角川文庫
殺人を呼んだ本 私の図書館
[#地から2字上げ]赤川次郎
目次
第一の事件 この指にとまった幽霊たち
第二の事件 明日に希望を
第三の事件 殺人を呼んだ本
第四の事件 隠れんぼうした本
第五の事件 長い約束
第一の事件 この指にとまった幽霊たち
1
〈野々宮図書館──誰でも自由にお入り下さい〉
〈入るな! 立入禁止!〉
二枚の、相反する札の前で、松永三記子はどうしていいのか分らず、しばらく突っ立ったままだった。
ただ、一つはっきりしているのは、〈自由にお入り下さい〉の札の方がずっと古く、〈立入禁止〉の方は、新しい──といってもいい加減汚れてはいたが──ということだ。
新しいものの方が、当然後からかけられたとすれば、それに従うべきなのかもしれない。しかし、石造りで、表面をつた[#「つた」に傍点]が覆った古い建物には、どう見ても古い札の方が似つかわしく、その意味では、
「|俺《おれ》の方が主人だ!」
と、主張しているようにも見えた。
ともかく、いずれにしても、松永三記子はいつまでもそこに突っ立っているわけにはいかなかった。──まだ十月だというのに、晩秋のように冷えて、今にも雨が降り出しそうな空模様だったからだけではない。
三記子は、はっきりとした用事があってここへやって来ていたからだ。とはいえ、中に人の気配が全く感じられない、薄暗いこの建物を前にして、ひるまずにいるには少々三記子は若過ぎた。まだやっと十九歳。しかも小柄で、童顔なので、セーラー服でも着たら、高校一、二年で通用しそうだった。
「しっかりして!」
と、三記子は自分を励ますと、エヘン、と|咳《せき》|払《ばら》いをした。
そして入口の、開いたままの扉の所まで進んで行くと、思い切って、
「失礼します!」
と、声を出してみた。「どなたかいらっしゃいますか」
大声を出したつもりだが、実際は蚊の鳴くような──というほどでなくても、ごく普通の話し声を少々甲高くしたに過ぎなかった。その声でも、この静けさの中なら、充分に建物の奥まで響いただろう。
「誰かいませんか」
「どなたか」が、「誰か」になってしまったが、ともかくもう一度声をかけてみた。大分しっかりした声になっている。
だが、返事はなかった。──三記子はため息をついた。
どうしたものだろう? 勝手に上り込んでいいものやら……。
少し退がって、建物を眺めてみる。
ちょっと大きめの家、という程度の大きさ。図書館というには、少々小さいようだ。二階建ではないが、少し天井は高く造ってあるのか、屋根はやや高めである。
これ、本当に図書館なのだろうか?
大体、こんな所に図書館を建てて、一体誰が利用するというのか。周囲を見回して、三記子は首をかしげる。
この〈野々宮図書館〉は、林の中にある。しかも、道路からはほとんど目につかず、案内の図とか看板の類が道に出ているわけでもないから、たとえここを捜しに来た人でも、たいていは|諦《あきら》めて帰ってしまうのではないだろうか。
変な図書館だわ、本当に。──三記子が改めて建物を眺め回していると、ポツン、と冷たい雨が、一滴、|頬《ほお》に当った。
急いで、建物の玄関先まで入ると、一瞬の差で雨が降り出した。
たちまち本降りになり、目の前は灰色の幕で覆われてしまった。
このまま、誰も来なかったら、どうしよう? さすがに三記子が不安になって、やみそうもない雨空を見上げていると、
「──何か用かね?」
と、突然声をかけられ、三記子は、思わず、「キャッ!」
と、声を上げてしまった。
「いや、失礼」
と、その男は笑って、「びっくりさせるつもりじゃなかったんだ」
四十代の半ばかと思えるその男は、何となくこの建物には似つかわしくない印象を与えた。パリッとした背広姿で、ネクタイもいかにも|垢《あか》|抜《ぬ》けしている。また、それがよく似合う、知的な|風《ふう》|貌《ぼう》で、顔つきの若い割には白いものが混った髪も、知的な印象を強めている。
「あの──」
と、三記子が言いかけてためらうと、
「何か調べものかな? でもね、ここは普通の図書館じゃないんだよ。学校に図書館はないの?」
と、その男は|訊《き》いた。
「学校?」
「高校生だろ? 中学生?」
さすがに三記子もムッとした。
「私、小田先生に言われて来たんです」
と、その男をにらみつけてやる。
「え? それじゃ君が?」
と、その男は目を丸くして、それから笑い出した。
「──いや、失礼! ずいぶん|可愛《かわい》く見えたもんだからね」
「こう見えても、十九です、私」
「そうか。いや、すまんすまん。私は田所といって、ここの持主、野々宮さんの弁護士なんだよ」
弁護士。なるほどね、と三記子は思った。いかにもそんな感じだ。
「私、松永三記子です」
三記子が、名前の文字を説明すると、
「面白い名前だね」
と、田所は興味深げに言った。
そう言われるのは、三記子も慣れている。
「三女なんです。それに、母がものを書くのが好きで」
「なるほど。それで三記子か。いや、ここで働くにはふさわしい名前かもしれない」
と、田所は、楽しげに言った。「──おや、降り出したね」
やっと気が付いたらしい。
「上っても構いませんか」
「ああ、もちろん。君の職場になるわけだからね」
三記子は、かなり年代もののスリッパを取って、上ると、薄暗い廊下を見渡した。
「あの──私、何をすればいいのか、うかがってないんですけど」
と、三記子は言った。
「何だ、そうか。──いや、聞いたって、分らないだろうから、それでいいんだよ」
「はあ?」
「実際に、目で見てもらわないとね」
田所は、「さあ、ついて来なさい」
と、三記子を促した。
驚いたことに、この建物の一階に当る部分は、普通の家になっていた。|板《いた》|貼《ば》りの床と壁の、古い洋館という造り。──居間、食堂、台所……。
「ここが寝室だ」
と、田所がドアを開ける。
やたらに大きなベッドが二つ、並んでいる。
「あの……」
「何だね?」
「ここ──図書館じゃないんですか?」
まさか、〈野々宮図書館〉ってのが、人の名前で、そこでお手伝いさんをやれ、って言われるんじゃないでしょうね!
「図書館はこの地下にあるよ」
「地下?」
「そう。地下がかなり広い書庫になっている。君は、そこを管理するんだ」
「はあ……」
地下室か。閉所恐怖症ではないけど、陽の当らない所は、あまり好きとも言えなかった。
「で──ここは、どなたが住んでおられるんですか?」
三記子の質問に、田所はちょっと面食らった様子で、
「君、本当に何も[#「何も」に傍点]聞いてないんだね」
「そう申し上げましたけど」
「君が[#「君が」に傍点]住むんだ」
「私?」
今度は三記子の方が面食らう番だった。
「ここに住んで、君が管理人の役をやる、ということだ。もう持主の野々宮氏は亡くなって、ここは財団のものだ。しかし、もう利用する人もいないしね」
「閉めないんですか」
「それが、野々宮氏の遺言で、ここはずっと開けておかなくちゃならないのさ」
と、田所は肩をすくめて、「金持ってのは、変ったところがあるからね」
「じゃ、私──」
「荷物は?」
「え? ああ──あの、アパートに」
「じゃ、引き払って、ここに移ってもらうことになる。給料は、財団から毎月頭に振り込まれる。──それでいいね?」
確かに、悪い条件ではない。ここに住むとなれば、部屋代もいらないし、生活費もずいぶん浮くというものだ。
「この建物の部屋は自由に使っていい」
と、田所は言った。「ただし、勝手に誰かと共同生活したりするのは困るよ」
「そんなことしません」
と、三記子はまたムッとして言った。
「そうだね。君なら、まだ[#「まだ」に傍点]その心配はないだろう」
どういう意味だ?──三記子は、からかわれているようで、面白くなかった。
「じゃ、地下を案内しよう」
と、田所は言った。「ずっと下にいたのでね、君が呼んだのも聞こえなかった」
廊下の突き当りに、下りる階段があった。
「──こんな広い所、一人で住んだら、持て余しそう」
と、三記子が言うと、田所は、ちょっと妙な笑顔を浮かべて、
「なに、大丈夫さ。その内、仲間[#「仲間」に傍点]ができる」
と言った。
「え?」
「ここはね、幽霊が出るんだ」
田所の言葉に、三記子は目を丸くした……。
2
書庫の重々しい鉄の扉を開けると、もうそこには夜も昼もない。
いつも変ることのない|暗《くら》|闇《やみ》があるばかりである。
三記子は、明りのスイッチを押した。もう、手探りで捜さなくても、パッと手を出せば、スイッチに当るようになった。
「おはよう」
と、三記子は言って、中へ入って行く。
もちろん、誰も返事しやしないのだが、こうでもしないと、何となく落ちつかない。
──ここへ来てから、十日たった。
といっても、この書庫での仕事に手がついたのは、この二、三日のことで、ともかくここでも生活できるようにするために、ずいぶん手がかかったのである。
「でもねえ……」
悪い仕事ではない。それは確かだった。
給料だって、決して少なくないし、部屋代が不要となれば、ずいぶん楽というものだ。
実際、アパートからここへ移る時、手伝いに来てくれたボーイフレンドの竹内好男は、
「うまいことやったなあ」
と、何度もくり返していた。
何しろ、古い家といっても、設備はきちんと整っているし、それに広い!
一人で暮すには不便なくらいの広さである。
「僕も越して来ようかな」
という好男の言葉も、半ば本気だったろう。
本気なら、五、六人で生活してゆったりやれるほどの「屋敷」なのだから。──もちろん、田所にも言われていた通り、断固拒否したのだったが。
まあ、生活の方は慣れて来る。一人で住むのも、高校時代から、上京して一人でいたから、別にどうってことはない。
ただ参るのは、「仕事」──肝心の、仕事である。
仕事をしている間、ずっと一人[#「一人」に傍点]。
これには参ってしまう。
もちろん、職場の人間関係というやつが色々面倒なものであることは知っているから、それよりは一人の方がまし[#「まし」に傍点]じゃないか、と自分へ言い聞かせるのだが……。
それにしても、買い物にでも出なければ、丸々一日、誰とも口をきかない日があるのだ。いくら孤独を愛するといっても、程度がある!
──仕事はあった。
地下二階分の蔵書は、気が遠くなるほどの量で、かつ信じられないほど、めちゃくちゃに並んでいた。
これを整理して、分類し、きちんといつでも出せる状態にしておくこと。──これが、〈野々宮財団〉から与えられた指示である。
三記子は別に司書の資格を持っているわけではない。ここの蔵書は、それほど系統的に集められたものではないのである。
まず、蔵書について、古いノートに目録がある。これが本当に|揃《そろ》っているか、チェックすることから、仕事を始めた。
三日かかって、やっと地下一階分の蔵書のチェックを終えたところである。
「──さて、やるか」
と、三記子は|呟《つぶや》いた。
それにしても、野々宮というのは変った人だったのだろう。──何をしていた人物なのか、三記子はまるで知らないが。
「ええと、地下二階か」
古ぼけた台帳をかかえて、地下二階への階段を下りて行く。
古い建物で、地下室というわりには、換気はきちんとしているらしく、少しもじめじめしてはいない。ただ、本ばかりだから、どうしても|埃《ほこり》っぽくなるが。
「ええと……」
天井まで届く書架に、|梯子《はしご》を立てかけ、それに上った三記子は、本の背文字と台帳とを照らし合わせて行った。
──背文字が消えて、よく見えないのがある。仕方なく、手をのばして、抜き出してみた。
きちんと革の表紙をつけた、立派な本である。
何だろう?
三記子は、めくって中を見た。
すると──。
「失礼します」
という声。「どなたかいらっしゃいませんか」
遠くから、響いて来る。
三記子は、その本を取ったまま梯子を下りると、机の上にそれを置き、急いで階段を上って行った。
誰か来た時、分らないので、書庫の扉は開けたままにしてある。
やっと玄関先へ出て行くと、
「はい、何か?」
と、そこに立っていた女性に声をかけた。
「あの……」
いやに元気のない女性だった。──青白くて、今にも倒れそうに見えた。
年齢はたぶん、まだ三十代なのだろうが、やせてくたびれ切って見えるので、大分老けた感じである。
「何かご用でしょうか?」
と、三記子は|訊《き》いた。
「子供を捜しているんですけど……」
「は?」
「子供──うちの子供がここにいると思うんですけど」
何となく目がうつろだ。──こりゃ、少しおかしい[#「おかしい」に傍点]人なんだわ、と三記子は思った。
「ここにはいませんよ、誰も」
と、三記子は、丁寧な口調で言った。
「でも……確かにここにいる、と」
「ここには、私、一人しかいないんですよ」
と、三記子は言った。「子供さんがいなくなったんですか?」
「ええ……。薫というんです、まだ十歳で──」
「十歳の男の子? でもねえ、ここにはいないんですよ。ここ、図書館だから」
そう言うと、その女性は、パッと顔を輝かせた。
「図書館!──そうです。薫は本がとても好きでした。沢山持っていたんです」
「そうですか」
「じゃ、やっぱりここ[#「ここ」に傍点]だったんだわ……。良かった……」
と、何やら一人でブツブツ呟くと、「すみません、お邪魔をして」
と、頭を下げた。
「いえ、別に──」
「どうか薫を大事にしてやって下さい」
「は?」
「どうぞよろしく」
「はあ……」
|呆《あっ》|気《け》に取られている三記子にもう一度頭を下げ、その女は、ゆっくりと歩き出した。
やってられないわ、と三記子は肩をすくめて、戻りかけたが、ふと思い直して、
「あの、お名前は?」
と、振り向いて言った。
だが──その女の姿はなかった。
今、そこを歩いていたのだ。どっちへ曲ったとしても、見えなくなるわけがない。
三記子は、ポカンとしてその場に突っ立っていた。
「幽霊? まさか!」
と、竹内好男は笑って言った。
「ま、それが普通の反応でしょうね」
と、三記子は|肯《うなず》いた。
「どこかのおかしくなったおばさんが、やって来たってだけじゃないか。時間の感覚なんていい加減だからな。君はすぐ振り向いたつもりでも、結構たってたのさ」
竹内好男は、同じ十九歳。幼なじみの同郷で、今は大学の一年生である。
ヒョロリとノッポで、三記子と歩いていると、漫才のコンビみたい、とよく友だちがからかう。
しかし、万事に|呑気《のんき》で楽天家という点は、付合っていても疲れないゆえんだった……。
こうして一緒に食事をするのも、しかし、久しぶりではあったのだ。
いつもだとラーメンとギョーザ、といったメニューだが、今日は一応レストラン。二人にしては豪勢な食事である。
今夜は、三記子のおごりである。
三記子は一応月給取り。好男は学生の身なのだから。
しかし、そこは幼なじみの気楽さで、好男はいささかも遠慮することなく、ガツガツ食べまくっている。
「──よく食べるわねえ」
と、三記子は|呆《あき》れて、「人が幽霊に会ったっていうのに」
「いいじゃない、会ったら会ったで」
と、好男はのんびりと、「TVのワイドショーに売り込むんだよ、ほら、〈恐怖の心霊体験!〉とかさ。よくあるじゃないか」
「人のことだと思って!」
と、三記子は顔をしかめた。
「だって、君もショック受けてるわりに、よく食べてるじゃないか」
言いにくいこともはっきり言い合えるのが、幼なじみの良さ(?)である。
「──ま、いいけどね」
食事の後、コーヒーを飲みながら、「あのおばさんが、何のためにあそこへ来たのかなあって……。もし本当に幽霊なら──」
「おい」
と、好男が呆れた様子で、「真面目に信じてんの?」
「信じてるとか、信じてないじゃなくて、そういうことがあった[#「あった」に傍点]んだもの。それを認めない、っていうほど頭は固くないわ」
「ふーん」
と、好男は、何だか分ったような分らないような顔である。
「それにね」
と、コーヒーカップを置いて、「その後で、ちょうどその時、取り出していた本を開いてみたの」
三記子は、紙袋から、古ぼけた本を一冊出して、テーブルに置くと、
「これを見て」
と、表紙をめくった。
見返しに、〈薫〉と書かれている。
「薫って──」
「その女の人が言った子供の名よ」
と、三記子は言った。
「どういうことなんだ?」
「分らないわ」
と、三記子は首を振って、「でも、これをただの偶然だって片付ける気にはなれないの」
「でも、もし偶然でないとすると……」
「あの女の人が言った、『子供をよろしく』っていうのは、この本のことだったのかもしれないわ」
好男は肯いて、
「何かわけがありそうだな」
「明日ね、行ってみようと思ってるの」
と、三記子は言った。
「どこへ?」
「この本を寄贈してくれた人の家。台帳にちゃんとのってるの」
「ふーん」
と、好男は言って、「一人で?」
「さあね。優しい恋人なら、ついて来てくれるんじゃない?」
と、三記子が|微笑《ほほえ》む。
「大学さぼって?」
「私より大学の方が大事なら、構わないのよ」
「ついて行くよ」
と、好男は言った。「その代り、恋人っていうのなら、キスぐらいさせてくれたっていいだろ?」
「しっ! 何よ、こんな所で」
と、三記子は顔を赤くした。
ま、実際のところ、恋人とはとても言えない二人である。
「考えてみりゃ変なのよね」
と、三記子は考え込んだ。
「──何が?」
「あの図書館そのものが。およそ誰かに利用してもらおうって造りじゃないの。それに、本だって、いわゆる全集とか事典の類はなくて、あってもバラバラ。あちこちからの寄贈の本がほとんどらしいのね」
「金持だったんだろ?」
「そう……。それに、遺言で、あの図書館を閉めないこと、っていう……。それも妙な話よね。わざわざ一人雇って、管理させるほどの所とも思えないんだけど」
「きっと、その|爺《じい》さん、幽霊と付合いがあったんだよ」
もちろん、好男は冗談のつもりでそう言ったのだが、三記子は真顔で、
「そうかもしれないわね」
と、肯いたのだった。
3
真新しい、立派な住宅だった。
門構えもしっかりして、インタホンのボタンを押すのにも、ちょっとためらう感じである。
「──せっかくここまで来たんだから」
と、三記子は|呟《つぶや》いて、ボタンを押した。
なかなか相手が出ない。もう一度ボタンを押して、
「留守かしら」
と、独り言を言っていると、車の音がした。赤い、小型の車が走って来て停ると、
「──何かご用ですか?」
と、中から、若い女性が声をかけて来た。
──三記子は一人である。
あの夕食の翌日、三記子と好男は二人で、本を寄贈してくれた人を訪ねて行ったのだが、そこはもう別の人が住んでいて、二人は|諦《あきら》めて帰ったのだった。いや、ついでに映画まで見て帰ったのだが。
しかし、三記子としてはどうしても気になる。
結局、方々当って、やっとこの家を捜し当てて、やって来たのだ。
「木谷薫さんはこちらですか」
と、三記子が|訊《き》くと、その若い女性──二十四、五というところだろう──は、ちょっと面食らった様子で、
「木谷?」
「ええ。こちらが〈三田村〉さんだっていうのは分っているんですけど、木谷薫という人のことを捜していたら、こちらが連絡先になっていたので」
「ええ、ここでいいんです」
と、その女性は肯いた。「お待ちになってね」
門が、電動で開くと、車を中へ乗り入れ、その女性は、車を降りて来た。
「──どうぞ」
「はあ」
少し気後れしながら、三記子は、家の中へと通された。
客間で待っていると、
「どうも、すみませんね。冷凍食品を入れておかないといけないでしょ」
と、入って来て、「どういうご用件で?」
「あの、木谷薫さんとおっしゃるのは……」
「主人です」
「ご主人──」
「養子ですから。旧姓が木谷ですわ。今は三田村薫です。私、妻の文江です」
なるほど、と三記子は思った。
「そうですか。──いえ、実は妙な話なんですけど」
三記子は、ショルダーバッグから、あの本を取り出した。「これがご主人のものかどうか、うかがいたくて、こうして──」
「ずいぶん古い本ですね」
と、三田村文江は、珍しそうに眺めた。
「今、ある人の蔵書を整理しているんですけど、その中にこれがありまして」
三記子は、表紙をめくった。「──ここに、〈薫〉とあります」
「本当だわ」
と、|覗《のぞ》き込む。「でも本の中身は──」
「子供向けの、古い民話なんです。珍しいものじゃありませんけど」
「そうですか」
三田村文江は、ちょっと戸惑っている様子だった。
それはそうだろう。大体、三記子自身も、この本の寄贈主を捜して、どうするという気持があるわけではないのだから。
「あの──つまり、この本を持っておられた方が亡くなったんです。で、その持主の方が、もし返してほしいとおっしゃれば、お返ししようと思って」
出まかせである。
「まあ、わざわざ、ごていねいに」
と、文江は真に受けているらしい。「主人が帰ったら訊いてみますわ」
「そうですか」
三記子としても、まさか幽霊の話をするわけにいかないので、これぐらいで引っ込むしかない。「お邪魔して──」
と、立ちかけると、
「あ、ちょっとお待ちを」
と、文江が腰を浮かした。「主人、戻ったみたいですわ」
三記子は一人、客間で待っていた。
しばらくして、ドアが開くと、
「お待たせしました」
と、入って来たのは、三十代も半ばという感じの男だった。
──この人が「薫」?
ちょっとイメージが狂った。
もちろん、十歳の子供が出て来ると思ったわけではないが、あの母親──らしい女、と言うべきか──から受けた印象と、あまりにも違っていたのだ。
仕事から帰ったのか、きっちりと|三《み》つ|揃《ぞろ》いの服装で、「一分の|隙《すき》もない」という言い方がぴったり来るスタイル。
「僕に何か用とか?」
「あの──私、松永三記子といいます。〈野々宮図書館〉という所で、蔵書の管理を任されていまして」
「ほう。──それが何か?」
野々宮という名にも、一向に反応がない。
「この本なんですけど」
と、三記子は、本をその男──三田村薫の方へ押しやった。「ご覧になったこと、ありますか」
「古い本だな、また」
と、取り上げてめくった。「──いや、全く|憶《おぼ》えていないな」
「そうですか」
三記子は、本の見返しの〈薫〉というサインを指して、「これは、あなたのことではないんでしょうか?」
その〈薫〉という文字を見た三田村が、サッと青ざめた。それは三記子もびっくりするほどの変り方だった。
しかし、青ざめたまま、表情は変らなかった……。
「僕のことじゃないね」
と、本を置いて閉じる。
「違うんですか」
「僕は本なんか好きじゃなかった」
と、少し|苛《いら》|立《だ》った様子で、「こんな本にわざわざ名前なんか入れないよ」
「そうですか。でも──」
「君は何のためにこんなものを持って来たんだ?」
と、声を荒げて、「売りつけるつもりか? それほど甘くないぞ。帰りたまえ」
「売りつける、だなんて!」
三記子も頭に来た。「誰がそんなことするもんですか!」
「じゃ、帰ってくれ」
「帰りますとも。本をいただいて行きます」
三記子は、本をバッグへしまい込んだ。「あなたは、本なんて読んだことないんじゃありません?」
「役に立つものしか読まないんだ。そんなものを読んでどうなるっていうんだ? 馬鹿らしい! 広告のチラシでも読む方がまだ役に立つ」
なるほどね、と思った。
「一番お好きな本は銀行の通帳でしょうね」
と、言って、三記子は、「失礼します」
さっさと、三田村の家を後にしたのである……。
奇妙だった。
なぜ、三田村はあんなに怒ったんだろう?
あれが、ショックから立ち直ろうとする、「強がり」に過ぎなかったことを、後になって三記子は気付いた。
三田村は、あの本のことを、ちゃんと承知していた。──当然だろう。三記子は、適当に「薫」という名の人を訪ねて行ったのではない。
ちゃんと寄贈先から|辿《たど》って行って、三田村に行きついたのだ。それをなぜ否定する必要があるのだろう?
何か知られたくないことがあるのか?
養子の身だから、何か複雑な事情はあるのかもしれないが、しかし……。
「あの態度はないわよ!」
──三田村を訪ねて二日後、まだ思い出すと腹が立つが、同時に「腹が減る」のも確かで、午後から買い出しに出た。
近くのスーパーといっても、大分遠いので、バスで行かなくてはならない。
そこは一人の気楽さで、「自主的に休暇」ということにして、昼からのんびりと出かけて、帰ったのはもう夕方の五時近く。
両手に一杯の荷物をかかえている。
「ただいま、と。──あれ?」
いくら図書館でも、開けっ放しで出るわけにはいかない。|鍵《かぎ》はかけて行ったのだが、それが開いていて、靴まである。
誰か来たのだ。鍵を持ってるってことは、弁護士の田所かもしれない。
三記子は、急いで台所へ行って、冷蔵庫へ入れるものを入れてしまうと、地下の書庫へと下りて行った。
「田所さん?──田所さんですか」
と、声をかけてみるが、返事がない。
ふと、いやな予感がした。
たいていミステリーではこんな時、目の前に死体が転がっていたりするのだ。
地下一階には幸い(?)死体も生きている人間もいなかった。
もう一つ、下へ下りて行く。
「──田所さん? 大丈夫ですか……。成仏して下さいね」
と、勝手に死んだと決めてかかっている。
書架の間を覗いて行く。
この日、三記子は発見したのだった。書架の間というのは、実にいい隠れ場所であるということを。
で──ヒョイと覗いたとたん、ガツン、と頭を殴られ、目の前には見えるはずのない星空が広がって、そのままのびてしまったのだった。
──石頭、というのは、子供のころの三記子のあだ名[#「あだ名」に傍点]だったが、それには根拠がなかったわけでもない。
今回も、その石頭が、大けがになるのを救ってくれたのである。
「ああ……。痛い!」
気を失っていたのは、ほんの数分だったらしい。いくら石頭でも、殴られりゃ痛いわけで……。
「畜生! 誰だろう?」
と、ブツブツ言いながら立ち上ると、歩き出そうとして、何かにけつまずいた。
何よ、邪魔ねえ。──こんな所で寝ないでよ。
三記子はヒョイと下を見て……。
「田所さん!」
弁護士の田所が、うつ伏せに倒れている。顔を三記子の方へ向けているので、すぐに田所と分ったのだが、それにしても──。
やっぱり、ミステリーの通りだった!
犯人は?──とっくに逃げているだろう。
しかし、もしまだその辺にぐずぐずしていたら?
「来るなら来い!」
と、三記子は、腕まくりした。「来なきゃ来なくてもいいけど」
強がってはいるものの、こわごわ見て回った。結果、犯人は既に逃げてしまったと分ってホッと一息。
「あ、そうか。──一一〇番」
電話は、地下一階のデスクに置いてある。
三記子が受話器を取って、一一〇番へかけようとしていると、
「──おい」
「キャアッ!」
今度こそ、三記子は飛び上った。「お、お化け!」
田所がヌーッと立っていたのだ。
「誰がお化けだ」
と、田所は頭をさすりながら渋い顔で、「私は死んどらん!」
「あ──生きてたんですか」
「がっかりしたか?」
「いえ、別に……。おめでとうございます」
びっくりした時には、トンチンカンなことを言ってしまうものだ。「ご気分は?」
「頭が痛い」
「じゃ、頭痛ですね」
「私をからかってるのか?」
「いいえ! 私も殴られたんですもの。このかよわき乙女を」
「自分で言うのも珍しいな」
田所は、頭を振って、「コーヒーでもいれてくれんか。どうにもスッキリしない」
「どうぞ」
三記子は、結局一一〇番は後回しにして、上に上って行ったのだった……。
──コーヒーを二人で飲んでいる内に、大分落ちついて来た。
「しかし、君、勝手にそう出歩いては困る」
と、田所が言い出した。
「でも、食べるものだって必要です。おいでになるなら、電話でもいただければよかったんです」
「うむ。──一理ある」
「そうです」
「ま、それはともかく。泥棒にしては変っているな。何も|盗《と》って行った様子がない」
「ええ。ただの見学だったのかも」
「どうして殴って逃げるんだ?」
「犯人を見ました?」
「いや。いきなり後ろからガツン、だ」
「ご同様です」
「君、|狙《ねら》われる心当りは?」
「そりゃ、かよわい乙女ですから」
と、くり返す。「でも──そうだわ!」
飛び上るように立って、三記子は、地下へ駆け下りて行き、すぐに戻って来た。
「──どうした?」
と、田所が|呆《あき》れている。
「やっぱりです!」
「何が?」
「棚が乱れてました。犯人は、本を捜してたんですよ」
「本を?」
と、田所が目を丸くして、「そんな値打ものの本はここにはないぞ」
「特定の人にとっては、どうでしょうね」
「どういうことだね?」
「──田所さん」
「何だ、改まって」
「愛の告白をするわけじゃありませんから、ご心配なく」
「冗談はやめてくれ」
「この図書館の本って、どうしてあんな風に変ってるんですか?──名前が入っていたり、変なシミがついてたり……。まるで中身も揃ってないし」
田所は|肯《うなず》いて、
「気が付いたか」
「いやでも気が付きますよ」
「君なら気が付くまいと思ったんだが」
「馬鹿みたいじゃないですか、それじゃ」
「いや、そういう意味では──やっぱりそうかな」
「もう一回殴られたいですか?」
と、三記子は言った。
「やめてくれ。これ以上頭が薄くなっては困る」
と、田所が真顔で言った。「実はね、野々宮さんというのは変った人で──」
「それは分ります」
「君も気が付いた通り、ここにある本は、ごく普通に買い集めたものではない。金を出して買ったものも、もちろんあるが、当り前に本屋から買ったんじゃないのだ」
「どういうことですか?」
「野々宮さんは、犯罪とか、事件に大いに関心があった。──で、その関係者のものだったとか、現場にあったとかいう本を、色々手を回して集めていたんだ」
「変な趣味!」
「その通り。──たとえば君の言うシミ[#「シミ」に傍点]のついた本というのは、ディケンズだろう」
「ええ。〈クリスマス・キャロル〉です」
「あれはね、ある殺人事件で、被害者が抱いて死んでいたのだ」
「抱いて……」
「あのシミは、血なんだよ」
三記子はゾッとした。
「じゃ、他の本も?」
「いや、もちろん、どれもが殺人現場にあったわけじゃない。──しかし、若い女ばかり七人も殺した変質者が愛読していた本とか、一家心中する時、首を吊るために足の下に積み重ねた本とか……。ま、他にも色々とあってね」
三記子は、深呼吸した。
「そんな──そんなこと、前もって言って下さいよ!」
「言えば、君、ここへ来ないだろう?」
当り前だ!
しかし、三記子は、度胸のいい方である。かつ、好奇心も|旺《おう》|盛《せい》だ。
「ともかく、妙なことがあったんです」
と、田所に、木谷薫の母親らしい女が訪ねて来たこと、今は三田村というその当人に会いに行くと、顔色を変えたこと、を話してやった。
「──私も憶えている」
と、田所は肯いた。「それはね、しかし、幸運な本のはずだよ、珍しく」
「というと?」
「木谷薫というのは、当時十歳ぐらいだったかな。──父親の分らない子で、母親は病気がちだった。施設に入れられていてね」
「そうだったんですか」
「しかし、ある金持が、働いていた女に手をつけて生ませた子だったと分ったんだ。で、その金持に子供がなく、十歳ぐらいの時、引き取られて行った」
「じゃ、母親は?」
「うむ。──母親の方は悲劇だったな。子供には二度と会わないという約束をさせられてね。その代り、面倒はみる、と」
「お金持って、勝手だわ」
「そうさ。その母親は一年としない内に死んでしまった」
「死んだ」
三記子は言葉を|呑《の》み込んでしまった。
「うむ。その時、その女がしっかりと抱きしめていたのが、その本だ。子供が好きだったというのでね。我が子の代りと思っていたんだろう」
「じゃ──何ですか、その女の人、本当[#「本当」に傍点]に幽霊だったって……」
「だからそう言ったじゃないか。幽霊が出るよ、って」
田所は気楽な調子で言った。
4
「もうやめたら、その仕事?」
と、竹内好男が言った。
「簡単に言わないでよ」
と、三記子は顔をしかめる。「いいお給料だし、それに仕事そのものは嫌いじゃないもの」
「じゃ、何を悩んでるんだ?」
「悩んでないわ。お腹空いてるだけ」
──二人は、立ち食いのハンバーガーショップに寄った。
日曜の午後。もちろん図書館もお休みである。
「で、殴った奴は分ったのか?」
と、好男が|訊《き》いた。
「全然。──ま、バットを一本買ったから」
「バット?」
「護身用」
「却って危いぜ」
「やられっ放しって、趣味じゃないの」
「そりゃそうだけど……」
「でもねえ──気になるの」
「何が?」
「例の『薫さん』よ。──どうしてあんな風に否定したんだろ?」
「そりゃ、何かわけがあったのさ」
と、好男が当り前のことを言った。
「だって、母親の形見よ」
「昔のことを忘れたいんじゃないか。人間ってのは、そんなものさ」
「そりゃ分るわよ。でも……」
三記子は納得できない。
もし、三田村が、自分の身の上を隠しているとしたら、あの本のことを知らないと言ったのも分らないではない。
しかし、田所の話では、三田村家の養子になる時、ちゃんと調べられているはずだ、という。──おそらくその通りだろう。
それなら、なぜわざわざ隠す必要があるのか……。
「もう二十年以上も前の話だぜ」
と、好男が言った。「今さらほじくり返しても仕方ないよ」
「ほじくり返したのは、私を殴った誰か[#「誰か」に傍点]よ。そうでしょ?」
「しかし、ただの泥棒だったかもしれないじゃないか」
「ただの泥棒がわざわざ地下へ入って、本棚をかき回す?」
「うむ。──でも、だからって何を調べるんだ?」
「これから行ってみようと思うの」
「どこへ?──あの世に、母親に会いに?」
「やめてよ。真面目なんだから」
「分った。ごめんよ。どこへ行くんだよ?」
「その子のいた施設」
と、三記子は言った。「田所さんに教えてもらったの」
「木谷薫。──ええ、|憶《おぼ》えていますよ」
意外にも、すぐにその返事が返ってきた。
もう七十近いと思える、その園長は、白髪の上品な老婦人だった。
三記子としては正直なところ、まだその施設があるかどうかも、危ぶんでいたのである。
しかし、古ぼけてはいたが、それは今も三十人近い子供たちで、にぎやかに、活気に|溢《あふ》れていた。
「じゃ、園長さんは、そのころからここにおられたんですか」
と、三記子は訊いた。
「ええ」
その老婦人は肯いて、「まだ私も四十代で若かったし、記憶力も良かったんですよ」
と、笑った。
「今だってお若いですわ。とてもしっかりしていらっしゃる」
「ありがとう」
と、にっこり笑う。
「それで──木谷薫という子が、ある大金持の所へ引き取られて行ったのは、憶えていらっしゃいます?」
「ええ。もちろん、お教えはできませんけどね」
「それはいいんです。その薫って子のことですけど、本が好きでしたか」
「そりゃもう……。『本の虫』でしたね」
と、園長は|肯《うなず》いた。
「十歳でですか?」
と、好男は思わず訊いていた。
何しろ、本といえば、情報誌かカタログぐらいしか目にしないという、珍しい(?)大学生である。十歳にして、「本の虫」というのが信じられなくとも当然だろう。
「他に娯楽の少ない子たちですから」
と、園長は、静かに肯いて、言った。「一冊の本を、くり返し、くり返し読んでいたものですよ」
今の子供とはずいぶん違うんだ、と三記子は思った。三記子も本は子供のころから好きだった。好男みたいに、二段組の本を見ると反射的に頭痛がするという人間が信じられない。
「では、薫って子が、この本をよく読んでいたのを、憶えていらっしゃいます?」
三記子が取り出した、例の本をめくって園長は、
「まあ!」
と、声を上げた。「これが残っていたなんて……。この本、それこそ薫って子が、ボロボロになるくらい読んでいたんですよ」
「で、実の母親に──」
「そうです。──薫がここを出た翌日、やって来ましてね、この本を渡すと、じっと胸に押し抱いて、黙って頭を下げ、帰って行きました……」
思い出すように、目を閉じて、ゆっくり首を振る。「その後ろ姿を見て、思いましたわ、もう、この人は長くない、と」
「一年ほどして亡くなったとか」
「ええ。でも、実際には、もう二、三か月で、自分のこともよく分らなかったそうです」
園長は、目にたまった涙を指で|拭《ぬぐ》うと、「まあ、どうも──つい、年寄りはセンチになって……」
「今、その本は、私どもの図書館で保管しているんです」
「そうですか」
園長は、本のページを、懐かしげに手でなぞると、「良かったわ。──何だか、あの子にめぐり会ったようで」
「その後の彼のことで、何かご存知のことはありませんか。ここへ来たことは?」
「いいえ、一度も」
と、園長は首を振った。
「来たくても来られない事情もあるでしょうしね」
「園長先生」
と、呼ぶ声がした。
三記子たちは、園長室に通されていたのだが──園長室といっても、部屋があるのでなく、職員室の片隅を、|衝立《ついたて》で仕切っただけなのである。
この簡素なところが、またこういう場所にはよく似合っていた。
「何かしら?」
と、その若い女性の方へ顔を向ける。
「今、電話で、望月さんが亡くなった、と……」
「まあ」
園長は、しばらく|呆《ぼう》|然《ぜん》としている様子だった。「──いつですって?」
「ゆうべだそうです。──お悔みの電報を打ちます?」
「もちろんよ。それから、告別式の日時をうかがって。私が行くわ」
「かしこまりました」
園長は、木谷薫の本を、両手でじっとつかんで、目を閉じたまま、たっぷり三分近く、何かに思いをはせているらしかった。
「あの……」
と、三記子はおずおずと、「お忙しいようですし、失礼しましょうか」
「いえ──ごめんなさい」
と、園長は首を振って、「つい、感慨に|耽《ふけ》っていたのです」
「大切な方が亡くなったんですか」
「運命の不思議さといいましょうかね」
と、園長は、本に目を落として、「この本をお持ちいただいた、その日に、望月さんが亡くなった知らせを聞くなんて」
「何か関係が?」
「ええ」
と、園長は肯いた。「望月俊夫という子がいました。ちょうど、木谷薫と同じ十歳で、そのころ、ここにいたんです。──二人ともよく似ていたというか……。見た目はですね」
「つまり、体つきとか、背丈とか?」
「ええ。──ご覧の通り、ここは、色々な年齢の子がいますから、たまたま同じ年齢だった二人は、よく一緒にいました」
「仲が良かったんですか」
と、三記子が|訊《き》くと、
「そうですね」
と、園長は考え込んで、「いつも一緒だった、という点では、仲が良かったと言えるかもしれません」
「というと?」
「正反対の性格だったからです。──薫はおとなしくて、それこそ本さえあれば幸せ、という子でした。でも、望月俊夫の方は──これは本人のせいとは言えませんが──どこか|狡《ずる》くて、もうそのころから、損得でものを考えるようになっていました」
「じゃ、薫が引き取られて行く時は、うらやましがったでしょうね」
「それが──姿を消してしまったんです」
と、園長は言った。
「姿を?」
三記子は、好男と顔を見合わせた。
「逃げ出したんですか」
と、好男が訊く。
「逃げたとしたら、十中八、九は見付かります。子供のことですもの。でも──ついに見付からなかったんです」
「いなくなったのは、薫が引き取られた後ですか」
「いえ、その当日[#「当日」に傍点]でした」
「当日? じゃ、やっぱり、ひがんで、飛び出したのじゃ……」
「そうかとも思いました。もちろん、手を尽くして、長い間捜したんですけど」
「母親はいたんですね」
「ええ。それが、今、亡くなったと聞いた、望月さん──望月祐子さんです」
「母親の所にも、何も?」
「そうです。──十歳の子ですもの。ここを飛び出るのは分るとしても、親のところにも行かないというのは、妙なことです」
「そうですね」
「それから二十年以上。毎年、その子がいなくなった日に、私は母親へ手紙を書いたり、電話を入れたりしていました」
三記子は、ゆっくり肯いた。この人なら、そうするだろう、と思わせる。
「ですから、あの日[#「あの日」に傍点]は特別、よく憶えているのです」
と、園長は言った。「木谷薫のように、本当の親に引き取られて行く、という子は、めったにいません。その珍しいことがあった時に、子供が一人、いなくなった……。忘れられない日ですわ」
「そうですね」
三記子は、立ち上った。「どうも、長いこと、お邪魔しました」
「いいえ、どういたしまして。──あ、この本を」
三記子は、受け取ろうと手を出しかけて、少し迷った。それから、
「いえ、もし──よろしければ、ここ[#「ここ」に傍点]でお使いになって下さい」
と、言った。
「でも──」
「今の子は、あまり、そんな本、面白がらないかもしれません。でも、一人でも二人でも、読んでくれれば……」
「よろしいんですか? もちろん、私も、とても懐かしくて|嬉《うれ》しいことですけど」
「その方が、母親も喜んでくれると思いますから」
「え?」
「いえ、別に」
と、三記子は言った。
園長は、玄関まで送りに出て来てくれた。
「本当にありがとうございました」
と、もう一度、三記子が礼を言うと、
「いいえ。こちらこそ、お礼を申し上げなくては」
園長が首を振って、「あの日は、薫がひどい風邪を引いていて、ろくにお別れもできなかったんで、心残りだったんですよ」
と、言った。
「風邪を?」
「ええ。大きなマスクをして、口もきけずに、半分眠ったようになって、引き取られて行きましたから……」
「熱があったんですか」
「朝から、高い熱で。──興奮したんでしょうね、やっぱり」
「そうですか」
三記子は、もう一度礼を言って、好男と二人で、歩き出した。
「──気が済んだか?」
と、好男が言った。
「うん……」
三記子は、なぜだかいやに口数が少なくなっていた……。
5
どうして気になるんだろう?
三記子は、それが気になって仕方なかった。──こんな漠然とした話も珍しい。
しかし、自分の第六感が、
「何か[#「何か」に傍点]、ありそうだ」
と、告げるのである。
で、結局、やって来てしまった。
望月祐子の告別式である。──あの施設へ電話して、場所と時間を教えてもらったのだった。
もちろん、図書館は閉めて来たが、まあ、そう年中田所もやって来ないだろう。
三記子は、しかし黒のワンピースなんか持っていない。といって、社会人としては、あんまり見っともない格好もできない。
何とか、知り合いに借りようとしたのだが、うまく行かず、結局……。
「──どうしたんだよ、それ?」
と、今日も呼出されて来た竹内好男が、目を丸くした。
「他にないのよ。お葬式に着ていけるような服って」
「だけど──お前もうOLだろ?」
「おかしい? 大丈夫でしょ?」
「そりゃ大丈夫さ。だけど……」
と、セーラー服[#「セーラー服」に傍点]姿の三記子を見て、言葉を失っている様子。
「いいの! ともかく行きましょう」
二人は、待ち合わせた駅前から、メモを頼りに歩き出した。
「お前も物好きだなあ」
と好男が言った。
「いいでしょ。私、焼香してる間、表で待っててね」
「うん」
好男の方は、いつものセーターとジーパンといったスタイル。やはりお葬式には向かないと言える。
「──どうして、お葬式まで顔を出す気になったんだ?」
と、歩きながら、好男が訊いた。
「別に」
「隠すなよ。何かあるんだろう」
「隠してないわよ。言ってないだけ」
「同じじゃないか」
「もしかしたら、来るんじゃないかと思ったのよ」
「誰が?」
「望月俊夫」
「行方不明の子が!──まさか? 二十年以上も音信不通なんだぜ」
「でも、来ないとも限らないわ」
「万が一、来たら、どうだっていうんだ?」
「ちょっとお話がしたいの」
「何を?」
「あの日[#「あの日」に傍点]のことよ」
「例の子が、施設から引き取られて行った日のことかい?」
「そう」
「どうしてそんなに気になるんだ?」
「望月俊夫が姿を消した。木谷薫は、風邪で、大きなマスクをし、口もきかなかった。──二人は、ほとんど同じような体つきだった……」
三記子の言葉を聞いて、好男がピタリと足を止めた。
「どうしたの?」
「おい。お前の言ってるのは……」
「私は、ただ事実を並べただけよ。──さ、行こう」
と、三記子は促した。
告別式は、思いの他、人が多かった。
独り住いの老婦人、ということで、きっと寂しい葬式だろうと思っていたのだが、かなりの人が、焼香に来ていた。
三記子が焼香して外へ出ると、入れかわりに、あの園長が、入って行った。何しろ今日はセーラー服だ。園長も三記子と分らないようだった。
表で、好男と二人、少し陰に隠れるようにして、出棺を待っている。
「よくお客を見てて」
と、三記子は言った。「パッと来て、すぐ帰ろうとする男に気を付けてね」
「そう言っても……」
と、好男が言いかけて、肩をすくめる。「分ったよ」
「私、見られたくないから、そっちに隠れてる。呼んでね」
「おい! だけど──」
と、抗議しかけるのも、無視されて、好男は仕方なく、来る客を眺めていた。
そして、そろそろ焼香も終り、というころだった。
車が一台、少し手前で停ると、男が一人、降りて来た。──三十代の半ばか。
一応きちんと上等の黒のスーツ。ブラックタイ。
普通の会社の重役辺りの葬儀なら、こういうタイプが一番多いだろう。しかし、この場合は、いたって珍しかった。
その男は、いやにせかせかと受付に寄ろうともせず、さっさと中へ入って行く。
「──おい!」
と、好男が声をかけると、三記子はすぐにやって来た。
「どう?」
「一人、それらしい男が来た」
「今、中に?」
「うん。受付に記帳もしない」
見ていると、焼香を済ませた男が、足早に出て来る。
「やっぱり!」
と、三記子が言った。
「あれは?」
「三田村薫よ」
「何だって? それじゃ──」
「三田村薫と名乗ってる、望月俊夫、というべきかしらね」
三記子は、好男を促して、小走りに、その男を追った。
「──三田村さん」
車のドアに手をかけた三田村は、振り向いて、「僕に何か?」
「先日お邪魔した松永三記子です」
三田村が、目をみはった。
「何の用だ? 話は済んだはずだ」
「そうでもありません」
「何だって?」
「あの図書館へ忍び込んで、私と、田所さんを殴りましたね」
「僕が?」
「そうです。それだけでも、家宅侵入と傷害罪ですよ」
「そんなこと、知るか」
「じゃ、これはどうです?──あなたがなぜ、望月祐子さんのお葬式に来たのか」
三田村は、少し青ざめた。
「君の知ったことか!」
「木谷薫が、引き取られて行った日、その施設にいた男の子が一人、行方をくらましました。望月俊夫です」
三田村が、息を|呑《の》んだ。
「どうして知ってる!」
「二人は年齢も同じ、体つきもよく似ていた。そして、その日、引き取られて行く木谷薫は、風邪で熱があった。大きなマスクで顔を隠し、口もきかずに、施設を出た。引き取った人は、その子の顔など、よく知らなかったでしょう」
三田村は、車にもたれて、深々と息をついた。
「やめてくれ……」
と、声が|洩《も》れた。「君には分らない」
「そうかもしれません。でも、私は、本当のことが知りたいんです」
と三記子は言った。
「──本当のこと?」
と三田村は|呟《つぶや》くように、言った。
「そうです。──もう二十年以上も前のことですもの。今さら、どうということもないでしょう。でも──」
「とんでもないことだ」
三田村が首を振って、「どうということもないって? とんでもない!──あの日のことを、僕は一度だって忘れたことはないんだ」
と、絞り出すような声で、言った。
「話して下さい」
と、三記子は言った。
その時、
「私も聞きたいわ」
と、声がした。
「文江!」
三田村は、妻が立っているのを見て、目をみはった。「どうしてここが──」
「私も、知っていたのよ」
と、文江は言った。「松永さん──でしたね」
と、三記子の方へ、
「すみません。あなたと、男の人を殴ったのは、私です」
三記子は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「あなたが?」
「あなたと主人のやり合うのを、客間の外で聞いていました。そして、あの本を、手に入れたらと思って……」
「どうしてです?」
「私も、主人のこと──十歳の時のことを、調べたからです」
と、文江が言った。
「文江! 何だって?」
「ごめんなさい、黙っていて」
と、文江は目を伏せた。「結婚して間もなく、あなたを訪ねて来た人がいたの」
「誰だ?」
「あの人よ」
と、文江は、告別式の方へ目をやった。「もしかしたら、あなたが自分の息子じゃないかって……。あの日、引き取られて行ったのが、木谷薫って子じゃなく、望月俊夫じゃなかったかって」
文江は、首を振って、
「もちろん、そんなことは知らない、と答えたわ。人違いです、木谷薫も、望月俊夫も知りません、って」
「しかし……」
「その後、でも、私、気になって調べてみたの。──たぶん、そちらの松永さんと同じことを考えたのよ、私も」
文江は、三記子を見た。「あなたが、本当は望月俊夫で、木谷薫の身替りになったんじゃないかって」
「そうか」
三田村は、肩を落とした。
「あなた。私も本当のことが知りたいわ」
と、文江は、夫の腕をつかんだ。「あなた薫という子を殺したの?」
三記子はドキッとした。
もちろん、考えていたことではある。
しかし、十歳の子が、いくら友だちをねたましいと思ったからといって、殺して身替りになろうとまで考えるだろうか?
理屈ではともかく、三記子の中の「意識」が、そう考えるのを拒んでいた。
「文江──」
と、三田村が口を開いた時だった。
「まあ!」
と、声がした。「薫ちゃん[#「薫ちゃん」に傍点]! 薫ちゃんじゃないの!」
園長だった。──三田村の方へやって来ると、まじまじと顔を見た。
「やっぱり!」
「先生──」
三田村が、目に涙を浮かべて、「お久しぶりです」
と、言った。
「──この人は薫さんなんですか」
と、三記子が|訊《き》く。
「ええ。分りますよ。何十年たっても、ちゃんと面影があるわ」
と、園長が|微笑《ほほえ》む。
三記子と好男は顔を見合わせた。
「──告白しなくちゃならないことがあります。先生。昔のように、聞いて下さい」
と、三田村が言った。「僕が、望月俊夫を殺したんです」
園長は、ゆっくりと|肯《うなず》いた。
「そうかもしれない、と思っていたわ」
「俊夫は、僕を、あの朝早く、裏の川の近くへ呼び出したんです。そして僕を川へ突き落とそうとしました。|喧《けん》|嘩《か》になってもみ合っている内、僕は夢中で、俊夫を突き飛ばしました。──俊夫は、雨で水かさの増していた川に落ちたんです」
「そうだったの」
「とても助かりっこないと思ったし、怖かったので、黙っていました。ただ……顔に、争った時、傷がついていたので、風邪を引いたと言って、マスクをしたんです。それに、しゃべると、傷が痛んで……」
三田村は、ため息をついた。「ずっと後になって、やっと、自分が人を殺したんだということに気付きました。──もちろん、殺すつもりはなかったけど、やっぱり殺したのは間違いない。知られたら、せっかく引き取られて、不自由のない暮しをしてるのに、また追い出されてしまうかも……。それを思うと、黙っているしかなかったんです。──すみません、先生」
「仕方のないことよ」
と、園長は、三田村の肩を、そっと|叩《たた》いた。
「でも、母親にとっては──俊夫が生きているかもしれないと思い続けたんですから。僕は、残酷なことをしてしまった」
三田村は、文江を見た。「──信じてくれるかい?」
「ええ、あなた! 話してくれて、|嬉《うれ》しいわ」
文江が、夫の肩に頭をもたせかけた。
「──先生」
「あなた、本を読んでる?」
三田村が、ちょっと寂しげに、
「いえ……。あれ以来、昔の自分を、早く忘れたくて、本を捨ててしまったんです」
「お読みなさい。あなたが、求めるものが、きっとその中にあるわ」
「そうですね。──そうかもしれない」
三田村は、微笑んだ。「今度、遊びに行っていいですか」
「大歓迎よ」
と園長も、微笑んで肯いた……。
「すると何かね?」
と、田所は言った。「君は、この図書館の蔵書を勝手にその施設へ寄付して来たのか」
「すみません」
と、三記子は謝った。
「しかも、勝手にここを閉め、その何とかいう女の葬式に出た」
「そうです」
「君の仕事はここ[#「ここ」に傍点]だ! 分るか?」
「はい」
三記子は肯いて、「クビ、でしょうか?」
田所は、ため息をついて
「代りを見付けるのは大変だ。ま、いいだろう」
「さすが」
「勝手なことを言うな。──コーヒーをいれてくれ」
「はいはい」
三記子は、早速台所へ飛んで行き、コーヒーをいれて戻って来た。
「──つまり、君の迷推理[#「迷推理」に傍点]は外れたってわけだな」
「ええ。でも、ああいう結果で良かったですわ」
「こっちは殴られ損だ」
「私もですよ」
「そうか」
田所は笑って、
「ま、次の幽霊には、よろしく言ってくれ。人を殴らんようにしろ、とな」
三記子も一緒にコーヒーを飲んでいたが、手を休めて、
「あの女の人、本当に幽霊だったのかしら」
と言った。
「いいじゃないか、そうだとしても」
「ええ。この次はどんなのが出るか、楽しみです」
「君も変ってる。ここにはぴったりだよ」
と田所は言った。
「──田所さん」
「何だ?」
「お給料に、〈幽霊手当〉っていうの、つけていただけません?」
と、三記子は言った。
第二の事件 明日に希望を
1
「よくまあ、これだけ世の中に本があるもんだわ」
と、松永三記子は|呟《つぶや》いた。
正直なところ、三記子の感想は、いささかオーバーだったかもしれない。三記子は別にデパート並みの大きさの書店で働いているわけではなく、〈野々宮図書館〉という、個人の蔵書を、管理しているだけだからである。
しかし、個人の、と言っても、何しろかなりの広さの屋敷の地下一、二階が全部書庫で、そこに一人で働いていると、やはり、いくらチェックしたり、|埃《ほこり》を払ったりしても、限りがないように思えて来るのだった。
今も、三記子は、この膨大な本を、どう再整理すべきか。──内容別にか、それともタイトル別にか、迷っているところだった。
正規の図書館なら、分類法もあるのだが、ここの本は、系統的に集めてあるわけではない。すでに死んでしまった野々宮という大金持がかなり個人的趣味で集めた本を、死後、〈野々宮財団〉の依頼で、雇われた三記子が管理しているのだった。
「ウーン」
と、三記子は、天井まで届く、がっしりした造りつけの本棚を見上げて、ため息をついた。
何しろ、この広い屋敷に一人で生活しているのだ。一階が普通の家、地下一、二階が職場だから、職住近接には違いないが、話す相手もいないのでは、時々うんざりして、大声を出したくなる。
「ええい、もう──」
と、やや|苛《いら》|々《いら》が|昂《こう》じて来て、よし、大声でワーッと叫んでスッキリさせよう、と息を吸い込む──。
「おーい! いるか!」
馬鹿でかい声が頭の上から降って来て、三記子は引っくり返った。
「──何だ、そんな所で昼寝してるのかよ?」
と、上から|覗《のぞ》いたのは、三記子のボーイフレンド、竹内好男である。
この二人、同郷の幼なじみだが、三記子は高校を出て、ここに就職、好男は目下大学の一年生。
好男はヒョロリとノッポだが、三記子の方は小柄で童顔、たいていは高校生に見られてしまう。だから、最近はできるだけ、地味な格好を心がけていた。
「びっくりさせないでよ」
と、三記子は立ち上り、スラックスのお|尻《しり》を手で払った。「いきなり声かけるから──」
「一人で寂しいだろうと思ってさ。途中で弁当買って来たぜ。食べようよ」
と、好男が言った。
「まだお昼じゃないんじゃない?」
「あと五分。いいじゃないか。一人でやってるんだ、五分くらい」
「そういうこと、いやなの」
と、真面目な三記子は首を振った。「ちゃんとお給料、いただいてるんだから」
「じゃ、午後の仕事を五分早く始めりゃいいのさ」
「──そうね」
割と調子のいいところもあるのだ。
──一階へ上って、広々としたダイニングで、二人してお弁当を食べる。
これも、ま、たまには悪くない。
「どうだい、最近は?」
と、好男が|訊《き》いた。
「まあまあよ。どうして?」
「いや、例のさ。──幽霊は出ない?」
「出ないわね。待ってるんだけど」
と、三記子は首を振った。
「変った趣味だな」
──ここに集められた本は、どれもいわく[#「いわく」に傍点]のあるものばかりで、犯罪の絡んだものも少なくない。そういう本を、埃の中から拾い出すと、不思議に三記子の所へ、誰か[#「誰か」に傍点]が訪れて来るのだった。
三記子も人並みに怖がりではあるが、また人並みに(人並み以上に、か)好奇心も持っている。
「それに、私が恨まれる筋合じゃないもの。幽霊だって私に悪さはしないわよ」
と、三記子は言った。「──あ、お茶、なくなった?」
「うん、もう一杯もらおうか。──でも分んないぜ。誰を、ってんじゃなくて、世間そのものを恨んで死んだ幽霊だったら、手当り次第に襲うかもしれない」
「あなたはね、ホラー映画の見過ぎなのよ。ともかく、幽霊って、哀しいものなんだから、本来は」
「そうかなあ。全部が全部ってわけでもないと思うよ」
「へえ。よく知ってるじゃない」
と、三記子はからかった。
「玄関の方で音がしなかったか?」
「そう?」
と、三記子は振り向いて、ちょっと様子をうかがっていたが、「気のせいよ。古い家だから色々──」
と、目を好男の方へ戻すと──白目をむいて、顔の崩れかかった死者がじっと三記子をその見えない目でにらんでいた。
キャーッ、と叫んだのかどうか……。三記子にもよく分らなかった。
目の前が真暗になったと思うと、三記子はもののみごとに気絶していたのだから……。
ふと目を開く。
誰かが、三記子を見下ろしていた。──どうしたんだろ、私?
「大丈夫ですか?」
と言ったのは、十六、七歳と見える、色白の少年だった。
「ええ……。私……」
「ここに寝かされてたんですよ」
ソファの上だ。
──どうしてこんな所に?
「私……一人だった?」
「ええ。これがテーブルの上にありました」
と、少年が差し出した紙を見ると、
〈ごめん! 君をちょっとおどかしてやろうと思って、お面をつけたんだ。まさか気絶しちゃうとは思わなかった。この償いは必ず! ごめん! 許して! 好男〉
三記子は、カーッと赤くなって、
「殺してやる!」
と、怒鳴った。「首の骨をへし折ってやるから!」
少年が、後ずさりして、
「あ、あの……僕、帰ります」
と、青くなっている。
「あら、いいのよ。ごめんなさい。これはね、個人的な問題なの。──ところで、あなたはどなた?」
三記子は、打って変って優しい口調で言った。
「あ、あの……僕、都立N高校二年の高田純男といいます」
「高田純男? いい名ね。間違っても好男なんて名の子と友達になっちゃだめよ」
「はあ?」
「いえ、いいの……。ああ、頭がクラクラする」
と、三記子は立ち上ったが、「あら、いやだ」
かげ干しにしておいた本が、床に落ちてしまっている。
「あいつが落として行ったんだわ。全く! ろくなことしないんだから」
と、拾い上げる。
「この本、何だったかしら? ええと……」
それからあわてて、「あ、ごめんなさい。あなた、何のご用で来たの?」
「実は……。ここで調べたいことがあったんです」
と、高田純男が言った。
「ここで? でもねえ……。この図書館は普通の図書館と少し違うのよ」
「知ってます。でも、ここでないとだめなんです」
「だめ、って、どうして?」
と訊いてから、三記子は頭を振って、「ああ頭がフラフラする! ちょっと待ってね。コーヒーでもいれるから」
「はあ……」
と、高田純男は、面食らった様子で、|肯《うなず》いている。
──コーヒーをいれ、高田純男にも出してやり、自分もカップ半分ほど飲んで、三記子はやっと落ちついた。
「ごめんなさい、びっくりさせて。で、あなた、ここに何を調べに来たの?」
「実は今度、学校の社会科で、何か一つ、実際に起った事件について調べよう、ってことになったんです」
「へえ」
「もちろん、一人一人、どれにするか、自分で決めて、その事件について、調べるんです。で、僕は、たまたま五年前に、家のすぐ近くであった事件を調べようと思って──」
「五年前。どんな事件?」
「一家心中なんです」
と、純男は言った。
「一家心中?」
「ええ。僕のうちのすぐ近くの家の人が、ある晩、四人、首を|吊《つ》って死んだんです」
「そう……」
「僕はそのころ十二歳で小学生だったから詳しいことは親も教えてくれませんでしたけど、何だか近所中大騒ぎになって、パトカーとか救急車、一杯来てたのを、今でも良く|憶《おぼ》えてます」
「なるほどね」
「その後、僕のうちは引越してしまって、今は大分遠い所なんですけど、何の事件を調べようかと考えてる内に、ふっと五年前のあのことを思い出して……。一家四人、心中するなんて──ずいぶん子供も大きかったと思うんです、確か。どんなわけがあったのか、自分の手で調べてみようと思ったんです」
純男の話し方は、いかにも熱心で、真剣だった。ただの好奇心ではなく、優れた記者のような、目の輝きがある。
三記子は、その目の光に打たれた。
「分ったわ。で、ここで何を知りたい、と……」
「聞いて来たんです。ここには、あの一家が心中する時、踏み台の高さが足りなくて、積み上げた本が、贈られて来ているって」
三記子は肯いて、
「分ったわ。──不思議ね」
と、言った。
「何がですか?」
「今、そこに落ちていた本よ。これが、その一家の持っていた本だわ」
純男が目をみはって、
「本当ですか?──偶然だなあ」
と、声を上げる。
「偶然でもないのよ、必ずしもね」
「どういう意味ですか?」
「いいの。こっちのことだから。でも、これはね、ただの百科事典の一冊。分厚いからって使っただけだと思うわ」
「それでもいいんです。だって、その現場にあった本でしょう」
「そう。──そういう意味では、何かの役に立つかもしれないわね」
三記子は、その一冊をめくってみた。もちろん、百科事典だから、取り立ててどうというものではないが……。
「あら?」
と、三記子は声を上げた。
「どうかしましたか?」
「ほら、裏表紙の下の方に……。名前が入ってるわ」
純男も、一緒になって|覗《のぞ》き込んだ。
そこには、女性らしい優しい字で、〈友紀〉とあった。
「女の人の名前ね。友紀。──その一家にいたのかしら?」
「分りません。でも、僕、調べてみますよ。そのころの新聞を見れば、出ているだろうし」
「そうよね」
と、三記子は肯いた。「ねえ、高田純男君だっけ」
「はい」
「純男君、って呼んでもいい?」
「ど、どうぞ」
と、照れている。
「一緒に調べてみたいの。構わない?」
「ええ? でも、お仕事が──」
「これも私の仕事の内なのよ」
と、三記子は言った。「もちろん、あなたの勉強の邪魔はしないわ」
「いいんですか? もちろん、そうして下されば、助かりますけど……」
「じゃ、早速、明日から、当ってみることにしましょ」
三記子は、手を差し出した。ちょっと戸惑ってから、純男が、三記子の手を握った。おずおずとしたところが何とも|可愛《かわい》く、女の子のような、柔らかい手だった。
「そういうことが君の仕事かどうか、大いに疑問だね」
と、三記子の直接の上司(?)に当る、弁護士、田所は、顔をしかめた。
野々宮財団の顧問弁護士なのである。四十代の、なかなかインテリっぽいムードのある紳士だった。
「いいでしょ」
と、三記子も最近は強気である。「私が辞めたら、こんな所で働く人、見付かると思ってるんですか?」
「君は私を脅迫するのかね?」
田所は、ため息をついて、「──分ったよ。何が知りたいんだ?」
「あの一家心中です。古川一家の」
「あれか」
と、田所は肯いた。「五年ぐらい前になるかな」
「よく憶えてますね。さすがは弁護士!」
「持ち上げても何も出んぞ」
「お昼もですか」
田所は笑い出した。
「君にはかなわん!」
かくて、三記子は、田所の事務所に近いレストランで、昼食をおごってもらうことになった。
「古川一家のことは、もちろん直接には知らんよ」
と、食事を終えたところで、田所が口を開いた。「野々宮さんの命令で、あの本を手に入れただけだからな。しかし、新聞などでは、結構騒がれたものだ」
「ええ。新聞は調べました」
と、三記子は、メモを広げた。「一家は、古川三哉、四十八歳、妻の加津子、四十五歳、長女治子、十九歳。そして長男の忠男、十七歳でした」
「そうだ」
と、田所は|肯《うなず》いて、「どれも小さい子供や体の動かん年寄りではない。それなのに、なぜ心中したのか。──みんなが首をひねったもんだよ」
「後で何か分ったんでしょうか」
「さてね。そこまでは知らん。新聞には?」
「事件の後のことは、何も出ませんでした。報道してある範囲だと、事業の行き詰りか、とか出てますけど」
「いや、それはなかったと思う。一家は、金に困ってはいなかったんだ。父親は企業の経営者だが、うまく行っていたと聞いたよ」
「じゃ、なぜでしょうね」
田所は、苦笑して、
「そういう、記事を書く人間に、想像力が不足しているのさ。人間は、金がありゃ死なないと思っている。確かに、金で解決できる悩みもある。しかし、金ではどうにもならんことだって、いくらもあるんだよ」
「分ります」
と、三記子は肯いた。
「そうかね?」
「いくら夕ご飯をおごると言われても、私、好男の奴を許しません!」
「何だ、やり合ってるのか、ボーイフレンドと。可哀そうに」
「それ、どっちのことですか?」
「いや……。まあ、それはともかく──」
と、田所は|咳《せき》|払《ばら》いした。「何を調べたいんだね?」
「真相です」
と、三記子は言った。「一家四人を、何が死へ追いやったのか。それが知りたいんです!」
「五年も前だよ」
「やってみます。──あの本は、誰から?」
「確か……。古川加津子に妹がいたと思う。その人から譲ってもらったんだ」
「奥さんの方の妹、ですね。──分りました。何とか調べてみますわ」
「ま、頑張りたまえ」
何のかのと文句は言うものの、田所も、三記子のことは気に入っているのだ。
「──ごちそうさまでした」
と、三記子は礼を言って、レストランを出ると、田所と別れかけたが、「あ、そうだ。田所さん」
「何だね?」
と、振り向く。「給料の前借り?」
「いつ私がそんなこと言いました?」
と、三記子はにらんだ、「友紀って名に聞き憶えは?」
「ゆき?」
「〈|友《とも》〉と〈紀元〉の〈紀〉です」
「さあね。──僕の数多い恋人の中にはいないね」
「冗談がお上手ですね」
と、三記子は言ってやった──。
2
「すみません」
と、電話の声は、恐縮し切っていた。「急に学校で用ができて、どうしても、行けなくなっちゃって」
「いいのよ、純男君」
と、三記子は言った。「また、今夜でも電話して。調べた結果を教えてあげるわ」
「ありがとうございます。──親切ですね、三記子さん」
三記子さん、と呼ばれて、ポッと赤くなったりした……。
一旦図書館を閉めて、三記子は都心に出かけて行った。
田所の言っていた、死んだ古川加津子の妹、平山彰子に会うためである。
仕事を持っているので、その仕事場で、と言われて、訪ねることにしたのだが……。
「──ここ?」
三記子はポカンとして、目を疑った。
見上げるばかりの何十階分もの鉄骨。超高層ビルの建築現場なのである。
電話で連絡を取って、快く会ってくれることにはなったのだが、でも、こんな所で?
当惑しながら見上げていると、ポン、と肩を|叩《たた》かれ、びっくりして振り向く。
「何してんだい、こんな所で」
好男だった。三記子は、顔をこわばらせて、
「あら、どちら様でしょう? 私、あなたのことを存じ上げませんが」
好男は頭をかいて、
「勘弁してくれよ。まさか、お前がそんなに繊細だとは知らなかったんだ」
これじゃますます相手を怒らせるだけだ。
「フン」
と、三記子はそっぽを向いて、「あんたこそ何してんのよ。ここでコンクリート漬けになりに来たの?」
「心配でさ。ついて来たんだ。また、何か変なことに首、突っ込んでんだろう?」
「大きなお世話よ」
と、三記子は言ってやった。「私ね、とっても優しくてすてきな男の子を見付けたの」
「だ、誰だよ、それ」
好男の顔色が変る。「ぶっとばしてやる」
「高田純男君っていうの。十七歳よ」
「何だ。ガキじゃないか」
「あら、二つしか違わないわ。私、年下の子が好みなのかもしれないわね、結構」
二人して、工事現場の出入口でやり合っていれば、邪魔になるのが当然というもので……。
「おい、危いよ、こんな所で遊んでちゃ」
と、ヘルメットをかぶった男がやって来た。
「遊んでるんじゃありません」
と、三記子は言った。「平山彰子さんにお会いしたいんですけど」
「平山さんに?──ああ、聞いてるよ。図書館の人?」
「そうです」
「じゃ、案内してあげる。こっちだ」
三記子が歩き出すと、好男もついて来た。
「ちょっと、何よ。つきまとわないで」
「いやだ。お前が許してくれるまで、ついて歩く」
「暇な人ね」
結局二人ともヘルメットをかぶせられると、
「これに乗って」
と、言われたのは……。
「エレベーターですね」
作業用なので、腰の高さまでしか隠れない。従って、実に見はらしがいいのである。
「面白い」
と、三記子は喜んでいる。「どこまで行くんですか?」
「一番上だよ」
「これの?」
と、好男が目を丸くする。
「|凄《すご》い! 眺めがいいだろうなあ」
「じゃ、行くよ」
ゴーッと音をたてて、作業用エレベーターが上り始める。十階、二十階……。
「ここ、何階建なんですか?」
と、三記子は|訊《き》いた。
「四十七階だよ」
「四十七階!」
「今、四十階まで組み上ってる。風が強いからね、上では。気を付けて。──僕は主任の持田というんだ」
三十代半ばだろうか。陽焼けして、なかなかの二枚目である。
今度の事件は男の人に恵まれてるわ、などと、三記子は|呑気《のんき》なことを考えていた。
「松永三記子です。これが竹内好男君。──あれ?」
好男の姿が見えない。落っこちたのかしら、などと考えて、ヒョイと下を見ると──好男が足下にうずくまっている。
「ちょっと! 何してんのよ?」
「|俺《おれ》……高い所ってだめなんだ」
と、青ざめているのだ。
「全くもう! 置いてくわよ!」
「お前、冷たいなあ。小さいころ、隣りの柿を盗んでやったじゃないか」
「何言ってんのよ!」
と、三記子は真赤になって、言った。
持田が笑って、
「いや、無理もないよ。僕だって、上にいる時、大地震が来たらどうしようとか、考えると足がすくむからね。着いてしまえば大丈夫。よっぽど端の方へ寄らなければ平地と同じさ」
同じとも思えなかったが、ともかく、エレベーターはやがて四十階に着いた。ハアハア|喘《あえ》ぎながら、好男もやっと立ち上って、外へ出る。
そこにプレハブの建物ができていて、忙しく、人が出入りしている。三記子は、天に向って腕を突き出している巨大なクレーンを見上げて、ホーッと息をついた。
「凄いクレーン」
「うん。こいつがどんどん資材を運び上げるんだよ」
と、持田は言った。
「私、いつも不思議だったんですけど、建て終ると、このクレーン、どうやって下におろすんですか?」
「うん。それはね、こいつで、これよりも小型のクレーンを|吊《つ》り上げて、ここで組み立てるんだ。そしてこのでかいのを分解してその小型のクレーンで下ろす。それからもう一回り小さなクレーンを上げて──」
「じゃ、そのくり返し?」
「最後の奴は、小さくばらして、エレベーターで下に下ろすんだ」
「へえ、なるほど」
好男も、少し感心するだけの余裕が出て来たようだ。
「持田君!」
と、声がした。「アルミの方はどうなってるの?」
「今、連絡を待ってます。平山さん。面会ですよ」
「あら──」
やって来たのは、男のように作業服を着ているが、四十代らしい女性だった。「さっきお電話をもらった方?」
いかにも、働いている女性らしい、きびきびした口調だ。
「三十分ほどなら、時間があるわ。こっちへどうぞ」
プレハブの建物の中は、ごく普通の事務室のようになっていた。テーブルには大きな図面が何枚も広げられ、壁には〈日程表〉が掲げられている。
持田が、三記子に言った。
「平山さんは設計屋さんなんだ。このビルを設計したのは、この人なんだよ」
「すばらしいですね!」
三記子は、すっかり魅せられてしまった。
「仕事は何でも同じよ──。どうぞ適当にかけて。持田君、コーヒーでもいれてあげて」
「はい」
平山彰子は、ヘルメットを取って、髪をなでつけた。
「風のせいで、髪が傷むの。一日中、ここにいるとね。寒いし、肌は荒れるし、ろくなことないわ」
「でも、凄くきれいです」
と、突然好男が言い出した。
「そう。ありがとう。こんな若い人にきれいだなんて言われたの、何年ぶりかしら」
と、平山彰子は笑った。
「僕じゃだめですか」
と、持田がコーヒーを二人に出してくれる。
「持田君、いくつだと思ってるの? 三十五でしょ」
「まだ青年のつもりですが」
と、持田は言った。
三記子は、ふと、平山彰子と持田の間に、単に仕事の先輩後輩以上の何か[#「何か」に傍点]がある、と直感した。こういう点、女の勘は当るのだ。
とはいっても、たぶん、平山彰子は持田より十歳近く年上だろうが……。
「何だか姉のことで、ご用だとか」
と、平山彰子が言った。
三記子が事件を説明すると、彰子は|肯《うなず》いて、
「そう。──でも、まだ五年しかたたないなんて、信じられないわ」
と、言った。
「ご迷惑はおかけしないようにするつもりですが」
「あ、いえ、いいのよ。むしろ調べていただけるなら、ありがたいことだわ」
「といいますと?」
「私も全く見当がつかなかったの」
と、彰子は言った。「姉は、そりゃ、世間並みに、私に会えばご主人のこともこぼしたりしていたけど、決して不幸ってわけじゃなかったと思うの。大体、あの古川さんって人は、少し真面目すぎるくらいの人で、決して遊んだりするタイプじゃなかったのよね」
「でも、結果的にはお子さんまで──」
「ええ。四人で一家心中。──話を聞いた時も、しばらくは信じられなかったものよ」
彰子は首を振って、「特に、下の忠男君は、うちの友紀の二つ年上で、よく一緒に遊んでくれたのよね」
友紀!──では、あの友紀というのは、この人の娘なのだ。
その名が、なぜ百科事典に書かれていたのだろう?
「友紀さんって、お嬢さんなんですか」
「ええ。今二十歳なの。女子大に通って、毎日遊んでるわ。母親の目が届かないものだから」
と、彰子は笑った。
「じゃ、古川さん一家の心中の理由については、お心当りがないんですね」
「ええ、ないわね。私も忙しくて、気にはしていたんだけど、調べられなかったの。何か分ったら、ぜひ知らせてちょうだい」
と、平山彰子は言った。
──下りのエレベーターで、持田が、
「あまり役に立たなかったみたいだね」
と、言った。
「いいえ。すてきな方ですもの。お会いできて、|嬉《うれ》しかった」
「本当だ」
下りとなると、好男も元気である。
「あの方、ご主人は?」
と、三記子は|訊《き》いた。
「亡くなったんだよ。もう五年ぐらいになるかな」
五年?──すると、古川一家の心中と同じころだ。
三記子は、ちょっと妙な気がした。心中について、彰子は、「忙しくて」調べられなかった、と言ったが、普通なら、
「私もそのころ、夫を亡くして」
と、言うところではないだろうか。
「──何かあったら、また連絡してくれ」
と、下へ着くと、持田が言った。「上の方へは、なかなか電話も通じないからね」
「分りました」
と、三記子は言って、「平山さんのお嬢さんですけど──」
「友紀さん?」
「ええ、どこの大学か、ご存知ですか」
と、三記子は訊いた。
「──ここ?」
好男が、目を丸くして、「入りにくいね、こんな格好じゃ」
「仕方ないでしょ。今さら着替えちゃいらんないわよ」
と、三記子は言った。
会員制クラブ。──重々しい扉が開くと、分厚い|絨毯《じゅうたん》が敷きつめられたフロア。
「どちら様ですか?」
と、正装の男が、いぶかしげに二人を見た。
「あの──平山友紀さんとお会いすることになっているんですけど」
「少々お待ちを」
五分ほど待たされてから、
「──どうぞ」
と、声がして、二人は中へ入れてもらえた。
薄暗い廊下を歩いて行くと、両側には閉ったドアが並んでいるばかり。シンと静まり返って、何の物音もしない。
「何だか息が詰りそう」
と、三記子が低い声で言うと、
「俺も」
と、好男が言った。「俺、閉所恐怖症なんだ……」
「忙しい人ね」
──と、いきなりドアの一つがパッと開いて、
「キャーッ!」
と、悲鳴を上げて、女の子が飛び出して来た。
三記子と好男は目を丸くした。女の子は二十歳そこそこ、しかも、裸同然の格好だ。
「こら、待て!」
と、これもパンツ一つの太ったおっさんが女の子を追いかけて来る。
「捕まえてごらんなさい!──ほら!」
女の子も別にいやがっているわけではないのだ。ふざけてキャアキャア叫んでいるのである。
二人が|呆《あっ》|気《け》に取られていると、
「こちらです」
と、案内してくれた男が、ドアの前で足を止めた。
「どうも」
と、三記子は言って、「あの──いつもなんですか、あんなこと?」
と、訊いた。
「クラブの中では、何があっても、私どもは見ない[#「見ない」に傍点]ことになっておりまして」
「はあ」
二人は、ドアをノックして、中へと入って行った。
「──あなたが松永さん?」
と、その娘は意外そうに、「もっとおばさんかと思ったわ。図書館の人、なんて言うから」
「平山友紀さんですか」
「ええ。適当に座って」
座るところはいくらでもあった。大きなソファは、ベッドとしても充分に使える。
「いかが、こういう場所は?」
平山友紀は、ごく普通の、セーター姿で、床のカーペットに寝そべっていた。
「悪趣味ですね、はっきり言って」
「もちろんよ」
と、友紀が|肯《うなず》く。「だからこそ、非行に向いてるんだわ。──何でも飲んで。そこの棚にお酒、入っているから」
「昼間ですよ」
「今、昼間? そう。──二時っていうから、夜中の二時かと思った」
こりゃ相当なものだ。
「一人で、飲んでるんですか」
「三時には男が来るわ」
「恋人?」
「知らない男よ。だからスリルがあって、面白いんじゃない」
と、友紀は笑って、「そこの男の子、いい顔してるわね」
好男のことである。
「お話を聞きたくて」
「何かしら? 私、図書館の本、返し忘れてた?」
「そうじゃないんです。五年前に、古川一家が心中した事件のことで」
友紀の顔から、表情が消えた。
「五年前? そんな昔のこと、忘れたわよ」
「でも、|従兄《いとこ》の忠男さんとは仲が良かったとか、お母さんから──」
「母さんから? あの、何も分ってない人から?」
友紀は声をあげて笑った。「大したもんよ! 娘が真面目に大学へ行ってると信じてるんだから。親って、単純なのね」
「行ってないと信じてほしいんですか?」
と、三記子は訊いた。
「──あんた、生意気ね」
「あなたほどじゃ」
「母さんの回し者?」
「回し者、なんて……。古くさい言葉。──私は心中事件の真相を知りたいだけです」
友紀は、仰向けに寝そべって、
「そんなこと知って、どうするの。──死んだ人が帰って来る?」
「それはありませんね、たぶん」
と、三記子は言った。「でも、今生きている人たちの思い出の中に、帰って来るかもしれません」
友紀は、三記子を見た。
「何が訊きたいの?」
「理由です。一家心中するほど、なぜ追い詰められたのか」
「五年前よ。私は十五だった。私に分るわけないわよ」
「そうでしょうか。それぐらいの年代って、大人の気持を|凄《すご》く敏感に感じ取ると思いますけど」
「あの家は嫌いだったわ」
と、友紀は言った。
「どうして?」
「息が詰るの。──みんな、真面目な人ばっかり。何だか学校へ行って、道徳教育でも受けてるみたいだった」
「そうですか。──それが、心中と何か関係が?」
「知らないけど、まともな人なら、死にたくもなるんじゃない?」
「あなたがその前に古川家へ行ったのは、いつだったか、憶えていますか?」
「最後にってこと? 二日ぐらい前かな、みんなが死んじゃう」
「何か変った様子、ありましたか」
「そうね……。忠男君、何か感じてたんじゃないかしら」
「下の子ですね。十七歳だった……」
「そう。十七だった……。私、もう二十歳なのよ。忠男君より長生きしてる」
「まだ若いわ」
「何の役にも立たないのに。あんなに賢くて真面目だった忠男君が十七で死んで、こんなできそこないが二十歳まで生きてるなんてね!」
「できそこない? そりゃ自分のせいじゃないか!」
突然、好男が怒り出した。「おい、三記子、帰ろう」
「どうしたの?」
「俺、こういう奴見てると、頭に来るんだ。勝手な理屈ばっかり並べてさ、自分を甘やかしてるだけなんだ」
「だけど──」
「帰ろう!」
好男が、三記子の手を、ぐっとつかんだ。
「ちょ、ちょっと──待ってよ!」
三記子は、危うく転ぶところだった。
──クラブを出ると、好男は肩で息をついて、
「邪魔しちゃって、悪かった」
と、言った。「でも、つい、カッとなって」
「ま、いいわよ」
と、三記子は寛大なところを見せた。「変ないたずらされるより、好男らしいからね」
「やっぱりお前っていい奴だな」
と、好男は笑顔になった。
「今ごろ何を言ってんのよ」
と、三記子は|肘《ひじ》でつつくと、「じゃ、仕方ない。──現場へ行ってみようと思ってたけど、今日は、付合ってもらうわ」
「え?」
と、好男が目をパチクリさせる。
「夕ご飯、おごってくれるんでしょ?」
好男が焦って財布を取り出し、中を|覗《のぞ》き込んだ……。
3
「この家ですね」
と、言ったのは、高田純男だった。
「そう。──よくそのまま残ってたわ」
三記子は、その家を眺めて、「まさか、幽霊は出ないでしょうね」
と、半ば本気で言った。
「本当に怖くなっちゃうから、やめて下さいよ」
と、純男が情ない声を出した。
「まあ、割と|臆病《おくびょう》なのね。じゃ、いざって時に、私を守ってくれないわけ?」
「いえ──そりゃもう! 命にかえても、三記子さんを守りますよ」
「まあ、|嬉《うれ》しいわ」
と、三記子は|微笑《ほほえ》んだ。「じゃ、入ってみましょうか」
古川三哉と、その家族が住んでいた家は、豪邸、というほどではないにしても、一流の住宅と呼んで差し支えない広さ、それにしっかりした造りであった。
今、ここは平山彰子が持主になっているのだが、
「とても見に行く気になれない」
というので、そのままになっているのだった。
|鍵《かぎ》はもちろん、彰子から借りて来たのだが、三記子はその時、
「いつまでもそのままにしておくつもりですか?」
と、|訊《き》いてみた。
彰子は、ちょっと首を振って、
「いつまでも、ってわけにいかないのは分っているんですけどね」
と、言った。「でも、何だかあの家で、みんなが暮しているような気がして」
──そう。
三記子もまた、その家の中に入った時、何かを感じた。
霊感とか、そんな風に呼ぶのも、ちょっと違うような気がした。もっと何か人間的なもの、人が住んでいる家の暖かさ……。
しかし奇妙だった。閉め切ってあるはずの家の中は、空気も|淀《よど》んだ匂いがなく、|爽《さわ》やかだったのだ。
「ここが居間ですね」
と、純男が言った。「記事によると、ここで四人の内、二人、古川三哉さんと、奥さんが首を|吊《つ》っていたんです」
「そう……」
天井には、正におあつらえ向きの柱が通っていた。──装飾としてなのだろうが、まるで初めから、そんな使い方をするつもりだったかのような気がする。
「後の二人は?」
と、三記子が訊くと、純男は、何かじっと考え込むように、天井の柱を見上げている。
「──純男君」
「あ、はい!」
と、我に返って、「すみません。ここで人が死んだのかと思うと、つい考え込んじゃって」
「そりゃそうよね。──二人の子供はどこで死んでいたの?」
子供といっても、十九歳の女の子(三記子と同じだ)と十七歳の男の子だ。自分で判断のつく年齢である。
「二人は、自分たちの部屋です。別々に」
「二階かしら? 上ってみましょう」
と、三記子は促した。
「ええ」
純男も、少し青ざめている。
「大丈夫、純男君?」
「大丈夫です」
「そう。心強いわ」
三記子も、好男に対するのとは、大分態度が違う。好男は今日は大学へ行っているのである。学生なのだから、当然といえば当然だ。
居間を出て、階段を上りながら、
「一家心中って、よく知らないけど、そんな風に、ばらばらに死ぬものなのかしら」
「どうでしょうね」
「四人が死んだといっても、一斉にってことないと思うのよね。──誰が一番先だったのかしら?」
「そんなこと、考えもしませんでした」
「でも、警察も分らなかったでしょうね。そんなに間を置いてはいなかっただろうから……」
ドアを開けてみる。──ベッドは残っていた。
「ここは両親の寝室ね」
と、三記子は、ダブルベッドを見て、言った。
「そうですね」
ところが、隣りのドアを開けて、三記子は戸惑ったのである。──ここにはセミダブルのベッドが一つ、入っていた。
「子供の部屋じゃないわね。どう見ても」
「子供の部屋はもっとあっちの二つでしょうね」
「見てみましょ」
確かに、両親の寝室と少し離れて、二つ並んだドアが、それぞれ、治子と忠男の部屋に違いなかった。
「じゃ、寝室が四つですか」
「そうね。──待って」
三記子は、初めの主寝室に戻った。
「──ここには、鏡がないわ」
と、三記子は言った。
「というと?」
「つまり、女の人が寝る部屋に、鏡がないわけない、ってこと」
「じゃ、隣りが、奥さんの部屋だったんですね」
「だとすると……。夫婦は寝室を別にしていたんだわ」
もちろん、それが直ちにどうということはないにしても……。夫が四十八。妻は四十五歳である。
もう寝室を別にしても不自然ではない。しかし──。
三記子は、窓の方へと歩いて行った。
カーテンが下ったままになっている。
「すっかり色が変っちゃってる」
と、三記子は、カーテンを開けて、|呟《つぶや》いた。
その時、ピシッ、という音がして、窓のガラスに、丸く穴があいた。
三記子は、何だか分らず、ポカンとして立っていたが──。
「危い!」
純男が、三記子に向って飛びかかった。二人が床へ折り重なるように倒れると、バン、と音がして、今度はガラスが砕けた。破片が二人の上に落ちて来る。三記子は両手で頭をかかえた。
「──ど、どうしたの、一体?」
と、三記子は、やっと起き上って、言った。
「分らないけど……。|狙《そ》|撃《げき》されたみたいですよ」
と、純男は言った。
「私が?」
三記子は|唖《あ》|然《ぜん》として、「大統領でもないのに?」
と、言った。
「ほう」
田所は、三記子の話を、興味深げに聞いていたが、「すると、誰かが君を殺そうとした、と」
「ええ。こんな罪のない乙女を、ですよ! 許せないわ」
と、三記子は怒っている。
「で、警察には?」
田所は、|椅《い》|子《す》の中で、ゆっくりと|寛《くつろ》いだ。
「届けました。立派な殺人未遂ですもの」
「何か分ったのかね」
「私を|狙《ねら》ったのは、空気銃だったんです」
「空気銃か」
「でも、相当な威力があるんですよ。もし当れば、死なないまでも、大けがするところでした」
「なるほど」
「でも、警察じゃ、取り合ってくれないんです。子供のいたずらだろうって。頭に来ちゃうわ!」
「それでプリプリしてるわけか」
と、田所は苦笑した。「しかし、君があの一家心中を掘り返すのが面白くない奴がいたとして──君を殺しまでするかね」
「そんなこと分りませんよ。何かよほどの秘密が──。たとえば、それが殺人[#「殺人」に傍点]だったとか」
「まさか! 警察だって、それほど馬鹿じゃないさ」
「どうだか」
すっかり、警察不信に取りつかれてしまっている。
「私に、何かしてほしいのかね」
と、田所は言った。
「いいえ、お忙しいでしょうから」
「皮肉に聞こえるね」
「ただ、私が変死した場合、それが殺人の可能性が高いってことを、警察の人に言って下さい」
「なるほど」
と、田所は|肯《うなず》いた。「ま、しかし死なんでくれよ。君の|後《あと》|釜《がま》を見付けるのは、楽じゃないからな」
三記子は、
「ご親切に、どうも」
と、言ってやった……。
「──ああ、やれやれ」
と、三記子は、図書館に戻って、息をついた。
すっかり遅くなって、もう夜の十時を回っている。──警察で時間を食って、しかも何にもならなかったのだから、腹が立つのも当然だろう。
腹が立ったついでに、腹が空いて来て、三記子は、台所へ行って、何か作ろう、と思った。たいしたものじゃなくていい。カップラーメン、あったかな。
廊下を歩いて行って、三記子はふと足を止めた。
地下の書庫へ入る扉が、開いているのだ。
「閉めたはずなのに……」
と、首をかしげる。
近付いてみると、扉が開いているだけでなく、明りも点いているのだった。──誰か入ったのだ!
いや、今でも明りが点いているということは、誰かいるのかもしれない。
三記子は、緊張した。何しろ空気銃で狙われたばかりである。
居間へと駆けて行って、護身用に買ってあるバットをつかんで戻って来た。
そっと扉を大きく開け、階段を下り始める。足音が、どうしても響くのだ。
何しろ古い建物だから、きしんでしまうのである。
「──誰かいるの?」
と、声をかける。「出てらっしゃい!」
無鉄砲、というべきかもしれないが、三記子としては、ここの管理を任されているという責任感がある。
地下一階に立つと、書棚の方へ目をやる。──いくらでも隠れん坊ができるのが、こういう場所だ。
コトッ、と音がした。かなりはっきりした音である。
「──誰?」
と、三記子は言った。「誰かいるんでしょ」
怖くないわけじゃない。しかし、ここで逃げ出すのも面倒くさい(!)。
三記子は音のした書棚の間へと入って行った。
人の姿はないが……。サーッと何か|砂埃《すなぼこり》のようなものが落ちて来た。
上に誰かいる!
そう思うのと、誰かに押し倒されるのと同時だった。──と、一瞬の後、三記子が立っていた場所に、重い本が雪崩のように落ちてきた。
三記子が、やっと体を起こすと……。
「危なかったですね」
純男だった。
「純男君……。助けてくれたのね……」
「すみません、勝手に中へ入って。誰かいるみたいだったんで──」
タタタッと、足音が頭上を駆けて行った。
「逃げたわ」
立ち上って、三記子は、山になった本を眺めた。「下敷になったら、骨ぐらい折ってたかもね」
「そうですね」
三記子は、体の埃を落とすと、
「ありがとう、純男君」
と、言った。
「いいえ……」
と、照れて、「それより、僕のせいで、こんな危い目に……」
「いいのよ。私、こういうことが好きなんだもの」
三記子は、ふっと顔を寄せると、純男にキスした。
純男は真赤になって、
「好男さんが怒りますよ」
と言って、うつむいた。
「上に行きましょ」
──居間に戻ると、三記子はまずコーヒーをいれた。
「でも、妙な話ね」
と、ソファに座って、「空気銃の次は、本の攻撃か。ね、おかしいわよ」
「殺すつもりじゃないんですよ」
「そう」
三記子は肯いた。「ただ、けがさせるくらいが目的なのよね。──つまり、手を引かせたいんでしょ」
「何かある、ってことですね、あの心中事件に」
「でも……。一体何なのかしら?」
三記子は考え込んだ。
「みんな死んじゃってるんですものね」
と、純男が言うと、
「そうよ」
と、三記子は肯いて、「今、その調査を邪魔するってことは、真相が分ると、今生きてる[#「今生きてる」に傍点]誰かが困るってことだわ」
「なぜでしょう? 今さら調べたって、何が分るのか……」
「そこよ。──つまり、心中には違いないとしても、その動機が、問題なんだわ」
三記子は、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
「調べ出してやるわ、絶対に!」
三記子は、ますます張り切ってしまっていた……。
しかし、いかに三記子でも、そうそう図書館を放って出かけるわけにはいかなかった。
特に、誰かさんが落としてくれた本の山を、片付けなくてはならない。
翌日、朝からせっせと本を棚に戻していると、
「誰かいる?」
と、女の声がした。
「はーい」
と、大声で答えておいて、急いで上って行くと──。
「あら」
玄関に立っていたのは、平山彰子の娘、友紀だった。
今日はいかにも学生らしい格好で、本をかかえて立っている。
「今日は」
と、友紀は言った。
「いらっしゃい。──図書館にご用?」
「いいえ、あなたに会いたくて」
と、友紀は言った。「時間、あるかしら?」
「もちろん。どうぞ」
居間へ友紀を通して、三記子は手を洗って来た。
「本をいじると、手が汚れるから」
と、三記子は言った。「私に用って、何かしら?」
「ええ……。この間はごめんなさい。私、つい突っ張っちゃうの」
「そうらしいわね。お母さんが、立派すぎるのかしら」
「それもあるわ」
と、友紀は肯いた。「母はよく働くし、才能もある。私には何の情熱もないのに」
「まだ若いじゃないの」
「でも、もう二十歳よ」
「人生、あと六十年もあるわ」
「それもそうね」
と、友紀は笑った。
いかにも自然で、若々しい笑いだ。
「それにね──」
と、友紀は言った。「母には、男がいるし」
「そうよ、まだお若いんだもの」
「もちろん、私だって構わないのよ、母に恋人がいても。ただ……十歳も年下なんて」
「持田さん?」
友紀はびっくりして、
「知ってるの?」
「勘よ。──でも、決して不つりあいじゃないわ」
「そう……。二人の組合わせ自体はね」
と、友紀は肯いた。
「でも、気に入らない? 父親にしては、確かに若過ぎるけど」
「母は母よ。構わないわ」
「じゃ、何なの?」
「うん……」
友紀は、ちょっとためらってから、「ね、ここに、心中した忠男さんたちの持ってた本があるんでしょ。見せてもらえる?」
「ええ。──そうだわ」
三記子は立ち上ると、例の百科事典を、居間の棚から持って来た。「これもその一つなの」
「百科事典?」
「そう。しかもこれ一巻だけ。ちょっと妙なのよ」
「何か意味があるのかしら」
「そしてね、これにあなたの名前が入ってるの」
「私の?」
友紀は目を見開いた。
「そう。──ここよ」
〈友紀〉という書き込みを見て、なぜか友紀は青ざめて、
「また来るわ」
と、立ち上った。
「どうしたの? 何かこれが──」
三記子の言葉が耳に入らない様子で友紀は急いで図書館を後にした。
「──変ね」
三記子は、改めて、百科事典を眺め、首をかしげた……。
4
「平山敬一?」
と、好男が|訊《き》き返した。「誰だい、それ?」
「平山彰子さんのご主人よ」
と、三記子は言った。
「ああ。でも──死んじゃったんだろ?」
電話の向うでは、好男が、まだそんなことやってんのか、って声を出している。
「そう。五年前にね。そのことについて、調べてほしいの」
好男は、ため息をついて、
「分ったよ」
と、言った。「何を調べるんだ?」
「あの一家の心中とどっちが早かったのか。それに死因とか。──できるだけ早くね」
「そんなこと言ったって、|俺《おれ》は刑事じゃないんだぜ」
「あのね」
と、三記子は言った。「私、ゆうべ純男君とキスしたの」
「何だって?」
好男の声が一オクターブ高くなった。「よし! 五分以内に調べる!」
「無茶言わないで──」
電話はパッと切れてしまった。「|呆《あき》れた」
と、苦笑する。
さて──少し考えてみよう、と三記子は居間のソファで|寛《くつろ》いだ。
仕事は……まあ、これも仕事の内、ということにしてもらって。
四人の心中。──一家心中というのは、決して、めったにない事件ではない。年に何度かは、新聞でも見かけるものだ。
しかし、と三記子は思った。やはり、四人が別々に[#「別々に」に傍点]死んでいたというのは、妙だ。
一家心中というからには、四人で語らって、死のうと決めたのだろう。それを別々の場所で決行するというのは、どうも納得がいかない。
では、それが結果として[#「結果として」に傍点]、心中になったのだったら?
つまり、両親の死、子供たちの死。それぞれどっちかがどっちかの原因になったのだ、としたら……。
「そう。──きっとそうだわ」
と、三記子は|肯《うなず》いた。
その場合、ではどっちが「原因」で、どっちが「結果」なのか。
まず、子供たちの死が原因だろう、と思った。親が自殺したからといって、子供はすぐに後を追ったりはしないだろう。特に、十九歳と十七歳といえば、小さな子供ではない。
逆に、親の方は、子供二人、一度に失えば、そのショックで、ということはあり得る。
それが正しいとして、では、治子と忠男の姉弟はなぜ死んだのか。──もしかすると、その二人もまた、「原因」と「結果」だったのかもしれない。
二人がそれぞれ自分の部屋で死んでいたのは、それを暗示している……。
そこに、平山彰子がどう係って来るのか。そして友紀は?
ウーン、分らん。
三記子は、首を振った。やはり、座ったままでピタリと犯人を言い当てる名探偵は、柄じゃないようだ。
「行動の人なんだな、私は」
と、|呟《つぶや》いて、「じゃ、田所さん、すみませんが、今日も[#「今日も」に傍点]、図書館は閉めさせていただきます」
田所がそのころクシャミをしていたかどうか……。
電話が鳴った。居間を出ようとしていた三記子は、駆けて行って、受話器を上げた。
「はい、野々宮──」
「松永さんですか」
と、男の声がした。「この間、お会いした持田です」
「あ、どうも。──え?」
三記子は、目を丸くした。「友紀さんが?」
「ええ。工事現場へ来てね。すぐ来ていただけませんか」
「わ、分りました!」
友紀が、あの超高層のビルの現場へ上って、飛び下りそうにしているというのだ。
三記子は、大急ぎで、図書館を飛び出して行った。
「──やあ、すみません!」
持田が、現場の入口に立って待っていた。
他には人がいないようだ。
「今日は?」
「ええ、今日は、工事の会社が創立記念日で休みなんです。友紀さんから電話をもらいましてね。来てみるとこの上で──」
「上ってみましょうか」
「ええ」
持田と二人、あのエレベーターで上って行く。──持田は途中でため息をつくと、
「僕と平山さんのことはご存知でしょう」
と言った。
「友紀さんからうかがいました」
「何といっても十歳も年齢が違いますからねえ。友紀さんにとっては、面白くないだろうし」
「でも、友紀さんももう二十歳です。それだけのことで死んだりするような人じゃないと思いますけど」
「すると、何か他に理由が?」
「たぶん」
と、三記子は肯いた。
「何か思い当ることがあるんですか?」
と、持田は訊いた。
「百科事典です」
「何ですって?」
「自殺する時、踏み台代りにしたのが、百科事典の一冊で、そこに〈友紀〉という書込みがあったんです。偶然とは思えません。その一冊しかなかったというのもおかしいでしょ。百科事典を全巻|揃《そろ》えずにいても、意味ないわけで」
「すると──」
「たぶん、他の巻は捨ててしまったんじゃないかと思います。一巻だけ残っているという不自然さに、誰かが気付くだろう、と。その中に、〈友紀〉という書込みがある」
「どういうことでしょうね」
「あの本、奥付を見ると、大分古いものなんです。友紀さんが生れる一年ほど前の発行になっています」
「ほう」
「何か、思い付いて書き留めたか……。優しい字でしたから、女の人が──彰子さんかもしれません。子供の名前を考えて、〈友紀〉がいいと思い、あそこに書き留めておいたのか……」
「それと一家心中と何か関係が?」
「分りません。でも何となくおぼろげに……」
エレベーターが上に着いた。風がひどく強い。よろけてしまいそうだった。
「──友紀さんは?」
「その先です」
と、持田が言った。「気を付けて下さい」〈危険〉という札の下ったロープを越えて、その先は、周囲に何の囲いも手すりもない。落ちたら一巻の終りである。
「──どこにいるんです?」
と、三記子は周囲を見回した。
おかしい、と思った時は手遅れだった。
ガン、と頭を殴られ、目の前が真暗になってしまう。
が──いつものことながら、「石頭」の効用は大きく、コンクリートの打ち放しの床にドサッと倒れた時には、もう意識を取り戻し始めていた。
畜生! やったわね!
持田の方は、三記子が完全に気を失ったと思ったのか、ハアハア息を切らしながら、一休みしている。
三記子は、気絶したふり[#「ふり」に傍点]をして、うつ伏せになっていた。
「悪く思うなよ……」
と、持田が汗を|拭《ふ》く。
どうやら、気の小さい男らしい。そして、思い切ったように、三記子の方へと歩いて来ると、
「落ちりゃ、アッという間だ。何も分らないからな」
いい加減なこと言って!
落ちたこともないくせに。三記子は、ワッと一発食らわしてやろう、と、待ち構えていた。
すると、
「持田さん」
と、女の声がした。
「──友紀さん!」
持田が、|愕《がく》|然《ぜん》として、「君、いつ? ここに?」
「待ってたのよ。母があなたと電話で話してるのを聞いちゃったから」
「そうか……」
持田は息をついた。「仕方なかったんだよ。今さら、五年も前のことをほじくられては、君のお母さんが困ることになる」
「あなた自身が、でしょ」
と、友紀は小馬鹿にしたような口調で、「分ってるわよ。母とよくホテルに行ってるのも知ってるわ」
「友紀君──」
「父が自殺したのは、なぜだったのか、知ってるの?」
「何だって? 事故じゃないか、車の」
「自殺よ。──私が誰の子なのか、分ってしまったから」
「何を言ってるんだ?」
「私も分らなかった。──なぜ古川さんの一家が心中したのか、ね。でも、やっと分ったわ」
「君とどういう関係が……」
「私はね、忠男さんを愛してたの」
と、友紀は言った。「|従兄妹《いとこ》同士だけど、忠男さんの母親の加津子さんは、うちの母とは腹違いの姉妹。だから、そう近い関係じゃないし、私と忠男さん、将来は結婚だってできるはずだったのよ」
「そうか……。知らなかったよ」
「でもね、突然、忠男さんは死んでしまった……。どうしてなのか、さっぱり分らなかったわ」
と、友紀は、首を振った。
三記子も、気を失ったふりはやめて、起き上った。
「助かったわ、友紀さん」
「──大丈夫?」
「ええ? 私、石頭だから」
三記子は立ち上ると、頭を振った。「二人でこの人を放り出さない?」
「おい……」
持田は青ざめる。
「冗談よ」
と、三記子は舌を出してやった。「警察へ突き出せば殺人未遂だからね!」
「すまん……」
持田はしゅんとしてしまった。
「友紀さん」
と、三記子は言った。「あなた、忠男って人と、兄妹[#「兄妹」に傍点]だったのね」
「ええ」
友紀は肯いた。「腹違いのね。古川さんが、私の本当の父親だったんだわ」
「忠男さんが、それを知って、ショックで──」
「私、あの何日か前に……忠男さんの部屋に泊って……」
と、友紀が言葉を切った。「だから、きっと、忠男さん、私と将来は結婚したいんだと、話したと思うの、父親にでも。その時、初めて聞いたのね、私が、古川さんの子だってことを」
「ショックだったでしょうね。十七歳の男の子にとっては」
「妹を抱いたわけですもの。──自殺したのは当然だと思うわ」
「それを見て、古川さんも事態を悟ったのね。後の三人がどういう順序で死んだのかは分らないけど」
「真面目な一家だったから。──少なくとも、子供たちは、そう信じてたから」
「あなたのお父さん──平山さんも?」
「父も、私が他の男の子だと知ったのよ。十五歳まで|可愛《かわい》がって来た娘が、実際は他の男の子だったなんてね。そりゃ車をめちゃくちゃに飛ばしたくなると思うわ」
「お母さんはそのことを──」
「知っていたとしても、気にしなかったんじゃないかしら」
と、友紀は言って、肩をすくめた。「お母さんにとっちゃ、仕事だけが生きがいなんだから。夫や子供よりもね」
「そんなことないわ」
と、突然声がした。
「お母さん!」
彰子が姿を見せた。三記子は、その後ろに好男が立っているのを見て、びっくりした。
「──ごめんなさいね、友紀」
と、彰子は言った。「何も知らなかったのよ。──本当に」
「私の父親が誰かってことぐらい、知ってたでしょ!」
と、友紀が厳しく言った。
「ええ……」
と、彰子は|肯《うなず》いて、「私は、子供ができたと知った時、古川の家にいたの。そして、百科事典の裏表紙の所に、女の子なら、これがいいわ、とあなたの名前を書きつけたのよ」
「古川さんは、それを踏み台にして、死んだんですよ」
と、三記子は言った。
「ええ……。私への気持を表したかったんでしょうね。でも──私には通じなかったんだわ。私は忙し過ぎて」
哀しい話だ。しかも、その本を図書館へやってしまったのだから。
「忠男君とあなたのことも、私はただ仲のいい従兄妹だとしか思っていなかったのよ」
と、彰子は、両手を固く握りしめた。「何てことかしら! 娘の様子にも気付かない母親なんて!」
風が吹き抜ける。
誰もが、しばらく動かなかった。
「──友紀さんのことに気付かなかったのは、でも、あなただけの責任じゃありませんわ」
と、三記子は言った。「友紀さんも、母親に話すべきだったわ」
「ええ……。そう思うわ」
と、友紀は言った。「でも今さら……」
「遅いってことはありませんよ」
と、三記子は言った。「生きてるんですから、あなたたちは」
彰子は、ゆっくりと友紀の方へ歩いて行って、肩に手を置いた。
「もし、あなたが家を出たいのなら……。でも、一度、ゆっくり話し合いましょう」
友紀は、黙って肯いた。
母と娘が歩いて行くのを、三記子は見送ってから、
「持田さん」
と、にらんで、「私のこと、何度も危い目に遭わせて!」
「す、すみません!」
持田は土下座して、「この償いは何としてでも──」
「じゃ、その端の辺りで、逆立ちしてもらおうかしら」
持田が真青になった。三記子は笑った。
「冗談です。お先にどうぞ」
「ど、どうも!」
持田はあわててエレベーターの方へ走って行く。
「──おい」
と、好男がやって来る。
「高所恐怖症は大丈夫?」
「そんなことよりな、妙なことが分ったんだ」
と、好男が真顔で言った。
「何のこと?」
「あの、高田純男って奴だけど」
「純男君がどうしたの?」
「そんな奴、あの高校にはいないんだぜ」
「まさか! 何かの間違いよ」
「本当だよ」
三記子は、ふと高田純男が、少し離れた所に立っているのを見付けた。
「純男君! いたの?」
「どうも」
と、純男は頭を下げて、「おかげで、何もかも、決着がつきました」
「決着って?」
「ずっと気になっていたんです」
と、純男は言った。「友紀にも会えたし、もう用事はなくなりました」
三記子は、少し間を置いて、
「君は……誰なの?」
と、訊いた。
「僕、古川忠男[#「古川忠男」に傍点]なんです」
「何ですって?」
「どうもありがとう。──とても楽しかったですよ」
「ちょっと──」
止める間もなかった。
純男は、ビルの上から、遥か下の地面へと、身を投げた。
「アーッ!」
と、好男が叫ぶ。「落ちた!」
「早く下へ!」
二人はエレベーターで下へ下りた。
しかし……なぜか、どこにも死体は見当らなかったのだ。
「おい、三記子……」
「何よ」
「あの高校生……」
「忠男君の幽霊だったのよ、きっと」
「本当に?」
「写真を見せてもらえば分るわ、古川忠男のね」
「見せてもらうか」
三記子は、首を振って、
「いいえ。見たくない」
と、言った。「ねえ、いいじゃないの。本当の幽霊だって何だって。問題は、生きている人が幸せになることだわ」
「そうだな……」
三記子は、好男の腕を取って、言った。
「どこかに行こうか。少なくとも──好男は幽霊じゃないからね」
風がヒューッと鳴った。まるで、どこかで見えない男が口笛を吹いたようだった……。
第三の事件 殺人を呼んだ本
1
|可愛《かわい》いなあ……。
竹内好男が思わずウットリしながら|呟《つぶや》いたのが、同郷で幼なじみのガールフレンド、松永三記子を見てのことでなかったとしてもあまり責めるわけにはいかない。
何といっても好男はまだ大学の一年生。もちろん、松永三記子のことは好きだが、だからといって、TVでこのところ急に人気の出て来ているアイドルスターの写真集を眺めても、何も感じないとしたら、どうかしている。
確かに、十五歳のその少女は至って可愛くカメラに向って、ちょっと小首をかしげて|微笑《ほほえ》んでいたのだ。この写真集が何万部も刷られて、結局少女が何万人もの男性にニッコリ微笑みかけていることぐらい、好男だって百も承知。
しかし、それでも何となく、
「|俺《おれ》にだけ笑いかけてるんだ!」
という気がして楽しくなるのも、若さの証明というものである。
しかし好男とて、こんな写真集を、当の三記子と待ち合わせている時に買って、見せてやろうと思うほど馬鹿ではない。従って、待ち合わせた本屋で、立ち読みならぬ、立ち見をしているだけだったのである。
三記子の奴、そろそろ来るかな。──好男が、名残り惜しい気分で、写真集を閉じた時だった。
「何だってのよ!」
広い店内に|轟《とどろ》き渡るような|凄《すご》い声が好男を飛び上らせた。もちろん他の客もだ。
「私が盗んだっていうの? ふざけんじゃないわよ!」
「あの声……」
と、好男は呟いた。「もしかしたら──」
もしや、ではなかった。声のした方へ駆けつける前に、好男にはそれが当の三記子のものだと分っていた。
「何で私がこんなもん、盗まなきゃいけないわけ! 馬鹿にしないで!」
「おい、三記子、どうしたんだよ」
と、好男は声をかけた。
「あんたは黙ってて!」
三記子は本当に怒っていた。怒ったら怖い。何しろ、真面目人間である。といって、頭ガチガチの優等生ではないが、プライドというものも、相当に高い。
「私はね、図書館で働いているんです。本が好きで、本を愛してます。どんなクズみたいな本だって、それなりに一生懸命買ってもらおうとして本屋さんの棚で頑張ってるのは、とってもいじらしいと思っているんです」
三記子の言葉はかんで含めるようで説得力があった。
どうやら、三記子が本を万引しようとしたと疑われたらしいのだが、とがめ立てした相手が悪かった。
集まって来た客たちも、三記子の熱のこもった話しぶりに、うんうんと|肯《うなず》いている。相手の店員は、腕組みをして、苦虫をかみつぶしたような顔をしているばかりである。
「私がどうして、本を盗まなきゃいけないんですか? 私だって人間ですから、罪を犯すことはあります。カッとなれば人を傷つけたり、殺すことだってあるかもしれません!」
店員がギョッとして後ずさった。三記子はぐっと前に乗り出して、
「でも、どんなことがあっても、本を盗むことだけはしません! 母親は自分の子供のためなら、人も殺すかもしれない。でも子供を殺しはしません。私にとっては、本は子供みたいなものです。そんな物を、どうして私が|盗《と》ったりするんですか!」
三記子の目には、悔し涙すら光っている。
「そうよ!」
と、周囲から声が飛んだ。
「ひどいわ!」
「客を泥棒扱いするのね!」
と、たちまち大騒ぎになる。
「この本が、私の買物袋に入ってたのは事実です」
と、三記子がポンと|叩《たた》いたカウンターの上の本を見て、好男は仰天した。
たった今、好男が見ていた写真集──十五歳のアイドルスター、直木さをりの写真集だったからだ。
「でも、私、ごらんの通り、財布の中に充分お金を持ってます。それに、女の私がどうして、こんな女の子の写真集をほしがるんですか?」
「いや、しかしね、事実として──」
と、店員の方も抵抗を試みたが、
「まだいじめるのか!」
と、客の方から声が飛んだ。
「そうよ! 本の方が勝手に飛び込んだかもしれないじゃないの!」
「そうだ!」
「謝罪しろ!」
と、大騒ぎ。
「──分りました。分りましたよ!」
店員の方は、ムッとしながらも、とても勝ち目はないと悟ったらしい。「じゃ、もういいですよ、今度は目をつぶるから」
これがまた三記子にはカチンと来た。
「目をつぶるとは何よ! もう一度言ってごらんなさい!」
正に殴りかからんばかり。
好男が、あわてて、
「おい、よせよ!」
と、腕をつかむ。
「何よ、放っといて!」
「よせってば。殴ったら、|警《けい》|察《さつ》|沙《ざ》|汰《た》になるぞ」
「いつ私が──」
と、言いかけて、三記子は、フウッと息をつくと、「いいわ。じゃ、引き上げる。でも、もう二度とこんな店には来ないから!」
三記子は、好男を引張って店を出ると、
「ああ、本当に頭に来る!」
と、プリプリ怒ってしばらく歩いていた。
そしてふと足を止めて、好男を見ると、
「あら、好男、いつ来たの?」
と、|訊《き》いたのだった。
「──妙な話ねえ」
と、三記子は、ステーキを食べながら、言った。「本の方から勝手に袋へ飛び込むなんてことが……」
「あるかもしれないぜ。お前みたいに本の好きな子なら」
「からかわないでよ」
と、三記子は笑って言った。
話題は、例の本屋での騒ぎだったが、一日たっているので、大分三記子も落ちついて来ている。特に今日は月給日で、好男と二人してレストランで食事を取っているのだから、あまりカッカしていては、消化にも悪いというものである。
「不思議っていえば……」
と、先に肉をきれいに平らげた好男が、ナイフとフォークを皿に置いて、「あの時、俺ちょうどあの本を見てたんだ」
「あの本って?」
「直木さをりの写真集さ」
三記子は、まじまじと好男を見て、
「まさか好男、私の買物袋についフラフラッとその本を──」
「よせよ! 俺だって、あんなもの二千円も出して買う気しないぜ」
「あら、そう? 本当にファンなら、それぐらい出すもんよ。可愛いじゃない、直木さをりって」
「そう思う?」
「二年間ぐらいは可愛くて、後は『ただの人』よ、きっと」
「言えてるかもな」
と、好男は笑って言った。「水もらおう。──すみません」
肉をおいしく食べさせる点では、なかなか名の知れた店である。もちろん、この若いカップルが、いつもこんな所で夕食をとっているわけではない。
特に学生の身の好男は、三記子におごってもらっているのだ。専ら食べる方に専念して、ビールもワインも遠慮しているのは当然のことかもしれない。
「あれ?」
と、好男は目を丸くした。
「どうしたの? 昔の別れた彼女でもいたの?」
「まさか。──おい、見ろよ。|噂《うわさ》をすれば、何とか」
「何のこと?」
「直木さをりだよ」
「|嘘《うそ》。──本当だ」
三記子も、ちょっと目を丸くしている。何といっても、偶然にしてはできすぎているようだが──しかし、「偶然でない」としたら、もっと妙なことになってしまう。
直木さをりは、もちろん一人ではない。マネージャーか、プロダクションの人間らしい男たちとテーブルを囲んでいるのである。
十五歳の少女と、大の男が三人。──見ようによっては、奇妙な光景だった。
「おいしくないだろうな」
と、好男は言った。「あんな大人たちと一緒に食べたって」
「そうね。たとえホットドッグでも、友だちとワイワイやりながら食べた方がよっぽどおいしいわね、きっと」
と、三記子は言った。
直木さをりは、黙々と食事をしていた。大人たちは勝手にあれこれしゃべっている。
店の中の客が、みんな思わずそのテーブルを見てしまうのは、しゃべっている声が大きいからだった。アルコールが入っているせいもあるのだろうが、こんな店にふさわしい声でないのは確かだった。
「──大体ふざけてんだよ!」
と、ひときわ大きな声で言ったのは、三人の男の中では、一番若そうな、ヒョロリと背の高いやせた男だった。
「小池さん、あんまり大きな声を出さないでよ」
と、さをりがその若い男をつついた。
「ああ。だけどね──つい、カッとなってさ。ねえ、社長。いくら契約だからって、そんな無茶な話、ありませんよね」
社長、と呼ばれたのは、一番年長で、髪も大分白くなっている男。腰まわりも、小池という若い男に比べて、倍もありそうだ。
「しかし、どうにもならんじゃないか。あくまで原作をこっちが用意するという条件で、契約しているんだ」
と、社長が言った。
「でも、契約の時点じゃ、まださをりは十三歳ですよ。今とは事情が違うんですから」
と、小池という男が言った。「向うがその気なら、こっちにも考えがある!」
すっかり開き直っている感じだ。
「お願い」
と、直木さをりが、なだめた。「あんまり|喧《けん》|嘩《か》しないでよ。私の方だって、やりにくくなるし」
「そうですよ」
と、言ったのは、もう一人の男だった。
声の感じからは若い様子だったが、三記子や好男には背中を向けているので、顔が見えない。
「さをりの仕事をやりやすくするのが、小池さんの役目でしょう。カッとなってやり合ってるんじゃ、仕方ないじゃありませんか」
いやに淡々として、表情のないしゃべり方だった。小池は、ちょっとムッとしたようだが、口をつぐんで、食事の方に専念し始めた。
「──一人は社長、小池ってのはマネージャーだな、きっと」
と、デザートを食べながら、好男が言った。
「もう一人は?」
「分んないよ。さをり、とか呼んでるのをみると……」
三記子は、コーヒーを頼んだ。
直木さをりたちのテーブルでも、食事が終りかけたらしく、また話が始まった。今度は話し方も穏やかだ。
「どこかにないのかい、その本」
と、社長という男が言った。
「手を尽くして捜しました」
と、小池は首を振って、「でも、出版社は倒産。在庫は全部処分されてます。古本屋も片っ端から当ってみました。でもどこにもないんです。大体、初版で二千部くらい刷って、それきり増刷にもなってない本ですから」
「それにしても、千人かそこいらは持ってる奴がいるんだろうが」
「ごめんなさい、私のせいで、迷惑かけて」
と、さをりが言った。「でも、本当にあの役をやりたかったの。それくらい好きだったのよ、あの『太陽の少女たち』って本が」
三記子は、コーヒーが来て、飲もうとしていたのだが、ふと手を止めた。
「しかし、その本が見当らない以上、向うの言う通りの作品でやるしかないよ」
と、小池が言った。「しゃくだけどね」
「本当にあの本、どこに行っちゃったのかしら」
と、さをりが首を振って、「いくら捜しても、あの本だけがないのよ」
やはり、つい耳をそば立ててしまう。好男が、
「結構面倒なものなんだな、契約ってもんも」
と、言うと、三記子は何やら考え込んでいて、
「確かにそうだわ」
と、|肯《うなず》く。
「──何が?」
「ちょっと話して来る」
「何を?」
キョトンとしている好男を残して、三記子は立ち上ると、直木さをりたちのテーブルへと歩いて行った。そして、
「失礼します」
と声をかける。「突然、申し訳ありませんけど」
「何です?」
と、小池が面倒くさそうに、「サインなら勘弁して下さいよ。今、疲れてるんで」
「あなたにサインを頼む人っていないと思いますけど」
と、三記子は言ってやった。
聞いていたさをりが、笑い出して、
「私にご用なんですか?」
と、言った。
「ええ。今、お話が耳に入ってね。私、小さな図書館で働いているんだけど、今、あなたの言っていた、『太陽の少女たち』って本が、たぶん私の所にあると思うの」
「まさか」
と、言って振り向いたのは、三記子たちの方に背を向けていた男だった。
せいぜい二十歳ぐらいだろうか。何だか不思議な目で、三記子を見上げている。
「──本当ですか?」
と、さをりが目を輝かせた。
「たぶん間違いないと思うわ。ただ、一冊しかないから、さし上げるってわけにはいかないけど」
「そんなの簡単だ。コピーを取りゃいい。ねえ、社長」
と、小池が張り切り出す。
「そうだな。──私は、直木さをりの所属しているプロの社長で、桂木です」
「松永三記子といいます。──もし、必要ならどなたかおいでになって、コピーを取って下さいな」
三記子は、名刺を出して──つい最近、やっと作ってもらったものだ──小池に手渡した。
「分りました! いや、助かった!」
と、小池の声は、また大きくなった。「その本がないと、さをりは、TV局の方のプラン通りの役をやらなきゃいけないんです。およそさをりには合わない役でしてね」
「でも、良かったわ。コピーがあれば、それで脚本を書いてもらえるし。──松永さん、ですね。ありがとうございました」
直木さをりは、なかなか礼儀正しい|挨《あい》|拶《さつ》をした。
「いいえ。じゃ、いつおいでになります?」
「明日にでも早速。──一時では?」
「昼間でしょうね」
と、三記子は言った。「お待ちしてますわ」
そして、テーブルの方へ戻りかけ、振り向くと、
「そちらの方はどなた?」
と、若い男の方を見て言った。
「私の兄なんです」
と、直木さをりが言った。
直木さをりの兄。──しかし、その兄は、三記子の方へ、もう顔を向けようともしなかった。
「──いい役やっちまって」
と、席に戻った三記子に、好男が言った。「俺にやらせてくれりゃ良かったのに」
「いいでしょ」
と、三記子は、飲みさしのコーヒーを一気に飲み干して、「──明日一時から、うちの図書館でバイトしたら?」
「そうか!」
好男は、パチンと指を鳴らした。「そいつはいいや! サインぐらい頼めるな。三記子って、やっぱり頭いいなあ」
「調子のいい奴。──お礼に今夜は払ってくれる?」
好男が青ざめる。三記子は笑って、
「冗談よ。好男が一人前にお金を稼ぐようになったら、これまでの分、まとめて払ってもらうわ」
「月給、しばらくは吹っ飛びそう」
と、好男は、大げさにため息をついた。
直木さをりたちのグループが、先に食事を終えて、出て行く。それを見送った好男は、ふと思い付いたように、
「待てよ。お前の所の図書館にあるってことは、その『太陽の表彰状』って本、何かいわくのある本じゃないのか?」
「『太陽の少女たち』よ!」
と、三記子は訂正して、「昨日か一昨日、カードを作ったばかりなの。だから頭に残ってたのよ、でも、どんな事情であの図書館に入ったのかは分らないわ」
「何か、また妙なことが起らなきゃいいけどな」
「まさか」
と、言って、ふと思い当る。
あの、直木さをりの兄とかいう男も、三記子の話を聞いて、
「まさか」
と、言ったのだった。
なぜだろう?──あの場には、そぐわない言葉のように、三記子には思えたのだが……。
2
「この本か」
と、田所は『太陽の少女たち』を手にして、肯いた。「|憶《おぼ》えているよ」
──私立〈野々宮図書館〉。
図書館とはいっても、少々風変りな大金持の個人的な蔵書を、その死後、管理している。広い屋敷の一階が普通の住い、地下一、二階が書庫で、ここが松永三記子の職場ということになる。
三記子一人でいつもは働いているのだが……。居間に、ヒョイと好男が顔を出す。
「やあ! この本、どこへしまうんだ?」
今日は、好男がやたら張り切って手伝っていた。
「それはね、A―3の棚。タイトルをよく見てね」
「OK。──もうすぐ一時だな」
「そうね。もうお腹が空いた?」
と、三記子はからかった。
もちろん十二時に、ちゃんと昼は食べているのだ。
田所は、四十代のインテリらしい|風《ふう》|貌《ぼう》の弁護士。一応は三記子の雇い主ということになっている。
「どんないわく[#「いわく」に傍点]があるんですか?」
と、三記子は|訊《き》いた。
ここにある本は、どれもが何かしら犯罪や事件に係り合ったものばかりという、風変りな図書館なのだ。しかもその本たち[#「本たち」に傍点]には、それぞれに何かしらその持主の恨みや気持が残っていて、三記子がその中の一冊を取り出すと、時々、奇妙なことが起る……。
「これはね、いわば人を死に追いやった本、ってところかな」
と、田所が言った。
「人を死に?」
三記子は、|眉《まゆ》をひそめて、「|呪《のろ》いでもかかってるんですか?」
と、その本をにらんだ。
「いや、そういうわけじゃない。オカルトや怪奇とは何の関係もないよ。もっともっと人間くさい出来事なのさ」
「というと……」
「確か、この本を持っていたのは、根本という男だったと思う」
田所は、ゆっくりとその本のページをめくりながら言った。「根本は、もともと公務員で、至って真面目な男だった。ごく当り前に結婚して家庭を持ち、子供もいたらしい。ところが──」
「女に狂った?」
「君は男に偏見を抱いてるんじゃないか?」
「一般的傾向を述べているだけです」
と、三記子は涼しい顔で言った。「女でなきゃ、バクチですか。競馬?」
「いや、根本という男の人生を狂わせたのは、この本だったんだよ」
「この本?」
三記子は|呆《あっ》|気《け》に取られた。「だって、どうってことのない、平凡な少女小説ですよ、これ」
「中身じゃない。──根本はその日、子供の手を引いて、本屋を歩いていた。妻に頼まれた買物をした帰り道だったので、手にはスーパーの袋を下げていたんだ」
三記子は、座り直して、話に聞き入った。
田所は続けて、
「子供がマンガの本などを立ち読みしている間、根本は、仕事に関係のある、経済書などの棚を眺めていた。やがて、大分時間もたってしまったので、子供の手を引いて店を出ようとした。その時、店のレジに座っていた男が、根本を呼び止めたんだ」
「つまり……」
「本を買物した袋の中へ入れて、持ち出そうとした、と言われたのさ」
三記子はドキッとした。
「じゃ、本当に……?」
「根本は、もちろん本を万引するような男じゃない。何かの間違いだと言い返したが、店の男は、絶対に見たと言い張る。それなら、と、根本が袋をあけると──」
「その本[#「その本」に傍点]が入っていたんですね」
「そうなんだ」
田所は|肯《うなず》いた。「どうしてそんな所に本が入っていたのか、根本には説明できない。周囲には野次馬が集まって来るし、その中で、根本は仕方なく|詫《わ》びて、金を払ってこの本を買い、早々に逃げ出したのだ」
「それだけでは済まなかったんですか」
「それを見ていた野次馬の一人が、運悪く、根本の同僚の奥さんだった。当然この一件はその同僚の耳に入り、さらに、この同僚が根本のことを嫌っていたせいもあって、上司の耳にも届いた」
「それで?」
「根本は呼ばれて、事の次第を説明させられた。もちろん、身に覚えのないことだと言ったが、信じてはもらえなかった……」
「気の毒に」
「加えて、この話が、市長の反対派の耳に入ると、市長を攻撃する材料にも使われた。──結局、根本は、自ら辞職するはめになってしまったんだ」
田所は、ゆっくりと首を振って、「怖いものだよ、人間という奴は。──根本の家庭もめちゃくちゃになった。泥棒の子と言われて子供は学校へ行かなくなる。妻はノイローゼ気味で床につく。根本は、この本、たった一冊のために、人生を棒に振ってしまったわけだ」
「でも、死に追いやった、というのは……」
「妻が発作的に家を飛び出してしまったんだよ。根本は後を追った。やっと見付けた時、妻は走って来る電車に飛び込もうとしていた。根本はそれを止めようとした……。結局、二人とも一度に命を落としてしまった」
三記子は、息をついた。悲惨な話だ。
「そんなわけで、この本が〈野々宮図書館〉のコレクションに加わったってわけさ」
と、田所はその本をテーブルの上にのせて、言葉を切った。
三記子はその本の方へ手をのばしかけて、ためらった。
「──根本って人の子供たちは? どうなったんですか」
「さあ。そこまでは知らないね」
田所は肩をすくめて、「きっと、親戚の所にでも、もらわれて行ったんじゃないのかな。──もう十年はたっているだろう」
「そうですか……」
三記子は、その本を手に取った。
やってもいない罪をきせられる悔しさは、どれほどだったろうか。しかも、そのために総てを失ってしまったとなれば……。
この本に、根本の無念の思いがしみ込んでいたとしても、不思議はない。
三記子は、本を開いた。
「──失礼します」
と、玄関の方で声がした。
「はい」
三記子は、玄関へ出て行って、びっくりした。「あら!」
「ゆうべはどうも。ご本をお借りしようと思って、来ました」
と、玄関先で頭を下げたのは、直木さをり本人だったのだ。
「そうだわ! この本!」
と、直木さをりは、|嬉《うれ》しそうに言った。「わあ懐しい! 久しぶりねえ」
いかにも子供らしい喜びように、思わず三記子も笑ってしまった。
もちろん、この本が、どんなに悲惨な運命を背負っていようが、十五歳の少女には何の関係もないことだ。
「あ、あの……どうぞ」
と、好男が、さをりにお茶を出す。
ガタガタ手が震えているので、カップがカチャカチャと音をたてている。あがっているのだ。
まさか、当人がやって来るとは思ってもいなかったのだから。
「今日は仕事がないの?」
と、三記子が訊くと、
「ええ。今日はオフなんです。月にせいぜい一日しか休めないんですよ」
「大変ねえ」
「でも、好きでやってるんですから!」
と、元気良く答えて、「この本、それじゃコピーを取らせていただいて構いませんか?」
「ええ、いいわよ。──田所さん、構わないんでしょ?」
と、三記子が見ると、田所はポカンとして、十五歳の美少女を眺めている。
呆れた!──三記子は、ちょっと田所をつついて、
「田所さん!」
「あ、ああ。──どうした?」
田所も一応、話は耳に入っていたらしい。「うん。コピーだな。いいとも。いや、そんな面倒なことをしなくたって。その本を、持ってってもらいなさい」
「でも、ここの本は貸し出し禁止だって──」
「そう、何でも規則ずくめじゃいけないよ。必要に応じて、柔軟な判断を下すことが大切だ。見たまえ、この本だって、こんな|可愛《かわい》い子に持ってもらって喜んでるじゃないか」
「そうですか」
三記子はカチンと来て、「どうせ、こんな意地悪姉さんより、よっぽどましでしょうね。よく分りました」
「あ、いやね、君──」
田所も、乗り過ぎたと思ったのか、「私は別にその……」
「どうせ私は本に嫌われてます。男にも。だからもてないんです。そうですとも」
と、すっかりむくれている。
「いやまあ、それはそうだが、まだ未来というものがあるわけだし──」
三記子、ますます頭に来ている。
さをりが、笑い出して、
「すてき! 本当に仲がいいんですねえ、皆さん。|羨《うらや》ましいわ」
「どの辺が?」
と、三記子は訊いた。
「表面だけ仲が良さそうに飾ってる仲間たちなんて、疲れるばっかりですもの」
「私も疲れるがね……」
と、田所は|呟《つぶや》いた。
「じゃ、この本、一日だけお借りします」
と、さをりが言った。「とっても懐しいんで、今日一日、ゆっくり見ていたいんです」
「ええ、いいわよ」
「明日、私はまた朝から仕事が入ってるんで、必ず誰かに届けさせます」
「信用してるから大丈夫よ」
「僕、取りに行ってもいいです!」
と、好男が申し出て、三記子にジロッとにらまれた。
「じゃ、お借りして行きます」
と、さをりは、本を大事そうにかかえて、立ち上った。「お邪魔しました」
「どういたしまして!」
と、二人の男──好男と田所が、異口同音に言った……。
「──いや、実に可愛い!」
と、田所が、ポーッとして、「礼儀正しいし、生意気な口もきかない」
「ね? 僕も好きなんです。あの、何ともいえない気品の漂ってるところ」
「そうだ。育ちの良さが、自ずとにじみ出ている」
「どこかこう──人間じゃないような神々しさがありますよね」
「そういえば、頭の後ろから光が射していたようで……」
神様扱いである。
頭に来た三記子は、男どもに二度とお茶一杯出してやるものかと決心した。
その翌日、三記子が午前中、書庫の掃除をして上って来ると、電話が鳴っていた。
「──ちょっと待ってよ。手が汚れてんだから!」
三記子は、タオルをつかむと、それで受話器をつまみ上げた。「──もしもし?」
「あ、三記子さんですか。さをりですけど」
「あ、どうも」
と、三記子はいささか冷ややかに、「お忙しいところを、わざわざお運びいただきまして」
「あの──本は届きました?」
「いいえ。まだいただいておりませんが」
「あら。いやだわ。じゃ、小池さん、忘れてるのかしら」
「立派な方とお仕事をなさってらっしゃるのね」
と、いやみを言ってから、我ながら、少々(大分かな)大人げない、と反省した。
「すみません。じゃ、まだマンションにあるんだわ」
「あなたのマンション?」
「ええ。きっと誰かいると思いますから、届けさせます」
「いいのよ」
と、三記子は言った。「一日や二日遅れたって──」
「いいえ、お約束ですもの。それに昨日の内に、コピーは取ったんです」
「そう」
三記子は、さをりの言い方が気に入った。三記子自身も、約束を守ることにこだわる性質だからである。
「いいわ。じゃ、私、どうせ買物に出るから、取りに行く。場所は?」
「でも、それじゃ……」
「いいのよ。マンションって遠いの?」
「いえ、都心です」
そりゃそうだろう。あんまり郊外じゃ、仕事に不便だ。
説明を聞いてメモすると、
「出かけるついでに寄れる範囲よ。じゃ、心配しないで。受け取って来るから」
「どうもすみません」
と、さをりは言って、「──すぐ行きます!」
と、誰かに大声で言っている。
「私、TVの収録なので」
「ええ、分ったわ。じゃ、頑張って」
「ありがとう」
三記子は電話を切ると、
「我ながら、お人好し!」
と、呟いて、外出の仕度に取りかかった。
──三十分ほどで、直木さをりのマンションに着く。
特に取り立てて目立つマンションではないが、場所は便利な所だ。一階の名札には、プロダクションの名が入っていた。
「三〇五だったわね」
エレベーターで三階へ上る。〈305〉のドアの前で足を止めると、三記子は、チャイムを鳴らした。
返事がない。──もう一度。そして、三記子は、ドアが少し開いているのに、初めて気付いた。
そっとドアを開けると、
「失礼します。──誰かいませんか」
と、声をかける。
部屋の中は静かだった。しかし──玄関には靴が、それも男の靴が二足、並んでいる。 一見して、別々の男のものと分った。
「誰かいません?」
と、三記子は、少し声を大きくした。
勝手に上りこむのもためらわれたが、ともかく玄関へ入ると、奥の方を|覗《のぞ》き込んだ。
カーテンが引いたままになっているのか、薄暗い。奥のドアが半分開いていて、その向うに何かスッと白いものが──。
しばらく見ていると、目が慣れて来て、それが人間の腕らしい、と分る。
ベッドから垂れた、むき出しの腕。
「すみません。──起きて下さい」
三記子は、不安に駆られていた。何か起ったのに違いない、と三記子の直感は告げていた。
思い切って、上り込んだ。その奥のドアへ向って歩いて行く。
半分開いたドアを、そっと手で押して、開ける。
ベッドの上で、血まみれになって死んでいるのは──さをりの兄だった。白い裸の胸に、ナイフが柄まで、深々と突き立っている。
三記子としても、さすがにこんな光景はショックである。ガタガタ|膝《ひざ》が震えて、立っているのがやっとだった。
「け、警察……。一一〇番!」
自分に向ってそう言い聞かせつつ、電話を求めて、居間へ戻った。
あった! 電話!──一一〇番、一一〇番と……。
しどろもどろながら、やっと説明が通じて、すぐにパトカーが駆けつけることになり、少しホッとする。
そして三記子は振り向いて、
「キャーッ!」
と、悲鳴を上げるはめになった。
目の前に、ヌーッと立っていたのは──海坊主だった。いや、違った、社長の桂木だった。
たった今、目が覚めたという様子で、白のガウンをだらしなく着込み、ぼんやりとした目で、三記子を見ていた。
「あ、あの──おはようございます」
と、三記子はともかく言ってみた。「あの──ちょっと電話をお借りしまして、ええ。いえ、十円払いますよちゃんと。──ほらね?」
電話のわきに十円玉をとりあえず二枚置いた。
桂木社長の白いガウンには、あちこち血がはねていた。けがをしているわけではないらしい。
ということは──返り血[#「返り血」に傍点]だ。
「君は、何だ?」
と、桂木が、やっと口を開いた。
「私……あの、松永三記子です」
「松永? そんな子がうちにいたかな」
と、桂木は首をかしげた。「どんな番組に出てる?」
「番組って……。いえ、私、タレントじゃありません。図書館の──」
「トショコン? そんなコンクールがあったかな? ま、いい。うちでタレントをやるのなら、私に抱かれなきゃいかん」
「あの、私、これで──」
と、三記子は逃げ出そうとした。
「待て! 男も知らんで役者になる気か?」
と、桂木が、三記子の腕をつかんだ。
「何すんのよ!」
三記子は、思い切り、桂木の|股《こ》|間《かん》をけり上げてやった。
「ウッ……」
と、うめいて、桂木は真赤になってうずくまった。
逃げろ!
三記子は、玄関から、靴を引っかけ、あわてて、廊下へと飛び出したのだった。
そして、その時になって気が付いた。居間のテーブルの上に、あの本[#「あの本」に傍点]が、置いてあったことに。
3
「えらい騒ぎだ」
と、田所がため息をついた。
「私が人を殺したわけじゃありません」
と、三記子は、かみつきそうな顔で言った。
「誰もそんなこと、言ってないだろう」
と、好男がなだめる。
「いいのよ。どうせ私のことなんか、誰も信じちゃくれないんだから!」
何だか知らないが、やたらとむくれているのである。
「──ま、財団の理事の中には頭の固い年寄りもいるからね」
と、田所は言った。「こんなスキャンダルに係り合うような女の子を雇っとくわけにいかん、と言ってね」
「じゃ、クビですね」
と、三記子は言って、「色々お世話になりました」
「おい待ってくれ」
と、田所はあわてて、「私が反対したんだよ、君にはこれまで通り、働いてほしいんだ」
「ああ、そうですか」
と、三記子は、田所を見て、「私を殺人犯のように見てらっしゃいましたけど」
「とんでもない。君に人殺しなんか……。ま、たとえやったとしても、逃げたり隠れたりする君じゃない」
「変な信用の仕方」
と、言って、三記子は苦笑した。「でもまあ、それは確かです」
図書館の書庫である。──三記子、好男、田所の三人が集まって、善後策を検討しているところだった。
「でも、直木さをりが可哀そうだなあ」
と、好男は言った。「兄さんと二人きりだったんだって?」
「そうらしいわ。あれが本名だっていうのも初めて知ったけど」
殺されたのは直木勇一。二十歳だった。
妹のさをりと五歳違い。──犯人は、状況から見て、桂木以外に考えられなかった。
「でも、あの社長がねえ……。男の方に興味あったなんて」
「お前にも言い寄ったんだろ」
「そう。|訊《き》かなかったけど、さをりさんだって……。あの桂木の口ぶりからすると、危ないもんだわ」
「まさか!」
と、好男は目をむいて、「そんなことないよ。直木さをりは清純な乙女だ」
「当然だ」
と、田所が|肯《うなず》く。
「ねえ」
「ご勝手に」
と、三記子は肩をすくめた。「ともかく、桂木社長が捕まれば、何もかもはっきりするでしょ」
パトカーがあのマンションへ駆けつけた時、桂木社長は姿を消していたのである。
しかし、そういつまでも逃げてはいられないだろうというのが、大方の予想だった。
「動機は、結局、桂木とさをりの兄との間の感情のもつれってことか」
「芸能レポーターの想像では、いやけのさした直木勇一が、別れ話を持ち出したんじゃないかって」
「ゾッとしない光景だな」
と、好男は首を振って言った。
「もちろん、そんなことだってあると思うわよ」
と、三記子は言った。「でも、あの時の桂木の様子、そんな風には見えなかったわ」
三記子とて、殺人犯とそう近付きになる機会に恵まれているわけではないから、はっきりは言えなかったが……。
「いずれにしても、桂木はおしまいだな」
と、田所が言った。「直木さをりも、果してTVや歌に戻れるかどうか」
「プロダクションは|潰《つぶ》れるでしょうしね」
「もともと、桂木のプロは小さいらしい。直木さをりで、ここまで伸びて来たんだ。それがなくなりゃ、KOだよ」
と、田所は説明した。
「大体、さをりさんが、よくあんな社長のプロダクションに入ってたもんだわ」
「そうだな。しかし、やめたくてもやめられないらしいじゃないか。ああいう世界っていうのは」
「図書館で働いてる方がよっぽど気楽ですよね。私、タレントに誘われても、やめておこう」
と、三記子は真顔で言った。
「そう。──そうだな」
と、好男が肯き、
「まあ、そうだね」
と、田所が同意した。
それから男二人はそっと顔を見合わせたのだった……。
「でも、一つ気になってることがあるんですよ」
と、三記子は言った。
「何だね?」
「あの本です。『太陽の少女たち』。もちろん、返してもらわなきゃいけないんだけど、それだけじゃなくて、やっぱり今度の事件に何か係り合ってるんじゃないでしょうか」
「そりゃ、ここにいる我々は、この図書館にある本のことをよく知ってるから、そう感じるがね。他の人は誰もそんなこと、考えやしないよ」
「だからって、放っといていいってもんでもありませんよ」
と、三記子は言い返した。「もし、あの本のことで殺人が起ったとしたら……」
「まさか。それなら、犯人が本を持って行くとかしているさ」
と、好男が言った。「考え過ぎじゃないのか?」
「あんたはね、いつも幽霊に会ってないからそう言うのよ」
二人がやり合っていると、
「失礼」
と、頭の上で声がした。「誰かいませんか」
「あの声、聞き憶えがあるわ」
と、三記子が言って、階段を上って行く。
「──誰かいませんか!」
「大声出さなくとも聞こえます」
と、三記子が顔を出すと──浮浪者が一人、立っていた。
いや、そうじゃなかった。直木さをりのマネージャーだった、小池だ。
しかし、ひどい格好をしていた。不精ひげで顔は薄黒くなっているし、髪もろくにクシを入れていない。
「留置場にでも入ってたんですか?」
と、三記子は訊いた。
「冗談じゃないよ」
と、小池は、顔をしかめた。「さをりはここに来なかった?」
「さをり? 直木さをりさんのこと?」
「もちろんだよ」
「どうしてこんな所に来るんですか、さをりさんが」
「いや──じゃ、いないんだね」
「もちろん」
「そうか!」
小池は、急に体中の力が抜けたように、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。
「ちょっと! 玄関に座り込まないで下さいよ。押売りみたいに」
「分ってるけど……。少し休ませて──くれ……」
小池はドカッと倒れて、それきり気を失ってしまったらしかった。
「──|呆《あき》れた」
三記子は、好男を呼んで、ともかく小池を居間へ運び込むことにした。
「医者を呼ぶ?」
と、好男が訊いた。
「そうねえ」
そこまでしてやることもないかな、と思ったが、こんな所で死なれても後味が悪い。
「私が呼ぼう」
と、田所が、やって来て言った。「野々宮家に出入りしていた医者が近所にいるはずだからね。今、帰りがけに寄って、来てくれるように言うよ」
「じゃ、お願いします」
「気を付けて」
と、田所は出て行った。
「──何に気を付けるんだ?」
と、好男が訊く。
「さあね」
三記子は、ただ肩をすくめて見せた。
「ああ……」
と、小池が、ため息をついた。
普通、ため息をつくと、周囲は同情したり慰めたりしてくれるものだが、この場合は別だった。
「呆れたわ、全く」
と、三記子が、腕組みをして、小池を眺めている。
「|俺《おれ》だって、こんなに食ったことない」
と、好男も、目を丸くしている。
小池の前には、空になった〈ほか弁〉の容器が、四つも重ねてあった。それ全部、一人で食べたのである。
「倒れるまで何も食べないなんて! ダイエットしてるわけでもないでしょうに」
「そりゃそうだけどね」
小池はお茶をガブ飲みして、「ああ! これでやっと生き返った!」
「お医者さんまで呼んで、恥かいたじゃないの」
「いや、ごめん」
と、小池は頭をかいて、「しかし、こんな事態、初めてだからね。もうどうしていいか分らなくて……」
「だらしないですね、しっかりしなきゃ。生きてくくらい、どうにでもなるじゃありませんか」
「うん……。しかしね、こういう仕事をしてると、つい金のつかい方も派手になるだろう? あちこちに借りができてるしね。だからどこで食事するったって……」
「さをりさん、本当に見当らないんですか?」
「うん。どこにもね。──桂木社長があんなことになって、こっちは大変だよ。TVの連中に追い回されて」
「仕方ないでしょうね、それは」
「つい昨日まで、さをりを出してほしいもんだから、僕にもペコペコ頭を下げて、おべっかを言ってたのに、ガラッと変って、まるでこっちが人殺しみたいなこと言われるんだからな」
「あなただって、それでいい思いをしてたんでしょ?」
「うん。──そりゃそうだ」
と、小池は肩をすくめて、「ね、すまないけど、カミソリないかな」
「自殺するんですか?」
小池は目をむいて、
「ひげをそるんだよ」
と、言った。
「あいにく、私は女ですので」
「そこの彼氏と|同《どう》|棲《せい》してんだろ?」
「水浴びしたくなかったら、出てって下さい!」
と、三記子は出口の方を指さした。
「ごめん! 取り消す!」
と、あわてて小池は首を振った。
「──本当に社長さんが直木勇一を殺したと思います?」
「分らないよ。僕には」
と、小池はソファに寝そべった。「ああ疲れた……」
「気楽にしないで下さい。──桂木さん、男の人に趣味があったっていうのは?」
「うん。そりゃ知ってた。美少年タイプが好きでね」
「でも、私にも迫って来たわ」
「女の子の中でも、少し男っぽい|娘《こ》には、手を出してたよ」
「あ、そうですか」
三記子は、少々面白くなさそうだった。「じゃ、さをりさんは?」
「さをりには手をつけてないと思う。大事な商品だからね。下手にベタベタした仲になるとやりにくいだろ」
「直木勇一と本当に──」
「僕もよく知らないんだよ、あの兄妹のことは」
と、小池が首を振った。「ともかく、両親をなくして、兄と妹、二人で生きて来た、ってところらしいからね。本当に仲は良かったね」
「じゃ、さをりさん、|凄《すご》いショックでしょうね」
「当然ね。でも、人の目のある所では、気丈な子だから、涙も見せていなかった」
どうにも、三記子としても納得がいかないのである。
死体の発見者として、事件に係っているわけだが、確かに、あの場合、桂木が疑われるのは仕方ない。
しかし、直木勇一を刺したナイフは、指紋が|拭《ぬぐ》い取ってあったのだ。あの桂木の様子は、どう見ても、犯行の後、手掛かりを隠そうとしている犯人とは思えなかった。
しかし、逃げてしまったのは、まずかった。自分が犯人だと言っているようなものなのだから。
「桂木さんの行く先も?」
と、三記子が|訊《き》くと、小池は顔をしかめて、
「警察にも散々訊かれたよ。しかし、僕の知っている限り、社長のマンションや別荘も当ったけど、どこにもいない」
「ともかく、早く出て来て釈明することですね」
「だけど、もう終りだね。──せっかくここまでのして来たけど」
「さをりさんのおかげで、伸びたんでしょう?」
「もちろんさ。うちの社長は、この十年足らずの間に、ぐっとのして来たんだ。かなり悪いこともやって、人には恨まれてるらしいよ」
「へえ。──例えば?」
「聞いてない。聞くと、働くのがいやになるからね」
利口かもしれないわね、と三記子は思った……。
「実際に、業界でも大手の一つになったのは、やはり直木さをりのおかげさ」
「さをりさんは、桂木社長が見付けたんですか」
「いや、それがそうじゃないんだ」
と、小池は言った。「不思議な話でね」
「というと?」
「あるコンクールがあったんだ。さをりは、かなりその前から評判になっていて、そこでも一位になるのは、ほぼ確実だった」
「いくつだったんですか、さをりさん」
「十三になるかならないぐらいのころじゃないかな。──で、当然他のプロも、さをりを狙っていてね。結果は予想通り、さをりが一位。参加していたプロダクションのほとんどが、さをりを手に入れたいと名乗りを上げた」
「桂木さんも」
「当然さ。しかし、正直なところ、全然期待していなかったんだ。何しろ、うちは、その場では一番小さなプロダクションだったんだからね」
「それで……」
「ところが、さをり自身が、うちを希望したんだ! 他のプロの連中も、|呆《あっ》|気《け》に取られていたが、一番びっくりしたのは、社長と僕だったよ」
「どうしてさをりさんは──」
「うちを選んだか、って? それはよく分らない。大きなプロダクションだと、好きなようにできないとか、先輩後輩の関係がうるさいとか……。ま、色々言っていたけど、結局はよく分らなかったよ。しかし、文句を言うことでもないしね」
「ふん」
と、三記子は|肯《うなず》いた。
「それからは、うちも日の出の勢いってやつさ。たった二年余りで、ここまでのし上って来た……」
「で──突然、暗転ってわけですね」
「まあね。人生ってのは、こんなものなのかな」
小池は、いささかオーバーに、言った。
人生とは……。本当に、いい時も、悪いときもある。
ふと、三記子は、思い付いて訊いた。
「さをりさんのご両親って、何で亡くなったんですか?」
「さあね。──どうして?」
「聞いたこと、ないんですか?」
「話したがらないんだよ、彼女。週刊誌向けには、うちで作ったストーリーをのせていたけど、まるででたらめでね」
「なるほどね」
三記子は肯いた。好男が不思議そうに、
「どうかしたのか?」
と、訊く。
「別に。──ね、好男。ちょっと調べてほしいことがあるんだけどな」
「調べるのはお前の商売だろ」
「ここじゃ分らないの。ね、いいでしょ、どうせヒマなんだから」
「あ、傷つくこと言うなよ」
と、好男は顔をしかめた。
4
ドタン、バタン。
いくら、眠りの深い三記子でも、夜中に、凄い音がしては目も覚める。
しかも、どうやら音が聞こえて来たのは、地下の書庫らしい。何といっても、自分の職場である。
「アーア」
と、|欠伸《あくび》をしながら、明りを点け、バットを手にして、地下の書庫へと下りて行った。
そのバット、護身用に、いつも手もとにあるのだ。
書庫は静かだった。──明りが点いていると、あまり気味悪くはない。
地下だから、昼間も夜も同じなのだ。いつも一人だし、特別怖いということはなかった。
しかし、あの音は、ただごとじゃなかったわ、と三記子は思った。
ネズミやゴキブリぐらいじゃ、あんな音はしないだろう。といって──こんな所に入る泥棒もいないだろうけれど。
地下一階を見て回ったが、誰もいないし、本も落ちていない。
あの音は、本が大分派手に落ちた音である。──そうなると、地下二階の書庫ということになる。
階段を少し下りて、三記子は、足を止めると、
「誰かいるの?」
と、声をかけた。「出てらっしゃい。こっちは武器を持ってるわよ」
ま、バットが武器[#「武器」に傍点]かどうかは異論のあるところかもしれない。
「おとなしく出て来ないと……。承知しないからね!」
本当は、三記子だって怖いのである。
しかし、こんな時に|怯《おび》えているのを悟られたら、却って危ない。
しかし、一向に「返事」はなかった。
仕方ない。山に、こっちへ来い、と命じたマホメッドじゃないが、来ないとなればこっちから行くしかない。
バットを握り直し、三記子は、階段を下りて行った……。
「──何てこと」
と、思わず|呟《つぶや》いたのは、想像以上に、本が床に山になっていたせいだ。
これを片付けるのに、どれくらいかかるか……。そう考えると、腹が立って来て、怖さも忘れてしまう。
「出てらっしゃい! ぶん殴ってやるから!」
ビュン、ビュン、とバットを振り回していると、ゴトッと背後で音がした。
いたな……。こっそり後ろから襲いかかろうなんて! かよわい女の子に対して、|卑怯《ひきょう》だぞ!
三記子はパッと振り向いた。
誰も、目の前には立っていなくて──しかし音はした。
「ウ……ム……」
と、変な声がした。
足下の方だ。──目を下にやると、誰かが倒れている。
「まあ」
と、三記子は言った。
桂木なのだ。三記子がマンションで会った時のガウン姿のままである。
もっとも、桂木は、もうとても三記子をものにしようなんて元気はないようで、床にひっくり返って、ハアハアと|喘《あえ》いでいる。
何だか乾ききって、のびているガマガエルみたいだった。
「──何してんです、こんな所で」
と、三記子は見下ろして、言った。
「君……。頼む……」
と、桂木は、息も絶え絶えって調子で、言った。
しかし、あまり弱々しいので、聞き取れない。三記子はかがみ込んだ。
「何ですって?」
と、耳を桂木の口もとに寄せた。
「あのね──」
と、三記子は言った。「うちは、無料給食所じゃないんですからね」
「うむ……」
「ちゃんと後で払って下さいよ。お弁当の代金!」
「うん……」
「俺のバイト料も」
と、好男が言って、欠伸をする。
社長と部下ってのは、似るものなのだろうか?──桂木の目の前には、やはり〈ほか弁〉の空の容器が重ねられていたのである……。
夜中に三記子の電話で起こされて、弁当を買ってきた好男は、ちゃっかり自分の分も一つ確保していたが、さすがに今は食欲もないようだった。
「──旨かった!」
と、桂木は、息をついた。「いや、こんなに旨いものがあったのか。これなら三つ星にしてもいい」
「|呑気《のんき》なこと言って」
と、三記子は|呆《あき》れて「殺人の容疑がかかってるんですよ」
「分ってるとも」
と、桂木は言った。「しかし、私じゃないぞ、やったのは」
「なぜ、逃げたんです?」
「よく分らん」
と、桂木は首を振って、「何だかボーッとしていたんだ。君にも失礼なことをしたらしいが……」
「確かに」
「憶えとらんのだ。何だか自分の体が自分のものでないようだった」
「本当ですか?」
「誓って! きっとそれは薬か何かのせいだ。でなければ、君に手を出そうとは思わんはずだ」
三記子は、何となく複雑な表情で、桂木を見ていた。
「小池の奴もここへ来たのか」
「ええ。〈ほか弁〉を四つ、食べました」
「よく食う奴だ」
自分も四つ食べておいて、よく言うわ、と思った。
「──すまんが」
と、桂木が言いかけると、
「カミソリはありません」
「どうして分った?」
と、桂木が目を丸くする。「君、超能力の持主か?」
「推理ですよ」
と、三記子は言った。「もし、殺してないのなら、さっさと警察へ行けばいいじゃありませんか」
「簡単に言うけどな」
と、桂木は渋い顔で、「警察って所は、一旦疑うと、なかなか考えを変えちゃくれんのだ」
「でも、それじゃどうするんです?」
「ここにしばらく置いてくれんか」
「とんでもない! 私が女一人で住んでる所ですよ!」
「うん。しかし……」
「どこへでもどうぞ。止めませんから」
と、三記子は言った。
「行く所なんかないよ」
と、桂木は、ため息をついた。「もうすっかり疲れた……」
その様子は、少々哀れで、確かに、三記子の心をいくらかは動かした。しかし、ここに桂木を置くわけにはいかない。
「じゃ、今夜だけですよ」
と、三記子は言った。「好男、ここに泊ってね」
「いいよ」
「朝になったら、好男に、着るものを買って来てもらいますから。そしたら出てって下さい」
「すまん!」
と、桂木は頭を下げた。「恩に着るよ」
「そんなことより──」
と、三記子が言いかけたが、玄関のドアを|叩《たた》く音がした。
三記子は、好男と顔を見合わせた。
「誰かしら?」
「また弁当買いに行くのかな」
と、好男が、うんざりした様子で言った。
「出てみるわ」
三記子が、玄関へ行って、「どなた?」
と、声をかける。
「電報です」
電報? 何事だろう?
急いでドアを開けると──目の前にズラッと警官が立っていた。
「桂木をかくまってるな!」
と、刑事が言った。「入れ! 逃すな!」
ドドッと警官が突入して来て、三記子は危うく引っくり返るところだった。
「──密告したな!」
と、桂木は、警官に押えつけられて、三記子の方を恨めしげににらんだ。
「知らないわよ!──好男?」
「俺じゃないぜ」
と、好男も首を振る。
「君も来てもらおう」
と、刑事が、三記子の肩をつかんだ。
「──クビですか」
と、三記子は|訊《き》いた。
「いや。私が責任を持つということで、何とか切り抜けた」
と、田所が車を運転しながら言った。
「すみません」
と、三記子が言うと、田所はニヤリと笑って、
「感謝の印に、どうだい、このままどこかのホテルにでも」
「え?」
「冗談だよ。素直に謝られると、どうも君らしくなくて、つまらない」
「ひどい!」
二人は一緒に笑った。
──もう朝になっている。
三記子は夜中に田所を電話で起こして、警察へ来てもらったのだった。
「でも、本当に桂木が犯人なんでしょうか?」
と、三記子は言った。
「どうかね。当人は否定しているが」
「私も何だか……。あの人がやったとは思えないんですけど」
「しかし、他に犯人がいるとして──」
「ええ。誰がやったのか、それは不思議ですね」
「どうする? 真直ぐ帰るかね?」
「ええ。眠りたいんで」
と、三記子は素直に言った。
「分った。──眠っているといいよ。着いたら起こしてあげる」
「でも……。そうですか?」
三記子は目を閉じると、すぐに眠りに落ちてしまった。
図書館に戻った三記子は、またベッドへ潜り込んで眠った。──目が覚めたのは、もう昼近くで、電話の鳴る音が、三記子を起こしたのだ。
「はい。──あ、好男」
「戻ったのか。良かったな」
「冷たい恋人が迎えに来てくれないんだもの!」
「そう言うなよ」
と、好男は笑って、「分ったよ、面白いことが」
「何が?」
「直木さをりのことさ。兄の勇一もだけど」
「何なの?」
「二人は両親が死んでから、親類の家の養子になってるんだ。そこが、直木という姓なんだよ」
「じゃ、以前は違う名だったのね」
「そうなんだ」
「待って」
と、三記子は言った。「分ったわ。その名は、根本[#「根本」に傍点]さをりなのね」
「正解!」
根本! あの本の持主だった男。
やってもいない万引の疑いをかけられて、一生を棒に振った男。さをりと勇一は、その根本の子だったのだ!
「それで、あの本との係りは分ったわ。ありがとう、好男」
三記子は電話を切った。──しかし、それと、勇一が殺されたことと、どうつながっているのだろう?
三記子が|欠伸《あくび》しながら振り向くと──目の前に誰かが立っていた。
「キャッ!」
と、思わず声を上げ、「──どうやって入ったんですか?」
と、小池をにらみつける。
「|鍵《かぎ》が開いてたよ」
と、小池は言った。「社長も捕まったし、これで一区切りだ。君を食事にでも誘いたくてね」
「帰って下さい!」
と、三記子は、小池をにらんだ。
「どうして?」
「忙しいんです。あなたや桂木さんのおかげで、時間を取られて」
「それは申し訳ない」
と、小池は笑って、「じゃ、お詫びの印に──」
いきなり、小池は三記子を抱こうとした。びっくりした三記子が後ずさろうとして、転んだ。そこへ、小池がのしかかる。
「──放して!」
「君を見た時から……気に入ってたんだ!」
「こっちは願い下げよ!」
「そういう気の強いところが可愛いんだ」
「かみついてやるから!」
と、二人して、床の上で、争っていると──。
「やめなさいよ」
と、声がした。
ハッと小池が顔を上げる。
三記子は小池をはねのけて、起き上った。
「さをりさん!」
直木さをりが立っていた。──青ざめた顔で、じっと小池を見ている。
小池は、大きく目を見開いて、さをりを見つめていたが、突然、胸を押えて、苦しげに|呻《うめ》くと、そのまま倒れて、動かなくなってしまった。
「──心臓が弱ってたのね」
と、さをりが言った。「めちゃくちゃな生活してたからだわ」
「さをりさん……。お兄さんを殺したのは──」
「この人です」
と、さをりは言った。
「小池?」
「ええ。小池は私をものにしようとして、ベッドへ引きずり込んで……。兄が駆けつけて乱闘になったんです。それで……」
「じゃ、桂木さんは?」
「酔って、その前に眠ってしまっていました。それで、小池は、桂木を犯人に仕立てようと思ったんですわ」
「そうだったの……。さをりさん、あなたは──」
「ご存知ですね、父のこと」
「根本さんのことね。知ってるわ」
「私が、桂木のプロダクションに入ったのは、そのためなんです」
「そのため?」
「桂木に、金儲けさせておいて、そこから一気にけおとしてやるためでした。──もう少しだったのに」
「なぜ、桂木さんを……」
「桂木が、父のことを万引したと言った店員なんです」
三記子は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「──後で事情は分りました。父は、市長の反対派に利用されたんです」
「じゃ、桂木がわざとやったことなの?」
「お金をもらって。そのお金をもとにして、桂木はプロダクションを始めたんです」
「そうだったの……」
「私、わざと桂木の所へ入りました。思い通りに人気も出て、怖いようでしたけど……。もう、ここまでくれば、と兄と話していた矢先に、この小池が……」
「そう。気の毒なことだったわね」
「でも、これでも良かったのかもしれませんわ」
と、さをりは言った。
「どうして?」
「桂木は、やってもいない罪で、捕まってるんですもの。父の悔しい気持、少しは味わったでしょうから」
「それはそうね」
と、三記子は肯いた。
「それに、私がいなくなれば、たとえ無罪と分っても、もう立ち直れないでしょう。大変な借金をかかえてるんですもの」
さをりは、小池を見下ろして、「この男もできれば死なせたくなかったわ」
と、言った。
「待ってね。ともかく警察を呼ぶわ」
と、三記子は電話へ手をのばした。
「色々、お世話になって、すみません」
「いいのよ。──あ、もしもし」
三記子は、電話で、警察と、田所にも連絡した。
「これでよし、と。──さをりさん」
振り向いた三記子は、さをりの姿が消えているのを知って、面食らった。どこへ行ったんだろう?
床に、本が置かれていた。
拾い上げてみる。──あの本だ。
「さをりさん……」
と、三記子は|呟《つぶや》いた。「もしかしたら……」
なぜ、小池は、さをりを見ただけで、心臓をやられるほど驚いたのか。いや、|怯《おび》えたのか。
さをりがここにいるはずがない、と、小池は知っていたのではないか。
つまり──小池は、さをりをも、殺してどこかへ運び去っていたのではないだろうか……。
手にした本は、まだかすかにぬくもりが残っている。
──さをりの死体が、小池のマンションで見付かったのは、その日の午後のことだった。
第四の事件 隠れんぼうした本
1
「これで、文句あるまい」
ドサッと、札束を積んで、その見るからにいやらしい初老の男は言った。
いやらしくても、身なりは立派だ。冬の寒さも、少しも|応《こた》えないだろうと思える、豪華な毛皮のえりのついたコートを着込んでいるのである。
一方、テーブルを挟んで、その初老の男と向い合っているのも、やはり初老の男だ──しかし、こっちは、またいかにも見すぼらしく、冬の木枯しが骨身にしみるだろうと思える、やせこけた男。
コートなど持っていないのか、古びた上衣と、全然合っていないズボン。ひげ[#「ひげ」に傍点]もろくに当っていない様子だ。
二人の男の間のテーブルに積み上げられた一万円札の束は、数えてみれば分るが──ここでいちいち数えていては、話が進まないので──ズバリ一億円!
「ちゃんと、銀行の人間に確かめさせたよ。それとも、一枚ずつ数えるか?」
と、「金持」氏の方が、葉巻などくわえながら、言った。
「いや……。信じるよ」
と、「貧乏」氏が、力のない声で、言った。
「では、約束を果してもらおう」
と、「金持」氏が、目をギラギラさせている。
「分った……」
と、「貧乏」氏は、隣りの席へ、「こんなわけだ。お前も辛いだろうが、どうか分ってくれ……」
彼女[#「彼女」に傍点]は、何も言わなかった。
素直に、「金持」氏の前に押しやられて、じっとしている。
「それでは、その金を持って引き上げてもらおう。|俺《おれ》はこいつと二人きりになって、ゆっくり楽しみたい」
「貧乏」氏の方は、手提げの、今にも破れそうな袋に、札束を次々に投げ入れた。そして──ふと、その手を止めると、
「なあ」
と、「金持」氏へ、声をかける。
「何だ? 未練がましいぞ。別れは充分惜しんだはずだ」
「いや、そうじゃない」
「じゃ、何だ?」
「──乱暴したり、放っておくようなことはしないでくれよ」
「当り前だ。一億円の買物だぜ」
と、「金持」氏は笑って言った。「心配するなよ、兄貴[#「兄貴」に傍点]」
「分った……」
と、「貧乏」氏は言って、残りの札束を袋に入れると、まるで彼女[#「彼女」に傍点]の非難の目から逃げようとでもするかのように、こそこそと立ち去ったのだった。
「──さて!」
と、「金持」氏は、両手をこすり合わせて、「これでやっと二人[#「二人」に傍点]きりになれたな。もう誰も邪魔はしない。──分ってるのかね、お前を手に入れるために、俺がどんなに長い間、苦労して来たか」
そして、低い声で笑うと、
「それも終った! 今、もうお前は俺のものだ。俺はお前を買ったんだからな。どうしようと俺の自由さ。分ってるんだろうな、ええ?」
「金持」氏は、手をのばして、彼女[#「彼女」に傍点]を手もとへ引き寄せると、「俺が、どんなにこの日を夢見ていたか、分るか……」
と、独り言のように|呟《つぶや》きながら、彼女[#「彼女」に傍点]の肌に手を|這《は》わせ、優しく|愛《あい》|撫《ぶ》して行ったのだった……。
「出て来い!」
いきなり、玄関の方で怒鳴り声がして、松永三記子は、ちょうど食べかけていたお昼のホットドッグをのどに詰らせ、目を白黒させた。
「誰かいるんだろう! 出て来い!」
何よ、一体?──コーヒーをガブ飲みして、やっとホットドッグを流し込んだ松永三記子は、立ち上ると、万一のために用意してある、護身用のバットを手に──ただし、一応、体の後ろに隠して──玄関へと出て行った。
ここは松永三記子の「住居兼仕事場」である。──〈野々宮図書館〉という、私立の図書館で、この立派な屋敷の一階に、三記子は住み、地下一、二階の書庫で働いている。
昼食を取る時には、当然地下の書庫から上って来て、地上[#「地上」に傍点]で食べるわけで、今はちょうど昼休み。一人で働いているから、適当に休んだっていいようなもんだが、そこは性格というもので、きちんと十二時から一時まで休んでいるのだった。
さて、玄関へ出てみると──。
やたら、顔を赤くした初老の男が、突っ立っていた。酔っ払いかしら。いやねえ、と三記子は思った。
「何かご用ですか?」
と、一応|訊《き》いてみると、
「あいつがここへ逃げて来たろう!」
と、かみつきそうな声を出す。
どうやら、赤い顔も、酔っているのでなくて、怒っているせいらしい。
しかし──一応、いい身なりはしているのだが、何だかやけに「取り乱している」という感じで、どうにも見っともない様子ではあった。
「何のお話ですか?」
と、三記子は訊いた。
「ここへ逃げ込んだことは、分っとるんだ。さっさと、あいつをここへ出せ!」
「──あのですね」
と、三記子は、できるだけ穏やかに、ことを済ませようと努力した。
「ここにいるのは私一人です。お分りですか?」
「責任者を出せ。下っぱじゃ、話にならん」
これに、三記子はカチンと来た。
「ここでは、私が[#「私が」に傍点]責任者です」
と、胸を張る。
「ともかく、素直にあいつを渡せばよし、もし断るのなら、力ずくででも、奪って行くぞ!」
「私の他には誰もいない、と言ってるでしょうが!」
三記子も、どっちかといえば、気の長い方ではない。隠し持っていたバットを、パッと振り上げると、
「とっとと引き上げないと、コブを作ってやるからね、この分らず屋!」
と、怒鳴り返した。
相手は、たじたじと後ずさって、
「やっぱりそうか! 兄貴に買収されたんだな」
「誰に買収された、って?」
「分ってるんだ! 畜生! いいか、|憶《おぼ》えてろよ!」
|年齢《とし》に似合わぬ悪態をついて、その初老の男は、引き上げて行く。
三記子が玄関まで出てみると、やけに立派な外車が走り去るところが、チラッと目に入った。
「──何だ、あの|爺《じい》さん」
首をかしげながら、中へ戻る。
誰だかが、ここへ逃げ込んだ、とか言ってたな。──女性でも追っかけて来たのかしら?
ま、相手があれじゃ、逃げたくもなるわね、と三記子は思った。
「お昼を食べなきゃ。とんだ邪魔者だわ!」
台所に戻って、小さなテーブルについた三記子は、ホットドッグを食べようとして……。
「あれ?」
見たことのない本が、そのテーブルの上に置かれていたのだ。
何だろう? 下から持って上って来た覚えはないのに。
「いやだわ。私、もうぼけて来たのかしら……」
半ば真剣に、三記子は呟いた。
と、玄関の方で、また、
「おい! 松永君はいるか」
と、声がした。
「あ、田所さんだ」
三記子は急いで、玄関へ出て行くと、「田所さん、ぼけました?」
いきなりそう言われて、いわば三記子の上司に当る、四十代の弁護士、田所は、ムッとした様子だ。
「私が、いつぼけたというんだ!」
「あ、いえ──そうじゃなくて、私のことなんです」
と、三記子は、田所を居間へ通して、さっきやって来た変な男と、突然現われた本のことを説明した。
「──この本か。ここに入れた本じゃないね。ラベルも何もない」
「ええ。新顔でしょうか?」
「ふむ……」
田所は、外国語のその本をめくって見ていた。「かなり古い本だな。これはラテン語だろう」
「へえ。じゃ、マンボとかサンバとか──」
「ラテン語だ! 音楽じゃない。結構、値打のある本かもしれないな」
「じゃ、どうしてここにあるんです? ここには、いわゆる、高価な古本は置かないんでしょ?」
「私は知らんよ。君も知らんというのなら、この本が勝手にやって来たのかもしれん」
「いい考えですね」
と、三記子は|肯《うなず》いた。
すると、また玄関の方で、
「ごめん下さい……」
「よく、変な客の来る日だわ」
「変な客で悪かったな」
と、田所が、むくれた。
出てみると、今度は、いやに貧弱な、年寄りだ。
「失礼します!」
と、頭を下げて、「ここに──」
「誰も逃げ込んじゃいませんよ」
と、三記子は言ってやった。
「もしかすると……弟が来ましたか」
「弟──」
三記子はさっきの初老の男が、「兄貴に買収された」とか何とか言っていたことを思い出した。
「ともかく上って下さい」
と、三記子は促した。
しかし、兄弟にしても、ずいぶん収入の点では格差があるようだ。あの「弟」の方は、かなりいい身なりをしていたのに、こっちはしわくちゃの背広。それも上と下が合っていない。
取りあえず、その男を居間へ通して、田所にも引き合わせたのだが……。
その男、田所が手にしていた例の本を目にすると、
「ここにいたのか!」
と叫ぶなり、駆け寄って、|呆《あっ》|気《け》に取られている田所の手からその本を奪い取るようにすると、
「良かった! どこへ行ったのかと心配してたんだぞ!」
と、まるで我が子にめぐり会ったとでもいう様子で、抱きしめ、|頬《ほお》ずりを始めたのである。
田所と三記子は顔を見合わせて、
「やっぱり……」
「──ね?」
と、何だかよく分らないままに、肯き合ったのだった……。
「いや、さぞびっくりされたことでしょう」
と、その男は、やっと落ちついた様子で、三記子のいれたお茶を一気にガブ飲みすると、話を始めた。
しかし、傍にはあの本が、まるで我が子──いや、愛妻[#「愛妻」に傍点]のように、寄り添って(?)いる。
「じゃ、あの弟さんが怒鳴り込んで来られたのは、その本[#「その本」に傍点]を探してのことだったんですか?」
三記子は|唖《あ》|然《ぜん》としているばかりだった。
「──申し遅れましたが、私は杉原吉一と申します。ああ、ついでに申し上げると、弟の方は、武二──杉原武二です」
「あの、その本は、一体何ですの?」
「これは、世界に二つとない、貴重な本です。『カルミナ・ブラーナ』の写本の一つなのですが」
「カル……?」
「中世のヨーロッパで、修道僧とか放浪学生が歌った詩のことだよ」
と、田所が、教養のあるところを見せる。
「その通りです。酒や女のすばらしさを歌った、いわば俗謡というやつで」
「しかし、それの原詩は、ベネディクト派の僧院に保管されていたのではありませんか?」
「よくご存知で。これは、その写本の一つです。しかも、さる有名な宗教家が写したというので、大変価値の高い本なのです。──競売に出せば、何億円でしょう」
「億……」
と、三記子は呟いた。
一瞬、その本を、ここで私が拾ったんだから、一割くれ、と言おうかという考えが頭をかすめたが、さすがにプライドの方が、その誘惑に打ち勝ったのだった。
「この本は、父の代から我が家にあったもので、私が長男として、受け継ぎました。──不思議な本でしてね、これは」
と、杉原吉一は、少し夢見がちな目つきで、その本を眺めていたが、ふと我に返って、
「ともかく──」
と、続けた。「弟は、ずっとこの本を手に入れたがっていました。私も、金に困って、つい弟の話に乗り、一億円で、これを譲ってしまったのです」
「はあ」
一億円ももらったにしちゃ、見すぼらしいや、と三記子は思った。
「ところが、昨夜、弟の武二から、怒って電話がありました。『あいつが家出した』というのです」
「あいつ、というと……」
「この本です」
「本が家出するんですか?」
と、三記子は目を丸くした。
「それがこの本の不思議なところです。この本は、自分で、好きな所へ行ってしまうんですよ」
杉原吉一は、どう見ても真剣だった。──三記子と田所は、何と言っていいものやら、当惑して、顔を見合わせるばかり……。
そこへまた玄関の方で、
「三記子! いるか!」
と、声がした。「アイスクリーム買って来たぜ! 食べよう!」
「竹内君だわ」
三記子は、焦って飛んで行った。
「──や、どうも」
居間へ入って来た、三記子の幼なじみの大学一年生、竹内好男は、田所へペコンと頭を下げると、「あの──アイスクリーム、いかがですか?」
と、言った。
「ちゃんと人数分、あるの?」
と、三記子は言った。
「お前と|俺《おれ》と、田所さんと──こっちのお客の分入れても四つだろ。ピッタリだ!」
「一つ足らないわ」
と、三記子は言ってやった。「その本の分が」
「へ?」
竹内好男は、目を丸くしたのだった……。
2
確かに、妙な場所だった。
「──本当にここなのか?」
と、竹内好男が、言った。
「そう言ってたのよ、絶対に」
三記子は、そう言いながら、自分でも不安だった。
「大体何の用なのかも聞かないで、会う約束するなんて、無茶だよ」
と、好男は至って正論を述べた。
「だって、本当に真剣そのものだったのよ、あの電話。──『ぜひとも会って、お話しがしたいんです』って」
「お前に愛の告白でもするんじゃねえの?」
「女の人よ」
「分んないぜ、お前、男っぽいから」
幼なじみだけに、好きなことを言っている。
「どっちにしても、愛の告白にふさわしい場所じゃないわね」
待ち合わせた場所は、中華料理店──といえば聞こえがいいが、要するに、ただのラーメン屋だった。
夕食時なので、狭い店の中は、やたら混んでいる。
「──何か取らなきゃ。じゃ、ここで、晩ご飯をすませよう」
「賛成!」
食べることにかけては、あまり意見の食い違いはない。
二人して、ラーメン、ギョーザ、スブタ、と注文をして、一息ついていると、
「──ただいま」
と、店の戸がガラガラッと開いて、白い上っぱりの女の子が、出前から戻って来た。
「ご苦労さん。遅かったね」
と、奥で、店のおかみさんらしい人が、声をかける。
「すみません。林さんとこ、いらっしゃらないんですもん。そばはのびちゃうし、どうしようかと思って……。待ってたら、やっと戻ってみえて」
「いい加減なのよ、あそこは。──もう帰っていいわよ」
「はい。すみません」
十七、八歳か。なかなかきびきびと働く、|爽《さわ》やかな娘である。
「もう約束の時間だぜ」
と、好男が言った。
「しょうがないじゃない。どうせ食べてりゃいいんだから」
真先にラーメンが来て、二人は早速フウフウやりながら、食べ始めたが……。
「あの──松永さんですか?」
と、声がして……。
「私、松永三記子。──あなたが電話の?」
「そうです。杉原武二の娘で、早苗といいます」
ここで待ち合わせたわけが分った。セーターとスカートという格好のその娘、今、出前から戻って来た女の子だったのである。
「でも──どうして、あなたこんな所で働いてるの?」
と、三記子は言った。「あなたのお父さん、大金持なんでしょ?」
早苗という娘が、兄の杉原吉一の子というのなら、話も分る。しかし、弟の武二の娘というのは……。
「ええ。でも、とてもうまくやっていけなくて、私、家を出てしまったんです」
と、三記子たちと同じテーブルについた早苗は、自分でお茶をついで、飲みながら、言った。
「そう。あの……ごめんなさいね。こっちばかり食事してて」
三記子は少々気がひけた。「このギョーザでも、一つ、どう?」
「どうぞ、召し上って下さい」
と、早苗は|微笑《ほほえ》んで、「それに──」
と、少し声をひそめると、
「ここでおいしいのは、そのギョーザだけですから」
三記子は思わず笑ってしまった。なかなか面白くて、気持のいい女の子だ。
ところで──もちろん、好男も一緒にいたのだが、一向に口を挟まないのは、口の中が食べもので一杯だったせいなのである。
「それで、私にお話って、何のことなの?」
と、三記子は食べながら|訊《き》いた。
「実は、父が、|伯父《おじ》さんから買った、本のことなんです」
「あの『カル……』何とか、っていう本?」
「そうです。父は、あの本をめぐって、伯父さんと、昔から憎み合ってました。本当に……」
と、早苗は、ため息をついて、「あの本を一人の『女性』のように思ってるんです。|可愛《かわい》がり、奪い合って、とても、まともじゃありません」
その点は、三記子も同感である。いくら貴重な本でも、本は本だ。
「伯父さんは、ずっと独身です。──あの人、決してお金がないわけじゃないんですよ」
「でも、あの格好は……」
「ええ、見すぼらしいでしょ? でも、祖父の持っていた企業を、伯父が受け継いで、今でもオーナーですから」
「あの人が社長?」
三記子は目を丸くした。「人は見かけによらないわね!」
「なまじ、自分が一番上にいるので、気をつかう必要ないでしょ。だから。重役会とかにパジャマ姿で出て行ったりするんです」
「なるほどね」
本当の金持ってのは、そんなものかもしれないな、と三記子は思った。
「ところが、一年前に、会社が危くなったんです。下手をすると、伯父さんの家も抵当に取られそうになって。──で、これ幸いと、父があの本を一億円で手に入れたんです」
「そうだったの」
「でも、伯父さんの会社も持ち直したし、また買い戻したいんでしょう。でも、父は絶対に売らないと思います」
「その問題の本、今は私の働いている図書館にあるのよ」
「存じてます」
と、早苗は肯いて、「それで、お会いしたかったんです」
「どういうことで?」
「あの本を、焼いてしまって下さい」
ちょうど、ラーメンを食べかけていた三記子は、ウッ、と|喉《のど》を詰らせて、目を白黒させた。あわてて、ガブガブと水を飲むと、「でも──|凄《すご》く貴重な本なんでしょ?」
「いくら貴重でも、人間を狂わせるなんて……。まともじゃありません」
と、早苗は言った。
「狂わせる、って?」
「父の、あの本への執着は、まともじゃありません。伯父さんだって、そうです。いつもあの本を、ベッドに入れて寝るんですよ、信じられます?」
「そりゃ凄い」
と、やっと一息ついた好男が言った。「本当に、女扱いだな」
「それに──」
と、早苗は、ちょっと眉をひそめて、「あの本、気味が悪いんです。父か伯父から、何かお聞きになりませんでしたか」
「何でも、好きな所へ行っちゃうとか……」
「そうなんです。私も、父の話は、信じていなかったんですけど……。父はあれを手に入れて、同じように、自分の部屋へ持ち込んでいました。ところが──」
早苗は、少し間を置いて、言った。「私も何度か見たんです。あの本、父がちょっと油断して、部屋のドアを開けておくと、いつの間にか、廊下に出ていたり、一度は、玄関まで行ってたこともあります」
「逃げようとしてる、っていうわけ?」
「そうです。父は、必死で、あの本をなだめて[#「なだめて」に傍点]、それだけを納める、特注の本棚を作らせたり、ビロードをはった台座[#「台座」に傍点]を作ったり……。当人は大真面目なんです」
「へえ」
三記子は|呆《あき》れてしまった。もちろん三記子だって本は好きだが、人間扱いすることはしない。
「それで、家を出ちゃったの?」
「それだけじゃありません。伯父もずっと、独身でしたけど、父もそうなんです」
「じゃ、あなたは──」
まさか、本から[#「本から」に傍点]産まれたわけじゃないわよね、と言うところだった。
「私の母は、父の秘書をしていたんです。結婚しないままに私が産まれて……。母は間もなく亡くなって、結局、私は父に引き取られたんです。でも、だからって、感謝する気にはなりませんわ」
「そりゃ、当然ですものね」
三記子は|肯《うなず》いた。「でも──あなたの気持も分らないわけじゃないけどね。あの本は私のものじゃないし、焼いてしまうってわけにはいかないわ」
「そうでしょうね……」
と、早苗は目を伏せて、「無茶を言って、すみません」
「いいえ、でも……」
と、三記子が言いかけた時、店の戸がガラッと開いて、
「何だ、まだいたのか」
と、二十歳ぐらいの若者が入って来た。
「あ、成太君」
と、早苗が手を上げる。「ごめん、遅くなって」
「いや、いいんだ。これから仕事に出るから。──邪魔しちゃったかな」
髪はボサボサだが、不潔な感じはなくて、なかなか気の良さそうな若者だ。
「あの──大谷成太君です。今、私、この人と暮してます」
と言いながら、早苗は少し顔を赤らめた。
「どうも」
三記子は|挨《あい》|拶《さつ》して、「これから、お仕事ですって?」
「ガードマンなんです。夜勤で」
と、大谷成太は言った。「早く帰って、寝た方がいいぞ」
「うん、分ってる」
と、早苗は肯いて、「帰りは?」
「昼ごろだな」
「じゃ、ご飯の仕度、しておくから、食べて寝てね」
「うん。──じゃ、遅れるとまずいから、行くよ」
と、大谷成太は、軽く早苗の肩をつかんで、それから、店を出て行った。
「なかなかすてきな人じゃない」
と、三記子は言った。
「そうでしょ? 私が家を出たら、一人じゃ心配だって、アパートを捜してくれて、一緒に……」
「でも、すれ違いなのね」
「週に三日は。でも、平日の休みもありますから」
早苗は、立ち上って、「無理なことばっかり申し上げて、すみません」
と、言った。
「そんなこと、いいのよ。──あなたのお父さんは、あなたのこと、知ってるの? ここで働いているとか、どこに住んでいるとか」
「いいえ」
と、早苗は首を振った。「父にとっては、あの本がすべてですから、私が何してようと関係ないんです」
「でも──」
「お願いです」
と、早苗は、急に思い付いた様子で、「私たちのこと──私がここで働いてる、ってことも、父には黙っていて下さいね」
「分ったわ、約束する」
「じゃ、失礼します」
──早苗が店を出て行く。
「しっかりした子ねえ」
と、三記子は感心した。
「そうだな」
好男は、もうすっかり食べ終って、「|旨《うま》かった!」
「それに、あの大谷成太って男の子も。夜勤で働いてるなんて、偉いじゃない」
「|俺《おれ》に当てこすってんの、それ?」
「あら、そんな風に聞こえた?」
「聞こえた」
「そうでしょうね。当てこすったんだから」
と、三記子はニヤリと笑って、言ってやった。
「お前がその気なら、俺、大学やめて働くぜ」
「やめてよ。やりかけたことは最後までやってくれなきゃ。分った?」
「うん」
「分ってんのかな、本当に」
と、三記子は、やや不安げに首をかしげている……。
二人は店を出た。
「真直ぐ帰んのか?」
「もちろん。やり残した仕事があるの」
「残業手当、もらえよ」
「昼間、少しさぼったのよ」
「じゃ、手伝おうか」
「下心はない?」
「もちろん──ある」
「だめ」
と、三記子は、好男のわき腹をこづいてやった。
「いてて……。大丈夫。手は出さないよ。求められない限りは」
「私がいつ求めたのよ!」
二人は、やり合いながら、〈野々宮図書館〉へ戻るべく、バス停の方へと歩いて行った……。
3
「おい、誰か出て来い!」
三記子は、あの[#「あの」に傍点]怒鳴り声を聞いて、好男の方を振り向いた。
「弟の方よ。杉原武二だわ」
二人は、バスを降りて、図書館の所まで戻って来たのだが、玄関前で、また杉原武二ががなり立てているのに出くわしたのだった。
「ご用ですか?」
と、三記子が声をかけると、
「何だ、どこから出て来た?」
と、杉原武二は、ふくれっつらで、三記子をにらむと、「床下でも|這《は》ってたのか」
「あのね、ネズミかゴキブリと一緒にしないでくれません?」
と、三記子は、腕組みして、「留守してたんです」
「けしからん! いつもここにいるはずじゃないか」
「食事ぐらいには出ます」
「フン、食事か」
武二は、ジロッと好男を見て、「どうせ、そこの男をホテルにでもくわえ込んどったんだろう」
「大きなお世話です」
「ともかく、あれ[#「あれ」に傍点]が安全かどうか、確かめたい」
「あの本でしたら、間違いなく、お預りしてます」
「いや、分らんぞ。俺には、何か予感があったのだ」
「予感ですか」
「そうだ。おい、まさか兄貴に買収されて、こっそり譲ってしまったんじゃないだろうな?」
「それ以上言うと、けっとばしますよ」
と、三記子がやり返していると、
「おい、三記子」
と、好男がつついた。「お前、明りを点けたまま、出て来たのか?」
「明り? そんなもの──」
三記子は、本当に、窓から明りが|洩《も》れているのを見て、びっくりした。「田所さんでも来てるのかしら?」
「ともかく、入ってみようぜ」
三記子は、|鍵《かぎ》をあけた。──ちゃんと、鍵はかかっていたのだ。
「──田所さんですか?」
と、声をかけながら、居間へ入って行くと……。
「おい」
と、後から来た好男が、三記子の肩越しに|覗《のぞ》いて、「あそこに倒れてるの──」
「どうやら、一一〇番した方が良さそうね」
と、三記子は言った。
居間の床に、仰向けに倒れているのは、杉原吉一だった。三記子は、近寄って、手首の脈を取った。
「──死んでるわ」
「その顔色じゃな。──ともかく一一〇番するよ」
「おい!」
と、続いて入って来た杉原武二が、声をかけた。
「あの──お気の毒ですけど、亡くなってます」
「それより、あの本は? 大丈夫か?」
三記子は、よっぽど、武二をけとばしてやろうかと思った。
「じゃ、次は六階だ」
大谷成太が、いつもついて仕事をしている白木は、もうガードマン二十年のベテランである。五十を過ぎているが、まだ充分に力もあり、足も速かった。
「デパートは広くて、大変だ」
と、白木は、階段を下りながら、言った。
「そうですね」
大谷成太は、制服がやっと身について来た、という感じである。
「その髪、少し短くした方がいいぜ。自分でもやりにくいだろう」
と、白木は、言った。
「いつも床屋へ行こうと思うんですけど、つい面倒くさくて」
と、大谷が照れる。
「明りだ」
「はい」
大谷が、六階のフロアの明りを点ける。もちろん、全部点ける必要はない。
見て回るのに充分なだけの明るさがあればいいわけだ。
「──おい、風だ」
と、白木が言った。
「え?」
大谷がキョトンとしている。
「風が吹いてる。どこか窓が開いてるんだ」
なるほど、じっとしていると、かすかな風が|頬《ほお》に感じられた。
「さすがですね。俺じゃ、とても気が付かないや」
「二十年もやってりゃな。──開けられる窓は少ない。在庫のスペースの方だな。覗いて来る。ここにいてくれ」
「分りました」
白木は、在庫の商品を置いておく、仕切られたスペースへ入って行った。
「──やっぱりか」
小さな窓が、開けたままにしてある。
この辺は換気が悪いので、暑くなって、つい開けてしまうのだ。
白木は、きっちりと窓を閉め、売場の方へ戻って行った。
「大丈夫ですか」
と、大谷が|訊《き》く。
「ここは六階だぜ、あんな窓から忍び込めるのは、吸血鬼ぐらいだ」
と、白木は笑って言った。「さ、行こう」
──六階には、オモチャや、レコードの売場が並んでいる。一番奥が、本の売場だった。
そのわきから、また一階へ下りるのである。
「すみません、ちょっとトイレに」
「ああ。その辺にいる」
大谷が駆けて行くと、白木は、本の売場の辺りで、立ち止った。
「何だ。──だらしないな」
本の台の上に布をかけてあるのだが、その端の方が、めくれて、本が少し崩れている。
「今の若い店員は……」
白木は、本を直して、布をきれいにかけてやった。ふと、目が止ったのは、棚の端の方に立てて置かれた大きな本だ……。
「変ってるな」
何となく手に取ってみる。ずっしりと重い。
中を開くと、見たこともない言葉が並んでいる。何語かな?
英語でもドイツ語でもない。──こんな本、どうしてここに並べたんだろう?
白木は、ちょっと肩をすくめて、その重い本を元に戻すと、
「もう来るだろう」
と、|呟《つぶや》いて、階段の方へと歩き出した。
毎晩こんなことをやっているが、何か事件に出くわすことなど、まずめったにない。
今までに二度、泥棒を取り押えたことがあるが、本当なら、「入られない」ためのガードマンなのだ。捕まえるのは警察の仕事である。
今夜も、別に何もあるまい。
白木は、階段を下りかけて、大谷が戻って来たかな、と振り向いた。何か[#「何か」に傍点]が、白木の頭を直撃した。
声を上げる間もなく、白木は、階段を転がり落ちて行った。
「──殺人事件だって?」
田所は、くたびれた様子で、訊き返した。
「ええ……」
三記子は、いささか気がひけている様子で、
「でも──私が殺したわけじゃありませんから」
と、言ったが、田所の気持は一向に慰められていないようだった。
居間では、警察の人間が忙しく動き回っている。──三記子に呼ばれてやって来た田所は、ため息をついて、
「君がここで働くようになってから、どうもこういうことがよく起るようだね」
と、皮肉っぽく言った。
「そんなこと言ったって……」
と、三記子はむくれて、「じゃ、私のせいだとおっしゃるんですね? それなら、どうぞクビにして下さい」
「おい、君ね──」
「失業して、私は町をさまようんだわ。やがては悪の道に迷い込み──」
「君が? 悪の方で断って来るさ」
「ひどい!」
まあ、これも結構な「じゃれ合い」の内なのである。文句は言いつつも、田所は三記子を気に入っているのだ。
「──失礼」
と、刑事が、三記子へ、「君が発見者だね?」
「そうです」
「発見した時の状況を──」
「もう三回も話しましたよ!」
と、三記子は頭に来て、言った。「同じことを、何度もくり返すのが、一番物事の能率を悪くするんです!」
「す、すみません」
刑事は、三記子の剣幕に押されて、「そこを何とか、もう一度お願いできませんか」
「そんなに言うなら、話してあげないでもないけど」
と、三記子はいばっている。
「──死因は何です?」
と、田所は、三記子の話が済むと、刑事に訊いた。
「後頭部を、殴られてるんです。ま、何か、角の|尖《とが》ったものでね」
「角の尖ったもの……。凶器は見付かったんですか?」
「いや、今のところは……。今、地下を調べています」
「まあ!」
と、三記子は、目をつり上げて、「本を勝手にいじらないで下さいね!」
「その辺は、うるさく言ってあります」
と、刑事は、説明して、「では、どうも──」
と、早々に逃げ出してしまった。
田所が苦笑して、
「その調子で、いつも恋人をいじめてるのかい?」
「あら、こんなに優しい女をつかまえて、何をおっしゃるんですか」
と、三記子は真面目に言い返した。「それよりも、田所さん」
と、腕を取って、居間の隅の方へ連れて行く。
「何だね?」
「あれ[#「あれ」に傍点]がなくなってるんです」
「あれ?」
「例の、ラテン語の本です」
「杉原吉一が預けて行った本かい?」
「ええ」
と、三記子は肯いた。「あれは、うちの書庫に入れるわけにもいかないので、この居間の本棚へ入れておいたんです。ちゃんと|鍵《かぎ》をかけて」
「それがなくなったのかい?」
「ええ。──おかしいと思いません?」
「すると、杉原吉一が殺されたのは、それが原因だな。自分も、あの本が心配で、ここへやって来た……」
「そこで犯人と鉢合わせして、争っているうちに──ですか」
「それが一番可能性としては高いんじゃないか?」
「そうですね。でも……。すると犯人は──」
「おい!」
と、杉原武二が、勢い込んで、やって来る。「あの本はどこへ行ったんだ?」
「見当りません」
「何だと?」
「あなたが、お兄さんを殺して、持ち出したんじゃないんですか?」
三記子の声は、小さくない。当然刑事は、この話に興味を持った。
「失礼。──今のお話はどういうことですか?」
と、割って入ろうとしたが、
「ふざけるんじゃない!」
と、杉原武二は、耳にも入らない様子で、「|俺《おれ》があいつの持主なんだぞ! それをどうして奪わなきゃならんのだ?」
「それはそうだ」
と、田所が肯く。
「でも、吉一さんも買い戻したがっていたんですよ」
「買い戻すって、何を?」
と、刑事。
「誰が売るか! もうあいつは私のものだったんだ! それをお前らがなくしおって──」
「私たちのせいにしないで下さい!」
「じゃ、誰のせいだというんだ!」
「勝手に出てったんじゃありません?」
「出てった、って、誰がです?」
と、刑事。
「ちゃんと保管するというから、任せておったのに!」
「じゃ、なぜここへいらしたんですか?」
「だから言ったろう! 予感[#「予感」に傍点]があったんだ。あれ[#「あれ」に傍点]と俺の間には、通い合うものがあるのだ!」
「予感って何です?」
刑事は、なおも話に入ろうと、必死の努力を続けているのだった……。
4
「聞いた?」
と、三記子は言った。
「例のガードマンのことか」
「そう」
「あの大谷成太ってのが一緒に回ってたガードマンが、後頭部を殴られて、階段を転落した……」
「そして死亡。──大谷成太がやったんじゃないかって疑われてるわ」
「二人きりだったっていうからな」
と、好男は言った。
──ここは大学のキャンパス。好男はここの一年生である。
穏やかな日で、二人は芝生に寝転がっていた。
──もちろん、三記子はここの学生じゃないが、こうしていると、きっと女子大生に見てくれるだろう、と思った。
「今日は、いいのかい?」
と、好男が言った。「仕事、放り出して来て」
「あと三日は開けられないの。何しろ、殺人現場だもの」
「それもそうか。じゃ、臨時の休み、ってわけだ」
「そういうこと。──でも、何だかいやな気分」
「二人も人が死んだんだもんな」
と、好男が|肯《うなず》いた。「偶然かなあ」
「偶然にしちゃ……。後頭部を殴られてるのよ、二人とも」
「うん、そうだったな」
「でも同じ犯人だとしたら、そのガードマンを殺す理由なんて、ないような気がするけど……」
「もしかしたら、大谷って奴を殺すつもりだったんじゃないのか?」
「それも考えたんだけど……。可能性としては、まだあるわね。でも、あの人を殺して、何か意味があるかしら?」
「分んねえけどな」
と、好男は肩をすくめた。「あの本も、どこかへ消えたんだろ」
「そうなの。──警察は、一応、杉原武二を調べているけど、ちょっと、動機がね」
「本一冊をめぐって、恋のさや当て」
「普通の人にゃ、信じられないわよね」
「まず、無理だな」
三記子は、青空を見上げて、
「このままじゃ終らないような気がするのよね」
「というと?」
「まだ、何か起りそうな……。また、誰かが殺されるかもしれないわ」
「いやな予言だな」
「仕方ないでしょ。正直な直感なんだから」
そこへ、足音がして、
「竹内君!」
と、女の子が一人、呼びかけて来た。
「何だい?」
「こんな所にいたのか。──捜しちゃったわ」
「何か用事かよ?」
「お客さん」
「客?」
好男と三記子は起き上ると、少し離れたところに、早苗が立っていた。
「いいわね、竹内君、もてて」
「馬鹿、そんなんじゃないよ」
「こちらの彼女が、幼なじみの恋人?」
「うるさい!」
フフ、と笑って、その女の子は、歩き出したが──。
「ね、竹内君、そこの本、あなたの?」
「本?」
「そこの木に、何だか大きな本が、立てかけてあったわよ」
三記子と好男は顔を見合わせた。
「ど、どこに?」
と、好男が、あわてて飛んで行く。
「ほら、その木。──あれ? おかしいわねえ」
「何もないぜ」
「だって確かに、今、見たのよ。じゃ、誰かが持って行ったのかしら?」
と、その女子大生は、首をかしげた。
「自分で[#「自分で」に傍点]、どこかへ行ったのかもしれないわね」
と、三記子が言った……。
「──大谷さん、大変だったわね」
と、三記子が言うと、早苗は、ちょっと肯いて、
「ええ……。一応、警察からは帰ったんですけど、もう犯人扱いで。もちろん、仕事は辞めさせられるし」
三人で、大学の中の学生食堂に入っていた。
もちろん、本来なら三記子や早苗は入れないのである。
「ここのラーメン、結構旨いんだ」
と、好男が言った。
「あのね、早苗さん、どこで働いてると思ってんの?」
と、三記子ににらまれた。
「そ、そうか。じゃ、カレーにする?」
三人は、仲良くカレーライスを取ることにした。
好男が、セルフサービスのカウンターに並びに行っている間に、三記子と早苗は、できるだけ奥の方のテーブルについた。
「いつも、自分が運んでるから、運んでもらうのって妙な気分」
と、早苗が言った。
「伯父さんは気の毒だったわね」
「ええ……。あんなことばっかりしてたら、まともな死に方しないと思ってましたけど」
「あなたのお父さんがやったんじゃない、と私は思ってるの。あんな風な演技のできる人じゃないわ」
「同感です」
「それに、もし犯人なら、一応、兄が死んだばかりだから、嘆いて見せると思うのね。それなのに、あの人、本はどこだ、って、そればっかり」
「それ[#「それ」に傍点]なんです」
と、早苗は、少し身を乗り出した。「馬鹿みたいに聞こえるかもしれませんけど、聞いて下さい」
「何なの? 馬鹿な話は、いつも好男から聞いてるから、大丈夫よ」
カレーを三人分も取りに行かせておいて、ひどいことを言っている。
「私、お話ししましたね、あの本、妙なことがあるって」
「ええ」
「それだけじゃないんです。私が父の家を出たのも、あの本のせいなんです」
「というと?」
「大谷君を、一度、私が父に引き合わせたんです。父は、私のことなんか、大して関心がないんですけど、あんまりいい顔はしませんでした。早過ぎる、みたいなことだけ言って……。でも、付合うなとも言いませんでした」
「それで?」
「ところが──」
と、少し言葉を切ってから、早苗は言った。
「あの本[#「あの本」に傍点]が、大谷君のことを、好きになったんです」
「何ですって?」
「本当なんです。大谷君の周囲に、やたらあの本が現われるようになったんです。家へ大谷君が来ていると、必ずあの本が、ドアの外にいます[#「います」に傍点]。──気味が悪くなって、私……」
「へえ。本に好かれる、ねえ」
「お笑いになるでしょう?」
「ううん。──私、あの図書館で、結構不思議な体験をしてるの。だから、そんなことぐらいじゃ、びっくりしないわ」
「そうおっしゃっていただくと、ホッとします」
「でも、今、あの本はどこへ行ったか分らないわ。大谷さんのそばには?」
「見当りません。あのアパートが、捜し当てられないのかしら」
と、早苗も真剣である。
「お待ち遠さん」
と、好男が、カレーを三つ運んで来た。
「──ね、好男」
と、三記子は、早速食べながら、「さっき、木に立てかけてあった、っていう本だけど」
「ああ。誰かが忘れてったのを、取りに来たのさ、きっと」
「そうじゃなかったら?」
「──どういうこと?」
「もし、それがあの本[#「あの本」に傍点]だったら」
「だったら、どうだってんだ?」
「ね、あの本、好男に惚れた[#「好男に惚れた」に傍点]のかもしれないわよ」
三記子の言葉に、好男はキョトンとして、カレーを食べる手を止めていた。それでも、もう半分近く、平らげていたのだが……。
いくら殺人現場だからといって、他に泊る場所があるわけでもない。
三記子が〈野々宮図書館〉に戻ったのは、そろそろ暗くなって来るころだった。
好男は、
「やっぱり、人殺しのあった所なんて、いやだろ?」
と、言ってくれたが、
「じゃ、一流ホテルのスイートルーム、取ってくれる?」
と、三記子に言い返されて、黙ってしまった。
どうしてこう、私って言い方がきついのかなあ、などと、三記子自身、首をかしげるのだが、ま、性格というものは仕方あるまい。
「──さて、と」
|鍵《かぎ》をあけて、中へ入る。
そういえば、あの時も、鍵はちゃんとかかっていたのよね。もちろん、そんなに複雑な鍵じゃないけど……。
「ただいま、と」
誰もいないと分っていても、自然にそう口に出る。すると──。
「お帰り」
──え? 空耳かしら。
居間の方で、確か……。
三記子は居間を|覗《のぞ》いて、明りをつけた。
「勝手にお邪魔してるよ」
ソファに座っていたのは……殺されたはずの、杉原吉一だった。
「で……でた! お化け!」
三記子も、さすがにガタガタ震えて、尻もちをついてしまった。要するに、腰が抜けたのである。
「大丈夫かね? 私はこの通り、ピンピンしてる」
と、立ってやって来る。
「で、でも……殺されたはずでしょ」
「あれは影武者だ」
「影……?」
「いや、よく似た男がいてね、下らん式典でただ座ってるだけなんて時は、代りをやってもらっとったんだ」
今日の杉原吉一は、いやにパリッとした、|三《み》つ|揃《ぞろ》いを着ていて、あの死体より、よっぽど別人のようだった。
「じゃ──本当の杉原吉一さん?」
「本物だ」
「ああ、びっくりした! 人騒がせですね、全く、もう!」
三記子は、やっとの思いで立ち上った。
「いや、すまんね」
「どうやって入ったんですか、ここに?」
「野々宮財団にも知人がいるからね。ここの鍵を貸してもらっといたのさ」
「でも……。あの本は、消えちゃいましたけど」
「知っとるよ」
と、杉原吉一は|肯《うなず》いた。「あれ[#「あれ」に傍点]は自分で身を守るすべを知っとる。きっとどこかで、元気に暮してるだろう」
本が元気に暮すってのも、何だか妙な話である。
「どうしてそのよく似た方が、ここへ来たんですか?」
「それは偶然なんだ。あれ[#「あれ」に傍点]が私に会いたがっとったんでね」
「本が? 電話でもかけたんですか?」
「いや、違うよ。あれの気持は、よく分るんだ。テレパシーというやつなんだな」
兄弟で、言うこともよく似てるわ。
「ところが、私がどうしても仕事で抜けられなくてね。で、あの男を代りにやったんだ」
「どうしてわざわざ?」
「似た男の方が、あれ[#「あれ」に傍点]が安心してついて来ると思ってね」
「はあ」
とてもついていけない理屈だ。
「ところが、そいつが殺されてしまった。それを聞いて、私が死んだことにしておいた方が、犯人が分るかと思ったんだよ」
「あの本に殺されたわけじゃ?」
「とんでもない」
と、顔をしかめて、「あれ[#「あれ」に傍点]は気がやさしいんだ。人殺しなんかするもんか。──誰かが、私を殺そうとしたんだよ」
「でも、なぜ?」
と、|訊《き》いてから、三記子は自分でもハッとした。
あの本のことばっかり考えていたのだが、杉原吉一は会社のオーナー、杉原武二も相当の金持なのだ。
つまり、本がどうこう言わなくても、充分に殺人の動機となり得る地位にいるわけである。
そうなると、「本をめぐる恋のさや当て」という、いささか浮世離れのした出来事から「金」の絡んだ、至って生ぐさい犯罪、とも考えられるわけだ。
しかし──この杉原吉一を殺して、誰が得をするだろう?
「あの──」
と、三記子は言った。「それで、何のご用でいらっしゃったんですか?」
「うん」
と、杉原吉一は肯いて、「実は君に折り入って頼みがあってね」
「はあ」
「もちろん、この一件が片付くのが先決ではあるが、やはり私も|年齢《とし》だ」
そりゃ分ってます、と言いかけて、あわてて口をつぐんだ。
「この先、いつまで生きられるかも分らん。そうだろう?」
「そりゃ、人間、いつかは死にますものね」
「その通りだ。もし、私が死ぬと、あれ[#「あれ」に傍点]は一人ぼっちになってしまう」
一瞬、誰のことかしら、と考えた。
「つまり──あの本のことですね?」
「そうだ。やはり、いくらしっかりしていても、本は本だ」
「そりゃそうです」
「一人で残すのは可哀そうだと思ったんだ。そこで──」
と、少し改って、「君はここで、本と一緒に暮している。本が好きだろう?」
「ええ」
「本は、自分を好いてくれる者には敏感なのだ」
それにしちゃ、よく|埃《ほこり》がたまってるけど、と、三記子は思った。少し自分でハタキでもかけてくれると助かるんだけどね。
「だから、君を、あれ[#「あれ」に傍点]の後見人にしたいんだよ」
「後見人?」
本の「後見人」てのは、あまり聞いたことがない。
「そうだ。どうだね、気が進まないか」
「でも──何をするんです?」
「あれ[#「あれ」に傍点]と一緒に、私の屋敷に住んでもらう。君には、私の財産の半分を譲りたいと思っている」
「半分?」
「まあ、ざっと十億円は下らないと思うが」
十億円!──三記子はただ目をパチクリさせているばかりだった……。
5
「|凄《すご》いじゃないか」
と、好男が言った。
「ね、どう思う?」
三記子は、書庫の整理をしながら、「大邸宅で、使用人にかしずかれながら暮す、ってのも、悪くないかもね」
「いいかもしれないな」
「その本取って。──あ、上下を逆にしないで。そう。──サンキュー」
三記子は、|椅子《いす》にのって、本を棚へ戻すと、
「さて、と……。この棚はこれでいい、と」
「|俺《おれ》は下男か?」
と、好男が言った。
三記子は、ノートの項目をチェックしながら、
「手が汚れてるの」
と、言った。
「何だって?」
「だから、キスだけして」
と、三記子、好男の方へ向いて、ちょっと顔を上に向け、目を閉じる。
「──別れのキスか?」
と、キスしてから好男が訊くと、三記子は吹き出した。
「馬鹿ね! 私がそんなこと、承知すると思ったの?」
「何だ」
と、好男はホッとした様子で、「十億円、ふいにすんのか?」
「お金ってのはね、ありゃあったで苦労もふえるもんよ。──そう思ってれば、気が楽じゃない?」
「そりゃそうだよな」
と、好男はとたんにニヤニヤしている。
「フフ、現金なんだから!」
と、三記子は笑って言った。「手を洗って来ようっと。ね、好男」
「何だよ」
「上に行って、コーヒーメーカーをセットしておいてくれる? 一休みしたいから」
「OK。お安いご用だ」
好男は、地下二階の書庫から、一階へと駆け上って行った。
「さて、と……」
三記子は、手を洗うことにした。何しろ、本を扱うと、手が真黒になる。
だから、ここでちゃんと手が洗えるように、洗面台が付いているのである。
手を洗っていると──ガチャン、と重々しい音がした。
上の、書庫へ下りて来る扉が、閉ったのだ──防火扉なので、重い、鉄の扉になっている。
「──好男。閉めなくていいのよ。──ね、好男」
と、タオルで手を|拭《ふ》きながら、三記子は下から呼びかけた。「何してんの?」
と──突然、明りが消えた。
何しろ地下の書庫だ。窓はもちろん、明りの入るところはどこにもない。まるっきりの|闇《やみ》になってしまった。
好男ではない! 誰かが、入って来たのだ。
「誰なの!」
と、三記子は、呼びかけた。「明りをつけて!」
沈黙……。
ギッ、ギッ、ギッ……。地下への階段を下りて来る足音だ。
かすかな明りが、頭上でチラチラと動いている。誰かが下りて来る。
と──またその明りも消えて、真暗になった。
入って来た人間も、真暗では動きがとれないから、小さなペンシルライトのようなものを持っているのだろう。
好男は?──上でやられちゃっているのかもしれない。
しかし、今は自分の身を守るのが先決だった。この誰か[#「誰か」に傍点]は、明らかに三記子を|狙《ねら》っている。
足音がするくらいだから、あの本[#「あの本」に傍点]でないのは、確かだわ、と思った。
相手は地下一階にいる。──三記子はもう一つ下だ。
しかし、向うも、三記子が下にいるのはよく分っているはずだった。
三記子は、じっと神経を張りつめて、気配をうかがっていた。──この中の様子なら、目をつぶってたって、たいていは分る。
机の方へ行こう。電話もあるし、何か相手にぶつける物ぐらい見付かる。
本棚の間を、三記子はジリジリと進んで行った。
──少々、相手を甘く見ていたようだ。
頭の上から重い本が、ドドッと落ちて来た。
「キャッ!」
三記子は、頭をかかえてうずくまった。本の重さというのは相当なものだ。頭に、もろに重い本が当って、三記子はよろけた。
目が回る。|膝《ひざ》をついたところへ、背中に本がまた落ちて来て当る。
三記子は床に倒れた。
本に押し|潰《つぶ》されて死んじゃうんじゃ──いくら本が好きでも、いやだわ!
その時、パッと明りが点いた。
「やめて!」
鋭い声がした。
タタタッ、と駆け下りて来る足音。
「三記子さん!」
駆けつけて来たのは、早苗だった。「しっかりして下さい!」
「ああ……。助かったわ」
と、三記子は、よろけながら、起き上った。
「今のは……」
「大谷君です」
「大谷君?」
──見ると、大谷が、息を弾ませて、立っている。
「早苗……」
「もうやめて! 分ってたのよ。|伯父《おじ》さんを殺したのも、あなたでしょう」
「伯父さん、生きてるわよ」
と、三記子が言った。
「え?」
三記子の話を聞くと、大谷は、頭をかかえた。
「畜生!」
「大谷君……。私のためにやった、なんて言わないでね。そんなこと、頼んだことはないわよ」
「俺は……君の親父さんに頼まれたんだ」
と、大谷は言った。
「父に?」
「伯父さんが死ねば、その会社は当然、あなたのお父さんのものよね」
と、三記子は言った。「そして、やがては早苗さんと、そのご主人のもの」
「じゃ……あのガードマンも、あなたがやったの?」
「たぶん、こうじゃないかしら」
と、三記子は言った。「あの古い本が、値打のあるものだってことは、本当でしょう。杉原吉一、武二の兄弟で、奪い合っていた。でも、もし、その本が、『生きものみたい』に、誰かについて回ったり、人を殺したり、ってことになれば、これは大変な評判になって、本の値打は何倍にもなるわ」
「じゃ……大谷君、自分であの本をそばに置いたの?」
「当人でないときは、あなたのお父さんがね。そうやって、実際に犯罪が起きても、本が死刑になることはないしね」
と、三記子は言った。
「馬鹿げてるわ!」
と、早苗は言った。
「俺にとっちゃ、馬鹿げてないぜ」
と、大谷は言った。「白木さんには、うすうす気付かれてたんだ。巡回中に、品物をかすめてたのを」
「大谷君、何てことを──」
「お前はお嬢さんだからな」
と、大谷は苦々しげに言った。「一生貧乏暮しなんて、ごめんだよ」
大谷が、身をひるがえして、階段を上って行く。
「こいつ!」
と、声がして、ガツン、という音。
大谷が、ドタドタッと階段を落ちて来て、のびてしまった。
「──好男、大丈夫?」
「おお、いてえ」
好男は頭をさすりながら、「いきなりガツンとやられてさ」
「石頭で良かったね」
「それより、あの二人が上で、取っ組み合ってる」
「誰?」
「杉原って兄弟。あの本を取り合ってるんだよ」
「行きましょ!」
三記子は、早苗を促して、階段を駆け上った。
──居間から、杉原武二が、あの本をかかえて、飛び出して来る。
「お父さん!」
「早苗! お前──」
「やめてよ。もう分ってるの。大谷君も、下で捕まえたわ」
「そうか」
「その本は大谷君が持ってたのね」
と、三記子が言った。「下で私が殺されて、そこにその本がある。──また本の殺人[#「本の殺人」に傍点]ってわけよ」
「どうして三記子さんまで……」
「私を吉一さんが、養子にしようとしてたからでしょう。そんなの、こっちがごめんだわ」
と、そこへ、
「待て!」
と、フラフラしながら、杉原吉一が現われた。「それを返せ!」
「誰が渡すか!」
武二が、玄関から駆け出して行く。
「こら! 待て!」
吉一も後を追う。
三記子も、早苗と共に外へ出て、二人の後を追った。
「──公園の方へ行くわ」
と、三記子が言った。「暗いから、危いけど」
言うより早く、ドボン、と水音がした。
「落ちたわ!」
「どこへ?」
「池があるの、大きな。──危いわ! 中は泥なの。出られないわよ」
三記子が駆けつけた時、杉原吉一も、池に身をおどらせるところだった。
「やめて!」
と、三記子が叫んだのも間に合わない。
胸までつかって、必死で、本を高く上げてもがいている武二の方へと手で泥をかいて進んで行く。
「──その本をよこせ!」
「俺のものだ!」
「それは私が持っていたんだ!」
「ふざけるな!」
二人して、泥に首までつかりながら、争っている。
「早苗さん! 早く、戻って一一〇番を! 沈んじゃうわ」
「は、はい!」
早苗が駆け戻って行く。──しかし、とても間に合わないだろう、と三記子は思っていた。
「こいつ……」
「本から手を……離せ……」
──二人は泥の中に没していった。
最後まで、手にした本が、上に突き出ていたが、やがて、それも見えなくなった。
「──馬鹿らしい」
と、三記子は|呟《つぶや》いた。
どんな大切な本か知らないけど……。
本と心中なんて、私ならごめんだわ。
「──今、パトカーが」
と、早苗が、息を弾ませて、戻ってきて、「あの……父は?」
三記子は、早苗の肩にそっと手をかけたのだった。
「そんな馬鹿なこと!」
と、三記子は言った。
「本当だ」
田所は、居間でコーヒーをゆっくりと飲みながら、言った。「あの二人の死体は上ったが、いくら捜しても、例の本は見付からなかったんだよ」
「だって、あんなにしっかり持っていたんですよ」
「うん。──妙なことだが、事実だ」
「いやだわ、何だか気味が悪い」
「君らしくもないじゃないか」
と、田所が笑って言った。
「──こんちは」
と、好男が入って来た。
「やあ、頭の方は大丈夫かね?」
「ええ、頑丈ですから」
「田所さん。私もやられたんですけど」
と、三記子は念を押した。
「なあ、三記子」
「何よ?」
「今、玄関に、こんな物が置いてあったぞ」
と、好男が紙の包みを出す。
「誰が持って来たの?」
「知らない。郵便でも小包でもない」
「何かしら? 本は本ね」
三記子は包みを開いた。「──キャッ!」
ドサッ、と床に落ちたのは……。あの本[#「あの本」に傍点]だった。
「──まさか」
と、田所が、やって来て、かがみ込む。
「あの……でも、きっと同じ本が、もう一つあったんでしょ?」
と、三記子が|訊《き》く。
「いや」
田所は首を振って、「これはあの本[#「あの本」に傍点]だよ」
「どうして分るんです?」
「さわってみたまえ」
と、田所が言った。
かがみこんで、その本に三記子はそっと手を触れた。
その本は、水から引き上げられたように、じっとりと湿っていたのだ……。
第五の事件 長い約束
1
ドアが開くと、その部屋に待機していた四人は、一斉に立ち上った。
「どうなの、お父さんは?」
と言ったのは、五十歳ぐらいの、派手に化粧した女で、それが却ってしわを目立たせることにも|頓着《とんじゃく》しない様子だった。
むしろ、華やかにきらめくネックレスやブレスレットの方に、重点を置いているのかもしれない。
女の名は、西谷桂子。
「まだお亡くなりではございません」
と、答えたのは、この畑山家の当主、畑山知治の秘書、中尾である。
秘書といっても、中尾自身がもう六十歳。ほとんど、畑山知治の「世話係」みたいなものだった。
「そんな皮肉っぽい言い方、やめてよ」
と、西谷桂子はムッとしたように、「まるで私がお父さんの死ぬのを待ってるみたいじゃないの」
「事実そうじゃないか、姉さん」
と、退屈そうな声が上った。
西谷桂子はキッとそっちをにらんで、
「範夫は黙ってて!」
と、ヒステリックに言った。
「まあ、静かにしろよ」
と、うんざりしたような声で言ったのは、畑山知治の長男で、五十歳になる畑山正治だった。すっかり|禿《は》げ上った頭に、暑くもないのに、汗を浮かべている。
妹の西谷桂子は二つ下の四十八。そして一番下の畑山範夫は、ぐっと年齢が離れて三十八歳だった。
「で、中尾さん」
と、正治が言った。「親父は何か言ってるかい? 誰かに会いたいとか……」
「はい」
と中尾がいつもの通りの無表情で、答える。
「誰に会いたいって?」
と、西谷桂子が、目をギラつかせて、前にのり出す。
のり出しすぎて、ソファから落っこちそうになったくらいだった。
「沢田知江という方です」
正治と桂子が顔を見合わせる。
「兄さん、知ってる?」
「いや。初めて聞いた。──中尾さん、聞き間違いじゃないんだね?」
「はい。沢田知江という方です」
と、中尾がくり返す。
「|訊《き》かれる前に言っとくけどね」
と、範夫は言った。「僕も知らないぜ、そんな女」
「──女がいたのね」
と、桂子は、ため息をついた。「七十五にもなって!」
「姉さんだって、五十にもなって恋人がいるっていうじゃないか」
と、範夫がからかう。
ヒョロリとノッポの、いかにも頼りなさそうな男。とても三十八とは思えない。ソファにかけて、長い足を持て余し気味にぶらぶらさせている。
「失礼ね」
と、桂子が弟をにらみつける。「私は四十八歳よ!」
恋人がいる、と言われたことに怒っているわけではないのだ。
「中尾さん」
と、桂子は立ち上って、髪のもうすっかり白くなった中尾の方へ歩いて行くと、「あなたは、父のそばにずっといた人だわ。その沢……」
「沢田知江」
「そう。その女のこと、知ってるんでしょう?」
「いいえ、残念ながら」
「本当のことを言ってよ」
と、桂子は、探るような目で、中尾を見ながら、「いくらか出してもいいわ。情報を教えてくれたら」
「私は存じません」
と、中尾は無表情なままで、首を振った。
玄関のチャイムの鳴るのが聞こえて、中尾は、急いで出て行った。この屋敷は広いので、玄関まで行くにも一時間──はオーバーだが、結構時間がかかる。
「──いやな人」
と、桂子が顔をしかめる。「いつも人を馬鹿にしたような態度で」
「されるような人間の方がいけないのさ」
と、範夫が愉快そうに言った。
「文句は言えないさ」
と、正治が言った。「何しろ十年以上、ずっと親父のことを、あの中尾さんに任せっきりにして来たんだからな」
「ちゃんとお給料を払ったわよ」
と、桂子は言った。「大きな顔をさせとくことないわ」
正治は、何か言いかけて、やめた。この妹には何を言ってもむだだ、ということを、経験で知っているのである。
「──失礼しました」
と、中尾が戻って来た。
「お客はどなた?」
と、桂子が訊く。
「沢田知江様です」
三人が一斉に立ち上った……。
畑山知治が死の床についている部屋は、そう大した広さではない。
そのドアが開いて、廊下の明りが射しこむと、畑山知治は|苛《いら》|立《だ》ったように手を上げて、光が目に当らないようにした。
「──何だ?」
「お客様です」
と、中尾が答える。
「誰だ?」
「沢田知江様です」
畑山知治の顔に、不思議な光がよみがえった。命の光が……。
「通してくれ」
「──どうぞ」
中尾がわきへ退くと、おずおずと部屋へ入って来たのは……どう見ても、十七、八歳の少女だった。
こういう屋敷にはあまり合わない、大分古びたワンピースを着ている。
「おいで……」
と、畑山知治が言った。
少女は、戸惑いながら、ベッドの方へと進んで行く。廊下から、三人の子供たちが、息を殺して|覗《のぞ》き込んでいた。
少女は、一冊の本を、胸に抱きかかえるようにして持っていた。
「──顔を光の方へ向けてくれ」
と、畑山知治は言ったが、「──おい、中尾、明りをつけろ」
と、|苛《いら》|々《いら》した口調で命令した。
明りがつくと、どこか寂しげな印象の娘が本を抱えて立っている……。
「──その本かね」
と、畑山知治が言った。
「はい……。あの、これをお届けしろ、と言われて来ました」
「ありがとう。遠い所から……」
「いえ、とんでもない」
少女は、本をこわごわ差し出すと、「あの──これ、この本でいいかどうか、見て下さい」
「その重い本をめくる力がないのでね」
と、畑山知治はちょっと笑った。「君がめくって見せてくれないか」
「はい……」
少女は、本のページをパラパラとめくった。
「これで……?」
「そうだ」
と、畑山知治はかすかに頭を動かして、|肯《うなず》いた。「この本だ……。間違いなく、この本だ……」
沢田知江は、ホッとした様子で、
「じゃ、これ、置いて行きますから。──あの、これで、私──」
と、行きかけようとした。
「君」
と、呼び止めて、「いかんよ」
「は?」
「本を届けたら、その代金を受け取らなくちゃな」
「あ──いえ、そのお代はもういい、って母から──」
「そうはいかん。中尾……」
「はい」
と、中尾が急いでやって来る。
「代金を……その子へ渡してやってくれ」
「分りました」
「頼むぞ」
畑山知治は、フッと息を吐くと、「──いや、良かった。ずっと気になっていたんだ……」
沢田知江は、早く出て行きたくて仕方ない様子だったが、一方には死にかけた老人、一方には|凄《すご》い目でにらんでいる三人の子供たち……。どうにも動けないようだった。
「これで──」
と、畑山知治が、いやにはっきりした声で言った。「約束を果したよ」
傍に置かれたその本の上に、手がパタッと落ちた。
しばらく誰も動かなかった。
中尾が、歩み寄って、畑山知治の手首を取った。
それからゆっくりと振り向いて、
「亡くなられました」
と、頭を下げたのだった……。
2
図書館とお化け、というのは、なかなか相性[#「相性」に傍点]がいい。
何といっても、図書館というのは、そう騒がしくもないし、太陽がさんさんとふり注いではいないし、何となく|埃《ほこり》っぽいし……。
お化けの好みそうな状況ではある。
で、今、書棚の前に立って、考え込んでいるのは、お化け──いや、違った、この〈野々宮図書館〉のただ一人の職員、松永三記子である。
三記子のことを「お化け」なんて言ったら、もちろん本人も怒るだろうが、お化けの方からも文句が出るかもしれない。
「あんなに元気なお化けがいるもんか!」
とでも……。
この私立の図書館は、一風変った金持ののこしたもので、いわくある本ばかりが集められている。閲覧に来る人はほとんどいないので、三記子の仕事もそう忙しくはなかった。
しかし、当の野々宮が死んでしまって、三記子にここが任された時、蔵書はおよそ未整理な状態だったので、地下二階分の書庫を、まず分類整理して片付けることが、三記子の仕事だったのである。
それだけだって、手をつける前には気の遠くなるような話だった。
「さて、と……」
三記子は、いつも一人なので、つい独り言を言うくせ[#「くせ」に傍点]がついている。「この棚が問題ねえ。途中で全然違う本が混っちゃってると……」
それにしても──この図書館にいると、奇妙なことによく出くわす。
色々いわくのある本──特に、犯罪とか人の死に係り合った本が集められているので、本に「とりついた」人間の情念みたいなものが感じられるのである。
三記子は別に迷信深いわけじゃないが、精神というものが、何かの形で、人の死後もこの地上に残るかもしれない、くらいのことは考えている。
特に、ここにいると、考えざるを得ないようなことがよく起るのだ。
ここに三記子が就職したのは、管理している財団にとっても幸運なことだったろう。
本のお化けが出ても、怖がるより面白がっている女の子というのは、そうざらにいるまい。
「じゃ、思い切って、この棚を一段、空けるか!」
と、言うと、
「そうだね」
突然、後ろで声がして、
「キャーッ!」
と、|凄《すさ》まじい叫び声を上げて、三記子は飛び上ってしまった。
「ごめん、びっくりした?」
と、ニヤニヤ笑っているのは、三記子の幼なじみで、大学生の竹内好男。
「もう!──何でこっそり入って来たのよ!」
三記子は顔を真赤にして、怒っている。
「そりゃ、いきなりお前を押し倒して、ものにしちゃおうと思ったからさ」
「舌を抜かれたい?」
「冗談! いくら何でもお前を襲ったりしないよ。命、惜しいもん」
「頭に来る人ね、全く」
なに、二人とも、ケンカで遊ぶ、という仲なのである。
「|旨《うま》いワッフル、見付けたんだ。食べようぜ」
「好男ったら、そういうことには手が早いのね。女の子にも?」
「女の子の場合は向うから寄って来る」
「ハハハ」
と、三記子は笑ってやった。
──書庫から上って、三記子が紅茶をいれていると、
「おっ、いい匂いだな」
と、顔を出したのは、三記子の上司に当る四十代の弁護士、田所である。
「あら、田所さん。私、さぼってんじゃないですよ。お昼休みを十分少なくしか取れなかったんで、その代りに──」
「いいよ、そんなことは。やあ竹内君」
田所は、三記子とよくケンカもするが、何となく気が合う。
「ワッフル、どうぞ」
「やあ、こいつはいい所へ来たな」
と、田所も加わって、時ならぬ「三時のおやつ」。
「なかなか旨い」
と、三記子がワッフルを|頬《ほお》ばっていると、
「ごめん下さい」
と、玄関の方で声がした。
「誰かしら。──はい」
と、三記子は、食べかけのワッフルに少々未練を残しながら、出て行った。
「──失礼します」
と、十七、八の娘が、何やら分厚い本を抱えて立っている。
「あの……何か?」
「私、沢田知江といいます。ここ、野々宮図書館ですか」
「ええ、そうですけど」
「じゃ、野々宮さんですか?」
「私はただの職員。──ね、ともかく上ってちょうだい」
「はあ」
「今、ワッフル食べてるの。一緒にいかが?」
沢田知江が目を丸くした。
「──じゃ、その本をここへ?」
と、三記子は|訊《き》いた。
「はい。ここに置いていただければ、と思って」
と、沢田知江は言った。「本の代金、二千八百円はいただいたんですけど……。畑山さんって方、何だか知りませんが、遺言で、この本を私に[#「私に」に傍点]遺されたんです」
「あなたに?」
「ええ。わけが分らなくて」
と、知江は首をかしげた。
「あ、紅茶もう一杯?──でも、わざわざ遺言に入れるくらいだから、何かわけがあるんでしょ」
「だと思いますけど……。母は私に持ってなさい、って。でも、何だか気味が悪いんです」
そりゃそうかもしれない。それにかなり大きな本である。部屋へ置けば、大分場所もとりそうだ。
「ただね、この図書館へ入れるかどうか、決めるのは私じゃないの。こちらの田所さんが──」
「おいおい、僕もただの弁護士だよ」
と、田所が言った。「財団の理事会にはからないと、何とも言えないがね。──しかし、ちょっと無理かもしれない。君の話じゃ、その本は別に、殺人とか犯罪に絡んだものというわけじゃないようだからね」
「そうですか……」
と、知江は、少しがっかりした様子。
「ともかく、一応は、はかってみるよ。僕に本を預けてくれるかい?」
「はい! お願いします」
と、知江はホッとしたように微笑した。
「あなたの家は何をしてるの?」
と、三記子が訊いた。
「本屋さんです。もう四代目」
「へえ」
「でも、小さな店なんで、もうあんまりお客もなくて……。母と私と二人でやってるんですけど」
「お父さんは──」
「父は私が産れたころ、亡くなったんです。ですから、全然見たこともありません」
「そう」
と、三記子は|肯《うなず》きながら、チラッと田所の方へ目をやった。
男って、こういう話に弱いのよね。──ほら、田所さんなんか、涙ぐんじゃってる!
きっと、この本はこの図書館へ入ることになるだろう、と三記子は思った。
「──ごちそうになって」
と、知江が玄関を出て、頭を下げる。
「いいえ。気を付けて」
と、三記子は言った。
この図書館、林の奥の、ちょっと寂しい所にあるのだ。
「そうだ。ねえ、好男」
「何だい?」
「もう大学へ行くんでしょ?」
「しょうがねえから、行ってやろうかと思ってる」
「いばんないの。ね、この人を送っていってよ」
「OK」
「あの、でも──」
「いいのよ。どうせこの人も、|可愛《かわい》い|娘《こ》と一緒にいるの好きだし」
「何だ、それ?」
と、好男が言った……。
好男と知江を見送って、三記子は居間へ戻った。
「田所さん、その本、もう返せませんよ」
「そうだな」
と、田所は笑って、「しかし、この本も、資格はあるかもしれない」
「どうして?」
「この本を買った畑山知治ってのは、大変な金持だよ。僕も名前ぐらい知っている」
「へえ。でも、二千八百円の本を、本屋の女の子に遺すなんてね」
「何か意味があるのかもしれないな。畑山を知ってる人にでも、当ってみよう」
田所は本を抱えて、立ち上った、「じゃ、ごちそうになったね」
「いいえ。千円いただきます」
「おい、いつからここで喫茶店を開いたんだ?」
玄関まで来て、田所が靴をはきながら、
「──君の仕事ぶりも、大変充実して来たというんでね、理事会で、給料を一割アップしようって話が出てるよ」
「わあ、やった!」
と、三記子は飛び上った。
「来週の理事会で決るだろう。決ったら、また連絡するよ」
と、田所が肯いて見せて、「じゃ、これで──」
「ワッ!」
と、三記子が、声を上げた。「好男! どうしたの!」
フラッと、好男が現われたのだ。頭から、血が|顎《あご》へと伝っていた。
「やられた……」
と、言ったまま、好男は、崩れるように倒れてしまったのだ……。
「面目ない」
と、好男が頭を包帯でグルグル巻きにされて、言った。「いきなり、後ろからガツンと殴られて」
「仕方ないわよ」
と、三記子は言った。「まさかあの子が誘拐されるなんて、思やしないわ」
「しかし──誰なんだ、一体?」
「分んないけど……」
三記子は、好男をアパートまで送るところだった。
「チラッとでも犯人の顔を見てたらな」
「そんなの、無理よ」
と、三記子は言った。
「警察へは?」
「届けてないわ。田所さんの判断で」
「そうか……」
「田所さん、あの子の母親に会いに行くって。私も行ってみるわ」
「じゃ、|俺《おれ》も──」
「好男は寝てなきゃだめよ」
と、三記子は言った。「いくら石頭でもね」
──妙な話だ、と三記子は思った。
あの沢田知江という子、別に家が金持というわけでもなさそうだし、金が目当ての誘拐とはとても思えない。
しかし、他に何が目的になるだろう?
あの本[#「あの本」に傍点]?
確かに分厚い本だが、特に値打のある古書というわけではない。
好男を送って、三記子は田所が調べた、沢田知江の家の住所を捜して行くことにした……。
捜し当てたのは、確かに「小さな本屋」で、昨今、こういう店は大変だろうな、と三記子は思った。
もう夜になって、店の表は閉っている。どうしようかと迷っていると、ガラッと戸が開いた。
「来たか」
と、田所が顔を出して、「入れよ。ちょうど、お話をうかがっているところだ」
──狭い店を抜けて、奥へ上ると、四十代の半ばぐらい、と思える、もの静かな女性が座っていた。印象が、知江によく似ている。
「沢田和子さんだ」
と、田所が言って、三記子のことを紹介した。
「何か連絡は?」
「今のところ、何もない」
と、田所は首を振った。
「本当に、どうしてあの子が……」
と、沢田和子が|呟《つぶや》く。
「こんな時に申し訳ないんですが」
と、田所が言った。「畑山さんという方をご存知ですね」
「ええ……」
「どんなお知り合いですか」
と、田所は|訊《き》いた。
「お客様です」
と、沢田和子が答える。
「お客……。つまり、この店の?」
「はあ」
と言ったきり、沢田和子は黙っている。
「しかしですね」
と、田所は言った。「畑山さんは、遺言であの本を、あなたの娘さんに遺しておられるんですよ。ただのお客さんのすることじゃないと思いますが」
「ええ」
と、沢田和子はため息をついて、「これは──誰にも話さないでいただきたいんですけれど」
「お約束します」
沢田和子は、ちょっとためらってから、言った。
「あの人は、知江の父なんです」
3
その日、沢田和子は、本屋の奥で、小さな|椅《い》|子《す》に腰をおろして新刊を読んでいた。
本来なら売るべき本を読んでいる、というのは、あまり感心したことじゃないかもしれなかったが、ともかくそれぐらい暇な一日だったのだ。もっとも──和子は二十五歳だった──このころはまだ大型の書店も近くにはなく、この店も、勤め人の帰り時間などには、結構客で一杯になって、身動きするのも大変ということになるのだった。
今は一日の内でも一番暇な時刻で──。
和子は|欠伸《あくび》をした。本は、期待していたほどには、面白くなかったのだ。
顔を上げて、本を並べた棚の間を通して表の通りを見ると、大きな車が──本当に、店の前を完全にふさいでしまうくらい大きな車がゆっくりと進んで行くのが見えた。
|凄《すご》い車だわ、と和子は目を丸くした。外国の車だろう。
和子は二度びっくりすることになった。その大きな車が、店の前に停ったのである。
でも──もちろん、この店に用があるんじゃないわ、と和子は思った。
「──失礼」
と、入って来たのは、五十代半ばの、少し髪の白くなりかかった紳士だった。
「はい……」
和子は、椅子から立ち上りながら、「何か──」
何か、ったって、ここへ入って来たのだから、本を買うに決っているようなものだが……。
「こちらの店の人かな?」
と、その紳士は訊いた。
「はい」
「ええと……。ご両親は?」
「あの──母が以前はこの店を」
「ああ、なるほど」
と、その紳士は和子をじっと見て、「よく似ている」
「は?」
「では、お母さんに会わせていただけるかな?」
と、紳士は言って、「いや、失礼。申し遅れたが、私は畑山というもので」
「畑山さん、ですか」
「本を預けている者、とおっしゃっていただければ」
「あの……」
と、和子は戸惑いながら、「母は三年前に亡くなりましたが」
と、言った。
畑山という男は、一瞬、ひどく動揺した様子で、
「亡くなった? それは──」
と、言いかけ、ふっと息をついた。「そうだったか……。知らなかった」
独り言のようだった。
「あの──本を預けた、とおっしゃいましたけど」
「そう。ずっと昔のことになる」
「ご注文になったんですか?」
畑山はそれに答えず、本の棚の方へ向った。そして、一番上の棚の、一番隅に置かれた分厚い本を指すと、
「あの本ですよ」
と、言った。
「あら……」
和子は、母から言われていたのだ。
「あの一番端の本は、必ず買いにみえるお客さんがいらっしゃるから、それまで返さないで、取っておくのよ」
しかし、和子の憶えている限りで、その本は前からずっとその場所を占めていた。
「いつになったら買いに来るの?」
と、訊く和子に、母は笑って、
「いつか、よ」
と、答えていた……。
「じゃ、あなたが……。母から、あの本は返品するな、と言われています」
と、和子は言った。
「そうですか」
畑山は、|嬉《うれ》しそうに、「では、信じてくれていたんだな」
と、|肯《うなず》いた。
「あの──畑山さん、とおっしゃるんですね。あの本、お持ちになりますか」
和子は、一番上の棚の本を取るための、ふみ台を持って来ようとした。
畑山はその様子を見ていたが、和子がふみ台に上ろうとすると、
「いや──」
と、手を上げて、「待って下さい」
「え?」
「名前は?」
「私ですか、和子です」
「和子さん。──そうですか」
と、畑山は何度も肯いた。「お父さんは──」
「父も去年亡くなりました」
「すると、今はこの店を一人で?」
「はい」
畑山は、しばらく不思議な目つきで和子を見ていたが、やがて、ふと我に返ったように、
「どうです。お母さんのことなどをゆっくり話したいんですが。──今日は店を閉めて、お付合い願えませんか」
と、言った……。
そんなこと。──和子は当惑していた。そんなことできないわ。
お店を放り出して、なんて。とてもできないわ。それに、この人のことも、ろくに知らないんだし……。
和子は、
「ええ、分りました」
と、肯いていたのだった。
「それから何度か、畑山さんと会いました」
と、沢田和子は、三記子たちに向って言った。「その内、ごく自然に……。年齢はずっと離れていましたけど、あの人には、そんなことを忘れさせるものがありましたから」
「それで、知江さんが」
「はい」
「なるほど」
と、田所は言った。「知江[#「知江」に傍点]か。畑山さんの知治[#「知治」に傍点]から取った名ですね」
「そうです」
「でも──」
と、三記子は言った。「なぜ、それきりになったんですか?」
「畑山さんには、奥さんがいたからです」
と、和子は言った。「私は、子供ができたと知った時に、身をひいたんです。知江には、父親は死んだ、と|嘘《うそ》をついていました」
「でも、畑山さんに知らせなかったんですか?」
「私の責任ですもの。あの人に、責任を負わせたくなかったんです」
へえ、と三記子は思った。別に遠慮することないじゃない。
「あの本は」
と、和子が言った。「畑山さんがまだ若いころ、この店で見かけて、買いたくてたまらなかったらしいんです。でも、そのころ、畑山さんは貧しくて、とてもそんなお金がなかった。母は、店番をしていて、畑山さんが、『いつか必ずこの本を買いに来るから、誰にも売らないでくれ』と頼むのを聞いて、その熱心さに打たれたんです。ずっとあの本は、売らずに、あの棚に置いておく、と約束したんです」
「じゃ、それで何十年も……」
「はい。母はこの店を継ぎ、それを私が……。
この先はもちろんどうなるか分りませんが」
──何とも気の遠くなるような約束である。
しかも、畑山は、大金持になって、その気になれば、いつでもそんな本は買えたわけだ。しかし、結局、それを買ったのは、臨終の時だった。
「でも──」
と、和子は、不安げに、「なぜ知江が|狙《ねら》われたりするんでしょうか」
「畑山さんは、知江さんのことを、知っていましたか」
と、田所が|訊《き》いた。
「ええ。──私は一切付合いを断っていたんですけど、自分で誰かに頼んで調べさせたようです」
「すると、臨終の場に本を届けたのは?」
「電話があったんです。中尾さんという方から」
「畑山さんの秘書ですね」
「はい、畑山さんが、あの本を届けてほしがっている、と」
「あなたに、ということではなかったんですか」
「いえ、知江に、と。──名前もちゃんと知っていました」
三記子と田所は顔を見合わせた。
──畑山が、自分にもう一人子供がいると知って、財産分けなどに、知江を加えたことは、充分に考えられる。
「確か、畑山さんは子供が三人いるはずですよ」
と、田所が言った。「もしかすると……」
電話が鳴り出した。
和子が一瞬、ギクリとする。
「出て下さい」
と、田所が言った。「私もそばで聞いてますから」
和子は受話器を取った。
「もしもし」
「沢田和子だな」
と、男の声。
「そうです」
「娘は預かってるぜ」
「何がほしいんですか! お金なら──」
「金じゃない。本だ[#「本だ」に傍点]。分るか?」
「本?」
「畑山知治が、死ぬ前に買った本だ。それを持って来い」
「でも……。分りました。どこへ持って行くんですか?」
和子は、メモを取った。「でも、あの本は今、手もとにないんです」
「何とかしろ」
と、男は言った。「今夜の十二時だ。分ったな」
和子が田所を見る。田所は黙って、肯いて見せた。
「分りました」
と、和子は言った。「娘に乱暴なことはしないで下さい」
「心配するな」
と、男は、何だかいやな笑いを残して、電話を切った。
「──どういうことかしら?」
と、三記子は言った。
「本はどこにあるんでしょう?」
「ご心配なく。私がここに持っています」
田所は、|鞄《かばん》から、あの本を取り出した。「しかし、不思議だな」
「その本、そんなに値打が?」
と、三記子は言った。
「いや、そんなことはないだろう。もちろん古い本だよ。しかし、何百年も前というものじゃない」
田所は、問題の本を取り出すと、「別に取り立てて、どうという本じゃないがね」
「何か隠してある、とか?」
「さて、ね」
田所が、本のページを、ゆっくりとめくって行った。
「──何も書き込みもない」
「でも、娘にはかえられません」
と、和子は言った。
「もちろんですよ。十二時には、その場所へこれを持って行って下さい」
田所は、首をかしげて、「しかし、なぜこの本をほしがるのかな」
と、独り言のように|呟《つぶや》いたのだった……。
4
「十二時に?」
と、電話の向うで、好男が言った。「じゃ、|俺《おれ》も行くよ」
「何言ってんの、馬鹿」
と、三記子は言った。「それ以上、頭が悪くなったら、どうすんの?」
「あのな」
と、好男は頭に来た様子で、「恋人のことを心配するのに、そういう言い方ってあるのか?」
「こういう言い方も[#「も」に傍点]あるのよ」
三記子は言い返した。「じゃ、おやすみなさい」
「おい、待てよ! おい──」
好男の叫びは、冷ややかに断ち切られたのである……。
時計を見る。──十時を少し回っていた。
三記子は図書館へ戻って来ていた。
田所ももちろん、夜の十二時、問題の本を、沢田和子が持って行くのに同行するつもりではいるはずだ。
三記子としては、何も危い場所へノコノコ出かけて行く義務はない。仕事の内にも入っていない。
しかし、やっぱり放っておけないのは、性格というものだろう。
「十二時まで、残業届、出しちゃおうかな」
正義の味方(?)にしては、ケチなことを考えていると、
「誰かいるか」
と、玄関で声がした。
何だか横柄な声だ。三記子はいささか身がまえながら、
「何ですか?」
と、ドア越しに声をかけた。
「何だ女か」
「女でいけませんか」
「開けろよ」
「どなた?」
「畑山範夫というんだ」
畑山?──三記子はドアを開けた。
もう三十代も後半という年齢なのに、畑山範夫は、何となく落ちつきというものがなかった。
いや、もちろん、三記子は今初めてこの男を見たわけだが。──しかし、人間、およそのでき[#「でき」に傍点]というのは一目見りゃ、分るというものだ。
範夫はやたらにキョロキョロと中を見回して、
「何だ、図書館ってのに、本がないじゃねえか」
と、言った。
「書庫は地下です」
「ふーん」
「何のご用ですか?」
と、三記子は無愛想な顔で、言った。
「何だか迷惑そうだな」
「そりゃ迷惑ですよ」
と、三記子は言った。「開いてる時間に来てくれません?」
「俺は本を見に来たんじゃない」
と、範夫は言った。「ここに、沢田知江って女が来ただろう」
三記子は肩をすくめて、
「その人がどうかしましたか」
「その女が、本を持って来たはずだ。どこにある?」
「どうしてそんなことを|訊《き》くんです?」
「説明しなきゃいけないのか?」
「当り前でしょ」
「そうか」
範夫はドテッとソファに座って、だらしなく足をテーブルの上に投げ出した。「あの本はな──」
三記子はさっさと台所へ行くと、ヤカンに水を入れて戻って来た。
「何だよ?」
「水をかけられたいですか」
「何だって?」
「頭から、水をかけられたくなかったら、足をテーブルから下ろして下さい」
範夫は笑って、
「面白い奴だな。俺は──」
ジャーッ、とかなりの水が、範夫の頭の上にふり注いだ。
ソファのシートやカーペットも当然|濡《ぬ》れたが、それは放っとけば乾くというのが、三記子の考えなのである。
「おい!」
「ちゃんと警告しましたよ」
「分ったよ」
範夫は、ハンカチを出して、頭をふいた。──と、頭の毛がズルッと、外れてしまった。
「ワッ! いけね!」
|禿《は》げてるんだ! 三記子は、突然、中年のパッとしないおじさんになった「プレイボーイ」を、|呆《あき》れて眺めていた……。
「──ひどい奴だな」
と、洗面所に行って、何とかかつら[#「かつら」に傍点]をつけて戻って来た範夫が言った。
「どっちが」
と、三記子は言い返した。「あの本を|狙《ねら》ってるんですね」
「狙ってるって、人聞きが悪いじゃないか」
「だって事実でしょ」
「心配なだけだよ、あの子が」
「あの子って、知江さん?」
「そうさ」
「何が心配なんですか?」
範夫は、ちょっと三記子を見ていたが、やがて苦笑いすると、
「お前、乱暴だけど、いい奴らしいな」
と言った。
「見りゃ分るでしょ」
三記子も相当なもんである。
「実は、兄と姉が、あの本をほしがってるのさ」
「へえ。どうしてです?」
「知ってんのか? あの子が──」
「畑山知治さんの娘だってこと? そりゃ、名前を見りゃ分ります」
と、涼しい顔で言ってのける。
「そうか。──実はこの間親父が死んだ。ところが、遺産の整理をしてみると、ある土地を処分して入ったはずの金が、どこにもないんだ」
「お金?」
三記子も、多少は興味がある。「いくらぐらい?」
「金持から見りゃ大したことないんだ。三億ぐらいかな」
「三億……」
びっくりした様子も見せないのが、見栄というもので、「そんなもんですか」
「銀行や、株、他の不動産、どれも当ってみたが、分らない」
「でも、他に沢山あるんでしょ?」
「ああ。しかし、金ってのは、いくらあっても悪くないもんさ」
「なきゃないで、何とかなるもんですよ」
「かもしれないな」
と、範夫は|肯《うなず》いた。「しかし、なくなった時のことが恐ろしくてしかたないのさ、なまじ持ってるとな」
持ったことのない三記子には、もちろん分らない。
「で、あの本とどう関係が?」
「姉が言い出したのさ。親父が、何か分らない形で、あの知江って娘に、その金をのこしてやったんだ、って」
「証拠は?」
「そんなものない。姉の勘さ。しかし、金に関しちゃ、よく当るんだ」
「でも、知江さんは──」
「あの子に親父が遺したのは、あの本だけだからな。あの本が、きっと大変な値打のものなんだと思ったのさ」
「普通の本ですよ。ただ古いだけ。古本屋に出ても、せいぜい一万円でしょ」
「しかし、それじゃ、あの三億円はどこなんだ?」
「知るもんですか」
「ともかく、兄と姉が、二人でやっきになってる」
「あなたは?」
「俺だって金はほしいさ。でも、知江のことも心配だ。本当だぜ」
と、範夫は言った。「俺は一番下の兄弟だった。しかも、姉とも十歳も離れてるんだ。──下に妹がいたなんてな。|嬉《うれ》しいんだよ」
なかなか実感のこもった言葉だ。
見たところ不良っぽいし、根っから真面目とはとても言えないが、しかし、その気持はどうやら本当らしい、と三記子は、思ったのだった。
「じゃ、彼女を助けるの、手伝って下さい」
「助ける? お前が何であの子を助けるんだよ」
「知江さんが今、誘拐されてるからです」
範夫は、ポカンとしていたが、
「──本当か? 畜生! 兄貴たちだな!」
「あなたは本当に知らなかったんですか?」
「当り前だろ。知ってりゃここへ来ないさ」
「いいでしょ。──じゃ、その本を渡す場所へ一緒に行きましょうよ」
「ああ! 必ずあの子を助けて見せる」
パッと力強く立ち上ったのはいいが、「いてて……」
と、腰を手で押えて、|呻《うめ》く。
「どうしたんですか?」
「いや……。どうもこのところ腰痛で……」
これで助けられるのかね?
三記子がため息をついていると、玄関で、
「松永君、いるか?」
と、田所の声がした。「出かけようじゃないか」
「はい!」
三記子が、範夫と一緒に出て行くと、表に立っていたのは──。
「何だ、好男。来たの?」
「どうしても行く、と言い張ってね」
と、田所が微笑した。
三記子は範夫のことを二人に紹介(?)した。
「なるほど」
田所は肯いて、「してみると、どうやら誘拐犯はおたくの兄妹、二人のようだ」
「困ったもんだ」
と、範夫はため息をついた。「ともかく、二人を何とか説得してみるよ」
「そう願いたいですな」
と、田所は言った。
──かくして、田所の車に、沢田和子、三記子に好男、そして畑山範夫、と、ギュウ詰めに乗り込んで、約束の場所へと向ったのである。
夜中の十二時に……。
「なるほどね」
と、三記子は言った。「いい場所だわ、ここは」
すぐ近くで隠れて見ているというわけにはいかない。何しろ広いのだ。
──ここは郊外の大きな団地の中に作られたドライブ・イン・シアターである。
もちろん、今は映画の上映も終っていて、一台の車もない。正面に、馬鹿でかいスクリーンがあって、その前にはただ広場があるだけだった。
「ここで待とう」
と、田所は言った。
「あと五分だ」
と、好男が言った。
「じゃ、沢田さん、もう行った方がいいでしょう」
「はい」
和子は、田所から本を受け取って、しっかりと抱きかかえた。「色々、ご心配をおかけして」
「とんでもない。──さ、我々はここにいてお嬢さんが戻るまで、手は出しません」
と、田所は言った。
「お願いします」
和子は、ためらいも見せず、大きなスクリーンの方へと歩いて行った。
三記子たちは、ずっと手前の、茂みの奥に隠れていることになる。
「これじゃ、飛び出して行っても、あそこへ着くまでに、犯人が逃げちまう」
と、好男は不服そうだ。
「しょうがないよ。これ以上近付けば、見られてしまう」
と、田所は言って、腕時計を見る。「あと三分か」
和子の姿が、小さくなって、スクリーンの前で足を止めるのが見えた。
「──全く、ひどいことするぜ」
と、範夫が首を振った。「誰か、悪いのを雇っているかもしれないな」
「その可能性はある」
と、田所が肯く。「だから下手に手を出しちゃ危いんだ」
「あと二分」
と言って、好男が、「どこにも、それらしい奴、いないぜ」
「広すぎて……」
三記子は、何だかいやな予感がしている。
──どうも、あの図書館にいるせいか、第六感とでもいうのか、「何となく」おかしい、という気分になることが多いのだ。
しかも、それはよく当る……。
時間が重苦しく過ぎて……。
「──十二時だ」
と、田所が言った。
突然、強いライトが、沢田和子に当てられた。
「車だ!」
と、好男が言った。
どこに隠れていたのか、車が一台、和子に向って走って行く。
「畜生!」
範夫がパッと飛び出した。
「おい、待て!」
と、田所が呼んだが、範夫は、駆け出して止らなかった。
「まずいぞ」
「行きましょう」
と、三記子も、茂みから出た。
──車は、和子のすぐわきで停って、ドアが開いた。
誰かが車から出て来たが、三記子には遠すぎて、見分けられない。
和子の手から、本が奪い取られる。
「娘を!」
と、和子が叫ぶのが聞こえた。
「待て!」
と、範夫が怒鳴った。
車のドアが閉って、走り出す。
「いかん!」
と、田所が言った。
「待って!」
和子が車に追いすがるように駆け出した。
車が、三記子たちの方へ向って走って来たが、ライトの中に人の姿を見付けたせいか、急ハンドルを切って、別の方向へと走って行く。
「追いかけろ!」
好男が張り切って、車を足で追跡する。
運転する方が焦ったらしい。木立ちにライトの一方がぶつかって、派手な音をたてる。車は、スリップして停った。
車から人影が二つ飛び出して、暗い方へ駆けて行く。
「待て!」
一番近かったのは、範夫である。
「君は車の中を!」
と、田所が、三記子へ怒鳴った。
三記子は、車の中を|覗《のぞ》き込んだ。
「知江さん!」
後ろの座席に、手足を縛られた知江が、倒れている。
「──知江!」
と、和子が駆けて来た。
「大丈夫です。息をしてますわ」
三記子は、抱き起こした知江の目かくしと猿ぐつわを外した。
知江が、目をパチクリさせて、
「お母さん!」
と、言った。
「良かった!」
和子が知江を抱き寄せる。
その時だった。──犯人たちの逃げて行った方向から、銃声が響いて来たのだ。
「銃声だわ!」
三記子は急いで知江の手足の縄をとくと、
「銃を持ってたの?」
「え?」
知江は|訊《き》き返して、それから自分で両耳の栓を外した。「──すみません、耳栓もされていて」
「ここにいて」
三記子は、銃声のした方へと駆けて行った。
もちろん、危いかもしれない、ってことは分っている。しかし──好男にもしものことがあったら……。
走って行くと、人が三人、立っているのが見えて来た。
「どうしたの!」
と、呼びかけると、
「三記子」
と、好男が言った。「一人は逃げたよ。まさか銃を持ってるなんて……」
「間違って撃ったのかな」
と、田所が言った。「それとも、追っつかれると思って、口をふさいだのか」
「ひどいや」
と、範夫が言った。
倒れていたのは女性だった。
「これは……」
「俺の姉だよ」
と、範夫が言った。
5
「いやな事件だったわ」
と、三記子は言った。
「うん」
好男は|肯《うなず》きながら、ステーキを食べる手を休めなかった。
月給日には、社会人である三記子が、学生の好男に夕食をおごるのである。
「後味が悪いわ」
と、三記子は首を振って言った。
「しょうがないさ。くよくよするなよ」
と、好男は言ったが──見ると、三記子の皿はもう空になっていた……。
レストランは、ほぼ半分くらいの入りで静かだった。
沢田知江は無事に母親のところへ戻ったが、何しろさらわれてからずっと手足を縛られ、目かくし、耳栓までされていたので、一体誰がやったのか、まるで分らなかったのだった。
西谷桂子は撃たれて死亡。──夫はいたのだが、別居中だったのである。
しかし状況から見て、犯人は畑山正治と、桂子の二人だろうということになった。
正治がなぜ桂子を撃ったのか。他の誰かと間違えたのか、それともでたらめに発砲したのが、桂子に当ったのか……。
正治が行方をくらましてしまったので、今のところ不明のままである。
「デザートにしよう」
と、三記子は言った。「気分が悪いから、うんと食べなきゃ」
「変なの。|俺《おれ》は、ケーキだけでいい」
好男も食べるのには変りないのである。
オーダーをすませて、
「でも、少しはいいこともあったじゃないか」
と、好男が言った。「あの本は、あの子の手に戻ったし」
知江も、自分の父親が畑山知治だったと知って、あの本を自分の手もとに置く気になったのである。
「そうね。──でも、三億円の|謎《なぞ》はそのままよ」
「田所さんは何て言ってる?」
「たぶん、絵とか宝石とか、|凄《すご》く高いものを買ったんじゃないかって」
「なるほどな」
「でも、今は絵でも何でも、そういう高いものは、ちゃんと誰の持物とかって、分ってるんですって。──だから、この場合、確かに変なのよ」
「じゃ、やっぱりあの本?」
「でもねえ……。あれだけ調べても分らなかったのよ」
三億円、とあって、一応、知江もあの本をよく調べたのだ。
本文も読んだし、ページの間に何か挟んでいないか、表紙の厚紙の中に何か隠していないか、と調べたが……。結局、何も出て来なかった。
しかし、知江は|呑気《のんき》なもので、
「父の形見ですもの。何億円よりずっと値打があります」
と、にっこり笑った。
「俺なら、三億円だけどな」
と、好男は|呟《つぶや》いたものだ。
デザートも終り、二人はレストランを出た。
「──どうするの、好男、これから?」
「そうだな。帰って寝る」
三記子は笑い出した。
「色気ないのね。それじゃもてないわ」
「悪かったな。もてなくても結構。お前で我慢する」
「悪かったわね」
三記子は、少し[#「少し」に傍点]好男への気持に変化が起っているのを感じていた。
あの、銃声を聞いた時、もし好男が撃たれてたら、とハッとした。そんな気持になったのは初めてだった。
「ね、少なくとも女の子を送ってくもんよ」
と、言ってやる。
「送ると、また殴られる」
「死にやしないわよ」
死ななきゃいい、ってもんでもないだろうが……。
ま、結局、三記子と好男は、野々宮図書館まで一緒にやって来たのだった。
「──上る?」
と、玄関のドアを開けて、三記子が言った。
「だって……。どうせすぐ帰れって言うんだろう?」
「帰らなくてもいいよ」
好男が、目をパチクリさせて、
「本気か?」
「こういうことを冗談じゃ言わないよ」
と、三記子はさすがに少々赤くなりながら言った。
「じゃ──その──上る!」
「じゃ、どうぞ」
「三記子」
玄関へ入った所で、二人は何となくキスしたのだった……。
そして二人は朝まで一緒に──といきたいところだが……。
「少し|寛《くつろ》いで」
と、居間の明りを点けた三記子は、「キャッ!」
と、叫んだ。
居間の中はめちゃくちゃに荒らされて、足の踏み場もなくなっていた。
「こりゃひどいぜ」
と、好男は言って──同時に、甘い一夜が|儚《はかな》く消えたのを悟ったのだった。
「やれやれ……」
田所は、首を振って、「一体誰がこんな所に泥棒に入るんだ?」
「泥棒に|訊《き》いて下さい」
と、三記子は言った。
もうやけ[#「やけ」に傍点]というか……。ともかく、被害は居間だけにとまらなかった。
地下の書庫も、かなりの被害にあっていたのである。
「せっかく、三分の二は整理が終ったのに!」
と、居間を片付けながら、三記子は言った。
「気の毒だね」
と、田所は言った。
「変ですよ、でも」
と、三記子はちょっと息をついて、言った。
「何が?」
「この荒し方。──ただの泥棒にしちゃ、やりすぎです」
「うむ」
と、田所は肯いた。
「普通の泥棒が、ソファの裏まで引っくり返しますか?」
「やらないだろうな」
「しかも、下の書庫まで。──どう考えても、犯人は、何か捜したい物があって、ここへ入ったんです」
「何を?」
「知りません」
三記子はため息をついて、「あーあ、こんなになっちゃった」
高級な花びんも、壊れてしまっている。
「──君ね」
と、田所が|咳《せき》|払《ばら》いした。「こんな時に、まことに言いにくいんだが……」
「何ですか?」
「実は──理事会から、君に伝えるように、と言われて来たんだ」
「というと?」
「君はその──この仕事に向いていない、ということになった」
三記子はポカンとして、田所を見ていたが……。
「クビ、ってことですか?」
「まあ、そうだ。退職金は、ちゃんと支払われる」
三記子は、力が抜けて、ペタンとカーペットに座り込んだ。
「おい、しっかりしろよ!」
と、田所が、あわてて言った。
「でも……どうして?」
「いや、私は反対した。理事の連中に、君がいかにここでの仕事に貢献しているか、強調した。しかし──」
と、ため息をついて、「君がここへ来てから、殺人事件だの何だのに、巻き込まれることが多すぎる、というんだ」
「私のせいじゃありません!」
「分ってる。私も、それはこの図書館の性格を考えれば当然だ、と応じた。しかし、今度のことは……。何しろ、こんなに荒らされては、その被害だけでも大変なものだ」
「そりゃ分りますけど」
「君のせいだとは、私も思っていない。しかし、理事会の頭の固い連中はね……」
三記子は、やっとこ立ち上った。
「分りました」
と、肯いて、「いつ、出て行けば?」
「いや……。君の都合もあるだろう。急ぐことはない」
「そうですか」
正直、三記子としても、理事会が頭に来るのはよく分る。その責任を自分が取らされるってのは納得できないが。
「私としても、残念だ」
と、田所は言った。
「後に誰が来るにしても、このまま放っといちゃいけませんから」
と、三記子は言った。「ともかく、ここを一応片付けてからやめます」
「うん……」
田所は、後ろめたいのか、「今夜、食事でもどうだね?」
と、言った。
「ええ」
と、三記子は、ためらわずに答えたのだった。
「──やめたら、どうするんだ?」
と、ワインを飲みながら、田所は言った。
「分りません」
と、三記子も、少々酔っている。
しかし、フランス料理は、しっかり味わっていた。
「ともかく働かないと……。遊んでられる身分じゃないですから」
「そうだろうね」
三記子は、あーあ、と伸びをして、
「でも──何とかなります」
「それでこそ君だ。その明るさがね」
「馬鹿にされてんのかなあ」
と、三記子は笑って言った。
「そうじゃないよ」
と、田所はあわてて言った。「君──私の所に来ないか」
「田所さんの所?」
「うん」
「だめですよ」
と、三記子は笑って、「私、弁護士さんの所なんて、とてもつとまりません。頭、悪いし」
「そんなことはないさ」
「いえ、そうですよ」
「じゃ、結婚してくれ」
三記子は、あやうく引っくり返るところだった。
「──田所さん!」
「本気だ。笑うなよ」
「笑ってません。でも……」
三記子は一度に酔いがさめてしまった。
「君はあの竹内君を好きなのか」
「好きって……。まあ、友だちです」
「じゃ、結婚相手としては?」
「田所さん──」
「ゆっくり話し合わないか、場所を移して」
三記子は目をパチクリさせながら、
「いいですよ」
と、|肯《うなず》いていたのである。
そして……。
アルコール、プラス、クビのショック、というところか。
三記子は、田所のマンションまで、ついて来てしまった。
やっぱりいいなあ、年上って……。安心してられるしね。
もちろん好男もいい奴だけど……。
「三記子君──」
田所に、エレベーターの中で抱きしめられて、キスされると、三記子、アルコールの効き目が一挙に三倍ぐらいになった感じで、フワーッとなって、もうどうなってもいいや、ってところ。
「部屋へ来るかい?」
と、田所が|囁《ささや》くと、三記子はいつの間にやら、コックリと肯いていたのである。
「朝まで帰さないよ」
なんて言われると、ゾクゾクして……。
ま、いいか、なんて思ってしまう。
田所が、部屋のドアを開けて、
「さ、入って」
ここを入ったら……。もう出る時には元の私じゃない。
なんて、TVドラマのセリフみたいなことを考えている。
でも──ともかくここまで来たら……。引き返せない。
「──少しゆっくりして」
と、田所が居間の明りを点けると──。
居間の中は、めちゃくちゃに荒らされていたのだ。
三記子はびっくりして、
「いつもこんな風?」
「違うよ!」
──どうも、私の場合、いつもこんな風に邪魔が入るみたいね、と三記子は思った。
しかし、今度は、これだけじゃ終らなかったのだ。
「──帰って来たのか」
泥棒[#「泥棒」に傍点]が、まだいたのである。
「君は──」
と、田所が目をみはった。
畑山範夫が、|拳銃《けんじゅう》を手に、立っていて、銃口は田所と三記子を|狙《ねら》っていた。
「何のつもりだ?」
と、田所は言った。
「とぼけるなよ」
範夫は首を振って、「分ってんだぜ」
「何のことだ?」
「あの本さ。すりかえたな、同じものと」
三記子は、面食らって、
「知江さんの本?」
「そうさ。あの本に三億円が隠してあるはずだ。しかし、いくら調べても出て来なかった!」
範夫は、いまいましげに、「いいか、そうなりゃ結論は一つ。あれは別の本なんだ!」
「あの本は本物だよ」
「でたらめ言うな!」
と、範夫は荒々しい声を出した。「その女の所も捜した。しかし、見付からなかった。となりゃ、あんたの所さ」
「ないものはないよ」
「二人はそういう仲か。共謀して横どりしたな?」
「言ってもむだですよ」
と、三記子は、田所をつついて、言った。
「──あなた、それじゃあの誘拐も?」
三記子が|訊《き》くと、
「当り前さ」
と、範夫は平然と言った。
「じゃ、お姉さんを撃ったのは……」
「姉も、捕まえて、あの辺りに置いといたのさ。金で二人ほど雇ってね。追いかけたふりをして、姉を撃ち殺したんだ」
「どうして!」
「財産は多いほどいいからね」
「じゃ、お兄さんは?」
「兄貴も捕まえてあるよ。その内、良心の|呵責《かしゃく》に堪えかねて自殺ってことにしようと思ってる」
「何て人なの!」
「さっさと本を出せ。この女を殺すぞ」
銃口が、三記子を向く。
「私は持っていない!」
「三つ数えるぞ」
と、範夫が言った。「──一……二……」
三、と数えると同時に、田所が、三記子の前へ飛び出す。その時、
「こいつ!」
と、範夫に体当りをくらわしたのは──。
「好男!」
好男が、範夫にパンチをおみまいした。
「こっちにもやらせろ!」
田所も一発。──範夫は、みごとにのびてしまった……。
「──好男」
「ずっと後つけてたんだ」
と、好男は言った。「お前がここへ入るのを見て──ショックだったけどな」
「ごめん……」
と、三記子は言った。
「でも──お前の決めることだよ」
三記子は、しばらく黙って立っていたが、やがて、大きく息をつくと、
「帰ります、私」
と、言った。「一人で」
「そうか」
と、田所が肯く。
三記子は、田所のマンションを──元のまま、出ていくことになった……。
「──あら、いらっしゃい」
と、本屋に出ていた知江は、入って来た三記子を見て、言った。
「一人?」
「ええ。──あの、図書館の方、どうなりました?」
「私のクビ? 何とかつながったわ。田所さんが、|諦《あきら》め切れないから、もう少し置いときたいみたい」
と、笑って言った。
「良かった! 気になってたんです。でも──あの範夫さんって、あんなにひどい人だとは思わなかった」
「お金がからむと、人間はおかしくなるもんよ」
と、三記子は言って、「ね、あの本、ある?」
「ええ」
「ちょっと見せてくれる?」
「はい、すぐ」
奥へ入って、知江はすぐにあの本を手に戻って来た。
「調べたいことがあったの」
「また三億円ですか?」
と、知江が笑った。
「そう。──このころの本はね、奥付に、一冊ずつ、検印紙っていうのが|貼《は》ってある」
「切手みたいなやつでしょ」
「そう。──これをそっとはがす、と」
三記子が、検印紙をはがすと、下にもう一枚──。
「切手ですか、それ?」
「きっと、珍しい切手なのよ。これが三億円したとしても、驚かないわね」
知江が目を丸くした。
「秘書の中尾って人が、あなたのお父さんに言われてやったんだと思うわ」
「それが──三億円!」
知江は|呆《ぼう》|然《ぜん》としている。
「お母さんとよく相談して。田所さんに頼むといいわ、どうするにしても」
「分りました」
と、|肯《うなず》く。「でも──見付けて下さったのは──」
「私はいいの。本に囲まれてるのが性に合ってるから」
三記子は、笑って、「じゃ、またね」
と手を振ると、口笛を吹きながら、小さな本屋さんを出て行った。
|殺《さつ》|人《じん》を|呼《よ》んだ|本《ほん》
|私《わたし》は|図《と》|書《しょ》|館《かん》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年6月8日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『殺人を呼んだ本 私は図書館』平成8年3月25日初版発行
平成12年8月30日11版発行