角川文庫
怪盗の有給休暇
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
プロローグ
1 疑 惑
2 滝
3 三人の女子大生
4 川岸の散歩
5 招待状
6 空 港
7 ときめき
8 不名誉
9 黒い葬列
10 ジェラシー
11 二つのくちづけ
12 〈怪盗〉もどき
13 孤 独
14 罠
15 慰 め
16 嘆きの階段
エピローグ
プロローグ
犬が|吠《ほ》えた。
一匹が吠えると、二匹、三匹と、たちまちこだまのように広がって、夜の空間を飛び交い始めた。
失敗だ、と彼[#「彼」に傍点]は思った。
吠えるはずがなかったのに。――なぜ、犬は吠えたのだろう?
犬の声が素早く移動し始めた。――誰かを追っている!
偶然、同じ夜に、この屋敷へ他の泥棒が忍び込んだのか?
彼は舌打ちした。あんなぶざまな仕事をする|奴《やつ》と一緒になるなんて!
正にその瞬間、金庫は開いた。
現金や株券など、目もくれず、ビロードを張ったケースに並んだ宝石だけを用意した布袋へザーッと落とし込む。中身は後で確かめるしかない。
激しく吠えたてる犬たちの声のトーンはますます甲高くなって来た。誰かを追い詰めて、たぶん相手は木の上にでも上っているのだろう。
人が起き出す気配があった。真先にこの金庫を見に来る。
彼はソファの後ろへ隠れた。数秒後、ドアが激しい勢いで開いて、
「やられた!」
という声。「逃がすな!」
足音がいくつも駆け出して行く。
どうやら、あの犬に追い詰められたドジな奴が、身替りをつとめてくれそうだ。
彼はソファの後ろから出ると、そっと部屋を出た。
廊下には|人《ひと》|気《け》がない。
一気に駆け抜けて行くと――突然、目の前でドアが開いて、
「何だろう?」
と、若い男が顔を出した。
危うく、廊下のカーテンのかげに身を寄せて、見付からずにすんだが――。
「何かあったんだ」
と、若い男は言った。「行ってみる! 君は部屋へ戻って」
部屋の中から、
「どうしたの?」
と、若い女の声が応じた。「犬が吠えてるわ」
「分らない。――ともかく君は自分の部屋に」
若い男は|一《いっ》|旦《たん》部屋の中へ引っ込んだ。
彼は、この間に廊下を駆け抜けてしまおうかと思ったが、ドアは細く開いたまま。いつまた人が出て来るかもしれない。
迷っている間に、すぐ十秒や二十秒がたってしまう。――ここは待つしかない、と心を決めた。
しかし、待つほどのこともなく、すぐにドアが大きく開いて、
「大丈夫。誰もいないよ」
と、廊下を見回した若者が部屋の中へ声をかける。
「本当に?」
と、|訊《き》き返す声がして……。
若い女が顔を|覗《のぞ》かせた。――彼は、そっとその女がどんな様子なのか盗み見ないではいられなかったのだが――。
「大丈夫だ。今の内に早く!」
「ええ。|江《え》|田《だ》さん、気を付けてね」
色白な、少し線の細い印象のその女は――女[#「女」に傍点]というより娘[#「娘」に傍点]と呼んだ方が似合いそうな、たぶん、まだ二十歳を過ぎたばかりと思える横顔。|可《か》|愛《わい》くないことはない。しかし、その目にはどこか哀しげな風情というか、「悲しみの似合う娘」という気配があった。
遠目でもそれだけの印象を与えたから、「影が薄い」というのは妙かもしれなかったが、一見して、ふと目をひかれる人でいながら、目を離したとたん、その顔を思い描くことができなくなる。――その娘はそんな様子だった。
あわててスカートの中へブラウスの|裾《すそ》を押し込みながら、
「じゃ、行くわ」
と、せかせかと男にキスして、「気を付けてね」
と、廊下を彼の隠れている方へとやって来る。
一瞬、緊張して息を殺し、カーテンを体にきりりと巻きつけて凍りつく。
だが、その娘は一陣の風のように駆け抜けて行って、誰かがそこに隠れていることなど、気付きもしない様子だった。
――助かった。
屋敷の中は、番犬の吠え立てる声の方角へすべての注目が集まってしまい、彼は楽々と出て行くことができた。
実際、もしその気になれば、正門を開けて堂々と(?)出て行っても|見《み》|咎《とが》められはしなかっただろう。
もちろん、そんな子供じみた真似はしなかったけれど。
むしろ、折から降り出した雨に|濡《ぬ》れることの方が、彼には気になった。
それでも、本降りになる前に、車へ行き着くことができた。
「――良かった」
と、ドアを中から開けて、|和《かず》|子《こ》が言った。「犬の声がしていたんで、心配していたんですよ」
ちっとも心配していたという口調でないのが、和子らしいところだ。
「出してくれ」
後ろの席に落ちついて、彼は言った。
和子が車を出し、二、三分の内には、彼は後部席に三つ|揃《ぞろ》いのスーツ姿で、穏やかな初老の紳士としておさまっていた。
――彼の名は|久野原僚《くのはらりょう》。
もちろんその名では「財産持ちの美術収集家」としてだけ知られている。本業――すでに四十年近いキャリアを誇る「泥棒」としては、彼は〈黒猫〉のニックネームで知られていた。
車の座席でリラックスするのに、やはりしばらく時間がかかる。久野原は、こわばりをほぐそうとするように、両手をゆっくりと握ったり開いたりした。
「あの犬は?」
車を運転しながら、和子が言った。
|田《た》|中《なか》和子――これが本名かどうかは知らないが――は、久野原の信頼できる部下として、二十年近い日々を共にしている。
「分らん」
と、久野原は首を振った。「誰かドジな奴が忍び込んで、追い詰められたようだ」
「じゃあ今ごろは――」
「僕の代りに捕まっているかな」
「でも宝石は持っていない……」
「さぞ、警察で絞られるだろう。気の毒に」
初めて|微《ほほ》|笑《え》む余裕ができた。
終った。――ともかく終ったのだ。
久野原は――いや、〈黒猫〉はひと仕事終えたときの解放感に浸っていた。
だが、この「ひと仕事」は終っていなかったのだ。
それどころか始まったばかりだったのだが、車の座席を少しスライドさせて|欠伸《あくび》した久野原に、そんな予感はまるでなかったのである……。
1 疑 惑
テラスへ出るガラス戸を静かに開けると、|爽《さわ》やかに乾いた風が「秋」を運んで来る。
木々は少しずつ衣を脱いで身軽になりつつあった。
「|旦《だん》|那《な》様」
長い付合いで、その口調から何を言われるか見当がつく。
「風邪を引きます、だろ。すぐ閉めるよ」
と、久野原は言った。
「それもありますが――」
「他にも?」
「お客様でございます」
田中和子は、口もとに笑みを浮かべたまま、言った。
「誰が来たんだ?」
「|熊《くま》|沢《ざわ》様です」
意外な来訪だった。
「お通ししても――」
「もちろんだ。コーヒーを|淹《い》れてくれ」
「すぐに」
和子は、あくまで久野原に対しては「無口でよく働くベテランのお手伝いさん」である。
和子はすぐに、自分の倍近くも幅のありそうな男を案内してきた。
「突然お邪魔して申しわけないです」
と、その男は大きな体に似合わず、おずおずとした調子で言った。
「コーヒーを……」
「どうも。――いや、ありがとう。気持いいですな、こちらのお宅は、いつ伺っても」
熊沢は少し|歪《ゆが》んだネクタイを気にして直していたが、結局もっとひどく歪んでしまっただけだった。
「ご在宅で良かった。また外国へ行ってらっしゃるかと思っていました」
「近々また出かけますがね」
と、久野原は言って、自分もソファに|寛《くつろ》いだ。
「そうですか! いや、|羨《うらやま》しいご身分だ。我々は一向に――」
と言いかけ、「やめておきましょう。口にするだけ空しい」
「で、今日は何のご用件で?」
「|八《や》|木《ぎ》家のダイヤモンドのことで、少しご相談したいことがありまして」
熊沢は、少しも変らない口調で言った。――もちろん、警視庁捜査一課の警部という身では、「犯罪」が日常茶飯事に思えても仕方ない。
「八木|春《はる》|之《の》|介《すけ》さんの所は、泥棒に入られたそうですね。お気の毒に」
と、久野原は言った。「しかし、例のダイヤモンドは無事だったのでしょう?」
「そう報道されているし、実際、我々もそう思っていたのです。ところが――。何しろ、当の持主が『無事だった』と言ってるんだから信じますよ」
「それが、実は――」
「今になって、本当は盗まれていたと言い出したんです。文句は言ったが、何しろちっとも応えない」
と、熊沢警部は苦笑した。
「秘密にしておいて、買い戻すつもりだった。――そうですね?」
「おっしゃる通りです。全く、ああいう人たちの考えることは分りませんな! ちゃんと犯人を捕まえれば、タダで取り戻せるものを、何千万も何億も払おうとするんですから」
「それはあなたにもお分りでしょう。時間が肝心なのだということは。――日がたつと共に、ダイヤモンドが売られて、手の届かない所へ行ってしまうのを心配しているんですよ」
と、久野原は言った。
「分っちゃいるんですがね。しかし、こっちも役目というものが……。おっと、またついグチを言いそうになってしまう」
熊沢は、少しわざとらしい口調で言った。
「しかし、熊沢さん、なぜ私の所に?」
久野原がそう|訊《き》いたとき、和子がコーヒーを淹れて来た。
「――やあ、いい|匂《にお》いだ!」
熊沢は、心から感激しているという様子だった。
犯罪の加害者、被害者ばかりを見ていると、人間を信じなくなってしまっても当然だが、この五十歳になるベテラン刑事は、素直な子供のように、喜んだり嘆いたりする心を失わない。
そこが久野原は気に入っていた。
「――どうぞ」
と、和子がコーヒーカップをテーブルに置く。
久野原は自分のカップを受け取ると、
「和子さん、納戸の扉の具合を見といてくれるかね」
と言った。
「かしこまりました」
それを聞いて、熊沢が、
「開かないんですか? 何なら私が直しますよ」
と言った。
「いやいや、そんな気づかいはいりませんよ」
と、久野原は笑って言った。「まあどうぞ。――和子さんの淹れるコーヒーは絶品だ」
「全くです! 捜査一課でも、こんなコーヒーが飲めれば、ずいぶん疲れ方も違うでしょうが」
と、熊沢はゆっくりとコーヒーをすすった。
――久野原は自分もコーヒーを飲んで、少し間を置いた。
和子に、
「納戸の扉の具合を見てくれ」
と言ったのは、「納戸で、ここの話を聞いていてくれ」という意味である。
ここでの話は、花びんの底に仕掛けられた隠しマイクで、納戸の中の受信機へとつながっている。
「――そろそろ話して下さい」
と、頃合を見て、久野原は言った。「なぜ私の所に?」
「ええ、実は……。どうも後味の悪いことになってしまいましてね」
と、熊沢の顔が曇った。
「泥棒は確かその場で捕まったと聞いたんですがね」
と、久野原は言った。
「ええ、番犬のドーベルマンに追っかけられて、ズボンの|尻《しり》の所を食いちぎられて、みっともないざまで」
と、熊沢は苦笑した。
「で、宝石は?」
「持っていなかったんです。――共犯者へ渡した後だったんでしょう」
「なるほど」
「泥棒は、元々よく知っている男でした。〈トンビ〉というあだ名で、まあ大した|奴《やつ》じゃありません。あんな八木邸へ忍び込むなんて、柄じゃないんですよ」
「すると、一人じゃない、と……」
「屋敷の中に[#「中に」に傍点]共犯者がいたんじゃないかと思えるんです」
「すると宝石も?」
「ええ、周辺での聞き込みでも、怪しい人物や車は出ていないんです」
「しかし、夜中のことですからね」
「それはそうです。実は――八木家の雇い人で、江田という若者がいるんです。江田|邦《くに》|也《や》といって、まだ二十四だが……。その番犬の世話や、細かい雑用と、一応用心棒も兼ねるといった仕事で」
「その江田が怪しいと?」
「根拠があったわけじゃありません」
と、熊沢は言った。「ただ、犬が|吠《ほ》え立てて、屋敷の中の使用人たちが集まって来たとき、江田だけが遅れて現われたんです」
「なるほど」
「誰が言い出したのか……。『江田一人が遅くやって来た』というのが、徐々に『奴が共犯者じゃないか』と変って行ったんです」
「それは厄介ですね。|噂《うわさ》というのは罰することも止めることもできない」
「そうなんです。我々も、そんな話になっていることを知らずにいたんです。すると突然地元署が、江田を呼び出して取り調べたんですよ」
「それは少し軽率では?」
「ええ、そのせいで、江田は完全に犯人扱いされてしまいました。もちろん留置も何もされずに、その日の内に戻ったんですが、もう屋敷の人間はみんな江田を共犯者と決めつけていたんです」
「やれやれ……。それで、当人は?」
「もともと辛抱強い奴で、当然自分が疑われていると分っていたでしょう。しかし、表に出ないだけで、当人は相当に苦しんでいたようです」
と、熊沢は言った。「――江田は自殺してしまったんですよ」
久野原にも、それは想像できなかったことだった。
「何てことだ……。遺書はあったのですか」
「短いメモです。〈僕じゃありません〉と、ただひと言ね」
熊沢はそこまで言って、後はしばらくコーヒーを飲むことに専念した。
久野原も同様に黙ってコーヒーを飲んだ。そして、
「――江田という青年は、どうやって自殺したんです?」
「主人の八木春之介さんが狩猟を趣味にしていましてね。その猟銃で……。よくあるでしょう。銃口を口にくわえて、足の指で引金を引く……」
「想像したくもない光景だな。自殺であることは確かなんですね?」
熊沢は何も言わずに久野原をじっと見つめている。
「――そうか」
と、久野原は|肯《うなず》いた。「ここへやって来られたのには、理由があるはずですね」
「靴下なんです」
「靴下?」
「ええ。引金を引くのに、右足の靴を脱いでいた。これは当然です。しかし、靴下ははいたままだったのです」
「なるほど」
「確かに、靴下をはいていても、引金を引くのに、さほど苦労はしません。しかし、靴を脱いでるんですから、そのときついでに靴下まで脱ぐのが普通じゃないでしょうか」
「すると――あなたが疑問を抱いたのは、その靴下の件だけですか」
「そうなんです。これだけじゃ、自殺という説を覆すことはできません。現に、今日の夕刊に、江田の自殺の記事が載りますが、おそらく、この事件についての記事は、それが最後です」
「つまり、捜査は打ち切りですか」
「宝石が盗まれた件に関しては、それが『裏ルート』に出てくるのを待つでしょう」
「相談に来られたお気持が分りましたよ」
と、久野原は言った。
「いや、相談というより、グチのようなものだと思って下さい。上の方の意向は固まっています。今さら私がどう言ったところで、覆りはしないでしょう」
――妙な話、といえば全く妙である。
警視庁捜査一課の警部が、何と泥棒[#「泥棒」に傍点]の所へ相談に来るのだから。
もちろん、熊沢は久野原の本業[#「本業」に傍点]は知らない。しかし、仕事らしい仕事もせずに、優雅な暮しをしている久野原について、どこか得体の知れない男だとは思っているだろう。
それでも、久野原はこれまで自分と直接関係のない事件のいくつかで、熊沢に協力し、多少役に立つことがあった。
熊沢は、すっかり久野原に心服してくれている。少々照れるが、久野原としても、悪い気はしなかった。
「――まあ、自殺としても、それで却って犯人には都合のいいことになりますな。その〈トンビ〉とかいう泥棒とのつながりも分らないままでしょう」
と、久野原は言った。
「そうなんです。もし、本当に江田が共犯だったとしても――」
「それはないでしょうね。江田が番犬の面倒を見ていたのなら、吠え立てないようにすることができたろうし、もしそれが不可能なら、そう泥棒に言ったでしょうからね」
「なるほど。確かにそうです」
「まあ、その若者のことは気の毒ですが、私の出る幕はなさそうだ。もし、例のダイヤが|闇《やみ》の市場に出回ったという噂でもあれば、すぐお知らせしますよ」
久野原の言葉に、熊沢は何度も礼を言った。そして、後は雑談をして帰って行ったが……。
玄関まで見送って振り返ると、和子が立っていた。いつも静かに歩く女なのである。
「――聞いたか」
「はい」
と、和子が|肯《うなず》く。
「妙な話だ」
と、居間へ戻りながら、「江田というのは、あのときの若者だろう。駆けつけるのが遅くなったのは、女の子と一緒だったから、と言えなかったのかな」
「女の子の方も、そこまで黙っていたのは変です」
「うん……。まさか自殺するとは思っていなかったとしても……」
「この自殺の後で[#「後で」に傍点]、話が出るかもしれませんね。もし出なければ、よほど知られたくない事情があるんです」
「どうも、この一件は気に入らん」
「何も、これ以上係り合いになる必要もありません」
「分ってるよ。しかし――」
「ダイヤモンドのことですね」
「〈月のしずく〉だ」
――八木春之介の所有する宝石の中でも、〈月のしずく〉と呼ばれるダイヤモンドは、一番の値打があると言われている。
久野原が、今さら仕事[#「仕事」に傍点]をしなくてもいいほどの蓄えを持ちながら、五十代も末の身であの八木邸へ忍び込んだのも、ひとえに〈月のしずく〉のためだった。
それは今、誰の手にあるのか。
――久野原が盗んだ宝石の中には、〈月のしずく〉はなかった[#「なかった」に傍点]のだ。
八木がどこか別の場所へ隠していたのだと思っていた。ところが、今になって、〈月のしずく〉が盗まれたと言い出した。
そして、その共犯の疑いをかけられていた青年が自殺した……。
久野原としては、やはりいくらか面白くない。
自分が盗んでもいないもので、久野原だって捕まりたくはない。他のものはもう処分してしまったのだが……。
「妙な好奇心を起さないで下さい」
と、和子がいささか心配そうに言った。
本業を忘れて、事件にのめり込むことが多いので、和子はブレーキをかけようとしている。
「分ってるよ」
久野原は|微《ほほ》|笑《え》んで、「私ももう五十八。――自分のことは分っている」
「なら、よろしいですけど」
「まず、捜査の進み具合を見る。その後だ」
「その後でもだめです!」
と、和子は断固として言った。
「そう怖い声を出すな」
「忠告申し上げただけです」
「分ってる。どうだ、秋で、いい季節だし、ヨーロッパへでも行ってみるか」
「まあお珍しい。本気ですか?」
「もちろん!」
久野原は、このところ秋のヨーロッパを見ていない。久しぶりに訪ねてみたい、という気にもなった。
それに、日本にいれば、当然事件の話も耳に入る。入れば気になって当然。
いっそ、日本を離れてしまえば……。
そうなのだ。五十八歳の泥棒は、そこまで考えたのだったが……。
2 滝
ボートが大きく揺れる度に、歓声と笑い声が上った。
細かい霧がふきつけてくる。――久野原は、目を細くして、陽光に滝のしぶきがキラキラと輝いているのを、ビデオカメラにおさめていた。
液晶の画面には、岩をかんで崩れるように落ちてくる滝が映っている。
「コートを持ってくるんでした」
と、和子が仏頂面をしている。「おっしゃって下さらないんですもの」
「すぐ乾くよ」
と、久野原はビデオを止めた。「今年は水量が多いようだな」
ボートが滝に近付くにつれ、水音でかき消されて話し声は聞こえなくなった。
腹に響く水音は、大太鼓の連打のようだ。
――ライン川が、その長い流れの中で、ただ一ケ所、滝になって落ちている、ここはシャフハウゼンという所。
滝といっても、落差は二十メートルほどのもので、ナイアガラなどとは比べものにならないが、流れののろい、ゆったりとしたラインが、ここだけ白くしぶきを上げて落ちて行くのが、水量の多いこともあって、なかなか豪快な見ものになっている。
「冷たい!」
と、甲高い声を上げているのは、日本人の若い娘である。
このラインの滝は真中に大きな岩がそびえていて、その両側を滝が流れ落ちて行く。
底の平たいボートで、その岩へ乗りつけて、岩の天辺まで上れるようになっているのである。
「足下に気を付けて!」
ボートが岩につけると、乗っている二十人ほどの観光客は|濡《ぬ》れた足下に用心しながら、こわごわボートを降りる。
岩肌を掘って階段が作られていて、岩の上まで上ることができる。
「写真、写真!」
と、はしゃいでいるのは、たぶん女子大生らしい、三人連れ。
「交替で撮ろう!」
久野原が、和子と一緒に階段を上って行くと、
「すみません! シャッター切っていただけます?」
と、女の子の一人が頼んで来た。
「いいとも」
久野原は、自分のビデオカメラを和子へ渡し、「――じゃ、その滝のしぶきをバックに?」
「お願いします!」
階段といっても狭いので、三人が並ぼうとすると、ギュウギュウ身を寄せ合わなければならない。
「――では撮るよ」
久野原は、水しぶきが霧のように白く光っている中、三人の娘が顔を寄せ合って笑っているのをファインダーに見て、シャッターを切った。
「もう一枚、念のために」
と、もう一度シャッターを切り、「OKだ」
「すみません!」
久野原は、カメラを返して、
「大学生かね?」
「はい!」
「足下に気を付けて。毎年数人は滝に落ちて亡くなるんだよ」
「ええ?」
三人が目を丸くする。
久野原たちは一足先に、岩の天辺まで上った。
「――あんな|嘘《うそ》をおっしゃって」
と、和子が言った。
「なに、その方がスリルがあって面白い」
久野原は、滝の分厚い流れを見下ろして、
「今年はなかなか元気がいい」
と言った。「我々も記念撮影をして行くか」
「私がお撮りします」
そこへあの三人も上って来て、
「あ、シャッター切ります。お二人で」
一人の女の子が声をかけてきた。
「じゃ、お願いしよう」
と、久野原は|微《ほほ》|笑《え》んで言った。
「そうですか……」
和子は、大して面白くもなさそうだ。
「じゃ、奥様がもう少しご主人の方へ寄って……」
と言われて、和子はますます仏頂面になる。
「少しは笑え」
と、久野原が小声で言うと、和子は、虫歯でも痛いのかと思うような、引きつった笑顔を作った。
シャッターが落ち、久野原は、
「やあ、ありがとう」
と、その女の子からカメラを受け取った。
「いいえ、ちゃんと撮れてるといいんですけど」
「念のために申し上げます」
と、よせばいいのに、和子が言った。「私はこの方の妻ではありません」
「あ……。そうですか、ずいぶんお若い奥様だと思いました。すみません」
「謝ることはない」
と、久野原は笑って言った。
「てっきりご夫婦かと思いました」
と、他の子たちも聞いていて、「ねえ」
「私もそう思った! じゃ、不倫[#「不倫」に傍点]だったんだ!」
和子が目をむいて絶句している。
「失礼なこと言って!――すみません、どうも」
と、シャッターを押してくれた女の子が言った。
「いやいや、そんなに色気があると思われたのなら光栄だ」
「ボートが出ますよ、下りましょ」
と、和子が言って、さっさと下り始める。
「せっかちな奴だ」
と、久野原は、三人連れの女の子たちに、会釈して、「ではお先に」
「足下、お気を付けて」
久野原は岩の下のボートが着く場所へと下りて行ったが――。
ふと足を止め、岩の上を見上げた。
三人の女子大生たち。そのシルエットに近い姿が、青空を背景に見えている。
「どうなさったんですか?」
と、下から和子が呼ぶ。「首が回らなくなりますよ」
「行くよ行くよ」
どうせ同じボートで帰るのだ。
戻りのボートは、それほどひどく揺れず、ホッとさせられたが……。
むろん、あの三人組も同じボートの端の方に座って、『キャアキャア』やっているのである。
「――何をジロジロ見てらっしゃるんですか?」
と、和子の|咎《とが》め立てするような目に、
「今思い出した! 間違いない」
と、久野原は言った。
「お金でも貸してあったんですか?」
「あの子――シャッターを押してくれた子は、あの晩[#「あの晩」に傍点]、八木の屋敷で、江田邦也の部屋から出て行った女の子だ」
3 三人の女子大生
「おはよう」
久野原は、英字新聞を手に取って、レストランのボーイに会釈した。
「オハヨウゴザイマス」
と、きれいな発音で返されて|微《ほほ》|笑《え》む。
田中和子が、五分前には来て、席を窓際に確保している。
「――おはよう。眠れたか?」
特に意味はない。毎朝の|挨《あい》|拶《さつ》である。
「少し寝不足です」
と、和子は答えてから、「おはようございます」
と言った。
「コーヒーを」
と、オーダーして、
「もっと取れば? |美《み》|鈴《すず》」
という声で振り向いた。
あの[#「あの」に傍点]三人組が、ビュッフェスタイルの朝食を皿にとりながら、ゆで卵の注文をしていた。
「ここに泊ってたのか」
と、久野原が言うと、
「隣の部屋でした」
と、和子が面白くなさそうに、「夜中までしゃべってましたわ」
――女子大生の身で、このチューリヒ一番の〈ホテルB〉。
もちろん、スイスには、星の数ほどのホテルがあるといっても、ここはチューリヒで一番格の高いホテルなのである。
大学生だけの三人組には少しぜいたくかもしれない。
久野原が、まずモーニングコーヒーで目を覚ましておいて、ビュッフェの朝食を取りに立った。
「――あ、昨日はどうも」
向うが気付いてくれる。
気付いたのは、あの[#「あの」に傍点]女の子だった。
「やあ、同じホテルとはね」
と、久野原は微笑んだ。「若い人はいい。食欲も|旺《おう》|盛《せい》だね」
「恥ずかしい」
と、肩をすくめて、「――私、|島《しま》|崎《ざき》美鈴といいます」
「久野原だ。せっかくの縁だ。同じテーブルにさせてもらってもいいかね」
「ええ、もちろん!」
――というわけで、久野原は、面白くなさそうな和子ともども、女子大生たちのテーブルに加わることになった。
「すると、まだこのチューリヒに?」
と、久野原は言った。
「本当は今日出るはずだったんです」
と、島崎美鈴が言った。「このチューリヒで待ち合せていた相手が、一日着くのが遅れて。一泊のばしました」
「でも、いい街だよね」
と、他の女子大生の一人が言った。
もちろん、他の二人のことも、久野原は紹介してもらっていた。
一人は|木《き》|村《むら》|涼子《りょうこ》。三人の中では一番にぎやかそうで、高校生といっても通りそうな童顔をしている。丸いメガネをかけているのも、その印象を強めているかもしれない。
「スイスって、どうしてディズニーランドがないの?」
などと言っている。
「どこも閉るのが早いのね」
と、〈夜ふかし型〉らしいのが|関《せき》|口《ぐち》ゆかり。
「六本木とか麻布みたいに、午前三時、四時に食事できるような所ってないのかしら」
大分夜遊びに慣れているらしく、三人の中では一番大人びて、体つきも「女」を感じさせる。華やかな感じの美人だ。
「ゆかりったら、何しにスイスに来たか分らないでしょ」
と、美鈴が笑って言った。「コンビニがないって文句言っても無理よ」
「君たちは同じ大学?」
と、久野原は|訊《き》いた。
「はい、F女子大です」
と、美鈴が言った。
女子校としては古く、名門の一つである。
「今……何年生?」
「三年です、私とゆかりは」
と、木村涼子が言った。「私、そう見えないでしょうけど」
「中三だね」
と、関口ゆかりが冷やかす。
「せめて高三って言ってよ!」
「私だけ二年生」
と、美鈴が半熟のゆで卵を割りながら言った。「落第生なんです」
「美鈴は一年間こっちに来てて、遅れたんです。だから英語ペラペラ」
と、ゆかりがトーストにジャムを豪快に塗りつけながら、「いいよね。私も留学したいって言ったんだけど、お母さんから、『あんたは、ちょっと目を離すと、すぐ遊んでばっかりいるんだから、そんな遠くへやったら何するか分んない』って言われちゃった」
「当ってるよ」
と、涼子が|肯《うなず》く。
「まあね。さすが、だてに母親やってない」
自分で言ってれば世話はない。
三人の二十一歳は、久野原など、見ているだけで満腹になりそうな食欲を発揮した。
「グーテンダーク」
レストランの支配人が、ドイツ語で挨拶している相手を、久野原はチラッと見た。
|恰《かっ》|幅《ぷく》のいい、大柄なドイツ人だ。いや、スイス人かもしれないが、ゲルマン系であることは確かだ。
「|旦《だん》|那《な》様……」
和子が、小声で言った。
「うん、分ってる」
久野原も小声で答えて、すぐに三人の女の子たちの話に加わった。
「――すると、今日はどうするんだね?」
と、朝食も終えて、コーヒーを飲みながら久野原が訊く。
「買物!」
木村涼子と関口ゆかりの二人が異口同音に答えて、一緒に笑い出した。
「二人とも、まだ旅は始まったばっかりよ」
と、美鈴が苦笑いしている。
「いいの! 買物しすぎて病気になった人間はいない」
と、涼子が言って、ゆかりと顔を見合せ、
「ね!」
どうやら三人組の中では、島崎美鈴が一人、少しクールに振舞う役割らしい。
「――久野原さん、一緒に行きません?」
と、ゆかりが言い出した。
「若い女性の買物に付合うには、|年《と》|齢《し》をとり過ぎたよ」
「ご迷惑よ」
と、美鈴が口を挟む。
「いや、迷惑というわけじゃないが」
「それじゃ決り! 三十分したら、ロビーで集合ね!」
と、ゆかりが「判決」を下した。
三人組が先にレストランを出て行くと、
「あの子たちに本当について行かれるんですか?」
と、和子が言った。
「僕も行きたい所がある。あんまり引張り回されるようなら、途中で別れて帰ればいい。 ――どうする?」
和子は、気がすすまない様子だったが、
「旦那様を、飢えた狼たちの中へ放り出しておくわけに参りません」
「それは逆じゃないのか?」
と、久野原は笑って言った。
「旦那様、あの外国人……」
「ああ。宝石商だな。――あまり良くない|噂《うわさ》も耳に入ってくる」
このチューリヒに何の用事で?
「こんな所まで来て、物騒なことに係り合わないで下さいね」
と、和子が早速気を回す。
「こっちからは何もしないさ。しかし、もし事件が向うからやって来たら……」
「それは、旦那様が招き寄せているんですよ、本当は」
久野原は聞こえなかったふり[#「ふり」に傍点]をして、コーヒーを飲み干すと、
「さて、女の子を待たせるようなことになってはまずい。行こうか」
と、立ち上りかけた。
そこへ、フロントの係がレストランへ入って来て、中を見渡し、久野原たちのテーブルへとやって来た。
「エクスキューズミー」
と、英語で話しかけた。「ミスター・ヤギ[#「ヤギ」に傍点]?」
久野原は|微《ほほ》|笑《え》んで、
「ノー」
とだけ言った。
相手は|詫《わ》びて立ち去ったが――。
「聞こえたろ?」
と、久野原は、和子に言った。
「ええ、でも……」
「分っただろう? 八木[#「八木」に傍点]と言った。このホテルに、八木春之介が泊っているとしたら……」
「偶然じゃないと?」
「さっきの宝石商と、ダイヤ〈月のしずく〉を盗まれた大金持が同じホテル。しかも、盗んだ疑いを持たれて自殺した若者の恋人らしい娘が、女子大生三人で同じホテル……。面白いじゃないか」
「関係ない『ヤギさん』かもしれませんよ」
と、和子も負けていない。
二人はレストランを出て、各自の部屋へ戻るまで、同じテーマで語り合っていた……。
「――ヤア。ダンケシェーン」
電話を切って、|美《み》|津《つ》|子《こ》は、「ロビーに来客だそうです」
と言った。
「そうか」
八木春之介はガウンを着て、大きなベッドから出ると、「待ってるんだな?」
「だと思いますけど……。やっぱり、さっき電話が鳴ったとき、出ておけば……」
「構わん」
八木は遮って、「こっちから飛びつくように出ていけば、足下を見られる。帰れば帰ったで放っとけ。向うは金が欲しいんだ。必ずまた来る」
「でも、一応ロビーへ下りてみた方が……」
「お前が見て来い。もしまだ待っていたら、待たせておけ」
美津子が何も言わない内に、八木はバスルームへ入って行った。
美津子は、どうしたものか少し迷った。いずれにしても、ガウンの下は裸のままで、この格好でロビーへ下りて行くわけにいかないのだ。
急いで服を着る。バスルームからはシャワーの音が聞こえて来た。
美津子も、本当はシャワーを浴びてから服を着たかった。でも、そんなことに気をつかってくれる八木ではない。
仕方ない。後で浴びることにしよう。
ルームキーを手に、部屋を出ると、ロビーへと急いだ。
|富《とみ》|田《た》美津子。――八木の「秘書」である。
名目だけの秘書ではない。子供のころから、親の仕事の都合でヨーロッパ暮らしが長く、英語、ドイツ語は大体話せるし、フランス語も易しい話ならできる。
それでも、美津子が、今年七十になる八木春之介の「彼女」であることは隠しようもない。
二十二歳の秘書。七十歳の八木。――八木家の当主として、いくつもの企業のオーナーでもある八木春之介は、並の七十歳ではない。
こんな旅先で、朝、目を覚ましてすぐに美津子に挑みかかってくる。――それを拒むことは、美津子には許されていない。
――ホテルのロビー、といっても、日本の何十階もある大きなホテルではないので、ロビーも一目で見渡せる広さ。
美津子はロビーを見渡したが、それらしい「来客」の姿はなかった。帰ってしまったのだろうか。
美津子はフロントへ行って、来客のことを|訊《き》いてみた。
その辺りにいるはず――とフロントの係もはっきりしない。
振り向くと、初老の婦人が何人か入って来て、ラウンジでおしゃべりを始めている。
美津子は|諦《あきら》めて部屋へ戻ろうとエレベーターの方へ行きかけた。
廊下の奥から、背広姿の若者が出て来た。化粧室へ行っていたのか、ハンカチをポケットへ突っ込むところだった。
――気が付くと、美津子はその若者と、ほとんど鼻を突き合せるような近さで立っていたのである。
「――姉さん?」
と、その若者が言った。
「|和《かず》|彦《ひこ》……。あんた、どうして……」
美津子は|呆《ぼう》|然《ぜん》として、弟を眺めていた。
「一緒に来てるのか、あいつと」
「八木さんのこと?」
「旅行にまでついて来るのか」
「私は言葉ができるのよ」
「それだけじゃないだろ」
富田和彦は、なじるように言った。
美津子の顔から血の気がひく。
「どういうつもり? 私が八木の所にいなきゃならないのは、あんたが作った借金を、八木に肩がわりしてもらったからじゃないの」
「やめてくれ! 誰も頼んじゃいないだろ」
と言い返す。
つい声が大きくなって、静かなロビーに響いた。
「和彦、今どこにいるの?」
と、小声で訊く。「教えて」
和彦は、ちょっとためらっていたが、
「一時間したら、フラウ教会にいる」
と言って、半ば駆けるように行ってしまった。
美津子は、しばらくその場に立ちすくんでいたが、やがて肩を落すと、エレベーターのボタンを押した。
4 川岸の散歩
「この川……」
と、島崎美鈴が言いかける。
「リマト川だよ」
と、久野原が言った。
「ああ、そうでしたね」
と、美鈴は笑って、「私、いつも『リトマス試験紙』を連想してしまうの。それで、つい、〈リトマス川〉って言ってしまいそうになるの」
歩くにはいい気候だった。
少し雲が出ていたが、その方がヨーロッパらしいとも言える。
ホテルから、リマト川沿いの道を、久野原たちは歩いていた。
「せっかくだ。フラウ教会を|覗《のぞ》いて、それから、バーンホフ通りへ出よう」
と、久野原が言った。
「買物は?」
と、木村涼子が|訊《き》く。
「バーンホフ通りが一番の目抜き通りだ。フラウ教会はステンドグラスがシャガールのものなんだ」
「ガイドブックで読んだ!」
と、関口ゆかりが得意げに言った。「でも、シャガールって知らないんだよね」
「猫に小判だ」
と、美鈴が笑った。
先を涼子とゆかりが行き、久野原は美鈴と並んでそれに続いていた。一番後ろに、無言で田中和子がついている。
「――静かで、少し寂しくて、ヨーロッパの秋って好きだわ」
と、美鈴が言った。
そんな美鈴には、他の二人と違った落ちつきがある。
「チューリヒの後はどこへ?」
と、久野原は訊いてみた。
「分らないんです」
「分らないって?」
「明日、ここで会う人次第なんです。でも、こっちは任せっ放しなんですもの、文句も言えない」
美鈴は、|爽《さわ》やかに笑った。
「――その、待ってる人って、誰なんだい?」
「私も個人的にはよく知らないんです」
美鈴の言葉は妙なものだった。
「ほう」
「妙だと思われるでしょうね」
と、美鈴は言われる前に、「|叔《お》|母《ば》なんです、来るのは。こっちにずっと住んでらして、私もあまり会ったことがないんです」
「なるほど。じゃ、仕事の関係でこちらに?」
「ええ。美術品の商いをしているようですわ」
「上品なお仕事だ」
「でも、久野原さんも――」
「多少、縁はあるがな」
と、久野原は言った。「――ああ、それがフラウ教会だ」
――そう大きな教会ではないが、中はすっきりして清潔な感じだった。
シャガールの描いたステンドグラスは、かなり濃い色づかいが、禁欲的な教会の中にあって、印象が強い。
「観光客が一杯来てる」
と、涼子が文句を言って、
「私たちだってそうでしょ」
と、ゆかりに笑われている。
シャガールのステンドグラスの前で、みんな記念撮影をしている。――ま、他にすることもない、と言えばその通り。
「――涼子、写真、撮る?」
「私、いいわ」
と、涼子は、首を振って、「一人で教会の中を歩いてみる」
「涼子にしちゃ珍しいこと言うじゃない」
ゆかりにからかわれて、
「私だって、たまにゃもの思いに|耽《ふけ》るわよ」
と、涼子は言い返した。
「さあ、僕がシャッターを切ってあげよう」
と、久野原が言った。「こういう所へ来たら、観光客に徹することだ。気取っても仕方ないよ」
「そうですね」
美鈴が明るく言って、「ね、涼子も一緒に撮ろうよ!」
と、行きかけた涼子を手招きした。
「何よ……。ま、いいけど」
涼子がブツブツ言いながら戻ってくる。
「さあ、ステンドグラスを背にして」
久野原はファインダーを|覗《のぞ》いてから、「――君も入れば?」
と、和子の方を見た。
「そういう、思い出したような言い方をしないで下さい」
と、和子は真顔で、「私が切りましょうか。女の子に囲まれてやにさがってるところを」
「僕はいいよ」
久野原はシャッターを切った。「――ストロボが発光しなかったな。暗く映るだろう。もう一枚、今度はストロボを使うから」
「ストロボなくても、充分明るい」
と、ゆかりが笑って言った。
「――はい、撮るよ」
間を置かず、久野原はシャッターを切った。
ストロボが光った、その瞬間、教会の中に何か破裂するような音が響いたのは全く同時だった。
銃声だ。
久野原はすぐに分った。こんな教会の中で?
「キャーッ!」
悲鳴が上った。日本人の観光客だ。
「人が死んでる!」
という声。
「カメラを」
久野原は、カメラを和子へ渡すと、声のした方へと駆けて行った。
「大丈夫です!」
倒れていた「死人」が、起き上った。若い女だ。
「――生きてます! 大丈夫です!」
と、その女は叫ぶように言って、歩き出そうとして|呻《うめ》いた。
「待ちなさい」
久野原は、女の腕を取って、「けがしてるじゃないか。――出血を止めないと」
「大したことじゃありません! 放っといて!」
女の声には、|怯《おび》えているような気配があった。
「撃たれたんだろう? 手当しないと、弾丸が中に残っていれば死ぬぞ」
久野原は、女の耳もとで、強い口調で言った。
女は久野原を見て、
「――分りました」
と、息をついた。「警察|沙《ざ》|汰《た》にしたくないんです」
「それなら、なおさらこんな様子でホテルへ戻るつもりか?」
久野原は、女の、左肩を押えている手をそっと離させた。
「――ひどくはないが、手当は必要だ。和子君」
和子が、「やれやれ」という様子でやって来る。
「この人を病院へ連れて行く。君、女の子たちを買物へ」
「私がこの人について行きます」
と、和子は言った。「服を脱がしたりするのに、私の方がいいですし、着替えも買わないとホテルへ戻れません」
「なるほど」
「|旦《だん》|那《な》様が、女性の服、一|揃《そろ》い買ったらどう思われるか――」
「分った。任せるよ」
こういうときには、和子の方が度胸がよく、冷静である。久野原は女に、
「この人がついていれば大丈夫。君、言葉は?」
「はい、できます」
「良かったわ。じゃ――出血をこれで押えて」
と、和子がハンカチを取り出す。
「すみません……私、ホテルは同じ所です」
「知ってたのか」
「朝食のとき、お見かけしました」
傷が痛むだろうに、その気配を見せない女に、久野原は感心した。
和子が付き添って、教会の人に近くの病院を|訊《き》いている。――和子も、そう難しい話でなければ使えるのだ。
しかし、あの気丈さは、普通ではない。
「――いいんですか?」
と、美鈴がやって来て言った。
「ああ。田中君がついて行った。――君らももし警察でも来たら、色々訊かれるよ」
「外へ出ています」
「うん。僕は、ちょっと手についた血を洗い落としてくる」
トイレは地下にあった。
久野原は、洗面所で手を洗った。――確かに、誰かに撃たれたに違いないが、女はあくまでそれに触れなかった。
よほど警察に知られたくないわけがあるのだろう。あのホテルにいるとすれば、また話す機会もあるかもしれない。
ハンカチで手を|拭《ふ》いて、トイレを出ようとしたとき、
「ハクション!」
と、派手なクシャミが聞こえて、久野原はびっくりして振り向いた。
誰かトイレに隠れていた!
そのことに今まで気付かなかった自分を|呪《のろ》った。若いころなら、まずトイレに入って、中に人の気配がないかどうか確かめただろうに。
しかし、クシャミをするまで、全く音をたてなかったのは、身を潜めていたからだろう。
クシャミで気付かれたと分ったのか、トイレの仕切りから、扉が開いて、男が出て来た。
若い男だった。
「――日本人か」
と、向うが言った。
「そうだ」
と、久野原は|肯《うなず》いて、「どうして隠れてるんだ?」
「ふざけるな!」
若い男は上着の下から|拳銃《けんじゅう》を抜いて、久野原へ突きつけた。
「穏やかでないね」
「今、上で騒いでたろう。|俺《おれ》が殺したんだ!」
「殺した? ネズミでも?」
「貴様――」
「肩を撃たれた若い女性なら、自分の足で病院へと歩いて行ったがね」
男はポカンとして、
「肩を……。本当か?」
「でなきゃ、今ごろサイレンが聞こえてる。違うか?」
「そうか……」
と、男は拳銃をダラリと下げ、「良かった!」
と言ったのである。
久野原は、ふと思い付き、
「君、もしかしてあの女性と姉弟じゃないのか?」
と言って、
「どうして知ってる!」
と、また[#「また」に傍点]銃口を向けられたのだった。
「そうやたらと銃を振り回すものじゃない。君とあの女性と、一見してよく分るくらい似てる」
「姉貴と?――そうかな」
と、若い男は調子が狂ったのか銃をしまった。「小さいころは、みんなからよくそう言われたけど」
「そんな物、持って歩いて、こっちの警察に捕まったら、そう簡単に出て来られないぞ。悪いことは言わない、川の中へでも捨てることだ」
「お前……。いやに落ちついてるな」
と、若い男は感心したように、「ただもんじゃねえな」
「君に言われても|嬉《うれ》しくないがね。――なぜ自分の姉さんを撃ったりするんだ」
「色々さ」
と、|呟《つぶや》くように言って、「気に入らない金持野郎の女になってるんだ。だからもう姉弟じゃねえって言ってやった」
「それで撃ったのか?」
「お前にゃ関係ねえよ」
と言い捨てて、「あばよ」
と、小走りに出て行く。
「――『気に入らない金持』か」
と、久野原は呟いた。
あの姉のことを、充分に愛しているのだろう。それは苦々しい口調でも分る。
ふと、久野原は思い当った。
あの「姉」の方は久野原たちと同じホテルだと言った。
「気に入らない金持」というのは、八木春之介のことではないのか。
だとすると今の若者は――。
久野原は急いで教会の外へ出てみたが、さすがにもうあの若者の姿は見えない。
「久野原さん」
と、島崎美鈴がやって来た。「今、男の人が駆け出して行ったけど、あれ……」
「いや、何でもないんだ」
と、首を振って、「さあ、お待ちかねのショッピングだ。お付合いするよ」
「お疲れにならないようにして下さいね」
美鈴は気をつかってくれる。
確かに、「買物」に|賭《か》ける女性たちのエネルギーは、格別のものがある。
久野原は一つ深呼吸をして、
「じゃ、行こうか」
と言った。
5 招待状
「お休みですか」
と、田中和子が顔を出す。
「ああ……。夕食は遅めにしてくれ!」
と、久野原はベッドに引っくり返ったまま、返事をした。
「若い方と付合うと疲れるでしょ」
「こっちが|年《と》|齢《し》を取っただけだ」
と、久野原は大きく息をついて、「あの女は?」
「傷は手当てしてもらいました。医者には、工事現場で落ちて来た物が当ったとか説明していたようです」
と、和子は言った。「向うが信用したかどうか分りませんが、ゴタゴタに巻き込まれるのはいやでしょうし」
「大した傷じゃないんだな?」
「それにしても我慢強い人です」
和子は、あの女に好感を持ったらしい。
「名前は?」
「特に|訊《き》きませんでしたが」
と、和子は言った。「富田美津子といって、何と――」
「八木春之介の秘書兼愛人」
「ご存知なんですか」
「撃った男に聞いた」
和子は大してびっくりした風でもなく、
「よくご無事で」
と、言った。「遺言に私の名を入れてから撃たれて下さいね」
どこまで本気なのか……。
部屋のドアをノックする音がして、
「久野原さん! 生きてる?」
と、若い娘たちのコーラス(?)が聞こえて来た。
「あの連中だ。やれやれ……」
と、久野原はベッドから下りると、ドアを開けに行った。
「――お迎えに来ました」
と、木村涼子が言った。
「お迎え?」
「散々、久野原さん、引張り回しちゃったから、お|詫《わ》びに下のカフェでケーキ、ごちそうします」
と、関口ゆかりがウインクして、「美鈴はカフェの席を用意させてます」
「断るわけにもいかないな」
と、久野原は言った。「しかし、本当は君たちがケーキを食べたいんじゃないか?」
「鋭い!」
と、涼子が指先で久野原をつついた。「美鈴と二人にさせてあげますから、付合って!」
――実際、何を考えているのか分らん、と久野原は思った……。
午後になって、雲が切れ、カフェには明るく日がさし込んでいた。
「ごちそう」されるはずの久野原はコーヒーだけにして、三人組は、日本の倍ほどもある大きなケーキを食べていた。
「――|叔《お》|母《ば》から連絡があって、明日の朝、ここへ着くそうです」
と、美鈴が言った。
「そうか。じゃ、買物をすませておいて良かったね」
大分疲れも取れて、余裕の言葉である。
「あ、あの女の人……」
と、涼子は言った。
富田美津子がカフェへ入って来る。スーツの上を|袖《そで》に手を通さず、はおっていた。
「――先ほどはご心配をかけました」
と、久野原の所へ来て礼を言うと、「私の雇い主が、ぜひお礼をと申しまして」
カフェに、八木春之介が入って来る。
三つ|揃《ぞろ》いのスーツ姿で、白いマフラーを首にかけて垂らしていた。――白髪がつやのある光を帯びている。
「――こちらが久野原さんです」
と、美津子が傍へ退がると、
「うちの秘書がお世話になりました」
と、丁重に頭を下げた。
「久野原です」
「八木といいます。ここには慣れておいでらしい」
と、八木は三人の女子大生を見て、「生徒を引き連れた先生とも見えないが」
「袖触れ合うも多生の縁、というだけのことです」
久野原は、「もしよろしければ、ご一緒に?」
と訊いた。
「商用で外出するので」
と、八木は言った。「今夜のご予定はおありですか?」
「眠るだけです」
「では、その前に、ちょっとしたパーティに参加されませんか? 宝石を扱っている仲間の商人たちで、|親《しん》|睦《ぼく》の集りを開きます。ここから遠くない、ある屋敷で」
「どうも固苦しいものは嫌いで」
「いやいや、気軽な格好でおいで下さい。何しろ、商売人ばかりでは少しもパーティが面白くない。この美津子ぐらいしか、若い女はいないのでね」
「秘書がイヴニングドレスというわけには参りません」
と、美津子が言って、「――こちらのお嬢さん方に出ていただいてはいかがですか」
「それはいい。――夕食をタダで食べて、宝石のサンプルを見られる。よければぜひ」
「私たち、ヒマ[#「ヒマ」に傍点]です!」
と、木村涼子がすかさず言った。
「では決った」
と、八木は口もとに笑みを浮かべて、「この美津子が、すべて手配します。――夜八時から。七時過ぎにロビーで美津子がお待ちしとりますよ」
では、と八木は会釈して、美津子を連れてカフェを出て行く。
「――やれやれ。君たち、いいのか、本当に?」
「だって、面白いじゃない!」
と、涼子は言ってから、「会費取る、なんて言わないよね?」
――美鈴が少しして、
「八木……春之介っていうんだわ、あの人、確か」
「知っているのかね」
と、久野原は訊いた。
「叔母から、名前を聞いたことが……。やはり宝石を扱うお仕事ですか?」
「さあ、どうかね」
と、久野原はコーヒーを飲み干すと、「では、どこかでタキシードを調達して来よう」
と、立上った。
「タキシード? 普通の格好って……」
「礼儀というものだよ」
とたんに、涼子とゆかりが目を輝かせた。
「じゃ、私たちも、大胆に胸の|抉《えぐ》れたドレスだ!」
と、ゆかりが言うと、
「そんなもの、どこにあるのよ」
と、美鈴が苦笑いする。
「なに、こちらではそういうドレスを着る機会も少なくない。|衣裳《いしょう》を貸している所があるだろう」
と、久野原は言った。「君たちのような若い人たちなら、充分着こなせると思うよ」
「でも、まさか――」
と、美鈴がためらっていると、
「着てみて、似合わなかったら、やめりゃいいじゃない!」
と、涼子が発言し、
「そうよ!」
と、ゆかりも同調して、「じゃ、美鈴だけセーラー服ででも出たら?」
「あのね……」
美鈴もムッとした様子で、「久野原さん、そういうお店に連れてって下さいね!」
と、ほとんど命令するように言ったのだった……。
確かに、三人が目立ったのは事実だった。
パーティはそう華やかではなかったが、集まった日本人のビジネスマンの多くは夫人同伴で、ただ、どうしても中年の和服の女性が多い中、赤、青、紫のドレスを着た三人の娘たちは、目立ったし、またパーティらしい雰囲気を作るのにも役に立っていた。
むしろ、タキシードの久野原と、地味なスーツの和子は、食べる方に専念していた。
「――写真、撮られまくり!」
木村涼子がすっかり顔を上気させてやって来た。
「とてもすてきだよ」
と、久野原は言った。
「ありがとう! こんな格好、初めてしたわ」
関口ゆかりも、パーティの出席者の「おじさんたち」と喜んでカメラにおさまっている。
涼子は小柄なので赤のドレスが|可《か》|愛《わい》い。ゆかりは、大人の雰囲気で紫のドレス。そして、美鈴は水色のドレスだったが、いかにも品のいい令嬢という印象だった。
「――暑いわ」
と、美鈴がやって来て、息をついた。「少し酔ったのかしら」
「それぐらいが色っぽくていいよ」
と、久野原は言った。
「よくこんなドレス、選んだわ」
と、美鈴が苦笑する。「つい、他の二人にのせられて[#「のせられて」に傍点]」
一人なら、ついためらってしまう一歩も、三人で互いに|煽《あお》り立てると、こうも大胆になれるというわけだ。
しかし、久野原は、この美鈴が、八木の屋敷で自殺した江田邦也の部屋から出て来たことを、忘れているわけではない。
この、おとなしく屈託のない表情の奥には、何か[#「何か」に傍点]隠されているのだ。
「――久野原さん」
と、やって来たのは、富田美津子だった。
「やあ、傷はどうです?」
「ええ、もう大したことは。痛み止めを服んでいるので、眠くて」
と、美津子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「あなたも、ドレスにすれば良かった」
「まさか。――社長が許しませんわ」
「八木さんのことですか」
「はい、もちろん」
「何となく、『社長』というイメージの人ではありませんね」
「何かにつけて、型破りな方なのですわ」
「確かにそのようだ」
と、久野原が|肯《うなず》く。
「でも、あの若い方たちをお連れ下さって、社長がとても喜んでいます」
「私が連れて来たというより、連れられて来た、と言った方が正しいでしょう」
久野原は、天井の高い、おそらく何百年かたっている屋敷の大広間を眺め回して、
「ここはどういう場所です?」
「元は貴族の館だったようです。今は、こういう会合やパーティに会場を貸して、料理を出す、レストランのようなものです」
「なるほど、これだけの館を維持していくのは大変だろう」
美津子がちょっと笑って、
「すみません。社長も、ここへ一歩入って、そう言っていました」
「年寄りの考えることは、夢がなくていけないな」
と、久野原は笑った。
そのとき、
「皆さん、お待たせしました」
と、マイクを通した声が会場の大広間に響いた。
「社長だわ。失礼します」
と、美津子が人々の間に消える。
「お持ち寄りいただいた宝石を、披露していただきましょう。中央のビロードを張ったテーブルの周囲へお集り下さい」
広間の中央に、三メートル四方ほどのテーブルが置かれて、その黒いビロードの上に、既にいくつかの宝石が、白く、赤く光を放っていた。
「そこにあるのは、私のコレクションの一部です」
と、八木が言った。「お持ちいただいた品物を、テーブルの上に出して下さい」
各々、ポケットから、革の袋を取り出し、逆さにすると、ビロードの上に、様々な色の石が転り出た。
「すてき!」
三人の女子大生たちは、テーブルに|貼《は》りついて、その光景を眺めている。
さすがに、専門にしている人たちだけあって、互いに石を手に取って、光にかざして見たり、あれこれ話を交わしている。
――久野原は少しテーブルから退がって、その光景を眺めていた。
「引力に引かれませんか」
と、和子がいつの間にか傍にいる。
「場所を選ぶさ」
と、久野原は言った。「それに、よほど貴重な物なら、こんな所へ持って来ない」
「でも、ある程度は――」
「もちろん、イミテーションじゃないだろうが……」
背後で、グラスの割れる音がした。
振り向くと、ビュッフェのテーブルに置かれた空のグラスをさげようとして、ボーイが落として割ったのである。
急いで破片を片付けているそのボーイをチラッと見て、久野原はテーブルの方へ目を戻した。
出されたダイヤモンドのネックレスを、涼子が首にかけてみて、歓声を上げている。
「若いというのは、いいことです」
と、和子が言った。
「――今のボーイ」
と、久野原は振り向いたが、もうボーイの姿はなかった。
「どうなさったんです?」
「今のボーイ、どこかで見たと思った」
「お心当りが?」
「富田美津子を撃った、弟だ」
と、久野原が言ったとき、突然、広間の明りが消えた。
「――少々お待ちを」
と、八木の声が響いた。「何分、古い屋敷なので……。暗い内に、宝石をポケットへ、などとお考えにならないように」
暗い中に笑いが起った。
「――キャッ!」
と、ゆかりの声がして、「誰か、私の胸に触った!」
「宝石と間違えたかな」
と八木が言ったので、大笑いになる。
「いやいや、宝石にはない手触りだ」
と、誰かの声。
――停電は、長く感じたが、一分足らずだったろう。
シャンデリアが|点《つ》いて、再び広間は明るい光に|溢《あふ》れた。
「失礼しました」
と、八木は言った。
「改めて、宝石を眺めながら、ゆっくりとワインや料理を味わっていただきたい」
「和子、帰ろう」
と、久野原は言った。
「ご気分でも?」
「少し疲れた」
久野原は、美津子を捜した。
広間へ入って来た美津子へ、
「私は、いささかくたびれたので、お先に失礼します」
と、声をかけた。
「まあ、そうですか。じゃ、社長に……」
「いや、私は飛び入りの客だ。どうぞお構いなく」
と、久野原は丁重に言って、「ただ、あの三人の娘たちを、ホテルまで連れ帰ってやって下さい」
「かしこまりました。必ず」
「ではよろしく」
久野原と和子が広間を出て、クロークでコートを受け取っていると、
「お帰りですか?」
と、美鈴がやって来た。
「今日は、昼間もよく歩いたし、いささかくたびれてね」
と、久野原は言った。「君たちは、ゆっくりしていきなさい」
「私、あんまりこういう人の大勢いる所って、好きじゃないんです」
と、美鈴は言った。「でも、一人だけ先に帰るわけにもいかないし」
「また、ホテルで」
と、久野原は|肯《うなず》いて、和子を促すと、広い玄関ホールへと歩いて行った。
――八木は客の帰りのために、マイクロバスと、タクシーを何台か、用意してくれていた。
美津子が二人を追いかけるように出て来て、
「今、お車を」
と言った。「タクシーを使って下さい。料金はお払いいただかなくて結構ですから」
「そりゃどうも。――ではお言葉に甘えることにしよう」
高台なので風が強く、冷たい。
久野原は首をすぼめて、和子と二人でタクシーに乗り込んだ。
「では、お気を付けて」
と、美津子がていねいに|挨《あい》|拶《さつ》して見送った。
「――どうなさったんですか?」
と、和子が|訊《き》く。
久野原は難しい顔をしてじっと下りのカーブが続く道を見つめている。
「何か――」
「今の停電だ。あれが偶然だと思うか」
「まさか|旦《だん》|那《な》様が仕掛けたのでは?」
「いくら何でも、こんな所まで来て仕事はしない」
と、久野原は言った。「しかし、あれは偶然ではなかった」
「でも、何のために?」
「もちろん、あのビロードのテーブルの上の宝石のためさ」
「でも、旦那様もおっしゃったじゃありませんか。そんな大した物は持って来ていないだろうと」
「うん、そうだと思う。しかし、あの暗がりの中で気配があったんだ」
久野原は、彼ならではの敏感な耳で、あの|闇《やみ》の中、人の動く気配、そしてテーブルの上で宝石がかき集められているような音を聞いていた。
「あんな暗い中で、人にぶつからずにそんなことができますか?」
「ぶつかったかもしれない。あの女の子が『胸に誰か触った!』と騒いでいただろう」
「じゃあ、あれが――」
「しかし、いずれにしても、あの短時間ですり換えてしまうためには、暗視装置が必要だろう。そうなると、よほど計画的に違いない」
和子が心配そうに、
「旦那様を|招《よ》んだのは、たまたまでしょうか?」
「分らん」
と、久野原は首を振った。「しかし、こんな所で|濡《ぬ》れ衣を着せられちゃかなわんよ」
「どうなさいます?」
「急用で、日本へ帰る」
と、久野原は言った。
「明朝一番でですか」
「今夜中だ」
久野原は窓の外に広がる、チューリヒの夜景を見ながら、そう言った……。
ホテルのロビーへ入って行くと、久野原はフロントの係を呼んだ。
すぐに、日本語を達者に話すコンシェルジュがやって来た。
「実はね、急な用事ができて、急いで発ちたい」
と、久野原は言った。「部屋代は取ってもらっていい」
「さようですか」
と、コンシェルジュは大して驚いた様子もない。
大体、金持というのは変っているものなのだ。
「久野原僚様でございましたね?」
「うん、そうだ」
「メッセージが届いております」
と、すぐに封筒を持ってくる。
久野原は中のメッセージを一目見て、一瞬、目を見開いた。そして、
「分った。明朝一番早い直行便で日本へ発つから、二人分、手配してくれ」
「かしこまりました」
「よろしく」
久野原と一緒にエレベーターへ向いながら、
「今夜、発たれるんじゃないんですか?」
と、和子は|訊《き》いた。
「気が変った。いかにも逃げているみたいで|却《かえ》って怪しまれるだろう」
久野原はメッセージの封筒を、タキシードのポケットへ押し込んだ。
「では明朝は……」
「直行便の時間を知らせてくる。それで逆算して起こしてくれ」
「分りました」
あの〈メッセージ〉には、何か久野原の気を変えてしまうものがあったのだ。
和子は、ちゃんと承知していた。
6 空 港
「久野原のおじさま[#「おじさま」に傍点]!」
と言うなり、木村涼子が、朝食をとっていた久野原の|頬《ほお》へチュッと唇をつけた。
「年寄は心臓が弱いですから」
と、和子が真顔で言った。「あまり朝からショックを与えないで下さい」
「ゆうべのお礼を、と思って」
と、涼子が笑って、「|凄《すご》く楽しかった!」
「それは良かったね」
と、久野原はパンをちぎって、「他の二人はどうしたね?」
「今、来ます。いつも私が一番寝坊なのに、今朝はトップ」
と、涼子が言って、「あ、来た!――遅いよ!」
「朝っぱらからお気の毒よ」
と、美鈴がやって来て、「ゆうべはありがとうございました」
「帰りは何時ごろになったんだね?」
「パーティの後、八木さんが、特に親しくしてらっしゃるお客様をバーへ誘われて、私たちにも声をかけて下さったんです。つい調子に乗ってついて行っちゃって――」
「でも楽しかった!」
と、涼子は言って、「ね、ゆかり?」
関口ゆかり一人が二日酔らしく、
「大きな声、出さないで……」
と、情ない顔で、「頭が痛い……」
「あのね、やめとけって言ったのに、ガンガン飲むからよ」
と、涼子は同情する気配もない。
「コーヒー飲んで、朝食をとるのよ」
と、美鈴がゆかりの肩を|叩《たた》いて言った。
「美鈴君」
と、久野原は呼び止めて、「実はね、急な用で帰国することになった」
「え? そうなんですか」
「短い間だったが、楽しかったよ」
「はい、本当に私たちも……」
と、美鈴は言いかけて、「じゃ、飛行機で?」
「うん。直行便が正午前にあるから、それで帰る」
「私、|叔《お》|母《ば》を迎えに行きます。お見送りさせて下さい」
「それはありがとう」
「じゃ、後で」
美鈴が、二人の待つテーブルへと元気良く歩いて行く。
「|旦《だん》|那《な》|様《さま》。――そんなにのんびりしていてよろしいんですか?」
「警察が来るなら、もうとっくに来ているさ」
と、久野原は言った。「卵をベーコンエッグにしてもらってくれ」
「かしこまりました」
と、和子が立って行く。
黙っていると、卵が二つのベーコンエッグができてくるので、和子が「卵は一つ」と念を押している。
「――おはようございます」
富田美津子が、八木と一緒に入って来た。
八木は上機嫌な様子で、久野原に会釈すると、あの三人のテーブルへと向った。
――久野原は、空になったコーヒーカップを手に、料理の並んだテーブルの端のコーヒーポットを手にした。
「久野原さん」
美津子がそばへ来て、「今日お発ちになるって、あの子たちが。本当ですか」
「ええ。実は入院している弟の具合が悪いとゆうべ連絡があって」
「まあ、そんなことが……」
「あの三人には、急な用で、とだけ話して下さい」
と、久野原は笑顔で言った。
席へ戻ると、
「いつの間に弟さんがおできで?」
「それが一番納得できるだろ。――さあ、食事がすんだら、早速支度だ」
「もうとっくにすんでいます」
と、和子が言った。「ご本人を詰めれば終りです」
久野原は苦笑して、コーヒーをゆっくりと飲んだ。
「――ではお先に」
と、八木たちのテーブルへ声をかけて、レストランを出る。
ロビーに出て、久野原は足を止めると、
「警察だ」
と、和子へ小声で言った。
しかし、相手をしているコンシェルジュは、久野原の方を見ようとしていない。
ということは、久野原のことを捜しに来たわけではないのだ。
「――どうなさいます?」
「予定通り発つさ」
と、久野原は言った。「後で誰が捕まっても、こっちには関係ない」
と行きかけたとき、
「トミタ」
という名が聞こえて、久野原は足を止めた。
「――美津子さんのことでしょうか?」
「さあ……」
さすがに、気にかかって、ロビーの隅に立っていると、美津子が呼ばれてやって来た。
刑事らしい男が、美津子に話しかける。
久野原たちの所まで、話は聞こえて来なかったが、突然美津子が声を上げてよろけた。
久野原が急いで駆け寄ると、
「しっかりして!」
と支えた。
「すみません……。ちょっと――今――」
と、真青になった美津子が口ごもると、
「もしかして、弟さんのことかね?」
「弟を――ご存知でしたか?」
「君を撃った後で、隠れていたのに出会ったんだ」
「そうでしたか……」
「君のことを心配していた。大したけがじゃないと分って、ホッとしていたよ」
「あの子が……」
「死んだのかね?」
「撃たれていたのが見付かって、それがあの子じゃないかと……」
美津子は、何とか立ち直ると、「大丈夫です。申しわけありません」
「誰かついていた方が……」
「いえ。――とりあえず、弟かどうか、確かめに行きます。私、一人で大丈夫です」
美津子は刑事に、雇い主に断ってくるから、と言って、レストランへと戻って行った。
「――お気の毒に」
と、和子は言った。
「何かありそうだな。ゆうべ、あのパーティで、どうしてボーイに|扮《ふん》して潜り込んでいたのか」
久野原は首を振って、「これ以上係り合うのは危険だ。行こう」
と、歩き出した……。
「――久野原さん!」
チューリヒの空港で、久野原と和子がチェックインしていると、美鈴がやって来た。
「やあ、|叔《お》|母《ば》さんはどうしたんだい?」
「そろそろ着くと思うんですけど。――他の二人も向うにいます」
「そうか。じゃ、いい旅を」
「はい」
そこへ、涼子とゆかりの二人も駆けて来た。
「日本へ帰ったら、ご飯おごって」
と、涼子は図々しく注文している。
「帰ったら、連絡しておくれ」
と、久野原は言った。「この後の旅の話も聞きたいしね」
「一対一はだめです」
と、和子が言った。
「お目付役がいる。三人一緒においで」
と、久野原は言った。「では、我々は中へ入るよ。気を付けて」
「はい!」
美鈴は|微《ほほ》|笑《え》んで|肯《うなず》いた。
久野原たちが、手持ちのバッグをさげて、出国の入口へ行きかけると、
「美鈴ちゃん!」
と、女の声が飛んで来た。
「叔母さん!」
美鈴がびっくりして、「まだ時間じゃないと……」
「早く着いたのよ、二十分も」
と、その女性は言った。
五十歳前後の、上品な物腰。明るい笑顔は、美鈴と似ていた。
「叔母さん、この方、電話で話した、久野原さん」
と、美鈴が紹介した。「急用で帰られるんですって」
「まあ、残念ですわ」
と、その女性は言った。「|秋《あき》|月《づき》|沙《さ》|織《おり》と申します。美鈴がお世話になったそうで」
「いやいや、こちらも楽しませていただきました」
と、久野原は会釈した。「もっとのんびりしたかったのですが、よんどころない事情で」
「私も、一年の三分の一は日本へ帰っております」
と、秋月沙織は言った。「日本ででも、またお目にかかれれば」
「そうですな」
久野原はにこやかに言った。「では、我々はこれで」
「ごめん下さい」
秋月沙織は微笑んだ。
――パスポートコントロールの窓口に並んで、和子が言った。
「ご存知の方なんですか?」
「どうしてだ?」
「あの方を見る目が、普通じゃありませんでした」
「気のせいだろ。向うがこっちへ|一《ひと》|目《め》|惚《ぼ》れしたのかもしれんな」
「冗談もほどほどに。――ほら、次ですよ」
「分ってる」
口うるさい和子だが、これですっかり慣れてしまっている。
――口に出したくないことというのがあるものだ。たとえ、家族同様な相手であろうと。
久野原にも、言いたくないことがあった。
たとえば、秋月沙織が、遠い昔に恋人だった、というようなことが……。
「――まだお時間がありますが」
と、和子が免税店の前で足を止めて、「少し、買物をしていて、よろしいですか?」
「構わんよ。みやげを買って行く相手がいたのか」
「デリカシーに欠けたお言葉ですこと」
と、和子は澄まして言った。
「荷物をかせ。――そこのカフェに入ってる」
「では、遠慮なく」
久野原は、和子のバッグを受け取ると、ちょうど免税店の向いにある、カウンター式のカフェのスツールに腰をおろした。
レモンスカッシュを頼んで、特に、
「ウィズ・アイス」
と、強調した。
ヨーロッパでは、「アイス」でも、めったに氷を入れることはない。冷たいジュースがほしくても、出てくるのは、ぬるい[#「ぬるい」に傍点]ジュース、ということが多いのである。
氷がほしいときは、ちゃんとそう注文しなくてはならない。
グラスが来て、手に取ると、確かに氷は入っているが、三つ、四つ。置いておけば、じきに溶けてしまうだろう。
一口飲むと、まだ冷たくない。カウンターに少し置いておくことにした。
――妙な旅だった。
日本での厄介事から逃れるつもりが、|却《かえ》って新しい厄介事を抱えてしまうことになりそうだ。うまく忘れてしまえればいいのだが。
泥棒として過した日々。盗みそのものが楽しくて、刺激を自ら求めたこともある。
しかし、今、五十八という年齢は、穏やかな安らぎを求めていた。――虫のいい話? そうかもしれない。
だが、少なくとも、事を荒だてないだけの知恵は身につけたつもりだ。人生、それだけですむわけでないこともよく承知しているが……。
美鈴から久野原のことを聞いた秋月沙織が「会いたい」とメッセージを送って来ても、チラッと挨拶だけして別れて来た。これも「安らぎ」を求めてのことだろうか。
――和子がビニール袋をさげて、免税店から出て来た。
「お待たせしました」
「もうすんだのか? 氷も溶けてないよ」
「何かお買いになりますか? 若い『彼女』へ、香水でも?」
「雇い主をからかってどうする」
と、苦笑して、久野原はグラスを再び手に取った。
「こんなに早く帰って、どう思われますかね」
「どうも思わんよ。世間の人はそれほど暇じゃない」
久野原はグラスを持った手を止めると、「――何も買わないのに、みやげ[#「みやげ」に傍点]ができたようだ」
と言った。
「何のことです?」
「見ろよ」
氷の大部分溶けたレモンスカッシュのグラスを持ち上げて見せる。「――氷が一つ、溶けずに、しかも浮かびもしないで、底に沈んでいる」
「本当に」
「物理の法則には合わないね」
久野原は、一気にグラスを空けると、中から、その「氷」を取り出した。
「それは……」
久野原は黙ってハンカチを取り出すと、それをていねいに|拭《ぬぐ》った。
そして、てのひらにのせて、
「――ダイヤモンドだ」
と言った。
「本物ですか?」
「うん、大きさと重さの感じからいって、間違いなく本物だろう」
「でも、なぜ――」
「誰かが、このグラスへそっと沈めたのさ」
カウンターに座る客を見ても、むろん、その「誰か」は姿を消しているだろう。
「プレゼントにしては妙だ」
「ボディチェックで見付かると――」
「心配するな。といって、ここへ捨てていくわけにもいかないだろう」
と、久野原は、忙しく旅行客の行き来する通路を見渡した。「|罠《わな》じゃないだろう。もし、僕を引っかけるためなら、何もこれ[#「これ」に傍点]を使う必要はない」
「そんなに大きなダイヤモンドは――」
「うん。まず間違いなく、八木春之介の屋敷から盗まれたことになっている、〈月のしずく〉だよ、これは」
久野原はスルリとその石[#「石」に傍点]をポケットへ滑り込ませると、立ち上った。「――さて、そろそろ搭乗口へ行こうか」
「はい」
久野原は、帰りの便での食事に何が出るか考えながら、和子と並んで歩き出した。
――空港は、いつもと少しの変りもなく、にぎわっていた……。
7 ときめき
何度も指先がポケットの中の小さな箱を探っていた。
そこにあることは、百パーセント確かだと分っているのに、ものの十分とたたない内に、また右手はポケットの中へそっと忍び込むのだった。
「暑いんですか?」
と、彼女[#「彼女」に傍点]は言った。
「いや、少しも」
「でも、汗をかいてらっしゃるわ」
「ああ……。何しろ太っていると、何をしていても、汗が出るのさ。――懸命に食べてるんでね」
|山《やま》|倉《くら》|建《けん》|吉《きち》はそう言って笑った。
――二人での食事も、もう五回めになる。
初めは、自分より三十も年下の女の子をどこへ連れて行っていいか分らず、やけにうるさいイタリアンの店で食事して、互いに大声を出さないと話ができないので、食事がすんだときには、|喉《のど》がかれてしまっていた。
それにこりて、次から山倉は|幸《ゆき》|子《こ》をあくまで自分がいいと思った店に連れていくことにした。――といっても、山倉は出張も多く、忙しく飛び回り、幸子もアルバイトしながら大学へ通う身で、初めの内、月に一回、都合が合えばいい方だった。
だが、今月はまだ半月もたたないのに二回会っている。――時間を無理にひねり出し、妻に怪しまれる危険を犯しても、山倉はもっともっとひんぱんに会わずにいられなくなっていた。
五十五になって恋をしている?――それは山倉自身、驚きだった……。
「――このお店、好きだわ」
と、ごく普通のセーター姿の|天《あま》|野《の》幸子は言った。「もちろん、連れてっていただく、どのお店もおいしいんですよ」
と、急いで付け加える。
「そう言ってくれると|嬉《うれ》しいよ」
「だって……自分じゃ、絶対に行けないお店ばかりですもの。一生、足を踏み入れることもないと思ってた……」
幸子は、英国の王朝風の内装を見回しながら、「私のお付合いする人だって、こんな場所とは縁がないだろうし」
「人間、分らないさ。十年後には、君がここの常連になって、僕が無一文で道端で寝ているかもしれない。この時期じゃ、凍死しちまうかな」
と、山倉は笑って言った。
「山倉さん……。ご商売がうまくいかないんですか? それなのに、こんなぜいたくさせていただいて――」
「冗談だよ! そうなったら、いくら僕でも君を連れ出しやしない」
レストランの小さな個室。
運良く、ここが空いていた。――それも今の山倉にとっては、何か「運命的」なことに思えるのだ。
「――おいしかった」
メインの料理が下げられていくと、幸子はナプキンで口を|拭《ぬぐ》った。「ちょっと失礼します」
バッグを手に、席を立った幸子が個室から出ていくと、山倉は大きく息をついて、
「しっかりしろ! 何てざまだ」
と、自分へ文句を言った。
ハンカチで汗を拭く。――今の内に、出しておこうか。
ポケットから、リボンをかけた小さな包みを取り出す。
あんまり指先で触っていたので、リボンが妙な形になっている。山倉はせっせとリボンの結び目を直した。
ドアを軽くノックして、
「失礼します」
と、ウエイターが入って来る。「デザートをお持ちしてよろしいでしょうか」
山倉はあわてて包みをまたポケットへ戻した。
「あ……今、ちょっと――」
「お戻りになられてから、ワゴンでお持ちいたします」
「ああ。――待ってくれ」
と、呼び止めて、「ちょっと大切な話があるんだ。すんだら声をかけるから、それまで待ってくれ」
「かしこまりました」
表情一つ変えずに出て行くウエイターを見送って、山倉は苦笑した。
こんな五十五の男が、二十歳そこそこの女の子に「大切な話」か。――あのウエイターはどう思っただろう。
あの|年《と》|齢《し》で、大学生の女の子を口説こうっていうんだぜ。いい気なもんだよ!
仲間と、そんな話でもしているのか。
好きにしろ。|俺《おれ》にはあの子だけが大切なのだ。
――山倉は、百キロの肥満体で、我ながら鏡に見とれた記憶はない。これで若い女の子にもてるとは思っていない。
それでも、妻の|信《のぶ》|代《よ》の目を盗んで、何度か浮気をしたことはあった。長く続きはしなかった。宝石商の名門に生れたとはいえ、店の宝石を持ち出してプレゼントする、などという真似はできないのだと知ると、相手は早々に去っていった。
正直、五十を過ぎて、山倉は「女」に関心が持てなくなっていた。
そんなとき……朝、始業前に店とオフィスの掃除に入っている天野幸子に会ったのである。
白い三角布を頭に、汗を額に光らせながら、一心に社長室の机を|拭《ふ》いている姿は、山倉の胸に、久しく忘れていた、少年時代のようなときめきを覚えさせた。
山倉は、たいていの従業員より早く店に着いている。八時前には掃除が終り、幸子たちは引き上げていく。
幸子の他に、主婦のアルバイトらしい女が三人ほど。――店のショーケースのガラスをみがき、大理石の床を拭くだけでも相当な手間だ。
|頬《ほお》を赤く染めて、汗だくになって掃除している幸子に、山倉は心をひかれた。
そして、店に出るのを十分早くした。山倉は、自分の机を拭いている彼女に、何気ない様子で声をかけた……。
それは、山倉にとって未知のときめき、初めて出会う「恋」なのだった。
山倉はさらに五分早く出勤し、幸子と世間話をするようになった。――そして、夕食に誘った。
「――失礼しました」
幸子が個室へ戻って来た。
「――幸子」
「はい」
「これ[#「これ」に傍点]を受け取ってくれ」
テーブルに置かれた小さな包みのリボンは、またつぶれてしまっていた。
「――何ですか?」
「開けてみてくれ」
幸子はていねいにリボンを外し、包みを開けた。
ビロードのケースを開けると、一目見て、
「わあ……」
と声を上げた。
「珍しいルビーなんだ。血のような色をしてるだろ」
幸子は、そのネックレスの銀の鎖を切らないように、そっと指に絡めて取り上げた。
「つけてみてくれ」
幸子は言われた通りに、ネックレスの金具を外し、首の後ろでとめると、その鮮紅色の石は、プラチナの台座の中で、|妖《あや》しく光を吸い込んだ。
「――すてきだ」
と、山倉はため息をついた。
「でも……このセーターじゃ」
幸子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「そんなことはない。宝石を活かすも殺すも、身につける人間次第だ。君にとっては、困るプレゼントかもしれないが、どうしても君に持っていてほしいんだ」
幸子は、しばらく黙っていた。――すぐに突っ返されるかと思っていた山倉は、ともかく胸をなで下ろした。
「――ありがとうございます」
と、幸子は頭を下げた。
「受け取ってくれるか」
「お預り[#「お預り」に傍点]します。今の私は、とてもこれを身につける資格も服も持っていませんけど、いつか、この石にふさわしい女になれたら……」
「君は充分にふさわしいよ」
と、山倉は言った。
「山倉さん……」
と言いかけて、幸子はドアの方を気にすると、「お店の人に見られたら……」
「呼ぶまで来ないように言ってある」
「じゃあ……」
幸子は席を立つと、山倉の方へとテーブルを回ってやって来た。
「――何だい?」
幸子が身をかがめて、山倉の唇に唇を重ねた。――山倉は、夢を見ているのかと思った。その少し湿った柔らかい唇は、この世のものとも思えなかった。
「――君、無理をして……」
「山倉さんのお気持は分ってました」
と、幸子は言った。「でも、私はそれにふさわしい女じゃない、と自分へ言い聞かせて来ました」
「幸子……」
「でも、このネックレスを見て――。大切なお店の宝石でしょう? これを下さるなんて、山倉さんが決して遊びのつもりで私と付合っておいでなんじゃないと分りました」
「むろんだ。しかし、君は若い。こんな太った中年男に……」
「愛してます」
と、幸子が言って、山倉は|頬《ほお》をさらに紅潮させた。
「――今、何と言った?」
「もう一度聞きたいですか」
と、幸子は微笑んだ。
「ああ、聞きたい」
「じゃ、ホテルのベッドの中で」
山倉はポカンとして、幸子の恥ずかしそうな笑みを見ていた。
「僕は――」
「少しご帰宅が遅くなっても良ければ、私を山倉さんのものにして下さい。――決してお宅へご迷惑はかけません。愛して下さってると信じられれば、それでいいんです」
「――分った」
山倉は、幸子の手をしっかりと握った。「君を泣かせるようなことはしない」
「|嬉《うれ》し泣きなら構いませんわ」
と、幸子はもう一度かがんでキスすると、
「でも、その前に……」
「何だ?」
「デザートを選んでもいい?」
と、幸子は笑顔で言った。
ウエイターがコーヒーを注いでいるところへ、電話を入れた山倉が戻って来た。
「――電話しといた」
と、席について、「遅くなっても大丈夫だ。それに……部屋も取った」
「ありがとう」
「おい、これで――」
と、山倉がカードを渡すと、ウエイターが、
「かしこまりました」
と、出て行く。
「――この近くがいいと思ったんで、Sホテルにした」
「まあ。高いんでしょ?」
「一泊分払うから、君は泊って行くといい」
「ありがとう。じゃ、そうしようかな。朝、お掃除に行くの、楽だし」
「幸子、それぐらいの費用は持ってやる。掃除はやめて、大学の勉強に打ち込んだらどうだ?」
「いいえ、私、生活を山倉さんに頼ってしまうのはいやなの。――こうして時々会っていただければ、それで満足」
幸子は、ルビーのネックレスを外して、ケースにしまっていた。そのケースを取り上げて、
「これは決して手放しません。もし、山倉さんと別れなきゃいけない時が来ても」
「僕と別れる?」
「もし、奥様に知れたら。――離婚するなんて、おっしゃらないでね」
「幸子……」
「私は、『恋人』のままでいいんです」
「しかし……」
「今はデザートを食べてしまいましょう。アイスクリームが溶けちゃうわ」
と、幸子はスプーンを手に取った。
「――もしもし」
レストランのマネージャーは、店の電話を使っていた。「――あ、奥様」
「主人から、今夜遅くなると言って来たわ」
「ご主人は今、Sホテルを予約なさっておいででした」
「Sホテル……。まだお店に?」
「じき出られると思います」
「ありがとう」
山倉建吉の妻、信代は、怒りを押し殺した声で言った……。
8 不名誉
フロントの主任は、その人妻の燃えるような|嫉《しっ》|妬《と》の視線を受け止めきれなくなっていた。
「何とおっしゃられましても……」
と、同じ言葉をくり返す。「私どもとしては、お客様のどなたがどの部屋へお泊りかお教えすることはできないのです」
「私の夫ですよ」
と、山倉信代は言った。「妻が夫のいる部屋を|訊《き》いて、何が悪いの?」
「奥様……。私も、奥様のお話を疑うわけではございません」
と、主任は額に汗を浮かべながら、「お立場にはご同情申し上げます。しかし――」
「同情なんか結構!」
と、はねつけるように、「私は妻として当然の要求をしているのよ。そうじゃない?」
「よく分ります。しかし、私どもにも、立場というものがございまして……」
「『私ども』は忘れて」
「――は?」
「『私ども』じゃなくて、『私』に訊きたいの。あなたが、個人として夫の泊っているルームナンバーを教えてくれればいいの」
「奥様、それは……」
「できない?」
「私はSホテルの人間です」
――山倉信代は、Sホテルのフロントの奥にある応接室にいた。
フロントで、「夫が若い女と泊っている部屋はどこ?」と訊いたが、教えられない、と拒まれたのだ。
信代にも、ホテル側の言い分はよく分っていた。
確かに、問われるままに、誰がどの部屋に泊っていると教えることはできないだろう。しかし、信代は何としても知らねばならなかった。
「いくら払えば、教えてくれる?」
ズバリと訊く。
「とんでもない! そんな――」
「あなたが教えてくれたことは、決して口外しないわ。約束します」
「そうおっしゃられても……」
「十万? 二十万?――現金、あるだけ差し上げてもいいわ」
バッグから、分厚い札入れを出して、テーブルに置く。「さあ、取って。――好きなだけ」
相手の動揺を、信代は見てとっていた。
「どうかご勘弁下さい。――お客様に『問い合せに答えるな』とおっしゃられれば、そうせざるを得ません」
「大丈夫。夫は、必ず後悔することになるわ。ホテルを訴えたりする心配はありません」
と、信代は言った。「それに、少なくとも、夫がこのホテルへチェックインしたことは認めてるじゃないの。それ自体も、やってはいけないことのはずでしょう?」
主任はハンカチを出して汗を|拭《ぬぐ》った。
「そうおっしゃられると……」
「私はね、色んな業界のトップの方たちに顔が広いの」
「よく存じております」
「じゃ、その方たちに、『Sホテルはラブホテル並よ』と言って回ったら、どう? このホテルの評判は落ちるでしょうね」
主任の顔が青ざめた。
「――あなたがその責任を取ることになるかも」
「そんなことは……」
「どうしても教えてくれないのなら、それでもいいわ」
信代は最後の一撃を用意していた。「やり方はある。エレベーターで最上階まで上って、片っ端から、ドアを|叩《たた》いて行くわ。何百室あっても、必ずその内に夫のいる部屋に当るでしょ。それまでに、他の部屋の客から、苦情が殺到するでしょうけどね」
「そんな無茶を――」
「私はやるわよ」
そう。――やるとも。しかし、これで相手は屈伏してくると思っていた。
「――私の負けです」
と、主任は言った。「お教えしますが、何とぞ――」
「外には|洩《も》らしません」
と、信代は言った。「ありがとう。よくものの分った方ね」
札入れから一万円札を七、八枚取り出し、テーブルに置く。
「奥様、いただけません」
「チップよ。――そう思えば気にしなくてもいいでしょ」
主任が、その札をポケットへ押し込むのを見て、信代は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「山倉様のお部屋は、〈1205〉です」
と、主任は言った。
ドアを叩く前に、少し中の様子をうかがった。
もしかして、その若い女と「楽しんでいる」最中かと思ったのだ。――が、耳をドアに当ててみても何も聞こえなかった。
信代は、なぜかホッとした。
その最中[#「その最中」に傍点]に邪魔してやる方が、夫には応えたかもしれない。しかし、その一方で、夫に若い女を歓ばせるだけの余裕[#「余裕」に傍点]があると知るのは、辛いことだった。
それに、信代は五十三歳だ。人の情事を|覗《のぞ》き見るようなことを「はしたない」と思うように育って来ている。
大きく息をついて、信代は〈1205〉のドアを叩いた。
二度、三度。――中であわてている気配もない。声もしなければ、バタバタと服を着ている音もしない。
もしかして、二人で出てしまったのか?
信代が、不安を感じたとき、ドアが中から開いた。
若い女が立っていた。――白い裸身をさらして。
一瞬、信代の方が、真赤になって、
「みっともない!」
と、怒っていた。「何か着なさい!」
「あの……」
「山倉がいますね」
と、中へ入って、「私は山倉の家内よ」
信代は、若々しく、つややかなその娘の裸体に、ちょっとの間、見とれていた。
|呑《のん》|気《き》な、と言われそうだが、息子しかいない信代にとって、若い娘の体をこんなに間近に見るのは、軽い衝撃だった。
この体が、夫に抱かれていたのだ。――いざ目の前にすると、|却《かえ》って怒りはスッとひいて、むしろ、どうしてこんな|可《か》|愛《わい》い子があの人に抱かれる気になったのか、と思ったりした。
「はい。――すみません」
と、娘はソファにかけてあったバスローブをつかむと、急いではおった。
セミスイートの部屋で、ベッドルームは奥だった。
「主人は? あわてて服を着てるの?」
「あの……それが、おかしいんです……」
娘はなぜか|呆《ぼう》|然《ぜん》とした様子で、「ご様子が……変なんです」
「何ですって? どういうこと?」
「私……ウトウトしてしまって……。目がさめてみると、山倉さんが動かないんです。呼んでみたんですけど、ご返事もないんです……」
娘の口調は単調で、夢でも見ているのかと自分で疑っているかのようだ。
「主人が……目をさまさないの? そういうこと?」
「はい……。私、どうしようかと思って……」
信代は、|大《おお》|股《また》に奥のベッドルームへ入って行った。
ベッドの傍の明りだけが|点《つ》いている。信代は部屋の明りを点けた。
広いベッドに、腰まで毛布をかけた夫が寝ていた。
「あなた。――あなた」
信代は、歩み寄って、「起きなさい」
体を揺すってみた。
夫は眠っている。きっとそうだ。
目を閉じて、いつもの通りの寝顔を見せている。
「あなた……」
信代は、ベッドに腰をかけると、夫の手首を取った。脈を探る。太った手首は、ひどく重かった。
どこにも命の脈動は感じられなかった。
「――起きられましたか?」
あの娘が、こわごわ|覗《のぞ》いている。
「あなたが目をさまして、どれくらいたつの?」
「ついさっき……。五、六分だと思います」
信代は、ベッドに上って、夫の胸に耳を当てた。
汗がひんやりと冷たい。――そして、肌はまだぬくもりを保っていたが、心臓はすでに動きを止めていた。
「奥様……」
「死んでるわ」
と、信代は言った。
「そんな……」
娘は、床にペタッと座り込んでしまった。
信代は、取り乱すにもあまりに突然のことで、却って冷静だった。
「太り過ぎと言われてたのよ」
と、信代は言った。「お医者様から、何度も注意されてたわ。――少しやせろ、と」
もう手遅れだ。信代は、医者を呼ぼうという気にもなれなかった。
「フロントへ知らせましょう」
と、娘が言った。「救急車を呼んでもらって――」
「余計なことを言わないで!」
と、|叱《しか》りつけるように言って、信代は、すぐに、「ごめんなさい。心配してくれるのはありがたいけど、もうむだだわ」
どうしてこの娘に謝ったりするんだろう。――我ながら妙な気がした。
確かに、本当ならこの娘の言うように、フロントへ連絡し、医者を呼んでもらうべきだろう。
しかし、それは夫がホテルの一室で死んだことを、公にすることである。
山倉宝石の社長が、ホテルのベッドで心臓発作を起し、死亡。――都内のホテルに、どうしてわざわざ泊っていたのか、あれこれと|噂《うわさ》が立つのは避けられない。
それだけは何としても止めなければ。
「奥様……」
娘は床に座って、両手をついた。「申しわけありません。こんなことになってしまって……」
と、声を詰らせる。
信代は、ソファにゆっくりと腰をおろした。
「――あなた、名前は?」
「天野……幸子です」
「主人とはいつから?」
「あの……」
と、口ごもって、「お付合い……というか、食事をおごっていただいたりするようになって、三か月ほどです。でも――こうなったのは今夜が初めてです」
「今夜が?」
「はい。こんなこと、しなければ……」
と、声が消え入るように途切れる。
「主人には、あなたは若くて元気すぎたのね、きっと」
と、信代は言った。
「私が……私の方がお願いしたんです。無理を言ってしまって――」
「今さら、そんなことを言っても手遅れよ」
「はい」
「――天野幸子といった?」
「はい」
「服を着なさい。――何ならシャワーを浴びて。私は向うの部屋にいるわ」
と、立ち上る。
「でも……」
「今さら焦っても仕方ないわ。これからどうするか、少し考えたいの」
「はい……」
信代が、リビングの方へ戻って、大きなソファに腰をおろすと、ベッドルームの奥のバスルームから、シャワーの音が聞こえて来た。
思いの他地味な服装の幸子が現われると、
「私の言う通りにして」
と、信代は言った。
「はい」
「主人を家へ連れて帰るの。手伝ってちょうだい」
幸子は当惑したように、
「でも……」
「重いから、車まではここのフロントの人に手伝ってもらう。でもその為に、主人に服を着せるのよ。――二人でもきっと大変だわ」
「でも、奥様――」
「死んだ人は戻らないのよ。でもね、世間の目ってものがあるの。こんな所で、若い女と寝ていて死んだなんて、絶対に知られてはいけない。分る?」
「――はい」
「主人は自宅で死んだことにするわ。お医者さんは、昔からの知り合いの方がいらっしゃるから、死亡証明書を作っていただける。――あなたはこのことを誰にも話さないこと。分った?」
「はい」
「じゃあ、手伝って」
と、信代は立ち上った。
「永遠に終らないかと思った……」
汗が全身からふき出すような勢いである。
信代も、しばらくは口をきく元気がなかった。
幸子は、寝室の床のカーペットに座り込んで息を切らしている。
ホテルのベッドから、自宅のベッドへ。――それは無限とも思える遠さだった。
しかし、ともかく何とか運んで来たのだ。
Sホテルでは、あのフロントの主任がいたので、大分楽だった。服を着せるのは大変だったが、そこから駐車場の車までは、フロントの主任が、備え付けの車|椅《い》|子《す》を使ってやってくれた。
信代は念入りに口止めしておいた。
もちろん、こんなことが発覚したら、主任はクビだろう。――|洩《も》れる心配はなかった。
車で、自宅まで来て、ガレージに車を入れ、そこから自宅の中へ運び入れ、寝室へ運んで――二階だった!――ベッドへ寝かし、服を脱がせて、パジャマを着せる。
それだけの作業[#「作業」に傍点]に三時間もかかってしまった。
女二人、それも五十代の信代では、いくら力を出しても知れている。考えてみれば、階段を上って来られたのが奇跡のようなものである。
――信代も、しばらくベッドに腰をおろして、声も出ずにいたが、三十分近くたってから、やっと、
「下で休みましょう」
と、幸子に言った。
階段を下りようとしても|膝《ひざ》がガクガク震え、転り落ちないように、手すりにしがみつかなければならなかった。
居間で幸子が休んでいると、信代が紅茶を|淹《い》れて来た。
「奥様――」
「いいのよ」
信代は、暖い口調になっていた。「お疲れさま。――これを飲んで」
二人は、一緒に「大仕事」を終えた、という共通した感情が、妙な親近感へと変っていたようだった。
「後は、私がやるわ」
と、信代は言った。「もう朝になるわね」
冬なので、朝が遅く、まだ外は暗いが、確かに時間からいえば早朝、五時に近かった。
「ご迷惑をおかけしました」
と、幸子は頭を下げた。
「すんだことよ」
と、信代は言った。
「でも……悲しいと思われないんですか」
「悲しい? そうね。――今はまだ。お葬式にでもなれば涙が出るかもしれないわ」
信代は、ちょっと二階へ上る階段の方へ目をやって、「いつも、あれを上るだけでハアハアいってたわ」
「私にはとても親切にして下さいました」
「まあね、若くて|可《か》|愛《わい》い女の子には、いくつになっても男はやさしいわよ」
幸子は、紅茶を飲み干して、
「ごちそうさまでした」
と、腰を上げた。「もう……失礼してもよろしいでしょうか」
「ちょっと待って」
信代は立ち上ると、居間を出て行き、五、六分して戻って来た。
「――これをあげるわ」
ブローチだった。バラを形どって、ダイヤモンドがちりばめられている。
「とんでもありません! こんな立派な物……」
「いいの。主人のことを、たまには思い出してやって」
と、幸子の手にのせる。「――幸子さん。あの人、どうだった?」
「どう、って……」
「あなたを抱いて、ちゃんとできたのかしら」
「――はい」
「そう。じゃ、本人は本望だったでしょうね」
と、信代は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「じゃ、気を付けて帰って」
「はい……。ありがとうございます」
幸子を表の門まで送って、信代は、
「これを真直ぐ行くと大通りだから。地下鉄もそろそろ動くでしょ」
と、教えてくれた。
幸子は、改めて|詫《わ》びてから、息が白く渦巻く、冬の道を歩き出した。
――背後で門が閉る。
幸子は足を止めて振り返った。――何だか複雑な表情で、信代がくれたブローチを取り出してみる。
肩をすくめて、
「重労働だったんだから、もらってもいいか……」
と、|呟《つぶや》く。
そして幸子――木村涼子[#「木村涼子」に傍点]は、タクシーを拾おうと足どりを速めて、広い通りへと急いだ。
タクシー乗場はすぐにあったが、今は空車がいない。
仕方なく待つことにして、涼子はバッグから携帯電話を取り出した。
「――もしもし」
と、寒さに首をすぼめながら、「――涼子です。すべて予定通りに終りました。――|凄《すご》く重くて、大変でしたよ!――はい。帰って、眠ってからでいいですか?――分りました。それじゃ夕方に」
電話を切って、涼子は息をついた。汗がひいて寒気がする。
――こんな時間に、どうして空車がないの? 涼子は寒さが段々身にしみて来て、腹が立って来た。
汗をかいて、そのまま、冬の朝まだきの寒さの中へ出て来たのだ。風邪ひいて熱出したら、どうしよう……。
すると、車が一台、タクシー乗場の立て札の前で待っている涼子のそばへと寄せて来て停った。
涼子は当惑していたが、運転席の窓が下りると、
「あれ……」
と、笑顔になった。「乗っていい?」
相手が黙って|肯《うなず》く。
「助かった!」
涼子は助手席のドアを開けて、乗り込んだ。
「このままじゃ、風邪ひいちゃうと思って、どうしようかと……」
車は走り出した。――まだ暗い冬の朝の道を、車は百キロ近いスピードで走って行った。
涼子は、山倉を運んでくるという大仕事で疲れ切っていたのと、車の中が暖いので、たちまち心地良さに目がトロンとし始め、眠りそう、と思う間もなく眠っていた。
車が、ガクンと揺れて、涼子は目をさました。
「ああ……。寝ちゃった!」
日射しが、寝起きの目にまぶしい。
「――ここ、どこ?」
窓の外を見て、涼子は面食らって言った。
山道としか見えない、雑木林の中だ。
「マンションに戻るんじゃないの?」
と|訊《き》いたが、運転している人間は無言で、車を道の傍へ寄せて停めた。
「こんな所で何を……」
と言いかけた涼子は、目にした物が信じられなかった。――これ、何?
「それ、モデルガン?」
と、涼子は訊いた。
9 黒い葬列
「物好きですね」
と、田中和子は仏頂面で言った。「どういう関係だったのかって訊かれたら、どう説明するんです?」
「心配するな」
久野原は車を走らせながら、「葬式の客に、いちいちそんなことは訊かない」
「ですが……」
「山倉宝石には、多少|儲《もう》けさせてもらったからな。|冥《めい》|福《ふく》を祈っても罰は当らん」
乾いた木枯しが吹いて、枯葉が舞っていた。
真冬らしい青空が広がって、車の中にいる限りは、暖かった。むろん外はコートのえりを立てたくなる寒さだろう。
「――今、〈山倉家〉って札を持った人が立ってましたよ」
「そうか? 目がいいな」
「そこにも。あれを入るんじゃないですか」
――いやに近代的な、白いモダンな建物が見えて来た。
〈山倉建吉 告別式〉という文字が目に入る。――受付に記帳する、黒いスーツの男たちが十人ほどいた。
車を、案内の係に誘導されて駐車場へ入れると、久野原と和子は車から降りた。
受付で記帳した久野原は、
「おやおや」
と、|呟《つぶや》いた。「見ろよ」
久野原の七、八人前に、〈熊沢|高《たか》|士《し》〉という名がある。
「あの[#「あの」に傍点]熊沢さんですか」
「そうだろう。〈高士〉って名だったのか。知らなかった」
と、久野原は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「警部さんが何のご用でしょうね?」
「さあ。――身に覚えはないからな、会っても平気だが、もし山倉宝石の社長の死に不審な点があるのなら……」
「まさか。――心臓発作と聞きましたよ」
「何であれ、みんな心臓が止って死ぬんだ」
久野原は、ともかく斎場の焼香の列に加わった。
――正面の遺影は、いかにもおっとりとした|風《ふう》|貌《ぼう》の太った男で、久野原は、記憶の中を探った。
「|憶《おぼ》えてるか?」
と、後ろの和子へそっと言った。
「はい。チューリヒでのパーティに、出ていらっしゃいましたよ」
「そうか」
――和子は人の顔や名前を憶えることにかけては天才的である。
「うん。――思い出した。女の子たちを|両脇《りょうわき》に置いて記念写真を撮っていたな。『君たちがスマートに見える』と笑っていた」
「格別太った方でしたわ」
「ああ、そうだった」
人生を楽しんでいるように見えたものだが……。
あれからわずか三か月ほど。――人の運命は分らないものである。
――焼香をすませると、久野原は、真直ぐに背筋を伸して座っている未亡人の前に進み出て、
「この度は、お悲しみのことで」
と言った。「仕事でお世話になった者です」
「そうですか、わざわざどうも」
未亡人は、涙にくれているという風でもなかった。|芯《しん》の強い女性らしい。
「――お母さん」
と、若い男が未亡人の後ろに来て、「ちょっと警察の人が……」
「でも、お客様が――。じゃ、お前、座ってて」
「分った」
息子は、父親に似ず細い体つきだった。
「先に出ていてくれ」
と、久野原は和子へ言った。
「あまり、余計なことに首を突っ込まないで下さいね」
和子は渋い顔で言った。
久野原は、出口へ向う列から離れ、|親《しん》|戚《せき》らしい男たちが何人か集まって話しているところをすり抜けて、奥の廊下へと出た。
「――何も、申し上げるようなことはありません」
と、未亡人の声が響いてくる。
コンクリートの、冷え冷えとした廊下には、熊沢警部の声がした。
「亡くなった夜、あるレストランで、ご主人を見かけたという人がいましてね」
「それがどうしましたの? 主人が食事していたからといって、何かいけないことでも?」
「いやいや、そういうわけでは……。ただ、その一緒だった若い女性のことが――」
「もう主人は死んだんです。確かに、品行方正な人ではなかったかもしれません。でも、今さらそんなことを持ち出して、主人を責めてみたところで――」
と、まくし立てるような未亡人に、熊沢もたじたじである。
そこへ、息子が顔を出し、
「お母さん、葬儀社の人が……」
「分ったわ。――もう戻ってもよろしいですか?」
熊沢も、とても「だめです」と言える状況ではなかった。ただ、
「もしかすると、また他日改めてお話をうかがいに上るかもしれません」
と言うのがやっと。
未亡人はさっさと席へ戻って行ってしまった。
熊沢が、底冷するほど寒いのに、ハンカチで汗を|拭《ふ》いているのを見て、久野原は思わず笑った。
「――やあ、久野原さん」
熊沢は、心から|嬉《うれ》しそうに、「見ておられたんですか?」
と言った。
「久野原さんが、山倉建吉のお知り合いだったとは……」
と、熊沢は言った。
「特別親しい付合いというわけではありませんよ。単に仕事で二、三度会ったことがあるだけです」
と、久野原は言った。「熊沢さんこそどうしてここへ? 何か死因に不審な点でもあるんですか?」
「近いですな」
二人は、式場から出た。
「ベッドで心臓発作を起し、そう長くは苦しまなかったろうに……」
と、熊沢は首を振った。
「他殺とでも? それなら死体を預かって――」
と、久野原が言いかけると、
「もう、ないのです」
と、熊沢は言った。
「ない?」
「ええ。もうお骨になってしまっているのです。今日のように、告別式を一般の人に向けて開くこともないではありませんが、山倉建吉のようなビジネスマンでは珍しいでしょう」
久野原は、信代という名の未亡人が、ハンカチで涙を|拭《ぬぐ》いながら出てくるのを見ながら、
「何か、若い女と一緒だったとかおっしゃっていましたね」
「ええ。〈山倉宝石〉の社員から聞いたのですが、女子大生で、アルバイトにビル掃除をしていたと」
「女子大生?」
「ええ、その子のことをとても気に入って、食事に連れて行ったりしていたようなんです」
「亡くなった夜もその子と一緒にいたんですか」
「若い女と食事をしていたのは確かですが、女の写真があるわけでもないし」
と、熊沢は首を振った。
「――山倉さんの死に、何か怪しい点があるんですか」
「ちょっと、探りを入れている状態だったのです……」
「分りました。無理には|訊《き》きません」
山倉の未亡人、信代が、会葬者へお礼を述べるのを聞いていた熊沢は、
「――その女子大生というのも、妙でして」
と小声で言った。
「ほう?」
「山倉建吉の死んだ翌日から、アルバイトに出てこなくなったのです。やめるという電話もなしに」
「その女子大生に話を聞く必要がありそうですね」
「ところが、その掃除会社から聞いた住所はでたらめでした。連絡は携帯電話へ入れていたようですが、その番号も今、使われていない」
「大学がどこかは?」
「大学に当ってみましたが、そういう名の学生はいなかったのです」
熊沢はため息をついて、「むろん、それで怪しいとは決めつけられません。ああいうバイトでは、身許をそううるさく訊きませんから、名前も住所も適当にこしらえてしまうのも珍しくないそうで。――といっても、その翌日から姿を見せないというのが気になります」
「その子が山倉さんを――」
「あるいは、巻き込まれて、一緒に殺されたか……。あの未亡人が、何か知っていると思うんですがね」
――会葬者たちが、それぞれに|挨《あい》|拶《さつ》を交わしながら、散って行く。
「では、いずれまた」
熊沢がていねいに会釈して立ち去ると、
「|旦《だん》|那《な》様」
と、和子がいつの間にかそばに来ていた。
「――そこにいたのか」
「今、ベンツに乗られる白髪の方、|憶《おぼ》えておいでですか」
「ああ、あのパーティにいたな」
「私もそう思いましたので、近くで話を聞いていました」
「何の話を?」
「同業の方同士、四人ほど集まって、小声で話しておられたんです。――『よく死ぬな、このところ』と一人が言って、他の人が『この他に、このひと月に三人だぜ。縁起でもない』と」
「ひと月に三人?」
「あの白髪の方が、それを訊いて『偶然に決ってるだろう。変なことを言うな』と怒っておられたんです。――あれは、どう見ても、|怯《おび》えておいででした」
「つまり……自分もそうなるかもしれない、ということか」
久野原は|眉《まゆ》を寄せて考え込んでいたが、「――その『三人』というのを当ってみてくれないか」
「そうおっしゃると思いました」
和子は心得た様子で、「あの白髪の方のことは?」
「僕の方で調べるよ」
と、久野原は言った。
「やっぱり、物騒なことになりそうですね」
和子だって、そういうことが嫌いじゃないのだ。
久野原は、和子と車へ戻った。
「――|一《いっ》|旦《たん》家へ戻ろう。この服装じゃな」
「当然です。お浄めの塩をかけてさし上げます」
そういう点にこだわるのも、和子らしいところで、
「昔の人の知恵には、学ぶことがあるんです」
というわけだ。
久野原が、車を出そうとすると、長い車体のリムジンが道に停った。
「誰かな。遅れて来たのか」
久野原は、そのリムジンが邪魔で、車を出せずに待っていた。
リムジンから、黒いスーツの女が降り立った。
「――あら。日本へ帰られているんですね」
と、和子が言った。
「そうらしいな」
久野原は、秋月沙織が案内係の男に何か訊いているのを、車の中から見ていた。
秋月沙織はリムジンの運転手の方へ何か言うと、斎場の方へときびきびした足どりで歩いて行った。
――若い。もう五十になっているのに、あの足どりの早いこと、一分のむだもないところ。
久野原は感心した。
「――旦那様」
と、和子が言った。「もう、お車は出られますよ」
リムジンは、どこか一周して戻ることにしたのか、消えていた。
「分ってるよ」
久野原はそう言って車を出したのだった……。
10 ジェラシー
階段教室のドアが、バタンと派手な音をたてて開いたときも、別に誰一人として驚かなかった。
どうせ、単位がすれすれの学生が、遅刻してやって来たのかと思ったのである。
壇上の講師は、やれやれ、という顔で、そのドアの方を見上げた。遅れて来るにしても、ほどがある! あと十分で終るというころになってやって来て、「遅刻扱いにして下さい」などと言っても、聞いてやるものか!
しかし――講師は当惑して、講義は途切れることになった。
どう見ても、教室へ入って来たのは、学生ではなかったからだ。――あの白髪が、染めたものだというのならともかく……。
「何のご用です?」
と、講師は|訊《き》いた。
半分――というより大部分、ウトウトしていた学生たちが、一斉に振り向く。
「お邪魔して申し訳ない」
白髪の、その男はコートも脱がずに、青ざめた顔で、「人を捜しているのです」
「今は講義中で――」
「よく分っています」
どう見ても六十前後の、企業の重役かと思える身なりの男である。
「もう十分もお待ちいただけば……」
「一刻を争うのです」
と、男は言った。「用があるのは、この教室にいる、たった一人の学生さんだけです」
「しかし――」
ガタッと音がして、立ち上ったのは、前から三列目にいて、熱心に講師の話を聞いていた女子学生だった。
「すみません、先生」
「島崎君、君か?」
「私の知り合いです」
と、島崎美鈴は言った。「――出ていて下さい」
と、白髪の男へ向って言った。
「外で待っていて」
「美鈴――」
と、男は階段を彼女のそばまで駆け下りると、「どうしても至急話さなきゃいけないことがあるんだ!」
「ほんの十分くらい、待っていられるでしょう? お願い。出て行って下さい!」
美鈴の語気の激しさに、階段教室はシンと静まり返った。
「――分った」
と、白髪の男は肩を落として、「教室の表にいる」
階段を一段一段、やっとの思いで上って行く。――その後ろ姿は、ひどく老けて見えた。
ドアの外へ、男が消えると、
「お騒がせしました、先生」
と、島崎美鈴は言って、腰をおろした。
とたんに教室がざわつく。
「静かに!」
と、講師は大声を出した。
もちろん、みんな、
「今の、誰?」
「美鈴の彼にしちゃ老けてる」
といった話をしているのだ。
「静かに!」
と、講師はくり返して、「次のテストの範囲について説明する」
と言うと、教室内がスッと静かになる。
これが一番効くのである。
もう、時間もない。――講師は本当に、まだ少し間のある、テストの出題範囲についてザッと説明した。
「――分ったね」
と、念を押すと、
「先生、もう一回!」
あれだけ簡単な話もメモできんのか?
「友だちに聞きなさい」
と、講師は言った。
「ケチ」
という声がそこここで上ったが、今どきの「先生」はそんなことでめげないのである。
「では、今日はこれで終る」
と、講師は学生の最も歓迎する一言を発した。
これを聞くと、「ケチ」呼ばわりしていた学生たちも一斉に席を立ってしまうのである。――「もう一回」とねだったテストの範囲は?
大方、夜中に「携帯」ででも友だちとおしゃべりしながら、ついでに|訊《き》こうというのだろう。
一人、席を立たないのは、島崎美鈴だった。
「君……」
「先生、すみません。すぐ出ます」
「いや、いいんだ。別にこの後すぐにここを使うわけでもないようだしね。――今出て行くと、他の学生たちにつかまるだろう。ゆっくり出なさい」
「ありがとう」
美鈴は、講師が資料を抱えて階段を上っていくのを見送って、それから自分のノートを閉じた。
美鈴が階段教室を出ると、学生たちはもう次の教室へ移動したり、帰る者は帰ったりで、誰もいなかった。
「――|山《やま》|城《き》さん」
と、美鈴は呼んだ。「山城さん。――どこですか?」
廊下は、何人か足早に通り過ぎていく学生がいるだけで、どこにも白髪の紳士の姿は見えなかった。
美鈴は少しホッとして――それでも、つい前後を見回しながら歩き出した。
すると――廊下にバタバタと数人の足音が響いて、コートを翻して駆けてくる男たちがいる。
「――島崎美鈴さん?」
と、駆けつけた、がっしりした男が言った。「警察の者だ」
「警察?」
「熊沢という。島崎美鈴――」
「はい、私です」
「ここに、山城|徹《てつ》|治《じ》が来たかね?」
「宝石店を経営されてる山城さんのことですか」
「店は破産した」
「――え?」
「保管していた有名な宝石がほとんどイミテーションと分ったんだ。この大学へ行くというメモを残して姿が見えない。奥さんが心配して連絡をくれた」
と、熊沢は言った。
「あの……今の講義のときに……」
美鈴が説明すると、熊沢は部下の刑事たちへ、
「この辺を捜せ!」
と、言いつけた。
刑事たちがバラバラと散っていく。
「――刑事さん」
「見付かるといいがね」
と、熊沢は言った。
「山城さんは……」
「宝石を度々持ち出していた、と店の人間が言っていた。君がもらったのか?」
「いいえ! とんでもない」
と、美鈴は即座に否定した。「下さると言われたことはあります。でも、学生の身でそんなものいただいても、使いようもないし……」
そこへ、若い刑事が一人戻って来て、
「警部にお会いしたいという人がいます」
「何だと? 誰だ?」
「私ですよ」
その人物を見て、美鈴は目を見開いて、
「まあ!」
と言った。「チューリヒで……」
「やあ、どうも」
「久野原さん」
と、熊沢は|眉《まゆ》をひそめて、「大学に何のご用で?」
「今、こちらのお嬢さんが言った通り、スイスのチューリヒのホテルで、一緒になったことがあってね」
と、久野原は言った。「正門の辺りで待つつもりだったが、パトカーがいて、どうも様子がおかしい。それでこうして入って来てしまった」
「実は今……」
「学生たちが盛んに|噂《うわさ》していたのを聞いたよ。――山城さんは、あの夜、パーティで一緒だった人だね」
「ええ」
美鈴は目を伏せて、「帰国してから、お電話があり、パーティのとき、何気なくお話しした、アクセサリーの修理のことで、会いたいと……」
「口実だね」
「ええ……。どうして私なんかにって思いましたが、お会いしていると、学生仲間とは違って、大人の話が聞けて楽しいし、おいしいものはごちそうして下さるし、つい私も甘えてしまったんです」
「恋人に?」
久野原の問いに、美鈴はすぐには返事をしなかった。それが答えと同じだ。
「――いけないと思っていました」
と、美鈴は目を伏せて、「でも、二度だけです。――言いわけみたいですけど、ほとんど添い寝をしていただけでした」
「君も子供じゃない。そのことをとやかくは言わないと思うよ、刑事さんも」
と、久野原は熊沢を見て言った。
「私の興味があるのは、今、山城がどこにいるか、ということだけです」
と、難しい顔で熊沢が言った。
「待って下さいよ。捜査一課の熊沢さんが出て来たとなると……」
「まあ、捜査一課って、殺人事件を扱うんじゃありませんでした?」
それに熊沢が答える前に、
「――警部!」
と、部下の刑事が駆けて来た。「来て下さい! 外で……」
「何だ?」
久野原も耳にしていた。何か、表で騒ぎが起きている。
急いで校舎から出てみると、学生が大勢集まって、みんなが上の方を見上げている。
「――山城さん!」
と、美鈴が息をのんだ。
五階建の講義棟の一番上の階、張り出した窓の外に[#「外に」に傍点]、あの白髪の男が、コートを着たまま立っていた。
風が吹きつけているので、コートの|裾《すそ》はバタバタとはためいていた。
「――おい、動くな!」
と、熊沢が怒鳴った。「助けに行くぞ! じっとしてろ!」
熊沢が部下の刑事を連れて、また棟の中へと駆け込んで行く。
「山城さん……」
美鈴は、少し遠巻きにして見守る学生たちの中から前へ進み出て、山城を見上げた。
「美鈴……」
山城が、青ざめ、窓枠につかまっている。
久野原は、美鈴に危険が及ばない限りは手を出さないつもりで、事態を見守っていた。
「――山城さん」
と、美鈴が下から呼んだ。「聞こえますか?」
「ああ……」
周囲の学生たちも口をつぐんで、辺りは静寂に包まれた。
今、熊沢たちが必死で階段を駆け上っているだろう。
「お願い、山城さん」
と、美鈴は言った。「中へ戻って。私にできることは何でもします。ですから、早まったことはしないで」
「君には感謝してるよ」
と、山城は言った。「それなのに、こんなことをして、すまない」
「やめて下さい、山城さん」
「君の目の前で死ねれば本望だ」
「いけないわ!」
「他に道はない。君にも分ってるだろう」
と、山城は言った。「君も[#「君も」に傍点]気を付けてくれ! 君は若いんだ。――死ぬな」
「そんな……。私に言うのなら、山城さんも死なないで!」
と、美鈴が叫んだ。
熊沢たちは間に合うのか?
久野原は、窓の中へじっと目をやっていた。
もし、熊沢たちが窓の所まで行き着けば、山城を捕まえることができるだろう。
しかし、
「もう面倒になったんだよ」
山城は、どこかホッとした様子で言うと、
「今さら、やり直したくない……」
と言って、目を空へ向けた。
アッ、という声にならない声が広がる。
窓枠から手を放し、山城の体は一瞬の内に地面まで墜落していた。
久野原は、美鈴へ駆け寄った。
「見るな」
と、美鈴の前に立って、視界を遮った。
「久野原さん……」
「もう助からないよ」
久野原はそっと振り返った。
レンガ敷の歩道に、コートを旗のように広げて、山城は倒れている。少し血を吐いていたが、顔は穏やかだった。
「畜生!」
窓から熊沢が顔を出して、悔しがった。
「久野原さん! 死んでますか」
「ああ、間違いない。下りていらっしゃい」
と、久野原は言った。
「もう少しだったのに!」
階段を必死で駆け上ったせいで、熊沢は苦しそうに息をしていた。
「――久野原さん」
美鈴が、自分の白いコートを脱いで、差し出した。
久野原は、それを両手で広げて持つと、山城の死顔の上へフワリとかけたのだった……。
「さあ、これを飲んで」
と、久野原が手渡した、熱いミルクの入ったカップを、
「ありがとう」
と、美鈴は受け取った。
大学の事務室の奥、衝立で仕切られた接客用のソファに、美鈴は腰をおろしている。
「――少し落ちついたかね」
「はい……。気をつかっていただいて、すみません」
と、美鈴はミルクをゆっくり飲んで、「――体が温ります」
「コートがなくちゃ寒いだろう。僕のコートを着ていくといい」
「いえ、大丈夫です」
「熊沢警部は、古い知り合いだ。無理を言う人じゃないからね」
久野原の言葉に、美鈴は大分平静を取り戻したようだった。
「――でも、山城さんはなぜあそこまで……」
「さあね。店の倒産だけでも、自殺する人間はいる。しかし、君には感謝していたじゃないか」
「良かったんでしょうか、あれで――」
と、ため息をついて、「一度、あの人に抱かれてしまってからは、私が男の子と会うだけでも辛そうでした。私、ついわざと一緒にスキーに行った男の子の話とかしてしまって……。もちろん、グループ旅行ですよ。男の子とどうこうなんて、ありませんでしたけどそういう話をすると、山城さんは『胸をかきむしりたい!』なんて、オーバーに|妬《や》いて見せるんです。二人で大笑いして……。でも、それって本当の[#「本当の」に傍点]気持だったのかもしれない、って時々感じました」
「あの年齢になって、恋に落ちるというのは危険なことだ」
と、久野原は|肯《うなず》いて、「君を愛しながら、君の若さに|嫉《しっ》|妬《と》をしていたんだろうね」
「私……何だかあの人にひどいことをしてたのかしら」
と、首を振った。
「いや、恋というものには、そういう苦しみがつきものだよ。君が悪いことをしたわけじゃない」
「ありがとう」
美鈴はやっとぎこちない笑顔を見せた。
傷ついた子供のような、そして、みっともないところを見せたくない大人のような、その美鈴の表情は、久野原の心を動かした。
「――何とかすみましたよ」
と、熊沢がやって来た。「大学側は、あまり騒がれたくないと言ってます。当然でしょうな」
「そういえば」
と、久野原は言った。「あのとき一緒だった他の二人は、今日はいなかったようだね」
「そのことでも、ちょっと心配してるんですけど……」
と、美鈴がカップをテーブルに置いて、「涼子がいなくなっちゃったんです」
「いなくなった?」
「ここ一週間くらい、マンションにも帰ってないみたいなんです。大学にも来ないし」
「木村涼子だったかな? 三年生だね、確か?」
「はい。関口ゆかりとよく一緒で。――でもそのゆかりも、涼子がどこへ行ったか見当がつかないって言っています」
「捜索願は?」
「いえ、それはまだ……」
「その子は、二十一?」
と、熊沢が|訊《き》いた。
「ええ、そうです」
「――写真でもないかね」
「待って下さい」
美鈴は、バッグから手帳を取り出すと、「この――左から二番めの子です」
熊沢は、その写真の木村涼子をじっと見ていたが、
「ショックを受けた後で、こんなことは言いたくないが……」
と、ためらった。
「――何ですか」
「感じは大分違うが……。一緒に来てくれるかね」
美鈴が久野原の方を見た。
「私も行こう。その子なら、私も知ってる」
と、久野原は言った。
「どこへ――行くんですか」
美鈴はそう訊いたが、答えは分っていた。ただ、そう信じたくなかったのだろう。
熊沢も、あえて言わず、黙って美鈴を促したのだった……。
11 二つのくちづけ
白い布がめくられた瞬間、美鈴は短く声を上げて、傍の久野原の胸に顔を埋めた。
熊沢が申しわけなさそうに、
「間違いありませんか」
と|訊《き》いた。
「間違いない」
と、久野原が答える。「木村涼子ですな、これは」
「そうですか。――やれやれ」
熊沢は、美鈴の肩を軽く|叩《たた》いて、何か言いたそうだったが、言葉がうまく見付からないという様子だった。
「あちらへ」
と、熊沢が促す。
死体は再び布で覆われ、収納台の中へと戻された。
「――大丈夫?」
久野原が、紙コップにコーヒーを|淹《い》れて、美鈴の前に置いた。
「ええ……。すみません」
美鈴は、青ざめてはいたが、口調はしっかりして来ていた。「彼女のお家へ連絡を……」
「大学へ問い合せた上で、我々から連絡しよう」
「そうですか。お願いします」
美鈴は、コーヒーをそっと飲んだ。
「どこで見付かったんです?」
と、久野原が訊いた。
「S市の山林の中です。実は、ドライブに来た家族連れが、子供がオシッコがしたいと言い出しましたので、車を停めて、林の中へ入って行って見付けたんです。かなり奥まった所で、あの偶然がなければ、なかなか発見されなかったでしょう」
「涼子――。|可《か》|哀《わい》そうに」
と、美鈴は|呟《つぶや》くように言った。
「死因は?」
「射殺されたんです」
と、熊沢が言った。
「じゃあ……強盗にでもあったのかしら」
「見たところ、そうとも思えない」
と、久野原は言った。「あの服装や髪型は、いつもの涼子君とは違っていただろう」
「そう言われてみれば……。変だわ。あんな地味な服を着るなんてこと、決してありませんでした」
「そう……。何かいわくありげだったね」
「――久野原さん」
と、熊沢は言った。「あの遺体の写真を見せたところ、間違いなく、天野幸子だという証言を、掃除の仲間から得ているんです」
美鈴が当惑顔で、
「――何のことですか、それ?」
と言った。
熊沢が、山倉建吉の死を巡っての、不審な若い女のことを説明した。
「じゃ……涼子が天野幸子と名のって、ビルのお掃除をしていたってことですか」
「そういうことだね」
「でも……そんなことって……」
「山倉建吉に近付くためだったとしか思えないね」
と、久野原は言った。「そして山倉は死んだ。死因や死の状況については、はっきりしないことがいくつもある」
「分りませんわ」
「――美鈴君」
と、久野原は隣の|椅《い》|子《す》にかけて、「チューリヒでのパーティのとき、山倉建吉も出席していた。|憶《おぼ》えているか?」
「ええ。特に太ってらした方でしょ?」
「山城徹治も出席していた。そして君たちも……」
「でも、あのパーティと、涼子の死に何か関係が?」
「君の場合は、山城の方から付合いを求めて来たんだね。しかし、この場合、涼子君の方が、パーティのときとは別人のように地味に見せて、山倉に近寄った。地味な服装、髪型も変え、化粧もほとんどせずにいれば、まず同じ女の子とは思われなかっただろう」
「何のために涼子が――」
「それは分らない。君にも思い当ることはないんだね」
「ええ、全然」
と、美鈴は首を振った。
「しかし、山倉の死、そして涼子君が殺されたこと。何か関係なかったわけはない。どうもいやな感じがするね」
そう言ってから、久野原は、「関口ゆかり君は? 大学へ来てる?」
「ええ。――もともときちんと毎日出てくる子じゃありませんけど」
と言ってから、「――ゆかりも殺されるってことですか?」
と、声が高くなった。
「用心に越したことはあるまい」
と、久野原は言った。「関口ゆかり君の住んでる所は?」
「もちろん分ります。女子大生専用のマンションにいます」
「あのときのパーティの客と、何かつながりがないか、確かめてみよう」
熊沢が、恐縮して、
「申しわけないですな、久野原さん。何かあれば、いつでも呼んで下さい」
久野原は、熊沢と軽く握手を交わし、美鈴を伴って、立ち上った……。
「――このマンションです」
と、美鈴は言った。「すみません、送っていただいて」
「当然のことだ。色々あって、疲れただろうが、眠るんだよ」
と、久野原は言った。
――もう夜になっている。
二人は、関口ゆかりのいる女子大生専用マンションを訪れたが、ゆかりは、「友だちと温泉に行く」と言って、出かけてしまっていた。
「二、三日で戻ります」
としか、管理人に言っていかなかったというので、捜しようもなかった。
「また、何度かゆかりの携帯へかけてみますね」
と、美鈴は言った。「うまくつながれば……」
「そのときは教えてくれ」
と、久野原は言った。
「もちろん」
車はマンションの前に停っていて、二人はそれでも車から出ようとしなかった。
「――久野原さん」
「何だね?」
「私が――山城さんを死なせたと思います?」
「それは何とも言えないが、そうじゃないと言っても、君は納得できないだろ」
「責任は感じます。でも、死ななくても……。それも私の目の前で」
美鈴はちょっと|苛《いら》|立《だ》たしげに言った。「正直、失望しています。勝手かもしれないけれど」
「そんなことは……」
「それより私には涼子の死の方がずっとショックです。――あんなに明るくて、にぎやかで、やかましくて……。わがままでケンカもしたけど、でも、生きてたんだ、って……。あんなに生きることを楽しんでたのに……」
「分るよ」
「涼子が何をしたって構いません。山倉って人を|騙《だま》したとしても。私にとっては、大切な友だちだったんです」
美鈴の声が少し震えた。
「大丈夫か?」
久野原が肩に手を置くと、磁石に吸い寄せられるように、美鈴は久野原の方へ身を倒しかけた。
そして――久野原自身、驚いた。
あまりにごく自然な勢いで、美鈴を抱き寄せて唇を重ねていたのだ。
「――こんなときに」
と、離れて、美鈴は言った。「いけませんよね」
「いや……これが自然なら、いいさ」
久野原はちょっと|微《ほほ》|笑《え》んで、「今になって、ドキドキしてるよ」
「私も」
と、美鈴は笑って言うと、ドアを開けて、車を降り、「――おやすみなさい!」
と、手を振った。
「おやすみ」
久野原は、美鈴がそれほど大きくないマンションの中へ入って行くのを見送った。
そして、ホッと息をつくと、
「――いい|年《と》|齢《し》して、何だ!」
と|呟《つぶや》いた。
すると――窓の外に顔が|覗《のぞ》いた。
驚いて窓ガラスを下げると、
「|姪《めい》に手出しは許しませんよ」
と、秋月沙織が冗談めかして言った……。
遠くに、高層のホテルが見えて来た。
「――東京じゃ、いつもホテル暮し」
と、秋月沙織が言った。「でも、家を処分してしまって、後悔してるわ」
「家というのは――」
「結婚した夫の家。もう十年も前に死んでしまったけど」
「それで旧姓に戻ったのか」
「ええ。夫もいないのに、名前だけ名のってるのも変でしょ」
と、沙織は言った。「古い日本家屋で、住んでるときは大変だったわ。お掃除だけでも手がかかって。――仕事を継いで、一年の大半、ヨーロッパで過すようになると、面倒だから売ってしまったの。でも、今は悔んでるわ」
「どうして?」
「ホテルじゃ、どんなに快適でも、安らげないわ」
と、沙織は言った。「めったに使わなくても、あの家を持ってるんだった、と思った……。もう手遅れだけど」
久野原は車を運転して、沙織の泊っているホテルの正面玄関へとつけた。
「――ありがとう」
と、沙織が言って、「一杯、飲んでいかない?」
「改めて、またね」
と、久野原は言った。「今日は少し疲れたから、帰るよ」
「美鈴ちゃんとキスしただけで、そんなにくたびれたの?」
と、沙織は笑った。
「まだしばらく日本にいるのか?」
「たぶん、二、三週間ね」
「また連絡するよ」
「待ってるわ。――これ、私の携帯の番号なの。何かあればいつでも」
と、名刺の裏にメモして、久野原へ渡した。
「いただいとくよ」
と、その名刺をしまって、「美鈴君に用だったんじゃないのか?」
「急がないわ。それに、お話のようなことがあったんじゃ、それどころじゃないでしょう?」
「そうだな。しかし、一晩たてば大丈夫さ。若いっていうのはすばらしい」
「それって、私が若くないってこと?」
「いや、そうじゃないよ!」
沙織は笑って、
「本当に若くはないものね」
と言うと、「――あなたもよ」
と、素早く久野原の|頬《ほお》にチュッとキスすると、車を降りる。
「今日は、とんでもない一日だ」
と、久野原は言った。
「じゃ、またね」
沙織が正面の大きな扉を入って行くと、フロントの係が飛んで来た。
――やれやれ、一日に二つもキスしてもらうとはね。
「長生きはするもんだ」
と、呟くと、久野原は車を走らせ、ひとまず自宅へと向った……。
「それはようございましたね」
和子の言い方は、いつも無表情で、皮肉られているようでもあった。
「ありがとう」
久野原は居間でソファに寝そべった。
「でも、物騒なことで」
と、和子は言った。「――そんなに大勢の人が亡くなるなんて」
「全くだ」
――二つのキスに心地良く酔っていて、忘れかけていた。
山倉、山城、そして木村涼子の死……。
「――ひと月の間に三人も亡くなった、という件ですけど」
「うん。何か分ったか?」
「宝石商の方ばかり、三人亡くなったのは事実です。ただ、お一人は大分前から入院されていた方で、お一人は車の事故。――その二人は、あのパーティにいませんでした」
「もう一人は?」
「パーティに出ていた人です。家族の方に会いましたが、突然、車ごと海へ飛び込んで亡くなったそうです」
「それはどうも、この一連の出来事とつながっていそうだな」
と、久野原は|肯《うなず》いて、「関口ゆかりらしい女子大生が係っていなかったか?」
「未亡人にそこまでは|訊《き》けません」
と、和子は言った。「ご自分でどうぞ。なかなか若くて美人でした」
「そうか」
久野原は、ちょっと苦笑した。「――しかし、どういうことだ? あのパーティで宝石がすり換えられたとして……」
「でも、あそこですり換えられたとしても、それだけで山城さんが自殺されるでしょうか?」
「そうだ。それにあの短い停電の中で、どれだけの石がすり換えられたか……」
「これは単純なことではありませんわ」
と、和子は真顔になって言った。「深みにはまらないで下さい。今さら、命の危険を冒して、何を手に入れようとなさるんですか?」
和子は本気で心配してくれている。それはありがたいことだった。
しかし、今、〈月のしずく〉は久野原の手にある。それだけでも、久野原は今の事態を目をつぶってやり過すというわけにはいかないのだ。
「もう深みに踏み込んでいるよ」
と、久野原は言った。
好きでトラブルに巻き込まれたい者はあるまい。――いや、そうか?
|年《と》|齢《し》はとっても、久野原はかつて泥棒で、そして今も[#「今も」に傍点]泥棒なのだ。そのこと自体、トラブルを内に抱え込んでいるのである。
それでも――あのチューリヒでの出来事の後、久野原は自分からはあえて何もしなかった。
空港で、グラスにダイヤモンドを沈めたのが誰なのか、帰国してから、何か言ってくるのではないかと思っていたが、何もなかった。
それでも、そのまま何も起らずに終るとは思っていなかった。――今、島崎美鈴に再会して、やはりこのまま黙っているわけにはいかないのだと悟った。
美鈴の身にも危険が及ぶかもしれないということを考えたら、自分一人、のんびりと構えていることはできない。
「――ご決心なさったのなら、止めませんが」
と、和子は言った。
「〈黒猫〉としての仕事じゃない。これは、あくまで久野原僚としての役割を果すことだよ」
「言いわけなさらなくても」
と、和子はひやかすように、「あの娘さんは確かに、普通の大学生とどこか違いますしね」
「おい、別に僕は――」
「そんなことを言い合っていても仕方ありませんわ。――初めに何をなさるんですか?」
「事件の陰には八木春之介がいると思う。そもそも、あのパーティ自体、八木が開いたものだ。何かの企みがあった、とみてもいいだろう」
「では……」
「〈月のしずく〉だ。あれが〈月のしずく〉だとすると、なぜ八木が買い戻そうとしているという情報が入って来ないのかな」
「そうですね」
「答えは二通りある。一つはあれが〈月のしずく〉ではない、ということ。もう一つは、あれが僕の手もとにあるということを、八木が承知している、ということだ」
「|旦《だん》|那《な》様に持たせたのも八木だと……」
「あり得るね。――ともかくあの男には用心が必要だ」
「どうなさるんです?」
「広告を出そう。〈月のしずく〉を買い取ってくれる人を求む、といってやる。八木がどう出てくるか……」
久野原は、そう言って|微《ほほ》|笑《え》んだ。――やはり、こんな展開をどこかで楽しんでいるのである。
「――そうだ」
ふと思い付くと、久野原は、熊沢警部へと電話を入れたのだった……。
12 〈怪盗〉もどき
「とんとお見限りでしたね」
と、男は言った。
「よせ、バーじゃないぞ」
と、熊沢は軽くいなして、「何か思い出したか」
「さてね……。何しろもう大分たつからね。忘れちまったよ」
男は肩をすくめて、「ここへ来るまでは、ずっと|憶《おぼ》えてたんだ。残念だなあ」
と言って、タバコをふかした。
男の名は|高《たか》|井《い》。――通称〈トンビ〉で知られるコソ泥である。
八木邸に忍び込んで、番犬に追いつめられて捕まったのだが、自殺した江田青年と共犯だったのかどうか、何も返事をせずに、ずっと留置場暮しをしていた。
五十代の半ば。――泥棒にしちゃ太っていて、「大した泥棒じゃない」(?)と一目で分りそうである。
「そいつは残念だ」
と、熊沢は素気なく言って、「じゃ、お前はもう出ていい」
「――へ?」
〈トンビ〉は、間の抜けた声を出した。
「釈放だ。海外へは行くな、なんて言っても、どうせ外国へ行く金なんか、お前にゃあるまい」
「|旦《だん》|那《な》……。びっくりさせないで下さいよ」
と、高井は笑って、「悪い趣味ですぜ、弱い者いじめなんて」
「誰も冗談なんか言わん。もう釈放だ。好きな所へ行け」
「でも……」
と、|呆《あっ》|気《け》に取られて、「|俺《おれ》は――八木の屋敷へ忍び込んだんですぜ」
「酔っ払って歩いてる内に迷い込んだんだろ。それなら家宅侵入にもならん」
「そんな……。俺はちゃんと[#「ちゃんと」に傍点]忍び込んだんです!」
「もういい。お前をここで養ってるのは、国民の税金なんだ。留置場はホテルじゃない。それとも一泊三万でも払うか」
「そんな金、あるわけないじゃないですか!」
と、高井は情ない声を上げた。
「分ったら、もう出てっていい。好きにしろ」
「はあ……」
高井は、何とも言えず困った顔をしていた。
「――寒いな」
一歩、外へ出ると、木枯しが高井のえり元へ忍び込む。
マフラーもなく、コートもない身では、昼間とはいえ、どんよりと曇って、もう日暮れが近いかと思えそうな空の下、凍える寒さである。
「畜生! どうして釈放なんてするんだ!」
と、妙なグチをこぼしつつ、通称〈トンビ〉は、とてもトンビとは似ても似つかぬ背中を丸めた格好で、北風に追われるように歩き出した。
電話ボックスへ入ると、両手をこすり合せて、それからポケットのわずかな小銭を取り出し、公衆電話の受話器を取った。
「――畜生」
双眼鏡で、電話ボックスを見ていた熊沢が舌打ちする。「体に隠れて、押してる番号が見えない」
「なに、これからどこかへ行くか、誰かと会うかだ。ぴったりくっついてやりましょう」
と、久野原は言った。
「出たとたんにSOSか。〈トンビ〉の名が泣くな」
「あだ名[#「あだ名」に傍点]なんか持ってる泥棒は、格好をつけてるだけで、中身は大したことないですよ」
と、久野原が言った。
「そうですか? しかし、何年か前に姿を消した〈黒猫〉なんて、なかなか大した|奴《やつ》でしたよ」
「聞いたことはありますね。どこへ行ったのかな」
「さあ……。急に消えたんで、誰かに殺されたんじゃないかって声もありましたがね、私は生きてると思ってます」
と、熊沢は言って、「――電話を切った。――ホッとした顔です。行く先が決ったのかな」
高井は、電話ボックスを出ると、足早に歩き出した。さっきとはまるで違う、元気の良さである。
「行きましょう」
と、久野原は言った。
――高井は、地下鉄の駅へと下りて、ともかく寒さから逃げられ、ホッとしたのか、スタンドでスポーツ新聞を買って、競馬欄を眺めている。
「早速ギャンブルか」
と、熊沢が|呟《つぶや》く。
「金の入るあて[#「あて」に傍点]ができたってことでしょうね」
と、久野原は言った。「電車に乗りますよ」
ホームへ下りて行くと、高井は、やって来た電車に乗った。
久野原たちは隣の車両に乗って、高井の姿を見失わないようにした。
昼間、そう混んでいるわけではないので、高井が空席を見付けて座るのが見えた。
十分ほど乗って、都心の駅で降りた高井は、地下鉄の駅から、地下通路を抜けて、ホテルの地階へと直接入って行った。
「――どうやら、暖い所で待ち合せているようだ」
と、久野原は言った。
泥棒が寒がりでは、話にならない。――久野原はふと思い付いたように、
「あの自殺した青年、何と言いましたかね」
「江田邦也です」
「そうそう。邦也だった。――いくつでした?」
「二十……四だったと思いますが」
「すると、僕の息子といってもおかしくないな」
と、久野原は言った。
「何を考えてるんです?」
「いやいや、ちょっとね……」
ホテルの一階へエスカレーターで上ると、高井は、ロビーのきらびやかな雰囲気の中で自分の身なりが少々「浮いて」いると感じたらしく、居心地が悪そうにしていたが、奥のコーヒーラウンジの名前を確かめると、ホッとした様子で、中へ入った。
オープンスペースで、ラウンジの中はロビーからも見通せる。――久野原と熊沢は、ロビーの柱のかげに立って、高井が会おうとする相手を待ち受けた。
「高井に顔を見せた相手は、きっと小物でしょう。しかし、そこからさらに上もたぐっていける」
「高井は、人の注意をひきつけるために忍び込んだんですかね」
と、熊沢は言った。
「たぶんね」
「番犬や、屋敷の人間が高井の所へ駆けつけている間に、誰かが〈月のしずく〉を盗み出したというわけですか」
「あるいは、盗み出さなかった[#「盗み出さなかった」に傍点]か」
と、久野原は言った。
「どういう意味です?」
「誰かが侵入したと見せかけるために――あるいは、盗難騒ぎを起すために、高井に忍び込ませたのかもしれません。実際には何も盗られなかったとも考えられる」
「なるほど。すると八木が――」
コート姿の男が一人、ラウンジへ入って行った。――高井が立ち上りかけたが、コートの男は、違う席についた。
「別口だったらしい」
熊沢は息をついて、「――江田は死に損ですかね。|可《か》|哀《わい》そうに」
「単に疑われたから、というだけではないような気がしますが」
「といいますと?」
「江田青年のことを詳しく調べてみて下さい。あの死が自殺でないとすれば、江田も何かで係っていた可能性がある」
――二十分ほどたった。
高井は、不安そうな様子だった。
「カレーまで食べて、払う金を持ってないんだな、きっと」
と、熊沢は笑って言った。
ラウンジのレジの電話が鳴って、ウエイトレスが、高井の所へ足早に近付いて行く。
高井が急いでレジへ駆けつけて、電話に出る。
「――待ってますよ! よろしく!」
という声が届いた。
相手から、「少し遅れる」という連絡でも入ったのだろう。
気が大きくなったのか、高井は、見ただけで胸やけしそうな、特大のチョコレートパフェを取って、せっせと食べ始めた。
「甘党とは知らなかったな」
と、熊沢が苦笑する。
ウエイトレスが、コーヒーのおかわりを注いで行く。
久野原は、さっき入って来たコートの男が、立って支払いをすませて行くのを見た。
「――気になりますね」
と、熊沢が言った。「ちょっとつけてみます。ここをお願いしても?」
「ええ、いいですよ」
「顔だけ見たら、戻ります」
熊沢が、コートの男を追ってロビーを突っ切って行った。
久野原は、高井の方へ目を戻した。
口の周りをチョコレートで汚しながら、食べ終えた高井は、紙ナプキンで口を|拭《ぬぐ》うと、注がれたコーヒーをガブ飲みした。お行儀がいいとは、とても言えない。
そして、高井は、またスポーツ紙の競馬欄を広げて見ていたが――。
突然、高井は新聞を取り落とした。そして、苦しげに胸を押えて|喘《あえ》いだ。
久野原は急いでラウンジへ駆け込むと、
「医者を呼んでくれ!」
と、ウエイトレスへ声をかけ、高井の方へ駆け寄った。
「助けてくれ――」
高井は床に体ごと滑るように落ちて行った。
「おい、しっかりしろ!」
久野原が高井の頭を抱き上げるようにして、「聞こえるか?」
「あんたは……」
高井は顔を真赤にして、荒く息をついた。
「お前のせいで自殺した、江田邦也の父親だ」
久野原が、耳もとで、ひと言ずつはっきり言ってやると、高井は理解したらしく、目を見開いた。
「許してくれ!――|俺《おれ》のせいじゃないんだ!」
「誰に頼まれた? そいつがお前に毒を盛ったんだぞ」
高井は目がトロッとして、混乱して来たらしい。
「俺は……死ぬのかな?」
「今、すぐ医者が来る! 頑張れ!」
と、久野原は高井の体を揺さぶった。「息子を死なせたのは誰なんだ!」
「――すまねえ。勘弁してくれ……。俺はただ言われた通りに……」
「誰に言われたんだ! 言ってくれ!」
と、久野原はくり返した。
高井の口が動いた。――声がかすれて、聞き取れない。
「何?――もう一度言ってくれ!」
久野原は、高井の口もとに耳を寄せた。
高井の口が細かく震えて……。
「――久野原さん!」
熊沢が戻って来た。「何ごとです?」
久野原は、力の抜けた高井の体を床へそっと下ろして、
「コーヒーに毒が……」
「何ですって?」
久野原はハッとして、ラウンジの中へ、
「コーヒーを飲まないで下さい!」
と叫んだ。「毒の入っている恐れがある! コーヒーを取った人は、口をつけないで!」
手にしたカップを、あわてて戻す客がいた。
|呆《ぼう》|然《ぜん》と突っ立っているウエイトレスへ、
「君……。この客のカップにコーヒーを足したか?」
「いいえ……」
と、青ざめて、「頼まれるまでは注ぐなと言われてます」
「君じゃなかった。髪型が違ってたな」
久野原は、記憶を|辿《たど》って言った。「他のウエイトレスは?」
「今の時間、女の子は私一人ですけど……」
誰かがウエイトレスの制服を着て、毒を入れたコーヒーを注いで行ったのだ。
「熊沢さん、コーヒーサーバーを調べた方がいいですよ」
と、久野原は言った。
「――どうやら、もう手遅れですな」
と、熊沢は高井の様子を調べて、ため息をついた。
「申しわけない。私がこんなことを勧めたばっかりに」
「いや、目を離したのが失敗です」
「さっきの男は?」
「売店でチラッと顔を見ましたが、すぐに出て行ってしまいましたよ」
と、熊沢は立ち上って、「後は任せて下さい」
久野原は、黙って|肯《うなず》くとラウンジを出ようとして、「制服は、どこに置いてある?」
と、ウエイトレスへ|訊《き》いた。
「ロッカールームです」
「案内してくれないか」
むろん、犯人がまだぐずぐずしているとは思えなかったが、久野原は確かめないでは気がすまなかった。
――ロッカールームのドアを開けて、
「ここが女子のロッカールームです。今は誰もいません」
「失礼するよ」
久野原は細長い灰色のロッカーが並んでいるのを見て、「制服はそれぞれ決っているの?」
「いいえ。L・M・Sのサイズ別に、クリーニングした物が、奥の棚に並べてあるので、みんな自分に合ったサイズを選んで着るんです」
棚に並んだ制服を眺めていた久野原は、その一枚を手に取って、
「これは誰かが手を通してるね」
と言った。
「変ですね……」
と、ウエイトレスがこわごわ|覗《のぞ》いて、「それ、Sサイズだわ」
Sサイズか……。
久野原は、その制服をそっと広げて見たのだった。
13 孤 独
「思い出に」
と、秋月沙織は言って、グラスを上げた。
「健康を祈って」
久野原の言葉を聞いて、沙織は笑った。
「昔のあなたは、もっとロマンチックだったわ」
「|年《と》|齢《し》を取ったのさ」
と、久野原は言って、シャンペンの金色の泡を一気に飲み干した。
「そうね……。確かに、二人とも、同じだけの年月、老けてるわけね」
「現実を見つめることは、ロマンの精神と必ずしも矛盾しないよ」
「昔から、あなた、理屈ぽかったわ」
――秋月沙織の招待を受けて、このホテルの最上階のレストランへやって来た久野原だった。
「いつ、向うへ行くんだい?」
と、久野原は食事をしながら|訊《き》いた。「向うへ帰る、と言う方が正しいのかな」
「同じことよ」
と、沙織は言った。「待つ人がいない。そんな所は〈家〉じゃないわ」
「ずっと一人なのか?」
「未亡人になってからはね」
「まだ若かったんだろう」
「身勝手な夫で、ちっとも悲しくなかったわ。もちろん、どうしたらいいか、息子と二人で途方にくれたけど……」
「息子[#「息子」に傍点]と二人で?」
久野原はびっくりした。「息子さんがいるのか。知らなかった」
「知らなくて幸い」
と、沙織は笑って、「やっと大人になったと思ったら、どこかへフラッといなくなっちゃった。今ごろ、どこでどうしているのやらね」
口調には苦いものが混じっていた。
「しかし……」
「やめましょう。――もう少し楽しい話をしましょ」
「そう突然、天から『楽しい話』が降ってくるかい?」
と、久野原は笑った。
「そうね。でも……」
と、沙織も笑って、「楽しいのが思い出ばかりじゃ、|侘《わび》しいじゃないの」
「それもそうだ」
「あなたは――あの和子さんって方とはどうなってるの?」
「うん? ああ、あれ[#「あれ」に傍点]か」
「『あれ』はないでしょ」
「しかし、何とも言いようがない。――ま、同志[#「同志」に傍点]ってとこかな。もちろん夫婦でもないし、恋人でもない。――大分若いが、何しろ向うは僕のことを『手のかかる坊や』ぐらいに見てるのかもしれないよ」
「それは当ってるかも」
と、沙織はおかしそうに言った。
「――おっと、失礼」
久野原のポケットで、携帯電話が震えた。
席を立つと、レストランの入口近くまで行って電話に出る。
「――もしもし」
久野原は、いつもと全く違うトーンでしゃべる訓練をしていた。向うが親友でも気付くまい。しかも、ごく普通の感じで話すことができる。
「広告を見ました」
富田美津子の声だった。「〈月の石、買い取りご希望の方〉という……。あの広告を出された方ですね」
久野原は、この携帯を買ったばかりで、その番号を広告に載せた。それも、通りすがりの若者から、何万円かで買ったのである。――この用件がすめば、処分する。調べることはできないだろう。
「あんたが買うのか」
と、久野原は訊いた。
「希望されている方の代理の者です」
と、美津子は言った。
「代理じゃだめだ。本人でなきゃな。切るぞ」
「待って下さい!――あの、ちょっと待って」
美津子が向うで話し合っている気配が伝わってくる。
二、三分たって、
「――もしもし」
不機嫌そうな八木の声がした。
「あんたが買うのか」
「そうだ」
「いくら払う?」
八木にしても、この世界に長い。相手がハッタリでないと感じている。
「値打は分ってるだろう。しかし、処分も難しいはずだ」
「確かに」
「手間や危険を省くんだ。一億で手を打て」
「いいだろう」
妥当な言い値だった。下手なかけ引きをしないのはさすがである。
「いつ用意できる?」
と、久野原は訊いた。
「明日なら」
「明日の夜、十二時に、麻布×丁目の交差点の電話ボックスへ来てくれ。指示する」
「麻布×丁目だな。分った」
「この電話はもう使えない。予定は守れ」
と言って、久野原は切った。
テーブルに戻って、
「失礼」
「お仕事?」
「というほどのことでもない」
久野原はゆっくりとワインを飲んだ。「――日本では商談が進んだかい」
「さっぱりね。――むだなものにお金をつかわなくなったら、世の中、面白くないわね。オペラやバレエ、歌舞伎や能や……。お祭、お花。ねえ、余裕って、むだなことでしょ? いくら|儲《もう》かるか、なんて考えてたら、やってられない」
「美術品も?」
「そう……。宝石もね。イミテーションで充分、と思ってたら、買う人なんかいなくなるわよ。でも、そういうものを持ってる、っていう満足感と心のゆとりが、生きていく力になるんだわ」
沙織はそう言って、ちょっと笑った。「そう自分へ言い聞かせてるのって、何だか寂しいかな」
「そんなことはない。事実その通りだよ」
「あなたがそう言ってくれると、何だかホッとするわ」
沙織は自分のワイングラスを傾けて、「――もっとむだ[#「むだ」に傍点]で、すてきなものを思い出したわ」
「何だい?」
「恋よ」
沙織はいたずらっぽく言って、「うんと甘いデザートのような恋ね」
「君は充分若いよ」
「酔ったの?」
「いや……。薄暗いせいかな」
「失礼ね!」
と、沙織は言って笑った。
――実際、沙織は、久野原が、
「見ただけで胸やけがする」
と言った、デザートの山盛りを取って、きれいに平らげた。
コーヒーだけ飲みながら、久野原は、沙織の食欲に感心していた。久野原よりは大分若いとはいえ、五十にはなっている。
仕事で責任を負っているということ、そして、人に見られる立場にいるということ。それが沙織を若々しく見せている。
しかし、かつて久野原が恋した沙織とは違う「魅力的な女性」がそこにいた。――久野原を慕い、頼ってくる沙織ではない。
コーヒーを飲みながら、
「山倉さんの告別式に来たね、遅れて」
「前の面談がのびて……。あなたもいたの?」
「うん。仕事のご縁でね」
と、久野原は言った。「――やれやれ、こんなにのんびり食べていられるなんて、久しぶりだ」
「恋だけじゃなくて、『おいしいものを食べる』のも、すてきなむだ[#「むだ」に傍点]よ」
と、沙織は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
ワインで目のふちをほんのりと赤くしている沙織は、昔の面影を残していた。
「――出ましょう」
と、沙織は言った。
――レジで久野原が支払いをすませていると、いつの間にか沙織がいなくなって、コートを腕に首をかしげていると、
「久野原様。秋月様です」
と、レジの女性が電話を差し出した。
わけが分らず出てみると、
「――ごちそうさま。この後、どうするか選ばせてあげようと思って」
「選ぶ、って……」
「私はこのホテルの八階、〈807〉にいるわ」
「何だって?」
「訪ねて来る気があれば来て。その気になれなかったら、帰っていいわ」
「沙織――」
「〈807〉よ」
と、沙織はくり返して、電話を切った。
久野原は、ため息をついて、手の中の受話器を見つめていた。
「――どうかなさいましたか」
と、レジの女性が|訊《き》く。
我に返った久野原は、
「いや、何でもない」
と、首を振った。
〈807〉。――しかし、もう何十年になる?
恋の炎は、まだくすぶっているだろうか。
いや――むしろ、今の久野原にとっては、沙織を抱く気になれるかどうかの方が問題だった。
懐しくはある。かつて愛し合った女性を、再び抱いてみる……。しかし、それはただの「遊び」で割り切れるだろうか。
エレベーターで、〈8〉のボタンを押す。――ともかく、素通りして帰るわけにはいかない。
会ってみなければ、どうなるものか、久野原にも確信はなかった。一緒に食事をするというのとは全く違う。
訪ねて行けば、彼女は当然久野原が「承知の上で」来たと思うだろう……。
迷っている間に、エレベーターは八階で停り、廊下をゆっくり|辿《たど》って、すぐに〈807〉のドアの前に立った。
どうする? このドアをノックすれば、沙織を抱かずに帰るわけにいかないだろう。
男の自分が迷っているのは妙だろうか?
いや、無分別な若者ではない。かつて知っていたころから流れた日々が、思い出を壊してしまいそうな気もするが、その心配だけでもない。
要は――「遊び」と割り切ってしまうには、沙織は久野原の中に深く|係《かかわ》っているのだ。
帰るか、それとも――。
だが、ドアの向うに人の近付く気配があり、ドアが中から開いた……。
「――君か」
久野原は、そこに湯上りの匂いを漂わせ、バスローブをまとった、島崎美鈴の姿を見て、当惑した。
「入って下さい」
と、美鈴は言った。
廊下を、人の声が近付いてくる。久野原は中へ入った。美鈴がドアを閉め、
「叔母に言われました。――『私はおいしい食事をするから、デザートは譲るわ』って」
「そうか」
久野原は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「僕はデザートか」
「デザートにはぜいたくしたいんです。食事は簡単にすませても」
美鈴は、大きく息をついた。バスローブの下で、若々しい胸が盛り上った。
「急いで帰られるんですか」
と、美鈴が言った。
「いや」
久野原は首を振った。「それじゃ、ゆっくり|寛《くつろ》がせてもらおう」
少し固い表情だった美鈴が、ホッとした様子で、
「何か飲みますか」
「今、飲んだからね。――君は?」
コートを脱ぐと、美鈴が、
「私、かけます」
「いいよ、君は別に僕の秘書じゃない」
久野原は、しかし美鈴に任せて、「――家に連絡を入れておくよ」
「和子さんが心配なさる?」
「心配はしないだろうが、変に勘ぐられても困るからね」
久野原は、和子へ電話を入れた。
「――ああ、例の件は連絡がついたよ。部屋の用意を頼む」
「かしこまりました。どちらからおかけですか?」
と、和子が言った。「いやに周りがお静かで」
「うん。ホテルの部屋だ。ここへ泊る」
「それはそれは……。ご苦労様です」
「明日の昼には帰るよ」
「どうぞごゆっくり」
と、和子は言った。
別に怒るわけでもないのだ。淡々としているのである。
「昔話に花が咲いたんですか」
「いや……。|姪《めい》ごさんの方だ」
「まあ、いつの間に」
「色々事情があってね」
「――ご用心下さいな。では、お待ちせずにやすませていただきます」
「おやすみ」
「おやすみなさいませ」
――美鈴が、少し心配そうに、
「和子さん、何て?」
「おやすみ、とさ」
ホッとしたように笑って、美鈴は久野原に抱きついて来た。
――二人はデザートをじっくりと味わったのだった。
14 罠
車を降りると、富田美津子は、電話ボックスに入った。
雪になりそうな、底冷えのする夜。――車の行き来は絶えないが、人はほとんど通らない。
腕時計を見ると、ちょうど十二時。――真夜中である。
電話が鳴った。狭いボックスの中で、その音は美津子に向って飛びかかってくるように感じられた。
「――はい」
と、電話に出る。
「金は用意してあるね」
「車の中に」
「じゃ、車で、×丁目の信号を左折して、二番目の角を右へ曲れ。三つめのマンションの〈503〉へ行け」
「分りました」
美津子は頭の中で指示をくり返すと、「すぐに出ます」
電話ボックスを出ると、美津子は車に戻った。
助手席には、アルミのトランクが置かれている。
車でほんの数分だった。――途中、深夜工事で引っかかったが、十分たたずに、指定のマンションに着いた。
〈503〉。――〈503〉。
こういう単純な数字の方が、つい、忘れてしまいそうになる。エレベーターの中で、美津子は、
「〈503〉……」
と、|呟《つぶや》いていた。
手にしたトランクが重い。
五階で降りると、空き部屋が多いのか、何となく寒々とした廊下である。
コンクリートの床にも、|埃《ほこり》が目立つ。――私なら、いくら家賃が安くてもこんなところには住まないわ、と美津子は思った。
〈503〉。――チャイムでも鳴らしたものかどうか。
こんなときに、いやに礼儀正しい自分がおかしかった。
ドアのノブを回して見ると、|鍵《かぎ》はかかっていなかった。美津子は中へ入った。
玄関を入ると、正面のドアが半ば開いていて、明りが漏れている。
美津子は、靴を脱いで上ると、ドアを大きく開いた。
美津子の目が大きく見開かれる。
「――入って」
と、久野原は言った。
美津子は、おずおずと前へ進んだ。
「トランクを開けなさい」
と、久野原は言った。
美津子は目の前のテーブルにトランクをのせ、小さな鍵を取り出して、ロックを外した。さらに、数字を合せる。
パチッと音がして、トランクが細く口を開く。
「こっちへ向けて」
と、久野原は指示した。「開けて中を見せなさい」
美津子は、言われる通りにして、トランクを大きく開けた。立っていたので、美津子の目にも、トランクの中が見えた。
札束は入っていなかった。赤いランプがチカチカと点滅した。
次の瞬間、トランクは|轟《ごう》|音《おん》と共に爆発した。
マンションの一部屋、ベランダに面したガラス扉が粉々に吹っ飛んで、続いて黒煙が吹き出して来た。
――マンションの住人があわてふためいて飛び出してくる。
「やったな」
リムジンの中から、その様子を見ていた八木春之介は、小さく|肯《うなず》いて呟いた。「|可《か》|哀《わい》そうだが……」
しかし、美津子には充分いい思いをさせてやった。そうだとも。
八木流の論理で、自分が納得してしまうと、何の痛みも感じない。
「〈黒猫〉も、これで終りか。|呆《あっ》|気《け》ないもんだ……」
八木はフッと笑うと、「おい、行け」
と指示をした。
リムジンは静かに走り出した。
「――どちら様で」
と、玄関のドアを開けた和子は言った。
「八木春之介だ」
「はあ……。|旦《だん》|那《な》様はお留守でございますが」
「分ってる。――そう澄ましてたってだめだ。お前も〈黒猫〉とグルだったんだろう」
と、八木は笑って、「中へ入らせてもらう。預けたものを返してもらいに来た」
八木の後には、見るからに「用心棒」という感じの大男が二人、無表情に従っている。
「何のお話ですか……」
と、和子も表情一つ変えない。
「とぼけるな。〈月のしずく〉がここにあるはずだ」
八木の口もとの笑みが消えた。「この二人は、何でもぶち壊すのが趣味なんだ。家でも人間でもな」
和子は淡々と、
「お上り下さい」
と、三人を居間へ通した。
「余計な手間は省こう」
八木はソファに|寛《くつろ》いで、「ここで、お前をこの二人に好きにさせてもいいが、|俺《おれ》は女にやさしいんだ。おとなしく〈月のしずく〉をここへ出せば、何もせずに帰ってやる。しかし、隠し立てしたら、一生まともには歩けなくなるぞ」
「怖いお話で」
と、和子はちっとも怖がっていない様子。
「〈黒猫〉が帰ってくるのを待ってもむだだ。〈黒猫〉は粉々になって、見分けもつくまい」
和子は、何も言わずに八木を見ていたが、
「かしこまりました」
と、頭を下げ、「こちらも、もうお返しした方が、と思っておりました」
「分りゃいい。ここへ出せ」
「少しお待ち下さい」
和子は、そう言って居間を出て行った。
「――素直すぎませんか」
と、子分の一人が言った。
「まあ待て。何か小細工したら、存分にさせてやる。それとも――」
と、八木はニヤリと笑って、「〈月のしずく〉が戻ったら、後はここがどうなろうと構わん。あの女もな」
「ありがたい!」
と、指をポキポキ鳴らし、「ああいう、人を小馬鹿にしたような女を泣かせるのは面白いですよ」
と笑った。
すると――居間のどこからか、
「ご趣味の悪い方は、趣味の悪い使用人をお雇いですね」
と、和子の声がした。
八木がびっくりして、
「何だ?」
と立ち上った。「――どこかにスピーカーがあるんだな」
「マイクもございます」
と、和子が言った。「品のない会話も、しっかりうかがっておりました。雇人を見れば主人が分ると申しますが、その通りでございますね」
「おい! なめた真似をしやがると――」
「由緒ある家柄のお方が、そういう口をおききになって」
と、和子はため息をついて、「お引き取りいただく方がよろしいでしょう」
「ふざけるな!」
と、八木は怒鳴った。「――おい、あの女を捜して引張って来い!」
真赤になって怒っている。
子分が居間を出ようとしたが――ドアが開かない。
「|鍵《かぎ》がかかってる! 畜生!」
「ぶち壊せ!」
と、八木は言った。
子分が、少し後ずさって、思い切りドアへ体当りした。だが、ドアはびくともせず、子分は肩を押えて、
「いてて……」
と、うずくまってしまった。
「だらしねえな! 何やってるんだ?」
と、もう一人が、ドアを思い切りけとばしたが、やはり鍵が壊れる気配もない。
「――畜生! 頑丈にできてる」
「ドアを|叩《たた》き破れ!」
と、八木はすっかり頭に来ている。
子分二人が、手に手に部屋にあった小さなテーブルやブロンズの彫刻をつかんで、力一杯ドアへ叩きつけた。
ドアの板が裂け、木くずが飛び散る。
「――何だ、これ!」
と、一人が目を丸くして言った。
ドアの板の裂け目に|覗《のぞ》いたのは、銀色の鉄板だった。
「鉄板が挟んである。――これじゃ壊れないぞ」
「鍵の所を|狙《ねら》え!」
二人は上着を脱いで、ドアのノブをへし折り、鍵の辺りを何度も攻撃[#「攻撃」に傍点]したが、一向に開く気配はない。
「――だめです!」
と、二人の子分は息を弾ませ、汗を|拭《ぬぐ》いながら、「びくともしません」
「何やってるんだ!」
八木は頭から湯気でも立てそうだった。「窓だ。――窓を破って、外から回れ」
広い窓へと駆け寄って、カーテンをシュッと開けた子分は絶句した。
「これ……」
家の外には、すっかりシャッターが下りていた。
「こじ開けろ!」
と、八木が命じる。
窓ガラスを叩き割り、続いてシャッターへと|椅《い》|子《す》やスタンドや、手当り次第に投げつけたが、やはり、並のシャッターとは違い、へこみもできない。
「――とてもだめです!」
二人は、汗だくになって、床に座り込んでしまった。
「情ない連中だ!――畜生!」
八木は居間の中を歩き回って、置物や棚を片っ端から引っくり返し、壊して行った。
「――お気がすみましたか」
和子の声がした。
「いいか! こんな真似をして、後で後悔しても遅いぞ!」
と、八木は|吠《ほ》えた。
「『後で後悔』は意味がダブっています」
「やかましい!」
「あまりカッカなさると危いです」
「何だと?」
「室内の温度が上ると、温度感知器が働いて、火事と判断するかもしれません」
「それがどうした!」
と、八木が言い返す。
「すると、こういうことになります」
と、和子の声がして、突然、天井のスプリンクラーが作動した。
細かく、霧のような水が、居間一杯に降り注いだのである。
「ワッ!」
「何だ!」
たちまち居間の中が真白になって、何も見えない。
「何とかしろ!」
と、八木が怒鳴ったが、いくら怒鳴られても、二人の子分もずぶ|濡《ぬ》れになって頭を抱え、うずくまっている状況では、どうしようもない。
「水を止めてくれ!」
と、八木が悲鳴を上げた……。
パトカーが停ると、熊沢が降りて来た。
他に制服の警官が数人、同行している。
玄関のドアがすぐ開いて、
「熊沢さん。お待ち申していました」
と、和子が言った。
「何ごとです?」
「それが――ゆうべ遅くに、八木という方が二人ほど連れてみえまして……」
と、和子は先に立って、「|旦《だん》|那《な》様が粉々になったとか、わけの分らないことをおっしゃって」
「粉々に?」
と、熊沢は|眉《まゆ》をひそめて、「ゆうべ、都心のマンションの一部屋が爆弾で吹っ飛んだんですが」
「まあ、そうでしたか……」
「久野原さんは?」
「ゆうべはお帰りではございません」
と、和子は言った。「その前の晩も。――でも、それは理由が分っているので」
「はあ……」
「それで――八木さんたちが、急に居間の中で暴れ始めまして」
「暴れ始めた?」
「一体どうなさったんでしょう? とても手がつけられないんです」
早朝、まだやっと空が白んでくる、最も寒い時刻である。
「――まだ中に?」
「そのはずです」
と、和子が|肯《うなず》いて、「用心なさって。かみつかれるかもしれません」
犬扱いされている。
「おい、開けてみろ」
と、熊沢が促すと、警官が居間のドアを開けた。
凍えるような風が吹き抜けていく。
「――何だ、これは?」
熊沢が|愕《がく》|然《ぜん》として、その惨状[#「惨状」に傍点]を見渡した。
ドアの内側の板は裂け、中は机といわずソファといわず、壊され、引っくり返されて、しかも、部屋中が水びたしになっている。
正面の窓ガラスも一枚残らず割れて、寒気が吹き込んでいるのだった。
「――あのみのむし[#「みのむし」に傍点]みたいなのが、その三人ですか」
「らしいですわ」
居間の隅に、三人はカーテンの布を体へ巻きつけて、真青になり、生きた心地がない様子。
「――何をやったんだ?」
と、熊沢が床の水たまりを渡って行くと、八木がそろそろと顔を上げ、何か言った――らしいのだが、寒さで言葉にならず、歯がガチガチと鳴っているばかり。
「ずぶ濡れになって、こんな寒い所にいりゃ、凍えるに決ってる」
と、熊沢は言った。「どうして出て行かなかったんだ?」
八木は、初めて、窓のシャッターが開いているのに気付いた様子だった。――明るくなれば分りそうなものだが、凍え切っていて、頭が働かなかったのだろう。
「このままじゃ凍死する」
熊沢は、救急車を呼べと指示して、「――和子さん」
「何でしょう」
「こいつが、久野原さんを粉々にしたと言ったんですね?」
八木が必死で首を横に振る。
「――言ってないって?」
「変ですねえ。確かにそう言ったんですよ」
と、和子が言った。
「た……た……」
やっと、八木の口から言葉らしいものが飛び出した。「頼む! 風呂……風呂に……入れてくれ!」
「寒いだろう。――どうします?」
「さあ。旦那様にうかがいませんと」
と、和子が言ったとき、
「入れてやることはない」
と、声がした。
居間の入口に、久野原が立っていたのである。
「お帰りなさいませ」
と、和子がいつもの通りに言った。
「どうやら、粉々にはならなかったらしいですな」
と、熊沢は言って、八木を見ると、「おや、気絶しちまったらしいな」
久野原の姿を見て、八木は卒倒してしまったのだった……。
15 慰 め
「どうぞ」
和子は、久野原の前に熱いレモネードのカップを置いた。
もちろん、悲惨な有様になっている居間ではない。ダイニングのテーブルについて、久野原は考え込んでいた。
「――ありがとう」
「あまり悩まないで下さい。ご自分を責めても仕方ありません」
「分ってる。しかし……」
と、久野原は首を振って、「甘く見ていた。八木にとっても、富田美津子はまだ必要だと思っていたんだ」
――久野原は、あのマンションにいなかったのである。
あの部屋へ入って、美津子が面食らったのは、正面にいた[#「いた」に傍点]のが、小型のTVカメラだったことだ。そして小さなスピーカーが置かれて、そこから久野原の声が指示を出していたのである。
久野原は、同じマンションの別の部屋にいて、TVカメラの画像を小型のモニターTVで見ながら、美津子へ話しかけていた。
美津子と直接顔を合せるのを避けたかったことと、八木がどこかについて来ているのではないかと疑っていたので選んだ方法だが、結局、それが久野原の命を救ったのである。
八木も、久野原があの場へ〈月のしずく〉を持ってくるはずがない、と分っていたのだ。
それにしても――爆発がマンションを揺がしたとき、久野原は青ざめた。
部屋へ駆けつけてみたが、無惨だった。
八木は、〈黒猫〉を退治するために、自分の秘書で愛人だった女を平気で道連れにした。――それは|赦《ゆる》せないことだった。
「大分こりたでしょう」
と、和子は言った。
「ああ、よくやってくれた」
と、久野原は言った。
「――熊沢さんを呼ぶのが、少し早過ぎましたか?」
久野原は少し迷っていたが、
「いや、あれで良かったよ」
と、|肯《うなず》いて見せた。「あれ以上、あの三人を寒気にさらしたら、凍死しただろう。それは事件の解決でなく、|復讐《ふくしゅう》になってしまう」
「きっとそうおっしゃると思っていましたわ」
久野原は、和子の手を握った。
「あの方[#「あの方」に傍点]は?」
と、和子が言った。
「彼女[#「彼女」に傍点]か」
「私よりも、あの方の方が、慰めになるのでは?」
久野原は、少しの間、和子の手を握っていたが、
「――いや、こんなときに彼女に頼るのは|卑怯《ひきょう》だ。大丈夫だよ。僕は大丈夫」
と、肯いて言った。
「少しおやすみ下さい」
「うん。――ありがとう」
久野原は立ち上って、伸びをした。
「自然に目が覚めるまで、お起こししませんから」
「ああ、そうしてくれ。しかし、きっと早い内に目を覚ます。もう若くないからな」
と、久野原はダイニングを出ようとして、
「――ありがとう」
と、和子の方へ言った。
「おやすみなさい」
と、和子は頭を下げて、「――旦那様」
「うん?」
「居間がひどい状況ですが――」
「ああ、そうだね。早速、直してもらってくれ」
「新しくデザインして、私の好きにしてよろしいですか?」
「いいとも」
久野原は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「任せるよ。すべて」
「かしこまりました!」
和子はとたんに目を輝かせ、張り切った声を出したのだった……。
久野原は、自分の予想とは違って、もう夕方近くになってから、やっと目を覚ました。
体は休まったが、胸の重苦しさは一向に消えていない。
電話が鳴って、出てみると、熊沢からだった。
「――お目覚めでしたか」
「今、起きたところで……。八木たちの具合は?」
「三人とも、ひどい風邪で肺炎になりかけているそうです」
「自業自得ですな。同情しません」
「全く同感です。ただ、|訊《じん》|問《もん》も医者のOKが必要でしてね」
「分りました。じゃ、居間はあのままの状態で残しておいた方がいいんですね?」
「そういうことです。色々お手数ですが」
と、熊沢は言った。
久野原は、電話があったせいで、すっかり目が覚め、顔を洗って階下へと下りて行った。
「――おい、起きたよ。――どこだ?」
どこにもいない。
買物にでも行ったのかと思い、自分でコーヒーを|淹《い》れて飲んでいると、チャイムが鳴った。
宅配の荷物である。
久野原は、いやに軽い、その箱を、妙な気がして振ってみた。
何か入っているようだが、空に近いだろう。
箱を開けると、布のきれ端と、手紙が出て来た。
手紙を読んだ久野原は息をのんだ。
〈女の命が惜しかったら、今夜八時、N博物館へ、〈月のしずく〉を持って来い。女のブラウスのきれ端を入れておく。〉
手に取った布は、確かにブラウスの一部で、その模様にも見覚えがある。
「――和子」
卑怯な|奴《やつ》だ!
久野原はもう一度、ワープロで打った手紙を見直した。
N博物館。八時。
すぐに、N博物館へ電話して、閉館が七時だということを確かめた。
五時になるところだ。――久野原は、急いで支度を始めようとした。
玄関のチャイムが鳴って、インタホンに出ると、
「あの……私です」
美鈴の声だった。
すぐに玄関へ出て、ドアを開けると、
「――突然ごめんなさい」
と、美鈴がおずおずと、「どうしても顔を見たくて……」
「入って」
久野原の表情で、何か起ったと察したのだろう、
「どうしたの?」
と|訊《き》いた。
久野原が手紙を見せると、
「――和子さんが」
と、|呟《つぶや》くように言った。「でも……どうするんですか?」
「もちろん救い出すさ」
「この〈月のしずく〉って――ダイヤモンドでしょう? 久野原さんが持ってるの?」
「ある人から預かったんだ」
と、久野原は|肯《うなず》いて、「もちろん、和子の命には換えられない。持って行く。――美鈴君、力を貸してくれるか」
「私にできることがあるのなら……」
「あるとも」
久野原は、美鈴の髪をなでて、「そばにいてくれるだけでも、充分だ」
と言った。
美鈴が久野原の胸に顔を|埋《うず》める。
久野原は何秒間か美鈴の暖い体を抱きしめていた。
遠い日のこだまが聞こえた。――ずっとずっと若いころ、恋に胸ときめかせた過去のこだま。
だが、それはもう帰って来ないのだ。
しっかり抱きしめている美鈴の体は現実でも、抱いていること、そのことは幻なのだ……。
「――じゃ、待っててくれ。すぐに支度する」
と、久野原は言った。
「ええ」
久野原は行きかけて、
「居間は入っちゃいけないよ」
「どうして?」
「改装中なんだ。ちょっとゴジラが暴れてね」
美鈴が目を丸くして、居間のドアの方へ目をやった。
入場最終時間の六時ぎりぎりに入館することができた。
――N博物館は大きな建物なので、全部の展示を一時間で見て回るのは難しいのである。
中へ入ると、|遥《はる》か頭上にドーム状の丸天井があり、ホールはもう帰って行く人たちが通り抜けて行くばかりだった。
「――N博物館っていっても、どこのことなのかしら」
と、美鈴は言った。
「場所を指定していないということは、向うから捜しに来るということさ」
久野原はそう言って、「ともかく奥へ入ろう」
と促した。
――古代エジプトの展示が何室か続く。
「――監視カメラの死角を見付けて、隠れよう。まだ人のいる内でないと、|却《かえ》って目立つ」
見物しているように見せながら、久野原は、TVカメラの位置を目の端で確かめていた。
ミイラの展示と、|棺《ひつぎ》が並んだ部屋は、いわばN博物館の「目玉」で、この時間でも客が結構入っていた。
「――ここだな」
「え? こんなに人がいるのに?」
「だから、カメラでも追い切れていない。大きな棺が三つ並んでるだろう。その後ろはカメラから完全に隠れている」
「――どうするの?」
「別々に、そこと向うのグループの近くに立つんだ。同じグループに見えるように。そしてここを出るとき、棺の間へ入りこむ」
「分ったわ」
美鈴は、むしろいきいきとして、冒険を楽しんでいるかのようだった。
二人はブラブラと歩きながら別れて、どこかのカルチャースクールのグループらしい、説明役の先生が熱弁をふるっている所で足を止め、話に聞き入っているふりをして、棺の方へ近付いた。
「――では、行きましょう。じき閉館になります」
と、案内役の先生が先に立って、展示室を出て行く。
久野原は、その人の塊のかげに隠れて、素早く棺の裏側へと隠れた。
薄暗くなっているので、身をかがめていると、まず見られる心配はない。
隣の棺の裏側に、美鈴が潜り込むのが見えた。
目が合って、肯いて見せると、美鈴は微笑んだ。
――その後は、パラパラと数人の客があわただしく通り過ぎて行き、やがて館内に、
「間もなく閉館時間です」
というアナウンスが流れた。
七時には全部の客を出して閉めるのだ。
十分前くらいには、人の気配がなくなった。
そして、七時になると、照明が次々に落ちて、辺りは静寂に包まれた。
十分ほどして、足音が響いた。
「――一応見て回るんだ」
と、小声で美鈴に言った。「じっとして、声を出さずに」
美鈴が肯いて見せる。
ミイラと棺の部屋を、ガードマンの足音が通り抜けて行く。
もう大丈夫。――久野原は、立ち上って、息をついた。
「――もう出てもいいの?」
「カメラに映らないように」
と手招きすると、美鈴が久野原のそばへやって来た。
「――さあ、後は八時まで待つだけだ」
と、久野原は言った。
「でも、こんな所で……」
「歴史に興味があるのかな」
と、久野原は言った。「それともミイラなのかも。――僕のようにね」
「そんな……」
と、美鈴は言って、「――ね、〈月のしずく〉って、見せてくれる?」
「ああ」
久野原は、ポケットから、革袋を取り出して、美鈴に渡した。
中から、てのひらへストンと落ちた、その重さと大きさに、美鈴は息をのんだ。
「|凄《すご》い!」
「ああ。大したものさ」
久野原が肯く。そのとき、ガラガラという音が響いて、二人は動きを止めた。
「大丈夫。入口のシャッターの閉じる音だ」
「ああ、びっくりした!」
美鈴は〈月のしずく〉を返すと、久野原にもたれかかった。
「こんな所で、変ね」
「僕にとっては珍しくないがね」
「あなたが――〈黒猫〉?」
「昔の話だ。もう白髪になってるさ」
と、久野原は言った。
「じゃ、〈白猫〉ね」
と、美鈴は笑って言った。
16 嘆きの階段
八時近くになると、博物館はすっかり静かになり、同時に暖房が切れて冷えて来た。
「そろそろ八時だな。――出て行こう」
と、久野原は言った。
二人が|棺《ひつぎ》のかげから出て、広い階段のあるロビーへ出て行くと、
「止って」
と、アナウンスの声が響いた。「宝石は?」
「ここだ」
と、久野原が革袋をポケットから出して見せる。
「階段を上って」
女の声だ。――二人は、広い階段を上って行った。
正面の踊り場に、横たわる裸婦の大きな彫刻がある。その上に、ちょこんと腰かけているのは、和子だった。
「|旦《だん》|那《な》様、お手数かけて」
「けがはないか?」
「大丈夫です。ブラウスを切られて、だめになりましたけど」
「その手前で止れ」
と、アナウンスの声が響いた。「〈月のしずく〉を足下に置け」
久野原は革袋を足下に置いた。
「――これでいいか」
と、久野原は言った。「和子を連れて帰るぞ」
久野原が、和子の手を取って彫刻から下ろす。
「座り心地が悪くて。お|尻《しり》が痛くなりましたわ」
と、和子が文句を言った。
「帰ろう」
――階段の下から、美鈴が|拳銃《けんじゅう》を構えて、銃口が久野原を|狙《ねら》っていた。
「ごめんなさい」
と、美鈴は言った。「帰すわけにはいかないの」
「謝るくらいなら、やめておくんだ」
久野原は言った。「君には引金が引けないよ」
「引けるわ」
「どうかな。――君には無理だ。もう一人の友だちならやれるかもしれないが」
階段を下りてくる足音がした。
「――やあ」
と、振り向いて、「ゆかり君。――元気で良かった」
関口ゆかりが階段を下りて来た。
「――私だと分った?」
「アナウンスの声はすぐに分ったよ」
「ここのガードマンが私のボーイフレンドなの。少しの間、留守にしてもらったのよ」
「いくらボーイフレンドでも、死体が転ってちゃ困るんじゃないか?」
と、久野原は言った。
「ここじゃやらないわ」
「君たち二人じゃ、心細いね。――沙織君、出て来たまえ」
――秋月沙織が、美鈴の後ろに姿を見せた。
「悲しい再会だね」
と、久野原は言った。
「あなたが〈黒猫〉でなけりゃ、こんなことにはならなかったのよ」
と、沙織は言った。
「三人の女子大生は、君が仕込んでいたんだな。宝石商に近付いて、宝石を偽物とすり換えるように」
「器用な子たちなの。――八木が、チューリヒでパーティを開くと聞いて、そんなチャンスを逃す手はないと思ったわ」
「八木のパーティそのものが、インチキだった。みんなが宝石を持ち寄って、停電の暗がりの間に盗まれたと届け出て、保険金をせしめる。そうだろう?」
「八木の手は知れ渡ってたわ」
と、沙織が|肯《うなず》いた。「そのパーティにこの子たちをうまく参加させた。あのとき、停電になって、テーブルの上の宝石が一斉に落とし込まれた後、この子たちがドレスの下に隠し持っていたイミテーションをテーブルにバラまいたのよ」
「盗まれたことにするはずが、テーブルから宝石が消えていない。みんな、仕掛けがうまく働かなかったと思ったんだ」
「集まった人たち、みんなが宝石商じゃなかったから、やり直しができなかったのよ。盗まれたという目撃者が必要だったから」
「保険会社に怪しまれないためにね」
「そう。――でも、後になって、みんな精巧な偽物だと知って真青になった」
「八木は事実を察していた。それで、空港で〈月のしずく〉を僕に持たせて日本へ帰らせた」
「どうしてもそれがほしかったのよ」
と、沙織は言った。「あなたには申しわけないけど」
「どういたしまして。――懐しかったよ」
と、久野原は言った。「だが、どうして木村涼子を殺したんだ?」
「山倉から、本物をもらって、それも自分のものにしようとしたからよ。――欲を出したら、いつ私を八木へ売るかもしれない。仕方なかったの」
「山倉や山城を、あそこまで追い詰めなくても良かっただろう」
「勝手に身を滅したのよ。――男なんて、みんな同じだわ。あなたのような、わずかの例外は別にして」
「どうかな。――なあ、沙織君」
久野原は、階段に置いた革袋を取り上げた。
「元へ戻して」
「中身を改めるべきだ。僕も君にイミテーションをあげたくないからね」
「何ですって?」
久野原は、袋から〈月のしずく〉を出して、
「すぐに分ることさ」
と言うと、それを宙へ放り投げた。
放物線を描いて、その石は階段の上に落ちると――音をたてて砕け散った。
「ダイヤモンドは割れないよ、これぐらいではね」
「ガラス玉?」
「そう。さっき〈月のしずく〉を見せてやったとき、すり換えられたんだ。本物は、美鈴君のポケットに入っているよ」
美鈴が青ざめて、
「撃つわよ!」
と、銃口を沙織に向けた。
「美鈴……」
沙織が|愕《がく》|然《ぜん》としている。「私を|騙《だま》すつもりだったの?」
「彼女は八木の下で働いてたんだ」
と、久野原は言った。「〈月のしずく〉が盗まれたと思わせるために、下手な泥棒を忍び込ませて、騒ぎを起こした。そして、八木の所で働いていた江田という若者を誘惑して、わざと駆けつけるのに手間どらせ、犯人らしいと|噂《うわさ》を流して、自殺に見せかけて殺した」
「あれは自殺だったのよ! あんなことになるなんて、思ってもいなかったわ。私は、自殺じゃないように見せようとして、靴下をはかせたのよ。でも――」
「あなたが……江田を?」
沙織が真青になったと思うと、いきなり美鈴に飛びかかった。
「よせ!」
と、久野原が階段を駆け下りる。
女二人がもつれ合って転ると――銃声が響いた。
「――沙織君!」
久野原が息をのんだ。
フラッと立ち上がったのは、沙織だった。
美鈴が血に染った腹部を押えて|呻《うめ》いている。
「和子! 救急車を呼べ!」
と、久野原は叫んだ。
和子が駆けて行く。
「――沙織、君は――」
「江田は、私の息子だったのよ」
と、沙織が言った。「真面目に宝石の勉強をしたいと言い出して、私は反対したのに、八木の所へ……。私は、八木があの子を死なせたと思ってたの。だから……」
「知らなかったわ!」
美鈴が苦しげに言った。「私――本当に江田さんが好きだった!」
「しゃべるな」
久野原は、美鈴のそばに|膝《ひざ》をついて、拳銃を拾い上げた。
「私――逃げるわよ」
と、青くなったゆかりが駆け出して行ったが、
「やっ!」
と、一声、出会いばな、和子の|拳《こぶし》の一撃でのびてしまった。
「――すぐ救急車とパトカーが来ます」
「そうか」
久野原は、沙織を見て、「君はどうする。――行くなら止めない」
「いいえ……」
沙織は、首を振った。「逃げるわけにはいかないわ」
「久野原さん……」
美鈴が苦しげに手をさしのべた。
「じっとして。出血がひどくなる」
「お願い。信じて下さい。私、江田さんを殺してはいないわ。あの泥棒に毒をのませたけど。八木に言われて……」
「分った。今ごろ八木が白状しているだろう」
「|旦《だん》|那《な》様」
と、和子が言った。「私がここにおります。旦那様は姿を消された方が」
「そうだわ」
と、沙織が言った。「あなたは行って。――〈黒猫〉のことは、決して口にしない」
久野原は、少しの間考えていたが、
「分った」
と肯いて、美鈴のポケットから、革袋を取り出した。「さあ、これが本物だ」
沙織は手の上に、〈月のしずく〉を出して、
「――ただの石じゃない」
と、言って笑った。
それから沙織は、
「じゃあ……」
と、久野原を抱き寄せて、キスすると、「和子さんも行って。――私が、うまく話をします」
「待って……」
美鈴が手を伸して、「私にもキスして行って!」
と言った……。
――パトカーと救急車がN博物館の前に停り、警官など大勢が中へ駆け込んで行く。
「悲しい結末だ」
と、久野原は車からその光景を見て言った。
「あの人たちはまだ、やり直せますわ」
と、和子は言った。
「そうだな……」
久野原は、ふとポケットに手を入れて、「――見ろよ」
〈月のしずく〉が、久野原の手にのっていた。
「別れぎわに、沙織がポケットへ入れたんだ」
「あの方からのプレゼントですわ。――受け取っておかれるとよろしいですわ」
と和子が言った。
「――そうしよう」
久野原は、車を夜の中へと走らせて行った。
エピローグ
八木が、手錠をかけられて、パトカーから降りてくる。
カメラのフラッシュが一斉に光り、八木は、ジロリとそっちをにらみつけた。
悪びれた様子もなく、刑事に挟まれて歩いて行く八木に向って、報道陣の間から、一人の若者が飛び出そうとした。
「よせ!」
その手を、がっしりと押え込んだのは、久野原だった。
「あんた……」
「チューリヒの教会で会ったろう」
富田和彦は、息をついて、
「邪魔しやがって!」
と、にらんだ。
「姉さんの敵討ちか」
「当り前だろ。――散々、オモチャにしやがって!」
「気持は分る。――一緒に来い」
久野原は、和彦を引張って、自分の車へ押し込んだ。
「――八木は、殺人罪だ。一生刑務所さ」
と、久野原は言った。「そんな奴を殺して、どうする」
「だけど……」
「黙ってついて来い」
と、久野原は言った。
「――入れ」
久野原が病室のドアを押すと、中で|車椅子《くるまいす》の女性が振り返った。
「どなた?」
「久野原だ。――お客を連れて来たよ」
両目を包帯でふさがれた美津子は、
「あら……。どなたかしら」
と言った。
和彦が|呆《ぼう》|然《ぜん》としている。
「両目とも失明したが、命はとり止めたんだ」
久野原が、和彦の肩を|叩《たた》いて、「これから、お前がずっと面倒をみるんだぞ」
そう言うと、久野原は病室を出てドアを閉めた。
和子が立っていた。
「帰りに食料を買い出しに」
「分った。付合うよ」
久野原たちが歩き出すと、病室の中から|凄《すご》い泣き声が聞こえて来て、廊下中に響き渡ったのだった……。
|怪《かい》|盗《とう》の|有給休暇《ゆうきゅうきゅうか》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年8月10日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『怪盗の有給休暇』平成11年2月25日初版発行