角川文庫
本日は悲劇なり
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
本日は悲劇なり
1/2の我が家
本日は悲劇なり
何かが起る日の朝というのは、決って、何事も起りそうにない、平凡な朝である。
その朝も、その通りだった。
ただ、取り立てていえば、上天気で、近づく冬を予感させる寒さだったが、天気がいいのは、その二日前から大陸の高気圧が張り出していたせいだし、寒いといっても、気象庁の発表では、本年の最低気温より二度低いだけ、ということだったから、異常な寒さというのは当らない。
むしろ風がないだけ、穏やかな朝だったのである。
私立、K女子高校の用務員、|大《おお》|滝《たき》が、|欠伸《あくび》をしながら、裏門を開けに表に出たのは、朝七時三十分だった。
本当なら、始業が八時半だから、八時頃に開ければいいのだが、表門はともかく、裏門からは、駅が近い関係で、遠距離通学の生徒たちが入って来る。
そうなると、遠距離では電車の時間によって、ひどく早く着く生徒があり、これぐらいの時間に開けておかなくてはならないのである。
大滝は、また欠伸しながら、裏門の扉をゆっくりと開けた。――ふと、手に泥がついたのに気付く。
何だろう?
格子扉の中ほどをつかんで開けたのだが、よく見ると、そこに靴の泥らしいものが、こびりついている。
ということは……この扉を乗り越えて入った者があるのだ。
大滝は、ちょっと緊張した。目が、いっぺんにさめた。
まさか、生徒がそんなことをするはずがない。いくら早く来るといっても、この時間より前に来るとは考えられなかった。
それに、いくら元気がいいといっても、女の子だ!
そうなると――ゆうべの内に、泥棒か何かが入ったことも考えられる。いや、その可能性が大きい。
大滝は、あわてて、事務室の方へ、走り出していた。泥棒が|狙《ねら》うとすれば、やはり金庫だろう。大して金があるとは思えないが、それでも狙われないとも限らない。
「俺のせいじゃない! 俺はそんなことまで――」
走りながら、大滝は一人で言い訳していた。そんなことでクビにでもなっちゃ、かなわない!
廊下を走って、事務室の前に来たときは、すっかり息を切らしていた。しかし――事務室の入口は、ちゃんと鍵がかかって、別にこじ開けられた様子もない。
大丈夫だった! 大滝は、ハアハア|喘《あえ》ぎながら、一安心して胸をなでおろした。
しかし、そうなると、あの泥は?
窓の側から入ったのかもしれない、と思い直して、大滝は、校舎の外へ出ると、運動場の方へ回ってみた。
事務室の窓は、どこも破られていない。これなら大丈夫だ。
大滝は、ホッと息をついて、校舎をざっと眺め回した。別に異状はなくて……。
いや。――窓が一つ開いている。
どこの教室だろう? 毎夜、大滝が見回って、全部閉めているのだ。見落としているとは思えない。
あの教室の誰かが、早くやって来たのだろうか?
大滝は、校舎の中へ戻ると、二階の、窓の開いた教室へと急いだ。
ドアを開ける。――後ろの方の席に、一人の生徒が座っていた。
机に突っ伏して、眠っているらしい。眠るくらいなら、もっと遅く来りゃいいんだ。
ホッとすると同時に腹が立って来て、大滝はその生徒の方へ歩いて行った。
「――おい、何をしてるんだ? だめだよ、あんなこと。――おい、起きるんだ。ほら」
肩を揺する。少女の右手が、机から落ちると、何かが床に、金属的な音を立てた。
下を見ると、銀色に光る|剃《かみ》|刀《そり》が、落ちていた。
そのときになって、大滝は初めて、自分が床に広がった水たまりの中に足を入れていることに気付いた。いや――水たまりではない。血だまり[#「血だまり」に傍点]の中に。
「あ……あ……」
大滝は、声にならない|呟《つぶや》きとともに、震える|膝《ひざ》で、後ずさった。
教室を出て、階段を転がるようにして降りると、危うく誰かとぶつかりそうになった。
「――大滝さん! どうしたんだよ」
この近所に住んでいる、若い英語教師の|里《さと》|井《い》である。教師たちの中では、たいてい一番早く学校へ来る。
そうでないときは、寝坊して遅刻。そのどっちかだった。
「う、上で――生徒が――」
大滝は舌がもつれて、言葉にならない。
「生徒がどうしたの?」
「血が――」
「血だって?」
笑いながら聞いていた里井の顔がこわばった。「二階だね?」
里井が一気に階段を駆け上る。大滝は、やっとの思いで立ち上ると、用務員室へ向って走った。
「一一〇番、一一〇番……」
と、まるで、口の中で、念仏のように唱えていた……。
「――少女は死にました」
と、|白《しら》|木《き》はTVのカメラに向って語りかけた。「果して、どんな思いが、少女の胸中には、あったのでしょうか。少女の遺影は何も語ってはくれません」
「はい、ご苦労さんでした」
と、ディレクターの声が、耳のイヤホンに入って来て、白木はホッと表情を|緩《ゆる》めた。
「さあ、引き上げるか」
と、白木はカメラマンに言った。
風の強い日だった。マイクに、風の音ができるだけ入らないようにしたつもりだが、風に背を向けると、葬儀の光景が入らなくなってしまうので、多少は仕方なかった。
だが、|却《かえ》って風の音が少し入るのも、臨場感があっていいものだ。
「いやなもんだな」
と、白木はカメラマンに言った。
TVのレポーターとしては、そんなことを言っていてはいけないのかもしれないが、もう何度も同じようなことをやっているくせに、白木は、葬儀の取材というのに、ためらいを覚えてしまう。
それも、自分の娘といっていいくらいの、女の子の葬儀である。
|呆《ぼう》|然《ぜん》とした様子の父親、涙もかれ果てたように、|憔悴《しょうすい》し切った母親……。
無遠慮に入り込み、涙に|濡《ぬ》れた顔を平然とアップで|撮《と》るカメラマンたちの姿は、遺族の目にどう映っているだろうか。
それを考えると、白木は気が重かった。
おそらく、白木のようなタイプは、TV界では例外的な存在だろう。たいていの者は、カメラとマイクを持つと、自分が選ばれた人間だと信じ込んでしまう。
どんなことでも許される、と思っているのだ。――あたかも神の使いだ、とでもいうかのように。
白木はごく普通のアナウンサーで、ただ、声が、独特の渋さを持っていて、外見も中年女性好みの、インテリっぽい二枚目だというので、この役に引張り出されたのだった。
だが、もうレポーターになって半年近くたつのに、白木は一向にこの仕事に魅せられることがなかった。
早く普通のニュース番組に戻りたい、と思っていたのである。
「白木さん、ディレクターが――」
と、助手の一人が声をかけて来た。
「何だい?」
「級友の子のコメントを五、六人分取っといてくれって」
白木は|眉《まゆ》をひそめた。
「苦手だなあ」
「ほんのちょっとでいいそうですよ」
こういう席に来ると、たいていの女の子たちは泣き出してしまう。そう親しくなかった子でもそうである。
多分に雰囲気に|呑《の》まれやすい年齢なのだろう。しかし、泣いている子にマイクを向けるというのは、白木としては最も苦手とするところだった。
「じゃ、やるか、仕方ないな」
これも仕事、と割り切るしかない。
「こっちはいいですよ。どの子にします?」
と、カメラマンが|訊《き》く。
「そうだなあ……」
白木はマイクを手に、見回した。
焼香を終えて出て来た女の子たちが、そこここで、数人ずつグループになっている。目を赤くして、ハンカチを握りしめている子も、すすり泣いている子もいた。
「ああ、あそこがいいや」
とカメラマンの方が白木をつっつく。「ほら、派手に泣いてますよ、絵になる」
「おい――」
白木が止めようとしたときには、もうカメラマンは歩き出していた。仕方ない。
白木は、ためらいながら、マイクを握り直して、そのグループの方へ歩き出した。
しかし、今の子はマイクに慣れているのか、別にいやがる様子も見せない。
「ええ、同じクラスでした……」
「|美《み》|也《や》|子《こ》さんは、どんな子だった?」
美也子というのは、自殺した少女の名前である。|水《みず》|科《しな》美也子。――写真で見る限りでは、利発そうな、美しい少女だった。
「すごく……何というのかな、|真《ま》|面《じ》|目《め》な子で、とっても友だち思いでした」
「なるほど。自殺したということで――ショックだと思うけど」
「はい。――まだ信じられません」
グスン、とすすり上げる。
「原因とか、動機とか――」
「全然分りません」
――何人かの子に訊いても、大体同じ返事だった。
つまりは、それほど親しかったわけでもないのだろう、と白木は思った。
「美也子さんと一番仲が良かったのは?」
と、白木は、一人の子に訊いてみた。
「さあ……。たぶん、|古《ふる》|川《かわ》さんだと思うけど――」
「古川さん? 今日、来てるかな?」
「うん。そこの、髪の長い子」
いかにも優等生タイプの、きりっとした少女だった。きつい感じで、相当、気も強いのだろう。涙を見せてはいなかった。
「古川みのりです」
「亡くなった水科美也子さんとは、親しかったそうだけど」
「はい。小学校から、ずっと一緒でした」
「そう。――びっくりしたでしょうね」
当り前だ。何と馬鹿なことを訊くんだ。
白木は自分へ向って言った。――しかし、こんなことを訊くしか、しようがないではないか。
「はい」
と、古川みのりという少女は短く答えた。
「何か、動機らしいものは、思い当る?」
「警察でも訊かれましたけど、あの前の日に、彼女は私の家へ来てたんです。二人で宿題をやって……」
「何か変った様子があった?」
「気が付きませんでした。――もっと気を付けていれば、と残念です」
「なるほど」
あまりに大人びた答えに、白木は少々当惑していた。たぶん、警察でも、同じことを訊かれたからだろう。
「最近、ふさいでいたとか、そんなことはなかった?」
「いつも、おとなしい人でした。休み時間でも、一人で本を読んでたり……」
「なるほど。――どんな本が好きだったのかな?」
「そうですね、ロマンチックなものが好きだったみたいです」
「ロマンチックな、ね……」
ちょっと出来過ぎのような気もしたが、まあ、そういうセリフはディレクターを喜ばせるだろう。
原因不明の自殺が、この年代に多い、というのは事実である。原因がないのではないだろうが、大人の想像の範囲を越えたものなのかもしれない。
だが、それを単純に「青春特有の、死への|憧《あこが》れ」と片付けることが当っているのかどうか、白木には疑問だった。
「どうもありがとう」
と白木が礼を言うと、
「いいえ」
と、古川みのりは、丁寧に頭を下げた。
「――きちっとした子ですね」
とカメラマンが感心の|態《てい》。
「うん」
白木は、ちょっとつまらなかった。あまりに優等生的な受け答えではないか。
「――おい、ちょっと」
と、白木はカメラマンを止めた。
「何です?」
「あそこに一人で、ポツンと立ってる子がいる。あの子にも訊いてみよう」
「でも――」
とカメラマンはためらっていた。
「どうした?」
「もう少し可愛くないと絵になりませんよ」
「おい、美人コンテストじゃないんだぞ。さあ!」
「はい」
確かに、お世辞にも可愛いとは言えない子だった。――泣いてもいない。
太っていて、目が、どこか暗い光を見せている。返事など、してくれそうもない感じだった。
「あの、ちょっとごめん」
と、白木がマイクを向ける。
その少女は何も気付かないかのように、じっと前方を見つめている。
「ええと……水科美也子さんと同級生?」
少女が、無関心な目つきで、白木を見た。それは、一瞬白木をたじろがせるほどの、冷ややかな視線だった。
「そうよ」
と、少女は言った。
「美也子さんのことで、何か一言」
白木は、これで済ませるつもりだった。
その少女は、目を、水科家の方へ向けた。そろそろ|棺《ひつぎ》が出て来る時間だ。
白木は、少女が泣き出すのかと思った。ちょっと表情が|歪《ゆが》んだのである。
しかし、そうではなかった。泣くのではなく、笑った[#「笑った」に傍点]のだった。
声を上げたのではないが、はっきりと、その顔は笑っていた。
そして、突然、その少女は、白木の方へ顔を向けた。挑みかかるような目だった。
「美也子のこと?」
と少女は言った。「あんないやな人、いなかった。死んでせいせいしたわ!」
「――どうしたの?」
妻の|啓《けい》|子《こ》に訊かれて、白木は、我に返った。
「いや、別に……」
白木は、デザートのシャーベットにスプーンをゆっくりと入れた。
「何だか変よ」
「仕事のせいさ」
と、白木は言った。
「また?」
啓子は|微《ほほ》|笑《え》みながら言った。
啓子とは、夕食を外で取って帰ることが多い。子供がいないせいもあって、至って気ままな生活だった。
啓子は、専門学校で英語を教えている。二人とも夜の遅い仕事で、その限りでは、すれ違いの生活だけはまぬがれていた。
「例の女子高生の自殺だよ」
「手首を剃刀で切った、っていうんでしょ? |凄《すご》いわね」
と啓子は首を振った。
「今日が告別式でね。その取材だったんだよ」
「あなたの嫌いな仕事ね」
「あれが仕事といえるのかな。――しかし、今日、気持がふさいでるのは、そのせいじゃない」
「じゃあ、何なの?」
「うん……」
もやもやが、いつまでも心にかかっている。これを振り払うには、しゃべってしまうのが一番かもしれない、と白木は思った。
「――へえ、じゃ一人だけ、その子のことを?」
「そうなんだ。こっちは面くらったよ」
「それで、生中継だったの?」
「いや、違う。だから、その子の分は、当然ボツになったけどね」
「それが面白くないわけ?」
「それより、死んだ水科美也子のことが気になるんだ。原因も何も分らない。ただ、『駆け抜けた青春』で終らせるのは簡単さ。しかし、現実はそう単純なものじゃないだろう?」
「でも、そこを深く追求するのは、あなたの番組の|枠《わく》では無理なんじゃないの?」
「言いにくいことをはっきり言ってくれるね、君は」
「それが夫婦ってものよ」
啓子は、水を一口飲んだ。
「もし、レポートするのなら、あの子の死の、本当の理由にまで行きつかなきゃ無理なんだ。結局、きれいごとに終ってしまう」
「でも、どんないい子でも、嫌う人はいるはずよ。一人がそんな風にけなしたからって――」
「いや僕だって、それは分ってるさ。しかし、死んだ子のことは、みんな決って、『真面目で、おとなしくて、友情に厚く、どうしてこんなことになったか分らない』というだろう?」
「それは仕方ないわよ。一種の儀式みたいなもんですもの」
「儀式か……」
「そんなに、一人の子の内面へ踏み込むところまで、TVがやっていいものかしら」
そう言われると、白木としても何とも答えようがない。しかし、ただ一人、
「死んでせいせいしたわ」
と言い放った少女の笑顔が、どうしても忘れられない……。
「その子のインタビューを誰がボツにしたの?」
「ん? ああ、その『異端児』かい? ディレクターだよ」
「どうして? 面白いじゃないの、並べたら」
「そこがTVの妙なところさ」
と、白木は首を振った。「あんなに有名人のスキャンダルを暴くのに必死になってるってのに、ああいう純情な少女の死に、水をさすようなことは嫌うんだ」
「悲劇のパターンね」
「それが当る[#「当る」に傍点]と思ってる。――|総《すべ》ては視聴率のためさ」
「ああいうショーって、見てると妙な気になるわ。お葬式の場面では、司会の人も凄く深刻ぶった顔してるでしょ。で、次の瞬間には、スターのゴシップを追っかけてんですもの」
確かにそうだ。――TVの人間にとっては、死も誕生も結婚も離婚も、同じ一つの「話題」に過ぎない。
「明日はもう、別の話を取り上げるわけでしょ?」
「まあ、そうなるだろうね」
白木は、ウェイターを呼んでコーヒーを頼んだ。そのとき、
「あの――すみません」
と、女性の声がした。
振り向くと、大学生かとも思える若い女性である。
「何でしょう?」
「TVに出ていらっしゃる白木さんですね、レポーターをやっている……」
「ええ、そうですが」
白木は、いささかうんざりしながら言った。タレントでもないのに、TVに出ていると、時々こうして声をかけられることがある。
サインして下さい、なんて人もいる。物好きな話だ。
「今日の番組を拝見しました」
と、その女性は言った。
「それはどうも」
「誤解なさらないで」
「はあ?」
「あなたは恥知らずだと申し上げたかったんです。死人の肉をついばむハゲタカみたいですわ」
白木は面くらった。
「待って下さい。それは――」
「それを申し上げたくて。失礼しました」
その女性は、ヒョイと頭を下げると、さっさとレジの方へ行ってしまった。
「何だ、あれは?」
白木は、しばらくたって、やっと腹が立って来た。「言いたいことだけ言って、行っちまうなんて、失礼だ、全く!」
「放っときなさいよ。色々な人がいるわ」
それは白木にもよく分っている。しかし――やたら腹が立つのは、おそらく彼自身、あの女性の言葉が当っているかもしれない、と考えているせいだったろう。
「あら――」
と、啓子が言った。
白木のポケットで、ベルが鳴り出したのだ。
「何事だ、一体?」
白木は、席を立つと、レジの方へ歩いて行った。もちろん、さっきの女性は、とっくに店を出てしまっていた。
「電話、借りるよ」
と声をかける。
顔なじみの店である。――白木は局へ電話を入れた。
ディレクターが出た。
「ああ、白木ちゃん? 悪いね、呼び出して」
「何ですか」
白木は、「ちゃん」づけで呼ばれるのが嫌いである。芸能界では、いいトシをした者同士が「××ちゃん」と呼び合って、当り前のような顔をしている。
「今日取材した、女の子ね」
「水科美也子ですか」
「そう、その子。親がね、娘は殺されたんだって訴えて来てる」
「殺されたって?」
白木は思わず訊き返した。
「つまり、自殺へ追い込まれた、というんだ。学校側を告訴するらしい」
「どうなってんです?」
「分らない。そこを探ってくれよ」
「僕はアナウンサーですよ。記者じゃない」
「今日、両親にも会ってんだろ?」
「そりゃまあ……」
「じゃ、話もしやすいじゃないか。これから行ってみてくれないか」
「今から?」
「他の局も動いてるんだ。カメラマンは何とか手配するからさ、頼むよ」
「しかし――」
と言いかけるのにかぶせるように、
「そこにいてくれ。車をそっちへ出す。十五分もあれば行くはずだ」
「ちょっと待って下さいよ。あのね、僕は――」
白木は口をつぐんだ。もう電話は沈黙していたのである。
「――何なの、一体?」
席に戻ると、啓子が言った。
白木が説明すると、啓子は|肯《うなず》いて、
「じゃ、これからお出かけ?」
「そういうことになる。全く厄介なことだ」
白木は渋い顔で言った。
しばらく黙っていた啓子は、ふと何か思いついたように、
「どうして今ごろになって――」
と言い出した。
「え?」
「その、水科美也子って子の両親よ。なぜ、お葬式も終ったのに、急にそんなことを言い出したのかしら?」
なるほど。そう言われてみればそうだ。
白木も一応、美也子の両親に話を聞いているが、そんな様子は全くなかった。
ということは、その後に[#「その後に」に傍点]、両親の気持を動かす何かがあった、ということである。
それが何なのか。――白木も、好奇心がうずくのを感じた。
再びあの少女のことを、
「死んで、せいせいしたわ」
と言った子のことを、思い出していた……。
「どうやら一番乗りですね」
と、カメラマンの若者が、得意げに言って、車から飛び出すように降りた。「ちょっと外景を撮りますから」
「うん」
白木は、カメラのフレームに入らないように、わきへ寄って見ていた。
強いライトが、水科美也子の家を照らし出した。カメラが、家の全景を|捉《とら》える。
「ちょっと特徴のない家だな。あっち側からも撮っときます。――ああ、ここの方がまだいいや。木の一本でも植えときゃもっと絵になるのになあ」
「そう注文通りにはいかないよ」
と、白木は苦笑した。
カメラマンにも、最近は、ありのままを撮るのではなくて、自分のイメージに合った写真を撮りたがる者がふえた。それが、現実の場所や人間を撮るときもそうなのである。
イメージに合わないと、「人」や「場所」の方を変えたがる。
白木から見れば、カメラマンは演出家ではないのだから、対象を変えたがるのは妙なものだと思えた。
家の玄関をカメラにおさめる。
強いライトが玄関の格子戸を照らして、カメラのズームレンズが、ジーッとかすかな音を立てて回った。
突然、ガラッと戸が開いた。若い女性の顔が、ライトを受けて現われる。
「何をしてるんですか!」
と、その女性は叫ぶように言った。「人の家を断りもなく写して。帰って下さい!」
白木は|呆《あっ》|気《け》に取られていた。――さっき、あのレストランで、彼のことを「恥知らず」だの「ハゲタカ」だのと言い放った女性である。
「失礼」
と、白木は、我知らず進み出ていた。「あなたは?」
カメラマンがライトを消した。しかし、まともに強い光を受けていたせいか、その女性は、ちょっと目がくらんでいるらしかった。
「何ですか?」
と、白木を見ていたが、「――まあ、またあなたなのね!」
と、かみつきそうになる。
「待って下さい。こちらも仕事なんですからね」
「それが男の仕事なんですの? 人の私生活を暴き立てて歩くのが?」
そうまで言われると、白木もムッとして、
「あなたにそんな風に言われる覚えはありませんね。一体、死んだ生徒と、どういう関係なんです?」
「私は担任の教師です」
と、言い返して、ハッとしたのが分る。
「待って下さい」
と、白木は言った。「僕は今日、昼のお葬式のとき、担任の先生にも会っている。しかし、それは男の先生でしたよ」
「それは――あの――」
と、つっかえながら、「前、担任だったんですわ」
と言った。
しかし、それはとっさの言い逃れに過ぎない、と白木には分った。
「もういいでしょう! お帰りになって下さい!」
その女性は、白木を押し戻そうとした。
「落ちついて下さい。――いいですか、ご両親が、娘さんは、自殺へ追いやられたんだといって、学校を告訴すると聞いたので、来たんです。ご両親の言い分をうかがいたいんですよ」
「それについては、もう終りました」
と、その女性は言った。
「終った?」
「ええ、ご両親は、悲しみと疲労で、ちょっと混乱なさってたんです。でも、よく話し合うと、それは誤解で、学校には何の責任もないと納得して下さいました」
「すると告訴は?」
「取りやめです。まだ提訴してもいないんですから」
しかし、白木には、|腑《ふ》に落ちなかった。
「ご両親の口から、直接聞きたいと思うんですがね」
「お二人とも疲れ切っておられるんです。とても、そんな話のできる状態ではありません」
「あなたは医者じゃないんでしょう!」
ムッとして白木が言うと、彼女はキッとにらみ返し、
「当人がいやがっていることをやめてくれと言うのは、医者でなくてもできます」
と|叩《たた》きつけるように言うと、「帰って下さい!」
中へ入って、ピシャリと玄関の戸を閉めてしまった。
こうなると仕方ない。戸を無理にこじ開けて、というほどの度胸は、白木にはないのである。
「――気の強そうな女ですね」
と、カメラマンが言った。「どうしますか?」
「仕方ないよ。帰ろう」
と、白木は言った。
「他の局の連中ですよ」
と、カメラマンが|顎《あご》をしゃくった。
車のライトが近づいて来る。
白木は、乗って来た車のドアに手をかけたまま、同業者たちが、水科家の玄関へと駆けて行くのを眺めていた。
あの子だ。
白木は、双眼鏡から目を離した。
校門から数十メートルの所に、白木は車を停めていた。自分の車だから、目立たないだろう。
――今日は休みの日だった。
それでいてここへ来て、もう二時間も粘っているのは、水科美也子の死と、その背景に、個人的な興味を持ったからだった。
もう、ニュースとしては、水科美也子の自殺は古い。「カビが生えている」というところだ。
しかし、白木には気になった。
調べてみると、美也子の担任は、やはり、|米《よね》|沢《ざわ》|律《りつ》|子《こ》という女性だった。おそらく、あの若い女性だろう。
それなのに、なぜ学校側は、美也子の担任として、男の教師――里井という英語の教師だった――を、会見させたのか。
それが、白木にはどうにもスッキリしないのである。
だが、まともに行っても、米沢律子が話をしてくれるとは思えない。――そこで、あのとき、一人、美也子の死を喜んでいた娘に、もう一度会ってみようと思ったのである。
とはいえ、名前も分らない。そこで、こうして張り込んでいたわけである。
幸い、その女の子は、一人で、校門を出て来た。白木は、車を出ると、その子の後をついて、歩き出した。
少し学校から離れなくては。――といって、あまり人目のない所で声をかけては、痴漢と間違えられる恐れもある。こういうことは、元来得意でないのだ。
その女の子の後をついて行くと、フッと姿が見えなくなった。
住宅の並んだ通りである。――どこへ行くといって……。
キョロキョロしていると、
「おじさん」
と声がした。
振り向くと、あの女の子が、ポストの陰に立っている。
「ああ、そこにいたのか」
「私の後つけて、どういうつもり?」
と、女の子は言ったが、どっちかというと面白がっている様子だ。
「ちょっと君に話があるんだ」
「いくら?」
「え?」
「いくら払う? ホテル代は別よ」
白木は、一瞬キョトンとして、それから、
「そうじゃないよ」
と、あわてて言った。「憶えてないかな、僕はTVの――」
「あ、なあんだ」
と、女の子は思い出したらしい。「じゃ本当に話だけ?」
「もちろん。――でも、お礼はするよ。お金の方がいいのかな」
「お金以外に、お礼なんてあるの?」
と女の子は笑って、「どういう話?」
と訊いた。
「水科美也子君のお葬式のときのことさ。君は、彼女が死んでせいせいしたって言っただろう。あれはどういう意味なんだい?」
「別に」
と首をすくめて、「正直に言っただけよ」
「君は美也子君が嫌いだった。何かわけでもあったの?」
「みんな嫌ってたよ。ただ、仕方なく、泣いてただけ」
「どうして嫌ってたんだろう?」
「そりゃあ――」
と言いかけて、突然、女の子は、「何てこと言うのよ!」
と叫ぶように言った。
「別に――」
白木は面くらった。
「先生! この人が――」
と、女の子が呼びかける。
振り向くと、米沢律子が小走りにやって来るところだった。
「またあなたね!」
と、白木をにらみつける。
「この人、私にホテルへ行こうって誘ったんです」
「何だって? 冗談じゃない! 僕はただ――」
「もう沢山だわ」
と、米沢律子は|遮《さえぎ》った。「このことを警察へ訴えれば、あなたはもうTVに出られなくなるでしょうね。自業自得だわ」
白木はカッとした。
「じゃ、好きなようにしろ! 水科美也子の担任は君なのに、里井という男の教師だと|嘘《うそ》の発表をしたのは、なぜなんだ! 君は美也子の担任なのに、なぜ告別式に来なかった?――僕を訴えるのなら、その返事をする用意をしておけよ!」
米沢律子は、じっと白木を見ていた。――その目から、敵意が消えて行くのを、白木は不思議な気持で見つめていた。
「分りました」
と、律子は言った。「このことは黙っています。もう二度と、私たちの前に現われないで下さい」
「そうはいかないね」
と、白木は言った。「僕は真実が知りたい。きれいごとの話じゃない、事実をね」
律子の顔に、奇妙な笑みが浮かんだ。――白木はちょっと当惑した。
「私だってそうですわ」
律子は、|呟《つぶや》くようにそう言うと、あの女の子の方へ向いて、「さあ、あなたはもう帰りなさい!」
と言った。
「先生は?」
「学校へ戻るわ。――あなた、家へ帰るの、この道じゃないはずでしょ。だめよ、寄り道は」
「へへ」
と、女の子はペロリと舌を出し、「じゃ、さよなら」
と、小走りに行ってしまった。
米沢律子は、白木の方を見ると、
「TVが、どれほど真実[#「真実」に傍点]を必要としていますの?」
と訊いた。
白木は何とも返事ができなかった。
律子が、足早に去って行くのを、白木はぼんやりと見送っていた……。
「分らんなあ」
と、呟きつつ、車に戻った白木は、ドアに手をかけた。「おっと、キーを出さなきゃ」
とポケットを探っていると、急にドアが中から開いたから、仰天した。
「どうぞ、ご遠慮なく」
笑いを含んだ声がした。
|覗《のぞ》き込んだ白木はびっくりした。制服姿の女子高生が、助手席に座っている。
「何してるんだ?」
「お話があるの。――憶えてる?」
思い出した。そうか、水科美也子の一番の友だちだったという、古川みのりだ。
「憶えてるよ。しかし――どうやって中へ入ったの?」
「簡単よ。私の仲間にはベテランがいるんだもの」
「ベテランって?」
「車の窓ガラスをね、ゴムの吸盤でぐっと押し下げるの。そうすると、楽に開くわ」
「どういうつもりだい、こんなことをして……」
「いいから、どこかへ行きましょうよ。先生の目に入ると困るわ」
白木は、ちょっと迷ったが、肩をすくめて、運転席に座った。――車が走り出すと、古川みのりは頭をシートにもたせかけて、
「ドライブでもしない?」
と言った。
「だめだ。僕はまだ我が身が可愛い」
「じゃ、どこへ行くの?」
「水科美也子君の家だ」
古川みのりは、びっくりしたように白木を見て、それから笑い出した。
「参ったなあ。分った。いいわよ、じゃ、駅前通りのフルーツパーラーに連れてって。人目があるし、変な仲だと勘ぐられることもないでしょ」
白木は肯いた。
やれやれ、今の子たちは、一体何を考えているのやら……。
「――美也子と友だちだったなんて、まるで|嘘《うそ》なのよ」
古川みのりは、フルーツパフェをつつきながら言った。
「でも、あのとき、他の子たちに訊いたら……」
「私が、代表で返事をするように言われてたの」
「誰から?」
「先生たちよ」
「じゃ、学校の方から指示があったのかい?」
「何もかもね。告別式に出る生徒も、学校が選んだの。――よく泣くようなタイプの感激屋さんをね」
「驚いたな」
「学校なんて、そんなもんよ」
「君は、彼女と親しくなかったの?」
「美也子と? あの子と仲のいい子なんていなかったんじゃない?」
「どうして? そんなに付き合いの悪い子だったのかい」
「石頭だったのよ。カチカチの堅物で」
「つまり――真面目だった」
「そう。生真面目でね。みんなに何と言われても授業には出たし」
いいことじゃないか、と言いたいのを、白木はぐっと抑えた。
今は、そんな押し問答をしているときではない。
しかし、白木には、今の子供たちが分らない。もちろん、自分に子供がいないせいでもあるのだろうが。
真面目であることをからかいの対象にする。その気持が、白木には理解できなかった。
白木自身だって、そう生真面目な学生だったわけではない。適当に授業をさぼり、教師の目を盗んでタバコも吸った。
しかし、真面目な生徒を、それ故にいじめるとか、そんなことをする者はいなかった。
ただ、冷やかすぐらいのことはあったにしてもだ。
今は違う。ごく普通の生徒たちが、真面目な生徒を、みんなでからかう。からかうだけでなく、いじめることすらあるらしい。
それが、一体どういうところから来ているのか、白木には分らなかった。
「美也子君はなぜ自殺したんだろう」
と、白木は言った。
「知らないわ。別に関心もないし。――学校だってそうよ。先生たちも、一応、型どおりの訓辞をしておしまい」
「そんなものかね」
「それ以上、|関《かかわ》り合ってたら、面倒なんでしょ」
白木は話題を変えることにした。
「あの、米沢先生って人は?」
「彼女がどうしたの?」
「担任だったんだろう?」
「そうよ」
「なぜ、告別式にも出て来なかったんだい?」
「学校側が決めたんでしょ。あの先生は、今どき珍しい正義漢だから、何を言い出すかと思って」
「それで他の先生に――」
「里井さんね。校長のお気に入りなの。至って従順だから」
「美也子君を発見したのが、里井先生だったな」
と、白木は思い出して言った。「会ってみるか」
古川みのりが、クスッと笑って、
「あなたも物好きね。それを調べてどうするの?」
「事実を知りたいのさ」
「TVで取り上げる?」
「もし、その必要があれば」
「無理よ」
と、古川みのりは言った。
「無理? 何が?」
「そんな真面目な話、TVでやっても、みんな喜ばないわ」
「そんなことはない」
「頭を使うような番組なんて、すぐチャンネルを変えられちゃうわよ。あなた、自分でやってて分らないの?」
「手厳しいね」
と、苦笑する。
「まあ、頑張ってちょうだい」
古川みのりは、立ち上った。「ごちそうになるわよ」
「ああ、もちろん構わないよ」
「領収書はいらないんでしょ?」
と、古川みのりが訊いた。
「――何かあったの?」
と、部長の秘書が、白木に言った。
「呼ばれて来たのは、こっちだぜ」
白木が肩をすくめる。
「部長、カンカンよ。中へ入るときは、ヘルメット着用のこと」
「そんなに?」
「思い当ることは?」
「何もないよ」
「変ね」
「入れば分るさ」
白木は、部長室のドアをノックした。
「入れ」
声だけで、およそ顔つきが想像できた。
「お呼びですか」
明るい部長室に、暗雲が立ちこめている感じだった。
「何だ、これは!」
部長が立ったままぐいと突き出したのは、キャビネくらいに引き伸ばした写真だ……。
「はあ」
「その女の子は?」
「先日、取り上げた、自殺した少女の級友です」
「フン、ホテルにでも行ったのか」
「まさか――取材で話をしていただけですよ」
「こいつを、週刊誌にたれ込んだ|奴《やつ》がいるんだ」
部長はドッカと椅子にかけて、言った。
「週刊誌に?」
「グラビアページだ。〈人気キャスターの『役得』〉というキャプションがつけば、どう思われる?」
「そんな無茶な!」
白木もさすがに腹が立った。「じゃ、取材もできないじゃありませんか!」
「一人で、しかも休みの日に行くことはなかろう」
白木はぐっと詰った。
「しかし――この件は、個人的な興味で調べていましたので」
「番組で取り上げもしないことを調べるヒマがあるのか」
「ですから休みの日に――」
「ともかく軽率だ。注意したまえ」
白木は、言葉を|呑《の》み込んだ。
「――分りました」
「この記事は、俺の友人が何とかボツにしてくれた」
「そうですか」
出してくれてもいいんですよ、白木は言いかけて、口をつぐんだ。言って、どうなるものでもない。
「アナウンサーに戻して下さい」
と、白木は言った。「私はその方が気が楽です」
「勝手に動かすわけにはいかん。それに、今の仕事が満足にできんのなら、辞めてもらうしかない」
白木の顔がこわばった。
「分りました」
「もう戻ってもいいぞ」
白木は部長室を出た。
秘書が、探るように彼を見て、
「どう?」
「皮一枚でつながってるってとこかな」
「そう。――辞めるときは早目に言ってね、送別会のスケジュールがあるから」
「ありがとう」
白木は苦笑した。
それにしても、誰があの写真を撮ったのだろう?
白木はいやな気持だった。――どこかで誰かが見ているというのは、言い難い|苛《いら》|立《だ》ちを覚えさせるものである。
誤解されそうな場所で話をしなくて良かった、と白木はつくづく思った。何事も慎重でなくてはならない。
自分の席に戻って、白木は考え込んだ。
これから、どうすべきか。――もちろん、個人としては水科美也子の死の謎を追ってみたい。
好奇心からだけではない。あの少女の死の底には、もっと根の深い何かが、潜んでいるような気がするのである。
担任教師の米沢律子も、古川みのりも、まだ何かを隠しているように思えてならない。――一人の少女が死を決意するというのは、やはり容易なことではあるまい。
ただ、「哀れ」とか「|儚《はかな》い」という言葉だけで、お|定《さだ》まりの感傷的なパターンとして片付けてしまうのは間違っている。
白木としては、それを黙って放っておくことは、性格的に、できない。しかし同時に、サラリーマンとして、上司の意思に縛られていることも事実である。
どうすればいいだろう? 利口に立ち回ろうと思えば、気になることに目をつぶって、ディレクターの言う通りに動いていればいいのだ。
しかし、TVは、それだけのものでいいのだろうか? 暴露と覗き見だけが、TVの使命であるなら、それはあまりに寂しすぎる……。
電話が鳴った。
「――はい、白木」
「外線からです」
退屈そうな交換手の声がした。
「もしもし」
女の声だ。一瞬、啓子かと思った。
「啓子か。何だ?」
「啓子って誰?」
と、その声が笑っている。
「え?――ああ、君は――」
「分った?」
古川みのりだ。白木の方も苦笑していた。
「女房かと思ったんだよ」
「あら、本当? もしかして、若い恋人じゃないの?」
「やめてくれよ。――何か用なの?」
「ちょっと小耳に挟んだことがあるの。美也子のことで」
「ほう。聞かせてくれよ」
「どこかで会って話す?」
「いや、やめとこう」
「あら、怖いの」
「誰かに写真を撮られたよ」
「私といる所を? へえ! 意外と人気者なのね」
「そんなことより、何を聞いたのか教えてくれよ」
「遺書があったらしいの」
白木は、ちょっと声を低くした。
「水科美也子が書いたのか」
「そりゃそうよ。私が書くわけないでしょ」
「それはどこに?」
「学校にあるって|噂《うわさ》よ。どうやら、里井先生が見つけて、人目につかないように隠しちゃったみたい」
「里井……。あの、担任の教師として会見した先生だね」
「そうよ、用務員のおじさんが美也子を見つけて、すぐにあの先生が来たんでしょ。きっと遺書の中味を見て、知られちゃまずい、っていうんで、隠したのよ」
「そうか」
白木は考え込んだ。「――その話、どこから聞いたんだい?」
「噂よ。でも、発生地は、どうやら事務の女の子なの。校長と里井先生が、ヒソヒソ話してるのを聞いちゃったんですって」
「すると校長先生も知っている、と――」
「当然よ。里井先生、校長の子飼いなんだもん」
「なるほど」
白木は、何としても、その遺書の中味が知りたくなった。「その里井先生って人に、連絡できるかな」
「会ってもむだだと思うけどね」
「ともかく会いたい」
「いいわ。――待って、電話番号教えてあげる」
少し間があって、「生徒手帳に出てるのよ。メモしてね」
と、番号を読み上げる。
「――ありがとう。早速連絡してみるよ」
「今日は、里井先生、研究日でお休みだから、家にいると思うわ。じゃあね」
面白い子だ、と白木は思った。どうしてわざわざ知らせて来る気になったのか。
今の子は、気紛れなのだろう。
白木は、番組のディレクターの所へ、話を持って行った。案の定、最初はいい顔をしなかった。
「あれはもうとっくに済んだ話だよ」
というわけだ。
しかし、白木が、遺書の話を持ち出すと、大分変って来た。
「すると、そういうものがあるんだね? それならいけるかもしれないな」
つまり、他局を抜ける、というわけである。正直なところ、あの自殺は、他の局でも、同様のワイドショー番組で取り上げ、どこも似たり寄ったりの作り方だった。
隠された遺書を発見したというニュースを独占できれば、これは新聞の〈特ダネ〉と同じことになる。
「体面を重んじて、真相を隠す学校側、か。――その辺は、あんまりしつこくやると固くなるな。ともかく、原因が第一だよ。自殺の動機。それを見ないと決められないね」
「分ってます」
と白木は肯いた。
「OK。任せるよ。白木ちゃん、その代り、その遺書ってやつを必ず手に入れて来てくれよ」
「分りました」
と、白木は言った。
この際、そう言うしかない。もちろん、どうやって手に入れるか、そこまでは考えていなかった。
「――どなたですか」
インタホンから、眠そうな声が聞こえて来た。
「白木というものです」
名前を言ってしまうのが、ドアを開けさせるのに、一番いい手である。いかにもセールスマン風のしゃべり方をしてはいけない。
|却《かえ》って、適当にぶっきら棒な話し方をするのがいい。近所の人かな、とでも思われるように。――これは、白木がレポーターをやっていて身につけた、|悪《あ》しき知恵である。
ドアが開いて、十分前に起きたばかり、という顔の里井が、しまらない様子で出て来た。しわだらけのスポーツシャツは、少なくとも一週間は着たままだろう。
「ああ、TVの人ですね」
「その節はどうも」
意外にも、里井は不愉快そうな顔も見せずに、
「まあ、汚れてるけど、入って下さい」
と、白木を中へ入れた。
確かに、中は荒れ放題という感じだった。
「独りなもんで、ついこんな風になっちまうんですよ」
と、里井は照れたように言って、急いで部屋を片付けた。
と、いっても、押入れの中へ、目につくものを放り込んだ、というだけである。
「コーヒーでも|淹《い》れましょう。――いや、僕も起きたばかりなので、飲みたいんです」
里井はガス台にやかんをのせて、「――白木さん、でしたっけ。時々、TVで見てますよ」
「それはどうも」
白木は、少々調子が狂っていた。里井がもっと反抗的に出て来ると思っていたのだ。
「で、お話というのは?――水科君のことですか?」
「ええ」
せっかくの友好ムードだが、ここはいきなりぶつけるのが一番だ、と白木は判断した。
「水科美也子の遺書を、見せていただけませんか」
里井は、ポカンとして、
「――遺書? 遺書があるんですか?」
と訊き返した。
これは大したもんだ、と白木は思った。
しら[#「しら」に傍点]を切るなら、これくらいの演技力がなくては。――いや、おそらく、里井は、その件で白木が来るのを、予期していたのではないか。
「先生がお持ちだとうかがったんですが」
「僕が?――とんでもない!」
里井は目を丸くして、「そんなものがあれば公表していますよ」
「そうですか。水科美也子の死体を発見したとき、あなたが見つけて、それを校長先生と相談して、隠した、という情報があったのです」
「まるでドラマですねえ」
これだけ言われても、里井は一向に気を悪くした様子もない。――鈍いのか、のんびりしているのか、それとも、とぼけているだけなのか。
「でも、残念ながら、そんなものはありませんでしたよ」
「そうですか」
白木は肯いた。もちろん、これで引き下るわけにはいかない。
「一つうかがっていいですか」
と白木は座り直した。
「どうぞ。――あ、ちょっと、待って下さい。今、コーヒーを」
と、里井が立って行って、ペーパーフィルターでコーヒーを落とす。
「――やあ、お待たせして」
里井が、少しふちの欠けたコーヒーカップを、白木の前に置いた。
「どうも……」
白木の方は調子が狂っている。――この里井という教師、よほど|呑《のん》|気《き》なのか、でなければ利口な男なのだろう。
「うかがいたかったのは――」
と、白木は気を取り直して言った。「水科美也子の本当の担任は米沢律子なのに、なぜあなたが担任として会見されたのか、ということです」
「ああ、そのことですか」
と里井は、また軽く受けて、「うちの学校には、二種類の担任がいるんです。ホームルームの担任は確かに米沢先生ですが、もう一つ、教科の担任は僕だったんですよ」
「教科の担任というのは?」
「主要課目だけ、クラスが違うんです。数学なんか、とくに、能力の差があると、いわゆる『落ちこぼれ』が出るでしょう。それで、大体同程度の学力の子を集めて、別々に授業をするんです」
里井の言い方には説得力があった。
「しかし――あの場合、生徒の私生活にも関係があるというのは、米沢先生の方だったんじゃありませんか?」
「それはまあ、その通りです」
と、里井は、初めて、ちょっと戸惑いを見せた。
「米沢先生が、告別式にも出られなかったのは、何か理由でも?」
里井は肩をすくめた。
「ショックですよ。やはり、自分のクラスの子が自殺したというのは、教師にとってショックですからね」
「それは分りますが――」
と、白木が言いかけたとき、玄関のドアが開いた。
「ねえ! 重いのよ。これ、受け取って」
白木は、びっくりして、声が出なかった。
両手一杯に、スーパーの紙袋をかかえて、入ってきたのは、米沢律子だったのだ。
彼女は白木に気付くと、急に表情をこわばらせた。その手から、紙袋が一つ落ちた。
飛び出したリンゴが、狭い部屋を横切って奥まで転がって行く。
「何しに来たの!」
荷物を投げ出すように置くと、米沢律子は白木へ食ってかかった。「こんな所までやって来て、どうしようっていうの!」
「いや、別に――」
白木は、たじたじだった。
「私と里井先生が婚約してたって、そんなことTVで取り上げるほどのことじゃないでしょう! それとも、TVってそんなにヒマなの?」
「そ、それはおめでとう――」
「とっとと出て行ってよ!」
白木は、米沢律子に、|叩《たた》き出されるように里井の部屋を出た。
「やれやれ……」
気の強い女性だ。――あれじゃ、里井は結婚して尻に敷かれるだろうな。
しかし、彼女のあの怒り方は少々度が過ぎていたように、白木には思えた。
そう。――少し芝居じみている、とでも言うか。
芝居? もしかすると、そうかもしれない。隠したいことがあって、それをごまかすために、わざとああして騒いだのだろうか?
白木にはよく分らなかった。
だが、問題はまだ解決していない。――水科美也子の遺書である。
何とかして手に入れたい……。
「いいの、そんなに深入りして?」
と、啓子はナイフとフォークを皿に置いて、言った。
二人で、例によって遅い夕食である。
「うん……。ともかく、ディレクターはやる気だよ」
「いつも、あんなにいやがってるのに、どうしたの?」
「何が?」
「あれこれ探り回ることよ、あなたは、いやがってたじゃないの」
「うん。――それはそうだ」
「どうして今度は別なの?」
白木は、黙り込んだ、――どうしてなのだろう?
「自分でもよく分らないんだよ」
と、白木はゆっくり言った。「――ただ、あの女の子の自殺には、裏に何かあるような気がする。人の秘密を暴くことと、真相を追究することは違うだろう」
「あなたの言うことはよく分るけど」
と、啓子は首を振って、「でも、その違いをどう見きわめるか、難しいと思うわ」
「うん」
白木にも分っていた。――〈真実〉の追究という大義名分が、人を傷つけ、暴く必要もない秘密を暴いてしまうことが、往々にして、ある……。
「しかし、その遺書の内容によっては、犯罪が隠されている可能性もあるんだ。そうだろう? やはり、中を見てみたいんだよ」
「そうね。でも、その先生は、ないと言ってるんでしょ?」
「校長に言い含められてるんだろうな」
「持ってるとしても、どうやって手に入れるの?」
「それを考えてるんじゃないか」
啓子は、フッと笑って、
「ともかく、考える前に食事をしたら?」
と言った。
白木は、まだステーキが食べかけだったことに気が付いた。
「脂っ気がなくなって来たのね」
と、啓子は言った。「前は、お肉が大好きだったのに」
「今だってそうさ!」
「そう?」
「ああ、もちろん」
白木は、残った肉に、ぐいとナイフを入れた。――啓子はそれを眺めながら、
「私の肉には興味ないの?」
と言った。
――その夜、白木は、電話の音で目が覚めた。
啓子の「肉」にも大いに関心があることを、身をもって示した後だったので、なかなか起き出せなかった。
やっとの思いで、受話器を取り上げる。
「はい……」
「何だ、寝てたの?」
「ん?――ああ、君か」
古川みのりだ。
「眠そうね。TVの人なんて、みんな夜遅いのかと思ってたわ」
「そんなのはスターの話さ。こっちは朝六時には起きるんだ。――何だ、夜中の一時じゃないか。まだ起きてるのかい?」
「そうよ、いつものこと。睡眠不足は、授業中に取り返すから大丈夫」
白木はつい笑ってしまった。
「――ねえ、里井先生と話した?」
「うん。訪ねて行ってね」
「さすが! で、先生、何だって?」
「そんな遺書なんか、見たこともないって、さ」
「そりゃそう言うでしょうね」
と、古川みのりは言った。「で、どうするの? もう|諦《あきら》める?」
「遺書が手に入らないんじゃ仕方ないよ」
「だめねえ。それでもジャーナリスト?」
「きびしいね」
「体当りで行かなきゃ」
「そう簡単には――」
「ねえ、聞いて」
と、みのりは言った。「明日、学校は空っぽになるの」
「何だって?」
「学校のマラソンがあるのよ。だから、朝からみんな外へ出て、夕方まで戻らないわ」
「君も出るの」
「私は、心臓が弱いからお休み」
「へえ」
「知り合いに、いいお医者さんがいてね、診断書、書いてくれるの」
「何だ、ずる休みか」
「言葉が悪いわね。自主的休養とか、せめてそんな風に言ってよ」
「まあいいよ。――で、どうしろって言うんだ?」
「遺書を捜しに来ない? 案内してあげるから」
白木はびっくりした。
「何だって? しかし……それじゃまるで泥棒じゃないか」
「あら、当然、見ていいものを見に行くだけじゃないの。そんなこと、構わないわ」
「君はそう言うけど――」
「大丈夫よ。絶対に見つからないわ」
「しかし――」
「明日、十時に、学校の裏門の所で待ってるからね」
「十時? 朝の?」
「当然よ。じゃ、必ず来てね」
「おい、待てよ、そんな無茶なことを――」
白木が言いかけると、もう電話は切れていた……。
白木は受話器を置いて、ベッドに戻った。啓子が、身動きして、また寝入った様子だった。
どうしたものだろう?
もちろん、遺書に興味はある。しかし、それを手に入れる手段[#「手段」に傍点]にも、自ずと限界というものがあるのだ。
万一、誰かに見られでもしたら……。
だめだ! やめておこう。危険すぎる……。
「本当に大丈夫かい?」
と、白木は念を押した。
「任せといて」
と、古川みのりは気楽に言った。「だて[#「だて」に傍点]に毎日通っちゃいないわ」
裏門は、一応閉っていたが、別に鍵をかけていない。――まあ、昼間、学校へ忍び込む人間もいないのだろうが。
「入って。校舎の中に入れば、もう大丈夫よ」
「うん……」
白木は、ためらいながら、左右を見回しつつ、みのりの後から、ついて行った。
誰もいない学校というのは、あまり気持のいいものではない。
夜ではないのだから、と思っていたのだが、|却《かえ》って明るいのが無気味にすら感じられる。
「こっちよ」
階段を上って行く。みのりは平気なもので、トントンと軽快に足音を立てているが、白木の方は、ついつい忍び足になる。
これじゃ、却って怪しまれそうだな、と思った。
みのりが、足を止めた。
「ここがあの里井先生の研究室。――ちょっと気をつけてね。この真下が職員室だから」
「誰かいるの?」
「そりゃ、空っぽにはできないでしょ」
「君は誰もいなくなる、と――」
「さあ、ともかくここまで来たんだから、いいじゃないの。――ね、ちょっと肩車してよ」
「肩車?」
「鍵がかかってるの。上の窓から入るしかないのよ」
白木は、仕方なく頭を下げた。みのりが肩に乗っかる。
「はい、立って」
そう気楽に言うな!――白木は、必死の思いで、壁によりかかりながら、立ち上った。
「OK。やるじゃない!」
「冗談じゃないよ」
身軽なもので、みのりの姿はアッという間に窓の中へ消えた。白木は、首が痛くて、しばらくめまいがした。
ドアが開いた。
「どうぞお入り下さい」
みのりが、冗談めかして言った。
「どこにあるのかな」
白木は、雑然とした部屋の中を見回して言った。
「その机だと思うわ。一番上の引出しに鍵がかかってるの」
「これか。――しかし、こじ開けるわけにはいかないよ」
「分ってないのね」
と、みのりはため息をつき、「一段下の引出しを抜いて、そこから手を入れるのよ。分った?――私、廊下にいるから」
白木は、こうなったらどうにでもなれだ、と、やけくそになって、言われた通り、下の引出しを抜いて床に置くと、かがみ込んで、手を突っ込んだ……。
白木は、会議室に座っていた。
十五人は入る部屋に一人、ポツンと座っていると、何だかここがTV局の中だということを忘れそうだ。
窓から、中庭が見える。――静かだった。
「やあ!」
勢いよく入って来たディレクターは、「どう? 見つかった?」
と、いきなり訊いた。
白木は、一通の白い封筒を、机に置いた。
「やるじゃないか!」
ディレクターは大声で言った。仕事柄、この声が普通のボリュームなのである。
ディレクターは、中の手紙を取り出して、読んだ。
白木は、じっと窓から外の中庭へ目を向けたままだった。
「――凄いね」
とディレクターは言った。
「やめましょう」
と、白木は言った。
「何だって?」
「取り上げるのはやめましょう」
ディレクターは、まじまじと白木を見つめた。
「どうしたっていうんだい?」
と、目をパチクリさせ、「君が、あんなにやりたがってたんじゃないか!」
「こんなことだとは思わなかったんですよ」
と白木は首を振って、「もっと――今の教育界とか、学校内の問題――いじめっ子とか、校内暴力とか、受験戦争とか……そんなことじゃないかと思ってたんです」
「そんなんじゃ、面白くも何ともないじゃないの。教育テレビと違うんだよ」
「しかし、これはまずいですよ」
「どうして?――教師と生徒、そして女教師の三角関係。ドラマチックじゃないか!」
「いいですか」
と、白木は言った。「取り上げたら、どうなります? 里井、米沢律子、どちらも教職にはいられなくなるでしょう」
「そうかなあ」
「当然ですよ。我々に、そんなことをする権限はありません。――愛情問題は、第三者が口を出すことじゃない」
「しかし、スターの恋愛沙汰は毎日やってるぜ」
「それで彼らの職が失われるわけじゃないでしょう。――この場合は別です。それに、この遺書は、死んだ子が書いたものですよ。公平な目で見てはいないでしょう」
「事実だけで充分だよ」
と、ディレクターは両手を広げて見せた。
「教師と関係して妊娠までしたことがある。その教師が、女教師と婚約。娘は絶望して自殺。――細かい点はともかく、この事実には変りがないよ」
「しかし……」
「まあ任せとけ」
ディレクターは立ち上って、遺書をポケットへねじ込むと、「これならどうだ? 事実を基にした創作、というやつさ。カンのいい人間には分るだろう。鈍い奴には分らない。これなら逃げ道があるじゃないか」
「あの趣味の悪い、三流のドラマ仕立てにするんですか?」
ディレクターは笑って、
「あれはあれで人気があるんだぜ。通俗に徹すれば、ね」
「本当にやるんですか」
と白木は言った。
「そう心配するな、名前も変える、場所も変える。何なら、学年を変えたっていい。そうすりゃ分るもんか。――話の方は一般論で行くんだ。それとなく匂わせてね」
白木は何も言わなかった。
もう、自分の力ではどうしようもない、と悟っていたのである。
「じゃ、また明日!」
ディレクターは、飛び出すように出て行った。
白木は、また広い会議室に、一人で取り残された……。
「もしもし」
「もしもし、あなた?」
「もしもし」
「どこからかけてるの?」
啓子の声が、どこか遠くで聞こえているようだ。
「バーだよ」
と、白木は言った。「もうすぐ帰る。――そうだな、二、三年したら」
「あなた、酔ってるのね」
「そうかな。君も酔ったろう? 今日のすばらしい番組に」
「ねえ、帰ってらっしゃい。迎えに行きましょうか?」
「いや、一人で帰れるよ。そうだろ? いいトシなんだから」
「ねえ、聞いて。あなたのせいじゃないわ。あなたは――」
「僕は何もしちゃいない。そうとも。やったのはTVに出てる他の奴だ。僕とそっくりな、別の男だ」
「あなた。――帰って来て」
白木は、ちょっとめまいがした。もうずいぶん飲んだのだ。
「そうだな……。分ったよ」
「お店の人にタクシーを頼んだら? 私、頼んであげるわ」
「いいよ。それくらいのことはできるさ。――ああ、すぐ店を出るよ」
「じゃ、本当にね」
啓子の声は、心配そうだった。白木の胸は熱くなった。
「ああ……。君は優しいな」
「馬鹿言ってないで。じゃ、待ってるから、帰って来てね」
――白木は電話を切ると、バーを出た。
車を拾うにも、大通りへ出なくては。
局の近くへ戻ることになるが、仕方ない。
白木は、ふらつく足を一歩ずつ踏みしめながら、歩いていた。
――ひどいものだった。
即製のドラマは、すぐにあの事件と分る程度の脚色しかなされていなかった。
水科美也子は、水沢美也子、里井は黒井、米沢律子は米倉律子、という名になっていた。
おまけに学校の実写、告別式の光景まで、本物[#「本物」に傍点]を使っていた。
そして、ゲストを招いての話では、正面から、あの遺書が取り上げられていたのだ。
白木は、ディレクターに抗議もしなかった。すでに電波で流れてしまったものを、元には戻せない。
その代り、アルコールで忘れようとしたわけだった。――もちろん、忘れられるはずはなかったが。
通りへ出ると、白木は、タクシーが来るのを待った。夜風に吹かれると、いくらか酔いがさめて来る。
「――白木さん」
女の声に振り向いた。――暗くて、一瞬、誰なのか分らなかった。
「私です」
米沢律子だった。
「ああ。――これは」
白木は、頭を振った。「よく――ここが――」
「ずっと待っていたんです。あなたが出て来るかと思って」
「そうですか……」
米沢律子は、不思議に穏やかな様子だった。
「お話ししておきたいことがありますの」
「そうですか」
「歩きません?」
白木は肯いた。二人は、夜の道を歩き出した。――律子が、ふっと笑った。
「変ですね、あんな風に、自分のことがTVで……。見てて、妙な気持だったわ」
「すみませんでした」
と、白木は言った。「僕はよせと言ったんです」
「あら、お仕事ですもの。仕方ありませんわ。そうでしょ?」
白木は黙っていた。
「そういえば――」
と、律子は続けた。「あの子の遺書が、出て来ましたね。どうやって見つけたんですの? びっくりしました」
「まあ……色々と……」
白木が口ごもる。
「本当に、その道のプロの方って、凄いですね。とても私たちじゃ、歯が立ちませんわ」
「そんなことはありませんよ」
「ただ――違っているところがあったんです」
「違って……」
「ええ」
「言って下さい」
「あの子は、空想癖がありました。いつも、自分の世界に閉じこもって、時々、現実と空想の区別がつかなくなりました」
「すると――」
「里井先生と彼女の間には、何も[#「何も」に傍点]ありませんでした。本当です。――もちろん、信じて下さるかどうかはともかく、本当だ、と申し上げておきます」
「何にも?」
「私と里井先生の間に、彼女が入って来たこともありません。実際、里井先生は、遺書を見て、初めて、水科さんの気持を知ったんです」
「そこで、遺書を隠したんですね」
「公表してどうなります? みんなが、彼女を信じたら? 里井先生は、校長と相談して、そのまましまっておくことにしたんです」
白木は肯いた。
「ただ、彼女のご両親には、見せました。――カッとなられて、一時は学校を訴えるとおっしゃっていましたが、でも、親御さんにも、彼女の空想癖はよく分っていて、後で取り消されたんです」
白木は黙っていた。何も言うべきことがない。
「でも――誰から、あの遺書のことを?」
と、律子が訊いた。
白木としては、苦しいところだった。答えるわけにはいかないのだ。
「いえ、もうどうでもいいんです」
と、律子が肩をすくめた。
白木は足を止め、律子を見た。律子の方も足を止める。
夜風が、律子の髪を乱していた。
「それは――どういう意味です?」
と、白木は訊いた。
「あのTVが終らない内に、学校へ父兄から電話がかかって来ました。次々に。――応接にいとまもないくらいに」
やはり、そうだったのか。
「中には学校へ押しかけて来た父兄も……。それから、週刊誌の人、他のTV局……。里井先生も私も、即座に校長先生に辞表を出しました。でも、なかなか学校から出られなくって……」
「訂正の放送をしますよ」
と、白木は言った。「僕の責任だ。必ず、放送させます」
「もう手遅れです」
律子の声が震えた。「里井先生は、郷里へ帰りました。私との間も、これで終りです」
白木は、青ざめて立ちすくんだ。
律子の顔が歪んだ。そして、
「あなたのせいだわ! あなたが、私たちの生活も何もかも、めちゃくちゃにしたのよ!」
と叫びを|迸《ほとばし》らせると、手にいつの間にか握りしめていたナイフを、白木へ向って突き出した。
白木は、左腕に痛みを覚えてよろけた。
ナイフが道に落ちた。血が滴り落ちる。
律子は、両手で頭をかかえるようにすると、駆け出して行った。
白木は、律子の姿が見えなくなるまで、ずっと目で追っていた。それから右手で、ナイフを拾い上げた……。
「どうした、左手?」
と、仲間が声をかけて来る。
「ちょっと転んでね」
と、白木は同じ返事をくり返した。
「昨日は凄い反響だった、ってさ。おめでとう」
「ありがとう」
白木は、自分の机につくと、ホッとした。
これで、律子が自分を刺したというニュースが伝われば、もっと大騒ぎになるだろう、と白木は思った。
しかし、それをやる気はない。
今は、昨日の内容について、お|詫《わ》びの放送をさせることである。
ディレクターが承知するとは思えなかったが、それでも何とかやらせなくてはならない……。
それで、里井と米沢律子の仲が、元に戻るわけではないけれども。
白木は、タバコに火を点けた。右手だけでは何とも不便なものだ。
電話が鳴る。
「はい、白木」
「ああ、|前《まえ》|田《だ》だよ」
「やあ、珍しいな」
大学時代の友人で、同じアナウンサー志望だった男だ。巡り巡って、今は何と、白木が出ているのと同じ時間帯の、似たような番組に関係している。
「どうしたんだ?」
と白木は訊いた。
「おい、これは、知らせちゃいけないんだけどな」
前田の声は、少し押し殺したようだった。
「何だい?」
「お前、クビになるぞ。先に辞表を出せ」
「何だ、突然」
と、白木はびっくりして言った。
「昨日の件だ。お前、あの遺書を手に入れるために、学校へ忍び込んだのか?」
「何だって?」
白木は思わず訊き返した。
「それに、あの死んだ子の同級生の女の子を誘惑して、盗みの手引きをさせたって?」
「馬鹿言うなよ!」
「しかし、今日、うちで、お前のことを放送するんだ」
「俺のこと?」
「お前が学校へ忍び込むところも、女の子と会ってるところも、ちゃんと撮影してある。――TVレポーターのモラルを問う、って内容なんだ」
白木は、しばし|愕《がく》|然《ぜん》として、言葉も出なかった。
「――おい、本当か、それは?」
「もちろんさ。お前も、いくら何でもやり過ぎだぜ」
「待ってくれ! 撮影したってことは――俺が学校へ入るのを、待ち構えてたのか?」
「そうらしい。俺は後で聞いたんだ」
「どこからそんな話を――」
「お前が手をつけた女の子さ。うちのチーフへ、電話がかかったんだ。TVに出してやると言われて、無理にホテルへ連れて行かれた、ってな」
古川みのりだ!――ホテルへだって?
「そいつは嘘だ!」
と白木は言った。
「しかし、当人がそう言ってるんだ」
「だからって……一人の言うことを、調べもしないで放送するのか?」
――白木は、それ以上、何も言えなかった。自分がやったことは、何だったのか?
古川みのりが、礼金のために、嘘をついても、それを責める資格が、自分にあるのか……。
「ともかく、もう俺にはどうしようもないんだ」
と前田は言った。「知らせるだけは知らせたぜ」
電話は切れた。
白木は、しばし呆然と、座ったまま動かなかった。
まさか、TVに、自分自身の悲劇が映し出されるとは、白木は考えてもいなかった。
――しばらくして、白木は、白い|便《びん》|箋《せん》を出し、ペンを持った。
〈辞職願〉の文字が、震えている。
「片手だけってのは、不便なもんだな……」
自分でも気付かない内に、白木は、そう呟いていたのだった……。
1/2の我が家
1 空 席
「――どうしたもんかな」
と、|三《み》|谷《たに》|悠《ゆう》|一《いち》は言って、野菜ジュースを飲みほした。
毎朝、出勤前に、これを飲みなれているのである。青くさかったり、苦かったり、およそ「おいしい」と言える味ではないが、三谷としても、健康のことを気づかってくれる、妻の|恭子《きょうこ》の気持を、無視するわけにはいかなかった。
「まだ言ってるの?」
恭子は、トースターからピョンと飛び上って来たパンを、素早くつまみ上げた。
「気になるじゃないか、やっぱり」
三谷は、軽く息をついた。「――まだ|妙《たえ》|子《こ》を起さなくていいのか?」
「あと五分ぐらいね。自分で起きて来ると思うけど」
恭子は、奥の部屋の方へ、チラッと目をやった。
三谷は、黙々とトーストをかじり始めた。
「――もうちょっと、明るい顔、できないの?」
と、恭子がからかうように言った。「課長第一日目じゃないの!」
「だから悩んでんじゃないか」
三谷は首を振った。「何しろ、|岡《おか》|田《だ》さんなんか、もう五十近いんだぞ」
「だったら、かけさせてあげればいいじゃないの」
「もちろん、|俺《おれ》だってそう思ってるよ」
三谷は|肯《うなず》いた。「ただ、困るのは――岡田さんが席を譲ろうとしたときだ。十歳以上も年上の人を立たせて、俺が座ってられるか?」
「じゃ、そう言えば? 『僕は結構です』って」
そう言われてしまうと、三谷としても返事のしようがない。もちろん、恭子の言う通りではある。それが分っていながら、なお三谷は悩まないわけにいかなかった。
恭子には分らないのだ。――いや、恭子が悪いわけではない。分らないのが当り前だ。
結局、恭子に意見を求めた自分の方が間違っていたのだ。これは自分で決めるしかない事柄なのである。
そうだ。――課長じゃないか、今日からは。しっかりしろ!
三谷は、そう自分へ言い聞かせた。
「もう一杯くれ」
三谷が言ったのは、野菜ジュースのことではなく、眠気覚ましのコーヒーのことだった。いくら体に良くても、野菜ジュースは一杯飲めば、もう充分だ!
三谷悠一は、三十八歳になる。せいぜい三十四、五にしか見られないのは、ちょっと童顔のせいと、一向にお腹も出て来ない、スマートな体つきのせいだろう。
しかし、特に苦労して、若々しさを保っているというわけではなく、あまり太って来ないのは、体質らしかった。
もっとも、妻の恭子は、少し年齢が離れて三十二歳だったから、三谷も若く見えて、ほど良くバランスが取れている。恭子は、少しふっくらとした、可愛さの残る顔立ちだった。
二人が結婚したのは――いや、それより、ちょうど一人娘の妙子が起き出して来たので、そちらに目を転じよう。
キキララのパジャマ姿で|欠伸《あくび》をしながら目をこすっている妙子は八歳。小学校の三年生である。この近くの区立小学校に通っている。
「ほら、顔を洗ってらっしゃい」
と、恭子が妙子へと声をかけて、「あ、そうだわ。今日は自治会だった」
「またか。よくやることがあるな」
と、三谷は言った。「おい、コーヒー……」
「あ、そうだったわね」
恭子は、急いでポットを取って来た。時々ボンヤリしてしまうことがある。これは、もともとの性格らしい。
「――今日は役員の選挙なの」
と、コーヒーを注ぎながら、恭子は言った。
「どうせ決ってるのに、選挙なんて、やるだけむだじゃないか」
と、三谷は笑って言った。
「手続きよ、手続き。会社で、あなたが書類をろくに見もしないでハンコを押してるのと同じこと」
「俺はそんなことしないぜ」
と、三谷は真顔で言った。「少なくとも、これまではしてない」
「課長さんになったら、どうかしらね」
「そうだなあ……。雑用が増えるだろう。それは、他の課長たちを見てても、想像がつくよ」
恭子は、棚の上のデジタル時計を見て、
「もう出かけたら? 少し早いくらいの方がいいんじゃない?」
と言った。
「どうせ同じバスだけどな。――まあいいや。行くか」
三谷は、コーヒーを飲みほして、立ち上った。もうネクタイは締めている。彼は、上衣をはおって、|鞄《かばん》を手に、靴をはく……。
「――じゃ、頑張ってね」
と、恭子が玄関まで送って来る。
「特別に頑張ることなんかないさ」
と、三谷は肩をすくめた。「じゃ、行って来る」
「行ってらっしゃい」
と、恭子は|微《ほほ》|笑《え》んで見せた。
その笑顔は、三谷に、結婚の申し込みをさせた魅力を、失っていない。
トントンと、小さな足音がして、妙子がパジャマのまま駆けて来ると、
「行ってらっしゃい!」
と、父親に手を振る。
三十のときに生れた一人っ子だ。当然、三谷は娘に甘い。
娘の方でも、ちゃんとそれを心得ているのである。
「行って来ます」
三谷は、笑顔で|肯《うなず》いて見せる。
ドアの鍵を開けると、ぐいとドアを押す。――普通、自宅と会社との間には、道路や交通機関、駅の通路、といった、いわば「中立地帯」が存在している。
出勤して行くサラリーマン、OLたちはその間に、徐々に気持の切り換えをしたり、寝不足の頭をはっきりさせたりするものだが、三谷の場合、そういうわけには行かなかった。玄関を一歩出ると、そこは雪国――ではなくて、「会社」だったのである。
といって、別に三谷一家が会社の中に寝泊りしているというわけではない。――三谷の住いは、「社宅」なのである。
三谷の勤めているK工業株式会社は、ほとんど団地と言ってもいいほどの規模の社宅を持っている。
一応、名前を言えば、たいていの人が知っている大企業であり、それだけ、社員の数も多い。もちろん、全社員分の社宅があるわけではないにしても、かなりの社員が、ここの社宅に入居していた。
社宅に入居する資格は、既婚で、勤続五年以上。資格を持っていても、空きがなければ申し込めない。転勤、マイホームへの転居、定年退職などで空きが出ると、何軒かがまとまるのを待って、募集をし、抽選ということになる。
若い独身社員は、
「社宅なんて、気詰りでいやだな。よく住んでられるもんですねえ」
などと言っているが、いざ結婚して、子供でも生れてみると、一万円そこそこの家賃というのは、大きな魅力である。
結局、年にほぼ二回ある、社宅入居の申し込みは、いつも何十倍の「狭き門」になっていた。
――三谷の部屋は、八階建の棟の五階、508号室だった。
帰りは、エレベーターで上って来るが、朝は階段を降りることにしていた。六階以上の住人が、みんなエレベーターを使うので、混んでいて、なかなか乗れないのである。
階段の降り口の所で、早くも、三人の同僚と顔を合わせる。
「おはよう」
「おはようございます」
と、声が交わされ、ゾロゾロと階段を降りて行く。
三人とも、顔は知っているが、仕事は全く別なので、ほとんど話すこともない。
「いい季節になったね」
「そうですね、ちょうどいいな」
などと、当りさわりのない会話をしながら降りて行くと、途中、四階、三階、と、合流して来る人数も増えて、棟を出るときは、二十人近いグループになっている。
間断なく出て来るのではなく、固まっているのは、バスの時間に合わせて出て来るからなのだ。九時の始業にすれすれで間に合わそうと思えば、この後、バス三本ぐらいの時間の余裕はある。
「――三谷さん」
と、バス停の方へと歩き出したところへ声をかけて来たのは、隣の棟にいる|阿《あ》|部《べ》だった。
「どうも」
と、三谷は簡単に|挨《あい》|拶《さつ》した。
三谷より二つ三つ年上の阿部は、まだ係長にもなれないでいる。当人は、それを、学歴がないせいだと言っているのだが、三谷から見れば、仕事のやり方がいい加減なのが一番の原因だった。
それを、折りあるごとに、
「まあ、大学出にはかないませんけどね」
と言い出すので、聞いている方はうんざりする。
笑顔を絶やさないが、内心は燃えるような|妬《ねた》みを抱いているのだ。それが表情や言葉の端々に|覗《のぞ》くので、みんな阿部を敬遠することが多かった。
三谷も同様だ。幸い、課が違うからいいが、もし同じ課にいて、阿部を追い越して課長になったりしたら、|呪《のろ》い殺されていたかもしれない。
「いや、今日は格別の気分でしょう」
と、並んで歩きながら、阿部が言った。
「別に、そんなこともありませんよ」
と、三谷は言った。
「いや、そんなはずはないでしょう。何しろ課長第一日目だ! しかも、会社でも最年少の課長ですよ」
「もっと若くてなった人もいますからね」
「それは昔の話でしょう。今の低成長時代に、三十八で課長というのは――いや、大したもんですよ!」
三谷はわざと聞こえないふり[#「ふり」に傍点]をして、バス停の方へと急いだ。
阿部も足を早めて、ぴったりとくっついて来る。
「今日からはバスも座って行けますよ」
と、阿部は言った。「いいですね、指定席だ」
「乗ってみなきゃ分りませんよ」
三谷は不愉快さを隠そうとせずに言った。
――社宅は、この辺りに、二十棟近く広がっている。公園、スーパーなども敷地内にあって、かなりの広さだった。
道路も、その間をぐるっと回りながら巡っているので、バス停が社宅の中に三つもあるのだ。三谷が乗るのは、その三つ目のバス停で、乗客の三分の二くらいは、K工業の社員だった。
そして三谷を朝から悩ませているのは、一つの習慣――平社員が座っていて、管理職が乗って来たとき、もし空席がなかったら、平社員は立って席を譲る、という「不文律」だった。
実際には、バスはかなり混んでこのバス停に来る。空席があるなどということは、考えられないのである。
従って、いつもここで乗る何人かの管理職のために、前の二つのバス停で乗って座っていた社員が、席を立つことになるのだった。
もちろんバスには、この社宅団地の前から乗って来た普通の乗客もいるわけなので、知らない人は、いつも戸惑い顔でこの「儀式」を眺めていた。
もちろん、三谷はまだ若かったし、ここから駅まで、十五分ほどの間、バスで立っていることぐらい何でもなかった。本当に年齢の行った管理職に席を譲るというのはまだしも、ただ役付きになったというだけで席を譲られるのは、三谷にとっても、スッキリしない気分だったのである。
バス停の所には、もうかなりの列ができていて、仕事上、多少とも付き合いのある顔には会釈をする。
「やあ、課長!」
と、元気のいい声がした。
「何だ、今日は早いな」
三谷はホッとして、振り向いた。部下の|笠《かさ》|井《い》がやって来たのである。
これで阿部とくっついていなくて済む。
「たまには早く出社しようと思って」
二十八歳の、スポーツマンらしい体格の笠井はニヤリと笑って、「それに新課長の第一日目から、こっちが遅刻してちゃ、査定に響くでしょ」
三谷は笑った。――笠井は新婚で、共稼ぎである。朝も妻の方が早く家を出るので、どうしても出て来るのが遅れるのだった。
しかし、気のいい、憎めない男なので、三谷は笠井が気に入っていた。
二人は列に並んで、バスを待った。見る間に列が伸びて行く。
「時間通りに来るといいですね」
と、笠井が言った。
「そうだな」
三谷は、ちょっと落ちつかない気持で言った。――バスが、角を曲って来るのが見えた。
「やあ、珍しい、時間通りだ」
と、笠井が楽しげに言った。
この男にかかると、何でもないささいな出来事も、赤飯でも|炊《た》いて祝ってやらなくてはならない気にさせられる。周囲を明るくする天性のようなものを持っているのだろう。
バスが停留所に停る。――まだ秋口で、コートを着る者はいないから、いつも通りの混み具合である。これが真冬だと、このバス停でも「積み残し」が出ることがある。
「――さあさあ、どうぞ」
笠井に押し込まれるようにして、三谷はバスに乗り込んだ。
奥の方へ入らないと、後から来た客が乗れない。三谷は、体を横にして、バスの奥へと進んだ。
そこここで、いつもの「儀式」が行われている。三谷が課長になったことは、まだ知られていないのか、顔を見知った社員も、立とうとはしなかった。
三谷は内心ホッとしていた。
「みんな知らないのかな」
と、笠井が言った。
「いいんだ。黙ってろ」
と、三谷は言った。「立ってる方が体にいいし、目も覚める」
「そうかもしれませんね」
笠井は笑顔で肯いた。
バスが走り出す。――駅までの間に、もちろんもっと混んで来るはずだ。
すると、三谷のすぐ後ろで、
「おい、岡田さん」
という阿部の声がした。「岡田さん、起きなさいよ」
振り向くと、阿部が、座席に小さくなって眠っていたらしい岡田の肩を叩いている。
岡田は四十九歳。三谷と同じ課で、かつては三谷の上司だった。
三谷は、入社してから三年間、係長だった岡田の下にいたのである。しかし、岡田は関連会社へ出向し、そこで失敗をして、戻されて来た。
それ以来、岡田は、何の肩書きもない閑職にあって、もう五十代も後半かと思えるほど、|老《ふ》け込んでしまっていた。
十歳以上も若い三谷は、岡田をどう扱ったものか、思い悩んでいたのである……。
岡田は阿部に肩を叩かれて、ハッとしたように顔を上げ、
「もう――駅かな」
と言った。
「そうじゃないよ」
阿部が笑って、「今日から三谷さんが課長だよ、あんた、席を譲らなくちゃ」
と言った。
三谷はムッとした。
「阿部さん、いいんですよ」
と、腹立たしさを抑えて言う。
が、岡田の方は、やっと言われたことが分ったようで、
「あ――こりゃどうも。申し訳ない。気が付かなくて」
と、立ち上ろうとする。
「いや、座ってて下さい、岡田さん」
と、三谷は手で止める素振りをした。「僕は立ってる方が性に合ってるんですから」
「いやいや――しかし――」
岡田は立ち上ると、「さあ、課長さん、座って下さい」
「いいんです。本当に気にしないで下さい」
「いや、そりゃまずいですよ」
と、阿部が口を出す。「これはK工業の長い習慣なんだ。年齢とは関係ない」
「そう、そうですよ。どうぞ」
と、岡田が肯いて、三谷に席をすすめる。
「でもね、岡田さん、僕は遠慮してるわけじゃなくて――」
「これは我が社の不文律ですよ」
と、阿部が言った。「三谷さんが座らないと、他の人たちもやりにくくなる。ここは慣習に従わないと」
大きなお世話だ! このお節介め!
三谷は阿部を怒鳴りつけてやりたいのを、じっとこらえていた。
混んだバスの中で、席が一つ、ポカンと、歯が抜けたように、空いている。
「早くしないと、他の人が座っちまいますよ」
と、阿部がせかせる。
――仕方ない。
他にはどうしようもなかった。岡田は、いくら言っても、もう一度座ったりしないだろう。
三谷は、重苦しい気持で、その空いた座席に腰をおろした。
バスの乗客のほとんどが、じっと自分の方を見ている。――三谷には、そんな風に思えた……。
2 総 会
恭子は、大体がのんびりしている。
しかし、その恭子でも、この自治会の総会に出席していると、|苛《いら》|々《いら》して来ないではいられなかった。
のんびりしているのと、ぐずぐずしているのとは、全く違う。そして、この総会は、正にぐずぐずしているのである。
恭子は、もともとK工業の社員だった。三谷とは職場結婚というわけである。
高校を出てK工業へ就職、四年間、OL生活をしていた。大して重要なポストにいたわけではないが、与えられた仕事はきちんとこなしていた。
だから、こういう、能率の悪い議事進行を見ていると苛立って来るのである。
午前十時から始まった総会は、もう一時間半も続いていて、しかも、やっと二つ目の議題を終えたところだった。
「おはよう」
と、声をひそめて、恭子の隣に座ったのは|大《おお》|沢《さわ》|昭《あき》|子《こ》だった。
「あら、遅かったのね」
「幼稚園で母の会があって。――立てつづけよ」
「ご苦労さま」
「もう選挙、終った?」
恭子は顔をしかめて首を振って見せた。
――総会は、社宅の敷地の一角にある、集会所で行われていた。
もちろん全員は集まれない。それぞれの棟に三人ずつ役員がいるので、ほとんどはそのメンバーだった。それ以外は、特別に行く所もないお年寄りが来て、居眠りしている。
「洗濯物がたまってるのよね、早く終ってくれないかしら」
と大沢昭子は言った。
「うちもそう。――もっとテキパキやってくれればね」
もちろん、二人の話は低い声で、しかも座っていたのが一番後ろの方の席だったから、他の人たちに聞かれる心配はなかった。
こんなことを平気で話していられるのは、大沢昭子と恭子が、もと、同じ課にいた仲良し同士だったからである。大沢昭子は恭子より一つ下の三十一歳で、七歳と五歳の二人の女の子がいる。上の子は妙子と同じ小学校なので、よく一緒に遊んでいた。
「――じゃ、次に選挙に移ります」
と、進行役の主婦が言った。「皆さん、準備を――」
「あの――」
と、出席していた若い役員の一人が、戸惑ったように言った。
「何ですか?」
「決算書については何もしないんですか?」
初めて役員になった、若い主婦である。
「何かおかしい所でもあります?」
と、進行係の主婦が問い返した。
「いえ、ただ……」
「ちゃんと資料に書いてあるし、専門家にも見ていただいてますから、特に説明の必要はないでしょ」
「分りました」
質問した若い主婦は急いで言って、顔を伏せた。
ずいぶん無茶だ、と恭子は思った。一応議題に入っている以上、担当者の説明ぐらいはあって当然だろう。
しかし、別にそれ以上は何の質問も出なかった。
何しろ、幹事をやっているのは、管理職の夫人たちである。普通の役員と対等の立場とは、とても言えない。
その一番はっきりしている点が、自治会長だった。
「ええと――一応、今期の会長さんから、ご挨拶をいただけますか」
会場に笑いが起った。
立ち上ったのは、細身で、いかにも上に立つことに慣れた印象を与える婦人だった。
「一年間、役員の方々のご協力で、何とかやって来られました。お礼を申し上げます」
独特の、少し甲高い口調である。「――私も、もう大分|年《と》|齢《し》でございますので、この辺で、どなたか若くて行動力のある方に、ぜひ会長になっていただきたいと思っております。どうもありがとうございました」
と、一礼して着席する。
拍手があったが、少しも熱はこもっていない。当然のことで、何しろその婦人――|高柳千恵《たかやなぎちえ》は、ここ十年間、ずっと自治会長をつとめているのだった。
三谷が朝食の席で、
「もう決ってるのに――」
と言ったのは、どうせ今度も高柳千恵が会長になるに決っている、と分っていたからである。
「――私、ひねくれて他の人の名前、書いてやろうかな」
と、大沢昭子が言った。
「よしなさいよ。筆跡でばれたら、うるさいわ」
「そうねえ。たったこれだけの人数なんだから……」
――高柳千恵はK工業の社長の娘である。
夫は婿養子で、社長の座を継ぐと見られていたのだが、飛行機事故でアッサリ死んでしまった。
だから、高柳千恵としては、こんな社宅に住んでいる必要は、全くない。父親の家に戻ればいいようなものだが、子供のいない身が退屈なのか、一人でここの社宅の一つを使っている。
そして、会社でのトップが父親ならば、この社宅での、妻たちのトップの座に、その娘はいつも腰を|据《す》えていた。
「いつまでも社宅から出て行かないのは、権力をふるう味が忘れられないのよ、きっと」
と、いつか大沢昭子が言ったことがある。
もちろん、恭子と二人のときに、である。
そう。――たぶん、その通りだろう、と恭子も思っていた。
高柳千恵の会長を中心に、幹事もほとんどいつも同じメンバーで占められていて(会長が幹事を選ぶのだから当然だが)、それは正に「取り巻き」と呼ぶにふさわしい面々だった。
会社での光景が、そのまま男を女に変えて、この自治会の中で再現されているようなものである。
もちろん、社長に近い、重役たちや、課長クラスでも年輩の者は、この社宅に住んでいなかったが、それだけに高柳千恵の周囲にいる夫人たちは、全く「社長の娘」に頭が上らなかった。
――投票用紙が配られ始めた。
「書くだけ馬鹿らしいって感じね」
大沢昭子がそっと言った。「でも――もし、高柳さんが当選しなかったら、どうなるかしら?」
「まさか、そんなこと」
と、恭子は苦笑した。
実際、「もう若い人に」などと言っているが、高柳千恵は、選ばれて当然と思っているのだ。そうならないときのことなど、考えてもいない。
いつも、高柳千恵以外の人には、ほんの二、三票が入るだけだった。あまり事情を知らない、役員になりたての人が、近所の誰かに入れる、というところらしかった。
用紙が来て、恭子は手帳の鉛筆で、〈高柳千恵〉と書いた。
すぐ回収が始まる。幹事の一人が、箱を持って回り、みんながその中へ、四つに折った用紙を放り込む。
さあ、これで終った。――恭子は、もう帰ろうか、と思った。
妙子が帰る前に、買物に行って来なくてはならないのだ。
「買物に行くから、私――」
と、恭子が腰を浮かすと、大沢昭子が、ぐいと腕をつかんだ。
「待って!」
「どうしたの?」
「様子がおかしいわよ、ほら」
大沢昭子の言葉に、前の方の幹事席へ目をやると――なるほど、開票している幹事たちが、目に見えてあわてている。
「どうしたのかしら?」
恭子は、また椅子に腰を落とした。
「分んないけど……ひょっとすると、さっきの冗談が本当になったのかも」
「まさか。――高柳さん以外で誰がいる?」
「知らないわよ」
「大体、投票する人が――」
「しっ!」
と、大沢昭子が抑えた。「開票、終ったみたいよ」
しかし、開票の結果は、なかなか発表されなかった。幹事の主婦たちは、途方に暮れている様子で、高柳千恵を囲んで、何やらひそひそ話し込んでいる。
集まった役員たちも、互いに顔を見合わせたり、低い声で|囁《ささや》き合ったりしていた。
「予想外の結果になったのよ、きっと」
と、大沢昭子が言った。
「信じられないわ」
恭子は首を振った。――高柳千恵以外に、票を集め得る人間がいるだろうか?
やっと、幹事たちが、席に戻った。
進行係の主婦は、何度も|咳《せき》|払《ばら》いをした。声がなかなか出て来ないのだろう。
「ええと――投票の結果をご報告します。投票の総数は七十三票。無効が三――え? 違うの?」
と、傍の役員の耳打ちに顔を向ける。
「――ええと、失礼しました。無効が四票だそうです」
「相当あわててるわね」
と、大沢昭子が愉快そうに言った。
「ええと――では得票を発表します」
と、また咳払いして、「高柳千恵さん三十四票」
静かなどよめきが会場を波のように広がった。――三十四票。
恭子は、有効票が六十九だから、高柳千恵は半分取っていないのだ、と無意識のうちに計算していた。
「それから――」
進行係の主婦が続けた。「三谷恭子さん、三十五票」
やれやれ……。
昼休み、食事の後、一人で喫茶店に入った三谷は、コーヒーを一口飲んで息をついた。
まるで、三日間も徹夜したように、クタクタだった。
これじゃ、三日ともたないぞ、と三谷は自分に言い聞かせた。もっと気楽に、リラックスしなきゃ!
やっている仕事そのものは、もちろん内容は変っても、分らないことは一つもない。
かなり長く、課長補佐の仕事をして来たのだ。自分本来の仕事の他に、課長の代理としての仕事もしていたのだから、大変だった。
それに比べれば、今は課長職に専念できる。仕事の量は、むしろ減っているはずだ。
しかし、「補佐」とか「代理」という文字が付くのと付かないのでは、ゼロと1ほどの違いがある。
そこに、「責任」というものが|関《かか》わって来るからだ。
「すぐに慣れるさ」
と、三谷は呟いた。
そうだとも。――もう[#「もう」に傍点]半日は終った。
雑用の多いことは、想像していた通りだった。それに、新課長というので、関連業者が挨拶に来る。その応対だけで、午前中の半分は|潰《つぶ》れてしまった。
そうだ。仕事はまだこれからだぞ。
三谷は、ゆっくりとコーヒーを飲みほした。
今日は、五時で帰ってやろう、と思っていた。恭子と妙子を連れて、どこかに食事に出よう。
ささやかな昇進祝いだ。――ただし、近くのチェーンレストランに行くと、必ず社宅の人間が来ている。
少し遠くても、|旨《うま》い店に行こう。車ならどうせさして違いはない。
「そうだ」
恭子が、夕食の仕度をしてしまうといけない。電話しておいてやろう。
一時にはまだ少し時間があるが、三谷は喫茶店を出た。店の中では、人の話し声がうるさくて、電話しても声が聞こえないのである。
K工業のビルの一階へ入ると、ロビーの赤電話から、家へかけてみた。しかし、しばらく鳴らしてみても、誰も出ないのだ。
もう買物に行ったのかな、と三谷は思った。もう少し早く気が付いていれば良かった。
諦めてエレベーターの方へ歩いて行く。ちょうど、エレベーターが降りて来て、扉が開いた。
三谷は、降りて来た男と、あやうくぶつかりそうになって――それからギクリとした。
社長の高柳だったのである。
三谷はあわてて一礼した。高柳は、軽く頭を動かして、歩いて行こうとしたが、
「――三谷君だったな?」
と、足を止め、振り向いて言った。
「はい」
「そうか」
高柳が、自分のことを憶えていてくれたのは、三谷にとって、意外だった。何しろ、高柳も、もうかなりの高齢である。
「今日から課長だったな」
「はあ」
「まあ、しっかりやれ」
「ありがとうございます」
と、三谷は頭を下げた。
「しっかりした奥さんを持って、幸せだな」
そう言って、高柳は、歩いて行った。
――三谷はポカンとして、社長の後ろ姿を見送っていた。
しっかりした奥さん?
そりゃ、確かに恭子はかつて、ここの社員だった。しかし、K工業の社長が、一人の女子社員のことを、いつまでも憶えているものだろうか?
訳が分らぬままに、三谷は席に戻った。
ぼんやりと新聞を見ているうちに、一時のチャイムが鳴る。そうそう。一時からは会議だった。
三谷は引出しを開けて、中からファイルを取り出した。真新しいファイルだ。
これがいい加減すり切れて、変色してしまうころには、俺はどうなってるかな、と、三谷はふと考えた。
――立ち上りかけると、電話が鳴った。
「課長に、お宅からです」
「ありがとう」
三谷は、チラリと腕時計を見た。「――ああ、何だ? ちょっとこれから会議で――。何だって?」
三谷は、つい|訊《き》き返していた。
「何になったって?」
「会長よ、自治会の」
と、恭子は面白くもなさそうな声でくり返した。
「おい。冗談はよせよ。あれはいつも――」
「そうなのよ。ところが選挙の結果、私が一票差でトップになっちゃったの」
三谷は、そっと左手で|頬《ほお》をつねってみた。確かに痛い。
「おい……。本当なのか?」
「こんなこと、冗談でいちいち電話すると思う?」
「どうしたっていうんだ?」
「分らないの。どうかなりそうよ!――今日は早く帰って来てね。私が発狂する前に」
電話が切れても、三谷はしばらくポカンとしていた。
そして――思い当った。あの、高柳社長の言葉……。
しっかりした奥さんを持って、か。社長は、選挙の結果を知っていたのだ!
おそらく、あの自治会長――いや、前[#「前」に傍点]自治会長の高柳千恵が知らせたのに違いない。
恭子が自治会長?
「どうなってるんだろ」
と、三谷は呟いた。
「課長、会議ですよ」
と、声をかけられて、ハッと我に返る。
そうだ。仕事。仕事。
しかし、三谷は、まだ妻からの電話のことで頭が一杯だった。机の上に出したファイルを忘れて歩き出していたのである。
「ご主人、何だって?」
と、大沢昭子が訊いた。
「|呆《あっ》|気《け》に取られてたわ」
と、恭子は言った。
「でしょうね」
昭子が肯く。
二人は恭子の所のリビングに、黙りこくって座っている。
「――あ、昭子、いいの? |里《さと》|美《み》ちゃん迎えに行かなくて」
と、恭子が言った。
里美は、昭子の下の方の子である。
「大丈夫。二時までは見ててくれるわ」
「そうか」
恭子は、息をついた。「――ねえ、どうしよう?」
「どうって……」
昭子も困惑顔で、「選ばれちゃったのよ。断るわけにいかないでしょ」
「|他《ひ》|人《と》のことだと思って」
恭子はふくれて見せた。――もちろん|他《ひ》|人《と》のことには違いない。それ以上を要求しても無理な話だとは承知しているのだが、つい、言いたくもなる。
自分の名を呼ばれたときの、あの驚き。
同姓同名の別人かと思った。しかし、役員の中に、三谷恭子が二人いないことぐらい、分っていた。
何だか、訳が分らないままに、前へ引張り出されていた。
「じゃ、これから一年間、会長をつとめていただきます」
と、進行係の婦人に言われる。
拍手が起きた。――でも、ためらいがちなパラパラの拍手だ。
「抱負を一言」
などと言われても、言葉など出て来るわけがない。
ただオロオロしながら立っていると、高柳千恵が立ち上って、ツカツカとやって来た。一瞬、恭子は身を縮めた。
しかし、高柳千恵は、恭子の肩に手をかけて、
「突然のことで、何を言っていいか分らないわよね」
と、微笑んだ。
「え、ええ……」
「でも、ホッとしたわ。いつまでも私が会長じゃ、少しも代りばえがしないもの。本当に困ったもんだな、と思ってたの。良かったわ、あなたみたいな、若くて行動力のある人が当選して」
「私、何が何だか――」
「ご主人、確か課長さんよね」
と訊かれて、恭子が答えないうちに、役員の誰かが、
「今日付けで課長さんですよ」
と言った。
「そう。それなら会長の資格充分だわ」
と、高柳千恵が言った。「きっと、みなさん、あなたのフレッシュな所に期待して投票されたのよ。大いに頑張ってちょうだい」
そして、高柳千恵が、拍手した。みんな、それにつられるように拍手し始め、その音はどんどん大きくなって、恭子を|呑《の》み込んでしまいそうだった……。
「――昭子」
「ん?」
「あなた、本当に私に投票しなかったの?」
「本当よ。だって、当選するなんて思うわけないじゃないの」
「そうなのよね」
恭子は、ソファにもたれて、肯いた。「分らないわ。どうして、突然私に三十五票も入ったのかしら?」
「不思議ね」
と、昭子も肯いた。
もとから、会長にならないかと持ちかけられていたとか、立候補していたというのならともかく、それらしい話も全くなしで、いきなり過半数の票が入るというのは、どういうことだろう?
――恭子には、分らなかった。
「あら、電話」
と、恭子は顔を上げて、急いで立って行った。「――はい、三谷です。――ええ、私ですが……」
3 幹事たち
「ママ、偉くなったんだよ」
と、妙子が言った。
「余計なこと言わないで食べなさい」
と恭子は妙子をにらんだ。
「はあい。――照れなくたっていいじゃない!」
妙子の、ませた口ぶりに、つい恭子も笑い出していた。
「そんなこと、誰から聞いた?」
と、三谷が言った。
計画通り、三人で、少し遠出をして来たのである。
――昇進祝いの夕食会、とでもいったものになるはずが、どうにも妙なことになってしまった。
「クラスの子が言ってたよ」
妙子は「お子様ランチ」を食べていた。
もっとも、最近は子供の好みも変って、「お子様ランチ」といえば、ハンバーグとエビフライだったのが、これは小さいながらもステーキとタクアンという奇妙な取り合わせだった。
「――きっと社宅中で話題になってるぞ」
と、三谷が言った。「俺のことなんか、誰も知らないだろうけどな」
「迷惑だわ。誰のいたずらか知らないけど、本当に――」
「きっと、高柳さんの長期政権にイヤ気のさしてた人間がいたのさ。だから何となく話してる内に――」
「でもおかしいと思わない?」
「何が?」
「そりゃ、私は役員よ。でも私のことを知ってる人が、どれくらいいると思う? 同じ棟とか、お隣の棟というならともかく、ずっと遠い棟の人なんて、私だって名前も知らないわ」
三谷は肯いた。
「そうだなあ」
「ね? 私が選ばれた理由が、さっぱり分らないのよ。――あの役員の中で、多少でもお付き合いのある人は、せいぜい十五、六人だと思うわ。それなのに、三十五票!」
「ママ、人気があるんだから、いいじゃないの」
と、妙子が言った。
「あんたは黙って食べなさい」
妙子は、ガブリと水を飲んで、
「おトイレ、行って来る」
と立ち上った。
「場所、分る?」
「知ってるよ」
と、もう歩き出しながら答えている。
「――で、あなたの方は?」
と、恭子が言った。「課長第一日は、平穏だった?」
「仕事の方は、大したことないさ。これまでにもやって来たことだ」
「じゃ、他に何かあったの」
「バスの中でね」
三谷は、阿部が、寝ていた岡田を起して席を空けさせたことを話してやった。
「――いやな人ね、阿部さんって。もともと虫が好かないのよ」
「奥さんを知ってるんだろ?」
「知ってるって――そりゃ、同じスーパーでいつも買物してりゃ、いやでも顔ぐらい分るわ。それに、いつも向うから声をかけて来るし」
「何の話をしてるんだ?」
「別に。――よく、おうちに誘われるけど、断ってるの。いつか昭子がよばれて行って、二度と行かない、って閉口して帰って来たから」
「何かあったのか」
「ともかく、人の悪口ばっかり聞かされたって言ってたわ。それも、何でもよく知ってるんですって。どこから聞いて来たのかしら、って首をひねってたわ」
「うちも|槍《やり》|玉《だま》に挙がったのかな」
「まさか。その辺は抜かりないわよ。でも、他の人をよんだときには、きっとこっちも言われてるんだろうと思うと、いい気持はしなかった、って」
「それはそうだな」
三谷は肯いた。「あそこは子供がなかったっけ?」
「そう。だから、奥さんも時間を持て余してるのね。――同情はするけど、一緒になって人の悪口をしゃべる気にはなれない」
「旦那の方も屈折してるからな。奥さんに移ったんだろう」
三谷は食事を終えて息をついた。「おい、コーヒーを頼んでくれ」
そこへ、妙子が帰って来て、すかさず、
「私、ストロベリーセーキ!」
と声を上げた。
――すっかりお腹が一杯になったせいか、妙子は、帰りの車の中で眠ってしまった。
「すぐ着くのに」
と。恭子は苦笑した。「――そうだわ」
「何だい」
「お昼に、あなたの所に電話して、すぐその後に、電話があったの」
「誰から?」
「どこだと思う?」
「分るわけないだろう」
「〈フローラ〉からよ」
「フローラ……。どこかで聞いたことあるな」
ハンドルを握ったまま、三谷はちょっと考えて、「ああ、そうか。駅の前のレストランだ」
「そう。そこからなの。あんまり行ったことないし、何の用かしら、と思ったのよ」
「で、何だって?」
「ぜひ一度お食事にご招待したいって」
三谷は面くらった。
「どうして俺たちを?」
「それがね、よく聞いてみたら、高柳さんって、|凄《すご》い酒豪らしいの」
「へえ。見かけによらないね」
「だから、いつも幹事会を、ほら――〈フローラ〉の隣に、何とかいう日本料理の店があったでしょ。そこの二階でやってたらしいのね」
「ああ、よく帰りに寄って一杯やってく所だな」
「それが、結構年中だったらしいの。要するに、幹事会っていうより、うさ晴らしね、きっと」
「すると、その会合を――」
「今度はぜひ〈フローラ〉でやってくれってわけよ」
「なるほど!」
三谷は感心するより|呆《あき》れてしまった。「たかがちょっとしたレストランで、ずいぶん営業努力をしてるものなんだな」
「ねえ、びっくりしたわ、本当に」
三谷はちょっと笑って、言った。
「会長さんの初仕事ってとこだな」
恭子も一緒になって笑った……。
電話が鳴り出したのは、ちょうど恭子がトイレに立って、寝室の方へ戻ろうとしたときだった。
アーア、と|大《おお》|欠伸《あくび》をして、さあ早く寝ないと、朝までにあと三時間半しかないわ。
ということは――つまり、午前三時だったのである。
今まで起きていたわけではない。まあ、今夜は、「課長昇進記念」に、「自治会長当選記念」ということで――などと理由をつける必要なんてないのだが――夫に抱かれたので、少々寝るのは遅くなっていた。
でも、一度ぐっすりと眠ったせいか、途中でこうして目が覚めて起きて来てもそう辛くはない。
しかし、電話が鳴ったのにはびっくりした。午前三時!――あまりいい電話じゃない、と思った。
こんな夜中に。もしかしたら、田舎の父にでも何か……。去年も一度倒れている。
ともかく、妙子が目を覚まさないように恭子は急いで受話器を上げた。
「はい」
――向うは、黙っていた。どこか、おかしい。
「もしもし?」
いたずら電話かしら、と思った。昼間、一人でいるときなんかに、変な電話がかかったりする。
切ろう、と思ったとき、
「やめなさいよ」
と、低く、押し殺したような声がした。
「え?」
「会長になるのは、やめなさい」
誰の声か、男か女かも分らない。
「もしもし。どなたですか?」
と訊き終えないうちに、電話は切れてしまった。
――恭子は、ベッドに戻った。
夫を起して、話をしようかと思ったが、やめておいた。話してどうなるものでもない。
しかし、あの電話はどういう意味なのだろう?――|脅迫《きょうはく》か、それとも忠告なのか。
無表情な話し方からは、どちらとも分らなかった。
男の声だろうか? いや、女でも、ああいう話し方はできる。
ともかく、何が言いたいのか、よく分らないのは、|却《かえ》って不安だった。
三谷が身動きした。――ちょっと様子をうかがったが、起きた気配はない。
もういい。忘れて眠ろう。
恭子は、目を閉じた。
眠りは意外に早く訪れて来た……。
翌日、恭子は、いつも以上に、掃除に精を出した。
もともとが掃除好きで、散らかしておくのが我慢できない。しかし、これでも妙子が生れて、多少は堪えられるようになったのである。
妙子が生れる前は、夫の置いた新聞や本を片っ端から片付けて、よく後で、
「おい、あれどこへやった?」
と訊かれたものだ。
せっかち、というのでもないが、中途半端に投げ出しておくのがいやなのである。
しかし、今でも、掃除は必ず毎日やらなくては気が済まない。料理の方は、それほど好きでもなかった。
その点、昭子は反対で、料理は大好きだが、掃除はせいぜい三日に一度だった。
「――あら、電話」
と、呟く。
掃除機の音で、聞こえなかったのが、|一《いっ》|旦《たん》スイッチを切って、初めて耳に入ったのだった。――誰だろう?
急いで電話へと駆け寄る。
「はい、三谷です」
「あ、いらしたの? 良かったわ」
と、聞き憶えのある声がした。「高柳ですけど」
「あ、どうも……」
恭子は、あわてて受話器を持ち直した。
「何度かおかけしたんだけど、お出にならないので、お留守かな、と思ってたんですよ」
「すみません! 掃除をしていて――」
「いいえ、いいのよ。お仕事の引き継ぎをしておきたいの。集会所へ来て下さる?」
「あの――今すぐでしょうか?」
「ええ。幹事の方も、みんないらしてるの」
「かしこまりました。すぐにうかがいます」
こう答えるしかないわけだ。
「そうして下さい。早く引き継いでおかないと、自治会の仕事がストップしてしまいますからね」
「はい」
「幹事をどなたにするか、もう決めてあるの?」
恭子はアッと思った。――幹事は会長が選ぶのだ!
「いえ、あの……ご相談してから、と思いまして」
本当は、てんで忘れていたのである。
「そう。それじゃ、すぐにいらしてね」
と、高柳千恵は言った。
電話が切れると、恭子はため息をついた。――きっと、あの人は掃除なんてしないんだろうな……。
掃除の途中で出かけるというのは、恭子としては堪えがたいことだったが、この場合は仕方ない。
帰ったら、また続きをやろう、と、そのままにして、家を出る。五階からエレベーターで一階に降りると、目の前に、大沢昭子が立っていた。
「あら、昭子」
「何だ、お出かけ? これから行こうかと思ってたのよ」
「ちょうど良かった。一緒に行って」
と、恭子は昭子の肩を抱いて言った。
――集会所へ行くと、総会のあった広い部屋では、今回は民謡の会だか何かをやっていて、にぎやかだった。
隣の小部屋に、高柳千恵と、幹事が集まっている。
「遅くなりまして」
と、恭子は入って行った。
とたんに、一瞬、たじろぐほどの、はねつけるような視線が集中して来た。高柳千恵が一人にこやかで、
「ご苦労さま。さあ座って。――そちらの方は?」
「あの――大沢昭子さんです。私のお友だちで、色々相談に乗ってもらおうと思いまして……」
「じゃ、幹事として加わっていただくのね」
「え、ええ、そうです」
と、恭子が答えると、昭子がびっくりして、恭子の脇腹をつつく。
「ねえ、ちょっと、私――」
「シッ!」
と、恭子は目配せした。
「じゃ、早速、引き継ぎに入りましょうか」
と、高柳千恵が言った。「でも、本当は、あなたが幹事を決めてくれないと、会計とか文書とか、一つ一つの引き継ぎはできないのよ」
「はあ。あの――」
恭子は、詰ってしまった。突然そんなことを言われても、困ってしまう。
「何なら、幹事の方たちは、そのまま残っていただく?」
と、高柳千恵は言った。
――突然、恭子は目が覚めたような気がした。頭の中の霧が、スーッと一度に晴れたようだ。
そうか。会長は変っても、幹事が全部そのままだったら、結局、高柳千恵が好きなように自治会を動かせるわけだ。
それが狙いだったのだろう。だから、幹事の選出のことを何も言わずにおいたのに違いない。
「あなたは何分、初めての会長だし、要領も分らないでしょう。幹事の方々に、できるだけ任せておいた方が楽でしょうけどね」
と高柳千恵が続けた。「――さあ、どうなさる?」
そう。――言われる通りにしておけばいいんだ。
楽じゃないか。ただ、会長という名目だけをもらっておく。
「会長さん」
と、みんなに呼ばれるのも、悪くないかもしれない。
恭子は口を開きかけ、それから、また少し間を置いて、言った。
「一日だけ、待っていただけませんか」
「一日?」
「はい」
「どういう意味、それ?」
幹事の一人が、突っかかるように言った。
「私――やっぱり幹事は自分で新しく選びたいと思います。今日中に決めますから、できれば引き継ぎは明日に……」
と、恭子は言った。
幹事たちが目を見交わした。
「――それは、私たちが信用できないってこと?」
と、幹事の一人が、面白くなさそうに言った。
「いいえ、とんでもない!」
と、恭子はあわてて言った。「私は、ただ――」
「いいじゃないの」
と、高柳千恵が抑えて、「会長は三谷さんよ。会長が自由に決めるのが決まりだわ」
「すみません、生意気を言って」
と、恭子は頭を下げた。
「いいのよ、当然の権利だもの」
と、高柳千恵が恭子の肩に手をのせた。「三谷さんみたいな若い方が中心になって、自治会がどう変って行くか、とても楽しみだわ」
本心かどうか、高柳千恵は、そう言って、恭子の手を握りさえした。
――外へ出ると、
「どうするのよ?」
と、昭子が文句をつけた。「あんなカッコいいこと言って!」
「分らないわよ」
恭子は歩きながら言った。
「そんな無責任なこと言って!」
「ごめん。でも、そう言うしかなかったの。――確かに、従来の人たちに任せておけば、楽でしょうけど、それじゃ、いつも言ってるグチを、今度は言われるようになるだけで、自治会そのものは変らないと思うのよ」
「だからって――」
「いつの間にか、ああ言ってたの。自分でも分らないうちに」
昭子はため息をついた。
「もう、知らないわよ!」
「そんな……。昭子は、やってくれるでしょ?」
恭子は、昭子の腕をつかんだ。
4 波 紋
三谷は、本当は酒が嫌いなのである。
しかし、三谷が入社したころ、上役や先輩に誘われて、
「僕は酒が嫌いですから」
と断ったりしたら、大変なことになったろう。
あいつは付き合いが悪い。――これを公式の会社用語に直すと、「組織内での協調性に欠ける」ということになる。
それは、仕事の上での少々の失敗よりも、よほど大きなマイナス点になるのだった。
だから、今の若い社員たちが至って気楽に、
「僕、今夜はデートなんです」
と言って帰ってしまったりするのを見ていると、|羨《うらや》ましい思いがした。
もちろん、中にはちゃんと先輩について歩く、昔ながらの社員もいる。しかし、三谷の目から見た限りでは、そういう連中よりも、さっさと帰ってしまう者の方が、気持よく仕事をしている。
もう、家庭も顧みず、がむしゃらに働くという時代ではないのである。
それに、若いころめちゃくちゃに仕事をしても、認められて出世するという機会は少なくなっている。ポスト不足の時代だ。
挙句の果てに、体をこわして入院、などということになったら、目も当てられない。――長い目で見れば、あくまで自分のペースを守っている人間の方が、会社のためになっているのかもしれない。
しかし、ついつい、多忙の中で、明日の仕事のことしか視野に入らないことも多い。そして、ふと気がつくと、妻も子も、自分から遠く離れているのである。
「課長さん」
と、呼ばれても、三谷は自分のことだとは思わなかった。
てっきり、一人きりだと思っていたからである。――今日は、仕事の後、課長就任のお祝いを、課員たちでやってくれたのだった。
その気持は|嬉《うれ》しかった。しかし、やはり疲れる。「仕事の後」といっても、これも仕事の内である。
終ってから、若い者たちで飲みに行くというので、笠井へ、少し金を渡しておいた。そして自分は一人で喫茶店に入って、息をついていたのだ。
まだ終電の心配をするような時間でもなし、少し一人の時間がほしい、と思うのは、やはり課長になりたての精神的な疲れなのだろうか。
「課長さん」
と呼ばれて、顔を上げたのは、自分が呼ばれたと思ったからではなく、どこかで聞いたことのある声だったからだ。
ヒョイ、と目の前の席に座ったのは、課の中で一番若い、もちろん独身の、|中《なか》|山《やま》|日《ひ》|出《で》|子《こ》だった。
「何だ、帰ったんじゃなかったのか」
もちろん、彼女も今の課長就任祝いに出ていたのだ。
「こんなに早く帰ったら、うちでびっくりします」
と、中山日出子が|真《ま》|面《じ》|目《め》くさった顔で言ったので、三谷はつい笑ってしまった。
まだ確か二十二、三……。ちょっと太り気味だが、明るくて憎めない娘である。
美人という顔ではないが、見ていて楽しくなる明るさがあった。
そうだな、と三谷は思った。ちょっと妻の恭子の若いころと似ている。
「課長さん、誰かと待ち合わせですか?」
と、中山日出子は訊いた。
「いいや。ただ休んでるだけだよ」
「彼女とホテルにでも行くのかと思った」
三谷は言葉が出て来なかった。――中山日出子は、ウェイトレスに、レモンスカッシュを頼んだ。
「うんとすっぱくしてね。甘いのを入れないで」
「はい……」
ウェイトレスは、何だか妙な顔をして、伝票を持って行った。中山日出子は、ちょっと|微《ほほ》|笑《え》んで、
「すっぱいものを欲しがるから、私が妊娠でもしてると思ったのかしら」
と言った。
「おいおい――」
「父親は課長さん。二人で、どうしたらいいか話し合ってる、ってとこかな」
「よせよ、おい。おどかさないでくれ」
と三谷は大げさに頭を振った。
「――でも、課長さんて、真面目なんですね。全然、その手の|噂《うわさ》が耳に入って来ないし。それとも、うまくやってるだけなんですか?」
「冗談じゃないよ」
と、三谷は苦笑した。「とてもそんなことにまで、エネルギーは回らない」
「本当。何だか今日のパーティーも疲れてるみたいでしたよ。どうかしたんですか?」
「いや、別に……」
三谷は、ちょっと肩をすくめた。「課長になって二日目だ。まだ体がほぐれないのさ」
中山日出子は、運ばれて来たレモンスカッシュを、ぐーっと一気に飲みほすと、
「すっぱあい!」
と顔をしわくちゃにして、声を上げた。
その顔を見て、三谷は吹き出してしまった。こんなにおかしいと思ったのは、久しぶりだった。
「純真な|乙《おと》|女《め》の顔を見て笑うなんて!」
と、中山日出子は、ちょっとにらんだ。
「いや、ごめんごめん」
「いいんです。女は美しすぎると反感持たれますものね。笑われてるくらいでちょうどいいんだわ」
中山日出子は、ふっと真顔になった。「――課長さん、岡田さんのこと、気になさってるんじゃないですか?」
三谷はびっくりした。
「どうしてそれが……」
「何となく、です」
三谷は、中山日出子を見つめた。――こうして見直すと、彼女は、まるで二十七、八の分別盛りの女性のようにも見える。
「私――課長さんを支持してます」
と、彼女は言った。
「ありがとう」
三谷はそう言って、「僕は当人のためと思ったんだがね」
「そうです。他の人が何と言ったって、気にしなきゃいいんです。何も分ってないんだから!」
三谷を元気付けるというより、むしろ何かに怒りをぶつけるような言い方に、三谷はびっくりした。
――三谷が岡田の処置について、悩んでいたのは、もう大分前からである。
今、いわば岡田は「窓際族」である。
もちろん、出向先での、当人の失敗のせいなのだから、やむを得ないとも言える。しかし、仕事のない辛さは、仕事が多すぎる辛さよりも、ずっと堪えがたいものなのだ。
前の課長は、岡田が、せいぜい半年ぐらいで辞表を出すものと思っていたらしい。そうなれば、どこか、次の就職先を世話してやってもいい、と思っていたのだ。
しかし、岡田はその閑職に一年も居座りつづけていた。しびれを切らした課長は、岡田に、はっきりとその話をした。
しかし、岡田は、
「|辞《や》めるつもりはありません」
と答えたのである。
その辺の事情は三谷も知っていた。それ以後、岡田がどんな立場に置かれて来たか、同じ課内である。分らないはずがない。
岡田は、毎日、黙々と出社して来て、五時に帰る。――仕事といえば、新聞を切り抜いたり、棚を整理したり、それこそアルバイトにしかやらせないような、封筒の宛名書きとか……。
しかし、岡田は、文句一つ言わず、そんな仕事をこなしていた……。
三谷は、このまま岡田を、あと何年も使って行く気にはなれなかった。課に置くのなら、キャリアにふさわしい仕事をさせなくてはならない、と思った。
「私の父――五十歳で退職したんです」
と、中山日出子は言った。
「早いね」
「ええ。会社がちょうど人員整理を打ち出して来て、自主的に五十で退職したら、お金が余計にもらえる、って……。でも、父はお金のためじゃなく、長く世話になった会社のためだ、って、辞めたんです」
そういう人がいる。自分が会社のために働いたのではなく、会社が働かせてくれたのだと感謝している、そんなタイプの人が。
「でも――その上乗せ分は十年払いで、まるで|騙《だま》されたみたいだって、みんな文句を言ってました。もちろん父は何も言いませんでしたけど。それで――退職してから、次の仕事を捜す前に、少しのんびりしようって……。三ヵ月、家にいて――ある日、電車に飛び込んだんです」
三谷は、じっと中山日出子を見ていた。――いつもの明るい彼女とは別人のような顔がそこにあった。
「だから、分るんです。岡田さんの気持が。――仕事をさせてあげるべきです」
三谷は、ゆっくりと肯いた。
ちょっと胸が熱くなる。それほど、|嬉《うれ》しかったのだ。
「ママ、ずっと会長さんやってれば?」
と、妙子がパジャマ姿で、言った。
「どうして?」
「いつも外でご飯食べられる」
「早く寝なさい!」
|叱《しか》ってみても、もうちっとも怖がったりしない。すっかり妙子に「なめられて」いる感じだった。
「――生意気になったもんだ」
と、三谷は笑いながら言った。
「本当よ。先が思いやられるわ」
恭子は、夫にお茶をいれながら言った。
「しかし、子供のころ、あんまり聞きわけがいいと、後で問題を起すそうだぞ。あれぐらいでいいのかもしれん」
「毎日、聞いてる方は|苛《いら》|々《いら》するわ」
と、恭子はため息をついた。
――ふと、二人の間に沈黙が来る。
こんな時間は少ないのだ。明日は休日の土曜日だった。
「どうだい、会長さんの方は」
三谷は、ゆっくりお茶をすすりながら、言った。
「もうくたくたよ」
恭子は椅子にドタッと腰をおろした。「こんなに仕事が多いなんて……」
「もっと幹事の人たちにやってもらえよ。前の高柳さんは、ほとんど何もしてなかったんだろう?」
「だって、あの人は――。私、そうそう、みんなに命令なんて出せないわよ」
「しかし、そこは割り切らなきゃ」
そう。――分っているのだ。
妙子に皮肉を言われるのも仕方ない。ともかく、このところ、毎晩、出前で済ませている。
夕食の仕度をする時間がないのである。
「俺は外で食べることも多いし、妙子だって出前で栄養が|偏《かたよ》るってこともないだろう。ただ、お前が疲れないかと思って、ちょっと心配なんだよ」
「ありがとう。でもね――」
夫に、ありがとう、なんて言ったの、久しぶりだわ、と恭子は思った。
「でも――何だい?」
「うん。ともかく、一晩で幹事を決めなきゃならなかったでしょう。大変だったのよ。何十軒回ったかしら……」
みんな、そんな面倒なことは、できればやりたくない。その思いは誰しもだ。
「子供が小さいから……」
「内職で忙しくてね」
「お給料、もらえるの?」
――等々。
やっと最後の一人の内諾を取ったのは、次の日、引き継ぎをやる直前だった。
「だから、そんなに親しくない人にも、やってもらってるの。――あれこれ言いにくいのよ」
「しかし、みんな、ちゃんとした大人で、事情も分った上で引き受けたんだ。頼むべきことは堂々と頼めよ。何でも自分でやっちまうと、それが普通かと思われちまうぞ」
夫の言葉は、恭子にもよく分る。
しかし、実際はそれだけでもない。――ともかく、みんな、役員はやったことがあっても、幹事になるのは初めてだ。昭子のように勤めの経験のある主婦ばかりではないので、ともかく雑用一つ、どうしていいか分らないのである。
恭子は、教えるより自分でやった方が早いから、ついやってしまっていた。いけない、とは分っているのだが、これも性格というものだろう。
それに、人がいなくて、仕方なしに頼んだ幹事もいる。恭子としては、あまり信用していないのだ。
結局、目下のところ、一番忙しく働いているのは、恭子と昭子の二人だった。昭子は、会社にいたころ、経理をやっていたので、会計を任せることにした。これだけでも、大分気が楽だ。
「――ところで、課長さんの方は?」
と、恭子は気を取り直して言った。
「どうやら、軌道に乗ったってところだな」
「岡田さんは、いつも席を譲ってるの?」
三谷は首を振って、
「毎朝、あんな思いをしたくないから、わざと一本バスをずらしてるんだ」
と言った。
「岡田さんの奥さん、幹事になってるの。言ったっけ?」
「ええ? 初耳だよ」
「じゃ、忘れてたんだわ。言ったような気になってたけど……。ずっと年上だけど、いい人よ」
「そうか。――岡田さん、何も言ってなかったな」
「大体が無口な人でしょ」
「以前からそうだったわけでもないがね」
と、三谷は、出向前の岡田のことを思い出しながら言った。
「奥さん、顔色があんまり良くないのね。具合でも悪いのかしら?」
「だったら、幹事なんか引き受けないだろう」
「それもそうね」
――三谷は大きく伸びをした。
「先に風呂へ入るよ」
「ええ、どうぞ。洗濯物をたたまなきゃ」
と、恭子は立ち上って言った。
三谷が風呂に入って、恭子がたたんだものを分けていると、玄関のチャイムが鳴った。
こんな時間に……。
「昭子よ。ちょっと――」
大沢昭子の声だった。
「どうしたの? こんな時間に」
ドアを開けて昭子を入れながら、恭子は言った。
「ごめん、やっと二人とも寝たもんだから」
昭子は、大きな帳面を何冊もかかえていた。
「それ――」
「うん。自治会の出納帳なの」
「どうしたの?」
「ちょっと気になることがあるのよ」
昭子は上り込むと、ページをめくった。
「――出費が、大体平均してどれくらいかな、と思ったんで、十年前から、ずっと見てみたの。そしたら……。ほら、これが六年前。それで――これが五年前」
昭子はノートを開けて、次々にテーブルの上に並べた。
「何がおかしいの?」
「雑費を見て。――六年前から五年前に来て急に減ってるの。だから、繰越し金がずいぶんあったのよ。ところが次の年には繰越しがほとんどゼロ」
「そうね」
「収入の方は、会費だから、ほとんど変らないわけでしょ。じゃ、どこで出費がふえたのか、見てみたの」
「それで?」
「どれも[#「どれも」に傍点]よ」
「――どれも?」
「どの項目も、まんべんなく、増えてるの」
恭子は目をパチクリさせた。
「それがおかしいの?」
「考えてごらんなさいよ。いくら物価が上るったって、全部の物価が一度に上るわけじゃないわ。バラツキがあって当然よ。でも、通信費、会合費、雑費……。どれも、みごとなくらい、同じ率で上ってるわ」
「――どういうこと?」
「意識的にやったとしか思えないわよ」
恭子は、目を丸くした。
「まさか!」
「まだあるわ」
と昭子はノートを指さした。「ほら、去年のバザーの売上げの項目よ。収入、十五万いくらになってるでしょ」
「うん」
「私、去年は手伝いに引張り出されたの」
「ああ、そうだったわね」
「で、お金の方も少し扱ったのよ。いくつか窓口があったけど、私の手もとで集計しただけでも、十二、三万円あったのよ。こんなに少ないなんて、おかしいわ」
恭子は、じっとノートを見つめた。
「――昭子、でも、もし本当なら、えらいことになるわ」
「分ってる。だから来たんじゃない」
「はっきりした証拠になるものが……」
「バザーの売上げなんて、調べようがないわ。いちいち領収書を出してるわけじゃないし、値段だってはっきりしないもの」
「そうね。――それじゃ、どうする?」
昭子は肩をすくめた。
「会長さんが決めてよ」
「そんな! 私だって――何も分んないのよ!」
「だけど、放っとくわけには行かないわ」
それはその通りだ。
いくら小さな世界とはいえ、この社宅は、一つの社会である。自治会費は|公《おおやけ》の金だ。
その収支に|曖《あい》|昧《まい》な点があっては、見過すことはできない。しかし現実に、どうしたらいいか、という点になると、恭子にはまるで考えが浮かばなかった。
「――ともかく」
と、恭子は、しばらく考えてから、言った。
「今すぐにどうするってわけにはいかないわね」
「同感」
「このことは、私と昭子だけの間の話にしておきましょうよ。――昭子は、他にも何かないか、色々当ってみてくれる?」
「了解」
と、昭子は肯いた。
「でも、他の幹事の人たちに、気付かれないでね」
「そこが心配ね」
「――ああ、参ったなあ!」
恭子が、ため息をつくと、
「何が参ったって?」
と、夫の声――。
ハッと振り向くと、三谷がバスタオル一つ、腰に巻いて、やって来たところで……。
やっと、昭子に気付いた。
「あ――こ、こりゃどうも! 今晩は!」
「どうも!」
昭子も真赤になって頭を下げた。三谷はあわてて飛び出して行く。
参っていたのは、三谷の方だった。
5 影
ああ、また……。
恭子は、集会所を出て、広場の時計を見上げた。
四時を回っている。――また今夜も出前かしら。それとも、近くで食べるか……。
いや、いくら何でも、こう毎日では。――恭子は、足を早めた。
簡単なものでもいい。何か作ろう。
家で食べる、という、それだけのことでも、いくらかは違うはずだ。――そう、夫も、今夜はうちで食べられそうだ、と言ってたっけ……。
急いで、|一《いっ》|旦《たん》家へ戻ると、財布と手さげ袋を手に、出かけた。スーパーへ行って、手早くできそうなメニューを頭の中で選びながら買物をする。
家へ戻ったとき、まだ四時四十分だった。
これなら大丈夫!
「――ただいま!」
と遊びから帰った妙子の声がする。
「妙子、今日はピアノよ」
「うん、分ってる」
と上って来て、「おやつ」
「さっき食べたんでしょ?」
「みんなに配っちゃった」
「馬鹿ねえ」
と、恭子は笑って、「じゃ、何か出しなさい」
「うん。――みんな、妙子のとこは会長さんなんだから、お菓子配ってよって言うんだ。じゃ、行って来るね」
「真直ぐ帰って来るのよ」
恭子の言葉が耳に入ったかどうか、という間に、妙子は、ピアノの教本を手に、出て行ってしまった。
会長さんだから……。
恭子は苦笑いした。苦労ばかりで、一文にもならない仕事なのに!
「あら」
と呟いて、玄関に落ちた封筒を拾い上げる。
何だろう? 妙子が落としたのかしら?
ごく安物の茶封筒。郵便ではなかった。表も裏も、何も書いてないのだ。
きっと広告だわ。恭子は封を切った。
中から写真が出て来た。三枚ある。
恭子は、しばらくそれを見つめていた。
夫だった。三谷が、若い女の子と、お茶を飲んでいる。もう一枚では、女の子が、三谷の腕につかまって歩いていた。そして――三谷が女の子の肩に手を回して歩いている。
背景は、華やかなネオン……。ホテル街らしい。
どれも同じ女の子だった。たぶん――会社の子だろう。
恭子は、ポカンとしていた。――これ、何かしら?
恭子は別に、写真そのものからショックは受けなかった。――まさか、という気持の方が強かったからだ。
夫が裸で女の子とベッドに入っている、とでもいうならともかく、この程度の写真では、あまり深刻に考えることもあるまい。
ただ、こんな写真が、放り込まれたということ自体が、ショックだった。どう見ても、好意でやったとは思えない。
ご主人が浮気してますよ、とこっそり教えてくれるとしても、やり方というものがあるだろう。大体、夫の素行を、誰かが写真に撮っていること自体、奇妙である。
「いいわ」
恭子は、思い切って、その写真を、封筒から出したまま、テーブルの上に出しておくことにした。それを見て夫がうろたえたりしたら、確かに怪しいことになろう。
そのまま、恭子は夕食の仕度にかかった。
玄関の方に、物音がして、恭子は、さっき鍵をかけておかなかったことに気付いた。
「――どなたですか?」
しつこいセールスマンででもなきゃいいけど、と思いながら出てみる。
「あ、すみません」
立っていたのは、岡田の妻、|侑《ゆう》|子《こ》だった。
「まあ、岡田さん。何か?」
「雑貨の購入で、印をいただきたかったもんですから」
何だか、いつも謝ってばかりいるような印象のある人だ。四十代の半ばのはずだが、もう大分髪も白くなって来ている。
「はい、ちょっと待って下さいね」
恭子は、急いで奥へ入り、印鑑を取って来た。
「お夕食のお仕度だったんでしょう? ごめんなさい」
「いいえ。仕事ですもの。――はい、ここですね」
岡田侑子は、何となく、会っていてホッとする相手だった。やたらに礼儀正しくても、会っていて苛々する相手というのがある。その点、岡田侑子は、抵抗を感じさせなかった。
人のよさが、雰囲気に出ている。
「上っていただけなくて、すみません」
と、恭子は言った。
「いいえ、とんでもない。――お邪魔しまして」
と、またくり返し頭を下げて、帰って行く。
そういえば、夫が何か言ってたっけ、と恭子は思った。岡田さんはもっと仕事のできる人だって……。
そう。――まだ五十にならないうちに、人生が終ってしまったような……。そんなの、あまりに気の毒だ。
もちろん、同情したからといって、仕事ができるわけではないとしても。
「同情ではありません」
と、三谷は言った。
「そうか」
部長は、まるで信用していない様子だった。いや、信用するかどうかは関係ない。部長が心配するのは、結果だけ――いや、正確に言えば、その結果が、自分にもたらす影響だけなのだ。
「しかし、なあ……」
と、部長は、もう何度目かの、同じセリフを口にした。
その先までは、言葉が出ないのである。要するに、はっきり反対するということができない。だから、言葉を濁すのだ。
もう、部長室に入って、三十分近くたっていた。三谷は内心苛々していた。
同じことを何度しゃべらせれば気が済むのか。――部長としては、三谷が自分から、
「では、誰か他の者に変えましょう」
と言い出すのを待っているのだ。
しかし、三谷としては変えるつもりはなかった。
――大阪で、商談をまとめなくてはならない。
本来なら、三谷自身が出向いてもいい、かなりの規模の話だった。しかし、その同じ日に、東京で、どうしても外せない仕事があった。
代理として、誰をやるか。――三谷は、岡田を選んだのである。
もちろん、三谷としても、岡田を、ただ同情から選んだのではない。キャリアからいって、その仕事をこなせる者は他にいなかったのだ。
部長にとって、岡田はすでに幽霊みたいなもので、一応名前はあるが、存在しない人間だった。だから、念を押すために、ここへ三谷を呼んだのである。
三谷とて、岡田がその仕事をやりとげられるかどうか、多少の|危《き》|惧《ぐ》がないわけではなかった。
しかし、全くのばくち[#「ばくち」に傍点]ではない。
三谷は、岡田に、少しずつ重要な仕事を任せて来ていた。それを、岡田は着実にこなしている。
部長は、落ちつかない様子で、指先で机を叩いている。――三谷はため息をついた。
「どうしろとおっしゃるんですか」
「いや、それは――君が決めることだ。しかし、責任も君にかかって来る」
「分っています」
「君はまだ課長になったばかりだよ。私は君のために心配しているんだ」
三谷は苦笑した。
「岡田さんは大丈夫ですよ」
「やれると思うか?」
三谷は肯いた。そうするしかない。
「思います」
――部長も、これで諦めたようだった。
「分った。じゃ、出張の許可を出そう」
「よろしくお願いします」
三谷は立ち上って、一礼すると、部長室を出ようとした。
「三谷君」
と、部長が呼び止めた。
「はい」
「奥さんのこと、聞いたよ」
三谷は、ちょっと戸惑った。
「家内が何か……」
「社宅の自治会長になったそうじゃないか」
「ええ。――柄じゃないと思いますが、何とか頑張ってるようです」
三谷は、少し間を置いて、「それが、何か?」
と訊いた。
部長は、物言いたげだった。
「部長――」
「いや、実は、ちょっと小耳に挟んだんだ」
「といいますと?」
「どうも、社長、面白くないようだよ」
「何のことでしょう?」
「君の奥さんが会長になったことさ。知ってるだろう。社長のお嬢さんが――」
「もちろん存じてます。しかし、選挙の結果ですよ」
「分ってる。君の奥さんが、大分あちこちに手を回したらしいじゃないか」
三谷は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「――何ですって?」
「つまり、社長への造反とも取れるわけだ。事実はともかくね」
「そんなことは――」
「だから、事実はともかく、と言ったろう」
部長は、ちょっと笑みさえ浮かべていた。「社長がそう考えてるってことが、大切なのさ」
「誤解です」
「私に言っても仕方あるまい」
と、部長は肩をすくめた。「ともかく、用心した方がいい、ってことだ。社長を怒らせるような真似は、せんことだね」
三谷は、言いかけた言葉を呑み込んで、
「失礼します」
と、もう一度頭を下げた……。
三谷は、バスを降りた。
予定より大分遅くはなったが、まだ夕飯には間に合うだろう。急ぎ足で、家へと向う。
もう、暗くなるのが早い。――やっと七時だというのに、まるで夜中のようだった。
こういう団地のような所では、よけいにそうなるのだ。
バスを降りて、家路を|辿《たど》る人々も、まるで真夜中にでもなっているような気がして、つい足が早まる。
向うから、カーデガンをはおったサンダルばきの男がやって来た。明りが背になって、顔が分らなかったが、
「三谷さん、早いですね」
と、阿部の声がした。
「今晩は」
三谷はちょっと頭を下げて、そのまますれ違ったが、
「そうだ。三谷さん――」
と声をかけられ、振り返った。
「何です?」
「いや――いいもんですね、課長ってのは」
そう言うと阿部は、意味ありげに、声を上げて笑った。「まあ、せいぜい頑張って下さい!」
何だ、あれは?――三谷は呆気に取られて、阿部の後ろ姿を見送った。
――家へ入ると、
「お帰り!」
と、妙子が出て来る。「ちょうど、ご飯だよ!」
「そうか。先に食べてていいぞ」
と、三谷は妙子の頭をポンと叩いた。
「ああっ! 暴力ふるった!」
と、妙子が抗議した。
三谷は笑いながら、ダイニングルームへ入って行った。
「お帰りなさい」
と、恭子が微笑む。「――はい、写真」
いきなり、三枚の写真を手渡されて、三谷は面くらった。
「――何だ、これは? 恭子、お前――」
「ご親切な人が届けてくれたのよ」
三谷は写真を見直した。
「どういうことだ?」
「知らないわ。それ、誰なの?」
「うちの課の中山君だ。――これはきっとこの間の就任祝いのときだ!」
三谷は、あのあと、中山日出子と、飲み直したのだった。酔って、つい肩など抱いて歩いたが……。
「恭子、俺は何も――」
「分ってるわよ。あなた、そんなにもてないわ」
三谷は、ちょっと間を置いて、笑い出した。恭子も笑った。
「――いや、びっくりした。お前が俺のことを調べさせていたのかと思ったよ」
「そんな暇、ないわよ」
と、お皿を並べながら、恭子は言った。「でも、誰がこんなことをしたのか、気になるわ」
「そうだな。ふざけた奴だ!」
と、三谷は真顔になって言った。
妙子がやって来たので、三谷は急いで写真をポケットに入れた。
着替えをしながら、三谷は、やっと背筋の寒くなるような思いがした。――恭子が、ああして開けっぴろげに言ってくれたから、無事に済んだが、もし、少しでも夫のことを疑っていたら、ああはいくまい。
そして、口に出せぬままに、内心の疑惑がふくらんで行く……。
誰があんな写真を撮ったのだろう? 突き止めてやらなくちゃ、と三谷は思った。
――食事の間は、|専《もっぱ》ら、妙子の学校の話題である。
「あのね、今日、ユカちゃんが――」
とか、
「先生がね、言ってたよ――」
といった話がどんどん出て来る。
「早く食べなさい」
と、いつも、夕食の度に、恭子は最低五回は言っている。
「もういいの?」
「うん」
「じゃ、ちゃんと手を洗ってね」
「はあい」
妙子は流しに行って、ちょっと手を水で濡らす。これが妙子にとって、「手を洗う」ということなのである。
「宿題をやってね」
と、恭子は言った。「後でみてあげるから」
「はい。――あ、パパ」
「何だ?」
「どうしてパパの写真が|貼《は》ってあるの?」
三谷は恭子と顔を見合わせた。
「――写真? どこに貼ってあるんだ?」
「集会所の前」
三谷は、茶碗を置いた。
「見て来る」
「私も――」
「いや、俺一人でいい」
三谷は玄関へ出た。
「一緒に行っていい?」
と、妙子が追って来る。
「だめだ」
と、三谷は、怒ったように言った。
「ケチ!」
妙子は舌を出した。「ベエ!」
三谷は、相手にならず、外へ出た。
集会所の前には、〈お知らせ〉と書かれた掲示板がある。ちょうど通路の傍で、目につく所だ。
もちろん、停電とか断水などのお知らせもここに出るので、目につかなくては困る。夜でも、ちゃんと明りが当っていた。
その前に、こんな時間なのに、五、六人の奥さんたちが集まって、眺めている。
その一人が、歩いて来る三谷に気付いて、他の人をつついた。たちまち、みんな足を早めて散ってしまう。
――そこに貼ってあるのは、さっき三谷が恭子に見せられたのと、同じ写真だった。ただし、拡大してある。キャビネくらいの大きさで三枚。
三谷は、一枚ずつ、ていねいに、|鋲《びょう》を外して取った。――手が震えた。
何のつもりだ!
まるで、その貼りだした当人がすぐそばで見ているとでもいうように、三谷は周囲を、険しい目で見回した。
「――そうか」
やっと思い当った。さっきの阿部の言葉である。
阿部は、出かけて、これを見たのだ。
どれくらいの人間が、これを見たのだろう? いつから、ここに貼ってあったのか。
妙子が、ピアノの帰りに見たとすれば、勤め帰りで、こっちの方向へ歩いて来る社員たちは、おそらくほとんど目にしたと思わなくてはならない。
相手の分らない闘いか。――|卑怯《ひきょう》な奴だ!
三谷は、手の中で、三枚の写真を握りつぶした。そして、そのまま足早に家へと帰って行った。
6 脅 迫
「じゃ、ささやかながら、ランチで慰労会ってことにしましょうか」
と、恭子は言った。「アルコールは頼んでないけど、もし必要な方は、どうぞご自分持ちで」
笑いが起った。
〈フローラ〉の一隅。――会長になったばかりの恭子の所へ、電話をかけて来たレストランである。
幹事が集まって食事をとるのは、初めてだった。
恭子としては、みんな初めての人間ばかりなので、色々と苦情なども多いのではないかと思ったのだ。こんなときなら、言いやすいだろう。
「――どうですか」
食事が来て、食べ始め、少したったところで、恭子は言った。「私も、自分の仕事に夢中で、みなさんの方へ、目が届かないんですけど、何かやりにくいこととか、ありませんか?」
――すぐにはなかなか意見は出ないものである。その辺は、恭子のように勤めていた人間にはよく分る。
昭子が、気をきかして、口を開いた。
「備品の整理が良くなかったみたいですね。目録上はあることになってて、ないものがずいぶんあったわ」
「それはそうだわ」
と、他の一人が肯いた。「バザーとかの時のテントも、もう使えないと思うわ。ひどくいたんでるの」
昭子が、ちょっと眉を寄せて、
「おかしいわ。それはおととし買い替えてるはずよ」
と言った。
「そんなことないって! 今にもすり切れそうよ。見てごらんなさい」
昭子は恭子の方を見た。恭子が、小さく肯いて見せる。
二人の胸にしまっておいた方が良さそうだ。
「――他にもありましたら」
と、恭子は軽い口調で言った。
一つ出ると、みんな、色々としゃべり始める。
建物の塗り直しはどうするか。芝生の手入れを、全員で日曜日の朝からやっているが、多少お金を出しても、専門の業者に頼んだ方がいい。階段の掃除の当番を、守らない人がいる……。
恭子は、メモを取っていた。やることは、次から次へと出て来て、きりがない。
「恭子」
と、昭子が声をかけた。「自分の分、食べなさいよ。冷めちゃうよ」
「ああ、そうね。――じゃ、ちょっと休憩して」
恭子は笑って、食べ始めた。
――あの写真の一件から、三日たっている。噂にはなっているようだが、さすがに誰も面と向っては言わないので、気にしないことにしていた。
その内みんな忘れて行くだろう。それを待つことだ。
――食事の後のコーヒーを、店の主人が運んで来た。
「期待外れで、ごめんなさいね」
と、昭子が言った。
恭子の所へかかった電話のことを、聞いていたからである。
「いえいえ」
店の主人は笑って、「せいぜいご利用いただければ」
と、コーヒーを配って行く。
「――そんなに年中だったんですか」
と、恭子は訊いた。
「そうですねえ」
と、店の主人は、ちょっと考えて、「ほら、ここの二階は、お隣とくっついているんです。窓と窓が向い合わせでね。だから、よく耳に入るんですよ」
「毎週ぐらい、来てたんですか?」
と昭子は言った。
「いいえ、そんなもんじゃありません」
と店の主人が首を振る。「三日に一度――多いときは、ほとんど毎日のように、みえてましたよ」
恭子は驚いた。――このランチだって、三日に一度食べていれば、大変な金額になる。
まして、日本料理でお酒がかなりの量となると、決して安くは上るまい。――その費用はどうしたのだろう?
「さすがに社長のお嬢さんね」
と、昭子は笑って、「さぞかしお小づかいが沢山入るんでしょ」
と言った。
恭子は、昭子が自分と同じことを考えているのだと分った。だから、あえて、みんなの注意を引かないようにしているのだ。
――幹事会の会合費は、わずかなものでしかない。
そこからお金を出していたとすれば、当然不足が出る。もし、本当に高柳千恵のポケットマネーでやっていたのならともかく、万一、他の費用が流用されていたとしたら……。
レストランを出ると、買物をして行く人もあり、そこで解散することになった。
恭子と昭子はバス停の前のベンチに腰をおろした。
「――どう思う?」
と昭子は言った。
「うん……」
「きっと、それ[#「それ」に傍点]よ。その穴埋めに、色々、水増しして経費をつけたんだわ」
「そうね」
「さっきのテントだって、買い替えたことにして、お金を出してるのよ。それと似たことが、他にもあるに決ってるわ」
恭子は、ため息をついた。
「――参ったなあ」
「会長でしょ。しっかりしてよ」
「昭子まで、そんな――」
「放っとくわけにいかないじゃないの」
「分ってるわよ」
恭子は、首を振った。「もし、事実だとして、どうするの?」
「どうって――」
「訴える? そんなことできないわ。社長の娘よ」
「でも放っとけないわ! ちゃんと謝罪させなきゃ。お金は返してもらう。それは社長さんに出させればいいわ」
「簡単に言うのね」
恭子は苦笑した。「――いいわ、分った。あなた、ともかく証拠をつかんでよ。後は私がやるわ」
「応援するわ」
と、昭子は恭子の肩を叩いた。「三十五票がついてるわよ」
恭子は、仕方なく笑って肯いた。
「――あ、そうだ。私、ちょっと駅の方に用事があるの。昭子、先に帰ってくれる?」
「そう。付き合ってもいいけど――私も、ちょっと用があるんだ」
「じゃ、また後で」
恭子は、立ち上って、軽く手を上げると、駅の方へと歩き出した。
――昭子は、やって来たバスに乗り込んだ。
昭子は、内心、腹が立って仕方なかったのである。
一つは、もちろん、前幹事たちの、「使い込み」だ。しかも、社長の娘という権力の陰に隠れてやるなんて、卑怯だ、と思った。
もう一つは、何も言わなかったが、三谷の写真が、集会所前の掲示板に貼ってあったことだ。
恭子には言えないが、かなりひどい噂が、社宅の間で広まっている。昭子が恭子と友人だと知らない主婦から聞いたのだから、確かだろう。
おそらく、三谷の方も、社内で、あれこれと|囁《ささや》かれているのではないか、と昭子は思った。
誰がやったのだろう?
色々と、思い当る人間はいる。若くして課長になったことで、三谷は|妬《ねた》まれているのである。
それにしても、あんなことをされるいわれはない。――昭子は、恭子に代って、怒っていた。
社宅の前でバスを降りる。集会所の前を通りかかって、昭子は足を止めた。――放ってはおけない。
昭子は決心した。何としても、証拠をつかまなくては。
昭子は、集会所の事務室へと入って行った。その奥の戸から裏に出ると、スチールの物置がある。
昭子は、事務室の机から鍵を捜し出して来ると、物置の戸を開けてみた。
色々と、がらくたに近いものも放り込んであるが、その奥に、段ボールがいくつか積んであった。
「これだわ」
――領収書の類が、ここに入っているのである。これを調べてみれば、必ず何かがつかめるだろう。
領収書のない分があまり多ければ、それも問題だし、もし適当に自分たちで領収書を作っていたのなら、見比べて簡単に分るに違いない。
もちろん、これを引っくり返して調べるのは容易ではなかった。しかし、やらなくては!
昭子は、段ボールを一つずつ、事務室の中へと運び込んだ。それから今度は、会議室の中へ。
今日の午後は、誰も使わない予定になっていた。ちょうどいい。
汚れた手を|一《いっ》|旦《たん》洗って来て、昭子はまず、手近な段ボールを開けてみた。――かなり乱雑に押し込んであるが、一応、束ねてはあるようだ。
昭子は束の一つを取り出して、机の上に一枚ずつ、置いて行った……。
中山日出子は、今日も休んでいた。
三谷は、空いた椅子に、ふと目をやった。――うかつだった。
社宅の集会所前に写真が貼られたとき、彼女にも知らせておくべきだったのだ。つい、彼女のことを忘れていた。
次の日に、出社して、日出子の顔を見て、やっと思い当った始末だ。
昼休みにでも話をしよう、と思っていたのだが、その時間もなく、午後になると、いつの間にか、彼女の早退届が、三谷の机の上にあった。
そして、彼女は、それから休んでしまっている……。
笠井が、やって来た。
「課長」
「何だ?」
「岡田さんが、出かけるようですよ」
そうか。今日、岡田が出張に出る。中山日出子のことに気を取られて、うっかりしていた。
「ありがとう」
笠井の肩を軽く叩いて、三谷は、廊下へ出た。
ロッカールームから、岡田が出て来た。
「――やあ岡田さん」
と、三谷は声をかけた。
「じゃ、行って参ります」
「よろしく。明日は一日かかるでしょうから、今日、向うに着いたら、早く|寝《やす》んだ方がいいですよ」
「そうします」
岡田は、エレベーターのボタンを押した。
あまり大げさに見送っても、|却《かえ》ってまずいかな、と思った三谷は、軽く手を上げて、戻りかけた。
「課長さん――」
と、岡田が言った。
「何か?」
「どうもありがとう」
岡田が頭を下げた。三谷は照れて、ちょっと頭をかいた。
――席に戻ると、電話が鳴った。
「――課長さんですか。中山日出子です」
「やあ。――どうしたのかと思ってたよ」
三谷は、受話器を持ち直した。「君にまで迷惑をかけて、済まない」
「いいえ。課長さんこそ!――私があんなに酔わなければ良かったんです」
「気にするなよ。人の噂なんか、ほんの何日かだ」
「ええ、でも……」
と、中山日出子は、ためらった。
「何かあるのかい?」
「言われたんです。あんなことになったら、辞めるべきだ、って」
「そんなことを、誰が?」
「ともかく――私、どこか他の仕事を捜します。ご迷惑はかけられません」
「そんな必要はないよ。何も君には――」
「今は、課長さん、大事なときですもの」
「そんなことは関係ないよ」
三谷は、周囲を気にして、ちょっと声を低くした。「何も後ろ指をさされるようなことはしてない。君も堂々と――」
「ご心配かけて、すみません」
中山日出子の声が少し震えていた。――泣いているようだった。
三谷は意外さに、口をつぐんだ。
「でも――やっぱり、辞めたいと思います」
少し間を置いて、日出子は言った。「あれが、根も葉もない噂なら、私だって平気です。でも……」
「中山君――」
「私、本当に[#「本当に」に傍点]課長さんのことが好きだったんです。だから、平然としていられないんです。すみません。明日にでも出社して、辞表を出します」
三谷は言葉がなかった。
そんなことを言われようとは、思ってもいなかったのだ。
電話は切れた。――三谷は、しばらくの間沈黙した受話器を手にして、見つめていた。
もし、中山日出子が突然会社を辞めたら、それは却って、噂を認めたことになる。三谷としては、その意味でも、彼女に、しばらくはとどまっていてほしかった。
しかし――今の言葉を聞いた後で、さらに、辞めないでくれとは、言えなかった。
苦い思いが、胸をしめつけた。
三谷は、中山日出子のことを思いやるように、そっと受話器を戻した。
「――これだけあれば」
と、額の汗を|拭《ぬぐ》って、昭子は言った。
机の上にズラッと古い領収書が並んでいる。机の面を埋めつくさんばかりだった。
OL時代でも、こんなに働いたことはなかったような気がした。――里美のお迎えがあるので、時計を気にしながらやっていたのだが、それで却って必死になったようだ。
でも、手はまるですす[#「すす」に傍点]でも塗りたくったみたいに真黒になった。
昭子は、手洗いに行って、ゴシゴシとこするようにして手を洗った。
苦労しただけのことは、充分にあった。
ごまかす方も、いい加減だったのだ。――何しろ昭子が見ても一目で分る、偽の領収書が、何十枚、何百枚と出て来た。
市販の領収書に、店の名前まで手書きのものがあった。いくつもの、別々の所の領収書の文字が、全部同じだったり。
ともかく、会計の監査も、実際にはやっていなかったのだろう。会計士が見たというが、その会計士は、高柳千恵が連れて来た人間だったのだ。
一体、どれくらいの使い込みをやっていたのだろう? とても全部は調べきれないが、今、仕分けしながら、目で計算してみた分だけでも、何十万円かにのぼっている。
信じられないような話だ。
高柳千恵――社長の娘として、少々のお金には不自由しないはずなのに、なぜこんなことをしていたのだろう?
他の幹事たちにしても、そうだ。たぶん、高柳千恵に言われるままに、やっていたのだろうが、一人として、反対する者はなかったのか?
いや――こういうことは、「慣れ」なのだ。
最初はいやでいやでたまらなくても、二度目、三度目と重なるにつれ、平気になってしまうものなのだ。
そのうちには、別に、悪いことをしているのだという意識もなくなってしまう。それが人間というものだ。
この証拠があっても、ではどうするかという点になると、昭子にもよく分らなかった。
自治会は企業というわけではない。それに、何といっても、高柳千恵は社長の娘だ。正面切って、非難するには、勇気がいる。
しかし、このままではいけない、ということだけは、はっきりしていた。
やっと手の汚れを落として、昭子は会議室へと戻った。
そして、立ちすくんだ。――机のわきに立って、昭子が分けた領収書を一枚ずつ見ているのは、高柳千恵だった。
「――あら、ご苦労さま」
と、昭子を見て、微笑む。「ずいぶん精が出るのね」
「ええ……」
昭子は、突然のことで、|膝《ひざ》が震えた。
「――あなた、会社にいたことがあったわね?」
と、高柳千恵は言った。
「はい」
「経理?」
「やったことがあります……」
「じゃ、分るわね、この意味は」
高柳千恵は、領収書の束を、軽く手で叩いた。
昭子は、何も言わなかった。――高柳千恵は椅子に腰をおろすと、冷ややかな笑いを含んだ目で、昭子を見つめた。
「三谷さんの言いつけで、調べてたの?」
と、高柳千恵は訊いた。
昭子は、ちょっとためらって、
「――いいえ」
と首を振った。「私の考えです」
「そう」
高柳千恵は、領収書を机の上に投げ出した。「――みんな、私のことを誤解してるわ。社長の娘。そりゃ、確かにね。でも――私の小づかいなんて、本当にわずかなもんなのよ。あのケチな父親!」
と、吐き捨てるように言って、
「質素が尊い、とか言って。――ご自分はいくらでも質素な暮しをすりゃいいわ。でも、周囲の人間にまで押し付けられちゃ、かなわないわよ」
高柳千恵は、ふっと笑顔になって、「この年齢で独り暮し。ここでは威張ってられて面白いけど、でも寂しいわ。アルコールでもなきゃ、やり切れない」
昭子は、やっと少し落ちつきを取り戻して来た。――高柳千恵は、使い込みを認めているのだ。
「でもね――」
と、高柳千恵は言った。「父にも|面《メン》|子《ツ》ってものがあるわ。娘が使い込みをしてたなんて、公になったら、社長として、面目が丸つぶれですものね。いくら仲が悪くても、親子は親子よ」
高柳千恵は、昭子をじっと見て、
「あなたのご主人、今はどこにいるんだっけ?」
と訊いた。
7 脱 落
「どう見ても、十年はたってますわ」
と、岡田侑子が言った。
「そうですね」
恭子は、ため息をついた。
つい、おととしに買い替えたはずのテント。それを調べに来たのだ。一人では来たくなかったので、岡田侑子に頼んで、同行してもらった。
「出ましょう」
と、恭子は言った。
物置から外へ出ると、光がまぶしい。
「――いいお天気ですね」
と、恭子は言った。
岡田侑子は何も言わなかった。
二人は、何となく歩いて、池のほとりへ出た。――池といっても、ほんの小さなものだが、結構、子供の遊び場になる。
ベンチがあった。恭子は、そこに腰をおろした。
岡田侑子も、並んで座る。
暖い午後の陽射し。昼を少し回って、みんな、思い思いに時を過しているころだ。
「――すみません、わざわざ来ていただいちゃって」
と、恭子は言った。
「いいえ、そんなこと……」
恭子は、ちょっと体を前かがみにして、池の面を眺めた。
「ご相談したかったんです」
と、恭子は言った。「どうしたらいいのか。――私、分らないんです。こんなことになってしまって……」
岡田侑子は、黙って、遠い建物の方へ、目を向けている。
「岡田さんは、幹事の方々の中では、一番年長でいらっしゃるし、ご意見をうかがいたくて」
「そんな……」
と、困ったように、両手を握り合わせる。「私、あまり世間のことは知りません」
「でも、お分りでしょう。私や大沢さんが調べていることの意味は」
「ええ」
と、岡田侑子は、小さく肯いた。
「――まさか、高柳さんが、自治会のお金を使い込むなんて」
恭子は、ため息をついた。「会長に選ばれたことだけだって、気絶しそうなくらいびっくりしたのに、その上、前会長の使い込み。――もう、逃げ出しちゃいたいくらい」
「そうでしょうね」
「放っとくわけにはいかない、と思ってます。でも現実には、相手は社長の娘さんです。その人に、泥棒の汚名を――」
「でも、事実なら仕方ないでしょう」
「ええ。ただ……」
恭子はためらって、「果して、ことを|公《おおやけ》にしていいかどうか、考えているんです。直接高柳さんへお話しして、社長さんからでも、損害分を戻してもらう。――みんなには、計算の間違いだった、とでも言って……」
「でも、噂は――」
「ええ、たぶん噂にはなるでしょう。高柳さんも、ここを出て行かれるかもしれない。だけど、大っぴらに、事態を発表してしまうよりは、波紋が広がらなくて済むような気がします」
岡田侑子は黙って肯いた。
「――私たちは、警察でも何でもありません」
と、恭子は続けた。「人を告発したり、裁いたりする権利はないんです。それを忘れたくない、と思って……。どうして私が会長に選ばれたのか分りません。でも、投票した人が、どんなつもりだったにせよ、会長になったからには、その仕事を果さなくちゃ……。やりたいとは思いませんけど」
恭子は、そう言って、ちょっと笑った。
岡田侑子は、しばらく間を置いてから、言った。
「ご主人には、本当にありがたいと思っています」
「え?」
「うちの主人に、大事な仕事を任せて下さって。一昨日、出張の支度をしていた主人の顔ったら、まるで遠足の前の日の小学生みたいでした」
「そうですか。――でも、それは当然ですわ。岡田さんは、充分それだけの力のある方ですもの」
岡田侑子は、ちょっと顔を伏せて、
「――あの人が、いくら閑職に追いやられても、会社を辞めずにいるので、ずいぶんあれこれと言われました」
と言った。
「そんなにですか」
「中には、面と向って、辞表を出せ、と迫った上役もあります。でも、主人は、じっと我慢していました」
恭子は、信じられない思いだった。
しかし、自分たちのことを考えてみても、あんな写真を、貼り出す人間がいるのだ。不思議なことではないかもしれない。
「どうせ辛い思いをするなら、新しい職場に移ったら、と、心配して言って下さる方もありました。でも、私の具合が、悪かったんです」
「お体が――」
「心臓が悪くて、その治療に、ずいぶん費用がかかりました。だから、主人は会社を辞めるわけにいかなかったんです」
「そうでしたか」
と、恭子は肯いた。
「新しい職場に移れば、一時的に収入が減るのを覚悟しなくてはならないし、私の体にも負担がかかる。主人は、それを心配していたんです」
「分りますわ」
「主人が辛かったのは、誰よりも私が一番よく分っていました。会社を移って、第一歩から始めてくれと、私の方が言ってやりたかったんです。でも――そう言えば、主人が苦しむばかりだと分っていました。ですから、何も言えなかったんです」
――恭子は、ただ黙って、聞いていた。岡田のことを、偉い、と思った。
どんなにスピード出世した人間よりも、岡田の方が、ずっと優れた人間だ。
「――でも心配です」
と、岡田侑子は言った。
「何がですか?」
「主人に、あんな大役がつとまるかどうか……」
「張り切っておられたんでしょ? 大丈夫ですよ」
「ええ。でも――あんまり長く、仕事の第一線から離れ過ぎました。もう元に戻れないんじゃないか、と……」
「あんまり心配なさると、お体に毒ですわ」
と、恭子は、岡田侑子の肩に、手をかけて、
「戻りましょうか」
と言った。
「ええ……。でも、私、あなたのご主人のために、何とかうちの人にしっかりやってもらいたいんです。せっかくのお気持を――」
「ご心配なく、主人も、至って気の小さな人ですから、そんな危いことはしませんわ」
と、笑顔で言った。
二人は歩き出した。
「三谷さん」
と、岡田侑子が言った。「そのお金の使い込みのこと、もしよかったら、私が高柳さんにお話ししてもいいですわ」
「岡田さんが?」
「同じことを言われるにしても、ずっと年下の人に言われるより、同年輩の人に言われた方が、反発が少ないかもしれません」
それはそうかもしれない、と恭子は思った。
「そのときはお願いしますわ」
と、恭子は微笑んで言った。
岡田侑子は、頭を下げて、自分の棟の方へと分れて行った。
恭子は、少し心が軽くなったのを覚えて、足取りを早めた。
――岡田侑子は、建物へ入ると、エレベーターのボタンを押した。
三階なのだから、歩いてもいいのだが、やはり後が怖い。夫がいるときならともかく、一人のときの発作が、何より怖かった。
夫は働いているのだ。しっかりしなくては!
三階でエレベーターを降り、部屋の鍵を開けようとして、戸惑った。――開いているのだ。
かけ忘れたのかしら?――そんなことがあるだろうか?
いつも、充分に、気をつかいすぎるくらい、慎重にしている。それなのに……。
ドアを開けてみて、びっくりした。
カーテンが引いてあって、真暗なのだ。泥棒でも入ったのか?――ゾッとした。
玄関を上って、明りを|点《つ》ける。
侑子は、しばし|呆《ぼう》|然《ぜん》と立ちつくしていた。
部屋の真中に、身を丸めるように、うずくまって座っているのは、夫だった。
「――あなた! どうしたの?」
と、やっと我に返った侑子は言った。
岡田は、そろそろと顔を上げた。――青ざめて、冷や汗が浮かんでいる。
「あなた……。大阪に行ったんじゃなかったの?」
岡田は、震えていた。
「――怖いんだ」
と、低い声で、言った。「東京駅で――どうしても新幹線に乗れなかった。俺には無理だ。――俺は――」
「でも……課長さんは、ご存知なの?」
岡田は、目をギュッとつぶった。涙がこぼれ落ちた。
侑子は、その場に座り込んでしまった。
「俺には――できない。もう、とてもだめだ……」
岡田は顔を伏せて、泣き出していた。
「課長、元気出して下さいよ」
と、笠井が言った。
「大丈夫だよ」
三谷は微笑んで見せた。
タクシーの中である。――もう、終電も過ぎて、真夜中も近い。
二人で飲んでの帰りだった。
「悪かったなあ。こんな時間まで、付き合わせて」
「こっちも飲んでたんですから。――課長は少し気をつかい過ぎるんですよ」
「そうかな」
「そうですよ」
と、笠井は強調した。「もっと威張ってりゃいいんです。一番若い課長なんですよ」
「いつまでかな」
三谷は窓の外へ目をやった。
「――まさか、そんな……」
「そうなっても仕方ない。あの件は、流してしまうわけにはいかなかったんだ」
「でも、部長と来たら頭に来ますね。みんなの前で、課長をあんな風に|罵《ののし》ったりしなくてもいいのに!」
「仕方ないよ」
三谷は肩をすくめた。「俺は、大丈夫だと断言しちまってたんだからな」
「岡田さんも岡田さんだな。せっかくの課長の気持が分らないんでしょうかね」
「いや、それは違う」
と、三谷は首を振った。「任せた俺が間違ってたんだ。いきなり、大きな事をやらせ過ぎた」
「でも――」
「ちゃんと段階を追ってやらせなきゃいけなかったんだ。それを――俺は何か善いことをしてるつもりで、いい気になっていた」
「でも、それは本当ですよ」
「俺の判断が誤っていたんだ」
と、三谷はくり返した。「――岡田さんにも、気の毒なことをしてしまった。もう、本当に、立ち直れなくなるかもしれない」
笠井は、三谷を見つめて、ゆっくりと首を振った。
「課長は、人が良すぎるんですよ」
「そうかな」
三谷はちょっと笑った。「しかし、人が悪すぎると言われるよりいいんじゃないか?」
「僕は断然、課長の味方ですよ」
と、笠井は言って、ぐっと腕を組んだ。
「心強いよ」
三谷は笑顔で笠井の肩を軽く叩いた。
――正直なところ、三谷自身、岡田に失望していなかったわけではない。
しかし、電話口で泣いて|詫《わ》びていた、あの岡田の声を聞いたら、自分が、岡田をここまで追い込んでしまったのだと考えついて、何も言えなくなってしまった。
不安はある。課長になって、まだ日も浅いから、多少のマイナスは目をつぶってくれるかもしれない。しかし、この失敗は大きかった。
特に、部長とは対立したわけだし、社長の方も、恭子のことで、面白くは思っていない。
アッサリと課を移されて、格下げされる可能性が、ないでもない。
今さら、どうしようもないことだが……。
「――少し眠るよ」
と、三谷は言った。「着いたら、起してくれないか」
「ええ、どうぞ」
三谷は目を閉じた。
しかし、眠れなかった。色々な思いが、頭をよぎって――というのならいいのだが、先に笠井の方が眠り込んで、壮大ないびき[#「いびき」に傍点]をかき始めてしまったからだった……。
「――起きてたのか」
三谷は、玄関に出て来た恭子を見て、言った。
「ご飯は?」
「ああ、何か軽く。お茶漬ぐらいでいいよ」
「お風呂に先に入る?」
「入れるのか」
「ええ」
「じゃ、そうするよ」
三谷は、ネクタイをむしり取るようにして外した。
――三谷が風呂に入っている間に、恭子はお茶を|淹《い》れ直した。
「――大分酔ったの?」
と、風呂上りの夫へ言った。
「匂うか?」
「いいえ。でも、飲んで来ると、いつももっと|絡《から》んで来るわ」
「人聞きが悪いぞ」
と、三谷は笑った。「――妙子はどうした? 今朝、ちょっと鼻をすすってたぞ」
「何ともないわよ。あれくらいなら、いつものこと」
ご飯にお茶を注ぐ。「ねえ――」
と言いかけたとき、玄関のドアをコンコンと叩く音がした。
「誰かしら?」
「――俺が出る」
と、三谷は立って行った。
声が聞こえて来て、恭子も出てみると、岡田侑子が立っているのだった。
「いいんですよ。こんな時間にわざわざ――」
と、三谷は言った。
「主人が、三谷さんに申し訳ないと、そればかり申しておりまして……」
「気にしないようにおっしゃって下さい。私は何とも思っていませんから」
「本当に申し訳ございませんでした」
と、岡田侑子は、深々と頭を下げた。
「――やれやれ」
岡田侑子が帰って行くと、三谷は苦笑した。「こっちの方が申し訳なくなるよ、ああ謝られると」
「あなた――会社で、大変だった?」
三谷は、食卓に戻って、
「気にするな」
と言った。「クビにはならないよ。ただし――課長の肩書きが、また外れるかもしれないけどな」
「そんなに?」
「いや、そう言われたわけじゃない。どんなに悪くともそれくらいだってことさ」
三谷はアッという間にお茶漬を平らげた。
「――早く寝た方がいいわ」
と、恭子は言った。「明日、起きられなくなるわよ」
「うん」
三谷は、寝室の方へ行きかけて、戻って来た。茶碗を運んでいた恭子は、
「どうしたの?」
と訊いた。
三谷が、いきなり恭子を抱きしめた。
「危い――茶碗が落ちるわよ」
恭子は、辛うじて、茶碗を流しに置くと、そのまま夫について行った。今はそれが必要だと分っていた……。
「もう二時半よ」
と、恭子は言った。
「うん……」
三谷は、半分眠っているような声だった。
「このまま眠る?」
「うん」
たぶん、意味もなく返事をしているのだろう。アッという間に、三谷は寝息をたて始めた。
恭子はベッドから出ると、お風呂場へ行って、シャワーを浴びた。でも、早々に済ませておかないと、こんな夜中である、近所から文句を言われる。
この社宅に来る前は、小さなアパート住いで、それこそ夫に抱かれるのも、隣に気がねしながらだった。ここへ来たときは、本当にホッとしたものだった。
少なくとも、壁越しに声が筒抜けということはない。
――恭子は、風呂場を出て、バスタオルで体を|拭《ぬぐ》った。
ネグリジェを着ると、妙子の様子を見に行く。はねのけていた|布《ふ》|団《とん》をかけ直してやると、妙子は、うるさそうにわきを向いた。
そして、|羨《うらや》ましくなるような深い寝息をたてている。――こんな風に、一度でいいから眠ってみたい、と思った。
恭子は、ぐっすりと眠り込んでいる夫の様子をしばらく見てから、ベッドに入った。
目が|冴《さ》えて、すぐには眠れそうもない。
夫が酒で憂さを晴らせるタイプの人間だったら、そう恭子も心配しない。しかし、夫はそうではなかった。
しかも、会社のグチを、家の中までは持ち込んで来ない人間なのだ。それだけに、恭子は心配だった。
――気の休まるときがない。それが、人間にとっては、一番辛いことなのである。
この、「社宅」という世界も、ある意味では奇妙な場所である。
家であって、同時に会社でもある。
会社での人間関係が、そのまま持ち込まれて来るからだ。あの高柳千恵を見れば、よく分る。
ここでは妻たちもまた、「会社に属している」のだ。社宅、という名の会社に。
夫同士が仕事上で対立していると、その妻たちまでも、反目し合うようになる。その様子を何度も見て来て、恭子は、何とも複雑な気持になったものだ。
早く出世した社員の妻と、万年平社員の妻だって、うまくは行かない。それは子供にまで、微妙に影響する。
考えてみれば、この社宅の子供たちは、みんな同じ幼稚園、小学校へ通っているのだから当り前の話である。
父母会や、役員会にも、会社の人間関係が反映する。
もちろん、会社とは無関係の人も多いから、社宅内ほどにはっきりとは出て来ないが、それでも、微妙な火花が散ることも、ないではない。
四六時中、いつも自分が「会社」に結びつけられていると感じ続けているのは、やはり時には堪えがたいほどの圧迫感になる。
運動会、ハイキング、クリスマスパーティー……。自治会企画の行事には、家族|揃《そろ》って参加しなくてはならない。それも、苦手な人間にとっては苦痛である。
――恭子も、どちらかと言えば、あまり積極的に外へ出て行くタイプではない、ただ、今までは、あまり思い悩むほどのことがなかったというだけだ。
しかし、今は、そんなことも言っていられない。
本当に――ここへ越して来てから、初めて、恭子は社宅を出て行きたいという、切実な思いにとらわれた。
たぶん、夫は、もっともっと、そう思っているに違いない。
岡田のことで、夫が非難されているのを、もう社宅に住む人のほとんどが承知しているだろう。
恭子は、横へ顔を向けて、夫の寝顔を眺めていた。
若くして課長になったというのに、また引きずりおろされるかもしれない……。
正直なところ、恭子にとって、夫が課長であろうとなかろうと、それは大したことではなかった。
しかし夫にとっては……。毎日毎日、家にいる時間以外は、他の社員たちと顔を突き合わせている身にとっては、どんなにか辛いことだろう。
まさか――まさか、そんなことにはなるまいが。
恭子は目を閉じた。早く眠らなきゃ、と思うと、却って一向に眠れなかった。
やっと眠りに落ちたのは、もうほとんど朝に近かった……。
8 策 略
「奥さん」
と、声をかけられて、恭子は振り返った。
スーパーに行く途中だった。この数日は、学校の行事で忙しく、三谷は、岡田の件の処理で、大阪へ出張していた。
「阿部さん……」
セーター姿の阿部が、サンダルばきで歩いて来る。
「休みを取ったんですよ、今日は。お買物ですか?」
「ええ」
恭子は、また歩き出した。阿部がピッタリくっついて来る。
「穏やかな日ですね、ここのところ」
「ええ」
恭子は足を止めた。「――何か、私にご用でも?」
阿部は、ちょっと周囲へ目をやった。
「実は――ご主人のことで、ちょっとお知らせしておいた方がいいと思ったもので」
「主人の? 何でしょう?」
阿部は、恭子を促して、道からそれた芝生へと入って行った。
「――実は、うちの家内が高柳さんと親しくしていましてね。あの[#「あの」に傍点]高柳さんですよ。前会長の」
「はあ」
「昨日、あがり込んで、色々話をしていたらしいんですが、そのとき、ご主人の話が出たらしいんですよ」
「何のことですか」
「例の岡田さんの一件です。あれはかなり、ご主人には痛かったようです」
「今、そのために大阪へ――」
「ええ、でも、あまり芳しい結果は得られなかったらしいんですな。ですから、高柳さんの話では、社長がひどく怒っていて、クビにすると言っているらしいんです」
恭子は平静を装っていたが、さすがに少し青ざめた。阿部は続けた。
「まあ、岡田さんはそうなっても仕方ないにしても、ご主人はたぶんそこまで行かないでしょう。しかし、安心はできません。サラリーマンなんて、風向き次第で、どうにでもなりますからね」
恭子は、黙っていた。ただ聞いておく以外に何ができるだろう?
「それにね――」
と、阿部は言った。「高柳さんは何か誤解してらっしゃるようですよ。奥さんのことで」
「私の?」
「家内に言ったそうなんですが、奥さんがあれこれ画策して、会長になるために票集めをした、と」
恭子も、これには腹が立った。
「とんでもありません! 私だって、仕方なくやっているんです」
「家内もそう言ったらしいんですが、すっかりそう信じ込んでらっしゃるようでね。それがまた社長へ伝わると、ますますご主人への心証が悪くなりますよ」
「そんなこと!――心外です」
「いや、分りますよ。それで、私も、つい、気になりましてね。出しゃばり過ぎるかなとは思ったんですが」
「いいえ。――教えて下さって、ありがとうございました」
と、恭子は礼を言って、立ち去ろうとした。
「奥さん」
阿部が呼び止めた。「――よろしかったら一緒に高柳さんに会ってみませんか」
「え?」
「私も、そばで口添えしてあげます。お二人だけだと、どうしても感情的になることもありますしね。誤解は、早く解いておいた方がいいと思いますよ」
それはそうだ。ただ――恭子は、阿部に何かを頼むということに、引っかかっていた。しかし、今はそんなことを言っているときではないかもしれない……。
「今から、ちょっと訪ねてみましょうよ」
と、阿部が言った。
「いや、私も三谷さんご夫婦のことはよく存じ上げてますが、とても誠実な方たちです。これははっきり申し上げられますよ」
阿部の言葉に、高柳千恵は、大して関心のない様子だ。
「そうですか」
と肯いた。「阿部さんがそうおっしゃるなら、その通りでしょうね」
「私、自分でも、自治会長などにふさわしい人間だとは思っておりません」
と、恭子は、|気《き》|後《おく》れしそうな自分を励ましつつ言った。「ただ、どういう事情かはともかく、投票の結果、選ばれたのですから、精一杯やるべきだと思っただけなんです」
「大変結構ね」
と、高柳千恵は言った。「でも、ちょっとおかしいんじゃないの? 今までの幹事を全部追い出して、自治会を好きなようにしようとしてるとしか思えないの、私には」
「追い出したなんて――」
恭子は|唖《あ》|然《ぜん》とした。「任命するのは会長の仕事だとおっしゃったじゃありませんか!」
「もちろんよ。でもね、普通なら、半分くらいは前の幹事を残すのが当り前でしょう」
「そこまで考えていませんでした」
恭子は、必死で、こみ上げて来る怒りを押し殺した。――自分のしたことを棚に上げて、自治会を好きなようにしたがってる、だなんて!
「ともかく、自治会は、この十年間、私たちが大切に育て上げて来たのよ」
と、高柳千恵は言った。「選挙の結果だから、仕方ないとはいっても、やはり無関係とは思えないのよ、私には」
恭子は、何も言わなかった。口を開けば、怒鳴り出してしまいそうだ。
すると、突然、高柳千恵は微笑んだ。
「あなたも、ご主人がクビになるようなことは、避けたいでしょう」
恭子は、その意味が、よく分らなかった。
「――あなたが、もし会長を|辞《や》めたら、次点の人がくり上げで会長になるわけね。それは分るでしょう」
恭子は、やっと、高柳千恵の言いたいことを理解した。自治会長を辞任したら、夫がクビにならないようにしてやる、というわけだ。
「理由は何とでもつければいいわ」
と、高柳千恵は言った。「体の具合が悪くて、仕事に堪えられないとか、やってみたけど、手に余って、とか……。みんな不思議には思わないでしょう」
恭子は、今度こそ本当に怒りを覚えた。
「幹事をお願いした人たちがいます。お願いしておいて、いやになったから辞めた、なんて言えません」
「みんな我が身が可愛いのよ。それが当り前だわ。もし、あなたのご主人が、クビにならないまでも、まずい立場に立たされたら、みんな近付きたくないと思うでしょうね」
「そんな――」
恭子は、|顎《あご》が震えそうになるのを、必死で押さえつけた。「失礼ですが、そんなことをおっしゃる資格がおありですか」
「――それ、どういう意味?」
と、高柳千恵は眉を上げる。
「私たち、出納帳を調べました。わけの分らない点が、あちこちあります」
「何のこと?」
「たとえば――バザーや運動会用のテントはおととし買い直したことになっていますけど、実際は古いままです。それに――」
「待ってよ」
と、高柳千恵は遮った。「あなた、自分が何を言ってるか分ってるの?」
「もちろんです」
もう、止められなかった。ここまで言ってしまった以上は、やり抜くしかない。
「奥さん」
阿部が不安そうに、「それはつまり――」
「私たちが、自治会のお金をごまかしてた、とそう言いたいのね。そうでしょう?」
恭子は、辛うじて、高柳千恵の視線を受け止めた。
「そうです」
恭子は、自分の声を、まるで他人のもののように聞いていた。
「――分ったわ。じゃ、はっきりさせなきゃね」
高柳千恵は立ち上ると、「前期の幹事に、集会所へ集まってもらうわ。そこではっきりさせましょう」
と言った。
恭子は、ゆっくりと立ち上った。|膝《ひざ》が震えている。
「それでいいわね?」
と問われて、恭子は、
「結構です」
と言った。
少し、声はかすれていた。
凄まじいまでの敵意の視線が、集会所の会議室へ入った恭子を貫いた。
それはほとんど「殺意」にすら近いものだった。むしろ、高柳千恵が、一人超然としている。
他の幹事たちは、生れつきの敵でも見るかのような目で、恭子を見ていた。
「――今、お話ししてたところよ」
と、高柳千恵が言った。「みんな、ひどく腹を立ててるわ。無理もないでしょう。泥棒扱いされたら、誰だって怒るわ」
「失格社員の女房のくせに!」
と、幹事の一人が言った。
恭子は顔を紅潮させたが、何も言わなかった。椅子を引いて座る。
「――さあ、使い込みをした、と言うなら、証拠を出してよ!」
と、一人が、かみつきそうな声を出す。
「今、大沢さんが、出納帳を持ってこちらへ来ます」
と恭子は、抑えた声で言った。
「もし、あんたの言うことが間違ってたら、ただじゃ済まないわよ!」
「そうよ! 訴えてやるから!」
次々に、浴びせられる言葉を、恭子は無視して、じっと机の上を見つめていた。
ドアが開いて、昭子が出納帳を手に入って来た。恭子は、ホッと息をついた。
昭子は、ちょっと頭を下げて、恭子から少し離れて座った。
「――大沢さん、だったわね」
と、高柳千恵が言った。
「はい」
「聞いたと思うけれど、会長の三谷さんから、前期までの経理の内容に、おかしいところがあるという話が出たの。――私たちとしては、まるで覚えのないことなんだけど、やはり、こういうことは|曖《あい》|昧《まい》にしておくわけにはいかないわ。あなたの意見をうかがいたいの」
「はい」
昭子が、いやに青ざめているのに、恭子は気付いた。恭子と目が合うのを避けているようにも思える……。
「あなたは、前期までの出納帳を調べたそうね?」
「はい」
「で、おかしな点はあった?」
と、高柳千恵は訊いた。
昭子が、初めて恭子を見た。恭子は肯いて見せた。ここまで来たら、やるしかない。
昭子を巻き込むのは、気が進まなかったが、仕方なかった。
昭子は、出納帳の上に目を落として、言った。
「特におかしい所はありませんでした」
――恭子は、周囲の世界が、一気に遠ざかって行くような気がした。
「昭子! 何言ってるの! あなたと――」
「待って」
と、高柳千恵は言った。「今は、大沢さんの話を聞いているのよ。――あなたが見たところ、別に、不審な点や、理由の分らない支出はなかったのね?」
「ありません」
と、昭子は言った。「細かい支出で、領収書のないものもありますけど、それは雑費でまとめられるくらいの額です」
恭子は、顔から血の気が引くのを感じた。
――やっと分ったのだ。
高柳千恵が、こんなに強気に、自分の方から、会計についての白黒をつけようと言い出したのは、昭子を味方につけていたからだった。
「――どういうことなの?」
「全然話が違うじゃない!」
「そうよ、説明してもらおうじゃないの!」
高柳千恵を囲んで座った、前の幹事の主婦たちが、ヒステリックな声を上げた。
「ただじゃ済まないわよ!」
「そうよ! ここで手をついて謝ってもらいたいわね!」
――恭子は、じっと昭子を見ていた。昭子は、目をそらしたまま、
「もう、帰って構いませんか」
と言った。
「ええ。ご苦労さまでした」
高柳千恵が微笑みながら肯く。
どんな方法で昭子を屈服させたのか、それを思うと、恭子は、昭子が哀れですらあった……。
昭子は、青ざめた顔のまま、立ち上って、出納帳を手に、出て行こうとした。
「昭子」
恭子が呼びかけると、昭子の背中が短く震えた。「――ごめんなさい」
と、恭子は言った。
昭子は、急いで、会議室を出て行った。
高柳千恵が、間を置いて、言った。
「――言ったことの責任は取っていただきますよ」
総て計算の上だったのだ。――おそらく、阿部が親切ごかしに声をかけて来たのも。
高柳千恵の所へ連れて行き、わざと恭子を刺激するようなことを言って怒らせ、そこまで追い込む。その段取りに、みごとにはまってしまったわけだ。
「何とか言いなさいよ!」
「そうよ、人を泥棒呼ばわりして、その責任を、どう取ってくれるつもり?」
「返事したらどうなのよ!」
今にもつかみかからんばかりの勢いだった。
しかし――恭子は、昭子のことばかりを考えていた。
|可《か》|哀《わい》そうな昭子。どんなに辛かっただろうか。――たぶん、夫のことで、高柳千恵に何かおどされていたのに違いない。昭子の夫も、出世ルートには外れた男だったから。
恭子は、涙が出て来ないのを、不思議だと思った。悔しいよりも、昭子との友情を壊した、高柳千恵への怒りが、胸に渦巻いていた。
「何を黙りこくってんのよ!」
と、一人の主婦が立ち上って歩いて来た。
恭子がキッと顔を上げてにらむと、ひるんだ様子で足を止める。
――そのとき、ドアが開いた。
「三谷さん!」
今、幹事をしている主婦が、息を切らして飛び込んで来た。「大変よ! 早く――池で――池で――」
くたびれ切って、三谷はエレベーターを降りた。
大阪への出張から、今、会社へ戻って来たところである。
岡田が、先方との約束をすっぽかした格好になったので、三谷としては、いつもの二倍、三倍も気をつかわねばならなかった。
しかし、結局、話がまとまるまでには至らなかった。――ただ、打ち切りでなく、改めて相談するという口約束だけを手にして、戻ったのである。
もう六時を回っていて、社内はガランとしていた。課にも、誰の姿も見えない。
「何だ、課長がいないと、みんな定時退社か?」
と、三谷は笑った。
これでいい。これが当り前だ。
三谷は、机につくと、椅子に腰をおろし、ぐったりと身を沈めた。――まるで一ヵ月も出張していたようだった。
ともかくこれでクビだけは何とかなりそうだ。ただ、心配なのは岡田のことだった。
三谷としても、あまり強く部長に意見を述べられる立場にない。しかし、やはり、言うべきことは言わなくてはならない。
これで課長の椅子を追われたら、それはそれで仕方がない。だが、岡田は、クビになれば明日から住む所を失うのである。
三谷は苦笑した。自分のクビも危いときに、人の心配をしてるんだからな、全く。
電話が鳴った。――気は進まなかったが、手を伸ばす。
「――三谷です」
「課長ですか! 良かった」
「笠井か。どこでかけてるんだ?」
「課長のお宅です」
「俺のうち?」
「課長、実は――」
三谷は受話器を持ち直した。
「どうしたんだ?」
「岡田さんが――亡くなったんです」
「岡田さんが……」
「今、奥様が、お通夜の仕度に出られていて――」
「そうか」
三谷は、声が震えそうになるのを、何とかこらえた。「――どうしたんだ? 岡田さんは……」
「自殺です。池に、上半身を突っ込んで……」
笠井の声は、か細くなって消えた。
9 葬 送
三谷は、黒のネクタイをしめて、恭子の方を向いた。
「ネクタイ曲ってないか?」
恭子は、黒のスーツで、髪も、あっさりと束ねただけだった。ゆうべはほとんど寝ていないので、目が充血している。
「ちょっと――」
と、夫のネクタイを直し、「これでいいわ」
と肯いた。
「ありがとう」
三谷は黒い背広に腕を通しながら、「課長として、最後の葬式だ。見っともない格好を見せたくないからな」
「そうね」
恭子は、夫の腕をつかんだ。そして、肩に顔を埋めた。――泣きたかったが、涙は出て来なかった。
ゆうべ、ベッドの中で、泣きつくしてしまったからかもしれない。といっても、あまり涙は出なかったが。
「もう大丈夫か?」
と、三谷が訊いた。
「ええ」
恭子は、一つ大きく息をついた。「もう、しっかりしていられるわ」
「岡田さんの奥さんの面倒をみてあげるんだぞ。心臓が弱いんじゃ、心配だ」
「分ってるわ」
恭子は、|微《ほほ》|笑《え》んだ。「じゃ、私、先に行く。仕度があるし、受付もちゃんとやってるか、見てみないと」
「ああ、いいよ。妙子は?」
「表で遊んでるわ。放っといて大丈夫よ、ただ出るときに、声をかけて来て」
「分った。俺もすぐ行くよ」
恭子は、玄関の方へ行きかけて、振り向き、
「自治会長、最後の仕事を、きちんとやらなきゃ」
と言って、肯いて見せた。
――三谷は、一人残って、タバコに火を点けると、ソファに腰をかけた。煙を吐き出しながら、ゆっくりと家の中を見回す。
――ゆうべ、二人は、何時間も話し合った。
三谷は、会社を辞める決心だった。岡田を死に追いやったのは、自分だ。それに目をつぶって、勤めは続けられない。
恭子も、何もかも打ち明けて話した。
三谷の胸に、静かな怒りが燃え上った。――使い込んだ金は、返せば元に戻る。
しかし、高柳千恵のために砕かれた、恭子と大沢昭子の友情は、もう元に戻るまい。
そのことが、三谷を怒らせ、また失望させたのだ。
会社を辞めて、どこへ行くか。――捜せば当てもないことはない。
すぐに辞めては、後が大変だろう。一、二ヵ月の期間は必要だ。その間には、次の仕事も見つかるだろう。
住いも変えなくてはならない。――この社宅とも、お別れだ。
家であって家でない、半分だけの「我が家」である。
今度は、小さくてもいい、「完全な我が家」に住もう……。
「行くか」
三谷は、タバコを灰皿へ押し潰して、立ち上った。
表に出ると、穏やかな上天気だった。せめて、少し曇っていればいいのに。
三谷は歩き出そうとして、背後の足音に気が付いた。阿部が、黒のスーツでやって来たところだった。
「やあ三谷さん」
三谷は返事もせずに歩き出した。阿部は勝手に並んで歩きながら、
「いや、気の毒でしたねえ、岡田さんは。しかし、三谷さんも、ツイてないな。まあ、あんまり気にしないことですよ。人間、誰しも一度は死ぬんだから」
三谷は振り向きざま、阿部の胸ぐらを両手でつかんで、ぐいとしめ上げた。
「それ以上、一言でも俺に話しかけてみろ! |殴《なぐ》り飛ばしてやるぞ! 分ったか!」
両手で突き放すと、青ざめた阿部は、よろけて尻もちをついた。三谷は、集会所へと足を早めた。
集会所の前に、何人かの人が集まっていた。
もう焼香を済ませて、出て来たらしい。|出棺《しゅっかん》まで見送るつもりなのだろう。
受付に、大沢昭子が立っていた。黒服のせいばかりでもなく、顔色が悪く見えた。
三谷に気付くと、ハッとしたように顔を伏せた。
「ご苦労さま」
と、三谷は頭を下げ、香典の袋を置いた。
記名して、中へ入る。
「あ、課長」
笠井が出て来たところだった。
「他には?」
「まだですが、みんなまとまって来ると言ってました。――何かお手伝いすることでも?」
「いや、大丈夫だろう。ありがとう」
三谷は、笠井の肩を軽く叩いた。
奥へ入って行くと、岡田の顔が、三谷を見つめて笑っていた。――黒いリボンのかかった、モノクロの笑顔だ。
そういえば、岡田の笑顔なんて、いつ見ただろう、と三谷は思った。もう、忘れてしまうくらい、遠い昔のようだ。
焼香のために前へ進んで行くと、三谷には、その場の視線が一斉に自分へ集中するのが分った。――直接の上司、しかも年下の。
間接的とはいえ、岡田の死に責任のある人間だと、みんな分っているのだ。
岡田侑子は、ほとんど放心したような表情で、座っていた。ほんの数人の|親《しん》|戚《せき》。
三谷は、型通りに焼香すると、岡田侑子の前に手をついた。
「ご主人のことは、私の落度でした。申し訳ありません」
「そんな――三谷さん――」
岡田侑子は、思いがけないほど、はっきりした口調で、三谷の手を押さえた。「主人は、あなたに、そりゃあ感謝していたんです。あんなにいい課長さんはいない、と、ずっと言っていました。――私の方から、お礼を申し上げなくてはならないんですのに……」
三谷は、胸をしめつけられるような気がした。――岡田が喜んでいたとしても、しかし、その結果はどうだったのか……。
ふとわきへ目をやると、恭子が目頭を押さえているのが目に入った。
そのとき、笠井が急ぎ足でやって来た。
「社長がおみえです」
「社長が?」
「ええ。お嬢様と――」
高柳社長と、高柳千恵が、姿を見せた。みんなが左右へずれて、道をあけた。
三谷は、立って行って、黙ったまま、頭を下げた。
「部下がこんなことになるのは、うまくないな」
と高柳は言った。「まあ、よく考えておくことだ」
「奥様とも、よく相談なさることね」
高柳千恵が、冷ややかに言った。
三谷は、黙って、もう一度頭を下げ、出て行こうとした。
そのとき――思いもかけないことが起ったのである。
岡田侑子が、急に立ち上ると、顔を紅潮させ、高柳父娘の前に、立ちはだかったのだった。
「帰って下さい!」
と、震える声で、岡田侑子は言った。「あなた方には焼香していただきたくありません! お断りします!」
三谷は、驚いた。高柳父娘も、面くらっている。しかし、岡田侑子は、大きく目を見開き、正面から、キッと社長とその娘を見据えている。
「岡田さん!」
高柳千恵が前に出た。「父がわざわざ出向いて来たというのに、どういうつもりなの?」
「死んでからお出ましになって、何になると言うんですか!」
岡田侑子の声は、ほとんど叫び声のように空気を震わせた。「主人をあんな風にしたのは、社長さん、あなたです!」
「何てことを――」
高柳千恵が目をむく。
「お黙りなさい!」
と、岡田侑子が激しく遮ると、高柳千恵は後ずさった。
それほどの迫力が、その声には、こめられていたのだ。
「三谷さん」
と、岡田侑子は、恭子の方を見て、言った。「あなたが、自治会の会長になるように、票をまとめて回ったのは私です」
恭子は唖然とした。
「でも――なぜ?」
「高柳さんに言われたんです。理由は説明してくれませんでした。ただ、この人の言うことを聞いておけば、主人が、もっといい仕事をさせてもらえるかと思って、言われた通りにしたんです。でも、後で理由は分りました。高柳さんと幹事の人たちは、自治会のお金を使い込んでいて、怖くなったんです。一度、誰かに会長をやらせて、その人に全部の罪をなすりつけてしまおうとしたんです。それが三谷さんだったんですよ」
高柳千恵は、真青になっていた。――父親に知られることが、恐ろしかったのだろう。
「会長にしておいて、途中で辞めさせる。しかも、この社宅から出て行くように仕向ければ、後でどんなことを言っても、否定する人がいないから安全です。そのために、阿部さんを使って、ご主人の写真を撮らせて貼り出したんです。――でも、課長さんは、一生懸命に、主人を立ち直らせようとして下さいました。それに引きかえ、その人たちは――」
岡田侑子は、焼香の灰をつかむと、「出て行って!」
と叫びながら、高柳父娘に向って投げつけた。
高柳千恵は、頭から灰をかぶって、外へ駆け出して行った。
――高柳社長は、胸の辺りを真白にして、じっと立っていた。
誰も、動かなかった。口を開く者もなかった。
ただ、ハアハアと、|喘《あえ》ぐような、岡田侑子の荒い息づかいだけが、聞こえてくる。
「――奥さん」
恭子が、岡田侑子を、抱きかかえるようにして、「体にさわります。さあ、そこへ座って――」
と促した。
高柳は、その場に立ったまま、岡田の写真に向って一礼した。そして、クルリと背を向け、出て行った。
「すみません……」
岡田侑子は、疲れ切った様子で、「あなたに、すっかりご迷惑をかけてしまって」
と、呟くような声で言った。
「いいんですよ。話して下さって、嬉しいわ」
と、恭子は言った。
激しく泣き出す声がした。――昭子が入口の所で、うずくまって、泣いている。
「昭子!」
恭子は駆け寄った。「どうしたの?――昭子」
「ごめんね……私……」
「分ってるわよ! いいんだから、泣かないで! 私がいじめてるみたいじゃないの」
恭子は、昭子の肩を抱いた。
――三谷は、外へ出た。
笠井がやって来た。
「社長は今、車で帰りましたよ」
「そうか」
三谷は、周囲を見回した。「――みんな、どこへ行ったんだ?」
「何だか、あわてて帰って行きましたよ。きっと、今のビッグニュースを話しに戻ったんじゃないですか」
三谷は苦笑した。
「――課長」
と笠井は言った。「やっぱり辞めるんですか?」
「ああ」
「考え直して下さいよ。今の、岡田さんの奥さんの話を聞いたでしょう」
三谷は、少し歩いて、立ち止った。
「課長――」
「すぐには返事ができないよ。それに、会社側の考えもある」
笠井の表情が明るくなった。
「社長だって、何ができるもんですか! あんなことがばれちまったら、偉そうなことは言えませんよ」
「ともかく――俺一人では決められない」
「じゃ、奥さんに、陳情に行きますよ」
と、笠井は言った。「――あ、課の連中が来ました」
社宅に住んでいない課員たちが、連れ立ってやって来るのが見えた。
恭子が、まだすすり上げている昭子と一緒に出て来た。
「おい」
と、三谷は声をかけた。「課の連中が来た。受付を頼むよ」
昭子が、急いで涙を拭うと、
「私、やりますから」
と、受付に立った。「泣いてても目立たないから、いいわ」
「本当だわ」
恭子は、ホッとしたように肯いた。
三谷が、少し歩いて行くと、恭子もついて来た。
「――妙な気持だわ」
と、恭子は言った。
「そうだな。俺もだ」
「岡田さんには、何もしてあげられなかったのね、私たち」
「|却《かえ》って、助けてもらったんだ」
「ええ。――人って分らないわ。あの岡田さんの奥さんの怒り……」
「高柳さんも、ついに逃げ出しちまったじゃないか」
「あれは胸がスッとした」
「俺もだよ」
二人は顔を見合わせて笑った。――恭子が少し間を置いて、言った。
「どうするの?」
「どうするかな」
「あなたが決めてよ」
「二人でだ。そうだろう」
「――そうね」
と、恭子は肯いた。
そこへ、
「あ、課長さん」
と、若い女の子が、黒いワンピースで、やって来た。
「やあ、どうしたんだ?」
「遅れたもんで、はぐれちゃって」
「その先だよ」
「ああ良かった! ここへ来るの、初めてなんです」
「そりゃそうだな。――ああ、今度新しく入った|伊《い》|藤《とう》君だ。僕の家内だよ」
「初めまして」
と、その娘は頭を下げた。「――いい所ですね、ここ」
「そうかい?」
「ええ、私も結婚したら入ろうかしら」
恭子は、ちょっと夫と目を見交わした。
「でもね――」
と、恭子は言った。「問題はどこへ[#「どこへ」に傍点]入るかじゃなくて、誰と[#「誰と」に傍点]入るか、なのよ」
本書は、一九八六年二月、中公文庫として刊行されました。
|本《ほん》|日《じつ》は|悲《ひ》|劇《げき》なり
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年10月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2001
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角川文庫『本日は悲劇なり』平成7年6月25日初版発行