角川文庫
本日もセンチメンタル
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
1 甘いプロローグ
2 開いたドア
3 さらわれて……
4 粉ミルクの朝
5 |波《は》|乱《らん》|含《ぶく》み
6 |花《はな》|子《こ》のお出かけ
7 |懐《なつか》しい父
8 「|奴《やつ》ら」の話
9 ぶつかった男
10 |尾《び》|行《こう》された|詩《し》|織《おり》
11 学校は|平《へい》|穏《おん》なり
12 |悩《なや》みは深し
13 |斧《おの》とハンマー
14 |破《は》|壊《かい》の朝
15 守り神
16 大乱戦
17 赤い車
18 ビルの住人
19 |偉《い》|大《だい》なオーナー
20 |闇《やみ》のささやき
21 お|化《ば》け|屋《や》|敷《しき》
22 コーヒーのシャワー
23 追いつめられて
24 |葬《そう》|送《そう》の情景
25 食い止める|隆《たか》|志《し》
26 天の助け
27 |孤《こ》|島《とう》の|詩《し》|織《おり》
28 |孤《こ》|独《どく》と|空《くう》|腹《ふく》
29 |悲《ひ》|惨《さん》な|食卓《しょくたく》
30 |詩《し》|織《おり》、海へ
31 |詩《し》|織《おり》の帰島
32 大団円
1 甘いプロローグ
「た、|隆《たか》|志《し》! 隆志君!」
|突《とつ》|然《ぜん》、どこからか自分の名を|呼《よ》ぶ声が飛んで来て、|本《ほん》|間《ま》隆志は、キョロキョロと|辺《あた》りを見回した。
しかし――それらしい女の子はいない。確かに女の子の声だったのだが。
隆志は、ショッピングアーケードの入口の所で、彼女の来るのを待っているところだった。やっと|涼《すず》しくなって来た夕方で、まだ夏の|名《な》|残《ご》りの太陽が、ビルの谷間に未練がましく顔を|覗《のぞ》かせている。
「隆志君!」
また聞こえた。これはどう考えても空耳じゃない。
隆志は、地下鉄の出口から、このアーケードへ向って|駆《か》けて来る、|水《みず》|嶋《しま》|添《そえ》|子《こ》に気が付いた。あの子が|叫《さけ》んだのか? それにしては、えらく遠い所から……。
添子は体も大きいし、声も大きいから、不思議はないにしても、すれ|違《ちが》う人がみんな|振《ふ》り返っているのは当然だろう。
ダダダ……。|地《じ》|響《ひび》きのような足音をたてて、添子が駆けて来ると、
「隆志君!――大変なのよ!」
ハアハア|喘《あえ》ぎながら、隆志にすがりつく。細くてヒョロリとして、少々安定の悪い隆志は|危《あや》うく引っくり返りそうになって、何とか|踏《ふ》み|止《とどま》った。
「ど、どうしたんだよ? |大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「うん――大変なの――ああ、暑い!」
どっと汗が|噴《ふ》き出て来る。
「何が大変なんだよ? |詩《し》|織《おり》は?」
しおり、といっても、本に|挟《はさ》むあれではない。|成《なる》|屋《や》詩織。今、隆志が待ってる、当の彼女[#「彼女」に傍点]である。
「そ、その詩織が――大変なの!」
「どうしたんだよ? まさか事故にでも|遭《あ》ったんじゃ――」
「あのね、|途中《とちゅう》の|地《ち》|下《か》|街《がい》で――ともかく|一《いっ》|緒《しょ》に来てちょうだい!」
グイと引っ張られて、隆志はまた引っくり返りそうになった。
申し|遅《おく》れたが、まだ登場していない成屋詩織と、この水嶋添子は十七歳。隆志は一つ上の十八歳。が、どう見ても、隆志の方が「引っ張られ型」のようである……。
「|諦《あきら》めて、出て来い!」
と、|警《けい》|官《かん》が|怒《ど》|鳴《な》っている。「おい! 聞いてるのか!」
|凄《すご》い人だかりだった。
日曜日の夕方の|地《ち》|下《か》|街《がい》。ただでさえ、人通りの多い時間である。
そこで、日本刀を持った男が|甘《かん》|味《み》|喫《きっ》|茶《さ》に|押《お》し入り、金をとろうとして|騒《さわ》がれたので、客の一人を人質に取って、たてこもってしまったのだ。人だかりが凄いのも当り前である。
「――じゃ、中に詩織が?」
やっと、|人《ひと》|垣《がき》をかき分けて前に出た隆志は添子に言った。「あいつ!――こんな店で何やってたんだよ?」
「だって、二人で二時間も買物に歩き回っててさ、|喉《のど》|乾《かわ》いたから……。詩織が、『隆志君なら一時間や二時間待たせたっていいわよ』って言うから」
「あいつ、そんなこと言ったのか?」
隆志はムッとした。しかし、今はそんなことで|腹《はら》を立てている場合ではない。
「でも、変な|強《ごう》|盗《とう》だなあ。何でこんな、大して金のなさそうな店に押し入ったんだ?」
「私、知らないわよ、そんなこと。レジの女の子がキャーキャー|叫《さけ》んで、店の中がワーッとなって……。気が付いたら、日本刀がキラッと光って詩織の喉に――」
「しょうがねえな、全く!」
二人でブツブツやっているのを聞きとがめた|警《けい》|官《かん》が、
「何だ、君たちは! |退《さ》がっていなさい」
とにらんだ。
「でも、中にいる人質の子、友だちなんですよ」
と隆志が言った。
「そうか。ともかく、そこに立つな! わきへ来い! こっちのわきへ」
「何か|危《き》|険《けん》なんですか?」
「いや、ニュースのTVカメラが|遮《さえぎ》られる」
その警官、いかにも|緊《きん》|迫《ぱく》したポーズを作って見せている。隆志は何だか調子が|狂《くる》ってしまった。
「犯人は――」
「いざとなったら|突入《とつにゅう》する。見ていろ」
「でも、人質の安全第一でしょ?」
「そりゃそうだが、人間、|諦《あきら》めが|肝《かん》|心《じん》だ」
|冗談《じょうだん》じゃないよ!
が、そうする内に、|応《おう》|援《えん》の警官がゾロゾロ集まって来て何だか店の前は警官の集会場所みたいになってしまった。
「――よし、もう一度|呼《よ》びかけるぞ」
と、|指《し》|揮《き》を取っているらしい、|年《ねん》|輩《ぱい》の警官が言った。「それで返事がなかったら、まず|催《さい》|涙《るい》|弾《だん》を打ち|込《こ》んでから、突入する」
添子が、隆志の|腕《うで》をつかんで、
「ど、どうしよう!」
「おい、そんなにギュウギュウにぎるなって。|雑《ぞう》|巾《きん》じゃないんだぜ」
と、隆志は顔をしかめた。「なに、|大丈夫《だいじょうぶ》さ。詩織のことだ。きっと――」
「――おい! 聞こえるか! 十、数える! その間に日本刀を|捨《す》て、おとなしく出て来い! |分《わか》ったか!」
店の中からは返事がない。警官が、
「一、二、三、……」
と大声で数え始めると、見物人の間から、
「十から逆に数えた方が、カッコイイのにね」
「英語で、テン、ナイン、ってやった方が感じ出るんじゃない?」
「英語、知らないのかもよ」
と、無責任な声が聞こえて来た。
「……七、八」
と、数えたところで、
「待って! 待って!」
と、女の子の声が……。
「詩織だ!」
隆志が飛び上った。
「今、出て行くから……。|撃《う》たないで!」
添子が、それを聞いて、
「詩織、|泣《な》いてる」
と、不安げに言った。
「うん。――そうらしいな」
息を|呑《の》んで見守っていると、やがて――中から、四十歳ぐらいの、ちょっと|薄《うす》|汚《よご》れた作業服みたいなのを着たおっさん(これはもちろん詩織ではない)と、そして|可《か》|愛《わい》いポシェットを|肩《かた》から|斜《なな》めにかけた女の子――もちろん詩織――が、一緒に|姿《すがた》を現わした。
「あいつ……」
隆志は、ため息をついた。
日本刀でおどしていた男と、おどされていた少女が、まるで親子か何かみたいに、肩を|抱《だ》き合い、互いにワンワン泣きながら出て来たのである。――集まった|誰《だれ》もが、|呆《あっ》|気《け》に取られて、その光景を|眺《なが》めていた。
「だって……」
詩織が、まだ泣きはらした赤い目で、隆志をうらめしそうに見た。
「無事で良かったけどさ」
と、隆志は|肯《うなず》いて、「でも、俺は|腹《はら》|減《へ》っちゃったよ」
やっと、事情|聴取《ちょうしゅ》が終って、出て来たのである。もう、夜の十時だった。
「あの人の話聞いてたら、|可《か》|哀《わい》そうで」
と、グスンとやって、「どうせ死ぬなら、せめて思い切り|甘《あま》いものを食べて死にたいって……。小さいころから、ろくにおしるこも食べさせてくれなかったんですって」
|甘《あま》|党《とう》の|強《ごう》|盗《とう》というのも、何となくしまらない話だが。――隆志は|苦《にが》|笑《わら》いして、
「ま、お前のセンチなところのおかげで、無事に|捕《つか》まったんだしな」
と言った。「ともかく何か食おう」
「うん」
詩織がコックリと肯く。
十七歳、というには少々|幼《おさな》い感じである。もう十七といえばかなり|大人《おとな》びた子もいるのだが、成屋詩織は、|正《まさ》に「少女」って感じである。|一《いっ》|緒《しょ》に歩いている添子と比べると半分ぐらい(まさか!)の印象。
しかし、見かけよりはずっと活発な女の子である。ただ、詩織の欠点――というか長所というか――は、このロマンチックな名をつけた詩人の父親に似たのか、極度に「|感《かん》|激《げき》|屋《や》」だということだった。
ドライ、かつクール、という現代っ子のスタンダードタイプとはかけ|離《はな》れた、センチメンタルな子なのである。
そのせいで、ボーイフレンドの隆志も、しばしば苦労させられる。といって、要するに人の|好《よ》さから来るセンチメンタルなので、どうにも|憎《にく》めないし、文句も言えないのである。
やっと開いているレストランに入って、三人は、|遅《おそ》い夕食を取ったが、|途中《とちゅう》、詩織はふと手を止めて、
「あのおじさん、留置場じゃ、どんなもの食べてるのかしら」
と言い出した。
「デザートはつかないだろうな」
「そうね。――あの、すみません」
詩織はウェイトレスをつかまえて、言った。「チョコレートパフェ、留置場へ出前していただけません?」
2 開いたドア
それにしても――と、|本《ほん》|間《ま》|隆《たか》|志《し》は思い出してしまう。
初めて、|成《なる》|屋《や》|詩《し》|織《おり》とデートしたときのことを。たぶん、これは一生|忘《わす》れられないであろう。
ま、この先、詩織とどうなるかは|分《わか》らないにしても、だ。
何しろ、詩織と隆志、付き合っているとはいっても、至って、それこそ「きれいな」付合いで、まず「お子様同士」って感じなのだから。
「あのときゃ、|凄《すご》かったよな」
と、|映《えい》|画《が》|館《かん》から出て来て、ブラブラと歩きながら、隆志が言った。
「何のことよ?」
と、詩織が|訊《き》き返す。
「初めて映画を見に行ったろ。最初のデートのとき」
「そうだっけ」
「これだからね。――お前、どうして、そんなにセンチなくせに、そう冷たいの?」
「知るか」
――ともかく、そのときの映画は、ロマンチックな|悲《ひ》|恋《れん》ものだった。
今どきあまりはやらないが、しかし、初めてデートに|誘《さそ》って、女の子をホラー映画へ|連《つ》れていくのも、ためらわれたのだ。
それが間違い[#「間違い」に傍点]だった。
ともかく、映画を見ながら、ワンワン泣いてしまうのだ。それも、ジワッと涙ぐむとかいうのではない。
声こそは|押《お》し殺しているが、グスン、グスンとしゃくり上げ、時々、
「まあ」
とか、
「そんな」
とかいうセリフ[#「セリフ」に傍点]入りなのである。
周囲の人は、変な目で見るし、女の子たちがクスクス笑っていたり、中には、
「あの泣き方は、映画のせいじゃない」
と思うのか、隆志のことを、キッとにらみつけるのがいたりして……。
ともかく隆志は、スクリーンなんかまるで見ていられず、|冷《ひや》|汗《あせ》をかきながら、ただひたすら、
「早く終ってくれ!」
と願うだけだったのである。
――あれ以来、隆志は極力、詩織を|映《えい》|画《が》には|連《つ》れて行かない。
見るときは、今日みたいなコメディか、アクションものと決めている。
しかし、今日のコメディだって、三回|泣《な》いたのだから、大したものだ。
「|面《おも》|白《しろ》かったわ、今日の映画」
「そうか?」
「うん。もっと泣けると良かったけど」
「お前はよくても、こっちがかなわないよ」
「いいでしょ。感受性豊かだ、ってことなのよ」
「豊か過ぎるぜ」
と、隆志は言った。「さあて、これからどうする?」
「行く所があるの」
「へえ。|珍《めずら》しいじゃないか」
大体、詩織はデートとなると隆志に任せている。
「付き合ってくれる?」
「そりゃ、構わないけど……。どこに行くんだ?」
「ええとね――」
詩織は、ポシェットから、メモ用紙を取り出して広げた。「読めないな。――あ、逆さだ、これじゃ」
「お前なあ……」
「ここ。連れてって」
と、メモを隆志へ|押《お》し付ける。
東京都内、住所だけでその場所を|捜《さが》し当てる、っていうのは、楽じゃない。
仕方なく、書店で地図を立ち見(?)して、近い駅まで行くことにした。
電車に乗って、
「こんな所に何の用だ?」
と、隆志は|訊《き》いた。
「|訪《ほう》|問《もん》」
「そりゃ分ってるけど」
「|約《やく》|束《そく》したの」
|吊《つり》|皮《かわ》につかまって、流れ去る外の風景へ目をやっている詩織。――なかなか|可《か》|愛《わい》くて、絵になる。
「約束って?」
「あのおじさんと」
「|誰《だれ》だ?」
隆志は、しばらくして、「――おい、まさか、この間、日本刀でお前をおどしてた、例の――」
「あのおじさんよ」
「あいつと、どんな約束したんだ?」
「うん……」
と、詩織は、はぐらかすように、「ま、ちょっとね」
「言えよ。まさか、そいつの家族の――」
「様子を見て来て、知らせてあげる、って言ったの」
「おい!」
隆志は目を丸くして、「お人好しにも、ほどがあるぜ」
「だって、若い|奥《おく》さんがいて、子供が小さくて、って言うんだもん。|可《か》|哀《わい》そうじゃないの!」
「だけど、見て来てどうするんだ?」
「そりゃあ……」
「お前の気持は美しいと思うぜ。しかし、お前や|俺《おれ》にゃ、どうしようもないじゃないか」
「だって――」
「むだだよ。帰ろうぜ」
と隆志は言った。
すると――詩織が、じっと隆志を見つめる。こいつはいけない!
と思ったとたん、詩織の目から|大《おお》|粒《つぶ》の|涙《なみだ》が|溢《あふ》れて……。
「分った。分ったよ。|一《いっ》|緒《しょ》に行くから。――な、頼むから、|泣《な》くな」
隆志の方が、泣きたい気分である。
「――これか」
隆志は|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》った。
さんざん|捜《さが》し回って、やっと見付けた。
なかなか分らなかったのは、そこがアパートだったからで、メモには、そのアパートの名が入っていなかったのだ。
ま、しかしひどいアパートだった。よく|真《まっ》|直《す》ぐ立ってる、と感心したくなるほどの古さだ。
「人、住んでるのか?」
と、隆志が言った。
「|洗《せん》|濯《たく》|物《もの》|干《ほ》してあるわよ」
「そうか……。名前、何てったっけ?」
「ええと――|桜木《さくらぎ》。|奥《おく》さんの名前は、|忘《わす》れちゃった」
「桜木、ね」
|郵《ゆう》|便《びん》|受《うけ》なるものもあるが、名前なんか入ってない。
「しょうがない。一つずつ見て回ろうか」
大した|戸《こ》|数《すう》ではない。二人は、一階の(一応、二階があった)部屋の前を、ぐるっと回った。
「二階かしら」
「階段、|壊《こわ》れてないか?」
二人は、|恐《おそ》る恐る、ギイギイ鳴る階段を上って行った。
「――ここは|違《ちが》う、と。――そっちは?」
「うん。よく読めないんだ、|表札《ひょうさつ》が」
大体、表札なんてものじゃない。
ただ、紙に名前を書いて、ピンで止めてあるというしろもの。
「――どうやらこれだ」
と、隆志は言った。「かすかに、〈桜〉の字が読める」
「良かった!」
良かった、じゃないよ。隆志は内心ヒヤヒヤものだった。
そりゃ、こんなアパートにいるのでは、|貧《びん》|乏《ぼう》|暮《ぐら》しなのだろう。しかも|旦《だん》|那《な》があんな|騒《さわ》ぎを起して|捕《つか》まってるとくれば……。
だからといって、隆志や詩織にどうできるというものじゃない。それを、
「何とかしたい」
と思いかねないのが、詩織なのである。
トントン、と詩織がドアを|叩《たた》いた。
「こんにちは。――|奥《おく》さん。――桜木さん。|押《おし》|売《う》りやセールスじゃありません」
そばで聞いていて、隆志の方が|吹《ふ》き出しそうになってしまった。
「留守じゃないのか」
と、隆志は言って、|廊《ろう》|下《か》に面した、台所らしい|窓《まど》の下に立っていたが――。
ん? 何だ、この|匂《にお》い?
「おい! ガスだ!」
と、隆志が言った。
「え?」
「ガスの匂いがする。――ほら」
「ほ、本当だ!」
「もしかしたら中で――。おい、|逃《に》げろ!」
「だって――」
「|俺《おれ》が窓を破って入る!」
と隆志が身構えると、詩織は、ドアのノブに手をかけて、引いてみた。
「ドア、開くよ」
ギーッとドアが開く。隆志は調子が|狂《くる》って、引っくり返った。
3 さらわれて……
「失礼します」
なんて、|呑《のん》|気《き》なことを言ってる場合じゃなかった。
ともかく、ガス自殺を図っているらしいのだ。一刻を争う!
「ともかく、ガスだ! ガスを止めるんだ!」
気を取り直した|隆《たか》|志《し》が、|桜木《さくらぎ》の部屋の中へと飛び|込《こ》むと、「どこだ! ガスは――」
と、見回す――ほどの広さもなかった。
|六畳一間《ろくじょうひとま》に台所、という、大変クラシックな間取りのアパートだったのである。
隆志は、台所へ|駆《か》けて行って、ガスの|栓《せん》を|閉《と》じた。
「まあ! あそこに!」
と、|詩《し》|織《おり》が|叫《さけ》んで立ちすくむ。
すっかり色の変った|畳《たたみ》の上、|座《ざ》|布《ぶ》|団《とん》(もと[#「もと」に傍点]座布団、というべきか)を頭の下に、若い女性が、|傍《そば》に赤ん|坊《ぼう》を|寝《ね》かせて、横になっている。
じっと目を閉じ、動こうともしない。そのわきに、ほとんど|空《から》になったコップが一つ。そして|哺乳《ほにゅう》びん……。
「|睡《すい》|眠《みん》|薬《やく》をのんだんだわ! そしてガスを出しっ放しにして……。何て|可《か》|哀《わい》そうな――」
と、早くも詩織、|涙《なみだ》ぐんでいる。
「おい! そんなことより、|窓《まど》を|開《あ》けるんだ!」
隆志が、言うより早く、自分で駆けて行って窓を大きく開け放った――つもりだったのだが……。よほど、たてつけが悪かったんだろう。
エイッ、と開けると、窓はガラガラッと開いたことは開いた。が――そのままレールから|外《はず》れて、下の地面へと落下して行ったのである。
ガシャン!――二階から落ちて割れたからといって、窓ガラスを責めるわけにはいかないだろう。
「あれま」
と、隆志は|呟《つぶや》いた。「でも――しょうがねえよな」
「そうよ。ともかく、命を助けるためなんだもの」
と、詩織は隆志を|慰《なぐさ》めて、「早く一一九番しなきゃ!」
「そ、そうだな」
「電話、どこかしら?」
詩織が|振《ふ》り向くと、ポカンとして|座《すわ》っている若い女性……。
「あの、電話は?」
と、詩織は|訊《き》いた。
「電話、ありません」
「あら、そう。|困《こま》ったわ」
「あの――どうして――」
「ここの人がね、ガス自殺を図って、|睡《すい》|眠《みん》|薬《やく》をのんで……」
「――おい」
と、隆志が言った。
目の前に、キョトンとした顔で|座《すわ》っているのが、当の「ここの人」だった。
赤ん|坊《ぼう》を|抱《だ》いたその女性、隆志と詩織を|交《こう》|互《ご》に|眺《なが》めて、
「あなた方、どなた?」
と、訊いたのだった……。
「じゃ、自殺しようとしたわけじゃ……」
「まさか」
桜木|啓《けい》|子《こ》は、|微《ほほ》|笑《え》んだ。「でも、ついガスの火を消し|忘《わす》れて。――本当に中毒するところでしたわ。ありがとうございました」
「いや、別に……」
隆志は、頭をかきながら、すっかり見はらしの良くなった|窓《まど》の方へチラッと目をやった。
「すっかり|寝《ね》|不《ぶ》|足《そく》なものですから」
桜木啓子はそう言って、「この子が夜中に何度も起きるので、|眠《ねむ》ってられないんです」
と、赤ん坊に、|哺乳《ほにゅう》びんでミルクをやっている。
詩織と隆志も、何となく調子が|狂《くる》って、ぼんやりとその母と子の|姿《すがた》を|眺《なが》めていたが……。
「あのね、|訊《き》いてもいい?」
と、詩織は言った。
「何ですか?」
「――|年《と》|齢《し》はいくつ?」
と訊いたのは、ともかくこの啓子という女性、いやに若く見えたからだった。
そりゃ、確かに、あの「おじさん」は、若い|女房《にょうぼう》と小さい子供がいる、と言ってたけれど、それにしても、若過ぎるような気がした。
「まだ五か月なんです」
「あ――いえ――あなたのこと」
「あ、私ですか。十七です」
ガクッ、と詩織はショックのあまり|倒《たお》れ|伏《ふ》した――というのはオーバーだが、しかし、十七歳! 私と同じ!
「十七……。その若さで、どうしてまた……」
と言いながら、早くも詩織の|涙《るい》|腺《せん》は活動を開始していた。
「でもさ――」
と、隆志が、それ[#「それ」に傍点]と察して、口を|挟《はさ》んだ。「君の|旦《だん》|那《な》、|捕《つか》まったの、知ってるだろう?」
「旦那?」
と、啓子は目をパチクリさせて「ああ、主人のことですね。夫。ハズバンド」
ありゃ、どう見ても「ハズバンド」って|雰《ふん》|囲《い》|気《き》じゃない。せいぜいゴムバンドってところ。
「ええ、|警《けい》|察《さつ》の人も来ましたし」
「大変ねえ。――心配でしょ」
と、詩織は言った。
「別に」
と、至ってアッサリとした返事が返って来た。「ここにいるより、よっぽどのんびりできるんじゃないですか。あの人、慣れてるし」
「留置場に?」
「ええ。どの留置場が|居《い》|心《ごこ》|地《ち》がいいか、論文を書こうか、なんて言ってるくらい」
あんまり|自《じ》|慢《まん》できた話じゃないだろうが。――しかし、それにしても、いやにこの「若妻」の、落ちつき|払《はら》っていること。
「あの――あなた、本当にあの人の|奥《おく》さん?」
と、つい詩織は念を|押《お》していた。
「一応は」
と、啓子は|肯《うなず》いた。「といっても、無理にさらわれて来たようなものなんですよね。だから別に、いなくたって|寂《さび》しくもないし」
詩織は、わけが|分《わか》らない。
「さらわれた?」
「ええ。あの人、私が学校へ行く所を待ち|伏《ぶ》せして、無理矢理車に引きずり|込《こ》んだんです。――そのまま何日も車で走り続けて、|逃《に》げ出したら殺すぞ、っておどかされて。あちこちの町を転々としてる内に、この子ができちゃったんで、逃げ出すわけにもいかなくなって……」
「ちょ、ちょっと待って!」
詩織はあわてて|遮《さえぎ》った。「それじゃ、まるきり|誘《ゆう》|拐《かい》じゃないの!」
「まあ、そうです」
隆志と詩織は、顔を見合せた。――この子も、少しイカレてるんじゃない? 詩織も、さすがにセンチメンタルな気分にはなれなかった。
「――変ってる、と思うでしょうね」
と、啓子は言った。「でも、あの人にも、いい所はあるんです。子供好きだし、私のことにも、それなりに気をつかってるし。――でも、働く気のない人なんです。だから、どうせ、そろそろ逃げ出そうと思ってたの。いい機会だわ」
詩織と同じ|年《と》|齢《し》でも、こちらはまたドライである。いや、ドライというのもピンと来ない。
「ご両親は、あなたのこと、|捜《さが》してらっしゃるんじゃないの?」
と、詩織は言った。
「どうかしら。――私、のけ者だったから」
「だけど……」
「家出した、と思ってるんじゃないかな、家じゃ。だったら、捜しませんよ。父は冷たいし、今の母、私の本当の母じゃないし」
複雑な家庭に育っていたらしい。
「お|宅《たく》、どこなの?」
「両親は九州です」
また遠くへ来たもんだ。――啓子は、赤ん|坊《ぼう》が|眠《ねむ》ってしまうと、
「でもいいわあ、子供って」
と、ニコニコしている。「詩織さん――でしたっけ。子供さんは?」
「いないわよ」
詩織は、やや|圧《あっ》|倒《とう》されていた。
「|可《か》|愛《わい》いですよ。そろそろ一人か二人――」
「それよりさ」
隆志が、あわてて言った。「差し当り、どうするんだい?」
「このアパートじゃ、いられませんね。|窓《まど》もなくなったし」
「ごめんよ。|壊《こわ》す気じゃなかったんだけど」
「いいんです。どうせ近々、ここ、取り壊す予定だから」
と、啓子は言って、「荷物まとめて、どこかに|泊《とま》ります」
「あてはあるの?」
詩織が、余計なことを|訊《き》いた。――よせ!
隆志の心の中での|叫《さけ》びも|空《むな》しかった……。
4 粉ミルクの朝
「どうするんだよ、一体!」
と、|隆《たか》|志《し》が、|詩《し》|織《おり》のわき|腹《ばら》をつついた。
「くすぐったいわね、エッチ」
「|冗談《じょうだん》言ってる場合じゃないだろ」
「じゃ、あの子と赤ん|坊《ぼう》を、放り出せっていうの?」
「そうじゃないけどさ……。お前、言うことが|極端《きょくたん》なんだよな」
「こういう性格でございますの」
と、詩織は言い返した。
さて、ここは――|成《なる》|屋《や》詩織の家である。
至って|洒《しゃ》|落《れ》た造りの洋風建築。|大《だい》|邸《てい》|宅《たく》というほどでもないが、ま、住んでいるのが詩織と両親の三人だけなんだから、そんな|馬《ば》|鹿《か》でかい家を建てても仕方ないのである。
「やあ、隆志君」
と、二人がいるリビングルームへ入って来たのは、詩織の父。
丸顔、丸っこい体、短い足……。これに丸ぶちメガネをかけているので、どこもかしこも丸い、という印象を与えている。
|人《ひと》|柄《がら》の方も至って「丸く」、いつもニコニコしていて、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な顔ってのを知らないのじゃないかと思えて来る。
「おじさん、どうも――」
と、隆志は頭を下げた。
「ね、パパ。あの子、どうしてる?」
と、詩織が|訊《き》いた。
「ん? ああ、例の赤ん|坊《ぼう》|連《づ》れの|娘《むすめ》か。今、ママが|一《いっ》|緒《しょ》になって赤ん坊を|風《ふ》|呂《ろ》へ入れてるよ」
こうなると、隆志も笑い出してしまいそうになる。
詩織のセンチなのは、どうやら|親《おや》|譲《ゆず》りらしい。
「しかし、|可《か》|愛《わい》いもんだな、赤ん坊というのは」
と、詩織の父親は、ゆったりとソファに|腰《こし》をおろして、「新たなインスピレーションが|湧《わ》いて来た! 久しぶりに詩を作ってみるかな」
「パパ、それだったら、娘の私を見てて、インスピレーションは湧かないの?」
「見慣れた顔はだめなんだ」
と、成屋|一《いち》|郎《ろう》は言った。
しかし――いつもこの父親を見る|度《たび》に、隆志は、この人が「詩人」だとは思えないな、と考えるのだった。
詩人なんていうのは、およそ商売としては成り立たない。特に、成屋一郎はあまり――というか全く、というか――知られていない詩人だから、ろくに収入というものがないのである。
それでいて、どうしてこんな家で|優《ゆう》|雅《が》に|暮《くら》していられるかといえば――。
「ほら、こんなに元気|一《いっ》|杯《ぱい》!」
と、リビングに赤ん|坊《ぼう》をかかえて飛び|込《こ》んで来たのは、詩織の母親、成屋|智《とも》|子《こ》である。
「ママ!」
詩織が|真《まっ》|赤《か》になって、「何よ、その格好! 隆志君がいるのよ!」
赤ん坊をお|風《ふ》|呂《ろ》へ入れていたので、成屋智子は、当然のことながら|裸《はだか》だった。バスタオル|一《いち》|枚《まい》、体に|巻《ま》きつけていたが、もしそれが|外《はず》れて落ちたら……。詩織が目をむいたのも当然のことだったのである。
「あら、おかしい?」
と、智子は心外、という様子で、「隆志君だってお母さんのお風呂上りぐらい見たことあるでしょ」
「自分の母親とよその母親じゃ|違《ちが》うでしょ!」
と、詩織はむきになって、「ともかく、ちゃんと服を着て来てよ!」
「はいはい。うるさいのねえ。――ああ、よしよし」
と赤ん|坊《ぼう》をあやしつつ、リビングを出て行く。
詩織はフーッと息をつき、隆志は笑い出したいのを、必死でこらえている。
いや、実際、詩織の両親は、ユニークな人たちなのである。
母親の方は、詩織とよく似た顔立ちで(詩織の方が、母親に似たのであるが)、金持のお|嬢《じょう》さんで、この家の収入は、この母親が、親からもらった株だの|証券《しょうけん》だのの配当などがほとんどなのだ。
いとも|優《ゆう》|雅《が》な生活であるが、それがいい方に出て、二人とも無類のお人好し。ねたんだり、|恨《うら》んだりしようという気になれないタイプなのだった。
「――ああ、いい気持だった」
と、リビングに入って来たのは、もちろん桜木啓子である。
詩織のパジャマを着ている。――もはや、この家にすっかり居つく気でいるらしい。
「あの赤ん坊、なんていう名前なの?」
と、詩織が|訊《き》く。
「|花《はな》|子《こ》。――だって、考えるのが|面《めん》|倒《どう》だったから。おじさんがね、昔そういう名の象が動物園にいたって……」
象、ねえ……。
隆志は、もう、どうにでもなれって気分である。
詩織は、結局、赤ん|坊《ぼう》ともども、この家へ桜木啓子を|連《つ》れて来てしまったのだ。
「ほら、連れて来たわよ!」
一応、ちゃんと服を着た智子が、赤ん坊の花子[#「花子」に傍点]を|抱《だ》いて来る。
「あ、すみません。――お|風《ふ》|呂《ろ》の後は、よくオッパイ飲むんですよね」
「本当に|可《か》|愛《わい》いわね。大きくなったら、きっと美人になるわ」
と、智子は、もうニコニコしっ放しである。
赤ん坊が、フギャーフギャーとむずかり出した。啓子は、
「はいはい」
と、パジャマの前を|開《あ》けて、|胸《むね》を出し、|乳《ち》|首《くび》を赤ん坊に|含《ふく》ませた。
隆志は目をパチクリさせて、それを見ていた。――その、当り前のしぐさは、なかなか感動的な光景であった。
フギャー、フギャー。
次の日、成屋家にやって来た隆志は、いやに派手に赤ん坊が|泣《な》いているので、声をかけにくくて、しばらく|玄《げん》|関《かん》に|突《つ》っ立っていた。
すると、詩織がバタバタと足音を立てて飛び出して来た。
「隆志君! 何をぼんやり突っ立ってるのよ!」
「へ?」
「早く、粉ミルクを買って来て!」
「粉ミルク?」
「そうよ、急いで! 十秒以内にね!」
そんな無茶な。
「おい、粉ミルクって、コーヒーに入れるやつ?」
「|馬《ば》|鹿《か》! 赤ちゃんにのませるやつよ!」
何だかよく|分《わか》らなかったが、ともかく仕方なく、隆志は表に飛び出した。が――しかし、大体、粉ミルクってのは、どこで売ってるんだ?
――しかし、ともかく|駆《か》け出して、|商店街《しょうてんがい》へ行くと、幸い、薬局の店頭に山積みになっている粉ミルクの大きな|缶《かん》を見付けた。
取りあえずそれを買って、飛んで帰ると、詩織が引ったくるようにして――。
しばらくすると、赤ん坊は泣きやんだ。
隆志が|恐《おそ》る恐る|覗《のぞ》き|込《こ》んでみると、台所で詩織と父親の二人がへばっている。
赤ん坊は、|辛《かろ》うじて詩織の|腕《うで》の中で、スヤスヤと|眠《ねむ》っていた。
「どうしたんだよ、一体?」
「え?――あら、隆志君、いつ来たの?」
「それはないだろ。今、粉ミルク買って来たじゃないか」
「あ、そうだっけ」
こりゃ相当なものだ。
「どうでもいいけど――母親は?」
「うちのママ? お出かけ」
「|違《ちが》うよ。例の桜木啓子さ」
「ああ」
詩織は、|片《かた》|手《て》で赤ん坊を|抱《だ》いたまま、もう一方の手をのばして、台所のテーブルの上の紙きれを取り、隆志の方へ差し出した。
「何だい?」
と、受け取って見ると――何だか子供の走り書きって感じの字で、
〈いろいろありがとうございました!
私、したいことがいくつかあるんで、しばらく花子をお願いします。粉ミルクは××印のにして下さいね。|他《ほか》のだと便ぴしますので。
じゃ、よろしく。
[#地から2字上げ]啓子〉
「――おい」
隆志は|呆《あき》れて、「じゃ、出てっちまったの? 赤ん坊を置いて?」
「そのようね」
「どうするんだよ! もう帰って来ないかもしれないぜ」
詩織は、ちょっと隆志をにらんで、
「あなたの買って来た粉ミルク、メーカーが|違《ちが》ってたわよ」
と言った。
5 |波《は》|乱《らん》|含《ぶく》み
「そりゃ、|今日《きょう》はいいよ。日曜日だからな。だけど――」
「言いたいことは|分《わか》ってるわよ」
と、|詩《し》|織《おり》は言った。
「本当かい?」
と、|隆《たか》|志《し》は、半信半疑の|面《おも》|持《も》ち。
「どうせ、私は|馬《ば》|鹿《か》だ、|間《ま》|抜《ぬ》けだって言いたいんでしょ。どうしようもないお|節《せっ》|介《かい》やきで、救いがたいオタンコナスだって。どうせそうですよ。――そんなにいじめなくたっていいじゃない」
グスン、と詩織は|涙《なみだ》ぐんでいる。
「自分で勝手に言って勝手に泣くなよ」
と、隆志はため息をついた。「ほれ、鼻かめよ」
ティッシュペーパーを常に持ち歩く。これは、詩織と付き合うときの第一鉄則なのだ。
今、二人は、詩織の家の近所にある公園から、|戻《もど》る|途中《とちゅう》である。そろそろ|陽《ひ》が|傾《かたむ》いて来て、夕空は大分秋めいていた。
二人は――いや、正確に言うと三人[#「三人」に傍点]だった。
例の|花《はな》|子《こ》――|桜木啓子《さくらぎけいこ》に置いて行かれた赤ん|坊《ぼう》が、|一《いっ》|緒《しょ》だったのである。
といっても、赤ん坊が詩織たちと|並《なら》んで、ポケットに手を|突《つ》っ込みながら歩いているわけはないので、詩織の|腕《うで》の中に|抱《だ》かれているのだった。
「鼻かめ、ったって……」
と、詩織が、ノッポの隆志を見上げる。
「分ったよ。――落っことしても知らねえからな」
隆志は、こわごわ花子を詩織から受け取った。
赤ん坊というのは、抱き慣れていない人間の危っかしい手つきを、|敏《びん》|感《かん》に察知するものである。
「ワッ! ワッ!――動いた!」
「当り前でしょ。もっとしっかり抱かなくちゃ。赤ちゃんだって|怖《こわ》いわよ」
「そんなこと言ったって、慣れてねえんだからな」
何度も抱き直して、やっと花子も静かになった。詩織は、チーンと鼻をかんで、それからハンカチを出して涙を|拭《ぬぐ》った。
そして、ヒョイと顔を上げると、どこかで見たような女性が立っている。四十代も後半に|違《ちが》いないという、|尖《とが》ったメガネの細身のおばさんで、地味なスーツを着て、歩いて来たところだった。
「こんにちは」
|誰《だれ》だっけ? 考えながら、詩織はそう|挨《あい》|拶《さつ》した。たぶん近所のおばさんだろう。
「――今の誰だ?」
と、すれ違って少し歩いてから、隆志が言った。
「|見《み》|憶《おぼ》えあるんだけどね……」
「何だか、変な顔してこっちを見てたぞ」
「失礼しちゃうわ。こっちがちゃんと挨拶したのに、何も言わないなんて」
と、詩織は|腹《はら》を立てている。
「そんなこといいけどさ、|明日《あした》から、どうするんだ? 学校あるんだぞ」
詩織も隆志も、まあ一応学校という所へ通っている。詩織は高校二年。隆志は三年生だ。ただし、隆志は都立、詩織は私立の女子校。
その割に、隆志はあまり受験勉強している様子もなく、|呑《のん》|気《き》だ、と思われるかもしれないが、この小説に出て来ない場面では、必死になって勉強して――いるだろう、と|著《ちょ》|者《しゃ》は想像している……。
「|分《わか》ってるけど、その子を|捨《す》てるわけにもいかないでしょ」
「捨てろとは言わないよ。でも、何てったって、ちゃんと母親がいるんだからさ。|捜《さが》してこの赤ん|坊《ぼう》を|渡《わた》すべきだよ」
「どうやって捜すの?」
「どうやって、って……」
そう言われると、隆志も、ぐっと|詰《つま》るのである。「だけど――あの啓子ってのが、いつ帰って来るのか分らないんだぜ。それまでずっとお前が|面《めん》|倒《どう》みるのか?」
「ママが何とかするでしょ」
と、詩織の方だって、いい加減無責任なのである。
「しかし、お前の母さんもひどいよな」
と、これは|腕《うで》の中の赤ん坊へ向って、「お前を|放《ほ》ったらかして、どこかへ行っちまうなんてな。――帰って来たら、うんとギャーギャー|泣《な》いて、|困《こま》らしてやれよ」
隆志は、いつの間にか、詩織が|隣《となり》を歩いていないのに気付いて、足を止めた。二、三メートル後ろで、詩織、ポカンとして|突《つ》っ立っている。
「おい。――何してんだ?」
と隆志が声をかけると、
「思い出した」
と、詩織が言った。
「何を?」
「さっき、すれ|違《ちが》ったおばさん……」
「何だ、|誰《だれ》なんだよ?」
「うん……。学校の生活指導の先生」
と、詩織は、|呟《つぶや》くように言ったのだった……。
「あのおばさん、完全に誤解してるぜ」
|成《なる》|屋《や》家のリビングルームに|座《すわ》って、隆志は言った。「何しろ|俺《おれ》が赤ん坊|抱《だ》っこして、お前がすすり泣いてる、と来りゃ……」
「いくら何でも! 私がいつ生んだっていうのよ? ずっと学校へ行ってたのに!」
「夏休みの間に生んだ、とかさ」
「人のことだと思って」
と、詩織は隆志をにらんだ。「――|明日《あした》行ったら、まず間違いなく|呼《よび》|出《だ》しね」
「もう席がないかもしれないぜ」
と、隆志がからかった。
電話が鳴り出した。詩織があわてて飛んで行ったのは、せっかく花子を|寝《ね》かしつけたところだったからだ。
「はい。――あ、何だ、ママ?――うん、今寝てるよ」
「じゃ、紙オムツとか、色々買って帰るわ」
と、|智《とも》|子《こ》は、何だかやけに楽しそうである。
「|今日《きょう》は早いじゃない」
と詩織が言ったのは、何しろ母の智子、年中出歩いているからである。
「そりゃ、だって、赤ちゃんの顔が見たいからね」
「|娘《むすめ》の顔じゃだめなの?」
「|見《み》|飽《あ》きたわよ」
智子はグサッと来ることを平気で言って、「じゃ、帰るまで泣かさないようにね」
と、さっさと電話を切ってしまう。
「いい気なもんだわ」
と、ふくれっつらで、詩織が|戻《もど》りかけると、また電話。「――はい――え?」
「私、啓子よ」
「あら、どこにいるの、あなた?」
「それは言えないの。ごめんなさい」
いやに低い、|押《お》し殺したような声を出している。
「どうしたの?」
「花子、元気?」
「ええ。今、寝てるわ」
「そう。悪いんだけど、もう少し|預《あず》かってちょうだい。お願い」
啓子の声には|違《ちが》いないのだが、|切《せっ》|羽《ぱ》|詰《つま》った声を出している。
「何があったの?」
「もう一つ、あなたに|甘《あま》えて、お願いがあるの」
「というと?」
「あの子を絶対、誰にも|渡《わた》さないで」
「何ですって?」
と、詩織は思わず|訊《き》き返した。
「引き取りに来る人がいても、決して|渡《わた》さないでね。私が、必ず行くから。――お願いね!」
「でも――もしもし?」
もう、電話は切れている。
リビングルームへ|戻《もど》ると、隆志が|大《おお》|欠伸《あくび》をして、
「赤ん|坊《ぼう》って、よく|眠《ねむ》るなあ。見てると、こっちまで眠くなっちまう。――どうしたんだ?」
「うん……」
詩織が、今の啓子からの電話のことを話してやると、隆志は首をかしげて、
「この赤ん坊を、一体|誰《だれ》が引き取りに来る、っていうんだい?」
「知らないわよ。でも――彼女、真剣だったわ。それは確かよ」
「ふーん。じゃ、結構何か事情があるのかもしれないな」
「そうよ。それをあなたは|馬《ば》|鹿《か》にして!」
「|俺《おれ》がいつ――」
「|可《か》|哀《わい》そうに。きっとやむにやまれぬ事情があって、この子を置いて行ったんだわ!」
早くも、また|涙《なみだ》ぐんでいる。「――私、この子を命にかえても守ってやるわ!」
「オーバーだなあ」
と、隆志が|苦《にが》|笑《わら》いする。
|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴った。
「誰か来たわ!」
と、詩織が身構えると、
「――チワー。そば屋ですが、器、下げに来ました」
と、声がした。
確かに、引き取りに来たには違いなかったのである……。
6 |花《はな》|子《こ》のお出かけ
「|詩《し》|織《おり》!」
顔を見るなり、|水《みず》|嶋《しま》|添《そえ》|子《こ》が、詩織の|腕《うで》をギュッとつかんだ。
「ほら来た」
詩織は、フフ、と笑って、「そう来ると思ってたのよね」
「何が?」
と、添子はキョトンとしている。
親友同士のこの二人、添子は|大《おお》|柄《がら》だし、詩織は小柄なので、同じ女子校の制服を着て|並《なら》んで歩いていると、|漫《まん》|才《ざい》のコンビみたいである。
「――赤ちゃんのことじゃないの?」
横断歩道の所で足を止めると、詩織は言った。
「赤ちゃん? |誰《だれ》の?」
「うちにいる。私と|隆《たか》|志《し》君が――」
「ええっ?」
添子は目を丸くして、「い、いつの間に――。詩織! どうして打ち明けてくれなかったのよ!」
「何だ、その話じゃないのか」
「親友の私に|黙《だま》って、そんなこと……。ね、|今日《きょう》お財布|忘《わす》れちゃったの。二千円貸して」
「それで私のこと|呼《よ》んだの?――あ、青になった」
二人は、横断歩道を|渡《わた》って行った。
二人の通う女子校は、やたらにぎやかな町の|真《まん》|中《なか》にあって、校門の前の道路は一年中、車の|大渋滞《だいじゅうたい》という有様だった。
その割に、生徒たちの非行も少なく、帰りに寄り道する者もほとんどない、という定評があったが、生徒たち自身に言わせると、
「この制服じゃ、町を歩けないよ」
というわけなのである。
三十年前ならモダンだったに|違《ちが》いない、ブレザーの制服は、今や「制服の歴史博物館」(そんなものがあれば、だが)におさめられて|然《しか》るべきだと評価を受けていたのだった……。
「――何だ、じゃ、本当に詩織の子じゃないのか」
説明を聞いて、添子が言った。
「当り前でしょ。休みの間だって、年中会ってんじゃないの。いつ生むのよ」
「そうか。しかし、タツノオトシゴに見られたのは、まずかったわね」
と、添子は、ちっとも心配そうでなく、むしろ|面《おも》|白《しろ》そうに言った。
そりゃ、|他《ひ》|人《と》のことなら、面白いに決っている。タツノオトシゴというのは、|昨日《きのう》、詩織と隆志が赤ん|坊《ぼう》の花子を抱いていて出会った、生活指導担当の女教師のあだ名である。
「だけど、説明すりゃ|分《わか》るわよ。実際に私の子供じゃないんだから」
「|甘《あま》い甘い」
と、添子は首を|振《ふ》った。「とかく、学校ってやつは問答無用だからね」
――二人は学校へと入って行った……。
だが、詩織の期待(?)に反して、学校では何ごともなく、一日が過ぎた。
いや、もちろん、授業はあったのだが、詩織は別に停学処分を受けるでもなく、立たされるでもなく、テストで百点をとるでもなく(これはいつものことだった)、午後の授業も終ったのである。
さて、帰るか、と|仕《し》|度《たく》をしている詩織は、昨日、タツノオトシゴに会ったことなど、|忘《わす》れかけていた。と、そこへ――。
「|成《なる》|屋《や》さん」
と|呼《よ》ぶ声があった。
「はい」
|誰《だれ》が呼んだのか、と見回すと……。
「成屋さん。ちょっとお話があるの。来てくれる?」
教室の入口に立っていたのは、誰あろう、あのタツノオトシゴ――いや、正しくは|清《きよ》|原《はら》|和《かず》|子《こ》女史であった。
「来たよ」
と、添子が、詩織をつつく。
「うん。――待っててくれる?」
「|一《いっ》|緒《しょ》に|泣《な》いてあげる」
「よしてよ」
と、詩織は顔をしかめた。
清原女史は、詩織を学校の応接室へと連れて行った。
「――|座《すわ》って」
と、|促《うなが》しておいて、ドアを|閉《し》める。
「|昨日《きのう》はどうも失礼しました」
と、詩織は先手を打って、言った。「|親《しん》|戚《せき》の赤ちゃんを|預《あず》かってて、目が回りそうだったもんですから……」
清原女史は、|黙《だま》って向い合った席に|腰《こし》をおろすと、しばらく詩織を|眺《なが》めていたが、やがてフフ、と笑って、
「親戚の赤ちゃんをね。――どうして親戚の赤ちゃんを抱いて、泣く必要があるの?」
ほらね。詩織はため息をついた。
「あの――私、泣いてたんじゃありません。目にゴミが入って――」
「いいのよ。|隠《かく》すことないわ」
と、清原女史は|遮《さえぎ》って、「私には、ちゃんと|分《わか》ってるのよ」
こういう風に勝手に分られてしまうのが一番|困《こま》る。いくらそうじゃないと言っても――いや、言えば言うほど、ますます、自分が正しいと思い|込《こ》んでしまう|傾《けい》|向《こう》があるのだ。
「あのね、私も女よ」
と、清原女史は、しごく当り前のことを言った。
これが、「私は男よ」とでも言ったのなら詩織もびっくりしただろう。
「女の気持は女でなきゃ分らない。そうでしょ?」
「はあ……」
「祝福されない子であっても、|我《わ》が子は我が子。母の|想《おも》いは世界共通、万国共通。子供は世界の宝です」
「はあ……」
「|嘆《なげ》き悲しむことはありませんよ! その子にどんな試練が待っていようと、それを乗り|越《こ》え、強く正しく生きる男に育てるのが、母親のつとめ――」
「あの赤ん|坊《ぼう》、女の子なんですけど」
と詩織は言ったが、完全に無視されてしまった。
「いいですか!」
と、突然、清原女史が大声を出したので、詩織は飛び上るほどびっくりした。
「あの――何でしょう?」
「|間《ま》|違《ちが》っても、世をはかなんで親子心中などしないように!」
|冗談《じょうだん》じゃない。|誰《だれ》がそんなこと!
「|困《こま》ったことがあれば、何でも私に相談しなさい」
と、清原女史は|胸《むね》を張って、それから、「お金のこと以外だったら」
と付け加えた。
「誤解もあそこまで来ると大したもんね」
と、詩織は言った。
「でも、良かったじゃない」
と、添子は笑って、「この分なら、停学にもならずに済みそうだし」
「でもねえ……。何だか、あの子、いわく[#「いわく」に傍点]がありそうなのよ」
と、詩織はちょっと|眉《まゆ》をくもらせた。
――二人は、詩織の家へと向っていた。
もちろん、添子が、赤ちゃんを見せろと言い出したからである。
もうすぐ家が見える所まで来ると、向うから歩いて来たのは、母親の|智《とも》|子《こ》。
「あら、ママ」
「あ、お帰り。――あら、水嶋さん、こんにちは」
「どこかに行くの?」
「お買物。花子ちゃんのオムツカバーをね。あれだけじゃ足らないから」
「すっかり、|夢中《むちゅう》になっちゃって」
と、詩織は苦笑した。「あの子は|誰《だれ》がみてるの?」
「詩織がね、散歩に連れてくって」
「あ、そう」
と|肯《うなず》いて歩きかけたが……。「ママ、今、何て言った?」
「詩織が――」
と言いかけて、「あら、どうしたの、花子ちゃんを?」
「こっちが|訊《き》きたいわよ。私、今帰って来たのよ! まだ家にも|戻《もど》ってないっていうのに――」
「あら、変ね、私、お庭の雑草を取って、家の中へ戻ると、花子ちゃんがいなくて、お前のメモが――」
「私が連れて出るのに、メモなんか置いとくわけないでしょう!」
「そうね……。じゃ、一体――」
詩織は青くなった。添子と顔を見合せ、
「参ったな!」
と|呟《つぶや》く。
「じゃ、花子ちゃん、一人でどこかへ出かけたのかしら?」
と、智子は、まるで分っていない様子であった……。
7 |懐《なつか》しい父
「――くたびれた!」
と言ったのが、|隆《たか》|志《し》だったのか、それとも|添《そえ》|子《こ》だったのか、もちろん聞けば|分《わか》るはずだが、言った当人の方に、その自覚がない、という……。
つまり、二人ともそれほど疲れ切っていたのである。といって、隆志と添子は|新《しん》|婚《こん》夫婦ではなく(何の話だ?)、ただ、|成《なる》|屋《や》家を後にしたところだった。
「――|大丈夫《だいじょうぶ》かしら、|詩《し》|織《おり》?」
と、夜道を歩きながら、添子が言った。
「大丈夫だろ。あいつ、ともかく|泣《な》きさえすりゃ、ケロッとできる性格だから」
隆志の方も、半ばやけ気味だった。
二人がくたびれ果てるのも無理はない。
赤ん|坊《ぼう》の花子が|誰《だれ》かに連れ出されたというので、詩織の落ち|込《こ》み、はなはだしく、ワンワン泣いて、
「|啓《けい》|子《こ》さんに申し訳ない。死んでお|詫《わ》びを――」
というのを、|駆《か》けつけた隆志が、添子ともども、何とか思い|止《とどま》らせて来たのである。
隆志が|成《なる》|屋《や》家へ駆けつけたのが、午後六時少し前。今は深夜の一時。――何と七時間余りにわたって、
「お前のせいじゃないんだから……」
「お前が死んだって赤ん坊は帰ってこない」
「お前が|腹《はら》|空《す》かしてたって、赤ん坊は腹|一《いっ》|杯《ぱい》にならない」
といった文句を、順番にくり返していたのだから、これでくたびれなきゃ人間じゃない!
しかし、ともかく詩織も絶望のどん底にいるわりには、晩ご飯を二杯食べ(いつもよりは少なかったが)、|涙《なみだ》もさすがに一時的に水不足の状態となったようなので、隆志も家へ帰ることにしたのである。
「|明日《あした》、テストなんだぜ、頭|痛《いた》いよ、全く!」
と隆志はぼやいた。
「仕方ないじゃない、|恋《こい》|人《びと》のためなら」
と、添子が|欠伸《あくび》をした。「あーあ、|眠《ねむ》くなっちゃった」
「何の|因《いん》|果《が》で、詩織みたいな変った|奴《やつ》の恋人になっちまったんだろ?」
ブツクサ言っちゃいるが、「恋人」であることは、隆志も自覚している。
「でも、赤ちゃん、どこへ行っちゃったんだろね?」
「|俺《おれ》が知るか。――何だかあの子、いわくありげだったよな」
二人が歩いて行くと、道の向うから車のライトが近付いて来た。
「でかい車。――おい、わきへ寄らねえと|危《あぶな》いぞ」
そう。実際、|道《みち》|幅《はば》|一《いっ》|杯《ぱい》って感じの大きな外車だった。
二人がわきへ寄ると、その車、ピタリと|停《とま》って、後部席の|窓《まど》が静かに|降《お》りた。
「ワン」
と、その男が言った。
いや――「ワン」と言ったのは、その男の|膝《ひざ》の上にいた犬だった。
「ちょっとうかがいたいが」
と、その男が隆志に言った。
「はあ」
「この辺に、成屋という家はないかね」
「成屋?」
隆志はびっくりした。車に乗っているのは、六十歳ぐらいかと見える、|白《はく》|髪《はつ》の|老《ろう》|紳《しん》|士《し》。そう|人《ひと》|柄《がら》は悪くないように見えた。
「そう。確かこの|辺《あた》りだと思うんだが」
「それなら、この先の右側ですよ」
と添子が、素直に言った。
「そうか! 大分先かね?」
「いいえ、五、六十メートルじゃないかな。割と新しくて小ぎれいな家だから、すぐ|分《わか》りますよ」
「いや、どうもありがとう。助かったよ」
「どういたしまして」
車が、スーッと大型車特有の|滑《すべ》るような動きを見せて、|遠《とお》|去《ざ》かる。
「――おい、|俺《おれ》が|訊《き》かれたんだよ。何でお前がペラペラしゃべっちゃうの?」
「あら、いけないって法律でもある?」
「そうじゃないけど……。変じゃないか、こんな時間に詩織の家に――」
「だから、よ」
「だから?」
「私たちも行こ」
と、添子は、さっさと車の後を追って、道を|戻《もど》って行く。
「おい! 俺は|明日《あした》テスト……」
隆志は口の中でブツブツ言いながら、添子の後をついて行った。
ま、この後、隆志と添子が戻って行って、詩織が面食らうという|一《ひと》|幕《まく》は省略。
成屋家のリビングルームに、さっきの|白《はく》|髪《はつ》の|老《ろう》|紳《しん》|士《し》を|迎《むか》えて、詩織に母親の|智《とも》|子《こ》、後から追加の隆志と添子が|揃《そろ》ったところで、続きがスタート……。
詩織の父親は、インスピレーションが|湧《わ》いたとかで、昼間から二階で詩作に熱中している。こうなると、|誰《だれ》が何を言っても耳に入らないのである。
「――で、お話というのは?」
と、母親の智子が言った。
「こんな夜分に、誠に申し訳ありません」
と、老紳士は、いたって|丁《てい》|寧《ねい》な|口調《くちょう》で言った。「私は|種《たね》|田《だ》|信《のぶ》|義《よし》と申します。少々会社などを経営している、まあ、実業家のはしくれ、と申しましょうか」
「はあ」
「実は、私の|秘《ひ》|書《しょ》が、先日、この新聞の|切《きり》|抜《ぬ》きを持って来たのです」
と、種田と名乗った老紳士、上等な|背《せ》|広《びろ》のポケットから切抜きを出して、テーブルに置いた。
「まあ」
と、智子はそれを手に取り、「冬物のバーゲン、三日間限り!」
「それは|裏《うら》です」
「あ、そうですか」
詩織は、母の手もとを|覗《のぞ》き|込《こ》んだ。
「あ、これ――」
隆志も反対側から覗き込んだので、智子には記事が見えなくなってしまった。
「おい、これ、お前が例のおっさんに人質にされたときの記事じゃないか」
「本当だわ。|他《ほか》の新聞には私の写真ものったのに、これ、出てないわ」
「変なことにこだわるなよ。――この事件がどうかしたんですか?」
「その|桜木《さくらぎ》という男に、私は|娘《むすめ》をさらわれたのです」
詩織と隆志は顔を見合せた。種田は続けて、
「私は桜木という男が、若い女と|暮《くら》していたと知り、もしや私の娘ではないかと……。住んでいたアパートを|訪《たず》ね、あちこち|訊《き》き回って、どうやら、その娘は赤ん|坊《ぼう》ともどもこちらへ引き取られたらしいと|分《わか》ったのです」
種田は、ちょっと息をついて、「こんな夜中も構わず|押《お》しかけたのも、娘を思う親心と、お許しいただきたい」
と、頭を下げた。
「そりゃ結構ですけど」
と、智子が言った。「ちょっと詩織、あなたどいてよ。何も見えないじゃないの」
「あ、ごめん」
|覗《のぞ》き|込《こ》んだ|姿《し》|勢《せい》のままだった詩織と隆志が左右へ引っ込んで、やっと視界が開けた智子、
「その|娘《むすめ》さんというのは――」
「|啓《けい》|子《こ》といいます。写真を持って来ました」
種田が、ポケットから写真を取り出し、智子に|渡《わた》すと、また詩織と隆志がワッと覗き込む。
「――啓子さんだわ!」
と、詩織が|叫《さけ》んだ。
確かに、それは啓子の写真だった。セーラー服を着ているので、大分イメージは|違《ちが》うが、見間違いようはない。
しかし……。隆志は首をひねった。
啓子の話では、両親は彼女が家出したと思って、心配もしていないだろう、ということだった。しかも家は九州で、母親は実の母じゃない、とも。
「やはりそうでしたか」
種田が大きく息をついて、「いや、良かった! 啓子がいなくなってから、一日たりとも、気の休まる日はなかったのです! 生きてさえいてくれたら、と|祈《いの》るような思いでした。――で、今、啓子はどこに?」
「はあ……」
詩織は、隆志と顔を見合せた。
「いや、実はですね」
と、隆志が代って言った。「啓子さんは確かにここへ来たんです。でも、出て行っちゃったんですよ」
「何ですって?」
種田が|訊《き》き返した|口調《くちょう》は、びっくりするほど|鋭《するど》かった。
8 「|奴《やつ》ら」の話
|啓《けい》|子《こ》がいない、と聞いて、父親が|驚《おどろ》くのは当然のことだ。
ただ、この場合の|種《たね》|田《だ》の驚き方は、ちょっとニュアンスが|違《ちが》っているように、|詩《し》|織《おり》には思えた。どう違うか、二百字で答えよ、と言われたら詩織も|困《こま》るだろうが、ともかくこの人の驚き方、ちょっとおかしいわ、と直感的に思ったのである。
「いなくなった……」
と、種田は|呟《つぶや》くように言ってから、「いつのことです、それは? いや、赤ん|坊《ぼう》は? |一《いっ》|緒《しょ》にいなくなったんですか?」
何だか刑事の|訊《じん》|問《もん》みたい、と詩織は思った。その種田の|口調《くちょう》には、|娘《むすめ》を|捜《さが》し求めて来た苦労の果て、やっと見付けたと思ったのを、|裏《うら》|切《ぎ》られた|落《らく》|胆《たん》や、娘の身を案ずる不安はなくて、何か仕事をしているという|雰《ふん》|囲《い》|気《き》があったのである。
「いなくなりましたけど、別々にです」
と、母の|智《とも》|子《こ》が言った。
「|詳《くわ》しくお聞かせ願えますか」
と、種田は言った。
「はあ。実は――」
と、智子が言いかけるのを、
「ママ!」
と詩織が|遮《さえぎ》った。
「な、何よ、大きな声で。びっくりするじゃないの」
「しゃべっちゃだめよ」
「どうして? 私はただ、こちらのお父様に――」
「この人が本当に父親ならね」
これはいかにも大胆な発言だった。
詩織だって、ここまで言うつもりはなかったのである。ただ、もののはずみで、つい……。
この詩織の言葉には、智子も|隆《たか》|志《し》も、ついでに|添《そえ》|子《こ》もびっくりした。しかし――これに対する当の「父親」、種田の反応に、みんな、もっとびっくりすることになったのである。
「――ほう」
と、種田は、急に別人の|如《ごと》く冷ややかな表情になって、「私が本当の父親ではない、とね」
そして、種田は、ちょっと|唇《くちびる》の|端《はし》を上げて、笑った。――いつの間にか、種田の手には、|大《たい》|砲《ほう》が――いや、|拳銃《けんじゅう》が|握《にぎ》られていたのである。
「やっぱり、先を|越《こ》されたか」
と、種田は首を|振《ふ》って、「|奴《やつ》らにいくらで売ったんだ?」
しかし、いくら詩織が小説のヒロインでも、いきなり拳銃をつきつけられて、すぐに相手の質問に答えられるわけがない。心の準備というものが必要である。
種田はその点、あまり思いやりの心を持った男とは言えないようだった。
「答えないつもりか。――これがオモチャだと思ってるのか?」
と、|突《とつ》|然《ぜん》、バン、と|鼓《こ》|膜《まく》を|叩《たた》くような音がして、サイドボードの上の花びんが、|砕《くだ》け散った。――拳銃の|銃口《じゅうこう》から、うっすらと|煙《けむり》が|漂《ただよ》っている。
「お前の頭を、あの花びんみたいに粉々にしてやろうか。どうだ?」
「花はいけられません」
詩織は、ふさわしくない場所で、つい余計なことを言ってしまうというくせ[#「くせ」に傍点]があった。
「そうか、――そっちがそういう|態《たい》|度《ど》で来るのなら、運転手を|呼《よ》んで、ここでお前を|可《か》|愛《わい》がらせてやろうか」
詩織は、やっと|恐怖《きょうふ》が|脳《のう》に|到《とう》|達《たつ》したのか、青くなって、ガタガタ|震《ふる》え出した。
「待ってくれ!」
と、隆志が|叫《さけ》んだ。「何の話なんだよ? |奴《やつ》らって何だ? いくらで売った、って、何をだよ?」
「質問は一つずつでなきゃだめよ」
と、智子が隆志をたしなめた……。
「なるほど」
種田は、|拳銃《けんじゅう》を手に立ち上った。「どうもよく|分《わか》っていないようだな。一人、死ななくちゃ分らねえか。――じゃ、まず一人、|片《かた》|付《づ》けよう。|誰《だれ》がいい?」
「あのね」
と、詩織が、やっとこ口を開いた。「本当に、|啓《けい》|子《こ》さんは、ここから勝手に出てっちゃったの。何も知らないのよ、私たち」
「ほう、じゃ、赤ん|坊《ぼう》も勝手に出てったのか?」
「そりゃ……見てなかったから、分らないわよ」
「とぼけた奴だな」
と、種田は|苦《にが》|笑《わら》いして、「よし、若い|身《み》|空《そら》で気の毒だが、まずお前の頭をふっ飛ばしてやる」
頭がないと|困《こま》るのよね、と詩織は思った。美容院にも行けないし、イヤリングもつけられない。ご飯も食べられない……。
「ママ!」
詩織は母親の方へぴったりと身を寄せた。
智子は、ひし[#「ひし」に傍点]と詩織を|抱《だ》きしめて、
「娘の代りにこの私を!」
と、言うかと思えば、
「詩織、何か言い|遺《のこ》すことは?」
詩織は目をむいた。すると、そこへ、
「ああ、やっと|出《で》|来《き》た!」
と声がして、成屋が、ブラリとリビングルームへ入って来たのである。
|誰《だれ》もが、種田も|含《ふく》めて、ポカンとして、成屋を|眺《なが》めていた。
「やったぞ! |傑《けっ》|作《さく》が書けた。これで私の詩人としての名声は、長く|後《こう》|世《せい》に伝えられるだろう!」
成屋は、天を|仰《あお》いで(もちろん、ここでは天井[#「天井」に傍点]であるが)、力強く、こぶしを|握《にぎ》りしめ|突《つ》き出した。「――ん? 花びんが|壊《こわ》れてるぞ」
隆志が一番先に|我《われ》に返った。
種田が|呆《あっ》|気《け》に取られて成屋を眺めているところへ、パッと飛びかかって、その手にかみついた!
ちょっと女の子みたいで、あんまりカッコ良くはないが、この際、そんなことは言っていられない。
「ウッ!」
種田が、不意を|突《つ》かれて、|拳銃《けんじゅう》を取り落とす。と、添子がすかさず足をのばして、それを遠くへけとばした。
「|畜生《ちくしょう》!」
種田が、見かけからは想像もつかない|凄《すご》い力で、隆志をはね飛ばす。隆志は、もろに智子の|膝《ひざ》の上に落下[#「落下」に傍点]した。
「キャッ!」
と、智子が|悲《ひ》|鳴《めい》を上げる。
「また来るぞ!」
種田が、そう|捨《す》てゼリフを残して、足早に出て行く。|玄《げん》|関《かん》の方で、ワン、と犬の声がして、すぐに車の音が遠去かって行った。
もちろん隆志は|猛《もう》|然《ぜん》とその車を追いかけ――たりしなかった。何しろ命が大切である。
「ああ……」
|誰《だれ》からともなく、声が|洩《も》れて、みんなその場にへたり|込《こ》んで、動けなくなってしまった。
「――どうしたんだ?」
ただ一人、成屋だけがキョトンと突っ立っているのだった……。
そして――やっとみんなが平静に|戻《もど》ったのは、三十分近くもたってからのことだ。
「――何かしら、あの男?」
と、添子が言った。
「拳銃なんか持ってんだ。まともな|奴《やつ》じゃないよ」
隆志は、まだ|床《ゆか》に落ちたままになっている黒い鉄の|塊《かたまり》を、ゾッとしたように見やった。
「私、殺されるところだったのね」
と、詩織は、今さらのように実感しているらしい。
「だからよせって言ったんだ。あんな|娘《こ》と赤ん|坊《ぼう》をここへ連れて来たりするから……」
「私が悪いのね。――そうよ。みんな私のせいなんだわ……」
詩織が、またグスグスと|泣《な》き出したので、隆志はあわてて、
「取り消す! お前のやったことは正しい! 絶対に正しい!」
「本当?」
「ああ! お前はキリストの再来の|如《ごと》く正しいんだ!」
どこからこんな文句が出て来たのやら。
が、詩織はプーッとむくれた。
「キリストは男でしょ! 私は女よ!」
「ま、かたいこと言うなって」
「だけどさ」
と、添子が言った。「その赤ん坊と母親が、何であんなのに|狙《ねら》われるわけ?」
「|俺《おれ》が知るかよ」
「でも、あの人、『|奴《やつ》ら』とか言ってたわ。|他《ほか》にもいるのかしら?」
と、詩織が言った。
「かもな。――ともかく、こいつは|警《けい》|察《さつ》へ届けなきゃ。こっちの手にゃ負えないよ」
と、隆志が電話の方へ歩き出そうとしたとき、|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴った。
みんなが顔を見合せる。
「――その、『奴ら』かしら」
詩織が、あまり楽しくない予想を述べた。
9 ぶつかった男
チャイムがくり返し鳴った。
「|誰《だれ》か出なきゃ」
と、|添《そえ》|子《こ》がしごくもっともな意見を述べる。
「そう言うんなら、お前出ろよ」
と、|隆《たか》|志《し》が言った。
何しろたった今、|拳銃《けんじゅう》をつきつけられたばかりである。また同類のお客が来たのかもしれないと思うと、|玄《げん》|関《かん》へ出て行く気にはなれない。
「何よ、あんた男でしょ」
と、添子が隆志をけっとばした。
「いてっ! 男だって、死にたかないよ」
「静かに!」
と、詩織が、大声で(!)|怒《ど》|鳴《な》った。「静かにしてりゃ、留守だと思って帰るかもしれないでしょ!」
その声は、玄関にも当然聞こえていると思われた……。
みんながじっと息を殺していると、チャイムがさらにしつこく鳴って、それから|沈《ちん》|黙《もく》した。――すると、
「すまんけどね」
と、|成《なる》|屋《や》が|遠《えん》|慮《りょ》がちに言い出した。
「何よ、パパ! 静かにして!」
「うん。しかし……。一体何があったんだね?」
なるほど。考えてみれば、成屋はことのいきさつを知らないのだ。詩を完成して、いい気分でリビングルームへ入って来ると、何だかいきなり|乱《らん》|闘《とう》が始まって、男が一人飛び出して行き、後には拳銃が残った。
これで事情を理解しろと言われても無理というものだろう。
「今は説明してる|暇《ひま》ないの。ともかく、|隅《すみ》っこの方でおとなしくしてなさい。エサは後であげるから」
まるで|犬扱《いぬあつか》いである。
「しかし――」
「|黙《だま》って!」
成屋は|肩《かた》をすくめた。そしてブツブツと、
「庭に|誰《だれ》かいるみたいだ、と言おうとしたのに……」
と|呟《つぶや》く。
「|諦《あきら》めたみたいだ」
と、隆志が低い声で言った。
「そうかしら。油断しない方がいいわよ」
と、詩織はそろそろと立ち上り、リビングルームのドアを細く|開《あ》けて、玄関の方を|覗《のぞ》き|込《こ》んだ。
そのとき――ドカン、と|凄《すご》い音がしたと思うと、庭の方で、
「ワーッ!」
という|叫《さけ》び声が聞こえた。
みんながびっくりして飛び上る。
「誰かいるわ!」
「だから私が――」
と、成屋が言いかけた。
「静かに! 隆志君、カーテンを|開《あ》けて! 添子、戸を開けて! ママ、包丁を持って来て!」
「お前、何もしないんじゃん」
と、隆志は言いながら、|渋《しぶ》|々《しぶ》カーテンを開け、「――誰か庭で|寝《ね》てらあ」
「寝てる?」
「うん」
戸をガラッと開けると、みんな|一《いっ》|斉《せい》に庭を|見《み》|下《お》ろした。――確かに、さっきの|種《たね》|田《だ》とは全然|違《ちが》う、かなり太ってコロコロした感じの中年男が、大の字になってひっくり返っている。
「死んでるのかしら?」
と、添子が言うと、それに答えるように、
「ウーン」
と|呻《うめ》いて、その男が起き上り、ブルブルッと頭を|振《ふ》った。
飛び出しそうに大きな目をギョロつかせて詩織たちを|眺《なが》め、
「おや、生きとったのか」
「そりゃこっちのセリフよ」
と詩織は言い返した。「あんた誰よ? 人の家の庭に勝手に入り|込《こ》んで――」
「勝手ではない!」
男は、|肩《かた》をさすりながら、起き上ると、「いてて……。私は、こういう者だ」
と、ポケットから、アイドルスターのテレホンカードを出して見せた。
「NTTの人?」
「いや、これじゃない!」
と、あわててカードをしまうと、今度は、
「これが目に入らんか!」
と、『|水《み》|戸《と》|黄《こう》|門《もん》』みたいなセリフと共に、|警《けい》|察《さつ》|手帳《てちょう》を出して見せたのだった。
「じゃ、あの種田って男を|尾《び》|行《こう》して来たんですか?」
と、隆志は|訊《き》いた。
「そうなのだ。表で様子をうかがっていると、|銃声《じゅうせい》がして、種田が走り出て来た。てっきり中で殺人が起ったものと思って、チャイムを鳴らした。それなのに|誰《だれ》も出んのだから!」
「そんなこと言ったって……」
と、詩織が口を|尖《とが》らす。「|怖《こわ》かったんだもん」
「一応相手を確かめてから、『留守です』と言えば良かったのだ」
この刑事――名は|花《はな》|八《や》|木《ぎ》といった。
日本|舞《ぶ》|踊《よう》の|花《はな》|柳《やぎ》とは何の関係もないらしい。
「そんな|馬《ば》|鹿《か》な」
と、隆志がふくれた。「こっちは死ぬほど|怯《おび》えてたんですから」
「しかし、そのせいで、私は|肩《かた》を|痛《いた》めた」
てっきり、中で誰か死んでいると思った花八木刑事、庭に面したガラス戸を破って入ろうと、体当りをして、みごとにはね返されたのだった。それがあの、ドカンという音だったのだ。
「そんなに|簡《かん》|単《たん》に|壊《こわ》れませんよ」
と、隆志は|苦《にが》|笑《わら》いした。
「しかし、映画でよくそういう場面がある」
かなりいい加減な刑事である。
「でも、刑事さん」
と、詩織が言った。「どうしてあの種田って人を|尾《び》|行《こう》してたんですか?」
「いい質問だ」
と、花八木刑事は|肯《うなず》いて、「しかし、それは業務上の|秘《ひ》|密《みつ》だ」
「そんな! こっちは殺されかけたんですよ。教えてくれたっていいじゃないの。それとも――私の話を信じられないとでも? 私が|嘘《うそ》をついてるって言うんですか? ひどいわそんな!」
たちまち詩織、ワーッと|泣《な》き出した。花八木刑事が、大あわてにあわてて、
「おい、泣くな。いい子だから――アメをやるから――」
となだめるのを、隆志はソッポを向いて、横目でチラチラ|眺《なが》めていた。
「|分《わか》った、話す! 話すから泣くのをやめてくれ!」
と、花八木刑事は、少し――いや、かなり|禿《は》げ上った|額《ひたい》を、クシャクシャのハンカチで|拭《ぬぐ》った。「あの種田というのは、九州の方の、さる大きな暴力組織の|幹《かん》|部《ぶ》の一人なのだ」
「まあ、道理で」
と、母親の|智《とも》|子《こ》が言った。「|眉《まゆ》|毛《げ》が太いと思いましたわ」
「ママ、変な感心の仕方、しないでよ。で、どうして東京へ?」
「今、その組織が|後《あと》|継《つ》ぎをめぐってもめてるんだ。大ボスが去年の正月、|宴《えん》|会《かい》の席で|突《とつ》|如《じょ》死んでしまって――」
「毒でも|盛《も》られて?」
「いや、モチを|喉《のど》に|詰《つま》らせたのだ」
「はあ……。気の毒に」
「で、|後《こう》|継《けい》|者《しゃ》を決めていなかったところから、その座をめぐって、組織が二つに割れてしまった」
「分るわ」
と、添子が|肯《うなず》いて、「うちのクラスでも、委員長選ぶのに、同数になってもめたものね」
「次元の|違《ちが》うこと言わないの」
と、詩織は添子をつついた。
「どっちの派にしろ、ボスの座につくには、それなりに|大《たい》|義《ぎ》|名《めい》|分《ぶん》が必要だ。そういう世界だからな」
「それが何か関係あるんですか」
「死んだ大ボスには、|娘《むすめ》がいた」
と、花八木刑事は言った。「かなり|遅《おそ》く生れた子で、目の中に入れても|痛《いた》くないほど|可《か》|愛《わい》がっていたが、その娘が、父親の職業を|嫌《きら》って家出してしまったのだ」
「はあ」
「二つの派とも、その娘を|捜《さが》し出して、自分たちが後継者だと名乗ろうとしているのだ。種田が上京して来たのは、たぶん東京に、その娘がいるという情報をつかんだからだろう……」
詩織と隆志は顔を見合せた。
「あ、あの――」
と、詩織は、おずおずと言った。「その娘さん、いくつぐらいの方ですか?」
「今年、十七になるはずだ」
「十七……。で、名前は?」
「|啓《けい》|子《こ》、というんだ」
詩織と隆志は、もう一度顔を見合せた。――二人とも、多少、前のときより青ざめていた……。
10 |尾《び》|行《こう》された|詩《し》|織《おり》
あの|啓《けい》|子《こ》が、暴力団のボスの|娘《むすめ》!
信じられないような話だが、しかし、いくら詩織が、世の中には|偶《ぐう》|然《ぜん》ってことがあるものだという信念の持主でも、
「|年《ねん》|齢《れい》十七、名前が啓子……」
しかも、その|花《はな》|八《や》|木《ぎ》という刑事の話では、
「その啓子さんって、一人で家出したんですの?」
――これは詩織の質問である。花八木がこんな口をきいたら、気持が悪い。
「いや、この啓子という娘には、いつもボディガードがついていたのだ」
と、花八木が言ったので、|添《そえ》|子《こ》が、
「|凄《すご》い! 私なんか|誰《だれ》もついてない!」
と、ねたましげに|叫《さけ》んだ。
「そんなもん、ちっとも楽しくないじゃない」
と、詩織が|呆《あき》れて、「ボディガードがついてるってことは、いつ|狙《ねら》われるか|分《わか》んないってことなのよ」
「それだっていい! 一度でいいから、ボディガードに囲まれて歩いてみたい!」
「添子はね、大体――」
と詩織がやり出したので、花八木はムッとしたように、
「君らは私の話が聞きたいのかね? 聞きたくないのか、どっちだ!」
「ちゃんと聞いてますよ」
詩織がパッと花八木の方を向いて、「ほらこの通り」
「私も」
と、添子も真顔で言った。
「その――その――ボディガードがだな」
花八木は、息切れしながら言った。かなり|疲《つか》れている様子である。|隆《たか》|志《し》は多少、花八木にも同情していた。
「そのボディガードが、啓子という娘に同情して、|一《いっ》|緒《しょ》に|逃《に》げたのだ! |分《わか》ったか!」
「落ちついて下さいよ。血圧、上りますよ」
と、詩織は冷ややかな|口調《くちょう》で言った。「そのボディガードの名前は?」
「|桜木《さくらぎ》だ」
「やっぱり。|年《と》|齢《し》は四十ぐらい?」
「その通り。|奴《やつ》を知ってるのか?」
「いいえ」
詩織は平然と言った。「全然、見たことも聞いたこともないわ。ねえ、隆志?」
「え?――あ、うん――でも――」
「添子も知らないでしょ?」
「ええ? だって――」
「ほら、刑事さん、みんなそんな人のこと、全然知らないわ」
と、詩織はすっとぼけて、「啓子って子のことも知らないわ」
「じゃ、なぜ、|種《たね》|田《だ》がここへ来たんだ?」
「トイレを借りに」
「――何だって?」
「車で走ってたら、急にトイレに行きたくなったんですって。で、この家が見るからにトイレを貸してくれそうなので、|頼《たの》んで来たのよ」
「見るからに……?」
「そう。家には、住む人の性格が出るもんなのよ。この家は、見るからに|優《やさ》しそうで、善良に見えたって」
「そうか。――なるほど」
花八木は、深々と|肯《うなず》くと、「君の言いたいことはよく|分《わか》った」
「そうでしょ。よく言われるの。お前の話は分りやすいって」
「では、これ以上ここにいてもむだらしいな」
と、花八木は立ち上った。「君の名は?」
「|成《なる》|屋《や》詩織」
「しおり、か。――一つ言っとこう」
「何ですか? |明日《あした》の天気予報?」
「天気ではないが、予報には|違《ちが》いない」
花八木はニヤリと笑った。「君がそういう|態《たい》|度《ど》に出る限り、君は二、三日中に、本のしおり[#「しおり」に傍点]の|如《ごと》く、あの種田の手でペチャンコにされるだろう。しかし、私は君を|一《いっ》|切《さい》|護《まも》ったりせん。君が|警《けい》|察《さつ》を|馬《ば》|鹿《か》にしている限りは、だ。――分ったか!」
最後に|雷《かみなり》を一つ落として、花八木は出て行ってしまった。――と思うと|戻《もど》って来て、
「|玄《げん》|関《かん》はどこだ!」
と、|怒《ど》|鳴《な》ったのだ……。
「|俺《おれ》、明日テスト……」
と、隆志が|呟《つぶや》いた。
いや、もうその「明日」になっていた。
ついに、隆志は成屋家で一夜を|明《あ》かしてしまったのだ。といって、詩織との間に、何か[#「何か」に傍点]あったわけではない。
居間のソファで、|眠《ねむ》っていたのだ。その内、
「コケコッコー」
と時代|遅《おく》れな|目《め》|覚《ざま》し時計の音がして、目が|覚《さ》め、ハッと起き上って、ねぼけたままで、
「俺、明日テスト……」
と呟いたのだった。
――朝食の席で元気なのは、詩織と、やはりここに|泊《とま》って行った添子、そして成屋|智《とも》|子《こ》。
要するに女性陣は元気|一《いっ》|杯《ぱい》。隆志と成屋一郎の二人の男性は、くたびれはてて、半ば眠っている|状態《じょうたい》で朝食を取ったのである。
「――早く出て、家に寄らなきゃ」
と、添子が言った。「学校にこれじゃ行けないもんね」
「俺だってそうだ」
隆志は、コーヒーをガブ飲みして、「しかも|今日《きょう》はテストだぞ」
「でも、私、ゆうべ決心したの」
と、詩織が言った。「啓子さんの気持、いじらしいじゃない。父がヤクザだという宿命を負って生れて来た啓子さんが、|幼《おさな》い命を|抱《だ》いて、決死の|逃《とう》|避《ひ》|行《こう》! 私、断然啓子さんを守ってやるわ!」
「|簡《かん》|単《たん》に言うけどさ――」
と、添子が不安げに、「かなり|危《あぶな》いんじゃない、そのバイト?」
「命にかえても、守って見せる」
と、詩織が断言する。
「だけど、詩織、お前そんな義理、ないんだぜ、あの|娘《こ》に。お前が命落としたら、どうすんだよ」
と、隆志が言うと、詩織は、ちょっと不思議そうに、
「あら、どうして私が命落とすの?」
「だって、お前、今『命にかえても』って――」
「私の命、なんて言ってないわ。もちろん隆志の命よ」
隆志が|椅《い》|子《す》ごと後ろへ引っくり返ったのは、無理もないことだった……。
ともかく――あれだけの事件があった割には、いつもより早く、詩織は学校へ行くべく、家を出ることになったのである。もちろん、隆志と添子も|一《いっ》|緒《しょ》だ。
「行ってきます」
と、詩織は、ドアを|開《あ》けようとして、「――あれ? 開かないよ」
「|鍵《かぎ》、かけたままじゃないのか?」
「あけたわよ。このドア――外開きなのに。変ねえ」
「|俺《おれ》が|押《お》すよ」
隆志が、エイッと両手でドアを押すと、
「ワアッ!」
と、表で声がして、ドアが開いた。
「――まあ」
と、詩織が目を丸くした。
|玄《げん》|関《かん》先に|転《ころ》がっていたのは――いや、やっとこ起き上ろうとしていたが――花八木刑事だったのである。
「何してるんです?」
「|監《かん》|視《し》だよ」
花八木は、立ち上ると、|伸《の》びをして、「君は|警《けい》|察《さつ》に対し、|隠《かく》しごとをしている。従って|怪《あや》しい人物だからな。目を|離《はな》さないことにしたのだ」
「怪しいって、私が?」
「もちろんだ。これから私は君をずっと監視する。それがいやなら、何もかもしゃべりたまえ」
詩織は頭に来た。――|涙《なみだ》もろいということは、感情に左右されやすく、従って、|怒《おこ》りっぽいということでもある。
「じゃ、どうぞご勝手に!」
と言い|捨《す》てて、さっさと歩き出した。
「おい、詩織!」
隆志と添子があわてて追って来る。
「――詩織! |大丈夫《だいじょうぶ》、あんなこと言っちゃって?」
「平気よ。|徹《てっ》|底《てい》的に無視しちゃうから」
と、詩織はカンカンである。
「だけど、相手は刑事だぜ」
「それが何よ! 刑事が|怖《こわ》くてソーセージが食えるか!」
「関係ないんじゃないか?」
――ともかく、三人は足早に朝の道を|辿《たど》って行く。
それからほんの数メートル|遅《おく》れて、花八木が。そして、さらに十メートルほど後から、もう一人の|尾《び》|行《こう》|者《しゃ》が――いや、もう一匹[#「一匹」に傍点]と言うべきか。
それは、ゆうべ成屋家にやって来た種田の犬だった……。
11 学校は|平《へい》|穏《おん》なり
教室内は、異様な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》だった。
といって、校内暴力、教師と生徒の|乱《らん》|闘《とう》、対立、といった|事《じ》|態《たい》が起っているとか、起りそうというわけではない。
ただ――教室内に異質[#「異質」に傍点]なものが|紛《まぎ》れ|込《こ》んでいたのだった。
エヘンと|咳《せき》|払《ばら》いをして、
「ああ――その、本日は、ちょっとした事情から、授業参観の方がおりますが」
と、教師が言った。「ま、みんなあまり気にしないように」
気にするな、って言われても……。
何しろ、女子校の教室の一番後ろに、ドッカと頭の|禿《は》げ上った中年男が|座《すわ》り込んでいるのだから、気にするなという方が無理である。
|詩《し》|織《おり》はもう|沸《ふっ》|騰《とう》寸前。――もちろん、教室の後ろの方に|陣《じん》|取《ど》っているのは、|花《はな》|八《や》|木《ぎ》刑事なのだ。
詩織を|監《かん》|視《し》すべく、学校の教室にまで|押《お》しかけて来た、というわけだった。
詩織が頭に来るのも当然であろう。
やたらむかっ|腹《ぱら》を立てているときの詩織には|誰《だれ》もかなわない。
「ええと」
四時間目、英文法の教師は、若くてナヨナヨした感じの男の先生だったが、「じゃ、この部分、主語と目的語を入れかえて、文章を作ってみましょう。――|成《なる》|屋《や》君」
みんなが|一《いっ》|斉《せい》に詩織を見た。詩織は、一分間にほぼ五回の割で、花八木の方を|振《ふ》り返ってにらんでいた。
その内には、振り返っても見えなくなっているんじゃないか、と期待していたのだが、どうも花八木の神経も、そう|繊《せん》|細《さい》にはできていないらしい。
「成屋君。――成屋君は?」
と、先生の|呼《よ》ぶ声、耳にはもちろん入っていた。
しかし、詩織はカッカしていたのである。何も悪いことしてないのに、どうして刑事に監視されてなきゃいけないのよ!
そして、|怒《おこ》るとなると、もう詩織の|怒《いか》りは、あらゆるものへ向けられるのである。
「成屋君」
と、もう一度先生に呼ばれると、詩織の怒りは頂点に達した。
どうして私があてられなきゃいけないの?
何も悪いことなんかしてないのに!
もう、|理《り》|屈《くつ》じゃないのである。
詩織は、|椅《い》|子《す》をけってパッと立ち上ると、
「はーい!」
と、|馬《ば》|鹿《か》でかい声を出した。「何ですか、先生!」
教師の方は、たじたじとなって、
「あ、あの――」
「|呼《よ》んだんでしょ! 呼んだからにゃ、何か用があったんでしょ! だったら言いなさいよ! 何だってのよ!」
段々声のボリュームと周波数は上り続け、クラス中の子が|唖《あ》|然《ぜん》として、詩織を見つめていた。
「い、いや結構です」
と、教師はなだめるように、「どうぞ――お|座《すわ》り下さい、はい」
「用もないのに、気安く呼ばないでください!」
「すみません」
と、教師の方が|謝《あやま》っている。
ところで、詩織のいる教室は、校舎の二階。|窓《まど》からは、|町《まち》|中《なか》のこととて、大して広いとも言えない校庭が|見《み》|下《お》ろせる。
詩織は|窓《まど》|際《ぎわ》の席ではないので、座っていたのでは校庭に目が行かないのだが、今、立ち上って、座ろうとした|拍子《ひょうし》に、ふと校庭に目をやると――。
|誰《だれ》かが詩織の方に手を|振《ふ》っている。
「あ!」
と、思わず詩織は声を上げた。
校庭に立って、校舎の方をニコニコしながら見上げているのは、あの啓子[#「啓子」に傍点]だったのである。
花八木も、さすがに刑事で、その詩織の声でハッと立ち上ると、
「何だ!」
と、窓際へと|駆《か》け寄った。
詩織は、窓の方へ|駆《か》けて行くと、
「|啓《けい》|子《こ》さん! |逃《に》げて!」
と、|怒《ど》|鳴《な》った。
「待て!」
と、花八木が怒鳴った。「|警《けい》|察《さつ》の者だ!」
「逃げて!」
「待て!」
|並《なら》んだ窓から|交《こう》|互《ご》に怒鳴っているのだから、下にいる啓子の方が|呆《あっ》|気《け》に取られるのも、無理はない。
と――詩織は、大きな外車が、校庭へ乗り入れて来たのに気付いた。あの車は、確か……。
「|種《たね》|田《だ》よ!」
と、詩織が怒鳴った。「逃げて!」
啓子もハッと振り向く。
外車は、校庭を一気に|突《つ》っ切って来た。
走り出した啓子を、急ハンドルを切って追いかける。
校庭は、時ならぬ追いかけっこの場となってしまった。
「|危《あぶな》い!」
詩織は、とてもじっとしていられなかった。
「エイッ!」
とかけ声をかけると、窓から外へ飛び出した。
いや、スーパーマンじゃないから、飛び出したといっても、いったん両手で、窓のへりからぶら下り、手を|離《はな》したのである。
ちょうど真下に、種田の車が――。
ドン、という|鈍《にぶ》い音と共に、詩織は車の屋根にバウンドして、|転《ころが》り落ちた。
幸い、足も|痛《いた》めていない。すぐに立ち上って、啓子の方へ、
「校舎の中へ!」
と|叫《さけ》んだ。「通り|抜《ぬ》けるのよ! ついて来て!」
「|分《わか》ったわ!」
啓子が詩織の指す方向へと走り出す。二人が校舎へ|駆《か》け|込《こ》むと、
「おい! 待て!」
花八木が、やっと詩織の後を追うために、窓のへりに|腰《こし》をおろし、飛びおりようとしていた。
「何してんの、早く行けば?」
と、そこを|添《そえ》|子《こ》が|突《つ》いたから、
「ワーッ!」
と|悲《ひ》|鳴《めい》を上げつつ、花八木は落っこちた。
ゴーン、という変な音がした。
また種田の車が下にいて、花八木はその屋根へ、頭から落っこちたのである。
いかに|丈夫《じょうぶ》な車でも、花八木の石頭にはかなわなかったらしく、屋根はペコンとへこんでしまった。
その代り、花八木も、もちろん気絶してしまったのだが。
「――|花《はな》|子《こ》が?」
啓子は、詩織の話に青ざめた。
「そうなの。――申し訳ないわ」
詩織の|涙《るい》|腺《せん》は、早くも活動の準備を始めていた。
二人して、学校の|裏《うら》|手《て》から、細い道を右へ左へと駆け抜けて――その辺は、詩織、お手のものである。
やっと、もう|大丈夫《だいじょうぶ》、という所まで来たのだったが……。
「あなたに|頼《たの》まれながら、こんなことになってしまって……」
と、詩織が、今|正《まさ》にワーッと|泣《な》き出そうとしたとき、
「大丈夫!」
と、啓子が、元気のいい声を出した。
「――え?」
「花子が、もし種田たちに|連《つ》れられて行ったのなら、私をあんな風に追い回す必要ないわけだし、それに花子は運の強い子なの」
「そう?」
「大丈夫! きっと元気にやってるわ」
啓子はポンと詩織の|肩《かた》を|叩《たた》いた。「ね、あなたも泣かないで、元気出して」
「ありがとう……」
どうも|妙《みょう》な具合である。
「それより、あなたのお|宅《たく》に、すっかりご|迷《めい》|惑《わく》かけちゃったわね。ごめんなさい」
「いいのよ、そんなこと」
と、詩織は言った。「でも、啓子さん、あなた、今、どこにいるの?」
「友だちの所なの。まだ、色々やらなきゃいけないことが残ってて」
「やらなきゃいけないこと?」
「うん」
と、啓子は|肯《うなず》いて、「二、三人、殺さなきゃいけないのよね」
と言った。
詩織は、ただ目をパチクリさせて、
「じゃ、また」
と、手を|振《ふ》って立ち去って行く啓子を見送っていたのだった……。
12 |悩《なや》みは深し
私は一体何をしたのかしら?
|詩《し》|織《おり》は自分へ問いかけていた。――私は正しいことをしたはずだ。
そう。|啓《けい》|子《こ》をかくまったことだって、|種《たね》|田《だ》の正体を見破ったことだって、そして啓子を|連《つ》れて種田の|追《つい》|跡《せき》から|逃《に》げたことだって。
それなのに――それなのに、この|空《むな》しさは何だろう?
この、お腹[#「腹」に傍点]の中の空[#「空」に傍点]しさは……。
「あ、そうか。お弁当、食べてなかったんだ」
詩織は、ついに、「答え」を発見したのだった。
「――でもさ、詩織」
と、|添《そえ》|子《こ》が|一《いっ》|緒《しょ》にお弁当を食べながら言った。「その、啓子って子の言った、『二、三人殺さなきゃ』って、どういうこと?」
「しっ!」
と、詩織は、|鋭《するど》い目で後ろを|振《ふ》り返った。
教室の中には、異様な|匂《にお》いが立ちこめていた。――いや、異様といっても、至ってなじみの深い匂いである。
|花《はな》|八《や》|木《ぎ》刑事が、教室の一番後ろに、まだ|陣《じん》|取《ど》っていて、出前のラーメンを食べているところだったのだ。
「あの刑事さんも、よく|頑《がん》|張《ば》るわね」
と、添子が笑いをかみ殺しながら、「頭にあんなコブ作ってまで……」
花八木は、種田の車の屋根に頭から落下して、みごとなコブを作っていた。そこでグルグル|巻《ま》きに|包《ほう》|帯《たい》で頭を巻いて、|翌《よく》|日《じつ》、再び教室へ現れたのである。
「車の方はどうしたのかしら?」
と、添子は言った。「屋根、へこんでたじゃない」
「きっと包帯巻いてんじゃない?」
と、詩織は言った。
「でも、啓子って子、|誰《だれ》を殺すの?」
「聞いてないわよ」
「|分《わか》んないわねえ。ヤクザの手から|逃《に》げて来て、どうして人を――」
「私が知ってるわけないでしょ」
と、詩織も少々|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》である。「きっと、見かけによらず、|殺《さつ》|人《じん》|鬼《き》なのかもしれないわ」
「殺人鬼?」
「満月の夜になると、オオカミに変身して、美女――いえ美男を|襲《おそ》うのかも」
「まさか!」
「ともかく、|分《わか》んないの」
詩織も、実は不安だった。
命をかけて守ってやろうという相手が|殺人狂《さつじんきょう》、というのでは、少々|空《むな》しい話である。
「――やれやれ」
ラーメンを食べ終った花八木が、立ち上って、器を出しに教室を出て行った。
「何か、ああいう後ろ|姿《すがた》って、|侘《わび》しいわね」
と、添子はしみじみと言った。「あの人だって、昔からああだったわけじゃないでしょうに」
「そりゃそうでしょ」
小学生のころから、あんな風だったら、気味が悪い。
「人間、|疲《つか》れて来るのね、あれぐらいの|年《と》|齢《し》になると……」
添子は、すっかり考え|込《こ》んでしまっている。
詩織は、お弁当を食べ終って、席を立った。
――花八木は、どこかでタバコでもすっているのだろう。
午前中の授業のとき、タバコに火をつけて、
「|灰《はい》|皿《ざら》はないのか」
とやったので、教室中が|大《おお》|騒《さわ》ぎになってしまった。
結局、タバコをすうなら、|廊《ろう》|下《か》へ出てくれということになったのである。
詩織は、校庭に出て、ウーンと|伸《の》びをした。
校庭に出て遊んでいる子は、あまりいない。
大体が、ぶらぶら歩くぐらいの広さしかないのだ。で、詩織も、ぶらぶら歩くことにした。
「ワン」
「何よ、添子」
と、詩織は|振《ふ》り向いたが――添子の|姿《すがた》はなかった。
考えてみれば、添子がなぜ「ワン」と鳴くのだろうか?
「ワン」
足下へ目をやると、犬が|一《いっ》|匹《ぴき》、詩織を見上げていた。
「あ、お前――」
と、詩織は目をみはった。「種田の犬じゃないの。スパイしに来たのね? そうでしょう! 白状しろ!」
そんなこと言っても無理ですよ、とでもいう顔で、犬は、また、
「ワン」
と鳴いた。
「たまには『ツー』とか『スリー』とか鳴いたら?」
犬が、トコトコ歩き出し、ちょっと|振《ふ》り向く。――どうやら、ついて来い、と言いたいらしい。
「私に用?――|怪《あや》しいな」
「ワン!」
「だって、お前は、種田の犬じゃないの」
しかし、犬の方は、詩織の不信の念など一向に構うことなく、またトコトコと歩いて振り向く。
「|分《わか》ったわよ」
と、詩織は|肩《かた》をすくめた。「ついてきゃいいんでしょ」
犬は、学校の|裏《うら》|門《もん》から外へ出た。
「休み時間に、勝手に外へ出ちゃいけないんだぞ」
と言いながら、もちろん詩織は外へ出る。
「――どこへ行くのよ?」
犬は、詩織もあまり知らない道を|辿《たど》って行く。――少々不安になって来る。
一人で来るんじゃなかった、と、チラッと考えたが、しかし、ここまで来て、引き返すわけにもいかない……。
「ワン!」
犬が、足を止めて、急に鳴いた。
「どうかしたの?」
――ちょっと|寂《さび》しい場所、といっても、こんな町の中に、人里|離《はな》れた林があるわけもなく、そこは鉄骨の林――建設中のビルの工事現場だった。
工事が中断されているのか、働いている人の|姿《すがた》はない。
こんな所に、何の用で|呼《よ》び出したんだろう? 詩織は、|充分《じゅうぶん》に用心して、歩いて行った。
犬は、その工事現場の|奥《おく》の方へと入って行くのである。
「ちょっと!――ねえ、どこに行くのよ!」
何しろ足下が|危《あぶな》くて仕方ないのだ。やたらに鉄材やら木の折れたのが|転《ころが》っていて、下を見て歩かないとつまずいてしまいそうだ。
「ねえ、こら、犬!」
何か名前はあるのだろうが、その犬が見えなくなってしまった。
「どこなの? 一声、『ワン』とやってよ」
詩織は、足を止めた。
あの音は? 何だろう?
ギリギリ……。何だか、特大の歯ぎしりみたいな音が、頭上から聞こえて来た。
鉄骨が三階ぐらいまで組んであり、その上から、何かが|降《お》りて来た。
ゆっくり、ゆっくりと……。それは、人だった。
落ちないのは、何かにぶら下っているからで、どうやら、それは太い|鎖《くさり》らしい。
詩織は、後ずさった。
あれ……。あれは……もしかして……。
ガクン、と|鎖《くさり》が上った。
「――種田だわ」
と、詩織は|呟《つぶや》いた。
種田だった。|間《ま》|違《ちが》いない。
鎖が体に|巻《ま》きつけられて、逆さまにぶら下っているのだ。そして――種田は死んでいた。
赤いシャツを着ているのかと思ったが、そうではなく、血に|染《そま》っているのだと分った。
殺されたのだ!
さすがに、詩織も、|突《とつ》|然《ぜん》のことでガタガタ|震《ふる》え出した。
種田がなぜ? |誰《だれ》に殺されたのか?
詩織が、二メートルほどの所でぶら下って|揺《ゆ》れている種田の死体を見上げて、身動きできずにいると、
「――何をしとる」
と声がした。
「キャーッ! お|化《ば》け!」
詩織は飛び上った。
「私がどうしてお化けだ!」
花八木だった。「ちゃんと|尾《び》|行《こう》して来たのだ。私の目を|逃《のが》れられると思っているのか?」
「あ、あれ……」
「何だ? 人に|振《ふ》り向かせて、その|隙《すき》に|逃《に》げようったって、そうはいかんぞ」
「見なさいよ!」
「何を?」
と、花八木は、詩織の指さす方へ目をやった。「誰だ、あそこで遊んどるのは? ふざけるのもいい加減に……」
「死体よ! 本物の!」
と、詩織は|叫《さけ》んだ。「早く一一〇番!」
だが、花八木はその場にズデン、と引っくり返ってしまった。どうやら気を失ったらしい……。
13 |斧《おの》とハンマー
「|神妙《しんみょう》にしろ!」
と、|花《はな》|八《や》|木《ぎ》は言うなり、|詩《し》|織《おり》の手首に、ガシャッと|手錠《てじょう》をかけた。
「な、何するんですか!」
と、詩織が顔を|真《まっ》|赤《か》にして、「私は無実よ! |潔《けっ》|白《ぱく》だわ! 健康|診《しん》|断《だん》だって、何も言われなかったのよ!」
「|分《わか》った、分った」
花八木は、|鍵《かぎ》を出すと、詩織の手から手錠を|外《はず》した。
詩織、キョトンとして、それからムッとした。
「そんなに|簡《かん》|単《たん》に外すくらいなら、どうして手錠かけたりするんですか!」
とかみつくと、
「いや、一度かけてみたかったのだ。TVみたいに、パッと容疑者の手首をつかんで、カシャッてことは、めったにないからな。まあ、その練習だ」
「勝手に練習しないで下さい!」
詩織が|怒《おこ》るのも無理はあるまい。
ここは――殺人現場。種田が殺されて|鎖《くさり》でぶら下げられていた、工事中のビルである。
一度は気を失った花八木だったが、詩織にけっとばされてさすがに目を|覚《さ》まし、もう一度けられてまた気を失いかけたが、|辛《かろ》うじて立ち直った。そして、すぐに|警《けい》|察《さつ》へ連絡、今は、パトカー、救急車、その他で、現場はごった返していた。
特に、事件を聞きつけた、詩織のクラスの女の子たちが、|一《いっ》|斉《せい》に|駆《か》けつけ、|他《ほか》のクラスもそれにならったから、ついには、道が女子学生で|一《いっ》|杯《ぱい》になってしまった。
先生たちがやって来て、
「何をやってるんだ! 授業は始まっているんだぞ!」
「教室へ|戻《もど》りなさい!」
と、声を張り上げても、一向に生徒たちは動かない。
そして、先生の方もその内、
「早く、教室へ戻れ! おい! そこをどけ! よく見えん!」
てな具合で、|野《や》|次《じ》|馬《うま》の数はふえるばかりだった。
種田の死体は、ゆっくりと地上へおろされた。
「――|鋭《するど》い|刃《は》|物《もの》で|一《ひと》|刺《さ》しだな」
と、やって来た検死官が言った。「発見者は?」
「私です」
と、詩織は言った。
「君が見付けたとき、|被《ひ》|害《がい》|者《しゃ》はまだ息があったかね?」
「上の方にぶら下ってたのに、|分《わか》るわけないじゃありませんか」
「それは分っとる。ただ、決りでこう|訊《き》くことになっとるんでね。お役所のことだから、まあ|我《が》|慢《まん》してくれ。――死体に手を|触《ふ》れたかね?」
「だから、上から――」
「分っとる! これも決りなんだ。次に、今夜のおかずは?」
「だから、上から――。何でそんなこと訊くんです?」
「ただの|冗談《じょうだん》だ」
かなりおめでたい検死官のようである。
「どうだね?」
と、花八木が、やって来て、「死後どれくらいだ?」
「まだあまりたっていないな。見付ける直前にやられたんだろう。|凶器《きょうき》は見当らないようだが……」
「女の力でもやれるか?」
「|鋭《するど》い|刃《は》|物《もの》だ。ほとんど力はいらない」
「この|娘《むすめ》でも?」
と、詩織を指さす。
「もちろんできる」
「あのですね――」
「第一発見者が犯人という確率は非常に高いんだ」
と、花八木は言った。
「その通り」
と、検死官も|肯《うなず》いて、「じゃ、これでも|逮《たい》|捕《ほ》しとけば?」
「ちょっと!」
詩織は頭に来た。「あんた、私のことを学校からずっと|尾《び》|行《こう》して来たんでしょ!」
「そうだ」
「だったら、私がいつ種田を殺せたのよ」
「うむ」
と、花八木は|腕《うで》|組《ぐ》みして、「いいところに気が付いた」
「|誰《だれ》だって気が付くわよ!」
「そこに気付かれては仕方ない。|他《ほか》に|捜《さが》そう」
ひどい刑事もあったものだ。
「はい、ちょっとどいて」
と、声がした。
種田の死体を運び出すのである。布で|覆《おお》われてはいるが、白い布に、赤く血がにじんでいるのが、|却《かえ》って無気味だった。
ワーワーキャーキャーやっていた生徒たちも、さすがに、|一瞬《いっしゅん》シンとしてしまった。
すると――。
「クン、クン……」
あの種田の犬が、それについて歩き出したのである。主人の死体なのだから、当然とも言えるが、しかし、その光景は、|殺《さつ》|伐《ばつ》とした殺人現場の中にあって、|涙《なみだ》を|誘《さそ》うものだった。
涙とくれば……。これはもう、どうしようもない。
並の[#「並の」に傍点]女の子でもそれを見て涙ぐむのだ。詩織は、といえばもう……。
「で、何だって?」
と、|隆《たか》|志《し》は言った。「お前、その犬、|連《つ》れて来ちゃったの?」
「うん」
「ワン」
と、種田の犬が、詩織の足下で鳴いた。
「お前ねえ……」
隆志は言いかけてやめた。むだだと|分《わか》っていたし、それに、|飼《か》うのは詩織で、隆志ではない。
成屋家の居間。――今夜は、刑事も飛び|込《こ》んで来ないで、平和だった。
夕食が終り、犬も、あれこれもらって、|満《まん》|腹《ぷく》になったのか、気持良さそうに、|寝《ね》てしまった。
「|飼《かい》|主《ぬし》は|憎《にく》らしかったけど、犬には罪がないものね。人を憎んで、犬を憎まず、だわ」
「ちょっと|違《ちが》うんじゃないか?」
「いいのよ。――でも、どうして種田が殺されたのかしら?」
「そりゃ、|奴《やつ》は暴力団の顔役なんだろ? 色々敵もいるさ」
「それにしても……。あんな風に、|鎖《くさり》でぶら下げるなんて」
思い出してもゾッとするらしく、詩織は|身《み》|震《ぶる》いした。
「大変だったわねえ」
と、母の|智《とも》|子《こ》が、お茶を出してくれる。「隆志君も気を付けてね」
「はあ……」
何だかよく分らないが、隆志は、自分が鎖で逆さにぶら下げられているところを想像して、やはりゾーッとした。
「|誰《だれ》か来たみたいね」
と、智子が、|玄《げん》|関《かん》の方の物音を聞いて、言った。
と――ドン、と|凄《すご》い音がして、家が|揺《ゆ》れた。
「キャッ!」
詩織はソファから落っこち、|机《つくえ》から|茶《ちゃ》|碗《わん》が落っこちる。
「な、何だ?」
と、隆志が目を丸くした。
すると、ドカドカと足音がして、男が四、五人、居間へ入り|込《こ》んで来たのである。
「――いらっしゃいませ」
と、智子は、言った。「どちらさまで」
一番|偉《えら》いと思われる男は、白いスーツに黒のネクタイ、がっしりした体つきで、|丸《まる》|坊《ぼう》|主《ず》だった。人相も悪い。「ヤクザです」と絵にかいたような顔をしていた。
そして|他《ほか》に三人。こちらは黒のスーツに白のネクタイ。やたら体がでかくて、何だか|天井《てんじょう》まで届きそうなのも一人いた。
そして、手に手に、|斧《おの》だのハンマーだのを下げている。
「|成《なる》|屋《や》詩織ってのはどいつだ」
と、白いスーツが言った。
びっくりするほど、ドスのきいた声――ではなく、やたらテノールの、|可《か》|愛《わい》い声だった。
「あの――私ですけど」
と、詩織は言った。「何かご用ですか」
「そうか。――お前か」
と、白いスーツは言うと、そばの男から、大きな|斧《おの》を受け取り、ヤッと|振《ふ》り上げたと思うと、テーブルの上に振りおろした。
バン!
|一《いち》|撃《げき》で、テーブルは真二つになる。
男はニヤリと笑って、
「いい木が使ってあるな」
と言った。
「あなた、家具屋さん?」
と、詩織は|訊《き》いたのだった……。
14 |破《は》|壊《かい》の朝
「ほう」
と、白いスーツの男は、|詩《し》|織《おり》の言葉を聞いて、ちょっと意外そうに、「|俺《おれ》のことを知ってるのか?」
これには、|隆《たか》|志《し》もびっくりした。
「本当に家具屋さんなんですか?」
家具屋というのは、|普《ふ》|通《つう》、家具を売ったり、作ったりするもので、家具を|壊《こわ》す家具屋というのは聞いたことがない。
それとも、壊しておいて、新しいのを売り付けるという、「|押《おし》|売《う》り」的な家具屋なのだろうか? どっちにしても、あまり聞いたことがない。
「俺は和也[#「和也」に傍点]というんだ。|姓《せい》は|三《み》|船《ふね》、名は|和《かず》|也《や》」
和也と家具屋じゃ大分|違《ちが》う。
「どうしてテーブルを壊したの?」
と、詩織がまた|大《だい》|胆《たん》に質問する。
「おい……」
隆志が、やめとけ、というようにウインクして見せる。
「何よ、隆志、こんなときにウインクして。愛を打ちあけるのなら、時と場所を考えなきゃ」
|誰《だれ》がこんなときに愛の告白をするんだ!
「――お前の所に、|種《たね》|田《だ》の|奴《やつ》が来たそうだな」
と、その白いスーツの三船という男は言った。
「お知り合い?」
「古い付合いだ」
「そうですか」
と、詩織の母、|智《とも》|子《こ》が|肯《うなず》いて、「どんな人にも、友だちってあるものですのね」
「全くだ。|俺《おれ》と種田は、|互《たが》いに殺してやりたいくらいの|仲《なか》だったんだぜ」
と、三船はニヤついた。「種田の|奴《やつ》を|片《かた》|付《づ》けてくれたそうだな。礼を言うぜ」
「私じゃないわよ」
と、詩織は言った。
「一つ、|訊《き》くぜ。それに答えてくれりゃ、この家は無事だ」
「お|札《ふだ》でも|貼《は》ってくれるの?」
「|啓《けい》|子《こ》はどこだ?」
また来た! 詩織はため息をついて、
「私、知らないわ。そりゃ一度はここにいたけど、出て行って、それきり――」
「そうか。言いたくないのか」
「知らないって……」
三船が、手にした|斧《おの》を|振《ふ》り上げると、今度は、ソファの一つの上に振りおろした。ガンと音がして、ソファが二つになった。しかし、とても一つに一人は|座《すわ》れない。
「もう一度訊く。啓子は?」
「知らないってば!」
白のスーツの後ろに|控《ひか》えていた黒のスーツの三人の内、一番の大男が、居間の|壁《かべ》に寄せて置いてあるサイドボードの方へ歩み寄ると、
「ヤッ!」
とかけ声をかけ、両手で、重いサイドボードを持ち上げてしまった。
当然、上にのせてあった小物の類は、|床《ゆか》へ落下する。さらに、サイドボードそのものも、
「エイッ!」
という声とともに、真逆さまに投げ落とされた。
中の人形や、高い陶器の類が、粉々に|砕《くだ》ける音がした。
「今度答えねえと……」
と、三船が言った。「この家そのものが消えてなくなるぜ」
詩織は、ため息をついた。
「――|分《わか》ったわ」
「ほう。というと?」
「教えるわ、啓子さんの居所を」
隆志がびっくりして、
「詩織、お前――」
「私の学校の|裏《うら》|手《て》に、|寮《りょう》があるわ」
「そこにいるのか?」
「ええ、そこの二〇四号室に」
「よし、分った。――|嘘《うそ》だったら、ただじゃおかねえぞ」
三船は、三人の子分を|促《うなが》して、「行くぞ! |邪《じゃ》|魔《ま》したな。ゆっくり|寛《くつろ》いでくれ」
と言い残して、出て行った。
車の音が遠去かると、隆志は|恐《おそ》る恐る、|玄《げん》|関《かん》の方へ出てみた。
玄関のドアが、ぶち破られ、|惨《みじ》めな|姿《すがた》をさらしている。
「――ひどい連中!」
と、詩織もやって来て、|憤《ふん》|然《ぜん》とした。
「お前、それより、啓子って子の居場所を、どうして|黙《だま》ってたんだ?」
「言ってどうなるの?」
と、詩織は|肩《かた》をすくめた。「私たちの家庭科の先生の部屋なんか」
「家庭科の先生?」
「|加《か》|藤《とう》啓子。もうすぐ六十のおばちゃんよ」
隆志が青ざめた。
「じゃ、お前……。それを知ったら、あの連中がどうすると思ってんだよ!」
「だって、そうでも言わなきゃ、この家を|壊《こわ》しちゃいそうだったんだもん」
「言ったって、もっとひどく壊されるぞ」
「|分《わか》ってるわ」
「ど、どうするんだ?」
「連中が|戻《もど》って来る前に|逃《に》げるのよ!」
詩織は、いきなり、居間へと|駆《か》け戻って行った……。
「――こんなときに、何の役にも立たないんだから!」
と、詩織がなじると、|花《はな》|八《や》|木《ぎ》は、
「私も人間だ!」
と、言い返した。「人間には、|睡《すい》|眠《みん》というものが必要なのだ!」
「あら、そう。知りませんでしたわ!」
と、詩織が言い返す。「ともかく、|我《わ》が家は|哀《あわ》れ、あとかたもなく……」
朝になっていた。
詩織たちの一家は、隆志の家に|泊《とま》ることにしたのである。そして朝になったら、詩織を|捜《さが》して、花八木刑事が隆志の家へやって来たのだった。
「――保険には入っていなかったのか?」
と、花八木は言った。
「ワン」
と、例のもと[#「もと」に傍点]種田の犬が、|吠《ほ》える。
詩織と隆志、それに花八木と犬の四人――いや三人と|一《いっ》|匹《ぴき》が、詩織の家がどうなったか、見に行くところである。
「そいつは、種田と|対《たい》|抗《こう》していた一派の|幹《かん》|部《ぶ》の一人だよ」
と、花八木が、三船のことを聞いて言った。
「もとは木こり[#「木こり」に傍点]なんですか? やたら|斧《おの》を|振《ふ》り回して――」
「いや、あれは昔TVでやった『アンタッチャブル』というギャングもので、FBIがギャングのたまり場を手入れするときに、斧でガンとやるのを見て、|真《ま》|似《ね》してるんだ」
「つまらないことを真似する人ね」
と、詩織は言った。「この次は、家にバズーカ|砲《ほう》でも置いとかなきゃ」
「おい、詩織!」
と、隆志が言った。
詩織の家が見えた。それは|哀《あわ》れな|残《ざん》|骸《がい》にはなっていなかった。そのままだったのである……。
「気が変ったのかもね」
と、詩織は、学校へと急ぎながら、|添《そえ》|子《こ》に言った。
「|物《ぶっ》|騒《そう》ねえ。ゆうべはいなくて良かった」
添子は、ホッと息をついて、「それにしても、啓子って子、よっぽど大物[#「大物」に傍点]なのね」
「でもね、もしかして種田を殺したのが、あの子だとすると……。もちろん、あんな|奴《やつ》、|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》だとは思うけど」
「あのおじさんは?」
「おじさん?」
「ほら、詩織を人質にした、|桜木《さくらぎ》とかって、おっさん」
「そう……そうか!」
詩織は、校門を入りながら、飛び上った。「あの人、今どうしてるのかしらね! もし|保釈《ほしゃく》にでもなってたら、種田を殺したのも、あの人かもしれないわ」
「考えられるね」
「考えられる」
と、二人のすぐ後ろで声がした。
もちろん花八木である。
「ね、刑事さん。あの人が今どうしてるか、分らないの?」
と、詩織は|振《ふ》り向いて言った。
「保釈になっとる。ちゃんと調べた」
「教えてくれりゃいいのに」
「職業上の|秘《ひ》|密《みつ》だ」
と、花八木がもったいぶる。「ともかく、今、|行《ゆく》|方《え》を……」
「人が集まってる」
と、添子が言った。「何だろうね」
「行ってみよう!」
詩織の|好《こう》|奇《き》|心《しん》は|誰《だれ》にも負けない。しかし、このときばかりは……。
行ってみて|唖《あ》|然《ぜん》とした。
校庭に、古ぼけた家具だの|布《ふ》|団《とん》だのが山になっている。詩織はそばの子に、|訊《き》いた。
「どうしたの?」
「ゆうべ、何だか、学校の|寮《りょう》が|壊《こわ》されちゃったんだって。みんな命からがら|逃《に》げ出したらしいわよ」
では――三船たちは、「寮」の方へ仕返ししたのだ!
15 守り神
「本当に……」
と、その女性は、|涙《なみだ》ぐんでいた。「私が何をしたっていうの!」
「あんたの気持はよく|分《わか》る」
と、|花《はな》|八《や》|木《ぎ》刑事が|慰《なぐさ》めている。「まあ、人生には色々なことがあるものだ。これもいい経験だと思って――」
これが、|二《は》|十《た》|歳《ち》かそこらの女性に言って聞かせているのなら、まあ良かったのである。
だが、相手は|加《か》|藤《とう》|啓《けい》|子《こ》。――同じ「啓子」でも、詩織の家から|姿《すがた》を消した啓子とは少々|年《ねん》|齢《れい》|差《さ》があって、やがて六十|歳《さい》になろうという、家庭科の教師だったのである。
つまり、慰めている花八木よりも年上なのだ。|誰《だれ》だって、年下の人間から、
「これもいい経験だよ」
なんて慰められたら、いい気持はしないだろう。
この加藤先生も、やはり人間が出来ているとはいえ、プライド低からず、
「大きなお世話です!」
と、花八木をにらみつけて、ピシャリとやった。「私は|充分《じゅうぶん》に『いい経験』をして来ましたよ!」
ツン、として、行ってしまう。花八木は、ため息をつくと、
「全く、どうして人間というのは素直になれないものなのだろうか」
と、|独《ひと》り|言《ごと》を言った。
ギャハハ……。笑い声が、花八木の|背《はい》|後《ご》で上った。花八木がキッとなって|振《ふ》り向くと、|詩《し》|織《おり》がピタッと口を|閉《と》じて、あさっての方を向く。
「笑ったな!」
と、花八木が詩織をにらんだ。
「いいえ。|空《そら》|耳《みみ》でしょ」
「まあいい……。|三《み》|船《ふね》が、君の言ったことがでたらめだったと知って、どうするか、楽しみだな」
花八木は|口《くち》|笛《ぶえ》など|吹《ふ》きながら、校庭を歩いて行く。
「――|大人《おとな》げないわねえ、二人とも」
と、見ていた|添《そえ》|子《こ》が|呆《あき》れている。
今日は一日、学校での授業が中止になったのである。
何しろ、|寮《りょう》が|叩《たた》き|壊《こわ》されちゃったのだから、大変な|騒《さわ》ぎだ。
|寮《りょう》には、古くからこの学校にいる先生たちや、事務員、用務員、それに、遠方から入学している生徒も何人か入っていた。
「さぞびっくりしたろうね……」
と、添子は言った。
「うん」
と、詩織は|肯《うなず》いた。
二人は、校庭を出て、学校の|裏《うら》|手《て》に回って行った。――そこには、寮が、今はただの木材の切れはしとなって、山をなしていた。
やっとブルドーザーやトラックがやって来て、|片《かた》|付《づ》けが始まっている。
数人の証言を総合すると、|誰《だれ》やら男たちが加藤啓子の部屋のドアを、|斧《おの》でぶち破って、中へ入った。そしてすぐに、「啓子|違《ちが》い」だと分ったのだろう(一目見りゃ、|分《わか》って当然だが)、顔を|真《まっ》|赤《か》にして飛び出して来ると、次々に寮の部屋のドアを|叩《たた》いて回り、全員が|仰天《ぎょうてん》して起き出して来ると、
「十分以内にここから出ろ!」
と、命じたらしい。
一一〇番しようにも、|予《あらかじ》め電話線は切られており、みんな仕方なく、貴重品を持って|逃《に》げ出した。中には、家具まで運び出した|怪《かい》|力《りき》の者もいたらしい。
きっかり十分後、ガタガタと音がしたと思うと、いきなり、大きなクレーン車が現れ、その太いアームで、寮をぶっ|壊《こわ》し始めたのである。――もともと、かなり|老朽化《ろうきゅうか》していた木造の建物は、たちまち|崩《ほう》|壊《かい》した……。
「詩織……」
と、添子が、詩織の|肩《かた》に手をかけた。「元気出しなよ」
「うん……。でもね、やっぱり――」
「お|腹《なか》|空《す》いてるのは、|分《わか》るけどさ」
詩織は、添子をにらんで、
「|誰《だれ》がお腹空いたなんて言った? 私はね、自分のせいで、寮が壊されたと思って、|悩《なや》んでるのよ」
「でも、仕方ないじゃない。壊れちゃったものは元に|戻《もど》らないんだし。それに、もう建て|替《か》える時期だったもん」
「それもそうね」
詩織は、コロッと明るくなって、「じゃ、私、いいことをしたのかもしれないわね! 感謝状くれるかしら?」
「どうかしらね、それは……」
添子も、詩織の変りようには、なかなかついて行けなかった。
「――問題は、あの三船ってのが、どう出て来るかよ」
と、詩織は、校舎の方へと|戻《もど》って行きながら、「うちも|危《あぶな》いわね。|寮《りょう》をぶっ|壊《こわ》しちゃうぐらいだから、うちなんか」
「アッという間ね」
「変なこと、|請《う》け合わないでよ」
と、詩織は顔をしかめた。
しかし、ともかくその日、学校から|戻《もど》ってみても、詩織の家は、無事だった。
気が変ったのかしら? それとも、これから来るのか。
「――ただいま」
と、家へ上った詩織は、結構|上機嫌《じょうきげん》であった。
別に、家が壊れていなかったから、というわけではない。花八木が、今日は昼ごろからいなくなってしまったのである。
「お帰りなさい」
と、母の|智《とも》|子《こ》が台所に立って言った。
「今日は、あのできそこないの刑事がいなかったの。いい気分だったわ」
と、詩織は言った。
「あら、そう」
「やっぱり、あの手の顔は、動物園にいるべきだわ。人間とは思えないもの」
「そう」
「でも、チンパンジーやオランウータンも、|拒《きょ》|否《ひ》するかもしれないわね。|俺《おれ》たちを、こんな|奴《やつ》と|一《いっ》|緒《しょ》にするな、って」
と言って、詩織はハハハ、と笑った。
「そうか?」
「そうよ」
|他《ほか》の声だった。母の声にしては、いやに男っぽい声で――そう、あの「変な刑事」の声に似ていた……。
「あら」
詩織は、目の前に、当の変な刑事[#「変な刑事」に傍点]が立っているのに気付いた。「何してるんですか、こんな所で?」
「調査のために、やって来ると、君の母親が、夕食でもどうぞ、と強くすすめてくれたのだ。断るのも|却《かえ》って失礼に当る、と思ってな」
花八木はニヤリと笑って、「人間とは思えないかもしれんが、一応、人間と同じエサを食べるのだよ」
「そうですか……。良かったですね」
花八木が居間へ|戻《もど》って行くと、詩織は頭に来て、
「ママ! いるならいるって言ってくれりゃいいでしょ!」
「だって、お前が一人で、勝手にしゃべってるから……。いいじゃないの。人間、正直が一番だわ」
|呑《のん》|気《き》な母親なのだ。
――かくて夕食の席は、|成《なる》|屋《や》一家の三人と、それに犬、花八木の五人[#「五人」に傍点]になった。
「この犬にも名前が必要ね」
と、詩織は、言った。「お前、何て|呼《よ》ばれてたの?」
「ワン」
「ワン[#「ワン」に傍点]か。でも、『ワン』じゃ、お前を呼んでるとき、|他《ほか》の人が変に思うでしょうね」
「じゃ、『犬』にしたら?」
と、母親。
「『ワン』がだめなら、『カン』とか『コン』とか……」
と、父親。
「『花』はどうだ」
と、花八木も加わる。
「もう! |真《ま》|面《じ》|目《め》にやってよ!」
と、詩織は頭へ来た。「大体、あんた刑事でしょ? 公務員でしょ?――人の家で勝手にご飯食べるなんて!」
「勝手ではない。私はこの家の守り神なのだ」
何だか|薄《うす》|汚《よご》れた守り神だ。
「どの辺が?」
「つまり、私がここにいれば、三船も手を出さない。さもなくば、この家はとっくにスクラップと化していただろう」
「あんたのほうがよほどスクラップ」
と、詩織が口の中で|呟《つぶや》く。「――でも、あの|桜木《さくらぎ》っておじさんは、どうしてるの?」
「今、調査中だ」
と、花八木は|胸《むね》を張った。「ここにいれば報告が――」
ガタガタと家が|揺《ゆ》れた。
「|地《じ》|震《しん》よ!」
と、詩織は|叫《さけ》んだ。
16 大乱戦
|詩《し》|織《おり》も、この物語のヒロインとして(ヒーローみたいだ、という声もあるが)、かなり|勇《ゆう》|敢《かん》で、少々のことでは、|真《まっ》|青《さお》になったりしないという性格にはできているが、しかし、何といってもうら若き、十七歳の|乙《おと》|女《め》である。
あら、女の子だったの?――こう|訊《き》く読者がいたら、詩織にぶっとばされるのを|覚《かく》|悟《ご》しなくてはならない。
詩織にだって、|怖《こわ》いものというのはある。たとえば数学。特に|微《び》|分《ぶん》|積《せき》|分《ぶん》、物理の法則類全般、ニンジン、|雷《かみなり》、そして――|地《じ》|震《しん》。
|突《とつ》|然《ぜん》、家がガタガタ揺れ始めたので、詩織は青くなった。
「地震よ! |隠《かく》れて! 外へ飛び出しちゃいけないわ! 家の中にいたら|潰《つぶ》される!」
「じゃどうしたらいいの?」
と、母親の方は至って落ちついている。
「だって、こんなに――」
と言っている内に、地震はピタリとおさまった。
詩織は、ああやれやれと息をついた。
「全くもう! |揺《ゆ》れるなら揺れるで、ちゃんと先に|挨《あい》|拶《さつ》ぐらいするものだわ」
と、無茶なことを言っている。
「――あら」
と、母の|智《とも》|子《こ》が言った。「あの刑事さんは?」
そういえば、|花《はな》|八《や》|木《ぎ》の姿が見えない。
「どうしたのかしら?」
と、詩織は周囲を見回して、「地震で、地割れの中にでものみ|込《こ》まれたのかしら?」
「家も壊れてないのに?」
と――|食卓《しょくたく》の下から、何やらモゾモゾと動くものがあった。
「キャッ!」
と、詩織は飛び上って、「お母さん! テーブルの下に! ゴキブリ!」
「こんなでかいゴキブリがいるか!」
と、その「ゴキブリ」は|怒《ど》|鳴《な》った。
もちろん、花八木である。
「何よ、だらしない!」
と、自分のことは|棚《たな》に上げて、詩織は言った。「そんな所へ|隠《かく》れて」
「隠れていたのではない。――|逃《に》げ道を|捜《さが》していたのだ」
と、花八木は立ち上った。
詩織が、また何か言ってやろうとしたとき、
「――おい! どうだ!」
と、でかい声が|玄《げん》|関《かん》の方から聞こえた。
「あの声――|三《み》|船《ふね》だわ」
と、詩織が言った。
「|面《おも》|白《しろ》かったろう! 今度は家を逆さにしてやるぞ!」
詩織と母は顔を見合せた。――父親は?
もちろん、|一《いっ》|緒《しょ》にいたのだが、この詩人は、新しい詩の構想を練っているときは、何があってもだめなのである。
「じゃ、今の|地《じ》|震《しん》は?」
詩織は、あわてて、|窓《まど》の方へと飛んで行った。「――ママ、見て!」
家の前の|狭《せま》い道に、よく入ったと思うような、大きなクレーン車が|停《とま》っていた。
三船が、ヒョイと窓の前に顔を出したので、詩織はあわてて後ろに|退《さ》がった。
「――よう、よくも|俺《おれ》たちを|騙《だま》してくれたな、ええ?」
「あ、あの――」
「あの古ぼけた|寮《りょう》の方は、中の|奴《やつ》を|逃《に》がしてからぶっ|壊《こわ》してやった。しかしな、お前たちは別だ」
「じゃ、逃がさないで壊さない、ってこと? それなら助かるけど」
「半分だけ正解だ。一歩でも外へ出ようとすりゃ、|撃《う》ち殺す」
「あ、そう」
「中で|布《ふ》|団《とん》にでもくるまってるんだな。今、|俺《おれ》の手下が、この家の|四《よ》|隅《すみ》にロープをかけてる」
「まだ|引《ひっ》|越《こ》しの予定はないんだけど」
「なに、よそへ持ってきゃしねえ。これで逆さに引っくり返すだけだ」
三船はニヤリと笑った。「ま、ジェットコースターでも、こういう気分は味わえないぜ。楽しみにしてな」
さすがに詩織も|焦《あせ》った。家が逆さにされたんじゃ、二階に行くのが大変だ!
「ちょっと!」
と、食堂へ|駆《か》け込むと、「刑事さん! ほら、何とかしてよ! あんた、ここの守り神でしょ!」
「|分《わか》っとる!」
花八木は、ぐっと|胸《むね》をそらして、「すぐ一一〇番しよう」
と、電話の方へ|駆《か》け寄った。
「もう、だらしない!」
と、詩織はかみつきそうな声を出したが、
「いや、|勇《ゆう》|敢《かん》と|無《む》|謀《ぼう》は別だ。――もしもし。――もしもし」
花八木は顔をしかめて、「何だ、この電話は? 料金を|払《はら》っとらんのじゃないのか?」
「|冗談《じょうだん》言わないで!」
詩織は、受話器を引ったくって、かけ直そうとしたが……。「だめだわ。全然、音がしない。――きっと電話線切られちゃったんだわ」
「そうか! こうなっては仕方ない」
花八木が、|渋《しぶ》|々《しぶ》|覚《かく》|悟《ご》を決めたのか、|玄《げん》|関《かん》の方へと出て行った。
「――|困《こま》ったわね」
と、さすがに|呑《のん》|気《き》な智子も、不安げである。「そうと分ってりゃ、お|掃《そう》|除《じ》なんかするんじゃなかったわ」
父親の方は、じっと目を|閉《と》じて、|眠《ねむ》っているわけではないが、ともかく、いい詩が思い付きそうなのだった。
「お前ら! |神妙《しんみょう》にしろ!」
玄関の方で、花八木の声がした。「この|警《けい》|察《さつ》手帳が目に入らんか!」
――へえ、なかなかやるじゃないの、と詩織は思った。
相手の方も静かになったようだ。さすがに、刑事がいるのでは、今日は引き上げようということになったのだろう。
と――バン、バン、と|弾《はじ》けるような音が続けざまに五、六回聞こえて、ドタバタと花八木が|転《ころが》り|込《こ》んで来た。
「|撃《う》たれた! おい、手を貸してくれ!」
「ええ? どこを?」
「どこ? それは――」
と、花八木は起き上ると、「うむ。幸い当らなかったようだ」
と、息をついた。
「何よ、だらしがない! あなただって、ピストルぐらい持ってるんでしょ!」
「いや、これはめったなことでは使えんのだ」
「じゃ、どうするのよ!」
「うむ……。警察手帳も落として来てしまったし。――ここが思案のしどころだ」
「そんな|呑《のん》|気《き》なこと言ってる場合じゃないでしょ!」
「――おい! 用意ができたぜ!」
と、三船の声がした。「そのヘナチョコ刑事も|一《いっ》|緒《しょ》に逆立ちさせてやる!」
「|逃《に》げなきゃ!」
こうなっては仕方ない。「ママ! パパ! それに――ほら、犬!」
「ワン」
「|裏《うら》から庭へ出るのよ!」
と、詩織が|叫《さけ》ぶ。
そのときだった。
ダダダダ……。短く|途《と》|切《ぎ》れた|銃声《じゅうせい》が、表にひびきわたった。
「|機関銃《きかんじゅう》じゃない?」
と、智子が言った。
「クレーンだけじゃ間に合わないのかしら?」
しかし――どうも|妙《みょう》だった。
「ワーッ!」
「逃げろ!」
と、叫んでいるのは、どうやら三船らしい。
逃げる?――でも、どうして三船が?
しかし、ともかく、二、三分も|騒《さわ》ぎが続いたと思うと、急に静かになってしまったのである。
「どうしたのかしら?」
と、詩織は母の顔を見た。
「私が知ってるわけないでしょ。あなた、見てらっしゃい」
と、冷たい母は言った!
が、詩織が出て行くまでもなかった。
|誰《だれ》かが家の中へ入って来たのだ。そして、詩織が目を見開いている前に現れたのは――。
「ご無事でしたか」
|真《まっ》|白《しろ》な三つ|揃《ぞろ》いのスーツ、スラリと長身の色白な青年が、機関銃を片手に下げて、現れると、そう言って、サングラスを|外《はず》した。
「はあ……」
詩織は、ポカンとして、その青年を|眺《なが》めていた。――きりっとした顔立ちの|二《に》|枚《まい》|目《め》。
きれいになでつけた|髪《かみ》。まるで、少し昔のギャング|映《えい》|画《が》から|脱《ぬ》け出して来たような青年だった。
17 赤い車
「だらしのない連中だ」
と、その三つ|揃《ぞろ》いの白いスーツの青年は、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
|詩《し》|織《おり》はゾクッとした。――|風《か》|邪《ぜ》を引いたのだ。いや、そうじゃない! その青年の|笑《え》|顔《がお》に、一発でしびれちゃったのである。
「空へ向けてこいつを|発《はっ》|射《しゃ》してやったら、一度に|逃《に》げちまいましたよ」
と、|機関銃《きかんじゅう》を、まるでバトンガールがバトンを回すように、クルクルッと回して見せた。
「ど、どうも」
と、詩織は、ペコンと頭を下げて、「あの――私、|成《なる》|屋《や》|智《とも》|子《こ》です。あれ? いえ、それはここにいる母です。私は父です。いえ、私は父と母の詩織で、|娘《むすめ》といいます」
相当に混乱している。
「おい、動くな!」
と、|突《とつ》|然《ぜん》、|花《はな》|八《や》|木《ぎ》のだみ声が|響《ひび》き|渡《わた》った。
詩織は|振《ふ》り向いて、目をみはった。花八木が、|拳銃《けんじゅう》を構えて、|銃口《じゅうこう》を白いスーツの青年に向けているのだ。
「ちょっと! 何するのよ!」
と、詩織は花八木に向って、|怒《ど》|鳴《な》った。「この人は、この家を助けてくれたんじゃないの!」
「それはそれ、これはこれだ」
と、花八木は言い返した。「明らかに、銃器不法所持だ!」
「この人が助けてくれなかったら、あんた、今ごろこの家と|一《いっ》|緒《しょ》に逆さにされてたのよ! それを、今になって――。自分はどうにもできなかったくせに!」
「それはそれ――」
「このヘボ刑事! 能なし! 役立たず!」
詩織の悪口に、花八木は顔を|真《まっ》|赤《か》にしながら、じっと|耐《た》えていた。
「それはこれ、これはそれだ!」
「詩織、お前、何てことを言うの」
と、さすがに母の智子がたまりかねたように、
「せめて、|間《ま》|抜《ぬ》けとかトンマとかにしておきなさい」
「いや、刑事ってのは、いつもこれぐらいの元気が必要ですよ」
と、白いスーツの青年は、落ちついたもので、「じゃ、一つ、やるか?」
と、|機関銃《きかんじゅう》の銃口を花八木へ向けた。
「|抵《てい》|抗《こう》するのか!」
「したら、どうする?」
「|降《こう》|参《さん》する」
花八木は、|拳銃《けんじゅう》を|捨《す》てて両手を上げた。
「じゃ、そっちの|隅《すみ》で、おとなしくしてな。――お|嬢《じょう》さん」
「は、はい!」
詩織は、お嬢さん、なんて|呼《よ》ばれたことがあまりないので、|面《めん》|食《く》らいながらも|嬉《うれ》しそうに身を乗り出し、手を出して|尻尾《しっぽ》を|振《ふ》り――これじゃ犬だ。
「ここに|啓《けい》|子《こ》さんが来たそうですね」
と、青年は言った。
「ええ……。啓子さんをご存知?」
「僕と彼女は愛し合っていたのです」
「愛し合って――?」
「申し|遅《おく》れました。僕は九州では、ちょっとした顔の、|緑《みどり》|小《こう》|路《じ》|金《きん》|太《た》|郎《ろう》といいます」
「緑小路――金太郎?」
|姓《せい》と名が、これほどアンバランスな名前も|珍《めずら》しいだろう。
「啓子さんの父と、僕の父とは、昔からの宿敵同士。いわば、許されざる|恋《こい》だったのです。しかし、人目を|忍《しの》んで、|束《つか》の|間《ま》の|逢《おう》|瀬《せ》に二人の恋は燃え上り、未来を固く|誓《ちか》ったのでした。それから十年……」
「あの――失礼ですけど」
と、詩織は言った。「十年も前というと、お二人とも、大分お若かったんじゃありません?」
「僕が小学校五年生、啓子さんは|幼《よう》|稚《ち》|園《えん》を出るか出ないかのころでした」
「はあ……」
そりゃ古い恋だ。
「――こうして啓子さんを追ってやって来たのですが、どうも、|三《み》|船《ふね》や|種《たね》|田《だ》も|押《お》しかけて来たらしい。啓子さんは|姿《すがた》を|隠《かく》していた方がいいようだ」
「私、どこにいるのか知らないんです」
「信じますよ」
と、緑小路は|肯《うなず》いた。
詩織はホッとした。――大体、みんな詩織の言うのを信じないで、大暴れするのだから。
「もし啓子さんから連絡があったら、僕が来ていることを伝えて下さい」
「|分《わか》りました」
「そして、一言――愛してる、と言ってやって下さい」
そういうと緑小路は、「では、失礼します」
と|会釈《えしゃく》して、素早く|姿《すがた》を消した。
「待って!」
詩織は、急いで|玄《げん》|関《かん》から外へ出た。
緑小路が、車に飛び乗ると、エンジンの音を|響《ひび》かせて、走り去る。――そうだわ! ああでなくちゃ!
|真《まっ》|赤《か》なスポーツカー。それがあの美青年には似合うはずだ、と詩織は思ったのである。
真赤だ、という点は予想通りだった。ただ車はスポーツカーでなく、消防車だった……。
「――何がどうなってんだ?」
と、隆志が言った。
「知るか」
と、詩織は肩をすくめた。「こっちはね、|忙《いそが》しいの。おしるこ食べるので」
「|俺《おれ》は何を取りゃいいんだ?」
女の子だらけの|甘《かん》|味《み》の店で、隆志はメニューを広げてため息をついていた。
「コーヒーぐらいあるでしょ」
と、詩織が言うと、
「うん……。しょうがねえや。ちょっと。おしるこ、もう一つ」
「何だ。初めから素直に|頼《たの》みゃいいでしょうに」
「しかし、本当にどうなってんの? あの種田という殺された男。三船って、やたら家を|壊《こわ》したがる男。プラス、そのキザの|塊《かたまり》みたいな|奴《やつ》」
「ちゃんと緑小路って名があるわよ」
「緑小路でもタヌキ横丁でもいいけどさ、それもヤクザなのか?」
「あの花八木刑事の、あんまり当て[#「当て」に傍点]にならない説明によると、例の、啓子って子の父親の古い|仲《なか》|間《ま》だったらしいんだけど、最終的に|縄《なわ》|張《ば》りを二人で分けるわけにいかないので、結着をつけたらしいのね。その緑小路の父親っていうのが」
「|決《けっ》|闘《とう》したのか」
「ううん、ジャンケンだったって」
隆志は、ガクッと来た。
「ずいぶんつまらないことで決めるんだな」
「で、あの緑小路の父親は失意の内に死に、今、あの息子が|跡《あと》を|継《つ》いで、どんどんのして来てるんですって」
「へえ。――じゃ、本当に啓子って子の恋人なのかな」
「そりゃそうよ。当人がそう言ってるんだもの」
「でも、|嘘《うそ》かもしれないぜ。そんなヤクザの言うことなんか、大体あてにならない……。おい、どうした?」
隆志は、また[#「また」に傍点]詩織が目にジワッと|涙《なみだ》をためているのを見て、|訊《き》いた。
「あの人は嘘なんかつかないわ」
「どうして?」
「目が、とっても|澄《す》んでるわ。それに、ハンサムだし、足も長いし……」
「じゃ、|俺《おれ》とそっくりなんだ」
と、隆志は|肯《うなず》いて、「それなら、きっと嘘はつかないよ」
どっちもどっちである。
「――でも、あの花八木ってヘボ刑事は、そうじゃない、と言って、|嘲《あざ》|笑《わら》うのよ」
「へえ」
「つまり、今、啓子さんを見付けて、自分の女にしてしまえば、争わずして、一番大きな組織が手に入るわけ。それを、あいつは|狙《ねら》ってるんだって。――心の|醜《みにく》い人は、見方までひねくれて来るのよ。やねえ、本当に」
しかし、隆志は、花八木の言う通りかもしれないと思った。
「――はい、どうぞ」
と、隆志の方に、おしるこが来て、伝票を置いて行く。
何気なく伝票を見て、隆志は目を丸くして、
「ちょっと! おしるこ|五《ご》|杯《はい》も|頼《たの》んでないじゃないか!」
と、声をかけた。
「あちらの方が三杯|召《め》し上ってます」
と、指さした方を見ると……。
花八木が、|隅《すみ》っこの席で、三杯目のおしるこに取りかかっているところだった。
「――参ったな!」
と、隆志がこぼしていると、
「|成《なる》|屋《や》さんって、そちら?」
と、店の女の子がやって来る。
「私ですけど」
と、詩織が顔を上げる。
「お電話です」
「|誰《だれ》かしら。――すみません」
立って行って、受話器を取ると、
「あ、啓子です」
と、声がして、詩織は|仰天《ぎょうてん》した。
18 ビルの住人
「|啓《けい》|子《こ》さん……。あの――元気?」
と、|詩《し》|織《おり》は言った。
|他《ほか》にも色々言いたいことはあるのだが、前もって電話がかかって来ると|分《わか》ってりゃともかく、とっさにはごく当り前の言葉しか出て来ないのである。
「ええ、元気です。色々私のせいでご|迷《めい》|惑《わく》をかけてるようで、申し訳ありません」
「いえ、別に。ちっとも構わないのよ、そんなこと」
そりゃ、詩織は大して「実害」をこうむってるわけじゃないから、構わないのだ。学校の|寮《りょう》から追い出された人たちがこれを聞いたら、頭に来るだろう。
「でも、どうしてここにいるって|分《わか》ったの?」
と、不思議に思って、詩織は|訊《き》いた。
「ええ、お|宅《たく》へかけたら、お母さんが出られて。たぶん、こちらじゃないか、って……」
「へえ。こんな店のことまで、よく知ってるわね」
詩織は、しゃべっていて、ハッとした。店の中に|花《はな》|八《や》|木《ぎ》がいるのだ。
チラッとそっちへ目をやったが、花八木は|三《さん》|杯《ばい》|目《め》のおしるこをせっせと食べていて、気付いている様子はない。
「――ね、啓子さん。どこにいるの?」
と、詩織は少し声を低くした。
「それはちょっと言えないんです。――ごめんなさい」
と、啓子が申し訳なさそうに言った。
「そう……。でも、色んな人が、あなたを|訪《たず》ねて来てるのよ」
あれを「訪ねて」と言えるかどうかは、疑問だったが……。
「あなた――|緑小路《みどりこうじ》って人、知ってる?」
「|金《きん》|太《た》|郎《ろう》さん? あの人、来たんですか」
と、啓子がびっくりしている様子。
「ええ。あなたの古い|恋《こい》|人《びと》だって……。本当なの?」
「ま、古いことは確かですけど……。|幼《おさな》なじみで。でも、恋人なんかじゃありません」
なんだ。詩織はがっかりした。
「ともかく、種田って人は殺されるし、てんやわんやよ。――ねえ、一度会えない? ここ、刑事もいるから、話しにくいの」
「そうですね……。詩織さん一人で来て下さるなら」
「もちろんよ」
「あ、それから、|隆《たか》|志《し》さんという方も」
「隆志?」
詩織は、ちょっとむくれて、「あなた、隆志に気があるの?」
そんなことを言ってる場合じゃない!
「おい……」
まずい! 花八木が、電話の方へ歩いて来たのだ。
「あ、あの――それじゃ二人で行くわ」
と、詩織は急いで言った。
「お願いね。じゃ、今度の日曜日に、〈××ランド〉で」
〈××ランド〉というのは、「ばつばつ」でも「エックスエックス」でもなく、さる有名な遊園地なのである。
「日曜日ね。分ったわ。じゃ、楽しみにしてるわ」
花八木が、すぐそばに来て立っているので、詩織は、急いで電話を切った。
「|誰《だれ》と話してたんだ?」
と、花八木が言った。
「誰とでもいいでしょ。お友だちよ」
「フン、友だちか」
「友だちと電話でしゃべっちゃいけないっての?」
詩織もかなりむきになっている。
詩織が席に|戻《もど》ると、花八木もついて来て、|一《いっ》|緒《しょ》に|座《すわ》った。
「何かご用ですか?」
「|桜木《さくらぎ》のことを聞きたいかと思ってな」
と、花八木は言って、「ま、目ざわりだと言うなら、向うへ行くか――」
「ま、ちょっと落ちついて!」
詩織はあわてて言った。「――あの、おじさんのこと、何か分ったの?」
「保釈になって、|行《ゆく》|方《え》を|捜《さが》していたのだ」
「それは聞いたけど。見付かったの?」
「まだだ」
詩織はムッとして、
「あっち行ってよ!」
「これから、捜しに行こうと思っとるのだ。ついて来るか?」
詩織は隆志と顔を見合せた。詩織としても、あの桜木という男がどうなったか、興味はある。しかし、花八木に「ついて行く」というのも、少々しゃくに|触《さわ》る。
しかし、ここは|好《こう》|奇《き》|心《しん》の方がプライドにうちかった!――というほどのことでもないか。
かくて、花八木、詩織、隆志の三人で町を行くという|妙《みょう》なトリオになったのだった。
「だけど――」
と、隆志が電車の中で言った、「どうして僕らのことを|連《つ》れて行く気になったんです?」
タクシーで、という詩織に対し、花八木は、電車で行かねば、税金を納めている国民に申し訳ない、と主張したのだった。
「そりゃ、|簡《かん》|単《たん》だ」
と、花八木は|肯《うなず》いて、「桜木も捜したい。しかし、同時にこの|娘《むすめ》も見張りたい。何をしでかすか|分《わか》らんからな。そうなれば、連れて行くしかないではないか」
詩織はムッとした。大体花八木と|一《いっ》|緒《しょ》にいるだけでムッとして来るのだ。
しかし、ここはぐっとこらえて、
「どこへ|捜《さが》しに行くの?」
と、|訊《き》いた。
「交番へ行って、|捜《そう》|索《さく》|願《ねが》いを出す」
と花八木は言ってから、ニヤッと笑い、「安心しろ。|冗談《じょうだん》だ」
本気だったら、今ごろ電車の|窓《まど》から放り出されているだろう。
「東京に、昔、桜木に世話になった女がいることが|分《わか》ったのだ。身を寄せるとすれば、そこしかない」
「いなかったら?」
「|他《ほか》にも身を寄せる所があった、ということだな」
どうもいい加減な刑事である。
――電車、バス、と乗り|継《つ》いで、一時間以上かけて着いたのは、うらぶれたボロアパート――かと思えば、|大《おお》|違《ちが》いで……。
「ここ?」
詩織が|唖《あ》|然《ぜん》として見上げたのは、二十階以上はある|高《こう》|層《そう》ビル。真新しく、ピカピカに光っている。
「住所はここだが……」
と、花八木も、少々不安な様子。
「だって、ここ、会社が入ってるんだろ」
隆志は、ビルの入口にかかったプレートを見て、「人は住んでないんじゃない?」
「ともかく、物はためしだ」
と、ビルの広々としたロビーフロアへ入って行くと、花八木は、ツルツルの|床《ゆか》で、みごとにステンと|転《ころ》んでしまった。
「――見ちゃいらんない」
と、詩織はため息をついた。「|離《はな》れてようよ。|連《つ》れと見られちゃ恥ずかしいわ」
「さっきの電話は?」
「啓子さんよ」
と、声を低くする。
「やっぱり、そうか」
と、隆志は|肯《うなず》いた。「何か言ってたのかい?」
「今度の日曜日に会うことにしたわ」
と、詩織は言った。「〈××ランド〉でね。あなたも|一《いっ》|緒《しょ》に来て」
「いいよ。どうせ|暇《ひま》だし。日曜日の何時に?」
「時間?――決めなかったわ。適当に行ってりゃいいんでしょ」
「ええ? じゃ、〈××ランド〉のどこだよ?」
「決めなかったの」
隆志は、〈××ランド〉の広い|敷《しき》|地《ち》の中を、一日中うろつき回っている自分の|姿《すがた》を想像してゾッとした……。
――一方、花八木は、やっと立ち上ると、クスクス笑っている|受付嬢《うけつけじょう》の方へ歩いて行った。
「こういう者だ」
と、|警《けい》|察《さつ》手帳を|覗《のぞ》かせ、「ここに『お|竜《りゅう》』という女は住んでるか?」
「は?」
受付嬢が目を丸くした。当然だろう。
「本名、|竜崎幸子《りゅうざきさちこ》という女だ」
これを先に言えばいいのだ。
「ああ、竜崎さんでいらっしゃいますね。はい、最上階におられますが」
詩織はびっくりした。こんなオフィスビルに人が住んでるの?
「ここの管理人でもやってるのかしら」
と、|呟《つぶや》いた。
19 |偉《い》|大《だい》なオーナー
「ビルの最上階にねえ……」
と、聞いていた|隆《たか》|志《し》が首をかしげた。「ビルの地下道に|寝転《ねころが》ってるっていうのなら、|分《わか》らないでもないけど」
「それじゃ、まるで|浮《ふ》|浪《ろう》|者《しゃ》じゃないの」
と|詩《し》|織《おり》が言った。「ともかく、受付の人がああ言ってるんだから」
|花《はな》|八《や》|木《ぎ》は、|受付嬢《うけつけじょう》の言葉に、
「分った」
と、|肯《うなず》いた。「最上階ということは、一番上の階だな」
当り前のことを|訊《き》いているので、受付嬢は必死で笑いをかみ殺している。
「さようでございます」
「さようか」
花八木は、気取ってエレベーターの方へ歩き出した。すると、受付嬢が、
「あの、お客様」
と、呼び止める。「そちらのエレベーターでは最上階へはまいりませんが」
「何だと?」
花八木は顔色を変えた。「では、階段で上れと言うのか? いくら|丈夫《じょうぶ》に見えるからといって、|馬《ば》|鹿《か》にすると|逮《たい》|捕《ほ》するぞ!」
もう、いや!――詩織はたまりかねて、花八木をエイッと|押《お》しやると、自分で受付嬢に|訊《き》いた。
「あの、その方は――|竜崎幸子《りゅうざきさちこ》さんという方は、どういう方なんですか?」
「このビルのオーナー[#「オーナー」に傍点]でございます」
「そりゃ、女[#「女」に傍点]だってことは分ってるけど」
と、隆志が言って、詩織に足をけとばされた。「イテテ……」
「オーナーって、持主なんですか」
「はい。この|他《ほか》にも、現在二十ほどのビルをお持ちで……」
「二十!」
「この最上階をご|自《じ》|宅《たく》兼、事務所になさっておられます」
「はあ……」
「直通のエレベーターが、その|扉《とびら》の|奥《おく》にございます。|降《お》りられましたら、受付がございますので」
「分りました。どうもありがとう」
と、詩織は頭を下げた。「じゃ、行きましょ。――あら、あの刑事さんは?」
花八木は、詩織に|押《お》しのけられた|弾《はず》みでまた足を|滑《すべ》らし、引っくり返って、やっと起き上ったところだった。詩織は、見ないふり[#「ふり」に傍点]をして、さっさと歩き出した。
「――|凄《すご》い」
応接室へ通された三人は、どっしりとした調度類に、思わずため息をついた。
待つほどもなく、コーヒーが出る。――上品なカップだ。
「見て! ウエッジウッド」
と、詩織は、受け|皿《ざら》を引っくり返して見て言った。
「フン、私の所のカップも、似たようなものだ」
と、花八木が言った。「ちゃんとコーヒーを|注《つ》いでも、|洩《も》れない」
「当り前でしょ」
――ともかく、|香《かお》りの高いコーヒーを味わっていると、ドアが|開《あ》いた。
「お待たせしちゃって、ごめんなさい」
かなり(というのも|控《ひか》え目な表現だが)太った、おばさんタイプの女性が、ドサッとソファに|腰《こし》をおろした。
着ているスーツは、確かに高級品だろう。しかも、サイズは特大に|違《ちが》いなかった。さぞ布地を|沢《たく》|山《さん》使っただろう、と詩織は考えていた。
「あんたが――『お|竜《りゅう》』か?」
と、花八木が少々|戸《と》|惑《まど》い気味に言うと、
「お竜とは――また|懐《なつか》しい|呼《よ》び方をしてくれるわね!」
と、ワッハッハと|豪《ごう》|快《かい》に笑う。
体格のせいもあるのか、応接室の空気がビリビリ|震《ふる》えるような声量だった。
「そう。以前は『お竜』と呼ばれてたわ。もう十五年も昔だけどね。あんた、鼻紙[#「鼻紙」に傍点]さんだっけ?」
「花八木だ!」
と、顔を|真《まっ》|赤《か》にして、言う。
「刑事さん? 何のご用かしら。この十年間は、後ろ指さされるようなことは、やっちゃいないわよ」
「そういうことじゃないんです」
と、詩織が言った。「|桜木《さくらぎ》さんって方、ご存知ですか?」
「桜木?――もちろん!」
竜崎幸子の顔が、急に|輝《かがや》いたように見えた。|迫力《はくりょく》はあるが、その|笑《え》|顔《がお》の人なつっこさに、詩織は何となく|嬉《うれ》しくなった。
「桜木さんは、私の恩人よ。あの人がいなかったら、今の私はなかったんだから」
「桜木がここへ来なかったか?」
と、花八木が言うと、竜崎幸子が、キッとにらみつける。
「桜木、なんて|呼《よ》び|捨《す》てにすると承知しないよ!」
と、花八木を|叱《しか》りつけておいて、「桜木さんが、どうしてこんな所へ来るの?」
と、詩織の方へ|訊《き》く。
「実は――」
と、詩織がそれまでのいきさつを手短に説明する(もっとも、あまりに複雑で、手短でも一時間近くかかった)。
「――そうだったの」
と、竜崎幸子は、真剣な顔で|肯《うなず》いた。「あの人が東京に……。じゃ、今は保釈の身で?」
「そうだ」
と、花八木が|肯《うなず》く。
「あんたにゃ|訊《き》いてないわよ。――詩織さん、だっけ?」
「はい」
「桜木さんは、きっと、よほどのことがない限り、私の所へは来ないわ」
「どうしてですか?」
「足を洗った人間を|巻《ま》き|込《こ》んだりするのは、あの人の一番いやがることだったからね。まあ、でも、|他《ほか》にどうしても行くところがなくなったら、ここへ来るかもしれないよ」
「もし、来たら……どうします?」
竜崎幸子はニヤリと笑って、
「そりゃ、全財産放り出しても、あの人を助けるわ!」
と、言った。
詩織はすっかり|嬉《うれ》しくなってしまった。
「私も、あのおじさん、いい人だと思ってるんです。ちょっと|一《いっ》|緒《しょ》にいただけですけど、よく|分《わか》ります」
「そう! あんた話せるね! どう? うちへ来て働かない?」
「喜んで!」
と、詩織が調子に乗るのを、|隆《たか》|志《し》があわてて、
「お前、高校生だよ」
と、引き|戻《もど》す。
「じゃ、もし桜木さんから連絡があったら、教えて下さい」
と、詩織が電話番号をメモして|渡《わた》す。
「分ったわ。必ず、あんたに[#「あんたに」に傍点]連絡するから」
「お願いします!」
「一度、ご飯でも一緒に食べようよ! そっちの彼氏も一緒にさ」
彼氏とは、もちろん隆志のことである。
詩織と隆志は、エレベーターの前に来て、
「――すてきな人ねえ。人生の楽も苦も知り|尽《つ》くしてるって感じだわ」
「うん、ああいうおばさんっていいなあ」
「あら。――あの刑事さんは?」
「ここだ」
二人の後ろに、花八木がふてくされた様子で立っている。――完全に無視されて頭に来ていたのだ。
詩織が家へ帰ると、母親の|智《とも》|子《こ》が、
「あら、お帰りなさい」
と、台所から顔を出した。「ねえ詩織」
「なあに?」
「電話があったわよ。ええと――まさかりかついだ|金《きん》|太《た》|郎《ろう》――」
と、|突《とつ》|然《ぜん》智子が歌い出したので、詩織は、|焦《あせ》った。
「ママ! しっかりして! まだ私は学生の身よ! ママの|面《めん》|倒《どう》をみられないわ!」
「何を|騒《さわ》いでるの。ほら、|緑小路《みどりこうじ》金太郎さんから電話があったのよ」
詩織はホッとして、
「だったら、どうして歌なんか歌うのよ!」
「|忘《わす》れないようにと思って、さっきから歌ってたのよ」
そこへ電話が鳴り出す。
「――はい、|成《なる》|屋《や》です」
と、詩織が出ると、
「やあ、緑小路だよ」
と、キザな声が聞こえて来る。「|啓《けい》|子《こ》とは連絡がついたかい?」
「ええ、でも……」
「実は、彼女に、急いで伝えてほしいことがあるんだ。大切なことだ。人の命に――」
「命に?」
と|訊《き》き返したときだった。
ダダダ……。短い連続音が、電話から飛び出して来た。|銃声《じゅうせい》か? 詩織は受話器を|握《にぎ》りしめた。
20 |闇《やみ》のささやき
日曜日、上天気。|爽《さわ》やかな気候。
これだけの条件が|揃《そろ》って、混雑しない遊園地があったとしたら、|即《そく》|日《じつ》、|倒《とう》|産《さん》しているに|違《ちが》いない。
この日曜日、〈××ランド〉は、今年一番の人出で|溢《あふ》れるようだった。
「無茶だ」
と、|隆《たか》|志《し》は言った。
「じゃ、|他《ほか》にどういう方法があるっていうの?」
|詩《し》|織《おり》が|訊《き》き返す。
このパターンの対話が、朝九時の開園以来、すでに三十回以上もくり返されていた。何しろもう昼の十二時を過ぎているのだ。
しかし、入園口前の売店のおばさんも、首をかしげていたに違いない。朝、開園と同時に入って来る客というのは、まず、一番人気のあるジェットコースター(三回転ひねりというやつ)にワッと|駆《か》けつけるか、でなければ、アベック同士のんびり|肩《かた》を組んで、散歩を始めるか、である。
それが、入園して来るなり、売店に来て、
「ミルクセーキ!」
と注文するというのは|珍《めずら》しい。
しかも、店の前のベンチに二人で|座《すわ》ったきり、お昼まで動かないというのは、もっと珍しい……。
隆志がうんざりするのも当然だが、詩織の方は、もっとうんざりしていたのだ。ただ、啓子と、ここで会う|約《やく》|束《そく》をしながら、時間も場所も決めていなかったので、こうして一日中、|閉《へい》|園《えん》まで入口にいれば必ず会えるに|違《ちが》いないという、至って論理的な理由で、こうして|座《すわ》り続けているのだった。
「|俺《おれ》、|腹《はら》|減《へ》ったよ」
と、隆志が言った。
「ちっとも動いてないじゃないの」
「|朝《あさ》|飯《めし》|抜《ぬ》きなんだ。――どこかで食べよう」
「ポップコーン、食べてれば?」
「そんなものじゃ、もたないよ!」
隆志の声は、すでに|悲《ひ》|痛《つう》ですらあった。
「もう少し待とうよ。私たちが席を立ったとたんに、|啓《けい》|子《こ》さんが来るかもしれないわ」
「三時間も、そうやって待ってるんだぜ」
「だからもう少し――」
と言いかけて、詩織は立ち上ると、「じゃお昼を食べに行きましょ」
「え?」
隆志がポカンとしていると、
「どうしたの? お|腹《なか》|空《す》いてるんでしょ?」
「う、うん。でも――いいのか? |交《こう》|替《たい》とかにしなくて」
「いいから、早く!」
と、詩織がジリジリしながらせかせていると、
「やあ! いたな!」
と、|懐《なつか》しい(?)声がして、|花《はな》|八《や》|木《ぎ》刑事がノソノソ二人の方へやって来た。
「だから早く行こうって言ったのに」
「そう言えばいいじゃないか」
と、二人でもめているところへ、
「いやあ、入口を入ってすぐに会えるとは、実に運がいい!」
と、花八木が顔を割り|込《こ》ませて来た。
「何ですか、一体」
と、詩織は|仏頂面《ぶっちょうづら》で、「遊園地に来ちゃいけない、とでも?」
「そうは言わん」
花八木はニヤニヤしている。「しかし、ここで|誰《だれ》かと会う予定かもしれん」
「へえ、誰と?」
「たとえば、そうだな。――マリリン・モンロー」
誰がそんな人に会うんだ! 詩織は頭に来たものの、こうなっては仕方ない。
ともかく、花八木付きの三人組は、昼食を取りに食堂へ向ったのである。
「じゃ、|緑小路《みどりこうじ》さん、無事だったのね?」
と、およそおいしいとは言いかねるカレーを食べながら、詩織は言った。
「うむ」
花八木の方は、味など問題にしないのか、さっさとカレーを平らげてしまっている。
隆志の方は、カレー、プラス、スパゲッティで、さらにラーメンを追加したところだった。
「無事だ」
と、花八木は|肯《うなず》いた。
「良かった! 電話口で、|機関銃《きかんじゅう》の音みたいなのが聞こえたから、びっくりしちゃったのよ」
「あれは、例の三船たちが、|恨《うら》んで不意を|襲《おそ》ったのだ」
「まあ、|卑怯《ひきょう》だわ!」
と、詩織は|憤《ふん》|慨《がい》している。
「ただのおどしだ。本当に殺せば、地元で大変な|抗《こう》|争《そう》になる」
「ともかく、緑小路さんが無事で良かった。――でも、花八木のおっさん」
「何だ?」
「私たちとずっと付き合うつもり? 私たち、これから、ジェットコースターに乗りまくるのよ」
「ほう。|面《おも》|白《しろ》い」
と、花八木はニヤついて、「ああいうものに一度乗ってみたかったのだ」
「あ、そう」
詩織は、隆志にウインクして見せて、「ね、私たち二人とも、あの|浮《ふ》|遊《ゆう》感覚が大好きでね、今度は定期券を買おうかと思ってるの」
「定期券?」
「それで学校へ通おうかと思って」
ジェットコースターが、学校まで行ってるわけがない!
もちろん、詩織としては、花八木を|追《お》っ|払《ぱら》いたいので、そんなことを言っているのである。どっちかというと、あの手のスピード感|溢《あふ》れる乗物は、好きじゃない。
しかし、ここは一つ、平気な顔で乗ってやらなきゃ!
「行こう!」
と、立ち上る。「いざ!」
――|出陣《しゅつじん》、というムードで三人は、ジェットコースターの行列に|並《なら》んだ。
待つこと二十分。――これでも短い方だった。ちょうど昼食時間で、少し|空《す》いて来ていたのだ。
「はい、どんどん乗って」
と係の男も|汗《あせ》だく。
順番の関係で、詩織は花八木と二人で並んで乗るはめになった。
「――|面《おも》|白《しろ》そうだ」
と、花八木は|握《にぎ》り|棒《ぼう》にもつかまらず、|腕《うで》|組《ぐ》みをして、「|昼《ひる》|寝《ね》ができそうだな」
「私も楽しくて歌いたくなるの」
ゴー、ゴトゴト……。
ゆっくりと、車両が動き出した。
「――貧血を?」
と、遊園地の医務室の医者は、大して|驚《おどろ》いてもいない様子だった。
「ええ。――ジェットコースターから|降《お》りたらバッタリ」
「よくあるやつだよ」
固いベッドに引っくり返っているのは、隆志だった……。
「若いくせにだらしがない」
と、花八木は平然としている。
「少し|寝《ね》かせときゃ、よくなるさ」
と、医者は|肩《かた》をすくめた。
「じゃ、|後《あと》で|迎《むか》えに来ますから、よろしく」
と、詩織は言って、医務室を出た。
全くもう! 隆志ったら!
「次はどこへ行くんだ?」
と、花八木はニヤニヤしている。
「そうね」
と、詩織はちょっと考えて、「そうだ。私〈お|化《ば》け|屋《や》|敷《しき》〉って大好きなの」
「いいな! 私も昔から、お化けのファンだった」
「そう」
「入江たか子の|化《ば》け|猫《ねこ》は|怖《こわ》かった」
あんたの顔に比べりゃ、と詩織は言ってやりたかった。
「――あれだわ」
何とも旧式な〈お化け屋敷〉である。
「よし、入ろう」
どうやら花八木は、本当に楽しんでいるようだ。
結構子供っぽいとこあんのね、と詩織は笑いたくなってしまった。
ま、〈お化け屋敷〉ってのは、暗くてうるさい、というだけで、怖くない所が多いものだ。
ここも例外ではなかった。出て来るものが古い。
お|岩《いわ》さん、一つ目|小《こ》|僧《ぞう》、カラ|傘《かさ》のお化け……。もう少し新しいお化け(ってのもおかしいが)がないものか。
と、思って、暗い所を|手《て》|探《さぐ》りしながら歩いていると、|突《とつ》|然《ぜん》、パッと手をつかまれた。
花八木め! 暗がりだと思って、このエッチ!
と、|振《ふ》り向くと、
「こっち、こっち」
と、|囁《ささや》く声は、何と啓子のものだった!
21 お|化《ば》け|屋《や》|敷《しき》
|詩《し》|織《おり》は少々のことではびっくりしないが、さすがに、〈お化け屋敷〉で|啓《けい》|子《こ》に会おうとは思わなかった。
「あの――啓子さん、私、刑事と|一《いっ》|緒《しょ》にいるのよ!」
と、詩織は小さな声で言った。
「|分《わか》ってますわ」
何しろやたらに暗いので、啓子の|姿《すがた》もぼんやりとしか見えない。
「|大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
「あの刑事さん、今、道に|迷《まよ》ってウロウロしてるから……。こっちに来て」
「そう」
何だかよく分らなかったが、ともかく啓子に手を引かれるままに歩いて行くと――ガイコツの出て来る古井戸の|裏《うら》|側《がわ》の方へ回り、|壁《かべ》を|押《お》すと、そこがクルリと回って、アッと思った時には、詩織は、何の|変《へん》|哲《てつ》もない|部《へ》|屋《や》の中に立っていた。
安っぽい|椅《い》|子《す》とテーブル、そしてコーラの自動|販《はん》|売《ばい》|機《き》なんかが置いてあるだけの、|殺《さっ》|風《ぷう》|景《けい》な場所である。
「ここ、何なの?」
と、詩織が|振《ふ》り向くと――白いドレスに、血が散って、口から|鋭《するど》い|牙《きば》をむき出した|女吸血鬼《おんなきゅうけつき》が立っていた。
「キャーッ!」
と、詩織が|腰《こし》を|抜《ぬ》かす。
「ごめんなさい。――私、啓子です」
と、その女吸血鬼が、口から牙を|外《はず》して、|金《きん》|髪《ぱつ》のカツラを取った。
「――ああ、びっくりした!」
詩織は、まじまじと|眺《なが》めて、「本当だ! 啓子さんね……」
「ここで働いてるの。ごめんなさいね。もっと|詳《くわ》しく説明しておけば良かったですね」
「そんなこといいけど……」
詩織はやっとこ立ち上ると、「この部屋は?」
「|休憩室《きゅうけいしつ》。――|交《こう》|替《たい》で休まないと、|疲《つか》れちゃうでしょ」
啓子は、|椅《い》|子《す》を引いて、「|座《すわ》って下さい。何もないけど――コーラでも飲みます?」
「いただくわ」
詩織は、まだ|胸《むね》がドキドキしていた。
なるほど、ここで待ち合せるといっても、働いている場合もあるわけだ。そんなこと、考えてもみなかったけど。
「――あの、|隆《たか》|志《し》さんって人、|一《いっ》|緒《しょ》じゃなかったんですか?」
と、啓子が|訊《き》いた。
「今、医務室で|寝《ね》てるわ」
詩織が説明すると、啓子は|愉《たの》しげに笑った。
「情ない人、全く!」
と、詩織の方は|腹《はら》を立てている。
「デリケートな人なんですね」
「ま、そういう言い方もあるけど」
と、詩織は|肩《かた》をすくめて、「あの刑事、|大丈夫《だいじょうぶ》かなあ」
「しばらく大丈夫です。さっき、あの人が来たとき、順路の矢印を逆にしておいたんです。同じ所をグルグル回ってますわ」
「ハハ、|面《おも》|白《しろ》い」
詩織は|愉《ゆ》|快《かい》になって、手を打った。
「色々ご|迷《めい》|惑《わく》かけたようで、すみません」
と、啓子が頭を下げる。
「そんなこといいけど。ねえ、一つだけ教えてほしいことがあるの」
「トイレはこの|裏《うら》ですけど」
「ありがとう。――いえ、そんなことじゃなくて……。あなた、|種《たね》|田《だ》って男を殺したの?」
そうなのだ。詩織はその点だけが気になっていた。
いや、もちろん、|他《ほか》にも色々気になっていることはあった。このコーラのお金は|払《はら》った方がいいのか、とか、今夜のおやつはどこで買って帰ろうか、とか……。
しかし、こと、啓子に関して一番気になっていたのは、果して啓子が「人殺し」なのかどうか、という点であった。
まあ、種田という男、あまり殺されても文句の言える人間じゃなかったのは事実だろうが、それでも殺していい、ということにはならない。
「種田のことですか」
と、啓子が、ちょっと目を|伏《ふ》せた。「私……残念でした。殺そうと思ってたのに、もう先に|誰《だれ》かが――」
「先に? |他《ほか》の人間が殺したの?」
詩織は勢い込んで言った。
「ええ。でも、今度はしくじらないつもりです」
「しくじらない?」
「ええ、この次の|奴《やつ》は必ず私が殺してやります」
「ちょっと――ちょっと待ってよ! あなたまだ――」
と、詩織が言いかけると、例の回転ドアが開いて、
「ああ、くたびれた!」
と、〈お|岩《いわ》さん〉が入って来た。「休みなしだもんな、たまんねえよ」
アルバイトの学生か何かだろうとは|分《わか》っていても、やはり一瞬、ギクリとする。
「――あれ、この子、何?」
と、そのお岩さんは、コーラの|缶《かん》を手に、|椅《い》|子《す》にかけるとタバコをふかし始めた。
「私の友だち」
と、啓子が言った。
「そうか。何のお|化《ば》けだったかな、って考えちゃったよ」
失礼ね! 私のどこがお化けよ!
詩織はムッとした。こんなに|可《か》|愛《わい》い、美人のお化けがいるもんですか。
「二人も休んでるとまずいわ」
と、啓子が立ち上った。「じゃ、詩織さん、ちょっと待ってていただけます?」
「私も見てていい? |面《おも》|白《しろ》そう」
「どうぞ」
啓子は、カツラをつけて、口の中へ、|牙《きば》を|押《お》し|込《こ》んだ。「――しゃべりにくくって」
何だかモゴモゴするのも当然だろう。
詩織は、暗がりの中から、こわごわ通っていく客たちを|眺《なが》めていた。
なかなか|面《おも》|白《しろ》いみものである。
やたら強がって、
「何でえ、こんなもん」
とか言ってる男が、|首《くび》|筋《すじ》を|柳《やなぎ》の葉でなでられると、
「キャーッ!」
と飛び上ったりする。
中にはデートコースと|間《ま》|違《ちが》えて、長々と|抱《だ》き合ったりしてるアベックもいて、バイトのお|化《ば》けが、やっかみ半分、ワーッとおどかしたりしている。
さて……。|花《はな》|八《や》|木《ぎ》はどうしたのだろう?
詩織は、きっともう外へ出て待ってるんだわ、と思ったのだが。
「――あの|遠《とお》|吠《ぼ》えは?」
と、通りかかったアベックの女の方が言った。
「オオカミだろ」
「でも、何か変な声よ」
「テープが|伸《の》びちまったのさ」
――そう。何だかおかしな声だった。
「出してくれ!――おい、|誰《だれ》か来てくれ!」
というようにも聞こえた……。
「あれ、花八木だわ」
と、詩織は|呟《つぶや》いた。「まだ同じ所をグルグル回ってるのかしら?」
と――|突《とつ》|然《ぜん》、メリメリ、バリバリ、という音がして、ベニヤ板の|壁《かべ》が裂けた。
「キャーッ!」
と、女の子が|悲《ひ》|鳴《めい》を上げた。「何か出て来た!」
「ゴリラよ!」
「|違《ちが》うわ! フランケンシュタインだわ!」
やばい、と思った。
花八木が、ハアハア息をつきながら、現れたのだ。
「|畜生《ちくしょう》! どこへ|隠《かく》れた!」
まずいわ。詩織は、啓子の方へ、
「また来るわね!」
と、声をかけると、ノコノコ出て行った。「あら、刑事さん! どこに行ってたの?」
「お前か! 私をあんな所へ|閉《と》じこめて」
「閉じこめたりしないわよ。だって、いつの間にかいなくなっちゃうんだもの。――さ、もう出ましょ」
詩織に|腕《うで》など取られて、花八木もはぐらかされてしまった様子。
二人で歩いて行くと、今|逃《に》げて行った女の子たちが見付けて、
「あら、見て! フランケンシュタインが」
「あの女の子は?」
「フランケンシュタインの|花《はな》|嫁《よめ》じゃないの?」
詩織は頭に来た。
私がなんでこんなのの花嫁なのよ!
「あのね」
と、詩織は|訂《てい》|正《せい》してやることにした。「これは〈美女と|野獣《やじゅう》〉なの!」
22 コーヒーのシャワー
|詩《し》|織《おり》は、啓子が〈|女吸血鬼《おんなきゅうけつき》〉の役をやっているお|化《ば》け|屋《や》|敷《しき》から、やっと|花《はな》|八《や》|木《ぎ》刑事を引っ張り出した。
「ああ|怖《こわ》かった! ねえ、刑事さん」
と、少しオーバーに花八木にもたれかかって見せたりして、「もう二度とこんな所、来たくないわ」
「何だ、さっきは大好きなようなこと、言ってたじゃないか」
「そ、そうでした?」
「|怪《あや》しいぞ。さては、ここから私を引き|離《はな》す気だな」
花八木の言葉に、詩織はドキッとした。
「そんなの、考え過ぎです!」
「あわてるところを見ると、ますます怪しい。――そうか! 読めたぞ!」
花八木は、ちょっと|見《み》|得《え》を切って、「問題の|娘《むすめ》が、このお化け屋敷でアルバイトをやっているのだな? たぶん、お|岩《いわ》さんとか女吸血鬼とか」
これには詩織も|焦《あせ》った。まさか花八木のカンが、ここまで|鋭《するど》いとは、思ってもみなかったのだ。
どうしよう? 花八木をのして[#「のして」に傍点]気絶させ、スルメにするか――いや、イカじゃなかったんだ。啓子が|逃《に》げのびるまで、何とか花八木を引き止めなくては。
場合によっては、殺してでも――なんて、詩織が|物《ぶっ》|騒《そう》なことを考えていると、花八木がワハハ、と笑って、
「そんなことがあるわけがないな。それじゃまるで小説だ。おい、どこかで何か食おう。|腹《はら》が減った」
詩織はホッとしながらガックリ来た。ま、花八木に関する認識を改める必要がなかったというのは、結構なことである。
さっき、お昼をたっぷり食べたばかりじゃないの、と思ったが、ここは素直に、
「そうね。私もそう思ってたんです」
と言った。
詩織たちは、ホットドッグやコーヒーを売っているカウンターの方へとやって来た。
「ここは私が|払《はら》おう」
と、花八木が|珍《めずら》しいことを言い出した。
「でも――」
「心配するな」
と、花八木は|胸《むね》を張って、「さあ、いくつでも食べていいぞ」
いくつでも、ったってね……。ホットドッグやらハンバーガーを、二つも三つも食べられやしない。
「私、飲物だけでいいです」
と、詩織は言った。「ともかく、列に|並《なら》ばないと」
「うむ。では私にホットドッグを二つとコーラを買って来てくれ」
何よ、要するに人に並んで買わせよう、ってんじゃないの!――飲物|一《いっ》|杯《ぱい》じゃ合わないわ。
そうグチりつつ、詩織は列の後ろについた。何しろ|凄《すご》い人出なので、カウンターの前も|長蛇《ちょうだ》の列――というのは少々オーバーかもしれないが、まあ十分や十五分は待たされそうだった。
「ええと……何にしようかな」
珍しく花八木がおごるというのだから、できるだけ高いものにしてやろう、と思った。
しかし――|渡《わた》されたのは|千《せん》|円《えん》|札《さつ》|一《いち》|枚《まい》で、花八木のホットドッグとコーラの分を引くと、結局、詩織の分はコーラかアイスコーヒーぐらいしか買えない計算になるのだった。
ま、いいや。
それにしても――花八木と|一《いっ》|旦《たん》はここを出なきゃ。そして、ここが|閉《し》まってから、もう一度、啓子と話をするのだ。
啓子が一体|誰《だれ》を殺そうとしているのか。詩織は不安だった。
そうだわ、こんな所に|呑《のん》|気《き》に|並《なら》んでる場合じゃない! でも、並んでるんだけど……。
あと三人くらいで、順番が回って来る、という時だった。
「おい、アイスコーヒー七つ!」
と、|突《とつ》|然《ぜん》前の方へ割り込んだ男がいる。
「ちょっと! 並んでくれよ」
と、ヒョロリとした学生らしい男の子が文句を言うと、
「うるせえ!」
白いスーツのその「割り込み男」がジロッとにらんで、「文句があるのか!」
と、|凄《すご》んだ。
「い、いえ――どうぞ」
男の子が、二、三歩後ずさりする。
それも無理はないので、何しろ相手は見るからにおっかないヤクザである。しかし……。どこかで見たような、と詩織は首をかしげた。
「早くしろ! 親分が待っておいでなんだ!」
せかされて、カウンターの中のバイトの女の子も、|焦《あせ》っている。
詩織は周囲を見回した。――と、まぶしく光を|反《はん》|射《しゃ》しているもの……。
「あ!」
反射していたのは、白いスーツの|丸《まる》|坊《ぼう》|主《ず》だった。
|三《み》|船《ふね》だ! 詩織の所へ|押《お》しかけて来て家具を|壊《こわ》し、家を引っくり返そうとした連中である。
あの時は、手下も三人だけだったが、|今日《きょう》は、ズラリ五人も|揃《そろ》えている。いや、今、アイスコーヒーを買っているのを加えると六人だ。
「おい、|盆《ぼん》にのせろ!」
七つも手で持てるわけがない。
「あの……お盆、ないんですけど」
と、バイトの女の子が言うと、
「じゃ、お前が|一《いっ》|緒《しょ》に運んで来い」
「は、はい……」
|可《か》|哀《わい》そうに!――詩織は|震《ふる》え上っているその女の子を見て、つい同情してしまった。
同情すると、後先も考えずに行動するのが詩織のくせ[#「くせ」に傍点]である。
「私、持ってあげるわ」
と、進み出た。
「ほう、感心だな」
と、男が言った。「よし、|俺《おれ》が二つ持つから、お前、五つ持て」
そんな不公平な!――しかし、意地になった詩織は、両手でアイスコーヒーの紙コップを五つ、ギュッと|挟《はさ》むようにして持つと、男の後をついて行った。
三船は、木かげのベンチにドカッと|腰《こし》をおろしている。
「――親分、アイスコーヒーです」
「|遅《おそ》いじゃねえか! 早くよこせ」
「はい」
詩織は、三船の方へ、紙コップを一つ差し出そうとしたが……。五つも持っていて、その内の一つを差し出すというのは、非常にむずかしいのである。
おっとっと……。
ツルッ、と手がすべった。アッと思った時には、アイスコーヒーの紙コップは次々に詩織の手の中から飛び出して――もろ[#「もろ」に傍点]に三船の頭からコーヒーが|降《ふ》り|注《そそ》いだのである。
――やばい! 詩織は、青ざめた。
三船は、ツルツルの頭を、さらに光らせて、じっと|座《すわ》っていた。
「――あ、こいつ!」
と、子分の一人が詩織に気付いた。「あの家の|小娘《こむすめ》だ!」
「そうか……」
三船がギュッと|拳《こぶし》を固める。「――いい|度胸《どきょう》だな」
「あ、あの――ごめんなさい」
詩織としても、相手はともかく、コーヒーを頭からかけてしまったことは反省していたのである。
「わざとやったとしか思えねえな」
気が付くと、三船の子分たちが、グルッと詩織を取り囲んでいる。さすがに詩織も|焦《あせ》った。
花八木は? すぐそばにいるはずなのに!
「私に何かしたら、すぐ近くに刑事さんがいるのよ!」
と、詩織が言った。
「そうか。じゃ、|呼《よ》んでみろ」
「刑事さん! 花八木さん!」
と、詩織は|叫《さけ》んだ。
たちまち花八木が|駆《か》けつけて――は来なかった。なぜか、一向に返事がない。
「どうやら、風をくらって|逃《に》げたらしいぜ」
と、子分の一人が笑った。
もう! |肝《かん》|心《じん》の時になるといないんだから!
「このスーツ、どうしてくれる?」
と、三船が言った。
白いスーツが、コーヒーの色で、ぶち[#「ぶち」に傍点]の犬みたいになっちゃっているのだ。
「クリーニングに出せば、落ちると思いますけど」
と、詩織は言った。
「|面《おも》|白《しろ》い。お前も|一《いっ》|緒《しょ》に|洗《せん》|濯《たく》|機《き》に放り込んでやろうか。おい、こいつをひねっちまえ」
|簡《かん》|単《たん》にひねられてたまるか!
詩織は思い切って、正面の三船に体当りした。
23 追いつめられて
ここで|詩《し》|織《おり》が|大《だい》|活《かつ》|躍《やく》、たちまち|三《み》|船《ふね》とその六人の子分をのしてしまった、と来れば、お話の方は|簡《かん》|単《たん》だが、いくら小説でもそこまで都合良くはいかない。
詩織は別に|空《から》|手《て》の有段者でも、|柔道《じゅうどう》の黒帯でもないのだ。
ま、「空手」よりは「|空《くう》|腹《ふく》」、「黒帯」よりは「腹帯」の方に|縁《えん》がある(小さいころ、よくオヘソを出して|寝《ね》ていて、お|腹《なか》をこわしたので)。が、これじゃ、敵をやっつけるわけにいかない。
「エイッ!」
と、三船に体当りした詩織、そこは体重の差で、ドン、とはね返されてしまった。
「キャッ!」
と、|悲《ひ》|鳴《めい》を上げて、|尻《しり》もちをつく。
「勇ましいこった」
と、三船は笑った。「おい、せっかくこんだけ見物人が大勢いるんだ。|裸《はだか》にひんむいてサービスしてやれ」
「な、何よ! お|巡《まわ》りさんが来るわよ!」
詩織が強がっても、首ねっこをつかまれてギュッと引っ張り上げられると、首の|辺《あた》りが苦しくなって、目を白黒。
|哀《あわ》れ、ここで詩織も|一《いっ》|巻《かん》の終り――かと思うと――。
ゴーン……。
季節|外《はず》れの除夜の|鐘《かね》みたいな音がしたと思うと、詩織の体がまた重力に任された。つまり、落下した。
「|逃《に》げるんだ!」
ぐい、と手首をつかまれる。――|隆《たか》|志《し》だった!
子分の一人が、ウーンと|唸《うな》り声を上げて引っくり返る。
隆志が、その辺の|屑《くず》|入《い》れ(鉄の大きな|缶《かん》みたいなものである)で、ぶん|殴《なぐ》ったのだ。
詩織は、あわてて立ち上ると、引っ張られて走り出した。
「隆志!」
「急げ!」
二人が、人ごみをかき分けて|駆《か》けて行くと、三船の方も、やっと|怒《おこ》り出したのか、
「おい! 逃がすな!」
と、|怒《ど》|鳴《な》った。
ワーッと子分たちが詩織と隆志を追って|駆《か》け出す。
「どいてくれ!」
何しろ人が多くて、思うように逃げられないのだ。隆志が大声を出しながら、走る。
「隆志! そっちは――」
「あそこへ逃げ込もう!」
隆志が、走りながら、指さしたのは――何と、あの〈お|化《ば》け|屋《や》|敷《しき》〉だった!
「あ、だめ! あそこはだめ!」
と、詩織は|叫《さけ》んだ。
「だめって、どうして!」
「だって――」
事情をゆっくり説明している|暇《ひま》はない。
「ね。じゃ|他《ほか》の方へ!」
と詩織は言ったが、三船の子分たちで足の速いのが、何人か先へ回って、正面から駆けて来るのが見えた。
「まずい!」
やっぱり、〈お化け屋敷〉しかない!
二人は、仕方なく、〈お化け屋敷〉へと飛び|込《こ》むことにした。
「入場券は?」
「そんなもん、いいよ!」
「だけど――」
詩織としては、少々気になったのだが、この際、そんなことは言っておられない、というのも事実だったので、やむを得ず、入口から飛び込んだ。
「――ああ、参った!」
隆志がハアハア息をついている。
「私だって……。でも、追いかけて来るわよ!」
「|分《わか》ってるけど……。少し休まないと」
「休む?――そうだ!」
詩織は、中を進んで行くと、さっき|啓《けい》|子《こ》が連れて行ってくれた|休憩室《きゅうけいしつ》を|捜《さが》した。
「ええと……確かこの辺だわ」
|女吸血鬼《おんなきゅうけつき》の|姿《すがた》はなかった。休んでいるのかしら?
「おい、どこへ行くんだよ?」
「いいから。――こっちだわ、確か」
手を引っ張って、詩織は古井戸の|裏《うら》|手《て》へ回った。「この壁を――」
壁を|押《お》すと、クルリと回って休憩室へ出る。中は|誰《だれ》もいなかった。
「おい、どうしてこんな所、知ってるんだよ?」
と、隆志がびっくりしている。
「さっきね。鬼に案内してもらったの」
暑い! コーラでも飲もう。
「|呑《のん》|気《き》な|奴《やつ》だな」
「何よ。大体、あんたが貧血起してのびちゃうからいけないんでしょ!」
隆志が貧血を起したことと、三船に追われたことは、一応関係ないはずだが、こう言えば隆志としても、何も言い返せない、と分っているのである。
「そりゃ……人間、誰だって、欠点ってのはあらあ」
と、隆志はブツブツ言っている。
「それより、啓子さん、どこへ行ったのかしら」
「あの女の子? 会ったのか?」
「ここ[#「ここ」に傍点]でね。女吸血鬼になってたの」
隆志は、|一瞬《いっしゅん》青ざめた。本当の吸血鬼に変身したのかと思ったのである。
「それより、|花《はな》|八《や》|木《ぎ》の|奴《やつ》! |肝《かん》|心《じん》の時になるといなくなるんだから! 全く!」
コーラをぐっと飲むと、詩織は|腹《はら》|立《だ》たしげに言った。
「だけどさ――」
と、隆志が言いかけた時、
「おい! |徹《てっ》|底《てい》的に|捜《さが》せ!」
と、|怒《ど》|鳴《な》る声がした。
「来たよ」
「そうね」
「どうする?」
「知らない」
「お前――」
隆志が|唖《あ》|然《ぜん》として、「先のことも考えないで、ここへ飛び|込《こ》んだの?」
「あら、ここへ来たらって言ったのは隆志じゃない」
「そりゃそうだけど……。|俺《おれ》はただ、ここを通り|抜《ぬ》けて|逃《に》げるつもりだったんだ」
「私、ただ|喉《のど》が|乾《かわ》いたから、コーラが飲みたかっただけだもん」
と、詩織が言っている間にも、
「おい! 構わねえ、どこでも|叩《たた》き|壊《こわ》して、捜すんだ!」
と、声がして、ドタン、バタン、バリバリ……。
あちこちぶっ壊している音が聞こえて来た。
「どうするんだよ! ここも見付かっちまうぞ」
「じゃ――私が悪いって言うの? 何もかも私のせいだと……」
詩織の目から|大《おお》|粒《つぶ》の|涙《なみだ》が――。
「|分《わか》った! お前のせいじゃない!」
隆志はあわてて言った。「本当だ。悪いのは|俺《おれ》だ!」
「そう?」
「そうだ」
「じゃ、何もかも?」
「何もかも」
「メス|猫《ねこ》にヒゲがあるのも?」
「ああ、俺が悪い! ともかく泣くな! ここから、何とかして|逃《に》げ出さないと……」
だが――|遅《おそ》かった。
二人が入って来た入口の|壁《かべ》が、ドン、という音と共に|押《お》し|倒《たお》されて、三船の子分が二人、目の前に立っていたのである。
「いたぞ!」
と、一人が|怒《ど》|鳴《な》った。「おい、こっちだ!」
|他《ほか》の子分たちも集まって来る。
「ちょうどいいや。ここなら|悲《ひ》|鳴《めい》を上げたって、|誰《だれ》にも聞こえないぜ」
と、一人が笑った。「手間、かけさせやがって」
「詩織」
と、隆志が言った。「僕が|闘《たたか》ってる間に、|逃《に》げるんだ!」
「でも――」
「いいか!」
隆志が、ワーッと|叫《さけ》びながら、|突《つ》っ|込《こ》んで行くと――ガツン、と音がして、隆志は一発でのびてしまった。
これじゃ、詩織の逃げる間がない。
「この|娘《むすめ》の方だ、用があるのは」
「――コーラ、飲まない?」
と、詩織は言ってみた。
その時、
「大変だ!」
と、叫び声がした。
あの、さっき隆志にのされた子分である。
「おい、大変だ! 親分が――親分が、殺された!」
それを聞いて、詩織もびっくりしたのだった……。
24 |葬《そう》|送《そう》の情景
「一体……だ、|誰《だれ》が殺したんだ!」
「知らない……わよ!」
「私は……」
「|肝《かん》|心《じん》の時に、どこへ行ってた……のよ!」
「私は……トイレに……行ってたのだ!」
――|詩《し》|織《おり》と|花《はな》|八《や》|木《ぎ》刑事の対話である。
なぜ、やたらに「……」が入っているかというと、|三《み》|船《ふね》の殺された現場周辺、もの|凄《すご》い人だかりで、とても静かに話のできる|環境《かんきょう》ではなかった。従って、詩織と花八木は、何とか人ごみから外へ|抜《ぬ》け出そうと、いつ果てるとも知れない人の海の中をかき分けて進んでいたのである。
その間に話をしていたので、どうしても|途《と》|切《ぎ》れ途切れになってしまうのだ。
「――出た!」
やっと|人《ひと》|垣《がき》から外へ出て、詩織はフウッと息をついた。
それにしても、三船までもが殺されてしまうとは、一体どうなっているのだろう?
もちろん、詩織はそのおかげで命拾いをしたのだ。もし、三船の子分が、|駆《か》けつけて来て、
「親分が殺された!」
と|叫《さけ》ばなかったら、今ごろ詩織は無事ではいなかっただろう。
それを考えると、確かにゾッとする。しかし、詩織は過ぎたことにこだわらない性格だった。
「おい!」
と、やって来たのは|隆《たか》|志《し》だった。
「あら、何やってたの?」
そういえば、隆志は、三船の手下にのされて、〈お|化《ば》け|屋《や》|敷《しき》〉の|休憩室《きゅうけいしつ》の|床《ゆか》でのびていたのだ。詩織はすっかり|忘《わす》れていたのである。
「そりゃないぜ」
と、隆志は、あざ[#「あざ」に傍点]のできた|顎《あご》をなでながら、「お前を守るために、命を張ったのに」
「その割に、すぐのびちゃったじゃない」
思いやりのある|恋《こい》|人《びと》らしい詩織の言葉に、隆志はぐっと|詰《つま》った。
「ま、まあ――そいつはともかく、無事で良かった」
「でも、三船が殺されたわ」
「うん、今聞いてびっくりした。どうしたんだ?」
「私だって知らないわよ」
と、詩織は|肩《かた》をすくめた。「ともかく、手下たちはみんな、私たちを追いかけてたわ。一人だけ、隆志の|殴《なぐ》った|奴《やつ》が、のびてたわけね。で、それがやっと気が付いて起き上ってみると、親分は、ベンチに|座《すわ》って、|居《い》|眠《ねむ》りしてるみたいだった。で、その手下が|肩《かた》でもももうかと思って、後ろへ回ると、三船の|背《せ》|中《なか》にナイフが|突《つ》き立ってた、ってわけよ」
「眠ってる時に肩もむのか? 目を|覚《さ》ましちまいそうだな」
「そんなことより!――いい? また、あの人の|姿《すがた》が消えてるのよ」
「あの人って?」
「|啓《けい》|子《こ》さんに決ってるでしょ!」
「あ、そうか。〈お|化《ば》け|屋《や》|敷《しき》〉で会ったって言ったな」
「しっ!」
詩織は、あわてて|振《ふ》り向いた。花八木がついて来ていたのを思い出したのだ。
しかし――花八木は、まだ|人《ひと》|垣《がき》の中を|脱出《だっしゅつ》し切れない様子だった。
「おかしいわ。――|途中《とちゅう》で|潰《つぶ》れちゃったのかしら?」
「|簡《かん》|単《たん》に潰れるか」
二人でそう言っていると、人垣を|押《お》し分けて、ゴリラが――いや、花八木が顔を出した。|真《まっ》|赤《か》な顔で、ハアハア言っている。
「どうしたの? 途中でバーにでも寄ってたの?」
詩織は、|我《われ》ながらいいジョークだ、と思った。
「足を|踏《ふ》んだ、と|絡《から》まれたのだ」
花八木は、|憤《ふん》|然《ぜん》として、「踏んどらん、と言ったのに、信用せんのだ。全く、この|純潔無垢《じゅんけつむく》な人間の言うことを信じないとは……」
「で、|納《なっ》|得《とく》してもらったの?」
「こっちが、足をいやというほど踏まれた」
詩織は、|吹《ふ》き出しそうになるのを、必死でこらえた。
――その時、やっとサイレンの音が、近付いて来た。中で、死体に人を近付けまいと必死になっている|警《けい》|官《かん》はホッとしているだろう。
と――警官の気が|緩《ゆる》んだのか、それとも人垣の押して来る圧力に|堪《た》え切れなくなったのか、人垣が、ドドッと内側へ|崩《くず》れたのだった……。
「おい」
と、隆志が詩織をつついた。
「何よ」
「いいのかよ、|黙《だま》ってて」
「何のこと?」
「もちろん、あの子のことさ」
詩織だって、隆志に言われるまでもなく、分っちゃいるのである。
「だって……今さら言える?」
「うん。――だから、初めから言っときゃ良かったんだ」
「今さら|遅《おそ》いわ」
と、詩織は言った。
確かに、遅い時間だった。といっても、夜中ではないが、この遊園地が|閉《し》まってもう二時間近くたつ。
やっと、客の|姿《すがた》もなくなり(当然のことであるが)、|警《けい》|察《さつ》も落ちついて現場検証をすることができたのだった。
「――なっとらん!」
と、花八木が、ふてくされた顔でやって来た(つまり、いつもの顔で、ということだ)。
「何を|怒《おこ》ってるの?」
「全く、ここの警察は何をしとるんだ? 容疑者が帰るのを、|黙《だま》って見ているとは」
「容疑者って?」
「ここへ入園していた人間は、全部容疑者だ。当然、足止めして、調べるべきだった」
無茶言って!――何万人いたと思っているのだろう。
しかし――正直なところ、詩織も気が重いのである。
つまり、三船を殺したのが、啓子らしいからだ。いや、別に啓子だという|証拠《しょうこ》はない。しかし、まさか三船と何の関係もない人間が、
「せっかく来たんだ。ついでに一人、人でも殺して帰ろうか」
てな具合で三船を|刺《さ》し殺したとは思えないし、何かちょっとした|間《ま》|違《ちが》いで、手にしていたナイフを三船に刺してしまい、
「あら、いけない。ごめんなさいね」
ということも……あまり考えられない。
そうなると、やはり、犯人は啓子、という可能性が高くなる。
〈お|化《ば》け|屋《や》|敷《しき》〉から、いつしか啓子の|姿《すがた》は消えていたのだし……。
詩織は、花八木に言った。
「犯人の目星はついたの?」
「ついたか、だと? このベテラン刑事を何だと思ってるんだ」
「じゃ、|誰《だれ》だか分ってるの?」
「もちろん」
花八木は|肯《うなず》いた。「犯人は|緑小路《みどりこうじ》だ」
これには詩織もびっくりした。
「あの――|金《きん》|太《た》|郎《ろう》さん?」
「そうとも。三船は緑小路に|機関銃《きかんじゅう》をお|見《み》|舞《まい》した。緑小路がその仕返しをするのは当然のことだ」
なるほど。――詩織も、花八木の説に、一理あることは、認めないわけにはいかなかった。この人も、まんざら|馬《ば》|鹿《か》じゃないんだわ。
「しかし――」
と、花八木は考え|込《こ》んで、「なぜナイフを使ったのかな、金太郎ならまさかり[#「まさかり」に傍点]だが」
やっぱり馬鹿なのかもしれない。
「死体を運び出します」
と、係官たちが、三船の死体を|担《たん》|架《か》にのせて、白い布で|覆《おお》うと、運んで行った。
それを、三船の手下たちが、一列に|並《なら》んで見送っている。――中にはグスグスと|涙《なみだ》ぐんでいるのもいて……。
ま、三船のことなんかちっとも悲しんじゃいないのだが、詩織は、それを見て、またしても涙ぐむのだった。
「――よし!」
と、手下の一人が|怒《ど》|鳴《な》った。「このかたき[#「かたき」に傍点]は|討《う》ってやる! 行くぞ!」
「オー!」
と、声を合せ、|拳《こぶし》を|振《ふ》り上げると、ゾロゾロ歩いて行く。
何だか労働組合の決起集会みたいなムードだった。
「これは、えらいことになる」
と、花八木が言った。
「どうして?」
「ボスを殺されてはな。|面《メン》|子《ツ》ってものがある。全面戦争に突入するかもしれない」
詩織も、そこまでは考えていなかった。
――うちは|大丈夫《だいじょうぶ》かしら?
また引っくり返されたりしないだろうか。詩織は、|専《もっぱ》らそのことばかり、気にしていた。
25 食い止める|隆《たか》|志《し》
「――|疲《つか》れた」
と、|詩《し》|織《おり》は言った。
「|俺《おれ》だって……」
隆志が言った。
二人は、|成《なる》|屋《や》家の居間に入ってから、それぞれその一言ずつを発しただけだった。
「――二人とも、|今日《きょう》はずいぶんおとなしいのねえ」
と、母親の|智《とも》|子《こ》が|紅《こう》|茶《ちゃ》などいれてくれる。
「ママ……」
「なあに? 何かくれるの?」
「どうして私がママに何かあげるの? その前に出してくれるものがあるんじゃない?」
「そうだった? 年賀状とか暑中|見《み》|舞《まい》?」
全く、どこまで本気なのか……。
「夕ご飯よ! お|腹《なか》ペコペコなの!」
「あ、なんだ、そうならそうと言えばいいじゃないの」
と、智子は笑って、「じゃ、隆志さんも?」
「ええ……。もしよろしければ」
隆志としては|精《せい》|一《いっ》|杯《ぱい》の|遠《えん》|慮《りょ》である。
「そう。それじゃ、|困《こま》ったわね」
と、智子は言った。
「困った、って――ママ、何かあるんでしょ、食べるものくらい」
「それが今日は、残りものを全部きれいに平らげちゃったもんだから……。パンの耳ならあるけど」
「私、ウサギじゃないのよ!」
と、詩織は言った。
まあ、何とか、お|寿《す》|司《し》の出前を取る、ということになって、詩織と隆志は、|辛《かろ》うじてあと二十分ほどの|空《くう》|腹《ふく》を|堪《た》えることができたのだった。
お寿司が来ると、智子はお茶をいれて来たが、その間に、もう二人とも、三分の二は食べ終っていた。
「――しかし」
と、隆志が、やっと生き返った様子で、「あの|三《み》|船《ふね》も殺されて、何だか着々とやられてくって感じだなあ」
「うん……。まあ、やられて|惜《お》しいってほどの人じゃないけど、でも、やっぱり殺すのは感心しない」
「そりゃそうだ。本当にあの|啓《けい》|子《こ》って子がやったのかな」
「|分《わか》んないわよ。私はあの子じゃないんだから」
詩織は、しごくもっともなことを言った。
「もしかすると、これもあの子の計略なのかもしれないな」
隆志は考え|込《こ》みながら言った。
「計略って……お|寿《す》|司《し》のこと?」
「何でお寿司が出て来るんだよ」
「だって、私の、あなたのと比べて、|鉄《てっ》|火《か》|巻《まき》が一つ少ないわ」
「そうじゃないよ! 三船がやられて、手下たちは、あの|緑小路《みどりこうじ》ってのがやったと思ってるわけだろう? これで二つのグループがやり合って、お|互《たが》いに弱くなる……」
詩織は|肯《うなず》いた。
「なるほどね。――何となく分るわ。でも、それじゃ、あの啓子さんって、とんでもない人ってことになる」
「ヤクザとかギャングとかが|憎《にく》かったんだよ、きっと。だから自分の手で根絶やしにしてやろう、と……。その心根、|俺《おれ》にもよく分るぜ」
と、隆志は|涙《なみだ》ぐんでいる。
どうやら、詩織の性格に|影響《えいきょう》されているらしい……。
電話が鳴った。智子が受話器を取ると、
「はい。――はあ、成屋でございます。うちの|娘《むすめ》ですか? 詩織? そんな名前じゃなかったと思いましたが……」
「ママ!」
と、詩織が飛び上った。
「あ、ちょっとお待ちを。――あ、詩織だったわね、お前」
自分の娘の名を忘れるというのは、全く|珍《めずら》しい母親である。
「代るわ。――|誰《だれ》から?」
「女の人よ。ちょっと|年《ねん》|輩《ぱい》の。あなたのお母さんかしら」
「ママはここにいるじゃないの」
「あ、私がそうだったわね」
詩織は、母の相手をするのをやめて、受話器を受け取った。
「もしもし」
「あ、詩織さんていったわね。|竜崎幸子《りゅうざきさちこ》よ!」
「ああ! 女社長さん」
|桜木《さくらぎ》に、かつて世話になったという、ビルのオーナーだ。
「どう? 隆志は元気?」
「ええ。何とか。何かあったんですか?」
「ニュースで聞いてさ。三船とかってのがやられたじゃない」
「ええ」
「桜木さんも、あの男を知ってたと思うのよね」
桜木!――そうか、と詩織は思った。
あの啓子には人殺しなどできないかもしれないが、桜木が実際の犯行を受け持っているとすれば、|分《わか》らないでもない。
「そうそう、桜木さんからも連絡があったのよ」
と、竜崎幸子が言った。
「まあ、あの人、どこにいるんですか?」
「たぶん、お|宅《たく》の近く」
「え?」
詩織は、キョロキョロと周囲を見回して、「見当りませんけど」
「あんたの所の電話って、外にあるの?」
「いいえ、居間です」
「じゃ、見えないでしょ。今、お|宅《たく》の方へ向ってると思うわ」
「そうですか!」
これで、色々な|謎《なぞ》も一挙に解けて、大団円となるかもしれない。そうなると、小説も早く終って作者も楽だし……。
「私も今からそっちへ行くわ」
と、竜崎幸子は言った。
「そうですか、じゃ、お待ちしています」
「そうね。十分ぐらいで着くと思うわ」
十分?――じゃ、竜崎幸子も近くにいるらしい。
詩織が電話を切ると、|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴った。きっと桜木だ。
詩織は玄関へと出て行って、ドアを|開《あ》けると――がっかりした。
「|花《はな》|八《や》|木《ぎ》さん!」
「何だ? |他《ほか》に|誰《だれ》か来る予定だったのか?」
花八木刑事は、あたかも|我《わ》が家の|如《ごと》く、さっさと上り|込《こ》むと、お|寿《す》|司《し》の器を見付け、
「ほう、寿司か」
と、言った。「全く、刑事ってのは、大変な商売だ。世の善良な人々を守るため、|腹《はら》を|空《す》かして|頑《がん》|張《ば》っても、誰一人として、寿司など取ってはくれんのだ」
何とも当てつけがましい言い方だが、これがこの家で通用すると思ったら、|大《おお》|間《ま》|違《ちが》いなのである。
「まあ、お気の毒に」
と、智子が言った。
「分ってくれるか」
「ええ。――じゃ、お茶でもお飲みになります?」
花八木はガクッと来たのか、|座《すわ》ったソファから、落っこちそうになった。
と、その時、表の方で、ドタドタと足音がしたと思うと、
「|逃《に》がすな!」
という声。
「殺すなよ! |生《い》け|捕《ど》りだ!」
と、|怒《ど》|鳴《な》る声。
|誰《だれ》かが、詩織の家の中へ飛び|込《こ》んで来た。
「――失礼します」
と、居間へ、顔を出したのは……。
「あ! おじさん!」
と、詩織は言った。
桜木だった。詩織を人質にしてたてこもった時と、同じ格好をしているので、すぐに分る。
「あんたか! |頼《たの》む! すまんが追われていて――」
と、ハアハア息を切らしている。
「隆志! あんた、連中を食い止めて」
と、詩織は、桜木の手を取って、「|裏《うら》へ出ましょう!」
「食い止めるって――おい」
隆志は、オロオロするばかり。その間に、詩織は桜木の手を引いて、居間からガラス戸を|開《あ》けて、庭へ飛び出した。
花八木は、ポカンとしていたが、
「おい! 待て! |俺《おれ》も話がある!」
と、立ち上る。
「それより、こっちを何とかして下さいよ!」
隆志が花八木の|腕《うで》をつかんだ。
と、居間へドタドタと入り込んで来たのは――あの、三船の手下たちだった……。
26 天の助け
もちろん、|三《み》|船《ふね》の手下たちは、|桜木《さくらぎ》を追いかけて来たのだが、居間へ入って来て、|面《めん》|食《く》らった。
そこには、桜木の代りに、|花《はな》|八《や》|木《ぎ》と|隆《たか》|志《し》がいたのだ。
「な、何だ、お前ら? あいつをどこへやった!」
隆志の方は、|突《とつ》|然《ぜん》、|詩《し》|織《おり》から、
「ここを食い止めて!」
と言われて、どうしていいか|分《わか》らずに、ただオロオロしていた。
ただ一人、落ちついて見える[#「見える」に傍点]のは、花八木だったが、隆志に、
「刑事でしょ! 何とかして下さいよ!」
と、つつかれて、
「今は――勤務時間外だ!」
などと言い返しているところを見ると、やはり落ちつき|払《はら》っているわけではないらしい。
「|邪《じゃ》|魔《ま》する気か? やめとけよ。|痛《いた》い目にあいたくなきゃな」
と、手下の一人が、ナイフを取り出した。
「お、おい!」
と、隆志は|精《せい》|一《いっ》|杯《ぱい》の強気な言い方で、「ここにいるのを|誰《だれ》だと思う! |水《み》|戸《と》|黄《こう》|門《もん》――じゃない、天下の刑事だぞ!」
「あ、本当だ」
と、手下の一人が、花八木を|憶《おぼ》えていたらしい。「親分がやられた時に、見かけたぜ、こいつ」
「確かか?」
「ああ、こんなまずい|面《つら》、一度見たら|忘《わす》れねえよ」
花八木が顔を|真《まっ》|赤《か》にして、その手下をにらみつけた。詩織が、もしここにいたら、きっと大喜びしただろう。
しかし、当の詩織は、桜木の手を引いて庭へ|下《お》りたものの、三船の手下たちがドカドカ居間へ入って来たので、身動きすれば見付けられると思うと、|逃《に》げることもできず、庭にじっとうずくまっていた。
「――すまないね、君には|迷《めい》|惑《わく》ばっかりかけて」
|一《いっ》|緒《しょ》に、庭に身を|伏《ふ》せながら、桜木が言った。
「いいえ。どういたしまして」
実際に、どんなに迷惑[#「迷惑」に傍点]をかけているか、たぶん桜木自身も全く|分《わか》っていないに|違《ちが》いない。
「|啓《けい》|子《こ》さん、どこに?」
と、詩織は、声をひそめて|訊《き》いた。
「分らないんだ。ただ、君の所へ行ったら、色々分るからって……」
そりゃ、分るかもしれないけど、話をするのに、五、六時間は必要だろう。特に、こういう|状況《じょうきょう》では、とても説明できない。
「じゃ、おじさんが殺したんじゃないの?」
と、詩織は、取りあえず一番気になっていることを|訊《き》いてみた。
「殺した? |誰《だれ》を?」
「|種《たね》|田《だ》とかいうのと、三船とかいう|奴《やつ》」
「私が? とんでもない!」
と、桜木は首を|振《ふ》った。「人殺しなんて、とてもやれないよ。そりゃ――啓子を守るためならともかくね」
「啓子さんって、すてきな人だもんね」
「そう思うかい?」
「思う! 絶対思う!」
「いや、そう言ってくれると|嬉《うれ》しいね」
と、桜木は|相《そう》|好《ごう》を|崩《くず》して、「あれは十七歳だけど、そりゃしっかりしてるんだ。さすがに、|血《ち》|筋《すじ》っていうのかな、ものに動じない|度胸《どきょう》の良さがあってね」
「そうでしょうね」
「しかし、あれで|可《か》|愛《わい》いところがあるんだよ。料理も結構いけるんだ。君、一度あの子のビーフシチューを食べてごらん。どんな一流レストランでも負けない味だよ」
「作り方を教えてもらおう」
「それにね、子供っぽく見えるだろう? あれでなかなか女らしく、色っぽいところもあってね……」
何のこたあない。おのろけ[#「おのろけ」に傍点]を聞かされているのである。詩織の方は、でも結構そんな話が|嫌《きら》いでない。
庭に体を|伏《ふ》せたまま、という、あまり快適とは言いかねる|姿《し》|勢《せい》で、桜木の、「啓子|讃《さん》|歌《か》」を聞いていたのである。
――一方、居間の中では、
「動くな!」
|珍《めずら》しく、花八木が決めて[#「決めて」に傍点]いる。
花八木の手には|拳銃《けんじゅう》があった。
これで、三船の手下たちが、みんな手を上げて、おとなしくしているのなら、申し分なかったのだが、その手下たちの方の手にも拳銃があったのだ。
「動くな!」
「動くな!」
「銃を|捨《す》てろ!」
「銃を捨てろ!」
――何のことはない。お|互《たが》いに、銃をつきつけ合ったまま、どうにも動きが取れずにいるのである。
「う、|撃《う》つぞ!」
「引金を引くぞ!」
「当ったら、|痛《いた》いぞ!」
しまいには、どっちが言っているのか|分《わか》らなくなって来る。
しかし、絶対的に不利なのは、明らかに花八木の方である。何といっても、相手は五人もいる!
一度に五発、別の方向へ|弾《だん》|丸《がん》が飛び出すような特殊な|拳銃《けんじゅう》だとでもいうのならともかく、相手の方は、三人が拳銃を構えて、花八木と隆志に|狙《ねら》いをつけている。これでは単純に計算しても、勝ち目はない。
かくて――花八木が|頑《がん》|張《ば》ったのも二分間ほどのことで、結局、花八木は拳銃を|捨《す》てて、|降《こう》|参《さん》しちゃったのである。
「――だらしないなあ、全く!」
と、隆志がにらんだが、
「いけないわ」
と、居合せた|智《とも》|子《こ》がたしなめて、「人間、|誰《だれ》しも生きる権利はあるのよ」
三船の手下たちは、ワッと庭の方へと|殺《さっ》|到《とう》した。
詩織も、|状況《じょうきょう》を素早く見て取ると、桜木と二人で、庭の|隅《すみ》へと|逃《に》げて行った。
しかし、庭といっても|大《だい》|邸《てい》|宅《たく》じゃないのだ。たちまち隅っこへ追い|詰《つ》められてしまう。
「――手こずらせやがって」
と、三船の手下の一人が、前へ出た。「おい、おとなしく、その男をこっちへ|渡《わた》しな」
「いけないわ!」
詩織は、桜木をかばって、「この人をどうしても連れて行くのなら、私を殺してからにして」
「そうか。じゃ、そうしよう」
と、相手が拳銃で詩織に|狙《ねら》いをつけた。
詩織は|焦《あせ》った。口は|災《わざわ》いのもと。つい、こんなセリフが出て来てしまったのだ。
「いけないよ」
と、桜木が、詩織をわきへ|押《お》しやって、「ここは私が死にゃすむことだ」
「でも――」
「啓子に伝えてくれないか。いつまでも愛してる、って」
詩織が、グスグスと|泣《な》き出した。
と――何だかいやにやかましい音が、近付いて来た。
「何だ? |雷《かみなり》か?」
と、三船の手下が空を見上げる。
バタバタ、という|超《ちょう》|特《とく》|大《だい》|扇《せん》|風《ぷう》|機《き》みたいな音がして――頭上に何とヘリコプターが|姿《すがた》を見せたのだ!
|誰《だれ》もが|唖《あ》|然《ぜん》として見上げる内に、低空で飛んでいたヘリコプターは、ぐんぐんと高度を下げ、詩織の頭上へ近付いて来た。
もの|凄《すご》い風が、庭を|渦《うず》|巻《ま》く。
「キャッ!」
詩織はスカートがめくれて、声を上げた。
「桜木さん!」
と、大きな声が頭上で|響《ひび》いた。
スピーカーから流れている声は、あの|竜崎幸子《りゅうざきさちこ》のものだった!
「お|竜《りゅう》!」
「|逃《に》げるのよ! つかまって!」
ヘリコプターから、|縄《なわ》ばしごがスルスルとおりて来た。
「そこの女の子も!」
私のこと?――詩織は、こんな時、|危《あぶな》いことにはつい手が出てしまう性格である。
「とびつけ!」
桜木が|怒《ど》|鳴《な》って、縄ばしごにとりついた。続いて、詩織も。
「行くよ!」
と、竜崎幸子の声がした。
「ワッ!」
と、詩織は思わず声を上げていた。
ぐん、と体を持ち上げられる。
縄ばしごの先に、桜木と詩織の二人をぶら下げたまま、ヘリコプターは、ぐんぐん|上昇《じょうしょう》し始めたのである。
27 |孤《こ》|島《とう》の|詩《し》|織《おり》
最近の都会っ子が、運動不足で外に出たがらない、というのは事実だろう。
詩織などは、その中では|比《ひ》|較《かく》的よく出歩く方で、散歩も|嫌《きら》いでない。歩くことは何よりいい運動になるし、ダイエットにもなる。
しかし、問題は、なぜか[#「なぜか」に傍点]いつも散歩のコースの中に、詩織の好きな食べものの店が|含《ふく》まれているということなのである。
いや、それはともかく――。
いかに散歩の好きな詩織でも、ヘリコプターの|縄《なわ》ばしごにぶら下ったままの「空中散歩」は、あまり好みでなかった。
|竜崎幸子《りゅうざきさちこ》のヘリコプターは、ぐんぐん上昇し、|桜木《さくらぎ》と詩織の二人をぶら下げたまま、飛び続けていた。
詩織は目が回りそうになって、必死で縄ばしごにしがみつき、|振《ふ》り落とされまいとした。
詩織は、自分の幸運を、かなり信じている方だが――他人からは「おめでたい」と言われる――ここから落ちたらたぶん生きていられないだろう、ということは|分《わか》った。
もちろん、万が一、下で、キングコングを運ぶためのネットを広げていて、そこへ詩織がうまく落下する、といったことでもあれば別だが、それはもう「幸運」というより「|奇《き》|跡《せき》」――いや、「ご都合主義」というものだろう……。
と――ヘリコプターが|停《とま》った。
停留所かしら? 詩織は周囲を見回したが、別に乗って来る人もいなかった。
空中だから、当然のことである。
「――上って」
と、頭上から、竜崎幸子の声がした。
桜木が、
「やあ、助かったよ」
と、縄ばしごを上って行く。
あ! ずるい! 私を置いて行くなんて!
詩織は、必死で上ろうとした。――しかし、縄ばしごというやつ、ともかくじっとしていないのである。ヘリコプターは停っていても、風が|吹《ふ》きゃ|揺《ゆ》れるし、上で桜木が上って行くと、それでもグラグラ揺れる。
とてもじゃないが、上って行くどころの|騒《さわ》ぎじゃない。
そうこうする内、桜木はヘリコプターの中へ入りこんだようだ。
「ありがとうよ! 礼を言うぜ」
と、桜木が言っているのが、スピーカーから聞こえて来る。
「とんでもない! 桜木さんの役に立ちゃ、こんなに|嬉《うれ》しいことはありませんよ」
と、幸子が言った。「本当にお久しぶりで……」
「いや、達者で何よりだ」
「これも、桜木さんのおかげですよ」
「とんでもねえ。お|竜《りゅう》が|頑《がん》|張《ば》ったからさ」
「でもねえ――本当に、あの|頃《ころ》が|懐《なつか》しい」
「全くだ」
「まだ私も若かったし、桜木さんも……。そういえば、あのころの彼女、どうしました?」
「うん、話せば長くなるんだが――」
詩織は、いつになったら引き上げてくれるのかと待っていたが、二人の話が長引きそうなので、頭に来て、
「ちょっと! こっちを先にして下さいよ!」
と、|怒《ど》|鳴《な》った。
「あ、ごめん、|忘《わす》れてたわ」
と、幸子が|豪《ごう》|快《かい》に笑った……。
「これ、竜崎さんのヘリコプターなんですか?」
やっと、ヘリコプターの中に[#「中に」に傍点]無事おさまって、詩織は、少し|動《どう》|悸《き》が|鎮《しず》まってから|訊《き》いた。
「そう。自家用だよ」
と、幸子は|肯《うなず》いた。
「|凄《すご》い!」
「その代り、自分じゃ|操《あやつ》れないけどね」
と、幸子は笑って、「そんなに|他人行儀《たにんぎょうぎ》にしないで、『お竜さん』と|呼《よ》んでくれ」
「お竜さん。――どこへ行くんです?」
「あんた、|狙《ねら》われてんだろ? しばらく身を|隠《かく》した方がいいよ」
「その方がいい」
と、桜木も肯く。「ああいう|手《て》|合《あい》は、しつこいからな」
「でも……」
と詩織はためらった。「|隆《たか》|志《し》を残して来ちゃったから」
「ああ、あの恋人ね?」
「目の前で|逃《に》げちゃったから、きっとあの連中、|怒《おこ》ってるわ。|腹《はら》いせに、彼を殺しているかも……。どうしよう!」
と、詩織は両手を|握《にぎ》り合せて、「何の罪もないのに、私のせいで殺されるなんて……。|可《か》|哀《わい》そうな隆志!」
ポロポロと|涙《なみだ》が流れる。
「でも、男はね、愛する女のために死ぬのが本望なのよ」
と、幸子が言った。
「そうでしょうか?」
「そうよ。もし、それであんたのことを|恨《うら》んで死ぬようなら、大した|奴《やつ》じゃないから、死んだって構やしないわ」
「そうですね」
詩織も、ケロッとして、「じゃ、隆志、|迷《まよ》わず|成仏《じょうぶつ》してね」
すっかり死んだことにされている。
果して、隆志は死んだのだろうか?
いや――生きていた。
詩織たちの乗ったヘリコプターが、どこへ行くのか、夜の空を飛んでいるころ、隆志たちも、乗物に乗っていた。
「たち」というのは、隆志一人でなく、|花《はな》|八《や》|木《ぎ》も|一《いっ》|緒《しょ》だったからである。
もっとも、詩織たちに比べると、大分|待《たい》|遇《ぐう》は悪かった。――車のトランクの中に、グルグル|巻《ま》きに|縛《しば》られて|押《お》し|込《こ》まれていたのである。
やはり、詩織の想像通り、桜木を|逃《に》がして頭に来た|三《み》|船《ふね》の子分たちが、隆志と花八木を車のトランクに押し込んで、引き上げたのであった。
幸い、詩織の母、|智《とも》|子《こ》は無事だったが、それは決して「女性尊重」の結果ではなく、詩織がヘリコプターで|吊《つ》り上げられて行くのを見送って、
「とうとうあの子も昇天[#「昇天」に傍点]したわ……」
と、|真《ま》|面《じ》|目《め》に|呟《つぶや》くのを見て、連中が|怖《おじ》|気《け》づいたせいだった。
「――刑事のくせに、だらしないんだから!」
トランクの中で、花八木と体をくっつけ合って(詩織とならいいのに、と思った)、隆志はグチった。
「何を言うか」
花八木は、言い返した。「ローン・レンジャーだって、必ず一度は|危《き》|機《き》に|陥《おちい》るのだ」
引用が古い!
隆志は、この先どうなるんだろう、とため息をつきながら、考えた。
詩織の|奴《やつ》、きっと心配してるだろうな……。
「――ま、人間、死ぬときゃ死ぬのよ」
と、幸子が、言った。「ま、|一《いっ》|杯《ぱい》やんな」
「どうも」
詩織は、すっかり|酔《よ》っ|払《ぱら》っている。「――男がなんだ! 隆志一人が男じゃない!」
「そう! その調子!」
隆志が聞いていたら、ショック死するかもしれない。
「ここ、どこ?」
と、詩織は、部屋の中を見回した。
「私の|別《べっ》|荘《そう》。――|誰《だれ》もここまでは追っちゃ来ないわよ」
そりゃそうだろう。海へ出て、かなり|沖《おき》|合《あい》へ出た島なのだ。
「この島ごと、私のものでね」
と、幸子は言った。
「へえ! いいなあ!」
と、詩織は少々回りの悪くなった口で、「私も――こんな所に住みたい!」
「だから、ここへ連れて来たのよ」
「――え?」
と、詩織は目をパチクリさせた。
「ここなら、あの連中も追っちゃ来ない。ほとぼりがさめるまで|隠《かく》れてるといいよ」
「ほとぼりが……」
お|湯《ゆ》がさめるぐらいなら、せいぜい二、三十分だろうが。
「|大丈夫《だいじょうぶ》。当分、ここにいて大丈夫なように食料もあるし」
「当分って……。どれくらいいればいいんですか?」
「そうね。まあ、一年もいりゃ、向うも|諦《あきら》めるんじゃない?」
幸子の言葉に、詩織は、いっぺんに酔いがさめてしまった。
28 |孤《こ》|独《どく》と|空《くう》|腹《ふく》
|詩《し》|織《おり》は、ひどい|頭《ず》|痛《つう》で、そろそろと頭を上げた。
――目を|覚《さ》ましたのは、もう十五分も前のことだが、頭痛のひどさに、身動きする気にもなれなかったのである。
これが「|二《ふつ》|日《か》|酔《よい》」というやつなんだわ、きっと、と詩織は思った。――まあ、正確に言うと十七歳だから、「未成年の飲酒」ということになるが、そこは目をつぶることにしよう……。
「どこだっけ、ここ」
と、やっと起き上って周囲を見回す。
何となく、空を飛んだような|記《き》|憶《おく》がある。でも、私は鳥じゃないんだから、まさかねえ……。|夢《ゆめ》でも見たんだわ、きっと。
ママはどこへ行ったのかしら。|娘《むすめ》がこんなひどい頭痛で寝てるっていうのに。
「あれ?」
どう見ても、自分の部屋ではない。
いくら詩織が|呑《のん》|気《き》|者《もの》でも、自分の部屋と、そうでない場所との区別ぐらいはつくのである。
広々とした、高級ホテルの一室を思わせる部屋だ。ベッドも、詩織でも絶対に落ちる心配のない、堂々たる大きさのダブルベッド。
もちろん、そこに|寝《ね》ているのは、詩織一人だった。
「――じゃ、夢じゃなかったんだ」
と、詩織は|呟《つぶや》いた。
|竜崎幸子《りゅうざきさちこ》のヘリコプターにぶら下げられて――いや、後ではちゃんと乗せてくれたが――この島へやって来たのだ。あの|桜木《さくらぎ》という男も|一《いっ》|緒《しょ》だった。
「そうだわ、一年もここにいろなんて言われて……」
とんでもない、と言ったのだが、竜崎幸子の方も|酔《よ》っ|払《ぱら》って、さっぱりらち[#「らち」に傍点]があかない。
|諦《あきら》めて、今夜はともかく寝よう、ということになったのである。
「何時かしら?」
キョロキョロ見回すと、|壁《かべ》にクラシックな|木《き》|彫《ぼり》の|掛《かけ》|時《ど》|計《けい》。――何だ、まだ一時か。
「一時?」
大変だ! こんなに寝たなんて!
「何か食べなきゃ!」
と、|叫《さけ》んで、詩織はベッドから飛び出したのだった。
――|正《まさ》にホテル|並《なみ》に、ちゃんと部屋にバスルームもついていて、詩織は、シャワーを浴びてスッキリすると、部屋を出た(もちろん、服を着てからである)。
「――竜崎さん。――お|竜《りゅう》さん」
と、|呼《よ》びながら、階段を|降《お》りて行く。
すると、そこへ――|怪《あや》しい|匂《にお》いが、いや、いい匂いが|漂《ただよ》って来る。
詩織は、一階のダイニングキッチンへ入って、ゴクリとツバをのみ|込《こ》んだ。――テーブルの上に、きちんと|並《なら》んだ朝食は、|我《わ》が家で毎朝お目にかかるものに比べて、三倍は|豪《ごう》|華《か》だった。
時間が時間だけに、朝昼兼用の食事というべきかもしれないが、詩織の食べっぷりについては、作者は、目をつぶりたいと思う。
しばらく目をつぶって|開《あ》けると、そこには空の|皿《さら》と器が並んでいて、果して中身が何だったのやら、想像もつかない|状況《じょうきょう》になっていたのである。
「さて、と……」
それにしても、お竜さんや桜木さんはどこへ行ったのかしら?
詩織は、リビングルームへ入って行くと、広い|窓《まど》から外を見た。――青い水平線が、白い光の中に|溶《と》けて行くようで、何の変化もない|眺《なが》めながら、つい見とれてしまうほどの美しさ……。
ここは|孤《こ》|島《とう》だったんだわ、と詩織は改めて思った。一人でこんな所にいたら、|退《たい》|屈《くつ》だろうなあ……。
「お竜さん。――どこですか」
もしかしたら、まだ|眠《ねむ》ってるのかも。
詩織は、リビングルームを出ようとして、ふとテーブルの上に目をやった。
一本のビデオテープが置いてあり、その上にメモが|一《いち》|枚《まい》。〈伝言〉と書かれている。
「伝言って――何も書いてないじゃない」
このビデオは? 何かしら?
大きなサイズのTVがデンと置かれていて、その上にビデオデッキがのっている。詩織はスイッチを入れ、カセットを|押《お》し|込《こ》んだ。
「プレイボタン、と」
TVの画面が、ちょっとチラついたと思うと、
「やあ! おはよう!」
と、いきなり、画面|一《いっ》|杯《ぱい》に竜崎幸子の顔が出て来たので、詩織は|仰天《ぎょうてん》した。
「ああ、びっくりした! いきなり出て来ないで下さいよ」
と、TVに向って|文《もん》|句《く》を言う。
「もう起きてる? 起きてなきゃ、これを見ないわよね、ワッハハハ!」
ビデオのカメラに向って、よくあんな風に笑えるもんね、と詩織は|妙《みょう》なことに感心している。
「私は仕事があるんでね、ヘリコプターで出勤するわ。ま、あんたはここでのんびりしててちょうだい。食べる物、冷蔵庫と|冷《れい》|凍《とう》|庫《こ》にどっさり入ってるし、|缶《かん》|詰《づめ》は地下に山ほどあるから、好きに食べて。――それから、桜木さんは、あんたみたいに|可《か》|愛《わい》い子と二人きりじゃ、ついフラフラッと妙な気になるかもしれないって心配して、私と|一《いっ》|緒《しょ》に行くって。だから、あんたはTVでも見て、ゆっくり静養してね。――さて、そろそろ出かけなきゃ。じゃ、一週間したら、また来るからね。バイバイ」
詩織もつい、
「バイバイ」
と、手を|振《ふ》っていたが……。「――一週間?」
一週間も、ここに一人[#「一人」に傍点]でいるの?
「|冗談《じょうだん》じゃないわよ!」
どこかに電話ぐらいあるはずだ。でなきゃ、|伝《でん》|書《しょ》|鳩《ばと》とか(?)。
しかし、あわててこの|別《べっ》|荘《そう》中をかけ回って|捜《さが》しても、電話はついに見当らなかった。
|疲《つか》れ果てて、詩織はリビングのソファにのびてしまった。
「――参ったな!」
ここに一週間!――隆志や、母はどう思うだろう?
きっと心配で心配で、|泣《な》きあかしているに|違《ちが》いない……。
|成《なる》|屋《や》家では、そのころ――。
「おい、詩織は?」
と、成屋が昼食のスパゲッティを食べながら、|訊《き》いた。
「詩織ですか。あの子は、ちょっと出かけてます」
と、母親の|智《とも》|子《こ》がTVを見ながら、答える。
「ふーん。ゆうべ何だか|騒《さわ》ぎがあったじゃないか」
「ええ。でも、空を飛んで行ったから、|大丈夫《だいじょうぶ》でしょ」
「そうか。――空を、ね」
成屋は|肯《うなず》くと、ふと考え|込《こ》んで、「うむ、空を飛ぶ少女か。これは悪くないイメージだな」
「まあ、|可《か》|哀《わい》そう。あの子、一体これからどうなるのかしら」
と、智子が両手を|握《にぎ》り合せた。
「詩織のことか?」
「|違《ちが》いますよ。このドラマの主人公。両親とはぐれて、戦乱の中を、|逃《に》げ回ってるんですよ……」
「そうか。――可哀そうにな」
二人は、しみじみと|肯《うなず》き合ったのだった。
一方、しみじみと肯き合ってはいない二人もいた。
「|腹《はら》が減ったぞ!」
と、|怒《ど》|鳴《な》っているのは、|花《はな》|八《や》|木《ぎ》刑事。
「その声が、|空《す》きっ|腹《ぱら》に|響《ひび》くんですよ」
と、文句を言っているのは|隆《たか》|志《し》である。
「|黙《だま》っていれば、食い物が来るとでもいうのか」
「大声出しゃ、持って来てくれるとでも言うんですか! デパートの食堂じゃあるまいし」
二人は手足を|縛《しば》られて、どこやらの倉庫みたいな所に放り|込《こ》まれていたのである。
もちろん、隆志は、詩織のことも、気にはしていた。しかし、詩織を守るにも助けるにも、まず、自分が無事に解放されなくてはならない。そのためには、生きていなくてはならない。そのためには何か食べなくてはならない。
こういう|極《きわ》めて論理的な思考に立って、隆志も、花八木と|一《いっ》|緒《しょ》になって、
「食いものをくれ!」
と、|怒《ど》|鳴《な》り出したのである……。
29 |悲《ひ》|惨《さん》な|食卓《しょくたく》
「食いものをよこせ!」
「貧しい者にパンを!」
――別にデモのスローガンではない。
|花《はな》|八《や》|木《ぎ》と|隆《たか》|志《し》の二人、|腹《はら》が|減《へ》って、|放《ほう》っておかれているので、さっきからわめいているのである。
隆志が、「貧しい者――」なんて言い出したのは、ちょうど世界史で、フランス革命をやっていたせいかもしれない。まあ、こんな所で|真《ま》|面《じ》|目《め》さを強調しても、点が上るわけじゃないのだが。
「何か食べるもの……」
「よこせ……」
二人の声は、急速に|衰《おとろ》えを見せて行った。ただでさえ|空《くう》|腹《ふく》なのに、大声を出し続けたので、あんまり腹が|空《す》いて、目が回って来たのである。
ダイエットには、大声を出すのがいい、と隆志は|悟《さと》った。
「――連中は、|俺《おれ》たちを|飢《う》え死にさせる気かもしれん」
と、花八木が言った。
「まさか」
と言いながら、隆志の顔から血の|気《け》がひいた。
「じゃ――もしそうだったら?」
「やむを得ん」
と、花八木は、じっと目を|閉《と》じ、「ここは一つ、|覚《かく》|悟《ご》を決めるしかない」
「覚悟を……」
「そうだ。お前の|墓《はか》には、十年に一回ぐらい、花を|供《そな》えてやる」
「|誰《だれ》が?」
「私が、だ」
「でも、何で僕だけ死ぬの?」
「ここは、二人とも死ぬか、一人だけでも助かるか、選ばねばならん。|辛《つら》い|選《せん》|択《たく》だが、ここはお前が死ぬんだ」
「僕が死んで、何であんたが助かるの?」
隆志はゾッとした。――こいつ、僕を食料[#「食料」に傍点]にして生きのびる気だ!
「|畜生《ちくしょう》、誰が! こっちが殺してやる!」
「やるか!」
二人は、|激《はげ》しくわたり合った。といっても、両手両足、|縛《しば》られているから、縛られたままの両足で、|互《たが》いにけとばし合ったのである。
「こいつ!」
「エイッ!」
「観念しろ!」
「やなこった!」
――あまり男らしいとは言いかねる|格《かく》|闘《とう》をしていると、
「おい、何してるんだ」
いつの間にか、ドアが|開《あ》いて、|三《み》|船《ふね》の手下の一人が、|呆《あき》れ顔で|突《つ》っ立っていた。
「|飯《めし》か?」
と、花八木が|訊《き》く。
「何か食いたいか。よし。じゃ、一人ずつだ」
三船の手下は、花八木の方を先に引っ張って立たせると、足の|縄《なわ》を解いて、「来い」
と、ドアの外へ|押《お》し出した。
「ねえ! 僕は?」
隆志が|悲《ひ》|痛《つう》な|叫《さけ》びを上げた。
「待ってろ。次だ」
「そうだ。待ってろ」
と、花八木がニヤつきながら言った。
隆志は頭に来た。しかし、今は|怒《おこ》ったところで仕方ない。
どうせ花八木のことだ、何を食わしてくれるのか知らないが、アッという間に平らげてしまうだろう。それならきっと、すぐに|戻《もど》って来て、こっちの番になる。
隆志は、一秒が一時間にも思える気持で(少しオーバーかな)、花八木の戻るのを、待ち続けた……。
「もう食べるのにも|飽《あ》きたなあ」
と、|詩《し》|織《おり》は言った。
隆志が聞いていなくて良かった。もし、|空《くう》|腹《ふく》で死にそうな隆志がこれを聞いたら、二人の|仲《なか》は終っていただろう。いや、|悲《ひ》|惨《さん》な殺人という結末になったかもしれない……。
だが、ここは絶海の|孤《こ》|島《とう》。いくら詩織が大声で叫んでも、隆志の耳に入る心配は、全くない。
詩織は、|屋《や》|敷《しき》から外へ出て、この小さな島を歩いてみた。
もちろん、どこにも空港もなく、タクシー乗場もなかった。
「泳いで行くにゃ遠すぎるしねえ……」
詩織は、首を|振《ふ》った。
「――さて、帰るか。しょうがない」
一人しかいないのでは、一人でしゃべっている|他《ほか》はない。
屋敷の方へ歩きかけた詩織は、コトン、という音で、足を止めた。
何かしら?――あの岩の向うだわ。
歩いて行ってみて、目を丸くした。
ボートだ! モーターのついた、小さなボートが、岩の|陰《かげ》につないであった。
「やった!」
これで帰れる!
詩織は、ヤッホー、と声を上げて、|早《さっ》|速《そく》ボートへ乗り込んだが……。
「これ、どうやったら、動くの?」
と、|呟《つぶや》いた。「これで動くんでしょ」
モーターにさわって、詩織はびっくりした。|暖《あたたか》いのだ。
つまり、これに乗って、誰かがここへ来たということか……。
敵か、それとも味方か。
詩織は油断なく、ボートをおりると、手近なところで、手ごろな石を拾い上げた。
「来るなら来い……」
何が来るか知らないけど。まあ、|間《ま》|違《ちが》ってもパンダやコアラは来ないだろう。
|屋《や》|敷《しき》の方へと、ゆっくり左右を見回しながら|戻《もど》って行く。
しかし、あのボートでここへ来て、どこへ|隠《かく》れているのだろう?
もしかして――屋敷の中?
詩織は足を速めて、屋敷へと戻って行った……。
案に|相《そう》|違《い》して、花八木はなかなか戻って来なかった。
隆志は、もう目もかすみ、意識も|薄《うす》れて来るようで……。
「詩織……。君を食べたい……。君は|可《か》|愛《わい》いよ。――まるで|大《おお》|盛《も》りのラーメンみたいだ」
などと|呟《つぶや》いていた。
すると――。
バアン、と|凄《すご》い音がして、隆志は飛び上りそうになった。といっても手足が|縛《しば》られていては飛び上れないけど。
|銃声《じゅうせい》だ! 何があったのだろう? そこへ、また――バアン。
都合、三回の銃声が聞こえて、静かになった。隆志は、じっと息を殺していた。
もちろん、|誰《だれ》かが助けに来てくれたのかもしれないが、逆に殺しに来たのかもしれない。
何しろ、この場合、「敵の敵は味方」っていうほど単純じゃないのだから。
と、足音がドアの前に来て、止った。
ドアが開くと、そこには……。
「まだ生きてたのか」
と、花八木が立っていた。
「何だ! |縄《なわ》は解けたの? じゃ、早く、僕のも」
「うむ」
花八木は、|珍《めずら》しく素直に隆志の縄を解いてやった。
「ねえ、何か食べた?」
「うむ。――カップラーメンがテーブルの上にある」
「カップラーメン!」
一万円|払《はら》ってもいい、と思った。もちろん払いっこないが、気持の上では、ということである。
|銃声《じゅうせい》の方も気にはなったが、今はともかく食べものだ。
|廊《ろう》|下《か》をよろけつつ進んで行くと、|突《つ》き当りのドアが|開《あ》いていて、正面に、テーブルと、それにのったカップラーメンが目に入った。
「あれが……?」
「三分はたっている」
と、花八木が|肯《うなず》く。
ワーッ。隆志は|真《まっ》|直《す》ぐに|駆《か》けて行って、カップラーメンに飛びついた。
アッという間に――という表現が、リアルに思えるほどのスピードで、隆志はカップラーメンを一つ、|空《から》にした。
もちろん、|満《まん》|腹《ぷく》じゃないが、差し当り、死ぬほどの空腹からは|逃《のが》れられたのだ。
「――よく食べられるな」
「そりゃお|腹《なか》|空《す》いてたからね」
「いや、こんな|状態《じょうたい》の中でだ」
と、花八木が言った。
隆志は、周囲を見回した。
――大して広い部屋ではない。そこで、三船の手下らしいのが三人。
みんな、|撃《う》たれたと見えて、血に|染《そま》って|倒《たお》れていたのだ。
隆志は、目を回して、その場に失神した……。
30 |詩《し》|織《おり》、海へ
「ええと……失礼します」
詩織の育ちの良さは、こういうところにもあらわれている。
つまり、|誰《だれ》が|潜《ひそ》んでいるかも分らない|別《べっ》|荘《そう》の中へ入って行く時でも、つい、こうやって声をかけてしまうのである。
やっぱり私は「お|嬢様《じょうさま》」なんだわ、と詩織は感心していた。――|隆《たか》|志《し》とじゃつり合わないかしら?
今は、そんなこと考えてる場合じゃないでしょ!
そう。――誰かがボートでやって来て、この中に潜んでいるかもしれないのだ。手の中の石を|握《にぎ》りしめる。
もし、誰かが来たとして、まずどこに行くだろう? やっぱりトイレだろうか?
と――頭上で、バタン、と何か|倒《たお》れる音がした。
二階にいる! 詩織は、石を握りしめて、|逃《に》げ出そうかと思った。しかし、ここを出たって、島から外へ出られるわけじゃないのだ。
こうなったら、誰がいるのか、|覚《かく》|悟《ご》を決めて確かめるしかない。
二階、二階、と……。
階段を上って行く。――さっき音がしたのは、どの|辺《あた》りだったろう?
自分の家ならともかく、居間の上はどの辺か、といったことは、他人の家では|分《わか》らないものである。
「ええと……しょうがないや。|片《かた》っ|端《ぱし》から――」
詩織としては|珍《めずら》しい|大《だい》|胆《たん》さで、次々に部屋のドアを|開《あ》けて行く。
ここもいない。――ここも|空《から》。――ここは一人しかいない……。ん? 一人?
パッと、もう一度ドアを開ける。
「あ!」
詩織は思わず声を上げた。――そこに立っていたのは、あのキザで固めたようないでたちの、|緑《みどり》|小《こう》|路《じ》|金《きん》|太《た》|郎《ろう》だったのである。
「金太郎……さん!」
詩織は、引きつったような笑顔を見せた。「どうも!――|珍《めずら》しい所でお会いしますねえ」
が、金太郎は何も言わなかった。やや青ざめた顔で、じっと詩織を見つめながら、ゆっくりと歩いて来た。
「あ、あの――お一人ですか?」
と言って、詩織は、やばい、と思った。
|孤《こ》|島《とう》に二人きり。しかも詩織の|魅力《みりょく》(当人がそう思っている)を考えれば、金太郎が|妙《みょう》な気を起しても当然というものである。
「待って下さい! 金太郎さん、落ちついて! 私には隆志という将来を|誓《ちか》った人が――」
なに、誓ってなんかいやしないのだが、そこは方便というものだ。「ね、ですからだめなんです。そりゃまあ……どうしてもってことなら、|頬《ほ》っぺたにキスするぐらいでしたら……」
金太郎が、ゆっくりと詩織の方へのしかかって来た。
「キャッ!」
詩織は|叫《さけ》び声を上げて、後ずさり、つまずいて|尻《しり》もちをついた。
と――金太郎がドサッと|床《ゆか》へ|突《つ》っ|伏《ぷ》してしまった。
詩織は、目をパチクリさせた。
「金太郎……さん」
体を起して、詩織は目をみはった。金太郎の|背《せ》|中《なか》には、ナイフが深々と|刺《さ》さっていたのである。
「あ……あの……あの……」
死んでる?――詩織は|愕《がく》|然《ぜん》とした。
背中にナイフが、ということは、|誰《だれ》かに刺された、ということだ。
自殺するのに、わざわざ後ろへ手を回して自分の背中を刺すというのは、どう考えてもよほどの物好きであろう。
ということは――こんな時でも、詩織の|明《めい》|晰《せき》な|頭《ず》|脳《のう》は、論理的な結論を出していた――刺した人間がいる!
「助けて! 誰か!」
詩織は飛び上るように立って、階段を|駆《か》け|下《お》りて行った。
「これで何人殺されたんだろう?」
と、隆志は言った。
「数学は|苦《にが》|手《て》だ」
と、|花《はな》|八《や》|木《ぎ》が首を振った。
「別に、数学ってほどのもんじゃないでしょう」
「お前は、死体の|転《ころが》っている所でカップラーメンを食い、かつ失神して|倒《たお》れていたのだ。|威《い》|張《ば》るな」
「威張っちゃいませんよ」
警察の人間がワイワイやって来て、三船の子分たちの死体を運び出す。
「花八木さん、見てたんでしょ、犯人を?」
と、隆志が|訊《き》く。
「見たと言えば見たが、見ないと言えば見ない」
と、花八木はやたら哲学的なことを言い始めた。
「どっちなんですか」
「うむ。――ここで食事をしていると、あの連中の一人が、飛び|込《こ》んで来たのだ。そして、『|危《あぶな》い! |奴《やつ》らが――』と言った|瞬間《しゅんかん》、|銃声《じゅうせい》がして、バタッと倒れた」
「それで?」
「私は決して|臆病者《おくびょうもの》ではない」
と、花八木は強調した。「しかし、|危《き》|険《けん》な時には身を|隠《かく》す。これは|賢《けん》|者《じゃ》の|知《ち》|恵《え》というものだ」
「要するに、|机《つくえ》の下へ隠れたんですね」
「早く言えばそうだ。――続けて銃声がしたと思うと、|他《ほか》の二人もバタバタと倒れた。|凄《すご》い|迫力《はくりょく》だった! |映《えい》|画《が》じゃよくあるが、本物を目の前で見るのは、やはり|段《だん》|違《ちが》いの――」
「そんなこといいけど、じゃ、犯人の|姿《すがた》は見なかったんですか」
「一部分は見た」
「一部分?」
「|靴《くつ》の先が見えた。あれはなかなかいい靴だった。サイズはたぶん二六ぐらい……」
こりゃだめだ。――隆志は首を|振《ふ》って、
「詩織たち、どうしたのかなあ。僕はそれが気になりますよ」
「もちろんだ。では行ってみるか」
「詩織の家へ?」
「お|竜《りゅう》の所だ。あいつ、ヘリコプターなど使いおって!」
と、花八木は|怒《おこ》っている。
「いいじゃないですか、自分のなんだから」
「この私を、なぜ乗せて行かなかったのだ?」
と、花八木はふてくされるのだった。
さて、一方、詩織は|別《べっ》|荘《そう》から|逃《に》げ出したものの、小さな島である。どこへ逃げると言っても……。
「そうだわ!」
ボートがあった。あれを使おう。
どうやれば動くのか、よく|分《わか》らないが、ここで殺人犯が追って来るのをぼんやりと待っているよりいいだろう。
さっきの岩かげに|駆《か》けて行ってみると、ボートはちゃんとそこにあった。
こわごわ乗り|込《こ》み、手で岩をえいっと|押《お》すと、ボートは波に乗って、上下に|揺《ゆ》れながら岩から|離《はな》れた。
「きっと、これを引っ張るんだわ」
エンジンについている|紐《ひも》を、思い切りぐいと引くと、ブルル、と音を立て、エンジンがみごとにかかった。
「やった!」
私の|腕《うで》も|捨《す》てたもんじゃないわ、などと感心していると、|突《とつ》|然《ぜん》、ブオーッと音をたててボートが走り出した。
「キャッ!」
詩織はボートの中で引っくり返ってしまった。
「ちょ、ちょっと!――あのね、そんなにあわてないで! 落ちついてよ!」
そんなことを言ってもボートが聞くはずもない。|激《はげ》しく右へ左へとカーブしながら、ボートは海面を走り出した。
「ええと――|舵《かじ》、舵――」
これだ。――舵を両手でつかんで、エイッと|真《まっ》|直《す》ぐにすると、ボートは一直線に走り出した。
「これでいいんだわ」
詩織はホッとした。やってみりゃ、結構|簡《かん》|単《たん》じゃないの。
海は|穏《おだ》やかで、天気はいいし、なかなかいいドライブ(?)|日《び》|和《より》だった。
詩織も鼻歌など歌って、いい気分……。
問題はただ一つ。――詩織は気が付いていなかったが、ボートは陸地と反対の方向へと走っていたのである。
31 |詩《し》|織《おり》の帰島
今度は、|花《はな》|八《や》|木《ぎ》も|迷《まよ》わず、|竜崎幸子《りゅうざきさちこ》の事務所に直通のエレベーターに乗ろうとした。
「あの――」
と、|受付嬢《うけつけじょう》が呼び止める。「どちら様でいらっしゃいますか」
「こちら様だ」
と、花八木は、|警《けい》|察《さつ》手帳を見せた。
「では、お取り次ぎいたしますが――」
「必要ない!」
花八木はエレベーターの|扉《とびら》が開いていたので、|隆《たか》|志《し》と|一《いっ》|緒《しょ》にさっさと乗り|込《こ》んだ。
「あの――」
と、受付嬢が言いかけた時には、すでに扉が|閉《と》じ、エレベーターが上りはじめていた。
「|困《こま》ったわ……」
と、|呟《つぶや》いていると、作業服を着た男がやって来た。
「おい、|誰《だれ》だい、エレベーターを動かしたのは?」
「止める間もなく、乗っちゃったんです」
と、|受付嬢《うけつけじょう》が弁解する。
「|困《こま》るなあ。〈|故障《こしょう》中〉って|札《ふだ》が目に入らねえのかな」
ゴトン、という音が聞こえて、エレベーターが動いていることを示す矢印の明りが消えた。
「見ろ! |途中《とちゅう》で|停《とま》っちまった」
「どうしましょ?」
「しょうがねえな。何人乗ってる?」
「二人です」
「二人か。――ま、そうすぐにゃ死なねえだろう」
と、その男はのんびりと言った。「少し|冷《ひや》|汗《あせ》をかくのも、ため[#「ため」に傍点]になるぜ。この次からは少し用心してエレベーターに乗るようになるだろうしな」
「だけど――」
「ちょっと昼飯を食ってくらあ。帰ってから修理するよ」
作業服の男は、さっさと行ってしまった。
「だけど……|大丈夫《だいじょうぶ》なのかしら?」
と、受付嬢が困っていると、
「どうしたの?」
と、やって来たのは、当のお竜[#「お竜」に傍点]である。「受付が|空《から》よ」
「あ、すみません」
「お客様がみえたら困るでしょ。ちゃんと|座《すわ》ってて」
「はい」
「あら、|故障《こしょう》してんのね」
と、お|竜《りゅう》――竜崎幸子はエレベーターを見て、「じゃ向うのを使うわ」
「あの、実は――」
受付嬢が言いかけるのなど、耳にも入らない様子で、竜崎幸子は、|忙《いそが》しげに|他《ほか》のエレベーターの方へ歩いて行ってしまった。
受付嬢は、故障して、|途中《とちゅう》で|停《とま》ってしまっているエレベーターの方を見て、少し|迷《まよ》っていたが、
「私が直せるわけじゃないんだし」
と、自分に言い聞かせるように言って、ヒョイと|肩《かた》をすくめると、受付の方へ|戻《もど》って行った。
ちょうど、幸子の子会社の社長がやって来たところで、
「あ、いらっしゃいませ!」
と、受付嬢は足を速めた。
エレベーターの中の二人のことは、きれいに頭の中から消えてしまっていた……。
|船《ふな》|旅《たび》っていうのもいいもんね。
詩織は、モーターボートの快適なエンジン音を聞きながら、波の上下につれて、ゆったりと持ち上げられる、その独得の快感を味わっていた。
|潮《しお》|風《かぜ》は快く、|陽《ひ》ざしもそう強くはなかった。
「今度はクイーン・エリザベス号に乗ろうかしら」
と、大分スケールの|違《ちが》う「船旅」のことを考えている。
でも――何てことだろう。こうして|呑《のん》|気《き》にしているが(当人のせいというよりは、作者のせいだが)、考えてみれば|恐《おそ》ろしい事件である。
|種《たね》|田《だ》に始まって、|三《み》|船《ふね》|和《かず》|也《や》、そして|緑《みどり》|小《こう》|路《じ》|金《きん》|太《た》|郎《ろう》……。次々に殺されてしまった。
一体|誰《だれ》がやったのか?
緑小路の場合は、あの島の中に犯人がいたはずである。もちろん、詩織もいたわけだが、いくらぼんやりしていることの多い詩織でも、人を|刺《さ》したことを|忘《わす》れているわけがない。
となると、犯人があの島にいるということになる。このボートでやって来て……。
待てよ。――詩織は考えた。
テストの時ぐらいしか、こんなに真剣に考えることはない。
このボートで、犯人[#「犯人」に傍点]が来たとすれば、あの金太郎は、どうやって島へ来たのか?
|熊《くま》にまたがって? それじゃ花八木みたいな答えだ!
「そうだわ。緑小路が、このボートでやって来たのかもしれない」
すると、犯人は?
一応、詩織は、目を|覚《さ》ました時、あの|別《べっ》|荘《そう》の中を、誰かいないかと|捜《さが》し回っている。その時は、誰もいないように見えたのだが……。
ヘリコプターで来たとすれば、|凄《すご》い音がしただろうから、いくら詩織でも、それと|分《わか》ったに|違《ちが》いない。
すると……。あの別荘のどこかに、|隠《かく》れ場所があるのかもしれない。
隠れ場所?――隠れる。|啓《けい》|子《こ》さんが?
もしかすると、啓子が、あそこに隠れているのかもしれない。
「そうだわ、やはり、|警《けい》|察《さつ》の手に引き|渡《わた》す前に、会って事情を聞くべきだわ」
と、公平な精神の持主の詩織は、考えたのだった。
やむを得ない事情がある、と分ったら、啓子をこのボートでアメリカへでも|逃《に》がして(!)後は詩織が引き受ける。――これはなかなかドラマチックなパターンである。
詩織は、警官隊に取り囲まれて、|機関銃《きかんじゅう》を|撃《う》ちまくりながら、あえない|最《さい》|期《ご》をとげる、こんなシーンを想像して、ぐっと|胸《むね》が|迫《せま》り、|涙《なみだ》ぐんだ。
「私一人が|犠《ぎ》|牲《せい》になれば、みんなが|幸《しあわ》せなんだわ。啓子さんも|花《はな》|子《こ》ちゃんも、|桜木《さくらぎ》さんも、|隆《たか》|志《し》も……。隆志が何で幸せなのよ! |冗談《じょうだん》じゃないわ! 隆志一人を幸せにして、どうして私が死ななきゃならないの? とんでもないわ!」
と、勝手に|腹《はら》を立てて、「そうだわ。代りに隆志に死んでもらえばいいんだわ。私の服を着せて、|変《へん》|装《そう》させて」
めちゃくちゃである。
詩織は決心した。――島へ|戻《もど》るのだ!
詩織の決心は、しばしば|唐《とう》|突《とつ》なのである。
ボートの向きを変えて、詩織は島へ戻ろうと……。
「あら」
――島がない!「ど、どこへ逃げたのよ! ずるい! そんな|卑怯《ひきょう》な!」
要するに、方向も分らず、めちゃくちゃに走って来たので、島がずっと横の方向になっていたのだ。
しかし、詩織もかなり幸運な人間らしく、いい加減に右、左とボートを走らせていると、その内、島の|姿《すがた》が、目に入った。
「やった!」
と、詩織は|小《こ》|躍《おど》りして、天に感謝した。
ボートはやがて島に近付いて行ったが……。
「どうやって止めるの?」
と、|呟《つぶや》いた時、もう島は目の前だった。
このままじゃ|衝突《しょうとつ》する! 岩が、正面に|迫《せま》って来た。
「キャーッ! あっちに行って!」
と、詩織は頭をかかえた。
こういう場合、あまり適切な対応とは言えなかったのだが――。
ドカン。ボートはもろに岩にぶつかり、詩織は、|哀《あわ》れ海中に|没《ぼっ》して、この物語が終ると、やはり作者としても気がとがめる。
詩織は、ボートが岩に乗り上げた|弾《はず》みで、投げ出され、頭から海の中へと|突《つ》っ|込《こ》んだ。
――やっとこ|這《は》い上ると、詩織は、助けに来てくれない隆志を|恨《うら》みながら(隆志の方も|迷《めい》|惑《わく》だろうが)、よろよろと、|別《べっ》|荘《そう》へと歩いて行った。
「――失礼します」
と、中へ入って、|肩《かた》で息をつきながら、「まず|着《き》|替《が》えだわ」
と、階段を上ろうとすると、
「ワー」
と、声がした。
「ん?」
今のは……赤ん|坊《ぼう》の声!
詩織は、声がしたらしい方向――台所の方へと歩いて行った。
32 大団円
海に落ちて、びしょ|濡《ぬ》れになった|詩《し》|織《おり》は、そのままの格好で、|別《べっ》|荘《そう》の台所へと入って行った。
「――会えて|嬉《うれ》しいわ。ほら、ママのおっぱいを飲んでね」
と、赤ん|坊《ぼう》に|乳《ちち》を|含《ふく》ませているのは……。
「|啓《けい》|子《こ》さん」
と、詩織は言った。
「あら、詩織さん」
と、啓子は、さしてびっくりした様子でもなく、「お元気?」
「ええ、まあ……。その子、|花《はな》|子《こ》ちゃん?」
「そうなの。ずっとここで|預《あず》かっててくれたんですって。良かったわ。少し太ったみたい」
と、啓子はニコニコしている。
「あの……啓子さん。いつここへ?」
「さっきよ。|金《きん》|太《た》|郎《ろう》さんと二人でここへ来たの」
「あのボートで?」
「そう。金太郎さんがね、ここに花子がいるっていうことを|突《つ》き止めてくれて」
「そう……。でも、金太郎さんは――」
二階で、|刺《さ》されて死んでいるのだ。
「死体を見たの?」
と、啓子がアッサリと|訊《き》いた。
「知ってたの? 刺し殺されたのを」
「ええ。だって、私がやらせたんだから」
啓子は、花子がやっと満足した様子なのを見て、「さ、|眠《ねむ》るのよ――いい子ね」
と、|揺《ゆ》すった。
「啓子さん……」
「少し待って。この子が眠るまで」
詩織は、|椅《い》|子《す》にそっと|座《すわ》った。――啓子は、しばらく花子を|抱《だ》いて軽く揺すっていたが、
「もう|寝《ね》たわ、大丈夫」
と、自分も椅子にかけて、「色々ごめんなさい、あなたを変なことに|巻《ま》き|込《こ》んじゃって」
「いえ……。どういたしまして」
と、詩織は言った。「――でも、一体どういうことなの?」
「金太郎さんが死んで、これで私の役目も終ったわ。あなたには、ちゃんと説明しなくちゃね」
啓子は、あどけない顔で|眠《ねむ》っている花子を見て、|微《ほほ》|笑《え》みながら、「実はね、この子の父親は|桜木《さくらぎ》じゃないの」
と、言った。
「桜木さんの子にしちゃ、|可《か》|愛《わい》過ぎるとは思ってたけど」
「そうね」
啓子はニッコリ笑って、「父親はね、高校の|先《せん》|輩《ぱい》で、とても|真《ま》|面《じ》|目《め》な人――もちろん、ヤクザじゃない|堅《かた》|気《ぎ》の人なの。私たち、二人で、新しい生活を始めようって、九州を|逃《に》げ出したんだけど……。父は子分たちを使って私たちを|捜《さが》し出したわ。そして私は連れ|戻《もど》され、彼は殺されたの」
「ひどい!」
「父の所へ帰った時、私はこの子を身ごもっていて、彼が殺されたのを知ったわ。――必ず仕返ししてやる、と|誓《ちか》ったのよ。ただ、この子が無事に生れて、動けるようになるまでは、じっと|我《が》|慢《まん》していたの」
啓子は、ちょっと息をついた。「そこへ、父の急死。――いいチャンスだと思ったわ。九州にいては、父の|腹《ふく》|心《しん》で、私を連れ戻したり、彼を殺したりした人間たちに|復讐《ふくしゅう》できない。何しろ、子分たちに囲まれてるから。だから家を出て、東京へ来たのよ。桜木が、私について来てくれたわ」
「その相手が――|種《たね》|田《だ》とか……」
「|三《み》|船《ふね》、そして|緑小路《みどりこうじ》金太郎」
「あの人も?」
「私と結婚しようと|狙《ねら》ってたから。私の|恋《こい》|人《びと》を殺したのは、あの金太郎なのよ」
「何てひどい|奴《やつ》!」
そうと知ってりゃ、けっとばしてやるんだったわ、と詩織は思った。もちろん、死んでるところを、だ。
「じゃ、啓子さん、その三人を殺したのは、桜木さんなの?」
「いいえ。桜木さんは、ここで待ち構えていて、金太郎を殺しただけ。ここ、地下室があるのよ」
「じゃ、|他《ほか》の二人を殺したのは?」
「もう一人、私に同情してくれていた人がいるの。九州にいた時にね。私と彼が|駆《か》け落ちした時も、見送ってくれて……。その人、|娘《むすめ》さんを小さい内に|亡《な》くして、私のこと、自分の娘のような気がしたんですって」
「|誰《だれ》なの、それ?」
と、詩織が言った時だった。
「――金太郎さん!」
啓子が、台所の入口に目をやって、息をのんだ。|振《ふ》り向いた詩織も|仰天《ぎょうてん》した。さっき|刺《さ》されて死んでいた金太郎が立っている!
「桜木の|奴《やつ》は、人殺しにゃ向かないね」
と、金太郎はニヤリと笑った。「刺されたふり[#「ふり」に傍点]をして初めから|倒《たお》れてたら、すっかり信じてあわてちまってさ」
「じゃ、桜木さんを――」
「安らかに|眠《ねむ》りについてるよ」
金太郎は、半分しか|刃《は》のないナイフをポンと投げ|捨《す》てた。「君も、|諦《あきら》めて僕の妻になるんだね。それとも、ここでその赤ん|坊《ぼう》を殺されたいかい?」
「やめて!」
青ざめた啓子は、しっかりと花子を|抱《だ》きかかえ、立ち上って、後ずさった。
「ちょっとあんた!」
と、詩織は|怒《いか》りに|恐《おそ》ろしさを|忘《わす》れて、「この人でなし! 私が許さないからね!」
「そうかい」
金太郎が|拳銃《けんじゅう》を取り出す。「さっきは、びっくりさせて|追《お》っ|払《ぱら》ってやったのに。君はここで死ぬことになる」
詩織の頭に血が上る。カーッとなって、
「やれるもんならやってごらん!」
と、|怒《ど》|鳴《な》っていた。
「やめて金太郎さん! その人には関係ないことだわ!」
金太郎がチラッと啓子の方を見る。詩織がパッと飛び出した。金太郎の手にかみつこうとして――。そして、|銃声《じゅうせい》が台所の空気を|震《ふる》わせた。
エレベーターの|故障《こしょう》が直って、やっと一階に下りて来た|隆《たか》|志《し》と|花《はな》|八《や》|木《ぎ》は、暑さでフラフラになりながら、エレベーターから出て来た。
「――お|疲《つか》れさん」
と、目の前に立っていたのは……。
「詩織! 無事だったのか!」
と、隆志は目を見開いて、言った。
「ええ。ほら、啓子さんも」
花子を|抱《だ》いた啓子が、ロビーをやって来る。そして、隆志は信じられない思いで、啓子が、花八木[#「花八木」に傍点]の|胸《むね》に、顔を|埋《う》めるのを見ていた。
「種田が殺された時も、三船が殺された時も、花八木さんがそばにいたのよね」
と、詩織が|肯《うなず》いた。「私としたことが、そんなことに気が付かないなんて!」
「じゃ……このおっさんが?」
三船の子分たちをやっつけたのも、花八木だったのか!
「全部、終りました」
と、啓子が言うと、花八木は、
「そうか、そりゃ良かった」
と、|肯《うなず》いた。「最後に立ち会うつもりが、このヘボエレベーターに|閉《と》じこめられてしまってな……」
「桜木さんは死にました。金太郎にやられて。でも、詩織さんが金太郎をやっつけてくれたの」
花八木は詩織を見てニヤリと笑うと、
「ほう。見かけによらず、やるな」
「お|互《たが》い様よ」
と、詩織は言ってやった。
「――じゃ、あの刑事が! 信じらんないよ」
隆志は、目を丸くしている。
「ま、少々|抜《ぬ》けてるのは事実としても、人は悪くなかったのよ。――ママ、お代り」
あの島で、ずいぶん食べてきた割には、|成《なる》|屋《や》家での詩織の夕食は、いつものペースだった。
「赤ちゃんはずっとそのお|竜《りゅう》さんって人がみていたのね?」
と、母親の|智《とも》|子《こ》が言った。
「桜木さんが心配して連れて行ったのよ。種田や三船や金太郎が見つけたら、大変だから」
「でも、詩織、その金太郎っての。やっつけちゃったんでしょ?」
と、一緒に|食卓《しょくたく》についているのは|添《そえ》|子《こ》である。
「ワッと飛びついたら、向うがびっくりして、|銃口《じゅうこう》を下に向けて引金引いちゃったのよ。で、自分の足を|撃《う》って……」
「|逃《に》げ出して海に落ちて|溺《でき》|死《し》か。悪いことはできないよな」
と、隆志が言った。
「そうよ。隆志も気を付けて」
「どうして|俺《おれ》が?」
「じゃ、あの桜木って人が地下街で詩織を人質にして騒ぎを起こしたのも、わざとだったの?」
と、添子が訊く。
「そう。種田や三船たちが、それを見付けてやって来ると分ってたから。花八木さんが、口をきいて桜木さんはすぐ釈放になってたのよ」
「しかし、たまたまお前を人質にしたばっかりに騒ぎはどんどん大きくなっちまったな」
「失礼ね」
と、詩織は隆志をにらんだ。「桜木さんは私のお|節《せっ》|介《かい》を見込んで、啓子さんをわざと一旦引き取るようにさせたのよ」
その見込みは間違ってなかった、と隆志は思った。
「でも、何でそんなことしたんだ?」
「啓子さんの身の安全を考えたのよ。種田や三船たちが、直接啓子さんを探すのじゃなくて、私の所へやって来るように仕向けたんだわ」
「じゃ、代りにお前や俺を危い目にあわせてたわけじゃないか」
「そのために!」
と、詩織が力強く言った。「あの花八木刑事がしつこくつきまとってたんじゃないの」
「あ、そうか。するとあの刑事、お前を見張ってりゃ、お前も安全だし――」
「種田や三船が現われるってことも分ってたのよ」
「なるほどね」
と、添子が|肯《うなず》いた。「でも、あの刑事も相手が詩織じゃ、大変だったわね」
「どういう意味よ?」
「ま、気にすんなよ」
と、隆志は詩織の肩を叩いた。
「でもあの啓子って子、どこに隠れてたの?」
「そりゃ、花八木刑事だって、東京に来て、どこかに泊ってたわけだから……」
「あ、そこ[#「そこ」に傍点]にいたのか!」
「結局、俺たち、知らない内に手伝いをやらされてたんだな」
「いいじゃない。私、後悔してないわ」
と、詩織は言った。
「そりゃ、お前はね、車のトランクにも放り込まれなかったし……」
「ブツブツ言わないの」
と、詩織はポンと隆志の肩を叩いた。
「ま、あの花八木ってのも、命がけで、必死だったんだろうな」
隆志は自分を慰めるように言った。
「でも――あの花八木ってのも、いいとこあるじゃない。自分が一手に罪を引き受けて」
と、添子が言う。
「啓子さんと花子さんが|幸《しあわ》せになれば、それで満足みたいよ」
そうと分ってりゃ、もうちょっと|優《やさ》しくしてやるんだった、なんて詩織は考えていた。
「花八木刑事もセンチメンタルだったんだ。お前といい勝負かもしれないな」
と、隆志は言った。
「うむ。その刑事は、いい詩のテーマになる」
と、成屋は構想を練っている。
――まあ、かくて大変な経験だったが、詩織はこの事件で、人間的にも成長し……。
「ママ、どうして、私のお|皿《さら》には肉が少ないの?」
――成長したのだろうか?
この作品は、昭和六十三年二月に刊行されたカドカワノベルズを文庫化したものです。(編集部)
|本《ほん》|日《じつ》もセンチメンタル
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年10月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『本日もセンチメンタル』平成 2年4月25日初版発行