角川文庫
殺意はさりげなく
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
プロローグ
1 幻 影
2 下 校
3 祖 父
4 恋
5 狂 気
6 奇妙な朝
7 |失《な》くした時計
8 迷った男
9 暗い|淵《ふち》
10 悪の意志
11 絶 望
12 夜歩く
13 眠れぬ夜
14 悲しい眠り
15 叫 び
16 打 開
17 迷 い
18 招 待
19 丘
20 敵
21 刑事の涙
22 灰色の日
23 宴
プロローグ
男は、茂みの奥から立ち上った。
激しく息を切らしていたが、汗はかいていなかった。かいていたとしても、ほんのわずかだった。
季節のせいばかりではなく、あまり汗をかかない体質で、男にとってはそれが幸いしたのだ。しかし、その点を除けば、とても男の様子はまともではなかった。
茂みを出て歩き出した時にも、|膝《ひざ》はマッサージ機にでもかけられているようにガタガタ震えていたし、顔からは血の気がひいて、全く見知らぬ人間でも、すれ違いざまに、
「大丈夫ですか?」
と、声をかけたかもしれない。
ただ、幸いなことに、この昼下りの時間、たまたまその道は人通りが少なかった。男が、辛うじて、当り前の外見を取り戻すまで、|誰《だれ》とも出会うことがなかったのである。
男は、大分歩いてから、やっとネクタイがひどく曲っていたことに気付いた。あわててきちんとしめ直し、それから初めて、ズボンの膝や、|上《うわ》|衣《ぎ》の|肘《ひじ》のところに土がこびりついているのに目を止めた。
ハンカチでこすっても、完全には落ちなかったが、ダークグレーのスーツには、そう目立たなかった。
広い通りに出て、すぐタクシーが来るのを見た時、男は初めて安心した。――ツイてる。
|俺《おれ》は幸運に恵まれている、と思った。
タクシーに乗って、目的地を告げた時、男は、絶対に捕まらない、と確信していた。それは理屈ではなく、直感だったが、むしろ信仰と呼んだ方がいいほど、抜きがたいものとなっていた。
男は、初めての町の様子を、のんびりと車の窓越しに眺め、遠くに、たった今自分がいた公園の緑を見ても、何も感じなかった。
あの茂みの奥にまだ横たわっているに違いない娘のことも、すでに「思い出」になりつつあった。自分が殺した娘に、同情の気持さえ――正直な気持だ――覚えていた。
そして……。
この日、|君《きみ》|原《はら》|小百合《さゆり》は四歳になった。
前日の雪が、まだ大分残っていた。
その少女の肌は、雪以上のまぶしさで、男の目を|捉《とら》えた。――もちろん、その肌が今のようなみずみずしさを|止《とど》めているのは、あと何時間かのことに違いない。
もう、少女は心臓の鼓動を|停《と》めていたのだから。
町は、建築ラッシュらしかった。――この空家も、遠からず、取り壊されることになっているのだろう。
寒いからね。この中に入ろうか。
男の言葉に、少女はごく簡単について来た。こんな寒い所で脱ぐの、いやだわ、と文句も言ったが、もう大丈夫だ。寒さも、暑さも感じないはずだった。
男は、今度はその空家を出る前に、何か手がかりを残していないかと見回すだけの余裕があった。それは賢明なことだったのだ。
少女の体に半ば隠れるようにして、いつ落としたのか、彼のくし[#「くし」に傍点]があったからだ。
男はそれを拾ってポケットに入れると、空家を出て、歩き出した。道にはまだ雪が残っていて、歩き|辛《づら》いので、あまり人も出ていなかった。
俺は運がいいんだ、と男は思った。その分、あの少女は運を|失《な》くしたのかもしれない。
そして……。
この日、君原小百合は八歳になった。
町に入る少し手前で、男は車を停めた。
セーラー服の女の子が、|鞄《かばん》を振り回しながら、歩いているのを目に止めたのだ。
車がすぐそばで|停《とま》ったので、女の子は足を止めた。
男は窓を下ろして、
「何してるんだい?」
と、声をかけた。
「別に」
と、女の子は警戒するような視線を男に向けた。
「いいでしょ、何してたって」
「学校があるんじゃないの」
と、男は言った。「春休みにゃ少し早いよ」
「行っても|面《おも》|白《しろ》いことなんかないよ」
と、女の子は言い返した。「ドライブでもさせてくれるの? お説教したいのなら、私がいなくなってからにして」
「ドライブもいいね」
男がちょっと笑うと、女の子も「了解」したようだった。笑顔になる。――|可愛《かわい》い笑顔だった。
俺はツイてる、と男は思った。
「歩いてちゃ寒いだろ。乗らないか」
「どこに行くの?」
「教えてくれよ、どこかいい所を」
女の子は、ためらいを振り切って、
「いいわ」
と、自分でドアを開けた。
死へつながるドアだとは、もちろん思っていなかったのである。
そして……。
この二日後に、君原小百合は、十二歳になった。
そして……。
一週間後、君原小百合は十六歳になる。
1 幻 影
「確かですか?」
|宮《みや》|入《いり》の言葉に、そのアパートの管理人は不服そうに、
「そうだと何回も言ってるでしょうが」
と、口を|尖《とが》らした。「信用できんのですか、ええ?」
「いや、そうじゃありません」
宮入は写真をポケットへしまい込んで、いささか恥じた。「気を悪くせんで下さい。念のためです」
「確かですよ、その写真の男です」
と、管理人はぶっきらぼうに、「もう何週間か、顔を合わしてませんがね、半年前から住んでるんだ。見間違えたりはしませんよ」
「分りました。ありがとう」
と、宮入は言った。「部屋にいることは確かなんですね?」
「昼間、少なくとも私が受付にいる間には、ほとんど出入りしてませんね。しかし、夜六時以降は、受付も人がいなくなりますから。その後は出入りしても一切分りません」
管理人は、たぶん宮入と同年輩だろうと思えた。五十歳前後、というところだ。
しかし、頭の毛の量から言えば、宮入の方がずっと多い。その代り、宮入の髪は、半分以上、白くなりかけていた。
「宮入さん」
と、|三《さえ》|枝《ぐさ》がやって来た。「裏口はありますが、出入りできないようになっています。例の部屋の窓はカーテンを引いたままです」
三枝も、髪型は宮入に似ている。しかし、こちらは二十八歳という若さである。当然、髪はつややかに、真黒な光を発している。
「そうか。じゃ、今は部屋にいるんだろう」
と、宮入は|肯《うなず》いた。
「時々、ドアの前を通ると、ガタゴト音はしてますよ」
と、管理人は言った。
「分りました。ご協力、感謝します」
と、宮入は会釈して、三枝を促した。「行こう」
二人の刑事が、廊下を奥の方へ歩き出すと、
「――ね、刑事さん」
と、管理人が声をかけた。「何か、危いことがあるかね」
宮入は、チラッと三枝の顔を見てから、振り返り、
「いや、大丈夫ですよ」
と、ニヤッと笑って見せた。「ちょっと話を聞きたいだけです。騒ぎにはなりませんから」
「ならいいけどね」
と、管理人は肩をすくめた。「何か壊されたりすると、こっちが|叱《しか》られるんでね。給料から、修理代を差し引かれることもあるんだよ。何せ、このアパートの持主はケチでね」
「苦労しますな」
と、宮入は肯いて見せた。「その階段ですね?」
「そう。上って、|真《まっ》|直《すぐ》奥へ行った突き当りだよ」
「どうも」
宮入と三枝は、コートを着たまま、階段を上って行った。
アパートの中でも、薄暗い廊下は、外のように寒かった。宮入は、両手を強くこすり合せた。
「――宮入さん、どうします?」
と、階段を上りながら、三枝が言った。
低く、押し殺した声になっている。
「やるさ」
と、宮入は答えた。「待つことはない」
「武器は?」
「ないはずだ。持っていたら、射殺すればいい」
三枝は、黙って肯いた。
――殺してやりたい、と宮入は思っていたのだ。武器を持っていたら、|却《かえ》ってありがたいようなものだ。
|久《く》|米《め》|三《さぶ》|郎《ろう》のような|奴《やつ》でも逃げようとするところを射殺したら、問題になるだろう。その久米は、全く無警戒な、交番で勤務中の警官を、いきなり刺して殺したのだ。しかも、逃亡の途中でも、職務質問した巡査を殴りつけ、重傷を負わせている。二度と、勤務につくことのできないほどの傷だった。
その巡査は、宮入のよく知っている男だった。――宮入は、久米を、この三か月、追い続けて来た。
アパートの管理人に、久米の写真を見せて、ついしつこく念を押していたのは、いざ目の前に「獲物」を見付けた興奮を、押し隠すためでもあり、また、「終り」の近付くのが惜しいような気持があったからでもあろう。
二階に上ると、宮入は、ちょっと唇に指を当てて見せた。
――本来なら、凶悪な殺人犯なのだから、応援を呼び、アパートの他の住人を避難させるべきかもしれない。しかし、そうなると、久米を射殺することはできなくなる。宮入は、あえて、二人で久米を逮捕することに決めたのである。
二人はコートのボタンを外し、|拳銃《けんじゅう》をぬいた。――一番奥の部屋。
宮入は、ゆっくりと歩き出した。一歩遅れて、三枝が続く。――宮入は、落ちついて来た。
いざ、となると奇妙に落ちついて来る。もちろん、こんな状況になることは、宮入の二十数年の刑事生活の中でも、数えるほどしかないのだが……。
すると――途中のドアの一つが、宮入たちの目の前で、急に開いた。
何か、物音か話し声でもしていれば、二人も用心したのだろうが、あまりにも唐突だった。二人は、足を止め、買物袋を下げた主婦が出て来るのを見ていた。
ほんの一、二秒。その主婦が宮入たちを――その手に拳銃が握られているのに、目を止めた。
一瞬、凍りついたような沈黙が流れた。
その主婦が、悲鳴を上げた。その甲高い叫びは、廊下に、いやアパート中に響きわたった。
「黙って!」
と宮入が言った時は、もう手遅れだった。
「静かにしろ!」
主婦は、ますます|怯《おび》えた。悲鳴を上げ続けた。宮入は焦った。
「行くぞ!」
と、三枝へ声をかける。
二人は駆け出した。一番奥のドア。
「久米! 開けろ!」
と、宮入は怒鳴りつつ、ドアを激しく|叩《たた》いた。「警察だ! 出て来い!」
部屋の中で、何かが駆け回るか、ぶつかるような音がした。久米があわてている。
「入るぞ」
と宮入は、ドアの|鍵《かぎ》に銃口を当てて、引金を引いた。
ガーン、と金属が鋭い音をたて、もともと大して頑丈とは言えない鍵は吹っ飛んだ。
ドアを開けると、同時に、宮入たちは、頭を低くして、部屋の中へ飛び込んだ。
「久米! 抵抗するな!」
と、宮入は叫んでいた。
だが――様子がおかしい。部屋の中は暗かった。カーテンを引いたままだから、当然といえば当然だが。
強い|匂《にお》いが、宮入の鼻をついた。
「これは……」
「宮入さん! ひどい匂いですよ」
と、三枝が顔をしかめた。
「明りだ。明りをつけろ!」
三枝が、手探りで、明りのスイッチを押した。
宮入はハンカチを出して、口と鼻を押えた。
「――久米ですか」
と、三枝が、青ざめた顔で言った。「ひどいな、こりゃあ」
布団が敷かれて、その上に、誰かが横たわっていた。――それ[#「それ」に傍点]は、「かつて誰かだったもの」に過ぎなかったが。
死んでいるだけではない。腐敗し、かつ、何か獣が食いあさったかのように、ボロボロになっていた。強烈な腐臭が、部屋を満たしている。
「――久米らしいな」
と、部屋へ上って、宮入は言った。「おい、カーテンを開けて、窓を開けろ。匂いがひどくてかなわん」
返事がないので、振り向くと、三枝は、青い顔をして、玄関のわきにもたれている。
「おい、大丈夫か」
と、宮入は言った。
「すみません……。そんなひどいのは初めてで……」
三枝は、今にも吐いてしまいそうな様子だった。無理もない。宮入も、色々ひどい死体は見たが、こんなのはめったにない。
「分った。そこにいろ」
部屋を横切って、宮入は、カーテンを開け、窓を開け放った。――ドアも開いているので、風が抜けて、宮入は深呼吸した。
しかし……。この死体の状態は、どういうことだろう?
久米は殺されたのか? それにしても、ひどすぎる……。
ふと、宮入は思い付いた。――廊下にいた時、ドアの中で、何か[#「何か」に傍点]が動く音がしていた。
それに、この死体の様子から見て、少なくとも死後一週間はたっていよう。しかし、管理人は、いつも部屋の中で、物音がしていたと言っている。
「おい、三枝」
と、宮入は声をかけた。「誰かいるのかもしれないぞ。中をよく探すんだ」
三枝は、よほど気分が悪いのか、玄関にうずくまって、顔を伏せていた。
「おい! しっかりしろ!」
と、宮入がいくらか、|苛《いら》|立《だ》って、言った。「その死体がもし久米でないとしたら、どこかに奴は隠れているかもしれないんだぞ」
その時――急に頭の上を何かがかすめた。宮入は、びっくりして頭を低くしていた――鳥か? 何だろう?
それは鳥のように見えた。羽ばたく音が聞こえ、どこかにぶつかる音がした。
さっき聞こえたのは、この音だったのだ、と宮入は気付いた。
「やれやれ……。鳥か」
と宮入は息をついて、「久米の飼ってた鳥が、逃げ出したのかもしれないな。――おい、三枝。だらしないぞ。下へ行って、本署へ電話して来い」
何か用を言いつけた方がいい、と思ったのである。三枝はゆっくりと立ち上った。
宮入は、大分落ちついて、死体を見下ろすことができた。――顔も、ひどくやられているが、久米の面影は残っているように見える……。
「久米らしいな、やっぱり」
と、宮入は言った。「なあ、三枝」
と、顔を向けると――そこに久米がニヤニヤと笑いながら立っていた。
その手には拳銃が握られている。
何も考えなかった。判断するより早く、宮入の体が動いていた。
宮入は両手で拳銃を構えると同時に、引金を引いた。久米の胸に弾丸がうち込まれて、血が飛んだ。
二度、三度、引金を引いた。銃声が鼓膜を打った。弾丸は確かな|狙《ねら》いで、久米の心臓に叩き込まれた。
久米の体がよろけて、廊下へと後ずさると、大の字に倒れた。
――宮入は、肩で息をついた。
やった……。久米を射殺したのだ。
宮入は、夢見心地だった。――こんなに|呆《あっ》|気《け》なく終ってしまうのか?
玄関へ出て行って、宮入は、三枝の奴はどうしたんだろう、と初めて思った。久米がいつの間に三枝とすり代ったのか。
廊下へ出た宮入は、アパートの住人たちが、ドアを細く開けて、|覗《のぞ》いているのに気付いた。
宮入が振り向くと、ドアがあわてて閉じられる。
宮入は、仰向けに倒れている久米を見下ろした……。
何だ、これは?――こんな|馬《ば》|鹿《か》な!
宮入は叫び出しそうになった。
胸を血に染めて倒れていたのは、三枝だったのだ。
「違う……。確かに――確かに、久米の奴だったんだ!」
宮入の手から拳銃が落ちる。宮入は、三枝の傍に、膝をついて、|呆《ぼう》|然《ぜん》と座り込んだのだった。
――開け放した窓から、何かが広い空間へと飛び去って行った……。
2 下 校
「小百合!――小百合!」
その声は、肌を切るような冷たい風と一緒に、聞こえて来た。
君原小百合は、もちろん自分が呼ばれたのだということを、知っていた。
小百合という名が、決して学校で一人だけでないことは、よく分っていたが、呼んでいる声が誰のものかを、ちゃんと分っていたのだから、間違いようはない。
それでも、小百合が歩みを緩めなかったのは、意地悪からではなかった。いや、そうだったのだろうか?
「ね、小百合! 待ってよ」
と、追いついて来た|松《まつ》|永《なが》|法《のり》|子《こ》は、小百合の肩をつかんだ。「帰っちゃうの? ねえ」
小百合は、鞄を、湯タンポか何かみたいにかかえ込んだ。
「寒いじゃない、こんな所で立ち話じゃ」
と、言った。「帰って夕ご飯の仕度しないと」
「だって――どうしても調べてかなきゃいけないのよ。ねえ、お願い。急ぐから」
と、法子は、小百合のオーバーの|袖《そで》をつかんで、引きちぎりそうだ。
「ちょっと、破かないでよ。法子のとこみたいな金持じゃないんだからね、うちは」
「あ、ごめん! ごめんね」
と、法子はまたあわてて手を離す。
「どうして、いつも私を引張り出すの? 誰かいるでしょ、|他《ほか》にも」
と、小百合は言ってやる。
分っているのである。自分がついて行かなきゃだめなのだってことが。でも、小百合はわざと迷惑顔をして見せる。
「そんなこと言って……。意地悪なんだから!」
と、法子は口を尖らす。
「ええ、私は意地悪よ。だから他の親切なお友だちを捜しなさいよ」
と、あげ足を取ってやると、
「ごめん! ねえ、そんなの本気じゃないのよ! ね、小百合、お願い」
と、法子は拝み倒さんばかり。
ま、これぐらいでOKするのが、今日の寒空の下ではいいタイミングかもしれない。
「分ったわよ、ついてってあげる」
「やった! やっぱり小百合って優しい!」
と、腕なんか組んで来るので、
「ベタベタ、くっつかないでよ。いつも男の子にからかわれてるでしょ」
小百合は顔をしかめて見せる。
「いいじゃない! 寒いから、こうやってる方があったかいし。それに、男の子はもうみんな帰ったよ」
仕方ない。まるで「恋人同士」って感じで二人は校門を出て、駅の方へと向う代りに、市立図書館へ足を向ける。
「――寂しい道ね、ここ」
と、法子は、並木道を通り抜けながら、もう同じことを何十回言っただろう。
もちろん、小百合だって同感だ。特に、二月の半ばを過ぎて、少し日は長くなったが、寒さは一段と深く、体の|芯《しん》まで食い込んで来る。この並木道だって、新緑のころ、枝一杯に目に鮮やかな緑が爆発するころになれば、同じ二人で――あるいは一人きりで――下校時に歩いていれば、少しも「寂しい道」ではないのだ。
今は、葉もすっかり落ちて、裸になった木々が、枝を寒さに身震いするようにうち鳴らしているばかり。――左右に、まだ家らしい家も少なく、風のわたる空地と、さびついた鉄条網で囲った〈建設予定地〉が交互に並んでいるこの辺りは、小百合たちの通う高校の先生たちも、
「一人では通らないように」
と、年中呼びかけている「危険地域」なのだ。
でも――もちろん、まだ明るいのだし、市立図書館までは歩いて七、八分にすぎない。
「ねえ」
と、法子が言った。
「何よ?」
「ついてってくれるから、帰りに、何かおごる。何がいい?」
小百合は黙って肩をすくめる。法子が、
「何でも、小百合の好きなもんでいい」
と、念を押す。
「じゃ、駅まで出てから決める」
「うん!」
――帰って夕食の仕度をしなきゃ、というさっきの小百合の言葉とは矛盾することになるのだが、法子は、もちろんそんなささいな点を気には止めないのである。
まあ、普通に考えれば……。小百合の方がずっと得をしていることになる。
図書館までついて行って、中で法子が世界史のノートのために調べものをしている間、雑誌でも読んで時間をつぶし、待っているだけでいいのだ。それで帰りには駅前で、何でも好きなものをおごらせる。
小百合は、こうなることを、ちゃんと知っていて、初めは渋って見せたのだ。――これも、小百合と法子の二人にとっては、いわば、「ゲーム」みたいなものなのである。
――図書館に入ると、法子は、
「じゃ、小百合、雑誌、見てる?」
「うん」
「三十分ですむと思うわ。――この前みたいにコピーの機械が壊れてなきゃいいんだけど……」
法子は、利用カードを出して、奥へ入って行く。小百合は、カード不要の〈雑誌・新聞〉の部屋へ入って行った。
中には、時間を持て余したような老人が三人、座っているだけだった。その内の二人は、よく見ると眠っている。
小百合は、適当に空いた|椅《い》|子《す》に鞄を置くと週刊誌を取って来た。
静かなものだ。ページをめくる音が、隣の部屋までも聞こえそうである。
――でも、本当に妙だわ、と小百合はいつも思う。
法子が小百合に頼って来る。――この関係は、中学校に入ってすぐ、二人が知り合ったころからのものだ。
はた目には、それこそ「怪しい関係」と見られるくらい、法子は、小百合にくっついて来る。
しかしどう考えても――あらゆる点で、法子は小百合よりも目立つ存在なのである。
松永法子は、もちろん小百合と同じ十六歳だ。――いや、正確に言うと、小百合はまだ十五歳で、あと一週間すると、十六になる。
法子は三か月前に十六になっているから、年齢でも法子の方が少し上ということになっている。
法子は美人である。中学校の文化祭で〈ミス・中学〉に選ばれたりして、それでいて他の女の子から、ねたまれることもない。一番むくれたのは、当人だろう。
しかし、客観的に見て、法子はきりっとした表情の、それなりに「非の打ちどころのない」というタイプの美人なのだ。
それに比べると小百合は――まあ、比べる相手が悪すぎるが――まあ良くても「並」の女の子である。自分では結構魅力があると思っているが、自慢じゃないけど、この|年齢《とし》までラブレターの一つももらったことがない。
法子の方は、靴箱にラブレターが入っていない日の方が少ない(というのは、少しオーバーだが)ほど。
成績にしたって、そうである。法子は常に中学三年間、学年のトップだった。小百合から見たって、そうガリ勉型ではなく、夜ふかししてもいないようだが、それでいて、よくできる。――世の中にゃ、こんな人間もいるんだ、と小百合ははなから|諦《あきら》めていた。
加えて、法子の家は相当なお金持である。――法子が私立の学校へ入らなかったのは、たぶん両親がいないからで、それにいくらかは、小百合と離れたくない、と親代りの祖父に哀願したせいだろう。
両親がなく、祖父に育てられている、というそのこと。――そもそも小百合と法子を近付けたのは、その「共通点」だったのだろうか?
いや、親しくなった時、二人は互いにそんなことなど知らなかったはずである。今となっては、もう思い出せないが……。
ともかく、法子の祖父、松永|彰三《しょうぞう》が、大変な財産家で、お屋敷と呼ぶのがぴったりの家に、法子と、二人のお手伝いさんと暮しているのに比べ、小百合の方の祖父は、元警察官で、今は年金で細々と暮している身。
それだけではとても小百合と二人で生活してはいけない。小百合が亡くなった両親と住んでいた家を、一階二階、別々に人に貸して、そこの家賃で暮しているのである。
だから、当然のことながら、お手伝いさんなどはいないので、小百合は家事一切、自分でやらなくてはならない。
もっとも、祖父の君原|耕《こう》|治《じ》はずっと家にいるので、掃除ぐらいはやってくれる。
――小百合と法子がいかに正反対の立場にいるか。これだけ並ぶと、|却《かえ》って気にもならなくなるのかもしれないが、それにしても、二人の間では、いつも法子が頼り、小百合が頼られる、という仲なのだから……。
人と人との間は、不思議なものである。
――あらかた週刊誌を見終って、小百合は新聞のつづりを持って来て、机の上に広げた。
小百合がよく新聞を読むのは、やはり祖父の影響だろう。――祖父は、いつも社会面での、色々な事件の記事を見ながら、小百合に、自分の手がけた事件について、話してくれる。
君原耕治は、長く、第一線にいた刑事なのだ。そんな時の祖父は、小百合の目にも、目が輝いているように見える……。
ただ――このところ、小百合は少し心配である。
「心配って、何が?」
と、法子が|訊《き》く。
「うん……」
今日はおソバ屋さんに入って、とろろそば。――これぐらい食べたって、もちろん夕食はちゃんと食べられる。
法子の方も、小食ではないのだが、どっちかというと肉食。今はざるそばを食べていた。
「具合、悪いの、おじいさん?」
と、法子が言った。
「そうじゃないけどね」
と、小百合は首を振った。「ここんとこ、何か考え込んでるの。無口になってね」
「へえ。――小百合が心配かけてるんじゃないの?」
「この、孝行娘が?――孝行孫、か」
「そんな言葉、あったっけ?」
「今朝は珍しく、新聞見て、話してたけど」
「今朝、何か出てた?」
「ほら、警官殺した犯人が――」
「ああ。逮捕に行った刑事さんが、間違って部下を撃ったって……。TVのニュースでも見たわ」
と、法子が|肯《うなず》いた。
「あの人、おじいさんの知ってる人だったのよ」
「撃った人? 撃たれた人?」
「撃った方。――ベテランで、|凄《すご》く優秀な刑事なんだって」
「でも、とっさに部下の若い人を、犯人と間違えたんでしょ?」
「おじいさん、信じられない、って十回ぐらいくり返してたかな」
と、小百合は言った。「――おいしかった! お茶下さい」
と、店の奥へ呼びかける。
「人間だもの、間違いはあるよね」
法子も、そばを食べ終えていた。「――あの事件、この近くじゃなかった?」
「そうよ。ほら、公会堂の裏の方」
「ああ。じゃ、ちょっと離れてるね」
「でも、この町よ。――警官殺しの他にも、一人か二人、殺してるらしいって。そんなのとさ、スーパーとかで買物してる時、会ってるかもしれないんだよね」
「怖いね。――おつゆが手についちゃった。ちょっと洗って来る」
法子が立ち上って、店の奥のトイレに行くと、小百合はついでくれた熱いお茶を、ゆっくりと飲んだ。
二階のテーブルについたので、窓からは駅前のロータリーが見わたせる。
そろそろ夕方で、電車が着く度に、駅の改札口から吐き出されて来る人の数がふえて来る。駆け足でバスに並ぶ人たち。
こんな所でも、走ってなきゃ生きていけないなんて……。見ているだけでも、くたびれてしまいそうだ。
スッと、何かが小百合の視界をかすめて飛んだ。ギクリとした。まるでぶつかりそうなほど、近くに感じたのである。
そんなわけは、もちろん、ない、ガラス窓の向うを、鳥か何かが横切ったのだ。でも――何だかずいぶん大きな鳥だったような……。
少なくとも、スズメやツバメじゃない。もっと大きな鳥だ。どんな色か、どんな形の羽をしていたのか、一瞬のことで、見えなかったけれど。
――法子が戻ったら、もう出よう。
夕食のおかずも買って帰らなくてはいけない。――小百合は、店のマッチを、手の中でいじっていた。箱を引っくり返すと、書きなぐったような字が読めた。――〈死ね〉とあった。
何、これは?
小百合は、急に頭を見えない|紐《ひも》できつく締めつけられるような気がして、目をつぶった。
死ね[#「死ね」に傍点]。――誰が? 誰に死ねと言ってるんだろう?
そんないたずら書きを……。目をあける。マッチには、何も書いてなかった。
引っくり返し、何度も見直した。――店の名の印刷と、下手なそばの絵。他には何もない。
今のは……。目がどうかしたんだろうか。
そう。――別に、誰のことも、死んでほしいなんて思っていないんだから。
そうかしら? もし、死んでほしい人がいるとしたら?
自分でも知らない内に、殺したいほど憎んでいる人間がいたら……。
そう。人間には潜在意識ってものがあるのだ。自分が、心から尊敬しているつもりの人間を、無意識の世界では、憎んでいるということだってある。
あの、誤って部下を撃った刑事も、心の奥底で、若い刑事をねたんでいたのかもしれない。その若さ、屈託のなさを……。
小百合は頭を振った。何を考えてるんだろう、私は。――おじいさんが知っているという、そんな年輩の刑事の心の中を、どうして想像することなんかできるだろうか。
しかし、本当に、一瞬のことだったが、小百合はその刑事が引金を引いた瞬間を、「体験」したような、そんな気がしていたのだ。
「ごめんね」
と、法子が戻って来て言った。「行こうか?」
「――うん」
小百合は肯いた。
「じゃ、先に出てて」
と、言いながら、法子は自分の鞄からお財布を出した。
同じ制服のブレザー、同じ学生鞄。でも、あの財布の中身は、ずいぶん違うはずだ。
いくら入ってるんだろう? 一万円? 二万円?――おじいさんに、手を出して、
「おこづかい」
と言えば、いくらでものせてくれるんでしょ、あなたは。
私の財布は、「おこづかい」の財布じゃない。家計を預かっている財布なんだ。
「出ててよ、すぐ行くから」
と、法子に言われて、小百合は、
「うん。鞄、持っててあげる」
「ありがとう」
――どうして、そんなことでお礼を言うのよ、いつもそうしてるじゃないの。
支払いは法子。だから、せめて鞄ぐらいは私が持ってて、待っててあげる。
先に出ててって? ご親切なことね。お金出してるのを、私が見て気にしちゃいけないからって……。貧乏人はすぐひがむからね。お金持は大らかで、寛大に施してくれるのね、あなたみたいに。
「――じゃ。帰ろうか」
と、出て来た法子が、小百合の手から、自分の鞄を受け取る。「ねえ、明日、土曜日ね。うちに遊びに来ない、帰りに?」
いつも、おごった後はすぐに法子が家の話を始める。――分ってるのよ。私がいちいち、
「ごちそうさま」
とか、言うのがいやなのね。
おごっておいて、何か私に悪いことをしたような気持でいる。何てお|人《ひと》|好《よ》しなの!
でも、お金があれば、人はたいていお人好しになれる……。
「そうね。おじいさんに訊いてみる」
と、小百合は言った。「もしかしたら、庭の手入れを手伝わなきゃいけないかも」
「うん、分った。――うちのおじいさんも、会いたがってるよ、小百合に」
そうでしょうね。貧しい哀れな娘に、お恵みを、ってね。
「――ねえ」
法子が、駅の方へ歩きながら、小百合の腕を取って来た。
「うん?」
「おじいさんが言ってるんだけど――」
どうして、そんなにべたべたするのよ! 吐き気がするわ!
「何を?」
「ほら、おじいさんと小百合、お誕生日が同じでしょ、しかも四年に一回だし。今度、お宅のおじいさんも一緒に、うちでお祝いの会をやらない?」
いつまで、私はあなたの、その親切ぶったお嬢さん顔と付合ってなきゃいけないのかしら? どうして同じお金持の仲間たちと、付合わないの?
「ええ? だって……」
「大げさじゃなくてさ。一度会いたい、って前から言ってるの。うちのおじいさん、小百合のおじいさんに。孫の話でもしたいんじゃないの」
何て可愛い笑顔!
でも――いつかは、その笑顔が私じゃなくて、どこかのつまらない男の子に向けられるんだわ。
その時には、さぞかしあなたの偉いおじいさんが嘆くでしょうね。
「じゃ、話してみるわ。二十九日に?」
「そう。夕ご飯だけなら、そう時間もとらないし。――お酒、飲むんだっけ、小百合のおじいさん?」
「嫌いじゃないけど、体こわしたから、少しだけなら」
「分った。もしOKだったら、大好きなものとか、教えてね」
でも――そうよ、私だって、好きな男の子が現われる。その時にはいくらあなたがべたべたして来たって……。
「――どうしたの?」
小百合が立ち止ってしまったので、法子は振り返った。
小百合の目には、まるで昨日見た光景のように、鮮やかに見えた[#「見えた」に傍点]のだ。
小百合の「恋人」が、法子を一目見て、見とれてしまう場面が。
小百合と法子。――どっちを選ぶか、誰が見たって分り切ってる。
でも、誰が! 誰がそんなこと、させるもんですか!
もし――もし、私の恋人を奪ったりしたら、あんたを殺してやるから!
「――小百合、どうかした?」
と、法子が心配そうに声をかける。
小百合は激しく頭を振った。法子がびっくりした。
「大丈夫なの?」
「何でもない。ちょっと……めまいがしただけ」
小百合は、大きく息をついて、周囲を見回した。
いつも通りの、駅前の光景。
でも――私は、今、どこに行ってたんだろう?
「気分悪かったら、どこかで休む?」
と、法子の方が青くなっている。「ごめんね、私が引張り回して」
「そんなことないわよ」
何てことを考えたんだろう? 法子を殺してやろう、なんて。
小百合は、はっきり、自分の内に、憎しみが燃え立った、その余熱を感じ取っていた。
ぞっとした。――今まで考えたこともなかったのに。法子のことを、憎むなんて。
それとも……考えていたのだろうか[#「考えていたのだろうか」に傍点]?
これは運命だ、と男は思った。
同じ制服のブレザーを着た二人の少女と、出会ったのは。
もちろん、出会ったといっても、向うは何も知らない。見知らぬ一人の男が、駅の方から歩いて来て、足を止めたからといって、誰が気にするだろうか。
しかも、男と少女たちとは、十メートル近くも離れていたのだ。――それでも、男は、自分を引きつける、逆らいがたい力を感じ取っていた。
人は誤解している。俺が少女を襲う、と思っている。そうではない。少女が、俺を招いているのだ。
俺はただ、炎の中へ、焼き尽くされるために飛び込んで行く|蛾《が》に過ぎない。その都度俺は死に、そして生れ変るのだ。
「――もう平気。行こう」
と、一人の少女が言って、二人は一緒に歩き出した。
どうやっても引き裂くことのできないような二人というのが、いるものだ。あの少女たちも、正にそれだった。
しかし、これも運命だ。
男は、|踵《きびす》を返して、少女たちの後から歩き出した。裂くことのできない二人を、裂くことになるとしても、それは仕方ないことだ。
――すべては、運命なのだ。
3 祖 父
無精ひげののびたその男を、|君《きみ》|原《はら》|耕《こう》|治《じ》は一瞬見分けられなかった。
殺風景な部屋の中では、その男は一塊の空気のように、透明だった。そこにいても見落としてしまいそうだった……。
「宮入君」
と、君原耕治は言った。「分るかね、私のことが」
その男は、君原の声が聞こえるのに何分もかかる、というように、ゆっくりと反応した。
まず伏せていた顔を上げ、それから重そうな|瞼《まぶた》を上げた。瞼は二、三度上下して、
「――久しぶりだな」
と、君原が|微《ほほ》|笑《え》んで言うと、また瞼があわただしく上下した。
「君原さんですか」
と、平穏な声で言う。
「ああ、思い出してくれたか」
「ええ」
と、宮入はかすかに肯いて、「何かご用ですか」
「いや――」
君原は、ちょっと言葉が出なかった。
「見物ですか。――部下を殺した刑事を」
宮入の口調には、苦い|自嘲《じちょう》も感じられなかった。それが却って不気味だ。
「なあ、宮入君」
と、君原は言った。「君と組んだのも、ずいぶん昔のことになるね」
「そうですね」
「俺はすっかり|年齢《とし》を取った。――このところ、やたら朝早く目が覚めてね。孫娘が、遅刻しなくていい、と笑ってるよ」
宮入の顔に、ふと懐しい表情が現われた。
「お孫さん……。女の子でしたね」
「うん、そうだ」
「名前は……何だったかな」
君原は、宮入が思い出すまで待とうと思った。――宮入は、二、三分も考えていたが、やがて首を振って、
「いかんな……。どうもここへ入ってから、忘れっぽくなりましてね」
と言ったが、急にパッと目を見開いて、「そうだ。小百合ちゃん。小百合ちゃんでしたね」
声が弾んでいる。君原も思わず何度も肯いていた。
「そう。小百合だよ。小百合」
「ずいぶん大きくなったでしょう。私がよく抱っこしたもんですが……。中学生ぐらいですか」
「もう十六。高校一年さ」
「十六!――そうですか」
「なあ、お茶でも飲もう」
安物の茶碗で、色がついているだけのお茶をすする。
「――申し訳ありません」
と、お茶を一口飲んでから、宮入は頭を下げた。
「何だい? 君に金でも貸してたかな」
「君原さん……。部下をね、間違って射殺したなんて――」
「なあ」
君原は、遮るように言った。「平凡な言い方だが、間違いは誰にでもあるんだよ」
「間違いなら、誰にでもあります」
と、宮入は言った。「しかし、あれは――確かに、久米だったんです。私が撃った時にはね」
――君原としては、それに何とも答えられなかった。
宮入のような、ベテランが、単なる恐怖や緊張で、判断を誤るということは、めったにない。ましてや、幻を見る――幻覚におそわれるなどということは。
しかし、今の言葉でも、宮入がはっきりとそう信じているのは分った。
「確かに、世の中には不思議なことがあるもんだからな」
と、君原は言った。
「色々考えたんです。この病院の中で」
「何を?」
「どうしてあの時、三枝の顔が久米に見えたのか。――もちろん理屈にゃ合わんことですが」
「うん。それで?」
「私はね――もともと、三枝のことを殺したかったんじゃないかと思います」
君原は、|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「三枝という若い刑事は知らないがね、俺も。そんなにいやな奴だったのか?」
「とんでもない」
と、宮入は強く打ち消した。「あいつはいい奴でした。もちろん、世代の違い、というか、とてもついていけないところはありましたが、仕事はよくやるし、骨惜しみもしませんでした」
「それで?」
「いやな奴とか、だめな奴なら、殺したいとは思わないでしょう? |軽《けい》|蔑《べつ》してりゃすむことです」
「ああ、そうだな」
「しかしね……。あいつは、昔の私みたいでしたよ。張り切っててね。頭の回転も良かった。いや、私にないものを持ってました。――若さと、動きの素早さとね。私は、もしかしたら、それで奴を憎んでいたのかもしれないと思うんです」
「おい、よせよ。そりゃ、誰だって|年齢《とし》を取りゃ若い奴らをねたましく思うもんさ。その度に殺しやしない」
「でも、私は殺したんですよ」
と、宮入は言い返した。「――何度考えても、分りません。なぜ三枝の顔が、久米に見えたのか」
「そうか。しかし、君がこうしていつまでも自分を責めてるのは感心しないな。君にはまだ仕事がある」
宮入は、唇の端を引きつらせて、微笑した。
「もうおしまいですよ。仲間を殺した刑事なんか、一生、この病院の中から出られないんです」
「そんなことはない」
と、君原は首を振った。「早くここを出て第一線に戻るんだ」
「ありがとう……。君原さんは、いいおじいちゃんでしょうね」
「どうかな」
と、君原は苦笑して、ポケットから、折りたたんだ何枚かの紙を出し、机の上に広げながら、並べた。
「――何です?」
「新聞の縮刷版のコピーだ。見てくれ。何か気がつかないか」
宮入は、その一枚ずつを手もとに引き寄せて眺めた。
「ああ、|憶《おぼ》えてますよ。女の子が殺された事件……。変質者でしょうね。まだ捕まってないんじゃありませんか」
「そうだ。三件ともね」
「こんな奴らがうろつき回ってるのかと思うと、ゾッとしますね」
「その三つの事件だが、同一犯人だと思わないか」
と、君原は言った。
「可能性はあるでしょうが……。ほとんど手がかりらしいものがないようですね、この記事だと」
「日付を見てくれ」
「日付?」
「事件の起った日だ」
宮入は三つの記事を見て、
「――初めの二つは二月二十九日ですね」
「四年離れてな。三つ目は二月二十七日。その年も、うるう年だ」
宮入の目に、興味の光が見えた。
「どうして気が付いたかというとね」
と、君原は言った。「うちの孫の小百合が二月二十九日の生れなんだ」
「そうですか」
「初めの事件は、小百合の四歳の誕生日。二度目は八歳の誕生日だった」
「三度目は――」
「十二歳の誕生日の二日前。――どう思う?」
宮入は、息をついた。
「確かに、偶然にしては、できすぎていますね」
「そうだろう? 二つならともかく、三つだよ。――俺だって、小百合の誕生日がなきゃ、思い付かないだろう。その|類《たぐい》の事件は、このところ決して珍しくない」
「そうですね」
「前の二度の誕生日のころは、まだあれの両親が生きていたからな。俺も忙しく飛び回っていたし」
君原は、三枚のコピーを指で叩いて、「誕生日の新聞をコピーして、プレゼントするってのがあるだろう? 俺もそれをやろうと思ってね。生れた年から、どうせ四年に一回だし、と。毎回の誕生日のを、と思ったんだよ。それで縮刷版をめくっている内に気が付いた」
「なるほど」
宮入は肯いたが、「――でも、どうして、これを私の所に?」
「今の署内にゃ、知ってるのがいないからな、あんまり。それで君のことを思い出したんだよ」
「私はこのざまですよ」
と、宮入は肩をすくめて見せた。
「しかし、俺がこんな話を持って行って、誰かが本気で聞いてくれると思うか?」
宮入は少し考えて、
「無理かもしれませんね」
「だろう?――俺は何とかして防ぎたいんだ。次の殺人を」
宮入は、君原を見つめて、
「今、何と言いました?――次の殺人?」
「ああ、あと一週間すると二月二十九日。小百合は十六歳になるんだよ」
と、君原は言った……。
「――何だ、『ただいま』ぐらい言いなさい」
と、松永彰三は、居間へ入って来るなり、テーブルの上のお菓子を口に|放《ほう》り込んだ法子に言った。
「うん……。ただいま」
法子は、やっとお菓子をのみ込んで、「|喉《のど》につまる! お茶、もらうね」
と、祖父のお茶を取ってガブガブ飲んでしまった。
「おい! せっかく冷ましたのに」
と、松永彰三は顔をしかめた。
「いいじゃない。マチ子さんにまたいれてもらえば。――マチ子さん!」
大声で呼ぶと、バタバタ足音がして、この家に来て三か月ほどになるお手伝いの子が、顔を出した。
「はい、お嬢さま?」
「おじいさんに、お茶いれてあげて。冷ましたのをね」
「はい」
小柄で、少し太った娘である。二十一歳だが、十代に見える。
もう一人、この松永家に通って来ている|神《かみ》|山《やま》|絹《きぬ》|代《よ》はもう二十年からのベテランで、その代り夕食の仕度をすますと帰って行く。
マチ子は一階の奥の部屋に、住み込んでいた。――少しあわて者のところはあるが、気のいい娘だった。
「――あの子がいれたお茶は、たいてい、苦いか薄いかだ」
と、松永彰三は、ため息をついて、雑誌を広げた。
「いいじゃない。平均して、ちょうど良くなるわ」
と、法子は言った。
「口が達者になったな」
と、松永が笑う。
「おじいさんに似たのかな」
法子は、ソファの後ろに回って、祖父の首に腕をかけた。「――ね、小百合を誘っといた」
「そうか。うるう年仲間だからな」
「たぶん来ると思う。おじいさんも、って、|招《よ》んどいたよ」
「ああ。いいじゃないか」
と、松永は肯いた。「おい、制服ぐらい脱ぎなさい」
「うん。――夕ご飯、七時にね」
「マチ子に言ってくれ」
「はあい」
法子は、鞄を振り回しながら、居間を出て行く。
夕食は、神山絹代の作ったものを、マチ子があっためるのだが、しばしばこがすこともあった。
松永は、仕事を思い出して、電話を取って来て、かけた。
今も週の半分は会社に出る。会長職だが、結構仕事はあるのだし、その方が、若くいられる。
法子一人を残して、息子夫婦が海外での事故で死んでしまってから、松永は二十歳若返ったつもりでいた。まだ四十代前半。
法子を、しっかりした男と結婚させるまでは、現役で頑張らなくてはならない。
「――ああ、私だ」
と、松永は言った。「社長は?――うむ、昨日の件で、報告しろと伝えてくれ」
立ち上って、居間の窓辺へ寄る。
木立ちが並ぶ庭は、手入れだけでも、相当な経費である。
「――そうか。向うの単価を、どこまで値切ったのか、知りたい。――うむ」
コードレスの電話なので、持って話すのも楽だ。
「分った。――今夜でもいい。九時前なら、電話してくれ」
松永は受話器のボタンを押して切った。――電話がすぐに鳴り出した。
何だ? 電話セールスじゃあるまいな。法子にかかって来ているのかもしれない。
「――はい」
と、仕方なく出る。
「松永様でいらっしゃいますか。|大《おお》|内《うち》でございます」
「何だ、君か」
松永は|相《そう》|好《ごう》を崩した。――目が、庭の木立ちへ向いている。
「今年はもう来たのか?――早いじゃないか。ええ? 構わんよ。――うん。明日でもどうだ。いや……。明日なら夕方だな、家にいるのは」
鳥かな、あれは? 何の鳥だろう?
話しながら、松永は、その黒い影が、木立ちの間を渡って行くのを目で追った。
「――そうか。じゃ、待ってるよ。――うん、今年は期待に添えるかもしれんな」
そう言って笑うと、松永は電話を切った。
鳥か……。小鳥ではない。あの大きさからすると……。
目をこらしたが、もう何も見えない。
その影は、|梢《こずえ》の間に溶けるように消えてしまった。
「――|旦《だん》|那《な》様」
と、声がした。
マチ子が、お茶を運んで来たのだ。
「ああ、ありがとう」
松永はソファに戻った。「これをそこに置いてくれ」
と、電話機を渡す。
「いかがですか」
と、マチ子は、心配そうに、「少し熱すぎたでしょうか?」
一口飲むと、熱くて、苦かった。
「いや、こんなもんだな」
「そうですか」
と、マチ子がホッとした様子。「いつもうまくいかなくて……」
「――なあ」
「はい」
「マチ子っていうのは、誰がつけたんだ?」
マチ子は面食らった様子で、
「あの――親です」
「そうか。いい名だね」
「さようですか……」
と、照れて赤くなっている。
松永は、マチ子の、豊かに盛り上った胸の辺りに目をやった。――健康的にすぎて、「女」を感じさせない肉体だったが、しかし、今は松永の目をひきつけていた。
「あの……」
と、マチ子がもじもじして、「他にご用は……」
「行っていい」
「失礼します。――夕ご飯は七時、とお嬢様が」
「うん、それでいい」
マチ子が急いで居間を出て行く。
女か。――もうずいぶん女ともごぶさただ。
法子が大きくなって、まぶしいような娘になってくると、却って松永は女のことなど考えなくなってしまった。
そうだ。――法子が「女」になって、松永は自分を必要以上に老いさせてしまった。少なくとも、「女」に関しては、だ。
法子から、「男」と見られたくない、という思いがあったのだろう。男なんて、不潔、と言われてしまいそうで。
しかし――何か、松永の内で、うごめくものがあった。
まだ五十代のころには、松永は女をマンションに住まわせたりしていたものだ。もちろん今だって……。
女の肌の匂い、感触を、松永は思い起こした。――胸苦しいほどの勢いで、欲望が頭をもたげて来た。
松永は、電話をかけようとして……少し迷った。
それから、廊下へ出ると、マチ子が歩いて来るのを見て、
「車を呼んでくれ」
と、言った。
「お出かけですか?」
「当り前だ」
「あの――お食事は――」
「早く車だ!」
と、怒鳴るように言って、松永は階段を駆け上った。
その勢いに、マチ子は目を丸くしていたが、やがてあわてて電話をかけに走り出していた。
4 恋
「後は……牛乳と、それから何だっけ」
|君《きみ》|原《はら》|小百合《さゆり》は、足を止めて、考えた。「もう一つあった。何かあったんだけどなあ」
と、|呟《つぶや》いている。
いつも、買物に来る時には、必要なものをメモしておこうと思うのだが、ついつい面倒で、パッと出て来てしまう。だって、お|腹《なか》も|空《す》いているのだ。自分が早く買物をして来て作らなければ、いつまで待っていても、|誰《だれ》も食事の仕度をしてはくれないのである。
そう。――|法《のり》|子《こ》の家みたいに、黙っていてもお手伝いさんが何でもしてくれて、
「お嬢様、お食事の仕度ができましたよ」
とか呼んでくれるわけじゃないのだ。
「お嬢様、お|風《ふ》|呂《ろ》のお湯が入りました」
「お嬢様、おやつをお持ちしました」
「お嬢様――」
お嬢様ね。一度そう言われてみたいもんだわ。
牛乳五百CCのパックを、スーパーの店内用のプラスチックのかごへ入れる。左の腕に、かごの重みがぐっと加わる。
長いこと買物していると、腕にはっきりと食い込んだあとが残る。――こんなこと法子は経験したこともないだろう。
法子。法子。
小百合は強く頭を振った。
やめて!――本当に今日の私はどうかしてる。
法子のことを殺してやる、なんて、とんでもないことを考えたり。|馬《ば》|鹿《か》げてるわ。あんないい子のことを。
そりゃあ、法子はお金持だ。でも、それは法子のせいじゃない。
人間は、生れて来る家を選ぶことはできないのだから。ただ――ほんのちょっと、幸運だったり、不運だったりすることはあるかもしれないけれども。
「そうか、マーガリン!」
思い出した。良かった! これなしじゃ、明日の朝、困るところだった。
あとは卵と……。野菜は高い。本当にいやになるくらい。
何といっても祖父と二人では、食べる量も知れているのだ。それなのに、スーパーでパックしてある量は多すぎる。むだにするのはもったいないけれど……。
「――あ、そうだ」
おじいさん、レモンを買っておいてくれって言ってたな。ビタミンCがいるんだとか……。
別に、レモンでなきゃいけないわけではないけれど、まあ気持の問題ということもある。レモンを少しずつ絞って、お湯で薄めて飲むのだ。
おじいさんは、肉類が好きで、あんまり野菜を食べないから、|他《ほか》のものでビタミンCを|摂《と》るんだということらしい。
レモン、レモン、と……。
「ええ?」
見付かった。でも――三個でワンパック。
三つもいらない。せいぜい二つ。
どうして、一つずつバラにして売ってくれないんだろう?
小百合は、棚を捜した。しかし、三つずつのパックしか、売っていないようだ。
そのパックを一つ、手に取って、小百合は迷った。家計は必ずしも楽じゃない。少しでもむだなものは買いたくなかった。
でも、おじいさんは毎晩レモンの汁を飲んでるから、|風《か》|邪《ぜ》をひかずにすんでいる、と信じているのだ。買って行かないわけにも……。
どうしよう?――小百合がそのワンパックを手にして、考え込んでいると、
「どうするかなあ……」
という呟きが、すぐ横で聞こえた。
見ると、少しノッポの男の子が、小百合と同じ、レモンのパックを持って、考えているのだった。
男の子っていっても――小百合よりは上。たぶん……十八ぐらいか。
少し色の落ちたジャンパーを着て、ジーパンをはいた足はスラッと長い。横顔は、どことなく坊っちゃん風の甘い印象だった。
視線を感じたのか、その男の子が、小百合を見た。その瞬間に、どうしてどぎまぎして目をそらさなかったのか、小百合は自分でも不思議だった。
二人は、お互いの手にしているものを見た。
口を開いたのは彼の方で、
「君……レモン、買うの」
「ええ」
と、小百合は言った。
「三つ、いるのかい」
「いいえ、三つじゃ多いから、どうしようかと思って……」
「そう! 僕は一つありゃいいんだ。紅茶につけるだけなんだから」
「私は二つあれば」
「じゃあ、これ、一つだけ買って、後で分けないか」
「ええ」
と、小百合は|肯《うなず》いた。
「よし。それじゃ――」
と、彼が手にしたレモンを棚へ戻し、同時に小百合も戻してしまって――それから二人はまた顔を見合わせて、笑い出した。
「よし。僕が買う。君、レジ出た所で待っててくれよ」
「ええ」
小百合はかごを持ち直した。「もう私はこれで終りなの」
「僕も、あと二つか三つさ」
と、彼がポケットからくしゃくしゃになったメモを取り出す。「ええと……クッキーと、それからカップラーメン」
「こっちよ」
と、小百合が歩き出しながら、「案内してあげる。捜すの、面倒でしょ」
「悪いな。こんな所、初めてなんだ」
「私、詳しいから」
「――ずいぶん広いんだよな」
と、彼はスーパーの中を物珍しげに見回しながら、「捜してたら、一時間もかかりそうだ」
「カップメンはその棚。何でもいいのなら、今日の特売の分が、あっちに別になってるわ」
「何でもいい! 安い方が」
「じゃ、あそこで選んだ方がいいわ」
と、小百合は言った。
二、三分で、買物はすんだ。
「並ばないと。――こっちが早いわ」
と、小百合は列の最後についた。
「――あっちの方が、列が短いぜ」
「あの人、まだ新しいから、レジが手間取るの。こっちの人はもうベテラン」
「へえ」
と、感心した様子。「君、いつも来てるのか」
「主婦ですからね」
と、小百合が言うと、彼は仰天した様子で、
「ええ? 結婚してるの?」
「ちょっと! 大きい声出さないで」
小百合は真赤になって、「おじいさんと二人暮しだから、ご飯の仕度をしなきゃいけないのよ」
「そうか。――びっくりした」
と、彼は目をパチクリさせた。
|面《おも》|白《しろ》い人。それに、ちょっと|可愛《かわい》い顔立ちだ。少なくとも、クラスの男の子なんかとは段違い。
「僕は|関《せき》|谷《や》|征《まさ》|人《と》。『征服』の『征』って字を書くんだ」
え? どうして名前なんか言うの?
「君……十七?」
「|年齢《とし》? 十六。高一よ」
「僕は高三。――学校、どこ?」
「県立」
「そうか。僕はK学園」
私立の子か。そうね、どこかいい家の坊っちゃん風……。
小百合は、何だか胸がドキドキして、困惑していた。関谷――何だって? 征人。そう関谷征人っていった。
向うが名乗ったんだから、こっちも名前を言うべきかしら? でも、全然知らない男の子に名前なんて……。
「毎日、来てるの」
「大体ね、冷凍食品とかで間に合わせる日もあるけど」
「ふーん、偉いなあ。うちはお袋なんて、年中出歩いてて、週に三回は出前取ってるよ」
と、関谷征人は言った。
「うちもたまに」
レジの列は、思ったより早く、短くなって来ていた。――ふと、小百合は、もっと長く並んでいられたらいいのに、と思った。
「今日はどうして買物に来たの?」
と、小百合は|訊《き》いた。
「クラブの仲間が集まるんだ。その買い出しさ」
「紅茶とかクッキーは分るけど、カップラーメンは?」
「きっと夜中までしゃべって、お腹が空くと思ってさ。カップラーメンぐらいなら作れるだろ」
小百合は笑った。
「あんなもの、作る、なんて言わないんじゃないかしら」
「そうだな」
と、関谷征人も笑った。
その明るく、少し鼻にかかった笑い声は、小百合の胸を震わせた。どうしたんだろう?
どうしてこんな気持がするの?
「……君の番だ」
小百合は、前の客が、おつりを受け取っているのに気付いた。ここで支払いをすませたら、もう、終りだ。
それでいい。――それでいいんだわ。
だって、こんな私立高の坊っちゃんが、私のことなんか、本気で気に入るわけないもの。そうでしょう?
小百合は、お金を払った。おつりを受け取り、財布へしまってから、買った物を入れたかごを手に、レジの先の台へ移る。
手さげの袋に、品物を詰めている内に、すぐ関谷征人もやって来た。
「自分で入れるのか」
「そうよ。人手の節約」
「じゃ、レモン。――一つだけこっちだね」
そうだった! 小百合はレモンのことなんか、すっかり忘れてしまっていたのだ。
二個のレモンが、小百合の袋の中へ落ちて行く。――これで、もう口をきく必要はないんだ。
「重くない?」
と、関谷征人が言った。「持ってやろうか」
「いつも、もっと重いのよ」
どうして持ってもらわないの? もう少し長く、一緒にいられるのに。
二人はスーパーを出た。
「寒いね」
と、関谷征人は言った。「僕はこっちだ。君は?」
「私は反対の方よ」
そうだわ。こうなるに決ってた。私なんか……。私なんか……。
「じゃあ」
と、関谷征人は言って、|微《ほほ》|笑《え》むと、歩き出した。
「ねえ」
言葉が、吹き上げるように、飛び出して来た。「私、君原小百合」
征人が振り返った。
「小百合?」
「君原小百合――っていうの」
心臓の鼓動が、こめかみにまで響いた。
「明日も、ここに来るの?」
と、征人が訊いた。
「たぶん」
「じゃ……この前で会おうか」
征人は腕時計を見た。「――六時に」
「六時に」
小百合は肯いた。
「じゃ、さよなら」
と、征人が手を上げる。
「明日――」
スーパーに出入りする客には、ぼんやりと立っている小百合がかなり邪魔になったかもしれない。しかし、時には多少の迷惑も仕方ないことがある。――人が恋に落ちる時などには。
小百合は、家への道を急いだ。冷たい風が、春のそよ風のように感じられる。
関谷征人、関谷征人、関谷征人。
口の中でくり返してみると、その名は、まるでずっと昔から親しいものだったかのように思えて来る。
明日。六時にあそこで会える。それから?
二人は話をするだろう。笑ったり、肯いたり、友だちのことをしゃべったりするだろう。
今はもう、それだけでいい。明日、六時。
――そのことだけで充分だ。
こんなことがあるなんて! こんな日が来るなんて!
小百合は、飛びはねるように歩いていた。走ろうとする足を、なだめて抑えなくてはならなかった。スーパーから家まで、アッという間だった。
「ただいま!」
玄関を入ったところで、「アッ!」
小百合は思い出したのだ。レモンのお金を征人に渡さなかったことを。
5 狂 気
「どちらへ行きますか」
ハイヤーの運転手が訊いた。
|松永彰三《まつながしょうぞう》は、言葉を押し出すように、
「家へ戻ってくれ」
と、言った。
「ご自宅でございますね」
運転手は、ただ、念を押しただけのつもりだったろう。
「そう言っただろうが!」
松永に怒鳴られて、運転手は真赤になった。
「申し訳ありません……」
と、消え入りそうな声で言うと、車をスタートさせた。
松永を乗せる運転手は、何人か決っていて、もう顔なじみである。松永が、よほどのことでない限り、怒鳴ったりしないことを、よく知っているから、余計にびっくりしたのだろう。
松永自身も、分っている。こんな風に怒鳴りつけるなんて、|俺《おれ》はどうかしている……。
車は都心を離れて、静かな住宅地を抜けていた。
東京まで出て来ても、車なら一時間ほどの距離なのである。――もう夜、十時に近い。道も空いていて、おそらく一時間かからずに家へ帰り着くだろう……。
しかし、松永の体は熱く燃え立っていた。|苛《いら》|立《だ》ちとも、|憤《いか》りともつかぬものが、手のつけようがないほど、荒々しく駆けめぐっていたのだ。――こんなことは初めてだ。
俺は一体どうしてしまったんだろう?
松永の中に、自分を恐れる、「いつもの冷静な自分」がいた。大手企業の会長職といっても、もちろん生身の人間だ。時には女がほしくなっても、不思議ではないだろう。
だが……。広い座席で、松永は身震いした。
せっかく、こうして東京まで出て来たのに、何の意味もなく、帰らなくてはならない。
七、八年前に、マンションを買ってやって、それきり手を切っていた女の所へ行ってみたが、そのマンションはもう別の人間に転売されて、女はどこかへ行ってしまっていた。
何度か、二人で旅行もしたことのある、バーのホステスを訪ねて行くと、そのバーはもう持主も変っていて、ろくでもない女ばかりの店になっていた。
――松永は、満たされなかったことで、ますます燃え上る欲望をかかえて、|悶《もん》|々《もん》としていたのである。
もう何年も、こんなことはなかった。いや何十年も、か。
それは、以前は手近に常に女を置いておけたからかもしれないが、それでも、こんなにまで狂おしい思いに身を焼いたことがあっただろうか?
――車が、ゆるやかな坂道を上っていた。静かな、人気のない住宅地である。車は一台のバスを追い越した。ちょうどバス停があって、バスは|停《とま》っていたのだ。
少し行って、赤信号があり、車は停車した。赤信号か。俺の前にも、赤信号が|灯《つ》いている。しかも、いつ変るか知れぬ赤信号が……。
不意に、車の前を、一人の少女が横切って行った。あのバスから降りた子だろう。横断歩道を、足早に駆け抜ける。車のライトの中に、白いソックスがまぶしく光った。
十五か十六か……。紺のコートを着て、学生|鞄《かばん》を下げ、マフラーが肩からなびいていた。白い|頬《ほお》、白い足、そしてソックス……。
車のライトを浴びて、ほんの一瞬だったが、少女は魔法のように光って見えた。もちろん――アッという間もなく、横断歩道を渡り終えた少女は、歩道を、さらに先の方へと、背中を見せて歩いて行く。
信号が青になった。車がゆっくりと滑り出し、すぐに、あの少女を追い越す。松永は振り向いた。そうせずにはいられなかった。
百メートルほど走った所で、
「|停《と》めてくれ」
と、松永は言った。
運転手は、急いで車をわきへ寄せて、停めた。
「――ここで降りる」
と、松永は言った。
運転手は振り返って、
「お具合でも?」
と、訊いた。
「何でもない」
バスが追い抜いて行った。松永は、ドアを開けた。運転手が、あわてて降りて来たが、もう松永は自分でドアを閉めていた。
「――お待ちしてますか」
「いや、行っていい」
「そうですか……」
運転手が当惑したのも、無理はない。こんな所で、松永は降りたことがないのだ。
「いいんだ」
と、松永はくり返した。
「はあ。――ありがとうございました」
運転手は一礼して、車へ戻ると、エンジンをかけた……。
松永は、ハイヤーが遠ざかるのを見送って、それから、道を渡った。
小さな公園がある。公園といっても、せいぜい家二軒分くらいの広さしかない、空地のようなものだが……。
歩道に沿って、背丈ほどの植込みがある。その陰に、松永は身を潜めた。
そっと顔を|覗《のぞ》かせて見ると、さっきの少女が足早にやって来るのが、街灯の光に照らされて見える。あと五十メートルくらいか。――あの少女はこの前を通りかかる。
公園の中には、ポツンと一つ、水銀灯が立っているだけだ。おそらく、顔はかげになって見えまい。何をしても。――何をしても[#「何をしても」に傍点]。
どうしようというのか?
松永は、息を殺し、汗をにじませて、身を隠している自分が、信じられなかった。
握りしめた手にじっとりと汗がにじむ。
この手が――何秒か、何十秒か後には、あの少女を捕え、この公園の中へ引きずり込んで、組み敷いているだろう。恐怖に震え、声も上げられずに顔を引きつらせる少女のコートをはぎ、服を裂いて、白い滑らかな肌に荒々しく|爪《つめ》を立てるのだ。
犯罪?――そう。犯罪だ。
それが何だ。今、この俺の中にたぎるものの要求の前で、法や道徳には何の力もないのだ。
足音が聞こえる。それとも、これは俺の心臓の高鳴りか?
いや――そうだ。足音[#「足音」に傍点]だ。
松永は、巨大な波に|呑《の》み込まれ、|翻《ほん》|弄《ろう》されるように、欲望に身を|委《ゆだ》ねた。
四肢に熱い血が駆け巡り、力が|漲《みなぎ》った。あの少女を、片手でつかんで振り回すことさえできるような気がする。
足音が……。あの――白い滑らかな足。まだ熟れ切っていない胸や腰。
松永の手は、既に少女の柔らかい肌の感触を皮膚で感じていた。
――少女が、今、松永の前を通り過ぎようとする。
なぜ、こんなに静かなんだ。
松永は、ゆっくりと息を吐いた。――もう、寒くも何ともない。
帰って来た。帰って来たのだ、我が家に。
一体、何時なのか?
居間へ入った松永は明りを点じた。――午前三時。こんなに時間がたっていたのか。
松永は、ソファに、やっと辿り着いて、身を沈めた。二度と立ち上ることがないような気がする。――少し間を置いて、体が冷えて来た。
汗をかいていたせいだ。急速に体が冷えて行くのが、自分でも分った。このまま|放《ほう》っておいたら、ひどい風邪を引いてしまうだろう。
しかし、そう分っていても、ソファから立ち上ることもできなかったのだ。
たまたま客を乗せて来たタクシーをつかまえるまでに、あてもなく、何時間歩いただろうか? 今にも道に倒れてしまうかと思った時、一台のタクシーが、目の前の家に客を降ろしたのだ。
渋る運転手に、こんな遠くまで走らせるために、松永は料金の三倍近い金を、先に渡さなくてはならなかった。しかし、あの時の松永は、百万、と言われてもためらわずに出しただろう。もちろん、そんな現金を持ち歩いているわけではないにしても。
――風邪を引くのか。それもいいだろう。
高熱を出し、肺炎にでもなって、誰も知らない内にのたれ死にしてしまうがいい。お前のような|奴《やつ》は。
松永は、ゆっくりと天井を仰いだ。
俺は一体何ということをしようとしたのか……。法子と変りのない、まだ人を疑うことも知らない少女を、俺は踏みにじろうとしたのだ。
もし――もし、あの瞬間に[#「あの瞬間に」に傍点]、反対の方向から誰かが自転車でやって来る音が聞こえなかったら、俺は今、犯罪者、それも最も憎むべき|獣《けだもの》になり果てていたに違いない。
少女の足音が遠ざかるのを聞きながら、松永は叫び出したくなるのを必死でこらえなくてはならなかった。そして――何分じっとしていたのか。
よろめくような足取りで、夜の道へとさまよい出た松永は、自分がどこへ向っているかも知らないままに、歩きつづけたのだった……。
――ひどい一日だった。本当にひどい……。
「――|旦《だん》|那《な》様」
気が付くと、マチ子が居間の入口に立っていた。パジャマの上にカーディガンをはおって、寝ぼけた顔で立っている。
「何だ。起こしたかな」
「お帰りにならないんで、一時ごろまではお待ちしていたんですけど……。お具合でも――」
「心配ない。悪かったな」
と、松永は立ち上りかけてよろけた。
「危いですよ!」
と、駆け寄って来て、マチ子はびっくりしたように、「お顔の色が――。ひどい汗! このままじゃ、お風邪を」
「うむ……。もう寝るよ」
と、松永は肯いた。
「だめです。そのままおやすみになったら、それこそお風邪を召しますよ。熱いお風呂へお入りになって、よく体を|拭《ふ》いてからでないと」
マチ子は、松永の腕を取って、引張って行く。
「おい、待ってくれよ。――おい」
いやも応もない。二階へ階段を押し上げるようにして、松永は連れて行かれると、バスルームに引張って行かれ、
「さあ、早く、お脱ぎ下さい」
と、マチ子にどんどん服を脱がされた。
その内に、バスタブに熱いお湯が満たされて、バスルームの中は湯気で真白になってしまった。
「さあ、少し熱めですけど、お入りになって、ゆっくりあったまるんですよ」
「うん……」
パンツまで脱がされてしまって、松永は何だか看護婦に命令されている病人みたいな気分で、大理石を|貼《は》ったバスタブへ足を入れ、目を丸くした。
「熱い! おい、熱いよ」
「大丈夫です! 死にやしません」
「しかし――」
ぐいと肩を押されて、バスタブの中で|尻《しり》もちをつく。「――熱い!」
「じっとしてれば、すぐ慣れます」
マチ子は、大きなスポンジを取って来ると、
「さ、体をさすりましょ」
「いや……。もう大丈夫」
「だめです。背中をこっちへ向けて下さい」
有無を言わさぬ感じで、マチ子はゴシゴシとスポンジで松永の背中をこすり始めた。力があるので、皮がむけそうな勢いである。
しかし……しばらくすると、お湯の熱さが皮膚になじんで来たのだろうか、ゆっくりと疲れが、体から抜け出して行くのを、松永は感じた。
生き返って来る。――そうだ。俺は少しの間、死んでいたのかもしれない。
「――さあ、もう出た方がいいですね」
と、マチ子が言った。「着替えを出します。すぐおやすみですね」
「ああ」
マチ子がバスルームを出て寝室へと入って行く。――このバスルームは松永の寝室に隣接して作られた専用のバスで、法子などは二階の奥の、別のバスルームを使っているのである。
松永は、バスタブを出て、分厚いバスタオルを取り、体を|拭《ぬぐ》った。――明るい光に照らされた自分の顔が、広い鏡に映っている。
そうだ。これが俺の顔だ。俺は自分の顔を取り戻したのだ。
「――やっと、いつものお顔に戻られましたね」
と、マチ子が覗いて言った。「安心しました。さっきはもう、本当に死人みたいな顔色でしたもの」
「そうか?――心配かけたな」
松永は、バスローブをはおった。まだ少し汗をかきそうだったからだ。
寝室へ入って、松永はベッドに座ると、
「もう大丈夫だ」
と、肯いた。「明日は目が覚めるまで、寝かしておいてくれ」
「かしこまりました」
「電話や客もお断りだ。頼むぞ」
「はい。――じゃ、やすませていただきます」
「ああ。ありがとう」
松永は、マチ子を見た。――パジャマ姿のままで、松永を風呂へ入れ、腕まくりして体をこすったりしていたので、パジャマがびしょ|濡《ぬ》れになっている。
やっと自分でも、それに気付いて、マチ子は赤くなった。乳房がすけて見えている。
「あの……おやすみなさいませ」
と、頭を下げて出て行く。
松永は、しばらくベッドに腰をおろしたまま、動かなかった。
頭は|冴《さ》え、目も覚めていた。得体の知れない熱に浮かされていた時とは違っている。
息を吹き返した体が、再び松永を駆り立てているようだった。しかし、あの少女を待ち伏せていた時の、あの不気味な|昂《こう》|揚《よう》とは、違っていた。
――松永は立ち上ると、寝室を出た。
階段を下りて、一階の廊下を奥まで進んで行く。小さなドアを開けると、正面のベッドで、マチ子が起き上った。
「あの……何かご用ですか」
マチ子が少し|怯《おび》えたように言った。裸の肩が毛布から覗いている。
「パジャマはどうした」
「あの――濡れてしまって。ちょうど一つ洗ったばかりだったので……」
「そうか」
松永は後ろ手にドアを閉めた。
「旦那様……」
「黙ってればいいんだ。――怖がることはない」
小さな明りがポツンと一つ、ベッドのわきに|灯《とも》っていた。
「少し狭いな、このベッドじゃ」
と、近寄って、松永は言った。「今度は私があたためてやろう」
毛布をはいで、松永はマチ子の上にのしかかって行った。
6 奇妙な朝
「ええ、そこに、誰かが隠れてたんです」
と、少女は肯いて、植込みを指さした。
「なるほど」
|林田《はやしだ》刑事は、肯いて、その小さな公園の中へと入って行った。「――この辺り?」
「もっと植込みの方へ寄って……。今にも道へ出て来るかと思うくらいでした」
林田刑事は、かがみ込んで、その辺の地面を見ていた。
「うん。――確かに誰かが潜んでいた跡があるね」
二月の朝である。晴れてはいたが、それだけに強烈な寒さだった。
「で、君はすぐそばに来るまで、気付かなかったんだね?」
と、林田は訊いた。
「そうです。帰りで、急いで歩いてたし」
と、少女は言った。「ちょうど、反対側から自転車に乗った人が来たんです。それで、その人は出て来るのをやめたんだと思います」
「分るよ」
「その時に、ガサッ、て植込みが動いて……。ギクッとしました。で、そのまま急いで家まで、駆けたんです」
「君の家までは?」
「あと五、六十メートルです」
「そうか。良かったね、ともかく」
「母に、話したんです、今朝。そしたら、やっぱり警察の人に言った方がいい、って」
「そう。その通りだよ。このところ、婦女暴行事件が四、五件もたて続けに起きてるしね。同じ犯人かどうかは分らないが、失敗すると、こういう奴は、ますます|苛《いら》|々《いら》して、犯行をくり返すもんだ。これが、逮捕のきっかけになるかもしれない」
「あの――」
と、学生鞄を両手で持った少女は、落ちつかない様子で、「もう行っていいですか? 学校に遅れちゃうんで」
「ああ、構わないよ。ありがとう」
林田は、そう言って微笑んで見せた。
「じゃ、失礼します」
ちょっと頭を下げて、少女は足早に歩き出す。林田は、ふと思い付いて、その後ろ姿へ、
「帰りが遅くなる時は、誰かに迎えに来てもらうんだよ」
と、呼びかけた。
少女が振り返って、
「母にもそう言われました!」
と、大声で答える。
少女の笑顔は、この寒い朝を溶かすほど明るく見えた。――バスが来るのが見えて、少女は鞄をわきにかかえて、駆け出して行った。
「――思い過しですかね」
と、若い刑事の|佐《さ》|川《がわ》が、|欠伸《あくび》しながら、言った。
「いや、そうじゃない」
林田は首を振った。「見ろ。――足跡がいくつかある」
佐川がやって来て、しゃがみ込む。
「本当だ。かかとが食い込んだ跡ですね」
「残念ながら、手がかりというほどはっきりはしてないが。それに見ろよ。植込みのこの辺の枝がいくつも折れてる。あの女の子の話は本当だ」
「襲いかかってりゃね。そこへ通りかかった自転車の誰かが、捕まえてくれたかもしれませんね」
佐川の言葉に、林田はちょっと顔をしかめた。
「めったなことを言うな。たとえ未遂に終っても、襲われたなんて恐怖は、女の子にとっちゃ当分消えない。何もなくて良かったんだ」
「はあ」
佐川にはピンと来ないようだ。
林田はもう五十に手の届く年齢で、娘が二人いる。結婚も遅かったので、どちらもまだ十代である。他人事ではなかった。
「目撃者はあんまり期待できませんね」
と、佐川は言った。「この寒いのに、表を眺めてる物好きはいませんからね」
「そうだな。しかし、一応、この公園が見える範囲の家を当ってみよう」
「はい」
と、佐川は歩き出そうとして、「あれ?」
「何だ」
「その植込みの中で、何かキラッと光ったんです、今」
「植込みの中?」
「ええ……。その辺です。何かありませんか?」
枝の間を探ると、何か固い物が林田の手に触れた。つかんで引張ると、細かい枝ごと、手の中に握られていたのは……。
「腕時計だ」
「へえ、どうしてそんな所に?」
「――そいつのだぞ、きっと。この中へ手を突っ込んでいて、枝が引っかかったんだ。止める所が外れて、そのまま手首から抜けちまったんだろう。――よく気が付いたぞ」
「偶然ですよ」
と、佐川は少し照れくさそうだった。「どこの時計です? 何だか高そうだな」
「高級品だ。こんな物、そう売れるもんじゃあるまい」
林田は、腕時計の裏ぶたを見て、ヒューッと口笛を吹いた。「見ろ! 名前が彫ってある!」
「うまく行きすぎですね」
「全くだな。しかし、こんなこともたまにゃあるさ」
林田は名前を読んだ。「松永彰三……。六十歳の祝いに、か」
「すぐ当らせます」
自分が見付けたせいか、佐川が張り切って、言った。
「ああ。会社員なら重役クラスだろうな、少なくとも」
「そんな偉いのが、十六歳の女の子を|狙《ねら》うんですかね」
「男は男さ」
林田は、肩をすくめて言うと、「行こう」
と、佐川を促して歩き出した。
寒さも、あまり気にならなくなっていた。
今日はみんなおかしいわ。
松永法子は、首をかしげた。――土曜日というのは、学生なら誰でも多少は浮かれているものかもしれない。でも、今日は特別だったのだ。
「――小百合」
やっと教室へ戻って来た小百合を目にとめて、法子は、駆けて行った。「どこに行ってたの?」
「行ってちゃ悪い?」
「そんなこと言ってないじゃないの」
「じゃ、いいでしょ? まだお昼じゃなかったっけ」
「あと二時間よ。大体、お昼になったら、今日はおしまいよ」
「そうか! 人生は楽しい!」
と、口笛など吹いている小百合に、法子はすっかり面食らってしまった。
「ね、小百合、今日はどうする?」
「今日? 何だっけ」
「昨日、訊いたじゃない。今日、帰りにうちへ寄らないかって」
「そうだっけ」
「忘れちゃったの?」
「で、何て答えた、私?」
「おじいさんと庭の手入れがあるかもしれない、って。――どうなの?」
「おじいさん、出かけてる、朝から。夕方まで帰らないと思うわ」
「じゃ、寄るわね」
「うん。――寄ってやるか」
「偉そうに!」
と、法子は笑った。「夕ご飯は?」
「だめ、買物あるし、夕方には失礼する」
「分ったわ。じゃ、お昼を家で、ね?」
「うん」
始業のチャイムが鳴ると、小百合は、軽くステップなど踏みながら、自分の席へ戻って行く。
「やっぱり、変だ……」
と、法子は首をかしげた。
――今朝も、マチ子さんの様子が変だったし。
ともかく、いつも朝から元気一杯にしているマチ子さんが、今朝はほとんど口もきかずに、黙って朝食の用意をするだけだった。
顔色も青ざめて、目がはれぼったかったのは、泣いたからじゃないだろうか。
どうかしたの、と訊いてみたが、マチ子は、
「早く食べないと遅れます」
と、言っただけだった。
何かあったのは確かだ。でも――何だったのだろう?
法子には見当もつかなかった。
それに比べると、小百合の方は朝からびっくりするくらい「舞い上ってる」。
よほどいいことでもあったのだろうか? でも、昨日、何かありそうだという話は、全然聞いていなかったし。
「――分んないわね」
と、法子は|諦《あきら》めて呟いたのだった……。
――四時間目は体育だった。
みんなが体操着に着替えて、ゾロゾロと運動場へ出る。
都心の学校に比べれば、この町ではまだ充分に広い運動場を確保する土地の余裕があった。もっとも、女の子たちにとっては、広くても狭くても大して違いはない。どうせ大したことはやらないのだから。
「――今日は走り幅飛びの測定をやる」
と、体育の先生が言うと、
「ええ――」
「疲れるよお!」
といった声が一斉に上った。
何をやると言っても、反応は同じである。先生の方も取り合わず、
「早く準備しろ! 体育当番!」
と、大声を出す。
高校生の女の子たちの叫び声を上回るには相当大きな声を出す必要があるのである。
男女に分れて、出席番号順で飛ぶことになった。
「やだなあ」
と、法子は顔をしかめた。「小百合、得意でしょ」
小百合が唯一、法子に勝てるのが「体育」の時間。法子の場合は、やはり育ちの良さがひびいていると言えるだろう。
|真《ま》|面《じ》|目《め》だし、精一杯やるのだが、はた目には、何ともおしとやかに映るのだった。
「今日はいい記録が出そうな気がする」
と、小百合はウーンと伸びをして、二、三度|膝《ひざ》の屈伸をくり返した。
「おお寒い」
朝の内からみると、少し雲が出て、風が吹いていた。女の子たちは足を出しているから、寒いのも当然だ。
「先生、寒い!」
と、不平を訴える生徒もいた。
「俺のせいじゃない」
と、先生もやり返す。「寒かったら、少し走ってろ。体が固いところで、いきなり飛んだら、肉離れを起すぞ」
「そしたら、先生、家までおぶって帰ってね!」
「馬鹿、甘えるな」
女の子たちはキャーキャーとにぎやかなこと。散々先生に言われて、やっと出席番号の順に砂場で走り幅飛びが始まった。
「小百合、頑張って」
と、法子は手を振って見せた。
小百合は割と前の方だ。
「見ててよ、鳥のように飛んで見せる」
と、小百合は言った。
「大体、今日は舞い上ってるからね、小百合は」
法子が冷やかす。
――鳥のように飛んで? 鳥のように……。
小百合は、ふと、何か[#「何か」に傍点]を思い出した。鳥?
鳥のように……。どこかで見たんだわ。
鳥のような何かを[#「鳥のような何かを」に傍点]。
でも――何だったろう? どこで見たの? 思い出せない。
「――よし、次、君原!」
先生の声で、小百合は我に返った。
「はい!」
「返事はいいな。その元気で飛んでみろ」
「はあい」
小百合は助走の体勢に入った。――鳥のような何か。
頭を振った。そんなこと、いつまで考えてたって、仕方ない。
今日、六時。――そう。今大切なのはそれなんだ。
関谷征人[#「関谷征人」に傍点]。
小百合は走り出した。踏み切りの線に向って、スピードを上げる。力一杯、大地をけった。小百合の体が宙を飛ぶ。
ワーッと声が上った。
「|凄《すご》いぞ! 断然トップだ!」
先生が、珍しく興奮した声を出した。
一瞬、その少女の姿は、双眼鏡の視界から消えてしまった。
びっくりして双眼鏡で追いかける。――凄い勢いで飛んだな、あの子は。
飛び上って、喜んでいる。他の女の子たちが拍手をしたり、歓声を上げる。
拍手の音、甲高い声は、男の耳にも届いて来た。もちろん、車の窓が開いているからこそである。
――そうだ。確かに、あれは昨日見かけた二人の女の子の内の一人だ。
もう一人は、どこかにいるのだろうか? 同じクラスでなければ、いないわけだが。
もう少し見ていよう。
男は、ちょっと双眼鏡をおろして、車の周囲を見回した。誰かが見ているのではないかと、ふと思ったのだ。
しかし、大丈夫だった。何かの倉庫らしい建物の裏手で、車が停っていてもおかしくないし、そこで少し昼寝でもしたところで、誰も不思議に思わない場所だった。
――ゆうべ泊ったホテルで、男はたまたまあの二人と同じ制服の女の子を見かけたのである。学校の名前を聞いて、場所を見付けるのに苦労はしなかった。
おそらく前にもこのそばを通っているはずで、漠然とではあったが、記憶が残っていたのだ。
金網越しに運動場が望める場所で、しばらく双眼鏡で覗いている内に、生徒たちが出て来た。――少女たちのすべすべした白い足を見て楽しんでいる内に、ふと、昨日見たのとよく似た少女を目に止めたのだ。
そんなにうまく行くものか、と思ったが、しかし、これではっきりした。少なくとも一人は確かめた。
次、また次と、少女たちが飛ぶ。しかし、さっきの子と比べると、どの子も、歩いて来てピョンと飛んでいるだけ、という感じだ。
照れたように笑って、しかし、それはそれなりに、少女らしい表情ではあった。
次の子――。スッと立ち上った。その少女の横顔を見た時、男の心臓は鼓動を早めた。
あの子だ! 間違いない!
横顔の、整った美しさはどうだろう! |眼《まな》|差《ざ》しのひたむきさ、きつく結んだ唇の、まるで赤ん坊のような柔らかな印象。そして形のいい鼻。
緊張した様子で、スタートの姿勢を取り、少し頭を下げて、キッと前方を見据える。
走り出した。スピードが……。しかし、固くなりすぎたのかもしれない。少女は、うまく踏み切ることができなかったようだ。
ちょっと上を向いて、目をつぶり、頭を自分の手でポンと|叩《たた》いている。そしてたぶん、あのもう一人の少女の方へ向いて、ニッコリと笑って見せた。
男は身震いした。――あの少女だ。
あの子以外にはいない。たぶん、これからも。
これまでの女の子たちは、この一人の少女に行き着くための、いわば「踏み段」だったのだろう。――もう、決して見逃しはしない。
男は双眼鏡を下ろして、バッグの中へしまい込んだ。時計を見る。
今日は土曜日だ。学校は昼で終り。
この体育の授業が、あと三十分くらいだろう。
男はここに車を置いて行こう、と決めた。持って行かれる心配はない。
学校からの帰り道を、尾行して、あの少女の家を突き止めるのだ。焦ることはない。
家さえ分れば、後はいつでもあの少女を捕まえることはできる。
そうか。――それなら、まだ見ていてもいいんだ。
男は再び双眼鏡を取り出して、ピントを合わせた。――今度はすぐにあの少女を|捉《とら》えることができた。
白い足が、まぶしいようだ。軽やかに駆け、笑っている。
まだ、世の中の|闇《やみ》も汚れも、本当には知らない。人の裏表や、狂気や、死も、知らない……。
そのままでいてくれ。何も知らないままで。
男は祈るように、思った。――僕が、お前を、きれいな[#「きれいな」に傍点]ままで眠らせてあげるのだから……。
|君《きみ》|原《はら》|耕《こう》|治《じ》は、後悔していた。
来るのではなかった。――そうなることは、半ば分り切っていたのではないか。
|宮《みや》|入《いり》の名を出したことが、|却《かえ》って逆効果になったのは、君原にとっても、誤算だった。
もう、署の中では、宮入の名はタブーになり、過去の人間として、葬られてしまっているのだ。
前もって電話をしておいたのに、三十分以上も待たされた。――それも、何か事件で忙しい、というのなら、君原も何時間でも待っただろう。
しかし、そうではなかった。その若い刑事は、悠々と遅刻して現われたのだ。
「どうも。――|君《きみ》|山《やま》さんだっけ?」
欠伸しながら、その刑事は言った。|水《みず》|口《ぐち》という刑事で、宮入が、たぶんこの男なら話を聞いてくれる、と言ったのだ。
しかし、当ては外れた。
水口は、君原を単なる暇な年寄り――あれやこれや、思い付きを警察に持ち込んで来るマニアだと思っていることを、隠そうともしなかったのだ。
「二月二十九日ね。――なるほど」
と、一応は肯いて見せたものの、「うるう年に恨みを持っている奴の犯行かな」
と笑ったりした。
君原も、現役時代、確かに「犯罪マニア」とでも言うべき連中に、ずいぶん迷惑した覚えがある。
何か事件があると、すぐに、
「私は真相を知ってる」
と、手紙や電話をよこす手合だ。
忙しい時に、そんな連中の相手をするのは確かに腹が立つし、苛々もする。しかし、君原の場合は元刑事なのだ。
それでも、水口のような若い刑事から見れば、「過去の遺物」であることに変りがないのか……。
「ともかく、四年に一度の割で起っていることは――」
と、君原が言いかけた時、
「おい、水口」
と同僚が声をかけて来た。「電話だ」
「分った。――ま、ご苦労さんでした。話は|憶《おぼ》えときますよ」
水口はそう言って、立つと、行ってしまった。――君原は、肩を落とし、首を振ると、新聞のコピーを封筒へしまって、|上《うわ》|衣《ぎ》の内ポケットへ入れた。
苛立ちと無力感が、君原の内に渦巻いていた。人間、もう自分が何者でもない、と思い知らされるのは、|辛《つら》いことである。
「――ああ、なるほど」
水口が、電話でしゃべっている。「名前は?――松永彰三。――はいはい。聞いたことがありますね」
君原は署を出た。
雲が出て、少し寒かった。今夜は冷えるかもしれない。
歩き出してから、ふと、|眉《まゆ》を寄せ、
「松永彰三?」
その名は確か……。そうだ、小百合の友だちの――何といったか。法子。――そう、法子の、おじいさんじゃなかったかな。
何のことだろう?
気にしながら、君原は歩き出していた。
誰かが自分の名を呼んだような気がして、君原は振り返った。もちろん空耳だったらしいのだが――。
ともかく、君原は角から飛び出して来たオートバイに全く気付かなかったのである。
7 |失《な》くした時計
「マチ子さん」
と、|神《かみ》|山《やま》|絹《きぬ》|代《よ》は声をかけた。「もう二時よ。旦那様は、まだおやすみ?」
「はい」
マチ子は、廊下に掃除機をかけていた。
「そう……。もうお起しした方がいいんじゃないかしら」
と、神山絹代は言って、「ちょっと、声をかけてみるわ」
階段を上りかけた絹代へ、マチ子は掃除機のスイッチを切ると、
「起すなと、おっしゃいました」
と、言った。
絹代は振り向いて、
「旦那様が?」
「はい。――疲れたから、起きて来るまでは、放っておいてくれ、と」
「そう……」
絹代は、肯いたが、「でも、もしお具合でも悪いようだと大変。いいわ。|叱《しか》られたら、その時に謝ればいいのよ。ちょっと覗いてみるわ」
と、また階段を上って行こうとした。
「でも、起すなとおっしゃったんです!」
マチ子の言葉は、ほとんど叫ぶような激しさだった。
絹代は足を止め、戸惑って、
「どうしたの? マチ子さん、何だか変ね、あなた」
「何も……。ただ、旦那様がおっしゃった通りを言ったんです」
マチ子は、目をそらしていた。
「旦那様がそうおっしゃったのね」
「そうです」
「いつ?」
「おやすみになる時です」
絹代は、少し間を置いて、
「おやすみになったのは、いつごろ?」
と、訊いた。
「五時ごろでした」
「朝の五時?」
「そうです」
絹代は、しばらくマチ子を見ていたが、やがて、階段を下りて来ると、
「分ったわ。それじゃ、もっとおやすみになりたいでしょうね」
と、言った。「法子さんのお部屋にお友だちがみえてるわ」
「はい」
「紅茶か何かお出ししたら?」
「そうします」
マチ子は、掃除機を置いて、台所へと入って行った。
――神山絹代は、もうこの松永家に二十年も通って来ている。松永のことは、家族同様によく分っているつもりだった。
朝の五時。――そんな時間に寝るというのは、普通ではなかった。
特に、|年齢《とし》を取ってから、松永は睡眠を規則的に取るようにしていたのだ。それなのに……。
マチ子が、それを知っていた[#「知っていた」に傍点]、ということも、気になった。
もちろん、六十過ぎとはいえ、松永は男で、マチ子は女だ。しかし、いくら何でも……。
だが、今日のマチ子の様子は、明らかにおかしい。
居間へ入って、絹代は、出ていた新聞を片付け始めた。――門のインタホンが鳴った。
誰だろう? 絹代は急いでインタホンに出た。
「はい、どちら様でしょう?」
「警察の者ですが」
と、若い男の声が言った。
絹代は、緊張した。――警察が何の用だろう。
「ご用件は?」
「松永――彰三さんは、いらっしゃいますか」
「まだおやすみです」
「そうですか。申し訳ありませんが、ちょっとお話を伺いたいので、取り次いでいただきたいのですが」
絹代はためらった。しかし、相手の言葉はていねいだが、引き|退《さ》がるようではない。
警察の用となれば、仕方がないだろう。
「どうぞ、お入り下さい」
絹代はロックを外した。「――マチ子さん」
「はい」
マチ子が台所から出て来た。
「警察の人が、旦那様に、と。お起しして来るわ。応接へ通しておいて」
絹代が歩き出すと、マチ子は突然階段へと駆けて行き、
「私が起します!」
と、言って、駆け上って行った。
絹代は|呆《あっ》|気《け》に取られて、それを見送っていたが……。
おそらく……。そうだ。旦那様は、マチ子に、手をつけた[#「手をつけた」に傍点]。
何てことだろう!
玄関のドアをノックする音がして、絹代は足早に玄関へと向った。
「おやすみのところ、恐縮です」
と、年長の方の刑事が言った。「林田と申します。こちらはこの町の水口刑事です」
水口刑事は、若いせいもあるだろうが、大分緊張していた。
「お待たせして」
と、松永は言った。「――で、用件というのは?」
マチ子が、お茶を運んで来た。
「この時計ですが」
と、林田がテーブルに、ビニールの袋に入れた腕時計を置いた。「見憶えはありますか」
松永は、ちょっと眉を寄せて、
「私のものと同じ型ではないかな」
と、言った。
「実は、松永さんのお名前が裏に入っていまして」
と、水口が口を挟んだ。「それで、こうして伺ったわけです」
林田がチラッと水口を見た。余計な口を出されて、迷惑している様子だ。
「そうでしたか、いや……」
松永は首をかしげた。
マチ子は、二人の刑事へ、
「どうぞ」
と、お茶を出した。
「恐縮です」
と、林田は言って、一口お茶を飲んだ。
「――苦かったでしょうか」
と、マチ子は、林田がちょっと顔をしかめるのを見て、言った。
「いや……。目が覚めて結構」
と、林田は息をついた。「それで――」
「旦那様」
と、マチ子が言った。
「うん?」
「この間、どこだかで失くしたとおっしゃっていたのが、この時計じゃございませんでしたか?」
松永は、ちょっと時計を見つめて、
「――うん、そうらしいな。いや、沢山持っていますので、大して気にもしていなかったんですが」
「失くした、と?」
「失くしたのか、|盗《と》られたのか……。ともかく、いつの間にか、失くなっていたんですよ」
と、肩をすくめる。
「どこで失くされたんですか?」
と、林田が訊いた。
「さて……。いつの間にやら、なかった、というわけでね」
「しかし、六十歳の祝いにと、名前まで入っているんですよ」
「六十歳の時には、確か置時計が三つ、腕時計が五つぐらい来たような気がしますな」
「大したもんですね」
と、水口が|呆《あき》れたように言った。
「どこで見付かったんですか?」
「いや、ちょっとある事件がありましてね――」
と、林田はためらった。「その場所に、これが落ちていた、というわけです」
「事件? 泥棒とか、空巣とか?」
「女の子を待ち伏せして襲おうとした奴がいましてね」
と、水口が言った。
「何と……。うちにも十六の孫娘がいます。そういう卑劣な奴は、早く逮捕していただきたい」
「もちろん同感です」
と、林田は肯いた。「しかし手がかりはこれだけでしてね。これを、いつ、どこで失くされたか、思い出していただけませんかね」
「さあ……」
松永は腕を組んで、「マチ子。君は憶えてるか」
「いえ……」
「そうか。――ほとんど無意識に時計を選んでつけていますのでね。たぶん外で失くしたんだとは思うが」
「そうですか」
林田は息をつくと、「――何か思い出されたらご連絡を」
「ああ、もちろんです」
と、松永は肯いた。
「どうもお手間を取らせて」
水口は、しきりに恐縮していた。
林田は立ち上ると、
「まだおやすみだったそうで、すみませんでした」
と、言った。
「ああ、いや。そちらもお仕事ですからな」
「いつも、夜は遅くやすまれるんですか」
「そうとも限りません。気楽な仕事ですからね。気ままにやっていますよ」
「それは|羨《うらや》ましい。――ゆうべは何時ごろおやすみに?」
「二時か……三時か。寝つけずに、本を読んでいましてね」
「お出かけというわけではなかったんですか」
松永はちょっと笑って、
「夜遊びをする|年齢《とし》でもありませんよ」
と、言った。
――刑事たちが帰って行く。
マチ子は、玄関まで送って、応接間へ戻って来ると、茶碗を片付けた。
松永はソファに座ったままだ。
「マチ子――」
「あの時計は失くされたんです」
と、マチ子は言った。「そうですね?」
「ああ。そうだ」
「私なら、時計一つ失くしたら、大騒ぎしますわ」
マチ子はそう言って、笑った。
松永は手を伸ばして、マチ子の腰の丸みをさすった。マチ子は少し離れて、
「仕事があります」
と、言った。
「そうか」
マチ子は、ドアを開けようとした。松永は、「今夜も行っていいか」
と、言った。
マチ子は答えずに、応接間を出た。電話が鳴り出していた。
「――お待たせしました。松永でございます」
と、マチ子は電話に出て言った。「――はい、小百合さんでしたら、今、うちに。――え?」
マチ子はあわてて、メモを取った。
「――分りました。すぐそちらへ。――はい」
マチ子は、メモを手に、ドタドタと階段を駆け上った。
法子の部屋のドアを叩くと、
「どうぞ」
と、法子の声がした。
「あの――」
とドアを開けると、
「やっぱりマチ子さんか。ドタドタ、凄い音がしたから、きっとマチ子さんだ、って言ってたのよ」
と、法子が言った。「何なの?」
法子がカーペットに膝を立てて座り、小百合は|腹《はら》|這《ば》いになって、雑誌を広げていた。
「あの――今、病院から電話で」
「病院、どこか悪いの、マチ子さん?」
「そうじゃなくて! 小百合さん、すぐ病院へ行って下さい!」
「私?」
小百合は起き上って「どうしてですか」
「おじいさんが、オートバイとぶつかったんですって」
小百合はポカンとしていた。
「いやだ……。ぶつかるなんて、おじいさん――」
「頭を打って、病院へ運ばれたって。すぐに――」
「分りました……。じゃ、法子、悪いけど私――」
「マチ子さん、タクシー呼んで」
と、法子がパッと立ち上って、「小百合、しっかりして。ついて行くから」
「いいよ。悪いし……」
「何言ってるの! マチ子さん、早く」
「はい!」
マチ子は、またドタドタと足音をたてながら行ってしまう。
「おじいさんたら、ぼんやりしてたのかなあ」
「小百合。鞄とか、忘れないで。きっと大したことないわ。大丈夫よ」
「うん……」
小百合は、まだ実感がない様子だった。
法子もコートをはおって、財布を手に、玄関へ来ると、マチ子が外から戻って来た。
「ちょうど近くにいたのが、今、来ましたよ」
「ありがとう。――電話するわ」
「分りました。大したことないといいですね」
「どうも、すみません」
と、小百合は頭を下げて、玄関を出た。
「小百合、病院のメモは?」
「うん、ここ」
「貸して。――さ、急ごう」
と、法子がせかせる。
二人はタクシーに乗った。
小百合は、ふと思い出した。――六時。
あのスーパーの前。
関谷征人が来るんだ。それなのに……。
小百合は、ギュッと鞄を抱きしめた。
「しっかりしてね」
と、法子が言った。「オートバイぐらいなら、大したけがしないと思うよ」
そうではないのだ。小百合は、祖父のことを怒っているのだった。
よりによって、こんな日に!
おじいさんの馬鹿!
――会いたい。関谷征人に会いたいんだ。
小百合は目をつぶった。
どうか――どうか、六時にあそこへ行けますように。
行けますように?
そうじゃない! 行くんだ!
何があっても。――たとえ、おじいさんが死にそうだって、構うもんか。
小百合は、タクシーの座席に、身じろぎもせずに、座っていた……。
8 迷った男
「お帰りなさいませ」
フロントの、顔なじみの係が、|大《おお》|内《うち》を見てすぐにルームキーを取り出した。「ご伝言が入っております」
「ありがとう」
大内は息をついて、「いや、歩いて来たら、大分体があったまったよ」
と|微《ほほ》|笑《え》みながら、キーと、伝言のメモを受け取った。
すぐにメモを開けて読み、ちょっと鼻にしわを寄せると、
「全く、上役ってやつは口やかましいもんだね」
と言って、そのメモを手の中で握りつぶした。「捨てといてくれ」
「かしこまりました」
と、フロントの男は愉快そうに、「どんな職場でも、上役というのは似たようなものでございますね」
「全くだ。――今、三時七分くらい?」
「はい。あと十秒ほどで八分になります」
と、フロントの男は、自分の腕時計で確かめる。「時計の調子が?」
「いや、合ってはいるんだがね」
と、大内は自分の腕時計に目をやって、「一日に一回、確かめないと気がすまない。人との約束に遅れちゃ営業マン失格だからね」
「今日はまたお出かけですか」
「夕方、お得意のお宅へ伺うことになってるんだ。――しかし、三十分くらい眠りたい気分だな」
と、少しためらう。
「お起しいたしますよ」
「いや、起きるのには自信がある。眠れるかどうか心配なんだ。あまり寝つきのいい方じゃないのでね」
と、大内は言った。
「アルコールはやられないんでしたね」
「そうなんだ。こんな時には、寝酒の一杯ぐらい、飲めるようにしておけば良かったと思うよ」
大内はそう言って笑った。
この町に来た時、いつも大内はこのホテルに泊る。――営業マンとしての出張である。高級ホテルに泊っていては、出張手当など消えてしまう。
ここは、いわゆるビジネスホテルの中では、比較的、落ちついてサービスもいいので、知られている。建物などは少し古いが、何より従業員が、一流ホテルでもなかなか望めないほど、よく気をつかってくれるところが良かった。
もちろん、大内がもう何度もここを利用している、ということもあっただろうが、このフロントの男などは、もっとランクの高いホテルでも充分に勤まると思えた。
「――ま、ベッドに入るだけ入ってみるよ」
と、大内は言った。
「もし――」
「何だい?」
と、大内は歩きかけて立ち止った。
「いえ……」
フロントの男は、軽く|咳《せき》|払《ばら》いした。「大内様、お独りでいらっしゃいましたか」
「独り? 独身ってことかい」
「さようで」
「そう。忙しくて、結婚する暇もないよ。どうして?」
「いえ、大変失礼な話ですが、もし軽い運動をお望みでしたら、適当なお相手をご紹介いたしますが……」
女のことを言っているのだと、やっと分って、大内は笑った。
「何の話かと思ったよ」
「どうも、慣れないことを申し上げますと、汗をかきます」
と、フロントの男は照れている。
「そんなことまで気をつかうの。大変だね」
「そういうご注文[#「ご注文」に傍点]をされるお客様もいらっしゃいますので」
「僕は遠慮しておくよ」
と、大内は首を振って、「初めての女性なんて、|却《かえ》ってくたびれるだけだ」
すると、ホテルの正面にタクシーが|停《とま》って、五十代と見える、大分腹の出た男が降りて来た。フロントの男が、すぐにルームキーを取って来る。
大内は、ちょっと目を見開いた。――その男に続いてタクシーから降りて来たのは、セーラー服に学生|鞄《かばん》を下げた、高校生だったのである。
「キーをくれ」
と、男はぶっきら棒に言った。
「お帰りなさいませ」
「部屋にウィスキーを届けてくれ」
「かしこまりました」
後からやって来た少女――どう見ても十六か七――は、丸顔の、まだあどけない印象だったが、
「私、何か食べたい」
と、甘えるように言って、男の腕に手をかけた。
「ルームサービス、やってるのか、この時間は?」
「軽食のみになりますが、サンドイッチ、カレーなどは……」
「サンドイッチとコーラ」
と、少女が言った。
「――一緒に届けてくれ」
と、男は言って、少女を促してエレベーターの方へ歩き出す。
「もっといいホテルかと思ったのに……」
と、少女が言っているのが聞こえて来た。
少々|呆《あっ》|気《け》に取られて見送っていた大内は、エレベーターの扉が開いて、その不つりあいなカップルがその中へ消えるのを眺めて、首を振った。
「――どう見ても親子じゃないね」
フロントの男は苦笑して、
「全く、どうなっているんだか。うちにも十五歳の娘がいますが、外じゃあんなことやってるのかもしれないと思うと、気が気じゃないです」
と、言った。
そしてルームサービスの注文を、内線電話で係へ連絡する。大内は、フロントの男が受話器を置くのを待って、
「あれは、一回きり、金で買ってるのかい?」
と、|訊《き》いた。
「あのお客様の趣味ですね。中小企業のオーナー社長です。大きなホテルだと目立つので、いつもここで……。ばれたらこっちもただじゃすみませんからね。冷汗もんです」
「しかし、大胆だね、女の子の方が」
大内は、ちょっと肩をすくめて、「目が覚めちまったよ」
と、言ったのだった……。
シングルベッドが一つ、小さなテーブルと、少し発色の悪くなったカラーテレビ。
それだけで、もう大して余地のない狭い部屋である。もちろん、一人で寝るだけの部屋だ。大内には、これで充分だった。
部屋へ入って、|上《うわ》|衣《ぎ》をハンガーにかけ、ネクタイを外す。
|松《まつ》|永《なが》の家へ行く時は、新しいネクタイにかえて行こう。やはり、金持の家には、それなりの格好で行かなくてはならない。
逆に、平凡なサラリーマンの家に、エルメスのネクタイなどしめて行っては、向うが|面《おも》|白《しろ》くあるまい。たとえ気付かなくても、そういう気構えは、つい態度にも出てしまうものだ。
「やれやれ……」
大内は、小さな窓から、外を眺めた。
七階なので、結構見晴らしはいい。これくらいの小都会は、そう高い建物がないから、これでも「高い」と感じる。
――どうしよう? 寝るか?
しかし、どうせ一時間もしたら、松永の所へ出かけるのだ。眠れないまでも、ベッドに横になっているだけでも、少しは体が休まるかもしれない……。
カーテンを引くと、部屋が薄暗く、秘密めいた雰囲気になる。ズボンがしわにならないよう気を付けながら、大内はベッドに横になった。
全く。――|俺《おれ》としたことが。
一体どうしたというんだろう? 少しも難しい尾行ではなかったのに。少し急げば充分に、あの少女と同じ電車に乗れたというのに……。
昨日と同じ取り合せの二人だった。よほど仲がいいのだろう。一人は、活発で、明るく、生命力が|漲《みなぎ》っている。もう一人は落ちついて知的だ。そして端整そのものの顔立ち。
目を閉じると、あの少女の斜め前から見た映像が浮かぶ。浮かぶのに、それでいて、どんな顔だったか、思い出せないのだ。――奇妙な話である。
もちろん、尾行にしくじったからといって、それほどがっかりしているわけではなかった。学校は分っているのだし、また見付けるのは難しくない。まあ、明日は日曜日だから、学校も休みということだが……。
この町には、三、四日滞在しても、会社から文句を言われることはない。何といっても、松永を始め、この町には割合に上得意の客を何人も持っていたからである。
もちろん、怪しまれるほど長く、この町に滞在するわけにはいかない。しかし、何としても、あの少女に会わなくては。――大内は決心していた。
いや、むしろそれはどこか別のところで決っていることのようだった。大内さえ知らない誰か[#「誰か」に傍点]が決めたことなのだ。
二月も末に近くなって、今月の販売実績を少しでも上げるために、どこでも、営業マンは必死になっているだろう。しかし、大内は、普通の営業マンが目標とする台数の車を、もう売ってしまっていた。
月末の日まで、ずっとこの町にいたとしても、特に会社から苦情は来ないだろう。大内にしては、ちょっと物足りない数字、と思われるかもしれないが、いつもいつも目ざましい数字を上げているわけでもない。
あの少女を見付ける時間はいくらでもある。そして、少女を「永遠」の中に封じ込め、あのまぶしいほどの純潔さのままにいさせるようにする時間も、充分にあるのだ……。
――目を、いつの間にか閉じていた。そしてほんの数分間、うとうとしていたらしい。
ドアの開く音で、ハッと目を覚ました。
刑事がやって来たのか? 俺を逮捕しに?
――どうしてそんなことを考えたのか。起き上った大内は、開いたのが自分の部屋のドアでないことを知って、苦笑いした。
何しろ、狭い部屋だ。隣の物音が、まるでこの部屋で聞こえたように思える。
しかし――何だかいやに乱暴なドアの開け方だったが……。
大内は起き上って、ドアまで歩いて行くと、|覗《のぞ》き穴に目を当てた。廊下に立っているのは、さっき、あの中年男と一緒にやって来たセーラー服の少女である。
様子がおかしかった。|怯《おび》えたようにキョロキョロ周りを見回し、逃げ出そうとして、ためらっている様子だ。何があったのだろう?
大内はドアを開けた。少女が短く声を上げて飛び上った。
「どうしたんだい?」
と、大内は訊いた。
「あの――」
少女は、ポカンとしていて、何と説明していいものやら、分らない様子だ。
「さっき、男の人と一緒だったね。この隣の部屋?」
少女は、|肯《うなず》いた。
「どうかしたの?」
「何だか――何がどうなったんだか――」
と、少女は口ごもっている。
隣のドアは半開きのままになっていた。大内は歩いて行って、中を覗いた。
大して驚きはしなかった。珍しい話ではない。
男はベッドに突っ伏して、白目をむき、口を開けたまま、動かなかった。ワイシャツの胸をはだけ、両手で胸をかきむしりかけたまま、ストップモーションの写真のように、こわばっていた。
「あの――」
と、声がして、振り向くと、ウィスキーとサンドイッチ、コーラをのせた盆を手に、ルームサービスの係のボーイが、当惑顔で立っている。
「気の毒だけど、キャンセルだね」
と、大内は言った。「すぐフロントに言って、救急車だ。たぶん、手遅れだろうがね」
キョトンとしていたボーイは、中を覗き込んで、真青になった。
「はい、すぐに。――かしこまりました」
いつものくせ[#「くせ」に傍点]が出てしまうのだろう。早口でそう言うと、エレベーターの方へと急いで戻って行く。
電話した方が早いのに。――大内は、その男の部屋の電話で、フロントへかけた。
「フロントでございます」
「大内だけど」
と、事情を説明してやると、フロントの男は、すぐにそばの|誰《だれ》かに、救急車を呼べと言いつけてから、
「困りましたね。――例の女の子は?」
「さて……。廊下に出ていたがね」
「申し訳ありませんが、その女の子を、大内様のお部屋へ入れておいていただけませんでしょうか」
フロントの男の心配も分った。この男が、女子高生を相手にしていて発作で死んだとなると、ホテル側も迷惑するのだ。
「分った。その辺にまだいたら、落ちつかせて、部屋に入れておくよ」
「お願いいたします。私どもは、ともかくお一人でお泊りだったということにしておきたいので――」
「分ってるよ。じゃ、運び出されたら、また――」
大内は電話を切った。
部屋の中を見回すと、あの少女の鞄が置きっ放しになっている。大内はそれを手に、廊下へ出た。しかし、少女の姿はどこかへ消えてしまっていた。
怖くなって、逃げ出したのか。――鞄を置いて行くとはね。
大内は苦笑しながら、自分の部屋へ戻って、足を止めた。
あの少女が、大内の部屋のベッドに、ちょこんと座っていたのである。
「何してるんだ?」
「だって――捕まるのいやだもん」
と、少女は言ってから、「あ、鞄!」
「持って来たよ。救急車が来ても、死んでいるとなったら、警察に連絡が行くだろうからね」
「私、何もしなかったんだ! 本当よ」
と、少女は泣き出しそうになる。「あのおじさんが勝手にハアハアいって……。急に|呻《うめ》き出したから、びっくりしちゃって――」
「分ってる、分ってる」
大内はなだめるように言って、「ともかく、騒ぎがおさまるまで、ここにいたまえ。しばらくかかるかもしれない」
大内はドアを閉めた。
少女は、情ない顔で大内を見上げると、
「――ねえ」
「何だい?」
「サンドイッチは? 私、お|腹《なか》|空《す》いちゃってんの」
大内は、ため息をつくと、フロントへ電話して、急いでさっきのサンドイッチを届けてくれるように頼んだのだった……。
9 暗い|淵《ふち》
「おじいさん……」
|小百合《さゆり》は、頭にグルグル包帯を巻いた祖父に、そっと声をかけた。
何だか――怖かったのだ。大きな声で呼びかけると、おじいさんがこわれてしまいそうな気がして。
でも、もちろんそんなことはない。おじいさんは固そうなベッドに寝ていたが、小百合のかすかな声に、すぐ目を開いたのだった……。
「小百合か」
「どう?」
「ああ。――どうってことないんだ。大げさに、こんな包帯を巻きやがって」
と、|君《きみ》|原《はら》|耕《こう》|治《じ》は文句を言った。「高くふんだくろうってんだ、きっと」
「そんなこと言って」
ホッとしながら、小百合は笑った。
良かった。――この元気なら、大丈夫。
「おじいさん、|法《のり》|子《こ》がついて来てくれたのよ」
と、小百合が言うと、少し離れて立っていた法子が、前に出て、
「びっくりしました。オートバイにぶつかった、ってうかがって」
「ああ、全く、もう|年齢《とし》だね。みっともなくて、人にゃ言えない」
と、君原は照れたように言って、「――あんたのおじいさんが……」
「え?」
「いや……。何だったかな」
と、君原は|眉《まゆ》を寄せた。「確か、おじいさんが……。松永さんだったね」
「そうです。祖父がいつもお会いしたいと言ってます」
「そう……。それはありがたい。いや、うちの小百合には苦労させてるからね。全く|可哀《かわい》そうな|奴《やつ》で。気にかけてもらって、ありがたいよ」
「おじいさん、よしてよ」
と、小百合が赤くなる。
「そうか。本人の前で言うことじゃなかったな」
君原は、ちょっと笑って、それから顔をしかめた。
「痛むの?」
「大したことはない。石頭だからな。お前だって知ってるだろ」
と、君原は言ったが……。
何だったろう? この松永法子の祖父のことを、どこかで耳にしたような気がするのだが……。どうしても思い出せない。
「私、ちょっとお医者さんと話して来る」
と、小百合は言って、病室から廊下へと出た。
「――大したことないみたいで、良かったわね」
と、続いて出て来た法子が言う。
「うん……」
小百合は肯いたが、急に涙が|溢《あふ》れて来て、法子に背を向けて歩き出した。
「小百合!」
法子がびっくりして、追いかける。「――大丈夫?」
「ごめん……。あんな風に寝てるおじいさんを見たの、初めてだったから……。何だかたまんなくなっちゃって……。ごめん、びっくりさせて。もう平気」
小百合はハンカチを出して、涙を|拭《ぬぐ》った。
「優しいね、小百合って」
「そんなことないよ」
と、小百合は首を振った。
それから、通りかかった看護婦さんに、祖父の具合をどの先生に聞けばいいのか、たずねてみた。
――正直なところ、病院へ法子と二人で駆けつけて来た小百合は、祖父が血の気のひいた顔で、頭に包帯を巻いてベッドに横たわっているのを見た時、|膝《ひざ》が震えたのだった。
――おじいさんが死んじゃう!
もちろん、そんなことはない、と看護婦さんに言われたのだが、小百合にとっては、祖父が「死ぬかもしれない」と一瞬でも感じたことは、大きなショックだった。
当然いつか――小百合よりも先に、祖父は死ぬだろうと頭では分っていても、そんな日はまだまだずっと遠い先のことと思っていたのだ。それがいきなり「現実」として目の前に現われたので、小百合は怖くなったのである。
そして、タクシーの中で、こんな日にけがをした祖父に腹を立てていた自分を、恥じたのだった。どうして、あんなことを考えられたんだろう?
小百合の目は、病院の廊下の時計に向いていた。――五時。
六時には、あのスーパーの前で、|関《せき》|谷《や》|征《まさ》|人《と》が待っているのだ……。
「――検査の結果は、まあ異常ないと言っていいと思うね」
と、医師は小百合に言った。「君が、あの人の家族?」
「孫です。二人で暮してるんです」
「そうか。大変だね」
五十歳ぐらいか、温厚な感じの医師は、肯いて言った。「ちょっと心配なのは、かなりひどく地面に頭を打ちつけたんでね、後になって何か症状が出るかもしれない、ってことなんだ」
小百合が青くなるのを見て、医師は、
「いや、そうなる、と言ってるんじゃないよ」
と、あわてて言い足した。「万に一つだ。ただ、検査だけじゃよく分らないこともあるんだよ。――ともかく、今夜だけ、入院して行った方がいい。様子を見て、何もなければ明日は帰れるよ」
「そうですか」
小百合はホッとした。
「ただ、急にひどく頭痛がするとか、吐き気があるとかいう時は、すぐにここへ連れて来てくれ。たとえ本人は『冗談じゃねえ』とわめいてもね」
医師はニッコリ笑った。
きっと祖父が、ここへ運ばれて来て、そう言ったのだろうと思って、小百合は赤くなった……。
「――入院だって?」
と、君原は顔をしかめた。
「一晩だけよ。明日は帰れるって」
「ふん……。一泊いくらだって?」
「おじいさん。ホテルじゃないのよ」
と、小百合は苦笑して言った。
「分ってるさ。しかし……。安かないからな、ここだって」
「お医者さんがそう言ってるんだから、おとなしく、言うことを聞いてよ」
「分ったよ」
と、君原はため息をついた。「お前は帰ってな。何もそばについてることはない」
「明日、日曜日だもの。|椅《い》|子《す》に座って寝るわよ」
「そんな重病人じゃない」
「分ってるけど、一度やってみたかったの、そういうことも」
君原も、それ以上は言わなかった。
「ともかく、保険証とか、取って来ないといけないから、|一《いっ》|旦《たん》家に帰るわ。――法子も送って行く」
「ああ。よろしく言ってくれ」
と、君原は言って、「あの子のおじいさんのことで――」
「え?」
「いや……。何だったかな。どうも思い出せない」
と、君原はゆっくり頭を左右へ動かした。
「ゆっくり考えて」
と、小百合は言って、立ち上った。
――五時半を回っていた。
「――ごめんね、法子、付合せちゃって」
と、病院を出ながら言う。
「何言ってんの! タクシー呼んだから乗って行こう」
「ええ? でも――」
「小百合んちに寄って、それから私の家で夕ご飯、食べてらっしゃいよ。電話しといたから、すぐ食べられるわ」
「だって……」
「いいのよ。またこの病院まで、送らせるから」
法子が手を上げると、〈迎車〉という字の出たタクシーがやって来た。「気にしないで、おじいさんの会社につけるんだから」
とても断れなかった。それに、もう大分暗くなっていたし、雨でも降って来そうな空だったのだ。
二人はタクシーに乗り込んだ。
五時三十七分。――本当に来ているだろうか? ただ、冗談でああ言ったのだったら?
タクシーが走り出す。もちろん、小百合の家に向っているのである。
冗談だっていい! もし、今行かなかったら、もうたぶん二度と……二度と、彼[#「彼」に傍点]に会うことはないだろう。
「どうしたの、小百合?」
と、法子が覗き込むようにして、「何だか怖い顔してる」
「ね、ちょっとスーパーに寄りたいの」
「買物?」
「うん……。そんなもの」
「じゃ、どこか通り道にコンビニエンスがあるんじゃない?」
「いえ――いつも行ってる店の方が。どうせ途中なの」
「ああ、よく買い出しに行く所ね。じゃ、表で待ってるわよ。――すみません、あの信号を右へ」
法子は、道をよく|憶《おぼ》えている。
それも小百合が法子にかなわないことの一つだった。法子は、初めての場所を捜して行くのもうまいし、一度行った所は、決して迷わないのだ。
――小百合は、迷っていた。道に、ではない。どうしたものだろう?
もし本当に関谷征人が来ていたら……。いや、来ていなかったら、それに越したことはないのだ。何か適当に買っておくものぐらい見付かるから。
だが、関谷征人が来ていたら、当然、法子に見られることになる。――小百合は恥ずかしかった。自分が恋してるなんてことを、法子に知られたくはなかったのだ。
だって――そう。どうせ……どうせ、私の恋なんて、実らずに終るに決っているのだから。それならいっそ、早く|諦《あきら》めた方がいい。彼が来ていなければ、それでいい。
来てほしくない、などとは、これっぽっちも考えていないくせに、小百合は、彼が来ていない方がいいのだ、と自分に納得させようとしていた。
「――おっと。事故だな」
と、運転手が言った。
タクシーが停る。小百合は、前方を見た。赤い灯が見える。パトカー、救急車。
乗用車が一台、歩道へ乗り上げて、ガードレールがまるでボール紙のように、折れ曲ってしまっていた。
「――参ったな。すっかり詰ってる」
と、運転手が舌打ちした。
振り向くと、タクシーの後ろに車がどんどん並んでいる。この渋滞を抜けるのは、かなり厄介な様子だった。
「――一台しか通れないんだ。交互通行だしね。のんびり待つしかないね」
と、運転手は首を振った。
のんびり? いつまで待つの?
小百合は、車のダッシュボードの時計に目をやった。――五時四十八分だ。
五十五分を過ぎても、まだタクシーは、やっと十メートルほど進んだだけだった。
事故の処理に手間取って、しばしば道が完全にストップになるのだ。――六時[#「六時」に傍点]。六時になって、あの人がスーパーの前にやって来ても……。私はいない。
彼は待っていてくれるだろうか?
五十七分。――五十八分。
「あの――降ります、私」
と、小百合が言った。
「小百合!」
法子がびっくりして、「どうしたの?」
「急ぐの。ちょっと。――ごめんね、法子」
と、早口に言って、「ドア、開けて下さい!」
わけの分らない様子の運転手がドアを開けると、小百合はタクシーを出て、歩道へ上り、駆け出した。法子は、タクシーの中から|唖《あ》|然《ぜん》として見送っている。
分っていた。とんでもないことをしているのだということは。
法子がせっかく呼んでくれたタクシーなのに。小百合は理由も言わずに飛び出してしまったのだ。
しかし、もうためらっていても仕方なかった。今は――今はもう、急ぐしかない!
六時に。六時に。
きっと、あの人は待ってる!
歩いても、十五分ほどの距離だったろう。小百合は、|喘《あえ》ぐように息をしながら、あのスーパーの前で、足を止めた。冷たい空気が激しく出入りして、|喉《のど》がひりひりと痛んだ。
関谷征人の姿はなかった……。
時計を見る。六時七分。
もし、来ていたら、これぐらいの時間までは待っているだろう。それとも、彼の方も遅れているのか。
小百合は、左右を見回した。――いつもながらの買物風景。主婦たちの群。
スーパーに流してある、十年一日の|如《ごと》くのBGM。〈今日の特売品〉を売る店員のかけ声……。
ペタッ、と顔に冷たいものが当った。見上げる間もなく、雨が降って来た。
客たちがあわてて傘を広げる。道を行く人が、スーパーの入口の、|濡《ぬ》れない場所に飛び込んで来た。
小百合も、濡れない位置まで|退《さ》がったが、それでもぎりぎり前に出て、道の左右が見渡せるようにした。やって来る人々の流れ。
こんなに大勢の人がいるのに、どうして彼がいないのだろう? そんなの、不公平じゃないの。ひどいじゃないの。
急激に気温も下ったようだった。吐く息は白く、かすかに顔にかかる雨の細かいしぶきも、刺すように冷たい。もう六時十五分だ。
来ないのだ。――やっぱり。どうせこうなるはずだったのだ。
肩をポンと|叩《たた》かれた。――まさか。彼のはずがない。きっと、誰か人違いをしてるんだわ。
「来てたのか」
と、関谷征人が言った。「いや、ちょっと遅れてさ。いないから、中で買物してるのかと思ったんだ」
小百合は、|瞬《まばた》きもしないで、関谷征人を見つめていた。瞬きすると、消えてしまうんじゃないかしら、と思ったからだ……。
「――どうした? 忘れた? |昨日《きのう》さ、ここで――」
「憶えてるわよ、もちろん」
と、小百合は言って、「あの――おじいさんが事故で入院しちゃったの」
「ええ? ひどいのかい」
「そうでもないけど……。今夜だけ入院するの。それで来るのが遅れて……」
言いわけなんかいらない。そうなんだ。好きだと言って、何が恥ずかしいもんか!
「会えて|嬉《うれ》しい」
と、小百合は言った。
愛してます、なんてセリフは、少女漫画の中でもなきゃ、言えやしないじゃないの。こう言うだけだって、小百合の体は、この寒さの中で、カッと燃えるように熱くなるのだから……。
「僕もだよ」
と、征人は言った。「雨だね」
「ゆうべは、遅くまで盛り上ったの?」
と小百合は訊いた。
今日会ったら、こう訊こうと、ずっと考えていたのだ。
「ゆうべ? ああ、クラブの集り? 寝たのが三時半」
「朝の? |凄《すご》いわねえ」
「まだ頭がボーッとしてる」
「そうだ、昨日のレモンのお金、渡すの忘れちゃってたの」
「そうだっけ? いいよ。クラブの金だし、いくらでもないさ」
「でも、いやなの。受け取って」
と、財布を出そうとする。
「分った。でも、どこかで何か飲もうよ。こんな寒い所じゃなくてさ」
征人も傘を持っていなかった。
「そこが近い。|混《こ》んでるけど」
「ともかく、入るか」
「うん。走って行けば――」
と、道の向い側へ|眼《め》をやって、小百合は法子が傘をさして立っているのを見付けた。
「法子……」
「小百合ったら! いきなり走ってっちゃうから」
「ごめん。ちょっと――約束があったんだ」
と、小百合は言った。
法子は楽しげだった。怒っている様子はない。
「こうならこうと言えばいいのに!」
「うん……」
「松永法子です」
と、法子は、征人の方へ会釈して、「小百合の友だちです」
「――やあ」
征人は、フッと我に返ったように言った。「関谷征人っていうんだ。K学園の三年生。君は高一?」
「小百合と同じ」
「そうか。少し上みたいに見えるね」
と、征人は言った。
征人。――征人。どうして私のことを見ないの? 法子の方ばっかり見ないで!
「この傘、タクシーの運転手さんに借りたのよ」
と、法子は言った。「そっちでタクシーが待ってる。――良かったら家に。いいですか?」
「君の家に? 僕はいいけど……」
やめて……。やめてよ、法子。
私の恋人をとらないで[#「私の恋人をとらないで」に傍点]!
「じゃ、待ってて。タクシーをこの前につけるから」
法子が走って行く。――見送った征人は、
「きれいな子だね」
と、言った。
小百合は、|闇《やみ》の中に一人取り残される自分を、じっと見つめていた。
――そうだ。分っていたんだ。こうなることは。
昨日[#「昨日」に傍点]、私はこの場面を見てしまったんだ……。
10 悪の意志
「|旦《だん》|那《な》様」
居間のソファに身を沈めていた松永彰三は、じっと眼を閉じて、身動きしなかった。
――|神《かみ》|山《やま》|絹《きぬ》|代《よ》は、二度声をかけようとはせず、ドアを閉めようとした。
「何だ」
と、松永が言った。
「旦那様。――おやすみかと思いました」
「眠っちゃいない。少しぼんやりしていただけだ。何か用事か?」
と、松永は訊いた。
「あの……」
神山絹代は、少しためらいながら、ソファの方へやって来た。珍しいことだ。何でも、思ったことは口に出すのが、絹代のやり方なのだ。
「ゆうべ、お加減がお悪かったそうなので、夕食に、何がよろしいかと存じまして」
「何でもいい」
松永はあっさりと言った。「別に腹をこわしているわけじゃないからな」
「かしこまりました。――何か、消化のよろしいものに――」
「任せるよ」
松永は、ゆっくりと顔を上げて、絹代を見た。――絹代は眼を合せるのを、避けている。
「何か、言いたいことがあるんじゃないのか?」
「いいえ――」
「隠すな。顔に書いてある」
そう言って、松永はちょっと笑った。
「旦那様」
思い切ったように顔を上げ、「マチ子さんのことです」
「マチ子? あれがどうかしたか?」
「辞めてもらった方がいいかと存じまして」
松永は、ちょっとの間、黙して絹代を見ていた。絹代は、しっかりと松永の視線を受け止めている。
「――理由があるか」
と、松永は訊いた。
「よろしくありません」
と、絹代は、両手を固く握り合せ、「家の中に愛人を置くのは、お嬢様のためにも、よくないと存じます。――何でしたら、どこか外に」
松永は、軽く息をついた。
「そんなことを言われるとは思わなかったぞ」
「お気にさわりましたら、申し訳ありません」
「確かに、俺はあの子に手をつけたが……。深入りしたわけじゃない」
「でも、あの子は初めてだったのではございませんか」
「ああ。――初めてだった」
松永は、立ち上ると、窓の方へと歩いて行った。そして、庭へ目をやりながら、
「どっちなんだ。マチ子に同情しているのか。それとも、怒っているのか」
「それは……。旦那様とあの子との間のことに、私は口を挟むつもりはございません」
と、絹代は言った。「ただ……けじめが必要です。特に男と女の仲については。このまま、中途半端な形で、マチ子さんを置いておくのは、誰にとっても、良くないと存じまして。――差し出がましいことを申して……」
庭の木の枝の間を、何か黒い鳥らしいものが、ゆっくりと動いて行く。
あんなにゆっくり? あんな風にはばたく鳥がいるだろうか?
ふと、松永はあの鳥を、前にも見た、と思った。つい昨日だったか、それとも何十年も前だったか。
「旦那様」
と、絹代が言った。
「よく分った」
と、松永は肯いた。「――いや、お前の言う通りかもしれん」
絹代が、ホッと息をついた。
「失礼を承知で、申し上げました」
「うん。俺もどうかしていたんだ」
と、松永は首を振って、「全く、お前の言う通りだ。もし、法子に知られでもしたら、とんでもないショックだろうからな」
「私も、それが心配でした」
「マチ子はどこにいる?」
「今、買物に出ています」
「今、行ったのか。じゃ、まだしばらく戻らんな」
「はい」
「今、何時だ?」
「四時を少し回っております」
「大内が来ることになっていたな」
「五時のお約束です。あの方は正確でございますから」
「ああ。|几帳面《きちょうめん》な奴だからな」
と、松永は笑った。「――どうだ、ちょっと腰をもんでくれないか」
「え?」
「前はよくやってくれたじゃないか」
「はい。でも――もうあまり力もございませんが……」
「構わん。久しぶりだ。ちょっとやってみてくれ」
「はあ……。では、ここで?」
「ソファって奴は横になるには向かんな」
と、松永は顔をしかめて、「上に行こう。やっぱりベッドだ」
「はい」
「夕食の仕度は、もう少し後でいいんだろう?」
「はい、大丈夫でございます」
「じゃ、頼む」
階段を、松永は先に上って行く。絹代は数歩遅れて、ついて来た。
「亭主は元気か」
「はい、おかげさまで」
「二軒分の家事ってのも大変だろう」
「家では手を抜きます」
「そうか」
と、松永は笑って、寝室のドアを開けた。
「旦那様、ではうつ伏せに」
「ああ……。気持がいいと眠っちまうかもしれんな」
「どうぞ、大内さんがおみえになったら、お起しいたします」
「そうしてくれ。――もし、眠ったらな」
松永は、ベッドに横になった。|傍《そば》に絹代が立つ。
「旦那様。仰向けに寝られては、腰をおもみできませんわ」
と、絹代が笑って言った。「うつ伏せになって下さいませんと」
「そうか?」
松永は、体をゆっくりと起して、「じゃ俺の方がお前の腰をもんでやろう」
と、言った。
大内は、一階へ下りて、ロビーを歩いて行った。
フロントの男が、会釈をした。
「お出かけですか」
「仕事だよ。――もう、すっかり片付いたのか?」
と、大内が少し声を低くする。
「はあ、ご迷惑をおかけして」
「あの社長、亡くなったって?」
「完全に手遅れとか。――色々訊かれましたが」
と、フロントの男は苦笑した。「お泊りは一人のはずだ、と言い張りまして、連れがあったとしても、見かけませんでした、と」
「なるほど」
大内は笑って、「それで通すしかないね」
「あの女の子は?」
「俺の部屋で寝てるよ」
と、大内は言って、「サンドイッチを食べて、ごく自然に眠り込んだだけさ。誤解しないでくれよ」
「ご迷惑をかけました」
と、フロントの男はくり返した。
「起きたら勝手に帰るだろう。別に|盗《と》られるものもないし。――じゃ、キーを頼む」
「行ってらっしゃいませ」
――大内は、駐車場へ下りて行って、レンタカーに乗り込んだ。
あの子の白い足……。スカートの|裾《すそ》を乱してスヤスヤ眠り込んでしまった、あの無神経さ!
少し早かったが、大内がこうして出て来たのは、あの少女に手を出してしまいそうだったからだ。
一旦手を出したら、止められないかもしれない。それが怖かった。
あの部屋ではだめだ。――フロントの男は、少女の顔も知っている。
もちろん……もし、あの少女と、どこか別の[#「別の」に傍点]場所ででも会ったとしたら、話は違うが。
いや、帰った時には、もうあの少女は部屋を出て行っているだろう。大内はそれを望んでいた。
車で、松永の屋敷へ向う。
運転に集中して、あの少女のことは考えまいとした。
何てことだ!――昼間、追いかけた少女のことが忘れられないくせに、目の前に少女の白いふくらはぎや|腿《もも》を見ると、心が騒ぐのである。
――頼む、出て行っといてくれよ。
俺とお前と、二人の[#「二人の」に傍点]ためにも……。
ほぼ計画通り、松永邸の前に車を乗りつけたのは、五時にあと数分というところだった。門は開いている。
車を中へ入れて、わきのスペースに|停《と》める。今年は、おそらく松永も車を買うだろう。去年から、車がなくて不便しているはずだ。
自分では運転しないので、運転手を雇っていたのだが、その運転手が辞めてしまって、後がなかなか見付からず、車も邪魔だからと処分してしまったのである。
今はハイヤーを使っているはずだが、やはり何かと不便だという感想は、松永も|洩《も》らすことがあった。新車を売り込むいい機会である。
しかし、売るといっても、運転手付きというわけにはいかない。そこが問題だった。
いかに大内が優秀なセールスマンでも、いい運転手を見付けるのは容易ではない。
まあ、ともかく話してみよう。電話で話した感触は悪くなかったが。
玄関のチャイムを鳴らして、しばらく待つ。――遅いな。
物音がして、ドアが開いた。
「これはどうも」
大内はびっくりした。当の松永本人が、立っていたのである。
「入ってくれ」
と、松永は促して、居間の方へと歩いて行く。
大内は、もうこの家の中はよく分っているので、自分でスリッパを出して、松永の後をついて行く。
「神山さんはお休みですか」
と、大内は、居間へ入って言った。
「いや、ちょっと今、手が離せない」
松永は少しぶっきら棒な口調で言って、「まあ、かけろ」
「お邪魔いたします。――埼玉工場の完成、おめでとうございます」
「うん? ああ、そうか。俺も忘れてたよ」
と、松永は笑って、「君の方がよく憶えてるな」
「とんでもございません。もう少し頭が良ければ、もっと出世しておるのでございますが」
と、大内は言って、「今年はお誕生日がございますね」
「うむ。あんまり嬉しくはないけどな」
二月二十九日なので、四年に一度しか、誕生日はやって来ないのである。
「今年はお誕生日の記念に一台、いかがですか」
「タダでくれるのなら、もらってやるぞ」
と、松永は笑った。「――帰ったのか」
居間の入口に、マチ子が立っていた。
「マチ子というんだ。大内君だ。四年に一度の定期便だな。――お茶をいれてくれ」
「かしこまりました」
マチ子は頭を下げて、姿を消した。
「冷えますねえ、この時期は」
と、大内は言った。「これが新しい型のカタログでございます」
と、アタッシェケースから出して、テーブルに置くと、
「ご覧いただくだけでも……。ちょっとお手洗いを拝借いたします」
「ああ、構わん」
「失礼して――あ、場所は存じておりますから」
大内は、居間を出た。
なぜか、落ちつかなかった。理由は分らなかったが、不安にも似た波立ちが、胸を騒がせている。
あのマチ子という娘は初めて見たが、およそ大内の目をひく存在ではない。それ以外には、特に変ったことがあるわけでもないというのに……。このもやもやした不安感はどこから来るのだろう?
用を足して、トイレを出た大内は、ギクリとした。目の前に立っていたのは――。
「これは――神山さん」
と、大内は頭を下げた。
神山絹代のことは、よく知っている。しかし、様子がおかしかった。
まさか大内に会うとは思わなかったのか、ハッと息をのんで、顔を伏せると、パッと駆け出すようにして、廊下の奥へ行ってしまったのだ。
――神山絹代のようなしっかりした女性があんな風に取り乱すとは……。一体何があったんだろう?
居間へ戻って、大内は、入口で足を止めた。
「――この車、悪くないじゃないか」
と、松永は言って肯いた。「まあ、社の方で、いい運転手も見付かりそうなんだ。一台、買うか」
「ありがとうございます」
と、大内は頭を下げた。
「――時間はあるんだろう。晩飯を食べていけよ」
「はあ……」
せっかくですが、今夜は用事が、と言いかけるのを、大内は何とかこらえた。こんなところで逆らえば、松永は気を悪くする。
「今、お茶が入る。ゆっくりしていけ」
と、松永は立ち上って、「ちょっと、電話をして来る」
松永は出て行った。
大内は、ソファに腰をおろした。――膝が震えている。自分でも意外なことだった。なぜだろう?
恐ろしいわけではない。ただ、あまりに意外なことに出くわしたからなのだ。
「――どうぞ」
マチ子という若い女の子が入って来て、大内にお茶を出した。
「どうも」
大内は、すぐに手に取って一口飲むと、苦さに顔をしかめた。
「苦かったですか?」
「いや……。少しばかりね」
「すみません。いくらやっても……」
と、マチ子は恐縮している。
大内は、少し気持がほぐれた。
「まだ、ここに来て、そうたたないの?」
「三か月です」
「そうか。――ここに住み込み?」
「はい」
「そう。いや、神山さんは前からよくお会いしてるんでね。あの人は、通いだったね」
「そうです。ご自分も家族がいらっしゃるんで」
「じゃ――ご主人と?」
「はい。お子さんも二人」
大内は肯いた。
「偉いもんだね。――いや、つまらないことを訊いてごめん」
「いいえ」
マチ子は頭を下げて、出て行った。
大内はお茶を飲み干した。――苦さが、却って救いである。
神山絹代をあんなにも取り乱させていたもの――。乱れた髪、青ざめた顔、まるで寒気がするように、両手を胸の前に重ねた様子……。
間違いない。神山絹代は男に力ずくで犯されたのだ。夫のある身で。
しかも、それは思いもかけない暴力だったことを、あの固くこわばった表情は告げていた。
そして、この居間へ戻った時、突然、大内は眼前に見た[#「見た」に傍点]のだ。松永がベッドに神山絹代をねじ伏せて、のしかかって行くのを。
「見た」というのは正確ではないかもしれないが、しかしそれは確かに、「見た」と言っていいくらい、はっきりと分ったのである。
松永が? あの温厚な男が、なぜ?
――こんな問いを投げる資格は、自分にないと思いつつ、大内は体を貫いて走る寒気を感じたのだった……。
11 絶 望
「――もう行かなくちゃ」
と、小百合は立ち上った。「ごちそうさまでした」
「あら、小百合」
と、法子が戸惑ったように、「もう少し、だめ?」
「おじいさん、入院してるのよ。そばについていてあげなきゃ」
「そうね。――分ったわ。ごめんね。引き止めちゃって」
「僕が送って行くよ」
と、関谷征人が言った。
「いいのよ。一人で帰れる」
と、小百合は言った。
「何言ってんの。私が勝手に連れて来ちゃったんだから。待ってね。すぐタクシーを呼ぶから」
と、法子は自分の机の上の電話に手を伸ばした……。
征人と小百合は、結局松永家に上って、この法子の部屋で、夕食をとることになったのだった。
法子の祖父たちと一緒では気詰りだろうというので、この部屋のカーペットの上に大きな盆を置き、三人はそれを囲んで、思い思いの格好で食事をしたのである。
「凄い家だな」
と、征人は、法子が電話をかけている間に、そっと小百合へ言った。
「そうでしょ? うちとは大違いよ」
小百合は、お茶を飲んで、「――法子と結婚したら、ぜいたくができるわ」
「そりゃいいな」
と、征人は笑った。
「法子、一人っ子で、両親もいないし。でも、おとなしいから、恋人もいないわ」
「もったいない話だね」
「本当、私が男なら、絶対に逃さないけどなあ」
と、小百合は言った。
私は女で、法子も女で、そして征人は男……。どうしたって、一人が余るのよ。
その時は、誰が|弾《はじ》き出されるか、そんなのは火を見るより明らかだ……。
「――困ったわ」
と、法子は言った。「タクシーが捕まらないんですって」
「大丈夫よ。適当に帰るから」
「でも、雨が降ってるし……。ごめんね。私が無理に夕ご飯を食べて行けなんて言わなければ――」
「いや、僕がついていくから」
と、征人が遮って、「|風《か》|邪《ぜ》なんか引かさない。大丈夫だよ」
「分ったわ。それじゃ、小百合をよろしく」
「かしこまりました」
征人がオーバーに頭を下げたので、法子が笑い出した。
――三人は、階段を下りて行った。
「では、早速契約書を作成して、また伺わせていただきますよ」
と、廊下をやって来たのは、大内だった。
「やあ、もう帰るのかね?」
と、松永が、小百合たちを見て、言った。
「小百合のおじいさん、入院なさってるから」
「そうだったね。大事にして――」
「ありがとうございます」
と、小百合は頭を下げた。
「タクシー呼ぼうと思ったけど、いないの」
法子の言葉を聞いて、玄関の方へ行きかけていた大内が振り向いた。
「じゃ、私が送りますよ」
「でも……」
「どうせ一人でホテルに帰るだけですからね。食事もごちそうになりましたし、急ぐこともない。レンタカーですが」
「じゃ……お願いできますか? 小百合、乗せてってもらいなよ」
「うん……。じゃ、よろしく」
「運転手をつとめますよ。どこへなりと」
と、大内は愛想良く言って、「そちらの男性も?」
「じゃ、僕はどこか途中のバス停ででも、降ろして下さい」
と、征人は言った。
「良かった! それじゃ、大内さん、お願いします」
「かしこまりました。――それじゃ、出かけましょう」
「よろしく頼むよ」
と、松永が言った。「大事なお嬢さんだからね」
「けがでもさせたら、切腹してお|詫《わ》びしますよ」
と、大内は|真《ま》|面《じ》|目《め》くさって、言った。
玄関から外へ出ると、体の|芯《しん》まで冷えるような寒さである。
大内の車に、征人と小百合が乗り込んで、手を振る法子を後に、走り出す。
「法子、門を閉めて来てくれるか」
と、松永は言った。
「うん」
法子は駆けて行って、車が出た後の門を、力をこめて閉じた。
家の中へ戻ると、マチ子が、二階へ上って行くのが見えた。
「私、片付けるの手伝うわ」
と、法子が声をかけると、
「いえ、大丈夫です」
と、マチ子は答えた。
――どこかよそよそしい。
法子にはそんな風に聞こえた。確かに、マチ子には何か[#「何か」に傍点]あったようだ。
――法子が居間へ入って行くと、松永はウィスキーらしいものを飲んでいる。
「おじいさん、大丈夫なの、そんなものを飲んで?」
「ああ。自分の体のことは分ってるよ。――お前、明日は出かけるのか?」
「小百合のおじいさんのことも心配だし。その具合次第ね」
と言ってから、「――ねえ、おじいさん」
「何だ?」
「マチ子さん、何だかふさぎ込んでない?」
「マチ子が?」
「うん。様子が変よ」
松永は肩をすくめて、
「あれも年ごろだ。色々、悩みもあるさ」
と、言った。
「年ごろ、かあ……。そんなもんかな」
法子は首を振って、「――私、お|風《ふ》|呂《ろ》に入っちゃおう!」
と言いながら、居間を出て行った。
「何だか……ごめんなさい」
と、小百合は言った。「こんなことになるなんて思わなくて」
「何が?」
征人は面食らったように、「楽しかったよ。いい友だちがいるなあ。|羨《うらやま》しいよ」
「ええ……。法子ってすてき」
「そうだな。本当にボーイフレンドもいないの?」
「ええ。本人も、冷めてるっていうのかな」
「君とあの子、いいコンビじゃないか」
「そう? 漫才でもやろうかな」
と、小百合は笑って言った。
大内の車の後部席。――車は、病院へと向っていた。
「――あ、その先で停めて下さい」
と、征人が大内に言った。
「こんな所でいいの?」
「うん。そのバス停の先を入った所なんだ。車は狭くて入れないから」
車が、道のわきへ寄せて停る。征人は車を降りて、
「じゃ、またね」
「うん」
「電話、するよ。――おじいさん、お大事にね」
「ありがとう……」
ドアを閉めて、征人は駆け出して行った。
車が走り出す。――小百合は振り返って、征人の姿をずっと目で追っていたが、ほんの数秒のうちには、見えなくなった。
小百合は、ゆっくりと息を吐き出した。
「――この道でいいね?」
と、大内が訊く。
ハッと我に返って、
「ええ、そうです。すみません、ご迷惑をかけて」
と、急いで言った。
「いや、構わないんだよ」
大内は、運転しながら、「――あの男の子とは、もう長い付き合い?」
と、訊いた。
「いえ……。昨日会ったばっかりです」
「昨日?」
「ええ」
「好きなんだね」
小百合はドキッとした。
「好きなら、そう言った方がいい」
と、大内は続けた。「一人で苦しんでいるよりもね」
小百合は、窓の外へ目をやった。――どうしてこの人は、こんなことを言うんだろう?
もう、手遅れなのに。
法子は、征人を奪って行ってしまった。何でも持っている法子が。――私には、なぜ何も残っていないんだろう?
もう決して――決して、征人は小百合のところへ電話をかけては来ない。
決して。――決して。
小百合は、両手で顔を覆った。
大内は、小百合を病院の前で降ろすと、車をホテルへ向けて走らせた。
――やっと、いつもの自分に戻ったのを感じる。
あの瞬間……。松永の家の廊下で、あの少女[#「あの少女」に傍点]を見た時には、息が止るかと思ったほどだ。
四年前にも、もちろん法子を見てはいるのだが、十二歳から十六歳への変化は、大内の想像力をはるかに超えていたのである。
大内の驚きを、誰も怪しまなかったのは、法子が、あのもう一人の少女と、そして男の子を連れて来ていたからである。
大内は、君原小百合という子に好感を抱いた。
小百合が征人に夢中で、法子にとられるのではないかと不安でたまらない様子が、大内には手に取るように分った。もちろん、大内には何の関係もないことだが。
今はともかく、法子のことが分っただけで満足だった。――機会はまだまだある。
ただ……大内の満足に、多少の影を落としているのは、松永のことだった。
人間というものは、そう簡単には変らないのだ。特に、あれほどの年齢になれば。
それなのに、松永は、以前なら考えられなかったような|真《ま》|似《ね》をしたのだ。――もし女がほしければ、松永ほどの男なら、いくらでも金で囲っておけるだろう。
それを――わざわざ、夫のある身と知って、神山絹代に……。
奇妙だった。
大内は、ホテルの駐車場に車を入れ、フロントへと上って行った。
「お帰りなさいませ」
フロントの男が、微笑んだ。
「まだ帰らなかったのか」
「もう少しです。――キーを」
「ありがとう」
キーを受け取って、大内は、「あの女の子、帰ったかい?」
と、訊いた。
「はい。六時でしたか。澄まして出て行きましたよ」
「大したもんだね」
と、大内は笑った。「じゃ、今日はもう休むよ。おやすみ」
「おやすみなさいませ」
男の|挨《あい》|拶《さつ》を背に、大内はエレベーターへと歩いて行った……。
――部屋のドアを開けて、大内はホッと息をつきながら、明りを|点《つ》けた。
「お帰りなさい」
大内は、飛び上りそうになった。
あのセーラー服の女学生が、ベッドに寝そべっている。
「君……。帰ったんじゃないのか?」
「一度はね」
と、少女はいたずらっぽく笑って、「そのドア、閉めると、|鍵《かぎ》がかかっちゃうでしょ。だから、タオルを挟んで、閉まらないようにしておいて、一旦、フロントの前を通って、外に出たの。それから、駐車場に入って、直接上って来たのよ」
「どうして……」
「だって――稼ぎそこなったんだもの」
と、少女は口を|尖《とが》らした。「あのおじさん、結構お金になりそうだったのにさ。少し稼がないと、明日、遊びに行けないし」
「僕の所はやめてくれ。よそを当ったら?」
と、大内は言って、上衣を脱いだ。
「今から、捜すのも面倒。――ね、いいでしょ?」
少女はベッドの上に立つと、ちょっと腰に手を当てて、クルッと回って見せた。スカートがフワリと広がる。
「――帰るんだ」
「いやよ」
と、少女は言った。「一一〇番する?」
「いいかい――」
少女はセーラー服のスカーフを外した。
やめろ。――やめてくれ!
止めるんだ。殴ってでも、やめさせるんだ。そうしないと……。
大内は止めなかった。少女は、楽しげに笑って、服を脱いで行く。
大内の顔に、汗が浮かんでいた。
目を閉じろ! 見るな!
しかし、目を閉じると、そこに闇はなかった。四年前、八年前、十二年前に、この手で殺した少女の白い裸像が鮮やかに浮んで見えたのだ。
やめてくれ……。
大内は目を開けた。
12 夜歩く
「ね、分って」
と、|法《のり》|子《こ》は言った。「私たち、愛し合ってるの」
法子がしっかりと手を握り合っているのは、もちろん[#「もちろん」に傍点]、|関《せき》|谷《や》|征《まさ》|人《と》だった。征人は、|小百合《さゆり》に見せたこともない、ぼんやりと夢見るような|眼《まな》|差《ざ》しで、法子のことを見つめている。
「分ってね、小百合」
と、法子は言った。「だって、征人さんには、あなたより私の方がふさわしいわ。そうでしょう? |誰《だれ》が見たって、そう思うわよね」
そう言って、急に法子は笑い出した。
それは、小百合が今まで聞いたこともない笑い――小百合に対して、勝ち誇った、優越の笑いだった。
「そうなのね」
と、小百合は言った。「法子、いつも私のことを、|馬《ば》|鹿《か》にしてたのね。ずっと昔から」
「馬鹿になんかしてないわ。|憐《あわれ》んでただけよ。大違いだわ。ねえ?」
法子が見上げると、
「ああ。君の言う通りだよ」
と征人は言った。「いつだって、君の言う通りさ。君は|可愛《かわい》いもんな」
「そうでしょ? 私は可愛いの。それに頭もいいし、お金持だわ。小百合は、何でもない人[#「何でもない人」に傍点]よ。何でもない人。何でもない……」
そんなことない! 私は私よ! 私は何でもない人間なんかじゃない!
声を限りに、小百合が叫ぶ。しかし、それは声にならずに、ただ小百合の心の中で響くばかりだった。
その代り、小百合は自分が法子に向って話している言葉を聞いた。
「本当よ。私なんか何でもないもの。法子こそ、征人さんにぴったりよ」
|嘘《うそ》だ! 嘘だ!
征人と法子が身を寄せ合い、やがて抱き合うと、唇を触れる。小百合は、夢中で、二人に向って、飛びかかって行った。
「やめて! やめて!」
法子の甲高い笑い声が、小百合の耳に突き刺さった。くり返し、くり返し、小百合の胸を|抉《えぐ》ったのだ……。
――ハッと、小百合は頭を上げた。
もちろん……。分っていたんだ。夢だってことは。
でも、夢だからこそ、小百合にとって、法子の笑い声は恐ろしかった。もし、本当に法子があんな笑いを浴びせて来たら、小百合は死んでしまうかもしれない、と思った……。
やめてよ。馬鹿げてる! 小百合は頭を振った。
法子があんな笑い方をしたことなんかないじゃないの。一度だって。それをどうして――。
ふと、我に返った。
変な夢を見たのは、祖父の|君《きみ》|原《はら》|耕《こう》|治《じ》に付き添って、ベッドのわきの|椅《い》|子《す》に座っていたせいかもしれない。ずっと、一晩中起きているつもりだったのだけれど、いつの間にか眠ってしまったらしい病室の中は、もちろん、もう明りも消えて、同室の他の患者たちの寝息が聞こえていたのだが……。
「おじいさん――」
目をこすった。しかし、これは[#「これは」に傍点]現実だった。君原のベッドは、空っぽだったのだ。
どこへ行ったんだろう? お手洗いにでも?
小百合は、そっと立ち上ろうとして、椅子をガタガタいわせて、ドキッとした。静かな病室の中では|凄《すご》い音に聞こえてしまうのである。
あわてて押えようとして、|却《かえ》って椅子をつかみそこね、引っくり返してしまう。ガシャン、とまるで爆発のような音がした。
腹立たしげな|咳《せき》払い、|呻《うめ》き声があちこちから、飛んで来て、
「ごめんなさい」
と、小百合は小さな声で言った。
「おい……」
と、低い声で呼びかけて来たのは、ちょうど真向いのベッドに寝ていた、君原と同じくらいの年輩の老人だった。
かなり長患いらしく、髪も真白になって、ずいぶん老けた感じではある。
「君、あんた」
「え?――私ですか」
小百合は、やっと椅子をちゃんと立てると、その老人のベッドの方へと歩み寄った。
「そこに寝てたおっさんの孫かい」
と、その老人が|訊《き》く。
「そうです」
「そうか。じいさん、出てったよ」
小百合は当惑した。
「出てった……?」
「うん。目を覚ましたら、ベッドから起き出してな、モゾモゾやってるんだ。何だろうと思って、薄目を開けて、見てたのさ」
「あの……」
「服を着てね。そっと出てった」
「――じゃ、本当に?」
小百合は|呆《あっ》|気《け》に取られてしまった。「病院から出ちゃったのかしら」
「たぶんそうだろ。――もう三十分はたつと思うよ」
「だけど……。せっかく入院して、私がついてるのに」
小百合はわけが分らなかった。
「早く捜した方がいいよ」
と、その老人は言った。
「すみません。――一体どうしたんだろ、おじいさん」
小百合が離れかけると、
「待ちなさい」
と、老人が呼びかける。「前にも夜中に出歩いたりしたことがあるかい?」
「夜中に、って……。用事で出かけることはもちろん――」
「そうじゃない。気の毒だけどね、君のおじいさん、君がそこに座ってるのも分らない様子だった」
小百合は、全身の血が冷えて行くような気がした。――おじいさんが? そんなことをするなんて!
「まあ、薬のせいかもしれないね。けがしたのか?」
「オートバイにぶつけられて、頭を――」
と、言いかけて、小百合は言葉を切った。
「頭か、気を付けた方がいいね」
と、老人は、|枕《まくら》の上で、ゆっくりと頭を左右に動かした。「ぼけちまったら、大変だよ。君も」
「私……捜して来ます」
「ああ、そうしなさい。外へ出たりすると、厄介だ」
小百合は病室を出た。めまいがした。――ショックで、血の気がひいている。
おじいさんが……ぼけて、一人で出かけてしまった?
まさか! そんなこと、信じられない。絶対に。――絶対に!
おじいさんは、きっと息苦しくて、外の空気を吸いたかっただけなんだ。屋上に出るかどうかして……。すぐに戻るつもりだったから、私を起こそうともしなかったんだ。
きっとそうだ。
ともかく――病院の中を捜そう。きっとおじいさんは中にいる。そして、私が見付けると、わざと強がって、
「ちょっとその辺をマラソンしようと思ったんだ」
とか言うんだ。
そうに決ってる……。
しかし、小百合の願いに反して、君原は病院の外へ出ていた。たまたま、誰の目にも留らず、運び込まれて来た急患のことで、ざわついている間に、外へ出てしまっていたのである……。
どこへ行くんだったかな……。
君原耕治は、夜中の町を、歩いていた。はた目にはしっかりした足取りで、何か用事で遅くなり、家路を急いでいる、と見えたかもしれない。
ただ、二月のこんな寒さの厳しい夜にしては、上衣は着ていたものの、コートもはおっていないのが、少し妙ではあった。
「小百合……」
そう。小百合が心配しているだろう、早く帰ってやらなくちゃ。
全く……。あの|水《みず》|口《ぐち》って刑事には腹が立った。人のことを、ただの「情報マニア」扱いして。
こっちは大ベテランの刑事なんだ。せっかく手がかりを教えてやろうというのに、耳も貸さない……。
また[#「また」に傍点]誰かが殺されるかもしれないってのにな。その時になって、|俺《おれ》の所へ謝りに来たって遅いんだ! 死んだ者は、もう生き返らないんだからな。
全く、今の若い|奴《やつ》は、そんな簡単なことも分らないんだ。――ま、文句ばかり言ってるようじゃ、また小百合から、
「おじいさん、嫌われるよ」
と、言われてしまいそうだが。
それにしても……。どうして、こんなに遅くなっちまったんだろう?
君原は、首をかしげた。
あの水口という刑事に会いに行って、ずいぶん待たされたのは確かだが、それでも夜になっちゃいなかった。それなのに……今はもう夜中だ。
一体何をやってたんだろ、酔ってたわけでもないのに。
まあいい。ともかく、小百合が心配してるだろう。早く帰ってやらなくちゃ。
横断歩道だった。――信号は赤。しかし、通りかかる車は一台もない。
渡ってしまっても良さそうなものだが、そこはやはり元刑事である。君原は断固として(!)信号の変るのを待っていた。
すると――夜の静けさを縫って、かすかに聞こえて来た音がある。たぶん、普通の人間ならまず、気付かないほど、かすかな音だ。
しかし、君原にとっては、それは懐しい音、彼の人生そのものの象徴のような音だったのだ……。
パトカーのサイレン。
風はそれほどないので、遠かったけれど、君原は、パトカーがどこからどっちの方向へと向っているのか、見当をつけることができた。たぶん、今渡ろうとしている道の先、あまり犯罪とは縁のない場所ではないだろうか。
君原は、いつしか、信号が青に変っているのも忘れて、その音に聞き入っていた。
何て、すばらしい音なんだ……。単純で、力強く、鋭く、それでいて優しい……。
優しい、と感じるのは、自分が刑事だったせいかもしれないが、しかし、あの音は、善良な市民にとっては、力強い味方の呼びかける音、騎兵隊のラッパなんだ。
俺も、あの音を鳴らしながら、パトカーで道を突っ走ったものだ。他の車が左右へ寄せて道を空け、その中を一直線に突っ切る。その快感は、味わった者でなきゃ分らないだろう……。
いつしか、君原は歩き出していた。家へ向ってではなく、まだ大分遠い、サイレンの声にひかれて。――もちろん、君原は自分がサイレンの語源の伝説を再現していることなど、知りはしない。
サイレンの歌声にひき寄せられる者には、破滅が待ち受けていることも、もちろん知るはずがなかったのである。
「着きました」
と、巡査に言われた、水口刑事は目を覚ました。
「ここか?」
と、分り切ったことを訊くのも、パトカーの中で眠っていたのに、いくらかは気恥ずかしい思いだったからだ。
ドアを開けると、まるで氷の壁のように冷え切った空気にぶつかって、一度に目が覚めてしまった。
巡査の一人が、駆けて来る。ひどく興奮している様子だ。
「あの茂みの向うです。パトロールをしておりまして、自分は――その――」
「落ちつけ」
水口は、巡査の肩を|叩《たた》いた。「検死官は?」
「――まだです。少し遅れる、と連絡が」
「また酔ってたんだろう」
水口は軽口を叩いて見せたが、なに、水口自身、それほど場数を踏んでいるわけではなかった。ただ、この若い巡査の手前、慣れているふり[#「ふり」に傍点]をしなくてはならなかったのだ。
「応援は?」
「はい。今、こちらへ向っています」
「着いたら、すぐにこの近辺に非常線だ。まだその辺をうろついてるかもしれないからな」
と、水口は言った。「あの向うか」
「ご案内を――」
「自分で見る。応援が来て、すぐ分るように見ていろ」
水口は、その小さな公園の中へ入って行った。
昼間は、暖かい日なら、子供を遊ばせて、おしゃべりに熱中する主婦たちで一杯になるような、シンプルな造りの公園である。
巡査が言ったのは、ベンチで囲まれた、小さな広場の外側、少し木が伸び放題になって、街灯の光が届かなくなっている一画だった。今は臨時に、木の幹にくくりつけられた照明が、その場所を明るく照らし出している。
水口は、軽く肩を揺すって、チラッと巡査の方を振り向いた。――本当は、死体を見たりするのが嫌いだったのだ。
それに、機嫌も良くなかった。何しろ、事件の|報《しら》せが飛び込んで来たのは、最悪の時間――久しぶりに泊りに来た恋人と、ベッドに入っている最中だったのだから。
「仕事だ、仕事だ……」
と、|呟《つぶや》くように言って、水口は、用心しながら茂みの向う側へ向った。
一瞬、水口の顔が|蒼《そう》|白《はく》になる。――思わず目をそむけていた。
白い少女の肌が、血で染まっている様子は、何ともむごいものだった。切り裂かれた傷口は、とても現実のものとは思えない。
しっかりしろ! お前は刑事だぞ!
そう自分へ言い聞かせても、何の役にも立たない。水口は堪え切れなくなって、茂みの陰へ駆けて行くと、吐いた。
――こんなひどい死体を見るのは、初めての経験だったのだ。
あの少女はいくつぐらいだろう? 十六か十七か……。
これは大変な事件になる。おそらく、水口にとって、生涯でそう何度もぶつかることのない事件に……。
――やっと気を取り直した水口は、この事件を自分の手で解決した時の、華やかな成功を思って、自分を励ますことにした。
パトカーが、続けて二台、公園の前に|停《とま》った。水口はハンカチで口を|拭《ふ》くと、大きく深呼吸をして、歩き出しながら、
「ご苦労さん!」
と、わざと大きな声を出し、手を振って見せた。
13 眠れぬ夜
法子は、寝つけなかった。
いや、眠らなかったわけではない。少し遅目ではあったけれど、眠りに入り、一時間ほどして、目を覚ました。それからまた三十分ほどウトウトして、ふっと目を開いてしまう。
こんなことは、珍しかった。法子に限らない。十六歳の少女は、一度寝入ったら、そう簡単に目を覚ますものではないのである。
「だめだ……」
と、呟いて、法子は起き上った。
眠れないことで|苛《いら》|々《いら》していると、ますます眠れなくなる。そういう悪循環に陥ってしまうと、もう焦るだけ逆効果だ。
こんな時は、却って、少し起きてしまった方がいい、というのが、法子の考えだった。
――何となく、落ちつかないのだ。
なぜなのか、よく分らなかった。
もちろん、今日は大変だったのだ。小百合のおじいさんは入院するし、小百合と、あのボーイフレンドを家に|招《よ》んで……。
法子は、自分が、小百合のことで心配して眠れないのだ、と自分に信じさせようとした。しかし、それはむだな努力だった。
ごまかしてもだめだ。――確かに、小百合のおじいさんのことも、原因の一つ[#「一つ」に傍点]ではある。|他《ほか》にも、マチ子さんの様子が、何だか朝からおかしかったり、|絹《きぬ》|代《よ》さんが明日は休む、と突然言って帰ったり、ということもあった。今日は――いや、もう正確には、「昨日」なのだろうが――妙な日だった。
「関谷征人、か……」
と、法子は呟いた。
関谷征人。――実際のところ、法子の眠りを妨げている一番大きな理由が、関谷征人のことだというのを、法子は自覚していた。
でも――いけない! あの人は、小百合の恋人なんだ。
小百合が、どんなに関谷征人に夢中になっているか。法子は、タクシーを降りて駆けて行った小百合の姿を見て、充分に分っている。
正直なところ、法子はびっくりしたのだ。小百合が、あんなにも熱中するタイプだとは、思ってもいなかったのだから。
そう。――邪魔しちゃいけない。小百合の恋なのだ。
自分は、小百合の親友[#「親友」に傍点]なのだから。
でも――と、法子の中では、低い声が|囁《ささや》いていた。小百合は好きでも、征人の方は、果してそんなに小百合のことが好きかしら?
もしかしたら、小百合より、私の方を、好きなのかもしれない、と……。
少し、寝汗をかいていた。――夜、寝る時には暖房をゆるくするのだが、今夜の法子はそれも忘れてしまっていた。
シャワーを浴びようか、と思った。
すっかり目が覚めてしまうかもしれないけど、肌がべとつく感覚が、法子は大嫌いなのだ。
バスルームは、この二階にある。祖父の寝室には専用のバスルームが付いていて、法子もたまに入ることがあった。いつも法子が使っている方よりも広いので、何となくゆったりできるからだ。
法子は、ちょっと迷った。――夜中だし、祖父はどうせ寝ている。バスルームを使っても、別に怒ったりしないことは、法子もよく分っていた。
――法子は、着替えとタオルを持って、寝室を出た。
廊下は、もちろん静かなものだ。
祖父の寝室の前まで来て、法子はちょっと戸惑った。ドアが細く開いていたからだ。中も明りが|点《つ》いている。
「――おじいさん」
と、法子は言って、ドアを開けた。
祖父のベッドは空っぽだった。――寝ていた跡はあるのだが、姿が見えない。
どこに行ったんだろう?――下で、仕事かな?
海外との連絡などは、深夜になることもよくある。たぶん、今夜もそうなのだろう。
バスルームのドアを開け、明りを点ける。
シャワーだけ。手っ取り早くね。
法子は、タオルと着替えを置いて、パジャマを手早く脱ぎ捨てた。
「――|旦《だん》|那《な》様」
と、マチ子が言った。
「部屋へ戻る」
|松《まつ》|永《なが》は、ガウンをはおって、立ち上った。
マチ子は、毛布を引き寄せて、裸身を覆った。――松永は、
「狭いベッド、ってのも、なかなかいいもんだ」
と、笑って言った。「どうだ? ゆうべより、良かったか」
マチ子は、何も言わなかった。松永は続けて、
「明日は日曜日だ。少しのんびり寝てろ」
と、言った。「俺もゆっくり寝る」
松永が、部屋を出て行こうとすると、
「旦那様」
と、マチ子が言った。
「――何だ?」
「|神《かみ》|山《やま》さん、何かあったんですか」
「知らん。どうしてだ?」
「何か――様子がおかしかったんで」
「気分が悪かったんだろう。もう若くない」
と、松永は肩をすくめた。「お前が気にすることはない」
「でも……明日、お休みとか」
「ああ、そう言ってたな。今までだって、休みは取っていたさ」
「ええ……」
と、マチ子はためらっている。
「何が気になるんだ?」
マチ子は、ちょっと頭を振って、
「何でもありません」
と、言った。「おやすみなさい」
「ああ」
松永は、マチ子の部屋を出た。
――神山絹代は、ここを辞めるかもしれないな、と松永は思った。まあ、無理もない。
自分でも、どうしてあんなことをしたのか、よく分らない。
ともかく、絹代がマチ子のことでうるさいことを言ったので、松永は|放《ほう》っておけなかったのだ。それに――もう|年齢《とし》はいっているが、夫も子もある女を抱くのも、面白いものだった。
マチ子の場合は、まだ|怯《おび》えているばかりで、松永が楽しむところまで行っていない。
神山絹代が辞めたら、後をどうするか。――その点では、松永も頭が痛かった。
あれだけの女はなかなかいない。代りを見付けるといっても、容易ではなかった。
しかし、やってしまったことは、もう取り消せないのだ。
松永は、ゆっくりと階段を上った。
美人でもなく、体つきも決して魅力があるとは言えないが、マチ子を抱くのは、松永の中に活力のようなものを、呼びさました。「若さ」の力は大きい。
松永は|欠伸《あくび》をした。――たっぷり眠れそうだ。
少し汗ばんでいた。シャワーでも浴びてから寝るか。
寝室に入った松永は、また欠伸しながら、|真《まっ》|直《す》ぐバスルームのドアへと歩いて行き、ドアを開けた。
ノブに手をかけた時、中の明りが点いていることに気付いていたが、手は止まらなかった。
シャワーを浴びて、バスタオルで体を拭いている法子が、びっくりして顔を向けた。
――ほんの一、二秒だったろう。松永は、法子の体を見つめていた。
「いやだ! おじいさん!」
と、法子が、叫ぶように言った。「ドア閉めて!」
「や、すまん。――いや、ごめん」
松永は、あわてて、ドアを閉めた。
そして……。松永は自分のベッドの方へと歩いて行き、腰をかけた。
心臓が高鳴っていた。あの時のように、見知らぬ少女を、植込みのかげで待ち受けた時の、あの緊張感である。
これは何だ?――俺は何を考えているんだ?
松永は、半ば|呆《ぼう》|然《ぜん》として、法子がバスルームから出て来るのを、待っていた……。
こりゃ、大事件だな。
歩きながら、君原はほとんど無意識に、パトカーの数を、サイレンから勘定していた。
歩いて来る途中も、二、三台のパトカーが、君原を追い越して行った。
これだけの人数を動員するというのは、非常線を張るということだろう。凶悪な事件なのだ。――一体何が起ったのか?
君原は、そのまま通りを歩いて行ったが……。
「待て」
と、声がした。
君原は、急に、強い光を浴びせられて、目がくらんだ。
「――おい、何だ。まぶしいよ」
と、君原は言った。
「こんな所で、何してるんだ?」
やって来たのは、巡査である。ずいぶん若い。
「何かあったのか」
と、君原は訊いた。
「こっちが質問してるんだ!」
と、巡査は苛立っている様子で、怒鳴った。
「歩いてるだけだよ」
と、君原は言ってやった。「何があったんだね?」
「事件だよ」
「分ってる。どんな事件か、訊いてるんだ」
「お前に関係ない。それとも、あの女の子を殺したのか」
「女の子だって!」
君原は一瞬、目を見開いた。「殺されたのか。いくつの子だ?」
「どうしてそんなことを訊くんだ?」
巡査が、けげんな表情で、君原を見る。
「おい、どうした」
と、他の巡査たちも何人か集まって来る。
「俺は君原耕治。君たちと同じ商売だった人間だ」
「警官?」
「もと、ね。――水口って刑事を知ってるかい?」
「水口さんなら、ここの指揮を取ってるよ」
あの刑事が? それじゃとても捕まるまい、と言いたいのを、君原は何とか抑えた。
「会わせてくれないか」
と、君原は言った。
「誰だ、あんたは?」
「君原。――元の刑事の勘で、事件のことを水口さんに話したんだ。|憶《おぼ》えてるよ、向うも」
君原の|淀《よど》みない口調に、巡査たちは少し迷って、それから一人が駆けて行った。
「――殺された女の子は?」
「高校生らしい」
と、巡査が、やっと返事をした。
「高校生か……」
同一犯人かどうか、君原も、少し首をかしげた。
「何か用か」
水口が、昼間と全く同じ、横柄な口調で言った。
「憶えてるかね。昼間、話をしに行った君原だ」
「昼間?」
水口は、頭を振って、「何の用で……。ああ!」
思い出して、水口は|肯《うなず》いた。
「憶えてますよ。四年に一度がどうとか言ってた人だね」
「そうだ。サイレンが聞こえたんで、来てみた。――殺されたのは、高校生ぐらい?」
「たぶんね。ひどいもんですよ」
と、水口は首を振った。
「まだ青い顔をしてる」
と、君原は、苦笑した。「ひどいのかね。死体は」
「ひどいなんてもんじゃないよ」
と、水口はうんざりしている様子。
「同じ犯人かどうか、まだはっきりはしないね」
と、君原は自分で肯いている。
「こんな所で、何してるんだ?」
と、水口は訊いた。
「何か協力できることはないかと思ったのさ」
――水口は、君原を眺めていた。
元刑事というのは、でたらめでもないらしい。――しかし、今はただの老人でしかない。
それなのに……。
事件は起った[#「起った」に傍点]。現実に。
水口は、ふと思った。この男がわざわざ愚にもつかぬ推理[#「推理」に傍点]を聞かせに来た、その夜[#「その夜」に傍点]に少女が殺されたのだ。そして、現場の近くに、この男はいた。
果して、それは偶然だろうか?
もし、偶然でない[#「ない」に傍点]とすると?
水口は、君原の肩に、軽く手をかけた。
「君原さん」
「何だね」
「ちょっとお話が。――もっと詳しくうかがいたいんですがね」
「いいとも。――現場を見せてもらってもいいかね」
「どうぞ」
水口は、先に立って、君原を案内して行く。
君原は、水口が、奇妙な微笑を浮かべていることに、全く気付かなかった。
14 悲しい眠り
「何だ」
と、|松《まつ》|永《なが》は、ダイニングのテーブルに、もう|法《のり》|子《こ》がついているのを見て、言った。「早いじゃないか、日曜日にしちゃ」
「目が覚めちゃったの」
と言いながら、法子は|欠伸《あくび》をする。「とぎれとぎれに寝てたら、何時間寝たのか、分んなくなっちゃった」
「マチ子は?」
「今、卵をボイルしてくれてる。おじいさんの分はないよ」
「そうか。じゃ、トーストだけで、我慢しよう」
松永は、何となく法子と目が合うのを、避けていた。朝刊を広げる手つきも、ぎこちない。――エヘン、と|咳《せき》|払《ばら》いをして、
「法子」
「うん?」
「ゆうべは……悪かったな。うっかりしてたんだ」
「ゆうべ、って?」
法子は、本当に分らない様子で、ポカンとしていたが、やがて、「ああ!」
と、大きな声で言って笑った。
「おじいさんも女の子の裸にまだ興味あるんだ」
「年寄りをからかうな」
と、松永は苦笑し、同時に内心ホッとしていた。
法子に何と言われるか。口もきいてもらえなくなるのじゃないか、と、気が気ではなかったのである。
特に、あの時――まだ未成熟な法子の体を目にした時の、おののくような胸のときめきに、松永は|愕《がく》|然《ぜん》とした。|俺《おれ》は何ということを考えたんだ?
あの、わけの分らない熱に取りつかれて、茂みのかげで、歩いて来る少女を待ちうけていた時の自分……。あれは一時の迷い、血の流れの狂いで、あんなことはもうあるまいと思っていたのだが。
それにしても――。松永は、新聞をめくりながら、何も読んではいなかった。それにしても、この突然の衝動は何だろう?
マチ子を、|神《かみ》|山《やま》|絹《きぬ》|代《よ》を押し倒し、わがものにせずにいられなかった。突然に押し寄せて来る大波のような、この力は[#「この力は」に傍点]?
不思議だ、と松永は思った。この|年齢《とし》になって、今、なぜ……。
「おはようございます」
と、声がした。
「あ、絹代さん、おはよう」
と、法子が笑顔で、「今日はお休みじゃなかったの?」
神山絹代は、いつもの笑顔で、ダイニングへ入って来た。
「お二人が飢え死にされてるといけませんから」
と、台所の方へ目をやって、「卵を?」
「今、マチ子さんが、ボイルしてる」
「あの子がやると、|芯《しん》まで固くなっちゃうんです」
絹代がそう言って、台所の方へ歩きかけた。法子が、
「あ、それから、おじいさんの分、まだ何も頼んでないの。今、起きて来たんだから」
「そうですか。|旦《だん》|那《な》様、何かご注文は?」
松永は、ちょっとあわてて、
「うん、まあ――何でもいい。いつもの通りだ」
と、言った。
「かしこまりました」
と、絹代は会釈して、台所へ姿を消す。
マチ子が、
「おはようございます」
と、言っているのが、聞こえて来た。
「変ね」
と、法子が言った。「お休みと言っといて……。それに、いつもの絹代さんと、違うみたい」
「そうか?」
と、松永は言った。
そうか、やはり。――松永も感じていた。
もちろん、法子には、はっきりどこがどうとは分らなかったろう。しかし、松永は敏感に感じていた。
秘密を共有する者同士の、隠れたなれなれしさが、絹代の目つきや、ものごしの中に秘められていたのである。
おそらく、絹代は昨日のことを夫に打ち明けなかったのだ。打ち明ければ、当然ここを辞めるようになるだろう。
絹代が悩んだのは、松永にも分る。ここを辞めて、今ほどの給料をもらえる仕事につくことは難しい。
松永に犯されたショックから、徐々にさめて、絹代は、実利的な道を選び取った。あんなことがあり、かつ、松永がマチ子に手をつけていることも知っているのだ。
まず、ここを辞めさせられることはあるまい。多少、遠慮なくふるまっても、構わないはずだ。
絹代は、そう判断して、今日も出勤して来たのに違いない。――絹代の目の輝きを、松永は、そう読み取っていた。
マチ子が、ダイニングへやって来た。
「お嬢様」
「うん」
「|君《きみ》|原《はら》さんが、おいでです」
「|小百合《さゆり》が?」
法子は立ち上った。「玄関に?」
「ええ」
「じゃ、出るから、いいわ」
法子は、マチ子に言われるまで、小百合のこと、そして入院している小百合の祖父のことを忘れていたのに気付いて、ハッとした。
昨日、あれだけ大変な騒ぎだったというのに。今朝になって、ケロッと忘れてしまうなんて! ひどい友だちだ。
「――小百合」
ドアを開けて、「おはよう。おじいさんは――小百合! どうしたの!」
法子は声を上げた。
小百合が、ひどい顔色で、幽霊みたいに、突っ立っていたのだ。そして、法子の顔に、やっと焦点が合った、と思うと、その場に崩れるように倒れてしまった。
「――うん、そうだ。君原|耕《こう》|治《じ》。――何とか忙しいだろうが、捜してくれ」
松永は、電話を切った。
「――おじいさん」
居間へ、法子が入って来る。
「どうだ、様子は?」
「うん、落ちついたみたい。今、眠ってる」
「そうか。――心配だな」
と、松永は言った。
「信じられないわ。黙って病院を出てっちゃうなんて」
「いや、頭を打ったんだろう? そのせいかもしれん」
「小百合……」
と、言いかけて、法子はためらった。
「どうした?」
「おじいさんが――ぼけて、分らなくなったんじゃないか、って。そのショックも大きかったみたい」
「なるほど。確かに、|辛《つら》いものな」
「二人きりだし、あの家は。もし、おじいさんが、そんなことになったら、|誰《だれ》が面倒みるんだろ」
と、法子は不安げに言った。
「入院させるしかないさ」
「小百合の所は、年金と家賃で暮してるのよ。とても、そんな余裕、ないわ」
松永は|肯《うなず》いて、
「その時は、力になってあげよう。そうだろう?」
「おじいさん……。本当に助けてあげてくれる?」
と、法子は訴えるような目で|訊《き》く。
とても、その頼みを拒むわけにはいかなかった!
「もちろんだ」
と、力強く肯く。
「大好き!」
法子は、いきなり松永に抱きついた。
「おい……。よせよ」
と、松永はあわてて言った。「引っくり返るじゃないか!」
「毎日、私のお|風《ふ》|呂《ろ》|覗《のぞ》いてもいいよ」
「|馬《ば》|鹿《か》!」
と松永は言って、笑った。
「――お嬢様」
絹代が、立っていた。「お電話です。|関《せき》|谷《や》様という方から」
|征《まさ》|人《と》だ。――法子の胸はときめいた。
「出るわ。私の部屋に回して」
そう言って、法子は、居間を飛び出すと、風のように階段を駆け上って行った。
絹代は、電話を二階へ回して、受話器を置くと、振り向いた。
――廊下で、松永と二人きりだった。
急に、空気が重みを増したようだ。
「マチ子さんは、お買物です」
と、絹代は言った。
「そうか……」
松永は、両手を後ろに組んで、「あいつも気付いてる」
「女なら、分って当然です」
絹代の口調は、|捉《とら》えどころがなかった。
「何か話はないのか」
「旦那様からおありかと思いますが」
「謝ろうか」
「結構です」
と絹代は首を振った。「私はここを辞めません」
「助かるよ」
「マチ子さんを、辞めさせて下さい」
松永は、絹代を見つめた。
「――どうしてだ」
「お手伝いは何人いても構いませんが、『妻』は一人でないと」
と、絹代は言って、すぐに付け加えた。「誤解なさらないで下さい。私はもう夫がいます。別れるつもりもありません。ですが、旦那様と、このまま続いて行ってもいいと思っています」
「そうか……」
「ともかく、どちらかが辞めなくては」
絹代は、インタホンの鳴る音に、歩き出した。そして、ちょっと振り向くと、
「私は辞めません」
と、くり返した……。
松永は、重苦しいものが、胸に満ちて来るのを感じた。――不安が、影のように音もなくふくらむ。
応接間のドアが、半分開いていた。
松永は、ドアをそっと押して、中へ入った。
ソファに、小百合が身を縮めるようにして、眠っている。毛布をかけてやったのは、法子だろう。
夜の間、ずっと祖父を捜して、歩き回り、疲れ果てた少女は、泥に沈むように、深い眠りに落ちていた。
少し身動きする。――毛布が外れて、床に落ちた。
松永は、毛布を拾いあげると、小百合にかけてやろうとした。
応接間の窓から|射《さ》し入る、冬の心細い|日《ひ》|射《ざ》しが、小百合の青白い|頬《ほお》を光らせていた。そして、何かの影が、その日射しの中をかすめて飛んだ。
ハッと松永が顔を上げた時、窓には何も動くものは見えなかったが……。
小百合は、|怯《おび》えた子供のように、しっかりと両手を胸に組み、両足を引き寄せるようにして、寝ていた。
十六か。この娘も、法子と同じ十六歳だ。
松永は、つややかに光る小百合の頬に、手を触れたい、と思った。赤ん坊のように、柔らかいだろう。
しかし、小百合は、法子に比べるとまだ子供のような体つきだった。たぶん、小百合が、シャワーを浴びているところを見たとしても、何も感じないだろうな、と松永は思った。
毛布をかけてやると、松永は応接間を出て、後ろ手にドアを閉じた。
「旦那様」
絹代が立っていた。「|大《おお》|内《うち》さんがおみえです」
「――そう、今は眠ってるの」
法子は、自分の机に向っていた。電話は、コードを長くしてあるので、ベッドサイドでも、机でも、話すことができる。
「大変だったな」
と、電話の向うで、関谷征人は言った。
「うん。小百合、|可哀《かわい》そう。慰めてあげてね」
と、法子は言った。
「うん……。でも、君の方が、あの子のことは良く知ってるだろ」
「そりゃあ、長い付合いだから」
と、法子は言った。「いつも私が頼ってるのよ」
「そうか。見たとこ、逆みたいだな」
「そう? 小百合って、|凄《すご》くしっかりしてるのよ。苦労してるから」
「ああ、それは分るよ」
「私みたいな、世間知らずとは違うの」
と、法子は冗談めかして、言った。
「でも、君は――」
と言いかけて、征人は言葉を切った。
「え?」
「いや……。別に何でもない」
と、征人は言った。「じゃ、彼女に、早くおじいさんが見付かるといいね、って言ってくれ」
「ええ、いいわ」
征人が電話を切ろうとしている。法子は、とっさに、
「小百合の家に、かけたの?」
と、訊いていた。
「え?」
「小百合の家が出ないんで、ここへかけて来たんでしょ?」
少し間があった。そして、再び征人が口をきいた時、声の調子が変っていた。
「そうじゃないんだ。君に電話したんだ」
と、征人は言った。
「私に?」
法子の手が震えた。頬がカッと燃える。
「うん。――君に会って……すてきだな、って思った」
どうして、そんなこと言うのよ、あなたは小百合の恋人じゃないの。
法子は、怒るべきだ、と思った。小百合が具合悪くて寝てる、っていうのに、こんな時に何てことを言うの、と……。
でも――もちろん[#「もちろん」に傍点]、法子はそうは言わなかった。
電話は十五分も続いた。応接間では、小百合がまだ眠り続けていた……。
15 叫 び
「殺人だって?」
と、松永は言った。
「ええ」
大内は肯いて、コーヒーカップを受け皿に戻した。
「いや、いつもおいしいですね、神山さんにいれていただくコーヒーは」
「恐れ入ります」
と、神山絹代は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「大内さんも、いつもお上手で」
「私は正直なだけです」
と、大内は言った。
「誰が殺されたんだ?」
と、松永が訊いた。
「ホテルのフロントで聞きました。女子高生だそうです」
「まあ、怖い」
と、絹代が|眉《まゆ》をひそめる。「そういうお話をうかがうと、お嬢様のことが心配になって――」
「犯人は捕まったのかね」
と、松永は訊いた。
「よく分りません。ともかく、ゆうべは夜中にパトカーの音がうるさくて、何度も目を覚ましました」
「すると外で、やられたのか」
「どこだかの公園だったとか」
公園。――その言葉に、松永がちょっと眉を寄せるのを、大内は見ていた。
「やっぱり変質者か何かの……」
と、絹代がこわごわ訊く。
「おそらく。――そのホテルに、遅く妙な|奴《やつ》が泊りに来てないか、と刑事が訊きに来たそうでしてね」
と、大内は言った。「その刑事が、フロントの男と顔見知りで、色々教えてくれたそうです」
「つまり……暴行殺人、ってことか」
「女子高生の方も、大人相手に遊んでこづかい稼ぎをしていたようです。たまたま悪い相手にぶつかったんじゃないですかね」
「なるほど」
と、松永は、ため息をついた。
「何でも――裸にされて、ひどく切り裂かれていたとか」
「ああ、いやだわ」
絹代は、台所の方へと、入って行ってしまった。
「聞くのも辛いな」
と、松永は首を振った。
「ただ……。夜中、ずっと非常線を張っていたらしいんですが、フロントの男の話だと、明け方近くには急に静かになったとか」
「というと?」
「いや、もちろん、そいつの当て推量ですが、容疑者が挙がったんだろう、というんです」
「なるほど。――本当に犯人だといいな」
「全くですね」
と、大内は肯いた。「今日は――あのお嬢さんはお出かけですか」
「孫の法子か? いや、いるはずだ」
「そうですか。お帰りが遅い時は、ご用心を。取り返しのつかないことになってからでは、手遅れですから」
「ありがとう。全くだよ」
と、松永は肯いた。
居間のドアが開いて、顔を覗かせたのは、小百合だった。
「やあ、目が覚めたか」
と、松永は声をかけた。
「ご迷惑かけて……」
と、小百合は、少しかすれた声で言った。
「いや、一向に構わん。法子はたぶん自分の部屋だと思う」
「私、病院へ戻ります」
と、小百合は言ってから、大内に気付いた。
「あ……。ゆうべはありがとう」
「いや――。どうしたんだ?」
と、大内は訊いて、松永が説明すると、
「そりゃいけない。頭を打って、外へ出てしまったとなると……。この寒さだ。どこかで意識でも失ったら、凍死する危険がある」
と、大内は言った。
「ここにいたまえ」
松永は立って行って、小百合をソファにかけさせた。「警察にも連絡してある。何か分れば、ここへ連絡が入ることになっているからね」
「でも――」
「気持は分るが、そんな顔色じゃ、君の方が倒れてしまうぞ」
と、松永は言った。「何か熱い飲物でも作らせよう」
松永が居間から出て行く。
小百合は、深く息をついて、窓の方へと目をやった。
大内は、自分のコーヒーカップを取り上げて、一口飲むと、口を開きかけた。
「――おじいさん」
居間のドアをパッと開けて、法子が入って来た。「あ、こんにちは」
大内に気付いて会釈してから、
「小百合! 起きたの。――どう、気分は?」
「うん……。何とかね」
と、小百合は弱々しい笑みを浮かべた。
「きっと何でもないわよ。元気出して」
と、法子は小百合の手を取って、軽く握りしめた。
「そうだ。今ね――あの人から電話があったわよ」
「え?」
「関谷さん。ほら昨日の――」
「電話が? ここに?」
青白かった小百合の頬に朱がさした。
「うん。小百合のとこへかけて、出なかったからって。心配してたわよ」
「そう……。話したのね」
「起そうかと思ったけど、具合、悪そうだったし。ごめんね」
「いいの」
と、小百合は首を振って、「それどころじゃないんだもの」
法子は、少し落ちつかない様子で立ち上ると、
「小百合、私、ちょっと用事で出て来る。すぐ戻るから。待っててね」
と、早口で言った。
「うん。いいよ、もちろん」
「じゃ。――二、三十分で戻るから。おじいさんにそう言っといて」
法子が急いで飛び出して行く。
大内と、小百合。――また二人きりになった……。
「病院に電話してみたら?」
と、大内が言うと、小百合はハッとしたように、
「ええ。――そうですね」
と、言ったが、動こうとはしなかった。
「どうかしたの?」
「いいえ」
小百合は首を振った。
「ゆうべ話したこと、|憶《おぼ》えてるかな」
と、大内は言った。
「ゆうべ……?」
「好きなら、はっきり言った方がいい、ってことさ」
「もう遅いわ」
「遅い?」
「法子は、あの人に会いに行ったんだもの」
大内は、小百合を見つめて、
「どうしてそう思うんだい?」
「分るわ。私を起すことなんて、思いもしなかったのよ。だって、電話は下にあるのに、法子、自分の部屋にいたわ。――自分の部屋で、あの人の電話を取ったんだ……」
こんな時に、小百合は正確な推理を働かせていた。いや、むしろ直感が先で、後から、「言葉」がそれを裏付けているのだろう。
「私と法子……。比べたら、誰だって、法子を取るわ。分ってるの」
と、小百合は顔を伏せた。
大内は、小百合の胸の痛みを、自分のもののように、感じた。――いつも誰かの影にしかなれないように生れついた人間が、いるものなのだ……。
絹代が、熱いスープを作って運んで来ると、小百合は、おいしそうに、全部飲み干した。
小百合の顔には、|諦《あきら》めと、穏やかさが同居していた。――それを分っているのは、大内だけだったかもしれないが……。
刑事がドアを開けると、薄暗い部屋の中、木の|椅《い》|子《す》にかけた君原が、一人、まぶしい光を浴びて座っていた。
「おじいさん!」
小百合はホッとした。「どうしたの? 大丈夫?」
駆け寄った小百合は、君原の肩に手をかけた。君原がハッと顔を上げ、小百合は、それまで祖父が眠っていたのだと分った。
「小百合か……」
と、君原はまぶしげに目を細くした。
「勝手に病院を出てったりして! 死ぬほど心配したのよ!」
小百合は本当に腹を立てていた。
「君のおじいさんか」
と、声をかけたのは、部屋の中にいた刑事だった。
小百合は、初めて、君原が一人でいたのでないことに気付いた。薄暗い部屋の中には、四人もの男が、立って、壁にもたれたり、椅子にまたがるように座っていたりしたのだ。
何をしているんだろう、この人たちは?
「――そうです」
と、小百合は言った。
「病院に入っていて、抜け出したんだね」
「ええ、でも……」
「何時ごろだね、それは」
「何時って……。気が付いたのは、たぶん――二時か、それくらいです」
「すると、その前から、いなくなっていたってわけだね」
と、その刑事は言った。
「ええ。それがどうかしたんですか?」
「いや。ちょっとね」
その刑事の唇に浮んだ笑みは、小百合をいやな気分にさせた。
それに――どうして、病人のおじいさんを、こんな部屋の固い椅子に座らせたりしているの?
「あの――病院へ連れて帰ります」
と、小百合は、君原の腕を取った。「おじいさん。戻ろうよ、病院に」
「うん……」
君原は立ち上ろうとして、よろけた。腰が痛んだらしい。アッと声を上げて、|膝《ひざ》をついてしまった。
「おじいさん!――あの、どこかへ寝かせて下さい!」
と、小百合は刑事に言った。
「心配しなくていい。ゆっくり寝かせてあげるよ。もう話はすんだからね」
と、刑事が言った。
「話って……。何のことですか?」
小百合は、他の男たちを見回した。何か恐ろしいことが……。小百合の体が、|萎《な》えるほど、得体の知れない恐怖が、忍び寄って来た。
「君のおじいさんはね」
と、その刑事が、小百合の方へ、身をかがめて、
「ゆうべ、高校生の女の子を殺したんだ」
小百合は、|呆《あっ》|気《け》に取られた。
「ええ?――おじいさん、元は刑事なんですよ」
「知ってるさ。そして、この町で起きた、小さい女の子の殺人事件にも、興味を持っていた」
と、刑事は肯いて、「頭を打って、夜の町へさまよい出て、あの女の子に出会った。女の子の方から、こづかい稼ぎと思って、声をかけたのかもしれない。しかし、それどころか、公園の中へ連れ込まれ、乱暴された挙句、殺されるはめになった」
「おじいさんが、そんなこと……。間違ってます! 勝手なことを言わないで!」
小百合は、怒りがこみ上げて来た。これは冗談でも何でもないのだ、と分った。
「残念だがね、君のおじいさんは、当分留置場で暮すことになる」
と、刑事は言った。
「何ですって? 病人なのよ!」
「医者には、ちゃんと見せるさ。心配しなくてもいい」
小百合は、膝が震えて、立っているのもやっとだった。
「そんなの、|嘘《うそ》です……。おじいさんが、そんなこと、やるわけありません」
「しかし、本人も認めてるんだよ」
刑事が手をのばすと、他の一人が、紙きれを渡した。「ここに、ちゃんと署名してる。――分るだろう?」
小百合は、震え、乱れて、よく読み取れない字を見つめた。確かに――〈君原耕治〉と読めるが……でも……。
「ちゃんと本人が言ったんだ。女の子を殺しました、とね。――君には気の毒だが、引き取ってくれ。後のことは連絡するよ」
刑事は、小百合を部屋から押し出してしまった。
「おじいさん!――おじいさん!」
小百合の声は、君原に届いているはずだった。しかし、君原は振り向きもしない。
小百合の目の前で、ドアは音をたてて閉じた。
どうやって、警察を出たのか、小百合自身、分らなかった。風の冷たさも感じない。
「小百合!」
と、呼びながら、タクシーを降りて駆けて来るのは、法子だった。
小百合は、両手で頭をかかえるようにして、叫び声を上げた。
「小百合! どうしたの?――しっかりして!」
法子が小百合の腕をつかんで揺さぶる。
小百合は、灰色の空に向って、|呻《うめ》くように、叫び続けていた。
16 打 開
「警察当局は、元警察官による凶悪な犯罪に強い衝撃を受けており、事件の|全《ぜん》|貌《ぼう》を徹底的に解明したいとしています。また、この町では過去四年ごとに、少女が殺害される事件が三件起っており、いずれも未解決のままとなっております。今回の犯行と、その一連の殺人事件との関連についても、|君《きみ》|原《はら》容疑者を追及することになると見られます。――次に」
カチッと音がして、TVは消えた。
|小百合《さゆり》は振り向いた。|法《のり》|子《こ》が、リモコンを手に、立っている。ブレザーの制服姿だった。
「そんなの見るの、やめなよ」
と、法子は言った。「でたらめなんだから、全部」
小百合は、何も言わずに立ち上った。
「――もう学校へ行く時間」
と、法子は言った。「小百合、休む?」
小百合は、黙って|肯《うなず》く。法子も、誘わなかった。
「じゃあ……。ゆっくりしててね。疲れてるわよ、小百合。もう少し眠ったら?」
「もう、大丈夫」
と、小百合はかすかな声で言った。「家へ帰るわ」
「今はやめた方がいいと思うわ」
と、法子は首を振って、「TV局とか、取材の人が|沢《たく》|山《さん》来てるわよ、きっと」
「うん……」
小百合は、すっかり活気を失ってしまったようで、青ざめた顔も、疲労だけが浮かび上っただけの、無表情だった。
「少し静かになるまで、ここにいていいのよ。ね?」
「悪いわ」
と、小百合はかすれた声で言った。
「何言ってるのよ」
と、法子は、少し力強い調子で言って、小百合の肩を|叩《たた》くと、「すぐに疑いは晴れるわよ。警察の人が、小百合のおじいさんに頭を下げに来るわ、きっと」
「うん」
「ちゃんと、うちのおじいさんが、いい弁護士をつけてくれる、って。だから、安心してて。――分った?」
「うん」
と、小百合は肯いた。「色々ありがとう……」
「何よ」
と、法子は、少し困ったように言った。「当り前でしょ。友だちなんだから。――じゃ、私、行くわ」
「うん……」
法子は、部屋を出ようとして、振り向くと、「何か、ほしい物があったら、マチ子さんにでも言ってね」
と、付け加えた。
――小百合は、法子が学校へと出て行く音を、遠く聞いていた。
行ってらっしゃい。学校へ行って、私のことを、クラスのみんなに話してやって。
「あの哀れな子」のことを……。
小百合は、重苦しい足を引きずるようにして、階段を上り始めた。
「目が覚めたんですか」
と、下からマチ子が通りかかって、声をかけて来た。
「ええ」
「お|腹《なか》が|空《す》いてるでしょ。何か食べますか?」
「いいえ。――少し眠りますから」
と、小百合は首を振って言った。
「じゃ、起こさないようにしますね」
マチ子の話し方は、暖かく、ごく自然だった。小百合は、ありがたいと思った。同情されたかったわけではないのだ。
小百合は二階の、来客用の寝室へ入ると、またベッドに潜り込んだ。眠かったのではない。一人になりたかったのだ。
法子は、きっと小百合が一人でグスグス泣いていると思っているだろう。――しかし、小百合は泣きはしなかった。
祖父が、人殺しなどしていないことは、分っていた。病院から、わけも分らずに|脱《ぬ》け出した祖父のことだ。警察で何時間も眠らされずに|訊《じん》|問《もん》されたら、もう何も分らなくなって、署名ぐらいしてしまうだろう。
あの刑事たちが、小百合は憎かった。しかも、過去の事件まで、祖父に押しつけようとしている!
しかも、今は、怒ったり泣いたりしたところで、どうにもならないのだ。もちろん、小百合はショックを受けている。しかし、いつまでも|呆《ぼう》|然《ぜん》としてはいられない。
法子とは違う。小百合は、どんな時でも自分で何とかしなくてはいけない生活をして来たのだ。
――法子が、こうして家に置いてくれることには感謝していた。でも、その法子の親切の中には、小百合に対する後ろめたさが――|関《せき》|谷《や》|征《まさ》|人《と》を奪ったことを、申し訳ないと思う気持があることを、小百合は察していた。
征人のことを思うと、小百合の胸は痛む。しかし、今はそれどころじゃなかった。
小百合は無理に自分の中から征人の面影をしめ出して、現実の問題に立ち戻ろうとした……。
|松《まつ》|永《なが》は、|苛《いら》|立《だ》っていた。
もう、約束の時間を十五分も過ぎている。――原因は車の混雑だった。
|混《こ》んでいることは承知の上で、余裕を持って出て来たのだが、運悪く、事故と工事が重なって、大渋滞になっていた。
このままでは、会社へ着くのが三十分以上遅れるのは確実だった。
「申し訳ありません」
と、運転手の方も汗をかいている。
松永が時間にうるさいことを、運転手も心得ているのである。もちろん、今日の場合は運転手の責任ではないから、松永も運転手を怒鳴りつけるわけにはいかなかった。
本当なら、松永がそれほど苛立つことはない。――用があるのは相手の方で、松永がたとえ二、三時間も遅れようが、じっと待っているだろうし、文句一つ、言うわけはない。
松永の苛立ちは、やはり性格というものだった。どっちが上の立場だろうと、約束の時間は守る、というのが、松永の性格だからだ。
「この先の交差点を越せば流れると思いますが」
と、運転手はなだめるように言った。
「さっきも、そう言ったぞ」
と、松永は言った。
「はあ……」
松永は腕組みをして、車の外を眺めた。――腹が立つのは、車が遅れていることではなくて、運転手がいい加減な見通しを口にすることの方である。
「――おい」
と、松永は言った。「車を歩道へ寄せてくれ。歩く」
「しかし……」
「地下鉄でもいい。ともかく、このままじゃ、いつ着くか分らん」
「かしこまりました」
ハイヤーは、他の車の間へ割って入り、何とか歩道のわきへ着けた。
「会社へ着いたら、駐車場へ入ってろ」
と、声をかけ、松永はコートに腕を通しながら、歩き出した。
――歩いたら、まだ大分ある。地下鉄にするか。
駅へ下りる入口があった。松永は階段を下りて行った。地下鉄なら五分。そこから歩いても、大した距離ではない。
「おっと」
ぶつかりそうになって、
「ごめんなさい」
と、法子[#「法子」に傍点]が言った。
法子?――法子が?
松永は頭を振った。違う。法子ではない。
大体、法子はブレザーだが、今の女の子はセーラー服で、明るい色のジャケットをはおっていた。
ただ――年齢はたぶん法子と同じくらい。そして、一瞬チラッとみると、法子に似た印象のある少女だった。
階段を半ば下りた所で、松永は足を止め、振り返った。少女は、それほど急ぐ様子でもなく、階段を上って行く。
月曜日というのに。しかも、まだ時間は十時を少し過ぎたところだ。どこへ行くのだろう?
学校へ行くという時間ではないが……。
階段を上り切った少女は、スカートの|裾《すそ》を翻して、姿を消した。一瞬、白い足が松永の目に入った。
松永は、そのまま階段を下りて――それから、一気に駆け上って来る。左右へ目をやると、あの少女が横断歩道を渡るところだった。
松永は、少女の後を追って行った。なぜなのか、自分でも分らない。ともかく、磁石に引き寄せられる鉄片のように、少女の後をついて行ったのである。
オフィスビルの合間の細い道を、少女は|辿《たど》って行って、小さな坂を上り下りした。
やがて、まだ古い住宅の残っている辺りへ来て、少女は腕時計を見た。それから、大分古い感じの小さなマンションの前で足を止め、確かめるように、マンションの名のプレートに目をやる。
マンションへ入って行く少女の足取りは、多少おずおずとして、いくらか不安げで、自分の住んでいる場所でないことは、すぐに分る。
ロビーというほどの場所はなく、郵便受が並んだ壁のすぐ奥にエレベーターがあった。少女は、郵便受の一つの名札に顔を近付けて読んでいたが、やがて思い切ったように、エレベーターのボタンを押した。
松永は、表から様子をうかがっていた。
エレベーターが下りて来て扉が開くと、中年の女性が、その辺に買物に出るという格好で出て来た。少女が入れ代りにエレベーターに姿を消すと、その中年女性は、振り返って扉が閉じるまで見ていた……。
松永は、マンションへ入って行くと、その中年女性に、
「失礼」
と、声をかけた。
「何ですか?」
と、その女性は用心するように、松永の風態をジロリと見やった。
「今の女の子はここに住んでるんですか?――あ、いや、私は警察の者です」
松永はスラスラと|嘘《うそ》をついた。
「ああ、警察の……」
と、中年女性はホッと息をついて、「良かった。取り締って下さいね、ぜひ」
「取り締る? 何をです?」
「今の女の子ですよ」
と、その女性は、顔をはっきりとしかめて見せた。「ここの三〇七号室。――いかがわしいことに使ってるんです、部屋を」
「三〇七号室ですね」
と、松永は肯いて、「するとあの女の子もここに住んでるわけじゃないんですね」
「初めて見ましたね。ここに住んでる人なら、飼ってる小鳥だって、知ってますよ」
「なるほど、すると……」
「男と待ち合せでしょ。いくらかのお金で、三十分だか、一時間だか。――本当に恐ろしいこと!」
「今までにも、こんなことが?」
「毎日ですよ! うちはすぐ下なの。いやんなっちゃってね、本当に」
「分りました。ご協力どうも」
松永は、礼まで言って、その女性の後ろ姿を見送った……。
三〇七号室か。
松永は、エレベーターを使わず、階段を上った。|誰《だれ》とも出会わなかった。
三階の廊下を歩いて行くと、三〇七号室はすぐに見付かる。表札はあるものの、かすれて、よく読めなかった。
――こんな所へ来てどうしようというんだ? 松永は、自分でもよく分らなかったのだ。
ただ――あの少女が、法子と似た少女が、ここにいるというだけで、やって来てしまったのである。そして、今、どこかの見知らぬ男に抱かれている……。そう思うと、松永はまるで法子本人がここ[#「ここ」に傍点]にいるような気がして来て、胸苦しいような思いに|捉《とら》えられてしまうのだった……。
――もう行こう。
仕事がある。約束の時間に、ずいぶん遅れてしまった。
戻ろうと歩きかけた松永は、足を止めた。あの少女が、廊下の奥に立って、松永を見ていたのだ。
「――遅かったのね」
と、少女は口を|尖《とが》らせて、ふくれている。「誰もいないから、どうしようかと思っちゃった」
松永は、ポカンとしていたが、すぐに事情をのみ込んだ。来てはみたものの、相手の男が来ていなかったのだ。
このマンションが分らなくて捜しているのか、それとも、怖くなって、やめたのか。
「一時間でしょ。あんまりのびちゃ困るの。今日、塾なんだから」
と、少女は言った。
「――すまん」
と、松永は言った。「|鍵《かぎ》を失くしてね」
「じゃ、入れないじゃない。ドジなんだ」
少女は笑った。松永は、少女の少し歯並びの悪い、白く光る歯を見て、ドキッとした。――この子は、|俺《おれ》のことを「客」だと思っている。
もちろん、俺には用事がある。仕事があるのだ。|放《ほう》り出して、どこかへ行ってしまうことなど、できない……。
「どうするの?」
と、少女が|訊《き》いた。
「うん……。行きたい所はある?」
と、松永は言った。
「行きたい所? そりゃ色々ね。――ブティックとか、アクセサリーのお店とか」
少女は澄まして言った。
見たところ、本当にごく当り前の女学生である。――松永は動揺していた。せめて、もう少し不良じみた、髪でも染めた子なら、驚きもしなかったかもしれないが。
「――じゃ、君の好きな所へ行こう」
と、松永は言った。
「本当? どこでも?」
少女が|眉《まゆ》を上げた。|却《かえ》って、不安になるのかもしれない。うまい話にのると危い、というのか。
「心配しなくていい。別に二人でどこかへ入らなくてもいいんだ。少し出歩きたいだけなんだから」
と、松永は言っていた。
法子を、どこかへ遊びに連れて行くように、この少女を楽しませてやりたくなったのだ。
「じゃ、付合うわ」
少女が|微《ほほ》|笑《え》んだ。
松永も、笑顔になった。――のしかかっていた重苦しいものは、少なくともこの時には、どこかへ消えていた……。
17 迷 い
|大《おお》|内《うち》は、ホテルの部屋で、今時珍しいような、サイズの小さなTVを見ていた。
別に見たい番組があったわけではない。ただ、時間がポカッと空いてしまったのである。
この町にいる客は、松永だけではない。来たからには、どの客にも顔を出して行く必要があった。特に高級車を買うような客は、勝手なもので、用はなくても、声をかけられないと腹を立てる。
今日中に、大内は三人の客に会うことになっていた。ちょうど、今は中途半端な時間だったのである。
それに、大内には、|他《ほか》にも気になっていることがあった……。
ドアをノックする音に、ハッとした。
TVを見ながら、少しまどろみかけていたようだ。
「どなた?」
と、声をかけたが、返事はない。
警察か? すぐ反射的にそう考えてしまう。ドアの所まで行って、
「どなた?」
と、くり返した。
「あの――君原です」
思いがけない声だった。大内はドアを開けた。
君原小百合が、少し青白い顔をして、立っている。
「やあ」
と、大内は言った。
「突然ごめんなさい」
と、小百合は目を伏せて言った。
「いや……。入ったら?」
「構いませんか」
「僕はいいけど。――君、お昼は食べた?」
思い付いて、大内は誘った。
「いいえ、食べる気になれない」
と、小百合は言ってから、「あの――知ってるでしょ、私の――」
「ああ、ニュースは見たよ。|馬《ば》|鹿《か》げた話だ」
と、大内は即座に言った。「そんなことで君が体を悪くしたら、おじいさんも悲しむし、助けてもあげられないよ。――ちょうど何か食べに出ようとおもっていたんだ。一緒に行こう」
大内の、まるで同僚にでも話しかけるような口調は、小百合の緊張をほぐしてくれたらしい。
「はい」
と、答えた小百合は、大内が|上《うわ》|衣《ぎ》を取って来るのを待っている間、ドアにもたれて立っていた。
「じゃ、行こう。――気分でも悪いのか?」
「そうじゃないです。ただ――ゆうべ眠ってないし……お腹も空いてるし」
大内は笑って、小百合の肩を力をこめて抱いた。小百合は微笑んだ。――大内の胸は痛んだ。理不尽な出来事に、小さな体で堪えているこの少女に、どこか親しみさえ覚えたのだ……。
手近な中華料理の店に入った大内と小百合は、店の人が面食らうほど、よく食べた。
「――苦しい」
と、小百合は息をついて、ウーロン茶を飲んだ。
「食べ過ぎて倒れるなよ」
と、大内は笑って言った。
「こんなことしてて……。おじいさん、あんなひどい目にあってるのに」
と、小百合は言った。
「君が元気でいなきゃ、どうにもならないよ。――それにしても、困ったもんだ」
「ひどいわ、警察なんて。昔の事件まで、みんなおじいさんに押し付けようとしてる」
小百合の怒りは、元気が出た分のエネルギーを与えられて、爆発しそうだった。
「自白したのはまずかった」
と、大内は首を振って、「|一《いっ》|旦《たん》、犯人と決めたら、警察は絶対に意見を変えないよ」
「法子のおじいさんが……」
大内は、真顔になった。
「松永さんがどうかした?」
「え? いえ――弁護士を頼んであげる、って。ずっと家にいればいい、って言ってくれるの」
「ああ」
大内はホッとした。「――それは、恥ずかしいことじゃない。人間、一人じゃ何もできないよ」
「ええ、分ってるけど……」
「気が進まないのかね」
大内は、ウェイトレスを呼んで、「コーヒーはある? じゃ僕に」
「私も」
と、小百合が言った。
「――学校は休んだのか」
「それどころじゃないし」
「そうだね」
「私……。自分でも分ってるの。法子の世話になりたくない、っていう気持があるから。あの人を……」
「ボーイフレンドか」
「ええ。あの人を私からとったと思って、法子、気にしてるの。だから、私に親切にしてくれてるんだわ」
「君は、それがいやなんだね」
「本当は、おじいさんを助けなきゃいけないのに――つい、こだわっちゃう」
「それは当然さ。人間は一つだけの理由で行動するわけじゃない。君は大人じゃないんだ。そう自分に|辛《つら》く当ることはないよ」
と、大内は言った。「しかし……どうして僕の所へ?」
小百合は、目を見開いて、
「そうだった! お昼、おごってもらったら忘れちゃってたわ」
と、笑った。
それは若い生命力の|逞《たくま》しさだ。打ちのめされても、立ち上って来る、新鮮なばね[#「ばね」に傍点]の力である。
「でも、はっきりどうしようっていう考えはなかったの。――ただ、何だかおじさんに会ったら、気が楽になるような気がして」
「気が楽に?」
「ええ。私の気持、分ってくれてるでしょ。だから……」
小百合は、大内を見ていた。大内は、その目の中に、「信頼」を見た。
俺を信じているのか? こんな男を? 何という皮肉だ!
「――僕じゃ、大して役に立つことはないかもしれないね」
と、大内は言った。「僕はこの町の人間じゃないし」
「お仕事があるのは分ってるの」
と、小百合は言った。「ただ……おじさんと会ってると、気持が落ちつくから」
「そうか」
大内は肯いた。「どこか似たところがあるのかもしれないね」
小百合はポッと|頬《ほお》を染めて、
「そう思う? 私も、そんな気がするの」
と、|嬉《うれ》しそうに言った。「でも――変ね、こんな子供と」
「そんなことはない。年齢とは関係なく、似た人間っていうのはいるものなんだよ」
「そう? 私もそんな気がする」
コーヒーが来て、大内はブラックのまま、一口飲んだ。
「お砂糖とかミルクは?」
「いや、僕は入れない」
「じゃ、私もやめよう」
小百合は、ブラックのまま一口飲んで、キュッと口をへの字にした。大内は笑い出してしまった。
こんな風に笑ったのは、何年ぶりかと思うような、そんな笑いだった……。
「|旦《だん》|那《な》様!」
電話に出た|神《かみ》|山《やま》|絹《きぬ》|代《よ》が、大声を上げたので、松永はあわてて受話器を耳から離した。
「おい、落ちつけ。俺は何ともない」
と、絹代の、まくし立てるようなおしゃべりを、やっと遮った。「――心配させてすまん」
「警察へ届けようかって、マチ子さんと話していたんです」
「やめてくれ。今、会社の方へもかけたよ。途中で少し気分が悪くなったんだ。しかし、もう何ともない」
「今、どちらです? お迎えに参ります」
と、絹代は言った。
「いや、大丈夫。一人で帰れる」
と、松永はあわてて言った。「夕飯には帰るからな」
「かしこまりました。もしお戻りでなかったら、全国に指名手配いたしますから」
松永は苦笑して、
「おい、犯人じゃないぞ」
と、言った。「大内から連絡はあったか」
「特にございません」
「そうか。二十九日にはパーティをやる、と言っといてくれ。もし電話でもあったらな。ぜひ出るようにと」
「かしこまりました」
「それから――法子は?」
「まだお帰りではございません。クラブで少し遅くなるから、とお電話が」
「そうか。物騒だから、早く帰った方がいいのにな。あの子はどうしてる?」
「君原さんですか? 昼ごろに出かけましたけど」
「そうか。――今夜も泊めてやることになるだろう」
「ええ、もちろん、そのつもりで用意しております」
「頼むよ。じゃ、そうだな……あと二時間もしたら帰る」
「お待ちしております」
絹代も、やっと落ちついた様子だった。
――松永は電話を切った。
やれやれ……。足が棒のようだ。
こんなに歩き回ったのは、久しぶりのような気がする。
「用事、すんだの?」
席に戻ると、少女が大きなシェイクを飲んでいた。
「うん」
松永は|椅《い》|子《す》にかけて、「もう帰った方がいいだろう」
と、言った。
「そうね。――何か悪いみたい」
「いや、構わん。しかし、このところ危い事件が続いてるじゃないか。君も、あんまりああいうバイトはしない方がいい」
「ああ、女の子が殺されてね。――いやね、ああいうのって」
と、少女は首を振って、「犯人、捕まったでしょ」
「他にもあんなのがいるさ」
「おじさんも?」
「どうかな」
と、松永は苦笑いした。「しかし、こんな所が|面《おも》|白《しろ》いのか」
「今、みんな来てる。安くて、時間|潰《つぶ》しにいいしね」
――巨大迷路、というやつである。
相当の広さの場所に、大規模な迷路が作ってある。平日だというのに、若い子たちがキャーキャー騒ぎながら、中を右へ左へ、と行き交っていた。
松永は、少女に引張られて仕方なく、中を歩いた。少女が前にも来ていて、大して迷わなかったのだが、それでも一時間近くも歩かされて、ヘトヘトになっているのである。
今は、迷路を見下せる、高い場所にあるレストランで、足を休めていた。
結局、松永はこの少女に、ちょっとしたアクセサリーを買ってやり、ここへ来たいと言うので、連れて来てやり……。何をしているのか、我ながら|呆《あき》れてしまう。
しかし、一方ではホッとしていた。あの、押え切れない暗い衝動を、この少女に対しては感じなかったからだ。――不思議なものだった。
この少女なら、金さえ出せばホテルへでも連れて行けただろうが……。
「結構迷子がいる」
と、面白そうに少女が迷路を|覗《のぞ》いている。
「俺だって、一人だったら一日かかっても無理だな」
と、松永は言った。
「方向感覚、いいんだ、私」
と、少女は得意げに言った。「初めての場所でもね、迷うことってないの。前にも――」
少女の声が突然、聞こえなくなった。
松永は、迷路の一角、袋小路になった場所で笑い合っている、一組のカップルに、目を奪われていた。
――法子[#「法子」に傍点]。本当に、法子だった。
幻でも何でもない。法子が、男の子の腕を取って、笑っているのだ……。
「――どうかした?」
少女が、不思議そうに訊いている。
やっと、それに気付いて、松永は、
「いや……。何でもない」
と、首を振った。「ちょっと、知ってる子と似た子がいたんだ」
「そう。でも、珍しくないわよ、知ってる子に会っても。ここ、みんな来たがってるんだもの、今」
法子……。確かに法子に違いない。
そして、一緒にいた男の子は、あの君原小百合のボーイフレンドではないか。名前は何といったか、忘れてしまったが。
手をつないで、はしゃいでいる法子は、松永の目に別人のように映った。法子は、どっちかと言えば内気な子である。
もちろん、女の子同士では、はしゃぐこともあるのだろうが、男の子と、それも二人きりで……。
これだけ離れた場所から見ても、法子が頬を赤く染めて、浮き立つように楽しい気分でいるのはよく分った。――考えるまでもない、法子はあの男の子に恋しているのだ。
「じゃ、私、もう帰ろうかな」
と、少女が言って、松永は我に返った。
「ああ。それがいい。どこか駅まで送って行こう」
「いいわよ。ここからなら、バスと電車だって、すぐだし」
と、少女は言った。
「しかし……」
松永は、ためらった。本当[#「本当」に傍点]に、少女のことを心配していたのだ。
「――どこかへ寄るの?」
少女が、問いかけた。その目は、松永の心の中を探っている。
「どこへ?」
「ホテルとか……」
少女は、少しためらって、「勝手に遊んじゃったし、悪いな、とは思ってるの。でも、できたらこのまま……。もし、どうしても、っていうんなら、それでもいいけど」
松永は、法子の姿を、その少女に重ねていた。――法子は、あの男の子と、これからどこへ行くのだろう?
「――いや、そんなことは考えてないよ」
と、松永は言った。「ただ、どうせタクシーでも拾うから、と思っただけだ」
「そう」
少女がホッとしたように、「いい気分で、さよならできるしね、その方が。私、本当にいいの。バスで行く。大して遠くないの」
「分った。――俺も出るよ」
松永は立ち上った。
法子たちも、迷路を出たらここへやって来るかもしれない。松永は、それが怖かったのである。
外はもう|黄昏《たそが》れていた。松永はバス停の所まで、少女と一緒にやって来ると、
「バスが来たようだね」
と、言った。「気を付けて」
「ありがとう、おじさん」
少女は、ニッコリ笑った。
「いいかね」
松永は言った。「もうやめなさい、あんなことは。――その内、危い目に遭う」
「うん」
本気かどうか、少女は肯いて、やって来たバスの方へ駆けて行くと、もう一度振り向き、ちょっと手を振って見せてから、バスの中へ消えた。
少し離れたタクシー乗り場の方へと、松永は歩き出した。――夜になる。暗がりが広がると共に、松永は、不安と苛立ちが高まって来るのを感じていた……。
まるで決った時間になると熱が出る患者のようだ。――タクシーが|停《とま》っていた。
運転手が中で居眠りしている。窓を叩くと、目を覚まし、ドアを開ける。
「――どちらへ?」
と、運転手が訊く。
あのバスの後をついて行け、と言おうか?
少し間があって、松永は自宅への道を説明し始めた。
18 招 待
「もしもし」
と、せき込むような口調で、向うは電話口に出て来た。「|水《みず》|口《ぐち》です。誰?」
「|林田《はやしだ》だがね」
「ああ。――どうも」
水口は、面倒くさそうに言った。
「いや、大変なことは分ってる。大事件だからね」
と、林田は言った。
「ええ、まあね。それで、何かご用ですか」
早く切ってしまいたい、という様子だった。
「うん。例の、君原という男だがね」
「あの男が何か?」
「間違いないかね、やったというのは」
少し間があった。
「どういう意味です?」
水口の口調は、はっきり迷惑がっている。「吐いたんですよ。充分でしょう」
「それは分ってる。しかし、私も知ってるが、君原というのは、優秀な刑事だったんだ。昔の事件まで、彼がやったというのは、どうも無理があるような気がする」
「僕はそう思いませんね」
と、水口は切り口上で言った。「他になければ、これで」
「ああ。ただ、慎重にやれ、と言いたかったのさ」
「ご忠告感謝しますよ」
水口の言い方は皮肉めいていた。「ま、せいぜい頑張って下さい」
ポン、と電話は切れてしまう。
林田は肩をすくめた。
電話ボックスを出ると、冷たい風が吹きつけて来て、首をすぼめる。――ため息をついた。
あの若い刑事は、はやり過ぎている。名を上げることに必死だ。
若いころはありがちなことだが、「犯人であってほしい」という気持が|昂《こう》じて、「犯人に違いない」と決めつけてしまう。
しかも、怖いのは、厳しい訊問を続けたら、たいていの人間は参ってしまって、言われるままのことを認めてしまう、ということなのである。
水口の手柄にケチをつけるつもりは、林田にはない。今度の事件についてはともかく、過去のいくつかの事件まで、全部をあの君原という男に負わせようというのは、やりすぎだ。
水口は、少しでもこと[#「こと」に傍点]を大きくしたいのだ。――その誘惑に負けてしまいがちな刑事の心理を、林田はいやになるほど、よく知っている。
とんでもない間違いをしなければいいが……。
林田は、急ぎ足でやって来る娘に気付いた。小柄で、少し太り気味の――そう、確かにあの娘だ。
「ちょっと」
と、声をかけると、相手はギクリとした様子で、足を止めた。「いや、びっくりさせてごめん。君は、松永さんの所の――」
「あ……刑事さん」
と、マチ子は言った。「うちへ見えた」
「そう。林田だよ」
と、肯いて、「買物の帰りかい?」
「ええ」
「すまんね、呼び止めて。すぐ終るから」
「何ですか?」
と、マチ子は買物の袋を、左手に持ちかえた。「急ぐんです」
「分ってる。時間は取らせないよ」
と、林田は言った。「君は、松永さんの所に来て、どれくらいだね」
「私ですか」
マチ子はちょっと戸惑ったように、「三か月と少しです」
「三か月か。――働いてみて、どうだね」
「どう、って……」
「働きやすい?」
「別に……。そんなにあちこち知りませんから」
と、マチ子は首を振った。
「そうか。――いや、この前の腕時計のことだがね」
「旦那様の、ですか」
「うん。君が、あれを失くした時計じゃないかと言ったね」
「ええ」
「三か月しかたたない君に、よく分ったね、あの時計のことが」
マチ子は、ちょっとポカンとしていたが、
「どういう意味ですか」
「いいかね」
と、林田は言った。「若い女の子が殺された。知ってるだろ?」
「ええ、もちろん」
「犯人は捕まったが……。私は、あの男が本当にやったとは思っていないんだ」
マチ子はじっと林田を見て、
「――旦那様がやった、とでも?」
「それは分らん。しかし、あの腕時計のことが、引っかかっているんだ」
林田は、マチ子の反応をうかがうように、「君、本当に[#「本当に」に傍点]、あの腕時計が失くなった、と聞いてたのかね?」
マチ子は、すぐには答えなかった。――答えが遅れるほど、林田の|狙《ねら》いは当っていたことになる。
「もちろんです」
当り前の口調で、「変なこと言わないで下さい!」
と、腹立たしげに、マチ子は言った。
「もう行かないと」
「ああ、分った。――行ってくれ。すまないね、引き止めて」
「いいえ」
マチ子は、足早に立ち去った。
林田はその後ろ姿を見送ってから、ゆっくりと首を振ると、歩き出した。――もちろん、マチ子とは反対の方向へと。
法子は、息を弾ませて、玄関を上った。
「お帰りなさいませ」
と、絹代が出て来て言った。
「あ、絹代さん。――おじいさんは?」
「ついさっきお帰りです」
「そう」
法子は、階段を上りかけて、「――小百合、いる?」
と、振り向いて訊いた。
「いいえ。出られて、それきり」
「どこに行ったの?」
「さあ。何も言って行きませんでした」
「ありがとう……」
法子は、階段を駆け上った。
部屋へ入り、ベッドの上に引っくり返る。
激しく息をして、汗がひくのを、待った。それほどの勢いで、走って来た。逃げて来たのか、それとも嬉しくて走ったのか。
そのどっちも、正しかった。
関谷征人。関谷征人。――小百合のことをいくら考えようとしても、自然に法子は征人を呼んでいるのだった……。
仕方がない。小百合に悪いから、という理由で|諦《あきら》めるには、あまりに征人が法子の心に入り込みすぎている。
別に、どうという仲になったわけではなかった。迷路で遊んで……人目が途切れた時に、ちょっとキスしたが、それはただ、唇が軽く触れたというだけのもので、「恋人同士」のキスじゃなかった。
でも、やっぱり思い出せば頬は焼けるように熱くなる。――恋人なんだ。私の恋人なんだ。
小百合には悪いけど、でも、自分の気持を殺すことはできない。
ドアを叩く音がした。
「――私よ」
「小百合。入って」
ドアを開けて、小百合が入って来た。
「遅かったのね」
と、小百合は言った。
「だって――小百合も出てたんでしょ?」
「うん」
「どこへ行ってたの?」
「ちょっと相談したい人があって」
「そう。――おじいさん、会えないの?」
「当分、だめみたい」
と、小百合は首を振った。
「元気出してね、その内、きっと――」
「いいの」
と、小百合は笑顔になって、「私がしっかりしてなきゃ、おじいさん、助けてもあげられないしね」
「そうよ」
「ここに――泊っててもいいの?」
「当り前じゃない……」
と、法子は言った。「でも、必要な物とかないの?」
「うん。取って来た」
と、小百合は肯いて、「あの大内さんって人に運んでもらったの。勉強道具とか。明日は学校にも行く」
「大内さんに?」
「あの人って、何となく私と似てるの」
と、小百合は楽しげに言った。
「そうかなあ」
「そうなの。――ともかく、いつもの通り、暮すの。それが一番いいと思う」
法子は、じっと小百合を見つめて、
「強いなあ、小百合って」
と、言った。
「そうでもないけど、強いふり[#「ふり」に傍点]でもしなきゃ。ね?」
下から、マチ子が、
「お食事ですよ」
と、呼ぶのが聞こえて来た。
「パーティ?」
と、法子が戸惑ったように言った。
「そうだ。二月二十九日に。――四年に一度だしな」
と、松永は言った。「君の分も一緒に。いいだろう?」
小百合は、食事の手を休めて、
「でも……」
「こんな時だからこそ、いいんじゃないかね?」
松永は微笑みかけた。
「はい」
小百合は、素直に肯いた。「ありがとうございます」
「法子も、友だちとか|招《よ》んで、楽しくやろうじゃないか。――仲のいい子は、大勢いるだろ?」
「うん。いいね」
法子も、小百合がこだわらずに承知して、ホッとしていた。
「――もちろん、会社の|奴《やつ》らも来る。仕事関係の連中もな。しかし、ちゃんと場所を分けるから、心配するな」
「この家でやるの?」
「その方がいいだろう。酔い潰れても、その辺に放っときゃいい」
と、松永が笑って言った。
「大変でしょ、仕度が」
「ちゃんと人を雇うさ」
松永は、ワインを口にした。「――|旨《うま》い。今日は大分運動したんで、食事が旨いよ」
「ゴルフでもやったの?」
と、法子は訊いた。
「いや、そうじゃない」
松永は、マチ子に、「おい、もう少し、よそってくれ」
「はい」
マチ子は、松永の茶碗を受け取って、台所へ行った。
「――そうだ」
と、松永は言った。「弁護士の件だが、私の知っている一番の腕ききが、今夜出張から戻る。ちゃんと話はするよ」
「お願いします」
と、小百合は頭を下げた。
「全く、警察ってのは、何を考えとるのかな」
と、松永は首を振って、「そんなことをしている内に、本当の犯人は逃げてしまうかもしれん」
「そうよね。本当にひどいわ」
と、法子が憤然として言った。
「ま、二十九日は、何もかも忘れて、楽しむことにしよう。そうだ、小百合君」
「はい」
「あの――何とかいう男の子。関谷といったかな」
小百合が、ちょっと胸をつかれたように、
「あの……あの人がどうかしましたか」
と、言った。
「いや、ぜひパーティに招ぼう。やっぱり男がいると、女の子はきれいになる。なあ、法子?」
法子は、少したってから、
「そうね。――そうよ」
と、肯いた。
「じゃ、ぜひ来てくれ、と声をかけよう。いいだろう?」
「でも――あんなことがあって、来るかなあ……」
と、小百合は言った。
「来るとも。なかなか良さそうな男の子だったじゃないか。きっと来るさ。誘ってごらん。いいね?」
「――はい」
と、小百合は肯いた。
「クラスの子も、大勢招ぼうね」
と、法子は笑顔で言った。「おいしいものが出るわよね」
「食べ切れないくらいね」
と、松永は笑って言った。
マチ子が、やって来た。
「ありがとう。――大内から連絡は?」
「ございました。車のことで、明日、お目にかかりたい、と」
「そうか。じゃ、朝、電話して来るだろう」
松永は、ほとんどはしゃいでいる感じだった。「一度、あいつに歌わせてやりたいんだがな。頑固なんだ」
と、笑う。
「旦那様」
と、マチ子が言った。「後で、ちょっとお話が」
「うん?――ああ、分った」
小百合と法子は、黙々と食事を続けていた。
二人とも、考えていたのは、征人のことだった。――一人は胸のときめきと共に。一人は、暗い絶望と共に。
19 丘
まるで、足が導いてくれたようだった。
|松《まつ》|永《なが》は、決して方向音痴というわけではないが、それでも一度行っただけの場所を、すぐに捜し当てることは、ほとんどなかった。それなのに、今日に限って……。
おそらく、見付けられないだろうと思っていたのだ。むしろ、それをあてにしているようなところもあった。それでいて、ほとんど迷いもせずに、あのマンションの前に出てしまったのである。
住所はもちろん、マンションの名前も、気に止めていなかったから、|誰《だれ》かに|訊《き》くというわけにもいかない。大方、昨日あの〈巨大迷路〉をうろうろと歩き回ったように、この辺りの細い道を歩き回り、疲れ果てて、会社へタクシーで戻ることになるだろう、と……。そう思っていたのである。
ここの三〇七号室。――昨日の少女に会ったのは、その部屋の前だった。
それでも、松永はマンションの入口を入る所で、少しためらっていた。――|馬《ば》|鹿《か》げたことだった。
昨日の少女が、今日もここへ来るなんて可能性は、至って小さいはずだ。時間だって分らない。それに、三〇七号室には、誰か「客」がいるのかもしれないのだ。
そうだ。――こんな所へ来ても、意味がない。戻ろうか……。
足下に目を落としていた松永は、突然何かの影が自分の上を通り過ぎるのを見て、ドキッとした。反射的に空を見上げたが、もう何も見えなかった。
何だろう、今のは? 鳥か?
そう。大方カラスだろう。今、都会はあの大きな真黒の鳥に悩まされている。
いや、悩んでいるのはカラスの方だろう。次々に木を切られ、住みかを失って、追い詰められている。
あの黒さは、不気味なほど|完《かん》|璧《ぺき》な黒さだ。自然が、なぜあの鳥にあんな「黒」を与えたのか、不思議になるほどである。
いや――まあ、どうでもいい。カラスのことは。
ただ、今頭上を飛んだのがカラスだったのかどうか、松永にも自信はなかった。その影[#「影」に傍点]は、まるで松永に触れて[#「触れて」に傍点]行ったようだった。そんなに低く飛んでいたのなら、羽音も聞こえただろうし、風を感じただろうが、そんなものは何もなく、ただ、それでいて「何かが触れて行く」のを、感じたのだった。
マンションは、相変らず殺風景な入口を開いて、松永を待っている。――もう、ためらわなかった。
あの少女がいるかもしれない。わずかの可能性に|賭《か》けてみるつもりで、松永はマンションへと足を踏み入れた。
三〇七号室のドアの前まで来ると、松永はコートのボタンを外し、ちょっと肩を揺った。ドアを|叩《たた》くと、意外なことに、すぐ中で人の気配がした。
ドアが開いて、顔を出したのは、三十五、六歳に見える、当り前のサラリーマン風の男だった。|上《うわ》|衣《ぎ》を脱いでワイシャツとネクタイ姿。ネクタイはいかにも安物だ。
「失礼」
と、松永は素気ない調子で言った。「誰かと待ち合わせかね」
「ちょっと、ね……」
男はいぶかしげに、「あんた、何だよ? 四時までは俺が借りてんだよ、ここ」
「あと五十分か」
と、松永は腕時計を見て、「相手の子はまだ来ないのか」
「遅れりゃ、その分、値引きさせるさ」
どうやら、そうとう遊びに慣れた男のようだ。ケチで、しつこくて嫌われるタイプだろう。
「罰金を払う時は値引きしてくれないよ」
と、松永は、わざと楽しげな調子で言ってやった。「|俺《おれ》は警察の者だがね」
男が真青になって――松永が|呆《あき》れている前で、引っくり返ってしまった……。
「やれやれ」
――もう二度とやりませんから、と、ほとんどTVのお笑い番組のギャグみたいにオーバーな身振りで頭を下げ、男が逃げ出すと、松永は部屋へ上ってみた。
1LDKの、安っぽい作りだ。台所は何も置いていない。もちろん、料理することもないわけだ。寝室にベッドがあり、浴室にシャワーが出れば、それで充分なのである。
もちろん、ろくに掃除もしていないのだろう。|埃《ほこり》っぽい、湿った|匂《にお》いが漂っている。
普段なら、松永はこんな所に五分でもいたいとは思わないだろう。しかし、今の気分には、この不健康な、どこか腐ったような空気はいかにもふさわしいものに思えた。
浴室を|覗《のぞ》いて、こんなに狭くちゃ、シャワーを浴びても、頭をぶつけそうだなと思っていると、玄関のドアが開く音がした。
――あの子[#「あの子」に傍点]だ。
松永は、その少女の姿を見たわけではない。それに、声を聞いてもいなかった。
ただ、走って来たのか、激しく息をついているのが聞こえて来て、それだけで松永には分った[#「分った」に傍点]のである。
「――あ」
松永を見て、少女は目を見開いた。「おじさん……」
松永は、何も言わなかった。――少女は、なぜか目を伏せ、玄関に突っ立っていたが、やがて気を取り直したように顔を上げ、
「昨日はありがとう」
と、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「上らないのかい」
と、松永は言った。
「あ……。ええ、上るけど……。びっくりしたの」
少女は、不安げだった。「どうして私が来るって――」
「知らないさ」
「でも――」
「たまたまだよ」
「そう」
少女は、少し間を置いて、「じゃ、誰でも良かったのね」
松永は、まるで大人のように揺れる女心に笑った。少女はふくれて、
「おかしくない!」
「君が来るといいな、と思ってたんだ。そう怒るなよ」
「でも……」
少女は、|鞄《かばん》を下に置こうともしなかった。
「どうかしたのかね」
少女は、ゆっくりと壁にもたれた。
「馬鹿みたいね。――どうせ、見たこともない人がいると思って来たんだから。誰だっていいのに。でも……おじさんだから、|却《かえ》って何だか……気がのらない」
「分るよ」
と、松永は言った。「しかし、君のことが忘れられなくてね」
「本当?」
「ああ」
少女は、少し気持がほぐれたようで、笑顔になると、
「おじさん、偉い人みたいね」
と、言った。
「どうして?」
「いい物着てるし……それに感じが――|貫《かん》|禄《ろく》がある、っていうのかな」
「太ってるだけかもしれないよ」
少女は笑って、それから寝室の方へ目をやって、
「ここで?」
と、訊いた。
「今日はあんまり時間がないんだ」
少女は、ちょっと|肯《うなず》くと、鞄を置いて、それから玄関へ下りて、|鍵《かぎ》をかけ、チェーンもかけた。
「私って用心深いの」
と、少女は言った。「おじさんは?」
――一時間後、松永は、少女と二人でマンションを出た。
「じゃ、さよなら」
少女は、早口に言って、駆け出して行った。――松永は、少女が泣いているだろうと思った。
乱暴な真似をしたわけではない。松永は少女を優しく扱った。しかし――少女にとっては、まるで父親に犯されているような気がしたのに違いない。
松永はよく分った。あの少女の気持が。
しかし、やめることができなかったのだ。それは滝を泳いで上ろうとするくらい、困難なことだった……。
行こう。――もう社へ戻らなくては。
松永が歩き出す。
その後ろ姿が一つの角の向うに消えると、足早にその後を追って、歩きだした男がいる。――|林田《はやしだ》刑事である。
やれやれ、何てことだ。
あの松永という男。金も力もあり、社会的な地位もある。女を欲しいと思えば、金に任せて、手に入れることは難しくないだろうに。
よりによって、自分の孫のような、未成年の女の子に手を出すとは!
もちろん、長い刑事生活の経験で、林田もよく知っている。「社会的地位」というやつが、林田のように平凡で無名の人間に比べて、考えられないほどのストレスのもとになるらしい、ということは。
手短に、それを解消するのが、いささか「まともでない形の愛」であっても、多少は同情の余地はあるだろう。
しかし、それにも|自《おの》ずと限界はある。ゲームとしての関係なら、「大人の女」を相手にするべきだ。たとえ、お金目当てにやって来たからといって、あんな少女を抱くのは、やはり人間としての限界を踏み越えたもの、としか言えない。
しかし、もちろん林田も、今、松永をどうこうしようというつもりはない。|狙《ねら》いは別にある。
長年の勘は、松永という男に何か[#「何か」に傍点]ある、と告げていた。あの腕時計の件では、マチ子というお手伝いの娘が|嘘《うそ》をついている、と見抜いていた。
深夜に少女を待ち伏せしていたのが、松永だったことはまず間違いない。その時は幸い未遂に終っているが、こういう人間は一度やりそこなうと、さらに焦りを増して、自制がきかなくなるのが普通なのだ。
――そう。林田は、|君《きみ》|原《はら》|耕《こう》|治《じ》が犯人として逮捕されている、少女の惨殺事件が、松永の犯行ではないか、とにらんでいたのだ。
具体的な根拠があるわけではない。しかし、こうやって、被害者と同じような女学生と、マンションに入っていた現場を押えたのだ。もっと追い詰めて行けば、何か[#「何か」に傍点]出て来るかもしれない。
林田は、いささか興奮していた。もし、松永が真犯人だったとしたら、あの小生意気な|水《みず》|口《ぐち》刑事の鼻もあかしてやれるというものだ……。
もちろん、俺はあんな駆け出しとは違う。確実な証拠をつかんでから、一番効果的な方法で、松永に手錠をかけてやるのだ。
――松永は、少し道に迷っているようだった。この辺りに詳しくないのだろう。それは林田も同様だった。
こういう時は用心しなくては、道が分らなくなった松永が、同じ道を戻って来て、出くわしてしまう可能性があるからだ。
見失う心配はあったが、林田は足取りを緩めて、松永との間隔を開けた。
急に曇って、風が出て来た。林田は身震いして、コートのえりを立てた。
最近のコートは、どうしてこんなに薄手なんだ? 昔のやつは、確かに肩がこるくらい分厚くて、重かったが、それでも暖かかった。今は、見ばえがいいだけで、一向に防寒の役には立っていない……。
「ん?」
林田は足を止め、舌打ちした。
道が複雑に入り組んでいる。松永がどこへ行ったか、見当がつかなかった。――見失ったらしい。
広い道路が陸橋になっていて、その下をくぐる道があった。耳を澄ますと、その暗いトンネルの方から、かすかに靴音が聞こえて来る。
それが松永のものかどうか、判別できなかったが、何もないよりはましだろう。林田は急いで、そのトンネルの方へと歩いて行った。
トンネルといっても、ほんの二十メートルくらいのものだが、照明が全くないので、結構、真中辺りでは暗くなっている。
物騒だな。――町の中のこんな一角が、まるでブラックホールのように、人を吸い込むことがある。特に、昼間のこんな時間には、人通りがほとんどなくなるような場所。
盲点というか、死角、とでも呼ぶのがふさわしいのか……。犯罪というのは、しばしばこんな場所で起るものなのだ。
まるで、その場所[#「場所」に傍点]そのものに、人を凶暴にする力が潜んでいるかのような、暗黒。
もちろん、林田はそんなことを本気で心配していたわけではない。「危い場所」といっても、一般論として考えていただけで――。
トンネルの向うには、〈産地直送〉という旗を立てたトラックも見えた。トラックの側面の扉を開けると、簡単な「商店」が出来上る。移動販売車というやつである。
トラックは|停《とま》っていて、二人の主婦が、玉ねぎを選んでいるところだった。
その主婦のサンダルの音を聞いて、林田は自分が間違えていたことを知った。松永の靴音かと思ったのは、そのサンダルの音だったのだ。
林田は、足を止めた。――まあいい。ここで見失っても、別に逃げられたわけではないのだ。松永が尾行に気付いたのでないことには自信があった。
松永の会社へ行けば、帰宅するところを捕まえられるかもしれない。それとも、自宅の前で、帰って来るのを待つか?
帰宅の途中[#「途中」に傍点]で何かあるかもしれない。焦るわけではないが、波に乗っている時には、波に任せておく方がいいのである。ただし、波から落ちないようにしなくては。
よし、会社へ行ってみよう。林田はそう決めると、道を引き返そうとした。
ちょうど今、林田はトンネルの真中辺り、一番暗くなった所に立っていた。――なぜ気付かなかったのだろう?
いくら暗いといっても、人の気配は感じ取れたはずだ。しかし、「はずだ」という言い方には何の意味もない。現実の前では。目の前に、突然誰かが立ったという現実の前では。
林田の腹部、中央を刺した|刃《やいば》は、深く食い込んで、骨にまで達した。林田は、|尖《とが》った切っ先が自分の骨に当る音を、確かに耳にした。刃が音もなく引き抜かれた。
「誰だ!」
林田の声が、意外なほど力強かったのに、相手はびっくりし、|怯《おび》えたようだった。もう一度刺そうと構えていた刃物を、素早くコートの下へ、握りしめた右手ごと入れて、林田に背を向けると、駆け出していた。
「逃げるな!」
自分でも、驚いたことに、林田は少しも衰えない語気でその言葉を叩きつけると、|拳銃《けんじゅう》を抜こうとした。一発は外して撃たなくてはならない、と考えるだけの余裕もあった。
しかし――抜いた拳銃は、手の中から滑り落ち、足下の暗い範囲の中に見えなくなってしまった。右手で、刺された腹を押えたので、血がべっとりと右手についていた。そのせいで、拳銃が落ちてしまったのだ。
しかし、林田は、追いつけると思っていた。拳銃を取り落としたのは、手に力が入らなかったからじゃない。ただ、滑っただけなのだ。
しかし、もうその人影は、トンネルの向うに消えてしまっていた。――逃がしたのか。
畜生! 俺を刺したな! 俺を……。
林田は、傷の手当をしなくては、と思った。もちろん、病院へ――いや、傷はかなりひどいのかもしれない。救急車を呼ぶ必要があるかもしれない。
林田は、あの〈産地直送〉のトラックと、主婦たちのことを思い出した。そうだ、救急車を呼んでくれ、と頼もう。五分か十分でやって来るだろうが、それまでは何とか出血を押えて……。
「おい――」
林田は、そのトラックの方へと歩いて行った。
何か[#「何か」に傍点]が起ったことを、その二人の主婦と、トラックの陰から姿を見せた、古めかしい「八百屋」という格好の男も、察していたらしい。
「すまないが……」
主婦の一人が、短い悲鳴を上げ、もう一人はポカンと口を開けて、後ずさった。
何だよ、おい。まるで|狼《おおかみ》男か吸血鬼でも見たような顔して。俺はそんなにひどいかい?
人相が悪い? よしてくれ。
「救急車を――」
|膝《ひざ》から力が抜けた。道に膝をつくと、林田は前のめりに倒れようとして、手をついた。傷口から|溢《あふ》れ出た血が、広がって行く。
何だこれは? これは俺の血[#「俺の血」に傍点]か? そうなのか?
林田はゆっくりと血の池の中に倒れた。
20 敵
「会長」
と、秘書が言った。「お帰りをお待ちしていました」
若い男で、有能だが、時には気がききすぎて松永を疲れさせる。
「何か急ぎの用があったか」
松永は素気なく言って、会長の|椅《い》|子《す》に腰をおろした。
「|大《おお》|内《うち》という方がお待ちでした」
大内――。そうか!
「――うっかりしてた」
約束は一時間も前だ。松永は後悔した。
「もう帰ったのか」
「いえ、|他《ほか》に回る所があるので、後でまたお寄りします、と」
大内らしい言い方だ。もちろん、そんなのはでたらめに決まっている。
長い間待っていた、ということで、松永に負担を感じさせないように、そう言ってどこかで時間を|潰《つぶ》しているのだろう。
大内のような人間にとって、一時間や二時間、待つことは苦にならないはずだ。いや、少なくとも、苦にならないふり[#「ふり」に傍点]をして見せるはずだ。
松永ほどの男なら、車のセールスマンを何時間待たせても、誰も驚くまい。しかし、松永は、相手が誰であっても、約束の時間を守ることにはこだわるのだ。
――ちゃんと時間を見はからいでもしたように、松永が席に戻って十分ほどすると、大内がやって来た。
「どうも申し訳ありません」
と、大内は松永が何も言わない内に、「他の用事を思い出しまして。急に片付けてしまおうとしたら、割合に手間取りましてね」
「いや、構わんよ」
と、松永は言った。「俺も今戻ったところだ」
「そうですか」
大内は、いかにもホッとした、という様子だ。――負けたな、と松永は思った。車一台には、この男は充分値する。
「決めたよ」
と、松永は言った。「一台買おう」
「そんなに簡単にお決めになってよろしいんですか?」
と、大内は目を丸くして、「でも――ありがとうございます」
松永は笑った。実際、大内はいつも会う度にいい気分にさせてくれる男なのである。
「車種は君のすすめるもんでいい。どうせ俺が運転するわけじゃない」
「かしこまりました」
大内は、アタッシェケースを開けて、手早くパンフレットを出し、車の説明を始めたが、松永はほとんど聞いていなかった。
「――後は適当にやっといてくれ」
と、松永は言った。「二十九日には家へ来てくれよ」
「お誕生日でございますね。もちろん|伺《うかが》わせていただきます。プレゼントは何がよろしいでしょう」
「よせよせ。俺は何も欲しくない。むしろ、|法《のり》|子《こ》から何かを欲しがられたいと思っているんだ」
「法子さんといえば――」
と、大内が言いかける。
「何だ?」
「いえ……。四年前にもお会いしているはずなのに、お会いしてびっくりしました。すてきなレディになられて」
レディ。――肉体を感じさせない言い回しである。
「レディか」
と、松永は肯くと、「もうあいつも子供じゃない。その内、ボーイフレンドをゾロゾロ引き連れて来るさ」
苦いものが、こみ上げて来た。法子が一緒に笑っていたあの若者。|関《せき》|谷《や》といったか。
あの笑顔は、法子が決して祖父には見せたことのないものだった……。
「もういらっしゃるのでは?」
と、大内が言うと、松永はギクリとしたように顔を向けて、
「なぜだ?」
と、言った。
「いえ……一般的にです。十六歳ともなれば、ボーイフレンドぐらいは……」
「しかし、俺にちゃんと見せるべきだ。俺は親代りなんだからな。それも父親と母親と両方の役をやって来たんだ」
そう言いながら、松永はむやみに腹が立って来ていた。あいつ! あんな|奴《やつ》が法子の心を奪うのか。
いや、もしかしたら……。もしかしたら、法子の体まで[#「体まで」に傍点]奪うかもしれない。
その考えが松永の心臓をわしづかみにした。|爪《つめ》が心臓の表面に食い込む痛みすら、松永には感じられた。
「――どうしました?」
大内が腰を浮かした。「お顔の色が――」
「いや……。大丈夫だ。何でもない」
と、松永は言った。
自分でも分っていた。顔から血の気がひいただろう。――落ちつけ! どうってことはないんだ。
「大丈夫ですか?」
大内が、身をのり出すようにしている。
「ああ……。心配しなくていい」
と、松永は首を振る。
「でも、まだ青いですよ、お顔が。お宅へ帰られては?」
「うん……。いや、何でもない」
松永は、しばらく目を閉じていた。
――閉じた|瞼《まぶた》の裏に、光の点が動いていた。やがてそれは一つに集まって、ゆっくりと伸び始め、人の形になった。
法子……。浴室で見た法子の白い体が、松永の瞼に、消えがたい残像となって焼きつけられていた。
あまりにまぶしいものを見て、その残像がいつまでも消えないのと似ている。
法子。――お前の肌には誰も手を触れてはいけないのだ。誰も[#「誰も」に傍点]。
「――松永さん」
と、大内が言った。「もう、失礼しましょうか」
松永は目を開いた。
「いや、ここにいてくれ。話がある」
「私に、ですか」
松永は秘書を呼んだ。
「お呼びですか」
「しばらく、ここへ誰も入れるな。電話もつながなくていい」
「かしこまりました。ただ……」
と、秘書がためらう。
「何だ?」
「今、ちょうど下の受付から電話で」
「何だというんだ?」
「お孫さんがおみえということですが」
――松永は、秘書が少し戸惑うほどの間、沈黙していた。
「会長――」
「下の喫茶があるな。奥のテーブルを取っておけ」
「かしこまりました」
松永が立ち上ると、大内も立って、
「じゃ、今日はこれで」
と、アタッシェケースを閉じた。
「一緒に来てくれ。話はその後だ」
「しかし……」
「何か用事があるのか?」
「いえ、別に」
「じゃ、付き合え」
もちろん、大内はそれ以上逆らわなかった。
「――大分かかったわね」
と、|神《かみ》|山《やま》|絹《きぬ》|代《よ》が言った。
「すみません」
マチ子は、買って来たものを、台所のテーブルに並べた。「足りないものがあって。なかなか見付からなかったんです」
「いいわよ。充分間に合うわ」
絹代は手をタオルで|拭《ふ》くと、「今日のお料理は、そう手間がかからないから」
二人して、冷蔵庫、冷凍庫へしまうものはしまい、マチ子は、
「ベッドを作って来ます」
と言って、出て行った。
絹代は、話し出すきっかけを失って、少しの間、突っ立っていた。
またにしようか? わざわざ追いかけて行って話すのもおかしなものだ。
いや……。そうじゃない。|曖《あい》|昧《まい》にしておいてすむことと、すまないことがある。
それに、絹代ははっきりけじめをつけるのを好むタイプだった。
絹代は、台所を出て、二階へ上って行った。
松永の寝室のドアが開いている。絹代は、マチ子がシーツを取り替えて、ピンとのばしているのを、ドアの枠にもたれて眺めていた。
肉付きのいい、マチ子の後ろ姿を眺めていると、ますます不思議な気がして来る。
どうして松永は、こんな色気のかけらもないような娘に手を出したのだろう?
マチ子は、ずっと絹代に背中を向けていたが、やがて、手を休めずに、突然、
「何かご用ですか」
と、言った。
絹代はハッとして、|頬《ほお》を赤らめた。自分が馬鹿にされたような気がした。
「手伝いましょうか」
と、絹代は言った。
「どうしてですか」
マチ子は、のっぺりした口調で、「いつも一人でやっています」
「ええ、それはそうね……」
絹代は、ちょっと、|咳《せき》|払《ばら》いをした。マチ子は、シーツをきちんとすると、体を起こして、絹代の方を向いた。
「何かお話でもあるんですか」
「ええ、そうなのよ」
絹代は、軽く息をついて、「二十九日はパーティだわ。前から、かなりの仕事になると思う。外に頼めるものは頼むけど、あなたも忙しくなると思うわ」
「はい」
「うまくやりましょう。|旦《だん》|那《な》様の四年に一度のお誕生日だから」
と、絹代は言って、「それに、あなたにはその日に辞めてほしいの」
絹代は、それを聞いてもマチ子が全く表情一つ変えないので、戸惑った。
さぞ青くなって、食ってかかって来るか、泣き出すかするだろうと思ったのだ。
しかし、マチ子は、ちょっと|眉《まゆ》を上げただけで、何も言わなかったのである。
聞こえなかったのだろうか? そんなはずはない。それなら訊き返して来るだろう。
マチ子が、絹代の話を予期していたはずはなかった。絹代はそれらしいことを、口にしていない。すると――。
「旦那様から、お話があったの?」
と、絹代は訊いた。
そうとしか思えない。しかし、マチ子は首を振って、
「いいえ」
と、言った。
「そう。――ともかく、今月一杯で辞めてちょうだい。短くて、悪いけど」
マチ子は表情一つ変えなかった。そして、
「私を雇ってらっしゃるのは、旦那様ですから」
と、言った。「旦那様がそうおっしゃられたら、辞めます」
絹代は、マチ子がこんな風に出て来るとは思ってもいなかった。
「私はね、下働きの子のことは任されているのよ」
「でも、お給料は旦那様のお金です。絹代さんからいただいてるわけじゃありませんから。それに――」
マチ子は、はっきりと挑むような目で絹代を見た。「辞める理由がありません」
絹代は顔をこわばらせた。
今まで、ただ黙って働く他に取り柄のない、おとなしいだけの女の子だと思っていた。――だが、今、マチ子は全く別人のように、絹代の前に立ちはだかっていたのだ……。
「――理由がない?」
絹代は、つい声が高くなるのを、押え切れなかった。「分ってるでしょう、自分で。わざわざ私が言わなくたって」
「分ってます」
と、マチ子は言った。「でも、あれは旦那様のなさったことです。それでどうして私が辞めるんですか」
「どういう口のきき方よ!」
と、絹代は思わず怒鳴った。
しかし、こんな娘を相手に、本気で怒っても仕方ない。絹代は必死で冷静さを装った。
「家の中でね、ああいうことがあると、お嬢様にも良くないの。分るでしょ?」
マチ子は、ちょっと目を見開いた。そして――笑った。笑ったのだ。
「何がおかしいの?」
「相手が私なら、お嬢様に悪くて、絹代さんなら構わないんですか」
マチ子が知っているとは思ってもいなかった絹代は、不意をつかれて、動揺した。
「あなたは子供よ!」
「子供じゃありません。――少なくとも、今は[#「今は」に傍点]」
と、マチ子は言い返した。「私と絹代さんと、二人が一緒にいるのは、何かと良くないかもしれません。でも、どっちが辞めるか、決めるのは、旦那様だと思います」
「旦那様があんたのような娘を、本気で相手にしてらっしゃると思うの?」
「旦那様は、私に借り[#「借り」に傍点]があります」
「何ですって?」
「借りがあるんです」
と、マチ子はくり返した。「絹代さんにはお分りになりません」
「何のことなの?」
「ともかく――」
と、マチ子は息をついて、「今はよろしいんじゃありませんか。二十九日のお誕生日までは、うまくやって行くしかないと思いますけど」
絹代は、すっかりマチ子のペースにはめられてしまっていた。
「――私、法子様のベッドを直します」
そう言って、マチ子は絹代のわきをすり抜けて出て行った。絹代は、ただ|呆《ぼう》|然《ぜん》として、立ちすくんでいた……。
21 刑事の涙
法子は一人ではなかった。
「おじいさん」
と、席から立ち上って手を振る。
「突然やって来るなんて珍しいじゃないか」
と、松永はいやに陽気な声で言った。
「ごめんなさいね。忙しいんでしょ」
と、法子は言った。「あ、こんにちは」
大内の方へ|挨《あい》|拶《さつ》したのである。
「お仕事だったの?」
「そりゃ、ここは会社だからな」
と、松永は言って、腰をおろした。「おい、コーヒーをくれ」
「私が頼んで来ます」
ウェイトレスが近くにいないので、大内がすぐに、カウンターの方へと歩いて行った。
「全く、よく動く男だ」
と、松永は笑って言った。
「ね、おじいさん……。関谷君よ」
関谷|征《まさ》|人《と》が一緒だったのである。
「ああ、|憶《おぼ》えてるとも」
松永は肯いて見せた。「あの|小百合《さゆり》って子のボーイフレンドだろう?」
「うん……」
法子は、曖昧に言って「ちょっと、おじいさんにお願いがあって……」
「頼んで来ました」
大内が戻って来て、「あちらの席におります」
「ここにいて構わんぞ」
松永が言っても、大内はさっさと離れた席に行ってしまった。
「――あの子はどうしたんだ?」
と、松永は訊いた。「てっきり一緒に来たのかと思った。弁護士のことでな」
「ああ……。もう頼んでくれたの?」
「さっき電話をしたところだ。私の頼みなら、断らんさ」
法子は、小百合の祖父の弁護士のことなど、すっかり忘れていたのだ。それを承知で、松永は意地悪を言ってみたのだった。
「きっと小百合、喜ぶわ」
と、法子は言って、「――ね、おじいさん」
「君は、二十九日のパーティに、出てくれるんだろう?」
松永は法子の言葉が聞こえなかったふりをして、征人の方に向って言った。
「はい。あの……」
と、征人は少しおどおどしながら、「喜んで……」
「良かった。やっぱり、女の子は好きな男の子がそばにいると、元気が出るもんだ。あの小百合って子には、それが一番ききめのある〈療法〉だろう。なあ、法子」
「ええ。――そうね」
と、法子は肯いた。
つい、目を伏せてしまっている。コーヒーが来て、少しの間、三人とも黙ってしまった。
「――出がらしだ」
と、松永は一口飲んで、顔をしかめた。「それで、何だね。私に話っていうのは?」
「ね、おじいさん……。関谷君、来年大学なの。大学へ入ったら、ぜひどこかでアルバイトしたい、って。どこか、いいアルバイトを探してあげて」
「アルバイト? 大学へ通いながら、いつ働くんだね?」
「もちろん、休みの間です」
と、征人は言った。「ずいぶん先のことなんですけど、今から捜しておかないと、いい仕事は見付からない、って先輩から言われてて」
「なるほど」
と、松永は肯いた。「世の中も変ったもんだな。アルバイトにも就職運動か」
「おじいさん、色々な人、知ってるし、どこかあるわよね」
松永は、ちょっと肩をすくめた。
「そりゃ、その気になれば、一つでも二つでも見付けられるさ」
「お願い! すぐにっていうわけじゃないんだけど」
法子は、征人のために何かしたくてしかたがないのだ。何かしてあげて、感謝されたいのだ。
そのためなら、あまり感心したことでないと自分で思っていることでも、やってしまうのである……。
「分ったよ」
と、松永は言った「心がけておこう」
「ありがとう!」
法子は頬を上気させ、幸せそうだった。
「よろしくお願いします」
と、征人が頭を下げる。「じゃ、僕は帰るよ」
「あら、どうして?」
「だけど――」
「そうね。おじいさんの邪魔しちゃった。ごめんね」
「構わん」
と、首を振って、「いつでも邪魔しにおいで」
「じゃ、私も帰る。小百合、お家へ寄って、必要なものを取って来てるはずだわ」
「それじゃ……」
二人して、喫茶店を出て行く。出がけに、大内の方へ、法子は、
「失礼します」
と、声をかけて行った……。
大内はドキッとした。まさか法子が自分に声をかけて来るとは思わなかったのだ。返事をしない内に、法子は征人と二人で姿を消してしまっていた。
大内は、立ち上って、松永のいるテーブルへと移った。
「若い人は楽しそうですな」
大内の言葉も耳に入らない様子で、松永は何かじっと考え込んでいたが、やがてふっと我に返ると、
「ああ、悪かったな、来てもらって、放っておいてしまった」
「とんでもない。しかし、どうして私をこの席へ?」
松永は、自分のコーヒーをまた一口飲んで、顔をしかめた。まずかったことを、忘れていたらしい。
「いや……。お前の意見が聞きたかったのさ」
「私の?」
「あの二人だ。話は聞こえたろう?」
「はい」
「どう思う?」
「どう、といいますと……」
「恋人同士だと思うか」
大内は面食らった。しかし、どう見ても、松永は大真面目だ。
「まあ……。そうでしょうね、おそらく」
「俺もそう思う」
松永はため息をついた。「あんな子供が! 男か……。どうして子供はいつまでも子供でいないのかな」
「それは仕方ありません」
「ああ。しかし……俺は、堪えられん。大体法子には早すぎる。そう思うだろう」
反対しても仕方ない。気を変えるつもりはないのだ。
「そうですね」
と、大内は言った。
「そうだとも! あいつは子供だ!――それをあんなろくでもない男が、うまく|騙《だま》してるんだ。見ればすぐに分る。俺はいやというほど人間を見て来た。人間の出来[#「出来」に傍点]の良し悪しぐらい、一目で分る」
松永は、まくし立てるように言って、「あんな奴と法子を近付けておくわけにはいかん。そうだろう?」
「はあ。しかし――こういうことは、慎重に対処しませんと。反対は、却って火に油を注ぐことにもなります」
「そうか。いいことを言うな、お前は」
「恐れ入ります」
「ともかく、俺はあの子の親じゃない。しかし、親代りだ。あの子には責任がある。あの子を守ってやるんだ。当然のことだ。そうだろう?――あの子は、いつも汚れのないままでいるべきなんだ。それでこそ法子なんだ……」
大内は、ふと寒気を覚えた。松永の言葉は、いつしか独白に近いものになっていた。
「――しかし、松永さん。どうやって、二人を別れさせるんです?」
「二十九日が、いい機会になる」
「機会、といいますと……」
「できるだけ大勢人を集める。もちろんお前も来るんだ」
「もちろん、うかがいます」
「何か起っても不思議じゃない。そういう夜にはな」
松永の言い方は、どこか子供じみたもの――いたずらで、大人をびっくりさせるのを楽しみにしている子供のような、響きがあった……。
大内は、コーヒー代を払おうとして、松永に止められ、ごちそうになっておくことにして、一人でビルを出た。
何かに追われているような気分だ。
この町を出ようか。――不意に、そう思った。
いや、出るわけにはいかない。あの少女がいるのに、どうして出て行けようか。
しかし――大内は怖かったのだ。
怖い、などとは、全く皮肉な話だが、事実、そうなのだから、仕方がない。
何を恐れているんだ、俺は?
大内は、外へ出て、寒い風に当ると、少し落ちついた。確かに、今は取り乱し、怯えてさえいたのだ……。
ビルの方を振り返る。松永の言葉が、思い出された。
法子は汚れのないままでいなきゃならないんだ……。
何てことだ!――大内は自分と同じ[#「自分と同じ」に傍点]言葉を聞いたのだった。あれは、俺の言葉だ。
松永に、一体何が起ったのだろう?
大内は歩き出した。別に用事があるわけではなかった。
ただ、自分を取り戻す必要があったのである。
二十九日のパーティで、松永は何を[#「何を」に傍点]するつもりなのか。見当もつかない。
何が起ってもおかしくない、か……。
いやな気分だった。もし手近にコーヒーカップでもあったら、思い切り地面に叩きつけて、壊してやりたかった……。
小百合は、部屋の中を見回した。
一日、いなかっただけでも、家の中は冷え切って、まるで何年も人が住んでいない空家のように、荒れ果てて見えた。
またここへ帰って来られるだろうか? おじいさんと二人で、ここで暮せる日が来るだろうか……。
紙の手下げ袋は、結構重くなった。大して持つものはないだろうと思っていたのだが、そうでもなかった。
これでまた、何かあれば戻って来ればいい……。
表は、もう暗くなりかけていた。玄関を出て、小百合はギクリとした。
目の前に誰かが立っていたのだ。
「――君は、この家の人?」
声は、意外に若かった。
「ええ」
「君原というのか」
「君原ですけど……。あなたは?」
その若い男は警察手帳を見せた。小百合の顔がさっと朱に染った。
「私を逮捕するの?」
と、食ってかかるように言うと、
「いや、そうじゃない。君のおじいさんかな、君原耕治は」
「ええ、そうよ」
「そうか。――君は?」
「君原小百合」
「小百合君か。僕は|佐《さ》|川《がわ》というんだ。君のおじいさんを逮捕したのとは違う署に属している」
「そうですか」
小百合は少しホッとした。
「留守だったね。今、どこにいるの?」
「友だちの家です」
「そうか。――ちょっと話したいんだが」
佐川という若い刑事は、いやに沈んで見えた。
「いいですけど……。寒いですよ」
「じゃあ、何かその辺で食べようか。甘いものは好き?」
「大体は」
「僕も甘いものに目がない。行こう」
と、佐川は小百合を促した。
――二人は、おしるこのおいしい店に入って、三杯、食べた。小百合が一杯、佐川が二杯。
「今日は昼抜きでね」
と、佐川が言った。「林田さんって、僕の先輩がいる」
「林田さん?」
「うん。林田さんはね、君のおじいさんがこの事件の犯人じゃないと思ってたんだ」
小百合は、思わず座り直した。
「どうしてその人は――」
「まあ、逮捕した水口って刑事の方が無茶なんだ。ろくに証拠もない。自白すりゃいい、ってやり方だ。林田さんは、そういうやり方が大嫌いでね」
小百合は肯いた。
「――林田さんは、ある男に目をつけていたんだ。もちろん、そっちも証拠があったわけじゃないから、あくまで慎重に、身辺調査をしていたんだが」
「何か分ったんですか」
と、思わず小百合は身をのり出した。
「殺されたんだ。今日の午後ね」
佐川の言葉に、小百合はポカンとして、
「殺された……?」
「そう。刃物で一突き。――誰も犯人を見ていない。林田さんは一人だった。誰がやったのか、分らないんだ」
「じゃ――亡くなったんですか」
「そうさ。|呆《あっ》|気《け》なくね。まだ信じられないよ」
佐川が突然、大粒の涙をこぼした。
小百合はその思いがけない光景に、心を打たれて、身じろぎもせず、座っていた。
22 灰色の日
私、ホッとしてる。
――|法《のり》|子《こ》はそう|呟《つぶや》いた。ホッとしてるんだ。
何てことだろう!
|小百合《さゆり》。――小百合。ごめんね。
小百合は今日、学校を休んでいた。捕まっている祖父のために、弁護士と会わなきゃいけなかったのだ。
法子は一人で帰ることになった。一人で良かった、とホッとしながら。
何てひどい友だちなんだろう。しかも、あんな目に遭って、今、小百合は|他《ほか》のどんな時にも増して、助けを――支えを、必要としているはずだ。それなのに……。
私は、小百合が一緒でなくて、ホッとしているんだ。――ごまかしてみたところで仕方ない。事実は事実だから。
喫茶店の二階へ、法子は駆け上った。
来てるかしら? わざとゆっくり店の中を見回して、いても気付かないふり[#「ふり」に傍点]をしようか。
だが、そんな思いを、法子自身が裏切ってしまう。手を振る|関《せき》|谷《や》|征《まさ》|人《と》の所へ、|真《まっ》|直《す》ぐに駆け寄ってしまうのである……。
「寒いね、今日は」
と、征人が言った。
「そう?」
法子は、征人に言われるまで気付かなかった。そういえば、まだやっと三時なのに、夜が間近なのかと思えるくらい薄暗い。
「雪でも降りそうだな」
と、征人は言った。
「降ってもいいわ。あなたにくっついて、あったまる」
「湯タンポかよ」
と、征人は笑った。
「今日、来られるんでしょ?」
「うん。――行くけど」
征人は、少し気が重いようだ。
「おじいさんのこと、気にしてるの?」
と、法子は|訊《き》いた。「あ、ココアください」
オーダーして、やっぱり寒いんだわ、今日は、と気付いた。体の方は凍えている。ただ、それを感じている余裕が、心になくなっているのである……。
「そうじゃない。――そりゃ、娘のボーイフレンドってのは好かれないよ」
「私、おじいさんの娘じゃないわ」
「孫だけど、同じことだよ。僕のこと、にらんでたろ、この間」
と、征人は言った。
「そう?」
「そうさ」
征人は、コーヒーをゆっくりと飲んでいた。「あの子の恋人だろ、って言ったじゃないか。何度もしつこくさ。――わざと、だよ。分ってるんだ、僕たちのことを」
法子には、思いがけない話だった。
「まさか……。考えすぎじゃないの?」
「いや、本当だよ。別に、だからどうってわけじゃないけどね」
と、征人は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
法子は、祖父がそんな風に思っているなどと、考えたこともなかった。
「気になってるのは、やっぱりあの子のことさ」
と、征人は言った。
「小百合のことね」
分り切ったことを言って、「私も……気にはしてるわ」
「今は|辛《つら》い時だろうしな。その点は君のおじいさんの言う通りだ」
「だけど――」
「小百合のおじいさんのことが落ちつくまでは、慎重でなくちゃ。なあ、そうだろ」
法子は|肯《うなず》いた。重苦しい気分で、しかし、同意しないわけにはいかない。
「今夜はどっちにしても、おじいさんと小百合のお誕生日なんだから」
と、法子は言った。「小百合を楽しませてあげなくちゃ」
「六時半ごろには行けると思うよ」
「待ってる」
待っているのは、小百合も同じだろう。しかし、法子は、征人の言葉に肯きながら、たとえ今夜のパーティの間だけでも、征人を小百合に譲り渡す気にはなれなかった。
征人は私のもの。――小百合には悪いけれど、私のものよ……。
――二月二十九日。
午後の三時を、少し回っていた。
朝の内から、準備は始まっていた。
|絹《きぬ》|代《よ》もマチ子も、足を止めている暇がないほど、忙しく駆け回り、アルバイトの子や、パートで来た主婦たちに指示をして回らなくてはならなかった。
夕方近くになって、やっとマチ子と絹代は台所で簡単な食事を取った。
二人はほとんど口をきかない。――何しろ、バイトやパートの女性がひっきりなしに出入りしている。下手な話はできなかった。
「――絹代さん」
と、マチ子が、食事を先に終えて、言った。「ケーキを受け取って来ます」
「ああ、そうね。|誰《だれ》かに行かせたら?」
「心配ですから。もし落としでもしたら、おしまいですし」
食べるのが手早いことでは、マチ子の方が上である。もちろん、若さというものだ。
「それはそうね。じゃ、行って来てくれる?」
「力はありますから、一人で大丈夫です」
と、マチ子は笑って言った。
絹代も笑ったが、目は笑っていない。マチ子の方は、いかにも屈託がなかったが。
――マチ子が出かけると、絹代は、パーティのテーブルの並べ方を指示しておいて、二階へ上った。
|松《まつ》|永《なが》の寝室へ入ると、ドアを閉め、ベッドのわきの電話を取る。――松永の会社の番号は、もちろん暗記していた。
「――|旦《だん》|那《な》様ですか」
「何だ。どうかしたか」
松永の口調はややそっけなかった。
「パーティの仕度は順調です。定時でお帰りですね」
「ああ、そのつもりだ」
「|大《おお》|内《うち》から連絡は?」
「特にございませんが」
「そうか。もし早めに来たら、待たせておいてくれ」
「かしこまりました」
と、絹代は言って、「旦那さま。二月は今日でおしまいでございます」
「うん、それが?」
「マチ子さんのことです」
「ああ……。分ってる」
松永は少し困惑している様子だった。「ゆっくり話す時間がなくてな。――心配するな。ちゃんと話す」
「気になります。あの子、すっかり変ってしまいました」
「そうか。しかし……こっちが借りがある、と言った意味がよく分らんな」
「よく確かめられた方が。ああいう子は、何をやるか分らないところが……」
「ああ、そうしよう。じゃ、頼むよ」
少し唐突に、松永は電話を切ってしまった。
絹代は、不安が|拭《ぬぐ》い切れなかったのである。
マチ子の、あの自信たっぷりの様子は、絹代の理解を越えるものだった。――マチ子は、松永が絹代でなく、自分を選ぶと確信している。
何がその自信を持たせたのか、絹代には見当もつかなかった……。
松永が、|神《かみ》|山《やま》絹代からの電話を、少し唐突に切ってしまったのは、他の外線が入っている、というランプが点滅していたからだ。
「――はい、松永です」
と、切りかえて言うと、「もしもし? どなたですか?」
「旦那様、お仕事中、申し訳ありません」
マチ子だった。松永は、少しドキッとした。
「どこからかけてるんだ?」
と、松永はできるだけ気楽に言った。
「表です。絹代さんには目ざわりのようなものですから」
「なあマチ子――」
「旦那様」
マチ子の声は、どこか車の多い辺りの公衆電話を使っているようで、少し聞き取りにくかった。
「先日うちへ来た刑事、ご存知ですね」
「刑事?」
「はい。腕時計を失くされた時の」
「ああ。――|憶《おぼ》えてるよ」
「|林田《はやしだ》という人です。私、あの人に呼び止められ、|嘘《うそ》をついたんだろう、と訊かれました」
松永には意外な話だった。てっきり、もう|諦《あきら》めたと思っていたのだ。
「何と答えたんだね」
「嘘じゃない、とだけ」
「そうか……。いや、それでいいんだ」
「でも、あの刑事は諦めていませんでした。何か[#「何か」に傍点]を探ってます、旦那様の身辺で」
「探られるようなことはしてないよ」
と、松永は冗談めかして言った。
会社の電話である。もちろん聞かれることはないにしても、下手なことは言えない。
「旦那様」
と、マチ子は言った。「あの晩[#「あの晩」に傍点]のことは憶えておいでですね」
「何のことだ?」
「旦那様が初めて私の所へおいでになった夜です。あの夜、お帰りになった時は、見たこともないくらい、ひどいご様子でした」
「ああ……。そうだったな」
「しかもあの時計を落とされて。――腕時計をされていないのに、私、気が付いていました」
「何が言いたいんだ」
「別に。――私は、もちろん何も話しませんけど。でも、絹代さんにクビにされるのは、たまりません。いやです」
「おい、マチ子――」
「私は旦那様のためなら、何でもします。どんなことでも。――絹代さんは、ただ旦那様にたかって、お金をせびるぐらいのことしかしないでしょう」
松永は、別人のようなマチ子の話し方に、圧倒された。
「分った。ともかく、電話じゃどうにもならん。パーティが終ったら、ゆっくり話そう。いいな」
「はい。お仕事中、失礼しました」
マチ子は、いつもの、少し子供じみた声に戻っていた。「これから、旦那様のバースデーケーキをもらって来ます。ご覧になって、びっくりなさらないで下さい」
マチ子は楽しげに言って、電話を切った。
松永は、受話器を戻し、息をついた。
こんなことで、困らされることがあろうとは。たかが[#「たかが」に傍点]使用人のことで!
しかし、思っていた以上に、困った事態になりつつある。マチ子も、絹代も、決して後にはひくまい。
もちろん、どっちと言われれば、絹代にやめられた方が、ずっと困るのだが、マチ子はその気になれば松永を危険な立場に立たせることができる。といって……二人を一緒に置いておくことは、短い期間ならともかく、長くは難しいだろう。
「困ったな……」
と、松永は呟いた。
しかし――マチ子の言い方には、確かに引っかかるところがあった。「何でもします」「どんなことでも」……。
一体、何を[#「何を」に傍点]するというのだろうか?
松永は頭を振った。――今は、マチ子のことなど、どうでもいい。
もっと考えなくてはならないことがある。差し迫って、やらねばならないことが……。
大内は目を覚まして、ベッドに起き上った。
眠るつもりではなかったのに……。
それに、眠っても少しも体は休まらなかった。汗をかいて、むしろ疲れている。
夢に追われたような、そんな気分だった。
トントン。――ドアがノックされた。
誰か来たのか。それで目を覚ましたのだろう。
「――どなた?」
と、大内は声をかけた。
少しの間があって、
「|君《きみ》|原《はら》小百合です」
少女の声に、大内はホッとした。
「待ってくれ……」
ベッドを出て頭を振る。――まるで徹夜明けのような、妙な気分だ。ゆうべは充分に眠ったはずなのに。
ドアを開けると、小百合が少しおずおずとした様子で立っていた。
「お邪魔してごめんなさい、何回も」
「構わないよ。少しウトウトしていたんだ。入って」
「いいの?」
「ああ。もう起きなきゃいけない時間だ」
大内は、小百合を中へ入れて、「そうだ。誕生日だね、今日は。おめでとう」
と、言った。
「どうも……」
小百合は、大内の顔をまじまじと眺めて、「顔色、あんまり良くないけど」
と、言った。
「悪い夢を見たらしいな。憶えていないけど疲れちゃったよ」
「私……帰った方がいい?」
小百合の言葉は切なかった。
「いや、座っててくれ。ちょっと顔を洗って来る」
大内はバスルームに入って、お湯をためて顔を洗い、ローションをつけて、スッキリさせた。
「――ひどい顔だ」
確かに、鏡の中の自分は、まるで何日も血を飲めずにいる吸血鬼もかくや、という感じである。
パーティ。――そう、今夜のパーティが、大内は怖かったのだ。
仕事、と割り切れば、どんなことも苦にならない。しかし、今夜ばかりは、それですまないのではないか……。
「コーヒーでも頼もうかな。君は?」
と、大内は部屋へ戻って訊いた。
「じゃあ、私も……」
小百合はかすかに笑みを見せた。
フロントへ電話をしてから、大内はベッドの乱れを直して、そこに腰をおろした。
「学校の帰り?」
「今日は休んだの。おじいさんのことで、弁護士さんと会って」
「なるほど」
小百合の口は重い。話したくないのか、それとも話していいか迷っているのだろう。
大内は待っていた。待つことにかけては、ベテランだ。
「おじさん、奥さんは?」
と、小百合は訊いた。
「結婚する暇がなくてね」
と、大内は微笑んだ。「それに、これは、という女の人に会えなかったんだよ」
「そう? どうしてかな」
「そりゃ、人間ってのはそんなものさ。本当に知り合える相手なんて限られてるからね」
「そうね……」
小百合は、無理に笑顔を作って、「もっとおじさんが若かったら、好きになっちゃうのに」
「こりゃありがたいや。テープに|録《と》って、会社の女の子に聞かせてやろう」
と、大内は笑った……。
コーヒーが来て、二人はゆっくりと、あまり|旨《うま》いとは言いかねるコーヒーを一口ずつ、含むようにして飲んだ。
「――困ってるの」
と、小百合が言った。「あんまり色んなことが一度にあって……。どうしていいのか……」
小百合が突然涙を|溢《あふ》れさせた。次々に|頬《ほお》を伝い落ちて行く涙を、拭おうともしない。
「おい!――大丈夫かい?」
大内はびっくりして、カップを置くと、小百合のそばへ寄って、肩を抱いた。
小百合は、大内の胸に顔を埋めるようにして、声もなく、泣いた。――悲しくて、というよりは、たまりにたまっていたもの、じっと堪えていた、|苛《か》|酷《こく》な出来事への、張りつめた思いが、一気に溢れ出ているのだ。
大内は、胸もとに小百合の涙の冷たさを感じながら、泣くに任せておいた。
「――ごめんね」
小百合は、やっと顔を上げた。
「すっきりしたかい?」
「うん!」
小百合はしっかりと肯いた。
「よし。じゃ、涙を|拭《ふ》いて、鼻をかんでごらん」
「子供扱いしないで」
と、小百合はむくれて見せた……。
「――何だって?」
大内は、小百合の話を聞いて、思わず言った。「松永さんが……。確かなのかい?」
「私が言ったんじゃない。その|佐《さ》|川《がわ》っていう刑事さんが言ったのよ」
思いもかけない話だった。
「すると……その林田って刑事は、松永さんを尾行していて、殺されたんだね」
「ええ。もちろん、松永さんがやった、っていう証拠はないんだけど、きっと何か関係があるって。――法子のおじいさんが、そんなことをするなんて、とても信じられない」
大内は、考え込んでいた。
確かに、いつもの松永なら、そんなことは考えられない、と大内も思っただろう。しかし――大内も、知っている。
今の松永はどこか[#「どこか」に傍点]おかしい。何かが狂っているようなのだ。しかし――まさか刑事を殺すようなことをするだろうか?
「それで、その刑事は他に何を話したんだね?」
と、大内は言った。
23 宴
「さあ、一息でね!」
と、法子が言った。「小百合はともかく、おじいさんは無理かもね」
「|馬《ば》|鹿《か》にするな!」
と、松永がむきになって、「見てろ!」
「待って待って! カメラ!」
「ほら……。一、二、三!」
二つのバースデーケーキの上のロウソクが、一気にゆらめいて、消えた。ワッと上る歓声、拍手。
|一《いっ》|旦《たん》暗くなった広間が、明るくなると、二十人近い、小百合と法子のクラスメイトや、そのボーイフレンドから、ガールフレンドたちがまぶしげに目を細くした。
「おじいさんも|凄《すご》い! まだ元気ね」
と、法子は松永の肩をポンと|叩《たた》いた。
「当り前だ。お前が花嫁姿を見せてくれるまでは、頑張らんとな」
と、松永は笑った。「――さあ、みんな好きなように食べるなり飲むなりしてくれ。私は適当に失敬するからな」
音楽がかかる。――松永にはとても理解できない、テンポの早い、頭の痛くなりそうな音楽である。
音楽に負けじと大声でしゃべるのが、若い世代の好みなのかもしれない。松永は苦笑しながら、ワインを飲んでいた。
――法子は、ことさらにはしゃいでいた。
もちろん、自分がこの場を楽しくさせなくては、という気持もあったのだが、それだけではなかった。無理にでも、みんなと騒いでいないと、つい征人の方へ目が行ってしまうからだった。
今夜だけは――今夜だけは我慢しなくては。小百合のために。そう自分に言い聞かせても、法子の胸は痛んだ。
「――酔ってるのか?」
と、当の征人がやって来て、言った。
「まさか。シャンパンよ」
と、法子は笑った。
「飲み過ぎるなよ、いくらシャンパンでも」
「私は大丈夫。――小百合をお願い」
小百合は、一人でポツンとソファに腰をおろし、皿に取り分けた料理を食べていた。
クラスの子たちも、「法子に|招《よ》ばれて」来ているのだ。小百合のことは、どうしても敬遠してしまうのである。
「だけどなあ……」
と、征人は言った。
「お願い。話し相手になってあげてよ」
「うん」
と、征人は肯いた。
小百合は――幸せだった。
悲しいくらい、幸せだった。何はともあれ、征人が、手の届く所にいてくれるのだから。
それ以上は望まなかった。クラスの子たちが、自分を避けていることも、分っていた。
でも――小百合は慣れていたのだ。いつも、隅の方でおとなしくしている役回りなのだから。
「もっと食べる?」
と、声をかけてくれたのは、マチ子だった。
「あ――いえ、今はもう」
「若い人はもっと食べなきゃ」
「後でいただきます」
「今日は、旦那様だけじゃなくて、あなたも主役なのよ。もっと堂々としていなきゃ」
小百合は、ちょっと戸惑った。もちろん、マチ子の言葉は嬉しかったが、マチ子にそんなことを言われるとは、思ってもいなかったのだ。
マチ子は大人しく、無口で、ただ言われた仕事を黙々とやるタイプの人だ、と小百合は思っていた。それが、まるでずっと年上の[#「ずっと年上の」に傍点]女性のような話し方をしている。
小百合は、マチ子がまるで別人のように見えることに、急に気付いたのだった。
「――これ、食べない?」
と、皿が差し出された。
料理の取り合せはいささか妙だったが、
「ありがとう」
と、小百合はすぐに受け取った。
持って来てくれたのは、征人だったのだ。
「あらあら」
と、マチ子が笑って言った。「やっぱり運び手次第みたいね」
「あの――別に、私――」
と、小百合が言いかけると、
「いいのよ。沢山取って来てもらって、食べなさいね」
と、マチ子は楽しげに言って、小百合のそばを離れて行った。
征人は、小百合の隣に座って、
「旨いな、この料理」
と、自分の皿をすっかり空にしてしまう。「きっと高いんだろうな」
「そうね」
小百合も、少し料理を口に入れた。
「もっと、みんなの所へ行ったら?」
と、征人が言うと、小百合は目をそらして、
「迷惑するわ、みんな」
「友だちだろ」
「でも、無理ないわよ。こうして、一緒の部屋にいてくれるだけでも、ありがたいと思わなくちゃ」
「そんなことないよ。みんな――」
「私も疲れてるから。あんまり色んな子と話すと、気をつかって、もっと疲れるわ」
「そうか」
征人も、あまりしつこく言わない方がいいと思い直したようだ。「大変だろうけど……元気出せよな」
ちょっと、聞いていて気恥ずかしくなるくらい、「気のきかない」セリフだったが、それでも小百合は嬉しかった……。
「やあ」
と、やって来たのは、松永だった。「お互い、おめでとうってわけだね」
「あの――」
小百合は立ち上って、「わざわざ私まで招んでいただいて……」
「座って、座って」
松永は小百合の肩に手をかけて、座らせると、「本当なら、君のおじいさんにも、来てもらいたかったがね」
「ええ……」
「君のおじいさんが無罪放免になったら、盛大にお祝いをやろうじゃないか」
松永は、前から少し飲んでいたせいか、いくらか酔っている様子だった。
「ああ、そうだ」
松永は行きかけて、思い出したように振り返ると、征人の方へ、「関谷君――だったかな?」
「はい」
と、征人が答えた。
「例のアルバイトの件だが、いい所が見付かりそうだよ。任せておきなさい」
「ありがとうございます」
「いや、何しろ法子の頼みじゃ、いやとも言えんからね」
と、松永は笑って見せた。「その内、連絡が行くと思う。しっかりやってくれよ」
「はい、それはもう……」
「今の若いのは、ちょっと辛い仕事だと、すぐに出て来なくなる。君はまあ、そんなこともないだろうが」
「はあ」
「じゃ、ゆっくりしていってくれ」
と、松永は手にしていたウィスキーのグラスを、ちょっと揺って見せて、「これを飲んだら、そろそろ退散するよ」
ニヤリと笑って、いささか場違いな、若い人たちの中を歩いて行く。
小百合は、征人が自分から目をそらしているのに、気付いていた。
「――アルバイト、捜してもらったの」
と、小百合は言った。「良かったわね」
「うん……」
征人は曖昧な調子で、「彼女が、頼んであげるって言ったもんだからね」
小百合は、友だちとおしゃべりしながら笑っている法子へ、じっと燃えるような目を向けていた。――おじいさんに頼んであげるわ。私のおじいさん、偉いんだから。
そうよ。小百合のおじいさんみたいに、女の子を殺したりしないんだから……。
「ちょっと、飲みものがほしい」
と、小百合が言うと、征人は却ってホッとした様子だった。
「持って来るよ。コーラでいい?」
何でもいい。何でも。――毒入りのコーラだって構わないのよ。
小百合は、皿をわきへ置いて、立つと、広い窓の方へと歩いて行った。もちろん、外は夜で、暗かったが、庭にも照明があるので、いくらかは様子が分った。
窓ガラスに顔を近付けると、吐く息でガラスが白くくもる。――法子は、もうしっかりと征人を、捕まえてしまっている。クモが糸でからめとってしまうように。
私には、何もできない。彼のために、何もしてあげられない……。烈しい勢いで、やりきれない思いがこみ上げて来て、小百合は急いで部屋を出た。
二階へ駆け上ろうかとも思ったが、そうせずに、廊下を奥の方へ、少し薄暗がりになった辺りまで行って、足を止めたのは、待っていたからだろうか?
でも――きっと来やしないだろう。来るはずがない。私の後なんか、追いかけて来るはずが……。
「どうかしたの?」
振り向くと、征人がジュースのコップを手に、やって来るところだった。「コーラが、ちょっと切れちゃってて……」
「ありがとう」
と、小百合は受け取って言った。
「どうしてこんな所に」
小百合は、ジュースを飲もうとはせず、じっと征人を見つめた。
「征人さん……」
「うん……」
「法子のこと、好きなんでしょ」
「好きって……。会ったばかりじゃないか。それに――」
「私にキスできる?」
自分の言葉ではないようだった。誰か、見たこともない女の子が言ったのだ。だって、私にそんなこと、言えるわけがないもの……。
「ねえ――」
「できないでしょ。法子が好きだから」
困らせてはいけない。困らせ、追い詰めたら、征人はもっと遠くへ行ってしまう。――分っているのに。
「まだ君、子供じゃないか」
と、征人は言った。「そうだろ?」
「そうね。――変なこと言って、ごめんなさい。コーラで酔ったのかな」
征人はホッとしたように、微笑んで、
「じゃ、戻ってるよ、僕は」
と、行ってしまった。
私から逃げられてホッとしてるんだ。――参ったよ、あの子には。法子に、きっとそう話すのだろう。だって、キスしてくれなんて言うんだぜ……。
その征人の声、それを聞いた法子や、クラスの友だちの笑い声が耳に届いて来るような気がして、小百合はよろけた。
コップが落ちて、ジュースが廊下のカーペットにぶちまけられるのも気付かず、両手でしっかり耳をふさぐと、目をつぶった。
法子……。どうして私からあの人を盗ったの! 返して! 返してよ!
すると、誰かの手が、小百合の肩に置かれた。
神山絹代は|苛《いら》|立《だ》っていた。
マチ子が、落ちつき払っている分だけ、絹代の苛立ちは増した。
しかも――これは絹代も認めないわけにはいかなかった――マチ子は、何人ものパートの主婦や、バイトの女の子たちを使って、立派にパーティの用意をすませてしまった。
あたかも、絹代に、
「もう、あなたは必要ありません」
と、言ってのけたようなものだ。
実際のパーティそのものは、絹代とマチ子が二人で運営している。法子の友だちがやって来る前に、松永の仕事関係の客が何人か集まって、別室で簡単な会があったのだが、そっちもマチ子が一人で動き回り、巧みに絹代に手出しをさせなかった。
そして今もまた……。
絹代は苛立っていた。――帰って来た松永に、マチ子のことをはっきりさせてもらおうとしたのだが、
「パーティの日だ。そんな話はしたくない」
と、いやな顔をされてしまった。
一体マチ子は、松永の何を[#「何を」に傍点]握っているというのだろう?
絹代は広間の隅に立って、マチ子が、若い子たちに料理をすすめたり、取り分けたりするところを見ていた。
――そう。何か[#「何か」に傍点]あったのだ。
人間は、ああも短い時間で、大きく変れるものではない。恐ろしいほどの変り方には、よほどの理由があるはずだ……。
ふと、絹代は思い付いた。――マチ子は当分、ああして忙しく動き回っているだろう。絹代の姿が見えなくなったところで、どうということもあるまい……。
絹代は、静かに広間を出た。
廊下を奥へ。足早に進んで、マチ子の部屋の前まで来た。チラッと振り返ってから、そのドアを開け、中へ滑り込んだ。
それほど広い部屋ではない。せいぜい六畳間ぐらいの広さ。ベッドがあり、つくりつけの戸棚。
別に目当てがあるわけではなかった。何が見付かるか、見当もつかない。
ただ、マチ子の変りようを理解する手がかりが、ほしかったのだ。
しかし、ものを片付けることにかけては、誰にも負けない絹代だが、「にわか空巣」としては、何とも不器用だった。
戸棚を開けてざっと見回し、引出しも一つずつ開けるが、それだけ。――これで何も見付かるはずがない。
絹代は、息をついて、てのひらの汗を拭った。どうしても、後ろめたい思いがあるので、緊張してしまうのである。
しっかりして! もっと手早くやれないの?
何か、マチ子が隠したいものがあるとしたら? どこへしまっておくだろう?
絹代は、床に|膝《ひざ》をついた。ベッドのシーツが、床すれすれまで、垂らしてある。いつもは、マットレスの下へ折り込まれているはずだ。
そっとシーツをめくってみる。――何も見えないが……。
いや、何か、布にくるんだものがある。それも、ずっと奥の方へ押し込んであった。
不自然に、無理に押し込んだ感じである。絹代は、思い切って床に|腹《はら》|這《ば》いになると、ベッドの下へ、手を突っ込んだ。ごわごわした感じの布が触れる。
つかんで、何とか引張り出すと、それはコートだった。
コートをなぜ、こんな所へ押し込んでいたのだろう? 絹代は、しわくちゃになったそのコートを手に、立ち上り、振ってみた。
別に変哲もない、大して高価とも見えないコートで、マチ子が着ていたものに間違いない。
絹代は、コートを裏返してみて、|眉《まゆ》を寄せた。内側に、黒く、汚れが広がっている。黒く?
明りにかざして、その汚れを見た絹代は、
「まさか」
と、呟いた。
長年家事をやって来たのだ。汚れは色々見慣れている。これは――たぶん、血[#「血」に傍点]の汚れだ。
なぜ、コートの内側にこんな風に血がついたのだろう? マチ子がけがをしている様子はなかったが……。
もう一度コートを振ってみて、絹代は、少し重い感じがするのに気付いた。何か入っている。
ポケットを探って、それ[#「それ」に傍点]を取り出した時、絹代の顔は青ざめていた。台所で使っていた肉切り包丁。その刃は、血で汚れ、乾いていた。
何なの、これは? 思わず絹代は包丁を取り落とした。
誰か呼ばなくちゃ! 誰か――そう、旦那様に話そう。そして警察を……。
ドアの方へ向いた絹代は、いつの間にかそこに立っていたマチ子と、相対することになった。
法子は、いつの間にか、征人の姿が見えなくなっているのに気付いた。
もちろん、広間からちょっと出ることだってあるだろうし……。トイレにでも行っているのかもしれない。
そう思って、クラスの女の子たちとおしゃべりしていたのだが……。
気付いてからでも、十五分も戻って来ない。――どこへ行ったんだろう?
そして、法子は、小百合も見えないことに気付いた。いつからいなくなったんだろう?
「――ね、小百合、見なかった?」
と、訊いてみても、誰も知らない。
もともと小百合と松永のためのパーティなのに、今はもう、ただの「パーティ」になってしまっている。当の主人公は二人ともいないのである。
法子は広間を出た。廊下をマチ子がやって来た。
「マチ子さん。――小百合を見なかった?」
と、法子が訊くと、マチ子は、ちょっとの間ポカンとして、
「いえ……。存じません」
と、首を振った。
「ありがとう」
――マチ子さん、どうしたんだろう? 息を切らしてるみたいで、赤い顔して。
疲れたのかな。パーティの仕度って大変だろうから。
それにしても……。征人と小百合。二人ともいないというのが、法子には気になっていた。
もちろん、そんなこと[#「そんなこと」に傍点]はない。小百合だって、恋を語るなんて余裕はないはずだ。
でも、法子は、征人にわざわざ言ってやったのだ。相手をしてあげて、と。
二人で一緒にいるのだろうか? でも――どこで?
しばらく、法子は廊下に立ち尽くしていた。そして、階段を上り始めた。
小百合の部屋。――小百合を泊めている部屋。
二人が、二人きりでいるとしたら、そこしかないだろう。
法子は、足が自然に動いて、二階へと上り、小百合のいる部屋へと向っていた。
行ってはいけない。もし、本当に[#「本当に」に傍点]小百合が征人と二人でいるのだったら、そこへ法子が入って行ったらどうなるか。
しかし――|止《や》められなかった。
胸苦しさに、息が荒くなるほどだった。まさか、小百合が征人に抱かれてるなんてことが……。
そんな馬鹿なことがあるわけはない。
小百合……。私の彼[#「私の彼」に傍点]を、盗らないで!
ドアは閉っていた。耳を澄ましても、何も聞こえて来ない。
どうしよう? 入ってみるか。それとも……。せめてノックしてから?
しかし、法子はドアを開けていた。黙って、いきなり開けたのだった。
――部屋は静かで、明りも消したままだった。
何てことはなかったのだ。法子は、息をついて、自分の思い過しに、笑いたくなった。たぶん、征人は征人で、小百合は小百合で、どこかにいるんだろう。それとも、この家の中で迷子になってるのかな?
法子はドアを閉めようとして……。少し、目も慣れたのだろう。奥のベッドが、少し盛り上っているのに気付いた。
小百合?――気分でも悪いのかしら。
法子は、歩いて行って、そっと|覗《のぞ》き込んだ。
小百合が眠り込んでいる。毛布をしっかり顔の半分ほどまでかけて。
くたびれたのか。大体、パーティのような場は得意ではない小百合である。
法子は、毛布が曲っているのを、直してやろうとした。――小百合の肩が、つややかに光った。
小百合……。どうして服を脱いでるの?
法子は、ゆっくりと毛布をめくって行った――。
「あら、法子、どうしたの?」
パーティに戻ると、クラスの女の子が、声をかけて来た。「顔色が良くないみたい」
「少し悪酔いよ」
と、法子は答えた。「ねえ。――関谷君、知らない?」
「関谷? ああ、あの子ね、ちょっと見た目のいい」
「いないの。見かけなかった?」
「さあ……。法子、予約[#「予約」に傍点]してたの?」
「そんなんじゃない」
と、首を振って歩き出した。
体が震えるようだった。――征人が、小百合を抱いたのだ。他の誰と小百合があんなことを……。
小百合は裸で、ぐっすりと眠り込んでいた。
征人はどこへ行ったんだろう? 法子と会うのが辛くて、帰ったのか。
「――あ、法子」
と、友だちが法子を見付けてやって来た。「これ、さっき預かった」
メモを渡されて、法子はドキッとした。征人だ、と直感した。
走り書きで、〈君の部屋にいる〉とだけあった。
私の[#「私の」に傍点]部屋に? 待っているから来い、というのだろうか?
小百合にあんなことをしておいて、今度は私に?――信じられなかった。
行ってみるしかない。法子は、再び広間を飛び出した。
二階へと階段を駆け上る。――自分の部屋のドアを、少しためらってから、大きく息を吸い込んで、開ける。
部屋は暗かった。法子は、確かに明りを|点《つ》けておいた記憶がある。
「征人さん」
と、法子は言った。「いるの?」
手をのばして、明りを点けようとした時、いきなり、誰かの手が法子を背後から抱きしめた。同時にドアが音をたてて閉じる。
「やめて!――何よ!――何するの!」
法子は、体を持ち上げられ、手足をばたつかせた。
「誰? 征人さんなの? ふざけるのはよして!」
ベッドの上に、投げ出された。起き上ろうとした法子の上に、黒い影がのしかかって来た。大きな、力強い手が法子の口をふさぐ。
法子は、恐怖に凍りついた。征人ではない! しかも、相手はふざけているわけでも、遊んでいるわけでもなかった。
ねじ伏せるその力には、荒々しさが――はっきりした「悪意」があった。
法子は|身《み》|悶《もだ》えした。服を引き裂かれる音を聞いた。叫ぼうとして、声が出ないのは、口をふさがれたからではない。恐ろしさのあまりだった。
抵抗など、無と同じだった。両手を重ねて頭上高く押えつけられ、足を割られた。
か細い声が|喉《のど》から|洩《も》れる。もがくことも、顔をそむけることもできなかった。
やめて!――お願い!
こんなことが、どうして? 私の部屋の中で――。
突然、明りがついた。
「――離れなさい」
と、男の声がした。「その子から、離れるんだ」
先に、法子には、ドアの所に立っている、|拳銃《けんじゅう》を持った男が目に入った。
「警察の者だ。――ベッドから下りなさい」
その時になって、初めて法子は自分の上にのしかかっていた男を見た。
――自分の祖父の顔[#「祖父の顔」に傍点]は、別人のように、|歪《ゆが》み、汗をうかべて、青ざめていた。
夢なんだわ、これは……。きっと、悪い夢なんだ。
「さあ、松永さん。――そっちへ行って、|椅《い》|子《す》に座って下さい」
松永は、ゆっくりと動いて、椅子に身を沈めた。
「佐川です。林田さんと一緒にお会いしましたね」
と、その刑事は言った。「この子はあんたの孫でしょう! 何てことを!」
「君らに分るか」
と、松永はかすれた声で言った。「この子は、私のものだ」
「お話はゆっくり聞かせてもらいますよ」
と、佐川は言った。
ドアが開くと、顔を出したのはマチ子だった。
「一一〇番してくれたかね」
と、佐川は言った。
「はい。でも――」
「この男をかばって、嘘をついてたね。君は。しかし、見ただろう。こんな子供にまで手を出す男なんだ」
マチ子が部屋へ入って来た。
「君、下にいて、パトカーが来たら、ここへ案内してくれ」
「パトカーは来ません」
と、マチ子は言った。
「何だって?」
佐川は、松永から目を離すわけにいかなかったのだ。もちろん、まさかマチ子が敵だとは思っていなかったのである。
マチ子が言った。
「あなたの上司を殺したのは、旦那様じゃありません。私です」
同時に、佐川の背に、刃物が突き立っていた。
――法子は叫びをのみ込んだ。松永もまた、腰を浮かした。
佐川が、よろめき、膝をつくと、床に転がった。マチ子が肩で息をついた。
「旦那様には……分っていただけますね」
「マチ子――」
「林田って刑事も、この人も……。絹代さんも、私の幸せを邪魔しようとしたんです。旦那様。あなたがどんな方でも構わないんです、私……」
マチ子は、血に汚れた刃物を、もう一度、しっかりと構えた。
法子は、マチ子にとって、自分も[#「自分も」に傍点]また邪魔者だということに気が付いた。
「おじいさん!」
と、法子は叫んでいた。「止めて!」
マチ子の目は、|烈《はげ》しい殺意で、本物の刃が刺すよりも早く、法子を射抜いていた。マチ子は法子に向って、|大《おお》|股《また》に突き進んだ。
ドアが大きく開いた。
「やめろ!」
と、叫んで誰かが飛び込んで来る。
大内だった。
マチ子が振り向く。構えた刃の切っ先に向って、大内の体はぶつかって行った。大内の両手がマチ子の首を|促《とら》えた。
同時に刃は大内の体内に食い込んでいた。マチ子が|仰《あお》|向《む》けに倒れ、大内がのしかかった。
マチ子の首を絞める大内の指の力は、衰えなかった。マチ子が真赤な顔で、もがいた。
大内の体から溢れ出た血が、マチ子の胸から下のカーペットへと広がって行くと、やがてマチ子がぐったりと力を失い、動かなくなった。
そして、大内は、身動きできずにいる法子の方へ顔を向けると、
「悪い……夢ですよ」
と、呟くように言って、マチ子の上に重なるように伏せ、動かなくなった。
松永が、よろけて、立ち止った。
「何だ……。どうしたんだ、|俺《おれ》は……」
松永は、弱々しい、一人の老人になっていた。
――廊下へよろけ出た法子が、人を連れて戻った時、松永は、床にうずくまり、一人すすり泣いていたのだった……。
エピローグ
「一体、何が起ったの?」
と、小百合は言った。
「分らん」
君原|耕《こう》|治《じ》は首を振った。「ともかく――人が死に、犯人は捕まった。それだけのことだよ」
君原は、ずいぶんやつれて、何年も一度に|年齢《とし》を取ったように見えた。
タクシーは、松永の屋敷の近くに来て、|停《とま》った。
「ここから歩こう」
と、君原は言った。「少し運動せんとな」
「大丈夫なの?」
「ああ。もう心配ない」
と、君原は笑顔を見せた。
三月に入って、大分暖かくなっていた。
君原が釈放されたのは、あの少女を殺した本当の犯人が、逮捕されたからだ。同様の暴行事件を起こそうとして、失敗し、パトロールの警察官に見付かったのである。
|水《みず》|口《ぐち》という刑事は、一言も|詫《わ》びるでもなく、|面《おも》|白《しろ》くもない、という顔で君原を自由にした。
「あのマチ子さんって人……。結局、三人も殺しちゃったわけね」
と、歩きながら、小百合は言った。「林田って刑事さん、神山絹代さん。そして――大内さん」
佐川刑事は重傷だったが、命は取り止めたのだった。
「|真《ま》|面《じ》|目《め》な子だったそうじゃないか。――一歩踏み外したばかりに、次から次だ。怖いもんだ」
と、君原は首を振った。
「法子のおじいちゃんが、あの人を――」
「不思議だな」
と、君原は言った。「人間、悪魔に|魅《み》|入《い》られる瞬間というものがあるのかもしれないな」
門は開いていた。――玄関の方へ歩いて行くと、待っていたようにドアが開いた。法子が立っていた。
「法子」
「小百合……。来てくれたのね」
「いけなかった?」
「そんなこと……。君原さん、良かったですね」
「ありがとう。小百合にくっついて来てしまったよ」
法子は小百合たちをダイニングへ通した。
「ちょうどデザートを作ってたの。よかったら、どうぞ」
「ありがとう。――おじいさんは、どうなさってる?」
君原の問いに、法子は、ちょっと目を伏せて、
「すっかり老けちゃって……。もう会社の役職も、全部退いて、ずっと家にいます。――マチ子さんも、絹代さんも、自分が殺したようなもんだ、と、時々泣いて……」
「あんまり考えないことだ」
君原は、法子の肩を叩いた。「ちょっと|挨《あい》|拶《さつ》して来るかな」
「ええ。きっと喜びます。居間に――」
「分った。コーヒーを|淹《い》れておいてもらえるかな」
「はい」
法子は、まだ少し青ざめていたが、大分立ち直って来ていた。ショックで眠れない日が何日も続いたのだ。当然のことだろう。
松永は、結局、直接には誰も殺さず、傷つけてもいない。しかし、事件の詳細が明るみに出ると、当然の|如《ごと》く、責任は取らねばならなかった。
「――おじいさん、二人とも、一度に|年齢《とし》とったね」
と、小百合は言った。
「これからどうなるんだろう」
と、法子は、疲れたように言った。
「法子――ここで暮すんでしょ、これまでの通り」
「うん。だって……やっぱりおじいさんを放っとけないもの。今のとこ、お手伝いさん見付からなくて、私が食べるものとか、やってるんだし」
「お嬢様には大変だね」
と、小百合はからかうように言った。「――ね、法子」
「うん?」
「何があったんだろうね、法子のおじいさんに」
法子も首を振った。
松永は、小百合を二階へ連れて行って、薬を入れたコーラを飲ませ、寝入った小百合を裸にして寝かせておいたのだ。――法子が捜しに来ることを、おそらく承知していたのだろう。
「おじいさん自身も、よく分らないみたいなの」
と、法子は言った。「私と小百合を、憎み合せるのを、楽しんでたみたい……。どうかしてたんだわ。本当に」
「法子の首を絞めて――」
「でも、殺さなかったと思う。きっと。――絶対に、私を殺したりしなかったわよ」
法子は自分へ言い聞かせるように言った。「私のことを、可愛がりすぎたのよ。誰か、他の男の子にとられるのがたまらなかった、って……」
法子は、誰にも話していなかった。――法子がシャワーを浴びた後、裸でいるのを、祖父が見てしまったことを。
あの一瞬が、もしかしたら、祖父をこんなところまで追いやったのかもしれない、と法子は思っていたのだ。
「征人さんと――」
と、小百合が言った。
「え?」
「征人さんのこと。あれから、会った?」
法子はためらっていた。小百合にとっては返事を聞いたのと同じだ。
「慰めてもらえばいいじゃない」
と、明るく言ったが、少し声は震えた。
「ごめんね、小百合」
法子は目を伏せた。「でも――今、どうしてもあの人に会っていたいの。そうでもしないと……」
「構わないのよ」
「でも、小百合が好きになった人なのに」
「本当に、いいのよ」
小百合は、明るい光の射し入る窓の方へと歩いて行って、表を眺めた。
私が好きになっても、向うが好きになってくれなかったら……。
一転して、小百合よりも法子の方が同情を集める立場になってしまった。征人は、きっと法子を優しく慰めているだろう。
小百合の胸が引き絞るように痛んで、思わず息をつめた。――ふと、小百合の顔の上を影がかすめて行った。
鳥? 何だろう?――記憶の奥底で、何かがはばたいた。
こうなることを、予感[#「予感」に傍点]したあの日のことを、思い出していたのだ。法子が、私の恋人を奪って行く……。
やめて! そんなことしたら、殺してやる[#「殺してやる」に傍点]から!
そう。そうなのだ。
殺意というものが、あまりにも簡単に生れて来ることを、小百合はあの日、知ったのだった。
友情とか、肉親の愛とか、そんなものはいかに|脆《もろ》いものか。たった一人、ついこの間まで見も知らぬ男だった人間が、間に入って来るだけで、友情は敵意に、そして殺意にも変るのだ。
コーヒーを|淹《い》れて、法子は自分で紅茶を作った。
「小百合も?」
「うん」
「私、ハチミツ入れるわ。どうする?」
「私、ノーシュガー」
と、小百合はちょっと気取った。
「――固いなあ」
ハチミツのびんを開けられなくて、法子が苦労している。
小百合は、大内のことを思い出した。
大内も、結局、法子を助けて死んだのだ。――新聞などでは英雄扱いだったが、小百合は知っている。
大内は、どこか小百合と似た、寂しい人間だったのだ。その死に方も、寂しくなかったとは言えない……。
――ふと、ダイニングのテーブルにのったフルーツナイフに目が行った。
いかにも高そうなナイフだった。一点のくもりもないくらい、磨かれている。
小百合はそのナイフを手に取って、鏡のような、滑らかな表面に、自分の目を映してみた。
私はこれからどうするんだろう? 法子と征人が、恋人同士になり、婚約し、結婚するのを、見届けるのだろうか。それが私の役目なのか。
法子と征人に、
「おめでとう。お幸せに」
と、言ってやるのだろうか……。
「ふたが固い」
と、法子が手を振った。
法子さえ……。法子さえいなかったら。
そうなのだ。法子がいなければ、征人さんと私は――きっと――。
小百合は振り返った。
法子が、指が痛くて、顔をしかめながらも、ハチミツのびんと取り組んでいる。
小百合は、ナイフを持った手をダラリと下げて、法子の方へ、歩いて行った。
「ハチミツがこびりついてるのよ……。どうしても――」
法子が真赤になって開けようとしている。
法子……。あなたがいなければ……。あなたが……。
小百合は、ナイフを持った手を、静かに上げた。
「だめだ。――どうやったら開くんだろ?」
と、法子がため息をつく。
何も知らない法子。――本当に、だめな人なんだから。小百合は、突然、夢から覚めたように、自分が手にしたナイフを見下ろしていた。
どうするつもりだったんだろう、これで?
「小百合、開けてくれる?」
と、法子が言った。
「うん」
小百合は肯いた。「かしてみて」
ハチミツのびんを手に取ると、小百合はナイフの背で、ふたのへりをトントンと叩きながら、ぐるっと回した。そして、
「これで――ほらね」
と、力をこめて開けて見せる。
「小百合、力あるね」
「頭がない分ね」
と、小百合は言って笑った。
そして、フルーツナイフを静かにテーブルにのせる。
窓の外に、黒く羽ばたく鳥のような影は、高く上空へ舞い上ると、ゆっくりと旋回し、やがて遠くへ消えて行った。
――小百合は、ハチミツを入れた紅茶を飲みながら、親友へそっと微笑みかけたのだった……。
|殺《さつ》|意《い》はさりげなく
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成12年12月8日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2000
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『殺意はさりげなく』平成4年4月25日初版刊行
平成11年4月20日17版刊行