角川e文庫
悪魔のような女
[#ここから4字下げ]
〜懐しの名画ミステリー第2集
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
暴力教室
召 使
野菊の如き君なりき
悪魔のような女
暴力教室
少年は階段に座っていた。
夏でもなく、至って涼しい日なのに、少年の顔には汗が光っていて、時折、つと流れ落ちた。まるで高熱でもあるように、絶えず細かく身を震わせている。
奇妙なことはそれだけではなかった。日曜でも祭日でもない普通の日の午前十時だというのに、学生服のままで、こうして座っているのである。
少年は|喘《あえ》ぐように息をしながら、目は妙にすわって、じっと正面の空間を見据えていた。――ただ見ているというのではなく、何かの幻影をにらみつけている、とでもいう様子であった。
そこは十三階建の高層マンションの、一階と二階の間だった。――住人たちはちょうど掃除や洗濯に忙しい時間なのだろう、ここ三十分ばかり、この階段を|誰《だれ》一人通らなかった。
少年は両手を|膝《ひざ》の上で固く固く握りしめた。血管が浮いて、指が色を失う。まるで手の力で指が折れればいいとでも願っているようだった。
少年がはっと顔を上げた。話し声が足の下から響いて来たのだ。若い奥さん同士らしい。
「――ね、安くあがるのよ」
「それじゃやってみようかしらね」
「そうよ、だめでもともと――」
声は階段の下へ近付いて来る。少年が、
「あっちへ行け……」
と低い声で言った。「あっちへ行け……」
その|呪《じゅ》|文《もん》で人を遠ざけられると念じてでもいるようだ。
だが、女たちのサンダルの音は階段を上り始めていた。
「畜生」
少年は立ち上った。「――畜生」
そして少年は、死にもの狂いの様子で階段を駆け上り始めた。
「ねえ、ママ、チョコレート食べたいよ」
ベランダにいた四つの女の子が、部屋へ入って来て言った。
「だめだめ! 何を言ってるの」
母親はゴミが一杯になって、吸込みの悪くなったクリーナーに|苛《いら》|々《いら》していた。
「食べちゃだめェ?」
「だめよ! 虫歯になるって言うのが分らないの!」
女の子は親のご機嫌が悪いのを感じ取って、|諦《あきら》めてベランダへ戻って行った。七階のベランダから見下ろす中庭は、とっても狭い。
マンションはコの字形に棟が建って、中庭に、砂場や、ブランコなどが、申し訳程度に並んでいた。
女の子は、手すりの格子越しに中庭を見下ろすのにも飽きて、ベランダに敷いたビニールに座ると、人形相手のままごとを始めた。
母親はやっと掃除を終えると、洗濯機がどうなったか見に行こうとして、娘がチョコレートを食べたいと言って来たのを思い出した。歯には悪いかもしれないが、他におやつになるものもなし、手作りのケーキなど焼く暇もない。
母親は戸棚から、棒のついたチョコレートを一つ出して、
「ほら、チョコレートをあげるわよ、取りにおいで」
と声を上げた。女の子は何やら外の方へ気を取られている様子だったが、チョコレートと聞いて、飛んで来た。
「後でちゃんとうがいするのよ」
ウン、と|肯《うなず》くより早くチョコは口の中へ。母親が洗濯機の方へ行こうとすると、女の子が、
「何か[#「何か」に傍点]落ちたよ」
と言った。
「え?」
「落ちたの。今。そこんとこ」
女の子はベランダの方を指さした。
「あなたが何か落としたの?――違うの? じゃ、洗濯物でも落ちたんでしょ」
母親はベランダへ出て手すりから下を|覗《のぞ》くと、短い叫び声を上げた。
電話が鳴った時、川本洋子は、ちょうど弁当の大きなイモを口の中へ放り込んだところだった。
「ム……」
と受話器は取ったものの、口の中はイモで満員の状態。必死でかみ砕き、飲み込んで、
「はい」
とやっとの思いで言葉を出す。
「川本先生ですね? 大畑さんからお電話です」
と交換手の声。――洋子は、ああ、と思った。受持の二年C組で、大畑清士という生徒が今日休んでいたが、何の連絡もなかった。たぶんそのことだろう。きっと風邪か何かで……。洋子は電話がつながる前に、急いでお茶を一口飲んだ。
「はい、川本でございます。――はい、どうも。――え?――い、いつですか、それは!」
最後の声は驚きの余り大きな声になっていた。職員室の中にいた他の教師たちが洋子の方へ顔を向けた。
「はい……かしこまりました。……どうも」
受話器を戻す手は震えて、洋子の顔から血の気がひいていた。
「どうしたんだい?」
と歩み寄って来たのは、野崎という若い数学教師だった。まだ二十八の野崎と、二十五歳の洋子は、来年には結婚することになっていて、そのことは誰でも承知していた。
洋子は、すぐには答えられなかった。目を閉じて、少し気持を鎮めてから、
「大畑清士っていう生徒よ……」
「大畑?」
「ああ、それなら――」
と洋子の隣の机にいる、中年の物理の教師、長沢が口を|挟《はさ》んだ。「父親が町工場か何かをやっている|奴《やつ》でしょ。この間、テストの出来が悪くて追試してやった。あいつが何かやりましたか」
洋子は静かに言った。
「自殺したそうなんです」
職員室がちょっとの間静まり返った。
「それは大変だね」
野崎が洋子の肩に手をのせて言った。「ショックだろうが、しっかりして」
「ええ……。でも、こんなこと、初めてですもの」
「しかしね、川本先生」
と長沢が言った。「何が原因か分らないんだ。あんたが責任を感じることはありませんよ」
「ええ」
洋子は|曖《あい》|昧《まい》に言って、「ともかく、大畑君の家へ行って来ます」
と立ち上った。
「そりゃやめといた方がいい」
と長沢が言った。洋子は戸惑って、
「どうしてです?」
「学校に責任があったと認めるように取られますよ。少し時間を置いてからの方がいい」
「そんなわけには――」
洋子は責任ばかりを口にする長沢にやや反発を覚えた。野崎がそれを取りなすように、
「ともかく校長に報告するんだ。それでどうするか|訊《き》いてみればいい。そうだろう?」
「ええ、分ったわ」
校長に報告しなければならないというのはその通りだろう。洋子は急いで校長室へ向った。
川本洋子はこの私立S中学で英語を教えている。むろんまだ着任して二年足らずだが、それだけに授業に打ち込む情熱は今まさに燃え盛っているというところである。
しかし、洋子は、少なからず動揺していた。担任している四十五人の生徒については、充分にとは言えないまでも、一人一人の性格を|呑《の》み込んでいるという自信があった。休み時間やホームルームの時間にも、できる限り生徒たちの中に入って話し合い、理解するように努めて来た。
それが……。自殺。
洋子は、校長室へと歩きながら、やっとその事実が実感されて、自分の内に築いた城が崩れ落ちて行くような気がした……。
「自殺?」
校長の城戸はメガネをかけ直して訊き返した。「間違いないんですね、それは?」
「今、その生徒の父親から電話がありまして」
城戸は深々と息をついた。
「それは大変なことになった……」
城戸は五十代の半ば。教育者というよりは、やり手の経営者という評判だったが、洋子としては、古くさい〈教育倫理〉を振り回す頑固な爺さんよりは、経営にマイナスにならない限り、ある程度教師の自由にやらせて口を出さない城戸のようなタイプの方が好ましいと思っていた。
「申し訳ありません、私の監督が行き届きませんで……」
と洋子が頭を下げると、城戸は慌てて、
「いや、何もあなたを責めているわけではありません。本当にね、今の若い子は何を考えているのかさっぱり分らん。原因が何なのか分ったんですか?」
「いえ、それはまだ――」
「あまり自分を責めないように。教師だって千里眼ではないのですからな」
「はい。――私、今からその生徒の家へ行って来たいのですが、よろしいでしょうか?」
「ああ、それがいい。ぜひお願いします」
「はい、それでは」
と一礼して出ようとすると、
「川本先生」
と城戸が呼び止めて、「私も行きましょう。午後から市の教育委員会へ行く用がある。先にその生徒の家を回りましょう」
と立ち上る。
洋子は救われたような気がした。
「こりゃどうも、校長先生にまでおいでいただいて……」
自殺した大畑清士の父親は、|禿《は》げた頭を無意識の内に|撫《な》でながら、城戸と洋子に頭を下げた。――まだショックが実感できないのだろう。作業服のままの姿で、目にも涙はなかった。
「いや、全く教育の任にある者として面目ありません」
城戸は深々と頭を下げた。
「担任の川本です。私の注意が行き届きませんで……」
「いつかおみえになりましたね」
と大畑は思い出した様子で、「清士が、とてもいい先生だといつも言っとります」
つい現在形で話してしまうのにも気付かない様子で、
「本当に、どうしてこんな……。さっぱり分りません」
と首を振る。
「あの……遺書のようなものはありましたでしょうか?」
「いえ、一向に」
「何か、最近様子がおかしかったというようなことは……」
「私は別に気が付きませんでしたが……。どうだ、お前は?」
傍に、じっと顔を伏せて座っていた母親は、大畑に問われて、
「ええ……何か……学校であったようでしたが……」
と、|途《と》|切《ぎ》れ途切れに言った。洋子は思わず身を乗り出すようにして、
「それはどんな……」
と訊いた。母親は首を振った。
「訊いても詳しいことは何も言いませんでした。ここ二、三日、ふさぎ込んではいましたけど……まさか、こんなことに……」
――大畑家を出ると、城戸が口を開いた。
「あの家には他に子供は?」
「いないと思います。確か一人っ子で」
「一人っ子か……。まあ、原因はきっと失恋とか友人関係とか、そんな所でしょうな。あなたもショックだろうが、これで自信を失ってはいけませんよ」
「はい」
「――じゃ、私はこれから教育委員会の方へ回ります」
「行ってらっしゃいませ」
「それからね」
城戸はちょっと声を低くした。「S中学はこの辺では名門だ。新聞とか週刊誌とかが取材に来るかもしれない。しかし、一切それには応じないで下さい。いいですね? 何しろ興味本位にある事ない事を書き立てる。学校の評判も大事だが、生徒たちが動揺するのは困りますからな」
「分りました」
と洋子は肯いた。
学校で……何か[#「何か」に傍点]あった……。
洋子はあの母親の言葉が、気にかかってならなかった。一人の生徒を死に追いやるほどのことが起って、それに自分が気付かなかった。洋子は打ちのめされる思いだった。
職員室へ入った洋子は、隣の長沢がいないのを見てほっとした。
洋子の席は、窓際である。窓からは中庭と、その向こうに、三階建の校舎が見えていた。
「やあ、どうだった?」
声をかけて来たのは野崎だった。
「どうもこうも……ショックだわ」
「そう深刻に考えるな。君にだってどうしようもなかったかもしれないよ」
「でもね、学校で何かあったらしいのよ」
「学校で?」
「お母さんがそう言っていたわ」
「どんなことが?」
「それは分らないけど」
「じゃ、手の打ちようがないなあ」
「今日はホームルームの時間があるでしょう。その時にクラスの子に訊いてみようと思ってるの」
野崎は首を振って、
「そいつは難しいと思うがね」
と言った。洋子は野崎を見て、
「どうして?」
「クラスの中で何かあったのなら、なおさら口をつぐんじまうと思うね。涙を流して後悔するほど純情じゃないよ、今の生徒たちは」
「そうかしら」
野崎はもう教師生活七年のベテランだ。彼の言う通りかもしれない。しかし洋子は、自分の生徒たちを信じたかった……。
電話が鳴った。
「はい、川本です」
「高見さんという方からお電話です」
と交換手が言った。
「高見?」
一向に心当りのない名前だ。「――分りました。つないで下さい」
「もしもし、川本先生ですか?」
若い男の声だ。
「はい、川本ですが、どちら――」
「N日報の者です」
洋子は思わず野崎を見て、送話口を手で|塞《ふさ》ぐと、
「記者だわ。個人の名前でかけて来て――」
と腹立たしげに言った。記者といえば、電話をつないでもらえないと思ったのに違いない。
「もしもし」
「はい」
「そちらの生徒さんの自殺について、コメントをいただきたいんですがね」
「申し訳ありませんが、まだ事情も分りませんので――」
「でも自殺したのはあなたの受持の生徒さんでしょう」
「ええ、それは――」
「だったら何か感想があるでしょう」
「それは……とても残念ですわ」
「それだけ?」
洋子は、野崎が心配そうに自分を見ているのに気付いた。カッとなってはいけない。
「今の所は……」
「何か原因について心当りは?」
「ですからまだ――」
「いわゆる〈いじめっ子〉の問題とか、いろいろあると思うんですがね」
野崎が送話口へ手をのばして押えると、
「校長から後で正式な談話があると言うんだ。話してはいけないと言われている、と」
洋子は肯いた。
「申し訳ありませんが、校長から正式に話があると思いますので――」
「担任の先生でしょ? 何かそれなりの――」
「申し訳ありません」
洋子は電話を切った。――顔がほてって、心臓が鼓動を早めていた。
「大丈夫か?」
野崎が心配そうに覗き込む。
「ええ……。あんまり押しつけがましい言い方をするもんだから――」
「向うはそれが商売だからね」
と野崎は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「さあ、授業が終ったぞ。――じゃ、後でね」
「ありがとう」
洋子はぎこちない笑顔を作って見せた。
ホームルームの時間、洋子が入って行くと、クラスはいつになく静かだった。いつもなら、ザワザワしているのが、シンと声もない。もう大畑清士の自殺は伝わっているに違いなかった。
教壇に立って、洋子は四十五名の――いや、今は四十四名になった生徒たちを見回した。
このS中学は私立としては珍しい男女共学で、約三分の一が女生徒だった。それだけに乱暴|沙《ざ》|汰《た》は少なく、また全体的に非行などの問題も極めて少ない。
S中学がこの辺で名門と呼ばれるのは、それが大きな理由であった。
洋子は、空席になった大畑清士の席へ目をやって、机に小さな花束が置かれているのを見た。胸がジンと熱くなった。
「もう、みんな聞いていると思いますけど、大畑君が亡くなりました」
洋子は震えがちになる声で言った。「――とても残念です。みんなもそうだと思います。でも、事実は事実で、これを見つめなくてはいけません」
「先生」
女生徒の中ではリーダー格の三輪牧子が言った。「大畑君、自殺したって本当ですか?」
洋子はゆっくり肯いた。
「本当です。――何か原因があったはずね。遺書も残っていないので、よく分りません。でも、みんなでそれを考えてみたいと思います」
「先生!」
と立ち上ったのはクラス委員の堀卓夫だった。
「何、堀君?」
「|僕《ぼく》らに討論させて下さい」
「討論?」
「クラスの中で、自殺した人がいたっていうのは、とてもショックなんです。僕ら、四十四人もいて、たった一人の大畑君を助けられなかったのはどうしてなのか。僕らに責任はなかったのか、みんなで話し合ってみたいんです」
洋子は目頭が熱くなるのを覚えた。――ここは自分のクラスだ。本当に素晴らしい生徒たちだ。
「分ったわ。それはとてもいいことだと思うわ」
「それで……すみませんけど、僕たちだけで話し合ってみたいんです。色々と――」
「そうね。先生がいるとつい言い出しにくいこともあるでしょうね」
洋子は肯いて、「分りました。じゃ、この時間はみんなに任せます。堀君、君が巧くやってちょうだいね」
「はい」
洋子は教室を出て、職員室へ戻って行った。――洋子が廊下を歩いて行くのを、最前列にいた生徒は、ドアを細く開けて見ていたが、その姿が見えなくなると、教室の中の方へ向いて、
「OKだ」
と言った。
クラス中の生徒が、一斉に笑い出した。
洋子は遺影に焼香を済ませると、大畑夫妻へ深々と頭を下げた。
何と言っていいか、分らない。大畑も、すっかり打ちのめされているようで、焼香の客にも、機械的に頭を下げているだけだった。
洋子は無言のまま、庭へ降りた。――2年C組の生徒たちが整然と列を作っている。
「焼香してらっしゃい。失礼のないようにね」
と洋子は先頭の堀へ言った。
「はい」
堀は大人でもこうはいくまいと思えるほど落ち着き払って、遺影の前へ進んで行った。洋子は表へ出た。
前日の雨で、砂利道のあちこちに水たまりができている。洋子は足下に気を付けながら、道の反対側へ行った。
今日はよく晴れていた。――報道関係のカメラマンや記者が数人、せわしげに出入りしていた。〈級友たちの間にはすすり泣きの声が上った〉とかいう決り文句の記事が新聞にのるのだろう。
「先生のクラスの生徒は実におとなしいですな」
気が付くと、城戸校長が傍に立っていた。
「ええ……」
「まあ、これで一段落だ」
「でも、結局は原因は分らないままでした。それが残念です」
「気持は分りますよ」
と城戸は優しく言った。「しかし、子供というのはどんなことで死ぬか分らないものだ。全く大人の思いも寄らないことで死を選びますからねえ。――あまり気にしないことですよ」
「はい……」
自転車の音がして、郵便配達がやって来た。葬式と知ると面食らったようすで、近所の主婦に何やら話していたが、一通の手紙を出すと、主婦へ預けて行ってしまった。
その主婦が手紙を手に家の中へ入って行った。そして、三分後に騒ぎが起った。
「キャーッ!」
という女生徒の悲鳴に、洋子は立ちすくんだ。何事だろう?
突然、焼香していたC組の生徒たちが、ワッと飛び出して来る。
「どうしたの? 静かに! 落ち着いて!」
と洋子は進み出た。
だが、生徒たちは洋子など目に入らない様子で、左右を駆け抜けて行く。|唖《あ》|然《ぜん》としている洋子の目に、目を血走らせ、右手に手紙らしいものをつかんだ大畑が映った。
「誰だ! 畜生! |俺《おれ》の清士を殺しやがったのは、どこのどいつだ! 殺してやる! 一人残らずぶち殺してやる!」
顔面は怒りで紅潮している。――そして正面に立っている洋子に気付くと、
「この野郎……しおらしい顔しやがって!」
と叫んで、襲いかかって来た。
「訴える気はありません」
洋子はきっぱりと言った。
城戸は肯いて、
「そう聞いて|嬉《うれ》しいですよ。災難だったが、教師という職業は時には泥をかぶる勇気が必要だ」
と言って、微笑んだ。「まあ、今度のように、本当に泥だらけになる必要はありませんがね」
「校長先生」
洋子は城戸を真直ぐに見つめて言った。「私は別にケガ一つしていません。問題は死んだ大畑君です」
城戸は|椅《い》|子《す》にもたれて息をついた。
「全く困ったものだ。死ぬ前に出しておいた手紙が、葬式の時に届くとはね。おかげでマスコミの格好のネタにされてしまった」
「でも、手紙の内容は確かに問題です」
「そりゃ分ってますよ」
と城戸は頭をかいて、「しかし、向うがああも感情的になっているのでは、話になりません」
「無理もないと思いますわ。息子が殺されたと――」
「まあまあ」
と城戸は洋子の言葉を|遮《さえぎ》った。「その生徒がそう言っているだけです。被害妄想かもしれない。それに、クラス中が一人の子を殺しにかかるなどということが考えられますか?」
洋子とてそんなことがあるとは信じたくなかった。――しかし、大畑清士の手紙にははっきりと書かれているのだ。
〈クラスのみんなで僕を殺す気だ。学校へ行けば殺される。でも、行かないわけにはいかない……〉
「たとえ大げさに考えていたにせよ、何かあったはずです。きっかけになることが何か……」
「今、騒ぎを大きくしては、マスコミの無責任な報道をあおるだけですよ。時期が悪い」
「でもこのままにしておくのはもっと悪いことです。事実がどうだったのかを調べなければ――」
「しかし、どうやって?」
と城戸は両手を広げた。「生徒たちに尋問する気ですか?」
洋子は言葉に詰まった。それが彼女を一番悩ませていることだったのだ。どうすれば子供たちを傷付けずに、事情を訊き出すことができるだろうか。
「その点は私も考えました。でも……人が一人死んだのです。その重味を、生徒たちにも認識してもらいたいと思います」
「――なるほど」
城戸は考え込みながら言った。「あなたの言うことにも一理ある」
「生徒を一人ずつ呼んで事情を聞きたいんです。許可して下さい」
洋子はじっと城戸を見つめた。城戸は目を伏せて、エヘンと|咳《せき》|払《ばら》いした。
「いいでしょう」
「ありがとうございます」
「ただし、その内容は決してマスコミ関係者には公表しないで下さい」
「とおっしゃいますと?」
「まず私と職員会議に報告してほしいということです」
「ええ、分りました。もちろんそうします」
洋子はほっとした。城戸が|総《すべ》てを|闇《やみ》に葬るつもりかと思ったのだ。
「そうだ。それなら……」
「え?」
「いや、この部屋を使いなさい。私は三日ほど、ほとんど昼間はここにいない。あなたが生徒を職員室に呼んでは、人目について生徒も話ができないでしょう。ここなら、誰も気が付かない。それに――何なら私の名前で呼べばいい。誰もそんな話に首を突っ込もうとは思わんでしょう」
「はい。ありがとうございます」
「明日からでもお使いなさい」
城戸は優しい口調で言った。
「あの新聞記事見た?」
洋子は腹立たしげに、ジンフィズのグラスをぐっとあけた。
「そう怒るなよ。あの連中にとっちゃそれが商売なのさ」
野崎がなだめるように言った。
「それにしたって――」
「怒ればあっちの思う|壺《つぼ》だよ。じっとこらえるんだ。そうすりゃ、みんな一週間とたたない内に忘れちまう」
「私は忘れないわ」
野崎は心配そうに、
「あんまり思い詰めるなよ。こんなことには教師生活の間に何度もぶつかるかもしれないんだからな」
「あなたのクラスの生徒が自殺したことあって?」
「いや、ないね」
「ほら、ごらんなさい」
「しかしね、生徒が非行で補導されたり、そんなことにはよく出会うよ」
「そんな時ショックじゃない?」
「そう……。そりゃ最初の内はね。やっぱりショックだったさ。こっちも必死で相手の気持を理解しようとした」
「それで?」
「だめさ」
野崎は肩をすくめた。「今の中学生を、我々の中学生時代のつもりで見ていたら、大間違いだよ。連中はもっと大人さ。しかも教師に向けてはいい顔をして見せることを心得ている」
「まさか」
「本当さ。君にもその内分るよ」
洋子はまじまじと野崎を見つめた。
「――そう見ないでくれ」
「驚いたわ」
と洋子は失望の色を隠さずに言った。「あなたがそんな風に考えているなんて……」
「教育の理想か。それは僕も大切だと思うさ。しかし、中にはどうやったって、こっちの誠意が通じない奴だっているのさ」
「そりゃ私だって、何でも理想通りに行くとは思ってないわよ。でも……」
と言いかけたきり、洋子は口をつぐんだ。今、そんな建前論をしていてどうなるというのか。現実に一人の生徒が死んだ。そのことが重要なのだ。
「――生徒を一人ずつ呼んで訊くんだって?」
野崎の言葉に洋子は驚いた。
「どうして知っているの?」
「僕だって教師だからね」
と野崎はニヤリと笑ったが、すぐに|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔に戻って、「本当にやる気かい?」
と訊いた。
「もちろんよ。校長先生の許可も取ったわ」
「そいつは分ってるけど……ま、やめておいた方がいいと思うね。大畑の両親も何も言って来ないんだろう?」
「ええ」
「そりゃ君に飛びかかって泥まみれにしちまったんだからな。向うは顔も出せまいよ。放っとけばその内、世間も静まるさ」
「そうはいかないわ」
洋子はきっぱりと首を振った。
「いいかい。君は使命感に燃えて闘うつもりだろうがね、質問される生徒たちがどう思う? いや生徒たちはどう思おうと構やしない。問題は父兄だ」
「父兄?」
「そうさ。新聞はあの大畑の手紙を大々的に扱った。当然マスコミは死んだ方の味方さ。君のクラスの生徒はただでさえ人殺し扱いされているんだぞ。それを父兄が喜ぶと思うか?」
「喜びはしないでしょうね」
「そうさ。君のクラスにはうちの理事の子供や親類が三人いる。君が生徒を一人ずつ呼び出して質問し始めたなんて知れたら――」
「私は真実が知りたいだけだわ!」
と洋子は激しい調子で言った。
「大騒ぎになるぞ。理事でなくても私立校にとって父兄は大切だ。自分の子供たちを、担任の教師までが犯人扱いしたと知ったら――」
「何もそんなことは言ってないわ」
「しかし、向うはそう思う」
「だけど、人が一人死んだのよ」
「分ってる。だがこれで君は職を失うかもしれないぞ」
洋子は急にはっと目が覚めたように、野崎を見直した。
「あなた、私を脅迫しに来たの?」
「何だって?――おい、いいか――」
「長沢先生あたりと相談して、私に思い止まらせようと決めたの? はっきり言ってよ!」
「|馬《ば》|鹿《か》を言うなよ。僕はただ君のためを思って――」
「帰るわ」
洋子は乱暴に立ち上ると、ハンドバッグから千円札を出して放り出し、「私の分なら足りるでしょ」
と言い捨てて、スナックを飛び出した。
「待てよ! おい!」
野崎の声が背後に消えた。
洋子は百メートル近く走って、足を緩めた。息が苦しく、肩で呼吸をしながら、後ろを振り返った。――野崎が追って来る様子はない。
洋子はぶらぶらと歩き始めた。
どうしてあんなにカッとなってしまったのか。野崎に怒ってみても、どうにもならないことなのに。
野崎は彼なりに心配してくれている。それは洋子もよく分っていた。しかし、今の洋子にはそこまで妥協することはできなかった。
――本当に、職を棒に振ることになるだろうか?
洋子はアパートの方へ向って歩き出した。
決して家が遠いわけではないのに、アパートに一人住いをすることに両親は反対だった。しかし洋子は押し切った。教師として一人前になるのに、親に甘えていてはいけない、と思ったのだ。
今度の事件について、両親からは何も言って来なかった。それは洋子にはありがたかったが、同時に、少し寂しくもあった。
「勝手言って……」
洋子はアパートの階段を上りながら、苦笑した。まだまだ甘えん坊なのだ。一人で切り抜けなくてはならない。初めてぶつかった難関だ。ここでくじけては何にもならない……。
階段を上り切って、洋子は足を止めた。自分の部屋の前に誰か立っている。薄暗い廊下なので、顔は分らないが、二人だ。
「――どなたですか?」
洋子の問いに、
「ああ、先生! お帰りでしたか」
と進み出て来たのは、大畑夫婦であった。
「まあ、ずっとお待ちになっていたんですか?」
大畑は、葬儀の日とは打って変って低姿勢だった。
「先生、この間はどうも本当に申し訳ないことをしまして……」
「この人もカッとなると後先の分らなくなる人でして、どうか許してやって下さい」
と夫婦が|揃《そろ》って頭を下げる。
「どうぞ、やめて下さい。私は何とも思っていませんから」
と洋子は言った。「あなたがお怒りになったのも当り前ですわ」
「まあ、そう言っていただけると……」
と夫人の方が涙ぐむ。
「私こそお|詫《わ》びしなくては。――まだどんな事情があったのか分りませんけれど、時間がかかっても必ずはっきりさせてみせます」
「ありがとうございます」
と夫婦はまた揃って頭を下げた。そして大畑は顔を上げると、
「実は先生」
と言った。「今日、あれの部屋を整理しておりましたら、これが出て来まして――」
と薄っぺらなノートを差し出す。
「これは?」
「日記なんです」
「日記!」
「部屋を前に捜した時は見付からなかったんですが、今日机を少し動かしてみますと、机と壁の間に……」
「机と壁の間?」
「はい。何かこう――隠してでもあったように」
「ぜひ先生に見ていただこうと思いまして」
と夫人が言葉を添える。
「分りました。もちろん、拝見しますわ。ともかく、どうぞ、お入りになって下さい」
と言ってから、洋子はまだ|鍵《かぎ》も開けていなかったのに気付いた。
ドアがノックされた。
「どうぞ」
洋子は校長の机のわきに立って言った。
ドアが開いて、クラス委員の堀が入って来る。洋子を見ると、ちょっとびっくりした様子で、
「あ、先生」
と言って、部屋の中を見回した。「校長先生に呼ばれて来たんですが」
「いいのよ。用があるのは私なの。――おかけなさい」
堀は素直に椅子へ腰かけた。
「先生、校長先生の代理ですか?」
「いいえ、そんなに偉くはないわ」
と洋子は言った。「――ただお部屋を借りただけ」
「そうですか」
「話というのは……察しがついていると思うけど、大畑君の自殺についてよ」
「どういうことですか?」
「自殺の原因は色々取り沙汰されているけど、まだはっきりしないわ」
「知っています」
「でも……大畑君の手紙の内容は、あなたも知ってるでしょう」
「ええ。でも何のことを言ってるのか見当が付かなくて……」
「そう? 本当に?」
堀はいささか不機嫌な顔になって、
「まさかクラスのみんなが、大畑君を殺そうとするなんてはずはありませんよ」
「でも何もなかったはずもないわ。そうでしょう? 一人の人間が自ら死を選ぶというのは、容易なことじゃない。きっかけになるようなことが、何かあったはずよ」
堀は肩をすくめて、
「きっとノイローゼになってたんでしょ」
と言った。
洋子は窓辺に歩いて行って、外をしばらく眺めていたが、やがて堀に背を向けたまま言った。
「堀君。あなた|憶《おぼ》えてるでしょう。先月、ホームルームの時間にやった模擬裁判を」
気配で、堀がはっとするのが分った。洋子は続けて言った。
「あの時、あなたは裁判長だった。そして大畑君がたまたま被告の役に選ばれたわ……。私は裁判の手続きを実習させることで、みんなに公正な討論というものを学んでほしかった。みんな喜んで、大張り切りでやってくれたわ。ただ……あなたの判決は独断的なものだ、と思って、後でそう注意したわね。でも、あなた方の判断をできるだけ尊重したつもりだわ。――あなたはあの時、大畑君に死刑[#「死刑」に傍点]の判決を下したでしょう。検察官の求刑が懲役十年だったのに。みんな大笑いして、大畑君も照れくさそうに笑っていたわ」
洋子は少し間を置いて、言った。「――もう一度、裁判をやり直したでしょう。あなたがリーダーになって。どうなの?」
洋子はずっと堀に背を向けたまま話していたが、カチッという音に振り向いた。そして唖然として目を見張った。
堀は、校長の机のシガレットケースからタバコを一本取って、ブックエンド形のライターで火を点けていた。
「――何をしてるの!」
洋子は上ずった声で言った。
「見りゃ分るだろ。タバコを|喫《す》ってるんじゃないか」
堀の口調はガラリと変っていた。
「すぐに消しなさい! 早く!」
「そうヒステリー起すなよ」
「何ですって?」
洋子は自分の目も耳も信じられなかった。いや、信じたくなかった。
「きっと大畑の奴、日記でもつけてたんだな。でなきゃ裁判のことが分るわけないもんな」
「じゃ……事実なのね?」
「ああ、そうだよ」
堀は|馴《な》れた感じで煙を吐き出した。「面白かったぜ、あいつ真っ青になってさ」
「何てことを……」
「大体あいつは不愉快な奴だったよ。陰気くさくてさ。真面目くさって、タバコもやらなきゃカンニングにも加わらない」
洋子はじっと堀を見据えた。
「大畑君を|脅《おど》したの? 殺してやるといって?」
「死刑の判決だったんだから当然だろ。クラス全員で決めたんだ」
「全員で?」
「そうさ。みんな承知の上だよ」
堀はゆっくりとタバコを灰皿へ押し|潰《つぶ》した。
「分ってるわね、自分のしたことは」
堀はニヤリと笑った。
「ここだけの話さ。後で訊かれたって否定するぜ。そんなこと言わない、タバコも喫わない。きっと先生の方がどうかしちゃったんじゃないですか、ってね」
「そんな言い分が通用すると思ってるの?」
「ああ、思ってるね」
と堀は|挑《いど》みかかるように言った。「あんたはまだ新米教師で、僕の親父はここの理事だ。僕の兄貴もここの卒業生だし、僕だって成績は優秀だからね。――古くからいる先生たちはどっちを信用するかな」
洋子は言葉もなかった。自分が夢を見ているのではないかという気がしたのだ。
「じゃ、もう用がなきゃ行くぜ」
堀はドアの方へ歩いて行くと、急にピンと背筋をのばして、「失礼します」
と一礼した。いつもの、優等生に戻っていた。
ドアが閉まって、しばらく|呆《ぼう》|然《ぜん》としていた洋子は、灰皿に押し潰されたタバコを、じっと見下ろした。――教師としての自信も、理想も、そこに一緒に押し潰されているような気がした。
「あの堀君が!――信じられないな」
職員会議の反応は、堀の言った通りだった。
「私がでたらめを言っているとおっしゃるんですか」
洋子は必死で怒鳴り出したくなるのを抑えた。
「いや、そうは言わないけど……」
と言いながら、誰もが口をつぐんでしまうのだった。
「ともかく――」
洋子は、大畑清士の日記帳をテーブルへ置いた。「この日記をご覧になれば詳細は分ります」
「じゃ、回覧してもらいましょう」
「どうぞ」
洋子は日記帳を隣の席へ渡して、「これを読むと、大畑君は一切クラスの全員から口もきいてもらえず、毎日、あらゆる方法で脅されていたことが分ります。たとえ本気で殺すつもりはないにせよ、毎日毎日、『死んじまえ』とか『殺してやる』というメモが机や|鞄《かばん》に入れられていたら、ノイローゼ気味になるのも当然でしょう。その他、実際に暴力を加えられたという記述もあります。
――昼休みに、大畑君をみんなでつかまえて、首に|縄《なわ》をかけて椅子に立たせたのです。そして椅子を|蹴《け》った。――でも縄は長めにしてあって、無事でした。この時大畑君は気を失ったそうです」
城戸校長はじっと話を聞いていたが、
「堀君がその事実を認めたんですね?」
と口を|挟《はさ》んだ。
「はい。一つ一つの細かい点について問い|糺《ただ》してはいませんが、大畑君を自殺へ追いやったことは認めました」
もう六十を過ぎた化学の教師が、
「信じられんな、とても」
と言った。「冗談のつもりだったんじゃないのかな」
「冗談でないことは断言できます」
と洋子は言った。「しかも私の目の前でタバコを喫ってみせたんです」
「それじゃ本人をここへ呼んで――」
「むだだと思います。他の人に訊かれたら一切否定すると言っていました」
長沢が、ちょっと意地悪そうな笑みを浮かべて口を開いた。
「しかし、川本先生。あなたの言う通りだとすると、自分のクラスで毎日そんなひどいことが起きていたのに、あなたは全くそれに気付かなかったということになりますね」
洋子は、青ざめた。しかし、それが当然避けて通れない問題であることは承知している。
「その通りです。担任として責任を感じています」
「で、どうやって責任を取るつもりですか?」
「それは……」
洋子は言葉に詰まった。辞表を出します、と言うつもりだった。しかし、その言葉が素直に口から出て来ないのだ。
「まあ、それは今言っても仕方ないんじゃないですか」
と取りなすように言ったのは野崎だった。
「差し当りは、大畑君の件をどうするかでしょう」
「そうですな」
城戸も同調した。洋子はほっとした。
「ともかくどういう事実があったのかを知るのが第一です」
城戸は全職員の顔を見回した。「そして、もう一つ重要なのは、我が校の評判です」
「そうだ、それが何より大切ですぞ」
とさっき口を出した化学の教師が、また口を挟んだ。「そんなでたらめがマスコミで興味本位に取り上げられたら――」
「でたらめではありません!」
洋子がカッとなって言った。
「まあまあ」
と城戸が抑えて、「それが事実であるにせよないにせよ、その通りを世間に知られていいことにはなりません。川本先生もその点は了承していただけると思いますが」
と探るように洋子を見る。
「それは分っています」
と洋子は肯いた。事実を隠すのは、必ずしも納得できなかったが、評判を第一とする私立校としては、城戸の言い分ももっともだった。
会議室に、校長の秘書が入って来た。
「校長先生、お電話ですが」
「ん? ああ、そう。じゃ、みなさん、ちょっと失礼しますよ」
と城戸は席を立って行った。――後に残った教師たちは一様に重苦しく押し黙っている。
洋子は、他の教師たちの苦々しげな視線を感じていた。全く、厄介なことをしてくれたものだという気持が、手に取るようにはっきりと伝わって来る。――この件がどう結着するにせよ、洋子は辞表を出すつもりだった。しかし、それはあくまでこの件が結着してからのことだ……。
城戸が戻って来て席に着くと、ぐるりと教師たちを見回した。
「残念ですが、この件をここで審議することはできなくなりました」
誰もが当惑の表情になる。城戸はすぐに続けた。
「今度の一件を、市の教育委員会が調査することになりました」
「そりゃ大変だ」
と長沢が言った。
「その通り。――従って我々としては教育委員会の調査にできる限り協力するということになりますな」
城戸は洋子を見て、「川本先生もご了解願えますね」
「はい」
「ではともかく我々は委員会の結論が出るのを待つことになります」
と言って、城戸は立ち上った。
教師たちがガタガタと椅子を動かして立ち上り、会議室を出て行く。洋子はひどく疲れて、大きく息をついた。
ふと、あの日記帳のことを思い出した。回覧していて――どこへ行ったろう? テーブルの上を見渡したが、日記帳はなかった。
他の教師たちはもう先に会議室を出てしまっている。洋子は急いで後を追った。
「待って下さい!」
廊下をゾロゾロと歩いて行く教師たちへ、洋子は呼びかけた。「日記帳を――どなたかお持ちじゃありませんか?」
けげんそうな顔の教師たちの間を縫って、洋子は、足を止めずに行ってしまおうとする数人の方へ足を早めた。
「すみません――」
と言いかけて、洋子ははっとした。長沢が、わきのくずかごへ何かを押し込んでいる。ただ捨てるにしては、奥の方まで手を突っ込んで、妙な格好だ。
「長沢先生、何をしていらっしゃるんですか?」
と洋子に声をかけられ、長沢はギクリとした様子で振り返った。
「ああ、川本先生」
「日記帳をお持ちじゃありませんか?」
「え? ああ、日記帳ですね」
長沢は取ってつけたような笑顔を見せて、
「ここにありますよ」
とくずかごから日記帳を取り出した。
「いや、他のノートと間違えて、ついうっかり放り込んでしまいましてな」
洋子に日記帳を手渡すと、長沢はさっさと行ってしまった。
洋子は日記帳を手に、しばらく立ち尽くしていた。
「――捨てようとしたのよ。はっきりしてるわ」
洋子は野崎と一緒に、裏門を出た。木立ちの間の寂しい道である。もうすっかり暗くなっていた。
「あの人は事なかれ主義なのさ」
と野崎は軽い調子で言った。
「それにしたって、大切な証拠を捨てようとするなんて、ひどいわ!」
「そうカッカするなよ」
野崎は洋子の肩へ手を回した。「世の中には色々な人間がいるさ」
「でも私たちは教師よ」
「教師だって人間さ」
「それぐらい分ってるわ。でも――」
「まあまあ。君の気持はよく分るよ。しかし、ともかくこの件は教育委員会に任せるんだ。ちゃんと調べてくれるさ」
「そう願いたいわ」
洋子は少し間を置いて、「あなたも私が言ったことを信じない?」
と訊いた。
「堀君のことか? 信じるよ。今の生徒たちはそれぐらいのことやりかねない」
「何とかできないの?」
「そうだなあ。以前の不良学生っていうのは、見るからに不良って格好だったし、学校は休む、授業はさぼる、教師に暴力を振う……。誰が見ても、はっきりそれと分った。ところが今の学生たちは、表面的には至って真面目なように装っている。成績も悪くない。授業にもちゃんと出るし、教師にも反抗的ではない。それどころか色々と手伝ったりして、教師のお気に入りってこともあるくらいだ」
「知能犯になったわけね」
「そういうことだな」
と野崎は肯いた。「表立って何もしていないから、こっちも|捉《とら》え所がないわけだ」
「いっそ教室で暴れでもしてくれた方がまだ分るっていうわけね」
「昔、〈暴力教室〉なんて映画があったな。しかし、今の方がずっと怖いかもしれないよ。表面上の平和の陰で、暴力でない暴力がはびこっているんだからな」
「そうね。怖いわ……」
洋子はちょっと身震いした。「私、この事件が落ち着いたら辞表を出すわ」
「急ぐことはないよ。校長に任せるんだ。あの人のことだ。きっと巧くやってくれる」
「そうね」
洋子はやっと微笑んだ。「――昨夜はごめんなさい」
「いいさ。ヒステリーには今の内から慣れておかないとね」
「まあ!」
二人は一緒に笑った。
「晩飯でもどう?」
「そうね。じゃ、割り勘で」
「おい、馬鹿にするなよ。これでも君一人ぐらい食わしてやれるぞ」
「それじゃラーメンでいいわ」
「やれやれ、見くびられたもんだな!」
「給料は分ってますからね」
と洋子は言った。
一応レストランで夕食をとり、野崎は洋子をアパートまで送って来た。
ドアの前で、二人は唇を重ねた。
「入って行く?」
と洋子は言った。今日はなぜか野崎を放したくなかった。まだ一緒に寝てはいなかったが、今なら彼の思うままにされてもいいと思った。
「いいのかい?」
「ええ。――お願い。入って」
「分った」
洋子はハンドバッグから鍵を出して、ドアの鍵穴へ差し込んだが……。
「おかしいわ」
「どうした?」
「鍵が――開いてる」
ドアがすっと開いた。狭い玄関へ入って明りを点け、洋子は息を呑んだ。
「こりゃあ……ひどい」
と野崎も覗き込んで目を見張った。
部屋はめちゃくちゃに荒らされていた。戸棚という戸棚、引出しという引出しは全部中味が畳の上へぶちまけられ、本棚の本も一冊残らず投げ出されている。
しかも、冷蔵庫に入れてあった、肉や野菜、卵といったものまでが打ち捨てられて、三つの卵が割れて畳の上にねばねばと漂っていた。
洋子は力が抜けて、上り口に座り込んでしまった。
「空巣にしても、ずいぶん派手にやったもんだなあ」
と野崎は|呆《あき》れたように言った。
「空巣が冷蔵庫のものまで出したりすると思う?」
「じゃ君は……誰がやったと……」
「分らないわ。――考えたくもないわ」
洋子は肩を震わせて泣いていた。
洋子は、警察の調査と、部屋の片付けで、一日休みをとった。
翌々日、学校へ出ると、廊下で城戸に会った。
「やあ川本先生」
「どうも昨日はすみませんでした」
「いや、災難でしたねえ。犯人は?」
「警察の方で調べてくれていますけど、なかなか難しいようですわ」
「盗られたものは?」
「現金だけです。あんまり少ししかなかったんで、怒って部屋を荒らして行ったのかもしれません」
と微笑む。
「まあ、あなたが危害を加えられなくて幸いでした」
「ご心配いただいて」
「私は、今から教育委員会へ出向いて来ます」
「それじゃ、あの件で」
「そうです。色々と訊かれるでしょうな。川本先生も呼ばれることになるかもしれませんよ」
「承知しています」
――職員室へ向いながら、洋子は不思議に明るい気分だった。ともかく底の底まで行きついてしまったとでもいうのか、もう何が起っても平気だという気になっていたのである。
部屋を荒らしたのは、おそらく堀が、他に何人か連れて行ってやったことに違いない。一種の警告なのだろう。よけいなことをするな。さもないと……。
朝のホームルームは十五分。出欠の確認や、連絡事項を伝えるぐらいで済んでしまう。――洋子は出欠簿を手に、二年C組へ入って行った。
少しざわついていたクラスが、ピタリと静かになる。教壇へ上ると、クラス委員の堀が、いつもの通り、
「起立!――礼!」
と号令をかける。
「おはようございます」
気持いいほどに一斉に揃った|挨《あい》|拶《さつ》。――いつもと少しの変りもない。
「おはよう」
と言って、洋子は机の上にしおれた花束が置いてあるのに気付いた。「これは?」
「お見舞です」
と生徒の方から声が上る。
「それはどうもありがとう」
「気にしないで下さい」
と女生徒の一人が言った。「大畑君の机に置いたのをそのまま使ったんですから」
「それでしおれてるのね」
洋子は平然として、「私も死ななきゃ悪いみたいね」
と言った。
「さあ、出欠をとります」
一人一人、名前を呼びながら、洋子は、まるで初めて会う顔のように、一つ一つの顔を見た。――初めて、と言ってもいいのかもしれない。今まで見ていたのは、生徒たちの表の顔で、それは至って善良な、おとなしい顔ばかりだった。
しかし、その裏の顔を、見なくてはならない。教師ならば、そうしなくてはならない。
「連絡事項です。来週の水曜日に、父兄の授業参観があります。みんなのお宅へ手紙が行くはずですから、お父さんかお母さんに、ぜひいらしていただくようにして下さい」
参観日にはみんないつにも増していい生徒になることだろう。
「それから今日の私の授業は単語の書き取りテストをします。休み時間にでも教科書を見直しておいて下さい。――じゃ、今朝はこれで」
予想した抗議の声は上らなかった。みんな当然予期していたのかもしれない。堀が、カンニングの話をしていたので、洋子はテストをやろうという気になったのである。
決してカンニングなどさせない。じっと目をこらして見ていてやろう、と思った。
城戸は昼過ぎに戻ったが、別に何の話もなかった。校長の話だけでは委員会の方も、何も分るまい。自分が呼ばれたら、総てをぶちまけてやろう、と洋子は思った。
五時間目。洋子はテストの用紙をかかえて、2年C組へ入って行った。――みんな、神妙な顔で、席に着いている。
「各列の前の人、用紙を取りに来なさい」
と洋子は言った。
――テストは至って穏やかに進んだ。洋子はテストの間、ずっと教壇に椅子を置いて、じっと教室の中を眺めていたが、カンニングらしい動きは何一つ見付けられなかった。
この生徒たちが、一人の少年を死へ追いやったとは、信じられないような気がする。何もかもが悪い夢であってほしい、と洋子は思った。
終りのベルが鳴った。
「列の一番後ろの人、答案を集めて来てちょうだい」
と洋子は立ち上りながら言った。
集められた答案が次々に目の前へ裏返して重ねられる。
「これで全部?――はい、それじゃ、今日はこれまで」
――洋子は、何か肩すかしを食ったような、それでいてほっとしたような気分で、職員室へ戻った。
「テストだったんですか、川本先生?」
隣の長沢が、洋子が小わきにかかえた答案の束を見て訊いた。
「ええ」
とだけ答えて、洋子は席に座った。長沢とは極力口をききたくなかったのだ。
洋子は湯呑み|茶《ぢゃ》|碗《わん》を取り上げ、立って行って、ポットの熱いお茶を注いだ。席に戻って熱い茶をすすりながら、答案を目の前に置く。――一目見て、洋子は凍りついたように動けなくなった。熱い茶碗を持っていることにも気付かなかった。
氏名の欄は空白のままで、単語を記入すべき欄には、総て、同じ言葉が書かれてあったのだ。〈死ね〉という一言が。
震える手で、洋子は茶碗を置くと、答案をめくった。二枚目も全く同じだった。〈死ね〉という言葉の羅列。三枚目も、四枚目もそうだった。
四十枚余りの答案用紙を、洋子は全部めくり終えた。――総て、〈死ね〉という言葉だけが記入してある。
洋子は言い知れぬ恐怖を感じた。クラスの全員が、しめし合わせたのだ。誰一人としてそれを拒む者がなかったということが、洋子には恐ろしかった。
気が付くと、額に汗がにじんでいる。洋子はハンカチを取り出して汗を|拭《ぬぐ》った。そして、ふと窓の外へ目を向けた。
向う側の校舎の窓から、彼女のクラスの生徒たちがじっと彼女の方を見ていた。全部の顔が、窓一杯にずらりと並んでいる。
洋子は|戦《せん》|慄《りつ》を覚えた。その顔の、冷淡な、人形のような無表情。いたずらを面白がっている様子も、そこにはなかった。患者を見るのに慣れ切った医者のように、無感動な顔が、そこに並んでいた……。
次の週の月曜日、洋子は校長室へ行った。
「やあ、何か用ですか?」
いつも通りの穏やかな口調で城戸は言った。
「教育委員会の調査の方は、どうなっているんでしょうか?」
「ああ。――いや、何も言って来ませんなあ。何しろあそこもお役所ですからね。あまりてきぱきとした処理は期待できませんよ」
「そうですか……」
「心配することはないですよ」
「それから――」
「何です?」
「私の……進退について……ご相談したいと思いまして」
城戸は微笑んで、
「あなたが辞める必要は全くないと思いますね。あなたは優秀な人だし、情熱もある」
「でも、クラスであんな事件が――」
「辞めたからといって、クラスが良くなるわけではない。そうでしょう?」
「ええ、それは……」
「時間をかけて、一人一人の生徒を指導していくんですよ。それしかないと思いますね」
城戸の言葉は、いかにも快く耳に響いた。しかし、それが結局は総てに目をつぶってしまうことに他ならないことも、洋子はよく分っていた。
「分りました。ともかく、教育委員会から呼び出されるのを待ちます。その上で決めたいと思います」
洋子は一礼して校長室を出た。――どこかすっきりしない気持だった。
職員室へ戻ると、電話が鳴った。
「あ、川本先生ですね。交換ですが、先ほど大畑さんという方からお電話がありました。また後でかけるとか――」
「分りました。こっちからかけてみます」
受話器を置いた洋子は、すぐに大畑へ電話しようとして、ためらった。隣の長沢に話を聞かれるのが嫌だった。
洋子は小銭入れから十円玉を出して、売店の赤電話へと急いだ。
「――あ、川本です。先ほどお電話を……」
「まあ、どうもご丁寧に」
と夫人が言った。声の様子がおかしい。
「あの、何か――」
「主人が亡くなりまして」
「ご主人が?」
「はい。工場で、重い鉄材で頭を打ちまして……」
「痛みはほんの一瞬のことだったと思います」
大畑夫人は、夫の遺体の前に座って、言った。「いつもなら、こんなに不注意な人ではないんですが」
洋子は、布で覆った大畑の死顔の輪郭に、じっと見入った。息子の死が、この人を急に衰えさせてしまったのではないだろうか。そうならば自分もこの人の死に一半の責任はあるのだ。
「先生。わざわざおいでいただいてどうもありがとうございます」
「いいえ。――ご主人も息子さんのことがはっきりしないままで、残念だったでしょう」
「何か、教育委員会とかいう所で調べていて下さるとか」
「はい。ご両親は呼ばれませんでした?」
「いえ、何も聞いておりませんが」
おかしい。自殺した少年のことを調べるのに、親より先に学校の校長を呼ぶというのは、どう考えても変だ。洋子はふと不安を覚えた。
「必ず、真実を明らかにします。お約束しますわ」
洋子は、半ば仏に向けて、そう言った。
火曜日、放課後の職員会議で、大畑の父親の死が知らされると、予期していたことではあったが、一様にほっとした表情が教師たちの顔に浮かんだ。
「まあ、これでマスコミもうるさく追っかけ回さんでしょう」
「ああいう父親はあることないこと、ふれ回りますからな」
「全く、理性を失うと困りものだ」
洋子はじっと自分を抑えた。そして話が途切れると、
「校長先生」
と言った。「教育委員会の調査はどこまで進んでいるんでしょうか?」
城戸は首を振って、
「私にも分りませんな。何しろこっちが口を出すべき立場ではないし」
「でも、大畑君の両親も全く呼ばれていなかったそうです。担任の私も、生徒たちも、誰一人呼ばれていません。一体どんな調査をしているんですか?」
「川本先生は変ってますな」
と長沢が笑いながら言った。「教育委員会に呼び出されるなんて、みんな真平なのに、呼ばれないと文句を言っている」
みんながドッと笑った。洋子はムッとしたが、極力それを顔に出すまいと努力した。
そこへ校長の秘書が入って来た。
「校長先生、教育委員会からお電話が」
城戸が出て行くと、重苦しい沈黙が一同を包んだ。――この前と同じだ。これが教育者の集りなのか? 洋子の胸を冷たい風が吹き抜けていった。
「教育委員会といえば」
と長沢の隣の席にいた教師が言い出した。
「長沢先生、行かれたじゃないですか」
洋子はじっと長沢を見つめた。
「長沢先生が? 本当ですか?」
「ええ……。まあね」
長沢は、まずいことを言ってくれたという表情で、「呼ばれたから行ったんですよ」
「なぜ長沢先生が? 大畑君の担任でもないのに――」
洋子ははっとして言葉を切った。事情が一瞬にしてのみこめたのだ。
「では、長沢先生が、大畑君の担任として行かれたんですね」
洋子の言葉の勢いに、長沢は否定もできず、
「ええ……。校長の命令でね」
と肩をすくめた。
城戸が戻って来た。
「いいニュースです、みなさん」
と笑顔で席に着くと、「教育委員会は、この件に関しては学校側には一切責任なしという決定を下しました」
拍手が起った。洋子は、ただ呆然として座っていた。
「では今日の会議は終りにしましょう」
と城戸が立ち上った。
「待って下さい!」
洋子は立ち上った。「こんな――こんな調査なんて、意味ありません! 担任の教師にも、当人の親にも、生徒たちにも何も訊かずに、学校の言う事だけを聞いて決定するなんて、無茶です!」
誰も洋子の言葉に耳を貸さなかった。みんな次々に席を立って、会議室を出て行く。
「考えて下さい! 人が一人死んだんですよ! それをこんな形式だけの調査で片付けていいんですか! 教育の任にある者が……」
もう、会議室には誰も残っていなかった。洋子はがっくりと椅子に腰を落とすと、しばらく放心状態で座っていた。
「大丈夫かい?」
顔を上げると、野崎が戻って来ていた。
「知ってたのね。みんな。――あなたも?」
野崎は視線をそらして、
「ああ、知ってた」
と肯いた。「教育委員会には校長の友人が多勢いるんだ。こうなる筋書だったのさ」
「ひどいわ……」
洋子は両手で顔を覆った。
「君のためだよ。このまま頑張れば必ず職を追われる。それに――」
「|嘘《うそ》はやめて。学校のためでしょう。学校の名誉のためね」
「それもある。私立校にとっては厳しい時だからね」
洋子は立ち上った。
「一緒に帰ろう」
「いいえ、先に帰って」
「どうして?」
「やることがあるの」
「明日は授業参観だ。早目に帰って寝た方がいいぜ」
「分ってるわ」
洋子は素気なく言った。「さよなら」
――一人で、職員室へ入ると、洋子はしばらく机の前に座って、考え込んでいたが、やがて電話へ手をのばした。
「――番号案内? N日報の番号をお願いします」
その夜、裏門から出たのはもう九時近くだった。――やるべきことはやったという満足感と無力感とが、奇妙に洋子の内で入り混っていた。
N日報の記者を呼んで、大畑清士の日記帳を託したのだ。記事になるかどうかは確信できなかったが、今の自分にできることはこれぐらいしかなかった。
たとえ記事になっても、学校側は、あくまで教育委員会の決定を|楯《たて》にするだろう。教育委員会にしても、|一《いっ》|旦《たん》下した決定を翻す望みは、まずないと言っていい。――そしてその内に、世間はこんな事件があったことを忘れて行くだろう。
明日、洋子は辞表を出すつもりだった。どうせ記者にあの日記帳を渡したことが分れば、学校にはいられないのだ。
野崎とも別れるつもりだった。彼は彼なりに大人なのだろうが、それだけで許すことはできない……。
洋子は暗い木立ちの中を歩いていた。突然、四つの人影が左右から飛びかかった。――悲鳴を上げることもできなかった。顔を、腹を、蹴られ、殴りつけられた。
路上に倒れて動かなくなった洋子を見下ろして、四人の少年たちは肯き合うと、遠ざかって行った。
洋子はしばらく身動きできなかった。苦痛が体中を駆け巡って、息をするのも苦しい。そして、やっとの思いで体を起しかけた時、近付いて来る足音を耳にして、また地に伏せた。――一人が戻って来たらしい。
生徒の誰かだということは、殴られた時から分っていた。大人にしては小柄すぎたからだ。
なぜ戻って来たのだろう? じっと耳を澄ましていると、
「畜生……」
と|呟《つぶや》きながら、何かを捜している様子だ。さっき彼女を襲った時に、何かを落としたらしい。手帳か何か、名前の分るものなのだろう。しばらく捜し回って、安心したように口笛が出た。見付けたらしい。
歩いて行こうとする生徒の足を、洋子は手をのばしてぐいとつかんだ。
「わっ!」
と仰天して声を上げる。「離せ! 離せよ!」
「堀君ね! あなた、こんなことをして――」
「離せってば! この野郎!」
振り切ろうとするのを両手でしがみついた。一対一だ。死に物狂いになれば取り押えられる、と思った。元来堀はそう力のある方ではないのだ。
「離せ! こいつ!」
堀の方も必死になっていた。鼻血にまみれた顔でしがみついて来る洋子が怖くなった。
急に、鋭い痛みが横腹に走った。洋子は思わず手で押えた。手が|濡《ぬ》れる。堀が、手からナイフを落として、駆け出して行ってしまった。
刺されたのだ。洋子は傷口を押えて|呻《うめ》いた。苦痛よりは、出血のひどさがショックだった。やっと起き上ったが、ここから助けを求めるにはどこまで行けばいいのか……。
早くしないと、出血多量で死んでしまう。よろける足で立ち上ると、流れ出た血が、腰から足へと濡らしていくのが分る。
学校の方へと戻りかけ、足に力が入らないのに驚いた。
――死ぬのだ、と思った。でも、私は勝った。生徒たちに勝ったのだ。自分が刺し殺されたら、いくらあの校長でも、事実を隠し通すことはできないだろう。
しかし、ここで死んではだめだ。路上では、ただの暴漢に襲われたと見られるだろう。ここでは死ねない……。
洋子は、必死に裏門へ向って足をひきずって行った。
「川本先生は?」
と城戸が職員室へ入って訊いた。
「まだいらしていません」
と事務の女の子が答える。
「病気かね?」
「連絡ありませんけど」
「参観日なのに困るね……」
と城戸は|呟《つぶや》いた。
「いいじゃありませんか」
長沢が口を出した。「また父兄に向って演説を始めるかもしれませんよ」
「それはそうだね」
と城戸は笑って、「よし、じゃ川本先生のクラスには私が行こう」
「校長先生が英語を教えるんですか?」
「こう見えても私はイギリス帰りですよ」
城戸はいかめしい顔つきになって言った。
「ご父兄の方々には色々とご心配をおかけしました」
城戸は2年C組の教壇から、教室の後ろに並んだ父兄たちへと語りかけた。
「このクラスには不幸な出来事があり、それをめぐって、根も葉もない中傷やデマが飛びました。しかしながら、ご存知の通り、市の教育委員会は、一切そういった|噂《うわさ》は根拠のないものであるという結論を下したのです。もう、何の心配もありません。クラスのみんなは安心して勉強に専念して下さい。というわけで、実は今日はこのクラスの担任が休んでおりますので、代りに私が一時間だけ、授業を受け持つことになりました」
生徒たちから、次いで父兄からも、拍手が起った。城戸はちょっと照れくさそうに頭をかいて、
「だいぶ私の頭も|錆《さ》びついておりますので、いささか頼りないのですが……」
と教科書を開く。「何ページかな? ん?――あ、ここか。ええと……」
と黒板へ向ったが、
「白墨がないな」
と生徒の方を向いて言った。
「はい」
女生徒の一人が立ち上ると、教室の後ろの隅にある、細長いロッカーの方へ、足早に歩いて行った。掃除用具や、白墨の予備をしまっておく所だ。
ロッカーの戸を開けて、女生徒が、
「キャーッ!」
と悲鳴を上げて飛びすさった。ロッカーの中から、洋子の死体がゆっくりと床に崩れて来た。
しばらく、生徒も、父兄も、凍りついたように動かなかった。――血にまみれた洋子の死体を、まるで何か奇妙な動物のように眺めていた。
城戸は列の間を通って、死体の前まで来ると、しばし呆然と突っ立っていた。
「これは……」
と父兄が言いかけると、城戸が言った。
「いや、何でもありません。何でもありません」
「しかし、現にこうして……」
「大したことじゃありません」
城戸は、まるで呪文でもとなえるような口調でくり返した。「何でもありません。本当に、何でもありません……」
召 使
玄関のチャイムが鳴った時、中田江美子は掃除を終え、洗濯機はまだ〈洗い〉の最中だったので、居間のソファに寝そべって、TVを見ていた。
「はーい」
と返事をしたついでに、|大《おお》|欠伸《あくび》が出る。何とも色気のない話である。
|誰《だれ》だろう?――江美子の頭の中を、さまざまな推測が駆け巡った。
洗濯屋は火曜と金曜と決っているが、今日は水曜だ。何かの集金という時期でもない。保険の勧誘か、それともセールスマンか。家族計画のセールスなんていうのも、これくらいの時間によくやって来る。
まあ、何にしてもあまり歓迎すべき客とは思えなかった。
江美子の夫、中田耕造は、ごくごく平凡なサラリーマンで、三十六歳。まだ平社員である。江美子としては、近所の奥さんたちに、
「ご主人は何をなさってるの?」
と|訊《き》かれる度に|憂《ゆう》|鬱《うつ》になる。
「平凡なサラリーマンよ」
としか返事のしようがないからだ。
せめて係長でもいい、〈長〉の字のつくポストにいてくれたら、
「食料品関係の会社の係長をやってるの」
と答えられるのに……。
でなければ何か技術を持っているとか、自由業でないまでも、何かのスペシャリストなら、もっとサマになる。しかし中田耕造は全く何の特技も持たない人間で、仕事内容は〈事務〉としか言いようのないものだった。
趣味は、といえば、これほど趣味のない人間も珍しいと思える無趣味人間で、休日はただゴロゴロと寝ているだけ。
日曜大工とか、草むしりとか、何か役に立つようなことはまるでできない。こういう平凡なサラリーマンに、会社がそれに見合った給料以上のものを払うはずもなく、生活は楽ではなかった。
会社は隔週の週休二日制で、江美子は夫に休みの日は何かアルバイトでもしてもらおうかしら、などと、半ば本気で考えていた。
江美子は三十一歳。ちょっと太目で、ちょっと生活の疲れの見える点を除けば、まあ美人というより〈|可《か》|愛《わい》い女〉の内に入るだろう。
江美子は、これといって取り柄もなく、二枚目でもなく、出世の見込みもない中田と、なぜ結婚する気になったのか、今でも時々考え込むことがある。
見合結婚で、紹介してくれた人に義理もあったし、特別な好みもなかったせいだろうが、それにしても、ちょっと早まったかな、と思ったことも一度、二度……。
子供もなく、七年があっという間に過ぎてしまって、二人が一緒に暮しているのは、別れたからといって、どうしようというあて[#「あて」に傍点]もないからだった。
家は公団住宅の2DK。広くもなく狭くもなく、住人に似て、中途半端な部屋であった。
さて、玄関へ出た江美子は、
「どなたですか?」
と声をかけた。セールスマンなど、開けるまでチャイムを鳴らすだけで、返事をしないのがいる。しかしこっちも慣れっこである。根くらべよろしく、
「どなたですか?」
とくり返してやるのだ。
しかし今日の客は、
「ごめん下さいませ」
と男の静かな声で、「ちょっとお願いがございまして」
と来た。――やはりセールスマンらしい。江美子は、サンダルを引っかけ、そっと|覗《のぞ》き窓から外を見た。
四十歳くらいの、ちょっと学校の教師を思わせる、|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔つきの男が、背広にネクタイのスタイルで立っている。
そう柄は悪くなさそうだが……。外見では分らないものだ。江美子はちょっと迷ったが、結局、チェーンを外し、|鍵《かぎ》を開けて、ドアを押した。
どうせ暇なのだ。何のセールスか知らないが、ちょっとぐらい相手をするのも、時間つぶしにはなるじゃないの。
「奥様でいらっしゃいますか」
男は丁寧に頭を下げた。
「はあ。何のご用ですか?」
「私、こちらに|召使《めしつかい》として参ったのですが、使っていただけますでしょうか?」
と男は言った。
江美子はちょっとの間、頭の中で男の言ったことをくり返してみた。
「あの、失礼ですけど」
「はい」
「〈何使い[#「何使い」に傍点]〉っておっしゃいました?」
「召使でございますか」
「はあ……」
「召使」という言葉なら知っているが、他に何かあったかしら?「飯使い」「名刺使い」「メッシュ使い」(靴じゃあるまいし!)……。
「召使、というとあの……色々と雇われて働く人のことですか?」
「さようでございます、奥様」
「で、ここで使ってほしいんですって?」
「はい、ぜひ使っていただきたいのでございます」
男はあくまで真面目そのものの口調であった。
「そう言われても……」
と江美子は自分の後ろに見えるダイニングキッチンの方を手で示して、
「ここはご覧の通りの2DKでね。人を使うほどの仕事はないのよ。それにそんな余裕もないしね」
と軽い口調になって言った。
「あなた家政婦の紹介所か何かから来たの?」
「いいえ、私は家政夫ではございません。召使でございます」
江美子は当惑した。少しキ印[#「キ印」に傍点]なのかしら? 何かのセールスにしてはおかしい。
「ですから言った通り――」
「お掃除、洗濯、買物、料理など一切の家事をやらせていただきます」
「一切の[#「一切の」に傍点]?」
江美子は|唖《あ》|然《ぜん》とした。こりゃ完全に|気《き》|狂《ちが》いだ。
「け、結構よ。私だって少しは家事ぐらいできるしね。人を雇うほどのお金ないの、悪いけど」
「お金はいただきません」
「――え?」
「給料などは一切いただきません。ただ働かせていただければ結構なのでございます」
江美子はポカンと男を見つめて突っ立っていた。
「召使だって?」
帰宅した中田は、江美子の話に目を丸くした。「2DKにか?」
「私もそう言ったんだけど……」
「召使の押し売りなんて聞いたことない。きっと何か裏があるんだよ」
「ええ、私もそうは思ったんだけど」
「断ればいいじゃないか」
「そうねえ……」
江美子は|曖《あい》|昧《まい》に|肯《うなず》いた。
「晩めしにしてくれよ、腹が減って死にそうだ」
「もうできてるわ」
中田はびっくりして、
「そりゃ気が利いてるな。大地震でも来るんじゃないか」
中田は笑いながら上着を洋服ダンスへしまったが……。
「おい、江美子」
「なに?」
「洋服ダンスの扉、ロックが壊れてたの、直ってるじゃないか」
「直してもらったの」
「誰に?」
「大木さん」
「ふーん」
と言ってから、「誰だ、大木って?」
「召使さん」
中田は、しばらく江美子を見ていたが、
「気でも違ったのか!」
「あら、だって、|只《ただ》だっていうし、何でもやってくれるっていうから、ちょっと、ものは試し、と思って……」
「おい、冗談じゃないよ。そんなことして、後で妙なのが金を取りに来たりしたらどうするんだ?」
「でも……そんな人じゃないのよ。本当よ。とっても真面目でよく働くし――」
「|呆《あき》れたな、全く!」
中田は食卓についた。「――何だ、今夜はえらくおかずが多くて豪華じゃないか」
大体、中田自身も味にうるさくないので、江美子の方もそれに合わせて(中田に言わせると彼の方が江美子に合わせたのだが)、至って簡単な料理しか作らないのが通例であった。従って、いつも、そう広くもない食卓がスカスカの寂しさなのだが、今夜はえらく種類の多いおかずが満載されている。
「食べてみて」
と江美子がご飯をよそった。
「――|旨《うま》い!」
シチュー風の料理を一口食べて、中田が目を見張った。「おい、どうなってるんだ? 誰かに分けてもらったのか?」
江美子はテーブルにひじをついて、
「召使さん」
と言った。
中田はエヘンと|咳《せき》|払《ばら》いして、
「そいつはきっとあれだ。今流行の、夕食の材料配達しますって会社の新手のPRだぞ。このおかずは売りつけられたんだろう」
「ううん」
と江美子は首を振った。「冷蔵庫にあった材料だけで、大木さんが作ったの。本当よ。私、見てたんだから」
「驚いたな!」
中田は首を振って言った。「そいつが何者か知らないけど、料理の腕前は一流だ!」
「でしょう?」
「で、その――大木って|奴《やつ》、何も受け取らずに帰ったのか?」
「そうなの」
「ふーん。――後で財布の中や、へそくりを調べてみたかい?」
「失礼ね、へそくりなんてないわよ」
と江美子はふくれっつらになって言った。「大丈夫。何も盗まれてません」
「分らんなあ」
中田は肩をすくめて、「きっと宗教団体で奉仕活動か何かやってるんだよ」
「でも召使だなんて言わないでしょ」
「それもそうだ。〈召使教〉ってのは聞いたことがないものな」
食事が終ると、江美子は皿や|茶《ちゃ》|碗《わん》を流しに運んだ。
中田はTVを見ていたが、江美子が洗い物もせずに居間のソファへやって来て、一緒にTVを見始めたので、
「おい、洗わないのか?」
と言った。江美子は汚れた皿はすぐ洗わないときれいにならない、といつも言っていたからだ。
「いいの」
「何だ、見たいTVでもあるのか?」
「別に。――水につけておけば、明日大木さんが洗っておいてくれるから」
「そうか」
とTVの方へ目を戻して……。「明日? 明日も、その召使ってのが来るのか?」
「いいじゃない。試しに使ってみれば」
「しかし……」
「朝は六時に来て、こっちが起きるまでに朝食の用意をしてくれるっていうし、夜は夕食の仕度をして帰って行くんだもの。そう煩しいこともないでしょ」
「|僕《ぼく》は……どうも信用できないな。泥棒が下調べか何かしに来てるんじゃないのか?」
「ねえ、あなた」
「何だ?」
「うちに盗まれるような物があると思う?」
中田は返事ができず、TVに見入った。しかし、一分とたたない内に、
「朝六時に来るって?」
「ええ」
「そんなに早く、どこから通って来てるんだ?」
「知らない。訊いてみたけど答えないの。『ご主人様は召使の素姓などお気になさいませんように』って言ってね」
「正真正銘、イカレてんだ、そいつは」
「大木っていうのも、私がつけたのよ。名前はどうぞお好きなようにって言うから」
「へえ! 本格的なキ印だな。どうして大木にしたんだ?」
「向うに大きな木が見えたの。だから」
「いい加減だな。――でも、明日朝六時に来たら誰がドアを開けるんだ? 僕はごめんだぜ」
「鍵を渡してあるわよ」
江美子はTVの画面から目を離さずに言った。中田は何を言う気力も失せて、TVに注意を集中した。
中田は、漂って来るコーヒーの|匂《にお》いで目を覚ました。
江美子の|奴《やつ》、どういう風の吹き回しだ? いつもは起きさえしないで、亭主がミルク一杯で出かけるのを、せいぜい布団の中から、
「行ってらっしゃい」
と声をかけるぐらいなのに。
今朝はコーヒーまで|淹《い》れてくれている……。中田は、ヒョイと隣を見て、目をパチクリさせた。――江美子はいとも静かに眠っているのだ。
「じゃ、あれは……」
思い出した。江美子が、〈召使〉がどうとか言っていたが。
中田は布団から出ると、そっとダイニングキッチンを覗いてみた。テーブルには、トーストとゆで卵、サラダが、手際良く並び、新聞もきちんと畳んで置かれている。
コーヒーをドリップで淹れていた四十歳ぐらいの男が、目ざとく中田に気付いて、
「おはようございます」
と頭を下げた。
「どうも……」
中田もつい頭を下げる。
「もう召し上りますか?」
「え、ええ、そうします」
中田はまだ夢ではないかと半信半疑のままふらふらと出て来た。
「あの……あなたが……」
「大木という名前を奥様からちょうだいいたしました」
と召使は|微《ほほ》|笑《え》みながら、「よろしくお願いいたします」
「はあ。――こちらこそ」
中田は、もし今日〈召使〉が来ていたら、徹底的に正体を|暴《あば》いてやろうと考えていたのだが、いざ、こうして目の前にすると、確かに人品卑しからぬ、紳士と言っていい人物。
おまけに、久しく食べたことのない(もっぱら飲む[#「飲む」に傍点]だけだった)朝食というものに懐しの対面をして、何とも言えなくなってしまったのである。
「コーヒーのお味はいかがでございましょう?」
と召使が訊いた。
「え、ええ、大変結構です」
と中田は言った。
「味にご希望がありましたら、ご遠慮なくお申し付け下さい」
「はあ」
ゆで卵も半熟で、食べ|頃《ごろ》の熱さ。中田は、召使のことを気にしながらも、つい夢中で食べてしまった。
「あなたは食べないんですか?」
中田は、じっとそばで突っ立っている召使に訊いた。召使は微笑んで、
「召使はご主人様と一緒に食事を取ることは禁じられております」
「でも……」
「どうぞお召し上りを。ご出勤の時間になります」
「そうだ、しまった!」
いつもミルク一杯なので、こんなに時間をかけないのだ。
急いで食べ終えると、顔を洗い、ヒゲを|剃《そ》る。――戻って来ると、ワイシャツ、ネクタイ、背広が、ちゃんとソファに並べてあった。ワイシャツも、背広もアイロンを当て直したらしい。一見新品かと思うほどきちんとしている。
手早く着終えると、
「どうぞ」
とハンカチが差し出される。これもちゃんとアイロンを当ててある。
「じゃ、行って来ますので……」
「行ってらっしゃいませ」
と召使は頭を下げた。――玄関へ出て、またびっくりした。自分の靴が、まるで別物のようにピカピカに磨き上っている。
訊くまでもない。あの〈召使〉だ。
中田は、急いでバス停へと歩きながら、あの召使って奴、確かに気はきくな、と思った。一体どこのどいつなのか……。
いつも同じバスで|顔《かお》|馴《な》|染《じ》みの八田が、追いついて来て、
「やあ、中田さん、おはよう」
と声をかけて来る。そして大欠伸をして、「眠いねえ。すきっ腹に水一杯で出て来るんだ。我ながらあの満員電車で、よくもつと感心するよ」
「今朝はちゃんと朝食をとって来たんだよ」
「え?――そういえば」
と中田をまじまじと眺めて言った。「何だか今朝はえらくパリッとしてるね、中田さん。血色もいいし、起き抜けって顔じゃないな」
「まあね」
中田はニヤリと笑った。
実際、あれだけ朝食を食べ、新聞を見て、総てを|揃《そろ》えて送り出されると、こんなにも気分が違うものなのか、と中田は驚いた。
いつもなら、会社を休んで寝ていたいとバスに乗るまで考えているのに、今朝は、会社へ着いたら、あれを片付けよう、こっちにも電話しなくては、と、自然に仕事のことを考えている。
バスは始発なので、駅まで十五分は座って行ける。むろん途中のバス停から乗った客は座るなど及びもつかない。乗り残しが出るほどの混雑になるのだ。
八田と並んで座っていた中田は、停年間近に違いない老人が、ぐいぐい押されて、息も絶え絶えに、目の前へよろけて来るのを見て、席を立った。
「さあ、お座りなさい。どうぞ」
中田の言葉に、老人は面食らったようだった。それはそうだろう。ラッシュ時の電車やバスは、乗物というより戦場だ。席を譲るような人間はまずいない。
「よろしいんですか……どうも」
老人は信じられないような顔で、座ると、
「どうもありがとうございます」
と、何度も礼を言った。
八田もびっくりした様子で、中田を眺めている。中田は悪い気分でもなかった。
召使がいる、と思うと、何となく気が大きくなるのだ。――召使ってものも悪くないな、と中田は思った……。
上野幸代は、回覧板を持って、三階から二階へ降りて来た。二階の端、二〇一号室が中田の家だ。
幸代は中田江美子とはウマが合う、というのか、仲が良かった。回覧板を届けるついでに、もし彼女に暇があれば、上って少しおしゃべりをして行こう、と思っていた。
幸代は、あら、と目を留めた。廊下の排水溝の所――江美子の家のドアの前で、見たことのない男が、換気扇を洗っている。
誰かしら? 電気屋のサービスかな、と首をかしげる。
今時、そんなことをしてくれる電気屋はいないはずだけど……。
幸代は江美子の家のチャイムを鳴らした。すると、
「奥様はお出かけでございますが」
と、その男が立ち上って言った。――奥様[#「奥様」に傍点]ですって? 幸代は面食らった。
「あの――中田江美子さんのこと?」
「はい。ただ今、お出かけでございます。ご用でしたら承りますが」
「用って……この回覧板を持って来ただけなのよ」
「では私がお預りいたします」
「あなた、どなた?」
と幸代が訊いた。江美子の夫の顔は知っているし、他にも大体の部屋の住人の顔は見知っているのが自慢である。
「私は大木と申します。こちらの中田様のお宅で働かせていただいている召使でございますので。――お名前は何とおっしゃいますか?」
「え、ええ――私は――上野幸代といいます」
「上野様でございますね。かしこまりました。確かに奥様にお渡しいたします」
と回覧板を受け取る。幸代は、しばしポカンとしていたが、
「よ、よろしく」
と頭を下げて、小走りに――部屋へは戻らず、階下へと階段を駆け降りて行った。
団地の中の公園は、一種の社交場の役割を受け持っている。子供たちを遊ばせておきながら、母親同士が色々とおしゃべりをするので、昔の〈井戸端会議〉、今は〈公園会議〉とも言えるだろう。
幸代は、その公園の談話室へ向って、走るような足取りで急いだ。
「あら、どうしたの、上野さん?」
幸代の様子にびっくりした主婦の一人が言った。
「大事件よ、大事件!」
幸代の目は輝いていた。
中田は、昼休み、自宅へ電話をかけてみた。あいつ、まだいるんだろうか?
呼出し音が鳴ると、ほどなく受話器が上った。
「はい、中田でございます」
まだいたな!
「ああ、僕ですけど――」
「ご主人様でいらっしゃいますね」
「そう――そうです。あの、江美子はいますか?」
「買物へお出になっております」
「そうか。――じゃ、結構です」
「何かご伝言がございますか?」
「いや。別に。どうも」
中田は電話を切った。――どうやら、あの召使、偽者ではないみたいだ。
しかし、今では本場のイギリスでも、召使というのがいなくなっているらしい。それが日本の、しかも団地の2DKに、なぜ現れるのだろう?
「中田さん」
と声をかけて来たのは、同じ課の、若い女の子、早坂久美だった。
「やあ早坂君か」
「どこへ電話してたの?」
「我が家さ」
「|嘘《うそ》でしょ」
「どうして?」
「口のきき方が変よ。奥さんの実家へでも電話してるのかと思った。逃げられたんじゃないの?」
「変なこと言うなよ」
と中田は苦笑しながら言った。
早坂久美は、やっと二十二歳の、会社では人気の高い美女である。しかし、人気の高いのはもっぱら男性の間であって、女性の間では、|妬《ねた》み半分か、至って評判が悪い。ちょっと悪女タイプの美女なのである。
「今、僕の家にね、召使がいるんだ」
「何ですって? 何がいるの? 犬? それとも猫?」
「おい、人間だぜ」
「何とかつかい[#「つかい」に傍点]がいるって言わなかった?」
「召使」
半信半疑どころか、まるで信用していない風の久美に、中田は詳しい話をしてやった。
「へえ! 本当なの?」
一応はびっくりしたものの、やはりまだあんまり信じていないらしい。
「本当だとも。嘘だと思ったら、一度見においでよ」
「動物園に珍しい動物でも見に行くみたいね」
と笑って、「行ってもいいわね」
「本当かい?」
「本当よ」
「それじゃ、今度の日曜にでも?」
「奥さんがいるのはいやよ」
「大丈夫。今度の土、日にかけて、実家へ行くことにしてるからね」
「じゃ、ゆっくりとその召使さんを拝見するわ」
早坂久美は楽しげに言って、もう席を立っていた。
「そんな、中田さんのお家で召使だなんて!」
「それが本当なのよ」
幸代が言った。「本人がそう言ってるんだから」
「きっと冗談よ。ねえ」
と他の奥さんたちは本気にしない。
「ご主人を見間違えたんじゃないの?」
「私、ご主人の顔なら知ってるわよ」
と幸代はむくれている。
「整形手術でもしたんじゃない?」
「嘘だと思ったら見てらっしゃいよ!」
と幸代がむきになって言いながら、建物の方へ向いて、「ほら! ごらんなさいよ!」
と声を上げた。みんなが一斉に顔を向ける。
「――まあ! 本当だわ!」
公園からは、ちょうど建物のベランダの側が見えるようになっている。その、中田の部屋のベランダに、当の召使が現れたのである。
「あの人よ!」
と幸代は得意げに言った。
「でも、召使には見えないわね」
「ほんと。ご主人より押出しが立派じゃないの」
「ね、見て。洗濯物を干してるわ。――あら、奥さんの下着まで!」
と口々にやかましい。「――ただごとじゃないわね、これは」
「きっと体の関係があるのよ。でなきゃ下着まで――」
「だけど愛人が洗濯までやる?」
「ヒモじゃないの?」
「お金もないのにヒモがつく?」
「じゃ、あの奥さん、きっとアレをやってるんだわ」
「アレって?」
「決ってるじゃないの。スプリングセールよ」
「デパートの売子?」
「いやね、〈売春〉じゃないの」
「あ、そうか。でも、ご主人だっているじゃないの」
「稼ぎが悪いから何も言えないのよ、きっと」
段々ひどいことになって来る。そこへ、
「あら、にぎやかね」
と、当の江美子が通りかかって、「何のお話?」
みんな慌てて口をつぐむ。知らぬが仏の江美子は、
「ねえ、我が家に召使[#「召使」に傍点]が来たのよ。聞いてくれる?」
と言い出した。幸代が、
「あの人でしょ」
とベランダを指さす。
「そうなの。ちょっと面白いでしょ」
「どういう人なの?」
「だから召使よ。――みなさん、どう? 家にいらっしゃらない?」
と江美子はわざと気取って言った。
――江美子は台所の方へ控えている大木に、
「大木さん。みなさんのお茶を|淹《い》れかえてちょうだい」
と声をかけた。
「はい、かしこまりました」
大木が手際よく茶碗をさげて行く。
最初はいぶかしげだった奥さん連も、しばらく大木の働きぶりを眺めている内に、やっと納得して来た様子で、
「いいわねえ。――いくら取られるの、一日? 高いんでしょ?」
「え?――まあ、それほどでも、ね」
江美子は笑ってごまかした。ただで来ているとは言いたくない。
「いいわねえ、我が家にはとってもそんな余裕はないわ」
江美子はちょっと〈奥様〉らしくそっくり返って、
「狭い家だからこそ、ぜいたくな暮しをしてみるのも楽しいのよ。退屈な家事は人手に任せて、何か好きなことをしてね」
「お宅は子供がないから。うちみたいに二人もいちゃね、好きなことやれ、って言われたら、居眠りしちゃうわ」
「あら、それならベビー・シッターを雇えばいいのよ」
と江美子も大分悪乗りの気味である。
その時、電話が鳴って、お茶を淹れていた大木がすぐに受話器を取った。
「はい、中田でございます」
と、至って丁寧な口ぶり。「――どなた様でいらっしゃいますか?――少々お待ち下さいませ」
大木は静かに受話器を電話のわきに置くと、「奥様、橋本様からお電話がかかっております」
「橋本?」
とちょっと考えて、「あ、いけない、お母さんだわ!」
と慌てて電話へ。
「もしもし、お母さん?」
「江美子かい? ああ、よかった」
「何が?」
「間違えたかと思ったんだよ。今のは耕造さんがふざけてたのかい?」
「違うわよ」
と江美子は笑い出した。「大木さんっていうの。うちで働いてもらってるのよ」
「働いて? お前のうちで?」
「そう。何でもやってくれるの。掃除、洗濯から料理もね。何でも一流の腕なのよ」
「お手伝いさんにしちゃ男みたいな声だったね」
「男の人だもの。召使よ、言うなれば」
「何だって?」
「召使。――分った?」
向うはしばらく沈黙した。「もしもし? お母さん、聞える? どうしたの? もしもし――」
「お前って娘は……」
グスンとすすり上げる。泣いているらしい。江美子は驚いて、
「どうしたの? 何を泣いてるのよ?」
「私が神経痛で、台所をするのも休み休みだっていうのに、元気なお前が、人を雇って……」
「お母さん! それは誤解よ」
「いいんだよ。お前は大体昔から冷たいところがあったからね」
「いやねえ。これには色々とわけがあって……」
「そりゃ、お前の|旦《だん》|那《な》さんが稼いだお金だからね、どう使おうと私の口出すことじゃないさ。だけどお前だって|年《と》|齢《し》をとれば――」
「そんな愚痴、やめてよ。説明するからさ、ちゃんと」
「どうせ私は邪魔なんだろ。そうそう長生きはしないから、安心おし」
こういう相手には何を言ってもむだである。江美子は、他の奥さんたちの手前もあって、
「また後で電話するから。ね?」
「分ったよ。私を一人で泣かしておいて平気なんだね」
もう始末に負えないとはこのことである。江美子もムッとして、
「勝手にすりゃいいでしょ!」
とたたきつけるように言って電話を切った。「全くもう……」
「どうしたの?」
幸代が訊いた。
「いいの。いつもの年寄りの愚痴よ」
「人間、年齢をとると、どうしてひがみっぽくなるのかしら」
と年寄り論が始まった。
「私たちもああなるのかと思うといやね」
「そうなった時には気が付かないのよ」
「|恍《こう》|惚《こつ》の人、かあ……」
「早死にしたいわね、そんな風になる前に」
「幸代さんとこなんか、いいわね、ご主人の方の両親はもう亡くなってるんでしょう?」
「そう。私の方はまだ両方とも健在よ」
「でもね」
と江美子が苦々しく電話の方を見ながら、「本当の親だって、早死にしてくれてりゃ、いい思い出ばかり残ったのに、って思うこともあるわ」
「奥様、お茶を――」
と大木がテーブルに茶を出し始めた。
「今夜も例の大木ってのが作ったのか?」
と中田は夕食にはしをつけながら訊いた。
「そうよ。本当に器用な人ね。私ならジャガイモの皮、倍以上の厚さにむいてるわ、きっと」
「ふむ。……大したもんだな」
「いいお味でしょ?」
「全くだ。安い材料でこんな物が作れるなんてな……」
「本当に不思議な人ね」
「元はコックだったんじゃないのか?」
「さあ。訊いても何も答えないのよ、その|類《たぐい》のことは」
「全く変ってるな」
と中田は首を振った。
「すっかり近所の奥さんたちの評判になっちゃったわ」
と江美子は微笑んで、「みんなにはあの人がタダで働いてるとは言ってないの。あなたも調子を合わせてね」
「ええ? じゃ、よほど家が金持のように思われるじゃないか」
「貧乏人と誤解されるより、金持と誤解される方がいいじゃないの」
とは女らしい理屈である。
中田がTVを見ながら、食器を水につけている江美子に、さり気なく声をかけた。
「週末は、実家へ行くんだろ?」
「え? ああ、やめたわ」
「やめた? どうして?」
「電話で|喧《けん》|嘩《か》したのよ。全く、しょうのないひねくれ屋なんだから!」
「ふーん」
中田は失望が声に出ないように気をつけて肯いた。――せっかく早坂久美をここへ呼べる算段がついたのに……。
江美子がTVを見に来て、ソファに並んで座った。
「――やることがなくて、暇で困るだろう」
と中田が半ば冷やかすように言った。
「あら、それならそれで、色々とやることはあるんじゃない?」
「君ばっかりが暇になるんじゃ不公平だな。あの召使、僕の仕事も代りにやってくれないかな」
「まさか」
と江美子は言った。
「明日も来るのか?」
「そのはずよ」
「不思議な奴だなあ」
二人はしばらく黙ってTVに見入っていたが、
「――あなた」
「ん? 何だ?」
「ねえ、せっかく……」
「せっかく――何だい?」
「夜が暇になったんだから……」
と江美子は夫へしなだれかかる。
「ちょっと時間が早いぜ」
「いいじゃないの。TVと違って放映時間が決ってるわけじゃないわよ」
「そりゃそうだけど……」
正直、中田は江美子の体にそう魅力も感じなくなっていたが、こうせがまれては、逃げる理由もない。
TVはつけっ放しのままで、二人はソファの上に折り重なった。
「久しぶりで、よかったわ。ねえ?」
江美子が汗ばんだ肌を涼ませながら言った。
「うん……」
「あんまり気のない返事ね」
中田の方はもうTVを眺めている。
電話が鳴った。江美子は裸の上に慌てて下着だけつけて駆け寄った。
「はい中田です。――あ、姉さん?――どうしたの?」
聞いていた江美子が青ざめた。「お母さんが……?」
ただならない声に、中田もTVから目を離した。
「分ったわ……。すぐ行く……」
江美子は、放心したように、受話器をそろそろと戻した。
「おい、どうしたんだ?」
「お母さんが……泥棒に殺されたって……」
江美子はその場にヘナヘナと座り込んでしまった。
「いいの?」
と早坂久美が中田の顔を見て訊いた。
「いいとも」
中田はコーヒーをゆっくりとすすりながら肯いた。昼休みの喫茶店である。
「奥さんは?」
「お袋さんが死んでね、まだ四、五日は実家の方で泣き暮してるさ」
「じゃ、今日帰りに寄らせていただくわ」
「そうかい? 歓迎だ。それなら一緒に――」
「だめよ。どこか途中で落ち合いましょ。会社の人に見られたら困るわ」
「そうかい?」
「そうよ。何も[#「何も」に傍点]なくったって、|噂《うわさ》は立つわ」
久美は言外に「何かある」かもしれないと匂わせるような口調でそう言って、一足先に喫茶店を出て行った。
中田は一人ニヤニヤしていたが、ふと思い付いて、店内の赤電話へと立って行った。
「ああ、大木さんかい?」
「はい」
相変らず大木の無表情な声が返って来る。
「今日は夕食は二人分にしてくれ」
「かしこまりました。特にご用意するものはございますか?」
「そうだな……。ワインか何か、適当に見て買って来ておいてくれないか」
「かしこまりました」
「できるだけムードのある食事にしておいてくれ。頼むよ」
「かしこまりました」
中田は電話を切ると、
「かしこまってばかりいる奴だな」
と笑った。
中田も大分、〈主人〉らしくなって来ていた。
上野幸代は、郵便局からの帰り道、ワインを手にした大木を見て声をかけた。
「大木さん」
「これは上野様」
「お買物?」
「はい」
「ワインね」
「さようでございます」
「中田さんが?」
「はい」
「奥さん、帰って来たのかしら?」
「まだお帰りではございません」
「そう……」
幸代はちょっといぶかしげに、「奥さん、ワインは嫌いなはずよ。それじゃ……」
「失礼いたします」
大木は足を早めて行ってしまった。
どうも妙だ。――幸代は首をひねった。あのご主人はかなりケチでしまり屋だ。自分一人でワインなど買って飲むだろうか?
「さては……」
女の勘は、こういうことにかけては鋭く働くのである。
幸代は家へ戻ると、電話のメモをめくった。何かあったら、と江美子から実家の電話番号を聞いている。
「これだわ」
幸代はダイヤルを回した。「――あ、橋本さんのお宅ですか? 中田江美子さんを……」
待つほどもなく、江美子が出る。
「私、幸代よ」
「あ、どうも。色々頼んじゃってごめんなさいね」
「もう落ち着いた?」
「何とかね。後二、三日で帰るつもりなの。よろしくお願いね」
「今日帰って来た方がいいかもよ」
「え?」
江美子はちょっと戸惑ったように、「何かあったの?」
「ありそうな勘がするのよ」
幸代は、大木がワインのびんをさげていたことを話して、「ね、怪しくない? どうも気になるのよね」
「そう……」
江美子はしばらく考えている様子だったが、「きっと会社の仲間の人か誰かを呼ぶんだと思うわ。心配ないわよ」
と言った。
「そう?――まあ、あなたさえよけりゃ……」
と幸代は未練の残る様子。亭主の浮気の現場へ妻が乗り込んで来る。――退屈しのぎには絶好だ。
「どうも、わざわざありがとう」
――自分の方から電話を切って、江美子はしばらくその場に座り込んでいた。
幸代も悪い人ではない。巧く性格を|呑《の》み込んで付き合えば、気さくないい人なのだが、少々お節介が過ぎるのが欠点だ。それに、よその夫婦が巧くいっていない、といった話が大好きなのである。
正直なところ、江美子とて、その手の話は嫌いではない。人のことを言えたものではないのだが、こと、自分の話となると別である。
夫がワインを? それは確かにおかしい。会社の、男の同僚を呼ぶのなら、ビールかウイスキーだろう。
ワインとなると、そこには確かに女の匂いがする。――あの人に女?
まさか、とは思うが、人は好き好きである。
江美子はしばらく座り込んだまま考えていたが、やがて、ふっと我に返ると、電話へ手をのばし、ダイヤルを回しかけて、やめた。
そしてまた、考え込んでしまった……。
「大木さん、もう一本ワインを抜いてちょうだい」
早坂久美が、いささか酔った様子で言った。
「おい、大丈夫か?」
と中田は苦笑している。「そんなに飲んで、知らないぞ二日酔になっても」
「平気よ、これくらい」
と久美は手を振って見せて、「ね、大木さんもう一本!」
「かしこまりました」
大木が、慣れた手つきでワインのコルク栓を抜く。
「大木さん、悪いね」
と中田は言った。「いつもならもう帰ってるのに、今日は無理言っちまって」
「いいえ、とんでもございません」
大木は久美のグラスへワインを注いだ。
「あなたって最高ね! 大木さん、あなたのことよ!」
「恐れ入ります」
「おい、僕はどうなるんだ?」
と中田が笑いながら言った。
「到底、勝ち目はないわよ。こちらは料理は名人、ワインは通、万能ナイフみたいな人なんだもの。ねえ?」
「ナイフはけが[#「けが」に傍点]をすることもございます」
大木はさり気なく言った。
ソファへ移ると、久美は中田へずり寄って行った。
「おいおい、何をする気だ?」
待っていたくせに、わざと押し返そうとする。
「何するって? 決ってるじゃない。あなたのしたがってることよ」
久美はそう言って笑うと、中田にキスした。
「おい……。大木さんが――」
「あら、いいのよ。召使は空気みたいなもので、そこにいてもいないのよ。ねえ、大木さん?」
「よくご存知でいらっしゃいます」
「ほらね。だから大丈夫なのよ」
「しかしね……大木さん、悪いけど――」
「はい」
「帰ってくれよ」
「かしこまりました」
大木はテーブルの上を片付けると、「失礼いたします」
と一礼した。その時には、中田と久美はすでにソファの上で服を脱ぎ始めていた。
大木はドアを開けて廊下へ出た。
廊下に、江美子が立っている。
大木は黙って頭を下げると、階段へと姿を消した。
江美子は、廊下の窓のそばに、じっとたたずんでいた。――少し開いた小窓から、夫と久美の、|喘《あえ》ぎが、時々|洩《も》れ聞こえて来る。
江美子は、青ざめた顔をじっとこわばらせたまま、その場から動かなかった。一部始終を聞いてやろうとでもいうように。
久美が高い叫びにも似た声を出して、室内は静かになった。――江美子は、静かに階段の方へと歩き出すと、そのまま一度も振り返らずに、建物を出て行った。
「やあ、江美子。どうしたんだ?」
中田は会社へかかって来た電話に、愛想良く言った。
「今、団地からかけてるのよ」
江美子の声は少し疲れて聞こえた。
「何だ。もう帰って来たのか」
「まずかったかしら?」
「いいや、そんなことないさ。決ってるじゃないか」
と中田は笑いながら言った。「ただ、君も疲れたろうからね。ゆっくり休んでくればいいと思ったんだ」
「充分休んだわ、大丈夫」
「それならいい。――大木さんはいるんだろう?」
「ええ」
「じゃ、大木さんに任せて、のんびりしていたまえ」
「いつものんびりしてるわよ」
と江美子は少し軽い口調になって、言った。
「今日は早くお帰り?」
「ああ……そうだね、たぶん……いや、早く帰るよ」
実際のところ、久美と帰りにラブ・ホテルへ行こうと約束していたのだ。しかし、江美子が帰って来たのでは、そうもいくまい。
「惜しいな。せっかく親密になれたのに……」
こういうことは、波に乗っている時に、どんどん運んで行かなくちゃいけない。タイミングを一度外すと、もう二度と二人の波長は合わないかもしれないのだ。
中田が、そんなに経験もないくせに、分ったようなことを考えていると、また電話が鳴った。
「中田さん?」
いいタイミングだ。久美だった。
「どこからかけてるんだい?」
「お使いの途中よ。今夜、楽しみにしてるわ。それが言いたかったの」
中田の頭から、一瞬の内に江美子は消えてなくなった。
「分ってるよ。じゃ、約束通りに」
江美子の方には、急な接待の仕事で、とでも言っておけばいいだろう。中田は受話器を置きながら、そう思った。
「うん、急に接待を命じられてね。――仕方ないよ」
「分ったわ。遅くなるのね」
「うん。先に寝ていてくれ」
「はい」
江美子は電話を切ると、食卓についた。
大木が、いつものように、バラエティに富んだ、驚くような夕食を用意してくれている。――とても一人で食べきれる量ではない。
それに、一人きりで食事をしても、少しもおいしくはない。食欲も|湧《わ》かなかった。
せめて大木が残ってくれていたら、と江美子は思った。無口な大木だが、それでも誰もいないよりいい。
少なくとも、話しかける相手がいるのだ……。
江美子は機械的にはしを手に取ると、夕食をつまみ始めた。
「あら、帰って来てたの?」
翌朝、江美子が散歩に出ると、幸代が見付けて追いかけて来た。
「あ、ごめんなさい。留守の間、色々と厄介なことお願いして」
「ううん、いいのよ」
と大げさに手を振って、「あなた、まだ疲れてるみたいね」
「そう? 何かと忙しかったから」
「大変だったわね」
ついて来てほしくなかった。一人にしてほしかった。しかし、幸代の方は磁石と鉄片の如く、くっついたら離れない。
「昨夜、ご主人、ずいぶん遅かったわね、帰りが」
「そう?」
そんなこと、どうでもいいじゃないの!
「三時頃だったわよ、足音がして……」
放っといてちょうだい!
「私、寝てて気が付かなかったわ」
「そう。珍しいわね、ご主人が午前様だなんて」
「でも、時々あるのよ」
本当は滅多にないことだ。でも、そんなことがあなたと何の関係があるのよ!
「どうだった?」
と幸代が少し声を低くした。
「何が?」
「ご主人よ。怪しい気配あった?」
夫の服からは香水が匂っていた。
「別に。気が付かなかったわ」
「あら、そう」
と幸代はがっかりしている様子。しかし、すぐに、さらに声を低くして、
「そういう時はね、寝てみるのよ」
「え?」
「昨夜は遅かったけど、今夜は抱いてもらいなさいよ。浮気したばっかりの男って分るもんよ」
江美子は、
「ちょっと、私、帰るわ」
と|踵《きびす》を返した。
「どうしたの?」
「用を思い出したの」
他に言い訳を思いつかなかった。しかし、自分の家へ帰るのに、どうして理由がいるのだろう?
江美子は足早に、ほとんど駆け出すような足取りで歩いた。
ベランダでは、大木が布団を陽に当てている。――江美子は、急に、掃除や洗濯をやりたくなった。これまで、そんなことを楽しいと思ったことは一度もなかったが、今は、やりたかった。
コマネズミのように働いて、忘れてしまいたかったのだ……。
部屋へ入ると、
「大木さん!」
と声をかけた。
「はい」
と大木がすぐに顔を出す。
「お掃除は私がやるからいいわ」
「終わりましたが」
「じゃ洗濯をやるわ。あなたは――」
「洗濯も済んでおります」
江美子は何かが自分の中で爆発しそうな気がした。どこかに投げ出してしまわなければ……。
江美子は、やおら大木の手をつかむと、
「こっちへ来て!」
と引張った。
寝室へ入ると、ベランダに面したガラス戸のカーテンを乱暴に閉じて、振り向いた。
「大木さん、私を抱いて!」
と江美子はいった。
「それはできかねます、奥様」
と大木は物静かな口調で言った。
「どうして? あなた、召使でしょ」
「はい」
「それなら言うことを聞いて!」
「それはできません」
と大木はくり返した。「そういうご命令には従わないのが、召使の義務でございます」
「義務なんかいいのよ!」
江美子は半分泣き声になっている。「頼んでるのよ……。そうでないと、どうかなっちゃいそうなのよ……。お願い」
江美子はベッドへ崩れるように座った。
しばらく、どちらも動かなかった。――やがて、大木が静かに進み出ると、江美子の肩へそっと手を置いた。
「許せないわ」
江美子は言った。ベッドの上に、半裸のまま横たわっている。
「あの人は私を裏切ったのよ!」
江美子は、すでに服を着終えた大木を見て、「私の言い分、勝手だと思う?」
「いいえ、奥様」
大木は首を振った。「奥様の方が正しいと存じます」
「ありがとう。あなたにそう言われると、ホッとするわ」
「そろそろ、お洋服をお召しになった方が……。あまりカーテンを閉め切りにしますと、妙に思われましょう」
「ああ、そうね、――本当にあなたはよく気の付く人ね」
江美子は起き上り、ベッドの下に落ちた服を拾って身につけると、カーテンを開けた。
「本当にあなたがいなかったら、私、どうしていいか、分らない……」
振り向くと、もう大木はそこにはいなかった。
中田の方も、問題を一つ抱えていた。
それは、久美と愛し合っているので、結婚したいという、至って単純な問題だ。
しかし、それには、中田がすでに結婚しているという、ちょっとした[#「ちょっとした」に傍点]問題が問題なのだった。
その辺が中田の生真面目なところで、適当に遊んで、巧く別れるという器用な|真《ま》|似《ね》はできない。
元来がもてる男でもないのに、会社一の美女に|惚《ほ》れられて、すっかり|有頂天《うちょうてん》になってしまっていた。
昨日、ホテルのベッドで、久美が、
「奥さんと別れて私と一緒になる気、あって?」
と訊いたのが、直接のきっかけだ。
「も、もちろんだよ!」
と中田は断言した。
「でも無理よ。奥さんが承知しないわ」
と久美は|諦《あきら》めたように、「私、愛人で我慢するわ」
などと殊勝なことを言い出したので、中田はコロッといっちまったのである。
何か巧い手はないだろうか? 言って素直に「はい」と離婚に応ずる江美子ではない。
あれこれともめたり、争うのは、中田はいやだった。そうなると、やはり久美との結婚は諦める他はない。
「そうだなあ……」
中田は思わず|呟《つぶや》いた。「巧く江美子が事故にでも会えば……」
中田は、待っていた。
七時になると、大木が玄関から出て来た。中田は、
「おーい」
と声をかけて、小走りに近付いて行った。
「お帰りなさいませ」
と大木が頭を下げる。
「うん」
「奥様がお待ちでございます」
「分ってる。君にちょっと話があるんだ」
「何でございましょう?」
「少し歩かないか」
二人は、人気のなくなった公園へ行くと、ベンチに腰をおろした。
「なあ大木さん」
「はい」
「君にも分ってると思うが、僕と江美子の間は、どうも巧くいっていない」
と中田は言った。大木は何も答えない。
「で、僕には好きな女がいる。君も知ってると思うが」
「召使は何も知らないのでございます。ただ言いつけられた通りに働くだけでして……」
「ああ、そうか。まあいいや。ともかく女がいるんだ。で――僕は彼女と結婚したい。しかし江美子の奴が、とうてい承知するはずはないと思う」
中田はちょっと言葉を切った。大木は、相変らずの無表情である。
「聞いてるのかい?」
「はい」
「そうか。――それで君に相談なんだが」
「何でございましょう?」
「力を貸してもらいたいんだ。つまり……江美子がいなくなる[#「いなくなる」に傍点]ようにね」
「申し訳ございませんが、ご主人様、私は召使でございます」
「だから何だ?」
「召使は、ご主人様の私生活に立ち入ることはできません。言いつけられれば、どんなことでもやりますが、ご相談を受けたり、意見を申し述べる立場ではございませんのです」
中田は渋い顔で、
「堅苦しいこと言ってるな」
「お気に障りましたら、お許し下さい」
と大木は立ち上った。「召使にはそのわきまえねばならない分がございます。ご命令ならばいたします。どんなことでも」
大木が最後の言葉に心もち力を入れたのに気付いて、中田は探るように大木の顔を見た。しかし、そこにはいつもと変らぬ無表情があるばかり。
中田は、思い切って口を開いた。
「江美子を殺してくれ」
大木は静かに、
「かしこまりました」
と言った。中田の方が戸惑って、
「本当にやってくれるのか?」
「はい」
「でも、僕が疑われちゃ困るぜ」
「承知しております」
「事故か何かに見せかけて、できるか?」
「はい」
大木はあっさりと答えた。
中田は夢でも見ているのではないかと思った。大木は本気でやると言っているのだろうか? しかし、もともと大木という男――それも本名ではない――自身が、|謎《なぞ》のような、男だ。
「そう簡単に引き受けて大丈夫かい?」
と中田は怪しむように言った。
「前も怪しまれませんでした」
中田はちょっと間を置いて、
「前も[#「前も」に傍点]?」
と訊いた。
「はい。奥様のお母様を殺した時でございます」
中田は目を見開いた。
「あれは……君が?」
「はい」
「しかし、なぜだ? なぜ殺した?」
「奥様がおっしゃいました。『早死にしてくれりゃ……』と。私は奥様のご意志に沿ったまででございます」
大木はそういうと、静かに一礼した。「では失礼いたします」
中田は、大木の姿が、バス通りの方へと遠ざかって行くのを|呆《ぼう》|然《ぜん》として見送った。
自分から話をしかけておきながら、果して今の会話は現実だったのか、と自分に問いかけてみずにはいられなかった……。
次の日、中田は会社にいても、仕事は手につかなかった。まさか昼間にやることはあるまいが、しかし大木のことだ。一体何を考えているのか、見当もつかない。
ほとんど十分おきに時計を見ていると時間のたつのが、ひどく遅いような気がしてならなかった。
何やら回覧が回って来た。
「また旅行か何かだろう」
面倒くさそうに取り上げて眺める。――中田の目の中で字が躍った。
〈早坂久美さんご結婚祝い記念品代の徴収〉と見出しがあった。〈この度、早坂久美さんがご結婚されることになりました。つきましては社員一同からお祝いの品を……〉
中田が目を上げると、ちょうど、目の前を久美が通り過ぎるところだった。
久美は中田が回覧を手にしているのを見て、ニッコリと笑った。
「おめでとう、って言ってくれないの?」
「これは……本当かい?」
馬鹿げていると思いつつ、そう訊かずにはいられなかった。
「もちろんよ」
「それじゃ君は……」
「あら、私を恨むの? いやね、よく鏡を見てからものを言いなさいよ」
久美はさっさと行ってしまった。
中田は、放心したように、座って、動かなかった。
馬鹿め! 何てことだ! あんな女の、火遊びの相手にされて、のぼせ上るなんて。畜生!
よく鏡を見て……か。そうなのだ。|俺《おれ》みたいな|冴《さ》えない中年男が、もてるはずもない。|馴《だま》された方が|馬《ば》|鹿《か》なのだ。
中田は無性に笑いたくなって来た。そして――ハッと顔をこわばらせた。
「江美子!」
大木が江美子を殺してしまう!
中田は急いで電話に手をのばした。自宅のダイヤルがひどく長い。――やっと呼出音が聞こえて来たが、一向に誰も出る気配はなかった。出かけているのだろうか? それとも……。
中田は社を飛び出した。もちろん、早退届も何も、あったものではない。
玄関のドアは鍵がかかっていた。中田は自分の鍵で中へ入った。
「江美子! 江美子!」
と大声で呼ぶ。――返事はなかった。誰もいないのか? もう手遅れだったのだろうか?
その時、浴室で、水のはねる音がした。
「江美子?」
と声をかけながら、そっと浴室のドアを開けてみる。
浴槽のわきに、もたれかかるようにして江美子が座っていた。目は|虚《うつ》ろで、呆然自失の状態だった。血が、両手や、ブラウスに飛び散っている。
水のない浴槽に、大木が体を逆さに、ねじ込まれたようになって死んでいた。胸のあたりに大きく傷口が開いて血が浴槽の底を覆っている。
「どうしたんだ……」
「私が……野菜を切ってたら……大木さんが後ろから……首をしめようとして……。夢中だったのよ……。手にしていた包丁で大木さんの腕を傷つけて、逃げたんだけど、ここへ追いつめられて……」
「刺したのか?」
江美子が|肯《うなず》いて、泣き出した。中田は江美子を抱きしめた。
「いいんだよ……。やっぱりこいつ、何か下心があったんだ。――大丈夫だよ。もう済んだことだからね……」
「でも……どうするの?」
中田は浴槽の中を覗き込んで、ゴクッと|唾《つば》を飲み込んだ。
「今夜、どこかへ捨ててこよう」
「どこへ?」
「どこか、さ。――川があるじゃないか、少し行くと、まだ開発してない所に」
「すぐ見付かるわ」
「運次第さ。――さあ、もう大丈夫だ。落ち着いて……」
免許だけは持っている中田が、近所の家の車を、荷物を運ぶからと借りて来た。
深夜、二時頃になって、二人は大木の死体をビニールで包み、車のトランクへ積んで、目的の川べりへと車を走らせた。
誰にもとがめられることもなく、川に着いた二人は、それぞれ包みの両端を持って、思い切り川の中央へと投げ込んだ。水がはねて、すぐに静かになる。
後はもう、川の流れる音だけが聞こえる。二人はしばらく、じっと川面を見つめていた。
中田は、奇妙な|安《あん》|堵《ど》を覚えていた。
大木が死んだので、中田が江美子を殺せと命令したことは、もう永久に知っている者はいないわけである。
江美子もまた、泡一つ浮かない黒い水面を、ホッとした思いで見つめていた。
夫は彼女の話を信じているらしい。このまま死体さえ見付からなければ、二人は元通りに暮して行けるだろう。
本当は江美子の方が大木を浴室へ連れて行き、浴槽の|栓《せん》の具合を見てくれ、と言って、大木が身を乗り出した時、刺したのだ。
大木が死んだ今となっては、彼女が大木と寝たこと、一時の怒りに駆られて、大木に夫を殺してくれと命令したことも、誰も知らないのだ。
「あなた」
「何だ?」
「大木っていう人……本当は何という名前か知らないけど、どういう人だったのかしら?」
「さあね」
と中田は首を振った。
江美子は、黒い水面を見つめながら、言った。
「何もかもが夢だったような気がしない? この何日間かが……」
「そうだな。あの男も、ただの幻影だったのかもしれない」
「そうね。明日になれば、近所の人も、『大木なんていう人、いなかったわよ』って言うかもしれないわ」
「帰ろう」
「ええ」
二人は車で団地へと戻って行った。
「でも、幻影だとしても、いい召使だったわ」
と江美子は言った。「でも、やっぱりだめね。暇があると、色々なことを考えちゃうから。忙しい方がいいのよ」
「全くだ。2DKに召使は無理だったのさ」
と中田は言った。
「本当ね」
江美子はふっと微笑んで言った。「召使には住みにくい世の中になってるのね」
野菊の如き君なりき
「もう|店《みせ》|閉《じま》いするか……」
渡部宏造は、窓から表を見て|呟《つぶや》いた。
北風が笛を吹き鳴らすように、小屋の外を巻いている。夜のこととて、風に対岸の草が波打つ様子は見て取れなかったが、風の音だけで、宏造にはそのさまが目に浮んだ。
「どうせ客もなかろう」
と思い切ると、宏造は分厚い革のジャンパーを着込み、手袋をはめた。
小屋から一歩出ると、覚悟してはいたものの、耳を引きちぎられるような冷たい風が正面から吹きつけて、一瞬たじろぐ。しかし、その風が止むことはまず期待できないことを、宏造は経験で知っていた。それならば、早く家へ帰って熱い|風《ふ》|呂《ろ》へ入り、一杯引っかけて寝てしまうのが利口というものだ。
宏造の仕事は〈渡し船〉だった。
もちろん、渡し船といっても、昔のように|棹《さお》だの|櫓《ろ》だのを使うのではない。簡単な造りのモーターボートである。
宏造は、この川を、モーターボートに客を乗せて往復している。川に橋がないわけではないが、それは何やら政治的な理由でずっと上流の方に造られ、向うの町へ帰る人々にとってはひどく遠回りになるのだった。
だから、この商売も、なかなか悪くはない。何しろ独占[#「独占」に傍点]企業だし、国電だの連絡船だのと違って、所要時間は乗り降りの方が走っている間より長くかかるほどで、至って回転率が良い。
せいぜい五人も乗れば一杯のモーターボートが、ここでは大いに活躍しているのである。
いつもなら、宏造の仕事は夜十時までだが、今夜はまだやっと九時を回ったばかり。それでももう帰ることにしたのは、強風のときには、さすがに小型のボートだけに揺れがひどく、町の人々も、遠回りの陸路の方を選ぶ者がほとんどだからである。
殊に今夜の風はひどい。こんなときにボートに乗るという物好きもあるまい。
〈渡し船・百円〉という小屋の屋根の看板が風にきしんで音を立てていた。まあ、これまで飛ばされずに来たのだ。今夜も大丈夫だろう。その前に小屋の方が飛ばされるかもしれない。
宏造は小屋に|鍵《かぎ》をかけると、首をすぼめながら、ボートの方へと、坂道を降りて行った。ちっぽけな照明に、モーターボートがまるでセルロイドのおもちゃのように揺られているのが浮んで見えている。
「やれやれ……」
こんなときは、向う岸へ渡るのも楽ではない。一応向うの船着場の照明を目印に、真直ぐに走ればいい理屈だが、川の流れが多少早くなっているし、強引に行こうとすれば風にあおられて危い。
川は真中辺では、かなりの深さになっている。泳ぎに自信のある宏造でも、やはりできることならそういう事態は避けたいのである。
宏造はボートへ身軽に飛び乗ると、ロープを解いた。たちまち少しボートが流され始める。モーターが震動しながら始動すると、宏造は|舵《かじ》を取った。
そのとき、
「待ってくれ!」
という声が、風に乗って宏造の耳に届いた。
振り向くと、夜闇の中を、走って来る人影が、かすかに判別できる。――|誰《だれ》だろう?
こんな時間にボートに乗るような者なら、たいがいは宏造も声で分る。しかし、今の声は……。
「乗せてくれないか」
フードのついた、大きなコートをすっぽり着込んだ男だった。顔は、弱い光がフードの影に隠れて、見えない。
「早く乗んなさい。流されちまう」
と宏造は言った。
その男は、ちょっと宏造も驚くような身軽さで、ボートへ乗り込んで来た。声の感じより若いのかもしれない。
ともかく、宏造はボートを出した。男のことも気にはなったが、風でひどくボートが揺れ、川の流れも思いの他早いので、ボートを操るのに手一杯。男の方を振り向く余裕もない。
それでも何とか川の中央を乗り切って、向う岸の船着場の灯が近付いて来ると、「町へ行くのかね」
と声をかけるくらいの余裕はできた。もっとも風に負けない大声を出してのことであるが。
「栗山って家があるだろう」
と男が言って、「――まだあるんだろう?」
と、ふと不安になった様子で|訊《き》いた。
「お屋敷のことかね」
宏造が|肯《うなず》いて、「お屋敷なら百年たったって大丈夫さ」
ボートを巧みに操って船着場へ寄せて行く。
「建物のことはどうでもいいんだ」
男が|苛《いら》|々《いら》したように、「住んでる人のことさ」
「代は最近変ったが、健在だよ。この辺一帯じゃ〈|旦《だん》|那《な》〉と言やぁお屋敷のご当主のことだから」
「そうか……」
男はホッとしたように声を緩めた。「変らないな」
宏造は男の方を見て、
「あんた、お屋敷の人かね?」
と訊いたが、男は答えなかった。そして、ボートがまだ船着場へ完全に着かない内に、立ち上ると、
「あ、危いぜ――」
と宏造の言うより早く、ボートを|蹴《け》ってひらりと板へ飛び上った。
「ありがとう。まだ三十円かい?」
「今は百円だよ」
「そうか。しかし、今どき百円じゃ安いや」
男がポケットを探って百円玉を出した。
宏造は初めて男の顔をチラリと|覗《のぞ》き見た。――まだやっと二十二、三というところだろう。良家育ちという感じの、美青年である。どこかで見たことがある、という気がした。
「どうもご苦労様」
そう言うと、男は、暗がりの道を、ためらう風もなく足早に歩いて行く。
「おい、あんた」
と宏造は呼びかけた。「お屋敷までの道が分るのかね」
「知ってるとも。慣れた道だものね、宏造さん」
男の姿は、たちまち|闇《やみ》に紛れて見えなくなった。宏造は、ちょっと|呆《あっ》|気《け》にとられた表情で、男の姿が消えた方を見やっていた……。
「眠ってるのかい?」
栗山兼一はそっと|襖《ふすま》を開いて覗き込んだ。
「ええ、やっと眠ったわ」
声をひそめて、肯いたのは、妻の美沙子である。赤ん坊は、乳を飲みながら眠ってしまっていた。
「眠ってくれるとホッとするな」
兼一は我が子の寝顔を眺めて微笑んだ。
「また二、三時間すれば起きるでしょう。あなた、もう休んだら?」
「まだ十時前だよ」
「そう?――この子といると時間が分らなくなるわ」
美沙子は赤ん坊をそっと畳に敷いた布団へ寝かせた。
「全く、壊れ物って感じだな」
「本当ね。でも、すぐに大きくなって、その内に私たちを追い越すのよ」
美沙子はタオルを赤ん坊へかけてやると、乳を含ませていた乳房を収めて、ブラウスの前をとめた。
二人は隣の部屋へと出て行った。
「お茶、|淹《い》れましょうか」
「頼むよ」
美沙子は台所の方へと立って行った。
栗山兼一は、どっかと畳にあぐらをかくと、タバコに火を点けた。――体に悪い。子供が生れたのを機にやめようと思っていたのだが、結局三日坊主でもとのもくあみだ。
それに、栗山家の〈当主〉としては、行く先々で町の有力者などに会ってタバコでもと勧められたとき、断りにくいのである。
兼一が父を亡くして、ここの当主になってから、まだやっと一年半。それも二十四歳になったばかりでは、タバコでもふかしていなくては格好がつかないということもある。
栗山家はこの地方随一の旧家だった。
おかげでこのだだっ広い家で、寒さに震えながら暮していなくてはならない。妻や赤ん坊のためには、もっと小さくて、モダンな家に住みたかったのだが、一人息子の兼一としては、そんなわがままは通らぬものとはなから|諦《あきら》めていた。
かつては――兼一が小学生だったころには、この家も決して広すぎはしなかった。下働きの女中や下男が七、八人もおり、親類縁者の主な家族が、みな一緒に暮していたから、この屋敷が狭くすら感じられたものだ。
だが、今は時代が違う。親類たちも、若い世代がどんどん都会へ出て行き、向うで世帯を持つにつれ、一人、二人と減って行った。
兼一もできることなら東京へでも出て、一人でのびのびと暮したかったのである。しかし、この屋敷と、山林を含めた広大な土地の相続人としては、ここを動くわけにもいかなかった。
今、この屋敷に、家族といっては兼一と美沙子、それに生後三か月の美津子がいるだけで、使用人も二人いるのだが、通いなので、夕方には帰ってしまう。
夜になると、町の外れ、山間の懐に抱かれたような場所にあるこの屋敷に、親子三人という心細さなのである。
冬は殊に日の落ちるのが早い。早く春になるといい、と兼一は思った。
ふと、兼一は、どこかでチリチリ……と鈴の鳴るような音に気付いた。見回して、
「電話か!」
と部屋の隅に布団をかぶせてある電話へと急いだ。赤ん坊が起きては、と、美沙子が布団をかぶせたのだろう。
「はい、栗山です」
声を低くして言うと、
「あ、旦那ですか。宏造です」
と渡し船――いや渡しモーターボートの宏造の声だ。
「やあ、今晩は。何だい、一体?」
「いや、お耳に入れようかどうしようかと迷ったんですが……」
「どうしたの?」
「はあ、実は今夜は風が強いんで、早目に船をしまったんで」
「そうだね。この天気じゃ、そんなボートは使わないだろう」
「ところが間際になって――」
宏造が若い男のことを説明する。
「この屋敷へ?」
「そうなんで」
「道は分ってる、とそう言ったんだね?」
「はあ、慣れた道だ、と。そして私のことを宏造と呼びまして」
「いくつぐらいの男だったね?」
「二十二、三でしょうか。暗くて顔はよく見えませんでしたが」
しばらく兼一は黙り込んでいた。宏造の方が、思い出したように、
「そうそう。そう言えば――」
「何だね」
「下りたときに、船賃はまだ三十円かと訊きまして」
「三十円……」
「三十円を五十円にさせてもらったのは、かれこれ四、五年前だと思いますが」
「分った。知らせてくれてありがとう」
「旦那、どなたかお心当りでもございますか」
「いや、別に思い当らないがね」
と兼一は言った。「昔ここへ来たことのある客かもしれないよ」
「そうですな。――いや、夜分失礼いたしました。おやすみなさい」
「おやすみ」
受話器を置いて、兼一はそのまま、手を動かさずに、じっと考え込んでいた。
「――電話だったの?」
お茶の盆を手に、美沙子が入って来る。
「ん? いや……ちょっとかける所があってね」
「小さい声でね。美津子が起きるわ」
美沙子はお茶を置きながら言った。
兼一は立ち上ると、奥の部屋へ行き、毛皮の|襟《えり》のついたコートを着込んで出て来た。
「どこかへお出かけ?」
と美沙子が驚いて言った。
「ちょっとね。電話じゃ説明が厄介なんだ。出かけて来る」
「明日にしたら?」
「そうもしてられない。――なに、すぐに戻るよ」
「町まで? それとも遠出なの?」
「町さ。それじゃ、すぐ戻る。心配しないで」
「ええ」
美沙子は廊下へ出て、兼一を玄関まで送って行った。
「気をつけてね」
「ああ」
兼一はブーツをはいて、玄関から出て行った。
美沙子は、ぼんやりと玄関にたたずんでいた。――兼一の様子が気にかかった。
兼一は心配事や不機嫌を隠しておくのが苦手で、すぐに顔に出る。今の兼一の表情は、言い知れぬ不安を現していた。
「何かあったのかしら……」
と美沙子は呟き、廊下の寒さに一瞬身震いしながら、急いで部屋へ戻った。
茶の間は八畳の広さだが、古い家なので、都会の団地サイズで言えば優に十畳のスペースである。
ストーブはたいているが、点けっ放しにしておかねば寒くていられない。隣の美津子のことが気になって、美沙子はそっと襖を開いて覗いてみた。――静かな寝息をたてて眠っている。
ほっと安堵して、襖を閉めようとすると、急に電話が鳴り出した。布団をかけておかなかったので、飛び上るほど大きな音に聞える。
美沙子は、あわてて電話へ飛びついた。
「あ、宏造ですが」
「あら、何の用?」
「旦那はいらっしゃいませんか」
「今、何だか用があるって出かけたけれど」
「そうですか……。いえ、さっきちょっと言い忘れたことがありましてね」
「さっき? じゃ、電話をくれたの?」
「へえ、何もおっしゃいませんでしたか」
「ええ。――いいわ。帰ったら伝えます。何と言えばいいの?」
「はあ、渡しでボートに乗せた若いの[#「若いの」に傍点]ですが、どうもこのあたりにいた人間のようでした。そちら様のご当主を〈旦那〉と呼ぶのを知っていましたし」
「ボートに乗せた……」
「そうおっしゃっていただけば分ります」
「そう。――じゃ、伝えておきます」
「お願いします」
と言って、宏造はなかなか電話を切らない。
「まだ何かあるの?」
「まあ、これははっきりしねえんですが……」
「どういうこと?」
「その若い奴を、どこかで見たことがあるような気がするんでさ。どこだか思い出せねえが……」
「宏造さんが思い出せないんじゃ、私にはとても無理ね」
美沙子は殊更に軽い口調でそう言った。宏造は、職業柄ということもあろうが、人の顔の記憶は大したものなのである。
「いいえ、私も|年《と》|齢《し》なんでございますよ」
と苦笑まじりの声がして、「旦那はお若くてよろしいですねえ」
とたんに、隣で美津子の泣き声がした。
「あら、泣いてる。じゃ、確かに伝えるわ」
美沙子は電話を切って、隣の部屋へ急いで入って行った。
「はいはい、どうしたの……」
と、美津子を抱き上げる。びっくりするほど軽い。初めて持ったときには、本当に、こんなに小さくて育つのかしら、と不思議な気持がした。
抱いて、揺すっている内に、また寝入ってしまう。乳がつかえていたのかしら、と美沙子は思った。
――渡しへ来た若い男。宏造はそう言った。一体誰だろう?
夫が出かけて行ったのは、その用だったのかもしれない。いや、あの間に電話があったとすれば、それは宏造からだったに違いないのだから、まず間違いあるまい。
この寒い夜、しかも吹きすさぶ風の中を、出かけて行くとは、相当の用事としか思えない。その若い男というのに、何か心当りがあるのだろうか……。
美沙子は、兼一の顔に浮んでいた不安の影を思い出した。宏造の話の何が、兼一をそんなにも不安に陥れたのか。
美沙子はどうにも気がかりだった。
外は思ったよりもひどい風だった。
兼一は、目を細くして、道を急ごうとしたが、何しろ町までは街灯もない夜道である。懐中電灯は持っているものの、舗装もしていない道では、足を取られて転びそうになる。
つい足取りは慎重になり、はかどらなかった。
息を切らしつつ、一息ついて、兼一は立ち止まった。この寒風の中を、こんなにしてまでどこへ行こうというのか。
とっさの決心で出て来たものの、今になって、己れが|馬《ば》|鹿《か》げて見えて来た。――父の古い知人かもしれないし、昔の使用人の子供か何かかもしれないではないか。
そうだとも。――びくびくする必要がどこにある。総ては済んでしまったことだ。
引き返そうか、と兼一は思った。
そのとき、風の音に混じって、近付いて来る足音を聞いたような気がした。
気のせいか? 兼一は凍え切った耳をそば立てた。――空耳ではない。誰かが、この道をやって来る。
この夜中に、灯火もなく、この道を|辿《たど》って来るとは……よほどこの辺りに詳しい人間に違いあるまい。
曲りくねった道は、兼一のすぐ前で、大きくうねっているので、両側の木々に隠れて、近付いて来る男の姿は、明りにも|捉《とら》えられなかった。
足音が曲り角を近付いて来る。懐中電灯を持つ兼一の手が震えた。寒さばかりのせいではない。
光の輪が揺らぐ中に、男が姿を見せた。光を浴びて、まぶしげに目を細めたが……。
町の駐在所にいる安西巡査は、鳴り続ける電話に起されて、目をしょぼつかせながら、目覚し時計を見すかした。
「午前四時だぜ、畜生!」
舌打ちして、渋々布団から|這《は》い出すと、寒さにブルブルッと震えて、あわてて綿入れを着込んだ。
電話は無情に鳴り続け、出るまでは鳴り止む気配はなかった。
「赤ん坊と同じで、放っといても泣きやまねえか……。はい、駐在」
眠そうな声で言うと、
「安西さん? 栗山美沙子です」
とはっきりとした声が飛び出して来る。
「おや、奥さん。どうしました?」
「主人が出かけたきり戻らないんです。心配で……」
「旦那が?」
安西の眠気はほぼ一時に解消した。「事情を聞かせて下さい」
美沙子の、簡にして要を得た説明を、安西はかじかんだ手で必死にメモした。
「主だった方のお宅へは電話したけど、主人は行っていないんです」
と美沙子は言った。「心配なんです。こんなに遅くなることはないし、あっても必ず電話をして来るはずですもの」
「分りました。――ともかく、一度宏造の所へ行ってみますよ。それからお宅へ伺います。なに、追い追い夜も明けます。ご心配には及びませんよ」
「すみません。よろしくお願いします」
電話を切ると、安西は急いで制服を着た。心配ないとは言ったものの、万が一ということはある。そして相手は栗山家の当主だ。
警察の側に手落ちがあれば、自分のクビも危いというものである。
表へ出ると、一晩中吹きまくっていた風はほとんどおさまっていたが、気温は恐ろしいほどの低さだった。道はまるでコンクリートを練ったまま固めたといった状態で、水たまりは総て凍りついている。うっかりすると足を滑らしそうだった。
安西は、ひとまず宏造の家へと足を向けた。美沙子の話からすると、宏造が何か知っているかもしれない。
宏造は、町の端の小さな一軒家に一人暮しである。安西は玄関の呼鈴の壊れていたのを思い出して、派手に戸を|叩《たた》いた。
「おい、宏造さん! 起きてくれ! 安西だよ!――宏造さん!」
返事はなかった。安西の呼び声、戸を叩く音が、冷たく|冴《さ》え切った夜明け前の冷気にしみ通って行くばかり。
「しようがないな……。また飲んで眠っちまってるんだろう」
とぶつぶつ言いながら、開くとも思わず引き戸をぐいと引くと、開いた。
「――変だな」
こんな朝早くから、出かけるとも思えないが……。それとも昨晩、戸閉りを忘れたのか。
ともあれ玄関へ入って、安西は、
「宏造さん、入るよ」
と声をかけて――棒立ちになった。
何しろ狭い家である。土間を上るとすぐに障子があって茶の間になる。その障子が、手ひどく破られているのだ。
安西は一瞬、きっと身を引き締めた。何か容易ならぬことが起ったことは察しがつく。こんな山中の町である。大した事件の起ったためしはないが、安西はいやな予感に捉えられるのを感じて、上るのをためらった。
警棒でそっと障子を開けてみると、倒れている宏造が、いきなり目に飛び込んできた。
刃物でめちゃくちゃに切りつけられたものとみえて、胸から下腹までが血まみれになっている。こと切れているのは一目で見て取れる。カッと白目をむいて、それが恨みを込めたようにこっちをにらんでいるのには、安西も、さすがに職業柄、腰を抜かしこそしなかったが、|膝《ひざ》が小刻みに震えるのを、こらえ切れなかった。
警官としての職業意識が戻って来るのに数分を要したが、|一《いっ》|旦《たん》気を鎮めるとそこは長年の警官生活で、手順通りに、現場を荒らさないように上り込んで宏造が死んでいるのを確かめてから、家の中を一通り点検した。
そしてハンカチを出してそっと電話の受話器をつかみ、本署へと連絡を入れたのだった。
表へ出ると、安西はやっと栗山美沙子に頼まれていたことを思い出した。そもそもがそっちの用事でここへ来ていたのだった。
こうなっては、ともかく増援が来るまでここを動くわけにもいかない。――早くやって来ないかと、じりじりしながら、凍えるような冷たさに足踏みをしている。次第に空の底から、朝がせり上り始めていた。
「そんなわけで、すっかり遅くなっちまって申し訳ありません」
と安西は頭を下げた。
「いいえ。宏造さんはお気の毒ね。――物盗りか何かでしょうね」
美津子を抱いたまま正座して、美沙子は言った。
「そうだと思いますが……。何しろまだ捜査の方も取っかかったばかりで」
安西としては、あまり人殺しなどというものを扱ったことがない。できるだけ、本署の刑事たちへ任せておきたいところである。
「ところでご主人は、どこへ行くともおっしゃっていなかったんですね」
「ええ。今までそんなことはなかったんだけど……」
「一応ここへ来る道々、会った者には訊いてみましたが、一向に知らないようでしたね。ともかく、手を尽くします」
「忙しいのにごめんなさい」
と美沙子は言った。「これでお酒でも飲んで帰って来たら、スリッパで引っぱたいてやるわ」
「仲の良いことですな」
と安西は笑った。「では早速、戻って手配を――」
「よろしく」
「いやここで結構ですよ。外は寒いですから」
と言う安西を、玄関先まで見送って、美沙子は、濃いもや[#「もや」に傍点]の中へ、安西の姿が|呑《の》み込まれて行くのを見ていたが、やがて不安気に、そっと周囲を見回した。
「どこへ行ったのかしら……」
えらく|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》で、どこへ行くにもちゃんと何時頃までに帰るよと言い置いて行くのが兼一である。それが用も行先も告げずに夜遅く出て、朝になっても帰らないというのは……。
宏造が殺されたというのも、美沙子の不安を深めた。昨晩の宏造の電話。その後で宏造は殺されている。むろん兼一がそれと係りがあるとは思えないが、一応はそう疑われても仕方ない。おそらく、口には出さないが、安西もそう思っていよう。
物盗りか、と訊きはしたが、美沙子とて、あの宏造の見すぼらしい家へ押入る物好きな強盗がいようとは思わなかった。といって、宏造はそう人に恨まれるような人間ではなかった。
もちろん、人間、いつどんな事情で、敵を作っているか分らないが、宏造は要するに単なる渡しの船頭にすぎない。そうそう親しく付き合ったという相手も知らないが、殺されるほどの憎しみを買うとも思えないのだ。
してみると、やはり昨夜の一部始終、宏造の殺害、兼一の行方不明は、どこかでつながっているのだろうか……。
「おお、寒い」
美沙子は我に返って、抱いている美津子に風邪でも引かせては大変と、玄関の戸を閉めようとした。
「――美沙さん」
声がして、振り向くと、朝もやの中から、若い男が姿を見せたところだった。
「まあ……」
美沙子はそう言ったきり、絶句して立ちすくんだ。
「久しぶりだね」
とその若者は言った。
「正夫さん……。あなた、生きてたの?」
「幽霊じゃないよ」
と微笑んで、「兼一の|奴《やつ》、美沙さんに何と言ったんだい?」
「あなたは……東京で死んだ、って……」
「|僕《ぼく》には美沙さんが死んだと言いに来たんだよ。――でも、今さら言っても……。兼一と世帯を持ってるんだろ?」
美沙子は黙って肯いた。
「――男の子?」
「女の子よ」
「そうか。――美沙さんに似てる」
と赤ん坊の顔を覗き込む。
「あなたが生きてるなんて!……私、何が何だか……。ともかく、寒いわ。入ってちょうだい」
「ご亭主は? いるんだろ?」
「今、留守なの」
「じゃ、入れてもらうよ。――道が分るつもりで来たら、一晩中迷っちまってね。ひどい目に遭ったよ」
玄関から上った美沙子は思わず振り向いた。
「それじゃ、正夫さんだったのね、昨晩、宏造さんがボートに乗せたっていう……」
「宏造さんも老けたね。僕のことが全然分らないんだから、おかしかったよ」
と正夫は屈託なく笑った。「宏造さんが何か言って来たのかい?」
「ええ。――それが、大変なことになったのよ」
「何が?」
口を開きかけて、美沙子はためらい、
「何から話していいのか分らないわ。ともかく入って」
「うん。――中は変らないねえ」
と懐しげに見回す。
茶の間へ通して、美沙子は急いでお茶を淹れた。よほど体が冷え切っていたとみえ、正夫はあっという間に一杯飲みほした。
「――やっと生き返った」
二人は、しばらく黙って座り込んでいた。言うべきこと、訊かねばならないことが、二人の間の空間に満ち|溢《あふ》れていたが、どれも一つとして言葉,にはならなかった……。
「じゃあ、あの人は|嘘《うそ》をついたのね」
と、長い沈黙を破って、美沙子が言った。
「何としても、君と一緒になりたかったんだよ、きっと」
「ひどいわ……」
美沙子は顔を伏せた。
「兼一とは幼ななじみだし、あいつ、決して嘘なんか言わない奴だろう。だから君が嫁に行って、子供を流産したのがもとで死んだって聞かされたときも、すっかり信じちまってね。――もう、これで親類縁者もここにはいなくなったし、ここへ来ることもないだろうと思ってた」
正夫はちょっと間を置いて、「――ところがこの間、銀次の奴にばったり会ったんだ。あいつ、何やら勉強に出て来たんだと言ってた。奴もびっくりしてね。僕は交通事故で死んだらしいから」
「アルバイトをしていて、トラックにひかれたと聞かされたわ」
「兼一の奴――」
正夫は笑いながら言った。「まことしやかなこと言いやがって。――ともかく、銀次の奴から、君のことを聞いてね、一度会いたかったし、兼一とも話したくてやって来たんだ。まあ、今さら何か言ったって、君はもう兼一の奥さんで、この屋敷の奥様だ。そうして子供もいることだしね。どうにもならないのは分ってたんだが……」
「それじゃなぜ来たの」
美沙子が、畳へ、突っ伏して、すすり泣いた。「死んだと思わせていてくれればよかったのに……」
「悪かった。君を困らすつもりはなかったんだ。本当だよ」
傍に寝かせた赤ん坊が泣き出した。美沙子は涙を|拭《ぬぐ》って、おしめを替え始めた。
正夫は、じっとその美沙子の様子を見ていたが、やがてすっと立ち上ると、
「僕は行くよ」
と言った。
「正夫さん――」
「来るべきじゃなかった。君らに夫婦|喧《げん》|嘩《か》の種をまいて意趣返ししても始まらない。僕が来たことは、兼一には黙っててくれ」
「できないわ!」
「できるとも。その子供のためじゃないか」
正夫は、泣きやんで、しきりに手足をばたつかせている赤ん坊を見て、「不仲な両親の下で育つぐらい、子供にとって|可《か》|哀《わい》そうなことはないよ」
美沙子も、返す言葉がなかった。
「幸せにね、美沙さん」
そう言って、正夫は茶の間を出て行く。
「正夫さん!」
美沙子が後を追って、「待って。せめて連絡できる所でも――」
「もう忘れるんだ」
正夫は玄関へ来ると靴をはいて、「死んだと思っていればいいじゃないか」
「そんなこと……」
美沙子は力なく上り口に座り込んでしまった。
「お互いに、もう子供じゃない。一緒に遊んでいられる時期は終ったんだよ」
「――私はあなただけが好きだったのよ」
「今さら言っても仕方ないよ」
「ええ……。そうね」
二人は、しばし、黙って向き合っていたが、やがてどちらからともなく、激しく抱き合った。
「行かせたくない!」
「美沙さん……」
「出て行くわ、私。連れて行って!」
「馬鹿を言っちゃいけないよ」
「本気よ、私」
「子供はどうなる? 僕はまだまだ風来坊だ。君はここにいるべきなんだよ」
「……あの人が憎い!」
美沙子はこみ上げるものを一気に吐き出すように、そう言った。
「――奥さん」
そのとき、玄関先で、声がした。戸が開いて、安西が入って来る。
「どうも先程は。――お客様でしたか」
「いえ……あの……何か分ったのかしら?」
「実はご主人の持物だと思うんですが」
と安西は懐中電灯を差し出した。
「ええ……。たぶんうちのだわ」
「この先の|岐《わか》れ道の所で拾ったんですよ。昨夜は持って出られたんで?」
「ええ、たぶん……」
傍で聞いていた正夫が、
「兼一がどうかしたの?」
と訊いた。安西が、面食らって、
「あんたは?」
「安西さんですね。僕は矢川正夫ですよ」
「正夫さん! 正夫さんかね、あの?」
安西は仰天した。「あんたは死んだと聞いてたが」
「ちょっとした間違いでしてね。――兼一がいないのかい?」
「ええ、昨晩から」
「どうしてそれを言わないんだ。僕と違って、この辺で迷うはずもないし。心配だな」
「ともかく、方々、手を尽くしてはいるんですがね」
と安西は言った。「ああ、それから、宏造ですがね、強盗に殺されたわけじゃなさそうですよ」
「というと?」
「宏造の奴、引出しに多少の金をしまい込んでおいて、それが手つかずで出て来ているんです。こいつは|怨《えん》|恨《こん》の線だと思いますね」
「宏造さんが殺されたって?」
正夫は|愕《がく》|然《ぜん》とした。「ゆうべ会ったばかりなのに」
美沙子がチラリと正夫の方を見た。黙っていればいいのに、という表情だ。
「ゆうべお会いになったって?」
安西が訊き返した。
「ええ、渡しをボートで渡りましたからね。あのまま宏造さん、家へ帰りそうな様子だったけど」
「家でやられたんですよ」
安西はちょっと考えてから、「正夫さん、ちょっと駐在所まで来てもらえませんかな。その話を少し詳しく伺いたいが」
「いいですとも。といって、大した話はありませんけどね」
と正夫は気楽に言った。「――それじゃ美沙さん。どうも兼一に黙って帰るってわけにもいかなくなったけど」
「ええ」
「それにしてもどこへ行ったのかな、兼一は。夜遊びするような奴じゃないし」
「この辺じゃ遊ぼうにも場所がありませんからね」
と安西が笑って言った。
「本当にね。――東京に一度でも住んじまうと、とてもだめだね。こんな所は」
二人は一緒に歩き出した。もう朝もやも大分うすれてはいたが、美沙子は二人の後姿が見えなくなるまで、玄関の戸を開けたままずっと見送っていた。
それから、美沙子は茶の間へ戻った。美津子は目を覚ましてはいるが、上機嫌に、母親の顔を見て笑った。
――美沙子と正夫は、幼い|頃《ころ》から兄妹同然に育って来た仲である。十六の頃には、もう誰もが二人は行く行く夫婦になる仲だと思っていたし、もちろん正夫と美沙子もそのつもりであった。
その事情が急変したのは正夫の父、矢川隆也が、遠縁に当る栗山家の土地を勝手に抵当に入れて金を借り、差し押えられるという不祥事を起してからだった。|賭《か》け事に手を出した矢川が|莫《ばく》|大《だい》な借金をこしらえて、追いつめられた挙句にしたことであった。
こんな小さな町では、人の目を逃れることはできない。兼一の父、栗山兼吉は矢川を許したのだが、矢川は堪え切れず、ある日裏山へ入って首を|吊《つ》った。妻も後を追うように病死して、一人残された正夫は、東京の親類を頼って町を出たのである。
そして六年の歳月が流れた。
美沙子は、東京へ行った兼一から、正夫が死んだと聞かされて、しばらく泣き暮していたが、兼一の優しい慰めに、心打たれるようになった……。
美沙子は、ぼんやりと茶の間に座り込んでいた。――兼一が嘘をついていたとは。
疑いなどかけらも持っていなかっただけに、美沙子にとって、これは大きなショックであった。
だが今さらどうできるだろう? 夫婦になって、こうして娘まで生れた今、美沙子は静かな幸福を楽しんですらいたのだ……。
総ては一夜にして崩れ去った。――正夫が生きていることが分って、同時に夫は姿を消した。
これは偶然ではあるまい。宏造からの電話で、兼一はおそらくボートに乗った若い男が正夫だと察したのであろう。そして家を出て行った。――どこへ行ったのか?
宏造が殺されたこと、正夫が帰って来たこと、兼一が姿を消したこと。
どこかで、総てはつながっているのに違いない。美沙子はそう思った。
「すると、その矢川正夫というのが犯人ではないかと君は思うわけだね?」
県警の速見という刑事は、タバコを灰皿へゆっくりと押しつぶして言った。およそ刑事らしからぬ、穏やかな初老の紳士で、田舎の学校教師という印象である。
しゃべり方も細々として、半ば照れくさそうに声も低い。
「はあ、さようです」
と安西は肯いて、「事件の当夜、川を渡って来たことは当人も認めています。そして、栗山家の方へ行くつもりで道に迷い、一晩中うろうろしていたと言っているんですが……」
「それは嘘だと君は思うんだね?」
と速見刑事は訊いた。
「ではないか、と……」
「以前この町にいた人間だと言ったね」
「はい。確か十六の頃までいたはずですが、父親が事件を起しまして――」
安西は、矢川隆也が起した事件を速見へ説明して、「そんなわけで、正夫は一人で東京へ出て行ったんです」
「なぜ帰って来たのか、言ったかね?」
「美沙さんに会いに来たということです。今の栗山のご当主の奥様ですが、以前は正夫と夫婦約束をしていた仲で」
安西がその辺の事情を説明すると、速見は少し熱心に身を乗り出して聞き入っていたが、
「すると、その正夫が死んだという話を広めたのは栗山兼一だったわけか」
「そうです。――まあ、以前から美沙さんをめぐって、二人は争っていましたから」
「争って? 喧嘩でもしたのかね」
「いいえ、そういうわけではありませんが……。二人は親友同士でしたから」
「しかし、死んだと嘘を言って彼女と結婚するというのは、親友のすることとは思えないね」
「それはまあ……」
〈ご当主〉のことを悪く言われるのがあまり面白くないらしく、安西は言葉を濁した。
「すると、当夜、渡部宏造から電話を受けて栗山兼一は家を出た。途中で、屋敷へ行こうとしていた矢川正夫と出会い、妻に会わせまいとして争いになった……。そして、どうしたと思うんだね?」
「さあ、そこまでは――」
と安西が詰まる。
「もし矢川正夫が栗山兼一を殺したとして、死体はどこかへ隠す。それから朝になるのを待って、彼女に会いに行く。――まあ、それはいいとして、なぜ君にわざわざ名乗ったりするのかな?」
「はあ……」
「それに渡部宏造が殺されている。矢川正夫がやったとすればどうもおかしい」
と速見は続ける。「宏造に自分が何者か知られたくなければ、あれこれ宏造に話しかけたというのが妙だ。黙っていれば分らないだろうに」
「はあ」
「栗山兼一を殺してしまってから、宏造に顔を見られたのを思い出して、殺しに行ったとすれば不思議はないがね。しかし、矢川正夫がそれほどの凶悪犯だとは考えにくいね。前科があるとかいうのならともかく」
「それはないようですが……」
「今、矢川正夫はどこにいるんだね」
「留置しておくだけの証拠がないのですから、一応お屋敷に――」
「栗山兼一の所へ? それはまた妙じゃないか」
「まあ、一応正夫にとっては遠縁の家に当りますので」
と、安西は大して意外でもないという様子。速見は、こういう閉鎖的な地域社会での物の考え方は違っているのだな、と思った。
証拠はないまでも、殺人の容疑をかけられている人間を、その被害者――死体は見付かっていないが――の家へ置くなどということは、速見には到底考えられない。
「ともかく、まず栗山兼一がどうなったのかを確かめることだ。死体がなくては話にならない」
「分っております。ただ……何分この辺は広すぎまして」
「手を貸すよ。県警から人手を回すようにしよう。君は町の若いのを集めて、裏山を中心に捜索させてくれないか」
「はい、それはすぐにでも」
具体的な仕事の指示をもらって、安西はホッとした様子だった。
こんな町の駐在では、殺人事件などに出くわすことはないから、何をしていいのか分らないのだろう、と速見は思った。
「じゃ、早速手配してくれたまえ」
と速見は立ち上った。
「かしこまりました」
「ところで、そのお屋敷だが、ここからはどう行くのかね」
と速見は訊いた。
玄関を開けたのは、美しい顔立ちの若い女性だった。
「栗山美沙さんですね」
と速見は言った。
「美沙子、ですが……」
「ああ、失礼。安西巡査があなたのことを美沙さんと呼んでいたので、つい……。県警の速見といいます」
「どうぞ」
礼儀正しくはあったが、美沙子の顔には疲労の色が濃かった。――夫が行方不明になって三日たつ。しかも、その上に、夫が嘘をついていたことも知り、かつての恋人を同じ屋根の下に泊めているのだ。心労が重なっているのだろう。
「矢川正夫さんはおられますか」
「今、ちょっと出かけていますが」
「どちらへ?」
「心当りを捜してみると言いまして」
「ああ、ご主人を捜しに行かれたんですね」
「はい。――どうぞ」
茶の間へ通し、お茶を出しながら、「そろそろ戻る頃だと思います」
「お構いなく」
速見はしばらく黙って美沙子を見ていたが、
「――ご心配ですね」
と言った。
「はい」
目を伏せたまま答えてから、「――あの……正夫さんが疑われているんでしょうか?」
と目を上げて速見を見る。
「私は誰といって、まだ特定の人を疑ってはいませんよ」
速見はさり気なく言った。「誰かを疑って捜査にかかれば、それに都合の良い証拠ばかりが目につくものです。それは禁物ですよ」
「そうですか」
美沙子は少し安心したようだった。
「色々な事情は安西から聞きましたが、あなたの口からもう一度伺えますか?」
「はい」
美沙子は|淀《よど》みなく総てのいきさつを語った。――速見は、そのしっかりした話しぶりに感心した。
「――正夫さんは決して人を傷つけたりできる人ではありません」
そう付け加えたときだけ、美沙子の言葉にいくらか力がこもった。
話を終えたとき、隣の部屋で赤ん坊が泣き出し、美沙子は座を外した。
速見が茶を飲んでいると、玄関の開く音がして、
「美沙さん、帰ったよ」
と若い男の声。「どうも、むだ足だったよ。――あ、これは失礼」
と茶の間へ入って来る。
速見は自己紹介した。
「県警の刑事さんですか」
正夫はむしろ面白がっているような様子で、
「いよいよ僕が捕まることになったんですか?」
と座り込む。
「いやいや、そうじゃありません」
と速見は現在の状況をざっと説明した。「――それであなたご自身の話を伺おうと思ったんですよ」
「僕は別に弁明する気はありません。しても裏付けるものは何もないんですからね。森の中を迷って歩いてたなんて、立証のしようがない」
「だからといって嘘だと決めつけるほど、警察も馬鹿じゃありませんよ」
と速見は言った。「――ところで、今は栗山兼一さんを捜しに出られていたんですね?」
「そうです」
「どの辺を捜されたんですか?」
「裏山ですよ。――兼一とは幼ななじみで、よく二人で一緒に裏山へも遊びに行きましたからね」
「なるほど」
「よく二人で行った場所――ちょっとした秘密の隠れ家みたいなものがよくあるでしょう。そういう所を捜したんですがね。結局むだでした」
「まだ兼一さんが生きていると思いますか」
正夫はゆっくりと首を振って、
「分りませんね。僕は殺していない。――宏造さんを殺した犯人がやったのかもしれないけど、だとすれば宏造の死体は放っておいて、なぜ兼一の方を隠したのか、分りませんね」
「おっしゃる通りです」
速見は何度も肯いた。「しかし、もう一つ可能性はあります」
「おっしゃって下さい。分っているつもりですが」
速見が答えるより早く、襖が開いて、美沙子が入って来ると、
「主人が宏造さんを殺して逃げている、ということですね」
と言った。
「そうです。普通、殺人事件があり、誰かが行方不明になれば、その人物が犯人ではないかと思うものです。ところが、ここでは違う。安西巡査にしても、そんなことは頭から思ってもいないようだ」
「それほど、ここの当主という立場は尊敬されているんですよ」
と正夫が言った。
「私としては両方の可能性を考えて捜査を進めます。この一帯を捜索すると同時に、逃走の場合、ルートになる、駅、バス停などを警戒させていますから」
速見は立ち上って、「さて、もう失礼しなくては」
と廊下へ出た。正夫と美沙子が玄関へ出て来る。速見は靴をはいてから、
「そうそう。ご主人の懐中電灯が落ちていたというのはどの辺ですか?」
と訊いた。
「僕がご案内しましょう」
正夫が土間へ降りる。「安西さんに連れて行かれたから分りますよ」
「ではお願いしましょう。――奥さん、失礼します」
丁重に礼を言って、速見は外へ出る。正夫も後からついて行った。
冬にしては風のない、暖い日だった。青空が広がって、光がまぶしいほど。それでも、気温そのものは低いのだろう。
「東京の汚れた空気に慣れてしまうと、こういう澄んだ空気で|却《かえ》って|喉《のど》を痛めますよ」
と正夫は苦笑した。
「何かお話になりたいのではありませんか?」
と速見が言った。「美沙子さんに気がねしている。そんな印象を受けたのですが」
「さすがは刑事さんですね」
正夫は、ちょっとびっくりしたように速見を見た。そんなに勘の鋭い人間には、到底見えないのである。
「――町の人々のことなんですよ」
と正夫は手を後ろに組み、ゆっくり足を進めながら言った。「さっき、あなたがおっしゃった通り、町の人は、兼一を疑うなんて思いもよらないんです。そうなると結論は一つ。僕が犯人だと思い込んでいる」
「その方が都合がいいのですよ」
と速見は言った。「町の住人から逮捕者を出すよりも、よそ者を犯人にした方が、町は安泰ですからね」
「それで、さっき裏山へ兼一を捜しに行ったんですが、|諦《あきら》めて戻りかけたとき、町の若い連中と出会ったんです。向うも安西さんに言われて捜しに来ていたようですが、四、五人のグループで。――そして僕が何者か知ると、取り囲んで詰め寄って来ました。問答無用ですよ。何を言ったって返事もしない」
「それで?」
「ちょうど他の、もっと年長の人たちがやって来る足音がしましてね、助かりました」
「いかんな、全く」
速見は舌打ちして苦々しげに言った。「安西に言って、二度とそんなことのないように徹底させましょう」
「いや、そんなことはいいんです。それに、却って逆効果になりかねませんよ」
「そうかもしれませんな。――では、こうしますよ。地元のグループに、必ず県警の人間を一人つけておきます。そうすれば馬鹿な|真《ま》|似《ね》はできませんよ」
「ありがとうございます。しかし僕が心配なのは美沙さんの方です」
「というと?」
「今はまだ町の人もここの当主の夫人と見ていますが、ちょっと年のいった人なら、僕と彼女のことはよく知っています。おそらく、あることないこと、噂に尾ひれ[#「ひれ」に傍点]がついて、町中に知れ渡っていることでしょう。しかも僕は今、その当主の屋敷にいる。町の人が、僕ばかりでなく、美沙さんのことまで、当主を裏切った女と見るようになるのは時間の問題です」
「なるほど」
と速見は肯いた。「で、どうなさりたいのですか?」
「さあ……」
正夫は肩をすくめた。「町に旅館はないし、泊めてくれる家もありそうもない。身動きがとれないんですよ」
正夫はふっと笑顔になって、
「いっそ留置場へでも入れてもらった方が、安全で気が楽かもしれませんね」
と言った。「――あ、懐中電灯が見付かったのは、確かここですよ」
「知っています。もう見に来ましたから」
速見は軽く微笑んだ。「あなたの話を伺いたかったのでね。では、失礼」
速見が町へと戻って行くのを、正夫はしばらくその場に立ったまま見送っていた。
正夫はそっと襖を開いた。
眠っている赤ん坊に添い寝した美沙子も、疲れのせいか眠り込んでしまっている。
正夫はしばらく美沙子の寝顔に見入っていたが、やがて音を立てないように、そっと襖を閉めた。
厚手のコートに身を包むと、正夫は、大きく息をついて、部屋の中を見回した。そして、廊下へ出て、足音を忍ばせながら玄関へ向った。
夜、十一時になっている。古い日本家屋は、玄関まで来ると外と同様の寒さだ。
靴をはき、台所から探し出して来た小型の懐中電灯を手に、玄関の格子戸を、音がしないように、ソロソロと開け、素早く外へ出ると、ゆるいながらも凍りつく風が顔にはりつくようだ。
玄関を後手に閉め、正夫は歩き出した。町へ向う道を途中まで辿ると、岐れ道を逆に、山の方へと向った。
空が、都会の汚れた空を見慣れた目には、異様なほど澄んで見えた。
透明な、奥行を持った空間の|遥《はる》か奥に、星が光っている。わずかばかりの雲の一片が、ゆっくりと泳いで行った。
正夫は小型の懐中電灯を点けて、足下を照らしながら、次第に登り坂になる道を辿って行く。
そのしっかりとした足取りは、何かを捜すというのではなく、決った目的地へ向う者のそれだった。
道は山の中へと導かれて行って、どこが道なのかも見定め難くなって来る。正夫の息が段々荒くなって、吐き出す息が白く|渦《うず》を巻いた。
小さな谷川の流れの所まで来ると、今度はそれに沿って歩き出す。上流へと辿って行くと、次第に岩が多くなって来て、一歩一歩、慎重に歩を進める。
やがて、渓流に、天然の石の橋がかかっているあたりへ来ると、正夫は橋の下、せいぜい五十センチほどの空間へと身をかがめた。そして――不意にその姿はかき消すように消えた。
数分の後、再び、同じ場所から、正夫の姿が現れる。そして、もう戻ろうとするのか、流れ伝いに下り始めた。
ものの二、三十メートル下った所で、正夫は足を止めた。人影が行く手を|遮《さえぎ》ったのである。
一人、二人……いや、四人の男たちが、手に手に太い棒やバットを持って立っている。
「あんな所に穴があったのか」
と一人が言った。「捜しても見付からねえはずだぜ」
「旦那はあそこにいなさるのか?」
と他の一人が訊く。
「そうだ。元気だよ」
と正夫は答えた。「僕はもうここを出て行く。行かせてくれないか」
「だめだ! 旦那は無事でも、宏造さんを殺した償いはさせるぞ」
四人の男たちは、棒やバットを振りかざして、近寄って来る。正夫は身を低くして飛び出したが、たちまち足を引っかけられて転倒する。
「やっちまえ!」
かけ声と共にバットが振り降ろされた。
「――正夫さん」
目を覚まして、美沙子は呼んでみた。
ずいぶん眠ってしまった。疲れていたのだろう。
美沙子は茶の間を覗いて、正夫の姿がないのを見ると、廊下へ出て、
「正夫さん」
ともう一度呼んでみた。――返事がない。
ふと不安になって、玄関へ急ぐ。思った通り、靴がない。
「正夫さん……」
どこへ行ってしまったのだろう? 捜索なら、こんな時間に出かけるはずもない。
出て行ったのか? そうに違いない、と直感的に確信した。もうずっと前だろうか? 追い付けるだろうか?
美沙子は急いで茶の間から奥の部屋へ入って、自分のコートを取ると、腕を通すのももどかしく玄関へ。靴をはいて、ガラリと戸を開け、立ちすくんだ。
目の前に、棒を手にした男たちが立っている。
「大丈夫ですか!」
穴から、かかえるようにして助け出された兼一は、肯いて、
「ああ……。ありがとう」
両手を縛り合わせた縄を、若い者が急いで解く。
「助かったよ。このまま置いておかれたら餓死するところだ」
「全くひどい野郎だ!」
「どうした、彼は?」
「やっつけましたよ。後でその辺を掘って埋めちまいましょう」
と一人が言った。「捜したって見付かりゃしません」
「そうか……」
兼一は、やつれた、ひげののびた顔を曇らせた。「殺さなくても良かったのに……」
「何を言ってるんです。宏造さんを殺しただけでも、こうなって当然でさあ」
「ともかく、旦那、山を降りましょう」
「そうだ。肩を支えて……。ほらそっちも、いいか」
両側から一人ずつが兼一の体を支える。
「歩けますか?」
「大丈夫……。窮屈な所にいたから、足がしびれているだけだ」
ゆっくりと、歩き出す。岸の岩に、正夫がぐったりと突っ伏している。
兼一は足を進めながら、正夫の方をじっと見返した。
山道も、流れから出ると、はかどるようになった。兼一も足に感覚が戻ったのか、ややふらつきはするが、腕をつかんでもらうだけで、歩いて下って行く。
「下から誰か来るぞ」
と若者の一人が言った。――なるほど黄色い灯が揺れながらやって来るのが木々の合間に見える。十人近くはいるようだった。
「――やあ、旦那さん!」
安西巡査が|安《あん》|堵《ど》の声を上げた。「ご無事でしたか!」
「やあ、すまないね。心配かけて、大丈夫だ」
「県警の速見です」
と二番目に現れた男が言った。「ご無事で何よりでした」
「どうも」
「あなたを監禁していたのは矢川正夫でしたか?」
「そうです。あの晩屋敷へ来る途中で会って、あいつ……僕のことを嘘つきだ、恋人を盗ったとののしりました。そして僕は殴られて、気が付くと、川の上流の岩穴にいたんです。子供の頃、よく一緒に隠れて遊んだ所でした」
「宏造さんを殺したことは認めましたか?」
「ええ。渡しで顔を見られたので、後になってまずいと思い、殺したと言いました」
「今夜は何のために?」
「ここを出て行くと言いに来たんです。どうも危くなったので、逃げると。――ここで餓死すればいいと言って……」
「で、どこに行きました?」
「さあ、分りません。――みんな僕を助け出すのに夢中で、その間に逃げてしまったようです」
と兼一は言った。
「そうですか。では早速手配させましょう」
「そんなことより、旦那をお屋敷へ――」
と安西は気が気でない様子。
「そうですな。ではともかく屋敷へ」
速見が、部下の警官たちに、兼一へ手を貸すように命令して、町の若者たちは、山を下りた所で別れて行った。
「家内が心配してるだろう」
少し足を引きずりながら、兼一は言った。
「もう、気が気でないご様子でしたよ」
と安西が肯く。
「しかし、あなたはなぜ矢川正夫が死んだと言ったのです?」
と速見が訊いた。
「確かに、はた目には僕は嘘つきかもしれません。しかし、決して彼女を奪うために|騙《だま》したんじゃありません。――正夫は東京で、|荒《すさ》み切った生活をしていたんです。僕が訪ねて行くと、ろくに働きもせず、女のヒモになって遊んでいます。僕が美沙さんのこと考えろと言うと、あんな女はくれてやる、と言いました」
兼一は息をついて、「――戻って、彼女に何と言えば良かったでしょう? 事実をありのままに話せば傷つくばかりです。それで死んだということにしてしまったわけです」
「なるほど……」
一行はやっと屋敷へ着いた。
「奥さん!」
安西が玄関をガラリと開ける。「ご主人が帰られましたよ!」
「――変だな。いないはずはないのに」
と兼一が中へ入る。
「お待ちなさい。どうも様子がおかしい」
速見が一人で上り込むと、廊下を足早に進んで行って、茶の間へと入って行ったが、すぐにまた姿を見せた。
「とんでもないことになった」
速見は厳しい表情になっていた。
「どうしたんです?」
「たぶん……町の若い人ではないかと思いますが……」
口ごもっている速見を押しのけるようにして兼一が上り込む。速見は急いで一緒に奥へ向った。
茶の間はめちゃめちゃになっていた。襖も障子も破られ、へし折られ、タンスも倒れていた。その奥に、美沙子が倒れていた。額から血がいく筋か流れているのが鮮やかだった。
「もう息がありません。お気の毒ですが」
と速見が言った。
兼一は放心したように突っ立っていた。
「どうして……どうして美沙子が……」
「奥さんはここにあの矢川正夫を泊らせていたのです。町の人々にとって、正夫はあなたを殺した憎むべき殺人犯で、奥さんは、その昔の恋人――つまり共犯だと疑われたのでしょう」
兼一は、急に全身の力が抜けたように、その場に座り込んでしまった。
「そんなことが……美沙子……」
「お気の毒です」
兼一はじっとうなだれていたが、やがて、クックッと笑い始めた。笑いは次第にふくれ上るように大きくなった。
後に立った安西も、ゾッとしたように目を見開いて兼一を見ている。
「――刑事さん」
笑いがおさまると、兼一は言った。「僕ですよ。宏造を殺したのは」
速見はじっと兼一を見つめた。
「――なぜ殺したんです?」
「あいつ、電話の後で、ボートに乗せたのが正夫だと気付いたんですよ。つまり僕が美沙子を手に入れるために嘘をついたことを知った。そこで僕から金をせしめようと……。前からよく親父の所へ、金を借りに来ていたものですよ。酒と賭博で使ってしまってね」
「あなたは正夫が屋敷へ向っていると知って、来られては困るので、外へ出た。道の途中で出会うと思ったんですね」
「ええ。ところが出会ったのは宏造だった。宏造が法外な値をふっかけて来たので、僕が断ると、じゃ奥さんに言うまでだと歩き出したんです。僕は引き止めようとして、つい宏造の腕をねじるような格好になった。それから宏造も酒が入っているのでえらく怒って……。争いになり、僕はたまたまジャンパーのポケットに入っていたナイフで宏造を刺してしまったんです」
「それで?」
「宏造の死体を前にぼんやりしていたんですが、このままにしていてはいけない、と思って、宏造の死体を奴の家へ運ぼうと思いました。なぜか分らないんですが、ともかく家で死んだことにしておけば、疑われないと思ったんでしょう。苦労して運び、一息ついてから、同じ場所へ急いで戻ったんですが、正夫の奴は一向に来ません。もしかすると、いなかった間に屋敷へ行ってしまったのかもしれない。――夜が明けかける頃まで待ったがついに現れず、その頃になると、こっちも人を殺したという実感が湧いて来て恐ろしくなりました。そこで裏山へ身を隠すことにしたんです」
「正夫がそこを捜し当てて行った」
「ええ。思い出したんでしょう、子供の頃のことを。今日の昼間やって来て、自分はもう身を|退《ひ》く。美沙さんを幸せにしてやってくれと言いました。そして宏造殺しは自分がかぶるから、とも……」
「で、今夜は?」
「監禁されていたことにしなくてはいけないから手を緩く縛ると言って。少し苦労すれば解けるようにして、出て行ったんですが……。町の若いのに後を付けられていたんでしょう、袋叩きにされて、死んでしまいましたよ」
兼一はぼんやりと座り込んで、「それにしても……美沙子までが……」
速見が急にはっきりした口調になって、
「ご安心なさい」
と言った。
美沙子が目を開いて、起き上った。
「美沙子……」
兼一は唖然とした。
「あなたが私を騙していたから、私も騙したのよ」
と美沙子は言った。
「これをやったのは、うちの部下でしてね」
と速見は言って、「そうそう。それに町の若い人たちも、私の言う通りに行動してくれたんです」
兼一は速見を見た。
「と言うと……」
「バットや棒は本物ではないんです。まあ気を失う程度にはやったんですが。あなたが見ているかもしれないと思いましたのでね」
「じゃ……正夫は生きてるんですね」
「ええ」
兼一は、何か、ホッとしたような表情になった。
「そうですか……。そいつは良かった……」
奥の部屋で、赤ん坊が泣き出した。
「君は残るの?」
モーターボートに乗り込んで、正夫は言った。
「ええ」
美沙子は肯いた。「あの人の刑が決るまでは、やはり見捨てられないわ」
――風のない、暖い午後だった。
「じゃ、その時に迎えに来るよ」
「でも……」
美沙子は腕に抱いた美津子をあやしながら、
「この子も一緒よ」
「いいとも。――君さえ良ければ」
美沙子は、目を伏せていたが、やがて微笑みながら、正夫を見た。
「まだ決められないわ。ゆっくり考えたいの。一人になってね」
「――分ったよ」
「ごめんなさい」
「いいんだ」
正夫は美沙子の手を握り、それから、美津子の、小さな手と、自分の人さし指で握手[#「握手」に傍点]して、「じゃ、元気で」
と言った。
「行きますかね」
と言ったのは、速見刑事である。
「僕がやりましょう」
正夫がモーターを始動させる。水が泡立って、ボートがゆっくりと船着場を離れた。
流れも静かな川を、モーターボートはゆっくりと横切って行く。
「僕が来たばっかりに、とんでもないことになりました」
と正夫が言った。
「そんな風に考える必要はありませんよ」
と速見が言った。
「そうですか。でも……」
正夫は、振り向いて、手を振っている美沙子へ、手を振り返した。
「これで彼女ともお別れです」
「どうして?」
「彼女はそういう人です。決して兼一を見捨てませんよ。――彼女のことなら、僕が一番良く知っています」
最後の言葉は独り言のように川風に消えた。
美沙子はいつまでも大きく手を振っていた。
悪魔のような女
1 プールの秘密
今夜も、また来てしまった。
なぜか分らないが、ふと気が付くと、彼はプールサイドに立っているのだった。
プールは黒い水面に枯葉を浮かべて、風があるとも見えないのに、巨大な生き物の腹が呼吸しているように、波打っていた。
もう一か月たつ。一か月だ。――もう浮いてもいい頃ではないのか。
彼はそういう知識には乏しい男である。実際はもっとかかるのかもしれないが、よくは分らない。
あいつならよく知っているに違いない。そうだ、|奴《やつ》はどんなことでもよく承知しているのだ。
彼はプールサイドに立ったまま、ふと不安に駆られて振り返った。|誰《だれ》かが、すぐ後ろに立っていて、彼をプールへ突き落とそうとしているような気がしたのだ。
何でもない。――錯覚だ。
誰かに追われているような気にさせられる夜である。ひっそりと静まり返った、月も星もない夜。何かがその奥で息をひそめて、こちらをうかがっているような気がする……。
ここはどこだったろう? 彼は考える。とても良く知っている場所だ。そうには違いないのだが。
遠い|闇《やみ》の奥に、小さな明りの|灯《とも》った窓が見える。――ああ、そうだ。ここは学校だったのだ。あの窓は、用務員室の窓で、一晩中、まるで迷った船を導く灯台のように、小さな光を灯している。
そういえば、学校でもなければ、こんなプールがあるはずもない。
どうして生徒がいないのだろう? いや当り前だ。――夜なのだ。真夜中なのだから、生徒などいるはずもない。
一体|俺《おれ》はどうしてしまったのだ? こんな当り前のことに気付かないなんて、どういうことなのだ。
そうだ。段々はっきりして来るではないか。ここは私立の女学校で、中学と高校が、この同じ敷地内に並んでいる。ほぼ正方形の校庭の二辺を校舎が占め、残る二辺の一つにこのプールが造られている。
もう一辺は深い林で、その奥には、校長にしてこの創立者たる、金森咲代女史の屋敷があった。いや――むしろ正確には、金森女史の屋敷の敷地内に学校があった、と言うべきかもしれない。
このプールサイドに立って、彼が不安に圧迫されているというのは、妙なことだった。というのは、彼にとっても、この学校の構内は我が家であって――つまり、金森咲代は彼の妻だったからである。
金森進二は、この学校の事務長だった。妻が校長、かつ理事長であることが、彼にその地位をもたらしたことは事実で、従って、彼は常に〈校長のご主人〉、〈金森理事長の夫〉でしかなかった。
彼にとってやり切れないのは、自分が妻の付属品扱いされること、そのことよりも、自分が正に付属品に|相応《 ふさわ》しい人間でしかないのを承知していることであった。四十代も半ばを過ぎて、そろそろ頭髪の減り具合を気にする|頃《ころ》になって、なお、自分が何者でもないことを認めるのは、|辛《つら》いものである。
何者でもない……。そうなのだ。彼は、この何年か、名目上以外では、金森咲代の夫ですらなかった。
総てはそこに起因していたのかもしれない。認めるのは、苦しくはあったが。――そして結末は、このプールだったのだ。
だが、なぜ、俺はこんな所に立っているのか。夢遊病者でもないのに。なぜ、自分の意志とは関りなく、こんな所へやって来てしまったのか。
もう帰らなくては。――一体何時頃なのだろう? 夜中だということだけは良く分っているのだが。
誰かを待っているのか? 自分でもそれが分らないというのは妙な話だが、事実、その通りなのだ。誰かを待っているような気がする。しかし、誰も来る気配などないではないか。
思い違いだったのかもしれない。ただ、フラリと散歩に出て、ここへ来ただけだったかも……。そう。きっとそうなのだ。
では、もう帰ろう。こんな所にいると、どんな妄想に襲われないとも限らない。
彼はプールサイドを、外へ降りる階段へ向って歩き出した。――そのとき、水が泡立ったような音をたてた。
振り向くと、水面が盛り上っている。いや、そんなはずはない。何か――何かが水の中から浮び上って来つつある。
行ってしまえ! 見ずに行ってしまえ!
彼の中で、何かが警告した。しかし、足はその場から動かず、目も、枯葉の膜を突き破って浮き上って来る物から離れなかった。
激しい水音をたてて、彼の妻が、金森咲代が水の上に立ち上った。――文字通り、垂直に浮び上って、全身から水を流れるように落としながら立ち上ったのである。あのときのままの服装だった。一番のお気に入りだったスーツ、特別に老けて見えるようにデザインさせたのかと思えるような、旧式な服だったが、彼女はそれが好みだった。校長らしくていいと思っていたのかもしれない。
彼女はまるで聖書に出て来るキリストのように、水の上に立っていた。目は大きく見開かれて、青白い|燐《りん》|光《こう》を放って、じっと夫を見裾えていた。
その視線が、彼を透明な糸で縛りつけた。水の上を、彼女は歩いて来た。
「来るな……」
彼は両手を前へ突き出した。だが、そんなことで、彼女[#「彼女」に傍点]は止まるはずもなかった。水に|濡《ぬ》れた手が真直ぐに彼の方へ伸びて来た。
「来るな、――やめろ!」
彼は叫んだ。「お前は俺が殺したんだ! お前は死んだはずだ!」
金森進二は目を見開いた。
弾かれたようにベッドで起き上る。全身が、水を浴びたような汗だった。
「夢か……」
たった今まで、何かがのしかかっていたかのように、胸苦しい。
「畜生……」
何度も肩で息をついた。――こんなことでどうするんだ。こんなだらしのないことで!
しっかりするんだ! 相手は死人なんだぞ。何もできはしないのだ。
良心の|呵責《かしゃく》か。――そんなものに悩まされようとは思ってもみなかった。
妙なものだ。あの女を殺そうと思ったときも、殺したときも、殺した後でも――そうさ、今でも、殺したことを悔んではいない。
それでも良心の呵責というのはあるものなのだろうか。いや、これはきっとただの|臆病心《おくびょうしん》に過ぎないのだ。子供の頃に、墓場を通ると、お化けが出そうな気がして、追われるように駆け抜けた、あの恐怖心と同じことなのだ……。
いい|年《と》|齢《し》をして、何てざまだ、全く。
金森はベッドから出ると、部屋の明りを点けた。時計を見る。もう午前三時だった。
まあいい。今は別に早く起きる必要もないのだ。彼は従来通り事務長で――しかし、校長、理事長の代理を兼ねていた。つまり、総てを手中にしていた、ということである。
校長室へ、昼頃出て行っても、誰も文句を言う者はいない。いるとすれば、死んだ妻ぐらいのものであろう。
もっとも、金森咲代は、目下海外旅行中ということになっていて、むろんみんなそう信じていた。学内の人間から見れば、彼は相変らず「金森咲代の夫」でしかなかったし、それ相応の敬意を払われているに過ぎなかったが、それが近い将来に本物の敬意に変ることを知っている身には、その屈辱も、また楽しかった。
金森は頭を振った。全身の汗がひき始めて気持が悪い。バスルームへ足を運ぶと、裸になって、熱いシャワーを浴びた。
妙な時間に目が覚めてしまったものだ。しかし、ウイスキーの一杯でもやれば、また快く寝つけよう。
金森は|欠伸《 あくび》をしながら、居間へ入って行った。――明りが点くと、妻の趣味だった英国風の、知的な雰囲気の|溢《あふ》れた調度が浮び上る。
最高級のスコッチウイスキーをグラスへ注いで、それを手にソファへ座る。
全く勝手なもので、咲代が総て自分の好みで造り上げたこの居間が、金森は大嫌いで、咲代がもし死ぬようなことがあったら、まずこの部屋を超モダンな装飾に一変させてやろうと思っていたのだが、現実に咲代がいなくなってみると、これもなかなか悪くないと思い始めていた。
少しウイスキーを|喉《のど》へ流し込んでいる内、やっと気分も落ち着いて来た。――夢にうなされるとは、まるで子供だ。あいつには決して言ってはならない。
あいつは、そんなことはないだろうから。そうとも、あるはずがない。――そもそも咲代を殺そうと言い出したのは、あいつなのだから……。
都心にあるAホテルのロビーに入った金森は、何となく落ち着かない様子で、中を見回した。
ロビーはいつに変らぬ混雑で、三分の一ほどは外国人の姿も混じっている。ただの待ち合せに使っている若いアベックの姿も多い。都心のホテルはどこもこうなってしまうのである。
金森は、たまたま外国人が立って行って空いた一人掛けのソファに腰をおろした。深々としたクッションが、まるで|罠《わな》のように金森を捕えて離すまいとするように感じられる。
座ったとたんに、金森は後悔していた。
来るのではなかった。――実際、来る気になったのが不思議だった。あんな得体の知れない誘いに乗る気になった自分が、情けなかった。
帰ろうか、と思いながら、目は、それらしき相手を、ロビーに行き交う客の中に捜しているのだった。
「ちょっと重大なお話がありまして……」
と、電話の声は言った。若い男らしい、丁寧な|声《こわ》|音《ね》だった。
「あなたと奥様とのことについて……」
相手はそれ以上何も言わなかった。
普通なら、これぐらいのことで、わざわざ出向いては来ないだろう。こうして出て来ただけで、何か自分に後ろめたい所があると白状しているようなものだ。
それに気付いて、金森はますます自分に嫌気がさして来た。
腕時計を見る。八時を少し回っていた。相手はこの中にいるのかもしれない。自分には知りようがないのだ。
金森が恐れているのは、|恐喝者《きょうかつしゃ》かもしれない、ということだった。――つまり、その種を、金森が持っているということである。
金森はこの半年ほど、学校の事務にいる江本多津子と関係を持っていた。むろん極秘であり、咲代にも感づかれていない自信はあったのだが、もちろん、多少の危険は常にある。
誰かが多津子と二人の所の写真でも撮って、金を出せと言って来たら……。払わないわけにはいくまい。
咲代は、いつも金森など半ば無視していて、夫を立てるなどということをしたことのない女だが、それでも――いや、それだからこそ、夫が愛人を作ったと知れば許しはしないに違いない。夫を愛しているからではなく、自分が侮辱されたと感じるだろうからである。
江本多津子とのことは、咲代に知られてはならない。――金ならば、事務長という立場から、何とかなるだろう。
それにしても遅い。
八時の約束なのに、もう八時二十分になっている。――ただのいたずら電話だったのか。しかし、そんなことをして何になろう。
「失礼します」
電話の男の声である。――顔を上げると、ビジネスマン風に、きちんと背広を着込んだ青年が立っていた。
「金森さんですね」
「ああ、そうだが……」
「お電話をさし上げた者です。遅れて失礼しました。バーの方へでもいかがですか」
一見俳優かと思うような、華やかな雰囲気のある青年だった。なかなかの二枚目で、年齢はせいぜい二十八、九というところだろう。
「いいだろう」
ともかく、金森は肯いて立ち上った。
「――僕は仲里といいます」
カクテルのグラスを前に、その青年は自己紹介した。
「何の話かな、私と家内のことだとか……」
「僕とあなたのこと、奥さんと僕のことでもあるのですがね」
金森は、仲里という青年を眺めて、
「家内を知っているのかね?」
「ええ」
仲里は微かに唇の端に笑みを含んだ。「僕は奥さんの恋人なのです」
金森はしばしポカンとして仲里を見つめていた。仲里はニヤリとして、
「全然ご存知なかったようですね、その顔では」
「咲代の……恋人だって?」
「まあ、若いツバメと言いますか。古い言い回しですがね。|乃《の》|木《ぎ》|坂《ざか》の方にマンションがありまして、そこに住んでいるんですよ。もちろん奥さんのものです。生活費と小遣いをいただいて、週に一、二度、奥さんのお相手をつとめる。――なかなかわりのいい商売ですね」
仲里はスラスラとしゃべって、カクテルのグラスを傾けた。
咲代に若い男が?――金森はまだ信じられなかった。
「まだ半信半疑のようですね」
「そ、それはそうだろう」
金森は辛うじて平静を装った。こんな若い男を相手に、うろたえている様子を見せられない。
「いきなり妻に男がいると言われてはね。それに、もし事実君がその当人なら、どうして私にそんなことを打ち明けるんだ?」
「まあ、その辺は、おいおいにお話ししますよ。――ともかく、僕が奥さんの恋人であることを信じていただかねば」
「信じたらどうだというんだ?」
「それから先は、信じてもらってからでなくてはお話しできませんね」
金森は、仲里という男が、一筋|縄《なわ》で行く相手ではないことを直感的に悟った。見かけは顔ばかりの優男だが、どうしてなかなか、頭の回転の早い男らしい。それも、あまり感心した方面ではない……。
「ともかく君がどういう男か知りたいね」
と金森は言った。
「僕は俳優ですよ。もっとも本職の方はこのところずっと、お留守ですがね」
なるほど、それらしい印象ではあった。
「家内とはいつからの関係なんだね」
「ここ一年というところですか」
「きっかけは?」
「一年半ほど前、あなたの学校で文化祭があった。|憶《おぼ》えていませんか?」
「そういえば……ああ、憶えているよ」
金森は肯いた。「だが文化祭は毎年あるからね」
「そのとき、演劇をやったでしょう。『ベニスの商人』だった。ダイジェスト版でね」
そうだった。生徒はシェークスピアなど面白がるまいと金森は思ったのだが、例によって、英国かぶれの咲代は、熱心に計画を進めた。――この男、どうやら事実を話しているらしい、と金森は思った。文化祭に何の劇をやったか、など、外部の人間は知るはずもない。
「奥さんは、えらく英国かぶれですから。――ね?」
金森はちょっとギクリとした。
「それで?」
「衣装とか、舞台装置、小道具のことなどで、僕のいた劇団の事務所へ来ましてね、ちょうど仕事がなくて、暇で困っていた僕が、奥さんのお手伝いをしたわけですよ」
「それで家内と――」
「すぐ、というわけじゃありません」
仲里は|遮《さえぎ》って言うと、カクテルを飲み干し、二杯目を注文した。
「これは申し上げといた方がいいと思うんですが――」
仲里はちょっと息をついてから言った。「僕の方から奥さんに近付いて、ああなったんじゃない、ということです。実際、文化祭が終るまでは何事もなかった。その後です、色々世話になった礼がしたいからと電話があって、夕食をごちそうになりました。〈C〉という店でしたね」
咲代の気に入りの店の一つである。フランス料理の高級店で、何度か夫婦で行ったこともあった。
「すっかり恐縮してしまいましたよ。大したこともしていないのに、目の玉の飛び出そうな高いものを食べさせていただきましてね……。その後、一杯付き合ってくれと言われて、タクシーに乗りました。こちらはてっきりバーかクラブだと思っていたんですが、タクシーはかなり高級そうなマンションの前で停りました」
「そこが家内の……」
「乃木坂のマンションでね。さぞ高かったでしょうな」
そんなマンションのことなど、金森はまるで知らない。もっとも、いちいち夫に断るような咲代ではないのだ。
「その一室へ入って……びっくりしましたねえ」
と仲里は首を振りながら言った。「いや、もちろん中の立派なことにも驚きましたが……そのとき僕は男三人、六畳一間に雑居してたんですから、たいていどんな所へ連れて行かれても、宮殿のように見えたでしょう」
仲里はちょっと笑った。金森はちっとも面白くない。
「それよりびっくりしたのは、奥さんが、そのマンションを、僕のために買ったのだとおっしゃったことです」
「君のために?」
「ええ。週に二、三日、相手をしてくれるなら、このマンションに住んでいい、金もくれる、他の日は自由に使っていい……。耳を疑いましたね。何しろ相手は教育者として名の知れた方です。どうして僕如きを、とね」
「しかし――君は結局承知したんだろう」
「そりゃそうですよ。毎日が食うや食わずのその日暮しから、ちょっとした奉仕で、いい身分になれるんですから。これで誘惑に負けなきゃどうかしてる」
「それで……家内は、実際に週に二、三度、君の所へ行っているのかね」
「忙しい人ですからね、一度か、せいぜい二度ですか。しかし、とてもお若いですね、|貪《どん》|欲《よく》というか……。僕も自信はある方だが、奥さんにかかっちゃ、へとへとになります」
確かに、このところ咲代とベッドを共にしたことはない、と金森は思い当った。もともと、活動的な生活のせいか、年齢よりはずっと若々しい肉体の持主で、金森ももて余すほどだったのだが、最近はさすがにその興味も枯れて来たのかと思っていた。
おかげで金森も江本多津子を抱くゆとりがあるわけだが……。
しかし、まさか咲代が男を囲っていようとは思わなかった。仲里の話は、説得力があって、とても|嘘《うそ》とは思えない。
「――では行ってみますか?」
と、仲里は言った。
「どこへ?」
「マンションへですよ」
――自宅とよく似た、英国風の調度。咲代の好きなタバコ、ウイスキー……。
「納得がいきましたか」
仲里は言った。
「ああ。――まさか今夜は来ないだろうね」
「大丈夫。必ず電話がありますから」
「しかし分らんね。なぜ、これを私に教えたんだ?」
「そろそろお話ししても良さそうですね」
仲里は、居間のソファにゆったりと寛いだ。
「君の魂胆を伺おうか」
と、金森は言った。
「いいでしょう。僕は――」
と、仲里が言いかけたとき、電話が鳴った。金森は一瞬ギクリとして、それから、そんな自分に腹を立てた。仲里が出る。
「――はい。――ああ、俺だ。――いや、今はまずい。一時間ぐらいしたら来てくれないか。――違うよ、女じゃない」
と仲里は笑って、「仕事の話さ。――ああ、分ってる」
と、受話器を置く。
「今のは……」
「恋人でしてね。同じ劇団の女の子なんです」
仲里はソファへ戻った。「いくら養ってもらっていても、奥さんのお相手だけではどうもね」
「家内は知ってるのか?」
「いいえ。しかし、用心していますから」
仲里はニヤリとして、「あなたと同様にですね」
「どういう意味だ?」
「あなたにも江本さんとかいう彼女がいらっしゃるでしょう」
金森の表情がこわばった。
「私を脅迫する気か?」
「脅迫する気なら、奥さんとのことを打ち明けたりしませんよ。違いますか?」
それはその通りだろう。
「じゃ、君の狙いを聞かせてもらおうじゃないか」
金森は、この若者に手玉に取られているような気がして、つい挑みかかるような口調になった。
「そう怖い顔をしないで下さい」
と仲里は|愉《たの》しげに、「あなたの味方なんですからね、僕は」
「味方?」
「ただし、打ち明けた後で、断られた場合の保険として、あなたの浮気のことを調べさせていただきました」
「調べた?」
「あなたと江本多津子さんがラブホテルから出て来る写真とかですね」
「でたらめを――」
「いつも同じ〈E〉では目に付きますよ」
金森は言葉を失った。確かにそこはいつも多津子との情事に使っているホテルだ。
「しかし、きっと反対はなさらないだろうと思いますがね、あなたも」
仲里は、調子のいいセールスマンのような口調で言った。「これはむしろあなたにとってプラスになる話なんですから」
「前置きはいい加減にして、君の本音を言いたまえ」
金森は辛うじて年上の人間の威厳を取りつくろって、言った。
「いいでしょう。話は簡単。――要するに、あなたの奥さんを殺そうという相談なんですがね。いかがです?」
2 絵葉書の秘密
「今年もいつも通り出かけるわよ」
と咲代は、あるホテルのレストランで夕食を取りながら、急に言い出した。
金森は、いつも唐突に話を変える妻のやり方には慣れっこなので、少しも驚きはしなかったが、他の理由で興奮を押し隠すのに苦労した。
「ヨーロッパのことかい?」
「決ってるじゃないの」
咲代は、金森にはとても手の出ない分厚いステーキを口へ放り込んだ。
「いつも一人じゃ心配だな」
と金森は言った。「最近はヨーロッパも大分物騒じゃないか。誰か連れて行っちゃどうだ?」
「日本にいたって交通事故で死ぬかもしれないわ」
「そりゃまあそうだが……」
咲代が、夫の忠告を受け入れることなどあるはずもない。金森はちゃんとそれを承知していた。
「あなた、一緒に行きたいの?」
「いいや、とんでもない」
金森はあわてて首を振った。「それに二人ともいなくなったら、学校の方で困るだろうし」
「そうよ。留守はお願いね」
「ああ。いつもの事だ」
「今度はちょっと長くなるわ」
金森は食事の手を止めた。
「――長く、だって?」
「ひと月ぐらいにはなるわね」
「いつも二週間じゃないか」
「今度は北欧の方も回って来ようかと思ってるの」
「しかし……そんなに長く行っていて、大丈夫かな」
「主な仕事は片付けて行くわ。委員会の幹事もおりたし、緊急の仕事はないはずよ。あなたはいつもの決った事だけしててくれればいいの」
「そうかい」
ご親切なことだ。夫には雑用しか任せない。そういう女なのだ。
「君は責任ある立場にいるんだし、所在ははっきりさせておいた方がいいよ」
「予定通りの旅なんて面白くもないわ。あっちには友達も大勢いるし、会ったついでで泊ることもあるわ。それが旅のいい所じゃないの」
咲代の旅の哲学である。「それに先々から電話を入れるわよ」
「いつもそう言って、電話して来たためしがないじゃないか」
「いつも、『万一のために』と言うけど、何かあったためしがないじゃないの」
と、咲代が言い返して笑った。
チャンスが来た。――デザートを食べながら、金森の胸は高鳴った。
咲代は大柄で、見るからにエネルギッシュな体つきだったが、決して醜い女ではなかった。若い頃から、相手を圧倒するような力は感じさせたが、なかなかの美人であり、性格の強さを思わせる、きりりとした顔立ちだった。
これで子供でも生まれていれば、また変っていただろうが、と金森は思った。結婚したとき、既に咲代は三十歳を過ぎていたが、その二年後に流産し、子供はできないと告げられた。
それ以来、咲代は、〈強い女〉に徹する決意を固めたかのように、猛然と働いた。学校の創設、土地と校舎のための資金集め、教師の引き抜き……。何事も男顔負けの強引さでやってのけた。
初めから、咲代に影のように従って、彼女の〈秘書〉と他人から見られていた金森は、やがて〈影〉ですらなくなって、まるで飾り物のような、事務長の|椅《い》|子《す》に座らされた。〈長〉の字がついても、何一つ権限があるわけではなく、総ては咲代の裁定を仰がねばならなかった……。
仲里から、咲代を殺す計画を打ち明けられて、ほとんど最初から心を動かされていた事実に、金森自身が驚いた。それほどに妻を憎んでいたとは、彼自身、思っていなかったのである。
長い間に積み重なった、屈辱感と敗北感、そして焦燥感は、あっさりと殺意へ転じたのだった。
「一か月か」
仲里はソファに足を投げ出して、「絶好のチャンスだな」
「ヨーロッパ中をぐるぐる歩き回るんだ。予定も何もない。いつ、どこにいるか、さっぱりつかめない。いつもそうだ」
と金森は言った。
乃木坂の、仲里の――咲代の、と言うべきか――マンションである。
「ということは、一か月、行方不明になっても誰も不思議にも思わないし、捜しもしないということだな」
「まあ、|一《ひと》月半は大丈夫だ。『校長先生のことだから、ついでにどこかを回ってるのさ』ということになるよ」
「すると、あんたと俺には、大分時間があるということだ」
仲里はウイスキーのグラスをちょっと持ち上げて見せた。
「喜ぶのは早いぞ」
金森は慎重に言った。「あいつをどうやって殺す。それにいつ、どこで?――いずれ死体は見付かる。後で調べれば、ヨーロッパへ発つと言って、国内で殺されたと知れる。そうすれば当然疑われるのは夫だ。警察が調べれば、君のことだって、きっと知れるだろう」
「心配するな、考えてるよ」
仲里はニヤリと笑った。
そうだ。こいつならやるだろう。――金森はそう思った。
初めて仲里に会って、咲代を殺す計画を打ち明けられてから、そう何度も顔を合わせているわけではないのに、金森はすっかり仲里の実行力に頼るようになってしまっていた。
もともと、決断力や行動の人間でない金森である。どんなに内心、咲代を殺したいと思ったところで、現実に殺人を実行することはまず考えられなかった。
だから、これは仲里の[#「仲里の」に傍点]計画なのだった。
「しかし不思議だな」
と金森は言った。「まだよく分らんよ。家内から金をもらって養ってもらいながら、どうして家内を殺す気になったんだ?」
「それはもう話したぜ」
と、仲里は別に|苛《いら》|立《だ》つ様子もなく言った。
「聞くには聞いたが、どうも本心とは思えんよ」
「もちろん、金のことだってある。――奥さんに|可《か》|愛《わい》がられている間は食いっぱぐれがないが、これがいつまで続くか、怪しいもんだからな。女は気まぐれだ。いつ急に追ん出されんとも限らん。そうなったら惨めなもんさ」
「どうせ食うや食わずだったんだろう? 元の生活に戻るだけじゃないか」
「戻りたくないから、人殺しまでやろう、ってのさ」
仲里の口調が急に変って、金森は一瞬、背筋を冷たいものが走るのを覚えた。
「俺はあんたのことを調べた。そして、これなら、一緒にやれる[#「やれる」に傍点]と思ったんだ。男同士なら信じられる。――俺も、別に役者稼業で脚光を浴びたいなんて思っちゃいねえんだ。うちの劇団にもスターはいるが、あんなもの、窮屈で馬鹿らしいもんだぜ。どこへ行っても、何をしても人目につく。そのくせ、見かけほどの稼ぎはねえ」
「名を捨てて実を取るってわけか」
と、金森は古い人間らしいことを言い出した。
「そういうことだな。――あんた、奥さんが死んで地位を継いだら、俺の面倒はみてくれるんだろうな」
「約束するよ」
金森は肯いた。「何か名目だけの楽なポストを作って、そこへ座らせる。金に不自由はさせない。もっとも、湯水のように使い込まれちゃ困るが」
「俺は馬鹿じゃない。自分の首を絞めるような|真《ま》|似《ね》はしねえよ」
と、仲里は天井を仰いで軽く口笛を鳴らした。
確かに、この男は賢明なのだ、と金森は思った。賢い悪党だからこそ怖いのである。
「実際にやるときは君がやってくれるんだろう?」
と金森は訊いた。
「あんたじゃできまい?――ただ、俺一人に任せっきりってのは困るぜ。手伝いぐらいはしてもらう」
「分ってるよ」
「俺たちはいいコンビさ。なあ?」
仲里は立ち上ると大きく伸びをした。「俺は人を殺すときにだって、全然動じない自信がある。元来が冷酷な性格なんだろうな」
「大した度胸だよ。考えただけで足が震えて来る」
「あんたは小心者さ。だからこそいいコンビなんだ」
と、仲里はからかうように言った。「これで二人とも度胸のいい悪党だったらどうなる? どっちがどっちを食い合うか。――裏切るに決ってる。しかし、あんたにその度胸はない。だから俺もあんたを信用しているのさ」
馬鹿にされているようなものだが、金森は別に腹も立てなかった。実際、仲里の言う通りだからだ……。
「で、どうやる気だ?」
と金森は訊いた。
遠くで電話が鳴っている。
何だ、どうして誰も出ないんだ? 畜生め……。
金森はハッと目を覚まして、身を起こした。――居間だ。
「そうか……」
プールから咲代が現れてつかみかかって来るという夢を見て目が覚め、ここへ一杯やりに来たのだが、ソファで眠ってしまったらしい。時計を見ると、午前六時だった。
大分眠ったらしい。体がだるく、頭が重かった。
「電話か」
電話が廊下で鳴っていた。「こんな時間に……」
鳴りやむのを期待しながら、ゆっくりと足を運んだが、電話は鳴り続けた。金森は頭を振って、舌打ちしてから受話器を取り上げた。
「金森です」
ちょっと間があってから、
「あ、金森さんですか」
女のかん高い声が聞えて来た。かなり遠いようだ。
「私、ロンドンの倉田です」
「ああ、これはどうも」
少し目が覚めた。倉田衣子という咲代の友人で、ヨーロッパへ行けば必ず立ち寄っているのだ。
「そちらは妙な時間だったかしら、申し訳ありません」
「ああ、いや、別にそんなことはありませんよ。ロンドンからですか?」
「ええ、そうなんですの」
おそらく、いつになっても咲代がやって来ないので不思議に思って電話して来たのだろう。当然、予想していることだった。
「いつも家内がお世話になりまして」
と、金森は言った。
「いいえ、とんでもありませんわ」
「で、何か……」
「ええ、奥様からご伝言で、帰国が二週間ほど遅れるということですの」
金森は戸惑った。咲代から伝言?
「ええと……それはどういうことでしょうか?」
「奥様が、電話をしておいてくれとおっしゃったんですよ。ご自分でなさればいいのにね。何しろ忙しい方だから」
「はあ……」
金森は訳が分らなかった。この女、何を言っているんだ?
「あの、お分りですわね。二週間ほど帰国が――」
「ええ、よく分っています。しかし、その……家内があなたへ電話してほしいとお願いしたんですか」
「そうですわ。――もううちにはいらっしゃいませんけども」
「というと……」
「昨日までおいでだったんですよ。でも三日しかいられないとおっしゃって。――忙しい方ですわね、本当に」
「家内が――咲代が昨日までお宅に?」
金森は訊き返した。「しかし、そんなはずが――」
あわてて口を閉じる。咲代が行っているはずがない! あいつは死んでいるのだ。
「あの……どうかなさいまして?」
と倉田衣子が訊いて来た。
「い、いや別に……。咲代はその――お宅へ伺ったんですか? 確かに?」
「ええ。いつもの通りに。それがどうかしまして?」
金森は混乱した。咲代がロンドンへ行った? 死人が旅をするものか。しかし、倉田衣子は|旧《ふる》い知り合いで、金森も会ったことがある。
咲代に似て、しっかり者の女性である。妙な冗談を言うような女ではない。
「あの……家内は元気そうでしたか? 変りはありませんでしたか?」
「ええ、いつもの通りエネルギッシュで。どこかお悪いようなところでも?」
「いえ、そうじゃありませんが、心配になったものですから」
「まあ、お熱いことですわね」
と倉田衣子はクスクス笑った。「ご心配は無用ですわ。いつもの通り元気一杯でいらしたから」
「そうですか……」
金森の呟きに近い声が、向うへ届くはずはなかった。
「じゃ、そういうことですから――」
と、倉田衣子が電話を切ろうとした。
「あの、すみません」
金森は急いで言った。「家内は次にどこへ行くか言っていましたか?」
「何でも北欧を少し回るつもりだとかおっしゃってましたけどね。あの人のことだから、どこへ行ってるか分りませんねえ」
倉田衣子は、気楽な調子で言うと、「それじゃ失礼します」
と、電話を切った。
金森はしばらく受話器を持ったまま突っ立っていた。――ふと、我に返って、受話器をフックへ戻し、居間へ戻る。
しばらく、ソファに座って、宙を見据えていた。これが夢で、目が覚めてくれればいいのに、と思った。
「馬鹿な……。そんな馬鹿な……」
確かに殺したのだ。咲代の奴は死んだのだ。それがなぜ、ロンドンの友人の家へ現れたのか。
幽霊?――金森は半ば本気でそう考えた。
「しっかりしろ!」
と立ち上り、居間の中を歩き回る。何とかしなくてはならない。しかし――しかし、一体何が起ったのか? どうなってしまったのか?
「そうだ。仲里に……」
急いで電話へと駆け寄って、マンションへダイヤルする。――だが、呼出音が、何度も空しく鳴り続けていた。
「畜生! どこにいるんだ!」
|苛《いら》|々《いら》と|一《いっ》|旦《たん》切って、もう一度ダイヤルを回す。――少し待つと、受話器が上った。
「もしもし、俺だ。大変なことになった」
金森は勢い込んで言った。
「どなたですか?」
聞き覚えのない、中年女の声に、金森はびっくりした。
「あの……そこは仲里君の……」
「違いますよ。朝っぱらから――」
「失礼しました」
ダイヤルを回し違えたらしい。
金森は、居間へ戻った。どうせ、仲里は昼頃にならないと目が覚めないのだ。
それに例の恋人――矢口ユキとかいった――とどこかへ行っているのかもしれない。
しかし、とても自分一人で対処できることではない。仲里と早急に連絡を取る必要がある……。
しばらくぼんやりと座っている内に、すっかり夜が明けた。七時半だ。
金森は、窓へ近寄ってカーテンを開けた。ちょっとした林があって、その向うが校庭だ。校庭の奥に、校舎が広がっている。まだ朝早いので、人の姿はなかった。
前の晩に雨でもあったのだろうか。空気が濡れているようだ。白いもやが薄く立ちこめて、校舎にヴェールのようにからみついて見える。こういう居間のような私的なスペースは、校舎と反対側にすればいいのだが、咲代は|敢《あ》えて、校舎を望むように窓を広く作っていた。
常に情熱を注ぐ対象を目の前に見て、自らの闘志をかき立てていたのかもしれない。実際、咲代は、いざ寝ようというときにでもならなければ、この窓のカーテンを引こうとはしなかった。
金森は、じっと、校庭と校舎を眺めて窓辺に立っていた。――あいつは、プールの底に沈んでいるはずだ。
そうだとも。そうに違いないのだ……。
「お早うございます」
江本多津子が、校長室へ入って来た。
「ああ、お早う」
金森はちょうど教頭の片岡と話をしているところだった。「江本君、ちょっと待っていてくれ」
「はい」
「じゃ、ともかく、この件は校長がお帰りになってからということに……」
と片岡が言った。かりかりにやせた男で、教育熱心ではあるが、保守的で、新しい試みなどには極めて無関心な男だった。
「いや、帰国を待つ必要はないでしょう」
と、金森は言った。「進めてもらって構いませんよ」
片岡が戸惑い顔で、
「しかし……」
「その件については校長から任されています。進めて下さい。私が責任を持ちます」
「はあ」
片岡は、ちょっとびっくりした様子で金森を眺めていた。やがて肯くと、
「分りました」
と書類を手に校長室を出て行った。
金森は校長の椅子にゆっくりともたれて、江本多津子へと|微《ほほ》|笑《え》みかけた。
「驚いてたわね、教頭先生」
と多津子がドアの方を見ながら愉快そうに言った。
「たかが教材一つ買い込むのに、校長のお帰りを待って、もないもんだ」
「あなた、すっかり校長らしくなって来たわよ、本当に」
「一か月もやってりゃ、いい加減身について来るさ」
「それだけじゃないわ」
多津子は校長の大きなデスクを回って、金森のそばに寄ると、「あなたはもともと、能力のある人なのよ」
と優しい声をかけた。
金森は、今朝の出来事に動揺していた気分が、次第に|鎮《しず》まって行くのを、感じた。
「キスしてくれ」
「誰か入って来たらどうするの?」
「構うもんか」
「大変なことに……」
多津子はそう言いながら、自ら身をかがめて、金森の唇へ唇を重ねた。
「――今夜はどうだい?」
金森は訊いた。
「いいけど……。口紅を落として」
多津子は金森の唇を、そっと指で|拭《ぬぐ》った。「そろそろ校長先生が帰ってみえるわ」
「まだ当分大丈夫さ」
「あら、どうして?」
「今朝電話があった。後二週間ぐらいは帰らない、とさ」
これは本当の話だ。
「まあ! 校長先生から電話?」
「いや、ロンドンの倉田っていう女だ。女房の友人でね。電話しておいてくれと頼まれたそうだ」
「そう。じゃいいわ。――どこにする?」
「うちへ来いよ」
「あなたの? まずいわ、そんなこと!」
「誰もいないぜ」
「でも――」
「家政婦には客が遅く来ると言って、食事の仕度をさせて帰す。後は二人だけだ」
「だめよ、そんなこと」
と、多津子は首を振った。
「どうして!」
「あなただけの家じゃないもの。奥さんに――校長先生に悪いわ」
多津子は二十七歳である。一人で上京して来て、この高校にもう五年勤めている。まだ少し言葉に|訛《なまり》があって、見た目にも都会に毒されていない素朴なところが残っていた。
「大丈夫、そんな遠慮はいらないよ」
「いけないわ」
「誰かに見られるのが怖いのかい」
「それもあるけど、やっぱりご夫婦の領域には入りたくないの」
多津子はきっぱりと言った。「ごめんなさい」
「よし、分った」
金森は多津子の手を握った。「じゃ、いつものホテルにしよう」
「ええ」
「七時だ。いいかい?」
「七時ね」
「いや……どこか外で食事をしよう。いい店がある。小さな店で、知人に会う心配もないし」
「本当に?」
「本当さ」
「じゃ、いいわ」
「七時に……六本木の、いつか行った〈P〉という店、憶えてるかな?」
「あなたと行った店なら全部憶えてる」
「じゃ、そこだ」
こんな|呑《のん》|気《き》なことをしていていいのか。――咲代の奴がヨーロッパに現れたというのに。
「じゃ、後でね」
と行きかけて、「――あ、いけない。仕事を忘れてた。これに印を下さい」
と、多津子は笑い出した。
金森も一緒に笑った。――きっと何かの間違いだ。あの女がどうかしているのだ。
咲代は、目の前でプールの底へ沈んで行ったのだ。泡がしばらく水面に漂い、やがて消えた。そうとも、あいつはプールの底で、眠っているのだ。
「失礼します」
事務員に戻った多津子が校長室を出て行くと、金森は電話へ手を伸ばした。
マンションへかけると、少しして仲里が出た。
「何だい、どうした?」
「今起きたのか?」
「眠ったばかりだぜ」
「妙なことが起こったんだ」
「というと?」
「今朝電話がかかって来て――」
と言いかけたとき、またドアが開いて、多津子が入って来る。「ちょっと待ってくれ」
と電話へ言った。
「すみません」
多津子は足早にやって来ると、「お葉書が来ています」
と、一枚の絵葉書を金森の前に置いて、また出て行った。――パリの、ノートルダム寺院の絵葉書だ。
「もしもし。――ああ、すまん。ちょっと人が入って来たんだ。それで話というのは……」
空いた左手で葉書の表を返した金森は絶句した。
差出人は、〈咲代〉となっている。
〈のんびりと旅を楽しんでるわ。これからロンドンの倉田さんの所へ行きます。その後北欧へ回るつもり。遅れるようなら連絡するわ。学校の方はお願いね。それじゃ〉
|素《そっ》|気《け》ない文面。なぐり書きの筆跡だが、咲代のそれらしい。
金森は、仕事柄妻の筆跡はよく知っている。確かにこの字は咲代のものだ……。
「もしもし。――おい、どうしたんだ?」
電話の向うで、仲里の苛立った声が聞こえていた。
3 浴室の秘密
「何か心配事?」
と江本多津子が訊いた。
ホテルのベッドの中である。金森は、まだ鎮まらぬ心臓の鼓動に耳を澄ましていた。
「どうしてだ?」
「見ていれば分るわよ」
「そうかな」
「ちゃんと顔に書いてあるもの」
多津子は少し身体を起こして、金森にキスした。「話してみて、その心配事を」
これだけは話すわけにいかないのだ。多津子には、むろん咲代を殺したことは知らせていない。多津子は、金森の妻の座を|狙《ねら》うような悪女タイプの恋人では、ないのである。
「君には関係ないことさ」
と、金森は言った。
「私を信じてないのね」
「そうじゃない。せっかくの二人だけの時間を、余計なことでむだにしたくないんだよ」
金森は多津子を抱き寄せた。少し汗ばんだ互いの肌が触れ合うのが、何ともいえず快かった。
「校長先生からのお葉書、何て書いて来られたの?」
「別に。ロンドンへ行って、北欧へ回る、とそれだけさ」
金森は早口に言って、「家内の話はやめよう」
「どうして? 私はやっぱりいつも校長先生のことを考えてるわ。いつも申し訳ないと思ってるの」
「――後悔してるのか?」
「いいえ。でも、それとこれとは別でしょう?」
「そうかな……」
「もし校長先生が私たちのことを知ったら、どう思うかしら?」
「何とも思わないさ」
「そんな!――校長先生はいい方だわ。あの方を苦しめたくないの、私」
多津子が、いわゆるキャリアウーマンとしての咲代に|憧《あこが》れにも似た気持を抱いていることを、金森は知っていた。確かに、その夫と肉体関係を持っていることは苦しいだろう。
だが、咲代は死んだ。そのはず[#「はず」に傍点]だ。もう、多津子は苦しむ必要がないのだ。
「あのね、私……」
間を置いて、多津子は口を開いた。「田舎へ帰ろうかと思ってるの」
金森はびっくりして、
「帰る?」
と訊き返した。「君……別れるつもりかい」
「そうしたいわけじゃないけど、このままいつまでも続くわけでもないし……いつかは仕方ないことでしょう」
「そんな――」
必要はない、と言いかけて口をつぐんだ。
「いいかい」
と、気持を落ち着かせながら、「今まで黙っていたが、家内には恋人がいるんだ」
「奥様に、恋人?」
〈奥様〉を〈校長先生〉と言い直すのも忘れている。
「ああ。若い俳優のなりそこないだ。そいつにマンションまで買ってやっている」
「どうしてそれを……」
金森はちょっと詰まったが、
「そりゃ、あいつが自分で言ったのさ」
と出まかせを言った。どうせ咲代には否定できないのだ。
「ご自分で?」
「金のことでね、どうも変だと思って訊いてみたんだ。そしたら、あっさりと認めた。ちっとも悪いとも思ってないようだ」
「校長先生が、男の人を……」
多津子は目をそらして呟いた。
「分っただろう、何もこっちが遠慮することはないんだ。君だって、家内に悪いなどと考えなくたっていいんだよ」
「でも――」
「何だい?」
「奥様が、私たちのことを知っていて、それでご自分も――」
「そんなことはないよ」
金森は極力気軽さを装って、「知ってりゃあいつが黙ってるわけはないさ」
「そうかしら」
「そうとも。――あいつは、自分だけが特別で、何でも許されると思っているんだ」
「でも……やっぱり……」
と、多津子は考えこんでしまっていた。
「元気を出せよ」
金森が肩を抱こうとすると、多津子はスルリとベッドから脱け出し、全裸のまま、浴室へと入って行く。
「おい、どうした?」
金森は、自分も裸のままベッドを出て、浴室へ入った。「どうかしたのか?」
多津子は全身に熱いシャワーを浴びながら、
「やっぱりいけないわ。私のせいで、校長先生がそんな風になったのなら……。私、田舎へ帰ります」
と言った。
「おい、待てよ。何もそんな――」
と言いかけて、金森は口をつぐんだ。多津子が、頭からシャワーを浴び始めたからだ。あれでは聞こえないだろう。
仕方なしにその様子を眺めている。――浴室。浴槽に立って、多津子はシャワーを浴びている。足下に水がはね、排水口へと流れて行く。
あいつはこの中で死んでいたのだった。
金森はじっと、浴槽を見つめた。
「済んだぜ」
マンションの浴室から、仲里が姿を見せた。裸で、肩で息をついている。
さすがに、顔もこわばっていた。
浴室の外に立って、中から聞こえて来る激しい水音、|呻《うめ》き声、ゴボゴボと泡立つ音などに、じっと耳をこらしていた金森は放心したような仲里の言葉に、急に体中の力が抜けて行くのが分った。
「――死んだのか?」
「ああ」
「本当に?」
「自分の目で見てみろよ」
「いや……いいよ」
「見るんだ!」
仲里が怒鳴った。「俺一人でやったわけじゃねえぞ! あんたも共犯で、人殺しなんだ! それを忘れるな!」
「わ、分ってるよ……」
金森は思わず後ずさった。
「じゃ、見るんだ。――早くしろ」
「ああ……」
震える足を踏みしめて、金森は浴室へ入って行った。
浴槽の外も水びたしだった。浴槽はほとんどへりまで一杯に水がはってあって、その底に、咲代が横たわっていた。カッと目をむいて、口を半ば開いたまま、|苦《く》|悶《もん》の形相が跡をとどめている。水のかすかな動きにつれて、広がった髪が、生き物のように動いた。
金森は急いで浴室を出た。
「――見たか?」
仲里は、タオル地のローブをはおって、ウイスキーをあおっていた。
「ああ、見たよ……」
金森は、こみ上げて来る吐き気と闘いながら、ソファに身を沈めた。
「しっかりしろよ」
少し余裕が戻ったと見えて、仲里がニヤリと笑った。やや引きつったような笑いではあったが。
「もう死んでるんだ。かみつきゃしないんだぜ」
「分ってる」
「後は、車のトランクに入れて、おたくの学校まで運び、プールへ沈めるだけだ」
「楽じゃないぞ……」
「やる他ないさ」
仲里が強い口調で言った。
多津子がシャワーを止めて、浴槽から出て来た。バスタオルで体を拭い、髪をふく。
金森は、残った水が流れて行く空の水槽を見下ろしていた。――むろん、ここはラブホテルだし、咲代が死んでいたのはマンションの浴槽だ。
しかし、どうしてこんなに似ているのだろう……。
「――あなたもシャワーを浴びたら?」
と多津子が言った。
「ああ、そうするよ」
金森はシャワーのノズルをつかんで、コックをひねった。湯が|迸《ほとばし》り出て来る。
多津子を失いたくない。――彼女が別れて行こうとしている今、突然に、金森はそう思った。
金森は別に多津子のために咲代を殺したわけではない。多津子はいい女ではあったが、決してのめり込んでいるつもりはなかった。その気になれば、いつでも別れられる。――そう思っていたのである。
しかし……実際は、自分が思っていた以上に、多津子を手放したくなくなっているのだった。
咲代がもういないという解放感のせいでもあったろうが、金森は多津子と結婚してもいいと考えていた。
しかし、本当に[#「本当に」に傍点]咲代はいなくなったのだろうか?
あの倉田衣子の電話、あのパリからの絵葉書はどうなのだ?――だが、生きているはずはない。
咲代は、確かに浴槽の底に沈んでいたのだから……。
「どうしたの?」
多津子の、びっくりしたような声で金森は我に返った。
「え?――どうした、って、何がだい?」
「どこでシャワーを浴びてるのよ?」
|呆《あき》れ顔で多津子は言った。
金森は、浴槽の外でシャワーを浴びていたのだった。
「夢でも見たんじゃねえのか」
と、仲里は言って、大欠伸をした。
マンションの部屋は、雑然としていた。仲里が脱ぎ捨てた服がソファへ放り出したままである。
「電話はともかく、絵葉書は現実に届いてるんだ」
金森は自分でグラスを出してウイスキーを注いだ。
「そんなはずはねえ。殺したのを、現に見ているはずだぜ」
「分ってるとも」
金森は苛々と首を振って、「だからどうしていいか分らないんじゃないか」
と、グラスを手にソファへ戻った。
「少し掃除ぐらいしろよ」
金森は割合に神経質な男である。脱いだ服が放り出してあったりすると苛々する。
「手がないんでね」
「彼女はどうした? 何とかいったな。――ユキか、矢口ユキだったか」
「どこかへ行っちまったよ」
仲里は肩をすくめて、「何も言わずにプイと消えちまった」
「何だ、振られたのか」
「知らねえな」
仲里は面白くなさそうだ。金森は愉快だった。仲里のような自意識過剰気味の男には、女に逃げられるのは痛手だろう。
「じゃ、家政婦でも頼め。せっかくのマンションをめちゃくちゃにされても困る」
「そっちでやってくれよ」
「よし、分った。手配しよう」
「それより、奥さんのほうだぜ」
「分ってる。――どう思う?」
「俺はその電話も聞いてねえし、絵葉書も見てねえんだ。あんたがおかしくなった、と考えるのが一番妥当な線だと思うがね」
「冗談を言ってるときじゃないぞ」
と金森は苦々しげに言った。
「あんたの言う通りだとしたら、俺にも分らねえよ」
「何か手を打たなきゃならん」
「そうだな。しかし……奥さんに訊くわけにもいかねえだろう。『どうして生きてるんだ』ってな」
金森は立ち上ると、手を後ろへ組んで、居間の中をゆっくりと歩きながら、
「本当にあいつは死んでたんだろうか?」
と言った。急に仲里が笑い出した。
「いや――すまねえ。あんたの格好さ……まるで映画かTVの場面みたいだったんでな。つい……。本当にそんな格好で歩き回りながら考え事をする奴がいるとは思わなかったぜ!」
「真面目にやってくれ」
「ああ、悪かった。――しかし、確かに奥さんは死んでたはずだ。プールへ沈めて、しばらく様子を見ていただろう? あれで生きていられるとは思わないぜ」
「だが、現に――」
「だからよ、そのヨーロッパへ出かけたのが、幽霊でないとすると、考えられるのは、奥さんが命を取り止めて、元気になってヨーロッパへ出かけたのか……」
「殺されかけたのに? そんなことは考えられない」
「そりゃそうだ。――すると可能性は一つだ。誰かが仕組んだ狂言だってことさ」
「誰かが?」
「そいつは俺たちが奥さんを殺したのを知っていて、ロンドンからと言ってあんたの所へ電話をかけた」
「しかし、あの女性は――」
「あんたはそう何度も会ってるわけじゃあるまい」
「そりゃそうだが……」
「どこか国内から電話して、ロンドンだと言ったって分りゃしねえさ」
「絵葉書は?」
「あんたの奥さんの筆跡は癖があるからな。真似もしやすい。似た字で書いて、誰かヨーロッパへ行く人間に頼んで|投《とう》|函《かん》してもらう。難しいことじゃねえ」
金森は手近なソファに座った。納得できる考えではないが、他には考えようもないようだ。
「――そうなると、問題は、誰が、そんなことをしているのか、だな」
「誰が、何のために、だ」
と仲里は付け加えた。
「我々をゆする気なら、そんな手間をかける必要はないだろうが……」
「そうだな。――もっとも、疑っているだけとも考えられるぜ。俺たちがどう出るか、見ているのかもしれねえ」
「そうか」
「もしそうだとすると、下手に動かない方が利口だな」
金森は考え込んだ。仲里の言う通りかもしれない。しかし、このままにしておけば、多津子は学校を辞めて去って行ってしまうだろう。
「プールの底を調べてみるか」
と金森が言った。仲里は|呆《あき》れたように、
「自白するようなもんじゃねえか!」
と目を見開いた。
「いや、そうとは限らない。――別に死体を捜すわけじゃないんだ。プールの水を抜く。そうすれば当然死体が出て来るはずだ」
「理由がつくかい?」
「もうプールは空にしていい時期なんだ。例年今頃には水を抜いている」
「俺はまた、あのプールはずっと水を入れっ放しかと思ったぜ」
「以前はそうだった。防火用水代りだったんだ。しかし今は消火栓もついたし、その必要がなくなった。秋には水を抜いて、清掃業者を入れることにしている」
「ふーん。まあ、怪しまれなきゃいいが」
「やってみるさ……」
金森はゆっくりとグラスを傾けた。
「死体が出たら大騒ぎになるぜ」
「いつかはそうなるさ」
金森は言った。仲里が意味ありげに金森を眺めて、
「あんたにしちゃ度胸がすわってるな。――何かあったのか?」
と訊いた。
「何もないよ」
「そうか?――まあいいや。ともかく、落ち着いててくれよ。下手にあわてて立ち回って、ボロを出さないようにな」
「分ったよ」
金森はグラスを空にした。
「もう帰るのか? じゃ、家政婦を手配してくれよ」
「ああ。しかし、君の彼女もずいぶん冷たいな」
「女なんてそんなものさ」
金森は玄関の方へ行きかけて、ふと振り返った。
「おい。君の彼女――矢口ユキだったか。――大丈夫だろうな」
「何のことだ?」
「例のことを知ってたんじゃないのか」
「そんなことはない」
仲里は即座に言った。
「何かしゃべったんじゃないのか」
「俺はそんな真似はしねえよ」
それもそうだ、と金森は思った。仲里はそんなに口の軽い男ではない。
「何かで彼女が感づいたとしたら――」
「そんなに頭のいい女じゃないがね」
と仲里は言った。「しかし、万一そうだとしても、俺の所から姿を消すのは変じゃねえか」
「うむ」
「俺のそばにいた方が、俺たちの動きもつかめる。姿を消せば怪しまれるだけじゃないか?」
「それもそうだな」
――金森はマンションを出た。
確かに仲里の言う通りかもしれないが、しかし、何となく引っかかることがあった。矢口ユキという女を、金森は見たことがない。
その女なら、倉田衣子と名乗って電話して来ることもできただろう。
タクシーを拾おうと通りに立って、金森はマンションを振り返って見上げた。――仲里のいる部屋の窓のカーテンが揺れた。
「もしも仲里が……」
タクシーを停め、学校へと戻りながら、金森は呟いた。
やがて何が気になっていたのか、分った。矢口ユキが怪しいのではないかと言った金森へ、仲里がいやに理屈を立てて反論したことである。いつもの仲里らしくない。
|予《あらかじ》め反論を用意してあったという印象を受けたのである。
もし、仲里が裏切っていたとしたら……。
大いにありうることである。――ただ、例えば金森一人に、咲代殺しの罪を負わせたとしても、仲里には一つも得になることがないように思える。
仲里はあくまで学校からは局外者である。金森か、咲代か、どちらかと結んでいない限り、仲里には金の入る道はないはずなのだ。
それとも他に――何かあるというのだろうか。自分の知らない何かが……。
金森は窓の外を見やった。夜の町が、流れて行く。多津子とホテルへ行ってからマンションへ回ったので、大分遅くなった。
そろそろ十二時になる。
「――そこで停めてくれ」
「ここでいいんですか?」
タクシー運転手が不思議そうに訊き返して来た。いつものことである。
「ああ、いいんだ」
こう言ってやるのが、金森にも楽しみの一つになっている。暗い、学校の裏門のあたりで、近くには何もない。――どうしてこんな所で降りるのかと首をひねるのも当然のことだろう。
タクシーが走り去ると、金森は、学校の通用口へと歩いて行った。ポケットから鍵を出して開ける。
裏門から、細い|小《こ》|径《みち》を通って、自宅はすぐだが、何しろ真っ暗なので、あまり気持のいいものではない。
いつも咲代に、街灯を一つつけようと言うのだが、まるで取り合わない。
「子供じゃあるまいし」
というのが、決り文句だった。
わざわざそのために電線を引いて来る費用がもったいない、と思っているようであった。そういう点、咲代はかなりしまり屋だったのだ。
もっとも、外へ出る機会が多いので、服は高いものを着ていた。金森にも英国の最高級の生地で背広を作ったりした。
その代り、至って地味な色、柄、デザインで、おかげで金森もバーなどへ行くと、ずいぶん老けて見られることが多いのだった。
咲代の方は、動きの活発さ、印象の強さが服の地味なのをカバーしていた。プールの底で、あの自慢のスーツが、どうなっているだろうか、と、金森は思っておかしくなった。
水中でも型崩れしません、か。――いいCMだ。
もう死体のことを考えても震えが来なくなった。こいつは上出来だ。
金森は足を止めた。――何か、人の気配がした。
少し離れた所で、何かが通り過ぎて行ったようだ。金森は、立ちすくんだ。急に、足下の地面が沈み込んで行くような気がした。
じっと、耳に神経を集中させる。――だが、それ以上、何の動く気配もなかった。
家まで、あと少しだ。――金森は|大《おお》|股《また》に歩き出した。
「先生」
突然、呼びかけられて、金森は飛び上りそうになった。懐中電灯の光があった。
「――何だ、君か」
「どうも、びっくりさせちまったようで」
警備員だった。「どうも、申し訳ありません」
「いや、大丈夫だよ」
「今お帰りですか」
「うん。ちょっと飲んで来てね」
「そうですか」
「君は今、どっちから来た?」
「え? 私ですか? 校舎の方ですよ」
警備員は、さっき何かの気配がしたのとは全く逆の方を指さした。
「誰か怪しい人間でも見たのかね」
「いえ、そうじゃありません。十二時の見回りでして」
「そうか、ご苦労さん」
「おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
ホッとして、金森は歩いて行った。玄関がもう目の前で、そこは明りがついている。
鍵を取り出しながらドアへ手をのばす。ノブに、ビニールの袋が、ひっかけてあった。〈××クリーニング〉の名が入っている。
誰もいないので置いて行ったのだろう。
袋を外して、中をのぞいた。――金森は短い声を上げて袋を放り出した。
袋から、さらに透明なビニールに包まれた洗濯済のスーツが飛び出した。咲代のスーツだ。――殺されたときに着ていたスーツだった……。
プールの底に沈んでいるはずのスーツだった……。
4 水底の秘密
「おはようございます」
校長室へ入って来た多津子は、真直ぐに金森の前へ進んで来ると、〈辞表〉と上書きした封筒を置いた。
「――考え直してくれ」
と金森は言った。
「よく考えました」
と多津子は顔を伏せたまま答えた。
「そうか」
金森はため息をついた。「いつ、辞めたいんだね?」
「出来れば今月末で」
「そう……。そうだね。ともかく、これは預かっておく」
「お願いします」
金森は多津子の辞表を引出しへ入れた。
「ところで、プールのことなんだが」
「プールが何か……」
「そろそろ水を抜いておいた方がいいと思うんだ。近所の子供が落ちたりしても困る」
「分りました」
「業者へ頼んでおいてくれないか」
「すぐに電話します」
多津子は出て行った。
金森は、大きく息を吐いて、目を閉じた。――昨夜はあまり眠っていない。
あのスーツ。咲代が特に気に入っていた服である。あれがなぜクリーニングに……。
やはり咲代は生きているのか? そして、自分や仲里を、猫がネズミをなぶるように、からかっているのだろうか?
仲里の計画にしては、遠回しに過ぎるような気がした。それに、理由がない。
すぐに多津子が顔を出した。
「今、業者へ電話しました。すぐに来てくれるそうです」
「そうか、ありがとう」
金森は胸の高鳴りを押えるのに苦労した。――プールの水を抜けば、ともかく咲代が死んでいるのかどうかははっきりするのだ。
昼まで、金森はほとんど仕事が手につかなかった。
校長室からはプールが見えない。今、プールで何が起っているのか、知るすべもないのである。
といって、わざわざ見に行くのは、仲里の言う通り、自白するようなものだ。じっと待つ他はない。何かあれば、連絡があるに決っている。
そう分っていても、いても立ってもいられない気持になるのを、どうにもできなかった。
十二時になると、校庭へ出てみた。
プールの周囲に女学生たちが何人か集まっているが、ただの見物という感じだった。
他の生徒たちは、思い思いに校庭を歩いたり、バレーボールをやったりしている。
金森はプールの方へ、できるだけさり気なく視線を向けていた。何かが起きるのが怖いような、それでいて、起こってくれなくては困るという、妙な気分であった……。
「あの――」
声がして、振り向く。多津子だった。
「昼食をお届けしておきましたが」
「ああ、ありがとう」
金森はちょっとためらった。「――一服してから行くよ」
「分りました」
多津子が校舎の方へと戻って行く。そのとき、プールの方から、
「キャーッ」
という悲鳴が起こった。
「何でしょう?」
多津子が振り向いて言った。
「さあ……」
校庭にいた生徒たちが次々にプールの方へと駆け寄って行く。そうなると後は|雪崩《 なだれ》のような勢いで、たちまちプールの周囲に生徒たちが鈴なりになった。
もういいだろう。
「行ってみよう」
金森はプールへ向って、足早に歩き出した。多津子が小走りについて来る。
「――どきなさい! どいて!」
金森は、生徒たちをかき分けて進んで行った。作業服の男が立っている。
「どうしたんだ?」
「え?」
「私は校長代理だ。何かあったのかね?」
「あ――どうも。ええ、実はプールの底に女が……」
「女だって?」
「まあ!」
ついて来ていた多津子が声を上げる。
「死んでるんですよ」
「それはそうだろうな」
やはり咲代は死んでいたのだ。――金森は|安《あん》|堵《ど》の思いが顔に出ないように用心して、額を拭った。
「どこだね?」
「あそこです」
と、作業服の男が指さす。水はすでにすっかり落ちて、プールの底に、木の葉が敷きつめたように広がっている。
その一隅に、木の葉に半ば隠れるように、女が横たわっていた。
金森は、目を疑った。頭を振って、何度も見直した。
咲代ではない! 赤いワンピースを着た、全く別の女だった。
「これは……どういうことなんだ?」
思わず、金森は呟いていた。
「上へ上げるか」
他の作業服の男が言った。
「そうだなあ」
そのとき、多津子が、
「いけないわ」
と言葉を挟んだ。
「どうしていけねえんだ?」
「変死事件ですもの。警察を呼ばなくてはいけないわ」
多津子は冷静だった。「手を触れずにいた方がいいと思うけど」
金森は、やっと我に返った。
「ああ。――そうだ。君の言う通りだ。――江本君、警察へ電話して来てくれるか」
「はい」
と多津子が急いで生徒たちを分けて歩いて行く。
「みんなさがって!」
と、金森は怒鳴った。「教室へ戻れ!」
生徒たちは未練たっぷりに顔を見合わせてブツブツ言いながら、徐々に散って行った。
金森は、急に深い疲労を覚えて、プールサイドにしゃがみ込んでしまった。
咲代は生きているのだ。――だが、あのとき、プールへ沈めたのは咲代ではなかったのか。
ともかく、この女ではなかったはずだ。赤いワンピースでは、断じてなかった。すると一体、この女は何者なのだ?
金森には、もう何もかも分らなくなって来た……。
「すると、女には全く見憶えがない、というわけですね」
学校の教師といった方がピッタリ来るような刑事が言った。
「その通りです」
金森は肯いた。
学校の応接室である。壁には校舎の全景写真と、それに咲代の写真もあった。校長としては当然だろう。
もし咲代が死んでも、やはりこの写真は、本校の創設者として残るに違いない。だが、咲代は死んでいないのだ。
「|身《み》|許《もと》が分れば何か出て来るでしょう」
と、刑事が、|呑《のん》|気《き》に言った。
「あの……刑事さん」
「は?」
「あの女はどうして死んだんでしょう?」
「絞殺ですよ」
「絞殺……」
「しめ殺されたんですね。首に|紐《ひも》の巻きついた跡が残っていました」
「|溺《でき》|死《し》したわけではないんですね」
「ええ、まず間違いないと思います。一応検死解剖してみないと、正確なことは申し上げられませんが」
「そうですか」
「一応殺人事件ということになります。まあそちらへは極力ご迷惑をかけないつもりですので」
「そう願いたいですね」
と金森は言った。「誰かがあの女を殺して、死体をプールへ捨てて行った、ということでしょうか」
「そんなところでしょう」
と刑事は肯いた。「しかし、あのプールは外からは見えないから、当然犯人は最初からそのつもりでプールへ死体を運んだことになりますね。そうでなければ、たまたまプールの近くで女を殺したのか」
金森は黙っていた。ドアが開いて、多津子がお茶を運んで来た。
「どうも、お構いなく」
と刑事が会釈しておいて、すぐにお茶をすすった。「校長先生は女の方ですか」
「家内です」
「そうですか。大したものですな」
刑事はまじまじと咲代の写真を眺めていたが、ふと目を細くすると、「失礼ですが……」
「何でしょう?」
「奥さんは今どちらに?」
「ヨーロッパに行っています」
「ああ、さっき伺いましたね。失礼。――奥さんに姉妹はいませんか」
「いや、一人娘です」
「|従《い》|姉《と》|妹《こ》とか、よく似た顔立ちの人は……」
「さあ。――あれの親戚にはそういう女性はいません。どうしてです?」
「いや……。あの死んでいた女と、ちょっと似通った顔だと思って」
「家内がですか?」
金森はびっくりして咲代の写真を見た。「私にはそう見えませんがね」
「そうでしょうね。我々は手配写真などで、顔の特徴を見るのに慣れています。一般の方はどうしても外見上の印象に左右されてしまうものです」
「じゃ、あの女と家内が似ている、と?」
「このくらい似た人はいくらもあります。その程度のことです」
「偶然でしょう」
「そうですな」
刑事は肯いた。「まあ、奥様がお帰りになったら、一度お目にかからせていただけるとありがたいのですが」
「もちろんです。ご連絡しますよ。家内は風来坊で、いつ帰るかよく分らないものですから」
「お願いします」
刑事は立ち上って、「女の身許が分りましたら、ご連絡します。写真を学校の方に見ていただくようになるかもしれませんので」
「分りました」
刑事は帰って行った。
金森は、そのままずっと椅子に座っていた。しばらくして、ドアが開いた。――多津子が入って来た。
「どうなさったの?」
「え?」
金森は顔を上げた。
「本当のことを言って。あの女の人を知っているんじゃない?」
「何を言い出すんだ?」
「あのプールサイドで、あなたは『これはどういうことなんだ』って呟いたわ。私、近くにいて、耳にしたの。――本当のことを言って」
「あんな女は知らんよ」
「それならなぜ……」
金森はじっと多津子を見つめた。――咲代が生きているということになれば、もう多津子と付き合って行くのも危険かもしれない。だが、手放したくはなかった。
「どうしても辞めるのかね」
「――ええ」
金森はふっと息をついた。
「それなら、もう言うことはない」
多津子はちょっと戸惑ったように立っていたが、すぐに仕事の顔に戻った。
「分りました」
一礼して、出て行く。
金森は、すっかりさめたお茶を、ぐいと飲み干した。
「何だって?」
仲里は|唖《あ》|然《ぜん》とした様子で、金森を見つめた。
「全然知らない女だ。本当だよ」
と金森は言った。
「ふーん。妙な話じゃねえか」
仲里は、相変らず散らかった居間のソファに横になった。
「何が何だかさっぱり分らん」
金森はため息をついた。「ともかく咲代は生きてるんだ。そうに違いない」
「判じ物だな。全く」
「TVをつけてみよう。ニュースの時間だ」
金森は立ち上って、TVのスイッチを入れた。
関係のないニュースがしばらく続いた。
「――おい、出たぞ」
と金森は言った。
「――殺された女性は、劇団研究生矢口ユキさんと判明しました」
仲里がソファからはね起きて、呆然とブラウン管を見つめた。
金森にしても同じことだった。ただ、多少は冷静に戻るのが早かったのか、仲里の驚きが、決して演技ではないと思う余裕があった。
「ユキが!」
「どうしたっていうんだ?――どうしてこんなことに……」
だが、仲里は金森の言葉など耳に入らないようだった。
「ユキ……。畜生。どうしてユキを殺したんだ!」
仲里は握りしめた|拳《こぶし》を震わせながら、居間を歩き回った。そして、荒々しくガラス戸を開けると、ベランダへ出て行った。
風が吹き込んで、カーテンが大きくはためいた。金森はついて行く気にもなれず、TVを消しに立った。
死んだのは矢口ユキだった。――なぜ殺されたのか。誰が殺したのか。
そのとき、ベランダの方から、
「ワーッ」
という悲鳴が聞こえた。仲里だ。
「どうした!」
金森はベランダへ飛び出した。仲里の姿はなかった。――まさか!
手すり越しに、下の街路を見た。仲里は、大の字になって倒れている。この高さでは、命のあろうはずはなかった。
仲里の周囲に、何人かの人間が集まっている。気が付くと、近くのベランダ、向いの建物の窓から、大勢の顔が金森の方を見ていた。
金森はあわててベランダから居間の中へ入った。ガラス戸を閉めて、カーテンを引く。
仲里が死んだ。――自殺か? それにしてもあの悲鳴は……。
「騒がないことね」
カーテンの陰から声がした。
金森はゆっくりと振り向いた。――咲代が立っていた。
「咲代……」
「仲里は私が突き落としたのよ」
「君が?」
金森は唖然とした。
「でも、見物していた人たちの目についたのはあなたね」
「なぜだ……。なぜこんなことを――」
「私はね、総て知っていたのよ」
「総て?」
「仲里に言って、私を殺すお芝居を仕組んでもらったの」
「芝居……」
「あなたが江本多津子と情事に|耽《ふけ》っていたのは知っていたわ。でも、仕方のないことかと思っていた。私にも多少は責任のあることですものね。――でも、あなたが徐々にあの女にのめり込んで行くのを見て不安になったの」
「君は仲里を恋人にしていたんじゃなかったのか?」
「やめてよ、あんな青二才」
と、咲代は苦笑した。「これでもあなたを愛していたのよ」
「すると仲里の話は……」
「あなたに私を殺そうという話を持ちかけて、あなたの反応を見るのが目的だったの。でも、まさか、あなたが承知するとは思わなかった」
金森は目を床に落とした。
「あなたが承知したと聞いたときはショックだったわ。――そんなに私を憎んでいたのかと思ってね。そして、それなら本当にやってやろうと思ったのよ」
金森は、殺された矢口ユキが咲代と似ていると言った刑事の言葉を思い出した。
「それじゃ、あのとき仲里が殺したのは、君じゃなかったのか!」
「矢口ユキという女よ。劇団の人間ですものね、老けた顔にするのはお手のものだし、私と顔の造作が似ていたの。それに、あなたに浴槽の底の死人の顔をよく見る度胸なんてないと分ってたもの」
「死んではいなかったんだな……」
「もちろん。息を止めていたのよ。俳優はスポーツをやるから、肺活量も多いし……。プールへ投げ込まれたときも、あなたはずいぶん長く感じたでしょうけど、ほんの一分ぐらいのものだったのよ」
金森は力なくソファにもたれた。
「君は私をいたぶって楽しんでいたのか」
「少しは苦しんでもらわなくちゃね」
と、咲代は静かに言った。「妻を殺そうとしたんだから」
金森は言葉もなく宙へ目を向けた。
咲代は居間の中を見回した。
「分る?――ここは、あなたのために買ったマンションなのよ。学校の生活が総てでは、私はともかく、あなたはやり切れないだろうと思って、ここを買ったの。そうすれば、あなたは私の所へ戻って来てくれるかもしれない……」
「ありがたい話だ」
と金森は吐き出すように言った。「僕のためのマンションだって? 何もかもが君好みの部屋じゃないか。君はそういう女なんだよ」
「そうかもしれないわ」
咲代は静かに応じた。
「ヨーロッパへは行かなかったんだな」
「ええ。倉田さんに頼んで電話をかけてもらい、パリの友達へ、絵葉書を書いて封筒で送り、向うから出してもらったの」
「どこにいたんだ?」
「都内のホテルにいたわ。仲里を通じて、話を聞きながらね」
「だが君はどうかしてるぞ」
「あら、そう?」
「仲里を殺したんだ。殺人罪に問われるのは君の方じゃないか」
咲代は高らかに笑った。
「――何がおかしい?」
「私じゃないわ、やったのは」
「しかし君はさっき――」
「あなたよ」
金森は戸惑った。
「どうして僕が――」
「みんながあなたを見てるわ。私は仲里を突き落としてすぐに隠れたから、誰にも見られていない。あなたがやったと誰でも思うでしょう」
金森は目を見開いた。
「君は僕に……」
「あなた次第ね」
と咲代は平然として言った。
遠くからサイレンの音が近付いて来る。
「どういう意味だ?」
「これからずっと私を裏切らずに、私の言う通りになっていると誓えば、仲里は自分で飛び降りたんだと私が証言してあげる。でなければ、私はここから出て行くわ」
「僕を……どうする気だ」
「愛しているだけよ。だから私一人のものにしておきたいの。そのために、矢口ユキも殺したんだし」
「君が殺したのか!」
「あの二人、欲を出したわ。私の払った謝礼じゃ不充分だったらしくて、もっと出せと言って来た……。学校の名誉もありますからね。いつあの二人の口から話が|洩《も》れないとも限らないし。――だから口をふさいだのよ」
「そして、仲里が自殺ということになれば、奴が女を殺したと思われる、ってことか」
「その通り」
金森は、まるで初めて見る思いで、妻を眺めやった。
「君は……恐ろしい女だな」
「あなたのためよ」
「嘘をつけ。自分の身を守るためにあの女を殺したんじゃないか。――それがどうして僕のためなんだ!」
咲代は夫を眺め回して、
「あなたは、私が校長だからこそそうしていられるのよ」
と言った。「私がいなかったら、あなたはもう何でもなくなる[#「もう何でもなくなる」に傍点]のよ」
「僕は僕だ!」
と金森は立ち上った。
「あなたは空っぽよ。何もないわ。私の影になっている他はないのよ」
「ごめんだ! 君のような女に一生支配されて生きるくらいなら、仲里を殺したことになった方がよほどましだ」
「そして刑務所へ行くの? 結構ね」
咲代は立ち上った。「じゃ、私は出て行ってもいいのね」
「いいとも。出て行け!」
と金森は叫んだ。
咲代が出て行くと、金森は、力なくソファに座り込んだ。
刑事に総てを打ち明けてやる。――しかし、果して信用してくれるだろうか。
咲代は名士で、教育者だ。だが金森は単に〈その夫〉であり、ただの事務長に過ぎない。女事務員と情事を重ねている。
警察がどっちの話を信じるか、分り切っている。――それに、咲代のことだ、総てに抜かりなく手を打って、自分の話を裏付ける証人はちゃんと用意しているに違いない。
だが自分には何があるのか? 妻を殺そうとしたことを話さなくては、自分の立場を説明することすらできないのだ。
金森は無力感に打ちひしがれて、頭をかかえた。
目の前に、誰かが立った。
「――あなた」
咲代の顔があった。
「分ったよ」
金森は言った。「君の勝ちだ」
金森は、目に見えない手錠が、自分の手首に鳴る音を聞いたような気がした。
玄関のチャイムが鳴った。
|悪《あく》|魔《ま》のような|女《おんな》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成14年7月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2002
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『悪魔のような女』昭和57年12月20日初版発行
平成 8年12月10日66版発行