしくないんじゃないのかな」
「あの書留は、どういうことでしょうね」
「永井かね子って名で、この町の二十人近い人たちあてに……。中身がいくらか知りませんけど、ちょっと普通じゃ、考えられないことですわね」
「この、永井かね子って人物を当ると、面白いことが分るかもしれない」
と、入江は言った。
「誰かにやらせますか」
と、大内が言った。
「誰に? 県警の人じゃまずいわ」
「東京か……」
ふと入江が思い付いたように、「そうか。咲江の|奴《やつ》がいる」
「咲江さん?」
「もちろん、調べるったって、大したことはできないだろうが。少なくとも、この女が実在の人物かどうかは分る」
「そうですね、でも――」
「何だ?」
「危険はないでしょうか。もし、この出来事の裏に、何か隠されているとしたら」
大内が面喰らったように、
「隠されてるって、何が? まさか、世界的な陰謀が?」
「そんなにオーバーじゃなくても……」
と、依子は苦笑して、「でも、これを見て下さい」
依子が、バッグから取り出したのは――。
「日記帳か?」
「ええ。笠矢光夫。あの女の子の、行方不明になっている父親が置いて行った日記帳なんです」
当惑する入江と大内に、依子は今日の午後の、笠矢祥子との出会いを話してやった。
「――驚いたな」
と、入江は言った。「するとあの子は、おかしくなったふり[#「ふり」に傍点]をしてただけなのか」
「でも、どうしてそんな妙な所に家を建てたんでしょうね」
と、大内が言った。「土地が安かったのかな」
「まさか」
と、依子は笑った。「人目をさけて生活する必要があったんですよ」
「なぜ?」
「分りません。あの女の子も、父から、その点は聞かされていないんです」
「なるほど」
大内が|肯《うなず》いて、「すると、この日記帳に、何か秘密が――」
と、めくって見て、目をパチクリさせた。
「何です、これ?」
「見せろ。暗号か?」
受け取って見た入江は、「――何語だ? ドイツ語じゃないな。フランス語……でもないか」
「ラテン語だと思いますわ」
「何だって?」
「ラテン語。――私も、分るわけじゃありませんけど、たぶん間違いないと思います」
「ラテン語ね」
と、大内は首を振って、「そんなものがあるってことは知ってるけど」
「つまり笠矢光夫は、かなり教養のある人間だってことです」
と、依子は言った。「今、よほど何か特別の必要がない限り、ラテン語を勉強することはないでしょう」
「その娘は、中身がどんなものか、知らないのか?」
「ええ。ただ、あの子の話では、父親は政府関係の研究所に勤めていたんだそうです」
「政府の?」
「父親がそう言っていた、と。――でも、どんなことを研究しているのか、教えてくれなかったということでした」
「ふーん」
入江は考え込んだ。「しかし、その研究者が、なぜこんな所に?」
「ある日、突然だったそうです」
と、依子は言った。
激しく玄関のドアを|叩《たた》く音がした。
笠矢祥子は、ぐっすり眠っていたが、その音で飛び起きてしまった。
何事かしら?――祥子は、ベッドに起き上ったまま、じっとしていた。
もちろん、お父さんがいる。大丈夫。何が来たって大丈夫……。
祥子は、自分へそう言い聞かせていた。
ドアが開くと、父が顔を出した。
「お父さん。――何?」
「心配するな。ここにいなさい」
父親の声は、落ちついていた。
祥子は少しホッとしたが、それでも心配しない、というわけにはいかなかった。
何しろ、玄関ではまだドアをドンドン叩いていたのだから。
父は、祥子の部屋のドアを少し開けて行った。祥子は、ベッドから出ると、そっと廊下を|覗《のぞ》いた。
父が階段を下りて行く。――祥子は、階段の下り口まで行って、下の様子をうかがった。
「――何だね」
と、父の声が聞こえて来る。
「笠矢光夫さんですね」
と、相手の声。
しゃべり方は、まるで警官か何かのようだった。
「これをお読み下さい」
――少し間があった。父が手紙のようなものを読んでいるらしい。
「分った」
と、父が言った。「娘と二人だが」
「承知しております」
と、相手が言った。
「支度する。十分ほど待ってくれ」
「分りました」
父が上って来る。――祥子が不安げに立っているのを見て、
「大丈夫だよ」
と、肯く。
「誰?」
「うん。役所の人だ」
「役所の?」
「すぐ出かける。――必要なものだけ持つんだよ」
「出かける?」
祥子はびっくりした。「どこに行くの?」
「それは分らない。――さあ、急いで、時間がない」
祥子は、わけが分らなかった。こんな夜中に、しかも突然、どこへ行こうというんだろう?
でも――父はもう自分の物をボストンバッグに詰め始めていた。仕方なしに、祥子も、部屋へ戻って、明りをつけた。
まず、着替え。そして、バッグを引張り出す。
必要な物といっても――どんな物だろう?
迷っていると、
「どうした?」
と、父が顔を出す。
「お父さん、勉強道具とかは?」
「うん。入れておけ」
「分った」
――祥子はあわてて、ノートだの教科書、ラジオカセット、好きな歌手のテープなんかを、バッグへ詰めた。
「――着る物は?」
「そうだな。気に入ってる服だけ」
「何日ぐらい、出かけてるの?」
「分らない。当分、だな」
祥子は、びっくりした。
「でも――学校は?」
「後で考える。さ、行くぞ」
「待って! あのぬいぐるみ!」
祥子は、いつもベッドの枕の所に置いているテディベアをバッグへ入れた。それが最後だった。
玄関へ行くと、
「急いで下さい」
と、その男が言った。
兵隊だ!――祥子はギクリとした。
外へ出て、もっと驚いた。
自衛隊のジープが停っている。その周囲を、銃を手にした隊員が、十人近くも、囲んでいた。
「お父さん……」
祥子は、父にすがりついた。
「怖がることはないよ。危害を加えたりしない」
父は、微笑んでいた。
二人はジープに乗り込んだ。――すぐにジープは走り出した。
重苦しい無言のドライブが、三十分ほど続いただろうか。急に、ジープは停った。
「降りて下さい」
と、声がかかった。
外へ出ると、そこは林の中だった。ポカッと空いた、空地。
直径十メートルくらいの、白い円が地面にかかれていて、その線の上にライトが上を向いて並べてあった。
「お父さん……」
と、祥子は言った。
「何だ?」
「私たち――収容所に入れられるの?」
祥子は、TVでナチスドイツが、ユダヤ人を収容所へ送り込む場面を見たことがあったのだ。
「そんなことじゃない。大丈夫だよ」
父は、祥子の肩を抱いて、言った。
低い|唸《うな》りが聞こえて来た。――まるでTVか映画のワンシーンのようだ。
ヘリコプターが、二人のいる空地へと、近付いて来たのだった。
|凄《すご》い風が巻き起こって、祥子は目をつぶっていた。
「行くぞ」
父が大声で言った。ヘリコプターのローターの音で、声はかき消されそうだった。
二人が乗り込むと、ヘリコプターはすぐにフワリと浮き上った。
「――ベルトだ」
父が、ベルトをしめてくれる。
どんどん上昇して、ヘリコプターはやがて一揺れして、真直ぐに飛び始めた。
夜の町の灯が、はるか下に見える。
祥子は、自分の運命の不安とは別に、この初めての飛行を、楽しむこともできた。
「どこへ行くの?」
と、祥子は、また父に|訊《き》いた。
「遠くだ。――仕事なんだよ」
と、父は言って、祥子の頭を、軽く撫でてやった。
「仕事……」
「そうだ。すまないな」
「いいけど……」
と、祥子は言った。
「何だい?」
「ヘリコプターって、トイレはないんだよね?」
と、祥子は訊いていた。
「――自衛隊のヘリでね」
と、大内が言った。「そりゃただごとじゃないな」
「見当もつかん」
と、入江は首を振った。
「そして着いたのが、この向うの山の辺りだったようです」
と、依子は言った。「そこに車が待っていて、あの家へ二人を運んで行ったということですわ」
「なるほど。――で、その家は……」
「どう見ても、二人のために、新しく建てたものです」
と、依子は言った。「あの子も、夢かと思った、と言っていました。着いてみると、前の家で、自分が使っていたのとそっくりなベッドがあり、机も、ほとんど同じもの。同じぬいぐるみまで置いてあったそうです」
「どういうことだろう?」
「そこで二人は生活を始めました。そして――もう一年以上にもなるんです」
「ふむ……」
「ところが、父親が突然消えてしまった、というわけか」
と、大内が|肯《うなず》く。「こりゃ、かなり裏の深い事件ですね」
「今日は、あまり時間がなくて、それ以上の詳しいことは聞けませんでした。でも、あの子の話は、|嘘《うそ》とは思えません」
依子はそう言った。――入江も、同感だった。
「しかし……」
と、大内が首を振って、「こいつは、どうも、我々のような刑事が、口を出せる事件じゃないですね。何かこう、政治がらみの……」
「|俺《おれ》たちには、そんなことは関係ない」
と、入江が言った。「しかし、郵便局の女が首を|吊《つ》ったことと、何かつながりがあれば、それが国家の重要機密だろうが、口出ししなきゃならん」
入江らしい言い方に、依子は微笑んだ。
「――じゃ、どうします、係長?」
と、依子は言った。「この日記帳は?」
「そうだな」
入江は腕組みして考え込んだ……。
6 本の虫
「ねえ、京子」
と、入江咲江は言った。
「何よ?」
昼休みの学生食堂。――居眠りしていた川田京子は、トロンとした目で、咲江を見上げた。
「何よ。――咲江か、邪魔しないで。今、いい夢を見てるんだから」
「悪いわね。でも、こっちも用事なの」
と、咲江は笑って、「男のこと」
「――男? 男って言ったの?」
パチッと目がさめて、「咲江もついに、男ができたか!」
「よしてよ、大声で」
と、咲江はあわてて言った。「そんなんじゃないの」
「じゃ、何よ?」
――入江咲江は大学の三年生。同じ三年の京子とは、至って仲がいい。
「座っていい?」
「うん。男がいないならどうぞ」
咲江は笑って、
「好きねえ、全く」
「咲江の方が変ってんのよ」
と、京子が言い返す。「それで何なのよ?」
「うん。――ねえ、ラテン語の分る男の子、いたでしょ」
「ラテン語?」
京子は目を丸くして、「ラテン音楽なら分るけど」
「そうじゃなくて。――ほら、いつか、ゼミのコンパで、言ってたじゃない、世の中にゃ、変ったのがいる、って」
「ああ」
と、京子は思い出した様子で、「あの変人か」
「何て名前だっけ。|憶《おぼ》えてる?」
「忘れた」
「何よ。あて[#「あて」に傍点]にして来たんだから」
と、咲江は言った。
「だけどさ。咲江、なんで、そんな|奴《やつ》を捜してるわけ?」
「ちょっとね。ラテン語の文を読んでほしいの」
「へぇ。ラテン語のラブレターでももらったの?」
「まさか」
と、咲江は笑った。「ね、思いだしてよ。――京子」
「分った、分った」
|欠伸《あくび》をして、京子は立ち上った。「――じゃ、行こう」
「どこへ?」
「そのラテン語の先生のとこへ」
二人は学食を出て、明るい陽射しの下を歩いて行った。
東京といっても、郊外にあるこのキャンパスは、ゆったりと広く作られている。
「――おい、京子! 今夜、パーティ、付合えよ」
と男の子が声をかける。
「先約があるの。またね」
と京子が、手を振って答える。
川田京子は、美人というわけではない。しかしどことなく目立つし、派手なムードがあって、男の子にやたらもてる。
京子のほうも、「デートが趣味」と言っているくらいで、ほとんど毎週、週末は、誰かと出歩いている。
入江咲江は、京子のちょうど裏返しである、と思えばいい。
すべて地味。――顔立ちは、むしろ京子より整っているのに、何となく「華がない」。
まあ、母を亡くして、父親は警官。お金がないせいもあって、服装も地味だから、どうしても、パッとしない。
しかし、「若さ」だけは、|溢《あふ》れるほど、持っているのだった。
咲江は、学生アパートで暮している。親の仕送りは一切なし。
すべて、家庭教師と、あれこれ臨時のアルバイトでやっているのだ。
京子は、家が医者で、車だって買ってもらっている。――どうして、この二人が友達同士なのか、誰しも、首をかしげている。
しかも、別にどっちが上、というわけでもなくて、お互い、サラッとした付合いをしているのだった。
「――でもさ、どうして急にラテン語なんか?」
と京子が歩きながら言った。
「ちょっとね。人に頼まれて」
「へぇ。今どきね。――咲江も、たまにはデートぐらいしなさいよ。今度の週末、どう? 誰か、おとなしい子を用意するわよ」
「だめ」
「どうして?」
「ホールの案内嬢のアルバイト」
「また!――じゃ、こうしよ。うちのパーティで、コンパニオン、やって。バイト料払う。どう?」
「いけないわ。私は自分に向いたアルバイトしかやらないの」
「それで三十、四十、と|年齢《とし》とっていくつもり?」
「気が早いのねえ」
と、咲江は笑って、「私はまだ二十一歳なのよ」
「十年なんてすぐたつわ」
と京子は言った。
「それより、どこに行くの?」
「そのラテン語屋さんを捜すんじゃないの」
「どこを?」
「図書館。――名前は忘れたけど、確か年中、ここに入りびたっているはず」
「なるほどね」
と咲江は|肯《うなず》いた。「さすがは京子!」
図書館へ入りながら、
「久しぶりだなあ」
と、京子は言った。「まだ存在してたんだ!」
咲江は吹き出してしまった。
――二人は、広くて静かな、かつ古くさい|匂《にお》いのする書棚の間を、ゆっくりと歩いて行った。
「どの辺にいるもんなのかしら、ラテン虫[#「ラテン虫」に傍点]ってのは」
「西洋古典でしょうね」
「古典か。条件反射ね。眠くなる!」
と、京子は言った。
二人は足を止めた。――京子が、
「あれ[#「あれ」に傍点]と違う?」
何だか、明治か大正のころのモノクロ写真から抜け出して来たような、頭がボサボサで、丸ぶちメガネの男が、分厚い本を開いていた。
着ているカーディガンが……元[#「元」に傍点]カーディガン、としか言えない古さ。
「あの人、呼吸してる?」
と、京子が言った。「ミイラかもしれないわよ」
「そうね」
咲江ですら、|呆《あっ》|気《け》にとられる凄さ[#「凄さ」に傍点]だったのだ!
咲江は、ちょっと咳払いをして、近付いて行った。すると、その男がジロッと咲江を見て、
「静かに」
と、言った。
「え?」
「静かにして下さい」
「す、すみません……」
咲江は、ちょっと出鼻をくじかれてしまった。
京子が、ニヤニヤしながら、眺めている。
「あの――私、入江咲江というんですけど……」
その男は、じっと本のページを眺めているだけ。
「ちょっと――あなたにお願いがあって」
と、咲江は言った。「今、お邪魔かしらね?」
「もう邪魔してます」
と、その男は言って、「――でも、用なら聞きます」
と、本を閉じた。
「どうも。入江咲江です」
「はあ」
「あなた……。三年生ですよね」
「ええ」
「じゃ、同じだわ。よろしく」
「はあ」
「あの――お名前は?」
「僕ですか?」
「他の人の名前、訊いても仕方ないでしょ」
「そうですね」
と、その男は真顔で肯いた。「僕は松本です」
「松本さん。よろしく」
と、咲江はくり返した。「あの――友だちの川田京子」
「ああ、見たことあるな」
「へえ!」
と、京子が大げさに、「あなたも女の子を見ることあるんだ」
「京子!――ね、松本さん。あなた、ラテン語が分るんでしょ」
「ええ。まあ、ラテン語で早口ことばを言え、と言われたら、ちょっと無理ですけどね」
何だか見かけよりは面白い男のようだった。
「あなたに、読んでもらいたいものがあるのよ」
「ラテン語?」
「ええ。――お願いできる?」
「古文書ですか」
「いいえ。新しく書いたもの」
「ラテン語で?」
「そう。読んで、翻訳してほしいの」
「そうですか」
と、松本は肯いた。「いいですよ」
「良かった! 助かるわ」
「いくらです?」
「――え?」
「一ページ当り、どれくらいの分量かな。見てから、見積りを出します」
「見積り?」
「何ページくらい?」
「さあ……。五、六十ページは……」
「じゃ、十万はもらわないと」
「十万……円?」
咲江は目を丸くした。
「タダでやれって言うんですか?」
「そうじゃないけど……。もう少し安くならない?」
「中身次第ですね」
と、松本は肩をすくめた。
「ちょっと、あんた!」
と、京子がやって来ると、「それでも男なの?」
「男はタダ働きしろって言うんですか?」
「京子。いいのよ。ちゃんと、払うべきものは払わなきゃ」
「だけど……」
と、京子はふくれている。
咲江は、少し迷ってから、
「あの……翻訳はね、少し急ぐの。事情があって。でも、お金の方は――」
「本当に払ってくれるのなら、待ってもいいですよ」
「払うわよ! 必ず。だから、先にやってもらえる?」
「いいですよ」
と松本は言った。「今、ここに?」
「いいえ。コピーを取って、持って行く。あなたのお住いは?」
「橋の下でしょ」
と、京子が言った。
「ここへ電話して下さい」
松本が、手帳にメモして破ると、それを咲江へ渡した。「夜中でもいいです」
「分ったわ。じゃ、いつなら?」
「いつでも」
と言うと、松本は、さっさと歩いて行ってしまった。
「――何て|奴《やつ》!」
と、京子が怒っている。
「でも、面白いじゃないの」
と、咲江は笑って言った。「十万円か! またバイト捜さなきゃ」
「あいつパーティに引張ってけば?」
「ええ?」
「キスしてやってさ、これで十万円、ってやるの。どう?」
「私のキスじゃ、十万円の値打ないわよ」
「そんなことないって。咲江はね、大体――」
「しっ! 図書館よ」
「そうか……」
二人は図書館を出た。
「――別の世界の人間ね、あれ」
と、京子が言った。「咲江、その十万円、立てかえるわよ、もし何なら」
「ありがとう。でも、大丈夫だと思うわ」
「頑固者!」
京子は笑って、「じゃ、私、午後はさぼるから」
「午後も[#「も」に傍点]でしょ」
と、咲江は言ってやった。「ノートは取っとくわ」
「頼むね! じゃ」
京子が急いで歩いて行く。
「帰る時は元気いいんだから」
と、|呟《つぶや》いて、咲江は首を振ると、講義棟の方へと、歩き出した。
7 二枚のチケット
今時、こんなお店にお客が入るのかしら?
その駄菓子屋の前で、咲江は、いくらか|呆《あき》れて立っていた。もちろん、咲江もお菓子を買いに来たわけではない。
薄汚れたガラス戸をガラガラと開けて、
「あの……。すみません」
と、店の中に入って行く。
明りを|点《つ》けるのももったいない、というのか、中は薄暗かった。
「あの――誰かいませんか?」
と、咲江が呼びかけてから、たっぷり三十秒もたって、
「はい……」
何だか眠そうな声がして、奥の障子が開いた。「何ですか?」
と、その五十歳ぐらいの、髪をボサボサにした女は、咲江を見て言った。
店があって、誰か入ってくれば、普通はお客と思うだろうが。
「あの――ちょっとうかがいたいんですけど……」
「道を|訊《き》くなら、この先の交番へ行って下さい」
と、女は引込みそうになった。
「あ、そうじゃないんです」
と、咲江はあわてて言った。「ええと――そのドロップを下さい」
ものを訊くなら、やはり何か買わなくてはいけない。――その辺は、咲江も「父親仕込み」なのかもしれなかった。
女は、面倒くさそうに、出て来た。しわくちゃのブラウスと、スカート。
お金を払って、缶入りのドロップをもらったものの、とてもなめる気になれないくらい、|埃《ほこり》だらけになっている。
「あの――ここに、永井かね子さんという方、いらっしゃいます?」
と、咲江は訊いた。
「永井――誰?」
「永井かね子。〈永久〉の〈永〉の永井。〈かね子〉はひらがなで――」
「うちは高橋ですよ。表札に出てるでしょ」
「ええ。でも――あの、この住所に、永井かね子さんという方が住んでらっしゃる、と……」
「知りませんね」
と、その女は肩をすくめた。「昔、住んでた人かね」
「あの、いつごろからここにおいでなんですか?」
「私? もう三十年になるわね」
と、女は言った。「その永井かね子が、どうかしたんですか」
「いえ……。お心当りがなければいいんですけど」
咲江は、「失礼しました」
と、頭を下げて、店を出た。
「毎度、どうも」
と、女が奥へ入りかけ、背中を向けたままで、言った。
――やれやれ、だわ。
入江咲江は、ドロップの缶を手に、ため息をついた。
「お父さんも、妙なことばっかり頼んで来るんだから」
ラテン語で書かれた日記。そして、住所だけあって、住んでいない女。
一体何をしてるんだろう?
歩きだしながら、咲江は腕時計を見た。――もう行かなくちゃ。
土曜日というのに、デートがあるでもなく、女の子同士で飲みに行くでもない。アルバイトなのである。人材派遣会社に登録してあって、土日はたいてい、コンサートホールの案内嬢。
でも――何だか気になった。
あの駄菓子屋。振り向いて見ると、店のガラス戸にチラッと人影が動いた。
あの奥さんだろうか。
何が妙だったのか、咲江自身、よく分っていなかったのだが、それでも気になった。何かがおかしい。
「永井かね子、か……」
誰なんだろう、この女は?
咲江は足を早めた。――アルバイトに遅刻して行くと、次から仕事を回してくれないのだ。
いやな天気。――暗い雲が、ゆっくりと広がり始めていた。
「いらっしゃいませ」
と、咲江はチケットを受け取り、「どうぞこちらへ」
黒っぽい制服のスーツで、ホールの中を歩いて行く。――もうこのホールは何度も来ているので、すぐに座席の場所はつかむことができた。
「――こちらの三番目のお席になります」
と、その初老の紳士にチケットを返す。
「ありがとう」
と、にっこり笑って言ってくれると、咲江の方も気分がいい。
「どうぞごゆっくり」
と、微笑む気分にもなるというものである。
通路を抜けて、担当の入口のわきに立つ。
この仕事をするようになってから、咲江は初めてお化粧というものをした。それも、友だちの川田京子に教えてもらって、|憶《おぼ》えたのである。
やはり、こういうお客相手の仕事では、見た目の華やかさというものも必要になるからだ。――それでも、咲江は、お化粧していると、自分の顔が自分のものでなくなったような気がして、終ると早々に落としてしまうのだった。
ここはクラシック音楽の専用ホール。
このところ、クラシック音楽のコンサートにも若いアベックが目立つ。ちょっと知的な雰囲気のファッション、というところもあるが、まあ悪いことではあるまい。
咲江も嫌いではないので、曲によっては、中に入って立って聞いたりすることがあった。
もちろん――咲江とて二十一歳の娘である。
恋人の一人も、ほしくないわけではない。しかし、焦ったところで、恋人が出現するわけではないし、今は学費と生活費をかせぐだけで手一杯。
京子のように遊び暮している友だちのことも、別に羨しくはなかった。――人は人。自分は自分。
それも父譲りの生き方なのかもしれなかった……。
咲江は、ちょっと苦笑した。父のことを思い出したからである。
相変らず、仕事というと、我を忘れているらしい。
父の部下の柴田依子から、父が左遷された事情は聞いていた。その時には、よっぽど大学をやめて、父の所へ帰ろうかと思ったほどである。
仕事を取られたら、たちまちぼけてしまうんじゃないかしら、と心配になったからだった。
しかし――何だかわけの分らないラテン語の日記帳を送って来たり、「永井かね子」という女のことを調べろと言って来たり……。
あの調子じゃ、結構元気にやっているらしい。咲江はホッとしたのだった。
もう大学も三年生。
あと一年半で、卒業だ。就職といっても、なかなか難しいが、父が老い込んで動けなくなるころには、多少、稼げるようになっておきたい。
どうせ、父親の面倒はずっとみなくてはならないのだし……。
目の前にぐいとチケットが突き出されて、咲江はびっくりした。――見るからに気むずかしそうな老人が、黙ってチケットを出している。
案内しろ、とでも、何か一言、言ってくれればいいのに……。でも、世の中には、色んな人がいるものなのだ。
気を取り直した咲江は、チケットを受け取り、席の番号を見ると、
「こちらでございます」
と、歩き始めた。
「――おい、待て!」
と、老人が|苛《いら》|々《いら》した声で、「そんなに早く歩いたって、ついて行けんだろうが!」
「申し訳ございません」
と、咲江は|詫《わ》びた。
「全くもう……。今の若い|奴《やつ》は、年寄りに気をつかうことも知らん」
と、聞こえよがしに言う。
気をつかいたくならないお年寄りもいるのよね、と心の中で、咲江は|呟《つぶや》いた。
さて……。
「この列の――」
と言いかけて、咲江は言葉を切った。
四番目の席のそこにはツイード姿の、若い男が、もう座っていたのである。
「どうしたんだ?」
と、老人が顔をしかめる。
「お待ち下さい」
咲江は、老人に渡されたチケットの、日付を確かめた。間違ってはいない。
列の間へ少し入って、
「失礼ですけど」
と、その若い男に声をかける。
プログラムを熱心に読んでいたその若者は、顔を上げて、咲江を見た。
「恐れ入りますが、チケットを拝見できますでしょうか」
若者は黙って上衣のポケットから、チケットを出して、咲江に渡した。
咲江は二枚のチケットを見比べた。――全く同じ日、同じ時間の同じ席である。
ごくたまに、こんなことが起る。一方はコンピュータで打ち出したもの、もう一方はプレイガイド扱いで、どこかに手違いがあったのだ。
「失礼しました」
と、咲江はチケットを若者へ返して、待っていた老人の方へ戻ると、「――大変申し訳ございません。ミスで、同じ席のチケットがダブって打たれたようです」
「何だって?」
老人は目をギョロつかせて、「冗談じゃない! 高い金を出して買ったんだ、席がないって言うのか!」
「いえ、当方のミスですので、他の席をご用意いたします。ちょっとお待ち下さい」
咲江は、急いでホールのロビーへ出ると、受付へと駆けて行った。
もう開演直前のチャイムが鳴っている。
「――席のダブリ。どこか一枚、ない?」
と、声をかける。
「二階のわきしかないわよ」
「二階?――値段は?」
「七千円。これでいい?」
「他になきゃ、仕方ないわね。じゃ、もらってくわね」
そのチケットを手に、咲江は急いでホールの中へ戻った。
咲江がいない間に、騒ぎが起こっていた。
「――年寄りに席を譲るのが当り前だろう!」
とあの老人が、顔を真赤にしている。
若者の方も、立ち上って、
「先に来た人間の方が座るのが当然です。あなたの席がないわけじゃないんですから」
と、言い返している。
「貴様はそれでも日本人か!」
と、老人が甲高い声を出した。
もちろん、周囲の客たちは、顔をしかめてその言い合いを眺めている。
「失礼しました」
と、駆けつけた咲江は、息を弾ませながら、「席をご用意いたしましたので、どうぞ」
と、老人に声をかけた。
他の客がホッと息をつく。しかし老人は、ジロッと咲江を見て、動こうとはせず、
「席はどこなんだ?」
と、|訊《き》いた。
「あの――二階しか空いていないんです。同じお値段の席ですので」
「じゃ、その若いのにそっちへ行かせろ」
と、老人は言った。「この席[#「この席」に傍点]を買ったんだぞ! ここに座るのは当然だ」
咲江は青くなった。開演のチャイムが鳴っている。いつ演奏が始まってしまうか……。
「あの――お詫びは改めて。今はこのお席に行っていただけないでしょうか」
と、咲江は言った。「他のお客様もお困りだと思いますので」
「間違ったのはそっちだぞ!」
老人はますます腹を立ててしまった。「それなのに、何でわしが辛抱しなきゃならんのだ!」
「あの――そうおっしゃられましても――」
と、咲江が言いかけた時だった。
あの若者が、プログラムを|鞄《かばん》へ入れると、立ち上って、
「僕が二階へ行きますよ」
と、言った。
「え?」
「さ、どうぞ」
若者が通路へ出て、老人に言った。「ごゆっくり」
「フン」
老人は、いまいましげに若者を見て、「全く、年上の人間を尊敬するってことを知らんのだから、今の若い奴は……」
ブツブツ言いながら、その席へと足を運ぶ。
――周囲の客は、顔をしかめていた。
「さ、出よう」
と、若者が言った。
「あ、すみません。ご案内します」
咲江は急いでロビーに出ると、二階へ上がる階段の方へ急いだ。
「いや、いいよ」
と、若者が言った。「チケットをくれれば分る。年中来てるから」
「でも――」
「コーヒー一杯飲もうと思ってたんだ。君、どう?」
「は?」
「もう客も来ないよ」
「でも、始まりますよ」
「聞きたいのは後半だから、いいんだ。何も食べてなくてね。サンドイッチでも食べよう。――入江咲江さん、だよね」
咲江は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「いや、どこかで見たことあるな、と思ってたけど、やっとさっき気が付いたんだ」
「失礼ですけど……」
「分らない?」
若者がポケットから、メガネを取り出してかけた。咲江は、アッと声を上げた。
「松本さん!」
あのラテン語の「本の虫」ではないか!
8 成り行きの二人
「僕だって、いつも身なりに構わないわけじゃないよ」
と、松本は言った。「ああ、僕は松本|重《しげ》|起《き》っていうんだ。言いにくい名だろう?」
咲江は、ちょっと笑って、
「私はもっとだわ。入江咲江なんて。〈江〉の字が二つも使ってあるの、父のせいなのよ」
「お父さんの?」
「父は忙し過ぎてね。私の名前つけちゃってから、後になって、『言いにくかったかな』と頭かいてたんですって」
――二人で、ドリンクコーナーの|椅《い》|子《す》にかけていた。松本はサンドイッチとコーヒー、咲江は紅茶を飲んでいる。
前半の曲はもう始まっていた。モニターのテレビがロビーに置かれていて、中の様子が分る。
「損したんじゃない?」
と、咲江が訊くと、
「いや。どうせ、聞きたかったのは、この後の〈カルミナ・ブラーナ〉さ。前半はすぐ終るよ」
「〈カルミナ・ブラーナ〉もラテン語ね」
「そう。――あの日記帳、まだ読んでないんだ。今日がテストでね」
「あら、じゃ、少し値引きしてもらおうかしら」
と、咲江は笑って言った。
――本当に、別人のように松本の格好は|垢《あか》抜けていた。
髪もきちんと整っているし、着ているものも渋いが、洒落ている。
「どうしていつも大学に、あんな格好で来てるの?」
と、咲江は訊いた。
「本ばっかりいじってりゃ、|埃《ほこり》になるじゃないか。いいもの着てったって、意味ないし」
と、松本は言って、「でも――君も見違えたよ」
咲江は少し照れた。
「お仕事だから。――制服の方がずっと洒落てるってのも、困ったもんね」
「しかし、なかなか似合うよ」
「まあ。制服趣味があるの?」
と、咲江は言ってやった。
「でも、土曜日なのに、バイト?」
「だって、生活費ですもん」
「親の仕送りは?」
「全然。――そういう約束で入ったんだから」
「へえ……」
と松本はびっくりしている様子だった。「だけど、あの子――ほら、川田さんか。あの子と仲いいから、どこかのお嬢様かと思った」
「期待を裏切ってごめんなさい」
と、咲江は言って笑った。
そこへ、同じ制服の娘がやって来た。
「入江さん、お電話よ」
「え? 私?」
びっくりした。――こんなところへ、誰がかけて来るのだろう?
急いで受付のテーブルへと駆けて行った。
「すみません。――もしもし、入江ですけど」
少し間があった。「――もしもし?」
「つまらないことに首を突っこむな」
と、低い声が言った。「分ったか」
「何ですって?」
「けがしてからじゃ、遅いぞ」
「あなたは誰?」
「その|年齢《とし》で、死にたくあるまい」
「え?」
――電話は切れた。
松本がそばに来ていた。
「どうしたんだい?」
「いえ――何でもないの」
咲江は、受話器を戻した。「あら、もう前半、終ったみたいね」
ホールの中から、拍手が聞こえて来た。
「いらっしゃいませ、松本様」
レストランのマネージャーが、わざわざ|挨《あい》|拶《さつ》に来る。
咲江はすっかり戸惑っていた。
「あなた、ここの常連なの?」
と、松本に訊く。
「親父がね。――僕なんか、牛丼ぐらいでいいんだ」
と、松本はワイングラスを手に取って、「少しは飲めるんだろ?」
「ほんの少しね。すぐ寝ちゃうの」
「ともかく、このグラスだけは空にしてくれよ」
「分ったわ」
グラスが軽く触れ合うと、チーン、とハッとするほど軽やかな、いい音がした。
それにしても――想像もしない成り行きだった。
コンサートの後、松本に誘われるまま、食事に付合うことになったのだが、松本の車は|可愛《かわい》い外車で、いわゆる「ミニ・クーパー」という車なのだと咲江は知った。
そしてやって来たのが、このイタリアレストラン……。
大学で見る松本との、あまりのイメージの落差に、咲江はすっかり面喰らって居るのだった。
「――お腹空くだろ。何でも食べてくれよ」
と、メニューを見ながら、松本は言った。
「でも……何だか悪いわ」
「どうせ親父の払いなんだ。気にすることはないさ」
「あなたのお父様って、何していらっしゃるの?」
「会社を五つぐらい持ってる」
「へえ」
――じゃ、遠慮することないか。
二、三日、パンと牛乳だけでも栄養不足にならないくらい、しっかりと注文してしまった。
「だけど、気味悪いね、その電話」
と、松本が言った。
あのホールの受付にかかって来た、奇妙な脅迫電話のことを言っているのである。
「そうびっくりもしないけど」
と、咲江は言った。「父と一緒だったときは、脅しの電話なんて年中だったから」
「お父さんが警部さんか。怖いなあ」
「身に覚えでもあるの?」
と、咲江は笑って言った。
そしてふと、思った。――同年代の男の子と、こんな風におしゃべりしたことなんか、一度もなかったのに……。
それに、松本のことなんか、ろくに知りもしなかったのだ。あのラテン語の日記のことで、図書館で会ったのが最初。
それでいて、こんな風に一緒に食事をしている……。
お互い、いつも見ているのと違う相手の姿を見たことで、|却《かえ》ってホッとしているのかもしれない。互いに、向うの秘密を、ちょっと|覗《のぞ》き見たような照れくささがあって――。
「その〈永井かね子〉とかいう女のことを|訊《き》きに行ったのが、脅迫電話の理由なのかなあ」
「それしか考えられないわ」
と、咲江は言った。「だって、それ以外では、平凡な大学生よ。私のこと、脅迫する人なんていないわ」
「うーん……。平凡な[#「平凡な」に傍点]と言えるかどうか分らないけどね」
と、松本は言った。
「あら、じゃ、私って変ってる?」
「平凡以上に魅力的だ」
「まあ」
咲江は面喰らって、赤くなったりした。「からかわないでよ……」
「からかってなんかいない。本音を言ってるのさ」
「ともかく――」
と、咲江は思い切ってワインを飲み干すと、「私、自分のことはよく知ってるつもりですからね」
「知ってるつもりでも、結構分ってないってことがあるもんだよ」
最初の料理が運ばれて来て、二人の言い合いは中断された。――といって、後になっても続かなかった。
二人とも、|凄《すご》い勢いで食べることに熱中したからである。食事がすむころには、どっちも言い合い(というほどのものでもないが)していたことを忘れてしまっていた。
「――ともかく、君のお父さんも、そんな危いことを君に頼んで来るなんて」
と、コーヒーを飲みながら、松本が言った。
「父は、そんなこと、考えてもいないと思うわ。少しでも危いと思ったら、私に頼んだりしないわよ」
「あのラテン語の日記も?」
「柴田さんの話だと、何か関係あるはずだわ。――柴田さんって、父の部下なの。とてもすてきな女の人よ」
「君だって、すてきだ」
「あら、私なんか――」
と、また始まりそうになったが、
「よし!」
と、松本はコーヒーを飲み干して、「いっちょ、出かけるか」
「どこへ?」
「君を送ってかなきゃ」
「どこかの駅で降ろしてくれたら、一人で帰れるわ」
「いや、途中で寄ってみようじゃないか」
と、松本は立ち上って言った。
「寄るって?」
「その〈永井かね子〉さんのお宅へ、さ」
咲江は目を丸くして、
「だって――いないのよ、そんな人」
「よけいに怪しいじゃないか。君が訪ねて行って、とたんに脅迫電話。そこにいた店番か何か知らないけど、そのおばさんも、何か知ってるんだよ、きっと」
確かに、咲江もそのことは考えた。しかし――。
「だめよ」
「どうして? 遅く帰ると、|旦《だん》|那《な》に|叱《しか》られるのかい?」
「何言ってんのよ!」
と、咲江は赤くなって、松本をにらんでやった……。
「――そんなことじゃないの」
松本の車の中で、咲江は言った。
「何の話?」
「父がいつも言ってたの。事件に無関係の人を巻き込まないようにするのが、まず第一なんだ、って」
「賛成だな」
と、ハンドルを握る松本が|肯《うなず》く。
「だから、あなたを巻き込みたくないのよ」
「もう手遅れさ。それに、ラテン語の翻訳は僕がやるんだ。どうせ係り合うことになるだろ」
「そうね……」
と、咲江は考え込んだ。「もし――いやだったら、返してくれてもいいのよ」
「十万円、稼がなきゃな」
「あら、少し値引きしてくれたかと思ったのに」
咲江がちょっと笑って言うと、
「それなら――」
と、松本は、車を道のわきへ寄せて、停めた。
「――どうしたの?」
静かな住宅街の並木道だった。もう夜の十一時を回って、通る人もない。
「いや、ゆっくり考えようと思ってさ」
「何を?――事件のこと? それとも値引きのこと?」
「君のことさ」
そう言って――松本が顔を寄せて来た。
咲江は、まるでそんなこと、予期してもいなかったのに……目を軽く閉じて、松本の唇が自分の唇に触れるのを、ごく自然に受け止めていたのだった。
「――これで半額」
と、松本が言った。
「じゃ――もう一回で、タダ?」
「うん」
「じゃ、タダにさせてあげる」
「恩着せがましいな」
「当然でしょ。――初めてのキスなんですからね」
「本当?」
「疑うの?」
「いや」
咲江は、いきなり松本の腕の中に引き寄せられていた。初めてのキスとは全然違う、圧倒されるようなキスだった。
胸から胸に、互いの鼓動が伝わる。
何だって、こんなことに?――本当に[#「本当に」に傍点]、咲江はキスなんかしたこともなかったのだ。
本気で男に恋したことも。
それが突然、ろくに知りもしない男と……。そうだろうか? 恋とかキスとか、長い時間かけて、考えたり迷ったりするものじゃないのかもしれない。
「――もう、離して」
と、咲江は|囁《ささや》くように言った。「お願い」
松本は、腕をゆるめた。咲江は彼の胸を押しやって、息をついた。
――しばらくは、言葉もでない。
じっと正面を見ながら、身じろぎもせずに座っていたが……。
「出かけましょう」
と、咲江が言って、松本はエンジンのスイッチを入れたのだった。
9 妨 害
車が目的地の近くに来るまで、二人は何もしゃべらなかった。
「もう少しだと思うわ」
と、外へ目をやりながら、咲江は言った。「夜だと何だか様子が違って見えるけど」
「そうだろう? 道は間違いない?」
「ええ。この道の先。――もう少しあるかもしれないわね」
また少し、二人は黙った。
一軒のホテルの前を通る時、チラッと二人は目を見交わした。
「何だい?」
「何よ」
少しして、二人はふき出した。咲江は、
「せっかちなこと、やめてね」
と、言った。「時代遅れって言われても、納得できる形で、そうなりたいの」
「分ってる」
と、松本は肯いた。「君の意志を尊重するよ」
「あなたって――初めて口をきいた女の子と、キスするの?」
「相手次第だろ。少なくとも、今までじゃ、君が初めてだ」
「光栄でございます」
と、咲江は微笑んだ。「――あら、火事かしら?」
遠くにサイレンが聞こえた。
「後ろから来る」
松本が、車をわきへよせて、スピードを落とした。――サイレンがどんどん近付いて、アッという間に、消防車が二人の車を追い抜いて行った。変調した音が、尾を引いた。
「――また来たわ」
「一台じゃない。こりゃ本格的な火事だな」
と、松本は言った。「通行止になるかもしれないよ」
「どうする?」
二人は顔を見合わせて、肯き合った。
「見に行こう!」
まるでコーラスでもやってるみたいに、二人が同時にそう言った。
二台の消防車が、駆け抜けて行くと、松本はぐいとアクセルを踏んだ。
「――火が見えたわ」
と、咲江が言った。「燃えているんだわ、今!」
車を停めて、二人は外へ出た。
「風がある。――危いな」
と、松本が言った。「燃え広がると――」
「待って!」
「どうしたんだい?」
咲江は、消防士が駆け回っているその向うで、もう手の施しようもなく炎に包まれている家を見つめた。
「あの家だわ」
「何だって?」
「あの駄菓子屋さんよ。〈永井かね子〉の家だわ!」
「確かかい?」
「間違いない。あの電柱の看板、|憶《おぼ》えてるもの」
近所の住人たちが、次々に飛び出して来て、不安げに消火活動を眺めている。
風の向きで、時折、二人の方にも強い|匂《にお》いが向ってきた。
「――逃げる仕度をすればいいのに」
と、咲江は言った。
近所の人たちが、みんな寝衣にコートなどをはおったままで、ぼんやりと火事を眺めているのが、不思議だったのである。
「こんなもんさ」
と、松本は言った。「まさか自分の家には燃え移らないと思ってるんだよ」
――まさか。自分の身には。
そうなのだ。
咲江は、父の言葉を思い出していた。
「人間は、自分だけは犯罪に縁がないと思い込んでるんだ」
いつか、父はそう言っていたことがある。
「でも、大丈夫だろう」
と、松本が言った。「本当に避難の必要があったら、消防署の人間がそう言うさ」
なるほど、よく見ていると、火は次第におさまりつつあった。もちろん、あの駄菓子屋は完全に焼けてしまっているし、両隣の家も半焼してはいるが、それから先へ火がのびることはなさそうだった。
「やれやれ、だな」
と、松本は首を振った。「しかし……。こいつは偶然じゃないぜ」
「そうね」
と、咲江は|肯《うなず》いた。
分っている。――今日、ここを自分が訪れたのが原因だろう。
「君が〈永井かね子〉を訪ねて行った。そして君のアルバイト先に、脅迫電話が入った。その夜、ここが焼けた」
「つながってるわね、全部」
「それに、誰か知らないが、そいつ[#「そいつ」に傍点]は君のバイト先まで知っていた。君の住んでいる場所も分っているとみた方がいいよ」
「怖いこと言わないで」
と、咲江は松本をにらんだ。「心配なのは、この家にいた、女の人のことよ」
「うん。焼け出されたのかな」
「すぐには分らないわよ。この火事じゃ」
松本は腕時計を見た。
「もう十二時だ。――帰るかい?」
「そうね。ここで待ってても、完全に火が消えて現場検証になるのは明日でしょうしね」
「じゃ、送るよ」
「ええ」
――松本のミニ・クーパーで、咲江はアパートまで送ってもらうことにした。
何だか、自分がとんでもない事件に巻き込まれかけているらしい、と思った。もちろん父は知らないはずだが。
――咲江を脅迫して来た人間は、もしかすると入江があの日記帳を娘に送ったことも、知っているのかもしれない。
もちろん、父のことだ、油断してはいないだろうけど。それに、大内さんや柴田さんもついているし。
今日の出来事は、父へ連絡しておく必要がある、と咲江は思った。
夜半の道で、車は快調に飛ばしている。
いつしか、咲江は助手席で眠りに落ちていた……。
――ガクッと体が揺れて、ハッと咲江は目が覚めた。
「着いたの?」
と、目をパチクリさせたが……。
車は、スピードを上げている。
「どうしたの、こんなスピードで」
「|尾《つ》けられてる」
「え?」
咲江はびっくりした。バックミラーへ目をやると、かなり大型らしい車が、すぐ後ろについて来る。
「――大分前からだ。こっちが気付いたのも分ってる」
と、松本は、緊張した表情で言った。「あんなに近付いて来てるからね」
「誰かしら?」
「分らないが――ベンツだな、後ろは。このままじゃ、とても振り切れない」
「何のつもりかしら?」
「分らないな。君の住んでる所を突き止めるつもりだったら、もっと気付かれないように用心して尾けて来るだろう。ここまでくっついて来るってのは……。気に入らないな」
と、松本は首を振った。
陸橋にかかる。下を私鉄の線路が通っていた。
突然、後ろのベンツがぐんとスピードを上げて、二人の車の横へ出たと思うと、いきなりわき腹をぶつけて来た。
小型車では、とても持ちこたえられない。
手すりにぶつかり、火花が散る。
「伏せろ!」
と、松本が叫んだ。
咲江が頭をかかえて下げる。――ガリガリとボディのこすれる音。
車が大きくバウンドした。
咲江は悲鳴を上げていた。車は、宙へ飛び出したのだ――。
「咲江!」
病院中の患者が仰天して目を覚ましそうな声を上げて、川田京子が病院へ飛び込んで来た。
「京子……。静かに!」
と、咲江が手を振って見せると、
「良かった! 生きてたのね!」
と、京子はオーバーに両手を広げて、「神様! 感謝します! ラーメン」
同室の患者たちが笑い出した。
「全くもう……」
と、咲江は苦笑した。
「どっちが、全くもう、よ。人に心配かけといて!」
と、京子は両手を腰に当て、「車の事故なんて。咲江、運転できなかったんじゃないの?」
「そうよ」
「じゃ、誰の車だったの?」
「男」
「――|嘘《うそ》でしょ」
「本当」
「男って……。どういう関係?」
「うん。今のところキスまで」
京子は|椅《い》|子《す》を引張って来て座ると、
「それなら許す!」
と、言った。
「友だちなの、それでも? けがの具合ぐらい、|訊《き》いたら?」
「生きてりゃ同じよ。その内治るんでしょ」
――まあ事実、車が土手の茂みに突っ込んだ割には、咲江は打ち身とかすり傷ですんでいた。
入院の必要もなかったのだが、一応、頭の傷の影響などをチェックしてもらうために、一日だけ入ったのである。
「明日は退院よ」
「何だ。じゃ、ハンサムな医者を引っかける暇もないのね」
と、京子はがっかりした様子。「男の方は死んだの?」
「殺さないでよ。せっかく見付けた恋人を」
「どこのどいつ?」
「――あれ[#「あれ」に傍点]よ!」
と、咲江が指さす。
病室へ、松本が入って来るところだった。おでこに、派手な×印に、バンソコウが|貼《は》ってある。
「やあ、どう?」
「もう百メートルだって走れそうよ」
と、咲江が言った。
「良かった!」
「車はもうだめ?」
「車なんかどうでもいい。君が大けがでもしたらと思って……」
松本が、咲江の上にかがみ込んでキスしたので、京子の方が|呆《あっ》|気《け》に取られていたが、
「――どこかで会った?」
と、まじまじと松本の顔を見つめたのである……。
「信じられない組合せね」
と、京子は、咲江と松本を見比べて、言った。
「何度も同じこと言わないでよ」
と、咲江は苦笑して、「別にまだ恋人同士ってほどの仲じゃないんだし」
「あら。じゃ、咲江は恋人でもない男と平気でキスするわけ?」
そう訊かれて、咲江もぐっと詰る。
「そりゃあ……。でも、私の方からキスしたわけじゃないし」
とブツブツ言っている。
「ともかく!」
と、急に松本が大声を出した。
レストランの中の客が、みんなびっくりして振り向くほどの声だった。
「――君の身が心配だ。何とか手を打つ必要がある」
と、普通の声に戻って、松本が続ける。
めでたく(?)退院した咲江と松本は、京子ともども、病院の近くのレストランに入っていた。――まあ、二人で入ったあのイタリアレストランとは大分違って、こちらはファミリーレストランのチェーン店。
もう夕方になっていたので、結構店の中は混んでいた。
「手を打つ、ったって……」
と、咲江は途方にくれたように、「まさかボディガードをつけるわけにもいかないわ。大丈夫。自分の身は自分で守るわ。ずっとそうして来たんだし」
「いいかい。電車の中の痴漢とか、いたずら電話をかけて来る変態とかじゃないんだよ、相手は」
と、松本が身をのり出す。「あのベンツを見ただろう? |奴《やつ》らは、君と僕を殺すつもりだ」
「奴らって?」
「分らないさ。でも、一人や二人とは思えないね」
と、松本は言った。
「同感」
と、京子が|肯《うなず》く。「ね、咲江。まだ死ぬのは早いよ」
「私だって、死にたくないわよ」
と、咲江は顔をしかめた。「だからって……」
「まず、君のアパートは、当然、知られているはずだ」
と、松本は言った。
「どうするの? 引越すの? そんなお金、どこにもないわ」
「僕のマンションに来ればいい。部屋はあるよ」
咲江は、キュッと唇を結んで、首を振った。
「だめ。そんなこと、できない」
「誤解するなよ。何も僕は君のことを――」
「それでも、だめ。あなたを信用しないわけじゃないわ。でも、私、やっぱり古いの。その決心もつかない内に、一緒に暮したりするべきじゃないと思う」
咲江は、きっぱりと言い切った。
「石頭」
と、京子が、からかう。「ね、松本君。こんな頭の固いの放っといて、私と暮さない?」
「ちょっと、京子――」
「冗談、冗談」
と、京子は笑って言った。「じゃ、こうしよう。咲江、うちのマンションおいでよ」
「京子の家? お宅、一軒家じゃなかったっけ?」
「そうよ。でもね、マンションを三つか四つ持ってて、人に貸してるの。その一つが、まだ借り手がなくて空いてるはずよ」
「そりゃいいや」
と、松本が肯いて、「奴らは、僕のことだってすぐに調べるだろう。そういう、表に住所の出ていない所が、一番身を隠すには向いてるよ」
「身を隠す、って……」
と、咲江は当惑して、「大学はどうするのよ」
「死んじまったら、大学へも行けないんだぜ。そうだろ?」
まあ、咲江としても、その松本の言葉は正しいと認めないわけにはいかなかった。
「僕は、あのラテン語の日記帳を、せっせと読む。君はこの一件が片付くまで、大学へ出て来ちゃ危いよ」
「――授業、聞きたいのに」
と、咲江がむくれると、京子がため息をついて、
「代ってあげたいわね。できるもんなら」
と、言ったのだった。
「ともかく、今は食べよう」
料理が来て、三人は食べ始めた。――咲江は、自分の身に危険が迫っていることを、頭では分っていても、何となく実感できなかった。
むしろ、自分と松本の間がこれからどうなるのか、そっちの方が、気にかかっていたのである……。
10 空からの音
「どうかしたんですか」
と、入江は、署長の水島の顔を見るなり、言った。
「や、どうも」
と、水島は渋い顔で、「ちょっと面倒なことになりましてね」
いつもの通り、朝十時に署へ出向いて行った入江だが、中がいやにざわついているのである。
「実は――この間、首を|吊《つ》って死んだ、花田あやという女なんですが」
と、水島は言った。
「ああ、郵便局の手伝いに来ていたとかいう……」
「そうです。――まあ、一人住いだし、寂しさがつのって自殺したとしても、不思議じゃない。今日、葬式なんですがね」
「その花田あやが、どうかしたんですか?」
「誰か、県警へ電話した者がいるらしいんです。それは自殺じゃない。殺されたんだとね」
「ほう」
「で、朝早くから、県警のお偉方に呼び出されましてね。一応、検死の手続きを取れ、と……。問題はない、と言ったんですが」
と、水島はふくれている。
「まあ、上の方の人は、言うだけだから、楽なもんですよ」
と、入江は肯いた。
「全くです!」
と、水島はため息をついて、「お寺さんにも、迷惑をかけてしまって……。そういうことを、さっぱり分ってくれない」
文句を言ってから、水島は、いささか照れた様子で、
「いや、すみません。入江さんに文句を言っても仕方ないのに」
と、頭をかいた。
「いやいや。よく分りますよ。すると、当然、現場の証拠保全の問題も出て来ますね」
「そうなんです。朝からそれで、てんてこまいでしてね。申し訳ありませんが、今日は――」
「ああ、分りました。いや、警官には、何といっても、現場を踏ませるのが一番ですからな」
「しかし、吹田なんか、入江さんにすっかり参ってますよ」
「あの若いのですか? なかなかよく働いてますな」
「有望です。昔と違って、骨惜しみせずに仕事に打ち込む者は少なくなりましたよ」
と、水島は自分で肯いて、「――では、失礼して、県警の相手をしなくてはならんもので」
「どうぞ。気にせんで下さい」
と、入江は言って、行きかけた水島へ、「誰が県警に電話したか、分ったんですか?」
と、声をかけた。
水島は振り向くと、
「分ってるんですよ、|敦《あつ》|子《こ》のやつですよ」
「敦子?」
「ほら、郵便局で働いてる若い子です」
「ああ、あの娘ですか」
「生意気なんです。ろくに何も分らんくせに……。局長に言っときましたから、クビでしょうな」
――水島が行ってしまうと、入江は、署から外へ出た。
大分、町にも慣れて来た。
町の人たちも、入江や大内、柴田依子を見ると、ニッコリ笑って会釈するようになっている。
入江が、盗まれた現金書留の入った袋の隠し場所を言い当てた、という話を、あの吹田が大げさにしゃべって回ったせいもあるのだ。入江はすっかり、「名探偵」にまつり上げられてしまっていた。
もちろん、あの事件そのものは、至ってすっきりしない。例の花田あやとかいう女の自殺にしても、そうだ。
旅館へ戻る前に、入江は郵便局の方へと歩いて行った。すると――郵便局から、勢いよく出て来たのは、水島の言っていた、「敦子のやつ」だ。
「――やあ、君」
と、声をかけると、今にも爆発しそうなほど、不機嫌な顔をしていた娘は、
「何ですか!」
と、かみつきそうな声を出した。
「おい、そうおっかない声を出すなよ」
「あ――。入江さん、でしたっけ」
「うん。どうしたんだい?」
その娘は、息をついて、
「クビになったんです」
と、言った。
どうやら、水島の言った通りになったらしい。
「そりゃ気の毒に。――何かあったのかね?」
「私が、守秘義務を守らなかった、って」
「それは、もしかして、我々のせいかな」
「いいえ」
と、娘は首を振った。「誰だかの所へ届いた手紙が開封されてた、と言うんです。私が中を読んだ、って苦情が来てるって」
それは明らかに言いがかりだろう。
「私、そんなこと、絶対にしません!」
と、娘はむくれている。
「ま、その内、分ってくれるよ」
と、入江は慰めて、「どうだい、我々の旅館へ来ないか。お茶でも飲んで、少し気分を直したら?」
「ええ……」
と、娘は入江を見て、「でも――」
「何だい?」
「私、年上の人って、あんまり|好《この》みじゃないんです」
入江は、こんな小さな町の娘も、都会並みになってるなと痛感したのだった。
「――さ、お菓子でも」
と、柴田依子が、お茶とお菓子を娘に出した。「敦子さん、っていうの?」
「はい。木下敦子です」
と、娘はペコンと頭を下げた。
「ま、君がクビになったのは、そういうわけだよ」
と、入江が言った。「しかし、君、県警へ電話したのかい?」
「いいえ。まさか! 大体、県警って、何番にかけりゃいいんですか?」
と、敦子が菓子を|頬《ほお》ばる。
「でも、検死があるって、いいことじゃないでしょうか」
と、依子が言った。
「そうだ。少しでも怪しい点は残さないようにしないとね」
「おばさん、殺されたのかなあ」
と、敦子は、|眉《まゆ》を寄せて、「でも、人に恨まれるような人じゃなかったんですよ」
「恨まれなくても殺されることはあるよ。ある人にとってまずいことを知ってしまった、とかね」
「そうですね。――じゃ、あの泥棒と、何か関係が?」
「あり得るね。泥棒の、すぐ次の日、っていうのも妙だよ」
|襖《ふすま》が開いて、大内が入って来た。
「あれ。警部、今日の講義は?」
「中止だ。――おい、木下敦子君だ」
「やあ、郵便局の」
「元[#「元」に傍点]、です」
「え?」
依子が、入江の腕をつついて、
「係長。ちょっとお話が」
と言った。
「うん」
入江と依子は、隣の部屋へ移った。
「――咲江さんから連絡があったんです」
「そうか。何か分ったのか?」
「それどころか、命を|狙《ねら》われたそうです」
「何だと?」
入江が、青くなった。「それで――」
「無事です、ご安心下さい」
「そうか……」
入江は、息をついた。「詳しく話してくれよ」
――依子が、咲江から聞いた話を、入江にくり返すと、
「――すると、何か? その松本って|奴《やつ》と、キスした? 何て奴だ! その男を暴行未遂で逮捕してやる!」
「係長。もう咲江さんは二十一ですよ」
「まだ子供だ」
「しっかりしてますよ、咲江さんは」
と依子は苦笑して、「それより、あの日記帳の中身、気になりますね」
「全くだ。あんな物、咲江の所へ送るんじゃなかったな」
と、入江は渋い顔で言った。
「問題は、東京にいる誰かが、私たちのことを知っただろう、ってことです」
と、依子は言った。
「うむ」
「咲江さんが危い目にあった、ってことは、私たち、それに、あの笠矢祥子って子も、同じように危いかもしれない、ということですわ」
「俺たちは、まあ用心すればすむが……」
「あの子に警告する必要がありますね」
入江は|肯《うなず》いて、
「いい機会だ。三人で、その娘の家へ行ってみよう。今日は水島署長も忙しい」
「結構ですね」
と、依子は肯いた。「――大内さんも、一緒に?」
「もちろんだ」
「でも、あの木下敦子と、楽しくやってるようですし」
「何だと?」
入江は目を丸くした。
「あの子、なかなかしっかりしてますよ、ねえ、警部」
と、大内が言った。
「そうか?」
入江は、依子の目にはっきり分ることが、どうして|俺《おれ》には分らないのか、と首をかしげていた。
「――こりゃ|凄《すご》い」
と、大内が言った。
地蔵の谷へ、三人は入って来た。
両側の斜面から、何百という地蔵が、三人を見下ろしている。
「ね、なかなか壮観でしょ」
と、依子が言った。
「何だか、じっと見張られてるみたいで、いやだね」
と、大内は言った。
「おい」
と、入江は言った。「|尾《つ》けられてないか?」
「大丈夫です。気を付けてますよ」
大内が肯く。
そこはプロである、尾けられていれば、必ず気付いている。
「足下に気を付けて下さい」
と、依子が言った。
「あの娘、家にいるのか?」
「昨日、今日と見てませんから。――たぶん、いると思います」
「しっ」
と、大内が言った。
「どうしたの?」
「音が……」
大内は足を止め、耳を澄ました。
かすかに、|唸《うな》りのような音が、遠く空のかなたから、近付いて来る。
「ヘリコプターだ」
と、大内が言った。
11 爆 発
ヘリコプターの音は、入江たちの方へと近付いて来ているようだった。
このままでは、丸見えだろう。
「どこかへ隠れよう」
と、入江が言った。
「でも、どこへ?」
と、大内が左右を見回す。
どちら側も、地蔵の並ぶ急な斜面だ。
「上るしかありませんわ」
と、依子が言った。「大内さん!」
「うん」
「係長を押してあげて」
「分った。じゃ、警部――」
「こら! 自分で上れる! 馬鹿にするな!」
と、入江はムッとしたように言って、「ついて来られなくても知らんぞ!」
一気に斜面をかけ上る。依子と大内も、あわてて入江の後を追った。
見ろ、この足の若さを! 入江は調子に乗って、斜面を半分以上も駆け上ったが、そこからは急に足も重くなって、よろけてしまった。大内があわてて入江の背中を支えて、
「大丈夫ですか!」
「当り前だ、放っといてくれ!」
と、わめいたものの、大内と依子が構わずにぐいぐいと入江を押し上げる。
何とか間に合った!――斜面を上り切った木立ちの間に三人が転がり込むと、谷の上、かなり低空をヘリコプターが一機、|轟《ごう》|音《おん》と共に駆け抜けて行った。
三人はしばらく激しく息をして、言葉も出なかった。――大内が汗を|拭《ぬぐ》って、
「どこへ向ってるんだろう、あのヘリは」
と、言った。
「たぶんあの子のいる家だわ」
と、依子が言った。「こうしちゃいられない。急がないと」
「そうだな。警部、ここで休んでて下さい」
「何を言うか!」
入江も、立ち上って怒鳴るだけの余裕が出て来た。
「お前たちだけじゃ、頼りなくてやれるか」
「じゃ、急ぎましょう」
と、依子が促し、また斜面を駆け下り始めた。
急な斜面を下りるのは、むしろ上る以上に難しかった。失礼(?)など気にせずに、途中の地蔵につかまり、バランスを取りながら、やっと三人は下の道に下りた。
「こっちです」
依子が先に立って、三人は肩で息をつきながら、道を急いだ。
方向感覚のいい依子でなかったら、林の中の道を、あの笠矢祥子のいる家まで|辿《たど》ることは難しかったろう。
「もう少しです」
「ヘリの音が聞こえないな」
と、大内が言った。「関係なかったのかな?」
「でも、こんな山の中に何の用事だ?」
と、入江は言った。「たぶん、様子を見ているんだ、周辺の」
入江の言葉が正しかったことは、すぐにあの音[#「あの音」に傍点]が頭上に近付いて来たことで、証明された。今度は隠れる場所を見付けるのに苦労はしなかった。
「――何をするつもりなんでしょう?」
と、依子は言った。
「分らんな。この辺に、ヘリが下りられるような広い場所があるのか?」
「分りません。ここへあの子たちが連れられて来た時は、大分遠くに下りたはずです」
「そうだったな」
と、入江は依子の話を思い出して、|肯《うなず》いた。「――行ったか」
ヘリコプターの音は、遠ざかって行った。
「でも、警部、ヘリは、空中に静止できますよ。下りる場所がなくても」
「それぐらい知っとる」
と、入江はぶっきらぼうに言った。
気に入らない。――あんな女の子一人を、どうしようというのだろう?
「ともかく、行こう。ここまで来たんだからな」
三人は、足を早めた。
「もう少しです」
と、依子が言った。
「こりゃ凄い」
その家を目の前にして、大内がヒューッと口笛を鳴らした。
「こりゃ大したもんだ。山小屋みたいなもんかと思ったが」
入江は足を止めたので、汗がふき出て来て、ハンカチで顔を拭った。「例の娘はいるかな?」
「どうでしょう。当然あのヘリの音を聞いてるでしょうし」
と、依子が足を踏み出そうとした時、突然ヘリコプターの爆音が迫って来た。
「隠れろ!」
と、入江が依子の腕をつかむ。「畜生! どこにいたんだ!」
三人は、林の中へ飛び込んで、転がるように身を伏せた。
しかし、ヘリコプターは、入江たちを見付けて近付いて来たのではないようだった。
笠矢祥子の家の真上に、ヘリコプターが静止した。
三人のいる所まで、ローターの巻き起こす風が吹き付けて来る。
「下りて来るつもりかな」
と、入江が言った。
依子がそっと顔を木々の間から|覗《のぞ》かせて、
「いえ、人が出て来る様子はありませんけど……。ヘリの窓が開いてます。――何か投げ落としたわ」
「何を?」
「分りません。箱みたいな物です。――ヘリが上昇して行きます」
爆音は急速に頭上高く、離れて行った。
「別に何も――」
と、覗いていた依子が言いかけた時だった。
一瞬、空気が裂けた。風圧と激しい爆発音で、三人は本当に体を殴りつけられるショックを感じた。
入江は反射的に頭をかかえ、地面に小さくなった。森の中へ、布や木ぎれやガラスや、あらゆる破片が飛び込んで来て、木々の幹に当って、さらに砕ける。
耳がジーンと鳴って、何も聞こえない。
――少し間を置いて、バラバラと小石とも土とも知れないものが降って来た。入江は何か叫んだが、自分でもよく分っていなかった。
たぶん、
「頭を上げずにじっとしてろ!」
と、怒鳴ったのだろう。
ひとしきり、落下物が降りつづけて、それが止んだ後は、沈黙が来た。こげくさい|匂《にお》いがあたりに満ちて、少しむせた。
入江はそっと体を起こし、雨に濡れた犬みたいに、頭を激しく振った。バラバラと、体に降りかかっていた破片が落ちていく。
「――何だ、一体」
と、入江は|呟《つぶや》いた。
「ひでえなあ……」
大内も、やっと起き上る。「何です、警部、今のは?」
「――見ろよ」
と、入江は言った。
木立ちの間から、あの家が――いや、家の|残《ざん》|骸《がい》が見えた。
二階建の、あのしっかりした一軒家が、完全に吹っ飛んで、跡形もない。――一階部分の隅の辺りに、やっと半分ほど壁が残っていたが、その他は、土台だけと言ってもいいほどだった。
あちこちに火が燃えていた。たぶん、プロパンのガスなども、使っていたはずだ。
「爆弾ですか」
と、大内は、やっと口を開いた。「じゃ、あの女の子は一緒に――」
「抹殺するつもりだったんだな」
と、入江は首を振った。
やっと耳が聞こえるようになっていた。
「もし中にいたら、とても助かるまい。おい――」
入江は依子の方を振り向いて、目を見開いた。「どうした!」
依子は、家を見ていた[#「家を見ていた」に傍点]のだ。爆発の瞬間まで。
仰向けに、木立ちの間に倒れて、身動きしていなかった。大内と入江は同時に駆け寄った。
「脈は?」
入江は依子の手首を取った。
「――大丈夫。しっかりしている。気を失っただけだろう。けがはしてるか?」
「スカートが裂けてますが」
「めくって見ろ。遠慮してる場合じゃない」
|太《ふと》|腿《もも》に、何かガラスの破片らしいものが突き刺さっていたが、簡単に抜けた。血は出たが、そう深い傷ではないらしい。
「耳が心配だな。鼓膜をやられたかもしれん」
と、入江は言った。「ともかく医者へ連れて行かないと……」
「僕が背負います。乗せて下さい」
「よし」
入江が、かかえ上げると、依子が低い|呻《うめ》き声を上げて、大きく呼吸した。
目が開く。――早い瞬きをくり返している。
「気が付いたか」
「係長……。大内さんは?」
「ここだよ」
「良かった! 二人とも大丈夫ですか?」
「ああ。君もかなり傷だらけだ。ひどい目に遭ったな。医者へ連れて行こう」
「いえ……。あの子は?」
「さあな。家があのありさまじゃ」
と、入江が、爆破された家の方を見やる。
「家はどうなったんです?」
と、依子が|訊《き》いた。
「どうって――」
入江は息をのんだ。依子の目は開いているが、何も[#「何も」に傍点]見ていない!
「どうした? 見えないのか?」
「今……夜ですか?」
入江と大内は顔を見合わせた。
「明るいんですね、まだ」
と、依子が言った。
少し声が震えている。
「爆発をまともに見てしまったからですわ、きっと。――何も見えません」
「何てことだ!」
入江は思わず目を閉じた。「――すまん! |俺《おれ》がついていながら」
「いや、警部、きっと一時的なもんですよ、ショックで。大丈夫! 見えるようになりますよ!」
大内がほとんど怒鳴るような声で言った。入江も、何とか気を取り直すと、
「そうだな、別に目が傷ついてるわけでもない。――ともかく医者だ」
「ええ。僕がおぶって行く」
大内が、背中に依子をのせると、
「悪いわね、重くて」
「何言ってるんだ。君なんか風で吹き飛ばされないようにおもし[#「おもし」に傍点]でも置いとかなきゃ」
「まあひどい」
と、依子は少し笑った。
「よし、急いで戻ろう」
三人は、来た道を戻って行った。
地蔵の谷へ出て、谷間の道を歩いていると、依子が、
「待って」
と、言った。
「どうした? どこか痛むのかい?」
「いいえ。――係長」
「何だ?」
「医者はだめです」
「どうして?」
「こんな状態で医者へ行って、どうしたのか説明できます?」
入江は詰った。――確かに、あの爆発を目の前で見たことを話さなくてはなるまい。
「旅館へ戻りましょう」
と、依子は言った。「お二人とも、ひどい格好でしょ? 何とか普通のなりに見える程度にきれいにして。私一人が、どこかから落ちたことにでもしないと」
「しかし……」
「考えて下さい。あの子はたぶん殺されたんです。咲江さんも命を|狙《ねら》われたんですよ。私たちが、あの爆発を見たことが知れたら、きっと私たちも殺されます」
大内は入江を見た。入江としても、依子の言葉が正しいことは分っている。
「だが、君の目が――」
「水で冷やしてもらえば大丈夫です。傷ついてるわけじゃないんですから、医者へ行っても同じです」
入江は、少し考えていたが、
「いや、君を医者にもかけずに放っとくわけにはいかん」
と、首を振った。
「そうさ。なあに、僕たちなら、そう簡単に殺されやしないよ」
「いや、用心には用心だ。ここは何とかうまく切り抜けよう。まず、あの町を出ることだ」
「でも係長……。突然そんなことを――」
「まあ、任せろ」
と、入江は言った。「年の功だ。少しは俺だって頭が回ることがある」
そして、大内の方へ、
「この大内の色気[#「色気」に傍点]が頼りだな」
と言った。
大内はキョトンとして、入江を見つめていた。
「突然のことで申し訳ありません」
と、入江は言った。
「いやいや、こちらこそ、お世話になりながら、お礼をする機会もなくて」
署長の水島は、いやに愛想が良かった。「まあ、こんな所ですから、特にご|挨《あい》|拶《さつ》しませんので、柴田さんによろしくお伝え下さい」
「ありがとうございます。じゃ、車を拝借して行きます」
「ええ、どうぞ。ご便利のいい所で、近くの署へお返し下さい」
入江は、立ち上った。――もう外は大分暗くなっている。
「では失礼します」
と、入江はもう一度頭を下げて、署を出た。
軽く息をつく。――表に停った車に、乗り込む。助手席に乗って、
「よし、出かけよう」
と、ハンドルを握る大内に言った。
「はい」
車が走り出す。
柴田依子は後ろの席で、ハンカチを顔に押し当てて、涙をこらえている。――父親が事故に遭って重体という連絡が旅館に入ったのである。
「町を出るまで、そのままで」
と、入江が言うと、依子が、
「はい」
と、答えた。
いや、依子ではない。あの、郵便局をクビになった木下敦子なのである。
敦子が、東京から、と言って旅館に電話を入れ、こうして依子の身替りをつとめているのだ。
車はたちまち町を出て、山道へ入った。
「よし、停めろ」
と、入江は言った。「――おい、もう大丈夫だ」
後部座席の床に毛布にくるまって、身を縮めていた依子が、敦子に助けられて、起き上った。
「ありがとう……。迷惑かけたわね」
依子が座席に座ると、言った。
「いいえ。こんなこと、お安いご用です」
と、敦子は言った。「どうですか、気分は?」
「ええ。目の辺りの熱が、大分さめたみたいだわ」
依子は、冷たく濡らした布を目に当てていた。
「ともかく、大きな病院へ急いで行くんだ」
と、入江は言ってから、「敦子君。君、すまんが、ここから歩いて戻ってくれるか?」
「戻らなきゃいけませんか」
敦子の言葉に、入江は面喰らって、
「しかし……」
「私、身よりってないんです。今いるのも、おばさんの所で、邪魔にされてるし。よかったら、連れてって下さい」
入江は大内の顔を見て、
「そういうことになってたのか?」
と、|訊《き》いた。
「いえ、別に……」
「|嘘《うそ》つき!」
と、敦子がプーッとふくれて、「手伝ってくれたら、連れてってやる、って言ったじゃないの、キスしながら」
入江は苦笑いして、
「それじゃ仕方ないな。言ったことの責任は取れよ」
と、大内の肩をポンと|叩《たた》いた。「よし、出発だ」
12 罠
自分のマンションに戻って来た松本は、ドアの前で足を止めた。
中で物音がする。人の声も。――しかも一人じゃない。
誰だろう?
友だちが勝手に入ったのかな? いや、そんなことは考えられない。
用心した方がいい、と思った。何しろ、あのベンツに命を狙われた後なのだから。
一旦、外へ出ようと思った時には、もう遅かった。ドアが開いたのだ。
しかし――そこに立っていたのは、警官だった。
「何やってるんですか?」
と、松本は訊いた。
すると、その警官を押しのけて、私服の刑事が顔を出した。
「君は松本重起?」
「そうですけど」
「入ってくれ」
仕方ない。――ま、別に悪いことをした覚えもないしね。
松本は中へ入ってびっくりした。
大学へ入って、父親にこのマンションを買ってもらったのだが、2LDKの、一人にはぜいたくな広さだ。
しかし、今、中には警官が何人も動き回っていた。あらゆる引出しや棚があけられて、中身がぶちまけられている。
「何してるんだ!」
カッとなった松本が怒鳴ると、
「おいおい」
刑事が、松本の肩を叩いて、「そう熱くなるなよ」
と、小馬鹿にしたような調子で、言った。
「一体どういうことですか、これは?」
と、松本は何とか怒りを抑えて、言った。
しかし、刑事の方は答えようともせず、
「ここに一人暮しか。いいご身分だな」
と、不愉快そうに鼻を鳴らした。「いくら女を引張り込んでも、親の目は届かないわけだ。全く、今の親は何を考えているんだろうな」
「そんなことしか考えられないんですか、今の刑事さんは」
と、松本は言ってやった。
「おい、なめた言い方をするじゃないか」
と、まだ二十代らしい若いその刑事は、松本の胸ぐらをつかんだ。
「何のご用でいらしたのか、教えていただけませんか」
松本は却って冷静になれた。相手が、金持ちのどら息子という先入観でものを言っているのが分ると、気の毒になって来てしまう。
「分らなきゃ教えてやるよ」
と、刑事は手をはなした。「善良な市民から通報があったのさ。ここでマリファナパーティをやってるぜ、ってな」
「マリファナ?」
馬鹿らしい、という顔で、「そんなお金があったら、本を買いますよ」
「そうか? ないっていうんだな、そんなものは」
「ええ」
「じゃ、心配しないでおとなしく見物してるんだな」
刑事は、ポンとくずかごをけとばした。中のゴミが飛び散る。
――仕方ない。今はこらえているしかないだろう。
松本は、腕組みをして、リビングの入口のドアにもたれて立っていた。
「いいか! 隅から隅まで捜せ! 叩き壊しても構わん!」
と、あの若い刑事が、ハッパをかけている。
松本は気になった。――一体誰がそんなでたらめの密告電話をしたのだろう?
誰かに恨まれる覚えはない。大体、大学でも松本は「変り者」で通っているのだし、特別に誰かと争ったということもない……。
そうか!
あの日記帳! 誰かが、あれを手に入れようとして……。
松本は日記帳が無事かどうか、確かめたかった。しかし、今、動いたら、それこそあの刑事は、松本がマリファナを隠そうとしたと思うだろう。
松本は|苛《いら》|立《だ》ちを押えながら、じっと待っていた。
「――あったぞ!」
と、声がした。
警官の一人が、ビニールの袋を手に、台所から出て来た。手は真白になっている。
「どこにあった?」
と、刑事が急いでやって来る。
「台所です。小麦粉の袋の中に」
小麦粉の袋? そんなもの、初めっから置いていない。
そうか。――|罠《わな》だ。
誰かがここへ忍び込んで、|予《あらかじ》めあれを隠しておいたのだ。それから一一〇番して……。
「なるほどな、隠し場所はあんまり頭のいい|奴《やつ》の考えとは思えんな」
と、若い刑事が笑った。
どうしよう?――松本は、一瞬考えた。
今は、咲江を守らなくてはならない。この刑事に引張って行かれたら、当分は釈放してもらえまい。
みすみす、相手の罠にはまってたまるもんか!
松本は、パッと玄関へ向って飛び出して行った。
「おい!」
刑事が、焦って怒鳴った。「そいつを逃がすな!」
松本は、靴を引っかけ、玄関のドアの上にある、電気のブレーカーを、飛び上って切った。部屋の中が真暗になる。
外へ飛び出してドアを閉める。中で、誰かが転ぶ音がした。
「馬鹿! どけ!」
と、あの刑事が騒いでいる。
松本は、エレベーターに向って走り出した。そして、一階のボタンを押しておいて、階段を駆け上った。
足を止めて耳を澄ますと、
「下へ回れ!」
と、刑事の怒鳴る声が聞こえて来た。
松本は階段を上り続けた。――屋上へ出て息をつく。
風が冷たかった。松本は建物の反対側にある、荷物用のエレベーターへと急いだ。
たぶん、あの刑事たちは、この荷物エレベーターのことは知らないだろう。マンション内には会社もいくつか入っているので、別にこのエレベーターを付けてあるのだ。
松本は地階まで下りた。駐車場だ。
人の気配はない。出口の方へ駆け出そうとすると、警官の姿が目に入った。
まずい!――あわてて、車の間へ隠れる。
「よく見張ってろ!」
と、あの刑事が言っている。
そう馬鹿でもないらしいや、と、松本は思った。どこから出よう? もちろん、出入口は固めてしまっているのだろう。
「参ったな……」
と、|呟《つぶや》いていると、
「何してんの?」
いきなり女の子の声がして、松本はびっくりした。
真赤な超ミニスカートの女の子が、松本を見下ろしている。
「あら、あんた下の部屋の大学生でしょ」
と、女の子は言った。
「君は……じゃ、上の部屋の? いつもガンガン、ロックをかけてる」
「そうよ。聞こえてる?」
「当り前さ。しかも午前三時や四時に」
「あら、三時四時が、私、一番元気なんだもん」
と、女の子は笑って、「お巡りさんが騒いでるわよ。何かやったの? 婦女暴行?」
「よせよ。マリファナだってさ」
「あら、見かけによらないのね」
と、面白そうに、「この車。私のよ。乗る?」
「――いいのか?」
「見付かりたくなかったら、トランクの中ね」
あんまり気が進むとは言いにくかったけれど、今の場合は仕方ない。
「頼むよ」
と、松本は言った。
「OK。じゃ、中に毛布があるから、それを敷いて。少しは乗り心地がいいかもしれないわよ」
女の子は、真赤なスポーツカーのドアを開けると、トランクのロックを外した。松本は急いで中へ入った。
「私、ルミ。あんたは?」
「松本」
「どこかにそんな場所、あったわね」
と言って、ルミという子は笑った。「じゃ、また後で」
バタン、とトランクの|蓋《ふた》が閉じる。松本は、
「えらいことになったな……」
と呟いたが、ここは運を天に任せるしかない、と諦めて、手探りで毛布を広げようとした。
とたんに車が飛び出して、松本はいやというほど頭をぶつけてしまったのだった……。
やっと車は停った。
ドアが開く音がして、足音が後ろへ回って来た。
トランクの蓋が開く。
「――どうだった、乗り心地は?」
ルミが、いたずらっぽく|訊《き》く。
「体中の骨がバラバラだよ」
と、松本はやっとの思いで、トランクを出て、腰を叩くと、「ひどい運転だなあ、全く!」
「あら、でも事故は起こしてないわ。人もはねてないし」
「そりゃ当り前……」
と言って、松本は、「――ここ、どこだい?」
「モテル」
「何だって?」
「疲れたでしょ。――入って」
そのまま、部屋へ引張り込まれる。
「結構新しいのよ」
と、ルミは言った。「一度来てみたかったんだ」
「ふーん」
松本は、目がくらみそうな、やたらまぶしい照明や、派手な内装に|呆《あっ》|気《け》に取られていたが……。
ちょっと咳払いして、
「ともかく助かったよ。マリファナって言ったけど、僕は何も知らないんだ。ぬれぎぬなんだよ」
「あ、そう」
ルミは一向に関心のない様子で、「ねえ、すてきでしょ、四十インチのTV!」
「お礼を言うよ。僕はちょっと急いで行かなきゃいけない所があるんだ」
「まだだめよ」
「だめって?」
「私がタダであなたを乗せてあげると思った?」
「いや……。今はね、ちょっとお金を持ってなくて」
「お金なんかいらないわよ」
とルミは言うと、いきなり服を脱ぎ出したのだ。
松本は仰天した。
「ね、君! 落ちついて!」
「あんたの方がよっぽどあわててる」
確かに、ルミの言う通りだった。
「僕には恋人がいて……」
「関係ないでしょ」
「どうして?」
「これは請求と支払い。――はい、これ[#「これ」に傍点]が請求書」
裸になったルミが、クルッと回って見せる。
スラリとした、いいプロポーションだった。
「あなたは、ちゃんと支払うわよね」
ルミが両手を松本の首にかける。
「だけどね、僕は……」
「真面目なんでしょ」
「うん……。まあね」
「だったら、タダで人のことを利用したりしないわよね」
「そりゃ君の要求はね、当然の権利と……」
「頭のいい人って好きよ。すぐに理解してくれるから」
「あの……」
松本は、何も言えなくなってしまった。口をルミの唇でふさがれてしまったからだ。
二人はそのまま、大きなベッドの上に倒れ込んだ。
――仕方なかった。松本は支払いをすることになったのである。
「何ですって?」
と、咲江は松本の話に息をのんだ。「警察の人が?」
「誰か、僕らを|狙《ねら》った連中だよ、きっと」
と、松本は言った。「困った。あのマンションに入れなくなっちまった」
――咲江は、友だちの川田京子のすすめで、京子の親が持っている空室のあるマンションへ入っていた。
ここなら、まず見付かる心配はない、と思ったからである。松本もここへやって来た。
他に行く所もない。
しかし、ちょっと困ったのは……。
「それで、その人[#「その人」に傍点]は?」
と、咲江が、真赤な超ミニのルミの方を見て、訊いた。
「うん……。僕があのマンションを出る時にね、助けてくれたんだ」
結局、ルミがここまでついて来てしまったのである。
「まあ、良かったわね。――ありがとうございました」
と、咲江が頭を下げると、
「いいのよ。ちゃんとその人から支払い[#「支払い」に傍点]はしてもらったから」
松本はあわてて咳払いすると、
「ともかく、その……。君は忙しいんだろ? 送ってくれてありがとう」
と、ルミを出て行かせようとしたが、
「何言ってるの」
と、咲江の方が松本を止めて、「そんなにお世話になっておいて。――せめてお茶でも」
「そう? 私、お腹空いてるの、ちょっと運動したもんだから」
松本が、また汗を|拭《ぬぐ》った。
「じゃ、ちょっと遅いけど、何か作りましょうか、夜食でも」
「あら、|嬉《うれ》しいわ」
と、ルミがニッコリ笑って、「自慢じゃないけど、私、カップラーメンもうまく作れないの。三分っていっても、いつも忘れて三十分もたっちゃうのよ」
「休んでらして、何か作るわ。あなたも食べるでしょ?」
松本が、
「うん……。でも――」
と言ったとたん、お腹がグーッと鳴ったのだった……。
咲江が台所に立っている間、松本とルミは居間のソファに座った。
「なあ」
と、松本が低い声で、「彼女には内緒。頼むよ」
「いいわよ。その代り――」
「何だい?」
「追い返そう、とかしないこと。――分った?」
「分った」
松本は、諦めて、|肯《うなず》いた。ともかくルミは暇で困っているらしいのだ。松本たちの巻き込まれた事件は、正にルミにとっては、格好の暇つぶしなのだ。
――二十分ほどで、咲江は熱い「ぞうすい」を作って運んで来た。
「さ、熱い内にどうぞ。味が分ると、がっかりされそうだから」
と、咲江は照れたように言った。
「へえ! 器用なのねえ。おいしそう」
と、ルミは、遠慮もなく、さっさと食べ始めた。
「|旨《うま》い」
と、松本は言った。「料理を習ったのかい?」
「だって、中学の時、母が亡くなったのよ。ずっとご飯を作って来たんだもの。少しはやれるようになるわ」
と、咲江も食べながら、「ルミさん、お味はいかが?」
ルミは、ものも言わずに食べていたが、やがて顔を上げると、
「――あなたって、すばらしい人ね」
と、言った。
咲江が面喰らって、
「あら、どうも……」
「この味! 作った人の人柄がそのまま出てるわ。すばらしい!」
どうやら感激しやすい体質のようである。
「ね、あんた」
と、松本をつっついて、「この人と、婚約してるの?」
「いや、まだ。だって――」
「馬鹿ね! 早くつかまえないと、こんな人、二度と出会えないわよ。一生悔むことになるわよ」
「そうかな。しかし今は――」
「今は、今は、って言ってちゃ逃げられるの! 明日、彼女はあんたよりもっといい男と会うかもしれないわよ。今すぐ、この人をとっつかまえなきゃ」
「嬉しいわ、でも――」
と、咲江が言いかけると、
「この人と寝たの?」
と、ルミが訊く。
「いいえ……」
「じゃ、今夜、この人と寝るのよ。こんだけ食べりゃ、体力も回復するでしょ」
「おい――」
「やり方知らなきゃ、教えてあげるわよ」
と、ルミは言った。「さ、早く食べよ」
ポカンとしていた咲江は、松本と顔を見合わせ、それから|頬《ほお》を赤くして、自分のぞうすいを食べ始めた。
13 逃 亡
医師が、病室から出て来る。
大内は、パッと立ち上った。いつの間にか眠り込んで大内にもたれていた入江が、横に倒れそうになって、あわてて起き上った。
「や、どうも」
と、中年の太った医師は肯いて見せた。
「どうも夜遅くに申し訳ありません」
と、大内が言った。
「いや、全く」
と、入江も立ち上って、「どうですか、具合は?」
「まあ、詳しいことはもっと検査してみないと、何とも言えませんが」
と、医師は言った。「目そのものには異常は認められないので、たぶんショックによるものでしょう。一時的なものだと思いますよ」
「そうですか」
入江はホッとした。――これで依子が失明することにでもなったら、何とも気が重いからだ。
「まあ、ゆっくり静養させることです」
「どうも……。あの、今夜はここでお世話になっても――」
「構いませんよ。どうせ病室は空いてる。ついでに入院していきますか、みんなで」
面白い医師だった。
「先を急ぎますんで。明朝、出発したいと思います。我々はこの待合室で夜明かししますので」
「ご自由に。お茶くらいでしたら、宿直室でさし上げますよ」
「ありがとうございます」
――医師が行ってしまうと、入江と大内は顔を見合わせた。
「やれやれ、重荷が下りた気分だ」
「全くですね」
と、大内は言った。「東京へ行ったら、精密な検査を」
「うん。そうしよう」
入江は|欠伸《あくび》をした。
「警部、休んで下さい。僕は彼女のそばについてます」
「例の|娘《こ》は?」
「車で寝てます。後で様子を見て来ますよ」
「そうか。――今、十一時か」
入江は腕時計を見て、「|俺《おれ》が先に柴田君についてるよ。お前は、車で少し眠って来い」
「しかし――」
「俺は途中で代る。その方が楽だ」
「分りました。じゃ、一時ごろに」
「それじゃ、お前が眠れん。二時で充分だ」
「了解しました」
大内は肯いて、病院の夜間出入口の方へ歩いて行った。
入江は、そっと病室へ入った。
二人部屋だが、片方は空いているので、依子一人がベッドで寝ている。そっと|椅《い》|子《す》を寄せて腰をおろすと、
「――係長ですか」
と、依子が言った。
「何だ、起きてたのか」
と、入江は言った。「どうして俺だと分った?」
「足音が重そうで」
「おいおい」
と、入江は笑った。「何てことないそうだ。良かったな。眠れよ」
「ええ……。すみません。ご厄介をかけてしまって」
「何を言っとる」
「どうぞ、おやすみになって下さい。私は大丈夫ですから」
「病人は、素直に言うことを聞くもんだ」
入江は、依子の手を両手で挟んで、「いつも君は損な役回りだったな」
「どうしたんですか。係長?」
「いや……。すまんと思ってるんだ、君や大内には」
「大内さんは?」
「車だ。あの子とな」
「そうですか。――いい子ですね、敦子さんって」
「現代っ子だ。俺にゃ分らん」
と、入江は肩をすくめた。
咲江のことだって、分っているかどうか……。
いや、分ろうともせず、そんな時間も作らなかったのではなかったか。
咲江……。大丈夫なのか。もうすぐ俺もそっちへ行くぞ。
入江は、椅子に座り直して、腕を組んだ。
そっとドアを閉めたつもりだったが、やっぱり敦子は目を開けて、
「どうしたの?」
と|訊《き》いた。
「すまん。目を覚ましちまったな」
と、大内は言った。
「いいの」
敦子は首を振って、「少し眠れば。――若いんだから」
大内はちょっと笑って、
「君の寝顔を見たかったのさ」
と、言った。
「あら。――依子さんは?」
「うん。時間が立てば、元に戻るだろうって」
「良かった」
敦子は一杯にリクライニングを倒した助手席で、息をついた。「すてきな人なのに。どうして大内さん、プロポーズしなかったの?」
「ええ?――さあね、あんまり親しくなり過ぎたのかな。家族みたいなもんさ」
「そうか。でも、良かった。おかげで、私とキスできるんだものね」
「全くだ」
大内は、敦子の額にキスして、「眠ったら?」
「あなたは?」
「二時に、入江さんと交替さ」
「じゃ、三時間ぐらいある」
「うん」
「眠る?」
「君が眠るなら」
「眠らなかったら?」
「そうだなあ……。おしゃべりでもするかい?」
「どっちもいやよ」
「しかし……こんな狭い車の中で……」
「キスするだけなら、できるでしょ」
敦子は、大内の頭をかかえるようにして、引き寄せた。――大内も遠慮はせずに、敦子の胸もとへ手を入れた。
「すてき……」
と、敦子が|囁《ささや》いた。「このまま――」
突然、車の中の無線から、
「入江さん!」
という声が飛び出して来て、二人はびっくりして飛び上がった。
「何?」
「無線だ。――何事だろう?」
大内はマイクを取った。
「入江さん! いませんか?」
「大内です」
とマイクで答える。
「良かった。吹田です」
入江に心服していた、若い巡査である。
「やあ、どうしたんだい?」
「実は――」
吹田が少し声を低くした。「よく事情は分りませんが、署長が、どこかへ連絡するのを聞いてしまったんです」
「連絡? どんな?」
「それが、あなた方が何やらまずいものを見たらしい、と。何とか始末した方が、と言っていたんです」
「そうか」
「この近辺の町へ連絡して、捜しています。見付けますよ、きっと。気を付けて下さい」
「分った。ありがとう」
「いえ。――入江さんが、悪いことなんかして、追われるはずがないです」
「|嬉《うれ》しいよ、信じてくれて。しかし君の身も危くなる。用心して。いいね」
「はい。どうかご無事で」
連絡は切れた。
「――どうするの?」
と、敦子は起き上った。
「出発するしかない。待ってろ」
大内は、車を出ると、病院へと駆けて行った。
「――参ったな」
と、松本は言った。
ソファで、いびきをかいているのは、ルミである。
「これじゃ、帰りそうもないや」
「いいじゃないの。――助けてもらったのに、文句言っちゃいけないわ」
と、咲江は言った。「ともかく、あなたもここへ泊まんなきゃね」
「そうだな。後のことは明日、考えようか……」
松本は|欠伸《あくび》をした。
「どこで寝る?」
「うん?――どこでもいいよ。僕は廊下でも台所でも寝られる」
「私のベッドでも?」
松本は、咲江の肩に手をかけると、
「ねえ……」
「無理しないで」
と、咲江は言った。
「別に僕は――」
「あのルミって人と寝たんでしょ?」
松本がギョッとすると、咲江は笑って、
「いくら私がうぶ[#「うぶ」に傍点]でも分るわよ。あんな時間に石けんの|匂《にお》いをプンプンさせて、髪も濡れてたし」
「そうか……。でも、仕方なかったんだ。助けてくれたのは確かだし――」
「いいわよ。あの人、ちょっと変ってるけどいい人だわ」
「僕が好きなのは君だ」
「分ってるけど……。私と寝たら、もうあの人とは寝ないでね」
「もちろんさ」
「じゃ、キスして」
咲江は目を閉じた……。
二人は寝室へ入り、ドアを閉めた。
「私、さっきシャワーを浴びたわ」
と、咲江は言った。「あなたはちゃんと、お風呂へ入ったのね」
「そういうことだ」
「まだ私のこと抱いてくれる元気はある?」
咲江はベッドにそっと腰をおろした。
「あるとも」
松本は、並んで腰をおろすと、咲江の肩を抱いた。――二人はそのままベッドの上に倒れ込んだ。
電話が鳴り出して、二人ははね起きた。
ベッドのそばの電話を、咲江は急いで取った。
「もしもし。――あ、京子?」
「咲江、どう、そっち?」
「うん、快適[#「快適」に傍点]よ」
「ならいいけど。さっきさ、警察の人が来たわ。あんたと松本君のこと、|訊《き》いてったわよ」
「松本君のことも?」
「うん。何かやらかしたらしいわ」
「ぬれぎぬなのよ。例の日記帳のことで」
「知ってたの?――そうか、そこにいるんだ、あいつ」
「あいつ、って……。まあね」
「もしかして、ラブシーンの最中?」
「まだこれから」
「ハハ、お邪魔しましたね」
「京子ったら……。何て答えたの?」
「居場所の心当り、って言われたから、大学の図書館にでも行ってんじゃないですか、って言っといた。でも、何だか深刻な状況じゃない?」
「うん。何か手を打たないと、どんどんこっちが不利になっていくみたい」
「明日、そっちに行くからさ。相談しようよ。ね?」
「ええ。ただ、気を付けてね。尾行とか」
「任せて。真面目に大学へ出てから、抜け出すわ」
「それじゃ、何か食べるもの、買って来てくれる?」
「いいわよ。それと、あんまり早く行かない方が良さそうね」
咲江は、チラッと松本を見て、
「そうね」
と、言った。
「それと、咲江」
「うん?」
「ちゃんと、できない[#「できない」に傍点]ように気を付けるのよ」
「はいはい」
咲江は笑って、電話を切った。「――明り、消してね」
「うん」
松本が明りを消しに立って行く。咲江は、軽く息をつくと、セーターを脱いで、軽く頭を振った。
明りが消えて、電話ももう鳴らなかった……。
「――この道のはずです」
と、大内は言った。
「夜明けまでに、何とか国道へ出たいな」
と、入江は言った。「車も多いし、目立たない」
「大丈夫ですよ」
大内が|肯《うなず》く。「まだ時間はあります」
「だといいが」
入江が|呟《つぶや》くように言った。
車は山道を走っていた。曲りくねっているが、大内の腕は一流だ。運転に不安はなかった。
後部座席では、依子と敦子が、毛布を掛けて眠っていた。
「一時半か」
と、入江は時計を見た。「しかし、分らんな。何が[#「何が」に傍点]あったんだ? あの笠矢という男と娘は、何を知ってたんだ?」
「きっと、あの日記帳ですね、|鍵《かぎ》は」
「父親は殺されたんだろう。――あの娘がどうなったか、気になる」
「あの爆発の時、家の中にいたら、おしまいですよ」
「うむ……。しかし、なぜ娘まで消す必要があったのかな」
「我々もですね」
「そうだ。あの水島って署長、裏でどこかとつながっているんだ。たぶん、〈永井かね子〉って女と」
「東京へ行かないと、糸口は見付からないようですね」
「うん。ともかく、咲江のことも心配だ。今どこでどうしてるのかもな」
「ボーイフレンドが――」
「ますます心配だ」
と、入江は言って、「――おい、何か赤い灯が見えたぞ」
「どこにですか」
「前方の、上の方だ」
「上? 山の中ですよ」
「ああ、分ってるが……。気のせいかな」
と、入江は首を振った。
そして、車が大きくカーブを切る。入江は窓を下ろした。――聞こえる。
「ヘリコプターだ!」
爆音が聞こえた。車の上に、迫って来ている。
「危いぞ!」
大内がアクセルを踏む。タイヤがきしんだ。車のすぐ後ろで、爆発が起きた。
「キャッ!」
と、敦子が飛び起きた。「何ごと?」
「ヘリコプターが追って来た」
と、入江は言った。「君らは頭を低くして毛布をかぶってろ」
「トンネルです」
と、大内が言った。「あの中へ入れば――」
「急げ!」
車がトンネルの闇の中へ突っ込むのと、爆発とがほとんど同時だった。車の後尾が大きくはね上った。
ブレーキがきしむ。
車は横転して、トンネルの壁にぶつかった。火花が闇の中に飛んだ。
「外へ出るんだ!」
入江はドアを押し上げ、足でけった。「大内! 大丈夫か!」
「ええ、何とか……。後ろの二人を」
「一旦外に出て、引張り上げる。お前、下から押せ」
「分りました!」
入江は車の外へ何とか出られて、息をついた。後ろのドアを開けると、まず敦子を引張り出す。
そして、依子を。――ガソリンの|匂《にお》いがした。
引火したら大変だ!
「急げ!」
と、入江は怒鳴った。
14 大胆な作戦
危機一髪だった。
依子が横転した車から押し出されて来るのを、入江が受け止め、そのままかかえて突っ走る。
続いて、大内が車から出て来た。――火が車の底をチラリと走ったと思うと、たちまち大きな炎が湧き上って、車を包んでしまった。
「大内!」
と、入江が怒鳴る。
「大丈夫です」
大内は、ホッと息をついて、やって来た。「やあ、危いところだった!」
「|呑《のん》|気《き》だな、お前は」
と、入江は|呆《あき》れて言った。「柴田君、けがはないか?」
「はい」
と、依子は肯いた。「ここは?」
「トンネルの中だ。ひどい目にあったな」
と、入江は首を振った。
「怖かった……」
と、敦子が今さらのように胸に手を当てている。
「君には悪いことしたなあ」
と、大内が、敦子に言った。「こんなことになると分ってりゃ、連れて来なかったんだが」
「あなたが連れて来なくても、私の方がついて来たわ」
と、敦子は言い返すと、「自分で決めたことで、文句を言うほど、だらしのない女じゃないわ、私」
入江が笑って、
「一本取られたな」
と、言った。「さあ、ともかく出かけよう」
「どこへ行きます?」
「そうだな。――元へ戻るわけにゃいかん。パトカーが追いかけて来るだろう」
「ヘリはもういないようですね」
と、大内は言った。
実際、ヘリコプターの音は聞こえなくなっている。
「我々をやっつけたと思ってるだろう。向うがそう思っている間に、逃げるんだ」
「そうですね」
「車なしじゃ、追いつかれるな。何か考えないと」
入江はため息をついた。
色々、危い目にもあって来たが、こんな状況になったのは初めてだ。何しろ、いつも「追う立場」だったのが、今度は「追われる身」である。
「よし。――ともかく先を急ごう。パトカーが追って来れば、かなり前から分る。その時はどこかに身を隠すんだ」
「分りました。柴田君、僕の背におぶさって」
「でも……」
と、依子はためらった。「係長」
「何だ?」
「私がいたら、逃げるのが遅れます。置いて行って下さい」
「馬鹿言え!」
「まさか、すぐには殺さないと思いますし。ね、大内さん」
大内と入江が顔を見合わせた。すると、敦子が、
「もし、依子さんをここへ置いて行くんだったら、私、大内さんを半殺しの目にあわせてやるから」
と、真顔で言った。
「結論が出たな」
と、大内は言った。「半殺しの目にあうのはいやだよ」
大内は、依子をおぶった。
「よし、行こう」
と、入江は言った。
――四人は、トンネルを出て、夜の道を急いだ。
入江にも、自信はなかった。果して、どこまで逃げ切れるか。
逃げて見せる。――こんなわけの分らないことで、やられてたまるか。
入江の中には怒りが渦巻いていた。あの少女まで抹殺してしまったものは、何なのか?
見てろ、|俺《おれ》たちはそう簡単にゃ、やられないからな。
怒りをかき立てることが、今は入江のエネルギー源になっていたのである。
そして――一時間近く、歩いた時だった。
「車だわ」
と敦子が言った。
「車?」
「見て」
山腹の道――たぶん、入江たちが、三十分ほど前に通った辺りを、パトカーの赤い灯が動いて来る。
「追って来たな。すぐにやって来るぞ」
「一台よ」
と、敦子は言った。「やっつけたら?」
「気楽に言うなよ」
と、大内は苦笑した。
しかし、夜中でもあり、場所も悪かった。
片側の切り立った斜面は、とても上れるような傾斜ではなかったし、反対側は鋭く落ち込んで、ずっと下には岩をかむ渓流。
「本当に一台か?」
と、入江は言った。
「ええ。でも――警部! パトカーを襲うんですか?」
「殺されるんだぞ。仕方あるまい」
と、入江は言った。「心配するな。いざって時は、俺が責任を取る」
「そんなこと、構わないんですけど……」
と、大内は言った。「どうやって、『やっつける』んですか?」
「ともかく、一旦停めるんだ。こう暗けりゃ、道の端に伏せていれば、見付かるまい」
「どうやって停めます?」
「まあ……。誰かが一人、車の前に出るしかないな」
「いきなりズドン、と来ませんかね」
「やってみるさ。おい、大内、お前は柴田君と、その子を連れて、暗がりへ行ってろ」
「警部がやるんですか? 僕がやりますよ」
「俺は女を背負うのには慣れてない」
「僕だって、慣れてるわけじゃありません」
「押し問答してる暇はないぞ」
「そうよ」
と、敦子が言った。「本当に|苛《いら》|々《いら》しちゃう!」
「悪いね」
「私に任せて」
「君が? 君がパトカーを停めるのか?」
「パトカーだって、戦車だって、停めてやるわよ。――ほら、ライトが見えたわ。早く隠れて!」
「しかし――」
「大内、彼女に任せよう、隠れろ!」
と、入江は命令した。
大内は、依子を背負って、道の隅へと駆けて行き、入江も続いた。パトカーのエンジン音も聞こえて来る。
「――何する気だ?」
と、大内が|唖《あ》|然《ぜん》とした。
薄暗がりの中で、敦子は道の真中に立つと、何と、服を脱ぎ出したのである。
「おい! 何してる!」
と、大内が怒鳴った。
「うるさいわよ!」
と、敦子が怒鳴り返し、構わずパッパと服を脱ぎ捨てて――まるっきり裸になってしまったのだ。
パトカーのライトが、カーブを曲って、真直ぐに、敦子の裸身を照らし出す。
キーッ、とブレーキの音がして、パトカーは急停車した。
ライトの中に、敦子の細身の裸体が浮かび上っている。パトカーの警官が二人、降りて来ると、目を丸くして、
「お前……郵便局にいた……」
「何してるんだ、そんな格好で?」
と、二人してポカンとしている。
「見りゃ分るでしょ」
と、敦子は言った。「日光浴です」
「夜中だぞ」
「月明りとか、闇夜にやるのが、一番いいのよ」
「へえ……。いかん!」
と、突然、一人が背筋を伸ばして、「これは軽犯罪法に違反しておる!」
「じゃ、逮捕する?」
「ともかく、服を着ろ!――風邪をひくぞ!」
「あら、心配してくれて、ありがとう」
と、敦子は言った。「でも、そっちも気を付けた方がいいと思うけど」
「気を付けるって、何にだ?」
二人の警官の背後に、入江と大内が近寄っていた。二人して同時に、一人ずつ、警官の肩をチョンとつつく。
「ん?」
振り向いたところへ――バシッ、と音をたてて、|拳《こぶし》が|顎《あご》に命中し、二人の警官はのびてしまった。
「やれやれ」
と、入江が首を振って、「これで、年金もフイだな」
「おい!」
と大内が怒ったような声を出して、「早く服を着ろよ!」
「あら、ちっとは誉めてくれないの? ちゃんとパトカーを停めたでしょ」
「分った! 分ったから、早く服を着てくれよ」
「はいはい」
敦子はのんびり言って、脱ぎ捨てた服を拾って、身につけた。
「全く、突拍子もないことをやってくれるよ」
と、大内は言った。
「しかし、名案だ。俺たちが裸になっても、きっとパトカーは停らなかったぞ」
と、入江は言って、「さ、こいつに乗って急ごう」
「分りました。柴田君!」
と、大内は、待っている依子の方へ駆けて行く。
「ごめんなさい、びっくりさせて」
と、敦子が入江に言った。
「いや、君は刑事に向いてるよ」
と、入江は言った。「さあ、車に乗って」
四人は、のびている二人の警官を道ばたに寝かせておいて、そのパトカーで、先を急ぐことになった。
しかし――急ぐと言っても、一体どこまで行けばいいものか、四人とも、知らなかったのである。
咲江は目を覚ました。
どこだろう、ここは?――寝ている。ベッドの中で。
でも、どうして一人じゃないんだろう?
少し戸惑いはあったが、すぐに思い出していた。ゆうべの出来事を。
ゆうべの?――今、何時だろう?
少し体を起こして、時計を見る。
「八時か……」
もっとゆっくり眠るつもりだったし、そうしても良かったのだが、目が覚めてしまったのだし、それに寝不足という感じは、全くなかった。
咲江は、同じベッドで、深々と寝息をたてている松本を、薄暗がりを透かして見るようにして、眺めた。
その寝息はいかにも健康そのもので、若さに|溢《あふ》れている印象だった。
咲江は、自分がまだ裸でいるのに気付いて、少し|頬《ほお》を赤らめた。
もちろん、毛布をかけてはいたのだけれども……。
そっとベッドを出ると、咲江はシャワーを浴びることにした。――ルミが居間で寝ていたのは|憶《おぼ》えていたが、まだ目を覚ましていないだろう。
寝室のドアを開けて、ちょっと様子をうかがい、裸のままでバスルームへと小走りに急いだ。
――熱いシャワーを浴びると、さっぱりして気持がいい。咲江は子供のころから、お風呂の好きな子だった。
バスタオルで体を|拭《ぬぐ》い、目がふと、洗面台の鏡に向く。自分の体を見るのが、何となく照れくさい。
松本と寝たのだ。
咲江にとって、初めての体験だったが、意外なくらい、自分でも落ちついていた。松本を信じていたからだろうか。
不安もなく、いくらかの痛みはあったが、それも幸福だった。
父が知ったら、怒り狂うかもしれない。しかし、松本をよく知れば、きっと父も気に入ってくれる……。
「気が早いのね」
と、自分をからかうように、「まだプロポーズされたわけでもないのに」
バスタオルを体に巻いて、バスルームを出ると、
「――あら」
目の前に、ルミが立っていた。
「あ……。お早う」
と、咲江は言った。
「朝なの?」
と、ルミは言って、「――今まで頑張ってたの?」
と、|訊《き》いた。
「いいえ! そうじゃないの。目が覚めたから」
と、咲江はあわてて言った。
「私も。ねえ、コーヒーでもいれて飲まない?」
「ええ。私、いれるわ」
「お願い。コーヒーの粉の代りに、粉セッケンでも使っちゃいそうだから、私」
ルミはそう言って、|欠伸《あくび》しながら、バスルームへと入って行った……。
15 女友だち
「どうだった?」
と、コーヒーの香りをかいだルミは、「――いい|匂《にお》い! 私、インスタントしか作れないの」
インスタントのコーヒーじゃ、「作る」ってほどのこともない。
「どうって……コーヒーのこと?」
と、咲江は訊いた。
「とぼけちゃって! あの子――何てったっけ? 松本?」
「ええ。何とか[#「何とか」に傍点]ね」
と、咲江は、目を伏せて、|肯《うなず》いた。
「じゃ、無事に終ったわけだ。おめでとう」
「ありがとう」
と、咲江は微笑んだ。「でも――ルミさん」
「何?」
「あなたは構わないの?」
「私が?」
「だって――松本君と寝たんでしょ」
「しゃべったの、あの馬鹿?」
ルミの言い方に、咲江はふき出してしまった。
「そうじゃないの、私の勘でね」
「そう。気にしないで。確かに、いい子だけど、長いお付合いをするには、私と世界が違いすぎる」
と、ルミは言った。「あなた、ぴったりよ、彼に」
「そうかしら」
「私の目は確か。――人間ってのはね、自分のテンポがあるじゃない。それがずれてても、たまにゃ、ピタリと来ることがある。そんな時、私も、あんな子と寝ることがあるけど、でも、少したつと、段々、テンポがずれて来るのよ」
ルミは、何だか哲学者めいたセリフを吐いた。
「あなたって、不思議な人ね」
「そう?――だけど、あなたたち、何だか変ったことに巻き込まれてるんでしょ」
「ええ。何だかわけが分らない」
と、咲江は首を振った。
「よかったら聞かせてよ。どうせ、あの子は昼ごろまで、起きやしないわ」
ルミという、この奇妙な娘に、咲江は友情を感じ始めていた。
何といっても、松本を救ってくれたのだし。
それも、お金とか、主義主張のせいだったのではない。
ただ「気が向いたから」なのである。それが|却《かえ》って、信じてもいい、という気にさせたのだった。
「実は――」
と、咲江は口を開いた。「私の父は警官なの。警部でね、一応……」
咲江は、父から送られて来た、あのラテン語の日記のことも含めて、すべてを、ルミに話してやった。
ルミが目を輝かせて聞き入る。――確かに、我が身の安全さえ保証されていれば、こんな面白い話はない。
「そりゃ|凄《すご》いわ!」
と、ルミは言った。「何か、スケールの大きな陰謀が絡んでいるのよ、きっと」
「でも、当面、八方ふさがり」
と、咲江はため息をついた。「ラテン語の日記は、松本君のマンションだし、松本君は|罠《わな》にかかって、警察に追われてるし……」
「そりゃ任せてよ」
と、ルミが胸を|叩《たた》いた。
「あなたに?」
「私のことは、警察もまるで、注目してないわ。何でも言って! 力になるわよ」
「でも……」
と、咲江はためらった。
「心配しないで。松本君には手を出さないわよ」
「いえ、そのことじゃないの」
と、咲江は急いで言った。「これはかなり危いことなの。何しろ、私たちも危うく殺されるところだったのよ。あなたに万一のことがあったりしたら……」
「そんなこと! 私ね、こう見えても、自分で承知の上でやったことの責任は自分で取るわ。それくらいの常識は持ち合わせてるつもり」
と、ルミは言った。
咲江は、ちょっと笑って、
「分ったわ」
と、肯いた。「あなたの力を借りることにする」
「そう来なくっちゃ! で、最初は何をするの?」
と、ルミはもう今にも飛び出しそうな元気である。
「あのラテン語の日記よ。あれを、ともかく彼のマンションから、何とかして持ち出さないと」
「OK。それなら、私の出番ね」
「でも、あの部屋は、きっと刑事が見張っていると思うわ」
「そうか……。刑事が持っていった、ってことは?」
咲江は少し考えて、
「それはないと思うわ。あそこを調べに来た刑事は、日記のことなんか聞いてないはずよ」
「じゃ、まだ日記はあの部屋に?」
「まず間違いなく」
そう。刑事が当然、松本が戻らないかと見張っているだろうが、それは同時に、もし日記を手に入れたい人間がいたとして、その人間も松本のマンションに入れない、ということでもある。
「じゃ、行って見ましょうよ」
と、ルミは言った。
「マンションへ?」
「そうよ。だって、私はあそこに住んでるんだから」
「でも、松本君の部屋は――」
「そこは、途中で考えましょう」
ルミは|呑《のん》|気《き》なものである。「なんとかなるわよ」
ルミがそう言うと、本当に何とかなりそうな気がして来る。――咲江は、不思議に楽しい気分になっていた。
「松本君、まだ寝てるわ」
「起こしちゃおうよ」
と、ルミが言って、咲江はふき出してしまった。
「いいわね。――やる?」
「OK!」
二人は、寝室へそっと入って行くと、毛布を引っかぶって寝ている松本のそばへ寄って、
「起きろ!」
と大声で怒鳴った。
「ワァッ!」
松本が仰天して飛び起きる。
起きたはいいが、ちょっとその勢いが良すぎて、かけていた毛布がベッドから下へ落ちてしまった。
松本も裸のまま眠っていたので、当然……。
「ワッ! おい、出ててくれよ!――おい!」
焦りまくって、毛布を拾い上げようとした松本は、逆にベッドから逆さに落っこちてしまった。
ルミと咲江は、腹をかかえて笑い転げたのだった……。
「こんなに朝早く起きてる人もいるのね」
と、ルミが感心したように言った。
「朝の九時過ぎだぜ」
と、松本が|呆《あき》れたように、「当然だろ、起きてても」
「そう?」
ルミがしきりに首をかしげて、「どうして人間って、明るい時に働くの?」
なんて|訊《き》いている。
松本は|欠伸《あくび》をした。
三人で、マンションの近くのレストランで朝食をとった後である。
ここから、ルミの車で、松本とルミのマンションの近くへ。
「――この辺から、用心した方がいいわ」
と、咲江が言った。「どこか、人目のない所に」
「そうね。じゃ、その細い道へ入りましょ」
と、ルミはハンドルを切った。
「やれやれ、またかい?」
と、松本がため息をつく。
「留置所より、居心地はいいはずよ」
と、咲江は言った。「――さ、降りましょう」
二人は、車を降りると、後ろのトランクへ入った。
「苦しいけど、ほんの少しだから」
と、ルミが言った。
「ぶつけるなよ、ガレージに入れる時」
と、松本は言った。
「ぜいたく言わないの」
ルミは、バタン、と音をたてて、トランクのふたを閉じた。
――何しろ、松本一人だって窮屈だったのに、今度は二人だ。
「大丈夫?」
真暗な中で、咲江が訊いた。
「うん……。君となら、悪くない」
「馬鹿!」
――ルミの車は、マンションの地下へと入って行った。
ルミは、駐車場の中を、ちょっと見回してから、トランクを開けた。
「OK。出て。――腰でも痛めた?」
「なんとか……大丈夫」
と、松本は息をついた。「空気がなくなって死ぬかと思った!」
「そういう時は、あんたが息をするのをやめなきゃ」
「無茶言うない」
「しっ!」
と、咲江が言った。「刑事がいるかもしれないわ」
「上の玄関に、それらしいのが一人いたわね」
と、ルミが言った。
「さて、ここからだな、問題は」
「一旦、私の部屋へ上りましょ」
と、ルミが促した。
三人はエレベーターで、ルミの部屋へ向った。
ルミの部屋は、松本の部屋の真上である。
「――さ、入って。散らかってるけどね」
と、ルミがドアを開けた。
「お邪魔します……」
と、上って、咲江は、確かに「散らかってる」というのが、事実であることを知った。
「そう何分も時間はないと思うわ」
と、ルミは言った。「準備は?」
「ええ、大丈夫。――鍵は持ってるわね?」
「もちろんさ」
「じゃ、作戦開始!」
ルミはすっかりゲーム気分である。
ルミが、廊下へ出ると、〈火災報知機〉の前に立つ。咲江と松本は、階段のところで、待機していた。
「行くわよ」
と、ルミが言って、「エイッ!」
力任せに、プラスチックの板を割って、中のボタンを押す。
マンション中に、けたたましいベルが鳴り渡った。
「行こう」
松本と咲江は、階段を一つ降りて、そこの廊下をそっと|覗《のぞ》いた。
松本の部屋のドアが開いて、中から刑事が出て来る。
ベルがなりつづいているのを聞いて、どうしていいか分らず、おろおろしているのである。
他のドアも次々に開いて、
「火事よ!」
「どこだ?」
「煙は?」
と、口々に怒鳴る。
しかし、妙なもので、人間、なかなか警報の類を信じないものらしい。
お互い、
「どうします?」
「さあ……」
「間違いじゃないの?」
などと、同意を求め合っているのだ。
あの刑事も、動物園のクマみたいに、ドアの前を行ったり来たり。
「――何やってんだ」
と、松本が|苛《いら》|々《いら》して|呟《つぶや》く。
「ね、聞いて」
と、咲江が松本の腕をつかむと、「――サイレンよ」
確かに、消防車のサイレンが、遠くから近付いて来た。
廊下へ顔を出していた住人たちも、サイレンが聞こえて来ると、
「火事だ!」
「本当の火事だ!」
と、騒ぎ出した。
一旦騒ぎ出すと、今度は大変だ。たちまち廊下には住人たちが飛び出して来る。
「エレベーターは危い!」
「階段だ!」
と、次々に駆け出した。
「刑事が逃げ出したわ」
と、咲江が言った。
「よし。やりすごしてから、行こう」
二人は、壁にぴったりとくっついて、階段へと殺到する人たちをやりすごした。
「――OK、行こう」
二人は駆け出した。
刑事は、松本の部屋のドアを、開けたままにしていたので、二人はすぐに中へ入った。
「どこに置いたの?」
「待ってろ! 持って来る」
と、松本が部屋へ上る。
「急いでね!」
玄関に立った咲江は気が気ではない。今にも刑事が戻って来そうな気がする。
「早く、早く……」
ほんの一、二分のことなのだろうが、十分にも感じられた。
「よし、あったぞ」
と、松本が日記帳を手に、戻って来た。
「急いで」
「刑事が引っかき回してたんで、手間取ったんだ。行こう」
二人は廊下へ出た。そして――。
目の前に、男が一人、立っていた。
黒っぽいコートを着たその男は、二人が出て来るのを待っていたらしい。
「捜す手間が省けたぜ」
と、言って、「それを渡せ」
「冗談じゃない!」
と、松本が言い返すと、男は笑って、
「こっちも冗談[#「冗談」に傍点]じゃないんだ」
男の手に|拳銃《けんじゅう》があった。――二人は、息を|呑《の》んだ。
「さて、どうする? 時間がないぜ」
と、その男は言った。
中年の、ごく当り前の男で、どう見ても、どこかのセールスマンという様子だ。それだけに、怖い。
「先に女を撃つぞ」
と、その男は言った。
「分った」
と、松本は言った。「こいつがほしいんだろ!」
松本が日記帳を放り投げる。男の目が一瞬それを追った。松本が飛びかかる。
しかし、相手はプロだった。
松本が殴りかかって来るのを素早くかわして、銃把で、松本の頭を殴った。
「やめて!」
と、咲江が叫んだ。
松本は、そのまま倒れて、気を失ってしまった。
「手間のかかる|奴《やつ》だ」
男は日記帳を拾い上げると、咲江の方に銃口を向けた。
「――殺すの?」
「いや。一緒に来い」
「いやよ」
「それなら、こいつを殺すぞ」
銃口が、松本の方に向いた。――咲江は青ざめて、
「待って」
と、言った。「分ったわ」
「ついて来るか」
「ええ」
「よし。――みんな階段を利用しているらしいな。我々はのんびりと、エレベーターで降りよう」
男は拳銃を握った手をコートのポケットに入れると、「いいか。妙なまねをすると、一発だぜ」
「分ったわ」
と、咲江は|肯《うなず》いた。
「じゃ、ちょっと散歩としゃれこもう」
男はニヤリと笑って、言った……。
16 死 線
「いてて……」
と、松本は|呻《うめ》いた。
「馬鹿ねえ、全く」
と、ルミが薬をつけてやりながら、「私が見に行って、連れて来なかったら、今ごろは警察に捕まってたのよ」
「分ってるよ」
と、松本は、頭をそっとさすって、「畜生!」
「でも、その男、何なのかしら?」
「例の、僕らの命を|狙《ねら》った連中さ。日記帳を捜そうとして、見張ってたんだろう。――いてて」
「我慢しなさい」
と、ルミは言って、「じゃ、こっちが火事騒ぎを起こしたのが、向うにももっけの幸いだったのね」
「そういうことさ……」
松本は、ため息をついて、「咲江が……。無事かなあ」
「私にも分んないわよ」
と、ルミは言った。「でも、あんないい人、死なないと思うわ。死んだら、世の中、間違ってる」
松本は、ルミを見て、
「ありがとう」
と、言った。「問題は……。連中が何か連絡して来るかもしれない、ってことだ」
「そうか。でも、あんたがここにいることなんか、そいつら、知らないしね」
「うん。といって、下の部屋へ戻るわけにもいかない。――参ったな!」
松本は頭をかかえた。
「ともかく、ここにも警察が来るかもしれないわ」
と、ルミは松本の肩を叩いて、「また車であのマンションへ行きましょ」
「うん……」
と、肯いてから、松本は青くなった。「またトランクに?」
「仕方ないでしょ」
「頭にひびかないように頼むよ」
と、松本は情ない顔で言ったのだった……。
「入れ」
と、男に促されて、咲江は、そのトラックの中へと、|這《は》い上った。
「何なの?」
「入ってろ。着いたら、出してやる」
咲江は、男が扉を閉め、カンヌキをかける音を聞いた。
箱形の、大きなトラックである。中は半分ほど、段ボール状の荷物が積んであった。
仕方ない。――咲江は、段ボールの一つに腰をかけた。
これでどこへ行くんだろう?
ガクン、と揺れて、トラックが走り出した。
――中は、小さな明りが一つだけ|灯《とも》って、ぼんやりと様子は分った。
どの段ボールにも、何も書いていない。中身は何だろう?
広い道に出たらしい。トラックはスムーズに走り出して、あまり揺れなくなった。スピードも上っている。
松本のけがはどうだろう?
自分のことを心配しなければいけないのに、咲江は、松本のことが気になって仕方がなかった。
せっかく、松本と結ばれたんだ。死んでたまるか!
咲江は、必死で自分を励ましていた。
そして……。ふと、咲江は身震いした。寒い。――気のせいかしら?
いや……。そうじゃない!
確実に、トラックの中の温度は下りつつあった。
保冷車なのだ! トラックそのものに、冷却装置がついている。
咲江は|愕《がく》|然《ぜん》とした。――何度まで下るんだろう?
もし――もし、冷凍車だったら?
咲江は、今度は、体の内からこみ上げて来る恐怖に、身震いしたのだった……。
依子が、少し身動きした。
「あ――」
と、敦子が、声を上げると、依子はハッと体を起こした。
「ごめんなさい。起こしちゃった」
と、敦子は言った。
「いえ、いいの……。今、どこ?」
パトカーは、広い道を避けて、細い裏道を走っていた。
「大分遠回りだよ」
と、入江が振り向いて、言った。「仕方ない。――何とか逃げ切らないとな」
「もう、朝ですか」
と、依子は|訊《き》いた。
「うん。もうすぐ十時だ」
「まあ」
依子は笑って、「こんなに眠ってばっかりいるなんて」
目の具合は、と訊くまでもない。
この明るさが分らないのでは、全く、良くなっていないのだろう。
入江は心が重かった。依子が明るく振舞っているだけに、余計に心が痛む。
「――ここを出ると、大分いい道になると思います」
と、大内が言った。
「誰かが待ち伏せしてない?」
と、敦子が言った。
「どうかね」
「また裸になってやる」
「よせ!」
と、大内がむきになって言ったので、みんなが笑った。
パトカーは、林の間の道を右へ左へ、ひっきりなしにカーブしながら、走っていた。
「ともかく、町へ出ないとな」
と、入江が言った。「電話をかけるんだ、まず」
「どこへですか?」
と、依子が訊く。
「一一〇番じゃだめだな」
と、入江は言った。「新聞社、TV局、それにあちこちのマスコミさ」
「それはいい方法ですわ」
「知ってる|奴《やつ》も、大分いる。|俺《おれ》が、でたらめを言う人間かどうか、知ってる人間でないとな」
「その無線は?」
と、敦子が言った。
「使えるが、こっちの場所も、すぐに分ってしまう。何とか電話のある所に出たいもんだ」
「テレホンカード、ある?」
と、敦子は心配している。
「やっと広い道だ」
と、大内が言った。
そして――急ブレーキがかかって、パトカーは停止した。
「しまった!」
と、大内は言った。
「どうしたんですか?」
と、依子は訊いた。「大内さん!」
――真直ぐ道の先、百メートルほどの所に、非常線が張られていた。
パトカーが三台、横に並んで、道をふさいでいる。その向うに、警官が何十人も見えていた。
「――まずい」
と、入江が言った。「バックもできんな」
「とても……。すみません」
と、大内が首を振る。
「お前のせいじゃない」
と、入江が言った。「――見ろ、ライフルだ。こっちを|狙《ねら》ってる」
「どうするの?」
と、敦子は言った。「裸になっても、だめみたいね」
「ああ……。ここは、降参するしかないだろう」
「悔しい!」
と、敦子は口を|尖《とが》らした。
「――でも、殺されるかも」
と、依子が言った。
「すぐにはやらんさ」
入江は肩をすくめた。「――大内」
「はあ」
「俺が先に行って話して来る。お前はここにいろ」
「僕が行きます」
「命令だ」
「聞けません」
入江は、ちょっと息をついて、
「聞け。もし、俺がやられたら、この二人を連れて、林の中へ逃げ込むんだ。俺にはとてもむりだ」
「しかし――」
「俺はお前より長生きした。分ったか」
しばらく、誰も口をきかなかった。
「――分りました」
と、大内が絞り出すような声で、言った。
「よし。ともかく、車から出るんだ」
四人は、パトカーの外へ出た。
「――よく聞け」
と、拡声器で、呼びかけてくる。「武器を捨てて、四人ともこっちへ来い。抵抗すると射殺する!」
「いいな」
と、入江は大内へ言った。
「分りました」
大内が|肯《うなず》く。
依子は、パトカーに手をかけて立っていたが、敦子の方へ、
「ね、道は真直ぐ?」
と、訊いた。
「ええ」
「今、パトカーは正面向いて、停っているの?」
「そうですよ」
「入江さんは、歩き出した?」
「ゆっくりと……。殺されるかしら?」
「入江さん、どれくらい行った?」
「今……三十メートルくらいまで」
「そう」
依子は肯いた。
突然、依子は敦子をパッと突き飛ばした。
「キャッ!」
敦子が転がる。同時に、依子は、パトカーの前の席のドアを開け、中へ入ってドアを閉めた。
「おい! 何してる!」
と、大内がドアを開けようとしたが、ロックされてしまっていた。「柴田君! 開けろ!」
依子が、運転席についた。手探りでエンジンをかける。
「――何をする気だ!」
「依子さん!」
と、敦子が、窓を|叩《たた》いた。
依子は、見えない目で、きっと正面を見据えると、思い切りクラクションを鳴らした。
「どうした!」
と、入江が駆け戻って来る。
パトカーはダッと前へ飛び出した。入江があわてて横へ飛んだ。
「柴田君!――やめろ!」
「依子さん!」
依子は思い切りアクセルを踏んだのに違いない。もの|凄《すご》いスピードで、パトカーは真正面をふさぐ三台のパトカーと警官たちに向って突っ込んで行った。
警官たちが、あわてて逃げ出す。
入江は、目を見開いた。依子の運転するパトカーが、正面の二台のパトカーをはね飛ばすような勢いで突っ込んだ。
激突音と、砕けて舞うガラス、ボンネットが吹っ飛び、車体は折れ曲るようにして横転する。
警官たちの何人かが、宙へ飛んだ。悲鳴が上る。
「依子さん!」
と、敦子が叫んだ。
次の瞬間――爆発が起こった。火の柱が、一瞬、見上げるほどの高さに吹き上る。そして、もう一台のパトカーにも、炎は見る見る広がって、もう一度、爆発が起こった。
――三人とも、|呆《ぼう》|然《ぜん》として、炎と、逃げ惑う警官たちを見ていた。
「――畜生!」
と、大内が言った。「何てことを!」
「助けに行って! 早く、依子さんを――」
「むだだ!」
入江が怒鳴った。「即死だよ」
「だって……だって……」
敦子が泣き出す。
入江は、青ざめていたが、
「泣くのは後だ。さあ、早くここから逃げよう」
と、大声で言った。
「警部――」
「分らんのか! 柴田君の気持を、むだにするのか!」
「分りました」
大内は目の涙を|拭《ぬぐ》った。「――行こう」
敦子は泣きながら、それでも大内の手をしっかりと握って、駆け出した。
入江もそれに続く。
おそらく――いや、確実に、三人の中でも一番泣きたかったのが、入江だった。
どうして、|俺《おれ》がやらなかったんだ! 馬鹿め! 何て馬鹿だ、俺は!
三人は、林の中へと分け入って行った。
口もきかず、ただ黙々と、進んで行ったのである……。
どれくらい歩いただろう。
「待て」
と、入江は言った。「休もう」
大内も敦子も、口をきかなかった。
「休んでろ」
と、入江は言った。「周囲の様子を見て来る」
「分りました」
大内は、ハンカチを敷いて、「座れよ」
と、敦子に言った。
「うん」
敦子が肯く。「――大内さん」
「何だい?」
「依子さん……。どうしてあんなことを……」
「うん。目が見えなくて、足手まといになると思ってたんだろう」
大内は声を詰らせた。
「それだけじゃないと思う」
「何だって?」
「あの人――あなたが好きだったのよ」
「おい……」
「でも、私が――私が、あなたをとっちゃったから、自分が犠牲に……」
大内は、敦子の肩を抱いた。敦子は、すすり泣いて、
「――抱いてよ」
と、言った。
大内は、力一杯、敦子を抱きしめてやった……。
――入江は、一人になりたかったのだ。
大内たちと、少し離れると、木にもたれて、大きく息をついた。
そして、泣いた。――声を上げて。
自分を思い切り殴りつけてやりたかった。
もし、うまく逃げのびることができたら、自分で自分を殴ってやる。
柴田君……。何てことをしてくれたんだ!
「――どうしたの?」
突然、女の声がして、入江は、飛び上るほどびっくりした。
木々の間から、少女が一人、姿を見せた。
「君は……」
入江は目をこすった。「君は――笠矢――」
「笠矢祥子です」
と、その少女は言って、「ああ、東京から来た警部さん!」
「そうだ。君……大丈夫だったのか?」
「家がやられて」
「ああ、見ていたよ。君もてっきり死んだと思ってた」
「地下室に隠れてたんです」
「地下室?」
「ええ」
入江は、少女の肩を叩いて、
「良かった」
と、|肯《うなず》いた。「生きていて、良かったね……」
17 囚われの咲江
ここは……。
ここはどこだろう?――寒い。
咲江は身を震わせた。肌の外側で、何か波打つ感覚がある。
水の中? 私は水の中にいるのかしら?
目を開くと――何かぼんやりと明るく、白っぽいものが動いているのが見えた。
「――目を開いたわ」
と、女の声。
「大丈夫か」
「たぶん。あと少しすれば……」
何人かが、自分の方を|覗《のぞ》き込んでいる、と咲江は感じた。はっきりは見えないけれど、たぶん白衣を着て。お医者さん? 私、入院しているんだろうか?
「どう、気分は?」
と、女の顔が覗き込んできた。
やっと、視界のピントが合って来る。
体が、浴槽のようなものにつけられているのだと、分った。
「感じる? 暖かい?」
お湯。――そう、お風呂[#「お風呂」に傍点]に入ってるんだわ、私……。
咲江は、かすかに肯いた。
「良かった!」
と、その女がホッとしたように言った。「どうなるかと思ったわ」
咲江は、自分が裸にされて、浴槽に身を浸し、周囲を四、五人の男たちが取り囲んでいるのに気付いて、ゾッとした。
「やめて! 何してるんですか!」
舌がよく回らなかったが、精一杯声を上げた。
「もう出て下さい」
と、女医らしい、白衣を着た女が、男たちに言った。「後は任せて。もうこの娘は大丈夫」
「服を着せたら、連れて来てくれ」
と、男の一人が言って、「よし、みんな出よう」
と促した。
女医らしい女が一人、残った。もう五十歳ぐらいかと思えるが、体つきはがっちりとして、屈強な感じだった。
「もう大丈夫。安心して」
と、その女が言った。「私はね、黒田とも子。みんな『とも子』とだけ呼んでるわ」
みんな? みんなって、誰のことだろう?
「さ、あったまってね。危うく、冷凍されちゃうとこだったのよ。全く、馬鹿な連中なんだから」
冷凍……。冷凍車……。
そうか。――咲江は、やっと思い出した。
松本を殴った男が、自分を冷凍車のトラックに入れたのだ。猛烈な寒さの中で、咲江はやがて意識を失った。――このまま死ぬのか、とも思ったのだが……。
どうやら助かったらしい。
「――さ、立てる?」
「とも子」と名乗ったその女は、咲江の腕を取って、立たせた。裸なので、恥ずかしかったが、咲江は、今はそんなことを言っている時じゃない、と思った。
「ほら、しっかり! 転ぶわよ」
とも子という女が、浴槽から咲江を出し、タオルで体を|拭《ふ》いてくれる。――咲江は、もう足にも力が入れられるようになっていたけど、わざとふらついて、とも子という女に支えてもらうようにした。
その方が、向うも油断するだろう、と思ったのである。
「あなたの服は全部破れちゃったの。これを着て」
下着をつけて、それに頭からスッポリとかぶる、寝衣。――入院患者、という格好である。
「ここ……病院なんですか」
と、咲江はぼんやりした口調で、|訊《き》いた。
「そんなものよ」
と、とも子という女は言った。「さ、こっちへ来て」
「どこなんですか、ここ……」
咲江の問いには、返事をしてくれなかった。
廊下は、どこか冷え冷えとして、薄暗い。窓が一つもないので、地下なのかもしれない、と咲江は思った。
腕をとられて、ゆっくりと歩きながら、咲江は廊下の突き当りに、〈非常口〉という字と、矢印があるのを目に止めていた。矢印の方向へ、廊下が曲って続いているらしい。
「ここよ」
重苦しい感じのドアを開けると、とも子は咲江を押しやるようにして、部屋の中へ入れた。
殺風景な、ガランとした部屋に、机が一つ。机の向うに、男が一人、座っていた。
机の前の固い|椅《い》|子《す》に、咲江は腰をかけるように手で示された。
「――入江咲江君だね」
と、その男は言った。
軍人かしら、と咲江は思った。
軍服を着ているわけではないが、ピンと背筋を伸ばしたところ、少し短めに刈った髪。そして口のきき方が、そんな印象を与えたのである。
「あなたは?」
と、咲江は、少しぼんやりした口調で訊いた。
「君のお父さんは入江警部だね」
と、その男は言った。「君は一人っ子か。さぞ|可愛《かわい》いだろう」
五十がらみの、少し皮肉っぽい笑みを見せる男だった。
「あなたは?」
と、咲江はくり返した。
「君の友人の松本君はどこに隠れているのかな?」
と、男が訊く。
「あなたは?」
――男が、ちょっと、後ろに立つ、とも子という女の方へ目をやった。
とも子の太い腕が、がっしりと咲江の両腕をつかんで、椅子の背もたれの後ろへとねじ上げた。
肩に激痛が走って、咲江は思わず悲鳴を上げた。
「骨を折るなよ」
と、男が言った。「――いいかね、質問するのはこっちだよ。君は返事をする、分ったか?」
穏やかな口調が、却って不気味だ。
額に汗が浮かんだ。――咲江は黙って|肯《うなず》いて見せた。
「はなしてやれ」
と、男がとも子に言った。
――咲江は、自由になった両腕を、軽く振った。
「日記も手に入れたし、何が望みなんですか?」
と、訊いた。
「しかし、この日記は特別だ、分るだろう?」
と、男は言って、机の引出しから、あの日記帳を取り出した。
「中がラテン語だから?」
「そう。私も、五か国語が分るが、ラテン語というのは分らん」
と、男は首を振った。「君は?」
「分りません」
「しかし、君の恋人は分る。――そうだろう?」
咲江は答えなかった。
「松本君は、これを読んだのか?」
「いいえ」
「どうかな? 君を信じていいかね」
「そんな時間はありません」
「確かに」
と、男は肯いた。「しかし、この一部を読んだ、ということは、考えられる」
男の指先は、日記帳の表紙を、トントンと、ピアノの鍵盤のように|叩《たた》いていた。
「一体何が書いてあるんですか」
と、咲江は訊いた。
「重大な機密さ。国家の機密だ」
「そんなもの、あるんですか」
咲江はちょっと笑った。
「あるとも」
男は、真顔で言った。「君たち若い者には分らないようだが、国家というものは、君らのデートする権利とか、映画を見に行く自由より上にあるものなんだ」
「そうは思いません」
と、咲江は言った。
「残念だね、意見が合わなくて」
と、男は言った。「君が同じ意見になるまで、君は、ここから出られない」
咲江は腹が立った。――こんな男に頭なんか下げるか、と思った。
「ここは監獄?」
「いや」
と、男は頭を振って、「一応、精神病院ということになっている」
咲江はゾッとした。――一生、ここに閉じ込めるつもりなのだろうか。
薬づけにされて、何も分らなくなるまで……。
「それでね」
と、咲江が肯いた。
「何だね?」
「あなたがここにいるわけが分ったわ」
男は、ちょっと笑った。
「なかなか気の強い娘だな」
「――薬で眠らせますか」
と、とも子が訊く。
「いや……一人部屋へ入れておけば大丈夫だろう。そんな娘一人だ」
と、男は立ち上った。「では、ゆっくりしたまえ」
「待って下さい」
と、咲江は言った。
「何か?」
「話してくれてもいいでしょう。どうせここから出られないのなら」
咲江は、挑みかかるように男をにらみつけた。
「――なるほど」
男は腰をおろした。「まあ、君の気持も分る」
「ですが――」
と、とも子が口を挟む。
「まあいい」
男は、とも子を押えて、「この日記帳を書いた男はね、医者だったのだ」
「医者?」
「そう、国家のための研究機関で働いていてね。そこで、我々の依頼した研究を行なっていた」
男は、ちょっと間を置いて、「分るかな、君には」
と、言った。
見当はつく。――国家の、おそらくは自衛隊か、公安警察か。
「軍事機密ですね」
「そういうことだ」
「細菌兵器」
男は、ニヤリと笑って、
「ご名答だ」
男は肯いて、「さすがに頭がいい。見かけ通りだね」
「何て時代遅れなこと! こんな平和な時代に」
「それは間違いだよ。ソ連は我々を|騙《だま》している。あの笑顔を信じていると、とんでもないことになるよ」
「あなたの方が、ずっと恐ろしいわ」
と、咲江は言った。「日記を書いた人は、その研究をいやがったんですか」
「違う。彼は感染したんだ」
「感染?」
思いがけない言葉だった。「じゃ……死んだの?」
「それを確かめなければならないので、彼と娘を山中の町外れに移したのだよ」
「その日記帳に、そのことが?」
「おそらくね」
「でも……その男の人は、どうなったんですか」
「それは君とは関係ないことだ」
と、男は言った。「いいかね、君がここを出られるとしたら、その方法はただ一つ、君が我々の協力者になってくれることだ」
「とんでもない」
男は首を振って、
「そう簡単に返事をしない方がいいと思うがね」
と、再び立ち上った。「その若さで、これから何十年もここで過すのかな?」
咲江は、目を伏せた。
「――ま、時間はある、ゆっくり考えることだね」
男は、とも子の方に肯いて見せた。
「行くのよ」
とも子が咲江を立たせる。
――廊下へ出ると、咲江は、
「トイレに行かせて」
と、言った。
「部屋にもちゃんとついてるわよ。――妙な考えを起こさないこと。いいわね」
とも子の、がっしりした手が咲江の肩をつかんだ。
それは恐ろしいほどの力だった。
咲江は、廊下を奥へ奥へと連れて行かれ、ドアの一つの前で、やっと立ち止ると、
「ここがあなたの部屋よ」
とも子が、ドアを開ける。
木のドアに見えるが、実際は、鉄板が入っているのだろう、かなり重そうである。ベッドと小さな机。――窓はない。
「ここは地下?」
と、咲江は|訊《き》いた。
「そうよ、窓もない。換気口は小さいからね」
と、とも子が言った。
笑顔が、いかにも冷ややかだった。
咲江は、小さな洗面台の方へと歩いて行くと、水を出そうとした。
――うまく行くだろうか?
咲江は、何とかして、逃げなくては、と思っていた。
逃げるのなら、今しかない[#「今しかない」に傍点]。
ここで何日か過せば、もう絶対に逃げ出せなくなるだろう。今か、でなければ、永久に敗北するか、だ。
「すみません、とも子さん」
と、咲江は言った。
「なあに?」
出て行きかけたとも子が振り向く、
「水が出ないんですけど」
「あら。――変ね。点検をしてないのかしら」
と、とも子がやって来る。
咲江は、少し退がって、
「手に力が入らないからかも……」
と、言った。
「そうね。でも、そんなに固いはずが……」
とも子が、洗面台に向う。
咲江は、開いたままのドアに向って、駆け出した。
18 脱 出
「咲江がさらわれた?」
京子が目を丸くした。「あんた、何やってたのよ!」
「すまん」
と、松本がしょげている。
「まあ、仕方ないわよ、すんじゃったことはね」
ルミが、相変らずのんびりした口調で、言った。
ルミのことは、もちろん京子はまるで知らないのだが、それでも、何となく少し似たところもあって、二人はすぐに意気投合、というムードである。
「これから、どうするか考えなきゃ」
と、ルミが言った。
「しかしなあ……。探すったって、何の手がかりもない」
「そんな風に、初めっから諦めちゃだめよ」
と、京子が言った。「何とかしなきゃ! あんただって、咲江のこと、好きなんでしょ?」
「もちろんだよ」
「じゃ、何か考えなさい」
京子の注文も、かなり無理ではある。
「――例の〈永井かね子〉って家も焼けちゃってるし、日記帳は持ってかれたし……。他に手がかりがないんだ」
「そこを何とかするのが恋人でしょ」
「僕が|囮《おとり》になる、って手も考えたんだけど、たぶん、もう彼らは僕には用がないんじゃないかな」
と、松本は首を振った。
「そうか……。警察に捕まったら、それこそ最悪だしね」
と、京子は言って、ため息をついた。
――しばし、三人は黙っていた。
ルミが、タバコを出して、
「一本どう?」
と言った。
「いや、結構」
「私もいいわ」
沈んだムードである。――ルミが、煙を吐き出して、
「――ラテン語」
と、言った。
「え?」
「ラテン語。日記帳って、ラテン語だったんでしょ」
「そうだよ」
「あなた、読んだの?」
「いや、まだ」
「でも――向うは[#「向うは」に傍点]、それを知らないのよ」
と、ルミは言った。
松本と京子が顔を見合わせた。
「――分る? その連中も、たぶん日記がラテン語だった、って知らなかったんじゃない?」
「なるほどね」
と、松本が|肯《うなず》く。
「奪ったはいいけど、彼らだって、そう簡単には読めないはずよ」
「そうだろうな」
「だとすると、向うが、また[#「また」に傍点]あなたに連絡を取って来るかもしれないわ」
松本は、殴られた頭を、そっとさすって、
「その可能性はあるな。よし、それじゃ……どうしよう?」
「でもさ」
と、ルミが言った。「あんた、何でラテン語なんて、勉強する気になったの?」
「今はそんなこと、どうでもいいでしょ」
と、京子は立ち上って、「じゃ、その連中が松本君のマンションに、何か言って来ているかもしれないわ」
「よし! じゃ行こう」
と、松本は立ち上って、「また車のトランクか!」
と、ため息をついた……。
すると、電話が鳴った。京子が不思議そうに、
「ここの番号、うちしか知らないのに。――誰だろう?」
と、受話器へ手をのばす。「――もしもし」
「川田京子さんかね」
と、男の声。
「どなた……ですか?」
と、言いながら、京子は、どこかで聞いたことのある声だな、と思った。
「入江だ。咲江の父だよ」
アッと京子は声を上げた。
「入江さん!――ど、どこなんですか?」
「いや、こっちも逃げ回っていてね。咲江はそこに?」
京子はためらった。
「あの……ちょっとまずいことになって」
と、言った。
「まずいこと、というと?」
「あの――今、行方不明なんです」
「何だって?」
入江の声が、一瞬かすれた。「どういうことなんだね」
「実は――入江さんの送ったラテン語の日記帳、あれと一緒に、誰かが……」
「さらって行ったのか!」
「ええ……。あの、何とかしようって、今、相談してたんです」
と、京子は言って「――もしもし?」
「いや……すまん」
と、入江が息をつく。「迷惑をかけて、悪いね」
「とんでもない。入江さんの方、大丈夫ですか?」
「いや……。何とかして、そっちへ行く。そこの電話は君の家で聞いたよ」
「そうですか」
「ともかく、警察に追われてるんだ」
「入江さん、刑事でしょ?」
「そうなんだがね」
と、入江は苦笑しているようだった。「ともかく、何とか東京まで――」
「ね、ちょっと」
と、ルミが急にやって来ると、京子の手から、ヒョイと受話器を取って、「――もしもし、私、ルミです。どうも」
「どうも……」
「今、どちら?」
「あ……N駅の近くだよ」
「ああ。知ってるわ。じゃ車で迎えに行きます」
「ええ?」
「だって三百キロか五百キロでしょ」
「しかし……」
「ご心配なく。私、運転が好きなの。じゃ、二、三時間で――は無理かな」
「君は――」
「私、ルミ。咲江さんの友だち」
「そうか」
「そう」
「じゃ――いいのかね」
「待ってて、顔が分るように、京子さんを連れて行く」
「ああ」
「じゃ、後でね。おじさま[#「おじさま」に傍点]」
ルミが電話を切る。「――じゃ、出かける?」
京子がポカンとして、ルミを眺めている。
「ねえ」
と、ルミは松本の方を向いて「N駅ってどの辺? 九州とか北海道じゃないでしょ」
「N駅?――確か……列車で三時間くらいじゃないか」
「やった! 勘が当った!」
と、ルミは指を鳴らした。「私、N駅って聞いたことなかったんだよね」
京子と松本は、|呆《あき》れてルミを眺めているばかりだった。
とても逃げられるタイミングではなかったのだ。
とも子の動きは、そのがっしりした体つきから信じられないくらい、すばやかった。
咲江は、腕をつかまれると、|凄《すご》い力で、引き戻され、床に転がって、壁に、いやというほど|叩《たた》きつけられた。
「逃げられると思ったの?」
とも子は笑った。「|可愛《かわい》いもんだね。腕の一本、へし折って泣かせてやろうか」
「やめて……」
と、咲江は声を震わせて、「もう逃げません」
「当り前さ。――さあ立って」
と、とも子が出した手をつかむと、咲江の体は、今度はドアの方へと放り投げられていた。
体が完全に宙に浮いた。コンクリートの床に、叩きつけられ、目の前が一瞬暗くなった。
「どう? 面白い?」
「痛い……。勘弁して」
と、咲江は体を丸めた。
「おやおや。――さっきの元気はどこへ行ったのさ」
とも子が、咲江の髪をぐいとわしづかみにした。咲江は叫び声を上げた。
咲江の体は、小さな机の角に、打ちつけられた。そのまま、床に転がる。
「――気絶したふり[#「ふり」に傍点]しても、だめだよ」
と、とも子はやって来ると、「見りゃ分るんだからね」
ムッ、と、咲江の体をつかんで、引き起こした。
咲江は、これを待っていたのだ。
とも子は油断していた、腹を無防備にさらけ出している。
咲江は父から教えられた護身術の通り、腕を曲げ、肘で思い切り、とも子の腹を突き上げた。
手応えは充分あった。とも子が腹をかかえて、うずくまる。
咲江は、立ち上ると、スチールの|椅《い》|子《す》をつかみ、両手で頭上高く振り上げて力一杯とも子の頭に振り下ろした。
椅子の背もたれが外れて飛んだ。殺したかもしれない。
しかし、そんなことを気にしている余裕はなかった。
とも子はぐったりと床に伏せている。
咲江は、急いで、その白衣を脱がせ、上に着た。そして、靴。――幸い、サイズはそう違わなかった。
ポケットを探ると、いくつか|鍵《かぎ》のついたキーホルダーがあった。これでいい。
咲江は廊下へ出てドアを閉めた。
記憶を頼って、さっき〈非常口〉とあった矢印を捜して、廊下を急いだ。
何とか――早くここから出るのだ!
体の痛みも忘れていた。――父や松本を危機へ追いやった連中への怒りが、咲江の中にエネルギーとなって、燃えていたのである……。
「――今、何時だ?」
と、入江は|訊《き》いた。
「七時です。――もう来てもいいころですがね」
と、大内が言った。
「私、見てくる」
敦子が、外へ出ようとした。
「いや、危いよ」
と、大内が止めた。「もう君のことも知れてる」
「でも……」
「――お腹空いた」
と、言ったのは、笠矢祥子である。
四人は、N駅の外れにある、道具小屋に隠れていた。
駅前にはパトカーが二、三台、常に停っていたのだ。とても近付けない。
「もう少し我慢して」
と、敦子が、祥子の肩を抱いた。「お姉ちゃんのお|尻《しり》でもかじってる?」
祥子が、ちょっと笑って、
「大内さんがやきもちやくから、やめとく」
と、言った。
「おいおい……」
大内がすっかりからかわれてしまっているのだ。
入江は、やっと依子の死というショックから、立ち直っていた。
いつまでも泣いてはいられない。相手は人情など、解しない男たちなのだ。向うが非情なら、こっちもそのつもりで立ち向かわなくてはならない。
「――しっ」
と、大内が言った。「車だ」
「パトカーだ……」
と、敦子が言った。
赤い灯が、ドアの向うに見えている。
「中を見たか?」
と、声がした。
「いや、まだだろう」
「見て来ようか……」
警官の声だ。――少なくとも二人はいる。
「警部――」
「銃を持ってろ」
入江は、息を殺した。
せっかくここまで来たんだ。やられてたまるか!
|拳銃《けんじゅう》を握りしめる。――汗が、にじんでいた。
「ためらわずに撃て」
と、大内へ|囁《ささや》く。
「分りました」
足音が近付いて来た。――やるしかない。
その後は? ともかく、ここを切り抜けるのだ。
ドアが開いて、警官の制服が見えた。
「――誰もいませんよ」
その警官の声を聞いて、入江は体が熱くなった。――吹田だ!
あの町で、入江に心服していた警官である。
「よく見ろよ」
と、外から声がかかる。
「はい」
吹田は、中へ入って来ると、懐中電灯の明りをグルッと中へ向けて、「――ネズミ一匹いませんね」
と、言った。
「OK、行こう」
「はあ」
吹田は、黙って、入江を見もせずに、出て行った。
ドアが閉り、やがてパトカーが走り去って行った。
誰もが息をつく。――入江も、びっしょりと汗をかいていた。
「天の助けだ」
と、大内が言った。
「うまく逃げられるわよ」
と、敦子が|肯《うなず》いて言った。「私、自信持っちゃった」
「うん」
と、祥子も肯く。「でも、お腹空いた」
「――おい、外の様子を見てみろ」
大内が肯くと、ドアをそっと開けた。
目の前に、妙な車が停った。窓から川田京子が顔を出している。
「警部」
と、大内が言った。「あれ……ですか?」
入江がドアを開ける。京子が、
「良かった! 早く乗って!」
と手招きする。
やった。――助かったのだ。入江は、胸に熱いものが|充《み》ちて来るのを、感じていた。
19 父と娘
男なんて、役に立たないもんだな。
――女でなく、男がこう考えているというのも、割合に珍しいことかもしれない。
そう考えていたのは、松本である。
まあ、客観的に見れば、松本も殴られたのだし、大分苦労はしているのだが、確かに目下のところ、あんまり役に立っているとは言えない。
ただボケッと、京子のマンションで待っているだけなのである。
「電話番か……。|俺《おれ》はどうせ、そんなことしかできないよ」
と、一人ですねていると、本当に電話がかかって来た。
「――はい」
と、出たが、向うはなかなかしゃべらない。「――もしもし?」
「こちらは天国です」
と、言った声は……。
「咲江! 君か!」
松本は飛び上った。「大丈夫か! 今、どこだ?」
「大丈夫じゃないわよ」
と、咲江は言った。「冷凍されちゃってね、電子レンジで戻してもらったの」
「ええ?」
「で、精神病院へ入れられそうになって、看護人と大乱闘の末、やっつけて逃げて来たのよ」
「咲江……」
「怖かった」
と、咲江が言った。「でも、何とか逃げたわ」
「迎えに行く」
「いえ、一人で帰れる。ただね、お金がないの。タクシー代持って、マンションの前で待ってて」
「分った」
「あと十五分あれば行ける。――会いたかった! 一年も会わなかったみたい」
「うん……」
松本も胸が一杯になって来た。
「ルミさんは?」
「京子君と二人で、お父さんたちを迎えに行ったよ」
「父が? 父が連絡を?」
「うん。ともかく、早くここへ戻って来いよ。待ってる」
「分ったわ。――松本さん」
「何だ?」
「今夜も抱いてね。そのために頑張って逃げて来たのよ」
咲江は、ちょっと照れたように笑った。
――電話が切れると、
「やった!」
と、松本は飛び上った。「やった! 咲江!」
たぶん、下の部屋の住人はびっくりして、天井を見上げていたことだろう……。
ルミの運転する車が、京子のマンションに着いたのは、もう夜中だった。――途中、ハンバーガーなどを買って、食べたので、祥子は満足したのと安心したせいか、ぐっすりと眠っていた。
「僕が抱いて上るよ」
と、大内が言った。
――京子が、部屋の|鍵《かぎ》を開けて、
「松本君……。帰ったわよ」
と、中に入って、声をかける。「松本君……」
「寝てんじゃない?」
と、ルミが言った。
「まさか。いくら何でも」
「ともかく入ろう」
と、入江が息をつく。「くたびれたよ」
全員、ゾロゾロと居間へ入って行く。
「お父さん!」
と、叫ぶように言って、駆けて来たのは、咲江だった。
「咲江! 帰ってたの!」
と、京子が目を丸くする。
「ほらね。無事だった」
と、ルミは大してびっくりした様子でもない。
「咲江……」
入江が、言葉もなく、しっかりと娘を抱きしめたが……。「――おい」
「良かったわ、本当に」
「うん……。しかし、どうしてお前、そんな格好してるんだ?」
咲江は、だぶだぶのTシャツを裸の上に着ていたのだ。
「や、どうも……」
と、松本がパンツ一つの格好でやって来た。「良かったですね」
入江は目をむいて、
「お前か! 咲江をこんな――こんな――」
と、顔を真赤にしている。
「ま、生きて会えただけでも、良かったじゃない」
と、ルミがのんびりした口調で言った。
「それはまあ……」
入江も、|嬉《うれ》しさの方が大きいので、いつまでも腹を立ててはいられない。渋い顔で、
「ともかく、今は服を着てこい!」
と、言った。「それから――お前は、責任をとれよ」
と松本の方をジロッとにらむ。
「もちろんです!」
と、松本が直立不動の姿勢になった。
「ともかく、一旦落ちつきましょ」
と、咲江が言った。「話が山ほどあるんじゃない?」
「全くだ」
と、大内は言った。
そして、咲江は、ふと気付いて、
「あら。柴田さん……依子さんは?」
と、|訊《き》いた。
入江と大内は、チラッと目を見交わした。
「一緒じゃなかったの?」
「いや……途中でね……」
と、大内が口ごもる。
「彼女は死んだ」
と、入江は言った。
咲江は青ざめた。――思いもかけない言葉だったのだ。
「死んだ……。死んだの」
「ゆっくり、話そう」
入江は、娘の肩に、やさしく手をかけて、言った……。
「――細菌兵器だって?」
入江は|呆《あき》れたように、「時代錯誤な話だ! そんなことのために、人殺しまでしたってのか」
「ともかく、向うの話ではね」
と、咲江は言った。「本当かどうかはともかく……」
「さ、コーヒー」
と、京子がカップにコーヒーを注ぐ。
――もう、昼近くになっていた。
疲れ切った入江たちは、そのまま眠り込んでしまって、やっと起き出して来たのである。
「でも、こうやってみんなで顔を合わせられるなんて、夢みたいね」
と、咲江が言った。「これで依子さんがいたらね……」
「彼女の死をむだにしてはいかん。――真相を明らかにしよう」
と、入江が言った。「なあ、大内」
「は、はあ……」
大内が|欠伸《あくび》をした。「――すいません」
疲れていても、ゆうべは大内と敦子が一緒だったのだ。入江は苦笑した。
「――でも、父親が感染していたとしたら、あの子も?」
と、京子が言った。
「どうかな。爆弾まで落としたのは、そのせいかもしれん」
「じゃ、我々も感染してますかね」
と大内が言って、みんな顔を見合わせたが……。
「今さら心配しても」
と、ルミが笑った。
「全くだ」
入江は|肯《うなず》いて、「それに、もうずいぶん長くたっているんだぞ、あの子は心配あるまい」
と、言った。
「ともかく、第一にやるべきことは?」
と、大内が言った。
「マスコミだ。咲江が逃げ出したことで、向うも何か手を打って来るだろう」
「そうですね」
「|俺《おれ》が一番顔がきくだろう。ともかく、親しい記者たちに、連絡する」
「それがいいわ」
と、咲江が肯く。「みんなが知ってしまえば、もう私たちを|狙《ねら》っても意味がなくなるものね」
「しかし、入江さん。大丈夫ですか」
と、松本が言った。「外へ出たら、狙われるかもしれない」
「私、運転手やる」
と、ルミが楽しげに言った。
「あんたには、すっかり迷惑をかけたな」
と、入江が言った。
「退屈しのぎに絶好よ」
ルミはコーヒーを飲んで、「その代り、一つお願いがあるの」
「何だね?」
「|拳銃《けんじゅう》持たせてくれない?」
「何だって?」
「一度、ハンドバッグに拳銃をしのばせる、っていうのをやってみたかったの」
入江は、ちょっと笑って、
「OK。おい、小型の|奴《やつ》を彼女へ貸してやれよ」
と、大内に言った。「――事件が無事に片付いたら、ゆっくりごちそうするよ」
「あら、いいのよ」
と、ルミは笑って、「この人の作ったぞうすいよりおいしいものなんて、この世にないわ」
入江は、キョトンとしてルミを眺めていた……。
「ともかく――」
と、大内は言った。「柴田さんの|敵《かたき》は取ってやる。このままじゃすませませんよ」
「私も引っかいてやる」
と、敦子が言った。
「――おはよう」
と、声がした。
祥子が立っている。目が少しはれぼったいが、元気そうだった。
「どう? 眠れた?」
と、咲江が訊く。
「うん」
と、祥子は肯いて、「コーヒー、飲んでもいい?」
「あら、コーヒーなんか好きなの?」
「いつもお父さんと飲んでたんです」
「じゃ、どうぞ。ミルクは?」
「ブラックでいいです」
「負けるね」
と、大内が笑った。
「――お父さんのことも、どうなったのか、必ず調べてやるからね」
と、入江が言った。「君、お父さんの写真とか、持ってないかね」
「あります」
祥子は、寝ていた部屋へ行くと、またすぐに戻って来た。「これ。――ちょっと前のだけど」
祥子と二人で並んでいる写真。入江はその写真を他の人間に回した。
「この人ね……」
咲江は、その写真を見た。――ちょっとの間、咲江の顔がこわばった。
「――ありがとう」
咲江は、写真を祥子に返した。
「僕は咲江さんが閉じこめられかけた、その病院ってやつを当ってみましょう」
と、大内は言った。「もしかしたら、病院というのは表向きかもしれない」
「うむ。じゃ早速行動開始だ」
入江は、活力が若者のように限りなく|溢《あふ》れ出て来るって感じだ。
――咲江は、父親の腕をちょっとつついて、
「ね、来て」
と、言った。
「何だ?」
咲江は、父を寝室の方へ引張って行った。
「松本って奴のことなら――」
「そうじゃないわよ」
と、咲江は言った。「あの写真の――あの子の父親のこと」
「あの父親がどうかしたのか?」
「あの病院で見たような気がする」
と、咲江は言った。
「本当か?」
「似てるの。――でも、少し違うような気もするし。ただ……」
「じゃ、父親もあそこに閉じこめられているのか」
「そうじゃなくて」
と、咲江は首を振った。「私を|訊《じん》|問《もん》した、向う[#「向う」に傍点]の男。あの写真の父親と、よく似てるのよ」
20 裏切り
「これね」
と、敦子が言った。「病院らしく見えないわ」
「見かけもそうだが、きっと中は全然違うんだ」
と、大内は言った。
「どうするの? 中へ忍び込む?」
「おい、007じゃないんだぜ」
と、大内は|呆《あき》れて、「ここで待つのさ、ひたすらね」
「つまらないの」
と、敦子は口を|尖《とが》らした。
車を借りて、大内と敦子、二人で見張っているところである。
ここが、咲江がうまく抜け出した病院である。確かに、病院ということにはなっているが、造りからいって、普通の病院には見えない。
大体、正面の門が、しっかりと閉じていて、警戒している様子だ。もしかすると、咲江に逃げられて、閉めたのかもしれないが。
「いつも、こんな風なの、刑事の仕事って」
と、助手席で、敦子が言った。
「まあ、九割方は、歩くか待つか、だね」
「私じゃつとまらないわ」
と、敦子はため息をついた。
「君は戻ってろよ」
「いや」
敦子がどうしても行くって言って、ついて来たのである。
「しかしね――」
「ね、見て!」
と、敦子が言った。「あの車……」
大きな外車がその病院の前に停った。少しすると、門が開く。
大内は、双眼鏡を出して、車を見た。
「見える?」
「今、入って行った」
「そりゃ分ってるけど……。中に乗ってる人、見えた?」
「いや、ガラスが色つきだしね。その代り、車のナンバーは見た」
大内は、番号をメモした。「これで持主が分るだろう」
「でも、いい気分ね」
と、敦子が言った。「ずっと追いかけられてたのに、今度はこっちが追いつめる番だわ」
「全くだ。――しかし、背景が大きいと、戦うのは難しい」
「あの町の人、みんな知ってたのかしら?」
「いや、みんなってことはないさ。署長を始め、何人かの人だろうな。たぶん、あの〈永井かね子〉って名で金が送られていたのは、あの秘密を守る代償だったんだろうね」
「あ、そうか」
と、敦子は|肯《うなず》いた。「ふざけてる! あの署長の|奴《やつ》!」
「怖いな君は」
と、大内は笑った。
「でも、良かったわ。――あなたと知り会えたんだもの」
「まあね」
と、大内は素早く、敦子にキスした。
「ね、車が出て来た」
敦子が言った。「――誰か乗ってない?」
「うん……。ぼんやりと見えるな。三人ぐらい、後ろに乗ってる」
「どうする?」
「よし」
と、大内はエンジンをかけた。「あの車を|尾《つ》けてやろう」
「万歳! 町の中のカーチェイス!」
と、敦子が喜んでいる。
「おい、ただ尾行するだけだよ」
「でも、じっとしてるよりは、ずっといいわよ」
と、敦子は言った……。
「入江さん」
その男は、立ち止って、チラッと左右を見回した。
「入江さん――、どこです?」
「大きな声を出すな」
急に後ろで声がした。男はびっくりした。
「入江さん……。いつの間に――」
「商売だよ」
と、入江は笑った。「どうだ?」
「いや、びっくりしましたよ」
と、男は肩をすくめて「――警察の方に当ってみました。入江さんたちのことは、必死で伏せようとしているらしいです」
「そうか」
入江は肯いた。
「何事です、一体?」
その男は、もう入江とは長い付合いの記者である。
単に仕事の上だけでなく、個人的にも親しいし、家族ぐるみの付合いだった。
「うむ……。座れ」
公園のベンチにかけて、入江は息をついた。――公園の中は静かだった。
「ひどい目に遭ったよ」
と、入江は言った。「仲間の警察に|狙《ねら》われて、危うく殺されかけた」
「信じられませんね。――しかし、面白い」
「|他《ひ》|人《と》のことだと思って、あんまり面白がるなよ」
と、入江は苦笑した。「|俺《おれ》は――」
その時、人の姿が、公園の入口に|覗《のぞ》いた。
入江は言葉を切った。記者が立ち上ると、
「すみません!」
と、怒鳴るように言って、駆け出した。
警官だ! 入江は思った。
囲まれているに違いない。――逃げられるだろうか?
警官たちが数十人も駆けて来る。逃げ道はなかった。
――その時、けたたましくクラクションが鳴った。
入江は目をみはった。ルミの車が、猛然と公園の中を[#「中を」に傍点]突っ走って来た。
歩道をガタゴト揺れながら、車は、警官を左右へ分けて、走って来た。
「乗って!」
と、ルミが叫ぶ。
「すまん!」
入江は、ドアを開けて飛び込んだ。
「しっかりつかまって!」
と、ルミが叫んだ。車が芝生の中を突っ切って走って行く。
あわてて逃げる警官が、池の中へ落っこちた。
車は正面の階段をガタガタ揺れながら、跳びはねるように下りて行った。
車は、一方通行の道を逆に突っ込んで行く。クラクションは鳴りっ放しだ。
――高速道路へ入ると、やっと入江は息をついた。
「すまん」
と、首を振って、「あいつが裏切るとは……」
「人間、誰しも弱いもんですよ」
と、ルミが言った。
「よく助けに来てくれた」
「私、次は機関銃をもらうことにしようかしら」
と、ルミが笑って言った。
「――ショックだったわね」
と、咲江が言った。
「いや、俺が甘かった」
と、入江は言った。「もっと、用心するべきだった」
「でも……。これからどうする」
「そうだなあ」
と、入江は息をすって「よく考える」
咲江は居間に父を置いて、台所へ行った。
「ルミさん。本当にありがとう」
「いいえ」
と、ルミは言った。「お父さん、どう?」
「ショックみたい」
「でしょうね」
と、ルミは|肯《うなず》くと、「私が今夜、慰めてあげてもいいけど」
咲江は微笑んで、
「きっと元気になるわ」
と、言った。
「寝室がもっと必要ね」
「――おい」
と、松本が顔を出した。
「どうしたの?」
「誰か玄関の所にいるよ」
「本当?」
「人の足音とか話し声がしてる」
「出るか」
ルミがパッとバッグを取って、「これ、使ってみたかったの!」
と、|拳銃《けんじゅう》を取り出す。
「おい。危ないよ。隠しとけ」
と、松本は言った。「君は出るなよ」
咲江が肯く。
ルミと松本は、そっと玄関の方へ行って、様子をうかがった。
ひそひそと話す声。そして足音。
「二人か三人よ」
と、ルミが言った。「やっつけちゃおう」
「落ちつけよ」
と、松本は言った。「よし、ドアを開けるぞ」
松本がパッとドアを開けた。
目の前に、二人の男が立っていた。
21 活 路
「あの――」
と、松本が言った。「どなたですか?」
どう見ても、セールスマン、という感じの男たちだった。いや、油断はできない。
殺し屋が、いかにも殺し屋らしい顔をしていたら、仕事にならない。手に下げたアタッシュケースの中には、時限爆弾が……。
「〈A商会〉の者ですが」
と、男は松本ににらまれて、キョトンとした顔で言った。
「あ、そうか!」
ルミがポンと頭を|叩《たた》いて、「はいはい。――私よ、電話したの」
「あ、いつもごひいきいただきまして」
と、男が頭を下げる。「車をお持ちいたしました。下に停めてございますが」
「ありがと。じゃ、キーをちょうだい」
「はあ。――あの、ご覧にならなくてもよろしいですか?」
「いいわ、面倒だから。気に入らなかったら、誰かにあげる」
|呆《あっ》|気《け》に取られた松本が見ている前で、ルミは男の出す書類にさっさとサインをした。
「では――こちらがキーでございます」
「ありがと。ガソリン、入ってるでしょうね?」
「満タンにしてございます」
「結構。カーステレオは?」
「カセットは標準装備でございまして。今回は特にCDプレーヤーをサービスしてございます」
「気がきくわね。じゃ、またその内に」
「ありがとうございました」
男たちが帰って行くと、松本は|唖《あ》|然《ぜん》として、
「そんな簡単に車買うのか、いつも?」
「だって、階段を下りちゃったもんね、今の車。多少、ガタが来ているかもしれないし。それに、警官が見てたから、同じ車じゃまずいじゃない」
「外車だろ、そのキーについているマーク?」
「うん」
と、ルミは肯いて、「二千万くらいかな」
松本だって、父親が社長で、結構のんびりやっていたが、ルミの方は大分|桁《けた》が違うようだった……。
「ね、咲江さん」
と、ルミが言った。「ちょっとドライブしてみない?」
「その新しい車で?」
「もちろん」
「いいわね!」
と、咲江は微笑んだ。
「おい、危くないか?」
と、松本が心配そうに、「ついて行こうか、僕も」
「来てもいいけど、トランクの中よ」
と、ルミが言うと、松本が目をむいた。
「大丈夫よ、すぐ戻るわ」
と、咲江が笑って、松本に素早くキスした……。
夕方になって、町は夜へと沈んで行く、その間の微妙な時間に入っていた。
新しい車は、いかにも|嬉《うれ》しそうなエンジン音をたてながら、空いた住宅地の坂道を走り抜けていた。それは、やっと外へ出してもらえた犬が、大喜びではね回っている姿に似た感じだった。
隣に座っている咲江は、ルミの元気のいい[#「元気のいい」に傍点]運転に、しばしば青くなったが、色々助けてもらったんだから、それくらいは我慢しなきゃ、と辛抱していたのだ。
キッ、とブレーキをかけて、車は、静かな公園のわきに停った。
「気に入った!」
と、ルミは満足気に肯いて、「ねえ、咲江さん、いい車じゃないの」
「そ、そうね……」
と、咲江は少しひきつった笑顔を見せて、ルミに気付かれないように、そっと息をついたのだった……。
しかし――猛スピードで駆け抜けた後だからだろうか、じっと動かずにいることの快さが、咲江のこわばった四肢を解きほぐしてくれるようだった。
静かに暮れて来る町並。――ゆるい坂の下に車は停っていて、その坂の先の方へ目をやると、上り切ったその上は、すぐ空である。
不思議な光景だった。誰も歩いていない坂道。ゆるい風も、音をたてるほどではない……。
「好きだなあ、こういう時間」
と、ルミが、|呟《つぶや》くように言った。「ガンガン、ロックか何か鳴ってやかましいのも好きだけど、こういうエアポケットみたいな時間も好きだわ」
エアポケットみたいな時間、か……。本当にそうだ、と咲江は思った。不思議な人だわこの人。
それにしても……。
「これからどうなるのかしら」
と、咲江は呟いた。「袋小路へ追い込まれたようなもんね」
「考えようよ」
と、ルミは言った。「ねえ、たまたまあんなことに巻き込まれちゃって、みんな大変だけど、こうしてちゃんと生きてるんだし、それだけだって、奇跡みたいなもんじゃない。あなたは松本君っていう、ちょっとパッとしない恋人もできたし」
「まあひどい」
と、咲江は笑った。
「ねえ、この風景だって、静けさにみちていていい、とも言えるし、人っ子一人いなくて無気味とも見えるしね。そんなものよ」
ルミの言い方は、いかにも気楽で、スターのゴシップでもしゃべっているようだった。しかし、咲江は心をうたれたのだ。
そう……。この人の言う通りだ。絶望していても、道は開けない。
「――だけど、このままじゃどうにもならないわ」
と、咲江は首を振って、「どこへこんな話を持って行けばいいのか……。いつまでも、こうして隠れているわけにもいかないわ」
「そうね」
と、ルミは|肯《うなず》いた。「また少しドライブしましょ。いい考えが浮かぶかもしれないわ」
「ドライブ中に?」
「私ね、場所の持ってる霊感ってものを信じてるの。いい考えの浮かばない場所には、そういう力がないのよ。だから場所を移して、考えてみる。そうすると、うまく行くかもしれないわ」
なるほど。ルミの言い方は、科学的に根拠があるかどうかは別として、何だか当て[#「当て」に傍点]になりそうな気がした。
突然、|凄《すご》い勢いで車が走り出し、咲江は、
「キャッ!」
と、声を上げて、引っくり返りそうになってしまった……。
咲江とルミが、「意義あるドライブ」から戻ってみると、大内と敦子が帰って来ていた。
「いいところへ戻って来たね」
と、松本が出て来て、「みんな集まってるよ」
「何かつかめたの?」
と、咲江が勢い込んで|訊《き》く。
「ちょうど、今、出前のピザが来たところなんだ」
――咲江は、みんながめげていないと知って、嬉しいような、拍子抜けのような、複雑な気分だった……。
「――じゃ、あの病院に出入りしたその外車を|尾《つ》けて行ったのね」
と、咲江は、大内の話に、身を乗り出して、言った。「誰の車か分ったの?」
「しっかり、見届けたわよね」
と、敦子は言った。
「うん。その車、K製薬の本社の地下へ入って行った」
と、大内が説明する。「ナンバーの方から持主を当ると、K製薬の社用車になってるんだ」
「K製薬って、あの大会社?」
「日本でも三つの指に入る大手メーカーだ」
と、入江が肯く。
「その車は、いつも社長が利用しているんだよ」
「じゃ、あの病院と、K製薬と、何かつながっているわけね」
「ねえ」
と、笠矢祥子が言った。「その車って、この番号?」
ピザの箱の端を破って、ボールペンでサラサラと書いて、大内に渡す。大内はそれを見て、
「うん、この番号だ」
「あの町にも来たことあるわ」
と、祥子が言った。「お父さんに会いに来た」
「そうか。どんな男だったか、憶えているかね?」
と入江が訊いた。
「ううん」
祥子は首を振って、「乗って来た人の顔は見ていないんです。お父さんが、二階へ行ってなさい、って言って――。二階の窓から、下に停ってる車を、チラッと見たの」
「なるほど」
「でも、お話が少し聞こえて来ました、『とんでもない話だ!』とか、お父さん、怒ってた。――珍しいんです。お父さん、めったに怒ったりしない人だから」
「とんでもない話、か」
と、入江は肯いて、「他に何か聞かなかったかね?」
「他には何も」
「そうか。いつごろのことだね、それは?」
「お父さんのいなくなる、一か月くらい前です」
「ふむ……」
「製薬会社の社長が、あの山の中の家へね」
と、大内は考え込んで、「どういうことなんですかね」
「さて……。直接、その社長とやらに会って訊くしかないかもしれんな」
入江の目に、再び生気が戻って来た。
相手さえ、はっきりして来れば、入江は活力が戻って来るのだ。たとえ先の見通しはたたなくても、目の前に、ぶつかるべきものさえあれば――。
それが刑事というものなのである。
「ねえ、祥子ちゃん」
と、咲江は言った。
「はい」
「あなた、窓からチラッと見ただけで、その車のナンバーを今まで|憶《おぼ》えていたの?」
「ええ。記憶力、いいんです、私」
「そう」
それにしてもたいした記憶力である。
「凄いなあ、テストの時には最高だね」
と、松本が学生らしい感想を述べたのだった……。
「すると、一つはやるべきことができた」
と、入江は言った。「そのK製薬の社長に会うことだ、何て男だ?」
「〈会社要覧〉で調べました。佐山昭一郎という男です」
「佐山か。――どこを訪問してやるかな」
と、入江は楽しげに言った。
「さっき、ルミさんとドライブしててね、思ったの」
と、咲江が言った。「じっとしていても、やがて向うはこっちを捜し出すわ。だったら、まずこっちから出向くのよ」
「出向くって、どこへ?」
「今、分っているのは、あの病院しかないじゃない」
「危険だよ」
と、松本は言った。「いや、もちろん、僕はいい。しかし、逆に捕まっちまったりしたら……」
「向うだって、まさかこっちが攻撃して来るとは思っていないわよ」
と、ルミがおっとりと言った。「そこが|狙《ねら》い」
「そうよ。私、考えたんだけど……」
咲江の話に、誰もが目を見開いた。
「確かに危険は大きいわ。でも、こそこそ忍び込むだけじゃ、仕方ないと思うの」
「そうだ」
と、入江は肯いた。「いい手がある。絶好のニュースねた[#「ねた」に傍点]がある、といって、新聞やTVを呼んでやるんだ」
「そいつはいいや。圧力がかかる前に、報道されてしまいますからね」
「よし。やろう」
と、入江は肯いた。「ところで、どういう分担でやる?」
「僕は何でもやりますよ」
と、大内が言った。「柴田君の恨みを晴らしてやらないと」
「私も」
と、敦子が手を上げる。
「君はだめ!」
「どうしてよ」
「命を落とすことになるかもしれないぞ」
「こう見えても、落とし物なんか、したことないんだからね」
やり合っている二人を見て、入江は笑ってしまった。
「よし、こうしよう。|俺《おれ》はその社長さんとやらに面会しに行く。大内は病院の方だ」
「ですが、警部」
と、大内が言うと、
「警部と呼ぶな」
と、入江は言った。「俺はもう刑事じゃない。いやけがさしたよ」
「分りました。じゃ、何て呼びますか?」
「おじさん、でどう?」
と、ルミが言った……。
入江は眠れぬままに、ソファに横になり、目をつぶっていた。
行動開始は早いにこしたことはない。今夜十二時、と決めて、それまで、一休みすることになったのである。
二つある寝室は、それぞれ、松本と咲江、大内と敦子が使っている。――咲江に関しては、入江もあまり面白くなかったが、もう咲江も子供じゃないのだ、仕方あるまい。
特に、今夜の計画が失敗すれば、みんな、命を落とすことだってあり得るのだ、恋人同士、二人で過したいのは当然の気持だろう。
人間ってのは、以前は、何も悪いことをせずにいりゃ、穏やかに生きていけたものだ。それが今は、そうもいかないらしい。
いや、考え方を変えれば、人の世の中である限り、悪い|奴《やつ》というのは必ずいて、そういう手合を放っておくのも、「悪いこと」のうちに入るのかもしれない。
警官として、入江は自分のやって来たことは何だったのか、と考えていた。
「何だ――」
目を開けると、ルミが立っていた。明りはほとんど暗くしてあるので、うっすらとしか見えないが、シャワーを浴びて来たのか、湯の|匂《にお》いが漂っている。
「君にゃ、すっかり世話になったな」
と、入江は言った。「もう礼を言う暇がないかもしれんから、言っとくよ」
「どういたしまして」
と、ルミが言った。「でも、私、お礼は言葉じゃいやなの」
入江は目を丸くした。身にまとっていたものがハラリと落とされると――暗い中とはいえ、どう見てもルミは裸で……。
「君ね……私はその……」
「黙って」
と、ルミは入江の上に、体をあずけて、「お礼は、行動[#「行動」に傍点]で示してもらうことになってるの」
入江は、ルミの唇で口をふさがれ、酸欠で死ぬかと、一瞬恐怖を覚えたのだった……。
22 奇 襲
病院の〈夜間非常口〉という文字が、赤く夜の中に浮かび上っている。
ルルル。――ルルル。
建物の中に、呼び鈴の音が響くのが、聞きとれた。
固く閉じたドアのわきのインタホンから、
「誰?」
と、女の声が聞こえた。
「患者です」
車を運転している男が、答える。
「患者? 紹介のない患者は受け付けないのよ」
「佐山社長の紹介です」
向うは、少し黙った。それから、
「患者は誰?」
「名前は知りませんが、若い女です。ここから逃げ出したとか」
「開けるわ。入って」
と、即座に、女の声が答えた。
ガチャッ、とロックの外れる音が聞こえた。男は重いドアを開けると、
「車で通れるな。――よし、入ろう」
と、運転席に戻った。
車で中へ入ると、茂みに囲まれた裏庭のような場所で、少し先に、黒い建物が重苦しく横たわっていた。
車が扉の前につくと、同時に扉が開いた。
「――患者は?」
頭に包帯を巻いた、がっしりした体格の女が、白衣姿で出て来る。黒田とも子である。
「後ろだ。薬で眠ってますから」
ドアを開けると、黒田とも子はニヤッと笑った。
「お帰りね。――会いたかったわよ」
「ストレッチャーは?」
と、言ったのは、付き添って来た看護婦である。「脱水症状を起こしていて」
咲江の腕に針が止められて、点滴のびんを、看護婦が手で持っていた。
「必要ないけどね」
と、とも子は言って、ちょっと面倒くさそうに、顔をしかめると、「待って」
と、戻って行き、すぐに、ストレッチャーを押してやって来た。
「じゃ、運びましょう」
と、看護婦が言うのを、
「私がやるわよ」
と、とも子は、咲江の体の下に手を入れ、軽々とかかえ上げた。――|凄《すご》い力だ。
ストレッチャーに咲江を寝かせると、
「もういいわよ、後は任せて」
と、とも子は言った。「私がちゃんと面倒みるわ」
「そうはいかないんです、佐山社長の言いつけで」
と、運転して来た男が言った。「ちゃんと病室へ収容されるまで、確かめて来い、ということでした」
「信用できない、っていうの?」
と、とも子がムッとしたように言った。
「一度逃げられてるんじゃね」
男が皮肉っぽく言った。とも子はいまいましげににらんだが、
「いいわ。じゃ、ついて来て」
と、ストレッチャーを押して行く。
看護婦は、点滴のびんを手にして、小走りに急がなくてはならなかった。
エレベーターで地下へ下りる。
「取りあえず、処置室ね」
と、とも子は言って、白い扉を押した。
スイッチを押すと、まぶしい光が|溢《あふ》れる。タイル|貼《ば》りの、一見手術室のような印象の場所である。
とも子は、咲江を中央の台にのせると、点滴のびんをかけ、
「さ、これでいいでしょ。もう引き上げてちょうだい」
と言って、男の方を振り向いた。
「結構だ」
男は――もちろん大内である――|拳銃《けんじゅう》を構えて言った。「おとなしくしていてもらおうか」
とも子の顔が真赤になる。咲江が起き上った。
「うまく入りこんだぞ」
と、大内が言った。「咲江君、急いで」
「ええ」
咲江が台から下りて、「敦子さん、その服を」
「脱ぐわ。こんなもの、窮屈でしょうがない」
と、敦子は看護婦の制服を脱ぎ捨てた。
「あんたたち……。生きて出られると思ってるの?」
と、とも子が燃えるような目で、三人をにらんだ。
「私は出たわ」
「この傷の礼はさせてもらうよ」
と、とも子が、包帯へ手をやる。
「あの子を連れて来るわ」
と、咲江が看護婦の制服を着て、廊下へ出ようとした時、とも子の足が、サッと上った。
サンダルが飛んで、大内の額に当る。
大内が、一瞬よろけた。とも子の動きの素早さは、信じられないほどだった。大内に向ってぶつかって行く。
大内ははね飛ばされて、壁にぶつかった。手から拳銃が飛んで、ツルツルの床を滑った。
「大内さん!」
と、敦子が叫ぶ。
とも子が、仰向けに倒れた大内に馬乗りになって、首に両手をかけた。絞め殺す気だ!
「やめて!」
敦子が後ろから飛びかかって、とも子を引き離そうとしたが、とも子は全く、動かなかった。
太い指が、大内の首に食い込んで行く。大内の顔が真赤になった。必死でとも子の指をほどこうとするが、効果がなかった。
「やめて! やめて!」
敦子は、とも子の髪を引張り、顔を引っかいて、何とか止めようとしたが、とも子は額から血を流しながら、真赤な顔に、凄まじいまでの憎悪をこめて、大内の首を絞め続けている。
「敦子さん! どいて!」
と、咲江が叫んだ。「どいて!」
しかし、敦子の方も夢中だ。咲江の声が耳に入る様子はなかった。
咲江は、大内の拳銃を拾っていたのだ。しかしとも子の背中に、敦子がしがみついているので、撃つに撃てない。
といって、正面に回って撃てば、とも子は殺せても、その弾丸が貫通して、敦子まで殺すことになりかねないのだ。
仕方ない。ためらっている余裕はなかった。
咲江は、拳銃の銃把で、敦子の頭を殴った。ガッと鈍い手応えがあって、敦子が横倒しに倒れる。
咲江は銃口をとも子の背中――心臓の辺りに押し当てて、引金を引いた。銃声を、少しでも消したかったのだ。
ドン、と鈍い音がして、とも子の体がびくっと動いた。
それから、ゆっくりと体の力が抜けて行くのが分った。――やがて、とも子は仰向けに倒れて、動かなくなった。
――咲江の全身から汗がふき出していた。
人を撃った。殺したのだ。
咲江は、その場に座り込んでしまった。
大内が、苦しげに|喘《あえ》ぎながら、起き上る。何度か咳込んだが、何とか立ち上った。
「咲江君……。大丈夫か」
と、かすれた声を出す。
「ええ……。敦子さんを見てあげて」
咲江は、まだとても立ち上れなかった。
「――痛い」
と、敦子は、|呟《つぶや》くように言って、大内に抱き起こされると、「大内さん! 逃げて!」
「おい、しっかりしろよ」
「誰か後ろに……。私を殴ったのよ! 早く逃げて。私のことなんかどうでもいいから!」
「敵じゃないよ。咲江さんだ」
「え?」
「僕を助けようとしたんだ。――もうすんだ。大丈夫だ」
敦子は、ポカンとしている。落ちついて、大内からわけを聞くと、
「そうですか……」
と、頭を振った。「夢中になってて、咲江さんの声、全然聞こえなかったわ」
「ごめんなさいね、殴ったりして。――大丈夫?」
敦子は|肯《うなず》いて、
「ええ。私、石頭だから」
と、言った。「でも――ちょっとこぶ[#「こぶ」に傍点]ができてる」
「僕も命拾いした」
と、大内は息をついて、「さあ、ゆっくりしていられないよ。見付かったら大変だ」
「ええ……」
咲江は、拳銃を大内に返して、動かなくなった、黒田とも子を見下ろした。「――私が殺したんだわ」
「仕方なかったんだよ。さあ、行こう」
「あの子を連れて来ないと」
咲江はやっと我に返ったように言って、部屋を出た。
「待って」
と、大内が、とも子の死体を引きずって、奥の方へと隠す。
「入口から見えないようにしておこう。誰かがここを|覗《のぞ》くかもしれない」
「――まだだめよ。足が見えているわ」
と、敦子は言った。
「じゃ、足を何とかして――」
「無理じゃない?」
「何かで隠すといいわ」
と、咲江は、歩いて行き、「このカーテンで。――こうやって」
仕切りになるカーテンを動かして、咲江はとも子の死体を何とか見えないようにした。
「これでよし。行こう」
明りを消し、三人は廊下へと出て行った……。
オフィスビルの最上階には、まだ明りが|点《つ》いていた。
「あそこか」
と、入江は言った。「残業[#「残業」に傍点]とはご苦労さんだな」
「本当にあそこに佐山昭一郎がいるんですか?」
と、松本が|訊《き》いた。
「たぶんな。正確な情報かどうかは知らないが」
と、入江は言った。「じゃ、君はここで待っていてくれ」
と、ルミの方へ声をかける。
「あら、どうして?」
と、ルミは車にもたれて、「私も行くわよ!」
「しかし、危いよ」
「結構よ。それに、私と一緒の方が、通りやすいと思わない?」
ルミに言われると、入江も、いやとは言いにくい。何といっても、さっき、抱いてしまったばかりである。
全く、変った女だ。――しかし、入江の方は久しぶりの女の肌に、大いに感動したのも事実である。
「彼女たち、大丈夫かな」
と、松本が呟く。
「予定通りやるだけさ。――行くぞ」
入江たちは、ビルのすぐわきに車を残して、ビルの通用口へと歩いて行った。
「――誰かいる」
入江が声を低くして、「頭を下げろ」
通用口の辺りだけが明るい。男が二人、缶ビールを飲みながら、退屈し切った様子で、空の段ボールに腰をおろしていた。
「もう一本やるか?」
と、一人が訊く。
「もうよせ。アルコールが残ってると、やばいぜ」
「大丈夫さ。向うもへべれけに酔っている。分りゃしない」
「そんな時に限って、パトロールに捕まる。やめとくこったな」
フン、と相手は鼻を鳴らして、
「馬鹿らしいじゃねえか。上じゃ、楽しくパーティの最中だっていうのに」
「こっちは見張り、仕方ないさ。それが仕事だ」
「金になるといったって、|俺《おれ》たちはたかが知れてるぜ。社長はあんなに大儲けしてさ」
「まあ、世の中ってのは、そんなもんだよ」
と、一人はタバコに火を|点《つ》けた。
「そいつは普通のタバコかい?」
「当り前だろ」
「上じゃ、何をやってる[#「やってる」に傍点]のかな」
「新しい薬じゃないのか。あんなに女の子を集めるのは珍しいからな」
「評判がいいらしいじゃないか」
「らしいな。俺はそういう[#「そういう」に傍点]趣味はない」
「いい気分だぜ」
「そんなもんに、大金出すのも馬鹿げてるぜ」
と、一人はなかなかクールな男らしい。
「そうかな。やってみりゃいい」
「そんなものに金を出すなら、女の方がましだね」
「女と一緒にさ。――あの社長みたいにな!」
二人は、また缶ビールを飲み始めた。
入江は、首を振って、
「|呆《あき》れたな。会社で宴会か」
「薬って……」
と、松本が言う。
「もちろん、麻薬だな。おそらく、裏で稼いでるんだ」
「それを治す薬も売ってるのかもね」
と、ルミが言った。「私も、楽しいことは好きだけど、それで体こわしちゃ、仕方ないと思うなあ」
「全くだ」
「ねえ。好きな男とも寝られなくなるし」
入江は、赤くなって、咳払いした。
「どうします?」
と、松本が訊く。
「あの二人だな。まず、何とか注意を引きつけといて、やっつけよう」
「じゃ、任せて」
と、ルミがニッコリ笑った。
「気を付けろよ」
ルミが、フラッと歩き出す。いかにも、少し酔ってるような足取りだ。
コツ、コツと靴音がして、二人の男がパッと止まる。
「誰だ!」
と、鋭い声が飛ぶ。
「ごめんなさい!――すっかり遅れちゃったの」
と、ルミが、ろれつの回らないしゃべり方で、「もう始まっちゃった?」
見ている松本と入江が|唖《あ》|然《ぜん》とするほどの名演技だった。
「何だ……。困ったな。どうする?」
「誰も入れるな、と言われてるんだ」
「そうだ。帰ってくれよ」
「あら、冷たいのね……せっかく楽しみにして来たのよ」
と、ルミは口を|尖《とが》らして、「昭ちゃんだって、私のこと、待ってるはずよ」
「昭ちゃん? 誰だ、それ?」
「知らないの? 社長さんよ」
「佐山社長か」
男たちはふき出した。
「――昭ちゃん、か。親しいのかい、社長と?」
「そりゃ、わきの下のほくろまで知ってる仲ですもん」
「言ってくれるじゃないか」
「――ねえ、通してよ。後で付合ってあげてもいいからさ」
「本当か?」
と、男たちが目を輝かせる。
「勝負あった、だな」
と、入江が呟いた。
「中へ入りますよ」
「行くぞ」
ドアが開けられ、二人の男が、ルミを先に入れ、一人が中へ続けて入って行く。
入江と松本がダッと駆け出した。
「おい!」
何を言う間もない。ガツッと音がして、一人は入江の手にした拳銃の銃把の一撃で、アッサリのびてしまった。
「動くな!」
入江は、もう一人を壁に押し付けた。
「助けてくれ!」
と、震え上っている。
「二つ答えろ。エレベーターは?」
「そ、その先だ」
「緊急用のやつがあるだろう。社長が逃げるためのが」
「それは――」
銃口が、男の|喉《のど》に、ぐいと食い込む、男は目を白黒させた。
「言うよ! 言うよ!」
「よし。――どこだ」
「直接、上から地下の駐車場へ下りるんだ。その……階段の裏手だよ」
「ありがとう」
と、入江は言った。
そう言ってから殴るのが、まあ、元刑事[#「元刑事」に傍点]としての礼儀というものだったかもしれない……。
――非常ベルが、ビル全体に鳴り渡ったのは、その数分後だった。
ビルの最上階の明りが消える。
そして、大騒ぎしている女の金切り声が、ビルの中に響き渡った。
地下の駐車場。――階段の裏側、目立たない鉄のドアの奥に、ゴトンと音がして、ドアが開いた。
「早く逃げないと!」
と、若い男が出て来る。「警察が来ますよ、社長!」
「分っとる。車を早く!」
と、白髪の男があわてふためいて出て来る。
「急げ!」
もう一人、でて来た男がいる。
「――おやおや」
と、声がして、三人の男はギョッと立ちすくんだ。
「妙な所でお会いしますな」
と入江は言った。「ねえ、水島署長」
あの町の署長、水島である。
そして、三人の男たちは、何とも見っともない格好だった。ノーネクタイで、ワイシャツもボタンが外れたまま。ズボンも前のファスナーが上っていない有様だった。
「何だ、こいつらは?」
と、白髪の男が言った。
「佐山社長ですな」
と、入江は言った。「ちょっとドライブにお付合い願いたい」
「貴様――」
と、若い男が殴りかかろうとして、後ろからの、バットの一撃でのびてしまった。
「いい気持だ」
と、松本は言って|肯《うなず》いた。
「いいか」
と、入江はぐっと水島をにらんで、「お前らのために、柴田君は死んだ。償いはさせてやる!」
「待ってくれ!」
水島は手を上げて、「私はただ頼まれた通りに――」
ルミの車がやって来た。
「早く乗って! パトカーが来るわ」
と、ルミが叫んだ。「あら、一人、ふえたの?」
「どうするかな」
「トランクに入れる?」
と、ルミは楽しげに|訊《き》いた。
23 裁 き
重いドアが開いた。
ベッドで、死んだように眠っていた男が、身動きした。――明りが射すと、まぶしげに目を細くする。
「起きてもらおうか」
と、入って来た男は言った。
「――何の用だ」
と、ベッドに起き上った男は、面倒くさそうな声で言った。
「日記の話さ」
「何だ。――手に入れたんじゃなかったのか?」
「入れたとも。しかし――」
と、男は笑って、「妙なこと考えたもんだね。ラテン語で書くとは」
「そうか?」
と、不精ひげの伸びた男は、皮肉めいた笑いを浮かべて、「残念だったな。お前ももう少し熱心に勉強しとけば良かったのに」
「|俺《おれ》は手っ取り早く金になる道の方が向いててね」
男は、|椅《い》|子《す》にかけると、「なあ、いい加減にしろよ、兄さん[#「兄さん」に傍点]」
「兄さんなんて呼ぶな」
と、笠矢光夫は言った。「お前なんか、弟じゃない」
「しかし、兄弟だぜ。顔を見りゃ、誰だってそう思う」
と、男は言った。「俺は兄さんを、困った|奴《やつ》だが、やっぱり兄弟として、死なせたくないと思っている」
「そいつはどうも……」
と、笠矢はそっぽを向いた。
「なあ。あの日記に書いてあることを、教えてほしいんだ。それで、兄さんは自由になれる」
「自由か。――つまり、殺す、ってことだろう」
「やめてくれ」
と、男は、立ち上って、「俺は、人殺しじゃない」
「やらせたろう。同じことだ」
「しかし、自分で手は下さんよ」
「もっと悪い」
と、笠矢は言った。「薬の売買と同じことさ」
「何だって?」
「直接は[#「直接は」に傍点]殺さない。しかし、結局、売った相手を少しずつ殺してるんだ」
「俺がやらなきゃ、誰かがやるさ」
「そんなもんじゃない」
笠矢の目は鋭くなった。「いいか。あの薬は、これまでのどの麻薬より強力だ。もし、暴力団やマフィアに流れることがあったら……。どうなるか分ってるのか」
「他人のことに気をつかってる暇は、俺にはないのさ」
と、男は言った。「もう一度頼む。――あそこに書かれた知識が必要なんだ」
「断る、と言ってるだろう」
と、笠矢は言った。「殺すなり何なり、すればいい!」
男はため息をついて、
「確かに、俺たちもドジなことをしたよ、あの家を爆破させたりしてね」
「そして、俺の祥子を殺した! 何て奴だ、お前は!」
「いや」
と、男は首を振った。「祥子ちゃんは生きてる」
笠矢の目が大きく見開かれた。
「――何だと?」
「本当だ。あの跡を捜させた。死体は見付からなかった。代りに地下室から、誰かが|這《は》い出した跡があったよ」
「本当か!」
笠矢は立ち上ろうとして、よろけた。そのまま、膝をついてしまう。
「――薬の量はまだ少ない。しかし、それ以上続けると、二度と立てなくなるよ」
「本当か! 祥子は生きてるのか!」
「ああ、本当さ」
笠矢は、床に座って、ベッドにもたれかかった。ゆっくりと息をついて、
「|騙《だま》すつもりじゃあるまいな」
「騙すなら、もっと早く言ってる。やっとそれが分ったんだ。あそこの署長が知らせてくれてね」
と、男は椅子にまた、腰をおろした。「どうかな、兄さん?――生きて、祥子ちゃんに会いたいだろ?」
笠矢の額に、深いしわが寄った。――髪に白いものが混じっている。
疲れていた。堪え切れないほど疲れていたのだ。
「――分った」
と、笠矢は息をついた。
「話してくれるのか?」
と、男は目を輝かせた。「本当だね?」
「ああ」
笠矢は肯いた。「しかし、祥子と会うまでは、中身はしゃべらんぞ」
「なかなかしぶといね」
と、男は笑った。「どうせ遠からず――」
ふと、男は言葉を切った。
「何の音だ?」
廊下をドタドタ駆ける音がした。ドアが開いて、白衣の男が飛び込んで来た。
「火事です!」
「何だと?」
「火が地下から――早く逃げて下さい!」
「馬鹿め! 何とかして消せ!」
と、廊下へ飛び出して、男は|愕《がく》|然《ぜん》とした。
もう、廊下に白い煙が流れ込んで来ていたのだ。
「消防署へは?」
「いえ、まだ……」
「よし。連絡はするな」
「でも、患者はどうします?」
男は、首を振った。
「放っとけ」
「焼け死にますよ!」
「構わん。――もし逃げられたりして、警察が見付けたらどうする!」
男は、部屋の中へ戻ると、「兄さん、一緒に来るんだ」
と、兄のわきを支えて立たせた。
「患者を助けろ!」
「ごめんだね。何もかも焼ければ、明るみに出なくてすむ」
「お前って奴は――」
「何とでも言えよ」
廊下へ出ると、男は、「おい! 手伝え! おい!」
と、大声を出した。
「畜生! どこに行ったんだ!」
「手伝いましょうか」
と、声がした。
ハッと振り向いた男は、目をみはった。
「その節はどうも」
と、咲江は言った。「笠矢さんですね」
「君は……」
「祥子ちゃんの友だちです」
と、咲江は言った。
男が笠矢を投げ出すと、|拳銃《けんじゅう》を抜いた。
銃声が廊下に鳴り渡った。――男がゆっくりと倒れる。
「間に合った!」
と、大内が駆けて来る。
「大内さん。笠矢さんよ」
「そうか。この男は――」
「弟です」
と、笠矢が言った。「狂ってしまった。こうなっても、仕方ない奴です」
「立って下さい。煙だけのつもりが、本当に火事になってしまった」
「足に力が……。薬を射たれていたんです」
と、笠矢は言った。「祥子は本当に無事なんですか!」
「お父さん!」
煙の中から、少女が駆け出して来た。
「祥子……。生きてたんだな!」
笠矢は、娘をしっかりと抱きしめた。
「――早く逃げよう」
と、大内は促した。
「患者が――」
「今、もう一人が、|鍵《かぎ》をあけて回っているから。さ、咲江君、笠矢さんを支えて」
「はい! 非常階段がそっちにあります」
「よし、行くぞ」
急がなくてはならなかった。火は、もう廊下をなめ始めていたのだ。
「――見て。火よ」
と、ルミが言った。「きれい」
「たき火じゃないぞ!」
と、入江が言った。「病院が燃えてる!」
「何だと!」
佐山が大声を上げた。「あそこには――」
「薬を作る研究所があった。そうだな?」
入江が佐山のえり首をぐいとつかんだ。
「貴様、あそこの患者たちを実験台にして、薬の効果をためしたんだろう!」
「はなせ!――俺はな、政府の高官と親しいんだぞ!」
と、佐山はわめいた。
「いくら親しくても、お前が麻薬パーティを本社ビルでやったと分りゃ、そっぽを向くさ」
と、入江は言った。「急いでくれ」
「任せて!」
ルミは腕まくりした。「つかまってるのよ……」
猛然と車が突っ走った。
――入江は、後になっても、よく無事に病院まで駆けつけたものだ、と不思議でならなかった……。
病院の近くへ来て、やっと車のスピードは「普通」におちた。
「|凄《すご》い人だわ」
病院が、夜闇にも鮮やかに、炎をふき上げていた。火の粉が、雪のように舞っている。
その周囲を、消防車が囲み、そこに、TVカメラや新聞のカメラマンがひしめいているのだった。
「――咲江は?」
と、松本が言った。
「あの子は大丈夫よ」
と、ルミが言った。
「でも、この火じゃ……入江さん!」
「うん。捜しに行こう」
「こいつらは?」
と、松本が佐山を見る。
「そうか、忘れてた」
入江は、|拳《こぶし》を固めて、佐山の|顎《あご》を一撃してやった。佐山はのびてしまう。
「トランクのおっさんは?」
と、ルミが|訊《き》く。
もちろん、水島のことである。
「放っとけ」
と、入江は言って、「こいつを見張っててくれ」
と、拳銃を渡そうとした。
「ご心配なく」
ルミは、しっかり、自分の拳銃を持って来ていたのだ。「動いたら容赦なく撃つわ」
「任せるが、殺すなよ」
と、入江は言うと、車を出て、駆け出して行く。
松本も、あわてて後を追ったのだった。
しかし――すでに火は完全に建物をなめ尽くしていた。
近付くこともできない。水をかけてはいたが、燃え尽きようとしている感じだった。
「――大丈夫かな」
と、入江は青くなって言った。「もし……咲江に死なれたら、俺は……」
「どうするの?」
と、後ろで声がした。
入江が振り向いて、飛び上ったのは、もちろんである。そして抱きしめようとしたのだが……。
咲江は、松本の腕の中へ飛び込んで行ってしまったのだった……。
「お父さん……」
と、祥子が言った。「大丈夫?」
「ああ」
笠矢は、ソファに横になって、疲れてはいるようだったが、|微笑《ほほえ》んで見せた。
「すみませんね」
と、入江は言った。「ゆっくり休んでいただきたいんですが、ともかく、あなたのお話をうかがわないと」
「分っています」
と、笠矢は|肯《うなず》いた。
「さ、どうぞ」
と、咲江が言った。
例の、ルミを感動させた「ぞうすい」である。笠矢は一口食べて、
「|旨《うま》い!」
と、声を上げた、「いや、これはすばらしい味だ」
「ファンがふえた」
と、ルミが言ったが、咲江と松本以外は誰も意味が分らなかった。
笠矢は、皿をきれいに空にしてしまうと、
「患者たちは助かったんですか」
と、訊いた。
「やけどをした人が数人いますが、一応全員逃げられたようです」
と、大内が言った。
「ごめんなさい」
と、敦子が、小さくなっている。「本当に火事にしちゃって」
「いや、あれで良かったのさ」
と、笠矢が言った。「あそこには、まだずいぶん薬の原料が残っていたはずです」
「笠矢さん、あなたと、この麻薬との係りは?」
「ええ」
と、笠矢は肯いて、「祥子が話したと思いますが、もともと、私は自衛隊の幹部に頼まれて、細菌兵器の研究をしていました。――もちろん、今となっては、どうしてあんなことをしたのか、と思いますがね」
「その研究で感染したとか」
「いや、実はそうじゃないのです」
と、笠矢は首を振った。「その研究を進めている内、細菌への抵抗力をつける薬を研究することになりました。それなしじゃ、使えませんからね、せっかくの兵器で、味方が死んでしまう」
「何て時代遅れな話なの!」
と、敦子が言った。
「全くです。――その時、解毒剤の研究の過程で、全く新しい種類の麻薬ができてしまったのです。これにはびっくりしました」
「それを、幹部の人間は承知で?」
「もちろんです。間に立ったのが、私の弟でした。決して悪い|奴《やつ》じゃなかったのですが、金づかいの荒い男で、その仕事でも、相当の裏金を取っているはずです」
「なるほど」
「一方、その開発を技術と資金の両方から手伝っていたのが、K製薬の佐山です。当然、利権やらうまみがたっぷりあったんですね」
「それで?」
「私は、その薬のことを、弟に話しました。――それを聞いて、弟は、気が変ったのです。兵器の研究で得られる金に比べ、新種の麻薬をどんどん作り出し、売り|捌《さば》けば、凄い金になると気付いたのです」
「すると――」
「問題の幹部も、弟は説得して仲間に入れました。そして細菌兵器の研究はなかなか進まないと上には言わせといて、自分たちはその研究費を、麻薬の方に使っていたのです」
「ひどい話ね」
と、ルミが言った。
「私は、何しろ世間知らずで……。しかし、その内に、兵器の研究にもいやけがさして来ました。私は辞表を出して……。弟はいい機会と喜んだのです」
「どうしてです?」
「麻薬のことを私が知れば反対すると分っていたんですよ。|却《かえ》って私がいない方がいい、と思っていたのです」
「それで――辞めたのですか」
「辞める条件として、一年間、東京から姿を消すこと、と言われました。これは国家の機密上、重要だから、と」
「なるほど」
「私も、そんなものか、と思い、たいして気にもとめませんでした。――それで、ああして、田舎町へと移ったのです」
「国家機密か。――調法な言葉だ」
と、入江は言った。
「全くですね」
と、笠矢は肯いて、「国家機密だ、と言われると、何でもまかり通る。実体は、どれも大したものじゃないのに、です」
「このぞうすい[#「ぞうすい」に傍点]の作り方の方が、よっぽど重大な秘密よ」
と、ルミが言ったので、みんなが笑った。
「――町の人たちの何人かが、私たちに食事を作ってくれたり、届けてくれたりしていました。その謝礼も、出ていたはずです」
「例の〈永井かね子〉だな」
と、入江は言った。
「ところが、弟たちの方が困ってしまったのです」
と、笠矢は続けた。「薬が大量に生産できない。すぐ変質して、使いものにならなくなってしまうのです。これは、熱処理の問題でしてね。簡単なことなのですが、却って思い付かなかったんですな」
「それでまたあなたに――」
「しかし、今度は、本当のことを打ちあけなくてはなりません。――そこで、弟たちは、私一人を連れ戻ったのです」
「薬作りに協力しろ、と?」
「ええ。もちろん私は拒否しました。すると、私をあの病院へ閉じ込めた、というわけです」
「祥子さんは……」
「私が娘を|可愛《かわい》がっていたことを知っていますからね。娘に会いたい気持がつのれば協力すると思っていたのでしょう。しかし――そうはいきません」
と、首を振り、「あの薬が大量に出回れば大変なことになります。新たなマフィアが生れるでしょう。私も、遅まきながら、その問題に気付いたのです」
「よく辛抱して――」
「いや、決して殺されないと分っていましたからね。私が必要な間は」
「なるほど」
と、入江は肯いた。「あの日記は……。結局燃えてしまったのですか」
「ああ、あれですか」
と、笠矢は言った。「弟は、私がどこかに薬の製造のメモを残していると信じていました。しかし、どこにあるのか、分らなかった」
「あの日記が――」
「そうだ、と弟は思ったのです。ともかくラテン語で書かれていて、しかも祥子が、私を探す手がかりに、とあなたへ渡したのですから」
「どうしてそのことを知っていたんですか」
「あの家へ、よく食事を運んでくれたおばさんがいて……。花田さん、といったかな」
殺された、花田あやだ。いや、自殺と見せかけて、殺されたのだ。
「その人が、話を立ち聞きして、水島という署長に話したのですよ」
「それで、口をふさがれた、というわけか」
と、入江は言った。
「殺されたのですか」
「ええ」
「何てことだ……」
と、笠矢はため息をついた。
「なぜ、あの家を爆破したんです?」
「あれは、違うのです」
と、笠矢は言った。「私と祥子が、あの町にいることを、自衛隊の他の幹部が知って、問題になってしまったのです。弟たちは困りました。理由を説明しなくてはならない。それで、細菌に感染したと話したのです」
「なるほど。それで、もみ消すために――」
「ええ。私と娘を殺して、証拠をなくそうとしたわけです。私はそれを知って、ますます口をつぐんでしまいました。弟にとっても、それは予想外のできごとだったのです」
「すると、我々が警察に追われたのは、結局……」
「細菌兵器のことを真に受けた幹部が、その秘密の|洩《も》れるのを恐れて、手を打ったのでしょう。申し訳ないことです」
――大内が、やり切れないというように、
「下らない!」
と、言った。「そんなでたらめのために、柴田君が死んだのか!」
「全くだ」
入江は|肯《うなず》いた。「しかし、笠矢さん、今の話を、マスコミに公開していただけますね」
「もちろんです。弟は報いを受けたが、グルになっていた幹部も、佐山も、水島署長も、罪を償うべきですよ」
と、笠矢は言った。
「お父さん」
と、祥子は甘えたように言って、父親の胸に顔を伏せた。
「弟たちは、あの病院の理事長におさまり、薬の実験に、患者を使っていたのです。私が殺してやるべきでした」
と、笠矢は、祥子を抱いて、言った。
少し間があった。
ホッとしたような、力の抜けたような、空白だった。
「――笠矢さん」
と、咲江が言った。「あのラテン語の日記、あれは何が書いてあったんですか?」
「ああ、あれですか」
笠矢は微笑んで、「退屈でしたので、昔習ったラテン語を思い出しながら、訳していたのです。祥子の本棚にあった童話[#「童話」に傍点]をね」
「そんなこと、言わなかったじゃない」
と、祥子はふくれっつらになって言った。「てっきり、大切なものだと思ってた」
「すまん。しかし、いくらお父さんでも、ラテン語で、そうむずかしいものは書けないよ」
と、笠矢は言った。
「――童話か」
と、松本が言った。「それなら読めたかもしれないな」
入江が、息をついて、
「よく分りました」
と、肯いた。「笠矢さん。すると、薬の作り方の秘密は、どこにも書いておかなかったんですな」
「化学式にして、残してあります」
と、笠矢は言った。「しかし、決して人の目には触れませんよ」
「分りました」
入江は立ち上った。「ともかく、今日はゆっくり休んで下さい」
「ありがとう。――祥子、一緒に寝るか」
「うん」
祥子は肯いて、「でも、別のベッドでね」
と、言った。
みんなが笑う。――なごやかな空気だった。
「じゃ、ともかく今夜はここでまた寝ましょ」
と、ルミが|欠伸《あくび》をした。
「ねえ」
と、咲江がそっと松本に言った。
「何だい?」
「人の目に触れない所って、どこだと思う?」
「さあ……。分んないな」
と、松本は首をかしげた。
「分らなくてもいいのね、きっと」
咲江はそう言って、「じゃ、おやすみなさい」
と振り向くと――。
祥子が、ちょっといたずらっぽい笑顔を見せて、咲江を見ている。そして、祥子はそっと人さし指を自分の頭に当てた。
アッと咲江は声を上げそうになった。
そうか。――祥子が記憶している[#「祥子が記憶している」に傍点]のだ!
一目見た車のナンバーをいつまでも|憶《おぼ》えている祥子のことだ。本気で憶えれば、難解な化学式も頭へ焼きつけられるだろう。
祥子はそれに気付かれないために、わざとあの日記を依子に渡したのかもしれない。実際、笠矢の弟たちは、日記帳を追いかけていたのだ。
「どうかしたのかい?」
と、松本が不思議そうに|訊《き》く。
「別に」
と、咲江は首を振って、言った。
「あら、いけない」
と、ルミは口に手を当てて言った。「忘れてたわ。車のトランクに、あの水島ってのを、入れたままだった」
24 エピローグ
公園に、暖かい陽射しが降り注いでいた。
ベンチに座って、咲江は、まぶしいような春の日を見上げた。
――あれから何か月もたったとは、信じられないようだった。
事件は、決してすんなりと解決したわけではない。
自衛隊は、もちろん|極《ごく》|秘《ひ》|裡《り》に細菌兵器の研究をしていたとは認めず、笠矢にも反論して来た。しかし、佐山が逮捕され、現実に、ビルで麻薬が使われていたこと、佐山が幹部とのつながりを自白したことで、マスコミも大いに書き立て、やっと自衛隊も渋々事実を認めたのだった。
花田あやを自殺に見せかけて殺したのはもちろん水島署長だったのだが、日記帳のことを知っていたからだけでなく、あの現金書留を盗んで埋めている水島を目撃していたせいでもあったことが分った。隣町に女を作っていた水島が、金に困ってやったことだったのだ。
その点に疑問を持ち、県警に検死を促す匿名の電話を入れたのは、あの若い巡査吹田だった。
入江と大内は、県警に戻れることになっていた。
当然、昇進もし、待遇は悪くなかった。――二人とも、昇進した翌日、辞表を出した。
咲江も賛成だった。
二人とも、柴田依子のことを考えれば、とても素直には復職できなくて当然だろう。
「やあ」
と、声がした。「ごめん」
松本が走って来る。
「いいわよ、そんなに急がなくても」
と、咲江は笑って言った。
松本と咲江は婚約者同士である。学生結婚は、やはり不安というので、卒業を待って、結婚することになっている。
「大内さんと親父さんは?」
「まだ。――どんな顔して来るかな」
と、咲江が言っていると、当の大内が、敦子を連れてやって来た。
すぐ後ろに、入江がいる。
「新しい背広か」
と、松本が言った。「似合うね」
「本当。普通のサラリーマンに見えるわよ」
大内が、汗を|拭《ふ》いて、
「やれやれ。面接ってのは疲れるね」
と、言った。
「合格?」
「もちろんよ」
と、敦子が言った。「落としたら、引っかいてやる」
「怖いなあ」
と、咲江は笑った。
二人揃って、新入社員だ。もちろん、大内と入江の二人である。
「お父さん、頑張って」
と、咲江は言った。
「ああ。何でもやるさ。お茶くみでも掃除でも」
「お父さんのいれたお茶じゃ、苦そう」
と、咲江は、笑った。
「さあ」
と、大内がみんなを見回して、「じゃ、昼を食べに行こう」
「そうね。――何にする?」
「私は何でも……」
と、咲江は言って、「お父さんは?」
「うん?」
入江は、いやに落ちつかない。キョロキョロ周囲を見回している。
「どうしたの?」
「いや……。別に」
「お昼食べに行きましょ、もう死にそう」
と、父親の腕を取ると、
「いや――ちょっと、|俺《おれ》は用がある」
「用事? 何なの?」
「大したことじゃないけどな」
と、入江は言った。「お前たち、行ってくれ」
「でも、警部――あ、いけね。つい、くせでね」
「みんな一緒の方が楽しいわ」
と、咲江が言って、「ねえ――」
「あれ、ルミだ」
と、松本が言った。
「――やあ!」
ルミが、相変らずの超ミニスカートで、やって来る。
「ルミさん! どうしてここに?」
と、咲江が訊くと、
「約束があってね」
「約束?」
「デートなの」
「へえ」
――少し間があった。
咲江は、赤くなってうつむいている父と、ニコニコ笑っているルミを眺めていたが……。
「まさか!」
と、言った。
「あら、まずい?」
「別に……そうじゃないけど」
「結構ね、波長[#「波長」に傍点]が合っているの」
ルミはそう言って、「ねえ?」
と、入江の腕に手をかけた。
「まあ……ちょっと食事をすることになってるんだ」
と、入江は言って、「じゃ、またな」
ルミに引張られるように歩き出す。
|唖《あ》|然《ぜん》として見送っている咲江の方へ、ルミは振り向くと、
「今夜、帰らなくても、心配しないでね!」
と声をかけ、それから入江に寄り添うようにして歩いて行った。
――咲江が我に返ったのは、空いたお腹がグーッと鳴ったせいだったのである……。
|消《き》えた|男《おとこ》の|日《にっ》|記《き》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年6月8日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『消えた男の日記』平成8年11月25日初版発行
平成12年6月30日5版発行