角川e文庫
晴れ、ときどき殺人
[#地から2字上げ]赤川次郎
第一章
1
朝の|気《け》|配《はい》が、|庭《にわ》に|面《めん》した広いガラス|窓《まど》を通して、|居《い》|間《ま》の中へもひそやかに|忍《しの》び込んでいる。
ガラス窓は、いわゆるフランス窓と呼ばれる、|両開《りょうびら》きの|扉《とびら》になっていて、そのまま庭へ出られる|造《つく》りである。
|薄《うす》いカーテンは、忍び|寄《よ》る朝に|最《さい》|後《ご》の|抵《てい》|抗《こう》を|試《こころ》みているが、|乳白色《にゅうはくしょく》の光が窓の外に|満《み》ち|始《はじ》めると、もう|遮《さえぎ》るすべもなく、ただ、|洩《も》れ入る朝の風に|身《み》を|任《まか》せるのだった。
|暗《くら》い空間の中に、やがて、広々とした居間の|様《よう》|子《す》が|浮《う》かび上って来る。|革《かわ》|貼《ば》りの|椅《い》|子《す》、マホガニー|材《ざい》のテーブル、毛の|深《ふか》い|絨毯《じゅうたん》、書き|物机《ものづくえ》……。
|順序立《じゅんじょだ》てて|言《い》えば、居間はほぼ|正《せい》|確《かく》な長方形である。長い一|辺《ぺん》の半分近くが、フランス窓になって、庭の木々の|影《かげ》を|映《うつ》している。|壁《かべ》になった|部《ぶ》|分《ぶん》には、|中央《ちゅうおう》に|本《ほん》|物《もの》の|暖《だん》|炉《ろ》があり、今は火がないが、レンガを赤黒く|焼《や》いて、いつも|使《つか》われていることが|分《わか》る。|残《のこ》りの壁には|飾《かざ》り|棚《だな》がしつらえてあって、いつごろの物やら見当のつかない、|西洋人形《せいようにんぎょう》が、いくつか、|寂《さび》しげに|離《はな》れ|離《ばな》れに立っている。
|反《はん》|対《たい》|側《がわ》の長い辺は、大部分が壁に|埋《う》め|込《こ》みの本棚であって、ほぼびっしりと、|分《ぶ》|厚《あつ》い本が|並《なら》んで、ところどころの空間は、大理石でできた人魚の像の形をしたブックエンドで|止《と》まっている。
長方形の|短《みじか》い一辺には、大きなドアがついていて、今は|固《かた》く|閉《と》じられたままである。|向《むか》い合った、|奥《おく》の一辺には、壁に向った書き物机と、|洋《よう》|酒《しゅ》|類《るい》の棚、ガラスのケースに|納《おさ》まった、古風な|装飾用《そうしょくよう》の|短《たん》|剣《けん》が|飾《かざ》られている。
すでに、朝は|着実《ちゃくじつ》にその|瞼《まぶた》を開きつつあった。居間の中央には円形のテーブル。そして、それを|囲《かこ》む七|脚《きゃく》の椅子。その|他《ほか》に、長椅子と小テーブルが、ドアとの間に|置《お》かれていた。
どれもが、ゆったりと|配《はい》|置《ち》されて、|桁《けた》|外《はず》れの広さを示している。
窓の外に小鳥の声が|動《うご》いた。ほのかな明るさが、|射《さ》し入る光へと|変《かわ》って行く。
遠くを、パトカーのサイレンの音が、かすめて行った。
|突《とつ》|然《ぜん》、ドアが|激《はげ》しく開いた。
|北《きた》|里《ざと》|加《か》|奈《な》|子《こ》は、ほとんど|駆《か》け|込《こ》むような|勢《いきお》いで居間へ|飛《と》び込んで来た。
居間を|横《よこ》|切《ぎ》ると、フランス窓のカーテンを|力一杯開《ちからいっぱいあ》けた。居間が、まるでピントが合うように明るくなる。
加奈子は、フランス窓を開け|放《はな》った。
朝の|冷《つめ》たい空気が|流《なが》れ込んで来る。それを|胸《むね》一杯に|吸《す》い込んでは|吐《は》いた。
加奈子は、|濃《こ》いえんじのワンピースを|着《き》ている。|髪《かみ》が朝の風に少し|乱《みだ》れた。
十九|歳《さい》。|若《わか》|々《わか》しく、そして|艶《つや》やかな|年《ねん》|齢《れい》である。スラリとした|長身《ちょうしん》が、多少アンバランスではあったが、|決《けっ》して目立つほどではない。|額《ひたい》の広い、|知《ち》|的《てき》な顔で、目はくっきりと黒い。|常《つね》に何か|表情《ひょうじょう》を|持《も》って語りかけているような目である。
|唇《くちびる》は、今は|小《こ》|刻《きざ》みに|震《ふる》えているが、|笑《わら》えばその|端《はし》に、小さなえくぼを作る。だが、今は|笑《わら》いたい気分ではなかった。
加奈子はクルリと|振《ふ》り向くと、本棚の方へ歩いて行って、|重《おも》い本を|次《つぎ》|々《つぎ》に|床《ゆか》へおろし始めた。たちまち加奈子の|足《あし》|下《もと》に、本の山が|出《で》|来《き》る。
ドアが開いて、髪の白くなった、もう七十近い|紳《しん》|士《し》が入って来た。紳士といっても、今はネクタイもなく、ややひげがのびて、少々むさ|苦《くる》しい|感《かん》じではある。
入って来たものの、加奈子が本をどんどん床に|積《つ》み上げているのを見て、|呆《あっ》|気《け》に|取《と》られた様子で、ドアを|押《おさ》えたまま|突《つ》っ立っている。
「――何をしてるんだね?」
と、|菊《きく》|井《い》|医《い》|師《し》は|訊《き》いた。
「本を出してるんです」
加奈子は、菊井の方を見もせず、本を出す手も休めずに答えた。
「そりゃ分ってるが……どうしてそんなことを?」
「本を出しとけば、また本を棚に|戻《もど》すっていう|仕《し》|事《ごと》が出来るでしょう」
加奈子は、|息《いき》を|弾《はず》ませながら、|真《まっ》|直《す》ぐに立って、菊井を見た。「どうすればいいんですか? |親《おや》が|死《し》んだとき、|子《こ》|供《ども》は何をすればいいんですか? 声を上げてワンワン|泣《な》けばいいんですか? |私《わたし》、そんなのいやです。でも何もしないでいると、そうなっちゃいそうだから、こうやって|働《はたら》いてるんです!」
菊井医師は、こんなときなのに、思わず|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「お母さんの子だねえ、|君《きみ》は。――いや、君の考えはすばらしい。私も|手《て》|伝《つだ》おう」
「先生はやめて下さい。ギックリ|腰《ごし》で|寝《ね》こまれたらかないませんもの。母のお|葬《そう》|式《しき》も出さなきゃならないのに」
「こら! 口の|悪《わる》いのまで|母《はは》|親《おや》|譲《ゆず》りだ」
加奈子は声を上げて笑った。菊井も笑った。――その笑いで、加奈子は|涙《なみだ》を|乾《かわ》かしてしまったのだった。
「先生」
加奈子は|改《あらた》まって|両手《りょうて》を前に組むと、「色々ありがとうございました」
と、|深《ふか》|々《ぶか》と頭を|下《さ》げた。
「いや……。私の|見《み》|込《こ》みが|甘《あま》かったよ。こんなに|急《きゅう》に|逝《い》ってしまうとはね。|入院《にゅういん》させておくべきだった」
菊井の|言《こと》|葉《ば》には、|苦《にが》いものが|混《ま》じっていた。菊井は少し|疲《つか》れを|覚《おぼ》えたようで、長椅子に|腰《こし》をおろした。
「同じことです」
と、加奈子は菊井のそばに来て、立った。「母は、菊井先生|以《い》|外《がい》の|方《かた》に|診《み》ていただこうとは思わなかったでしょうし、|無《む》|理《り》に入院させても、おとなしく寝ていたはずがありませんもの」
菊井は加奈子の手を取ると、
「君に|慰《なぐさ》められるとはね。私の|立《たち》|場《ば》がなくなるじゃないか」
加奈子は菊井の手を|軽《かる》く|握《にぎ》りしめた。それから、ゆっくりと居間の中を|見《み》|渡《わた》した。
「一つ|心残《こころのこ》りなのは……」
「何だね?」
「母は、きっとここで死にたかっただろうっていうことです。――父が死んでからは、ここが母の|私《し》|室《しつ》みたいなものでしたから」
「この部屋には、君のご|両親《りょうしん》の|歴《れき》|史《し》がある。まだ君のお父さんの|好《す》きだった|葉《は》|巻《まき》の|匂《にお》いがするようだよ」
「まさか。――もう十年ですよ」
「そうだ。十年になる。私も|年《と》|齢《し》を取った……」
菊井はゆっくり|体《からだ》を|持《も》ち上げると、|奥《おく》の洋酒の棚の方へ歩いて行った。「君のお父さんが|亡《な》くなるとき、私にこう言ったものだ。『向う[#「向う」に傍点]でチェスの|続《つづ》きをやろう。早く来いよ』とね。――お父さんは|倒《たお》れたとき、私とチェスをしていて、その|勝負《しょうぶ》がついていなかったのだよ」
加奈子はソファに|座《すわ》ると、形の|良《よ》い|脚《あし》を組んだ。
「その話は母から聞いたことがありますけど、私はまだ小さかったし、よく分りませんでしたわ」
「そうかね?――私も勝負の|結着《けっちゃく》が、こうも長引くとは思っていなかった」
「もっともっと長引かせて下さい」
「ありがとう」
菊井は、ブランデーをグラスに|注《そそ》ぐと少し口に|含《ふく》んで、ゆっくり|飲《の》み込んだ。「お父さんが亡くなってから十年、お母さんはよく|頑《がん》|張《ば》ったものだ。きっともともと|経《けい》|営《えい》|者《しゃ》の|素《そ》|質《しつ》を持っていたのだろうね」
「|忙《いそが》しい人でしたわ。あまり|一《いっ》|緒《しょ》に|寝《ね》た|記《き》|憶《おく》もありません。父が生きている|内《うち》から、|駆《か》け|回《まわ》っていました。――たぶん、|後《ご》|妻《さい》という|立《たち》|場《ば》もあったからでしょうね」
加奈子は、立って暖炉の方へと歩み寄った。小さな|写《しゃ》|真《しん》が、写真立におさまっている。
「母が|北《きた》|里《ざと》|家《け》に|嫁《とつ》いだとき、私はまだ四|歳《さい》でした。――それから十五年もたったんですね」
菊井は、じっと加奈子を見つめながら、言った。
「ここも君|一人《ひとり》になってしまうね。――これからのことは、ゆっくり考えるといい」
「ええ。まず母の葬儀を|終《おわ》らせてから……」
「それが|先《せん》|決《けつ》だな。――朝になった」
菊井は、開け放したフランス窓から、庭の|緑《みどり》が、朝日を|浴《あ》びてキラキラと光っているのを見た。
「数時間したら、|弔問客《ちょうもんきゃく》が次々にやって来るだろう。――|大丈夫《だいじょうぶ》かね? 何なら私が|代《かわ》りに|応《おう》|対《たい》しようか」
「いいえ」
加奈子はきっぱりと首を|振《ふ》って、「私も北里|浪《なみ》|子《こ》の|娘《むすめ》ですから。大丈夫ですわ」
と言った。
「そうか。葬儀の|手《て》|配《はい》は私が|水《みず》|原《はら》に言いつけてやらせる。あいつはおっちょこちょいだが、|誠《せい》|意《い》はあるから、言いつければきちんとやるだろう。|失《しつ》|礼《れい》のないように、私がお|目《め》|付《つけ》|役《やく》をつとめるよ」
「お|願《ねが》いします」
と加奈子は言った。「私も|喪《も》|服《ふく》に|着《き》|替《が》えておきますわ」
「私も|一《いっ》|旦《たん》、家へ帰る。また|出《で》|直《なお》して来るからね」
菊井は、グラスをテーブルへ置くと、ドアの方へ歩いて行った。
「先生。少しお|寝《やす》みになって下さいね」
加奈子は声をかけた。「ここは大丈夫ですから」
「|心《しん》|配《ぱい》しなくてもいい。私は長生きの|手《て》|相《そう》をしているんだ」
菊井は出て行こうとして、ふっと足を止めた。「またパトカーの音がするな。何かあったのか」
「ずっと聞こえていましたか?」
「|何《なん》|度《ど》かね。――それじゃ、|後《あと》でまた来る」
菊井は出て行った。
ドアが|閉《しま》ると、加奈子は、大きく|息《いき》をついた。|本《ほん》|棚《だな》の前の|床《ゆか》に|積《つ》み|上《あ》げられた本の山を|眺《なが》めて、
「どうしましょ。これをまた|戻《もど》さなきゃならないなんて!」
と|拳《こぶし》で頭をゴツンと|叩《たた》いた。「加奈子の|馬《ば》|鹿《か》め!」
加奈子は、|奥《おく》の|書《か》き|物机《ものづくえ》の|所《ところ》へ行くと、|椅《い》|子《す》に|腰《こし》をおろして、机の|蓋《ふた》を|開《ひら》いた。ペンや、インクびん、レターペーパーなどが、そのままになっている。机の上には、古風なデザインの|電《でん》|話《わ》|機《き》があった。
加奈子は、ちょっと考えてから、|受《じゅ》|話《わ》|器《き》を上げると、ダイヤルを|回《まわ》した。
|呼《よび》|出《だ》し音がしばらく|続《つづ》いている。
「あ、もしもし?――|円谷《つぶらや》さんのお|宅《たく》ですか? こんな時間に|申《もう》し|訳《わけ》ありません、北里加奈子ですけれど、|正《まさ》|彦《ひこ》さんはいらっしゃいますか」
しばらく|間《ま》があって、加奈子は、机の上の|便《びん》せんをめくりながら、|待《ま》っていた。
「あ、正彦さん、ごめんね。――うん、|実《じつ》は……母がね、|今《け》|朝《さ》|死《し》んだの。――そう、|心《しん》|臓《ぞう》が|弱《よわ》ってたでしょう。ゆうべ|発《ほっ》|作《さ》を|起《お》こしてそのまま。――|大丈夫《だいじょうぶ》、大丈夫よ。そんなに――ええ、|分《わか》ってる。|私《わたし》はもう|平《へい》|気《き》。――すぐに|駆《か》けつけて|来《こ》なくたっていいわよ。|別《べつ》にすることもないし。――そりゃ、そうだけど。――ええ、そうね……あなたにお|願《ねが》いすることなんて――」
加奈子は、ふと床に積み上げた本に目をやって、「そうだ。あなたにちょうど|頼《たの》むことがあったわ。やっぱりすぐ|来《き》てくれる?――ええ、じゃ待ってる」
加奈子は受話器を戻すと、ヒョイと|肩《かた》をすくめた。
「本をおろすのは、|引力《いんりょく》の|法《ほう》|則《そく》に|従《したが》ってるけど、上げるのは、|逆《ぎゃく》だものね、やってもらわなきゃ」
と|呟《つぶや》いて、加奈子は机から|離《はな》れようとしたが、そのとき机の上の、|封《ふう》|筒《とう》に|気《き》|付《づ》いた。
北里の名が|刷《す》り|込《こ》んである、|特《とく》|製《せい》の封筒であった。〈加奈子へ〉と|表書《おもてが》きの字は、|乱《みだ》れていて、加奈子はハッと|胸《むね》をつかれた。
いやに|分《ぶ》|厚《あつ》い。|急《いそ》いで中を|取《と》り出してみる。
広げてみると、母の字がそこに生き生きと|踊《おど》っている。いつも、|事業《じぎょう》の|決《けっ》|済《さい》に|記《しる》していたサインの字、加奈子が小学校へ|持《も》って行く|筆《ふで》|箱《ばこ》に名前を書いてくれた、その字だった。
ふっと思いがけず|涙《なみだ》が|浮《う》かんで、加奈子はハンカチを出して|拭《ぬぐ》った。
その手紙はこう書き出してあった。
〈加奈子へ。
母さんはこのところ、あまり|具《ぐ》|合《あい》が|良《よ》くありません。心臓が|大《だい》|分《ぶ》|弱《よわ》って来ているようです。
お前は良く|笑《わら》ったわね、私が心臓が弱い、と言うと。でも本当に、この心臓と、あの[#「あの」に傍点]心臓の強さがどうして|比《ひ》|例《れい》しないのかしら、と|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》だし、|残《ざん》|念《ねん》でならないわ。
ともかく、もう遠くない|将来《しょうらい》に、このオンボロエンジンはダウンしそうです。だから、これをお前に書き|残《のこ》しておきます。
|忙《いそが》しくてお前とゆっくり話をするヒマがなかなかないし、それに長くないとなれば、ますます会社の方も、|後《あと》の|体《たい》|制《せい》をしっかり作っておかねばならない。そこでまた忙しくなるというわけ。
いざ発作を起こしてから話をするというわけに行かないので、ここに書いておくことにします。私が死んだら読んでもらえるように。
本当は、お前が大学を出たら話をするつもりでしたが、とてもそれまでは、もちそうにないし、お前はしっかり|者《もの》だから、この話を聞いても大丈夫でしょう。ちょっとしっかりしすぎて|困《こま》るくらいだけどね。
母さんにはある|秘《ひ》|密《みつ》があるのです。今まで|誰《だれ》にも――北里にも話さずに来ました。でもお前にだけは知っておいてもらいたい、と思います〉
加奈子は一|枚《まい》|目《め》の便せんをめくった。
ドアが|開《あ》いて、
「お|嬢様《じょうさま》」
と声がした。
加奈子は|急《いそ》いで手紙をたたんで、封筒へ戻した。
「なあに?」
もう三年近く、この家に|住《す》み|込《こ》みで|働《はたら》いている|桜井《さくらい》マリ子だった。色が黒くて、といって|健《けん》|康《こう》|的《てき》な|印象《いんしょう》を|与《あた》えない。ほっそりとして――というよりやせていて、いつも|日《ひ》|陰《かげ》に小さくなっているような印象を|受《う》けるのだった。
そういえば、加奈子は、マリ子が大声で笑うのを聞いたことがない。笑うことなんかないんじゃないか、という|顔《かお》をしているのだ。
黒いカーデガンに|紺《こん》のスカートという|服《ふく》|装《そう》は、|別《べつ》に|喪《も》|服《ふく》のつもりではなく、いつものマリ子のスタイルなのである。
「お|客様《きゃくさま》ですが……」
マリ子の話し|方《かた》は、いつも|尻《しり》|切《き》れトンボに|終《おわ》ってしまう。|完《かん》|結《けつ》した|文章《ぶんしょう》を話すことが、あまりないのである。
「お客様?」
「はい」
誰だろう? |弔問客《ちょうもんきゃく》にしては、いやに早い。
「どなた?」
「|警《けい》|察《さつ》の方です」
「警察? 何のご用かしら?」
「さあ、それは……」
「いいわ。ともかくこちらに。――ああ、マリ子さん」
と、出て行きかけるマリ子を|呼《よ》び|止《と》めて、「しばらくしたら、弔問のお客様がおみえになるわ。マリ子さん、喪服はある?」
「黒のワンピースでしたら」
「それでいいわ。|着《き》|替《が》えて来ておいてね」
「|分《わか》りました」
マリ子は出ようとして、何か言いたげに振り向いたが、思い|直《なお》したのか、そのまま出て行った。
加奈子は、母の手紙を書き物机の|引《ひき》|出《だ》しに入れた。――警察が何の用だろう?
少し|間《ま》があって、|再《ふたた》びドアが開くと、マリ子が、
「どうぞ」
と、男を|一人《ひとり》、中へ|通《とお》した。
加奈子はつい笑い出しそうになるのを、何とか|抑《おさ》えた。|野《や》|暮《ぼ》ったい|背広姿《せびろすがた》の、中年のずんぐり|型《がた》の|刑《けい》|事《じ》が、何ともみっともないくらい口をポカンと開けて、|居《い》|間《ま》の中をキョロキョロと|見《み》|回《まわ》し|始《はじ》めたからだ。
「何のご用でしょうか」
と、加奈子が声をかけると、その刑事はびっくりしたように目を見開いて、
「ああ……どうも」
と頭をピョコンと下げた。「私は|警視庁《けいしちょう》の|多《た》|田《だ》といいます。ええと……こちらのお嬢さんかな?」
「北里加奈子です。|今《け》|朝《さ》|方《がた》、母が|亡《な》くなりまして取りこんでおりますので。どういうご|用《よう》|件《けん》でしょうか」
「お母さんが亡くなった! そうですか……。いや、ご|不《ふ》|幸《こう》があったとは今うかがったんですが。これはどうも、とんだ|所《ところ》へやって来てしまいました」
「お|仕《し》|事《ごと》ですもの、|仕《し》|方《かた》ありません」
「|落《お》ち|着《つ》いておられますなあ。|失《しつ》|礼《れい》ですが、おいくつ?」
「私ですか? 十九です」
「うちの|娘《むすめ》と二つしか|違《ちが》わんのですな。いや、|信《しん》じられん。|全《まった》くの話……ええと……|確《たし》か、お父さんはずっと|以《い》|前《ぜん》に――」
「はい、十年前に」
「すると、ご|家《か》|族《ぞく》はあなた一人ですか」
「今のところはそうです」
加奈子は少し|苛《いら》|立《だ》ちを見せながら、「申し上げたように取り込んでおりまして、お客様をお迎えしなくてはなりませんし……。ご用件をお話し|願《ねが》いたいんですけど」
「それはそうですね。いや、失礼。――ただ、このお|屋《や》|敷《しき》はべらぼうに広い。お|庭《にわ》も|大《たい》|変《へん》なものですな」
とその多田という刑事、フランス窓の方へ歩いて行って、|表《おもて》を|眺《なが》めた。「ここは|何《なん》|坪《つぼ》ぐらいあるんですか?」
「|敷《しき》|地《ち》|全《ぜん》|部《ぶ》で|千《せん》|坪《つぼ》ぐらいのものでしょう」
「千坪!」
多田は目を|丸《まる》くした。「私のところは三十坪ですよ。それも土地が変な形をしていましてね。四分の一は|使《つか》えない、と来ている」
加奈子は一つ|深呼吸《しんこきゅう》をした。|怒《ど》|鳴《な》りつけたくなるのを|抑《おさ》えたのである。
「刑事さん――」
「ああ、どうも|失《しつ》|礼《れい》」
と多田は手を|上《あ》げて加奈子を|遮《さえぎ》り、「いや、まるきり|無《む》|駄《だ》な話をしているわけでもないのですよ。つまり、これだけの広い|屋《や》|敷《しき》では、|誰《だれ》かがここへ|忍《しの》び|込《こ》んでも|分《わか》るまい、と言いたかったのです」
と言った。
加奈子は|意《い》|外《がい》な言葉に目を見張った。
2
「誰か忍び込むとおっしゃるんですか」
と、加奈子は、やっとの思いで言葉を|押《お》し出した。
「|実《じつ》は、三か月前から|手配中《てはいちゅう》だった男が、|昨日《きのう》、この近くの|旅《りょ》|館《かん》に|現《あらわ》れましてね」
多田|刑《けい》|事《じ》は、|居《い》|間《ま》の中を、まるで|散《さん》|歩《ぽ》でもするように歩きながら言った。「|早《さっ》|速《そく》手配したのですが、ともかく|勘《かん》がいいというか、|事《じ》|前《ぜん》に|察《さっ》して、|包《ほう》|囲《い》を|完了《かんりょう》しない|内《うち》に、その|隙《すき》|間《ま》から|姿《すがた》を|消《け》してしまった。まったくゴキブリのような|奴《やつ》で。――ああ、失礼、こんなお屋敷で|使《つか》う言葉ではありませんね」
多田は、|本《ほん》|棚《だな》の前に|積《つ》み|上《あ》げてある本に目を|止《と》めて、
「これはどうしたんです?」
と|訊《き》いた。
「本を入れ|替《か》えていたんです。――で、その|犯《はん》|人《にん》はまだこの|辺《へん》に?」
「そう考えています。|主《しゅ》|要《よう》|道《どう》|路《ろ》などは|全《ぜん》|部《ぶ》|閉《へい》|鎖《さ》して、|通《とお》る車もチェックさせていますから、遠くへは行っていないはずです。そこで|一《いち》|応《おう》、一|軒《けん》一軒のお|宅《たく》を|回《まわ》って、ご|注意《ちゅうい》|申《もう》し上げているわけでして」
加奈子は|肯《うなず》いた。
「よく|分《わか》りました。でも、申し上げた通り、母が|亡《な》くなって、人の出入りがここ二、三日は多いはずです。こんな|所《ところ》へは|近《ちか》|寄《よ》らないと思いますわ」
「そうですな。しかしまあ、一応ご用心を。――誰か男の|方《かた》はおられますか?」
「母の|秘《ひ》|書《しょ》の|水《みず》|原《はら》さん、それに、お|医《い》|者《しゃ》|様《さま》で菊井さんという方も、|後《あと》で来て|下《くだ》さるはずです」
「そうですか。やはり女の方だけでは|不《ぶ》|用《よう》|心《じん》でしょう。まあ、うるさいことばかり申し上げて、気を|悪《わる》くされたかもしれませんな」
加奈子は、ちょっと|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「多少は。でも、セールスマンほどではありません」
「こいつは|手《て》|厳《きび》しい」
と多田は|愉《ゆ》|快《かい》そうに言った。「どうもお|邪《じゃ》|魔《ま》しました」
多田はドアの方へと歩いて行き、ドアのノブに手をかけて|振《ふ》り|返《かえ》った。
「そのフランス|窓《まど》は、|閉《と》じておいた方がいいですよ。一応、|鍵《かぎ》をかけて」
「そうします」
多田は|軽《かる》く|会釈《えしゃく》して出て行った。
加奈子は|全《ぜん》|身《しん》で|息《いき》をつくと、ちょっと手を振り回して、
「母が|死《し》んで、|今《こん》|度《ど》は|逃《とう》|亡《ぼう》|犯《はん》ね。|忙《いそが》しいこと、本当に!」
と|独《ひと》り|言《ごと》を言った。――またドアが|開《あ》いて、多田が|顔《かお》を出した。
「失礼。言い|忘《わす》れていました。逃亡中の男は|上《かみ》|村《むら》|裕《ゆう》|三《ぞう》といいましてね、二十四|歳《さい》の|若《わか》|者《もの》です。まあご|参《さん》|考《こう》までに」
「何をしたんですか?」
「お話ししませんでしたか? いや、何をしに来たのかな、|俺《おれ》は。もう|年《と》|齢《し》ですよ」
と、顔だけを出したままため息をついて、「|殺《さつ》|人《じん》です。|恋《こい》|人《びと》の十八歳の|娘《むすめ》を|殺《ころ》して|逃《に》げたんですよ。|動《どう》|機《き》はその娘が|妊《にん》|娠《しん》して、|結《けっ》|婚《こん》を|迫《せま》られたせいのようです」
「十八……」
ドアが|閉《しま》った。
加奈子は、|暖《だん》|炉《ろ》の前に立って、|呟《つぶや》くように言った。
「妊娠……殺人……。|私《わたし》より若くて、殺される人もいるのね」
加奈子は、開け|放《はな》したままのフランス窓の方へ歩いて行くと、ピタリと閉じ、ロックした。――そして、ふと|考《かんが》え込んだ。
「お|嬢様《じょうさま》」
ドアが開いて、桜井マリ子が入って来る。「お|客様《きゃくさま》はもうお|帰《かえ》りですか?」
「ええ、帰ったわ。ねえマリ子さん」
「はい」
「このフランス窓のロック、|昨夜《ゆうべ》、忘れなかった?」
「いいえ、そんなことは……」
とマリ子は首を|振《ふ》った。「|必《かなら》ず|寝《ね》る前にはチェックをしているつもりで……」
「そう。いえ、いいの。さっきここを開けたとき、ロックを|外《はず》した|記《き》|憶《おく》がないものだから。きっと私が|無《む》|意《い》|識《しき》で外したのね。――ありがとう。もういいわ。――あ、それから、お客様が色々おいでになると思うから、お|湯《ゆ》を|沢《たく》|山《さん》|沸《わ》かしておいてね」
「もう|準備《じゅんび》してあります」
「水原さんは?」
「さっき出かけられました。あれこれ手配があるとおっしゃって……」
「そう。ありがとう」
「お客様はこちらへお通ししますか?」
加奈子はちょっとためらって、
「いいえ、客間へお通しして。ここは色々と使うことになると思うから」
「分りました」
マリ子は、何だか|不《ふ》|必《ひつ》|要《よう》なくらい|丁《てい》|寧《ねい》なお|辞《じ》|儀《ぎ》をして、出て行った。
窓の外は、もうすっかり朝の光が|溢《あふ》れている。|暖《だん》|炉《ろ》の上の大きな|掛《かけ》|時《ど》|計《けい》が、七時を|打《う》った。
「――そうだわ! 手紙!」
加奈子は書き|物机《ものづくえ》へ|駆《か》け|寄《よ》ると、|引《ひき》|出《だ》しにしまった手紙をもう|一《いち》|度《ど》|取《と》り出して、ソファにかけながら、中の|便《びん》せんを出した。二|枚《まい》|目《め》から読み|始《はじ》める。
〈母さんは回りくどい言い方は|嫌《きら》いです。だから、はっきり書きますね。
母さんは、若い|頃《ころ》、人を殺した[#「人を殺した」に傍点]ことがあるのです〉
「人を殺したことが――」
加奈子は|唖《あ》|然《ぜん》として、声に出して、くり|返《かえ》した。一|呼吸《こきゅう》|置《お》いて読み|続《つづ》ける。
〈|別《べつ》に|正《せい》|当《とう》|防《ぼう》|衛《えい》でとか、|捨《す》てられたのを|恨《うら》んでの殺人ではありません。もちろん、どうしようもない|事情《じじょう》はあったのですが、その|相《あい》|手《て》は、私とは|直接縁《ちょくせつえん》もゆかりもない人でした。
私がこの手で殺したのではないのです。|詳《くわ》しく話しましょうね。
お前も知っている通り、お前の本当のお父さんは、お前が一歳のとき、|突《とつ》|然《ぜん》死んでしまいました。その|後《あと》に|残《のこ》ったのは、|借金《しゃっきん》の山と一歳の赤ん|坊《ぼう》だけ。
母さんは|夢中《むちゅう》で|働《はたら》きました。六|畳《じょう》一|間《ま》のアパートへ|移《うつ》り、あなたを|保《ほ》|育《いく》|園《えん》へ|預《あず》けて、午前と午後で別の|仕《し》|事《ごと》をやり、|夜《よる》は|部《へ》|屋《や》で|内職《ないしょく》をやって、よくまあ|体《からだ》が|保《も》ったと思うくらいです。今のこの|心《しん》|臓《ぞう》も、そのときの|仕《し》|返《かえ》しをしているのかもしれないわね。
まあ、そんなことはともかく、あれはお前が二歳になったばかりのときでした。|割《わり》|合《あい》に|親《した》しくしている|従妹《いとこ》が、その頃、アパートへ通って来て、お前をみていてくれたので、私は|昼《ひる》の|勤《つと》めの|他《ほか》に夜の仕事もしていました。
夜の仕事といっても、|誤《ご》|解《かい》しないでね。ビルの|清《せい》|掃《そう》をやっていたんだから。
九時頃、母さんが、アパートへと|急《いそ》いでいると、|人《ひと》|気《け》のない|公《こう》|園《えん》の前で、いきなり|飛《と》び出して来た男と、|一瞬《いっしゅん》ぶつかりそうになりました。|暗《くら》かったけれど、その男の顔は、ほんの|一《いっ》|時《とき》、|街《がい》|灯《とう》の明りに|照《て》らされて、はっきりと見てとれました。
その男は母さんを見て、ギョッとしたようでしたが、そのまま|駆《か》け出して行ってしまいました。何だろうと思った母さんは、公園の中を|覗《のぞ》いてみました。若い女の人が、|倒《たお》れていて、首には|細《ほそ》い|紐《ひも》が|巻《ま》きついていたのです。殺されていたのでした。
もちろん母さんは|警《けい》|察《さつ》へ|届《とど》け出ました。あれこれとややこしい取り|調《しら》べがあったけれど、|憶《おぼ》えている|限《かぎ》りの|犯《はん》|人《にん》の|特徴《とくちょう》を、母さんはちゃんと警察へ話して、それでもうこっちの用は|済《す》んだと思っていたのです。
|後《あと》は新聞|記《き》|事《じ》で、殺されたのが、その近くでも|評判《ひょうばん》の|美《び》|人《じん》だったこと、犯人は殺す前にその娘さんを|犯《おか》していたことを知りました。同じ、女の子を|持《も》つ母親としては、殺しても|飽《あ》き|足《た》りない犯人だと思ったものです。
それから三|週間《しゅうかん》ほどたって、仕事場の方へ|警《けい》|察《さつ》から電話がありました。|容《よう》|疑《ぎ》|者《しゃ》が|逮《たい》|捕《ほ》されたから、顔を見てほしいというので、もちろん|承知《しょうち》しました。
でも仕事は|時間給《じかんきゅう》なので、|途中《とちゅう》で出れば直接|給料《きゅうりょう》にひびきます。仕事が|終《おわ》ってから、ということにして、|従妹《いとこ》に、保育園へお前を|迎《むか》えに行ってくれるように電話で|頼《たの》み、|終業《しゅうぎょう》の時間が|近《ちか》|付《づ》きました。
そこへ、聞いたことのない男の声で、電話が入ったのです。
『お前の|娘《むすめ》は|預《あず》かった。|警《けい》|察《さつ》へ行ったら、今|取《と》り|調《しら》べられている男を|犯《はん》|人《にん》に|間《ま》|違《ちが》いないと言え。さもないと娘は生きて|帰《かえ》れない』
その声はそう言って、電話を切りました。
そこへ|追《お》いかけるように、従妹が、もう|誰《だれ》かがお前を|連《つ》れて出たと、あわてて電話をかけて来たのです。|単《たん》なる|脅《おど》しではない、と母さんは、声の|調子《ちょうし》から|判《はん》|断《だん》していました。
ともかく従妹には、きっと|近《きん》|所《じょ》の人が気を|利《き》かせてくれたのだろうから、と|極力心配《きょくりょくしんぱい》しなくていいと思わせたのです。そして、母さんは警察へ|出《で》|向《む》きました。
|捕《つか》まっていたのは、|殺《ころ》された女の子に|以《い》|前《ぜん》から|付《つ》きまとっていたという二十五、六の男で、少しぐれてもいたようです。母さんは一目見て、|別《べつ》|人《じん》と|分《わか》りました。
|確《たし》かに文字にした|外《がい》|見《けん》、顔の形などは似ているのだけれど、|似《に》ても似つかぬ別人です。でも、そう言えば、お前は殺されてしまう。母さんにとっては、何よりお前が|大《たい》|切《せつ》でした。
お前を|助《たす》けるためなら、その目の前の男を自分の手で殺せと言われても、その通りにしたに違いない、と思います。
母さんは、
『この人に間違いありません』
と言いました。
その男は、|倉《くら》|田《た》という名で、そのとき、母さんを|凄《すご》い目でにらみつけたのを、今もはっきりと|憶《おぼ》えています。
ところで、母さんが|嘘《うそ》をついたのは、心の中で、お前さえ取り|戻《もど》せば、|証言《しょうげん》は|後《あと》から取り|消《け》せると思っていたからでもあります。ともかく、お前が|無《ぶ》|事《じ》に帰るのが|第《だい》|一《いち》だ、それは警察も|分《わか》ってくれるだろうと思いました。
アパートへ帰ってみると、従妹が青い顔で|待《ま》っています。母さんは、|捜《さが》して来るといって|表《おもて》に出ました。|相《あい》|手《て》がいつお前を|返《かえ》して来るか、|見《けん》|当《とう》がつかないのですが、ともかく従妹の手前、そうしないわけに行かなかったのです。
どこを捜して|良《よ》いか分らず、|途《と》|方《ほう》に|暮《く》れて、お前をよく|遊《あそ》ばせた、|砂《すな》|場《ば》のある|公《こう》|園《えん》のベンチに|腰《こし》かけていて、ふと気が|付《つ》くと、お前が目の前に立っていたのです。
力|一《いっ》|杯《ぱい》|抱《だ》きしめ、やっと|落《お》ち|着《つ》いて|見《み》|直《なお》すと、お前の|服《ふく》のポケットに、手紙がねじ込んでありました。
『言う通りにしたので、子供は返す。ただし、証言を|変《へん》|更《こう》しようとしたり、|曖《あい》|昧《まい》にして|逃《に》げようとすれば、また|子《こ》|供《ども》を|誘《ゆう》|拐《かい》するぞ。|今《こん》|度《ど》は|冷《つめ》たくなって戻ると思え。警察へ|訴《うった》えたところで、警察は|一生《いっしょう》お前たちを|守《まも》ってはくれない。誘拐のチャンスはいくらでもあるのだ。|忘《わす》れるな!』
母さんは|震《ふる》え|上《あが》りました。何も知らずに、お前はその犯人があてがってくれたらしい、お|人形《にんぎょう》をかかえて、ニコニコ|笑《わら》っています。――その|後《ご》、母さんがその人形を|捨《す》てようとすると、お前は|泣《な》いて抱きしめ、|離《はな》さなかったわね。
母さんも|結局《けっきょく》取り上げるのを|諦《あきら》めてしまいました。|皮《ひ》|肉《にく》なことに、お前はことの他、その人形がお気に|入《い》りで、|毎《まい》|日《にち》毎日、それを|離《はな》しませんでした。それを見る|度《たび》に、母さんは犯人が人形の|姿《すがた》を|借《か》りて、お前を|人《ひと》|質《じち》に取っているような、|苦《くる》しい思いに取りつかれたものです……。
手紙にある通り、倉田という|若《わか》|者《もの》の|罪《つみ》が|晴《は》れたとしても、その|真《しん》|犯《はん》|人《にん》がすぐに捕まるのでなければ、いつまたお前が誘拐されるか分らない。母さんは|働《はたら》かなくてはならないから、二十四時間、お前のそばにいてやることはできません。
それに犯人は、手紙の|文章《ぶんしょう》からして、かなり|偏執的《へんしゅうてき》な|性《せい》|格《かく》のように思えました。何年もたって、もう|安《あん》|全《ぜん》と思った|頃《ころ》、|仕《し》|返《かえ》しに来るかもしれない。
警察だって、ほんのしばらくは|警《けい》|護《ご》してくれるかもしれないけれど、こちらは別にVIPというわけでもないんだもの、そういつまでも|頼《たよ》りにはできない。――そう考えると、犯人の言う通りにするしかありませんでした。
|希《き》|望《ぼう》はまだありました。
たとえ|私《わたし》が証言しても、あの若者には、別にアリバイがあるかもしれない。色々な|証拠《しょうこ》を調べたら、|矛盾《むじゅん》も出て来るに|違《ちが》いない。
そう。――きっと証拠|不十分《ふじゅうぶん》で|無《む》|罪《ざい》になる。母さんはそう自分に言い聞かせていたのでした。
ところが、母さんの|期《き》|待《たい》は|裏《うら》|切《ぎ》られました。出て来る証拠も、倉田という若者に|不《ふ》|利《り》なものばかりで、とうとう彼は|起《き》|訴《そ》されることになったのです。
|法《ほう》|廷《てい》で証言した日。あの日のことは今もよく憶えています。
母さんは、あの若者の顔をまともに見なくてはなりませんでした。そして、
『あなたが見たのはこの人ですか』
と|検《けん》|事《じ》に|訊《き》かれたとき、
『そうです』
と、はっきり答えたのです……。
その若者は、|初《はじ》めて見たときに、こっちをにらみ返したあの元気はどこかへ|消《き》え|失《う》せて、もうどうなってもいいというような、|投《な》げやりな|様《よう》|子《す》でした。それが、にらみつけられるよりも、母さんの|胸《むね》をしめつけたのです。
でも、やり通さなくてはならない!
|弁《べん》|護《ご》|士《し》の|反《はん》|対《たい》|訊《じん》|問《もん》も切り|抜《ぬ》け、母さんは、ぐったりして、|席《せき》に戻りました。
そこで法廷はその日は|閉《へい》|廷《てい》ということになり、母さんはもう帰っていいということで、席を立ちました。
そのとき、あの若者が、|突《とつ》|然《ぜん》、|守《しゅ》|衛《えい》を|突《つ》き|飛《と》ばして、|逃《に》げ出したのです。誰もが|呆《あっ》|気《け》に取られている|内《うち》に、彼は法廷を飛び出し、|追《お》いかける人々を|振《ふ》り切って逃げようとしました。
でも、とても逃げ切れるものではありません。――追い|詰《つ》められた|彼《かれ》は、|窓《まど》を突き|破《やぶ》って、|身《み》を投げたのです。
そこは四|階《かい》で、地上のコンクリートへ|叩《たた》きつけられた彼は、もちろん|即《そく》|死《し》でした。
母さんは、倉田が飛び|降《お》りるのを見、|死《し》んだ彼のそばにも立ちました。
私が殺したのだ。私がこの人を殺したのだ、と自分へ言い聞かせました。
それっきり、私とその|事《じ》|件《けん》との|係《かかわ》りは|消《き》えました。二年|後《ご》には北里と|結《けっ》|婚《こん》。|後《あと》は、お前も知る通りです。
母さんが人を殺したというのは、こんな|具《ぐ》|合《あい》だったのです。お前はまだあの人形を憶えているかしら?
見ればきっと思い出すでしょう。ずいぶん長いこと、あの人形はお前の|一《いち》|番《ばん》のお気に入りだったのですから。でも、いつかお前の|興味《きょうみ》も他へ|移《うつ》り、あの人形は忘れられました。
母さんはあの人形を取っておきました。そして、犯人がお前の服のポケットへねじ込んでおいた手紙も、母さんが死んだら、お前がそれを引き|継《つ》いで下さい。
それはあの部屋[#「あの部屋」に傍点]にあります。お前には分るわね? 母さんとお前だけの部屋。あの|奥《おく》に小さな|戸《と》|棚《だな》があり、そこに二つの|品《しな》|物《もの》がしまい|込《こ》まれています。その|鍵《かぎ》は、いつも母さんが首にかけているペンダントの中に入っていて、母さんの|胸《むね》の上に、|心《しん》|臓《ぞう》の上に|垂《た》れているのです。
さて、話は|終《おわ》ったわけではありません。といっても、びっくりしないで下さい。他には誰も殺していないのだから。
母さんは、いつかあの倉田という若者を死へ追いやった罪の|償《つぐな》いをしなければならない、と考え|続《つづ》けて来ました。
北里と結婚してしばらくは、それどころではなく、お前もどんどん|成長《せいちょう》するし、|毎《まい》|日《にち》の|暮《くら》しに追われていたのですが、少し落ち着いて来て、母さんも、北里家の奥様として、多少の|権《けん》|威《い》を持つようになりました。
母さんは人を|頼《たの》んで、あの倉田という若者の|家《か》|族《ぞく》が今、どうしているかを調べてもらったのです。
倉田の両親は、もう|裁《さい》|判《ばん》の|時《じ》|点《てん》で|亡《な》くなっていて、法廷には、|叔《お》|母《ば》さんらしい人が来ていました。倉田には、|法《のり》|子《こ》という|妹《いもうと》がいました。ずいぶん|年《ねん》|齢《れい》が|離《はな》れていて、倉田が死んだとき、七歳ぐらいでしたから、今はもう二十四歳ぐらいということになります。
せめて、その妹さんのために何かしてあげたいと思ったのですが、どこへ引き取られ、どこへ引っ|越《こ》して行ったのか、とうとう|消息《しょうそく》は分らないままでした。
加奈子、お前も母さんが死んでしばらくは|大《たい》|変《へん》だと思いますが、お前はしっかりした娘だから、すぐに立ち|直《なお》るでしょう。
お前の手で、もう一度、倉田法子という人を|捜《さが》して下さい。そしてお前のいいと思う形で、償いをしてあげてほしいのです。
もう一つ、|重要《じゅうよう》な話が|残《のこ》っています。つまり、倉田という若者は、|結局《けっきょく》、|暴《ぼう》|行《こう》殺人犯の|汚《お》|名《めい》を|着《き》せられたまま死んで行きました。この手紙が、おそらく彼の罪を|晴《は》らしてくれるだろうと思います。
でも、それは本当の|解《かい》|決《けつ》にはならない。本当の解決は、真犯人[#「真犯人」に傍点]を見付けることによってしかやって来ないのです。
もちろん、母さんもお前も、警察ではないし、|名《めい》|探《たん》|偵《てい》でもありません。もっとも、お前は|推理小説《すいりしょうせつ》が|好《す》きで、よく読んでいましたね。でも、|実《じっ》|際《さい》、日本のどこにいるかもよく分らない、生きているのかどうかも分らないような犯人を、捜し出すのはとても|不《ふ》|可《か》|能《のう》です。いくら母さんでも、そこまではとてもできません。
ところが、本当に思いがけないことですが、あの|暴《ぼう》|行《こう》|殺《さつ》|人《じん》|事《じ》|件《けん》の|犯《はん》|人《にん》――あの|脅迫状《きょうはくじょう》をよこした男が、|実《じつ》は|意《い》|外《がい》に|身《み》|近《ぢか》にいることが|分《わか》ったのです!
きっかけは、ほんのささいなことでした。
母さんは、この手紙を書いている、この|机《つくえ》で、|書《しょ》|類《るい》を見ていました。そうね――もう三か月も前のことになりましょうか。
夜中で、|屋《や》|敷《しき》の中は|静《しず》まり|返《かえ》っていました。|仕《し》|事《ごと》に|疲《つか》れた母さんは、あの|部《へ》|屋《や》から、二つの|品《しな》を――|人形《にんぎょう》と、手紙を|取《と》って来て、机の上に|置《お》いて|眺《なが》めました。
ときどき、こうやって、母さんは、|我《わ》が|身《み》に、この|責《せき》|任《にん》を思い出させることにしているのです。ところが――机に脅迫の手紙を置いたとき、たまたま、それまで読んでいた一通の手紙が、|並《なら》んで置かれることになりました。
しばらくぼんやりと眺めていた母さんは、|全《ぜん》|身《しん》の|血《ち》が、すーっと引いて行くような気がしました。そして、|次《つぎ》には|心《しん》|臓《ぞう》が|激《はげ》しく|暴《あば》れ出すくらいに|打《う》ち|始《はじ》めたのです。
並んだ、二つの手紙の文字は、そっくりだった[#「そっくりだった」に傍点]のです!
|夢《ゆめ》ではないかと思いました。もちろん、ただ|偶《ぐう》|然《ぜん》、|似《に》ている、というだけかもしれないとも思いました。
母さんはしばらく時間を置くことにして、お|医《い》|者《しゃ》|様《さま》には|止《と》められていたけれど、ウィスキーなど|一《いっ》|杯《ぱい》やって――そうでもしなきゃいられないものね――|冷《れい》|静《せい》になって、もう|一《いち》|度《ど》|良《よ》く調べてみました。
|拡大鏡《かくだいきょう》などを|使《つか》って見ても、ますます二つの手紙の文字は似て来るばかりです。|漢《かん》|字《じ》の|省略《しょうりゃく》の|仕《し》|方《かた》、ひらがなの点の|位《い》|置《ち》、書き|順《じゅん》が|普《ふ》|通《つう》と|違《ちが》っているところ……。どれもが|全《まった》く|一《いっ》|致《ち》するのです。
もちろん、十七年の|歳《さい》|月《げつ》があるわけですから、|筆《ふで》の|勢《いきお》いなどは多少|違《ちが》っていたけれど、まず|誰《だれ》が見ても、これは同じ人の手だと|断《だん》|言《げん》するでしょう。
しかし、これは|容《よう》|易《い》な|問《もん》|題《だい》ではありませんでした。|第《だい》|一《いち》に、|同《どう》|一《いつ》|人《じん》|物《ぶつ》だと分っても、どういう手を打つべきかという問題があります。
その暴行殺人はとっくに|時《じ》|効《こう》になっているはずだし、今さらその人を|裁《さい》|判《ばん》にかけることはできない。といっても、そのままに|放《ほう》|置《ち》して、今まで|通《どお》りのお|付《つ》き合いはできません。
それにたとえその人を|罪《つみ》にできなくとも、倉田という|若《わか》|者《もの》の|無《む》|実《じつ》の|罪《つみ》を|晴《は》らすことはできるわけです。
|考《かんが》えなくてはならないのは、まず、本当にその人が犯人かどうか、|裏《うら》|付《づ》けを取ること。|次《つぎ》に、犯人と分った|場《ば》|合《あい》、どのような|方《ほう》|法《ほう》でそれを|公《おおやけ》にするかということです。
母さんは、|以《い》|前《ぜん》、倉田法子の|行《ゆく》|方《え》を|捜《さが》させた|探《たん》|偵《てい》|社《しゃ》へ|連《れん》|絡《らく》して、その|一《いち》|番《ばん》の|腕《うで》|利《き》きの人を|寄《よ》こしてもらいました。
そして、|詳《くわ》しい|事情《じじょう》は言わずに、|私《わたし》が|疑《うたぐ》っているその人が、十七年前、事件が|起《おこ》った|当《とう》|時《じ》、どこにいて、何をしていたのかを|調査《ちょうさ》してもらうことにしたのです。
もし、その人が事件の|現《げん》|場《ば》近くに住んでいたとか、|働《はたら》いていたとでも分れば、真犯人であることは、ほぼ|確《かく》|実《じつ》になるでしょう。|逆《ぎゃく》に、外国にいたとか、|国《こく》|内《ない》でもまるで|別《べつ》の|都《と》|市《し》に|住《す》んでいたとすれば、|可《か》|能《のう》|性《せい》は|低《ひく》くなります。
その調査の|結《けっ》|果《か》は、近々、分るはずです。疑いを|抱《いだ》きながら、その人と|会《あ》っているのは、|辛《つら》いものです。母さんも、その結果が、シロであれクロであれ、早く出てほしいと|願《ねが》っているのです。
まさか、とは思うけれど、その結果が出る前に、母さんがコトンといってしまうこともないとはいえないから、その人の名を書いておきます。|後《あと》は、お前が探偵社の|報《ほう》|告《こく》を聞いて、|判《はん》|断《だん》を|下《くだ》して下さい〉
加奈子は、しばし、|戸《と》|惑《まど》っていた。
もう手紙は|終《おわ》りだった。|便《びん》せんは一|枚《まい》もなかった。
「そんなはずが……」
加奈子は、読み|終《お》えた|分《ぶん》を一枚一枚めくってみた。――間違いない。これで|全《ぜん》|部《ぶ》だ。
しかし……こんな終り|方《かた》があるだろうか?
真犯人の疑いがある人物の名を書いておくといって……それで終りだなんて!
加奈子は、じっと|考《かんが》え|込《こ》んだ。
母が、考え|直《なお》して、書くのをやめたのか? いや、母はそういうタイプではないのだ。やると|一《いっ》|旦《たん》|決《き》めたら、あれこれ|迷《まよ》う|性《せい》|格《かく》ではない。
おそらく母は、|次《つぎ》の一枚に、その人物[#「その人物」に傍点]の名を書いたのだ。すると……?
誰かが、その一枚だけを|抜《ぬ》き取ったのかもしれない。――この手紙は、ずっとこの机の上に置かれていたのだろうか?
|一《いっ》|体《たい》誰が……。
加奈子は、手紙を|封《ふう》|筒《とう》へしまうと、それを|両手《りょうて》で持って|胸《むね》に|押《お》し|当《あ》てた。立ち|上《あが》って、|居《い》|間《ま》の中をやたら|歩《ある》き|回《まわ》った。
母の|秘《ひ》|密《みつ》を知ったことで、加奈子は|混《こん》|乱《らん》していた。母は|一人《ひとり》の|無《む》|実《じつ》の|人《にん》|間《げん》を|死《し》へ|追《お》いやったのだ。だが、母にはどんな道があったろう?
母にそうさせたのが、|他《ほか》ならぬ自分だったと知ったのは、加奈子にとっては大きなショックだった。もちろん、|幼《おさな》い加奈子に、罪のあるはずもないが、それは|忘《わす》れてもいいということではない。
加奈子は、机の前に|戻《もど》って、じっと立っていた。――母の|代《かわ》りに、私がやらなくてはならない。
その真犯人を|突《つ》き|止《と》めて、倉田という人の|汚《お》|名《めい》をそそがなくてはならない。
「お母さん」
加奈子はそっと|呟《つぶや》いた。「大変な|遺《ゆい》|言《ごん》を|残《のこ》してくれたわね……」
加奈子は、ふと何か思い付いた様子で、|急《いそ》いで居間を出て行こうとした。
ドアに手をかけたとき、加奈子は、あっ、という|短《みじか》い声を耳にして|振《ふ》り|返《かえ》った。
「――誰?――誰なの?」
加奈子は、|身《み》を|固《かた》くして、居間の中にゆっくりと|視《し》|線《せん》を|這《は》わせて行った。
|空《そら》|耳《みみ》ではない。人の声だ。この部屋のどこかから聞こえて来た。
加奈子は、|油《ゆ》|断《だん》なく、居間の|中央《ちゅうおう》へと|進《すす》み出て来た……。
3
「誰? 出てらっしゃい!」
加奈子は|厳《きび》しい声で言った。こういう声を出すと、加奈子は母とよく|似《に》ている、と言われる。
「ここだよ」
|足《あし》|下《もと》から声がして、加奈子は|飛《と》びすさった。
大きな|長《なが》|椅《い》|子《す》の下から、手が|伸《の》びて、|深《ふか》|々《ぶか》とした|絨毯《じゅうたん》をつかむようにしながら、頭が出た。
「やあ」
ヒョイと上げた顔は、思いの他、|若《わか》く、そして、|笑《わら》ってさえいた。「|突《とつ》|然《ぜん》、すまないね」
加奈子は|本《ほん》|棚《だな》の方まで|退《さ》がると、その男が、|這《は》い出して来て、|床《ゆか》に身を|起《お》こすのを見つめていた。
「あなたは?」
と、加奈子は|訊《き》いた。
「さっき|刑《けい》|事《じ》が言ってただろう。|改《あらた》めて|自己紹介《じこしょうかい》しようか。|目《もっ》|下《か》|全《ぜん》|国《こく》|指《し》|名《めい》|手《て》|配《はい》|中《ちゅう》の上村裕三です」
|真《ま》|面《じ》|目《め》なのか、ふざけているのか、男は、|馬《ば》|鹿《か》|丁《てい》|寧《ねい》に頭を下げた。
加奈子がドアの方へと|進《すす》みかけると、
「ああ、|急《いそ》ぐことないよ」
と、上村裕三が声をかけた。「さっき、この家の|塀《へい》を|乗《の》り|越《こ》えようとして足をくじいてしまってね。歩けないんだ」
と、右の足首を手で|軽《かる》く|叩《たた》いて、いてて、と顔をしかめる。
「ずっとそこに|隠《かく》れてたの?」
「他に行くところもないしね。もう少し|隠《かく》れていたかったな。ここのカーペットは、ベッド|並《な》みだね、フカフカしてて」
「どうも」
加奈子は、その男を|眺《なが》めた。――確か二十四とかいっていた。
Tシャツにジーパンという|姿《すがた》で、まだ大学生のように見える。やや|童《どう》|顔《がん》で、いたずらっ子のような|面《おも》|影《かげ》を残していた。
「女の子を殺したんですってね。人でなし!」
と加奈子が言うと、上村裕三は、
「|僕《ぼく》じゃないよ」
と言った。
「でも、さっきの刑事さんは――」
「警察は|一《いっ》|旦《たん》|容《よう》|疑《ぎ》をかけたら、何が何でも|有《ゆう》|罪《ざい》にしてしまうんだ。まあ、別にあなたに|信《しん》じてくれとは言わないけど、僕は|美《み》|津《つ》|子《こ》を殺しちゃいない」
「だったら、なぜ|逃《に》げるの」
「さあね。|追《お》われるから――かな。|向《むこ》うに|言《い》わせりゃ、|逃《に》げるから追ってるんだろうが、こっちは追って来るから逃げるんだよ」
上村はちょっと顔をしかめた。|冗談《じょうだん》めかしてしゃべっているが、かなり|痛《いた》むようだ。|額《ひたい》に|汗《あせ》が|浮《う》かんでいた。
「なぜ|犯《はん》|人《にん》だと思われたの?」
「美津子が|僕《ぼく》と|同《どう》|棲《せい》してたからだろう。でも美津子のお|腹《なか》の子は、僕の|子《こ》|供《ども》じゃなかったし、大体、僕は美津子を小さい|頃《ころ》から知ってたんで、|恋《こい》|人《びと》なんてものじゃなかったんだよ」
「じゃ、|誰《だれ》が|殺《ころ》したの?」
「本当に美津子を|妊《にん》|娠《しん》させた|奴《やつ》だろうな。いくら|訊《き》いても、|彼《かの》|女《じょ》は何も言わなかった。――僕はあの日、アルバイトに出ていてね、帰ると彼女が|死《し》んでいた。何か|所《しょ》も|刺《さ》されて|血《ち》だらけになってね。僕は|呆《ぼう》|然《ぜん》として|座《すわ》り|込《こ》んでいたんだ。そこへ人が来て……。大体僕は学生|時《じ》|代《だい》にあれこれ|活《かつ》|動《どう》をやっていて、|警《けい》|察《さつ》にはよく思われていないし。|一《いっ》|旦《たん》どこかへ行って、それからどうするか|決《き》めようなんて、|甘《あま》いことを|考《かんが》えていたら、|後《あと》はもう、ただただ追いまくられて、ここまで来たというわけさ」
上村は|居《い》|間《ま》の中を|見《み》|回《まわ》して、「しかし|凄《すご》い家だね。どうせ|捕《つか》まるなら、オンボロ|宿《やど》よりこういう|豪《ごう》|邸《てい》の方がいいや」
と|笑《わら》った。
加奈子は、ドアから|離《はな》れると、
「足は|痛《いた》むの?」
と|訊《き》いた。
「まあね。でも警察だって|一《いち》|応《おう》|手《て》|当《あ》てはしてくれるだろう。たとえ、|殺《さつ》|人《じん》|容《よう》|疑《ぎ》|者《しゃ》でもね」
加奈子は|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》な|気《き》|持《もち》で、その男を|眺《なが》めていた。その|落《お》ち|着《つ》き|払《はら》った|様《よう》|子《す》は、とても|逃亡中《とうぼうちゅう》の|殺《さつ》|人《じん》|犯《はん》とは見えない。
いや、よほど|度胸《どきょう》のいい|凶悪犯《きょうあくはん》か、でなければ、言っている|通《とお》り|無《む》|実《じつ》なのではないか、と加奈子は思った。
「――ああ、お母さんが|亡《な》くなったとか、|申《もう》し|訳《わけ》なかったね、|変《へん》なときにこんなのが|入《はい》って来て。なに、すぐすむから。警察へ|電《でん》|話《わ》をしてくれないか」
加奈子は、ソファの一つに|腰《こし》をおろした。
「どうしたんだい?」
と、上村は不思議そうな顔で訊いた。
母は、無実の人を死なせた。それを知ったとき、加奈子の前に、この男が|突然現《とつぜんあらわ》れたのだ。これが|偶《ぐう》|然《ぜん》だとは、加奈子にはどうしても思えなかった。
|運《うん》|命《めい》の|出《で》|会《あ》い、などというものを|信《しん》じるほど、加奈子はロマンティストではないが、この|事《じ》|態《たい》を何か|現《げん》|実《じつ》|的《てき》に|利《り》|用《よう》することはできないか、と|考《かんが》えていたのである。
「あなたは本当に[#「本当に」に傍点]殺していないの?」
上村は|肩《かた》をすくめて、
「だったらどうなんだ? どうでもいいじゃないか、そんなこと」
と|面《めん》|倒《どう》くさそうに言った。「もう逃げるのも少々|疲《つか》れたよ、|寝《ね》|不《ぶ》|足《そく》にはなるし、顔を|伏《ふ》せて歩くから、やたら人にぶつかったり、この|間《あいだ》なんか|電信柱《でんしんばしら》にぶつかったし。およそ〈|逃《とう》|亡《ぼう》|者《しゃ》〉なんて|格《かっ》|好《こう》のいいものじゃないや」
加奈子は立ち|上《あが》った。
「かくまってあげる」
上村が目を|丸《まる》くした。
「とんでもない! あなたまで|罪《つみ》に|問《と》われることになるよ」
「『|君《きみ》』でいいわ。|私《わたし》は十九よ。北里加奈子。あなたは|村《むら》|上《かみ》――」
「上村」
「ああ、ごめんなさい、私、人の|名《な》|前《まえ》|憶《おぼ》えるのが|苦《にが》|手《て》なの」
加奈子は、まだ本を入れたままになっている|本《ほん》|棚《だな》の方へ歩いて行くと、|踏《ふ》み|台《だい》を|持《も》って来て、それに|乗《の》り、|一《いち》|番《ばん》上の棚から|重《おも》い本を一|冊《さつ》|取《と》り|出《だ》した。そしてその|空《あ》いた|所《ところ》へ手を|突《つ》っ|込《こ》んで、何やらやっていたが、また本を|戻《もど》して、踏み|段《だん》から|降《お》りた。
「しばらくいじってないけど、|動《うご》くかしら」
と|呟《つぶや》く。
すると、ギギギ、ときしむような音と|共《とも》に、|幅《はば》二メートルほどの本棚が、そのまま|扉《とびら》のように|開《ひら》いて来た。
「――母がこっそり|造《つく》らせたの。あんまり|忙《いそが》しくて、何もする気がしなくなったときなんかにね、ここへ入って、|一人《ひとり》になっていたのよ」
「――|驚《おどろ》いたな!」
上村は|呆《あっ》|気《け》に取られて、「あなたは――いや、君は――その――」
「これを知ってるのは、母と私だけ。|働《はたら》いてる人も知らないわ。父が|死《し》んでから、この|屋《や》|敷《しき》の|改《かい》|装《そう》|工《こう》|事《じ》をやってね、そのときに造らせたのよ」
「|金《かね》|持《もち》ってのは|面《おも》|白《しろ》い|趣《しゅ》|味《み》があるんだなあ」
「金持は金持で、それなりに|苦《く》|労《ろう》が多いのよ。だから、|誰《だれ》にも知られない|場《ば》|所《しょ》で、一人になっていたいと思うことがあるの」
「そこへ僕を?」
「そう。いつまでも|長《なが》|椅《い》|子《す》の下じゃね。それにここは|告《こく》|別《べつ》|式《しき》の|会場《かいじょう》になるかもしれないから、そうなったら椅子も|片《かた》|付《づ》けられてしまうわ」
「しかし、僕は本当に人殺しかもしれないよ」
「いいわ。そうと|分《わか》れば警察を呼ぶだけだもの」
と、加奈子は、あっさりと言って、「さあ、ともかくその|部《へ》|屋《や》に。――|大丈夫《だいじょうぶ》? 立てる?」
「|全《まった》く金持って|奴《やつ》は気まぐれだな……」
「ブツブツ言ってる|暇《ひま》があったら、立って! 誰か入って来たって知らないわよ」
「分った、分った」
上村は顔をひきつらせながら、やっとの思いで立ち上った。「ちょっと|肩《かた》を|貸《か》してくれないか」
「だめよ。首を|絞《し》められちゃかなわないもの。|死《し》|刑《けい》|台《だい》へ行く|代《かわ》りだと思えば歩けないことはないわよ」
「やっぱり金持は|冷《れい》|酷《こく》だ!」
上村は足を|引《ひ》きずりながら、ソファやテーブルに手をつきつつ、やっと、開いた本棚に|辿《たど》り着いた。
「いいわ。来て」
中へ入った加奈子は、スイッチを|押《お》して明りをつけた。――そこはちょっと思いがけないような広さのある部屋で、|天井《てんじょう》は|低《ひく》いが、|決《けっ》して|狭《せま》|苦《くる》しいことはなかった。
「こりゃ凄いや」
と、上村は、足の痛みも|一瞬忘《いっしゅんわす》れたように目を|見《み》|張《は》った。
「|机《つくえ》、椅子、それにソファは広げるとベッドになるわ。ああ、お|風《ふ》|呂《ろ》はありませんけどね。|洗《せん》|面《めん》|所《じょ》とトイレはそのドアよ」
「しかし……家の外から見りゃ分るんじゃないの?」
「ここはもと|石《せき》|炭《たん》の|置《お》き|場《ば》だったの。外は|完《かん》|全《ぜん》に|塞《ふさ》いで、中へ扉をつけたわけね。まず大丈夫。|気《き》|付《づ》かれる|心《しん》|配《ぱい》はないわ」
「ありがたい。しかし……」
上村は|片《かた》|足《あし》を引きずりながら、ソファに|辿《たど》り着き、どっと|倒《たお》れ込んだ。「ここへ|閉《と》じ込めて、それきり|忘《わす》れたなんて言わないでくれよ」
「|大丈夫《だいじょうぶ》よ」
加奈子は|笑《わら》って、「ともかく、ここにしばらく|隠《かく》れているといいわ。人の目につかないように、食べる|物《もの》を|運《はこ》んであげる。それにくじいた|所《ところ》も|手《て》|当《あて》しなきゃね」
「そう|願《ねが》えるとありがたいね」
加奈子はソファの方へ近づくと、
「あなたをかくまってあげる代りに、|条件《じょうけん》があるの」
と言った。
「何だい?」
「やってもらいたいことがあるのよ」
「|指《し》|名《めい》|手《て》|配《はい》|中《ちゅう》の|殺《さつ》|人《じん》|容《よう》|疑《ぎ》|者《しゃ》に何をやれって言うんだ?」
「|後《あと》でゆっくり|説《せつ》|明《めい》してあげるわ」
加奈子は、|隠《かく》し|部《べ》|屋《や》から出ながら言った。「ともかく、後でまた来るわね」
「できれば、何か|食《く》い物を|頼《たの》むよ」
加奈子は|肯《うなず》いて、
「ご|注文《ちゅうもん》は|承《うけたまわ》りませんからね」
と言った。
|本《ほん》|棚《だな》をゆっくり|押《お》すと、|元《もと》の通り、音もなくピタリと|閉《と》じて、|全《まった》く|分《わか》らなくなった。
「さて……と」
加奈子は、しばらく、その|場《ば》に立って、今自分がやったことを、もう|一度考《いちどかんが》え|直《なお》していた。
「|気《き》|狂《ちが》いじみてる!」
|全《まった》く、その通りである。しかし、やり|始《はじ》めたからには、やり通さなくてはならない。
その|辺《へん》は、加奈子の中に|流《なが》れる母の|血《ち》であろう。
ドアが|開《あ》いて、まるで|銀《ぎん》|行《こう》の|窓《まど》|口《ぐち》から|直接《ちょくせつ》かけつけたという|様《よう》|子《す》の、|背広姿《せびろすがた》の青年が|入《はい》って来た。
「正彦さん……。早かったのね!」
加奈子は彼の方へと|進《すす》んで行った。
「お母さんが|急《きゅう》にあんなことになって――」
「いいの、|黙《だま》って!」
加奈子は、円谷正彦の|唇《くちびる》に|指《ゆび》を当てて、「私は|乗《の》り|越《こ》えたの。だからもうお|悔《くや》みなんか言わないで」
加奈子は|弾《はず》むような|足《あし》|取《ど》りで、正彦から|離《はな》れると、|踊《おど》りでも踊るときのように、クルリと|回《まわ》って見せた。スカートがフワッと|持《も》ち|上《あが》って、白い|肢《あし》が光った。正彦はギョッとした|様《よう》|子《す》で、あわてて、メガネを出してかけた。
「ねえ、お|酒《さけ》、|飲《の》む?」
と、加奈子は|訊《き》いた。
「いや、とんでもない! |君《きみ》はだめだよ。まだ|二《は》|十《た》|歳《ち》前じゃないか」
「|分《わか》ってるわよ。まあ|弔問《ちょうもん》のお|客様《きゃくさま》がみえて、こっちが赤い顔してちゃ、|問《もん》|題《だい》あるものね。――ああ、マリ子さん」
ちょうどドアが開いて、マリ子が顔を出した。「コーヒーを|淹《い》れてくれる? |私《わたし》と正彦さんに」
「かしこまりました」
とマリ子は|一《いち》|礼《れい》して、「それから、水原さんが……」
「帰って来た? じゃ、ちょっと|待《ま》っててくれって言って」
ドアが閉じると、加奈子はソファに|倒《たお》れ|込《こ》むように|座《すわ》って、「水原さんね。――あの人もいい人なんだけど。あなたと|逆《ぎゃく》ね」
「|僕《ぼく》と逆?」
「あなたはよく気が|付《つ》きすぎて|疲《つか》れるわ。水原さんは気が|回《まわ》らなすぎて疲れるし」
「僕は君に|会《あ》ってると、|身《み》も心も|安《やす》らぐよ」
と、正彦は加奈子と|並《なら》んで座った。
「お父さんは?」
「君の電話があって、すぐに知らせたよ。今、|都《と》|内《ない》のホテルにいるんだ。すぐ|向《むこ》うを出ると言ってた」
「そう|無《む》|理《り》しなくてもいいのに」
「そうはいかないよ。会長さんが|亡《な》くなったんだ。それに父は君のお母さんとは|親《した》しかったし……」
円谷正彦の父親は、以前北里の|経《けい》|営《えい》していた|企業《きぎょう》の一つの社長である。北里の|死《し》|後《ご》、加奈子の母、|浪《なみ》|子《こ》が社長になって、|業績《ぎょうせき》を|大《おお》|幅《はば》にのばし、浪子が|心《しん》|臓《ぞう》に|異常《いじょう》を|覚《おぼ》えて、会長となってから、社長の|地《ち》|位《い》を円谷に|譲《ゆず》っていたのである。
もちろん、古い|社《しゃ》|員《いん》の一人であり、北里とも|家《か》|族《ぞく》ぐるみの|付《つ》き合いがあって、加奈子より三つ年上の正彦とは、加奈子が大学を出るのを|待《ま》って|結《けっ》|婚《こん》することになっていた。
正彦は|現《げん》|在《ざい》、社会人一年生で、父の会社に|勤《つと》めている。
「この家も、|寂《さび》しくなるね」
と、正彦は言った。
「いいわ、家の中でジョギングでもするから」
と加奈子は言った。
「でも、君は女の子だし、やっぱりこんな広い家に一人で|住《す》むのは|良《よ》くないよ」
「|二《ふた》|言《こと》|目《め》には女の子、女の子ね」
加奈子は、ちょっと|不《ふ》|服《ふく》そうに言った。
「だって|事《じ》|実《じつ》だからさ」
「ともかく先の|事《こと》はまだ|考《かんが》えたくないわ。母が死んだことだって、まだ|信《しん》じられないのに」
「そりゃそうだね。ゆっくり考えればいい」
と、正彦が|急《いそ》いで言った。「僕でできることがあれば何でも言ってくれ」
「あ、そうだ! 忘れてた。そのために来てもらったんだわ」
と、加奈子は立ち上った。
「何だい?」
「あの本を棚へ|戻《もど》してくれる?」
と、加奈子は、|床《ゆか》の本の山を|指《ゆび》さした。
正彦が|呆《あっ》|気《け》に取られていると、ドアをドンドンと|叩《たた》く音がした。
「水原さんだわ。|入《はい》って!」
「|失《しつ》|礼《れい》します」
|小《こ》|柄《がら》で、えらく度の強いメガネをかけた、どことなくアンバランスな|感《かん》じの男が入って来た。
「ご|苦《く》|労《ろう》|様《さま》。|葬《そう》|儀《ぎ》の|手《て》|配《はい》は?」
「はい、|済《す》ませて来ました。もうすぐここへ葬儀社の|人《にん》|間《げん》がやって来るでしょう」
「ありがとう。――ね、水原さん、正彦さんと|一《いっ》|緒《しょ》にそこの本を棚へ戻しておいてくれる? 私、ちょっと|寝《しん》|室《しつ》へ行って来るから」
「かしこまりました」
水原は|深《ふか》|々《ぶか》と頭を|下《さ》げ、「おやすみなさい」
と言った。
「|寝《ね》に行くんじゃないわよ。|喪《も》|服《ふく》に|替《か》えて来るの。水原さんも、ネクタイだけでも黒にしておいてね」
加奈子が|居《い》|間《ま》を|急《いそ》ぎ足で出て行くと、水原は、まじまじと自分の赤のネクタイを|見《み》|下《お》ろした。
「どうしたんだい?」
と、正彦が訊いた。
「いや……黒をしめたつもりだったのに……。|道《どう》|理《り》で葬儀社の|奴《やつ》が|妙《みょう》な顔してたものなあ」
と水原は首をかしげた。「さて、本をしまうんだった」
と、本棚の方へ|勢《いきお》いよく歩いて行ったはいいが、|積《つ》んである本につまずいて|引《ひ》っくり|返《かえ》った。
「|全《まった》くこう……どうして気が付かないのかな、|畜生《ちくしょう》!」
|起《お》き上ると、水原はメガネを|直《なお》し、本を棚へ戻し|始《はじ》めた。
正彦も|仕《し》|方《かた》なくソファから立ち上って、本棚の前までやって来たが、一冊本をかかえ上げて、棚へ入れると、指先が|汚《よご》れたとみえて急いでハンカチで手を|拭《ぬぐ》った。
「僕がやるからいいですよ」
と、水原が、さっさと本を取っては棚に|納《おさ》めながら言った。
「そう? でも……まあ……」
とムニャムニャ言いながら、正彦がホッとした様子で、一歩|後《あと》に|退《さ》がった。
「ええと……これは|第《だい》3|巻《かん》か。この前だな……」
「ねえ、水原君」
と正彦が言った。
「何です?」
「彼女、ずいぶんあっけらかんとしてるなあ。てっきり|泣《な》き明かしたのかと思ってたけど」
「そういう方です、お|嬢《じょう》さんは」
水原は本を|戻《もど》す手を休めずに言った。「|弱《よわ》|音《ね》を|吐《は》いたり、|悲《かな》しみに|負《ま》けちゃいません。だからって悲しんでないわけじゃないんですよ」
「そうかね。――何だか時々、あれでも女の子かと思うことがあるよ」
正彦は|大《おお》|欠伸《あくび》をしながら、フランス|窓《まど》の方へ歩いて行く。水原がそっと|囁《ささや》くように言った。
「|僕《ぼく》も、あなたがこれでも男かと思うことがありますよ……」
「ゆうべは|友《とも》|達《だち》と|飲《の》んでてね。帰ったのは一時|頃《ごろ》だったかな」
正彦は頭を|振《ふ》って言った。「水原君はどうするんだ、これから」
「|葬《そう》|儀《ぎ》の|仕《し》|度《たく》でかけ|回《まわ》らなきゃなりません」
「いや、そうじゃなくて、先の話だ。|君《きみ》は北里浪子さんの|個《こ》|人《じん》|秘《ひ》|書《しょ》だったわけだろう。|亡《な》くなって……どこかへ|移《うつ》るの」
「さて、どうなりますか。そこまで頭が回りませんよ。あなたのような|秀才《しゅうさい》じゃないもんで」
「それもそうだな」
正彦はソファにかけながら肯いた。水原は|本《ほん》|棚《だな》の方へ|向《む》いたまま、ベエと|舌《した》を出してやった。
「――この家も、行く行くは僕と加奈子さんが|住《す》むことになる。君もそのままここで|働《はたら》いたらいいんじゃないのかい」
「ありがとうございます。しかし――」
水原は少し|息《いき》を|弾《はず》ませていた。「お嬢さんの|考《かんが》えもありますでしょうしね」
「彼女もここで|一人《ひとり》になってしまうわけだろう? 何かと|世《せ》|間《けん》の口もうるさくなるかもしれない。――早いとこ|一《いっ》|緒《しょ》になった方がいいような気がするんだがね」
「そうですか」
水原は|大《たい》して|関《かん》|心《しん》のない|様《よう》|子《す》である。またせっせと本を|戻《もど》し|始《はじ》める。
正彦はちょっとドアの方へ目をやって、それから立ち|上《あが》ると、水原のそばへやって来た。
「なあ水原君、ちょっと君に|訊《き》きたいことがあるんだ」
「何でしょう?」
「君はこの家に何年いる?」
「三年になりますかね、そろそろ」
「かなり、彼女のことも色々目に|入《はい》るだろうね」
「色々……とおっしゃいますと?」
「どうだろう。――加奈子さんは、|誰《だれ》か男と|付《つ》き|合《あ》っている様子があるかな」
水原はちょっと目をパチクリさせて、
「そんなこと|分《わか》りませんよ、僕はともかく|奥《おく》|様《さま》の方の秘書だったんですから」
「しかし、誰か訪ねて来たりとか、電話がかかって来るとか、プレゼントの|品《しな》が|届《とど》くとか……。色々あるんじゃない?」
水原はいささか|腹《はら》に|据《す》えかねたと見えて、正彦の方へ|向《む》き|直《なお》ると、
「いいですか、そりゃ僕はこの家に|寝《ね》|起《お》きしているし、個人秘書として、奥様の|個《こ》|人《じん》|的《てき》な用を|頼《たの》まれることもありました。でも、私生活に関しては口出しも、|盗《ぬす》み聞きもしたことはありませんよ!」
「分ってる、分ってるよ」
正彦はあわててなだめにかかった。「|別《べつ》に君がどうこうしたって言ってるんじゃない。ただ……君のこれからのこともあるから、僕としては君に……その……まあ、いい友だちになってほしいと思っただけさ」
水原はまた本の方へ向いて、
「ともかく、お話は葬儀が|終《おわ》ってからにしていただきたいですね」
と言った。
「うん……。そうしよう」
正彦は何となく|間《ま》が悪そうな顔で立っていたが、ヒョイと|肩《かた》をすくめてドアの方へ歩いて行った。ドアが|開《あ》いて、コーヒーの|盆《ぼん》を持って来たマリ子と|危《あや》うくぶつかりそうになる。
「おっと!――ごめんよ」
「あの、コーヒーが……」
「|置《お》いといてくれ。|後《あと》でもらう」
正彦は出て行った。
「――お|手《て》|伝《つだ》いしましょうか」
「いや、もう終りだ」
水原は最後の二、三冊を立て|続《つづ》けに棚へ|押《お》し込むと、大きく息を|吐《は》き出した。「|全《まった》く、いやな|奴《やつ》だ! お嬢さん、本気であんな男と一緒になるつもりなのかな」
「コーヒーはいかが?」
「ああ。手をちょっと|洗《あら》って来るよ」
と、水原が歩きかけると、書き|物机《ものづくえ》の上の電話が|鳴《な》り|出《だ》した。「あの電話が鳴るなんて|珍《めずら》しいな。――あ、悪いけどマリ子さん出てくれないか。僕は手が|真《ま》っ黒で」
「はい」
マリ子が|駆《か》け|寄《よ》って|受《じゅ》|話《わ》|器《き》を|取《と》る。「――もしもし、北里でございます。――いえ、私は手伝いの|者《もの》ですが。――どなた様でしょう?――はあ、|分《わか》りました。ですけど――もしもし?」
マリ子は首を|振《ふ》って、
「切れてしまいましたわ」
「|誰《だれ》だい?」
「さあ」
マリ子が首をかしげる。|勢《いきお》いよくドアが開いて、黒のワンピースに|着《き》|替《が》えた加奈子が|入《はい》って来た。
「マリ子さん!」
「は、はい」
「母がいつもかけていたペンダントは?」
「ペンダントが……何か……」
「知らない? どこにも見当らないのよ」
「さあ……。気が|付《つ》きませんでしたけど」
「そう。|変《へん》ね。|亡《な》くなったとき、ベッドのわきのテーブルにあったような気がするんだけど」
加奈子は|暖《だん》|炉《ろ》の方へ歩いて行くと、棚に手をかけて、「マリ子さん、少し手伝いの人を頼んだ方がいいんじゃない?」
「ええ……。でも、何とかやれると思いますけど」
「あなたはお|客様《きゃくさま》の顔を知ってるから、できるだけ、|直接応対《ちょくせつおうたい》してほしいのよね。ご|近《きん》|所《じょ》から、|以《い》|前《ぜん》、パーティのときに手伝いに来てくれた女の子たちがいたでしょう。三、四人来てもらってちょうだい」
「分りました」
「よろしくね。――正彦さん、どこに行ったのかしら?」
「さっき出て行かれましたけど」
「そう。水原さん、ご|苦《く》|労《ろう》|様《さま》。コーヒーでも飲んで。正彦さんなんか|構《かま》やしないわ」
加奈子はソファに|座《すわ》った。水原はちょっと|愉《たの》しげに|笑《わら》って、
「じゃ、ちょっと手を――」
と、ハンカチを出し、ドアのノブが汚れないように開けて出て行く。
「お嬢様」
と、マリ子が言った。「今、そこの電話に|山《やま》|下《した》|様《さま》という|方《かた》から……」
「ここへ?――山下。知らないわ。お母さんの知り合いかしら」
「そのようでした」
「何の用ですって?」
「|調査《ちょうさ》の|結《けっ》|果《か》を持って、|今夜伺《こんやうかが》いますとのことでした」
加奈子は、コーヒーカップを取り上げようとした手を|止《と》めて、
「調査の結果?――そう言ったの?」
「はい。何の調査かは分りませんけど」
「それで……母が亡くなったことは、|向《むこ》うへ言った?」
「いえ、言う|暇《ひま》もなく切れてしまったものですから」
「そう。――ありがとう」
マリ子が出て行くと、加奈子は|興《こう》|奮《ふん》を|包《つつ》み切れない|様《よう》|子《す》で、|居《い》|間《ま》の中を歩き|回《まわ》った。
「きっと母が頼んだという|探《たん》|偵《てい》だわ。――調査の結果が分れば……」
と|呟《つぶや》くように|独《ひと》り|言《ごと》を言っていたが、ふと本棚の方へ目をやった。
そうか、|忘《わす》れるところだった。あの男にも、食べる|物《もの》を|持《も》って行ってやらなくては。
「――お嬢さん」
ドアが開いて、水原が戻って来た。「今、葬儀社の人が来てるんですが。|部《へ》|屋《や》はどこを使いましょうか?」
「そうね……」
加奈子は|迷《まよ》った。菊井には、この|居《い》|間《ま》でやりたいと|言《い》ったのだが、色々と|事情《じじょう》も|変《かわ》ってしまった。
「|本食堂《ほんしょくどう》はどうかしら? |片《かた》|付《づ》ければ広いし。――もうあそこは|使《つか》うこともないと思うわ。|調理場《ちょうりば》も近いしね」
「そうですね」
「お|客様《きゃくさま》にはこの居間で|寛《くつろ》いでいただいて。それでどうかしら?」
「そう言ってみます」
と出て行きかける水原へ、
「マリ子さんに、朝食の|仕《し》|度《たく》をしてと|伝《つた》えて。|後《あと》は|当《とう》|分《ぶん》食べられないから、あなたも食べておいてね」
と、加奈子は声をかけた。
|再《ふたた》び|一人《ひとり》になると、加奈子はフランス|窓《まど》の前に立って、|表《おもて》を|眺《なが》めた。
すっかり、朝の光が|溢《あふ》れて目にまぶしい。――気になっていることがいろいろとあった。母のペンダントはどこへ行ったのか?
あの手紙を読んだ|人《にん》|間《げん》が、|持《も》って行ったのではないだろうか。おそらく|間《ま》|違《ちが》いあるまい。
しかし、あの|鍵《かぎ》だけがあっても、どうにもならないのだ。あの|部《へ》|屋《や》へ入らない|限《かぎ》り、|戸《と》|棚《だな》を見付けることはできないのだから。
それからもう一つ、この|隠《かく》し部屋の中の男だ。|果《はた》して|信《しん》|頼《らい》に|値《あたい》する男かどうか。
そして、ここへやって来る山下という名の男――おそらくは|探《たん》|偵《てい》だろう――のこと。
|社《しゃ》|葬《そう》はまた日を|改《あらた》めるとして、|葬《そう》|儀《ぎ》にやって来るのは、母の|身《み》|近《ぢか》な人々だ。だが、母はその「身近な」人の中に、あの|脅迫状《きょうはくじょう》を書いた者がいる、と書き|遺《のこ》したのだ。
そう。――それにしても、あの母の手紙の、|犯《はん》|人《にん》の名を|記《しる》したページを|抜《ぬ》き|取《と》った人間は、なぜ、手紙そのもの[#「手紙そのもの」に傍点]を、|盗《ぬす》まなかったのだろうか……。
第二章
1
ドアのノブが|回《まわ》ると、トン、と音がして、ゆっくりとドアが|開《あ》いて来る。
「いかんな、どうも」
と|入《はい》って来たのは、|一昔前《ひとむかしまえ》の〈社長〉タイプの男で――つまりは|腹《はら》が出て、どことなく|脂《あぶら》ぎって、|常《つね》に人を|尊《そん》|大《だい》に|見《み》|下《くだ》しているかのような男である。
「何がです、|東尾《ひがしお》さん?」
と|続《つづ》いて入ってきた男が|訊《たず》ねた。
こちらは、〈旧社長タイプ〉の東尾とは|対照的《たいしょうてき》に、|現《げん》|代《だい》のエリート社長という|印象《いんしょう》を|与《あた》える、|細《ほそ》|身《み》で、|銀《ぎん》ブチのメガネをかけた男だった。
この|二人《ふたり》、北里家の|所《しょ》|有《ゆう》する会社の社長たちなのである。
「いや、つい|癖《くせ》でね」
と東尾は言った。「ドアを足でけって開けてしまうんですよ。みっともないっちゃない、といつも|女房《にょうぼう》は|文《もん》|句《く》を言うんだが」
二人は居間の|暖《だん》|炉《ろ》の前のソファに|腰《こし》をおろした。東尾はドカッと|椅《い》|子《す》が|壊《こわ》れないかと思うほどの|勢《いきお》いで|座《すわ》り、もう一人の、|中《なか》|町《まち》という名の社長は、|静《しず》かに|身《み》を|沈《しず》めて足を組んだ。
二人とも、むろん黒のダブルだ。|時《と》|計《けい》は七時半を|指《さ》していた。
「|晩《ばん》|飯《めし》はまだかな」
と東尾が言った。
「|仕《し》|度《たく》していたようですよ」
中町はメガネを|外《はず》すと、|布《ぬの》で|拭《ふ》き|始《はじ》めた。「東尾さん、なぜドアを足で開ける癖がついたんです?」
「そりゃあんた、昔の|工《こう》|員《いん》|時《じ》|代《だい》ですよ。|荷《に》|物《もつ》を山とかかえて、あっちこっち、|駆《か》け|回《まわ》っておったんですからな。|両手《りょうて》はふさがっている。それで、ドアを開けるときには、荷物をかかえたままの手の先で、ノブを回し、|後《あと》はポンとけっとばす。ついそいつが癖になりましてね」
東尾は|笑《わら》った。――工員からの|叩《たた》き|上《あ》げ社長なのだ。
|一《いっ》|方《ぽう》の中町は、|他《ほか》の|企業《きぎょう》から、|取締役《とりしまりやく》として|迎《むか》えられた|秀才《しゅうさい》で、ビジネスエリートを絵に|描《か》いたような男なのである。
タイプこそ|違《ちが》うが、どちらも|商売人《しょうばいにん》としては|優《すぐ》れている。その点、北里の目に|狂《くる》いはなかったというべきだろう。
「|一《いっ》|杯《ぱい》いかがです」
と中町が立ち|上《あが》ると、|洋《よう》|酒《しゅ》の|棚《たな》の方へと|歩《ある》いて行く。
「|結《けっ》|構《こう》ですな」
東尾は、こういう|誘《さそ》いを|断《ことわ》る男ではなかった。
「――さあどうぞ」
「や、どうも」
東尾は一気にグラスをあけた。
「葬式ってのは|疲《つか》れますな」
と東尾が言った。「それでいて|一《いち》|文《もん》にもならん。|全《まった》くつまらん」
中町はふっと笑った。
「時間は|大《たい》|切《せつ》にしなくては。――東尾さん、今後のことをどう|考《かんが》えておいでです?」
「今後のこと?」
「そうです、北里浪子は|死《し》んだ。そして、|残《のこ》ったのは、十九|歳《さい》の加奈子さんだ。もちろん企業には何の|変《かわ》りもないわけだが、この|機《き》|会《かい》を|逃《のが》す手はない」
「どういう機会ですかな」
「|再《さい》|編《へん》|成《せい》の機会ですよ」
「ほう」
東尾は、ちょっと目を見張った。中町が笑って、
「とぼけてもだめです。東尾さんが、そのことを考えないわけがない。|私《わたし》はあなたを知っていますからね」
「私もあんたをね」
東尾はニヤリと笑った。「――で、|具《ぐ》|体《たい》|的《てき》には?」
「いくつかの考えがないでもありません。しかし、まず|目標《もくひょう》をどこに|設《せっ》|定《てい》するか|決《き》めてかかった方がいい」
「|当《とう》|然《ぜん》ですな」
「今、四つの企業が北里グループに入っています。そして四人の社長がいる。これまでは浪子さんがいわばボス的な|立《たち》|場《ば》でそれを取りまとめていたわけですね」
「ちょっとやかましかったが、|有《ゆう》|能《のう》な人だった」
「全くです」
中町は|肯《うなず》いた。「私もあの人には|脱《だつ》|帽《ぼう》ですよ。しかし、それだけに後の|穴《あな》は大きい」
「取りあえずは、四人が力を合わせて……」
「という、|建《たて》|前《まえ》にはなりましょう」
と中町が引き取って、「しかし、四人というのは多すぎる。|重要《じゅうよう》な|決《けっ》|定《てい》は、しばしば|一秒《いちびょう》を|争《あらそ》うものです。そのときに四人が|揃《そろ》うのを|待《ま》っていては|間《ま》に合わない」
「|同《どう》|感《かん》です」
「三人?――四人よりはましだ。しかし、|意《い》|見《けん》が|割《わ》れたとき、三人というのは、|却《かえ》ってまずいものですよ。つい、二|対《たい》一で|決《き》めたがる。|負《ま》けた方は|面《おも》|白《しろ》くない。そんなことが|企業《きぎょう》をだめにするものです」
「|多《た》|数《すう》|決《けつ》なんぞくそくらえだ」
と、東尾は|言《い》った。「|優《すぐ》れた|人《にん》|間《げん》は少ないのだ。|大《だい》|多《た》|数《すう》の|馬《ば》|鹿《か》に|従《したが》っていては、企業は|成《な》り立たん」
「|結《けつ》|論《ろん》が出たようですな」
中町はゆっくりとグラスを|傾《かたむ》けた。「――ともかく二人[#「二人」に傍点]に|絞《しぼ》るのが|目標《もくひょう》だ」
「それには|二人《ふたり》を|外《はず》さなくては」
「円谷さんと、そして――」
ドアが|開《あ》いて、新しい顔が|覗《のぞ》いた。中町は|言《こと》|葉《ば》を切って、
「やあ、|湊《みなと》さん。ちょうど|良《よ》かった。話に|加《くわ》わって|下《くだ》さい」
「こちらでしたか」
湊は、|禿《は》げ|上《あが》った|額《ひたい》を|拭《ぬぐ》いながら|入《はい》って来ると、「いや、|心《しん》|配《ぱい》しましたよ。何か用があったかな、と」
「まあ、おかけなさい。湊さんも一|杯《ぱい》――いや、アルコールはやられないんでしたな」
「ええ。もっぱらお茶|専《せん》|門《もん》で。どうぞ気をつかわんで下さい」
湊は、ソファの|端《はし》に、チョコンと|腰《こし》かけた。何かあれば、|即《そく》|座《ざ》に立って|逃《に》げられるという|感《かん》じである。
「円谷さんは?」
と、東尾が|訊《き》いた。
「お|席《せき》で|居《い》|眠《ねむ》りされてましたよ」
「それはそれは……」
中町が|肩《かた》をそびやかして、「|社《しゃ》|葬《そう》のときは|起《お》きていていただきたいものですな」
と言った。
しばらく三人は|黙《だま》り|込《こ》んだ。湊がエヘンと|咳《せき》|払《ばら》いをして、
「|大《たい》|変《へん》なことですね」
と言い|出《だ》した。
本人も何が大変という|意《い》|識《しき》はないのである。ただ、何か言わなくてはならないという、|義《ぎ》|務《む》|感《かん》に|捉《とら》えられているのだ。
「今話していたのですがね」
と、中町が切り出した。「――企業にとっては、|厳《きび》しい|時《じ》|代《だい》です。何よりもまず|効《こう》|率《りつ》|化《か》を|目《め》|指《ざ》す|必《ひつ》|要《よう》がある。|我《われ》|々《われ》も浪子さんという|柱《はしら》を|失《うしな》って、ここで|結《けっ》|束《そく》を|固《かた》めなくては、激しい|競争《きょうそう》を生き|抜《ぬ》いていけません」
「それはごもっともです」
「四つに|分《わか》れている今の北里|系《けい》の企業は、このままでは、バラバラのまま、力が弱まって行くかもしれない。それは何とか|避《さ》けたいのです」
「なるほど。つまり――|再《さい》|編《へん》|成《せい》」
「湊さんは|呑《の》み込みが早いので、話が|楽《らく》ですよ」
と、中町は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「するとまず円谷さんの|所《ところ》ですね」
「ちょうど|都《つ》|合《ごう》よく、今はお休みの|様《よう》|子《す》らしいし」
「|後《あと》で|怒《おこ》りませんかね」
「|黙《だま》っていればいいのです」
中町は|平《へい》|然《ぜん》としている。
「|要《よう》は円谷さんに|引《いん》|退《たい》していただけばというわけだが」
と、東尾が言った。
「|露《ろ》|骨《こつ》に言えば、ですね」
と、中町はちょっといやな顔をした。
スマートをもって|任《にん》じているのだ。あまりそういう|表現《ひょうげん》は|好《この》まないのである。
「やめそうもありませんよ、あの人は」
と湊が言った。「さっきも|私《わたし》に、『お|目《め》|付《つけ》|役《やく》がいなくなって、これでのびのびとやれるよ』とおっしゃっていたくらいですからね……」
「それは|危《あぶ》ない」
中町は首を|振《ふ》った。「あの人がのびのびやるのは|危《き》|険《けん》ですよ」
「|同《どう》|感《かん》ですな」
と、東尾は|肯《うなず》く。「あの人には、|経《けい》|営《えい》の才が欠けている。|勘《かん》というやつがね」
東尾は|遠《えん》|慮《りょ》知らずにものを言う。しかし、北里グループの四つの企業を|率《ひき》いる四人の社長たちの中で、円谷が|一番業績《いちばんぎょうせき》の点で|見《み》|劣《おと》りしているのは|事《じ》|実《じつ》だった。
「あの会社が|潰《つぶ》れずにいられるのは、三|事業《じぎょう》|部《ぶ》に分れているからだ」
と東尾は|続《つづ》けた。「それぞれの部長たちがなかなかよくやっているから、円谷さんは社長でいられる。――ま、本人の前では言えませんがね」
「本人もそれは良く分ってますよ」
と、中町が言った。
「そいつはどうかな」
「いや、|自《じ》|覚《かく》していますとも。だからこそ、加奈子さんに|息《むす》|子《こ》を近づけて、北里家の|一《いち》|員《いん》になろうと|必《ひっ》|死《し》なのです」
「それはそうかもしれませんね」
と湊が肯く。
「|幸《さいわ》い、その|線《せん》は|成《せい》|功《こう》しつつある。|残《ざん》|念《ねん》ながら我々には、加奈子さんの|夫《おっと》に|相応《ふさわ》しい息子がいません」
「私でよきゃ、女房の|一人《ひとり》ぐらい|叩《たた》き出して|結《けっ》|婚《こん》するところだが」
と東尾が|愉《ゆ》|快《かい》そうに言った。
「ともかく、円谷さんには、まず|経《けい》|営《えい》|陣《じん》から外れていただく|必《ひつ》|要《よう》があります」
中町は|事《じ》|務《む》|的《てき》な|口調《くちょう》で続ける。「それも、待っているのではだめだ。こちらから、|積極的《せっきょくてき》に手を|打《う》つのです」
「しかし、どんな手を――」
と、湊がちょっと|不《ふ》|安《あん》げに|座《すわ》り|直《なお》した。「あまり|悪《あく》どいことは……」
「ご|心《しん》|配《ぱい》なく。三人で|智《ち》|恵《え》を合わせれば、きっといい|方《ほう》|法《ほう》が|見《み》|付《つ》かりますよ」
「かりに、円谷さんが|退《たい》|陣《じん》したとして、後はどうなります?」
|心配性《しんぱいしょう》の湊は、|先《さき》|々《ざき》のことまで気にかかるらしい。「四つの会社を三人で?」
「そこはまたご|相《そう》|談《だん》ですがね」
と、中町がすかさず|応《おう》じる。「さっき東尾さんがおっしゃったように、円谷さんのところは、三事業部に分かれていて、かなり|独《どく》|立《りつ》|性《せい》が高いのです。だからその一つずつを我々三人がいただくというのはいかがでしょう」
湊の|顔《かお》に|讃《さん》|嘆《たん》の色が広がった。
「さすがは中町さんだ! それは|抜《ばつ》|群《ぐん》のアイデアですな」
「私も|賛《さん》|成《せい》だ」
東尾の方は、そう|感《かん》|心《しん》した|様《よう》|子《す》でもない。おそらく同じことを考えていたのだろう。
もし考えていなかったとしても、そんな様子は|決《けっ》して見せない男なのである。
「では、|同《どう》|意《い》していただけますね」
中町は東尾と湊の顔を見て、|満《まん》|足《ぞく》げに肯いた。「――湊さんのお言葉を|無《む》|視《し》するわけではありませんが、引退する気のない人間を、やめさせようというのだから、多少は|荒《あら》っぽい手だてが必要かもしれません。そこはご|了解《りょうかい》いただかないと……」
「もちろん多少のことは|覚《かく》|悟《ご》していますよ。しかし――|万《まん》|一《いち》|刑《けい》|事《じ》|責《せき》|任《にん》を|問《と》われるようなことになっては――」
と、また湊が心配げに言い出す。
「何をやろうと、|要《よう》|点《てん》は二つですぞ」
東尾がのんびりと言った。「|成《せい》|功《こう》させること。そして、誰がやったか分らせないこと。|違《ちが》いますかな?」
「同感です」
と、中町は|微《ほほ》|笑《え》みながら肯く。
「|確《たし》かに」
湊もあわてて同意した。
「では、そろそろまた|通《つ》|夜《や》の席に|戻《もど》りましょう。|留《る》|守《す》の|内《うち》に円谷さんに目を|覚《さ》まされると、|怪《あや》しまれるかもしれない」
中町は立ち上って、「何しろ、我々四人は|兄弟同様《きょうだいどうよう》の|仲《なか》ですからね」
三人が笑った。東尾の|豪《ごう》|快《かい》な笑い、中町の計算された|演《えん》|技《ぎ》のような笑い、そして湊の|神《しん》|経《けい》|質《しつ》にひきつった笑い、その三つが、|微妙《びみょう》な|不協和音《ふきょうわおん》をかもし出した……。
三人の社長たちが出て行って、|居《い》|間《ま》はしばらく|静《しず》けさを|取《と》り|戻《もど》した。
八時を|回《まわ》った|頃《ころ》、ドアがそっと|開《あ》いて、加奈子が|入《はい》って来た。手に、ラップをかけた|料理《りょうり》の|皿《さら》を|持《も》っている……。
「どう、|具《ぐ》|合《あい》は?」
|本《ほん》|棚《だな》の|扉《とびら》を開けると、加奈子は|言《い》った。
「やあ」
上村は、|包《ほう》|帯《たい》を|巻《ま》いた足をかばいながら、|横《よこ》になってソファから|起《お》き|上《あが》った。
「|寝《ね》ててもいいのよ。食べる|物《もの》、|持《も》って|来《き》たわ」
「こりゃ|凄《すご》い」
上村は皿の上の|料理《りょうり》に目を|丸《まる》くした。
「お|通《つ》|夜《や》の|料理《りょうり》だから、あまり|縁《えん》|起《ぎ》は|良《よ》くないけど」
と、加奈子は|笑《わら》った。
「今は何時頃だい?」
「八時|過《す》ぎ。夜よ」
上村は、料理をつまみながら、
「――|怪《あや》しまれないか、こんな|風《ふう》に|運《はこ》んで来たりして」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。私はお通夜の|席《せき》じゃどうせ食べるわけにいかないもの。ここへ運んで来て食べるのは、|誰《だれ》も|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》に思わないわ」
「誰かが入って来たら?」
「居間のドアは|掛《か》け|金《がね》がついてるの」
「へえ、また、どうして?」
「ここは母の|仕《し》|事《ごと》|部《べ》|屋《や》みたいなものだったからよ。|企業《きぎょう》のトップともなると、色々|秘《ひ》|密《みつ》の話もあるから、|急《きゅう》に人に入って来られちゃ|困《こま》るってこともあるわ」
「なるほど。――君の母さんってのは、|大《たい》した人だったんだね」
「そうね。|懐《ふところ》の大きな人だったわ」
上村は、たちまち料理を|片《かた》|付《づ》けると、息をついた。
「やれ、|旨《うま》かった。さて、|君《きみ》の話を聞こうか」
「|私《わたし》の話?」
「僕に何をしろと言うんだい?」
「ああ、そのことね」
加奈子は居間の方へ出て行くと、書き|物机《ものづくえ》の|引《ひき》|出《だ》しから何やら小さな|箱《はこ》のような物を出して持って来た。
「これを聞いていてほしいの」
「何だ? ラジオにしちゃ小さいな」
「|受《じゅ》|信《しん》|機《き》よ。マイクは本棚の中。居間での話が聞こえるはずだわ」
「|盗聴《とうちょう》マイク?」
「ここにいるとき、誰かが居間のドアをノックしたり、電話が|鳴《な》ったりするのが聞こえるように、母が取り|付《つ》けたのよ。これを聞いていてちょうだい。|電《でん》|池《ち》|式《しき》だけど、かなりもつはずよ」
上村はそれを受け取って|眺《なが》めながら、
「何かわけがありそうだね」
「ええ、|重大《じゅうだい》な|理《り》|由《ゆう》がね」
「聞いてるだけでいいのかい?」
「それ|以上《いじょう》の|説《せつ》|明《めい》はまた|改《あらた》めてするわ」
上村は|肩《かた》をすくめた。
「OK。|分《わか》ったよ。君の言う|通《とお》り、聞いてることにしよう」
「じゃ、また来るわ」
加奈子は|盆《ぼん》を手にして、|隠《かく》し|部《べ》|屋《や》を出ようとした。「|傷《きず》はどう?」
「少し|痛《いた》むけど、大したことはない」
と上村が言った。
「|警《けい》|察《さつ》はまだこの|辺《へん》を|捜《さが》してるようよ。ここにはあの|後《あと》、来ていないけど」
「ありがとう」
加奈子は、上村の|笑《え》|顔《がお》を|受《う》け|止《と》めた。
居間のドアをノックする音。加奈子は|急《いそ》いで隠し部屋を出ると、本棚を|閉《と》じ、ドアの方へ|小《こ》|走《ばし》りに急いだ。
ノックがくり|返《かえ》された。加奈子が掛け金を|外《はず》してドアを開けると、
「やっぱりここだったか」
と、言いながら、やせ|形《がた》の、ちょっと|落《お》ち|着《つ》きのない男が入って来る。
「円谷さん。――何か?」
正彦の父親は、正彦から|坊《ぼっ》ちゃんくさい|部《ぶ》|分《ぶん》を取り|除《のぞ》いた、と思えばいい。社長としては、見るからにスケールの不足する|感《かん》じである。
「正彦は来なかったかね」
円谷は、わざとらしく居間の中を|見《み》|回《まわ》した。いないのは|承知《しょうち》で、ただ|口《こう》|実《じつ》にしているだけだというのが、誰にでも分る。
「ここには来ませんでしたけど」
と、加奈子は言った。
「そう……。ねえ、加奈子|君《くん》、ちょっと君に話があるんだが」
「何でしょう?」
「いや、まあ、ともかく|座《すわ》って――」
「座りづめで、少し立っていた方がいいんです。何ですか、お話って?」
「ああ……うん」
円谷は、|肘《ひじ》かけ|椅《い》|子《す》の一つを|引《ひ》っ|張《ぱ》り|寄《よ》せると|腰《こし》をおろした。「お母さんのことは本当に|残《ざん》|念《ねん》だ。私もともかく長くお|世《せ》|話《わ》になったからねえ」
加奈子は|黙《だま》っていた。本棚の方へ行って、よりかかる。
「君のことは私が|面《めん》|倒《どう》をみる。何も|心《しん》|配《ぱい》する|必《ひつ》|要《よう》はないからね」
面倒をみてもらう方が心配だわ、と加奈子は思った。
「お|気《き》|持《もち》はありがたいですけど、私は一人でも|大丈夫《だいじょうぶ》ですわ。それに|事業《じぎょう》の方はみんな母の手を|離《はな》れているはずですし」
「うん、そりゃまあそうなんだが……。しかし、これだけの土地、|屋《や》|敷《しき》を持っていれば、それだけで|大《たい》|変《へん》だよ。|特《とく》に君のような学生には|厄《やっ》|介《かい》なことばかりだろう」
「|税《ぜい》|理《り》|士《し》、|弁《べん》|護《ご》|士《し》、|会《かい》|計《けい》|士《し》、色々ありますもの。|相《そう》|談《だん》するからいいですわ。それに、菊井先生も、あれこれ教えて|下《くだ》さいますし」
「菊井?――ああ、あの|医《い》|者《しゃ》だね。お母さんの古い友だちとか?」
「そのようです」
「いいかね、加奈子君」
と、円谷は、少し声をひそめた。「これは特に誰が、というわけじゃないが、君のような若い|娘《むすめ》が一人でいると、|親《しん》|切《せつ》ごかして、ああだこうだと、|忠告《ちゅうこく》をして来る|人《にん》|間《げん》が|大《おお》|勢《ぜい》出て来る。口の|巧《うま》いのが多いからね、|世《よ》の中には」
加奈子は笑い出したくなるのを何とかこらえていた。――目の前にその見本がいる!
「ともかく、その手の人間には、気を付けなくちゃいかん。よほど長い付き合いで、|完《かん》|全《ぜん》に|信《しん》|頼《らい》の|置《お》ける人間でないとね」
「でも菊井先生は――」
「ああ、もちろんその人のことを言ってるんじゃない。もっと|一《いっ》|般《ぱん》|的《てき》な話だよ」
「一般的にうかがっておきますわ」
と、加奈子は言った。「私、そろそろ通夜の席に戻らないと……」
「まあ、待ちなさい」
ドアの方へ歩きかけた加奈子の前へ、円谷はあわてて|飛《と》び出した。「まあ、ちょっと|座《すわ》って。――いいかね、加奈子君。君はまだ若い。いくらしっかりしているといっても、大学生だ」
「何がおっしゃりたいんですか?」
「つまり……こうなったら、早い|機《き》|会《かい》に、正彦と|結《けっ》|婚《こん》したらどうかということなんだ。きっとお母さんもそうお|望《のぞ》みだったと思うよ」
「母は、私が自分で自分の生き|方《かた》を決めるのを望んでいたと思います」
と加奈子は言った。「それに通夜の|晩《ばん》に結婚の話というのも、少しおかしくはありません?」
「いや、それは|確《たし》かにね。でも、私は君のことを心配しているんだ。正彦と結婚したからといって、|別《べつ》に大学をやめる必要もないし、今のままの|生《せい》|活《かつ》はできる。しかも|面《めん》|倒《どう》なことや|余《よ》|計《けい》な|気《き》|苦《ぐ》|労《ろう》は、|全《ぜん》|部《ぶ》|肩《かた》からおろせるわけだし……」
「それぐらいのことで結婚を|急《いそ》ぐ必要はないと思います。大学を出てからで|充分《じゅうぶん》じゃありませんか」
「うん、そりゃまあ……。私はただ、どうせ|結《けっ》|婚《こん》すると|決《きま》っているんだから――」
「円谷さん」
と、加奈子は|遮《さえぎ》った。「|失《しつ》|礼《れい》ですけど、|私《わたし》、正彦さんにはっきり結婚するとお|約《やく》|束《そく》したことはありません」
円谷が|一瞬言葉《いっしゅんことば》を失った。加奈子は、|続《つづ》けた。
「|婚《こん》|約《やく》といったって|正《せい》|式《しき》なものではないし、お|互《たが》いを|拘《こう》|束《そく》しない、という|条件《じょうけん》での|口《くち》|約《やく》|束《そく》です。それも母に|訊《き》かれて、『そうね』と答えただけ。それを正式の婚約のように思われては|困《こま》ります」
「加奈子|君《くん》、それは――」
と、円谷が|言《い》いかけるのを|尻《しり》|目《め》に、加奈子はさっさと歩いて行って、|居《い》|間《ま》のドアを|開《あ》け、
「大学を出るまでには、何があるか|分《わか》りませんからね。正彦さんもどうぞ|遠《えん》|慮《りょ》なく|他《ほか》の|女《じょ》|性《せい》を|捜《さが》して|下《くだ》さいとお|伝《つた》えになって下さい」
と言い|残《のこ》し、ドアを|勢《いきお》いよく|閉《し》めて出て行った。
円谷は|頬《ほお》を|紅潮《こうちょう》させて、閉じたドアをにらんでいたが、やがて、気が|抜《ぬ》けてしまったように、ソファに|身《み》を|沈《しず》めた。
「くそっ! あの|小娘《こむすめ》が……」
と、|悪《あく》|態《たい》をついてみるものの、それはもうグチにしか聞こえない。
ドアが開いて、正彦が顔を出した。
「父さん、何してんの、こんな|所《ところ》で?」
「正彦か。おい、|入《はい》れ!」
「何だい?」
「ドアを閉めろ!」
「何を|荒《あ》れてんのさ?」
正彦は|笑《わら》いながら、「アルコールが入ると|怒《おこ》りっぽくなるからな、父さんは」
「|馬《ば》|鹿《か》! |貴《き》|様《さま》、|一《いっ》|体《たい》何をやっとったんだ!」
「何を?」
「あの娘だ。加奈子だよ」
「何だ、|彼《かの》|女《じょ》としゃべってたのか」
「もう何年の|付《つ》き合いだ?」
「二年ぐらいかな」
と正彦はテーブルのタバコ入れから一本|取《と》って火を|点《つ》けながら、言った。ついでに何本かポケットに入れる。
「まだもの[#「もの」に傍点]にもしとらんのか」
「だって、父さんが彼女には|充分《じゅうぶん》気をつかえって――」
「あの娘、他に男ができてるぞ」
「まさか!」
正彦が青くなった。「彼女がそう言ったの?」
「お前と婚約した|覚《おぼ》えはないとぬかしたぞ。まだ|当《とう》|分《ぶん》結婚はしない、お前も|自《じ》|由《ゆう》に他の|相《あい》|手《て》を捜してかまわん、ともな」
「そんな馬鹿な!」
「|事《じ》|実《じつ》だから|仕《し》|方《かた》あるまい」
円谷がムスッとした顔で|腕《うで》を組む。「お前がだらしないんだ! 二年も付き合っといて、女|一人《ひとり》、|夢中《むちゅう》にさせられんのか」
「そんなこと言ったってね、あの子は頭も切れるし、その|辺《へん》のポケッとした|連中《れんじゅう》とはわけが|違《ちが》うんだよ」
「しっかりしろ! 何のために高い|金《かね》を|払《はら》って|私《し》|立《りつ》へ行かせてやったんだ!」
どうも、私立大へ行くのは女性を|誘《ゆう》|惑《わく》する|腕《うで》を|磨《みが》くためだと思っているらしい。
「そんなこと言ったって……」
|息《むす》|子《こ》の方も|弱《よわ》|味《み》があるとみえて、強く|反《はん》|発《ぱつ》もできないようだ。「どうするのさ、これから?」
「あの娘を何とか|射《い》|止《と》めるんだ! いいか、|俺《おれ》はグループでは|一《いち》|番《ばん》小さな|企業《きぎょう》のトップにすぎんのだ。北里|家《け》の|総《すべ》てを手に入れるには、あの娘をつかむしかない!」
円谷は|語《ご》|気《き》も|荒《あら》く言った。「あの娘は他のトップたちにも|影響力《えいきょうりょく》を持っている。他の連中に、とても|財力《ざいりょく》では|太《た》|刀《ち》|打《う》ちできんのだ。|唯《ゆい》|一《いつ》の|武《ぶ》|器《き》は、お前だ。他の連中には、あの娘とつり合うような息子はおらん。いいか、何としてでもあの娘を|離《はな》すな!」
「そんなこと言われたって……」
正彦は手を広げて、「どうすりゃいいの? 教えてくれりゃやるよ」
「|情《なさ》けない|奴《やつ》だ!――それぐらい自分で考えろ!」
円谷はそう|怒《ど》|鳴《な》ると、さっさと居間から出て行ってしまった。ドアが|叩《たた》きつけられるように閉った。
|残《のこ》された正彦は、ため|息《いき》をつきながら、フランス|窓《まど》の方へ行って、カーテンを開けると、
「何だ、雨か」
と|呟《つぶや》いた。
耳を|澄《す》ますと、かすかに雨の音が|忍《しの》び|込《こ》んで来る。――|墓《ぼ》|地《ち》に行くとき雨じゃ、かなわないな、と正彦は思った。
正彦は、|洋《よう》|酒《しゅ》の|棚《たな》から、|勝《かっ》|手《て》にウィスキーを取り出して、グラスに|注《つ》いで|飲《の》み|始《はじ》めた。
ドアが|勢《いきお》いよく開いた。
「あら、ここだったの」
加奈子はさっさと|進《すす》んで来た。「一人でやけ|酒《ざけ》?」
正彦は|苦笑《くしょう》した。
「きついなあ。――|親《おや》|父《じ》が何か言ったのかい?」
「|別《べつ》に。あなたの|代《かわ》りに私に話をして下さったのよ」
加奈子は書き|物机《ものづくえ》の|引《ひき》|出《だ》しを開けて、「ええと……ペン、ペンと。ここにあったわね。あ、これだ」
「ねえ、加奈子、君、他に|好《す》きな男がいるのかい?」
と、正彦は声をかけた。
「お父さんから聞いたの?」
加奈子は、ちょっと笑って、「そうじゃないわ。ただ、お父さんがあなたと早く結婚しろってしつこいから……」
「親父はせっかちなんだよ。――ねえ、別にそういうわけじゃないんだろう?」
「そういうわけって?」
「|僕《ぼく》との婚約を|解消《かいしょう》したい、とか」
加奈子は、
「まあ!」
と声を上げて、カーテンが開いたままのフランス窓へと|歩《あゆ》み|寄《よ》った。「雨になったのね、知らなかった!」
「加奈子――」
|追《お》いかけて行った正彦は、|後《うし》ろから加奈子を|抱《だ》きしめた。
「|離《はな》してよ」
と加奈子は|身《み》|悶《もだ》えした。「お通夜の|席《せき》の人たちが――こっちへ来るわよ」
「まだ来ないさ。――ねえ、加奈子、僕たちは少し|遅《おく》れてるんじゃないか」
「どういう|意《い》|味《み》?」
「今の|若《わか》|者《もの》なら、二年も付き合ってて、モテルにも|泊《とま》ったことがないなんて、馬鹿にされるぜ」
加奈子は、力を|込《こ》めて正彦の|腕《うで》から離れると、彼の方へ|向《む》き|直《なお》って、いきなり引っぱたいた。正彦のメガネが飛ぶほどの|勢《いきお》いだった。
「そういう相手がご|希《き》|望《ぼう》なら、そういう人を|捜《さが》しなさいよ! 私はごめんだわ!」
と|叫《さけ》ぶように言うと、加奈子はドアの方へ歩き出した。
正彦が後ろから飛びついた。二人がもつれ合って|倒《たお》れる。
「何するのよ!」
「君は――僕のものだ」
正彦がのしかかって、|暴《あば》れる加奈子を|押《おさ》えつける。|悪《わる》い|体《たい》|勢《せい》だった。正彦の|片《かた》|足《あし》が加奈子の足の間に入っていた。
「やめて! 気でも|違《ちが》ったの!」
「うるさい! 何がなんでも君を――」
|雷《らい》|鳴《めい》が|鳴《な》った。雨が|突《とつ》|然《ぜん》|激《はげ》しく|降《ふ》り|始《はじ》めた。
「離して!――この――」
正彦の手が加奈子のスカートをまくり上げた。加奈子は|必《ひっ》|死《し》で|身《み》をよじった。
一|対《たい》一だ、いくら男と女でも、あまり力の|差《さ》はない。|特《とく》に正彦はそう力のある方ではなかった。加奈子は正彦の|髪《かみ》の毛を|引《ひ》っ|張《ぱ》った。
「いてて……|畜生《ちくしょう》!」
正彦が|乱《らん》|暴《ぼう》に加奈子の|胸《むね》を押えつける。
|二人《ふたり》は|激《はげ》しくもみ合った。|突《とつ》|然《ぜん》、のびて来た手が正彦の頭へ、スポッと|布《ぬの》をかぶせた。
「|誰《だれ》だ!」
正彦があわてて加奈子から手を|離《はな》す。|拳《こぶし》が正彦の|腹《はら》へ|食《く》い|込《こ》んだ、|一《ひと》|声《こえ》うめくと、正彦は|床《ゆか》にひっくり|返《かえ》ってのびてしまった。
加奈子は|息《いき》を|弾《はず》ませて、|起《お》き|上《あが》った。
「――|大丈夫《だいじょうぶ》か?」
上村が|肩《かた》で息をしながら床に|座《すわ》り|込《こ》んだ。「|間《ま》に合わないかと思った。足が|自《じ》|由《ゆう》に|動《うご》かないってのは、|全《まった》く|苛《いら》|々《いら》するもんだな」
「ありがとう……」
加奈子は、ちょっとふらつきながら、立ち上った。「本当に……こんな人とは思わなかったわ」
「|親《おや》|父《じ》さんにたきつけられてたよ、ここで」
加奈子は|頬《ほお》を|紅潮《こうちょう》させて、
「|呆《あき》れた! 女を力ずくでものにすれば|言《い》うことをきくと思ってるのかしら」
「ちょっと頭が古いようだな」
上村は|皮《ひ》|肉《にく》っぽく|笑《わら》った。
「誰か来るといけないわ! さあ、早く|戻《もど》って」
加奈子は、上村に肩を|貸《か》して立たせると、|開《ひら》いた|本《ほん》|棚《だな》の|扉《とびら》の方へと|急《いそ》いだ。上村がちょっと|呻《うめ》いた。
「|傷《きず》に|悪《わる》かったんじゃない?」
「大丈夫さ。これぐらい……」
上村は|肯《うなず》いて見せ、
「|僕《ぼく》に首を|絞《し》められるかもしれないぜ」
「あなたも|見《み》|付《つ》かる|危《き》|険《けん》を|冒《おか》して出て来てくれたんですもの……。さあ、|入《はい》って」
「|君《きみ》も|大《たい》|変《へん》な家に生れたもんだな」
|隠《かく》し|部《べ》|屋《や》へ入りながら、上村が言った。
「それどころじゃないのよ。|後《あと》で|説《せつ》|明《めい》するわ」
加奈子は急いで本棚を戻した。
|危《き》|機《き》|一《いっ》|髪《ぱつ》、マリ子が入って来た。あわてて|服《ふく》の|乱《みだ》れを|直《なお》す。
「お|嬢様《じょうさま》、|皆《みな》|様《さま》にこちらへ|移《うつ》っていただきますか?」
「そうね。まだ早いと思うけど。じゃ、|一《いち》|応《おう》|仕《し》|度《たく》しておいてちょうだい」
「かしこまりました」
加奈子が出て行くと、マリ子は|椅《い》|子《す》やソファをきちんと|並《なら》べ|始《はじ》めた。
「ウーン」
と呻いて、正彦が起き上る。
「あらそんな|所《ところ》に……」
正彦は、顔にかぶせてあった布を|外《はず》して、|投《な》げ|捨《す》てた。
「|畜生《ちくしょう》め!」
マリ子はその布を|拾《ひろ》って広げると、
「ソファのカバーなんかかぶって、何してらしたんですか?」
と|訊《き》いた。そして、そのカバーを、ソファにつけると、
「ご|休憩《きゅうけい》なら、床の上よりこちらの方が」
「|放《ほ》っといてくれ!」
正彦は、棚の方へ行って、ウィスキーのビンとグラスを|持《も》って来ると、椅子に|腰《こし》をおろした。
マリ子が出て行って一人になると、正彦は、グラスのウィスキーを一気にあおった。
「――もうちょっとだったのに! どこのどいつだ!」
とグチりながら、まだ、腹が|痛《いた》むのか、顔をしかめる。
「フン、何だ、もったいつけやがって。あいつ一人が女じゃないぞ」
|窓《まど》の外で|雷《らい》|鳴《めい》がした。
外は、ちょっとした|嵐《あらし》になっているようだ。白い光が、|庭《にわ》を|照《て》らした。|続《つづ》いて雷鳴が|大《たい》|気《き》を|揺《ゆ》さぶる。
フランス窓のカーテンは、半分|開《あ》けたままになっていた。――そしてもう|一《いち》|度《ど》、雷が|鳴《な》って、|戸《こ》|外《がい》を白い光が|染《そ》めたとき、カーテンに、コート|姿《すがた》の男の|影《かげ》がくっきりとシルエットになって|浮《う》かんだ。
「ああ、いてえ……」
正彦はグラスとウィスキーを|置《お》いて、ソファにもたれると、腹をさすりながら、そっと目を|閉《と》じた……。
四十分ほどして、居間のドアが開くと、客たちが、ぞろぞろと入って来た。東尾、中町、湊の|各《かく》|夫《ふう》|婦《ふ》、それに|苦《にが》|虫《むし》をかみつぶしたような顔の円谷とその|妻《つま》である。
「いや、ひどい|荒《あ》れ|方《かた》ですね」
「たぶんすぐに|過《す》ぎて行くさ」
「どうですかね。|明《あ》|日《す》も荒れ|模《も》|様《よう》だと新聞には出とったが」
「じゃ、|晴《は》れるよ」
「いや、天気|予《よ》|報《ほう》の|確《かく》|率《りつ》は八|割《わり》に|迫《せま》っている……」
めいめいが、てんでんに|好《す》きな椅子に|座《すわ》った。
水原が何かと|忙《いそが》しげに出たり入ったりしている。
「――加奈子さん、|疲《つか》れただろう」
と、東尾が声をかけた。「|我《われ》|々《われ》は|適《てき》|当《とう》に|失《しつ》|礼《れい》するから、もう休んだらどうかね」
菊井|医《い》|師《し》はそっと入って来ると、もうとっくに妻を|亡《な》くしているので、一人で少し|離《はな》れた所に立っていた。
マリ子や、|手《て》|伝《つだ》いにやって来た|娘《むすめ》たちが|飲《のみ》|物《もの》やつまみの皿をテーブルに|置《お》いて|回《まわ》っている。
「本当よ、加奈子さん。一人になって、ゆっくり休むといいわ」
と、社長夫人の一人が言った。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですわ、私。北里浪子の娘ですから」
と、加奈子は言った。
「いや、さすがだな!」
と東尾がグラスを手にして言った。「お母さんの|自《じ》|慢《まん》の娘だけのことはある」
菊井医師が、加奈子のそばへ来て、
「何だか|髪《かみ》が|乱《みだ》れてるよ」
と言った。加奈子は、ハッとして手を頭にやると、
「どうも。――ちょっとさっき|転《ころ》んでしまって……」
「気をつけてくれよ。――明日の|告《こく》|別《べつ》|式《しき》のことは、よく水原君に言っておいたからね」
「ありがとう、先生」
「|今《こん》|夜《や》は荒れるが、明日は|穏《おだ》やかな天気であってほしいな。――今夜はこうして|内《うち》|輪《わ》の|連中《れんじゅう》だが、明日は|大《たい》|変《へん》だよ」
「|覚《かく》|悟《ご》していますわ」
加奈子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
そこへ、手伝いの娘の一人がやって来た。
「あの……」
「なあに?」
「あちらにいらっしゃる方にも、お飲み物をさし上げるんですか?」
「ああ、正彦さんね。放っといていいわ」
と、加奈子は、苦い顔の円谷の方をチラッと見ながら言った。
「お二人[#「二人」に傍点]いらっしゃいますけど」
「二人?」
と加奈子は訊き|返《かえ》した。
「ああ、それなら――」
と、水原がやって来て、口を|挟《はさ》んだ。「さっきみえたお客だと思います」
「どなた?」
「山下って|方《かた》です。奥様にご用とおっしゃるんで、|事情《じじょう》をご説明したんです。そしたらお嬢さんにお目にかかりたいから、通夜が|終《おわ》るまで待つとおっしゃって……」
「ここへご|案《あん》|内《ない》したの?」
「そうです」
加奈子は|胸《むね》のときめきを|押《お》し|隠《かく》すのに|苦《く》|労《ろう》した。見ると、正彦が|眠《ねむ》り込んでいるらしい、その|向《むこ》うに、一人、ポツンと座っている男が見える。
今、話をするのはうまくない、と加奈子は思った。
「いいわ、お飲み物をさし上げてちょうだい」
「はい」
と、|手《て》|伝《つだ》いの|娘《むすめ》が行ってしまうと、中町がやって来た。
「お|嬢《じょう》さん、こんな|席《せき》で、まことに|恐縮《きょうしゅく》なんですが、|至急《しきゅう》の|書《しょ》|類《るい》がありましてね、お母さんの|判《はん》をいただくことになっていたんです。それで……」
「はい、|分《わか》りました」
と加奈子は|肯《うなず》いた。「その|辺《へん》のことは|一《いち》|度《ど》はっきりさせておかないと……」
「今そう|言《い》っても|無《む》|理《り》だよ」
と、菊井が言った。
「|明《あ》|日《す》の|告《こく》|別《べつ》|式《しき》には、|弁《べん》|護《ご》|士《し》の先生|方《がた》もみえるはずですから、|終《おわ》った|後《あと》、ここへ|残《のこ》っていただいて、|法《ほう》|律《りつ》|的《てき》なことは――」
そのとき、
「キャーッ!」
と、|悲《ひ》|鳴《めい》が|居《い》|間《ま》を|貫《つらぬ》いた。
|盆《ぼん》が|落《お》ちて、グラスが|転《ころ》がる。
「|死《し》んでる!――死んでる!」
手伝いの娘がヒステリックに|叫《さけ》んだ。加奈子と菊井が|同《どう》|時《じ》に|駆《か》け|寄《よ》った。
加奈子の|初《はじ》めて見る、山下という男、グレーの|背《せ》|広《びろ》を|着《き》た男は、|床《ゆか》へつっ|伏《ぷ》していた。
背中の|真中《まんなか》に、赤いしみが広がって、その|中央《ちゅうおう》に、|細《ほそ》く、|傷《きず》|口《ぐち》が|開《ひら》いていた。
加奈子は声もなく、|椅《い》|子《す》の背から突き出た|鋭《するど》い|銀《ぎん》|色《いろ》の|刃《やいば》を見つめていた……。
「あーあ」
|突《とつ》|然《ぜん》声がして、加奈子は|飛《と》び|上《あが》りそうになった。その男が目を|覚《さ》まして、|起《お》き上って来るのか、と思った。――だが、すぐにそれは正彦の声だったと分った。
正彦が|伸《の》びをしながら、目を開いて、
「|眠《ねむ》っちまった!――やあ、何してるんです? みんな、そんな|所《ところ》に|突《つ》っ立って……」
と、|集《あつ》まって来た人々の顔を|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》そうに、|見《み》|回《まわ》した。
2
フラッシュの青白い光が、小さな|雷《かみなり》のように、居間の中で|何《なん》|度《ど》か光った。
「|悪《わる》い|夢《ゆめ》でも見てるようだわ」
と、加奈子は言った。
居間は、「|侵入者《しんにゅうしゃ》たち」で|一《いっ》|杯《ぱい》だった。
死体の|写《しゃ》|真《しん》を|撮《と》る|者《もの》、|手袋《てぶくろ》をはめた手で、|指紋検出用《しもんけんしゅつよう》の|粉《こな》をはたいている者、|白《はく》|衣《い》を着た男たち……。
加奈子は、居間の|入《いり》|口《ぐち》近くに立って、じっとその|様《よう》|子《す》を|眺《なが》めていた。菊井が、そっと|彼《かの》|女《じょ》の|肩《かた》に手を|置《お》くと、加奈子はその手を|握《にぎ》った。
「とんでもない夜になってしまって……」
「|大丈夫《だいじょうぶ》か? |君《きみ》の|神《しん》|経《けい》が|心《しん》|配《ぱい》だよ」
「神経は大丈夫。ただ、ちょっと|疲《つか》れただけです」
「あの男は|何《なに》|者《もの》だね」
「さあ……。母の|客《きゃく》だそうだけど、|用《よう》|事《じ》は分りません」
と加奈子は言った。
「しかし、なぜここで|殺《ころ》されたのかな」
加奈子は|黙《だま》って首を|振《ふ》った。
あまりに思いがけない|事《じ》|態《たい》である。どこまで|警《けい》|察《さつ》に話すべきか、いくら加奈子でも|判《はん》|断《だん》がつかなかった。
死体のそばにいて、あれこれ|覗《のぞ》き|回《まわ》っていた男が、加奈子の方へやって来た。
「やあ、お嬢さん」
朝早くやって来た、多田という|刑《けい》|事《じ》だ。「こんなことでまたお目にかかるとはね」
「どうも……。あの上村とかいう男を追いかけておられるんじゃなかったんですか」
「追っていますよ、まだこの|近《きん》|辺《ぺん》|一《いっ》|帯《たい》は|非常線《ひじょうせん》を|張《は》っています」
「何か手がかりでも?」
加奈子はさり気なく|訊《き》いた。
「さっぱりです」
と多田は|渋《しぶ》い顔で言った。「一体どこへ隠れたのか……。そこへこの|事《じ》|件《けん》でしょう。もしや、というので|駆《か》けつけたわけです」
「|犯《はん》|人《にん》がその|逃《とう》|亡《ぼう》|犯《はん》だとおっしゃるんですか?」
「|可《か》|能《のう》|性《せい》の|問《もん》|題《だい》です。|殺《さつ》|人《じん》|容《よう》|疑《ぎ》で逃亡中の男が|姿《すがた》を|現《あらわ》して、その近くで殺人があって、何か|関《かん》|係《けい》があると見ても|当《とう》|然《ぜん》でしょう」
そう言ってから、多田は、思いがけず、ニヤリと笑った。「むろん|無《む》|関《かん》|係《けい》かもしれませんがね」
加奈子は、ついつられて|微《ほほ》|笑《え》んだ。――見かけによらず頭の切れる男らしい、と思った。この|一《ひと》|言《こと》で、すっかり加奈子の気分を|楽《らく》にしてしまったのだ。
「|被《ひ》|害《がい》|者《しゃ》をね、私は知ってるんですよ」
と多田が言ったので、加奈子はびっくりした。
「お|知《し》り合いなんですか?」
「いや、|仕《し》|事《ごと》|柄《がら》です。あの山下という男、|探《たん》|偵《てい》でしてね」
「探偵……。探偵社に|勤《つと》めていたわけですね」
「いや、一人でやっていたのです」
「じゃ、|私《し》|立《りつ》探偵?」
「そういうことになりますか。まあ|個《こ》|人《じん》|経《けい》|営《えい》の探偵社というのが|正《せい》|確《かく》かもしれません」
多田は死体の方を|振《ふ》り|返《かえ》って、「この手の男には、どうも|怪《あや》しげなのが多いのですが、山下に|限《かぎ》っては、非常に|真《ま》|面《じ》|目《め》な男でしてね、|依《い》|頼《らい》|人《にん》ともトラブルを|起《お》こさないし、|評判《ひょうばん》もいい。それに、|却《かえ》って|一人《ひとり》でやっているので、|妙《みょう》に話が広まるとか、そんな|心《しん》|配《ぱい》もないというわけです」
「母が依頼したのなら、妙な人ではないと思います」
「そうですな。何か、|金《かね》|持《もち》や、社会的な|名《めい》|声《せい》のある人が、|秘《ひ》|密《みつ》に何かを|調《しら》べてほしいというときは、よく山下へ|頼《たの》んだものですよ。口の|固《かた》いことでは|定評《ていひょう》のある男です」
死体が|運《はこ》び出される。|布《ぬの》をかけたその死体を、加奈子は目で|追《お》った。
「|惜《お》しい男だった」
と多田は|呟《つぶや》いた。「――ところで、あの男がお母さんから何を依頼されていたのか、ご|存《ぞん》|知《じ》ですか?」
加奈子は首を振った。
「|見《けん》|当《とう》もつきません。あの人は何か持っていなかったんですか?」
「|手帳《てちょう》とか|財《さい》|布《ふ》などはありましたが、事件に|関《かん》するメモなどは|全《まった》くありませんでした。もともと持っていなかったのか。――しかし、これは|理《り》|屈《くつ》に合いませんな。あの男が初めてお母さんに|会《あ》いに来たとしたら、何も殺す|必《ひつ》|要《よう》はないわけだ」
「マリ子さんが、あの人からの電話を|受《う》けています」
と、加奈子は言った。「その中で、山下という人は、『|調査《ちょうさ》の|結《けっ》|果《か》を持って』来る、と言ったそうです」
多田は、得たり、という様子で、
「そうか! やはり、殺した|人《にん》|間《げん》が|奪《うば》い取ったんですな。何の調査かは口にしなかったのですか」
「と思います。マリ子さんに|直接訊《ちょくせつき》いてみて下さい」
「そうしましょう。――ここはいい|部《へ》|屋《や》ですな」
多田は居間の中を見回した。「お取り込みのところで|申《もう》し|訳《わけ》ありませんが、殺人事件は|最《さい》|初《しょ》の何時間かが|勝負《しょうぶ》なのです。|早《さっ》|速《そく》、お話をうかがいたいのですが」
「|構《かま》わないと思います。それがお仕事ですもの」
「そうおっしゃっていただけると……。この部屋を|使《つか》わせていただいてよろしいでしょうか?」
加奈子は、ちょっとためらった。しかし、警察があの秘密の部屋に|気《き》|付《づ》くはずはないし、むしろ上村に話を聞いていてもらった方がいいかもしれない。
「広すぎませんか?」
「いや、|奥《おく》の|現《げん》|場《ば》の方は使いません。|暖《だん》|炉《ろ》の前あたりで、できるだけ|気《き》|楽《らく》に話していただきたいのですよ。いかにも|訊《じん》|問《もん》である、という|調子《ちょうし》ではなく、ね」
「それでしたら、どうぞ」
「あの、刑事さん」
と、菊井が言葉を挟んだ。「明日の告別式は|予《よ》|定《てい》通り|行《おこな》って構わんのでしょうか?」
「それはもちろんです。そこまでお|邪《じゃ》|魔《ま》するつもりはありませんよ」
「でしたら、この加奈子君は、もうかなり疲れているはずです。早く終らせて休ませてやって下さい」
「先生、私なら大丈夫です」
と、加奈子は|言《い》った。
「|承知《しょうち》しました。いや、そううかがうこともないと思いますよ」
「|皆《みな》さん、|明《あ》|日《す》の|告《こく》|別《べつ》|式《しき》にも|参《さん》|列《れつ》いただくことになっています。あまり|遅《おそ》くならない|内《うち》にお帰り|願《ねが》いたいんです」
と、加奈子は言った。「私が|最《さい》|後《ご》で|結《けっ》|構《こう》です。二|階《かい》へ行けば|眠《ねむ》れるんですから」
「|分《わか》りました。ともかく、まず|一《いち》|応《おう》、|今日《きょう》、この|屋《や》|敷《しき》の中にいた|方《かた》、|全《ぜん》|部《ぶ》のお名前や|住所《じゅうしょ》が|必《ひつ》|要《よう》です。――今はどちらに?」
「みんな、|食堂《しょくどう》においでです」
「では、|恐縮《きょうしゅく》ですが、紙を|回《まわ》して、書いていただいて|下《くだ》さい。そして、まずあの山下をここへ通した方……」
「水原さんです」
「ああ、その方に来ていただいて下さい」
「分りました。すぐに」
加奈子は、|急《いそ》いで|居《い》|間《ま》を出て行った。
多田が首を|振《ふ》りながら、
「いや、|実《じつ》にしっかりした|娘《むすめ》さんだ」
と言った。
「母親とよく|似《に》ていますよ」
と、菊井は言って、「では|私《わたし》も食堂の方で|待《たい》|機《き》していましょう」
「そう長くはお|待《ま》たせしませんよ」
多田は|丁重《ていちょう》に言った。
「――あの人が来た時間ですか?」
|暖《だん》|炉《ろ》の前の|椅《い》|子《す》に、コチコチの|感《かん》じで|緊張《きんちょう》して|座《すわ》っている水原が、言った。「はっきり|憶《おぼ》えていませんが……。たぶん、皆さんがここへ入られる三十分ぐらい前じゃないかと思います」
「なるほど。あなたが|玄《げん》|関《かん》へ出たというのは何か|理《り》|由《ゆう》があるのですか」
「いいえ。ともかく、|葬《そう》|儀《ぎ》|一《いっ》|切《さい》、私の|責《せき》|任《にん》でということですので、|当《とう》|然《ぜん》、お|客様《きゃくさま》をお|迎《むか》えするのも――」
「分りました。すると、|特《とく》に理由があって、玄関へ出て行ったわけではないのですね?」
「女の子たちは、|通《つ》|夜《や》の|後《あと》で、ここでさし上げるものを作るので|手《て》|一《いっ》|杯《ぱい》でしたから」
「外はひどい|嵐《あらし》でしたが、あの男はどういう|格《かっ》|好《こう》で?」
「コートを|着《き》ていました。そして入って来ると、
『山下という|者《もの》ですが、|奥《おく》|様《さま》にお|会《あ》いしたい』
と言いました。
私が、奥様が|亡《な》くなったことを話すと、びっくりしていました」
「わざとらしいとか、そんなことはなかったのですね?」
「さあ……。少なくとも私にはそう見えませんでした」
「で、それから何と言いました?」
「ええ、ちょっと|問《と》い|詰《つ》めるみたいに、
『どうして亡くなったんですか?』
と|訊《き》いて来ました。
|心《しん》|臓《ぞう》の|発《ほっ》|作《さ》で、|今《け》|朝《さ》早く、|急《きゅう》に、と言うと、
『発作というのは|間《ま》|違《ちが》いありませんね』
と、|念《ねん》を|押《お》しました」
「念を押した……。なるほどね。それから?」
「間違いない、と|返《へん》|事《じ》をしますと、
『では、お|嬢《じょう》さんに会わせて下さい』
と言いました」
「加奈子さんにですね。その男――山下が、そう言ったのですね? あなたが何も言わない内に」
「そうです。それで、今、お通夜の|最中《さいちゅう》で、と言うと、|終《おわ》るのを待つと言うので、この居間へ|案《あん》|内《ない》して来たのです」
「あなたは中まで入りましたか?」
「ええと……どうだったかなあ」
と、水原はしばらく考えて、「いえ、入りませんね。ドアを|開《あ》けて、ここでお待ち下さい、と言ったと思います」
「すると、中で円谷正彦さんが眠っているのも|気《き》|付《づ》かなかった?」
「気付きませんでした」
「それからあなたは通夜の|席《せき》へ|戻《もど》ったんですね」
「そうです」
「その|後《ご》、三十分して、|全《ぜん》|員《いん》がこの居間へやって来た。――その|間《あいだ》に、通夜の席を立った人がいたかどうか分りますか?」
水原は|当《とう》|惑《わく》|顔《がお》で、
「とても分りません。――皆さん、トイレに立たれたり、ちょっと|廊《ろう》|下《か》へ出て立ち話をされたり……。ほとんどの方は出ておられるんじゃありませんか」
「そんなに?」
「電話もかかって来ますしね。――何しろ皆さん、|企業《きぎょう》のトップの方ばかりです。|会《あ》えば色々話もありますし、何かというと、電話もかかるし……」
「なるほど」
多田はやや|落《らく》|胆《たん》の色を見せている。「すると|誰《だれ》でもここへ来て、山下を|刺《さ》す|機《き》|会《かい》はあったわけだ」
「そんなことが――」
と、水原は目を|丸《まる》くして、「とんでもないことですよ! 皆さん|名《めい》|士《し》ばかりなんですから!」
多田は|穏《おだ》やかな|笑《え》|顔《がお》を見せると、言った。
「名士というのは、|我《われ》|々《われ》のような並の[#「並の」に傍点]|人《にん》|間《げん》より、ずっと|厄《やっ》|介《かい》なものを|背《し》|負《よ》っているのです。つまり、|名《めい》|誉《よ》とか、|地《ち》|位《い》といったものですね。|従《したが》って、我々にとっては、|女房《にょうぼう》に|引《ひ》っかき|傷《きず》の一つぐらい作られて|済《す》むような|秘《ひ》|密《みつ》でも、名士にとっては、|死《し》|刑《けい》|宣《せん》|告《こく》に|等《ひと》しいことがあるのですよ」
「|僕《ぼく》は女房はいません。|独《どく》|身《しん》の|独《ひと》り者で|未《み》|婚《こん》ですから」
水原は緊張から多少|混《こん》|乱《らん》しているようだった。
「ところで、これが|凶器《きょうき》ですが……」
と、多田が、|傍《そば》のテーブルの上のナイフを|指《さ》した。「これに|見《み》|憶《おぼ》えはありますか?」
「たぶん、あの|壁《かべ》の|飾《かざ》りケースの中にあったやつでしょう」
「あのケースは|鍵《かぎ》がかかっていませんね」
「そりゃまあ……|鉄《てっ》|砲《ぽう》ってわけじゃありませんからね。|包丁《ほうちょう》にだって鍵はつけないでしょう」
「それはそうですな」
多田は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「|今《こん》|夜《や》の客は、みんなこのナイフを知っていたでしょうね」
「そりゃそうだと思います。|年中《ねんじゅう》ここへ来ている方たちばかりですから」
「ふむ」
多田は少し|間《ま》を|置《お》いて、「あなたは、亡くなった北里浪子さんの|秘《ひ》|書《しょ》だったわけですね」
「そうです」
「浪子さんが、なぜあの山下という探偵を|雇《やと》ったのか、ご|存《ぞん》|知《じ》ありませんか」
「知りません。奥様は、ともかく|公《こう》|私《し》のけじめのはっきりした方で、|個《こ》|人《じん》秘書といえば、どうしても、多少は個人的な用を言いつけられるものですが――つまり、|私《し》|生《せい》|活《かつ》に|関《かん》する|用《よう》|件《けん》ですね。しかし、奥様は、|仕《し》|事《ごと》に|関《かん》|係《けい》のあることでなければ、それこそ|切《きっ》|手《て》|一《いち》|枚《まい》、僕に|貼《は》らせませんでしたよ」
「|大《たい》した人ですな。――すると、山下を頼んだのも、|全《まった》くあなたとは関係なく……」
「そうです」
「分りました」
と、多田は|肯《うなず》いた。「もう結構です。では|次《つぎ》に――」
「僕は何も知りませんよ!」
と、円谷正彦は、ふてくされた|様《よう》|子《す》で言った。
|内《ない》|心《しん》、かなりびくついている様子で、|両手《りょうて》をひっきりなしに組み合わせたり、|離《はな》したりしていた。
「ずっと眠ってらしたんですか」
「四、五十分かな。――|今《け》|朝《さ》早く|起《お》きて|駆《か》けつけたんでね」
「なるほど」
多田はメモを見ながら、「お父さんは北里家の|所《しょ》|有《ゆう》している|企業《きぎょう》の一つの|社長《しゃちょう》。あなたはその社員ですな」
「そうですよ」
「父親が社長というのは、|却《かえ》ってやりにくくありませんか」
「|別《べつ》に」
と、正彦は|肩《かた》をすくめた。
「ええと……こちらの加奈子さんと|婚約中《こんやくちゅう》とかうかがいましたが?」
「それはその……」
と、正彦は|詰《つ》まった。「そう……でもあるような、ないような……」
「どっちなんです?」
「まあ、|友《とも》|達《だち》に毛の|生《は》えた|程《てい》|度《ど》です」
「ところで、|眠《ねむ》り|込《こ》まれる前、お|酒《さけ》を|飲《の》んでいましたね」
「ええ。ここの酒は、いつも|自《じ》|由《ゆう》にやってましたからね」
「|通《つ》|夜《や》の|席《せき》から出てここへ来ていたのは、何かわけでも?」
「いや……ただ……何しろ|陰《いん》|気《き》くさいのが|好《す》きでないので」
「なるほど、|脱《ぬ》け|出《だ》して来た、と」
「そうです」
「眠り込む前は|一人《ひとり》で酒を飲んでいた。その前に、|椅《い》|子《す》のカバーを頭にかぶって、|床《ゆか》に|寝《ね》ていたという|手《て》|伝《つだ》いの人の|証言《しょうげん》がありますが、何をしてたんです?」
「な、何でもありません。ちょっとその――ふざけてただけで」
正彦はハンカチで|額《ひたい》の|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》った。
「その前に、加奈子さんと|会《あ》っていたんですか?」
「ええ……まあ……」
「何だかお|腹《なか》が|痛《いた》そうだったという証言もありますが」
「ちょっとその……お腹が痛かったんです」
「なるほど」
多田は、ちょっと|皮《ひ》|肉《にく》っぽい|笑《え》みを|浮《う》かべて、正彦の|追及《ついきゅう》を切り|上《あ》げた。正彦はあわてて|居《い》|間《ま》から出て行った。
「いや、|残《ざん》|念《ねん》ですが……」
と、菊井は言った。「浪子さんとは古いお|付《つ》き|合《あ》いではありましたが、あの山下という人に何を|頼《たの》んでいたのかは|分《わか》りません」
多田はゆっくり|肯《うなず》きながら、
「浪子さんには、あなた|以《い》|外《がい》に、色々と|個《こ》|人《じん》|的《てき》な|相《そう》|談《だん》をするような|相《あい》|手《て》はいましたか?」
「さあ……。彼女の|個《こ》|人《じん》|生《せい》|活《かつ》を|必《かなら》ずしも|完《かん》|全《ぜん》に知っていたわけではありませんが、たぶんそうはいなかったと思います」
「あなたにも|打《う》ち|明《あ》けなかったというのは……。たとえば、どんな|類《たぐい》の|秘《ひ》|密《みつ》だったのか、|見《けん》|当《とう》はつきませんか」
菊井はしばらく|考《かんが》え込んでいたが、
「――だめですね。|心当《こころあた》りはありません」
と首を|振《ふ》った。
「そうですか。――お通夜の席から外へ出たことはありますか」
「外へ?」
「つまり、|廊《ろう》|下《か》とかこの|部《へ》|屋《や》とかです」
「ああ、いや……。この部屋へは来ませんでしたよ。廊下には出ましたね。|手《て》|洗《あら》いに立ったりして」
「|他《ほか》の用では?」
「別にありません」
多田は|手帳《てちょう》を|眺《なが》めながら、
「分りました。|結《けっ》|構《こう》です。加奈子さんを|呼《よ》んでいただけますか」
菊井が立ってドアの方へ歩きかけると、多田が声をかけた。
「北里浪子さんの|死《し》|因《いん》に|疑《ぎ》|問《もん》はないのでしょうね?」
菊井は、いぶかしげな顔で振り|向《む》いた。
「もちろんです。|心《しん》|臓《ぞう》が|弱《よわ》っていたので、そう長くはないと思っていました」
「そうですか。どうも」
――菊井が出て行くと、多田は|独《ひと》り|言《ごと》のように|呟《つぶや》いた。
「|普《ふ》|通《つう》の|医《い》|者《しゃ》なら、自分の|診《しん》|断《だん》を|疑《うたが》われたら、|腹《はら》を立てるものだがな……。それに|質《しつ》|問《もん》の|意《い》|味《み》が分らんほど|馬《ば》|鹿《か》でもあるまい。何も気が|付《つ》かんふりをしているのは……」
――すぐに、加奈子がやって来て、|暖《だん》|炉《ろ》の前の椅子に座った。
「|遅《おそ》くなってしまって、|申《もう》し|訳《わけ》ありません」
と多田は言った。
「いいえ。何か分りましたでしょうか」
「今のところ、はっきりした|結《けつ》|論《ろん》はまだ出せません。|問《もん》|題《だい》は、|誰《だれ》が山下を|殺《ころ》したかを知るには、あなたのお母さんが山下に何を|依《い》|頼《らい》していたかを知る|必《ひつ》|要《よう》がある、ということです」
「分ります」
「ナイフには|指《し》|紋《もん》はありませんでした。通夜に|出席《しゅっせき》していた方と、そして手伝いに来ていた|娘《むすめ》たち、この家の方たち、誰にでも山下を殺すことはできたのです」
「でも、私にも母は何も言いませんでした」
「思い当ることはありませんか」
「色々考えてみましたけど、何も……」
「そうですか。――そうなると、|捜《そう》|査《さ》も多少|長《なが》|引《び》くかもしれませんね」
「あの――|外《がい》|部《ぶ》の|人《にん》|間《げん》の|犯《はん》|行《こう》ということは考えられませんか」
多田は|軽《かる》く首を振って、
「まず|無《む》|理《り》だと思いますね」
と言った。「外部の人間だとすると、この居間へ入るには、廊下へのドアと、それからそのフランス|窓《まど》のどちらかを通ることになります。|玄《げん》|関《かん》のドアには|当《とう》|然《ぜん》|鍵《かぎ》がかかっているはずですし、たとえ入りこめたとしても、さっきの水原さんにせよ、通夜の|客《きゃく》、手伝いの娘さんたちなどが|大《おお》|勢《ぜい》|出《で》|入《はい》りしているわけで、誰にも見られずにここへ入るのは|難《むずか》しいと思います」
加奈子は|肯《うなず》いた。多田は|続《つづ》けて、
「さらに、山下を|刺《さ》し殺し、また出て行くとなると|不《ふ》|可《か》|能《のう》ですよ」
「ではフランス窓は?」
「こちらへ」
と多田は立ち|上《あが》ると、フランス窓の前へやって来た。「――ここには|掛《か》け|金《がね》がかかっています。まあ、軽く|落《お》とすだけのものですからね。外から何とかして|外《はず》せないこともないでしょうが」
「でも、そうではないとお考えなんですね? なぜですの?」
加奈子は、|興味《きょうみ》に目を|輝《かがや》かせていた。|本《ほん》|当《とう》はそんな|呑《のん》|気《き》なことを言ってはいられないのだが、|眠《ねむ》|気《け》など|全《まった》く|感《かん》じない。
「ガラスを見て下さい」
と多田が言った。
風に|吹《ふ》かれた雨がガラス窓に|叩《たた》きつけられていた。
「――ちょうど殺人のあった時間、風も雨も|一《いち》|番《ばん》ひどい|状態《じょうたい》でしたね」
「ええ、そうでした」
「それならば、いくら|素《す》|早《ばや》く入り込んだとしても、|開《あ》けた|瞬間《しゅんかん》には雨が|降《ふ》り込んだはずです。それに|靴《くつ》は|泥《どろ》で|汚《よご》れていたはずだ」
「ああ!――分りました」
加奈子はフランス窓の前にかがみ込んで、毛の|深《ふか》い|絨毯《じゅうたん》をなでてみた。汚れもなく、少しのしめり気も感じられない。
「|確《たし》かにここから入って来てはいませんね」
加奈子は立ち上ると、「じゃ、やっぱり、この|屋《や》|敷《しき》の中にいた誰かが犯人――」
「ということになりましょう。さ、ソファへ|戻《もど》りませんか」
多田は、|推理小説《すいりしょうせつ》に出て来る|名《めい》|探《たん》|偵《てい》たちと|違《ちが》って、もったいぶったり、ふんぞり|返《かえ》ったりはしなかった。
「その|人《じん》|物《ぶつ》は、お母さんが山下に何を依頼したか知っていた。そして、山下が|持《じ》|参《さん》して来た|調査《ちょうさ》|結《けっ》|果《か》を、誰にも見られてはならなかったのです」
「もう母が|亡《な》くなっているのに、ですか?」
「ですから、それはお母さん|個《こ》|人《じん》に|対《たい》して、何か|隠《かく》さなければならなかった、というより、もっと他のこと――大きな|罪《つみ》を|暴《あば》かれるのを|恐《おそ》れた、と言った方が|正《ただ》しいでしょう」
「大きな罪というと……」
「たとえば――これは|単《たん》なる|想《そう》|像《ぞう》ですが、誰かが、会社の|財《ざい》|産《さん》を|勝《かっ》|手《て》に|処《しょ》|分《ぶん》していた、とかですね」
加奈子は、いかに|想像力豊《そうぞうりょくゆた》かな|刑《けい》|事《じ》でも、|真《しん》|実《じつ》を|推《すい》|察《さつ》することはできないだろう、と思った。
「では、これからが|大《たい》|変《へん》ですね」
と、加奈子は|言《い》った。
「|心苦《こころぐる》しいのですが、あれこれと|調《しら》べさせていただくことになります」
「やむを|得《え》ませんわ」
多田は少し|考《かんが》えてから、言った。
「――|実《じつ》は、一つ気になっていることがあるのです」
「といいますと?」
「山下の|調査《ちょうさ》|結《けっ》|果《か》が出る|寸《すん》|前《ぜん》、というより、|実《じっ》|際《さい》にはもう出ていたのだから、|当《とう》|然《ぜん》、その後になりますが、お母さんが|急《きゅう》に|亡《な》くなったことです。|犯《はん》|人《にん》にとっては、山下を|殺《ころ》してまで調査結果を|奪《うば》うほどの|秘《ひ》|密《みつ》です。それを|怪《あや》しんでいた、お母さんもまた、|危《き》|険《けん》だったはずです」
加奈子は、じっと多田を見つめた。
「何をおっしゃりたいんですか?」
「お母さんの|死《し》が、|果《はた》して|自《し》|然《ぜん》|死《し》かどうか、ということです」
加奈子には、あまりに思いがけない|言《こと》|葉《ば》だった。
「そんな……でも……菊井先生が……」
「いや、|誤《ご》|解《かい》しないで下さい。|別《べつ》に菊井さんが|嘘《うそ》をついているとか、そんなことを言うつもりはありません。ただ、お母さんの|心《しん》|臓《ぞう》が|弱《よわ》っていることは、どなたもがご|存《ぞん》|知《じ》だった。ほんのちょっとした|薬《くすり》や、何かで、|発《ほっ》|作《さ》を|起《お》こされることは|可《か》|能《のう》だったと思います。それを菊井さんが|発《はっ》|見《けん》できなかったとしても、|無《む》|理《り》はありません。もともと|殺《さつ》|人《じん》の|疑《うたが》いを|抱《いだ》く|根《こん》|拠《きょ》はなかったのですから」
「では……どうしましょう」
「もし|同《どう》|意《い》いただければ、お母さんの|遺《い》|体《たい》を|調《しら》べたいのです」
加奈子は|返《へん》|事《じ》に|詰《つ》まった。――母が殺された? とても|信《しん》じられなかった。
しかし、よく考えてみれば、あの秘密――|時《じ》|効《こう》が|成《せい》|立《りつ》したとはいえ、かつて|暴《ぼう》|行《こう》殺人の犯人であったことが知れれば、その|人《にん》|間《げん》は、|社《しゃ》|会《かい》|的《てき》|生《せい》|命《めい》を|絶《た》たれるに|違《ちが》いないのだ。
それは|充分《じゅうぶん》に殺人の|動《どう》|機《き》となり得るのではないか……。
もし、母が殺されたという|可《か》|能《のう》|性《せい》が|万《まん》に一つでもあるのならば、犯人を|捜《さが》し出さねばならない。
「|結《けっ》|構《こう》です。調べて|下《くだ》さい」
と、加奈子はきっぱりと言った。
「ありがとう。あなたなら、きっとそう言ってくれると思っていましたよ」
多田は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「でも……|内《ない》|密《みつ》に、というのは|無《む》|理《り》でしょうか? いくら|責《せき》|任《にん》はないといっても、菊井先生には|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》かもしれません。それに、もし何でもなかったとしても、どんな|噂《うわさ》が|飛《と》ぶか|分《わか》りません」
「それはそうだ。では、|棺《かん》から遺体をこっそり|運《はこ》び出して、またこっそり|戻《もど》す、というのでいかがです?」
「そんなこと、可能ですか?」
「|今《こん》|夜《や》の|内《うち》に運び出します」
「ですけど……|明《あ》|日《す》は|告《こく》|別《べつ》|式《しき》で、棺が|空《から》では――」
「そうか。ではこうしましょう。告別式の|後《あと》|火《か》|葬《そう》|場《ば》へ行きますね」
「はい」
「火葬場で遺体をすり|換《か》える、というのはどうです?」
「それは……でも……」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。私に|任《まか》せて下さい。もしあなたに|異《い》|存《ぞん》なければ」
多田の言葉は、もう|予《あらかじ》め考え|抜《ぬ》かれたものに違いなかった。
加奈子はゆっくり|肯《うなず》いた。――|事《じ》|件《けん》がとめどなく広がって行くようで、|恐《おそ》ろしかった……。
3
加奈子は、|静《しず》かにドアを|開《あ》けて、ナプキンをかぶせた|盆《ぼん》を手に、|暗《くら》い|居《い》|間《ま》へ入って来た。
正彦でも|待《ま》ち|伏《ぶ》せしていたら大変だ。明りを|点《つ》けて、|一《いっ》|旦《たん》、盆をテーブルに|置《お》くと居間の中を|回《まわ》ってみた。|奥《おく》の、死体のあった|一《いっ》|角《かく》は、|椅《い》|子《す》を三つ|置《お》いて|綱《つな》を|張《は》ってある。
|誰《だれ》もいない。大丈夫だ。
加奈子は、ドアの|掛《か》け|金《がね》をかけてから、また明りを|消《け》した。もう夜中の二時を回っている。もし、誰かが居間に明りが点いているのを見たら変に思うかもしれない。
嵐は|去《さ》って、外は月が|輝《かがや》いているらしい。フランス|窓《まど》のカーテンの|隙《すき》|間《ま》から、白い|筋《すじ》が|床《ゆか》を走っていた。風だけは|残《のこ》っているのか、ヒューッという|口《くち》|笛《ぶえ》のような音が聞こえて来る。雲が走っているのだろう、かげっては明るくなり、またかげっている。
加奈子は、|本《ほん》|棚《だな》の前に|踏《ふ》み|台《だい》を置いて|上《あが》り、|仕《し》|掛《かけ》のボタンを|押《お》した。|間《ま》を置いて、本棚が開いた。
「――|君《きみ》か」
上村がソファに|起《お》き上った。
「|眠《ねむ》ってた? ごめんなさい」
「いや、もうたっぷり|寝《ね》た」
「お|腹《なか》|空《す》いてない?」
「今はいいよ」
「じゃ、置いておくから、いいときに|食《た》べてね」
加奈子はパック|容《よう》|器《き》に入れたサンドイッチをテーブルに置いた。「それからこれ――もう|使《つか》ってないポットなの。コーヒーが入ってるわ」
「ありがたい! |熱《あつ》い|内《うち》に|一《いっ》|杯《ぱい》もらうよ」
上村は、紙コップに|注《つ》いだコーヒーをブラックのまま一気に|飲《の》みほすと、|息《いき》をついた。
「おいしい?」
「ああ。|最《さい》|高《こう》だ」
上村は微笑んだ。それから|真《ま》|顔《がお》に|戻《もど》って、
「しかし、大変なことになったじゃないか」
「聞いてた?」
「|一部始終《いちぶしじゅう》ね。殺人|事《じ》|件《けん》か。――|全《まった》く|間《ま》が|悪《わる》いや」
加奈子は、紙コップへもう|一《いち》|度《ど》コーヒーを注いだ。
「あなたは何か聞かなかった? |物《もの》|音《おと》のようなものを」
「いや。|叫《さけ》び声や|呻《うめ》き声はしなかったなあ。――犯人はよほど|手《て》|際《ぎわ》|良《よ》くやっつけたんだよ。でなきゃ、|被《ひ》|害《がい》|者《しゃ》が眠ってたのか……」
「たった一日で、こんなに色々なことが起こるなんて……」
と、加奈子はため|息《いき》をついた。
「でも、|君《きみ》は|怖《こわ》くないのか?」
「私? 怖いわよ」
「いや、|僕《ぼく》のことがさ」
と上村はまじまじと加奈子を見ながら、「僕は殺人犯かもしれない。そしてあの男だって、僕がやろうと思えば|簡《かん》|単《たん》だった。それなのに君は|一人《ひとり》でこんな|所《ところ》へ|平《へい》|気《き》で来ている!」
加奈子はちょっと|笑《わら》って、言った。
「私は|安《あん》|全《ぜん》よ」
「どうして?」
「私を殺したら、あなた|餓《が》|死《し》するもの」
「なるほど」
上村は笑った。「しかし、いつまでも世話になっているわけにはいかない」
「あら、いいのよ。でも、あなたにとってはありがたい話じゃないわね。|表《おもて》を|大《おお》|手《で》を|振《ふ》って歩けないなんて」
「そう。――そりゃ|辛《つら》いもんだよ。いつも誰かが|後《あと》を|尾《つ》けて来るような気がしたり、みんながこっちを見てるように思えたり……。しかも、やってもいないことのために、そんな目にあうんだからね」
「きっと犯人が|捕《つか》まるわ」
「そう信じたいね」
上村は肯いた。「ところで、君から|詳《くわ》しい話を聞くことになってたね。――|警《けい》|察《さつ》の話を聞いてる|内《うち》に、少しは分って来たけど」
「あんなものじゃないのよ、|真《しん》|相《そう》は」
「というと?」
なぜだろう? なぜ私はこの男に何もかも|打《う》ち|明《あ》けてしまうのか。――|逃《とう》|亡《ぼう》|犯《はん》で、殺人者かもしれないこの男に。
たとえ何かの|役《やく》に立ってくれるとしても、この男の、人の|好《よ》さが、ただうわべだけのものだとしたら……。とんでもない|弱《よわ》|味《み》を|握《にぎ》られてしまうことになるのだ。
それなのに、私は、警察にも、菊井さんにも話さなかった秘密を打ち明けようとしている……。
しかし、|一《いっ》|旦《たん》話し|始《はじ》めたものを、|途中《とちゅう》で|止《や》めることはできなかった。加奈子は、話した。――|総《すべ》てを、上村に|打《う》ち|明《あ》けたのだ。
話し|終《お》えると、加奈子はしばらく上村の|視《し》|線《せん》を|避《さ》けていた。上村はずっと|黙《だま》っていた。
加奈子が顔を|上《あ》げてみると、上村は何やらじっと|考《かんが》え|込《こ》んでいる。
「どうしたの?」
「いや……えらい|所《ところ》へ|飛《と》び込んで来たと思ってさ。|君《きみ》には本当に|済《す》まないね」
「いいのよ、そんなこと! 私が|好《す》きでかくまったんですもの!」
上村は、加奈子の話を頭の中でくり|返《かえ》しているようだった。
「――その、お母さんの手紙にある、『あの|部《へ》|屋《や》』っていうのは?」
「ここのことよ」
「じゃ、その|脅迫状《きょうはくじょう》と|人形《にんぎょう》をしまってある|戸《と》|棚《だな》っていうのも、ここにあるの?」
「ええ。ここよ」
加奈子は立ち|上《あが》ると、|壁《かべ》の方へ行って、|一《いっ》|見《けん》、何もないように見える|壁《へき》|面《めん》を強く|叩《たた》いた。壁が二十センチ四方ぐらいにポッカリと|外《はず》れて、|後《あと》に、|鍵《かぎ》|穴《あな》のついた|扉《とびら》が見えた。
「こりゃ|驚《おどろ》いた」
上村は立ち上って、足を|引《ひ》きずりながら、やって来た。「ここはまるでからくり|屋《や》|敷《しき》だな!」
「この戸棚は母の|大《たい》|切《せつ》な|物《もの》がしまってあるって、いつも聞かされていたわ。この中だけは見せてもらえなかった」
「その鍵がなくなった」
「ええ。|誰《だれ》かが|盗《と》ったのよ」
「スペアは?」
「ないわ。母が|処《しょ》|分《ぶん》してしまったみたい。だから|唯《ゆい》|一《いつ》の鍵を、いつも|身《み》につけて歩いていたのよ」
「|開《あ》けられないのかな」
と、上村は、|板《いた》ばりの戸棚の扉を手で叩いてみた。
「とても|無《む》|理《り》ね。|複《ふく》|雑《ざつ》で|丈夫《じょうぶ》な鍵なのよ」
「扉を|壊《こわ》すとか……」
「だめ、だめ。木の扉に見えるけど、中は|鉄《てっ》|板《ぱん》が|挟《はさ》んであるの。壊すのは|不《ふ》|可《か》|能《のう》だわ」
「|金《きん》|庫《こ》|並《な》みか!」
上村は|短《みじか》く|口《くち》|笛《ぶえ》を|吹《ふ》いた。
「どう思う?」
「さて……|僕《ぼく》は|名《めい》|探《たん》|偵《てい》じゃないし、|直接関係者《ちょくせつかんけいしゃ》たちを知らないからね。しかし、|却《かえ》って|私情《しじょう》に|惑《まど》わされることはない」
「それはそうね。|永《なが》|年《ねん》|付《つ》き合って来た人たちのことを、人殺しだなんて考えられないわ、私には」
「あの|隠《かく》しマイクは|凄《すご》いね。よく聞こえる。カメラもありゃ|犯《はん》|人《にん》を見られたのに」
「なまじカーペットが|深《ふか》いから、足音もしないしね」
上村が、ふっと思い出した|様《よう》|子《す》で、
「そうだ、そういえば……」
と言いかけた。
「どうしたの?」
上村はためらいがちに、
「いや、はっきり|分《わか》らないんだが……。たぶんちょうど殺人のあった|頃《ころ》だと思うんだけど、この|小《こ》|型《がた》スピーカーに凄い|雑《ざつ》|音《おん》が入ったんだよ」
「雑音? どんな?」
「いや、ただの雑音さ。でも……何かこう、|電《でん》|気《き》|的《てき》なものなら、ピーとかキューとかいう音だろ? そうじゃなくてザザーッ、と来て、時々ボコンボコンっていうような音がしたんだ」
「そんな音がマイクに?」
「いや、|実《じっ》|際《さい》にそんな音がしたのか、それとも、|回《かい》|路《ろ》がどうかしてあんな音がしたのかは分らないけどね」
「雑音ね……。ずっと|続《つづ》いてたの?」
「いや、ほんの少しだった。でもあの前後があんまり|静《しず》かだったんでね。まあ、その前は少々|騒《さわ》がしかったけど」
と、上村は|笑《わら》った。もちろん、円谷正彦が、加奈子へ|襲《おそ》いかかったことを言っているのだ。
「本当にあのときはありがとう」
と加奈子は言った。「お|礼《れい》もまだゆっくり言ってなかったわ」
「いいんだ。君がしてくれたことを考えれば|当《とう》|然《ぜん》さ」
「でも|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》ね」
と、加奈子はソファに|腰《こし》をおろした。
「何が?」
「正彦さんがモテルのことを言い出したでしょ。あのときカッとなって、ひっぱたいたけど……。前は、|一《いち》|度《ど》あんな所へ行ったっていいかな、なんて思ってたのよ」
「あの男と?」
「そう。――まあ、|結《けっ》|婚《こん》しても|悪《わる》くない、なんてね。何もかも|変《かわ》っちゃって……|私《わたし》も変ったのかもしれない。母が|死《し》んで……|今《こん》|度《ど》の|事《じ》|件《けん》があって……。そして、母の|秘《ひ》|密《みつ》を知ってね」
「しかし、お母さんの|行《こう》|動《どう》は分るね。誰だって、|子《こ》|供《ども》を|人《ひと》|質《じち》に|取《と》られたら、|他《ひ》|人《と》の|命《いのち》なんかどうでもいいと思うさ」
「でも|罪《つみ》は罪だわ。――母は|一生《いっしょう》それを|背《し》負(よ)ってた。どうせなら、その人の罪が|晴《は》れるのを見せて、|安《あん》|心《しん》させてやりたかったわ」
「僕は自分の罪が晴れるのを見たいね」
と上村は言った。
「きっと|大丈夫《だいじょうぶ》よ。――|嵐《あらし》が|過《す》ぎた|翌《よく》|日《じつ》はきれいに晴れ上るものだわ」
加奈子はそう言ってから、「|無《む》|責《せき》|任《にん》な言い方ねこんなの。ごめんなさい」
と目を|伏《ふ》せた。
「|君《きみ》は|珍《めずら》しいね。|金《かね》|持《もち》のお|嬢《じょう》さんにしては、人に気をつかう」
「金持に|偏《へん》|見《けん》があるのね」
「|貧《びん》|乏《ぼう》|人《にん》なら誰でもさ」
と上村は|笑《え》|顔《がお》で言った。「――君、少しは|寝《ね》た方がいいんじゃないのか?」
「ええ、でも……眠くないの。そうじゃない? だって、こんな夜なんて、|生涯《しょうがい》にきっと二度と来ないわ」
「君はまるで――」
と上村は、ちょっと笑顔になって、「それを楽しんでるように見えるね。気を悪くされると|困《こま》るんだけど」
と言った。
「そうね。母がそういう人だったの。どんな|辛《つら》いときや|苦《くる》しいときでも、これはドラマで、自分はそのヒロインだ、って考えるんですって。そうすると|乗《の》り切れると言ってたわ」
「そりゃ、君のお母さんのようにドラマチックな人生を|送《おく》った人なら、ね。僕なんかは――というより、|大《だい》|部《ぶ》|分《ぶん》の人は、およそドラマと|縁《えん》のない人生を送っているんだよ」
「でも、あなたは今ドラマにぶつかっているのよ。|違《ちが》う?」
「ハッピーエンドと分ってりゃ|楽《たの》しむんだけどね」
と上村は|苦笑《くしょう》した。
「――あ、|忘《わす》れてたわ」
加奈子は、|持《も》って来た|紙袋《かみぶくろ》を|開《あ》け、電気カミソリとアフターシェーブローションを|取《と》り出した。
「やあ、ありがとう。よくこんな|物《もの》があったね」
「水原さんのなの。|内《ない》|緒《しょ》で|失《しっ》|敬《けい》して来ちゃった」
「じゃ、|借《か》りるよ。うっとうしいからね、やっぱり」
上村は、電気カミソリのスイッチを入れ、顔に当てた。パチパチと音がして、ざらついた|頬《ほお》がすべすべになって行く。
「――やあ、いい|気《き》|持《もち》だ」
|剃《そ》り|終《お》えて、ローションを顔につけると、「生き|返《かえ》ったみたいだ!――ありがとう」
と|息《いき》をついた。
「あなたのためじゃないわ」
と加奈子が言った。
「え?」
「|私《わたし》のために|持《も》って来たのよ」
「|君《きみ》もヒゲがのびてるの?」
「|失《しつ》|礼《れい》ね」
加奈子は|笑《わら》いながら、上村をにらんだ。
そして、加奈子は、上村へ顔を近づけて、ゆっくりと|唇《くちびる》を|重《かさ》ねた。
「キスして|痛《いた》いんじゃいやだもの……」
と、加奈子は|囁《ささや》いて、上村の|背《せ》|中《なか》へ|腕《うで》を|回《まわ》して行った。|戸《と》|惑《まど》い顔の上村も、ためらいながら、加奈子を|抱《だ》き|寄《よ》せた。|静《しず》かに|離《はな》れると、
「――ドラマらしくなったよ」
と|呟《つぶや》く。
加奈子がハッと|身《み》を|起《お》こした。
「――|誰《だれ》か来たわ」
「え?」
「|玄《げん》|関《かん》の方で音がする。また来るわ!」
加奈子は|急《いそ》いで|隠《かく》し|部《べ》|屋《や》を出ると、|本《ほん》|棚《だな》を|元《もと》に|戻《もど》した。ドアの方へと|小《こ》|走《ばし》りに急ぐ。
「こんな時間に誰かしら?」
|居《い》|間《ま》の明りをつけ、|掛《か》け|金《がね》を外して、ドアを|開《あ》けると、ちょうど、マリ子がやって来るところだった。
「お|嬢様《じょうさま》、こちらでしたか」
「どなたかみえたの?」
「菊井様が――」
マリ子の|後《うし》ろに、ヒョイと、|長身《ちょうしん》の、人の|好《よ》さそうな中年男が顔を出した。
「まあ、|驚《おどろ》いた!」
加奈子は声を上げた。「マリ子さん、先生をお起こしして来て」
「いや、いいんだ」
菊井医師の一人|息《むす》|子《こ》である菊井|和《かず》|昌《まさ》は、マリ子を|止《と》めて、「|親《おや》|父《じ》はもう|若《わか》くないからね。|明《あ》|日《す》の朝|会《あ》うよ」
と言いながら、居間へ入って来る。
「和昌さん、いつこちらへ?」
と加奈子は|訊《き》いた。
「今さ。いや、お母さんが|亡《な》くなったと知ってね、|飛《と》んで来たかったんだが、何しろ、どうしても|交《こう》|替《たい》のきかない|授業《じゅぎょう》があってね。|終《おわ》ってから車でぶっ飛んで来たんだ」
「わざわざどうも。――何かお|飲《の》みになる?」
「いや、もうこんな時間だから」
「マリ子さん、|悪《わる》いけれど、サンドイッチの|残《のこ》りがあったでしょう。持って来てくれる」
「はい。コーヒーも|温《あたた》めましょうか」
「そうしてくれるかい? すまないね」
菊井和昌はそろそろ四十に手の|届《とど》く、父親をぐっとモダンにして、|知《ち》|的《てき》なエリートっぽさを|付《つ》け|加《くわ》えたようなタイプである。
|医《い》|学《がく》の道へは|進《すす》んだが、|結局《けっきょく》|町《まち》|医《い》|者《しゃ》で|終《おわ》った父親の|夢《ゆめ》を|担《にな》って、みごとに|一流私大《いちりゅうしだい》の|医《い》|学《がく》|部《ぶ》で|助教授《じょきょうじゅ》の|地《ち》|位《い》を|得《え》ている。
「本当に気の|毒《どく》だったね、お母さんは」
「どうも……」
「|大病院《だいびょういん》へ入って、ゆっくり|治療《ちりょう》すれば、と言ってたのに……。でも、君のお母さんにとっちゃ、病院|暮《ぐら》しなんて、生きてる|内《うち》に入らなかったんだろうねえ」
「母は|満《まん》|足《ぞく》だったと思いますわ。|好《す》きなようにして|死《し》んだんですから。――どうぞ、おかけになって」
「家へ行ったら、|手《て》|伝《つだ》いのおばさんが、親父はここに|泊《と》めていただいてると言うんでね、夜中だからどうかとは思ったけど、ともかく来てみたんだ」
「こっちがお|願《ねが》いして|泊《とま》っていただいたんですわ。|私一人《わたしひとり》じゃ何かと|心細《こころぼそ》いので」
「君はしっかりしてるもの」
「和昌さんは、まだお|独《ひと》り?」
「うん。どうにも|困《こま》ったもんだよ。女の子を|眺《なが》めるより本の|背《せ》|中《なか》を眺めてる方がよっぽど|楽《たの》しいんだから」
「もてすぎて、|結《けっ》|婚《こん》する気がしないんでしょ」
「|大人《おとな》をからかっちゃいけない」
と、菊井和昌は|苦笑《くしょう》した。「――あれはどうしたの?」
と、|奥《おく》の、|綱《つな》を|張《は》った|一《いっ》|角《かく》を目に|止《と》めて言った。
「ああ、何もご|存《ぞん》|知《じ》ないんですね。ここで人殺しがあったんですよ。|大《おお》|騒《さわ》ぎで――」
「人殺し?」
菊井和昌は目を|見《み》|張《は》った。
「ええ、夜中まで|警《けい》|察《さつ》の|取《と》り|調《しら》べで|大《たい》|変《へん》だったんです」
「しかし……どうしてまた?」
「分りません。母が何か|調査《ちょうさ》を|依《い》|頼《らい》していた探偵が殺されたんです」
「犯人は?」
「まだ分りません。もう何だかめちゃくちゃな一日だったんです」
と、加奈子は|実《じっ》|感《かん》した通りを口にした。
ドアが|開《あ》いて、
「和昌!」
と声がした。菊井医師が、ガウン|姿《すがた》で立っている。
「やあ、父さん」
「父さん、じゃないぞ。今まで何をしてた?」
「これでも車を飛ばして来たんだよ。――ただ、|途中《とちゅう》の道が|混《こ》んでたり、|運《うん》|悪《わる》く|事《じ》|故《こ》に出あってね。こっちは医者だから、|仕《し》|方《かた》なく|手《て》|当《あて》してやったり……」
「マリ子さんが|起《お》こしたんですか」
と加奈子が|訊《き》く。
「いや、何か声がしたんでな。こんな夜中に、みんなを|叩《たた》き起こすような大声を出しおって!」
菊井は、息子の|肩《かた》を|嬉《うれ》しそうに叩いた。
何しろ、助教授として、|教壇《きょうだん》に立ちつつ、|診療《しんりょう》にも当っている和昌は、めったに父と顔を合わせることもないので、菊井の方も、こんな|場《ば》|合《あい》とはいえ、嬉しさを隠せないようだ。
「加奈子君も、少し|寝《ね》た方がいいんじゃないのかね」
と、菊井が時計を見て、「もう夜が明けてしまうよ」
「大丈夫です、|徹《てつ》|夜《や》ぐらい。若いんですもの」
「やられたね、父さん」
と、和昌が笑った。
マリ子が、|食事《しょくじ》の|盆《ぼん》を|運《はこ》んで来る。――和昌と|一《いっ》|緒《しょ》に、菊井、加奈子もコーヒーを|付《つ》き合って、この一日のてんまつの|説《せつ》|明《めい》に時間を|過《すご》した。
「――やあ、こりゃ大変だ」
和昌が言った。「本当に朝になっちまう。加奈子君、もう|寝《やす》んでくれ」
「はい。そろそろ少し眠くなって来ましたから」
加奈子は、|実《じっ》|際《さい》は目が|冴《さ》えていたのだが、立ち上ってそう言った。たぶん、菊井親子だけで話したいことがあるだろうと思ったのである。
「和昌さんは、こちらへお泊りになりますか?」
「そうだね。このソファででも、二、三時間うたた寝させてもらえば|充分《じゅうぶん》だよ」
「なに、もし|寝《ね》るなら|私《わたし》の|泊《と》めてもらっている|部《へ》|屋《や》へ|来《こ》い。|床《ゆか》だって寝られる。この家のカーペットは|厚《あつ》いからな」
加奈子は|微《ほほ》|笑《え》んで、
「では、菊井先生、おやすみなさい」
と|会釈《えしゃく》した。二人とも「先生」でいいわけである。
ドアのノブへ手をかけたとき、|戸《こ》|外《がい》の空気を|数《すう》|発《はつ》の|銃声《じゅうせい》が|震《ふる》わせた。
「――あれは?」
と、和昌が立ち|上《あが》る。
「銃声だわ。――何でしょう?」
「かなり近かったな」
と菊井も立ち上った。
「|僕《ぼく》が見て来る。ここにいて下さい」
と和昌が|飛《と》び出して行った。
加奈子は、菊井と顔を見合わせて、
「――よく色んなことが|起《お》こる日だわ」
と|呟《つぶや》いた。
「|例《れい》の|逃《とう》|亡《ぼう》|犯《はん》|人《にん》とかいうのが、|見《み》|付《つ》かったのかもしれんな」
「そう……そうですね」
加奈子は|落《お》ち|着《つ》かない|様《よう》|子《す》で言った。
しばらく、|不《ふ》|安《あん》の|内《うち》に時が|過《す》ぎて、|玄《げん》|関《かん》の方にドタドタと人の足音がした。
「――やれやれ、|全《まった》く!」
入って来たのは多田|刑《けい》|事《じ》だった。「やあ、どうも|度《たび》|々《たび》お|騒《さわ》がせして……」
「|何《なに》|事《ごと》ですか」
と菊井が|訊《き》く。
「この|屋《や》|敷《しき》の|周囲《しゅうい》をパトロールしていましてね、|塀《へい》を|乗《の》り|越《こ》えようとしている|奴《やつ》がいたので、声をかけると|逃《に》げ出しまして……」
|開《あ》いたドアから、|他《ほか》の刑事に|腕《うで》を|取《と》られて、四十がらみの、パッとしない小男が入って来た。けがをしたのか、左手をしっかりと|押《おさ》えている。
「ひどいじゃないか、いきなり|射《う》つなんて!」
「逃げるからだ」
と|若《わか》い刑事がやり|返《かえ》す。
「|威《い》|嚇《かく》|射《しゃ》|撃《げき》が|腕《うで》をかすったんですよ」
と、多田が言った。「先生、ちょっと|診《み》てやってくれませんか」
「|鞄《かばん》を|持《も》って来ていないが……」
「フン、威嚇射撃を|水《すい》|平《へい》に|撃《う》つとはどういうことだよ!」
と男は|毒《どく》づいている。
菊井和昌が鞄を手に入って来た。
「ちょうど車に入れてあったんだ」
「こちらは?」
多田が|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》そうに|訊《き》いた。
「私の|息《むす》|子《こ》でして。やはり|医《い》|者《しゃ》です。息子に|任《まか》せて|下《くだ》さい」
「そうですか。なるほどよく|似《に》ていらっしゃる」
「菊井和昌です」
と、|会釈《えしゃく》して、「さあ|傷《きず》を出して。――|僕《ぼく》は手を|洗《あら》って来ますから」
男はふてくされ|気《ぎ》|味《み》に、
「|警《けい》|察《さつ》から|治療費《ちりょうひ》と|賠償《ばいしょう》を|取《と》ってやるぞ」
とブツクサ|言《い》っていたが、どうやら、本気ではないようだった。
和昌は|手《て》|早《ばや》く|手《て》|当《あて》をしながら、
「――ほんのかすり|傷《きず》だよ」
と言った。
「ところで、どうしてここへ|忍《しの》び|込《こ》もうとしてたんだ?」
多田が訊く。
「|待《ま》ち合せがあってね」
「塀の中でか?」
「外だよ。でも……山下さんは|絶《ぜっ》|対《たい》に|遅《おく》れて来ない人なのに|姿《すがた》が見えないんで、おかしいと思ったんだ」
「山下?――お前、山下を知ってるのか」
「パートナーですからね」
「山下は一人でやる男だろう」
「|最《さい》|近《きん》は、|仕《し》|事《ごと》によって組んでたんですよ。|嘘《うそ》だと思うんなら、|誰《だれ》にでも訊いて下さい」
「お前の名は?」
「川口です」
「川口か。――で、山下と|会《あ》ってどうするはずだったんだ?」
「そりゃ|職業上《しょくぎょうじょう》の|秘《ひ》|密《みつ》ですよ」
と|気《き》|取《ど》って、「ねえ、この家の人に会わせて下さい。ここへ山下さんが来たはずなんです」
「来たよ」
と、多田が言った。「|殺《ころ》された」
川口はアングリと口を開けて、
「そんな……|冗談《じょうだん》でしょ?」
「|残《ざん》|念《ねん》だが本当だ。この部屋の中で殺されたんだ」
川口はゴクリと|唾《つば》を|飲《の》み込んだ。
「じゃ……本当に……」
「山下は何の|事《じ》|件《けん》を|調《しら》べてたんだ? 誰のことを?」
と多田が訊く。
加奈子は|息《いき》をつめて、川口という男の|言《こと》|葉《ば》を|待《ま》った。
川口は、長く息をついた。
「いや……|俺《おれ》は何も聞いてないんです。ただ、ここへ来いと言われただけで」
加奈子は|失《しつ》|望《ぼう》のため息をついた。
「何もか? 本当か?」
「|隠《かく》したって|仕《し》|方《かた》ないじゃないですか。山下さんが死んじまっちゃ、|結局一文《けっきょくいちもん》にもならないや」
川口は|肩《かた》をすくめて言った。
「山下は何のためにお前を|呼《よ》んだんだ?」
「さあね。|分《わか》りません。たぶん……何か|渡《わた》す|物《もの》があったんじゃないですか」
「渡す物?」
「俺は色々顔がきくんで、|宝《ほう》|石《せき》|類《るい》とか、そんな物をよく|預《あず》かって、|値《ね》をみてもらったもんです」
「|盗《とう》|品《ひん》じゃあるまいな」
「とんでもない!――あ、そうだ」
川口は|内《うち》ポケットへ手を入れると、「これを預かってました。ここへ持って来い、と言われて」
加奈子は思わず息を|呑《の》んだ。それは、母が首にかけていたペンダントだった……。
第三章
1
桜井マリ子が、|勢《いきお》い|良《よ》く、フランス|窓《まど》のカーテンを|開《あ》けると、すっかり明け切った朝の光が|居《い》|間《ま》に|満《み》ちた。
時計は十時を|指《さ》している。
「やあ、おはよう」
開いたドアから、水原が入って来た。
「おはようございます」
とマリ子が|会釈《えしゃく》する。
「|晴《は》れたね」
「ええ。風ももうほとんどないようですわ」
「良かった。雨や|嵐《あらし》の中の|告《こく》|別《べつ》|式《しき》じゃ、何だか|惨《みじ》めだものな」
「|今日《きょう》は|大《おお》|勢《ぜい》みえるんでしょうね」
マリ子が、|椅《い》|子《す》の|場《ば》|所《しょ》などを|直《なお》しながら|言《い》った。
「まあ、会社の|主《おも》だったところは顔を|揃《そろ》えるからね。|社《しゃ》|葬《そう》はまた|別《べつ》にやるにしても」
「|大《たい》|変《へん》ですね、こっちも」
「まあ、みんな|焼香《しょうこう》だけして帰ると思うけどね。ここに|残《のこ》るのは、社長|連中《れんじゅう》だけさ」
「|皆《みな》さん、|火《か》|葬《そう》|場《ば》までいらっしゃるんでしょうか?」
「人によるだろうな。ここで|待《ま》つ|者《もの》もいるかもしれない。ともかく加奈子さんが|戻《もど》って来てから、|弁《べん》|護《ご》|士《し》を|交《まじ》えて、あれこれと話があるはずだよ」
マリ子は、ふと手を休めて、
「このお|屋《や》|敷《しき》はどうなるんでしょうね」
「さあね」
と水原は|笑《わら》って、「|僕《ぼく》に百|万《まん》|円《えん》ぐらいで|払《はら》い|下《さ》げてくれないかな」
マリ子も|一《いっ》|緒《しょ》に笑った。
「ゆうべはゆっくりお|寝《やす》みになれました?」
「うん。そうしなきゃ、朝こうしてパッと|飛《と》び|起《お》きて|働《はたら》けやしないよ」
「よく|眠《ねむ》れますね、|殺《さつ》|人《じん》|事《じ》|件《けん》があったっていうのに!」
水原は|澄《す》まして言った。
「僕が|殺《ころ》されたわけじゃないからね。もっとも、殺されりゃ、ずっと眠りっ|放《ぱな》しだけど」
「じゃ、ピストル|騒《さわ》ぎもご|存《ぞん》|知《じ》ないんですね?」
「ピストル? 何だいそりゃ?」
水原はキョトンとしている。
「|幸《しあわ》せで|結《けっ》|構《こう》ですわ」
とマリ子が行きかける。
「ねえ、ちょっと! ちょっと|待《ま》ってよ!」
水原は|吹《ふ》っ飛んで、マリ子に|追《お》いついた。
「何ですか?」
「いや――こんなときに話しても|仕《し》|方《かた》ないかもしれないけど、|君《きみ》は、ここを|辞《や》めるの?」
「何ですか、出しぬけに?」
と、マリ子は目を|丸《まる》くした。
「つまり、|奥《おく》|様《さま》が|亡《な》くなって、お|嬢《じょう》さんがここに|一人《ひとり》で|住《す》むことになる。それならまあたぶん君も――僕もしばらくはここにいられるかもしれない。しかし、もしお嬢さんが、あの円谷の|馬《ば》|鹿《か》|息《むす》|子《こ》と一緒にでもなったら、僕はとってもここにいる気がしないんだ」
「私もそうです。でも、お嬢さん、きっとあの円谷さんとは|結《けっ》|婚《こん》しないと思いますけど」
「僕もそう思う。そう|願《ねが》いたいところだよ。でも――いずれここを辞めるんだろう?」
「まあ。どうしてそんなことをお|訊《き》きになるんですか?」
「|手《て》|遅《おく》れになっちゃいけないと思ってね」
「手遅れって?」
「つまり……手っ|取《と》り|早《ばや》く言うと、僕と結婚しないかってことなんだ」
マリ子は|唖《あ》|然《ぜん》として、水原を|眺《なが》めていたが、やがて少し|頬《ほお》を|紅潮《こうちょう》させると、
「|悪《わる》い|冗談《じょうだん》はやめて|下《くだ》さい!」
と、水原をにらんだ。
「冗談じゃない! 本気なんだ!」
水原はむきになって言った。
「もっと悪いわ!」
「じゃ、|誰《だれ》かいるのか、|好《す》きな男が?」
「そんな人……いません」
「じゃ、いいじゃないか」
「そんな|無《む》|茶《ちゃ》な――」
「|分《わか》ってる。ともかく、話だけでも聞いてくれよ」
「聞きました。まだあるんですか?」
二人はちょっと|黙《だま》った。水原はエヘン、と|咳《せき》|払《ばら》いして、
「ねえ……。これ本気なんだよ。僕は……この先、|失業《しつぎょう》するかもしれないけど、|君《きみ》一人|養《やしな》うぐらいは何をしても|稼《かせ》ぐから……」
「ありがとうございます」
マリ子は、ちょっと、|笑《え》|顔《がお》を見せた。「|気《き》|持《もち》は本当に……」
「ここでどうこうってわけじゃないよ。ただ――|憶《おぼ》えといてくれりゃいいんだ」
「ええ……。憶えておきます」
マリ子は|早《そう》|々《そう》に|会釈《えしゃく》して、|居《い》|間《ま》を出て行った。
水原は、気が|軽《かる》くなったのか、|口《くち》|笛《ぶえ》で『|世《せ》|界《かい》は|二人《ふたり》のために』を|吹《ふ》き|始《はじ》めていた。
「いけね、今日はお|葬《そう》|式《しき》だった」
と、あわてて口を|押《おさ》える。
ドアが|開《あ》いて、加奈子が入って来た。加奈子はいつも、ドアをパッと大きく開ける。水原は、少し開けて、すり|抜《ぬ》けるように入って来る。――この|辺《へん》にも、|育《そだ》ちの|差《さ》は|現《あらわ》れているのだ。
「おはようございます」
「おはよう。――|仕《し》|度《たく》はいい?」
「はい。|告《こく》|別《べつ》|式《しき》は一時からで……|一《いち》|応《おう》四時までになっております」
「|遠《えん》|方《ぽう》からみえる|方《かた》は、昼前にお|着《つ》きになるかもしれないわね。――でも、つくづくこういうときは、|親《しん》|戚《せき》が少ないって|楽《らく》でいいなあと思うわ」
「|同《どう》|感《かん》です」
「あなたも少ないの?」
「|田舎《いなか》へ帰ると、|挨《あい》|拶《さつ》して|回《まわ》るだけで二日かかります」
「まあ、大変ね」
と、加奈子は笑った。
「お嬢さんが、いつもと|変《かわ》らずお元気なので、心強いです」
「|鈍《にぶ》いのよ、少し」
と加奈子は言った。
ドアが開いて、|手《て》|伝《つだ》いに来ている|娘《むすめ》の一人が顔を出す。
「葬儀社の方が――」
「今、行くよ! では|失《しつ》|礼《れい》します」
「お願いね」
水原は|急《いそ》ぎ足で出て行った。
一人になると、加奈子は、|隠《かく》し|部《べ》|屋《や》へ通じる|本《ほん》|棚《だな》あたりを見たが、今は誰が入って来るか分らない。ソファに|腰《こし》をおろして、じっと|窓《まど》から|覗《のぞ》く|庭《にわ》を|眺《なが》めた。
母が見当をつけていた通り、その人物[#「その人物」に傍点]は、|例《れい》の、倉田という男が|身《み》|替《がわ》りに|捕《つか》まった|暴《ぼう》|行《こう》殺人の|真《しん》|犯《はん》|人《にん》に|違《ちが》いない。だからこそ、その|調査《ちょうさ》|結《けっ》|果《か》を持ってやって来た|探《たん》|偵《てい》、山下は殺されてしまった。
しかし、|一《いっ》|体《たい》誰なのだろう[#「誰なのだろう」に傍点]?
|昨日《きのう》、山下がここにいたのはせいぜい三十分くらいに|過《す》ぎない。もし、犯人が|外《がい》|部《ぶ》から|侵入《しんにゅう》して来たとしたら、|秘《ひそ》かにどこからか家の中へ入って、山下を殺し、外へ出るのに、その時間では|不充分《ふじゅうぶん》ではないだろうか。
それに、|玄《げん》|関《かん》は、水原がちゃんと|鍵《かぎ》をかけてあったのを|確《たし》かめているし、このフランス窓の|掛《か》け|金《がね》も、かかっていた。
また、あの多田という|刑《けい》|事《じ》の言った通り、あの雨と|嵐《あらし》だ。そこから入れば、何かの|痕《こん》|跡《せき》が残らないはずはない。
といって、屋敷の窓や|戸《と》|口《ぐち》は、|全《ぜん》|部《ぶ》|施錠《せじょう》してあったのだから、|他《ほか》から入って、出て行ったとは|考《かんが》えられない。もちろん|共犯者《きょうはんしゃ》が中にいれば別であるが。
ともかく、犯人は、この|内《ない》|部《ぶ》の人間、と考えた方が、|無《む》|理《り》がない。
だが、|昨《さく》|夜《や》、ここにいたのは、全部、この北里|家《け》とは長い|付《つ》き|合《あ》いの人々である。その誰かが、かつて|婦《ふ》|女《じょ》暴行殺人を|犯《おか》し、今また人を殺したとは、とても|信《しん》じられなかった。
だが、母の手紙にもあるように、その|人《じん》|物《ぶつ》は身近に[#「身近に」に傍点]いるというのだ。おそらくあの中の誰かなのだろう。
円谷を|含《ふく》めた|企業《きぎょう》のトップたち、その|夫《ふ》|人《じん》。それだけではない。菊井|医《い》|師《し》、水原、|加《くわ》えるなら、マリ子や、|臨《りん》|時《じ》に来た手伝いの娘だって、|疑《うたが》うことはできるのだ。
だが、それは母のいう「身近な」人間という|言《こと》|葉《ば》には|反《はん》している……。
加奈子は、よほど、|総《すべ》ての|事情《じじょう》を、あの多田という刑事に|打《う》ち明けようかと考えた。
なかなか、|物《もの》|分《わか》りの|良《よ》さそうな男である。しかし、|死《し》んだばかりの母が、|偽証《ぎしょう》で|無《む》|実《じつ》の人間を死に追いやっていたなどと、|暴《あば》きたくはなかった。それならば、|真《しん》|実《じつ》の犯人を|指《さ》し|示《しめ》す|証拠《しょうこ》をこの手に|握《にぎ》ってからにしたいのである。
それに、もしあの母の手紙を多田に見せるとなれば、手紙の中に出て来る「あの部屋」のことを話さなくてはならなくなる。
今は|不《ふ》|可《か》|能《のう》だ。上村を|警《けい》|察《さつ》へ|引《ひ》き|渡《わた》すことはできない。
あの多田が|持《も》って行ったペンダント。――あれは|間《ま》|違《ちが》いなく母のものらしい。
しかし、|奇妙《きみょう》なことだが、加奈子は、あのペンダントが、|昨日《きのう》の朝――というよりまだ|未《み》|明《めい》だったが――母が死んだとき、|傍《そば》の|机《つくえ》にあったのを|憶《おぼ》えているのだ。|人《にん》|間《げん》は、何か|大《たい》|変《へん》な|瞬間《しゅんかん》に出くわしたとき、|割《わり》|合《あい》に、つまらないことを憶えているものである。
ペンダントはその後、|消《き》えてしまった。しかし、それがなぜ、あの川口という男の手にあったのか? そっくりな|別《べつ》の|品《しな》なのだろうか?
加奈子には、|分《わか》らないことばかりである……。くよくよしていたって|仕《し》|方《かた》ない。ともかく、|告《こく》|別《べつ》|式《しき》を|無《ぶ》|事《じ》に|済《す》ませること。それが|目《もっ》|下《か》の|仕《し》|事《ごと》である。|総《すべ》ては、その|後《あと》なのだ。
加奈子がソファから立ち|上《あが》ると、ドアが|開《あ》いて、円谷正彦が入って来た。さすがに、ちょっと照れくさそうな顔をしている。
「おはようございます」
加奈子はわざと|丁《てい》|寧《ねい》に頭を|下《さ》げた。「ずいぶん早いのね」
「うん……」
正彦はメガネを|外《はず》してハンカチで|拭《ふ》きながら、「|君《きみ》にちょっと話があって……」
「|今日《きょう》は|実力行使《じつりょくこうし》じゃないの?」
「ねえ、|勘《かん》|弁《べん》してくれよ。昨日はどうかしてたんだ」
「もう|忘《わす》れたわ」
「本当かい?」
正彦の目が|輝《かがや》く。「じゃ、今まで通り――」
「ついでに|全《ぜん》|部《ぶ》忘れちゃったの。どなたでしたかしら?」
加奈子はそう言うと、さっさと|居《い》|間《ま》を出て行った。
「|畜生《ちくしょう》!」
と正彦は傍の|椅《い》|子《す》を思いっ切りけっとばした。「いてて!」
|安《やす》|物《もの》の|軽《かる》い椅子とは|違《ちが》う。一|脚《きゃく》でもどっしりと|重《おも》いのだ。正彦がけとばしたぐらいでは、びくともしない。
「ああ、畜生、ついてねえ!」
とブツクサ言いながら、ソファで足をさすっていると、
「|失《しつ》|礼《れい》します……」
と入って来たのは、手伝いに来ている|近《きん》|所《じょ》の女の子である。
「どうしたの? 何か|捜《さが》し|物《もの》?」
ちょっと|可《か》|愛《わい》い|娘《むすめ》となるとたちまち|優《やさ》しい|笑《え》|顔《がお》に|変《かわ》る。
「あの……椅子を|持《も》って来るように言われたんです」
「ああ、そう。|並《なら》べるんだね? じゃ、この|辺《へん》のがいい」
「そうですね」
ちょっと|小《こ》|太《ぶと》りの、しかし可愛い娘である。
「君はこの辺の人?」
「ええ。手伝いに来てくれと言われて」
と、重い椅子を、軽くヒョイ、と持ち上げる。
「|大《たい》|変《へん》だね。手伝おうか」
と、正彦は立って来た。
「|大丈夫《だいじょうぶ》です。力はある方だもの」
と椅子を|運《はこ》んで行くその女の子の|後《うし》ろにくっついて、
「ねえ、|君《きみ》――」
と、正彦はそっとお|尻《しり》をなでた。
「何すんのよ!」
と言うなり、その娘は、正彦の手首をつかんで、「エイッ!」
と、かけ声もろとも|振《ふ》り|回《まわ》した。
正彦の体はもののみごとに一|回《かい》|転《てん》して、|床《ゆか》に|叩《たた》きつけられてしまった。
「|合《あい》|気《き》|道《どう》やってんだからね! 馬鹿にしないでよ!」
女の子はドアを開け、さっさと椅子を運び出す。正彦は、|腰《こし》を|押《おさ》えつつ、よろよろと立ち上り、
「畜生! 人をなめやがって……」
と言いながら、|居《い》|間《ま》を出て行った。
「ああ、やれやれ……」
「|疲《つか》れますな」
東尾と中町は、居間へ入って来ると、ホッと|息《いき》をついた。時計は三時を|指《さ》している。
「|一《いっ》|杯《ぱい》やりますか」
「いいですな」
東尾の方は、ソファにへたり込んでいる。中町が、|洋《よう》|酒《しゅ》の|棚《たな》へ行って、グラスにウィスキーを入れて来た。
「さぁ――」
「や、どうも……」
二人は一気にグラスをあけた。
少し|間《ま》を|置《お》いて、中町が言った。
「見ましたか?」
「何を?」
「円谷さんの顔です。|苦《にが》|虫《むし》をかみつぶしたようだった」
「そうかな? |葬《そう》|式《しき》だからじゃないかな」
「いやいや。ちょっと小耳に|挟《はさ》んだんですがね」
「ほう?」
「あそこの|息《むす》|子《こ》、加奈子さんに振られたようですよ」
「それはそれは……」
と、ニヤリと笑って、「するとあの娘は〈|空《あき》|家《や》〉になったというわけか」
「何といっても、|大《おお》|株《かぶ》|主《ぬし》の|立《たち》|場《ば》ですからね」
「十九の娘がね。|全《まった》くやり切れん!」
と東尾が|慨《がい》|嘆《たん》して見せる。
「|仕《し》|方《かた》ありませんよ、|現《げん》|実《じつ》ですからね、それが」
と、中町はかなりクールである。「それに|巧《うま》く|対《たい》|処《しょ》していかなくては」
「対処というと?」
「いいですか、あの娘は十九|歳《さい》。つまり二十歳になれば、|好《す》きな相手と結婚できるのです。もっとも、今でも|両親《りょうしん》を|失《うしな》ったわけだから、|構《かま》わないんでしょうがね」
「しかし、円谷さんの息子が振られたとなると……」
「そこです。あの娘をこちらの言いなりにできれば、これは|我《われ》|々《われ》の|勝利《しょうり》ですよ」
「なるほど……」
「女は|男次第《おとこしだい》です。|惚《ほ》れた男の言うことなら聞く。あの娘だって、いくらしっかり者とはいえ、女は女ですよ」
中町は|薄《うす》|笑《わら》いを|浮《う》かべながら言った。
ドアをノックする音がした。二人が振り|向《む》くと、ドアが|細《ほそ》く開いて、
「やっぱりこちらでしたか」
と、湊が入って来る。
「円谷さんは?」
「|席《せき》でまた|居《い》|眠《ねむ》りしてましたよ」
中町が、話をくり|返《かえ 》した。
「円谷は少し|調子《ちょうし》に|乗《の》りすぎた」
と、太った東尾が|渋《しぶ》い顔で言う。「息子が北里加奈子の|婚《こん》|約《やく》|者《しゃ》だというのを|売《うり》|物《もの》にして、少々|態《たい》|度《ど》が大きかった」
「そうです」
と中町。「しかし、今やその切り|札《ふだ》を失って、あの人は|焦《あせ》っているはずです」
「なるほど」
湊は口数が少ない。|情勢《じょうせい》がはっきりするまでは、口をきかない男なのである。
「今こそチャンスですよ。円谷さんはどうしていいか分らないでいるはずだ。とっさに他のアイデアが|湧《わ》くほど、頭の|回《かい》|転《てん》は早くありませんからね」
中町の言い方ははっきりしている。
「中町さんは、もう何か|案《あん》があるようですな」
「人間はやはり|子《こ》|供《ども》の|問《もん》|題《だい》に|一《いち》|番《ばん》弱い。|特《とく》に円谷さんのところは、あの正彦というのがウィークポイントです。そこを|突《つ》く」
「しかし、ボンヤリはしているが、そう|悪《わる》いこともしていないのではありませんか?」
「|度胸《どきょう》がないから、大きな|犯《はん》|罪《ざい》とは|縁《えん》がありませんよ。しかし、|却《かえ》って、小さな|罪《つみ》の方が、|人《にん》|間《げん》は|必《ひっ》|死《し》になって|隠《かく》すものです」
「小さな罪。――あのドラ|息《むす》|子《こ》なら、さしずめ女ですか」
東尾が|顎《あご》を|撫《な》でながら言った。
「|図《ず》|星《ぼし》です」
「女との|問《もん》|題《だい》なんて、しかし、金で父親がもみ|消《け》すんじゃありませんか?」
と、湊が言った。
「もみ消せないものもあります」
中町はニヤリと|笑《わら》った。「それに、|幸《さいわ》い、と言うべきか、ここには|警《けい》|察《さつ》が出入りしている」
「ふむ、|面《おも》|白《しろ》そうだ」
東尾が|身《み》を|乗《の》り出す。
「ここの|手《て》|伝《つだ》いに来ている|娘《むすめ》がいるでしょう。みんな|何《なん》|歳《さい》ぐらいだと思います?」
と中町は|他《ほか》の二人の顔を|見《み》|比《くら》べた。
「さあ……十……七、八でしょう」
と湊。
「私もそう思う。まあ二十歳|過《す》ぎが一人くらいかな」
と東尾が|肯《うなず》く。
「私もそう思ったのです。ところが、|実《じっ》|際《さい》に|訊《き》いてみると、|一《いち》|番《ばん》年長で十六。一番|若《わか》い子は十四歳です」
「十四!――しかし、みんな|結《けっ》|構《こう》でかい|胸《むね》をしてるが」
と東尾が目を|丸《まる》くした。
「今の女の子は|発《はつ》|育《いく》がいいのです」
と中町は肯く。「しかし、たとえ見かけがどうあれ、十四の女の子に|暴《ぼう》|行《こう》したとなれば、これは|見《み》|過《すご》してはくれませんよ」
「そりゃそうでしょうが……」
湊はそう言って、|急《きゅう》に|心《しん》|配《ぱい》そうにキョロキョロと|周囲《しゅうい》を|見《み》|回《まわ》した。「そう|注文通《ちゅうもんどお》り暴行するとは|限《かぎ》りませんよ」
「もちろんこちらで、そう|持《も》って行くのですよ」
中町は|得《とく》|意《い》げに言った。「|実《じつ》はもう話はつけてあるのです」
「どういう|風《ふう》に?」
「今の十四の女の子など、もういい|加《か》|減《げん》|遊《あそ》びを|憶《おぼ》えて、金がほしい。だから、たっぷり|小《こ》|遣《づか》いをやるからと言って、円谷正彦を|誘《ゆう》|惑《わく》するのを|承知《しょうち》させました」
「誘惑? 十四の女の子が?」
「もちろん実際に|寝《ね》なくてもいい。その|寸《すん》|前《ぜん》で、|誰《だれ》かが|見《み》|付《つ》けてやめさせる。女の子は、|無《む》|理《り》|強《じ》いされたと|騒《さわ》ぐ。――ちょうど|来《き》|合《あ》わせていた|警《けい》|官《かん》が|駆《か》けつける、という|筋《すじ》|書《がき》です」
「そいつは面白い!」
東尾は気に入った|様《よう》|子《す》である。「私もぜひ居合わせたいものだ」
「しかし――」
と、湊が言った。「しかし」の|好《す》きな男なのである。
「そう|都《つ》|合《ごう》|良《よ》く行きますかね。正彦さんが|乗《の》って来ないかもしれない」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。今は加奈子さんに|振《ふ》られて、ムシャクシャしてるはずですからね。ちょっと|誘《さそ》えばすぐ|尻尾《しっぽ》を振ってついて来ますよ」
中町は正彦を|犬扱《いぬあつか》いしている。
「しかし、それで円谷さんが|退《ひ》きますかね、本当に?」
「大丈夫。そこも|考《かんが》えてあります」
中町はゆっくりと肯いて、「私の知っている|週刊誌《しゅうかんし》の|記《き》|者《しゃ》に、ネタを|流《なが》して書かせるのです。もっとも、|現《げん》|実《じつ》に|現《げん》|行《こう》|犯《はん》で|逮《たい》|捕《ほ》されれば、どう|頑《がん》|張《ば》っても|記《き》|事《じ》になりますよ」
「そうなれば円谷さんは、|黙《だま》っていても|引《いん》|責《せき》|辞《じ》|任《にん》。|後《あと》は|我《われ》|々《われ》の思うまま、というわけですな」
東尾は、もう|成《せい》|功《こう》したかのように|嬉《うれ》しそうだった。「――だが、急がんといけませんな、それなら」
「そうです。あの手伝いの娘たち、|今日《きょう》の夜でもう|用《よう》|済《ず》みですからね」
「すると……」
「|火《か》|葬《そう》|場《ば》から|戻《もど》って、我々だけで一杯やる。|弁《べん》|護《ご》|士《し》を|交《まじ》えて、|一《いっ》|緒《しょ》に|夕食《ゆうしょく》ということになっていて、その後、|各《かく》|種《しゅ》の|打《う》ち|合《あわ》せに入るわけですから、そのときでいいでしょう。どうせあの息子は出やしませんよ。その前に、|例《れい》の娘にちょっとモーションをかけさせれば、|喜《よろこ》んで言われた|場《ば》|所《しょ》へ行く。何しろこの|屋《や》|敷《しき》は、|余《よ》|分《ぶん》な|部《へ》|屋《や》が|沢《たく》|山《さん》あるから|便《べん》|利《り》です」
「|結《けっ》|構《こう》。じゃ、中町さん、お|任《まか》せしましたよ」
「ご|心《しん》|配《ぱい》なく」
中町は|自《じ》|信《しん》たっぷりである。「さて、そろそろ|告《こく》|別《べつ》|式《しき》も|終《おわ》る|頃《ころ》だ。戻っていましょうか。|怪《あや》しまれてもまずい」
三人は居間を出て行った。|最《さい》|後《ご》に出た湊は、ドアを|閉《し》めながら、
「しかし……」
と|呟《つぶや》いた。
2
「きれいな|夕《ゆう》|焼《やけ》ね!」
と、|香《か》|山《やま》|洋《よう》|子《こ》は、フランス|窓《まど》の外を|眺《なが》めて言った。
「洋子さん、ほら、|椅《い》|子《す》を戻すの、手伝ってよ」
マリ子が、|重《おも》い椅子をフウフウ言いながら居間へ|運《はこ》び|込《こ》んで来る。
「はあい」
|大《おお》|柄《がら》で、少々グラマーな体つきの少女、香山洋子は、|悪《わる》びれた|風《ふう》もなく、|呑《のん》|気《き》なもので|口《くち》|笛《ぶえ》など|吹《ふ》きながら、出て行った。
マリ子はため|息《いき》をついて、
「今の若い子は……」
と|呟《つぶや》きながら、椅子を、|元《もと》の通りに|並《なら》べた。「ええと……円谷さん、東尾さん、中町さん、湊さん、それに弁護士の――|角《つの》|田《だ》先生だわ。それから、お|嬢《じょう》さんと菊井先生。七人か」
マリ子は、|暖《だん》|炉《ろ》の前に、七人|座《すわ》れるように、椅子の|間《かん》|隔《かく》を|案《あん》|配《ばい》し|始《はじ》めた。
ドアの|開《あ》く音に、
「早くして。後二つ|足《た》りないわよ」
と|振《ふ》り|向《む》いたが、「あ、菊井先生。すみません! 手伝いの子と|間《ま》|違《ちが》えちゃって」
とあわてて言った。
「いや、|構《かま》わないよ」
パイプを手に、入って来たのは、息子の方、菊井和昌だった。「手伝おうか?」
「とんでもない!」
マリ子は首を振った。「――火葬場へは行かれなかったんですか?」
「うん。僕はどうもだめなんだ。ああいう|場《ば》|所《しょ》にいると気分が悪くなる」
菊井和昌はソファに|腰《こし》をおろした。
「まあ、お|医《い》|者《しゃ》|様《さま》でも、そんなことがあるんですか?」
「|妙《みょう》だと思うかもしれないね。|実《じっ》|際《さい》、|僕《ぼく》にもよく|分《わか》らないんだ。|病院《びょういん》で|死《し》|人《にん》は|見《み》|慣《な》れているし、|手術《しゅじゅつ》をやっても|平《へい》|気《き》だが、ああして、|死《し》|体《たい》を|焼《や》くというのがね……」
和昌は首を|振《ふ》って、「あれは|全《まった》く|違《ちが》うんだよ。何かが違う。|想《そう》|像《ぞう》しただけで|気《き》|持《もち》|悪《わる》くなっちまうんだ」
「気が|優《やさ》しいんですね、先生は」
「どうかね。|臆病《おくびょう》なのさ」
と、和昌は、|笑《わら》いながら|洋《よう》|酒《しゅ》の|棚《たな》の方へ歩いて行った。「|勝《かっ》|手《て》にやらせてもらうよ」
「どうぞ」
ドアが|開《あ》いて、香山洋子が|椅《い》|子《す》をかかえて来た。
「これ、どこですか?」
「こっち。そこへ|並《なら》べて」
「はい」
ドスン、と|床《ゆか》へおろして、「これで|終《おわ》りですか?」
「まだ|残《のこ》ってるでしょ。|全《ぜん》|部《ぶ》|持《も》って来て」
「|一人《ひとり》でですかあ」
とうんざりした顔。
「何なら|他《ほか》の人にも|頼《たの》んでいいわよ」
「はい」
香山洋子が出て行くと、マリ子は|肩《かた》をすくめて、
「今の子はもう、本当に……」
と言った。
「あれは|近《きん》|所《じょ》の子?」
「そうなんです。あの洋子って子、いくつに見えます?」
「そうだなあ」
和昌はグラスを手にして、ちょっと|考《かんが》えてから言った。「十六|歳《さい》ぐらいだろう」
「十四になったばかりなんですよ」
「へえ。大きいね!」
「体ばっかり|大人《おとな》になってって|感《かん》じですね。|胸《むね》だって|私《わたし》なんかより、よっぽど大きいんですもの」
そう言って、マリ子は、「あら、|変《へん》なこと言ってすみません」
と|照《て》れくさそうに首をすくめた。
「いやいや、プロポーションも体のバランスでね。バストが大ききゃいいってもんでもないさ。|僕《ぼく》なんか|女《じょ》|性《せい》の|裸《はだか》など|年中《ねんじゅう》見て、|飽《あ》き飽きだよ。どうして世の男たちはあんなものに高い金を出すのかな」
「先生は|独《どく》|身《しん》|主《しゅ》|義《ぎ》なんですか?」
とマリ子が|訊《き》いた。
和昌は|笑《わら》って、
「この|年《ねん》|齢《れい》まで|独《ひと》りでいると、ずいぶん色々なことを言われるな」
と言った。「大学でもあれこれ言われてるようだよ。|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》に手をつけてるんだとか、いやあいつはホモだ、とかね」
「まあひどい」
「時々、同じ大学の他の|学《がく》|部《ぶ》の女の子なんかがパーティとか何かに|招《まね》いてくれる。若い人たちが|遊《あそ》んでいるのを見るのも|楽《たの》しいからね、行ってみるんだけど、それでも|一《いっ》|向《こう》に|噂《うわさ》も立たない。だめな|奴《やつ》だね、|全《まった》く」
「|真《ま》|面《じ》|目《め》でいらっしゃるんですわ」
「そいつはどうかな。――|面《めん》|倒《どう》くさがりやなだけさ」
「女性とお|付《つ》き合いなさるのも面倒なんですか?」
「|病人《びょうにん》や死体なら、まだ|興味《きょうみ》も|湧《わ》くんだけどね」
マリ子は|愉《ゆ》|快《かい》そうに、
「やっぱり|秀才《しゅうさい》は|違《ちが》いますね」
と笑った。「――あ、そろそろ、|皆《みな》さんお帰りになるわ。じゃ、|失《しつ》|礼《れい》します」
マリ子は、いつになく、よくしゃべり、気持が|弾《はず》んでいる|様《よう》|子《す》だった。入れかわりに、香山洋子がもう一つ椅子を|運《はこ》んで来た。
「並べておいてね」
と、マリ子が言って、出て行く。
洋子は|口《くち》|笛《ぶえ》を|吹《ふ》きながら、椅子を|無《む》|造《ぞう》|作《さ》に置いて、出て行った。
菊井和昌は、グラスを|空《から》にすると、テーブルに置き、洋子が置いて行った椅子を、きちんと置き|直《なお》した。それから、洋子の吹いていた|曲《きょく》を|真《ま》|似《ね》て口笛を吹いてみた。
かすれた音しか出ず、和昌は|苦笑《くしょう》すると、|居《い》|間《ま》から出て行った。
|暮色《ぼしょく》が|次《し》|第《だい》に|色《いろ》|濃《こ》く|漂《ただよ》い|始《はじ》め、居間の中も|薄《うす》|暗《ぐら》くなって来ていた。
そっとドアが|開《あ》いて、入って来たのは、加奈子である。|黒《くろ》|服《ふく》のままで、手にしているのは、|食物《しょくもつ》を入れた|紙袋《かみぶくろ》だった。
ドアの|掛《か》け|金《がね》をかけると、フランス|窓《まど》のカーテンを|急《いそ》いで|閉《し》め、|本《ほん》|棚《だな》の|仕《し》|掛《かけ》で|扉《とびら》を開けた。
「上村さん……」
と声をかける。
|隠《かく》し|部《べ》|屋《や》は明りが|消《き》えていた。
「眠ってるの?――|食事《しょくじ》、持って来たわ。上村さん」
暗がりの中で、|呻《うめ》き声がした。加奈子は明りを|点《つ》けた。
「――どうしたの?」
加奈子は|驚《おどろ》いた。上村は、ソファに|横《よこ》になっていた。顔色が青く、|汗《あせ》が吹き出ている。
「やあ……|君《きみ》か」
上村は弱々しく笑ってみせた。
「どうしたの?」
加奈子は|駆《か》け|寄《よ》って、手を上村の|額《ひたい》に当てた。「|熱《ねつ》があるわ!」
「ちょっと――|捻《ねん》|挫《ざ》した足がね……」
「どうしましょう!」
加奈子は|叫《さけ》ぶように言った。「|病院《びょういん》へ行かなきゃ!」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。さっきよりは|大《だい》|分《ぶ》|良《よ》くなったんだ」
「ずっと暗い中で、一人で|苦《くる》しんでたの?――ごめんなさい! 私のせいだわ」
加奈子はソファの|傍《そば》に|膝《ひざ》をついた。
「君のせいでなんかあるもんか! 君は僕に優しくしてくれただけだ」
上村が言った。加奈子は彼の上にかがみ込んでキスした。
「あなたの熱を私に|移《うつ》せればいいのに――」
「ありがとう。大丈夫だ。さあ、もう行かないと……」
加奈子はためらった。
「でも――本当に大丈夫?」
「もちろんさ。ひどくなりゃ、|警《けい》|察《さつ》に|捕《つか》まえてもらうよ。病院ぐらいは行かせてくれる」
「私が気まぐれでこんな|所《ところ》にかくまったばっかりに……」
「もう言わないで。君のせいじゃない」
加奈子は立ち|上《あが》ると、じっと|足《あし》|下《もと》を見つめていたが、やがて顔を|上《あ》げて、
「人を|呼《よ》んで来るわ」
と言った。
「だめだ!」
「だって、あなたにもしものことが……」
「|心《しん》|配《ぱい》ないと言ってるだろう。それに、君が|犯《はん》|人《にん》をかくまった|罪《つみ》に|問《と》われる」
「|構《かま》わない、私」
「僕の|身《み》になってくれ。僕のせいで君が捕まったりしたら、どんなに|辛《つら》いか、|分《わか》らないのか?」
加奈子は|唇《くちびる》をかんだ。上村は|続《つづ》けて、
「――大丈夫。よくなって来ているんだから。もう少し|様《よう》|子《す》を見るよ」
と|肯《うなず》いて見せた。
加奈子はしばらく|決《けっ》|心《しん》をつけかねていたが、
「じゃ、また|後《あと》で来てみるわ。――本当に大丈夫なの?」
「ああ。明りは点けといていいよ」
加奈子は、隠し部屋を出ようとして、|振《ふ》り|返《かえ》った。そして、いきなりソファへ駆け寄ると、上村の|胸《むね》に|身《み》を|投《な》げ出した。
「あなたが……元気になったら、あなたに|抱《だ》かれに来るわ」
加奈子は上村の|唇《くちびる》へ、唇を|押《お》し当てた……。
加奈子が出て行き、|扉《とびら》が|閉《と》じると、上村は|息《いき》をついて、|呟《つぶや》いた。
「これで死んでも|本《ほん》|望《もう》だな……」
「――いや、|結《けっ》|構《こう》な|食事《しょくじ》でした」
ドアを|開《あ》けて、まず入って来たのは、|髪《かみ》の|半《なか》ば白くなりかかった|初《しょ》|老《ろう》の|紳《しん》|士《し》で、どことなく|引《いん》|退《たい》した|役《やく》|人《にん》とでもいった|印象《いんしょう》だった。
|弁《べん》|護《ご》|士《し》の|角《つの》|田《だ》である。北里|家《け》とは長い|付《つ》き合いだ。
|続《つづ》いて、菊井親子、加奈子、そして、円谷、東尾、中町、湊の四人が入って来た。――いや、少し|遅《おく》れて、|面《おも》|白《しろ》くもないという顔で、円谷正彦も入って来た。
「さあ、おかけ下さい」
と、中町が|如《じょ》|才《さい》なく、角田弁護士に|椅《い》|子《す》をすすめる。「――ええと、二つ椅子が|足《た》らないね」
「いや、|私《わたし》は|結《けっ》|構《こう》」
と、菊井和昌は|辞《じ》|退《たい》した。「話に|加《くわ》わる|立《たち》|場《ば》じゃありませんから。その|辺《へん》に|座《すわ》っていますよ」
「そうですか。じゃ、一つだけ――」
と中町が言いかけると、
「|僕《ぼく》もいらない」
と、正彦が言った。「聞いてたって|仕《し》|方《かた》ないもの」
「何を言ってる!」
円谷が|怒《ど》|鳴《な》った。「ちゃんと座って聞いとれ!」
円谷は|大《だい》|体《たい》虫の|居所《いどころ》が良くないのである。中町と東尾が|素《す》|早《ばや》く|視《し》|線《せん》を|交《か》わした。
「まあ円谷さん、いいじゃありませんか」
と、中町が|取《と》りなすように、「正彦君には|退《たい》|屈《くつ》な話ですよ」
「しかし、行く行くは――」
「あまり|若《わか》い|内《うち》から、|裏《うら》の話まで知らん方がいいぞ」
と東尾が言った。「若い|者《もの》は|正《せい》|義《ぎ》|感《かん》が|強《つよ》い。|経《けい》|営《えい》の|現《げん》|実《じつ》を知るのは、もっと|後《あと》になってからの方がいいです」
円谷は|不《ふ》|服《ふく》げに顔をしかめたが、
「まあいい。|好《す》きにしろ」
と、正彦の方を見もせずに言った。
正彦は、|助《たす》かった、という顔で、|居《い》|間《ま》から出て行った。
「さて、今後のことを|相《そう》|談《だん》しなくては」
と、中町は椅子にかけて、「その前に、|相《そう》|続《ぞく》の|問《もん》|題《だい》はどうですか、角田さん」
と弁護士を見た。
角田は一つ|咳《せき》|払《ばら》いをして、
「浪子さんは|特《とく》に|遺《ゆい》|言《ごん》を|遺《のこ》されませんでした。ですから、|当《とう》|然《ぜん》、|総《すべ》てを加奈子さんが|受《う》け|継《つ》ぐことになります」
「ご主人の方の|親《しん》|類《るい》|縁《えん》|者《じゃ》などは?」
「|調《しら》べてみましたが、|誰《だれ》もありません。――浪子さんの方にも、加奈子さん|以《い》|外《がい》の|血《けつ》|縁《えん》はないので、加奈子さん一人が相続者ということになります」
「この|屋《や》|敷《しき》、土地、それだけでも|大《たい》|変《へん》なものですね」
「|相《そう》|当《とう》の|財《ざい》|産《さん》です」
「加奈子さんも大変だな」
と、中町が加奈子を見た。
加奈子の方は、話など耳に入っていない。上村が|熱《ねつ》で|苦《くる》しんでいるのかと思うと気が気でなく、つい目はあの|隠《かく》し|部《べ》|屋《や》の方へ|向《む》いてしまうのだった。
声をかけられ、少ししてから、
「えっ? あ――すみません、何のお話でしょう?」
とあわてて言った。
「どうしたんだ? |大丈夫《だいじょうぶ》かね」
と、|隣《となり》の椅子の菊井が加奈子の顔を|覗《のぞ》き|込《こ》んだ。
「ええ。|別《べつ》に。つい、ぼんやりしてしまって――」
「まあ、|当《とう》|然《ぜん》だな」
と東尾が言った。「お母さんの|葬《そう》|儀《ぎ》のすぐ|後《あと》で、こんな|仕《し》|事《ごと》の話というのも、ちょっと加奈子さんには|酷《こく》かもしれん」
「いいえ、そんなことありません。どうぞ、|続《つづ》けて下さい」
と加奈子は言った。
「――では|具《ぐ》|体《たい》|的《てき》な問題に入りましょう」
と、角田がいくつか|事《じ》|務《む》|的《てき》な|説《せつ》|明《めい》をした後で言った。「四つの|企業《きぎょう》について、浪子さんは会長の|職《しょく》にあった。もちろん|現《げん》|実《じつ》の|経《けい》|営《えい》はこちらにおられる四人の社長さん|方《がた》に|委《ゆだ》ねられていたわけですが」
「しかし浪子さんの力は大きかったのですよ」
と中町が言った。「私の名前で|通《つう》|達《たつ》を出すのと、浪子さんの名で出すのでは、|効《こう》|果《か》がまるで|違《ちが》ったものです」
中町の言葉に、東尾と湊は|肯《うなず》いた。円谷|一人《ひとり》が、|苦《にが》|々《にが》しい顔で、|腕《うで》を組んでいる。
「いくつかの問題に|関《かん》しては、四つの企業ともに、浪子さんの|決《けっ》|裁《さい》を|仰《あお》ぐことになっていました」
と角田は続けた。「その問題については、今後どうしますかね」
しばらく|誰《だれ》もが|沈《ちん》|黙《もく》した。
「それはまあ……」
と言い出したのは、東尾だった。「|各企業《かくきぎょう》へおろしてもらうことですな。加奈子さんだって、|任《まか》されたらお|困《こま》りだろうし」
「しかし――」
と、また湊が言った。「四社|共通《きょうつう》の|件《けん》については? |例《たと》えば、|保《ほ》|養《よう》|施《し》|設《せつ》とか」
「そんなのは|適《てき》|当《とう》に相談して決めれば――」
と円谷が言いかけて、いささかぞんざいな|口調《くちょう》に|過《す》ぎると思ったのか、|言《こと》|葉《ば》を切った。
「私はそうは思いません」
と言い出したのは、中町だった。
「というと?」
「つまり、今まで浪子さんのみておられた|事《じ》|項《こう》については、相続人である加奈子さんにみていただくべきだと思います」
みんな|一《いち》|様《よう》に|当《とう》|惑《わく》|顔《がお》になった。誰よりも、加奈子|自《じ》|身《しん》が|一《いち》|番《ばん》びっくりした。
「中町さん、そんなこと――」
「いや、私も、|別《べつ》に|旧式《きゅうしき》な|世襲制《せしゅうせい》がいいと思っているわけではないのです」
中町は説明した。「しかし、加奈子さんは浪子さん|譲《ゆず》りの、上に立つ|人《にん》|間《げん》の|資《し》|質《しつ》を具えておられる。それが|貴重《きちょう》だと思うのです。特に、|従業員《じゅうぎょういん》に|対《たい》して、やはり北里の名は、ある|特《とく》|別《べつ》な|響《ひび》きを持っています。これが私は|重要《じゅうよう》な点であると考えているのですが」
「しかし、現実に加奈子さんは、経営のことに関してはご|存《ぞん》|知《じ》ないわけだし――」
と東尾が言いかける。
「すぐに|身《み》につけられますよ」
と、中町は言った。
加奈子は|面《めん》|食《く》らっていた。私が母の|後《あと》を?
――考えてもみないことだった。
中町の言葉を、とても本気には取れない。だとすれば、どういうつもりであんなことを言っているのだろう?
「いかがですか、加奈子さん」
と、角田が言った。
「とても私には――」
と、加奈子が言いかけたときだった。
ドアが|開《あ》いて、何気なくそっちに目を向けた菊井|医《い》|師《し》が、息を|呑《の》んで立ち|上《あが》った。
みんなが|一《いっ》|斉《せい》にドアの方を見た。加奈子は|短《みじか》く|叫《さけ》び声を上げた。
円谷正彦が立っていた。ポカンとして、自分がどこにいるのかも|分《わか》らない、という|様《よう》|子《す》である。ワイシャツの|胸《むね》や|腹《はら》が、|血《ち》で|汚《よご》れている。そして、右手はべっとりと血で|濡《ぬ》れて、何か|銀《ぎん》|色《いろ》に光る|物《もの》を、つかんでいた。
「正彦!」
円谷が椅子を|倒《たお》して、|駆《か》け|寄《よ》った。「お前――どうした? どうしたんだ?」
すぐに菊井親子が|我《われ》に|返《かえ》ったらしい。ほとんど|同《どう》|時《じ》に正彦に駆け寄ると、父親の方が正彦の体をみた。
「けがはしていない。しかし、この血は……」
「父さん」
菊井和昌が、|緊張《きんちょう》した声で言った。正彦の手から、取り上げたのは、メスだった。
「|僕《ぼく》のメスだ」
ドアの外で、けたたましい|悲《ひ》|鳴《めい》が聞こえた。
「二|階《かい》だわ」
と加奈子がドアの方へ歩き出す。ドタドタと|階《かい》|段《だん》を|駆《か》け|降《お》りて来る足音がして、走り|込《こ》んで来たのはマリ子だった。血の気を|失《うしな》い、大きく目を|見《み》|開《ひら》いて、
「二階で――二階で――」
と|膝《ひざ》をつくと、「洋子さんが……殺されて……」
と言ったきり、|床《ゆか》へ|倒《たお》れて気を失ってしまった。
加奈子が|飛《と》び出して行く。
「|待《ま》ちなさい!」
菊井が、正彦を息子へ|任《まか》せて、|後《あと》を|追《お》った。――|他《ほか》は|誰《だれ》|一人《ひとり》、|動《うご》かなかった。
しばらく、|沈《ちん》|黙《もく》が|続《つづ》いた。まるで、動くとまた何かとんでもないことでも|起《お》きると|恐《おそ》れているようである。菊井が、加奈子を|抱《だ》きかかえるようにして|戻《もど》って来た。
「父さん――」
と、和昌が|進《すす》み出る。
「大丈夫です」
|真《ま》っ|青《さお》になった加奈子が、菊井の手を|外《はず》した。そして|奥《おく》の|洋《よう》|酒《しゅ》の|棚《たな》へ走ると、|震《ふる》える手でブランデーをグラスに|注《つ》いで一気にあおった。
「――洋子というお|手《て》|伝《つだ》いの|娘《むすめ》が|殺《ころ》されている」
と、菊井も青ざめた顔で|額《ひたい》の|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》いながら言った。「二階の|部《へ》|屋《や》の――ベッドで。|裸《はだか》で……ひどい殺し|方《かた》だ」
「僕のメスを|使《つか》って?」
「おそらくな。――|腹《はら》を切り|裂《さ》いて、|血《ち》の海のようだ」
誰もが|呆《ぼう》|然《ぜん》としていた。
「ともかく……|警《けい》|察《さつ》へ」
と、菊井が電話の方へと歩きかけたとき、手伝いの娘の一人が、何も知らないらしく、顔を出して、
「あの――警察の方がみえていますけど」
と言った。それから、倒れているマリ子に|気《き》|付《づ》いて、
「あら、どうしたんですか?」
と言った。
「正彦! 何とか言ってくれ!」
「円谷さん……」
中町が、円谷の|肩《かた》をつかんで、「|気《き》|持《もち》は|分《わか》るが、今は|無《む》|理《り》ですよ」
となだめた。
正彦は、|椅《い》|子《す》に|座《すわ》ったまま、|放心状態《ほうしんじょうたい》が|続《つづ》いていた。|居《い》|間《ま》は、|重《おも》|苦《くる》しい|雰《ふん》|囲《い》|気《き》に|包《つつ》まれている。
多田|刑《けい》|事《じ》が戻って来た。
「いや、何ともひどい|死《し》|体《たい》だ」
と息をつくと、「誰か、|事情《じじょう》を話して下さい」
と一同の顔を|見《み》|回《まわ》した。
菊井|医《い》|師《し》が、ざっと|状況《じょうきょう》を|説《せつ》|明《めい》した。
「すると、この正彦さんがメスを持って入って来たんですね」
と多田は、ハンカチの上のメスを見て、「これはあなたの?」
「|息《むす》|子《こ》のものです」
「どこに入っていました?」
多田は和昌の方へ|訊《き》いた。
「僕の|鞄《かばん》です。|玄《げん》|関《かん》|前《まえ》のホールに|置《お》いておいたんです」
「つまり、|盗《ぬす》もうと思えば誰にでもできたわけですね?」
「まあ……そうですね」
多田は正彦の前へ立って、
「どうも、|一《いっ》|緒《しょ》に来ていただく|他《ほか》なさそうですな」
と言った。
「待ってくれ!」
円谷が多田につかみかかった。「息子は何もしやしない。そんなことのできる|奴《やつ》じゃない!」
「ご|当《とう》|人《にん》から、ゆっくりうかがいますよ」
「しかし――息子はショックを|受《う》けてるんだ。休ませなきゃ――」
「分っています。警察の方で休んでいただくだけですよ」
と、正彦の|腕《うで》を|取《と》って立たせる。
「おい! 息子を|離《はな》せ!」
円谷が多田へ食ってかかる。他の刑事が、円谷を|押《お》し戻した。
「|別《べつ》に|逮《たい》|捕《ほ》ではありませんよ」
と多田が言った。「|参《さん》|考《こう》|人《にん》として来ていただくだけです」
円谷は、|諦《あきら》めたのか、|急《きゅう》に力が|抜《ぬ》けたように、ソファにドカッと座り込んで、頭をかかえてしまった。
多田が|肯《うなず》いて見せると、刑事が二人で、正彦を|連《つ》れて行く。
「とんでもない|事《こと》になりましたな」
多田が|残《のこ》った顔を|眺《なが》めた。
「|殺《さつ》|人《じん》が二|度《ど》もね」
中町が首を|振《ふ》った。「どうなってるんだ、|一《いっ》|体《たい》!」
「こちらがうかがいたいですね」
と、多田が言った。
「前の殺人も正彦君かな」
と、東尾が言った。「やはり|刃《は》|物《もの》を使っているし、それにこの|部《へ》|屋《や》の中にいたわけだし……」
「あいつじゃない!」
円谷は|訴《うった》えるように言った。「父親の私が言ってるんだ!」
「円谷さん」
と、中町が言った。「気持は分るが、今はそんなことを言っていても、何にもならないよ」
円谷は|再《ふたた》び頭を抱えて、それきり|黙《だま》ってしまった。
「多田さん」
やっと顔色の戻って来た加奈子が言った。
「何です?」
「なぜ今ここへいらしたんですか? 何のご用で?」
「そこが|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》なんです」
多田は両手を広げて見せた。「電話があったのですよ、|匿《とく》|名《めい》の」
「匿名の電話?」
「そうです。ここで何か|事《じ》|件《けん》が|起《お》こっているから来てみろ、とね」
「誰の声でした?」
「分りません。男の声のようでしたが、かなりくぐもって……。たぶん、何か|受《じゅ》|話《わ》|器《き》にかぶせてあったのでしょう」
「で、おいでになるとあの事件……。誰が電話したんでしょうか?」
「|不《ふ》|可《か》|解《かい》です。まるで|小説《しょうせつ》の|世《せ》|界《かい》のようですな」
と多田はため|息《いき》をついて、「ともかく正彦さんの|意《い》|識《しき》がはっきりして、話を聞かなくては何とも|申《もう》し上げられませんね」
多田は、二階の|現《げん》|場《ば》へ行くらしく、居間を出て行った。
「先生……|怖《こわ》いわ」
加奈子は言った。菊井がその|肩《かた》を|抱《だ》いて、
「|心《しん》|配《ぱい》するな。私がここにいてあげる」
「ええ、お|願《ねが》いします」
加奈子は、やっと|微笑《びしょう》を作った。
居間の|奥《おく》、酒の棚の前で、東尾と中町が声をひそめて、話をしていた。
「まさかこんなことに――」
と東尾が言いかけると、
「声を|低《ひく》く」
と、中町が|遮《さえぎ》った。「しかし、私だって、あの息子があんなことをやらかす|異常者《いじょうしゃ》だとは思っていませんでしたよ」
「|殺《ころ》された|娘《むすめ》は……」
「|可《か》|哀《わい》そうなことをしました。しかし、|我《われ》|々《われ》のことがばれる|心《しん》|配《ぱい》はありませんよ。ともかく|死《し》んでしまったのですから」
「なるほど」
東尾が、やっとホッとした|様《よう》|子《す》で|肯《うなず》く。「それに円谷さんもあの様子では、とても|仕《し》|事《ごと》どころではないし……」
「そうですとも」
二人はそっと|笑《え》|顔《がお》を|見《み》|交《か》わした。
一人、湊だけは、円谷に|劣《おと》らず、生きた|心《ここ》|地《ち》もない顔でソファの|端《はし》に|座《すわ》っていた。
第四章
1
夜になって、|居《い》|間《ま》の時計は十時を|指《さ》していた。マリ子が一人で、|床《ゆか》に|這《は》いつくばって、|絨毯《じゅうたん》をこすっている。
「|落《お》ちないわね……」
マリ子は体を|起《お》こして、|額《ひたい》に|浮《う》かんだ|汗《あせ》を|拭《ふ》いた。正彦の|靴《くつ》についていたのか、|血《ち》が絨毯にこびりついているのだ。
「やっぱり|専《せん》|門《もん》の|業者《ぎょうしゃ》を|頼《たの》まないと|無《む》|理《り》かしら……」
マリ子はそう|呟《つぶや》いた。
「やあ」
ドアが|開《あ》いて、水原が顔を|覗《のぞ》かせた。「何してるの?」
「お|掃《そう》|除《じ》ですよ。でも、だめだわ」
「|僕《ぼく》がやってあげよう」
と、水原は入って来ると、「どれ?――この赤いのか。血なんだね、さっきの? ちょっと|薄《うす》|気《き》|味《み》|悪《わる》いなあ」
「水原さん、そんなこと――」
「いいから|貸《か》してごらん、その|布《ぬの》を」
水原は|腕《うで》まくりして、四つん這いになると、「えいっ! やあっ! たあっ!」
と、まるで|剣《けん》|道《どう》の|稽《けい》|古《こ》みたいなかけ声と|共《とも》に、力をこめて絨毯をこすり出した。
「こいつ! どうだ!――これでもか! こん|畜生《ちくしょう》!」
聞いているマリ子が、|吹《ふ》き出してしまった。
「ほら、落ちた」
水原はハアハア言いながら立ち上った。
「まあ、本当だわ! すみません、どうも」
「いや、こんなことぐらい……」
と言うと、水原はソファにドタッと座り|込《こ》んで、「|疲《つか》れた!」
と|喘《あえ》いだ。
「|呆《あき》れた。何か|飲《の》みますか?」
と、マリ子が|笑《わら》いながら言った。
「いや、いいよ、ここに座らないか?」
マリ子は、言われた通り、水原の|隣《となり》に|腰《こし》をおろした。水原はしばらく息を|弾《はず》ませながらマリ子を見ていたが、
「――君はよく|働《はたら》くね」
と言った。「いい|奥《おく》さんになるだろうな、きっと」
マリ子は|急《いそ》いで、
「|昨日《きのう》、|今日《きょう》と|大《たい》|変《へん》な|騒《さわ》ぎでしたね」
と話をそらした。
「|人《ひと》|殺《ごろ》しが二日も|続《つづ》けてね……。でも、|君《きみ》はあの女の子の|死《し》|体《たい》を|見《み》|付《つ》けて、よくその場で|気《き》|絶《ぜつ》しなかったね」
「したかったけど、あそこのカーペットはここより薄いんですもの」
マリ子の言葉に、水原は大笑いした。マリ子も|一《いっ》|緒《しょ》に笑った。
「――ああ、やれやれ」
水原は|愉《ゆ》|快《かい》そうに、「君がそうやって笑うのを見たのなんて|初《はじ》めてだな」
「そうですか?」
「君は何だかいつも|悲《かな》しそうだもの」
「そういう|性《せい》|格《かく》なんです」
「マリ子……」
水原はマリ子の|肩《かた》に手を|回《まわ》した。「もう|一《いち》|度《ど》言うけど、|僕《ぼく》と|結《けっ》|婚《こん》する気は?」
「|残《ざん》|念《ねん》ですけど……」
と、マリ子は顔を|伏《ふ》せた。「あなたは、私のことを何もご|存《ぞん》じないわ」
「いいじゃないか。結婚してから、知る時間はたっぷりある」
マリ子は首を|振《ふ》った。
「それから|後《こう》|悔《かい》しても|遅《おそ》いんです」
「後悔しないと|約《やく》|束《そく》する!」
「そんなの|無《む》|茶《ちゃ》です! 後悔なんて、|誰《だれ》だってしたくてするわけじゃないのに」
「それでもしない! 約束する!」
と水原は言い|張《は》った。
マリ子は、少し水原から|離《はな》れた。
「私には……|秘《ひ》|密《みつ》があるんです。あなたにも言えない。だからだめなんです」
マリ子の言葉に、水原は|一瞬《いっしゅん》キョトンとしていたが、やがて、|恐《おそ》る恐る言った。
「あの……まさか君は男なんじゃないだろうね?」
「まあ! ひどいこと言うんですね!」
マリ子は|憤《ふん》|然《ぜん》として立ち|上《あが》った。
「待ってくれ! 悪かった、|謝《あやま》るよ。でも君がひどく|深《しん》|刻《こく》な顔で言うから」
水原が|必《ひっ》|死《し》で|引《ひ》きとめる。
「離して|下《くだ》さい」
「いやだ」
水原は、マリ子の腕をぐっと引っ|張《ぱ》っている。
「離して」
「いやだ」
「じゃ、いいわ」
マリ子が|逆《ぎゃく》に水原の方へいきなり|寄《よ》ったので、|勢《いきお》い|余《あま》って、水原はひっくり|返《かえ》った。マリ子が一緒になって倒れる。
水原が体を起こすと、マリ子の方が腕をのばして、水原を|抱《だ》き寄せた。二人は|深《ふか》|々《ぶか》とした絨毯の上で、|熱《あつ》いキスを|交《か》わした。
「――もう離さないぞ」
水原がマリ子の|胸《むね》に顔を|埋《うず》める。
マリ子は息を弾ませて、水原の頭を抱き寄せた。水原は|鼻《はな》|息《いき》も|荒《あら》く、マリ子の胸に手を入れかけたが――。
「誰か……」
とマリ子が頭を上げた。
「えっ?」
「誰か来たわ! 早く!」
二人は起き上ろうとしたが、そのまま水原の足がもつれてまた倒れる。二人はあわててソファの|裏《うら》|側《がわ》へと|這《は》い|込《こ》んだ。
ドアのノブがカチャリと|鳴《な》って、|静《しず》かにドアが|開《あ》いた。加奈子である。|掛《か》け|金《がね》をかけると、明りがついていたせいか、|慎重《しんちょう》に|居《い》|間《ま》の中を|見《み》|回《まわ》した。だが、ソファの|後《うし》ろの二人には|気《き》|付《づ》かない。|本《ほん》|棚《だな》へ|駆《か》け|寄《よ》ると、|隠《かく》し|部《べ》|屋《や》の|扉《とびら》を開けた。
「――上村さん」
中へ入って、加奈子は青くなった。上村がソファで、ぐったりしている。
「しっかりして!」
加奈子は駆け寄って、上村の|額《ひたい》に手を当て、びっくりした。――|燃《も》えるように|熱《あつ》い。
|良《よ》くなっていると言ったのは、きっと|嘘《うそ》だったのだ。
加奈子はソファの|傍《そば》に|膝《ひざ》をついて、頭をかかえた。――しかし、長くは|考《かんが》えていなかった。
加奈子は隠し部屋を出ると、扉は開けたままにして、書き|物机《ものづくえ》の電話を|取《と》って、|内《ない》|線《せん》の|番《ばん》|号《ごう》を|回《まわ》した。
「――菊井先生ですか。加奈子です。|夜《や》|分《ぶん》|申《もう》し|訳《わけ》ありませんけど、居間へ来ていただけませんか。――ええ、お|待《ま》ちしています」
加奈子は、|椅《い》|子《す》に|腰《こし》をおろして、待った。|表情《ひょうじょう》は|固《かた》く、やや青ざめてはいたが、もう|迷《まよ》いはなかった。
ややあって、ドアをノックする音がした。
「私だよ」
と、菊井の声。加奈子はドアを開けた。
「|一《いっ》|体《たい》どうしたんだね」
と菊井|医《い》|師《し》が入って来る。
「|患《かん》|者《じゃ》がいるんです。|診《み》て|下《くだ》さい」
「どこに?」
「あそこです」
菊井は、開いたままの本棚を見て目を|見《み》|張《は》った。
「あれは?」
「あの|奥《おく》に|秘《ひ》|密《みつ》の部屋があって、母がよく|使《つか》っていたんです」
「こりゃ|驚《おどろ》いた!」
菊井は|唖《あ》|然《ぜん》としている。加奈子が先に立って、
「中にいる人を診て|欲《ほ》しいんです」
と入って行くと、菊井も|急《いそ》いでついて行った。
ソファに|寝《ね》ている上村を見て、
「――これは|誰《だれ》だね?」
「上村裕三。|警《けい》|察《さつ》が|追《お》っている人です」
菊井は|愕《がく》|然《ぜん》とした。
「加奈子|君《くん》! 君は――」
「でも、この人は|無《む》|実《じつ》なんです! |罪《つみ》を|着《き》せられて、|逃《に》げてるんです。先生、お|願《ねが》いですから、私を|信《しん》じて下さい」
菊井は、|訴《うった》えかける加奈子の目を、じっと見ていたが、
「ともかく|具《ぐ》|合《あい》を|診《み》よう」
と言った。あれこれ|調《しら》べて、菊井は首を|振《ふ》った。
「――|高《こう》|熱《ねつ》で|参《まい》ってるな。まず熱を|下《さ》げにゃならんよ」
「ここで何とかなりませんか」
「できんことはないかもしれん。しかし……」
「お願いします!」
加奈子が深く頭を下げる。
「やめなさい。――いいよ、|分《わか》った。この男のことは|君《きみ》に|任《まか》せよう」
菊井の言葉に、加奈子は目を|輝《かがや》かせた。
「先生!」
「ともかく|診察鞄《しんさつかばん》がないと……。そうか、和昌の|奴《やつ》のがあるな。待ちなさい、|取《と》って来よう」
「はい!」
加奈子はドアまでついて行くと、その場で菊井が|戻《もど》るのを待っていた。すぐに、菊井は戻って来た。
「和昌の奴、ぐっすり|眠《ねむ》っていた。じゃ、熱をさげる|注射《ちゅうしゃ》をしよう。それから、君はタオルを二、三枚持って来て、できるだけ|冷《つめ》たい水で額を|冷《ひ》やしなさい」
「分りました」
「今夜中に熱がひけば、|入院《にゅういん》の|必《ひつ》|要《よう》はあるまい。しかし、|明《あ》|日《す》になっても熱が|続《つづ》くようだと、体力を|消耗《しょうもう》するからね、入院させなくては、|命《いのち》にかかわるよ」
加奈子は|肯《うなず》いた。
「そのときは、ちゃんと|届《とど》け出ます」
「君が罪に|問《と》われるのは|困《こま》る。外へ出して、君は知らなかったことにすれば――」
「いいえ、自分でやったことの|責《せき》|任《にん》は取ります」
加奈子の|言《こと》|葉《ば》に、菊井は|苦笑《くしょう》した。
「君は|全《まった》くお母さんによく|似《に》ている。――さあ、タオルを」
「はい!」
加奈子は居間から|駆《か》け出して行く。
一方、ソファの|後《うし》ろで、水原とマリ子は|動《うご》くに動けないでいた。
「――|驚《おどろ》いたな。あんな|所《ところ》に部屋があるなんて」
水原が|低《ひく》い声で言った。
「シッ!」
「しかし……どうしよう?」
「今は出て行けませんよ」
「ここにいるのか、ずっと?」
「お|嬢《じょう》さん一人にならなければ……」
「今なら先生はあの中だぞ」
「だめ。お嬢さんがきっとすぐ戻って来ますわ」
と言い|終《おわ》らない|内《うち》に、加奈子が、タオルを一かかえ持って戻って来る。
「一ダースも持って来たんだわ」
と、マリ子は|呆《あき》れたように言った。
「今なら|大丈夫《だいじょうぶ》だ。二人ともあの中だぞ」
と水原が体を|起《お》こす。
「お|一人《ひとり》でどうぞ」
「ええ? 君は?」
「ここにいます」
「だって――」
「どうなるか、気になりますもの」
水原はため|息《いき》をついて、また|寝《ね》そべった。
「行かないんですか?」
「|付《つ》き合うよ」
と水原が言った。
マリ子はちょっと|微《ほほ》|笑《え》んで、水原の|頬《ほお》にキスした。
二十分ほどして、菊井が隠し部屋から出て来た。
「ともかく、私にできるのは、これだけだ。|後《あと》は朝の|様《よう》|子《す》を見るんだね」
「はい」
加奈子も出て来て、「ありがとう、先生」
と言った。
「いいさ。|無《む》|鉄《てっ》|砲《ぽう》は若い人の|特《とっ》|権《けん》だ」
と、菊井医師は|笑《わら》った。「じゃ、後は任せたよ」
「私が、ずっとついていますから」
「急に様子がおかしくなったら呼びなさい」
と菊井は言って、居間を出て行った。
加奈子は、ドアの掛け金をかけると、急いで隠し部屋へ戻った。
「元気になってね……」
水に|浸《ひた》したタオルを、上村の額にのせて、そっと|囁《ささや》きかける。「元気になったら|抱《だ》かれに来るって|約《やく》|束《そく》したんだから」
居間の時計は、十一時に|近《ちか》|付《づ》いていた……。
四時を|回《まわ》った。
加奈子は、フランス|窓《まど》のカーテンを少しからげて、|表《おもて》を見た。ごくわずかだが、朝の|気《け》|配《はい》が|感《かん》じられて、|鳥《とり》の|鳴《な》く声がどこからか|流《なが》れて来る。
加奈子は頭を思い切り|振《ふ》って、|眠《ねむ》|気《け》を|追《お》い|払《はら》った。さすがに少し|疲《つか》れがたまって来ているのだ。
大きく|伸《の》びをすると、|隠《かく》し|部《べ》|屋《や》へと|戻《もど》って行く。――上村の|傍《そば》に|座《すわ》り|込《こ》んで、じっとその顔を|眺《なが》めながら|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「私の|勝《かち》だわ」
と|満《まん》|足《ぞく》|気《げ》に|呟《つぶや》く。
|熱《ねつ》は、ほとんどひいて、上村の顔にも、|血《ち》の気が戻っていた。|呼吸《こきゅう》も|穏《おだ》やかになって、ぐっすりと眠っている。
加奈子は、|彼《かれ》の頭のすぐわきへ、頭をもたせかけた。目を|閉《と》じて、彼の|静《しず》かな|吐《と》|息《いき》を聞いている……。
どうして、こんな|気《き》|持《もち》になるのだろう? どうして、こんなことになってしまったのか。
|突《とつ》|然《ぜん》飛び込んで来た、この、どこの|誰《だれ》とも知れない男に、なぜこうも|魅《ひ》かれるのか。
だが、加奈子は母親に|似《に》て、こうと|決《き》めたら、|迷《まよ》ったり|考《かんが》えたりはしない|性《せい》|格《かく》である。
|一《いっ》|旦《たん》|始《はじ》めてしまったものは、立ち|止《どま》って考えても、何の|役《やく》にも立たない。やりとげる|他《ほか》はないのだ。そして、母はたいていのことをやりとげたのだった。
ただ一つ、手紙にあった、〈|身《み》|近《ぢか》な|人《じん》|物《ぶつ》〉の|正体《しょうたい》を|暴《あば》くことを|除《のぞ》いては。
それは自分が|引《ひ》き|継《つ》いで、やりとげてみせる、と加奈子は思った。そう。――今、こうして、上村の熱をひかせてしまったように……。
ふっと――眠っていた。
ここ二、三日の|疲《つか》れがあったのか、そのまま眠り込んでしまったのだ。
何かを|叩《たた》く音で、目が|開《ひら》いた。――あれは? 何だろう?
加奈子は、ハッと頭を|上《あ》げた。
「いけない!」
|居《い》|間《ま》のドアをノックしている音だ。加奈子は、上村の|額《ひたい》に手を当てた。熱は|下《さが》っている。
急いで隠し部屋から出ると、|扉《とびら》を|閉《し》めた。カーテンから朝の光が|射《さ》し込んでいる。
六時半だった。――ドアを|開《あ》けると、マリ子が立っていた。
「こちらだったんですか。ゆうべお休みになった|様《よう》|子《す》がないので、|心《しん》|配《ぱい》しました」
「ごめんなさい……。ここで一休みしてる|間《あいだ》に眠っちゃったのよ。もう朝なのね」
「もう|一《いち》|度《ど》お休みになりますか?」
「いいえ。|今日《きょう》は、|昨日《きのう》の|会《かい》|議《ぎ》の|続《つづ》きがあるし、それに正彦さんのことで、|警《けい》|察《さつ》も来るでしょう。もう|起《お》きるわ」
「お|召《め》し|物《もの》は……」
「そうね。もう|喪《も》|服《ふく》じゃなくて、何か|地《じ》|味《み》なワンピースにしようかしら。自分で|選《えら》ぶわ」
「|分《わか》りました。ご|朝食《ちょうしょく》は何時にいたしますか」
「シャワーを|浴《あ》びるから……八時でいいわ」
「はい」
加奈子が二|階《かい》へ|上《あが》って行くのを|確《たし》かめて、マリ子は居間へ入ってドアを|閉《し》めた。
フランス|窓《まど》から|一《いっ》|旦《たん》外へ出て、|玄《げん》|関《かん》から入って来たのである。
マリ子はソファの|後《うし》ろを|覗《のぞ》いた。水原がスヤスヤと眠っている。ちょっと笑って、それから|本《ほん》|棚《だな》へ|向《むか》って立つ。
「確か――あの|辺《へん》の本だったわ……」
|踏《ふ》み|台《だい》にのって、|記《き》|憶《おく》を|頼《たよ》りに、その辺の本を一|冊《さつ》ずつ|抜《ぬ》いてみる。十冊目くらいに、それらしい、ボタンを|見《み》|付《つ》けた。
|押《お》すと、モーターが|動《うご》くような、ブーンという|微《かす》かな音がした。本を|戻《もど》して、踏み台を手に|退《さ》がっていると、少しして扉が開いた。
マリ子は、そっと隠し部屋の中を覗き込んで見回した。
「ここが、『あの部屋』だったのね」
と|呟《つぶや》く。
ソファの上の男は眠り込んでいるようだ。マリ子は、|胸《むね》から、|細《ほそ》い|鎖《くさり》の先につけた、小さな|鍵《かぎ》を取り出した。
「戸棚、戸棚、と……。どこにあるのかしら?」
鍵はある。しかし、|肝《かん》|心《じん》の戸棚そのものが見当らないのだ。
「たぶん、どこかに、隠してあるんだわ」
マリ子は、ソファの上の男の方へ時々目を|向《む》けながら、隠し部屋の中を|捜《さが》し回った。奥の|洗《せん》|面《めん》|所《じょ》も|調《しら》べてみた。
「隠し部屋の隠し戸棚か……」
マリ子は|軽《かる》く|息《いき》をついた。――|後《あと》は|壁《かべ》しかない。
手で壁を|撫《な》でるようにして、|調《しら》べて行くと、目に付かなかった切れ込みを見付けた。
これだ、と口の中で呟く。――だが、どうやって開ければいいのか?
押してもびくともしない。といって、つかむような|突《とっ》|起《き》も見当らないのだ。やはり、本棚のような|仕《し》|掛《かけ》でもあるのだろうか?
「せっかくここまで来たのに――」
マリ子は|悔《くや》しげに言って、|拳《こぶし》で、その壁を|叩《たた》いた。軽く叩いたつもりが、ドン、と音がして、自分でびっくりして飛び上りそうになった。
ソファの男は、ちょっと|身《み》|動《うご》きしたが、そのまま、また|寝《ね》|入《い》ったらしい。ホッと胸を撫でおろしたとたん、叩いた|所《ところ》が、パカッと|外《はず》れて、床に|落《お》ちた。
マリ子は目を|丸《まる》くして、|現《あらわ》れた戸棚を見つめていた。
「――やったわ!」
|押《お》し|殺《ころ》した声で|叫《さけ》ぶと、鍵を手に、その|鍵《かぎ》|穴《あな》へとそっとさし込んだ。
クルリと回すと、|手《て》|応《ごた》えがあった。
マリ子は|唇《くちびる》をなめた。手が少し|震《ふる》える。
戸棚の扉をそっと引くと、中にポッカリと|暗《くら》い穴があった。
その中へ手を入れて|探《さぐ》ると、まず、古ぼけてすり切れた|人形《にんぎょう》が出て来た。そして、もう|一《いち》|度《ど》探ると、|封《ふう》|筒《とう》が一つ、出て来た。封筒は新しい。中を見るとかなり古そうな、少し|変色《へんしょく》しかかった手紙が入っている。
マリ子は、それを|指《ゆび》でつまんで取り出した……。|突《とつ》|然《ぜん》、その手首を、のびて来た手がつかんだ。マリ子がハッと振り向く。
「マリ子……。|愛《あい》してる……」
と、ムニャムニャ呟き、ウーン、と|唸《うな》って、水原は目を|覚《さ》ました。
「あれ?」
ここはどこだ? 水原は起き上って、目をパチクリさせた。
「そうか、しまった!」
思い出したぞ。マリ子とラブシーンの|最中《さいちゅう》に、加奈子さんが入って来て、何だか|秘《ひ》|密《みつ》の部屋がどうとか……。
水原は、立ち上って|大《おお》|欠伸《あくび》をした。
「マリ子……」
どこへ行ったんだろう? ――カーテンを開けると、すっかり夜は明けている。
あれは|現《げん》|実《じつ》だったのか? それとも|夢《ゆめ》を見ていたのだろうか?
水原が、まだ少しぼんやりしながら、|突《つ》っ立っていると、ドアが開いて、加奈子が入って来た。
「あら、水原さん」
「お、おはようございます」
水原はあわてて頭を下げた。
「どうしたの?」
と、加奈子がちょっと目を見開いて|訊《き》いた。
「え? 何か……」
「|髪《かみ》の毛が、ピョコンと立ってるわよ。それに|服《ふく》もしわくちゃ。どこで寝てたの?」
水原はあわてて髪を手でなでつけたが、|一《いっ》|向《こう》に|効《き》き目はなかった。
「い、いや――そりゃもちろんベッドですとも!」
「どこかの女の子のベッドに|潜《もぐ》り込んだんじゃないの?」
「とんでもありません! |僕《ぼく》は|常《つね》に|女《じょ》|性《せい》の|意《い》|志《し》を|尊重《そんちょう》して――」
と、むきになる水原を|遮《さえぎ》って、
「|冗談《じょうだん》よ。ところでマリ子さん、見なかった?」
「マリ子?――さん[#「さん」に傍点]ですか? 知りませんが」
「|変《へん》ね。どこにいるのかしら?」
加奈子は首をかしげた。「もう八時でしょ。|朝食《ちょうしょく》の|仕《し》|度《たく》もしてないし、どこにも見えないのよ」
「|困《こま》りましたね」
「お|手《て》|伝《つだ》いの|娘《こ》も、|昨日《きのう》の|事《じ》|件《けん》で、みんな|逃《に》げて|帰《かえ》っちゃったし、|仕《し》|方《かた》ないわ。自分で何か作りましょ」
と|肩《かた》をすくめる。
「お手伝いします」
「水原さん、何か作れるの?」
「バタートーストぐらいなら……」
加奈子は|笑《わら》いながら、水原と|一《いっ》|緒《しょ》に、|居《い》|間《ま》から出て行った。
2
「どうも、|大《たい》|変《へん》なことに……」
と、中町が言った。
しかし、円谷は、まるで聞こえていない|様《よう》|子《す》だった。
加奈子は、|人《にん》|間《げん》はたった|一《ひと》|晩《ばん》で、こんなにも|変《かわ》ってしまうものなのか、と思った。
円谷は、|一《いち》|応《おう》|背《せ》|広《びろ》にネクタイというスタイルではあったが、|頬《ほお》はこけ、げっそりとやせ|衰《おとろ》えた|感《かん》じで、一晩で二十|歳《さい》も|老《ふ》けたように見える。
|居《い》|間《ま》には、四人の社長と加奈子、そして菊井親子、|弁《べん》|護《ご》|士《し》の角田という、|昨《さく》|夜《や》と同じ顔ぶれが|揃《そろ》っていた。
|欠《か》けているのは正彦だけである。
「先に|警《けい》|察《さつ》の人の話を聞きましょう」
と、角田が言った。
菊井が、少し|離《はな》れて立っている加奈子の方へやって来た。
「先生、ゆうべはどうも……」
と加奈子が|低《ひく》い声で言いかけると、
「シッ。どうだね?」
「|熱《ねつ》は|下《さが》ったようです」
「そうか。それなら|大丈夫《だいじょうぶ》。|後《あと》は|君《きみ》に|任《まか》せるよ」
菊井は|微《ほほ》|笑《え》みながら|肯《うなず》いて見せた。
「本当にありがとうございました」
「君のお母さんには、ずいぶんお|世《せ》|話《わ》になったからね。君のために少しは|役《やく》に立たなくては」
――ドアが|開《あ》いて、水原に|案《あん》|内《ない》されて、多田|刑《けい》|事《じ》が入って来る。
「どうも|遅《おく》れまして」
と、|愛《あい》|想《そ》|良《よ》く|会釈《えしゃく》する。「加奈子さん」
「はい」
「いつもいらっしゃる手伝いの方は見えませんね」
「ええ……。どこへ行ったのか、|捜《さが》してるんですけど」
と加奈子は|当《とう》|惑《わく》しながら言った。「お|飲《のみ》|物《もの》でしたら、|私《わたし》が――」
「いや、|結《けっ》|構《こう》です。――昨夜の|一《いっ》|件《けん》については、どうも正彦さんがその……まだ|放心状態《ほうしんじょうたい》でして、はっきりしないのです」
と多田が一同の顔を見回す。すると、|突《とつ》|然《ぜん》、円谷が立ち|上《あが》って、
「|私《わたし》は、ここで|宣《せん》|言《げん》する!」
と|叫《さけ》んだ。
「円谷さん――」
「私は、社長の|職《しょく》、|及《およ》び、それに|関《かん》|連《れん》する、|総《すべ》ての|役職《やくしょく》から|退《しりぞ》く! そして当分、|自《じ》|宅《たく》にて|謹《きん》|慎《しん》の|生《せい》|活《かつ》を|送《おく》る!」
そう言って、円谷は走るような|勢《いきお》いで居間を出て行ってしまった。ドアが開いたままでゆっくりと動いている。
「――気の|毒《どく》に」
東尾が、|太《ふと》った|腹《はら》を|撫《な》でながら言った。
「|無《む》|理《り》もありませんよ」
湊が|同情《どうじょう》するように、「私だってきっと……」
「ともかく、今は話を|進《すす》めましょう」
と、中町が言った。「刑事さん、|事《じ》|件《けん》についてのお話は、すると何もないのですか?」
「いや、いくつか|興味《きょうみ》ある|事《じ》|実《じつ》が出て来ました」
多田は、ちょっとドアの方を|振《ふ》り|向《む》いて、「円谷さんに、このお話を聞いていただきたかったのですがね、本当は」
「水原さん、|後《あと》を|追《お》いかけて――」
と、加奈子が言うのを、多田は、
「いや、後でお話ししますから|大丈夫《だいじょうぶ》」
と|制《せい》して、「ともかく、今は気が立っておられますからな。|下《へ》|手《た》なことを言って|引《ひ》っかかれても|困《こま》る」
まるで|猫扱《ねこあつか》いである。
「それで、お話というのは?」
と加奈子が|訊《き》く。
「実は、色々な事実を|検《けん》|討《とう》してみましたところ――」
多田は|両手《りょうて》を|後《うし》ろに組んで、|全《ぜん》|員《いん》の顔を|見《み》|回《まわ》した。「私は、どうもあの香山洋子を|惨《ざん》|殺《さつ》したのは、円谷正彦さん|以《い》|外《がい》の|人《じん》|物《ぶつ》ではないかと思っています」
|一瞬《いっしゅん》、|動《どう》|揺《よう》が走った。
「私もそう思います」
と言ったのは加奈子だった。「正彦さんは気の弱い人です。あんな|犯《はん》|罪《ざい》に走るタイプじゃありません」
「しかし|凶器《きょうき》を――」
と中町が言いかける。
「|確《たし》かに、正彦さんは凶器を手にしていました」
と、多田は言った。「しかし、|現《げん》|場《ば》で|拾《ひろ》い、そのまま、ショックのあまり、|呆《ぼう》|然《ぜん》として|持《も》って来てしまった、とも考えられます」
「でも|血《ち》は?」
「そこなのです。正彦さんのシャツについていた血を|分《ぶん》|折《せき》した|結《けっ》|果《か》、あの血は、いくらか、|乾《かわ》きかけた|状態《じょうたい》で|付着《ふちゃく》したものと|分《わか》りました。つまり、正彦さんがあの|部《へ》|屋《や》へ行く前に、洋子さんは|殺《ころ》されていたらしいのです」
「前に?」
と菊井医師が訊く。「どれくらい前なのですか?」
「おそらく三十分|程《てい》|度《ど》でしょう」
「三十分。――すると|我《われ》|々《われ》は|食事《しょくじ》をしていた!」
と東尾が言った。「じゃ、みんなアリバイ|成《せい》|立《りつ》じゃないか」
「そうとは言えません」
多田が言った。「|犯《はん》|行《こう》そのものは、|返《かえ》り血さえ|浴《あ》びないよう用心すれば、一分とかかりません。食事中、|手《て》|洗《あら》いに立つぐらいのことはあるでしょう。それを|全《ぜん》|部《ぶ》|憶《おぼ》えていますか?」
|誰《だれ》もが顔を|見《み》合わせた。――多田は|続《つづ》けた。
「|犯《はん》|人《にん》が正彦さんだとすると、食事中に立って洋子さんを|殺《ころ》しに行き、また後で行ったことになる。これは|妙《みょう》ですよ」
「犯人は|別《べつ》にいる、というわけですね」
と加奈子は言った。
「|他《ほか》にも|問《もん》|題《だい》があります」
多田が言った。「洋子さんは、あの|空《あ》き|部《べ》|屋《や》へ入るところを他のお手伝いに見られているのです。何をするのか訊かれて、洋子さんは、『ちょっといいアルバイトなの』と|答《こた》えたそうです」
湊が見た目にも|分《わか》るほどギクリとし、中町が一瞬目を|伏《ふ》せた。東尾は|一人《ひとり》|平《へい》|然《ぜん》としている。
「つまり金をもらって、洋子さんは、その男を|待《ま》っていたらしい。|事《じ》|実《じつ》、洋子さんが|台所《だいどころ》に|置《お》いていた|手《て》|提《さ》げ|袋《ぶくろ》から、何万円かの|現《げん》|金《きん》が出て来ました。ご|両親《りょうしん》に訊いても、|全《まった》く|覚《おぼ》えがない。そんなに|多《た》|額《がく》の|小《こ》|遣《づか》いをやることはない、という話でした」
「犯人が|渡《わた》したんですな」
と東尾。「つまり……その女の子と|寝《ね》る|代《だい》|金《きん》として」
「でも、それは|変《へん》です。|普《ふ》|通《つう》なら、前もってお金を渡したりするでしょうか?」
と加奈子が言った。
「そうです」
多田は|肯《うなず》いて、「そこがおかしい。たとえ洋子さんが待っていたのが正彦さんだったとしても――たぶん、そうでしょうが――金を先に|払《はら》って|逃《に》げられたら、何にもならない。その場で先払いすることはあるかもしれませんがね」
「少しおかしくなっていたのでは?」
と中町が言った。
「それも一つの|考《かんが》えですが、もう一つ、|別《べつ》の考え方もあります」
「何ですか?」
「|誰《だれ》かが洋子さんに金を|渡《わた》して、正彦さんを|誘《ゆう》|惑《わく》させようとした、という考えです」
ちょっと|沈《ちん》|黙《もく》があった。中町が|皮《ひ》|肉《にく》っぽく|笑《わら》って、
「何のために? 今どき|若《わか》い男女がベッドを|共《とも》にしても|珍《めずら》しくはありませんよ」
「|普《ふ》|通《つう》ならね。しかし、洋子さんは十四|歳《さい》でした。おそらく正彦さんはそんなことは知らず、十六、七と思っていたでしょう」
「それに――|匿《とく》|名《めい》の電話!」
と加奈子が言った。
「そうです。そう考えれば、|警《けい》|察《さつ》へかかった、|密《みっ》|告《こく》電話も|説《せつ》|明《めい》がつきます。あの電話は、正彦さんが十四の女の子に|暴《ぼう》|行《こう》を|働《はたら》いていることを知らせたのです。ただし、洋子さんも、|発《はっ》|見《けん》されれば、『|無《む》|理《り》に|犯《おか》された』と|証言《しょうげん》する|約《やく》|束《そく》だったのでしょう」
「ところが|殺《さつ》|人《じん》|犯《はん》が……」
「正彦さんを待っていた洋子さんを、|一《ひと》|足《あし》|先《さき》に|訪《おとず》れていた、というわけです」
しばらく、|誰《だれ》|一人《ひとり》口をきかなかった。多田は、|充分《じゅうぶん》に|間《ま》を|置《お》いてから、
「さて、さかのぼって、あの山下|殺《ごろ》しの|件《けん》に|関《かん》|係《けい》するかもしれない|事《じ》|実《じつ》が一つ|判《はん》|明《めい》しました」
と言った。
加奈子は|緊張《きんちょう》した。
「ここにいらっしゃる方々は、まず|経《けい》|歴《れき》の点でも、|申《もう》し|分《ぶん》なく、|細《こま》かい点まで|分《わか》っています。しかし、|使《し》|用《よう》|人《にん》|等《とう》については、そうはっきりしているわけではない。そこで一人一人の|身《み》|許《もと》をチェックしてみたのです」
ドアの|所《ところ》で立っていた水原が、ちょっと耳を|澄《す》ました。
「その|結《けっ》|果《か》、身許を|偽《いつわ》ってこの|屋《や》|敷《しき》で|働《はたら》いている|者《もの》が一人いることが分ったのです」
「誰ですか?」
と加奈子は|訊《き》いた。
「桜井マリ子さんです」
水原が、|唖《あ》|然《ぜん》として立ちすくんだ。多田は|手帳《てちょう》を|開《ひら》いて、
「彼女の|本名《ほんみょう》は、倉田|法《のり》|子《こ》というのです」
倉田……。加奈子は、それが、母の|証言《しょうげん》で|死《し》へ|追《お》いやられた男の名だと|気《き》|付《づ》いた。そうか! するとマリ子は……。
「彼女の|兄《あに》は倉田|徹《てつ》|夫《お》といって、十七年前、|殺《さつ》|人《じん》の|容《よう》|疑《ぎ》を|受《う》けて|逮《たい》|捕《ほ》され、|裁《さい》|判《ばん》のときに|逃《とう》|亡《ぼう》しようとしたのですが、|逃《に》げ切れず、|結局身《けつきょくみ》を|投《な》げて死んでしまった。――マリ子さんは、そのずっと|年《と》|齢《し》の|離《はな》れた|妹《いもうと》なのです」
加奈子の|握《にぎ》りしめた手に|汗《あせ》がにじんだ。――マリ子さんが! 倉田の妹!
「じゃ、|決《きま》りだ」
と東尾が言った。「殺人犯の妹か。やっぱり|血《ち》は|争《あらそ》えん」
「ところで、もう一つ|興味深《きょうみぶか》い事実があります」
と多田は言った。「その死んだ倉田徹夫の裁判で、|決《き》め手となった|目《もく》|撃《げき》|者《しゃ》の証言がありました。逃げる男を見た|女《じょ》|性《せい》がいたのです。その人が、実は、|亡《な》くなった北里浪子さんだったのです」
|一《いち》|様《よう》に|驚《おどろ》きの声が|上《あが》った。
「――すると、あのマリ子と|名《な》|乗《の》っていた女は、浪子さんに|仕《し》|返《かえ》しするために、ここへ|偽《ぎ》|名《めい》で|住《す》みついた、というわけですか?」
と中町が訊いた。
「|偶《ぐう》|然《ぜん》としては、少々|出《で》|来《き》すぎでしょう」
「|全《まった》くだ。――いやびっくりしましたね」
中町が|大仰《おおぎょう》にため|息《いき》をついて見せる。
「すると、こういうことですか」
と菊井が言い出した。「浪子さんが、何かの|理《り》|由《ゆう》で、マリ子の身許を|怪《あや》しみ出した。そして、あの山下という|探《たん》|偵《てい》に|調査《ちょうさ》を|依《い》|頼《らい》した」
「その|結《けっ》|果《か》を持って来ると知って、あの女は探偵を殺して、その|書《しょ》|類《るい》を|奪《うば》ったんだ!」
東尾が|得《とく》|意《い》げに言った。
「それが|妥《だ》|当《とう》な|解釈《かいしゃく》でしょうね」
と、多田が|肯《うなず》く。
|違《ちが》う、違うのだ。――加奈子は|叫《さけ》びたかった。しかし、ここで言うわけにはいかない。
「ちょうどあの女、|姿《すがた》を|消《け》した。ばれたと思ったのかな」
中町が言った。「それにあの|娘《むすめ》を|殺《ころ》したのも、その女かもしれませんね。山下を殺したとき、見られたのかもしれない」
「それは|分《わか》りません。しかし、|早《さっ》|速《そく》|手《て》|配《はい》させています。この近くからは出られませんよ。|見《み》|付《つ》けたら、じっくりと話を聞きます」
多田は、それだけ言うと、「お|邪《じゃ》|魔《ま》しました」
と、頭を下げて出て行った。
多田が帰ってから、少しして、三人の|企業主《きぎょうぬし》たちも帰って行った。正彦が|無《む》|実《じつ》らしいという|以上《いじょう》、円谷を|抜《ぬ》きで話はできない、ということになったのである。
弁護士も帰って、後には、加奈子と、菊井親子、そして水原が|残《のこ》った。
「――いや、驚いたね」
と、菊井が言った。
「違います」
と加奈子は言った。
「え?」
「マリ子さんのことです。母に|復讐《ふくしゅう》するためだなんて……」
「しかし、|実《じっ》|際《さい》に偽名でここにいたのだから――」
「でも考えて下さい! 三年もここで働いてたんですよ。三年も! 復讐する気になれば、いくらでも|機《き》|会《かい》はあったはずです」
菊井は考え込んで、
「なるほど、それもそうだ。――まあ、しかし姿を消してしまったというのは|不《ふ》|利《り》だねえ」
「私にもその理由は分りません。でも、きっと何かわけが……」
「|君《きみ》は|優《やさ》しい人だ」
と、菊井は、加奈子の|肩《かた》に手をかけて、「じゃ、私は|一《いっ》|旦《たん》、和昌と|一《いっ》|緒《しょ》に家に帰るよ」
「どうも色々ありがとうございました」
と加奈子は頭を下げた。
「いや、とんでもない。――和昌、帰ろう」
「うん。じゃ、加奈子さん、また」
「もう大学へ|戻《もど》られるんですか?」
「そのつもりだよ」
「またいらして|下《くだ》さいね」
「ありがとう」
和昌は、|軽《かる》く加奈子の手を|握《にぎ》って、父親と一緒に出て行った。
加奈子は、|深《ふか》|々《ぶか》と|息《いき》をついて、ソファにぐったりと|座《すわ》り|込《こ》んだ。急に|疲《つか》れが出て来たようだ。
「――二人になっちゃったわね、水原さん」
と加奈子は言った。
水原は|返《へん》|事《じ》もせずに、じっと、|銅《どう》|像《ぞう》か何かのように|突《つ》っ立っている。
「水原さん」
ともう|一《いち》|度《ど》声をかけると、やっと水原は気付いて、
「はい!――あの、すみません」
「どうしたの?」
「いえ……。マリ子さんのことが……」
「私もショックよ。でも、あの人に人殺しなんてできるはずがないもの」
「お|嬢《じょう》さん!」
水原が|急《きゅう》に大声を出して|駆《か》け|寄《よ》って来たので、加奈子はびっくりして、|後《あと》ずさった。水原は加奈子の前に|膝《ひざ》をついて、その手を取った。
「ありがとうございます! お嬢さんにそうおっしゃっていただけると……」
「水原さん、あなた……」
加奈子は、まじまじと水原を見つめて、「マリ子さんが|好《す》きなの?」
「そうなんです! |彼《かの》|女《じょ》だって|僕《ぼく》のことを|愛《あい》してくれています!」
「まあ、そうなの! |素《す》|敵《てき》じゃないの!」
加奈子は|嬉《うれ》しくなった。
「きっと|彼《かの》|女《じょ》はどこかへ出かけてるんですね。そうに|決《きま》ってる」
と水原は|肯《うなず》いた。「|買《かい》|物《もの》かな? それともトイレにでも……。ちょっと見て来ます」
水原は|急《いそ》ぎ足で出て行った。
加奈子は、一人になると、じっと|考《かんが》え|込《こ》んだ。
思いもかけない|進《しん》|展《てん》。――二つもの|殺《さつ》|人《じん》が|次《つぎ》|々《つぎ》に|起《お》こった。その二つの|間《あいだ》には、何か|関《かん》|連《れん》があるのだろうか? |探《たん》|偵《てい》の山下。そして|手《て》|伝《つだ》いの|娘《むすめ》、香山洋子。
何の関連もないように見える。少なくとも山下に関しては、|動《どう》|機《き》がはっきりしているが、あの少女が、多少なりと山下のことを知っていたとは思えない。
それに、|殺《さつ》|害《がい》|方《ほう》|法《ほう》にしてもそうだ。同じ|刃《は》|物《もの》を|使《つか》ったにしても、山下は手早く|一《ひと》|突《つ》きでやられているのに|比《くら》べ、あの少女は……。
加奈子は、香山洋子の|死《し》|体《たい》を思い出して|身《み》|震《ぶる》いした。あれは、ただ「見せかけ」のためにやったのではない。|変《へん》|質《しつ》|者《しゃ》の|犯《はん》|行《こう》と思わせるために、めった切りにするとしても、あんなむごいことをやれば、|必《かなら》ず|表情《ひょうじょう》に|残《のこ》るだろう。
|夕食《ゆうしょく》の|席《せき》を立って、二|階《かい》へ行き、洋子を|殺《ころ》してから|戻《もど》って来て、|平《へい》|然《ぜん》と|食事《しょくじ》を|続《つづ》けたとしたら……それは|到《とう》|底《てい》まともな|人《にん》|間《げん》ではない。
もちろん、人を殺すこと自体、まともとは言えないが、|身《み》を|守《まも》るため、自分の|立《たち》|場《ば》や|名《めい》|誉《よ》を守るために殺すということは、|理《り》|解《かい》できなくもない。しかし、あんな少女を、ああも|無《む》|残《ざん》に殺すというのは……とても|常人《じょうじん》の頭では理解できないことだ。
だが――そうなると、この家に、二人[#「二人」に傍点]の|殺《さつ》|人《じん》|犯《はん》がいたことになる。二人も?
加奈子には信じられなかった。|身《み》|近《ぢか》な|存《そん》|在《ざい》である人々の中に、二人もの殺人者。
だが、|論《ろん》|理《り》|的《てき》に考えれば、それ|以《い》|外《がい》にはありえないのだ。
|真《しん》|相《そう》はどこにあるのだろう?
「そうだ――」
加奈子は、立ち|上《あが》った。上村のことが気にかかっていた。|具《ぐ》|合《あい》は|大《だい》|分《ぶ》|良《よ》くなったはずだが、また|熱《ねつ》が出ていないとも|限《かぎ》らない。
水原は出て行ったから、しばらくは|戻《もど》るまい。加奈子は|急《いそ》いで|踏《ふ》み|台《だい》を|持《も》って、|本《ほん》|棚《だな》の前へ行くと、本を出して|仕《し》|掛《かけ》のボタンを|押《お》した。そして踏み台を手に本棚から|離《はな》れる。
「――なるほど。そういう仕掛だったんですか」
声に|驚《おどろ》いて、加奈子は思わず|叫《さけ》びそうになった。ドアが|開《あ》いて、多田が立っていたのだ。そして、多田の|後《うし》ろには、数人の|刑《けい》|事《じ》たちの|姿《すがた》があった。|反《はん》|射《しゃ》|的《てき》に、フランス|窓《まど》の方へ加奈子の|視《し》|線《せん》が走る。
窓の前にも、|制《せい》|服《ふく》|警《けい》|官《かん》の|列《れつ》があった。
かすかにきしむ音を立てながら、|息《いき》|詰《づ》まるような|静寂《せいじゃく》の中、本棚の|隠《かく》し|扉《とびら》がゆっくりと|開《ひら》いて来た……。
3
「私は何も知りません」
と加奈子は言った。
「お|嬢《じょう》さん――」
多田刑事は言いかけて、思い|直《なお》したように|言《こと》|葉《ば》を切り、|軽《かる》く|笑《わら》った。
加奈子は、いぶかしげに多田を見た。
「いや、あなたが|一《いっ》|旦《たん》そうおっしゃったら、私がどう|頑《がん》|張《ば》っても、気は|変《かわ》らないに|決《きま》っていますからね。むだな|努力《どりょく》はしないことにします」
「そうして|下《くだ》されば、時間の|節《せつ》|約《やく》になりますわ」
「しかし|精《せい》|巧《こう》にできていますな」
多田刑事はソファから立ち上ると、開いた本棚の、|境目《さかいめ》を上から下まで|眺《なが》めて首を|振《ふ》った。
「母はなんでも、やるときは|完《かん》|全《ぜん》にやる|主《しゅ》|義《ぎ》でした。|手《て》|抜《ぬ》きを|一《いち》|番《ばん》|嫌《きら》っていましたわ」
「その点は私も|同《どう》|感《かん》ですね。ちょっと|楽《らく》をして、|総《すべ》ての|労力《ろうりょく》をむだにするよりは、ちょっと|苦《く》|労《ろう》した方がよほどいいと思うのですが……」
多田は|教訓《きょうくん》めいた言い方に、自分で|照《て》れたように、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
しかし、一体どうなっているのだろう? 加奈子にも、わけが|分《わか》らなかった。
隠し部屋の戸が開き、加奈子は、|飛《と》び込んで行く警官たちを、|止《と》めようもなく、|絶《ぜつ》|望《ぼう》|的《てき》な気分で見ていたのだが、すぐに、警官の一人が顔を出して、
「|誰《だれ》もおりませんが」
と言ったときには、加奈子の方がよほどびっくりした。
「そんなはずがあるか!」
多田もさすがに少し|苛《いら》|立《だ》ちさえ見せて、中へ入って行った。加奈子は手近なソファに|腰《こし》をおろした。
|別《べつ》に|心《しん》|臓《ぞう》が|悪《わる》いわけでもないのだが、この|緊張《きんちょう》は|応《こた》えた。――やがて多田も姿を|現《あらわ》して、加奈子は、本当に上村が姿を|消《け》してしまっていることを知った。
それならば、何も知らなかったことにしよう、と加奈子は|決《けっ》|心《しん》したのである。
「お嬢さん、上村はどこに行きました?」
と多田は|訊《き》いた。
「何のお話か分りません」
加奈子はそう答えた……。
――もう、一時間以上にわたって、警官たちは隠し部屋の中を|調《しら》べていた。
「加奈子さん」
多田が加奈子を|呼《よ》んだ。「――中を見て下さい」
「やっとお|許《ゆる》しが出ましたのね」
「いや、あなたに、何か|重要《じゅうよう》な|証拠《しょうこ》を台なしにでもされては|大《たい》|変《へん》ですからね。今までお|待《ま》ちいただいたわけです」
「それで、何を見ろとおっしゃるんですか」
「何か変っているところはないか、見ていただきたいのです」
加奈子の目に、開いたままになっている戸棚が、飛び込んで来た。
「あの戸棚は――」
「開いていたのです。あなたが開けたのでは?」
「いいえ」
と加奈子は首を振った。
「中は|空《から》っぽでした。|大《たい》|切《せつ》な|物《もの》が入っていたのですか?」
加奈子は|肩《かた》をすくめて、
「私は知りません。ここは母の部屋だったんですもの」
「では、お母さんが何かをしまわれていたんですね?――この部屋と同じで、ずいぶん戸棚も|凝《こ》った|造《つく》りですが、|宝《ほう》|石《せき》でもしまい込んであったのですか?」
「母は宝石の|類《たぐい》には|一《いっ》|切《さい》|興味《きょうみ》がありませんでしたわ」
「しかし、|鍵《かぎ》もかかっていたようですね。何が入れてあったのか、お|心当《こころあた》りは?」
「さあ……」
加奈子は|無表情《むひょうじょう》に首を振った。|頑《がん》|固《こ》なことでは誰にもひけは取らない|自《じ》|信《しん》がある。
「しかし……」
多田は|隠《かく》し|部《べ》|屋《や》の中を|見《み》|回《まわ》して、「|一《いち》|度《ど》あなたのお母さんにお|会《あ》いしたかったですな。|実《じつ》にユニークな方だったようだ」
加奈子は|黙《だま》っていた。――|誰《だれ》かがあの|戸《と》|棚《だな》を|開《あ》けたのだ。
「こじ開けてあるんですか?」
と加奈子は|訊《き》いた。
「いや、その|痕《こん》|跡《せき》はありません。|鍵《かぎ》で開けられていますよ」
と多田は|鍵《かぎ》|穴《あな》を|指《さ》して、「――鍵はどなたが?」
「母です」
「|他《ほか》には?」
「母だけが|持《も》っていました」
「では、|亡《な》くなった後は?」
加奈子はちょっと|迷《まよ》ったが、ここは|正直《しょうじき》に話をした方がいいと思った。
「どこかへ行ってしまったんです。たぶん――|誰《だれ》かが|盗《ぬす》んだんだと思います」
「それは|面《おも》|白《しろ》い」
「あの川口という人が|持《も》っていたのと同じペンダントの中に入っていたんです」
「するとあれはお母さんのものでしたか」
「そんなはずはないと思います。母が|亡《な》くなったとき、ちゃんとペンダントをしていたことを|憶《おぼ》えていますから」
「それがなくなったのですか?」
「そうです。――きっと同じ|型《かた》のペンダントなんでしょう」
「それを山下が川口へ|預《あず》けたというのは、ちょっと|偶《ぐう》|然《ぜん》に|過《す》ぎますね」
「偶然だと言ってはいません。きっと何か|意《い》|味《み》はあったんでしょう」
「なるほど」
多田と加奈子は|居《い》|間《ま》のソファに|戻《もど》った。「――ところで、あの隠し部屋には、|確《たし》かにごく|最《さい》|近《きん》まで人のいた|気《け》|配《はい》があります。あなたですか?」
「たまには中へ入ることもありますけど」
「あなた以外に、あの部屋のことを知っている|人《にん》|間《げん》は?」
「母の他には……」
加奈子は首を|振《ふ》った。「あれを|造《つく》った|大《だい》|工《く》さんなどは|別《べつ》でしょうけど、他にはいないと思います。母も誰かに教えていたとは思えません」
「上村が知っていたという|可《か》|能《のう》|性《せい》はありませんね」
「そんな、よその人が知る|機《き》|会《かい》はまずなかったと思いますわ」
加奈子は、少し声を|低《ひく》くして、「……母の|遺《い》|体《たい》は|検《しら》べていただいたんでしょうか?」
と|訊《き》いた。
「ああ、|申《もう》し|訳《わけ》ありませんでした。今、|調《しら》べさせていただいています。もう少し時間がかかるでしょう」
「|分《わか》りました」
加奈子は、隠し部屋の方を見ながら、「なぜここにその|逃《とう》|亡《ぼう》|犯《はん》がいると思われたんですか?」
と訊いた。
「|密《みっ》|告《こく》電話があったのですよ」
「密告……。誰がそんな――」
「分りません。|押《お》し|殺《ころ》した声で、早口に、この居間に、隠れた部屋があって、そこに上村がいると|告《つ》げて切ったのだそうです」
「男の声ですか、それとも女の?」
「それもはっきりしなかったということです」
――誰だろう? これを知っているのは、加奈子の知っている|限《かぎ》りでは、菊井|医《い》|師《し》|一人《ひとり》である。
しかし、まさか菊井が!――だが、菊井は、浪子の亡き後、加奈子のことをみてやる|責《せき》|任《にん》があると考えているらしい。加奈子が|深《ふか》|入《い》りしない|内《うち》に、上村を|警《けい》|察《さつ》の手で|発《はっ》|見《けん》させたいと思っても|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》はないが……。
「ともかく上村はいなかった。|空《から》|振《ぶ》りに|終《おわ》ったわけですな」
と、多田は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》な|刑《けい》|事《じ》さんだわ、と加奈子は思った。|普《ふ》|通《つう》なら、もっと加奈子をおどしつけて、何か訊き出そうとするだろうが……。
「――多田さん!」
と、|興《こう》|奮《ふん》した声が隠し部屋の方から|飛《と》んできた。
多田が、その見かけからは、ちょっと|想《そう》|像《ぞう》かつかないような素早い|動《うご》きで、飛んで行く。加奈子も後を|追《お》っていた。
「――見て下さい」
と、|警《けい》|官《かん》の一人が|差《さ》し出したのは――赤く、|血《ち》に|染《そ》まって、くしゃくしゃになったハンカチだった。
「どこにあった?」
「|洗《せん》|面《めん》|台《だい》の、|排《はい》|水《すい》|孔《こう》の|奥《おく》へ|押《お》し込んであったんです」
「すぐに血を|分《ぶん》|析《せき》させろ」
多田は|命《めい》じて、加奈子の方を|振《ふ》り|向《む》いた。
「誰の血か、それによって|事情《じじょう》が|変《かわ》って来ますね」
「つまり……」
「山下の血か、それとも香山洋子のものか」
「自分の血かもしれません」
「その可能性もあります。しかし、それならそんなに隠そうとするでしょうか?――ともかくすぐに|結《けっ》|果《か》が出るでしょう」
加奈子は、|鑑《かん》|識《しき》の人間たちが、隠し部屋の中を、白い|粉《こな》をはたいて回っているのを、じっと見ていた。たとえ、上村が|回《かい》|復《ふく》し、|危《き》|険《けん》を|察《さっ》して、自分からここを出たとしても、|指《し》|紋《もん》は|残《のこ》っているはずだ。上村が隠れていたことは分ってしまうだろう。
「はっきりした指紋は出たか?」
と多田が声をかけた。
「あまり|沢《たく》|山《さん》は出ません。はっきりしているのは三つ四つです」
「|充分《じゅうぶん》だ。|早《さっ》|速《そく》上村のと合わせてみてくれ」
「分りました」
加奈子は、居間に|戻《もど》り、|両手《りょうて》を|後《うし》ろに組んで多田に|向《む》いて立つと、
「どうなさるんですか? |私《わたし》、|一《いっ》|緒《しょ》に警察まで行くのでしょうか?」
「いや、あなたが|逃《とう》|亡《ぼう》するとは思えませんからね。結果が出ましたら、またお|邪《じゃ》|魔《ま》することになりますよ」
「分りました。――少し|疲《つか》れたので、二|階《かい》で休みますわ」
「どうぞ。|我《われ》|々《われ》はもうすぐ|失《しつ》|礼《れい》しますから」
「そろそろ水原さんが戻ると思います。何かご用があれば水原さんにどうぞ」
加奈子は、「失礼します」
と|会釈《えしゃく》して、居間を出て行った。
「|大《たい》した|娘《むすめ》だ」
と多田は|呟《つぶや》いた。
「|早《はや》|過《す》ぎたのかな」
東尾は、また、ドアを足で|蹴《け》って居間へ入って来ると、チッと|舌《した》|打《う》ちした。
「いや、そんなことはありませんよ」
ソファから立ち上ったのは、中町だった。
「他の二人は?」
「三十分|遅《おそ》い時間を|連《れん》|絡《らく》しておいたのです」
中町は、|軽《かる》く|微笑《びしょう》を|浮《う》かべた。
「あんたはいつもよく、そうして|冷《れい》|静《せい》にしていられるね」
東尾は|洋《よう》|酒《しゅ》の|棚《たな》の方へ歩いて行きながら言った。「我々の|計《けい》|画《かく》はパーになった。ともかく、円谷の|息《むす》|子《こ》は|無《む》|罪《ざい》ということになるし、しかも、誰かが、円谷の息子に罪を|着《き》せようとしたことまで知れている。このままでは、我々の方が|却《かえ》って罪に|問《と》われかねん」
「|承知《しょうち》しています」
中町はまたソファに|腰《こし》をおろして、「私の立てた計画です。|予《よ》|想《そう》|外《がい》の|事《じ》|態《たい》になってしまったことは、お|詫《わ》びしますよ」
「詫びてもらう|必《ひつ》|要《よう》はない」
東尾はちょっと|苛《いら》|々《いら》した|様《よう》|子《す》で、「どんなに|万《ばん》|全《ぜん》の計画も、思いもかけない|失《しっ》|敗《ぱい》に|会《あ》うことは、いくらでも|経《けい》|験《けん》していますぞ。ただ、|問《もん》|題《だい》は――」
「どう切り|抜《ぬ》けるかだ。というわけですな」
と、中町が|引《ひ》き|取《と》る。
「その通り」
「それについて、ご|相《そう》|談《だん》したかったのですよ」
と中町は言った。
「円谷はどうでしたね?」
「もう、百までは社長をやろうかという元気でしたよ。そして、『|私《わたし》の方からもあんたに話がある』と、|大《おお》|見《み》|得《え》を切っていました。|脅《おど》したつもりなんでしょう」
「あの|能《のう》なしが!」
と、東尾が|腹《はら》|立《だ》たしげに言った。
「しかし、今は私たちの方が|守《しゅ》|勢《せい》に立たされている。それは|事《じ》|実《じつ》です」
「ふむ。――で、何か|巧《うま》い手でも?」
「色々|考《かんが》えました」
中町はそう言って、少し|黙《だま》った。
|居《い》|間《ま》は、|暮《く》れかかった|陽《ひ》の|反《はん》|射《しゃ》で、赤く|染《そ》まりつつあった。――東尾が、
「もったいぶらずに話したらどうです」
と言って、グラスを一気に|空《あ》けた。
「ああ、|失《しつ》|礼《れい》。いや、|別《べつ》にもったいぶっているわけではないのです」
中町は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「――ただ、どういう|順序《じゅんじょ》でお話ししようかと思いましてね」
「|結《けつ》|論《ろん》ですよ。ズバッと結論だ。手っ取り早いのが私の|好《この》みですからな」
「|結《けっ》|構《こう》。――つまり、私たち三人の|計《けい》|画《かく》であることは|誰《だれ》が考えても|分《わか》るはずです」
「ふむ」
「あの|刑《けい》|事《じ》も、|馬《ば》|鹿《か》ではない。もう、うすうす|感《かん》づいていますよ」
「それなら、ますます|急《いそ》がんと……」
「どうでしょう。ここは一つ、湊さんにかぶっていただくのです」
「湊に?」
と、東尾は|呼《よ》び|捨《す》てにした。
「誰かがやったことにしなくてはならない。それなら三人で頭を|下《さ》げるより、一人の方が|好《こう》|都《つ》|合《ごう》というものではありませんか」
「何があっても、円谷などに頭なんか下げるものか」
と、東尾は|吐《は》き捨てるように言った。
「しばらくは|辛《しん》|抱《ぼう》ですよ。いいですか、あれを計画したのは湊さんだったとなれば、私と東尾さんの|立《たち》|場《ば》は今まで通りだ。円谷さんは、今は|反《はん》|動《どう》でかなり|上《うわ》っ|調子《ちょうし》になっていますからな。|却《かえ》って|扱《あつか》いやすい」
「それはそうだ。大体が|単純《たんじゅん》な男ですからな、円谷は」
「その気になれば、またいつでも|失脚《しっきゃく》させられますよ。|息《むす》|子《こ》の方だって、|殺《さつ》|人《じん》|容《よう》|疑《ぎ》は|晴《は》れたとはいえ、十四|歳《さい》の女の子を|抱《だ》こうとしたのは|事《じ》|実《じつ》ですからな」
「|実《じっ》|行《こう》していなければ|罪《つみ》には――」
「なりません。しかし、|週刊誌《しゅうかんし》あたりで|叩《たた》くことはできる」
「なるほど。誰かその|筋《すじ》の知り|合《あ》いがいるという話でしたな」
「しばらくは円谷さんに|好《す》きなようにさせておく。湊さんがぬけた|後《あと》を|任《まか》せてもいい。調子に|乗《の》っているところを、叩き|落《お》とすのです。父親の方は|事業《じぎょう》の|失《しっ》|敗《ぱい》、息子の方はスキャンダルの|発《はっ》|覚《かく》。|時《じ》|期《き》を|揃《そろ》えれば、まず|大丈夫《だいじょうぶ》です」
「いい考えだとは思うが……。しかし、|問《もん》|題《だい》がある」
「湊さんですな」
「さよう。そうおとなしく引き|退《さ》がるとは思えないが。――それに、いざとなれば、|我《われ》|々《われ》も|同《どう》|罪《ざい》だったとばらすのでは?」
「考えてあります」
中町は|肯《うなず》いた。「――どうせ行く行くは、あの人にも|引《いん》|退《たい》していただくつもりだったので、多少、|調査《ちょうさ》させたのです」
「ほう。――何か出たのかな?」
「なかなかボロの出ない人ですよ、あれは。|黙《もく》|々《もく》と|働《はたら》いて、何の|愉《たの》しみもないような人ですからね」
「つまらん男だ」
と、東尾は|鼻《はな》で|笑《わら》った。「私などは、|酒《さけ》も女も、|隠《かく》しはせん。|至《いた》って大っぴらですぞ」
中町はちょっと|苦笑《くしょう》した。
「――そんなわけで、|大《だい》|分《ぶ》長いこと、湊さんを|追《お》い|続《つづ》けたのです。やっと、|週末《しゅうまつ》になると|深《しん》|夜《や》、一人で出かけることを|突《つ》きとめましたよ」
「女か」
「それならば、そんなにまでして|隠《かく》すことはないでしょう。まあ、|家《か》|庭《てい》|争《そう》|議《ぎ》ぐらいは引き|起《お》こすかもしれないが、それで社長の|地《ち》|位《い》を|退《しりぞ》くほどのことじゃない」
「なるほど。それもそうだ」
と東尾が肯く。「では――?」
「男[#「男」に傍点]ですよ」
と中町は言った。
「男?」
東尾はキョトンとしていたが、やがて、ゆっくりと|顎《あご》をさすりながら、「そういうことか」
と言った。
「十七、八の、不良少年ですが、これが|確《たし》かに|美少年《びしょうねん》でね、私も、|隠《かく》し|撮《ど》りした|写《しゃ》|真《しん》を見て、ちょっと目を|見《み》|張《は》ったぐらいですから、その気[#「その気」に傍点]のある|人《にん》|間《げん》には、|魅力的《みりょくてき》この上ないでしょう」
「|分《わか》らんな。女のできそこないのような男を抱くくらいなら、|普《ふ》|通《つう》に女を抱いた方がよほどいいだろうに」
「その|心《しん》|理《り》は、こちらには|理《り》|解《かい》できませんがね、何といっても、この|事《じ》|実《じつ》が|暴《あば》かれれば湊さんはおしまいですよ」
「|正《まさ》に|急所《きゅうしょ》をつかんだわけだ」
東尾は|愉《ゆ》|快《かい》そうに笑った。「いささか|同情《どうじょう》の|余《よ》|地《ち》もあるがね」
「だから、|公表《こうひょう》はあくまで|最《さい》|後《ご》の|手《しゅ》|段《だん》です。これを|種《たね》に、円谷を|陥《おとしい》れようとしたのは自分だと|認《みと》めさせる。自分一人の考えでやった、とね」
「|警《けい》|察《さつ》が|納《なっ》|得《とく》しますかな」
「話はつけますよ。たぶん、|自《じ》|主《しゅ》|的《てき》に|社長職《しゃちょうしょく》を|辞《じ》して、|結着《けっちゃく》がつくでしょう」
「湊が、おとなしく言うことを聞いてくれるならいいんだが……」
「それは大丈夫。あの|秘《ひ》|密《みつ》をばらされたら、それこそ|離《り》|婚《こん》、身の|破《は》|滅《めつ》ですよ。こちらの言う通りにすれば、会社の|顧《こ》|問《もん》という名目で|楽《らく》に|生《せい》|活《かつ》できる。――なあに、気の弱い男だ。言うなりになりますよ」
中町は|自《じ》|信《しん》ありげに言った。――ところが、|意《い》|外《がい》なことが起こった。
「そうはいかないぞ!」
と、|突《とつ》|然《ぜん》、声が|響《ひび》いたのだ。
中町と東尾がさすがに|驚《おどろ》いて立ち|上《あが》った。――奥の方のソファの|後《うし》ろに、湊が立っていたのだ。
「おかしいと思ったんだ」
湊は|怒《いか》りのためか、|頬《ほお》は|紅潮《こうちょう》し、声が|震《ふる》えていた。「中町さん、あんたから電話があった後、私は東尾さんの|秘《ひ》|書《しょ》に|予《よ》|定《てい》を|訊《き》いてみたんだ。するとここへ来る時間が三十分早いじゃないか。こいつは|変《へん》だと思ったよ。あんたは、何を|企《たくら》んでるか分らん人だからな。こっちはもっと早く来て、ここに隠れていたんだ。――何て|卑《ひ》|劣《れつ》な|奴《やつ》なんだ! あんたたち、ちっとは|恥《はじ》というものを知れ! 人に罪をかぶせたり、|私《し》|生《せい》|活《かつ》を暴き立てて、人を|脅迫《きょうはく》するとは」
湊は、|握《にぎ》りしめた|拳《こぶし》を震わせながら|振《ふ》り上げて、ソファの後ろから|進《すす》み出て来た。
「私はごめんだ! あんたたちの言うなりになどならんぞ!」
中町の方はもう|落《お》ちつきを取り戻していた。
「湊さん、あなたのためを思って|忠告《ちゅうこく》しますが、あまりカッカしない方がよろしいですよ」
「大きなお|世《せ》|話《わ》だ!」
「あなたの|息《いき》の|根《ね》を|止《と》めるのは|易《やさ》しい。あの秘密が知れれば、あなたは社長の地位を失うだけではない、家の方からも|見《み》|放《はな》されるでしょう」
「やってみるがいい。こっちだって、あんた方のやり口を何もかもばらしてやる」
湊はかみつきそうな顔で言った。
「何だと、この――」
カッとしやすい東尾が進み出ようとするのを中町は止めて、
「まあ私に任せて下さい。――いいですか、湊さん。あなたがどう|頑《がん》|張《ば》っても、|我《われ》|々《われ》二人にはかないっこないんです。よく考えることですね」
「考えるまでもない」
湊は、|挑《いど》みかかるような|調子《ちょうし》で|言《い》った。「|私《わたし》は、やってもいないことの|責《せき》|任《にん》を|取《と》って、社長の|座《ざ》を|退《しりぞ》くつもりはない!」
「それでも、あの|秘《ひ》|密《みつ》が知れれば、いやでも退くことになりますぞ。それに、その後の|生《せい》|活《かつ》も――」
「それが何だ! フン、|貧《びん》|乏《ぼう》|暮《ぐら》しなど|慣《な》れとる。自分の|財《ざい》|産《さん》だけだって当分は暮していけるとも」
中町も、さすがに少し|険《けわ》しい目つきになった。湊に、こうも手こずるとは思っていなかったのだ。
「湊さん、少し頭を|冷《ひ》やしなさい。あなたが|警《けい》|察《さつ》へどう話を持って行っても、|向《むこ》うは|我《われ》|々《われ》二人の話の方を|信《しん》|用《よう》します。私は警察の|幹《かん》|部《ぶ》にも知り合いがいるんだ」
「|怖《こわ》くなったのか? |脅《おど》したってむださ。何もかもぶちまけりゃ、向うも|納《なっ》|得《とく》する。何といったって、そっちのは作り話なんだからな」
「しかし、|証言《しょうげん》は――」
「証言か。こいつがあるよ!」
湊は、|上《うわ》|衣《ぎ》のポケットから、|四《し》|角《かく》い|箱《はこ》|形《がた》の、マイクロカセットレコーダーを|取《と》り出した。「|分《わか》るかね? |会《かい》|議《ぎ》のメモ|代《がわ》りに|持《も》ち歩いてるんだ。なかなか|高《こう》|性《せい》|能《のう》で|便《べん》|利《り》なもんだよ」
中町の顔が青ざめた。湊は|勝《か》ち|誇《ほこ》るように|笑《わら》った。
「何となくポケットへ入れて来たんだ。あんたたちが話を|始《はじ》めたので、ふと思い|付《つ》いてこいつを|使《つか》った。ちゃんと二人の話はここへ入ってる。これを聞けば警察も分ってくれるよ」
これは|確《たし》かに、思いもかけぬ|一《いち》|撃《げき》で、中町も|呆《ぼう》|然《ぜん》と立ちつくしていた。
「――これで|失《しつ》|礼《れい》するよ」
湊は、レコーダーをポケットへ|戻《もど》すと、「円谷さんと、じっくり|相《そう》|談《だん》しようと思うのでね」
と、ドアの方へ歩き出す。
「|待《ま》ちなさい!」
中町が走った。湊の前に立ちはだかると、
「そいつを|渡《わた》しなさい!」
と、声を|震《ふる》わせながら言った。
「そこをどけ!」
「そのカセットをよこせ! さあ!」
と中町が|迫《せま》る。
「どけと言ってるんだ!」
湊は中町の手を|払《はら》いのけると、「あんたも|終《おわ》りだぞ。頭が|良《よ》すぎて自分の|墓《ぼ》|穴《けつ》を|掘《ほ》ったんだ。|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》だよ!」
「待て!」
「何だ、こいつ!――|邪《じゃ》|魔《ま》するな!」
二人はもみ合った。東尾は、その|様《よう》|子《す》を、|腕《うで》|組《ぐ》みしながら|眺《なが》めていた。
中町も、頭はいいが、力の方はあまりある方ではなかった。湊が|意《い》|外《がい》に腕っ|節《ぷし》の強さを|発《はっ》|揮《き》して、中町を|床《ゆか》へ|転《ころ》がしてしまった。
「いい|格《かっ》|好《こう》だ!」
湊は声を|上《あ》げて|笑《わら》った。そしてドアの方へ歩き出す。
中町は、人から|侮辱《ぶじょく》を受けることに|慣《な》れていない。|気位《きぐらい》の高い男である。
「おい、待て!」
と言うなり、起き上がった|勢《いきお》いで、湊へと、|後《うし》ろから|飛《と》びかかった。
二人が|重《かさ》なり合って|倒《たお》れる。いつしか中町の|両手《りょうて》が、湊の首にかかっていた。
「こいつ……|俺《おれ》のことを|馬《ば》|鹿《か》にしやがって!」
中町が、そう|呟《つぶや》きながら、ぐいぐいと手に力をこめた。湊はもがいているが、|背《はい》|後《ご》から組み|敷《し》かれているので、どうすることもできない。
目を飛び出しそうなほど大きく|見《み》|開《ひら》いて、手で|空《くう》をつかんだ。――やがて、その手が震えながら、|厚《あつ》い|絨毯《じゅうたん》の上に|落《お》ちる。
しばらく、中町の、|荒《あら》い|息《いき》|遣《づか》いだけが、聞こえていた。
「中町さん」
東尾が歩いて来て声をかけると、中町はやっと|我《われ》に|返《かえ》った様子で、顔を上げる。それから、よろけるように立ち上り、まるで、見も知らぬ男でも見るように、|動《うご》かなくなった湊を|見《み》|下《お》ろした。
東尾が、かがみ込んで、湊の手首の|脈《みゃく》を見る。|無表情《むひょうじょう》に、
「死んでいる」
と呟くと、体を|起《お》こした。
「|死《し》んだ……」
中町が、|独《ひと》り|言《ごと》のように言って、「いや……|困《こま》りましたね。何とかしないと……」
と首を|振《ふ》る。
「あんたが|殺《ころ》したんですぞ」
「殺したって……。いや、そんなことは……つまり……私はただ、首を|絞《し》めただけなんですよ……」
中町は、|半《なか》ば|放心状態《ほうしんじょうたい》だった。いつも|冷静沈着《れいせいちんちゃく》なだけに、その様子は、|惨《みじ》めですらあった。
いきなり、東尾は拳を|固《かた》めると、中町の|顎《あご》へ|叩《たた》きつけた。まるきり|警《けい》|戒《かい》をしていなかった中町は、もろに|吹《ふ》っ飛んで、絨毯の上に、大の字になって、のびてしまう。
それから東尾は、湊の死体の上にかがみ込んで、上衣のポケットを|探《さぐ》った。マイクロカセットのレコーダーを抜き取り、カセットの取り出しボタンを|押《お》す。パチン、と音はしたが、カセットは出て来なかった。
カセットは入っていなかったのだ。
東尾は、顔を引きつらせるようにして、笑った。
そのとき、ドアが|開《あ》いて、入って来たのは水原だった。|疲《つか》れ切った様子で、
「あ――東尾さん、おいででしたか」
と言ってから、床につっ|伏《ぷ》した湊と、それから少し|離《はな》れた所に大の字になっている中町に|気《き》|付《づ》いて、目を|見《み》|張《は》った。
「あの……何かあったんですか?」
「中町さんが|突《とつ》|然《ぜん》|乱《らん》|心《しん》したようでね」
「|忠臣蔵《ちゅうしんぐら》ですね、まるで」
「湊さんを絞め殺してしまった。|止《と》めようとしたが|手《て》|遅《おく》れでね。中町さんは私のパンチで気を|失《うしな》っているだけだ。さあ、警察を|呼《よ》んでくれ」
「はあ」
とは言ったものの、水原はしばらく目の前の|光《こう》|景《けい》が|悪《わる》い|夢《ゆめ》ではないかと|疑《うたが》うように、|何《なん》|度《ど》も目をこすっていた……。
4
「こうしばしばお|邪《じゃ》|魔《ま》するようでは、|定《てい》|期《き》|券《けん》でも|発《はっ》|行《こう》していただきましょうか」
と多田|刑《けい》|事《じ》が言うと、
「|冗談《じょうだん》ごとじゃありませんわ」
と、加奈子はにらんだ。
「これは|失《しつ》|礼《れい》。しかし、あなたもこの家から出られた方がいいのじゃありませんか?」
「ここは母の|愛《あい》した家ですもの。出て行きません」
と、加奈子は言い切った。
「なるほど。それでこそあなただ」
「それは|皮《ひ》|肉《にく》ですか」
「いや、|素《す》|直《なお》に|誉《ほ》めているんですよ」
と多田が言うと、加奈子は、少し顔を|伏《ふ》せ|気《ぎ》|味《み》に、|軽《かる》く息を|吐《は》き出した。
「すみません。――ちょっと|苛《いら》|々《いら》してるようです、私」
「|当《とう》|然《ぜん》ですよ」
多田は、|布《ぬの》をかけた湊の死体を見下ろした。
「――しかし、この|事《じ》|件《けん》は、もう犯人が|捕《つか》まっているんですからね」
「中町さんがやったなんて……|信《しん》じられません」
「|信《しん》|頼《らい》しておられたんですか?」
「いいえ」
と、加奈子は|即《そく》|座《ざ》に言った。「|内《ない》|心《しん》、何を考えているのか、分らない人で、私は|嫌《きら》いです。母も、|商売《しょうばい》の|腕《うで》は|認《みと》めていましたが、|人《にん》|間《げん》|的《てき》には信頼していなかったと思います」
「すると、|計《けい》|算《さん》|機《き》のようなタイプですか」
「そうですね。いつも|理《り》|性《せい》|的《てき》で、およそ|激《げき》することのない人でした。――人殺しなんて、本当に、中町さんにこそ|縁《えん》のないものみたいだったのに」
「|一《いち》|応《おう》|当《とう》|人《にん》も湊さんを殺したことは認めていますよ」
と、多田は|言《い》った。「いつも|冷《れい》|静《せい》な|人《にん》|間《げん》というのは、どこかで|無《む》|理《り》をしています。それが、ちょっとバランスを|崩《くず》されたとき、|一《いち》|度《ど》に|狂《くる》って、手がつけられなくなるんですよ」
加奈子は|黙《だま》って|肯《うなず》いた。
|居《い》|間《ま》は、またまた、|警《けい》|察《さつ》の|人《にん》|間《げん》で|一《いっ》|杯《ぱい》だった。
「――|疲《つか》れたんでしょう」
と、多田は、加奈子が、|指《ゆび》で目の|間《あいだ》をもんでいるのを見て、言った。
「ええ、多少……。|神《しん》|経《けい》ですわ」
加奈子は|努力《どりょく》して|微《ほほ》|笑《え》んだ。そうしないと|笑《わら》いも|浮《う》かんで来ないのである。
「|早《そう》|々《そう》に|引《ひ》きあげますよ。――しかし、湊さんが|亡《な》くなり、中町さんが|逮《たい》|捕《ほ》されては、|後《あと》、|困《こま》るでしょうね」
加奈子は、東尾と、それに円谷が、四つの|企業《きぎょう》を|手中《しゅちゅう》にするのかと思うと、気が|重《おも》かった。――中町と湊にしても|大《たい》して|変《かわ》りはないが、|要《よう》するに、母のような〈|思《し》|想《そう》〉がなかった。ただ、|金《かね》になりさえすれば何でもやるという〈|商売人《しょうばいにん》〉たちだった。
加奈子の母はそうではなかったのだ。
「――多田さん」
加奈子は|重《おも》|苦《くる》しい|雰《ふん》|囲《い》|気《き》を|払《はら》いのけようとするように言った。「マリ子さん――いえ、倉田法子さんがどこへ行ったか、手がかりはつかめましたか?」
「いいえ、今のところ、|全《まった》く|網《あみ》にひっかかりません。|驚《おどろ》いた話ですよ。女一人というのは|目《め》|立《だ》つものなんですがね」
多田はその言葉とは|裏《うら》|腹《はら》に、大して|残《ざん》|念《ねん》そうな様子でもなかった。
「あの――|指《し》|名《めい》|手《て》|配《はい》|犯《はん》|人《にん》も?」
「上村ですか? |一《いっ》|向《こう》に」
加奈子はホッとした|想《おも》いが顔に出ないように|苦《く》|労《ろう》した。
「そうそう」
多田は|手帳《てちょう》を出して、「あの|隠《かく》し|部《べ》|屋《や》からは、お|嬢《じょう》さん、あなたの|指《し》|紋《もん》しか出ませんでしたよ」
加奈子はちょっと目を|見《み》|張《は》った。
「どうして|私《わたし》の指紋なんか――」
「一つ、あなたの|使《つか》ったグラスを|失《しっ》|敬《けい》したのです。|後《あと》でお|返《かえ》ししますよ」
「|抜《ぬ》け目のない|方《かた》ね」
と加奈子は|笑《わら》った。
「それからもう一つ。――これは、はっきりしないのですが、倉田法子のものらしい指紋が出ています。|確《かく》|実《じつ》ではないのですがね」
なぜこの隠し部屋に、倉田法子の指紋が?――加奈子は|混《こん》|乱《らん》して何が何だか|分《わか》らなくなって来た。
「|彼《かの》|女《じょ》がこの部屋の|存《そん》|在《ざい》を知っていた|可《か》|能《のう》|性《せい》は?」
と、多田が|訊《き》いた。
「さあ……。ないことはないと思います。何しろもうずいぶんここにいるんですから。でも|偶《ぐう》|然《ぜん》|見《み》|付《つ》けたとでもいうのでない|限《かぎ》り、分るはずはありませんわ」
そう言ってから、加奈子は|不《ふ》|意《い》に気付いた。そうか。――母のペンダントを|盗《と》ったのは、マリ子、いや、倉田法子なのだ。おそらく|間《ま》|違《ちが》いあるまい。
すると……母の|遺言状《ゆいごんじょう》の最後のページを持って行ったのも彼女だろうか? もし、彼女があれを読んでいたとしたら、|当《とう》|然《ぜん》、その|容《よう》|疑《ぎ》|者《しゃ》の名を知りたいに|違《ちが》いない。
倉田法子にとっては、加奈子の母も|憎《にく》かっただろうが、|兄《あに》がその|罪《つみ》をかぶって死んだ少女|殺《さつ》|人《じん》|犯《はん》こそ、憎い相手に違いない。
そうなると、あの|探《たん》|偵《てい》、山下を殺したのが、倉田法子であるはずがない。山下は他ならぬ、その|真《しん》|犯《はん》|人《にん》の名を知らせに来たのだから。それに、あの少女を|無《む》|残《ざん》なやり方で殺したのも、彼女であるはずはない。大体、そんな|理《り》|由《ゆう》がない。
「――何を考えておいでです?」
多田に訊かれて、加奈子はハッと|我《われ》に|返《かえ》った。
「あの――マリ子さん――いえ、倉田法子さんのことです。彼女、なぜ|逃《に》げたんでしょう?」
多田は何も言わない。加奈子は、|続《つづ》けて、
「山下という探偵にしても、香山洋子っていう女の子にしても、彼女には殺す|動《どう》|機《き》がありません」
「そこは私も気付いていました」
多田は|肯《うなず》いた。「もし、山下が、彼女の|正体《しょうたい》が倉田法子であることを|調《しら》べて来たのだったとしても、それを隠すために山下を殺したとは思えない。それほどまでにして隠す|秘《ひ》|密《みつ》ではありますまい」
加奈子は肯いた。
「別に、殺人犯の|妹《いもうと》だからって、それが罪になるわけじゃありませんものね」
「そうです。せいぜいここを|辞《や》めるぐらいで|済《す》む。人を殺すことはない。――それに、香山洋子の|一《いっ》|件《けん》にしても、|誰《だれ》が|好《この》んであんな殺し方をしますか? あの|薄《うす》ぼんやりの円谷正彦に|罪《つみ》を|着《き》せるのが|目《もく》|的《てき》でも、何もあんな殺し方をする|必《ひつ》|要《よう》はない。――何がおかしいんです?」
「ごめんなさい」
加奈子は笑いを|押《おさ》えて、「|別《べつ》に気が|狂《くる》ったわけじゃないんです。ただ、正彦さんのことを『薄ぼんやり』とおっしゃったんで、|正《まさ》にぴったりだと思って、つい……。|続《つづ》けて|下《くだ》さいな、どうぞ」
多田は|微《ほほ》|笑《え》みながら、まじまじと加奈子を見つめて、
「あなたは|大《たい》したお|嬢《じょう》さんだ。これだけ家の中で、色々と|恐《おそ》ろしいことが|起《お》こっているのに、そうして|笑《え》|顔《がお》を見せる|余《よ》|裕《ゆう》がある。――くどいようですが、あなたのお母さんに、|一《いち》|度《ど》ぜひお|会《あ》いしたかったですな」
「きっと気が合ったと思いますわ」
「|光《こう》|栄《えい》です。――さて、考えて来た通り、倉田法子は、おそらく山下も、香山洋子も殺していない」
「|同《どう》|感《かん》です」
「そうなると、二つの殺人の犯人は誰か?――上村裕三かもしれない」
「ここにはいませんわ」
「それに動機もない。殺人容疑者とはいえ、山下や、その少女を殺す理由があったとは思えない」
「すると……まず二人を殺したのが同じ人間かどうかという点から考えなくてはなりませんね」
「そうです。それにはまず動機です。――その点から言って、この二つの殺人は|全《まった》くタイプが違う。山下の|場《ば》|合《あい》は、動機はほぼはっきりしています。山下が持って来るはずだった|情報《じょうほう》が、犯人にとって|危《き》|険《けん》なものだった、ということです。しかし、その情報は、あなたのお母さんが山下に|依《い》|頼《らい》して|調《しら》べさせたものだという点は|重要《じゅうよう》です」
「分ります」
と、加奈子は肯いた。
「香山洋子の場合は、全くの|変《へん》|質《しつ》|者《しゃ》による犯行と思われます。――どうやら私のみたところ、香山洋子に金を渡したのは、おそらく、中町、東尾あたりではないかと思いますが、その目的は、まず十中八、九、円谷|追《お》い|落《おと》しにあったとみていいでしょう」
「でも殺したのは――」
「もちろん、円谷を|退《たい》|陣《じん》させるには、|息《むす》|子《こ》が少女を|強《ごう》|姦《かん》したという|事《じ》|件《けん》があれば|充分《じゅうぶん》です。殺したのは別の|人《にん》|間《げん》で、むろん円谷正彦ではないでしょう」
「一体誰なんでしょう?」
多田は何とも言わずに、居間のソファの|間《あいだ》をぶらぶらと歩いていたが、やがて足を|止《と》めると、言った。
「分りません。ただ――あなたは、さっき二つの殺人の犯人が別々かもしれないと言われました。その可能性は高い。二つの事件に|共通点《きょうつうてん》があるとすれば、|刃《は》|物《もの》を使っているということぐらいでしょう」
「でも、同じ刃物といっても、|壁《かべ》に|飾《かざ》ってある|短《たん》|剣《けん》と、お|医《い》|者《しゃ》さんのメスでは、|大《だい》|分《ぶ》違いますね」
「そう。殺し方もね。――いずれにせよ、山下を殺したのは、あのとき、この家の中にいた人物。そして香山洋子にしてもそうでしょう。外から|侵入《しんにゅう》した|何《なに》|者《もの》かが、たまたま菊井|医《い》|師《し》の|鞄《かばん》を見付けてメスを|盗《ぬす》み、たまたま香山洋子が|裸《はだか》になって待っている部屋へ入り込むとは考えられない」
「やはり|内《ない》|部《ぶ》の人間……」
「それしか考えられません。山下に関しては、社長さんたちやその夫人にも動機があったかもしれない。たとえば、山下の持って来た|調査《ちょうさ》|結《けっ》|果《か》が、彼らの|地《ち》|位《い》を|危《あや》うくするものだった場合はです」
加奈子は肯いた。そんなことは考えてもみなかったが。
「しかし、香山洋子殺しとなると……。これはもう誰が、という|具《ぐ》|体《たい》|的《てき》な動機は|期《き》|待《たい》できません」
「でも、彼女がそこにいることを知っていた人間は限られるんじゃありません?」
「そうですね。――|彼《かの》|女《じょ》に|金《かね》をやった――おそらく中町か東尾が……。しかし、ともかく広いとはいえ、この一|軒《けん》の家の中です。どこで話を聞かれ、どこかで彼女が|部《へ》|屋《や》へこっそり入って行くのを見ていたかもしれない」
多田は、|隠《かく》し|部《べ》|屋《や》の方を見ながら、「あそこにいると、この部屋の中の話は聞こえますか?」
と言った。
「ええ……。たぶん」
「あそこで|血《ち》|染《ぞ》めのハンカチが|見《み》|付《つ》かったのは|事《じ》|実《じつ》です。あの香山洋子の血に、ほぼ|間《ま》|違《ちが》いない」
加奈子は何も言わなかった。――まさか上村が! 少女を|惨《ざん》|殺《さつ》するような|変《へん》|質《しつ》|者《しゃ》とは思えない。もっとも、変質者というのは、みんなそれらしく見えないものらしいが……。
「――どうもお|邪《じゃ》|魔《ま》しましたね」
と、多田は言った。「これ|以上《いじょう》事件が|起《お》きないといいのですが」
「本当ですね」
「この|次《つぎ》はあなたが|狙《ねら》われるかもしれない。この家を出られてはいかがです?」
「いいえ。――ここは動きません。ご|心《しん》|配《ぱい》なく。自分の|身《み》は|守《まも》れます」
「何なら、|警《けい》|官《かん》を|置《お》いておきましょうか」
「いいえ、それには|及《およ》びません。水原さんもいますし。|大丈夫《だいじょうぶ》ですわ」
「分りました」
多田は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「ですが――どんなに|安《あん》|心《しん》な|人《にん》|間《げん》と思っても、心を|許《ゆる》さないで下さい。|殺《さつ》|人《じん》|犯《はん》というのは、|常《つね》にそれらしくない顔をしているものです」
――警察の人間たちが引き|上《あ》げて行くと、加奈子は|居《い》|間《ま》に一人、|座《すわ》っていた。
|取《と》り|残《のこ》されたような気がした。もう|誰《だれ》もそばにはいてくれないような。
上村もいなくなった。どこへ行ってしまったのだろう?
まさか――まさか、上村があの少女を|殺《ころ》したとは思えないが。しかし、上村は、円谷正彦を|罠《わな》にかけようという、おそらくは中町たちの|密《みつ》|談《だん》を、ここで聞いていたかもしれない。そうだとすると、あの少女のことも、知っていたことになる……。
「いいえ!」
と、加奈子は口に出して言った。
|途中《とちゅう》で思い|悩《なや》むなんて。|私《わたし》らしくもない。お母さんなら、|一《いち》|度《ど》|信《しん》じた|相《あい》|手《て》には、とことんついて行っただろう。――そうだ。|誰《だれ》かが、上村をあそこから|連《つ》れ|去《さ》った。|逃《に》がしたのかもしれない。
それとも、上村自身が、|体調《たいちょう》が|回《かい》|復《ふく》したので、加奈子への|迷《めい》|惑《わく》を考えて、|姿《すがた》を|消《け》したとも考えられる。|指《し》|紋《もん》が|拭《ぬぐ》ってあったのは、|彼《かれ》|自《じ》|身《しん》のしたことかもしれない。
そうなると、あの血染めのハンカチは?――犯人があの部屋を知っていて、上村に|罪《つみ》を|着《き》せるべく、|隠《かく》しておいたのではないだろうか。
一体誰なのか? 犯人は?
加奈子は、ソファに|身《み》を|沈《しず》めて目を|閉《と》じた。――|疲《つか》れた。
もう夜になっていて、とっくに|夕食《ゆうしょく》の時間を|過《す》ぎていたが、|食欲《しょくよく》もなかった。
「――お|嬢《じょう》さん」
と声がして、顔を上げた。ドアを開けたのは、水原だった。
「あ、どうしたの?」
「菊井先生がお見えです」
「そう。お通しして」
水原が顔も|引《ひ》っ|込《こ》めない|内《うち》に、菊井が|急《いそ》ぎ足で入って来た。
「和昌の|奴《やつ》を|送《おく》って行ってたんで、来るのが|遅《おそ》くなってしまったよ」
菊井は加奈子の手を|取《と》って、「また|人《ひと》|殺《ごろ》しがあったって聞いてね」
「ええ。でも|今《こん》|度《ど》は犯人もすぐ|捕《つか》まりましたわ」
「中町だって? |全《まった》く、何てことだ!」
菊井は|憤《いきどお》りを|押《おさ》えかねる|様《よう》|子《す》で、「君のお母さんが|亡《な》くなったら、とたんにこのざまだ。――これから一体どうするのかね」
「東尾さんと円谷さんが|好《す》きなようにやるんでしょう。もう会社は北里|家《け》の手を|離《はな》れましたわ。――それより先生、あの|隠《かく》し|部《べ》|屋《や》のことを、警察に話しませんでした?」
「|私《わたし》が?」
菊井は目を|見《み》|開《ひら》いて、「それは|心《しん》|外《がい》だぞ。私は|君《きみ》を|裏《うら》|切《ぎ》りはしない」
「そうですね。すみません。|疑《うたが》いたくはなかったんですけど」
菊井は、|書《しょ》|棚《だな》の方へ目をやって、
「――捕まったのかね、彼が」
と|訊《き》いた。
「いいえ。警察が|開《あ》けたときは、もういませんでした。――誰かが|密《みっ》|告《こく》したんです」
「私じゃないよ」
「|分《わか》っています。|信《しん》|頼《らい》できるのは、先生だけですもの」
加奈子はそう言って、菊井の手を|握《にぎ》りしめた。
「――加奈子|君《くん》、君はうちへ来ていた方がいい。この|屋《や》|敷《しき》ではろくなことがないよ」
加奈子は、ちょっと|笑《わら》って、立ち|上《あが》ると、
「本当に……」
と、居間の中をゆっくりと歩き|回《まわ》った。「母が生きてたときは、そりゃあ|楽《たの》しくて、何もかも|巧《うま》く行っていたのに。母が、この家についていた|好《こう》|運《うん》も、|全《ぜん》|部《ぶ》|墓《はか》|場《ば》に持っていってしまったんですわ、きっと」
「君のような|若《わか》い人が、こんなだだっ広いだけの屋敷にいるのは|感《かん》|心《しん》しない。|悪《わる》いことはいわないから、私のところへおいで」
「ご|親《しん》|切《せつ》ね、先生は」
と、加奈子は言った。「でも――ともかく今はまだ|無《む》|理《り》ですわ。何もかも、|片《かた》|付《づ》けてしまってからならば、たぶん……」
「私の|所《ところ》へ来てくれるかね」
加奈子は、菊井医師の|口調《くちょう》に、ただ、彼女の|安《あん》|全《ぜん》を|気《き》|遣《づか》っているという|以上《いじょう》の何かを感じて、菊井の顔をじっと見つめた。
「先生……。何か私におっしゃりたいことがあるんですか?」
菊井は、あわてて目をそらした。
「う、うん……まあ、しかし、そう|急《いそ》ぐ話でもない」
「何ですの?――話して|下《くだ》さった方がいいわ。今なら何を聞いても私、びっくりしません」
加奈子は、ソファに|戻《もど》って言った。
「うん……。つまり……」
菊井は、しばらくためらっていたが、やがて、思い切った|様《よう》|子《す》で口を開いた。「今、君にこんなことを話すのはどうかと思う。だから、聞いておいてくれるだけで|充分《じゅうぶん》なんだが……」
「うかがいますわ」
菊井は加奈子の手を握った。
「加奈子君、君は――うちの和昌と|結《けっ》|婚《こん》してくれる気はないかね」
「和昌さんと?」
思ってもみない話に、加奈子は|唖《あ》|然《ぜん》とした。まだ、菊井|当《とう》|人《にん》から|愛《あい》を|打《う》ち明けられた方が|驚《おどろ》かなかったろう。何となく、そんな話の|雲《くも》|行《ゆき》だったからだ。
しかし、まさか息子の和昌のことだとは……。
「びっくりするのも|無《む》|理《り》はないよ」
と菊井は言った。「君があの男――|逃亡中《とうぼうちゅう》の男にひかれているのも分っている。しかし……こんなことは|余《よ》|計《けい》な|差《さ》し|出《で》|口《ぐち》かもしれないが、ああいう男を|追《お》いかけても、君が|傷《きず》つくばかりだと思うんだ。私は君に……その……」
「分りました。先生のおっしゃりたいことはよく分ります」
「気を悪くしてもらっては|困《こま》るんだが――」
「そんなこと! とてもありがたいと思いますわ」
菊井の顔がパッと明るくなる。
「そうかね。それでは――」
「お話はうかがっておきますわ。いずれにしても、今はとてもご|返《へん》|事《じ》できるような|状態《じょうたい》ではありませんの」
「それはそうだろうね。もちろん、心にとめておいてくれれば、それで充分なんだよ」
「先生のご親切はありがたいわ。本当です。――何もかも片付いたら、ゆっくりご|相《そう》|談《だん》したいと思います」
加奈子は話を切り上げるように、言った。菊井も、それを|察《さっ》したように立ち上って、
「じゃ、くれぐれも気を付けるんだよ。何かあれば、夜中でもいいから電話をくれ」
と、言い|残《のこ》して帰って行った。
加奈子は、|一人《ひとり》になると|深《ふか》い|疲《ひ》|労《ろう》に|捉《とら》えられた。
この家の中で、三人もの|人《にん》|間《げん》が|殺《ころ》された。――もし、母までが殺されたのだとすれば、四人になる。もういい|加《か》|減《げん》にしてくれ、と|叫《さけ》びたかった。
「――もう|沢《たく》|山《さん》だわ!」
ため|息《いき》と|共《とも》に|呟《つぶや》くと、クッションを一つ、ソファの|隅《すみ》に|置《お》いて、そこへ頭をのせた。少し|眠《ねむ》りたかった。
|人《ひと》|殺《ごろ》しのあった|部《へ》|屋《や》だろうが、どこだって|構《かま》うもんか、と思った。
目を|閉《と》じると、加奈子は、すぐに眠りに|引《ひ》き|込《こ》まれて行った……。
5
|深《しん》|夜《や》。――一時を時計が知らせた。
|居《い》|間《ま》は|暗《くら》い|闇《やみ》の中に眠っている。
加奈子は、まだ眠り込んでいた。|一《いち》|度《ど》、水原がやって来たが、加奈子が眠り込んでいるのを見ると、カーテンを引いて、そのまま出て行ったのだ。
外はあまり風もなく|静《しず》かなようだった。|物《もの》|音《おと》一つ――いや、|微《かす》かな足音が、フランス|窓《まど》の方へと|近《ちか》|付《づ》きつつあった。
足音は、テラスに|着《つ》くと、|止《とま》った。
フランス窓の|合《あわ》せ目に、カタカタという音がした。――|薄《うす》い|刃《は》が、合せ目をすり|抜《ぬ》けて|差《さ》し込まれて来ると、そのまま上の方へと|動《うご》いた。かけ|金《がね》に|引《ひ》っかかると、その刃が少し力を込めて上へ動いた。かけ金が持ち|上《あが》り、カタン、と外れた。
フランス窓が|開《あ》いて、風が|静《しず》かに|流《なが》れ込んで、カーテンをはためかせた。その|人《ひと》|影《かげ》は、テラスからゆっくりと居間の中へ|踏《ふ》み込んで来て、フランス窓を|閉《と》じた。
|閉《し》まるとき、戸がカタッと音を立てて、その音が、加奈子の目を|開《ひら》かせた。
「――ああ、眠っちゃったわ、すっかり」
加奈子は目をこすった。ソファに起き上ると、ふと今、耳にした|物《もの》|音《おと》のことに|気《き》|付《づ》いた。
|誰《だれ》が入って来たのだろうか?
加奈子はドアの方へ走ると、居間の明りを|点《つ》けた。
|室《しつ》|内《ない》に光が|満《み》ちた。――人の|姿《すがた》はない。
しかし、|確《たし》かに何か聞こえたのだが……。ソファの|陰《かげ》か、それとも下にいるのかもしれない。
水原を呼んで来た方がいい。ともかく|相《あい》|手《て》が|何《なに》|者《もの》か分らないのだから。
ドアを開けて、加奈子は、
「キャッ!」
と|悲《ひ》|鳴《めい》を上げた。目の前に男が立っていたのだ。
「――正彦さん!」
円谷正彦がニヤニヤ笑いながら立っていた。加奈子は|腹《はら》|立《だ》たしげに、
「びっくりするじゃないの」
と言った。「何のご用?」
「中へ入れろよ」
正彦は、ぐいと加奈子を|押《お》しのけるようにして入って来た。
「|酔《よ》ってるのね」
「うん。|前《まえ》|祝《いわ》いってわけさ」
「何かおめでたいことでもあったの?」
「中町の|奴《やつ》、東尾とグルになって|僕《ぼく》を引っかけようとしたんだ。しゃべったんだぜ、すっかり」
「そう」
「湊は死んだ。中町は|殺《さつ》|人《じん》|犯《はん》。|後《あと》はうちの|親《おや》|父《じ》と東尾だけだ。――|分《わか》るかい? 四つの|企業《きぎょう》は二人のもんだ!」
正彦は、大声で|喚《わめ》きながら、|奥《おく》の|洋《よう》|酒《しゅ》の|棚《たな》まで歩いて行くと、|勝《かっ》|手《て》にグラスを出して|飲《の》み出した。
「しかしね、東尾だって|一《いち》|度《ど》は中町と組んだ|弱《よわ》|味《み》がある。うちの親父が|実《じっ》|権《けん》を|握《にぎ》るんだ。分るかい?」
「おめでとう」
と、加奈子は気のない|調子《ちょうし》で、「でも、あなただって、十四|歳《さい》の女の子に手を出すところだったのよ。あんまり|威《い》|張《ば》れたもんじゃないわ」
「言いたい奴には言わせとくさ!――なあ、|君《きみ》も|悪《わる》い|気《き》|分《ぶん》じゃあるまい?」
「どうして|私《わたし》が?」
加奈子は|部《へ》|屋《や》の中へ|戻《もど》りながら、「あなたのお父さんが社長になろうとお|茶《ちゃ》くみになろうと、|関《かん》|係《けい》ないわ」
「――分ってないな」
正彦はグラスを手に、加奈子の方へやって来た。「|僕《ぼく》は|寛《かん》|大《だい》にも、君の|仕《し》|打《う》ちを|忘《わす》れて、君を|妻《つま》にしてやると言ってるんだぜ」
「|冗談《じょうだん》がお|上手《じょうず》ね」
と加奈子は|笑《わら》った。それから、ふと、|気《き》|付《づ》いて、
「あなた、どこから入って来たの?」
「|玄《げん》|関《かん》に|決《きま》ってるじゃないか」
「水原さんは?」
「あいつか。あいつなら玄関ホールでのびてるよ。僕のパンチを|食《く》らってね」
「何ですって!」
加奈子は、正彦をにらみつけた。「よくもそんな|恥《はじ》|知《し》らずなことを――」
「|邪《じゃ》|魔《ま》が入られちゃ|困《こま》るからね。僕らの|大《だい》|事《じ》な|瞬間《しゅんかん》にさ」
正彦がつかみかかって来るのを、加奈子は|危《あや》うく|逃《のが》れた。そしてドアの方へと|突《つ》っ走った。だが、|今《こん》|度《ど》は正彦も|負《ま》けてはいない。ドアを|開《あ》けようとする加奈子へ|飛《と》びかかって、手を|押《おさ》えた。
「もう|誰《だれ》もいないぞ! |諦《あきら》めろよ」
「何するのよ――|気《き》|狂《ちが》い!」
加奈子は身をよじって、正彦の|腕《うで》の中から|抜《ぬ》け出すと、居間の|奥《おく》の方へ|逃《に》げた。
「逃がすもんか」
正彦は、|肩《かた》で|息《いき》をしながら、ドアに|掛《か》け|金《がね》をかけた。「さあ……。ゆっくり|追《お》いつめてやるからな」
「誰があなたなんかに――」
加奈子も|息《いき》を|弾《はず》ませている。
しかし、このままでは|危《あぶ》ない。何といっても加奈子はかなり|疲《つか》れているし、あまり|激《はげ》しいもみ合いになったら|抵《てい》|抗《こう》し|切《き》れるかどうか……。
長引けば長引くほど|危《き》|険《けん》だ。正彦は酒の|勢《いきお》いで、強気になっている。
「こいつ!」
正彦が走って来た。加奈子は|書《しょ》|棚《だな》|沿《ぞ》いに走った。
|突《とつ》|然《ぜん》、足が何かに引っかかった。前のめりになった加奈子の手が書棚へのびた。本を|叩《たた》き|落《お》としながら、加奈子は|転《てん》|倒《とう》した。
「それ!」
正彦が|調子《ちょうし》づいて、追って来ると、加奈子の上へ飛びかかって来た。――が、どうにもだめな男は、だめなのである。
加奈子は、|転《ころ》ぶとき、ブックエンドを一つ、|握《にぎ》りしめていた。|大《だい》|理《り》|石《せき》でできた、人魚の|像《ぞう》である。
それを、|覆《おお》いかぶさって来る正彦の方へ、ぐいと|突《つ》き出した。正彦は大理石の人魚と|対《たい》|面《めん》した|結《けっ》|果《か》、|額《ひたい》をもろに|強打《きょうだ》されて、その|魅力《みりょく》に――いや、その|硬《かた》さに|参《まい》って、のびてしまったのである。
「――|全《まった》くもう!」
正彦の体をはねのけて、加奈子は立ち上った。「|馬《ば》|鹿《か》は|死《し》ななきゃ|治《なお》らないって、あなたのことだわ!」
ブックエンドを棚に|戻《もど》すと、一体何につまずいたのかしら、と|視《し》|線《せん》を戻してみた。
|絨毯《じゅうたん》が、少しめくれ上っていた。
「|変《へん》だわ……」
加奈子は歩いて行って、かがみ込んだ。
絨毯に切れ目が入って、そこが少し|反《そ》っていたところに足が引っかかったらしい。しかし、絨毯に、なぜ切れ目が?
加奈子は、|深《ふか》い毛を手でつかんで、力を込めて引っ張ってみた。|驚《おどろ》いたことに、書棚沿いの、一メートル四方くらいの絨毯が、|真《ま》|四《し》|角《かく》に、スポッと|外《はず》れて来たのである。
「驚いた!」
加奈子は、下の|床《ゆか》を見た。|別《べつ》に何の|変《かわ》りもないようだが……。
もう|一《いち》|度《ど》、絨毯の方に目を|移《うつ》す。毛足が長いので、切れ目などは全く上から見えないのである。
「|汚《よご》れてるわ……」
加奈子は|呟《つぶや》いた。――抜けた分の絨毯の|表面《ひょうめん》に、|乾《かわ》いた|泥《どろ》のようなものがこびりついているのだ。
まるで、汚れた|靴《くつ》で上を|踏《ふ》んだかのようだった。――しかし、書棚の前が、なぜ汚れるのだろう?
ある考えが加奈子の頭に|浮《う》かんだ。|急《いそ》いでフランス|窓《まど》の方へ行くと、|扉《とびら》の|合《あわ》せ目の前のあたりの|絨毯《じゅうたん》の上にかがみ込んで、その毛を|両手《りょうて》でつかんで、体重をかけて|引《ひ》っ|張《ぱ》った。
いきなり、一メートル四方ぐらいに絨毯がスッポリと|抜《ぬ》けて来て、加奈子は引っくり|返《かえ》った。|書《しょ》|棚《だな》の前と同じくらいの大きさの絨毯が、やはり切り|取《と》られていて、その|境目《さかいめ》は、毛の|厚《あつ》さに|埋《う》もれてしまっていたのだ。
加奈子は、書棚の前の分をせっせと|運《はこ》んで来ると――|実《じっ》|際《さい》、一メートル四方の、|分《ぶ》|厚《あつ》い絨毯である。|重《おも》いのだ。――フランス窓の前の|空《す》いた|部《ぶ》|分《ぶん》に入れてみた。ピッタリとおさまる。
これが|正《ただ》しいのだ。――山下を|殺《ころ》した|犯《はん》|人《にん》は、この|屋《や》|敷《しき》の中の|人《にん》|間《げん》ではなく、外からやって来て、このフランス窓から入って来たのに|違《ちが》いない。そして入口のところに|泥《どろ》の|足《あし》|跡《あと》を|残《のこ》した。
それに|後《あと》で|気《き》|付《づ》いたが、少々|拭《ふ》いても、毛足の長い絨毯である。そう|簡《かん》|単《たん》に汚れは|落《お》ちない。そこで、その部分を切り抜いて、できるだけ目立たない、書棚の|辺《あた》りと入れ|換《か》えておいたのだ。
加奈子は、上村が、マイクに|雑《ざつ》|音《おん》が入るのを聞いたと言っていたことを思い出した。ちょうど犯人がここから|侵入《しんにゅう》して来た|頃《ころ》だ。
あれは風の音だったのだ。よく、TVやラジオの|戸《こ》|外《がい》でのインタビューなどで、風の強いとき、ボコンボコンという音が入ることがある。犯人がフランス窓を|開《あ》けたとき、|一瞬《いっしゅん》だったろうが、外から強い風が|吹《ふ》き込んで、マイクに雑音が入った。
上村はそれを聞いたのだ。
加奈子は、|考《かんが》え込んだ。――犯人は|表《おもて》から来た。そして山下を|刺《さ》した|後《のち》、またそこから出て行ったのだろう。ということは、犯人は、あのとき通夜に出ていなかった[#「通夜に出ていなかった」に傍点]人間だ、ということになる。
しかし、母が「|身《み》|近《ぢか》な」と|呼《よ》んだ人々の中で、あのとき、ここにいなかった|者《もの》があるだろうか? |通《つ》|夜《や》には、母と|親《した》しかった者、|全《ぜん》|部《ぶ》が|揃《そろ》っていたはずである。
全部?
「――|違《ちが》うわ」
と加奈子は|呟《つぶや》いた。
一人だけ[#「一人だけ」に傍点]いる。あの夜、ずっと|遅《おく》れてやって来た男がいる。
|不《ふ》|意《い》に、|背《はい》|後《ご》に人の|気《け》|配《はい》を|感《かん》じて|振《ふ》り|向《む》いた。正彦が、|額《ひたい》から|血《ち》を|流《なが》して、|怒《いか》りに目を血走らせて立っていた。
「よくも――」
|避《さ》ける|間《ま》もなく、正彦の|両手《りょうて》が加奈子の首を|捉《とら》えた。加奈子は|息《いき》ができなかった。|逃《のが》れようと|必《ひっ》|死《し》に正彦の顔を引っかいた。
正彦と|一《いっ》|緒《しょ》に、加奈子は|床《ゆか》へ|倒《たお》れた。|馬《うま》|乗《の》りになった正彦が、|体重《たいじゅう》をかけて首を|絞《し》めて来る。
加奈子は、手から力が|抜《ぬ》けて行くのを|感《かん》じた。――もうだめだ。このまま……|死《し》ぬのかしら?
正彦が、|突《とつ》|然《ぜん》、両手を|離《はな》した。そしてよろけながら立ち|上《あが》る。
加奈子は、|何《なん》|度《ど》も|喘《あえ》ぎながら、|起《お》き上った。――が、どうしたのだろう? 正彦はなぜやめたのか。
正彦は、|虚《うつ》ろな目をして、|突《つ》っ立っていた。まるで、死人の目だ。
そして、突然、正彦は、|糸《いと》の切れた|操《あやつ》り|人形《にんぎょう》のように床に|崩《くず》れた。
加奈子は、その正彦の|背《せ》|中《なか》に、赤く広がりつつある、しみを見つめていた。血だ。
目を上げると、そこに男が立っていた。
通夜の|晩《ばん》、一人だけ遅れて来た男だ。――菊井和昌。
「――|大丈夫《だいじょうぶ》かね」
と和昌は|訊《き》いた。
「何を――何をしたんです?」
加奈子は、まだ苦しいかすれ声で言った。
「君を|助《たす》けてあげたんだよ」
和昌の右手に、|銀《ぎん》|色《いろ》のメスが光っていた。
「ここに……いたんですね。じゃ、私のすることを――」
「見ていたよ」
和昌は|肯《うなず》いた。「君は見抜いたね、あの絨毯の入れかえを。――あれを切るのは|苦《く》|労《ろう》したんだ。メスの手入れを|普《ふ》|段《だん》から|怠《おこた》らなかったおかげだよ」
いつも通りの、|優《やさ》しい声が、|却《かえ》って、|無《ぶ》|気《き》|味《み》に思えた。
「なぜあの|探《たん》|偵《てい》を……」
答えは|分《わか》っていた。山下の|報《ほう》|告《こく》は、和昌こそが、母の|求《もと》める男だと|告《つ》げていたのに|違《ちが》いない。
「あなたですね、十七年前に、女の子を|殺《ころ》したのは」
和昌は|疲《つか》れたようにソファに|腰《こし》をおろして、
「――その通りだよ。|僕《ぼく》はあの女の子を殺した。君のお母さんは僕を見た。――もちろん、ずっと|後《あと》になって、お会いしたときも、お母さんは僕をその男だとは知らなかったはずだがね」
「そのメス……。あなたは、あの香山洋子さんも殺したの?」
「そうさ。あんなに|鮮《あざ》やかにメスを使えるのは僕ぐらいだ」
ニヤリと笑った、その笑いに、加奈子はゾッとした。
|子《こ》|供《ども》が自分の|宝物《たからもの》を見せて|自《じ》|慢《まん》しているような、|得《とく》|意《い》げな|笑《え》|顔《がお》だった。
「僕はね……|大人《おとな》の女は|嫌《きら》いだ。まだ少女の|匂《にお》いのする|娘《むすめ》がいい。あの子は、|理《り》|想《そう》|的《てき》だった」
「なぜ殺したの!」
「|彼《かの》|女《じょ》だけではないよ。――もう三人目だ」
和昌は、血の|残《のこ》ったメスを|眺《なが》めながら言った。
「長いこと|我《が》|慢《まん》していた。――あの娘が、ちゃんと|服《ふく》を|着《き》てれば、殺さなくても|良《よ》かったんだ。だが――|裸《はだか》だった。そして僕が入って行くとびっくりして、それから|笑《わら》った。笑ったんだ!」
和昌の目がギラついた光を放っていた。「僕のことを笑ったんだ! 小娘のくせに!」
「だからって殺すなんて……」
「僕は|我《が》|慢《まん》できないんだ! 僕を笑う|奴《やつ》は……|許《ゆる》しておけない!」
和昌が立ち上った。加奈子は、ギクリとして、ドアの方へと|駆《か》け出した。――が、ドアは|掛《か》け|金《がね》がかかっていた。
それを|外《はず》さない|内《うち》に、和昌が追いついて来た。加奈子は、居間の中へ突き飛ばされていた。
「やめて……」
加奈子は床を|這《は》って、逃れた。
「そんなことをして……あなたのお父さんが……」
「|親《おや》|父《じ》は知ってる[#「知ってる」に傍点]」
「何ですって!」
加奈子は目を|見《み》|張《は》った。
「――まだ赤ん|坊《ぼう》だった君を|誘《ゆう》|拐《かい》して、君のお母さんを|脅迫《きょうはく》したのは、親父だったんだ」
母が見たのは、父親の方の手紙の字だったのだ! だからこそ「|身《み》|近《ぢか》な人」と母は書いたのだ。
「父は|可《か》|愛《わい》い|一人《ひとり》|息《むす》|子《こ》を、|刑《けい》|務《む》|所《しょ》へ入れる気になれなかったのさ」
和昌が言った。「だから、いつも僕を|守《まも》ってくれる」
「私を……殺せば、|捕《つか》まるわよ」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。僕は君をメスで切り|裂《さ》くわけじゃない。首を|絞《し》めて殺す。そして君の手にこのメスを|握《にぎ》らせて、そこの|馬《ば》|鹿《か》な男の|死《し》|体《たい》を君の上にかぶせておく。――君はこの男に首を絞められ、|夢中《むちゅう》で彼を|刺《さ》した。男は、刺されながらも君の首を絞める手に力を入れ、君が|息《いき》|絶《た》えてから、男も死ぬ。――こういう|筋《すじ》|書《がき》はどうかな」
和昌は、メスをポケットに入れると、|今《こん》|度《ど》はゴムの|手袋《てぶくろ》を取り出した。「――|手術《しゅじゅつ》のときは手袋をするものだからね」
「やめて……」
加奈子は|後《あと》ずさった。――ドアの方には|逃《に》げられない。そうなればフランス窓しかなかった。
加奈子はソファの一つを和昌との間へ引っ張って倒すと、フランス窓へ向って駆け出した。和昌が|軽《かる》|々《がる》とソファを飛び|越《こ》えて、加奈子に|追《お》いつく。
「|離《はな》して!――やめて!」
和昌は、正彦とはわけが|違《ちが》った。加奈子の手首をつかんで、床へねじ|伏《ふ》せた。
「すぐに|済《す》むさ。――アッという|間《ま》だ」
和昌の、ゴム手袋をはめた手が、加奈子の首にかかった。
加奈子は疲れていた。もうだめだ。今度こそ。――今度こそ、おしまいだ……。
|突《とつ》|然《ぜん》、何かドスン、とぶつかる|衝撃《しょうげき》があって、和昌の体が加奈子の上からわきへ|転《ころ》がった。
起き上った加奈子は、床の上で|激《はげ》しくもつれ合う二人の男を見て、目を見張った。
「あなた――」
上村が、和昌と取っ組み合っている。
そして、いきなり、フランス窓のガラスが|砕《くだ》けた。|刑《けい》|事《じ》だ。多田も|続《つづ》いて飛び込んで来た。
「上村さん!」
加奈子は|我《われ》|知《し》らず、|叫《さけ》んでいた。「逃げて! 早く!」
居間のドアが、激しく打ちつけるような音と|共《とも》に開いた。菊井|医《い》|師《し》が駆け込んで来た。
「和昌! やめろ!」
と|叫《さけ》びながら、|駆《か》け|寄《よ》って来る。
「父さん――」
和昌がハッと顔を上げた。上村の|挙《こぶし》がその|顎《あご》に|打《う》ち当って、和昌は|床《ゆか》に大きく一|回《かい》|転《てん》して|転《ころ》がった。
「上村さん!」
加奈子は、上村へ駆け寄って|抱《だ》きつこうとした。上村は|荒《あら》|々《あら》しく加奈子を|突《つ》き|放《はな》した。
「やめろ! あんたなんか見たこともないぞ!」
加奈子は、上村が自分を|巻《ま》き|込《こ》むまいとしていることを|悟《さと》った。
「もういいんだよ」
多田|刑《けい》|事《じ》が上村の方へ歩いて行くと、言った。「|君《きみ》が上村だな?」
「そうです。言っときますが、この|女《じょ》|性《せい》が何を言っても|信《しん》|用《よう》しないで下さい。|僕《ぼく》はこの人のことなんか、まるで知らないんだから」
「それはまあどうでもいいがね」
と多田は、おっとりした|口調《くちょう》で、「君の|容《よう》|疑《ぎ》は|晴《は》れたよ。|犯《はん》|人《にん》が|挙《あ》がった」
と言った。
加奈子と上村は顔を見合わせた。
「――本当ですか?」
と上村が|訊《き》いた。
「本当だ。ついさっき|連《れん》|絡《らく》が入った。|大《たい》|変《へん》だったね、君も」
加奈子は上村の手を|握《にぎ》った。――そして、ふと、よそよそしい顔になって、
「私のことなんて、見たこともなかったのよね?」
と言った。
「私のせいだ……。|許《ゆる》してくれ……」
菊井医師の|呟《つぶや》きが聞えて来た。――和昌が、刑事たちに|両腕《りょううで》をかかえられながら、|連《つ》れられて行く。その|後《あと》に|従《したが》う父親の|背《せ》は、|急《きゅう》に何十年も|老《ふ》け込んだように、|丸《まる》くなっていた……。
「――あなた、どこにいたの?」
と加奈子は、上村に訊いた。
「あの|隠《かく》し|部《べ》|屋《や》さ」
「だって――」
「|警《けい》|察《さつ》が|手《て》|入《い》れした|後《あと》なら、|安《あん》|全《ぜん》だろ」
多田刑事が|笑《わら》いながら、言った。
「――いいカップルですよ、あなた方は。お二人の子供さんには用心しないと。二|代《だい》|目《め》アルセーヌ・ルパンになる|素《そ》|質《しつ》がありそうですからな」
加奈子は|照《て》れて赤くなった。
「――あら、そうだわ。正彦さんが――」
「今、|救急車《きゅうきゅうしゃ》を呼んでいます。|急所《きゅうしょ》は|外《はず》れていますよ。|大丈夫《だいじょうぶ》、|助《たす》かります」
多田の|言《こと》|葉《ば》に、加奈子は、
「あら、|残《ざん》|念《ねん》だわ」
と言った。
エピローグ
「――隠し部屋で居間の中の話を聞いててね、あの菊井和昌がおかしいな、とちょっと思ったんだよ」
と、上村は言った。
居間に、明るい|陽《ひ》|射《ざ》しが|溢《あふ》れている。|静《しず》かな|平《へい》|和《わ》が|戻《もど》って、マリ子――いや、倉田法子のいれた|紅《こう》|茶《ちゃ》を、上村と加奈子、水原、そして多田刑事が|味《あじ》わっていた。
「おかしいって何が?」
と加奈子が|訊《き》いた。
「彼が|遅《おく》れて来た|言《い》い|訳《わけ》をあれこれしてただろう?」
「ええ、聞いたわ」
「そのとき、彼は、警察の非常線[#「警察の非常線」に傍点]のことを、|全《まった》く口にしなかった。本当にあのとき車で来たのなら、|必《かなら》ず|検《けん》|問《もん》を|受《う》けたはずだし、|当《とう》|然《ぜん》そのことを言ったはずだ」
「それはそうね」
「それに、|警《けい》|官《かん》が|非常線《ひじょうせん》を|張《は》っていたのを見ていれば、何があったのか訊くのが当り前じゃないか」
「でも、あの人は何も訊かなかった」
「そう。――だから、彼はおそらく、僕を|捕《とら》えるための非常線が張られるより前に、この近くに来ていたんだ。だから非常線のことを知らなかったのさ」
「あの|探《たん》|偵《てい》が来るのを|待《ま》ち|構《かま》えていたのね」
「知らせたのは父親だろう。君のお母さんが書いた手紙を読んだのだ」
「なぜ手紙そのものを|取《と》らなかったのかしら?」
「私がちょうど来合わせたんです」
と法子が言った。「そのとき菊井先生がひどくあわてたご|様《よう》|子《す》だったので、後で私もあの手紙を読んでみたんです」
「そのとき、菊井さんは、辛うじて|最《さい》|後《ご》の一|枚《まい》だけを手の中へ|丸《まる》め込んだ。しかし、君が手紙を読めば、|探《たん》|偵《てい》の|調査《ちょうさ》|結《けっ》|果《か》で、|総《すべ》て|事情《じじょう》が|分《わか》ってしまう」
「|急《いそ》いで|息《むす》|子《こ》へ知らせる。息子は探偵を殺すしかない、と|決《けっ》|心《しん》して早目にこっちへ来ていたわけね」
「|鍵《かぎ》をお|返《かえ》しします」
と、法子が、加奈子へ、戸棚の鍵を|手《て》|渡《わた》した。
「ありがとう。法子さん。――何だか名前が|変《かわ》ると|変《へん》ね」
と加奈子は|笑《わら》った。
「お|嬢様《じょうさま》。――私、|最《さい》|初《しょ》は、|奥《おく》|様《さま》のことを|恨《うら》んで、|機《き》|会《かい》があれば、|復讐《ふくしゅう》を、という気持でこちらへ来たんです。でも|働《はたら》いている|間《あいだ》に……。奥様はいい|方《かた》でした。復讐なんて、どうでも|良《よ》くなったんです」
法子はそう言って、一つ|息《いき》をつくと、「手紙を読んで、総てが分りました。ただ、ともかく、奥様を|脅迫《きょうはく》した人間のことが知りたいと、鍵を|盗《ぬす》んでしまいました。|申《もう》し|訳《わけ》ありません」
「いいのよ、そんなこと」
と加奈子は法子の手を握った。「私の方こそ、あなたに|謝《あやま》らなきゃならないのに」
「でも、同じペンダントを、なぜ川口っていう人が|持《も》っていたんでしょう?」
と法子が首をひねった。
「山下の|所《ところ》に、その|件《けん》のメモが|見《み》|付《つ》かりました」
と多田が言った。「――いや、おいしい紅茶だ。ティーバッグではこうはいきませんな」
「申し訳ありませんけど」
と、法子が言った。「これ、ティーバッグなんです」
多田は一つ|咳《せき》|払《ばら》いをして、
「つまり、お母さんは、自分のペンダントと同じ|物《もの》をもう一つ作らせて――もちろん鍵は入っていませんが――それを山下へ|送《おく》ったのです。もし自分が、山下が調査結果を持って来るより先に死んでしまったら、それを加奈子さんに見せれば、|信《しん》|用《よう》してくれるだろう、と書き|添《そ》えてあります」
「それを、また山下さんは川口っていう人に|渡《わた》したんですね」
「つまり、山下は、お母さんがお元気だと思っていたわけですから、そんな物は|必《ひつ》|要《よう》ない。むしろ、ここで|落《お》ち|合《あ》うことになっている川口に渡して、もし先にここへ|着《つ》いて、|怪《あや》しまれたときに見せろというつもりだったようです」
「|分《わか》りました」
と法子が|肯《うなず》く。
「多田さん」
と加奈子が言った。「母の|遺《い》|体《たい》を|調《しら》べた|結《けっ》|果《か》は、どうでしたか?」
「何の|毒《どく》|物《ぶつ》も|検出《けんしゅつ》されませんでした」
と、多田は言った。「お母さんの|死《し》は、|自《し》|然《ぜん》|死《し》でしたよ」
「そうですか」
加奈子は肯いた。「|良《よ》かったわ」
「菊井は、|結局《けっきょく》、|罪《つみ》|滅《ほろ》ぼしの気持もあって、お母さんを何かにつけて、|助《たす》けていたんでしょう。自分の罪というより、|息《むす》|子《こ》の罪ですがね」
多田は、「さて、ではもう|失《しつ》|礼《れい》します」
と立ち|上《あが》った。
加奈子がドアの方へ歩きながら、
「多田さん。倉田さんの|罪《つみ》は|消《き》えるんでしょうね」
「もちろんです」
「よろしくお|願《ねが》いします」
と、法子が頭を|下《さ》げた。
多田が帰ってしまうと、加奈子が言った。
「|改《あらた》めて母のお|葬《そう》|式《しき》だわ。それから……」
「それから?」
「私たちの|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》!」
加奈子は上村を見て、「いけない?」
「いや、|異《い》|存《ぞん》ないね。しかし、あの社長|連中《れんじゅう》の下で|働《はたら》くのはごめんだよ」
「いいわよ、私、会社なんか、あの人たちにくれてやる」
「だめだよ。|従業員《じゅうぎょういん》のことを|考《かんが》えなきゃ。|君《きみ》がしっかりしなくちゃ、どうなるんだ?」
加奈子はちょっと考えて、
「そうね……。じゃ、あなた|手《て》|伝《つだ》ってくれる?」
「君の|下《もと》で働くなら|結《けっ》|構《こう》だ」
「|決《きま》った!」
加奈子は|飛《と》び上った。
「その下あたりで、僕はいかがでしょう?」
と水原が言った。
「あら、あなた方には、ずっとここにいていただきたいわ。――何なら私たちと|一《いっ》|緒《しょ》に式を|挙《あ》げる?」
水原と法子が、顔を赤らめながら、|居《い》|間《ま》を出て行って、加奈子は、上村の|腕《うで》を|取《と》った。
「足の|具《ぐ》|合《あい》は?」
「もう|大《だい》|分《ぶ》いいよ」
加奈子は上村にキスした。それから、彼の|肩《かた》に頭をのせて、
「――ねえ、どうしてあの|隠《かく》し|部《べ》|屋《や》を|警《けい》|察《さつ》が|調《しら》べに来ると分ったの?」
「菊井さんがね、僕の|熱《ねつ》を下げるためにといって、君にタオルを取りに行かせたろう。あの|間《あいだ》に|洗《せん》|面《めん》|所《じょ》の|排《はい》|水《すい》|口《こう》に、あの血のついたハンカチをねじ込んだんだ。熱はあっても、それぐらいのことは気が付く。もっとも、何をねじ込んだのかは、後になって分ったんだけどね」
「じゃ、息子さんのハンカチを?」
「そう。きっと息子さんの部屋へ|診察鞄《しんさつかばん》を取りに行ったときに見付けたんだ。犯人が息子だと、|薄《うす》|々《うす》気付いてはいたろうが、それを見て、|確《かく》|実《じつ》になった。――そして、僕にその罪をかぶせようと|決《けっ》|心《しん》したんだ」
「じゃ、|密《みっ》|告《こく》したのは先生?」
「いや、僕は元気になってから、排水口を調べて、それを|察《さっ》した。そこへ入って来たのがマリ子――いや、倉田法子だ。僕は、彼女が|身《み》|許《もと》を|偽《いつわ》っているのを知って、遠からず警察がそれを調べ上げるに決っていると言った。ここは二人して先手を打とう、とね。そこで、|一《いっ》|旦《たん》|屋《や》|敷《しき》の|庭《にわ》へ出て隠れ、彼女が|表《おもて》から警察へ電話したんだ」
「自分で知らせたの!」
「そう。そして後は、人がいなくなったところで、二人してまたそこへ|戻《もど》った」
「あの後も、あそこへ入ったわ」
「もう|詳《くわ》しくは調べないさ。ソファの下は二人ぐらい|充分《じゅうぶん》隠れられる」
「ちょっと――ちょっと待ってよ!」
と、加奈子は言った。
「何だい?」
「じゃ、あの部屋に、法子さんと二人でいたの?」
「そうだよ」
「まさか――何もなかったでしょうね?」
と、加奈子はにらみつけた。
「おい、よせよ。――それどころじゃないだろう」
加奈子は笑い出した。そして、もう|一《いち》|度《ど》、上村にキスすると、
「じゃ、あの隠し部屋へ行かない?」
「どうして?」
「|約《やく》|束《そく》したもの、私」
と加奈子は言った。「あなたが良くなったら、|抱《だ》かれに行くって」
「わざわざあの部屋にしなくても……」
「いいのよ」
加奈子は、|本《ほん》|棚《だな》の|扉《とびら》を|開《あ》けると、上村を|引《ひ》っ|張《ぱ》るようにして隠し部屋の中へ入って、
「女はね、そういう|細《こま》かい|所《ところ》にこだわるの」
と言いながら、ピタリと扉を|閉《と》じた。
|晴《は》れ、ときどき|殺《さつ》|人《じん》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成14年9月13日 発行
発行者 福田峰夫
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2002
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『晴れ、ときどき殺人』昭和59年 3 月10日初版発行
平成 9 年 6 月20日43版発行