角川e文庫
悪妻に捧げるレクイエム
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
第一章 殺 意
第二章 用 意
第三章 注 意
第四章 翻 意
エピローグ
第一章 殺 意
1
「今日はちゃんと言ってよ。分ってるでしょうね?」
|信《のぶ》|子《こ》の質問には、文法的にいって|極《きわ》めて大きな|特徴《とくちょう》がある。つまり、|肯《こう》|定《てい》にせよ否定にせよ、その|選《せん》|択《たく》権は答える側になく、質問した信子の側にある、ということだ。
|西《にし》|本《もと》は長年夫婦として|暮《く》らして来たので、その辺の事情はよく|呑《の》み込んでいた。信子の期待しない答えをした場合に、自分がキズテープのお世話にならなければならないことも承知していたので、この場も至って|素《す》|直《なお》に、
「よく分ってるよ」
と返事をした。
「あなたは返事ばっかりで、ちっともその通りにしないんだから」
|誰《だれ》のせいだ、と言いたいのを、西本はぐっとこらえた。
「なかなか言い出すきっかけがね……」
西本は朝食の生卵をぐいと飲み込んで目を白黒させた。正直なところ生卵は|大《だい》|嫌《きら》いなのだが、ある時信子に、
「体にいいんだから、毎朝飲むのよ。分った?」
と言われて、ついいつもの通り、
「分ったよ」
と答えてしまい、以後何年もこの|苦行《くぎょう》を続けているのだった。
「きっかけなんて、何でもいいじゃないの」
信子は音をたててお茶をすすった。「〈ところで〉だって〈それはそうと〉だって〈それはさておき〉だって、もっと簡単に〈さて〉だっていいわ。あなただって作家なんだから、それぐらい言えるでしょう」
何とも|痛《つう》|烈《れつ》なことを平然と言ってのけるのが信子の信子たるゆえんだ。|慣《な》れっこになっているとはいえ、西本も自分を|抑《おさ》えるのに苦労した。
「機会を見て言うよ」
「今日言うのよ」
|穏《おだ》やかな口調だけに、まるでマフィアのボスが死の宣告を下しているような|凄《すご》|味《み》がある。西本はたまりかねて、
「いい|加《か》|減《げん》にしろよ! |俺《おれ》たち四人は、スタートの時点で|約《やく》|束《そく》したんだ。収入は|総《すべ》て平等に四|分《ぶん》|割《かつ》する、と。もし|誰《だれ》かが病気で全く参加できなくても、ちゃんとその分は|払《はら》う。それが俺たちの精神なんだ。金持になる時も|一《いっ》|緒《しょ》。|貧《びん》|乏《ぼう》になる時も一緒。そういう約束を守って来たからこそ、今日の成功があるんじゃないか。それを今さら変えようなんて言えるもんか! 大体、四人の内で誰が何パーセント|貢《こう》|献《けん》しているかなんて、どうやって計算するんだ? 俺たちは四人で一人なんだ。四人|揃《そろ》って初めて〈|西《にし》|公《こう》|路《じ》|俊《とし》|一《かず》〉なんだ。――分るか? 誰が頭でも誰が足でもない。みんなが手で、みんなが足だ。少しばかりの取り分のことで、せっかくのこのチームワークを|壊《こわ》したら、それこそ元も子もなくなるってことが、お前には分らないのか!」
と――言おうと思った。しかし実際には、お茶をガブリと一口飲んでから、
「そうするよ」
と答えたのだった。
西本を|腰《こし》|抜《ぬ》けと非難してはならない。実際に勇気をふるって言ってみたこともあったのである。ただし、表現はいくらか穏やかであったが。――その経験から、西本は妻の返事がちゃんと分っていた。
「それはみんなほとんど仕事がなくて|無《む》|一《いち》|文《もん》だった時の話でしょ。今は|違《ちが》うわ。年収三千万にもなってるのよ。一人でこれだけの収入があればとっくに家の一|軒《けん》ぐらい建ってるのに……」
「それは他の三人だって同じことさ」
と西本が言い返す。
「だから、ここらで分配の仕方を考え直せと言ってるのよ。いいこと、四人の中で賞をもらってるのはあなただけなのよ」
「新人賞だぜ。それも〈|佳《か》|作《さく》に近いすれすれ〉という選評つきだ」
「それだって受賞は受賞よ。他の三人なんか、佳作になったのがせいぜいじゃないの」
「あんなのは運だよ」
「ウンだってスンだっていいのよ! ともかくあなたが新人賞をもらっていたからこそ、出版社へ|原《げん》|稿《こう》を売り込めたんじゃないの。それを考えたら、取り分を多くしてもらうのが当り前よ」
「しかしそれは最初だけの話で、今は――」
「最初がつまずいてたら、|今《いま》|頃《ごろ》は相変らずの貧乏|暮《ぐら》しかもしれないのよ。それを考えたら、少々取り分が減っても文句なんか言えないはずよ!」
信子の言葉は確信に|満《み》ち|溢《あふ》れていて、本人はその正当性に全く何の疑問も|抱《いだ》いていないようだ。それだけに、どう反論してもまるで受け付けない。西本にはその論理に他の三人を|納《なっ》|得《とく》させるだけのものがあるとは、|到《とう》|底《てい》思えなかった。
どうせ同じやりとりになると分っていたので、西本は何も言わなかったのである。
「じゃ、そろそろ出かけるよ」
早く|逃《に》げ出したい一心で、まだ時間は早かったが、西本は朝食のテーブルから|離《はな》れた。
「ちょっと待って」
信子は呼び止めると、|隣《となり》の|部《へ》|屋《や》へ入って行き、タンスの引出しをゴソゴソとかき回していたと思うと、短く切った糸を持って来た。
「手を出して」
「何するんだ?」
「いいから」
信子は西本の左手をぐいとつかむと、その小指に白い糸を|縛《しば》りつけた。
「おい! 小学生じゃあるまいし、よせよ!」
「だめよ。いやでも思い出させてやるんだから」
「こんなことしなくたって、ちゃんと言うよ。だから――」
「いいこと、帰って来た時にこれを取ってたら……分るわね。ただじゃおかないから」
信子は両手を腰に当てて宣告した。西本は情けない思いで、左手の小指の白い糸を見つめた。
西本|安《やす》|治《じ》は四十一|歳《さい》である。|退《たい》|屈《くつ》なサラリーマン生活を続けること十五年。三十七歳の時、たまたま書いて何の気なしに|応《おう》|募《ぼ》した原稿が、ある小説誌の新人賞を受けた。まさか入選するなどと思ってもいなかったので、実名を使ったのがまずかった。さらに、小説の内容がサラリーマン物だったのがますますまずい。会社の|上司《じょうし》に呼ばれて、小説なんぞ書いている|暇《ひま》があったら仕事に精を出せ、とどやしつけられてしまった。どうやらその上司は、西本の小説に出て来る女|狂《ぐる》いの重役が自分にあてつけたものだと思い|込《こ》んでいるようだった。ムッとした西本は、
「ご自分にやましい所がなければ、そんな|邪《じゃ》|推《すい》はなさらないはずです!」
とやった。――それで一巻の終り。西本は「佳作すれすれ」の新人賞という肩書き一つで、作家として立たねばならなくなったのである。
そして四年。――今でこそ順調に行っているが、最初の一年は全く|惨《みじ》めなものだった。必死で原稿を書き、方々の編集部へ持ち込んでは|態《てい》よく断られる。――週刊誌のルポ記事やら、タレントの本のゴーストライターなど、どんな仕事もいとわずにやって、何とか食べて行くという毎日だったのだ。
その頃のことを思えば(信子の言い分とは逆に)、今、少々の取り分をふやすことなど考える必要はないはずだ。ともかくも生活にはゆとりができたし、かなりの貯金もしてある。西本はこれ以上を望む気は|毛《もう》|頭《とう》なかった……。
「じゃ、行って来るよ」
西本はコートを着込んだ。信子の方は送りに出て来るわけではないから、別に|黙《だま》って出かければよさそうなものだが、何となく、そう言わないと出かけられない。|癖《くせ》みたいなものである。
信子も|結《けっ》|婚《こん》当時はあんな風ではなかった。当り前だが、若くて、しっかり者ではあったが、女らしい|優《やさ》しさもあった。それが今は……。西本は|靴《くつ》をはいて、左手の小指にゆわえつけられた糸を|眺《なが》めてため息をついた。
二人の間には子供がない。どちらが悪いというわけでもないのだが、何となくできないまま、この|年《と》|齢《し》になってしまった。信子は二つ西本より年上なので、四十三歳になる。結婚した二十八歳の時から、年齢はほぼ一・五倍となったが、体重の方は二倍になった。いや、正確に、ではないが、受ける印象がそうである。元来が細身で、中年太りにも|縁《えん》のない西本とは、このところますます|際《きわ》|立《だ》った対照を示していた。
|玄《げん》|関《かん》を出ると、西本は|身《み》|震《ぶる》いした。もう三月に入ったというのに、春のきざしは一向になかった。――どうもここ何年か、季節が少しずれ込んでいるようだな、と西本は思った。さっぱり冬の寒さがやって来ない、とのんびりしていたら、今度は底冷えのする春だ。
西本は自由業ならではの特権で、朝、自宅を出て仕事場へ向うのも、|普《ふ》|通《つう》ならサラリーマンが|欠伸《 あくび》をかみ殺しつつ机に向う九時過ぎである。それでもこの寒さだった。
「そうだ」
コートのポケットへ手を|突《つ》っ込んで、思わず|呟《つぶや》いた。|手袋《てぶくろ》がある! これをはめて行けば、誰にも見られずに済むだろう。|鞄《かばん》を|小《こ》|脇《わき》に|挟《はさ》んで、両手に手袋をはめると、西本は、あの糸が見えなくなった左手をかざして満足気に|肯《うなず》いた。――仕事場へ着いたらどうするのか、そこまでは考えていないのである。
西本は少し元気を取り|戻《もど》して歩き出した。――西本の住んでいるのは、都心へ一時間ほどの団地である。団地といっても、高層のコンクリートの|塊《かたまり》が|並《なら》んでいるのではなく、一戸建ての、外観がそっくりな|分譲《ぶんじょう》住宅がずらりと列を成している、その一軒だ。
駅への道のりは、ほぼ十五分。この時間には出勤する人間の姿はほとんどない。空いた道を歩いて行くと、両側の住宅からは、もう|掃《そう》|除《じ》機の音や、|洗《せん》|濯《たく》機の|唸《うな》りが聞えて来た。
――ペンネーム、|西《にし》|公《こう》|路《じ》|俊《とし》|一《かず》の「西」が西本である。
西公路俊一の「公路」――|公《こう》|路《じ》|武《たけ》|夫《お》は、西本がちょうど電車に乗った頃、やっとベッドから|這《は》い出していた。
「|畜生《ちくしょう》、もう九時半じゃないか……」
よろよろと、もつれる足取りでダイニングキッチンへ|辿《たど》り着くと、電気ポットのスイッチを入れ、|椅《い》|子《す》へペタンと|座《すわ》り込んだ。息も絶え絶えという様子だ。
「早く出かけなくちゃ」
と気は|焦《あせ》るのだが、体が言うことをきかない。――とはいえ、公路は、「西公路俊一」を構成する四人の中では最も若い。三十五歳、本来なら一番の働き|盛《ざか》りである。別にどこといって悪い所があるでもなく、むしろ大学時代はフットボールでならしたスポーツマンだ。体力の方は自信がある。
それでいて、
「限度ってものがあるぜ」
と思わず|呟《つぶや》いたのは……。
公路は新婚だった。世間|並《なみ》の常識から言えばホヤホヤの部類に入るだろう。何しろ前の年の暮に結婚したばかりなのだから。それでいて、早くも|後《こう》|悔《かい》の念に日々さいなまれていた。
公路武夫はもともとが金持の三男|坊《ぼう》で、大学を遊び一筋で終えてからも、仕事もせずにぶらぶらしていた。そろそろ三十に手が届くという|頃《ころ》になってもその状態が続いたので、さすがに父親も本人を|放《ほう》り出す必要を感じたらしい。知人の会社へ無理矢理就職させたが、一週間連続|遅《ち》|刻《こく》の記録を作ってクビ。頭に来た父親に家を追い出されたものの、生来が楽天家で苦労知らずの人間というのは、割合何をやっても|巧《うま》く行くもので、友人のアパートへ転がり込んだ公路は暇に任せてTVのシナリオを書き、TV局のプロデューサーへ持ち込んだのが採用され、以後ちょくちょく仕事をもらうようになった。
そして――今や西公路俊一の四分の一、というわけである。
|息《むす》|子《こ》が作家として一人前(四分の一人前?)になったと知って、父親の方も息子を見直した。そして三十五にもなったら|嫁《よめ》と家ぐらい持たねばならんと言い出し、その両方を彼に当てがったのである。つまり、妻の|瞳《ひと》|美《み》と、結婚祝いのこのマンションの二つである。
公路は結婚なんて|面《めん》|倒《どう》だと思っていたから、マンションの方だけでいいと言ったのだが、瞳美に会って気が変った。|清《せい》|楚《そ》な、色白の|小《こ》|柄《がら》な日本風美人で、今どきこんな〈|令嬢《れいじょう》〉らしい令嬢がいるのかと思うような|娘《むすめ》だった。それに、何より二十二歳という若さ。――|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》では、他の三人の同僚[#「同僚」に傍点]や、学生時代の友人たちが公路へ|羨《せん》|望《ぼう》の|眼《まな》|差《ざ》しを送ったものだ。
公路も得意だった。西本たちが目を丸くするような純白のタキシードにバラの花などつけて、うら若き花嫁にキスまでして見せた。公路もなかなかの二枚目だったから、はたからは全く申し分のない新郎新婦と映ったのだが……。
ポットがチーンと鳴って、湯の|沸《わ》いたことを知らせた。公路は|大《おお》|欠伸《あくび》をしながら立ち上って、コーヒーを|淹《い》れる。あまり食欲はなかった。コーヒーだけでいい。仕事場の近くで何か食おう。
電動コーヒーミルで豆を|挽《ひ》くと、プンとコーヒーの|香《かお》りが立ち|昇《のぼ》って来る。何となく公路はホッとした気分になった。ドリップにフィルターペーパーをセットした中へ挽いた粉を落とし、ポットの熱湯をゆっくり注ぎ込む。粉が|泡《あわ》|立《だ》ちながら盛り上って、一層|匂《にお》いが強くなった。――そうだ。こうでなくちゃ。やっと朝らしい気分になって来たぞ。粉を|充分《じゅうぶん》ふくらませておいて、静かに湯を注いで行く……。
「もう出かけるの?」
ダイニングの入口から声がした。起きて来たのか。ゆっくり|寝《ね》てりゃいいのに!
「急がないと遅刻だよ」
公路は熱湯を注ぐ手をそのままにして、チラリと入口の方へ目を向けたが、そのまま|唖《あ》|然《ぜん》として棒立ちになってしまった。|瞳《ひと》|美《み》が、
「何か食べて行ったら? ゆで卵でも作るわ」
と冷蔵庫の方へ歩いて行く。
「い、いや、いいよ」
と公路は|慌《あわ》てて言った。
「あら、食欲がないの?」
「いや……そんな格好で冷蔵庫開けたら|風《か》|邪《ぜ》ひくぜ」
瞳美はまるっきりの|裸《はだか》だった。
「|大丈夫《だいじょうぶ》よ、まだほてって[#「ほてって」に傍点]るもの」
と言って、瞳美はクスッと笑った。
「いや……ほてってるのはいいけど……何か着ろよ。もう朝だぜ」
「あら、いいじゃないの。どうせ後でシャワーを浴びるんだもの。その後で着るわ」
「しかし……誰かに見られたら……」
「見られやしないわよ。窓もないんだから、ここの部屋は」
と瞳美は至って平然としている。「あら、あなた、大丈夫なの?」
「大丈夫なのって、それは|僕《ぼく》のセリフだ。ともかく服を着ろよ! |恥《は》ずかしくないのか?」
「あら、あなた最初の晩に言ったじゃないの。『僕らの間には何も恥ずかしいものはない』って。私、別にあなたに見られたって恥ずかしくなんかないわ」
とチーズを出して来る。「ねえ、大丈夫なの、本当に?」
「な、何が?」
「ドリップからお湯がどんどん|溢《あふ》れてるけど」
「わっ!」
|呆《あっ》|気《け》に取られていたおかげで、お湯を注ぎっ放しにしていたのだ。コーヒーの粉ごと、調理テーブルに湯が|溢《あふ》れ出していた。
「――あれの後は、私、お|腹《なか》が|空《す》いて」
|瞳《ひと》|美《み》はハムエッグをペロリと平らげて言った。やっとガウンだけはおっているが、下はまだ裸のままで、合わせたあたりから|乳《ち》|房《ぶさ》の谷間が|覗《のぞ》いている。
「あなた、食べないの?」
「あまり食欲がなくてね」
「そう。でも不思議ね」
「何が?」
「男の人の方が運動して|疲《つか》れるはずなのに。女はそう大して動くわけじゃないけど、何だかお腹が空くのよね」
疲れすぎても食べられなくなるもんだよ、と公路は腹の中で|呟《つぶや》いた。
瞳美も最初は本当に手一つ|握《にぎ》っても|頬《ほお》を赤くするような、うぶ[#「うぶ」に傍点]な娘だったのだ。結婚前にはキスさえしてはいけないと|頑《かたく》なに彼の|誘《ゆう》|惑《わく》を|拒《こば》み通したほどだったのだが、いざ結婚して、その楽しみを知ると、一八〇度|転《てん》|換《かん》して、ほとんど毎晩のように自分からせがむようになった。最初の内こそ、公路も大いに|愉《ゆ》|快《かい》で、瞳美の求めに張り切って|応《こた》えてやったものだが、一か月、二か月とたつ内に、男と女の差、さらには三十五歳と二十二歳の差が|徐《じょ》|々《じょ》に現われて来た。
それでも瞳美の方は一向にお構いなし。原稿の|締《しめ》|切《き》りが|迫《せま》って、仕事場のマンションに|泊《とま》り込んでから帰ったりすると、真っ昼間だろうが構わずベッドへ引張って行く。死んだようになって|眠《ねむ》っていると、いつの間にか裸にされて|仰天《ぎょうてん》することも|珍《めずら》しくない。
このところ、いい|加《か》|減《げん》公路はグロッキーであった。
「まだかい?」
コーヒーを飲みながら、公路は|訊《き》いた。
「何が?」
「ん? つまりその……毎月の……」
「ああ、生理? まだ五、六日あるわ。大丈夫よ」
とニッコリする。公路はゲンナリした。
「それにね、その期間中でも構わないんですってよ」
「い、いや、それはよくない!」
と公路は|慌《あわ》てて言った。「絶対にいかん!」
「だって、この間読んだ婦人雑誌にそう出てたもの。〈生理だからって夫婦の|歓《よろこ》びを|諦《あきら》めることはない〉って」
公路は、今の婦人雑誌ってやつは、と腹を立てた。|亭《てい》|主《しゅ》を殺すつもりなのか! いくら婦人[#「婦人」に傍点]雑誌だって、「主婦」であるためには夫が必要なんだぞ。でなくちゃ、「未亡人の友」とか「未亡人と生活」「未亡人|倶《く》|楽《ら》|部《ぶ》」なんて、まるで|怪《あや》しげなサロンみたいになっちまうじゃないか!――と八つ当りする。
「ともかくそれはだめだ!」
「どうしてえ?」
と|瞳《ひと》|美《み》が|甘《あま》ったれた声を出す。
「それは……先祖代々の|遺《ゆい》|言《ごん》にあるんだ」
苦しまぎれに出まかせを言って、「出かけて来る」
と立ち上った。
「もう三十分以上遅刻だ」
大急ぎでヒゲを|剃《そ》り、|髪《かみ》をとかし、服を着て、|鞄《かばん》に必要な物を|詰《つ》め込んだ。
「行って来るよ」
瞳美の姿が見えない。シャワーでも浴びてるのかなと思いながら玄関へ行って、ギョッと目を見開いた。瞳美が待ち受けていたのだ。|全《ぜん》|裸《ら》で、なまめかしいポーズを取っている。
「何してる?」
と|恐《おそ》る|恐《おそ》る|訊《き》くと、やおら瞳美は飛びかかって来た。危なくひっくり返りそうになって、やっと|踏《ふ》み|止《とど》まる。
「おい、よせったら!」
「だって、何時間も|離《はな》れ|離《ばな》れになるんですもの……キスして」
と言いながら、待ってなどいない。ぐいぐい|唇《くちびる》を|押《お》しつけて来る。
「おい……息が……苦しいよ」
動くに動けず、何とか引き離そうともがくのだが、瞳美の方はスッポンが食らいついたようなもので、絶対に離すもんかとしがみついている。
その時、|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴った。
「ほら、|誰《だれ》か来たよ!」
「いいのよ、|放《ほ》っとけば」
「だ、だけど――見られたりしたら――」
と言いかける公路の口を瞳美の唇が|塞《ふさ》ぐ。ナヴァロンの|要《よう》|塞《さい》の門だってこれほど|堅《けん》|固《ご》じゃない、と公路は思った。そして思い出した。玄関の|鍵《かぎ》! さっき新聞を取りに来た時、出がけにチェーンを外したりするのは|面《めん》|倒《どう》だ、と開けておいたのだ。
「おい、瞳美――」
と力ずくで押し返そうとした時、玄関のドアが開いた。
「書留です」
と郵便屋が入って来る。「|印《いん》|鑑《かん》をお願いしま――」
最後の「す」を発音しない内に、郵便屋の口はポカンと開きっ放しになった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
公路は相変らずしがみついている瞳美の裸体を郵便屋の目から|隠《かく》すように背を向けながら言った。「印鑑だって?」
「は、はあ……」
「キスマークじゃだめか?」
――公路武夫。|西《にし》|公《こう》|路《じ》|俊《とし》|一《かず》の「公路」である。
残る「俊」と「一」については少し後回しにして、四人が打ち|揃《そろ》った仕事場へと目を転ずることにしよう。
2
「|女房《にょうぼう》を殺そうか」
当り前の口調で西本が言った。|一瞬《いっしゅん》、テーブルを囲んだ他の三人の間に、|妙《みょう》に|緊《きん》|迫《ぱく》した空気が流れた。――西本はそれに気付いてちょっと|当《とう》|惑《わく》気味に言った。
「次の長編のことだよ、むろん」
ああ……。ほっとしたような、それでいて|肩《かた》すかしをくったような|落《らく》|胆《たん》の色が|微妙《びみょう》に混ざった笑いが三人の顔に浮かんだ。
四人――つまり西公路俊一の仕事場は都心から少し外れた、|閑《かん》|静《せい》な住宅地のマンションにあった。周囲の|日照権《にっしょうけん》などの問題があるので、マンションも余り大きくはない。五階建で、その代り、レンガ色の落ち着いた造りである。
今、四人はマンションの一階にある|喫《きっ》|茶《さ》店に集まっていた。新しい仕事にかかる前にはここで打ち合せをするのが習慣になっている。それ以外でも、|息《いき》|抜《ぬ》きに日に一度はここへ来ていた。店の女の子もむろん四人のことは承知していて、どんな話をしていても|驚《おどろ》かない。
「|奥《おく》さんを殺す話なんですか?」
ちょうどコーヒーを運んで来た娘が、西本の言葉を耳にして言った。「それならきっと色々アイデアが出るんじゃないかしら、|皆《みな》さん」
「君もなかなか|皮《ひ》|肉《にく》|屋《や》だね」
西本が笑いながら言った。
「だって、男なんてみんなそうでしょう? 女を誘惑する時は|巧《うま》いことを言って、ものにしちゃうとポイ。奥さんだって同じことだと思うわ。できればポイとやりたいけど、|厄《やっ》|介《かい》だから|我《が》|慢《まん》してるってのが本音じゃないかしら?」
「そんなに|達《たっ》|観《かん》するには十年早いよ」
と西本はからかった。
「――しかし、西本さん、女房殺しってのはありふれてやしないかい?」
と言ったのは、西公路俊一の「俊」――|景《かげ》|山《やま》|俊《とし》|哉《や》である。|年《と》|齢《し》からいえば西本より一つ上で、四人の最年長。元新聞記者の強味を生かして、小説のための取材を一手に引き受けている。|陽《ひ》|焼《や》けして浅黒い|肌《はだ》、|禿《は》げ上っているせいで、少し年齢より|老《ふ》けて見えるが、全体から受ける印象はエネルギッシュで、若々しい。どこかてらてらと|脂《あぶら》ぎった印象を与える。
「いや、そうは思えないな」
と口を|挟《はさ》んだのは公路である。「意外に少ないですよ、そういう単純なドラマは。雑誌の短編なんかにはよくあるが……」
「だから言ってるんだ。長編にするにはそれなりのひねり[#「ひねり」に傍点]がないと――」
「たぶん西本さんは、そんなことは承知の上でおっしゃってるんだと思いますがね」
と言って、公路は西本を見た。「|違《ちが》いますか、西本さん?」
「まあそんな所だ」
と西本は答えをぼかした。「確かに、よくあるモチーフだが、これだけではとても長編になりそうもない。そこが|狙《ねら》いだ。つまり、それだけ[#「それだけ」に傍点]で長編にしてしまおうというわけなんだよ」
「どういうことだね、それは?」
景山が|訊《き》いた。あまり考えるということをしない男で、分らなくなればすぐに訊く主義であった。
「つまりね、我々は四人で順調に作品を生み出して来た。商売的には成功しているし、このチームワークは申し分ないと思っている」
西本は、信子の前とは打って変って、落ち着いた、風格のあるしゃべり方をしている。この四人の中では、|文《ぶん》|壇《だん》の|先《せん》|輩《ぱい》――といったって大したことはないが――であるというわけで、リーダー格なのだ。
ただ、左手は用心深くズボンのポケットに|突《つ》っ|込《こ》まれていた……。
「しかし、共同|執《しっ》|筆《ぴつ》という方法が、ただ能率よく作品を生み出すとか、|沢《たく》|山《さん》の注文をこなすというだけに|止《とど》まっていたのでは進歩がない。せっかく四人の作家が集まっているのだ。|普《ふ》|通《つう》の作家が一人の頭でひねり出すことができない、様々なアイデアを集めれば、四人で書くという作業に独自の存在価値が生まれて来るんじゃないかと思うんだ」
公路は全くその通りだ、と言いたげに|肯《うなず》いた。景山は西本の言うことが分るのか分らないのか、ともかく聞いてはいた。
「そこで、だ――」
西本はコーヒーを飲もうと、つい左手を出しかけて、|慌《あわ》ててポケットへ|戻《もど》した。
「左手、どうかしたんですか?」
と公路が訊いた。
「いや別に。――そこで私の考えはね、妻を殺すというテーマで各人がアイデアを持ち寄って、一種のオムニバス小説を書いてはどうかと思うんだ」
「オムニバス! |懐《なつか》しいなあ」
と公路が思わずため息をついた。「昔のフランス映画によくありましたよね。〈七つの大罪〉〈パリの空の下セーヌは流れる〉……。〈|寝《しん》|台《だい》の|秘《ひ》|密《みつ》〉なんてのもあったなあ」
若い割に古い映画を良く知っている。景山がけげんな顔で、
「〈パリの空の下――〉ってのは、|石《いし》|井《い》|好《よし》|子《こ》か何かの本じゃないのか?」
「あれは〈パリの空の下オムレツの|匂《にお》いは流れる〉でしょう。映画のタイトルをもじってるんですよ」
「ふうん」
と景山はあまり関心なさそうに言ってから、西本の方へ向いて、「オムニバスってのはいくつかの短い話をまとめるんだろう?」
「その通り。ただまとめるだけじゃなくて、そこに一つのテーマが|貫《つらぬ》かれていることが必要だがね。そうでないとただの短編集になってしまう」
「ふむ。つまりそれを〈女房を殺す話〉というテーマにしようってわけだな?」
「そういうわけだ。めいめいが一つずつ話を考えれば、四つの物語ができる。一冊の本にするにはちょうどいい数だよ」
「『四』は『死』に通ず、か……」
|一人《 ひとり》|言《ごと》のように言った者がある。――今まで、ずっと口をきかずにコーヒーをすすって、まるで他の三人の話など聞いてもいない風だった男。それが|西《にし》|公《こう》|路《じ》|俊《とし》|一《かず》の〈一〉。|香《か》|川《がわ》|一《かず》|男《お》だった。
その風体は|異《い》|彩《さい》を放っていた。いや、この四人の中では、という意味である。作家たちの集まりなどでは、むしろ|平《へい》|凡《ぼん》なスタイルなのかもしれない。しかし、西本、景山はかつて勤め人だっただけに、ツイードの|上《うわ》|衣《ぎ》にネクタイという、サラリーマンをやや|崩《くず》した程度の|服《ふく》|装《そう》だし、公路も|比《ひ》|較《かく》的きちんとした格好を好む方なので、|髪《かみ》も短いし、色を合わせた上衣とベストを着ている。
それに比べ、香川一男は、まず肩まで優に届く長い髪が目につく。そしてめったに外すことのないサングラス。服装は黒ずくめである。黒い上下服、黒い|靴《くつ》、黒い靴下、黒ワイシャツ――ここまでなら別に|珍《めずら》しくはないが、その上に、香川は黒いマントを肩にかけていた。ほとんど地面をこすりそうな、長いマント。ちょうどクリストファー・リーの|吸血鬼《きゅうけつき》ドラキュラがひるがえしているようなやつである。
香川の正確な年齢は、|一《いっ》|緒《しょ》に仕事をする他の三人も知らない。三十から四十の間、というくらいの見当しかつけられないのである。本人も、|黙《もく》して語らない。青白い、しわのない顔は若そうにも見えるが、いつも深く考え込んでいるような細い眼と、|鋭《するど》く切れ込む|眉《まゆ》、シニカルな表情を浮かべた|薄《うす》い|唇《くちびる》は、とうてい若者のものではない。
「君の考えはどうだね、香川君」
と西本が|訊《き》いた。香川はすぐには答えない。いつものことなので、西本ものんびり待っている。香川はコーヒーを飲みほすと、カウンターの方へ戻っていた|娘《むすめ》の方へ、
「もう一|杯《ぱい》コーヒーを」
と声をかけてから、「低俗なテーマだな」
と言った。そして、
「しかし、受けると思う」
と続けた。西本はニヤリとした。香川の、こんな言い方には|馴《な》れっこなのである。
「ありがとう」
と息をついて、「さて、それでは各人に宿題だ。――世の中には、ひどい女房に泣かされている男性が決して少なくないと思う。まあ、ここにいる我々は幸いにしてそんなことはないと思うが」
話しながら、西本はポケットの中の左手を|握《にぎ》りしめた。
「もっとも香川君は独身だから最初からその心配はないわけだが」
香川は|皮《ひ》|肉《にく》っぽい|微笑《びしょう》を|浮《う》かべて、
「おかげさまでね」
と|肯《うなず》いて見せた。
「独身の香川君や|新《しん》|婚《こん》の公路君にはちょっと考えにくいかもしれないが、もし君らが殺したいほどひどい女房に苦しめられているとしたら、そして女房を殺そうと決意したら、果してどうやって殺すか。むろん絶対に自分が犯人であることは分らないようにしなくてはならない。カッとなってしめ殺すなんていうのは新聞記事にはいいかもしれないが、我々の目指している|洒《しゃ》|落《れ》たオムニバス小説には向かない」
「それですよ!」
公路が得たりとばかり身を乗り出す。「|洒《しゃ》|落《れ》た殺人。それが今、求められてるものなんだ」
「しかしねえ」
と景山が|渋《しぶ》い顔で、「|俺《おれ》は取材や実録ドキュメントは得意だが、そういう風に話を作るとなると……」
「いや、それは心配しなくていい」
と西本は言った。「何も四人別々に書くというわけじゃない。最終的に小説の形にするのはいつもの通りの手順だ。君は取材に歩き、公路君はストーリーを組み立てる。私と香川君が主になって文章にする」
「しかし、それじゃ四つのストーリーを|並《なら》べる面白味が出て来ないんじゃないかな」
と公路が言った。「どういう形で仕上げるかはともかく、まず四人がそれぞれに小説の形で書いて持ち寄るのがいいと思うけど」
「それも一理あるね」
と西本は|肯《うなず》いた。「四つの話がどれも似たり寄ったりでは仕方ない。ある程度各人の個性が出るというのも面白いかもしれない」
景山は|憂《ゆう》|鬱《うつ》そうに|腕《うで》|組《ぐ》みをした。西本は、香川へ向って、
「どうだね、君の意見は?」
と|訊《き》いた。例によって香川はゆっくりとタバコに火を|点《つ》け、二度|煙《けむり》を|吐《は》き出してから、
「面白そうだ」
と肯いた。「少なくとも今までのような、スーパーマーケット風の無個性な作品でなくなるだけでも進歩というもんだ」
「その無個性な作品が売れて、俺たちは|儲《もう》かってるんだぜ」
と景山が|愉《ゆ》|快《かい》そうに言うと香川がジロリとにらみ返した。西本は急いで言った。
「じゃ、ともかく公路君、香川君は賛成だね。景山君、君はどうだ?」
「うん……。やってみるより仕方ないなあ」
と景山は渋々言った。
「|原《げん》|稿《こう》用紙の書き方ぐらいだったら教えてやるぜ」
今度は香川が景山を|小《こ》|馬《ば》|鹿《か》にするように言った。景山が|気《け》|色《しき》ばんで、
「何だと――」
と食ってかかりそうになるのを、公路が止めた。
「やめましょうよ。|僕《ぼく》らは四人で一人前なんだ。|喧《けん》|嘩《か》なんかして、作品の出来に|響《ひび》いちゃ困りますよ」
「公路君の言う通りだよ」
と西本が学校の教師のような口調になって、「チームワークだ。|互《たが》いにわだかまりがあっちゃいい仕事はできない」
景山がフンと鼻を鳴らして|黙《だま》り込む。香川の方は平然としてタバコを|灰《はい》|皿《ざら》へ|押《お》し|潰《つぶ》し、もう一本に火を点けた。
「それじゃ|決《き》まった」
公路が一人で張り切っている。「みんなが一つずつの話を持ち寄る。それを回し読みして意見を|交《こう》|換《かん》した上で、手直しにかかる。それでいいですね?」
「いいと思うね」
西本は|肯《うなず》いた。「ただ、手直しの際も、いつもより極力原文を尊重することにしよう」
「分りました」
「景山君も香川君もそれで異議はないね?」
西本の問いに、二人は黙って肯いた。いや香川の方は肯きもしなかったが、この男の場合、|沈《ちん》|黙《もく》は|肯《こう》|定《てい》を意味しているのである。西本もその辺はとっくに|呑《の》み込んでいた。
「それじゃいつ|頃《ごろ》に……」
と公路が|訊《き》いた。
「うん。|締《しめ》|切《きり》日から逆算して行かないとな」
と西本は手帳を取り出す。「原稿――第一稿の上りが五月の末という|約《やく》|束《そく》になっている。仕上げにはいつもより|若干《じゃっかん》多く時間を取ろう。しかし一か月あれば|充分《じゅうぶん》だろうな」
「すると、検討期間を二週間として……」
公路も手帳を見ながら、「四月半ばまでに各人の原稿が出来ればいいですね」
「四月の頭にはまた雑誌の締切りがいくつかある。できればその前に|揃《そろ》った方がいいな」
「前にですか?」
「そのつもりでいて、ちょうどいいさ」
「なるほど。じゃ三月末。今月一杯だ」
景山は自分の手帳へ書き込みながら、
「厳しいなあ」
とため息をついた。
「|金《かね》|儲《もう》けは厳しいもんだよ」
と西本は|微《ほほ》|笑《え》みながら言った。
「あれ、西本さん、その小指、どうしたんですか?」
と公路に|訊《き》かれて、西本はついうっかりと左手を出してしまっているのに初めて気付いた。
「え?――ああ、これかい?」
と|慌《あわ》てて糸をむしり取ってしまった。「いや何でもないんだ」
後で何が起こるかは考えたくなかった。
「何か奥さんに買物でも|頼《たの》まれたんじゃないのか?」
と景山がニヤつきながら、「子供の頃、よくお|袋《ふくろ》が、お使いを忘れないようにって、指を糸で|縛《しば》ったもんだ」
「へえ、そんなことするんですか」
と公路は面白がっている様子だ。「それで忘れずにすみましたか?」
「糸のことは気になるんで|憶《おぼ》えてたよ。しかしどうして縛ったのかを忘れちまった」
景山の笑い声を耳にしながら、西本は思った。「お使いを忘れないように」か。全く、その通りだな……。
「じゃ今月一杯で各自の案をストーリーにまとめて来ること。いいね」
と念を|押《お》す。「みんな自分が女房を殺したがってると考えてみるんだ。無理な注文かもしれんがね」
三人の顔に――いや、西本自身の顔にも――|苦《にが》い|笑《え》みが浮かんだ。
「さて。それじゃ今日はこれで解散しよう。急ぎの仕事は片付いたし、少し骨休めしてもいいだろうからね」
「西本さん、一杯やりますか」
「軽くなら付き合うよ。とても若い人には追いつけんからな」
「俺はとことん付き合ってやるぜ」
と景山が言う。
「そうか、君、奥さんが出かけてるんだっけな。フランスだったか?」
「パリとローマだ」
「いつ戻るんだ?」
「今週の末には帰る予定[#「予定」に傍点]だ」
と景山は「予定」というところにわずかに力を入れた。「何しろあいつの旅行気違いにも困ったもんだよ」
「|浮《うわ》|気《き》なんかされるよりいいじゃないか」
と西本は笑った。「じゃ行くか。――香川君、君はどうする?」
行かないのを承知で|訊《き》くのが西本の|律《りち》|儀《ぎ》なところである。香川は黙って首を|振《ふ》り、まるで|眠《ねむ》りに入るとでもいうように目を閉じた。
「それじゃ、また明日」
西本は言って、他の二人を|促《うなが》した。
「ありがとうございました」
西本が伝票にサインをすると、店の女の子が元気良く言った。店を出ようとして、景山はふと足を止め、席に一人残っている香川を振り返って見ると、
「気取り屋め!」
と|呟《つぶや》いた。先に道へ出た西本たちが、ちょうどやって来たタクシーを止めて、
「おい、景山君! 来いよ!」
と呼んだ。景山が急いで走り出す。三人を乗せたタクシーが、|銀《ぎん》|座《ざ》の方へと走り去った。
香川は目を開けた。
「行ったか?」
「ええ」
店の娘――エリ|子《こ》といった――がぶらぶらと香川の方へやって来る。店には他に客はなかった。
「俗物どもめ!」
香川が|吐《は》き|捨《す》てるように言った。
「そうつっぱらないで」
エリ子が香川に近寄って、|肩《かた》へ手を回した。香川がチラリとカウンターの方へ目をやると、エリ子は、
「|大丈夫《だいじょうぶ》。マスターは今お|昼《ひる》|寝《ね》中よ」
「そうか」
香川がそっとエリ子のスカートをたくし上げながら、「|俺《おれ》たちも昼寝するか?」
と言った。エリ子は笑いながら香川の手を押しやって、
「お客が来たらどうするのよ」
「今、手が|離《はな》せません、と言ってやるさ」
「愉快でしょうね!」
エリ子は笑いながら香川から離れた。「でも私、落ち着かないのはいやなの」
「今夜、どうだ?」
「そうね」
エリ子はカウンターの内側へ入って、「明日なら」
「よし。じゃ明日の帰りに待ってる」
「どこで?」
「いつものホテルは?」
「いいわ」
「それじゃ……」
と席を立った香川へ、エリ子が冷やかすように言った。
「今夜は|誰《だれ》と寝るの?」
「誰にするか迷ってるんだ」
香川は|真《しん》|剣《けん》に額にしわを寄せて見せた。「クレオパトラかトロイのヘレンか。でなければ――」
「|山《やま》|口《ぐち》|百《もも》|恵《え》?」
香川は笑って手を振ると、店を出て行った。
そもそも、共同執筆を考えたのは、西本であった。いや、西本と公路との話の中から自然にそのアイデアが生まれて来たと言った方が正確だろう。
二人はTV局のビルの|喫《きっ》|茶《さ》室でたまたま同じテーブルについた。むろんお|互《たが》い、顔見知りでも何でもなかったが、たまたま同じTV番組の台本を持っていたことから、話を|交《か》わしたのである。
それは西本の新人賞受賞作が単発ドラマ化されるという幸運に|恵《めぐ》まれた、その台本だった。もっとも、正確に言えば、その頃ヤング層に人気のあったタレントを使うのにちょうどいい作品として、彼の受賞作が選ばれたのであって、そのために、ストーリーやキャラクターには|大《おお》|幅《はば》な|変《へん》|更《こう》が加えられていた。
西本は別にその点に対して苦情など言わなかった。自分の作品が映像化され、〈原作・西本安治〉とブラウン管に映るというだけで満足だった。それに安くはあるが原作料というものも入る。この頃の西本にとっては、全くありがたい収入であった。
それに、実の所西本は台本の出来映えに、内心大いに感心していたのである。登場人物の内面的な|苦《く》|悩《のう》は|一《いっ》|切《さい》|省《はぶ》かれ、主人公も歌手|兼業《けんぎょう》のタレントの、学芸会|並《な》みの演技力でも何とかなるような単純な性格に変えられていたし、原作の持つ|風《ふう》|刺《し》的な|肌《はだ》|合《あ》いは望むべくもなかった。それでいて、ストーリーは実に面白くなっていた。
なるほど、こうする手があったのか、と西本はシナリオを読みながら何度も|唸《うな》らされた。そのライターが、|公《こう》|路《じ》だったのである。
喫茶室で、互いが原作者、シナリオライターであると知ると、二人は|年《ねん》|齢《れい》の差を|超《こ》えて意気投合した。そして西本は公路のストーリー作りの才を|賞《ほ》め、公路は西本の小説の登場人物の持つ|魅力《みりょく》的なムードに感服した。
二人の才能を合わせたら、とどちらからともなく言い出したのは、その夜、バーで飲んでいる時だった。二人はその気になった。二人でベストセラーを書きまくろうと、景気良くぶち上げたのだ。
しかし、|素面《 しらふ》になってから、二人が真剣にそのアイデアを検討してみると、どうもまだ欠けた所があるという結論になった。――現代の小説は多かれ少なかれ情報小説の側面を持っている。しかし、足を使っての取材ということになると、西本も公路も全く未経験で、どうやってよいかも分らない。
取材のプロが必要だ。そして小説を書こうという気が多少ともある人間が……。西本は、自分が新人賞を受けた時、最終候補に残った他の六編の中に、新聞記者がいたのを思い出した。「綿密な取材は評価できるが、それを小説にするだけの力量がない」という選評があった。会ってみよう、と西本は思った。
それが景山である。
香川が加わったのは、全くの|偶《ぐう》|然《ぜん》だった。公路が手直ししたシナリオを持って、TV局のプロデューサー室へ行った時、プロデューサーと|喧《けん》|嘩《か》している|妙《みょう》な男がいた。よく|新宿《しんじゅく》の地下街あたりで〈私の詩集〉などを売っている|類《たぐい》の芸術家[#「芸術家」に傍点]の風体をしている。どうやら詩だけでは食って行けないので、TVドラマの主題歌の作詞をして来たらしいのだが、プロデューサーがその詞の中の一語を――「ひそかな」を「かすかな」に変えろと言うのを、その詩人がどうしても承知しない、ということらしかった。
|馬《ば》|鹿《か》だな、プロデューサーを|怒《おこ》らせたら、元も子もないのに、と思いながら公路が|眺《なが》めていると、話は全くの平行線で、ついにプロデューサーは、|訂《てい》|正《せい》しなければこれは使わないと宣告した。すると詩人はやおらその詞を書いた紙を取ると、粉々に引き|裂《さ》き、プロデューサーの机の上へ、雪のように散らせて、さっさと行ってしまった。
言われた通りに直すのが当り前と思い込んでいた公路は、びっくりした。そして自分でもよくわけの分らないままに、その詩人を追いかけていたのである。
それがむろん香川だったわけだが、共同執筆者に|彼《かれ》を加えるということに、最初西本は不安を|抱《いだ》いた。全く性格も年齢も違う四人が一つのペンネームで小説を書くとなれば、互いに|妥協《だきょう》点を見出して行かなければ仕事にならない。それには香川のような男は不向きではないかという気がしたのである。
しかし、公路の熱心な説得で、ともかくやってみようということになった。いざ、四人で始めてみると、香川は意外に共同作業に|徹《てっ》して、|妙《みょう》に|我《が》を張ることもなかった。西本は公路の考え出すストーリーと景山の集めた資料をもとに、第一稿を仕上げ、香川が文体に手を加えた。香川の持っている言葉のリズムの感覚が、文章を|見《み》|違《ちが》えるように|新《しん》|鮮《せん》にした。
――これは行ける! 西本はこの四人のチームワークに自信を抱いた。
こうして四人で一人の、|西《にし》|公《こう》|路《じ》|俊《とし》|一《かず》の創作活動は開始されたのである。
3
「女房を殺す法か……」
自分でテーマを出しておきながら、西本は、果して|俺《おれ》にそんなものが書けるだろうか、と心配になっていた。
公路には確かに、うってつけのテーマであろう。彼は頭の中で、いくらでも|虚《きょ》|構《こう》の世界に遊ぶことができる。ところが西本は、といえば、現実を見る目は社会経験の豊かさで公路よりも|遥《はる》かに|鋭《するど》いものの、想像力というものにいささか|乏《とぼ》しい。これは先天的なもので、|如《いか》|何《ん》ともし|難《がた》いのだ。
公路、景山と別れて、帰路に着いた西本は、電車に|揺《ゆ》られながら、|酔《よ》いもさめてしまっていた。元来が|真《ま》|面《じ》|目《め》な男なので、することがないと、ついつい仕事のことを考えてしまうのだ。
そもそも、どうしてあんなテーマを出したのか、自分でもよく分らない。何の気なしに口に出して、後は公路の言葉に乗せられて、決めてしまったのだが……。何か無意識に、妻を殺そうという気持が働いてでもいたのだろうか。
「信子を殺す、か……」
と|呟《つぶや》いて、西本は|苦笑《くしょう》した。|俺《おれ》にあいつが殺せるものかどうか、考えなくても分る。殺されることはあるかもしれないが、殺すことなど、とてもとても。大体、そう簡単に死ぬような女ではないのだ。
それに、信子は確かにいい女房とは言えないにしても、かつてはいい女房だったこともあるのだし、今、ああなってしまったからといって、信子一人を責めるのも片手落ちというものではないか。悪妻を作るのは|亭《てい》|主《しゅ》かもしれない。
西本は、至って公平で、|真《ま》|面《じ》|目《め》な男なのである。
それにしても、帰宅が|憂《ゆう》|鬱《うつ》だというのは事実だった。特に今日は……。西本は左手に目をやった。結んであった糸は捨ててしまったし、今さら糸を買って結び直しても仕方あるまい。信子が、「ただじゃおかない」と言っていたのを思い出して、西本は頭上に|鉛《なまり》の|塊《かたまり》を乗せられたように、体が|沈《しず》み込んで行くのを感じた。あいつがああ言うのだ。本当に、ただじゃ済むまい。
駅前でもう一度飲んで行くか。そして、|泥《でい》|酔《すい》して帰れば……。
「いや、よそう」
たかが半日かそこら、いざこざが延びるだけの話だ。どんなに酔って帰っても、|優《やさ》しく|介《かい》|抱《ほう》してくれる信子ではないし、後の体調の方が気にかかる。
「まさか殺されることもあるまい」
と西本は自分に言い聞かせた。|灰《はい》|皿《ざら》か何かの一つ、二つ、ぶつけられてけがをするかもしれないが、まあ命に別状はないだろうし、雨に降られたとでも思って|我《が》|慢《まん》していればいいのだ。
こんな風にあれこれ気を回したり、自分を勇気づけなければ家へ帰れないとは、全く情けない話だ。といって、家を出ようにも、収入、支出は|総《すべ》て信子が管理していて、西本は|印《いん》|鑑《かん》一つ、キャッシュカード一枚持っていない。つまり無一文である。印税や原稿料は銀行へ振り込まれて来るから、現金が|直接《ちょくせつ》西本の手に|渡《わた》ることはない。
この|年《と》|齢《し》で家出するというわけにもいくまい……。
西本は、何とか言い|逃《のが》れればいいさ、と目を閉じた。
こんな時に限って、降りる駅がいやに近いような気がする。西本は極力、これから|襲《おそ》って来るであろう事態を考えないように努めながら、家路を|辿《たど》った。
「ただいま」
|玄《げん》|関《かん》へ入る時には、さすがに心臓がキュッとしめつけられるような気がした。今にも信子が|牙《きば》をむき出して姿を現すのではないか、と思いながら|靴《くつ》を|脱《ぬ》いでいると、
「あら、早かったのね」
と女の声がした。顔を上げると見知らぬ女がにこやかに|微《ほほ》|笑《え》みながら立っている。
――見知らぬ女? いや、信子だ。信子には違いないが、あまり予想と違うので、別人のような気がしたのだった。
「ちょ、ちょっと他の連中と飲んで来てね……」
「そうだろうと思ったわ。晩ご飯は?」
「いや、食べちゃいないが――」
「じゃ、食べなさいよ。あなたの分、取ってあるから。先にお|風《ふ》|呂《ろ》へ入る?」
「そ、そうだな。――いや、後で先に入るよ」
と自分でも何を言っているのかよく分らない。それほど|面《めん》|食《く》らってしまったのである。
「――はいお茶」
「ありがとう」
軽く夕食をかっ込んで、西本はほっと息をついた。熱いお茶を飲みながら、一体これはどうなってるんだ、と思った。信子がいつあのことを言い出すか、左手の小指の糸がなくなっていることに気付くかと、内心びくびくしながら食事をしていたのだが、ついに信子は何も言わなかった。
こんなはずはない。当然、帰った|瞬間《しゅんかん》に信子は夫の小指に気付いているはずである。|今《け》|朝《さ》のことをうっかり忘れているような女ではないのだ。それではなぜ何も言わないんだ? 何を考えてるんだ?――言われたくないくせに、言われないのが気になって仕方ない。なあに、今に言い出すさ。こっちの|隙《すき》をうかがってるんだ。そうに決ってる。
西本は油断するまいと身構えながら、お茶をすすった。当然、ちっともうまくなかった。
ちょっとダイニングから出て行った信子が、|戻《もど》って来た。
「お風呂、ちょうどいいくらいよ。入ったら?」
「あ、ああ……。そうしよう」
「石ケン、新しいのを出しておいたから持って入ってね」
「分った」
浴室へ行った西本は、服を|脱《ぬ》ぐ前に、ふと思いついて、湯舟の|蓋《ふた》を開けてみた。中が空とか、熱湯か、冷たい水になっていることも考えられる。――しかし、それは見当外れであった。|湯《ゆ》|加《か》|減《げん》はちょうどいいし、別に入っても電流が流れるとかいった|仕《し》|掛《かけ》はないようだ。
これじゃ「夫を殺す法」だな。西本は苦笑して服を脱いだ。――湯舟にひたってのんびりと目を閉じていると、段々、ピリピリしていた神経も|鎮《しず》まって来るのが分った。
〈別に何でもないんだ。信子の|奴《やつ》、何かいいことがあって、|機《き》|嫌《げん》がいいだけなんだ。だから、忘れちゃいないが、今日は見逃してやろうと思ってるんだろう〉
〈いやいや、まだ安心するのは早いぞ〉西本は考え直した。〈金のこととなれば、機嫌の|好《よ》し|悪《あ》しに関係ないのが信子だ。やはり何かを|企《たくら》んでいると見るのが正解だろう〉
〈といって……そんなに妻を信じなくていいのか。いくら悪妻といっても、結婚した時は、互いに幸せになれると信じ合っていたのだ。その善意を|素《す》|直《なお》に信じてやるのが夫というものではないか〉
〈|馬《ば》|鹿《か》め! そんな|甘《あま》い気持でいるから女房にいつもやられてしまうんじゃないか。もっと相手の手の内を読まないと、また|寿命《じゅみょう》を縮めることになるぞ!〉
〈いや、たとえ裏切られてもこっちは向うを信じていればいいんだ〉
〈何を青くさいことを言ってるんだ。公路のような若造じゃあるまいし〉
〈いや――〉
〈だが――〉
〈しかし――〉
西本はフラフラになって風呂を出た。すっかりのぼせてしまっていたのだ。
「ずいぶん長いお風呂だったのね」
信子が|呆《あき》れたように言った。ソファで雑誌をめくっている。
「うん……。ちょっとのぼせちまった」
「長風呂は体に毒よ」
そう言って、信子は雑誌の方へ目を戻したが、また顔を上げた。「何か冷たいものでも飲む?」
「いや……そうだな」
「どっちなの?」
「うん、それじゃ……」
「冷たい紅茶でも作りましょうね」
「|面《めん》|倒《どう》だろう」
「いいわよ。あなた、|座《すわ》ってらっしゃい」
とさっさと立って行く。西本はただ|唖《あ》|然《ぜん》として、いつ自分がソファに座ったのかも分らないほどだった。
「こいつは……|大《おお》|地《じ》|震《しん》の前ぶれかな」
と思わず|呟《つぶや》く。信子がさっさと[#「さっさと」に傍点]立って行くなんて光景を見たのは、何年ぶりだろうか。
五、六分して、信子はアイスティーのグラスを持って戻って来た。
「どうも、すまんな」
「いいわよ」
と事もなげに言って、信子はまた雑誌の方へ戻った。紅茶にも毒は入っていないようだ。西本は何となく後ろめたさを感じていた。
「なあ、信子」
「何?」
「実は……今朝の話なんだが……」
相手が忘れているという可能性も万に一つくらいはあるというのに、わざわざ自分から言い出すのが西本らしい所である。
「ああ、どうしたの、話した?」
信子はあまり関心のない様子だった。
「それが、飲みながら話そうと思ったんだが、飲んでる内につい……」
「そんなことだろうと思ったわ」
と信子は笑って言った。「まあいいわよ」
西本は今度こそホッとした。助かった!
まるで宿題を忘れた小学生の気分から、一度に明日から夏休みという気分に変ってしまったようだ。
「たぶんそうじゃないかと思ってね」
信子は雑誌へ目を戻して、言った。「私が手紙を出しておいたわ」
西本は目をパチクリさせた。
「――手紙?」
「そう」
「何の手紙だ?」
「決ってるじゃないの。今朝話してたことよ」
「つまり……」
「うちの取り分を多くするってこと」
「取り分を多く?」
「そう。うちが半分、後の三人で半分、とも思ったけど、それじゃあなたがちょっと困るかと思ってね。うちで四〇パーセント、残りを二〇パーセントずつ三人、という風にしたわ。ちょうど割り切れるしね」
「それを……手紙に書いたのか?」
「そう。来月分の収入から、ってしておいたわ。今年初めにさかのぼってもよかったけど、|誰《だれ》だって、一度もらったものを返すのは|嫌《いや》なもんですからね」
信子は雑誌を見たままだ。西本は顔から血の|気《け》がひいていくのを感じた。
「それを……誰に出したんだ?」
「誰って、決ってるじゃない。公路さん、景山さん、香川さんの三人よ。同じ文面を三度書いたらうんざりしたわ」
西本は|腰《こし》を|浮《う》かした。
「よ、よせ! どこにあるんだ、手紙は?」
「馬鹿ねえ。もうポストの中よ」
「どこのポストだ?」
信子は|苛《いら》|々《いら》した様子で雑誌を放り出した。
「それを聞いてどうしようっての?」
「どうって……。取り返すんだ。集めに来た時に。間違いだったと言って……」
「気でも狂ったの? いい|加《か》|減《げん》にしなさいよ!」
信子がスックと立ち上って西本に|迫《せま》って来る。西本は思わず後ずさった。
「あんたに任せといたら、百年かかってもらちがあかないから、自分でやったんじゃないの。文句あるの? 言ってごらんなさいよ!」
西本はへなへなとソファへ座り込んだ。――何てことだ! 四人の団結もこれで終りだ。そんなことを、自分の口からでなく、女房の手紙で……。西本は夫としてのプライドが粉々に|砕《くだ》かれるのを|呆《ぼう》|然《ぜん》と|眺《なが》めていた。いや、もともと砕かれてはいたのだが、さらに分子か原子の単位まで細かくされたようだった。
「何も……そこまでしなくても……」
弱々しい|抗《こう》|議《ぎ》が口をついて出た。すかさず信子の大声がそれを圧倒する。
「じゃ、自分でさっさと言えばよかったのよ! もう、いくらわめいたって|手《て》|遅《おく》れですからね!」
手遅れか。手遅れ……。結婚そのものが、もう「手遅れ」だ。
「あんたは黙って仕事してりゃいいのよ」
信子は、西本が半分飲みかけたきり手に持っていたアイスティーのグラスを引ったくると、
「フン、少し|優《やさ》しくしてやりゃ、すぐつけ上って!」
と台所の方へ行ってしまった。
やり切れない無力感が西本を襲った。ああまでされて、怒ることもできない自分が、|哀《あわ》れだった。
一体、明日、あの三人にどんな顔で会えばいいのか。――いや、手紙が届くのは明日の午後になるだろうから、明日はまだ大丈夫。家へ帰ったら、その手紙が待っている、というわけだ……。
とても仕事のことなど考える気にもなれない。仕事……。「妻を殺す法」か。妻を殺す[#「妻を殺す」に傍点]……。
「寝るわよ!」
と投げつけるように言って、信子は寝室の方へ行ってしまった。
妻を殺す。――西本は、自分の中に信子への殺意が|芽《め》|生《ば》えているのを知った。
「女房を殺す法、か」
いささかろれつの回らなくなった景山が、舌っ足らずな声で言った。「どうだい、ええ?お前は殺したいと思ったことあるか?」
「僕はまだ新婚ですよ」
と公路は|逃《に》げた。
西本が帰った後、景山が飲み直そうとしつこくからんで来るので、仕方なく公路もこのバーへ入ったのだった。
「新婚? 新婚だろうが旧婚だろうが、悪妻は悪妻だ!――もっとも最初の内は少々のことは許せる。そうだろ? へへ、何しろ|一《いっ》|緒《しょ》にオネンネしてられりゃ、いい気分ってもんよ。鼻について来るまではな」
「はあ……」
公路はチラリと|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見た。景山はすかさず、
「おい、そう時間を気にするなよ。|可《か》|愛《わい》い女房が首を長くして待っているのか? いいねえ、|畜生《ちくしょう》!」
それは確かだ、と公路は思った。|瞳《ひと》|美《み》はきっと帰って来るなりベッドへ連れ込もうと手ぐすね引いているに違いない。
「景山さんだって、|奥《おく》さんを殺そうなんて思わないでしょう?」
公路は話をそらそうとして言った。
「うむ? そうだなあ。殺しゃ罪になるからな。いくら女房でも」
と|肯《うなず》いて見せて、「しかし、死んでほしいと思うことはある」
「そうですか?」
「当り前だ。世の亭主たる者で、そう思わない|奴《やつ》なんてあるもんか。お前だってその内にゃそう思うようになる」
「その前にこっちが死んでるかもしれません」
「何?」
「いえ、別に何でも……。でも、景山さんの奥さんは美人だって聞きましたよ」
本当はそんなこと聞いちゃいないのだが、出まかせを言ったのである。
「そうか? いや、まあ確かに悪くないぞ。何しろ同じ社内で五人の男が取り合ったんだ。それくらい、|憧《あこが》れの|的《まと》だったんだ」
たった今、「死んでほしい」と言っておいて、今度はのろけている。亭主などというのは|可《か》|愛《わい》いものなのである。
「旅行中じゃ|寂《さび》しいですね」
「この|年《と》|齢《し》でチョンガーは|辛《つら》いぜ、全く」
と景山はため息をつく。「娘まで連れて行っちまった」
景山は妻の|和《かず》|代《よ》と、中学生の一人娘、|敏《とし》|子《こ》を思って、ふっとセンチメンタルな気分になった。|今《いま》|頃《ごろ》はパリかローマか、それとも足をロンドンにでものばしているのか……。
「まあ、飛行機が落っこちたんですって」
カウンターの中のホステスが新聞を見て声を上げた。「|怖《こわ》いわねえ。だから私、飛行機っていやなのよ。海外旅行なんてするもんじゃないわね」
「行けないから、そんなこと言うんだろ」
と|誰《だれ》かがからかった。
「あんなこと言って! じゃ連れてってちょうだいよ」
笑い声が|響《ひび》いた。――景山は手をのばして新聞を取った。
「おや、|懐《なつか》しや、|古《ふる》|巣《す》のA新聞じゃないか」
「新聞社時代が懐しいですか?」
「いや、とんでもない。ただのノスタルジーさ。今の方がよほど楽だし……。飛行機事故か」
「どこです?」
「ヨーロッパだ」
景山は真顔になって新聞を見た。「……日本人乗客はいない模様、か」
「奥さんのことが心配なんですね、さっきはあんなことを言ったけど」
と公路がからかうように言うと、
「何を言ってる! |俺《おれ》が心配してるのは娘の方だ!」
と強がって見せた。
「どの辺で落ちたんです?」
「スペインの方だ。まあうちの|奴《やつ》はスペインには興味があるまい」
「|名《めい》|簿《ぼ》になけりゃ大丈夫でしょう」
「お前は知らんらしいな。あっちの名簿なんて実にいい加減なものなんだ。落ちても誰が乗ってたか分らんなんてこともあるんだぞ」
「へえ、そうですか」
公路の頭のアンテナが|素《す》|早《ばや》くそのデータを|捉《とら》えていた。これは何かに使えないかな……。
「じゃ、そろそろ行くか」
景山が立ち上った。
「タクシーで行きましょう。|途中《とちゅう》だから、一緒にどうです?」
「いや、|俺《おれ》は電車で行く」
「でも、どうせ景山さんの所の近くを通るんですよ」
「いいんだ。行ってくれ。ちょうど家へ帰る頃までに|酔《よ》いが少しさめて、いい具合になる。大丈夫だから」
「そうですか……」
表へ出た二人はバーの前で別れ、公路がタクシーを拾った。景山は立ち止まって、公路が乗ったタクシーが走り去るのを見送ってから、自分もタクシーを|停《と》めた。
運転手へ行き先を告げると、景山は大きな|欠伸《 あくび》をして目をつぶった。
「着いたら起こしてくれ」
「いいですよ」
と運転手が答える。景山は安心してすぐに|眠《ねむ》り|込《こ》んでしまった。――新聞を見たせいか、飛行機が火を|噴《ふ》いて落ちる|夢《ゆめ》を見た。なぜか景山は、走ってそれを追いかけている。窓からは助けを求める娘の敏子の顔が見える。その奥には和代の顔が……いや、そうではなかった。その奥からなまめかしい笑いで景山を手招きしているのは、|朝《あさ》|倉《くら》|冬《ふゆ》|子《こ》だった……。
「早く来てよ。ずっと待ってたのよ」
と|恨《うら》みがましく、甘えたような声が聞こえて来る。全くいい女だ。すっかり|有《ゆう》|閑《かん》夫人ぶって、お高く止まるようになった和代とは段違いだ。三十|歳《さい》という|年《ねん》|齢《れい》の|割《わり》には、まるで二十歳そこそこのような、引き|締《し》まったいい体をしている。
今行くからな。待ってろよ……。
「あら、あなたなの」
ドアを開けると、冬子が、ボサッとしたガウン姿で立っている。
「何だ、喜んでくれないのか」
|部《へ》|屋《や》へ入りながら、景山は言った。
「気分が悪いのよ」
冬子は寒気でもするように身を縮めて|狭《せま》いソファに腰をかけた。「飲むのなら勝手にやってちょうだい」
「いや、飲んで来た所だ」
景山は心配そうに冬子の顔を|覗《のぞ》き込んだ。
「病気か? |二《ふつ》|日《か》|酔《よい》?」
冬子はすぐには答えなかった。しばらく、じっとこめかみのあたりを指で|押《おさ》えていたが、やがて景山を見て、
「|妊《にん》|娠《しん》よ」
と言った。
景山は|愕《がく》|然《ぜん》とした。いくらか残っていた酔いも|吹《ふ》っ飛んでしまう。
「確かなのか?」
「残念ながらあなたの子よ」
「そんなこと……分ってるとも」
冬子はかすかに笑って、
「ありがとう。『本当に俺の子なのか』って|訊《き》かれるんじゃないかと気が気じゃなかったわ」
景山は冬子の手を|握《にぎ》った。冬子もそれを握り返して、
「始末をつけなきゃね」
「そ、そうだな……」
「私は生みたいと思ってるけど」
「おい――」
と景山が思わず言いかけるのを|遮《さえぎ》って、
「心配しないで。あなたに|迷《めい》|惑《わく》はかけないわ」
――朝倉冬子は、景山がいたA新聞に勤めるOLである。口やかましいハイミスというイメージと違って、女らしいしっとりとした落ち着きがあって、景山の目を引いた。もっとも、二人がこういう仲になったのは、景山がA新聞を退職し、作家生活に入ってしばらくたってからのことである。
どちらが|誘《さそ》ったというわけでもない。たまたま資料調べに古巣を訪れていた景山が|廊《ろう》|下《か》で冬子に出会い、何となくお茶を飲みに行き、何となく夕方だったので夕食の|約《やく》|束《そく》をし、何となくバーへ寄り、何となくホテルへ行った、というわけである。
何となく始まった関係としては、もう一年以上続いていたし、景山も日を追ってこのアパートへ来る回数が多くなっていた。
「俺が女房と別れたら……」
と景山が言い出すと、冬子は笑って、
「ぬか喜びさせちゃ罪よ。お|嬢《じょう》さんのことも考えなさい」
「あれも子供じゃない。分ってくれるさ」
「奥さんがすんなりOKすると思う? もめ事はいやだわ」
そう言われると景山も一言もなかった。
「――まあ、|堕《おろ》すことになるでしょうね」
冬子はさり気なく言ったが、景山は冬子の口調に|寂《さび》しさがにじみ出ているのに気付いていた。
「ねえ、今夜はどうするの?」
「|泊《とま》ってもいいのか?」
「私はいいけど。――奥さんが|戻《もど》るまでですものね」
ふと、景山は思った。あのスペインで|墜《つい》|落《らく》した旅客機に、和代の奴が乗っていてくれたら……。景山が本気で妻の死を願ったのは初めてだ。
妻を殺す法、か。
公路は台所へ|辿《たど》り着くと、冷蔵庫を開け、食べられるものをあさった。
ソーセージがあるのを見付けて、ムシャムシャとかじる。――空腹のまま、ベッドへ引きずり込まれ、もう目がまわりそうだった。このままじゃ死んじまう。
全くひどいものだ。当の|瞳《ひと》|美《み》は終ってぐっすり|寝《ね》|入《い》ってしまっている。
仕方なく公路は自分で|冷《れい》|凍《とう》食品を取り出して温め始めた。
「|女房《にょうぼう》を殺す法か……」
俺の場合は正当防衛だ!
4
「女房を殺す法、か……」
香川は、自宅へ帰る前に、近くの|喫《きっ》|茶《さ》店へ寄った。|馴《な》|染《じ》みの店で、エリ|子《こ》のような|魅力《みりょく》的なウエイトレスはいないが、|妙《みょう》に客へなれなれしい口もきかず、といって無愛想でもないマスターと、その若い夫人が小さな店を切りもりしていた。
ここには静けさがあり、心の安らぐ空間と無関心があった。――最近は、たったこれだけの条件をも満たしてくれる店がほとんどなくなってしまった。
香川は半分ほど飲んだコーヒーカップをさめるに任せて、ぼんやりと目を|虚《こ》|空《くう》へ向けていた。――|無《む》|為《い》の時間。詩人にとっては、その時間こそが最も生産的な時間なのである。
仕事場で、散文的な三人の男たちと席を|並《なら》べているのは、香川にとって全くの無駄な[#「無駄な」に傍点]時間なのだった。しかし生活のためには仕方ない。〈理想〉をバター焼にして食べるわけには行かないのだから。
だが、このところ、|苛《いら》|立《だ》ちが香川の中にくすぶり始めていた。|俺《おれ》はあんな三文文士や記者くずれとは違う。詩人なのだ、と言い聞かせてはいたが、実際に|彼《かれ》が書き、言葉として創造するのは、|西《にし》|公《こう》|路《じ》|俊《とし》|一《かず》の|原《げん》|稿《こう》だけだったのである。
この四か月、一つの詩も書いていない。これは今までにないことだった。一か月、あるいは二か月、書けないことは何度かあった。しかし、それらはやりかけて行き|詰《づ》まった場合のことである。書いている詩の一行がどうしても思い付かない。書き上げた一編の中の一つの単語がどうしても気に入らない。そういう、いわば目的と理由のはっきりした|苛《いら》|立《だ》ちであった。
しかし今度ばかりは|違《ちが》う。何も[#「何も」に傍点]書けないのだ。何も|湧《わ》いて来ないのだ。|突《とつ》|然《ぜん》、停電でTVの画像を断ち切られたように、香川の中で、〈詩〉がその流れを止めてしまったようであった。一時的なことなのか。|締《しめ》|切《き》りに追われている四人の日常に|馴《な》れてしまった結果なのだとしたら、一時的な|休憩《きゅうけい》――|充電《じゅうでん》のための期間だとのんびりしてはいられない。
すでに詩の泉は|枯《か》れかかっているかもしれないのだ。このまま放っておけば、ますます|干《ひ》|上《あが》って、底が|露《ろ》|呈《てい》し、ひび割れ、風化していくに違いない……。
だからといって、どうすればいいのだろう?
原因ははっきりしている。低俗な小説作りに参加して、言葉を|濫《らん》|費《ぴ》しているからだ。言葉の神聖さを犯しているからだ。詩というものは、一行を完成するために、時として何日もかかることがある。一つの言葉、|句《く》|読《とう》点ですら、あるべき所に、あるべき姿で置かれており、他と|換《か》えたり、動かしたりすることは決して許されない。
それに引きかえ、|西《にし》|公《こう》|路《じ》|俊《とし》|一《かず》の作品と来た日には……全くお話にならない。月並な形容詞、およそリズム感に欠けた文体、単に枚数を|埋《う》めるための、会話の水増し……。豊富なデータに基づいた情報小説と言えば聞こえはいいが、要するに|文《ぶん》|献《けん》の引き写しと資料の|羅《ら》|列《れつ》で枚数を|稼《かせ》いでいるに過ぎない。おまけにその資料がどこまで客観的に|信《しん》|頼《らい》できるものなのか、という点になると、はなはだ|怪《あや》しいものなのである。
それに男と女が出て来れば必ずベッドを共にする、その|陳《ちん》|腐《ぷ》さ。|描写《びょうしゃ》の陳腐なことも、これが詩作なら、どんなヘボ詩人だろうと一片の良心でもあれば決してやらないような、同じ表現のくり返しだ。男は決ってセックスの達人で、女は決って絶頂を|極《きわ》める。しかし、現実に、ろくに知りもしない男女が初めて一緒に寝たところで、そう|巧《うま》く行くなどということは考えられない。
心理的に見て不自然な行動も、「ストーリーのため」には許される。登場人物の処置に困ると、「交通事故にでも|遭《あ》わせるか」とめちゃめちゃである。
あんな大衆に|媚《こ》びへつらった|娯《ご》|楽《らく》小説など、いやしくも言葉に仕える者が手がけるものではない。――それは分っている。それなら、なすべきことは明らかだ。〈西公路俊一〉から手を引けばいいのである。〈西公路俊〉をどう読ませるのか知らないが、そんなことは彼の知ったことではない。
だが、それはできない……。
香川は店のマスターに向って軽く手を上げて、相手が気付くと、
「コーヒーをもう一|杯《ぱい》」
と声をかけた。若い細君が急いでやって来て、まだ少し飲み残しているコーヒーを運び去って行く。――考えが一区切りつくと、コーヒーのお代りをするのが香川の|癖《くせ》である。その時間的な〈間〉が、新しい空気を頭へ吹き込むような気がするからだ。
今の仕事を|辞《や》める。それはできない相談であった。収入|激《げき》|減《げん》。そのこと自体は、さほど|恐《おそ》ろしくない。もともと香川はあまり金を使う方ではないし、なければないで、それなりに生きて行けるものだということは、かつての|風《ふう》|来《らい》|坊《ぼう》生活で分っていた。
構わない。自分一人ならば[#「自分一人ならば」に傍点]……。
いつもと同じ結論になった。香川はそれ以上のことを考えようとはせずに、後は二杯目のコーヒーを無心にすすった。
「ありがとうございました」
主人夫婦の声がピタリと合って、|一瞬《いっしゅん》、香川は〈美しい〉と思った。|純粋《じゅんすい》な|音《おん》|程《てい》で響き合った和音のような、絶妙な調和を、そこに感じたのである。
あの夫婦はずいぶん年齢は違うが、きっと愛し合っており、巧く行っているのに違いないと香川は思った。そうでなければ、ああも調和した響きを、期せずして出せるものではない……。
自分が苦心してひねり出す詩の数行よりも、あの「ありがとうございました」の方が、ずっと美しく、胸をうつ、と思って、香川はちょっと|憂《ゆう》|鬱《うつ》になった。
「女房を殺す法か」
ふと、香川は、自分が書くとすれば、こんな書き出しになるだろうな、と思った。
〈「ありがとうございました」
喫茶店の主人夫婦は声を合わせて言った。それを背中に聞きながら、私は、あの夫婦はきっと|仲睦《なかむつま》じいのに違いないと思った。自分の家とは何という違いだろう……〉
香川は、|表札《ひょうさつ》も何もない、一戸建ての家へと入って行った。この自宅の住所を知っているのは、三人の同僚だけだが、彼らとてここへ来たことはない。ましてや、出版社などには、仕事場の住所と電話だけしか教えていなかった。
二階建の、小ぢんまりとした出来合いの住宅だ。|分譲《ぶんじょう》して売れ残った一|軒《けん》を、|交渉《こうしょう》して借りているのだった。ここへ|越《こ》して来て一年近くになる……。
|玄《げん》|関《かん》の|鍵《かぎ》は開いていた。香川はドアを開け、
「ただいま」
と言った。すぐに、|涼子《りょうこ》が顔を出した。
「お帰りなさい。飲んでいらしたの?」
涼子の口調に、不平じみた所は全くない。
「いや、ちょっと打ち合せでね」
香川は玄関を上った。
「じゃ夕食はまだ?――今、すぐ温めるわ」
涼子はエプロン姿で台所に立った。香川は、彼女がエプロンをしていない姿を、あまり見た|記《き》|憶《おく》がなかった。
香川が結婚したのは、ちょうど一年前だ。そのために、この安っぽい、しかし最低限必要な広さだけは持っている家へ越して来たのだった。三人[#「三人」に傍点]で住むには、どうしてもこのくらいの広さが必要だった。
結婚した時、涼子は|妊《にん》|娠《しん》していた。そして今では――
「|詩《うた》|子《こ》は?」
「もう眠ってるわ。よく動くんですもの、|疲《つか》れるのよ、きっと」
「そうか……」
香川は新聞を広げた。「ああ、明日の晩は編集者の招待で|遅《おそ》くなるよ。先に寝ててくれ」
「分ったわ」
涼子は|鍋《なべ》の|蓋《ふた》を取った。「もうちょっと待ってね……」
少しも彼のことを疑っていないのだ。香川は軽く息をついて新聞を眺めた。|安《あん》|堵《ど》のため息か、|落《らく》|胆《たん》のため息か、自分でもよく分らなかった。
香川が結婚を仲間の三人にも隠していたのは、月並みなお祝いや教訓めいた言葉を聞くのがいやだったからである。
香川は、結婚そのものを否定している一部の芸術家とは違っていた。それはそれなりに美しいものだと思っている。しかし、結婚することと、結婚生活を送ることとは違う。結婚すれば、自分の人生は自分だけのものでなくなるのだ。そこから果して詩は生まれるのか……。
「お待ち遠さま」
涼子が夕食を並べる。――涼子はまだ若い。やっと二十二歳だ。〈|平《へい》|凡《ぼん》〉を絵にしたような女である。中肉中背、美人でもなく不美人でもなく、そばにいても気にならない代りに、いなくなってもまるで気付くまい。
香川が涼子と結婚したのは、多分に気まぐれと|偶《ぐう》|然《ぜん》からである。広告会社の宣伝文を作る仕事をしている時、その会社で使い走りをしていたのが涼子だった。
まだ|西《にし》|公《こう》|路《じ》|俊《とし》|一《かず》の仕事も|軌《き》|道《どう》に乗らず、悪戦|苦《く》|闘《とう》を続けていた時期だったので、香川もアルバイトにそんな仕事をしていたのだが、自信のあった宣伝文句を散々こきおろされて、カッカしながらその広告会社を出た所で、使いから|戻《もど》って来た涼子とばったり出会ったのである。彼の|苛《いら》|々《いら》した様子に気付いた涼子が、
「どうしたの?」
と|訊《き》いた。香川はむしゃくしゃして、やり切れない気分だった。いきなり涼子の腕をつかんで、近くのコーヒーショップへ連れて行った。涼子は|面《めん》|食《く》らった様子だったが、それでも逆らわずについて行った。
香川が会社のことをぼろくそに言って、
「あんな所、辞めちまえよ」
と言うと、涼子はこっくり|肯《うなず》いた。
「で、どうするの?」
まさかそんな風に|訊《き》き返されようとは思っていなかった香川は答えに|詰《つ》まったが、
「そりゃ……|俺《おれ》の所へ来いよ」
と言ってやった。涼子は、
「いやだ! 悪い|冗談《じょうだん》!」
と笑い出した。香川もちょっとむきになった。自分の言ったことを笑われるのが香川にとっては一番腹立たしいことだったのである。
「|嘘《うそ》だと思うのか? じゃついて来い」
と席を立った。
「どこへ?」
「俺の|部《へ》|屋《や》だ」
「だって、お使いの帰りなのよ。会社へ戻らないと」
「会社は辞めるんじゃなかったのか?」
「それにしたって……」
涼子は目を丸くしていたが、|怒《おこ》っている様子はなかった。それも考えてみれば不思議なことだが、香川は別に気に止めなかった。二人はそのまま――香川のアパートは大分遠かったので――近くのホテルへ直行した。
至って散文的に二人は結ばれたが、その後で、初めて涼子は以前から会社へやって来ていた香川に心を|魅《ひ》かれていたのだと打ち明けたのである。香川は時として人一倍センチメンタルになることがあり、涼子が、
「結婚してくれなくてもいいのよ。あなたが最初の人だったというだけで、満足だわ」
などと言い出したので、|涙《なみだ》が出るほど感激したのだった。――二人は次の日に結婚した。いや、|届《とどけ》を出した、という意味である。涼子が香川のアパートへ引き移ったのは、その当日のことだったのだ。涼子も身軽であった。|田舎《 いなか》の両親はすでに|亡《な》くなり、ただ一人の姉は生活と育児に追われて涼子の動向など気にも止めていなかった。
すぐに涼子は身ごもって、その|頃《ころ》、|西《にし》|公《こう》|路《じ》|俊《とし》|一《かず》も|次《し》|第《だい》に仕事が増え始めていたので、二人はここへ引っ越して来た……。
夕食を取りながら、香川は、もし涼子と結婚していなかったらどうなっていただろう、とふと考えてみた。――収入は厳正に四等分されていたから、独身者の彼は、かなり|優《ゆう》|雅《が》な|暮《くら》しを楽しめたはずである。こんな味も|素《そっ》|気《け》もないマッチ|箱《ばこ》ではなくて、もっと人里|離《はな》れたコテージのような所に住んで、自然と|戯《たわむ》れながら詩想を練る。仕事の方は必要な時に出て行けばいい。
それが現実にはどうだ。目の前にはもういささか|世《しょ》|帯《たい》じみて太って来た女房。二階の部屋には、年中神経を|突《つ》き|刺《さ》すような泣き声をたてる赤ん坊だ。
たった一度の気まぐれが、人生を大きく変えてしまう……。
「そろそろ一年ね」
と涼子は言った。「ここへ越して来てから」
「そうだったかな」
と気のない返事をする。
「|夢《ゆめ》みたいだわ。こんな家に住めるなんて」
「夢?――ここが夢か?」
「だって私の家は貧しかったもの。いつも他人の家に借り住いで小さくなってなきゃいけなかったわ。東京へ出て来てもアパート一間の暮しばかり。あなたと結婚しても、きっとそうなんだろう、と思ってたの」
「見くびられたもんだな」
「そうじゃないの。ほら、その人の星っていうのがあるでしょう? 悪い星の下に生まれたとか。私は一間のアパート住いっていう星の下に生まれたと思ってたのよ」
「ちっとはまし[#「まし」に傍点]だったってわけか」
「それからすれば夢みたいよ、こんな二階建の家なんて……」
と涼子は安っぽい|装飾《そうしょく》の|天井《てんじょう》を見上げた。
「時々、夜目を覚ましてね、あれ、どうして上の階や|隣《となり》から音がしないんだろうって不思議に思うことがあるの。あ、そうだ。ここはまるまる私たちの家だったんだって思い出しておかしくなるわ」
涼子は|微《ほほ》|笑《え》んで、それから夫の方へ目を戻すと、少し改まった口調になった。
「ねえ、お願いがあるんだけど」
「何だ?」
涼子はしばらく口ごもっていた。
「もし……あなたが|馬《ば》|鹿《か》らしい、と思うんなら……」
「言ってみなきゃ分らないだろう」
「ええ……。あのね、写真を|撮《と》りたいの」
香川はちょっとはぐらかされた感じで、
「写真を撮るのが、どうして馬鹿らしいんだ?」
と|訊《き》いた。
「だから……結婚式の写真を」
と涼子はほとんど消え入りそうな声で言った。そして|慌《あわ》てて続けた。
「式を挙げたいっていうんじゃないの。今さら子連れで花嫁さんでもないから。ただ、|衣裳《いしょう》をつけて写真を撮っておきたいのよ。|詩《うた》|子《こ》が大きくなった時に見せられるように。そんなにお金もかからないの。詩子は連れて行くから、あなたには|迷《めい》|惑《わく》かけないわ」
早口にまくし立てる涼子の様子に、香川は|苦笑《くしょう》した。むろん、彼にしてみれば、無益な|虚《きょ》|栄《えい》だと言いきかせてやりたいところである。しかし、涼子の願いも、|素《そ》|朴《ぼく》で、それなりに美しい。平凡で、|素《す》|直《なお》だから許せるのだ。平凡でありながら、ひねくれた|奴《やつ》こそ、全く手のつけようがない。その点、涼子はましであった。
「いいとも。撮って来いよ」
「ありがとう!」
涼子は本当に|椅《い》|子《す》から数センチ飛び上った。
「ウエディングドレスがいいかしら? |打《うち》|掛《か》けの方が似合うと思う? お色直しのカクテルドレスも一つ着たいわ」
子供のようにはしゃぐ涼子を見て、香川は|微《ほほ》|笑《え》ましく感じた。もっとも、その裏には、あの喫茶店のエリ子との密会から来る後ろめたさを|償《つぐな》おうという気もあるのかもしれない。
エリ子との情事はここ三か月ほど続いていたが、そうしばしばでもなく、|夢中《むちゅう》になってのめり|込《こ》んでいるわけでもなかった。どちらかと言えば、エリ子の方から|誘《さそ》いをかけて来たので、香川がそれに|逆《さか》らわなかったという方が近いだろう。特別に罪悪感はなかった。涼子との関係だって似たようなものだった。ただ、たまたま結婚することになっただけの話なのだ。
むろん涼子には隠していたが、それは分った時のごたごたがいやだったからである。涼子はそんなことを疑いもしないような女なのだ。――そこが、香川にとって、涼子の|我《が》|慢《まん》できない所だった。|嫉《しっ》|妬《と》するほどの女なら、それはまた詩的である。しかし、涼子にとってはおよそ詩などというものはスワヒリ語か何かと同類で、一般の人間は理解しようとしなくてもよいものだった。涼子は|徹《てっ》|底《てい》|的《てき》に現実的な、いわゆる〈ぬかみそくさい〉女房であった。
娘に|詩《うた》|子《こ》とつけたのはむろん香川で、涼子は〈|博《ひろ》|子《こ》〉とか〈|幸《ゆき》|子《こ》〉といった平凡な名をつけたがった。しかし別に夫の意志に反対もせず、今では、
「うたちゃんがね――」
などと話している。うたちゃん、か。――香川は何だか自分の詩の未来が|象徴《しょうちょう》されているような気がして、苦笑したものだ。
困るのは、そういう涼子の働きのおかげで、この家庭が至って快適で、居心地のいいことなのである。
詩人が満足してしまったら、どうなるか?
もう彼は詩人ではない。香川は、今、自分がそうなろうとしていることを感じた。しかし、どうやってそれを食い止められるだろう? |離《り》|婚《こん》するか? 理由は――あまりいい女房だから。馬鹿らしい! そんな|微妙《びみょう》なニュアンスを、涼子が解するはずはない。
涼子が泣きわめくさまを想像して、香川はゾッと|身《み》|震《ぶる》いした。そういうことは彼の|繊《せん》|細《さい》な神経をズタズタに引き|裂《さ》いてしまうだろう。そうなれば詩どころではなくなる。
打つ手はない。……二人を捨てて|放《ほう》|浪《ろう》の旅へ出るには、香川は人が|好《よ》かった。
「女房を殺す法か」
思わず|呟《つぶや》いた。涼子は、
「え?」
と顔を上げた。「何か言ったの?」
「いや、何でもない。仕事のことさ」
涼子はまたウエディングドレスの|幻《げん》|想《そう》に|酔《よ》い始めたようだった。
香川はふと思った。現実の殺人では、まず動機のある人間が疑われる。もし――もしも香川が涼子を殺したとしたら、香川は疑われるだろうか? エリ子とのことが明るみに出ればともかく、いくら夫だからといって理由もなく妻を殺したりしないだろう。香川は今や、ある程度知られた作家(の一部)である。涼子とはこの上なく|巧《うま》く行っていた。二人が|喧《けん》|嘩《か》しているのを見た者もないはずだし、口論の声が夜の|静寂《 しじま》を突き破ることもない。近所の|誰《だれ》もが、とても仲の良いご夫婦でしたと証言してくれるに違いない。
刑事たちに、彼の動機はとても理解できないだろう。
「よく出来た女房だったので殺しました」
「詩が作れなくなっては困るので殺しました」
誰がこんな動機を思いつくか。――明白な|証拠《しょうこ》さえ残さなければ、疑われずに済む。
これはなかなか面白い、と香川は思った。動機を隠しておいて、最後に明かす。独創的な動機ではないか。
これは使えるかもしれない。――香川は夕食後、じっくりと考えた。
その夜、|詩《うた》|子《こ》がよく眠っているのを確かめてから、香川は涼子を|抱《だ》いた。久しぶりの交わりだった。涼子が満足げな|笑《え》みを|浮《う》かべたまま眠りについてしまうと、香川は起き出して、机に向った。アイデアを書き止めるだけのつもりだったが、下書きも何もなしで、香川はいきなり書き始めた……。
第二章 用 意
1
(|西《にし》|本《もと》|安《やす》|治《じ》の原稿)
女とは、結局経済的な動物である。――そのことに気付いた時、同時に彼の脳裏に妻を殺す方法が|閃《ひらめ》いた。
西川は弱い男である。肉体的にもさほど|頑《がん》|健《けん》とはいえないが、それだけでなく、十数年の結婚生活の間、常に妻の伸子に頭を|押《おさ》えつけられて来たので、もう面と向って|反《はん》|抗《こう》の|拳《こぶし》を|振《ふ》り上げることなどできなくなっていたのだ。
よく「押えに押えられていた|怒《いか》りが|爆《ばく》|発《はつ》した」といった表現を見かけることがあるが、何か月か、せいぜい一年間ぐらいのことならともかく、それ以上押えつけられていたら、もはや怒りは爆発せずに終ってしまうに違いない。火薬が|湿《しめ》って不発になるようなものだ。怒りのエネルギーは、そうそういつまでも|新《しん》|鮮《せん》ではありえないのである。
西川の場合、怒りはすでに|諦《あきら》めへと風化して、今、彼を|駆《か》り立てて妻を殺す計画に熱中させているのは、ただひとえに|脱出《だっしゅつ》したいという欲求なのであった。
妻を殺す。――文字にすれば至って簡単なことなのだが、これほど難しいことも世の中に少ないだろう。特に西川のように気の弱い男は、自らナイフや石を|振《ふる》って手を下すことなどできそうもない。といって、|誰《だれ》かに頼むというわけにもいかない。別に西川は暗黒街につて[#「つて」に傍点]を持っているわけではないのだから。
伸子を殺す場合、ともかく二つの条件が満たされなければならない。直接西川自身が手を下さないこと。そして西川が|嫌《けん》|疑《ぎ》をかけられないことである。
虫のよすぎる条件かもしれなかったが、いくら妻を殺しても、十年も|刑《けい》|務《む》所行きになったのでは何の意味もない。結婚という|檻《おり》から現実の檻へと移るだけの話である。それに、裁判で無罪になったとしても、それまでには|膨《ぼう》|大《だい》な時間を|無《む》|駄《だ》にしなければならないだろうし、世間の目は、
「本当は有罪なのかもしれない」
というだけでも冷たくなるものだ。そんな視線にさらされて生きるのはごめんだった。となると、|唯《ゆい》|一《いつ》の確実な方法は――伸子に自殺してもらう[#「自殺してもらう」に傍点]ことだ。これなら西川が直接手を下さなくとも済むし、殺人の容疑をかけられることもない。
では次に、いかにして伸子に自殺してもらうか。
「一つお願いがあるんだが」
「なあに?」
「自殺してくれないか?」
これであっさりOKしてくれれば言うことはないのだが、まあそれは|到《とう》|底《てい》望めない。そうなると、伸子が死にたくなるような|状況《じょうきょう》を作り出す必要がある。これがなかなか容易ではない。何があろうとそう簡単に死ぬ女じゃないのだ。飛行機が南海の|孤《こ》|島《とう》に|不時着《ふじちゃく》したって、サメの横行する海を|漂流《ひょうりゅう》したって、伸子ならきっと一人だけ生きのびるに違いない。
その伸子の弱点。それは「金」である……。
「おい、ここだここだ」
|混《こ》み合った昼休み時の|喫《きっ》|茶《さ》店。西川は店へ入って来てキョロキョロしている|江《え》|口《ぐち》|一《かず》|実《み》に向って声をかけながら|腰《こし》を浮かして手を振った。江口はすぐに気付いて、テーブルの間をすり|抜《ぬ》けながらやって来た。
「今日は、|叔《お》|父《じ》さん」
「久しぶりだな、まあ|掛《か》けろよ」
と西川は言った。「昼はまだか? じゃ何か食べるといい。大したものはないけど……」
西川はウエイトレスを呼んで、スパゲッティとコーヒーを注文してから、
「どうだい最近は」
と|椅《い》|子《す》にゆったりもたれかかった。
「相変らずですよ」
江口はちょっと照れたように|微《ほほ》|笑《え》んだ。――江口一実は伸子の|甥《おい》に当る若者で、もう二十四になるのだが、いまだに定職もなく、ぶらぶらしている。決して頭が悪いわけではないのだが、生来、|汗《あせ》して働くのに向いていないというのか、本人も仕事を見付けて働こうという意志が全くないのである。
彼の父親――伸子の兄に当るわけだが――は、外交官で、ほとんど日本にいることがない。|息《むす》|子《こ》の方もその父について、少年時代からヨーロッパ、アメリカ、中米とあらかた世界を転々として来た。その|風《ふう》|来《らい》|坊《ぼう》的な性格もそんな所に一因があるのかもしれない。
それはともかく、現在も両親はイギリスに行っており、彼は一人でマンション住い。親の送って来る|小《こ》|遣《づか》いで優雅に暮らしているわけだ。
「たまにはうちにも遊びに来いよ。女房がいつも|噂《うわさ》してるぞ」
「ええ、そうは思ってるんですが、つい――」
と言いかけてフッと|笑《え》|顔《がお》になり、「〈|忙《いそが》しくて〉なんて言ったら叔父さんに|怒《おこ》られそうだな」
と言って、タバコに火を|点《つ》けた。
「何だダンヒルを|喫《す》ってるのか。ライターはあちら製か?」
「ええ、デュポンです」
事もなげに言ってテーブルに置く。
「女性からのプレゼントかい?」
「いやだなあ、叔父さん。これは|親《おや》|父《じ》からもらったんですよ」
江口一実は美男子である。〈美男子〉などという言い方はちょっと古めかしいが、しかし、それが最もピッタリ来るのである。色白で、やや|面《おも》|長《なが》、切れ長の眼、|端《たん》|正《せい》な顔立ち、すらりと長身で足が長く、また海外生活で身につけた、さり気ないおしゃれのセンスは、少しもいや味でなく、すっきりとして、それでいて目を引く。
伸子はこの甥を、それこそ「目に入れても痛くない」ほど|猫《ねこ》|可《か》|愛《わい》がりしていた。あのケチンボが、この甥には遊びに来る|度《たび》に小遣いをやっているのを、西川はよく知っている。
「ちょうど|僕《ぼく》も|叔《お》|父《じ》さんにお願いしたいことがあったんです。いいところに電話してくれましたね」
「そうなのか。じゃ話してごらん」
「いえ、叔父さんの用から――」
「いや、私のはちょっと長い話になる。先に君の用というのを聞こう」
「そうですか」
江口はちょっと間を置いて、「――何て言ったらいいのかな。要するに、今、マンションに女と|同《どう》|棲《せい》してるんです」
少しも声を低めるでもなく、悪びれた様子はない。西川の方が、まさかそんな話を聞かされるとは思ってもいなかったので、すっかり|面《めん》|食《く》らって、
「そ、そいつはまた……」
と言ったきり、言葉が続かなかった。
「なかなかいい|娘《こ》なんですよ。|結《けっ》|婚《こん》してもいいと思ってるんですが」
「な、なるほど。そいつは結構だね」
「で、一度、|叔《お》|父《じ》さんと|叔《お》|母《ば》さんに|彼《かの》|女《じょ》と会ってもらいたいんです。そして彼女のことを親父たちへ叔父さんから知らせてやってくれませんか。叔父さんたちがいい娘だってほめてくれれば、親父もそう目くじら立てることはないと思うんです」
「ふむ……。しかし、それは会ってみないことには何とも言えんが……」
「いや、叔父さんもきっと気に入りますよ」
と江口はもう決めてかかっている。
「しかし、同棲してるってのは……。いや、私はともかく、女房には言わん方がいいぞ」
「そうします。じゃ、引き受けてもらえますね?」
「まあ――いいだろう」
「やあ、助かった! あてにしてたんですよ」
江口はニヤッと笑って、運ばれて来たスパゲッティを食べ始めた。「……それで、叔父さんの方の話って何です?」
「うん、それがね、|突《とつ》|然《ぜん》こんなことを言い出したら君もびっくりするかもしれないが……」
「面白そうですね。びっくりする話って大好きなんです」
若者らしい|軽《けい》|薄《はく》さの|溢《あふ》れる口調でそう言うと、興味ありげに西川を見守った。西川は一つ|咳《せき》|払《ばら》いをして、
「どうだろう? 一つ、会社を始めてみる気はないか?」
江口は一瞬|呆《あっ》|気《け》に取られて西川を見つめたが、すぐにはぐらかすような笑顔になって、
「いやだなあ、叔父さん。|冗談《じょうだん》は言いっこなしですよ」
と言いながらスパゲッティをフォークへ巻き取り始めた。「僕にできるのはせいぜい会社を|潰《つぶ》すことぐらいですね」
「分ってるとも」
と西川は|肯《うなず》いた。「だからこそ言ってるんだ」
江口は今度は|真《ま》|顔《がお》になって西川を見つめた。それから、興味ありげにフォークを動かす手を休めて、|訊《き》いた。
「どういう話なんです? ぜひ|伺《うかが》いたいですね」
「つまりね、君が何か事業を始めたがっていて、資金作りに|駆《か》け回っている、ということにしてほしいんだ」
「僕は校内マラソン大会でもサボって歩いてましたからね。〈駆け回る〉なんて、考えただけで息切れして来ますよ。でもまあ、いいでしょう。それで?」
「女房に金を|融《ゆう》|通《ずう》してほしいと頼んでもらいたい」
「|叔《お》|母《ば》さんに?」
「そうだ」
「……で、貸してくれると言われたら……借りるんですか?」
「もちろん」
「その金、どうするんです?」
「私が言う銀行の口座へ入れておいてくれればいい」
「叔父さんがそれを引き出して使うわけですか? それはしかし……叔母さんをだますのに加担するのはいやだなあ」
「おいおい、誤解するなよ」
西川は苦笑した。「誰が使うと言った? ただ預けておくだけさ。その金には|一《いっ》|切《さい》手をつけない」
江口は半信半疑の|面《おも》|持《も》ちで、
「じゃ、要するに口座から口座へ、金を移すだけなんですか?」
「その通り」
「一体何のためにそんな――」
「女房に|馬《ば》|鹿《か》な|真《ま》|似《ね》をさせないためだよ」
「馬鹿な真似?」
「そう。――実はね、この所、女房の|奴《やつ》、金をふやすことにえらく熱心でね、|利殖《りしょく》だの投資、株式といった解説書やパンフレットを集めてるんだ。まあ、確かに私の所もやっと少々の|貯《たくわ》えはできた。女房の奴、すっかりいい気分で、通帳を見るのが一番の楽しみってわけなんだ」
「で、もっとふやすのに、手っ取り早い方法を……」
「その通り」
西川はため息をついた。「いくら私が、そんなうまい話はない。そんなに簡単に金がふやせるなら、世の中大金持だらけになっちまう、と、ごく常識的な説明をしてやってもだめなんだ。預金通帳の額が一気に二倍、三倍になるのを|夢《ゆめ》見ていて、手がつけられない」
「|放《ほ》っておけば大損ってわけですね?」
「十中八、九――いや九九パーセント、そうなるのは目に見えてる。そうだろう? ろくに株のことなど分りもしない|素《しろ》|人《うと》だ。相場などに手を出して|巧《うま》く行くはずがない」
「それはそうでしょうね」
「ところが、我が家の家計は|総《すべ》て女房が握っているんだよ。通帳、|印《いん》|鑑《かん》からキャッシュカード、クレジットカード、小切手、現金――全部女房の手もとにある。私はただ必要な|小《こ》|遣《づか》いをもらうだけなんだ。つまり女房が馬鹿な|真《ま》|似《ね》をしようとするのをやめさせる方法が私にはないんだよ」
「それで僕に、事業を始めるって話をデッチ上げろってわけですね?」
「その通り。女房の奴、君にはひどく甘いからな。君のことをいつも心配している。だから君がそんな話を持って行ったら大喜びするに違いないよ」
「でも、まるっきり|架《か》|空《くう》の話で大丈夫ですか?」
「大丈夫さ。あいつに、会社設立がどんなことかなんて分るものか。しかし、金が必要だってことぐらいは分るはずだ」
「どれくらい出させるんです?」
「できるだけ多い方がいいな。女房が他の投資に金を回す気がなくなるくらいにな」
「なるほど」
初めはいぶかしげだった江口も、すっかり乗り気になった様子で、熱心に|肯《うなず》いた。「今、いくらぐらい預金があるんです?」
「大したことはないよ。自由になる金が……」
西川は頭の中でざっと計算して、「まあ、一千万ってとこかな」
「でも|羨《うらやま》しいなあ!………しかし事業を始めるにはちょっと少ないですね」
「だから、大体は集めたんだが、ちょっと足らない、という風に持ちかけるんだ。全額を頼るというんじゃ女房も心配して貸さないかもしれない」
「分りました。じゃあ……七百万ぐらい?」
「その辺が適当だと思うね。どうだ? 引き受けてくれるだろうね?」
「ええ、むろんですよ。任せて下さい。そういう仕事[#「仕事」に傍点]なら得意です」
江口はニヤリと笑って、スパゲッティをきれいに片づけた。
「君にもちゃんと礼はするからね」
と西川は言った。
「それはどうも。例の彼女の件をよろしくお願いします」
「任せておけ」
とちょっと大物ぶって見せて(まるで板に付いていなかったが)、「そうだ。君は背広持ってるか?」
「さあ……。たぶんないと思いますね。どうしてです?」
「じゃ、ここに四万円ある。上等なのは無理だが、|吊《つる》しのビジネス・スーツぐらい買えるだろう」
と金を|渡《わた》す。
「はあ……」
「事業を始めるので資金集めをしてる男がジーパンスタイルじゃおかしい。背広にネクタイでなきゃ」
「分りました。〈|舞《ぶ》|台《たい》|装《そう》|置《ち》〉は|完《かん》|璧《ぺき》にってわけですね」
江口は金をポケットへねじ込んでから、「そうだ。|叔《お》|母《ば》さんが僕の話を親父へでも伝えたりしないでしょうか?」
そうか、そこは考えなかったぞ。西川はちょっと考え込んでから、
「じゃ女房へはこう言っておくといい。僕ももう一人前の|大人《 おとな》なんですから、父の力を借りずにやってみたいと思って、父へは何も言っていないんです、と。――なに、女房のことだ、君の言うことなら信用するさ」
「なるほど、さすが|叔《お》|父《じ》さんだなあ」
「変な所で|賞《ほ》めるな」
と西川は苦笑した。
「じゃ、|早《さっ》|速《そく》これで背広を買って来ますよ。早い方がいいですね、話に行くのは」
「そうだな。妙な相場にでも手を出されちゃ困る。できるだけ早い方がいい」
「分りました。――日曜日の方がいいですか?」
「いや、|普《ふ》|段《だん》の日の方がいいな。私がいない時の方が、そういう話もしやすいだろう」
「そうか。その方が自然ですね。じゃ、二、三日の内に必ずうかがいますよ」
「女房は年中出かけてるから、電話してから来いよ」
「承知しました」
江口は楽しげに|肯《うなず》いた。
「江口君から?」
「ええ、そうなの。何だか私に相談したいことがあるって。明日来るそうよ」
伸子はTVのホームドラマに目を向けたまま言った。西川は夕刊を広げて、
「何の用かな、一体?」
「さあ、何も言ってなかったけど」
「何か困ってることがあったら相談に乗ってやるんだな」
「もちろんよ。心配しがいのある子ですからね」
「しかし、いつまでも遊び人じゃなあ」
と西川はわざと伸子を|刺《し》|激《げき》してやった。
「|坊《ぼ》っちゃん育ちなだけよ。あの子は今にきっと大きなことをやるわ。大物の素質があるのよ。私には分るの」
と勝手に|肯《うなず》いて、「……あの子が何かやる気になってくれたら、|応《おう》|援《えん》してやるんだけど」
と|一人《 ひとり》|言《ごと》のように|呟《つぶや》いた。
西川はそっとほくそ|笑《え》んだ。巧いぞ。一も二もなく江口の話に乗ってしまうに違いない。――預金のほとんどを江口の架空の事業[#「事業」に傍点]につぎ込み、そして……事業は失敗、江口は|姿《すがた》を消す。伸子には二重のショックだ。金がなくなり、愛する|甥《おい》に裏切られる。そこへ西川が深刻な顔で切り出す。
「実は江口に|頼《たの》まれて会社の金を融通してやっていた……」
会社もクビになった、と話してやる。そうすれば、伸子は単純な女である。|真《ま》に受け、打ちのめされるに違いない。自殺へ追い込むには後、何かもう一|押《お》しがあればいい……。
西川は|躍《おど》る胸を|抑《おさ》えて、新聞のページをめくって行った。
(以上、西本第一章分。追って、信子が君らに妙な手紙を出したらしいが気にしないでくれたまえ。あれはちょっとした誤解なんだ。無視して、忘れてくれたまえ)
(西本の原稿に対する他メンバーの評)
公路「出だしとしては悪くないと思う。ただ動きが|乏《とぼ》しいんじゃないか。それに妻を殺す動機。二章以降に出て来るだろうから、それを待つ。手紙のことは気にしてませんよ」
景山「主人公がどういう会社に勤めて、いくら給料をもらっているか書くべきだ。でないと預金一千万はちょっと多すぎる気がする。架空の事業については、やはり何を始めるのか、事務所はどうするのか、など、ある程度具体的に書く必要がある。あ、そうか、その辺は|俺《おれ》がデータを|揃《そろ》えるんだな。それから手紙ってどんな手紙だ? 俺はまだ見てない」
香川「通俗。手紙は誤字、文法上の誤り、極めて多し」
2
(公路武夫の原稿――シナリオ風)
○空ビルの、空っぽの|部《へ》|屋《や》。(夕方)
黒いトレンチコート、黒メガネ、ソフトを|目《ま》|深《ぶか》にかぶった男、窓を背にして立っている。顔はほとんど見えない。
男の前に、革ジャンパー姿の三人の若者。一見してグレているのが分る。リーダーらしい若者はガムをかんでいる。
コートの男「君たちに、女を|襲《おそ》ってほしい」
三人の若者、顔を見合わせる。
リーダーの若者「(相手の気持を探るように)襲うってのは、どの程度のことを言ってんだね、あんた」
コートの男「殺したり傷つけたりしてはいけない。持物や宝石類は奪っていい」
若者2「それだけかい?」
コートの男「|強《ごう》|姦《かん》してほしい」
リーダーの若者「それが|肝《かん》|心《じん》なのか?」
コートの男「そうだ。持物を|盗《と》るのは|強《ごう》|盗《とう》と思わせるためと……君らへの礼の一部だ」
若者2「礼はそれだけじゃあるめえな」
コートの男「(ポケットから茶色の|封《ふう》|筒《とう》を取り出す)ここに三十万ある。|巧《うま》くやってくれれば、後で三十万追加する」
リーダーの若者、封筒を引ったくるように取って中を|覗《のぞ》き、|肯《うなず》く。
リーダーの若者「間違いねえようだ。悪い話じゃねえな。だけどよ、およそやりたくならねえような|婆《ばあ》さんじゃあるめえな」
コートの男「この女だ」
と一枚の写真を渡す。三人の若者、急いで覗き込み、|口《くち》|笛《ぶえ》を吹く。
若者3「|上玉《じょうだま》だな!」
若者2「十年前の写真じゃあるめえな」
コートの男「ごく最近のものだ」
リーダーの若者「OK、引き受けた。どこへ行きゃ、この女に会えるんだ?」
コートの男「(メモを渡して)明日の晩、十時過ぎにこの場所を通る。この辺は人通りのない|寂《さび》しい場所で、犯行にはうってつけだ」
リーダーの男「分ったよ。ご親切なこった」
とメモと写真をポケットへしまい込もうとするが、
コートの男「(|鋭《するど》く)だめだ! 写真とメモは返してもらう」
リーダーの若者「ええ? だって――」
コートの男「|憶《おぼ》えろ。すぐ頭に入るはずだ」
リーダーの若者、面白くなさそうに口をねじ曲げるが、やがて肩をすくめて、
リーダーの若者「分った。スポンサーはあんただ」
としまいかけたメモをよく|眺《なが》めてから、写真と|一《いっ》|緒《しょ》にコートの男へ返す。
リーダーの若者「写真の方は一度で憶えたぜ」
若者2「いいさ、相手を間違えたら、二人ともやっちまうだけのこった」
といやらしく笑う。コートの男は無表情な声で、
コートの男「じゃ、成功したら次の日の同じ時間にここで」
リーダーの若者「|了解《りょうかい》。なあに、チョロイもんさ。(他の二人へ)おい、行こうぜ」
と肩を|揺《ゆ》すって、部屋を出て行こうとする。コートの男が声をかける。
コートの男「いいか。余計なせんさくは無用だぞ」
リーダーの若者「(ニヤリとして)分ってるよ。こっちも商売の|仁《じん》|義《ぎ》は守るさ」
若者たち、出て行く。足音が遠ざかる。
コートの男、ホッと大きく息を|吐《は》いて、黒メガネを外し、ソフトを|脱《ぬ》ぐ。――まだ三十そこそこの顔。|額《ひたい》にじっとりとかいた|汗《あせ》を手の|甲《こう》で|拭《ぬぐ》い、|唇《くちびる》をなめる。
コートの男「悪者ぶるのも|疲《つか》れるよ……」
男、窓へ寄って表を見る。三人の若者がビルから出て、|停《と》めてあった大型のオートバイにそれぞれ打ちまたがり、|爆《ばく》|音《おん》も高く、走り去って行く。その姿をじっと見送って、やがて見えなくなると、初めて安心した様子で、|笑《え》みを|浮《う》かべ、部屋を出て行く。
○空ビル裏の路地(夕方)
路地に車が停めてある。コートの男、やって来てトランクを開け、コートと黒メガネ、ソフトを中へ|放《ほう》り込む。トランクを閉めようとして、ふと思い出したようにコートのポケットを|探《さぐ》り、さっきのメモと写真を取り出す。男、写真を|眺《なが》める。
(インサートショット)女の写真。若い、美人である。
男、メモと写真を細かく引き|裂《さ》き、投げ捨てるとトランクを閉める。前へ回って、車に乗り込み、車をスタートさせる。路上に散らばった写真の細片。その一枚。女の目の部分のクローズアップからダブって……
○|山《やま》|路《じ》のマンション(夜)
山路|浩《ひろ》|美《み》(24)(写真の女)のアップ。台所で夕食の|支《し》|度《たく》に余念がない。幸福そうな若妻そのものというイメージ。
ふきこぼれかける|鍋《なべ》。浩美、急いでガスの火を消す。|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴る。浩美、急いで玄関へと走る。
*
玄関。浩美、やって来て、
浩美「(ドアの向うへ)あなた?」
ドア|越《ご》しに、「そうだよ」と声。浩美、急いでチェーンを外し、|鍵《かぎ》を開け、ドアを開ける。山路、入って来る。あのコートの男である。
浩美「早いのね、今日は」
山路「打ち合せが早く済んでね」
二人、玄関で|抱《だ》き合ってキスする。浩美、先に立って、
浩美「すぐ夕ご飯にできるけど……」
山路「ああ、じゃそうしてくれ」
浩美「はい!」
台所へ急ぐ浩美の|後姿《うしろすがた》を見送って、山路、ふっと目を|伏《ふ》せる。あまり|後《あと》|味《あじ》のよくない、といった表情。肩をすくめて部屋へ入って行く。
*
ダイニングルーム。山路と浩美、夕食を食べている。
浩美「月末の旅行、行けそう?」
山路「そうだな。……たぶん|大丈夫《だいじょうぶ》だろう」
浩美「よかった!」
山路「そんなに九州なんかへ行きたかったのかい?」
浩美「それもあるけど……(と言い|淀《よど》む)」
山路「何か他にも?」
浩美「(|恥《は》ずかしそうに口ごもりながら)その|頃《ころ》だと……きっとできると思うの。……ちょうど時期だから」
山路「そうか。そろそろ結婚して半年だものな。できてもいい頃だ。じゃ、せいぜい|励《はげ》もう」
浩美、照れたように笑って顔を伏せる。山路|茶《ちゃ》|碗《わん》を出して、
山路「もう一|杯《ぱい》くれ」
浩美「はい」
山路「ああ、|明《あ》|日《す》は夕食はいらないよ」
浩美「あら、どこかで食べて来るの?」
山路「K出版の奴が三十万部|突《とっ》|破《ぱ》記念にごちそうしてくれるとさ」
浩美「(ご飯をよそった茶碗を渡しながら)分ったわ。じゃ一人で寂しく食べてるから」
山路「すまんね」
浩美「お仕事ですもの、仕方ないわ」
山路「頼みがあるんだけどな」
浩美「何なの?」
山路「どうせ飲むから車は使えない。帰り、駅まで車で|迎《むか》えに来てくれないか」
浩美「ええいいわ。何時ごろ?」
山路「さあ、たぶん……十時ごろだろう」
浩美「向うからタクシーで来たら?」
山路「ここまでの道は説明しにくいんだ。それに|酔《よ》うと|眠《ねむ》っちまうからね。駅前にもタクシーはいないし。構わないか?」
浩美「ええ、もちろん」
山路「じゃ駅に着いたら電話を入れるよ」
浩美「分ったわ」
山路「夜道だから気を付けろよ」
浩美「大丈夫よ。こう見えても運転の|腕《うで》は確かなのよ」
夫のことを疑うなど思いもよらず、夕食を食べている浩美。それを見つめている山路、ふっと|真《ま》|顔《がお》になって……。
*
|寝《しん》|室《しつ》(夜)。暗がりの中、ベッドで激しく愛し合う山路と浩美。
*
寝室(夜)。前の続き。眠っている浩美。静かな寝顔が、ナイトテーブルのスタンドの光に浮かんでいる。山路、起き上ってタバコを|喫《す》っている。目を見開き、じっと暗がりの|奥《おく》を見通すような|眼《まな》|差《ざ》し。やがてナイトテーブルの|灰《はい》|皿《ざら》にタバコを押し|潰《つぶ》す。テーブルにのせてある本が見える。推理小説。裏表紙の〈作者|紹介《しょうかい》〉の|欄《らん》に、山路の写真が見えている。本の|隣《となり》に、山路と浩美の結婚式のスナップ写真が、写真立てに入って置いてある。
山路、その写真を手に取り、しばらく|眺《なが》めてから、浩美の寝顔に目を移す。
山路「(そっと|囁《ささや》くように)悪く思うなよ……」
山路、スタンドを消す。部屋が|闇《やみ》に包まれる。
○駅の改札口前(翌日の夜)
山路が公衆電話で話している。
山路「ああ、僕だ。今駅に着いた。――うん、駅前で待ってるからね。頼むよ」
○山路のマンション(夜)
浩美、電話に出ている。
浩美「――分ったわ。すぐに迎えに行く。じゃあね」
浩美、電話を切って、急いでエプロンを外し、ハーフコートを着て、外出の|仕《し》|度《たく》をする。ハンドバッグを開け、中を探って、
浩美「あら……変だわ……どこに行ったのかしら、……困ったわ」
浩美、|慌《あわ》てて部屋の中を|捜《さが》し回る。
○駅の改札口前(夜)
山路、ややこわばった表情でぶらぶらと歩いている。手に何かカシャカシャ音を立てているもの。カメラ近付き、山路の手の中にある車のキーを写し出す。
○山路のマンション(夜)
浩美、引出しを閉めて、
浩美「ないわ……」
と困り切った様子で立ち上る。|時《と》|計《けい》を見て、
浩美「早く行かないと……」
ちょっと考えているが、すぐに玄関へ急ぐ。|靴《くつ》をはいて外へ出る。
○マンションの表(夜)
浩美、急ぎ足で出て来て、夜道を小走りに……。
○夜道
まだ雑木林の残った|郊《こう》|外《がい》の道である。街灯がポツンと青ざめた光を投げている。浩美、少し息を|弾《はず》ませながら、急ぎ足でやって来る。他には全く人通りがない。
浩美、不意に、見えない|壁《かべ》に|突《つ》き当ったように立ち止る。街灯の光を背に、行く手をふさぐ二人の革ジャンパーの男。背後の足音に浩美、はっとして振り向く。もう一人が|逃《に》げ道をふさいでいる。
浩美「(努めて平静な声で)何なの?……何の用?」
眼前の二人、無言で一歩近付く。浩美、ギクリとして後ずさりする。
浩美「(声が|震《ふる》えている)お金なら……これだけよ」
ハーフコートのポケットから|財《さい》|布《ふ》を取り出そうとする。手が震えて、なかなか取り出すことができない。やっとの思いで財布を男たちの方へ、こわごわ差し出す。男の一人が引ったくると中も見ずにジャンパーのポケットへねじ込む。
浩美「もういいでしょう……通してよ……」
男たち、前後から、じわじわと浩美に近付く。
浩美「(半ば泣き声になって)やめて……何もしないで……お願いだから……」
男たち、|襲《おそ》いかかる。浩美、悲鳴を上げる。その|甲《かん》|高《だか》い悲鳴が――
○駅の改札口前(夜)
――甲高い救急車のサイレンの音へ。
はっと振り向く山路の顔のアップ。
救急車、ランプを|点《てん》|滅《めつ》させながら、そのまま走り過ぎて行く。山路、ほっと息をつく。腕時計を見る。
(インサートショット)腕時計のアップ。十時四十分。
*
山路、夜の道を歩き出す。道は川に沿っている。駅から少し来ると、山路、ポケットから車のキーを取り出し、川へ向って放り投げると、足を早める。
○川を|挟《はさ》んで反対側の道(夜)
少年、自転車で来る。山路の投げたキーが、川を越えて道へチャリンと落ちる。少年、自転車を停め、手をのばしてキーを拾い上げる。キョロキョロと見回して――
川の反対側の道を急いで行く山路の姿が小さく見える(ロングショット)。
少年、キーをズボンのポケットへ突っ込んで、自転車をこいで行く。
○夜道
山路、歩いて来る。遠くから、白い|人《ひと》|影《かげ》。ふっと目を細くして見つめる。――人影、近付いて来て、|浩《ひろ》|美《み》になる。青ざめて、放心したような表情。|髪《かみ》が乱れている。山路に気付かない様子。ハーフコートを、まるで寒くてたまらないように、抱きかかえるような格好。
山路、|唇《くちびる》の|端《はし》に笑みを浮かべる。
山路「(さり気なく)浩美」
浩美、ハッとして山路に気付くと、
浩美「あなた!」
|一瞬《いっしゅん》、泣き出しそうになるが、|懸《けん》|命《めい》に|涙《なみだ》をのみこむ。
山路「どうしたんだ? あんまり|遅《おそ》いから事故でも起こしたのかと思って――」
浩美「ごめん……なさい。キーが見付からなくって……」
山路「そうか。じゃ家で待ってれば良かったのに」
浩美「ええ……本当に、そうね」
山路「こんな暗い道を、危ないじゃないか。さ、帰ろう」
山路、浩美の肩を抱いて、夜道を歩いて行く。何か思いつめたような浩美の顔。
二人の後姿が遠ざかると、カメラは道のわきの|茂《しげ》みへと入り込んで行く。――革ジャンパーの若者が一人、|仰《あお》|向《む》けに|倒《たお》れている。目を見開き、口を半ば開けて、死んでいる。腹に突き立っているナイフ……。
○山路のマンション(夜)
居間。ガウン姿の山路が本を開いている。バスローブ姿の浩美が入って来る。|濡《ぬ》れた髪をタオルでくるんでいる。
山路「今日はずいぶん長|風《ぶ》|呂《ろ》だったね」
浩美「そう?」
山路「何だか浮かない顔だな。どうかしたの?」
山路、本を閉じ、浩美を抱き寄せようとする。反射的に身をよじって|逃《のが》れる浩美。
山路「……どうしたんだ?」
浩美「ごめんなさい。……疲れてて……気分が悪いの」
と目をそらしながら言い訳する。浩美、立ち上って、
浩美「もう寝るわ。おやすみなさい」
山路「ああ、ゆっくり休んだらいい。おやすみ」
浩美、逃げるように居間から出て行く。山路、ちょっと|沈《しず》んだ表情になるが、すぐ思い直してサイドボードの方へ立って行き、グラスへウィスキーを注いで一気にあける。
山路、ふっと|笑《え》みを|浮《う》かべる……。
○車の中(翌日の昼)
山路、車を運転している。車は駅へ向う道を走っている。
昨夜の場所を通りかかって、山路、おや、という顔になる。道のわきにパトカーが|停《とま》って、警官や、見物人が集まっている。
山路、車を停める。
○路上(前のつづき)
山路、車を降りて、人が集まっている方へ歩いて行く。|戻《もど》って来る店員風の男へ、
山路「何ごとです?」
店員風の男「人殺しですよ」
山路「人殺し?」
山路、いぶかしげな顔。人が集まっている所へ歩み寄る。警官が止める。
警官「近づかないで下さい。どいて!」
白衣の男二人が、|担《たん》|架《か》をかついで茂みから出て来る。白い布をかけた下から、男の手が垂れている。革ジャンパーが見える。山路、目を見張る。
山路、|呆《ぼう》|然《ぜん》と突っ立って、死体が運び去られるのを見送っているが、やがて、急いで車へ戻る。
○車の中(つづき)
山路、しばらく気を|鎮《しず》めようとするように、目を閉じている。――それから、|苦《にが》り切った表情で車をスタートさせる。
○山路のマンション(昼)
浩美が、放心したような様子で、居間のソファに|座《すわ》っている。
玄関のチャイムが鳴る。浩美、ギクリとして、一瞬飛び上りそうになる。またチャイムが鳴る。浩美、こわごわ玄関へ出て行く。
*
玄関。浩美、やって来て、玄関へ降りると、|覗《のぞ》き窓から外を見て、チェーンと|鍵《かぎ》を外し、ドアを開ける。
少年が立っている。昨夜、鍵を拾った少年である。
少年「(元気よく)こんにちは」
浩美「(おずおずと|微《ほほ》|笑《え》んで)こんにちは……。何か用?」
少年「これ、おばさんとこのじゃない?」
とポケットからキーを取り出す。浩美、|驚《おどろ》いて、
浩美「ええ! そうだわ!………どこでこれを?」
少年「駅の近く」
浩美「そう。どうもありがとう……。助かったわ。(ふと気付いて)よくうちのだって分ったわね」
少年「|俺《おれ》、新聞配達でこの辺まで来てたことあるんだ。だからここのおじさん知ってるんだよ」
浩美「(わけが分らず)おじさんを?」
少年「うん。でも、どうして|鍵《かぎ》を放り投げたりしたのかな?」
浩美、少年の方へかがみ込んで、
浩美「放り投げた? このキーを?」
少年「そうだよ」
浩美「ここのおじさんが?」
少年「うん」
浩美「いつ?」
少年「ゆうべさ」
浩美、|愕《がく》|然《ぜん》とした表情になる。
○路上(昼)
自動車道路。山路の車が走っている。
○車の中(昼)
山路、|額《ひたい》にしわをよせて考え込みながら車を走らせている。
カメラ、バックミラーをズームアップ。追って来るオートバイが見える。乗っているのは革ジャンパーの男だ。山路、それに気付いて、思わず振り向く。
ピタリと山路の車の後ろについているオートバイ。
山路、やや不安になりながら、少しスピードを上げる。オートバイ、すかさず追いすがる。山路、|唇《くちびる》をなめる。
再びバックミラーのアップ。――オートバイ、二台にふえる。さらに一台。もう一台……。
山路、ちらりと後方へ目をやって愕然とする。
山路の車を追って来る十台近いオートバイ。山路、ハンドルを|握《にぎ》りしめる。突然、五台のオートバイが山路の車の前へ出る。山路の車、前後を|挟《はさ》まれた格好になって走り続ける。
相手の意図を|測《はか》りかねて、不安気な山路の顔……。
○山路のマンション(昼)
居間。キーを手にした浩美、|呆《ぼう》|然《ぜん》として、入って来ると、ソファに|崩《くず》れるように腰をおろす。首を振って、
浩美「(|呟《つぶや》くように)まさか……そんなことが……」
浩美、手にしたキーをじっと見つめて、
浩美「あの人が……何もかも承知の上で……」
深くため息をついて、頭をかかえる。キーが|床《ゆか》に落ちる。
突然、バルコニーへ出るガラス戸がガチャンと|砕《くだ》けて、石が飛び込んで来る。浩美|弾《はじ》かれたように立ち上り、|慌《あわ》ててガラス戸へ|駆《か》け寄る。何も見えないので、ガラス戸を開け、バルコニーへ出て、下を見下ろすと、革ジャンパーの、オートバイに乗った男たち、七、八人が浩美めがけて石を投げて来る。
浩美、急いで頭を引っ込める。石がすぐ上を飛んで、またガラスが割れる。浩美、|慌《あわ》てて|部《へ》|屋《や》の中へ駆け込む。追いかけるように、また石つぶてが飛んで来る。
浩美、電話へ走り寄り、受話器を取って、〈一一〇〉と回すが、ハツとして、受話器を戻してしまう。
*
(回想)茂みの中で、暴行される浩美。必死にもがいている内、手に、相手の革ジャンパーから落ちて来た飛び出しナイフが……。
浩美、|夢中《むちゅう》で|突《つ》き|刺《さ》す。
*
浩美、電話の前にペタンと座り込んでしまう。ガラスの割れる音が聞こえて来る。
○路上(昼)
相変らず、オートバイに前後を挟まれて走っている山路の車。――山路、|額《ひたい》に汗がにじんでいる。
一台のオートバイが車の右へ出て来たと思うと、スパナを|振《ふ》るって、窓ガラスを叩く。ガラスがひび割れる。山路、思わず車を左へ寄せるが――左側にもオートバイがいた!
オートバイ、車に押されてガードレールにぶつかる。乗っていた男、空中へはね上げられる(スローモーション)。
山路、|恐怖《きょうふ》に目を見開く。オートバイ、じわじわと車との|間《かん》|隔《かく》を|詰《つ》めて来る……。
(以上、公路第一章分。原案なのでシナリオの形式になっているが、第二|稿《こう》はむろん小説にする)
(|公《こう》|路《じ》の原稿に対するメンバーの評)
西本「わずか二十数枚の間に、ベッドシーン、殺人、|強《ごう》|姦《かん》、カーアクションと詰め込むサービス精神は大したものだ。しかし、スローモーションなんて、どうやって小説にするつもりだい? それに動機にも少し|触《ふ》れておいた方が……。しかし、その点は私も同じだがね」
|景《かげ》|山《やま》「相変らずストーリーのテンポの早いこと。この調子で百枚も行くのかい? どうせシナリオにするなら、役者の名前も入れてほしかったな」
香川「低俗」
3
(景山|俊《とし》|哉《や》の原稿――インタビュー形式)
――それではお話を|伺《うかが》わせて下さい。
「う、うん。まず何から話そうか。国際政治がトップに来るべきかな、やはり。NHKニュースにならって。それから国内政治、経済問題、社会、スポーツ、最後にローカル、とこれでいいかね?」
――(ややあせって)いえ、あのこちらが伺いたいのは……
「いや、全部にわたっては|総《そう》|花《ばな》的で|掘《ほ》り下げが足らなくなるな。むしろどれか一つに|絞《しぼ》った方がいい。いっそNHKについて論じるか? NHKの|視聴《しちょう》料は払うべきか否か」
――あの、お話しいただきたいことはですね……
「金の問題を話すとなると、主婦層に|嫌《きら》われるおそれがあって、めったなことは言えんからな。やはり内容にしよう。大河ドラマについて? あんなスローモーなドラマをよく見る奴があるもんだな。紅白歌合戦にするか。タレントが|猿《さる》まわしの猿よろしく|馬《ば》|鹿《か》な|真《ま》|似《ね》をさせられる。あそこで演じられるコントはみごとなもんだな。面白いのが一つもない。いや、主婦向けにはやはり朝の連続テレビ小説かな。あのヒロインには時々ひどいのがいるぞ。どこかの小学校の学芸会を|中継《ちゅうけい》しているのかと思ったくらいだ」
――ちょっとお待ち下さい。うかがうお話の内容は前もってお願いしたと思いますが……。
「ん? そうだったかな? 何しろ忙しくてな……。売れっ子評論家は|辛《つら》いぞ、ハハ……」
――あの、奥様を殺した方法について伺いたいのですが。
「なに? 女房を殺した方法? いや――そりゃ困るな。つまりその……わしもそう経験豊かなわけではないしな」
――一度あれば|沢《たく》|山《さん》です。
「フム、それはそうだ。しかし君、それを話せとは……。わしが|捕《つか》まったらどうしてくれる!」
――大丈夫ですよ。これは小説なんですから。
「小説? そうか、そうだったな。じゃ何をしゃべっても大丈夫なわけだ」
――はい。|猥《わい》|褻《せつ》罪に問われるようなものでない限り、大丈夫です。
「何を言うか! わしはそんな|類《たぐい》のことは話さんぞ! 大体そういうものは隠しておくから色気があり、想像力を|刺《し》|激《げき》するのだ。アッケラカンと太陽の下にさらしたら面白くも何ともないわ。今のセックスには奥|床《ゆか》しさというものがない。女は男のようになって来るし、男は女性化するし。その内、人間も男女の区別がなくなるかもしれん。それは大体マスコミがだな――」
――あの、話を元に戻していただけますでしょうか?
「ん? ああ、そうか。女房を殺す話だったな。何を|訊《き》きたいんだ?」
――まず、なぜ奥様を殺したいと思われたのか、その辺から……。
「フム。なかなか口で説明するのは難しいな」
――そこを何とか。
「結婚すれば分る。それが答えだ」
――それだけじゃ困るんですが。
「そうか。――まあ結局は男と女との間の、宿命的な問題というかな……」
――とおっしゃいますと?
「他に女ができたんだ」
――何だ。
「何だとは何だ! 失敬な! わしゃ帰るぞ!」
――待って下さい! ど、どうも失礼しました……落ち着いて下さい……。
「ま、分ればよろしい」
――するとその……愛人というのは?
「わしがかつて勤めておった会社にいる女でな、|夏《なつ》|子《こ》といった。そもそもの出会いは……」
――その辺は長くなりそうですので|割《かつ》|愛《あい》して、|早《さっ》|速《そく》本題に入りたいと思いますが、奥様を殺そうと決心なさったのは、その夏子さんに結婚を迫られたからですか?
「いや、彼女は結婚を迫ったりはせんよ、君。わしの子を身ごもっておったが、決して、どうしてくれると泣きわめいたりしなかった。自分一人で引き受ける、と言って、金を要求するでもない。こういう女だからこそ、こっちも離れられんのだよ。これが、結婚してくれないなら奥さんに何もかもぶちまけてやるとかヒステリックに|叫《さけ》ばれたら、こっちはウンザリして別れたくなるよ」
――はあ、なるほど。
「しかし、|誤《ご》|解《かい》してもらっては困るが、わしは女房を殺そうと、それほど本気で考えておったわけではないよ。ただ女房は旅行好きで、年中、国内、海外を問わず飛び回っておる。その飛行機が|巧《うま》い具合に落っこちてくれんかな、と考えておった程度なのだ。他の乗客や乗務員は気の毒だから助かって、うちの|奴《やつ》だけ死ぬとか」
――そんなあなた、調子のいい。
「うん、わしもそう思っとった。だからまあその程度だったわけだ」
――それがなぜ?
「こんな具合だったのさ。女房の友人に、|野《の》|田《だ》|恒《つね》|子《こ》という女性がいた。女房の古い友人でな、我が家にもちょくちょく遊びに来ておった。女房の同窓生で、体つきや何かもよく似ておる。―ご亭主を三年前にガンで|亡《な》くしてからは、子供もないので、一人|暮《ぐら》し。東京には身寄りらしいものもなく、女房が|唯《ゆい》|一《いつ》の友だちらしかった」
――その方ともできた[#「できた」に傍点]んですか。
「馬鹿を言うな! わしゃ色|気《き》|狂《ちが》いではないぞ!――ある時、その野田恒子という女性が、九州へ行くことになった。先祖の墓参りか何からしかった。その話を聞いて、また出しゃばりなうちの女房が、口を出したんだ。飛行機の|切《きっ》|符《ぷ》ならいつでも取ってあげるから、とな」
――何かコネでも?
「ああ、年中飛び回っとるんだ。どこの航空会社にだって顔なじみがいて、割引料金で乗れる。野田恒子の方はさっぱり旅行などしたことがなく、飛行機の切符はどこへ行けば買えるのかも知らない。で、うちの女房が任せといて、と胸を|叩《たた》いたわけだ」
――何となく分って来たなあ。
「分ったか。じゃ、わしゃこれで……」
――い、いえ、それは困りますよ! 見当がついた、というくらいの意味なんですから。ぜひ続けて下さい。
「それなら分ったなんぞと言うな。――で、ともかく女房が国内便の切符を予約した。野田恒子の名前では|面《めん》|倒《どう》なので、女房の名前で予約したんだ。さて当日、女房は野田恒子を|羽《はね》|田《だ》まで送って行き、ロビーで別れてから、自分は|上《うえ》|野《の》へ展覧会を見に行き、それから買物をすることにしていたので、帰りは夜になる予定だった。わしは|珍《めずら》しく家で一人のんびりと|寛《くつろ》いでおったのだが……。そこへ電話が入った。航空会社からで、女房の乗った機が|墜《つい》|落《らく》したというんだ」
――やっぱりそうか。
「何か言ったか?」
――いえ何も。どうぞそのまま。
「わしは|一瞬《いっしゅん》、何だかわけが分らなかった。電話は、詳細は追ってご|連《れん》|絡《らく》しますとだけ言って切れた。――そして、やっとわしも思い当ったんだ。野田恒子が女房の名で乗っていたんだ、とな。女房へ連絡しようと思ったが、どこをふらついとるか見当もつかん。|戻《もど》って来るのを待つより仕方あるまい、とわしはソファへ座った。その時、ある考えが|閃《ひらめ》いたのだ」
――なるほど、それが奥様を殺す、という……。
「そうなんだ。電話では飛行機は海へ|墜《お》ちたらしい口ぶりだった。全員絶望なのかどうか、それを確かめなければならなかったが、もし大破して海へ突っ込んでいたら、それこそ死体の状態はひどいものだろうし、全部が見つかるとは限らん。そうなると表向き、女房は死んでいる[#「死んでいる」に傍点]わけだ。わしは、チャンスだ、と思った。今なら女房を殺しても疑われずに済むかもしれない。何しろもう女房は死んでいるんだ。死人が殺されるはずはないからな」
――しかし、本当に死んだ女性の方が……。
「さっきも言ったように、野田恒子は身よりらしい身よりもなかった。彼女の九州行きを、わしと女房以外に知っていた者がいるとは思えなかった」
――で、いよいよ殺人計画開始ですね?
「まず、事故の状況を確かめねばならなかった。墜落といっていたのが実際は|不時着《ふじちゃく》で、全員無事、などというんでは、こっちの計画が成り立たんからな。わしは航空会社へ電話したが全く通じん。TVをつけてニュースを聞いた。事故は空中|衝突《しょうとつ》だった! 全く、あんな広い空中でぶつかるなんぞ、信じられんような話だが、事実だったんだ。本当だぞ。|嘘《うそ》じゃないぞ」
――|誰《だれ》も嘘だなんて言ってやしません。
「そうか、それならよろしい。ともかく旅客機はどこぞの馬鹿が|操縦《そうじゅう》しとったセスナ機と衝突、空中で|爆《ばく》|発《はつ》してバラバラになって海へ落ちたというから、正にわしの計画には打ってつけだ。全員絶望、しかも死体の判別は困難だろう。わしはこの機会を利用せんのは嘘だ、と思った」
――で、具体的にはどういう……。
「それを今から話すんじゃないか。そうせかせるな。――問題は、あまり時間がないことだった。女房が夕方帰って来れば、近所のカミさん連中に見られるかもしれんし、ニュースを聞きつけた誰か――何しろ女房の|奴《やつ》には友達が多いからな――から電話でも入って、あら、いやだ、あれ私じゃないのよ、へへへ……などということになっては、せっかくのチャンスもおじゃんだからな」
――奥様は「へへへ」とお笑いになるんですか?
「何でも構わんだろう、そんなこと」
――はあ、そりゃまあ……。
「そうならないようにするためには、女房を外出の|途中《とちゅう》で|捕《つか》まえる必要がある。しかし何といっても女というやつは気まぐれな動物だ。どこそこへ行くと言って出かけても、まず|真《まっ》|直《す》ぐに目的地へ|到《とう》|達《たつ》することは考えられない。途中で大安売りの|吊《つ》り広告でも見れば、たちどころに|軌《き》|道《どう》修正だ。それを途中で捕まえるというのは容易じゃない」
――で、どうなさったんですか?
「運を天に任せて、わしは出かけた。展覧会の方にはまず間に合うまい。それで買物をすると言っていたデパートへと車を飛ばしたわけだ」
――捕まえられなかったら、どうするおつもりだったんですか?
「そりゃ計画を断念する|他《ほか》はない。つまり、女房と出くわせるかどうかに、わしゃ計画を実行するかどうかを|賭《か》けたわけだ」
――わりといい|加《か》|減《げん》なんですね。
「そりゃそうだ。何しろ小説だからな」
――ともかく続けて下さい。
「女房がいつも行くデパートはわしもよく知っとる。何度か荷物持ちに連れて行かれたことがあるんでな。いや、全く女ってやつは、こと買物となると、|普《ふ》|段《だん》からは信じられないほどに元気になるもんだな。買物用のエネルギー源というやつが別にあるのに違いない。いつもなら、ちょっと家事をやってもすぐに|疲《つか》れた疲れたと文句を言うくせに、買物の時は疲れ知らずに歩き回る」
――あの、あまり寄り道しないでくれませんか。
「ん? ああ、そうか。――で、ともかくわしはデパートへ行ったわけだ。女房が、着物を見たいとか言っとったんで、わしも着物売場をウロウロしておった。|散《さん》|々《ざん》待たされ、こいつはもうだめかと半ば|諦《あきら》めかけた時、女房が|悠《ゆう》|々《ゆう》と現れたんだ」
――いよいよ計画実行というわけですね。
「わしは、ちょうど人に会う用ができて出て来た、と出まかせを言って、どこかで夕食を取ろうと持ちかけた。むろん女房がいやだと言うはずもない」
――かなり食いしん|坊《ぼう》だったんですね。
「そうでない女なぞいるかな?――で、ともかくデパートからわしは車を|郊《こう》|外《がい》へ飛ばした。郊外には色々とホテルがある」
――ラブ・ホテルですね。
「都内のようなのとはちょっと違って、半ば観光ホテルという所かな。社長が週末に愛人を連れて行ったりするようなホテルだ。わしらはその一つへ行き、最上階のレストランで夕食を取った。そんな場所なら、まず知り合いに会う心配もない。女房はめったにそんなことはないので、すっかりご|機《き》|嫌《げん》だ。その内少々アルコールも入って、今夜はここへ|泊《とま》って行くかということになった」
――ラブ・ホテルへですか?
「そうとも。何か文句でもあるのか?」
――いえ、別に。
「女房も久しぶりでその気[#「その気」に傍点]になって……わしの方は仕方なくお付き合いしたわけだ。わしの目的は時間を|稼《かせ》ぐことだったんだ」
――というと?
「一息つくと十一時近くになっていた。わしが何気なく|部《へ》|屋《や》のTVをつける。ニュースで例の飛行機事故が報道されていた。わしはむろん初めて知ったという顔でびっくりして見せた。女房も青くなって、こんなことはしていられない、というわけだ。で、わしらは夜中だったが、そのホテルを出た」
――フロントが|妙《みょう》に思いませんでしたか?
「ああいうホテルだ。色々な客がいるさ。いちいち疑っていては商売にならん」
――それもそうですね。
「女房は|徹《てっ》|底《てい》した方向|音《おん》|痴《ち》だ。何しろ長年住んどる家の中でもトイレに行くのに迷ったりするくらいだからな」
――お宅が広過ぎるからでしょう。
「う、うん。まあそれもある……。君、なかなかいいことを言うじゃないか」
――単純だな。
「ん? 何か?」
――いえ別に。こっちの話で。じゃ話を本筋へ戻して……。
「そうだったな。――何の話をしとったかな?」
――奥様が方向音痴というところでした。
「ああ、そうか。いや、女房が方向音痴というのを利用して、わしは東京とは逆の方向へ車を走らせた。女房はまるで気付かない。その内に、近道をしようと言って車を細いわき道へ入れた。ほとんど他の車も通らない山の中の道だった。わしはどんどん車を奥へ奥へと進めて行った。――その内、女房もちょっと不安になって来たとみえて、『この道でいいの?』と|訊《き》いて来た。わしも自信なげに、『こいつは|間《ま》|違《ちが》えたかな』と言って車を|停《と》めた。あたりは真っ暗で、他の車も通らない。わしは車から降りて、小用を足すふりをして道のわきに立った」
――あんまり見っともいいものじゃありませんな。
「仕方ないさ。何しろ人殺しをしようってんだからな。で、わしはアッと声を上げた。『どうしたの?』と女房が訊くんで、『あそこに誰か|倒《たお》れてる!』とわしは|怒《ど》|鳴《な》った。女房も急いで降りて、やって来る。女ってのは|好《こう》|奇《き》|心《しん》の|塊《かたまり》だからな。で、『どこに?』と|茂《しげ》みの奥を見つめる女房へ、『もっとあっちだ、もう少し右だ』と言いながら、わしは女房の後ろへ回り、足下の手ごろな石を拾った……」
――それでガンと|一《いち》|撃《げき》、アッと奥さんが悲鳴を上げてうずくまる所へ、さらに一撃、また一撃、さながら|悪《あっ》|鬼《き》の|如《ごと》き|形相《ぎょうそう》で|殴《なぐ》り続けた!
「勝手に|脚色《きゃくしょく》する|奴《やつ》があるか!」
――すみません。
「ともかく一発で女房はいとも静かにのびちまったよ」
――たった一発でですか? あんまり面白くありませんねえ。
「不平を言ったって仕方あるまい。ともかくそれで女房は死んだ。わしは女房の着ていた物を全部|脱《ぬ》がし、死体を茂みの奥へと引きずり込んで、そのまま|放《ほう》っておいた。後は車へ戻り、山道を逆戻りして、家へ帰った。それで殺人の|完了《かんりょう》さ」
――そんなことでいいんですか? 死体を|埋《う》めるとか、石をくくりつけてダムの底へ|沈《しず》めるとか……。
「そんなことをするのは|素《しろ》|人《うと》だ」
――はあ。
「いいか、こっちにとっては、死体が発見されたって、一向に構やせんのだ。女房はもう飛行機事故の方で死んでいるんだからな。死体には|身《み》|許《もと》の手がかりになるような物は全く残っていなかった。だから、それがわしの女房だなどと考える|奴《やつ》があるはずもない」
――なるほど。しかし顔写真が新聞にでも出れば……。
「そこを考えたからこそ、わざわざ山奥へ連れて行って殺したんじゃないか。あそこなら少なくともしばらくは見つからんとわしは見た。見つかった時には、もう顔は分らなくなっているだろう……」
――で、現実には?
「見つかったのは一か月もたってからのことだった。新聞に〈女性の|全《ぜん》|裸《ら》死体見つかる〉と出たが、それが女房だとは|誰《だれ》一人思わなかったろう。何しろ女房の|葬《そう》|式《しき》はとっくに済んでいたんだからな。わしも事故で女房を失って気落ちした亭主の役を|巧《たく》みに演じた」
――それで、|恋《こい》|人《びと》の……ええと、夏子さんでしたか、彼女は真相を知っていたんですか?
「できるだけ|穏《おだ》やかに話をしたよ。彼女もよく分ってくれた」
――本当に死んだ野田……
「恒子」
――ああ、野田恒子でしたね。そっちの方から何か困った問題はなかったんですか?
「別になかったね。――当座は」
――というと、何か[#「何か」に傍点]あったんですね?
「まあ、思いもかけないことになったんだ」
――どうしたんです?
「わしは夏子とも極力人目をはばかりながら会っていた。やはり時期が時期だけに、誰かの口からわしらの関係が|洩《も》れるのはうまくない。――しかし、夏子も、ほとぼりがさめたら妻の座へ|迎《むか》えられるものと分っていたから、別に不平も言わなかったし、まあ、わしらとしては楽しい日々だった。ところが、ある日……」
――な、何があったんです?
「この続きはまたにしてくれ。次の|約《やく》|束《そく》があるんでな」
――それはありませんよ! ちゃんと結末をつけて下さい!
「すぐには終らんのだよ。この次だ。それじゃ、これで……」
――ですが……あの……
「謝礼は?」
――え?
「インタビューの謝礼だよ」
――はあ。あの……それは後ほど……
「こんなデリケートな問題について|快《こころよ》く答えたんだからね、他のインタビューよりも、ぐんとはずんでほしいね、君。ぐん[#「ぐん」に傍点]と!」
――分りました。編集長に言ってみます。
「次回には、|額《がく》を聞かせてくれたまえ。それ次第で次回のインタビューに応じるかどうか決めるから」
――がめついんだから!
「商売だよ、商売。ハハハ……」
――じゃ次には必ず話の結末をつけて下さいよ!
「謝礼をうんと出せばこっちもその気になるさ。少ないと、またいい所で、〈次回〉ってことになりかねんよ」
――昼メロじゃあるまいし。
「うん?――そうだな。これは昼メロの原作にもちょうどよいな。君、いいことを言ってくれた! その際、原作権はあくまでわしの方にあるんだぞ、いいな! じゃ、また」
――やれやれ……。意外な結末――頭へ来たインタビュアーが相手を殺すってのはどうだい!
(以上、景山第一章分)
(景山の|原《げん》|稿《こう》に対するメンバーの評)
西本「いや、|驚《おどろ》いたね! 君にこんな面白いものが書けるとは! いや、|怒《おこ》らないでくれよ。記者としての体験がものを言っているんだろうが、それにしても面白い。いや、ユニークな形式で、結構だったよ」
公路「着想や展開はどうってことないのを、インタビューという形式で楽しく読ませる。感服しました。景山さんの奥さんも旅行好きだけど、まさかご自分のことじゃありますまいね。――これ、|冗談《じょうだん》です」
香川「|凡《ぼん》|俗《ぞく》」
4
(香川一男の原稿)
妻を殺さねば、私が殺される。
そうはっきりと|悟《さと》ったのは、五月の、あるカモメのような日であった。私は久々に悪友に会った|懐《なつか》しさにも似た気分で、その朝の不快な目覚めを|歓《かん》|迎《げい》した。
今日こそは、と私は|自《みずか》らの五感へ言い聞かせた。今日こそは|冬《とう》|眠《みん》から|脱《だっ》することができるであろう。長い暗い冬。終日、地下鉄を乗り|継《つ》いでいるような、夜と昼がどろどろと混合された感覚。何か月もの長さを持った一日と、週|遅《おく》れの週刊誌を読む間に過ぎて行く二十四時間。
|苛《いら》|立《だ》ちと|焦《あせ》り、沈み込む無力感と|放《ほう》|棄《き》の感覚。天を|翔《と》ぶカタツムリ、地をのろのろと|這《は》うペガサス。
そうだ。昨日までの私がそれだった。
今、やっと朝が来たのだ。|蛇《へび》が蛇たることを取り戻すのだ。|眠《ねむ》っている蛇は|豚《ぶた》も同じことだ。蛇は|鎌《かま》|首《くび》をもたげ、舌を|鋭《するど》く走らせながら、|一《ひと》|噛《か》み必殺の毒でいけにえの命を絶ってこそ蛇なのだ。
この重い|四《し》|肢《し》から、やり場のない頭痛から、詩が生まれるのだ。
あまりに長く、ぬるま湯の日々に|浸《ひた》り切って、感覚は|麻《ま》|痺《ひ》したかに思えたが、今、やっとよみがえって来た。血は暗く|沸《わ》き立ち、血管の中で|膨《ふく》れ上る。|卑《いや》しい欲情が聖なる光へと高められるのだ。
私は喜々として机に向った。目の前に四角います目で区切られた白い処女地が広がっている。その|乙《おと》|女《め》のつややかな|肌《はだ》は、私を待っているのだ。私の|息《い》|吹《ぶ》き、私の|愛《あい》|撫《ぶ》を、待っている……。
私は世界を創造する。|混《こん》|沌《とん》たるカオスから神がこね上げたように、|総《すべ》てをこの手が造り出すのだ。太陽も、月も、星も、昼も、夜も、海も、山も、森も、花も、生きとし生けるもの総てを、造り出す――|創《つく》り出すのだ。
詩人はこの時、神となって、無から有を生じさせる。〈非存在〉が〈存在〉となるのだ。
私は久しく使わなかったモンブランを取り出し、ペン先をインクびんに|浸《ひた》すと、静かにインクを吸い上げた。|微《かす》かにきしむ音をたてながら、|透《す》き通った部分をインクの|濃《こ》い青が埋めて行くと、あたかも呼応するように、私の心が血潮で埋って行く。胸が熱くなるのが分る。〈その時〉は近いのだ。
|傑《けっ》|作《さく》の予感が、ひたひたと満ち潮のように|這《は》い上って来た。ああ、この瞬間の|陶《とう》|酔《すい》よ! 一生の間に、果して何度|訪《おとず》れて来るか、予測することも、願うことすら|叶《かな》わぬ、|稀《け》|有《う》の瞬間! この時のために、私は生きているのだ。
現実が何だ! 人生とは、と|偉《えら》ぶって見せる|輩《やから》など、この足下にひれ|伏《ふ》せ! この|充実《じゅうじつ》の時間を知らぬ者に、〈生〉を語る資格はない。創造する喜びを知る者だけが、真に生きているのだ。他の者は|総《すべ》て、その影に過ぎない。
私はペンを|握《にぎ》りしめる。後は――そうだ、私も知らぬ力に、この手を|委《ゆだ》ねるのだ。言葉が青い|航《こう》|跡《せき》となって白い海原を旅するのを見守るのだ。――そうだ!――見ろ、この順風|満《まん》|帆《ぱん》の快走を!
この|高《こう》|揚《よう》感! この大空を|舞《ま》う|鷲《わし》の満足感!――時よ止れ! お前はこれほどに美しい!
|突《とつ》|如《じょ》として、|断《だん》|頭《とう》|台《だい》の|刃《やいば》が落ちた。私は自分の頭が転がり落ちるのをじっと|凝視《ぎょうし》した。
無神経に部屋の戸が音をたてて開けられると、妻の声がした。
「|掃《そう》|除《じ》するから、ちょっと出てくれる?」
私は|凍《こお》りついたように、ペンを持ったまま|座《すわ》っていた。何ということだ! ガラスの針を重ねて行くような、この|微妙《びみょう》な作業を、かくも暴力的に断ち切るとは。
私は|怒《ど》|鳴《な》りつけてやりたかった。――しかし、それは|無《む》|駄《だ》なことであった。もはや、手の指の間から落ちた黄金の果実の|汁《しる》は、戻らない。詩作は、断ち切られてしまったのである。
庭へ出て、私は妻が掃除に精を出すさまをじっと|眺《なが》めた。
詩人の妻は詩人でなければならぬ。だが、妻は、永久に詩というものを理解すまい。それは宿命だ……。
私は庭で、ぬけがらとなって立って、部屋にまだ|漂《ただよ》っている私の|魂《たましい》が、妻の手にした電気掃除機の吸込口から吸い取られて行くのを眺めていた。――妻はああして、私を殺して行く。
妻を殺すのだ。それ以外に、私が、私の詩が、生きのびる道はない。これは罪ではない。人類の遺産を守るための、|唯《ゆい》|一《いつ》の方法なのだ。私の妻となったことが、|彼《あ》|女《れ》の不幸だったが、それは私の力ではどうにもならぬことだ。
「お|邪《じゃ》|魔《ま》さま」
妻は、私の部屋の掃除を終えると、私に言った。私は|死《し》|刑《けい》を言い渡す裁判官のように、|優《やさ》しい口調で、
「ご苦労様」
と言ってやったのだ。
(以上、香川第一章|冒《ぼう》|頭《とう》分。諸君らと違って、私は一日に何十枚も原稿用紙を埋めるという軽業まがいの芸当はできないのだ)
(香川の原稿に対するメンバーの評)
西本「いや、相変らず|素《す》|晴《ば》らしい文章だね。〈カモメのような日〉なんて、独得の感覚に|溢《あふ》れている。美しい作品になるに違いない」
公路「正直言って、何だかよく分らない。要するに詩を書いてたら、奥さんが掃除しに来て邪魔されたんで頭へ来たってことなんだろ? その割に長いね。ま、面白くないとは言わないが……|一《いっ》|般《ぱん》の読者はどうかね」
景山「こういうのは弱いんだ。〈カモメのような日〉って、どんな日だい? 奥さんが詩を書くのに邪魔だから殺すってのは|可《か》|哀《わい》そうじゃないか。|離《り》|婚《こん》すりゃ済むことなんじゃないの?」
5
西本は、いつになく安らいだ気分で、家路を|辿《たど》っていた。
心配していた信子の手紙も、そう他のメンバーの気持を害してはいないようだ。景山など見てもいないというが、どうしたのだろう。信子が住所を書き間違えたのかもしれない。それなら|却《かえ》って助かるというものだが。
信子との結婚は、失敗だった。今となっては、西本もそれを認めないわけにはいかない。このままではだめだ。何とかしなくては。
といって……どうすればいい? 果して信子が離婚に応じるだろうか? 西本自身は、何もいらない。家も、貯金も、全部|渡《わた》してもいいくらいに思っている。――なに、金はこれからも|稼《かせ》げる。
しかし、信子が|素《す》|直《なお》にうんと言うとは思えなかった。ともかく、西本の仕事はやっと順調に運び出したばかりである。稼ぐのはこれからだ。信子としては西本を|離《はな》したくはあるまい。
信子が|拒《こば》んだら、どうするか? 離婚|訴訟《そしょう》を起すほどの理由が、西本の方にもあるわけではない。信子が|浮《うわ》|気《き》をしたわけでもない。あんな手紙を出したからといって、離婚が認められるとは思えなかった。
性格の不一致という理由は、日本ではまだ認められていないと聞いた。――夫婦とはいえ、別々の人間なのだから不一致は当然のことで、不一致だからこそ面白いのだろう。自分たちの場合は、一方的な力のアンバランスが問題なのだ。
そうなると……解決は、信子が死ぬことだが、西本は、殺意を|抱《いだ》きはしたものの、それを自分に実行できるとは思わなかった。
殺してやりたい、と思うのと、殺すのとは全く別である。人間の、全く別の機能に関する問題だ。そうでなければ、世の中、殺人だらけになってしまうだろう。|誰《だれ》しも、殺したい人間の一人や二人は持っているだろうから。
西本は、半ば|諦《あきら》めに近い、悟り切ったような気分で、家へ|辿《たど》り着いた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
思いがけず、まともに返事があったので、西本はびっくりした。それも信子の声ではなかったのだ。若い男の声だった。
「――やあ、君か」
「お邪魔してます、|叔《お》|父《じ》さん」
西本は|偶《ぐう》|然《ぜん》のいたずらに思わず|微《ほほ》|笑《え》んだ。彼の小説の中で、伸子をだます手伝いをさせる江口一実。そのモデルが、この|江《え》|田《だ》|和《かず》|実《み》という青年なのである。その|容《よう》|貌《ぼう》や|境遇《きょうぐう》も、あの通り。信子の大のお気に入りであるのも同じだ。
「珍しいじゃないか」
と西本は言った。「どうしてるんだい、最近は?」
「相変らずですよ」
「しかし、その格好は……」
と西本は、背広にネクタイという江田のスタイルを見て、「どうも、初めてだな、君の背広|姿《すがた》っていうのは。背広にネクタイってのが最近の流行なのかね?」
「何言ってるの」
信子が例によって夫を|小《こ》|馬《ば》|鹿《か》にするように、「和実ちゃんは、今度事業を始めるのよ。それでキチンとしたスタイルなんじゃないの」
「何だって?」
西本は思わず|訊《き》き返した。
「あら、耳が遠くなったの?」
と信子が|皮《ひ》|肉《にく》る。江田がちょっと照れくさそうに、
「まあ、いつまでも遊んでるわけに行きませんしね、何か一つ、自分の力を|験《ため》してみたくなったもんですから……」
「そうよ! 和実ちゃんは優秀なんだから。私が保証するわ。絶対に成功するって」
「|叔《お》|母《ば》さんにそう言ってもらえると|嬉《うれ》しいな」
西本は、あまりのことに言葉もなかった。こんなことがあるだろうか? まるで自分の書いた世界がそのまま現実になったような……。むろん偶然の一致には違いない。が、それにしても、これが|驚《おどろ》かずにいられるか!
「しかし……今はどこも|不況《ふきょう》だからな、大変だろう。まあ、|頑《がん》|張《ば》ってくれよ」
「ありがとうございます」
と江田はそつ[#「そつ」に傍点]なく言って、「じゃ叔母さん、|僕《ぼく》はそろそろ……」
と|腰《こし》を浮かしかける。
「あら、いいじゃないの、まだ」
と信子は引き止めて、「夕ご飯を食べてらっしゃいよ、ねえ」
「でも、そういうわけにも――」
「構わないわよ。こんなのに気がねしなくたっていいのよ」
こんなの、とは西本のことである。
「そういうわけじゃありませんが……」
「じゃ、こうしましょう。三人で食べに出ましょうよ。ね? うちでよく行くしゃぶしゃぶの店があるの。なかなかおいしいのよ」
西本は「うちでよく行く」ではなく、「私がよく行く」と|訂《てい》|正《せい》すべきだと思ったが、むろん口には出さなかった。
「いいでしょ? 私たちも今夜は外へ食べに出ようって言ってたんだから。ねえ、あなた?」
そんなこと、まるで聞いていなかったが、西本は素直に|肯《うなず》いた。
「うん、そうなんだ。|一《いっ》|緒《しょ》に食べようじゃないか」
「はあ、ありがとうございます。ただ……ちょっと約束が……」
と江田は言い|淀《よど》んだ。
「彼女[#「彼女」に傍点]と約束かい?」
西本は我知らず、そう口に出していた。
「ええ、そうなんです」
と江田が|肯《うなず》く。西本はもう驚かなかった。きっともうマンションに|同《どう》|棲《せい》しているのだろう。
「まあ! 和実ちゃん、そんな|女《ひと》がいたの?」
と信子が、|素《す》っ|頓狂《とんきょう》な声を上げた。心、穏やかならずというところだろうが、さすがに|笑《え》|顔《がお》は消さず、
「じゃ、その彼女も呼びなさいよ。一緒に、いいじゃないの。私もぜひ会ってみたいわ」
「そうですか? いや、僕も一度彼女を叔母さんたちに見ていただきたかったんです」
「それじゃ決った! あなた、出かける|仕《し》|度《たく》をしてくれる?」
「分ったよ」
|戸《と》|締《じま》りその他を見るのは夫たる者の務めなのである。信子はともかく何か口実を見つけりゃ出かけたがる。いそいそと居間から、よそ行きに|着《き》|替《か》えるべく姿を消した。
「ちょっと電話をお借りします」
「ああ、いいとも」
西本は、江田が電話のダイヤルを回す手もとへ目を向けた。――番号は完全には分らなかったが、確かに江田のマンションもあんな番号だった。|恐《おそ》らく間違いはない。江田は自分の部屋へかけているのだ。
「ああ、僕だよ。――いや、今、叔母さんの所なんだけどね。叔母さんが夕食を外で食べようって。――君も来ないか。――うん、構わないんだ。――そうかい? じゃ、ええと……」
と西本の方を|振《ふ》り向いて、「店はどこですか?」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
西本は急いで信子の所へ走って行き、店の場所と名前を聞いて|戻《もど》ると、メモにして江田に渡した。――やれやれ。江田の話すのを聞いていても、「叔母さんの」所にいるのであって、叔父さんの所ではない。夕食代を出すのは信子だが、その金を|稼《かせ》いでいるのは西本である。しかし、江田は信子の方へ、ごちそうさまでした、と言うだろう……。
別に|愚《ぐ》|痴《ち》るわけではないが、親類の前でぐらい、|亭《てい》|主《しゅ》を立てて見せたってよさそうなものだ。期待するのが間違いかもしれないが。
ぼんやり考えていると、信子の声が、
「何してるのよ? ぐずぐずしてると置いてくわよ!」
と|雷《かみなり》の|如《ごと》く頭上に|叩《たた》きつけられた。
西本は、江田の同棲している相手の女性まではイメージを作っていなかった。――現実の[#「現実の」に傍点]彼女は、意外におとなしそうな、無口な女の子で……実際、「女の子」といってピッタリ来るような、まだ二十|歳《さい》そこそこの|娘《むすめ》だった。
「|今《いま》|井《い》|清《きよ》|子《こ》というんです」
江田が|紹介《しょうかい》すると、娘はペコンと頭を下げて、
「よろしくお願いします」
と言った。なかなか感じのいい娘だ。西本がそう思った分だけ、信子の方は面白くないらしかった。何しろ自分に無断で(何も断る必要はないはずだが)|可《か》|愛《わい》い|甥《おい》が彼女を作るなどというのが|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》なのだろうし、その娘に、あたかも|恋敵《こいがたき》の|如《ごと》き|嫉《しっ》|妬《と》すら覚えているらしい。年がいもなく、見られたざまではなかったが、西本は、内心大いにニヤついていた。信子にも思い通りにならないことがあるというのは|甚《はなは》だ愉快である。
それでも信子は|懸《けん》|命《めい》に内心の|苛《いら》|立《だ》ちを|隠《かく》して愛想よく|振《ふ》る|舞《ま》おうとしていた。
日本間を一つ借り、大いに食べ、かつ飲んで、座は割合に|弾《はず》んだ。その今井清子という娘も、口数は少ないが、食べる方はあまり|遠《えん》|慮《りょ》しない。飲む方では、ウィスキーの水割りをたちどころに三|杯《ばい》あけて信子の|度《ど》|胆《ぎも》を抜いた。西本は笑いをこらえるのに必死だった。
こういう席になると江田は持ち前の人当りの良さで、適当に相手を持ち上げたり、自分と彼女のPRも|巧《たく》みにやってのける。西本は、今の若者は、こういった処世術は全くよく心得ているものだと、つくづく感心した。
今の若者は|酔《よ》っても決して中年男たちのように見っともない|真《ま》|似《ね》はしない。ほどほど、ということをちゃんとわきまえている。|賞《ほ》めるべきことなのかもしれないが、西本には何だか食い足りない――若さというのは、もっと馬鹿げたものではないかという気がしてならなかった……。
「叔母さん、お願いした件、よろしく頼みますね」
「いいわよ。|大《おお》|船《ぶね》に乗ったつもりでおいで!」
と信子もビールで赤くなった顔をぐっと引き締める。西本は信子と江田の顔を|交《こう》|互《ご》に|眺《なが》めて、
「何の話だい?」
と|訊《き》いた。ともかく無視されることには慣れている。
「叔母さんが、僕の仕事の資金を|援《えん》|助《じょ》して下さることになったんです」
西本は、一度に酔いがさめてしまった。――そうだった! まだこれ[#「これ」に傍点]が残っていたのだ。もちろんだ。何もかも小説の通りになるとしたら、この話だって出なくては|嘘《うそ》だ。西本は気が|狂《くる》いそうだった。しかし……しかし、小説と違う点は、西本が江田に言って、この話を信子へ持ちかけさせたのではない、ということだ。
つまり、この借金の話が事実だという点が、西本の小説とは違っている。だが、果して事実なのだろうか? 江田のように遊び|暮《く》らす生活に|馴《な》れ切ってしまった男が、本気で事業を始めようなどと考えるものだろうか?
江田たちと別れて、帰り道で、西本は言ってみた。
「本当に|大丈夫《だいじょうぶ》なのか?」
「何が?」
「江田君が何か始めるっていうけど、そう|生《なま》|易《やさ》しいものじゃないぞ。本当に|巧《うま》く行くのか?」
「何よ、あんた、私の甥に文句をつける気?」
「そ、そうじゃない。ただ心配して言ってるだけさ」
「あんたよりよほどしっかりしてるわよ、和実ちゃんは」
西本はムッとしたが、例によって|黙《だま》っていた。そして息をついて、
「ま、それはいいが、いくら|融《ゆう》|通《ずう》することにしたんだ?」
信子はすぐには答えなかった。ちょっと考えるように間を置いて、
「一千万」
と言った。――西本は、はたと足を止め、目を見開いて、言葉もなく立ち|尽《つく》くした。信子は|苛《いら》|々《いら》した様子で、
「何よ、私の顔に何かついてるの?」
「一千万だって? それじゃ――うちの預金は|空《から》っぽになっちまうじゃないか!」
「いいじゃないの。何も、やっちまうってわけじゃないんだから。貸すだけなのよ。その内、倍になって戻って来るわ」
そう巧く行くもんか、と|怒《ど》|鳴《な》ってやりたかったが、やっとの思いで思い|止《とど》まった。
「もし――もし失敗したら、全部パアなんだぞ、分ってるのか?」
「あんたがそんなこと心配しなくたっていいのよ。あんたは黙って仕事をしてりゃいいの!」
これは信子の〈話、打ち切り〉という合図である。信子はさっさと歩いて行ってしまう。出かける時は、車を使ったくせに、帰りはいとも安上りに電車とバスを使うというのが、いかにも信子らしいところだ。
信子の後から歩きながら、西本はあれこれと考えをめぐらせていた。
江田が事業を始めるというのが、果して本気なのかどうか、それも|怪《あや》しいものだ。何か借金の|穴《あな》|埋《う》めにでもするつもりではないのか。もし事実だとしても、そう世間は|甘《あま》いものではない。十中八、九、失敗するとみていいだろう。すると……我が家は無一文になる。いや、実際には他にも貯金はあるし、|路《ろ》|頭《とう》に迷うことはないが、ほとんどゼロから再出発ということになる。
これは自分の筋書とよく似ている、と西本は思った。まあ、実際に[#「実際に」に傍点]金がなくなるというのは大違いだが、信子にとっては、一千万の金をドブに捨てたも同然に失ったショックと、愛する甥に裏切られたという二重のショックは、少しはこたえるだろう。世をはかなんで自殺する――かどうかは分らないが、しばらくガックリ来るぐらいは確実である。そこが自分にとっては|狙《ねら》い目かもしれない、と西本は思った。
離婚の話を切り出すにしても、そういう時なら容易である。何しろ信子が自分の責任で全財産のほとんどを失ってしまったのだから、西本がどう言っても反論できないはずだ。そういう弱味につけ入るのは|卑怯《ひきょう》な気もしたが、しかし、そんなことを言っている場合ではない! 大体、信子の方はいつも彼の弱味につけ入るどころか、傷をえぐり出すような|残《ざん》|忍《にん》な|真《ま》|似《ね》を平気でやっているのだから、こっちが遠慮することはないのだ。
そう考えて来ると、この馬鹿げた出資もそう|嘆《なげ》くほどのことはないように、西本には思えて来た。――確かに一千万は大金だが、今のペースで仕事が順調に行けば、二年もあれば取り戻せる。自由を得る|代償《だいしょう》としてなら、決して高くない……。
そうだ、たった一度でいいから、西本は信子に言ってやりたかったのだ。
「ざまあみろ!」
と……。
西本はふと夜空を見上げた。冷たいものが、|頬《ほお》を打ったのである。
「雨か……。おい、雨だぞ。車を拾おう」
と西本は信子に呼びかけた。
「いいわよ、走れば! もったいない!」
と信子は|怒《ど》|鳴《な》り返して来た。
「ああ、|瞳《ひと》|美《み》かい? 僕だ。――うん、雨なんだよ。今、駅前にいる。――タクシー乗場が行列でね、|凄《すご》いんだ。|傘《かさ》を持って|迎《むか》えに来てくれないか?――|頼《たの》むよ、待ってるからね」
公路は受話器を置くと舌打ちして、冷たい雨を降らせる夜空を見上げた。赤電話には、同じように家へ電話を入れる人の列ができている。駅前のタクシー乗場も行列で、どれだけ待ったらいいか分らない。
「まあいいや……」
歩けば十五分ほどの道のりである。今日は|真《まっ》|直《す》ぐ帰って来ればよかった、と|後《こう》|悔《かい》したが、|手《て》|遅《おく》れだ。大学時代の友人に一杯おごるよと声をかけて飲んでいたらこの雨。全く、ついてないよ!
瞳美に迎えに来させたりしたら、後が|怖《こわ》い――迎えに行ってあげたんだから、ネエ、ということになる――のは分っていたが、雨に|濡《ぬ》れて帰るにはちとまだ寒いし、こちとら、ジーン・ケリーでもないのだ。それに濡れて帰ったって、瞳美が|見《み》|逃《のが》してくれるはずもなく、同じ濡れるならあの方で、と思ったのである。
「……|遅《おそ》いな」
雨は一向にやむ気配がない。|腕《うで》時計を見ると、もう二十分以上たっている。ゆっくり歩いても、もう着いていい|頃《ころ》だが……。
公路は、改札口から|吐《は》き出されて来る、勤め人たちの、疲れ切った顔をぼんやりと|眺《なが》めていた。公路自身、自分は勤め人に向いていない、と思っていた。気まぐれで、気ままな性分。無理にサラリーマンになっていたら、今ごろはノイローゼで精神病院か、でなければ会社を|爆《ばく》|破《は》しているかもしれない。
もっとも、この疲れ切った連中にしても、好きでサラリーマン|稼業《かぎょう》をやっているのではあるまい。家族もある、生活がある。食べて行かなければならない。それは何ともやり切れない重荷であろう。
公路は実際の所、食べるためにあくせく働いたという経験がない。いざとなれば親がいる、という気があって、働くにも|呑《のん》|気《き》であった。また、そうしてリラックスした気分でやるから、シナリオのような仕事がうまくこなしていられたのである。それに公路には、生まれつき、ホラ話をこしらえる才能があったし、またありすぎて、妙に作家の良心なるものに苦しめられることもなかった。何事も商売、と割り切ることができたのである。
まあ、|俺《おれ》はツイていたんだろうな、と公路は思った。世の中には、|恵《めぐ》まれた人間と、恵まれない人間がいる。何をやってもほどほどの成功をおさめて気軽にやって行ける、いわば|滑《なめ》らかな道を行く人間と、何か一つのことを成しとげるのに、大変な努力を必要とし、それでいて運の悪い人間と……。
世の中は不公平にできているのだ。俺のように努力するのが|嫌《きら》いな人間が成功し、こつこつと地道に働き続ける連中は、大した暮しもできずにいる。――仕方のないことだ。
あんまり、ぜいたくを言っちゃいかんのかもしれないな、と公路は思った。瞳美のような、若くて美しい女房まで持って、それでブツブツ文句を言うのは身勝手というものかもしれない。まあ、こっちの体力の続く限りは満足させてやって……。
公路は駅の時計へ目をやった。おかしい。もう三十分以上たっている。いくら何でも、着いていていいはずだ。
赤電話の列が|途《と》|切《ぎ》れていた。公路はもう一度マンションへかけてみた。――呼出し音は聞こえているが、誰も出ない。もうマンションを出てはいるのだ。一体何をしているんだろう?
この雨、この夜道だ。まさか、車にはねられるとか……。馬鹿な! 子供じゃあるまいし!
ふと、公路は自身の書いたシナリオを思い出した。あの主人公は駅で待っていた。妻が暴行されるのを思い|描《えが》きながら……。何を考えてるんだ! あんな雑木林の道など、ありゃしないじゃないか。
もし、そんなことがある、とすれば……公園がある。歩いて来るには、そこを|抜《ぬ》けるとかなり近い。瞳美もきっと公園を抜けて来るに違いない。――ちょっとした広さがあり、高い木があって、|薄《うす》|暗《ぐら》い、|寂《さび》しい場所だ。
「まさか! この雨の時に!」
公路は腹立たしげに|呟《つぶや》いた。「何をぐずぐずしてるんだ……」
雨の中から、瞳美の姿は一向に見えて来なかった。――四十五分たっている。少々濡れても、歩いて行けばよかった、と思った。熱いシャワーを浴びればすむことなのだから。
歩いて行こうか。どうせ途中で出会うかもしれないのだから。――いや、万一、違う道を取っていて、すれ違ったら|却《かえ》って|面《めん》|倒《どう》である。こんな時は動いてはいけないのだ。それにしても遅い。
遠くから――何だろう? あの音は? サイレンだ。救急車[#「救急車」に傍点]だ。公路は、自分の書いたシナリオがそのまま現実化される、|奇妙《きみょう》な感覚を味わった。不安がよぎった。あれに、瞳美が……。まさか!
救急車は赤いランプを回転させながら、駅の前でカーブを切り、そのまま消えて行ってしまった。公路はその赤い|灯《ひ》の|瞬《またた》きを、じっと見送ってから、道の方へと視線を戻した。
瞳美が歩いて来るのが見えた。
|安《あん》|堵《ど》と腹立たしさが同時にこみ上げて来る。
「どうしたんだ! 心配したよ。あんまり遅いから――」
公路の言葉は途切れた。レインコートをはおり、傘をさしていながら、瞳美は全身、濡れそぼっていた。|髪《かみ》も、まるでシャワーを浴びたままのようで、顔は|真《まっ》|青《さお》で、|唇《くちびる》も色を失っている。
「どうしたんだ! 濡れて、こんなに……」
驚いて、公路は瞳美の|肩《かた》をつかんだ。
「転んじゃったの……途中で……ごめんなさい、遅くなって」
「そんなこといいけど……」
瞳美は今にも倒れてしまいそうに見えた。
「少しどこかで休んで行こうか?」
「いいの。大丈夫」
と頭を振って、「帰りましょう、早く」
と公路の腕を取る。
「うん。僕の傘は?」
瞳美は|当《とう》|惑《わく》したように、
「ああ……いやだわ。……転んだ時に、落としたのかしら。気が付かなくて、私……」
「いいよ、タクシーで帰ろう」
「でも、あんなに|並《なら》んで――」
「構やしないよ」
公路は瞳美を|抱《だ》きかかえるようにして、「すみません! 家内が具合が悪いんです、乗せて下さい!」
と列の先頭へ割り込んだ。ちょうど、品の良い老|紳《しん》|士《し》の番で、
「いいとも、先にどうぞ。さあ」
と|快《こころよ》く|譲《ゆず》ってくれた。
「すみません!」
|停《とま》っていたタクシーへ乗り込む。
「……ごめんなさい」
車が走り出すと、瞳美は深く息をついた。
「いや、本当に病気みたいだよ、大丈夫か?」
「ええ。何でもないわ……」
「|風《か》|邪《ぜ》を引いたんじゃないか? 悪かったね、迎えに来させて。歩いて帰ればよかったんだが」
瞳美は目を閉じた。――一体、どうしたというのだろう? 電話をした時には、いつもと何の変りもなかったというのに。迎えに来る途中で、何か[#「何か」に傍点]あったのか。ただ転んだだけではあるまい。こんなに青くなって、こんなに、深刻な表情を……。
まさか。そんなこと[#「そんなこと」に傍点]があるもんか!
マンションへ帰り着くと、瞳美は熱いシャワーを浴びて、すぐにベッドへ入ってしまった。
公路は一人でゆっくりと湯につかりながら、半ばホッとして、半ば落ち着かない気分を味わっていた。いつも一人でのんびり入っている所へ、瞳美が入って来て、湯舟の湯をザアザアと|溢《あふ》らせながらキスして来るので閉口するのだったが、今夜ばかりは静かなものだ。
といって、どうも喜んでばかりはいられない。ただの風邪か何かならいいのだが……。|風《ふ》|呂《ろ》から上った公路は、ガウンを着て、ソファに|寛《くつろ》ぐと、久しぶりでステレオのスイッチを入れた。好きなピアノのレコードをかけて、低い音量で、部屋に流す。いつもレコードをかけていると、それにやきもちでもやくように、瞳美が甘ったれて|膝《ひざ》に乗っかって来る。
今夜はじっくりと聞けるな、と公路はブランデーのグラスを|揺《ゆ》らして、ソファにのびのびと体を沈めた。しかし……どうも、おかしい。ピアノの調べに耳を|傾《かたむ》けているつもりなのに、目はチラチラと寝室の方へ向いて、今にも瞳美があられもない|裸《ら》|身《しん》で、
「早く来てよ、あなた!」
と出て来るんじゃないかと考えているのだった。そうなればなったでウンザリするのだが、今は、そうなってくれた方が、気が安まる思いだった。
結局、瞳美は出て来なかった。一時間たって、公路はそっと寝室を|覗《のぞ》きに行ったが、暗がりの中から、静かな息づかいが聞こえて来るばかりであった。
「何を考えてるの?」
冬子が|訊《き》いた。|景《かげ》|山《やま》は毛布の下で、冬子のなだらかな腹に手を当てながら、
「決めたのか?……どうするのか」
と言った。冬子は黙って首を|枕《まくら》の上で左右に振った。そして、半ば自分に言い聞かせるように、
「まだ、大丈夫なのよ。――もう少し時間があるわ」
と|呟《つぶや》いた。景山は、暗い|天井《てんじょう》を見ながら、しばらく黙っていたが、やがてポツンと、
「すまんな」
と言った。
「何のことを言ってるの?」
「君に何もしてやれないからさ」
「いいのよ、承知の上で、こうなったんですからね」
冬子は景山の方へ|身体《 からだ》をねじった。
「おい、大丈夫なのか、そんな風に体を――」
冬子は笑って、
「平気よ。それじゃ会社にも行けないじゃないの」
「それはそうだな」
景山は冬子の|裸《はだか》の肩を抱いた。
「私と別れたいでしょう」
「|馬《ば》|鹿《か》言え」
「正直に言ってよ」
「別れたくなんかあるもんか」
「でも、少しはそういう気持、あるでしょう?」
「しつこいな」
「じゃあ、訊き方を変えるわ。私がいなくなったら――突然、ある日会社を|辞《や》めて、ここも引き|払《はら》って、姿を消したら――あなた、ほっとするんじゃなくて?」
「なぜ?」
「面倒の種がなくなるから」
「いや、どうしてそんなことを言うんだ?」
「そういう風に消えるのって、|洒《しゃ》|落《れ》てるじゃない? 映画の終りみたいで」
「映画じゃないぞ、これは」
「分ってるわ。そこが|辛《つら》いところね」
冬子はため息をついた。「赤ん|坊《ぼう》を産んで、育てるってのは、いやになるくらい、現実的ですものね。――映画だったら、私が姿を消した後、すぐ、〈数年ののち〉ってスーパーを入れて、小さな子供の手を引いた私と、|奥《おく》様とお|嬢《じょう》さんに|挟《はさ》まれたあなたが、どこかの道ですれ違うっていう、胸|迫《せま》るラストシーンへつなげられるのに……」
景山は、見えない手に胸を|締《し》め上げられるような、|胸《むな》|苦《ぐる》しさを覚えた。
「俺は女房と別れるよ」
と景山は言った。
「やめて!」
|驚《おどろ》くほど、強い口調でそう言い返すと、冬子はベッドから飛び出した。
「本気だよ。気休めじゃない」
「それならよけいに許せないわ!」
「何を|怒《おこ》ってるんだ?」
景山はすっかり|面《めん》|食《く》らって、ベッドに起き上った。冬子は|全《ぜん》|裸《ら》のまま、|床《ゆか》の|絨毯《じゅうたん》に座り込んで、背を向けている。
「――あなたの気持はありがたいけど、だめよ」
静かな口調になって、冬子は言った。
「なぜだ?」
「あなたが、お人|好《よ》しだからよ」
「おい――」
「そりゃね、私のために|頑《がん》|張《ば》って、奥さんと別れることはできるかもしれない。でもね、それを忘れることはあなたにはできないわ。奥さんへの罪の意識がいつまでも残って、それが、今度は私たちの間まで、だめにしてしまう。――それが分ってるから、だめだと言うのよ」
「そんなことは……」
「ないとは言わせないわ。あなたはそういう人なんですもの。奥さんと別れれば、結局私たちもだめになる。私と別れれば、少なくとも今まで通りの暮しは残るわ」
「そんな計算ずくで――」
「計算がどうして悪いの? どうせ|誰《だれ》かが泣くんだったら、その人数が少ない方を選ぶべきだわ」
景山は何とも言葉がなかった。こんな|理《り》|詰《づ》めの話は、|苦《にが》|手《て》中の苦手とするところであった。冬子は立ち上って、ベッドへ戻って来た。
「ごめんなさい。あなたを困らせる気はなかったんだけど……」
そして、毛布の下へ|潜《もぐ》り込んで来ると、「忘れましょう。まだ時間はあるもの。今夜決めなくたっていいのよ」
「ああ、そうだね」
景山はホッとしたように言った。
「抱いて」
景山は、|壊《こわ》れやすいものにでも|触《ふ》れるように、そっと冬子の体を抱きしめた……。
「――雨よ」
服を着ている景山に、冬子は窓辺から声をかけた。
「そうか。|泊《とま》って行くかな」
「だめよ。あんまり家を|留《る》|守《す》にすると、|妙《みょう》な|噂《うわさ》が立つわ」
「構うもんか」
「だめだめ」
「じゃ|傘《かさ》を借りて行くよ」
「女物の? それこそ大変だわ」
「|濡《ぬ》れて帰れって言うのか?」
「そこまで|一《いっ》|緒《しょ》に行くわ。タクシーを拾えばいいでしょう」
「分ったよ。一|杯《ぱい》やるくらい、いいだろう」
「ええ。自分で作ってね」
「いいとも」
冬子はネグリジェを足下に落として、浴室へ入って行った。景山はウィスキーをグラスへ注ぎながら、TVのニュースを|眺《なが》めていた。最後のニュースだ。――記者時代の|癖《くせ》がまだ抜けず、つい、ニュースばかり見てしまうのだった。
グラスを持つ手が止った。
〈イタリアで旅客機|墜《つい》|落《らく》――日本人乗客も〉というテロップが出た。またか。こういう事故は、本当に不思議だが、続けて起こるものだ。イタリア。まさかとは思うが、|和《かず》|代《よ》と|敏《とし》|子《こ》もローマには行くと言っていた。
「――どうしたの?」
シャワーを浴びた冬子が、バスタオルを体に巻きつけて出て来た。
「事故だ。飛行機の」
「まあ、いやね――どこ?」
「イタリアだとさ」
じっと景山はTVの画面に見入っていた。むろん、現場のフィルムなどはまだ着いていない。地図の説明と、アナウンサーの顔が出るだけだ。
「――乗客|名《めい》|簿《ぼ》の中に、日本人と思われる次の名前がありました。イトオ・ヒロシ、ヤスダ・タカコ、ユミ・ヨウジ、カゲヤマ・カズヨ、カゲヤマ・トシコ………」
冬子が短く悲鳴を上げた。
「また会ってね」
とエリ子が香川の肩に甘えるようにしなだれかかる。香川はうるさそうに、
「年中会ってるじゃないか」
と言った。
「冷たい言い方ねえ」
――タクシーはそろそろエリ子のアパートの近くまで来ていた。
「あのホテル、あんまり感じ良くないわ」
エリ子は不平を言った。「今度はゆっくりしたいわ」
「いつもゆっくりしてるぜ」
「あら、だって、一晩明かしたことないわよ。まるで女房持ちみたいにちゃんと帰るじゃないの」
「|嫌《きら》いなんだ、よそで|眠《ねむ》るのが」
「あーあ、詩人はデリケートね」
とエリ子はため息をついた。「――あ、その次の信号を左へ入って」
「今度はホテルを変えるか」
「旅行しましょうよ。どこかに」
「旅行?」
「ええ。いいでしょ? 詩人は旅をするもんじゃなくって?」
「そうとは限らないがね」
「いいじゃないの。まだ一度も、どこにも連れてってもらってないわよ」
旅か。それもいいかもしれない。――もっとも家族旅行などというのは、家庭の延長で、旅とは言えないが。
「そうだな。いいかもしれない」
「あら、本当?」
エリ子が顔を|輝《かがや》かせた。「わあ、|嬉《うれ》しい! いつ? 今度の週末は?」
「そっちはいいのか?」
「私はOKよ」
「しかし、|切《きっ》|符《ぷ》だ何だというのが面倒だな」
「任せといて。私が列車やホテルも全部手配するから。どこに行きたい?」
「それも任せる」
「分ったわ。――あ、その先で|停《と》めて」
タクシーは、細い道の入口で停った。「じゃ、またね」
「ああ、おやすみ」
「バーイ」
エリ子は|弾《はず》むような足取りで暗い道の|奥《おく》へ消えて行った。香川は、タクシーを自宅へと走らせた。
「お帰りなさい」
涼子が急いで出て来た。「遅くなったわね、今夜は」
「そう言っといたろう」
「ええ。――ご飯は?」
「いらない」
「すぐお|寝《やす》みになる? それともお|風《ふ》|呂《ろ》へ入ってから?」
「そうだな。一風呂浴びるか」
「じゃ、さめたかもしれないから、火を|点《つ》けるわ」
香川がマントを放り出すと、涼子は拾ってハンガーにかけた。
「女の方と一緒だったの?」
「どうしてだ?」
「|香《こう》|水《すい》の|匂《にお》いがしてるから」
涼子の言い方には、別に不愉快そうな|響《ひび》きはなかった。
「バーのホステスだ。すぐすり寄って来るからな」
そう言って、香川は涼子の方を見ながら、
「|妬《や》けるか?」
と|訊《き》いた。
「仕方ないわ、商売|柄《がら》ですものね」
と涼子は笑って言った。――香川は風呂が温まるのを待つ間に、お|茶《ちゃ》|漬《づけ》を一杯、かっ|込《こ》んだ。自分の分のおかずが、ちゃんと取ってあるのは分っていたが、涼子の気持を考えて無理に食べる、という気にもなれない。
「今度の週末、旅行に出る」
「あら、どこへ?」
「まだ分らない」
「お仕事?」
「取材だ」
「そう……。うちもねえ、|詩《うた》|子《こ》がもう少し大きくなると出られるんだけど」
香川は何も言わずに、新聞を広げた。涼子は疑うということを知らない。それが香川をますます冷たくさせているのだった。
「今日、お|隣《となり》の奥さんがねえ……」
涼子が話し始めた。香川は聞いてもいなかった。
第三章 注 意
1
「それは大変なことになったな……。分った。――いや、|任《まか》せてくれ」
西本は受話器を置く前に、「何かの間違いだといいが。――そう|祈《いの》ってるよ」
と言った。何事かと話を聞きつけた信子がやって来て、
「どうしたの? 誰から電話?」
と|好《こう》|奇《き》|心《しん》をむき出しにして|訊《き》く。
「|景《かげ》|山《やま》だ」
「どうかしたの?」
「うん……イタリアで|墜《つい》|落《らく》した旅客機の乗客名簿に、奥さんと娘さんの名が入ってたそうなんだ」
「まあ! 二人とも死んだの?」
「死んだとは限らないよ」
「だって飛行機でしょ? 助かりっこないじゃないの! 死んでるわよ、それは。へえ、一度に二人もねえ」
とすっかり決めてかかっている。
「しかし実際に乗ってなかったってことも考えられるからな」
「名簿に名前があったのなら、乗ってたに決ってるわよ。あそこの奥さん、わりと派手な人だったわねえ。海外旅行なんか、じゃんじゃん行っちゃって。あれじゃお金がたまらなかったでしょうね。娘さんはまだ若かったでしょ? 気の毒ねえ。でも生命保険には入ってたんでしょうね」
「知らないね」
西本はうんざりして言った。保険に入っていたからって生き返るわけじゃあるまいし。
「景山さん、若い彼女がいるから、内心喜んでるんじゃない?」
信子の|爆《ばく》|弾《だん》発言に西本は|仰天《ぎょうてん》した。
「何てことを言うんだ!」
「あら何が?」
「そんな――|不《ふ》|謹《きん》|慎《しん》なことを言うもんじゃない! 向うはすっかり参ってるんだぞ」
「そりゃ一応はショックでしょうね」
と、いとも平然としている。
「しかし、今、君は――」
「若い彼女のこと?」
「そうだ。そんなでたらめを――」
「あら、でたらめじゃないわ」
「何か知ってるのか?」
「分るわよ、それくらい」
と信子はさも当り前といった顔で、「景山さん、このところ急に|服《ふく》|装《そう》の好みが変ったわ。以前はいかにも|野《や》|暮《ぼ》ったかったのに、最近はぐっといいセンスよ」
「それがどうした?」
「あんな|年《と》|齢《し》になって、急にセンスが良くなるなんて考えられないもの。そうなれば決ってるわ。女よ」
「たったそれくらいのことで――」
「女にとっちゃそれで|充分《じゅうぶん》よ。絶対に私の|勘《かん》に|狂《くる》いはないから。|賭《か》けたっていいわ」
と信子は自信満々である。西本も、そういう方面での信子の|嗅覚《きゅうかく》は野生動物|並《な》みであることをよく知っていた。
それに――そうだ、あのオムニバス小説の第一章。若い|恋《こい》|人《びと》がいて、妻を飛行機事故で死んだと見せかけて殺す。景山が、よくあんなプロットを思いついたものだと感心したのだが……。
すると本当に景山は他に恋人を持っているのだろうか。いや、しかし――そんなことは関係ない。まさか景山がイタリアの旅客機を落っことしたわけでもあるまいし。
「そんなことはどうだっていい」
と西本は言って、「じゃ、ちょっと出かけて来るぞ」
と|玄《げん》|関《かん》へ向った。とても信子の相手をしている気分ではない。
「ねえ、景山さんの所へ行くの?」
と信子はしつこく玄関へ追って来た。
「分らん。どうしてだ?」
「行ったら、お|葬《そう》|式《しき》がいつだか|訊《き》いて来て」
西本は、あまりに|呆《あき》れすぎて呆れることもできなかった。妙な表現だが、実際、そんな感じであった。
信子はさらに、玄関を出て行く西本へ追い討ちをかけた。
「ああ、それからね、|香《こう》|典《でん》の|袋《ふくろ》を買って来てよ!」
自分で買って来い!――と|怒《ど》|鳴《な》りたかったが、結局いつもの通り、何も言わずに家を出た。全く、人の気持を考えるということのない|奴《やつ》だ!
家を出たものの、ムシャクシャした気分で、別にどこへ行くあてもない。今日は仕事場へは行かない日である。
本当に景山の家へ行ってやろうかとも思ったが、まだ生死もはっきりしていない所へのこのこと顔を出しても、|慰《なぐさ》めるすべはないし、|下《へ》|手《た》にお|悔《くや》みも言えない。
「まあ、ともかく少し時間を|潰《つぶ》そう」
西本は駅へと続く道を歩いて行ったが、|途中《とちゅう》、反対の方からやって来る娘に、ふと目を止めた。一体どの家だろう、みんなよく似た家ばっかりで分りゃしない、といった表情で、歩いて来たのは――はて、どこかで見たような顔だな、と西本が思っていると、相手の方が西本を認めて、歩み寄って来た。
「西本さん。よかったわ、お会いできて!」
思い出した。江田|和《かず》|実《み》の彼女[#「彼女」に傍点]だ。名前は……ええと、何といったろう?
「やあ、よく分ったね、この辺だって」
「住所だけを|頼《たよ》りに|捜《さが》して来たんです」
「そりゃ大したもんだ」
「私、方向の勘がいいんです」
と娘は得意そうに言った。
「で、何か用かね?」
「あ、そうだわ、お話があるんですけど、聞いていただけます?」
西本とて若い女性の|頼《たの》みをむげに断るほど|女嫌《おんなぎら》いではない。女嫌い、といってもそれは信子のようなタイプの女であって、若くて|可《か》|愛《わい》い娘なら嫌いなはずはないのである。まあ、もっとも、信子だって昔は若くて――可愛かったかどうかはともかく――|魅力《みりょく》的だったこともあったのだ。
「いいとも。家に来るかね?」
「いえ、できれば二人でお話ししたいんですけど」
「そうか。それじゃ――」
一体二人で話したいとは何事かと思ったが、ともかくどこか適当な場所を、といっても、この辺はろくな|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》がない。
「駅のところに喫茶店がありましたけど」
と、西本があまり考え込んでいるので、娘の方が言い出した。
「うん、それは分ってるんだけど――あまりあそこのコーヒーは|旨《うま》くないんだ」
「いいですわ、お話ができれば」
「う、うん。――実を言うとね、あの店はこの辺の奥さんたちのたまり場で、そこに君と入ったりしたら、たちまち――」
「分りました。奥さんが|怖《こわ》いんですね?」
こうまともに|訊《き》かれては、男として立つ|瀬《せ》がない。
「そうじゃないが――」
「分ります。奥さん、おっかなそうですものね」
と|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔で言うので、西本はつい|吹《ふ》き出してしまった。
「いや、そう言ってくれるとありがたいよ」
と笑いながら、「じゃ駅前からタクシーに乗ろう。隣の駅へ出ると、わりにいい店がある。ここより|拓《ひら》けているからね」
「分りました」
二人は駅の方へと歩き出した。
「ところで、申し訳ないんだけどね」
「え?」
「君の名前、何といったっけ?」
今度は娘の方が吹き出した。
「今井清子です」
「そうか。そうだったね。いや、忘れっぽくなっちまって……。とし[#「とし」に傍点]なんだね」
と西本は頭をかいた。
「ええ? 何だって?」
危なく西本はコーヒーカップを取り落としそうになった。
「ですから、彼にお金を貸さないでいただきたいんです」
と今井清子はくり返して言った。西本は|面《めん》|食《く》らって、
「しかし……どうして? 事業を始めるのに金がいるんだろう?」
「あの人に、そんなことできやしません」
と清子はあっさり言った。「お金をドブに捨てるようなもんですわ」
「ふむ……」
それは分ってるよ、とも言えないが。西本は一つ|咳《せき》|払《ばら》いをして、
「ところで、君は……その……江田君のマンションに一緒に住んでるんだろう?」
「まあ! 何ですって!」
清子は目をむいた。「私、そんなことしてません!」
「そ、そうかい。それならいいんだ」
と西本は|慌《あわ》てて言った。てっきり自分の作ったストーリー通りだと思い込んでいたのである。
「同じマンションですけど、別の|部《へ》|屋《や》なんです」
「なるほどね」
それで電話番号も近かったわけだ。「じゃ、ご近所同士ってわけか」
「ええ、上と下なんですの。私が上で、彼の部屋が下」
「女性上位だね」
「ええ、よく|彼《かれ》もそう言ってます」
「君はご両親と住んでるの?」
「そうです。一人娘なんで、父がやかましくって|閉《へい》|口《こう》ですわ」
「そりゃ無理もない」
「お子さんはいらっしゃらないんですか?」
「うん、残念ながらね」
「そうですか。お子さんがあれば、奥さんももう少し|優《やさ》しくなるんでしょうけどね」
と言いにくいことをはっきり言うので、西本は|愉《ゆ》|快《かい》になった。
「で、君は江田君とは|婚《こん》|約《やく》してるの?」
清子はちょっと考えてから、
「一応は」
と|肯《うなず》いた。「でも、父は反対してます。何しろ、彼、働きもしないでぐうたらしてるでしょ。父の目には、何ともけしからん、と見えるらしくて」
「なるほどね。それで彼が急に事業を始めようって気になったのか」
「そうなんです。一発大仕事をやって父をびっくりさせてやるんだって、張り切ってます」
「君はそれに反対なのか?」
「彼にそんな才能、ありませんわ。だって、|日《ひ》|頃《ごろ》の買物だって、ろくにできない人なんです。お金の使い方も知らないし。――とっても事業なんて。たちまち破産するか、悪い手合に引っかかってお金だけ持っていかれるかするのが落ちです」
「で、君としてはそれをやめさせたいわけだね」
「|普《ふ》|通《つう》に勤めてくれればいいんです。色々とコネはあるんですもの、どこへだって就職できますから」
「その方が安心、というわけか」
「彼、人の上に立って|指《し》|揮《き》をするってタイプじゃありません。人に言われてこまめに働くのが似合ってるんです」
なかなかこの娘、しっかりしてるぞ、と西本は感心した。あの江田という若者をよく見ている。信子よりよほど確かである。
「しかし、江田君はそうしたくないんだね?」
「人に使われることが嫌いなんですわ。でも|誰《だれ》だってそうじゃないですか? 好きで上役にヘイコラしてる人なんていないでしょう」
「それはそうだね」
「上に立って好きなことを言って、それで仕事が|巧《うま》く行くんだったら、こんなにいいことはありませんけど、世の中、そう|甘《あま》いもんじゃないと思います。それが彼には分らないんですわ。自分は|一匹狼《いっぴきおおかみ》だってうぬぼれてるんです。一匹狼って、一人よがりのことじゃないわ。人に頭を下げるより、もっともっと|辛《つら》いことでしょう」
西本はすっかりこの今井清子という娘に|呑《の》まれた格好だった。今の若者によくある、妙にさめた、|悟《さと》り切ったような|諦《あきら》めとはまた違った|賢《けん》|明《めい》さを感じさせられたのである。
「それを江田君に言ってやったのかね?」
「言ってもだめなんです。やっぱり一度、痛い目にあってみないと分らないのかもしれません」
「|手《て》|厳《きび》しいね」
「でも、そのために、西本さんのお金を二千万円もむだにするなんて、あんまり申し訳ないと思って――」
「おい、ちょっと待ってくれよ」
と西本は清子の言葉を|遮《さえぎ》った。「今、いくらといった?」
「二千万ですけど」
と清子は不思議そうに言った。
「それは間違いだろう。一千万のはずだよ」
「いえ、彼、二千万円貸してもらえるって……」
「きっと君にはいい顔をしたかったんじゃないのかな。だって我が家には一千万しか貯金がないんだからね。貸したくたって、とてもそんな――」
「ええ、ですから貯金の一千万と、それからお宅を|担《たん》|保《ぽ》に一千万借りて下さるって」
西本は|愕《がく》|然《ぜん》とした。家を担保にだって?
「それは……本当かい?」
「ご存知じゃなかったんですか?」
――信子の|奴《やつ》! どうりで、いくら貸すかと|訊《き》いた時に、ちょっと返事をためらったわけだ。|俺《おれ》に|黙《だま》って家まで担保に! 江田が失敗したら、こっちは家まで取り上げられることになるんだぞ。
「てっきりご承知だと思って……」
と清子は申し訳なさそうである。
「いや……我が家では家内が金の方を|一《いっ》|切《さい》みているんでね」
やっとの思いで、西本は平静を保って言った。「まあ……一千万も二千万も一字だけの違いだ」
宝くじじゃあるまいし。それにしてもひどいことになったものだ。
「でも西本さんの所、よほど奥さんが強いんですね」
と清子が言いにくいことをはっきり言う。「そんなお金を貸すことも、奥さん、相談されないんですか?」
西本は何とも答えなかった。「そうなんだよ」と|嘆《なげ》いてみせるのも、男として――それもこんな年下の娘の前で――情けない話だし、といって、「|俺《おれ》は金のことなんか興味がないんだ」と笑い飛ばしてみせても、とてもさまになりそうもない。
「ま、ともかく、君の気持は良く分るよ」
と西本は|逃《に》げた。「しかしねえ、|僕《ぼく》の力ではどうにも……。女房の気持を変えさせるというのは難しいと思うよ」
「そうですか」
「ま、やってはみるが、あまり期待しない方がいいね」
「分りました。――でも、西本さんのお宅が大変な損をなさるわけですから」
「うん。その点を女房へよく言ってみるがね、しかし、難しいと思うな」
正直なところ、西本は信子にその話をしたものかどうか迷っていた。まあ、言ってやったところで、
「うるさいわね! 私のすることに文句をつけるつもり!」
と|怒《ど》|鳴《な》られるのが落ちであろう。しかし、貯金一千万だけでなく、家まで失うとなると、あまり内心|穏《おだ》やかでない。信子と別れるには、信子の受ける|打《だ》|撃《げき》が大きいほど効き目はある。家まで|失《な》くしたとあっては、信子だって意気|消沈《しょうちん》するであろう。しかし、西本だって意気消沈する。この数年間、せっせと書き、|稼《かせ》いだ金が全部パアになってしまうのだ。
この後も仕事が順調に行けば問題はないが、病気で|倒《たお》れるかもしれず、注文が減ってしまうかもしれない。そうなると、目も当てられない状態になる……。
「どうもお|忙《いそが》しいのにすみませんでした」
店を出ると清子は|礼《れい》|儀《ぎ》正しく言って、「じゃ、よろしくお願いします」
と頭を下げた。全く気持のいい娘である。
西本は駅の改札口を入って行く今井清子の|後姿《うしろすがた》を見送って、あの娘の頼みだ、信子に一つ話してみるか、と決心していた。
家へ戻ると、信子がソファにひっくり返って居眠りをしていた。自分でコーヒーを|淹《い》れていると、ウーンとカバの|寝《ね》|息《いき》のような|唸《うな》りを上げて(といってカバの寝息など聞いたことはないのだが)信子が目を開いた。
「あら、もう帰ったの」
「うん。ちょっと散歩して来ただけだ」
「何だ。ゆっくりして来りゃいいのに」
これは|亭《てい》|主《しゅ》をねぎらっているのではない。明らかに|邪《じゃ》|魔《ま》だからどこかへ行っててくれというニュアンスなのである。
「なあ信子、ちょっと考えたんだが――」
「あんたは仕事のことだけ考えてりゃいいのよ。――何なの?」
「そういう前置きをされると話し|辛《づら》いんだがね。江田君のことさ」
「和実ちゃんがどうしたの?」
と早くも信子は警戒の目を夫へ向ける。
「いや、あの若さで、しかも全く経験なしに、事業を始めるなんていうのは、やはりちょっと無茶だと思うんだよ。誰かよほどいいパートナーでもいればともかくね。――だから、まずどこかの会社へ入って、社会人としての勉強をさせるべきじゃないかな。その上で独立したって遅くない。金を貸してやるのもいいが、そういう忠告をしてやるのも大切だと思うんだ。幸い、会社ならいくつかコネもあるから……」
西本の声は段々ボリュームつまみをゼロへ|絞《しぼ》っていくように小さくなってしまった。話の途中で信子の「うるさいわね!」が入るだろうと思っていたのが一向に何とも言い出さないので、|却《かえ》って不安になって来たのである。
信子は無表情にテーブルの上へと目を|伏《ふ》せていた。
「どうかね、信子、お前の考えは?」
と西本は|恐《おそ》る|恐《おそ》る言ってみた。信子は返事をしなかった。
当り前だ。信子は眠っていた。
2
「そうですか。それは大変なことになりましたね。――分りました。何かの間違いかもしれませんよ。元気を出して下さい。――それじゃ」
|公《こう》|路《じ》は電話を終えた。
「どなただったの?」
と|瞳《ひと》|美《み》が|訊《き》いた。
「うん、|景《かげ》|山《やま》さんだ」
公路は旅客機事故のことを説明して聞かせた。
「まあ……。でも、確かじゃないんでしょう?」
「うん。名簿に名前はあるそうだがね。――あっちの飛行機は名簿がかなりいい|加《か》|減《げん》らしい。乗ってなかったってことも考えられる」
「そうだといいわね」
「全くだ。――君、大丈夫か?」
と公路は、まだ|寝《ね》|間《ま》|着《き》のままの瞳美を見て|訊《き》いた。瞳美はちょっと当惑した様子で、
「ええ……。どうしてそんなこと訊くの?」
「いや、昨日具合が悪そうだったからさ」
「ああ。転んじゃったし、寒かったから」
「|風《か》|邪《ぜ》、ひかなかったか?」
「大丈夫よ」
と瞳美は|微《ほほ》|笑《え》んでみせた。「じゃ、今日、お仕事は?」
「うん、他のメンバーとも|連《れん》|絡《らく》を取ってみるけど、たぶん仕事にならないだろうね」
「じゃ、ゆっくりご飯を食べるといいわ」
「そうしよう」
公路は、瞳美が台所へ立って、卵を焼くのを眺めていた。――大丈夫なのか、本当に? 昨晩の様子は、本当にただごとではなかった。もしかして、小説通りのことが起ったのだったら……。
馬鹿げていると思いつつも、公路は、その思いを捨て切れなかった。瞳美が、|得《え》|体《たい》の知れない男たちに組み|敷《し》かれ、暴行されている映像が|脳《のう》|裏《り》にフラッシュした。――ここは真上からの|俯《ふ》|瞰《かん》と|仰角《ぎょうかく》のカメラ・アングルだ、などと考えて、馬鹿! それどころじゃないぞ、と自分に腹を立てた。
「男の人って――」
と瞳美が言い出した。
「何だい?」
「いえ、男の人って、妻と子供が死んだと聞かされたら、どっちの方を悲しむのかしら?」
「そりゃ両方さ」
「そうかしらね。……子供の方はともかく、奥さんの方はせいせいしたなんていうご主人もあるんじゃないかしら」
「そりゃ人によっちゃそうかもしれないけど……。どうしてそんなこと言い出すんだい?」
「ううん、別に」
瞳美は目玉焼を|皿《さら》へ移して、「さあ、食べて」
「ありがとう。君は?」
「あんまり食べたくないの」
「何だ。食欲がないのかい?」
「後でいただくわ」
公路は無理に訊こうとはしなかった。しかし、どうもやはり様子がおかしい。
「男の人にとっては、妻っていうのは、多勢の女の中の一人でしょう? いくらでも取り|換《か》えがきく。でも子供は自分の分身ですものね」
「取り換えがきくったって、|掃《そう》|除《じ》機の吸込口じゃないんだからね、そうそう簡単じゃないよ」
公路は努めて|冗談《じょうだん》めかした言い方をした。
「あなた、今日はお出かけ?」
「いや……どうしようかと思ってるんだ。別に取り立てて用があるわけでもないし。久しぶりに家でのんびりするかな」
「あら、そう」
瞳美の口ぶりに、公路はちょっと食べる手を休めて、
「何だ、出かけた方がいいのかい?」
「いえ、私、ちょっと出かけて来たいものだから」
「ああ、いいとも。行っといでよ。僕もそれじゃ映画でも見てくるかな。少し頭の|疲《つか》れを休めないと」
「それがいいわよ。行ってらっしゃい」
どうも変だ。瞳美は何だか夫に家にいてほしくないらしい。今までこんなことはなかったのだが。公路は複雑な気分でコーヒーを飲んだ。
「お仕事の方は|巧《うま》く行ってるの?」
と瞳美が|訊《き》いた。
「うん。今、新しい作品のプロットを作ってる所だ」
「まあ、どんな話なの?」
公路は|慌《あわ》てて、
「いや、まだ決ったわけじゃないんだ。これからさ!」
と首を振った。まさか女房を|強《ごう》|姦《かん》させる話だとも言えないではないか!
そう思った時、公路はギクリとした。――景山の話は、妻を飛行機事故で死んだことにして、殺す話だった! 何という不思議な|偶《ぐう》|然《ぜん》だろう! 事実が小説を追いかけているようだ。
まさか瞳美は本当に……。そう考えると|不《ぶ》|気《き》|味《み》だった。
「どこへ出かけるんだい?」
と公路は訊いた。
「え? いえ――ちょっと買物したいの」
と瞳美は慌てた様子で言った。
公路は服を着替えると家を出た。どうも、瞳美はやはり何かを隠しているようだ。今日出かけるというのも、買物ではないかもしれない。
ふと、公路は瞳美の後を|尾《つ》けてみようか、と思いついた。女房を|尾《び》|行《こう》するなど、あまり感心した話ではないが、あれこれと思いわずらっているよりもましかもしれない。
考え込みながらマンションの一階へ着き、外へ出ようとして、公路は危く|誰《だれ》かにぶつかりそうになった。
「おっと、失礼――」
と顔を上げて、棒立ちになる。目の前に立っているのは、革ジャンパーにヘルメットの男だったのだ! やはりそうだったのか! 小説の通り、暴走族の連中が瞳美を|輪《りん》|姦《かん》して……。
「どうも毎度」
と相手はヘルメットを取った。近くのそば屋の店員だった。
ものの三十分としない内に、瞳美はマンションから出て来た。何やら急いでいる感じだ。タクシーを|停《と》めて乗り込んだ。公路も|慌《あわ》てて後を追うべくタクシーを……停めようとしたが、一台も来ない。その間に、瞳美の乗ったタクシーは見えなくなってしまった。
「やれやれ……」
小説の中だと、巧くすぐに空車が通るのだが、現実はそうはいかないようだ。
道の|端《はし》にぼんやり立っていると、空のタクシーが停った。
「乗るんですか?」
と運転手が顔を出す。
「うん?……ああ、それじゃ」
仕方なく公路はタクシーに乗って、「|日《ひ》|比《び》|谷《や》の映画街へ」
と言った。
「そうか。分ったよ」
香川は受話器を置いた。
「どなただったの?」
と涼子が掃除の手を休めて|訊《き》いた。
「別に」
香川は説明するのも面倒くさくて、「じゃ出かけて来るぞ」
と言った。
「はい。分りました」
涼子は|肯《うなず》いて、「お帰りは?」
「分らないな」
香川はそう言って、家を出た。さっきの電話は、むろん景山からで、事故の件を知らせて、仕事の方を少し休むということだった。そういう点、えらく|几帳面《きちょうめん》な男なのである。
女房と子供が事故にあって、か。――こっちが代ってやりたいくらいだな、と香川は思った。人生は巧く行かないものだ。さて、どうしようか。家を出て来たものの、別に行く所もない。仕事の方は休みだ。――エリ子の所へ行ってもいいが、どうせ昼からは店へ出るのだから……。
「電話してみるか」
と思って、「そうか、あいつのアパートは呼出しだったな」
かけると、確かひどく感じの悪い|婆《ばあ》さんが出て、ブツクサ言ってなかなか取り次ごうとしない。あんな不愉快なのにかかわり合っているのもつまらない。
アパートへ行ってみるか、と思った。どうせこっちは|暇《ひま》を持て余しているのだ。
香川はタクシーで、エリ子のアパートへと向った。
その|頃《ころ》、香川の家の電話が鳴っていた。
「はい、香川でございます」
涼子は受話器を取って言った。
「あの……西本といいますが」
と男の声がした。
「ああ、西本さんでいらっしゃいますか。いつもあの――兄がお世話になっております」
「ああ、妹さんですか。香川君はいますか?」
「もう仕事場の方へ出かけましたけど……」
「そうですか」
西本はちょっと意外そうな声で、「おかしいな。今日は休むことにしてるんです。例の事故のことがあったので」
「事故と申しますと?」
「聞いていらっしゃらないんですか? 景山さんの奥さんと娘さんが、ヨーロッパで飛行機事故にあいましてね」
「まあ! それはちっとも――」
「そうですか。景山さんの方から電話がかかりませんでしたか?」
「そう言えばさっき出かける前に電話はあったようですが……。主人は――いえ、兄は何も申しておりませんでしたので。失礼いたしました」
「いや。それじゃ彼、景山の所へでも行ったのかな。――分りました。いや、一応次の仕事の日取りは、事故のことがはっきりするまで待とうということにしましたので、それをお伝えしようと……」
「分りました。兄が戻りましたら、そう伝えます」
「よろしく」
と言ってから、「子供の声がしますね?」
「え?」
|詩《うた》|子《こ》の泣き声が向うに聞こえたらしい。「え、ええ……。ちょっと親類が遊びに来ているものですから」
「そうですか。どうもお邪魔しました」
「いいえ、とんでもございません。――では」
他のメンバーに対しては、涼子は妹ということになっている。この家へ来ることはなくても、電話をかけてくるぐらいのことはあるからだ。
涼子は|未《いま》だに自分が正式の妻になっていないような気がして|寂《さび》しい時もあったが、詩人っていうのは、デリケートなんだから、と|諦《あきら》めていた。
それにしても、仲間の奥さんと娘さんが事故にあったというのに、それも伝えずに出て行ってしまうなんて。一言、言ってくれたっていいのに。
詩子のおしめを換えながら、ふっと涼子はため息をつく。時々、自分は夫にとって一体何なのだろう、と考えることがあった。自分は夫を愛しているし、こうして|一《いっ》|緒《しょ》にいられて、幸福でもあったが、あまりに|手《て》|応《ごた》えのない、というか、まるで一人きりで暮らしているような毎日に、時として|空《むな》しさを感じることがあったのだ。
ぜいたくを言ってはいけない。そう自分に言い聞かせる。好きな相手と結婚し、子供は元気に育っているし、生活だって、思ってもみなかったほど豊かになっている。これ以上を望むのは、本当にぜいたくと言うものだ。
――しかし、それでも涼子は、どこかがぽっかりと|抜《ぬ》け落ちているという気がしてならなかった。
それは夫を身近に感じることができない、という感覚であったかもしれない。夫は別に|怒《いか》りもしないが、一緒に笑ってもくれない。子供が泣いてもいやな顔はしないが、自ら腕に抱くことはしない。時々、思い出したように抱いてはくれるが、涼子が満足しても、彼は別に満足でも不満でもないらしい。
要するに夫にとっては、そばにいるのが涼子である必要はどこにもないのだ。
私は|恵《めぐ》まれている。幸せだ。――いくらそう自分に言い聞かせても、涼子の胸を|吹《ふ》き抜ける風の泣き声は消せはしなかった……。
ふと、涼子は思った。仕事が休みだと知っているはずなのに、彼はどこへ行ったのだろう?
「あらあ! どうしたのよ?」
眠そうな顔でドアを開けたエリ子は|嬉《うれ》しそうに目を|輝《かがや》かせた。「仕事は?」
「今日は休みだ」
「そうなの?」
「邪魔かな」
「何を言ってるのよ! 入って。さあ」
六|畳《じょう》一間の、ありふれたアパートだった。かなり散らかっている。台所の流しには、|汚《よご》れた|茶《ちゃ》|碗《わん》だのコップだのが積み上げたままになっているし、部屋の真中には|布《ふ》|団《とん》が|敷《し》いてあるが、シーツはねじれ、毛布は|歪《ゆが》んで、何とも寝相の|凄《すさ》まじさを物語っている。|枕《まくら》もとには週刊誌、|灰《はい》|皿《ざら》には数本のタバコが|押《お》し|潰《つぶ》されている。
「相当だらしないな」
と香川は部屋を見回して言った。
「あら、そうかしら?」
エリ子は至って|呑《のん》|気《き》そうに、「他人の部屋なんか知らないもの。これが普通だと思ってるのよ」
エリ子は、寸足らずな感じのパジャマを着ていた。
「おお寒い」
と大げさに|身《み》|震《ぶる》いして、カーディガンをはおると、エイッと|布《ふ》|団《とん》を丸ごと二つに折って部屋の|隅《すみ》へぐいと押しやった。
「大した|無精《ぶしょう》者だな」
と香川は思わず笑ってしまった。――清潔好きで、いつも何かを片付けている涼子とは対照的だ。だらしなく、じめじめした感じで、しかしこの部屋には、不思議な|居《い》|心《ごこ》|地《ち》の良さがあった。
「その辺に座っててよ。今コーヒーを|淹《い》れるから」
とエリ子が台所へ立って行った。
「|俺《おれ》のことなら構わないでくれよ」
「あなたのために淹れるんじゃないわ。自分で飲むのよ」
香川はエリ子の言い方にニヤリとした。それでこそエリ子だ。
「あなたも飲みたい? ついでに作ってあげてもいいけど」
「いくらだい?」
「そうね、三百円」
「店より高いぜ」
「サービス料よ」
「OK、もらおう」
香川は、開きっ放しになっていた週刊誌をパラパラとめくった。低俗そのものの記事と、およそ価値のない情報だけでこれだけの厚さの本を作ってしまう。これも一つの才能かもしれない。
「テーブルは|畳《たた》んでしまってあるの。|我《が》|慢《まん》してちょうだい」
「いいよ」
エリ子は大きなモーニングカップにコーヒーをなみなみと|注《つ》いで、畳の上にじかに置いた。大ざっぱなところが、それなりに一つのスタイルになっている。
「どうしてお休みなの?」
エリ子は|膝《ひざ》を立てて座ると、自分のコーヒーをすすりながら|訊《き》いた。
「景山さ」
「ああ、あの記者上りの人ね? 病気か何か?」
「飛行機が落ちたのさ」
「あら、大変ね。死んだの?」
「女房と娘がね」
エリ子はちょっと考えて、
「確かヨーロッパへ行ってるって話じゃなかったの?」
「そうさ。イタリアで落ちたんだ」
「ああ、ニュースで見たわ。へえ! あれに乗ってたの。気の毒に」
「|俺《おれ》には関係ない」
「少しは同情しなさいよ」
「生きてたら、もっと不幸になってたかもしれない。そんなことは誰にも分らんよ」
エリ子はクスッと笑って、
「あなたって|皮《ひ》|肉《にく》|屋《や》ね」
「皮肉じゃない。事実だぜ」
「どうでもいいけど……。じゃ今日は|暇《ひま》なの?」
「だから来たんだ」
「あら、暇|潰《つぶ》しなの、私は?」
「仕事まで休んじゃ来ないよ」
「いいわ。ともかく私もお店休もう」
「いいのか?」
「|風《か》|邪《ぜ》気味で熱があるって言っとくから大丈夫よ」
「じゃ、ゆっくりするかな」
「本当に熱があるのよ。|触《さわ》ってみて」
エリ子は香川の方へにじり寄って来た。|唇《くちびる》がなまめかしい|笑《え》みを|浮《う》かべている。
「どの辺だ?」
「この辺よ……」
エリ子は香川の唇へ自分の唇を|触《ふ》れた。二人は畳の上に折り重なった。
「どうなんだ? まだ連絡は入らないのか?」
現れた若い社員へ、景山は|訊《き》いた。
「申し訳ありません。まだ現場の方から連絡がないそうでして……」
航空会社の社員の方も|憔悴《しょうすい》し切った表情だった。無理もない。昨晩からずっとこうして、乗客の家族と社のテレックスの間を往復しているのだから。
景山も、社員を責める気にはなれなかった。事故が起ったのはイタリアで、ここは東京だ。いくら本社と国際電話が通じるはずだといっても、現場までは通じていないのだ。
航空会社の会議室には、十人ほどの人間が座っていた。
景山は記者時代、何度か航空機事故の取材をしたことがある。|墜《つい》|落《らく》が国内線や日本の旅客機で、日本人乗客がほとんどという場合は、大変だ。|駆《か》けつける家族だけで何百人という数にのぼる。誰もが興奮し、|苛《いら》|立《だ》っているし、報道|陣《じん》のカメラ、ライト、マイクが、その興奮に|拍《はく》|車《しゃ》をかける。実際、あの強いライトに照らされると、奇妙に誰かを|怒《ど》|鳴《な》りつけたくなって来るようだった。
一番|騒《そう》|然《ぜん》としているのは、むしろ墜落が確認される前である。一筋の希望があるだけに、不安もまた強く、何か言っていなくては、その不安に|堪《た》え切れないのだろう。航空会社の社員に食ってかかったりするのも、こんな空気の中である。
|遭《そう》|難《なん》が確認されると、今度は一転して重苦しい|沈《ちん》|黙《もく》が続く。飛行機の場合、生存の可能性は|薄《うす》いので、誰しもがその現実を見つめようと、必死の努力をしているのだ。――航空会社の責任者が現れて深々と頭を下げる|頃《ころ》には、もう誰一人、|怒《おこ》る気力も|失《う》せている。
しかし、今度のように外国での事故となると、こうして集まった家族も十人ほどで、しかも手の届かない遠い地の出来事でもあり、誰もが、まだ半信半疑といった表情である。
報道陣もそれほど多くない。全員死亡といった事故状況が確認されたら、遺族――家族が遺族に変るのだ。何という大きな、たった一文字の変化だろう!――にマイクを突きつけようと待っているのに違いない。
景山は腕時計を見た。もう昼の十二時だ。少し、|疲《ひ》|労《ろう》感が頭を|淀《よど》ませている。
「あの……」
と声がして、顔を上げると、さっきの若い社員である。みんなの目が|一《いっ》|斉《せい》に集中する。中には腰を浮かしている者もある。若い社員は言い|辛《づら》そうに、
「誠に申し訳ございません。まだ連絡が入りませんので」
一斉にため息が|洩《も》れる。――社員は続けて、
「それで……お疲れの方もあると存じまして……あの……大変に|粗《そ》|末《まつ》でございますが、|隣《りん》|室《しつ》に軽いお食事を用意いたしました。よろしければ――」
とたんに、ヒステリックな女の声がそれを|遮《さえぎ》った。
「|冗談《じょうだん》じゃないわよ! こんな時に食事なんて、できると思ってるの!」
「はあ……申し訳ありません」
「あんたに|謝《あやま》ってもらったってね、どうにもならないのよ!」
その女の声が、|却《かえ》って景山の頭を冷やしてくれたようだった。――この社員に怒鳴ったところで仕方ないのだ。この男は、それなりによくやっている。エリートぶった社員ほど、こんな時にはそっけなく|振《ふ》る|舞《ま》うものだが、この男は、心底打ちひしがれているように見える。職業意識としては立派なものだ。
景山は立ち上って、
「私は食事をいただこう」
と言った。社員が救われたような顔になって、
「どうぞどうぞ! 今、お茶を|淹《い》れさせますから、次の部屋へお入りになって下さい!」
と部屋を飛び出して行った。
景山が|隣《となり》の、やはり会議室らしい部屋に入ると、細長く組んだ机に、幕の内らしい弁当の|箱《はこ》が並べてあった。景山が手近な席につくと、一人、また一人と他の家族たちも入って来た。みんな、重苦しさから|逃《のが》れて、いくらかホッとした様子に見える。
景山は、ふと立ち上って、隣の部屋へ戻った。さっき社員を怒鳴りつけた女が一人でポツンと座っている。景山は歩み寄って、声をかけた。
「お茶だけでも飲みませんか。気が楽になりますよ」
女はキュッと口を固く結んだ。四十五、六か、それとももう五十に近いのか、かなり|頑《がん》|固《こ》そうな顔つきである。景山の言葉にも、一向に腰を上げようとしない。
|諦《あきら》めて、隣室へ戻ると、女子社員が、みんなにお茶を|注《つ》いで回っていた。|誰《だれ》もが、待っていたように一気にそのお茶を飲みほして、
「すみませんが、もう一杯」
と頼む者もあった。何となく気持がほぐれて来たようで、弁当の|蓋《ふた》を取って、食べ始めると、少し隣席同士で話もするようになった。
なかなか高そうな弁当だ、と景山は中を見て思った。二千円――いや、三千円はしているだろう。
いくら家族を心配していても、腹も|空《す》き、|喉《のど》も|渇《かわ》く。それで当然だ。
景山は余った|湯《ゆ》|呑《のみ》|茶《ぢゃ》|碗《わん》にポットの茶を注いで、一人で残っている女性の所へ持って行ってやった。
「さあ、どうぞ」
女はムッとした様子で景山をにらんだが、やがて|渋《しぶ》|々《しぶ》、それを受け取った。
食事の席へ戻ると、隣の席の男が話しかけて来た。
「まだかかりますかなあ」
四十がらみの、サラリーマン風の男だ。
「そうですね。向うは何でものんびりしています。別にさぼっているわけじゃないが、それが向うの感覚なんですね。日本のように、アッという間に|中継《ちゅうけい》車が現場へ駆けつけるといったことはやらないから、こっちから見ると|苛《いら》|々《いら》するようなことが多いんですよ」
「なるほど」
男は感心したように|肯《うなず》いた。「よくご存知ですね」
「以前、新聞記者をしていましたのでね」
「それじゃこういう事には慣れておられるわけですな」
「自分が家族の立場になったのは初めてですがね」
と景山は苦笑いした。
「乗っておられたのは……」
「家内と娘です」
「そうですか」
男は|肯《うなず》いた。「私は弟がね」
「仕事ですか?」
「そうなんです。あちらのワインを買付けに行っていましてね。なかなかいい物を買って来ると、勤めている店でも評判が良かったんです」
「そうですか」
「本当なら弟の妻が来る所なんですが……」
「ショックで|寝《ね》|込《こ》まれでも?」
「とんでもない、あなた!」
男は顔をしかめて、「何しろひどい女房でしてね。『子供を放っていけないから、代りに行って下さい』と、こうですよ。いくら何でも|亭《てい》|主《しゅ》が死んだかもしれないっていうのに……。分ってるんです。男がいるんですよ」
「ほう」
「弟はお人|好《よ》しで、そんなことがあるわけはないと言って笑ってましたがね、私にゃ分ってるんです。どこぞのバーテンか何かとできて[#「できて」に傍点]るんですよ。だから弟が死んでも一向に悲しくはないわけで。むしろ喜んでるんじゃないですか、保険金が入るといってね」
景山はいやな気分だった。今はそんな他人の悪口を言う時ではあるまい。しかし、男の方はやめる気はないようで、
「大体、あそこの家は女房の名義になってるんです。おかしいじゃありませんか。私はよせと言ったのに――」
「ちょっと失礼」
たまらなくなって、景山は席を立った。男の方はポカンとして見送っている。
|廊《ろう》|下《か》へ出ると、さっきの若い社員がいた。
「どうもごちそうさま」
と景山が礼を言うと|恐縮《きょうしゅく》した様子で、
「いえ、あんなもので本当に申し訳も――」
「どこかこの近くに|床《とこ》|屋《や》はないかな」
「え? 床屋ですか?」
「ひげを当りたいんだ。どうも|薄《うす》|汚《よご》れた感じでいけないし、気も|滅《め》|入《い》ってしまう」
「分りました。この向いのビルに一|軒《けん》あったと思います」
「ありがとう。行ってみるよ」
景山は、航空会社のビルを出ると、道を|渡《わた》って、向いのビルの地下へ降りて行った。小ぎれいな理容室があって、そこでひげを当らせ、|髪《かみ》を整えてもらうことにした。
|椅《い》|子《す》に座って、正面の鏡の中の自分と相対する。――目の下にくま[#「くま」に傍点]が出来て、ひどく|老《ふ》け込んだように見えた。
一体、どうなのだろう? |俺《おれ》はどうなればいいと思っているのか? 和代と敏子が死ねばいいと思っているのか。それとも、助かってほしいのか。――むろん、助かってほしいのだ。それが当り前だ。
しかし、果してそれが本当だろうか、と景山は思った。和代たちが、まず生きてはいまいということを承知の上で、そう思っているだけではないのか。自分を弁護するために……。
ひげを|剃《そ》ってさっぱりすると、大分、気分も良くなった。自分に戻った、という気がする。料金を|払《はら》って表へ出た景山は、航空会社のビルの入口あたりを歩いている冬子を見つけた。
「おい」
と声をかけると、冬子は|驚《おどろ》いて、
「まあ!――何してるの?」
「いや……ちょっとひげを|剃《そ》ったんだ。君はどうして――」
「心配で。ずっとニュースを見ていたんだけど、何も言わないんですもの」
「まだ現場からの情報が入らないんだよ」
「そう……。あなた、|大丈夫《だいじょうぶ》?」
「ああ。大丈夫だよ。君は……会社は休んだのか?」
「当り前よ。そんなこと言っていられないもの」
「心配かけて、すまん」
「やめて。――でもね、私が本当に|奥《おく》さんと|娘《むすめ》さんのことを心配してやって来たんだってことは信じてね。自分のことはどうだっていいのよ。奥さんたちが無事なら……」
「分ってるよ」
景山は冬子の肩へ手を置いた。「君の気持は|嬉《うれ》しい」
冬子は目を伏せて深々と息をついた。
「じゃ、私、帰るわ。関係ない人間がいたって邪魔だし」
「後で連絡するからね」
「ええ」
冬子は景山の手を握ると、「元気を出してね」
と言った。その言葉は、むしろ冬子の方にこそ必要なようであった。
冬子が歩いて行くとすぐに、ビルから、航空会社の社員が飛び出して来た。そして景山を見付けると、
「あ、あの――今、知らせが」
「何だって? 何と言って来たんだ?」
「はい。それが……やはり機は……」
「|墜《つい》|落《らく》したんだね?」
「山の中腹に突っ込んだようです」
景山はため息をついた。それでは、とても助かっている見込みはない。
「|捜《そう》|索《さく》は?」
「まだ、あまり進んでいないようです。何分山の中ですので、|難《むずか》しいらしく」
「そうだろうな。|名《めい》|簿《ぼ》には間違いないのかね?」
「今、再チェックを|依《い》|頼《らい》しているところです」
「分った。中へ|戻《もど》ろう」
ビルへ入ろうとして、景山は、ふと冬子の姿を|捜《さが》して振り返った。しかし、冬子はもうどこにも見えなかった。
3
「やっぱり死んでたじゃないの」
信子が得意げに朝刊を見て言った。
「気の毒にな」
西本はトーストにバターを|塗《ぬ》りつけながら、言った。
「あら、見てらっしゃい。一年とたたない内に、再婚するわ。相手は若い人よ」
|遠《えん》|慮《りょ》とか気を|遣《つか》うということの全くない女なのだ。
「それは景山自身の問題だ。こっちが口を出すことじゃない」
「あら、口なんか出しちゃいないわよ。私の予測を述べてるだけじゃないの」
「それが余計なことなんだよ」
「お香典の|袋《ふくろ》、買っとかなくちゃね」
と、信子はそればかり気にしている。
「お|葬《そう》|式《しき》なんかは先だと思うがね。景山もきっとイタリアへ飛ぶだろうし」
「イタリアか。|素《す》|敵《てき》ねえ。私も一度海外旅行へ行きたいわ」
わざわざ行かなくたって、鏡を見りゃ、他の星へ旅した気分になるぞ、と言ってやりたかったが、むろん実際には口に出さない。
「あっちは楽しい旅行じゃないんだぞ」
「だって、行くことには変りないじゃないの。その飛行機代は航空会社が持ってくれるのかしら?」
「そりゃそうだろう」
「それはいいわね。ね、あなたヨーロッパで落っこちる飛行機に乗ってよ。そしたら、私が|只《ただ》で行けるわ。かけ合えばヨーロッパめぐりくらいさせてくれるかもしれない」
信子の話の|恐《おそ》ろしいのは、半分は本気だということである。どの飛行機が落ちるか分らなくてよかった、と西本は胸を|撫《な》でおろした。もし分っていたら、信子は力ずくででも西本を乗せたかもしれない。
「今日は出かけるの?」
「そのつもりだ」
「私も出かけるわ」
信子がそんなことをわざわざ西本に言うのは異例である。
「どこへ?」
とやや不安になって、西本は|訊《き》いた。
「ヨーロッパ。――じゃなかった、銀行へね」
「銀行? まさか、あの――」
「何よ?」
「いや、つまり……例の江田君に用立てると言った金のことじゃないんだろうね?」
「あら、それじゃいけないっての?」
「いや、いけないとは言わないが……」
「じゃ、いいじゃないの」
信子はさっさと席を立って、「和実ちゃんと待ち合わせてるから、出るわよ」
「なあ信子。江田君は何ていっても、その方面では全くの|素《しろ》|人《うと》だ。事業なんか始めたって、失敗は目に見えてる。だから……」
西本は昨日のセリフをくり返そうとしたが、途中でやめた。信子が全く聞こうともせずに、外出の|仕《し》|度《たく》を始めたからである。
「じゃ行って来るわよ」
「おい、一千万もおろすなんて、当日じゃ無理かもしれんぞ」
「昨日ちゃんと連絡しておいたわよ」
その辺は抜かりがない。――もはや信子を止めることはとてもできない。西本は仕方なくトーストにかみついた。
信子がいないのなら、西本は別に出かけたいとも思わなかった。どうせあの|可《か》|愛《わい》い|甥《おい》と食事でもするつもりだろう。すぐに帰って来るはずはない。たまには家でのんびりするか。
〈女房を殺す法〉のストーリーも、続きをやらなくてはならない。もっとも、今の時点では、先を書く気がしないのも事実である。妙なことを書くと、現実の方が追いかけて来るから、|下《へ》|手《た》に書いていられない。
しかし、それなら小説の方の計画が成功して、妻が自殺したら……現実の信子も自殺するかもしれない。それなら張り切って書くのだが。――しかし、そこまで似るかどうかは、|甚《はなは》だ疑問だし、もし現実にそうなったりしたら、何とも|後《あと》|味《あじ》が悪いだろう。
「こんなことを言ってちゃ、女房は殺せないな」
ふと景山のことを考えた。ああいう女房思いの|奴《やつ》に限って、あんな目にあうのだ。信子は何だか妙なことを言っていたが……。全く、信子の奴こそ身代りになってやればいいのに! 仕事をやる気にもなれず、西本は久しぶりに、買ったままで手をつけていなかった本を持って来て、居間で読み始めた。――二時間ばかりたった時、電話が鳴った。
「もしもし、西本です」
「あ、私、今井清子です」
「やあ、どうも。実はね――」
「奥さんは、もうお出かけになりました?」
「うん、さっきね。例の金をおろしに行ったんだ」
「やっぱり!」
「江田君と会うようなことを言ってたよ。僕も一応は話してみたんだが、やっぱり女房の気持は変えられなかったよ。期待を裏切って申し訳ないが」
話してみたが相手の耳には入らなかった、とは言いにくかった。
「そうですか。――奥さん、彼とどこで会うとかおっしゃっていませんでした?」
「いや、聞いてないけど」
西本は、相手の、どこか|切《せっ》|羽《ぱ》つまった口調に気付いて、「どうしたんだね? えらく|慌《あわ》てて」
「今、彼のマンションにいるんですの」
と清子は言った。「時々お|掃《そう》|除《じ》をしてあげるので」
「それで?」
「何でもないことなのかもしれませんけど……」
「何だね?」
「パンフレットが一枚出て来たんです」
「パンフレット? 何の?」
「ヨットです」
「ヨット?」
「かなり大きな……。それで、値段を見たら、二千万円してるんです」
「二千万? ただのボートが?」
「ヨットです。それも少しは遠くへも出られるようなやつです」
「それにしても、高いもんだね!」
「二千万って金額が気になったんです」
「二千万……。つまりうちで貸してやる金が……」
「その二千万円のヨットの所に印がつけてあって、電話番号の下に赤いサインペンで線がひいてあります。――何だかいやな予感がするんです」
「その二千万でヨットを買っちまうっていうのかい? まさか! いくら何でも、そんな――」
「西本さんはあの人をよくご存知ないんだわ」
と清子は|苛《いら》|々《いら》した様子で、「あの人は|酔《よ》うととんでもない|約《やく》|束《そく》を平気でする人なんです。飲み友達なんかの間でいい顔をしたいんだと思いますけど」
「しかし、まさか……」
「この間なんか、酔った勢いで私を友達に貸してやる約束をしたから頼むと言い出したんです」
「貸す、というと、つまり――」
「その友達と寝ろっていうんです。私、彼とだって寝てやしないのに、言った以上、|面《メン》|子《ツ》が立たないって言うから、ひっぱたいてやりました」
「それは無茶だな。で、彼はどうしたんだね?」
「時々売春みたいなことをやってる女子大生をお金で|雇《やと》って、やらせたみたいです」
「|呆《あき》れたね」
「ですから、あり得ないことじゃないと思うんです。飲んでいて、『今度ヨットに乗せてやる』くらいのことは言っても不思議じゃありません。後に引けなくなって、あんな事業を始めるなんて話を思いついたんじゃないでしょうか」
「もしそうなら……大変だ!」
「ヨットの方へ使っておいて、そちらには事業が失敗したとか言うつもりだったんだと思います」
「わ、分った。何とかして止めないと……」
「取り|越《こ》し苦労だといいんですけど」
「ありがとう、知らせてくれて。|早《さっ》|速《そく》銀行へ|連《れん》|絡《らく》してみるよ」
「間に合うといいですね」
「そうだね。――いや、本当にどうも」
西本は受話器を置くと、額の|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》った。ヨットだって! 何て|奴《やつ》だ!
急いで銀行へ電話を、と思ったが、番号が分らない。通帳は信子が持って行ってしまったし……。|慌《あわ》てていると、なかなか簡単なことも思いつかないものである。
「そうだ!」
銀行からもらった手帳のことを思い出し、急いで取って来る。――間に合うだろうか? 信子が|真《まっ》|直《す》ぐに銀行へ行っていれば、|到《とう》|底《てい》間に合わない。しかし、あいつのことだ、どこかで道草を食っていないとも限らない。
西本はダイヤルを回しかけて――手を止めた。
江田が|嘘《うそ》をついていた。ヨットを買うための金だった。――これは信子には何よりの|打《だ》|撃《げき》ではないか。一千万はどうせなくなるものと|覚《かく》|悟《ご》していたのだ。この家の方は、まだそうすぐには担保にできまい。貸す方もあれこれとチェックするはずだからだ。
使わせてやれ。ヨットでも何でも買えばいいのだ。こっちは後でそれが分ったと言って、信子に突きつけてやる。
一千万か。安くはないが、それで信子と別れられれば………。
西本は電話を見つめながら、小説の続きでも書くかな、と思った。
昨日もだ。こいつはどうかしてる。確かにおかしい。
|公《こう》|路《じ》は落ち着かない気分で、|瞳《ひと》|美《み》の|寝《ね》|顔《がお》を|眺《なが》めた。昨日だって、瞳美はさっさと|眠《ねむ》ってしまって、公路がベッドへ入った時も、ちょっとムニャムニャ言っただけで背中を向けてしまった。いつもなら先に|裸《はだか》になって待っているのに。
まるで|俺《おれ》を|避《さ》けているようだ、と公路は思った。いや、こんなことを人に話したら笑われるだろう。
「女房の具合がおかしいんですよ」
「どうなさったんです?」
「もう二日も抱いてくれと言わないんです」
|馬《ば》|鹿《か》馬鹿しい! いくら新婚だって、二日ぐらいやらなくても|誰《だれ》も不思議には思うまい。これまでの瞳美を知らなければ、これはごく当然のことなのだ。
全く|因《いん》|果《が》なものだ。殺される前にこっちが殺さなくては、と思ったほどなのに、いざ瞳美がせがんで来なくなると、不安でしかたなくなる。
公路は毛布の下でそっと手をのばし、瞳美のネグリジェをたくし上げると、|肌《はだ》を|愛《あい》|撫《ぶ》し始めた。瞳美は半ば眠ったまま、
「やめて……」
と|呟《つぶや》くと、公路の手を手で|払《はら》いのけて、寝返りを打って背を向けてしまった。――確かにおかしい。
「ねえ、どうかしたのかい?」
|遅《おそ》い朝食を食べながら、公路は言った。
「何が?」
と瞳美は|訊《き》き返した。
「いや、どこか……具合でも悪いのかと思ってね」
「別に、そんなことないわよ。どうして?」
「いや……。それならいいけど」
最近はちっとも裸にならないじゃないかとも言いにくい。それに、こちらとしては、半ばホッとしているのも事実なのだ。
「今日もお出かけするんでしょ?」
「うん? 別に予定はないけど……」
「たまにはどこかへ行って気晴らししてらっしゃいよ」
まただ。彼を外出させて、自分はまたどこかへ出かけるつもりらしい。
「じゃ、そうするよ。君も|一《いっ》|緒《しょ》にどうだい?」
「あら、私は色々やることがあるから」
「そうか。それじゃ一人で出かけて来るよ」
「ええ、分ったわ」
何となく|嬉《うれ》しそうに言って、「景山さんの所、大変ね」
と話題を変えた。
今日こそは、へまはしないぞ。公路は外へ出ると、タクシーを拾って、
「悪いけど、ちょっとその角を曲った所で|停《とま》っててくれないか」
「どうするんです?」
と運転手がけげんな顔で訊く。
「ちょっと頼むよ。料金を取ってていいからさ」
タクシーはマンションの|端《はし》を曲った所で停った。
「何をやろうってんです?」
と運転手がうさんくさい目つきで公路を見た。
「まあ、ちょっと待っててくれよ。後をつけてほしいんだ」
「へえ、|浮《うわ》|気《き》ですか、奥さんの?」
「どうでもいいだろ」
公路はムッとして、マンションの出口の方をじっと|覗《のぞ》いた。――五分。十分。十五分。
「どうなってんです?」
運転手は|欠伸《 あくび》をして、「誰も出て来ないですぜ」
「うるさいな! すぐ出て来るよ!」
さらに十分。――料金メーターだけが、カチャ、カチャ、と上って行く。
「ちょっと昼寝してていいですか?」
運転手が、からかうように言った。
「|畜生《ちくしょう》、待ってろ!」
公路はタクシーを降りると、マンションの前へ出て、自分の部屋のテラスを見上げた。瞳美が|洗《せん》|濯《たく》物を干している!
公路はブスッとした顔でタクシーへ戻ると、
「やってくれ」
と言った。
「どちらへ?」
「どこでもいいや!」
と投げやりな調子で言って、シートにもたれかかった。
「今日はどうするの?」
と涼子は|訊《き》いた。
「どうって?」
「お仕事の方はお休みでしょう? 景山さんのお宅へでも行って――」
「|苦《にが》|手《て》だよ、そういうのは」
香川は新聞を広げながら、言った。
「でも……奥様と娘さんと一度になんて。本当にお気の毒だわ」
「そうだな」
と一向に気のない返事。
「もし、私と|詩《うた》|子《こ》がこんなことになったら……」
「その時はその時さ。|俺《おれ》の方が死ぬかもしれん。運命だよ」
涼子はちょっと|寂《さび》しそうに夫を見た。
「ねえ、あなた」
「何だ?」
「私……あなたの妻なんでしょう」
「何を言い出すんだ」
と香川は笑って言った。
「せめて一緒に仕事をしてらっしゃる方ぐらいには、私のこと、|紹介《しょうかい》して下さいな。だって、これで景山さんのお宅でお葬式にでもなれば、私もお|焼香《しょうこう》に行きたいし――」
「お前がどうして行く必要があるんだ? 景山を知ってるわけでもないのに」
「でも私はあなたの――」
「妻なんだから、それでいいじゃないか。詩人ってのは、|平《へい》|凡《ぼん》な私生活など持っちゃいけないんだ」
涼子はそれ以上、何も言えなかった。――|叫《さけ》び出したい。泣きわめきたいと思っても、ついそれを|呑《の》み込んでしまう|癖《くせ》がついているのだ。
「――出かけるの?」
「ああ。家にいても仕方ない。少し町を歩いて来る」
「昨日も町を歩いてらしたの?」
香川はチラリと涼子を見た。
「どうしてだ?」
「昨日もお休みだったんでしょう」
「そうさ。しかし自分なりの仕事があったんだ。――どうして休みと知ってる?」
「あなたが出かけてから、西本さんから電話があったのよ」
「西本から? ここへは電話するなと言ってあるのに!」
と苦々しげに言った。「お前、俺の女房だと言ったのか?」
「いいえ。妹だと言いました」
「それでいいんだ」
香川は|肯《うなず》いて、「じゃ、ちょっと出かけて来るぞ」
「はい……」
香川が出かけて行くと、涼子は力が抜けてしまったようになって、ぼんやりと食堂の椅子に座っていた。――夫にとって自分が何者でもないのだと感じるのは、何と|辛《つら》いことだろう。
我知らず、|涙《なみだ》が|頬《ほお》を伝って落ちた。
「あら……いやだわ……しっかりしなきゃ……」
|殊《こと》|更《さら》に明るい口調でそう|呟《つぶや》くと涙を|拭《ぬぐ》った。「さあ、仕事、仕事」
夫の|脱《ぬ》ぎ捨てたズボンをハンガーへかけようとして、涼子はポケットから何か紙片の落ちたのに気付いた。
「レシートか何かかしら」
と拾い上げてみる。――メモだ。列車の名前、発車時刻。旅館の名らしいもの、電話番号……。
女の字だった。――週末の旅行。涼子は、冷たい水を浴びせかけられたような気がして、その場に立ちすくんでいた。
「よく来てくれたね」
景山はドアを開けると、表に立っている冬子へ言った。「さ、入ってくれ」
冬子は、ためらいながら|玄《げん》|関《かん》へ入って来た。景山の家へ来るのは、これが初めてだ。
「誰もいないの?」
「ああ、さっきまで、顔見知りの記者が来てたよ。取材半分、お|悔《くや》み半分、てところかな。もう帰っちまった。入れよ」
「私が来てもよかったの?」
「いいとも。さあ、こっちが居間だ」
冬子は、ごくありふれた、|狭《せま》|苦《くる》しい居間の入口に立って、中を見回した。
「よく片付いてるわね。でも|埃《ほこり》が大分つもってるけど」
「さっぱり|掃《そう》|除《じ》をしないからね」
と景山は肩をすくめた。「座れよ。今日は俺が君をもてなす番だ」
冬子は、落ち着かない様子でソファへ腰を降ろすと、景山を見上げた。
「酔ってるのね?」
「いいや、とんでもない。そりゃ――少しは飲んだがね。君は何を飲む?」
「ほしくないわ」
「そう言わずに。――そうか? じゃ……」
「いつ出発するの?」
「今夜だ」
「飛行機の手配は?」
「航空会社の方でチャーター便を出してくれる。大したもんだろう。たかが十人ぐらいのためにチャーター機だぜ。――|偉《えら》くなったもんだよ」
と景山は|皮《ひ》|肉《にく》っぽく笑った。
「現場へは行けそう?」
「いや、全員はとても無理だろう。女性や年寄はとても行けないような山の中らしいからね。俺は行くつもりだが」
「大丈夫なの?」
「新聞記者だと言えばね。記者ってのは、少々のことじゃ|壊《こわ》れないようにできてるのさ」
「でも今は違うじゃないの」
「そんなことはいい。分りゃしないよ。それに向うまではどうせヘリで飛ぶんだ。現地へ降りてからが大変なのさ。だから女子供は連れて行かないんだ」
「危険なの?」
「それもあるが、何よりもひどいからね、飛行機事故ってやつは」
「そんなに?」
「まずまともに残ってる死体はあるまい。首も手足もばらばらになって、どれが誰のものやら分るまいよ。しかもたぶん焼けて真黒になっている。――俺は何度か行ったことがあるからね。|残《ざん》|骸《がい》の間を歩いてて、バッグか何かを見つけて拾い上げると、それにちぎれた手がついて来たりする」
「やめて」
思わず冬子は顔をそむけた。
「しかし、不思議なもんだ。そんなひどい所でも、仕事だと思うと、|怖《こわ》くも何ともない。――今度は仕事じゃなくて行くんだ。どんな気分かな。自分でも見当がつかない」
冬子は深く息をついて、
「|仕《し》|度《たく》は? |着《き》|替《が》えや何かは|詰《つ》めたの?」
景山は肩をすくめて、
「いや。何とかなるさ」
「だめよ! しっかりしなきゃ!」
と冬子はいくらか|手《て》|厳《きび》しく言って立ち上った。「私が仕度してあげるわ。スーツケースは?」
「そんなもんは女房が持って行ったよ。ボストンバッグならあるが」
「いいわ。どこなの?」
「寝室だ」
「案内して。あなたの家なんですからね」
「分ったよ」
二人は二階へ上った。「ここだ」
八畳ほどの洋間で、草色のカーペットが敷きつめてあり、ダブルベッドと、洋服ダンスが並んでいる。
「どこにあるの?」
「その洋服ダンスの上だ」
冬子は一面鏡の前のスツールを持って来ると、それに乗って、タンスの上のボストンバッグを取った。
「さあ、あなたの服。下着、|靴《くつ》|下《した》、ハンカチ、ワイシャツ、ネクタイ……」
「二番目の洋服ダンスに全部入ってるはずだ」
冬子は洋服ダンスの|扉《とびら》を開けた。
「何日ぐらい行っているの?」
「四日間の予定だ」
「じゃ四組あればいいのね。ネクタイは二本でいい。……ワイシャツも二枚替えがあればいいわね。今夜着て行くのはベッドへ置くわよ」
冬子が手早く引出しからハンカチや靴下を取り出してボストンへ詰めて行くのを、景山はベッドに腰かけて|眺《なが》めていた。
「すまんね」
「何を言ってるの。――あなた、少しは眠った?」
「ゆうべ、二、三時間ね」
「それじゃだめよ! 参ってしまうわ。若くないんですからね」
「ひどいことを言うね」
と景山は笑った。
「いいから。ここで少し眠りなさい。いいわね?」
「しかし――」
「二、三時間したら起こしてあげるわ。その間にボストンバッグを詰めて、|仕《し》|度《たく》を終らせておくから。いいわね?」
「分ったよ」
景山は広いダブルベッドへ横になった。
「……久しぶりだ。ここへ寝るのは」
「黙って眠るのよ」
「いや、本当だぜ。――ここは女房が一人で寝てたんだ。何しろ寝相の悪い|奴《やつ》だったからな」
「さあ、目をつぶって」
「もうずいぶん長いこと女房と寝てなかった……」
「やめなさいよ。――静かに眠るの」
「俺はいつも|隣《となり》の部屋で寝てたんだ。反対の隣は娘の部屋だった。たまに俺がここへ来ると、女房の奴、『あの子に聞こえるといけないから』って追い返したもんだ」
冬子は黙って下着をボストンバッグへ詰めていた。
「あいつももうここで寝ることはなくなった……」
景山は一人言のように続けた。「敏子も、もう何も聞くことはないんだ。ここで何をしようと、あいつには聞こえない……」
冬子は黙々と仕度を続けている。
景山は、起き上るとベッドからそっと降りた。冬子は背を向けているので気付かない。景山の手が冬子を後ろから|抱《だ》きしめた。
「やめて! 何してるの!」
冬子は|驚《おどろ》いてもがいた。景山の|腕《うで》を振り|離《はな》そうとする。しかし、景山の力にはとても|敵《かな》わなかった。
「やめて……。こんな時に……何をするのよ!」
冬子はベッドへ投げ出された。景山が|荒《あら》|々《あら》しくのしかかって来た。
「馬鹿! やめてよ! ここは……おくさんのベッドじゃないの……いやよ!……やめて……」
景山が冬子の|抵《てい》|抗《こう》を|押《お》し|潰《つぶ》そうとするかのように、|激《はげ》しく|唇《くちびる》を押しつけて来た。逆らう力がすっと抜けて、冬子は服を|脱《ぬ》がされていくに任せていた……。
事が終って、景山は眠り込んでいた。
冬子は、深く何度か息をついて、ベッドから降りると、あちこちへ散らばった服を集めて、急いで身につけた。
景山は、ぐっすりと眠り込んでいる。眠るために、自分の中にたまっているやり切れなさ、自責の思い、そういった|総《すべ》てを、冬子を抱くことで忘れようとしたのだろう。冬子にも、景山の気持は、よく分った。
冬子は景山にそっと毛布をかけてやると、ボストンバッグを詰める仕事へ戻ろうとした。
――ふと電話が鳴っているのに気付いた。
「下だわ。――どうしよう」
景山は眠ったばかりだ。冬子は急いで寝室を出ると、階段を足早に駆け降りた。居間で、電話は|苛《いら》|立《だ》つように鳴り続けていた。
「はい、景山です」
と答える冬子へ、
「ローマから国際電話です」
と交換手の声がした。――事故のことだろう。景山を起こして来ようと思ったが、すぐに電話のつながる音がした。
「もしもし!」
|叫《さけ》ぶような女性の声がびっくりするほどよく聞こえた。
「景山です。どなたですか?」
「あら、あなたは?」
と向うが|訊《き》いて来た。
「あの――ちょっと手伝いに来ている者ですが」
「主人はいます? 主人を呼んで下さい!」
冬子は息を|呑《の》んだ。
「奥さんですか? ご無事だったんですか?」
「ええ、娘も大丈夫です。二人とも予定を変えて地中海の島へ出かけてたんです。それでなかなか連絡できなくて――」
「待って下さい! ご主人をお呼びします!」
冬子は走った。一気に階段を駆け上って、寝室へ飛び込む。
「起きて! 早く、起きて!」
と景山の体を|揺《ゆ》さぶった。
「何だ……もう時間かい?」
と寝ぼけまなこで起き上る。
「奥さんよ! 電話がかかってるのよ!」
「|誰《だれ》だって?」
「奥さんからよ! 無事だったんですって! お|嬢《じょう》さんも! さあ、早く電話に出て!」 しばしポカンとしていた景山は、
「――本当なのか?」
と訊いた。
「早く出なさいよ! 声が聞けるわ!」
景山は|素《す》っ|裸《ぱだか》のままベッドから飛び出すと寝室を駆け出して行った。転げ落ちるように一階へ、そして居間の電話を引きちぎらんばかりに引っつかんだ。
「もしもし!」
「あなた! 私よ!」
「大丈夫なのか? 事故には――」
「予定を変えたの。大丈夫よ。大丈夫なのよ」
「敏子は?」
「ここにいるわ。代るわよ」
少し間があって、
「もしもし、パパ? 聞こえる?」
と娘の声が聞こえて来た。――不意に、景山の目に涙が|溢《あふ》れて来た。止めようと思っても、止めることができなかった。
「パパ?――どうしたの?」
「ああ……何でもない。大丈夫か?」
「ええ、何ともないわよ。心配した?」
「当り前だ!………当り前だ」
涙はとめどなく頬を|濡《ぬ》らした。
冬子は、素っ裸の景山が受話器を握って泣いているのを、居間の入口から見ていた。そして、玄関へ出ると、音を立てないように気を付けながら、景山の家を出て行った。
第四章 翻 意
1
(西本安治の|原《げん》|稿《こう》――つづき)
西川は、この前と同じ|喫《きっ》|茶《さ》店で、江口を待っていた。――|巧《うま》くやってくれただろうか。伸子は江口の話なら、まず無条件で信用するはずだ。
待つほどもなく、江口は現れた。いつもとは打って変った背広にネクタイという|姿《すがた》で、西川はつい笑ってしまった。
「いやだなあ、これでも決めたつもりなんですが」
「いやいや、ごめん。よく似合うよ。しかし、いつもと余り違うんでね」
「|叔《お》|母《ば》さんもびっくりしてましたがね。――おい、コーヒー」
「で、どうだったね、|首《しゅ》|尾《び》は?」
「ええ、すんなりと信じてくれましたよ」
「そうか。さすがに君だ」
「あんまり叔母さんが|嬉《うれ》しそうにするんで、何だか|騙《だま》すのが悪い気がして困りましたよ」
「別に|騙《だま》すわけじゃない。女房のためにやることなんだから」
「そりゃ分ってますが……」
「それでいくら貸すと言ってたね?」
「一千万なら、ということでした」
「全部? |呆《あき》れた|奴《やつ》だな!」
「|僕《ぼく》は何も言わなかったんです。叔母さんの方からそう言い出したんですよ」
「何てことだ!」
改めて西川は自分がいかに無視されているかを痛感した。
「で、一千万、借りることにして来ましたけど、いいんですか?」
「ああ、それで結構。ご苦労さん」
西川はポケットからメモを出して、「この口座へ入れておいてくれたまえ」
「分りました」
「いつ金を出して来ると言ってた?」
「明日にでも、って話でしたよ」
「全く、君のことになると熱心だな、あいつは」
と西川は|苦笑《くしょう》した。
その夜、家へ帰ると、伸子は江口の話をして、満足げに、
「あの子もやっとやる気[#「やる気」に傍点]を出してくれたわ。一千万ぐらい、ちっとも|惜《お》しくない」
「しかし、なかなか、難しいと思うがね」
「何よ、ケチをつける気?」
「そうじゃないが、会社を始めるなんてのは|生《なま》|易《やさ》しいことじゃないって話さ」
「だったら手伝ってあげるとか何とかすればいいじゃないの! 文句ばかり言って、あんたって人は!」
西川は早々に|風《ふ》|呂《ろ》へ入ると言って|逃《に》げ出した。
一週間は何事もなく過ぎた。金はとっくに別の口座へ移され、西川の口座は|空《から》っぽになってしまっていた。
しかし、いくら何でもそうそうすぐに事業に失敗するというのも|妙《みょう》なものである。二、三週間は時間を置く必要がある。
――その日、昼食から|戻《もど》ると、伸子から電話が入った。
「やあ、どうした?」
「大変なことになっちゃったの。すぐ帰って来て」
来たな、と思った。打ち合せより大分早いし、一応西川が|連《れん》|絡《らく》するまで待つということだったのだが、江口は若い、きっと待ち切れなくなったのだろう。
「すぐって言われても……。仕事があるからな……」
「何でもいいから、|放《ほ》ったらかして帰って来てよ!」
と伸子は相当に|苛《いら》|立《だ》っている。これはいい|徴候《ちょうこう》だ。西川はほくそ|笑《え》んだ。
「分ったよ。じゃ昼休みが終るまで待ってくれ」
「何よ、コーヒーなんか飲んでる|暇《ひま》があったら――」
「そうじゃない。仕事のことを連絡しなきゃならない。他の|奴《やつ》が戻って来ないと出られないんだよ」
「……それじゃできるだけ早く」
と伸子は|渋《しぶ》|々《しぶ》言った。伸子が|譲歩《じょうほ》するというのは、何年に一度あるかないかである。今、いかにショックで混乱しているかという|証拠《しょうこ》だ。
できるだけじらしてやろう、と、西川は一時に会社を出ると、わざと各駅停車の電車に乗って帰路についた。
家の手前数十メートルの所で少し駆け足をして息を|弾《はず》ませ、家へ入る。
「あなた! 何をぐずぐずしてたのよ!」
と伸子が飛び出して来る。
「いや、電車がうまく行かなくてね。――何事だね、一体?」
「ともかく上って」
西川は、玄関に男物の|靴《くつ》が二足あるのを目に止めた。|誰《だれ》だろう? あまり上等とはお世辞にも言えない靴だが。
居間へ入ると、ソファに二人の男が|座《すわ》っていた。一見して、サラリーマン風ではない。何となく目つきも悪い。
「警察の方よ」
「ああ、こりゃどうも……」
西川は|慌《あわ》てて|会釈《えしゃく》した。どうして警察が?
それでは例の件とは関係ないのだろうか?
「どういうご用件でしょう?」
西川はソファへ座って|訊《き》いた。
「江口|一《かず》|実《み》という人をご存知ですね」
と|刑《けい》|事《じ》が訊いて来た。
「ええ。家内の|甥《おい》ですが」
「甥ごさんに最近、金を貸されましたか?」
「はあ。……確かに貸しましたが」
「いくらです?」
「一千万です」
刑事は顔を見合わせた。
「今、一千万とおっしゃいましたか?」
「そうですよ」
「二千万の|間《ま》|違《ちが》いでは?」
西川は笑って、
「我が家にそんな金はありませんよ。一千万貸して貯金は空っぽなんですから」
こいつはどうも様子がおかしい。江口が何かやったのだろうか? 西川は内心不安になって来た。
「あの……」
伸子がおずおずと口を出した。伸子がおずおずと[#「おずおずと」に傍点]しゃべるなどということがあろうとは、西川は思ってもみなかった。
「確かに二千万円、貸しましたわ」
西川は|仰天《ぎょうてん》した。
「おい伸子! そんな金がどこに――」
「借りたんです」
「借りた?」
「銀行から。――この家と土地を担保にして」
西川は|愕《がく》|然《ぜん》とした。
「い、いつのことだ?」
「三日前よ。もう一千万あれば、必ず|巧《うま》く行くって頼んで来て……」
「江口が?」
あいつ!………何てことを!
刑事が渋い顔で、
「するとご主人に相談なさらずに、一千万の金を?」
「はあ」
「それはあまり感心できませんな」
「あの、刑事さん」
と西川は言った。「一体何事なんでしょう? 江口がどうしたんです?」
「貸し|別《べっ》|荘《そう》を借り切りましてね、外国のスポーツカーを乗り回し、マリファナ、LSDなどのパーティを開いていたんです」
「……それが全部、うちの金で?」
「そのようです。スポーツカーも四、五百万のものをポンと現金で買っていますし、別荘の代金なども甥ごさんが|払《はら》っているようですからね」
西川は|額《ひたい》の|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》った。移した方の口座を後で調べてみるのだった! きっと、|一《いっ》|旦《たん》入れておいて、すぐに引き出してしまったのに違いない。
「で、金を全部、使っちまったんですか?」
「そのようですが、確かめられないので」
「でも……江口に|訊《き》けば……」
「|亡《な》くなりました」
西川は耳を疑った。
「死んだ……?」
「ええ。スポーツカーが木に|激《げき》|突《とつ》しましてね。五人乗っていたんですが、全員死亡していました。その中の二人は後ろの席でカーセックスの最中だったようです」
「何てことかしら」
と伸子が声を詰まらせた。「|可《か》|哀《わい》そうな一実ちゃん!」
何が可哀そうだ。こっちは一文無しで、しかもこの家まで……。
「まあ、甥ごさんはお気の毒でした。金の出所がはっきりしなかったものですから、こうして|伺《うかが》ったわけでして。お手数でしょうが、後ほど警察へおいで願って、書類を作らせていただきたいのですが」
「かしこまりました」
西川は半ば|呆《ぼう》|然《ぜん》自失の状態で答えた。
――刑事たちが帰ってしまうと、西川と伸子は、長い間、黙って座っていた。
「とんでもないことになったわ」
と伸子が言った。
「うん……。一文無しで、おまけにここの家も取り上げられるんだぞ」
「困ったわね」
「困ったどころじゃない! だから|俺《おれ》があれほど危ないと言ったのに!」
さすがに伸子も言い返さない。代りにため息をついて、
「あーあ、誰か一千万貸してくれないかしら?」
「そんな物好きがいるか」
「会社で借りられない?」
「せいぜい四、五十万だな」
西川は立ち上って、「まあ、お前が一存で貸したんだ、お前が何とかしろ」
と言い放った。――|普《ふ》|通《つう》なら、こんなことを言おうものなら、|叩《たた》きのめされるのが落ちだが、伸子は黙って考え込んでいるだけだった。
やれやれ。――西川は|奥《おく》の|部《へ》|屋《や》で|寝《ね》|転《ころ》がって、思った。損害は大きすぎたが、伸子も相当痛手を受けたようで、その点での|狙《ねら》いは当ったらしい。
しかし、自殺してくれる所まで行くだろうか? 何かもう一押しが必要な気もする……。
「あなた」
と伸子が顔を出した。
「どうした?」
「お話があるの」
と、えらく神妙な顔つきで、西川の前に座る。西川は気味が悪くなって、
「何だよ、一体?」
と起き上った。
「お金を作るあてはないわね。親類にもそんな金持はいないし……」
「そうだなあ」
「方法は一つしかないわ」
「何だい?」
「保険金よ」
「保険金?」
「生命保険よ。――死ねば入って来るわ。それで|償《つぐな》いをするの」
西川は、こうも話が巧く行っていいのか、と|面《めん》|食《く》らってしまった。ここは少しは止めるべきだろう、まさか、
「そりゃいいね。|早《さっ》|速《そく》やってくれ」
とも言えない。
「まあ、そこまでしなくたって――」
「いいえ、決心したのよ。でも自殺の時は、保険金、おりないの?」
「かけ始めて何年かの間だとだめなようだけどね。――しかし、うちはもう十年以上かけてる。大丈夫だろう」
「とにかく、分らないように死ねば問題ないのね。自殺ってことが」
「そうだな。事故か何かに見えるようにして……」
「いい方法、あるかしら?」
「ふむ。間違って首を|吊《つ》るってことはなさそうだし。車にひかれるとか――」
「死ぬ確率が低いわ」
「それもそうだな」
「河で|溺《おぼ》れ死ぬっていうのはどう?」
「この辺に河があるか?」
「それもそうね」
「ガス中毒は危ないしな」
「|爆《ばく》|発《はつ》するかもしれないわ」
「この家だけならともかく、隣近所まで吹っ飛びそうだ」
「さて、困ったわね……。じゃ、自殺って分っても仕方ないかしら?」
「そうだねえ」
「保険金が割引きされるとしても……まあ、ないよりましよね」
「そうだね」
「この家だけでもあれば、再婚するにも楽だし、毎月の|暮《くら》しは何とかなるし」
再婚の話まで考えてくれるとは、ご親切なことだ。これが同じ女房とも思えない。
「――仕方ないわね。残念だけど」
「お前がどうしてもと言うのなら……」
「それじゃ」
と立ち上って、「気が変らない内に」
「どうやるんだ?」
「首を吊るのが一番手っ取り早い感じね」
「|縄《なわ》があるかい?」
「|洗《せん》|濯《たく》物のロープがあるわ。割合丈夫なのよ」
伸子はロープを取って来ると、「――さあ、これ。どこか高い所へ引っかけてちょうだい」
「どこがいいかな」
「今の家は高い|梁《はり》なんてないしね」
「六|畳《じょう》に|鴨《かも》|居《い》があったぞ」
「そうだわ。あそこがいいわね!」
鴨居といっても、今の物は、あまり|頼《たよ》りにならないが、一応ロープをかけて引っ張ると、まずまずの強さだ。
「これなら大丈夫だろう」
大丈夫、というのも妙だが。
「じゃ輪にして」
「うん。――これでいい。少し高くしないと足が届くな」
「ああ、それくらいあればいいんじゃない?」
「これでよし、と。……さて」
「後は遺書ね。どうしようかしら?」
「そうだなあ。別にいらないんじゃないか」
そんなものを書いている内に気が変ったら大変だ。「別に作家が自殺するわけじゃないんだから」
「それもそうね。あっさりやった方が、決心が|鈍《にぶ》らなくていいわ」
そうだ。全くその通り。さて、いよいよか。
「じゃ……」
「まあ、いろいろあったけど」
と西川は言った。「長い間――」
「ご苦労様でした」
と伸子は言った。「安らかに|成仏《じょうぶつ》してね」
「うん、お前も元気で――」
と言いかけて、「おい、何だい『安らかに成仏しろ』っていうのは?」
「あら、あなた成仏したくないの?」
「どうして俺が?――死ぬのはお前なんだぞ!」
「私が? |冗談《じょうだん》じゃないわよ!」
「死んで償うと言ったじゃないか」
「あなたが死んで、その保険金で借金を払うって意味よ」
「おい、どうして俺が[#「俺が」に傍点]死ぬんだ? 江口の|奴《やつ》に金を貸したのはお前だぞ。おまけに俺に無断でこの家まで|抵《てい》|当《とう》に入れて。死ぬのはお前の方だ! 当り前じゃないか」
「何ですって? あんた一家の|主《あるじ》でしょ。私の借金は夫の借金、私の罪はあんたの罪よ」
「そんな無茶な話があるか!」
「死んだ時の保険金だって、あんたの方が多いのよ。私が死んでも大したことないわ。それならあんたが死んだ方が得よ」
「損得の問題じゃない! 俺がどうして――」
「じゃ私に死ねっていうの? そっちがその気なら――」
伸子は台所へ走って行くと、先の|尖《とが》った肉切り包丁を手に戻って来た。「私が殺してやるわ!」
「よ、よせ! やめないか! 危ない!」
西川は飛び上って逃げ出した。
「待ちなさい! 夫として責任を――」
「ふざけるな! そんな馬鹿な話があるか!」
家の中を右へ左へ、二人は家具を|突《つ》き|倒《たお》し、|襖《ふすま》を破りながら、|追《つい》|跡《せき》戦をくり広げた。
西川が転んだ。伸子がここぞとばかりのしかかって来る。
「おい、よせ!………包丁を捨てろ!」
伸子の手を|握《にぎ》って、必死に押し戻しながら、西川は|怒《ど》|鳴《な》った。
「何よ今さら! 私を死なそうとしたくせに!」
二人の|揉《も》み合いは、しばらく続いた。――この話が終る時点でも、まだ続いていた。
2
信子が帰って来たのは、もう夕方になってからだった。
「ああ|疲《つか》れた」
信子は大きく|伸《の》びをしてソファへどさっと座り込んだ。
「どうした、一千万は?」
「ちゃんと和実ちゃんに渡したわよ。まあ見てなさい。今に倍になって戻って来るわ」
ヨットになって戻って来る、さ。――西本は内心そう|呟《つぶや》いた。
「一千万で足りるんだろうね」
と西本はわざと|訊《き》いてやった。信子はちょっと驚いた様子で、
「どうしてよ?」
と訊き返して来る。この家を担保に一千万借りるのを、夫に知られているはずはないと思っているので、|面《めん》|食《く》らったのだろう。
「いや、訳いてみただけさ。事業を始めるにしては、ちょっと少ないんじゃないかと思ってね」
信子は|曖《あい》|昧《まい》に笑って、
「だからって、うちにそれ以上のお金はないじゃないの」
「それもそうだな」
西本はとぼけて|一《いっ》|緒《しょ》に笑った。
「さあ、夕ご飯の|仕《し》|度《たく》でもしようかしら」
信子はわざとらしく言って、台所へ逃げるように行ってしまった。あれでも、少しは良心にとがめることがあるらしい、と西本はおかしくなった……。
夕食の間も、金の話は出なかった。信子の方が|珍《めずら》しく気を|遣《つか》って、あれこれと話をそらしていたからだ。
食事を終った所へ、玄関のチャイムが鳴った。
「|誰《だれ》だろう、こんな時間に?」
と|呟《つぶや》きながら、西本は玄関へ出て行った。
「どなた?」
と内側から声をかけると、
「今井清子です」
と返事があった。驚いて西本はドアを開けると、
「こんな時間に一体――」
と言いかけて、今井清子の後ろに立っている男に気付いた。江田和実だ。
「江田君もか。――まあ、入りたまえ」
居間へ通すと、信子も驚いて出て来る。
「和実ちゃん、どうしたの?」
江田の様子がどうもおかしい。雨に降られて|濡《ぬ》れそぼった犬みたいに、|惨《みじ》めたらしくうなだれて、元気がない。
今井清子が一通の|封《ふう》|筒《とう》をテーブルへ置いた。
「これ、お返ししに来ました」
ときっぱりした口調で言う。
「それは……」
と信子が|戸《と》|惑《まど》って、「私が貸してあげた……」
「ええ、一千万円の小切手です」
「どうして返すの?」
信子はむっとした様子で、「大体そのお金はあなたに貸したんじゃないわよ。和実ちゃんに貸したんです。それをあなたが返すっていうのは、どういうこと? あなたは一体どういうつもりで――」
「どういうつもりも何もありません!」
と|鋭《するど》い声で、清子は信子の言葉を|遮《さえぎ》った。西本はびっくりした。信子の、|機《き》|関《かん》|砲《ほう》のような弁舌を遮ることができるような人間がいようとは思えなかったのだ。
「あなたのためにお返しするんです」
と、何とも言いようのない言いっぷり。さすがに信子の方も|呑《の》まれた格好で、
「ど、どういうことなの?」
と、江田の方を見た。清子は江田へ向って、
「さあ、おっしゃいよ!」
と|厳《きび》しく言った。しかし、江田はやや青ざめた顔で目を伏せたきりである。清子は|諦《あきら》めたように、西本たちの方へ向き直って、
「事業を始めるなんて、|嘘《うそ》っぱちだったんです」
とズバリと言い切った。――信子の顔こそみもの[#「みもの」に傍点]だった。西本は信子の目が、今にも飛び出すかと思えるほど見開かれるのを、横目でじっと見ていた。清子はちょっと間を置いて、例のヨットの話が事実だったことを簡単に説明した。
西本は|冷《ひや》|汗《あせ》をかいていた。すでに自分は知っていたのに、それを信子に教えていなかった。それが清子の話で分ってしまうのではないかと思ったのだ。
しかし、清子はそんなことはおくびにも出さず、最初から話をした。信子の|驚《おどろ》きようはむろん|並《なみ》|大《たい》|抵《てい》ではなかったが、驚きのあまり|怒《おこ》るのも忘れている様子だった。
「――私が、パンフレットにある電話へかけてみると、もう彼が一千万の小切手を持って行って|契《けい》|約《やく》を済ませた後でした。私は大急ぎでその店へ|駆《か》けつけて、|談《だん》|判《ぱん》してこれを取り戻して来たんです」
よく向うが返したものだ、と西本は驚いた。二千万の買物で、しかも契約を済ませているというのだから、容易なことでは取り消したりしないだろう。
「向うも大分渋りましたけど、これは|詐《さ》|欺《ぎ》同然に手に入れたお金なんだから、このまま持っていれば面倒なことになるって|脅《おど》してやったんです。そしたら向うも|慌《あわ》てて彼を呼んで……」
とチラリと江田の方を見た。
信子は、やっと口を開いた。
「和実ちゃん……。どうしてそんなことを……」
「友達に……ついホラを吹いて……後へ|退《ひ》けなくなっちゃって……」
江田は、ほとんど聞き取れないような声で弱々しく言った。そこにはもう、いつもの、ソツのない、調子のいい若者の姿はなく、ただ、|叱《しか》られている子供のような、しおれ切った|惨《みじ》めな姿だけがあった。
「それで、これをお返しにあがったんです」
と清子は言った。「この人にはもっともっと人生勉強が必要ですわ。あなた方も、この人のためを思うのなら、本当に下積みの、地道な仕事を世話してあげて下さい」
信子も、一言もないといった様子で、|黙《だま》りこくっている。
「じゃ、私はこれで――」
と今井清子は立ち上った。「さあ、帰りましょうよ」
江田も言われるままに、おとなしく立ち上った。
「失礼します」
と一礼して玄関へ出て行く清子の後を、西本は追った。
「君……。よくやってくれたね。ありがとう」
と声をかけると、清子は、
「なぜ何か手を打たなかったんですか?」
と|訊《き》いて来た。西本は答えに詰まって、
「それは……」
と口ごもった。
「大体見当はつきますけど」
と清子が|皮《ひ》|肉《にく》るように、「でも、奥さんがいくら勝手に|振《ふ》る|舞《ま》っていらっしゃるからって、それはご主人の責任でもあるんじゃないですか? |互《たが》いの失敗につけ入ろうなんて、夫婦のすることじゃないと思います」
西本は何とも答えられなかった。――清子が、江田を従えるようにして出て行った後も、しばらく玄関に立ったまま、閉じたドアを見つめていた。
あの娘の言うことは、理想論だ。頭の中でこしらえた夫婦の話だ。本人だって、結婚すれば、どうなるか分ったものではない。しかし……それでも、今の彼女の言葉は西本の胸に|突《つ》き|刺《さ》さった。
居間へ戻ると、信子がまだ何が起ったのか分らない、といった様子で、ソファに座っている。
「帰ったよ」
西本はそう言って、テーブルの封筒を取り上げた。中から、一千万円の小切手を取り出す。
「また、口座へ戻すんだな」
そう言ってテーブルへ置く。「まあ、あの娘がしっかりしてるおかげで、金だけでも戻ってよかった。全く、こっちよりよほど……」
西本は言葉を切った。そして目の前の光景を理解するのに、しばらく時間がかかった。
――信子が、泣いているのだった。
永年の結婚生活でも、信子の|涙《なみだ》を見るのは、これが初めてであった。チャンネルを間違えたのか? いや、これはTVドラマじゃないのだ。本当に[#「本当に」に傍点]、信子が泣いている。
「おい……。泣くことはないだろう」
西本はそっと声をかけた。ざまを見ろと言えば言えるのだが、なぜか、出たのは|慰《なぐさ》めの言葉だった。
「江田の|奴《やつ》は……|甘《あま》えん|坊《ぼう》なんだよ。全く、しょうのない……。でも、ほら、金は無事だったんだし――」
「やめてよ!」
信子が金切り声で|遮《さえぎ》った。「あんたは金のことばっかり言って! お金なんかどうだっていいのよ!」
西本は言葉がなかった。金のことばかり言って、だと? それはどっちのセリフだ? 金なんかどうだっていい? そんな言葉は初めて聞いたぞ。|畜生《ちくしょう》! 俺にそんなことを言えるのか。
西本は立ち上って……黙って居間を出た。二階の仕事部屋へ入ると、
「勝手なことばかり言いやがって!」
と初めて胸の中を|吐《は》き出した。
目を覚ましたのは、何のせいだったろう。よく分らなかったが、ともかく西本は、目を覚ましたのである。――夜中の、二時過ぎであった。
仕事部屋へ|布《ふ》|団《とん》を持ち込んで眠っていたので、どうして目が覚めたのか、よく分らない。暗がりの中で、しばらく耳を|澄《す》ましてみたが、|怪《あや》しい物音もしない。しかし、そのまま寝てしまうには、どうも何かが気にかかって仕方なかった。一体何だろう?
西本は、ガスの|元《もと》|栓《せん》だの、玄関の|戸《と》|締《じま》りだのといったことには割合神経質だ。いつもやらされているせいもあるが。――それだけにこうして夜中に目を覚ますというのが、ひどく気になった。
「仕方ない。起きてみるか……」
西本は、目も|冴《さ》えてしまったので、布団から出て、部屋の明りを|点《つ》けた。まぶしさに目を二、三度強くしばたたく。パジャマ姿のまま廊下へ出た。二階は二部屋しかなく、西本の仕事部屋と、もう一つはタンス類を入れて|納《なん》|戸《ど》のようになっている。寝室は一階にあった。
信子の奴が起き出したのだろうか。西本は階段を降りて行った。
台所に明りが|点《つ》いている。西本はその前に寝室を|覗《のぞ》いてみて、驚いた。布団も|敷《し》いていない。信子は眠っていないのだ。
「――信子」
と声をかけながら、台所へ入って行く。が、そこにも信子の姿はなかった。
「どこにいるんだろう?」
手洗いにも、居間にもいない。――ということは、家にいないということだ。出かけたのか? こんな夜中に。
大体が信子は|一《いっ》|旦《たん》寝たら朝まで絶対に起きない|性《た》|質《ち》だし、夜ふかしは大の|苦《にが》|手《て》である。一体どうしたというのか。
玄関の明りを点けてみると、|鍵《かぎ》もチェーンも外れていた。やはり外へ出て行ったらしい。すると、西本が目を覚ましたのは、この玄関のドアが開け閉めされる音のせいだったのかもしれない。
それにしても、鍵を開けっ放しにして、|物《ぶっ》|騒《そう》だ。こんな夜ふけに、何をやっているのだろう? サンダルが|失《な》くなっているから、遠くへ出かけたわけでもなさそうだが。
「やれやれ、おかげで目が覚めちまった……」
台所へ戻ると、西本はポットの湯をやかんへ戻して|沸《わ》かし直し、コーヒーを作った。むろん、インスタントである。――テーブルについてゆっくりと熱いコーヒーを飲む。いかにも、深夜、という感じであった。
なに、信子のことだ、気がムシャクシャするというので、散歩にでも出たんだろう。この辺は団地でもあり、夜も道はかなり明るい。危ないようなことはないはずだ。それに子供ではないんだし。――何か[#「何か」に傍点]あれば、それこそ幸いというものだ。
しかし、西本の胸には、まだあの今井清子の言葉が、残っていた。互いの失敗につけ込むようなことは、夫婦のすることではない。それはその通りだ。しかし、「夫婦でないような」夫婦が多すぎるのだ。――それが現実というものなのだ。
なぜ、信子は泣いたのだろう? ふと、西本は思った。さっきは腹が立って考えようともしなかったが、本当になぜ泣いたのだろう? それほどまでに、|甥《おい》に裏切られたことが悲しかったのか。たかが、甥ではないか。腹を痛めた子供というわけでもあるまいし……。いや、そうなのか? 江田は、信子にとって「子供」の代りだったのかもしれない。自分が持つことのできなかった「子供」というものを、あの若者の中に求めていたのではないか。
「そうだったのか……」
思わず、西本は口に出して|呟《つぶや》いた。考えてみれば――いや、考えるまでもなく、そんなことは分り切ったことだ。|俺《おれ》はそこに、今まで気付かなかった。あの信子の強さの中の|空《くう》|洞《どう》に、思い及ばなかった。
信子はどこに行ったのだろう?
西本は、ふと雨の音に気付いた。さっきまでは降っていなかった。――信子の奴、びしょ|濡《ぬ》れになってしまうじゃないか。西本は急いでパジャマを|普《ふ》|段《だん》着に|替《か》えると、|傘《かさ》を手に外へ出た。冷たい雨が道を濡らして、本降りになりつつあった。
出ては来たが、どこを|捜《さが》そう? ぶらぶらと歩いて行くとしたら、公園か……。
ともかく行ってみよう。西本は、この団地の中心部のマーケットの隣にある、割合に広い公園へと足を向けた。他にサンダルばきで出て行く所など考えられない。
傘をはたく雨の音を聞きながら、|石畳《いしだたみ》の道を急いだ。あの公園には、一応屋根のある|休憩《きゅうけい》所のようなものはあるが、いつまでもそこにいるわけにもいくまい。まさか|迎《むか》えに来るとは思っていないだろうから、雨の中を走って来るかもしれない。
「全く世話の焼ける奴だな……」
と西本は足を早めながら|呟《つぶや》いた。
公園への道を半分ほど来た所で、西本は足を止めた。救急車のサイレンが後ろから近付いて来たのだ。たちまちの内に、それは西本を追い|越《こ》して行ってしまった。そして公園のある方向へと赤いランプが消えて行くのを、西本は見送った。
公園には、池がある。大して大きなものではないが、死のうと思って死ねないこともない池である。
「まさか……」
信子が自殺するために家を出たとは思えなかったが、しかし、もともと西本はそうなることを望んでいたのではないか。もし、それが現実になっていたら。あの救急車は……。
西本は足を早めた。傘をさしていても、雨が顔を濡らしたが、構わずに急いだ。公園までは、ほんの五分ばかりの道のりなのだが、ひどく遠い感じがした。
救急車は、公園の前に|停《とま》っている。西本は|一瞬《いっしゅん》ヒヤリとした。最悪の予想が当ったのだろうか? 信子が池へ身を投げたのか? 最後はほとんど走るようにして公園へ着いた。救急車の|扉《とびら》は開け放たれ、その近くに、近所の住人らしい|人《ひと》|影《かげ》が数人集まっている。駆けつけた西本は、その一人へ、
「どうしたんです?」
と|訊《き》いた。
「|酔《よ》っ|払《ぱら》いが倒れててね」
|担《たん》|架《か》が公園から出て来た。どこかの、ちょっと|薄《うす》|汚《よご》れた中年男だ。――西本は胸を|撫《な》でおろした。
酔っ払いを手早く収容して、救急車は再びサイレンを鳴らしながら走り去って行った。集まっていた人々も、それぞれの家へと散って行く。
「あら、あなた」
びっくりして振り向くと、信子が、ちゃんと傘をさして立っている。「こんな所へ何しに来たのよ?」
「お前……。何だ、傘を持ってたのか。目を覚ましてみると家にいないし、その内、雨が降り出したから、濡れて|風《か》|邪《ぜ》でも引くといかんと思って捜しに来たんだ」
「何だ、そうだったの。私が出る時も、もう少し降り出してたのよ」
「それならいいけど……。どうしてこんな夜中に出歩いてたんだ?」
「回さなきゃいけない婦人会の回覧があったのを忘れてたのよ。それをそこの家の郵便受けに入れて来たの」
「そうか。それにしても、玄関の鍵は開けっ放しだし、物騒じゃないか」
「すぐ戻るつもりだったのよ。ところがここで何やら|騒《さわ》いでるから、|覗《のぞ》いてる内に救急車が来て、ついつい、見物しちゃったのよ」
「全く|野《や》|次《じ》|馬《うま》|根《こん》|性《じょう》は|旺《おう》|盛《せい》だな」
と西本は、つい笑ってしまった。
「それがなくなったら、女でなくなったってことだわ」
「そうかね。――さて、帰ろう」
「ええ」
二人は、雨の道を、ゆっくりと家へ向って歩いて行った。夜の静寂を、雨の|囁《ささや》きが、|却《かえ》って一層深めているような夜だった。
「久しぶりだな」
と西本が言った。
「何が?」
「こうして一緒に歩くのが、さ」
「そうかしら?――そう言えばそうかもしれないわね」
「……江田君のことは、あまり気にするなよ。若い時は誰しも馬鹿をやるもんだ」
「分ってるわ。私の方がどうかしてたわよ。いきなり頼まれて、何も調べずに貸すなんてね。それも貯金全部を!」
「向うも驚いたろうな」
「一発当ててやろうなんて考えるもんじゃない、って言って聞かせるべきだったわ。それを逆にたきつけるような|真《ま》|似《ね》をして」
「まあいいさ。無事にすんだんだ」
「あの|娘《こ》はしっかりしてるわね。ちょっとカンにさわるけど。でもおかげで一千万、助かったんだから」
「あの娘がきっと江田君を立ち直らせるさ」
「いいえ、だめよ」
信子は首を振った。
「どうしてだめなんだ?」
「あの娘は別れるわよ」
「なぜ分る?」
「分るのよ。女ですものね」
こういう|勘《かん》は鋭いのだ。西本は|敢《あ》えて異を唱えなかった。
「それに和実ちゃんは、ああいうしっかりした女性がついていたら、いつまでたっても頼り切ってしまうわ。逆に自分がしっかりしなきゃいけないような、頼りない女の子がいいのよ」
「そんなものかね。――さあ着いたぞ」
「あら、何よ、あなた」
信子は玄関のドアを開けて、「あなただって鍵をかけないで出て来たじゃないの」
「それは――心配で急いでたからさ。それに入れ違いになって戻って来て、入れなかったら困るだろう」
「ご親切ね」
と言って、信子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。――西本は何となく安心した。
「もう寝るんだろう?」
「ええ。もちろん。眠くって、歩きながら眠りそうだったくらいよ」
「大げさだな。それじゃおやすみ」
「おやすみなさい」
二階へ上りながら、西本は、久しぶりに夫婦らしい対話をした、と思った。
「どうも、俺には女房を殺す小説など、書けそうもないや……」
|寝《ね》|床《どこ》へ入りながら、西本はそう|呟《つぶや》いた。
3
(公路武夫の|原《げん》|稿《こう》――つづき)
○警察署の一室(昼)
|憔悴《しょうすい》した様子の山路、|椅《い》|子《す》に座っている。向い合って、|刑《けい》|事《じ》A。
刑事A「(書類を見ながら)まあ、そちらに責任がなかったのははっきりしています。あの連中はあなたの車へ危害を加えようとした。あなたはそれをよけただけですからね」
山路、黙っている。
刑事A「運が良かったですよ、パトカーが通りかかった。そうでなかったら、今ごろどうなっていたか分りませんからね」
山路「(半ば放心した様子で)はあ」
刑事A「はねとばされた男は骨折で全治一か月ということですが、まあ死ななかったのが|儲《もう》けものだな。――しかし、あなたは、何か連中に|狙《ねら》われるような特別の理由をお持ちだったんですか?」
山路「(|慌《あわ》てて)いえ、とんでもない!」
刑事A「そうですか。それならいいが、あの連中はかなり|凶暴《きょうぼう》ですからね。まあ、これ以上は何もないと思いますが、お気を付けて……」
山路、立ち上って、
山路「どうもお手数をかけました」
と出て行く。
○|駐車《ちゅうしゃ》場(昼)
山路、自分の車の方へ歩いて来る。ドアを開けようとして、ドアの傷に気付く。いやな予感に顔をしかめ、周囲を見回す。
カメラ、周囲をぐるりと|眺《なが》め回す。車が並んでいて、向う側は|普《ふ》|通《つう》の道路。何の|変《へん》|哲《てつ》もない風景。
山路、車へ乗り込む。――ひび割れたガラス窓。山路、ため息をついて、車を発進させる。
○修理工場の表(昼)
〈××自動車修理工場〉の看板。
ガラスを入れかえ、ドアの傷も|塗《ぬ》って直した山路の車が出て来る。山路、工場の主人らしい男と並んでそれを見ている。
山路「いや、どうも無理言って悪かったね」
工場主「とんでもねえ。こちとら仕事ですからな。しかし災難でしたねえ」
山路「全くだよ。ああいう連中はもっとびしびし取り締ってもらわなくちゃ。(車へ歩み寄って)……ああ、よくできた。ありがとう」
工場主「お代は後で|請求《せいきゅう》書を送りますから、よろしく」
山路「分った。それじゃ」
山路、車へ乗り込む。車が走り出す。それにちょっと手を上げて見せる工場主。
○車の中(昼)
山路、少しはさっきより元気が出た様子。カーラジオをつけ、音楽を流す。
山路「(一人言)そうだ。……朝から何も食ってなかったな」
前方に、レストランの看板が見えて来る。山路、ハンドルを切る。
○レストランの前(昼)
山路の車が駐車場へ入って来て|停《とま》る。他には二、三台停っているだけ。山路、車を降りてドアを閉め、ロックする。
それからレストランへ入って行く。
カメラ、レストランへ入り、席へ着く山路を外から窓越しに|捉《とら》えて、それからゆっくりと道路の方へパンする。黒いヘルメットが大写しになる。
○レストランの中(昼)
山路、食事を平らげて、コーヒーを飲んでいる。
山路「(息をついて)やっと落ち着いたな……」
山路、ふと思いついて、立ち上ると、店の入口のわきにある電話ボックスへ行く。
*
電話ボックスの中。山路、入って来て、受話器を取り、十円玉を数枚落としてダイヤルを回す。呼出し音が聞こえる。――が、|誰《だれ》も出ない。
山路、ちょっと不安気な様子で受話器を|戻《もど》す。
*
電話ボックスを出て、席へ戻った山路、何気なく外を眺めてギクリとする。
窓越しに、道の向う側に一台のオートバイと、そのそばに立っている、ヘルメットと革ジャンパーの男が見える。
|探《さぐ》るように見つめる山路。
革ジャンパーの男、やがてオートバイに乗って走り去る。山路、ホッとした様子。ゆっくりとコーヒーを飲みほす。
○山路のマンション(夕方)
|玄《げん》|関《かん》。チャイムが鳴る。|浩《ひろ》|美《み》が出て来て、|鍵《かぎ》を開ける。山路、入って来る。
山路「ただいま」
浩美「(無表情に)お帰りなさい」
山路「いや、今日はひどい目にあったよ」
そう言いながら、山路、居間へ入って行く。
*
居間。山路、入って来て立ちすくむ。
ガラス戸のガラスが全部破れて、破片が居間中に散らばっている。
山路「ど、どうしたんだ! これは……」
浩美「(ゆっくりと後から入って来て)石を投げつけられたのよ」
山路「誰がやったんだ? 子供か?」
浩美「革ジャンパーのオートバイに乗った連中よ」
山路、息を|呑《の》む。
山路「そうか……。いや、今日ね、僕もひどい目にあったんだ。同じ連中なんだな、きっと。車を|壊《こわ》されそうになってね……」
浩美「(さほど関心のない様子で)そうなの」
山路「で、警察へ届けたのかい?」
浩美「いいえ」
山路「そうか。……まあ、|却《かえ》ってそんなことをするとああいう連中はしつこくやって来るかもしれないな」
山路、肩をすくめて、
山路「じゃ、明日にでも片付けてガラスを入れさせよう。今夜は仕方ないな、このままで」
浩美「そうね。――でもちょっと寝る気がしないわ、不用心だし」
山路「それはそうだけど……」
浩美「どこかホテルに|泊《とま》りましょうよ」
山路「ええ?」
浩美「いいでしょう? 私、|怖《こわ》くて……」
浩美、山路の腕にすがるようにする。山路仕方なく|肯《うなず》いて、
山路「分った。それじゃそういうことにしようか」
浩美「よかった。安心して眠れるわ」
と|微《ほほ》|笑《え》む。山路、ちょっと複雑な表情になる。
*
ダイニング。山路と浩美が夕食を食べている。山路、時々、探るような目で浩美を見るが、浩美の方はいとも無心に食べているだけ。
浩美「(夫の視線に気付き)どうしたの? 私の顔、何かついてる?」
山路「い、いや、別に……」
山路急いで目をそらし、食べ続ける。
玄関でチャイムが鳴る。
浩美「誰かしらね、こんな夜に」
と立ち上る。
山路「おい、開ける前によく確かめろよ」
と浩美の|後姿《うしろすがた》へ声をかける。
*
玄関。浩美、やがて来て、|覗《のぞ》き穴から外を見る。
(インサートショット)|魚《ぎょ》|眼《がん》レンズで、ドアの覗き穴を通して見ている感じ。コートを|無《む》|造《ぞう》|作《さ》にはおった中年の男が立っている。
浩美、ドアを開ける。
浩美「どちら様でしょうか?」
中年男、警察手帳を見せて、
石川「|石《いし》|川《かわ》といいます。N署の者ですが……」
浩美「あの……何か?」
石川「実はちょっとご主人に|伺《うかが》いたいことがありまして」
と言いながら、家の中をぐるりと見回している。山路、出て来て、
山路「僕にご用ですか?」
石川「山路さんですね? N署の石川と申しますが、ちょっとお話を伺いたくて」
山路「そうですか。じゃどうぞこちらへ……」
と居間の方へ案内しかけて、ハッとする。
山路「そ、そうだ、居間は散らかしていて……」
石川「いや一向に構いませんよ」
山路「しかし、ちょっと……。それじゃ、この下の|喫《きっ》|茶《さ》店へ行きましょう。構わないでしょう?」
石川「(ちょっと不思議そうな顔になる)ええ……それはまあ……」
山路、ホッとしたように、
山路「それじゃ、どうぞ。(浩美の方へ)ちょっと出て来るよ」
浩美「ええ。分りました」
山路、石川と一緒に出て行く。浩美、やや不安な様子で、その場に立っている。
○マンション一階の喫茶室(夜)
(インサートショット)一枚の写真の大写し。革ジャンパーの若者。浩美を|襲《おそ》って、殺された男である。
石川と山路、向い合って座っている。石川が写真を山路の方へ押しやって、
石川「この男です。|見《み》|憶《おぼ》えはありませんか?」
山路、写真を取り上げて、じっと見る。
山路「(首を振って)残念ながら、記憶はありませんね。(と写真を石川へ返して)……この男がどうかしたんですか?」
石川「昨夜、この近所で殺されたんですよ」
山路「へえ、それは……知らなかったな。で、それが僕と何か関係あるんですか?」
石川「いや、それをお|訊《き》きしたかったんですよ」
山路「というと……」
石川「今日、あなたの車が、暴走族に襲われたそうですね」
山路「(何だ、という口調で)ああ、あれですか。いや、〈襲われた〉ってほどのことでもありませんよ。ちょっとしたいやがらせで」
石川「しかし、一歩間違えば大事故です。現に、オートバイの一人は骨折している」
山路「あれは向うが悪いんです。何しろ窓を|叩《たた》き割ろうとしたんですからね」
石川「よく分っています。それはよろしいんですがね」
山路「それじゃ何が――」
石川「昨日殺されたのは、あなたを襲ったグループのリーダー格の男でしてね」
山路「そうだったんですか」
石川「ですから、連中があなたを襲ったのは、何かリーダーが殺された件と関係があるんじゃないかと思ったわけです」
山路、肩をすくめて、
山路「見当もつきませんね」
石川「(ため息をついて)そうですか。するとただの|偶《ぐう》|然《ぜん》ということですかな」
山路「そうとしか思えませんね。(ふっと思いついたように)それならきっと、リーダーを殺されて腹の虫がおさまらないから、たまたま通った僕の車にいやがらせをしたんじゃないですかね」
石川「(あまり気がなさそうに)まあ、そういう考えもありますね。どうもお|邪《じゃ》|魔《ま》しまして」
と立ち上る。山路も一緒に立って、
山路「いえ、ご苦労様です」
二人、店を出る。
○マンションの前(夜)
山路と石川、喫茶店から出て来る。
石川「それじゃ、私はここで失礼します」
山路「分りました」
石川「奥様によろしく」
山路「|恐《おそ》れ入ります」
石川、少し歩きかけて、ふと振り向く。
石川「そうそう、表から拝見しましたが、ガラスが大分ひどく|壊《こわ》れているようですな」
山路「(ちょっと|慌《あわ》てて)あれは……近所の悪い子供たちが……」
石川「そいつはいけませんね。ちゃんと親に請求なさった方がいいですよ。悪いことは|癖《くせ》になりますからね」
山路「ええ……そうしましょう」
石川「では」
石川、一礼して歩いて行く。気がかりな表情で見送っている山路。
○山路のマンション(夜)
玄関。山路、入って来る。浩美が出て来る。
浩美「何のお話だったの?」
山路「いや………。今日のいやがらせのことさ。大した話じゃなかったよ」
浩美「そうなの。じゃご飯を食べて、出かけましょうか」
山路「どこへ?」
浩美「(笑って)いやだわ! さっき、今夜はホテルへ泊ると言ったばかりじゃないの」
山路「ああ……。そうだったね」
浩美「さ、早く食べてしまってね」
浩美、さっきより大分元気そうになって、食堂の方へ歩いて行く。
○路上(夜)
|郊《こう》|外《がい》の、かなり|寂《さび》しい道。山路の車が走っている。かなりのスピードで|駆《か》け|抜《ぬ》ける。
○車の中(夜)
ハンドルを握っているのは浩美である。助手席の山路、落ち着かない様子で、
山路「あんまり飛ばすなよ」
浩美「大丈夫よ。信用して」
と楽しげにハンドルを|操《あやつ》る。
浩美「死ぬのも|一《いっ》|緒《しょ》だからいいでしょう?」
山路「(|苦笑《くしょう》して)まだ死にたくはないね」
山路、バックミラーへふと目をやって……。バックミラーのアップ。オートバイのライトが映る。山路、振り返る。
十台近いオートバイが後についている。
山路「大変だ! あの連中だ!」
浩美「|誰《だれ》?」
山路「僕の車にいやがらせをした|奴《やつ》らだ。|畜生《ちくしょう》! 大丈夫かい、ハンドルは?」
浩美「走ってるんですもの、|交《こう》|替《たい》するわけには行かないでしょ」
山路「そ、そうだな……。(|唇《くちびる》をなめて)しっかり頼むぞ」
オートバイの内、何台かがスピードを上げ、山路の車を追い|越《こ》すと、車の前にピタリとつく。山路、気が気でない様子。
山路「|畜生《ちくしょう》。もう少し車の通る道へ出るんだ、何とかして。そうすれば……」
浩美「この道でいいのよ」
山路、まじまじと浩美の顔を見て、
山路「……何だって?」
浩美「あなた、気が付かないの? 車のキーに」
山路、車のキーを見る。浩美のキーだ。
山路「(|驚《おどろ》いて)そのキーは……」
浩美「あなたは川へ捨てたつもりだったらしいわね。でも残念ながら川を飛び越しちゃったのよ。たまたま通りかかった子供が拾ってね、届けてくれたの」
山路、|呆《ぼう》|然《ぜん》として……。
浩美「どうしてあんなことをさせたの? 私をあんな連中に襲わせるなんて」
山路「知らないよ!………僕は知らない」
浩美「今日ね、あの人たち、マンションへやって来たのよ」
山路「あの……オートバイの|奴《やつ》らか?」
浩美「ええ。私があのリーダーを殺したんですものね。殺されるかと思った。でもね、向うも話の分らない連中じゃなかったわ」
山路「何があったんだ?」
浩美「|交渉《こうしょう》したのよ」
山路「交渉?」
浩美「私も|被《ひ》|害《がい》者なんだってことをよく説明したの。分ってくれたわ。そして、あなたを殺してくれと頼んだの」
山路、目を見開く。
山路「おい……そんな|冗談《じょうだん》を……」
浩美「何が冗談なの? あのリーダーの男に|犯《おか》された時は、冗談なんかじゃなかったわ!」
山路「待ってくれ。今は……今はともかく、逃げよう。そうしなきゃ、二人とも死んじまうぞ!」
浩美「いいえ。死ぬのはあなた一人よ」
浩美、ぐいとハンドルを切る。
○野原(夜)
道を外れて、山路の車が広い野原の中へ走って来て|停《とま》る。オートバイも後から続いて来ると、ぐるりと車を取り囲んで停る。
○車の中(夜)
山路、|慌《あわ》てて周囲を見回し、
山路「おい、どうするつもりなんだ?」
浩美「(じっと前方を|見《み》|据《す》えたまま)なぜあんなことをしたの?」
山路「な、何の話だか……」
浩美「とぼけないで! 言わないのなら、私は車を降りるわ」
山路「どうするんだ?」
浩美「後はあの連中に|任《まか》せるわ」
山路「そんな……」
浩美「じゃ、降りるわよ」
浩美、キーを抜き取ると、車を降りる。山路、ポケットを|探《さぐ》って、
山路「畜生、みんなはね飛ばしてやる!」
――が、ポケットにキーがない。山路、必死になって探し続ける。
○野原(夜)
車から降りて来た浩美、手の中でキーをジャラジャラと鳴らす。その手のアップ。二つのキー。
野原の真中に山路の車。それに向ってライトを向けながら円を|描《えが》いて停っているオートバイ。
その一台が車へ向って走り出す。
○車の中(夜)
ポケットを|夢中《むちゅう》で探っていた山路、オートバイが一台近付いて来るのに気付いて、ハッとする。
オートバイの男、窓のわきを駆け抜けながら、ハンマーでガラスを打つ。真白にひび割れる窓。山路、思わず首を引っ込める。
続けてもう一台が走って来ると、駆け抜けざま、反対側の窓を|壊《こわ》して行く。
山路「や……やめてくれ……」
山路、|怯《おび》えて頭をかかえる。
次々にオートバイが走って来て、フロントウインド、リアウインド、真白になって行く。
山路「やめてくれ!」
山路、こらえ切れなくなって、車から飛び出す。
○野原(夜)
車から出て来た山路、草の上へ、ヘナヘナと座り込む。浩美、数メートルの所まで歩み寄って来る。
浩美「あなたがやらせたのね、そうなんでしょう? 彼らに頼んで」
山路「そうだ……許してくれ」
浩美「どうして……ひどいわ」
山路「実験してみたかったんだ……」
浩美「実験……」
山路「暴行された後、君がセックスに|嫌《けん》|悪《お》を|抱《いだ》くかどうか、|試《ため》してみたかった」
浩美「(|愕《がく》|然《ぜん》として)何ですって?」
山路「ちょっとした思いつきだったんだ……」
浩美「そんな……。(顔をこわばらせて)分ったわ。ともかく、認めるのね、私を襲わせたことを」
山路、黙って|肯《うなず》く。浩美、一つ息をつくと、
浩美「このオートバイの人は、警察の人たちよ。私が昼間、あの石川さんっていう人に話をしたの。あなたが白状するように|仕《し》|向《む》けるのに、これが一番いい方法だろうっていうことになって。あなたの話は車の後ろの座席に置いたテープに入ってるのよ」
山路、愕然として周囲のオートバイを見回す。
山路「君には負けたよ……。僕は全く|馬《ば》|鹿《か》もいいところだ。本当に死ぬかと――」
突然、オートバイの一台が、山路へ向って|突《とっ》|進《しん》して来る。山路、はね飛ばされて|転《てん》|倒《とう》する。|驚《おどろ》いて目を見張る浩美。
浩美「(金切り声で)やめて! 何するの!」
山路、うめきながら起き上ろうとする。そこへもう一台オートバイが突っ込んで行く。|恐怖《きょうふ》にゆがむ山路の顔。浩美、悲鳴を上げる。オートバイの車輪が山路の頭へ……。
浩美「やめて! やめて! 誰なの、あなたたち! やめて!」
パトカーのサイレンが近付いて来る。オートバイの男たち、ハッとして、|素《す》|早《ばや》く走り去る。
浩美、草の上へ、ペタンと座り込む。ぐったりして動かない山路。
パトカーが停って、石川が駆けつけて来る。
石川「|遅《おそ》かったか! (息を|弾《はず》ませながら)あなたの車を見失ってしまったんです。|途中《とちゅう》で奴らの仲間に|妨《ぼう》|害《がい》されて。(振り向いて)おーい! 救急車だ!」
駆けつけて来た他の刑事Bへ、
石川「すぐに後を追わせろ。非常線を張るんだ!」
刑事B「分りました!」
と急いでパトカーの方へ戻って行く。さっきの男たちと同じようなスタイルの警官たち七、八人がオートバイでやって来る。が、刑事に言われて、すぐに|追《つい》|跡《せき》して行く。
石川、倒れている山路の胸に耳を押し当てるが……。
石川「(ため息をついて)お気の毒でした」
浩美、聞いているのかどうか。ふらふらと立ち上り、まるで|夢《む》|遊《ゆう》|病《びょう》|患《かん》|者《じゃ》のように、草原を歩いて行く。
その|後姿《うしろすがた》のロングショットから、回転するパトカーの赤ランプへとピントが移って……。
○エンドマーク
4
公路はあまり面白くない気分で夕食を取っていた。|瞳《ひと》|美《み》は何かを|隠《かく》している。あの雨の夜に何があったのか……。
ともかくあれ以来、瞳美の様子がおかしいのは事実である。あまり食欲もないようだし、時々ぼんやりと考え込んでいるし、それに何より、急にセックスに興味を失ってしまったのが、|妙《みょう》であった。あれほど毎日――朝な夕なにせがんでいたのが、今や公路が抱き|締《し》めようとすると身をよじって|逃《のが》れ、
「その気になれないのよ」
という始末だ。おかげで公路も体力の方は大分回復したし、|腰《こし》の痛みもなくなったけれど、今度は|苛《いら》|々《いら》がつのるというわけだった。
「食べないのかい?」
と公路は|訊《き》いた。瞳美が、ほんの申し訳程度にしか食べていなかったからだ。
「あんまり食べたくないのよ」
と瞳美が答える。
「一体どうしたんだ? 何だかおかしいぜ、この所。具合でも悪いのか、それとも|悩《なや》みごとでもあるのかい?」
瞳美はちょっと目をパチクリさせた。さも意外そうだ。
「そうかしら、私……」
「そうだよ。何かあるんだろう。話してごらんよ」
「やっぱり分っちゃうのねえ」
と軽く|微《ほほ》|笑《え》むと、「赤ちゃんができたの」
と言った。――公路は、あまりに簡単に答えが出て来たので、しばし言葉がなかった。
「それじゃ……|妊《にん》|娠《しん》したのか?」
「赤ちゃんができたのよ」
「同じことだよ、普通は」
「そうね。つまり、そういうことなの」
「それじゃ、食欲がないっていうのは……」
「ちょっとつわり[#「つわり」に傍点]があって、時々|吐《は》き気がするもんだから、食べられないのよ。でも食べられる時は食べてるわ。|物《もの》|凄《すご》い勢いで」
「それじゃ、どこだかへ出かけてたのは――」
「病院でね、検査の結果を聞いて来たのよ」
公路はちょっと間を置いて、
「じゃ、あの駅まで|迎《むか》えに来てくれた時も……」
「あの時、初めて吐き気がしたの。ひどかったわ。びっくりもしたし。公園の|茂《しげ》みの所で吐いたのよ。それで……雨には|濡《ぬ》れるし、あなたの|傘《かさ》を|汚《よご》しちゃうし……」
「どうして、そうならそうと言わなかったんだ!」
「はっきりしてからと思って。でも、はっきりしたら今度はあなたがどう思うかと心配で」
「どう思うって?」
「子供なんかいらない、とか……」
「どうして僕がそんなことを言うんだ?」
「あなた、いつも子供はうるさいとか、|厄《やっ》|介《かい》者だとか言ってたじゃないの。だから、|堕《おろ》せなんて言われたらどうしようかと思って」
「馬鹿を言うなよ! それはよその子供のことだ。自分の子供なら……別だよ」
「よかったわ!」
瞳美はホッとした様子で、「どう切り出そうかって、ずいぶん悩んだのよ」
「そんな心配、いらなかったのに。――、いつ、生まれるんだ?」
「予定は十二月の二日よ。でも最初は遅れるから、|中《なか》|頃《ごろ》になるだろうって」
「十二月か。――男か女か?」
「そんなこと分るわけないでしょ」
「あ、そうか」
そう言って、公路は笑い出した。何のことはない。つまらない取り越し苦労をしたものだ。瞳美はキョトンとして、
「何がそんなにおかしいの?」
「いやね、ちょっと心配してたのさ」
「何を?」
公路は自分の書いたストーリーが現実になったのではないかと心配したことを話してやった。瞳美は面白がって、
「ね、その原稿見せてよ」
「でも……大したことないよ。読ませるほどのもんじゃ――」
「いいのよ。ねえ、見せて!」
久しぶりに瞳美が甘えるような声を出した。以前なら、それを聞くとうんざりしたのに、今は何となく|嬉《うれ》しくさえある。
「それじゃ……」
と取り出して来る。
「あら、短いのねえ」
「もっと長くするつもりだったんだけどね。それに本物の時は小説になるから。それはいわば下書きで」
瞳美は食事の片付けも早々に、原稿を読み始めた。公路はTVをつけていたが、どうにも落ち着かない。大体、目の前で生の原稿を読まれるというのは|苦《にが》|手《て》だった。相手がどう思っているかが気になって仕方がないのである。
瞳美は読み終ったらしい。――が、何も言わずにしばらくめくり直したりしている。公路は不安になった。
「どう? 面白くないかい?」
「そうじゃないけど……」
「何だい? 正直に言ってくれよ」
「ご主人が死んじゃって終りじゃ|可《か》|哀《わい》そうだわ」
「そ、そうかな」
「そうよ。人間、罪を|償《つぐな》う機会を与えるべきだわ。|死《し》|刑《けい》反対なのよ、私」
「別に死刑になるわけじゃないぜ」
「著者による死刑でしょ。やっぱり救ってくれなきゃ」
「そうかなあ」
「その方が、読者だって救われた気になるわ、きっと」
「それじゃ書き直すよ」
公路はペンを持って来た。「ええと、ここからでいいな……」
○野原(夜)(|訂《てい》|正《せい》分)
石川、倒れている山路の胸に耳を押し当てる。
石川「まだ息があるぞ」
浩美、山路の|傍《そば》に|膝《ひざ》をつく。
浩美「助かるでしょうか?」
石川「何とも言えませんが、最善を|尽《つ》くしますよ」
浩美「何とか助けて上げて下さい!」
石川、じっと浩美を見て、
石川「あなたをあんな目にあわせたんですよ。それでも愛してるんですか?」
浩美「(立ち上って)私はこの人の妻ですから」
石川、|微《かす》かに|笑《え》|顔《がお》を見せて|肯《うなず》く。
*
救急車が停っていて、白衣の男たちが、山路を担架に乗せ、救急車へ運び込む。|扉《とびら》を閉じようとすると、浩美が駆け寄って来る。
浩美「一緒に行かせて下さい! 夫なんです」
白衣の男「分りました。どうぞ」
浩美、白衣の男に手を取られて、救急車に乗り込む。扉が閉まり、救急車がサイレンを鳴らして走り出す。
救急車が遠くへと消えて行くロングショットにかぶせて――エンドマーク。
「これでいいかな」
と公路は言った。
「そうね」
と瞳美は満足そうに|肯《うなず》く。「でもこの二人、もう元には戻れないでしょうね」
「そうだなあ。|旦《だん》|那《な》の方はどうしたって罪に問われるしね」
「奥さんは許すかしら? それとも、ご主人の命が助かると分ったら|離《り》|婚《こん》するのかしら?」
「まあ、その辺は読者の想像力に任せて……」
「いやよ! 私、気になるわ」
「じゃ、どうすればいいんだい?」
「その場面を付け加えてよ」
「しかし……。ま、いいや。で、どっちにする?」
「そうねえ」
瞳美は考え込んで、「夫を許すって、いうのは立派すぎるわね。やっぱり別れるべきじゃない? 命を取り止めると分ったら、自分の新しい生活を求める方が自然だわ」
「分ったよ。それじゃ……」
○病室(昼)
ベッドに横になっている山路。頭に包帯を巻き、|左《さ》|腕《わん》はギブスをはめて、痛々しい。顔はやややつれているが、何かを決意したような|厳《きび》しい表情をしている。
ドアがノックされる。
山路「どうぞ」
浩美、入って来る。手に果物の入ったかごを下げている。
山路「(|微《ほほ》|笑《え》んで)やあ」
浩美「どう、具合は?」
とベッドの|傍《かたわら》の|椅《い》|子《す》に腰をおろす。
山路「まだオリンピックには出られないけどね」
浩美「(笑って)そんな冗談を言う元気があれば大丈夫ね。(とかごからリンゴを出して)食べる? むいてあげようと思って買って来たの」
山路「ありがとう。……さっき弁護士が来たよ。あの暴走族の連中、|捕《つか》まったそうじゃないか」
浩美「(テーブルの引出しからナイフを出し、リンゴの皮をむきながら)あら、そうなの? よかったわね」
山路「全く……。僕は気が|狂《くる》ってたんだ、きっと」
浩美「さあ(とリンゴを差し出して)食べて」
山路「すまないね(リンゴを|頬《ほお》ばる)。……うん、|旨《うま》いな」
浩美「高かったのよ」
と微笑む。山路、しばらく浩美を|眺《なが》めていたが、使える右手で、|枕《まくら》もとの|封《ふう》|筒《とう》を取ると、
山路「これ、弁護士に頼んで作ってもらった」
と浩美の方へ渡す。浩美、受け取って、
浩美「何なの?」
山路「離婚届だ。後は君が署名すればいいようになっている」
浩美、封筒へ目を落とす。
山路「僕はもう大丈夫だ、君はもう|充分《じゅうぶん》以上のことをやってくれたよ」
浩美「……今すぐでなくても……」
山路「いや、今が一番いい。(ときっぱりした口調で)そうしないと、僕が日一日と|辛《つら》くなるんだ。お願いだ。署名して行ってくれないか」
浩美と山路、じっと見つめ合う。
浩美「(ゆっくり|肯《うなず》く)分ったわ。あなたがそう言うのなら……」
浩美、中から離婚届の用紙を出して、ハンドバッグから取り出した万年筆で署名し、印を押す。
山路「ありがとう。それは弁護士へ預けて、ちゃんと手続きさせるよ」
山路、届を再びしまい込んだ封筒を、浩美の手から受け取る。
山路「色々と面倒なことは、退院してから、できるだけ早く片付けるからね」
浩美「分ったわ」
浩美、立ち上る。
浩美「じゃあ、あなた……」
山路「元気で」
浩美、病室を出ようとして、振り返る。
浩美「そのリンゴ、早く食べてね。|腐《くさ》るから……」
山路「そうするよ」
浩美、病室を出て行く。閉まったドアをじっと見ている山路。
○病院の表(昼)
浩美、病院の玄関から出て来て立ち止る。ふと左手の結婚リングに気付き、それを抜き取って、力|一《いっ》|杯《ぱい》握りしめる。
リングを握りしめたまま、固く|唇《くちびる》を結んで、浩美、歩き出す。その姿、すぐに画面から切れて、晴れ上った空を映し出す。それにかぶせて――エンドマーク。
「ずいぶんご主人の方がカッコよくなってるのね」
と瞳美は言った。
「仕方ないよ。そうしないと、彼女の方がずいぶん冷たく見えるからね」
「それもそうね」
と瞳美は言った。「でも、|一《いっ》|旦《たん》こんな目にあうと、男性不信に|陥《おちい》るでしょうね」
「そうだな。しかし、それを吹き飛ばすようないい男性が現れるさ」
「それも加えてよ」
「ええ? でも、これ以上は――」
「いいじゃないの。幸福になるって分ってなければ安心できないもの。ねえ、お願い」
――どうにでもなれだ!
○|某《ぼう》|社《しゃ》の近くの喫茶店(昼)
昼休み。ワイシャツにネクタイのサラリーマン、事務服姿のOLで|賑《にぎ》わっている。
事務服を着て、小ざっぱりしたOLという感じの浩美、一人でコーヒーを飲んでいる。テーブルに広げてある週刊誌の記事のアップ。〈妻を|強《ごう》|姦《かん》させた男!!〉のタイトル。山路の写真。
そこへ、「何を読んでるんだい?」と声がかかる。
浩美「あ、|野《の》|中《なか》さん」
野中は三十代半ばのサラリーマンである。
野中「座ってもいい?」
浩美「ええ、どうぞ」
野中、浩美の向い合せの席に座ると、浩美の見ていた週刊誌へ目を向け、
野中「ひどいことをする|奴《やつ》があるんだなあ」
浩美「ええ……(と週刊誌を閉じる)。お|忙《いそが》しそうですね、いつも」
野中「なあに、サラリーマンなんて|虚《むな》しいものさ。(タバコを取り出し)|喫《す》ってもいいかい?」
浩美「どうぞ」
野中「(タバコに火を|点《つ》け)……しかし、ああいう作家なんてのは、ちょっと変ったのが多いんだね。僕には、人間としてだめな奴はいくら作家として|偉《えら》くたって、尊敬する気になれないな」
浩美「健全ですね」
野中「おや、|皮《ひ》|肉《にく》かい。やられたな」
浩美「いいえ、そうじゃありません。でも、人によって愛し方って、みんな違ってるんです。それは天性みたいなもので、変えられないんだと思いますわ。ただ奥さん一人を守って暮らすだけではいられない人もいるんです」
野中「(ちょっと驚いたように)何だか、|悟《さと》り切ったようなことを言うね」
浩美「(笑って)ごめんなさい、偉そうなこと言って」
野中「いや、いいさ。じゃ、こんな奥さんを他の男に暴行させるようなのも、一つの愛し方だと思うのかい?」
浩美「(ふっと遠くを見るような目で)分りませんけど……愛してもいたんですわ」
野中「(|納《なっ》|得《とく》しかねるように)そうかねえ……」
浩美「私の夫だったんですもの」
野中、ポカンとした顔で浩美を見る。
浩美「私が、その乱暴された妻なんです」
ウエイトレス、野中へ水を持って来る。
ウエイトレス「ご注文は?」
野中、まるで耳に入らない。
浩美「(ウエイトレスへ)コーヒーにして下さい」
ウエイトレス「(妙な顔で)はい」
と行ってしまう。野中、やっと我に返って、
野中「それは……本当なの?」
浩美「今は離婚してますけど、前は山路といったんです」
野中「それは……悪いこと、言ったね」
浩美「いいですわ、別に。もう終ったことですし。――じゃ、お先に」
と席を立って店を出て行く。
○喫茶店の表(昼)
浩美、出て来て歩き出すと、すぐに野中が追っかけて出て来る。
野中「ちょっと!」
浩美「(びっくりして)まあ、どうしたんですか?」
野中「いや……どう……ってことはないんだけど」
浩美「コーヒー、頼んであるんですよ」
野中「いや、飲みたくないんだ……」
浩美「そうですか」
野中「あの……つまりね……(周囲を見回し)、コーヒーでも飲まないか?」
浩美、|吹《ふ》き出す。野中も後から気付いて笑い出してしまう。
浩美「ありがとうございます。でも、もう|戻《もど》らないと一時ですよ」
野中「あ、そうか。それじゃ明日の昼に」
浩美「明日、土曜で半日です」
野中「じゃ|明後日《あさって》」
浩美「日曜ですよ」
野中「じゃその次だ」
浩美「(つい笑い出して)……ええ、分りました」
野中「|約《やく》|束《そく》したよ!」
野中、張り切って、先に行ってしまう。浩美、その後姿を|眺《なが》めてふっと|微《ほほ》|笑《え》む。――何かを思いつめているような、|微笑《びしょう》。そのストップ・モーションにダブって――エンドマーク
「これでいいだろ」
と公路は言った。
「何だか|曖《あい》|昧《まい》ね」
「あんまりはっきり言わない方がいいんだ、ラストは」
「そう? 二人が一緒に寝てる所を入れたら?」
「やり過ぎだよ!」
「そう?」
「そうだよ」
瞳美はちょっと不満そうだったが、
「そうだわ、私たちが代りに――」
と顔を|輝《かがや》かせた。
「え?」
「この二人になったつもりで。――いいでしょ?」
瞳美は、|呆《あっ》|気《け》に取られている公路の前で服を|脱《ぬ》ぎ始めた。
「お、おい、大丈夫なのかい、そんな具合の悪い時に――」
「今は悪くないもの」
と瞳美は|全《ぜん》|裸《ら》になって立つと、「そっと、|優《やさ》しくやってね……」
と抱きついて来た。
何だ、これじゃ元通りじゃないか。瞳美を抱き寄せながら、公路は思った。
5
(|景《かげ》|山《やま》|俊《とし》|哉《や》の|原《げん》|稿《こう》――つづき)
――どうも、前回は面白いお話をありがとうございました。
「いや、なに。君、商売だよ、商売。――この前の時の謝礼は? 振り込んでくれたかな?」
――はい、先週末には入っているはずですが。
「そうか。しかし銀行から通知がなかったぞ。けしからん!」
――それは銀行に言って下さい。
「全く、今の銀行と来た日には、金を預けてティッシュペーパー一つ。引き出した時にはそれもよこさん! 入れるも出すも利用しとるのに変りはないのだ! それをティッシュペーパー一つもケチって。ボロ|儲《もう》けしとるくせに!」
――あの、先月の続きを。
「ふむ。どこまで話したかな?」
――飛行機事故で死んだと見せかけて、|奥《おく》|様《さま》を殺すのに成功して、しかし……というところです。
「そうそう。野田|恒《つね》|子《こ》という女房の友人が実際には飛行機に乗っとったわけだ。女房の名前でな」
――はあ、それで?
「しばらくは何事もなかった。わしと夏子は一年も待てばよかろうというわけで、期待に胸を|躍《おど》らせていた」
――気がお若いですね。
「馬鹿を言うな。これでも女を相手にして、君の|如《ごと》き青二才には引けを取らんぞ。何なら今度君の女房を貸してみろ。絶対にわしの方がいいと言わせてやる」
――話を変な方へ持って行かないで下さい。
「そっちが余計なことを言うからだ。――で、ある晴れた日のことだ」
――「|蝶々《ちょうちょう》夫人」みたいですね。
「|茶《ちゃ》|化《か》すな。わしの家の玄関でチャイムが鳴った。女中は出かけておったので、仕方なくわしは玄関へ出てみた。すると何と驚くじゃないか! そこに立っていたのは……」
――|誰《だれ》だったんです?
「誰だと思う?」
――そんな、もったいをつけないで下さい。レコード大賞か何かの発表みたいに。
「生意気を言いおって! 立っていたのは、野田恒子だったのだ」
――誰です? 野田恒子って……死んだんじゃなかったんですか?
「だからびっくりしたのさ。|幽《ゆう》|霊《れい》でもなく、足があった。そしていとも|丁《てい》|寧《ねい》に、女房の死んだお|悔《くや》みを言うんだ。仕方なく、わしは野田恒子を中へ通した」
――どうして助かったんです?
「うん。つまりこういうことだ。野田恒子は問題の機に乗り込む前に、トイレへ行きたくなった。何しろ初めての空の旅だから、|緊張《きんちょう》したんだろうな」
――なるほど。
「しかし、トイレへ行っていると飛行機に乗り遅れるかもしれん。困っていると、ちょうど次の飛行機に乗る予定の女性がいた。その前にロビーで|隣《となり》同士になっておしゃべりをしとったらしい。で、その女はできれば早い便に乗りたかった。よほど急な用があったらしい」
――それじゃまた入れ|替《かわ》りを。
「そうなんだ。二人は、これ幸いと便を|交《こう》|換《かん》した。おかげで野田恒子は命拾いをしたというわけだ」
――その入れ替った女性は?
「それは分らん。やはり身内の少ない女性だったのかもしれんな。ついにこの入れ替りは分らず|終《じま》いになったのさ」
――でもどうして野田恒子って人は、すぐに申し出なかったんですか?
「さあ、そこだ。この野田恒子ってのが、とんだ食わせ者でな」
――というと?
「わしが女房を殺したことも、ちゃんと察していた。しかも、いとも|優《やさ》しい笑顔で、それを当てこするんだ。わしは頭へ来て、|訊《き》いてやった。『何が欲しい! 金か?』とな」
――で、何と答えたんです。
「金などいらん、と言いよった。この|秘《ひ》|密《みつ》は守る。その代りに――」
――何です?
「わしの女房にしろと言うんだ」
――そいつは|凄《すご》い!
「そうだろう。わしはとんでもない、と|怒《ど》|鳴《な》りつけた。しかし相手は一向に平気だ。それなら警察へ行くだけです、と抜かしおった。行けば、どうして今まで黙っていたのかと|訊《き》かれるぞと|脅《おどか》してやったのだが、それも一向に|応《こた》えん。ともかく言う通りにしないと……という一点ばりだ」
――で、結局どうなさったんです? 殺したんですか?
「正直に言って、それも考えた。何しろ相手はいい|加《か》|減《げん》|年《と》|齢《し》を食った女一人だ。首をしめて殺すぐらいわけはない。しかし、向うはそこまで読んでいた。こっちが何も言わん内に、『私を殺せば、真相を書いた手紙が、ある弁護士の所にあって、それを|開《かい》|封《ふう》することになってますよ』というのだ」
――はったりじゃないんですか。
「わしもそう思ったが、相手もちゃんとそう言われるのを承知しとってな、弁護士の預り証まで取り出して見せたもんだ」
――用意|周到《しゅうとう》ですね。
「全くな。わしだって手も足も出ない。何とか金で話をつけようとしたのだが、一向に応じないのだ。――ともかくわしの妻になれれば、それでいい、という。わしが若い女を持っているのも、ちゃんと知っていて、その女とは好きにして構わんというのだ。ともかく少し考えさせてくれ、とわしは言った。野田恒子は|快《こころよ》く承知して帰って行った」
――で、どういう手を打たれたんですか?
「すぐに夏子と相談したよ。何とかいい方法はないものか、と思ってな」
――何かいい手が?
「ない。結局、野田恒子の言う通りにする|他《ほか》あるまい、ということになった」
――それじゃ……。
「そうさ。今の家内は恒子。同じ|邸《やしき》にいる|内《ない》|縁《えん》の妻が夏子だ」
――何だ、そうなんですか。
「まあ、恒子が早く死んでくれると助かるんだがな。しかし、仕方ない。まあまあ、何とかやっとるよ」
――すると、奥様は殺したものの、同じ|年《と》|齢《し》の後妻をもらうはめになったわけですね。
「そう。強いのは女さ。男はきりきり|舞《ま》いさせられるばかりだ」
――どうして野田恒子は、そんなに結婚したかったんです?
「女ってやつはある程度の|年《と》|齢《し》になると、安心していられる家が欲しくなるものらしいな。あれもそうだったんだろう。たまたま絶好のチャンスが|訪《おとず》れたから利用した。――その点はわしも同じだな」
――あんまり|威《い》|張《ば》れたもんじゃありませんね。
「全くだ。――こら、何を言うか!」
――失礼しました。どうもお話をありがとうございました。
「謝礼の方は間違いなく振り込んでくれよ」
――はい、確かに。ただ今度は前回の半分くらいしか分量がありませんので、謝礼も半分ということに……。
「おい! それはひどいぞ! そういうことならもっとしゃべる。大体、こういうインタビューの謝礼は安すぎる。しかも税金を引かれて――」
――それじゃこれで。
「待て! まだ話は終っとらんぞ! わしの生い立ちから話してやる。わしは……」
――インタビュー、終り。
6
「短くてすまん」
景山は頭をかいた。「何しろごたごたしていたもんだからな」
「僕よりましだ」
と言ったのは、香川だった。「僕は一枚も書いてない」
「どこかへ行ってたのかい?」
と西本が|訊《き》いた。
「ちょっと温泉へね」
「|羨《うらやま》しいな。――僕の所は子供が生まれるし、当分出られそうもない」
と困ったようなことを|嬉《うれ》しそうに言っているのは、むろん公路である。
四人は、仕事場のマンションの一階の喫茶店へ集まっていた。
しばらく、四人は原稿をテーブルに重ねて、黙っていた。やがて、西本は大きく息をついて、
「どうも、このテーマは無理だったようだな」
「そうだな」
景山は|肯《うなず》いて、「〈女房を殺す話〉のはずなのに、実際にちゃんと殺したのは|俺《おれ》だけだぜ」
「本当ですね」
公路がクスッと笑って、「西本さんは、どっちが殺されるか分らないし、僕のは|亭《てい》|主《しゅ》の方が殺されかかる。でも、景山さんのにしたところで、結局は女性の方が強いって話じゃありませんか」
「まあ、そう言われてみりゃ、そうだな」
と景山は自分の今の原稿を手に取ってパラパラめくり、「女房を殺すなんて無理だな。俺はいくら創作でも、今は書きたくない気分なんだ」
「分るよ。――しかし、本当によかったな、奥さんたちは」
と西本が言う。景山が|微《ほほ》|笑《え》んで、
「ありがとう。全く神とやらを信じたくなったよ。あいつの声を聞いた時にはね。いつもはやかましいとしか思わないんだが」
公路は、チラリと香川の方へ目を向けた。何か言うのじゃないか、と思ったのだ。何しろ|皮《ひ》|肉《にく》|屋《や》なのだから。――しかし、香川は何も言わなかった。
「今日は香川さん、ずいぶんおとなしいね」
と公路は言った。どうもいつもと様子が違うという気がしたのだ。
「そうかい?」
香川はおっとりと笑って、「――ともかく、ここにいる四人は、みんな女房思いのあまり、女房を殺すなんて話は書けないってわけだ」
「三人じゃないか、君を除いて」
と西本が訂正する。香川はコーヒーを一口飲んでから、
「ちょっと言うのを忘れてたらしいんだが、僕は結婚してるんだ。娘もいる。まだ赤ん坊だがね」
他の三人はしばし|呆《あっ》|気《け》に取られていた。
「そりゃ知らなかった! おめでとう」
と真先に言ったのは西本だった。「するともしや、あの〈妹〉というのが……」
「その通り。女房でね、涼子という。娘は〈詩〉と書いて、|詩《うた》|子《こ》と読む……」
「香川さんらしい名前だな」
「どうして黙ってたんだい?」
と景山が|訊《き》いた。
「何となく、だな。言い出すタイミングがつかめなくて」
「分るよ」
と西本が|肯《うなず》く。「きっかけがないと、何事も言いにくいものだ」
「それでね、遅ればせながら、子連れの結婚式を挙げようと思ってるんだ」
香川はちょっと赤くなった。「よかったら出席してくれ」
「当り前じゃないか、行くとも!」
「楽しみだな」
「うんと冷やかさなきゃ!」
四人は笑った。――何となく、今までになかった、親密さが生まれているようでもあった。
「あの……景山さんておっしゃる方は?」
と声をかけて来たのは、新しいウエイトレスだった。
「俺だよ」
「あ、これを」
と白い|封《ふう》|筒《とう》を差し出す。
「何だ? ボーナスでも入ってそうだな」
「|今《け》|朝《さ》、女の方がみえて、景山さんにお渡ししてくれと……」
「分った。ありがとう」
と言いながら景山は封を切った。
「ウエイトレス、変ったんだな」
と西本が言った。
「そうですね。前の|娘《こ》、なかなか面白い女の子だったけど……」
と公路も肯く。景山は取り出した手紙を広げた。冬子の字だ。
「お別れします。あなたは奥様と、お嬢さんを大切にしてあげて下さい。私は大丈夫。一度でいいから、愛し合う二人のためにそっと身を引くっていう役がやりたかったのです。私がいつか話したような、〈数年ののち――〉のラストシーンのように出会うこともあるかもしれませんね。私を探そうなんて思わないで。アパートは引き払い、転居先も教えていません。会社も昨日で退職しました。あなたは、とてもいい人。いい人って恋人には不向きですね。じゃ、お幸せに。さようなら。――冬子」
景山はそっと手紙を|畳《たた》むと、封筒へ戻した。胸が痛んだ。――しかし、ほっとしたのも事実だ。そんなことはない、と言い切ったものの、やはり冬子の方が正しかった。ほっとしている。そんな自分が腹立たしかった。しかし……どうすることもできない。
これが、一番良かったのだ。
「じゃ、新しい長編の構想を練らなくちゃならないな」
と西本が言った。「何がいいか、意見を出してくれよ」
香川は、心が軽くなって、その分だけ、体まで軽くなったように感じていた。軽くなったというよりは、外からの|圧《あっ》|迫《ぱく》感が消えた、とでもいうのか。
何かが変ったのだ。いや、何もかもが、変ったのかもしれない。あの温泉での出来事から……。
涼子は、詩子がやっと寝入ったのを確かめると、そっと床を離れた。――旅館の|浴衣姿《 ゆかたすがた》で、タオルを持つと、そっと部屋を出る。長い廊下が左右にのびていて、ちょっと迷ったが、すぐに〈大浴場〉の矢印を見付けた。
急いで歩いて行くと、にぎやかな笑い声や、時には調子っ外れな歌までが、部屋から|洩《も》れ聞こえて来る。
階段を降りて、細い、曲りくねった通路を行くと、大浴場の入口へ着いた。そのわきにゲーム室がある。何気なくその方を見ると、夫とその女がいた。
涼子は急いで通路を少し戻って身を隠した。――香川と女は、何やら笑いながらゲーム室から出て来て、大浴場の入口で、〈男湯〉〈女湯〉に別れて姿を消した。
涼子は呼吸を整えて、〈女湯〉の方へと、入って行った。
|脱《だつ》|衣《い》所へ入ると、その女が|裸《はだか》になった所だった。涼子は|一瞬《いっしゅん》、そのしなやかにのびた|肢《し》|体《たい》を見つめた。確かに、美しく、|魅力《みりょく》的だった。顔立ちもちょっと小生意気な感じで、愛らしい。
この女が……彼の愛人なのか。そう思っても、すぐには|嫉《しっ》|妬《と》の火は燃え立たなかった。それ[#「それ」に傍点]を現実に目の前にしたということが、まだ信じられないようだった。
その女は、くもりガラスの|扉《とびら》を開けて、中へ入って行った。ガラス越しに、|裸《ら》|像《ぞう》が動いた。涼子も、手近なカゴを取ると、浴衣を|脱《ぬ》いだ。――他に一人、先客があるようだ。早く出てくれるといいのだが。
中へ入ると、湯気がうっすらと立ちこめて、その奥の湯舟に、さっきの女がのんびりとつかっているのが見えた。
もう一人は、中年の太った女で、|髪《かみ》を洗っている。涼子は、湯を浴びてから、湯舟へ身を|沈《しず》めた。それほど広くもないのだが、その女とは反対の|端《はし》に入ったので、相手の表情はよく見えなかった。
夫の愛人と同じ|風《ふ》|呂《ろ》に入っているのだ! 彼が知ったら、さぞびっくりするだろう。女が湯舟を出て、体を洗い始めた。軽く、鼻歌を歌って、手早く洗っている。
彼に抱かれるのだ。あの体が、彼の腕の中で|身《み》|悶《もだ》えするのだ。涼子の内に、激しいものがこみ上げて来る。
中年の女が、やっと出て行った。後には、涼子と、その女[#「その女」に傍点]だけが残った。
涼子も湯舟を出て、洗い場の鏡の前に腰をおろしたが、ただ、タオルを湯につけているだけで、洗いはしなかった。ずっと、半ば背を向けた格好の女の方を|窺《うかが》っていた。
女が、もう一度湯舟へ入ろうとした。涼子は素早く立ち上ると、向うを向いて湯に入りかけた女へと、飛びかかった。頭を両手で湯の中へ|押《お》し込む。同時に女の背にまたがるようにして|押《おさ》えつけた。女が暴れた。|凄《すご》い力だった。引っくり返りそうになるのを、両足を湯舟の底に|踏《ふ》んばってこらえた。もがく手が湯をはねて、涼子の顔にかかった。しかし、涼子は力をゆるめなかった。大きな|泡《あわ》が立ち|昇《のぼ》っては消える。もう少しだ。もう少し。死ねばいいんだ。死ね!
突然、|誰《だれ》かが背後から涼子に抱きつくと、バランスを失って涼子は湯の中へと倒れ込んだ。
――後は、何がどうなったのか、分らない。湯を飲んで、むせた。あの女がつかみかかって来て、髪を引きちぎれんばかりに引っ張られた。誰かに|頬《ほお》を|殴《なぐ》られたが、それもあの女だったのかどうか……。
三十分ほどして、涼子は、詩子の寝ているその|傍《そば》に座っていた。目の前に、夫がいる。そして、あの女も、その横に座っていた。
「奥さんがいるなんて……」
とその女が言い出した。「私、知らなかったのよ」
私はいつも存在しない。影だ。|透《とう》|明《めい》人間だ。そう思うと、急に何か張りつめていたものが音をたてて切れた。涼子は泣き|伏《ふ》した。――そのせいか、詩子が目を覚まして泣き出した。涼子は|涙《なみだ》を|拭《ぬぐ》って、詩子を抱き上げた。
「あんたは|卑怯《ひきょう》よ!」
女は、香川へ向って言った。「ちゃんと奥さんも子供もいて。|恥《は》ずかしくないの! 詩人だから、|浮《うわ》|気《き》ぐらいしてもいいと思ってんの? この奥さんみたいに、私を殺そうとするくらいの情熱も、あんたにはないじゃないの! あんたはヘボ詩人よ! 詩人ぶってるだけだわ!」
涼子は|唖《あ》|然《ぜん》としていた。女が、自分を弁護してくれているのだ。女は|憤《ふん》|然《ぜん》として立ち上ると、部屋を出て行った。夫も、その後を追うように、行ってしまった。
涼子は、やっと泣きやんだ詩子を、もう一度寝かせて、自分も|添《そ》い|寝《ね》した。そしていつしか眠ってしまった……。
目が覚めたのは、もう明け方近くだった。起き上ると、目の前に、香川が座っている。
「起きたのか」
「ええ……。つい眠ってしまったわ。あの人は?」
「帰った」
涼子は顔を伏せた。
「ごめんなさい。とんでもないことをしたわ、私」
香川は黙って立ち上ると、窓へ行ってカーテンを開けた。
「いい天気になりそうだな」
「そうね」
「ここまで来たんだ。少し見物して帰ろうか」
涼子は夫を見つめた。その照れくさそうな笑い。――涼子の胸が熱くなって来た。
「何かないかね」
と西本が言っていた。「新しい長編のテーマ。香川君、どうだい?」
「そうだな」
香川はちょっと考えて、「詩人になりそこねた詩人の話はどうだい?」
と言った。
「作家になりそこねた記者の話」
と景山が言った。
「金持になりそこねた作家の話」
と公路。西本は笑って、
「いささか身につまされすぎるようだな」
「こんなのはどうかな」
と公路が言った。「女房を殺す話を書き|損《そこな》った作家たちの話ってのは」
「いささか当り前すぎるきらいがあるね」
西本は|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔で言った。
「アルコールが入ると出て来るかもしれないぞ」
景山は言った。
「やれやれ。――それじゃ今日は宿題にしておくか。どうする? 飲みに行くか?」
「僕も少しなら」
と公路は|肯《うなず》いた。「あまり長くはお付合いできませんが」
「分ってるよ」
西本はニヤッとして、いつものように、「香川君は?」
と訊いた。香川はちょっと間を置いてから、
「お付合いさせてもらおうかな」
と答えた。他の三人は|面《めん》|食《く》らって顔を見合わせたが、
「そりゃいい。じゃ行こう!」
「僕と飲み比べしましょう」
と口々に言って、がやがやと店を出て行った。
「もしもし。ああ、信子か。|俺《おれ》だ」
西本は駅から電話をかけた。
「何時だと思ってんのよ」
とブツブツ言う声が聞こえる。「もう眠ってたんだから」
「そりゃすまん。ちょっとみんなでアイデアを討議してたもんだから――」
「アルコール入りででしょう」
「それで、ちょっと雨が降ってるんだ。|傘《かさ》を持って来てくれんか?」
「何ですって?」
信子のキンキン声が耳を|突《つ》き|刺《さ》した。「こっちはもう|寝《ね》|間《ま》|着《き》姿なのよ。|冗談《じょうだん》じゃない。|風《か》|邪《ぜ》ひいたらどうしてくれるのよ!」
「しかし――」
「タクシーに乗ってらっしゃい」
「この駅はあまりいないから、行列してるんだよ」
「じゃ走ってらっしゃい。少しは運動不足の解消になるわ」
電話は切れた。西本はため息をついて受話器を戻した。電話の前にも行列ができていて、西本の次は、若いサラリーマンだった。そばに立って、どうしたものかと空を|眺《なが》めていると、
「もしもし、僕だよ。――うん、今着いたんだけど。――そう? 悪いね。じゃ待ってるからね」
と、何とも|甘《あま》ったるい声で話すのが聞こえて来る。西本は、きっとまだ新婚なんだな、と思った。後十年もすりゃ、うるさそうに、
「走ってらっしゃいよ!」
と言われるのだ……。
西本は肩をすくめて、足早に歩き出した。幸い、少し小降りになっているようだ。
「全く、あいつは……」
と|愚《ぐ》|痴《ち》りながら、西本は、それでも何となくほっとした気分でいることに気付いていた。信子が急に優しくなったら、また気味が悪いだろう。
まあ、こんなもんでいいのかもしれん、と西本は思った。何も不満のない人生など、味気ないかも……。負け|惜《お》しみというのかな、こういうのを。
西本は足を早めながら、妙に笑い出したい気分だった。
「大丈夫かい?」
公路は、青い顔でソファに横になっている瞳美に声をかけた。
「ええ……。大分楽になったわ」
「早く帰って来てよかったな」
瞳美はちょっと笑って、
「大丈夫よ。じっとしていればよくなるんだもの」
「何か……すっぱい物でも食べるかい?」
「別にすっぱくても甘くても、食べられる時は食べられるから大丈夫」
「そうか」
「……ねえ」
「何だい?」
「|嬉《うれ》しい? 子供が生まれるって……」
公路はちょっと考え込んだ。
「どうも実感がないからな」
「そうね。私もそうだもの。――でも色々と|仕《し》|度《たく》しておかないと、すぐ十二月になっちゃうわ」
まあ、結構なことじゃないかな、と公路は思った。どうせいつかはできるものなら、今でも悪くない。子供がいれば、瞳美もそっちに気を取られて、そうそう彼を悩ませる[#「悩ませる」に傍点]こともあるまい。
「ね、あの小説、どうなったの?」
「うん? ああ、あれは結局|取《と》り|止《や》めだ」
「あら、つまらない」
「仕方ないよ」
「じゃあの原稿は?」
「取ってあるよ。君にプレゼントしよう」
「優しいのね」
瞳美は公路に軽くキスした。
今度は女房が|妊《にん》|娠《しん》した亭主たちの話でも書くかな、と公路は思った。喜ぶ奴、心配する|奴《やつ》、|放《ほ》ったらかされて浮気したくなる奴……。色々といるに違いない。
公路の頭の中で、早くもストーリーが展開し始めていた。
やはり、アパートは空室になっていた。
信用しないわけではなかったが、つい来てしまったのだ。景山は、ドアの前でしばらくたたずみ、やがてクルリと向きを変えて歩き始めた。
冬子の気持は、よく分った。自分が結局妻や娘と別れられないことも。それでいて、こうして未練がましくアパートを訪れているのだから……男とは、仕方のない動物である。
景山はタクシーを拾うと、家へ|真《まっ》|直《す》ぐ走らせようと思ったが、思い直して、途中、ショッピング街を通るように言った。遅くまで開いているコーヒーショップがあって、|旨《うま》いケーキがある。|敏《とし》|子《こ》に買って帰ってやろう、と思った。
香川は、いつもの|喫《きっ》|茶《さ》店から、家へ電話を入れた。
「ああ、もう三十分くらいで帰るから」
「ええ、分ったわ」
向うで涼子が|戸《と》|惑《まど》っているのが分る。香川が帰りに途中から電話したことなどないからだ。
「あの……夕ご飯は?」
「飲んだだけだから腹が減った。用意しといてくれ」
「分ったわ」
涼子が|嬉《うれ》しそうに言った。――妙なもんだ。女は、あんなことが嬉しいのだろうか。
香川は席に戻った。――店にはマスター一人で、若い細君の姿が見えない。他に客もないので、香川は、声をかけてみた。
「奥さん、どうしたの?」
「どうしたもこうしたも……」
マスターは、|苦《にが》|々《にが》しい顔つきで、「若い男と逃げちまいましたよ。それも店の金を持って! 全く、泣くに泣けねえ。女なんぞ当てになりませんな」
香川は、思わず笑い出しそうになるのを、マスターに気付かれまいと顔をそむけた。ここの夫婦の、
「ありがとうございました」
という声に、美しい調和と詩を感じたのは、ついこの間ではないか。女など当てにならない、か。詩人の|勘《かん》も、あまり当てにはならないな。
喫茶店を出ると、香川はのんびり家路を|辿《たど》った。
エピローグ
――数年ののち――
「公園を抜けて行こうか」
と景山は言った。「いい天気だし、少し歩くのも悪くあるまい」
「|日《ひ》|比《び》|谷《や》公園なんて、公園じゃないわ」
と敏子が言った。もう高校生になっていて、ヒョロリとノッポだった。母親をとっくの昔に追い|越《こ》している。
「日本じゃここも公園よ」
と和代が言った。「パリだってずいぶん人は出てたわ」
「でも、こんな風じゃなかったわ」
と、ショッピングセンターとあまり変らない混雑ぶりに顔をしかめて、「ああ、またヨーロッパに行きたい。ね、ママ?」
「そうね。そろそろ行ってもいいわね」
「おいおい」
と景山は顔をしかめて、「あんな思いはもうごめんだぞ」
「大丈夫よ。一度ああいう目にあったんだもの。二度とあわない」
「分るもんか」
「いいでしょ、パパ。お願い」
敏子に|腕《うで》を|握《にぎ》られると、景山も弱い。
「ま。考えとこう」
と、これが精|一《いっ》|杯《ぱい》の|抵《てい》|抗《こう》だ。これがOKの返事と同じだと知っている敏子は、
「わあ、よかった!」
と飛び上った。「今度は|北《ほく》|欧《おう》にも行ってみたいわ。私、ハムレットの城に行きたいの。そこに立って〈生きるか死ぬか〉ってやってみたいのよ」
景山は苦笑いした。
よく晴れて、暖かい|日《ひ》|和《より》である。ちょうど昼休みなのか、日比谷公園は、サラリーマンやOLで満員の|盛況《せいきょう》だった。
|西《にし》|公《こう》|路《じ》|俊《とし》|一《かず》の仕事も|軌《き》|道《どう》に乗って、もうサラリーマンへ逆戻りすることもなさそうだった。景山も最近は太り気味で、〈先生〉らしくなったわよ、と敏子に冷やかされる。
|平《へい》|穏《おん》な毎日だった。
景山は、向うから歩いて来る女性に、ふと目を止めた。どこかで見た顔のように思える。――そうだ。冬子だった。間違いなく、冬子だ。すっかり落ち着いた感じで、そういえばもう三十三にはなっているはずだ。
景山は、冬子が、小さな女の子の手を引いているのを見て、はっとした。三歳ぐらいで、冬子に手を引かれて、しっかりした足取りで歩いている。――どう見ても、それは母と子の図であった。
もし、あの時の子を生んでいれば、このぐらいだろう。
冬子の方も、景山に気付いた。|一瞬《いっしゅん》、足を止めたが、すぐにそのまま歩き続ける。
「ヨーロッパを列車で横断したいわね」
と敏子はしゃべり続けている。
冬子はすれ違って行った。その瞬間、冬子はわざと目をそらしていたように、景山には思えた。
「ねえ、パパ。今度の春休みに行っていい?」
と敏子が|訊《き》いた。
「うん?……ああ、いいよ」
「わあ、サンキュー!」
敏子がはね回って喜ぶ。
「何をやってるの、見っともない」
と和代が苦笑いした。
景山は振り返らなかった。冬子も振り向いてはいないに違いない、と景山は思った。
|悪《あく》|妻《さい》に|捧《ささ》げるレクイエム
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成14年4月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2002
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角川文庫『悪妻に捧げるレクイエム』昭和56年10月30日初版発行
平成9年7月10日67版発行