角川e文庫
昼下がりの恋人達
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
愛妻物語
シルバーシートヘの招待
真夜中の悲鳴
五分間の殺意
一杯のコーヒーから
ノスタルジア
昼下がりの恋人達
愛妻物語
1
「あの、すみませんが……」
その男は|遠《えん》|慮《りょ》がちに声をかけて来た。道でも|訊《き》く気かな、と|明《あか》|石《し》|弘《こう》|治《じ》は思った。
「何ですか?」
「すみませんが」
と男はくり返してから、「あなたを|誘《ゆう》|拐《かい》します。|抵《てい》|抗《こう》なさるとけがをしますよ」
「何ですって?」
と訊き返した。何だか、誘拐する、というように聞こえたが……。
「あなたを誘拐したいんです。ご|迷《めい》|惑《わく》だとは思いますが」
いえ、どういたしまして、とつい口に出そうになって、
「何を言ってるんです?」
何の悪ふざけか、とにらんでやった。
新興住宅地の一角、まだ家の建っていない宅地が多くて、夜はえらく|寂《さび》しい所である。駅から歩いて二十分。近々バス開通予定というのを信じて買ったのであるが、不動産屋の感覚での「近々」とはここ数年の内に、という遠大さだと分った時はすでに|手《て》|遅《おく》れだった。自転車を利用するにも坂道が多いので、あまり楽にはならない。
仕方なくこうして暗い夜道を歩いているのだが……。
「おとなしく言うことを聞いた方が身のためですよ」
と相手は|脅《おど》し文句をくり返した。見れば、手に|刃《は》|渡《わた》り十センチくらいのナイフを持っている。しかし、一向に|恐怖《きょうふ》が明石の身に|迫《せま》って来ないのは、何しろ相手が自分と同様に、地味な背広上下に黒の|短《たん》|靴《ぐつ》、銀ブチのメガネをかけ、|髪《かみ》をきれいに分けた、どう見ても|一《いっ》|介《かい》のサラリーマンだったからで、その脅す口調にしても、何だか上衣の|裾《すそ》に|洗《せん》|濯《たく》|屋《や》の|札《ふだ》がついてますよと注意でもしてくれているような、ちょっと遠慮がちで|穏《おだ》やかなものだったのである。
しかし、一応ナイフなど構えているのだから、まんざら|冗談《じょうだん》でもないらしい。
「本気なんですか?」
明石は念のために訊いた。相手はいささかむっとした様子で、
「当り前ですよ」
「はあ、分りました。そりゃ、しかし、穏やかでありませんね」
「あなたが素直に言うことを聞けば穏やかにすみます」
「なるほど」
明石はちょっと考えてから、「――で、どうしようと言うんです?」
「その細い道を入って下さい」
と男が示したのは、まだ未開発のままに、そこここに残されている雑木林の一つへ通じる|踏《ふ》み分け道である。
「あの|奥《おく》へ?」
「そうです」
なるほど少し誘拐らしくはなって来た。しかし、明石にしてみれば、どうも一向に|恐《おそ》ろしくはない。何しろ相手は見るからにひ弱で、およそ|荒《あら》っぽい事など|縁《えん》のない感じ。明石は大学時代にはアメリカン・フットボールで|鍛《きた》えて、体力、|腕力《わんりょく》ではたいていの|奴《やつ》に負けない自信がある。
こんな奴、いつでも一発でのしてやれると思うと、逆に先方がどういうつもりか、少し様子を見てやろうという気になった。
「分りました。おとなしくしますから、ナイフをそう|突《つ》きつけないで下さいよ。道が悪いから、転んだ|拍子《ひょうし》にズブリとやられた日にゃかなわない」
「ま、そりゃそうですね」
相手は至って素直に刃を下へ向けて、
「さ、行きましょう」
と|促《うなが》す。少しいかれてるんじゃないのか、と思いつつ、明石は歩き出した。
「――目当ては何です? 金ですか?」
「|黙《だま》って歩いて下さい」
「|誰《だれ》も聞いちゃいませんよ。――言っときますが、家にゃ大して金はありませんよ。何しろ三か月前に|結《けっ》|婚《こん》したばっかりで、貯金は使い果しちまいましたからね」
「承知してます」
「へえ。すると……?」
「私の狙いは、あなたの奥さんです」
明石は思わず足を止めて、男の方を|振《ふ》り向いた。男は、
「急に止まらないで下さい。|追《つい》|突《とつ》するところですよ」
と自動車みたいなことを言っている。
明石は歩きながら、こいつはまるきりの|馬《ば》|鹿《か》でもないのかもしれないと思った。妻の|衣《きぬ》|子《こ》は、かなりの財産家の|娘《むすめ》で、今の新居にしたところで、明石自身が買うとなれば何十年ローンという値段なのを、「そんな安い家で|大丈夫《だいじょうぶ》か」と衣子の父親がポンと|即《そっ》|金《きん》で買ってくれたものなのである。
衣子を狙うというのは分らないではない。父親の方からがっぽり身代金はせしめられよう。
「しかし……」
それならそれで、最初から衣子を誘拐すればいいではないか。男より女の方が誘拐するのは楽だし、手間もかからない。やっぱり、どこかおかしい。
「さあそこに小屋があるでしょう」
と男が言った。月明りに、道具小屋とでもいうのか、工事の器材をしまっておくらしい、トタン|貼《ば》りの小屋が見えた。
「ここへ入るの?」
「そうです。あんまり|居《い》|心《ごこ》|地《ち》は良くないと思いますが、|我《が》|慢《まん》して下さい。さあ、|扉《とびら》を開けて」
別に|鍵《かぎ》も何もかかっていない。中へ入ると、むろん|真《ま》っ|暗《くら》|闇《やみ》で、男が用意していたらしいぺンシルライトを|点《つ》けて、
「上に電球が下がってますから点けて下さい」
と言った。|裸電球《はだかでんきゅう》の光が小屋の中を照らすと、つるはしだのスコップ、セメントを運ぶ|手《て》|押《お》し車などが乱雑に積み上げてある。
「ここに閉じこめるんですか?」
「明日の朝までですから、|辛《しん》|抱《ぼう》して下さい」
と男は|妙《みょう》なことを言っている。身代金を取るにはちょっと時間が短かすぎるようだ。
「家内が狙い、と言いましたね。どういう意味です?」
「そうご心配には及びません。ちょっと今夜だけ奥さんを拝借したいんです」
「家内を――」
「いや、そうぎょっとなさらずに。そんな意味でお借りするわけではありませんから」
明石にはさっぱり分らない。男は続けて、
「|詳《くわ》しい事情を説明する|暇《ひま》はありませんが、これだけはお|約《やく》|束《そく》します。奥さんには決して危害を加えませんし、妙な|真《ま》|似《ね》もしない。これだけは信じて下さい」
「信じて下さいって言われてもねえ」
と明石はすっかり|当《とう》|惑《わく》してしまった。
「もう、あまり時間がないんです」
男は|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見て、ちょっと|慌《あわ》てたように、
「さ、ネクタイを外して下さい。それから靴下と」
「どうするんです?」
「私があなたを誘拐しているという|証拠《しょうこ》を奥さんに見せなくちゃなりませんからね。ネクタイと靴下があれば信用するでしょう」
明石はしばらく男を見ていた。今、ここで|奴《やつ》をやっつけるのは難しくない。しかし……。
「分りました」
明石はおとなしくネクタイを外し、靴下を|脱《ぬ》いで相手に渡した。「――素足に靴ってのは妙な感じだな」
「じゃ、これを使って下さい」
と男は受け取ったネクタイと靴下をポケットヘねじ|込《こ》むと、反対のポケットから、まだ|包《ほう》|装《そう》|紙《し》から出したばかりの新品の靴下を取り出し、「普通サイズでいいんですね?」
と差し出す。
「はあ、どうも……。いや、いい靴下ですね、これは。具合いいですよ」
「そいつは良かった」
と男はちょっと|微《ほほ》|笑《え》んだ。「じゃ、私はこれで失礼しますよ」
「それはどうも――」
ご苦労様というのも変だと思って、明石は言葉を切った。
「それで、大変に申し訳ないんですがね」
「何でしょう?」
「あなたに、ここから脱け出して来られちゃ困るんで、手を|縛《しば》らせていただきたいんです」
「はあ、なるほど」
と明石はちょっと考えてから、「しかし後ろ手だと苦しいから、前で縛ってくれませんかね」
「なるほど、まあいいでしょう。それじゃ、ちょっと失礼……」
男は、一応用意して来たらしい|細《ほそ》|縄《なわ》を取り出す。明石が両手首を|揃《そろ》えて差し出すとグルグル巻きにし始めたが……。
「こいつは……どうも|巧《うま》く縛れないな……こうやるとスッポ|抜《ぬ》けるし……ここへこう入れて……だめか……」
と一向に巧くできない。「いや、どうも不器用でね。荷物もろくに造れないんですよ。弱ったな」
と息を切らしている。明石は|呆《あき》れてしまった。何と|呑《のん》|気《き》な誘拐犯だろう。
「じゃ、いいですよ」
と明石は言った。「ここから一歩も出ないと約束します。だから安心していらっしゃい」
男は明石をまじまじと見て、
「本当ですか?」
と|怪《あや》しむように|訊《き》いた。
「ええ、何しろ家内があなたの手の中にあるんですから、下手なことをして命を取られても困ります。大丈夫、おとなしくしていますよ」
「なるほど、それもそうだ。じゃ、あなたを信用しましょう」
とあっさり|納《なっ》|得《とく》して、「じゃ朝になったら|迎《むか》えに来ます。お腹が空くでしょうが、そこはご|勘《かん》|弁《べん》下さい」
「はあ」
「もちろん扉には鍵をかけます」
と男は内ポケットから|南京錠《なんきんじょう》を取り出した。
「|逃《に》げようなんて考えないで下さい」
「分ってます。約束は守りますよ」
「信じてますよ。男の約束だ」
と自分で納得して|肯《うなず》く。「それじゃ失礼します」
男が外へ出て、ガチャガチャと鍵をかける音がする。――明石は、トタン板の穴から外を|覗《のぞ》いた。男が小走りに遠ざかって行く。
「やれやれ、どうなっちまってるんだ?」
明石はそう|呟《つぶや》くと、小屋の中を見回した。板を積み上げてある上へ|腰《こし》をおろし、タバコを取り出して火を点けた。
今の男、どう見てもまともではない。いや、誘拐などということを考えるのがまともでないのももちろんだが、誘拐犯としても、まともでない。
おそらく本当に見かけ通りのサラリーマンに|違《ちが》いあるまいと明石は思っていた。背広がいかにも|着《き》|馴《な》れた感じに身体になじんでいたし、口のきき方にしても、ヤクザだの不良だのという感じではない。
奥さんを一晩借りる、とはどういう意味なのだろう? ある程度、彼の家のことを調べていたのは確かなようだ。その上で衣子を……どうするのか? 犯すとか殺すとかでないのは、あれほどむきになっていたところをみると本当らしい。では一体何をやるつもりなのだろう。
明石は十五分ほど待って、タバコを足元へ投げ捨てると、板の穴から外の様子をうかがい、小屋の中を見回して、つるはしを一本手に取った。扉の|隙《すき》|間《ま》へ、|尖《とが》った|先《せん》|端《たん》を押し込むと、グッと力を入れてねじる。――あっさり錠は|壊《こわ》れて、扉が開く。
「こんなオモチャみたいな錠でどうしようってんだ」
明石は南京錠を拾い上げて呟くと、その辺へ投げ捨てて、元の道の方へと|戻《もど》って行った。
「今夜も|遅《おそ》くなるのかしら……」
衣子は時計を見上げてため息をついた。
たまには早く帰って来られないの? そう|訊《き》きたいのを、毎晩ぐっとこらえているのも楽ではない。男の人は仕事が第一、と母などはいつも言っているが、今はそんな時代じゃないのだ。
|忙《いそが》しいのは分るが、新婚三か月なのだから、せめて三日に一度くらいは、普通の時間に夕食を食べてほしい。
今、八時過ぎだ。八時までに帰らなければ、ずっと遅くなるのが常で、大体八時半ごろに電話が鳴る。
「すまないけど、残業でね」
「ちょっと付き合いで飲んで帰るから」
「接待なんだ。帰りは何時になるか分らないから、先に|寝《ね》ててくれ」
この三つの内のどれかが、テープの|如《ごと》く流れて来るというわけだ。
「仕方ないわ。先に食べていよう」
空腹には勝てず、衣子はおかずを電子レンジで温めて、食べ始めた。
衣子はまだ二十三|歳《さい》。大学を出てすぐに明石と知り合った。場所は|沖《おき》|縄《なわ》で、衣子はむろん気ままな遊び、明石の方は仕事で出張して来ていたのだった。|一《いっ》|緒《しょ》に過したのは一日だけだったが、二人の|恋《こい》はあっという間に|沸《ふっ》|騰《とう》|点《てん》近くへと達し、東京へ戻ってから、連日の電話と休日ごとのデイトで完全に熱湯の状態になった。そして手順を踏んで三月前に挙式という運びになったのである。
――一人だと、あっという間に食べ終ってしまう。
お茶でも飲んで、と|湯《ゆ》|呑《の》み|茶《ぢゃ》|碗《わん》を取り上げた時、|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴った。
「あら、帰って来たんだわ」
もう少し食べるのを待っていればよかったわ、と思いながら、急いで玄関へ。サンダルを引っかけると、またチャイムが鳴る。
「はいはい。お帰りなさい」
とチェーンを外し、ドアを開ける。
「早かったのね――」
と言ったきり口をつぐむ。目の前に、見知らぬ男が立っている。何かのセールスマンかしら? 確かめずに開けるんじゃなかった、と|後《こう》|悔《かい》した時はもう遅い。
その、メガネをかけた男は一礼して、
「明石衣子さんでいらっしゃいますか?」
と訊いた。セールスマンでもないようだ。
「はい、そうですけど」
「突然お|邪《じゃ》|魔《ま》します」
と言うなり玄関へ入って来て、「いや、新築だけあって、いいお家ですね」
と見回している。
「あの……どちら様で?」
すっかり当惑して、衣子は訊いた。
「申し|遅《おく》れました」
男は衣子の方へ向き直ると、「今夜だけ、あなたの夫になる男で、名前は|久《く》|保《ぼ》|克《かつ》|二《じ》と申します。よろしく」
「はあ……」
と言ったが、何が何やら分らない。
「今、何とおっしゃいまして?」
「久保克二です」
「いえ、その前に」
「ああ、そうだ、今の内に――」
男は内ポケットから、白い紙に、きれいな書体で〈久保〉と書いたのを取り出し、玄関から表へ出ると、〈明石〉という表札の上へ当てた。
「やあ、ピッタリだ。すみませんがセロテープを貸して下さい」
やっと我に返った衣子は、腹が立って来た。どこの気狂いだ、これ?
「一体何をしてるんです? あなた、どういうつもりなんですか?」
「ご立腹はよく分ります。ご説明しないとお分りにならないでしょう」
「|伺《うかが》いましょう」
「ご主人をお預りしているんです」
衣子は、
「え?」
と言った。相手の言葉はちゃんと聞こえたが、しかし……。久保と名乗った男は続けて言った。
「ご主人はある所に|監《かん》|禁《きん》してあります。あなたが私の言うことを聞かないと、ご主人の身の安全は保証できませんよ」
「主人を?……どうしたって言うんですか?」
「まあ、早く言えば誘拐させていただいたわけです。今の所は無事でお元気です。かすり傷一つ負ってはおられない。しかし、今後どうなるかは、奥さんの出方一つにかかっています」
衣子は頭を振った。|夢《ゆめ》を見ているのかと思ったのだ。夕ご飯を食べて、お腹が太ったので、ついウトウトと……。しかし、どうもこれは現実らしい。弘治さんが誘拐された! でも、こんな|優男《やさおとこ》に、あの人を誘拐するなんて|真《ま》|似《ね》ができるだろうか?
「信じたくないお気持はよく分ります」
久保という男は衣子の胸中を察した様子で、「そこで、証拠にと思って、これを持って来ました」
とポケットから取り出したのは、もちろん明石のネクタイと靴下だ。
「さあ、これはご主人の物でしょう?」
衣子は半ば|呆《ぼう》|然《ぜん》として、ネクタイと靴下を手に取った。確かに、今朝夫に出してやったものだ。ネクタイだけというのなら、同じ物を|捜《さが》して買って来ることもできるかもしれないが、靴下と両方となると……。
それにネクタイも靴下も、ついさっきまで身につけていたのが分る。――本当なのだ。あの人はこの男に誘拐されているのだ。
衣子はふっと目まいがしてよろけた。
「――大丈夫ですか?」
久保がびっくりして腕を取る。衣子は反射的に身を|縮《ちぢ》め、
「大丈夫です!――|触《さわ》らないで!」
と|叫《さけ》んだ。「あなたは……何が目当てなの? お金なら、ありったけあげます。父はお金持ちだから、沢山あげるわ。いくら欲しいの?」
久保はちょっと悲しげに首を振って、
「お金などいりませんよ」
「それじゃ――」
「さっきも申し上げた通り、今夜一晩、あなたに私の妻になっていただきたいんです」
衣子は、|一瞬身震《いっしゅんみぶる》いした。この男は変質者なのかしら? こんなにまともに見えるのに。でも、いつだってそうだ。変質者の犯罪が起きると、とてもそんな風には見えない、|真《ま》|面《じ》|目《め》な人間が|捕《つか》まる。
「誤解なさらないで下さい」
と久保は言った。「あなたに妙な|真《ま》|似《ね》をしようというんじゃありません。私の言う通りにして下されば、あなたに指一本触れないとお約束しますよ」
衣子は当惑したが、ともかくここは相手の要求を聞く他はないと心を決めた。
「分りましたわ。どうすればいいんですの?」
「まず、セロテープを貸して下さい」
誘拐犯人にしては妙な要求だが、衣子は素直に肯くと、家の中へ戻り、セロテープを急いで持って来た。
「これでよろしい?」
「結構です」
久保はそれを受け取ると、〈明石〉の表札の上に〈久保〉と書いた紙を当てて、テープで周囲をきっちりととめた。ほの暗い光の下では、〈久保〉という表札に見える。
「これでいい」
と満足げに肯くと、「じゃ、いいですね? あなたは今から明日の朝まで、久保衣子ですよ」
と言った。
2
明石は元の道へ出ると、人通りのないのを確かめ……駅の方へ歩き出した。
折り悪しく、電車が一本着いたとみえて、何人かの|人《ひと》|影《かげ》が駅の方から近付いて来る。ここで逆方向へ歩いているのを、近所の住人にでも見られたら、まずいことになる。
明石はわきの細い道へ入って、建てかけの家の|陰《かげ》に身を|隠《かく》した。――見ていると、勤め帰りの、|疲《つか》れた足取りの住人たちに混じって、四、五人のグループがにぎやかにしゃべりながら、通り過ぎて行く。
「|凄《すご》い所だなあ」
「しかし、この辺でもいい加減高いんだろう、きっと」
「久保の|奴《やつ》、どんなツラしてるのかな」
といった声が耳に入る。どこかの家を訪ねて行く所らしい。
人通りが絶えると、明石は道へ出て、駅へ向って歩度を速めた。駅まで五分ほどの道のりである。
駅前といっても、大したものはない。商店街[#「街」に傍点]などととても呼べない|数《すう》|軒《けん》の店と、|中華《ちゅうか》料理店などがあるだけだ。
明石は改札口の正面にある公衆電話のボックスヘ入ると、急いで十円玉を放り込み、ダイヤルを回した。呼出音がルル……ルル……と鳴って、
「いないのかな」
と|呟《つぶや》いた時、相手が出た。
「はい」
「|僕《ぼく》だ」
「あら、どうしたの?」
と|英《えい》|子《こ》は面食らったような声を出す。
「ちょっとそっちへ行っていいか?」
「構わないわよ、そりゃあ。でも、今日は早く帰るんじゃなかったの?」
「それが、ちょっと事件があってな」
「事件? 大げさねえ」
と英子は笑った。
「いや、本当なんだ。ともかく電話じゃ話せない。車で来られないか? 今、駅前だ」
「いいわよ。じゃ、待ってて。十五分で行くわ」
電話を終えると、明石はボックスを出て、タバコを一本出して、ゆっくり火を|点《つ》けた。そして|煙《けむり》を|吐《は》き出しながら、
「さて、どうなるか、見ものだぞ」
と|呟《つぶや》いた。
十五分、と言ったが、十分ほどで、|見《み》|憶《おぼ》えのある赤のカローラが見えた。
「やあ、早かったじゃないか」
「道が空いてるから。乗って。――どこへ行く?」
「どこかで飯を食いたい。腹が減ったよ」
「じゃ国道へ出ましょ。レストランがあるわ」
英子は車を走らせながら、「――ネクタイ、どうしたの?」
「うん? ちょっとね」
「何か変ね。――どうしたのよ?」
「後でゆっくり話すよ。今夜は君の所へ|泊《と》めてくれ」
「ええ? |大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
「家へは帰れないんだ。何しろ|誘《ゆう》|拐《かい》されてるんだからな。僕は」
と明石は言った。
「それで……」
衣子は居間のソファヘ|腰《こし》を降ろすと、
「何をすればいいんでしょう?」
と|訊《き》いた。久保はネクタイを外しながら、
「まず、その固苦しい言い方は困りますね。夫婦らしく口をきいてくれないと。私は『衣子』と呼びます。あなたは……いつもご主人を呼ぶように呼んで下されば結構。『あなた』でもいいし。ま、『弘治さん』では困ります。『克二さん』と呼んで下さい」
「……克二さん、ですね」
衣子は言葉を|押《お》し出すように言った。久保は|嬉《うれ》しそうに微笑んだ。
「そうそう。それでいい。――で、あまり時間がないので、手っ取り早く説明します」
と時計を見て、「後、十五分もすると、客が来ます」
「お客?」
「四人か、五人。むろんあなたの知らない連中ばかりです」
「で、どうするんですか?」
「お酒はありますね?」
「ビールとウイスキーぐらいなら……」
「それで|充分《じゅうぶん》。何かつまむ物を作れますか?」
衣子はちょっと考えて、
「ありあわせでよければ……」
「もちろん、それでいいんですよ」
「四、五人分なら何とかできると思いますわ」
夫も時々、会社の|同僚《どうりょう》を|突《とつ》|然《ぜん》連れて来ることがあったので、衣子はそう|慌《あわ》てないですむようになっていた。
「その人たちは、どういう……」
「私の会社の同僚たちですよ」
「はあ」
「連中にはこの家を私の家だと言ってあります。表札も〈久保〉になっている。訪ねて来たら、あなたは私の妻として|振《ふ》る|舞《ま》って下さい。分りますね?」
分りますね、と言われたって、さっぱり分らないが、分らないとも言えない。
「分りました」
と仕方なく返事をする。ともかく、この男の言葉をその通りに受け取れば、会社の同僚たちの前で、夫婦のふりをすればいいということのようだ。しかし、そんなことのために、人を誘拐したりするなどとは――正気の|沙《さ》|汰《た》ではない。
「さあ、それじゃ|仕《し》|度《たく》にかかって下さい」
と久保は言った。
「はい」
正気でも|狂気《きょうき》でも、ともかく今はこの男の言う通りになる他はないのだ。衣子は心を決めて立ち上った。
「あ、そうそう」
と久保は気が付いたように、「この格好じゃ、自宅で|寛《くつろ》いでるとは見えませんからな。ご主人の普段着を拝借できませんか」
「じゃ、何か適当に……」
「サイズは|違《ちが》うでしょうが、構やしません。|誰《だれ》も気が付きませんよ」
気が付いたって別にこっちは困らないわ、と衣子は内心思ったが、|黙《だま》って|寝《しん》|室《しつ》へ行くと、夫のカーデガンを持って居間へ|戻《もど》った。
「こんなのでいいですか?」
「結構です。ズボンは合わないと苦しいですからな、このままでいい」
久保は上衣を|脱《ぬ》ぐと、ワイシャツの上にカーデガンを着た。「――どうです? 似合いますか?」
「ええ」
犬が学生服を着た程度には似合うわ、と心の中で|呟《つぶや》く。「じゃ、食べる物の仕度をしていいでしょうか?」
「お願いします」
衣子が台所に立とうとしたとたん、|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴った。久保が、
「おや、もう来たのかな。――さあ、出て下さい」
と|促《うなが》す。――衣子は一つ呼吸をして、玄関の方へと歩いて行った。夫が目の前に立っていてくれたら、あんな気狂い、すぐに|叩《たた》き出してくれるだろうに。
しかし、ドアの向うからは、聞き憶えのない男の声が、ガヤガヤと聞こえて来るばかり。どうやら久保の言った「同僚たち」らしい。
衣子はドアを開けた。
「やあ、どうも、|奥《おく》さんで」
正面にいた男が愛想よく言った。「お|騒《さわ》がせしますが」
「いいえ。お待ちしておりました。どうぞお入り下さい」
衣子は|精《せい》|一《いっ》|杯《ぱい》、こわばった顔に笑みを|浮《う》かべて頭を下げた。久保が出て来て、
「やあ、よく来たね。入ってくれよ」
と、これはごく自然な調子だ。
「失礼します」
「お|邪《じゃ》|魔《ま》します」
と口々に、四人の男が入って来る。みんな久保と|同《どう》|年《ねん》|輩《ぱい》――三十代前半というところだろう。
「まあまあ上ってくれ」
と久保はすすめる。衣子は四人の男たちが上った後、ドアを閉めて、居間へ入って行った。――男たちは部屋をキョロキョロ見回しながら口々に、
「いい造りだね」
「色がいいじゃない。カーペットと|壁《かべ》の」
などとお世辞を言っている。久保が衣子を見て、
「ああ、|紹介《しょうかい》するよ。家内の衣子だ。こちら、同じ課の|一《いち》ノ|瀬《せ》君、|大《おお》|木《き》君、|有《あり》|田《た》君、|渡辺《わたなべ》君」
「衣子です。いつも主人がお世話になっております」
とぎごちない口調で頭を下げる。男たちの方も、
「どうも……」
と会釈したが――。
「衣子さん!」
と突然声を上げたのは、渡辺という、この中では一番若そうな男だった。「やっぱりそうだ! いや、さっき玄関で見かけた時、あれ、と思ったんです。渡辺ですよ。憶えていませんか?」
ちょっと考えて、
「あ!」
と衣子も思い当った。「渡辺さん。――家庭教師にいらしてた……」
「そうですよ。いや、|驚《おどろ》いたなあ!」
驚いたのは衣子も同じである。中学生の|頃《ころ》、家へ来ていた大学生だ。親切で、ちょっとハンサムで、衣子がほのかな想いを|抱《いだ》いたこともある相手だった。
「君ら、知ってるのか?」
久保が二人の顔を見ながら言った。
「僕が大学時代にね、奥さんは中学生だった。僕は英語を教えに行ってたんだ。いや、久保さんの奥さんが衣子さんだったとはね、驚いた」
「本当に、|偶《ぐう》|然《ぜん》ですわね」
と衣子は少し気が楽になって、自然に|微《ほほ》|笑《え》んだ。こんな時に、ともかく知っている人がそばにいるというだけでも、心が安まるのである。
「それは|愉《ゆ》|快《かい》だな。――衣子、ともかく|皆《みな》さんにお茶をさし上げてくれ」
「はい」
衣子は気付かなかったが、渡辺と衣子が笑顔で見交わしているのを|眺《なが》めていた久保の顔は、|奇妙《きみょう》にこわばっていた……。
「そんな|馬《ば》|鹿《か》な話……」
英子は、なかなか信用しようとしない。
「無理もないよ。僕だって、こうしてしゃべってて、あれ、本当にあんなことがあったのかな、って考えちまうくらいだからな」
「でもその男……どういうつもりなのかしら?」
「知るもんか。狂人の頭の中は理屈じゃ割り切れないからね」
「今ごろ、奥さんがひどい目にあってるかも……」
「いや、それはないと思うね。ずいぶんむきになって何もしないと|約《やく》|束《そく》してたから。――衣子の|奴《やつ》が、言われた通りにしていればだが……」
二人は国道沿いにある終夜営業の中華料理店へ入っていた。
英子は、以前明石と同じ会社に勤めていたが、今は小さなスナックを経営している。明石との仲は同僚時代から、もう三年以上続いていた。衣子が、いかにもお|嬢様《じょうさま》育ちなのに比べ、英子は、二十五|歳《さい》ながら、もう|成熟《せいじゅく》した女の|魅力《みりょく》を|漂《ただよ》わせている。
「――やあ、やっと腹が一杯になったよ」
「よく食べたわね」
と英子が皮肉っぽく笑って、「奥さんのことが心配じゃないの?」
「僕は心配事があると食欲が出る|性《た》|質《ち》なんだ」
そう言って明石はウインクして見せた。
「奥さんを助けに行かないの?」
「僕はローン・レンジャーじゃない」
「放っておく気?」
「いいかい――」
明石は少し身を乗り出して声を低めると、
「衣子の奴はお嬢さん育ちだ。あんな気狂いを前にして、落ち着いて振る舞えるかどうか、|怪《あや》しいもんだと思う。もし|逃《に》げようとしたり、騒ごうとしたら……。いくら大人しそうに見えても|狂《くる》ってることは狂ってるんだ。いつ|凶暴《きょうぼう》さを|発《はっ》|揮《き》するかもしれない。そしてもしかしたら……」
「奥さんを殺すかも……」
「そういうことさ」
英子はじっと明石を見ていたが、やがて、ふふっと笑って、
「|卑怯者《ひきょうもの》ね、あなたって」
「利口なだけだよ」
「まだ早すぎるんじゃないの?」
「そんなことはないよ」
と明石は首を振って、「衣子の財産はいつ死のうと僕のものだ。家だって僕の名義になっているし、保険だって……。まあ、|儲《もう》かりこそすれ、こちらの損は一文もないはずだからね」
「|他《ひ》|人《と》任せだから|捕《つか》まる心配もないし」
「明日の朝になって、やっと|鍵《かぎ》をこじ開けられたということにして家へ|駆《か》けつける。――|哀《あわ》れ、衣子が変り果てた姿になっていたら、さめざめと泣いて見せるさ」
「あなたの|嘘《うそ》つきぶりは私が保証するわよ」
「妙な所を|誉《ほ》めるなよ」
と明石が苦笑する。
「さて、と……」
英子はハンドバッグを手に取ると、
「どう? 私の部屋で飲み直したら?」
「いいね」
「|泊《とま》って行くんでしょ?」
「さっきそう言っただろ」
「久しぶりね、お泊りは」
「その代り明日の朝は、ちょいと早起きしないといけない」
二人は中華料理店を出ると、車でそこから十分ほどの、英子の店へと向った。今日は休みで、二階が英子の部屋になっているのだ。――実のところ、この店も、明石が出してやった金で手に入れたものである。
「さあ、上がって。何かお酒を適当に持って行くわ」
暗い店へ裏口から入って行くと、英子が言った。明石も勝手はよく分っているので、|狭《せま》い急な階段を上がって、英子の部屋へ入り、明りを|点《つ》けた。上衣を脱ぐと手近なソファヘ放り投げ、つい首の所へ手をやって、
「そうか、ネクタイはないんだった」
と笑った。――ネクタイと|靴《くつ》|下《した》を見せられたら、衣子の|奴《やつ》、さぞびっくりするだろう。さて、今ごろはどんなことになっているのか……。
明石はベッドの上へごろりと横になった。
「奥さん、すみません、氷が……」
一ノ瀬という男が台所へ顔を出す。
「はい、今お持ちします」
「申し訳ありませんね、|忙《いそが》しい思いをさせちまって」
「いいえ。とんでもありませんわ」
衣子はアイスバスケットに製氷室の氷を入れて|手《て》|渡《わた》した。「すみません、お持ちいただけますか」
「はいはい、もちろんですよ」
一ノ瀬は、もういい加減|酔《よ》いが回っているらしい。「いや、しかし、奥さんの作った氷は実に|旨《うま》いですね」
氷を|賞《ほ》められても仕方がない。衣子はつい笑ってしまった。台所へ立ちづめで、立ち働いていると、この異常な事態の中でも、|恐怖心《きょうふしん》が次第に|薄《うす》らいで来て、気分も大分落ち着いていた。
何とか無事に終って、あの人が帰って来てくれますように……。
「いや、実のところですね――」
氷を持ったまま、一ノ瀬はふらふらと台所の中へ入って来た。「我々はご主人に申し訳ないと思っとるんです」
「あら、どうしてですの?」
「今夜、こうして奥さんを目の前にするまで……本気にしておらなかったんです」
「え?」
「つまり……。ご主人は会社でいつも美人の奥さんの|自《じ》|慢《まん》をしとりましたが、一度も、写真一枚見せたことがない。式は二人きりで挙げたというし、奥さんから会社へ電話一本かかって来たこともない。ですからね、社の連中は――|怒《おこ》らないで下さいよ――きっと久保の|奴《やつ》は結婚なんかしてやしないんだ。あれはみんな作り話だ、と|陰《かげ》|口《ぐち》を|叩《たた》いていたんです……」
「まあ」
「いや、全くもって申し訳ないです。――そこで我々四人が|偵《てい》|察《さつ》|隊《たい》に選ばれましたわけでして、はあ」
「偵察隊?」
「本当に久保が結婚しとるかどうか、もししとるのなら、どんな|嫁《よめ》さんか、しかと確かめて来ようというわけで……。仕事と家庭は別だと言うご主人を無理に押し切って――ま、こうして押しかけた、ってわけでして。いやあ、しかし参りました。こんなに美しい奥さんを目の前にしちゃ、我々の完敗です、お手上げ、万々歳です」
何だか少々舌がもつれて、話の中味ももつれている。
「美しいとおっしゃっていただけて光栄ですわ」
「美しい、なんてものじゃない! 正に光り|輝《かがや》く新妻ですな、全く|素《す》|晴《ば》らしい! うちの|女房《にょうぼう》に、見せてやりたい……」
と妙に|愚《ぐ》|痴《ち》っぽく言って、「いや、どうも……つまらん話を……」
頭を下げて、ちょっとふらつく足取りで戻って行く。
「あ、そっちはお手洗です」
と衣子が|慌《あわ》てて追って行って、「居間は左手の方ですから――」
「あ、こりゃどうも……」
ほっと息をつきながら、衣子は台所へ戻って来た。
してみると、あの久保という男、確かに、彼女に妻の役を演じさせる以上の目的はないらしい。見かけからして、うだつの上がらない、およそ女の子にもてそうもないタイプだし、同僚とも気安くやって行ける性格ではないのだろう。
学校でも、クラスにたいてい一人はああいう性格の子がいる。みんなにやっつけられ、いじめられる、格好の標的になるような子が……。
あの久保も、きっと職場ではそんな役回りに当っているのだろう。――つい、同僚の手前、嫁をもらったと言ってしまって、引っこみがつかなくなってしまったのではないか。どうしても同僚たちの要求をはねつけられなくなって、こんなことを……。
むろん、まともではない。人を|監《かん》|禁《きん》し、|脅迫《きょうはく》してまで、こんなままごとめいた|偽《ぎ》|装《そう》をするとは、やはり少し異常な性格ではあるのだろう。――しかし、衣子は、あの久保という男ヘの、|怒《いか》りと|怖《おそ》れが、やや薄らいでいるのを感じていた。
四人の男を相手に、精一杯、夫ぶって[#「夫ぶって」に傍点]みせている姿は、考えてみれば、哀れで|滑《こっ》|稽《けい》だった。今夜一晩、|騙《だま》しおおせたとしても、それが何の役に立つのか。遠からず事実は明らかになるだろうに……。
――あの人は、どうしているのかしら。
衣子は思った。お腹を空かしているのじゃないかしら。寒い所で、|風《か》|邪《ぜ》でも引かなきゃいいけれど。
衣子は、ふと、台所の入口に誰かが立っているのに気付いて、ぎくりとした。
「――渡辺さん」
「疲れてるんじゃないですか」
渡辺は酒に強いのか、少し顔が赤らんでいる程度で、そう酔ってもいないようだった。
「いいえ、別に……」
渡辺はゆっくりと衣子の方へ歩いて来た。
「しかし、驚いたなあ」
とさっきのセリフをくり返して、「こんなことを言っちゃ悪いが、久保さんと|結《けっ》|婚《こん》するなんて、もったいない」
衣子はちょっと面食らって、
「どういう意味ですの?」
「あの|偏《へん》|屈《くつ》な――いや、気に|触《さわ》ったら許して下さい。でもね、社内では変人として通ってるし、|陰《いん》|気《き》で人付き合いも悪い。どんな|奥《おく》さんかと、正直なところ興味|津《しん》|々《しん》だったんです」
「悪い|趣《しゅ》|味《み》ですわ」
「でも正直な気持ですよ」
衣子は渡辺をじっと見た。
「あなたは、そんな皮肉をおっしゃる人じゃありませんでしたわ」
「そう……。学生でしたからね、あの|頃《ころ》は」
渡辺は|肩《かた》をすくめて、「しかし、宮仕えを何年もやってりゃ、こうなるんですよ。でもね、あなたのことは忘れたことがなかった」
渡辺は真顔になっていた。
「それはどうも」
衣子は顔をそむけて、「居間へお|戻《もど》りになって下さい。今、つまむものをお持ちしますから」
と調理台へ向った。
「そりゃ、|僕《ぼく》ももう妻帯者です。子供も二人いる」
渡辺は構わずに続けた。「しかし、あの時、あなたが僕にくれた手紙だけは大事にとってありますよ。僕の宝だ。女房にだって、あれだけは手はつけさせない」
衣子は|頬《ほお》がかっと赤くなるのを覚えた。
「昔の話です」
「昔でも、僕には大切なんです。それが……」
渡辺は|辛《つら》そうに言葉を切った。
「何ですの? 私が、こんな|平《へい》|凡《ぼん》な主婦になったのを見てがっかりなさったんですか?」
衣子は腹が立って、少しきつい口調で言った。
「いや、すみません。そんなつもりで言ったんじゃありませんよ」
と渡辺は|慌《あわ》てて手を|振《ふ》った。「あなたが幸せなら、それでいい。ただ……あんまりイメージが|違《ちが》ったものですからね」
衣子は、弘治さんと私なら、この人も|納《なっ》|得《とく》してくれただろうに、と思った。――急に、何もかもしゃべってしまいたいという|衝動《しょうどう》に|駆《か》られた。この人なら、何とかしてくれるかもしれない。
「渡辺さん」
と言いかけた時、|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴った。
「衣子、ちょっと出てくれ」
久保が顔をのぞかせて、衣子と渡辺が二人で立っているのを見て、口元をちょっと|震《ふる》わせた。
「失礼します」
衣子は、渡辺のわきをすり|抜《ぬ》けて、玄関へと急いだ。
3
玄関へ降りかけると、チャイムがまた鳴った。
「はい。どなたですか?」
サンダルを引っかけながら、衣子は|訊《き》いた。
「|松《まつ》|井《い》です」
と|隣《りん》|家《か》の主人の声である。
「は、はい」
|戸《と》|惑《まど》いながら、衣子はドアを開けた。
「どうも、|遅《おそ》くお|邪《じゃ》|魔《ま》しまして」
松井は、三十七、八|歳《さい》というところだが、頭の方はかなり|禿《は》げ上がっている。
「何のご用でしょうか?」
と衣子は訊いた。
「ご主人にちょっと――」
と松井は居間の方からの、にぎやかな笑い声に耳を向けて、「いらっしゃるんでしょう?」
「はい。あの――」
衣子はためらった。こんなことは考えてもいなかったのだ。
「今、ちょっと客が来て、取り|込《こ》んでおりまして……。私で分ることでしたら、お|伺《うかが》いしますが」
「そうですか。大分アルコールが入っておられるようですな」
「え、ええ、そうなんですの。会社の方がみえまして……」
「大変ですね。そういう時は」
松井はニヤリとして、「じゃ、この本を、ご主人にお|渡《わた》しして下さい。いえ、この前ね、朝ご|一《いっ》|緒《しょ》になった時、私が読んでいるのをご覧になって、読み終ったら貸してくれとおっしゃったので」
「まあ、それはわざわざ申し訳ありません」
「いえ、朝だとついせかせかして忘れてしまうものですから、|憶《おぼ》えている内にと思いましてね」
「分りました。じゃ、確かにお預りします」
衣子は本を受け取った。そこへ、
「|奥《おく》さん、お客ですか?」
と顔を出したのは一ノ瀬で、さっきよりますます酔いが回っている様子。
「あ、一ノ瀬さん。お|隣《とな》りの方ですの」
と衣子は|慌《あわ》てて言った。「何か?」
「いえ、声がしたもので……。お隣りの方ですか。どうも……お|騒《さわ》がせして……」
「いえいえ、構いませんよ一向に」
松井は愛想良く言った。「やはり飲むのは楽しくやらなくては」
「おや、あなたもいける[#「いける」に傍点]口ですな?」
「ま、少々は」
「こりゃいい! |一《いっ》|杯《ぱい》どうです?」
「いや、そんな、私のような飛び入りが――」
「そんな|遠《えん》|盧《りょ》には及びませんよ! お騒がせしているお|詫《わ》びに一杯。さあ、どうぞどうぞ」
と一ノ瀬が松井の手をつかんで引張る。衣子が|驚《おどろ》いて、
「でも……松井さんもお|忙《いそが》しいでしょうし……」
と口を|挟《はさ》むと、
「いいじゃないですか! 一杯だけ。ね、一杯ですよ。奥さん、構わんでしょう? ご主人だって喜びますよ。さあさあ!」
松井も酒は|嫌《きら》いではないし、大体がすぐに調子に乗る男で、
「そうですか、じゃ、ちょっとだけ――」
と上がり|込《こ》んでしまう。
衣子は、なすすべもなく、息のつまる思いで見ていたが、一ノ瀬が松井を居間へと引張って行くと、顔を両手で|覆《おお》って、
「どうなるのかしら……」
と|呟《つぶや》いた。あの男の化けの皮がはがれる。そんなことは仕方ないとしても、そのせいで夫の身に何か……。
「新しい客ですよ」
と一ノ瀬が言っているのが聞こえる。もうおしまいだ! そこへ、
「奥さん」
と声がして、玄関に松井の妻が立っている。
「あ、松井さんの――」
「主人、お邪魔してます?」
「え、ええ」
「仕方ないわね、全く! 電話がかかっているんです。――あなた!」
松井が顔を出す。
「何だ?」
「何だ、じゃないわよ、|図《ずう》|々《ずう》しく上がり込んで――」
「いや、ちょっと|誘《さそ》われたもんでな」
「電話がかかってるわよ」
「電話?」
「印刷屋さん」
「そうか! しまった!」
松井は舌打ちして、「すぐ行く」
と慌てて玄関へ出て来る。
「どうもお邪魔しまして」
「いいえ……」
「ご主人はトイレヘでも立っておられたようで。よろしくお伝え下さい」
「かしこまりました」
「早く早く、何してんのよ!」
と松井の妻はせかして、「お邪魔しまして、どうも」
と後ろ手にドアを閉めた。
衣子は息を|吐《は》いて、目を閉じた。今になって心臓が|鼓《こ》|動《どう》を早める。「トイレにでも立って」か。居間を見回して、見知らぬ顔ばかりなら、そう思うのも無理はない。まさか久保がここの主人[#「主人」に傍点]だとは思いもしないだろうから。
しかし、危い所だった。少しでも話を始めたら、すぐにおかしいと気付かれてしまっただろう。
ふと気が付くと、久保が出て来て、衣子を見ていた。
「止められなかったんです。本当なんです。わざと入れたわけでは――」
「心配しなくていいですよ」
久保は声を低くして、「礼を言いたかったんです。私のことを知らせなかった……」
「あなたのためじゃありません」
衣子は目を|伏《ふ》せた。「主人に万一のことがあったら、と思っただけです」
「そう……。|賢《けん》|明《めい》ですよ」
久保は|肯《うなず》いた。「あなたはいい奥さんだ」
衣子は|黙《だま》っていた。久保はちょっと居間の方を見て、
「大分酔って来てますから、そろそろお開きになると思うんですがね。――心配なのは、ここへ|泊《とま》り込もうと言い出されることなんです。極力、それは|避《さ》けたいんですが……」
「電車がなくなってしまったら、もう|泊《と》める他ありませんわ」
「終電は何時です?」
「確か……十一時半か……。いえ、あれはこっちへ帰って来る方だわ。反対はもっと早いかもしれません」
「駅まで二十分として……」
「あの酔い方では、とても二十分じゃ着きませんわ」
「すると、そろそろ切り上げさせないといけませんね」
衣子はちょっとためらってから言った。
「泊めるなら泊めるで、それは構わないんです」
「しかし……」
「あなたが本当は夫ではないと分ってしまったら、主人が自由になるのが|遅《おく》れるでしょう。――明日の朝までは|約《やく》|束《そく》の通り、あなたの言うままにしますから、主人をちゃんと無事に帰して下さい」
久保は、不思議に|輝《かがや》くような目で、レンズの奥から衣子を見つめた。――その時、居間で電話が鳴るのが聞こえた。
「私が出ます」
衣子は急いで駆け出した。
「何だって?」
明石はタバコを持つ手を思わず止めて、英子の顔を見た。
「そう驚くことはないじゃないの」
|全《ぜん》|裸《ら》のままでベッドに|寝《ね》|返《がえ》りを打った英子は、明石を見下ろして、「どうせやるつもりだったんでしょ」
「そ、それはそうだけど……」
「だったら絶好のチャンスじゃないの。これを|逃《のが》す手はないわ」
「でも――どうやって――」
「簡単じゃないの」
と英子はあっさり言った。「朝になったらそっと家へ行って様子を見るのよ。例の変な|奴《やつ》が奥さんを殺してりゃ問題ないけど、無事だったらあなた[#「あなた」に傍点]が奥さんを殺して、それから警察へ届け出るの。昨夜、こういう男に|脅《おど》されて閉じ込められていたけど、やっと朝になって|錠《じょう》を|壊《こわ》して家へ駆けつけてみると、妻が殺されてたってね」
「警察が信用してくれるかな……」
「|大丈夫《だいじょうぶ》よ。あなたは前科者でも何でもないし、後ろ暗い所もないんだからね。それに警察が|捜《さが》せば、きっとそのメガネの男だって見付かるわよ」
「ふむ……」
明石は、あまり気は進まなかった。しかし、どうせいつかはやらなくてはならないのだ。今なら、あの|妙《みょう》な男を犯人に仕立てることもできる。この時機を外したら……。確かに難しくなる。妻が殺されたら、まず疑われるのは夫なのだ。
「仕方ないな。やるか」
「そうよ。それでこそ男だわ」
英子はベッドから手をのばして、明石の|頬《ほお》を|撫《な》でた。明石はタバコを灰皿へ|押《お》し|潰《つぶ》すと、立ち上って、英子の上へかぶさって行った。
「明日、寝坊しないようにね……」
「心配するなよ」
二人は|唇《くちびる》を|激《はげ》しく押し付け合った。
衣子が居間へ駆け込んだ時、電話のすぐそばにいた有田が受話器を取ったところであった。
「はい」
と有田は耳を|傾《かたむ》けて、「――ちょっと待って下さい」
と衣子の方を向いた。
「奥さん、ご主人へ電話ですよ」
「は、はい……」
衣子はどうすべきか迷った。
「向うの名は聞かなかったな。ただ『ご主人ですか?』って言っただけで」
「あの――私が出てみますから」
一体|誰《だれ》だろう? こんな時間に。夫への電話だったら、何と答えようか?
「あの、家内ですが、どちら様でしょうか?」
衣子は受話器を取って|訊《き》いた。若い女性の声で、
「ご主人はいらっしゃいませんか?」
「どちら様で……」
「××社と申します。この度開発した別荘地についてご案内を申し上げようと思いまして――」
衣子は息をついた。電話セールスか。
「今の所、そんな|余《よ》|裕《ゆう》はありませんけど――」
と言いかけると、
「ご主人はM銀行へお勤めでいらっしゃいますね?」
「いいえ、違いますよ」
「M銀行の支店長様ではございませんか?」
「いいえ。どなたか他の方と間違えてらっしゃるんじゃありません?」
「ご主人様のお名前は|石《いし》|黒《ぐろ》|久《ひさ》|人《ひと》様では――」
「いいえ、うちは|明《あか》|石《し》です」
言ってしまって息を|呑《の》んだ。
「失礼いたしました」
といって、先方が電話を切った。衣子はそろそろと受話器を置いた。つい安心して気がゆるんでしまったのだ。
|怪《あや》しまれただろうか?
「奥さん」
大木という男が声をかけて来る。
「はい?」
「お生れが明石なんですか?」
「え、ええ……私がそうなんです」
「それは|嬉《うれ》しいな! 僕もそうです」
「そうでしたの。偶然ですわね」
「どの辺です、明石の?」
「それが……小さい頃に上京して来てしまったものですから、さっぱり記憶がなくて」
と逃げておいて、「あら、もうビールがありませんね。お持ちしますから」
と台所へ。――一人になって、|冷《ひや》|汗《あせ》をそっと|拭《ぬぐ》った。
大木が質問してくれなかったら、どう切り|抜《ぬ》けていいか分らないところだった。
「運が良かったわ」
と衣子は|呟《つぶや》いた。
「さ、この毛布をどうぞ」
「いや、どうもすまんです」
一ノ瀬が頭をかきながら、「四人も押しかけて泊り込むとは、どうも……」
「いいえ、とんでもない。でも、お布団の余分がないものですから……」
「いやいや、我々はソファで充分です。駅のベンチでだって、羽根布団の上のように|眠《ねむ》れるんですから。ここなら天国ですよ」
「おそれ入ります」
思わず衣子も笑ってしまった。「――さあ、大木さん、有田さん……渡辺さんもどうぞこの毛布を」
「すみません」
「これだけでよろしいですか?」
「充分です」
「結構ですよ」
と口々に四人が返事をする。
「では、おやすみなさい」
「どうも、奥さん!」
一ノ瀬は、酔うと陽気になる|性《た》|質《ち》のようである。
衣子は、ツインベッドの並ぶ|寝《しん》|室《しつ》へ入った。――久保は、スツールに|腰《こし》をかけて、衣子の一面鏡にじっと見入っている。
「何をしているんですか?」
衣子が声をかけると、久保はゆっくり振り向いて、
「つくづく|眺《なが》めていたんですよ。この|馬《ば》|鹿《か》げた顔を」
と言った。
「どうしてそんなことを――」
「馬鹿ですよ。あなたのような人を妻だなんて|紹介《しょうかい》して……。後になれば、みんなおかしいと思い始めるに決まってます」
衣子はベッドに腰かけると、
「どうして私を選んだんですか?」
「偶然ですよ。本当に偶然です。こういう手段を取るしかないと思い、それから捜したんですからね。ただ、たまたま帰りの電車で、ご主人が真向いの席にいらして、これはどうだろう、と後を|尾《つ》けてみると、このお宅で。休みの日に少しこの辺を歩いてみたりしましてね。結局、ほぼ注文通りの所だと分ったので……」
「そうでしたの」
「本当にあなたとご主人には迷惑をかけましたね」
「もうお|寝《やす》みになりますか?」
「ええ……。少々疲れました。奥さんは、どうします?」
「私は……眠れそうもありませんから起きていようと思います」
「そうですか」
久保は申し訳なさそうに、「では、このままの格好で寝かせてもらいますから……」
と、一方のベッドに横になった。
「明日の朝は何時に起こせばよろしいんですか?」
「ご心配なく。私は目覚ましというものを使ったことがないんです。何時に|床《とこ》についても、六時きっかりに目を覚まします」
「まあ、主人とはずいぶん違うわ」
と衣子は言った。「何度起こしても起きないんですもの」
「お忙しいんでしょう」
「ええ、そうなんです」
「すみませんね、本当に。こんなことで……」
今さら謝ってもらったところで仕方がない。衣子は、一面鏡の上の明りをつけて、部屋の明りを消した。
4
|眠《ねむ》らずにいるつもりが、いつの間にか、うとうとしてしまった。
ふっと目を覚まし、一面鏡の明りで時計をすかして見る。二時半である。
まだ朝まで大分あるが、ちょっとでも眠ったせいか、もうあまり眠気はさして来ない。
「顔を洗って来よう……」
ふと、久保の方を見ると、静かに眠り込んでいるようだ。本当に「変人」なのに|違《ちが》いない。|誘《ゆう》|拐《かい》|罪《ざい》で|捕《つか》まりかねないのに、こうして|悠《ゆう》|々《ゆう》と眠っていられるのだから。
そっと寝室を出て、短い|廊《ろう》|下《か》を歩いて行くと、居間から、ゴーッ、ゴーッと、派手ないびきの合唱が聞こえて来る。
弘治さんはどうしているだろう。|監《かん》|禁《きん》されているような場所ではきっと眠ることもできないに違いない。私だって起きていなきゃいけないわ。夫婦なんですものね……。
洗面所へ行って、冷たい水で顔を洗うと、頭もすっきりした。これで朝まで起きていられるだろう。
タオルで顔を|拭《ぬぐ》い、|戻《もど》ろうと|振《ふ》り向いて、衣子は思わず|叫《さけ》び声を上げそうになった。
目の前に|誰《だれ》かが立っている。
「――おどろかせたかな」
「渡辺さん……」
衣子は息をついた。「びっくりしたわ」
「ごめんごめん。そんなつもりはなかったんです」
「眠れないんですの?」
「どうもね。……あなたが一つ屋根の下にいると思うと気になって」
「渡辺さん、私はもう結婚してるんです」
「分ってますとも」
と渡辺は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「しかし、こればっかりは理性じゃない。そうでしょう?」
「存じませんわ。――私、寝ますから」
と行こうとするのを|遮《さえぎ》って、
「今までその格好で起きてたんですか?」
「どうでもいいんじゃありません、そんなこと?」
「ご主人に|抱《だ》かれてたんですか?」
衣子は思わず、
「渡辺さん!」
と声を高めた。
「しっ!――気になるんですよ。あの久保さんがあなたの体を自由にしているのかと思うと――あんな|奴《やつ》があなたを|裸《はだか》にして――」
渡辺はいきなり衣子を抱き寄せると、衣子の|唇《くちびる》へ自分の唇を|押《お》しつけた。衣子は必死に身を振り離そうともがいた。
「……やめて! |恥《は》ずかしくないんですか!」
「恥ずかしいことなんかあるもんか! あなたは|僕《ぼく》にこそふさわしいんだ。あんな男じゃなくて」
「やめないと大声を出しますよ!」
いきなり、渡辺が右手で衣子の口を|塞《ふさ》ぎ、彼女を廊下へ押し|倒《たお》して上へのしかかった。
「ム……ム……」
と|呻《うめ》き声を|洩《も》らしながら、衣子は|懸《けん》|命《めい》にもがいた。渡辺は力ずくで押えつけながら、
「一度でいいんだ……お願いだから……一度だけ……」
と|囁《ささや》き続ける。――|突《とつ》|然《ぜん》、
「何をしてるんだ?」
静かな声がした。渡辺がはっと顔を上げる。――久保が立っていた。
渡辺の力がゆるむと、衣子は力をこめて渡辺をはねのけて、久保の方へ|逃《のが》れた。
渡辺は少し息を|弾《はず》ませながら立ち上った。
「ちょっと|酔《よ》ってましてね……」
と言い訳がましく|呟《つぶや》く。
「もう|寝《ね》たまえ」
と久保は言った。渡辺は、
「おやすみ。――おやすみなさい、|奥《おく》さん」
と言い捨てて、居間へ戻って行った。
寝室へ入ると、衣子はベッドヘ座り込んで、身を両手で固く抱き|締《し》めるようにした。|震《ふる》えが止まらないのだ。
「――申し訳ないことをしました」
久保は、衣子の前に立った。「いつもはあんな奴じゃないのですがね」
衣子は口をきくこともできず、ただ首を振った。久保は続けて、
「私はご主人に|約《やく》|束《そく》した。あなたには指一本|触《ふ》れない、とね。――私が連れて来た奴のやったことは私の責任だ。申し訳ありません」
と深々と頭を下げる。
「いいんです……」
衣子は、やっと口をきけるようになった。「助けてくれて……ありがとう」
「何か、できることがあれば――」
「いいえ。本当にもう|大丈夫《だいじょうぶ》です」
衣子はやっと少し落ち着いて来た。「本当に助かりましたわ。あのままだったら、どうなっていたか」
「少し眠った方がいいんじゃありませんか?」
衣子は息をついて、
「ええ。そうします……」
と素直に|肯《うなず》いた。
「|着《き》|替《が》えるなら、あっちへ行っていますが」
「いいえ、このまま寝ますから」
「そうですか」
衣子はベッドヘ入った。久保が|隣《とな》りのベッドヘ入る音がした。――しばらくしてから、衣子が言った。
「なぜ、本当にお|嫁《よめ》さんをもらわないんですか?」
「私ですか?」
久保はちょっと間を置いて、「――だめなんですよ」
と言った。
「それはどういう……」
「肉体的に、女性を愛することができないんです」
衣子は、はっとする思いで、暗いベッドの方を見やった。
「すみません、余計なことを|訊《き》いて……」
「いいんですよ。――まあ精神的なものだと医者は言うんですが、どっちにせよ、いざというときだめなのは|惨《みじ》めなものですからね」
「でも、その内にきっと……」
「もう寝た方がいいですよ」
と久保は言って、「ご主人は必ず明日の朝、お返ししますから」
と付け加えた。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい……」
と言ったものの、衣子の方は、そうはなかなか眠れない。その内、久保は静かな寝息をたて始める。
衣子は、この人は悪い人じゃないんだわ、と思った。夫を|誘《ゆう》|拐《かい》されておいて、そんな風に考えるのも|妙《みょう》だが、衣子は不思議な安心感を覚えるようになっていたのである。
眠りは短かかったが、その割にすっきりと目が覚めて、衣子はもう隣りのベッドが、きちんと直してあるのに気付いた。
起きて台所へ行くと、久保が湯を|沸《わ》かしている。
「お早うございます」
と久保が|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「お早いですね」
「六時にちゃんと目が覚めましたよ」
「私がやりますわ。――他の方が見たら、変に思うでしょう」
「何もいりませんよ。うんと|濃《こ》いコーヒーでも飲ませてやればいいんです」
「そうもいきませんわ」
「二日酔で、食べられやしませんから」
「一応何か作らないと……。良妻としては。そうでしょう?」
|冗談《じょうだん》めかした衣子の言葉に、久保は|嬉《うれ》しそうに笑った。
衣子はハムエッグを手早く五人分こしらえた。コーヒーの|香《かお》りに|誘《さそ》われたのか、
「いや、お早うございます……」
と一ノ瀬がねぼけまなこで顔を出し、
「いや、|旨《うま》そうですな!」
と急に目をパッチリと見開いた。
「どうぞお|仕《し》|度《たく》をなさっていらして下さい」
「はいはい、それじゃ」
といそいそと洗面所の方へ行く。二日酔だとしても、食欲の方は|衰《おとろ》えていないようだ。
六時四十分には顔ぶれが|揃《そろ》って、朝食を取っていた。渡辺は一番最後にやって来て、
「どうも――」
とポツリと言っただけで、席に着いた。
「テーブルが|狭《せま》くてすみませんね」
と衣子はコーヒーのお代りを注ぎながら言った。
「いやあ、旨い! いいですなあ、朝食を家で食えるってことは!」
一ノ瀬が、ため息と共に言い出した。
「私の所は|女房《にょうぼう》がさっぱり起きちゃくれんものですから、一人で起き出し、仕度をして、水|一《いっ》|杯《ぱい》飲んで出かけるんですよ。後は会社の近くでトーストを食べたり……」
「うちもそうだなあ」
と大木が同調する。「今はそういう家が多いらしいぜ」
久保が|微《ほほ》|笑《え》みながら、
「今にうちもそうなるかもしれないよ」
と言った。
七時十分になると、
「さて、そろそろ出社の時間だ」
と久保が|腰《こし》を上げた。みんなが、てんでに立ち上って、身なりを整える。
衣子が|皿《さら》を集めていると、
「衣子さん」
と渡辺が入って来た。「昨夜はどうも――申し訳なかったと思ってます」
と低い声で言う。
「済んだことですから忘れます。でも、二度と私の前へ顔を見せないで下さいね」
衣子は冷ややかに言った。
「……分りました」
渡辺は元気なく台所を出て行った。
|玄《げん》|関《かん》は何ともにぎやかだった。
「どうもごちそうになりまして、奥さん!」
「本当にお世話になりました」
と口々に言ってくれる。
「何のお構いもいたしませんで――」
と衣子は頭を下げて見送った。
「じゃあ……」
久保は|靴《くつ》をはくと、「よく私の無茶なお願いを――」
と言いかける。衣子はそれを|遮《さえぎ》って、
「いいえ、もういいんです。あなたにも、いつかきっといい人が見付かりますわ」
「ありがとう」
「主人の方はよろしく」
「すぐにもお帰りになると思います。なに、この近くにいらっしゃるんですから」
「そうなんですか」
「それじゃ」
道で待っている四人の方へと久保が歩いて行く。その後姿へ、
「行ってらっしゃい」
と衣子は声をかけてやった。
道を|途中《とちゅう》まで来ると、久保は、
「ああ、いかん、ちょっと忘れ物だ」
と立ち止まり、「君たちさきに駅へ行っててくれ、すぐ追いつく」
と言っておいて、引き返した。四人の姿が見えなくなると、例の細いわき道を、林の中の小屋へと急ぐ。
|扉《とびら》が開け放されて、|錠《じょう》が地面に落ちているのを見て、久保はちょっと|呆《あっ》|気《け》に取られていた。
「じゃ、ともかく自分で出たんだな……」
今ごろ家へ帰ってるんだろう、と思った。|肩《かた》をすくめて、元の道へと戻り、四人の後を追って足を早めた。
ちょうど駅前で追いつく。みんな|切《きっ》|符《ぷ》を買っているところだったが……。
「おい、渡辺は?」
と久保は見回して|訊《き》いた。
「さっき、何だか用を足すとか言って、わきの茂みの方へ入って行ったよ」
と一ノ瀬が言った。「もう来る|頃《ころ》だがな」
久保はふっと不安な表情になった。まさかとは思うが、あの家へ戻って……。
「先に行ってくれ、すまないが」
「おい、どうしたんだ?」
「ちょっと用を思い出したんだ」
久保が急いで戻って行くのを、三人は呆気に取られて見送っていたが、そこへ、渡辺が走ってやって来た。
「おい、どうしたんだ? 久保さん、えらく|慌《あわ》てて飛んでったけど。声をかけても全然気が付かないんだ」
「何か用を思い出したんだって」
と大木が言った。
「分ったぞ」
と一ノ瀬が手を打った。
「何が?」
「久保さん、奥さんに、行って来ますのキスをして来るのを忘れたんだよ」
と大笑いする。――渡辺一人が苦虫をかみつぶしたような顔で、切符を買おうとポケットをかき回していた。
衣子は、台所でぼんやりと座っていた。
片付けをやる気にもなれない。――本当に弘治さんは無事に戻って来るのかしら? 今になって不安になって来たのだ。
久保は、悪い男ではないらしい。しかし、何といっても大の大人を誘拐したのだ。訴えられれば罪は軽くないぐらい分っているはずである。
弘治さんを殺してしまうかもしれない。そう思い始めると不安は大きくふくらんで来る。
「神様。あの人が無事でいますように……」
と信じてもいない神に祈って、顔を上げると――夫が立っていた。
「あなた!」
衣子は夫の胸へ飛び込んで行った。
「大丈夫だよ……もう安心するんだ」
明石は衣子を抱いて、そっと言った。
「何ともなかったのかい? けがは?」
「ええ、大丈夫。別に乱暴なことなんてしなかったから……。あなたは?」
「|僕《ぼく》は平気さ。でも君のことが心配でね」
「私もあなたが心配で……。少しやつれたみたい」
「ひげを|剃《そ》ってないからさ」
と明石は笑った。
「長い夜だったわ」
「全くだね」
明石は一つ息をついて、「僕のネクタイはどうした?」
「あるわよ。どうするの?」
「ちょっと持って来てくれ」
衣子は急いでネクタイを持って来た。
「まさか会社へ行くわけじゃないんでしょう?」
「ああ、今日は休むよ。君、代りに行ってくれないか?」
「いいわよ」
と衣子は笑って、「めちゃくちゃにして来てあげるわ」
「ほらネクタイをしめてさ」
明石はネクタイを衣子の首ヘ一つ巻きつけた。衣子は笑いながら、
「そんな、マフラーみたいな巻き方ってないわよ」
と言った。明石はネクタイの|両端《りょうはし》を持って、
「これが一番いいんだ。首を|締《し》めるにはね」
と言うなり、ぐい、と両端を引いた。
「あ――」
短い声を上げて、衣子が目を見開く。手で明石の胸もとをつかむようにしたが……明石が引く力を増すと、衣子の手から、|徐《じょ》|々《じょ》に力が抜けていく……。
突然、明石はカッと目を見開いた。ネクタイから手が離れる。よろよろと振り向くと、あの男が――誘拐犯が、血のついた包丁を持って、|突《つ》っ立っている。
|畜生《ちくしょう》、何だって|邪《じゃ》|魔《ま》をしやがるんだ? 何をしてるんだ? その血はどうしたんだ?
明石はがっくりと|床《ゆか》に|膝《ひざ》をつき、そのまま|崩《くず》れるように倒れた。
久保は包丁を投げ出すと、うずくまっている衣子へと|駆《か》け寄った。
「しっかりして!」
ネクタイを外すと、食い込んだ|跡《あと》が痛々しく残っている。久保は必死に衣子を|揺《ゆ》さぶった。
「しっかりするんです! 奥さん!」
急に、衣子が|咳《せき》|込《こ》んで、目を開いた。
「よかった! 助かったんですよ!」
衣子は|虚《うつ》ろな目で、久保を、それから倒れている明石を見た。
「あの人が……私を殺そうとしたわ……」
「驚きましたね。わけが分らない」
衣子は首をさすって、
「苦しいわ、まだ……」
とかすれた声で言った。「――また、私を助けて下さったのね」
「|偶《ぐう》|然《ぜん》ですよ」
久保はそう言って、「立てますか?」
「ええ……」
「今、一一〇番しますから」
久保が居間の方へと急いで行ってしまうと、衣子は、ぼんやりと立ったまま、夫の死体を見下ろしていた。
「すぐに来ますよ」
と言いながら、久保が戻って来て、「ソファでお休みなさい」
と衣子の|腕《うで》を取った。
「ありがとう……」
「いえ、こんなことになって……本当に、何と言っていいか……」
「あなたのせいじゃありませんわ」
「しかし、そうでないとも言い切れませんからね」
ソファヘゆっくり腰をおろすと、衣子は久保を見上げて言った。
「あなたは古いお友達ということにさせて下さいね」
久保は衣子の手を取った。
「ありがとう」
久保は声を|詰《つ》まらせた。「本当に……」
静かな町の中を、やがてパトカーのサイレンが近付いて来た。
シルバーシートヘの招待
1
「あなた、早く起きなさいよ」
妻の|小《さ》|百《ゆ》|合《り》に|揺《ゆ》さぶられて、|谷《たに》|口《ぐち》|新《しん》|治《じ》は|唸《うな》り声をあげながら目を開いた。
「何だよ……。もう朝か」
「|遅《ち》|刻《こく》するわよ」
「そんな時間か?」
|枕元《まくらもと》の時計を見て、「何だ、まだ六時半じゃないか、一時間早いぞ」
と文句を言った。台所のほうへ行きかけた小百合が、ヒョイと|振《ふ》り向いて、
「しっかりしてよ、|引《ひ》っ|越《こ》したのよ、うちは今日から」
「引っ越し?」
そうか。そうだった。公団のアパートから同じ公団のアパートヘ移ったので、中の様子もあまり変わらない。だから、つい引っ越して来たのを忘れてしまう。
むろん前の部屋とまったく同じではなく――それでは越す意味がない――部屋数はふえた。1DKが2LDKへ。そして家賃は二・五倍にはね上がり、通勤時間も四十分から一時間半へと大幅にのびたわけである。
冷たい水で顔を洗って、無理に|眠《ねむ》けをさますと、小百合が作ったコーヒーをゴクリと飲んで目を白黒させる。
「おい! このコーヒー……」
「ああ、ごめんなさい。粉が足りなかったから|煮《に》|出《だ》しちゃったのよ。少し苦い?」
「少し[#「少し」に傍点]ね」
と言って、谷口は|大《おお》|欠伸《あくび》をした。「やれやれ、眠いなあ」
「すぐに|馴《な》れるわよ」
と小百合のほうは、夫が出て行ってからもう一眠りするつもりなので、気楽なもの。
「一日五十分――いや往復で百分も通勤時間がふえるんだぜ。一週間で五百分、一か月で……」
「電車で|睡《すい》|眠《みん》不足を補えばいいのよ。まるまる一時間は乗るわけでしょ」
「そりゃそうだけど、乗ったとたんに眠って、降りる駅で目を覚ますなんて芸当できないからな。眠れるのはせいぜい三十分だ」
「三十分でもずいぶん|違《ちが》うでしょう」
「それも座れればの話だぜ」
「座れるわよ、きっと。こんな|田舎《 いなか》なんですもの」
小百合は、すでに勤めをやめて三年以上になる。勤めていたときだって、会社まで、家から歩いて十分という“超”職住近接だったので、およそラッシュアワーの殺人的混雑、というものを体験したことがない。小百合にとって、電車というのは本来座れるものであって、席がなくて|吊《つり》|皮《かわ》につかまっていなくてはならない状態を「混んでいる」と称するのである。
ラッシュアワーの満員電車では、吊皮さえ|奪《うば》い合いになるなどということは、およそ小百合には実感として分からないのだ。
小百合は二十四|歳《さい》、谷口は二十八歳。社内|結《けっ》|婚《こん》。結婚して三年と一か月と七日。まだ子供はない。何しろ結婚したとき、小百合は二十一になるやならずやで、まだ少しのんびりしたいから、子供はもう少し先、ということになった。三年がすぎ、そろそろ広いアパートヘ越して子供を作ろうか、というわけで、この引っ越しとなったわけである。
「もう|一《いっ》|杯《ぱい》、コーヒー飲む?」
「いや、もういい」
これ以上飲んだら胃がひっくり返りそうだ。谷口は急いで|仕《し》|度《たく》をして、早めに家を出た。
――この公団のアパートは、何しろ遠くて不便なので入り手がなく、今でも半分くらいは空いている。十一階建のモダンな造りが、かえって野原の真っただ中ではわびしい感じだ。
谷口とて、好きでこんな遠くへ来たわけではない。もう少し近い所、と思っていたのだが、残念ながら谷口はおよそくじ運というもののない男で、子供のころから、福引きでも残念賞以外はとったことがない。公団の空家募集にも、倍率一・二倍というところへ申し|込《こ》んでみごと落選という|徹《てっ》|底《てい》ぶりで、ついに|諦《あきら》めて、この|無抽選《むちゅうせん》で入居できる団地へやって来たのである。――無抽選なら落ちるはずはないが、それでも谷口は実際に入居の書類が来るまで気が気ではなかった……。
駅までは、|簡《かん》|易《い》|舗《ほ》|装《そう》の道を十分ほど歩く。まだバスはなかった。同じ方向へと歩くサラリーマンの姿が前後にチラホラと見える。
小百合の予言は半ば当たっていたし、半ば外れてもいた。
確かにやって来た電車は空いていた。――が、ガラガラというほどでもない。こういうローカルの赤字線は客も少ないかわりに、電車の本数も少ないから、そうガラ空きにもならないのである。
乗って車内を見回しているうちに、いくつかの空席はたちまち|埋《う》まってしまう。谷口も、混んだ電車には慣れているが、その場合は最初から座ろうなどとは思わない。いかにして楽な姿勢で立っているか、という点に工夫をこらすわけである。
しかし、こう空いていると……かえって座れないのはしゃくにさわる。
谷口はいちばん後ろの車両まで、歩いて行った。大体、電車というのは、いちばん前かいちばん後ろが空いているものなのだ。いちばん後ろの車両――といっても四両編成だが――に入って行くと、やはり空席はあった。
しかし、空いていたのは、シルバーシートだけだったのである。それ以外の席は全部埋まって、シルバーシートだけがポッカリと空いている。
谷口だってまだ若いから、普段ならシルバーシートに座るのは|遠《えん》|慮《りょ》するところだが、しかし朝の通勤電車というのは別である。そんな年寄りが乗って来るわけもないし、自分一人が遠慮していても、どうせほかの客たちがワッと座ってしまうに決まっているのだ。
一時間半の道のりを思えば、そんな体裁など気にしてはいられない。谷口は、シルバーシートの|隅《すみ》に座ろうとした。
急に車内に、
「ああっ!」
という声が起きた。座りかけた|中腰《ちゅうごし》の姿勢のまま、谷口はびっくりして車内を見回した。乗客たちが、じっと自分のほうを見つめている。全員の視線が集中しているのである。
谷口はゴクリと|唾《つば》を飲み込んだ。たかがシルバーシートに座ろうとしたぐらいで、そんな目で見なくったっていいじゃないか!
――しかし、どこか|妙《みょう》な感じだった。どうも非難の目ではないのである。みんな息を|呑《の》んで成り行きを見守っているという様子だ。ともかく、こう見つめられていたのでは、座るわけにはいかない。
いささか|憮《ぶ》|然《ぜん》として、谷口はドアのわきに立った。車内にホッとしたような空気が流れる。――妙な連中だ、まったく。
電車が発車して、谷口がぼんやりと外の田園風景を|眺《なが》めていると、|誰《だれ》かが|肩《かた》を|叩《たた》いた。振り向くと、同じぐらいの|年《ねん》|齢《れい》の、えらく度の強いメガネをかけた|小《こ》|柄《がら》な男が、ニヤニヤしながら立っている。
「何か?」
と|訊《き》くと、男は、
「お|掛《か》けになりませんか?」
と言った。
「え?」
「私、立ちますから、あそこへどうぞ」
見れば普通の座席がポカッと一人分空いている。わざわざ席を|譲《ゆず》りに立って来たらしい。
「いや、結構ですよ」
「まあ、そうおっしゃらずに」
「そんなに年寄りじゃありませんからね」
と谷口は苦笑しながら断わった。
「本当に[#「本当に」に傍点]座っていただきたいんです」
と相手のほうも|粘《ねば》る。「私、ぜひ立っていたいんです」
「何ですって?」
「いや、立ってるのが好きなんです。だからどうぞ座ってください。早くしないと次の駅に着きます。早く早く!」
とメガネの男は谷口の背中を|押《お》しやった。どうなってるんだ?――谷口は|狐《きつね》につままれたような気分で、言われるままに、空席に腰をおろした。メガネの男は|微《ほほ》|笑《え》みながら、これでいい、というように|肯《うなず》いている……。
次の駅に着くと、やはり団地があるので、何人かの客が乗って来る。そしてたちまちシルバーシートが埋まってしまった。むろん座っているのは年寄りではない。中年の男、OL、学生らしい少年までいる。
しかし、今度は、車内の客たちは一向に声をあげないどころか、まるで関心がないようで、シルバーシートのほうなど見向きもしないのだった。
妙だな、まったく。谷口はそっと首を振った……。
「|今《け》|朝《さ》、電車、座れたの?」
夕食のとき、小百合が訊いた。
「ああ、一応ね」
「よかったわね。だから私が言ったじゃないの」
と、まるで自分が座らせてやったと言わんばかり。「よく眠れた?」
「いや、それが全然眠くならなかったんだ」
「何だ、どうしたの?」
「ちょっと妙なことがあってね……」
谷口は朝の電車のことを話してやった。
「へえ、面白いのね」
「何だか妙な気分さ。そのメガネの男なんか、着いたときにはフウフウ息を切らしてるんだ。どう見ても立ってるのが好き、って感じじゃない。それなのに、どうして席を譲ったりしたのかなあ」
「きっと気がとがめたのよ」
「どうして?」
「あなたがシルバーシートに座るのをやめさせちゃったから」
「そんなことでいちいち気を|遣《つか》ってたら、世の中生きちゃいけないよ」
「いいじゃないの、ともかく座れたんだから」
「そりゃそうだけど……」
どうも谷口は気になって仕方なかった。あの乗客たちの態度はどうみてもまとも[#「まとも」に傍点]ではない。それに、あのメガネの男……。必要もないのに、なぜ席を譲ったりしたのだろう?――分らない。
「ねえ、あなた」
夕食の片づけを終えて、小百合が、テレビを見ている谷口の横へやって来ると、「どうするの?」
「うん? 何が?」
「作るんだったら今がちょうどいい時期なのよ」
見れば小百合の目が色っぽく|輝《かがや》いている。
「よし」
谷口は小百合を|抱《だ》き寄せてキスした。そのまま|畳《たたみ》の上へ|寝《ね》かせて――|玄《げん》|関《かん》でチャイムが鳴る。
「いやねえ、こんな時間に……」
小百合はふくれっ面で玄関のほうへ出て行った。|誰《だれ》だろう、と谷口も後からついて行くと、
「どうもご|丁《てい》|寧《ねい》に」
と小百合が頭を下げている。
「いえ、一人|暮《ぐ》らしなもので、ご|挨《あい》|拶《さつ》が遅れてどうも」
と玄関に立っているのは……。谷口は、あれ、と思った。
「やあ、あなたは――」
メガネの男は谷口を見て、
「おや! じゃ、お|隣《とな》りだったんですか。これはこれは」
と|嬉《うれ》しそうに言った。「私、|坂《さか》|田《た》といいます。よろしく」
「こちらこそ。|今《け》|朝《さ》はどうも――」
「いえいえ、とんでもない!」
と坂田はなぜか|慌《あわ》てて|遮《さえぎ》ると、「じゃ、また明日」
とそそくさと帰って行った。
「――それじゃ今の人が、席を譲ってくれたの?」
「そうなんだ」
「何だかずいぶんヘラヘラした人ね」
「きっとセールスマンか何かだよ」
「|避《ひ》|妊《にん》用具か何か売ってるんじゃない?」
「知らないな」
と谷口は笑った。「しかしわが家は今のところ必要ないわけだろ」
「そうよ」
小百合は甘えるように夫へもたれかかって、
「――ねえ、|布《ふ》|団《とん》の所へ行きましょうよ」
「う、うん。いいよ」
「何を考えてたの?」
「いや、明日の朝はどうしようかと思ってね、座るか立つか……」
谷口は、本当に迷っていたのである。
2
翌朝、少し早めに家を出た谷口は、駅へ行く|途中《とちゅう》で、坂田に追いついた。
「やあどうも」
と声をかけると、坂田は相変わらずの愛想のよさで、
「昨晩はどうもお|邪《じゃ》|魔《ま》しまして」
と頭を下げた。
「今日は、ちゃんと座ってください。私が立ちますから」
「いや、この時間に行けば二人とも座れますよ」
と坂田は言った。
「でも代わりに誰か座れない人が出るでしょう」
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。たいていは誰か休む者がいるんで、二、三人分は空席があるのが普通なんです。昨日のように、一人も休まないというのは|珍《めずら》しいですよ」
「あの車両の客をみんなご存じなんですか?」
と谷口がびっくりして|訊《き》く。
「いいえ、でも同じ電車に乗ると、大体顔ぶれはいつも同じですからね。あれは不思議なものですね。座る席まで大体決まってる」
「習慣というのは|怖《こわ》いですね」
「まったく。――それにこの辺はほとんど人口がふえないので、顔ぶれもさっぱり変わらないんです。あなたは久々のニューフェイスですよ」
二人は会社のことや仕事のことを話した。サラリーマンの会話というのは、まずどうしてもそういうところから始まるのである。
坂田はやはり、セールス畑の人間だった。ただし避妊用具ではなく、百科事典のようなセット物の本を売って歩いているという。
「一日歩き回るとへとへとになりますよ」
と坂田はため息とともに言った。「こういう仕事をしていると|年《と》|齢《し》を取るのも早いですよ、まったく」
「お|疲《つか》れでしょうねえ。いや、それなのに、昨日は席を譲っていただいてすみませんでした」
「いえいえ、そんな意味で言ったんじゃありません」
と坂田は|慌《あわ》てて言った。「あれはただ、あなたがシルバーシートヘ座らないようにと……」
「しかし、どうしてです? 朝のうちは老人は乗って来ないし、事実、次の駅じゃ、みんなあそこへ座っちまうじゃありませんか」
「ご不審に思われるのは当然です」
と坂田は|肯《うなず》いた。「ちょっと特別な事情があるんですよ、あれには」
「ほう、どんな?」
坂田はちょっと口を開きかけて、ためらい、
「まあ……そのうちにはお耳に入ると思いますよ。ああ、もう駅が見えてきました。いや、この駅は冬になると寒くてね……」
坂田は話を変えて、もうシルバーシートのことを話そうとはしなかった。
その朝は、ほかにも二、三空席があって、シルバーシートヘ座ろうとする者もなかった。そして次の駅で空席が|埋《う》まり、シルバーシートも|一瞬《いっしゅん》のうちに|占領《せんりょう》された。前の日と同じことだ。しかし坂田は、そのことには少しも|触《ふ》れようとはせず、セールスしていて身の上相談を持ちかけてくる|奥《おく》さんたちや、|浮《うわ》|気《き》したくてむずむずしているのか、|露《ろ》|骨《こつ》に|誘《ゆう》|惑《わく》してくる奥さんに出会った話などを面白く聞かせてくれた。
谷口は、坂田が|殊《こと》|更《さら》にシルバーシートの話題から|逃《に》げるために、せっせと話をしているのだという印象を捨て切れなかった……。
|平《へい》|穏《おん》が破られたのは、二週間ほどたった、金曜日のことだった。
金曜日ともなると、|疲《ひ》|労《ろう》その極に達し、おそらくいつもはもっと早い電車に乗っているらしい、その中年太りのサラリーマンは、谷口たちのいる車両へ、発車間際にドタドタと|駆《か》け込んで来ると、フウッと額の|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》って車内を見回した。乗客たちも、あまりその男を気に止めなかった。というのも、その朝は、いつもより空席があちこちに目立っていたので、まさかその男が好んでシルバーシートヘ座るとは思ってもいなかったのだ。
男は、|一《いっ》|旦《たん》、近い空席のほうへ歩きかけたが、そこがやや|狭《せま》い感じだったので、自分の|人《ひと》|並《な》み以上の|胴《どう》|回《まわ》りには|窮屈《きゅうくつ》だと思ったらしい、くるりと向きをかえると、シルバーシートのほうへ|大《おお》|股《また》に歩いて行き、ドカッと腰をかけてしまったのである。
まさに不意|討《う》ちという感じで、乗客たちは一瞬、水を打ったように静まり返った。坂田がギョッとして腰を|浮《う》かした。何か言いたげに口を開きかける。――当の太っちょのほうは、座るなり目をつぶって、船をこぎ始めたので、車内の|雰《ふん》|囲《い》|気《き》などにはまったく気づいていない様子だった。
「――手遅れだ!」
坂田はそう|呟《つぶや》いて、席へ座り直した。例によって隣りにいた谷口は、
「どうしたんです?」
と|訊《き》いた。「どういう意味です、手遅れ[#「手遅れ」に傍点]、って?」
「あの人ですよ」
「あの、シルバーシートに座っちまった人ですか?――まあ、残念でしたね、不文律が破られて」
「いや、そんなことじゃないんです」
と坂田はちょっと|苛《いら》|立《だ》つように、「あの人のために、言ってるんです。気の毒に[#「気の毒に」に傍点]」
と呟くように言った。谷口は|戸《と》|惑《まど》って、
「気の毒?」
と訊き返した。「一体、どういうことなんです? 教えてくださいよ」
しかし坂田は何も言わずに、シルバーシートで居眠りしている男のほうをじっと眺めていた。
「やっと一週間が終ったか」
谷口は、その晩、夕食を食べながら言った。谷口の会社は一週間おきに土曜日を休みにしている。
「ねえ、いい季節だし、どこかに行きましょうよ」
と小百合が言い出した。
「うん? そうだなあ……」
「あんまり気のない返事ね」
と小百合がすねたように言った。
「疲れてるんだよ。何しろ遠距離通勤にやっと慣れてきたところだからな」
「せっかく郊外へ越して来たんだもの、どこか行かなきゃつまんないわ」
「そうだな……じゃ、レンタカーでドライブでもするか」
谷口は免許はあるが、車は持っていない。
「まあ、|嬉《うれ》しい!――ね、うちもそろそろ車を買いたいわね。こういう所にいると、やっぱり必要だわ」
「そりゃ分かってるけど、維持費が大変だよ。家賃も高くなったし……」
「中古車なら安く買えるでしょ」
と、小百合は今にも買いに行きたいような口ぶり。何しろ小百合は|衝動《しょうどう》買いの達人(?)である。本当に近所のスーパーで車を売っていたら、きっと買いに行ったに違いない。
谷口はテレビのニュースヘ目をやった。
「ほら、また交通事故だぜ。車は便利だけど万一のことがあったら――」
ブラウン管には、トラックに|押《お》し|潰《つぶ》されてペチャンコになったタクシーが映し出されていた。
「この事故で、タクシーの運転手と乗客が全身を打って|即《そく》|死《し》しました。亡くなったのは……」
アナウンサーの読み上げた名前と住所を聞いて、小百合が、
「まあ、この辺の人よ。|可《か》|哀《わい》そうに」
と言った。死んだタクシーの乗客の写真が画面に出た。――谷口はふと、どこかで見た顔だな、と思った。この辺に住んでいるというから、電車ででも見かけたのかな。
「――そうだ!」
「何よ、急に、びっくりするじゃないの。どうしたの?」
と小百合が谷口を見る。
「い、いや……。ちょっと、電車で会ったことがあるんでね……」
「そうなの。気の毒にね」
気の毒。……気の毒に。坂田はそう言った。そうだ、間違いない。事故で死んだのは、今朝、シルバーシートヘ座って、|居《い》|眠《ねむ》りをしていた、中年太りの男だった。
気の毒に、か。本当に気の毒なことになってしまったわけだが、どうして坂田は今朝[#「今朝」に傍点]そう言ったのか。まるでこの不幸を予感していたように……。
「ちょっと隣りへ行って来る」
「あら、何の用?」
「いや、|頼《たの》まれてたことがあってね」
|曖《あい》|昧《まい》に言って、谷口は玄関を出ると、隣りの部屋のチャイムを鳴らした。すぐにドアが開いて、坂田が顔を出す。
「やあ、おいでになると思ってましたよ。どうぞ」
「それじゃ、ちょっと――」
「とりちらかしてますが」
坂田の部屋は、言葉とは裏腹に、ちり一つなく片づけられていた。一人暮らしだけあって、家具は少ないが、小ざっぱりとした、なかなか快適な部屋だ。
リビングの簡単な応接セットヘ、
「どうぞ」
と通されて、
「一人にしちゃ広すぎるんじゃないですか」
と谷口は言ってみた。
「ええ。半年ぐらいのうちに結婚するつもりなんです」
「そりゃおめでとうございます」
「どうも……。ま、お茶でも一つ」
と照れて赤くなると、坂田は急いで茶を|淹《い》れた。
「ところで――」
と谷口が切り出すと、坂田は、
「テレビのニュースをご覧になりましたね?」
と先回りをした。
「そうです。あれは――交通事故で死んだのは――今朝、シルバーシートに座ってしまった人でしょう?」
「ええ」
「あなたはあのとき、『気の毒に』と言いましたね。なぜです? あれはどういう意味だったんです?」
「いつかはお話ししなくては、と思っていました」
坂田は、いつものセールスマン口調とは打って変わった、重々しい調子で言った。「まあ、|馬《ば》|鹿《か》らしいとお笑いになるかもしれませんが……」
「話してみてください」
「あなたにも察しはついてるんじゃないでしょうか。あのシルバーシートに座った人間は、近い将来に――その日でなくとも、四、五日のうちには――死んでしまうのです」
谷口はじっと坂田を見つめた。坂田は|真《しん》|剣《けん》だ。それは谷口にもよく分かった。
「以前にもあったんですね?」
「最初は三年前でした。まだあの車両にも乗客は半分足らずで、みんな顔なじみという具合。シルバーシートには|遠《えん》|慮《りょ》して誰も座りませんでした。それはそうでしょう。ほかにいくらでも空いているんですから」
「すると最初に座ったのは、やはり新しく|越《こ》して来た人だったんですか?」
「いえ、違います。|酔《よ》っ|払《ぱら》いでした。反対方向の電車に乗って来て、乗り越したので、あそこで降りて、あの車両へ乗って来たわけです。朝帰り、というわけですね」
「なるほど」
「酔っているので、眠りたかったんでしょう、いくら空いているといっても、横になれるほどは空いていませんから、シルバーシートの所なら、とあそこへ行って横になったんです。終点までそのまま|寝《ね》ていて……着いたとき、駅員が起こそうとすると、男は死んでいたというわけです」
「それはよくあることでしょう」
「そうです。むろん、あまりいい気持はしませんでしたが、まあ、たいして気にも止めなかったというところで。――次はその二か月ほど後でした。その人は今まで|一《いっ》|緒《しょ》に座っていた相手と何やら|口《くち》|喧《げん》|嘩《か》をしたらしく、乗って来ても、少しでも離れていたいと思ったんでしょう。あのシルバーシートに座ったんです。そして次の日に、心臓発作を起こして死にました」
「どこで発作を?」
「会社です」
「もともと悪かったんですか?」
「いえ、まったくそんな|徴候《ちょうこう》はなかったということでした」
「なるほど……」
「三人目はすぐその翌週でした。その人はかなりのお年寄りで、あそこへ座ってもおかしくないお|婆《ばあ》さんでしたが、体のほうは至って元気で、足もともしっかりしていました。――この団地にいる|娘《むすめ》さんを訪ねての帰りだったのですが、終点で降りて、ホームから|乗《のり》|換《か》え用の階段を|踏《ふ》み外して転落死したのです」
坂田はため息をついた。「――そのころから、みんな口には出しませんでしたが、どうも変だと思い始めていました。しかし単なる|偶《ぐう》|然《ぜん》と言えば言えないこともないわけで、自分で自分に|納《なっ》|得《とく》させている、という様子だったんです」
「その後も続いて?」
「ええ。一年の間に七人。……みんな元気な、すぐには死ぬはずもない人ばかりでしたよ。ただの迷信と言ってしまえばそれまでですが、でもやはり気味の悪いものです。――不思議なことに、あの電車以外ではそんなことはまったく起きていないし、次の駅であそこへ座った人は平気なのです。あの電車の、あの車両のシルバーシート。それだけが、死をもたらすのでした」
「|奇妙《きみょう》な話ですね」
「そのうち、この団地でも自治会長をしている|神《かん》|戸《べ》という人が、その迷信に|挑戦《ちょうせん》する、と言い出しました。|噂《うわさ》を聞いて腹が立ったらしいのですね。私たちが止めるのもきかず、朝、やって来て、あの席ヘドッカリと座り|込《こ》んだのです。こっちはもう青くなって、何事もありませんようにと|祈《いの》っていました。――神戸さんは、『今の世の中に馬鹿らしい!』と|豪《ごう》|快《かい》に笑っているばかりです。確かに、何事もありませんでした。その日も、次の日も、その次の日も……。みんな、何か|呪《じゅ》|縛《ばく》が解けたように、ホッとしました。これで|厄《やく》|払《ばら》いができた、と喜んでいたのです。ところが……」
「何かあったわけですね?」
「四日後でした。神戸さんは|趣《しゅ》|味《み》の|釣《つ》りに出かけて、川へ落ち、|溺《おぼ》れ死んだのです」
坂田は首を振って、「それ以来、誰も疑う者はなくなりました。シルバーシートには誰も座らなくなって、新しく越して来た人にも、あそこへは座らないよう、注意してあげました。――おかげでこの一年あまり、一人の死人も出さずにすんでいたのです」
「しかし、だんだん人口もふえて来るし……」
「それですよ。しかし、そこまでは、われわれにもどうしようもありません」
坂田は、お手上げ、といった様子で両手を広げた。――谷口はしばらく|黙《だま》っていたが、やがてゆっくりと立ち上がって、
「どうも話していただいてありがとう」
と礼を言った。
「どういたしまして。信じられない話と思えるでしょうね」
「いや、私は信じますよ」
坂田は谷口の言葉に目を輝かせ、急に彼の手を固く|握《にぎ》りしめた。
3
翌日、ドライブに出た谷口と小百合は、そのままS|湖《こ》|畔《はん》のモーテルに|泊《と》まり、日曜日の夕方に帰って来た。
「やれやれ|疲《つか》れたよ」
「でも楽しかったわ! ねえ?」
小百合のほうは元気いっぱいである。それはそうだろう。車を運転するのも、ベッドで張り切ったのも谷口のほうなのだから……。
「また行きましょうよ、ね?」
玄関の|鍵《かぎ》を開けながら、小百合は言った。
「ああ……そのうちね」
谷口は|曖《あい》|昧《まい》に言った。「ともかく入ろう」
ドアを開けて中へ入ろうとしたときだった。隣りの坂田の部屋のドアが開いて、若い女が飛び出して来たのだ。――谷口と小百合は面食らって顔を見合わせた。
その女は声をあげて|激《はげ》しく泣きじゃくっていた。そして|廊《ろう》|下《か》にしゃがみ込むと、|肩《かた》を|震《ふる》わせて泣き続けた。坂田が|靴《くつ》|下《した》のままで廊下へ|駆《か》け出して来る。
「|洋《よう》|子《こ》さん!」
と女のそばへ行って肩へ手をかけたが、女のほうは|振《ふ》り切るように背を向けて泣きじゃくる。坂田は困り果てた顔で|突《つ》っ立っていた。そこへ、坂田の部屋から、和服姿の初老の婦人が現われた。
「|兼《けん》|一《いち》!」
と厳しい声で、「そんな女、うっちゃっておきなさい!」
と命令口調だ。
坂田は振り向いて、
「でも母さん、いくら何でも――」
「放っとけばいいんだよ! 性悪女なんだからね」
「ひどいじゃないか、いくら母さんでも――」
と坂田は言ったが、その調子は至って|頼《たよ》りなげであった。
「お前のために言ってるんだよ!」
と母親のほうは一歩も|譲《ゆず》らない。「お前の目はごまかせても、私は|騙《だま》されないよ。そんな女と|結《けっ》|婚《こん》するなんて、絶対に私は認めないからね!」
「母さん……」
洋子という女のほうはますますひどく泣きじゃくるばかり。坂田は間に立って、どうしたらいいのやら、ただおろおろしているだけだった。
見かねた谷口は、
「坂田さん」
と声をかけた。
「あ、どうも……お|騒《さわ》がせして……」
「彼女、うちで預かりましょうか?」
「は、はあ……そうしていただけると……」
母親のほうは、
「そんな女、塩をまいて|叩《たた》き出してやればいい!」
と言い放つと、部屋へ入って行ってしまった。坂田はため息をついた。
「母は気が強くて|頑《がん》|固《こ》なので……」
「まあ、今は興奮してるんですよ。時間を置けば――」
「そうだといいんですが……。じゃ、洋子さんを一時、お願いできますか?」
「いいですとも、お隣りじゃありませんか。おい、小百合」
と声をかけると、好奇心で目を|輝《かがや》かせてうずうずしていた小百合は、急いで出て来た。
「私どもに任せてくださいな。――さあ、どうぞ。ね、そんなに泣かないで」
と、女の肩を|抱《だ》くようにして立ち上がらせると、「さあ、ゆっくり休んで、気を落ち着けて……」
となだめながら、部屋へと連れて行った。その優しさたるや、谷口が、たまには|俺《おれ》にもあれくらい優しくしてくれないかな、とふと思ったほどである。
「――どうもご迷惑をおかけして」
と坂田は|恐縮《きょうしゅく》している。
「いや、構いませんよ。――あれが、今度結婚なさるという人ですね?」
「ええ。ところが母に一度も会わせていなかったものですからね……。気に入られないだろうとは思っていたんですが」
「お母さんも相当|気丈《きじょう》な方のようですね」
「何しろ以前から、息子の|嫁《よめ》は自分が選ぶと言ってたんで、それを黙って結婚の|約《やく》|束《そく》をしちまったので頭へきてるんです」
「|可《か》|愛《わい》い息子が悪い女に引っかかったっていうわけですね?」
「そうなんです。――彼女のほうが私より二つ年上で、一度離婚しているんで、母もますます色メガネで見てるわけなんですよ」
「なるほど。――まあゆっくり話し合ってごらんなさい。彼女のほうは大丈夫ですから」
「すみません」
「何ならうちに|泊《と》まってもらっても構いませんよ」
とお人好しにも谷口は付け加えた。「部屋ぐらいありますからね」
「そうお願いできれば……」
坂田は申しわけなさそうに、「母は泊まって行くつもりだと思うんで。この様子じゃ、とっても一緒には泊まれそうもありませんから」
「いいですとも、安心していらっしゃい」
――谷口が玄関を入って行くと、リビングのほうから、小百合と、あの洋子という女の話し声が聞こえてきた。だいぶ落ち着いたようだ。
谷口が顔を出すと、女はソファから立ち上がった。
「ご迷惑をおかけして申しわけありません。私、|宮《みや》|内《うち》洋子と申します」
なかなかの美人である。整った顔立ちは、派手ではないが、人目をひく|魅力《みりょく》があって、いかにもしっかり者といった感じの気丈さが、|顎《あご》の線にうかがわれた。
「いや、気楽にしてください。坂田さんとはいつも一緒に出勤する仲でしてね」
「いつもお|噂《うわさ》はうかがっておりました」
と宮内洋子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。確かになかなか魅力的な女性だ。坂田にはもったいないくらいだ、と谷口は内心考えていた。
「ねえ、あなた、紅茶でも|淹《い》れてさしあげたら?」
と小百合が言った。自分で淹れればよさそうなものだが、宮内洋子から、いろいろと話を聞きたいのに違いない。女性というのは、こと結婚に関する話なら、何でもお気に入りなのである。
「ああ、いいよ」
谷口は湯を|沸《わ》かして、紅茶を淹れた。リビングヘ運んで行くと、小百合がしきりにフンフンと|肯《うなず》きながら、宮内洋子の話に聞き入っている。リビングと台所といっても、つながっているわけだから、谷口の耳にも話の断片は入っていて、要するに前の夫がだらしなくて|酔《よ》いどれで、離婚に至ったいきさつを話しているらしかった。
離婚についての話となると、これはまた女性にとっては結婚以上に大好物である。谷口は、|夢中《むちゅう》で聞き入っている小百合の姿を見て、たまには|俺《おれ》の話もこれぐらい熱心に聞いてくれたらな、と思った。
結局、その晩は宮内洋子を泊めることになって、三人は|寿《す》|司《し》を取って夕食を済ませた。
谷口はいつもどおりに本を読んだりテレビを見たりして、明日からはまた勤めだというわけで、少し早めに|床《とこ》に入ることにした。その間、小百合と洋子は|四畳半《よじょうはん》の部屋へ入りっ放しで、話は|尽《つ》きない様子。まるで十年来の旧友のようだった。
先に|風《ふ》|呂《ろ》を済ませ、|襖《ふすま》を開けて、
「じゃ、先に|寝《ね》るからね」
と声をかける。
「お世話になって申しわけありません」
と宮内洋子が頭を下げた。
「いや、いいんですよ。風呂は口火だけにしてあるから」
と言って、襖を閉めると、|間《かん》|髪《ぱつ》を入れず、
「それでね、私はこう言ったの。『嫁というのは――』」
と話が再開される。――よくやるよ、まったく。谷口は|呆《あき》れて首を|振《ふ》った。
布団に入った谷口はほどなく眠って――何時間ぐらいしてからだろう、ふと目を覚ました。|隣《とな》りに小百合がいないので、はて、と思ってから、宮内洋子のことを思い出した。まだしゃべってるのかな?
気がつくと、浴室で湯のはねる音がする。風呂か。
「一体、何時なんだ……」
と|枕元《まくらもと》の目覚ましをすかして見てびっくりした。午前二時半である! 今まであの二人しゃべっていたのだろうか?
きっとこれまでの人生を一日ごとに話していたのに違いない、と谷口は思った。
トイレに行こう、と布団を出て、パジャマ姿で|欠伸《 あくび》をしながら、短い|廊《ろう》|下《か》へ出る。トイレと浴室のドアは隣り合わせである。谷口がトイレのドアを開けようとしたとき、浴室のドアが開いて、宮内洋子がタオル一つの|裸《はだか》で出て来た。二人は|一瞬《いっしゅん》、見つめ合って立ちすくんだ。
「失礼!」
やっとわれに返って、谷口が|慌《あわ》ててトイレヘ入ると、宮内洋子も急いで浴室へと|戻《もど》ってしまった……。
「ああ、参った!」
何ともタイミングが悪かった。いや――よかったというべきか。谷口は、小百合とは|比《ひ》|較《かく》にならない、豊かで|成熟《せいじゅく》した宮内洋子の肉体につい見とれていたのだった。実際、そこには若々しさとはまったく違った、|磨《みが》き|抜《ぬ》かれた魅力がまぶしいほどで……。
寝室へ戻って布団へ入ったものの、目は|冴《さ》えて、さっぱり寝つけない。そのうち、また浴室で湯の流れる音がした。小百合が入っているのだろう。
さて、眠らないと、明日がある。谷口が寝返りを打ったとき、寝室の入口が開いた。見れば、小百合のパジャマを着て宮内洋子が立っている。
「やあ、さっきはどうもすみませんでした」
と谷口は起き上がって言った。「まったく、タイミングが――」
と言ったきり、言葉を|呑《の》み込んだのは、宮内洋子が手早くパジャマを|脱《ぬ》ぎ始めたからであった。
4
翌朝、玄関を出た谷口は、隣りから坂田が出て来ないので、きっと今日は休む気だな、と思った。
小百合はずっと眠ったままだ。何しろゆうべが|遅《おそ》かったから、起きられないのだろう。谷口は勝手に起きて、自分でパンを焼き、コーヒーを作って飲んで出て来たのである。
駅に着くと、|驚《おどろ》いたことに、坂田が、母親と一緒に改札口の所にいた。
「どうしたんだい?」
と母親がけげんな顔で|訊《き》いている。
「いや、定期が、見つからないんだよ」
と坂田はせっせと背広のポケットを探っていたが、「――母さん、先に行ってて。停まってる電車に乗ればいいんだ。まだ五分くらいは停まってるから大丈夫」
「待ってるよ」
「いや、席がなくなるといけない。先に行って、座っててよ」
「そうかい……」
母親は、切符を切ってもらうと、しっかりした足取りで階段を上って行った。谷口は、
「おはよう」
と声をかけながら、近づいて行った。
「あ、こりゃどうも。ゆうべはすみませんでした」
「いや、そんなことはいいけど。定期がないんですか?」
「え、ええ……。ちょっと見当たらなくて」
どうも妙だ、と谷口は思った。坂田の様子が、どこかわざとらしいのだ。
「お母さん、大丈夫ですか?」
「え?――ええ、母はしっかりしてますから」
「いや、そうじゃなくて、分かるでしょう? もしあの席へ座ったら――」
坂田はポカンとした顔になって、
「そ、そうでしたね! こいつは大変だ! ああ、ありましたよ定期が」
と|鞄《かばん》の|奥《おく》から定期を取り出すと、急いで改札口を通って階段を上って行く。谷口もすぐ後に続いた。
車両の入口で、二人はピタリと足を止めた。ほかの乗客たちも、一様に目をそこ[#「そこ」に傍点]へ向けている。――坂田の母親が、シルバーシートにゆったりと|腰《こし》かけているのだった。
「あら、定期は見つかったの?」
「母さん! こっちへおいでよ、まだ席が空いてるんだから」
「どうして? 私ならここでも文句は言われないよ」
「でも――僕は座れないじゃないか。こっちで|並《なら》んで座ろう」
「そうかい? じゃ……」
谷口は、坂田と母親が並んで普通の席へ腰をおろすのを見て、二人とは離れた空席に座った。――車内には|微妙《びみょう》な空気が|漂《ただよ》っている。それに気づかないのは、坂田の母親だけだった。
しかし、谷口が考えていることは違っていた。――そうだ、間違いない。母親がシルバーシートに座っているのを見たとき、坂田の顔に、一瞬、満足げな笑みが|浮《う》かぶのを、谷口は、はっきり認めたのだ。
坂田の母親は、さすがに気丈な人だけのことはあった。|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》で死んだのは、それから一週間後のことだったのである。
「やあ、どうです?」
と谷口は駅への道で坂田に追いつき、声をかけた。
「ああ、谷口さん……」
「久しぶりじゃないですか。このところ、電車を変えてるんですね」
「ええ。事務所が移ったので……」
「そうですか。――どうしたんです。あまり元気がないようですが」
実際、坂田は別人のようと言ってもいいほど、やつれていた。以前のような、人をそらさない笑顔も、消え失せている。
「新婚三か月なのに、もっと|愉《ゆ》|快《かい》そうになさいよ」
と谷口は言った。坂田と宮内洋子は、坂田の母親の死後、半年たって結婚していた。
「谷口さん」
坂田がポツリと言った。「私は母を殺したんです。ご存じだったでしょう、あなたは?」
谷口は何とも返事ができなかった。坂田は続けて言った。
「今になって分りました。母は正しかったんです。母の言うとおりでした」
「と言うと?」
「あの女は、資産目当てだったんです」
「洋子さんですか? まさか!」
「本当です。母はかなりの土地や財産を持っていました。洋子はちゃんとそれを調べ上げていたんです。――優しい、|素《す》|晴《ば》らしい女だと思っていたんですが、それは結婚するまでの話で、ガラリと変わってしまいました。本当に……ジキルとハイドも顔負けですよ」
「それは考えすぎじゃないですか?」
「いや、本当なんですよ。毎日が|堪《た》えがたいくらいで……。あんな女と一緒になるために母を殺したのかと思うと……」
「あなたが殺したわけじゃありませんよ」
「ありがとう、|慰《なぐさ》めてくださって。しかし、やはり自分はごまかせませんよ」
と坂田は|寂《さび》しそうに|微《ほほ》|笑《え》んだ。「それにね、洋子には男がいるんです」
「男が? 新婚三か月なのに、そんな――」
「事実です。もともと関係があったんでしょう。私はただの名ばかりの亭主にすぎませんよ」
「元気をお出しなさい。うちの|女房《にょうぼう》にでも、ゆっくり話をさせてみます」
二人は駅に着いた。――ホームヘ上がり、いつもの車両へ入って、谷口は空席へ腰をおろした。
「坂田さん、何で突っ立ってるんです? ここへ座らないんですか?」
と隣りの空席を手で示したが、坂田はドアの所に立ったまま、ゆっくりと首を振った。
「ええ……。今日は……」
|呟《つぶや》くように言うと、坂田は、シルバーシートのほうへと足を運んだ。谷口は立ち上がった。
「坂田さん!」
しかし、そのときには、もう、坂田はシルバーシートに|腰《こし》をかけて、ゆっくりと目を閉じていた……。
「本当にお気の毒に……」
小百合が|涙《なみだ》ぐみながら言った。
「やっと結婚したばっかりだったっていうのに」
「急な心臓発作だったらしい。終点に着いたときには、もう死んでたんだ」
谷口は言った。――二人はリビングルームに座って、しばし|黙《だま》り|込《こ》んだ。
「洋子さんを元気づけてあげなきゃね」
「そうだとも。お隣りなんだからな」
「本当に男運の悪い人なのね。これで二度も……」
と小百合はため息をついた。「でも、坂田さんもあの若さで心臓発作なんて、よほど|疲《つか》れてたのね」
「大変なんだよ、男の仕事ってのは」
「そうねえ。ストレスがいろいろとたまってるんでしょうね」
「君も一度、朝の電車に乗ってみるといい。どんなものか、よく分かるよ」
「あら、私を殺すつもり?」
「一度ぐらい乗ったって死にやしないさ」
と谷口は笑った。
「ごめんだわ。混んだ電車って嫌いなの」
「いや、ちゃんと座れるさ」
谷口は、少し大きくなり始めた小百合のお腹を見ながら言った。
「|妊《にん》|婦《ぷ》は、シルバーシートに座らせてくれるはずだからね」
真夜中の悲鳴
1
「キャーッ!」
悲鳴というものは、通常このように表現されることが多い。しかし、実際にはこうはっきりと発音されることは|滅《めっ》|多《た》にないはずで、「アーッ」とか「イヤーッ」とか「ワーッ」といった方がむしろ正確であろう。
ところで、団地というものは、住んだことのある方にはよくお分りと思うが、音が大変によく|響《ひび》くものだ。建物と建物の間でこだまの|如《ごと》く行っては帰り、帰っては行き、複雑に反射をくり返して、増幅され、ずっと離れた音がえらくよく聞こえたり、一つの音が両側から聞こえて、どっちに音源があるのか分らないこともある。
夜、郊外の大団地ともなれば、なおさらで――。
「キャーッ!」
真夜中。十二時二十五分|頃《ごろ》、その悲鳴は団地の夜の|静寂《せいじゃく》を貫いて響き|渡《わた》った。
|田《たな》|辺《べ》|誠《せい》|一《いち》は、|布《ふ》|団《とん》に起き上った。
|眠《ねむ》れずに|悶《もん》|々《もん》としていたというわけではなく、つい二時間前に|寝《ね》|入《い》ったのだから、最も眠りの深い頃なのに、素早く目を覚ましたのは、やはり元|刑《けい》|事《じ》という経歴のなせる|技《わざ》だろう。
もう六十になろうとは思えない|機《き》|敏《びん》な動きで布団から飛び出すと、田辺はカーテンを開けて外を見た。それからベランダヘ出るガラス|扉《とびら》を開け、サンダルを|突《つ》っかけて表へ出て行った。
妻の|絹《きぬ》|子《こ》が目を覚まして、
「あなた、どうしたの?」
と起き出して来る。「この寒いのに――」
とつい言いかけて口を閉じたのは、今がもう六月だということを思い出したせいである。
「ねえ、どうしたの、一体?」
と繰返して|訊《き》くと、田辺は、三階のベランダからじっと団地の中を見渡して、「今、悲鳴が聞こえたんだ」
と言った。
「悲鳴?……聞き|違《ちが》いじゃないの?」
「聞き違いなもんか!」
田辺は自信たっぷりである。「|俺《おれ》が悲鳴だと言うんだ。間違いない」
|一《いっ》|旦《たん》言い出したら、てこ[#「てこ」に傍点]でもきかない夫の気質を知っている絹子は|肩《かた》をすくめて、
「それならそれでもいいけど、どうしようっていうの?」
「うるさい!」
田辺はベランダの手すりからぐっと身を乗り出して、見える限りの|範《はん》|囲《い》を何度も何度も、なめるように見回した。
「ねえ、あなた、落っこちるわよ」
「|大丈夫《だいじょうぶ》だ!」
「それに、|誰《だれ》かが見たら変に思うわ。パジャマ姿のままで、そんな――」
「静かにしとれ!」
絹子は肩をすくめて、
「じゃ、お|寝《やす》みなさい」
と布団へ|戻《もど》って行った。田辺はまだしばらくベランダから外を見ていたが、やっと中へ入って来た。
「――あなた、何してるの?」
絹子は、夫がパジャマの上にタオル地のガウンをはおっているのを見て|驚《おどろ》いた。
「ちょっと外を見て来る。すぐ戻るさ」
「いい加減にしなさいよ。あなたはもう刑事じゃないのよ」
「|馬《ば》|鹿《か》言え。一般市民がだな、もっと犯罪防止に協力し合えば、犯罪の数はぐっと減らすことができるんだぞ」
と言うと、台所へ。絹子が起きて来て、見ると、|戸《と》|棚《だな》からすりこぎ[#「すりこぎ」に傍点]を出している。
「何するの?」
「|警《けい》|棒《ぼう》の代りだ」
「|呆《あき》れた」
絹子は、もう付き合いきれないわ、という様子で、「じゃ私は寝るわよ」
と寝室へ入って行く。
「ああ、勝手にしろ」
田辺は、すりこぎで、ビュッ、ビュッと二度空を切って、ウン、と|肯《うなず》くと、|玄《げん》|関《かん》からサンダルを突っかけて廊下へと出た。
悲鳴が聞こえた時、|浜《はま》|谷《たに》|浩《ひろ》|也《や》は目を覚ましていた。妻の英子も起きていた。従って、当然二人の耳に悲鳴は届いたのだが、二人は一向に気に止めなかった。
二人はまだ三十代の初めで、従って時々、このように夫婦の営みに夢中になることもあった。そのため英子が悲鳴――ではないが、それに近い声を上げているので、外からの悲鳴などに注意を|払《はら》ってはいられないのである。
玄関のチャイムが鳴った時、二人がちょうど一ラウンドを終えた後だったのは、チャイムを鳴らした方にとっても幸運だった。これが|途中《とちゅう》なら水でもぶっかけられかねないからである。
「|誰《だれ》かしら、今頃?」
まだ|汗《あせ》ばんだ体をベッドの上で伸ばしながら、英子が言った。
「さあ。もう十二時半だぜ」
「変ねえ……。ね、あなた出てよ」
「|俺《おれ》が?」
「だって、|怖《こわ》いわ」
昼間は結構|押《お》し売りやセールスマンを相手に勇ましくやり合っているのだが。
「分ったよ」
浜谷はパンツをはいて、手早くパジャマを|着《き》|込《こ》むと、玄関へ出て行った。またチャイムが鳴る。
「はい、どなた?」
と中から声をかけると、
「|隣《となり》の田辺です」
と確かに|隣《りん》|人《じん》の声。チェーンを外して|鍵《かぎ》を開け、ドアを開くと、
「やあ、夜分すみません」
「どうしたんです?」
「今、外で悲鳴がしたのを、お聞きになったでしょう?」
「悲鳴?」
言われて、よくよく考えると、確かに――。
「ああ、そういえば聞こえましたね」
「どうも気になりましてねえ」
「ああ、それでその|武《ぶ》|装《そう》ですか」
田辺が元刑事だと知っているので、浜谷は笑顔で言った。
「ええ、まあね」
田辺はちょっと照れたように肯いて、
「どうです、ちょっと様子を見に行こうと思うんですが」
「……外へ、ですか?」
浜谷が当り前のことを訊いた。
「さっきの悲鳴はただごとじゃありませんよ。あれは本当に切羽|詰《つま》った|叫《さけ》び声です。誰かが|襲《おそ》われたのかもしれない。ちょっとその辺を調べようと思うんですが、手伝っていただけませんか?」
「そうですね……。ちょっと待って下さい」
浜谷は何事も妻に相談することにしていた。英子は話を聞くと、
「へえ、じゃ行って来たら?」
と言った。
「そうだなあ。田辺さんには交通|違《い》|反《はん》の時に世話になってるし……」
「これからだってなるかもよ。ただついて歩いてりゃいいんでしょ」
「分った。じゃ行くよ」
と戸棚をかき回し、バットを持ち出して来て、「一応格好をつけないとね」
とニヤリとした。
「じゃ、私、シャワーでも浴びてるわ」
英子は|裸《はだか》のままでベッドから出た。
「何だ、戻ったら続きをやろうと思ってたのに」
「あら、ほんと? 今夜は|頑《がん》|張《ば》るじゃない」
「いやか?」
「大いに結構よ」
とそこで|抱《だ》き合ってキスなどしていたので、浜谷が出て行くのは、少々|遅《おそ》くなった……。
|山《やま》|崎《ざき》|正《まさ》|彦《ひこ》と妻の|菊《きく》|江《え》は、やはり悲鳴が聞こえた時には起きていた。ただし、隣の浜谷夫婦のように夫婦の営みにいそしんでいたわけではない。ポルノ小説の中でもなければ、そうそう夫婦は年中セックスに入れあげているものではないのである。
この夫婦は浜谷とほぼ同じくらいの|年《ねん》|齢《れい》だったが、浜谷の方はスポーツマン風に、|大《おお》|柄《がら》でがっしりしているのに比べ、山崎は至って小柄で生っちろかった。
二人は、ステレオを聞いていた。――こんな深夜に、とお|叱《しか》りになる前に、付け加えておこう。二人ともヘッドホンで聞いていたのである。
この家にはステレオが二セットあって、二人は別々の音楽に耳を|傾《かたむ》けていた。従って、悲鳴が聞こえなかったのも無理からぬことで、夫の方はオペラのレコードでソプラノが張り上げる|凄《せい》|絶《ぜつ》な声に耳を奪われていたし、妻の方はロックのガンガンと耳を突き破らんばかりの|音響《おんきょう》に|酔《よ》っていたのだった。
チャイムが鳴った時、ちょうど音楽がピアニシモになっていたので、夫の方が気が付いた。レコードを止め、ヘッドホンを外して、
「誰か来たよ」
と言ったが、菊江は目を閉じてしきりに体を|揺《ゆ》すっているばかり。山崎は|肩《かた》をすくめて玄関へ出て行った。
「どなたですか?」
と声をかけると、
「隣りの浜谷です」
と返事がある。それでも山崎は一応|覗《のぞ》き窓から外を覗いて、浜谷と、もう一つ隣の田辺が立っているのを確かめてから鍵を開けた。
「やあ、遅くにすみません」
「いや、まだ起きてましたから」
山崎だけがスポーツシャツ(似合わなかったが)とスラックス姿だった。「何かあったんですか?」
「さっきの悲鳴ですが」
「悲鳴?」
浜谷と田辺からわけを|訊《き》いて、山崎は肯いた。
「なるほど。じゃ私もお手伝いいたしましょう。あんまり|頼《たよ》りにはなりませんが」
とよく分っている。
部屋へ戻ってみたが、菊江は相変らず目を閉じて体を揺すっている。こういう時に|邪《じゃ》|魔《ま》すると|機《き》|嫌《げん》が悪くなることを知っている山崎は、結局|黙《だま》ってサンダルを突っかけて外へ出た。
「私も何か持った方がいいでしょうか?」
と、二人の手にしたすりこぎとバットを見て訊いた。
「いや、二人が持っていれば|充分《じゅうぶん》ですよ。まず使うようなことはありますまい」
と田辺は言って、「それから浜谷さん」
「はあ、何でしょう?」
「そのバットですが、相手が|刃《は》|物《もの》でも持っていない限り、使わないように」
「どうしてです? 一発ゴンとやってのしちまえば――」
「バットで|殴《なぐ》ったら、打ち所によっては殺してしまいますよ。そんなことになったら、|過剰《かじょう》防衛で罪に問われる。|馬《ば》|鹿《か》らしいですからね」
「なるほど」
元刑事の言葉だけに現実味がある。
「さて、三人いればいいでしょう。行きましょうか」
と田辺が|促《うなが》した。「まず、この|棟《とう》の周囲を|一《ひと》|巡《めぐ》りして、それから駅からの帰り道にあたるところを。そして公園の方と……」
三人は三階から、階段を降りて行った。
2
「静かですね」
と浜谷が言うと、山崎が|肯《うなず》いて、
「全く気味が悪いくらいですね。|引《ひっ》|越《こ》して来た時には、ここには本当に人間が住んでいるのかと思いましたよ」
「シッ!」
と田辺がたしなめる。「声を聞きつけて|逃《に》げられたら、どうします」
三人は、棟の周囲をゆっくりと歩いていた。――この団地は、ただ建物がズラズラと|並《なら》んでいるのではなくて、建物同士の間には、ちょっとした|芝《しば》|生《ふ》や、植込み、公園のようなものが作られている。
それだけ緑が多く、いわゆる団地的な|殺《さつ》|伐《ばつ》とした印象はずいぶん柔らげられているのだが、反面、人目に付かない|木《こ》|陰《かげ》などができて、防犯上は好ましくない、というのが田辺の意見であった。
「その植込みの向うはずっと陰になりますからな」
と田辺は指さして、「私が犯人ならまずあの辺に身を|隠《かく》しますね」
「じゃ、|覗《のぞ》いてみますか?」
「浜谷さん、反対側から回って来て下さい。私と山崎さんはこっちから行きます。そうすれば逃げられることもない」
「わ、私が一人で?」
浜谷は思わず口ごもった。
「大丈夫ですよ。落ち着いてかかれば、たとえ目の前に殺人犯が飛び出して来たって、充分に対処できます」
「そ、そんなもんですかね」
「こっちも怖いが、向うも怖がってるんです。度胸を|据《す》えた方の勝ちですよ」
と田辺はあっさり言った。「じゃ向うから来て下さい」
「は、はい……」
浜谷は|妙《みょう》にこわばった歩き方で、植込みの向う側の|端《はし》の方へと歩いて行った。
団地の中は、夜間でも、かなり明るく照明されているので、浜谷が所定の位置へ着くのを充分に確認することができた。
「よし、じゃ行きましょうか」
と田辺が山崎を促す。
「はあ、お先にどうぞ」
山崎は田辺を先にやっておいて、へっぴり腰でその後からついて行った。
「|畜生《ちくしょう》!」
と田辺は舌打ちした。自分ともあろう者が何たることだ! |懐中《かいちゅう》電灯を持って来なかったとは。――仕方ない。今さら部屋へ戻るわけにもいかない。
植込みは一メートル半ほどの高さで、街灯の光の届かない所は正に真っ暗で、人がひそんでいても、まるで目に付かないに違いなかった。
「じゃ、少し体を低くして」
と田辺は山崎の方へ|囁《ささや》いた。そして目かくしでもされているように警棒代りのすりこぎを持った手を|一《いっ》|杯《ぱい》にのばして、|闇《やみ》の中を探りながら少しずつ進んで行った。
こうしていると、昔のことを思い出すな、と田辺は思った。そういえば、真っ暗な部屋の中で、雑貨屋殺しの犯人と対決したことがあったっけ。――お|互《たが》い、息を殺して、じりじりと手探りで近付こうとしたが、ともかく相手がどこにいるのか、まるで分らないので、今にも|奴《やつ》のナイフがズブッと|脇《わき》|腹《ばら》に突き|刺《さ》さるんじゃないかと、本当に汗ぐっしょりになったもんだ……。そしていきなり電気が|点《つ》いた時、目の前に、奴の背中があった。あれが逆だったら、今頃|俺《おれ》はこうしちゃいられまい。――運というものなんだ。
浜谷の方も、身をかがめて、やはりバットを車のワイパーの如く右へ左へ振りながら、こわごわと進んでいた。
やれやれ、何だか|阿《あ》|呆《ほ》らしいような気がするな。これで本当に暴行殺人犯か何かに出くわしたらどうなる? 下手に|捕《つか》まえようとしてグサッとでもやられりゃ、一巻の終りだ。そんな死に方なんて馬鹿げてるよな。一市民として立派に義務を果しましたなんて|表彰《ひょうしょう》されたって、死んじまっちゃおしまいだ。――よし、この辺で、向うから田辺さんの来るのを待ってよう。何せ向うはベテランだからな。
浜谷はしゃがみ込んでフウッと息をついた。――しかし、何だね、こういう植込みの陰とか、暗い|茂《しげ》みとかいうのは、何かこう欲望をかき立てるものがあるな。夜の公園で|恋《こい》|人《びと》たちが|大《だい》|胆《たん》になるっていうのも分るような気がする。
大体俺が英子をものにしたのも、植込みの陰だった。夏の夜で、やっぱりずいぶんアベックがあちこちでよろしくやってたっけ。
あいつも|刺《し》|激《げき》されて熱くなってた。それがこっちの思う|壺《つぼ》だったんだが。植込みの陰へ連れ込んで、|仰《あお》|向《む》けにして……いやよ、って言いながら、ちっとも逆らわなかった。なかなかスリルがあって、いい感じだったなあ。そっと暗がりの中を手探りで――。
「ん?」
つい無意識の内に暗がりの中を手探りしていた手が、何かに|触《ふ》れた。――何だ? 温かくって……ふにゃふにゃしてて……動いてて……。
「ギャーッ!」
悲鳴を上げて浜谷は三十センチ以上も飛び上がった。
「どうも……お|恥《は》ずかしい」
浜谷は頭をかいて言った。
「いや、まあ無理もありませんよ」
と田辺が|慰《なぐさ》める。「暗がりの中じゃ、犬も人間も区別がつきませんからな」
「そうですよ。それに少なくとも|野《の》|良《ら》|犬《いぬ》を一匹、団地から追い出しましたよ」
と山崎が意義を強調した。
「じゃ、今度は駅からの道筋を逆に|辿《たど》って行きましょう」
と田辺が指さした。「帰りの遅くなったOLが襲われた可能性もある。そうならあの道でしょう」
「その悲鳴はどっちから聞こえたんです?」
と山崎が|訊《き》いた。
「方向は分りませんな」
と田辺は首を振った。「何しろこの辺はやたらに音が反響しますからね」
「それもそうですね。じゃ、ともかく行ってみますか」
三人は、駅への一番近い道を歩き始めた。
「――両側に気を付けて。その辺の物陰にひきずり込まれてることもありますからね」
三人はゆっくりした足取りで進みながら、左右の木の陰や、建物の暗がりへと目を向けて行った。
そこへ突然、背後から、
「おじさんたち、何してんの?」
と声がかかって、三人はびっくりして振り向いた。――見れば七、八歳の少年である。
「君は……何してるんだ?」
と田辺は言った。
「おじさんたちこそ何してるのさ? そんなバットなんか持っちゃって」
「ん……これは、ちょっと……。用心のためさ」
「へえ、ネズミでも追っかけてんの?」
浜谷がムッとした様子で、
「おじさんたちはな、悪い人を|捕《つか》まえようとしてるんだ!」
と言った。少年はプッと|吹《ふ》き出して、
「おじさんたちの方がよっぽど|怪《あや》しいや」
「全く、今の子は口が達者で――」
と山崎が|呆《あき》れたように言いかけるのを、田辺は|抑《おさ》えて、
「君、今何時だと思ってるんだ? 子供がこんな時間に外で遊んでるなんて――」
少年は大人びた仕草で肩をすくめて見せると、
「だって、ママが外に行ってろって言ったんだ」
「まさか!」
「本当だよ」
「何か悪いことでもしたのか?」
「何もしやしないよ」
「じゃどうして外へ行ってろなんて……」
「お客さんなんだ」
三人は顔を見合わせた。
「――いくら客だっていっても」
と浜谷が首を|振《ふ》って、「こんな時間に子供を外に出すわけないだろ」
「|僕《ぼく》がいちゃ都合が悪いのさ」
「どうして?」
「パパは出張なんだ。で、ママの所に若い男の人が来てるのさ。いつもそうなんだよ。で、ママが、お前、いい子だからちょっと外に行っといでって言うのさ」
田辺が|憤《ふん》|然《ぜん》として、
「何て母親だ! けしからん!」
「乱れてますなあ」
と山崎が|嘆《たん》|息《そく》する。
「|浮《うわ》|気《き》でも何でもするのは勝手です。しかし、子供を|邪《じゃ》|魔《ま》だからといってこんな夜中に外へ放り出すとは。万一のことでもあったら――」
「ウワキってどこにある木のこと?」
と少年が|訊《き》いた。浜谷が|一瞬《いっしゅん》キョトンとして、
「え?――ああ、これは植木[#「植木」に傍点]。浮気っていうのは、つまり――」
「浜谷さん!」
田辺に|突《つ》っつかれて、浜谷は|慌《あわ》てて|咳《せき》|払《ばら》いでごまかした。
「ともかく家へ送って行ってあげよう」
と田辺は少年の方へかがみ|込《こ》んで、
「家はどこだい?」
少年はちょっと口を|尖《とが》らして、
「でも……あんまり早く帰るとママに|叱《しか》られるんだよ」
「おじさんに任しときなさい! ママに意見してやる!」
「だけど……」
「心配ないよ」
と山崎が言い|添《そ》えた。「このおじさんは、元お|巡《まわ》りさんだったんだ」
「本当? |凄《すご》いなあ!」
少年が目を|輝《かがや》かせた。
「よし、じゃ案内しておくれ」
と田辺は少年の手を取って言った。
少年は目と鼻の先の|棟《とう》へ入って、階段を上った。
「二階なんだ。――|奥《おく》から二番目の部屋」
「そうか。よし、そこで待っといで」
田辺は|廊《ろう》|下《か》を進んで行った。その部屋の廊下に面した窓が半開きになっている。ちょっと足を止めて様子をうかがうと、中からは、お楽しみの最中らしい、女の|喘《あえ》ぐ声が聞こえて来る。
「全く、何たる母親だ!」
と|呟《つぶや》くと、これは少しこらしめてやる必要がある、と決心した。
階段の所へ戻って、
「浜谷さん、下へ行くと、ゴミの収集容器のわきに水道の出る所があるでしょう。あそこにバケツもあるはずだ。水を入れて持って来て下さい」
「水を?」
「|相撲《 すもう》も長引くと水入り[#「水入り」に傍点]ということがありますからな」
「なるほど」
浜谷はニヤリとして、「夫婦なら水入らず[#「水入らず」に傍点]ですがね」
と調子を合わせると、急いで下へ降りて行った。
「そんなことして|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
と山崎は心配顔だ。
「構やしませんよ。任せておきなさい」
田辺は|肯《うなず》いて見せる。――浜谷がバケツに三分の二ほど水を入れて持って来た。
「よし、行きましょう」
ゾロゾロと、例の部屋の窓の所まで来る。ちょっと耳を|澄《す》まして、
「ははあ、やってますな」
と浜谷がニヤついて言った。
「さ、バケツを」
田辺はすりこぎを山崎へ預け、バケツの口と底を左右の手でしっかりと持って支えると、窓の下へ行った。
「――行きますよ。一、二、三!」
バケツの水は、若干廊下にこぼれ落ちたものの、大部分は窓の格子の間を通過して部屋の中へと到着[#「到着」に傍点]した。
――当然、けたたましい悲鳴がそれに続いたのは言うまでもない。
部屋の中でドタバタと物音がして、びしょ|濡《ぬ》れになった男が玄関から飛び出して来た。バスタオルを|腰《こし》に巻きつけただけの|裸《はだか》である。
「|誰《だれ》だ! |畜生《ちくしょう》!」
と廊下へ出て、田辺たちと顔を合わせる。
「ん? 貴様だな、今、水を――」
「その通り」
「この|野《や》|郎《ろう》、何てことをするんだ!」
と|拳《こぶし》を固めるのを、田辺は制して、
「待ちなさい。そんなことを言える立場ですか、あんたは?」
「何だと?」
「何もかも分ってますよ。少しは|恥《はじ》を知りなさい!」
「どういう意味だ?」
「この子に|総《すべ》て聞きましたよ」
と振り返って……田辺は、少年の姿が消えているのに気付いた。
3
「やれやれ……」
三人は、平謝りに謝って、やっと|逃《に》げるようにして表へ出た。
「あのガキ! 畜生め!」
と浜谷がカッカして|握《にぎ》り|拳《こぶし》を振り回した。
「今の子供は|性《た》|質《ち》が悪いですねえ」
山崎がポツリと言った。
三人は何となく無言で|突《つ》っ立っていた。
「――どうも|収穫《しゅうかく》なしですな」
と田辺がため息をつく。
「悲鳴の主を|捜《さが》しに出て、自分で悲鳴を上げたり、関係ない人に悲鳴を上げさせたり……」
と浜谷も|肯《うなず》いた。
「帰りますか。――きっと何でもなかったんですよ」
山崎の提案に、反対の声もなく、一行は自宅のある棟への道を|辿《たど》り始めた。
「――おや?」
と田辺が足を止めて、「ご覧なさい!」
と指さしたのは……。
パトカーの周囲には数人の野次馬が集まっていた。その中に|将棋《しょうぎ》仲間の顔を見付けた田辺は、
「岡野さん」
と声をかけた。
「やあ、田辺さん! さすがにOBですな。事件を聞きつけるのが早い!」
「いや、たまたま通りかかったんですよ。何があったんです?」
「強盗だそうで」
「強盗? けが人は?」
「いや、それはないらしいんですが、奥さんが|縛《しば》り上げられていたとかで、失神してるんです。今、救急車を呼んでますよ」
「ご主人は?」
「さあ、部屋にはいないそうなんですよ。出張か、それともまだ帰らないんじゃないですか」
|巡査《じゅんさ》の一人が田辺の顔見知りだったとみえて、寄って来た。
「ごぶさたしてます」
「犯人はどこから|忍《しの》び込んだのかね」
と田辺は|訊《き》いた。ついさっきの意気|消沈《しょうちん》ぶりが|嘘《うそ》のように張り切っている。
「それが不思議なんです」
と巡査は首をひねって、「窓もベランダの|扉《とびら》もちゃんと|鍵《かぎ》がかかっていて、|玄《げん》|関《かん》のドアから入ったとしか思えないんですよ」
「すると、チャイムが鳴ったので、ご主人と思い、確かめずに鍵を開けたのかな」
「そんなところでしょうね。奥さん一人だから、まさか鍵をかけ忘れることもないでしょうし」
「ふむ。――で、犯人は?」
「何しろ奥さんが気を失ったままでしてね。室内はひどく|荒《あ》らされてますが、何を盗まれたか、犯人がどんな男かもさっぱり分らんのです」
「この広い団地だ。難しいな」
「ええ。しかし、まだそう遠くへは行っていないはずです」
「どうして分る?」
「|隣《となり》の部屋の人が物音に気付きましてね、廊下へ出た時、逃げていく足音を聞いてるんです。そのすぐ後に通報してくれていますからね」
「じゃ、犯人はまだこの辺に?」
「その可能性もあります。団地から外へ出る自動車道路は検問するように手配しました」
「そうか……」
と田辺は|肯《うなず》いた。
「ところで、田辺さんは、どうしてここへ?」
と|訊《き》かれて、
「う、うん……。ちょっと悲鳴をね……」
「は?」
「いや、何でもない」
と手を振って、「じゃ、しっかりやってくれ」
と、その場を離れた。
「すると、あの悲鳴は、その縛られたっていう奥さんのですかね」
田辺の話を聞いて、浜谷が言った。
「いや、それは違いますね」
田辺は首を振った。「あんな悲鳴を上げれば近所の人が気付きますよ。それに、部屋の中の悲鳴なら、あんなに|響《ひび》くはずがない」
「なるほど」
三人はゆっくりと歩いていたが、ふと田辺は足を止めて、
「どうです? 右の道から行きませんか」
と言った。
「遠回りですよ」
「公園を通って行こうと思いまして」
浜谷と山崎は、まだやるのか、といった表情で顔を見合わせたが、何しろ相手は元|刑《けい》|事《じ》である。
「いいでしょう」
「せっかく出て来たんですからね」
と|渋《しぶ》|々《しぶ》ながら肯いた。
公園は、相当の広さがある。ちょっとした遊び場と、池があり、遊歩道、ベンチ。都心ならアベックで|埋《う》まること必定というところだが、この団地の中では、人っ子一人見えなかった。
「この辺も段々|物《ぶっ》|騒《そう》になりますねえ」
山崎が言った。「最近は|痴《ち》|漢《かん》も出るそうですし」
「女の子を持っている家では、神経を使ってるようですよ」
と浜谷が付け加える。
「ですから私は提唱したんです」
と田辺が言った。
「何をです?」
「自警団です」
「自警――」
「自警団。自分たちで、自分たちの住む地区をパトロールしようというわけです」
「ははあ、なるほど」
「いくら警官がまめに巡回しても、見て回れる範囲は限られています。だから、住民が自分で自分を守る気持を持たなくてはいけません」
「難しいでしょうね、実際には」
「全く、そういう意識に欠けた人が多すぎるんですよ」
田辺は|嘆《なげ》かわしい、という口調で言った。
「現にこの前も――」
と言いかけたとき、山崎が、
「あれ、何してるんだろう?」
と言った。
田辺と浜谷が山崎の視線を追うと……。
その男は、公園の|茂《しげ》みの間に、身を|潜《ひそ》めていた。草の上にぴったりと|腹《はら》|這《ば》いになっているのだ。どう見ても、姿を|隠《かく》しているとしか思えなかった。
その位置は、公園の外の通りからは全く隠れているが、山崎はちょうど、その足の先が出ているのに気付いたのである。
「――いいですね」
田辺は声をひそめて、「私は右から、浜谷さんは左から」
「|了解《りょうかい》」
「――私は?」
山崎が、あなたは何もしなくていいですよと言われるのを期待しつつ|訊《き》いた。
「ここにいて下さい」
と言われて、ホッとしたのも|束《つか》の間、「もし、私たちに気付いたら、きっとこっちへ飛び出して来る。その時は食い止めて下さい」
と聞かされて、ゴクリと|唾《つば》を飲み込んだ。――|俺《おれ》はまだ死にたくない!
「じゃ、行きましょう」
田辺は|囁《ささや》くように言った。さっきの強盗犯人かもしれないという期待で、田辺の手足には、現役時代の緊張感がよみがえっていた。
山崎は、もし犯人がこっちへ逃げて来たら、すぐ後ろの茂みへ飛び込もうと決めていた。こんなことで死んで何になるのか。そうだとも。二万六千円もする切符を買ったウイーン国立オペラだって、まだ行ってないのだ。死んでたまるか!
田辺と浜谷は茂みの左右を大きく回って、隠れている男へ、じりじりと近付いて行った。
サンダルばきというのが|悔《く》やまれた。こんなことになると分っていたら、ちゃんと|靴《くつ》をはいて来るのだった。――もっともパジャマに靴ではさま[#「さま」に傍点]になるまいが。
今さら言っても始まらない。田辺は一歩一歩、|慎重《しんちょう》に男に近付いて行った。――よし!
田辺は、すりこぎを握りしめた。
全く、何でこんなことまでやらなきゃならないんだ? 浜谷は内心ブツブツ文句を言っていた。
いくら元刑事だって、自分の趣味[#「趣味」に傍点]に他人を|駆《か》り出すことはないじゃないか。|今《いま》|頃《ごろ》は英子と第二ラウンドを楽しんでいたはずなのに、畜生!
早く片付けてさっさと帰ろう。浜谷はバットを振りかざした。
「それっ!」
と田辺が声をかける。
「ウォーッ!」
と|剣《けん》|豪《ごう》|並《な》みのかけ声で浜谷が飛び出す。
山崎はあっという間に、早くも後ろの茂みへ飛び込んでいた。
バットがビュッと空を切る。ガツンという|手《て》|応《ごた》え。
「大人しくしろ!」
田辺が男の上へ馬乗りになってすりこぎで頭をガンとやった。そこはプロで、傷を負わさないで、気を失う程度の|殴《なぐ》り方である。
浜谷が、何か|箱《はこ》のような物につまずいてひっくり返った。
「やった! 取り|押《おさ》えたぞ!」
と田辺が声を上げた。
三人は、まだ気を失っている若者を前に、頭をかかえていた。
若者のわきに、浜谷のバットの一撃で無残にひしゃげた、ポータブルのカセットデッキが転がっている。
「つまり……」
と浜谷がやっと声を|絞《しぼ》り出した。
「|生《なま》|録《ろく》マニアですよ」
と山崎が言った。
「どういうことです?」
「生録――生録音のことです。今は、結構若い人の間でブームなんですよ。カセットテープの性能も向上したし、デッキも、電池式でこんなに小型でしょう。――SLの音だとか、|雷《らい》|鳴《めい》とか、派手な音を録るのが以前は|流《は》|行《や》ってたんですが、最近はむしろ、小さな音、耳を|澄《す》まさなきゃ聞こえないような音とか、日常生活の何気ない音を、いかに活き活きと録音するかが、マニアの興味の中心のようですね」
「この男、一体、こんな所で何を録音してたんだ?」
田辺がやけ気味に頭をかきむしった。
「きっと、|微《かす》かな虫の音とか、遠い車の音、電車の音なんかじゃないですかね」
「|畜生《ちくしょう》!」
――しばし、三人とも声もなかった。
「ともかく……」
山崎が言った。「これは暴行と器物破損ですね」
「現行犯[#「現行犯」に傍点]だ」
と田辺が|呟《つぶや》いた。
「|冗談《じょうだん》じゃない!」
と浜谷が|怒《ど》|鳴《な》った。「あんたのせいだぞ! あんたの言う通りにして、こんな目にあったんだ。あんたが責任を取れ!」
田辺は肯いた。
「言うまでもありません。私が総ての責めを負います」
「まあまあ」
と山崎が浜谷をなだめた。「我々だって子供じゃない。自分の判断で田辺さんに従ったんです。田辺さん一人に押し付けてはいけませんよ」
「じゃ、どうしようっていうんです?」
「三人でやはり一致した行動を取らなくては……」
「どういう風に?」
「この男が気が付かない内に|逃《に》げるんです」
4
三人は足早に、自宅への道を|辿《たど》っていた。田辺は良心の|呵責《かしゃく》を感じないではなかったが〈元刑事が暴行事件〉などという新聞記事を想像すると、こうして逃げる他はないと思っていた。
他の二人はまるで良心の呵責すら感じていなかった。
「|誰《だれ》か走って来ますよ」
と山崎が言った。
「もうよしましょうよ」
と浜谷がうんざりした声で言った。
「また見当|違《ちが》いの人をぶん殴る気なんですか?」
「そういう意味で言ったんじゃありません」
と山崎はムッとした顔で、「ほら、ジョギングですよ、流行の」
――なるほど、ジョギングウエアに身を包んだ男が、規則正しい足取りでランニングして来る。
「この夜中に物好きな」
と田辺が首を振る。
「いや、夜の方がいいんですよ」
と浜谷。「|涼《すず》しいし、車も通らない。人に見られることもないから、恥ずかしくもないでしょう」
ジョギングの男は、三人を見ると、
「やあ、今晩は」
と手を上げて、すれ違って行った。
その後姿を見送って、浜谷が、ふと首をひねった。
「何だか……|妙《みょう》だな」
「どうしたんです?」
「いや……今の男。何となくおかしくありませんか?」
「気が付きませんでしたね」
と山崎は|肩《かた》をすくめた。「さ、早く帰りましょう」
と歩きかけた時、道のわきの植込みの|陰《かげ》でカチャッという音がした。――三人は顔を見合わせた。
「何でしょう?」
と田辺が言った。
「もしかすると――」
山崎は植込みの方へ入って行くと、かがみ込んで、何やら取り出した。「やっぱりそうだ」
「何です?」
「カセット・レコーダーです」
「またナマロクですか」
と田辺がげんなりした声を出す。
「いや、これはそんなに性能のいいものじゃないです。ステレオでもない、ただのポータブル・カセットですよ」
「今の音は?」
「テープが終って、自動的にスイッチがオフになったんです」
「じゃ、今まで回ってたわけですか?」
「そうです。妙ですね、こんな所で。巻き戻してみましょう。録音してたのか、再生してたのか分りませんが……」
テープを全部巻き|戻《もど》すと、「再生ヴォリュームが最大になってますよ」
と音量を|絞《しぼ》って、再生ボタンを|押《お》した。
しばらく、何の音もしなかったが……
「キャーッ!」
と|鋭《するど》い悲鳴が飛び出して来た。
「これだ!」
と田辺が言った。「この悲鳴ですよ、私の聞いたのは!」
「じゃテープで悲鳴を?」
と浜谷が言った。「どうしてそんなことを……」
「さあ。しかし、どうもまともな目的じゃないようですね。そう思いませんか?」
――三人は植込みの|陰《かげ》から、財布だの、時計だのを入れた布袋を見付けた。
「さっきの強盗が盗んだ品らしい」
と田辺は言った。
「――そうだ!」
と浜谷が手を打った。
「どうしました?」
「さっきのジョギングスタイルの男ですよ! どうも、どこか変だと思ったら、靴です」
「靴?」
「靴だけがバスケットシューズだったんですよ」
「じゃあの男が……」
「ここへ来ようとしたんだ」
田辺が一人言のように言った。「そして我々と出会ったんで、やり過ごした」
「平気で手まで振って!」
「そうすると……」
山崎が考えながら言った。「あの男、ここへ戻って来ますよ」
ジョギングウエアの男は、周囲を見回すと、素早く植込みへと姿を隠した。――そして、五分ほどして、立ち上った時は、ごく普通のサラリーマンのような、背広にネクタイで、手に、ビジネス用の|鞄《かばん》をさげていた。
男はニヤッと笑って歩き出した。その|途《と》|端《たん》、三人が|一《いっ》|斉《せい》に飛びかかった。
「いや、さすがに――」
田辺が男を引き|渡《わた》すと、巡査は感服の面持ちで、「ベテランの方は違いますな」
「いや、私の|手《て》|柄《がら》じゃない」
田辺は|控《ひか》え目に言った。「あのお二人――私の|隣《りん》|人《じん》たちが、この男の正体を見破ったんですよ」
「警視|総監賞《そうかんしょう》を|申《しん》|請《せい》します」
「それはやめてくれ!」
田辺は|慌《あわ》てて言った。
「しかし――」
「もう私は引退した身だ」
「そうですか……」
と巡査は思い切れない様子だ。そこへ、
「おい」
と他の巡査が声をかけて来た。
「どうした?」
「公園で暴行事件だ?」
「暴行?」
「若い男が殴られた。何も盗られちゃいないそうだが――」
「じゃ、|忙《いそが》しそうだから、これで失礼するよ」
と田辺は早々に逃げ出した。
「大変な夜でしたね」
と浜谷が言った。――三人とも思いは同じだった。
三人は階段を三階へと上って行った。
「しかし分りませんね」
と山崎が首をひねる。
「悲鳴のことでしょう」
浜谷が受けて、「私もですよ。どうしてテープで悲鳴なんか聞かせたのかな?」
田辺が笑って、
「犯罪者ってのは妙なことを考えるもんですからな。自白すれば分るでしょう」
と言った。
「それもそうだ」
と二人が|肯《うなず》く。――ともかく、済んだのだ。
三階へ着くと、三人は何となく照れくさそうに顔を見合わせた。
「いや、ご苦労様でした」
と山崎が言った。
「おやすみなさい」
と浜谷が|微《ほほ》|笑《え》む。
「お二人をとんだことへ引きずり込んでしまって――」
と田辺が言いかけると、
「いいんですよ」
と浜谷が|遮《さえぎ》る。「ねえ、山崎さん」
「そうですとも」
田辺はゆっくりと二人の手を|握《にぎ》って、
「おやすみなさい」
と言った。ドアを開けて、
「ただいま」
と田辺は中へ入った。「|遅《おそ》くなって……。大変だったんだよ――」
田辺は立ちすくんだ。
部屋の中はめちゃくちゃに|荒《あ》らされていた。田辺は青くなった。
「絹子!」
と|叫《さけ》んで寝室へ飛び込む。絹子は手足を|縛《しば》られ、|猿《さる》ぐつわをかまされていた。
「大丈夫か! しっかりしろ!」
と|抱《だ》き起こし、|縄《なわ》を解く。――そして気が付いた。
あの悲鳴。――悲鳴を聞いて、お節介な亭主が様子を見に外へ出て来る。犯人は、それを表から見ていたのだ。外廊下式の建物だから、どの部屋から出て来たかは、見ていれば分る。そして亭主が少し遠くまで出たと見ると、その部屋へ押し入る。
田辺すら、すぐ戻るつもりで|鍵《かぎ》をかけて出なかった。――中は|女房《にょうぼう》だけだ。手早く縛って、金目の物だけを盗む。鍵をこわしたり、ベランダから|忍《しの》び込むわけではない。早く片付くはずだ。
あの悲鳴の目的は、これだったのか!
田辺ははっとした。――そして絹子が気を失っているだけだと分ると、横にして玄関から飛び出して行った。
ちょうど、浜谷と山崎が廊下へ飛び出して来たところだった。
五分間の殺意
1
「あなた、今日はお休みになったら?」
妻の|恒《つね》|子《こ》が言うのも、分らないではなかった。
何しろ窓の外では、昨夜来の雨が雪混じりの冷たいみぞれに変わっているのだ。仕事が生きがいという|猛《もう》|烈《れつ》サラリーマンだって、こんな日ぐらいは休んで|布《ふ》|団《とん》の中でいつまでもうつらうつらしていたいと思うだろう。
だが、|佐《さ》|々《さ》|木《き》|喜《よし》|彦《ひこ》は、のろのろとした足取りで洗面所へ向いながら、
「いや、今日は|連《れん》|絡《らく》会議がある……」
と|呟《つぶや》くように言った。
「あなたが出なきゃまずいの?」
佐々木は、分りきったことを|訊《き》くな、とばかり、妻の方をチラリと見て答えなかった。
「じゃ、|風《か》|邪《ぜ》引かないように厚着してって下さいね」
「ああ」
恒子は|諦《あきら》めたように息をついて、台所へ立った。佐々木は|黙《もく》|々《もく》と顔を洗った。水が|頬《ほお》に|貼《は》りつくように冷たい。|湯沸器《ゆわかしき》のお湯で洗いたいところだが、寒さを苦にしていないことを妻に示すための、やせ|我《が》|慢《まん》である。
実際、今朝はまた格段に寒い。この建売住宅のある近郊の地は、都心に比べ、三度近く気温が低いのだ。三十年勤めて、やっと手に入れたのは、通勤に一時間四十分の|遠《えん》|隔《かく》|地《ち》に建つ、マッチ|箱《ばこ》のような二階家で、バス停まで五分歩き、私鉄の駅まで十五分バスに乗り、十五分|並《なら》んで各駅停車に座席を取り、三十分|居《い》|眠《ねむ》りをする……。会社へ着いた時には、若いサラリーマンでもいい加減|疲《ひ》|労《ろう》しきっているというわけだ。
すでに五十四|歳《さい》も半ばを|越《こ》えた佐々木にとって、この通勤が苦痛でないはずはなく、特に冬の朝、|凍《こお》りついた道を、|滑《すべ》らないようにバス停までノロノロと歩いて行く道のりは、正に|拷《ごう》|問《もん》に等しいとも言えた。
「じゃ、お|味《み》|噌《そ》|汁《しる》を……。暖まりますからね」
恒子がガスに火を|点《つ》ける。文句を言いながら、ちゃんと前の晩の味噌汁を少し残してあるのだ。
連絡会議がある、か……。石油ストーブの熱がまだ行き|渡《わた》っていない冷たい部屋で、急いでコタツに|潜《もぐ》り|込《こ》むと、恒子が持って来た朝刊を広げる。もっともらしく、株式の|欄《らん》などに目をやるが、その実、さめ切らない頭には何一つ入っていないのだ。連絡会議か。お笑い草だ。佐々木は|自嘲《じちょう》した。
会議があるのは事実である。だが、彼が出席する必要は、全くなかった。席に連らなり、資料のコピーももらうが、意見を求められることは、もうまるでないのだから。佐々木は職場では、すでに自分が停年退職したもののように|扱《あつか》われている事をよく承知していた。――恒子は知らないが、すでに半年近く前に、佐々木は第一線から、|閑職《かんしょく》へと回されていたのである。
よく働いてくれた。後一年で君も停年だ。少しのんびりしたまえ。課長の言葉は氷の|剣《つるぎ》のように胸に|突《つ》き|刺《さ》さった。そして半年。仕事[#「仕事」に傍点]といっても、午前中で|充分《じゅうぶん》に終る程度のことで、時には日がな一日、何もすることがなく、何となく新聞を読んだり、雑誌に目を通して五時まで時間を|潰《つぶ》すだけが仕事、という日も|珍《めずら》しくないのだ。
今日はお休みになったら……。恒子が言うのも当然なのである。
「さ、お味噌汁。今、卵をゆでてますからね」
「もういいよ、恒子」
「いいえ、ちゃんと|召《め》し上らなきゃ。行き|倒《だお》れになりますよ」
「まさか!」
と|殊《こと》|更《さら》に佐々木は笑顔を見せた。妻の心遣いが彼にはいささか重荷だ。なぜなら、こんなにまでして早く、時間通りに出勤して行くのは、浮気[#「浮気」に傍点]をするためなのだから。
バス停に|並《なら》ぶいつもの顔ぶれの中に、|将棋《しょうぎ》友達の|朝《あさ》|田《だ》の顔がないのに気付いて、何となく落ち着かない気分になった。
「そうか、そう言えば出張だと言ってたな……」
朝田は佐々木より十歳以上も若く、今が働き|盛《ざか》りという所だ。
「出張なんですよ。全く|面《めん》|倒《どう》で……」
口とは裏腹に、仕事に打ち込む充実感といったものが、満足げな|微笑《びしょう》になって、その顔に|浮《う》かんでいた……。
佐々木は、一人取り残された|寂《さび》しさを感じていた。もう出張を命じられることも、深夜まで残業することもない。十一時近くまで残業して、それから|同僚《どうりょう》と飲み、語り、歌い、そしてもう空の白み始める|頃《ころ》アパートヘ帰って、それでも翌朝は、ちゃんと九時に出社した。あの頃が、今は|懐《なつか》しい。
バスがやって来るのを、みんなコートの|襟《えり》を立てて|震《ふる》えながら待っている。佐々木の心を|吹《ふ》き|抜《ぬ》ける風の凍るような冷たさは、どんな厚いコートでも防げない……。
今日はツイてる、と佐々木は少しいい気分になった。バスで座れたのだ。バスの十五分はかなり乗りでがある。もっとも、この天気でさすがに少しバスもすいているようだった。この分なら電車も|間《ま》|違《ちが》いなく座れるだろう。
――各駅停車の電車がホームに入って来た。この辺りのみぞれが、もっと先では雪になっているらしく、少し電車が|遅《おく》れている。この先にはそれほど住宅がないので、座席は半分ほどしか|埋《うま》っていない。残る半分をめぐって、この駅で|争《そう》|奪《だつ》|戦《せん》が演じられることになっているのだが、それは全く争奪戦[#「戦」に傍点]と呼ぶのにふさわしい、殺気をはらんだ真剣さで戦われる。
今朝は、佐々木は行列の前から二列めにいた。つまずいて転ぶとか、よほどの失敗がない限り|安《あん》|全《ぜん》|圏《けん》である。電車がスピードを落として目の前を流れて行くと、列の後の方から圧力が加わって来る。
「|押《お》すなよ」
「|焦《あせ》んなよ」
といった声が聞こえる。そうだよ、そんなに|慌《あわ》てちゃみっともないぜ。自分が列の後方組ならやはり押すだろうと分っていて、そう|呟《つぶや》いてみる。
ドアが開くと同時に――本当に一瞬[#「一瞬」に傍点]の間に席が埋る。中には、わずかの|隙《すき》|間《ま》へ強引に割り込む年寄りもいて、みんなの|眉《まゆ》をひそめさせる。しかし、そんな視線を気にしていては、当節、生きては行けない。
「押したじゃねえか!」
「そんなこと知るか!」
といった小ぜりあいが二両に一つ位の割で起こっている。時には本当につかみ合いの|喧《けん》|嘩《か》になる事さえある。西部劇なら|決《けっ》|闘《とう》になる所だ。
しかし、座席を――三十分間の安らぎと|眠《ねむ》りを確保した幸運な人間にとっては、周囲の喧嘩が人殺しになろうと関係ない。佐々木も、今朝はこの幸運な組に入っていて、電車が重そうに|一《ひと》|揺《ゆ》れして動き出すと、目を閉じた。この手順が毎朝くり返されているのだ……。
佐々木の「浮気」の相手は、女子高校生である。名前は知らない。知っている事といえば、彼女が今高校二年生で、ちょうど彼が仮眠からさめて急行に乗り|換《か》える駅から学校へ通っている、という事だけだ。
いつも通り、この朝も一つ手前の駅で目が覚めた。ちょうど電車が短い鉄橋を|渡《わた》る、その|響《ひび》きのせいなのだが、それにしても、必ず同じ辺りで目が覚めるのは不思議なほどだ。勤め人の悲しい習性とでもいうのだろうか……。
|束《つか》の間の安息も終りを告げて、佐々木はため息をつく。次の駅で急行に乗り換えないと、二十分は余計に時間がかかるのである。中には各駅停車のままで行く客もいるが、きっと会社の始業時間が遅いのだろう。ほとんどの客が降りて、急行を待つ。
電車が止まって扉が開く。佐々木はゆっくりと立って、ほとんど最後に車両を出る。みんな今度は急がない。どうせ座れはしないのである。
ホームに降りた佐々木は列につかずに、ベンチヘ|腰《こし》を降ろした。ちょうどホームヘ上って来る階段のすぐ目の前だ。
「もう来てもいい頃だな……」
彼の胸は少年のようにときめいて、冷たい風が苦にならないほど、|頬《ほお》は上気していた。何をしてるんだろう? なぜ来ないんだろう? もう一分たってしまった……。
彼女[#「彼女」に傍点]が階段を上って来た。それは|小《こ》|鹿《じか》のように軽やかな足取り、しなやかな身のこなしだった。右手の赤い|傘《かさ》、左手の紺の|学生鞄《がくせいかばん》、セーラー服の上に着込んだ重そうな紺のオーバー。そういった物がまるで重量というものを持っていないかのように、彼女は飛びはねる足取りでホームヘ上って来た。
彼女は佐々木を見て|微《ほほ》|笑《え》んだ。
――本当にうっとりするような微笑だ。|汚《けが》れを知らぬ、天使のようだ。
こんな|月《つき》|並《な》みな表現しか、佐々木にはできない。
「お早う!」
彼女は|弾《はず》みをつけて佐々木の|隣《となり》に腰を降ろした。「寒いわね」
「全くね」
「今日はお休みかと思った」
「どうして?」
「私だったら休んじゃうな。会社って、好きな時、お休みが取れるんでしょう?」
「まあ、建前は、そうだね」
「それでお給料もらえて。いいなあ。私なんか月謝払って、それで休む時は、ちゃんとお医者さんの証明がいるのよ。変よね、そう思わない?」
佐々木は笑った。彼女が言うと、こんな|妙《みょう》な理屈が妙でなくなって来るのだ。本当に、心底信じ切って言っているように聞こえる。
「今日は座れた?」
と彼女は傘の先でホームをトントン突っついて|雨《う》|滴《てき》を落としながら|訊《き》いた。
「ああ、座って来た」
「よかったわね」
彼女はちょっと冷やかすような笑顔になって、「一日の|疲《つか》れが違うでしょう」
「人を年寄り扱いして!」
彼は腹も立てずに、「君もいつかはお|婆《ばあ》さんになる」
「ああいやだ! 私、若くして死にたいわ。美しい|盛《さか》りに……。なんて、ね。美しくもないくせに!」
彼女は一人でクスクス笑いながら、「ねえ、何が生きがい?」
と|突《とつ》|然《ぜん》訊いて来た。若い娘の話題の変わることと来たら。テレビのチャンネルを回しているようだ。
「何が、といわれても困るね。仕事、子供、マイホーム……。色々さ」
「でも子供さんはもう独立したんでしょう?」
「ああ、二人ともね」
「マイホームは建てた」
「まだ|払《はら》いは残ってるがね」
「じゃ、お勤めが終ったら、人生おしまい?」
「君は全くドキリとするようなことを言うね」
「だって、他に生きがいがないような事言うから」
佐々木はふっと考えた。君と会うのが生きがいだよ、と言おうかと思った。
「確かに、会社を停年になったら、何もする事がなくて困るかもしれないな」
「若い内から何かやっておきゃよかったのよ」
と彼女が意見するように言った。
「しかしね……」
戦争があったよ、と言おうとして、佐々木は思い直した。戦争なんて、彼女にとっては歴史の試験問題でしかない。
「本当だね。今さらこの年齢で何かを始めるって、わけにもいかないし」
「あら、でもまだ間に合うわよ。私はね、何もかもやってみたいな。世界中を歩き回って、いろんな物を見て歩いて……」
「君にはまだいくらも時間がある」
「ええ、そうね。でももったいない!」
「何が?」
「今が一番いい時期なのに、こんな時に学校に行かなきゃなんないなんて」
〈三番ホームに急行が参ります……〉
「あ! 電車来るわよ」
「うん……」
佐々木はベンチから立ち上った。「じゃ、気を付けて」
「また明日ね」
佐々木は手近な列の最後に付く。彼女は急行の待ち合わせをしている各駅停車に乗っていくのだ。
急行電車は、もういい加減混み合ってホームヘ|滑《すべ》り込んで来る。押されなければ乗れないほどではないが、最後に乗る佐々木などは、閉じた|扉《とびら》のガラスにグイグイ押し付けられてしまう。電車が動き出す時、佐々木は向い側の各駅停車に彼女の姿を|捜《さが》した。見えないな。そう思った時、まだホームに立って、彼の方へ手を振っている彼女の姿が見えた。手を振り返そうとしたが、押し付けられていて、手が上らないのだ。やっとの思いで手を上げた時には、もう彼女の姿はずっと後方へと消えていた。
彼女が手を振ってくれた! 佐々木は車両の混雑の息苦しさも、|汗《あせ》ばむほどの蒸し暑さも、何も苦にならなかった。
こんな寒い日に出勤して来たねぎらい[#「ねぎらい」に傍点]のつもりだったのだろうか。わざわざ見送って、手を振ってくれたのは初めてだ!
佐々木は幸福だった。会社までの道のりが、いつになく近い。浮き浮きとした足取りで、|途中《とちゅう》、二、三の同僚を追い越しさえした。
何のことはない。急行を待つ五分間。これが佐々木の「浮気」なのである。
2
「佐々木さん、|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
若い社員が、ふと足もとのもつれた佐々木を|慌《あわ》ててつかまえながら言った。
「大丈夫……大丈夫だよ」
|靴《くつ》をはくのに、ちょっとつまずいただけだ。
「お宅まで送りましょうか?」
言ってはくれるのだが、その口調には、もし「|頼《たの》むよ」と言われたらどうしようという不安が、はっきり聞き取れた。
「いや、大して|酔《よ》っちゃいないよ……。大丈夫。その辺でタクシーを拾って帰るから……」
「そうですか。タクシーの方が楽ですよね。寒いし……」
若い社員がホッとした様子で|肯《うなず》く。
「じゃ、どうも」
「ごちそうさま!」
「失礼します!」
佐々木は手を|振《ふ》って、若い連中と別れ、タクシーを待っていると見えるように、通りの|端《はし》に立った。どうせあの連中はこれから飲み直すんだ。――駅へ行く道から、若い社員たちの姿がふいと消えて、佐々木は|苦《にが》|笑《わら》いした。思った通りだ。
――佐々木さんがいちゃ、飲んでたって面白くねえもんな。
――おごってくれるったって、停年間際の人に金使わせちゃ悪いしな。
――あの人の給料じゃ、いいとこへは連れてっちゃもらえないし。
――そう言っちゃ|可《か》|哀《わい》そうだ。あれだって、相当無理してんだぜ。
連中の話が聞こえて来るようだ。佐々木はもう少し待ってから、駅へ向って歩き出した。ここからタクシーで帰れば一万円近く取られる。とてもそんな|余《よ》|裕《ゆう》はない。こんな時間は電車も少ないし、バスはもうとっくに終っている。駅で、数少ないタクシーを寒風にさらされながら待つのも|辛《つら》いが、仕方ない。
「そうだ。恒子に電話しとくか」
最近はめったに飲んで帰ることがないので、心配しているかもしれない。そういえば、今朝行き倒れを心配していたくらいだ。電話してやらなきゃ。
雨はやんだが、その代わり凍るような北風が|吹《ふ》きまくっていた。空の雲もきれいに払われて、|珍《めずら》しく|澄《す》んだ星空である。アルコールのぬくもりなど、たちまちさめ切って、思わず|身《み》|震《ぶる》いする寒さ。
「赤電話、赤電話……」
手近にないかと、わき道へ入った佐々木は連れ込み宿の並ぶ一角を歩いていた。ひっそりと|黙《だま》りこくった家並みが、無愛想に続く。電話ボックスなら寒くないから、と|捜《さが》してみたが、一向に見当らない。佐々木は|諦《あきら》めて、駅へ行く道の方へ|戻《もど》りかけた。
その時――目の前の|旅《りょ》|荘《そう》の玄関から、朝田が出て来たのである。
佐々木はぼんやりと|突《つ》っ立っていた。出張しているはずの朝田が、どうしてこんな所に? ただ|唖《あ》|然《ぜん》としているだけの佐々木だったが、何となく声をかけてはいけないような気がして、黙って見ていた。
「そうか……」
|一《いっ》|泊《ぱく》の出張のところを、朝発つと言って浮気をし、今夜の便で発って、明日の現地の仕事へぎりぎり間に合わせる。よくある手だ。佐々木は|愉《ゆ》|快《かい》になった。あの実直そうな朝田が。人は見かけによらないものだ。恒子が聞いたら|仰天《ぎょうてん》するだろう。
朝田は佐々木にまるで気付いていないようだった。考えてみれば当然で、朝田は旅荘の玄関の明りの下にいるが、佐々木は道の暗がりに立っているのだ。ちょうどいい。このままやり過ごしてしまおう。佐々木は暗がりの奥へ数歩退がった。
朝田は道の方へ出て来て、左右を用心深く見回した。|恰《かっ》|幅《ぷく》がよく、いつも自信たっぷりの朝田には何となく似つかわしくない図である。朝田は後を振り向いて|肯《うなず》いて見せた。よほど人目についてはまずい相手なのか。
佐々木は、自分の体が深い|闇《やみ》の底へと|沈《しず》み込んで行くような気がした。底なしの沼へ|徐《じょ》|々《じょ》に|没《ぼっ》して行くような、そんな無力感が全身を|捉《とら》えた。旅荘の玄関から現われたのは、彼女[#「彼女」に傍点]だった。
「どうしたんですか?」
玄関へ出て来た恒子がとがめ立てするような口調で言った。
「うん……。ちょっと、若い|奴《やつ》らと飲んでね……」
「お電話して下さればいいのに。何かあったのかと思って、気が気じゃありませんでしたよ」
「かけようと思ったんだがね。ちょうど電車が来ちまって、かけてると乗り遅れるし……」
「早くオーバーを|脱《ぬ》いで、コタツヘお入りになったら? 何か食べますか?」
「いや、いい」
「お|茶《ちゃ》|漬《づけ》一杯|召《め》し上がる? 熱いお茶をかけて」
「そうだな。もらおうか……」
「お|風《ふ》|呂《ろ》、ぬるくなってるから、つけときますね。お茶漬召し上がってる間に|沸《わ》くでしょ」
――恒子。お前は本当によく知っててくれるよ。佐々木は、こごえ切った手足にやっとぬくもりをかすかに感じながら思った。
「|風《か》|邪《ぜ》を引きますよ。無茶をして」
お茶漬を流し込む夫への言葉に、もう腹立たしい響きはなかった。「もう若くはないのよ」
「全くだ。もう遊び回る|年《と》|齢《し》でもないな」
「若いつもりでいるのは結構だけど、本当に若い人と|一《いっ》|緒《しょ》になって飲んでちゃ、|保《も》ちませんよ」
「分ってるよ。――もう一杯くれ」
「はいはい」
「朝田君を見た」
「あら、どこで?」
とご飯をよそいながら、「変ね、ご出張でしょ? 今日|奥《おく》さんに会ったら、昼前に出かけたって……」
「連れ込み旅館から出て来た」
恒子がご飯を盛った|茶《ちゃ》|碗《わん》を置いて、
「まあ」
と言った。佐々木は自分でお茶を注いだ。手も震えないのが、不思議だった。
「女の人と?」
「当り前だ」
「どんな人でした?」
|奇妙《きみょう》なことだが、佐々木はほとんど得意な気持だった。妻に、こっそり耳にした芸能人のゴシップを教えてやっているのと、大して違いはなかった。
「女学生だ。高校生ぐらいだろう」
「何てことでしょ!」
「男はいくつになってもセーラー服には弱いと見えるよ」
と苦笑して見せる。
「あの朝田さんが!……奥さん、お気の毒に」
「おい、黙っていろよ、奥さんには。よそのことには口を出さない方がいい」
「そうね……。ほんの一度の気の迷いかも……」
そうは見えなかった。湯舟につかって、寒さにこり固まった|肩《かた》や|腰《こし》をほぐしながら、思った。二人が笑いながら、駅への道の方に消えて行くのを見ていて、とてもこれが最初の密会だとは思えなかった。今流行の女学生売春といった様子でもない。それならばもっと事務的になるのではないだろうか。
それにしても、一体あの二人がどこで結び付いたのか……。
「そうか、朝の……」
思わず口に出る。毎朝、朝田も一緒にあの駅で乗り換えるのだ。ただ、降りる駅の出口が一番後ろなので、朝田はホームの|端《はし》の方へと行ってしまう。ただ、時たま各駅停車が|遅《おく》れたりして、彼女の方が先にベンチに座っている事があり、そんな時は朝田も彼女を見ているわけだ。もしかすると、佐々木と話をしているのを遠くからでも見て、興味を持ったのかもしれない。
「何て事だ!」
佐々木は頭を|振《ふ》った。腹が立つというよりは失望の方が大きかった。|汚《けが》れを知らぬ天使か! 佐々木は苦々しく笑った。
翌朝、佐々木は乗り換え駅に降り立つと、ベンチから離れた柱の|陰《かげ》にもたれて、彼女が現われるのを待った。一体どんな顔で現われるつもりか……。
昨日とは一変して、よく晴れた暖かい朝である。急に心の張りを失った佐々木を、陽射しが|慰《なぐさ》めているようだった。もう電車を変えようかと思っていた。同じ各駅停車で来れば必ず彼女と顔を合わすことになろう。しかしこの寒い朝に、一台電車を早くするのは、大変な決心を必要とすることだった。といって、一台|遅《おそ》くすれば、会社へ九時前に着くのは不可能だ。素知らぬ顔をしていようにも、各駅停車は編成が三両しかない。彼女に必ず見つかるだろう。
彼女が現われた。あれが昨夜と同じ女だろうか、残念なことに、どう見ても間違いようはない。同じ笑顔、同じ服で、朝田と腕を組んで歩いて行ったのだ……。
彼女はベンチに彼の姿がないのに戸惑った様子で周囲を見廻したが、すぐにヒョイと肩をすくめて、各駅停車の車両へ姿を消した。
「大丈夫ですか?」
近くにいた男に支えられて、佐々木はやっと|踏《ふ》み止まった。
「ええ……大丈夫です……どうも」
目まいがしたのだ。胸が痛んだ。|突《とつ》|然《ぜん》の感情の|昂《こう》|揚《よう》が彼の体には|応《こた》えた。あの|紺《こん》のオーバーとセーラー服の下の白い|肢《し》|体《たい》が、朝田の|脂《し》|肪《ぼう》のついた体と|触《ふ》れ合い、節くれ立った指が|滑《なめ》らかな|肌《はだ》を|愛《あい》|撫《ぶ》したのだ。あの|無《む》|垢《く》な|唇《くちびる》が朝田の|酒《さけ》|臭《くさ》い息を吸い、|喘《あえ》ぎを|洩《も》らしたのだ。あまりにまざまざと、暗い連れ込み宿の一室にもつれ|絡《から》まる二人の図が眼前に|浮《う》かんで、佐々木は|噴《ふ》き上げる|嫉《しっ》|妬《と》の|炎《ほのお》に|圧《あっ》|倒《とう》され、目がくらんだのである。
「……もしもし」
「朝田でございますが」
「ご主人はご在宅ですか」
「主人は出張しておりまして、今夜帰りますが」
「何時頃お帰りで……」
「さあ、ちょっと遅くなるような話でございましたが、どちら様で……」
「いや結構です」
佐々木は電話を切った。
――声が分っただろうか? いや、|滅《めっ》|多《た》に口をきくこともないのだ。大丈夫だろう。
――帰りが遅くなるというのは|怪《あや》しい。そんなに遅くなるなら、もう|一《いっ》|泊《ぱく》するはずだ。彼女と待ち合わせるのではなかろうか。どうだろう。|泊《とま》るのは同じ所にするものか。それとも同じ所に二度は泊らないようにするものなのか……。
佐々木は家へ電話すると、お得意と夕食を一緒にするから遅くなるよ、と言った。
「遅くなる時は続くもんだよ」
と笑った。平然として|嘘《うそ》のつける自分に|呆《あき》れた。
五時になると、佐々木は近くで夕食を取って、あの旅荘の近くへ行ってみた。まさかそう都合よく現われないだろうとは思ったが、何か見えない力に|押《お》しまくられているようで、立ち止まっていられないのだ。もし見かけたとして、一体どうするつもりか、自分でも分らない。ただ二人の姿を見て、自分の嫉妬の火をかき立てたいという|衝動《しょうどう》があるだけだった。
旅荘は静まりかえって、人の気配もなかった。表を、裏を、何度となく行き来したが、どの窓のカーテンも重く|瞼《まぶた》を閉じたままで、|瞬《まばた》きの震え一つないのだった。
――今、二人はあの中にいるのだろうか? 湿っぽい|布《ふ》|団《とん》の上で、汗にまみれながら愛し合っているのだろうか……。
夜が深まるにつれ、風が出て来た。こんな所でこうしていても、何ともなるまい、と分っていても、佐々木は|磁石《じしゃく》に吸い付けられた鉄片のように、旅荘の前から動けなかった。寒風が|頬《ほお》を切り、|靴《くつ》の中で足の指が感覚を失っても、彼は立ち|尽《つ》くした。
一度だけ、チラリと一部屋のカーテンをからげて外を|覗《のぞ》く顔があった。彼女だ!
――やはりここにいたんだな!
|一瞬《いっしゅん》の内に視界から消えたものの、彼はそれが彼女である事を疑わなかった。顔だけではない、白い|裸《はだか》の肩も、胸の|膨《ふく》らみまでもはっきり見たと思った。
九時|頃《ごろ》になって、雨が降り出した。身を|隠《かく》す|軒《のき》|下《した》とてない。いっそあの旅荘へ入ってみようかと思ったが、あの二人の|睦《むつ》|言《ごと》を聞かされるのは|堪《た》えられない。彼の事も、|息《いき》|抜《ぬ》きの時にはきっと話題に出るに違いない。
――あの人きっと私に気があるのよ。
――あんな|奴《やつ》に、そんな度胸があるものか。
――知らぬが仏ね……。
そんな会話を、|互《たが》いの体を|撫《な》で回しながらかわしているに違いないのだ。
雨が本降りになって、肌まで|濡《ぬ》らしていたが、少しも寒さは感じなかった。体の内に燃えているものがある。彼は、じっと雨の中で立ち尽くしていた……。
「本当にまあ、どうしてこんな……」
恒子が声をつまらせた。
「いや、全く運が良かったんです」
朝田が言った。「ちょうど出張の帰りに知人の家へ寄ったんですが、駅へ行く途中で誰か雨の中に倒れてるじゃありませんか。抱き起こしてみると、何とご主人だったので、びっくりしました」
「本当にご|迷《めい》|惑《わく》を……」
「いえいえ、とんでもない。きっと|酔《よ》っておられたんですね……」
「はあ。昨夜はどなたかと飲んで来るようなことを申しておりまして」
「そうですか。いや、もう大分アルコールにも弱くなっておられるんでしょう。男も五十歳を過ぎると、ぐっと弱くなるとか」
佐々木は高熱のせいか、ひっきりなしに|身《み》|震《ぶる》いしていた。救急病院のベッドである。
「あのままだったら|凍《こご》え死んでいたかもしれない、と救急車の人が……」
「本当に何とお礼を申し上げてよいか……」
「そんな心配はご無用です。では私はこれで」
「どうも……」
「朝……田……」
急に佐々木が|呻《うめ》いた。
「あなた!」
「佐々木さん。気が付きましたか」
「彼女を……彼女を返せ!」
「彼女?」
朝田は|呆《あっ》|気《け》に取られた様子で、「|誰《だれ》の事を言ってるんです?」
|喘《あえ》ぐような|荒《あら》い息づかいの下から、血走った眼で朝田を|見《み》|据《す》えながら佐々木は言葉を|絞《しぼ》り出した。
「許さんぞ……彼女に手を……出すな!……彼女は天使だ……清らかなんだ……」
「熱に浮かされておいでのようだ」
朝田は|曖《あい》|昧《まい》に微笑むと、「またお見舞いに|伺《うかが》います」
「どうも色々と」
恒子が頭を下げる。朝田はベッドの|傍《かたわら》から離れて、病室を出ようと、ドアの方へ歩きかけた。その時、四十度近い高熱に|憔悴《しょうすい》し切った佐々木が、力を振り絞って朝田の上着の|裾《すそ》へ手をかけようとベッドから飛び出した。
「あなた!」
恒子が|叫《さけ》ぶ。佐々木は空しくベッドから|床《ゆか》へ転げ落ちたが、必死の思いで朝田の足にしがみついた。
「|逃《に》げるな! 貴様! 謝れ! 彼女に謝れ!」
「あなた、やめて! 手を放して! あなた!」
「あの|娘《むすめ》を|汚《けが》したな! 謝れ!」
急に力尽きたように、ぐったりと佐々木は床に伏せた。
「あなた!」
恒子が夫の体を必死に|揺《ゆ》さぶった。看護婦が入って来た。
3
「何をしてらっしゃるの、あなた?」
目を覚ました恒子は、夫が起き出して|長《なが》|袖《そで》のシャツを着ているのを見て、布団に起き上った。
佐々木は服を着る手をちょっと休めたが、またすぐに続けながら、
「会社へ、行く」
と言った。
「今週|一《いっ》|杯《ぱい》は安静にと言われているんですよ。いけません!」
「大丈夫さ。もう熱もない……」
「体が弱り切ってるんですよ。あなたの|年《と》|齢《し》で、四十度の熱が一週間も続いて、よく|保《も》ったと|医《せん》|者《せい》がおっしゃってたのを聞いたでしょう? 熱が下がったからって、起き出して、またぶり返したらどうするんです?」
恒子の有無を言わせぬ口調に、佐々木も逆らうことはできなかった。もう一度寝衣を着て、床へ入る。
「会社の方も、ゆっくり|療養《りょうよう》するようにっておっしゃってましたよ」
と恒子が付け加える。
「ああ……」
当り前だ。いてもいなくてもいい存在なのだから……。
「恒子」
ややあって、佐々木は言った。
「何ですか?」
「|俺《おれ》は……もう社の第一線にはいないんだ。……名目だけの閑職に移された。停年までの腰かけさ。……半年前からだ」
「ええ。分ってました」
佐々木は思わず妻の顔を見た。
「知ってたって?」
「生活のリズムが変わって、あなたのお帰りになる時の顔つきも変りましたもの。それは分りますわ」
「そうなのか……」
「でもいいじゃありませんか。楽ができる、ぐらいに考えておけば。せいぜい休みを取って、好きな事をなさればいいんですよ。永年勤めたんですもの。それぐらいの|配《はい》|慮《りょ》は当然ですよ」
「しかし、俺は仕事がしたいんだよ」
「やっても後半年ですよ、何か自分の打ち込める事をお捜しなさい」
――恒子。お前は優しくて、いつも|賢《けん》|明《めい》だ。
「そうそう」
恒子が思い出して、「あなたが寝込まれている間に、|名《な》|古《ご》|屋《や》から電話がありましたよ。忘れてましたわ」
「|喜《よし》|子《こ》からか?」
去年の秋、|嫁《とつ》いだ長女である。
「ええ。――この|暮《くれ》は上京して来られないって」
「どうしてだ?」
「列車の旅がだめなんだそうですよ」
「旅といったって……たった二時間じゃないか! なぜ来ないんだ!」
「つわりがひどいらしくて」
しばらくの間、佐々木は話が|呑《の》み込めず、ポカンとしていた。
「すると、おい、何か? つまり、生れるのか?」
「ええ」
「いつなんだ予定は?」
「六月の末とか七月の始めとか言ってましたよ」
「どうして早く言わないんだ!」
「だって、あなたの入院|騒《さわ》ぎの最中ですもの。忘れてしまったんですよ」
「|肝《かん》|心《じん》な事を忘れる奴があるか!」
|叱《しか》りつけながら、顔はゆるんでいる。
「とうとう私たちも、おじいちゃん、おばあちゃんね」
恒子が|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「まだ早過ぎるぞ」
と苦笑して、佐々木はふと目頭が熱くなった。
「お産の時はこっちへ来るでしょうからね。あなたの退職|慰《い》|労《ろう》|会《かい》はお流れね」
「流れて結構だ」
「その内東京へ転勤になるそうだし、そうなったらあなたに一つ大仕事ができるわ」
「赤ん坊は苦手だよ。ごめんだな」
心にもない事を言った。
「どう、気分は?」
「大丈夫。もうめまいもしないよ」
「今日はいいお天気よ。寒いけど、陽の当る所は暖かいでしょうから、日なたを歩いて下さいね」
「分った、分った」
久々の出社だ。大分暮も|押《お》し|迫《せま》っているが、佐々木には、まるで新しい年のように思えた。いつもの時間に家を出ると、確かに厳しい寒さである。しかし、今の佐々木にはそれも|却《かえ》って快い|刺《し》|激《げき》だ。固く凍りついた道を|慎重《しんちょう》に歩いてバス停に着く。朝田と目が合って、はっと顔を|伏《ふ》せる。
だめだ。しっかりしなくては。
「朝田君」
「佐々木さん。もうよろしいんですか?」
「ありがとう。もうすっかりいい」
「軽く済んでよかったですね」
「君のおかげだよ。――色々とすまなかった。許してくれたまえ」
「佐々木さん……。いいんですよ。病気のせいなんですから」
朝田は至極愛想がよかった。「その内、またひと勝負といきましょう」
「お相手するよ」
佐々木は微笑した。朝田と彼女[#「彼女」に傍点]がどういう仲になろうと、もう何の関係もないんだ、と思った。
――朝田は大人だし、彼女にしても、自分のした事の意味は充分に分る|年《と》|齢《し》になっている。放っておくことだ。それが一番だ……。
この日もツイていた。バスは座れるし、各駅停車は一番暖かい隅の席を確保できた。が、あまり眠れないのは、しばらく、たっぷりと|睡《すい》|眠《みん》を取ったせいかもしれない。単調な時間を色々と考えながら、過ごしていると、どうしても彼女[#「彼女」に傍点]のことが脳裏をかすめる。
――今日は来るだろうか? 休んでいる間はどうしていたんだろう?
疑問に答えるべく、各駅停車が乗り|換《か》え駅に着いた。
――ともかく、いつも通りに……。
と佐々木はベンチに|腰《こし》を降ろした。もし現われたら、以前の通りの彼女のつもりで話をしよう。それが自分には似つかわしい役目だ。
「佐々木さん」
声に見上げると、朝田が立っていた。
「何か?」
「実は、ちょっとお話が」
「ああ、いいとも。どうぞ」
朝田が座った。
「誰かを待っているんですか?」
「彼女[#「彼女」に傍点]をね。いつもならもう来る|頃《ころ》だ」
朝田はしばらく考えてから、静かに口を開いた。
「佐々木さん。大変申し上げにくい事なんですが……」
「何ですか?」
「彼女は来ませんよ」
佐々木は、じっと朝田の顔を見た。
「すると、君が……」
「待って下さい」
朝田が|遮《さえぎ》って、「私はここしばらく、ずっとあなたの様子を見て来たんです。あなたがこのベンチに腰をかけて、まるで誰かと話しているように、独り言[#「独り言」に傍点]をおっしゃっているところを見たんです」
佐々木は長いこと|黙《だま》ってた。
「……独り言[#「独り言」に傍点]だって?」
「ええ」
「私が独り言を?」
「そうです。このベンチには、あなただけだったんです。あなたの言う彼女[#「彼女」に傍点]は、実在しないんですよ。あなたの空想の女性なんです」
佐々木は思わず笑った。
「下手な言い|逃《のが》れだ。君が彼女と旅館から出て来るのもちゃんと見ているんだよ」
「その点なんですが」
朝田は言った。「あなたは、私が女と旅館を出て来るのを見たんですね?」
「彼女と[#「彼女と」に傍点]ね」
「私が|浮《うわ》|気《き》をしていたのは事実です」
と朝田は|肯《うなず》いて、「しかし私が一緒に行ったのは、|馴《な》|染《じ》みのバーのホステスなんです。あなたの言う彼女[#「彼女」に傍点]じゃないんです」
「|馬《ば》|鹿《か》な! 私はあんなにハッキリと……」
「あなたにだけ、です。信じて下さい。その彼女は、きっとあなたの理想の人なんでしょう。だから|幻《まぼろし》となって出て来たり、私の相手がそう見えたりしたんですよ」
「|嘘《うそ》だ!」
「嘘じゃありません」
「信じるものか! 君は私が|気《き》|狂《ちが》いだと言うつもりか」
「|違《ちが》いますよ。ただ、ちょっと現実と想像の境を見失っただけです。こんなことがあったら、という気持が形になって現われたんですよ」
「いつから君は精神科の医者になった? そんなもっともらしい理屈でごまかそうたって、そうは行かん!」
朝田がため息をついて、
「それなら――なぜ今、彼女は来ないんです?」
佐々木は階段を見た。サラリーマン、OL、……次々に現われる顔の中に彼女はいなかった。
「なぜ今日は来ないんですか? 普段の日[#「普段の日」に傍点]だっていうのに」
朝田はくり返した。
「待て! 今来る。必ず来るよ!」
佐々木はじっと|祈《いの》るように階段を見つめた。
「もう急行が来ますよ」
「うるさい! 彼女は必ず来るんだ。今、改札を|駆《か》け|抜《ぬ》けてる。通路を走って――」
〈急行電車が参ります……〉
「佐々木さん。分ったでしょう。現実を見つめて下さい。彼女は来ません[#「来ません」に傍点]よ」
「いや……そんなはずは……ない」
佐々木はヨロヨロと、ベンチから立ち上ると、階段の方へ、よろける足取りで歩き出した。ちょうど熱にうかされていた時のように……。
「ほら……足音が聞こえる。……|弾《はず》むような……階段を上って来る。……ほら、今来るんだ……今、来る……」
階段の一番上に立って、佐々木は階段を見おろした。彼女[#「彼女」に傍点]が上って来るのが見えた。
――|遅《おそ》くなってごめんね、とその笑顔が言っている。彼女は来たんだ! 来たじゃないか!
不意に、彼女は、愛想のない中年の女性に変わった。前に立ちはだかる佐々木にチラリと|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》そうな|一《いち》|瞥《べつ》を投げて、よけて行った。
|凍《こお》りついたように、佐々木は立ち|尽《つ》くした。急行電車が停まっている。若いサラリーマンが階段を駆け上って来て、佐々木に|突《つ》き当った。
「どけよ!」
佐々木がよろけて後ずさりする。足が宙へ泳いだ。――落ちて行くという感覚はなかった。痛みも感じなかった。世界が|渦《うず》となって自分を|呑《の》み込んで行く。その中心に暗黒の|深《しん》|淵《えん》がポッカリと口を開けて、彼を待ち受けていた……。
「――本当に申し訳ありません」
朝田が頭を下げた。「私がご|一《いっ》|緒《しょ》しながらこんなことに……」
「いいえ、朝田さんが責任をお感じになる必要はございませんわ」
恒子が静かに言った。
「いや、病み上りでもいらっしゃるし、ずっとおそばに付いていてさし上げればよかったんです。今さら言っても|手《て》|遅《おく》れですが……」
「本当にご親切に」
悲しみの底に|沈《しず》められた人間の冷静さで、恒子は言った。「主人もいいお友達を持ったと喜んでおりましょう」
「|葬《そう》|儀《ぎ》の手配など、私に一切お任せ下さいませんか」
「まあ、そんな……」
「いや、そうしなくては私の気がすみません。ぜひ、そうさせて下さい」
「では……お言葉に甘えて」
恒子は頭を下げた。「一つ、お|伺《うかが》いしてよろしいでしょうか」
「何でしょう?」
「主人はどうして階段の所へ……」
「ええ、それは……どうもご存知の方をちょっとお見かけになったようで。後を追われたんですね。で、足を踏み外して……」
「そうですか」
恒子は肯いた。「|寂《さび》しかったのですわ、あの人は」
二週間が過ぎた。その朝はどんよりと|鉛色《なまりいろ》の空の下を、冷たい|木《こ》|枯《がら》しが|吹《ふ》き|荒《あ》れていた。各駅停車はいつも通りに到着した。
朝田は、ホームに出ると、ゆっくりとベンチに腰を降ろした。佐々木が座っていた、同じ場所だ。タバコを取り出し、火をつける。最初の|煙《けむり》を|吐《は》き出した時、階段を彼女[#「彼女」に傍点]が上って来るのが見えた。
「……あら」
彼女は意外そうに朝田を見たが、不愉快な|驚《おどろ》きではないようだった。
「やあ」
「あの人はどうしたの?」
彼女は朝田の|隣《となり》へ腰かけて|訊《き》いた。
「死んだ」
「ええ? 本当?」
「本当さ」
「どうしたの、一体?」
「階段から落ちてね」
「どこで?」
「ここさ」
「じゃ、今、私の上って来た階段?」
「そうだよ」
「知らなかったわあ……。いつ?」
「君の冬休みの最初の日さ」
「そうなの……。災難ねえ」
「全くだ」
朝田は大きく|一《いっ》|服《ぷく》|喫《す》って、「これで|僕《ぼく》らのことを知っている者はいなくなった」
彼女は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「そうね。でも、清々したみたいに言っちゃ、|可《か》|哀《わい》そうよ。悪い人じゃなかったわ」
「それはそうだ。いい人だった」
二人はちょっと|無駄話《むだばなし》をし、週末に会う|約《やく》|束《そく》をした。
〈急行電車が参ります〉
「……さて、じゃ行くよ」
「またね」
「あ、そうそう」
行きかけて朝田は振り向いた。
「忘れてた。明けましておめでとう」
彼女が笑った。
急行電車がホームヘ|滑《すべ》り|込《こ》んで来た。
一杯のコーヒーから
1
「お口に合いましたかしら?」
|皿《さら》を片付けながら、|百《ゆ》|合《り》|子《こ》が言うと、テーブルについていた客たちから|一《いっ》|斉《せい》に、
「いや、結構でした」
「おいしかったですよ、本当に」
といった声が上った。
「|皆《みな》さん本当にお上手で……」
と百合子が照れて笑う。
「いや、お世辞じゃありませんよ」
と言ったのは、よく口の回る男で、食事の間中、ほとんど一人でしゃべりまくっていた。それでいて、皿の料理が他の人間とほぼ同じ速度でなくなって行くのは、正にどんな手品も|敵《かな》わない|奇《き》|跡《せき》というべきだろう。
「あんまり|賞《ほ》めないでくれよ、|岩《いわ》|谷《たに》」
と言ったのは、この家の主人で、百合子の夫、|松《まつ》|田《だ》|啓《けい》|造《ぞう》である。「家内もあまり賞められると困るんだ」
「へえ、どうしてだい?」
「まずいと言われれば、味の研究と称して、いいレストランヘ連れて行かせる口実になるだろう」
「なるほど、そいつは気が付かなかった」
岩谷は大げさに感心して見せた。
「|僕《ぼく》の所じゃ毎晩『まずい』と言ってるが、|女房《にょうぼう》の|奴《やつ》、一向にそんな|殊勝《しゅしょう》なこと言わないぜ」
何もつめていないパイプをくわえて、|正《まさ》|木《き》が口を|挟《はさ》む。
「それは言ってもむだだってことを|奥《おく》さんが知ってるせいじゃないのか?」
と岩谷がからかった。
「さあ、みんな居間へ行って|寛《くつろ》いでくれよ」
と松田が席を立つ。
|椅《い》|子《す》がガタガタと動いて、三人の客――岩谷、正木、それに|比《ひ》|較《かく》|的《てき》無口な|永《なが》|本《もと》――は、松田に|促《うなが》されるままに居間へ移った。
最近のリビングルームという言い方より、「居間」と言った方がぴったりくる、広々として落ち着いた調度の整った部屋である。
「今、家内がコーヒーを|淹《い》れて来る」
と松田はロッキングチェアヘ|腰《こし》を降ろしながら言った。
松田は四十代の半ばだが、|髪《かみ》にはいくらか白いものが混じり始めている。当世には|珍《めずら》しい|象《ぞう》|牙《げ》の|塔《とう》タイプの学者で、いかにも|書《しょ》|斎《さい》で本を広げているのが一番似合いそうな、知的な|雰《ふん》|囲《い》|気《き》を|漂《ただよ》わせていた。
他の三人も、松田の大学時代からの友人なので、当然同じ年代であるが、岩谷はTV局に勤めているせいか、|服《ふく》|装《そう》が派手で、やたらに愛想良くしゃべりまくる|癖《くせ》がついているので、少し若く見える。
パイプを相変らず口から離さない正木は、医者である。大学の文学部で松田らと|一《いっ》|緒《しょ》だったのだが、|一《いっ》|旦《たん》卒業してサラリーマン生活を二年ほど送ってから、医者を志して大学へ入り直した努力家だ。
永本はこの仲間ではちょっと風変りで、ただ一人の自由業である。一応詩人ということになっているが、詩集を二、三冊出しているだけでは、とても生活してはいけない。実際の収入は、大部分が|翻《ほん》|訳《やく》や雑文の仕事によるものだった。
「奥さんは相変らず美人だな」
正木がパイプを|弄《もてあそ》びながら言った。「若くて、美人で、料理上手で……。言うことないじゃないか」
「一つ忘れてるぜ」
と岩谷が|早《さっ》|速《そく》口を|挟《はさ》む。「コーヒーを|淹《い》れるのが|巧《うま》いってことだ。何しろ松田はコーヒー党だからな」
「そいつがあったな」
と正木も|肯《うなず》いて、「奥さん、もともとコーヒー好きだったのかい?」
「まあそうだ。しかし、僕ほど|凝《こ》ってはいなかった」
「松田の|仕《し》|込《こ》みが良かったんだな」
岩谷の言葉に、松田はちょっと|微《ほほ》|笑《え》んで、
「まあ、最初の内は何度も淹れ直させたもんだよ。豆の|挽《ひ》き方からね。僕の好みの味になるまでに、まあ三か月ぐらいかかったかな」
「松田は幸せだよ」
と正木が言った。「そこまでやってくれる妻君なんか、今どきどこを|捜《さが》したっていやしない。うるさいことを言やあ、『そんなこと言うんだったら、自分でやりなさいよ!』と来るからね」
「|俺《おれ》の所はそんなことは言わないぜ」
と岩谷が言った。「最初からそんな|面《めん》|倒《どう》なことはやっちゃくれんからな」
「岩谷はもっぱらアルコールじゃないか」
と、永本がやっと口をきいた。
「そう。今はウイスキー専門さ」
「日本酒はやめたのか?」
「外じゃ飲むがね。つまみを作るのが手間だから、家ではウイスキーと決めてるんだ」
台所の方から、ブーンという音が聞こえて来た。
「何の音だい?」
と正木が|訊《き》く。
「豆を|挽《ひ》いてるのさ」
「電動のミルを使ってるのか」
「そうだよ。手でゴリゴリと挽くのは、雰囲気を味わうにはいいかもしれんが、挽き方にむらが出て、味には良くないんだ」
「さすが通[#「通」に傍点]だね」
「やあ、コーヒーの|香《かお》りが漂って来るじゃないか」
と岩谷が鼻をひくひくさせる。
「しかし、いい部屋だね」
正木が居間の中を見回しながら言った。「本当に|寛《くつろ》げるというか……。我々みたいに初めて来た人間でも、何かこう安心して落ち着けるって感じなんだ」
「このソファで、若い奥さんと二人で|旨《うま》いコーヒーを飲んだら、|絶妙《ぜつみょう》の味だろうな」
「何だか我々は余計者のようだな」
と正木は笑いながら言った。
「そりゃ仕方ないよ」
と岩谷がそれを受けて、「松田にも、これくらいのことは|我《が》|慢《まん》してもらわなきゃな。何しろ二十|歳《さい》も年下の教え子を女房にもらったら、少々いびられるのは|覚《かく》|悟《ご》しなきゃならんさ」
「まあ、ゆっくりして行ってくれよ」
と松田は|穏《おだ》やかに言った。「百合子の|淹《い》れたコーヒーはぜひ飲んでほしいからね」
そうだ。ぜひ飲んでもらわなければならない。――松田は思った。それが|総《すべ》てを明らかにしてくれる。
君ら三人の内の、|誰《だれ》が死ななければならないかを……。
|一《いっ》|杯《ぱい》のコーヒーから。――大分前にそんな歌があった。松田と百合子の間に、教授と学生という細い糸に加えて、もっと太いロープを|渡《わた》したのも、一杯のコーヒーであった。
むろんその|頃《ころ》は百合子の|姓《せい》はまだ松田ではなく、|山《やま》|中《なか》という、あまり|彼《かの》|女《じょ》にぴったり来ないものだった。
「君は山中というより町中[#「町中」に傍点]だ」
と松田は|冗談《じょうだん》で言ったものだ。
教授室のドアがノックされた時、松田は海外の|文《ぶん》|献《けん》を読んでいる所だった。
「どうぞ」
顔も上げずに返事をして、部屋へ入って来た足音が目の前へ来て止まってから、やっと文献から目を離した。目の前に、どことなく|見《み》|憶《おぼ》えのある女子学生が立っている。
「――何か用かね?」
松田が|訊《き》くと、彼女はちょっと面食らった様子で、
「先生があとで来るようにっておっしゃったんです」
と言った。
「そうだったかな。……何の用で?」
松田には、こういうことがちょくちょくあった。研究そのものが好きな学者というのは授業を余計な仕事と思っているものなのである。だから終ってしまうと、もうそこで何を言ったのか忘れてしまっているのだ。
「あの……レポートを出さなかったからです」
半ば|呆《あき》れ顔でそう言ってから、「たぶん、そうだと思います」
と付け加えた。
「ああ、そうか」
と|肯《うなず》いたものの、松田はまるで思い出せなかったのである。「――名前は?」
「山中百合子です」
「ふむ……」
今文献を読んでいる所だから、帰っていいと言いたかったが、何といっても教授として給料をもらっているのだ。一応、その義理を果たすためにも、何か言う必要があるかもしれない。
「それで、どうしてレポートを出さなかったんだね?」
「実は……」
と言いかけて、山中百合子はためらった。何か言い訳を考えてるのかな、と松田は思った。さて、何を言い出すか。急に頭痛がしたとか、親が急病でとか、近所で火事があってとか……。学生は色々と言うものだ。
「ゆうべ、やろうと思って、|机《つくえ》に向ったんです。それで……」
「それで? 何かあったのかね?」
「あの……本当に|馬《ば》|鹿《か》げてるとお|怒《いか》りになるかもしれませんけど……」
「言ってごらん」
「はい」
山中百合子は思い切ったように言った。
「コーヒーを切らしてたんです」
「――何だって?」
松田は|訊《き》き返した。
「あの……コーヒーを飲まないと、私、何もできない|性《た》|質《ち》なんです。癖というか……習慣で。食事の後も必ず飲みますし、朝、昼、晩、一杯ずつは飲まないとだめなんです。それが……ゆうべに限って、コーヒーの粉を切らしてしまっていたんです。帰りに買って帰ろうと思っていたんですけど、|遅《おそ》くなって、店は閉まっているし……」
「しかし……」
と言いかけて、松田の方も相手のためらいがちな口調が移ったらしい。「それなら、君……|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》へ行けばよかったんじゃないのかね?」
「下宿の近くには、バーやスナックはあるんですけど、喫茶店はないんです。それに|酔《よ》っ|払《ぱら》いが多いので、夜は外へ出にくくて……」
「ふむ」
「それで、ないとなると気分が|苛《いら》|立《だ》って、どうしても集中できないんです。夜中の三時頃まで、一行書いては放り出し、また一行書いて……。結局、とても間に合いそうもないと分ったので、|寝《ね》てしまいました」
こんな言い訳を聞いたのは初めてだった。さすがに松田もしばらく言葉がなかった。
「それで……どうしたのかね?」
「え?」
「いや、つまり……今日はコーヒーを飲んだのか?」
「え、ええ……。学生食堂で昼に」
「学生食堂のコーヒーを?」
「そうです」
松田はやおら机をドンと手で|叩《たた》いて立ち上った。
「何てことだ!」
山中百合子は小さくなって、
「すみません」
と頭を|垂《た》れた。
「あんなひどいコーヒーを飲んで満足したのか、君は?」
「え?」
「あんなものは|泥《どろ》|水《みず》だ! コーヒーなどという代物じゃない! 君はどう思うんだ?」
問い|糺《ただ》されて、山中百合子は、
「はい……。ひどい味だと思いますけど」
と|恐《おそ》る恐る答えた。
「ひどい? ひどいなんてものじゃない。あれはコーヒーを|侮辱《ぶじょく》している!」
断固たる口調でそう言うと、松田は|本《ほん》|棚《だな》の|端《はし》の引出しの方へ|大《おお》|股《また》で歩いて行き、中から、コーヒーの粉を小さなガラスびんに|詰《つ》めたものと、ドリップ一式を取り出して来て、
「さあ、君に本物のコーヒーを飲ませてやる。君、ええと……名前は何といったかな?」
「山中です」
「山中君、湯を|沸《わ》かして持って来たまえ」
「は、はい」
何がどうなっているのやら、さっぱり分らないままに、山中百合子は|慌《あわ》てて給湯室へ走り、熱湯をポットに入れて、持って来た。ドリップにペーパーフィルターを|敷《し》いて待ち構えていた松田は、
「ご苦労さん。さあ、貸しなさい」
とポットを受け取った。|狐《きつね》につままれたような顔の山中百合子をよそに松田は|手《て》|馴《な》れた様子でコーヒーを|淹《い》れた。教授室にコーヒーの香りが満ち|溢《あふ》れんばかりになる。
「――さあ、できた。一杯飲みたまえ」
松田は、|渋《しぶ》い色合のコーヒーカップにコーヒーを注ぎ、彼女へ出してやった。
「どうも……」
|椅《い》|子《す》にかけて、コーヒーをすする。
「どうだね?」
「とってもおいしいです」
本当は味どころではない心境だった。
「あの、先生……」
「何だ?」
「レポートの方は?」
「ん? ああ、そうか。三日以内に出せばいい」
「ありがとうございます」
と、ようやく|頬《ほお》が|緩《ゆる》んだ。
松田も自分で|淹《い》れたコーヒーをすすりながら、
「いや、僕もね、コーヒーを飲みながらでないと、何もできない。コーヒーの豆はあまり|沢《たく》|山《さん》買い置きしておくと湿気が来る。少ないと、ついうっかりして切らしてしまう……。君の気持は良く分る」
「そうおっしゃっていただくと……。ほっとしました。きっと|怒《ど》|鳴《な》りつけられるだろうと覚悟していたんです」
松田は笑顔になって、
「しかし、実にユニークな理由だったね。たとえ君の創り話だったとしても、その独創性には敬意を払うよ」
「本当です! 私、|嘘《うそ》なんかつきません!」
山中百合子は、むきになって言った。
「分った、分った。信用するよ」
松田は|慌《あわ》てて言った。――今まで、特別目に止めたこともない、一女子学生が、急に身近な存在のように感じられる気がした。
「ところで君……ええと、中山[#「中山」に傍点]君、だったかな?」
2
「すみません、お待たせして」
と百合子が居間へ顔を出した。
「どうしたんだ?」
と松田は百合子の方へ向いて|訊《き》く。
「ちょっと|淹《い》れそこなっちゃったのよ」
「何だって?」
「お客様がいらっしゃると思って、きっと|緊張《きんちょう》しちゃったのね」
「我々のことならお構いなく」
と正木が言った。
「そうですよ、どうせコーヒーとは紅茶でない飲物だ、ぐらいにしか思ってないんですから」
と岩谷も軽口を|叩《たた》く。
「僕が行こう。――ちょっと失礼するよ」
松田は立ち上って、百合子を促し、台所へ行った。
「――どうしたんだ?」
「ごめんなさい」
百合子は手を額に当てて首を|振《ふ》った。「ちょっと気分が悪くて……。ぼんやりしてたら、粉がふくらみすぎちゃったのよ」
松田はドリップで落としたコーヒーを、カップに少し注いで口に含んだ。
「なるほど、これじゃだめだ」
「|淹《い》れ直すわ」
「いや、僕がやるよ。君はそこに座って休んでいたまえ」
「もう|大丈夫《だいじょうぶ》よ」
「しかし、顔色があまり良くないぞ」
「お客様で、ちょっと|疲《つか》れただけよ」
「本当にいいのか?」
「ええ」
と百合子は|肯《うなず》くと、「今度はちゃんと淹れるわ」
と豆の入ったガラスびんを手に取った。
「ケーキはどうした?」
「あ、そうだったわ」
百合子はため息をついて、「どうかしてるわ、私。せっかく作っておいて忘れるところだった」
と冷蔵庫から手製のチーズケーキを出して来た。
「生クリームをのせたのかい?」
と松田が言った。
「ええ。まずかったかしら?」
「いや、そんなことはないがね。|一《いっ》|緒《しょ》に出すとコーヒーの味が分らなくなる」
「そうね。それじゃコーヒーの後に出した方がいい?」
「そうしてくれ」
「分ったわ。切り分けて置いておくから……」
「じゃ、|頼《たの》むよ」
「ええ」
百合子は|微《ほほ》|笑《え》みながら肯いた。――その微笑みが、以前はどんな|魅力《みりょく》的な研究よりも松田の胸をときめかせたものだ。それが今は……。
居間へ|戻《もど》ると、永本が|飾《かざ》り棚に|並《なら》んだ各国の人形を|眺《なが》めている。岩谷と正木は、医者が果して不当な利益を得ているか否かについて議論を|闘《たたか》わせていた。
「しかし、何と言っても開業医の大部分が外車を乗り回し、家を新築し、|同《どう》|年《ねん》|輩《ぱい》のサラリーマンとは比較にならない|暮《くら》しをしているのは事実だぜ」
「それは一部だよ。とかくそういうのが目に付くというだけさ」
「そうかね。むしろ、そうでない方が一部と言った方が正確じゃないのか」
すると、永本が二人の話ヘ口を|挟《はさ》んだ。
「どっちにしろ一つ確かなのはだな――」
「何だ?」
「詩人という|奴《やつ》は例外なく貧乏だってことさ」
「そいつは仕方ないさ」
と岩谷が言った。「詩人は|高尚《こうしょう》な仕事だからな。|誇《ほこ》りを取るか金を取るか、二つに一つだ。両方は手に入らないもんだよ」
「まあ、それは無理かもしれないな」
と松田はソファヘ戻って、「人間、自分に不相応なものは望まないのが安全だよ」
と言った。その口調に、|微《かす》かに苦いものが混じっていることには、|誰《だれ》も気付かなかった……。
「正木、君は相変わらず|彫《ほり》|物《もの》の|趣《しゅ》|味《み》は続けているのか?」
松田はさり気ない調子で|訊《き》いた。
「いや、今はさっぱりだ」
正木はパイプの形を指でなぞりながら言った。「手をけがしたら、手術の時に困るからね」
「なるほど。しかし君は器用だからなあ。手術もさぞかし|手《て》|際《ぎわ》がいいだろう」
「いや、何しろ相手は木や革じゃない。生身の人間だからね。まるで別物さ。つい、固い物を|削《けず》ろうとするときのつもりで手に力を入れそうになって困るよ」
「君に作ってもらった革のキーホルダーは今でも愛用してるよ」
「|俺《おれ》だってさ」
と岩谷がポケットから当のキーホルダーを取り出した。「この|浮《う》き|彫《ぼ》りのみごとなことは、全く|惚《ほ》れ惚れするな!」
「これは誰か他にも作ってやったのかい?」
と松田は訊いた。
「いや、これはこの四人のためだけに作ったんだ。他にはないよ」
「正に貴重品ってわけだな」
「今だから言うがね――」
と正木はちょっといたずらっぽい笑みを浮かべて、「あれには材料費だけで一個一万円以上かかっているんだ」
「へえ! そんなにしたのか」
岩谷が目を丸くした。
「じゃ、ますます大切にしなきゃならんな」
「やらないでよかったよ!」
「何だ、岩谷、誰かにやろうとしたのか?」
「いや、実は――ほら、女優の|篠《しの》|塚《づか》|良《よし》|子《こ》っているだろう。彼女が俺のこいつに目をつけてね。何でも革製品をコレクションしてるらしいんだな。――で、すっかり惚れ|込《こ》んで、どうしても欲しいってんだ」
「断ったのか?」
「もちろんさ! でなきゃ、ここに持ってるわけないだろ」
「それもそうだな」
「しかし――」
と正木が言った。「女優なんて、我ままな人種だろう。|怒《おこ》ったんじゃないか?」
「ああ。すっかりすねちまってて、ちょうど本番前だったんだ。ほら、〈アイドルの顔〉って番組があるだろう」
「ああ。そういえば先々週ぐらいに、篠塚良子が出てたんじゃないかな」
「そうだ。ま、ビデオ|撮《ど》りは一か月以上前だがね。あの時さ。何しろ|仏頂面《ぶっちょうづら》して出られちゃ|敵《かな》わないから、後で必ず同じのを|捜《さが》してやると|約《やく》|束《そく》して、やっとなだめたのさ」
「それで、どうしたんだ?」
と松田は|訊《き》いた。
「女優って|奴《やつ》は移り気だ。次に会った時はもう忘れてケロリとしてたよ」
と岩谷は笑いながら言った。
女優だけが移り気なわけではない、と松田は思った。女は移り気なものだ。女という奴は……。
松田は四十にもなって、二十|歳《さい》そこそこの娘に|夢中《むちゅう》になろうとは、夢にも思っていなかった。それも自分の教えている学生に。――|同僚《どうりょう》の中にも、学生と関係を持って楽しんでいる|輩《やから》がいないではなかった。松田は別に厳しい道徳観念の持主ではないが、そんな話を耳にすると、やはり思わず顔をしかめたものだ。
教授と学生というのは、何といっても対等な立場ではない。|年《ねん》|齢《れい》的に言ってもそうである。そういう状態での|恋《れん》|愛《あい》というのは、やはり一時的なものに終る公算が強い。
だから松田は、自分が山中百合子に強く|魅《ひ》かれていることは卒直に認めながら、決して我を忘れるような|真《ま》|似《ね》はしなかった。
他の学生の目もあり、二人はごくごく|慎重《しんちょう》に、食事を|一《いっ》|緒《しょ》にしたりする程度の付き合いをしばらく続けていた。松田にしてみれば、百合子のような若い美しい娘にとっては、自分は本気で愛する対象とはなり得ないに決っていると思っていた。
だから、食事をしていても、少し自分の方が一方的にしゃべってしまったな、と思うと、
「退屈じゃないかい?」
と訊くのだった。百合子はその度に、
「いいえ、面白いわ」
と答える。しかし、松田には、それが果して本心なのか、年上の人間への思いやりなのか、判断がつきかねるのであった。
そのままいけば、二人の間は、ただ教師と学生というだけで終っていただろう。それが変わったのは、百合子が、
「先生のマンションヘ遊びに行ってもいい?」
と言い出したからだった。松田は彼女の言葉の意味をどう取っていいか分らなかったが、ともかく、
「構わないよ」
と答えた。――彼女はただ、ちょっと好奇心を起こしただけだ。それだけの事だ。松田は自分へそう言い聞かせた。
しかし、その日一日、松田はどうにも落ち着かなかった。授業をしていても、つい心ここにあらず、といった有様だし、気を|鎮《しず》めようと、海外の|文《ぶん》|献《けん》を読んでいても、どうしても身が入らない。
そんな自分に腹立たしさを覚えながら、午後の授業を終え、自分の部屋へ|戻《もど》ろうとして、松田は、|芝《しば》|生《ふ》に座っている百合子を見かけた。一緒に座っているのは、同じ学年の、|信《のぶ》|沢《さわ》という男子学生で、二人は何をしゃべっているのか、ぴったりと寄り|添《そ》って、|愉《ゆ》|快《かい》そうに笑い合っていた。信沢の手が百合子の|肩《かた》へ回ると、百合子は信沢の肩へ頭をもたせかけて、しなだれかかる。――それはどう見ても、若い|恋《こい》|人《びと》たちの図だった。
その時、松田は初めて燃え立つような|嫉《しっ》|妬《と》が胸を満たして|吹《ふ》き上げて来るのを感じた。それほどまでに自分が百合子を愛していることを、胸を|刺《さ》す苦痛とともに思い知ったのである。
松田は走るような足取りで、自室へと戻った。
その日、授業が終ってから、いつも決めてある|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》で落ち合い、松田は百合子をマンションヘ連れて行った。
だが、松田は、どうしても、いつものように|滑《なめ》らかに口をきくことができない。百合子の方は、そんなことにはお構いなく、一人|暮《ぐら》しのマンションを|隅《すみ》から隅まで見て回り、
「ずいぶんきれいになってるわね」
と感心の|体《てい》だ。
「そうかね」
「でも、地味すぎるわ。カーテンも、カーペットも、暗すぎるわよ」
「まさか|花《はな》|柄《がら》ってわけにもいかないだろう」
「それにしても、これじゃ|老《ふ》け込んじゃうわ。まるでご|隠《いん》|居《きょ》さんの住まいよ」
「君は厳しいことを言う」
と松田は苦笑した。「――まあこの|年《と》|齢《し》だ。それでもいいじゃないか」
「四十を過ぎたばかりで、そんな年寄りじみたこと言って……」
「若くはない」
「そういう気分になるのよ、部屋が地味だから」
と百合子は部屋の中を見回して、「――もし、私が住むとしたら、カーテンは|淡《あわ》いオレンジにするわ。カーペットも、せめて明るいグリーンくらいにして」
松田は、また胸苦しさに|捉《とら》えられるのを感じた。
「しかし……そんなことは……」
「そんなこと、って?」
「君がここに住むなんて……。そんな気持はないだろう?」
百合子はじっと目を見開いて松田を見つめながら言った。
「そうさせたいの?」
「それは……。そう思っても、それは君のためになるかどうか……」
松田は|曖《あい》|昧《まい》な言い方しかできなかった。
「先生の気持が知りたいだけ」
と百合子は、ソファの上で、松田の方へにじり寄った。「そうさせたいのかどうか」
松田は、芝生で寄り添っていた彼女と信沢のことを思い浮かべた。そうだ。彼女には、同じ世代の若者が|相応《 ふさわ》しいのだ……。
「――ここに住んでほしい」
松田は、いつの間にか、そう口に出していた。百合子は大きく息を|吐《は》き出した。
「先生がそう言ってくれるのを待ってたのよ!」
「しかし……」
松田は自分の耳を疑った。「君は……そんなこと一度だって……」
「私から言わせたかったの?――先生は安全すぎるわ。こうやってマンションにやって来たのに。それでも何も[#「何も」に傍点]しないで帰すつもりだったの?」
「だが、|僕《ぼく》はもう中年だ」
「平均寿命は延びてるのよ。きっと、まだまだ延びるわ」
百合子が|唇《くちびる》を寄せて来た。松田は、|驚《おどろ》くほどか細い、今にも|壊《こわ》れてしまいそうな彼女の体を|抱《だ》き寄せた。二人はそのままソファの上へ折り重なって……松田は、初めて我を忘れた。
――熱いほてりの残る顔を彼の方へ向けて、百合子は、
「先生を引っかけたわ」
と言った。松田は|戸《と》|惑《まど》って、
「引っかけた?」
「今日、芝生で信沢君と座ってたのを見てたでしょ」
「知ってたのか」
「先生に見せたかったんだもの」
「何だって?」
「少しはやきもちをやいて、私を|独《どく》|占《せん》したくなるかと思って」
「そのために見せつけたのかい?」
「ええ。効き目はあった?」
松田は笑い出した。
「大ありだよ。しかし、信沢君は――」
「彼には悪いことしちゃったわ」
と至って平気な口ぶりで言うと、「でも、人生、人を傷つけたり、傷つけられたりして生きていくのよね」
と勝手な理屈をつけている。
「そうかもしれないが……さぞ腹を立てるだろうな」
「|大丈夫《だいじょうぶ》よ。すぐ他の子を見付けるわ」
百合子はあっさりと片付けて、「もう一度抱いて……」
と彼を抱き寄せた。
松田は、ここ何十年か、我を忘れたことなどなかったのに、いきなり一日に二度も我を忘れるはめになってしまったのだ。
3
「今度は|巧《うま》く行ったわ」
百合子が、コーヒーカップを|載《の》せた|盆《ぼん》を手にやって来た。
「何だ、こっちでカップヘ|注《つ》げばよかったのに」
「そう思ったんだけど、お客様の前じゃ手が|震《ふる》えそうで。こぼしたら失礼でしょう」
「まあいい。――飲んでくれ。この後、手造りのケーキが出る」
「そいつは楽しみだね」
正木が一番にカップを取り上げた。
「あの、ミルクかお砂糖は……」
「いや、僕はブラックで飲みます」
と正木は言った。「病院で宿直の時に、|眠《ねむ》|気《け》ざましに飲むだろう。ブラックの|癖《くせ》がついてね。――うん、こいつは|旨《うま》い。|辛《から》すぎず、酸味も強くない。素晴らしいですね、|奥《おく》さん!」
「|嬉《うれ》しいですわ、そうおっしゃっていただくと」
「病院のコーヒーはこれとは似ても似つかぬ味だよ。もっともこんなに旨くちゃ目が覚めないかもしれんが」
「|俺《おれ》はミルクも砂糖も両方だ」
と岩谷がカップを引き寄せる。
「旨いコーヒーは一口だけブラックで飲んでみるもんだ」
と正木が言った。
「そうか?――うん、なるほど。……しかし、やっぱり入れるよ俺は」
一口飲んでから、岩谷はミルクを少し入れ、砂糖を一さじ入れた。「――いや、旨い! さすがだな」
「永本は?」
永本の姿が見えないのに気付いて、松田は見回した。そこへ当の永本が台所の方から戻って来て、
「やあ、すまん。ちょっとトイレを借りてたんだ」
「ほら、早く飲まないとコーヒーがさめるぞ」
と岩谷がわざとせかせる。
永本はカップを取り上げるとそのまま一口飲んで、
「――苦いな、やっぱり本物は」
と顔をしかめ、砂糖を|三《さん》|杯《ばい》も入れた。岩谷が|呆《あき》れ顔で、
「甘すぎないか?」
と|訊《き》く。永本は平然として、
「俺は甘党なんだ」
「詩人ってのは、みんな酒のみかと思ってたよ」
と正木が|愉《ゆ》|快《かい》そうに言った。「大福をムシャムシャ食ってる詩人ってのは、どうもピンと来ないなあ」
松田は|微《ほほ》|笑《え》みながら、じっと永本を見つめていた。そうだったかな。君はそんなに甘党だったか……。
「信沢君じゃないか」
教授室へ入って来た、背広姿の青年に、松田はいささか戸惑ってから、やっと気が付いた。
「どうもお久しぶりです、先生」
「いや、|見《み》|違《ちが》えたよ。すっかりビジネスマンだね」
「サラリーマンと言って下さい。ビジネスってほど格好良くはないんですから」
「まあかけたまえ。――コーヒーでもどうだね? ちょうど今|淹《い》れようと思っていたところだ」
「そうですか。もしついでということでしたら……」
「待っていたまえ」
――松田は湯を|沸《わ》かして来ると、コーヒーを|淹《い》れた。
正直なところ、信沢がなぜやって来たのか、松田には分らなかった。教え子には違いない。しかし、もう卒業して二年以上である。
学生によっては、卒業してからもよく訪ねて来る者もあるが、信沢はそんなタイプでもないし、現実に、卒業以来一度も来たことはないし、電話や手紙を寄こしたこともなかった。それがなぜ|今《いま》|頃《ごろ》になって顔を出したのか……。
「旨いなあ」
一口飲んで、信沢は首を|振《ふ》りながら言った。
「そうかね」
「奥さんもこれに参ったんですね」
「家内が?」
「そう言っていましたよ。先生に|淹《い》れてもらったコーヒーにうっとりしたんだって」
「そんなことを言ってたかね」
と松田は苦笑した。
松田と百合子は、百合子の卒業を待って|結《けっ》|婚《こん》した。周囲は|仰天《ぎょうてん》したものだ。松田もずいぶん学生たちから冷やかされた。しかし、一番ショックを受けたのは、信沢だったろう。百合子はあまり話さなかったが、式を挙げる前、信沢はかなりしつこく会ってくれと|頼《たの》んで来たらしかった。
松田も信沢にいささか同情していたが、自分は口を出さない方がいいだろうと思っていた。――百合子の言葉ではないが、信沢はまだ若いのだ。社会人一年生として職場に|馴《な》れるのに夢中になっている内に、古い恋は忘れて行くに違いない。
「――奥さんはお元気ですか?」
と信沢が|訊《き》いた。
「ああ、元気にやってるよ」
「もう二年ですね。――そろそろ子供でもどうなんです?」
「こればっかりはどうもね。論文をいくら読んでもできるというものじゃないし」
と松田は、やや内心に|苛《いら》|立《だ》ちを覚えながら、表面は笑顔を絶やさなかった。
結婚以来、松田は以前にはなかった苛立ちや|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》に|捉《とら》えられることがあった。自分は常に理性的な人間だという信念は、このところ|揺《ゆ》らいでいた。しかし一方では、百合子という妻を|傍《かたわら》にして、今まで味わったこともない安らぎと|充実《じゅうじつ》を得ていることも確かなのだ。
一方でプラスになれば、その分がマイナスになって、バランスを取るのかもしれない、と松田は思っていた。
「今日は何か用なのかね?」
と松田は訊いた。
「いえ、別に……。仕事でこの近くへ来たものですから、ちょっと寄ってみたんです。お|邪《じゃ》|魔《ま》でしたか」
「いや、そんなことはないさ。――君のことは時々家内とも話しているんだ」
それは出まかせだった。結婚以来、信沢の名は二人の口に上ったことはない。
「奥さん、|憶《おぼ》えて下さってるんですか? それは|嬉《うれ》しいな」
信沢は真に受けたらしく、笑顔になって、言った。
「君はどうなんだ? その……」
「結婚ですか」
「うん。もうそろそろいいんじゃないかね」
「まだ仕事をこなすので精一杯ですよ。とてもとても……」
「そうか。まあ、急ぐこともあるまいがね」
「ええ。四十くらいまで独身でいると、先生みたいに、すばらしい女性をつかまえられるかもしれませんからね」
松田は、信沢がどういうつもりで言っているのか、分らなかった。|妙《みょう》に|絡《から》んで来るような物の言い方だが、口調は至ってさばさばして、下心があるようにも見えない。
「まあ……まぐれってものさ」
と松田は言った。
「家を建てられたんでしょう?」
「うん、ついこの間だ」
と言ってから、「どうして知ってる?」
「大学院に残ってる|奴《やつ》から聞いたんですよ。郊外の方でしょう?」
「そう、まだ大分、林が残っている。遠くはなったが、のんびり過すにはいい所だよ」
「退屈しませんか?」
「いや別に。夜は静かだし、本を読んだり、音楽を聞いたりするにはもって来いの|環境《かんきょう》だからね」
「そうですか。でも僕だったら|堪《た》えられないだろうなあ。|刺《し》|激《げき》が無さすぎて。少しぐらい住み|辛《づら》くても都会の方がいいですよ」
松田は空になったコーヒーカップをそっと受け|皿《ざら》に戻した。――僕だったら堪えられない。それは同じ年齢の百合子にも当てはまると言いたいのだろうか。
「家内は別に文句も言わないがね」
と松田は言った。
「そうですか。でも、たまにはこちらへ出て来られるんでしょう?」
「|越《こ》してからはまだ一度も出ていないんじゃないかな。――まあ、もちろん越した当初は色々と買い|揃《そろ》えるので、何度か出かけたが……」
「じゃ最近はさっぱり?」
「そうだな。まあ、まだ越して一月半だ。最近といってもこの一月くらいのことだがね」
「そうですか」
ふと目をそらしてそう言った信沢の口調には、何か含みがあるように聞こえた。
「何だか気がかりな様子だね」
「えっ? いえ、別にそんなことはありませんよ」
信沢は|慌《あわ》ててそう言うと、だしぬけに立ち上った。「どうもお邪魔しました」
「帰るのかね?」
「これから仕事ですよ」
「そうか……」
「どうもコーヒーをごちそうさまでした」
「また飲みに来たまえ。こんな物でよかったら、いつでも作ってあげる」
「ありがとうございます」
と信沢は会釈して、部屋を出ようとして振り向くと、「奥さんによろしく」
と一言言って、出て行った。――その日一日、松田は訳の分らぬ|苛《いら》|立《だ》ちに取りつかれていた。
夕食の時、松田は信沢がやって来たことをさり気なくしゃべった。
「あら、本当? 元気そうだった?」
「ああ。仕事の|途中《とちゅう》だと言って、コーヒーを一杯飲んで帰って行ったよ」
「そう。――今日の|煮《に》|込《こ》みはどう?」
百合子は大して関心もなさそうだった。
「うん、このくらいが適当だな。……君によろしくと言っていたよ」
「え? ああ、信沢君ね。――まだ独身なのかしら」
「そう言っていたな」
「早く|誰《だれ》か見付ければいいのにね」
松田はちょっと間を置いてから、言った。
「君に同情していたよ」
「同情? どうして?」
「君のような若い女性が、こんな|田舎《 いなか》で、年寄と|暮《くら》しているのが|可《か》|哀《わい》そうだと言ってね」
「まあ、ずいぶんご親切ね」
と百合子は屈託なく笑った。
「――どうだい、時には都心へ出ちゃ」
松田は食後のコーヒーをすすりながら言ってみた。
「そんなに気を|遣《つか》わないで。私は我ままですからね、出たくなれば、だめだと言われたって出るわよ」
百合子の言葉に、松田はホッと|頬《ほお》が|緩《ゆる》むのを感じた……。
大学の松田へ、信沢から会いたいという電話が入ったのは、ちょうど一週間後のことだった。
「何の話かね。大学へ来ないで、こんな店へ呼び出して」
午後、授業の合間に大学近くの|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》で信沢と会った松田は、苛立ちを|隠《かく》し切れずに言った。
「すみません」
信沢は真顔で言った。「先生にお話ししようかどうかと、ずいぶん迷ったんですが……」
「どういう話かね?」
信沢は、すぐには答えず、ウエイトレスが松田の前に紅茶を置くまで待った。
「コーヒーじゃないんですか」
「こんな店のコーヒーなど飲むに|堪《た》えんよ。おまけに紅茶も苦いと来ている」
松田は紅茶にたっぷりと砂糖を入れた。
「――それで話というのは?」
信沢は、ちょっとの間、どう切り出してよいか迷っている様子だったが、やがて、
「昨日、奥さんは外出されましたか?」
と|訊《き》いた。
「家内が?――いや、出かけてはいないよ。まあ、近所の買物ならともかく……」
「いえ、都心の方へです」
「それなら出て来てはいないはずだ。――どうしてだね?」
信沢は一呼吸置いて、
「昨日、奥さんをお見かけしたからです」
と言った。
「見かけた? どこで?」
「|渋《しぶ》|谷《や》にある〈R〉という喫茶店です」
「|人《ひと》|違《ちが》いだろう」
信沢は首を振った。
「いくら何でも見間違えはしませんよ。一度は――好きになった相手です。しかも|僕《ぼく》も同じ店にいたんですから」
松田は、何と言っていいか分らなかった。信沢が|嘘《うそ》をついているかもしれないと思ったが、面と向って「嘘つき」呼ばわりすることもできない。
「それはまあ……|黙《だま》って出かけたのかもしれないが……」
「先生。一週間前に先生のお部屋へお邪魔しましたね。実はその時も、前の日に奥さんを同じ店で見かけたんです」
「君は何が言いたいんだ?」
と松田はさすがにたまりかねて言った。
「奥さんが……男の人と会っているのを見たんです」
――松田は笑おうとしたが、できなかった。自分がこれほど自分の意志に逆らったのは、初めてのことだった。
「先週見かけたのは|偶《ぐう》|然《ぜん》でした」
と信沢は続けた。「ちょうど、その時、僕は先に店に入っていて、入口の方へ背を向けて座っていたので、奥さんは何も気付かずに、僕の後ろの席に座りました。僕も奥さんの声を耳にして、おや、と思ったんです」
「誰と会っていたんだね?」
「知りません。男の人で……たぶん、先生と同年輩だと思います」
「僕と同年輩?」
「そうです。――二人の話はいやでも僕の耳に入って来ました。そして二人は店を出る時に、『来週の今日、同じ時間に』と|約《やく》|束《そく》して別れたんです。それで……昨日、気になったので行ってみたんです」
「そこに家内がいたと言うんだね」
「そうです。今度は用心して、少し離れた席に座ったんですが、相手の男性は先週と同じ人でした。角度の関係で顔は分りませんでしたが」
「それで……家内とその男が何だというんだね?」
「僕にも分りません」
と信沢は首を振った。「何でもないのかも――いや、たぶん何でもないんだと思いますが……」
「それなら、もうそんな話はよせ!」
松田は急に|怒《ど》|鳴《な》り出すのを|抑《おさ》え切れなかった。
「すみません」
信沢は素直に謝った。「こんな不確かな話で、先生にご心配をおかけして……。忘れて下さい」
と立ち上りながら伝票を取ろうとする。松田がその手を|押《おさ》えた。
「いえ、これは僕が――」
「君は話を聞いたんだな」
と松田は言った。信沢はゆっくりと席に|戻《もど》った。
「そうです」
「二人は何をしゃべっていた?」
「さあ……。低い声で、断片しか聞き取れませんでしたが……」
「聞こえた|範《はん》|囲《い》でいい」
「はあ。『これは主人に絶対知られちゃ困る』と奥さんが言うと、相手の男は『どうせいつかは分ることなんだから』と……」
「他には?」
「あまりはっきりとは……」
「男の名前を呼ばなかったか?」
信沢は少し考えてから、
「いいえ、呼びませんでしたね。――あ、ただ、こんなことを……」
「何だ?」
「いえ、二人が席を立った時、男の方が、キーホルダーを落としたんです。チラッと見たんですが、先生がお持ちの、革細工のキーホルダー、あれとそっくりでした」
「これかね?」
と松田がポケットからキーホルダーを出して見せる。信沢は|肯《うなず》いて、
「そうです。で、奥さんが、『主人のとそっくりね』と言うと、男の方が、『これは我々四人しか持っていないんだ』と言っていました」
「我々四人?――そう言ったのか?」
「ええ、確かです。心当りがありますか?」
信沢の話が|嘘《うそ》なら、そんなことまで知っているはずはない。信沢の話は事実なのに違いない、と松田は思った。
「それで、その男の様子は分らなかったのか? 背が高いとか低いとか……」
「そうですねえ……。後ろ姿をチラリと見ただけですから。中肉中背って感じでしたかねえ」
それだけでは誰とも決められない。他の三人はみんな似たような背丈、体つきだったからだ。
「――先生、奥さんにもきっと何か事情があったんですよ。耳を貸してあげて下さい」
「君には感謝するよ。いや本当だ。――家内とはよく話し合ってみよう」
「そうして下さい」
二人は席を立った。松田が伝票を取ると、信沢がふと、
「昨日は奥さんが|払《はら》っていましたよ」
と言った。「相手はあまり金持ちじゃないのかもしれませんね」
「金持ちでない|奴《やつ》といえば、みんなそうだよ」
と金を払いながら、松田は言った。
「そうだ。一つ思い出したんですが――」
表へ出てから、信沢が言った。
「何だね?」
「その男、コーヒーに砂糖を三杯も入れてました。奥さんがびっくりしてたんです。『三杯も入れて甘すぎないの』って言っていましたよ」
コーヒーに砂糖を三杯……。松田は考えた。あの三人の内の誰がそんなに甘党だったろうか? 思い出せない。|一《いっ》|緒《しょ》にコーヒーを飲んだのは、もう何年も昔だ。それに、最近になって甘いのが好きになったのかもしれないし……。
「いや、色々とありがとう。よく話してくれた」
別れ際、松田は信沢の手を|握《にぎ》って、そう言った。信沢は、急に|老《ふ》け|込《こ》んだような、松田の後ろ姿を見ながら、口の|端《はし》に笑みを|浮《う》かべた。
そうとも、何一つ嘘はついていない。ただ、ちょっと省いた所があるだけだ……。
「少しは|俺《おれ》と同じ気分を味わえばいいんだ」
信沢は|吐《は》き捨てるように言った。
4
「分らんもんだな、人の命なんて」
岩谷がため息と共に言った。
「全くだ」
正木は医者だけに、人の死には慣れているのか、口調はあくまで静かだった。
永本の|棺《かん》を納めた|霊柩車《れいきゅうしゃ》は、やがて遠ざかって見えなくなった。
三々五々、|会《かい》|葬《そう》|者《しゃ》たちも帰って行った。
「我々も帰るか」
と正木が言った。――松田と岩谷は、|黙《だま》って|一《いっ》|緒《しょ》に歩き出した。
「全く、ついてない男だな」
と岩谷は言った。「あんな、金なんか持っていそうもない|奴《やつ》を|襲《おそ》うなんて、ドジな強盗だぜ」
「夜で暗かったから分らなかったんだろう」
と松田は言った。自分が手を下すまでもなく、永本は殺されてしまった。事件をきいた時、松田は|驚《おどろ》きながらも|天《てん》|罰《ばつ》だと思った。これでよかったのだ。
「どうだ、ちょっと休んで行かないか」
正木が目の前の喫茶店の方を見て提案し、三人は店へ入った。
ごくありふれた喫茶店で、店の中は|閑《かん》|散《さん》としていた。正木と岩谷はコーヒーを、松田は紅茶を|頼《たの》んだ。
「何だ、コーヒーじゃないのか?」
と岩谷が不思議そうに|訊《き》く。
「こういう店のコーヒーは|煮《に》つめてるからな」
「そんなもんかね。――しかし、お前の新居へ呼ばれてコーヒーを飲ませてもらったのは、つい一週間前だぜ。それなのに一人欠けて……。人生は|儚《はかな》いな」
岩谷は大げさに一人でしゃべっている。正木はポケットからパイプを取り出してハンカチで|磨《みが》き始めた。松田は|隣《となり》の空席に、放り出したままの週刊誌を何気なくめくった。おそらく前の客が捨てて行ったのだろう。
グラビアページが開いた。〈私のコレクション〉とタイトルのついたページで、篠塚良子が、|趣《しゅ》|味《み》の革製品に囲まれて|微《ほほ》|笑《え》んでいる。そういえば、この間、この女優の話が出たんだったな、と松田は思って……ふと、目をこらした。篠塚良子が得意げに手のひらへのせて見せているのは……。
「おい、岩谷」
「何だ?」
「この写真を見ろよ」
と松田はその週刊誌を|手《て》|渡《わた》し、「その女優が持ってるのは、我々と同じキーホルダーじゃないか」
「ああ、そうだな」
「そうだな、って……。断ったんじゃなかったのか?」
「実はどうしても欲しいって、しつこくねだられてね」
岩谷は言い|辛《づら》そうに、「仕方なく、|奴《やつ》から買ったのさ」
「奴から?」
「永本さ。あいつ、割と金に困ってただろう。だから三万出すと言ったら、喜んで|譲《ゆず》ってくれてね。――何だか、今思うとあのせいで奴のツキ[#「ツキ」に傍点]が落ちたんじゃないかと、いやな気がして仕方ないよ」
松田は思わず身を乗り出した。
「いつだ、それは?」
「え?」
「永本からキーホルダーを買ったのは、いつだ?」
「そうだな……。録画の四、五日後だから、一か月以上はたつな。どうしてだ?」
「いや、何でもない」
何でもない。何でもない。――そうだ。永本は、信沢が百合子を見たという日には、もうキーホルダーを持っていなかったのだ!
どういうことなんだ?
コーヒーと紅茶が来た。岩谷はコーヒーヘ、ミルクと砂糖一さじを入れた。そして、正木は砂糖をスプーン三杯、コーヒーの中へ落とした。
「正木……。君はブラックじゃなかったのか?」
松田は、自分の声がどこかまるで遠くから聞こえて来るような気がした。
「ん?――あ、しまった。つい、うっかりやっちまったな」
正木は頭を|叩《たた》いた。「いや、実は、手術の後なんかは、疲れてるからね、コーヒーもやたら甘くする|癖《くせ》がついてるんだ」
「しかし家では――」
「奥さんに頼んどいたのさ。医者がそんなに甘いものばかり採ってちゃ、医者の|不養生《ふようじょう》と冷やかされそうだからな。だから、運んで来る前に、僕のカップにはスプーン三杯、入れといて下さい、とね」
正木だったのか! 百合子と密会していたのは、正木だったのか……。
信沢の話を聞いて帰ったあの日、松田は百合子のコートのポケットから、〈R〉という店のレシートを見付けた。場所は渋谷で、日付は前日のものだった。信沢の言う通りだったのだ。
結婚式以来、三人の仲間たちは何度か遊びに来て百合子に会っている。|田舎《 いなか》の生活に退屈した百合子が、その誰かとの情事に走っても不思議はない。松田は三人の内の誰なのかを知るために、三人を新居へ呼んだ。そして永本だと信じたのだが……。松田は永本の死を天罰だなどと考えた自分が|恥《は》ずかしかった。
「お帰りなさい」
百合子はソファに起き上った。
「ただいま。気分はどうだい?」
「ええ、|大丈夫《だいじょうぶ》。済んだの?」
「うん。正木がよろしくと言っていたよ」
「そう。あなた……聞いた?」
「何を?」
「正木さんから」
松田は百合子の笑顔をじっと見つめた。
「何の話だ?」
「私、赤ちゃんができたのよ」
「そ、そうか……」
と、やっとの思いで言葉を|押《お》し出す。「よかったな!」
「|嬉《うれ》しいわ、私。――それらしいと分っても、はっきりしてから言おうと思って、正木さんに相談したのよ」
「正木に?」
「ええ。正木さんの病院で検査してもらって、|妊《にん》|娠《しん》って分ったの」
百合子はそのために渋谷の喫茶店で正木と会っていたのだ。
一秒ごとに、自分の|愚《おろ》かさが立証されていくような気がする。
「よかったな、百合子」
「あなたも嬉しい?」
「当り前だ」
二人は軽くキスを交わした。
「でもあなたには気の毒なことになるわ」
「何がだい?」
「私、当分コーヒーは飲めないの」
松田は思わず笑った。
「そうか!――いいさ、僕もしばらく|控《ひか》えよう」
「あら、あなたは飲んでいいのよ。|遠《えん》|慮《りょ》しないで」
「いや、少しやめてみようかと思っていたんだ」
「どうして?」
「体に良くないしね」
「でも、代りに甘い物でも食べたら、同じことよ」
「僕は甘党じゃない」
「そうね。――亡くなった永本さんとは違うわね」
「コーヒーに砂糖三杯か」
「あら、あのときは別でしょう」
「別だって?」
「ええ。甘いケーキの後だったから、コーヒーが苦かったのよ」
「しかし、ケーキは後から出したじゃないか」
と松田は戸惑って、言った。
「ええ。でも、あの人、トイレヘ行って戻る時にね、台所に置いておいたケーキのクリームを指でペロリとやったのよ。運んで来る時に気が付いて、おかしくて仕方なかったわ。――あら、|亡《な》くなった方のこと、笑っちゃいけないわね。夕ご飯の|仕《し》|度《たく》をして来るわ。あなた、|着《き》|替《が》えたら」
「ああ、そうしよう……」
松田は居間の真中に、|呆《ぼう》|然《ぜん》と|突《つ》っ立っていた。分ってみれば、|総《すべ》ては何と単純なことなのだろう。
|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴った。百合子が、
「きっとクリーニング屋さんだわ」
と言いながら、急ぎ足で、居間を通り|抜《ぬ》けて玄関へと出て行ったが、少しすると戻って来て、ちょっと不安げな様子で言った。
「あなた警察の方が……」
「岩谷が、永本を殺したですって?」
松田が|唖《あ》|然《ぜん》として言った。
「ついさっき|逮《たい》|捕《ほ》しました。本人も認めましたよ」
|穏《おだ》やかな、学校教師のような印象の|刑《けい》|事《じ》はそう言って肯いた。
「しかし、なぜ岩谷が……」
「あなた方は仲間で同じキーホルダーをお持ちだそうですね」
「ええ。正木という友人の手作りです」
「岩谷は永本さんからそのキーホルダーを、ほんの少しの間だからといって借り、女優の篠塚良子へやってしまったらしいのです。永本さんが返してくれと言ったので、金で済まそうとしたのですが、永本さんは、あれは金には|換《か》えられない、と|頑《がん》として|聞《き》かなかったそうで。その女優に直接話すと言い出したので、困った岩谷はつい……というわけです」
「そうでしたか」
永本は貧しくとも、|純粋《じゅんすい》な男だったのだ。そんな彼を、一度は殺そうと思った……。
「四人のお付き合いのことなどを一度うかがわせて下さい」
と言って、刑事は帰って行った。
「何てことかしら……」
百合子は|嘆《たん》|息《そく》して、「そんな、たかがキーホルダーぐらいのことで」
「そんなものさ」
松田は百合子の肩を抱いて言った。「コーヒー一杯からだって、人殺しが起きるかもしれないよ」
ノスタルジア
1
私は、そこに長く立ち止まり過ぎたのかもしれない。おそらくそうだったのだろう。
でなければ、|彼《かの》|女《じょ》がこちらを見たのは、あまりにメロドラマ的な|偶《ぐう》|然《ぜん》になってしまう……。
まあ、|芳《よし》|彦《ひこ》さん! 彼女の口の動きはそう言っていた。お入りになりません?
「芳彦さん」であって、「|深《ふか》|沢《ざわ》さん」でないことに心を|揺《ゆ》さぶられるほど、私はまだ若いのだろうか。
ガラス|越《ご》しのパントマイムは、私がその|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》へ足を|踏《ふ》み入れたことで終った。
「――芳彦さん! お久しぶりね」
「やあ……|知《とも》|子《こ》さん」
私が彼女を|苗字《みょうじ》でなく名前で呼ぶのは、彼女が昔の通りに私の名を呼んでいるのとは、ちょっと意味が|違《ちが》っている。
「ええと、今、何というのかな、|姓《せい》のほうは?」
「とっても|珍《めずら》しい姓なのよ」
「そりゃあよかった」
「中村[#「中村」に傍点]っていうの」
ちょっと置いて、私たちは笑った。――彼女の旧姓は|田《た》|中《なか》といって、彼女は同じクラスに同姓の子が必ず一人はいる、といって、いつも|嫌《いや》がっていた。そして|結《けっ》|婚《こん》するなら、|滅《めっ》|多《た》にない、珍しい姓の人とするんだ、というのが|口《くち》|癖《ぐせ》だったのである。
「私は|平《へい》|凡《ぼん》な名前につきまとわれてるみたいよ」
中村知子はそう言って、パーマをかけたばかりの|髪《かみ》を無意識に手で直した。
「変わらないねえ……」
私はしみじみと|呟《つぶや》くように言った。
「とんでもない! こんなに太って、|年《と》|齢《し》とっちゃったのに、変わらないはずがないわ。そうでしょ?」
「いや本当に……若いよ。変わらない」
ウエイトレスが水とおしぼりを持って来た。
「ホットミルク下さい」
そう言うと、彼女の笑顔に出くわす。
「今でもお砂糖二つ入れるの?」
「いや、このところ腹が出て来てね。一つにしてる」
確かに、変わったといえば……お|互《たが》いに十数年の|歳《さい》|月《げつ》があったのだ。変わらないはずもない。
大学時代、ただ長くのばしていた彼女の髪は、今は短く切って、パーマのウェーブがかかっている。白くふっくらとして、およそ家事というものに|縁《えん》のなかった手は、やはり主婦業にある者に相応の|荒《あ》れ方だ。
「でも、やっぱり変わらないよ」
私は言った。
「少なくとも、|僕《ぼく》の想像していた通りの|年《と》|齢《し》の取り方をしているもの」
「喜んでいいのかしら?」
彼女は複雑な笑顔になって言った。
「今、何をしてるの?」
公園の陽だまりのベンチに|腰《こし》を降ろして、彼女が|訊《き》いて来た。
「平々凡々のサラリーマンだよ」
「あら、今日は平日よ。こんな所で何してるの?」
「たまには休み[#「休み」に傍点]ってものもあってね」
「家庭サービスは?」
「僕は|独身《 ひとり》だもの」
「まあ……」
彼女は、|驚《おどろ》くというより、|奇妙《きみょう》な物を見るような目で私を|眺《なが》めた。
「どうして――」
「独身主義ってわけじゃないんだけど」
私は言った。
「二十七、八の|頃《ころ》、ちょうど仕事が|忙《いそが》し過ぎて、ちょっと体をこわしてね。そんなこと考えるゆとりがなかったんだ。――やっと落ち着いたら三十歳。そうしたら今度は何もかも|面《めん》|倒《どう》になって来て……。そうこうする内にもう三十五さ」
「そうなの……」
「知子さんはいつ結婚したの?」
「二十八だったわ。――母の知人の|紹介《しょうかい》で」
「お見合か」
「ええ」
「それは意外だなあ。僕はさぞ|大《だい》|恋《れん》|愛《あい》の末、結ばれたんだろうと思ってた」
「期待を裏切ってごめんなさい」
「いや、僕の期待なんて関係ないよ。それじゃ、もうお子さんは――」
「二人いるの。上が五歳、下が三歳」
「男の子?」
「両方とも女の子」
「おやおや、やっぱり知子さんの所は女系家族なんだなあ」
彼女は四人姉妹の三番目なのである。
「そうらしいわ」
彼女は|苦《にが》|笑《わら》いして、「主人は男の子をほしがってるの。でも、もう一人生んでも、男だって保証はないし……」
私はちょっと間を置いて、
「でも――幸せそうで、良かった」
と言った。彼女がチラリと、何か言いたげな視線を私のほうへ向けた。
「幸せなんだろう?」
と私は|訊《き》いた。気は進まなかったが、訊かねばならなかった[#「訊かねばならなかった」に傍点]。
何か他の事に気を取られているのかと思うほど、彼女は長い間|黙《だま》っていた。
「――ええ」
やっと低い声で答えた。「|人《ひと》|並《な》みに、ね」
彼女は急に立ち上った。
「もう行かなくちゃ。会えて|嬉《うれ》しかったわ」
「僕もだよ。よく出て来るの?」
「毎週水曜日には用があるの。たいていあれくらいの時間にはあの店に――」
言いかけて言葉を切り、「じゃ、失礼するわ」
「また会いたいね」
「ええ。……そうね」
|呟《つぶや》くように言って、「さよなら」
「さよなら、知子さん」
彼女の後姿が人混みの中に消えるのを、私はじっと見送っていた。心が重く、まるで私自身の上にのしかかって来ているようだ。だが、仕事は仕事[#「仕事」に傍点]だ。
私は手近な電話ボックスに入り、手帳を見ながらダイヤルを回した。
「――もしもし」
「M商会でございます」
「営業第一課長の中村さんを」
「どちら様でしょう?」
「友人です」
「お待ち下さい」
ややあって、太い男の声が、
「中村です」
「深沢と申します。あの――ご|依《い》|頼《らい》の――」
「分った。どうだったね?」
「|奥《おく》さんにお会いしました」
「そいつはよかった。――で、どんな様子かね?」
私は返事をためらった。――しかし、|黙《だま》っているわけにはいかなかったのだ。
「はっきり申し上げられませんが……」
「できそうか、とても無理か。どっちかだね?」
私は|唾《つば》を|呑《の》み|込《こ》んだ。
「――可能性はあると思います」
「結構。ぜひ|巧《うま》くやってくれたまえ」
「はあ……」
「しかし、分っているだろうが、あまり待たせないでくれよ」
「承知しております」
「|連《れん》|絡《らく》を待っている」
電話は切れた。
私はボックスを出た。日なたを歩いているのに、ひどく寒い気がして、|腕《うで》にかけていたコートを|慌《あわ》てて|着《き》|込《こ》んだ。
先週の金曜日のことである。
いつもの通り十一時過ぎに勤め先の|探《たん》|偵《てい》|社《しゃ》へ出社した私は、入口でちょうど出て来た男と|危《あや》うくぶつかりそうになった。
「失礼!」
私の言葉など完全に無視して、その中年の|紳《しん》|士《し》はさっさと行ってしまった。やけに態度の大きい|奴《やつ》だな、と|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》になって事務所へ入って行くと、
「深沢さん、社長さんがお呼びよ」
と女の子が声をかけて来る。
「楽な仕事だといいがな」
コートを自分の席へ放り投げて、社長室へ入って行った。
「ご用ですか」
社長の|栗林《くりばやし》が顔を上げる。社長というより、高利貸の|強《ごう》|欲《よく》じいさんといったほうがよく合う。
「今、出て行った客に会ったか?」
「あのいやに|横《おう》|柄《へい》な男ですか」
「金があると人間はみんなそうなる」
と警句めいたことを言って、「あれが依頼主だ。中村|孝《こう》|治《じ》」
「あまりいい仕事じゃなさそうですね」
「ウチの守備|範《はん》|囲《い》からはちょっと外れる仕事だが、金の|払《はら》いはいいはずだ」
「何をやるんです?」
栗林社長は、まじまじと私を眺めて、
「君はプレイボーイだって評判だが、事実かね?」
私は|一瞬《いっしゅん》ポカンとして、
「何です?――何の話ですか?」
「いや、何も婚約|不《ふ》|履《り》|行《こう》で君を訴えようっていうんじゃない。安心しろ」
「どうもご親切に」
「君に女性を|誘《ゆう》|惑《わく》してほしい」
「ええ? しかし――」
「それも人妻だ。さっきの中村氏の細君だよ」
「それが依頼ですか? 自分の奥さんを誘惑してくれっていうんですか?」
「そうだ」
「|気《き》|狂《ちが》いじみてる!」
「まあ聞け。――実は目下のところ、中村氏には若い|恋《こい》|人《びと》がいる」
「ははあ……」
「中村氏はその恋人から結婚してくれと|迫《せま》られている。中村氏自身もそうしたい。ところが、いざ奥さんと離婚ということになれば、夫の一方的な都合なのだから、もめるのは必至だし、たとえ|巧《うま》く別れたとしても相当の|慰謝料《いしゃりょう》を|覚《かく》|悟《ご》せねばならん」
「当然でしょうね」
「そこで君の出番だ」
「というと……」
「君が中村氏の細君を誘惑して|浮《うわ》|気《き》させる。それをウチの若いのが調査[#「調査」に傍点]して中村氏へ報告するのだ」
「それで離婚してしまおう、と?」
「その通り。あくまでも妻の不義ということだから、中村氏もビタ一文払わなくてすむわけだ」
私は|甚《はなは》だ面白くなかった。
「そいつはまた、ずいぶん|汚《きた》ないやり方ですね」
「それはそうだが、これも仕事さ」
「私にそれをやれっていうんですか?」
「どうだね」
「――気が進みませんね。|詐《さ》|欺《ぎ》じゃないですか」
「そうは言えんさ。その細君が君の誘惑に乗って来るとは限らんだろ」
「それはまあ……」
「浮気をするかどうかは、その女の自由だ。何も無理に手ごめにしろと言ってるわけじゃないんだからな。浮気をすれば、その結果は負わなきゃならん。相手の男がどういうつもりだったかは関係ないことさ」
いささかこじつけの理屈だったが、私は|肩《かた》をすくめて、
「分りました」
と言った。
「具体的にはどうするんです?」
「これが細君の写真だ」
と社長はカラーのスナップを一枚私のほうへよこして、
「細君は中村知子。毎週水曜日には|華《か》|道《どう》のクラスヘ通っている。それがまあ、長く家を開ける|唯《ゆい》|一《いつ》の機会だそうだ。その帰り道あたりで巧く出会うようにしたらいいだろう。――まあ、細かい所は君に任せよう」
私はじっと写真に見入っていた。遠い|記《き》|憶《おく》の中から、一つの顔が|微《ほほ》|笑《え》みかけて来る。
知子……。
「巧く行ったか?」
事務所へ|戻《もど》って社長室へ入って行くと、栗林社長が顔を上げて、|訊《き》いた。
「何とか」
「そうか! さすがだな。やるじゃないか」
「社長……」
「何だ?」
「やはり気が進みません。この仕事、断るわけには行きませんか?」
「おい! 今さら何だ。もう調査費も前払いでもらってるんだ。ここでやめられるか」
「しかし――」
「おい、何を|殊勝《しゅしょう》な|顔《つら》してるんだ。これしきのことでブルってたら探偵社などつとまらんぞ!」
私は黙り込んだ。
「君がだめなら、他の者に代わらせる」
他の者……。いやだめだ! 私は|諦《あきら》めて、
「分りました。やりますよ」
「よし、それでいいんだ。――巧く浮気まで持ち込めそうか?」
「たぶん」
「|頼《たよ》りにしてるぞ!」
私はデスクヘ戻った。|隣《となり》の席の|田《た》|宮《みや》がニヤニヤしながら、
「深沢さん、いい役ですねえ。僕にも人妻|攻略《こうりゃく》の|極《ごく》|意《い》を教えて下さいよ」
「極意か……」
私はふてくされて|呟《つぶや》くと、受話器を取って、ダイヤルを回した。
「――はい、中村でございます」
彼女が出た。「――もしもし」
「知子さん。僕だよ」
「芳彦さん!――どうしたの? どうしてここの電話を――」
「大学へ|訊《き》いてね。同窓会のほうで教えてくれたんだ」
「あの――何の用ですの?」
「会いたいんだ」
しばし、返事がなかった。
「――芳彦さん」
「ゆっくり会いたいんだ。とても|懐《なつか》しくて……」
「困るわ、そんな……。私は結婚してるのよ。電話して来ないで下さい」
電話が切れた。私はもう一度ダイヤルを回した。
「――はい」
「知子さん。一度だけでいいんだ。二人きりでゆっくり――」
電話が切れた。もう一度ダイヤルを回す。隣の席で田宮が|呆《あっ》|気《け》に取られている。
今度はなかなか出て来ない。当然だろう。私も気長に待った。
「――はい」
私は今度は黙っていた。
「芳彦さん……。一体どうしたの?……あなたらしくもないわ。――ねえ?」
「会ってくれ。一度でいい」
「無理よ……。出られないわ」
彼女の声はさっきとは打って変って弱々しくなっていた。私は|畳《たた》み込むように、
「明日、あの喫茶店で。時間は何時がいい?」
「そんな……とっても……」
「昼の一時に」
「――分らないけど、行けるかどうか」
「来てほしいんだ!――いいね」
「芳彦さん……。ええ、行くわ。でも……」
「待ってるよ。ありがとう」
私は受話器を置いた。――手が|震《ふる》えていた。
「――|驚《おどろ》いたなあ!」
田宮が目を丸くして、「やりますねえ! その強引さが決め手ですね。いや、全く、深沢さんがそんな|凄《すご》|腕《うで》とは――」
「うるさい!」
私は怒鳴りつけて、事務所を飛び出した。
2
翌日の一時少し前、私は|二《ふつ》|日《か》|酔《よい》で割れるような頭を|抱《かか》えて、|約《やく》|束《そく》の喫茶店へ入った。
彼女はまだ来ていない。いや、本当に来るだろうか? あの|賢《けん》|明《めい》な彼女が。
田中知子は知的な女学生であった。そして単に知的なだけではなかった。|溢《あふ》れるような好奇心と、みずみずしい子供の心を持っていた。――そんな彼女は、私の青春の|証《あかし》だったのである。
私はその彼女をだまそうとしている。彼女の生活をぶち|壊《こわ》そうとしている……。
彼女が来てくれなければいい、と思った。昔のように、サッパリした口調で、
「私たち、もう会うのやめましょうよ」
と言ってくれたら。今はどんなに気が楽であろう。
たて続けにコーヒーを二|杯《はい》飲んで、やっと少し頭痛がおさまった。
それにしても、難しい問題だった。このまま彼女をそっとしておくのが、必ずしも彼女にとっていい事だとは言えない。彼女の夫はいずれ離婚するつもりだろうから。――どうせなら自分の口から夫の汚ないやり方を彼女に教えてやりたかった。
しかし、依頼人の秘密を|洩《も》らす事は、この商売では厳禁である。もし私がそれを教えたと分れば、|即《そく》|座《ざ》に私はクビであろう。
一時を五分ほど回っていた。――彼女はいつも|約《やく》|束《そく》に|遅《おく》れて来た。三十分、四十分は平気だった。それでいて、遅れたのを|詫《わ》びるでもなく、|涼《すず》しい顔でやって来る。
「――お待たせしました」
彼女が立っていた。困った顔をして来るかと思ったのに、明るく、屈託のない笑顔だった。
「君にしちゃ早い」
と言うと、彼女は笑って、
「ひどいわね!」
と言った。
「子供さんは?」
「実家へ預けて来たわ」
「――悪かったね、強引に」
「いいのよ。こんなことでもなきゃ、出て来られないもの……。芳彦さん」
「ん?」
「あなた、本当に独身?」
「もちろん。――どうしてさ?」
「だったら……構わないわね」
彼女がじっと私を見た。訴えかけるような|眼《まな》|差《ざ》しだ。
「ああ。構わないよ。君さえよければ」
私たちはホテルヘ行った。
「夕方になったら|戻《もど》らないと……」
彼女はそう言って時計を見た。「あまり時間がないわね」
「それだっていいさ」
私は彼女を|抱《だ》き寄せた。彼女と知り合って十数年目にして、初めて知る|唇《くちびる》である。私たちは今の若者たちなら|恋《こい》|人《びと》とも呼ばないような恋人だったのだ。たまに|一《いっ》|緒《しょ》に海に行った時に見た彼女の水着姿が何と若い目にはまぶしかったことだろう。その|肌《はだ》に|触《ふ》れてみようなどとは考えることもできなかったものである……。
十数年たった今、彼女の服を|脱《ぬ》がせてやりながら、私の|瞼《まぶた》にはあの水着姿がくっきりと|浮《う》かんでいた。
「――|浮《うわ》|気《き》って初めてよ」
静かに横になると彼女が言った。――情交の後の、ほてった肌が涼しい部屋の空気に触れて、ゾクッと|身《み》|震《ぶる》いする。
「ご主人と|巧《うま》く行ってないのかい?」
「ええ……。あの人、女がいるの」
「女? ご主人がそう言ったの?」
「分るわよ。女ですもの。|誰《だれ》かと|寝《ね》て来たことぐらい……」
「そうかね」
「私、|後《こう》|悔《かい》してないわ。――あんまり息苦しくて、気の休まる時がないのよ。子供たちが生きがいっていうところ……。女の人生なんて、つまらないものね」
「男だって、そう変わりはないよ」
「そうかしら……。ね、がっかりしなかった、私に?」
「いいや、素敵だよ」
私はもう一度彼女を抱いた。彼女も思い切り燃え立ったように見えた。――|束《つか》の間の情事か。そう思うから素晴らしいのかもしれない。
ホテルを出た時は、空に|暮色《ぼしょく》が|漂《ただよ》っていた。
「楽しかったわ、芳彦さん」
「また会える?」
「そうしばしばは……。でも次の水曜日なら少しは時間があると思うわ」
じゃ、ここで、と彼女はタクシーを拾って乗って行った。私はぼんやりとそれを見送っていた。――仕事[#「仕事」に傍点]は巧く行った。後は水曜日に、田宮の|奴《やつ》に私たちのあとをつけさせて、写真を|撮《と》ればそれで済む。簡単なことだ。
その時、私は|微《かす》かなカシャッという音を耳にして、ギクリとした。シャッターの音だ!
誰かが私の写真を撮っている……。
こちらは商売である。すぐに|慌《あわ》てふためいて捜し回るようなことはしない。
それにしても一体誰が……。商売人ではないようだ、と私はゆっくり歩きながら思った。あんなにはっきりシャッター音が聞こえる所で撮るとは、|素《しろ》|人《うと》くさい。足音が急に近付いて来た。
「深沢さん!」
「――田宮!」
「いや、素早いですねえ!」
「お前、どうして……」
「ヘヘ、気が付かなかったでしょ。今朝、深沢さんがお宅を出た時から尾行してたんですよ。いつも|俺《おれ》の尾行はなってないって言われるから。それに昨日の電話の様子じゃ、もう今日あたりひょっとするとひょっとするかもしれないと思いましてね」
私は何とも言えずに|肩《かた》をすくめた。――仕事は終ったのだ。
「じゃ社へ戻ろう。フィルムを出すんだろう」
「ええ!――でもいい腕ですねえ、深沢さん。たった二度目でベッド・インしちまうんだから」
田宮は一人で感心している。
「ご苦労だった」
と栗林社長が言った。
「いや大したもんだ。この手の仕事は君に任せることにするよ」
「あんまり後味は良くありませんね」
「仕方ないさ。世の中、善意ばかりじゃ生きていけん。――ところで、その細君とはまた会う約束をしたのか?」
「はあ。今度の水曜日に」
「ふむ。どうやって切る[#「切る」に傍点]かな……」
「それは私に任せて下さい」
「そうか? じゃそうしよう。|巧《うま》くやってくれ。ウチが|恨《うら》まれても困る」
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」
「ところで……どうだ?」
「何ですか?」
「いい女[#「いい女」に傍点]だったか?」
私は答えなかった。社長のデスクの電話が鳴った。
「ああ。――うむ。どうした?――なに? 本当か?」
社長は受話器を|叩《たた》きつけるように置くと、立って行ってドアを開け、
「田宮! ちょっと来い!」
と|怒《ど》|鳴《な》った。
「何でしょうか?」
「今、現像室から電話でな」
「はあ、どうでした?」
「あのフィルムは何も[#「何も」に傍点]写っとらん、とさ!」
田宮はポカンと口をあけた。
「分ったか! 巻き上げが|空《から》回りしていたんだ。|馬《ば》|鹿《か》|者《もの》め!」
「し、しかし、そんな……」
「現像室へ行ってよく見てこい!」
田宮がすっ飛んで行くと、私は大笑いした。
「やあ深沢さん」
現像室の|小《お》|田《だ》が上着を着て出て来た。
「何か?」
「もう帰るのか?」
「ええ」
「ちょっと使わしてくれるかい? 私用なんだがね」
「構いませんよ。どうぞ。私はお先に」
「ああ。悪いね」
「電源だけお願いします」
「分った。|間《ま》|違《ちが》いなく切っておくよ」
一人になると、私はポケットからフィルムを取り出した。田宮がカメラから出して|机《つくえ》に置いたのを、|隙《すき》を見て、未使用のフィルムとすり替えたのだ。
田宮には悪いことをしたな。大分シュンとしていたが……。
このフィルムを現像して、どうしようというつもりでもなかった。ただ彼女と私が写っていたら、記念に取っておこうと思っただけだ。
なかなか田宮の|腕《うで》は確かだった。私たちが|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》で会っているところ、ホテルヘ入って行くところ、ホテルから出て来たところ……ホテルの名前も彼女の顔も、はっきり撮れている。申し分のない|証拠《しょうこ》写真だ。
何枚か焼き付けたのを、明るい所で見直してみて、私は一種の|感《かん》|慨《がい》を覚えた。二人とも|年《と》|齢《し》を取ったものだ。――学生時代、二人で写した写真は、今もアルバムに残っているが、こうして同じように写真で見ると、変わっていないように見えて変わっているのがよく分る。
十数年の|歳《さい》|月《げつ》が、そこにはっきり焼き付けられていたというべきか……。
何度も|眺《なが》めていて、私はふと|眉《まゆ》を寄せてじっと一枚に見入った。写真の|隅《すみ》に、顔半分出ている通行人に、何となく|見《み》|憶《おぼ》えがあるような気がしたのだ。
「待てよ……」
私はその写真を大きく引き伸ばしてみた。粒子は|荒《あら》くなったが、その男の顔はよく分った。私は首をひねった。あいつ[#「あいつ」に傍点]がどうしてこんな所にいたんだろう? |偶《ぐう》|然《ぜん》か?
その男は、前に他の件で会ったことのある地元署の|刑《けい》|事《じ》だった。私をつけていたと考えるのは、考え過ぎかもしれないが、気になった。|探《たん》|偵《てい》|社《しゃ》の人間などというのは、警察には|嫌《きら》われる。つい人のプライバシーを|侵《しん》|害《がい》したり、人の家の庭へ勝手に立ち入ったりしがちだからである。もし何かで目をつけられているとしたら、ヤバい。
私はその署内に学生時代の友人がいたのを思い出して、電話をかけた。
やあやあ、と|挨《あい》|拶《さつ》がすんで、私は例の刑事が今何を担当しているのか|訊《き》いてみた。
「ああ、|奴《やつ》かい?――ええとね、確か今追ってるのは売春だと思ったな」
私はホッと息をついた。それならあの旅館街をウロウロしていて写真に入ったって不思議はない。
「気を付けたほうがいいぜ」
と私は言った。「土地の暴力団には、奴は顔が売れてるんじゃないのか?」
「いや、そっちの関係じゃないんだ」
「へえ」
「例の――よくあるじゃないか、団地妻売春とか、|暇《ひま》を持て余してる|奥《おく》さん連の売春クラブみたいなのが」
「ああ」
「奴はそれで何人かをマークして追ってるのさ。楽なようだが、結構骨みたいだぜ」
「そうだろうな……。いやありがとう」
「それがどうかしたのかい?」
「いや、何でもないんだ。――どうも」
あの刑事は「何人かをマークして」いる……。あのホテルの所で、何を[#「何を」に傍点]していたんだ?
私は写真を手に、|椅《い》|子《す》へ座り|込《こ》んでしまった。
「まさか……」
あの刑事が彼女[#「彼女」に傍点]を追っていたなんてことが……。そんなはずはない! そんなことが、あるわけはない!
|誰《だれ》かが肩を|叩《たた》いた。
「やあ」
顔を上げると、刑事の顔が見下している。
「あんたか……」
「座っていいかね」
「ああ」
|村《むら》|上《かみ》というその刑事は私の向いの席にどっしり|腰《こし》を降ろすと、
「おい! チョコレートサンデー!」
と大声で注文した。店の客が|愉《ゆ》|快《かい》そうに見ている。|苦《にが》|虫《むし》をかみつぶしたような顔の中年男が|頼《たの》む物にしては、ちょっと変わっている。
「甘党かい?」
と私は|訊《き》いた。
「|疲《つか》れるからな。甘い物がほしくなるのさ」
「ご苦労だね」
「コーヒーばっかり飲んでたよ。昔はな。しかしもう胃がもたんよ」
「|年《と》|齢《し》だな」
「そうとも。――刑事は早く老け込むんだ」
「探偵だってそうだぜ」
「そうか? TVや映画じゃ、探偵はいつも美人のお相手をして、すぐその後に|大《だい》|格《かく》|闘《とう》して息も切らさないじゃねえか」
私は取り合わなかった。窓際の席からはちょうど通りを|挟《はさ》んで、中村家の玄関が見える。
「お前さんも美人のお相手だけはやってるようだね」
村上刑事はチョコレートサンデーを|猛《もう》スピードで口へ放り込みながら言った。
「――そうかね」
「今日は仕事か?」
「半分仕事だ」
村上は探るように私の顔を見て、
「|微妙《びみょう》なところらしいな」
「妙に|勘《かん》ぐるなよ」
「そう|突《つ》っ張るな。どうやら同じ相手を見張ってるようじゃないか」
「あんたは――彼女をどうして追ってるんだ?」
「|口《く》|説《ど》こうと思ってるんじゃないから安心しな」
「|真《しん》|剣《けん》に|訊《き》いてるんだ」
「分ったよ。……人妻の売春クラブがあるって|噂《うわさ》でね」
「彼女がそれに関係してるというのか?」
「情報によると、そうだ」
「そんなはずはない!」
「どうして?」
「そんな暇はないはずだ。彼女の子供はまだ小さい。もっと子供が大きくなって手が離れた人妻がやることだろう」
「だがお前さんと会う時間はあった」
村上は皮肉な|微笑《びしょう》を浮かべた。私も返す言葉がなかった。
「|踏《ふ》み込んでもよかったんだぜ」
と村上は続けた。
「やればよかったんだ。とんだ黒星になるところだったぜ」
「分ってる」
村上は|肯《うなず》いた。「|俺《おれ》の目は節穴じゃない。金でやらせてる仲かどうか、見れば分る。あの女、お前さんの何だね?」
「昔の知り合いさ」
「ずっとああいう仲なのか?」
「いや。――あれが最初だ」
「最初で最後にしておくんだな。遠からず|尻尾《しっぽ》をつかんでみせる」
「彼女は関係ない!」
村上は|愉《ゆ》|快《かい》そうに、
「|惚《ほ》れてるのか? やめとけよ」
「大きなお世話だ」
「それならなぜここにいる? やはり疑ってるから確かめに来たんだろう」
私は答えなかった。その時、|玄《げん》|関《かん》から彼女が出て来た。
「ほう、来たな」
村上は私を見て、
「|俺《おれ》は行くぞ。お前さん、どうする?」
「放っといてくれ!」
「|一《いっ》|緒《しょ》にやってもいいんだぜ」
村上は立ち上って、「どっちにしろ、事実は見つめなきゃならない。――どうする?」
と|訊《き》いた。
3
「やれやれ、|無《む》|駄《だ》|足《あし》か」
村上は、彼女が買物の|袋《ふくろ》を下げて家へ入って行くのを見て肩をすくめた。
「だから言ったろう」
「そりゃそうだが、今|違《ちが》っても、明日も違うとは限らん」
と腕時計を見て、「さて、今日はもう出かけないだろう」
「いつから彼女を張ってる?」
「まだ昨日からさ。初日にお前さんに出くわしたんでびっくりしたぜ」
「そうか……」
「また|逢《あ》う約束をしてるのか?」
「いや」
「本当か?」
村上は信じていないようだった。「まあいい。好きにしろよ」
「彼女の他にも張ってるのか?」
「そいつは言えないな」
村上は笑って、「職業上の秘密だ」
私は|黙《だま》って|踵《きびす》を返した。
「また会おうぜ」
村上の声が追いかけて来たが、私は|振《ふ》り返らなかった。
人妻売春。――彼女がその一員だなどということがあるだろうか? あのホテルで私に身を任せた時の、ためらいや|羞《は》じらいは見せかけだったのか?
「違う!」
浮気って初めて、と言ったではないか。あれは正直な言葉だった。確かに正直な。それに彼女は金など要求する|素《そ》|振《ぶ》りもなかったではないか。
しかし、村上は馬鹿ではない。一応、ベテランとして通っている刑事である。村上が目をつけたからには、そういい加減ではない裏付けがあると見ていいだろう。
私は電話ボックスヘ入って、ダイヤルを回した。M商会が出ると、中村を呼んだ。
「中村です」
「深沢ですが」
「やあ、君か。どんな具合かね」
「近々、ご期待に|添《そ》えると思いますが」
「結構。|巧《うま》くやってくれたまえ」
「一つお|伺《うかが》いしたいことがありまして」
「何かね?」
「奥さんが定期的に外出なさるのは、水曜日のお花だけですか?」
「そのはずだ」
「他にお出かけになることがありますか」
「いや、まずないと思う。――ああ、昨日は何か用で出かけたと言っていたが」
「それ以外には?」
「めったに出ないね」
「分りました。――失礼します」
「|頑《がん》|張《ば》ってくれ」
あなたも、と言おうとして、やっと|抑《おさ》えた。自分が|寝《ね》|取《と》った女性の夫から「頑張れ」と言われるのは妙な気分である。
私は行きつけの喫茶店へ入って、しばし考え込んだ。
確かなことが二つある。中村は昨日私と自分の妻が関係を持ったことに、まるで気付いていない。――ということは、万一[#「万一」に傍点]彼女が売春のグループのメンバーで、男に抱かれて戻って来ても、まるで気付かずにいるだろう、ということだ。
もう一つは、彼女が、水曜日の|華《か》|道《どう》の教室以外はほとんど家を開けないということだ。
五歳の子は幼稚園、三歳の子はまだ幼稚園にも行っていない。出かけるとなれば、この二人を実家へでも預けて行く他はあるまい。それがあまり|頻《ひん》|繁《ぱん》になれば、当然夫の耳にも入ることになろう。
――水曜日の華道教室。もし、それが……。
週が明けた月曜日、|昼《ひる》|頃《ごろ》出社した私は、
「おい田宮」
と声をかけた。
「やあ深沢さん。どこか回ってたんですか?」
「色々調べ物があってね」
「次の|逢《あ》い引きの場所|捜《さが》しですか?」
とニヤニヤしている。
「今度はフィルム空回りなんてドジはしませんからね」
「二枚目に|撮《と》ってくれよ」
「あの奥さん、なかなか美人でしたねえ」
「おい、悪いが、ちょっとカメラを貸してくれないか」
「いいですよ。ご|一《いっ》|緒《しょ》しましょうか? どうせ暇ですから」
「いや、個人的な用なんだ」
私は田宮のカメラを借りると、彼女と最初に会った喫茶店へ出かけた。ウエイトレスにこの辺でお花を教えてる所はないかと|訊《き》くと、二つ教えてくれた。
一つは料理学校に付属した華道教室で、出入りする女性を見ていると、誰もみんな女子大生ばかりだ。
もう一|箇《か》|所《しょ》は、貸ビルの一部屋を借りている〈主婦のための華道教室〉だった。彼女が通っているのは、ここに違いない。
私は三時間近く粘って、出入りする女性たちを写真に収めた。見ている内に妙なことに気付いた。「教室」というからには何人かまとめて教えているのだろうに、大勢が一度にビルヘ入ったり、出て行ったりすることがないのである。二人、三人と連れ立って入って行き、またバラバラに出て来る。入って行ってすぐ出て来る女性もいる。
私はフィルムを一本撮り終えると、ため息をついた。――この意味はあまりにもはっきりしている。
腕時計を見ると四時になるところだった。私は新しいフィルムをカメラに入れ、タクシーを拾った。
M商会の前で、私は五時になるのを待った。――社員たちが続々と|吐《は》き出されて来る。その中に、中村の顔が見えた。中村は少し歩いてからタクシーを拾った。私もタクシーを止めて乗り込むと、「あのタクシーを追ってくれよ」
と言った。
「何の用だ?」
村上が、のっそりと店へ入って来た。
「ちょっと見せたい物があってね」
「ふーん。おい! アイスクリーム!」
と|怒《ど》|鳴《な》っておいて、
「見せたい物って何だ?」
「これだ」
私は大きな|封《ふう》|筒《とう》から、キャビネに引き|伸《の》ばした十数枚の写真を取り出して村上の前に置いた。
「写真か」
「|見《み》|憶《おぼ》えのある顔はないかね」
村上は一枚ずつ手に取って、ゆっくりと|眺《なが》めた。見終ると|傍《かたわら》の空いた席へと重ねて行ったが、時折、分けて置く分がある。――全部見終って、村上は別にしておいた三枚を取り上げると、
「この三人は知ってる。今追っている売春グループのメンバーらしいんでね。これは同じ場所だな」
「そうだ」
「どこだ?」
「教えてもいいが、|頼《たの》みがある」
「取り引きか。|俺《おれ》は好かんな」
「そう言わずに聞いてくれ」
「分ってるよ。教える代わりに、彼女を|見《み》|逃《のが》せだろう」
私は|肯《うなず》いた。
「無理な相談だ」
「頼む。――彼女は週に一度しかそこへ行っていないんだ」
「そういう女は例え家庭に戻っても、また同じことになるぞ」
「彼女は離婚する」
「ほう。――じゃ、お前さんと――」
「違う。そうじゃないが、別れることは確かだ。それで|充分《じゅうぶん》だろう」
村上はしばらく写真を眺めて考え込んでいる様子だったが、やがて息をついて、
「いいだろう。約束はできんが、やってみる」
「すまん」
「場所はどこだ?」
私は華道教室の場所を教えた。
「生花か。――やれやれ、とんだ|趣《しゅ》|味《み》の集いだな」
「いつ手入れをする?」
「明日にでも。お前さんの情報を信じてるからな」
「明日は水曜日だな」
「何かあるのか?」
「いや、別に……」
私は立ち上った。
「後は任せるよ」
村上は肯いて、溶けかかったアイスクリームを食べ始めた。
「あら、早いのね」
「ここで待ってれば会えると思ってね」
「ええ、でも――一応お花の教室に行って断って来ないと」
私はあの喫茶店の前で、彼女を待ち受けていたのだ。
「いいじゃないか。別に休んでも構わないんだろう」
「ええ……。そうね」
彼女は笑顔になって、
「行きましょうか」
私たちはこの前と同じホテルヘ入った。
彼女はもうためらいも見せずに私に身を任せた。私も時を忘れて彼女の肉体にのめり込んだ。
「――あなた、素敵だわ」
|全《ぜん》|裸《ら》の体を横たえて、彼女が言った。
「そうかい……」
「本当よ。夫と寝ても、こんな気持になったこと、一度もないわ」
「僕は|払《はら》わなくてもいいのかい?」
「え?」
「お金はいらないのか? グループに少し入れるんじゃないのかい?」
彼女の顔から血の気が引いた。
「――芳彦さん」
「もっとも、今頃はあの華道教室は警察の手入れを受けてるがね」
「本当なの?」
「ああ」
彼女は夢を見ているような表情で、じっと座っていたが、急に毛布をつかんで裸身に巻きつけた。
「――いつからやってたんだい?」
「まだ……三か月くらい」
彼女は私を見て、「私も……つかまる?」
「分らないね。警察しだいだ」
「……|寂《さび》しかったのよ……主人は女を作って、私に構ってくれないし……」
「しかし、よりによって――」
「ええ、分ってるわ! 何も知らずに、知り合いの奥さんに誘われて行ったのよ。それが最初で……」
私はゆっくりと服を着た。彼女も黙って服を着ると、私のほうへ|哀《あい》|願《がん》するような視線を向けて、
「私を|軽《けい》|蔑《べつ》する?」
「いや。気の毒だと思うよ。――それに残念だね」
「私たちもおしまいね」
「もともとさ、それは」
「――どういう意味なの?」
「僕らがここへ入るのを、探偵社の男が写真に|撮《と》っているよ」
彼女は|呆《ぼう》|然《ぜん》と立ち尽くした。
「――|嘘《うそ》でしょう?」
「いや、本当だ。僕もそこの社員なのさ」
「じゃ……あなたは私にわざと近付いたの?」
「ああ。ご主人に離婚の材料を提供するためにね」
彼女は力を失ったように座り込んでしまった。
「ひどいわ……そんな……」
「そんなことの言える立場じゃないだろう」
私は突き放すように言った。「売春で逮捕されたら、もっと|惨《みじ》めなことになるんだよ」
「私……どうしたらいいの?」
「ご主人はともかく君と離婚する気だ。君も承知するんだね」
「私は……でも、子供たちは……」
「君に生活力がない限り、ご主人のほうが引き取ることになるだろう」
彼女は顔を|伏《ふ》せてすすり泣いた。――私は|堪《た》えられなくなって、
「やめてくれ! 君のそんな|惨《みじ》めな姿を見たくない!」
これがかつて私の心を|奪《うば》った恋人なのか。知性の漂う愛らしさでクラスの人気者だった田中知子なのか。いっそ会わなければ、どんなによかったか、と思った。
いや――私とて、そんな大きな口のきける|柄《がら》か。売春も何もしていない、|平《へい》|凡《ぼん》な主婦が相手であっても、私はやはり、この|汚《きた》ない仕事を引き受けただろう。その女を泣かせて、そう良心にもとがめなかったに違いない。
私に彼女を|怒《おこ》る資格はない。
「さあ……」
私は彼女の|肩《かた》へ手を置いた。「もう帰ったほうがいいだろう」
彼女は|涙《なみだ》を|拭《ぬぐ》って、ふらふらと立ち上った。
「警察のほうには僕が頼んでおいた。たぶん、君のことは表面に出ないだろう。呼ばれて事情ぐらいは|訊《き》かれるかもしれないが」
彼女は肯いて、
「ありがとう」
「なに……。古い友人だからね」
私たちはホテルを出た。――どこかの|物《もの》|陰《かげ》でカシャッとシャッターの音がした。田宮の|奴《やつ》め、あれじゃ、注意深い人間には聞こえてしまうじゃないか。
「主人はいつ離婚の申し立てを?」
「さあね。遠からず、だろう」
「――また一人になるのね、私」
「出直すんだね」
「そうできればね」
彼女は弱々しく言った。――十数年。人は変わってしまうものだ。当然のことだが、ついそれを忘れてしまう。|昔《むかし》のままの彼女は、アルバムの写真にしかないのだ。
タクシーを|停《と》めると、彼女は乗り込んだ。私はコートのポケットから一通の封筒を取り出すと、彼女へ差し出した。
「何なの?」
「ご主人と恋人の写真とネガだ。ホテルヘ入る所、出る所、他にも何枚かある」
「芳彦さん……」
「離婚を言い出したら、これを見せてやるんだね。五分五分ってことになれば、そうご主人も冷たいことはできないだろう」
「――ありがとう!」
彼女の目にまた涙が|溢《あふ》れて来た。
タクシーが行ってしまうと、田宮が物陰から出て来た。
「今日は大丈夫です。バッチリ撮りましたからね」
「そうか。よかったな。この仕事もこれで終りだ」
「スッパリ手を切れたんですか?」
「もちろんさ」
私は歩き出した。田宮が|慌《あわ》ててついて来る。
「|凄《すご》いなあ。二度目でもの[#「もの」に傍点]にして、三度目でサッと別れる。一体どうすりゃそう巧く行くんです?」
「なあに」
私は言った。「仕事に忠実なだけさ」
昼下がりの恋人達
1
「電車が|停《とま》ってるよ。早く早く!」
「そんなこと言ったって……」
「これを|逃《にが》すと三十分以上待つんだ。走れよ!」
「ハイヒールなのよ!」
「ほら、手を引いてやるから」
「そんなに……引張らないでよ……転ぶじゃないの!」
「ほら、ベルが鳴ってる」
「次にしましょうよ」
「|頑《がん》|張《ば》れって! もうちょっとだ――」
二人が飛び|込《こ》むと同時にドアが閉まった。
「ほら、間に合った……」
|秀治《しゅうじ》は息を|弾《はず》ませながら言った。
「間に合ったって……死にそうよ……」
|純《すみ》|江《え》は|喘《あえ》ぎ喘ぎ、「|結《けっ》|婚《こん》前に……やもめになりたいの?」
と文句を言った。
「ともかく座ろう」
「どこに?」
二人は車両の中を見回した。――車両はまるきりの空だった。
電車がガクンと|揺《ゆ》れて動き出す。二人は手近なシートに|腰《こし》をかけた。
「へえ、|俺《おれ》たちの貸切りだぜ」
「本当ね」
純江はまだ|肩《かた》で息をしながら、「いつもこんなに|空《す》いているのかしら?」
「さあ、通勤の時はこうはいかないだろう」
「そうね。今は一番空いてる時間なのね、きっと」
純江は|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見た。「二時半か。――|中途半端《ちゅうとはんぱ》な時間なのよ」
「それにさ、こんな始発駅から乗る人は少ないんだ。何しろまだやっと家が建ち始めたばかりだものな」
「そうね。二、三年したら|賑《にぎ》やかになるわよ」
「朝も座って行けるかもしれないぞ。それだと助かるよ。何しろ丸二時間かかるんだからな」
「今はそれぐらい仕方ないわよ」
と純江は出勤するわけではないから|呑《のん》|気《き》である。「私たちの収入で買える家といったら、この辺まで来ないと……」
「それでも二十五年のローンだからなあ」
「気が遠くなるような先の話ね」
「今、俺が二十七だろう。それとほとんど同じくらいの間|払《はら》い続けるんだ。楽じゃないよ、全く」
「文句言ったって仕方ないじゃないの」
「そうだな。――でも、二千万ぐらいの金、金とも思ってないような|奴《やつ》だっているんだぜ。世の中、不公平だよなあ」
|竹《たけ》|中《なか》秀治は、大して景気のよくない文具メーカーの営業部員だった。ちょっと甘い二枚目で、人当りが|柔《やわ》らかく、営業マンには向いた性格だが、他方、少々|軽《けい》|薄《はく》なところがある。
その軽薄さで職場の女の子にちょいと手をつけたところ、逆に、|鷲《わし》の|如《ごと》き|鋭《するど》い|爪《つめ》でガッチリとつかまってしまった。その鷲が|和《わ》|田《だ》純江だったというわけだ。まあ、なかなか|可《か》|愛《わい》い女ではあるし、こうなっちまったからには仕方ないか、と秀治も半ば|諦《あきら》めて来月には結婚の運びになっていた。
二人して決めた新居を見ての帰路である。
「のんびりした電車ねえ」
と純江が表を見ながら言った。田園風景、といえば聞こえはいいが、要するに未開発の野や山が続いているのだ。
「夜になったら|寂《さび》しそうだな」
「一人でいちゃ|怖《こわ》いわ。早く帰って来てね」
「いやでもそうなるさ。電車がなくなっちまうからな」
秀治は苦笑いしながら言った。
電車が次の駅に着いたが、乗って来たのは、一人だけ、もう七十にはなっていようという老人で、何の用で出かけるのか、いささか|足《あし》|下《もと》も覚つかない|頼《たよ》りなさ。
「|大丈夫《だいじょうぶ》かしら?」
老人がよろよろと席に|辿《たど》りつき、|疲《つか》れ果てた様子で座り込むのを見て、純江が言った。
秀治は肩をすくめて、
「もう片足を|棺《かん》|桶《おけ》に|突《つ》っ込んでる感じだな」
「しっ! 聞こえるわよ」
「聞こえるもんか」
老人は、|眠《ねむ》ろうとでもするように、目を閉じて、シートにもたれかかった。電車が動き出すと、もう老人のことなど忘れて、純江は結婚式の招待客のことを話し始める。
「――だから、あの人を呼ぶと他にも三人ぐらい呼ばないといけなくなるのよね。どうしよう?」
「そうだなあ……。まあ好きにしろよ」
正直なところ、秀治のほうは固苦しい式だの|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》だのは苦手で、どうでもいいから早く済んじまってくれればいいと思っているのだ。|誰《だれ》を呼ぼうが呼ぶまいが、構やしない。
「そんな、気のないこと言って!」
と純江は、ちょっとむくれてプイとそっぽを向いたが――。「あら! どうしたのかしら?」
さっきの老人が低い|呻《うめ》き声を上げながら、シートヘ|倒《たお》れているのだ。
「発作でも起こしたのかしら?」
「仕方ないな、全く!」
二人は席を立って老人のほうへ歩いて行った。
――どうやら相当に具合が悪いらしいのは、医者ならぬ身でも分った。顔は紙のように白くなり、額には玉のような|汗《あせ》が|吹《ふ》き出している。息はまるでか細い笛の音か風の吹き|抜《ぬ》ける音のようで、苦しげに胸を両手で|押《おさ》えている。
「こりゃ大変だ」
「死んじゃうのかしら?」
「そんなこと知るかい。しかし、放っとくわけにもいかないな。|車掌《しゃしょう》に話して、次の駅で駅員に|面《めん》|倒《どう》みさせるようにしよう。ちょっと一番後ろまで行ってくる」
「早く|戻《もど》って来てよ!」
と純江が情ない顔で言った。
がら空きの車両を|駆《か》け抜けて、秀治は車掌室へやって来ると、ガラスの|扉《とびら》をトントンと|叩《たた》いた。
「――何ですか?」
若い車掌が面倒くさそうにドアを開けて顔を出す。秀治が事情を話すと、
「分りました」
と|肯《うなず》いて、「でも、すぐ次の駅です。ドアを開けなくちゃいけないから、あなた戻ってて下さい。ドアを開けといて、ホームのほうから行きます」
そう言っている内に電車はスピードを落とし始めていた。
秀治が純江と老人のいる車両へ戻って行くと、ちょうど電車が停まって、ドアが開いた。車掌が、駅員と二人でやって来る。
「やあ、こりゃ悪そうだな」
と車掌が駅員へ、「手を貸してくれ。ともかくホームヘ出さないと」
と言った。それから、やっと一息ついた秀治のほうへ向いて、
「あなたも、すみませんが、ちょっと手伝って下さい」
断るわけにもいかず、秀治も手を貸して、老人をホームヘ降ろし、ベンチに座らせた。
「救急箱なら駅長室にあるけど」
と駅員は頼りないことを言っている。
「そんなんじゃだめだ。すぐ病院へ運ばないと」
「そうですか」
駅員は、面倒なことには関りたくないという様子で、「でも……」
と|渋《しぶ》っている。
「救急車を呼びゃいいじゃないか」
といい加減|苛《いら》|立《だ》って、秀治が言った。
「病院はすぐそこにあるんですよ」
と駅員は|顎《あご》でしゃくって、「目の前だから、救急車呼ぶより早いや」
「じゃすぐ連れてきゃいいだろ」
「だって|俺《おれ》はここを離れられないんですよ。電車が来るもの」
「他に誰かいないのか?」
「今、駅長も|留《る》|守《す》で……」
「何とかしろよ! それが駅員の仕事だろ!」
「|酔《よ》っ|払《ぱら》いの世話ぐらいならねえ……」
「勝手にしろ!」
頭へ来た秀治はさっさと電車に乗り込んだ。
「全く、何て|怠《たい》|慢《まん》な|奴《やつ》らなんだ!」
「どうなっちゃったの?」
「知るもんか」
これであの年寄りが死んだら、駅員と車掌の責任だ。――全く、俺だってそう責任感の強いほうじゃないが、あいつらに比べりゃ大したもんだ。
車掌が乗って来ると、
「お客さん。申し訳ありませんが……」
と頭を下げる。「私は電車が遅れてしまうのでぐずぐずできないし、駅員のほうも持場を離れられないようなんです。あのお年寄りを病院まで連れて行ってもらえませんか。ご|迷《めい》|惑《わく》だとは思うんですが」
「大迷惑だよ!」
と秀治は腕を組んで、「こっちは客なんだぞ! どうしてそんなことまで――」
「秀治さん」
純江は秀治の腕を取って、「どうせ急ぐわけじゃないんだもの。連れて行ってあげましょうよ」
「ええ? だって、何もこっちが――」
「死んじゃったりしたら、後味が悪いじゃないの。せっかく結婚前なのに。――ね?」
秀治は、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》そうにため息をついた。
「|畜生《ちくしょう》! 定期を半年分|只《ただ》で寄こせって|請求《せいきゅう》してやるぞ!」
――駅員の言った「目の前」の病院は、確かに、駅を出ると目の前に見えていた。しかし、問題はそこへ|真《まっ》|直《す》ぐに行く道がないという点だったのである。
結局、秀治は背中にあの老人を背負って、ぐるりと遠回りの道を五分以上歩かなくてはならなかった。
いかに年寄りとはいえ、そう軽くはないし、おまけにすぐ耳元でハアハアと苦しげな|息《いき》|遣《づか》い。どうにもいい気分ではなかった。
やっとの思いで病院へかつぎ込む。ここでもあれこれとうるさく|訊《き》かれ、同じ事情の説明を、受付と看護婦と医者に三度くり返さねばならなかった。
「――じゃ、後はよろしく」
老人が|診《しん》|察《さつ》|室《しつ》へ運び込まれると、秀治はそう言って帰ろうとした。
「ああ、ちょっと」
と医者が呼び止める。
「まだ何かあるんですか?」
「あの人の身寄りとか知人を知らんかね?」
「知っているわけないでしょう。さっき言った通り、ただ|偶《ぐう》|然《ぜん》に|一《いっ》|緒《しょ》の電車に乗ってただけなんですから」
と秀治はうんざりして、「もういい加減に|勘《かん》|弁《べん》して下さいよ」
とため息をついた。
「分った。ただ万一の場合、あの人は|身《み》|許《もと》の分るものを持っとらんのでね」
「この線の××駅から乗って来ましたわ」
と純江が言った。「あそこに住んでるのかもしれません」
「なるほど。そうかもしれないな。――すまないけど、報告書を出さにゃならんので、住所と名前を書いて行ってくれるかね」
「それでもう帰っていいんですか?」
「ああ、もう結構だ」
「じゃ書きますよ」
秀治は住所、名前、勤務先まで書類に記入させられて、やっと|放《ほう》|免《めん》された。
「やれやれ。とんだ目にあっちまったな」
「でも人助けよ」
「いくら人助けでも、やり過ぎだ。――それにしても、あの医者、診察なんかしやしねえで、書類のことばっかり気にしてたな。あれじゃ助かる者も助からないぜ」
「本当ね。でも、どっちにしろ私たちには関係ないわ」
「そうだな。ああ、肩が|凝《こ》った」
秀治は首を左右へ|傾《かたむ》けて筋肉をほぐそうとした。「人助けってのは|疲《つか》れるもんだな」
それから一週間たって、秀治が外回りを終えて戻って来ると、受付の女の子が、
「竹中さん。お客様がお待ちです」
と言った。
「誰?」
「こういう方です」
と|名《めい》|刺《し》を|手《て》|渡《わた》す。
「|田《た》|口《ぐち》|幸《こう》|蔵《ぞう》、弁護士? 知らないなあ」
「二時|頃《ごろ》から待ってるんですよ」
「じゃ二時間半も?」
「何時間でもお待ちしますって。向いの|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》にいるはずです。竹中さん、借金の取り立てじゃないんですか?」
「|冗談《じょうだん》言うなよ、結婚前だぜ」
と秀治は苦笑いした。
喫茶店へ入ると、すぐに分った。大きな|鞄《かばん》をかかえて、メガネをかけ、見るからに弁護士という様子だったからだ。
「竹中ですが」
と声をかける。
「ああ、こりゃどうも」
と相手が|慌《あわ》てて立ち上った。――型通りの|挨《あい》|拶《さつ》の後、
「どういうご用件でしょう?」
と秀治は|訊《き》いた。
「実は私、|坂《さか》|井《い》|靖《やす》|文《ふみ》様の|遺《ゆい》|言《ごん》|執《しっ》|行《こう》を任されておりまして……」
「坂井?――知りませんね、そういう名前の人は」
「一週間ほど前になりますが、電車で坂井様が発作で苦しんでおられた時、病院まで運んで下さったとか」
「ああ! あの人ですか。すると……亡くなられたんですか?」
「|一《いっ》|旦《たん》は持ち直されたのですが、四日後にもまた発作を起こされ、そのまま……」
「それはどうも」
「それで、一旦元気になられた時に私が呼ばれまして、あなたのご親切に報いたい、とおっしゃって、遺産の一部をあなたへ贈るよう、遺言状を書き改められましたのです」
「それはまた……」
「大体、ほとんど身寄りのない方でして。あの辺の土地をかなり所有しておられたのです」
「そうでしたか」
「あなたには現金の一部を|遺《のこ》されまして……」
「しかし、そんなつもりでお世話したわけじゃありませんから」
と言いながら、秀治は内心手を打っていた。大したことはないだろうが、ないよりましというものだ。結婚を|控《ひか》えて少しでも助かる。
「まあ故人のせっかくのご遺志です。ぜひお受け下さい」
「はあ……。それは……」
と一応ためらって見せる。「じゃ、お断りするのも|却《かえ》って失礼かもしれませんから、ありがたくいただきましょう」
「それでほっとしました。ではこの書類を……」
と鞄を探る。
「で、それは、どの程度の――」
とさり気ない風を|装《よそお》って|訊《き》く。
「正確な所は計算していませんが、まあ相続税を差し引いて、およそ……五千万前後というところでしょう」
2
「私をからかってるの?」
純江は半信半疑の様子で秀治を見た。
「|嘘《うそ》じゃない! 五千万だ! あのじいさん、大金持ちだったんだ!」
喫茶店の中なので大声は出さなかったが、つい秀治の声も上ずっている。
何度も説明され、書類を見せられ、やっと納得すると、純江は放心の態で、
「|夢《ゆめ》みたい!……五千万!」
「そうさ。家の代金なんか|即《そく》|金《きん》で払ってやる。それだって三千万以上残るんだぞ」
「何を買おうかしら? 毛皮、ダイヤの|指《ゆび》|環《わ》、ハンドバッグ――」
「車を買おう。スポーツタイプだ。それに――」
「ねえ、新婚旅行、海外にしましょうよ!」
「よし、それはいいや。ヨーロッパにするか、アメリカがいいかな?」
「ああ、こんな話が本当に起こるなんて!」
純江は夢見心地で目を閉じた。
「どうする気よ?」
純江はソファヘ|寝《ね》そべったまま、言った。秀治は答えなかった。
「もう|八《はっ》|方《ぽう》|塞《ふさ》がりだわ。――どこからもお金を借りられるあてはないし」
純江は秀治へ腹立たしげな目を向けると、
「あなたが|妙《みょう》な投資なんかに手を出すからいけないのよ」
と|突《つ》っかかるように言った。
「仕方ないだろう、今さらそんなことを言っても」
「私がやめておけって言ったのに」
「絶対に当ると思ったんだ」
「そんな〈絶対〉なんて商売、あるもんですか。要するに、態よく巻き上げられただけなのよ、あなたは」
秀治は何とも言わず、ただ|黙《だま》ってウイスキーをあおっている。――しばらくして、純江がため息と共に言った。
「どうするの?……この家だって|抵《てい》|当《とう》に入ってるのよ。来月になったら出て行かなきゃならないわ。そうなったらどこへ行くのよ?」
秀治は|苛《いら》|々《いら》と、
「俺に分るもんか!」
と|怒《ど》|鳴《な》ったが、その声は何とも弱々しい。
「あーあ、五千万なんて、すぐなくなるもんね」
「ああ派手に使わなきゃよかったんだ」
「それこそ、今さら言っても|手《て》|遅《おく》れよ」
と純江は鼻先で笑った。
秀治がちょっとよろけながら立ち上った。
「どこに行くの?」
「|叔《お》|父《じ》さんの所さ」
「また? やめておきなさいよ」
「もう一度|頼《たの》んでみるさ」
「この前、これで最後だって言われたじゃないの」
「今度だけさ。――返済の手付金ぐらいでも払えば、後はまた何とか――」
「どうにもならないわよ。|稼《かせ》げるあてはないんだし」
「分らねえさ。……あの五千万だって、向うから転がり込んで来た金だ」
「そうそう転がり込んじゃ来ないわよ」
「ともかく行って来る」
純江は別にそれ以上止めようともしなかった。
秀治は駅への道を、ぶらぶらと歩いて行った。天気のいい、陽射しのまぶしい午後だった。昼間から|酔《よ》っている身には、その明るさがやりきれない。
たった一年。――五千万という大金を手にしてから、一年しかたっていないのにこのざまだ。一年前、あの|浮《う》かれた日々には、こんな一年後を予想することもできなかった……。
五千万。――あっという間だったな。
一番の|間《ま》|違《ちが》いは、会社を|辞《や》めてしまったことだった。辞める気ではなかったのだが、五千万の遺産の件はやがて会社中に知れ|渡《わた》ってしまい、どうにも辞めざるを得ない立場に追い込まれたのである。
あの時、|我《が》|慢《まん》して会社にとどまっていたら、と、無意味を承知で、秀治は|悔《く》やんでいた。――どうせ新しい仕事につくのなら、自分で何か始めてみよう、と思い立ったのが間違いのもとだった。元来、人に使われていれば|巧《うま》く立ち回れるものの、商才などというものはない男だ。
やることなすこと裏目、裏目に出て、家の代金を払った残りの三千万が底をつくのは、あっという間だった。しかも家を抵当に入れての借金も、もう返済期限が|迫《せま》っているのだ……。
いっそあの五千万が最初からなかったら、と秀治は勝手なことを考えるのだった。
駅へ着いて、秀治は|切《きっ》|符《ぷ》を買った。――電車はもう|停《とま》っていて、間もなく発車時間になるところだ。
車両は空だった。|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見ると二時半だった。――そういえば、あの時も、これぐらいの電車に乗ったのではなかったろうか?
あの日、静かな昼下がりで、車両には秀治と純江の二人しかいなかった。考えてみればあの電車に一分違いで乗り遅れていたら、今の自分は相変らずのサラリーマンながら、こんな|惨《みじ》めな様にもならずに済んだろう。
「人の運なんて分らないもんだ……」
人のいない座席にゆっくりと腰をおろすと秀治は|呟《つぶや》いた。
ドアが閉まり、電車はゆっくりと動き出した。
一年たつが、沿線の風景は一向に変わる様子もない。変わったのは|俺《おれ》たちだけかもしれない……。
次の駅に着いた。――七十|歳《さい》は優に|越《こ》えていそうな老婦人が、|杖《つえ》をつきながら、乗って来るのを見て秀治は思わず苦笑した。
「どうもこの車両は老人専用車らしいな」
上品な和服姿の老婦人は、やれやれ、といった様子で席についた。
電車が動き出す。秀治は所在なく、窓の外の|見《み》|飽《あ》きた風景を見ていたが、その内、ふと老婦人のほうへ目を向けて、ギクリとした。
老婦人がシートにぐったりともたれかかって、|杖《つえ》は|床《ゆか》へ転がっている。ただ|眠《ねむ》っているという様子には見えなかった。
|一瞬《いっしゅん》、秀治は奇妙な|偶《ぐう》|然《ぜん》に|当《とう》|惑《わく》したが、放っておくわけにもいかず、立ち上って、その老婦人のほうへ近付いて行った。
「だ、|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
そっと声をかけると、土気色の顔がゆっくり上を向いて、目が開いた。
「ご気分でも……あの、何かできることがあれば……」
「ご親切に……どうも……」
老婦人はかすれた声で言った。「この……|手《て》|提《さ》げに……黄色い|錠剤《じょうざい》が……」
「これですか。――ああ、この|袋《ふくろ》の中の|奴《やつ》ですね?」
「水を……水をいただけませんか……」
「ああ、ええと……次の駅に着いたら、降ろしてあげますよ。駅員に言って水をもらいましょう」
「でも……それでは、あなたにご迷惑が……」
「いや、構いません。別に急ぐわけじゃないんですから」
そう言っている内に、電車は次の駅へ着いた。秀治は老婦人の体を支えて立たせてやると、
「大丈夫ですか?……ゆっくりと……」
と言いながら、ホームヘ降りた。駅員が見付けて|駆《か》け寄って来る。むろん前の時の駅員ではない。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
と声をかけて来る。前の時の駅員ほど無責任な|奴《やつ》ではないらしい。
水を頼むと、急いで走って行き、コップに水を入れて持って来た。老婦人はその水と一緒に黄色の錠剤を服んだ。
五分もすると|嘘《うそ》のように顔色もよくなり、元気になっていた。
「本当にどうもご親切に……」
「いえ、とんでもない」
「車で行けばよかったのに、なまじ気分が良かったものですから、無理をして階段を上ったのが応えたようですわ」
「ここから車で行かれますか?」
と駅員が|訊《き》いた。「タクシーを呼んであげますよ」
「まあ、そんなことまでお願いしては――」
「構やしません。どうせ次の電車が来るまで|暇《ひま》ですから。さあ、下で休まれたほうが楽ですよ」
「|僕《ぼく》も手伝いましょう」
と秀治も申し出た。
「そりゃ助かります。じゃ、そちらを支えて……」
二人で|抱《かか》えれば、老婦人の体はそう重くない。改札口の外のベンチに座らせておいて、駅員はタクシー会社に電話をかけに行った。
「――本当にご迷惑をおかけしました」
「いえ、そんなに礼を言われるほどのことではありませんよ」
「私はこの手前の駅のそばにおります。|木《き》|谷《たに》と申します。――この近くにお住いですの?」
「はあ。終点の駅のそばの建売に……」
「ああ、それではあの新しいお家ですか」
「マッチ箱みたいなものですがね」
と秀治は笑った。
「お近くへおいでになりましたら、ぜひお寄り下さい」
「はあ……」
駅員が|戻《もど》って来た。
「すぐ来るそうですよ」
実際、五分も待たずに、タクシーがやって来て、老婦人は秀治と駅員に何度も礼を述べてから乗り|込《こ》んだ。
「――いいお|婆《ばあ》さんでしょう」
車を見送って駅員が言った。
「知ってるんですか?」
と秀治は|訊《き》いた。
「この辺の大地主なんですよ。でもご主人は戦争で亡くなり、息子さんも大分前に死にましてね。一人住いなんです。|寂《さび》しいでしょうなあ」
「大地主? あの人が?」
「ええ。終点の××駅の前に建売住宅ができてるでしょう。あの辺もあのお婆さんの土地だったんです。――亡くなったら財産はどうなるんだろう、と近所の人は余計な心配をしてるようですよ」
駅員は時計を見て、「ああ、そろそろ電車が来る。ホームヘ上らなくちゃ」
「そうですか」
「でも来るのは下りです。反対方向ですよ」
秀治はちょっと間を置いてから、
「用を思い出しました。今度の下りで戻ります」
と言った。
「あら、ずいぶん早いお帰りね」
と純江がびっくりして顔を上げた。「叔父さんの所には行かなかったの?」
「ああ、ちょっとした事があってね」
秀治はソファヘ座り込んだ。
「――そんな|馬《ば》|鹿《か》な話って!」
秀治の話に、純江は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「本当だから仕方ないさ」
「へえ。――でも、それがどうしたの? その人は遺産をくれるって言ったわけじゃないんでしょ?」
「当り前だ」
「じゃ、何にもならないじゃないの」
純江は肩をすくめて、「他の人が持ってるって分ったって、こっちには一文の得にもならないわ」
「そこさ、問題は」
と秀治は|狡《ずる》そうな笑いを|浮《う》かべて、「それを得になるように持って行くんだ」
「何を言ってるの?」
と純江はいぶかしげに|眉《まゆ》を寄せた。
「あの|婆《ばあ》さんは一人住いで寂しがってるんだ。近くへ来たら寄ってくれと言ってた」
「社交辞令よ。決ってるじゃないの」
「そうじゃないかもしれない。訪ねて行きゃ喜ぶかもしれないぜ」
「馬鹿らしい!」
「そうか? 俺はそう|思《おも》わないがな」
「どうしようっていうのよ。訪ねて行って、少し財産を分けて下さいって頼むの?」
「まさか! 向うをその気にさせるように、うんと親切にしてやるのさ。金目当てなんてことをおくびにも出しちゃいけない」
「そんな|呑《のん》|気《き》なこと、していられるの? 借金の返済期限は来月なのよ」
「やるだけやってみるさ。悪くはないだろう。あてのない借金を頼んで回るよりゃずっといいと思うがな、俺は」
純江は肩をすくめた。
「好きなようになさいよ」
「お前にだって手伝ってもらうぞ」
「私?」
「そうだ。年寄の好きそうな食い物を作って行ってやるんだ。年寄など、そう楽しみはないからな」
「そんなことでご|機《き》|嫌《げん》が取れる?」
「やってみなきゃ分らないさ」
純江はため息をついたが、
「いいわ。それじゃやってみましょ。――同じ|奇《き》|跡《せき》は二度とは起こらないと思うけど、私は」
「起こらなきゃ、起こしてみせるさ」
秀治はそう言って、タバコに火を|点《つ》け、ゆっくりと|煙《けむり》を|吐《は》き出した。
3
「ごめん下さい」
|玄《げん》|関《かん》の戸を開けて、秀治は声をかけた。「|留《る》|守《す》なのかな?」
「ずいぶん不用心ね。開けっ放しにしとくなんて」
「それにしてもごく普通の家だなあ」
「本当ね。これが女地主の家なの?」
「結構そんなものかもしれんさ。――ごめん下さい」
と少し大きな声を出す。
「何か?」
急に二人の背後から声がした。びっくりして振り向くと、あの老婦人が立っている。
「あら、この間の――」
とすぐに秀治に気付いて、「その節はお世話になりました」
「いいえ。大分具合もよろしいようですね」
「おかげさまで。今日は元気がいいものですから、庭で土いじりをしておりまして……。こちらは|奥《おく》|様《さま》でいらっしゃいますの?」
「竹中純江と申します」
「木谷|鮎《あゆ》|子《こ》です。――よくいらっしゃいました。どうぞお上り下さい」
「はあ。この間のお言葉に|図《ずう》|々《ずう》しく甘えさせていただいて……」
と秀治が頭をかく。
「こんなお|婆《ばあ》さんの一人の所によくいらっしゃいましたね。さ、どうぞ」
「では……」
小さな、しかし清潔そのものの日本間に通され、二人は|座《ざ》|布《ぶ》|団《とん》にかしこまって座った。
「どうぞお楽に。今、お茶を|淹《い》れます」
「どうぞお構いなく――」
木谷鮎子が出て行くと、純江は部屋の中を見回した。
「きれいになってるわね」
と感心した様子。
「そうかい?」
「ほら、あの置物だの、木の|棚《たな》の|艶《つや》をごらんなさいよ。よほどまめに手入れしていなきゃ、ああはいかないものよ」
「なるほど、そんなもんかな」
「我が家の乱雑さとは対照的ね」
「変な所を比べるなよ。こっちは破産寸前、ここは大金持ちだぞ。きっと人を|雇《やと》ってやらせてるのさ」
「そうかしら」
「決ってる。金さえありゃうちだって――」
「しっ!」
と純江が|遮《さえぎ》った。
木谷鮎子が茶の道具を|盆《ぼん》にのせて運んで来た。
「おいでいただいても、私一人なので、何もお出しするものがなくて……」
「あの、これ……よろしければ」
と純江は包みを出して、「|水《みず》|羊《よう》|羹《かん》なんですけど」
「まあ、これはどうも」
「いや、あの時駅員さんから、お一人でお住いだとうかがいましてね。まあ、ちょっとした気晴らしにでもなれば、と思いまして。大したものじゃありませんが、家内の手料理を|詰《つ》めて来ました。お口に合わないと思いますが……」
極力下心があるとは聞こえないように、秀治は言った。
「|滑《すべ》り出しは上々じゃないか」
家へ帰ると、秀治はニヤリと笑って|伸《の》びをした。「何とも|窮屈《きゅうくつ》で参ったけどな」
「あんなに喜んでもらえるなんて」
と純江は逆にちょっと気がとがめている様子。「心苦しくて仕方なかったわ」
「どうして? 計画通りだぜ」
「だって、そんなこと疑ってもいないんだもの。帰り際には|涙《なみだ》まで浮かべて……」
「人がいいんだな。よく今まで誰にも|欺《だま》されずにいたもんだ」
純江はしばらく|黙《だま》って部屋の中を見回していたが、やがて、ふと思い付いたように、
「ねえ、今度はあの人をここへ呼びましょうよ」
と言い出した。
「ええ? ここへかい?」
「そうよ。いいでしょう?」
「そりゃまあ……。いい手かもしれないな。しかし、来るかね?」
「電話してみるわ。ぜひいらして下さいって!」
純江はいやに張り切っている。
木谷鮎子は喜んで|伺《うかが》いますと返事をして来た。
翌日、純江は朝からコマネズミのように働いた。ここ何か月か、貯金が底をつき、借金がかさんで来るにつれ、何もやる気がしなくなって、家の中は|汚《よご》れ放題になっていたのである。
「あなたは出かけていてよ」
と秀治を追い出し、家中を|磨《みが》き上げんばかりにした。丸一日、昼食も立ってパン一枚をかじるだけ。ほとんど休むことなく働いて、さすが夜にはくたくただったが、ともかく別の家かと思うほどになった。
帰って来た秀治は目を丸くして、
「|驚《おどろ》いたな! この家って、こんなにきれいだったか?」
と思わず口走った。
「どう? 気分がいいでしょ。ああ|疲《つか》れた」
「何も家中やることはないじゃないか。あの|婆《ばあ》さんに見せる所だけきれいにしておきゃ……」
「そういうもんじゃないわ。やるなら|徹《てっ》|底《てい》|的《てき》にね。見えなくったって、そういうのって分るものよ」
「そうかね」
「久しぶりだわ、こんなに疲れるまで働いたのって……」
そう言うと、純江は大きな|欠伸《 あくび》をした。
「明日来るんだろ?」
「そうよ。朝の内に買物に行かなきゃ」
「俺はどうするのかな」
「そうね。あんまりいつも家にいちゃおかしいでしょ。勤めてることになってるんだから。出かけて、適当に夕ご飯の|頃《ころ》戻って来たら?」
「そうするか……」
純江は立ち上りながら、
「でも、|夢中《むちゅう》で働いた後の疲れっていいもんね。久しぶりにこんな気分、味わったわ」
と言うと、夕食の仕度に、台所へ行ってしまう。
秀治は、ちょっと|呆《あっ》|気《け》に取られていたが、やがてソファにゆっくりと|寛《くつろ》いだ。
夢中で働いた後の疲れか……。秀治は元来があくせく働くことの|嫌《きら》いな男である。サラリーマンの頃でも、いかにして適当に仕事をさぼるかばかりを考えていた。
それでもたまには、仕事に追いまくられて、必死に働くことも二度や三度はあって、そんな時に、いわゆる「|充実感《じゅうじつかん》」というやつに近い気分を味わったこともあるのだが、その一瞬が過ぎてしまえば、安月給でこんなに働かされちゃ合わねえや、という|愚《ぐ》|痴《ち》ばかりがまた出て来るのだった。
今からでも、新しく仕事を見付けて働く気もないわけではない。しかし、のしかかっている借金の大きさを思うと、少々必死で働いたところでどうにもならないのである。
ここは一つ、やはりあの老婦人の財産に期待する手だ。――幸い、向うもこっちが気に入っているようだし、この分なら大いに見込みはある。
といっても、問題は残る。たとえ木谷鮎子が秀治たちに遺産を分けてくれることになったとしても、それは木谷鮎子が死ななくては手に入らないのだ。彼女がすぐ死ぬという可能性はむろんあるが、来月の借金返済期限までに死んでくれるかどうかは、定かではない。
考えてみれば無茶な計画を立てたものである。
「まあ、成り行き次第で考えるさ……」
と秀治は|呟《つぶや》いた。――大体がいい加減な男なのである。
次の日、一応背広にネクタイというスタイルで家を出た秀治は、さて、映画でも見て時間を|潰《つぶ》すか、と思いながら電車に乗った。
ぼんやりと窓の外を|眺《なが》めていると、
「やあ、この間はどうも」
と声をかけて来た男がいる。
「いえ……」
と会釈したものの、とんと|見《み》|憶《おぼ》えのない顔である。「失礼ですが、どなたでしょうか?」
「いや、この格好じゃお分りにならないのも無理はないな。駅員の制服を着ていないとね」
言われて、
「ああ」
と思い出した。木谷鮎子を助けた時、水を持って来たり、タクシーを呼んだりした駅員だ。今日はセーターにジーンズという|軽《けい》|装《そう》なので、全く別人のように見える。
「今日はお休みですか?」
と秀治は|訊《き》いた。
「そうなんですよ」
と駅員は、|三《み》|田《た》と名乗って、「一度お目にかかりたいと思っていたんです」
「はあ。何か僕に用でも?」
「ちょっとお話ししたいことがありましてね」
三田は、やや間を置いてから、「――これからお仕事ですか?」
と訊いた。
「いえ……。まあ、そう急ぐわけじゃないんです」
と秀治は|曖《あい》|昧《まい》に言った。
「それじゃどうです、次の駅で降りると、静かな|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》があります」
三田の口ぶりには、どこか秘密を|隠《かく》しているような、思わせぶりな所があった。
「いいですよ」
と秀治は|肯《うなず》いた。
「遺産をあなたに?」
秀治は思わず訊き返した。「あのお婆さんがですか?」
「ええ。まあ『ごく少し』ということでしたがね。親切にしてもらったお礼だと言って」
「それは……結構じゃないですか」
秀治は無理に言葉を|押《お》し出した。
三田はニヤリと笑って、
「ご安心なさい。あなたのほうへも|遺《のこ》す気でいるらしいですよ」
「どうしてそれを?」
「いや、実はあの翌日に駅へやって来ましてね、あなたのことを|訊《き》かれたんです。何という人か知らないかというわけですよ。分らないと言うと、実は――と打ち明けてくれたんです。なかなか他人の|面《めん》|倒《どう》をあそこまで見てくれる人はいない。ついては私が死んだ時に遺産の一部をあの方へ差し上げたい、というので、今度お見かけしたら、名前を伺っておきますと答えたんです」
「それはどうも……」
「で、その時に、『あなたも仕事とはいえ、とても親切にして下さったので、ごく少しばかりですけれど、贈らせて下さい』と言って行ったんです」
「そうですか。――いや、そんなことを言われても困っちまいますね」
と秀治は作り笑いを浮かべた。
「でもせっかくくれるっていうんだから、もらっておけばいいじゃありませんか」
「まあ……それはそうですけど」
「私だって、くれるというものは断りませんよ」
と三田はあっさり言った。「まあ『少し』っていうのが、実際にはどの程度の金額なのか分りませんがね。本当に少しかもしれない。でもあの人の資産は何億だか、大変なものらしいですからね。そういう人の『少し』は、私たちの言う『少し』とは大分感覚も違うかもしれません。結構な額かもしれないと思いませんか?」
「さあ、どうでしょう。見当もつきませんね」
と秀治は|逃《に》げた。
「あの人も、もう長くはないでしょう。あなたのことは私が知らせましょうか? それともご自分で|連《れん》|絡《らく》しますか? 本当はそのほうが|詳《くわ》しいことも分っていいと思いますがね」
「そ、そうですね。……自分で連絡を取りますよ」
と秀治は急いで言った。この三田という男が木谷鮎子へ連絡して、実はとっくに秀治が訪ねて行っていたことが分ったら、妙なものである。
「そうですか。じゃ、あの人の電話を――」
三田はポケットから手帳を出してメモを書き、破って秀治へ渡した。
「早く連絡したほうがいいですよ」
と三田は|微《ほほ》|笑《え》んで、「分らない内に死んじまったら一文ももらえなくなる」
「そんなにすぐってこともありますまい」
秀治はメモをポケットヘしまい込んだ。
すぐ、か。――もう木谷鮎子は、秀治たちのことを遺言状に書き入れているだろうか? もしそうなら、すぐにでも死んでくれるほうが助かるのだが……。
「――じゃ、どうも」
また電車に乗り、いくつか先の駅で、三田は降りて行ったが、降りる時に秀治のほうを振り向くと、
「早くご連絡なさい。いいですね」
と念を押して行った。――どうやら、秀治のことが判らないと木谷鮎子が自分のほうへも遺産を回さないのではないかと三田は気にしているようだった。
映画を見て時間を|潰《つぶ》し、夕方、六時頃に家へ戻ってみると、家は空っぽだった。
「どこへ行ったんだろう?」
と|呟《つぶや》きながらダイニングルームヘ入ると、食事の|仕《し》|度《たく》が|途中《とちゅう》で放り出してある。テーブルにひどく急いだらしい、走り書きのメモがあった。
〈木谷さんが|倒《たお》れました。救急車に付き|添《そ》って行きます。純江〉
4
やっと、病院が分って、|駆《か》けつけたのは、一時間以上もたってからだった。
|廊《ろう》|下《か》の|椅《い》|子《す》に、こわばった顔つきで、身じろぎもせず、純江が座っている。
「おい、純江!」
と声をかけると、はっと顔を上げた。
「あなた! よく分ったわね」
「|捜《さが》したぜ。どうしたんだ、一体?」
「食事の仕度を手伝うとおっしゃったのよ。いいから休んでいてくれるように言ったんだけど、大丈夫だから、って……。そして、急にめまいがしたようにふらついて、そのまま倒れて意識を失っちゃったの」
「そうか。どんな具合なんだ?」
「分らないわ。ここへ着いた時は、まだ息があったけど……」
「そうか。――実はな、ちょっと話があるんだ」
「え?」
秀治は三田から聞いた話を手短かに話してやった。
「――まあ、それじゃ、木谷さんは、最初からそのつもりで……」
「そうなんだ。だからもう遺言状に俺たちのことも書き入れているかもしれない。それなら、このまま死んでくれても構わないんだがな」
突然、純江がきっと秀治をにらみつけた。
「何てことを言うのよ!」
秀治は面食らって、
「おい、何だよ、どうした?」
「あなたって人は……人でなし!」
「何だと?」
「あんないい人を……死ねばいいなんて、よくも言えたものね!」
「おい、待てよ。俺は何も――」
「もうごめんよ! 私はあの人が好きなの。いつまでも長生きしてほしいのよ」
「しかし俺たちの借金は――」
「家を出て行けばそれで済むんじゃないの! それぐらいのこと、何だっていうのよ?」
秀治は何がどうなっているのか、さっぱり分らず、ただ目を白黒させるばかりだった。
「――と、ともかく、ここでそんなでかい声を出すなよ、聞かれたらどうする」
と|慌《あわ》ててなだめる。そこへ、白衣の医師がやって来た。
「木谷さんのご|親《しん》|戚《せき》ですか?」
純江が立ち上って、
「いえ……。知人ですが」
「そうですか。あまり身寄りの方はおられないようですな、あの方には」
「ええ。そのようです。――具合はどうでしょうか?」
「命は取り止めました」
純江は思わず目を閉じて、
「よかったわ!」
と息をついた。医師は難しい顔で、
「しかし、油断は禁物です。この次、同じような発作が起きたら、今度こそ危い」
「では入院を?」
「そうするのが|賢《けん》|明《めい》ですな」
「分りました。私が手続きをします」
「助かります。それで……」
と医師はちょっとためらってから、言った。
「今の発作が相当にひどかったので、全身に|麻《ま》|痺《ひ》が来ているのです」
「というと……」
「|寝《ね》たきりの状態ということになりますな」
「まあ……」
純江は首を振った。「お気の毒だわ」
「それで、誰か、そばについている人間が必要です。あの方はかなりの財産家のようですから、しかるべき人を|雇《やと》うのがいいでしょう。その手配をお願いできますか?」
純江はちょっと考えてから、きっぱりと言った。
「その必要はありませんわ。私が[#「私が」に傍点]ついています」
秀治はびっくりした。――そこまでやってやることはないぞ! しかし純江は本気らしい。医者から、あれこれ詳しい話を聞いている。
「おい、どういうつもりだ? ずっとこの病院にいる気なのか?」
と、医者が行ってしまってから、秀治は言った。
「ええ。あなた、一人で適当にやってね」
「|冗談《じょうだん》じゃないぜ、おい!」
「私、本気よ」
純江は|真《まっ》|直《す》ぐに秀治を見つめながら言った。「あの人は、私たちが家へ呼ばなかったら、こんな風にならなかったかもしれないわ。私たちの責任よ」
「しかし――」
「聞いて。私はあの人の世話をしたいの。お金なんかどうでもいいのよ。きっと、あの人もそう長くはないでしょうけど、最後まで、ついていてあげたいのよ。――お願い、分ってちょうだい!」
秀治はため息をついた。純江の、こんなに|真《しん》|剣《けん》な表情を見たのは初めてだ。
「勝手にしろ」
秀治は投げ出すように言った。
「竹中さん」
と呼ばれて|振《ふ》り向くと、三田が立っていた。
「やあ、こりゃどうも」
「どちらへ?」
「いや、晩飯を駅前で食って来たところなんです。あなたは?」
「実は、ちょいとお会いしたくてね。お宅を捜そうと思って来たんですよ。そうしたら、ちょうど姿が見えたので」
「そうでしたか。じゃ、その辺でお茶でもどうです?」
「いいですね」
――店へ落ち着くと、三田はすぐに口を開いた。
「あのお|婆《ばあ》さん、入院したそうですね」
「発作で倒れましてね。でも今は自分の家にいますよ」
「良くなったんですか?」
「いや、本人の希望なんです。死ぬなら自分の家で、というわけでね。医者も認めたものですから」
「するともう長くはないですね?」
「そう思いますね。何しろこの間の発作で寝たきりでしょう。もっとも気分は悪くないようですが」
「誰かがついているんですか」
「うちの家内が、ね。――おかげでこうして毎晩外食なんですよ」
「なるほど」
と三田は笑って、「しかし、そこまで面倒をみると、向うも遺産の取り分をはずむかもしれませんよ」
「さあ、どうですかね」
と秀治は|逃《に》げた。――三田は真顔になると、身を乗り出すようにして、低い声で言った。
「金がいるんですよ」
「え?」
「勝負事が大好きでして。大分借金をこしらえているんです。近々、少しでも返さないとえらいことになりそうなんです」
「それはしかし――」
「どうなんです? あの婆さん、まだ死にませんかね」
三田は上目づかいに、|狡《ずる》そうな目で秀治を見ている。まるで別人のような目つきだった。
「分りませんね。危い、危いと言われて何年も生きる人もいるし、至って元気でも一日でコロッと行く人もある……。医者じゃありませんしね。何ともお答えは――」
「そうですか」
三田は何やら思いつめたような顔で|肯《うなず》くと、
「じゃ、どうも失礼しました」
と言って、秀治が止める間もなく、足早に店を出て行ってしまった。
「おかゆ、少し固かったですか?」
と純江が|訊《き》くと、木谷鮎子は|床《とこ》の中でそっと|微《ほほ》|笑《え》んで、
「いいえ。とってもおいしかったわ……。ごちそうさま」
「何かほしいもの、ありません?」
「いえ、今は結構よ。純江さん、少し休んで下さいね」
「いつも休んでますからご心配なく」
と純江は笑顔で言った。
「本当に……何の|縁《えん》もないあなたに、こんなにしていただいて……。そう長いことはありませんから、もう少しお願いしますね」
「そんなこと……。早く良くなって下さい」
「ありがとう」
玄関の開く音がして、秀治が顔を出した。
「あら、あなただったの」
「やあ。どうです、具合は?」
「竹中さん、すみませんね、奥様を……」
「いいんですよ。行儀見習いのつもりで、うんと働かせて下さい」
と秀治は言って、「ほら、果物を買って来た」
「そう。じゃ冷蔵庫へ入れるわ」
「私は少し|眠《ねむ》りますから……」
と木谷鮎子は|呟《つぶや》くように言った。
「それじゃ、何かご用の時は呼んで下さい」
――二人は台所へ行った。
「顔色、悪くないじゃないか」
「ええ。食欲も少し出て来たし。もっと長生きさせてみせるわ」
秀治は苦笑いした。
「そんなに張り切ってるお前を見たのは初めてだな」
「そう?――あなた、ごめんなさいね。放っておいて」
「いいさ。これも人助けだ」
「そうよ。本当にいいもんだわ、人助けって。――あ、そうだ。薬を持っていかなきゃ」
純江は急いで薬と水のコップを持って台所を出て行った。秀治は大きく|伸《の》びをして、手近な|椅《い》|子《す》へ|腰《こし》かけた。そのとき、
「キャーッ!」
と純江の悲鳴が耳に飛び込んで来た。
廊下を走って行くと、木谷鮎子の寝ていた部屋から飛び出して来た男とばったり出会った。――三田だった。
「しっかりして! しっかりして下さい!」
純江が木谷鮎子の顔の上に|押《お》しつけてあった|枕《まくら》をはねのけて|叫《さけ》んだ。秀治は、青ざめて|突《つ》っ立っている三田を見た。
「貴様……」
秀治はこみ上げて来る|怒《いか》りを込めて、三田の顔へ|拳《こぶし》を|叩《たた》きつけた。
「それじゃ、木谷さんは、三田に殺されたわけじゃないんですか?」
秀治は思わず|訊《き》き返した。小太りで、愛敬のある顔をした弁護士はこっくりと|肯《うなず》いて言った。
「検死の結果、分ったそうです。三田が|襲《おそ》うより前に、息を引き取っていたのです」
「まあ。それじゃ、とても安らかに……」
と純江は言った。
「苦しまずに亡くなったようです。それだけは幸いでした」
「本当に……」
「ところで、遺産の件ですが」
と弁護士は書類を広げた。「あなた方へ、故人は現金でほぼ……相続税を引いて七千万ほどを|遺《のこ》しておられます」
秀治はちょっと間を置いてから、言った。
「それはいただけません」
純江が|驚《おどろ》いて秀治を見た。秀治は続けて、
「いただく資格がありません。何しろ僕らは初めから、お金を目当てに、あの人へ近付いたんですから」
「それはあの方もご承知でしたよ」
弁護士の言葉に、二人は思わず顔を見合わせた。
「それじゃ――」
「あなた方が初めてあの方の家を訪問された後、私はあの方から、あなた方のことを調べるように言われたのです。あなた方がお金に困っておられること、お家も|抵《てい》|当《とう》に入っていること、|総《すべ》て、あの方はご存知でした」
「そうでしたか……」
「それでもあの方は、あなた方の親切に感謝しておいででした。特に奥様の看病ぶりは、とてもお金だけを考えている人にはできないことだとおっしゃって……」
純江はすすり泣いた。
「――ですから、ご|遠《えん》|慮《りょ》には及びません。あの方は総てを承知の上で、これだけのものをあなた方へと|遺《のこ》されたのです。どうぞ、お受け取り下さい」
秀治はしばらく考え込んでいたが、やがて大きく一つ息をつくと、
「分りました」
と|肯《うなず》いた。「今、さし迫って返さなければいけない借金があります。それを払えないとあの家を出て行かなくてはいけないんです。その借金を返す分だけちょうだいします。それ以上は一円もいりません」
「しかし――」
「どうか……|施《し》|設《せつ》のようなところへ寄付してもらえるように、手配していただけませんか」
弁護士は|微《ほほ》|笑《え》んで、
「分りました」
と肯いた。笑うと、童顔がますます|可《か》|愛《わい》くなった。
外へ出ると、秀治は言った。
「先に帰ってくれないか」
「あら、どうして?」
「ちょっと友達を訪ねて行こうと思うんだ。――仕事を世話してくれるかもしれない」
「|一《いっ》|緒《しょ》に行くわよ」
純江は秀治の|腕《うで》を取った。
「ま、いいや。じゃ、行こう」
歩き出して、秀治は言った。「もう今度は――」
「分ってるわ。何も言わなくても」
秀治はちょっと笑ってから、
「そうか。借金を返すあてはついたんだ。職探しは少しぐらいのばしたっていいや」
「どうするの?」
「どこかで昼飯を食べよう。腹が減ったよ」
「そうね。そう言えば私も」
「何にする?」
「|中華《ちゅうか》がいいわ。安くて量があるもの」
「よし、そうしよう」
二人は足を早めた。
よく晴れた昼下がりだった。
|昼《ひる》|下《さ》がりの|恋《こい》|人《びと》|達《たち》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成14年4月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C)Jiro AKAGAWA 2002
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『昼下がりの恋人達』昭和57年5月30日初版発行
平成10年7月20日74版発行