角川文庫
悲歌
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
プロローグ
第1章 孤独
第2章 味方
第3章 記憶
第4章 アキラ
第5章 渦巻
第6章 襲撃
第7章 尾行
第8章 闇の中
第9章 炎上
エピローグ
プロローグ
「――はい。もしもし。――もしもし? どなた? ――貴志さん? そうでしょう」
「ああ」
「どうして言わないの、何も。――今、どこからかけてるの? お宅からじゃないわね。何だか……ちょっと雑音が入るわ」
「車からだ。由香。聞いてくれ。今、車は海に向って停ってる。このままアクセルを踏めば、車は冷たい海の中へ突っ込むことになる」
「貴志さん……。何の話?」
「よく考えた。充分考えたんだ。こうする他はない。――聞いてるか?」
「ええ」
「分ってくれるね。君を残して死ぬのは辛い。しかし、君と子供のためには、こうする以外にない。後のことは心配ない。よく考えた上のことだ。冷静に、充分考えた上のことなんだ」
「そう。――それでいいのね」
「うん。これでいい」
「そうね。それでいいのね」
「おい。――由香。泣くな。泣かないでくれ。僕のためなら、泣かないでくれ。僕は君たちのために死ぬ。それで満足なんだ」
「貴志さん……。でも、晃子ちゃんは? どうするの?」
「――晃子か。うん、分ってる。もちろん、忘れたわけじゃない。自分の娘だからね。もちろん考えたさ」
「晃子ちゃん、一人ぼっちになってしまうのよ」
「しかし、あいつは……。何とかやって行くさ。大丈夫だ」
「でも――」
「あいつは頼りなさそうに見えるけどね。しかし、ちゃんとやって行ける奴さ。親類もいる。放っときはしないだろう。――由香」
「貴志さん」
「君のことを――君だけを思いながら、死ぬよ」
「ごめんなさい」
「いいんだ」
「ごめんなさい……。あなた」
「僕たちの子を頼む」
「――はい」
「その子の中に、僕が生きてるんだからね」
「はい」
「じゃあ……さよなら、由香。幸せを祈ってる」
「ごめんなさい。一人で死なせてしまって。一緒に行かなくて……。ごめんなさい。ごめんなさい……」
第1章 孤独
トントン、と晃子はノックをした。「アキラ。――アキラ?」
なかなか、返事はなかった。晃子は少し苛立って、もう一度ノックした。
「――あーあ」
と、眠そうに目をこすりながら、アキラが姿を見せた。
「何よ。居眠りしてたの?」
と、晃子は言った。「ゆうべ遅かったんでしょう」
「どうかな。――お前の知ったこっちゃないだろ」
と、アキラはボサボサの髪の毛を、自分の手でますますくしゃくしゃにしながら、「時間、早くないか? いつももっと遅いだろ、呼び出すの」
「お父さんが帰って来ないんだもの」
「へえ。でも、珍しくないだろ。いつも夜中じゃないか。まだ……十時?」
「でも、今日は早いはずなのよ」
と、晃子は口を尖らした。
「いつも、よせって言われてるだろ、その顔。可愛くないぜ」
「アキラの彼女じゃないもん、私」
と、晃子は言い返した。
「当り前だ。こっちでお断りさ。でも、今夜はどうして早いはずなんだ?」
「アキラの知ったことじゃないんでしょ、私のことなんか」
「すぐむくれて。子供だな!」
と、アキラは笑った。
「どうせ」
「すねるなよ。――ほら」
アキラが、低くかすれた口笛を吹いた。――〈ハッピーバースデー・トゥーユー〉のメロディを。
「アキラ……。憶えててくれた?」
「ああ」
「嬉しいよ」
と、晃子は微笑んだ。「誰も私の誕生日なんて、憶えててくれないもの」
「そんなことないさ。お前の父さんだって、忙し過ぎるんだ。娘のことを気にはしてるのさ」
「そうかなあ……」
と、晃子は呟くように言った。
「それに、お前、今日で十六だろ? そんなことで、いちいち落ち込むなよ。もう大人だぜ」
「大人、かあ……」
晃子は、ゆっくりと言って、「アキラ。大人になりたい?」
「どうかな。それはお前次第だよ。でもな、どうせいつまでも子供じゃいられないんだからな」
「うん。――分ってる」
と、晃子が肯く。
「ただ……ちょっと心配してるんだ、俺も」
「何を?」
「お前のお父さんのことさ。様子、おかしかったろ、この数日。いやにあちこち駆け回ってさ。何だか心ここにあらずって感じだった」
「うん。それはね……でも、きっと――。あの人のせいだよ」
「女の? でも、それだけじゃなかったみたいだけどな」
「不安になるようなこと、言わないでよ」
と、晃子は文句を言った。「何が起るっていうの、お父さんに?」
「さあ……。何か、とんでもないことさ」
「たとえば?」
「たとえば……。考えていても、言いたくないな」
「アキラ――」
と言いかけたとき、部屋のドアをトントンとノックする音がして、晃子は急いで、
「入らないで!」
と答えていた。「アキラ、あのね――」
もう、アキラはいなかった。
「晃子さん。――晃子さん、いるんですか?」
いるに決ってるじゃないの。――晃子は大きな一面鏡の前から離れた。もう、アキラは鏡の中にはいなかった。ノックの音で、姿を消してしまったのだ。
晃子は少し腹を立てていた。
ドアを開けると、
「何? お友だちと電話してたのよ」
と、家政婦の倉橋さと子を見返して言う。
「お電話です」
と、倉橋さと子は、晃子の声など耳に入っていない様子で、「警察ですよ」
「え?」
「私、聞きましょうか」
「いえ……。私、出るわ」
晃子は、自分の部屋を出た。
木崎邸は、古びた洋風の建物で、晃子は小さいころ、ここには幽霊が出る、と本気で信じていたものである。
でも――警察がどうして?
本当は気が進まなかった。大体、電話に出ることさえ、好きでない。
父と二人の暮し、家政婦が帰れば、家の中は静かなものだ。電話だって、めったにかかって来ない。
父の仕事の関係の人は、こんな自宅へかけて来ないし、晃子には、電話して来るような友だちがほとんどいない。実際、一週間ぐらい電話がチリンとも鳴らないのは、この家では珍しいことではないのである。
でも――今は出ないわけにいかない。倉橋さと子は、いつも晃子のことを馬鹿にしている。
「あの子少し――いいえ、大分おかしいのよ」
と、いつだったか、晃子がそばで聞いているとも知らずに、友人に電話で話していた。
おかしい?――何が? 確かに、私は学校へもあんまり行ってないけど、あんたなんかに「おかしい」なんて言われる覚えはないわ。
「――はい、もしもし」
晃子は、さと子が意地悪い目で自分を見ているのを意識しながら、わざと少し大人びた声を出してみた。
「あ、木崎さん?」
と、少しハイトーンの男の声。
「木崎ですが」
「木崎……貴志さんは、そちらのご主人ですね」
「父でしたら、まだ帰っていません」
「お父さん? 娘さんか、それじゃ」
と、独り言のように言って、「お母さんは?」
「いません。家族は私と父だけです」
「そう。――君はいくつ?」
「十六です」
「十六か……。警察――S署の大宮という者だけどね」
その男は少し間を置いて、「お父さんが死んだんだよ」
と、アッサリと言ったのである。
「――失礼します」
と、晃子は電話を切った。
「晃子さん」
と、倉橋さと子がそばへ来て、「何ごとですか? 私が代らなくても良かったんですか?」
「大したことじゃないの」
と、晃子は言って、階段の方へ急ぎ足で歩いて行った。
「晃子さん! 警察から電話で、何でもないってことはないでしょう!」
と、さと子が追いすがるようにして言うのを無視して、晃子は二階へ駆け上り、自分の部屋へ入って力一杯ドアを閉めた。
そして……フラッと部屋の中の一面鏡の前へ行って腰をおろす。
「嘘だ……。そんな……」
と、呟く。「ね、アキラ、でたらめだよね?」
鏡の中にアキラの姿が現われるのに、少しかかった。現われたとき、アキラはひどく難しい顔をしていた。
「アキラ……。聞いた?」
「うん。お前が信じたくないって気持は分るけどな」
と、アキラは言った。「あんなこと、いたずらで電話して来ないぜ」
「じゃあ本当にお父さんが死んだっていうの? しかも自殺した? そんなことって……」
「落ちつけよ。俺がさっき言ったろ? このところ、親父さん、おかしかったからな」
「でも……」
晃子は半ば放心したように座っている。
「ともかく、詳しいことが分るまで、何もするな。分ったか?」
「うん」
と、肯く。
したくても、何をしていいのか分らない。
あの大宮とかいう刑事の無神経な話を、アキラより先に倉橋さと子に聞かれたくなかったのである。
もちろん、大宮という刑事がここへやって来たら、さと子が相手をしてくれなければ、どうしていいか分らない。でも――できることなら、何が起ったのか、知らずにいたい、と思った。
じっと両手で耳をふさいで、嵐が通り過ぎてしまうのを待っていればいい。そうすれば、お父さんが来てくれて、
「もう大丈夫だ。何も心配することなんかないよ」
と言ってくれる。
「しっかりしろよ」
と、アキラが強い口調で言った。「もし本当に親父さんが死んだのなら、もうお前は一人ぼっちなんだ。誰も助けてくれないんだぞ」
そんな……。お父さんはいなくなったりしない。
そう。いつもお父さんはそばにいてくれる。そう決っているんだ。
晃子は、ベッドへ行くと、毛布の中へ潜り込んだ。
「おい! だめだ、寝ちゃったら! 起きてろよ! おい!」
アキラの声が少しずつ遠くなる。
お父さん……。何してるの? 早く帰って来てよ。――お父さん。
晃子は毛布を頭までスッポリかぶって、小さく小さく、身を丸めた。このまま消えてしまいたい、とでもいうように……。
チャイムが鳴る音は、玄関の表にいてもよく聞こえた。
大した家だ、と大宮は思った。さぞ金持ちだったろう。
しかし、人間金持ちになるほど悩みもふえるのだ。不思議なものだが、事実である。
それなら、人間はなぜ成功し、金持ちになりたがるのか。
一介の刑事には、とても答えが出せない問題である。
「――はい」
ドアが開いて、いかにもしっかりした厳しそうな家政婦が立っていた。
「S署の大宮です。さっき娘さんに電話で――」
「どうぞ」
と、スリッパを出し、「先ほどのご用件、うかがっていないのですけれど」
「ほう?」
大宮は居間へ上って、「きちんと説明したつもりですが」
「晃子さんにはお話しになってもむだですわ」
と、家政婦は言った。「申し遅れまして。倉橋さと子と申します」
「どうも。――灰皿はありますか」
「はい」
と、急いで灰皿を持って来ると、「晃子さんは少しその――変ってらっしゃるんです。他の十六才のお子さんたちとは違います」
「なるほど」
大宮はタバコに火を点けた。
「学校へもほとんど通っておられません。お友だちも当然一人もなくて。――自分で鏡に向っておしゃべりしたりなさるんですよ」
「ほう。――じゃ、ご存知ないんですか。こちらのご主人、木崎貴志さんが自殺されたことを」
さすがに、物に動じない印象の倉橋さと子が愕然とした。
「自殺! 亡くなったんですか?」
「車ごと海へ突っ込みましてね。――荒い海で、車は大破。死体は流されてしまったのか見付かっていませんが、その内どこかへ流れ着くでしょう」
と、大宮は淡々と言って、「娘さんにもそう言ったんですがね」
「大変なことだわ」
と、さと子は二階の方へ目をやった。
まるで一階の天井を貫いて、その目は部屋にいる晃子をにらんでいるかのようだった。
「他に家族は?」
と、大宮が訊く。
「ありません。奥様は大分前に亡くなられたんです。晃子さんとお二人で暮しておられました」
「そうか」
大宮はため息をついた。「参ったな」
「あの……。でも、木崎様はどうして自殺なんか……。とても仕事は忙しくやっておられたのに」
大宮はパラパラと手帳をめくって、
「君原由香という女性をご存知ですか」
「君原……。ああ、このところ、木崎様と連れ立って歩いていた女ですね」
と、さと子が肯く。
「その君原由香をめぐって、男同士の殴り合いがあったのです」
「男同士……。木崎様とですか」
「木崎と相手の男は喧嘩をして……。その男は死んでしまったのです」
「まあ」
と言いつつ、さと子は、ちょっと眉を上げた。「それで罪の償いに?」
「どうやらね。面白くもない話ですな」
大宮はタバコの煙を吐き出した。
大宮は四十を少し過ぎたところだが、頭は大分禿げ上って、下手をすると五十代に見える。
「晃子さんに何と申し上げましょう」
「本当のことを言えばいい。さっきも大体のところは話しました」
「お待ち下さい。下りて来られるかどうか、うかがって来ます」
さと子が居間を出て行くと、
「張り切ってるな」
と、大宮は呟いた。
もちろん大宮だって、忙しさでは誰にも負けないと自負している。しかし、不思議と疲れを感じない。――がっしりした体の持主ではあるが、それだけではないだろう。
タバコを灰皿へ押し潰して、居間の中を見回る。
確かに立派な家だ。これを捨てて死ぬ奴がいるのだ。――人間は様々だな、と思う。
「おいでになります」
と、さと子が先に下りて来て言った。
大宮が振り向くと、トン、トンとあまり軽やかとも言えない足音が聞こえて来た。
「――君か、さっき電話に出たのは」
と、大宮は言った。
少女は、しっかりと枕をかかえていた。そして怯えたような目で大宮を見上げた。
「気の毒だったね、お父さんのことは」
と、大宮は言った。
少女は黙っていた。
「何もおっしゃらなくなると長いんです」
と、さと子が言ってため息をつく。
「そうか……。いや、大丈夫。慣れてるよ。こういう証人の扱いにはね」
晃子という少女を、大宮は意外にやさしい目で眺めている。
その視線は、晃子を当惑させた。
「しっかりするんだ」
大宮のごつい手が、晃子の肩を軽くつかんだ。一人、取り残された女の子は、ますます身を縮めるばかりだった。
「大宮はどうした」
と言いながら、自分の席に腰をおろして、本間はちょっと顔をしかめた。
湿っぽい日である。神経痛には最悪の状況。といって、家でのんびり寝ているわけにはいかない。
「出かけました」
と、若い刑事が返事をする。
「出かけてるのは見りゃ分る」
と、本間は少し苛々して、「どこへ行ったか、訊いてるんだ」
「例の、車で海に飛び込んだ事件で、女に会いに行ってます」
「そうか……」
本間は、机の上のファイルを開いた。
もう少し早く出てくるべきだった、と思ったが、もう手遅れだ。いや、大宮が何かしでかすと思っているわけではないが、何もない内に休ませるに越したことはない。
本間はこのS署にもうずいぶん長い。――来年は停年である。それほど出世はできなかったが、自分では満足していた。
後は、停年の日まで、無事に勤め上げること。今の本間の願いはそれだ。
長年の刑事人生で、髪は薄くて白い。そして体中のあちこちにガタが来ていた。修理にも点検にも出さなかった車のようなものだ。
酷使すれば、必ず体はしっぺ返しをする。そう悟ったときは、もう体を元に戻すには手遅れなのである。
「何といったっけ、その女?」
と、本間は言った。
「確か……君原です。君原由香」
「君原か……。いつ出た?」
「大宮さんですか? たぶん……一時間くらい前です」
と、若い刑事は答えて、「何か心配なんですか」
「うん……。このところ、大宮の奴、普通じゃない」
本間としても、公式に、そうは発言できない。警官同士、身内の不祥事はかばい合うという習慣があるからだ。
しかし――正直なところ、来年本間の停年が来るまで、大宮には|厄《やっ》|介《かい》|事《ごと》を起してほしくなかったのである。
いくら仲間内でも、かばい切れないことがある。大宮は、高校生を脅していたチンピラを引張って来て、取調室で殴りつけた。そのチンピラは、肋骨を何本も折るほどのけがをして、しかも、頭を打って危うく失明するところだったのである。
もともとカッとなりやすい男ではあったが、このところ、大宮の荒れ方は普通ではなかった。
その他にも、通りかかった車が駐車違反しようとしたと言って、口答えしたドライバーをいきなり殴りつけている。
本間が何とか表沙汰になるのを止めたのだが、このまま放っておくと、とんでもないことをやりかねない。――本間は気が気ではなかった。
ドアが少し乱暴に開いて、本間は、当の大宮が入って来るのを見てびっくりした。
「課長」
「どうした。顔色が良くないぞ」
「頭痛がして。帰らせて下さい」
大宮はぶっきらぼうに言った。
「ああ。いいとも」
「よろしく」
と、大宮は行きかける。
「おい。――君原って女の所へ行ったのか」
と、本間が声をかけたが、聞こえていないわけがないのに、大宮はさっさと出て行ってしまった。
「――大丈夫ですかね」
と、若い刑事が、さすがに心配そうに言ったが、そこへまたドアが開いて、大宮が顔を出した。
「課長。死んだ木崎の娘は可哀そうでしたよ」
「木崎の娘?」
「ええ。あんな女のせいで父親を亡くして。あれは悪い女だ。確かですよ」
そう言って、大宮はまたドアを閉めてしまった。
廊下を遠ざかる大宮の足音を聞きながら、本間はいやな予感に捉えられていた。
喫茶店の扉がスルスルと開く。
君原由香は黒いスーツで入って来ると、店の中を見回した。捜すほどの広さでもなく、奥の席に母の姿を見付ける。
「――ごめん、待たせて」
と、由香はソファに座って、「おとなしくしてた?」
「うん、さっきミルクを飲んだわ。二十分くらい前かしら」
「それならいいけど……。ココアを」
と、注文して、母の傍に横にされて眠っている我が子を眺めた。
「――どうだった?」
と、母が訊く。
「お葬式はお葬式よ」
と、由香は少し薬の匂いのするおしぼりで手を拭いた。
「みんな……お前のこと――」
「気が付きゃしないわ。会社のOLが大勢来てたもの。その中に混ってお焼香したから」
「そう……。でも、遺体が上らないんじゃ、信じられないようね」
「でも、助かる見込みは全くない場所だって」
「そうかもしれないけど……」
と、母はためらって、「この子のお父さんなんだし」
「早く、心を決めてかからないと」
と、由香は首を振って、「泣いてなんかいられないわ。生きてかなきゃいけないんですもの」
「お前たちを呼んであげられるといいけどね……」
と母の言葉が消える。
「やめて。明子さんにどう言われるか。――それより、真衣を保育園に預けて働く方がずっと楽」
ココアが来て、由香は、しばらく飲み続けた。
「――あったまった! でも――あの人は海の中で寒いだろうな」
「由香……」
「お葬式でね、たぶん一人だけ私のことを分った人がいた」
「誰?」
「たぶん――家政婦さんでしょう、いつも彼の言ってた。好いてはいなかったけど、なかなか代りが見付からなかったらしいわ」
「娘さんがいるんでしょ?」
「ええ……。他に身よりらしい人の全然いない人だったから。娘さんも一人でポツンと座ってた」
「いくつ?」
「確か……十五か六。でも少し変ってる子なの。心ここにあらずっていうか、ボーッとして、何を考えてるのかよく分らないわ」
真衣が身動きしたと思うと、たちまち泣き出し、声のボリュームは一気に大きくなった。
「はいはい、オムツを替えないとね。貸して、お母さん」
母が大きなショルダーバッグを渡すと、由香は真衣を抱き上げ、バッグを手に化粧室へと急いだ。
「――上る?」
少し古くなって、外壁の白壁が灰色になったマンションの前で車を停めると、由香は訊いた。
「いいえ。上りたいけど、また今度ね」
母が、赤ん坊の小さな手に人さし指を握らせて、「バイバイ。また来るわね」
と言って微笑んだ。
「駅まで送れなくて、ごめんね」
「いいわよ、雨も上ったし。――じゃ、何かあったら、いつでも電話して」
「うん。ありがとう」
由香は、母に手を振って、車を地下の駐車場に入れた。
「さ、少しお昼寝しないとね」
と、バッグを肩からさげ、真衣を抱くと、地階の入口から入ってエレベーターで直接三階へ上った。
郵便受も見た方がいいかもしれないが、後でいいだろう。
三階でエレベーターを出て、足を止めた。
自分の部屋の前に、隣近所の人が五、六人集まっている。
「――あ、君原さん」
と、下の部屋の若い主婦が言った。「帰ったの! よかった」
「何かあったんですか?」
と、由香は言った。
「大変だったのよ。警察の人が来て」
「警察?」
「刑事だって名のってたわ。一人だった。ここへ来て、お宅のドアを叩き壊すかと思う勢いでドンドン叩いてね……」
「刑事さんが?」
「挙句に、脇の小窓を壊して、手を突っ込んで、ドアを開けちゃったの」
確かに、小窓のガラスが割れている。
由香は急いでドアを開け、中に入って呆然とした。
凄じい荒らし方だった。机やテーブルは引っくり返って、カーテンが裂かれ、食器類が砕けて飛び散っている。
これを刑事が?
由香は信じられないような思いで、荒らされた自分の部屋を見回していたのである。
「本当にいいんですか?」
と、倉橋さと子がくり返した。
「大丈夫よ。一人じゃないんだもの」
晃子はそう言ってから、「後でお友だちが来てくれることになってるんだから。――本当よ」
と、つい付け加えている。
「それはよかったですね」
と、さと子は小馬鹿にしたように言って、「じゃ、ちゃんと戸締りをして下さい」
「分ってるわよ」
晃子は、これ以上さと子が何か言ったら、叫び出してしまったかもしれない。
早く、一刻も早く、一人になりたかったのである。一人に? ――いや、そうじゃない。
さと子がどう思っても、晃子は「一人じゃない」のである。
「じゃ、明日お昼前に来ますからね」
という言葉の裏に、〈本当は来たくないけど、来てやるのよ〉という隠れた声を晃子は聞いていた。
さと子が出て行くと、晃子は玄関のドアをしっかりロックし、チェーンもかけて息をついた。――やっと、あの女の見下したような目つきから逃げられた。
ホッとしたものの、居間へ入って、父の写真がマントルピースの上から微笑みかけているのを見ると、急に涙が溢れて来た。
「馬鹿! しっかりして……。アキラに笑われるよ……」
晃子は手の甲で涙を拭うと、縁飾りのついた大きな鏡の前に椅子を持って行って座った。ここだと、アキラは窮屈でなく、のびのびと姿を見せられるのだ。
「アキラ……。疲れちゃったよ」
と、晃子が呟くように言うと、
「――疲れるさ。いつまでもそんな服着てたら。いつもの楽な服装になれよ」
と、アキラが普段の通りの口調で言ってくれて、
「そうだね」
と、微笑む。「アキラ……。ずっと一緒にいてね」
「心配するな」
鏡の中で、アキラは晃子と同じ椅子に座っている。
「ごめんね。つい、アキラに頼っちゃう」
「いいから。謝るなよ。お前のいけないとこだぞ。――家の中の明りを点けろ。使わない部屋も。あっちこっち、どこへ行っても光が溢れてるようにしろ」
「明りを……?」
「着がえて、明るくして。それからだ。さ、始めろ!」
正直、何をするのも面倒くさかったが、アキラを喜ばせ、安心させようという思いが、何とか晃子を動かした。そして実際、ゆったりしたセーターにかえて、家の中の明りを一杯に点けると、晃子の気持はずいぶん軽くなった。
「――アキラ! どう?」
「よし。大分人間らしい顔になったぞ」
と、鏡の中でアキラが肯いた。「さっきはお化けみたいな顔してた」
「失礼ね! 十六の女の子をつかまえて」
「そう言うのなら、十六の女の子らしくしな」
と、アキラはやり返した。「今日、気が付いたか?」
「何に?」
「お前、俺が見ててやんなきゃ、何も見えないんだからな。――あの女だよ」
「――来てた?」
「うん。やたらクシャミしてた、変なおっさんがいただろ?」
「うん。お父さんが写真の中で風邪ひくんじゃないかって心配しちゃった」
「あの次に焼香してた女だ」
「そう……だった?」
「憶えてないか? 可愛かったぜ」
「アキラの好み?」
と、口を尖らす。「だって、あの大宮って刑事さんのことで気を取られて……」
「うん。――でも妙だよな」
と、アキラは考え込んだ。「親父さん、どうして死ななきゃいけなかったんだ?」
「あの刑事さんの話じゃ……」
「あの女をめぐって、男と争った。――富田っていったな、確か。でも、変だぜ。喧嘩して、そのはずみで死なせたのなら、たとえ捕まっても大した罪にならないだろ? 死を選ぶってのは、よほどのことだ」
「うん……。でも、それだからって――」
「分ってる。親父さんは帰って来ない。だけど、俺はこれじゃ終らないって気がするんだよ」
「アキラったら……。面白がってるの? 私のこと、少しは心配してよ」
と、晃子はむくれた。
――そうだ。この家に、ただ一人、どうやって暮して行けばいいんだろう?
「心配するな。考えてるよ」
と、アキラはやさしく言った。「今のお前に必要なのはな、ぐっすり眠って、明日のことばっかり心配しないようにすることさ。後、どうしたらいいか、俺が考えてやるよ。だから、まず風呂へ入れ」
「お風呂? ――いいよ。一日中、座ってただけだもん」
「だめだ! ちゃんといつもの生活をするんだ。そうしないと、お前、二度と外へも出られなくなるぞ。分ったな」
「はあい。アキラも段々口やかましくなるね」
と、晃子は笑った。
たぶん、父が死んだと聞いてから、初めて笑ったのである。
畜生……。
またあいつが暴れてやがる。
大宮は歩きながら何度も拳で自分の頭を殴りつけた。はた目には気味が悪かったかもしれない。
この頭痛が大宮を悩ますようになってから、もう一年近くたつ。初めの内は一日のほんの数分間という感じで、大して気にもとめなかった。しかし、徐々に日に何回か激しい頭痛に襲われるようになり、その都度|苛《いら》|々《いら》がつのって、大宮は誰かれとなく当り散らすようになったのである。
――自分の家の前まで来て、大宮はためらった。
自分の家だ。入りゃいいじゃないか。
分っている。しかし――自分の中の何かが、「入るな」と言っていた。
頭痛はここ何日か特にひどくなっていた。女房の久子は「医者で診てもらえ」と言っているが、たかが頭痛だ。それほどのこともない。
そうだ。妙に考え過ぎるのがいけないのだ。――好きなようにしろ。自分がやりたいように。
あの女のマンションを「片付けて」やったときも、気分がすっきりして、頭痛が嘘のように晴れたものだ。
しかし、それも何時間とは続かなかった。今また……。空を見上げると、どんよりと雲が重そうに落ちかかっている。
早々に寝よう。――大宮は鍵を出して、玄関を開けた。久子がいるかもしれないと思ったが、たいていは夜中の帰宅なので、自分で開けるのがくせになっている。
玄関を上りかけて、大宮はふと気付いた。――男物の靴。客か?
先輩の刑事から安く譲ってもらったこの二階家は、大宮と久子の二人暮しには少し広い。どこか寒々とした印象があるのは、そのせいだろう。
久子は? ――いないわけがないが。
居間と台所を覗いて、大宮は二階へ上る階段を見上げた。
上るな。――見るな。
頭痛が、モールス信号か何かのように、こめかみでズキズキと脈打ちながら、そう言っているみたいに聞こえた。大宮は、階段を上って行った。
やめろ。――見るな。
放っといてくれ! 俺の家だ。どこへ入ろうと、どこを上ろうと、俺の勝手だ。
寝室の戸が細く開いていた。中は暗い。
見るな。――開けるな。
俺をからかってるな、と大宮は笑った。見るな、と言うのは、そう言えばますます見たくなるからで、開けるな、と言うのは、そう聞けば開けずにいられないからだろう。分ってるとも。お前の考えてることなんか、お見通しだ。
ガラッと戸を開ける。
「あなた!」
久子がかすれた声で言った。
どうしたんだ。声を出し過ぎて、かれちまったのか。
「あなた……」
久子は、覚悟を決めていたのかもしれない。むしろ、男の方が青くなり、あわてふためいて服をかき集めていた。久子は、裸のままで布団に起き上っていた。
「ただいま」
と言って、大宮は拳銃を抜いた。「ちょっと頭が痛くてな」
二度、引金を引いた。
頭痛が嘘のように消えてしまった。
第2章 味方
その女のマンションへ入るとき、もう本間は来たことを後悔しかかっていた。
いやなことが自分を待っているという気がした。そういう直感はたいてい当るのだ。
郵便受の名札を見ようとしたが、ロビーは薄暗くてよく見えない。ちょうど出かけようとしている主婦が通りかかった。
「失礼」
と、本間は言った。「君原由香さんの部屋は? ――怪しい者じゃありません。警察の者です」
相手はギョッとした様子で本間を見たが、
「違う人?」
「え?」
「昼間来た人と違うわね。――そうね。もっと大きい人だったわ」
と一人で納得している。「君原さんは三階の〈305〉。ああひどく荒らされたら、そう簡単には片付けられないから、きっと中にいるでしょ」
「荒らされた?」
本間は面食らった。「泥棒でも入ったんですか」
「警察が入ったんですよ」
と、その女性は皮肉っぽく言った。
話を聞いて、本間の顔はこわばった。
大宮の奴! ――早退して行くときの様子がどうも変だったので、本間も少し早くS署を出てここへ寄ってみたのだ。
三階へ上って、〈305〉のドアを軽く叩いた。
「――はい」
と返事があって、ドアが開く。
スカーフを頭に巻いて、腕まくりをし、ジーパンという格好。大掃除という様子だ。
「S署の者です。――下で聞いたんですがね。何か……うちの者じゃないかと思いますが、お宅を――」
「君原由香です」
女は、遮るように言った。「お上り下さい」
そして付け加えて、
「上っても、座る場所はありませんけど」
本間は息をのんだ。
想像を遥かに越えている。「荒らす」というより「破壊した」と言った方が正しい。
大宮だ。確かめるまでもない。
「――どこからどう手をつけていいか」
と、君原由香はソファの詰め物の飛び散った居間に立って途方に暮れたように言った。
「やっと、ガラスの破片とか、危いものを拾ったところです」
「いや……。申しわけない」
と、本間はハンカチを出して額を拭いた。
汗をかいたというわけではない。それでもつい、そんな仕草をせずにはいられなかったのである。
「どうしてこんなことをされるのか、分りませんわ」
由香は、静かな口調の中に怒りをにじませて言った。「子供をご近所に預かっていただいてますけど、とても今夜中には片付きません。どこに寝るか、困ってるんですよ。あなた方から見れば、自殺した殺人犯の愛人なんて、どうなろうと構わないんでしょうけど」
「やったのは、部下の大宮という男です。このところ、時々ひどく荒れるので心配してたんですが……。全く申しわけない」
本間は首を振って、「若い者を明日でもよこして片付けさせます。今夜はとりあえず、どこかホテルにでも泊ってくれませんか」
本間の言い方に、由香の表情が少しやわらいだ。
「驚きましたわ。刑事さんが謝るなんて、思ってもいなかった」
「上役は頭が痛いです。どこの世界でも同じですよ」
由香は肩をすくめた。
「でも――普通じゃありませんわ、こんなやり方。私、その大宮って人とはお話もしてないんですよ」
「分っています。大宮は医者に診せる必要があるでしょう。――腹は立つでしょうが、忘れてもらえませんか」
由香はまじまじと本間を見て、
「表沙汰にしないでくれ、とおっしゃるのね?」
「そうです。はっきり言うと、来年で停年なんですよ。もめごとはごめんだ」
由香は、ちょっと笑った。
「率直な方ね。別に私も訴えようとは思いません。でも、これだけの物、買い直すだけのお金はありませんわ」
「何とかします」
と、本間は即座に言ってから、「いや――何とか、掛け合ってみます、上の方に」
と急いで付け加えた。
本間のポケットで、呼出しのベルが鳴り出した。
「おっと。――電話を借りても?」
「いいですけど……。そこの床の上です。幸い、電話は壊されなかったので」
「どうも……」
大宮の奴! ――ため息をついて、本間はしゃがみ込んで顔をしかめた。腰と膝に痛みが走ったのである。
「どうかしまして?」
と、由香が気付いて訊いた。
「いや、大丈夫……。あちこちガタが来てましてね」
と照れまじりに言って、本間は受話器を取った。「――もしもし、本間だ。何かあったのか?」
口ごもりながらの、相手の話を聞いて、本間は全身から血の気がひいていくような気がした。
「――確かなのか。――それで、大宮は? どこにいる?」
本間のただならない口調に、マガジンラックを元の通りに組み立てようとしていた由香は、手を止めて振り返った。
「晃子さん」
と、倉橋さと子が声をかける。
晃子は、手にしていた雑誌からそっと顔を上げた。――二人きりでいるということになれば、返事をしないわけにもいかない。
「なあに?」
「お客さんですよ。学校の先生」
「先生?」
「晃子さんのことを心配して、いらしたんですよ。会われますよね」
と、さと子は決めつけるように言った。
「でも――」
と、晃子は言いかけたが、その男が居間へ入って来るのを見て、口をつぐんだ。
「やあ、晃子君」
と、四十ぐらいのその男は、いささかキザに半白の髪を波打たせて、愛想良く言った。
「憶えてるかな、僕のこと?」
晃子は、こわばった喉を押し開くようにして、
「先生……なんですか」
「そう。本当なら君の通っている中学校の教師さ。君のお父さんが一度だけ君を連れて来られたことがあった。そのときに会ってるんだが。忘れたかい? ――まあいい」
と、ソファに腰をおろして、「僕の名は河合。河合英彦というんだ」
「はい……」
「お父さんのことは気の毒だったね。しかし、君のことを心配しておられただろう。最後までね」
そんなこと……。お父さんが何を考えてたかなんて、分るわけがないじゃないか、と晃子は思ったが、もちろん口には出さなかった。
「そのとき、君のお父さんからね、頼まれてたんだ。何かのときには君の力になってくれとね。――君には親類縁者がないってことだから、これから大変だろう。お父さんの遣した物とか、どうしたらいいか、誰か相談できる相手はいるのかい?」
「一人で……何とかします」
と、晃子は言った。
「――どうぞ」
倉橋さと子が、河合という男にお茶を出して、「誰か弁護士の方がいらしたと思うんですけどね。私はよく存じあげないものですから」
「そうですか。――晃子君。そういうあれこれややこしいことを、どうしていいか君には分らないだろう。もしよかったら、僕が君にとって一番いい方法は何か、考えてあげたいんだが……。僕のことを信じて任せてくれるかね?」
晃子はしばらく黙っていたが、
「――相談して来ます」
と言って立ち上り、居間を出て行った。
晃子が二階へ上って行くのを、さと子は見送って、
「また幻の友だちと話しに行ったんだわ」
と、河合の方へ向く。
「見たところ、そう変とも思えないがね」
河合がお茶を飲むと、「大丈夫か?」
「大丈夫」
さと子は肯いて、「最終的にはどこか、施設に入れるしかないわ。この家は……」
「居心地が良さそうだ」
と、河合はリラックスすると、足を組んでゆっくり居間の中を眺め回したのだった……。
晃子が二階から下りて来るまでに、三十分ほどかかった。
「やあ」
と、河合は愛想良く笑顔を見せて、「相談して来たかい?」
晃子は黙って肯いた。
「そうか。それで?」
「私……憶えてます」
「――何を?」
「あなた、先生じゃないわ。確かにあの中学校にいたけど、事務室にいて、私のこと覗いてた人でしょう」
早口に、投げつけるように言った晃子は、河合がサッと青ざめるのを見て、ホッとした。
「それは君……」
と言いかけて、河合は口ごもった。
晃子の言った通りだと認めているようなものだ。河合は、居間の入口に立って話を聞いていた倉橋さと子の方へチラッと目をやった。
「まあ! 先生じゃないんですって?」
さと子は、河合の方へ歩いて行くと、「出てってください! 油断も隙もありゃしない」
河合は、こわばった表情のまま立ち上ると、晃子をにらんで、
「これですんだと思うなよ」
と捨てゼリフを吐いた。
「警察を呼びますよ!」
と、さと子が叱りつけるように言った。「さ、早く出てって!」
「分ったよ」
河合は、軽く肩を揺すると居間を出た。
「塩でもまいて来ましょう」
と、さと子は言って、河合の後から玄関へと出て行く。
河合は、外へ出た所で待っていた。さと子は急いで追いつくと、
「何よ、だらしがない!」
と、低い声でなじった。「あんなにギョッとして。とぼけてれば分りゃしないのに」
「だって……あの娘なんか、何も分りゃしないって言ってたじゃねえか」
と、河合は言い返した。
「しっ! 大きな声出さないで。晃子さんが覗いてると……」
「諦めるのもしゃくだな」
と、河合は家の方へ目をやった。
「何とか考えるわよ。ともかく、さっきはああするしかなかったの。分るでしょ」
「ああ……。こっちもちょっと甘く見てたな」
「自分一人じゃ何もできない子なのよ。任せて」
と、さと子は河合の腕に手をかけて、「ともかく、あんたはもうここへ顔を出さないようにして」
「外で会えるだろ?」
「もちろんよ」
さと子の指が、河合の腕をしっかりとつかんだ。「あの子を一人ぼっちにしてやるわ。急なお葬式とでも言って。三日も留守にすりゃ、参っちゃうわよ」
「放っとくのか」
「代りの人が来るからって言っといて、手違いで連絡が行かなかったってことにすればいいわよ」
「用心しろよ。何となく気味の悪い娘だ」
と、河合は肩をすくめて、「じゃ、電話してくれ」
「ええ」
さと子は、チラッと家の方へ目をやって、素早く河合にキスすると、足早に戻って行った。
河合は、ポケットに手を突っ込むと歩き出したが、何度もあの家の方を振り返った。誰かの視線を、首筋の辺りにチクチクと感じて仕方なかったのである。
「アキラ」
と、晃子は自分の部屋の鏡に向って言った。「ありがとう。アキラがあいつのこと、憶えててくれなかったら……」
「お前だって、よくやったよ」
と、アキラが言うと、晃子の青白い頬にポッと赤みがさした。
「そうかな」
「ああ。でもな……」
アキラは心配そうに、「いつもこううまく行くとは限らないだろ」
「うん……」
「誰かが、きっとまたお前のことを騙そうとしてやって来るぞ」
「アキラがついてる」
「だめだ。俺だって、お前のためにしてやれることは限られてるんだ」
晃子はすねたように口を尖らした。
「じゃ、どうしたらいいの?」
「親父さんの机を捜して、名刺を見付けるんだ」
「名刺?」
「弁護士がいただろ、確か。――憶えてないか?」
「アキラが憶えてなかったら、私……」
「じゃ、何とか捜すんだ。ともかく、味方になってくれる人を――」
ドアがノックされて、
「晃子さん。――もう大丈夫。叩き出しましたからね、あの男は」
と、さと子がドア越しに言った。
「うん、分った」
と、晃子は答えた。
「何か召し上りますか?」
鏡の中のアキラが、
「食べて少し太れよ」
と、やさしい皮肉を込めて言った。
「うん。――食べる!」
と、晃子は少し大きな声で返事をしたのだった。
胃が雑巾のようにギューッと絞られる感じだった。
吐き気がするのを、何とかこらえて、本間は現場をもう一度見渡した。
「ひどいですね」
と、部下の若い刑事が言った。
いつも、上着の色と靴下の色がどうとか、ポケットに派手な赤のチーフを覗かせるのがいいとか、格好のことばかり気にしている男だが、さすがに今はそれどころではないらしい。
血にまみれた裸の死体。――女の方は、大宮の細君で、本間も知っている。男の方は誰だろう?
「分りましたよ」
と、刑事の一人がやって来て、「男はここに通って来てたクリーニング屋ですね」
「クリーニング? やれやれ……」
血をたっぷり吸ったシーツは、とても元の通りにゃならないな、と本間は不謹慎なことを考えたりした。
「課長」
と、若い刑事――宇佐見が言った。「大変ですね」
「分ってる。お前に言われなくてもな」
と、本間は言った。
「はあ……」
「すまん。――お前に当っても仕方ないな」
と、本間はため息をついて、「大宮を何とかして見付けるんだ」
「はい」
「拳銃を持ってる。何をやらかすか分らん」
宇佐見はちょっと眉を上げて、
「まさか……他にも誰かを?」
「ここはまあ――女房が男と寝てる現場を押えたんだから、カッとなったってことだろうが……」
そうだろうか? いや、そうじゃあるまい。本間には想像がついた。命乞いする二人を冷ややかに笑って、しっかり狙いをつけて引金を引く大宮の表情さえ、目に浮ぶようだ。
弾丸は、どっちも一発ずつで正確に心臓を射抜いている。
――何てことだ。
本間は、この事件がマスコミのえじきとなって、カンカンになった上の方が自分に責任を取れと言ってくるだろうと……長年の刑事暮しで錆びついた想像力でも、それくらいの見当はつくのである。
「色々教えてくれた先輩なのに」
と、宇佐見は首を振って言った。「せめて、僕が見付けますよ」
本間は、宇佐見を見た。この、何を考えているのかよく分らない若者が、そんなことを言い出すとは思わなかったのである。
「大宮は病気だ」
と、本間は言った。「刑務所へ送るのは可哀そうだな」
「病気……。そうですよね、きっと」
「宇佐見」
と、本間は腕をとって、「――話がある」
「何ですか?」
本間は、宇佐見を寝室から連れ出し、忙しく現場を出入りしている男たちから離れると、
「宇佐見。休暇を取らないか」
と言った。
「休暇……ですか」
宇佐見は戸惑って、「しかし――」
「大宮を捜してほしい。誰かに見付かる前に、お前があいつを見付けてくれ」
そしてどうするのか。――本間はそこまで言わなかった。
「何か用?」
と、声をかけられて、晃子は飛び上るほどびっくりした。
「何でもないんです。ごめんなさい!」
と、あわてて駆け出す。
だが、その廊下はとてもていねいにワックスがかけてあって、晃子はめったにはくことのない革靴をはいていた。
アッ、と思ったときには――ステンとみごとに転んでしまって、いやというほどお尻を打っていた。
「君! 大丈夫か?」
と、その青年が駆けて来て、「滑り過ぎるんだよな、ここ。――しっかりして。頭打った?」
「いえ……。大丈夫です」
とは言ったものの、いくら恥ずかしくて逃げ出したくても、お尻を打った痛さは、しばしクラクラとめまいを起させるほどのものだった。
「あら、どうしたの?」
と、カッカッと小気味いいハイヒールの音がして、いかにもオフィスで働く女性という感じの若い人。
もちろん、若いといっても、晃子から見れば大人である。二十四、五かな、と晃子はぼんやりと思っていた。
「この子、ひどく転んでさ。どこかで休ませといた方が――」
と、その男性が言った。
いえ、いいです、と言ったつもりだが、声にならない。
「じゃ、応接室が空いてるわ」
と、その女性が言った。
「おいで。――おぶってってあげよう」
「いえ……」
「遠慮しなくていいから! さあ」
十六にもなって、男の人におんぶされて、と晃子は情なくなった。
「――さ、ソファに横になってるといいわ」
と、女の人が、ソファを少し動かしてくれる。
「気分は? 頭を打ったときは吐き気に気を付けなきゃ」
「大丈夫です……」
と、やっとかすれた声を出す。
「井原さんは、以前看護婦だったね」
と、男性が言った。
「歯医者さんよ。打ち身には役に立たないわ」
と、笑って、「――虫歯ある?」
と晃子の方を覗き込んだ。
晃子は笑い出してしまった。
「峰岸さん、戻ってていいわよ」
と、井原さんと呼ばれたその女の人は言った。
「私が見てるわ」
「うん、頼む」
爽やかな背広姿の、峰岸という男性は、ちょっと肯いて、「ボスは外出だ。少し休んでて大丈夫」
と、言って出て行った。
「お尻、打ったのね? あざになってるかもしれないわね」
「大丈夫です……」
と、晃子は起き上がったものの、一瞬フラッとして目をつぶった。
「無理しないで。――このビルに何のご用で来たの?」
「あの……弁護士さんに。太田さんっていう……」
「あら。それじゃうちのお客様ね」
と、愉快そうに、「私、井原恵子。あなたは?」
晃子は、肩からさげていたポシェットを開けると、名刺を二枚取り出した。
「これ……父のです」
「木崎――」
と、名刺を見て、井原恵子は目を見開いた。「じゃあ……。あなた、木崎さんの娘さん? そうなの」
「父の机の中から、ここの太田さんの名刺を見付けて、来てみたんです」
「そう。木崎さんのことにはびっくりしたのよ。私も、お名前を聞いたことがあってね」
「そうですか」
晃子はホッとした。
家を出て、一人でここへ辿り着くまでは、正に晃子にとって「大旅行」であった。乗り換えや乗り継ぎを、ていねいにメモしてやって来たが、それでも「急行電車」に乗ると間違えそうな気がして、各駅停車一本でやって来たので、たぶん普通なら四、五十分で来られるのを、一時間半もかかってしまった。
来てみるとお昼休みで、〈太田規貞法律事務所〉は一時まで閉っていた。
ボーッと廊下に立っていて、いい加減くたびれていたところへ、あの峰岸という男性に声をかけられ、びっくりしたというわけである。
「先生にご用? 今日はお忙しくて、時間がないかもしれないわ」
と、井原恵子は言った。「前もって、連絡してアポイント取っとかないと」
「――それ、何ですか」
「ごめんなさい、〈約束〉ね。面会の約束を取るってこと」
と、微笑んで言うと、「ちょっと待ってて。先生のご予定を聞いて来るわ」
井原恵子は、そう言って応接室を出て行った。
明るいスーツ姿、動きがきびきびとして美しい。
晃子の目には、ああいう「仕事をしている女性」がまぶしいような存在に見えた。たぶん――自分には、一生あんな風になることは無理だろう。
晃子は、そろそろとソファに起き上って、腰の辺りの痛みがおさまるのを待った。
あの女の人、やさしそうだ。――晃子は、いい人に出会って良かった、と思った。難しい顔をした「おじさん」に、「約束がなきゃ会えないよ」と素気なく言われたら、何も言わずに帰ってしまっただろう。
――でも、せっかく来たんだから。
こんな所まで、やって来たんだから……。
「――ちょうど先生から電話だよ」
と、峰岸が言った。「先生。井原さんが何かあるそうです」
井原恵子は、峰岸から受話器を受け取って、
「先生、井原です」
と、早口で言った。「今、木崎さんの娘さんが来てるんです。木崎貴志さんの」
少し、沈黙があった。
「おい、木崎貴志って、あの自殺した?」
と、太田のしわがれた声がした。
「そうです。先生の名刺を見付けたからって。どうしましょうか」
「確かに木崎の娘か?」
「だと思います。十六くらいの女の子です」
「あと一時間で戻る。引き止めとけ。いいな?」
「はい」
井原恵子が電話を切ると、峰岸がじっと見上げている。「――どうしたの? まだ切っちゃいけなかった?」
「そうじゃない。木崎貴志の娘? あの子が?」
「ええ、そう言ってるわ」
「そうか……。親父さんが死んで、何も知らないんだ」
と、峰岸が肯いて言った。
「何のこと?」
峰岸はチラッとオフィスの中を見回した。まだ昼休みから戻っていない者が多いので、人がいない。
「先生は木崎貴志とこじれて大変だったのさ。もう……一年くらいになるかな」
「じゃ、今はもう扱ってないの?」
「ああ。先生の前じゃ〈木崎〉って名は禁句だよ。この間、死んだって記事が出たとき、久しぶりにその名前を聞いたけどね」
「先生が、『昔、こいつを担当してた』っておっしゃったのよ」
「事実だ。しかし、先生、木崎を恨んでたはずだぜ」
井原恵子は眉をくもらせて、
「どうしよう! あの子、そんなこと知らないわ、きっと」
「放っとけよ。先生だって、うまくやるさ。確かあの子一人が親族だ。家とか土地とか、財産の扱いを相談に来たんだろ」
「先生――ちゃんと親切に扱って下さるかしら」
「どうかな。女のことでもめたんだ。恨みは忘れてないだろうな。しっかり商売するぜ、きっと」
と、峰岸が笑った。
「私――あの子を引き止めといてくれって言われたの。相手してるわ」
「分った」
井原恵子はオフィスを出て応接室へ戻った。
「ごめんなさい――」
と、ドアを開けて……。
応接室は空っぽだった。
井原恵子は、廊下を急いで歩いて行った。
どこへ行ったんだろう? まさか帰ってしまったんじゃ……。
五階のオフィスから、井原恵子はエレベーターで一階へ下りてみた。ビルの表で人だかりがしている。
「事故だって」
「誰か車にはねられたらしいよ」
という声が耳に入って、井原恵子はギクリとした。
車にはねられた?
何だか、あの子ボーッとしていたけど、まさか……。井原恵子は、すでに人だかりのできかけている表の通りへと出て行った。
車はもうかなり渋滞している。クラクションがあちこちで鳴っていた。
人の間から覗くと、トラックの車輪の間に倒れている男の足が見えた。背広姿で、割合若そうだということは分った。
とりあえず、あの木崎の娘ではないことが分ってホッとしたが、今度はどこへ行ってしまったか捜さなくてはならない。
ビルへと戻りかけて、井原恵子はびっくりした。当の少女が、入口の所に立っていたのである。
「あら! 良かった。捜してたのよ。どこへ行っちゃったのかと思って」
だが、少女には井原恵子の姿が目に入っていない様子だった。少女の肩に手をかけて、「ね。――どうしたの?」
と訊くと、ハッと夢から覚めたという感じで、
「あ……。ごめんなさい」
と、赤くなる。
「いいのよ。ただ、あそこで待っててくれると思ったから、びっくりして。――先生がね、じきに戻って来るって。さ、行きましょう」
少女は逆らわなかった。
しかし、背後で段々大きくなる騒ぎが気になるらしく、何度も振り返って見ている。
「危いわね、本当に」
と、井原恵子は言った。「車には気を付けなくちゃ」
「あの人……」
「え?」
「あの人……死ぬのかなあ」
「さあ。すぐ救急車が来るわよ。――さ、こっちよ。それとも、何か甘いものでも食べましょうか。この近くに、とってもチーズケーキのおいしいお店があるのよ」
少女は、やっと井原恵子の言葉に注意を向けた。
「でも――太るから」
と、真剣な表情で言ったのである。
アキラ、食べられなくて気の毒ね。
――晃子は、確かにおいしいそのチーズケーキを二つも食べてしまって、心の中で言いわけがましく、アキラの分も食べといたからね、と付け加えた。
救急車とパトカーのサイレンはもう聞こえていない。
井原恵子は、
「ちょっとオフィスへ言っとくわね。ここにいるって」
と、席を立って、店の入口の電話を使った。
外へかけに行って、また晃子がいなくなると困ると思ったのだろう。
晃子は、そっと表へと目をやった。この店は地下にあって、店の外は地下鉄への連絡通路なので、人がひっきりなしに行き来している。メニューのイラストが裏返しにガラスに貼ってあるその外に、晃子はじっと目をやっていた。
誰かが見ている。それだけは確かだった。
あれは――現実に起ったことなのか、それとも夢だったのか。
でも、トラックにひかれて死んだ男の人は、幻でも何でもない。
「死んだ」と考えた自分に当惑する。でも、間違いなくあの人は死んだはずだ。
何てったっけ? 「うさ……」そう。「うさぎ」みたいな名前だな、と思ったのだけど……。
応接室で、井原恵子の戻るのをじっと動かずに待っていた晃子の前に現われたのは、あの刑事――大宮という刑事だった。
「ついて来い」
と、大宮は晃子の手を引っ張って、応接室から連れ出してしまった。
晃子は、何が起っているのか分らずに、ただ引っ張られるまま、階段を下りて行ったのである。
階段の途中で、大宮は足を止めて晃子の方を振り返った。
「おじさんのことを憶えてるね」
晃子はコックリと肯いた。
「よし。――いいか、あんな奴の所へ行っちゃだめだ。太田ってのは、ろくでもない弁護士なんだ。分るか? 金にさえなりゃ、何でもする。君が相談に行ったりすりゃ、向うは大喜びさ。挙句に君にはほとんど何も残らないだろう。太田はそういう奴なんだ。分ったか?」
晃子としては肯くしかない。二人は、また階段を下りて行き、ビルを出て、足早に歩き出そうとした。
「大宮さん」
と、声をかけて来た男がいる。
若くて、なかなか見た目も悪くない。それに着ている物のセンスが良かった。
「何だ。――お前か」
大宮は足を止めて、笑みを浮かべ、「何してるんだ。この忙しいときに」
「ええ、忙しいですね。大宮さんも、忙しくて大変だったでしょう」
その若い男は、ブラブラと大宮たちの方へやって来たが、少し間を置いて足を止めると、「課長が、ぜひ二人で話したいっておっしゃっています」
と言った。
「そうか。――俺は、今この子を家へ連れてかなきゃならん。後で行くと言っといてくれ」
「大宮さん。そうはいきませんよ。分ってるでしょ」
「宇佐見。お前が俺を逮捕しに来たのか?」
宇佐見。――そう、あの若い人は「宇佐見」といったんだ。
大宮はちょっと笑って、
「そうびくつくな。俺も自分の立場は知ってるよ」
「大宮さん。――銃を渡して下さい。お願いです」
宇佐見の右手は上着の下に入って、何かを握りしめていた。晃子にも、その若い男が全身を緊張させているのが分った。大宮と宇佐見の間には、人をはねつけるような緊迫した空気があった。
「分った」
と、大宮は肯いた。「ここは横断歩道だ。人がたまる。こんな所で物騒な物を出したら騒ぎになるだろう」
宇佐見はチラッと周囲を見回した。赤信号になって、人が何人かすぐそばで足を止めている。
「じゃ、向うへ渡りましょう」
と、宇佐見は言った。「あのビルとビルの間で」
「うん。俺もそう思ってた」
大宮は微笑んで、「やっぱり似たようなことを考えるもんだな、後輩は」
と言うと、車道の方へ向って立った。
大宮は晃子の手を離し、少し体を押して後ろに退がらせた。
「大宮さん――」
宇佐見が並んで立つと、言った。「疲れてるんですよ」
「二人とも、死んでたろ?」
「――ええ」
「狙いは確かだった。俺はちっとも狂ってなんかいないぜ」
大宮はそう言うと、「おい、どこに行くんだ」
晃子の姿は、ちょうど大宮の体のかげに隠れて、宇佐見には見えなかった。大宮は、宇佐見の斜め後ろへ目をやって、そう呼びかけたのだ。もちろん、そこには誰もいなかった。しかし、宇佐見がほんの一瞬、そっちへ目をやった。
晃子は、大宮が宇佐見の背中を力一杯突き飛ばすのを見た。トラックが目の前を通り過ぎようとしていた。宇佐見が声もあげずにトラックの下へと消える。
晃子は、ワッと集まって来た人たちの間をすり抜けて、あのビルの方へ戻り、そして井原恵子に見付けられた……。
「――これで大丈夫」
と、井原恵子は席へ戻って来て、「さ、私も食べよう。おいしいでしょ、ここのケーキ?」
晃子は肯いた。
「お名前……聞いてなかったわね」
「晃子……です」
と言って、「この字」
指先で、テーブルに「晃」の字を書く。
「晃子ちゃんか。よろしくね」
井原恵子の笑顔は、嘘ではないように思えた。けれども、大宮は言った。「とんでもない奴」なんだと。
どうしよう? もし、大宮の言う通りだったら……。
「先生も、急いで戻るとおっしゃってたわ」
と、井原恵子は言った。「あなたのことを心配してらしたんですって」
「本当に?」
「――え?」
「本当に、そう言ったんですか」
晃子の問いに、井原恵子はしばしば絶句していた。
「やあ、大分片付きましたね」
と、本間は言って、君原由香のマンションへと上り込んだ。
「どうぞ。かけて下さい」
由香は、ソファをすすめて、「気が遠くなりそうでしたけど、一つ一つやって行けば何とか……」
「申しわけない」
本間は頭を下げた。「上の方へ報告するにしても……」
「分ります。それどころじゃなかったんですものね」
由香は、明るい色のトレーナーを着ていて、まるでこれからジョギングでもしようかという印象だった。
「コーヒーでもいれますわ。お楽に」
「いや、お構いなく」
本間は、きれいになってはいるものの、戸棚のガラスが全部なくなっていたり、中に揃っていたはずのカップやグラス類が、二つ三つしか置かれていないのを見て、気が重かった。
「TVのニュースで見ました」
と、由香はコーヒーをサーバーからカップへ注ぎながら、「奥さんと浮気相手を射殺したって……」
「頭が痛いですよ。何しろ拳銃を持ったまま姿をくらましている。何かあったら、私のクビだけじゃすまないかも……。や、どうも。いい匂いだな。――インスタントじゃこうはいかない」
本間はゆっくりとコーヒーを飲んだ。
「見付かりそうですか」
と、由香は自分のモーニングカップに半分ほどコーヒーを入れ、自分もソファに座った。
「とりあえず、つくろったんです、このソファ。といっても、母がやってくれたんですけど」
「そういえば……子供さんがいるはずですね」
「もう一時間もしたら、母の所へ行って連れて来ます」
と、由香は腕時計を見たが、その前につい以前のくせなのか、壁の方を見てしまっていた。
「色々不便ですな」
と、本間は恐縮している。「大宮の件が片付いたら、きちんと上に話をします。何しろ今はピリピリしていて……」
「分りますわ」
と、由香は言った。「ただ心配なのは、あの人がまたここへ来たらどうしようということなんです」
本間は一瞬ハッとした。考えてもいなかったのである。
「大宮が――。しかし、それはないと思いますが……」
「でも、ここを荒らしたやり方、私を個人的に憎んでいるみたいでした。そうでしょう? ああいう人は、憎む相手のことは忘れないかもしれません」
確かに。――本間は思い出していた。
最後に大宮が本間の前に顔を見せたとき、君原由香のことを、
「あれは悪い女だ」
と言っていたこと……。
そう。確かに、ここへ大宮が現われる可能性もないではない。
「一刻も早く見付け出さんと」
と、本間は言った。「もし、不安があれば――」
そう言いかけたとき、玄関のドアを激しく叩く音がして、由香は一瞬青ざめて立ち上がった。
「課長! ――課長、いますか!」
と、男の声がして、本間はホッとした。
「一緒に来た部下です。車で待たせといたので。――何だ」
と、玄関へ出てドアを開け、「ちゃんとチャイムを鳴らせ」
「課長――。宇佐見が死にました」
と、その刑事が言った。
本間は、ショックを受けるよりも、それ以前に耳がどうかしたのかと思った。
「死んだ……?」
「トラックにひかれて。どういうことなのか分りません」
と、息を弾ませている。
「よし、分った。――すぐ行く。車で待ってろ」
本間はドアを閉め、ソファへ戻ると、またコーヒーの残りを飲み始めた。
「いいんですか」
と、由香が言った。「その方は――」
「部下です。まだ若くて……。ええ、ちょっと格好のことばっかり気にし過ぎる男でしたがね」
本間は、ゆっくりと息をついた。「大変だ……」
「一つ、お願いしてもいいでしょうか」
と、由香が言うと、むしろ本間はホッとしたように、
「何ですか」
「自殺した……木崎さんに娘さんがいます。確かもう十六ですけど、何というか――変った子で、ほとんど学校にも行かないし、一日中、家の中で空想に耽ってるって聞いたことがあります。木崎さんが亡くなって、今、どうしているのか気になってるんです。見に行ってあげてくれませんか」
「分りました。――たぶん大宮はその子に会っています。ご心配なく。どうなっているか、確かめて連絡しましょう」
本間が玄関へ出て、由香は靴ベラを渡した。
「あなたはやさしい人ですな」
と、本間は言った。「しかし――どうして木崎さんと結婚しなかったんです?」
由香がちょっと目を伏せる。本間は訊いたのを後悔した。
「失礼します」
とドアを開け、「――気を付けて下さい、充分に」
そして本間は急いで車へと戻って行った。
「井原君! 何してたんだ」
太田が不機嫌な顔を上げた。
大体いつも不機嫌な顔をした男なのである。
「すみません」
井原恵子は、太田の机の前に立って、「実は……」
「どこにいる? 木崎の娘は」
井原恵子は、少しためらってから、
「帰りました」
と言った。
太田はちょっと|呆《あっ》|気《け》に取られて、
「帰った? ――どういうことだ」
と、却って穏やかな言い方になっている。
「あの……付き添って来た人が連れて帰ったんです。止めたんですけど……。人前であんまりもめるわけにもいかなくて」
「付き添い? 何だ、一人で来たんじゃないのか」
「ええ」
「そうか」
太田は少しの間、怒ろうかどうしようかと迷っていた様子だったが、結局井原恵子の笑顔を見たい、という気持ちの方が勝ったらしい。
「まあいい。――子供相手じゃ詳しいことは分らんだろうしな」
と太田は言って、「後は俺の方でやるから、いいよ」
「すみません」
井原恵子は、自分の席へ戻った。背中には汗をかいていた。
峰岸は用事で外出している。忙しいから、たぶんあの子供のことなど、太田から訊かれない限り、忘れているだろう。
恵子は自分の仕事を始めた。
だが――一向に仕事に身が入らない。あの子の目が……。じっとこっちを真直ぐに見つめてた、あのふしぎな目。
本当に? 本当に「先生」はいい人なの?
そう問われて、恵子は嘘がつけなくなってしまった。
峰岸から聞いたこと――死んだ木崎と太田が「女のことで」いざこざを起していたという話に目をつぶって、木崎晃子を太田に「引き渡す」わけにいかなかったのだ。
ばれればクビか。――でも、仕方ない。
もう、やってしまったことなのだから。
気を取り直して、恵子は電話をかけようとして手を伸した。ちょうど電話が鳴り出し、すぐに取って、
「太田法律事務所です」
「井原恵子さんは?」
と、男の声が言った。
「私ですが」
「あんたか」
と、男は親しげな口調で言った。「あの子を帰してやってくれてありがとう」
「え?」
「あんたは正直な人のようだ。そこで勤めるのは無理だろうと思うぜ」
と、男は笑って、「ともかく礼を言うよ」
「あの――どなたですか? もしもし」
電話は切れていた。
誰だろう? そして、なぜ恵子が木崎晃子を帰してやったことを知っているのだろう?
恵子は、落ちつかない気持ちで受話器を戻したのだった。
第3章 記憶
「ここです」
と、車を停めて部下の刑事が言うまで、本間は車がどの辺を走っているのか、全く分っていなかった。
「うん? ――ここ?」
「そうです。課長、大丈夫ですか?」
「ああ……。心配するな」
本間は車を出て、息をついた。
道はそろそろ夕方のラッシュ。車が大分渋滞している。
現場では、警官が出て事故の状況を調べていた。巻尺を路面に当てて、測ったりしている。
「ご苦労さんです」
と、本間は声をかけ、死んだのが自分の部下だと説明して、「――事故を見た人間は?」
「それが……。何しろみんな忙しくて、係り合いになるのがいやなのか、誰も申し出てくれんのですよ」
と、警官がため息をつく。「トラックの運転手は今、取調べ中ですが」
「何と言ってます?」
「信号は青だったんです。で、スピードを上げたトラックの前に、あの人がパッと身を投げ出して来たと……」
「身を投げ出して?」
と、本間は訊いた。「横断歩道を渡ろうとしたんじゃないんですか」
「どうも、その運転手の話だと、飛び込んで来たと言ってるんですね。前のめりにこう――泳ぐようにして」
それは、「突き飛ばされた」ということかもしれない。横断歩道のふちに立っているところをドンと突かれたら、ちょうどそういう格好でトラックの前へ身を投げ出す形になるだろう。
ということは……。
信じたくないことだが、宇佐見は殺されたのかもしれない。――本間の胃の辺りが、またキュッと痛くなった。
「課長」
と、部下の刑事がやって来た。「無線連絡が入っています」
「分った」
急いで車に戻る。「――本間だ」
「課長、宇佐見が死んだって本当ですか」
と、部下の一人が言った。「課長へ電話して来たんですよ、一時……半ごろかな」
「俺に? で、何か言ってたか」
「いえ、連絡とろうか、と訊いたんですが、少し考えてから、『また後でこっちからかける』と言って切ったんです。外の電話からかけているようでした」
「一時半ごろ? ――そうか」
事故があったのはその直後だ。宇佐見は何かを本間へ知らせようとした。ことづけせずに直接話そうとした……。
そう、おそらく間違いない。
宇佐見は大宮を見付けたのだ。そして――。
そして?
まさか! ――まさか大宮が宇佐見まで?
本間は、再び事故現場に立った。
アスファルトの上に黒く血の痕が広がっている。――車が元の通りに流れるようになったら、あんなものはたちまち消えてしまう。
宇佐見という一人の男の存在した痕跡も、じきに消え去ってしまうだろう。
「俺が殺したのか……」
と、本間は呟いた。
「何だ、本間さんじゃないですか」
と、ぶしつけななれなれしさで肩を叩く男がいる。
本間はムッとして振り返った。
「おや、ずいぶん怖い顔してますね」
と、男は笑った。
「――太田か」
と、本間は言った。「何してるんだ、こんな所で」
「こんな所、って言われてもね」
と、弁護士はニヤついて、「私のささやかなオフィスの前ですからな、ここは。私がいたって不思議はないでしょう」
本間は振り返ってビルを見上げ、
「ここが? あんたのオフィスか」
「ええ。おかげさまで、前より多少広くなりました」
と、太田はちょっと得意げに鼻を動かして言った。
「なるほど。上等なスーツだな」
「なに、よくあなたや大宮さんに胸ぐらをつかまれましたからね。長もちしないんですよ」
と、太田は笑った。
「先生、お時間が」
と、部下らしい青年が声をかける。
「うん。――じゃ、本間さん。これで失礼します」
本間は、太田が真新しいベンツに乗り込むのを見送っていた。
「どうかしましたか」
と、若い刑事が訊く。
「いや……」
太田のオフィスの入ったビルの前。――やはり大宮だ。大宮が宇佐見を殺したのだ。
しかし、なぜ大宮はこんな所へ来たのだろう?
本間は、じっとそのビルの出入口を見ていたが、
「おい。この太田って弁護士のことを徹底的に洗い出せ。いいな」
と、部下に言いつけ、足早に車の方へ戻って行った。
宇佐見が死んだ場所を、二度と見ようとしないままに。
「親戚に法事がありましてね」
と、倉橋さと子は言った。「でも、ちゃんと代りの人を頼んでありますから」
「うん」
と、晃子は肯いた。
「明日から来てくれるはずですから、大丈夫ですね」
「うん」
晃子は、夕食を食べ終えて、「――ごちそうさま」
と言って椅子から立った。
「これを片付けて帰ります。冷蔵庫に牛乳がありますから」
「うん、分った」
「そうですね。晃子さんには『お友だち』がいらっしゃるし」
と、さと子は皮肉っぽく言うと、「じゃ、適当に失礼しますから」
晃子は、二階へ上って、自分の部屋へ入ると、きっちりドアを閉めて息をついた。
「――いやな奴!」
と、晃子は呟いて、鏡の中を覗き込んだ。
「アキラ……アキラ。起きてる?」
しばらく、何の返事もなかった。晃子は心細くなって、部屋の中を見回した。
このところ――といっても、もう一年近くも前からだが、晃子が呼んでもアキラが現われてくれないことがある。そうしばしばではないにしても、そのことは晃子を不安にさせた。
いつか――いつかアキラは私を見捨てて消えてしまう。そうなったら、私はどうやって生きて行けばいいのだろう。
晃子はベッドに横になった。
「お父さん……」
――ほの暗い天井に、光と影の模様が戯れて、その中に父の横顔とそっくりの影を見付けたのは、いつのことだったろうか。
初めの内は、面白がっていただけなのに、やがてそれは本当に父の代りになっていた。
父に何があったのか。――晃子は知らない。
ともかく父の生活の中に、晃子の占める部分がどんどん小さくなっていたことは確かだった。
「もう、お前も父さんに甘える|年《と》|令《し》じゃないな」
と、父は晃子の頭を撫でながら言ったものだ。
さりげない言葉だったが、その父の言葉は晃子の日々を根っこから揺さぶるほどのショックだった。
――お父さんには、私より大事な「誰か」がいる。晃子は直感的にそう悟った。
いやだ、いやだ、そんなことって――ひどい!
お父さんは私のものだ。お父さんは……。
「――お父さん」
と、晃子は呟いた。「帰って来てよ」
「おい」
アキラ。――アキラ!
「どうして出て来てくれなかったのよ!」
と、晃子が鏡を覗き込んで、口を尖らした。
「またそんな顔する」
と、アキラはからかった。
「アキラのせいだよ」
「それより、弁護士のこと、どうかしなきゃな」
「うん……」
あの女の人はいい人みたいだった。でも、やはり太田って男に雇われているのだ。
といって――大宮という刑事が助けてくれるとも思えない。変な人だった。
晃子はふと耳を澄ました。――何かメロディが聞こえた。オルゴールの曲らしいものが。
晃子は青ざめると、部屋を凄い勢いで飛び出して行った。
「オルゴールに触らないで!」
と、居間へ入るなり、晃子は叫ぶように言った。
しかし、居間には誰もいなかった。
その少し寂しい感じのメロディは、まだ続いている。晃子は、飾り棚の上にのせてあるオルゴールへと歩み寄った。
父がヨーロッパへ行ったときに買って来たものだ。昔の蓄音器をそのままミニチュアにしたような形をしていて、小さなブリキのレコードみたいな円盤をのせて回すようになっている。その円盤に小さな穴が沢山空いていて、箱の中の装置で音を出す仕掛けになっているらしい。
晃子はオルゴールを止めた。――居間の中に静けさが戻って来る。
「さと子さん。いるんでしょ」
と、晃子は呼んでみた。
オルゴールが勝手に動き出すわけはないし、晃子とアキラの他には、さと子しかいないのだから、さと子がやったのに決っている。
でも――家の中をグルッと見て回ったが、どこにも倉橋さと子の姿は見当らなかった。玄関へ行ってみると、さと子の靴はなくなっている。
じゃ……もう帰ったんだ。
でも、それでいてオルゴールが鳴ったのは、なぜだろう?
晃子は、気味が悪くてしばらくじっと耳を澄ましていた。でも、誰かが家の中にいるという様子はない。
気のせいなんだ。きっとそうだ。オルゴールも、何かの弾みで動き出しただけなんだ。
晃子は、そう思いながらも、玄関のロックをしっかりと確かめ、さらにチェーンもかけておいた。チェーンをかけておいて、眠り込んでしまっていると、さと子が朝、入って来られないので、いつもはかけずにいるのだが、今夜はどうしてもそうしたかった。
そう……。それに、明日から別の人が来てくれる、って言ってたっけ。
あの女よりもいい人かもしれない。もしそうなら、代りにずっと来て下さい、って頼もうか。
晃子は、明りを点けたままにして二階へ上って行こうとした。
すると――またオルゴールが鳴り出したのである。晃子は居間へ駆け込んだが、やはり誰もいない。
やはり、中のバネか何かが緩むかどうかしているのだろう。――そう分って、晃子はホッとした。
オルゴールを止め、セットしてある円盤を外しておくことにした。これで、もし動き出しても音は鳴らない。
「びっくりさせないでよね」
と、文句を言って晃子は居間を出ようとしたが――。
またオルゴールの音が聞こえて来た。でも、現実の音ではない。遠い遠い時間の彼方から、幻のように立ち上って来たのだ。
そして、そのオルゴールの前に立って、棚に腕をのせ、そこに顔を伏せて聞き入っている女の人がいた……。
「お母さん」
と、晃子は言った。「そのオルゴールが好きだね」
「ええ……」
と、その人は顔を上げた。
「寂しい曲なのに」
「寂しいから好きなのよ」
「ふーん」
晃子にはよく分らなかった。「私、楽しい曲の方が好き」
「そうね。今はきっとね」
と、その人は微笑んだ。「お母さんも昔は――あなたくらいのときは、楽しくて踊り出すような曲が好きだったわ。でもね、|年《と》|令《し》を取ってくると、段々寂しい曲の方が好きになるの」
「どうして?」
と、晃子は訊いた。
「さあ……。たぶん、他の人もこの寂しい曲を聞いてて、この曲が好きなんだってことが分るからかな……。寂しいのは自分だけじゃないんだ、ってことが分るからね、きっと」
「お母さん……。寂しい?」
「ええ、寂しいわ」
「お父さんがいるのに?」
「お父さんがいるから寂しいのよ」
晃子は、何となくたまらなくなって、その人の腕の中へ飛び込んで行く。
「晃子……。晃子……。ごめんね、いつもお母さんはあなたのこと、叱ってばかりいるけど……」
と、腕の中にしっかりと晃子を抱きしめて、「お母さん、寂しくて怖いのよ。一人ぼっちになるのが。だから、怖いのを忘れようとして、大声を出してしまうの」
「怖いの? 何が?」
「さあ……。何が怖いか分らないから、余計に怖いのね、きっと。――でもね、晃子にもいつか分るわ。大人になるって、寂しくなることなの。一人ぼっちになって、怖くて震えることなのよ……」
「お母さん、泣かないで。――泣かないで」
晃子が、母の胸にすがるようにして泣いたのは、いつのことだったか。
――晃子は、空の居間、沈黙しているオルゴールを眺めていた。
お母さん……。
階段の下に倒れていた母の姿。動かなくなった母を、見下ろしている自分の目を、晃子は思い出した。
今、階段の下に立っているのに、目の前にははっきりと、階段の上の方から見下ろした母の映像が浮かんでいた。
倒れて、動かない母。もう動かない。もう動かないんだ……。
強く頭を振ると、その映像は消えた。
「――アキラ」
二階へ上って、晃子は言った。「どうしてお母さんのこと、思い出したんだろ」
「そうだな」
と、アキラは言った。「たぶん、お前がそのお母さんの|年《と》|令《し》に近付いたからさ」
晃子は、思ってもみない言葉に、立ちすくんだ。
「私が? ――まだ子供だよ」
「そうじゃないんだ、お前が思ってるほどにはな」
と、アキラは言って、「ともかく、今は今することだけを考えろ」
「今すること?」
「ちゃんと風呂へ入って寝るんだよ、いい子にしてさ」
晃子はアキラをにらんで、
「分ったけど、服脱ぐとこ覗かないでよね!」
と言ってやった……。
「忙しい……」
井原恵子は、ペタッとレストランの椅子に座って、しばらくメニューを見る気にさえならなかった。
――もう午後の三時である。
朝食もとる暇がなかったのだが、お昼も働きづめ。空腹で目が回りそうだった。
「――ご注文は」
と訊かれて、恵子はつい、
「早くできるもの!」
と言ってしまって、ウェイトレスをふき出させてしまったのだ。
水をガブ飲みし、ひと息つくと、やっとレストランがガラ空きなのに気付く。ランチタイムを外れているせいだろう。
ともかくこの二日間、恵子はやたらと忙しかった。もともと太田は人づかいも荒いが、若い恵子などには特に仕事が集中する。
でも……。恵子は、ふっと考え込んでしまう。
太田について、とかくの噂があることは知っていたが、どんな世界でも、それなりに人に話せないような部分があるものだ、と自分へ言い聞かせて来た。
しかし、それにしても実際に太田の金銭感覚には、ついていけなくなるときがあった。
「こんなこと、していいの?」
と、恵子は何度も峰岸に訊いたものだ。
峰岸なども、太田の下に長くいるつもりはないらしく、どうせよそへ移るのだから、わざわざトラブルを起すこともないと思っているらしい。
恵子は、あの女の子のことを思い出していた。――そう、木崎晃子といったっけ。
あの子はどうしているだろう?
太田が、木崎晃子のことを忘れるわけはない。でも、恵子には何も言わないのだ。
「――お待たせしました」
ハヤシライスが出て来て、恵子は早速食べ始めた。
誰かが目の前の席に座って、恵子はドキッとした。太田かと思ったのだ。別にさぼっているわけではないが、また何か用を言いつけられるのかと思ったのである。
しかし――それは太田ではなかった。
「俺も同じものをくれ」
と、その男はウェイトレスに声をかけた。「伝票は一緒でいい」
「あの――」
「心配するな。ハヤシライス一杯くらいで、買収しようってんじゃない」
――何だろう、この男は?
不思議なことに、恵子はこの男をどこかで見たことがあるような気がした。
「心ばかりのお礼だよ」
「お礼?」
「木崎の娘を帰してやっただろ」
「ああ! 後で電話して来た人ですね」
と、恵子は言った。「でも、どうして――」
「まあ、食べな。腹が減ってるんだろ」
と、男は言った。
確かに、食べながらでも話はできる。恵子は食事を続けた。
男は、自分もハヤシライスを食べ始めて、
「――あんたを見込んで頼みがある」
「え?」
「あの女の子のことだ。助けてやってほしい」
「助ける、って……」
「あの子は、色んな人間に狙われてる。分るかね?」
「あなたは――」
と言いかけて、恵子は愕然とした。
男がちょっと上着の前を開き、拳銃が目に入ったのだ。同時に、恵子はこの男を、どこで見たか思い出していた。
TVに写真が出ていた。――人殺しをした刑事だ。
大宮。――そうだ。大宮というのだった。
名前まで思い出したからといって、今、目の前に殺人犯がいるという事実は少しも変らない。
井原恵子は、何とか平静を装おうと努力していたが、どこまで成功したか、自信はなかった。
「どうした?」
と訊かれて、
「――え?」
「食べないのか。腹が減ってたんだろ?」
「ええ……。あの――急に食べたら、お腹が痛くなっちゃって」
と、恵子は言いわけした。「ゆっくり食べますから」
「何だ、そうか」
と、大宮は笑って、「よくあるよな。ま、逃げやしないぜ、ハヤシライスは」
「そうですね」
恵子も、何とか笑った。そしてゆっくりと食事を続けながら、
「うちの所長をご存知なんですか」
と言った。
「ああ。よく知ってる。人間の姿はしているが、ありゃタヌキだ。いや、タヌキが迷惑するかもしれないな」
と、大宮も食べながら言った。「あんたはどうしてあんな奴の所で働くことになったんだ?」
「友だちが急に勤められなくなって。その代りで入ったんです」
これは本当のことだった。
「そうか。じゃ、誰かの世話とかじゃないんだね? それなら辞めやすいじゃないか。あんたは、ああいう所には向かないよ」
大宮は、本気で恵子のことを気にかけている様子だった。
「あの子――木崎晃子のことを、どうしてそんなに気になさってるんですか」
「さあ……。どうしてかな」
と、大宮はさっさと食べ終ると、「早いだろ? 仕事柄、早食いは慣れてるんだ」
「早いですね」
「あの子は……俺と似ているのかもしれないよ」
大宮は、意外なことを言い出した。「誰も信じられずに生きて来た。純粋だから、他人の間じゃ生きていけないんだ」
「そう……。そんな感じのする子ですね」
「誰か、自分を守ってくれる人間を必要としてる。――父親も、あの子を見捨てて死んじまった。それも女のためだ。あの女は悪い奴だよ」
「女……。恋人ですか、木崎さんの?」
「君原由香。――知ってるかい?」
「名前だけは……」
「太田は、君原由香を木崎に取られた。恨んでるはずだ。仕返しのつもりで、あの子から何もかも取り上げるだろう」
大宮は、恵子が食べ終るのを見て、「出よう。あんたも忙しいんだろ?」
と、立ち上った。
「ええ……。私、払いますから」
「いいんだ」
大宮がレジへ行って支払いをすませる。
恵子は、迷っていた。――どうしよう?
警察へ知らせなくては。しかし、この店を出たら、大宮はどこかへ行ってしまうだろう。といって、うまく引き止めておくことなど、とてもできそうにない。
「――さあ」
と、大宮が促して、二人は表に出た。
「ごちそうになりまして」
と、恵子は礼を言った。「じゃ、これで」
「待てよ。もう少しお付合い願いたいね」
と、大宮は微笑んで、「一一〇番して、俺のことを通報する前に」
恵子の顔から血の気がひく。大宮は、がっしりと恵子の腕をつかんで、
「俺は銃を持ってる。弾丸が腹に当ると、凄く痛いぜ。分るか? 黙ってついて来な」
大宮の言い方は、少しも変らず淡々としていて、却って恐怖を与えるものだった。
「殺さないで……」
と、恵子は震える声で言った。
「大丈夫。殺すもんか。あんたは、あの子の味方だ。そうだろ?」
大宮はそう言ってタクシーを停めた。
恵子は逆らうこともできず、そのタクシーに乗り込んだのだった。
本間がその家へやって来たのは、もう夜になってからだった。
窓に明りは見えているが、チャイムをいくら鳴らしても、返事がない。
本間は、少し玄関から退って窓を見上げていたが、やがて雨がパタパタと肩を打ち始めたので、諦めて帰ることにした。
本間が木崎の家へやって来たのは、君原由香に頼まれていたからである。
少し離れて停めておいた車に戻ると、危いところで本降りの雨になった。
本間は、木崎家の方を振り返り、ちょっとためらってから、車を動かした。
雨の道を運転して行く。――本間は、運転が嫌いではない。少なくとも、どう頑張っても進まない捜査とは違って、思いのままに動かすことができる。
本間は、動きそうもないものを、無理に動かしたことはない。そんなことは性に合わない。
人の気持もそうだ。自分自身の気持も。
しかし、今、本間は自分の気持が、なぜか勝手に動き出しつつあるのを感じていた。
それは、コントロールを失っているというわけでなく、むしろ小さな「予感」のようなものだったが、本間ほどの|年《と》|令《し》になって、未知のことに出くわすのは、怖いものだ。
君原由香……。あの、芯の強そうな、誰の世話にもなりたくないと宣言しているような女。
どうしてあの女のことばかり考えるのだろう。あの女に頼まれたからといって、どうしてこんな所まで来てしまったんだろう。忙しくて、とてもそれどころじゃないというのに……。
本間も、自分が喜んでいること――君原由香が感謝してくれるのなら、そのひと言のためなら、こうして面倒なことをやって、少しも悔いないという気持でいるのを、分っていた。不思議なことではあるが、しかし、それはとても自然な気持だった。
車の電話が鳴って、本間はギクリとした。また何かあったのか?
「――もしもし」
「本間さんですか」
本間は、言葉を失った。君原由香の声だったことと、それがすぐに分ったこと、その両方に驚いていた。
「どうも」
と、本間は言って、木崎の家へ行って来たことを説明した。
「まあ、すみません。お忙しいのに」
君原由香は、恐縮している様子で、「あの――よろしかったら、夕食を、うちでいかがですか。お待ちしてますけど」
「しかし……」
本部へ戻らなくては。それどころじゃないのだ。――けれども、本間は迷わなかった。
「これからお邪魔します」
と言っていたのだ。
「はい……。すみません」
と、井原恵子は言った。「――ええ。分っています」
電話口の向うの、太田の顔が目に浮んだ。
「はい。――夜、遅くなっても戻ります。――はい、すみません」
怒鳴り声というのとも違う。しつこく、文句を言うことを楽しんでいる。太田はそういう男なのだ。
電話を切って、恵子はしばらくベッドの上に座り込んでいた。
あの男――殺人犯は、今、シャワーを浴びている。脱ぎ捨てた服が、はぎ取られた恵子の服と床の上で絡み合って、拳銃だけはバスルームへ持って入っていたが、その気になれば、恵子は服を着て逃げ出すこともできた。
しかし、そうしないでいる自分が、奇妙に安心感に満たされているのを感じる。
このホテルへ連れて来られ、恐怖で身のすくむまま、大宮と寝た。――今、全身がけだるく、しびれているかのようで、とても立つ気力がない。
太田へ電話をしたのだが、事務所へ戻って来なかったことで頭から怒鳴られ、数え切れないほどの文句を言われた。
シャワーの音が止む。――鼻歌が聞こえた。
不思議な男だ。恵子が逃げたり、警察へ通報する可能性を、充分承知しているはずなのに、気にもしていない。
恵子の全く知らない世界の男だった。
「――出かけるぞ」
と、バスタオルを腰に巻いた大宮が出て来て言った。「仕度しろ」
「どこへ?」
「木崎の家だ」
と、大宮は言って、「一緒に行ってくれるだろ?」
恵子は、ほとんど無意識に肯いていた……。
雨はしつこく降り続いていた。
大宮と井原恵子は、車で木崎家へと向っている。恵子がレンタカーを借り、運転していた。大宮の方は助手席で、時々居眠りしている。
「――起きて下さい」
と、一旦車を停めて、恵子は言った。
「何だ? ――着いたのか?」
と、大宮が|欠伸《あくび》をする。
「呑気なこと言って! ――道が分らないわ、こんなんじゃ」
恵子も、開き直ってしまったのか、殺人犯と一緒にいても、決して恐怖に怯えているわけではなかった。
「そうか……。今どこだ?」
と、大宮が雨の中を見透かそうとして目を細くする。
「少し手前に、あなたの言った信号があったわ」
「そうか。――ああ、分った。このまま、あと百メートルくらい行って右折しろ」
恵子は、黙って車を再びスタートさせた。
「もう夜中か」
と、大宮は|欠伸《あくび》して、「いいのか、太田の方は放っといて」
「よく言ってくれるわね。どうせ、もうクビになってるわ」
と、恵子は苦笑した。
「そりゃ気の毒に。俺のせいか?」
「当り前でしょ」
と、恵子は精一杯の抵抗の口調で、「こんな体で何すりゃいいのよ」
「怖いな。――美人が怒ると怖い、ってのは本当だ」
「ふざけないで!」
と、恵子は大宮をにらんでやったが、大宮は声を上げて笑い出した。「――何がおかしいのよ!」
恵子自身、自分が殺人犯に向ってこんな口のきき方をしていることが、信じられないようだった。しかし、不思議と、大宮に対する恐怖感は消えてしまっていたのだ。
どこか、大宮には恵子を興奮させ、昂揚させるものがあるようだった。
「――そこだ」
と、大宮が言った。
大笑いしながらでも、ちゃんと道は分っているのだ。
二人は、車を出て木崎家の玄関まで走って行った。――やや小降りになっていたせいもあって、そうひどくは濡れなかった。
「――家政婦がいるはずだ」
と、大宮がチャイムを鳴らす。
「顔を見られたらまずいわよ。私が話すから、離れてて」
「構うもんか。騒いだら自分で自分の首を絞めるようなもんだ」
「馬鹿言わないで」
と、恵子は言ったが、「――返事、ないわ」
「もう帰っちまったのかな、家政婦は」
と、大宮は玄関のドアを揺さぶった。
「そんなことして――」
「大丈夫だ。心配なんだ、あの子が」
大宮は、力任せにドアをけとばし、鍵の壊れる音が辺りに響き渡った。
「――入ろう」
と、大宮は平然と玄関から上って、「おい! 誰かいるか?」
と、呼びかける。
「すてきな家」
と、恵子は居間へ入って、「でも、誰もいないわよ」
「あの子供は二階の部屋に閉じこもってるだろう。行ってみよう」
「待って」
恵子が顔をしかめて、「――何の匂い?」
「匂い?」
「酸っぱいような匂い……。こっちだわ」
恵子は、台所へ入って、「――まあ」
と立ちすくんだ。
あの少女――木崎晃子が、台所の床に倒れていた。お腹を押えて、苦しそうに息をしている。酸っぱい匂いは、吐いたものが床に広がっているせいだった。
「どうしたの!」
恵子は駆け寄った。――晃子は真っ白な顔で、弱々しく呻いた。
「ひどいな」
「何か腐ったものでも食べたのかしら。ともかく病院へ連れてかないと」
「車に乗せよう」
大宮が軽々と晃子の体を抱きかかえる。
「アキラ……」
と、晃子が小さな声で言ったが、大宮も恵子も気に止めなかった……。
深い眠りからゆっくりと覚める。
それは海の底から徐々に上って来るのにも似ている。上の光がぼんやりと感じられて、しかしそこまでの距離は見当がつかない。百メートルあるのか、ほんの十メートルなのか。
光は、いくら上って行っても近付かないようで、もう決して届くことがないような気がするが、その内ポカッと頭が水面から出ている自分に気が付くのである……。
「――目が覚めた?」
覗き込んでいるのは……。誰だっけ。
「忘れたかしら? 井原恵子よ」
そう。そうだった。――口をきくのが面倒で、晃子は小さく肯いて見せた。
「ここは病院よ。あなた、食べたものを吐いて台所で倒れてたの。憶えてる?」
「何となく……」
と、晃子はかすれた声で言った。
「悪いものを食べたのね。――家政婦さんは?」
「お休み……」
「お休み? そう。――じゃ、一人で何か作って食べたの?」
「倉橋さんが……作ってったもの……。冷蔵庫に入ってて……」
「倉橋っていうのが家政婦さんね? じゃ、それがいたんでたのかしら」
「代りの人が……」
「え? 何?」
と、恵子は耳を寄せた。
切れ切れの晃子の言葉で、恵子はやっと事情を察した。
「もう大丈夫よ」
と、晃子の手を取って、暖かく包むと、「眠って。ちゃんと私がそばにいるから」
「でも……お仕事は?」
「いいの。仕事よりあなたの方が大事よ」
晃子が、やっと少し笑みを浮かべた。
晃子が眠り込むと、恵子はベッドのそばを離れ、そっと病室を出た。
まだ夜中で、この市立病院も眠りの中にある。
恵子は、階段を下りて行って、薄暗い外来受付の辺りに来ると、
「どこ?」
と、呼んだ。
「後ろだ」
「キャッ!」
びっくりして飛び上る。「――足音がしなかったわ」
「刑事だぞ。ドタドタ音をたてて歩けるか」
と、大宮は言った。「どうした?」
恵子は、晃子の言ったことを伝えた。
「――冷蔵庫のものが一日二日で、そうひどくいたむとは思えないわ。その家政婦は代りが来ると言ってたのに来なかったり……。おかしいわね」
「倉橋……さと子だったかな。腹に一物って奴だった」
大宮は肩をすくめて、「留守にして、あの娘を飢え死にさせる気だったのかもしれないな」
「子供を? そんなひどいこと――」
「訊いてみりゃ分る」
と、大宮は言った。「――これだ」
手帳を出し、白いページにメモをしてピッと破ると、
「ここが家政婦の家だ。ちゃんと訊いてある」
「どうするの?」
「電話して、ここへ呼べ。お前はここの看護婦だと言って。あの子が重体だと言って、すぐここへ来てくれと言ってくれ」
「それで……」
「その先は、それから考える」
大宮は、恵子の肩をポンと叩いて言った。
「殺すのはやめてね」
恵子は、本気で言った。
「ああ。そんなこともあるかもしれないな。――ともかくかけろ」
「ええ……」
恵子は、そのメモの番号にかけるしかなかった。
相手はすぐに出て、恵子が看護婦と言ったのも信じたようだった。
「――では、すぐそちらへ参ります」
と急いで言って切ったが、晃子のことを心配しているという風には聞こえなかった。
「ここへ来るわ」
と、恵子が振り向くと、もう大宮の姿は見えなかった。
「重体か」
と、河合は楽しそうに言った。「ざま見ろ、ってとこだな。大人を馬鹿にするから、そういう目に遭う」
「やめて」
と、倉橋さと子はチラッと河合の方をにらんだ。「子供じゃあるまいし。そんなことで喜ばないでよ」
河合はちょっと笑った。――小雨の中、車は夜の道を走っている。ライトに細かい霧のような雨が光った。
「――何をそうむくれてるんだ?」
と、運転している河合が言った。「狙いの通りになったじゃないか。いくら利口でも、子供は子供だよな。こっちの方が一枚上手ってわけだ」
「黙ってて」
さと子は不機嫌さをもろに見せて、「重体なのよ。死ぬかもしれないって……。そこまでやるつもりじゃなかったのに」
「やっちまってから悔んでも、仕方ないだろ」
と、河合は軽く言って、「今さらやめるってわけにゃいかないんだからな」
そう。――さと子にもよく分っている。
自分が何をしたのか。何のためにやったのか……。
晃子が重体にまで陥ったのは、予想外のことだった。そして、もっと予想外だったのは、自分がそのことにショックを受けている、ということだったのである……。
それは、晃子の身が心配というのとは、少し違っているような気がした。もっと、自分自身のこと――木崎のことを思うせいだろうか? 死んだ木崎が悲しんでいるかもしれない、という思いを抱いているのが辛かったのかもしれない。
「――あそこだわ」
と、さと子は夜の雨を通して赤い十字のネオンサインが浮んでいるのを見て、言った。
「よし。――どうする? お前一人で行くのか?」
「ついて来てよ。――車、そこへつけて。そう。大丈夫よ。濡れないし、ここは停めといても、心配ないわ」
さと子の言葉通り、車を玄関のすぐ脇へ停める。
「知ってるのか、この病院?」
「前に風邪ひいて来たことがあるの。――あっちから入るみたいね」
夜間の出入口から中へ入り、二人は階段の下で足を止めた。
「私、一人で行くわ」
と、さと子は言った。「あなたはここで待ってて」
「何だ。大丈夫なのか?」
「話を聞いてみて、相談するわ。あなたのこと、どう説明していいか、難しいもの」
「分った」
と、河合は肯いた。「その辺に座ってる」
明りを落として、薄暗くなった外来の待合所。並んだ長椅子の一つに、河合は腰をおろした。
さと子は、足音をあまりたてないように気を付けながら、階段を上って行った。静かなので、意識しなくても、自然足どりは慎重になる。
二階ってことだった。――でも、二階のどこだろう?
病院はかなり広い。病室がどこなのか、訊いてみた方がいいだろうが、看護婦が見当らない。どこかにちゃんと夜勤の人が詰めている場所があるはずだ……。
廊下を歩いて行くと、その先に、明るく明りの点いた部屋がある。あれがそうだろう。
さと子は、足を少し速めた。
「――失礼ですけど」
と、突然呼びかけられて、さと子は声を上げそうになった。
どこから出て来たのか、と思ったが、見ると、その病室のドアの名札に、〈木崎晃子〉の名が見えた。
「倉橋さと子さんですね」
若い女性が言った。
「はあ……」
「お電話したのは私です」
「あの……でも、お電話では――」
「看護婦と名乗りましたのをご容赦下さい」
と、その若い女は落ちついた口調で、「私、太田弁護士の下で働いている井原といいます」
「太田さんの……。そうですか。あの――家政婦の倉橋です」
いぶかしく思うにも、面食らっていて、頭が回らなかった。
「冷蔵庫に、わざと腐ったものを入れておいたんですね」
突然訊かれて、さと子はたじろいだ。それは答えたのも同じだ。
「やはりね。代りの家政婦が来るというのも嘘だったんですね」
「あなたは……。晃子さんはどうしたんですか?」
「大変でしたけど、今はもう大丈夫。事情は聞きましたよ。どういうつもりだったんですか」
たたみかけるように訊いてくる。さと子は、晃子が「大丈夫」と言われた安堵感と、この女が何を狙っているのか分らない不安とで、言葉もなく立ち尽くしてしまった……。
河合は、タバコに火を点けて、二階へ上る階段の方へ目をやった。
「何やってるんだ」
と、呟いて腕時計を見ると、十分ほどたったことが分る。
上って行ってみようか、とも思うが、さと子のことだ。却って「邪魔をした」と言って怒るかもしれない。――まあ、さと子に任せておけば心配する必要はないだろう。
すると、カタッと音がして、
「灰皿でしょう」
という声がした。
長い足をつけたスチールの灰皿が、河合の前に置かれる。
「こりゃどうも……。ありがとう。やっぱり病院の中じゃ、喫いにくいですね」
と、河合は笑って言った。「あなたも見舞ですか」
「まあね」
その男は、河合と並んで座った。
河合は、何となく男から目をそらして、
「夜の病院ってのは、あんまり気持のいいものじゃありませんね」
と言った。
「確かに」
と、男は肯いて、「しかし、入院している者の方が、もっと辛いわけですからね」
「まあ……。そりゃそうですが」
「たとえば、腐ったものを食べさせられて、死にかけた女の子とかは、ひどく辛いでしょうな」
河合はギクリとして、
「――誰です?」
と言った。
「TVは見ないのかな」
男が、微笑んでじっと河合の方を見る。
「TVを……。時々は見ますが……」
「おかしいな。今、ニュースでは私の顔が何度も出てるはずですがね」
「あなたの顔?」
薄暗い中、その男の顔をじっと見つめた河合は、確かに、どこかで見たことがある、という気がした。
「さて……何でしたっけ」
と、河合が少しおどけて見せると、
「これで思い出すかな」
男は、拳銃を取り出し、|呆《あっ》|気《け》に取られている河合の脇腹へ押しつけた。
河合は、恐怖よりもむしろ感覚が止ってしまったように感じた。――思い出していた。さと子が話していたことを。
一度訪ねて来た刑事が、妻とその恋人を殺して逃げている、と……。
「表へ出てもらおう」
と、その男は言った。「俺の名前を忘れたかい?」
正直なところ、名前はどうでもよかったのだ。名前を聞いたからといって、今の状況が良くなるわけじゃない。
「自己紹介しよう。大宮だ。――さ、立って」
「どうするんだ?」
「質問は、こっちがしろと言ったときだけだ」
と、大宮は言った。「外だ」
言われるままにするしかない。
河合は、夜間出入口から外へ出た。
「――雨が止んだぜ。雲が切れてる。運がいいよ」
と、大宮は夜空を見上げて、「濡れると寒いだろ」
と気づかってくれる。
「まあ……。何の用なんです?」
「あの子を守ってやるのさ。それが俺の仕事だ」
「あの子を……守る?」
「そう。あんたのような奴らからな」
「私は……何も聞いてないんです。あの――彼女が考えたことなんですよ」
徐々に、河合の表情から血の気がひいていった。
「撃つ、なんて言ってないよ」
と、大宮は言った。「あんたが逃げりゃ別だがね」
やってはいけない。
――分っていても、人間はついやってしまうことがある。
河合のように、極度に怯えているときが、危いのである。絶望が突然楽観的な予測に変って、「何とかなる」と思ってしまう。
「――どうする気なんだ」
と、河合は少しふてくされて言った。
「さて、どうしてほしい?」
大宮は拳銃をつきつけて、河合をいたぶるのを楽しんでいるかのようだった。
「ふざけないでくれ! 殺すなら殺せ」
心にもないことを言う河合の額には、冷汗が浮んでいた。
「まあ、落ちつけ」
と、大宮は言った。「ゆっくり話そうじゃないか。時間はある」
大宮は、駐車場の中を見回して、
「車は?」
と訊いた。
「あれだ」
と、河合は顎でしゃくった。
「よし、車の中で話そう。落ちつくだろ、その方が」
「落ちつくもんか。そんなものが鼻先にあっちゃ」
と、河合は不平を言いつつ、車の方へと歩いて行った。
大宮は、助手席に座ると、
「ちょっとその辺をドライブしよう」
と促した。「動かせ」
河合が車を走らせる。
「――どこへ?」
「この近くをグルッと回ろう」
「適当でいいんだな」
と、河合は空っぽの夜道へと車を出しながら言った。
車は空いた道を走り、じきひと回りして元の場所へ戻って来る。
「――いいコースだ。もう一回行こう」
大宮は、二度目に走るとき、やっと話を切り出した。
「金がほしいんだろう? 違うか?」
「当り前だ。誰だってほしいさ」
と、河合は言った。
「誰だって、か。――そいつは違うな。人によっちゃ、金よりも大切なものがあると思ってる人間もいる」
「あんたがそうか?」
「どうかな」
と、大宮は笑った。「一つ、はっきりしてるのは、今あんたが俺の言う通りにしないと、金は一円も入らず、しかも失うことになるってことさ。――命をね」
河合はゾッとして、
「じゃ、選択の余地はないわけだな」
「そういうことだ」
と、大宮は肯いて、「太田という弁護士がいる。死んだ木崎の弁護士だったが、ろくでもない奴でね。やはり、あの子の財産を狙ってる」
「へえ」
「そいつの所へ行って、協力したいと申し入れるんだ」
「俺が?」
「そう。――太田は、金の亡者さ。必ず引っかかってくる」
「それで?」
「後はまた俺が指示する。言った通りにするか?」
――河合は、赤信号で車を停めた。
大宮の方はリラックスしていて、拳銃を膝の上にのせ、タバコを取り出して火を点けた。
ふと、河合は思った。――ここで、もし思い切りアクセルを踏み込んで、車を急発進させたらどうなるか。
大宮の膝から拳銃は飛び出して落ちるだろう。そして、続けて急ブレーキを踏めば、大宮の体はフロントガラスにぶつかる……。
そうだ。――やってみる価値はある。
河合は、自分が映画か小説の主人公にでもなったかのように思えて、「人生には、賭けに出るときがあるんだ」と自分へ言い聞かせた。
「太田は、あの子を丸裸にするつもりだ」
と、大宮が言った。「あの子は、何も知らない。世間の汚れに染っていない人間なんだ。分るか? 助けてやっても、ばちは当らないぜ」
――よし、やろう。
河合は度胸を決めた。
さりげなくブレーキペダルから足を離し、アクセルペダルへかける。
行くぞ!
河合は、グッとアクセルを踏んだ。
倉橋さと子は、ベッドのそばへ寄った。
――晃子が、眠っている。
晃子は、小さくなろうと一生懸命に縮まっているように見えた。横に向き、背中を丸めて、胎児のように丸まっている。
――人の気配を感じたのか、晃子がふと目を開いた。
「あ……」
「どうですか、気分?」
と、さと子はおずおずと訊いた。
「うん……。まあまあ」
と、晃子は言った。「鏡がほしい」
「鏡ですか?」
「小さいんじゃなくて、大きなの。私の部屋にあるような……」
「分りました。取って来ましょう」
と、さと子は言ってから、「――ごめんなさい。いたんだものを冷蔵庫へ入れて……」
と、口ごもった。
晃子は、今まで自分を見下すようにしていたさと子が、目を合せるのも遠慮するようにして、立っているのを見た。
それは、晃子の見たことのないさと子だった。――たとえ、さと子が何を企んでいたとしても、今は心から晃子のことを心配している。晃子にはそれが分った……。
「いいよ」
と、晃子は呟くように言った。「私も気が付きゃよかったのにね……。普通だったら気が付くんだろうけど、私……ぼんやりだから」
「晃子さん――」
「お腹、空いちゃった」
と、晃子は言った。「でも、何も食べちゃいけないんだって」
「お医者様にうかがって、おかゆでも持って来ますよ」
と、さと子は言って、「食べていただけますか」
と訊いた。
「もちろん」
と、晃子は微笑んだ。「鏡――持って来てね」
「はい」
と、さと子は肯いた。
病室を出ると、井原恵子が立っている。
「――どうでした?」
と、恵子が訊く。
「もう……晃子さんにはとても勝てません」
と、さと子は言った。「何か私にやれることが?」
「ええ」
と、恵子が肯く。「あるんですよ」
「私、晃子さんの部屋から持って来なきゃいけないものがあるんです」
と、さと子が言ったとき、大宮がブラッと戻って来た。
「やあ」
と、さと子を見て言う。「――びっくりしたかい?」
「少し」
と、さと子は言った。「でも、晃子さんにはやさしいんですね」
「まあね。――河合ってのは、あんたの恋人か」
「一応は……。でも、続かなかったと思います、どうせ」
と、目を伏せてから、「――河合がどうかしましたか」
「馬鹿なことをしてくれてね」
と、大宮は言った。「車を急発進、急停止させて、こっちの手から銃を奪おうとした」
「そんな……」
「こっちは全部読めてたのさ。奴がアクセルを踏むと同時に、足を突っ張って、拳銃をちゃんと構えてた。そうドラマの中のようにゃいかないよ」
と、大宮は言った。
「じゃあ……どうしたの?」
と、恵子が訊く。「まさか――」
「その辺でのびてる。心配するな。――しかし、協力してもらうならこの女しかないだろうな」
と、大宮は言って、「裏切るなよ」
「分っています。――河合は?」
「あいつは当てにならない。あんたとゆっくり話そう。用事をすませて来い」
大宮は、そう言って、「おい、話がある」
と恵子を誘った……。
「――ふざけた野郎だ」
と、二人になると、大宮は言った。
「大宮さん。――殺したのね」
と、恵子が訊く。
「ああ。正当防衛さ」
恵子はため息をついた。
「これからどうするの?」
「心配するな。あの女一人でも、充分役に立つ」
大宮は、自信たっぷりに言った。
第4章 アキラ
「そうか。じゃ、あと二、三時間したら戻るからな。――ああ、頼む」
本間は受話器を置いた。
「お宅へは帰らないんですの?」
と、君原由香は言って、「どうぞ、コーヒーをいれました」
「ああ、恐縮です」
本間は、実のところお腹が苦しくて動けないほど、夕食を食べてしまっていたのである。
「すっかりごちそうになって」
本間は、さすがに少し照れていた。
「沢山召し上っていただけて良かったですわ」
と、君原由香は微笑んだ。「料理ってあんまりしないものですから。適当な量っていうのがよく分らないんです」
「いただきます」
本間は、コーヒーカップを手に取って、「大丈夫ですか、赤ちゃんは? ――お名前は?」
「真衣。――『真実』の『真』に『|衣《ころも》』と書きます」
「真衣ちゃんか。いや、うちの孫もまいです。『舞う』方の『舞』ですが。何でも一番多い名前なんだそうですな」
「あら、おじいちゃんでいらっしゃるんですか?」
と、君原由香は愉快そうに、「とてもそんな風に見えませんけど」
「もう停年ですよ。娘一人で、孫が一人、というわけです」
本間は、ゆっくりとコーヒーを飲んで、「これは旨い。じっくりいれたコーヒーなんか飲めませんからね、めったに」
「木崎さんがコーヒー通で、古い豆を使ったりすると機嫌が悪くなったんです。おかげで、新しい豆を少しずつ買うくせがついて……」
と、一緒に自分も飲んで、「ちょっと薄かったわ。あの人が生きてたら叱られるところ」
と笑った。
本間は、深々と息をついて、
「一旦捜査本部を設置するような事件にかかると、十日は家へ帰れません」
と言った。
「大変ですね」
「そういう仕事ですからね」
と、本間は言った。「しかし――家族はたまったもんじゃないでしょう。放っとかれる女房たちも。離婚するのも少なくありません」
「そうですか」
由香は、少し目を伏せて、「――あの、奥さんを殺した刑事さんは、それなりに苦しいことがあったんでしょうね」
「大宮ですか。あれは不思議な男で……」
と、本間は言いかけて、「その話はやめましょう。せっかくここにいるのに――」
言葉を切って、ぎこちなく笑い、
「何が『せっかく』なんだか……。こうしてお邪魔しているのも、妙なものですがね」
「何か――まずいことでもあります? お立場上、私のうちへみえて」
「いや、別に。――何もないんですから。あなたはむしろ、大宮から被害を受けられたわけだし」
本間は、空になったコーヒーカップをテーブルにのせた。「女性一人の所に訪ねて来たのが問題と言われれば……。しかし、私はもう孫のいる男ですからな」
「ええ。私も、一人で食事するのは寂しいと思って……。真衣はいますけど」
二人はちょっと黙っていた。――本間が咳払いして、
「木崎さんの所へは、誰か人をやってみましょう。心配ですからね。――さて、もう失礼しないと」
「何だか、却ってご迷惑を――」
「とんでもない。何日分かの栄養をとらせてもらいました」
と、本間は立ち上った。
玄関へ出て、本間は靴をはくと、
「しかし、木崎さんも、何も死ななくても良かったのに」
と言った。「喧嘩の弾みで死なせたんですから、そう大した罪にはならなかったのにね」
「そういう人なんです。人の命を償うには自分の命しかない、って」
「そういう人ばかりだと、我々も苦労せずにすみます」
と、本間は笑った。「では……。私なら、あなたのようなすてきな方を残して死のうとは思いませんな」
「恐れ入ります。――本間さん」
ドアを開けて出ようとしていた本間が振り向く。
「あの……よろしかったら、またいらして下さい」
「ありがとうございます」
本間は、じっと由香を見て、「――本当にうかがってもいいんですか?」
「ええ、ぜひ」
本間は一礼して出て行った。
――君原由香は、ドアをロックしてから、居間へ戻った。そして、一旦奥の真衣がちゃんと眠っているのを確かめてから、居間で電話機を手に取ってかけた。
向うが出るまで、少しかかって、由香は苛立つ表情を見せる。
「――あ、もしもし。由香です。――ええ、今帰ったところ。――大丈夫。充分に気に入ってるはずよ。――ええ、予定通りにやれると思うわ。心配しないで。――え? 本気よ。それぐらいのこと、私だってやれるわ。――ええ」
由香は、ゆったりとソファに身を沈め、受話器を持ち直した……。
「アキラ。――アキラ」
晃子は、呼びかけた。「出て来てよ。アキラ」
倉橋さと子が家から持って来てくれた鏡へと、晃子はそっと呼びかけていた。
でも、何しろ病室の中で、しかも、もう朝に近いくらいの夜中だ。あんまり大きな声は出せないし、いつ看護婦さんとかが入ってくるかもしれないし……。
「アキラ……。やっぱり、ここじゃだめかなあ」
ベッドで、がっかりして呟くと、
「そうすぐ諦めるなよ」
「――アキラ! 意地悪。わざと出て来なかったんでしょ」
と、体を起して、にらむ。
椅子に立てかける格好で置かれた鏡の中で、アキラは苦笑いしていた。
「すぐひねくれるんだからな。もっと粘り強くならなきゃ。それがお前のいけないとこだぞ」
「アキラに言われたくないね」
と、晃子は言い返した。
「そんだけ元気が出りゃ大丈夫だろ」
と、アキラは言って、「だけど――お前って得してるよ」
「得? こんな苦しい思いしてるのに?」
「おかげで味方ができただろ」
「でも……」
「いいんだ。お前は、すぐ人に騙されるけど、それが味方を作ってくれるんだ。――利口になるだけがいいことじゃないんだぞ」
晃子は、少し間を置いて、
「それ、私がちっとも利口じゃないってことじゃないの」
「まあな」
「ひどい奴!」
と、晃子はアキラをにらんで、それから笑ってしまった。
そして、グーッと……お腹が鳴って、
「お腹空いた……」
と、情ない声を出したのだった。
――病院の廊下で、井原恵子は、
「中で声がしてるけど」
と言った。「呼んでるんじゃないの」
「いえ、そっとしておいて下さい」
と、さと子が言った。「晃子さんが『お友だち』と話をしているんです」
「お友だち?」
「架空の子供で――。男の子らしいんですけど。でも、晃子さんの大切な友だちなんですわ」
「へえ……」
恵子は、目をパチクリさせている。
「おい、ちょっと来てくれ」
と、大宮が二人に声をかけた。
廊下の隅にある長椅子に三人は腰をおろした。
「――これからのことだ」
と、大宮は言った。「あんたたちは、言った通りにやってくれるな」
「やるしかないでしょ」
と、恵子は言った。「でも、あなたが怖くてやるんじゃないわ。あの子のためよ」
「分ってる」
大宮はニヤリと笑った。「俺は一つ当ってみたいことがある」
「何のこと?」
「富田という男のことだ。木崎が殺したという男だが。――どうも、あの一件が、もう一つ腑に落ちねえのさ」
と、大宮は言うと、タバコに火を点けた。
「おい」
と、本間は言った。
「――何ですか?」
すぐそばにいた部下が顔を向ける。
「例の木崎貴志が喧嘩して死なせた男、富田といったな」
「はあ……。よく知りませんが」
それはそうだ。担当でもない事件のことをいちいち憶えてはいられない。
「あの喧嘩の詳しいことが知りたい。すまんが、調べて持って来てくれないか」
「分りました」
言いつけられた部下は、けげんな表情で本間を見ている。それはそうだろう。今、大宮が銃を持って逃げ回っているというのに、たかが喧嘩騒ぎのことを調べろというのだから。
しかし、もちろん全く関係がないというわけでもない。大宮は、加害者である木崎の恋人、君原由香をなぜかひどく嫌っている。まさか、わざわざ殺しに行くということはないだろうが。
富田。――木崎貴志が殺した男。
「課長」
と、部下の一人が足早にやって来た。「レストランで、大宮らしい男が目撃されています」
「どこだ?」
本間は、素早く立って、大きな地図の方へ足を運んだ。
「――ここです」
と指さすのを見て、
「ここ?」
本間はちょっと眉をひそめて、「おい。ここは確か……」
そう。そこはあの弁護士、太田のオフィスの近くだ。ということは、宇佐見がトラックにひかれて死んだ場所のすぐ近くということでもある。
「一人だったのか」
と、本間は訊いた。
「いえ、若い女と一緒だったそうです」
と、部下の刑事が言った。
「若い女?」
「はっきりしないんですが……。よく見かける女性だったとか。近くに勤めてるんじゃないか、とレストランの人間は言ってるんですが」
「近くに勤めてる、か……」
本間は、少し考え込んだ。そして、
「おい、ちょっと出てくる」
と言った。
「はい。どちらへ?」
「この辺りさ」
本間は、地図の方を見て言った。
「――おいしかった!」
と、晃子は息をついた。「もうおしまい?」
病室の中は、昼の日射しが溢れている。爽やかによく晴れた日だ。
「今はこれだけ」
と、井原恵子は微笑んで、「それだけ食欲があったら、充分ね」
「うん」
晃子は、天井を見上げて、「ずっと寝てるのって、好きだったんだ」
「ベッドで? 子供らしくないわね」
「子供じゃないもん」
と、晃子が言い返し、
「失礼しました」
と、恵子は笑った。
「でも……不思議。今はここから出て、外を駆け回ってみたい」
「そう」
「こんな気持になることなんか、なかったのに」
「でも、それってとてもいいことだと思うわよ。あなたが段々強くなって来た、ってことじゃない?」
「そうかな……」
晃子は少し不安そうな様子で、鏡の方へ目をやった。恵子はそれに気付いて、
「鏡の中にお友だちがいるんですって?」
「まあね」
と、晃子は少し頬を赤らめる。「変だと思うでしょ」
「そんなことないわ。私だって、いつもお人形とかに話しかけてたし。誰だってやってることじゃない?」
「そう?」
晃子は、複雑な表情で言った。「でも、アキラは私にしか見えないの」
「アキラっていうんだ、その子」
「うん」
「男の子ね。――ハンサムなの?」
「たぶんね」
と、晃子は言った。「はっきり見えてるのに、よく思い出せないの、どんな顔してたか」
「へえ」
「でも、とっても頼りになるんだよ」
と、晃子は言って、「もちろん、井原さんも頼りになるけど」
「ありがとう」
と、恵子は礼を言った。「何かほしいものは?」
「あの……さと子さんは?」
「倉橋さんなら、このおかゆを届けに来てから出かけたわ。うちの先生のオフィスに」
「あの弁護士さんの?」
「そう。心配しないでね。ちゃんと、あなたのためを思って行動してくれてるの」
「うん。――分ってる」
と、晃子は肯いた。「あの刑事のおじさんは?」
「あ……。そうね。出かけたと思うわ」
と、恵子は言って、「さ、また後で来るわね」
「うん。ごちそうさま」
と、晃子は伸びをして、「いつ、帰れるのかなあ」
「そうね。おとなしく寝てれば、たぶんすぐよ」
恵子は、晃子の額に軽く手を当てて、それから病室を出た。
晃子は目を閉じた。――お腹がいくらか満たされたせいか、あれだけ眠ったのに、また眠くなって来る。
「お父さん……」
と、晃子は呟いた。
太田は、腕時計をチラッと見て、ニヤリと笑った。
おしゃべりな客は大歓迎である。要領よくしゃべれば十五分ですむのに、何だかんだと雑談が入って一時間も二時間も話し込む奴は、太田の料金が「時間当りいくら」ということをよく知らないのだ。
もちろん、一件にばかり係り合っているわけにいかないにしても、どうせ暇な時間なら金になった方がいい。
「――先生」
と、峰岸が応接室のドアを開けて言った。
「何だ?」
「ちょっと」
「失礼」
太田は立って廊下へ出た。
「来客です。料金は取れませんが」
と、峰岸は言った。
「誰だ?」
と訊いて、太田は廊下の奥に立っている本間の姿に目を止めた。「分った。五分ほど待っててもらってくれ」
すぐに応接室の中へ戻り、必要な話をアッという間にすませた。
「――どうもお待たせして」
と、太田はニヤニヤと笑いながら、本間の方へ歩いて行き、「どうです、お茶でも」
「ああ。景気が良さそうだからな。コーヒー一杯くらいもらっても良かろう」
太田は、峰岸の方へ、
「ちょっと下へ行ってくる」
と、声をかけた。
――二人は、下の喫茶店に入ったが、
「コーヒー二つ」
と、太田が頼むと、
「あ、俺は紅茶にしてくれ」
と、本間は言った。「ゆうべ、旨いコーヒーを飲んだんでな。まずいのを飲んで、あの味を忘れてしまいたくない」
「デリケートですな」
と、太田は笑った。「今は何かでかいヤマで?」
「大宮さ」
「ああ。――大変ですな」
「ここへ来なかったか」
「あの刑事さんが? いいえ」
「この近くのレストランに現われている。憶えてないか」
「いや……。どうして私の所へ? 用はないですよ」
「そうかな」
と、本間は言って、「太田。木崎貴志が殺した、富田って男、知ってるか」
太田の表情が、警戒するように「商売用」のものに変った。
「太田に何のご用でしょうか」
と、峰岸が訊く。
「私、亡くなった木崎貴志様の所で働いていた者でございます」
と、倉橋さと子は言った。「今は、残されたお嬢様の面倒をみております。そのことで、ちょっとご相談申し上げたいことがありまして」
「分りました。お待ち下さい。――倉…」
「倉橋さと子と申します」
峰岸が、さと子をオフィスの中の応接セットに残して急いで立ち去った。
木崎の名を出したとたんに、向うの態度がコロッと変るのを見て、さと子はちょっとした快感を味わっていた。
太田という弁護士が、かなり木崎に関心を持っている証拠だ。――あの人を殺した刑事の言った通りだった。
妙なものだ。大宮に言われるままに、こうして弁護士の所へやって来た。
もしかすると、殺人犯の逃亡を助けていることになるかもしれないのだ。さと子にもそれはよく分っていたが、自分が晃子に対してしようとしていたことを考えると、これくらいの罪滅ぼしをしなくては、という気持になる。
「――今、太田は接客中ですが、あちらでお待ち下さい」
と、峰岸という男が戻って来て、さと子を応接室へと案内してくれた。
そのころ――太田は、本間と喫茶店を出て、ビルの玄関まで来ていた。
「――なあ太田。俺はずいぶんお前のしていることで苦労させられて来た。せっかく挙げた犯人を無罪放免してくれたりな」
「それは裁判官に文句を言って下さい」
と、太田はやり返したが、あくまで口調はソフトだ。
「しかも、釈放されてすぐ、また女を強姦した奴もいた」
「まあね。法は万能じゃありません」
「富田のことで何か分ったら、知らせてくれ――それくらいのことは、してもらってもいいと思うぞ」
「できるだけのことは」
と、太田は抜け目なく言った。
本間が表の通りへ目をやって、
「ここで宇佐見という若い部下が死んだ。たぶん大宮に殺されたんだ」
「悪い部下を持つと、苦労しますな」
「大宮はなぜここに来た?」
「さあ……。分りませんね。当人にお訊きになれば」
本間はちょっと鼻先で笑って、
「そのつもりならいい。もし、お前が大宮のことで何か知ってることを隠してたりしたら、徹底的に絞り上げてやるぞ。汗の一滴も出なくなるくらい、ギュウギュウとな」
「そう怖いことを言わんで下さい」
と、太田は苦笑した。「協力しないなんて言ってないじゃありませんか」
「その方がお前も身のためだ」
本間はそう言うと、「邪魔したな」
と言ったときには、もう太田に背を向けてビルを出て行っていた。
「――言いたいこと言いやがって」
と、太田は苦々しげに呟いた。
オフィスへ戻ると、
「峰岸、その女は?」
「応接室です」
「よし。――おい、恵子はどうしたんだ?」
「井原さんですか? さあ……。僕も彼女とそう親しいわけじゃありませんから」
「連絡はないのか」
「今のところ、何も」
「そうか」
「井原さんがどうかしたんですか」
「いや……。何でもない。もし電話でも入ったら、俺を呼べ」
「分りました」
太田は応接室へ向った。
大宮という刑事――女房と、浮気相手を殺した男が、この近くで「若い女」と会っていた。
若い女、か。――井原恵子が、急にどこかへ行ってしまったのは偶然だろうか?
しかし、もし偶然でないとしたら? 井原恵子が大宮刑事とどんなつながりがあるというのだろう。
「――お待たせして」
と、太田は応接室へ入って行った。
「倉橋さと子と申します」
いかにも細かいことにも目配りの届きそうな女性である。
「木崎さんの所で働いておられたとか」
と、太田はソファにゆったりと身を沈めて言った。
「はあ、今は、残された晃子さんのことを……」
「十六でしたかな、確か。いや、私もね、気になっていたんです。木崎さんとは少なからぬご縁もありましたしね。女の子一人で残されているのでは、誰かが相談相手になってあげなくては。――忙しくて、なかなか会いに行く時間も取れませんでね」
「さようでございますか」
「で、ご用の向きは?」
と、太田が座り直す。
「木崎さんには、若い女の方がいらっしゃいました」
「知っています」
「太田さんは、その女性をめぐって木崎さんと何かもめごとがあったとか」
太田の顔が、ちょっとこわばった。
「いや、それは――」
「恨んでおられたでしょうね。木崎さんのことを」
と、さと子は言った。「私もです」
「――何とおっしゃいました?」
と、太田は訊き返した。
「私も、あの女のことが許せないんです。――私は、木崎さんに長いこと尽くして来ました。けれども、木崎さんは私に何一つ遺して下さらなかった。太田さん、私は当然自分が受け取っていいものを、あの女の子から|奪《と》ってほしいのです」
太田は、すっかり度肝を抜かれた様子で、
「すると――その晃子という子のために、何かしてくれとおっしゃるわけではないんですね?」
「誰が、あんなおかしな子のために」
さと子が、ちょっと顔をしかめて、「あの子はどこかの病院へでも入れるべきです」
太田は、間を置いて、改めて倉橋さと子を眺めると、
「ゆっくりご相談しましょう」
と言って微笑んだ……。
晃子は、そっと廊下を歩いて行った。
もう、ずいぶん体調は良くなっていて、ただ少しお腹が空いているというだけのことだった。
井原恵子が、ちょっと買物してくるから、と言って出て行き、晃子はトイレに立ったついでに、少し病院の中を歩いてみることにしたのである。
病院の中は、静かだった。午後、この時間は夕食もまだで、ちょっとの間、病院全体が息をつくときなのかもしれない。
晃子は、パジャマ姿でスリッパをパタパタいわせながら歩いていた。
入院したときは当然のことながら苦しくて、中の様子など見ている余裕はなかった。こうして歩いてみると、ずいぶん広いんだ、と思った。
階段の所で、足を止める。
別の階へ行く? ――そんなことして、帰れなくなったらどうしよう?
それに、看護婦さんに見付かったら叱られるかもしれない。
晃子はしばらく迷っていたが、ちょうど顔を知っている看護婦さんが廊下をやって来るのを見て、つい階段の方へ隠れてしまった。
別に悪いことをしているわけではない。そう思うのだけれど、晃子は、つい人目を避けてしまう。
階段の所に立っていると、やがてその看護婦さんは通り過ぎて行ってしまった。ホッとして、晃子はもう病室へ戻って寝ていよう、と思った。井原恵子が戻って来て、晃子の姿が見えなかったら、心配するだろう。
晃子が歩きかけたとき、足音が聞こえた。上の方からだ。
パタッ、パタッと晃子と同じようなスリッパの音。でも、一歩ずつの間が空いて、苦労して上っているようだ。
もちろん、足音は晃子より上の方をさらに上っているので、少しずつ遠ざかっているわけだが、よく音が響くせいか、耳を澄ますと、息づかいまで聞こえてくる。
苦しそうな、喘ぐような息づかい。
何だか気になって、晃子は階段の上の方を見上げた。
手すりをつかむ白い手が覗いている。
その「誰か」は、一心に階段を上へ上へと辿っているのだった。
屋上。
――晃子は、たぶん憶えている限り、建物の屋上へ上ったのはこれが初めてだった。
まず、普通の家には屋上というものはないし、晃子の通った学校は、どこでも屋上に上ることを禁じていた。だから、病院に入って、初めて屋上に上ったということになる。
へえ……。こんな所なのか、屋上って。
妙なものだった。上に何もない、というのは。
天井がない。当り前か。でも、空はあった。普通に外を歩いているときに見上げる空よりも、気のせいか(当然そうだが)いくらか近いような気がした。
屋上は、入院している人が洗ったものを干せるようになっているらしく、コンクリートの足をつけた棒がいくつも立っていて、ビニールの紐が渡してあり、そこに今も下着やシーツが何枚か風に吹かれていた。
風が、少し違っている。――晃子はそう感じた。屋上を渡る風は、水で言えば透き通っている感じがした。
――パタッ、パタッ。
その音で、晃子はどうして自分がこんな所まで上って来たのかを思い出した。
階段から出入口の部分に隠れている向う側から、その音が聞こえている。
晃子は、そっと足音を殺しながら、歩いて行った。
誰かが――パジャマ姿の子供だ――胸まである手すりにしがみついている。
いや――そうじゃない。見ていると、その子供は、手すりを乗り越えようとしているのだった。
でも、それにはまず、手すりの高さまで上半身を持ち上げる必要があって、それに何度も挑戦しているところらしかった。――そして、息が切れたのか、ハアハア言いながら、その場にしゃがみ込んでしまう。
晃子は、
「大丈夫?」
と、声をかけた。
その子供がパッと振り向く。――男の子だ。
晃子は、その男の子の顔色がひどく悪いのにギョッとした。ただ青いとか白いというのでなく、大げさに言えば黒ずんで、目もくぼんでしまっている。
「何だよ、お前」
と、その子が言った。「あっち行けよ」
ガリガリにやせて、背もそうないから「子供」と思っていたのだが、たぶん同じくらいの|年《と》|令《し》だろう。長く寝ているせいで、髪の毛は妙な方向に立ってしまっている。
「だって……くたびれて立てないんでしょ」
と、晃子は言った。「病室に戻って寝てれば?」
「うるせえ」
と、顔をそむけたが、すぐに晃子をジロジロ見て、「どこが悪いんだ? そんなにブクブク太って、赤い顔してよ」
晃子は頭に来た!
「お腹こわしたのよ」
「腹下して入院したのか? それなら、もうちっと青いぜ」
「古いもん食べただけなの。もう何ともない」
「ドジな奴だな」
と、その男の子は呆れたように、「何してんだよ、こんなとこで」
「スリッパの音がしたから、ついて来たのよ」
「俺の? ヒマなんだな」
「うん。だって、することないじゃない、入院してると」
「入院するの、初めてか」
晃子は答えなかった。
「――別に、聞きたくもねえよ」
男の子は、手すりにつかまって立ち上った。
晃子は不思議だった。こんな風に、見も知らない子とおしゃべりしている自分が。
いつもなら、声をかけるのさえいやだったろう。
たぶん――そうだ。この子が「病人」だから話せるのだ。
「汗かいてるよ」
と、晃子は言った。「風邪ひくんじゃない?」
「お前、うるせえんだよ」
と、手すりにもたれて、「俺がどうするか教えてやろうか」
「飛び下りるの?」
男の子は目をパチクリさせて、
「何で知ってんだ?」
「そこ、のり越えようとしてたでしょ。のり越えたら、他にすること、ないんじゃない?」
「止めるなよ。人も呼ぶな」
「止めないよ」
と、晃子は言った。「生きてるのって、大変だもんね」
男の子は、晃子の言葉に面食らった様子で、
「――変な奴だな、お前」
「うん。変だから、結構大変なの、生きてるのが」
晃子はスタスタと手すりの方へ近寄ると、少し爪先立ちして、手すりの外側、数十センチ幅のコンクリートの張り出しの向うを覗こうとしたが、見えなかった。
「――お前、いくつだ」
と、男の子は言った。
「十六。――なったばっかりだよ」
「じゃ……同じだ」
「それくらいだと思った」
晃子は、微笑を浮かべて、その男の子を見た。「背は私よりあるんだ。小さいかと思った」
「体重はお前よか少ないぞ」
「だろうね」
晃子は素直に(?)認めた。「動かない割によく食べるんだもん」
「いいよな……。俺なんか……たぶん十七にゃなれない、って言われてる」
「そう」
晃子は、手すりに両腕をのせて、「私……お父さんが死んだの」
「ふーん」
「一緒に死ねたら良かったけど、一人で残されたら、今度は却ってだめなの。死んでも、もうお父さんに追いつけないかな、とか思って」
「じゃ……生きてくんだな」
「たぶんね。――私のこと、心配してくれてる人がいるし。その内、いいことがあるかもしれないし」
「俺には、『その内』なんて、ないんだ」
晃子は、男の子を見て、
「――どうしても死ぬ? 手伝おうか」
男の子は、じっと晃子を見ていたが、やがて笑い出した。
「調子狂っちゃった。変な奴に会って。――やめた! 女に手伝ってもらうなんて、とんでもねえや」
「セクハラって言うんだよ、そういうの」
と、晃子は言ってやった。
「俺、この階だ」
と、男の子が足を止め、「じゃあな」
「気を付けてね」
晃子は、何とか男の子を支えるようにして、ここまで下りて来たのである。
「気を付けたって、しょうがねえよ」
と男の子は、またスリッパを引きずるようにして歩き出した。
「――ねえ」
と、晃子は声をかけた。「名前、何ていうの?」
「アキラ」
――うそ。
呆然としている晃子へ、
「ここにいたの!」
と、声がして、階段を井原恵子が駆け上って来た。「捜しちゃったわよ!」
「あ……。ごめんなさい」
アキラ。――もちろん、そういう名の子はいくらもいる。でも、こんな所で会うなんて……。
「――大丈夫? 風邪ひくわ」
井原恵子は、晃子を抱くようにして、急いで病室へ連れ戻った。
「ちゃんと寝てないと――」
ドアを開けた恵子は、足を止めた。
ベッドのそばに立っていた女が振り向いた。
「どなたですか」
と、恵子が訊く。
その女は答えずに、晃子を見ていたが、
「入院したって聞いて、心配で見に来たんです。でも、大したことないようね」
「あなた――」
「失礼します」
と、女は足早に出て行こうとした。
「お父さんの――」
と、晃子が言った。「そうでしょ? お父さんの恋人だった人」
恵子が、その女を見つめる。
「ええ」
女は肯いて、「お葬式で会ったわね。君原由香よ」
と、言ったのだった。
「富田さんのことで、二、三うかがいたいんですがね」
と、本間は言った。
「富田……でございますか」
会社の受付の女性は、ちょっと口ごもって、「あの――恐れ入ります。少しお待ち下さい。恐れ入ります」
と、くり返して席を立って行った。
「――そう恐れ入らなくたっていいけどね」
と、本間は呟いた。
大きな企業である。二十階建のビルが丸ごとその企業と、グループの子会社で占められていた。
太田の所でもさっぱり情報を仕入れられなかったので、本間は、死んだ富田が勤めていた会社へとやって来たのである。
大宮のことで、それどころではないのに、もし上司に知れたら文句を言われるだろう。
「――お待たせしまして」
と、受付の女性が戻って来た。「今、総務の者が参りますので」
その言葉の終らない内、まだ三十そこそこの男がワイシャツにネクタイ、サンダルばきという格好で現われた。
「あの――富田のことを訊きたい、っていうのはあんた?」
口のきき方にびっくりしたが、本間は却って面白いと思った。
「ええ。富田さんとお知り合いでしたか?」
「まあね。でも、あいつ、死んだんですよ」
と、素気なく言う。
「もちろん存じてます。そうお時間は取らせませんよ」
相手は露骨にいやな顔をしたが、ともかく本間を促して、ロビーの奥の椅子へ連れて行った。
「――忙しいんでね。手早くして下さい」
「富田貞雄さん。――会社では総務課長でしたね」
「そうですよ」
「どんな仕事をなさってたんですか」
「どうしてそんなこと訊くんです? 死んじまった者のことを――」
相手が、本間の取り出した警察手帳を見て、サッと青ざめる。
「失礼しました!」
と、とたんに低姿勢になって、「あの――上司を呼んで参りますので」
「いやいや、結構ですよ。あなたは?」
「はあ……。富田の下におりました村上と申します」
と、早くも汗をかいている。
「村上さん。富田さんが、喧嘩で亡くなったことは知ってますね」
「はあ」
「富田さんに家族は?」
「あります。――ありました。奥さんと息子さん一人、確か中学生くらいじゃなかったでしょうか」
「すると、女性をめぐっての喧嘩で亡くなったというのは……」
「そりゃあショックでした。もちろんご家族もですが、我々も。何しろ、富田さんはとてもそんなことをしそうな人じゃなかったんです」
と、村上は言った。
「事件が起るまで、その女性のことについては?」
「全く知りませんでした」
「なるほど。――富田さんが、何か個人的に恨まれていたということは?」
「ない、と思いますね。とても温厚な人で部下のことも大事にしてくれましたし」
「そうですか。――何か仕事の上で問題があったとか、そんなことはありませんでしたか?」
本間がそう訊いたとき、初めて村上という男の顔に何かが浮んだ。
そこへ、足音がすると、
「何の用だ?」
と、大股にやって来たのは、不機嫌そうな顔つきの初老の男だった。
「あ、専務。こちら、警察の方です」
と、村上が急いで言った。
「警察? 富田のことはもう片付いたはずですが」
と、その男は言った。
「片付いた、ですか」
と、本間は皮肉った。「亡くなった社員に対して、ずいぶん冷たい表現ですな」
専務と呼ばれたその男も、刑事に嫌われたくないと思ったのか、
「いや、失礼」
と、一応頭を下げ、「専務の青柳と申します。富田のことでは、色々マスコミがうるさくやって来たもので、何もしゃべるな、と社内に通達を出してあるんです」
「青柳さん、ですな」
本間は名刺をもらって、ポケットへ入れると、
「富田さんが殺された後、仕事上では大変だったでしょうね。突然のことですし」
「ええ。しかし、何とか引き継いでやって行きました。仕事は休んでいられませんからね」
「そうでしょうな。しかし――どうも、殺した木崎という男が自殺したというのが引っかかりまして。ご存知ですか?」
「木崎という人ですか? いや、全く」
「仕事の上でも関係ありませんでしたか」
「さあ……。細かいことまでは把握していませんが。私の知っている限りでは、何もないと思います」
「そうですか……」
本間は一旦引き上げることにした。「一旦」だ。
青柳のような幹部が、なぜわざわざ出て来たのか。それ自体、妙である。
村上という富田の部下だった男は、何か言いたげにしていた。――訊き出してみせる、と本間は思った。
「では……」
と本間がそのビルを出て行くと、
「専務――」
「黙ってろ」
と、青柳は村上の方をジロッとにらんだ。「何も言わなかったろうな」
「はい、何も」
「それならいい。――しかし、どうして今になって……」
「分りませんね」
青柳は、苛立っている様子で、
「早く仕事へ戻れ!」
と、厳しい口調で言った。
――本間が、心残りなまま引き上げたとしても、もしロビーにいたもう一人の男のことを知っていたら、「心残り」どころではすまなかっただろう。
本間が出て行った後も、しばらく大宮は動かなかった。
ロビーには、仕事の打ち合せをしている人間が何人かいて、大宮が一人で座っていても、不審に思われることはなかったのである。
大宮も、もちろん富田のことを知りたくてやって来たのだが、一足先に本間が来て受付で話しているのを見たので、ここへ来て座っていたのだ。
さすがに、すぐ後ろの席に本間が来たときはドキッとしたが、気付かれずにすんだ。
しかし、本間はなぜ富田のことなど当っているのだろう? 大宮は首をかしげた。
残っていた大宮は、あの青柳という専務と村上という男との会話もしっかり耳に入れていた。
富田には、何か公表されては困るようなことがあったらしい。それは今の二人の話でもはっきりしている。
さて……。誰の口から訊くか。
大宮は、本間のこともよく分っていた。あれで諦めて引っ込む本間ではない。
必ず出直して、たぶんあの村上という男に接触する。
大宮は立ち上った。
本間は、しゃべってくれそうな人間に当る。大宮は、「しゃべらせる」ことができる。本間と違って、力づくでも。
それなら、事情に通じていそうな奴を狙った方がいい。
専務か。青柳といった。――あれだ、と大宮は思った。
君原由香は、病室を出て行った。
「――あの人が?」
と、井原恵子は言った。「確かに美人だけど」
晃子は、黙ってベッドに入った。
父親の恋人だった女と会うというのは、何だか妙な気分だった。
父は独りだったのだから、あの女と結婚することだってできたのだ。それでも、結局父はそうしなかった。
子供まで産れているというのに。それは、晃子のことを考えていたからだろうか?
晃子は、以前ならそう考えることが嬉しかったろうが、今となっては、あまり心が弾まないのはどうしてだろう、と思った。
「私、ちょっとあの女の後を尾けてみる」
と言って、井原恵子は足早に病室を出て行ったのだった。
「――はあ、そうです」
と、青柳は低い声で言った。「――ええ、もちろん。――はい」
相手は社長。|年《と》|令《し》の割には耳がいいので、大きな声を出す必要はない。この話は、あまり大声ではできないから、助かるのは確かだった。
「――はい、当ってみます。――え? その刑事ですか。確か……本間といいました」
電話を切って、青柳は、やれやれと息をついた。社長というのは気楽なものだ。
「何とかしろ!」
と一声怒鳴れば、何でもそれで片が付くと思っているのだから。
しかし、一体どうして今になって警察が富田のことをほじくり返そうとしているのだろう?
「アーア」
と、欠伸をして、青柳は机を離れると、トイレに行った。
顔でも洗って目を覚まそう。ゆうべ、少しあいつの所で張り切り過ぎたかな。
トイレで用を足した青柳は、手を洗おうとして、床にバケツが、水を一杯に入れて置かれているのを見て、何のおまじないだ、と首をかしげた。もちろん、自分のためにそこにあるのだとは、思ってもいないのである。
――洗面台で、水を出して思いっ切り顔を洗って……。ペーパータオルのホルダーの方へ見当をつけて手を伸す。
そのとたん――ぐい、と首を絞められ、息ができずに口を開ける。アッという間に引きずり倒されて、頭を押えつけられると、次の瞬間には、バケツの中へ頭が丸ごと突っ込まれていた。
水を飲み、むせ返った。肺に水が入って、猛烈な痛みと苦しみで声も出せない。
と、頭が引っ張り上げられて、水から出た。
「――おとなしくしな」
と、耳もとで、低く囁くような声がした。「分ったか? ――返事しねえと、もう一度バケツの中だぞ」
「わ……分った……」
かすれた声で答えるのが精一杯である。むせて、ひどく咳込むと、タイルの床にペタッと座り込んでしまう。
「よし。――質問に答えりゃそれでいいんだ。簡単なことさ」
男の顔は全く見えない。後ろにいて、しっかり青柳の首根っこをつかまえているせいもあるし、目にも水が入って、視界がぼやけたままである。
「富田って男のことだ」
と、その声は言った。「奴は何をしたんだ?」
「富田……。あいつが……何だって?」
「聞こえたろう」
いきなり、またバケツの中へ頭を突っ込まれる。溢れた水で、青柳の服はびしょ濡れだった。
「――やめてくれ!」
やっと引き上げられた青柳は、泣き出しそうな声で言った。
「とぼけたりするからさ。二度、同じことを言わせるな。――言え」
「富田は……あいつは死んだ」
「分ってる! その前に、何かまずいことをやらかしたんだろ?」
「あ、ああ……。その……会社の金を……」
と、青柳は口ごもった。
「また水が飲みたいか?」
「いやだ……。分ったよ! 金を横領してた。土地の売買を任されて……。社長がひそかにやってたんだ」
「それで?」
「富田は……偽の契約書を作って……。会社の金を振り込ませた」
「なるほど。それが自分の口座だった、ってわけか」
「そう……。ばれたときは、もう富田は死んでた……」
と、青柳は言った。「勘弁してくれ、もう……」
「途中で話をやめる奴は嫌いでね」
ぐっと、またバケツの方へ頭を押されて、
「分った! ――やめてくれ」
と、悲鳴を上げる。
「で、その金は?」
「もう……奴の口座には入っていなかった。引き出されてた」
「どこへ行った?」
「知らない! 結局分らなかったんだ」
「調べたのか?」
「表向き、不動産取引には手を出してないことになってたから……。警察に言えなくて……」
「それだけじゃあるまい。その金の出所が分ると、脱税だの何だの、色々|埃《ほこり》が出てくるんだろう。――まあいい、そんなことはどうだって。それで? その金は、いくらだ」
青柳は、肩で何度も息をついて、
「二十……億だ」
と言った。
「なるほどね」
男はヒュッと口笛を吹いた。「ちょっとした金だな」
男は立ち上ると、
「また会おうぜ」
と言って、靴で青柳の脇腹をひとけりした。
ける場所も、力の入れ方も心得ている。青柳は、一声呻いて体を折ると、冷たく水の広がったタイルの床に這った。
――大宮は、悠々とトイレを出て、エレベーターの方へ歩いて行った。
二十億か。――それだけの金を手に入れた男が、女を争って死ぬ。
それはあり得ないことではないとしても、では二十億の金はどこへ行ったのか。
「面白いや。こうでなくっちゃな」
と呟いて、大宮はニヤリと笑った。
ちょうどエレベーターの扉が開き、可愛い事務服の女子社員が出て来る。大宮と目が合って、その女の子は、自分を見て大宮が笑ったと思ったのか、首筋まで真赤になった……。
「二十億?」
と、井原恵子が思わず言った。
「しっ」
と、大宮がチラッとベッドの方へ目をやる。
晃子は眠っているようだった。
病室の中は、明りを落として静かだった。
「でも……そんな大金、どこへ消えたっていうの?」
「さて。そこが面白いところだ」
大宮は、弁当を食べ始めた。「――結構いけるな」
「外で食べるのは危いわ」
「お前も変ってるぜ。逃亡犯を助けてるんだ。分ってるのか?」
「今さら何よ」
と、恵子は大宮をにらんだ。
「そう怒るな」
と、大宮は笑って、「で、あの女は?」
「君原由香? 尾行したけど、母親の所へ寄って、預けてあった子供を連れてマンションへ戻ったわ。それだけ」
「ふむ……。どうも匂う。――どうしてわざわざここへ来たんだ?」
「晃子ちゃんの様子を見に……」
と言いかけて、「不自然よね」
「そうだ。普通ならそんなことはしないぜ。恋人の子供ったって、もう恋人は死んでいて、自分には自分の子供がいる。それなのに、いちいちこんな所までやって来るか?」
「じゃ、どうして来たの?」
「何か理由があったんだ。いや――逆かな。子供が大丈夫かどうか見に来たとしたら、それは自分のためでなく、他の誰かのためだ」
「他の?」
「この子のことを知りたがっている、誰かだ」
恵子は、晃子の方を見て、それから大宮へ目を戻した。
「それって……つまり……」
「簡単だろ。木崎貴志が生きてるってことだ」
と、大宮は言った。「死体は上っていない。そして金も消えた」
「木崎さんが、その……二十億を?」
と、恵子は声をひそめる。
「可能性はある。富田を殺したのも、金をめぐってのことだったかもしれねえ」
「共犯だったってこと?」
「お前、君原由香を見張れ。もし木崎が生きていれば、必ず会うはずだ」
「あなたは?」
「富田のことを、もう一人かぎ回ってるのがいる。それが気になる」
と、大宮は言うと、弁当を一気に食べ尽くした。
――晃子は、起きていた。
お父さんが生きてる?
本当だろうか。――心臓の高鳴る音が、話をしている二人に聞こえないか、心配だった。
お金のことやら、富田という男のことなど晃子にとってはどうでも良かった。
お父さん! ――もし本当に、本当に生きてるんだったら!
晃子は、体の下でギュッと毛布を固く握りしめた。
第5章 渦巻
「それで」
と、井原恵子は言った。「向うで、私のことは何も気付いてないようでした?」
「ええ」
と、倉橋さと子は肯いて、「すっかり私のことを信用しているようでしたから、太田の方でわざわざここへ人をよこすことはないでしょう」
「そんな程度なんだわ」
と、恵子は肩をすくめて、「もうとっくに私の机なんかなくなってるでしょ」
二人は、病院の玄関前に立っていた。
そろそろお昼どき。外来受付の辺りは、診察待ちの患者でまだ溢れんばかりだ。
今日、晃子はもう具合もほとんど良くなったので退院することになった。今、二人は大宮が車で迎えに来るのを待っているところである。
「――病人って、大勢いるのね」
と、恵子は、人で一杯の待合室を見て言った。「自分が元気なときは、そんなこと、考えもしないけど」
「私たちも、病気なのかもしれませんよ」
と、さと子が言った。
「え?」
「大宮という男……。普通なら、あんな男については行きませんもの」
「ああ……。そうですね」
と、恵子は目をまぶしげに細めて、明るい戸外を見た。「でも――自分でそう決めて、選んだんですもの」
「そう……。晃子さんのため、と自分では思っていても、結局法を犯してるわけでしょ? 大宮を手助けして、もし――捕まることになったら?」
「仕方ないわ」
と、恵子は笑った。「前科一犯か。親が嘆くだろうなあ」
タクシーが停って、男が一人降りて来た。初老の、地味でいて、どこか目をひく所のある男だ。
「刑事かしら」
と、恵子が小声で言った。「見慣れてるから、何となく分るの」
その男は、玄関を入って人の多さに少し戸惑った様子だったが、〈受付〉という窓口の方へと歩いて行く。
恵子は足早に人の間をすり抜けて、その男のすぐ後ろについた。もちろん受付に用のある人間はいくらでもいるわけだ。
「――入院してる患者のことで、担当の医者と話したい」
と、男が警察手帳を見せている。
やはりそうか、と恵子は思った。その刑事は、続けて、
「患者は、木崎晃子。十……六だと思う」
恵子は、じっと耳を澄ました。
「五階のナースセンターへどうぞ」
と、受付の女性が言った。「担当の先生は今日お休みですが、代りの先生がうかがいます」
「ありがとう」
と、刑事が行きかけると、
「その患者さんは、今日退院することになっているようです」
と、受付の女性は言った。
「そうですか。――それは良かった」
刑事は肯いて、エレベーターの方へ歩いて行く。少し足を引きずるようにしているのは、神経痛か何かだろうか。
恵子は、さと子の所へ戻った。
「やっぱり刑事だわ。大宮はまだ?」
さと子が答える前に、
「やあ、遅くなった」
と、大宮がやって来た。「途中工事で道が――」
「今、刑事さんが上に」
と、恵子は言った。「車で待ってた方がいいわ」
「どんな男だ?」
大宮は、恵子の説明を聞いて、「――本間だ。俺の上司だ、きっと」
「じゃ、あなたがいると知って?」
「いや、そうじゃないさ。もし知ってれば、機動隊が百人も来て、ここを取り囲んでる」
大宮は呑気に言って、「何をしてるんだ、あいつ? 富田のことを調べたり、今度はあの子のことか。――興味があるな」
「危いわよ。何する気?」
「ちょっと覗いてくる」
大宮は平然と待合室を抜けて行ってしまった。恵子とさと子は顔を見合せた。
「付き合い切れない男」
と、恵子は首を振って、「私も行くわ」
と歩き出す。
当然、さと子も一緒に。――二人とも、不思議な好奇心に取りつかれているようだった……。
晃子は、そっとその病室を覗いた。
並んだベッドをぐるっと見渡したが――空いているのが二つ。他の四つに寝ている顔は、どれも大人ばかりだった。
「――何か用かい?」
退屈そうにしていたおじさんが、晃子に気付いた。
「あの……ここに『アキラ』って名の男の子、いませんか。十六くらいの……」
もう晃子は、さと子の持って来てくれた服に着がえているので、見舞客に見えただろう。
「ああ、あの子か。――そのベッドにいたけどね」
と、もう片付けられてしまったベッドを指したので、晃子は一瞬ドキッとした。
「じゃ……」
「昨日かな。具合悪くなって、集中治療室へ移ったよ。可哀そうだが、もうだめかもしれないな」
晃子は、じっと空のベッドを見ていた。
「まだ生きてるんですね」
「たぶんね。――看護婦さんにでも、訊いてごらん」
「ありがとう」
晃子は、廊下へ出た。
どうしよう? ――もう退院するので、迎えに来てくれることになっている。でも、あの「アキラ」という男の子に、さよならも言わずに行ってしまうのはいやだった。
少しためらってから、晃子は〈集中治療室〉を捜して歩き出した。
「――すると、ただの食当りですか」
と、本間が訊く。
「ええ。そう聞いてますが……。何かあったんですか?」
医師は、少し不安そうである。
「いや、そういうわけじゃありません」
と、本間は首を振った。「どうもお忙しいところ」
と会釈して、
「ちょっと会って行きたいんですが。構いませんか?」
「ええ、もちろん」
医師はホッとした様子で看護婦を呼ぶと、案内するように言った。
「どうぞ」
と、看護婦が先に立って、「――じき、迎えの方がみえるようです」
「女性だね? ちょっと年輩の」
「女の方と――男の人もいらっしゃいます」
「男?」
「何だか、どこかで見たことのあるような人なんですけど……。思い出せないなあ」
と、首をかしげ、「一度しか見かけたことないんですけどね」
本間は軽く肯いて、木崎晃子を迎えに来る男というのは誰だろう、と思った。
「結構、渋くてすてきな中年ですけど」
と、看護婦が笑った。「あ、この部屋です」
ドアをノックして開けると、
「あら、いない。――でも持物があるから、まだ出てませんよ」
本間は、妙な気分だった。
何かが本間の頭の奥で、チカチカと明滅している……。
「捜して来ます?」
「いや、そこまでは。――少し待っていれば戻るだろうし」
と言ったとき、ポケットベルが鳴った。
舌打ちして、
「すみませんが、電話を」
「センターのをお使い下さい」
本間は急ぎ足で、ナースセンターへ向った。
カウンターに電話をのせてもらって、かける。
「――俺だ。――うん。――そうか。何か裏にあるな。――分った。大宮のことは何かつかめたか?」
話しながら、本間の目は何気なく奥の戸棚を眺めていた。鏡が扉にかけてあって、そこに廊下が映っている。
「――ああ、奴のことだ。親戚を頼って行く、なんてことはしない」
本間はそう言って……。
鏡の中にチラッと男の姿が映った。それは一瞬の幻のようだったが、しかし、大宮そっくりだった。
本間はパッと振り返った。
本間の目に映ったのは――誰もいない廊下だけだった。
看護婦が一人、足早に歩いて来る。
今のは……。しかし、確かに大宮を見たと思ったのだが……。
「――もしもし? ――課長?」
受話器から聞こえてくる声に、ハッとした。
「いや、すまん。後でまたかける」
本間はそう言って、パッと切ってしまった。向うは面食らっているだろう。
大宮の話をしていたせいで、誰か他の人間と見間違えたのだろうか。しかし、本間は、自分がそういうタイプでないことをよく知っている。
「電話、どうも」
と、そんなときでもちゃんと礼を言っているところが本間らしい。
大宮らしい男は、どこにいたのだろう?
本間は、改めて鏡の方へ目をやった。あそこに映っていたということは……。
「階段か」
と、本間は呟いた。
壁の色のせいで、ちょっと見ただけでは分りにくいのだが、階段の方へ出る口があって、もしそこから大宮が顔を出していたとすれば、すぐに消えてしまったのも説明がつく。
本間は、ともかくそこを覗いてみることにした。大宮がこの病院にいたとしても、不思議ではない。大宮は、なぜか木崎晃子という娘に同情しているようだったから。
だが――もし、本当に大宮がいたとしたら? この病院の中で撃ち合いを始めるのか?
本間は、その階段への出入口に近付いて、一旦足を止めた。
大宮は、上着の下に入れた手に拳銃を握っていた。
――まずかったな。
まさか、鏡に映るとは考えていなかったのである。本間がこっちへやって来ていることは、分っていた。二、三段、階段を上ったところで、壁にぴったりと背中をつけ、拳銃をいつでも抜けるようにしている。
本間を殺したいわけではなかった。本間は決して悪い上司だったとは言えない。大宮としては、むしろ自分のせいで苦労しているに違いない本間に、同情さえしていた。
だが、今目の前に現われたら……。向うも「やあ」と言ってすませるわけにいかないだろうし、こっちもせっかく面白くなって来たのに、邪魔されたくない。
可哀そうだが、一発で、あまり苦しくないように仕止めてやるのが、せめて「元部下」としての義理というものだ。
誰かが下から階段を上って来た。――井原恵子が、大宮を見付けて足を止める。大宮は手ぶりで「動くな」と指示した。
恵子は、何が起ろうとしているか察したらしい。やめて、と言うように強く首を振った。
本間は足を止めた。
人の気配が、その出入口のすぐ向うから伝わって来る。――気のせいか?
しかし、もし本当に大宮がいるとしたら、このまま足を進めるのは自殺も同じだ。
こっちには、大宮がどこにいるか分らない。大宮の方からは、本間がどこから出てくるか分っているのだ。本間は決定的に不利である。
だが、こうしてためらっている間にも、大宮は逃げてしまうかもしれない。
本間はためらった。ここで危い賭けをするには、もう若くなかった。来年には停年だというのに――。
〈停年を目前に、射殺される〉
といった新聞の見出しが頭に浮んで、本間は苦笑した。
それだけではない。――そう。死にたくない、と本間は思っていたのだ。君原由香に、もう一度会うまでは。
どうして、君原由香のことなど思い出したのだろう? こんなときに。――こんなときだからこそ、か。
せめて、もう一度君原由香の作った食事を味わってみたい、と本間は思っていたのである。
俺は、どうしちまったんだ? あの女に惚れてしまったのか?
本間は、そっと上着の下へ手を入れた。ここまで来て引き返すわけにはいかない。そうなれば、「死ぬ」か「殺す」かのどちらかだ。
もう何年も――いや、何十年もか、撃ち合いなどやったこともない。TVの刑事物みたいに、床に転りながら撃つなんて真似は、そうそうできるものじゃないのだ。
汗が、こめかみを伝い落ちた。そのとき、
「――刑事さん」
と、呼ばれた。「戻りましたわ、患者さんが」
さっき案内してくれた看護婦である。足早に廊下をやって来て、
「刑事さん?」
「――分った」
と、本間は言った。
この看護婦まで、危険にさらすことになってしまう。それは避けよう。
本間は手をダラッと下げて、
「今行くよ」
「何だか、他の患者さんの所へ行ってたんですって。――十六にしちゃおとなしくて、無口な子ですよね」
「そうかね」
歩き出しながら、本間は肯いて言った。
自分を見送っている「誰か」の視線を背中に感じていたが、振り向こうとはしなかった。
見てしまったら、何もしないわけにいかない。――本間は今になって、大宮がそこにいるに違いないと確信していた。
「木崎晃子君……だね。私は本間というんだが……。前に、大宮という男が君に会いに行ったね。その上司が私だ」
晃子は黙って、その少し老け込んだ感じの刑事を眺めていた。
「もう、具合はいいのかい?」
と訊かれて、ただ黙って肯く。
「――口をきかないんです。ほとんど」
と、看護婦が言った。
口をきかない……。そう、あの子も、もう二度と口をきかないかもしれない。
晃子は、「アキラ」といったあの少年を、ガラス越しにしか、見ることができなかった。
少年は、口にマスクのようなものを当てられ、青白い顔でじっと目を閉じていた。
少なくとも、晃子の目には、生きているのか死んでいるのかも区別できなかった。
あのとき――屋上で、晃子が声をかけなかったら、少年はもう死んでいたのだろう。
どっちが少年にとっては楽だったのか。
そばにいた看護婦が、晃子に、
「家族の方も、ほとんどみえないのよね。今日も連絡したんだけど、夜まで忙しくて行けないって……。いくら忙しい、って言ってもねえ」
と言って、首を振った。
――見捨てられていたのだ、あの子は。
晃子と口をきいたことで、死のうとするのをやめたのなら、せめてもう少し生きていてほしい。せめて、「さよなら」を言うくらいの間は……。
晃子はそのまま病室へ戻って来た。もう、迎えが来ているころだったから……。
「お父さんのことで、ちょっと訊いていいかな?」
と、本間が言って、晃子はふっと我に返ったが、そこへ、
「遅くなって」
と、さと子が入って来た。「――どなた?」
と、本間の方に訊く。
そのとき、
「まだいたのね!」
と、息を切らして飛び込んで来たのは、さっき集中治療室の所で会った看護婦だった。「あの子が、意識を取り戻したの! あなたに会いたいって!」
晃子は飛び出した。廊下を駆け、夢中で走った。
――息を弾ませて、あのガラス窓の前に立つと、少年がこっちへ顔を向けていた。
晃子は、ゆっくりと微笑を浮べて、ガラスに顔を寄せ、両手を強く押し付けた。
少年の、力のない眼が晃子を辛うじて見分けたらしい。少年の顔に笑みが浮んだ。
「――分ったみたいね」
と、後から駆けて来た看護婦が、息を弾ませながら言った。
晃子は、じっと少年を見つめて、大きく口を開けると、声を出さずに、「頑張れ」と言った。
二度、三度くり返すと、少年が小さく肯くのが見えた。
晃子の目から、不意に涙が溢れて、頬を伝い落ちた。
少年の、骨と皮ばかりになった細い手がかすかに上って、晃子に向って小さく振られた。
ア、キ、ラ……。また来るよ!
晃子の口がそう言ったのを、少年は分ったのかどうか、微笑みながら、疲れたように目を閉じたのだった。
「さあ、沢山食べて下さいね」
と、さと子が皿を並べた。
「またお腹こわしちゃうよ。食べ過ぎて」
と、珍しく晃子が冗談を言う。
「儲かったな、私」
と、井原恵子がニコニコしている。「こんなもの、最近食べたことない」
「期待が大きいと、がっかりされますよ」
と、さと子は笑った。
――退院した晃子は、家へ帰って来た。
さと子が、張り切って「歓迎会」を開いてくれているのだ。
「あなたも食べたら?」
と、恵子は大宮へ声をかけた。
「ああ……。そうだな」
大宮は、ブラリとダイニングへ入って来ると、「さっさと食べて退散しよう」
「どこへ行くの?」
「さあ、どこかな」
と、椅子を引いて座る。「本間が、ここへ来るかもしれん」
「ここへ?」
と、恵子が食事の手を止める。
「心配するな。撃ち殺されるのは俺だけだよ」
大宮がそう言って笑う。「旨そうだ」
「恐れ入ります」
晃子は黙って食べていたが、さと子から、
「いかがですか?」
と訊かれて、
「うん、おいしい」
と答えた。「お父さんの好きなものばっかり」
さと子がびっくりしたように、
「ええ……。よくお分りですね。ええ、そうなんですよ」
と、何度も肯いた。
食事は、|専《もっぱ》ら恵子の話す、ユニークな依頼人たちの話題で盛り上った。
といっても、晃子が会話に加わることはない。けれども、早々に食べ終って、先に二階へ上って行く晃子は、ギュウギュウに詰め込んだお腹を、そっとさすっていた。
「――あんなに話をするなんて」
と、さと子がホッと息をつく。「すっかり変られたわ」
「入院して良かったのよ」
と、恵子が肯く。「外の世界と触れ合ったんですもの。あの男の子の入院患者にしても」
「そうですね。あんな所でお友だちを作られるなんて」
と、さと子が言った。「見ていて、涙が出そうでした」
「涙は後だ」
と、大宮が言った。「今は金の話をしようぜ」
「アキラ……。アキラ」
呼ぶと、鏡の中にぼんやりした姿が現われた。「――アキラ?」
目がどうかしたのかな?
晃子は目をこすった。――そして鏡を見ると、そこには、集中治療室のベッドに横たわっている「アキラ」の顔があった。
「アキラ!」
と、思わず手を伸すと、
「大きな声出さなくても聞こえるよ」
いつもの〈アキラ〉が、そこにいた。
「――普通の声だよ」
「そうか? ちっとも普通じゃないと思うけど。――ま、いいさ」
「アキラ」
晃子はベッドに横になって、鏡の方を覗き込むようにすると、「これから、どうしよう?」
と言った。
「好きにすればいいさ」
晃子は口を尖らし、
「冷たいなあ、何も言ってくれないの?」
「言ってるだろ。自分のしたいようにしろって」
「アキラ……。そうか、怒ってるね。あの病院の子に――アキラっていう、あの子に、やきもちやいてる?」
アキラが、ちょっと笑った。
「そう思ってろよ。うぬぼれ屋」
「へん、だ」
と、鼻にしわを寄せる。
「お前は、少しうぬぼれなきゃだめなんだ」
と、アキラは言った。「うぬぼれって、自分に惚れることなんだぞ。とっても大切なんだ。自分に惚れなきゃ、きれいにも見えないし、何かを頑張ろうって気にもならない。分るか? いつも、自分なんか、って思ってたら、本当につまんない奴になっちゃうんだぞ」
晃子は、少し間を置いて、
「――でも、アキラ。いくらうぬぼれたくても、そうできない子もいるよ」
と、呟くように言った。
「あの子のこと、考えてるのか」
「うん……。あの子、たぶんもう助からないって。――どうして生れて来たの? あの子は、何もしないで死んじゃうんだよ」
「そうだな」
と、アキラは肯いて、「たぶん……あの子は、お前にそう考えさせるのが役目だったのさ」
晃子は、じっと鏡の中のアキラを見つめていた。じっと見ていないと、アキラの姿がなぜかぼやけてしまっていたからだ。
「――下へ行けよ」
「え?」
「話を聞くんだ。あの三人が何を話してるか、聞いて来るんだ」
と、アキラは言った。
「お父さんのこととか?」
「たぶんな」
と、アキラは言った。「とっても大事なことを話してると思うぞ」
「――もしもし」
と、本間は言った。「本間です」
「ああ……。どうも」
と、君原由香は言った。
少し疲れているような声だ。
「あの女の子に会って来ましたよ。木崎貴志さんの娘さん」
「そうですか」
本間は、君原由香があまり関心を示さないようなので失望した。もう少し喜んでくれるかと思ったのだ。
「ちょっと具合を悪くして入院していたんですが、もう退院しました。元気そうにしていましたが」
「わざわざお知らせいただいて。どうもありがとう」
と、君原由香は言った。
「いや、別に……」
「失礼します」
電話は切れてしまった。
捜査本部の机に向っていた本間は、動揺している自分を、誰かが見ていないかと周りを見回した。
ほとんどの部下は出払っている。
もう夜になって、家へ帰りたい者もいるだろう。しかし、みんな頑張っているのだ。
それなのに……。俺は何をしてるんだ?
本間は立ち上って、伸びをすると、
「ちょっとコーヒーでも飲んで来る」
と、残った部下に声をかける。
「はい。お疲れじゃないんですか」
「どうってことないよ」
本間は、廊下へ出て、じっと眉を寄せた難しい顔で歩いて行く。
あのとき――病院で、もう少し俺に勇気があったら……。部下たちは、みんな今ごろ家に帰れたかもしれないのだ。
それなのに、俺はためらった。
君原由香のために? それだけではないとしても、それも死にたくない、と思った理由の一つには違いない。
その結果が、あの素気なさか。――女ってのは分らん。
本間は地階へ下りて、喫茶室へと入った。簡単な食事もできる。
「夕食ですか」
と、ウェイトレスがやって来て、メニューを置いた。
「うん……。どうするかな」
本間はメニューを広げて、「少し待ってくれ。とりあえずコーヒーだ」
「はい」
何を待ってるんだ? 君原由香から誘いの電話があったら、と思っているのか。
夕食をいかがですか?
――結局、あんなものは気紛れだったのだ。
本間は、カレーを取って食べよう、と決めた。
ウェイトレスが、ちょうど電話に出ている。
本間は、富田のことで、あの青柳と村上の二人に会う必要があるのを思い出した。明日だ。「今日」はもう終っているのだ。普通の人間にとっては。
「――本間さん」
と、ウェイトレスが呼んだ。「お電話、回って来てます」
「ありがとう」
と、立って行って出る。「――もしもし」
「本間さん。君原由香です」
その声は、本間を一気に引きずって行った。――どこへ? 本間も、それを知らなかった。
こんなに遠かっただろうか?
――本間は車を運転しながら、何度も道を間違えていないか、確かめていた。
いや、分っている。なぜ同じ道を長く感じるのか。
こんなことをしているときではないのだ。大宮を追って、部下たちが眠りも取らずに駆け回っているというのに……。
もちろん、部下へは、
「当ってみたい所がある」
と言って出て来た。
しかし、それなら誰かに言いつけて行かせればいいのだし、自分で行くにしても一人というのは不自然である。
部下がいぶかしく思っているかもしれない。それを分っていて、今、本間は車を走らせている。君原由香のもとへと。
後ろめたい気持が、距離を現実の何倍にも引き伸しているかのようだった。
しかし、車がマンションへ着き、君原由香の部屋へと急ぐ本間の足どりは少年のように弾んでいた。
「――お忙しいのに。来て下さったのね」
と、玄関へ出て来た君原由香は言った。「どうぞ」
「すぐ失礼しますよ」
と、口の中で呟くように言ったが、それで自分の良心を鎮められるわけではない。
「お急ぎだと思ったので、簡単に作ってしまいましたけど」
食卓には、もういつでも食べられるように料理が並んでいた。
「いや……。どうも何ともありがたい。大好物ですよ、ナスは」
「良かったわ。――ワイン、一杯ぐらいでしたら?」
「仕事中ですから――」
「一杯ぐらいなら、大丈夫でしょ。そう強くはありませんから」
グラスに注がれた赤ワインは、まるで誰かの血のように見えた。
「すてきなグラスだ」
「イタリアのヴェネチアングラスです。今日、母の所からちょうど持って来て……。良かったわ、持って来ておいて」
由香は自分のグラスにも注ぐと、「じゃあ……乾杯しましょ」
と、グラスを上げた。
そのときになって、本間は君原由香がいつもと少し違っていることに気付いた。
部屋の照明も少し落してある。由香はうっすらと化粧をして、スカートの長いスーツ姿だった。
「――お出かけじゃないんですか」
と、本間が訊くと、ワインを一口飲んで由香はちょっと笑った。
「出かけるのなら、お呼びしません」
「そりゃまあ、そうでしょうな」
本間は、自分が何とも間の抜けたことばかり言っているようで、情なくなった。
「お詫びのしるし、ですわ」
「お詫び?」
「電話で、とても失礼なことをしてしまって……。せっかく忙しい中を、見に行って下さったのに、私ったら……」
と、目を伏せる。
「ああ。――木崎さんの娘のことですか」
本間は嬉しかった。「そんなに思っていただくほどのことでは――」
「いえ、自分でも、どうしてあんな失礼なことをしたんだろう、って……。ですから、こうしておいでいただけたのが、本当に嬉しいんです。――私、誰かに頼っていないと、生きて行けない女なのかもしれません。もちろん――」
と、急いで付け加えて、「本間さんのお立場はよく存じ上げています」
本間は、凶悪犯と対決しているときでも、これほどじゃあるまいと思えるほど緊張していた。――一体どうしちまったんだ、俺は?
「どうぞ、召し上って下さい」
「――いただきます」
本間は食べ始めてホッとした。ともかく、食べ終るまでは、どうしていいか分らないという状態でいなくてもすむ。
「きれいだ」
本間は、そう言ってから自分でもびっくりした。
「――そう言って下さると思ってました」
「誰でも言いますよ」
「他の人に言われても、嬉しくありません」
と、由香は首を振って、「あなたに言ってほしくて、これを着たんです」
本間は、食べる手を止めなかった。――止めたら何もかもが幻のように消えてしまう、とでもいうように。
「お子さん……大丈夫ですか」
「母の所へ預けました」
「お母さんの所へ?」
「明日、連れに行きます」
本間は、口の中が乾いて、
「お茶を」
と言った。「喉が渇いて」
「どうぞ」
由香が、お茶を注ぎにテーブルを回って、本間の傍に立った。
「――あ、ごめんなさい」
注ぐ手が震えて、お茶が本間のズボンに落ちた。
「いや、大丈夫――」
「でも……。やけどしません?」
立った本間は、ほとんど触れ合うような由香の体から立ちのぼる匂いをかいで、めまいがした。
「すみません、つい手もとが――」
本間は、由香を抱いていた。そして唇を押し付けていた。当然、突き離され、ひっぱたかれると思っていた。
だが、違っていた。由香は自ら本間をかき抱くと、そのまま床へ倒れ込んで、短く声を上げたのである。
「二十万の金のために人を殺す奴だっている」
と、大宮は言った。「二十億なら、何だってやるさ」
「人によっては、でしょう」
と、井原恵子が言った。「私なら、どんなお金でも――」
「甘いな」
と、大宮は笑って、「俺はいやになるくらい見て来たぜ。誰が見たって、こんなに仲のいい兄弟はいないって奴らが、親が死ぬと、二、三千万の遺産をめぐって、殺し合いもやりかねないほど憎み合うのをな」
「でも、木崎さんがどうして? お金に困ってたわけでもないのに」
「どうなんだい、実際は?」
と、大宮はさと子に訊いた。
「ちゃんとお給料はいただいてましたよ」
「富田と、どこで接点があったのか、だな」
大宮は几帳面に手帳にメモを取っていた。
「――どうやって、そんなことを調べるの?」
と、恵子が訊く。
「欲の皮の突っ張った奴はいくらでもいるさ。たとえば、お前のとこのボスみたいにな」
「太田? そりゃ、お金のこととなったら目の色が変るけど――」
と言いかけて、「そう。太田に調べさせるのね!」
「そうだ。――あんたがうまく奴を誘い込んでくれ」
大宮がさと子へ言った。
「私なんかにできますか」
「できる。あの手の男が一番信用するのが、あんたのようなタイプだ。つまり、心底信用はできないってタイプさ」
「喜んでいいんですか?」
と、苦笑する。
「引っかかりゃしないぞ、と思ってるから、却ってはまるんだ。それに――二十億って金額は、奴の判断を狂わせるのに充分だろう」
「充分過ぎるくらいね」
と、恵子が肯く。
「――俺は行く。どこか、その辺のモテルにでも泊る。明日、電話するよ」
と、大宮は言った。「あんたが太田をどう料理するか、見ものだな」
さと子は、何も言わずに肩をすくめた。恵子は立って、
「私、どうすればいいの?」
「木崎の女を張るんだ。今夜からな」
「で、あんたは一人、ベッドでぬくぬくと寝てるのね。大した男」
と、恵子はにらんで言ったが、面白がっていることは表情で分った。
「俺たちは共同体さ。運命共同体だ」
と、大宮は二人の女を眺めて、「妙な取り合せだな」
「晃子さんが私たちを結びつけたんです」
「そうだ。しかし、当のあの子は何も知らない。――木崎が生きてるとしたら、あの子にゃ可哀そうなことになる」
大宮の謎めいた言葉は、階段の途中でじっと耳を澄ましていた晃子の耳に届いた。
可哀そうなことになる? どうしてだろう?
晃子には分らなかった。――見付からないように、そっと晃子は二階へと戻って行った。
「大変」
と、君原由香は起き上って言った。「もうこんな時間」
「うん……」
本間はゆっくりと手足を伸した。「もう明るいのか」
「明るいどころか……。お昼よ、もうじき」
由香は、ベッドから出ると、急いでバスルームへと駆けて行った。
本間は、急がなかった。――急ぐ気にもなれなかった。今さら、あわてたところでどうなるだろう。
とうとう、君原由香と一夜を共にしてしまった。
信じられないような出来事だが、夢でも何でもない。
「――ね、早く戻った方が」
と、由香がバスタオルで体を拭きながら戻って来た。「お仕事があるんでしょ」
「君がそんなことを言うのか」
と、本間は笑った。
「心配してるのよ。あなたは大切な人なんだから」
と、少し腹立たしげに口を尖らす。
「すまん。――もう一度ここへ来てくれ」
と、本間が手を伸す。
「電話してから。かけなきゃいけないところがあるでしょ。私、コーヒーをいれておきます」
本間は、頭を振った。
そんなことを女から言われるとは。――俺はどうなっちまったんだ?
ベッドの脇の電話で本部へ連絡を入れてみる。まあ、大したことは起っていないだろうが。
「――もしもし。――ああ、俺だ」
向うが一瞬黙ってしまった。
「おい、聞こえるか? 俺だ」
「課長! ご無事だったんですか!」
向うで騒いでいるのが分る。
「何ごとだ?」
「今、どちらに?」
「すまん、ポケットベルを落しちまってな。うたた寝してたら今まで――」
「みんなで捜してたんです。課長、やられたんじゃないかって。ご自宅へは帰られたんですか? 奥様も心配なさってます」
そんな騒ぎになっていたのか。――本間はさすがに胸が痛んだ。
「悪かった。つい、疲れが出てな。うちへはすぐかける。――ああ。――何だって?」
本間の顔がこわばる。
「射殺死体が出たんです」
と、向うはくり返した。「工事現場の土砂の中に埋められていました。身許は割れていませんが、銃弾の口径からみて、たぶん――」
「大宮か」
「間違いないと思います。それで余計心配になって」
本間の顔から血の気がひいた。――そんなときに、俺は何をしてたんだ?
「すぐそっちへ行く」
と、電話を切る。
急いでシャワーを浴びて、服を着ていると、
「コーヒーが入ったわ」
と、由香がやって来た。
「それどころじゃない! もう行く」
と、怒鳴るように言って、上着をつかむ。
本間は大股に玄関の方へ行きかけたが――。
「すまん」
と、振り向いて、「あんたに怒ってるんじゃないんだ。自分に向って、怒ってるんだ」
「分ってるわ……」
由香が歩み寄って、本間の肩に頭をもたせかける。「引き止めないわ。引き止めたいけど……。でも、またここへ来てくれる。――ね?」
本間の胸が打ち震えた。この女は俺のものだ。俺はこの女と会うために生きて来たのだ……。
「ああ。また来る」
「いつ?」
見上げる由香の目はせつなかった。
「できるだけ早く。――必ず来る」
本間はもう一度激しく、由香の体をかき抱いた。
「――面白い」
と、大宮は写真を一枚ずつ眺めて、笑いが止らない様子だった。「こりゃ傑作だ」
「気楽に言わないで」
井原恵子は|欠伸《あくび》をして、「ずっと見張ってるの、大変だったんだから!」
「しかし、なかなかいい腕をしてるぜ、お前も」
大宮は、ソファにゆっくりと体を伸した。
テーブルの上には、恵子のとった写真が数枚――どれも、君原由香のマンションから出てくる本間、入って行く本間、そして……マンションの下まで送りに来た君原由香と本間がキスしているところ……。
「あの堅物が」
と、大宮は首を振って、「分らねえもんだな」
「ともかく、のめり込んでる感じよ。これでもう三日間、毎晩通いつめてる」
「その内問題になるな、内部でも」
「どうなるの?」
「本間みたいなのは、もう周りなんか見えなくなっちまう。身の破滅だ」
「君原由香が、わざと巻き込んでると思う?」
「当り前だ」
と、大宮は言った。「可哀そうに。本間なんか子供みたいなもんだ」
「しっ。――晃子ちゃん、どうしたの?」
晃子が居間に顔を覗かせている。
「ね……。この間の病院に……連れてってくれる?」
晃子がおずおずと言う。
「病院に? どこか具合でも――。ああ、そう。あの子のことね」
恵子は立ち上って、「いいわ。でも、どうなってるか分らないわよ、あの子」
「うん。――知らないよりもいいから」
恵子は、晃子の肩を軽く抱いて、
「分ったわ。じゃ、車で連れてってあげる」
恵子は、大宮の方へ、「出て来るわ。構わない?」
「好きにしな」
大宮は、気にも止めていない。
恵子は、借りている車に晃子を乗せて病院へと向った。――午後、まだ日は高い。
「――恵子さん」
と、車の中で晃子は言った。「あの人、好きなの?」
「え?」
「大宮って人」
「ああ。――そうね。好きっていうか、嫌いっていうか……。変な人よね」
と、恵子は笑って言った。
変な人。――そうなのだ。恵子は、脅されているわけでも何でもない。それでいて、大宮に言われるままに動き、そして反発も感じないのだ。ただの「人殺し」なのに。どうしてだろう。
――晃子は、チラッとバックミラーを見た。
アキラがいた。
「車がついて来るぞ」
と、アキラが言った。「気を付けろ」
晃子は、そっと後ろを振り向いた。黒い車が、運転している人間の顔の分らないくらいの距離を置いて、ついて来ている。
「どうかした?」
と、恵子が訊く。
「あの黒い車、ずっとついて来てる」
「本当?」
恵子は、バックミラーへ目をやり、少しスピードを上げた。そして少し走ってからスピードを落す。
確かに尾行されている。
「どうする?」
「あわてることないわ。私たちは何もしたわけじゃないんだもの」
と言いながら、恵子は一体誰がつけて来ているのかと考えていた。
警察ではないだろう。何もこんな回りくどいことをしなくても、大宮を捕まえればすむことなのだから。
その黒い車は、間をつめることなく、ついて来た。
踏切が見えた。恵子は一旦停止して、左右へ目をやってからアクセルを踏んだ。
車が線路を越えて行く。そのとき、
「危い!」
晃子が後ろからあの車が迫ってくるのを見て叫んだ。二人の車の後尾にその車は激しくぶつかって来た。
恵子は、押されて車が斜め前に突っ込むのを何とか止めようとした。が、間に合わなかった。二人の車は向う側の遮断機の支柱へとぶつかった。
晃子は直前に頭を下げて、両手で頭を抱え込むようにしていた。衝突と同時にガラスが砕けて、破片が雨のように音をたてて落ちて行く。
黒い車は、車体の脇をこすりつけながら、二人の車を追い越して走り去った。
「恵子さん。――大丈夫?」
と、声をかけた晃子は、恵子の額から血が流れ出して、ぐったりとハンドルにもたれているのを見て愕然とした。
そのとき、踏切の警報が鳴り出すのが聞こえた。
晃子は踏切の前後を見た。
車はいない。助けに来てくれる人は誰もそばにいなかった。
警報は単調に鳴り続け、遮断機がゆっくりと下りて来る。晃子たちの車がぶつかった方の遮断機も、何ごともなかったかのように下りて来た。
電車が来る! ――晃子は、まるで夢でも見ているような気分で、呆然と助手席に座っていた。
「――おい! しっかりしろ!」
アキラの声が耳を打って、ハッと我に返る。
「アキラ……。どうしよう?」
「早く逃げろ! 電車が来るぞ」
と、アキラがせかした。「車ごと、電車に潰されちまうぞ」
「でも――。恵子さんは?」
「揺さぶってみろ。早く! このクズ!」
「何よ、そんなに怒らなくたって――。分ってるよ」
晃子だって、このままではとんでもないことになると分っている。恵子は衝突のときにフロントガラスに頭をぶつけたらしい。額から流れた血は顎から滴り落ちていた。
「恵子さん。――恵子さん」
と、腕をつかんで揺さぶる。
「馬鹿! もっと強くやるんだ! ぶん殴れ! 死んじまうんだぞ」
「だって、けがしてるんだよ」
と言いながら、晃子もアキラの言う通りだと認めないわけにいかなかった。
少々叩いて痛い思いをさせても、電車に車ごと押し潰されるよりいいだろう。
「恵子さん! ――電車が来る!」
晃子の耳にも、ゴーッという地響きのような音が聞こえて来た。
「電車が来る」
と、アキラが冷静な口調になって言った。「カーブしてるから、見えないんだ。とても停ってくれないぞ」
「恵子さん、死んじゃってる?」
「気絶してるんだろう。諦めろ。お前だけ外へ出るんだ」
「だって――恵子さんは?」
「二人で死ぬより、一人だけでも助かった方がいい。早く外へ出ろ」
晃子は、息をのんだ。カーブの向うから、電車が姿を現わした。
「急げ!」
と、アキラが言った。
「――いやだ!」
晃子は、恵子の耳もとへ口を寄せて、「恵子さん! しっかりして!」
と、力一杯叫んだ。
恵子が頭を起し、
「どうしたの?」
と、口走った。「車は? ――あの車は?」
「電車にぶつかるよ!」
と、晃子は叫んだ。
電車が警笛を鳴らした。キーッと耳を突き刺すようなブレーキの音。しかし、とても停れる距離ではない。
恵子は、電車が迫って来るのを見て目をみはった。とっさに――考えるよりも手が先に動いたのだろう。ギアをバックに入れてアクセルを踏んだ。
エンジンが唸った。晃子は、もうぶつかる、と思った。
その瞬間、車は後ろへ向って飛び出すように動いた。ハンドルでコントロールする余裕などない。
遮断機がバキッと音をたてて折れる。ほとんど同時に、電車が車の前をかすめて、視界を覆った。急ブレーキに、車輪と線路が火花をまき散らす。
車はそのままバックして、歩道へ乗り上げると、コンクリートの柵に後尾をぶつけて停った。
――恵子はエンジンを切って、
「降りて!」
と、叫ぶように言った。「車から出るのよ」
晃子は、ドアを開けようとした。――が、びくともしない。
「ロックを外して!」
恵子が手を伸してロックを外し、ドアを開けようとしたが、ドアはほんの少し動いただけで、開かなかった。
「衝突で歪んだんだわ」
と、恵子が言った。「――助かった!」
晃子にも分った。もし、ドアを開けて逃げようとしていたら、とても間に合わなかったろう。
「恵子さん、血が――」
と、晃子が言いかけると、恵子が突然、晃子を両手で抱きしめた。
晃子は、恵子の腕の中に身を沈め、激しく打ち続ける二人の心臓の鼓動を聞いていた……。
「何かあったの?」
と、君原由香が訊いた。
「いや……。何でもない」
本間はそう言ったが、自分でも本当らしく聞こえたとは思っていなかった。
ともかく、夜にもなっていないのに、ここへ来ていること自体、普通ではない。
「――寝かしつけて来るわ」
と、由香は、ぐずり出した真衣を抱き上げると、奥へ入って行った。
本間はソファに起き上り、由香のいれてくれたコーヒーを飲んだ。突然やって来たので、少し冷めているが、いつもの味に変りはなかった。
曲ったネクタイを直し、息をつく。
由香の方も不安になっているだろう。当然のことだ。
しかし――本間は自分がどうなったのか、自分の身に何があったのか、さっぱり実感できていなかった。
あの上司の不機嫌な声は、はっきりと思い出すことができる。
「――これは何だ」
と、目の前に写真を並べた。
本間と由香の写真。このマンションの下で、別れぎわにキスしているところ……。
それがどうしたっていうんです? ――本間はよほどそう訊いてやろうと思った。
恋してるだけですよ。それとも、刑事は恋もしちゃいかんのですか?
「捜査本部で、みんな頑張ってるというのに……。大宮が、また殺しをやったっていうのに」
上司は、ぶっきら棒に、「もう本部へ出るには及ばん。自宅へ帰って、よく考えろ」
と言った。
「はあ」
と、本間は言った。
「頭を冷せ! どうしちまったっていうんだ? お前はもうじき停年なんだぞ」
そんなこと、言われなくても分ってる。――だからって、恋がやめられるのか?
由香に出くわしたのが、たまたま今だった。それだけのことだ。
本間は、言われた通りに自宅へ帰った……。
「――それで?」
戻って来た由香は、本間の話を聞いて、表情をこわばらせていた。「お宅に帰ったの?」
「ああ、ところが――女房はいなかった。手紙があったよ。『写真を見ました。その若い人と楽しく暮すといいわ』とね」
「じゃ、奥さんも……」
「お節介な奴だ。あの写真を、うちへも送って来たらしい」
本間はちょっと笑った。「ま、すっきりしていいさ」
「とんでもないことを……」
と、由香は顔を伏せた。「あなたが、そんなことになるなんて。――私のせいで!」
「よせよ。俺は大人だ。ちゃんと、自分のしていることは分ってる。あんたのせいじゃない。自分のしたことの結果だ。そうだとも」
本間はコーヒーを飲み干した。「旨いな」
「どうするの、これから?」
「さあ……。警察は、ことなかれが得意だからな。おとなしく自宅で謹慎してりゃ、表向き病気療養とかいって、こっちの退職願を待ってるだろうさ」
「辞めるのね」
「それはしょうがない。当然、部下たちにも知れてる。今さら顔を出して、みんなに無視されるのも気が重いさ」
本間は、ちょっと唇を歪めて笑うと、「何ごともなく一生を終るより、何かあった方がよほど面白いってもんさ」
と言った。
由香は立ち上って、台所へ行くと、洗い物を始めた。
本間は、黙って立つと、玄関へ出て行った。
靴をはいていると、
「行くの?」
いつの間にか由香が立っていた。「もう、ここへ来ないの?」
「迷惑だろう」
「迷惑なら、初めから|招《よ》ばない」
と、由香は言った。「上って」
由香がさしのべた手を、本間はつかんだ。その瞬間に、本間はもう戻れない川を渡ったのだった……。
第6章 襲撃
「命拾い、ってこのことね」
と、井原恵子が言った。
「呑気なこと言って!」
と、さと子が顔をしかめて、「一歩間違えば、晃子さんまで」
「私はどうせ、どうなってもいいのよ」
と、恵子がむくれる。
包帯を頭に巻いて、むくれながら夕食はしっかり食べている恵子のことがおかしくて、晃子はちょっと笑った。
「しかし、危いところだな」
と、大宮がいつもながらの口調で、「ついに動き出したか」
「とたんに殺されかけちゃね」
と、恵子は肩をすくめた。
晃子は、珍しげにレストランの中を見回した。これまで外で食事することは、ほとんどなかった。入院のおかげで、外の空気には慣れて来たが、あそこは「食事を楽しむ」という場所ではなかった。
いつも、ふしぎなほどにぎわっているファミリーレストランである。
「大丈夫なの?」
と、恵子が大宮の方へそっと言った。「あそこの人がこっちをジロジロ見てるわ」
確かに、大宮のように手配中の犯人は、こんな店に入らないのが普通だ。
「こういう所の方がいいんだ。子供連れが多いだろ。みんな自分の子供に気を取られて、よそのテーブルまで見ない」
と、大宮が言った。
「でも、やっぱりこっちを――」
「当り前だ。頭にそんなに派手に包帯巻いてりゃ、誰だって見る」
恵子が顔を赤くして、食事に専念した。
「でも、誰が一体?」
と、さと子が言った。
「その内分るさ。――レンタカーだったろ。大丈夫か」
「ちゃんと処理したわ。そういうことは慣れてるもの。――晃子ちゃん、命の恩人だわ。沢山食べてね」
「そんなに入んないよ」
と、晃子は少し照れながら言った。
「本格的に誰かが動き出してる。いいか、各自用心するんだ」
「車ぶつけられるのを、どうやって気を付けるの? あんたは勝手ばっかり言って」
と、恵子が文句を言ったが、大宮は無視して、
「どうだ、太田は」
と訊いた。
「お金のことを持ち出したら、目の色が変りました。詳しいことは知らない、と言いましたら、自分の方で調べるから、と」
「で、晃子をよく見張ってくれと」
「そうです」
「私を見張るったって、あの家にいるのに、たいてい」
晃子も話に加わる。――以前なら、絶対にできないことだったのに。アキラから冷かされそうだ。
「そうとも限らねえさ。命を狙われたとなると、あの家にいるのはやばいかもしれねえな」
「そうね。あそこは当然知られてるでしょうから。だからって、どこへ行くの?」
「旅に出るのも、悪くないんじゃねえか」
晃子はドキッとして、
「いやだよ。どこへも行かない」
と言った。
「口答えするだけ、成長したな」
大宮に馬鹿にされたような気がして、晃子はムッとした。
しかし、悪いことばかりがあったわけではない。
晃子は、少し落ちついてから病院へ電話してみた。あの「アキラ」の容態を、何としても知りたかったのである。
あのとき、集中治療室に晃子を連れて行ってくれた看護婦さんが電話に出て、
「あの子、持ち直して普通の病室に戻ったのよ」
と、聞かせてくれたときは、胸が熱くなった。
「そうですか」
「あなたがまた会いに来てくれたときには、もっと元気になってるんだ、って。――いつも一人ぼっちの子だったけど、あなたが変えてくれたわ」
「きっと行くって言って下さいね」
「ええ。そう言うわ」
「本当に行きますから。必ず……」
晃子は、自分が「待たれている」ことのすばらしさを、思ったのだった……。
「――お水がほしい」
と、晃子が言うと、さと子がすぐに席を立った。
「自分で取って来た方が早いですからね、こういうお店は」
ズラッと水のコップが並んでいる台へと小走りに駆けて行く。ウェイターの数が少ないので、確かに頼むより取りに行った方が早いだろう。
「本当に、あの家を出るの?」
と、恵子が訊く。
「用心だ。一度やってしくじりゃ、何度でもやるぞ」
「そうね……。でも、身を隠すったって――」
「アッ!」
と、短い声が上った。「失礼しました! 手が滑って」
さと子が、コップを落して、客のズボンを派手に濡らしてしまったのだ。
「おい……。気を付けろよ」
「申しわけありません」
見ていた晃子は、
「変だよ。さと子さん、落したりしないもの」
と言った。
さと子は、新しいコップを持って来て晃子の前に置くと、小声で、
「あのお客が、大宮さんのことを見ていたんです。『どこかで見たような顔だ』って。――いなくなった方が」
「じゃ、出るか」
大宮の方は少しもあわてていない。「腹も一杯になったしな」
みんなが腰を浮かしたとき、
「待って」
と、晃子は外へ目をやって言った。「今、お巡りさんが見えた」
「確かか?」
「晃子さんは、暗い所で目がききます」
「分った。危い目には遭わせない。ここにいろ」
大宮は、のんびりとトイレへ立って行く。晃子たちは顔を見合せていた。
少し間があって――。突然、店内にけたたましいベルの音が鳴り渡った。
客たちがキョトンとしている。
と、トイレのドアから何かが転り出て来た。炎が上り、煙がたちまち店の中に立ち込める。
「屑カゴに火を点けたんですね」
と、さと子が言った。「一緒に出ますよ」
客が一斉にパニックになって、ワッと出口へ駆け出す。晃子たちは少し遅れて席を立った。
「ガラスを踏まないで」
と、恵子が言った。
あわてて立ち上るときに、グラスがいくつも床に落ちて割れているのだ。晃子は、恵子にしっかり手をつかんでもらって、空いたテーブルの間を縫って駆けて行った。
大騒ぎになっていた。店の従業員が我先に外へ飛び出している。何人か、出口でぶつかってはね飛ばされたりして転んだ。
たちまち逃げ出して来た客で駐車場が一杯になる。
外には警官が十人近くもいただろうか。客が一斉に出て来てしまったので、隠れていたのがあわてて姿を見せた。しかし、外は暗いし、大宮を見付けようにも、店内の火事騒ぎも放っておけないのでオロオロしている。
その内、出て来た客が車でどんどん出発し始めた。
「ひどいな」
と、笑い声がした。
大宮が、いつの間にやら晃子たちの後ろに立っている。
「食い逃げだぜ、あれじゃ」
「自分で騒ぎを起しといて」
「今の内だ。他の車と一緒に出よう」
四人は、恵子が新しく借りた車に急いで乗り込むと、早々にレストランを後にした。
少し行くと、何台もパトカーがすれ違って行く。
「少し遅いぞ」
大宮が愉快そうに言った。そして大笑いすると、パトカーに向って大胆に手を振ったりしている。
晃子は、心臓がドキドキしていた。
あの踏切で、危うく電車とぶつかりかけたときもドキドキしたが、今は全く違う感じだった。――そう、むしろ「ワクワクしている」というのに近いかもしれない。
いいこととか悪いこととか、そんなことは関係なく、今の晃子は、大宮の仕掛けた「いたずら」を面白がっていたのだ。
何があっても、平然とそれを切り抜けてしまう大宮に、晃子はどこか痛快なものを感じて、楽しんでいた。
「レストランは大損ですね」
と、さと子も笑っている。
「全く、ワルになったもんだな、俺たちも」
「自分と一緒にしないで」
と、恵子が文句を言った。
車は、閑散とした郊外の道に入って、スピードを上げた。
「もし、どこかへ行くとしたら……」
と、晃子は言った。「もう、家に戻らないの?」
大宮は、ちょっと意外そうに晃子を見て、
「戻らない、じゃなくて、『戻れない』かもしれないのさ」
「どうして?」
「四人、みんなが殺されりゃ、戻れねえだろ」
あっさりと言って、大宮は何か考え込みながら、窓外の街灯が後ろへ飛んで行くのを見つめていた。
「眠ったわ」
と、君原由香は奥の部屋から出て来て、「もう大丈夫。ああいう風に眠ったら、そう簡単に起きないわ」
由香は、ダイニングのテーブルについた。
――本間が一緒に食事をしている。
「親ってのは大したもんだな」
と、本間は言った。「他人が見たって、眠り方がどう違うか、なんて分りっこないものな」
「何を考えてるの」
由香に訊かれて、本間はちょっと目をそらすと、首を振った。
「何でもない」
「嘘。そうか、お孫さんのことを考えてるのね。それとも奥さんのこと?」
本間は、少し考えてから言った。
「考えちゃいるが、今さらどうにもならんってことも分ってる」
「私……あなたに何もかも失わせたのね」
「それはもう言うなと――」
「分ってるわ。でも、そのまま忘れるわけにいかない。第一、あなたと離れたくないもの。本当よ」
由香の言葉を、本間は心の奥底では半分疑いながら、一方残りの半分では、ここまで愛を誓い合った女を疑っている自分を|嘲《わ》|笑《ら》っていた。
しかし、信じる方がまともではないのかもしれない。一体どうしてこの女が――子供がいるとはいえ、まだ充分過ぎるほど若くて美しいこの女が、自分のような年寄りに惚れるだろうか。
そう思いつつ、しかし、本間は由香に夢中になっていたのだ。
「いつまでも、ここにいるってわけにはいかない。どこか寝ぐらを捜して来るよ」
と、本間が言うと、
「ね。――本当に、もう警察へ戻る気はないの?」
「ああ、戻りたくても戻れやしない。それならいっそ、こっちからけとばしてやるさ」
と、少し威勢のいいところを見せる。
「それなら……。何もかもやり直さない? 私も、死んだ人のことをいつまで考えていてもしょうがないし、あなただって、一切を失くしてしまったのなら、ゼロからやり直せるわ」
「ありがとう」
と、本間は微笑んだ。
自分でも、久しぶりにこんな風に穏やかに微笑んだな、と思った。
「やり直すには、俺はもう|年《と》|令《し》だよ。出直すだけの金もない」
「あるわ」
と、由香が言った。「もし、あなたがその気になってくれたら……。何億っていうお金を手に入れられる」
本間はちょっと笑って、
「何の話だ? 宝くじに十回くらい当ればそうかもしれないがな」
「違うの。木崎はある仕事を手がけてた。それを終らさない内に死んでしまったわ。それをやり通したら――。もちろん運が良ければ、とも言えるけど……。決して夢物語じゃないの。ただ、そのためには――」
と言いかけて言葉を切る。
「そのためには? どうするんだ? 俺が三十才も若返りゃすむことなのか。悪魔に魂でも売って?」
と、本間は笑ったが、由香は笑わなかった。
「もっと悪いかもしれないわ」
と、じっと本間を見つめ、「人を殺さなきゃいけないかもしれない」
「一体、誰を?」
と、本間は本気にしていない様子。
「木崎晃子。――あの人の子を」
と、由香は静かに言った。
二人がじっと互いの表情に「何か」を読みとろうとしていると、奥の真衣が、まるでその緊張を察したかのように泣き出した。
いつにないその泣き声は、由香と本間の間の張りつめた空気を一気にかき回して、穏やかなものにしたのだった……。
「――もう何もありませんか?」
と、さと子がスーツケースのふたに手をかけて、「閉めちゃってもいいですか?」
「待ってよ! ねえ、せかさないで」
と、晃子は文句を言った。「ゆっくり考えなきゃ、分んないよ」
「のんびりしてたら殺されるかもしれないんですよ」
確かに、車ごと電車に押し潰されそうになった身としては、その恐怖は、さと子以上に実感できる。でも、それとこれとは別である。
「だって……。そんな、旅行なんてしたことないし……」
と、晃子は自分の取り散らかした部屋を眺めて、「もうちょっと考えてみないと……。ね、もうちょっと」
さと子はため息をつくと、
「では私は自分の必要なものをまとめていますからね」
「うん、そうして。さと子さんだって荷物あるんでしょ?」
少し時間が稼げた、というのでホッとしていると、
「十五分ですみますよ、私は。それまでに必要なものや、どうしても取っておきたいものをこのスーツケースに。きちんとしまわなくていいですからね、こっちでちゃんと詰め直せば沢山入るんです」
「はあい」
晃子は、ともかくひと息つきたくてしようがなかった。
「じゃ、十五分したら、来ますからね」
さと子が部屋を出て行くと、晃子はフーッと息をついて、ベッドに引っくり返った。
「――しっかりしろよ」
アキラが、鏡の中から見て笑っている。
「もう! 笑ってないで、手伝ってよ」
と、晃子がにらむと、
「俺が女の子の下着の用意なんかできるわけないだろ」
「そんなこと言ってんじゃないよ。あれを忘れてる、とか、これも持ってった方がいいんじゃないか、とか……」
「言って、すぐやる奴になら言ってもいいけどな、お前みたいなグズじゃ」
と、アキラはからかって、「これはどうするんだ?」
と訊いた。
「これ、って?」
「鏡さ」
晃子は、ちょっと起き上って、
「置いて行けるわけ、ないじゃない。アキラにどうやって会うの?」
「鏡はどこにでもあるさ」
「でも、いやだ。――連れてくよ。アキラがいやだって言ってもね」
晃子は、そう言ってから、「――そうなの? アキラ、もう愛想が尽きた?」
「そんなもん、とっくに尽きてるよ」
と、アキラは笑って、「諦めたから、最近前ほど言わなくなったろ、口やかましく」
「そうかな」
「言われてる内がいいんだぞ。何も言われなくなったら、心配しろ」
「うん……。アキラは正直だもんね。それにやさしいし」
「お世辞言ってもだめだ」
と、アキラは笑って、「さ、急げよ。もっと口うるさいのが戻って来るぞ」
――晃子は、着替えや髪どめから、ボールペン、父からプレゼントしてもらったぬいぐるみまで出して来た。
アキラ……。そうなんだ。
分ってる。いつか、アキラと会えなくなる日が来るってことは。でも、そう考えるのはあまりに辛かった。
父を失い、今アキラを失ったら、寂し過ぎる……。
アキラ。――お願い。もう少し私のそばにいて。晃子は祈るような気持ちだった。
確かに、十五分たつと、
「できましたか?」
と、さと子がドアを開けた。
そして、絶句した。――スーツケースは、山のように積み上げられた服やガラクタ(晃子にとってはそうじゃないが)の下で見えなくなってしまっていた。
「全部、入る?」
と、晃子は恐る恐る訊いた。
「あのね――」
と、さと子は両手を腰に当てて口を開きかけた。
そのとき、玄関のチャイムが鳴って、さと子は急いで出て行った。
さと子が階段を下りて行くと、井原恵子が二段ずつ駆け上って来て、
「大変! 太田だわ」
と言った。「私、隠れてる」
「分りました。大宮さんは?」
「出かけたわ」
またチャイムが鳴る。
恵子が晃子の部屋へ入るのを見てから、さと子は玄関へと出て行った。
「一人ですか?」
と、太田は用心深く部屋の中を見回した。
「晃子さんがお二階に」
と、さと子は言った。「何かお飲物でも」
「じゃあ……コーヒーをいただきましょう」
太田は、出してくれるというものを断る男ではなかった。
「なるほど、いい暮しをしてたんだな、木崎の奴」
と、太田はソファにゆったりと腰をおろすと、「しかし、死んじまっちゃ何にもならない。結局はね、しぶとく長生きしている人間の勝ちですよ」
「――本当にね」
さと子がコーヒーを出して、「私もいただいてよろしいですか?」
「もちろん。我々は仲間だ。そうでしょう?」
「ええ」
さと子はブラックのまま、太田はクリームも砂糖もたっぷり入れて飲んだ。
「何か分りましたでしょうか」
と、さと子が訊く。
「意外とせっかちですな」
「私のこれからの生活に係ることです。早く知りたいのは当然でしょ?」
「確かに」
と、太田は微笑んで、「あなたの、その正直なところが、とても気に入っているんですよ」
「富田と木崎様の関係について、何か分りまして?」
「私の方には色々と仲間同士の情報網がありましてね。それをフルに活用し、情報を集めてみました。――いや、これはおいしいコーヒーだ。さぞ高い豆を使ってるんでしょうな。木崎らしいことだ」
太田は空にしたカップをテーブルに置いて、「手っとり早く言えば、富田という男、二つの顔を持っていたようです」
「二つの顔?」
「富田貞雄。ごく当り前のサラリーマン。実直で目立たない総務課長。家へ帰れば、良き夫、良き父親……。確かに、それも一つの顔だった。しかし一方では、富田はどこでどう資金を用意したのか、高級バーを飲み歩き、女子大生を札びらでつって、ホテルへ連れ込む、といったことでも知られていたようです。――もちろん、その世界で、ということですがね」
「そんなことが……」
「可能ですとも。金さえあれば、着替えを置いておくマンションを借りたり、忙しいといって帰宅は遅くても、給料にたっぷり残業代が足してあれば、家では疑わないでしょうね」
と、太田は手帳を取り出し、ページをめくった。「問題はそのお金の出所」
「会社のお金を……」
「その線がまず思い浮びます。それがかさんで、隠し切れなくなっていた。そこで思い切った仕事をやって、姿を消そうと思っていたのかもしれない」
「その二十億円の話が……」
「それこそ、富田は飛びついたでしょう。――木崎は、富田と同じ都心のビルの中にある歯医者へ通っています」
「歯医者?」
「治療の順番を待っている間、することもなく、話をしていたかもしれない。それが、どう二十億円の話へつながったか、それは死んだ人間に訊くしかありませんな」
さと子は肯いて、
「ともかく、理由は何であれ、木崎様と富田がグルになって、二十億円をせしめたことは確かですね」
「さよう。――富田がなぜ死ぬことになったのか。本当は、あの君原由香のことか、それとも金を一人占めしようとして争ったか、そこも不明です。しかし、ともかく富田は死に、金は消えた。しかも表沙汰にはできない金だ。むろん必死で捜したでしょうがね」
と、太田は愉快そうに、「富田の死んだ後、未亡人は子供を連れて実家へ帰った。その夜、富田の所へ空巣が入っています」
「その晩に?」
「待っていたとしか思えない。どこかに二十億を隠してあると知っていた人間がいるのでしょう」
「それが木崎様なら、お金のありかは……」
「木崎だったか、あるいは会社の誰かに頼まれた人間か――。木崎だとして、金を見付けたのかどうかが問題です」
「どうやって捜すんですか、それじゃ?」
「まあ、落ちついて下さい」
太田はニヤリと笑って、「鍵は女――君原由香が握っている。当然でしょう? 木崎が自殺すると思いますか、二十億のありかをつかめないままに」
「じゃ――分った上で?」
「私はね、木崎は生きてると思いますよ」
と、太田は言った。「十中八、九、生きていますな」
上司は顔を上げ、
「何しに来た」
と、不機嫌そうな声を出した。「もう来なくていいと言ったはずだ」
「申しわけありません」
本間は深々と頭を下げた。「目が覚めました。あの女は――恐ろしい女です」
「あの女……。君原由香とかいう女か」
「そうです」
本間は、やや青ざめた顔で、「私に、人殺しの片棒を担げと言いました」
「何だと?」
「それも金が――巨額の金が絡んでいるらしいです」
「何の話だ」
上司の様子が明らかに変った。
このところ、大きな事件を続けて何件も迷宮入りにして、幹部は頭が痛いはずだった。
殺しと金。――世間向けには一番アピールする話だ。
「お願いです。私に当らせて下さい。あの女はまだ私が言うなりになると思っています。もっと詳しいことを訊き出すには、女を油断させる必要があります」
「すると――」
「停年前の、最後の大きな事件です。――お願いです。花道をこの事件で飾らせて下さい!」
本間は、何と床に正座すると、上司に向って両手をつき、頭を下げた。
「――ああ、簡単なもんさ」
本間は、警視庁の地階の公衆電話から、由香の所へかけていた。
チラッと左右を見る。大勢人は通っているが、忙しげで、立ち止る者はない。
「涙を流して詫びてやったら、向うも泣いたよ。人情にもろいんだ」
「じゃ、本部に戻れたのね」
と、由香が言った。
「うん。やはり何を探るにも、今の身分があるとないじゃ大違いだ。心配するな。また会える。公務でな」
「私と寝るのも公務?」
「もちろんさ。俺は仕事熱心だからな」
本間はそう言って笑った。由香も、一緒に笑って、
「あ、いけない。あの子が起きちゃうわ」
「じゃ、夜に、また」
本間は電話を切った。
由香は、本間からの電話が切れると、すぐに自分でプッシュボタンを押した。
「――もしもし。――私。――ええ、予定通りよ。大丈夫。――分ってる。あと少しの辛抱ね。――ええ、分ってるわ」
と、由香が肯く。
本当に真衣がぐずって泣き出した。
「あ、泣いてるから。――聞こえるでしょ?」
由香は楽しげに笑った。「それじゃ、また」
由香が急いで駆けつけ、オムツを替えてやると、真衣は泣きやんだ。
「――いい子ね」
由香は時計に目をやった。昼に少し間がある。
しばらく抱いている内、真衣は寝入ってしまった。
由香は、真衣をそっと寝かせると、押入れを開けた。ベビー用の下着や服が山と積んである。その奥へ手を突っ込み、風呂敷の小さな包みを取り出す。
手にのるほど小さいのに重たげなその包みを、由香は居間のテーブルに置き、そっと開いて行った。
柔らかい革の袋から、由香は重く冷たい拳銃を取り出すと、弾倉を抜いた。
一緒にくるんであった新聞紙の小さな包みを破って、紙箱のふたを開ける。
由香は、弾丸を一発ずつ取り出して、弾倉へ込めて行く。カチッ、カチッと音をたてて、鈍く光る弾丸は弾倉の中へ呑み込まれて行った。
「太田がそう言ったか」
と、大宮は愉快そうに言った。「あいつも金が絡むと頭がよく回るようになるな」
大宮の言葉に、井原恵子は笑って、
「それは確かね」
「もう仕度はできたのか?」
と、太田は居間の中を見回した。
「晃子ちゃんがまだ……」
「何やってるんだ」
「色々迷ってるみたい」
「命を狙われてるってのに、呑気なもんだ」
とは言いながら、大宮自身もそうあわてている様子がない。
「今、さと子さんが手伝って、いらない物を分けてるわ」
「そうか。――お前、けがの方は?」
「まだ痛いけど……。大丈夫よ」
「そうか」
大宮が、立ったまま恵子を抱き寄せると唇を奪った。一瞬、息苦しいほどのせつなさが恵子を圧倒した。
「――やめて」
と、かすれた声で、「めまいがするわ」
どうして、こんな男を愛してしまったんだろう?
――恵子は、結局どこまでも大宮について行くことになるだろう、と思った。たとえその先に待っているのが「死」だとしても、少しも恐ろしくはなかった。
「――失礼します」
さと子が、居間のドアから顔を出していた。「ちょっと荷物を運んで下さいな」
「ああ」
大宮は大股に歩いて行った。
「おとなしくしてな」
と、晃子は鏡を眺めて言った。「アキラを置いて行きゃしないからね」
「恩着せがましいぜ」
と、アキラが笑った。「お前の方が寂しくて一人じゃいられないくせに」
「うるさい」
と、晃子はその鏡をストンと手さげの布袋へと落とした。
さと子が、「割れないように」と、毛布を内側に縫いつけてくれた袋で、ちょうどスッポリと鏡が納まる。
――もう、夜中だ。
結局、置いていく物、持って行く物を分けるのに何時間もかかってしまった。
見えない敵がいつここへやって来るかもしれない。あの踏切での恐怖を経験していながら、晃子は自分の命が狙われている、なんて本気で信じることができなかった。
それは、晃子自身、人を憎んだことがないから、憎まれるという実感がないせいかもしれない。けれども、あのとき車をぶつけて来た人間は、明らかに晃子と井原恵子を殺そうとしていたのだ。
「おい」
ドアが開いて、大宮が顔を出した。「もう行くぜ。いいのか」
「うん」
晃子が、鏡の入った手さげ袋を持って、「他の荷物、運んでね」
大きなスーツケースだの、紙の手さげ袋だのがいくつも並べてあるのを見て、大宮は目を丸くした。
「家ごと引越すつもりか?」
「これでも、ずいぶん減らしたんだよ」
晃子の言葉に、一緒に上って来たさと子が笑って、
「これ以上は減らせないんです。何とか車のトランクに工夫して入れて下さい」
「トランクどころか、トラックがいるな」
ブツブツ言いながらも、大宮は両手に一杯の荷物をさげて運んで行く。
へえ。――さすがに刑事だなあ、力がある、と晃子は思った。
「鏡、入れました?」
と、さと子が訊く。
「うん。私が自分で持つから、これは」
と、晃子はしっかり肯くと、部屋を出ようとして――振り向いた。
本当に? 本当に、もうここに戻らない、なんてことがあるのかしら?
何もかも夢だ。――そう、きっとそうなのだ。
夢か、それとも悪夢か。どっちにしても、晃子を待っているのは、今まで晃子が出会ったことのないものだった……。
「――さあ、行くぞ」
と、下から大宮が呼んだ。
「うん」
きっと、帰って来るからね。――晃子は部屋にそう別れを告げて、階段を下りて行った。
「何とか入った」
と、大宮が言った。「トランクが破裂するかと思ったぜ」
「さ、晃子ちゃん、乗って」
と、恵子が言った。「誰が運転する?」
「俺がやる」
「じゃ、私、助手席に乗るわ。さと子さん、後ろに晃子ちゃんと」
「ええ」
さと子が、反対側へ回ってドアを開ける。晃子は、鏡の入った手さげ袋をかかえるようにして、もう座席に座っていたが、
「――あ!」
と、声を上げた。「オルゴール!」
忘れてた! 一階にあったので、つい目に入らなかったのだ。
「ああ、居間の飾り棚のですね」
と、さと子が言った。「取って来ましょう」
「ごめんね」
「急げよ」
と、もう車のエンジンをかけて、大宮が言った。
さと子が車を出て、家の玄関へと小走りに急ぐ。
「――いやな気分だ」
と、大宮が言った。
「何が?」
助手席の恵子が訊く。
「何となくだ。――誰かがこっちを見てるような気がする」
大宮の言葉に応じたのは、恵子ではなかった。晃子が、
「誰かいる」
と言ったのである。
「どこだ?」
と、大宮が振り向く。
「あの木の間」
と、恵子は暗がりの中、二本の木を見分けることさえ難しい闇の中を指した。
大宮が車を動かした。急ハンドルでタイヤが下の砂利をはね飛ばす。ライトが木立ちの間をパッと照らし出した。
人影が一瞬動いて、同時に銃声がした。晃子はハッとして玄関の方を振り向いた。
さと子が、ドアを開けたところだった。しかし、中へ入ろうと足を踏み出し、そのまま前のめりに倒れる。
「さと子さん!」
晃子は叫んだ。「撃たれた!」
手がドアを開けようとしていた。
「出るな!」
大宮が叫んで、車を、その人影がいた場所へと突っ込ませ、急ブレーキをかける。
車が木立ちに衝突する直前、ぎりぎりの所で停った。
人影が、あわてたように逃げて行く。車のライトが照らす範囲は狭い。たちまち人影は闇の中へ消える。
「ここにいろ」
と、大宮は車をバックさせて停めると、車から出た。
「さと子さん、大丈夫?」
と、晃子は言った。
「さあ……」
恵子が心配そうに振り返って、「晃子ちゃん、座っててね。私も行ってみる」
「うん……」
晃子は、恵子が大宮を追って駆けて行くのを、車の窓から見ていた。
家の明りが消えているので、どんな様子なのか、はっきりとは分らないが、晃子は大宮らしい大柄な影が玄関の辺りでかがみ込むのを見分けた。
暗がりの中でも目がきく、という晃子の能力は、生れつきのものらしい。――人間じゃないのかな、などとひところは心配していたこともあるが、アキラから、
「他に大したとりえがないんだから、大事にしな」
と言われて安心したものだ。
今も、その「目」が晃子を救ったと言ってもいいだろう。
車が来る。――ライトも点けずに、車がこっちへ向って走って来るのを、晃子は見分けていた。
さっき、ドアを開けようとした手が、そのままになっていた。無意識にドアを開けていた。
鏡を入れた布袋をかかえて、晃子は車から飛び出した。
ほんの一秒か二秒。――晃子の乗っていた車の横腹に、その車はぶつかって来た。
闇の中に火花が飛び、粉々になって飛び散る窓ガラスが光った。晃子は木立ちの間へと夢中で飛び込んで行った。
車のぶつかる音で、大宮はハッと体を起こした。
さと子は太腿を撃たれていたが、弾丸はかすっただけで、ひどいけがというわけではないようだった。
大宮が、さと子を家の中へ動かそうと身をかがめると、恵子が、
「どう?」
と、やって来て、大宮は、
「馬鹿! 伏せてろ!」
と怒鳴った。
そのとき、車が激しくぶつかる音がしたのである。
「あの子は?」
と、大宮は言った。「あの子はどうした!」
「車の中――」
恵子が言い終らない内に、大宮は駆け出していた。
車が走って行く。大宮はその車に向けて拳銃の引金を引いた。しかし、すでにその車は夜の中へ消えてしまっていた。
大宮は、晃子の乗っていた車へと駆け寄った。
「畜生……」
横腹へ、斜めにぶつかったのだろう。ドアが大きくへこんで、もちろん窓ガラスは粉々に砕けている。
「おい! ――大丈夫か! ――おい、返事しろ!」
大宮は車の中を覗いた。歪んだドアを、力まかせに開けると、バラバラとガラスの破片が落ちて来る。
「――晃子ちゃんは?」
と、恵子が走って来た。
「見ろ」
大宮は車の中の明りを点けた。――反対側のドアが開け放してある。
「ショックで投げ出されたんじゃない?」
「そうじゃあるまい。例の鏡を入れた袋もない。――とっさに反対側へ飛び出したんだろう」
「まあ……。凄いわ」
「捜そう。――おい、あっちは大丈夫か」
「ええ。自分で手当するって」
「懐中電灯をよこせ」
ダッシュボードから懐中電灯を取り出し、恵子は大宮へ手渡す。
茂みを分けながら、大宮は晃子の姿を捜した。
「――いないわ」
恵子が首を振って、「おかしいわ。遠くへ行っちゃうわけもないし」
「分らねえぞ。怯えて、夢中で逃げたのかもしれん」
大宮は、丸い光を木立ちの間へとゆっくり照らした。「――却って、離れちまうかもしれん。動かない方がいい。お前は家に戻ってろ」
「あなたは?」
「もう少し先へ行ってみる。二人で行くのはまずい。いいな?」
「ええ。それじゃ、さと子さんの傷をみてるわ」
「ああ。すぐ戻る」
大宮は、茂みをかき分けて、すぐに姿が見えなくなった。
恵子は、壊された車の脇を回って、家へと戻って行った。
玄関の明りを点け、
「さと子さん。――どう?」
と、声をかけた。「さと子さん?」
居間も真暗である。けがの手当をしているのなら、どうして明りが点いていないのだろう。
恵子は、玄関の明りが洩れ入る居間へ入って、明りを点けた。
そして――どれくらい立ちすくんでいたのか。
「おい」
と、後ろから呼ばれてハッと我に返る。
恵子は振り返った。大宮が、服についた汚れを落しながら、
「何を突っ立ってるんだ?」
と、恵子へ訊く。
恵子は黙って脇へ退いた。
大宮の目にも、居間の真中に倒れているさと子の姿が見えた。うつ伏せに倒れ、顔を向うへ向けている。
「あんな……ひどいけがだったの?」
恵子の声はかすれていた。
「いや、違うな」
大宮は、床のカーペットに赤黒くしみ込んで広がっている血を見て、「後でやられたんだ」
「後で?」
「俺たちが、あの子を捜しに出た後だ」
大宮は、さと子の方へ歩み寄って、かがみ込むと、彼女の体をゆっくりと仰向けにした。
恵子は一瞬見ただけでサッと目をそらした。
「ひどい……」
「喉を切られてる。――深い傷だ」
と、大宮は言った。「大して苦しまなかったろうぜ」
「本当に?」
恵子は訊いたが、返事を期待していたわけではなかった。いくら大宮でも、そんなことが分るわけはない。
「用心しろ」
と、大宮は言った。「そいつは、俺たちが行った後、戻って来たか、それとも別の誰かがこの中に潜んでいたかだ」
「潜んでた? 誰が?」
「分らん。ともかく――」
大宮は、さと子を見下ろして、「これで一人欠けたわけだ」
と言った。
「どうする?」
大宮は、手早く家の中を調べて回ると、
「ここにいるのは危い。――離れよう。少々寒いが、朝までこの近くに隠れているしかない」
「晃子ちゃんは?」
「もし、一人で迷子になってるのなら、明るくなれば戻るさ。もし戻らなかったら……」
「戻らなかったら?」
大宮は軽く首を振って、何も言わない。
二人は、居間の明りを消して、玄関へと出た。
「あのままにしとくの?」
「埋葬するわけにもいくまい。――後で、一一〇番して知らせてやる」
「でも……あなたがやったことにされるわ」
「今さら同じさ」
と、大宮は恵子の肩を抱いた。
「さと子さん……。あの子のことを、本当に心配してたわ」
「ああ。――そっと眠らせといてやろう」
大宮は、恵子を促して外へ出た。
夜の空気は、さらに冷たくなっていた。
車は揺れながら走っていた。
道も悪かったのかもしれない。しかし、ライトバンで、あまりクッションが良くないことも確かだった。
特に、後ろの荷台に寝かされている晃子にとっては。
一応、下に毛布が敷いてあったが、大して体が痛くなるのを防いではくれなかった。
たぶん、計算違いだったのだろう。いや、誰だってこんなことには慣れていないだろうし、使った布が、どれくらい薬を吸い込んでしまうものやら、見当がつかなかったに違いない。
晃子は、木立ちの間に隠れて、あのぶつかって来た車が行ってしまうのを見て、戻ろうとしたのだが、突然誰かに後ろから抱きすくめられ、顔に布を押し当てられた。薬の強烈な匂いで頭がボーッとしたが、気を失うほどではなかった。
そのとき、どうしてそんなことをしたのか、自分でもよく分らないが、晃子は気を失ったふりをして、ぐったりと倒れてみせたのだ。
晃子は、このライトバンへ運び込まれ、毛布の上に寝かされて、さらに上から毛布をかけられた。
そして今、ライトバンは夜道を走り続けていた。
どこへ連れて行かれるのだろう?
晃子には、何だか奇妙に思えた。誘拐なら、手足を縛るとか、声を出さないように何か口にかぶせるとかしそうなものだ。
しかし、晃子はただ毛布にくるまれているだけだ。もちろん縛られたいわけじゃない。ただ「犯人」が何を考えているのか、知りたいと思ったのである。
でも――こんな呑気なことを考えてていいんだろうか?
犯人は、晃子が薬ですっかり意識を失っていると思って、あえて縛っていないだけなのかもしれない。だとすれば……。
逃げる? そんなことができるだろうか。
ライトバンが停ってくれたら……。
道が滑らかになった。たぶん、舗装された広い道へ出たのだ。
ということは――信号があるだろう。
赤信号で停ったときにでも……。
晃子は、音をたてないように、自分をくるんでいる毛布を、そっと動かして行った。
第7章 尾行
ライトバンが停る。
赤信号らしい。――しかし、まだ晃子は外へ飛び出せる状態ではなかった。
自分をくるんだ毛布をそっと開いて、スライド式のドアへ手を伸して届くかどうか、目測した。寝たままの状態ではとても無理だ。体を起して、やっとだろう。
しかし、それだけ動くと、運転している人間に気付かれるに違いない。
ライトバンはまた走り出した。――広い道に出ていることは、すれ違って行く車の音が聞こえてくることで分る。少しスピードが上った。
晃子は、迷った。――このまま、どこかへ連れられて行くに任せるか、それとも途中で逃げるか。決めかねていたのだ。
走っている車から飛び下りるというのは、かなり危険である。それぐらいは晃子にも分っている。
落ちたときに大けがをする可能性が充分にある。といって――薬で気を失わせてさらって行こうとする相手が、晃子の味方とも思えない。
大宮や、さと子さんたちが心配しているだろうな、と晃子は思った。
ライトバンはスムーズに流れるように走っている。スピードが更に上ったのが感じで分って、晃子はとても今は飛び下りられない、と思った。
また、どこかで停らないかしら? ――晃子は、次の機会を待つことにした。
突然、ルルル、と甲高い電子音がして、晃子は声を上げそうになった。車の中の電話が鳴り出したのだ。
運転している人間が電話に出た。晃子は、少しスピードが落ちるのを感じた。
どうやら、晃子をさらって来たのは一人だ。運び込むのに手間どっていたので、たぶんそうだろうと思っていたが、もし二人でいたのなら、運転していない方が出るだろう。
「はい」
と、低い声で言ったのは――女の声だった。
誰だろう? 向うも晃子が目を覚ましてはいけないと思うのか、囁くような声を出しているので、聞き分けられない。
「――はい。大丈夫、静かに眠ってるわ」
自分のことを言っているのだ。振り向いて見るかもしれない、と思ったので、晃子は毛布をかぶって、じっと身動きせずに息を殺していた。かすかな隙間から、声が耳に入ってくる。
「――ええ。――じゃ、死んだのね」
はっきりと、そう聞こえた。
死んだ? 誰が死んだのだろう。
「ええ。仕方ないわ。どうせ生かしておくわけには。――ええ、分ってる。――あの女は、知り過ぎてたわ」
女? 女が死んだ。
晃子は必死に耳を澄ました。
「――ええ。そうね。ずいぶん長く働いてたんだから、――それじゃ、後で。二十分くらいで着くと思います」
囁くような声だ。それで女は電話を切った。――さと子さん、と晃子は思った。さと子さんが死んだ?
「ずいぶん長く働いた」というひと言で、晃子には察しがついた。もちろん、見当違いかもしれないし、そうであってほしいと思うが……。
でも、たぶん間違いないだろう、と晃子は思った。さっき撃たれたと見えたときに死んだのか。
そして、他の二人のことは何も言っていなかったから、大宮と井原恵子は生きているのだろう。でも――さと子さん。
晃子にとって、さと子が本当にやさしい人になってくれたのは、ごく最近のことだ。けれども、嫌い合っていたときだって、さと子の存在はそれなりに晃子の生きる「張り合い」のようになっていた。
晃子は、いつも自分を受け止めてくれるものを必要としていたが、さと子は、たぶん彼女自身の気持とは別に、晃子に、「負けまい」とする力を与えてくれたのだ……。
死んだ。――さと子さんが。
逃げよう、と決めた。人を平気で殺す奴らなのだ。
大宮がそう言ったりするのはおかしいが、しかし間違いではない。
スピードが落ちた。停る!
晃子は毛布をそっと頭から外して、手をドアの方へ伸した。
ライトバンが停った。晃子の手がドアの把手をつかむ。ロックを外すボタンを親指で押した。
車のことなんか何も知らないのに、そこまで頭の回るのが不思議だった。
と、ライトバンが発進した。もっと停っていると思っていた晃子は、あわててしまった。
走り出した勢いで、ドアを開けていた。スピードが上ったが、ここでやめるわけにいかなかった。
晃子は、毛布をはね飛ばし、ライトバンから外へと転り出た。しかし――足に毛布が絡みついていた。路面に落ちた晃子はしたたか背中を打ったが、痛みは普通に転んだのと大差なかった。
だが、毛布の端が、開いたライトバンのドアに挟み込まれて、晃子の体は路面を引きずられた。
ハッと顔を上げると、大きなダンプカーがすぐ後ろに続いていた。足に絡まった毛布が外れ、晃子はアスファルトの路面に二転三転した。
キーッと鋭いブレーキの音がして、ダンプカーが晃子の直前で停った。
「何してる!」
と、運転手が窓から顔を出して、「けがしてないか?」
晃子は、少し目が回ったが、立ち上ってライトバンの方へ目をやった。ライトバンは五、六十メートルも行って、やっと停った。当然、気が付いたのだ。
晃子は、ダンプの運転手へ、
「ごめんなさい!」
とひと声投げて、ガードレールをのり越えると、目の前の雑木林の中へと駆け込んで行った。
どれくらい走っただろう。
晃子は、息を切らして立ち上った。
じっと後ろの方へ目をやる。追って来る人間の姿は見えなかった。足音に耳を澄ませていたかったが、自分の激しい息づかいのせいで、耳の方はあまりあてにならない。
しゃがみ込んで、晃子はともかく少し休むことにした。
手のひらや膝頭が少し痛い。触ってみると、すりむいて血が出ている。
当然だろう。走っている車から飛び下りて、しかも何メートルか引きずられたのだ。これくらいの傷ですめば、むしろ奇跡というべきだろう。
今になって、自分がいかに危いことをやったかを考えてゾッとした。あのダンプカーがすぐ後ろにいたら、ひかれていたかも……。
考えてみれば、ライトバンに引きずられたから、ダンプカーのブレーキが間に合ったのだ。改めて青ざめると同時に、晃子は自分の幸運を思った。
「――どうしようか、アキラ」
と、木々の枝の間から覗く夜空の方へ目をやった。
でも、ここには鏡がない。アキラはここにいない。
――晃子は、途方にくれた。
逃げ出すのには成功したが、ここはどこの山の中なのか。そして、どこへ行けばいいのか。
さと子が殺されたとすると、大宮と恵子も用心して、あの家にはいないだろう。晃子が連れ去られたことは知らないから、あの辺を捜し回っているかもしれない。
でも、あの家まで戻ろうとしたら、どれくらいかかるか……。
晃子は、少しよろけながら立ち上った。
空気が冷たく、汗をかいた体にしみ込んでくる。夜を明かして、明るくなってから動くか。それとも、少しずつ歩いてみるか。
動かないと、体が冷え切ってしまいそうである。
晃子は、手探りに近い状態で、そっと木々の間を進んで行った。――我ながら、この暗い中をよくここまで走って来たものだ。
ふと――耳を澄ます。大分、自分の息づかいも鎮まって来ていたのだ。
ゴーッという音が近付いてくる。それは車のエンジンの音のようだっだ。
と思うと、サッと暗がりの中へ車のライトが射し入って、晃子は飛び上るほどびっくりした。
車だ。――道がある!
乗用車が一台、ぐっとカーブを切って、斜面を上ってくると、晃子の目の前を通り過ぎて行った。
呆気なく――晃子は道へ出ていた。
山の中ってわけじゃ、なかったんだ……。
車が上って行った坂の先を見上げると、夜空に、まるで遊園地のお城のような建物と、〈モテル〉という派手なネオンサインがそびえ立っていた。
晃子はポカンとして、笑いたくなってしまったのだった……。
ともかく、道を辿って行けばどこかには出る。
いくら「世間知らず」の晃子だって、それくらいのことは知っていた。坂道を上って行っても、あの〈モテル〉という所へ出るのだろう。それなら下るしかない。
どこへ出て、何をするのか、晃子には見当もつかなかったが、ともかく井原恵子か大宮に連絡することだ。
でも、どうやって? あの二人がまだ木崎家にいるとは思えなかった。大体、晃子はお金も何も持っていない。電話一つかけられないのである。
でも……どこかで休まなくちゃ。
自分で思っている以上に疲れていた。下り坂は長くなると膝に力が入らなくなる。
晃子は、どこまでも果しなく続きそうな坂の途中で立ち止り、息をついた。
もう歩けない! ――といったところで、座る所もないのだ。
仕方なく、またダラダラと歩き始めたが――。
車の音? 注意力もなくなっていたのだろう。それらしい音に振り返ると、ライトがさっと射して来て、まぶしく目を射た。
車が凄いスピードで――少なくとも、晃子の目にはそう見えた――角を曲って現われた。そしてアッという間に晃子の目の前に車のライトが――。
晃子は激しくきしるブレーキの音を聞いた。タイヤが小石をはね飛ばすバチバチという音を聞いた。そして、誰か女性の悲鳴みたいなものも聞いたような気がするが、それは想像だったろうか。
ともかく、車が横向きになって停る直前、晃子はボディに触れて引っくり返っていた。
あのライトバンから飛び下りて無事だったというのに、今、晃子は道に転んで、不思議な気分だった。痛みとか苦しみはない。
私、死ぬのかな?
晃子はそんなことを考えて――意識を失ってしまったのである。
「ねえ、もしかして……」
「よせってば!」
「だって、この子……おかしいわよ」
「ちゃんと生きてる! 見ろよ、動いただろ?」
「本当? ――動いてないわ。死んじゃったのよ、きっとそうだわ!」
女がヒステリー気味の声を上げる。
「静かにしろ! 大丈夫だ」
――生きてる。
晃子は、ゆっくりと目を開けた。
少なくとも、天国がこんなにやかましいことはないだろう、と晃子は呑気なことを考えていた……。
「目を開けた! ――おい、どうだ?」
晃子は、身動きしようとして腰の辺りが痛んで、顔をしかめた。
「じっとして!」
と言ったは、女の方だった。
晃子は、どうやらソファの上に寝かされているらしい。――ライトバンの床に寝かされ、アスファルトの道路に落ちて引きずられたりした後では、ソファの柔らかさは嬉しかった。
「痛むか?――骨、折れてるか?」
男の方は、ガラス細工にでも触るように、こわごわ晃子の肩を叩いた。
「大丈夫……みたい」
骨が折れてれば、もっと痛いだろう。晃子は折ったことがないが、たぶんそうだろうと思った。
「良かった。ともかく、びっくりして……。どうしようかと思ったよ」
男の方がそう言って、汗を拭った。本当に汗をかいているのだ。
男はたぶん五十才とか――そんなにいってないかな? でも、頭はすっかり薄くなって、お腹が出ていて……。
背広にネクタイという格好からして、どこかに勤めているんだろう、と晃子は思った。
晃子はソファに起き上ると、部屋の中を見渡した。
ホテル? ――たぶん、そうだ。いや、あの坂の上にそびえていた〈モテル〉かもしれない。
「何をしてたの、あんな所で」
と、女が言った。
晃子は答えなかった。――この二人がどうして自分をここへ連れて来たのか、はっきりしていないからである。
「口がきけないのか?」
「しっ。ショックよ。車にはねられたりしたら」
女がたしなめる。
男の方に比べると、女性の方はずいぶん若い。たぶん、井原恵子とそう変るまい。
「けがしてるわね。当然ね、車にはねられたんだもの」
と、女は晃子の肘や膝のすり傷を見て言った。「手当をしましょ。フロントで救急箱を借りて来て」
「俺が? しかし……フロントの奴に顔を見られると……」
と、男はためらっている。
「じゃ、私が行くわ」
女は少し苛々している様子で、足早に部屋を出て行く。
男は、晃子と二人で取り残されて、却って困ってしまっているらしかった。
「しかし……ツイてないよ。こんなときに」
と、男はグチった。よほどグチの好きな人らしい。
何を話していいか分らないようで、男はTVをつけて、バラエティ番組を見たりしている。
じきに女が戻って来て、晃子の傷を手当してくれた。消毒液をつけて、
「――しみる? 我慢してね」
女の方がずっと落ちついてしまい、男の方はますます苛立ちが募っているようだった。
「さ、これでいいわ。他に痛い所は?」
晃子は首を振った。
「おい、ちょっと車が心配だ。下へ行って見て来る」
と、男は言って、部屋を出ようとした。
「TVを消して行って」
「何?」
「TVを消して」
「ああ……」
男は、リモコンでTVを消すと、「すぐ戻るから」
と、出て行った。
女はゆっくり立って、ベッドの方へ行くと、腰をおろした。そして――両手に顔を埋めて泣き出したのである。
今度は晃子が困る番だった。
女の泣き方は、声を上げずに、押し殺すようだ。ただ悲しい、というのとはどこか違うように、晃子は思った。
「――ごめんなさい」
と、女は泣き止むと、手の甲で涙を拭って、「すぐ戻るわ……」
と、奥のバスルームへ入って行った。
ベッドはダブルの大きなもので、シーツも毛布も乱れて、寝ていたことが分る。
あの男と、あの女? ――晃子には分らなかった。どう見たって、間違った取り合せだ。
顔を洗って来たのか、女はタオルを手に出て来て、
「あなた、お腹空いてない?」
と、訊いた。「どうして一人で歩いてたのか知らないけど、お腹空いてるってことは、見れば分るわ」
晃子は、遠慮なく、
「空いてます」
と、言った。「何でもいいけど……」
「大したもん、取れないのよ」
と、女はテーブルに置いてあったパンフレットを開けて、「カレーかサンドイッチ。サンドイッチは相当ひどいわね」
「じゃ、カレーでいいです」
「私も食べよう。泣くとお腹が空くわね」
女が電話へ手を伸すと、
「あの人は、行っちゃったんですね」
と、晃子は言った。
女がギクリとしたように晃子を見て、
「行っちゃった?」
「もう、戻って来ないでしょ」
「どうしてそう思う?」
「何となく……分った」
「そう」
女は目を伏せた。
「いいんですか、それで」
「いいのよ。どうせ――」
「二人でどこかへ行くところだったんでしょ?」
「どうせ続かなかったわ。あなたのおかげであの人は考え直したのよ。もうおしまいにしよう、って」
女は微笑んだ。「心配しないで」
カレーライスを二つ頼んでから、女は、
「私、アキ子」
と言った。
「私も……晃子」
「あら」
女は笑った。
その笑い顔は、何だかホッとしたように明るくて、差し出されたその人の手を、晃子はおずおずと握ったのだった。
晃子は目を覚ました。
何だか――深い深い海の底にでも潜っていたかのようだ。体が柔らかいベッドにのめり込んでしまうかと思えた。
それくらい、晃子にしては珍しく寝返りも打たずに(いつもそう寝相が悪いとも思ってないが、こればっかりは自分じゃ分らない)眠っていたのだろう。
体のあちこちが痛い。ライトバンから落ちたり、車にはねられたり……。骨折しなかったのが奇跡みたいなものなのだから、少し痛いくらいで文句も言えない。
そう…。あの女の人は……。
アキラ。――あの女の人、あんたの代りに来てくれたのかもしれないね。
アキ子、だって。同じ名というのは、呼ぶのも妙に照れくさい。
このモテルの部屋は、大きなダブルベッドしかないので、二人で寝た。
もっとも、その前に係の人を呼んでシーツとか替えてもらっていたので、晃子も安心して眠ることができたのである。
アキ子さん……。
体を起すと、もうベッドにはいない。行ってしまったのかしら?
バスルームでシャワーの音がして、晃子はホッとした。まだいてくれたんだ!
晃子は、ベッドを出ると、バスルームのドアをノックしてみた。
聞こえないかな? ――もう一度ノックする。
シャワーの音が止って、少ししてドアが開いた。
「あら、起きたの」
アキ子が髪まで濡れて、バスローブをはおって現われた。
「ごめんなさい。何だか――顔見ないと心配で」
「心配?」
「何となく……」
二人の「アキ子」は互いをちょっと不思議な目で見ていた。
「――晃子ちゃん。私、あなたと一緒に行ってもいいかな」
「え?」
「私、行く所もないし、帰るわけにもいかないし……。あなたが構わなければ――」
「ええ、いいですよ」
「ありがとう」
アキ子が、素早く晃子の額にキスした。
晃子はポッと赤くなった。
そう。この人は私を求めている。――どうしてかはよく分らないが、晃子は直感的にそう思ったのだ。
「私と一緒だと危いですけど」
と、晃子は言った。
「分ってるわ。いわくありげよね」
アキ子は笑って、「お腹空いたわ。朝食にして、どうするか考えましょ」
と、晃子の肩を叩いた。
本間は車を降りた。
何かあったな。――すぐにその場の様子を見てとった。
車が一台、放置されている。横腹がへこんで、窓ガラスも粉々になっていた。
他の車にぶつけられたのだろう。
本間は車の中を覗いた。後ろのトランクが、ぶつけられたショックでか、開いてしまっていた。大きく開いてみると、中は色々な荷物が山積になっている。
これはどういうことだろう?
本間は、周囲を用心深く見回した。――朝とはいえ、曇っているので、まるで|黄《たそ》|昏《がれ》どきのようで、じきに夜がやって来そうな気さえする。
この車で、どこかへ行くつもりだったのだ。
――誰が? あの木崎の娘一人では、行けるはずがない。家政婦か? それとも……。
トランクの中の荷物を見ると、男の手があったと考える方が自然だ。もしかすると、大宮か?
長年そばにいた人間のことは、無意識の内にもくせが分るものである。
大宮は、なぜかあの晃子という娘のことを気にしていた。
本間は、木崎家の玄関へと歩いて行った。――留守だろうということは見当がついた。人のいる気配というものがない。
本間は玄関に入って――鍵がかかっていなかった――上り込んだ。
そして、居間へ入ると足を止めた。
「何だ、これは……」
と、思わず呟く。
本間は死体に近寄って、ざっと状態を見てから、ハンカチを出し、受話器をくるんで持ち上げた。――由香の所へかける。
「――君原です」
「本間だ。今、木崎の家にいる」
「何かあったの? 怖い声してるわ」
「家政婦が死んでる」
「何ですって?」
「殺されてる。誰がやったのか分らんが」
と、本間は言った。「捜査に係ると厄介だ。当分身動きできなくなる。外から匿名で一一〇番してくれないか」
「私が? いいわ」
「頼む。ここの住所と、人が殺されてるってことだけ言えばいい。長話はするなよ」
「ええ、大丈夫。じゃ、近くの公衆電話でかけるわ」
「うん。――こっちはすぐ外へ出る。それじゃ」
「また連絡してね」
「ああ」
本間は、こんなときなのに微笑んで、電話口でキスの一つも送りたくなっている自分に苦笑した。
電話を切ると、本間はチラッと死体へ目をやって急ぎ足で居間を出た。
全く、何の気配も感じていなかった。
玄関へと足を運ぶ本間の後頭部を何か固いものが一撃し、本間は意識を失ってその場に倒れたのだった。
晃子は、食事をしてから、またベッドで少し眠ってしまった。
気が付くと、テーブルの上はきちんとカレーの皿が重ねられていて、アキ子の姿がない。一瞬、一人で行ってしまったのかしら、と思った。
しかし、すぐにバスルームからシャワーの音がしているのに気付いてホッとする。
さっきもシャワーを浴びてたのに。よっぽど好きなのね。
晃子も、ここを出る前にシャワーを浴びておこうかと思った。すり傷にしみるかもしれないが、晃子はそういう点、我慢強い子である。
ベッドを出て、晃子はバスルールへと歩いて行った。
ドアが少し開いている。――晃子はそっと覗き込んだ。
「アキ子さん……」
と、呼んだ。
シャワーが雨のように降り注いでいるのが目に入ったが、アキ子の姿が見えない。
「アキ子さん……」
と、ドアを開けて中へ入ると――。
アキ子はバスタブの底にバスローブ姿のまま倒れている。
びっくりした晃子は、
「しっかりして! どうしたの!」
と、急いでシャワーの栓をひねって止め、かがみ込んだ。
死んじゃったんだろうか? でも――どうして?
晃子は、必死で、びっしょり濡れたアキ子の体を揺さぶった。
「アキ子さん! ――起きて! ねえ、起きて!」
すると……青白い顔ながら、アキ子の目がゆっくりと開いた。
「――ああ良かった!」
晃子はホッと息をついて、「どうしたの? びっくりした」
「ごめんなさい」
アキ子は起き上って、「私……どうしたのかしら」
「倒れてたんですよ、シャワー浴びて」
「そう……。足でも滑らせたのね、きっと」
と、照れたように笑って、「ごめんなさい。あわてんぼね、私」
「大丈夫? ――死んじゃったのかと思った」
晃子は、アキ子の体を支えて立たせると、
「少し横になったら?」
「そうはしてられないでしょ」
と、アキ子は、ベッドの方へ行って、バスローブを脱いだ。
「バスタオル」
晃子が、乾いたタオルを渡してやると、
「ありがとう」
と、アキ子は微笑んで、タオルで白い肌を拭き始めた。
「きれいだなあ」
後ろ姿のアキ子の裸に、つい見とれて晃子はそう言った。そして自分でも少し照れて赤くなったりしていた。
恵子が身動きする。
大宮は、ちょっと服を着かけた手を止めて、様子を見た。――大丈夫、目を覚ましはしないだろう。
大宮は静かに立ち上って、ゆっくりと窓の方へと近寄った。カーテンの隙間から、淡い光が射し込んでいる。
今日は肌寒そうだ。――一瞬、ベッドに戻って、恵子の肌のぬくもりに身を寄せたい誘惑を覚えたが、それを振り切るのに、数秒とはかからなかった。
今は「遊びの時間」ではない。仕事だ。俺はプロなのだ。
大宮は、拳銃を点検してホルスターへ納めた。
ゆうべはこの旅館で過した。車がなかったので、遠くまでは出られない。小さな町まで歩いて、この古ぼけた旅館で一夜を明すことになったのである。
久しぶりで畳の部屋に眠ったような気がする。恵子がすり寄って来て、大宮は結局抱いてやった。――死んだ倉橋さと子のことを二人とも忘れていたわけではない。
それでも二人が愛を交わすには何の邪魔にもならなかった。
「――出かけるの」
気が付くと、恵子が布団に起き上っている。
「起きたのか」
と、大宮は言った。「起しちゃ可哀そうだと思ってな」
「やめて。仲間でしょ」
と、浴衣の前をきちっと引っ張って合せ、「一人で置いてくつもりだったの?」
「いや。ここへ戻ろうと思ってたが……。一緒に行くか?」
「仲間でしょ」
と、恵子はくり返した。「さと子さんの分までね」
「そうだな」
と、大宮は微笑んだ。「妙な仲間だが、仲間は仲間だ」
恵子は軽く頭を振って、
「さと子さんをあんな目に遭わせた奴は許せない。それに、あの子がどこでどうしてるのか……」
「あの家の近くまで行ってみよう。――もうあの辺にはいないかもしれないが」
「でも、どこへ行く?」
「分らんな。どこへ行ったか。それとも、連れ去られたか……」
大宮を肩をすくめて、「ともかく仕度をしろ。出かけるぞ」
と言った。
「ひどい目に遭った」
と、本間はまだ痛む後頭部を、そっと手でさすった。「これでボケなきゃいいけどな」
車の中の電話で、由香へかけていたのである。
「誰がやったか、見なかったの?」
と、由香が訊く。
「ああ。いきなり後ろからだ。しかし、あの家政婦をやった犯人とは別だろう」
「どうして?」
「死後、時間がたっていた。犯人がそんなに長くあそこにいたとは思えない」
と、本間は言った。「おかげで、駆けつけた警官に手当してもらったが、乱暴なこと」
「気を付けて」
と、由香が言った。「戻れそうもないの?」
「いや、じきにここを出られるだろう。幸い、俺がやったと疑っている者はないようだ」
本間は、木崎家の見える車の中にいた。パトカーが三台、木崎家の前に停っている。
「車を運転しても大丈夫?」
「ああ。俺は石頭だ。心配するな」
と、本間は多少の強がりを混えて言った。
「じゃ、青柳という専務に会いに行って」
「青柳? ――ああ、木崎が殺した富田のいた会社の」
「そう。何か隠してると言ってたでしょ」
「おそらくな。分った。会って口を割らせる」
「乱暴はやめて」
と、由香が言った。「お願いよ、穏やかにね」
「分ってる。――じゃ、また連絡する」
本間は、現場に駆けつけた警官の一人を呼んで、他の件で捜査本部に戻らなくてはならない、と言った。
「かしこまりました!」
現場の人間にとっては、|他《よ》|所《そ》|者《もの》の本間がいなくなるからだろう、却ってホッとした表情を見せた。
「後で詳しい報告を見せてくれ」
「もちろんです」
「では、後はよろしく頼む」
本間は、車を一旦バックさせると、頭の痛みを振り切ろうとするように、一気にアクセルを踏んで発進した。
広い道へ出て、すぐに一台の車とすれ違ったが、いつもの本間なら気付いていただろう。その車を運転しているのが大宮だったということに。
――大宮は急ブレーキをかけた。
「どうしたの?」
助手席でウトウトしていた恵子は、あやうくフロントガラスに頭をぶつけるところだった。
「本間だ」
と、大宮は言った。
「え? ――この車、借りたばっかりよ。そう壊さないでよね。本間って……。あの、病院に来てた人?」
「うん」
大宮は車を強引にUターンさせて、反対車線へ乗り入れた。そして、猛スピードで本間の車を追う。
「――本間が、なぜ木崎の家へ行ったのかな」
「見当つかないわ。本間って人……君原由香と……」
「そうだ。君原由香に操られてる。おそらくあそこへ行ったのも、君原由香に頼まれてのことだろうな」
「まさか……。さと子さんを殺したのも?」
「それは違うだろう。あいつはそこまでワルにゃなれないさ」
本間の車が前方に見えて来た。大宮は、少し離れ過ぎているくらいの間隔を置いて速度を合せた。
「どこへ行くのかしら」
「どこにしても、こっちの損にゃならないだろうぜ」
と、大宮は言った。
専務の青柳は、本間を見てなぜかサッと青ざめた。
それを気付かれるのではないかと心配して、ますます青くなるのだ。
「どうもこの間は」
と、自分の方から頭を下げ、「何かご用で……」
本間は、応接室のソファにゆったりと寛いで、しかし頭の傷は、まだひっきりなしにうずいた。
「この前、おうかがいしたことですが、亡くなった富田さんは何をやったんです?」
「――何を、とは?」
怯えている、と本間は感じた。何かに怯えている、こいつは。
「話して下さい。これは殺人事件の調査です。もし、そちらに別の違法行為があったとしても、あえて告発はしませんよ」
「違法行為? とんでもない! うちは至って真面目なもんです! 本当ですよ」
と、青柳は引きつったような笑いを見せて言った。
「そうですか」
本間は息をついた。「では、これ以上お邪魔することもないようですな」
青柳は、ホッとしたように、
「ご苦労様です。いや、何かこちらでご協力させていただけることがあれば――」
と、腰を浮しかける。
「大宮は何を訊いたんです?」
「――はあ?」
「何をしゃべらせたか、とうかがった方がいいですかね」
「何のことか、さっぱり――」
「大宮はプロですよ。あんた一人の口を割らせるくらい、朝飯前だ」
と、本間が言った。
「しかし――」
「隠してもむだだ。当局に呼び出されて根掘り葉掘り訊かれると思えば、今話した方が楽ですね」
青柳は乾いた唇をなめて、
「刑事さん……。私は怖いんです」
と、打って変った震え声で、神経質に両手をこすり合せる。
「大宮が、ですね」
「名前は分らないが、私のことを知っているのは確かです。殴られ、けられて、しゃべらされてしまいました」
「何をです?」
青柳は、情ない顔でじっと本間を見つめて言った。
「金です。――富田が使い込んだことになっているのですが」
「二十億円の一件ですか」
「どうしてそれを――」
本間は、青柳を見て微笑んだ。
青柳は、暑いわけでもないのに汗を拭いていた。
「――なるほど」
と、本間は肯いて、「同じ話を、大宮にもしたんですね」
「たぶん……」
と、青柳は肩をすくめて、「あいつが大宮という男なら」
「それもそうだ。しかし、青柳さん。あなたは運が良かった」
「運が良かった? あんなひどい目に遭わされてもですか」
と、青柳はふてくされている。
「大宮は、二人も殺している。いや、三人かな。いずれにしても、あなたも殺されたっておかしくなかったんですよ」
「本当ですか」
と、青柳はまた青くなった。
「その二十億の金ですが、富田が木崎と組んでいたとは考えられませんか」
「木崎というと……。富田を殺した人ですね。私には分りません。ともかく、もうあの金のことは忘れたいんです」
「大金ですよ、二十億といえば」
「分ってます。しかし、会社の名前が出てスキャンダルになれば、そんなことじゃすまなくなる。金には換えられません」
「それは、社としての方針ですか」
「ええ、そう受け取っていただいて構いません」
と、青柳は言った。
「分りました」
と、本間は肯いた。「またうかがいます。もし何かその金のことで動きがあればご連絡を」
「分りました。しかし、もう何もないと思いますよ」
青柳は、うんざりした表情を見せた。
本間は、青柳と一緒に応接室を出て、ビルのロビーへ下りて行った。
「大宮は元は私の部下でしてね」
と、本間は言った。「こう言っては何だが、いい意味でも悪い意味でも、頭の切れる男です。奴も、その金の話を聞いた以上、黙っているとは思えない。用心して下さい」
「注意しますよ」
と、青柳は言った。「ご苦労様です」
ビルの正面玄関を出ると、本間は停めてあった車に乗って走り去った。
青柳はその車が遠ざかるのを見送っていたが……。やがて足早にビルの中へ戻って行く。
道の反対側、五十メートルほど離れて、大宮と恵子は車を脇へ寄せて停めていた。
「――行っちゃったわよ、本間って人」
と、恵子は言った。「君原由香の所へ戻ったのかしら?」
「いや、本当なら捜査本部へ顔を出さなきゃいけないんだがな」
と、大宮は言った。「どこかの凶悪犯が捕まってないからな」
恵子はちょっと笑って、
「どうするの? まだここにいるつもり?」
「まあ待ってろ。――今に分る」
大宮は面白がっている様子で、そのまま本間が訪ねたビルの方へ目をやっていた。
「何も起らないじゃないの」
と、五、六分して恵子が言った。
「ちゃんと起ってる」
「何が?」
「車だ。こっちと反対の方向へ百メートル」
大宮に言われ、恵子はその方向へ目を向けたが、
「車って……。何台も停ってるわよ」
「本間の車がある」
「え? さっき出てったのに?」
「どこかでグルッと一回りして戻って来たんだ」
「――確か? でも、どうして?」
「本間も、たぶん青柳って奴から俺と同じことを聞いている。勘が働いたんだろうな。青柳の話には、まだまだ隠れてる部分があるってことに」
「つまり……お金のことで?」
「二十億だぞ。たとえ十円だって、損することはしないのが会社ってもんだ。富田が持ち逃げしたとして、そのままですませるはずがない」
「本間もそのことを――」
「見ろ。青柳だ」
と、大宮は言って、車のエンジンをかけた。
青柳がビルから出て来ると、タクシーを拾って、乗り込む。タクシーの後から、本間の車が間を置いて尾行し始めた。
「ほらな。面白くなって来た」
大宮は、ゆっくりと車を出した。
「どうするの? 尾行する車を尾行するの?」
「面白いだろ? 本間だってベテランだ。こっちも尾行に関しちゃプロだ。――あまり近付くと、本間が気付く」
「見失わない?」
「やるしかないさ」
大宮は、本間の車を、何台かの車の列の先に捉えて、一瞬たりと目を離さない。ちょっとでもよそ見をしていると、他の車の中に紛れてしまう。その点、タクシーは目立つ車体なのでいくらかは楽だった。
青柳がどこかへ行く。――二十億の金が消えたことに、青柳も係っていたのだろうか? 大宮は、細心の注意を払って本間の車を尾行して行った……。
「――ここ?」
と、アキ子が言って、晃子は黙って肯いた。
そのビルを見上げて、アキ子が、
「間違いない?」
と、念を押す。
「ここだよ」
「そう。――じゃ、入ってみましょ」
二人は、ビルの中へと入って行った。
「――失礼ですが」
と、アキ子が声をかける。
「はあ」
と、行きかけていた若い男が振り向く。「――あ、君か」
晃子は、その男を憶えていた。
そう。確か、峰岸っていったよね。この人……。
「どうしてた? 心配してたんだ」
と、峰岸は言った。「さ、入って。先生は今外出中だけど、すぐ戻るから」
「ありがとう」
と、晃子は言った。
二人は、前に晃子が入ったのと同じ応接室へ通された。
「待ってて。今度はいなくなったりしないでくれよ」
と、峰岸は言った。「あのとき、君と話した井原さんって女性がね、行方が分らないんだ。心配してるんだけどね……。ともかく、ここで少し待っててくれ」
「うん」
と、晃子は言った。
峰岸が行ってしまうと、
「今の人、なかなか油断のならない人ね」
と、アキ子が言った。
「そう?」
「抜け目がない、っていうのかな。気を付けた方が良さそう」
アキ子は、一旦座ったソファから立ち上ると、応接室の中をグルッと回ってみた。
「――ペーパーナイフね」
と、銀色に光っているナイフを、棚の中のペン立てから取り上げた。
「紙を切るんでしょ」
「でも、パッと見せれば向うが一瞬ドキッとするでしょ。持ってましょうね」
と、アキ子さんがそのペーパーナイフをしまい込む。
「ここの人は、お父さんの敵だったんでしょ?」
「たぶん。――信用できない人なの」
「それなら、却って利用できるかもしれないわよ。騙されてるふりをすることでね」
と、アキ子さんは言った。「さあ、少しゆっくり落ちつきましょう」
「先生――」
と、峰岸が、太田の戻ったのを見て、声をかける。
「待て」
太田は、自分の机の電話が鳴っているのを見て、
「すぐすむ。――もしもし」
峰岸は、太田の机のそばへ来て、電話の終るのを待っていた。
「――ああ、そうだ。――何だって?」
太田は、一瞬、峰岸のいることを忘れたように、「――確かか? 本当に、倉橋さと子が? ――そうか。分った」
太田が電話を切る。そして、椅子に身を委ねると、じっと考え込んだ。
「先生……」
と、峰岸がおずおずと、「実は――」
「うん?」
太田はふっと我に返って、「どうした」
「今、応接室に、木崎の娘が」
太田は、ちょっとの間ポカンとしていた。
「――あの子供が? 本当に?」
「はあ」
「あそこの家政婦が殺された。木崎の家の中でだ」
峰岸の方がびっくりする番だった。
「犯人は――」
「まだ分らん」
太田は首を振ってから、「木崎の娘は……一人で来てるのか?」
と訊いた。
「向うにしゃべらせるのよ」
と、アキ子が言った。「いいわね。あまり口をきかないようにして」
「それなら得意」
と、晃子は微笑んだ。
「――人間って、不思議なものでね。何かしゃべらなきゃいけない、と思うとベラベラしゃべり出すの。そして、どんな嘘つきでも、百パーセント嘘はつけない。おしゃべりの中で、ポロッと本当のことが洩れてしまうもんなのよ」
アキ子はそう言って、「――来たようね」
足音がドアの外に聞こえて、男の声が、
「分ってるな」
と、どうやら峰岸に念を押しているのだろう。
ドアが開いた。
「――やあ、会いたかったよ」
太田は精一杯の笑顔を晃子に向って作って見せたが、どう頑張ったところで、幼稚園の先生には見えない。
「晃子ちゃん……だね」
晃子は黙って小さく肯いた。太田はゆったりとソファに腰をおろして、
「色々大変だね。君のお父さんとは仲良くしていたんだ。お父さんは君のことをいつも心配していた。――どうして、あんなことをしたのかな」
と、太田は首を振って、「間違ったことをする人じゃなかったがね。それで……」
太田は晃子の様子をじっとうかがうように見ながら、
「君、家から来たのか」
「――いいえ」
と、晃子が言うと、太田は、
「やっと口をきいてくれたね」
と、笑った。「――君の家では、とんでもないことがあったようだ。家政婦さん――倉橋さんといったかな。あの人が殺されてしまった」
太田は、晃子の表情が変らないのを見て、
「知ってるのかね」
と、訊いた。
「聞きました」
「誰に?」
太田は、晃子が返事しそうにないと思ったのか、「――まあいい。ここへ来た以上、君の方に話したいことがあるんじゃないのか」
晃子は黙っていた。太田は少し皮肉っぽく、
「そうしていると、君はお父さんと似ているな。お父さんは僕のことを、いつも見下すようにしていた。お前とは違うんだよ、俺は、とでも言いたげにね」
太田の指が、少し苛々とソファの肘かけの部分を叩いた。――晃子は、太田をじっと見ていた。相手によっては、怖くて真直ぐに目を見られないことが多い。でも、太田なら平気だった。――太田が言った。
「――お父さんは生きてるんじゃないかね」
晃子は、ちょっと肩をすくめた。太田は身をのり出し、
「生きていれば、君が知らんはずはないと思うがね。どうだい、君にお父さんから連絡はなかったか」
「何も」
と、晃子は首を振った。「お父さんは、あの女の人の方を取ったんです」
「女の人……。君原由香か。子供もいる。知ってるね」
「ええ……。あなたはお父さんが嫌いだったんでしょ。お父さんとあの女が幸せになるのを、邪魔して下さい」
晃子の言葉は太田を面食らわせた。
「本気で言ってるのか」
「お父さんは、私のことを捨てて、あの女を取ったんだから」
「うん。――確かにね。それには何か理由がある。君は何を知ってる?」
太田は、晃子がまた黙ってしまうと、「OK。僕らは手を組もうじゃないか。お父さんを見付け出して、びっくりさせてやろう」
晃子が肯くと、
「待っててくれ」
と、太田は立ち上った。「あの峰岸に車を出させる。君原由香の所へ行こう」
応接室から太田が出て行く。
「――あれでいいかな」
と、晃子はアキ子の方へ言った。
「君原由香と会う必要があるわね、確かに」
と、アキ子は静かに肯いて、「でも、お父さんが、もし本当にあなたを捨てたのなら、どうするつもり?」
晃子は、じっと壁にかけられた前月のままのカレンダーを見つめて、
「お父さんがお母さんを死なせたかどうか、知りたいの」
と言った。「アキ子さん。そのペーパーナイフで、人、刺せる?」
青柳はタクシーを降りた。
本間の車は、そのタクシーを追い越し、少し行ってから停った。
大宮と恵子の車はタクシーの手前で停ったが、Uターンして反対側へつけた。
「――気付かれない?」
と、恵子が言った。
「大丈夫だと思うがな」
大宮がバックミラーを動かして、本間の車が映るようにする。
そろそろ夕方になる。見張るには少し不便な明るさだった。しかし、逆に言えば向うからもこっちが見にくい。
ま、何ごともこんなものだ。
「――あれは何なの?」
高い塀に囲まれた古い建物。高さはあまりないので、塀の向うに屋根が覗いているだけである。
「病院だ」
と、大宮は言った。「一度だけ来たことがある。政界の大物が、愛人の子供を堕ろさせようとしてここへ入院させた。ところが女は自殺しちまったんだ。カミソリで首を切った。凄い血だった」
恵子が息を呑んだ。
「そういう……病院なの?」
「見たところ、何だか分らないだろ? 世間にゃ、一般の人間たちと同じ病院へ入るわけにいかん連中もいるのさ」
「名を知られてる人とか……?」
「ああ。名門、良家の血筋とかな。――もちろん、金がものを言う。青柳は、果して誰を訪ねて来たのかな」
大宮は面白がっている。
青柳がその病院の中へ姿を消して、大宮たちは一時間近く待った。
「車が来たわ」
と、恵子が言った。
もう暗くなっている。――タクシーが一台、ライトをつけてその病院の門の前に寄せた。
「呼ばれたんだ。〈迎車〉と出てたからな。青柳が出て来るのかも……」
と、大宮は言った。「それとも誰かと一緒かもしれんな」
窓の外に――スッと影が動いた。
大宮は、目の前に、銃口がこっちを向いているのを見た。
本間が銃の狙いを大宮にピタリと定めている。
本間が窓を下ろせと合図すると、大宮は窓を素直にその通りにした。
恵子は手を伸して大宮の上着の下へ忍び込ませると、大宮の銃をつかんで素早く背中へ手を回して隠した。
「やあ」
と、大宮は微笑んだ。「さすがだ。気付いてましたか」
「そう老いぼれてないさ」
本間はドアから少し離れて、「降りろ」
大宮はドアを開けた。
「――本間さん。ここで突然良心的警官になることもない。そうじゃないですか」
「何の話だ」
「あんたが君原由香に入れこんでるのは分ってますよ。今は青柳が誰と出てくるかの方が先決だ。この勝負は延期しましょうや」
「お前を撃ってからでも、青柳を尾行してやれる」
と、本間は言った。
そのとき、恵子が助手席側のドアを開けて車を出ると同時に、車の屋根越しに本間へと拳銃を構えて狙いをつけた。
「やめて下さい」
と、恵子は言った。「大宮を撃てば、私があなたを撃ちます」
「何の真似だ?」
と、本間は唖然とした。「馬鹿なことはよせ」
「お互いさまじゃありませんか」
恵子は落ちついていた。引金を引くことなど、苦もなくできそうに思える。
本間は、恵子と大宮を素早く目で捉えた。
「狂ってる!」
「まあね。しかし、本間さん、あんたも狂ってるのさ」
そのとき、車の音がした。あのタクシーが走り出すところだ。
「追うんだ」
と、大宮は言った。「本間さん、また会おうぜ」
本間は、大宮と恵子が車へ乗り込むのを見ていた。引金は引けない。
そして本間も自分の車へと駆け戻って行った。
第8章 闇の中
「ここですね」
と、峰岸が車を停めて言った。
太田は、少しの間そのマンションを見ていたが、
「〈305〉だったな、部屋は」
と、独り言のように呟いて、「ここにいるんだ」
と、ドアを開けて車を出た。
「一緒に行く」
と、晃子が言ったが、
「まず、いるかどうか確かめてくる。それじゃ、ロビーで待ってろ」
「僕は――」
「お前は車をいつでも出せるようにしとけ」
太田は峰岸にそう言って、マンションへと入って行く。
もう、すっかり辺りは暗くなっていた。晃子たちもドアを開けて車を出ると、ロビーに入って行った。峰岸は、車を少しバックさせて停めている。
「――静かね」
と、アキ子が言った。
「うん……。お父さんがいつもここに来てたのかな」
ロビーに、小さな椅子とテーブルが置かれていた。晃子はそこに腰をおろすと、
「――鏡、どうしたかな」
と言った。
「鏡?」
「パパが買ってくれた鏡。アキラが中にいるの」
「ああ。お友だちね、あなたの」
「うん。――やさしいけど、時々憎らしいことも言う奴なんだ」
と、晃子は微笑んで言った。「でも――病院にもいた。たぶん……いつでも近くにいてくれるんだよ」
「すてきなお友だちね」
と、アキ子は言って、「――上はどうなってるのかしら」
と、エレベーターへ目をやる。
エレベーターは三階で停っていた。
太田は、〈305〉のチャイムを鳴らした。
空咳をして、返事を待ったが、一向に答はない。もう一度チャイムを鳴らしたが、やはり応答はなかった。
太田はドアのノブを回してみた。ドアが開く!
中を覗くと、明りが点いている。中にいるのか、それとも鍵をかけ忘れて出て行ったのか……。
太田は中に入ると、黙って上り込んだ。正面のドアを開けると、居間の照明も点いていて、誰かがいる様子だ。
「いるのか?」
と、太田は言った。「――由香。どこにいるんだ?」
居間へ入る。見回すほどのこともなく、人の姿はなかった。
しかし、太田は何となく誰かに見られているような気がして、落ちつかなかった。
「おい……。いるんだろ。俺だ。――太田だ。出て来いよ」
太田は、しばらく突っ立っていたが、何の返事もないので、わざとらしく肩をすくめて、
「隠れんぼか。――それもいいだろう。見付けてやる」
太田は居間を出ると、寝室を覗いた。ベッドは寝た跡があり、太田は近寄って見下ろすと、
「ここでも寝たのか、木崎の奴と」
と、苦々しげに言った。「俺の目はごまかせないぞ。俺を選ばなかったのが間違いだったと思い知らせてやる」
寝室を出ようとして、太田はふと足を止めた。作りつけのクローゼット。
天井まで一杯の高さがあり、人が充分に入れる。
太田は、大股に歩み寄ると、クローゼットの戸をパッと開けた。
峰岸は、車のエンジンを切った。
すぐ出られるようにと言われても、いつまでもエンジンをふかしていたのでは、むだというものだ。
車を出て、ロビーを覗く。
「あれ?」
ロビーは空っぽだった。いつの間に? 峰岸はロビーへ入って、足を止めた。
三階へ上って行ったのだろうか? しかし、いつ消えてしまったのだろう。
〈305〉か。――どうしよう?
峰岸は、しばらく迷っていた。太田が上って行って十分ほどたっている。待っていろと言われた以上、勝手に上らない方がいいかもしれないが……。
エレベーターは三階で停っている。
「よし……」
叱られても、いつものことだ。
峰岸はエレベーターを呼ぶボタンを押した。ブーンと音がして、箱が下りて来る。
木崎晃子が三階へ上って行ったのなら、やはり行ってみた方がいいかもしれない。
〈2〉〈1〉と階数表示が点灯して、ガタンという音と共にゆっくりと開いた。
太田が乗っていた。扉が開くと、太田は峰岸の方へ倒れかかって来た。
「先生!」
あわててよけてしまった。太田は前のめりによろけたと思うと、膝をついて突っ伏すように倒れた。
「先生――」
峰岸は唖然とした。何だこれは?
太田は、床に手をついて体を起すと、
「木崎は……」
と呻くように言った。「畜生! あいつ――」
手から支える力が抜けて、太田は床へ再び倒れ込む。
「先生……」
太田の背中に、赤いしみがじわじわと広がって行く。――血か? 本物の血か?
峰岸は呆然としてその光景を眺めていた。
「この道は……」
と、大宮が言った。「君原由香のマンションへ行く道だ」
「じゃあ……」
と、恵子は前方の車をじっと見つめて、「青柳が彼女の所に?」
「でなきゃ、病院にいた誰かだな」
「木崎貴志?」
「それは行ってみないと分らんね」
大宮はハンドルを握って、「ついて来てるか」
恵子は振り返って、
「たぶん……。あのヘッドライトがそうだと思うわ」
「本間も馬鹿じゃない。もう、この道がどこへ出るか、分ってるだろう」
「君原由香が黒幕なのかしら?」
「ともかく、本間はあの女に利用されてる。それに気付いたとき、本間がどうするか、見ものだな」
大宮は、少し車のスピードを落した。
「どうしたの?」
「じきに着く。近過ぎるのはうまくない」
と、大宮は前方をじっと見据えて、「車がいる」
前を行く青柳の乗ったタクシーは、マンションの先で停った。
「どうするの?」
「待て。あのベンツは……」
大宮はブレーキを踏んで、手前で一旦道の端へ寄せる。「太田の車だろう」
「まあ。そう。あれは太田の車よ」
と、恵子は言った。「ここへ来たのかしら?」
「誰も乗ってないな」
大宮は後ろを見て、本間の車が後方に距離を置いて停るのを確かめると、「よし、あの女の所へ行ってみるか」
「大丈夫? 警察があなたを手配してるのよ」
「気にしてりゃ、それだけ目立つのさ」
「でも――」
「待て。青柳だ」
タクシーから降りたのは二人。しかし、青柳一人がマンションの方へとやって来て、もう一人は遠い暗がりの奥に立っているので、それが誰なのかは分らなかった。
青柳がロビーへ入って行くと、
「俺たちも行こう」
と、大宮が促して車を出る。
青柳が、マンションのロビーで足を止める。人が倒れていたのだ。
「あれは――」
と、恵子が中を覗いて言ったとき、急に太田のベンツがエンジン音をたてた。
「どうしたの?」
「中に誰か隠れてた! 追うぞ」
と、大宮は道へ飛び出して、走り去るベンツを見送った。恵子も出て来て、
「何か見えた?」
「あいつが乗ってた。晃子が」
と、大宮は言った。
「おとなしくしてるのよ」
と、君原由香は言った。「妙なことすると、この車が大事故を起すわ」
君原由香が話しかけている相手は、バックミラーの中に映っている、後部座席の晃子だった。
由香は、ちょっと後ろを振り向いて、
「|尾《つ》けて来てるわ」
と言った。「スピードを出すわよ。じっとしてらっしゃい」
由香は苛立っていた。――晃子が何の反応も見せないからである。
こういう子なのだ、と分っていても、バックミラーの中から、じっと無表情な視線で見つめられているのは、いい気分ではなかった。
しかし、今は運転に集中しなくては。夜の道とはいえ、まだそう遅い時間ではない。他の車を次々に追い越し、変りかけた信号を無視して突っ走るのは、相当に危険な技だ。
追って来ているのが大宮だということは分っていた。このベンツの中に身を潜めていたとき、声を聞いている。
あの刑事――いや、元刑事は、なぜか由香を嫌っている。あの男はまともではない。
本間のように、たとえ刑事でも当り前の男なら、由香は思うままに動かしてやれる。あるいは、金が入るかどうかで、相手の反応を予測もできる。
大宮は別だ。――何が目当てか、見当がつかない。
たとえ金のために一旦由香と組んだとしても、結局由香を殺すだろう。
ベンツは少しスピードを落とした。――これ以上は危険過ぎる。
由香は車を脇道へ入れ、ライトを消した。
「静かにしてるのよ」
と、後ろの席の方へ顔を向けて、拳銃を覗かせた。
晃子は、黙ってじっと由香を見ている。
にらまれているのなら、まだ気が楽だ。晃子はただ見ているだけなのである。
車が何台か通って行った。――しかし、大宮のものらしい車は来ない。
何とか逃げ切ったようだ。
そのとき、助手席に座らせていた真衣が泣き出した。由香はハッとした。
「さあ……。どうしたの? ――泣かないで。――さあ」
由香は、真衣を抱き上げた。しっかり抱いてやると、真衣は指をしゃぶりながら、また眠り込んだようだ。
しかし、下ろそうとすればまた泣き出すだろう、と由香には分っていた。
真衣を抱いまま運転するのは危い。できないことではないが、スピードも出せないし、とっさのとき、身動きがとれない。
由香は唇をかんだ。――お願い。静かに寝ていて……。
そっと下ろそうとすると、たちまち真衣は激しく泣き出した。
「後ろに寝かしたら」
突然、晃子が言って、由香は驚いた。
「私、見ててあげる」
と、晃子は言った。「――大丈夫。私もお父さんに会いたいもの」
由香は晃子を見た。
「――お父さんの所へ行くんでしょ」
由香は少し間を置いて、
「ええ、そうよ」
と言った。「じゃ、この子をお願い。今、そっちへ寝かせるわ」
由香はシートベルトを外し、ドアを開けて車を出た。そして真衣を抱き直すと、運転席のドアを閉め、後ろのドアを開けようとした。
片手で真衣を抱いているので、ちょっと危っかしく、ドアへ片手をかけるのが手間どった。
と、晃子がパッとドアをロックしてしまった。
由香がドアを引く。晃子は手を伸し、次々に他のドアもロックしてしまった。
「開けて! 開けなさい!」
由香は窓ガラスを叩いた。キーは差し込んだままだ。由香は車から閉め出されてしまったのである。
油断した! まさか晃子が、こんなことをやれる子だとは思わなかったのである。
由香は、ガラス越しに晃子をにらみつけたが、晃子はじっと見返している。
さっきまで無表情だったその目には、勝ち誇った色が浮んでいるような気がした。
銃! 拳銃があれば――。
由香は、助手席のシートに拳銃を置いたままなのを思い出した。
そのとき、車のライトがサッと当って、由香を照らし出した。
大宮の車!
由香はしっかりと真衣を抱いて駆け出した。真衣が泣き出したが、止るわけにはいかない。
由香は、家並の間の暗がりへと駆け込んで行った。
大宮と恵子は、車を出るとベンツの方へ駆け寄った。
「晃子ちゃん! いた!」
恵子が声を上げる。
「俺はあの女を追う」
と、大宮が駆けて行く。
晃子がドアのロックを外して、恵子がドアを開ける。
「良かった! 無事だったのね!」
恵子は、晃子を抱きしめた。
「さと子さん……死んだの?」
晃子が訊く。
「知ってた? そう。――殺されたのよ」
と、恵子は言った。「だから、あなたのことも心配で。でも良かったわ」
「待って」
晃子は、車の窓の方を振り向いた。――アキ子が中から微笑んでいた。
ありがとう。またね。
晃子は、口の中でそっと呟いた。
「そうだ。――いいものがあるのよ」
と、恵子が晃子を促して車の方へと連れて行く。
「ほらね」
後ろのドアを開けると、床へ立てかける格好で、あの鏡が置いてあった。
アキラ! ――また会えたね!
「拾って来たのよ、あそこから」
と、恵子は言った。
「ありがとう」
と、晃子は言った。
足音がして、
「俺だ」
と、大宮が戻って来る。「逃げられた。赤ん坊を抱えてるくせに、うまく逃げたな」
「どうする?」
「ここで、青柳たちの車が通らないか、見張るよ」
大宮は、一人で一旦車へ入り、脇道の少し奥へバックで入れると、エンジンを切った。
恵子が、晃子を先に後ろの席へ乗せて、
「あのベンツ、どうする?」
「中を覗いてみろ。何かないか」
恵子がベンツを見に行っている間に、大宮は振り返って、
「元気でよかった」
と言った。「何してた?」
「さらわれかけて、車から飛び下りたの」
大宮が目を丸くして、
「そりゃ凄い! よく生きてたな」
と笑った。「――あの君原由香とは、何か話したか」
「何も」
晃子が、由香を車から締め出したことを説明すると、大宮は声を上げて笑った。
恵子が戻って来た。
「何もないわ」
「よし、お前も乗ってろ」
「――本間って人は?」
「見失っちゃいないと思うがな。きっとどこか近くにいる」
大宮は、じっと広い道を見据えている。
――晃子は、そっと視線を下ろして、鏡の中を見た。
薄暗い中に、ぼんやりとアキラの顔が浮んで来る。
アキラ……。何とか、アキラがいなくても生きてたよ。
「分ってる」
と、アキラは言った。「でも、危いぞ」
何が?
「分ってるだろ。お前がベンツの助手席から持って来たものさ」
でも、アキラ――。
「子供の持つものじゃないんだ。間違って使ったらどうするんだ?」
アキラ、これだけは渡さないよ。
晃子は、腰の後ろへ手をやって、固く、冷たい拳銃の手触りを確かめた。
――車がスッと一台、通って行った。
「今、運転してたのは青柳だ」
と、大宮がエンジンをかける。
「でも、タクシーに乗ってたんじゃない?」
「あのマンションに車があったのかもしれん。行くぞ」
大宮は車を出した。
夜は深まりつつあった。
「見失ったわ」
と、井原恵子が言った。
「大丈夫だ。道が曲りくねってるだけさ。少し真直ぐになれば見えてくる」
「でも――」
と、恵子は言いかけて、「本当だ」
前方に、青柳の運転している車のテールランプが見える。青柳一人なのか、それとも誰か乗せているのかは分らないが、ともかく見失ってはいなかったのである。
恵子は、ちょっと信じられないという顔で大宮を見た。
「どうして分るの?」
「勘さ。――詳しいことは知らん。どうして分るのか、なんてことはどうでもいい。そうだろ? 分ればいいんだ、要は」
そう言っている間に、前方の車の灯が見えなくなったが、恵子はもう心配しなかった。大宮はプロなのだ。
しかし、同時に本間のことも心配になってくる。本間も、尾行に関してはプロだ。時々バックミラーで確かめてみても、それらしい車がついて来る気配はない。それでも安心はできないだろう。
今は大宮に話しかけられない。暗い夜の道、しかも木々の間の、かなり曲りくねっている道を辿っている。ハンドルに集中していないと危いのである。
恵子はチラッと後部座席を振り返った。――晃子は目を閉じて、眠っているようだ。
恵子は少し安心して前方へ目を戻した。
晃子のことがどうしてそんなに気になるのか、恵子自身にもよく分らない。子供もいないし、妹があるわけでもない恵子にとって、晃子は何なのだろう?
――父を亡くし、母もいない一人の女の子。十六才といっても、印象からいえば十三、四というのがせいぜいである。
晃子……。恵子は、なぜか分らないままに、この子を守るのが自分の使命であるかのように感じていたのだ。
「――ずいぶん寂しい所へ入ってくのね」
と、恵子は言った。
この先では、誰が待っているのだろう。晃子の父が、実は生きているのだろうか?
木崎貴志が生きていると仮定して、なぜ死んだと見せかけたりしたのか。――二十億円。
当然そうだろう。そのために、富田という男を殺しさえした。
警察の手を逃れるために、自殺を偽装したとして……。
しかし、なぜ倉橋さと子は殺されたのだろう? 木崎がやったのか? それとも別の誰かが……。
恵子自身だって、踏切で危うく電車に押し潰されるところだったのだ。しかも、晃子も一緒だった。
木崎が晃子を殺そうとするとは、とても思えない。とすると、晃子の命を狙っている別の人間がいるということになる。
――君原由香?
だが、君原由香は木崎と組んでいるはずだ。その木崎の子を殺したりするだろうか?
分らない。――富田が二十億円という金を横領して、被害に遭った青柳も、ただ損をして指をくわえているだけの男ではないようだ。
青柳と誰かが組んで、富田の奪った二十億円を狙う。それは充分にあり得ることだ。
二十億円を取り戻しても、それを自分の懐へ入れることもできる。盗んだのは富田と木崎ということになって、ばれることはあるまい。
では、恵子と晃子を殺そうとして車をぶつけたのは青柳だろうか。
「――もうじきだ」
と、大宮が言った。
「どうして分るの?」
「入る道を捜しながら走ってる。スピードが落ちた」
気が付くと、自分の乗っている車のスピードも落ちている。
「――後ろは?」
「見えないな。しかし、本間がもし君原由香を見付けて一緒に追って来ているとしたら、面白い」
「何でも面白がる人ね」
と、恵子はちょっと笑った。「自分が死ぬときも面白がる?」
「もちろんさ」
と、大宮は本気とも冗談ともつかぬ口調で言った。「曲ったぞ」
車がゆっくりと走って行くと、暗い木立ちの間に、一瞬脇へ曲る道が見えた。普通に走っていたら、とても気付くまい。
車がカーブして、かなりひどい道へ入ったので、上下に大きく揺れた。
「――びっくりした」
と、晃子が目をパチクリさせている。
「目が覚めた?」
と、恵子が振り向いて言った。
「うん……」
晃子は真暗な表へ目をやって、「ここ、どこ?」
「前の車に訊け」
と、大宮は言った。「用心しろよ、充分に。これから何が起るか、俺にも見当がつかない」
「分ってるよ」
と、晃子は言った。
ね、アキラ。――覚悟はできてるよね。
アキラが、暗い鏡の中に浮び上った。周囲が暗い方が、よく見える。
「お前……。やめとけよ。もう一回言うぞ」
と、アキラが言ったが、晃子は黙って首を振った。
晃子の右手には、シートの腰の辺りに隠した拳銃が握られている。
「ライトを消すぞ」
と、大宮が言った。
ライトだけでなく、車そのものも停った。
大宮がエンジンを切ると、静けさが周囲を一瞬の内に包んだ。
「じっとしていろ」
大宮は、しばらく前方の暗がりを見つめていた。
すると――突然、花火でも上ったのかと晃子は思った。家が――窓を明るく輝かせて二階建の家がすぐそこにあったのである。
「派手なもんだ」
と、大宮は笑った。「車をその辺へ隠す。待ってろ」
巧みにハンドルを操って、車を木々の間へ入れる。
「――よし、外へ出よう」
と、エンジンを切る。
三人は車を出て、周囲を見回した。もっとも、見回したところで何も見えないのである。
「誰の家?」
と、恵子が言った。
「さあな。一つ、訪問してみようぜ」
大宮は、静かに歩き出して「――足下に気を付けろよ」
と、二人へ言った。
晃子の方へ、恵子の手がのびて来た。
「大丈夫だよ、私」
と、晃子は言った。「一人で歩ける」
「でも……」
晃子は恵子がそうしたがっていることを、敏感に感じて、恵子の手を取った。もちろん左手で。
「ついて来いよ」
大宮は大胆に歩いて行く。それが却って無事に歩ける理由なのかもしれない。
――三人は、その建物の裏側へ出た。というより、近付いてみると裏だったのである。
「古い家ね」
と、恵子は見上げて、「割と大きい」
「ああ」
大宮は肯いた。
「さて、少し休みたいだろうが、ここじゃ、休みたくても休めない。入るか」
「大丈夫?」
恵子は建物を見上げた。「でも――どうして、全部の窓の明りが点いてるの?」
大宮は少しの間黙っていたが、やがでだしぬけに恵子にキスした。
「何してるのよ」
赤くなっても、暗くて分らなかったろう。
「お前もたまにゃ、いいこと言うな」
「ほめてるつもり?」
大宮は建物を見上げて、
「全部の窓に明りが点いて、カーテンを引いてない」
と、二人の顔を見て、「分るか?」
「分らないわ」
「――目印だ」
と、晃子が言った。「灯台みたいに、この家が目印になる」
「そうだ。頭がいいぞ」
大宮が晃子の肩を叩く。恵子はいささかむくれて、
「せいぜい仲良くして」
と言ってやった。「じゃ、誰か来るのね」
「それを見届けてから中へ入った方が良さそうだ」
「本間?」
「想像はよそう。いずれ分る」
大宮はあわてる様子もなかった。
晃子たち三人は、その奇妙な家の裏手をそっと歩いて行った。
どの窓も、明りで白く輝いている。地面に四角い窓が開いたように光が射していた。
「あんまり動くと見られるわ」
と、井原恵子が言った。
「うん。――しかし、できるだけ表玄関の近くに行っておきたい。肝心の客が来たとき、見えないかもしれないだろ」
と、大宮はのんびりと言った。
様々な謎が解けるかもしれないというのに、大して興奮している風でもない。恵子の目には、どんなことでも――たぶん、自分の死さえも――楽しんでしまう、この男の、どこか狂った、それでいて不思議に人をひきつける生き方がくっきりと映っていた。
「――誰か来る」
と、突然晃子が言った。
人の気配を、自分でも驚くほど敏感に感じ取るようになっていた。
「隠れないと――」
と言いかけた恵子の手を、大宮がつかんで素早く駆け出した。
「待って。あの子――」
恵子が言うのを封じるように、大宮は引く手の力を強めた。二人の姿はたちまち闇の中に消えた。
――晃子は、一人で残っていた。
なぜなのかはよく分らなかったが、「これでいいんだ」と感じていた。こうなるのも予定の内だったのだ、と……。
地面の小石を踏む小さな音が近付いて来る。晃子は少しも怖くなかった。
そう。私はこれを待ってたんだもの。
「――誰だ」
押し殺した声が聞こえた。
「あの子だわ」
と、女の声がした。
本間と、君原由香の二人である。やはり、ちゃんと後を尾けて来ていたのだ。
君原由香は、赤ん坊を抱いていた。本間がうまく見付けてくれたのだろう。
「さっきは、やってくれたわね」
君原由香が、晃子をにらんだ。「油断できないわよ。ぼんやりして見えるけど、この子」
「まあ、落ちつけ」
本間は、構えていた拳銃の銃口を下ろした。「この子が、いわば切り札になるだろう。この中で何が起るとしてもな」
「――他の二人はどこに行ったの?」
と、由香が訊いたが、晃子は口をつぐんでいた。
「自分に都合の悪いときは無口になるわけね。可愛げのない子」
由香は、よほどさっき晃子に車から締め出されたのが悔しいらしい。
「まあ落ちつけ。幕が上るのはこれからさ」
本間は、晃子の方へやって来ると、その肩に手をかけた。
晃子は、腰の所に拳銃を挟み込んで、セーターで覆って隠していた。本間も、まさか晃子がそんなものを持っているとは思ってもみないのだろう。
「――どうするの?」
と、由香が訊く。
「訪問しようじゃないか。この子がパスポート代りだ」
と、本間は言った。
「――あの子を見捨てるの?」
と、恵子は押し殺した声で言った。
「落ちつけ。あの子は大丈夫だ。こっちが出て行けば血を見ることになる」
大宮は小声で答える。――二人は木立ちの奥に身を潜めている。少し離れれば、向うからは全く見えない。
「私たちのことを知ってるのよ」
「もちろん知ってる。どこかに隠れて見ていることも。だから面白いんじゃないか」
恵子はため息をついて、
「あなたには付合い切れないわ。でも、あの子のことは心配」
「もちろんさ。俺に任せておけ」
大宮は恵子の肩に手を当てた。――恵子はそのやさしさに一瞬たじろいだ。
この同じ手が、妻とその恋人を殺したのだとは信じられないようだが、しかし――。
今はもう引き返すことなどできないのだ。たとえ何が起ろうとも……。
「何を考えてる?」
と、大宮は訊いた。
「何でもないわ」
と、恵子は首を振った。
「じゃ、見物に行くか」
と、大宮は言った。「窓に近付くなよ。妙に逃げると危い。俺のそばを離れるな」
「ええ」
と、恵子は肯いて、大宮の手を握った。
本間は、玄関のドアを叩いた。
由香は赤ん坊を抱き直した。
ドアの向うに、人の気配があって、
「誰だ?」
と、男の声がした。
「警察です。開けて」
中で、相手がためらっているのが気配で分る。
「開けなさい。銃で鍵を壊して入ることもできる」
「待ってくれ」
と、向うがあわてて言った。「開けるから。――少し待ってくれ」
やや空白があった。
「何してるのかしら?」
と、由香が言った。
「相談しているんだろう。大丈夫」
晃子は、ドアの向うで何が待っているのだろう、と思った。いずれにしても、想像することはやめた。
そうだよね、アキラ。ありのままを受け入れるしかない……。
やがてドアがゆっくりと開いて、隙間から男の片目が覗いた。
「――あんたですか」
青柳がちょっと意外そうに言った。
「やあ」
本間は言った。「本当の話をうかがいたくてね。――連れもそう思ってるんでね」
青柳は、晃子と、赤ん坊を抱いた由香を眺めて肩をすくめた。
「どうぞ」
「お邪魔しますよ」
本間が先に中に入り、晃子はチラッと由香の方を見た。由香は、どうやら晃子に背中を見せたくないらしい。
晃子が続いて中へ入った。
――かなり広い、古い屋敷。屋敷というより山荘と言った方が近い。
太い柱を組んだ天井や、黒ずんだ板壁など、かなり古いものに思えた。
「ここは何です?」
と、本間が訊く。
「社で持っている建物なんですよ」
「大したもんだ」
「――入って下さい」
と、青柳は言って、居間らしい広い部屋へ入って行く。
「もう一人は?」
と、本間が訊く。
青柳は、ちょっとためらってから、
「どこかその辺に……」
と首を振って言った。
晃子は、その広い部屋の奥まった薄暗がりに誰かいるのを、ちゃんと見てとっていた。
あれは誰だろう?
窓辺に立って、晃子たちに背中を向けている男がいた。
あの後ろ姿は……。きっとそうだ!
晃子が部屋の中央まで進んで行くと、窓ガラスに晃子の姿が映ったらしい。その男がびっくりしたように、
「――晃子か」
と言った。
少しこもった声だったが、その声は晃子の記憶に残っていた。
「お父さん……」
男がゆっくり振り向くと、晃子は息をのみ、叫び声を上げそうになるのを、何とかこらえた。
その男の顔は、目と鼻だけを除いて、包帯で一杯に巻かれていたのである。
「――びっくりさせたようだな」
と、その男は言った。「晃子……」
「お父さん? ――本当に?」
知っていたのだ。きっとこうなるだろうと思った。いつか、父と対面することになるのだと……。
「その顔は?」
と、晃子が訊くと、
「これか。――子供は正直だからな。ごまかせるのは大人だけだ」
男は、包帯に巻かれた顔をそっと手でさすった。
「けがしたの?」
と、晃子が訊く。
「いや、そうじゃないようだ」
と言ったのは、本間だった。「死んだことにして、木崎さん、あなたは病院で整形手術を受けていたんですな」
本間の後ろに、その男は赤ん坊を抱いた君原由香を見た。
「――由香」
と、その男は言った。
顔のほとんどを包帯で覆われて、男の表情は全く分らなかった。その声にも、感情らしいものはうかがえない。
君原由香は、赤ん坊を抱いたまま、ゆっくりと進み出て、
「あなた」
と言った。「待った?」
「ああ……」
「本間さんは私たちの味方よ。大丈夫」
と、由香は言った。
「しかし、警察の人間だ」
と、青柳が文句をつけるように言った。
「警察の人だって人間です」
と、由香は言い返した。「ね、本間さん」
「ああ……。初めから気が進んでいたわけじゃありませんがね」
本間は、部屋にいる誰にも近付くことなく、むしろ少し距離を置いていた。
「用心深い人だ」
と、青柳は苦笑した。「我々の誰かが襲いかかるとでも?」
「いや、用心するのが習慣のようなものでしてね」
と、本間は言った。「まず一つご提案したい。今、この家の外には、殺人犯が潜んでいます。大宮といって、私の部下だった男ですがね。少々狂ってるが、有能な刑事ですし、銃も持っていて、頭も切れる」
「あんたが連れて来たんですか」
と、青柳は言った。「あの男には会いたくない」
青柳は、「大宮」という名前を聞いただけで顔から血の気がひいた。
「好きこのんで、連れて来やしませんよ」
と、本間は言って、晃子の方を見た。「ただ、大宮はその子と行動を共にしていたんでね」
「気が合ったんでしょ」
と、由香が皮肉混りの口調で言った。
「――晃子。本当か」
「悪い人じゃなかったよ」
と、晃子は言った。「さと子さんも、そう思ってた」
「しかし、もう何人も殺している」
と、本間が言った。「いいですか、ここであの大宮に襲われたら、まず一人も助からんでしょう。――もちろん、私も用心していますがね」
青柳は、チラッと包帯を巻いた木崎の方を見た。
「用心するといっても、限度がある」
と、木崎が言った。「大宮とか言いましたか。その男も、何か狙いがあってここへ来ているんでしょう。それなら、突然我々を殺したりしますまい」
「あの男は普通じゃないのよ」
と、由香は言った。「常識の通用しない男だわ。危いわよ、見くびると」
「私なら、大宮を仕止められる」
と、本間は言った。「奴の出方は、大体分っていますからね。しかし、それには充分な報酬がいただきたい」
木崎は時計の方へ目をやって、
「時間はある。お手並を拝見してからの支払いになりますな」
と言った。
「それで結構」
本間は、アッサリと呑んで、「まずこの一階部分だけでもカーテンを引くこと。外から狙ってくれと言っているようなものだ」
木崎は、青柳の方を向いて、
「この部屋のカーテンを引いてくれ」
と言った。
「――閉められちゃう」
と、恵子が言った。「見えなくなるわ。どうする?」
「まあ、焦ることはない」
と、大宮は言った。
二人は、居間を覗く窓のそばに身を潜めていた。もちろん、夜の暗がりの中で、向うからは見えていないはずだ。
「どうせ本間には分ってる。こっちがどこにいるかも見当がついてるだろう」
「でも……。晃子ちゃん、大丈夫かしら」
恵子は、ともかく晃子の身が心配なのである。
「今、あそこでどうということはないさ」
と、大宮は言った。
カーテンが引かれ、二人の視界から居間の光景が消えた。しかし、大宮はのんびり構えている。
「今、あそこに集まってる連中は、大方みんな二十億の金の行方に関心があるはずだ。目の前に現金があるわけじゃないんだから、血を血で洗う抗争が始まることはないさ。誰もが、まず金のありかを知りたいんだ」
「そうか……。忘れてたわ、お金のこと」
恵子は本気で言っていた。「あの、包帯で顔の見えない男、確かに木崎なのかしら」
「本間の言った通りだろう。大方、整形して顔を少し変えて逃げるつもりだろうな」
と、大宮は言った。「それよりも、木崎と君原由香の様子さ。面白いと思わないか」
「面白い? 何が?」
「木崎が、死んだと見せかけて、生きていたとすると、当然、子供を産んでいる由香と一緒に消えるつもりだと思えるだろ? ところが、あの二人、接し方が微妙によそよそしい」
「そうね、私もそんな感じを受けたわ」
恵子は正直に言った。「でも、どうしてだか、見当もつかない」
「そうか? ――もし、あの二人が……」
と、大宮が言いかけて、「――誰か来たぞ」
「え?」
恵子がギクッとする。すぐそばに人がいるのかと思ったのだ。
「車のライトだ。今、遠くに見えた」
「びっくりさせないでよ」
と、恵子は胸をなで下ろす。
しかし、その後、車のライトは一向に近付いて来なかった。
「――来ないじゃないの」
「手前で降りて、歩いて来るんだ。用心しよう」
大宮が息を殺している。恵子も、その大宮の腕を暗がりの中でつかんでいた。
「――誰も来ないわ」
「静かに。しゃべるな」
と、大宮は囁くように言った。
そのとき、その山荘風の建物全部の明りが、一斉に消えた。
「停電?」
「いや、違うだろう。誰かがブレーカーを切ったんだ。中はどうなってるのかな」
大宮は面白がって、「そばへ行ってみようか」
「危いわ」
と、恵子が言ったとき、闇の中に、バアンと大きな音がして、ガラスの割れる音。
「――銃声だ」
と、大宮は言った。
明りが消えたとき、晃子は一人でソファに座っていた。
本間が、
「金は充分にある。――そうだろう? 失敗しないためには、仲間割れするのを、何としても避けることだ。それをやったら必ず捕まる」
と言った。
「説得力があるわね。捕まえる側の人の話ですものね」
と、由香が言った。「――あら、どうしたの?」
赤ん坊がむずかり始めた。
「はいはい……。本当に手間のかかること」
由香が、赤ん坊をソファに寝かせる。
――晃子は、じっと父を見ていた。
なぜ、父は一度も「我が子」を抱こうとしないのだろう?
君原由香との間に産れた子を、なぜ見るだけなのだろう?
「しかしね」
と、青柳が咳払いして、「一人ふえるってことは、何千万、何億の損になるんだ。そう簡単に――」
突然、明りが消えて、真暗になる。
「――何だ?」
青柳がキョトンとした声を出す。
「誰かが明りを消したぞ」
と、本間は緊張した声を出した。「大宮かもしれん。用心しろ」
「明りを点けて!」
と、由香が叫ぶように言った。「この子が――」
そのとき、闇の中に銃声が響いて、窓ガラスが割れた。
「伏せろ!」
と、本間は反射的に言った。「危いぞ!」
「この子を抱いて、床に伏せることなんてできないわ!」
由香の怒った声が響いた。
カチッと、小さな音がして、静かな居間の中で明りが灯った。
ライターの火が揺れる。頼りない明りだが、ないよりはましだったろう。
「そのまま、動かないで」
と、本間が言った。
ライターを点けたのは青柳だった。本間は起き上ると、
「青柳さん、そのままライターの火を上げてて下さい」
と言った。「おそらくブレーカーを切ったんだ。ここのブレーカーがどこについてるか、分りますか?」
青柳は眉を寄せて考えていたが、
「さあ……。たぶん、玄関の近くだと思いますがね」
と言って、首を振った。「確かじゃありません。外かもしれない」
本間は静かに立ち上って、拳銃を抜くと、
「懐中電灯の一つでもあればな……」
と、呟くように言った。
そのとき、赤ん坊の甲高い泣き声が居間の中に響き渡って、本間も飛び上るほどびっくりした。
「静かにして。お願いよ」
と、由香が真衣を抱っこして、ソファの方へすり寄るように動いた。
「赤ん坊に、泣くなと言っても無理だろうな」
と、本間は言って、「みんなここにいて下さい。玄関まで行ってみる」
「危いわ」
と、由香が言った。「もし、大宮だったら――」
「ここで待っていても同じさ」
と、本間は言って、そっと居間の戸口の方へと足を運んだ。
ドアが閉っている。本間は眉をひそめて、
「確か、開いてたんじゃないか?」
「ええ、きっと誰かが閉めたのよ」
本間は舌打ちした。自分が真先に気付かなければいけなかった。それなのに……。
本間は左手でドアのノブをつかむと、一つ息をついて、一気に開け、同時に身を低くして拳銃を構えた。
そのとき、パッと明りが点いた。まぶしいほどの光が、居間に溢れたのだ。
「――明るくなった! やれやれ」
青柳はホッと息をついた。
「明るいから安全というわけではありませんよ」
と、本間はニコリともせずに言った。「油断しないで。よく用心して下さい」
「ああ。しかし――真暗よりゃましじゃないか」
「ね、誰かあの子を見た?」
と、由香が言った。
「何だって?」
と、本間が言った。「おい……」
いない! ――晃子の姿が消えていたのである。
「どこへ行ったんだ?」
と、青柳がライターをポケットへしまって、「たった今までそこにいたのに……」
「出て行ったの? あの真暗な中を」
由香は唖然としている。――真衣がまた泣き出したので、由香はあわててソファに寝かせた。
「――妙な娘だ」
と、本間は言って、ドアを開けると居間の外を覗いた。「いないな。どうやって姿を消したんだ?」
「晃子は、暗がりでも目がきく」
と、木崎が言ったので、本間は面食らった。
「本当か?」
「もちろん、猫みたいなわけにはいかないにしても、並の人間よりは暗がりで自由に動けるんだ」
と、木崎は言った。「小さいころから、暗い部屋の方が好きだった。だから慣れてしまったんだろう」
「とんでもない子供だな」
と、本間は首を振って、「出て行ったのかな、外へ?」
「さあね。僕にも分らないよ」
と、木崎は言った。
「ともかく、今は外から大宮が入って来ることの方を用心しなくちゃならん。たぶん、大宮が明りを消して、その間に中へ入り込もうとしたんだ。いや、もう入ってるのかもしれない」
本間は、廊下の方を注意しながら言った。そして、二人の男を眺めながら、
「さあ。今の間に金のことを聞いておきたいね。私以外がみんなやられたら、金は永久に眠り続けることになる。いい加減で秘密をしゃべってくれてもいいんじゃないか」
木崎と青柳が顔を見合せる。そして由香も、大人しくなった真衣をしっかりと抱いて、男たちの話に聞き入っている。
一方晃子は――。
外へ逃げてはいなかった。晃子は暗くなると窓の方に向けて拳銃を構え、一発撃って、みんなが騒いでいる間に居間を出て、階段を上ったのだった。
上り切ったところで、少し様子をうかがっている内に、明りが点いたのである。
晃子は、誰かが捜しに来るだろうと思った。
――ドアが、いくつか並んでいる。
一番奥まで行くと、両開きの大きなドアがある。晃子はそれをそっと開けてみた。
明りが点いている。――広い寝室だった。
ダブルのベッド。それも普通より特に大きいようだ。それを置いて、なお広々としているのだから、部屋の広さが分る。
晃子は、ベッドの下を覗いたが、入れるほどの隙間はない。
後は……壁に作りつけのクローゼット。
晃子は、その扉を開けてみた。中は、ハンガーにかけた男もののガウンやスーツ。
晃子はともかく一旦この中に入っていることにした。簡単に見付かってしまうかもしれないと思ったが、他に思い付かない。
扉を閉めると、クローゼットの中の小さな明りも消える。
しかし、扉の合せ目に、縦に細い隙間ができていて、そこから射し入る光で、結構中も明るい。晃子はホッとして、クローゼットの中で座り込み、立て膝をして抱え込んだ。
もちろん忘れていない。座っていても、晃子の手は、隠し持った拳銃を確かめていた……。
「――どうなってるの?」
と、井原恵子が言った。
「誰かが中へ入ったんだろう」
と、大宮は言った。
「どうするの、私たち?」
「さて……」
と、少し考えてから大宮は、「本間を|殺《や》るか」
と言った。
「殺すの? 刑事を? 命を捨てる気でなきゃ、とても無理よ」
と、恵子は首を振った。「本間はあなたの上司でしょ」
「ああ。しかし……もう呑気なことを言ってられる状況じゃない。本間はまず俺を見たら発砲するだろう」
大宮は、外の暗がりの中で軽く恵子の肩を叩くと、歩き出した。
「待って!」
恵子があわてて言う。「一緒に行くわ。そう決めたんだもの」
「いや、やめとけ。俺が勝てばいいが、本間が勝って――ということは俺が死んだってことだ。そのときは、ここから一人で逃げろ。一緒に入って行けば、お前は俺と同罪になりかねないんだ」
「大宮さん……」
「大丈夫。そう簡単にやられやしない。ここで待ってろ」
と行きかける大宮を、また引き戻し、
「抱いて」
と、恵子は言った。
一瞬の後、恵子は大宮にキスしていた。大宮が力一杯恵子を抱きしめる。息ができないほどの力強さで抱きしめられ、恵子はめまいがした。
「――じゃ、後でな」
大宮は、パッと断ち切るようにその場を離れた。
恵子は、一人で暗がりの中にいた。
朝が来るのを待っていたら、どうなるだろう? いや、それまでには何もかも終っている。
大宮と、あの本間という刑事。どっちが生き残るのだろう。
恵子は、息を殺して何か聞こえて来るのを待っていた……。
「――中を調べる」
と、本間は居間の中の各々に言って、「誰も動くな。いいね」
「気を付けて」
と、由香が言った。
本間は居間を出ると、廊下をさっと眺め回した。
もし、あの子が逃げるとして、どっちへ行くか。外へか? 内へか?
本間は、「内」に賭けた。
一階部分のドアを一つずつ開けて、中を調べ始めたのである。
第9章 炎上
暗がり。
――晃子は、一風変った子で(自分でもそうだろうと思っていた)、その名とは逆に、暗い所が好きだった。
普通、子供は暗くて狭い所に押し込められたりすると怖がって泣くものだが、晃子の場合は、むしろ暗がりの中は安心できる居場所なのだった。
暗くて狭い場所。そこは母親の腕の中のようで、晃子はそこで小さく体を丸め、じっと目を閉じていると、自分がこの世界から溶け出してどこか別の空間へ自由自在に流れて行けるような気がした。
そこには、お父さんがいて、アキラがいて、そして――そう、お母さんもいる。
お母さん……。
晃子は、自分がどうしてクローゼットの中に隠れたのか、分ったような気がした。
ここが一番安全なんだ。ここでは、私は暗がりと一つになって、誰からも見えない「透明人間」になっていられる。私自身が「暗がり」になる。
もう誰も、晃子を追いかけたり傷つけたりしない。パパだって――。
パパだって? ――パパが私を傷つけたことなんかあっただろうか?
パパはいつも私の味方で、私を愛してくれた。そうじゃない?
「そうかな」
と、アキラが言った。
アキラ。どうしてそんなこと言うの?
「考えてみりゃ分るだろ」
と、アキラは静かに言った。「お前のことを愛してたら、お前を捨てて逃げたりするか?」
捨てたんじゃないよ。パパは、私のために逃げたんだよ。人を殺して、他にどうしようもなかったんだよ。
「お前にも分ってるはずだろ。親父さんは生きてたんだぜ。しかも整形手術まで受けてさ。あのまま、君原由香って女と二人で、どこかへ行っちまうつもりだったんだ。それで、どうしてお前のこと愛してるなんて言えるんだよ?」
アキラ。――今日は凄く意地悪だね。
「そうじゃない。お前のためだ。――な、本当のことを見なきゃだめだ。お前だって、いつまでも目をそむけてちゃいられない。いつかは、本当のことと対決しなきゃいけなくなる」
やめて、やめて!
晃子は、クローゼットの中で、膝を抱えてじっと息を殺していた。もう黙って! 何も聞きたくない!
「聞けよ、晃子……」
「いやだ!」
「晃子……」
アキラなんて大嫌いだ! あっちへ行って! 向うへ行って!
「晃……子」
そう。――一人にして。そっとしといて。
何も見たくない。何も知りたくない。本当のことなんて、どうだっていい。
私はただ、ここでこうして誰にも構われずに、じっとしていたい。誰からも忘れられて、誰にも気付かれずに……。
ドアの開く音がして、誰かが寝室に入って来た。
本間が出て行った後、木崎貴志と君原由香、そして青柳の三人は、しばし口をきかなかった。ただ一人、元気に手を振り回しているのは、由香の腕の中の真衣だった。
木崎の包帯に包まれた顔は、何の表情も垣間見せないせいか、まるで舞台の黒子のように、そこにいるのにいない、という不思議な印象を与えた。
「――あの刑事さんは」
と、由香が言い出すと、
「しっ!」
青柳が飛びはねるように立ち上って、ドアへ駆けて行くと、そっと廊下を覗いた。
「やれやれ。大丈夫」
と、青柳は息をついて、ドアを細く開けたままにしておいた。「この方が、戻って来たときに分るでしょう」
「――どうするの?」
と、由香が言った。「一人ふえれば、分け前はずっと減るわ」
「あんたは、その子も一人に数えろと言い出すんじゃないか」
と、青柳が冗談とも本気ともつかぬ口調で言った。
「私はこの子のために、言われた通りにしてるのよ」
と、由香は言った。「あの刑事にも抱かれたわ。体を張ってきたのよ。少しぐらい余計にいただいてもいいと思うけど」
「ほら、やっぱりね」
「でも、結構」
と、由香は肩をすくめて、「何しろ物騒なのが大勢いるんだものね、ここには。命あってのお金だわ。予定の通りで結構よ」
「本間と楽しんだんじゃないのか」
と、木崎が言った。
由香がキッとなって、
「そんなこと言われる覚えはないわ」
と、頬を紅潮させた。
「ま、落ちついて」
青柳がなだめる。――人が争うのを見ているのが嫌いな性格らしい。
「ここは、あの本間って男に頼るしかないですよ」
と、青柳は二人の顔を見やって、「大宮って、狂暴な奴がいるんだ。あいつは本間に任せましょう」
「でも、大宮のことを大げさに言って、本間はもっとよこせって言い出しそうよ」
由香は、真衣を抱き直した。
「奴が大宮を片付けてくれりゃ、もう怖いもんはないですよ」
と、青柳は言った。「そのときになったら、本間はどうにでもなる。刑事といったって、こっちも弱味を握ってるんだ。同じ立場ですよ」
「しかし、後で何かあったときには役に立つさ」
と、木崎は言った。「一人、警察の人間が仲間にいるってのは悪くないことだ」
「先々のための投資か。ま、そうですがね」
と、青柳が、ビジネスマンらしい言い方をした。
三人はじっと待っていた。
――何かが起るのを。
誰か来た。
クローゼットの中には、細い隙間からの光が射し込んでいた。そこへ目を当てれば、寝室の中のごく一部は見える。
しかし今入って来たのが誰なのか、その姿は目に入らなかった。
そうなんだ。いつもこうしていたような気がする。
晃子は、クローゼットの扉の合せ目に目を当てながら、まるでデジャ・ヴュのように、突然の懐しさに捉えられていた。
晃子。――晃子、どこなの? いるの? いたら返事して。
ママ。――ママの声だ。
こっちだよ。ここにいるよ。
でも、もちろん晃子は黙っている。
だって、ママは当然すぐにここへやって来るだろうから。
誰だって、クローゼットの中に隠れてることなんか、すぐ気が付くさ。ね、ママ。
でも――ママは、そんなこと考えてもみないようだった。
そう。ママは面倒くさがりだったんだ。
何かをていねいにするとか、あれこれ考え尽くして行動するとか、そんなことはママの一番苦手なことだった。
ね、ママ? そうだよね。
だから、クローゼットをいちいち開けて調べるなんてこと、しなかったのだ。
晃子……。もう、あの子ったら!
どこかへ出かけてるんだろう。
――突然、男の声がした。
ママは一人じゃなかったのだ。
どこかへ閉じこもって、何時間でもいられるのよ。妙な子なの。
じゃ、却って邪魔にならなくていい。なあ?
男の声が、なれなれしい。――晃子は、ママが短く笑い声を立てるのを聞いた。
やめて! ――ねえ、やめてよ、こんな時間から! 本当にもう!
口とは裏腹に、ママは面白がっていた。
そして、ベッドのきしむ音がして、ママが深くため息をつくのが、晃子の耳に聞こえて来た……。
誰かが、寝室の中を歩き回っている。
あれはママじゃない。――もちろんそうだ。晃子だって分る。
ママ……。ママはもういない。死んでしまったのだ。
それなのに、どうしてママの声がするんだろう?
ママが笑っている。くすぐったがって、暴れているらしい。ベッドがギイギイと音をたてる。
ママの笑い声。――晃子は、ママがあんな風に笑うのを、聞いたことがなかった。
ママ! やめて。笑わないで! そんな風に笑わないで!
そして――突然ママの笑い声は止った。まるでTVをリモコンで消してしまったようだ。
でも、TVならそれきり黙ってしまうだろう。このときはそうじゃなかった。
「どうも」
と言ったのは、もう一人の男だった。
ベッドがきしむ。――そして、
「出て行け」
と言ったのは……パパだった。
足音が一つ、寝室を出て行く。その後、またしばらく静けさが来た。
「――何か言えば?」
と、ママは言った。
「何を言うんだ」
「言うことがないのなら、殴るとか、けるとか。――殺すとかね」
と言って、ママはまた笑った。
「よせ。――笑うな」
パパの声は冷ややかだった。
「もう沢山よ!」
ママが突然叫ぶように言った。
「そうだな。――もう沢山だ」
パパは静かに言う。その静かな言い方が、聞いている晃子には恐ろしかった。
「あの子はあなたにあげるわ」
「――どういう意味だ」
「私、出て行くの。もう我慢できない」
ママはそう早口で言うと、ベッドから下りて、寝室を出て行く。
「待て! ――おい、話がある。待て!」
パパがそう言って……。たぶんパパはママを追いかけて行ったのだ。
晃子には、何も見えなかった。もちろん。
クローゼットの扉の合せ目から見える、細長い、糸のような隙間だけが、晃子の知っている真実だったのである。
ただ――足音が聞こえた。寝室を駆け出して行く足音。
それから――。それから、何が聞こえただろう?
ママの叫び声。そして、何かを床に打ちつけるような激しい物音。そして――また家の中は静かになった。
ママ……。ママ、どうしたの? 何があったの?
晃子は、クローゼットの中で、まるで映画でも見ているような気分で、あのときの自分を眺めていた。
あのとき何があったのか。――今の晃子には漠然と分る。でも、あのときはどうだったろう?
晃子が知っていたのは、もうママが二度と笑わないということだけだった。
――何か、物音をたてていたらしい。
「誰かいるな」
と、あの本間という刑事の声がした。「出て来い」
「すぐ出て来い。撃つぞ」
と、本間は言った。「三つ数える。その間に出て来い。でないと引金を引く。――「一つ」
晃子は、動かなかった。
「二つ」
本当に撃つだろうか? 晃子は、自分が危いということよりも、本間が本当に三つ数えた後で引金を引くかどうかに関心があった。
「聞いてるのか! ――三つ」
晃子は、じっと息を殺していた。――さあ、撃って。約束したんだから、本当に撃って!
が、本間は引金を引かなかった。
少し間があって、パッと扉が開く。
「――どうして返事しない」
と、本間は晃子を見て、「聞こえてたんだろう、俺の声が」
晃子は答えなかった。――嘘つき。嘘つきめ。
三つ数えて、返事がなかったら引金を引くと――。あれほど言っておいて、結局、やらないじゃないの。嘘つき!
「さ、出て来い」
と、本間は促した。「あいつを待ってるのか? 大宮を? あいつがお前のためになんか、危い橋を渡ると思ってるのか」
晃子は、ゆっくりとクローゼットから出た。しばらくうずくまっていたので、腰が痛い。
「人騒がせな奴だ」
と、本間は言った。「さあ、下に行くんだ」
嘘つき。どうして撃たなかったのよ?
晃子は、動かなかった。
「どうした? 何を突っ立ってる。聞こえたんだろ、俺の言ったことが」
本間は、行きかけて振り向いた。
晃子は、本間を見つめた。本間には面白くなかったらしい。
「何だ、その目は」
と、不愉快さを隠そうともせず、「人を馬鹿にしてるな」
「当然だろう」
と、ドアの所で声がした。
本間がハッと振り向く。――大宮が、拳銃を手に、立っていたのだ。
――本間も手に銃を持っていた。しかし、今その銃口はダラリと床を向いていた。
「死にたいか?」
と、大宮は言った。
「どっちがだ」
「俺の方が早いぜ。引金を引くだけだ」
「こっちもさ」
本間が銃口を少し持ち上げて、晃子へ向けたのである。「さあ。この子を死なせたいか?」
晃子は、この奇妙な「三角関係」の成り行きを眺めている。いや、本当はのんびりしたことを言ってはいられない。自分が撃たれるかもしれないのだから。
「お前にゃ撃てないさ」
と、大宮は言った。「お前はまともだからな。しかし、俺はそうじゃない」
――本間は、恐怖を覚えていた。
「死」が、肌に触れるところまでやって来ていたのだ。本当に? ――九九パーセント、それが本当だと知っていても、「まさか」という思いが本間の手を鈍らせて、引金にかかる指を凍らせた。
これが「死」か? こんな簡単なものなのか……。
晃子が床の上にパッと身を投げ出した。本間が一瞬戸惑う。大宮が頭を下げた。
銃声が、山荘の中に響いた。
木崎も、由香も、青柳も、みんながもちろんその銃声を聞いていた。
「――今の、何?」
と、由香が言った。
分っていたのだ。しかし、それを信じたくなかったのである。
「誰を撃ったんだろう?」
と、青柳がドアの方へこわごわ近付く。
「それより、誰が撃ったか、だな」
木崎は落ちついた声で、「退がった方がいい。次の弾丸が飛んで来たら危いぞ」
青柳は、あわてて後ずさった。
「でも、本間でしょ、撃ったのは」
と、由香が真衣を抱き直して、「他に誰かいる?」
「大宮が、もし入り込んでたら? 万が一ってこともある」
ギーッとドアが微かな音をたてた。
由香が一瞬真衣を抱きしめて、それからホッと息をついた。
「――びっくりした!」
「今の銃声は?」
と、青柳が訊いた。
ドアの所に立っていた本間に、訊いたのである。
「誰かいたの?」
と、由香が訊く。
だが――本間は答えなかった。
「おかしいぞ」
木崎が進み出ると、本間の二、三歩手前で足を止めた。
本間の胸の辺りに、じわじわと広がるしみは、黒ずんだ色から、やがて鮮やかな赤になって来ていた。
「大宮だ」
と、突然本間は言って、その場に崩れるように倒れた。
誰もが、悪い夢でも見ている様子で、立ち尽くしていた。
「もう、やめて!」
と、由香が叫んだ。「もうこれ以上――」
「落ちつけ」
と、木崎はさほどあわてる様子もなく、本間の方へ歩み寄って、かがみ込むと、本間の手首をつかんで、しばらく脈を取っていた。
「――よく触る気がするね」
と、青柳が青ざめた顔で言った。
「死んでる」
木崎は立ち上って、「さて……。我々も覚悟を決めなきゃならんようだ」
「私、死ぬのなんて、いやよ!」
と、由香は真衣を抱きしめて、「何のために、ここまで頑張って来たの?」
「そうだ。――しかし、問題は今、ここをどう切り抜けるかだ」
と、木崎は言った。「逃げるとしても――どうやって? 外へ出れば、大宮という奴の標的にされるだけだ」
「もう金なんかどうでもいい」
と、青柳は頭を抱えた。「命さえありゃ充分だ!」
「私はいやよ。諦めるもんですか」
由香は赤ん坊を抱き直した。「この子のために命を賭けて来たのに」
木崎は、なぜか冷静そのものの様子で、
「それなら、ここで踏み止まっているしかないだろうな。朝になれば、動きもとれる」
「電話! 電話をして――」
と、青柳が言いかけて、「一一〇番するわけにもいかんのか」
と肩を落とす。
「この死体をどう説明するかだ。それに僕も見付かるとまずい立場にいる」
「じゃあ、待つしかないわね」
と、由香は言った。「平気よ。死体と一緒だって」
真衣を抱いたままソファに腰をおろす由香を見て、
「女は強いや」
と、青柳が冷汗を拭いながら言った。
「おい」
と、木崎が眉をひそめ、「この匂いは……。煙じゃないのか」
由香がゆっくりと立ち上った。
「火事?」
「大宮が火を点けたんだ!」
青柳がパニック状態になって、叫んだ。
「落ちつけ! ここは一階だ。窓からでも出られる」
木崎はドアからそっと廊下を覗いて、「まだ火は見えない。――ここにいろ」
と言うと、頭を低くして出て行った。
「――参った!」
と、青柳が首を振って、「どうすりゃいいんだ!」
「もう、誰に義理立てすることもないわ」
由香は青柳の方へ歩み寄ると、「逃げましょう。お金を持って」
「金って……。しかし、それは――」
と、青柳がためらう。
「見て!」
開けたドアから、廊下に静かに立ちこめてくる白い煙が目に入った。青柳がゴクリと喉を鳴らす。
「火が回ったら、お金どころじゃないわ」
と、由香は厳しい表情で言った。「お金はどこ?」
井原恵子も、夜の暗がりの中、どこかからうっすらと白い煙が流れてくるのに気付いていた。
霧かしら、とも思った。しかし、鼻をつく匂いが、そうではないことを恵子に教えた。
煙? ――もしかして、誰かが火を点けたのだろうか?
動き回るには暗すぎたが、恵子はじっと待ってはいられなかった。
大宮はどうしただろう?
もちろん、銃声も聞いている。といって、今の恵子にはどうすることもできなかった。大宮は戻って来るだろうか?
でも――私はどうしちゃったんだろう?
あの男にずっとついて行くわけにはいかないのだ。それは大宮の言った通りである。恵子がいくらあの男にひかれているといっても、やはり恵子と大宮は別の世界の人間だ。今、恵子の中に燃えているものも、「恋」とはどこか違うもののような気がした……。
恵子は、そっと建物の玄関の側へと、外壁を手で触りながら進んで行った。
車がどこか手前で停って、誰かがやって来たはずだ。しかし、少なくとも恵子の目の届く範囲では、誰も中へ入ってはいない。
建物の角までやって来て、恵子はそっと顔を覗かせた。――玄関先に明りがあるので、その辺りはぼんやりと明るい。
――ザッと背後で砂利を踏むような音がした。振り向くより早く、恵子は口を手でふさがれ、後ろから強く抱きすくめられた。
「静かに!」
と、聞いたことのある声が言った。「声をたてないで!」
その声が誰のものか、恵子が思い当るのに少しかかった。それまでの数秒間が永遠のように長かった。
「――静かにして。いいね」
口をふさがれたまま、恵子は肯いた。体の力が抜けて、相手も恵子に分ったと感じたのだろう。ゆっくりと恵子を解放する。
恵子は息をついて、振り向くと、
「峰岸さん! どうしてこんな所にいるの?」
と言った。
「君の方こそ」
と、峰岸は言った。「行方をくらまして、それっきりじゃないか。先生はカンカンになってたぜ」
恵子は、しかし峰岸がなぜここに来ているのか、ふしぎで、自分のことを説明する気にはなれなかった。
「何をしてるのよ、ここで?」
と、重ねて訊く。
峰岸の方も、恵子の問いに正面から答えようとはしなかった。
「先生は死んだぜ」
と言ったのである。
恵子はもちろん驚いた。
「太田先生が?」
「ああ。僕は命拾いしたがね」
恵子は、太田が死んだからといって、泣く気にはなれなかった。
「峰岸さん。今、ここで何が起ってるか、知ってるの?」
「うちの先生は、金の匂いをかぎつけることに関しちゃ警察犬並の鼻を持ってたからね」
「でも――」
と、恵子が言ったとき、人影が――夜の暗がりの中、ぼんやりとしか見えない人影がやって来るのが見えた。
建物から出て来たのではない。――外からやって来たのだ。
「静かにしてるんだよ」
峰岸は、恵子の腕を痛いほどつかんだ。
木崎貴志は、階段の下で足を止めた。
階段の、一番上。二階からの下り口に、晃子が腰をおろしていたのである。
両膝を抱えて、父親を見下ろしている。
「――晃子。中にいたのか」
と、木崎は言った。「心配したよ。下りておいで」
晃子は座ったまま、首を横に振った。
「お父さんが上って来て」
と、晃子が言う。
「――晃子。銃声がしたのは、上だった。大宮がいるんだろ?」
木崎は、手すりに片手をかけ、片足を一段めにのせてはいたが、それ以上上ろうとはしなかった。
「いないよ」
「晃子。嘘はいけない。お父さんが殺されてもいいのか」
晃子は、そっと右手をさしのべた。
「迎えに来て。――お父さん」
木崎は動かなかった。晃子は手を引っ込めると、
「階段から転り落ちやしないよ」
と、言った。「お母さんみたいにね」
「何を言ってる」
「見てたんだもん。私――知ってる。お母さんがどこかの男の人と遊んでた。お父さんがそこへ来て……」
「やめなさい」
「お母さんは、出て行くと言った。私のことはお父さんにあげる、と言って――。お父さんはお母さんを追いかけて……。階段の上から突き落したじゃない」
「晃子。――お前は夢を見たんだ」
木崎は、階段を上り始めた。「お前はいつも夢を見ている子だったからな……」
晃子は座ったまま、上ってくる父親をじっと見つめていた。
ギーッと、ドアのきしむ音がした。
階段を半ばまで上って来ていた木崎は、その音を聞いて足を止めた。
「今のは二階のドアだな」
と、木崎は言った。「そうだな、晃子? 誰がいるんだ、二階には」
「誰もいない」
「晃子……。どうしてお父さんに嘘をつくんだ」
晃子は、階段の一番上に腰をおろしたまま、じっと途中の父親を見下ろしていた。
「――お父さんだって、嘘ついたじゃない」
と、晃子は静かに言った。
「何のことだ」
「死んだふりして、私のこと、捨てて逃げようとしてたじゃない」
木崎は、一瞬答えに詰まった。
「――確かにな」
と、木崎は肯いて、「しかし、これには色んな事情が絡んでるんだ。お前にも、その内分る」
「その内、って?」
「晃子……。時間がない。ともかく今は下りておいで」
木崎は階段の下へ目をやった。白い煙が徐々に立ちこめて来ている。
「煙に巻かれて死ぬぞ。さ、おいで」
木崎は、手を差しのべた。
晃子は、少し間を置いてから、ゆっくりと立ち上った。
「そう。――そうだ。下りておいで」
晃子は、父がさしのべた手をじっと見ながら、階段を一段ずつ下りて行く。
晃子の右手は背中に回されて、拳銃をしっかりと握りしめていた。――お母さんを殺した。そして私を捨てて行こうとした。
お父さん。――お父さん。
「晃子。何を隠してる」
木崎が気付いた。「右手を出してごらん」
晃子は、急に素直な子になった。
「お金はどこなの?」
と、由香が青柳に詰め寄る。
「待ってくれ! ――そう言われても――」
と、青柳はたじたじで、「そう脅かさないでくれ」
由香は、真衣を抱き直すと、
「この子を抱いてなかったら、何をするか分らないところよ」
と、青柳をにらみつける。
「怖いな、全く!」
青柳はハンカチで汗を拭いた。「もうごめんだ!」
「じゃ、出てったら?」
と、由香は冷ややかに言った。「大宮に撃ち殺される前に、お金のある場所を教えて」
青柳が何か言いかけたとき、音がした。――玄関の重いドアが開く音だ。
「やれやれ……」
青柳はホッと息をつくと、「やっと来たか」
由香は警戒するように、子供を抱いたままソファの方へ退がった。
煙が、居間にもうっすらと立ち込めて、まるで紗幕を下ろした舞台のようだった。
「お待たせしましたね」
と、青柳が安心したのか、少しおどけてさえ見せて、「お待ちかねのものが到着したんですよ」
「お金が?」
「たぶんね」
と、青柳が肯く。
玄関から上って来る足音が聞こえた。
木崎は、晃子の手にした拳銃を、信じられないという表情で見ていた。
「――晃子。どうしたんだ、そんなもの?」
「あの女のだよ」
と、晃子は言った。
「そうか。由香の銃か。――しかし、どうして父さんに向けるんだ」
晃子は答えなかった。ただ、じっと銃口を父親の方へ向けている。
「――さ、それを渡しなさい」
と、木崎は言って、階段をまた上り始める。
しかし、足どりは、さらに慎重だった。
「いやだ」
「危いじゃないか! どうするんだ、もし弾丸が出たら」
「お父さんが死ぬだけだよ。お母さんを殺したお父さんが」
「僕は殺してない」
木崎はため息をつくと、「――仕方ない。晃子。これは言いたくなかったが……。お前にも、いつか知らなきゃならないときが来るんだ」
と言った。
「何のこと?」
晃子は、父を信じたくないと思っていたが、同時に父が何か言えば、きっと自分は信じるだろうとも分っていた。
「晃子。――確かに、お母さんは階段から転り落ちて死んだ。しかし、突き落したのは、僕じゃない。お前だ」
晃子は、じっと父親を見つめていた。
「――嘘つき」
「本当だ。お前はたぶん何も憶えていないだろう。お前は自分の中からその記憶を追い出してしまった。それが悪いと言ってるんじゃない。それはお前の止むを得ない自己防衛だったんだ」
「私、お母さんを殺したりしないよ」
「じゃ、どうしてお前はそんな風になったままなんだ? お前はいつまでもその記憶から逃げている。だから、ずっとそのまま治らないんだ」
「嘘つき!」
叫ぶように言って、晃子は引金にかけた指先に力を入れた。が、そのとき、玄関のドアの開く音を聞いたのである。
「誰か来た!」
木崎がハッと階段の下の方を振り向いた。そして――。
「晃子! 待て!」
晃子がその一瞬に、パッと背を向けて、二階の部屋の方へ駆けて行ったのだ。
木崎も、ためらったものの、一気に階段を上り切って、ドアが閉るのを見た。
大宮が潜んでいるかもしれない。木崎はそのドアへと近付いて行った。
「――誰か死んでる」
と、若い男が言った。「ひどいことになってるな」
「誰だ?」
と、青柳は緊張している。
「落ちついて。一人じゃありません。僕は峰岸。太田弁護士の所で働いている者です。いや、『働いていた』と言うべきかな。ボスは死んじまいましたから」
峰岸の後から、男が一人入って来た。
「――やれやれ、やっと来てくれたか」
と、青柳は、その男が両手にさげている大きなスーツケースを見て、胸をなで下ろした。「ちゃんと入ってるんだろうね」
「もちろんだ」
と、その男は言った。
由香が、呆然とした様子でその男を眺めている。男は笑って、
「そうびっくりするなよ、由香」
と言った。
「――富田さん」
「ああ、ちゃんとこうして足もついてるぜ」
と、スーツケースを置いて、「二十億もここへ持っちゃ来られない。しかし、これでも何億かはあるはずだ」
富田はそう言った。――木崎が殺したはずの総務課長は。
「この女が怖くて汗をかいた」
と、青柳が言った。「木崎は階段の方へ行ったよ」
「そうですか。――その女にゃ気を付けて下さい。僕も危うく殺されるところだった」
「生きてたの!」
と、由香が言った。
「ああ。こっちが石頭なのが幸いしてね」
富田は、由香の方へ歩み寄った。「――真衣か」
「――ええ」
「そうか。僕に似てるかな?」
と、富田は言って笑った。
そのとき、もう一人居間へ入った来たのは……。
「井原さん。ちゃんと見える所にいて」
と、峰岸が言った。
「死んでるの?」
井原恵子は、倒れている本間を気味悪そうに見下ろして、そこから離れようとした。
「木崎と話さなくちゃならないな」
と、富田は言った。「二階か?」
「大宮がいるかもしれん」
と、青柳が言った。「木崎が生きてここへ戻って来るかな」
嘘だ……。そんなの嘘だ。
「嘘だよね、アキラ」
と、晃子は口に出して言った。
でも――どこからも返事は聞こえて来なかった。
晃子は、あの寝室へ戻って、ベッドのかげに小さくなっていた。部屋の明りは消したままだ。
そう。――アキラも、私のことを見捨てたんだろうか?
そりゃそうだよね。自分のお母さんを殺すような子は、誰にも構ってもらえないんだ……。
「お母さん」
と、晃子は言ってみた。
すると、
「またこんな所に!」
と、突然声がした。「どうしていつもどこかへ隠れるの? 私が出かけようとすると、決ってどこかに隠れて!」
お母さん……。そんな怖い顔で見ないでよ。怒ってるときのお母さんって、とってもいやな顔してるよ。
「私の邪魔をするのね。――いいわよ。好きにするといいわ。あんたなんか、生れて来なきゃよかったのに」
――お母さん。お母さん。
晃子は憶えている。いくつぐらいのときだったろう?
母が、「あんたなんか、生れて来なきゃよかったのに」と言った。あの口調、表情、着ていたものまで、すべて憶えている。
やめて! どうしてそんなこと言うの?
晃子は、いつまでも忘れなかった。その母のひと言を。そして――母を憎んでいた。
そうだろうか?
晃子は、ゆっくりと顔を上げた。暗い部屋の中を、誰かが近付いてくる。やめて! あっちに行って!
私のこと、捕まえに来たのかしら? お母さんを私が殺したから……。
晃子も今は分っていた。父の言った通りだ。私は、お母さんを殺した。
暗がりの中、その誰かが晃子の方へ身をかがめて来た。――その顔が突然見えた。それは母の顔だった。
階段を転落し、額が割れて血を流していた母の顔だった。
「人殺し! 私を殺したね!」
と、母の叱責する声が、晃子を震え上らせた。「お前なんか、生れて来なきゃ良かったのに!」
いやだ! いやだ! 死んじまえ! お母さんなんか、死んじまえ!
晃子は、手にした拳銃を、暗がりの中の人の気配がする方へ向け、引金を引いた。
びっくりするような大きな音がした。しかし、両手でつかんでいたせいか、反動は思ったほど大きくない。
轟音が耳をジーンとしびれさせた。相手が、後ずさって、ドスンと倒れる音。
当ったんだ! 晃子は、自分でも信じられないくらいだった。
ドアが開いて、廊下の明りが射し込んでくる。人のシルエットが見えて、
「晃子! 大丈夫か?」
と、父の声がした。
晃子は立ち上った。同時に、父が明りを点ける。
床に、腹を血に染めているのは、大宮だった。――嘘。嘘だ!
晃子の手から拳銃が落ちた。
木崎が晃子を押した。
晃子は、よろけて、居間の床に膝をついた。
「晃子ちゃん!」
と、井原恵子が駆け寄る。「大丈夫?」
「こっちが訊いてほしいくらいだ」
木崎は手に拳銃を持っていた。「これで撃たれるところだったよ」
「今の銃声が?」
と、由香が訊く。
「いや。今のは、この子が大宮を片付けてくれた音だ。助かったよ」
「まさか!」
と、恵子が青ざめた。「晃子ちゃん、本当なの?」
「お父さんを撃ったと思ったんだけど……」
と、晃子は恵子の手を握りしめた。「大宮さんだと思わなかったの」
「いいわ……。分ってるわよ」
恵子は、晃子を抱きかかえるようにしてソファへ連れて行った。
「木崎さん。――これが手付金だ」
と、富田が言った。
「ああ」
由香が、険しい表情になって、
「組んでたのね! 汚ない人たち!」
と、叩きつけるように言った。
「そう怒るな」
木崎が微笑んだ。「子供がまた泣き出すぞ。事の始まりは、君が富田を殺したと僕に知らせて来たときだった。しかし、僕が駆けつけてみると、この男は気を失っていただけだったんだ」
「そこで初めて二人が話し合ったわけさ」
と、富田は言った。「お互い、得になる方法があれば、それに越したことはない。そうだろう?」
「富田は被害者になり、僕は殺人犯として姿を消す。金を手にした人間が死んでしまえば、捜しようもないわけだからな」
木崎はそう言って、金の入ったスーツケースを横にして、かけてあるベルトを外し始めた。
「でも……私にまで隠してたの?」
と由香がにらむ。
「そう怖い顔をするな。秘密は、知っている人間が少なければ少ないほどいいんだ」
「でも――」
「由香」
と、木崎が遮って、「その子が僕の子じゃないことは、分ってるんだ」
由香が真衣を抱きしめる。木崎は、恵子に肩をしっかりと抱かれている晃子の方を向いて、
「晃子もそうだ。女房には何人も男がいた。誰が父親か、あいつにも分らなかったろう。しかし、僕でないことは確かだ。なかなか子供ができなかったので、検査を受けたことがあってね。僕が子供を作れないことは分ってた」
晃子の顔から血の気がひく。
「やめて下さい!」
と、恵子が叫ぶように言った。「何てひどいことを……。子供の前で、どうしてそんなことを言うんですか!」
「落ちつきなさいよ」
と、由香が皮肉っぽく、「あんたたち、口さえつぐんでりゃ、いくらか分けてあげるわよ。これ以上、人が死ぬのを見たくないしね」
「お金なんて……。ほしくもないわ」
と、恵子が言い返す。
「へえ。じゃ、代りにその子をあげるわよ」
と、由香が笑う。
「見ろよ!」
と、木崎がスーツケースを開けて言った。「札束だ」
青柳が近寄って来ると、|膝《ひざ》をついて、額に汗を浮かべながら、
「やれやれ! やっとお目にかかれたか!」
と、こわごわ札束を手に取り、それがまるでガラス細工ででもあるかのように、ゆっくりとあらためた。
「――馬鹿らしい」
と、恵子は言って、晃子と一緒に立ち上った。「出て行きましょう、晃子ちゃん」
晃子は恵子を見て、小さく肯いた。
恵子は、木崎たちを見て、
「出て行ってもいいんでしょ? そんなお金なんか、いらないわ」
と言った。
「いいとも。止めないさ」
と、富田が道を空ける。
恵子は、晃子を促して歩き出した。
「その子をどうするんだ?」
と、木崎が訊く。
「晃子ちゃんのことは、私が面倒をみます」
と、恵子は言った。「お金、お金で騙し合いをしてるあんたたちより、この子を守ろうとした大宮さんの方が、ずっと立派よ」
「井原さん」
と、峰岸が言った。「意地張ることもないじゃないか。いくらかでももらってけば。その子の面倒をみるったって、君の勤め先は潰れちまうんだぜ」
「ご忠告、感謝します。でも、どうせ戻る気はなかったわ」
と言うと、恵子は晃子と共に玄関へ出て行く。
「煙いわね」
――居間に残った面々は、札束を見直して飽きない様子だったが……。
「この拳銃には、晃子の指紋がついてる」
と、木崎は拳銃をポンと投げ出し、「あいつがやったことにすれば楽だ。どうせ、外に対しては、心を閉ざしてしまう奴だから、大丈夫」
「何もかも、あの子一人がやったことにはできないだろ」
「大宮と一緒にやったことにするさ」
と言って、木崎は微笑んだ。
「ごめんね」
と、晃子は外に出ると言った。
「何のこと?」
と、井原恵子が晃子の肩を抱く。「――寒くない?」
「大丈夫。――私、大宮さんを撃っちゃった」
「もう忘れて。仕方ないわよ。分らなかったんだし」
と、恵子は言った。
「でも、好きだったんでしょ?」
晃子にそんなことを訊かれるとは思っていなかったので、恵子は一瞬言葉に詰ったが、やがて小く首を振って、
「もう、どうせおしまいだったのよ。あの人も、生きてるつもりはなかったし」
と言った。「さ、車の通る道まで出ましょうね。誰か乗せてくれるわ。――歩ける?」
晃子は肯いて、一緒に歩き出したが……。ふと、晃子は足を止めた。じっと暗がりを見つめている。
「どうしたの?」
と、恵子が訊いた。
「アキ子さん」
と、晃子は言った。「どこにいたの? 心配したよ」
「ごめんなさい」
アキ子は闇の中に、スッと浮び上るように立っていた。「でも、ずっとあなたについては歩けないのよ」
「うん。分ってる」
「元気そうで良かったわ」
「あんまり良くないよ」
と、晃子は目を伏せて、「間違った人を撃っちゃったんだもん。もう銃もないし」
「そう。――でも、忘れてない?」
「え?」
「あなた、もう一つ隠してるものがあるでしょ」
晃子は、じっと暗がりを見つめていた。――そこには誰もいない。
「晃子ちゃん!」
と、恵子が晃子の腕をつかんで、「誰と話してたの? ここには誰もいないわよ」
「うん」
と、晃子は肯いた。「――分ってる」
アキ子さん……。あの人は死んだ。あのホテルのバスルームで、バスタブの中に倒れて死んでいたのだ。
シャワーを出しっ放しにして、刃物で手首を切って。血は途切れることなく流れ出して、あの人は死んだ……。
でも、晃子は知っていた。死ぬときも、あの人は晃子のことを心配してくれていた。だから、その後も、太田の所までついて来てくれたのだ……。
「晃子ちゃん。行こう」
と、恵子が促すと、
「私、行かない」
「どうして?」
「まだ、することがあるの」
と、晃子は言った。
「そろそろ行こう」
と、木崎が言った。「金はどうせ車に積めばいい。――残りも積んで来たのか」
「そんな危いこと、するわけないじゃないか」
と、富田が言った。「会社の倉庫に、段ボールに入れてしまってある。段ボールの山の奥の方だからな。誰もあんな所を見ないさ」
「会社の倉庫?」
青柳が呆れ顔で、「やれやれ! 年中何かを取りに行ってるのに」
「さあ、行こう」
富田がスーツケースの蓋を閉じる。
「君が持つことはない」
と、木崎が言った。「君は死んでる人間だ。ここで焼死体で発見されても、身許不明のまま終るさ」
富田が、いぶかしげな表情で立ち上る。
「――どういうことかね」
と、富田が言うと、
「こういうことだよ」
と、返事をしたのは、倒れている死体だった。
由香が悲鳴を上げた。
富田が振り向く。――血を流して倒れていた本間が、拳銃を手に、ゆっくりと立ち上った。青柳が、よろけてドタッと尻もちをついた。
「脈を診たのは、僕一人だ」
と、木崎が言った。「ちゃんと確かめるべきだったな」
「作りものの血さ」
と、本間は言うと、ハンカチを出し、床から晃子の持っていた拳銃を包んで拾い上げ、持ち換えた。
「木崎……」
と、富田がにらむ。「本気か!」
「金の隠し場所を聞くまでは、君を殺すわけにはいかんしね」
と、木崎は言った。「君は安心してしゃべってしまった。お気の毒だ」
青柳が真青になって、
「ね、私は……何も知らんよ。金もいらん。いや、少しでいい。――ね、黙ってるから……。見逃してくれ」
峰岸が呆気に取られて、本間の方へ、
「警官のくせに!」
と、言った。
「それを言うなら、弁護士のくせに、だ」
と、木崎は言った。「富田。あんたも意外に頭が悪いな。あんたが死んだことにするためには、代りの死体が必要だった。そんなものを手に入れられるのは誰だ? 当然、警官が仲間にいなきゃ無理な話さ。君の奥さんには、充分金を払って、夫だと証言してもらうにしても、身代りの死体を都合して来なきゃならなかったわけだ」
本間は銃口を富田の心臓にピタリと向けた。富田の顔から血の気がひく。
「やめろ……。金はやるから!」
「もう遅い」
と、本間が言った。「教えてやろう。例の隠し金が政界へ渡るという話は、警察でもつかんでいたんだ。トップと、限られた人間だけしか知らないことだったが、あんたが殺される前から、内偵が進んでいた。あんたと君原由香の関係も、分っていた。――君原由香の家の電話を盗聴していたんだ」
「由香との別れの言葉もね」
と、木崎が言った。「だが、僕はひと言も『富田を殺した』とは言っていない。後で証拠になっても困るからね」
「悪党め!」
と、富田がスーツケースを本間の方へ投げつけ、逃げ出そうとした。
しかし、重いスーツケースは間で落ち、本間は富田の背中を狙って引金を引いた。
「やめてくれ!」
と、青柳が両手で耳をふさいだが、そのときには、富田の背中に血が弾け飛び、そのまま突っ伏して倒れる。
「――死人が死んで、誰も困る奴はいないさ」
と、木崎が言った。「さて、どうする?」
――本間は、倒れて動かなくなった富田から、ゆっくりと由香へと目を向けた。
しっかりと真衣を抱いた由香は、恐ろしいものを見るように本間を見ていた。
そうじゃない。――そうじゃないんだ。
俺は木崎のような冷酷な怪物じゃない。ただ、仕事に疲れ、少しは努力が報われてもいいじゃないかと思った一人の警官だ。
何の心配もないはずだった。ただ、
「ちょっと手を貸してくれればいい」
と、以前、太田絡みの件で顔見知りになった木崎に頼まれて、力になっただけだ。
その礼金で、女房や孫に少しは楽しい思いをさせてやれる。そう思ったのだ。
しかし、一旦踏み込んだ泥沼は、本間を否応なく呑み込んで行った。しかも、大宮が――あの狂った獣のような奴が、すんなり納まるはずの事件を引っかき回して、おかげでこんなにも血を見ることになってしまった。
だが――本間にとって一番の「予想外の出来事」は、君原由香と出会ってしまったことだ。大宮がいなければ、君原由香は単に「木崎の愛人」に過ぎなかった。
それが……。結局、本間は家族さえ捨てて、この計画にどっぷり浸ることになってしまったのだ。
由香。――俺をそんな目で見ないでくれ。
お前が本心から俺を愛しているわけでないと知っていても、俺は、お前を愛していたのだ……。
――青柳が冷汗を拭って、
「頼むから……。金を運び出すときは、私がいた方が便利だよ」
と、言った。
木崎は笑った。
「よし。じゃ、とりあえずそのスーツケースを運べ」
「はいはい! いくらだって運ぶよ」
青柳は駆けて行って、スーツケースを持ち上げると、フラッとよろけた。
「しっかりしろ!」
「大丈夫……。大丈夫だから……」
「じゃ、本格的に火を点けよう」
と、木崎が言った。「これは発煙筒の煙さ。富田が、もしこの山荘の中に金を隠してたら、あわてるだろうと思った。ちっとも焦らないので、ここじゃない、と分ったがね」
「――この人はどうするの?」
と、由香が峰岸の方を見る。
「僕だって役にたちますよ!」
と、峰岸はあわてて言った。
「ともかく今は運転手をつとめてもらおう。――行くぞ」
「待て。おかしいぞ」
と、本間が言った。「この煙……。本当の火事だ」
「何だと?」
「ともかく急ごう」
「ワッ!」
居間を出ようとした青柳が仰天して叫んだ。
居間の入口に、腹を血で染めた大宮が、フラッと現われたのである。
本間が木崎を見て、
「確かめなかったのか!」
「死んだと思ったんだ!」
木崎が後ずさる。
「そう思っても、確かめるもんだ」
と、大宮が口を歪めて笑った。「拳銃も取り上げるべきだったな」
銃声が二度響いた。
――その音は、外にいる晃子たちにも、もちろん届いていた。
「――今の銃声は?」
と、井原恵子はしっかりと晃子を抱き寄せた。
「もう沢山! これ以上殺し合いなんか見たくないわ!」
「でも、まだ終らないよ」
と、晃子が静かに言った。
「え?」
玄関のドアが開いた。白い煙が流れ出て来て、咳込む音と共によろけるように外へ出て来たのは――。木崎だ。いや、木崎だけではなかった。
続いて、君原由香が真衣を抱きかかえて飛び出してくる。とたんに真衣が声を上げて泣き出した。
青柳と、そして峰岸が先を争って出て来ると、地面に尻もちをついた。それから、本間が現われた。右の肩を撃たれて血を流し、痛みに呻き声を上げていた。
「――生きてたの!」
と、恵子が本間を見て目をみはる。
「分ってた」
と、晃子が言った。「悪い人はね、死なないんだよ」
本間は逃げようとしたらしいが、地面にガクッと膝をつき、倒れた。
「畜生……」
と、声を絞り出す。「由香! ――手を貸してくれ」
だが、由香はじっと子供を抱きしめたまま、本間に近寄ろうとはしなかった。
すると、玄関からフラッと大宮が現われたのである。腹の辺りが血に染っているが、拳銃をしっかりと構えている。
恵子がびっくりして、
「大宮さん!」
「俺はそう簡単にゃ死なないぜ」
と、大宮は外壁にもたれると、拳銃を本間たちの方へ向けた。
「私……間違えて撃っちゃったの」
と、晃子が言うと、大宮は微笑んで、
「いいんだ。俺はどうせ撃たれて死ぬことになってる。――警官に撃たれるより、お前に撃たれて死ぬ方がずっといいよ」
「ごめんね」
と、晃子は言った。
「見て! 火が……」
と恵子が言った。
二階の窓が音をたてて飛び散ると、炎がふき出して来た。木崎が見上げて、
「畜生! 金が……。燃えちまうぞ!」
「取りに行けよ」
と、大宮は銃口を向けて言った。「遠慮なく行け。――さあ、誰でもいいぞ」
由香が進み出て、
「あんただって、逃げるのにお金がいるでしょ。ここにいるみんなで分けたって、大した金額だわ」
と言った。
「俺は金なんかに興味はない」
と、大宮は言った。「よし。――この銃には、あと弾丸が二発残ってる。これを使い切ったら、誰でも金を取りに行けるさ。俺はもう長くない」
大宮は、晃子を手招きして、
「ここへ来な」
晃子が駆け寄って、大宮の腕を取る。
「――誰を撃つか、お前が決めるんだ」
と、大宮は言った。「ここにいる連中の内、誰でもいい。お前が指さした奴を撃ってやる。さあ、誰にする?」
晃子は、立ちすくみ、あるいは地面に座り込んでいる男たちを眺めた。そして君原由香も。――木崎が両手を広げて、
「晃子! まさか――父さんを撃たせないだろ? お前は父さんのことが大好きだった。そうだろ。僕だって、お前のことを……」
「晃子ちゃん! やめてね。私は――赤ちゃんがいるのよ」
由香は、しっかりと真衣を抱きしめた。「私を撃つなんて、ひどいことはさせないわよね? ――晃子ちゃん」
「さと子さんを殺したのは誰?」
と、晃子が訊く。
「私じゃないわ! 本当よ。私はあなたを車に乗せて運んでた。信じて。私はあなたに何もしてないでしょ!」
「でも、どうせ殺さなきゃいけなかった、って話してたよ、車の電話で」
「それは……」
と、由香が口ごもる。
「それは富田がやらせたんだ」
と、木崎が言った。
「そんなのおかしいよ」
と、晃子は言った。「どうしてさと子さんのことなんか知ってるの? 私のこと、踏切で殺そうとしたり。――お父さんしかいないよ」
木崎は何とも言い返せない様子だった。
「――晃子」
と、大宮が言った。「踏切の件は君原由香だろう。お前が生きてちゃ、安心できなかったんだ。事実はともかく、お前は木崎の娘だ。将来、もしお前が木崎の生きてることを知ったら、どうしたって邪魔になる。君原由香は今の内に心配の種を消しておきたかったんだ」
「でも、さと子さんを――」
「あの女は木崎に殺されたのさ。木崎のことを、よく知っていた。木崎は生れ変るために、あの女を生かしとくわけにいかなかったのさ。――さあ、どうする?」
晃子の目に、怒りの火が燃え立つようだった。
由香が後ずさった。そして、肩の傷を押えて座っている本間を指さすと、
「撃つのなら、そいつよ!」
と、叫ぶように言った。「刑事のくせに、お金に目がくらんで富田を殺したのよ!」
「由香……」
本間が、険しい表情で、「俺はお前のために、何もかも捨てたんだぞ」
「頼みゃしないわ! どたん場で役に立たなきゃしょうがないじゃないの!」
「俺はお前を愛してたんだ!」
「やめて! ――あんたが帰った後は急いでシャワーを浴びたわよ。うぬぼれないで」
本間が突然、立ち上って由香へ飛びかかった。由香の手から赤ん坊が落ちる。恵子が駆け出した。
「殺してやる!」
と、本間が左手だけで由香の首を絞める。
激しく泣き出した赤ん坊を、恵子が抱き上げた。同時に、晃子が指で真直ぐに本間の背中を指した。
銃声と共に、本間の体がのけぞり、やがてゆっくりと横に倒れる。由香は喘ぎながら本間の体を押しのけて這った。
「何て人たち!」
と、恵子が赤ん坊を抱いて言った。
そのとき、峰岸がパッと駆け出して、ドアの中へと飛び込んで行った。
「金と心中か」
大宮は笑った拍子に、少しふらついた。
「大丈夫?」
「ああ……。もうお別れだ。――最後の一発は自分に使おう」
晃子は、大宮を抱いた。父親を抱くように。
「元気でな」
大宮は、恵子が駆け寄って来ると、「これを持ってろ」
と、小声で言って、他の人間に見えないように小型のカセットレコーダーを渡した。
「富田が金のありかをしゃべったのが録音してある。警察へ教えても、自分のものにしても、お前の自由だ」
「大宮さん――」
「じゃ、行くぜ」
大宮は、晃子の頭を軽く撫でて、「達者でいろよ」
と言うと、ドアの中へ姿を消し、ドアを固く閉じた。
「――焼け落ちるわ」
恵子が晃子を促して、建物から離れる。
やがて一発の銃声が中から響いて来た。――火は、すでに建物の内側を焼き尽くそうとしている。
みんな、建物から離れた。
夜を真昼のように照らして、建物が焼け落ちていくのに、それほど時間はかからなかった……。
エピローグ
「アキラ……」
と、晃子は言った。「また会えたね」
「ああ、お前には、結局俺がついてないとな」
「アキラの方が寂しいんでしょ」
と、晃子は言ってやった。「でも、みんな――みんな寂しいんだね、人って」
そう言ってくれた人がいた。ずっと前に。
アキラの姿は、パトカーの暗い窓の中にぼんやりと浮び上って、もう二度とはっきり見えるようにはならないかもしれないと思えた。
朝になって、ひどく冷えている。パトカーが何台も来て、すっかり焼け落ちた建物の辺りにはまだ煙が漂っていた。
「寒くない?」
と、恵子がやって来て言った。「今、警察の人が送ってくれるって」
「送る? でも――どこへ? もう、お父さんもいないのに」
「そうね……」
恵子が振り向くと、木崎が歩いて来た。
「晃子……。大変だったな」
木崎が手を出すと、晃子が顔をそむける。
「当り前でしょう、木崎さん。まだ愛されてるつもりなんですか」
恵子の言葉に、木崎は肩をすくめ、
「この子のためを考えてるのさ。――いやなら、好きにすることだ。僕らは先に行く」
「どうぞご自由に」
と、恵子は言った。
木崎は、ちょっとためらってから、
「お互い、知られちゃまずいことが色々ある。そうだろ? 死人に口なし。――大宮と本間の二人になすりつけておけば平和だ。僕は何とかうまく言い抜ける」
「黙ってろ、ってことですね」
「その方がお互いのためだってことさ。君も大宮と一緒にいた。警察に知れるとうまくないよ」
「行って下さい」
恵子は冷ややかに言った。
「じゃあ……。晃子」
木崎は、クルリと背を向けて歩いて行く。
――まだ終っていない。晃子は思った。まだ終ってないんだ……。
少し離れて停ったパトカーに、由香と青柳が乗っている。
「みんな、急いで、残りのお金を取りに行くのね」
と、恵子は言った。「あのカセットを警察に渡してやる。向うで刑事さんがお出迎えしてくれるわよ。――晃子ちゃん、行きましょう。私たち二人でも何とかなるわ」
「うん……。でも、待って。お父さんはお父さんだから」
太田のオフィスを訪ねたときに手にしたペーパーナイフ。晃子はまだそれをコートのポケットの中で握りしめていた。
「お父さん!」
大声で呼ぶと、木崎が足を止めて振り返る。晃子が駆け出すと、木崎は笑顔になった。
昔の笑顔だ。昔のお父さんがそこにいた。でも――でも、時はもう戻らないのだ。
木崎が大きく両手を広げて待ち受ける中へ、晃子は飛び込んで行った……。
本書は、一九九五年八月に角川書店より刊行された単行本を文庫化したものです。
|悲《エレ》|歌《ジー》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年10月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『悲歌』平成10年11月25日初版発行