角川文庫
怪奇博物館
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
狼男町を行く
吸血鬼の静かな眠り
呪いは本日のみ有効
受取人、不在につき―
帰って来た娘
避暑地の出来事
恋人たちの森
狼男町を行く
「まさか」
と、私は言った。
「本当だよ」
と、彼はむきになった。
すぐむきになるところが、いかにも年下らしくて|可愛《かわい》いんだけど。
まあ、可愛いったって、彼ももう二十七。いい加減、男らしい落ちつきが出てもいいころだ。
でも、実際には私の研究室へ来たときから、一向に成長しないように見える。それは私の責任でもあるのかもしれない。
私がいつまでも彼を子供扱いし過ぎるから、こうなってしまうのか……。でも、もう三十五歳の女の目から見れば、八つも年下の男なんて、正に「男の子」なのである。
「信用しないのかい? 僕は確かに――」
「分ったわよ」
と私は笑って、「信じるわ。でも、あなただって、それ[#「それ」に傍点]を自分の目で確かめたわけじゃないんでしょう?」
「そりゃあね。だけど、あいつは決して|嘘《うそ》をつくような|奴《やつ》じゃない」
「じゃ、その人が、本当に|狼《おおかみ》を見た、って――」
「狼[#「狼」に傍点]じゃないよ」
と、彼は言った。「狼男[#「狼男」に傍点]を見たんだ」
――私の名は宮島令子。J大学の社会学科に在籍している。
三十五歳で助教授というのは、まあ、やや早いくらいだろう。
今、私の隣にいるのは、助手の佐々木哲平である。もちろん、仕事の上でも助手であるが、実生活でも――助手、といったら、またふくれてしまうだろう。一応、恋人ということにしておこう。
現に、この会話だって、都内某ホテルの一室のベッドの中で交わされていたのだから。
「狼男、ね……」
私は、ゆっくりと首を振った。「変身したんですって?」
「それは知らないけど……」
と、哲平は肩をすくめて、ベッドサイドテーブルの上のタバコに手を伸した。
「ベッドの中じゃ|喫《す》わないって約束よ」
と、私は言った。
「あ、ごめん。――ついくせになってるんだ」
「タバコなんて、体にいいこと一つもないのよ。やめた方がいいわ」
つい、お説教じみた言い方になってしまうのは、八つも年齢が違うせいか。
哲平は、大きく伸びをした。ただでさえノッポなので、ベッドからはみ出しちゃうんじゃないか、という気がする。
「さあ、もう帰りましょう」
と、私は起き上った。
「まだ早いよ」
と、哲平は不満そうだ。
「こういうことはね、ちょっと物足りないくらいで、ちょうどいいのよ」
と私は言ってやった。「先にシャワーを浴びるわよ」
「やれやれ。――分ったよ」
哲平も渋々起き上って、頭を振った。
私は一人でバスルームに入り、熱いシャワーを浴びた。
湯気でぼんやりと曇った鏡に、自分の姿が写っている。
ぼやけて見えるから、というわけではなくて、三十五歳にしては、たるみのない、引き締った体をしているつもり[#「つもり」に傍点]だ。
三日に一度はプールに通って泳いでいるし、暇があると、大学のキャンパスの中をランニングしたり、自転車を乗り回したりしている。
それに大体週末には、こうして哲平と、ベッドの中での「運動」もしている。
授業も忙しいし、論文の発表や、もろもろの事務に追われつつ、女研究者が若さと美しさ(ここは主観の問題が入るが)を保つのは、容易なことではない。
付け加えておくと、私はもちろん独身。結婚の経験も|同《どう》|棲《せい》の経験もない。
さて……。シャワーを浴びて、服を着る。その間に、哲平の方も、シャワーを浴び、バスタオルを腰に巻いて出て来た。
「腹減ったなあ」
と、|欠伸《あくび》をする。
「近くで何か食べて帰りましょ」
と、私は言った。「明日のスライド、|揃《そろ》えといてくれた?」
「もう仕事の話?」
と、哲平は顔をしかめる。
「いつも言ってるでしょ。シャワーを浴びて服を着たら、助教授と助手に戻るのよ」
哲平はため息をついて言った。
「狼男よりずっと怖い変身だよ」
私は笑い出してしまった。
「狼男っていうのは、映画の主人公だけど、人狼っていうのは、実在するのよね」
と、私は言った。
「どう違うの?」
哲平は、猛烈な勢いで、ハンバーグを平らげながら言った。
「人の死体の肉を食い荒したりする異常者がいたの。それを人狼と呼んでたの」
哲平は、ちょっと顔をしかめて、
「食事してるときに……」
「あら、意外とデリケートなのね」
と、私はステーキにナイフを入れながら、からかってやった。
「意外に、はないでしょう、先生」
と、哲平はやり返して、「でも、その男の見たのは、そんな異常者とは違ったようだよ」
「ふーん。一度会って、話が聞いてみたいわね」
「本当に? 何なら紹介してあげる。でも……」
「なに? 問題でもあるの?」
「あいつ、三十歳なんだ。しかも独身で、いい男と来てる」
「へえ。ますます会いたくなった!」
と、私はからかってやった。「何て人なの?」
「田端。本人、コンピューターの技術者なんだよね。だから、超自然なんて、まるで信じてない。世の中のことは、|総《すべ》て0と1で表現できると思ってるんだ」
「その人がどうして狼男を?」
「うん、田端の話だと――」
その夜も、帰りは遅くなった。
ともかく、時代の最先端を行くコンピューターの技術者が、最も前近代的な重労働を課せられているのだから、皮肉なものだ。
田端も、ここ何か月の間、夜十時前に、その公園を通ったことはなかった。
いや、たいていが十二時過ぎという実状だったのである。
三十とはいえ、もうずいぶん体は参って来ていた。まるで、すっかり中年になってしまった気分だ。
いくら、世界は0と1で成立していると思っていても、学校時代の友人たちが、みんな結婚して、子供と遊んだりしているのを見ると、ふと我が身の|侘《わび》しさを痛感することはあった。
田端とて、別に独身主義というわけではなく、だからこそ、こうして、いくらか通勤に時間はかかるが、3DKのマンションまで手に入れて、結婚しても住めるように、と備えているのである。
しかし、いかんせん、恋人一人、作る時間がないのだ。日曜出勤は当り前、徹夜も日常茶飯事、期間不明の出張で、時には数か月もマンションに戻らない。
これでは、見合いする時間もないのである。
いい加減、少し考えなきゃいけないなぁ、などと、夜の公園を歩きながら、田端は考えていた。
この公園は、駅からマンションへの、近道になっていた。少し寂しい所なので、女性は敬遠しているらしかったが、ともかく普通の道を|辿《たど》ると、十五分も余計にかかるのだから、いくら物騒とはいえ、ここを通る人が断然多かった。
もっとも、こんな時刻になると、さすがに田端の前後にも人影はなくて……。
田端は、足を止めた。
何だ? 今、聞こえたのは――悲鳴だったようだが……。
空耳かな。いや……。
「キャーッ!」
まただ! これはどうやら聞き違いではないらしい。
もう少し行くと、道が大きくうねって、木立ちの暗がりの中へと入る所がある。悲鳴はその中からのようだ。
ともかく、公園の中でも一番危い場所らしいし、女性が一人で歩いていて、襲われるという事件も何度か起っている。
「助けて!――誰か!」
と、また声が聞こえた。
田端は、突っ立ったまま、動かなかった。――助けを求められているのは分っている。
しかし、自分が行って、何ができるだろう?
どうせ、子供のころから、頭は良かったのだが、腕っぷしは滅法弱かった。
たとえ、駆けつけたって――そうだとも、襲ってくる奴をノックアウトするなんてことが、できるわけはない。
逆に、殴られてけがでもするのがオチだ。それだったら、けがをするだけ損じゃないか。どうせあの女性だって助からないし……。
「いや!――助けて!」
悲鳴は、一層|甲《かん》|高《だか》くなった。
放っとくんだ。|可哀《かわい》そうだけど……。
そうだ、あと一本早い電車で帰ってたと思えば、出くわさなかったんだから。
そうだとも……。
田端は駆け出していた。暗がりの中へと、まるでプールにでも飛び込むように突っ込んで行った。
「誰だ! 何してるんだ!」
と、できる限り大声でわめいた。
ともかく、向うがどこにいるのか分らないのだ。
それに、いきなり、街灯の光の届かない所に入って来たので、何も見えない。
「警察だぞ! 逃げろ!」
と、大声で言いながら、|俺《おれ》が逃げろって言うのは変だな、などと考えていた。
すると――突然、|傍《そば》の茂みが揺れて、誰かが目の前に飛び出して来たのだ。
それは人間――いや、少なくとも、手足は人間らしかった。しかし、いきなり田端の目をぐっと見据えたのは、とても人間のものとは思えない、燃えるように赤い目だった。
そして、それ[#「それ」に傍点]は、カーッと口を開いた。鋭く光った|牙《きば》が見えた。
ほんの二、三秒、それは田端の前に止まっていただけだろう。
しかし、田端には、まるで何分も相対しているように思えた。
それから、突然、それ[#「それ」に傍点]は姿を消した。
といっても、もちろん消えてなくなったわけではないが、あたかもそう見えるかのように、素早く去ってしまったのだ。
何だ……あれは?
田端は、しばし|呆《ぼう》|然《ぜん》と立っていた。
今度こそ、何分間か、突っ立っていたのだろう。それから――力が抜けて、その場に座り込んでしまった。
体中から汗が噴き出て来る。――今のは、何だったんだ?
ともかく、得体の知れないものだった。
しかし、そんなことが、この世に起り得るのだろうか?
化物? 怪物?
そんなものは、田端の中に、存在していなかった。もちろん、概念としてはあっても、実在するとは考えてもいない。
しかし、今のは……。
田端が、やっと少し気持の鎮まるのを覚えたとき、
「あの……」
と声をかけられた。
「ワァッ!」
田端はひっくり返った。
「ずいぶん頼りないヒーローね」
と、私は笑って言った。
「もともと、気の小さな|奴《やつ》なんだもの。よく気絶しなかったもんだよ」
「自分のことは棚に上げて」
「僕は田端とは違うよ」
と、哲平が胸を張る。
「そう?」
「そうさ! 僕なら、すぐ一目散に逃げ出すよ」
「正直でよろしい」
私は苦笑しながら言った。
――哲平が、こんな話をしてくれているのは、理由がある。
私が、この手の話のとりこ[#「とりこ」に傍点]になっているからなのだ。
日本だけでなく、世界の民間伝承を調べている研究者として、いわばその副産物のように生れたのが、怪奇伝説――吸血鬼、幽霊、人狼といった問題への興味だったのである。
今では、本業の方よりもよほど面白くなって、その手の文献や小説を読み|漁《あさ》っているのだ。
「それで、どうなったの?」
と、私が促すと、
「それは当人に|訊《き》いてよ」
と、哲平が言った。
「当人に?」
「ほら、今やって来たよ」
哲平の言葉に振り向くと、確かに三十歳ぐらいと見える、いかにも知的タイプの男性と、こちらは二十三、四らしい女性が、レストランへ入って来たところだった。
私は、ちょっと哲平をにらんだ。
「わざわざ|招《よ》んだの?」
「向うが会いたいって言ったんだ。――おい、ここだよ」
と、田端という男へ手を振る。
「やぁ。――どうも」
田端は、私の方へ一礼した。
「こちらが僕の先生で、宮島令子さん。田端です。それから……」
「飯田真子といいます」
なかなか|可愛《かわい》い顔立ちのその娘が頭をさげた。
ただ、二人の表情が、私には気になっていた。
田端は、どことなく落ちつかない様子だったし、飯田真子の方は、それ以上――どこか不安げですらあった。
「――今、お話はうかがいました」
と、私は言った。「こちらが、|狼男《おおかみおとこ》に襲われたという方ね?」
「そうです」
と、田端が|肯《うなず》いて、「ただ――今日の事件があったんで、黙っているのも、と思って、二人で困っているんです」
「今日の事件?」
と、私は|訊《き》き返した。「何ですの、それは?」
「TVで夕方からくり返し放送しています。ご存知ありませんか」
「そうですか。ちょっと――二人とも、研究[#「研究」に傍点]で忙しかったものですから」
と、私は言った。
「何があったんだい?」
と哲平が訊く。
田端は、飯田真子と、ちょっと顔を合わせて、言った。
「団地の人が一人、死んだんです」
「死んだ?」
「ええ」
と、真子が言った。「しかも――|喉《のど》をかみ切られて。まるで――狼男にでもやられたみたいに……」
今度は、私と哲平が顔を見合わせる番だった……。
「物好きなんだから……」
と、哲平はため息をついた。
「あなたが文句言うことないのよ」
と、私は言った。「それとも、一人で大学に戻って、資料を整理しといてくれる?」
「そんなことじゃないよ」
哲平はハンドルを握っていた。――車は、かなりひどい中古だったが、道も良く、車も少ないとなれば、快適に走らなくては不思議である。
「じゃぁ、何なの?」
「危いってこと」
「危い?」
「そうさ。――殺人事件なんだよ」
「分ってるわ」
「ということは、犯人がいるわけだ」
「そりゃそうね」
「だから危いって言っているのさ。素人が首を突っ込む場面じゃないよ」
「ほら、そこを右よ。――でもね、警官は、例の狼男の話を知らないわ」
「そりゃそうだろ。それに、もし田端が話したとしても、信じちゃくれないよ」
「それを信じてるのが私。――だから、刑事たちの知りようのないことが分ると思うのよ」
「頑固なんだから! 好きにするといいさ」
「ええ、してるわよ。どうせ、私が死んだって悲しんでくれる人はいないんだしね」
哲平が、いやな目で私を見る。
からかうと、すぐ反応があるから、面白いのだ。
「――どうする気なの?」
と、哲平が言った。「こっちは刑事でも何でもないんだよ」
「当って砕けろよ」
「それが学者の言うセリフかい?」
と、哲平はやり返して来た。
「――被害者のこと、調べてくれた?」
「そんなヒマ、あるはずないだろ」
と、哲平がふてくされて言った。
私がじっと黙っていると、哲平は|諦《あきら》めたように、ジャンパーのポケットから、メモ用紙を出した。
「大沼幸矢。四十歳。――へえ、割といい所に勤めていたのね」
「結構エリートらしいよ」
「あのマンションに住んでたのね」
「そういうこと。奥さんと二人暮しで、子供はなかった。殺されたときの状況は――」
「奥さんってのは、まだいるの?」
「と思うけどね。葬式もまだ出してないんだ。たぶん、検死解剖に手間取ってるんだろう」
「ちょっと変った事件だものね」
「そりゃそうだよ。|喉《のど》をかみ切られてるなんて……。警察の方でも、困ってるらしい。意図的な犯行なのか、それとも、何か凶暴な野犬にでもやられたのか……」
「へえ。でも、殺人と報道されてたじゃないの」
「そこが気になって、|訊《き》いてみたんだ」
「例のお友だちに?」
哲平の幼ななじみが、警視庁の捜査一課に勤めているのだ。普通の人の耳には入らないような情報が、ちょくちょく私のところへ入って来るのは、そういうルートなのである。
「で、お友だち、何ですって?」
「要するに、妙な|噂《うわさ》が広まっては困るってことらしいんだな。はっきりした証拠もないのに」
「野犬の方が危険じゃないの」
「うん。そこは、あいつにもよく分らないらしい。ともかく、どうもすっきりしない所があるんだよ」
「つまり、何か発表してないことがあるってことね」
「どうもその気配だな。そいつが何なのかは分らないけどね」
「あ、そろそろこの辺じゃないの?」
「そうらしいや。あれが例のマンションだろう」
――あの田端という男が、ここを「団地」と呼んでいたのも、よく分る。
マンションというには少々大規模で、四つか五つの棟が、一つのブロックを形造っているのである。
車を、駐車場へ入れようとしていると、誰かが走って来るのが見えた。
いやに大柄な、五十がらみの男だ。車を停めて、私が窓から顔を出すと、その作業服みたいなものを着た男は、
「あんた、ここの人じゃないだろ」
と言った。「この駐車場に勝手に停められちゃあ困るんだ!」
「あのね、ここの人に|招《よ》ばれて来たのよ」
と、言っても、まるで信用していない様子で、
「そんないい加減なこと言ってもだめだよ。どうせどこかのセールスなんだろう」
と、譲らない。「大体、まともな仕事をしている人間なら、こんな時間に、こんな所でうろついてるわけがないんだ!」
人間、思い違いでも、こうまで固く信じられてしまうと、|却《かえ》って腹もたたない。
「ねえ、いいかい――」
若いせいか、すぐにカッとなる哲平が食ってかかりそうになる。
そこへ、遠くから、
「おじさん!」
と、声がした。
見れば、飯田真子が走って来るところである。
「――おじさん、いいのよ。その方は私のお客様なの。大学の偉い先生なんだから」
「へえ! こりゃどうも」
誤解していたと分ると、コロッと変って、顔を赤くし、すっかり照れてペコペコ頭を下げている。何とも、実直そうな、|可愛《かわい》い男である。
「いや、すっかりお見それして」
と頭をかいて、「で、こっちは秘書の方か何かで?」
と、私の方を見た。
「すみません、失礼なことばっかり言って」
と、飯田真子は、お茶を出しながら、恐縮している。
「いいのよ。若く見られて|嬉《うれ》しいわ」
と、私は言った。
哲平の方は、「先生」に見られたというので、すっかりいい気持で胸を張っている。
「とてもいい人なんですけど、一本気なもんで」
「ああいう人もいなくちゃ困るわ。――で、あなたは、今ここに……」
「時々来ているんですの」
と、真子は言った。
田端の部屋である。しかし、男一人の部屋に見えないのは、きっと真子があれこれ手を加えたからだろう。
「いわば、その狼男が、あなた方の仲を取りもった、ってわけね」
と、私は言った。
「ええ。でも、あんまりロマンチックな出会いとは言えませんけど」
と、真子は苦笑した。
「そのときのことを|憶《おぼ》えてる?」
「ええ、でも――ともかく真暗でしたし……。憶えているのは、相手が人間じゃない、と思ったことぐらいなんです。後は真赤な目と、カーッと口を開けたときの、|尖《とが》った|牙《きば》と……」
その辺の印象は、田端のそれと一致している。
「殺された人――大沼さんっていったかしら」
「ええ。奥さんとは知り合いで、時々一緒に買物に行くこともあるんです。でも、私はお勤めがあるし……。あちらも、子供がいなかったので、このところ、時々仕事に出ていたんです」
「ご主人のことは、ご存知だった?」
真子は首を振った。
「いいえ。――一、二度、ご|挨《あい》|拶《さつ》したことはありましたけど……」
「かなり、エリートだったようね」
「ええ、見るからに。典型的なエリートでしたわ。忙しそうだったから、奥さんも寂しそうでしたわ」
「奥さんは今、まだ自宅に?」
「ええ、たぶん。隣の棟にいらっしゃるんです」
「ちょっとお会いしてみたいわ」
「じゃ、ここへ来てもらいましょうか」
と、腰を浮かしかけるのを、私は止めた。
「いえ、いいの。こちらが訪ねて行くわ。佐々木君、ここで待ってて」
「え? でも――」
「いいのよ。ちょっと電話を拝借して、大学の方に、昨日注文した資料が届いたかどうか、問い合わせてみておいてよ」
「分りました」
と、哲平はすっきりしない表情で|肯《うなず》いた。
他の人の前では、あくまで、「先生と助手」なのである。
〈大沼〉という表札も、心なしか寂しげに見える。
どうしてだろう、と思って、考え当った。
――他の部屋は、どこも、姓だけでなく、一家の名前がズラリと表札に並んでいるのに、ここは大沼という姓だけが、ポツンと出ているからなのだ。
玄関のチャイムを鳴らすと、インターホンから、ちょっと疲れたような声が、
「どなたですか」
と聞こえて来た。
「ご主人のことで、ちょっとお話が――」
と、私は言った。
向うがもっと何か|訊《き》いて来るかと思ったのだが、すぐにドアが開いた。
黒いスーツの女性が出て来る。
「奥様でいらっしゃいますね」
「はあ。――どうぞ」
と、向うは、あまり関心のない表情で、私を中へ入れた。
奥さんの名は|岐《みち》|代《よ》。三十八歳と聞いていた。
しかし、こうして会ってみると、ずいぶん老けた感じがする。
いや、見た感じは、むしろ若いのだが、どこか生気がないというのか。――それも、夫を亡くしたばかりだから、というより、たぶん、ずっとこういう風だったのではないかという気がするのだ。
これはもしかすると、私の想像が当っていたのかもしれない、と思った。
「――どういうご用でしょうか」
と、ソファに腰を下ろして、岐代が言った。
「実は――申し上げにくいことなんですけど――」
私は、ちょっとためらって見せて、「私、ご主人と愛し合っていたんです」
と言った。
だが、岐代の表情は一向に変らない。というより、無表情のまま、
「そうですか」
と言った。
「奥様にはとても申し訳ないと思っておりますが、隠しておくのも、どうも気が済まなかったので。――ぜひ、ご焼香だけでもさせていただきたい、と思いまして」
「いくらほしいんですか」
と、岐代が言った。
「え?」
「いくら? そちらの言い値をうかがわないと」
「――何のお話ですか?」
岐代は、初めて、薄笑いを浮かべた。
「遠慮しないで下さいな。どうせ慰謝料を出せと言いに来たんでしょう?」
「とんでもない! 私、お金なんて、一円だっていただく気はありませんわ」
私の言葉に、岐代は、ちょっと不思議そうな顔をした。
「――珍しい人ね」
と、言って、岐代は肩をすくめた。「焼香ぐらいなら、いくらでもどうぞ」
私は、初めて見る大沼の写真の前で、手を合わせた。
もちろん、いつの写真かは分らないが、それにしても、なかなか二枚目で、かつ、田端と違って、どこか人を見下したような高慢さを感じさせる顔だった。
私は、もう一度ソファに戻ると、
「さっき、『珍しい人ね』とおっしゃいましたね」
と言った。
「ええ」
「どういう意味なんですの?」
「別に。――もうあなたの前にも三人、女の人が来たけど、みんな結局はお金が目当てだったから」
「三人?」
私は目を丸くした。
「これからも一人や二人は来るんじゃないかしら。――みんな、あなたみたいに、欲のない人ばかりだといいけど」
これは、想像していた以上に|凄《すご》かったようだ。
「奥様は――ご存知だったんですか」
「ご存知も何も……」
と、岐代は笑って、「私はただの『飾り』。あの人にとっちゃ、外に女を作るのが生きがいみたいなものだったんだから」
「――怒らなかったんですか」
「|諦《あきら》めたわよ。――怒ったって、向うは平気なもんで、|俺《おれ》はエリートなんだ、エリートはストレスがたまる。だから、どこかで発散しなきゃいけないんだって言ってたわ」
「そうですか」
と、私は|肯《うなず》いた。
「でも、あなたは、ちょっと変ったタイプねえ」
と、岐代は私を見て言った。
「そうですか」
「ええ。だって、若い子ばっかりが好きだったの。それも|二《は》|十《た》|歳《ち》とか二十一とか。だから余計に罪が深いと思ったのよね。何しろ、まだ何も分ってないような子でしょ。――中には十八なんて子もいて……。少し前になるけど」
「十八歳ですか」
「ええ、若いっていうより、まだ子供よね。それに大沼は、特にそういう世間知らずのタイプが好きだったのよ」
「よく、問題になりませんでしたね」
「|叔《お》|父《じ》さんだか何かに、有力な議員がいて、いつももみ消してもらってたみたい。――いつもはたからは|羨《うらやま》しがられてたけど、こっちは地獄だったわよ」
私は、ゆっくりと肯いた。
「やっぱり、その通りだったよ」
と、研究室へ入って来て、哲平が言った。
「何よ、いきなり。ちゃんと、助手らしくしなさい!」
と、にらみつける。
「失礼しました」
哲平は頭をかいた。
「で、話を聞いて来たの?」
「うん。ともかく、あの大沼って男、何度も訴えられちゃ、もみ消してるんだ」
本に埋れた机をどかして、私は、インスタントコーヒーをすすった。
「それで、警察も、何とも断定できないでいるわけね」
「そうらしい。通り魔的な犯行という見方もあるんだけど、あれくらい、殺されても不思議でない人間もいないだろうってことなんだよ」
「あんまり名誉なことじゃないわね」
と、私は苦笑した。
「だけど、当のマンションでは、そろそろ|噂《うわさ》が広まってるみたいなんだ。|狼男《おおかみおとこ》が出るってね。新聞あたりもかぎつけたらしいし……」
「じゃ、話題になるのは時間の問題ね」
と、私は言った。「他に何か?」
「うん。これは秘密にしてくれ、って言われたんだけど、一人、女の子が自殺してるんだって」
「大沼のせいで?」
「そうらしいよ。十八だったっていうんだけどね。――ひどいもんだな」
哲平は顔をしかめて言った。
岐代が言っていた女の子のことだろう。
それにしても、ひどい男だ、と私は思った。
これが、いい|年《と》|齢《し》の女性を相手にしているというのなら、その女性の方にも責任はあるわけだが、大沼のように、まだ男とは何かということもよく分っていないような若い女性たちばかりを相手にしているというのは、いわばいかさまのトランプみたいなものである。
大沼の死も、自業自得と言っていいようなものだった。
「どうするんですか、先生?」
と、哲平が言った。
「何を? 講義のこと? 休んでもいいわよ」
「違いますよ。事件のこと」
「何だ。それならもう少し言い方を変えてくれなきゃ」
「だって、研究室の中じゃどうこうって、うるさいから」
「当り前でしょ。学問は神聖なりよ。――さて、次の講義の仕度!」
「はい」
と、哲平は飛び上るようにして立ち上った。
――大学の先生の中には、およそ「教える」ということに興味を持っていない人もいる。
だったら、大学に残らなきゃいいと思うのだが、本人は研究こそが生きがいで、講義をしたり、テストをしたりするのは、|総《すべ》て余計な「雑用」だと思っているのだ。
まあ、私も多少そういう所がないでもない。
しかし、慣れて来ると、教えることも、なかなか面白いものである。私は講義というのが、そう嫌いではなかった。
私の講義は人気がある。
自分で言うのも変だが、事実だから、仕方あるまい。
「女は得だ」
とか、陰口を|叩《たた》く者もいるが、言いたい人には言わせておけばいい。
ご機嫌を取って人気があるのと、中身があって人気があるのとでは、大違いなのである。
この日も講義室はほぼ満員の盛況だった。こちらもその方が調子が出る。
講義をしていて、段々調子も乗って来たところで、誰かが講義室へ入ってくるのが見えた。
私はジロッと、そっちの方をにらみつけてやった。
だが――学生ではない。どうみても、いい|年《と》|齢《し》の大人たちである。
「すみません!」
と、一人が、無神経にドカドカ前の方へやって来ると、「〈××新聞〉の者です! 先日の殺人事件について、先生は、あれが狼男による犯行だと信じておられるとか聞きましたけど、本当ですか?」
と、声を張りあげる。
私は頭に来て、
「今は講義中ですよ! 分らないんですか!」
と怒鳴った。
「こっちも記事が夕刊に間に合わなくなるんですよ。今言った通りに書いていいですね?」
「そうね。――じゃ、もう少しこっちへ来て下さい」
と、私は手招きした。
「はあ」
記者がノコノコ進み出て来る。
私は、机の上の水さしを手に取って、コップに注いだ。
哲平がわきで見ていて、不安げに、
「先生――」
と、言いかけたが、既に遅かった。
私はコップの水を記者の頭からたっぷりと浴びせてやった。
「皆さん」
と、学生の方へ、「権利を侵害されたときは、このように対処しましょう」
ワーッと拍手が起った。
哲平が、絶望的な表情でため息をついた……。
「全くもう――」
「それ以上言わなくていいの」
と、私は遮った。「もっと他に考えることがあるでしょ」
「それにしたって――」
哲平はまだ不満顔である。「学長から大目玉を食らうよ」
「構やしないわ。クビになっても、行く所はあるもの」
「僕はどうなるんだ?」
「あら、ついて来てくれる?」
「当り前のこと、|訊《き》かないでくれよ」
と、またふくれる。
よくふくれるのだ。
――大学からの帰り、お好み焼の店に入っていた。
お好み焼にふくらし粉が入っているから、ふくれているというわけでもあるまいが。
「きっとあのマンションの辺りは大騒ぎでしょうね」
と、私は言った。
「TVの連中なんかは物好きだからね」
と、哲平は|肯《うなず》いた。「きっとくり込んで、月の出るのを待ってるんじゃないかな」
「やりかねないわね」
と、私は笑って言った。「――行ってみようか」
「どこへ?」
「あのマンションよ。決ってるじゃない」
「こんな時間に? 着いたら夜中だよ」
「どうせ狼男が出るのも夜中じゃないの」
と、私は言ってやった。
かくて――深夜のドライブとなったのである。
あのマンションについたのは、正に狼男の登場にはピッタリの十二時ジャスト。
月も出て、いい雰囲気だった。
「――あの公園ね」
「そうらしいね」
「行ってみましょ」
「物好きなんだから」
と、哲平は苦笑した。
「学者は、好奇心旺盛でないといけないんですわよ」
と、私は澄まして言った。
――公園は静かだった。
「別にTV局も何も来てないじゃないの」
と、私は言った。
「そうだね。じゃ、きっと忙しいんだ」
「狼男の方で、TV局に出向いたのかもしれないわ」
と、私は言った。
公園の中を抜けて行くと、例の、田端が狼男と出くわしたらしい、暗がりにさしかかる。
「街灯代をケチったのね、きっと」
「公共事業費の配分に問題があるんだ」
と、哲平が言いかえる。
「また出て来るかしら」
「あんまり会いたいとは思わないなぁ」
と、哲平は首を振った。
私たちは、暗がりの中へと足を踏み入れた。
ほんの二、三十メートルでしかないのだが、確かにあまりいい気分ではない。
つい、足取りも早くなった。――と、半分くらい来たところで、突然、
「ガオーッ!」
と、声を上げて、何かが、茂みから飛び出して来た。
「ワァッ!」
と、哲平が仰天して|尻《しり》もちをつく。
私はサッと身を沈めた。のしかかって来た黒い影を、エイッと……。
言い忘れていたが、私は多少[#「多少」に傍点]合気道の心得がある。
その何か[#「何か」に傍点]は、私の体の上で一回転して、デン、と地面に落下した。
「――誠にどうも」
と、そのプロデューサーは、何度も頭を下げた。
「謝っていただけば済むってものではありません」
と、私は言った。
「いえ、本当に手違いでして……」
「暴行未遂で訴えてもいいんですよ!」
「いや、どうかそれだけは――」
――あの公園の中が今はやたらと明るい。
別に夜が明けたわけではなく、TVカメラのためのライトが当っているのである。
「ウーン」
と、|呻《うめ》いているのは、頭に狼のマスクをかぶった役者。
私に投げられて、腰をしたたかに打っていた。
要するに、TV局がやはり待ち構えていて、本当は、やらせ[#「やらせ」に傍点]の被害者が、二人、ここへ来ることになっていたらしいのだ。
それが手違いで遅れ、そこへちょうど私たちが通りかかった、というわけである。
「まあいいでしょ」
と、私は肩をすくめた。「ただ、おたくももう少し中身のある仕事をしたらいいわ」
「恐れ入ります」
プロデューサーは平謝りである。
わきへよけて、こりもせずに茶番劇をくり返している様子を眺めていると、哲平がやって来た。
「あんまりいじめちゃ|可哀《かわい》そうだよ。実質的に被害にあったのは、向うなんだから」
「少しは痛い目にあっていいのよ、ああいう手合は」
「厳しいね」
「あなたも、腰抜かしたくせに」
「腰を抜かしたんじゃないよ!」
と、むきになって、「ただ――びっくりして、足を滑らせて、座っちゃったというだけだ!」
私は思わず笑い出してしまった。――こういうところが|可愛《かわい》いのだ。
「でも、こんな調子じゃ、とても狼男なんて出そうにないわね」
と、私は言った。
「よほど目立ちたがり屋ならともかくね」
「帰りましょう。――ここにいたって、何にもならないし……」
と、言いかけたとき、
「助けてくれ……」
と、切れ切れの声が聞こえた。
「――また、何かやってるのね」
「他の局とはち合わせしたのかな」
私たちは振り向いた。そして――ギョッとした。
誰かが、よろけるように歩いて来る。
「――田端!」
と、哲平が言った。
そう、田端だった! |喉《のど》から胸の辺り、ワイシャツを、真赤な血が染めている。
「どうしたんだ!」
と、哲平が駆け寄った。
「君か!――助けて――」
と、口走るなり、田端はその場に、崩れるように倒れてしまった。
「大変だ!」
「救急車を――」
私はTV局の人間たちの方へと走って行った。
「救急車を呼んで!」
と、怒鳴ると、さっき私に投げ飛ばされた役者が、目の前に立っていた。
「あんたか! こっちの方が救急車を呼んでほしいくらいだぜ!」
「やかましい!」
と、私は大声を上げた。「早く救急車を呼べ!」
相手は飛び上って、駆けて行った。
もちろん、これで良かったのだ。――すぐに、救急車がやって来て、田端は命を取り止めたのだから。
ただ、一つまずかったのは、私が怒鳴っているところが、TVの生番組に出てしまったことだった……。
病室のドアを開けて、
「ごめんなさい……。入っても?」
と、私は言った。
「あ、先生」
飯田真子が、|椅《い》|子《す》から立ち上った。
「先生って呼ばれると、照れくさいわ」
と、私は言った。「どう、具合は?」
「ええ、一応、順調です」
「良かったわね」
私は|肯《うなず》いて、ベッドの上の田端を見た。
「今、ちょっと眠っていて……」
「じゃ、廊下へ出ましょうか」
と、私は促した。
――あの事件から、三日がたっていた。
私の武勇伝[#「武勇伝」に傍点]は、すっかり大学に知れわたって、学部長から、たっぷりといやみを言われた。
でも、別に大学当局に迷惑をかけたわけではなし、クビになるわけはないので、こっちも平気な顔で受け流していた。
「――困ったことになったわね」
と、私は言った。「マスコミが大騒ぎしてるわ。この病院が知れたら、あなたも逃げられないわよ」
「私……」
真子は、思い詰めたように、「私のせいです。あの人があんな目にあったのは」
と言って、目を伏せた。
「あなたの? どうして?」
「だって――」
真子は、ちょっとためらってから、「私が襲われたとき、あの人が助けてくれたんですもの。だから今度はあの人が|狙《ねら》われたんだわ」
「それはおかしいわ」
と、私は言った。
「え?」
「だって、そうでしょ? だったら、どうして大沼が殺されたの?」
「それは……」
と、真子が詰まる。
「ね? 田端さんが襲われたのは、あなたとは関係ないのよ。ただ、帰りが遅かったから、狙われただけ。――分った? 気にしちゃいけないわ」
真子は、しばらく顔を伏せていたが、やがて目を上げ、ゆっくりと肯いた。
「――分りました」
「そう! それでいいのよ。あなた、田端さんを愛してるんでしょ?」
「ええ」
やっと、真子は笑顔を見せた。
「狼男が取りもった縁ね。満月の夜にでも結婚式を挙げたら?」
と、私は言った。
「そうですね」
と、真子はちょっと笑った。「――本当にありがとうございました」
「いいえ。あなた、ずっとここに詰めてるの?」
「いえ――ちょっとマンションに戻って、取って来たいものがあるんです」
「ああ、それじゃ、佐々木君に車で送らせるわ」
「いいえ、そんなこと――」
「いいのよ。どうせヒマなんだから」
と、私は言った。
「この忙しいのに」
と、哲平はいつものように文句を言った。
「先生の命令よ」
「だけど――」
「いいわね、あなたにぜひ行ってもらいたいの」
「え?」
と、哲平は目をパチクリさせた。
「聞いて」
私は、病院の玄関の方へと、哲平と並んで歩きながら、言った。「――あの子を送って、向うに着いたら、やってほしいことがあるのよ」
「ちょっと待った」
と、哲平は私を見て、「また何か|企《たくら》んでるね?」
「人聞きの悪いこと言わないで。これは正義のためなんだから」
「オーバーだなぁ。要するに趣味のためなんだろ?」
「似たようなもんよ」
「――で、何をすりゃいいの?」
哲平は、ため息をついて、言った。
「あの子をね、ホテルに誘ってほしいの」
私の言葉に哲平は目をむいた。
私は、一足先に病院を出ると、タクシーでそのマンションへと向かった。
哲平に、十五分ほど遅れて出るように言ってある。先に着かなくてはならなかったのだ。
マンションの少し手前でタクシーを降りると、私は、建物の裏側へと回った。
建物の陰から|覗《のぞ》くと、駐車場が見えている。
あの、大柄な駐車場のおじさんが、ブラブラと歩き回っているのが見えた。
哲平の車はまだ来ていない。――うまく行くのだろうか?
いや、もちろん何もなければ、それに越したことはないのだが。
しかし、もし私の想像が当っているとしたら……。
「――来たわね」
と、|呟《つぶや》く。
|見《み》|憶《おぼ》えのある中古車が、駐車場に入ってきた。
車が停ると、真子が降りて来て、小走りに、建物の中へと入って行った。
駐車場のおじさんが、哲平の車の方に寄って行く。そして、中の哲平と、何やら話している様子だった。
真子はなかなか出て来ない。
入院に必要なもの、となると、|揃《そろ》えるのは大仕事である。時間がかかるのも当然だろう。
待ちかねたのか、哲平が車を出た。
駐車場のおじさんが、どこかへ歩いて行くのが見えた。
哲平が、建物の中へと入って行く。
私も、静かに、階段を上って行った……。
哲平が、ドアを開けて出て来ると、
「じゃ、これを運んでおくからね」
と、大きなバッグをかかえて、言った。
「すみません。すぐ行きますから」
と、真子の声がした。
哲平は、バッグをかかえて、エレベーターの方へ歩いて行ったが――
「何だ、〈点検中〉か。さっきは動いていたのに」
と呟いて、肩をすくめ、階段の方へと歩いて行った。
トコトコと階段を降りて行く。――ヒョイ、と角を曲ったときだった。
何か[#「何か」に傍点]が、前に立ちはだかった。――燃えるように赤い目。そしてカーッと開いた口に光る|牙《きば》――。
「ワーッ!」
哲平は飛び上った。
バッグを投げ出して、駆け出す。
廊下へ飛び出し、駆けて行く。そして、途中で足を滑らして、転んでしまった。
「――ご苦労さま」
と、私は言った。
後から追って来た狼男[#「狼男」に傍点]が、ハッと足を止め、ためらった。
「何もかもわかってるのよ、待って!」
と、私は声をかけた。「そのマスクを外して、駐車場のおじさん」
相手は、しばらく息を弾ませていたが、やがて|諦《あきら》めたように肩を落として、ゆっくりとマスクを外した。
「ああ、びっくりした」
哲平が、やっとの思いで立ち上る。
「言った通りにしたわね?」
「うん。真子さんとホテルに行くんだって自慢げに言ったよ」
「そりゃ、おじさんとしては、黙って見過せなかったわね。真子さんは、あなたの娘でしょ」
駐車場のおじさんは、ゆっくりと肯いた。
「その通りだよ」
「そして、大沼のせいで自殺した娘さんの父親でもある」
「よく分ったね」
「見当はついてたわ。――大沼に仕返しするために、ここへ住み込んだのね」
「その通りだ。――あの子は、何も知らずに大沼のやつを愛してた。それが、あんなに冷たく捨てられて……」
と、声を震わせる。「大沼の|奴《やつ》を殺してやらなきゃ、気が済まなかったんだ!」
「女を食いものにする|狼《おおかみ》、というわけで、その格好を思い付いたわけね」
「ああ。あいつにゃピッタリだろう。それに――こっちは若くない。まともに争って勝てるとは思えんからな。だから向うが度肝を抜かれるような工夫をしたんだ」
「確かに効果があるよ」
と、哲平が言った。
「その試験台として、田端さんをおどかしてみたわけね。――ところが、とんでもないことになった。真子さんが、それをきっかけにして、田端さんにひかれるようになったんだわ」
「もう男なんて信じない、と言っとったのに……。あの子をとられたくなかったんだ」
「そこで、今度は田端さんを襲った。――でも、あなたのしたことで、真子さんは苦しい立場にいるんですよ。それを分ってあげなくては」
「そうだな……。よく分る」
「では、引き上げましょう」
と、私は哲平を促した。
「でも――いいの?」
「いいのよ。あとはお二人に任せるわ。自首してくれると信じてるけど」
私は、哲平と歩き出したが、ふと足を止めて振り向き、
「でも、そのマスク、みごとね。どこで手に入れたの?」
と|訊《き》いた。
「これかね、私は昔、役者だったんだ。これは、舞台で使ったものに、鋭い歯をうえて、手を入れたんだよ」
「名演技でしたよ」
と、哲平は言った。
――車の所へ戻ると、
「僕をずいぶん危い目にあわせてくれたね」
と、哲平は恨みがましい目で私を見た。
「いいじゃないの。冒険は若い内よ」
「命あっての話だよ」
車が走り出すと、私は言った。
「――じゃ、予定[#「予定」に傍点]通り、ホテルにでも寄って行く?」
「賛成!」
哲平が躍り上るようにして、思い切ってアクセルを踏んだ。
「――いけね!」
白バイのサイレンが追いかけて来ていた。
哲平にはツイてない日だったようだ。これも狼男のたたりかもしれない……。
吸血鬼の静かな眠り
それは、確かにそこにあった。
|埃《ほこり》をかぶり、クモの巣に飾られて、横たわっていた。和郎が得意そうに、
「ね、|嘘《うそ》じゃないだろ」
と言ったとき、敏子は素直に|肯《うなず》いた。
いつもなら、弟の言うことを、いちいちからかってやらずにはいられない、それが習慣にすらなっている敏子だったのだが、このときばかりは、からかうだけの余裕がなかった。
「僕が見付けたんだ」
和郎は、得意げに言って、鼻を動かした。興奮しているときのくせ[#「くせ」に傍点]なのだ。
敏子は和郎ほど子供ではない――といっても、まだ中学の一年生で、和郎は小学校の四年生だった――けれども、こういう発見に胸を躍らせるだけの心は持ち合わせていた。
しかし、このときばかりは、奇妙に胸をしめつけられるような、息苦しいほどの不安で一杯になって、興奮するような余裕がなかったのである。
そう。――敏子だって、お棺ぐらい見たことがある。
まだ四十という若さで、大好きだった|叔《お》|父《じ》さんが突然死んだとき、それから、おじいちゃんが、屋根から足を滑らして落ちて死んだときにも――そのとき敏子は七歳、今の和郎より小さかった――ちゃんと、お葬式に出て、お棺の中に横になっている、死人の顔を見ていた。
でも、ああいうときのお棺は、ただの白い木の箱で、もちろん飾りも何もない、簡単なものだった。後で、焼いてしまうんだから、当り前のことだが。
今、二人の目の前に置かれているのは、それとは全く違っていた。ともかく、大きい。長さも、幅も高さも、普通のお棺より、一回りも二回りも大きかった。それに、色も黒ずんでいて、光沢があり、しかもただの四角い箱ではなくて、まるで家具のように、曲線のへりや装飾らしい模様がある。
そう。――よくTVでやる吸血鬼ものの古い映画に出て来るような、ちょっといわくありげなお棺だったのだ。
「ね、|凄《すご》いだろ」
弟の和郎は得意がっている。
そう。確かに凄い[#「凄い」に傍点]。でも――敏子は落ちつかなかった。
怖いとか、そんな気持ではない。何だか早くここから離れたいという思いを、強く感じていた。
「中、入ってんのかなあ」
と、和郎が言った。
「まさか! そんなものここに置いとくわけないじゃないの」
敏子は、自分でもびっくりするような強い調子で言った。
「でも、どうしてこんな所にあるんだろうね?」
と、和郎が言った。
――ここは、地下室である。
敏子と和郎の家――いや、もちろん両親の家だが――には地下室などついていない。
ここは別荘である。夏の間だけ、借りているのだ。
一家がここへやって来たのは、つい二日前だった。夏休みになって、もう十日たっている。本当はもっと早く来るはずだったのだが、和郎の通っている小学校で、プール指導があって、来るのが遅れたのだった。
都会っ子の敏子と和郎にとっては、見るものの一つ一つが珍しい。この別荘そのものも、一家の住んでいるせせこましいマンションとは違って、古い木造の建物で、二階があり、しかも地下室まである!
和郎ならずとも、「探険」して回る楽しみで、アッという間に一日目は過ぎた。
――地下室には、まだ両親も入っていなかった。ママはママで、炊事ができるように台所を整えるのに大忙し。パパはあちこちの|蝶番《ちょうつがい》に油をさしたり、壊れた戸を直したりして頑張っている。
ともかく、かなり長いこと使われていなかったのだ……。
だから今のところ地下室は二人の天下だった。
二階へ上る階段のちょうど真下に、頭を低くして入る戸があり、そこから地下へ降りられるようになっている。
掃除もしていないので、|埃《ほこり》っぽい|匂《にお》いがしたし、クモの巣があちこちにレースのカーテンのように絡まっていた。
地下室には、何だか分らない木箱がやたらに積み上げてあった。
「荷物をいじくったりしちゃいけないぞ」
と、パパに言われていたが、いじりたくたって、頑丈な板が打ちつけてあって、とても子供の力で開けられるものではなかった。
――これは誰の荷物なんだろう?
敏子は、初めて目にしたとき、首をかしげたものだ。
それ[#「それ」に傍点]は、積み上げた木箱の陰に、まるで身をひそめるように置かれていた。だから、昨日敏子がここへ入ったときには目に入らなかったのだ。
和郎が木箱によじ上って遊んでいて、見付けたのだった。
「重そうだね」
と、和郎が言った。
「うん」
――何だか落ちつかない。なぜだろう? どこかから、誰かが見ているような、そんな印象が、敏子を|捉《とら》えて放さない。
敏子は窓の方へ目をやった。――地下室の天井近くに、明り採りの窓があって、そこがちょうど地面の高さになっている。その向うは、裏庭だった。
地下室には電灯一つないのだが、その窓から|射《さ》し込む光で、充分に明るい。棺は、その窓の斜め下に、置かれていた。
「――え? 何か言った?」
敏子はハッとして弟の顔を見た。
「これ、内緒だよ、って言ったんだ。僕がパパに言うからね」
「ああ。――いいわよ、好きにしなさい」
と、敏子は、ちょっと笑って言った。「もう行こう。暗くなって来たわ」
夕方だった。|陽《ひ》がかげり始めて、地下室もスッと沈み込むように薄暗くなった。
棺が、ただの黒い箱のように見える。
「さあ、出て」
と、敏子は、弟の肩を|叩《たた》いて促した。
「うん」
和郎の方は、まだ多少未練があるようだったが、もう一度つつかれて、歩き出した。
和郎について、敏子は木箱のわきを回り、階段の方へ歩いて行った。
――動かしてくれ[#「動かしてくれ」に傍点]。
「え?」
敏子は、足を止めた。「――何か言った?」
階段を上りかけていた和郎が、足を止めて振り返った。
「何も言わないよ、僕」
「そう」
でも――何だか、いやにはっきりと聞こえたようだった。確かに、和郎の声じゃなかったみたいだけど……。
和郎が先に階段を上って行く。敏子は足下を見ながら上り始めた。
――私を動かしてくれ[#「私を動かしてくれ」に傍点]。
敏子はギクリとして、振り向いた。
そこには誰もいない。でも、確かに、その声は耳もとで聞こえたようだった。
誰? 誰がしゃべったの?
地下室は、もう、大分暗くなっていた。木箱の一つ一つも見分けられない。
ちょうど正面に見える明り採りの窓だけが、ほの白い長方形に光って見えた。
「――お姉ちゃん、どうしたの?」
と、和郎が上から呼んだ。
敏子はハッと我に返った。
「何でもない」
急いで階段を駆け上ると、敏子は頭を下げてドアの所をくぐった。
「――敏子」
ママの声だ。
「はい!」
「晩ご飯の仕度、手伝って」
「はあい」
返事をして、敏子は、大分古びたそのドアを閉めた。気のせいか、急に体が軽くなったようだ。
敏子は台所の方へ駆けて行った。手伝いをするのが楽しいなんて、本当に珍しいことだった。
「ほら、そのサラダ、お皿に入れてちょうだい」
と、ママは|炒《いた》めものの手を休めずに言った。
「一つに盛っていいの?」
「取り分ければいいでしょ。あんまり沢山お皿を汚さないで。ここには食器洗い機はないんだから」
「分った」
敏子は、まず手を洗った。「――パパは?」
「お庭で雑草を抜いてるわ。もう暗くなるから、入って来るでしょ」
ママは、ちょっとやせ型で、一見神経質そうだが、その実、至ってのんびり屋である。何をするのものろい和郎は、ママの性格を受けついでいるようだ。
その点、敏子はパパ似で、割合にきちんとしておくのを好む性質だった。
といって、もちろん、さぼるのが嫌いってわけじゃないのだけれど。
あれやこれやと十五分ほどやって、何とか食卓が整った。車でスーパーまで行って、しこたま買い込んで来たので、やっと普段並みの食卓になったのだ。
「――もう、和郎とパパを呼んで」
「はい」
敏子は、台所を出て、「和郎、ご飯よ!」
と大声で言った。
「はーい」
返事は二階から返って来た。
敏子は、廊下の奥のドアを開けた。そこから裏庭へ出るようになっているのだ。
表は、まだ少し明るさが残っている。
「パパ、ご飯だって」
汗のにじんだシャツ姿のパパが、立ち上った。大分お腹が出て来て、あんまりカッコいいパパとも言えなくなったが、でも敏子は父親っ子である。
「分った。――働いていると一日が早いな」
パパは額の汗を|拭《ぬぐ》った。
「寒くない?」
夏とはいえ、こういう山間の林の中では、夜は結構冷えて来るのだ。だからこそ「避暑」に来たのだけれど。
「ちっとも! 暑くてたまらんよ」
と、パパは笑顔で言った。「そこの柵の戸が壊れてるんだ。明日直そう」
「あんなの、あってもなくても同じじゃないの?」
「しかし、一応は柵だからな」
柵といっても、庭の周囲にめぐらした、せいぜい敏子の腰ぐらいの高さのもので、ちょっとした犬なら、楽に飛び越してしまうだろう。
「わあ、|凄《すご》い汗」
家の中に入って、敏子は声を上げた。「シャワーでも浴びた方がいいんじゃない?」
「うん、そうしよう。こう汗くさくちゃ、ママに嫌われそうだ」
パパは笑って、
「ちょっと二階でシャワーを浴びるとママに言っといてくれ」
「分ったわ」
歩き出したパパの背中に、敏子は、「ねえ、地下室に――」
と声をかけたが、パパの耳には入らなかったようだ。
そうか。和郎が、黙っててくれ、って言ってたっけ。じゃ、言わないでいてあげよう。
敏子はそう思った。裏庭へのドアを、閉めようとして、ふと庭が明るくなったのに気付いた。
庭の端に――正確に言うと外側なのだが――水銀灯が立っていて、周囲が暗くなると、自動的に点くのだった。
青白い光が、庭に広がる。昼間には、やたら雑草が目につく庭も、その青ざめた光の下では、何となく詩的な雰囲気を作っていた。
敏子はドアを閉め、カンヌキをかけた。
――水銀灯の光は、明り採りの窓から、斜めに地下室へと落ちて、あの黒い棺の上に投げかけられていた。
窓の格子が、ちょうど十字の影となって、棺の上に落ちているのだった。
「――どうして地下室には――」
と、敏子が言いかけると、和郎がパッと顔を上げて、姉をにらんだ。「荷物があんなに置いてあるの?」
和郎がホッとした表情で、食事を続ける。パパは、もう三杯目のご飯を空にしかけていた。
「――うん、パパもちょっと|覗《のぞ》いたが、山と積んであるな」
「誰のものなの?」
「ここの持主だ」
「持主って?」
「パパは知らん。何でも外国人だってことだ」
「へえ、外国人」
と、和郎が言った。「どこの国の人?」
「そこまで知らんな」
「あなた、まだ食べるの?」
と、ママが|呆《あき》れ顔で言った。「せっかく汗を流しても、それじゃちっともやせないわよ」
「いいさ。明日もどうせ汗を流す」
と、パパは笑顔で言った。「しかし、いいなぁ、こんな所で暮せたら」
「そうかしら。たまに来るからいいんじゃない?」
と、敏子は言った。
「お前も大人っぽくなったな」
パパがため息をつく。
「――パパが、その外国人から、ここを借りたの?」
と、和郎が|訊《き》いた。
「いや、パパは不動産屋から借りただけだよ」
「じゃ、その持主の外国人は――」
敏子が、お茶を飲みながら言った。「買って住んでないわけね。どうして、それなのに荷物があるのかしら?」
「それが、不動産屋も首をひねってたんだ」
「どういうこと?」
「売買は、手紙と書類のやりとりで済んで、荷物も送られて来た。ところが、待てど暮せど、当人がやって来ないんだ」
「連絡もなかったの?」
「連絡を取ってみると、確かに向うを出てはいるらしい。しかし、こっちには姿を現わさないんだ」
「変な話ね」
と、ママが言った。「和郎、ちゃんとキャベツも食べなさい!」
「それで、どうしたの?」
「不動産屋としても、どうしようもない。向うが何か言って来るのを待っている内に、三年たってしまった。それで、このままだと、ただでさえ古い家だし、ますますいたみがひどくなるというんで、手入れをして、貸すことにしたんだよ。家ってのは、人が住んでないといたむものなんだ」
パパは四杯目のご飯を、さすがに少しもて余している様子で、「――おい、お茶をかけてくれ」
とママの方へ出した。
「いやねえ。胃に悪いわよ」
「やせていいじゃないか」
敏子は、はしを置いた。
「じゃ、明日にでも、突然その外人がやって来て、出て行ってくれって言われるかもしれないわね」
「そんなこともあるまい」
と、パパは笑った。
「でも、本当にその人、どうしちゃったんでしょうね」
と、ママが言った。
「さあね。――外国での話だからな。独りで身寄りのない人なら、突然どこかで病死したりしたら、こんな家のことまで分らんかもしれんよ」
〈死〉という言葉に、敏子はちょっとビクッとした。
――お棺。
私を動かしてくれ[#「私を動かしてくれ」に傍点]。
そんな馬鹿なことがあるだろうか?
そう。きっと気のせいなんだ。いちいちパパやママに話すこともない。
「金持の中には、色々と変った人間がいるからな」
と、パパは続けた。
「買っておいて気が変ったとか、そんなこともあるかもしれん」
「でも、何だかちょっと落ちつかないわね」
と、ママが言った。
「そのせいで、格段に安く借りられたんだ。文句はないさ」
パパはそう言って笑った。
「どうして言わなかったの?」
ベッドに入って、しばらくしてから敏子は言った。
返事はなかった。敏子は、暗い天井を、じっと見上げていた。
「起きてるんでしょ。分ってるわよ」
「――何さ」
やっと、和郎の声がした。
木の、少し古いベッドは、動くとミシミシ音を立てた。でも、クッションも寝心地も悪くない。
「あのお棺のこと、どうして黙ってたの?」
「何だか……惜しくって」
「ちゃんと言った方がいいわよ。もちろん――どうってことないだろうけど」
「そうかなぁ……」
敏子は、弟の方へ顔を向けた、
「そうかな、って?」
「持主って人……。死んで、あの中に――」
「馬鹿言いなさい」
と、敏子は遮った。「そんなこと、あるわけないじゃないの」
「でも、だったら、どうしてお棺なんてあるのさ?」
「向うの人はね、生きている内から、立派なお棺を作らせたりするらしいわ。本で読んだことがあるもの」
「へえ」
「きっと、あれも、死んでから入るつもりで、作らせたのを運んで来たのよ」
「そうか……。何だかガッカリだな」
敏子は、ちょっと笑って、
「|嘘《うそ》言いなさい。怖かったくせに!」
「怖かないよ! あんなもん、ちっとも怖かない!」
和郎は、むきになって言った。
「分ったから寝なさい」
と、敏子は言って、寝返りを打った。「おやすみ」
「うん……」
五、六分すると、和郎の寝息が、敏子の耳に届いていた。
怖かったくせに、か……。本当に怖がっていたのは、実は自分の方だったと、敏子には分っていた。
何でもない。何でもないんだわ。
敏子は目を閉じた。――でも、あのとき耳もとで、確かに……。
――私を動かしてくれ[#「私を動かしてくれ」に傍点]。
「疲れたよう!」
帰って来るなり、敏子は、大声で言った。
「女の子でしょ、あんたは」
と、ママが苦笑する。「ほら、二人とも、お|風《ふ》|呂《ろ》へ入りなさい」
「まだ明るいよ」
と、和郎が不満げに言った。
「泥だらけじゃないの。いいから、早く!
敏子、ちゃんと和郎も入れてよ」
「一緒には入んないよ」
と、和郎が口を|尖《とが》らした。
このところ生意気にも、女とは風呂に入らない、と言い出しているのだ。
「じゃ、別でもいいから、早くして!」
ママにせき立てられて、二人は階段を上って行った。
一日中、近くの湖と、その周囲で駆け回っていたのである。――もともと、あまり土くさい遊びには慣れていない二人だが、それだけに、慣れると、たまらなく面白い。
お昼までのはずが、とうとう一日中、遊び回ることになった。
「少しはお勉強もしなきゃ――」
と、苦い顔のママだが、内心は、子供なんてこんなものでいいわ、と思っているから、一向に二人には怖くないのである。
かくて一日は終った……。
二人とも、遊び回っている内に、昨日のこと――あの棺のことは、すっかり忘れていた。
「――ちゃんと着替えるのよ!」
と、敏子は、和郎に向って怒鳴った。
「分ってらい!」
「素直じゃないんだから、もう……」
と、敏子は|呟《つぶや》きながら、窓の方へと歩いて行った。
ちょうど、裏庭が見下ろせるのだ。――パパが、例の柵の戸を相手に格闘しているところだった。
敏子は、少々動きの悪い窓を何とか開けると、
「パパ!」
と呼びかけた。
パパが振り向いて、敏子を見付けると、手を上げた。敏子も手を振って見せる。
「どう? 直りそう?」
「分らんな」
パパが、ちょっと大げさに肩をすくめて見せる。「木が腐ってるところがあるんだ。|釘《くぎ》を打っても、全然きかない」
「適当にやっとけば?」
「もう少し頑張ってみるさ」
パパは、そう言って、また、外した戸の方へかがみ込んだ。
パパは、ごく普通のサラリーマンだ。家では、あまり活躍する場がない。だから、こういう所へ来て、大工仕事などで、自分の腕を見せられるのが、|嬉《うれ》しいらしいのである。
その気持は、敏子にもよく分った。
振り向くと、和郎が、お|風《ふ》|呂《ろ》から出て、パンツ一つで歩いて来るところだった。
「早いのねえ。ちゃんと洗った?」
「洗ってるよ」
とふくれっつらになる。「早く入ったら? 女は時間がかかるんだから」
「入りますよ、だ」
「日が暮れるまでには出なよ」
「失礼ね」
敏子は、弟の頭をつついた。――まあ、長風呂は事実でもあるのだけれど。
散々体を動かした後の長風呂は、確かに気分のいいものだ。日が暮れるまで、はオーバーだったけど、日が傾き始めるころまでは、充分にかかった。
髪もついでに洗ってしまったので、余計に手間がかかったのである。
やっと新しいシャツとショートパンツに替えて、台所へ入って行くと、ママが、フライパンを手にして振り向いた。
「あら、出たの? パパはまだお庭かしら」
「さあ。――見て来ようか?」
「そうね。もう入ってって言ってくれる?」
「戸を直してるんだよ、きっと」
「外しちゃったもんだから、意地になってるのよ。適当にやっときゃいいのにね」
と、ママは笑った。
「見て来る!」
敏子は、裏庭へ出るドアの方に歩いて行った。そして、二階への階段のわきを通り抜けようとしたときだった。
いきなり、何か[#「何か」に傍点]が敏子を引き止めた。それは、まるで目に見えないロープが、敏子の身に巻きついたかのようだった。
「キャッ!」
と、敏子は声を上げた。
が――その感覚は、一瞬の内に、消えた。振り向いても、そこには誰もいなかった。
ただ、ドアがあった。地下室へ降りる、低いドアが。
でも、ドアは閉っていたのだ。開く音も閉じる音も、聞こえなかった。それなのに……。
今の力は何だろう? 見えない腕につかまれたような……。
いつの間にか、敏子は、ドアの方へと手を伸していた。ノブに手が触れたとき、敏子は、またあの声を聞いた。
――私を動かしてくれ[#「私を動かしてくれ」に傍点]。
誰? 誰がしゃべってるの?
敏子は身震いした。空耳か。幻聴というやつなのだろうか?
だって、その声は、耳から入って来るのでなく、頭の中で[#「中で」に傍点]響いているように、敏子には思えたのだ。
どうして? こんなこと、初めてだ!
「――おい」
声をかけられて、敏子は飛び上りそうになった。
「パパ!」
「何をびっくりしてるんだ?」
と、パパは笑って言った。
「何でもないの。――どうしたの、あの戸、ちゃんと付いた?」
「だめだ」
と首を振って、いまいましげに、「新しい板を打ちつけて、補強しないとだめなんだよ。明日、板を捜してみよう」
「ママが、もう入るように、って」
「ああ。少し暗くなって来た。続きは明日だ」
と、パパは|肯《うなず》いた。
「どうしたの? 戸は外しちゃったんでしょ?」
「仕方ないから、その辺にたてかけて来た。一晩くらい戸がなくても大丈夫だろう」
「あんな戸、誰だって乗り越えられるわ」
と、敏子は笑って言った。
「さあ、今夜も腹一杯食べるぞ!」
パパが腕を振って、力強く言った。
――敏子は、パパが手を洗いに行ってしまうと、裏庭へ出るドアを開けてみた。
外は、微妙に|黄昏《たそが》れて来る時刻だった。まだ明るいから、水銀灯は|点《つ》いていないが。
――外した戸は、家のわきに、たてかけてあった。
あちこちが欠けたり裂けたりしているのは、パパの苦闘の跡を物語っている。敏子はちょっと|微笑《ほほえ》んで、首を振った。
始めたら、とことんやらないと気が済まない。――パパと敏子に共通の性格である。
あ、と敏子は思った。戸をもたせかけてあるのは、ちょうど、地下室の明り採りの窓の所だった。
あれじゃ、光を遮って、昼間でも暗くなっちゃうな、と思った。
敏子は、ドアを閉め、カンヌキをかけた。
――話すべきだ。忘れてたけど、あの棺のこと、パパに言わなきゃ。
敏子は、心を決めると、台所の方へ戻って行った。
「――お棺だって?」
パパはそう|訊《き》き返して、ママと顔を見合わせた。
「お姉ちゃん」
と、和郎が敏子をにらむ。
「あんたが言わないからよ」
「敏子、それ本当なの?」
と、ママが目を大きく見開いて訊いた。
「うん」
「何か――箱じゃないのか、ただの。それとも……」
「お棺よ。見れば分るわ」
「――まあいやだ!」
ママは、そう言って、息をついた。実際、そうとしか言いようがなかったんだろう。
「もっと早く言わなきゃだめじゃないか」
パパは渋い顔をした。
「ごめんなさい。でも、いじってないわ」
「当り前よ。気味が悪い!」
ママは顔をしかめた。「いやだわ、パパ。どうする?」
「どうって……参ったな。ともかく、地下の荷物には手をつけないという約束なんだ」
「だけど、そんな物があるなんて、知らなきゃともかく、分ってからじゃ気味が悪くて眠れないわ」
「うむ……」
パパも考え込んでしまった。――ママじゃなくても、確かにお棺の上で寝てるなんて、あまり気持のいいものではない。
「不動産屋さんに連絡してみたら?」
と、ママが提案した。
「こんな時間に、連絡なんか取れないよ」
と、パパは首を振って、「――仕方ない。今夜はともかくそのままだな。知らなかったと思えば――」
「でも、いやだわ」
と、ママはキュッと顔をしかめた。
楽しい食卓は、お通夜のようなムードに一変してしまった。――しばらく黙々と食べていたパパは、やがてため息をついた。
「分ったよ。ともかく後で見に行こう」
「どうするの?」
「どうって……。まさか外へ放り出すわけにもいかないけどな。一応、この目で確かめてから考えよう」
もしかしたら、敏子たちの思い違いかもしれない。パパがそこへ望みをかけていることに、敏子は気付いた。
そう。――もし間違いだったら、どんなにいいだろう。敏子も、そう思った。
あの声。私を動かしてくれ[#「私を動かしてくれ」に傍点]。――あれは何だったんだろう?
敏子も、そのことまで言う気にはなれなかった。ママがこれ以上聞かされると、
「もう東京へ帰りましょう」
とでも言い出しかねなかったからだ。
それに、あの声のことは、単なる空耳かもしれないのだし……。
「――よし、行ってみよう」
パパは、食事を終えると、立ち上った。
「明りがないわよ、地下室」
と、敏子は注意した。
「ちゃんと持って行くさ。ママも来るか?」
「いやだわ、そんなもの……」
と言いながら、結局ママもついて来ることになった。
四人でゾロゾロと――パパを先頭に、敏子、和郎、ママの順だった――階段の下のドアに列を作った。
ドアをパパが開けて、大型の懐中電灯をつける。かなり光が強いので、地下室の中を充分によく見ることができた。
「どの辺だ?」
「一番奥よ。あの小窓の下あたり」
「よし。降りよう。足下に気を付けろ」
頭をかがめて、地下への階段を降りて行く。
「やあ、ひどい|匂《にお》いだな」
と、パパが言った。
そう。何だかいやに生ぐさい、いやな匂いが鼻をついた。敏子は、おかしいわ、と思った。
こんな匂い、昨日は気が付かなかったけど……。
敏子は、じっと耳を澄ましたが、あの声[#「あの声」に傍点]は聞こえて来なかった。それに、いやな匂いはしていたが、初めて棺を見たときに感じた、何かがのしかかって来るような圧迫感は、消えているようだった。
――棺は、そこにあった。
「こいつは立派なもんだ」
光を当てて、パパは|唸《うな》った。「相当重かったろうな」
「|呑《のん》|気《き》なこと言って!」
と、ママも|覗《のぞ》き込みながら、パパをにらんでいる。
「――お棺には違いないが、しかし、これはきっと、一種の美術品みたいなものじゃないのかな。実用的なもんじゃないよ」
「でも、やっぱり気味が悪い」
と、ママは首を精一杯伸ばして、「まさか中に……?」
「馬鹿言え」
と、パパは笑った。
「開けてみるか?」
「やめて!」
ママがあわてて言った。
「中、空だよ」
と、和郎が突然言った。
「どうして分るんだ?」
「ただ――何となく」
和郎は口ごもった。
不思議だった。敏子も、同時にそう思っていたのだ。いや、空だと分っていたのだった[#「分っていたのだった」に傍点]。
「開けてみたら?」
と、敏子は言った。
「よし。懐中電灯を持っててくれ」
「パパ、やめなさいよ――」
ママは|眉《まゆ》をひそめた。でも、本気で止めようとしているわけでもないようだった。
怖いもの見たさ、というわけなのだろう。
「――動くぞ、この|蓋《ふた》」
パパが、蓋に手をかけて、ぐっと押した。ゴリゴリと、こすれるような音がして、蓋がずれて行った。
「――お姉ちゃん」
と、和郎の声がした。
「何よ。まだ寝てないの?」
敏子は寝返りを打った。
もう、二人がベッドに入ってから、三十分以上たっていた。昼間、あれだけ駆け回って疲れているのに、敏子は一向に眠くならない。
「何だか……」
和郎が言いかけて、ためらった。
「何なの?」
「動いてたみたい、そう思わない?」
敏子は黙っていた。――やっぱり、気のせいじゃなかったんだろうか?
お棺の中は空だった。敏子は、ともかくホッとしたのだが、戻ろうとして、ふと妙な印象に捉えられたのだった。
棺の位置が、前見たときと違っているような……。それほど大きなずれではないのだが、たぶん、数十センチか、せいぜい一メートルくらい。
でも、そんなことがあるかしら? あんな重い物、そう簡単には動かないだろう。でも――確かに――。
私を動かしてくれ[#「私を動かしてくれ」に傍点]。
頭の中に響いたあの声と、動いていた棺。偶然だろうか? でも偶然でない[#「ない」に傍点]としたら、どういうことになるんだろう。
そんな馬鹿なこと!――そんなこと[#「そんなこと」に傍点]、映画か小説の中でしか起らない。そうだわ、本当にそんなことがあるわけないんだ……。
それに、棺の中は、どっちみち空っぽだったんだから。――変なこと考えるのはよそう。もう私、子供じゃないんだから。
敏子は無理に目をつぶった。昼間の疲れが敏子の|瞼《まぶた》を閉じるには、まだ一時間近くかかった。
眠りに入る直前、敏子は誰かが、廊下を歩いている足音を聞いたような気がした。パパかママがトイレに起きたのかな。それとも、今から寝るのかもしれない。大人は夜ふかしだから……。そう考えたという記憶だけが、かすかに残った。
和郎が夜中に起き出したのは、別に、頭の中に声が響いたからでも何でもない。
ただ、オシッコがしたくなっただけなのである。――和郎は、半分眠っているような、トロンとした目で、|欠伸《あくび》をしながら、部屋を出た。
トイレは一階になっている。いつの間にか階段を降りていた。よく踏み外さなかったものだ。
一階はもちろん明りも消えているが、廊下だけが|点《つ》けてあった。パパが、電球の数を間違えたので、その弱い電球をつけてあって、少し薄暗い。
和郎は、また欠伸をした。
トイレに入って、用を足すと、手を洗って――指先を|濡《ぬ》らす程度だが――タオルで|拭《ふ》く。
今、何時だろう、なんてぼんやりと考えながら、和郎は、また廊下に出た。何だか……いやに暗い。
ちゃんと、電球は点いている。それでいて、光が何かに遮られているかのようで、廊下がひどく暗いのだった。
和郎は、そろそろと歩いて行った。階段の方へ。方向まで、間違ってはいないはずだ。
不意に、何かに包まれたようだった。黒い布か何かに。和郎はギョッとして、さすがに目も覚めた。
包まれたように思ったのは錯覚で、要するに誰かが目の前に立っていたのだった。
パパかしら?――パパにしても、ちょっと大きいような気がする。
息づかいが頭の上で聞こえた。何だか、いやに生ぐさい|匂《にお》いがした。――そうだ。パパたちと一緒に地下室へ入ったとき、ムッとするように襲って来た、あの匂いだ。
和郎は、ゆっくりと顔を上げた。
「不動産屋さん、何ですって?」
パパが食堂へ入って来ると、ママはすぐに|訊《き》いた。パパは、肩をすくめて、
「今は夏休みで、誰もいないんだそうだ」
と言うと、|椅《い》|子《す》を引いて座る。
「そんな……。一人ぐらいは――」
「残っているのはアルバイトの学生だとさ。何しろ今週一杯は休みだ、ってことしか知らない」
「いやねえ」
ママは顔をしかめた。ハムエッグをフライパンから皿に落とす。
「仕方ない。まあ、空の家具が一つあると思っときゃいいじゃないか」
「それにしたって……。お棺なんて、家具とは言わないわよ」
敏子は、先に食べ始めていた。――パパが、
「和郎はどうした?」
と、空いた椅子を見て|訊《き》いた。
「いくら起こしても起きないのよ」
と、敏子が言った。「布団をかぶっちゃって寝てるの」
「昨日、暴れ過ぎたのよ、きっと」
と、ママが言った。「敏子、もう一度行って来てくれる?」
「うん」
敏子は、パンを一口かじって、立ち上った。
階段を一気に駆け上る足取りは、もう昨日の疲れなど感じさせなかった。
実際、一晩寝た後、敏子は至って元気だった。ゆうべの不安も、すっかり消え去っている。眠れないくらい考え込んでいたことが、朝になってみるとおかしいようだ。
「――お寝坊さん! もう起きな」
敏子は、ドアを開けながら言った。ちょっと戸惑って、足を止める。さっき敏子のあけたカーテンが、また引いてあり、部屋が薄暗かったからだ。
「和郎! どうしたの?」
ベッドの方へ近づいて、「具合でも悪いの?」
毛布から、目だけが覗いている。
「まぶしいんだ……」
和郎は、力のない声で言った。
「変ね。熱でもあるの?」
敏子は、弟の額に手を当てた。――熱くないどころか、少し冷たいくらいだ。
「お腹、痛い?」
和郎が、頭をちょっと横に振った。「じゃ、どうしたの?」
「だるいんだ……」
敏子は、急いで、ママを呼びに行った。もちろんママは飛んで来た。
でも、別に痛いところもなく、熱もないというのでは、結局、ただ、少し寝かしておこうというしかなかった。
ただ、顔色は良くなかった。カーテンを開けるのをいやがったが、ママが作った熱いスープを飲ませるときだけ、少しカーテンを開けて、部屋を明るくしなくてはならなかったのだ。
敏子は、そばで見ていて、何となく落ちつかなかった。弟の顔は、貧血でも起こしたように青白く、目にも力がなかった。
ひどく疲れているようで、すぐまたベッドに潜り込んでしまう。
またカーテンを引いて、部屋を暗くして廊下に出ると、ママが、低い声で言った。
「明日になってもあの調子だったら、あの子を医者へ連れて行かなくちゃ」
「顔色、良くないね」
「貧血みたいね。でも、あの子、今まで、そんなもの、縁がなかったのに……」
ママは不安そうだった。
敏子は、一日、一人で遊んでいた。――いや、遊ぶといっても、ただ、近くの林の中を歩き回るだけだったのだが……。
一人が欠けるだけでも、急に「家」というのは静かになってしまうものだ。特に和郎は元気な子で、少々の風邪など構わずに泳ぎに行ってしまうぐらいだった。
あんな風に、ご飯も食べずに寝ているというのは、普通じゃない。敏子は、林の中の倒れた木に、腰をおろして、木々の間に|覗《のぞ》いている、古い別荘を眺めていた。
よく晴れて、|陽《ひ》|射《ざ》しは夏らしく強いのに、何となく、あの家の辺りは、ほの暗いように見えた。気のせいだろうけど……。
敏子が座っている所から、パパが、あの外れた柵の戸を相手に苦戦しているのが見えた。ママはきっと中で、ぼんやりと座っているんだ。
――私たち、何をしにここへ来たのかしら? 敏子は考えていた。
私たちは、あまりに都会の、刺激の多い生活に慣れすぎてしまったのかもしれない。静かで、自然に囲まれたこんな場所へ来ると、|却《かえ》って落ちつかず、不安になって来るのだ。
そう。――もちろん、あの奇妙な棺のせいでもあるだろうが、みんなが、何だか不安そうなのだ。おまけに、和郎は具合が悪い。
「――来るんじゃなかった」
と、敏子は|呟《つぶや》いた。
――一日が、のろのろと過ぎて行った。
和郎を起こすといけないというので、敏子は、部屋で寝転がっているわけにもいかず、仕方なく、外を歩き回っていた。
学校の宿題も持って来ていたが、やる気にもなれない。ママの方も、和郎が心配でそんなことを注意する気にもなれないようだった。
午後もいい加減遅くなって、ママの呼ぶ声が聞こえた。
「どうしたの?」
と、敏子が歩いて行くと、
「ちょっとパパと買物に行って来て」
「今から?」
「そう。車だからすぐでしょ。今、パパも仕度してるから」
「分ったわ」
「買うものはここに書いたわ。量は適当に見てね。パパじゃ、それが分らないから」
「うん」
敏子は、メモをジーパンのポケットへねじ込んだ。パパが車のキーを手に出て来る。
「行こうか、敏子」
「うん」
車、といっても、ミニカーに近い、小型車である。これだって、ローンが終っていない。
「じきに暗くなるから、気を付けて」
と、ママが言った。
「ああ、分ってる」
パパは面倒くさそうに、手を上げて見せた。
――スーパーまで、車で十五分ほどだ。
林の中の道は、ほとんど通る車もなかった。敏子は、何となくホッとした気分だった。
パパと二人でいると、気の許せる友だちといるときのように、安心できた。もちろんママが嫌いなのではないが、パパといる方が、「いい子」でいようとしなくて済む分だけ、楽だったのだ。
「――まずかったな」
と、運転しながら、パパが言った。
「何が?」
「あの別荘さ。――無理をするんじゃなかった。我が家に別荘なんて、似合わないんだ」
敏子は|微笑《ほほえ》んだ。
「パパのせいじゃないわ」
「しかし、みんな家にいるときより元気がない。これじゃ、来た意味がないよ」
敏子は、少し間を置いて言った。
「私、気味が悪い」
「あのお棺か? あれもまずかったよ」
「それだけじゃないの。――あの家、そのものが……」
敏子は、少しためらってから言った。「何か[#「何か」に傍点]がいるような気がする」
「『何か』?――どういうことだ?」
「分らないけど」
敏子は首を振った。
しばらく車は走り続けた。スーパーの建物が見えて来る。
「明日にでも、東京へ帰ろう」
と、スピードを落としながら、パパが言った。「そのつもりで買物をしてくれ」
「うん」
敏子は|肯《うなず》いた。少し、気が楽になったようだ。
――買物を終えて出てみると、もう外は暗くなっていた。
「さあ、急いで戻ろう」
パパは、敏子を促した。
車が、あの家へ近づくにつれ、敏子は、言いようのない不安が、自分の中でふくれ上って来るのに気付いていた。――夜。
夜になると動き出す。何が? 何か、得体の知れない者が。
「パパ、急いで」
パパも、何かを感じていたようだった。アクセルを踏んで、木立ちに衝突せずに済むぎりぎりのスピードで突っ走った。
「明りが見えた!」
敏子は、少しホッとして言った。
車を停めてみると、あちこちの窓に、明るく灯がともって、別に、変ったところはないようだ。車を出て、二人は、玄関の方へと歩き出した。
その足を止めたのは、中から聞こえて来た笑い声だった。――ママの声だった。
いや、ママの声だということは、すぐに分ったのだが、でも、それは聞いたこともない声だったのだ。
高笑い――|哄笑《こうしょう》というのとも、違う。叫ぶような、というか、ほとんど悲鳴に近いような笑い声だったのだ。
それは、敏子の背筋を凍りつかせた。まともな声ではなかったからだ。
「パパ……」
敏子の声は震えていた。パパも、表情を固くしている。
「ここにいろ」
パパは、敏子にそう言った。玄関の方へ歩いて行った。
「気を付けて!」
敏子は、自分でも分らない内に、そう叫んでいた。パパは、玄関のドアを開け、中へ入って行った。
開け放したドアから、光が|射《さ》して、敏子を照らし出している。――無限に長い時間がたった。
いや、本当は、ほんの二、三分だったのだろう。誰かが玄関に出て来た。
パパだ。シルエットになっていたけど、間違いはなかった。パパは、ゆっくりと敏子の方へ歩いて来た。
「パパ。――どうしたの?」
敏子は、そっと声をかけた。
「何でもないよ」
と、パパは言った。「パーティをやってるんだ。中へお入り。もう和郎も元気になった」
何だかおかしい、と思った。パパの話し方が、いやに平板で、表情がない。
「でも――」
「お前を待ってるんだ。さあ、おいで」
パパが近づいて来て、手を差しのべた。
――そのとき、敏子はパパの息に、あの生ぐさい、いやな|匂《にお》いをかぎ取った。
「いや!」
敏子は素早くわきへ退いた。パパの顔が、玄関からの光を受けて見えた。――まるで死人のように青白い顔。子供のころ見た、棺の中の顔と同じだ。
「どうしたんだ? 怖がらなくていい。パパがどうして怖いんだ?」
パパは笑った。
「パパ! どうしたの? パパじゃない! 変っちゃった!」
「何を言ってるんだ?」
と、パパは首を振った。
「――お姉ちゃん、早くおいでよ」
和郎の声がした。玄関の所に、ママと並んで立っている。
「敏子、いらっしゃい」
ママの声だ。
「ほら、みんなお前を待ってるんだぞ」
パパが、ママと和郎の方を見た。その|隙《すき》に、敏子は、車の方へと駆け出した。
「敏子!」
パパの声がしたときには、もう敏子は車のドアを開けて、中へ入っていた。ドアをロックする。これで入って来られない。
パパたちが、車の方へ寄って来た。窓をトントンと|叩《たた》く。
「開けなさい、敏子」
パパの声が、ずっと遠いように聞こえて来る。――ママも、和郎もやって来て、車の周囲を回るようにしながら、フロントガラスや窓を叩き、顔を近づけ、笑いかけた。
「出ておいで……」
「お姉ちゃんたら――」
「敏子、早くおいで」
みんな――みんなおかしいんだ! ああ、どうなっちゃったんだろう!
敏子は、体中から噴き出す汗で、びっしょりとシャツまで|濡《ぬ》れていた。
ガラス越しに迫って来る笑顔は、見慣れたパパやママ、和郎のもののようで、どれも違っていた。
青ざめて、目が赤く充血して、開いた口は血のように真赤だった。
「あっちへ行って! 行って!」
夢中で、敏子は叫んでいた。そして――ふと、目が、差し込んだままになっている車のキーに止った。
これで――車を動かせるだろうか?
前に、パパから教えてもらったことがある。面白がって、少し走らせたことも。
でも――できるかしら?
敏子はキーに、震える指を伸した。
激しく、ドアを引張る音がした。パパが怒っている。|凄《すご》い形相で、
「ここを開けろ!」
と怒鳴っている。
車のエンジンが目覚めて、車体がブルルと震えたとき、パパが、力をこめて、窓を殴りつけた。ガラスに白い筋が走った。
「やめて!」
叫びながら、敏子はアクセルに足をかけた。クラッチ――ギヤ――アクセル。
動いた! 車がぐんと飛び出した。
パパたちが追って来る。敏子の手と足が、不思議なくらい、一度だけの運転の記憶をよみがえらせた。
走る! 走ってるんだ!
振り返る余裕はなかった。ただ一心に、正面を見つめて、ハンドルを握りしめている。
木の幹をこすったり、道の端に乗り上げたりする度に、車は大きくバウンドして、バラバラになってしまうかと思えた。
でも、車は走っていた。走り続けていた。
汗か涙か分らないもので、敏子の顔は光っていた……。
「――ここが?」
と、彼が言って、敏子を見た。
敏子は肯いた。
「ええ。ここよ」
林の中は、静かだった。|爽《さわ》やかな初秋の日である。
木々は、少しも変っていないように見えた。
「何もないんだね」
と、彼が言った。
そう。――もう、そこに残っているのは、石の土台と、埋められてしまった地下室の跡だけだ。
「焼けたのよ」
と、敏子は言った。
「焼けた?」
敏子は、彼の車にもたれていた。
――あのときのような小型車とは違う、モダンな高級車である。
「そう」
敏子は|肯《うなず》いた。これを言ってしまっていいのだろうか? でも、今さらやめるわけにはいかない。
彼は戸惑っていた。当然だろう。婚約者が、突然、怪談めいた話を真顔でしゃべり始めれば、当惑して当り前だ。
「その次の日に」
と、敏子は言った。「私は戻って来たの。夜の間は、車の中にいて、夜が明けるのを待っていたのよ。――昼間なら、みんな[#「みんな」に傍点]眠ってると思って。ここは静かだったわ。誰も起きていなかった」
「で――どうしたんだい?」
「火をつけたの」
「火を? 君が?」
「そう。――そうするしかない、と思ったの。分らないけど、なぜそう思ったのかは、ね」
「じゃ、ここは焼け落ちて……」
「アッという間だったわ」
敏子は、かつて建物のあった空間へ目を向けていた。
「ほとんど燃え尽きたころになって、近くの町の消防の人が駆けつけて来て――この前で泣いている私を、見付けたってわけ。私は警察へ連れて行かれて、ありのままに話をしたわ」
「今の話を?」
「ええ。でも――」
敏子は|微笑《ほほえ》んだ。「みんな、困ったような顔をしてた。当然でしょうね。私は両親と弟を、焼き殺したんだから。――結局、私は叔母に預けられ、火事は、失火ということになったの。私の話は、ショックのせいで頭が混乱してたんだ、ということで、片付けられたわ」
敏子は、ゆっくりと、残った土台の方へ歩いて行った。――少し離れて、彼もやって来た。
「でも、確かに、私は、家族を殺したのよ。あのときには、そうするしかない、と思った……。ずっと後になって考えれば、何もかも私の思い過しだったのかもしれないの。お棺が動いてたとか、弟が寝込んだとか、みんなの顔が青白く見えたのも、月明りのせいだったかも……でも、やっぱり、そうじゃなかったと思うわ。焼け跡から、三人の遺骨しか出て来なくてもね」
彼が顔を伏せた。――迷っているのだ。どう考えたものか。
「その――肝心の|奴《やつ》は? 死ななかったのかい?」
と、彼は|訊《き》いた。
「分らないわ。建物は焼けたけど、地下室はどうだったのか。結局、焼け落ちる家の|残《ざん》|骸《がい》で埋って……もう十年以上だもの。土に|還《かえ》ってるわ」
敏子は、彼の方へ真直ぐ向いた。「――あなたが決めて。私と、これでも結婚するかどうか」
彼は敏子を見て|微笑《ほほえ》んだ。
「よく話してくれたね。君の過去は、もう僕が引き受ける」
敏子は、彼の胸に飛び込んだ。力強く、抱きしめられて、敏子の中に淀んでいたものが、どこかへ流れ出して行くようだった。
「――さあ、行こう」
と、彼が言った。「|陽《ひ》がかげって寒くなったよ」
「ええ」
二人は肩を寄せ合いながら、車の方へと戻って行った。
敏子が、ふと振り向いた。
「どうしたんだい?」
「いいえ。――別に」
敏子は首を振った。
車が走り出すと、敏子はバックミラーの中に|遠《とお》ざかるあの場所へ、最後の|一《いち》|瞥《べつ》を投げた。
――あそこを離れかけたとき、|微《かす》かな声が、聞こえたような気がしたのだ。
――私を出してくれ[#「私を出してくれ」に傍点]。
いいえ。いいえ。もう二度と。
二度と眠りを覚ましたりしないわ。
「少し眠っていい?」
と、敏子は、隣の彼に言った。
「ああ、いいとも」
敏子はゆったりと座り直して、
「起こさないでね」
と言うと、目を閉じた。
呪いは本日のみ有効
「ハッピー・バースデイ、トゥーユー……」
口の中で|呟《つぶや》くように、辻木秀美は歌った。
「トゥーユー」、じゃない。本当は「トゥーミー」なんだ。
でも、みんながそう歌ってたから。――当り前ね。私の誕生日なんだから!
辻木秀美は、広いリビングルームから、庭へ出るガラス戸を開けた。|裸足《はだし》のままで、芝生へ出て行く。
――もう、朝が忍び寄っている気配。
少し、辺りは明るくなり始めていた。
ブルル……。車のエンジン音が、遠ざかって行く。
あれはきっと、大崎君のスポーツカーだわ。そう考えて、秀美の胸はチクリと痛んだ。
どうして、あの車に、私が[#「私が」に傍点]乗っていないんだろう? 大崎君の肩に頭をもたせかけて、一杯に開けた窓から吹き込む風に|頬《ほお》を|撫《な》でられながら……。
そのまま、大崎君と二人で、どこへだって行ってしまうのに。海岸でだって、モテルでだって構わない。大崎君に抱かれるのなら、どこでだって……。
「やめてよ! 馬鹿らしい!」
秀美は声を上げた。
大崎の隣には、ちゃんと浩子がいる。坂本浩子。――私の親友が。
二人はどこへ行くんだろう? 大崎君のことだ。騎士道精神を発揮して、真直ぐに浩子を自宅まで、無傷で[#「無傷で」に傍点]送り返しているかもしれない……。
秀美は、大きく両手を空に向かって伸すと、冷え冷えとした、夜明けの湿った空気を、胸の中へ吸い込んだ。
少し立っていると、寒くなって来る。何しろ、薄いネグリジェ姿なんだから。
秀美は、それでも、肌寒さに堪える快感を味わおうとするように、芝生にしばらく立っていた。
――二十歳。秀美は、二十歳と一日になったところである。
少しきつい感じの顔立ち。しかし、美人である。
冷たい印象を与えるのは、くっきりと濃い|眉《まゆ》や、薄く真直ぐに結ばれた唇のせいかもしれない。けれども、気性の激しさは生来のもので、それは黒く|濡《ぬ》れたような、大きな|瞳《ひとみ》に、燃えるような輝きを与えていた。
「――お嬢様」
と、声がした。
開け放した戸の所から、良江が顔を出している。
「良江さん。――先に寝てていい、って言ったのに」
「いいえ、私は大丈夫ですけど。お嬢様、その格好では風邪をひかれます」
良江は、エプロンを外して、手に持っていた。
秀美は、良江の姓が何なのか、知らない。年齢も――たぶん、秀美とそう変らないと思うのだが――分らなかった。気にもしていなかったのである。
「――そうね」
秀美は素直に言って、芝生から家の中に入った。家というより屋敷である。
「足が濡れませんでしたか?」
と、良江が、かがみ込んで、「――汚れてますわ。今、お|拭《ふ》きしますから」
「いいのよ。お|風《ふ》|呂《ろ》で、シャワーを浴びるから」
と、秀美は良江を止めて、「良江さんも大変だったわね。もう休んで」
「仕事ですから」
と、良江は、ちょっと照れたように|微笑《ほほえ》んだ。
しかし、大変だったのは事実である。
昨日の誕生パーティに、やって来た秀美の友だちは一体何十人いたのだろうか? いや、途中から来たり、途中で帰ったりで、のべ百人近かったのではないか。
中には、秀美が全然知らない「友だち」がいたりして――つまり友だちの同伴者だ――、秀美とて、誰と誰がやって来たのやら、はっきり|憶《おぼ》えてはいなかった。
その人数に、軽い食事や飲物を用意したのは良江だったのである。一人で、どんな忙しい思いをしたか、およそ家事と名のつくものをしたことのない秀美だって、よく分っていた。
後で、少し良江にお小づかいでもあげとこう、と秀美は思った。
リビングルームは、まだ、グラスや空の皿、ウイスキーの空びん、灰皿といった物で|溢《あふ》れていた。
「片付けるの、明日でいいわよ」
と、秀美はバスルームへ向かって歩きながら言った。
「――明日じゃなくて今日[#「今日」に傍点]か」
「いえ、寝る前にやってしまいますわ」
と、良江が早くも皿を重ねながら、言った。
「後になるほど、汚れが落ちにくくなりますから」
――よく働くこと。
大学生ではあるが、あまり大学へ行かないという秀美としては、良江など、別の星から来た生物に見える。
――シャワーを浴びて、やっと体があたたまった。バスルームから出ると、ネグリジェも下着も、新しいものが、ちゃんと用意してある。
秀美は、いつものことながら、ほとほと感心した。
――この屋敷に、秀美は良江と二人で住んでいる。父親は海外を飛び回っているし、母親は若い男と、都内のマンションに|同《どう》|棲《せい》中。
父親の方も、秀美が知っているだけでも、愛人が二人いるので、別に妻の浮気にも文句は言わないようだ。
一人っ子の秀美が、あまり古風な道徳を重視する娘に育たなくても仕方あるまい。
リビングルームへ行ってみると、さっきからほんの二十分くらいしかたっていないのに、ほぼきれいに片付いているので、秀美はまたびっくりした。
「――お嬢様」
と、良江がやって来る。
「なあに?」
「プレゼントの方はいかがなさいます?」
「プレゼントね!――そんなものがあったんだっけ!」
秀美はため息をついた。
もちろん、ゆうべの客たちが持って来た、誕生日のプレゼントである。
「山のようになっていますけど」
「捨てちまおうかしら」
「もったいないですよ! そんな――」
「冗談よ」
と、秀美は笑った。「何か欲しいものがあったら、適当に持ってって構わないのよ」
「そういうわけには……。お嬢様へのプレゼントなんですもの」
「いいのよ。どうせ、みんな小づかいの余ってる人たちなんだから」
「世の中には、そんな方もおられるんですねえ」
と、良江はため息をついた。
「どんなものがある?」
「さあ、まだ包みのままで……」
秀美は、客間へ行ってみた。プレゼントをそこへ全部積み上げてある。
山のように、という良江の言葉も、大げさではなかった。
「のんびり一つずつ開けるわ」
と、秀美は言った。「これを全部見てたら、夜が――いえ、日が暮れちゃう」
「そうでございますね。じゃ、そこにそのまま置いておきましょう」
「うん」
秀美は、立ち去りかけて、ふと、大崎からのプレゼントを見たい、と思った。
しかし、こう山積みでは、どれが誰からのものやら、見当もつかない。
あら、と秀美は一番上に、チョコンとのせてある、小さな包みに目を止めた。
それは、およそ、誕生日のプレゼントに見えなかった。ごく当り前の包装紙でくるんだだけなのである。リボンもかかっていなかった。
誰からだろう?
「――どうかなさいまして?」
と、良江が|訊《き》いた。
「これ、誰が持ってきたんだろ? |憶《おぼ》えてる?」
「さあ……。お一人ずつのことまでは」
「そうね、でも――みんな大いに派手にしてあるから、|却《かえ》って目立つわ。知能犯かな」
秀美は、その包みを開いた。
「――なあに、これ?」
と、|呆《あっ》|気《け》に取られる。
珍しいことだった。
それは、しかし無理もない。出て来たのは、大きなカナヅチとワラ人形、それに五寸|釘《くぎ》だったのである。
よく、|呪《のろ》いをかけたりするのに使うという|奴《やつ》だ。
「誰かしら、こんな物くれたの?」
秀美は|呆《あき》れたように言って、「でも、なかなか気がきいてるじゃないの」
と、笑った。
「あら――手紙がついてますよ」
良江が、包みから落ちた手紙を拾い上げて、秀美に差し出す。
「これ、持ってて」
秀美は、カナヅチや人形を良江に渡して、その手紙を広げてみた。――何だか、たどたどしい、下手な字だ。
〈二十歳、おめでとう。大人になったら、それにふさわしく、憎らしい人もできるでしょう。人形に、相手の身につけていたものを着せて、釘を打ち込みなさい。ただし、夜、十二時ちょうどに。あなたの憎む相手の命を絶つことができます。――あなたの友より〉
良江が、それを|覗《のぞ》き込んで、
「まあ、気味が悪い!」
と、声を上げた。
「面白いじゃないの。気がきいてるわ」
と、秀美は|愉《たの》しげに笑った。「友だちの中に、こんな|洒《しゃ》|落《れ》っ気のある人がいたなんて知らなかったわ」
「でも、お嬢様……」
と、良江は不安そうに、「こんなもの、捨ててしまった方がよろしいですよ」
「あら、どうして?」
「だって――もし、本当に――」
「本当だったら、ますます面白いわ」
秀美は、カナヅチや人形を良江から受け取ると、「さて、誰を|呪《のろ》い殺そうかな」
と言いながら、部屋を出て行った……。
「――ハンバーガーを買って来たよ!」
助手の佐々木哲平が、その長身を、ちょっと窮屈そうにしながら、研究室へ入って来た。
「ここは大学よ!」
と、私は、書類から顔を上げて、哲平をにらんだ。
「あなたは助手。私は助教授。ちゃんと、『先生』をつけて話しなさい」
「はいはい」
哲平は頭をかいて、「ハンバーガーです、先生[#「先生」に傍点]」
と、机の上に置く。
「ありがとう」
私はファイルを閉じて、「あなたも食べたら?」
「そうしようかな」
「一体いくつ買って来たのよ?」
私は、袋の大きさ――いや、巨大さ[#「巨大さ」に傍点]に、目を丸くした。
「八つ」
「ハンバーガーを八つも? パーティでも開くつもり?」
と、|呆《あき》れて|訊《き》くと、
「だって、僕が五つで先生が三つ……」
と、平然としている。
二十七歳という若さにとっては、ハンバーガーの五つぐらい、どうってことはないのかもしれない。
いや、私だって、もう三十五歳だが、ハンバーガーの三つぐらいは食べられないわけでもない。しかし、私ぐらいの年齢になると、何でもお|腹《なか》に入ればいいというわけにはいかない。
量よりも質、という年齢なのである。
哲平だって、もう二十七なのだから、普通なら、家庭でも持って落ちついていい年齢である。それが|未《いま》だに、学生気分でいるのは、まあ多分に私のせいでもある。
独身の私の、目下の恋人[#「恋人」に傍点]が哲平だからだ。でも、大学にいるときは、「先生と助手」というけじめを、きっちりつけるようにしている。
「――ともかく食べましょ」
私は、哲平の買って来たコーヒーとハンバーガーで、手軽に昼食を済ませることにしたのだ。
「ああ、腹減った!」
と、言っている間に、哲平はたちまち一つ目のハンバーガーをペロリと平らげてしまう。
「同じもんばっかり、よく食べられるわね」
と、私は呆れて言った。
「まだ一つだけだよ」
と、哲平は平気なものだ。
それにしたってね!
「今日は午後は講義ないんでしょ」
と、哲平は言った。
「それがどうしたの?」
「うん。その……ちょっと、お願いがあってね」
私はちょっと笑って、
「何よ、佐々木君らしくもない」
とからかった。「でも、ホテルへは昨日行ったばっかりじゃないの。そんなに張り切ると、老けるわよ」
「え?――ち、違うよ! そのこと[#「そのこと」に傍点]じゃないんだ」
と、哲平は顔を赤くして首を振った。
|年《と》|齢《し》の割には純情なんだから!
「じゃ、何なの?」
「ちょっとね、会ってほしい人がいるんだ」
「へえ。私に夫を世話してくれるっていうの?」
「違うよ!」
「じゃ、あなたの恋人を紹介しようっていうわけ?」
「ただの知り合いだよ」
と、哲平は強調した。「二、三年前に、アルバイトで一緒になったことのある女の子なんだ。今は、どこかの金持の屋敷で働いてる」
「へえ。その子をどうして私に?」
「相談したいことがあるんだって」
「佐々木君に、じゃないの?」
「いや、実はね――」
と、哲平は、ハンバーガーの三つ目[#「三つ目」に傍点]にとりかかりながら、言った。「昨日、その子にバッタリ町で出くわしたんだ。何だかひどく心配そうでね。どうしたのかと思って、|訊《き》いてみたら――ほら、前にね、先生のことを話したことがあるんだよ。怪奇現象とかを研究してるんだ、ってね」
「じゃ、その子も、何かその|類《たぐい》のことで悩んでるの?」
「そうなんだ。――人に|呪《のろ》いをかける手伝いをさせられてるんじゃないか、ってね」
「呪い?」
私は、興味をそそられた。――専門の研究を離れても、その手の話は大好きなのだ。
「それも、いともクラシックなやつなんだ。五寸|釘《くぎ》をワラ人形に打ちつけるって、例のやつさ」
「へえ」
ワラ人形と五寸釘か。――確か、どこだかのオモチャのメーカーが、冗談に、そのセットを売り出したら、結構よく売れたとかいう話を聞いたことがある。
何だかいやな気分になったものだ。
もちろん、誰だって、そんなものを本気で使うことはあるまい。でも、本当に木にそれ[#「それ」に傍点]を打ちつけるとき、その心の底に、千分の一、万分の一、もし、本当に相手が死んだら――その思いが生れることが怖い。
殺意というのは、誰の心にも、必ず潜んでいるものなのだ。ただ、本人ですら、それに気付かないことも珍しくない。
そのいたずらが、意外な人への殺意を、呼び起こしてしまうとしたら、もうそれは「いたずら」ではなくなってしまう。
ある意味では、それは立派な「|呪《のろ》い」かもしれない。
「事情は、当人から聞いてくれる?」
と、哲平が言った。
「いいわよ、もちろん」
私も自分のハンバーガーを一つ食べ終えて、
「どこで会うことになってるの?」
と|訊《き》いた。
「今、廊下で待ってるんだ」
私は|呆《あき》れて、
「じゃ、すぐ入ってもらいなさいよ!」
「でも、これを食べおわらないと……」
「私はもう沢山。残りはその人に食べてもらえばいいわ」
「そう? もったいないなあ」
と、哲平は考え込んで、「僕、もう一つもらおうかな……」
と|呟《つぶや》いた……。
――楠本良江の話は、大いに興味深いものだった。
「――じゃ、そのワラ人形と五寸釘が、誕生日のプレゼントとして置かれてたのね?」
「そうなんです。名前はありませんでしたけど」
と、楠本良江は言った。
不安そうなのは、哲平の言う通りだったけれど、それならと、ハンバーガーをいかが、とすすめると、ペロリと二つも食べてしまったのは、「若さ」というものかもしれない。
「その手紙は取ってある?」
「いいえ。――たぶん、お嬢様が捨ててしまわれたと思います」
「残念ね」
「でも、変な字でした。小さな子供が書いたみたいな、下手な字で……」
「右ききの人が、左手で書いたんじゃないかしらね」
と、私は言った。
「ねえ、そのプレゼントだけどさ」
と、哲平が言った。「それ以外のプレゼントの贈り主を調べれば、残る一人が犯人ってことじゃないか」
「二つ[#「二つ」に傍点]持って来てたらどうするのよ」
と、私が言うと、哲平は、
「ああ、そうか」
と頭をかいた。
「たぶん、ちゃんとしたプレゼントも持って来てたはずよ。みんなでプレゼントを持ち寄って、一つだけ、そんな風にリボンもかかっていないんじゃ、目立ってしまうもの。一番上にあったというのも、帰りがけに、手早くのせておいた、ということだと思うね」
「私もそうだと思います」
と、良江が言った。「一応プレゼントは、皆さん、お嬢さんに手渡されてましたから、あれ[#「あれ」に傍点]は、プレゼントを全部、客間へ移してから後に、そっと置いたんじゃないでしょうか」
「あなたの言う通りだと思うわ」
私は、ちょっと哲平の方を見て、「あなたに助手になってもらおうかしら」
哲平がプーッとフグみたいにふくれた。私は笑いをかみ殺して、
「ところでね、あなただって、そんなワラ人形で人が殺せるとは思ってないんでしょ?」
「ええ……」
「じゃ、何が心配なの?」
良江は、少しためらってから、
「お嬢様のご様子が、どうもおかしいものですから、気になって……」
「辻木秀美さん、だったわね」
「そうです」
「その人が――どうしたの?」
良江は、なおもしばらくためらっていたが、やがて思い切ったように一つ息をついて、
「私が、働いてるおうちのことを、あれこれ言うのは、本当はいけないことなんですけど……」
「心配しないで。誰にもあなたのことは言わないから」
「はい」
良江は肯いて、「実は、お嬢様には大崎さんというお友だちがいらっしゃるんです。ボーイフレンドといいますか……」
「恋人?」
「いえ、そんな仲じゃありません。本当のお友だちなんです。ただ――お嬢様の方では、大崎って人のことを好きなようです。大学生で、確か三年生ですけど、もう二十四かそこらで……。あんまり勉強しない人のようなんです」
「要するに金持のぐうたら息子ね」
と、私が言うと、良江はちょっと笑って、
「人は好き好きですから」
「全くね。で、秀美さんはその大崎って子を好き。でも、彼の方じゃ――」
「恋人がいるんです。坂本浩子さんといって、お嬢様の古い親友らしいんですけど」
「親友との三角関係。――|辛《つら》いわね」
「はい。でも、お嬢様は、その坂本浩子さんに気をつかって、決して大崎さんに、必要以上になれなれしくしたりしません」
良江は、それから、首を振って、「――ところが、この間、坂本浩子さんが遊びにみえたときです。あの誕生日パーティから一週間たってました」
「何かあったのね」
「お嬢様が、急に、おっしゃったんです――」
「浩子、すてきじゃないの、そのネックレス!」
と、秀美が言った。
「――そう?」
坂本浩子は、戸惑い顔で、そのネックレスを手でいじった。「ありがとう。でも、安物なのよ」
「そう? でも値段とは関係ないわ。素敵なものは素敵よ」
秀美はソファに体を沈めると、「――ねえ、浩子」
「なあに?」
「そのネックレス、私にくれない?」
「これを?」
「いや? 気に入っちゃったの、すっかり。その代り、私のネックレス、どれでも、好きなの、持ってっていいから」
浩子は、困ったような顔で、大崎の方を見た。――大崎も、浩子を連れて、今日はここへ来ていたのである。
「いいじゃないか。取り換えれば?」
と、大崎は愉快そうに言った。「どう考えたって、君の方が得をする交換だよ」
「だけど……」
浩子は、ちょっと迷っているようだったが、
「――いいわ」
と、ネックレスを外し、秀美の方へ差し出した。
「いいわ。使って。こんなもので良かったら」
「悪いわね。私の、どれでも取ってよ」
「いいわ、別に。だって、これ、そんなに高くなかったんだもの。あなたのは、立派なのばっかりだし」
「そんなの不公平だもん! じゃ、今、持って来てあげる!」
「いいってば、秀美!」
浩子が声をかけても、秀美を止めることはできなかった。「――困ったわ。いいのにね……」
「もらっとけよ」
大崎は浩子の肩を軽く|叩《たた》いて、「何しろ秀美は金持なんだから」
「だけど……」
浩子は、秀美とは違って、至っておとなしく、古風なタイプの娘である。秀美が火なら浩子は水というところか。
正反対ゆえの親友同士の典型みたいなものだった。
「――お茶をどうぞ」
と、良江がティーカップを置く。
「ありがとう」
浩子は、カップを取り上げて、「――でも、変だわ」
と言った。
「何が?」
「あのネックレス、全然、秀美の趣味じゃないのに。――永年付き合ってるんだもの、分るわ」
「好みが変ったんじゃないのか」
と、大崎は気楽に言った。「女心は変りやすいからな」
「でも、ああいう好みって、滅多に変るもんじゃないわよ」
二人が話していると、秀美が、両手に何十本も、ネックレスをかけて現われた。
「さあ、どれにする? 好きなのを選んでいいのよ!」
「――何だか、本当に変でしたわ」
と、楠本良江は言った。「お嬢様、あんなことをなさったことがないのに」
「で、結局、その坂本浩子さんは、秀美さんのネックレスを受け取ったの?」
と、私は|訊《き》いた。
「はい。受け取られました。――お嬢様がああまでおっしゃるんじゃ、受け取らないわけにいかなかったんだと思います」
「それで――何があったの?」
「はあ……」
良江は、ちょっと不安げに、「馬鹿げていると思われそうなんですけど」
「言ってごらんよ」
と、哲平が言った。
「実は――次の日、大崎さんからお電話がありました」
「何のことで?」
「前の晩に、浩子さんが倒れて入院した、というんです」
「あの子は、もともと心臓が少し悪かったんですよ」
と、大崎昇は言った。
「で、今の具合はどうなの?」
と、私は訊いた。
「医者は、一週間くらい安静にしていれば、どうってことはない、と言ってますね」
私は|肯《うなず》いた。――もちろん、顔には出さなかったけれど、この手の「ぐうたら息子」は大嫌いである。
恋人が入院中というのに、のんびりとテニスクラブへ遊びに来ているのだ。
しかも、テニスをするのでなく、女の子たちを眺めているだけというから、救われない!
ティールームにも、テニスルックの女の子たちが大勢出入りしている。
平日の午後だというのに、この子たちは何をしてるんだろう? 大学の助教授としては、にらみつけてやりたい気分である。
「やあー 今度、ドライブでも、どう?」
大崎が呼びかけたのは、もちろん私に、ではない。顔見知りらしい、女の子に手を振って、声をかけているのだ。|呆《あき》れたものである。
「まだ、ムスタングに乗ってるの?」
「もうすぐポルシェにするからさ」
「そしたら乗せてね」
と、女の子が笑顔で手を振る。
「――彼女のそばについてなくていいの?」
と、私が言うと、大崎は肩をすくめて、
「僕は医者じゃありませんからね。べったりくっついてても、|却《かえ》って迷惑でしょう」
と言った。
まあ、間違いではないかもしれないが、それにしたって……。
「それで、あなたは浩子とどういう関係なんですか?」
と、大崎が|訊《き》いて来る。
「私? 私はね、探偵社の者なの」
「探偵?」
と、大崎が目を丸くする。
「そう。浩子さんが命を|狙《ねら》われているっていう情報があったので、調べてるのよ」
大崎は目をパチクリしている。
「浩子を狙う奴なんて――いませんよ!」
「どうして分るの?」
「だって――」
と、大崎はぐっと詰って、「浩子はおとなしくて、性格のいい子なんだから」
「そう。でも、どんないい人間でも、必ず敵はいるものよ」
と、私は言った。「お邪魔したわね」
相手が考える間も与えずに、パッと退散する。
この方が、こういう相手には却って効果的である。
大崎のような男は、後から気を回して、ああじゃないか、こうかもしれない、と悩むタイプなのだ。
もし、大崎があの|呪《のろ》いの人形の件と、何か関係があったのなら、きっと何か動き出すはずだ、と私は思った。
――テニスクラブを出て、車の方へ戻っていくと、ちょうど哲平のやって来るのが見えた。
「どうだった?」
と、哲平が訊く。
「まあまあね。――そっちは?」
「こっちも同様」
と、哲平は言って、「腹減っちゃったんだけど」
「情ない声、出さないでよ。お昼ぐらいはおごるわよ」
私は車に乗りながら、言った。
「昼は食べたんだけどね」
哲平は、おずおずと言った。
私は、笑い出してしまった。
――実際、近くのレストランに入ると、哲平は、これで昼を食べた後なのかとびっくりするほど、良く食べた。
「――話の方も忘れないでね」
と、私は言った。
「もちろん! でも――コーヒーを一杯もらっていいだろ?」
「好きにしなさい。それで彼女とはうまく会えたの?」
「もちろん!」
哲平は得意げに言った。「言われた通り、ともかくストレートにぶつかったんだ」
「やめた方がいいよ」
と、哲平が声をかけると、彼女は、ちょっと間を置いてから顔を上げ、
「私のこと?」
と言った。
高級ホテルのティールームで、かなり値段も高く、場所も三十階という高さだった。
「そう」
哲平は、辻木秀美の向いの|椅《い》|子《す》に座った。
「絶対にやめた方がいい」
「あの……」
秀美が当惑顔で、「何を[#「何を」に傍点]やめるの?」
「君、死のうと思ってたんだろ?」
「私が?」
「やめた方がいいよ。その若さでもったいない!」
秀美は、しばしポカンとして、哲平を見ていたが、
「私、そんなこと考えてたんじゃありませんわ」
と、不機嫌な声を出した。「ずいぶん失礼な人ね」
「え? 違った?」
哲平は、少々オーバーに、びっくりして見せた。
「まるで見当違いよ」
「そうか。――いや、ごめん!」
哲平は、いとも素直に謝った。「しかし変だなあ。君の状態は、自殺志願者にピッタリだったんだけど」
「自殺志願者?――あなた、どういう人なの?」
「僕は佐々木哲平」
「名前なんか|訊《き》いてないわ」
「じゃ、住所と電話番号?」
秀美は、笑い出してしまっていた。
「――面白い人ね」
「いや、ごめん。実は大学の心理学研究室にいてね。自殺しそうな人間とか、色々見分ける訓練をしてたんだ」
「それで私が、ピッタリだったわけ?」
秀美は愉快そうに言った。
「うん。しかし、そういつも同じ条件とは限らないみたいだな」
哲平はそう言って、立ち上った。「じゃ、どうも失礼」
歩きかけた哲平を、
「ね、ちょっと待って」
と、秀美が呼び止めた。
「僕に用?」
「座ってよ」
と、秀美は言った。「――私、辻木秀美」
「僕は――さっき言ったっけ」
「何か飲まない? ここ、私は支払いしなくていいの」
「へえ。タダなの?」
「父の名前で、つけておけるの。何か飲んだら?」
「でも――どうして僕におごってくれるんだい?」
「鑑定料よ」
と、秀美は|微笑《ほほえ》んだ。
「外れても?」
「そう。――それに、確かに、私、『死』を考えてたわ。ただし――」
秀美は窓の外へ目を向けた。「他の人の死をね」
「誰か亡くなったの?」
「まだ[#「まだ」に傍点]よ」
と、秀美は言った。「でも、私は死を願ってるの、その人の」
哲平は、少し間を置いて、
「憎い相手なのかい?」
と訊いた。
「親友よ」
と、秀美は言って、ちょっと肩をすくめた。
「いやになるわ、自分が」
「人間、そんなこともあるんじゃない?」
哲平の言葉に、秀美は、目を伏せた。
「そうかしら。――本当にそう思う?」
「うん。そういうことは、自分の意志と関係ないからね」
秀美は、ゆっくりと息をついた。
「あのねえ、私、ある人を好きなのよ」
「じゃ、告白したわけ?」
と、私は言った。「大したもんじゃないの!」
「でしょ? 僕の腕もそう捨てたもんじゃないや」
「すぐ調子に乗る」
と、私は笑って、「――で、彼女は、ワラ人形のことも話したの?」
「いや、そこまでは|訊《き》かなかった」
「そう。まあいいわ。第一段階としては上出来よ」
と、私は言った。「果して、ワラ人形を贈ったのは誰かってことね、問題は」
「でも、どういうつもりなんだろうね? そんなもんで人は殺せやしないのに」
「人は殺せなくても、友情は殺せるわよ」
「でも、彼女と坂本浩子の仲を裂いて、誰が得する?」
「動機は損得とは限らないわ」
私は首を振って、「一文の得にもならなくたって、悪意だけで、人を殺す人間だっているわよ」
「そんなもんかなあ」
と、哲平は首をひねって、「僕なら、得にもならないのに、そんなことしないけどね」
「あなたならね」
と、私は笑った。
こういう現実的な人間には、人殺しはできない。特に、哲平は、何といっても、気が弱いのだから!
「で、次はどうしよう?」
と、哲平が言い出した。
「彼女にもっと接近できない? そのワラ人形とかカナヅチとかを、じかに見て来てほしいのよ」
「ああ、そうだ」
哲平は、コツン、と自分の頭を|叩《たた》いて、「忘れてたよ。彼女の家に招待されてるんだった」
「どうしてそれをもっと早く言わないのよ!」
私は、哲平をにらんでやった。
病室へ入ると、ベッドで、ちょっと弱々しい様子の娘が、顔を向けた。
「失礼。――坂本浩子さんね」
と、私は言った。
「ええ。――あ、昇さんが言ってた、探偵さんですか?」
「まあ、よく分ったわね」
大崎は早速しゃべったらしい。
しかし、大崎が私のことを浩子に教えたというのは、少なくとも、浩子に対しては、妙な下心を持っていない、ということかもしれない。
「お話を聞いて、びっくりしました」
と、浩子は言った。「私を殺そうとしてる人がいるなんて……。とっても考えられませんけど」
「そう?」
「一体誰が、調査をお願いしたんですか?」
「それは職務上の秘密というやつでして」
私は、ちょっとウインクして見せた。
浩子は|微笑《ほほえ》んで、
「ともかく、もう私、大したことありませんから」
と言った。「ご心配なく。明日には退院していいと言われてるんです」
「お医者様から聞いたんだけど――」
と、私は、|椅《い》|子《す》に腰をおろしながら、「この発作は、薬のせいでも起きるんですってね?」
「ええ。――でも、そんなもの私に飲ませる人なんて――」
「たいてい、殺される人は、みんな、殺されるとは思ってないわ」
と、私は言った。
浩子は、困ったような顔で、
「本当に、私を[#「私を」に傍点]殺そうとしてるっていうんですか?」
「もし、そうだったら?」
と、私は|訊《き》いた。
浩子は、少し黙っていたが、やがて天井に目を向けて、深々と息をついた。
「私、あの人に殺されるなら、本望です」
私は、ちょっと面食らった。
「そんなにあの人のことを……」
「ええ」
浩子は、しっかりと肯いて、「私、彼[#「彼」に傍点]に殺されるのなら、幸せですわ」
と言った。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
私は、あわてて、「彼[#「彼」に傍点]に、と言ったの?」
「ええ」
「つまり――大崎さんのこと?」
「そうです、もちろん」
浩子は、当り前という様子で肯いて、「昇さんのことじゃないんですか?」
これには、こっちがびっくりする番である。
「でも、あなた……。大崎さんを愛してるんでしょ?」
「はい」
「なぜ、彼があなたを殺すの?」
浩子は、いともあっさりと、
「昇さん、本当は別の人を愛してるからですわ」
と言ったのだった。
「――全然話が違って来るじゃないか!」
と、哲平は言った。
「分ってるわよ」
私は車の運転を哲平に任せて、助手席で考え込んでいた。「いくら私だって、全然話にも出て来ない人間のことまで分らないわ」
「いやだなあ」
「――何が? 私がいやになった? 分ったわ。辻木秀美に会って、やっぱり若い子はいいと思ったんでしょ。どうせ私はもう年寄ですからね」
「勝手に決めるなよ!」
哲平があわてて言った。「僕が愛してるのは、先生だけなんだから!」
「それはいいけど、ちゃんと前を見て運転してくれる? 心中ならともかく、事故死なんて馬鹿らしいもの」
哲平はオンボロ車のハンドルを握り直した。――私も運転はできるのだが、こういうときは哲平に任せてある。
それに哲平にしてみると、先生である私を、助手[#「助手」に傍点]席に座らせているというのが(子供じみているけれども)、一種の快感らしいのだ。――男なんて|可愛《かわい》いものである。
「で、これからその女の所へ行こうってわけだね?」
と、哲平が訊く。
「そう。――あ、その信号、右だと思うわ」
「右折できないよ」
「いいから曲りなさい。道はあるんだから」
「また無茶を言って!」
ブツブツ言いながら、哲平は私の言う通りにする。大丈夫。こういう点、私はツイてるのである。
「どんな女なの?」
「名前は竹上信子。大学生じゃなくて、要するに、遊んでる女の子らしいわ」
「大崎って|奴《やつ》も好きだなあ」
と、哲平が|呆《あき》れた様子。
「|真《ま》|似《ね》したいんじゃないの?」
と、からかうと、またすぐむきになって、
「僕はそんな男じゃない!」
と大声を出す。
「ほらほら、行き過ぎちゃう! その左側よ。――このマンションだわ」
「へえ、高いなあ」
哲平は車を停めながら言った。
背も高いが、なかなか値段も高そうなマンションである。何しろ都心の一等地にあるのだ。
哲平のボロ車は、何となく似つかわしくない雰囲気だった。
「――何階だろう?」
「部屋まで聞かなかったわ。郵便受を見てよ」
と、私は言った。
一応高級の部類に入るマンションなのだろうが、あまり管理は良くないのかもしれない、と思った。ちょうど郵便受の真上の蛍光灯が、消えてしまっているのだ。
「暗いなあ」
哲平がブツブツ言いながら、郵便受の名前を見て行く。「竹上……竹上……と」
背後を、誰かが足早に通り過ぎて行く足音がして、私は振り向いた。
しかし、よほど急いで通り過ぎたらしい。私の目には、玄関の扉から消える、女のコートらしいものが、チラッと見えただけだった。
「あった! 三階だよ。三〇五」
「上ってみましょ」
私は、エレベーターの方へと歩いて行った。三階でエレベーターを降りると、三〇五号室を探して、廊下を歩いて行く。
「ここだ。――鳴らしてみる?」
「そうね」
と、私は|肯《うなず》いた。
何だか、私は落ちつかなかった。――なぜだろう?
いやな予感があった。もちろん、人間には予知能力があるわけではないが、何か、自分でも意識しない内に気付いていたことから、ある推理をすることはある。
それが、あたかも予知能力のように思えるだけなのだ。しかし、今、私の胸をよぎっているのは何だろう? どこから来たのか……?
表札は〈竹上〉とある。しかし、哲平がチャイムを鳴らしても、一向に返事はなかった。
「留守かな」
私は手を伸して、ドアのノブをつかんだ。
「おい、そんなこと――」
哲平が言いかけたときには、もうドアを開けていた。
「――鍵もかかってないわ」
「そうだな。中も真暗だよ」
「でも、おかしいじゃないの。中へ入ってみましょ」
「よそうよ。鍵、かけ忘れただけかもしれないじゃないか」
「そんなことないわよ」
「どうして分るの?」
「私は先生、あんたは助手!」
これが私の切り札で、哲平は、渋々、
「分ったよ」
と肯く。
中へ入るのは哲平が先。――ここは男が危険を引き受けるべき、という私の結論に従っている。
明りを|点《つ》けると、何だか、あまり趣味のいいとは言えない部屋である。造りは2LDKくらいか……。
「よく片付けない人なのね」
と、私は言った。
住んでいる人間のだらしない性格をうかがわせる、乱雑な部屋だった。
「誰かいますか!」
と、哲平が声を上げる。「――いませんか?」
「そっちを捜して。私、こっちの方を見るから」
「いやだな。死体でもヒョイと出て来たらどうするのさ」
「そう簡単に出て来るもんですか」
私は笑いながら、リビングルームから、廊下へ出るドアを開けた。
そこに、彼女[#「彼女」に傍点]はいた。
どうして立っていられたのか、私にもよく分らなかったのだが……。ともかく、彼女はそこに立っていたのである。
そして、私がドアを開けた、そのちょっとしたショックのせいか、ゆっくりと前のめりに倒れて、床に突っ伏した。
胸に突き立っていた、長い、太い釘[#「釘」に傍点]が、体の重みで、ぐっと深く刺さったらしい。背中に、その端が突き出た。
「――誰もいないよ」
と、哲平がやって来る。「そっちは、どう?」
説明するより、私は有効な方法を取った。黙って、わきへ身をよけたのである。
哲平はポカンとして、その死体を眺めていたが……。やがて、私の顔を見て、
「この人、どうしたんだろう?」
と言った。
「――お待ちしてました」
何とも豪華な部屋の玄関のドアを開けてくれたのは、良江だった。
「秀美さんは?」
と、私は|訊《き》いた。
「今、お出かけになっています」
と、良江は私と哲平を中へ入れて、「もうお戻りになると思いますけど」
「そう」
――何とも|凄《すご》い屋敷である。
もちろん、外国映画に出て来る大金持の家というと、こんなものではないが、これはこれで、大変な財産だろう。
「どうぞ」
案内されたリビングルームは、広々として、ため息が出るほどだった。
「――広いなあ」
哲平は、ただ|呆《ぼう》|然《ぜん》としているばかりだった。
「ね、庭を見せてもらっていい?」
と、私は良江に言った。
「どうぞ、その戸からお出になれます」
――そろそろ|黄《たそ》|昏《がれ》の気配が忍び寄って来ている。
私は、ガラス戸を開けて、芝生の方へ出てみた。
「もう暗いじゃないか」
と、哲平がついて来て、言った。
「でも、まだ充分見えるわ」
「――何が?」
私は答えず、芝生をぶらぶらと歩いて行った。芝生だけでもかなりの広さがあるが、その向うは、木立ちと、その間に、曲りくねった|小《こ》|径《みち》が続いているようだ。
「――広いなあ、この庭も」
と、哲平は、ひたすら感心している。
「もう少し、他のことが言えないの?」
と、私が苦笑すると、
「僕は自分に素直なんだ」
と、哲平は一人前に言い返した。「――そんなに奥まで入っていいのかい?」
「〈立入禁止〉の札もないじゃない」
私は小径の中へ入って行った。
木立ちの間は、もうかなり薄暗い。
「何だか気味が悪いなあ」
と、哲平が言った。
「怖いの?」
「まさか。――お化けが出るとでも言うのかい?」
「そうかもしれないわよ」
「人をからかって!」
私は、足を止めた。
じっと、周囲の木々を眺めてみる。この暗さに、目が慣れてくれば……。
そう、どこか、この辺ではないかと思えるのだ。
「何を捜してるんだい?」
「決ってるじゃないの」
私は、ふと、一本の木に目を止めた。「――あれらしいわ」
木々の間を分けて行くと、一段と太く、古い年輪を重ねたらしい木がある。
「その木がどうしたの?」
私は黙って、その木の回りをぐるっと回った。――やっぱりだ。
「こっちへ来てごらんなさい」
と、私は言った。
「何かあるの?」
哲平は、私のそばへ来て、「やあ! これは――」
予想通りのもの、といおうか。
木の幹には、ワラ人形が、太い五寸|釘《くぎ》で、深々と打ちつけてあったのである。
その人形には、薄いピンクのスカーフらしいものがからめてあった。
「このスカーフ、何だろう?」
「相手のものじゃないの。つまり、当然のことながら――」
「坂本浩子の? それとも、竹上信子のかな?」
「竹上信子でしょうね。この柄は、あの部屋にあった服なんかと似てるわ」
私は、そのスカーフを、指で持ち上げてみた。「このままにしておきましょ。警察の妨害をしたくないものね」
「だけど……」
哲平は不服そうだった。
大体、あのマンションに入り込んだことも、後でわかってうるさいことになると困るので、一一〇番はしたものの、こっちはその前に退散していたのである。
まあ、この一件が、全部落着したら、哲平の友人が、警視庁の捜査一課にいるから、そっと話をしておけばいい。
「じゃ、戻りましょうか」
と、私は哲平を促した。
芝生を歩いて行くと、もうさっきより一段と、暗さが濃密になっていた。
「――あ、いらしたんですか」
良江が、ガラス戸の所へ、顔を出す。何だかあわてている様子だ。
「どうしたの?」
「実は、今、お電話があって――大崎さんから」
「大崎? どうしたんですって?」
「ええ。坂本浩子さんの病室へ見舞いに行って話していたら、つい一時間くらい前に、お嬢様がみえていたと浩子さんが――」
「秀美さんが? 何の用だったのかしら?」
「それを、私も気になって……。もちろん、ただのお見舞いかもしれないとは思ったんですけど……」
「|訊《き》いてみなかったの?」
「大崎さんの話では――」
と、良江がためらった。
私が代りに言った。
「秀美さん、また浩子さんと、何かを交換して行ったのね?」
良江は、黙って|肯《うなず》いた。
「参ったな」
と、哲平が首を振った。「あんなに悩んでいるようだったのに!」
「で、今度は何を?」
と、私は訊いた。
「はい。――指輪だそうです」
「指輪?」
「お嬢様のは、本物のサファイアの入った、何百万円もするものなんです」
「何百万!」
哲平は、金額の方にショックを受けたらしかった。
「でも、浩子さんの指輪は、本物の宝石も使ってない、せいぜい五、六万円のものだそうで――」
「それを、また無理に交換したのね?」
「そうらしいです」
「浩子さん、困ったでしょうね」
「お嬢様に返すように、と大崎さんが預かられたらしいんですけど、お嬢様、絶対に受け取らないだろうし、どうしよう、って、電話で……」
「そうなの」
私は肯いた。
そのとき、遠くで車の音がした。
「お嬢様ですわ、きっと」
良江が急いで駆け出して行く。
「――どうする?」
と、哲平が言った。「それこそ、このまま行くと、彼女、精神病院ででも診てもらわないといけないんじゃないか?」
「それはどうかしらね」
私は、腕組みをした。「でも、いくら人を|呪《のろ》って、ワラ人形へ釘を打ちつけたって、それは犯罪じゃないのよ」
「それはそうだけど――」
「たとえ、浩子さんのネックレスをかけてワラ人形に釘を打ち込み、そのとき、浩子さんが死んだとしても、これに殺人罪は適用できないわ」
「そりゃ分ってるよ」
と、哲平は言った。
そのとき、リビングルームへ入って来たのは――秀美ではなかった。
「何だ、哲平か」
と、声がした。
「お前……」
哲平は目をパチクリさせて、「何の用だ?」
「こっちが訊きたいよ」
と、哲平の幼なじみで、捜査一課に所属する刑事、松永がニヤリと笑った。
「こんな所で会うとは思わなかった」
「同感だな。――どうも、先生」
「こんにちは」
私も、何度か、この|爽《さわ》やかな好青年の刑事さんには会っている。
「この件に、係り合っているんですか?」
「純粋に、学問的興味からね」
「それが怪しいんだな、お二人の場合は」
と、松永刑事は笑った。
「お嬢様は、外出しておられて――」
と、良江が言いかけると、また、玄関の方で音がした。
良江が出て行くまでもなく、辻木秀美が、姿を見せた。
「あなたなの!」
と、哲平を見て、|嬉《うれ》しそうに言った。「よく来てくれたわね」
「やあ。――僕の先生だよ」
「宮島令子よ」
と、私は、秀美の手を握った。「でも、こちらの男性とは握手しない方がいいわ。手錠をかけられるかもしれないわよ」
秀美は、松永の方を見て、
「刑事さん?」
と言った。
「ちょっとうかがいたいことがありましてね」
と、松永は言った。
「何でしょう?」
「その前に――」
私は遮って、「ワラ人形の|呪《のろ》いについて、解決した方がいいんじゃない?」
松永は顔をしかめて、
「ワラ人形? 何です、それは?」
と言った。
秀美は青ざめた顔で、私を見た。
「――ご覧になったのね」
「ええ」
「あの人、死んだの?」
「そうですよ」
秀美は、息をついた。――そして、ソファにぐったりと身を沈めた。
「竹上信子という女性を――」
と、松永が言い出すと、秀美は、すぐにそれを遮って、
「知っています」
と答えた。「私が、殺したんです」
「はあ……」
松永の方は拍子抜けの格好である。
「待って」
と、私は言った。「松永さん。あなた、なぜ、ここへやってきたの?」
「これを見付けたんですよ」
と、松永が、ポケットから封筒を取り出した。
そして、テーブルの上に、封筒からスルリと落としたのは――ネックレスだった。
「これは、誰のものか分りますか?」
と、松永が秀美に|訊《き》く。
「もともとは、浩子のものです」
「坂本浩子さんの?」
「そうです。でも、私のネックレスと交換しました」
「じゃ、あなたのものだったわけだ」
「そうです」
「これが、どうして竹上信子の死体のそばにあったのか――」
「言った通りです」
と、秀美は言った。「私が殺したからですわ」
「待って」
私は、もう一度割って入った。「秀美さん、あなた、竹上信子って人を知ってたの?」
「もちろん」
と、秀美は|肯《うなず》いた。「もっとも、知ったのは最近だけど」
「で、どうやって彼女を殺したの?」
「決ってるわ。ワラ人形に、彼女のスカーフをからませて、五寸|釘《くぎ》を打ち込んだの」
松永が|唖《あ》|然《ぜん》として、私の方を見た。
「お嬢様!」
良江がたまりかねたように、「そんなの迷信です!」
「良江さん――」
秀美は、立ち上ると、良江の方へ歩いて行った。「長いこと、ありがとう」
「お嬢様……」
「私はあなたがいなかったら、とてもやって来れなかったわ」
秀美は、良江の肩に手をかけた。
「そんなこと――」
「私の持ってる宝石類はあなたにあげる。ちゃんと遺言状で、そうしてあるから!」
――突然のことだった。
秀美は、良江をわきへ押しのけると、いきなり駆け出して、リビングルームを出て行ってしまったのだ。
誰もが、一瞬、動けなかった。
「追いかけるのよ!」
と、私は言った。
哲平と松永が同時に駆け出していた。もちろん私も――。
玄関から外へ出ると、秀美が車を運転して走り去るところだった。
「畜生!」
松永が、自分の車へ飛び込む。
哲平も――車に乗り込んだが、なかなかエンジンがかからない。やっとこ走り出したときは、先行した二台のライトは、ずっと遠くへいっていた。
私は――一人、残った。
そして、家の中へ戻って行った。
足音を忍ばせて、リビングルームの方へと歩いていく。
「――そう。今、出て行ったわ」
と、話し声。
電話をしているらしい。その声は、良江のものだった。
「ええ、大丈夫。――ちゃんと教えてもらった通りにしたわ。――間違えてないわよ」
そっと|覗《のぞ》き込むと、良江は、楽しげな顔でしゃべっていた。
「じゃ、誰か戻って来ると困るから。――ええ、愛してるわ」
良江は電話を切ると、軽く口笛を吹きながら、私の方を向いた。――口笛は途切れた。「聞いたわよ」
と、私が言った。
良江が青ざめる。
「誕生日のプレゼントに、あのワラ人形のセットを紛れ込ませたのは、うまかったわね」
「――何のお話ですか」
「でも、考えてみれば、一番上にのせられたのは、最後に帰った客でしょ。むしろ、誰がやったか知られたくなかったら、中の方へ、押し込んでおくはずだわ」
「何のことか……」
「あれを置いたのは、あなただった、ってこと」
「私が?」
「さっき、秀美さんが言ったじゃない。宝石類をあなたに|遺《のこ》すって。あなたは、それを何かの機会に知ったのね」
「とんでもありません」
「あなたは大崎に近づいた。彼の方も、坂本浩子さんや秀美さんや――ともかく気の疲れるお嬢様たちとの付合いにうんざりしていたから、すぐに、あなたの誘いに乗った……」
「私なんか、男の人には魅力がありませんわ」
「分らないわよ。今の電話は、大崎でしょ?」
良江は、ちょっと詰った。
「それに、現代っ子に見える秀美さんが、意外に、|呪《のろ》いとか、迷信にとりつかれやすい性格だってことも、あなたでなきゃ、分らなかったでしょうね」
「私がどうしてそんなことを――」
「お金」
と、私は言った。「あなたが馬鹿らしくなる気持も、分らないではないけどね」
私は、広々としたリビングルームを見渡した。
「あなたは、秀美さんが大崎に恋していて、悩んでいるのを知っていた。そして、あの呪いの話を吹き込めば……。秀美さんは、やってみようかと思った。ネックレスを交換して、それをワラ人形にかけて、|釘《くぎ》を打ち込んだ。――その晩、浩子さんは発作を起こした。もちろん、大崎が薬を|服《の》ませたのよ」
良江はもう、何も言わなかった。
「それを知って秀美さんは、呪いを信じ込んでしまった。でも――今度は良心が痛んで、それ以上呪いをかけるのをやめようかと思ったのね。それであなたは困って、大崎のもう一人の恋人――竹上信子のことを秀美さんが知るように仕向けた」
良江は、庭の方へ目をやった。
「|嫉《しっ》|妬《と》をかき立てられて、秀美さんはまた呪いをためしてみる気になった。竹上信子のスカーフを盗んで――あなたがやったのかもしれないわね。もちろん、本人のものでなくとも、それを秀美さんが本物と信じればいいわけだから」
と、私は言った。「そしてあなたは竹上信子を殺した。その後に、ネックレスを落として来て、秀美さんが、本当に自分の呪いで彼女が死んだと思い込ませようとした」
「そんな馬鹿げた話、誰が信じるもんですか!」
と、良江が激しい口調で言った。
「そうかしら? でも、あなた方はやり過ぎたんじゃない?」
「――何のことですか」
「秀美さんが車で逃げる。――死ぬつもりでね。でも、車には、スピードが上ると、故障を起すように細工をした。違う?」
良江の顔がこわばった。
「でもね、その気で調べれば、そういう細工はすぐにばれるものよ」
と、私は言った。「自然に任せておけばいいのに、つい、やりすぎるのよね」
良江は、急に体の力が抜けたように、床に座り込んでしまった。
「――こんな所で――少しも|年《と》|齢《し》だって違わないのに、どうしてお嬢様と私が、こんなに違うんだ、って……そう考え出したら、もう……」
と、切れ切れに|呟《つぶや》く。
「気の毒にね。――気持は分るわ」
と、私は言った。「私の所へなぜ話を持って来たの? このワラ人形の話を、後で警察に信じてもらえるように、私を利用したかったのね」
良江は黙ってうなだれた。私は首を振って、
「専門家を馬鹿にしちゃいけないわ」
と言った。
「――やあ!」
哲平が入って来た。「助かったよ! 彼女の車が横転したけど、奇跡的にけが一つなかったんだ! いや、良かった!」
――それから、私と良江を見て、
「どうしたの? 何か――悪いものでも食べたのかい?」
と言った。
受取人、不在につき―
「ともかく、だめなものはだめなんだ!」
耳慣れた声が、マンションのロビーに入ったとたんに響いて来た。
川北綾子は、あら、また管理人のおじさん、やってるわ、と思わず笑みを浮かべた。
何しろ頑固を絵に描いたような老人で、元は何をしていたのか、誰も聞いたことはないのだが、警官だったんだろう、とか、教師だったんだ、とか、想像するにも、固い職業ばかりを連想させるのだった。
「でも、|俺《おれ》だって困っちゃうんですよ」
と、ふくれっつらで突っ立っているのは、運送会社の人間らしい。
「お前さんが困ろうと、そいつはこっちの知ったこっちゃない!」
と、管理人の方は突っぱねる。
「置いてかないと、今日の仕事が終らねえんだもん。預っといてくれたっていいじゃないか」
「だめだ。わしはここに住み込んでるわけじゃないんだ。管理人室へ置いといて、盗まれでもしたら、こっちの責任になるんだからな」
「あんなもん、盗む|奴《やつ》、いませんよ」
「分るもんか。盗まれなくたって、傷でもつけられた日にや、こっちは下手すりゃクビだよ。お前さん、わしがクビになったら、面倒みてくれるのかい? ええ?」
ここまで言われると、相手も言いようがない。ただ、困り果てた様子で頭をかくばかりである。
川北綾子は、スーパーでの買物を、両手に下げて、歩いて行った。
「おじさん、どうしたの?」
と、声をかける。
「やあ、あんたか。――いや、こいつが何が何でも荷物を置き逃げしようとするから、文句を言っとったんだ」
管理人の口調が、少し柔らかくなった。
このマンションの中でも、綾子は古い住人に属している。
マンションそのものは、もう十年以上たって、大分、薄汚れて来ていた。八階建ての、かなりの世帯数で、比較的都心に近い立地条件のせいもあって、建った時点で、決して安い価格ではなかったにもかかわらず、すぐに完売してしまったものだ。
川北家も、初めから入居していた一戸である。しかし、十年もたつと、転勤や、子供の学校の関係、もっと高いマンションへの住みかえなどで、大分、住人も入れかわっている。
この管理人のおじさんが、朝九時から夕方五時まで、受付に座るようになって、何年たつか、綾子も正確には覚えていない。しかし、たぶん、一人っ子の洋子が、まだ小学校に入ったばかりぐらいのころだったから、七、八年たつのではないか。
洋子も今は十四歳、中学の二年生になる。
それはともかく――長い付合いだけに、一見、取っつきの悪いこの「おじさん」も、決して根は悪い人じゃないのだということを綾子はよく知っている。
「――置き逃げはひどいなあ」
と、運送会社の若者が顔をしかめる。「だって、もう二日も、ここへ通ってるのに、いつも留守なんですよ」
「わしの知ったことか」
と、「おじさん」がそっぽを向く。
「どこのお部屋?」
と、綾子が|訊《き》いた。
「五〇一です」
と、若者が言った。
「五〇一って――誰だったかしら?」
綾子が首をひねる。
このマンションにも自治会があって、古顔の綾子は役員もやるので、たいていの部屋の人は知っているのだが……。
「ほら、先月越して来た|奴《やつ》だよ」
と、おじさんが言った。
「ああ! 前に太田さんのいた所ね。新しい方――何ていったかしら?」
「水原っていうんだ。でも、わしも会ったことがない」
「まあ、おじさんも?」
「そうなんだ。一度くらい|挨《あい》|拶《さつ》に来るもんだがな、普通は」
「でも――もう二十日はたつでしょ?」
「めったにいないらしいからな。きっと、若い夫婦者だろ。近所に引越しの挨拶もしないってのは、たいていそうだ」
「決めつけちゃいけないわ」
と、綾子が言った。
「ねえ、お願いしますよ」
と、話を聞いていた若者がため息をついた。
「この荷物一つのために、こっちへ回ってたら、商売上ったりだ」
「そんなことは――」
と、おじさんが言いかけるのを、
「待って」
と、綾子が押えた。「いいわ。うちで預るから」
「助かります!」
と、若者が言った。
「うちは六〇一なの。ちょうどその水原さんの上だからね、子供もいるし、一度は挨拶しとかなきゃ。話のきっかけに、ちょうどいいわ」
「じゃ、すぐ持って来ますから!」
と、若者が表のトラックへと走って行く。
「――あんまりいじめちゃ|可哀《かわい》そうよ」
と、綾子は、おじさんに言った。
「若い奴は、少しきたえてやらんとな」
と、おじさんは澄ましている。
「だけど――全然見かけないっていうのも、変ね。まだ荷物だけで、越して来てないのかしら?」
「分らんね」
と、おじさんは首を振った。「ともかく、会社の方は売れりゃいいわけさ。住もうと住むまいと、そりゃ勝手だからな」
「それはそうだけど、人が住まないと、家って、傷みがひどいっていうじゃない? もったいない話ね。うちだったら――」
と、言いかけて、綾子は言葉を切った。
あの若者が、「箱」を、トラックから運び出して、ロビーにかつぎ込んで来るところだったのだが、それが……。
「ただいま!」
と、川北洋子は、いつもの通り、玄関へ、勢いよく飛び込んで来た。「わっ!」
と、声を上げたのは――いつもと違って、目の前に、突然、壁があったからだった。
いや――壁じゃなかった。馬鹿でかい箱が、目の前に、デン、と置いてあったのである。
「洋子? お帰り」
と、母の綾子が出て来た。
「なあに、この化け物みたいな箱?」
と、洋子が|呆《あき》れ顔で言った。「本物の馬でも注文したの?」
「まさか」
と、綾子は笑った。「預り物よ。上りなさい、ともかく」
「うん……。でも、大きいな」
大きい、といえば、セーラー服姿の洋子ももう母親よりも背は高い。体重や胴回りは綾子の方が上で――それは四十歳という年齢を考えれば当然のことだった。
「――へえ、下の部屋の?」
夕食の席で、洋子は綾子の話を聞いて、|肯《うなず》いた。
「そう。後で行ってみるわ。いるかもしれないから」
と、綾子は言った。「――もう一杯食べる?」
「うん。――お母さん、食べないの?」
「控えてるのよ」
綾子は、ご飯をよそいながら言った。
「むだな抵抗、やめたら?」
洋子は、憎まれ口をきいた。
川北家は、今のところ、この母と娘の二人暮し。父親は、単身赴任で、大阪に行って一年になる。
洋子の高校受験もあるので、一人で行くことにしたのだったが、週末にはたいてい帰って来ている。
洋子にとっては、もともと、父親が忙しくて毎日帰りが遅かったので、結局顔を合わせるのは週末だけという点、今も大して変化はなかったのだ。
「あの箱、中身、何なの?」
と、洋子が玄関の方へ目をやって、言った。
「知らないわ」
綾子は肩をすくめた。
「|生《なま》|物《もの》じゃないんでしょうね」
「それなら書いておくわよ。それに、大きいけど軽そうよ。運んで来た人も、何でこんなに軽いんだろう、って首ひねってたくらいだから」
「へえ。――いつまで預るの?」
「そりゃあ……下へ渡すまでよ。大丈夫、いくら何でも、そう何日もいないってことないでしょ」
綾子は、自分に言い聞かせるように、言った。「お母さん、ちょっと行ってみるわ」
「私も行く!」
「じゃ、早く食べてよ」
と、綾子は苦笑した。
――食事の片付けは後回しにして、二人は外へ出た。
一階下へ、階段を降りて、端の五〇一号室の前に来る。
「――真暗ね」
と、綾子が言った。「留守らしいわね」
「一応、チャイム鳴らしてみたら?」
「そうね」
綾子がチャイムを押す。――しばらく待って、もう一度押してみたが、返事はなかった。
「仕方ないわ。明日、また来てみましょ」
綾子が先に立って、廊下を戻って行く。洋子は、その後を歩き出したが――。
「待って」
と足を止め、振り返る。
「どうしたの?」
「今――音がしたみたい。部屋の中で」
「そう?」
綾子も戻って来て、しばらく聞き耳を立てていたが、何の音もしない。
「――気のせいよ。それとも他の部屋からだったか……」
「そうかなあ」
ともかく、二人は階段の方へと歩いて行ったのだった……。
「――おはよう」
と、洋子は|欠伸《あくび》をしながら言った。
「早くしないと、遅刻よ」
「はあい。コーヒーちょうだい」
洋子も、大人並みに、朝食はコーヒーとパンになっている。もう、セーラー服も着込んで、いつでも出るばかりのスタイル。
「ハム・エッグは?」
「いらない。トーストだけでいいわ」
洋子は、朝刊を広げた。専ら、見るのはTV欄だけれど。
「あ、そうだ、洋子。ちゃんと寝るときには、チェーンをかけといてよ」
と、トーストを出しながら、綾子が言った。
「かけてるよ」
「ゆうべ、かけてなかったわよ」
「ウソ! ちゃんと寝る前に見たけどな」
「今朝、新聞取りに行ったら、かかってなかったわよ」
「そう?――変だなあ」
洋子は、いささか不満げに|呟《つぶや》いた。
「いいから。早く食べなさい」
綾子がせかした。「あら――誰かしら?」
玄関のチャイムが鳴ったのだ。
「敏子かな。一緒に行こうって言ってたの」
「出てみるわ。早く食べて」
「はいはい」
――綾子は、玄関のドアを開けた。
「あら、三橋さん」
綾子は、意外そうに言った。洋子のいった敏子でなく、その母親の方が立っていたからである。
「どうなさったの?」
と、綾子が|訊《き》いたのは、敏子の母親が、目を血走らせ、ただごとでない様子だったからである。
「あの――朝からごめんなさい。洋子ちゃん、いらっしゃる?」
「ええ、今、朝ご飯で。――洋子!」
洋子が、呼ばれるまでもなく、出て来る。
「おばさん、おはようございます。――敏子、具合でも悪いんですか?」
「いいえ、それが――」
と、敏子の母親は、青ざめた顔で、「ゆうべ、どこかへ行っちゃったの」
綾子と洋子は顔を見合わせた。
「どこかへ――って。家出か何か?」
と、綾子は訊いた。
洋子と敏子は、小学校、中学と同じで、母親同士も、割合に親しく付き合っている。
「分らないの」
と、母親は首を振って、「ともかく、朝起きてみたら、ベッドにいなくて……。別に、書き置きもないし、調べてみたけど、ボストンバッグ一つ、なくなってないの」
「変な話ねえ」
と、綾子も|眉《まゆ》を寄せる。「洋子、あなた、何か心当りは?」
「全然! だって、今朝一緒に行こうって言ってたのに!」
「そう」
と、敏子の母親は|肯《うなず》いて、「何かご存知かと思って……。じゃ、他を当ってみるわ」
とそそくさと帰って行った。
「――心配ねえ」
と、綾子は言った。
「|駈《かけ》|落《お》ちするには、ちょっと若いしね」
洋子が、真面目な顔で言った……。
「ともかく、あなたは早く出かけなさい。遅刻するわよ」
「うん」
洋子は、|鞄《かばん》を手に、家を出た。
――一階までエレベーターで降りると、表のバス停へと急ぐ。
バスが混んで乗れないこともあるので、少し余裕を取って家を出ている。
今日は、幸い、すぐに乗れた。まだまだ後から混んで来るのが分っているので、奥の方へ進んで行く。
バスが動き出す。――|吊《つ》り革につかまった洋子は、ふと、マンションの上の方へ目を向けた。バスが走り出して、マンションが背後に遠くなると、あの、五〇一の部屋の窓が見える。
その窓は、カーテンが開けてあった。
誰かいるのかしら? 洋子はじっと目をこらしたが、マンションは、すぐに視界から消えてしまった。
「結局、敏子ちゃん、行方不明のままなのよ、まだ」
綾子の話に、川北は、
「ふーん」
と肯いた。「そりゃ心配だな」
当り前のことではあるが、そうとでも言うしかない。
土曜日の夜。――父親が帰宅しているのだった。
「誘拐じゃないのか」
夕食をとりながら、川北は言った。
「一応、警察へ届けたから、その線でも調べてるみたい。でも、脅迫もないっていうし……」
「だって、変よ」
と、洋子が言った。「誘拐するのに、わざわざ夜中に家から連れ出す? しかも、敏子、パジャマのままいなくなってるっていうんだから」
「妙な話だな」
「自分で出てったとしても、服ぐらい替えそうでしょ?」
「もう――三日たつのか」
「そう。ご両親、気の毒で、見ていられないわ」
綾子は、ため息をついた。
「当然だろうな。――洋子、お前も気を付けろよ」
「分ってるわ」
珍しく、洋子も素直に肯いた。
「ところで――あの箱、どうするんだ?」
と、川北が言い出した。
「困ってるのよ、私だって」
と、綾子は顔をしかめた。「まさか、こんなに長いこと、部屋にいないなんて……」
「送り主へ返しちゃどうだ?」
「|一《いっ》|旦《たん》預ったんだもの……。それに、週末だから、帰って来るんじゃないかと思って」
「そうだといいな。何だか、家の中が狭くなったみたいな気がする」
「我慢してよ。お互い様なんだから」
「お母さん、後で行ってみようよ」
「そうね。もういい加減……」
――しかし、二人で五〇一号室のチャイムを、いくら鳴らしても、誰も出ては来なかった。
「しょうがないわねえ」
と、綾子はお手上げという顔で、「あんなもの、預るんじゃなかった」
「仕方ないわよ。今さら」
洋子はそう言って、「――あれ、何かしら?」
と、足を止めた。
誰やら、怒鳴っている。声が響いて、よく聞き取れないが、どうやら、あの管理人のおじさんの声も混じっているようだ。
「上の方ね。行ってみようよ」
洋子は好奇心旺盛な年齢である。
「もの好きね」
とは言ったが、綾子だって、興味がないわけではない。
八階だった。エレベーターホールの前で、おじさんが、八階の住人の一人と、大|喧《げん》|嘩《か》の最中だった。
「あんた、管理人だろう! 知らんで済むのか!」
八階に住んでいる旅行作家か何かである。
「知らんものは知りませんよ」
と、おじさんは相変らずだった。
「これじゃ、安心して取材にも出られんじゃないか!」
何があったのか、作家の方はえらく腹を立てている。
いささかお節介なところのある綾子は、
「おじさん、どうしたの?」
と声をかけた。
「やあ、川北さん」
と、作家の方が綾子の顔を見て、先に口を開いた。
「いや、旅行へ出て帰ってみるとね、泥棒が入ってたんだよ」
「まあ!」
「そんなのはわしのせいじゃないよ」
と、おじさんは顔をしかめた。「そりゃ、真昼間に泥棒が入口から入って来るのを見て気が付かなかったというんならわしのせいかもしれんが、夜中に入られたのまで、わしにゃ分らん」
「それにしたって――」
とまだ怒っている作家をなだめて、
「何か盗られたんですか?」
と、綾子が|訊《き》いてみた。
「それが妙でしてね……」
と、作家は、当惑した様子で、「机なんですよ」
「机?」
思わず、洋子が口を出していた。「あの――ものを書く机ですか?」
「そうなんだ。こっちにとっちゃ商売道具だからね。ないと困る」
その点は、綾子も理解できた。しかし、机といえば、いくら小さくても、ポケットへ入れて歩くというわけにはいかない。
「そんなに高い机だったんですか?」
と、洋子がぶしつけなことを訊いて、綾子を赤面させた。
「いや、そうでもない。かなり大きくて、ちょっと古いしね。――どうしてあんな物を盗んだのか分らんが、ともかく、こっちにとっちゃ、いい気分はしない」
「それはそうですね」
と、綾子は|肯《うなず》いて、「現金とか、何かそういったものは?」
「それは全然手をつけていないんだ」
綾子と洋子は顔を見合わせた。
――金銭的な損害はともかく、気味が悪いので、一応警察へ届ける、ということで、その場は落ちついた。
「――妙な話だなあ」
帰った綾子たちから話を聞いて、川北は首をひねった。
「ねえ」
と、洋子が言った。「今、思ったんだけどさ……」
「何なの?」
「あの作家の先生、奥さんと別れたんでしょ?」
「別居してるのよ。なに、急にそんなこと――」
「その奥さんがさ、机を持ってったんじゃない?」
「机なんか持ってってどうするの?」
「たきぎの代りにくべた、とかさ」
「あなたの話にゃ取り合っていられないわ」
と、綾子は苦笑した。
「洋子!」
学校からの帰り道、もうマンションの近くまで来たとき、声をかけられて、洋子は振り向いた。
「ああ、朱美。どうしたの?」
菅原朱美は、マンションの二階に、去年引越して来た。やはり中学二年生で、たまたまクラスも同じだったので、時々は行き来することもあったが、まあほどほどの付き合い。親友というほどの仲でもなかった。
「――今日のテスト、どうだった?」
と、朱美が言った。
「まあまあね。平均点すれすれってところかな」
「いいなあ。私も一度でいいから、『まあまあね』なんて言ってみたい。てんでだめなんだもの」
洋子は、笑っただけだった。
洋子の方は、至って正直で――「まあまあ」と言えば、本当にまあまあの点しか取らない。でも朱美は、こんなことを言ってはいるが、その実、洋子よりずっといい点を取っているのだ。
その辺が、何となく朱美の、敬遠したくなるところだった。
「ねえ、洋子」
と、朱美が、ちょっと言いにくそうに、「お願いがあるんだけどな」
「何なの?」
「うん……」
いやに言い|辛《づら》そうにしている。朱美にしては珍しかった。
「言ってごらんよ」
「あのね――今夜、一晩、泊めてくれない?」
「うちに?」
「うん。洋子のとこ、お父さん単身赴任でしょ? 今日はいないんでしょ?」
「週末まで帰って来ない」
「だから……。悪いんだけど、今夜だけ。――お願い」
「いいわよ。そんなに拝まなくたって――大邸宅に住んでるってわけじゃないじゃないの、お互いに」
と、洋子は笑って言った。「でも、どうしたの? 急なお客さんでもあるの?」
「そうじゃないの。あのね――私の布団、盗まれちゃったんだ」
「え?」
洋子は目を丸くした。
「うち、ベッドじゃないから、ほら、昼間ね、お母さんが屋上に持っていって、|陽《ひ》に当ててたんだって。そしたら、ちょっと目を離した|隙《すき》に、かけ布団も敷布団も――消えちゃってたんだって」
「へえ……。結構、かついでくの大変だろうけどね」
「お母さんったら、わざわざ学校へ電話して来て――どうしようか、だって。私に言われたって……」
と朱美は肩をすくめた。「そんなもの、警察に届けたって、だめだと思うよ、って言ってやった」
「それでうちに?」
「うん。今夜だけ」
「構わないわ、どうせ父さんのベッドがあるから」
「うちで、お母さんと寝てもいいんだけど……。お父さん、ずっと出張だったの。で、今日帰って来るのよね」
「へえ」
「よく出張があるから、分ってんだ」
と、朱美は|肯《うなず》いた。
「何が?」
「出張から帰った日は、必ず、お父さん、お母さんの布団を訪問[#「訪問」に傍点]するの、邪魔したくないものね、子供としては」
「そ、そうね」
年齢の割に、少々奥手な洋子は、ちょっと赤くなって、|咳《せき》|払《ばら》いしたのだった……。
「――朱美」
と、暗がりの中で、洋子が言った。
少し間があってから、
「なあに?」
と、|訊《き》き返して来る。
「起こしちゃった? ごめん」
「ううん。まだ眠れない。いつももっと夜ふかしなんだもの」
「そうなの?」
「大体、寝るの一時ぐらいよ」
洋子はびっくりした。いつも十一時には寝て、それでも寝不足である。
――結局、綾子が気をきかして、夫婦の寝室を、洋子と朱美に使わせてくれているのである。
「このところ、変なことが続くでしょ」
と、低い声で、洋子は言った。
「変なことって?」
「敏子はまだ行方不明だし、八階の作家は机を盗まれるし……。まだあるのよ。ちょっと聞きかじっただけだけど、|椅《い》|子《す》が一つなくなっちゃったとか、洗面器が持って行かれたとか……」
「へえ。――変なものばっかしね」
「もちろん、中には単純になくしただけのものもあるかもしれないわ。でも、こんなことが続くのっておかしいと思わない?」
「うん」
と言ってから、朱美は、やっと思い当った様子で、
「じゃ、うちの布団も?」
「そうじゃないかと思うのよ」
二人は、しばらく黙っていた。
「――でも、誰がそんなことを?」
と、朱美が言った。
「分らないわ。ただ――奇妙だな、と思うことが、もう一つあるの」
「何だか怖くなって来たわ」
と、朱美は言った。「明り、|点《つ》けてもいい?」
「うん。じゃ、頭のとこのを点けるわ」
手を伸ばし、手探りでスイッチを見付けると、洋子は押した。明りが点く。
「キャッ!」
朱美が、ベッドからはね起きるようにして、叫び声を上げたから、洋子もびっくりした。
「どうしたの?」
「誰か――そこに誰かいるわ!」
朱美の顔は血の気が失せて、大きく目を見開いている。指さしているのは、寝室と居間をつなぐドアの方だった。
ドアは少し開けてある。それが――確かに洋子の記憶よりは、大きく開いているように見えた。
「誰かいたの?」
と、洋子はベッドから出ながら、言った。
「分らない。明りが点くと同時にサッと白いものが――向うへ走って行ったわ」
よほど怖かったのだろう、朱美の声はまだ震えていた。
「どうしたの?」
そこへ綾子の声がして、また二人は、
「キャーッ!」
と悲鳴を上げて、ベッドの上に突っ伏してしまった。
「何なのよ、一体?」
と、綾子が|呆《あき》れている。
「お母さん! びっくりさせないでよ」
と、洋子が体中で息をつく。
「こっちがびっくりしたわよ。どうしたの?」
洋子の説明を聞いて、綾子もちょっと緊張した。
何しろ女三人しかいないのだ。もし泥棒でも入っていたら……。
「二人ともここにいなさい」
と言うと、どこから持ってきたのか、バットを両手につかんで、ドアの方へ歩いて行った。
「私、明り|点《つ》ける」
と、落ちついて来ると結構度胸のいい洋子が、母親の後について行く。
朱美も心細いのか、洋子のうしろにくっついていた。
洋子は、壁の方へ手を伸し、居間の明りを点けた。
綾子が、身構えつつ、居間へパッと飛び込む。――そこには誰もいなかった。
「いないわね。――他の部屋――といったってそんなにないわよ」
「お|風《ふ》|呂《ろ》場とかトイレ……」
「順番に見て行きましょう」
さすが、綾子は落ちついている――といっても、内心はビクビクものなのだ。
――しかし、トイレも風呂場も、誰も潜んではいなかった。
念のため、また寝室や洋子の部屋にも戻って調べてみたが、誰も隠れてはいなかった。
「――朱美さん、気のせいだったんじゃない?」
と、綾子が言うと、朱美は頭をかきながら、
「おかしいなあ……」
と首をかしげている。
「待って」
と、洋子が言った。「もう一つ調べていない所があるわ」
「どこ?」
「あの玄関の箱よ」
綾子がびっくりして、
「あれは――」
「預り物でしょ。分ってる。でも、もう何日もうちに置きっぱなしよ。それに――」
洋子は、ちょっと間を置いて、「ねえ、お母さん。敏子がいなくなったの、あの箱が来た次の日――いえ、その晩のことよ」
「そう――そうだったわね」
「それからだわ。次から次へと変なことばっかり起こるようになったのは」
「でも、洋子、まさか――」
「あの中に、机やら布団やらが入っているとは思わないわよ。でも、開けてみたっていいじゃない。何でもなきゃ、また元の通りにしとけばいいんだから」
「だけど……」
綾子は、なおもためらっている。
「お母さんが何と言っても、私、あの箱を開けてやる!」
「分ったわよ」
綾子は、あわてて言った。――洋子がこうまで言うのでは、止めてもむだと思ったのである。
「じゃ、開けてみましょう」
三人は、ゾロゾロと、玄関へ出て行った。
――箱はそこにある。
置かれたときそのままに、じっとしている。
「私がやるわ」
と、綾子が言った。
そのとき、朱美が、ふと、玄関のドアへ目をやった。
「おばさん」
「え?」
「玄関、鍵が開いてる」
三人の視線が玄関へ向く。――突然、ドアが開いた。
綾子は反射的に、二人の子供たちの前に立ちはだかった。
「――夜分失礼します」
と、その男[#「その男」に傍点]は頭を下げた。
黒いスーツに身を包んだ、五十歳ぐらいの男だった。髪は少し白くなりかけていて、ちょっと外国人っぽい口ひげをたくわえている。
「どなた――ですか」
と、綾子は、辛うじて言った。
「下の階に越して参りました、水原と申します」
男は、無表情な声で、言った。
「水原さん……」
「はい。引越しを済ませて、すぐ旅に出ていたものですから、ご|挨《あい》|拶《さつ》が遅れまして」
「はあ……」
「この箱を、ずっとお預り下さったようで、申し訳ありません」
「い、いえ――どういたしまして」
「お邪魔でしたでしょう。持ち帰りまして、お礼はまた改めて――」
「そんなこと、どうぞお気になさらずに」
「では、失礼します」
水原というその男、玄関へ入って来ると、大きな箱を、まるで、ボール紙ででもできているかのように、ヒョイと手で持ち上げ、「――夜分、失礼いたしました」
と、会釈し、出て行った。
三人は、一様に息をついた。
「夢だったんじゃないの?」
と、洋子は|呟《つぶや》いた。
本当に、そんな気がした。しかし、箱は、もうなくなっていたのだ。
「中を見せろ、って言えば良かった」
と、洋子が言った。
「言えなかったわ。お母さんには、とても」
と、綾子が首を振る。
正直なところ、洋子も朱美も同感だった。
「お母さん、鍵!」
言われるまでもなく、綾子は、急いで、玄関の鍵をかけ、チェーンをかけて、大きく息をついたのだった……。
「|俺《おれ》が? いやだよ」
と、川北は顔をしかめた。
「いいじゃないの」
と、綾子が言った。「おかしくないわよ。こちらは上の部屋なんだもの。いつもご迷惑かけて、とか言って|挨《あい》|拶《さつ》に行っても、ちっとも変じゃないわ」
「しかし……。そんな変な|奴《やつ》の所に行くのは気が進まないよ」
「変だからこそ、行って来てほしいのよ」
「そうよ」
と、洋子が加勢する。「お父さん、留守の間に、私たちにもしものことがあっても構わないの?」
十四歳といえば、口の方はすっかり一人前である。川北は、ため息をつくと、
「分ったよ」
と|肯《うなず》いた。「じゃ、ともかく行ってみよう」
|諦《あきら》めの境地、というところである。
――日曜日だ。
水原が、初めてマンションの人々の前に姿を現わして、もう三週間がたっていた。
しかし、今のところ、綾子の知っていることといえば、あの水原という男に、まだ七、八歳の女の子がいる、ということぐらいで、おそらく二人きりで生活しているのだろう、という話だった。
二人とも、まずめったに外へ出ていないし、水原が何の仕事をしているのやら、誰も知らなかった。
三橋敏子は、まだ行方不明のままで、母親のやつれようは、綾子の目にも|辛《つら》かった。その他の机だの、布団だのも、戻って来たという話は聞かない。
「きっと、あの水原って人の部屋にあるのよ」
と、洋子は断言していた。「私が忍び込んでもいいんだけど」
「やめなさいよ」
と、綾子はたしなめた。
「じゃ、お母さんは、敏子がこのまま見付からなくてもいいっていうの?」
「敏子ちゃんのことは関係ないかもしれないじゃないの」
「関係あったら?――お母さん、私がもし行方不明になってたら、あの部屋を調べるの、遠慮する?」
この洋子の言葉には、綾子も参った。かくて、その偵察役が、川北へと回って来たわけである。
――綾子、洋子に送り出されて来たものの、川北は、本来技術者で、口下手な方である。営業マンか何かなら、うまくお愛想の一つも言って、さっと上がり込むのだろうが……。
困ったなあ、と考え込みつつ、五階の廊下を歩いて行くと、
「失礼」
と、後ろから声をかけられた。
振り向いて、すぐ、川北はこれが水原だな、と思った。見るのは初めてだが、綾子の言っていた、どこか暗い「夜」のムードを漂わせた男だ。
それは、単に黒いスーツを着ているからだけとは思えなかった。
「失礼ですが――川北さんでは?」
「はあ、川北です」
「やっぱりそうでしたか。私は水原と申します。奥様には、すっかりご迷惑をかけまして――」
「いや、とんでもないです」
と、川北は、あわてて頭を下げた。
「いや、一度、お|詫《わ》びにうかがおうと思っておりましたが、なかなか時間が取れず、失礼しました。――どちらかへおいでになるのですか?」
「は? いや――あの――もう用が済んだので」
「そうですか。では、ちょっとお寄りになりませんか?」
川北は面食らった。向うから誘ってくれているのだ。
「いや――よろしいんですか?」
「構いませんとも。私も留守にすることが多いものですから。――さあ、どうぞ」
半ば、水原に背中を押しやられるような感じで、川北は五〇一号室へと向って歩いて行った……。
「――むさ苦しい所ですが、お入り下さい」
と、水原が言った。
五〇一と六〇一、造りは同じである。
しかし、こっちが大分広く見えるのは、家具などが少ないせいだろう。
「おかけ下さい。コーヒーでもいかがですか?」
「はあ。いただきます」
川北は、ソファに座りかけて、妻と娘のことを思い出した。
ここまで来て、コーヒーだけ飲んで帰ったというのでは、面目が立たない。
川北は、ちょっと|咳《せき》|払《ばら》いすると、
「ええと――申し訳ありませんが、ちょっと中を拝見させていただいて、よろしいですか? うちと同じ造りですから、どうお使いになっておられるのか、興味があって」
「まだ、ろくに片付いていませんがね」
と、水原は笑いながら、「よろしければ、どうぞご覧下さい」
「すみません。では、ちょっと……」
川北は、両手を後ろに組んで、いかにも、見物している、という風に、時々|肯《うなず》いたりしながら、部屋を見て回った。
寝室も、ベッドが一つあるだけで、あまり飾り気はない。
例の机など、まるで見当たらなかった。
上では洋子の部屋になっている部屋の前に来ると、ガラッと戸が開いて、川北はびっくりした。
七、八歳の女の子が立っている。
「やあ――こんにちは」
川北は、辛うじて笑顔を作った。
女の子は、水原によく似ていた。いや、顔つきはともかく、どこか暗い、それでいて人の目をひきつけるというところが似ていたのである。
女の子は、その黒い、大きな目で、じっと川北を見上げていた。
奇妙な視線だった。川北の胸にまで突き刺さって来るような……。
「――ユカ。どうした?」
背後で、水原の声がして、川北はまたビクリとさせられた。
「ううん、何でもない」
ユカ、と呼ばれた女の子は、首を振った。
川北は、その部屋の中を、チラッと見た。
――女の子らしい、|可愛《かわい》いベッド、他には、小さな子供用の勉強机、そしてぬいぐるみ、オモチャの類。
目につくのは、大きな家の模型というのか、外国の映画でよく見る、「人形の家」というやつらしい、と川北は思った。
ユカは、部屋へ入ると、戸を閉めてしまった。
「――母親を早く亡くしたものですから」
ソファに戻って、コーヒーを飲みながら、水原が言った。「つい、人見知りになりましてね。外へ出ないので、困ります」
「そうでしたか。大変ですね」
川北は|肯《うなず》いた。
「もう学校へ行く|年《と》|齢《し》なのですが、行きたがらないのです。――あまり無理に行かせて、病気にでもなられても困る。むずかしいところです」
水原は|微笑《ほほえ》んだ。
「――お仕事は、何をなさっておられるんですか?」
と、川北は|訊《き》いた。
「私ですか?」
水原はそう言って、愉快そうに、「あまりまともに、朝出て、夕方帰るという仕事ではないので、さぞかし不思議がられているでしょうね」
と言った。
「すると、夜のお仕事ですか」
「そうですね」
と、肯き、
「何だと思われます?」
「いや――ちょっと、見当がつきませんねえ」
と、川北は首を振った。
「私は――魔術師なんです」
と、水原が言った。
「――魔術師?」
と、綾子と洋子は、異口同音に声を上げていた。
「そうなんだ。分ってみりゃ、あの雰囲気もどうってことないじゃないか」
川北は、家へ戻って来て、いい気分であった。
「魔術師かあ」
と、洋子がくり返す。
「部屋を全部|覗《のぞ》いて来たぞ。だけど、その机らしきものも、布団もない」
「確かに?」
「ああ。机といやあ、ユカって女の子の、子供用の勉強机だけ、布団はベッドだから使わないだろうしね」
「そう」
と、綾子は肯いた。「じゃ、こっちの思い過しだったのかしら」
「そうだよ。人付き合いがあまり良くないからって、色メガネで見るのは間違いだぞ」
川北は珍しく、説教くさいセリフを吐いてみた。
洋子は、自分の部屋へ戻ると、ベッドに引っくり返った。
「――敏子」
と、|呟《つぶや》く。
どこへ行ってしまったんだろう?――敏子……。
洋子は、父の話に、完全に満足してはいなかった。大体、父はお人好しで、|騙《だま》されやすいたち[#「たち」に傍点]なのだ。
まだ目を離さないからね、と洋子は、心の中で呟いた……。
あの子だわ。
洋子は、すぐに、それが父の言っていた、ユカだと思った。
もちろん、大人と子供の違いはあるにせよ、ユカは、ある意味で、水原そっくりだったからだ。
洋子は、自転車で、マンションへ戻って来たところだった。
学校が終った後、母に頼まれて買物に行って来たのだ。そして、マンションの前の道で、一人遊んでいる女の子に気付いたのだった。洋子は、自転車を、その子の前で停めた。
「――こんにちは」
と、洋子が言っても、ユカの方は返事をしない。「私、川北洋子。上の六〇一にいるのよ。あなた、五〇一の、ユカちゃんね?」
女の子は、黙って|肯《うなず》いたが、目は洋子を見ていなかった。
「――どうしたの?」
と、洋子は|訊《き》いた。「この自転車、どうかした?」
「すてきね」
と、ユカが言った。
そっと手をのばして、ハンドルをなでる。
「そう? ありがとう。この前買ったばかりだから、新しいのよ」
と、洋子は言った。「でも、あなたには、ちょっと大きすぎるんじゃない?」
ユカは、聞いていないようだった。
ただ、じっと、キラキラ輝くような目で、自転車を見つめている。
「――じゃ、またね」
洋子は、ちょっと薄気味が悪くなって、そう言うと、自転車をこいで、マンションの裏手へと回って行った。
――部屋へ戻って、買って来たものを出しながら、
「わあ、気味悪かった」
と、洋子は言った。「あの子、本当に、まとも[#「まとも」に傍点]じゃないわ」
「ちょっと変ってるのね、きっと」
と、綾子は言って、「――あ、いけない!」
「どうしたの?」
「一つ、頼むの忘れちゃったわ」
「なんだ。――もう一度行って来る?」
「いいわ。あなたじゃ分らないから。私があの自転車で行って来るわ。鍵をかして」
綾子は、エプロンを外して、急いで部屋を出た。
一階へ降りると、裏手の自転車置場へ回る。洋子の自転車の鍵をさし込んでいると、誰かがそばに立った。
振り向くと、水原が立っている。
「あら……」
「奥さん、こんにちは」
「どうも」
と、綾子は会釈した。「ちょっと買物に――」
「それは残念です」
「残念?」
「ええ。――ユカが、その自転車を欲しがっていましてね」
と、水原は言った。
「まあ、そうですの。でも、ユカちゃんには、小さい自転車でないと――」
「自転車だけではないのです」
「というと?」
「ユカは、母親[#「母親」に傍点]も欲しがっていまして」
「お母さんを?」
「あなたを、とても気に入っているようです……」
「光栄ですわ」
綾子は、辛うじて笑顔を見せた。「でも、私にはとても――」
「ご心配なく」
水原は、綾子の目の前に、手をかざした。
「まだ充分に入る余地[#「入る余地」に傍点]がありますよ」
綾子は、突然、目の前が暗くなるのを感じた。――手にしていた財布が、足下に落ちた……。
おかしい。
洋子は、時計を見た。――もう、母が出かけて一時間たっている。
すぐ表の八百屋へ行くだけだったのに。
自転車で行くほどの距離でもないのだが、荷物が重くなるので、わざわざ鍵を持って行ったのだ。
それなのに――一時間も。
事故にでも遭ったのか。洋子は、気が気でなかった。
決心して、部屋を出る。
一階で降りると、もう大分暗くなりかけた自転車置場へと行ってみた。
確かに、自転車はない。してみると、出かけてはいるのだ。
八百屋さんへ行って訊いてみよう。
歩きかけた洋子は、何かをけとばして、下を見た。――拾い上げて、息を|呑《の》んだ。
母の財布である。
これなしで、買物に行くわけがない。
洋子は駆け出した。――マンションの表の道へ出てみる。
ユカの姿は、なかった。
どうしたものだろう?――洋子は、しかし、長くは悩まなかった。
母と違って、世間体など、どうでもいい。
ともかく、五〇一号室へ行ってみよう、と思った。
しかし――まともに行って、取り合ってくれるかしら?
エレベーターで上りながら、洋子は必死で考えをめぐらせた。そして、一旦、六階へ上って、自分の部屋へ戻った。
外はもう暗い。――これなら大丈夫。
洋子は、我ながら無鉄砲なことをやり始めた。
自分の家のテラスから、下のテラスへと降りようというのである。
普段なら、高い所は苦手なのだが、今はそれどころではない。得体の知れない不安が、洋子を追い立てていた。
――何とか、うまく下のテラスへ降り立った。
暗いのは、父の話では、例の、ユカという子の部屋らしい。
ガラス戸に手をかけると、網戸にして、風を入れていたのか、さっと開く。
網戸を開けると、洋子は、中へ入って行った。
暗がりの中、洋子は、手探りで、机の上のスタンドを|点《つ》けた。
これぐらいの光なら、居間の方で気付かないだろう。
部屋の中を見回して、洋子は首を振った。
ここへ何をしに来たのか、自分でもよく分ってはいないのである。
しかし、母がここにいる、という理屈抜きの信念が、洋子にはあった。
部屋の戸口の方へ、行きかけて、ふと、洋子は立ち止まった。――何か、今、見たもの[#「もの」に傍点]が気になる。何だろう?
振り向き、そして、ゆっくりと部屋の中を見回す。
洋子の視線が、人形の家に止まった。
――本物の家そっくりにできた、立派なものである。
洋子の目は、その表に立てかけてある、自転車[#「自転車」に傍点]に|釘《くぎ》づけになった。
そっと近付いてみる。――似ている。
もちろん、その家[#「家」に傍点]にふさわしく、二、三センチの大きさになっているが、しかし、それにしても、形といい、色といい、まるで、洋子の自転車を、そのまま縮めた[#「縮めた」に傍点]かのようだ……。
「まさか!」
と、洋子は|呟《つぶや》いた。
その窓の中を|覗《のぞ》いて、驚いた。机がある。タンスも、椅子も、本物そっくりのものが、ちゃんとセットしてある。
上の方の部屋を覗いて、洋子は、ふと|眉《まゆ》を寄せた。
布団を敷いた上に、人形が寝ている。パジャマを着て。――そのパジャマの柄が――見たことのあるものだった。
そうだ、これは――敏子が、いなくなったとき、着ていたのと同じ……。
洋子の顔から血の気がスッとひいて行った。
そんなことが……あるわけない?
馬鹿な! いくら何でも……。
あの人形[#「人形」に傍点]が、敏子[#「敏子」に傍点]だったら――では、ではお母さんは?
洋子は他の部屋を覗いて行った。ガクガクと、|膝《ひざ》が震える。
母は、一番端の部屋に、倒れていた。出かけて行ったときのままの格好で。
「ああ……お母さん……」
思わず、声が|洩《も》れる。
「――見たのかね」
背後で声がした。ハッと振り向くと、水原が立っていた。戸口の所に、ユカが立って、じっと洋子を見ていた。
「では、帰すわけにはいかないね」
と、水原は言った。「ユカは、母親を欲しがっていたんだ。前にはお姉さんをね。――もう一人、お姉さんを作ってあげるしかなさそうだ」
洋子は、首を振った。――恐怖で、声が出ないのだ。
「本物[#「本物」に傍点]の母親は死んでしまうからいやだと言うのでね。それで、こうして小さな人形にしてやったのだよ。――君も、その中へ入ってもらおう」
水原が、洋子の顔へ、手をかざす。
そのとき――自分でもよく分らない。洋子は、ユカの方へ向って、突っ走ったのである。
そして思い切りユカを突き飛ばした。ユカがひっくり返って、どこかへ頭でもぶつけたのか、ワーッと泣き出した。
「何をする!」
水原が、あわててユカの方へ駆け寄っている間に、洋子は、玄関から廊下へ飛び出していた。
「誰か来て! 助けて!」
洋子は思い切り叫んだ。
そのとき、何かが激しく壊れるような音が、五〇一号室の中で聞こえて来た。
「お母さん!」
洋子は、怖さも忘れて、ドアを開け放った。
真白な煙が、吹きつけて来て、洋子は目を閉じた。
そして――それが静まると、洋子は、眼前の光景に、|愕《がく》|然《ぜん》とした。
何も[#「何も」に傍点]ない。いや――あるものもあった。
机。――例の作家のだろう。
そして、布団も、投げ出されていた。その他も、方々でなくなったものばかりだ。
「お母さん!」
と、洋子が叫んだ。
母が、フラリと、奥から出て来た。続いて、敏子も……。
「良かった……お母さん!」
洋子は、綾子へ駆け寄って、力一杯抱きついた……。
「――何も|憶《おぼ》えてないのよ」
と、綾子は照れたように言った。「ただ、ポカッと空白になってる感じ。その間の記憶が」
「敏子も、全然憶えてないみたい」
と、洋子は言った。
「ともかく、助かったわ」
綾子は、洋子の頭を、軽く|撫《な》でてやった。
夕食の席に、今日も父の姿はない。
「――お父さんにも黙ってよう」
と、洋子は言った。「きっと誰も信じてくれないしね」
「そうね。ただの夜逃げ、ということにしておいた方が無難かもしれないわ」
「お母さんも――」
「え?」
「お父さんのポケットに入っていられりゃ、別々に暮さなくても済むのにね」
「とんでもない! あんな汚ないハンカチと一緒なんてごめんだわ」
綾子はそう言って、自分で笑い出していた。
――あの魔術師、どこへ行ったんだろう?
洋子は思った。そう、今後、どこかでお人形を見かけたら、誰かが知っている人と似ていないか、気を付けて見ておこう……。
帰って来た娘
トントントン……。
階段に響く足音に、坂根祐子はハッと耳を澄ました。
あの子かしら? 佳子が帰って来たのだろうか?
一階下の部屋の玄関のドアが開く音がして、
「ママ、ただいま!」
と、男の子の声が響いた。
祐子は、ふっと肩を落とした。――そう。そんなはずはないのだ。佳子が帰って来るなんて、そんなことは……。
どうして団地って、あんなに足音や話し声が響くのだろうか。それも、子供たちの声や女の子たちのにぎやかな笑い声は、何倍にも大きくなって聞こえて来る。
いや、それはただ祐子がそう感じているだけなのかもしれない。もちろん、団地のせいでもないし、住んでいる隣人たちのせいでもないのだ。
分っている。分っているけど……。でも……。
祐子は、至って常識的に生きて来た人間である。短大を出て、就職。OL生活五年で、社内結婚。職場を移って一年で、妊娠して仕事を辞めた。
そして後は子育てと家事に専念して来た。特別いい妻だったか、いい母だったかと問われれば自信はない。しかし、世間並には苦労もし、喜びも|辛《つら》さも味わって、娘の佳子をやっと十五歳まで育てて来たのだ。
浮気もしなかったし、ぜいたくもしていない。夫とはたまに夫婦|喧《げん》|嘩《か》もしたが、離婚の危機にさらされるところまでは行かなかった。
娘が大きくなると親子喧嘩もした。でも、それは家庭内暴力というところまでは行かなかったのである。
一人っ子とはいえ、佳子はほどほどに気のいい|呑《のん》|気《き》な娘に育ち、学校の成績もまずまずで、見かけも、タレントにスカウトされるほどでなくても、まあ|可愛《かわい》い部類にはなっていた。
夫の坂根は、仕事柄やや出張が多く、佳子が小さい内は祐子も少々心細い思いもしたが、この団地へ三年前に越して来てからは、ご近所も多いので、さして不安もなかった。
佳子は私立の中学に入って、ここからバスで三十分の距離を通っており、そのまま、よほどのことがない限り、高校、大学へと進めるはずだった。
祐子が、やっと少し時間を持て余すようになって、そろそろ、よその奥さんたちのように、
「何かおけいこごとでも、通ってみようかしら……」
などと考えていた矢先、|総《すべ》ては|覆《くつがえ》ったのだった。
――事故。
校門を出て、横断歩道を、ちゃんと信号を守って渡っていた佳子が、信号無視で突っ走って来た赤いスポーツカーにはねられたのだ。
もう……三か月もたってしまった今でも、祐子はあの電話があったときのことを、はっきりと|憶《おぼ》えている。
「お嬢さんが事故に遭われて――」
学校の先生の電話に青くなって、家を飛び出したものの、足の骨でも折ったのかしら、ピアノの発表会には出られるかしら、などと祐子は考えていたのだ。
即死だった。――病院で、そう聞かされた祐子は、その場で気を失って倒れた。
それからの一か月は、ほとんど記憶にない。生きているからには、食事もし、眠ってもいたに違いないのだが、何も憶えていない。
ただ、どうしてあの子が死んで、私が生きているのかしらと、そればかりを考えていた……。
佳子をはねた車は、ついに見付からなかった。赤いスポーツカー。
「目立つ車だから、すぐ割り出せますよ」
と慰めてくれた警官。
でも、正直なところ、祐子にはどうでも良かったのだ。佳子が戻って来るとでもいうのならともかく、犯人が捕ったところで、それは何の慰めにもならない。
「|俺《おれ》が殺してやる」
と、夫が声を震わせていたことを、祐子は奇妙にはっきりと|憶《おぼ》えていた……。
ともかく、三か月が過ぎたのである。
夫は会社へ行き、祐子は毎日、掃除をし、洗濯をし、食事の仕度をしている。その限りでは、「日常」が再開していた。
しかし、佳子の部屋は今でも元のままになっていた。机も|椅《い》|子《す》も、そして、服も。机の上で広げたままだったノートも、そのページをきちんと見せて、帰ることのない主を待っていた……。
――トントントン。
また誰かの足音が聞こえて来た。
足音がする度に、祐子は、佳子が帰って来たのではないかと思う。死んだのは、そっくりな別の子で、本当は佳子は生きていて……。
もちろんそんなはずはないのだけれど。
トントントン……。どんどん上って来る。
誰だろう?
祐子の住んでいるのは、四階で、建物の最上階である。
夫ではない。もっと重苦しい足音だし、それに――そうだわ、今日から三日間、関西へ出張しているのだった。
でも、足音は四階まで上って来る。誰かしら?
それはまるで佳子の足音のように、軽やかで、弾むようだったのだ。
玄関のドアが開いた。祐子は居間のソファから体を起こした。
「ただいま!」
若い女の子の声だった。
祐子は、訳も分らないままに、玄関へと出て行った。
「ワッ!」
勢い良く上って来た相手が、祐子とぶつかりそうになって、声を上げた。「ああ、びっくりした!」
祐子はポカンとして、立っていた。
「寒いなあ! お|腹《なか》|空《す》いた! ――お母さん、何か食べるものない?」
紺のブレザーを着たその娘[#「その娘」に傍点]は、マフラーと|鞄《かばん》をソファへ投げ出すと、台所へさっさと入って行った。
「あ、カップラーメン! ねえ、これ食べちゃっても構わないの?」
と、大きな声が聞こえて来る。
祐子が台所へ行くと、その娘は、早々とヤカンをガステーブルにかけている。
「お腹空いてて死にそうよ! クラブがあって、お昼、ろくに食べられなかったんだ」
「あなた……」
と、祐子は言いかけて、言葉を切った。
その娘が、食器戸棚から、佳子の[#「佳子の」に傍点]使っていたミルクカップを迷いもせずに取り出したからである。
「やっと冬休みだ! 宿題ね、ずっと少ないの。みんなで万歳しちゃった」
――その娘は、佳子と全然似てもいなかった。
年齢は、たぶん同じくらい。それに、体つきや背丈も似たようなものか。でも、顔は全く違っていた。
「着替えて来ようっと。お母さん、ヤカン見ててね」
その娘が台所を出ながら、もうブレザーを脱いでいる。ソファの上の鞄とマフラーをつかんで、さっさと――間違いなく、佳子の部屋へ入って行くのだ!
祐子は、|呆《ぼう》|然《ぜん》として突っ立っていた。――これは一体、どういうことなんだろう?
そんなに辛くしたら、体に悪いわよ。
いつも、祐子は佳子にそう言っていたものだ。何しろ、佳子は何でもやたらと辛くして食べるくせがあった。
「――お母さんの味つけ、甘いもんな」
と、その娘[#「その娘」に傍点]は、皿に取り分けた分に、食塩をふった。
「お父さん、遅いの?」
「え?――ああ」
祐子は、さっきから、夕食にほとんど手をつけていなかった。「出張よ。三日間」
「また? よく行くわねえ」
ご飯をワッと口へ放り込みながら、「ムグ……そんなにお母さん……放っとかれちゃ、寂しいね」
「そうね……」
どうしたらいいんだろう? 祐子には分らなかった。
その娘は、しかし、実に自然に、佳子のように[#「佳子のように」に傍点]振舞っていた。祐子は、自分が夢か幻覚を見ているのか、と思った。
それとも、これが本当の佳子で、自分の記憶の方が間違っているのか。――何度か、本気でそう問いかけさえしたのである。
「あ、テレビ!」
茶碗を持ったまま、娘はTVの方へ走って行き、スイッチを入れた。「間に合った!」
祐子はハッとした。――それはいつも佳子が欠かさず見ていた番組だったのだ。だからこそ、佳子の死以来、見たことがなかった……。
――夕食を終えると、娘はソファに引っくり返って、週刊誌を見ていた。よく佳子もそうしていたものだ。
「お|風《ふ》|呂《ろ》に入ろうっと」
ヒョイと立ち上ると、|欠伸《あくび》をしながら、風呂場の方へ姿を消す。少しして、お湯を湯舟に入れる音が聞こえて来た。
洗いものも終り、ソファに身を沈めた祐子は、少し冷静になって、事態を考えようと思った。
あれは佳子ではない。それは確かなことだ。いくら我が子を失って混乱したといっても、子供と他人の見分けがつかないということはない。
では、なぜあの娘は、ここにいるのか?
しかも、佳子のことを、あんなにもよく知っているのは、どうしてだろう?
そして――あの娘は一体誰なのか?
祐子には分らなかった。ただ、はっきりしていることは、こんな風に、いつまでも、続けてはいられないということだ。
正面切って、はっきりと|訊《き》いてみなくてはならない……。
お風呂から、あの娘の歌が聞こえて来た。声は、もちろん違う。佳子よりは、ずっと歌も|上《う》|手《ま》いようだ。
しかし、その歌は、佳子が、本当にお風呂の中で歌っていたものだった。
祐子の目に、じわりと涙がにじんで来た。
――佳子。佳子。
「――ああ、いい気持!」
佳子のパジャマを着て、洗った髪をタオルで包んだその娘が入って来たとき、祐子は、一瞬、本当に佳子が入って来たのかと息を|呑《の》んだ。
その若さの、|匂《にお》うような発散が、佳子のそれと同じだったのかもしれない。
「お母さん、入って来たら? 冷めない内に。寒いから、すぐ冷めちゃうよ」
「ええ」
祐子は、じっと娘を見つめながら、「ねえ……。お話があるの。座って」
と言った。
「いいわよ。なあに?」
ソファに、大きく息をつきながら身を沈める。そのキラキラ輝く大きな|瞳《ひとみ》が、真直ぐに祐子を見つめていた。
そこには、人を|騙《だま》そうというような暗い色は、みじんも感じられなかった。
「話してみて」
と、いとも無邪気に言う。
「ええ。あの……」
言葉が出て来ないのだ。
「――変よ、お母さん。ねえ、もしかして、お父さんと別れたいの?」
「え? どうして?」
「だって、――そんな深刻な顔しちゃってさ。さてはお母さん、いつも放っとかれて、寂しいから、よそに恋人でも作ったのかなって思っちゃったの。まあ、私はいいけど、できたら私が大学に入るまでは待っててほしいわね」
「そんなこと――考えてないわよ」
と、祐子は言った。
「そう。じゃ、何なの?」
不思議そうな顔。――その顔は違っていても、表情[#「表情」に傍点]そのものは、佳子を思わせた。
佳子。――佳子。もしかしてあなたは本当に……。
「――ねえ、どうしたのよ」
と、その娘は言った。
「何でもないわ」
祐子は首を振って立ち上った。「じゃ、お母さん、お風呂に入って来るわ」
そして風呂場の方へ歩きかけて、足を止めると、祐子は振り返って、言った。
「早く髪を乾かさないと、風邪引くわよ、佳子[#「佳子」に傍点]」
「参ったよ」
と、坂根は首を振り、ため息をついた。
「面白い話ね」
と、私は言った。
「君は面白いで済むかもしれないけどね、こっちは気が狂いそうだ」
大学の、私の研究室である。
もう大学そのものは冬休みに入っていて、静かなもので、その分、こちらは研究者としての生活に没頭できる。
私の名は宮島令子。J大学の社会学科に在籍する助教授である。年齢は――まあ、まだごまかすほどの年齢でもない、三十五歳だ。
「先生。資料のコピーが……」
ドアが開いて、助手の佐々木哲平が、両手一杯に分厚い本をかかえて入って来た。
「ちゃんとドアをノックしてから入りなさいよ」
と、私は無理を承知で言った。
「すみません」
二十七歳にもなっているにしては、哲平も素直である。大学の外へ出ると、未だ独身の私にとっては、年下の恋人に変るのだ。
「お客様にお茶をいれて」
「はい」
「いや、構わないでくれ」
と、坂根が急いで言った。
「いいのよ。この人、無器用だけど、お茶をいれるのだけは上手なのよ」
私の言葉に坂根はちょっと笑って、
「相変らずだなあ」
と言った。
坂根は大学の先輩。もっとも、向うが大学院で私は一人のうら若き一年生だった。
恋人、というところまで行くには時間がなさ過ぎたが、楽しくお付合いをしていたこともあった。
久々に会って、亡くした娘が十五歳だったと聞いて、私も自分の年齢を思い知らされたものだ……。
「しかし、どう考えたらいいんだろう?」
と、坂根は|眉《まゆ》を寄せた。「出張から帰ってみると、見たこともない娘がいて、『お父さんお帰り』と言うんだ。びっくりしたどころじゃない」
「そりゃそうね」
「家内も、今はもうすっかり、その娘を『佳子』と呼んで、何とも幸せそうなんだ。困っちまってね。――君のことを思い出して、相談に来たわけさ」
「私は探偵じゃないわよ」
「しかし、その手のことが大好きだったじゃないか」
「今でもですよ」
と、お茶を出しながら、哲平が言った。
「奥さんはどう言ってるの?」
と、私は|訊《き》いた。
「|咎《とが》めるようなことを言うと、泣いて怒るんだ。せっかくあの子が帰って来たのに、とね」
「なるほどね」
「女房は、佳子の魂が、その娘に乗り移った[#「乗り移った」に傍点]と思ってる」
「乗り移った?」
「そんな馬鹿なこと、あるわけがない、といくら言っても聞かないんだ」
「乗り移った、ね……」
と、私は|肯《うなず》いて、「面白い話じゃない」
「|他《ひ》|人《と》ごとだと思って」
「あなた、大金持?」
「何だって?」
「財産あるの?」
「冗談じゃない」
坂根は苦笑した。「平凡なサラリーマンだぜ。どうやって財産[#「財産」に傍点]なんてものが作れる?」
「じゃ、あの子が、実の娘をかたって、|狙《ねら》うほどのものはないわけだ」
「うん。――それは確かだ」
と、坂根は|肯《うなず》いた。「理由が全く分らないんだよ。女房をあんな風に|騙《だま》してみたって、何の得にもならないはずなんだ」
「人間、必ずしも損得だけで動くわけじゃないわ」
と、私は言った。「奥さんの話じゃ、その子は、娘さんのことを、よく知ってたっていうのね」
「うん。部屋の配置から、服の好み、食べ物の好き嫌いも、同じだというんだ」
「なるほどね」
私は両手を組み合わせて、額に当てた。シャーロック・ホームズ辺りを気取っていると思っていただけばよかろう。
「その子が来て、何日たつの?」
「十日――いや、もっとか。正月が|間《あいだ》にあったから、ちょっと日にちの感覚がずれてるけどね」
「その子とゆっくり話してみた?」
「いいや。ともかく、女房がピッタリくっついてるんだ。もう二度と逃したくないって感じでね。――見ていると哀れで、何も言い出せなくなっちゃうんだよ」
「まだ学校は冬休みね」
「来週まではね」
「ご近所はどう言っているの?」
「それなんだ」
坂根は困り切った様子で、「僕は、一応|親《しん》|戚《せき》の娘を預かったってことにしておいたんだが、何しろ佳子の服を着て歩いているし、僕のことも『お父さん』だろう。――近所から変な目で見られてるよ」
「お気の毒」
「そう思ったら助けてくれないか」
私は、少し考えてから、言った。
「――いいわ。どうせ大学はまだ当分休みだしね」
「ありがたい!」
坂根はホッとした様子で、「僕は明日からまた会社だ。女房とあの娘を二人で置いておくのも心配なんだよ」
「あなたの家を教えて。それから、会社の連絡先も」
「分った」
――坂根がメモを残して、くれぐれも頼むと言って帰ってから、私は哲平に言った。
「どう思う?」
「変った話だな。でも、結局は、その女の子が|嘘《うそ》をついてるだけじゃないの? それしか考えられないよ」
「問題はその理由[#「理由」に傍点]よ。その娘の化けの皮をはがしただけじゃ、事件は終わらないわ」
「まさか本当に、死んだ娘がその子に乗り移ったなんて思ってんじゃないだろうね」
「さあね」
と、私は|微笑《ほほえ》んだ。「ね、あなたの例のお友だちに調べてもらってよ」
哲平の友人が、警視庁の捜査一課に勤めているのである。
「その娘の|身《み》|許《もと》を?」
「違うわよ。坂根佳子が死んだときの状況を知りたいの」
と、私は言った。「私、出かけて来るわ」
それが坂根祐子らしい、と私は思った。
ちょうど玄関のドアを開けて出て来ると、足早に階段の方へ歩いて行く。
「今日は、奥さん」
上って来たソバ屋の出前持ちが|挨《あい》|拶《さつ》すると祐子は、
「今日は。ご苦労さま」
と返事をした。
いかにも元気そうで、楽しげな声に、出前持ちの方は、ちょっと不思議そうな顔をしている。
きっと、娘を亡くしてから、祐子はじっとふさぎ込んでいたので、あまりの変り様に面食らったのであろう。
私は、〈坂根〉と表札の出たドアの前に立った。――例の娘は中にいるはずだ。
呼びリンの方へ手を伸そうとしたとき、誰か上って来る足音がした。
私は、ちょっと迷ったが、何食わぬ顔で、階段を下りて行くことにした。
すれ違ったのは、三十前後の女性で、何やら|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》包みをかかえている。
私は、少し下まで降りて、足を止め、上の様子をうかがった。
その女性は、坂根の家のチャイムを鳴らした。――少しして、ドアが開く。
「はい、どなたですか」
と、若い娘の声。
これが例の「佳子」だろう。
「あの――すみませんけど、坂根さん……いらっしゃる?」
訪ねて来た女の方は、戸惑っている様子だった。
「坂根って――父ですか、母ですか?」
と、娘が言った。「もっとも、二人とも出かけていますけど」
「えっ?」
女の方は訳が分らないらしい。「あなた――どなたなの?」
「ご自分は?」
娘の方がよっぽど落ちつき払っている。
「私は――坂根さんと同じ会社に勤めている伊東伸子。あなた――ご|親《しん》|戚《せき》の方か何か?」
「ここの娘です」
少し間があった。
「――まさか!」
と、女が言った。
「まさか、って、どういう意味ですか? 私、坂根佳子ですけど」
「あの――坂根さんは、いらっしゃらないの?」
「出かけてて、まだ帰りません」
「そう。じゃ……また改めて」
「おいでになったこと、伝えます」
「いえ、いいの」
と、その伊東伸子という女は、あわてて言った。「じゃ、失礼します」
「どうも」
私は、急いで、足音を殺しながら、階段を降りた。
建物を出て、わきへそれ、物陰から見ていると、伊東伸子が出て来た。そして、釈然としない様子で、足を止め、建物の上の方を見上げている。
ちょうど、そこへ坂根が戻って来るのが目に入った。
私の研究室から、他を回って帰るということだったので、一足先に私の方から出向いて来たのだが……。
「――伊東君じゃないか」
と、坂根がびっくりした様子で言った。
「坂根さん!」
「うちへ――来てくれたのかい?」
「ええ。でも……。今うかがったら、娘さんが……」
「会ったのか」
坂根は頭をかいた。
「どういうことなんですか? お嬢さん、亡くなったと――」
「実はね。とんでもない話なんだ。ちょっと――」
坂根は、伊東伸子を促して歩き出した。
私は、その後をついて行こうとして、ためらった。何といっても、目につきすぎるのだ。
でも、ためらったのが良かった。
その二人が歩いて行くのを見すまして、その娘が、出て来たのである。
もちろん姿を見るのは初めてだが、二人を見送る様子で、その娘に違いないと知れた。
娘は、足早に、二人とは逆の方へと歩き出した。私は、こっちの後を|尾《つ》けることにしたのである。
――団地を出てすぐ、ちょっと表通りから外れて、少々うらぶれた感じの喫茶店があった。
娘はそこへ入って行く。私も、適度に間を置いて中へ入った。
幸い、こんな場所ながら、店の中は適度に混んでいて、目立たずに済んだ。
娘の方は、奥の席で、若い男と話をしている。できることなら、その隣の席へ行きたかったが、そう都合良く空いていないので、できるだけ近い席で我慢した。
話を聞くのは――店の中は音楽も流れているので――無理だったから、私は、極力その二人を観察することにした。
娘の方は、もし死んだ佳子と同じなら十五歳ということになるが、こうして見ているとどうも、実際はもう少し年齢が行っているらしい。
相手の若者は、あまり考えるまでもなく、顔立ちがその娘に良く似ている。兄妹なのだろう。年齢は十八歳、というところか。
しかし、兄妹だとしても、二人の話は、至って真剣そのものだったようだ。
お互い、声をひそめ、ニコリともせずに、話し込んでいる。充分に用心している、という様子だった。
もし、この二人が、何か犯罪を|企《たくら》んでいるのだったら、当然そうなるに違いない。しかし、私のカンは、必ずしもその方向へ、向いはしなかったのである……。
話は、十分とかからなかった。
二人は席を立った。
「いいの」
と、娘の方が相手を押えて、「先に出るから」
若者は、また腰をおろした。
「気を付けろよ」
と、若者は言った。
「大丈夫よ」
娘が|微笑《ほほえ》む。――初めて見せた笑顔だった……。
娘が出て行くのを、私はただ見送っていた。今度は相手の若者の方に用がある。
五分ほどして、若者が店を出た。私も、少し間を置いて、後を追った。
「――それで?」
と、哲平は|訊《き》いた。
「何が?」
と、私が訊き返す。
「後を|尾《つ》けたんだろ? 何か分ったの?」
「今はいいわよ」
私は起き上った。
ここはホテル。更に詳しく言うと、ホテルの部屋のベッドの中である。
哲平とはこうして時々、「師弟の交流」を図っているのである。
「あなたの方はどうだったの?」
私は、グラスに冷たい水を入れて、一口飲んでから、言った。「――お友だち、調べてくれた?」
「忙しいのに、って散々文句言われたけどもね」
「で、どうなの?」
「大したことは分らないよ。坂根佳子をはねたのは赤いスポーツカータイプの車。たぶん国産車だろうってことだった」
「信号無視。人をはねて殺し、そのまま逃走か」
「ひどい|奴《やつ》もいるよな」
哲平は首を振った。気のやさしい男である。
そんなことは許せないのだ。
「相当スピードを出してたの?」
「推定だと百キロは出てたらしい」
「制限速度は?」
「四十キロ」
「百キロね……。現場へ行ってみた?」
「言われた通りね」
「どんな感じ? スピードを出したくなるような道?」
「全然」
と、哲平は肩をすくめた。「まあ、人によるだろうけど、出しやすい道じゃないのは、確かだな。手前も少し先もカーブだし、見通し良くないし」
「なるほどね」
と、私は|肯《うなず》いた。
「それにさ、一つ変なことがあったんだ、って、友だちが思い出してくれたんだよ」
「何なの?」
「その車が坂根佳子をはねた、そのころね、その道の五百メートルくらい手前で、スピード違反の取締りをやってたんだって」
「赤いスポーツカーは?」
「引っかかってない。もちろん用心したのかもしれないけどね」
「その場所へ――」
「行ったよ。もちろん」
私は、|微笑《ほほえ》んで、哲平にキスしてやった。
「上出来! で、どうだった?」
「取締りやるだけあって、いやでもスピードを上げる道だな。少し下りで、広い直線なんだ。ちょっと出せば、すぐ三十キロぐらいオーバーするよ」
「すると、その赤いスポーツカーは、スピードを上げたくなる道ではのんびり走って、わざわざ危い道でスピードを出したってことになるわけね」
哲平は、私の顔をまじまじと見て、
「――ね、何を考えてるんだい?」
「見当つくでしょ」
「つまり――坂根佳子は、殺されたってこと?」
「計画的にね」
「で、その娘が入れかわったのかい? でも何のために?」
「それはまだ、これからよ」
私は、天井を眺めて、大きく伸びをした。
「――その若い男のこと、分ったの?」
「ええ。名前は辻井俊一」
「何者?」
「大学の一年生よ。今のところは、それだけしか分らない」
「調べてみる?」
私は、少し考えてから、
「いいわ、私、自分でやる」
と言った。
「危いよ」
「大丈夫。あなたには、他に調べてほしいことがあるの」
「もちろんいいけどさ」
哲平が、私の方へにじりと寄って来る。
「その代り、もう一回――」
「調べてくれたらね」
私はスルリとベッドから脱け出した。
「ちえっ!」
「来週の講演の準備があるわ。今日、これから大学へ戻るわよ」
私はバスルームへ入りながら言った。
「分りました、先生[#「先生」に傍点]」
哲平はそう言って、ため息をついた……。
辻井俊一は、何とも心細い顔で、待ち合わせた喫茶店に入って来た。
店のマスターに何やら|訊《き》いている。もちろんマスターは私のいる席を指さし、辻井俊一は、おずおずとこっちへやって来た。
「あの……」
と、恐る恐る声をかけて来る。
「辻井君ね? 私、宮島令子よ。座ってちょうだい」
「はい」
俊一はホッとした様子で、向い合った席に腰をおろした。
「悪かったわね、せっかくの冬休みなのに」
「いいえ」
と、俊一は首を振った。「でも――びっくりしました」
「何が?」
「いえ――こんなこと言っちゃ失礼かもしれませんけど、J大学の先生というから、もっとその――」
「年寄りかと思った?」
「ええ――まあ。怖いおばさんかと思ってました」
「怖いおばさんよ。あなたの二倍近くも|年《と》|齢《し》を取ってるわ」
と、私は笑顔で言った。
それで大分、辻井俊一の緊張もほぐれたようだ。
辻井俊一の通っている大学に、私のよく知っている助教授がいたので、そっちから話をして、ここへ俊一を呼んだのである。
「――で、僕にどんなご用でしょうか」
「私ね、社会学科にいて、今、大学生の意識調査をやってるの。色々、全般的なことについて、君の意見を聞きたいのよ」
「僕なんか、お役に立つんですか?」
「誰だって役に立つわ。一人一人、みんなが大学生に違いないんだもの」
「じゃあ……僕に答えられることなら」
「じゃ、早速始めるわよ」
飲物を取って、私は、即席でデッチ上げた調査項目を並べ始めた。
こんなもの、二、三分もありゃできてしまうのだ。
二、三問終ったところで、私はコップの水を飲んだ。
奥の方の席にいた、紺のブレザーの女の子が立ち上って、私たちの席のわきを通って、レジへ歩いて行く。
「次の質問はね……」
と、私は言った。「――どうしたの、辻井君?」
辻井俊一が、今通って行った少女を、じっと目で追っている。
「辻井君」
「すみません!」
俊一はパッと立ち上って、店を出て行った少女の後を、追いかけて行った。
私は、俊一が戻って来るのを待っていた。
――戻って来るに違いないのだ。
五分とはかからなかった。戻って来た。
見た目にも、哀れなほど気落ちした様子である。少々気の毒な気持になった。
「――失礼しました」
俊一は、席につくと、目を伏せたまま、言った。
「どうしたの、一体?」
「いや……。ちょっと、今通った女の子が、知り合いに似ていたもんですから」
「そう。で――その人だったの?」
「いいえ」
俊一は、首を振った。唇の端に、苦々しい笑みが浮んだ。
「別の人です。――当り前なんです。あの子[#「あの子」に傍点]であるはずがないんです」
私は、彼の目が涙で潤むのを見た。
「好きな子だったのね」
と言うと、俊一は、ちょっと照れたように|微笑《ほほえ》んで、
「ええ。でも――死んでしまったんです」
と言った。
「まあ、若かったでしょうに」
「十五歳でした。――本当に子供みたいなもんだけど、|可愛《かわい》い子で、僕にとっては妹みたいなものだった……」
「気の毒に」
「ありがとうございます。――すみません、余計な時間を取らせてしまって」
「いいえ、いいのよ。あなたのことが、とても良く分ったわ」
「え?」
俊一は戸惑ったように私を見た。
「これ、コーヒー代にでもしてちょうだい」
私は、彼に五千円札を一枚渡した。
「とんでもないですよ! 僕は――」
「年上の女の言うことは聞くもんよ」
と、私は彼の手を押えて、「その代り、それでここの払いをお願いするわ。男が払うものだから」
「――分りました」
俊一は微笑んだ。「宮島先生……でしたね」
「ええ」
「素敵な方ですね」
「ありがとう」
私もいい気分で、その喫茶店を出た。まあ|誉《ほ》められるのは慣れているけど(!)。
「――失礼します」
と、私が声をかけても、伊東伸子は、しばらく気付かなかった。
何やら考え込んでいる様子で、ベンチに座ったまま、じっと隅の方の芝生を見つめている。
昼休みの公園。――今日は冬にしてはよく晴れて暖い日なので、まだ正月気分の抜けない様子のOLやサラリーマンたちが、大勢散歩に出て来ていた。
たいていは何人かで連れ立って来ているのだが、伊東伸子は、一人、ベンチに腰をかけているのである。
「――え?」
大分間があってから、やっと顔を上げる。
「あの――私ですか?」
「ええ。伊東伸子さんでしょう?」
「そうですけど……」
と、ちょっと用心するような目つきで私を見る。
それは普通の反応と言えるだろう。変なセールスや勧誘だったらかなわない。
「私、坂根さんの友だちで宮島といいます」
「坂根さんの?」
「ええ。ちょっと探偵みたいなことをやってましてね」
「ああ」
伊東伸子は、思い出したように、「坂根さんがおっしゃってた方……大学の先生とか?」
「まだ駆け出しですよ。好奇心が強いもんですからね」
「まあ、失礼しました。――こんなにお若い方だと思わなかったので」
「いいえ。いつもそう見られますから」
とは少々図々しかったかな。「――心配事でも?」
「私、ですか?」
「何だかそんな風に見えましたよ」
伊東伸子は、ちょっとためらってから、
「それは――例のことです。坂根さん、このところ仕事も手につかないようで」
「それでご心配なんですね」
「入社以来、ずいぶんお世話になりましたもの。――とても良い方だし、私……」
「放っとけない、という気にさせられるんですよね」
と、私が言うと、伊東伸子も、ホッとしたように笑顔になった。
「本当に! おっしゃる通りですわ」
「事情はお聞きになった?」
「ええ。妙な話ですね。――きっと何か目的があって、坂根さんの奥様を|騙《だま》してるんだと思います」
「ところがその目的というのが――」
「そうなんです。坂根さんも、それで頭をかかえておられて」
「私もね色々調べてはみたんです。でも、これ、といった動機は見付からないし……。ただ、坂根さん自身も、私に何もかも打ちあけてくれたとは限らないので、あなたからもお話をうかがおうと思ったんです」
「そうですか。でも――」
「坂根さん、あなたに何か話しておられませんか?」
伊東伸子は、しばらくためらっていたが、やがて、ゆっくりと肯くと、
「私、本当に心配なんです」
と言った。
「どういうことが?」
「坂根さんから、今度のことを初めてうかがったとき、私、どう考えていいものか分りませんでした。でも坂根さんは、はっきりしていて、これは何かの詐欺に違いない。何とかあの娘の正体を暴いてやらなくちゃ、とおっしゃっていたんです」
私は|肯《うなず》いて、
「それがまあ、普通の反応でしょうね」
「それに、妻が|可哀《かわい》そうだ、とも。――|騙《だま》されているのに、本当に娘が帰って来たような気でいるのを見ていると、|辛《つら》いんだ、ともおっしゃってました」
「分りますわ」
「でも――私の立場で、ああした方が、とか、こうなさったら、とは言いにくいので黙っていたんです。ところが――」
「ところが?」
「このところ、段々、坂根さんの様子が変って来ました。何だか――ご自分でも、迷っておられるようで」
「というと、その娘を――」
「今さら、追い出したら、女房がどうなるか分らない、とか……。それに、しばらく見ていると、段々本当に娘の佳子と似ているように思えて来る、とか……」
伊東伸子はため息をついた。「まさか、とは思ったんですが、本気でおっしゃっておられるようなので」
「それで心配されているわけですね」
「ええ」
伊東伸子は|肯《うなず》いた。「――それに、今日もちょっとお話しする機会があったんですけど……」
「何と言っていました?」
「私――耳を疑ってしまいましたわ。だって――『あの子に、娘の魂が本当に乗り移ったのかもしれないよ』なんておっしゃるんですもの」
「乗り移った、ね……」
と、私は肯いた。
「そんな馬鹿な話! そうでしょう? この科学の世の中に、人が人に乗り移るなんて、そんな馬鹿げたことがあるわけないじゃありませんか!」
伊東伸子は、激しい、といえるほどの口調で言うと、ハッとしたように、「すみません。つい――興奮して」
「分りますよ、お気持は」
私は言った。「ただね、私はそういう方面の専門家ですけど、坂根さんの話はそう馬鹿げてもいないんですよ」
「まさか」
と、伊東伸子は目を見張った。
「いいえ、本当です。そういう実例はいくつもあるんですよ。ただ、科学的に立証できるわけじゃないから、表に出ないだけで」
「じゃあ……本当に今、坂根さんの所にいる娘に、乗り移った、と?」
「かもしれません。特に若くて死ぬ人は、この世界に執着がありますものね」
「執着……」
「まだまだ、世の中には、よく分らないことが一杯あるんですよ」
と私は言った。「どうも失礼しました。――じゃ、これで」
「あの――」
と、伊東伸子は、腰を浮かした。
「何か?」
私は、足を止め、振り返った。
「いいえ……。坂根さんに会われたら……」
伊東伸子は、思い直したように首を振った。
「いいえ、もういいんです」
私は、歩き出した。
少し|陽《ひ》がかげって、寒々としていた。公園が、まるで別の場所のように見えた……。
「重たいなあ!」
と、佳子[#「佳子」に傍点]が言った。
「我慢して持ってよ」
祐子は笑いながら、「あなたが沢山食べるから、仕方ないじゃないの」
「でも信じられないよ」
「何が?」
「こんなに重い食料がお|腹《なか》の中に入って、結構体重もふえないなんて!」
スーパーの袋を両手に下げて、佳子は息を弾ませていた。
「もう少しよ。頑張って」
祐子は楽しげに言った。
もう、暗くなって、風は冷たい。
「――ねえ、佳子」
と、祐子が歩きながら言った。
「なあに?」
「もう来週から学校よ」
「うん。知ってるわよ」
と、佳子は顔をしかめた。「忘れたいのに! 思い出させないで」
「ごめんなさい。――準備はいいのかしら、と思ったの」
「いいわけないじゃないの。二日前から、ワーッと宿題やるわ」
本当に、と祐子は思った。この子だ。この子は佳子だ。
話し方も、笑い方も、本当にあの子そのまま……。
いや、実のところ、佳子と違っていたとしても、「今は」、この子が佳子なのである。祐子の中で、佳子の顔は、少しずつ、この娘のそれと入れかわりつつあった。
でも、祐子は幸せだった。
これで充分だ。新しい娘が出来たんだから、これで充分……。
ただ、一つの不安は、学校[#「学校」に傍点]だった。
来週からは学校に行く。――佳子として学校へ行ったら、どうなるか?
佳子の葬儀には、学校の友人たち、何人か来て、泣いていたのだ。
それが――全然違う顔の子が、「佳子」として登校したらどうなるだろう?
それだけが、祐子の不安だった。
今の、この生活が、いつまでも続けばいいのに、と思った。
「――さあ、あとは階段」
と、祐子が、建物の下まで来て、言った。
「それが大変じゃないの」
「手伝う?」
「いい! 若いんだから」
と、足を止め、佳子は、荷物を持ち直した。――その時だった。
ダダッ、と足音がしたと思うと、
「危い!」
という叫び声。
佳子の体をかかえて、誰か男が、数メートルも転った。
ドシン、という鈍い音。
「――どうしたの?」
起き上った佳子は、|呆《ぼう》|然《ぜん》としていた。
「佳子! 大丈夫?」
祐子の手から、荷物が落ちる。――祐子のすぐわき、佳子が立っていた場所に、重い植木鉢が砕けて、土が飛び散っていた。
「――危かった」
と、男が立ち上った。「頭を直撃するところだったよ」
「ありがとう。――私、死ぬところだったのね」
やっと、危険が実感されたのか、佳子は青ざめた。
「ありがとうございました!」
祐子が駆けて来て、男に何度も頭を下げるのだった。
「いや――偶然ですよ」
若いその男は、照れたように言った。「でも、よく手すりに鉢を置いとく人がいるけど、危いなあ」
「ええ……」
佳子は、建物を見上げた。「本当に、危く……」
その|呟《つぶや》きは、独り言のようだった。
そして、祐子が名前を|訊《き》こうとしたとき、もう、男は、どんどん遠くへと歩き出してしまっていた……。
「上出来よ」
と、私は言った。
「いてて……」
哲平は、すりむいた|肘《ひじ》の傷に、オキシフルをつけられて、目を丸くした。
「だらしないわね。じっとして!」
私は、キズテープを|貼《は》って、「はい、一丁上り!」
「ウドンか何かみたいだね」
と、哲平は苦笑した。
――車の中で、この寒い夜を過すのは、どうにも快適とは言えなかった。
たとえ恋人と二人でも、よほどの物好きということになるだろう。
車からは、坂根のいる団地の建物が見えている。
「あの子を助けたのは、あなたにしちゃ殊勲賞ものね」
「とっさのことだったからね」
と、哲平は、ちょっと得意げである。「でも――」
「何か気付いたの?」
「卵が落ちてこわれてた。オムレツ四つ分はあったな。もったいない!」
「食い意地ばっかり」
と、私は笑った。
「そればっかりでもないよ」
と、私の肩へ回して来る手を、ピシャリとやって、
「今は探偵と助手! けじめをつけてちょうだい」
「はい」
哲平は肩をすくめた。「でも、本当に、今夜、何か起るの?」
「知らないわよ」
「そんな! だって――」
「他人の気持は、分らないもの」
と、私はとぼけた。「まだ坂根さんは帰って来てないわね」
「うん。そりゃ大丈夫だよ。出入口はあそこしかないんだもの」
「よく見ていてね。目がいいのだけが取り柄でしょ」
「はっきり言うなよ」
哲平は渋い顔で言った。「――誰か歩いて来た」
暗がりの中でも、コートをはおった男と分る。勤め帰り、という様子だ。
「坂根かな?」
「よく分らないわね。建物の前まで来ないと……」
少し明るい所まで、その男が歩いて来た。――と、いきなり、物陰から黒い影が飛び出して来たと思うと、コートの男にぶつかって行った。
「アッ!」
という叫び声。
「いけない!」
私はあわてた。「早く行くのよ!」
二人して車を飛び出す。
「ワーッ!」
と、いう男の叫び声があたりに響きわたった。
まさか――こんなことになるとは思わなかったのだ!
哲平が先に駆けつけた。
「おとなしくしろ!」
ナイフが落ちる。――哲平に、しっかりと押えつけられて、もがいているのは、伊東伸子だった。
「あなたが殺したのね! 佳子さんを」
私は、倒れた男の方へかがみ込みながら、言った。
「赤いスポーツカーを持ってたことも突き止めてあるぞ」
と、哲平が言うと、伸子は、急に力が抜けたように、グッタリした。
「私は――坂根さんが好きだったのよ!」
「だからって娘を――」
「あの人がいつも言ってたわ。『娘のことがあるから、離婚はできない』って。だから私――」
「――伊東君!」
と、声がした。
そこに立っていたのは、白いコートを着た坂根だった。
「人違いよ」
私は、刺された男の顔を見て、言った。「もう手遅れだと思うけど……。哲平、一一〇番して来て。もうこの人も逃げないでしょうから」
哲平が手を離すと、伊東伸子は、地面に崩れるように倒れた……。
「宮島君……」
坂根が|呆《ぼう》|然《ぜん》として、|呟《つぶや》くように言った。
「あなたを待って、話をするつもりだと思ってたの。まさかいきなり刺すとはね」
私は首を振った。「読みが浅かったわ」
「何てことだ!」
「坂根さん。――あなたの責任でもあるのよ。この人と関係があったんでしょう?」
坂根は苦しげに|肯《うなず》いた。
「ほんの――二、三度だ」
「それが、結局、佳子さんの命を奪うことになったのよ」
「佳子!」
坂根がうずくまって泣き出した。
階段を下りて来たのは、祐子と、そして、佳子[#「佳子」に傍点]だった。
「――申し訳ありませんでした」
畳に手をつくと、その娘は、深々と頭を下げた。「私、辻井芳江といいます」
「僕は、佳子さんと付合っていたんです」
辻井俊一が横に座っていた。「あの子は本当に|可愛《かわい》くて、妹みたいだった……。死ぬ少し前、あの子は悩んでました。お父さんに女がいると知ったんです。赤いスポーツカーに乗っているのを、偶然見てしまった、と……」
「赤いスポーツカー……」
と、祐子が|呟《つぶや》くように言った。
「ええ。――佳子さんが死んだと聞いて、それも赤いスポーツカーにはねられたと知って、もしかしたら、殺されたんじゃないか、と思ったんです」
「それで、こんなことを考えたのね」
と、私は言った。
「私の考えだったんです」
と、芳江が言った。「警察へ行くにも、証拠があるわけじゃないし、それに相手の女が誰なのかも分らなかったし。――私、夏に、佳子さんと一緒に湖で合宿して、色んなことを話し合ったりしていたので、彼女のこと、よく知っていたんです。それに私演劇をやっているので、つい人の|仕《し》|草《ぐさ》やくせを観察するのが習慣になっていて……。お母さんを苦しめることになる、とそれが気になりましたけど、でも、どうしても犯人が許せなかったんです。本当に申し訳ありませんでした。――佳子さんのものを使ったり、服を着たりするのは、|辛《つら》かったんですけど……」
芳江が涙ぐんだ。
「いいのよ」
祐子が首を振った。「本当にありがとう。――佳子も浮かばれるでしょう」
――どうにも、ハッピーエンドとは言いがたい終り方である。
坂根夫婦の間も、どうなるか分らないし、伊東伸子に間違って刺された男性、一命は何とか取り止めたが、どうなることか……。
しかし、母親、祐子の顔が意外に明るいのは、救いだった。
「――私は、あなたのこと、本当に娘のような気がしてるのよ」
と、玄関へ出て来て、祐子は言った。「いつでも遊びに来てちょうだい」
「はい!」
芳江は、芳江の顔に戻って、返事をした。
――外へ出ると、もう明るくなりかけている。
「――僕、あのときはびっくりしたな」
と、辻井俊一が言った。「佳子とそっくりの子が――」
「あれは私が頼んだ劇団の子なの」
と、私は言った。「あなたの反応を見たくてね」
「そうだったんですか!――本当によく似てた」
「でもね、あなたは生きてるんだから、しっかりしなきゃだめよ」
「ええ、分ってます」
と、俊一は|肯《うなず》いた。
「しっかりした娘がついてます」
と、芳江が俊一の腕を取って言った。「あ、そうだ。命を助けていただいたお礼も言わないで」
哲平が、頭をかきながら、
「別に――大したことじゃないよ」
と照れている。
私は|微笑《ほほえ》んだ。
「――これで一区切りついたわけね。どう? 二十四時間営業のおいしい焼肉の店を知ってるの。みんなでくり出しましょうか?」
「賛成!」
と、哲平が声を上げた。「それからホテルへ行って――」
口をすべらした哲平が、あわてて手を口に当てた。
私は吹き出してしまった。
避暑地の出来事
「まるで、あれ[#「あれ」に傍点]みたいじゃない。ほら――」
と、令子は言った。
全くね、と清美は缶ジュースをちょっと持て余しながら、思った。令子って、「あれ」と言えば、何でも通じると思ってるんだから。
「だからさあ、あれ[#「あれ」に傍点]をあれ[#「あれ」に傍点]して――やっぱ、あれ[#「あれ」に傍点]じゃない?」
なんて言われて、まるで「虫食い算」みたいに、カッコの中を埋めて行かなきゃいけないというのは、いくら友だち同士でも|辛《つら》いものだ。
もちろん悪気はないのだ。そりゃ、令子とも長い付合いの清美である。よく分ってはいるのだが――。
時として|苛《いら》|々《いら》するのも確かだった。
「ほら、ほら――何だっけ」
令子は、何やら思い出そうとしている様子だった。
「ほら、人のいないキャンプ場か何かにさ、若い子たちが遊びに来て、わけの分んない殺人鬼が出て来てさ」
「分った!」
と、ユカが声を上げた。「令子が言いたいの、『十三日の金曜日』でしょ」
「そう、それ! ね、私たちも何となく似てるじゃない」
令子は車の窓から吹き込んで来る風に負けないように大声を出していた。
清美は、三分の一くらいは残ってしまった缶ジュースを、どうしようもないので、手に持ったまま、ふっと笑ってしまった。
「十三日の金曜日」か。
清美も、映画は好きだが、あの手の映画は好きじゃない。いや、怖いのがいやなんじゃないのだ。
怖きゃ怖いで、それなりに楽しい。あの手の映画の大半は、怖くもないのである。
ただ、「十三日の金曜日」をもじって、「十四日の土曜日」という映画ができたと聞いたときは、思わず笑ってしまったものだが。
「だけどさ――」
車の助手席で、長い足を持て余し気味にしていた隆一が振り向いて、「ああいうのって、やっぱ、|可愛《かわい》い女子学生が出て来なきゃいけないんだぜ」
「何よ! 何が言いたいのよ!」
と、令子が隆一をつっつく。
清美はちょっと笑っただけだった。
令子と隆一は恋人同士なのだ。要するにじゃれ合っているだけなのである。
――車は中古で、かなり凄い[#「凄い」に傍点]乗り心地だった。もう三時間以上座っているので、お|尻《しり》が痛くてたまらなかった。
夏とはいえ、この車、もちろん冷房なんてぜいたくな物はついていない。窓を開けておくと、|凄《すご》い風で、目を細めなくちゃいけないくらいだった。
どんどん後ろへ飛んで行く林。車は、山の中へ中へ――奥へ奥へと入って行く。
そう。おかしいくらい、私たち、「十三日の金曜日」みたいだわ、と清美は思った。
三人の女子大生――中道清美、「あれ」を連発する水田令子、そして、おっとりした井上ユカ。正確には、三人とも短大生である。一年生の夏休み。
短大となると、もう来年は「最後の夏」ということになる。
「好きなことできるの、今年だけよ」
いつも、かなり好きなことをしているように見える令子が、そう主張して、このキャンプが実現したのだ。
家には、「女の子だけ五人」と言って来てある。令子の所は、もう親も|諦《あきら》めムードらしいし、ユカは四国から上京して一人暮し。清美の所だけ、至ってやかましい(といっても、世間並だが)両親が|揃《そろ》っているのである。
でも、アンバランスな五人だった。
女の子三人と、男の子二人。
助手席の森田隆一は令子の恋人だが、ハンドルを握っている山中和宏は、別に誰かの恋人というわけではなかった。ただ、何となく頼りになりそうだったし、清美が、
「運転手みたいで悪いんだけど」
と頼んだら、
「いいよ。どうせ行く所なくて暇なんだ」
と引き受けてくれた。
隆一と同じ大学の、二年生だ。今はやめてしまっているが、一年のときはフットボールの選手で、大いに活躍したらしい。
もっとも、そのころ、清美は全然山中のことを知らなかったし、フットボールに興味もなかったから、女の子にキャーキャー騒がれていたとか、足を|挫《くじ》いたのがきっかけで、フットボールをやめてしまった、とかいう話も、隆一から聞いていただけである。
さすがに上背もあって、体格はがっちりしている。――隆一に紹介されて、初めて会ったとき、いやに山中が無口なので、清美はてっきり嫌われちゃったのかな、と思ったものだ。
でも、そうでもないらしい。
最近の大学生にしては珍しく、無口な男なのだ。
「――この缶ジュース、どうしよう」
いい加減生ぬるくなって、飲む気にもなれない。
「放り投げとけば」
と、令子が言った。
「いけないわ」
と、ユカが言った。「中身だけ窓から捨てて、缶は、ほら、このビニールへ入れなさいよ」
さすが独り暮しをしているだけあって、用意がいい。
「うん」
一組の恋人と、男一人に女二人。――妙な五人組だった。
向うへ着いたら、どうなるんだろ、と清美は思った。
古い別荘で、ろくに手入れもしていないというから、まず大掃除。でも、そんなとき、男の子は、たいていボケっとしているだけなのだ。
部屋がどうなっているか、行ってみなくちゃ分らない。
令子と隆一は同じ部屋にした方がいいのだろうか? でも、それじゃ、あんまり[#「あんまり」に傍点]かもしれない。
といって、夜中にノコノコ隆一の方が女の子たちの部屋へ忍んで来たりしたら、却って気になってしようがないし。
――ま、いいや。向うへ着いてから、考えよう。
清美は、性格的に(成績的[#「成績的」に傍点]にも)、何となくこの三人の中では、リーダー的な立場だった。別に、そこまで考えなくてもいい、と思うようなことも、つい先回りして考えてしまう。
損な性格なのかもしれない。
「――まだ大分かかるの?」
と、令子が言った。
「知らないよ。行ったことないんだからな、ともかく」
と、隆一が地図を広げる。
「もう少しだと思うよ」
と、ハンドルを握った山中が、口を開いた。
「その地図だと、あとせいぜい十分くらいだな」
「この地図が、当て[#「当て」に傍点]になりゃだけどな」
と、隆一は肩をすくめた。
「あんたが捜したんでしょう」
と、令子が隆一の肩をつつく。「無責任なこと言わないでよ」
――清美は、ジュースの缶を持った右手を、窓から出して、ジュースが車にかからないように、できるだけ手を伸した。缶を逆さにして中身を――。
「キャッ!」
と、清美は叫んで、手を引っ込めた。
「どうした?」
山中が素早く振り向いた。「停める?」
「いえ――いいの」
清美は、首を振った。「何でもないわ。大丈夫」
「そう?」
山中は、ちょっと気にしているようだったが、ともかくカーブの多い山道で、運転に集中していなくてはならなかったから、それ以上、何も言わなかった。
清美は、そっと左手を胸に当てた。――まだドキドキしている。
今のは、どうしたんだろう? 何かに手がぶつかったのかしら。
いや、そんなことはないはずだ。それに、ぶつかった、というのとは、はっきり違う感覚があった。
パッ、と缶を誰かが[#「誰かが」に傍点]奪い取った。本当に、そんな気がしたのだ。
でも――そんな馬鹿なことが。走っている車の、清美は後部座席の一番右に座っている。そして窓を開けて右手をぐっと突き出したのだ。
令子とユカは、おしゃべりをしていて、清美が声を上げたのにも気付いていない様子だった。
清美は、そっと息を吐き出した。――ちょっとびっくりしたが、でも、何でもない。
風のせいか、それとも、木の枝でも――小石か何か、前輪ではね飛ばしたのが、たまたま缶に当ったのかもしれない。
でも、あんなに|凄《すご》い力で、もぎ取るように……。
清美は激しく頭を振った。
変なこと考えないで! それこそ、「十三日の金曜日」じゃあるまいし……。
「やあ、きっと、あれだ」
と、隆一が声を上げた。
木立ちの向うに、黒ずんだ木造の二階家がうずくまるように見えていた。
「ああ、お|腹《なか》|空《す》いた!」
と、令子が大声で言った。「もう死にそうだよう!」
「ほら、運んで」
清美は笑いながら、ローストビーフの皿を令子に渡した。
「こんな重いもの持てない! 空腹で力が出ない!」
と騒ぎながら、令子は皿を手に台所を出て行った。
「――うるさいんだから」
と、清美は笑って言った。
「いいじゃない、にぎやかで」
ユカがサラダを盛りつけながら言った。
「ええと――ドレッシングはどうしよう?」
「自分でかけるようにしたら?」
「そうね。――じゃ、これでいいかな」
ユカは、手の甲で、額の汗を、ちょっと|拭《ぬぐ》った。
「ご苦労様。さすがに独り暮しね」
「これでも、家じゃ、役立たずって言われ続けてたのよ」
「私なんか、それじゃどうしたらいいの?」
と、清美は笑って言った。「さて、男たちを呼んで来なきゃ」
――実際、お腹が空いたと騒いではいるものの、令子はほとんど大したことはしていない。
別荘は、予想していたよりずっときれいで、みんなホッとしたのだが、やはり一通り掃除はしなくちゃならない。
それだって、一番こまめに動き回っていたのはユカだった。
令子は、ねえ、あの絵、素敵ね、とか、こんなもん見付けちゃった、とかよくしゃべるくせに、その実、ほとんど何もしていないのである。
清美は?――まあ、やる気はあるが、技術が伴わない、というところか。
もっとも、掃除、窓|拭《ふ》きに「技術」というのもおかしなものだが。
隆一と山中の二人は、壊れたドアを直したり、床板がめくれているのを、打ちつけたりしている。
サラダのボウルを食堂へ運んで行くと、清美は、週刊誌を見ている令子に、
「ねえ、森田君は?」
と声をかけた。
「二階。ドアがきしんでうるさいからって、油さしに行ったわ」
「そう。もう、夕ご飯にしよう。呼んで来てよ」
「うん。――これ読んだらね」
と、令子は顔も上げない。
清美は苦笑して、玄関の方へ出て行った。
山中が、さっき外へ出て行ったようだったからだ。
頭の上で、足音がした。――コツ、コツ、と歩き回っている様子。
隆一だろうか? 見上げていると、背後の階段に、足音がして、当の隆一が降りて来た。
「手が油だらけだ! これじゃ、令子に嫌われちゃうよ」
と顔をしかめている。
「ご苦労様。もう夕食にするわ」
「やあ、そりゃありがたいな!」
隆一が、浴室の方へ、手を洗いに行った。
コツ、コツ。――また足音。
じゃ、山中君、上にいるんだ。
清美は、玄関のドアの鍵をかけた。もう、外は暗くなっている。
もちろん、こんな人里離れた山の中、危険なことなんてないだろうけど、一応、用心に越したことはない。
大体、清美は何事にも慎重なたちである。
食堂に戻ると、相変らず令子は週刊誌を見ていて、ユカがせっせとテーブルを準備している。
「ほら、令子、あんた手伝いなさいよ」
と、清美は言った。
「はいはい。ごめんね、ママ」
と、令子がおどけて立ち上った。
仕度が終ると、ちょうど隆一が、顔を出す。
「おっ、|旨《うま》そうだな」
「ね、隆一、そこに座って」
と、たちまち令子が世話を焼き始める。
やってられないわね、と清美は首を振った。
「山中君は?」
と、ユカが|訊《き》く。
「二階じゃない? さっき足音がしてた」
「あら、いつ戻ったの? さっき外、歩いてたけど」
「そう?」
清美は大して気にもしなかった。
そうだ。コーヒーを|淹《い》れとこう。――清美はコーヒーがないと食事ができない。
食べながらでも、二、三杯は飲んでしまうのである。ちゃんと、コーヒーの粉をどさっと持って来てあった。
「いいわね、こういう山の中の小さな湖って」
「泳げないのかなあ」
「冷たいんじゃない?」
――令子たちの話を後に、清美は一人で台所へ入って行った。
お湯を沸かして、ドリップにペーパーフィルターを敷いて……。
――ふと、目が窓の方へ向いた。
|陽《ひ》が沈んだ方角には、最後の残照が、かすかに漂っていて、汚れたガラス窓越しに、この別荘の小さな庭と、その向うの木立ちを見分けられた。
そこに、誰かが立っていた。ほとんどシルエットでしかない、男の姿。顔は、全く見分けられなかった。
山中君かしら? でも――二階で足音がしていたのに……。
ドンドン、と玄関のドアを|叩《たた》く音がして、清美はハッとした。
「おーい! 締め出さないでくれよ!」
山中の声だ!
清美は、窓の方へ目を戻した。――もう、男の姿は、見えなくなっていた。
月明りが、こんなにまぶしいなんて……。
清美は、寝返りを打って、目を開いた。
ウトウトしてはいたのだが、つい、目を覚ましてしまう。
カーテンのない、一番端の部屋。
「いいわよ、私、ここで」
と進んで言った手前、文句も言えない。
時計を見ると、午前一時だった。
こんな山の中、大してすることもない。TVはないし、トランプか何か、三十分もやれば飽きてしまう。
十時ごろ、早々と順番にお|風《ふ》|呂《ろ》に入って、寝てしまったのだが……。
月明りが、まともに清美のベッドを照らして来るのだ。
「明日、何か布を下げよう」
と、清美は|呟《つぶや》いた。
損しちゃったな、全く。――これも性格か。
二階は、割合に小さな部屋に分れていて、大きなダブルベッドのある主寝室は、当然の如く、令子と森田隆一が使うことになった。
その向うの部屋を、山中。反対側、今、清美のいる部屋の隣を、ユカが使っていた。
「あんまり気分出されて、眠れなかったら、どうしよう」
と、ユカが、本気で令子たちのことを心配していた。
でも、別荘にしてはしっかりした造りで、壁もそう薄くない。たぶん、大丈夫でしょ、と清美は慰めておいたのだが。
――清美は、ベッドに起き上った。
無理に眠ろうとすると、ますます目が|冴《さ》えてしまう。
窓から、表を眺めた。
ちょうど、小さな湖が見渡せる位置で、月明りの下、湖――というより池に近い程度のものだが――は、薄い膜でも張っているように、穏やかだった。
静かだわ、と清美は思った。――都会なら、こんな風に、何の物音も聞こえて来ないなんてことは、まず考えられない。
――でも、と清美は、ちょっと|眉《まゆ》をひそめた。あの二階の足音は、誰だったんだろう?
そして、台所の窓から見えた、あの男は……。
どちらも山中でないのは、確かだった。外に出ていた、といっても、清美が、あの男の姿を見ているとき、山中は玄関のドアを|叩《たた》いていたのだ。
どうってことないんだわ。――清美は肩をすくめた。
足音のように聞こえたのは、たぶん、久しぶりに料理をしたりして、木がきしんで音をたてただけかもしれないし、表に立っていたのは、この近くの人……。
いくら、人里離れた、といっても、近くに人家がまるでないわけじゃないだろうし、清美たちのように、避暑に来ている人が、いたっておかしくない。
そう。――当り前のことなんだ。
ふと、笑い声が聞こえたような気がして、清美は振り返った。
甲高い笑い声。――もしかして、あれは……。
そっと、ドアを開けて、廊下に出る。
階段の下り口の所まで行くと、下の居間に明りが|点《つ》いていた。
「だってさあ……」
令子だ。何がおかしいのか、キャッキャと声を上げて笑っている。
「おい、聞こえるよ」
と、隆一の声。
二人して、下でシャワーでも浴びたのだろうか。
清美は肩をすくめて、そっと部屋に戻った。
ベッドに入ると、今度は、何となく、自然に眠りがやって来そうだ。
月明りに背を向けて、壁の方に体を向けて、目を閉じた。
――あれは?
目を開いた。
誰かが泣いている、押し殺した声で。
清美は、|頬《ほお》が熱くなるのを感じた。
そうじゃない。――愛されている女の声だ。ギッ、ギッ、とベッドが揺らぎきしむ音も聞こえる。
「ユカ……」
と、清美は|呟《つぶや》いた。
令子たちは、今、一階にいた。ということは――ユカと山中だ。
山中君が……。まさか……でも……。
清美は、胸苦しさに、キュッと目をつぶった。
知らなかった! 山中君とユカが……。
ああ、やめて。やめて。
清美は、両手で耳を力一杯ふさいで、叫び出したい気持を、必死でこらえていた……。
「――清美、どうしたの?」
声をかけられて、初めて清美は、そこにユカが立っているのに気付いた。
「あ、ユカ」
清美は、無理に笑顔を作った。「一緒に行ったんじゃなかったの?」
清美は、湖のほとり、倒れた太い木の幹をベンチ代りに、腰かけて、静かな湖面を眺めていた。
「うん……」
ユカは、清美と並んで、木の幹に腰をおろした。「だって――何だか気になって」
「どうして? 私に気をつかわなくたっていいじゃない。友だちでしょ」
「だから、よ」
ユカは清美の顔を見つめて、「何だか変よ清美」
「そう?」
「いつもなら、先頭切って、あちこち動き回るのに、ここへ来てから、何だか元気ないじゃない。――どこか具合でも悪いの?」
「別に」
と、清美は肩をすくめた。
令子たちは、「探険」と称して、この近くの古い別荘を見に行っている。
かつては、結構別荘地として、にぎやかだったらしいが、大手の企業が開発から手を引いて、すっかりさびれてしまった、ということだった。
だから、利用する人もなく放ってある別荘が、この他にも、いくつか建っているのだ。
「私、困っちゃうのよ」
と、ユカが、顔をしかめて、「だって、令子は森田君とベタベタしてるでしょ。山中君と私じゃ、話もできないんだもの」
清美は、ちょっと笑みを浮かべた。――ユカったら、私が何も知らないと思ってる。
「そんなことないでしょ」
「そんなことって?」
「ユカは山中君とお似合いよ」
ユカは、ちょっと面食らったように、
「私が? どうして?――山中君、清美のこと、|凄《すご》く気にしてるのよ。さっきだって……」
ユカは、ちょっとためらってから、息をついた。「いいわ、言っちゃう。山中君に頼まれたの」
清美は、|眉《まゆ》を寄せた。
「何を?」
「清美と話してみてくれないかって。心配してるのよ。『よっぽど嫌われてるみたいだ』って、苦笑いしてた。――清美、山中君のこと、嫌いなの?」
ここまでとぼけられると、清美も腹が立って来た。何も好きこのんで、一人でいるわけじゃない。ユカと山中の間を邪魔したくないと思っているのだ。それなのに――。
「あのね、ユカ」
清美は、立ち上って言った。「知られたくないんだったら、あのときに、あんまり声を上げないようにしなさいよ」
そして、一人足早に別荘へと戻って行った……。
その日の夕食は、何とも陰気なものになってしまった。
いつもなら、令子が一人ではしゃいで、隆一がそれに合わせるのだが、今日は、昼間、|喧《けん》|嘩《か》をしてしまって、お互い、むくれていた。
清美も山中も口をきかず、ユカはユカで、ふさぎ込んでいる、という状態。
ただ黙々と食事をしていた五人だったが……。
「――冷えてるじゃないか、このスープ」
と、隆一が文句を言った。
「あんたにはピッタリよ」
と、令子が言った。
――急に、ユカが泣き出した。肩を震わせ、声を押し殺して、泣き出したのである。
「ごめん――私――」
と、途切れ途切れに言うと、|椅《い》|子《す》を倒して、立ち上り、台所へと駆け込んで行ってしまった。
山中が、大きく息をついた。
「――参ったな」
そして、他の三人を見回して、「もう帰るか」
と言った。
隆一と令子が、顔を見合わせる。
「――私のせいよ」
と、清美が言うと、山中が、当惑したように、
「君のせいって?」
「私がつい――言い過ぎたの」
清美は首を振って、「でもね、山中君、あなたもいけないわよ」
と言ってやった。
「いけないって、何がだい?」
「ユカとのこと、どうして隠すの? はっきりしてあげなきゃ、ユカが|可哀《かわい》そうじゃないの」
山中が、|呆《あき》れて、
「ユカとのこと?――おい、何の話をしてるんだ?」
「とぼけないで。ちゃんと聞こえてるのよ。いくら壁がしっかりしてたって」
「待てよ。おい……」
山中は、じっと清美を見つめて、「つまり、僕が井上君と――」
「ええ、そうよ」
令子と隆一も、これにはびっくりしたようだった。
「――誓うよ」
山中は大真面目に言った。「僕と彼女の間には、何もないぞ」
「|嘘《うそ》ばっかり!」
「本当だ。森田に|訊《き》いてみろよ」
「おい――俺だって、そんなこと――」
と、隆一は困ったように、「でも、そんな話、聞いたことないな」
「だって、私、毎晩聞かされてるのよ、ここへ来てから」
「毎晩だって?」
山中が、隆一を見た。
「そりゃ、何かの勘違いだよ」
と、隆一が言った。
「そんなはずないわ。だって、ちゃんと隣の部屋から聞こえるのよ。――ユカの声が」
「それ、ゆうべも?」
と、令子が|訊《き》いた。
「そうよ」
「じゃ、おかしいわ」
「どうして?」
「ゆうべ、私たち、夜中に山中君に怒られたのよ」
「あんまりうるさいからさ」
と、山中が顔をしかめて、「一人で寝てる身にもなってみろって、怒鳴ってやった」
「つまり、山中君、自分の部屋に、ずっといたっていうの?」
「そうだよ、毎晩、一歩だって、部屋から外へ出ちゃいない」
「そんな……。じゃ、私が聞いてたのは、何なのよ?」
――誰も、答えなかった。
「きっと空耳よ」
と、令子が言った。「清美、欲求不満なんじゃない?」
「おい」
隆一が、令子をつつく。
――清美はしばらく令子をにらんでいたが、やがて、吹き出してしまった。
「ひどいこと言うわねえ! それでも友だち?」
ホッと、空気が|和《なご》んだ。
「信じてくれるかい?」
と、山中が訊く。
「そうね」
清美は、ちょっと考えてから、「信じてあげるわ」
と言った。
「恩着せがましいなあ」
「そりゃね、恩を着せてるんだもの」
と、清美は言った。「それに、山中君は、そんなに|嘘《うそ》がつけるほど、演技力、ないもんね」
「言ったな! これでも高校じゃ演劇部だったんだぞ」
「へえ。何の役をやったの?」
「もちろん、ハムレットとかロミオとか――」
「嘘つけ」
と、隆一が言った。「ハムレットのときは、こいつ、嵐の場面で一生懸命船を揺らしてたんだぜ」
「ばらしたな! この裏切り者!」
山中が、隆一に襲いかかるふりをする。
令子が大笑いした。清美も。そして――いつの間にか、そこに立っていたユカも、笑っていた。
さっきの重苦しいムードが嘘のようだ。
「ユカ。――まだ、ご飯、途中よ」
と、清美が言うと、ユカは、
「うん」
と、|肯《うなず》いて、食卓に戻って来た。
「ごめんね。私の誤解だったわ」
「いいのよ」
ユカは|微笑《ほほえ》んで、「でも、山中君と恋仲になるなんて、すてきな誤解されて、|嬉《うれ》しいわ。これが森田君だと考えちゃうけど」
「あ! それはないだろ!」
隆一がオーバーに嘆いて見せる。
「ほら見なさいよ。相手になったげてる私を、ありがたいと思いなさい」
令子が、ぐっと胸をそらした……。
にぎやかな夕食になった。
清美も、まだスッキリと納得できたわけではなかったが、ともかく、この雰囲気が戻って来たことは、素直に喜んでいた。
でも、ただの空耳にしては、あまりにはっきりと聞こえていた。
まさか。――まさか、本当に「欲求不満」のせいじゃ……。
いやだわ! 冗談じゃない!
清美は、勝手に真赤になった。
――その夜、清美は、何も聞かずに、眠りに落ちた。
その家は、正に、「荒れ果てて」いた。
「こりゃ|凄《すご》いや」
と、隆一が言った。
「幽霊屋敷ね」
と、令子が楽しげな声を出す。
なに、令子だって、これが真夜中だったら、近寄りもしないに違いないのだ。
こんなに上天気の、|陽《ひ》が一杯に照っている昼間だから、平気でいられるのである。
確かに、幽霊が住みついていたって、一向におかしくないような、荒廃した家だ。
「ずいぶん長いこと、放っておかれたんでしょうね」
崩れた石垣の前に立って、ユカが言った。
――ここは、五人がいる別荘から、歩いて十分ほどの所である。
隆一たちは、もっと遠くまでも行ったことがあったのだが、近くのこの家は見落としていたのである。
一つにはすっかり木や草が、その家を覆い隠してしまっていたからだった。
ちょっと見たところでは、家があることなど分らないのだ。
見付けたのは令子で、それも全くの偶然だった。
湖のほとりで、隆一と追いかけっこをしていて、その木立ちの奥へと駆け込んだら、そこにその家があった、というわけである。
「もう、何十年もたってるんだろう」
と、山中が言った。「よく壊れないもんだな」
木造の、古びた家で、壁はあちこちはげ落ちて、床板も抜けたり、柱が折れかかったりしている。
屋根も少し傾いているようだった。
「ちょっと指で押したら、|潰《つぶ》れそう」
と、令子が言った。
「まさか」
清美は笑って、「押してみる?」
「中へ入ってみよう」
と、隆一が言い出した。
「いやよ、気持悪い」
令子が顔をしかめた。
「危いんじゃない?」
清美の言葉に、隆一は笑って、
「いくら何でも、家だよ。そう簡単に壊れないよ」
「そうかしら」
「じゃ、一人で入って」
と、令子が、隆一を押してやる。「無事だったら、私も行くから」
「へえ、怖いんだろ」
「怖いわよ。当り前でしょ。かよわき女ですもの」
「どこがかよわい[#「かよわい」に傍点]んだよ」
と、笑って、「オーケー。いざ、探険隊、出発!」
「おい、けがしたって知らないぞ」
山中の言葉が、耳に入ったのかどうか、隆一は、その家――別荘というより、普通の家という感じだった――の方へと歩いて行った。
「――ちゃんと開くぜ、ほら」
隆一が、玄関のドアを開けた。かなり、きしんだ音はたてているが、ともかく、開いて来る。
「何か出て来ない?」
と、令子が声をかける。
「フランケンシュタインとドラキュラが、にらめっこして遊んでるよ」
と、隆一はおどけて見せて、中へ入って行った。
「|呑《のん》|気《き》な人ね」
と、清美は笑った。
「度胸があるのは、女の子に見られてるときだけさ」
と、山中が言った。
「でも――どうして、こんな風になっちゃったのかしらね」
と、ユカが言った。「他の所は、一応ちゃんとしてるじゃない」
「もともと古い家だったんだろう」
山中が家全体を眺め回して、「それに、他の別荘は、一応、閉めるときに、きちんと、窓に板を打ちつけたりしてる」
「あ、そうか」
清美は|肯《うなず》いて、「それで、ちょっと違って見えるのね。変だと思った」
「じゃ、きっと、持主は、もうどうなってもいいと思って、放っといたのね」
と、ユカは言って、「何だか――家が哀れね」
と、独り言のように呟いた。
家が哀れ、か。
本当に、ユカって、やさしい子なんだ。
正直なところ、山中君には、ユカの方が似合うかしら、なんて、清美は考えていた。でも、|却《かえ》って、清美とユカは、お互いを意識して、山中と、特別に親しくなろうとしないでいたのだったが――。
しばらく待っていると、隆一が、玄関の所へ姿を見せた。
手に何か、紙きれのようなものを持っている。
「おい、こんなものが――」
と、手を上げて見せたとき、突然、屋根が、バリバリ、と音をたてた。
「危い!」
と、みんなが一斉に叫んだ。
しかし、動き出すより早く、朽ちた屋根が、一気に崩れて、|凄《すご》い|埃《ほこり》が舞い上った。
「――隆一!」
令子が悲鳴を上げる。
「近寄るな!」
山中が、怒鳴る。「危いぞ! まだ崩れて来るかもしれない」
山中は、猛然と駆け出して行き、|潰《つぶ》れた屋根の板をけちらした。
「森田!――森田!」
柱をかかえ上げ、裂けた板を押しのける。
清美は、息を殺して、じっとそれを見つめていた。
目の前で起ったことが、まだ信じられなかったのだ。
まるで大きな、見えない手で、ぐいと押し潰されたようだった。
見えない手[#「見えない手」に傍点]。
そう。――清美の手から、缶ジュースを奪い取った何か[#「何か」に傍点]のような。
――すると、板が一枚、ヒョイとはね上って、隆一が立ち上った。
「おい、埃だらけだよ!」
と、|咳《せき》込む。
「隆一!」
令子が、さすがに駆け寄って行った。
「――おい? 大丈夫か? けがはないのか?」
山中が腕を取って引張り出す。
「うん。――どこもけがしてないみたいだよ」
隆一は、やっとこ脱け出して、歩いて来たが、埃をかぶって真白になっている。
「運が強い奴だな」
と、山中が感心した。「死んじまったかと思ったぞ」
「残念ながら、俺は長生きするんだ。手相を見てもらったとき、そう言われた」
隆一は頭を振って、|埃《ほこり》を落とした。
「長生きするぜ、全く」
と、山中は苦笑した。「ともかく、別荘に戻ろう」
「ああ」
「隆一、何持っているの?」
「え?――あ、これか」
隆一が持っていたのは、古い新聞紙だった。
「どうしたの、それ?」
と、ユカが訊く。
「中が空っぽでさ、何だか、この新聞が、ポツンと一つ、意味ありげに置いてあったんだ。だから取って来た」
「|呆《あき》れた」
と、令子がにらむ。「古新聞一枚で、命を落とすところだったのよ」
「それも人生さ」
と、隆一が、気取って言った。
「――ああ、さっぱりした」
シャワーを浴びて、隆一が居間へ入って来た。
「はい、コーヒー」
と、令子が、カップを差し出す。
「おっ、感激だなあ。今日だけだろうけど」
――清美は、テーブルに広げた古い新聞を、じっと眺めていた。
「あそこが、どうして放っておいてあるのか、分ったわ」
と、清美は言った。
「何の話だい?」
と、山中が言った。
「これ、地方新聞よ。この辺の記事だけがのってる。――ほら、ここに写真が出てるわ」
と古ぼけた写真を指さす。「これ、さっき|潰《つぶ》れた家だわ。石垣が同じだもの」
「あそこが?」
「ええ、ほら」
山中は、写真を|覗《のぞ》き込んで、
「なるほど」
と肯いた。「それで、あそこが何だって?」
「老人が住んでたんですって」
と、清美は言った。「六十二歳。――奥さんを、ずっと早くに亡くして、一人で住んでいたのよ。その老人が、六十歳のとき、再婚したのね。相手は三十二歳の未亡人」
「若いな」
と、隆一が言った。「分った。お定まりの――」
「奥さんの浮気?」
と、令子が目を輝かせる。
そういう話は大好きである。
「本当にお定まりで、いやになるけど、その通りよ」
と、清美は言った。「近くの別荘の管理をしていた若者と恋に落ちて、奥さんは老人の目をかすめて、会いに行っていた……」
「年寄りの目をかすめるなんて、できっこないわ」
と、ユカが言った。「ともかく眠りが浅いし、物音にも敏感なもんなのよ」
「へえ、よく知ってるわね」
「ずっと田舎で、一緒に暮してたもの」
「で、どうなったの?」
と、令子が身を乗り出す。
「ある日、――奥さんと、その若者の姿を消えた、とするわ」
「|駈《かけ》|落《お》ち?」
「最初はみんな、そう思ったみたい。でも、その内、奥さんの身内や、男の方の|親《しん》|戚《せき》が騒ぎ始めた。お金も、服も、何一つ持って行っていない、っていうのね。そんなこと、考えられないって」
「ふーん」
山中が考え込んで、「じゃ、もしかして、その老人が……」
「老人は警察で取り調べを受けたんですって。どうも老人が二人を殺したんじゃないかと疑ってたらしいわ」
「そりゃそう思うだろ」
「でも、この付近を捜索しても、それらしい|痕《こん》|跡《せき》はなく、死体も見付からない。――湖に沈めたのでは、と、底をさらう準備をしている最中、突然、老人が自分の家で首を|吊《つ》って死んでしまった……」
令子は肯いて、
「やっぱり、殺してたんじゃないの?」
「遺書も何もないので、分らないらしいわ。――結局、湖の底からも、死体は上らなかった。二人の行方は知れないまま迷宮入りになろうとしている……」
――少し、沈黙があった。
「じゃ、あの家で、その|爺《じい》さん、首を吊ったのか」
と、隆一が言った。「それ知ってたら、絶対入らなかったぞ」
「もう一つの別荘って、どこ?」
と、ユカが|訊《き》いた。
「書いてないわ。写真も出てないし」
「ここ[#「ここ」に傍点]じゃないでしょうね」
令子が、ゾッとしたように周囲を見回す。
「そういえば、例の|謎《なぞ》の声――」
「よせよ、森田」
と、山中がにらんだ。
「残念ながら、ここじゃないわ」
と、清美は笑って、「この記事だと、地下室があることになってるもの。ここ、地下室なんてないじゃないの」
「そうか、残念!」
と、隆一が、指を鳴らした。
「もし、ここだったら、逃げ出すくせに」
と、山中がからかう。
「逃げ出すもんか。――引き上げるだけさ」
「馬鹿ね」
令子が、隆一の肩を抱いて、「――ちょっと、夕食まで二人で休憩[#「休憩」に傍点]して来るわ。いいでしょ? 命拾いしたんだもの」
「お好きなように」
と、清美は言った。
どうせ令子がいたって、夕食の仕度はユカと清美がやるのだから、同じことなのだ。
「――さて」
と、山中が、伸びをして、「ここも、あと二日だな」
「|可哀《かわい》そうね」
と、ユカが言った。
「え?」
清美が振り向くと、ユカは、窓辺に立って、外を見ていた。
「その老人。――きっと、奥さんを死ぬほど愛してたのよ」
「そうね」
清美は、|肯《うなず》いた。
ふと――ここへ着いた日、台所の窓から見えた男のことを思い出した。
今思うと、あれは、少し足の不自由な、背中のやや曲った、老人のように見えた……。
いや、ただ、そんな気がするだけだろうか。
この記事を読んだから?
そう。――きっと、そうだ。
清美は自分にそう言い聞かせた。
ユカは、手を休めて、額の汗を|拭《ぬぐ》った。
「――もうお昼か」
仕事をしていると、時間のたつのが早いこと。
そう。私は、本来、遊んでるより、働いている方が、性に合ってるんだわ。
ユカは、一人で別荘に残って、掃除していたのである。今日は帰るのだ。
飛び立つ鳥は後を濁さず――というのは、ちょっと古いかな。でも、ユカは、きちんと掃除しないと、気が済まないたち[#「たち」に傍点]なのである。
他の四人は、湖の方へ出ている。
別に、ユカが仲間外れにされたわけではなかった。朝の内、頭痛がして、出る気になれなかったのである。
清美は、心配して、
「私も残ろうか」
と言ってくれたが、ユカが、気にしないで行って、と頼んだのだ。
|却《かえ》ってユカが気をつかうと思ったのか、清美も山中と一緒に、出かけて行った。
少し休んで、頭痛も治ったので、ユカは思い立って掃除を始めたのである。
そうして体を動かしている方が、ユカは調子がいいのだ。
「貧乏性なのね」
と、我ながらおかしくて、ユカは笑った。
そうね。――もともと、男二、女三人というアンバランスな組合わせだった。
どうしたって、一人余るのだ。そして、いつも、それはユカの役割なのである。
清美と山中。――いい取り合わせだ。
ちょっと胸が痛んだ。
もちろん、初めっから無理なんだけど――それは分っているけど、でも、分っていても、押えられないのが、恋心というものだろう……。
でも、いい。私は私に似合った役をやるしかない。
ユカは、廊下を歩いて行った。
「キャッ!」
と、声を上げたのは、何かにつまずいたからだった。
バリッ、と音がして――骨が折れたわけじゃなかった。床板の、少しめくれていたのが、ユカが|爪《つま》|先《さき》を引っかけて、割れてしまったのだ。
「いやだわ……。ぼんやりしてるから」
と、|呟《つぶや》いて、割れた所へかがみ込んだのだが……。
割れ目の下に、空間[#「空間」に傍点]が|覗《のぞ》いていた。――顔を近づけると、カビくさい|匂《にお》いがする。
何だろう? ユカは、割れ目に指を引っかけて、少し持ち上げてみた。
すると――一メートル四方くらいの床板が、持ち上って来たのである。
ユカは、驚いて、言葉も出なかった。
|蓋《ふた》のようになっているのだ。――持ち上げてみると、下へ降りる階段がある。
「地下室があるんだわ……」
と、ユカは呟いた。
下は、ほの暗かった。真暗ではない。でも、何があるのか、ユカの目には見えない。
それでいて、何か[#「何か」に傍点]があることは、分った。
この下に、何かがある。
思い出した。あの、古新聞にあった記事のことを。
この別荘に、地下室があった!――そうだ。あの、姿を消した男が管理していたのは、ここだったのに違いない。
ユカは、じっと地下の暗がりを覗き込んでいた。――何か、動くものが見えたような気がした……。
清美は、別荘へ入ると、まず二階へ行って、ユカの部屋を|覗《のぞ》いた。
「ユカ。――何だ、起きたのか」
ベッドに、ユカの姿はない。
ユカの具合が気になって、一人で戻って来たのである。
「ユカ。――どこ?」
と、階段を降りながら、清美は呼んだ。
下りたところで、清美はハッとした。
コツコツコツ。――頭上に、あの足音が聞こえた。
でも、一瞬だった。すぐにそれは消えた。いや、それとも空耳だったのか。
ふと、清美は不安に|捉《とら》えられた。
「ユカ。――ユカ!」
と大声で呼ぶ。
返事はなかった。廊下へ出てみて、ハッと足を止める。
ポッカリ、と床板が四角く開いて、そこに穴がある。
近付いてみて、清美は、そこが地下室への下り口だと知った。
やっぱり。――やっぱりそうだったのか。
ここが、あの[#「あの」に傍点]別荘だったのだ。
清美は、しゃがみ込んで、
「ユカ。――いるの?」
と声をかけた。
返事は、やはり、なかった。
清美は、少しためらってから、階段を、用心深く下りて行った。
どこに開いているのか、小さな明り採りの窓があって、うっすらと地下室を照らしている。
その、薄暗がりの中に、清美は、積み上げられた家具の山を見た。――何だろう、これは?
|埃《ほこり》っぽい|匂《にお》いで、むかつくようだった。
それだけではない。何か、別の匂い、どにか無気味な空気を、感じた。
「ユカ……」
と、つい、低い声での|囁《ささや》きになる。
不意に、そこにいるユカに気付いた。
|椅《い》|子《す》に、座っている。古ぼけた椅子に、きちんと腰かけて、じっと清美を見ていた。
「ユカ! いたの。――良かった!」
清美はホッとして「早く出よう。気味悪いじゃないの」
と促した。
「いいえ」
と、ユカは言った。
「いいえ、って――ユカ、どういうことなの?」
「私、ここにいるわ」
ユカは、静かな声で言った。
「こんな所に?――でも――」
「この家具はね、あの老人のものなのよ」
清美は、ゆっくりと、積み上げられた家具を見渡した。
そうか。――だから、あの家は、空っぽだったのだ。
「あの老人は、寂しかったのよ」
と、ユカは言った。「奥さんを本当に愛していたのに、裏切られて、悲しかったのよ」
「ユカ……」
「でも、奥さんのそばで、死ぬわけにはいかなかった。――だから、自分の|匂《にお》いのしみ込んだこの家具を、ここへ運び込んだのよ。せめて、家具だけでも、奥さんのそばに置いておきたかったから……」
「ユカ。――しっかりして!」
まともじゃない。やっと、清美はそれに気付いた。
「奥さんと、恋人の二人は、ここ[#「ここ」に傍点]にいるわ」
「ここに?――地下室に?」
「いいえ」
と、ユカは首を振った。「二人一緒になんて。――だめよ。二人を別々にしなくては」
「じゃあ……」
「奥さんは、この足の下に」
と、ユカは言った。「男は、二階の壁の中に、塗り込めてあるわ」
清美は身震いした。――あの声は、あの悲しげな女の声は……。
「ユカ! 目を覚まして! あなた、夢を見てるのよ!」
清美は絶叫した。
「行って」
と、ユカは言った。「私はここ[#「ここ」に傍点]に残るわ」
「何ですって?」
「寂しい老人を、一人で残して行けないわ。私が、彼の妻になってあげる」
「馬鹿言わないで!」
清美は、ユカの手をつかんで引張ろうとした。――ハッとして、手を離した。
その手の冷たさ[#「冷たさ」に傍点]。生きている手ではない。
「ユカ……」
清美は頭をかかえた。「ああ――何てことに――」
ザーッ、と、細かい雨のような音がしたと思うと、頭上に、砂のようなものが降り注いだ。
「早く出ないと、あなたも生き埋めになるわよ」
と、ユカは言った。「早く出て」
「出るんだ!」
山中の声が、鋭く飛んで来た。
「山中君! ユカが――」
「今、聞いてた。君は出ろ」
「でも――」
「早く出て、別荘から離れろ」
「山中君――」
「早く!」
清美は、駆け上って、廊下へ出ると、出口へ向かって走った。
「――あなたは逃げないの」
ユカが、下りて来た山中へ、言った。
「君が来るなら、逃げる」
と、山中は言った。
「私はここにいるわ」
「それなら、僕もいる」
「あなたは死ぬわよ」
「いいとも」
山中は、真直ぐに、ユカを見つめた。「僕は君が好きなんだ」
ユカが、目を見開いた。
落ちて来る砂が、量を増した。
「――どうしたの? ねえ!」
令子が叫んだ。「ユカは? 山中君は?」
清美は、答えなかった。
どう答えたらいいのだろう?
別荘の外に、三人は立っていた。
「崩れるぞ」
と、隆一が言った。
別荘が、身震いしていた。屋根が、へこんだ。――あちこちが、バリバリと裂け始めている。
「地下室が――」
と、清美は言った。「|潰《つぶ》れて行くのよ」
「でも――ユカと山中君――」
「分らないわよ、私にも!」
清美は叫んだ。
分っていたのだ。――山中が、ユカを選んだことが。たとえ、一緒に下敷になっても、だ。
「――出て来た!」
と、隆一が叫んだ。
砂埃の中から、山中が、ユカを抱きかかえて駆け出して来た。
「山中君!」
清美が駆け寄る。――そのとき、別荘が、まるで、大きなマッチ箱をつぶすように、メリメリと音をたてて、傾き、崩れて行った。
――白い|埃《ほこり》が、しばらく、霧のように漂っていた。
「ユカ……」
清美は、声をかけた。
「清美」
ユカが、眠りから覚めたように、目をパチクリさせている。「――どうしたの?」
「どうってことじゃないのよ」
と、清美は|微笑《ほほえ》んで、言った。「ただ、あなたに恋人ができたってこと」
ユカの|頬《ほお》に朱がさした。
清美は、ユカの手を握った。――その手のぬくもりが、清美さえもあたためるようだった。
恋人たちの森
「ねえ! やだよ、こんな所じゃ!」
と、ケイは文句を言った。
「うるせえな。言っただろ、金ねえんだからさ」
と、言ったのは、ケイの「恋人」正志である。
正しい志、と、親は夢を託してつけた名前だろうが、どうもその希望よりは大分後退した線で、毎日を送っていた。
現に、今だって――夏の夜、やがて十一時になろうとしていた――正志の頭にあるのは、ケイとラブ・シーンを演じるのに、どこかいい場所はないか、ということだけだったのだ。
正志が十七歳、ケイが十六歳なのだから、あまり|微笑《ほほえ》ましいといって言られる関係ではない。実際、正志は、チンピラヤクザの兄貴[#「兄貴」に傍点]のアパートに転り込んで、スーパーだの商店街の店先だので、食い物を万引きして来るという、何とも「カッコ悪い」仕事をしていた。
ケイだって、その点、似たようなもんだ。
「お金、できたときにしようよ」
と、ふくれっつらをしているが、それでもポチャッとした、なかなか|可愛《かわい》い娘である。
「待てよ。その奥にさ、ちょっと目につかない場所があんだよ」
「へえ、正志、詳しいのね」
と、ケイが皮肉ると、
「馬鹿!――兄貴から聞いて来たんだ」
ろくなことを教えない兄貴である。
夜のT公園。
寒い冬のさなかを除けば、ほぼ一年を通じて、アベックの名所である。
特に、夏は、木や草が繁って、恋人たちを隠してくれるので、大変な混雑[#「混雑」に傍点]だった。ベンチなど、まだ明るい夕方の内から「満席」で、予約しておくというわけにもいかないから、ケイと正志のように、遅れて来たカップルは当然座る場所などないのである。
「――そこの街灯の下が、穴場なんだ」
と、正志が木の間をかき分けて行くと、
「キャッ!」
胸をはだけた女が飛び起きた。
「何だよ、てめえは!」
ヒョイと起き上ったのは、どうも相手にはしたくない強そうな奴で、
「あ――ご、ごめん」
と、正志はあわてて逆戻りした。
「先客だったの?」
ケイは、ジーパンのポケットに手を突っ込んで、言った。
「畜生! 何だってこんなにアベックばっかりいやがるんだ!」
正志がグチると、ケイは笑い出してしまった。正志がむくれて、
「何がおかしいんだよ!」
「だって、私と正志だって、アベックじゃない。人のこと言えないよ」
「|俺《おれ》たちは違う!」
と、正志はむきになって言った。
「じゃ、何よ?」
「ん?――俺たちは――恋人だい」
ケイは、でも、その正志の言葉が|嬉《うれ》しかった。アベックじゃなくて恋人。
そうよ。はたから見りゃ、あの辺のベンチで抱き合ってる二人とちっとも変んないかもしれないけど、私は本当に[#「本当に」に傍点]正志が好きなんだから……。
「――もう|諦《あきら》めたら?」
散々歩き回って、もう空いてる所といえば、何もない芝生の上しかない、ということが分った。そこにだって、寝転がって抱き合ってるカップルがいたが、いくら何でも、ケイも正志もそれほどの度胸はない。
「うん……」
正志は諦め切れない様子だ。
正直なところ――ケイと正志は、「恋人同士」とはいったものの、まだ一度も寝たことがない。いつも、グループぐるみの遊びや付合いで、二人きりになることは、めったにないのである。
それが今夜は珍しく、早々に二人きりとなり、少々アルコールも引っかけて、いいムードになった。ところが、もともと懐の乏しかった正志は、飲み代を払ったらスッカラカン。ケイも、ホテル代など持っていない。
かくて二人はこの「屋外無料ホテル」へと足を運んで来たのだ。
「正志のアパート、だめなの?」
と、ケイが言うと、正志はあわてて、
「とんでもないよ。兄貴、年中、違う女を連れ込んでるんだ。そんな最中に帰ったりしただけでも、ぶん殴られちまう。俺が女の子なんか連れてったら……」
「ふーん」
ケイは口を|尖《とが》らした。「だけど、ずいぶんね。いつも正志が食べるものとか万引きしてるんでしょ? たまには部屋ぐらい使わしてくれたっていいのにね」
「そうはいかねえよ。兄貴は兄貴なんだ。命令にゃ服従さ」
もちろん、本当の兄というわけじゃない。ただ、ちょっとしたことで知り合ったチンピラなのだが、ケイから見ると、正志をいいようにこき使っているだけみたいだ。
でも、それは正志の問題なのだから……。
「じゃ、もう帰ろうよ」
と、ケイは正志の腕を取った。
「だけどさ、もうちょっと歩いてみようぜ。な?」
「もう一回りしちゃったじゃない。これ以上歩いたって――」
言いかけて、ケイは足を止めた。――目の前に、誰かが立っていた。
ちょうど、街灯の光が立木で遮られた場所で、相手はぼんやりとした影でしかない。
「何だよ。何か用か?」
と、正志がにらむ。
「場所を捜してるのかね」
低い、男の声だった。――若い男、という感じではなかったが、話し方のせいでそう思えたのかもしれない。
「お前の知ったことかよ」
と、正志は、ケイの腕をつかんで、「さ、行こうぜ」
と、歩きかけた。
「その先が|空《あ》いてるよ」
と、その男が言った。
「ええ?」
正志が|訊《き》き返す。「何て言ったんだ?」
「その右手に、いい場所があるよ。行ってみな」
変らぬ低い声で言うと、その男は、ゆっくりと歩いて行った。
ケイは振り返って、その男の後ろ姿を見送った。
「――何だか気味悪いね」
と、ケイは言った。
「その右だって言ったな」
「行くの?」
「ものはためしだ」
「でも……」
ケイは、気が進まなかった。「何か、今の人、変だったよ」
「妙な奴がいるもんさ、こんな所にゃ」
「でも――黒いコート着てた。この真夏に」
「いいじゃねえか。|覗《のぞ》くだけ、覗いてみようぜ」
ケイは、あまり気が進まないままに、右手の茂みの奥へと入って行った。
「――へえ! こりゃいいや」
正志は、声を上げた。
そう。――高い茂みに囲まれて、ポカッと草地が空いているのだった。
しかも、街灯の光が、ほどほどに|射《さ》し込んで、真暗でもないが、といって覗き屋に覗かれるほど明るくもない。
「なあ、ここならいいだろ? ちゃんと下にジャンパー敷いてさ」
「うん……。でも……」
ケイは、もちろん正直、ちょっと不安でもあったのだが、今は、むしろあの妙な男のことの方が気になっていた。
「なあ……」
正志がケイを抱きしめてキスする。――ケイは、ちょっと|身《み》|悶《もだ》えしたが、じっと抱かれていると、もともとそうなってもかまわないという気持でいたのだし……。
「蚊に刺されないかなあ」
と言いながら、草地に腰をおろした。
「――救急車だ」
と、哲平が言った。
「パトカーよ」
ウトウトしながら、私は訂正した。
「――何かあったのかな」
「東京は、いつも何かのサイレンが聞こえてる町だわ」
私は、頭を振って、少しスッキリさせると、
「さあ、もう出ましょうよ」
と言った。
「泊らないの?」
「あなた、泊って行けば? 私は今夜、レポートを見ないとね」
私は、ゆっくりとベッドに起き上った。
――私の名は宮島令子。J大学社会学科の助教授をつとめている。
ホテルのベッドの中で「特別講義」を受けていたのは、助手の佐々木哲平である。もちろん、三十五歳になる私よりぐっと若い、二十七歳。
単純素朴というか、人の良さが取り柄の恋人[#「恋人」に傍点]である。
助教授と助手という関係だからといって、付合いを無理強いしていると思われては困る。――この関係はあくまで大学外のもの。ちゃんとけじめはつけている。
要するに私の年上の魅力に、哲平が参っているだけのこと――とは、自分で言うことじゃないかもしれないが。
先にシャワーを浴びて出て来ると、哲平の方は、またぐっすりと眠り込んでしまっている。
ま、起こすこともないか。支払いも済んでいるし。
「明日は、と……」
私は服を着ると、バッグから手帳を出して、めくった。
「講義は午後だけね」
それなら、哲平をまだ寝かせておいても大丈夫だ。
ベッドのわきの目覚し時計を朝の十時に合わせてセットし、そっと部屋を出た。
そろそろ夜中――十一時半になるところだ。帰って、レポートに目を通し、採点しておかなくては。
充分に運動[#「運動」に傍点]して、体がほぐれたせいか、大いにやる気になっていた。
タクシーを拾おうと歩いて行くと、後ろからサイレンの音が近付いて来る。今度は救急車だ。
ちょうど、すぐわきが病院の救急入口で、そこへ入るのだろう。
救急車は、見ていると、やはりその入口を曲って中へ入り、停った。
病院の中から、看護婦と当直の医師が飛び出して来る。救急車の後ろの扉が開いた。
「――正志! しっかりしてよ! 目を開けてよ!」
と、一人の少女が泣きながら降りて来る。
担架に乗せられているのは、その少女の恋人なのか。
「死んじゃいやだ! 正志!」
少女の叫び声が、何となく私の足を止めさせていた。
「あれ、もしかして……」
と、私は呟いた。
「早く! 早く何とかして!」
と、少女は医者にすがりつかんばかりにしている。
「落ちつくんだ。――今、警察の人が来るから、事情を話すんだよ」
と、医師が少女の肩をつかんで、「いいね?――そこに座ってなさい」
少女は、病院の中へ、うなだれたまま入って行く。
私は、いつの間にか、そっちへと歩き出していた。
急患入口のドアのすぐ奥の長|椅《い》|子《す》に、少女は腰をかけて、祈るように固く両手を握りしめている。
私は、その前に行って、足を止めた。
少女が、私に気付いて顔を上げるのに、少しかかった。
涙に|濡《ぬ》れた目で、最初は私に気付かなかったようだ。
「やっぱり」
と、私は言った。「啓子ちゃんでしょう」
少女は手の甲で目をこすると、
「――令子おばさん」
と、言った。
正直なところ、「お姉さん」と呼んでほしいが、今はそこにこだわっている場合ではない。
「今、かつぎ込まれたの、啓子ちゃんの、恋人?」
と、私は|訊《き》いた。
啓子が|肯《うなず》く。
「何ごとなの?」
「分んないの」
と、啓子は首を振った。「急に――急に、彼、首を|吊《つ》って――」
「何ですって?」
私はびっくりして訊き返した。
「自殺なんて、するわけないのに! そんなはずないのに!」
啓子は、両手で顔を覆った。
「わざわざ悪かったわねえ、令子さん」
と、宮島八重子が言った。
「いいえ。――啓子ちゃんは?」
「あの子は、何だか一人で泣いてるわ」
その、突き放したような言い方に、私はちょっとカチンと来た。
「困ったもんだわ、あの子にも」
と、八重子は言って、ソファに腰をおろした。
「兄さんは?」
と、私は|訊《き》いた。
「学会で、ニューヨークへ行ってるの」
「そう」
私は、冷え冷えとした思いで、冷めたお茶を一口飲んだ。
立派な応接間である。
ここは私の兄の家だ。――大学の教授で、もっとも、私とは大分タイプが違う。
工学部にいる兄は、十を下らない数の企業の顧問をやって、いとも優雅な暮しを楽しんでいた。
この家だって、顧問をしている建設会社に、かなり安く建てさせているはずだ。車は、いつも新車。――自動車メーカーが、〈試乗〉という名目で、次々に新しい車をくれるのである。
そういう生活に順応してしまうと、もう、コツコツとお金にもならない研究など、やる気になれなくて当然である。
兄は、専ら財力に任せて、人脈とコネで学部長のポストをものにして、今や天下を取った、という様子。
多少年齢も離れていたせいか、もともと私は兄になじめない妹だった。特に、ここ数年、めったに会うこともない。
妻の八重子という女性が、また気位の高さと、貯金通帳を座右の書にしていることでは兄といい勝負――いや、兄以上かもしれなかった。
初めから、私とは反りが合わず、お互い、会っても|挨《あい》|拶《さつ》以上の口はきかないという、賢明な付合い方をしていた。
「本当に恥さらしだわ」
と、八重子が言った。「父親の名に傷がつくのを分ってて、あんなことをして……」
私は、黙って、居間の方へ通じるドアを見やった。その向うで、啓子が泣いているだろう。
一人っ子の啓子は、両親がやたら社交で忙しいのが逆に幸いしたのか、とても優しい、|可愛《かわい》い娘に育った。兄や八重子には会いたくもなかったが、私もたまにはこの|姪《めい》に、プレゼントをしてやったり、食事をおごったりしたものだ。
その啓子が、不良と付合い出したと兄からグチを聞かされたのは、一年くらい前だったろうか。
「何を言っても、すぐに口答えばかりするんだ。全く、かなわん」
兄は苦々しく言って、太った腹をゆすったものだ。
私としては、十五、六歳にもなって、親に反抗一つできない子では、|却《かえ》って心配だと言ってやりたかった。特に、頭でっかちに育って、心の発達が幼児並みの大学生を、いつも間近に見ているだけに、そう思っていたのである。
しかし、言ったところで兄には分らなかったろう。――私は、傷つきやすい年代に入った啓子のことが心配だったが、自分の仕事の忙しさに、こちらから声をかけることは、なくなっていた……。
「啓子ちゃん、家を出ていたの?」
と、私は|訊《き》いた。
「ええ。何だか、ロックをやっているとかいう、薄汚い男の子たちと大勢で暮してたわ。でも、その内、飽きたのか、プイと姿を消して、三週間ぐらいになるかしらね」
「捜さなかったの?」
「騒がれても困るし。体面というものがあるでしょ」
これが母親の言葉か、と腹が立った。
「八重子さん――」
と、言いかけたとき、ドアが開いた。
「啓子ちゃん……。大丈夫?」
私は、立って行って、泣きはらした目を真赤にしている啓子の肩を、そっと|叩《たた》いた。
「ウン……」
啓子は、力なく|肯《うなず》いた。「でも……分らない。どうして正志が……」
「分ったでしょう」
と、八重子がかぶせるように言った。「そういう不良は、わけもなく死んだりするものなのよ。生きる気力もないんだから」
「お母さん! やめて!」
啓子が、じっと母親をにらんだ。「私、正志が好きだったのよ」
「結構な恋人ね。好きになりゃ、その辺のくさむらで愛し合う。――犬や猫と同じだわ」
啓子が青ざめた。
「八重子さん。やめなさいよ」
と、私は言った。「今は啓子ちゃんを、そっとしておいてあげて」
「そうはいきませんよ」
八重子は、立ち上って、「学校の方は、ずっと病気休学ということにしてあるわ。お医者様に診断書を作ってもらって、明日、持って行くのよ」
「学校なんて行かないわ」
と、啓子が言い返す。
「成績の方は、お父様から話していただけば何とでもなる。ともかく、明日は私と一緒に学校へ行くのよ」
ほとんど感情のない、命令口調だった。
そこに、母親としての怒りでも感じられれば、まだ救われたかもしれないが……。
「令子さん、ご苦労さまでした。もう引き取って下さいな」
八重子は、ロボットの合成音のような声で言った。
「幽霊?」
と、私は、読みかけの論文から顔を上げて、言った。
「――の、たたり[#「たたり」に傍点]じゃないですかね」
と、哲平が、コピーをドサッと置いて、「これ、昨日言われた――」
「ありがとう」
私は、コーヒーを一口飲んで、「ね、そのたたり、って何のこと?」
「やっぱり興味ありますか?」
と、哲平がニヤついている。
ここは大学。大学の中では、助教授と助手の間柄である。
「何をもったいぶってんのよ」
と、私は苦笑した。
「例の、アベックの名所で自殺した男のことですよ」
「正志とかいう男の子ね。十七歳だったんでしょ?――それがどうかしたの?」
「例の、友だちに聞いたんですけどね」
哲平には、警視庁の捜査一課に勤める友人がいるのだ。「――あの同じ木で首を|吊《つ》った女の子がいるんですって。一年前くらいだそうですよ」
「女の子?」
「ええ。男に捨てられたらしいんですね。で、男のことを恨んで死んだ、と……」
「その子の幽霊が出るの?」
「いや、その後、あの場所には、アベックも近寄らないんだそうですよ」
「でも、正志って子は――」
「ええ。たまにそこへ行く、何も知らないカップルがあって……。もう、これまでに二人。首を吊ってるんですって」
「二人も? じゃ、正志って子で、三人目なの?」
「そういうことですね。――面白いでしょう?」
少々不謹慎な言い方だが、哲平は、私が「|呪《のろ》い」とか「幽霊」とかいった超自然的なものに関心があることを知っているのだ。
しかし。今度の場合は……。何といっても。啓子のことがある。
単純に、面白がってはいられない。
「ねえ、哲平」
「大学では、佐々木君と呼んで下さい」
と、哲平がやり返した。
「こら!――ね、その二人の自殺者のこと、少し詳しく調べてよ」
「仕事中にですか? それとも――」
「いつでもいいわよ。息抜き中で。一日に何回もあるでしょ?」
「あ! ひどいなあ。こんなにこき使われてるのに」
と、文句を言いつつ、哲平はすぐに私の頼みを聞いてくれる。
恋人のためなら、休みも返上して悔いがないのが若者というものだ。
研究室のドアをノックする音がして、
「どうぞ」
と声をかけると、少し間があってから、
「失礼します……」
と、入って来たのは、啓子だった。
「あら、よく来たわね」
私はできるだけ明るい口調で言った。
――啓子は、この前とは別人のようだった。いかにも「お嬢さん」風の、地味で高そうなワンピース姿。髪も短く切って、きちんとセットしてある。
「――座ったら? 佐々木君、啓子ちゃんに何か飲みものを――」
「はい!」
やっぱり、若い子となると、哲平も、私以上に熱心にサービスしたくなるらしい。
啓子は、何やら思い詰めた風に、じっと座ったなり、身じろぎもせずに顔を伏せていたが、私は声をかけなかった。
やがて、啓子は顔を上げると、
「私――死にたい」
と言った。
「なぜ? 正志って子の後を追いたいの?」
「いいえ」
と、啓子は首を振った。「自分が、惨めで――恥ずかしくて」
「というと……」
「母の言うなりで、こんな風に、いい子の服装して、学校へ通ってるんですもの。勉強なんかしないのに、ちゃんと進級させてくれて、それは父のお金の力なんだもの。そんなものいらない、ってはねつけられない自分が、いやでたまらない……」
啓子が、ため息をついた。「でも――泣けないの。涙が出ない。――寂しいわ」
今は、恋人を失って、一種の放心状態にあるのだ。
「令子おばさん」
と、啓子は身を乗り出した。「正志は、そりゃあ、世間から見りゃ、役に立たない、不良かもしれない。でも、私のこと好きだったのは本当よ。私だって――好きだった!」
「分ってるわ」
と、私は|肯《うなず》いた。
「でも、彼、死んだわ。なぜ?――私、それが知りたい! 私のせいで死んだのかどうか……」
「思い当ることはないのね?」
「全然」
と、首を振って、「正直に言うわ。――あのとき、私、正志に抱かれてもいいと思ってたの。正志もそのつもりだった。私、拒んだりしなかったわ。それなのに、どうして死ぬことがあるの?」
「どうして彼はあなたから離れたの?」
「何だか……手を洗って来るって。すぐに戻ると思ってたのに、いつまでも帰って来なくって。――変だと思って、捜しに行ったら、木から……」
と、顔を伏せる。
「詳しいことは聞いてないんだけど、使った縄は?」
「分らないわ。そんなもの、持ってなかったのに」
「遺書らしいものもなくて?」
「ええ。――警察だって、真剣に調べちゃくれないの。どうせ役立たずが一人減った、ぐらいにしか思ってないんだもの」
啓子の目から涙が|溢《あふ》れ出た。「役立たずは人を恋しちゃいけないの? 不良に恋はできないの?」
私は、じっと啓子を見ていた。
哲平が、紅茶を運んで来る。
「――私が調べてあげる」
と、私は言った。
「本当に?」
「でも、どんな結果が出るかは分らないわよ。それは承知しておいてね」
啓子は、肯いた。――私は、啓子から、正志という男の子のことをいくつか聞いて、彼女を表まで送って行った。
「――仕事の邪魔して、ごめんなさい」
と、啓子は言って、帰って行った。
その後ろ姿は、まるで、大人のそれのように、疲れていた。
研究室に戻ると、
「哲平――」
と、声をかける。
「明日の講義は休講ですね」
と、哲平がすかさず言った。「ちゃんと手配しときました」
私は、笑って、言った。
「気がきくじゃないの! ついでにもう一つ、お願い」
と、机に向かって、「正志って子の死に他殺[#「他殺」に傍点]の疑いがないかどうか、例のお友だちに確かめてちょうだい」
「了解」
「それとね、ちょっと付合ってよ」
「いつでも!」
と、哲平が目を輝かす。
「そんなにがっつかないの。――一つ、夜のデートコース見学でもしましょうよ」
私は、哲平にちょっとウインクして見せた。
これは大学内の行為としては、少々行き過ぎだったかもしれない……。
残念ながら、夜のデートコース見学は、哲平と二人というわけにはいかなかった。
哲平は、例の警視庁の友だちから話を聞き出すために、飲みに行っている。もちろん、その「軍資金」は私のポケットマネーである。
私は私で、一人でアベック天国を歩くのも気づまりなので、啓子を呼び出すことにしたのだ。
母親の八重子には、
「啓子ちゃんを、少し元気付けてやりたいから」
と言っておいた。
しかし、考えてみれば、啓子と一緒でなければ、この公園をただ歩いたって、何も分りはしなかっただろう……。
「すみません、令子おばさん」
と、啓子は言った。「仕事、忙しいんでしょ?」
私としては、忙しいよりも、「おばさん」の呼び名の方が気になったが、まあ、二十近くも年齢が違って、「お姉さん」と呼べと言うのも無理というものだろう。
「これも仕事の一つよ」
と、私は言った。「社会学者としては、世間の実相を、よく見ておく必要があるんだから」
「アベックも?」
「もちろん。恋人たちの様子を見ていれば、その時代のことが、よく分るものよ」
「本当ですか?」
「これは有名な学説なのよ。――〈宮島令子の法則〉といってね」
私たちは顔を見合わせて、フフ、と笑った。
これでいい、と思った。――何といっても、啓子にとっては恋人の死んだ場所である。
少し、気持をほぐしておく必要がある、と思ったのだ。
「へえ! |凄《すご》いのね」
――公園へ足を踏み入れて、私は目を丸くした。
もちろん、夜の公園のベンチを埋めるアベックの列を、見たことがないわけではないが、それにしても壮観である。
加えて、互いが互いを刺激する、ということもあるのだろう、そこここで、かなり大胆なラブシーンが展開されている。
「あそこへ行きますか?」
と、啓子が|訊《き》く。
「そうね。でも、真直ぐに行ったんじゃ、見落とすこともあるかもしれないわ」
と、私は言った。「ゆっくり、見物しながら行きましょ。――啓子ちゃん、もし、見たくなければ――」
「いえ、大丈夫」
啓子は首を振った。「他の恋人たちなんか見たって、何とも思いません」
少しは強がっている。
「その元気!」
と、私は啓子の肩を|叩《たた》いた。「さ、行きましょうか」
ゆっくりと二人して歩き出す。――少しして、啓子が言った。
「ね、令子おばさん」
「なあに?」
「あの研究室の助手の人――おばさんの恋人?」
私は、びっくりした。
「まあ――そんなところね。でも、どうして分った?」
「当った!」
と、啓子は|微笑《ほほえ》んだ。「自分が恋をしてみると、他の人のことも分るのね。ちょっと目を見交わす様子とか、口のきき方なんかで」
「そんなものかしら」
私は、感心していた。「啓子ちゃんに見破られるとはね。――でも、哲平君にそんなこと言っちゃだめよ」
「どうして?」
「照れるから」
――ほの暗い照明の下、芝生で抱き合っているアベックもいる。
若さ、といってしまえばそれまでだが、しかし、私がたとえ二十歳の若い娘だったとしても、こんな所でラブシーンを演じようとは思わないだろう。
この時代は幸福なのか不幸なのか……。
と、そこへ、
「こら!」
と、怒鳴る声がした。
ザザッ、と茂みが揺れる。暗がりの中を、駆けて行く人影が二つ、見えた。
ヒョイと目の前に現われた人影を見て、啓子が、なぜかハッとした。
「――何してるんです?」
と、その男が訊いた。
それは制服姿の警官だった。
「どうも。――私、大学で社会学を専攻しているんです」
と、私は言った。「こういう場所の、恋人たちの生態を研究しようと思って」
「ふむ」
と、警官は、いぶかしげに、「証明書か何か、持っていますか?」
拒否してもよかったが、まあ、ここは素直に身分証明書を出して見せた。
警官が、懐中電灯でそれを照らす。――その光に、まだ二十代らしい警官の顔が浮かび上った。
「なるほど。いや、失礼いたしました」
と証明書を返してくれる。「何しろこの時期はアベックが多いので、その分、覗き[#「覗き」に傍点]も多くて……」
「じゃ、今の二人も?」
「常連ですよ。常連が少なくとも二十人はいる。また中には、覗かれて平気なカップルもいましてね」
と、苦笑する。
「それで、パトロールしてらっしゃるんですか」
「中には、財布を取られたとかいう人もいるんでね。――それなら、こんな所に来なきゃいいと思うんだが……」
私も、その警官に同情したくなった。
「この間、自殺した人がいたとか」
と、私は言った。
「ええ。知らせがあって、僕が一番先に駆けつけたんです」
「大変でしたね」
「でも、それでアベックの数が減ったか、というと、これが全然で。|却《かえ》って、ふえているくらいですから」
その警官はそう言ってから、「おや、君は――」
と、啓子に気付いて、
「あのときの子じゃないか」
「はい」
「私の|姪《めい》なんです」
「そうでしたか。――いや、正志も、悪い|奴《やつ》じゃなかったけど……」
「ご存知でした?」
「ええ。よくここの辺で見かけましたからね」
啓子が、ちょっと戸惑ったように、
「でも――彼、ここは初めてだって言ってましたけど」
警官は、ちょっとためらってから、
「あいつは、いつもそう言ってたんだよ」
と言った。
「いつも[#「いつも」に傍点]?」
「よく女の子を連れて歩いてた。――パッとしないのに、不思議ともてる子だったね」
「――そんな!」
啓子がショックで青ざめているのが、私には分った。
「実は――」
と、私は急いで話を変えた。「この子たちにあの場所を教えた人間がいるらしいんです。心当りはありませんか?」
「さて、ね……」
と、警官が首をひねる。「そんな奴がいるかな。――ま、浮浪者みたいなのも、よくうろついてるけどね」
警官が行ってしまうと、啓子は無言で、うなだれていた。
「――行きましょう」
と、私はその肩を軽く|叩《たた》いた。「あなたは正志のことを信じてるんでしょう? だったら、他人の言葉ぐらいで、フラついちゃいけないわ」
啓子は、ハッとしたように顔を上げた。
「分りました。――すみません」
「あの人、私たちのこと、恋人[#「恋人」に傍点]同士だと思ったのかしら」
と、歩き出しながら言うと、啓子は、ちょっとキョトンとして、それから、
「いやだ!」
と笑い出した。
これなら大丈夫。
「じゃ、現場へ案内してよ」
と、私は促した。
「――本当に?」
「しつこいわね」
と、私は哲平をにらんでやった。
「だって……気になるんだから、しようがないだろ」
哲平は、車のハンドルを握りながら、仏頂面をしている。
日曜日の昼下り。――いいお天気で、少し蒸し暑い。
哲平がふくれているのは、私があの公園の視察に、一人で行ってしまったからで、つまりは、私が他の男と一緒だったんじゃないかと疑っているのである。
「啓子ちゃんに訊いてごらんなさい」
「分ったよ」
と、哲平は、やっと機嫌を直したらしく、笑顔になった。
「啓子ちゃんの名前を出したら、急にニコニコし始めて。さては気があるのね?」
「馬鹿言え!」
と本気で怒っている。
この辺が|可愛《かわい》いところである。
「――道、分ってるの?」
と、私は|訊《き》いた。
「詳しく聞いて来たよ。もう少しだと思うけど」
「――正志って子、他殺の可能性もあるってわけなのね」
「一応はね」
と、哲平は|肯《うなず》いた。「でも、可能性だけじゃ調べないよ。他殺って証拠でも出ればともかく……」
「動機がないわ、自殺の。――それが理由にならないの?」
哲平は首を振った。
「正直なところ、大して捜査しようって気もないみたいだよ」
「なるほどね」
私は、ため息をついた。
これが、もし兄のような、「社会的名士」が殺されたのだったら、警察だって大騒ぎするだろうに。
私から見れば、正志という子より、兄の命の方が大切だと思う理由は一つもない。
「この辺だな」
車がゆっくりと停る。「あのアパートじゃないの?」
「そうらしいわね」
正志が、「兄貴」と住んでいたアパートへやって来たのである。
「いるかな?」
――ドアの前まで来て、哲平が言った。
「どうかしら。ともかく――」
と言いかけて、明らかにその「兄貴」が在室している証拠の声に、言葉を切った。
「――|呆《あき》れたな」
と、哲平が首を振って、「こんな真昼間から……」
聞こえて来るのは、女と男の絡み合う、派手な声だったのだ。――私が|肯《うなず》くと、哲平はドン、ドン、とドアを力一杯|叩《たた》いた。
中でしばらくモゾモゾやっていたが、やがてドアが開いた。
「何だ? うるせえな!」
上半身裸の男が、髪もボサボサにして、無精ひげを生やし、突っ立っていた。
「あなたが『兄貴』?」
と、私は言った。
「何だって?」
と顔をしかめる。
「私、正志君の知り合いなの」
「正志?」
と、少し考えて、「ああ、この前、ここに居候してた野郎だな」
「|憶《おぼ》えてないの?」
「もう、次の|奴《やつ》が入ってるんでね。今は、外へやってるが」
「邪魔だから?」
と、中を|覗《のぞ》くと、布団の上に、裸の女が起き上って、タバコをふかしている。
「そばで見学されてちゃ、やりにくいからな」
と、男はニヤついて、「あんたなら、仲間に入れてやってもいいぜ」
「遠慮しとくわ」
と、私は言った。「正志君が自殺する理由に心当りは?」
「そんなもの、知るかい」
と、男は面倒くさそうに言った。「何にしたって、死んじまった奴はそれきりさ。――あんた、正志とできてたのかい?」
「いいえ」
「じゃ、|俺《おれ》と、どう? 三人でやるってのも楽しいぜ」
危いなあ、と思ってはいたのである。
隣で、哲平がカッカしているのが分っていたからだ。でも、まあ――止めることもないか。
哲平が、その「兄貴」の胸ぐらを、ドンと突いた。相手は二、三メートルも吹っ飛んで、女の上に引っくり返った。
「キャアッ!」
「熱い! タバコの火が――」
と、大騒ぎをしている間に、私たちは、アパートから外へ出た。
「胸が悪くなる」
と、哲平が顔をしかめる。「どこかでアルコールでも入れたいや」
「そう言わないで」
と私はポンと哲平の肩に手をやって、「少し、車を動かして」
「どうするの?」
「見張るの」
「あいつを? そんなの、むだだよ。あんな奴――」
「いいから、言う通りにして」
と、私は車の方へ歩きながら言った。
哲平は、ため息をつきながら、後からついて来た……。
――三十分ほどして、あのアパートから、女が出て来た。
Tシャツとジーパンという、学生っぽいスタイルだ。
「あの女を|尾《つ》けるのよ」
と、私は言った。
「ええ?」
哲平は面食らったようで、「あの女を――どうして?」
「いいから! ほら、タクシーを拾うわよ。見失わないで」
「分ったよ」
哲平は肩をすくめて、車をスタートさせた。
しかし、その女の方は、目的地までタクシーに乗るほどのこともないと思ったのか、駅の前でタクシーを降りた。
「――私、尾行するわ」
と、車を素早く降りて、「あなたは、お友だちに、例の場所で最初に自殺した女の子のことを調べてもらって」
と、言うと、キョトンとしている哲平を後に、さっさと券売機へと走った。
こういう仕事をしていると、人の尾行というのもうまくなる。
もちろん、人は、自分が|尾《つ》けられるなどとは、普通は考えないものである。
電車を乗りかえたりして、尾行すること一時間。――その女は、古ぼけた建物の中へと入って行った。
私は、その入口の前まで行って、看板を見た。――〈××演劇研究所〉とある。
「やっぱりね……」
と、私は|呟《つぶや》いた。
講義を終えた私が研究室へ戻って来ると、意外な客が待っていた。
「あら――」
私は、|椅《い》|子《す》から立ち上った八重子を見て、
「珍しい。何のご用?」
と言った。
八重子は、固い表情だった。
「啓子はどこ?」
「啓子ちゃん? 私がどうして……」
「分ってるのよ。あなたが啓子をそそのかしたんだわ」
と、八重子は、ほとんど金切り声に近くなっている。
「八重子さん、落ちついてよ」
と、私は言った。机の前に座った。「講義を終えたばかりで、くたびれてるの。――啓子ちゃんがいなくなったの?」
「どこに隠してるの?」
と、八重子は詰め寄って来る。
「知らないわ。どうして私が知っていると――」
「今、啓子が頼って行けるのは、令子さん、あなただけよ」
「そう」
私は|肯《うなず》いた。「そうかもしれないわね。でも、私は知らない。――もう一つ言っておくわ。親の所へ頼って行けないなんて、子供にとっては不幸よ」
「――失礼します」
哲平がお茶をいれて入って来た。
八重子は、目の前に置かれたお茶に手をつけようとはせず、
「この人が、令子さんの恋人なのね」
と言った。
「ご存知?」
私は|微笑《ほほえ》んだ。
「調べさせたわ。時々利用するホテルもね」
「ご苦労さま」
「大学の中で――。結構な教師ね! これが分ったら、あなたの立場がどうなるかしら」
「あの――」
と、哲平が口を開きかけるのを制して、
「待って。八重子さん。それは脅迫?」
「どう考えようとご自由よ」
八重子は立ち上った。「ともかく、明日までに啓子を返してちょうだい。もし戻らなかったら、匿名で、この大学の理事あてに、あなたたちの関係を知らせますからね」
何も言い返す暇もない。八重子は、さっさと研究室を出て行ってしまった。
「――何て奴だ!」
と、哲平が真赤になっている。「ねえ、先生――」
「いいの。気にしないで」
と、私は手を振った。「小学校の先生と生徒、というのなら問題があるかもしれないけど、大学よ、ここは。いちいち、そんなことでうるさく言うもんですか」
「だけど――」
「何か言われたら、やめてやるわよ。二人で田舎の小学校の先生でもやりましょ」
「あの……」
「何? 何が言いたいわけ?」
「ここに――」
と、哲平が書棚の奥のロッカーを開けると、中から啓子が出て来た。
「ごめんなさい。迷惑かけて」
ピョコンと頭を下げる。
「哲平。――あなたが?」
「うん……。まずかった?」
私は微笑んで、
「いいのよ。それでこそ哲平だわ」
哲平と啓子が、ホッとしたように顔を見合わせた。
「だけど……」
私は、ゆっくりと椅子にもたれて、「いいところへ来たわ、啓子ちゃん。今夜、もう一度デートしようと思ってるのよ」
と言った。
「私と、ですか?」
「今夜は哲平と。――あなた、誰かボーイフレンド、いない?」
「それは――捜せば何人か――」
「信用できそうな子を一人、連れて来て。分った?」
「はい」
啓子は、目を輝かせて肯いた。――前のように、ジーパンをはいた軽装である。
それがいかにも自由で、啓子には似合っていた。
「何だか……落ちつかないなあ」
と、哲平がキョロキョロしている。
「しっかりしてよ」
と、私は、いつもよりぐっと哲平にすがりつくようにして言った。
哲平が落ちつかないのは、周囲のアベックのせいか、それとも私が密接[#「密接」に傍点]にしているせいか……。
少し霧が出ていた。それだけに、公園の中のムードも最高である。
「どこまで行くんだ?」
「その先よ」
「例の場所?」
「そう」
「気が乗らないな」
「何も本当にラブシーンをやることないのよ。その前にかた[#「かた」に傍点]がつくわ」
「だといいけど……」
私たちの後ろをついて来る、黒いコートの姿があった。
私は手鏡を持っていたから、それにとっくに気付いていた。――そろそろ、問題の場所だ。
後ろからついて来た男が、足を早めて、距離をつめて来る。
私は、足を止めて、
「いやねえ。どこも空いてないじゃないの」
と文句を言った。
「じゃ、帰ろうか」
哲平のセリフ回しは、どうにも素人くさいが、これ以上は短くできなかったのである。
「――場所を捜してるのかね」
と、後ろから声がかかった。
「ああ、びっくりした!――ええ、そうなの」
「それなら、そこを入った所に、いい場所があるよ」
顔がよく見えない。声も、どこかくぐもったようだった。
「本当? まあ親切ね! どうもありがとう!」
と、私はわざとキンキン声を出して言った。
「いや、どういたしまして……」
黒いコートの男は、そのまま霧の中へ戻って行く。
「行くのかい?」
と、哲平が|訊《き》く。
「当り前でしょ」
私は哲平の腕をつかんだ。「逃げようたって、そうはいかないからね!」
「怖い恋人だな」
と、哲平はため息をついた。
なるほど、問題の場所は、今夜も誰もいなかった。私は前に、啓子に連れられて来ているが、哲平は初めてだ。
「へえ。――本当に穴場だね」
と感心している。
私が哲平の腕に両手をかけてギュッとキスすると、哲平の方も、ついその気になる。
「だめ。――いいこと、用心してよ」
と、哲平の耳元へ|囁《ささや》いた。
「任せとけって。その代り――」
「なあに?」
「うまくやったら、ホテルで一泊!」
「ご招待するわよ」
と、私は笑った。
「それじゃ――」
哲平は私から離れると、「何か下に敷くものを捜して来る」
と、少し大きい声を出す。
「急いでね」
「OK。待ってろよ」
哲平が茂みをかき分けて行く。私は、頭を低くして、様子を見守っていた。
太い木の下を哲平が通る。そこへ――上の枝の間から、スッと輪にした縄が下りて来る。
「哲平!」
と、私は叫んだ。
しかし、哲平の方も、ちゃんと分っている。手を伸して、その縄をつかむと、力一杯引張った。
「ワッ!」
と声を上げて、誰かが落ちて来た。
哲平とその男が折り重なって倒れる。たちまち取っ組み合いになった。
私が駆けつけるのと、ガツン、と音がして、哲平がよろけるのと同じだった。
「哲平!」
と、私が支える。
相手が逃げ出そうとしたところへ、パッと|閃《せん》|光《こう》が光った。
「写真をとったわよ!」
啓子である。「もう|諦《あきら》めなさい!」
その男は、一瞬立ちすくんだが、すぐに駆け出してしまった。
「畜生! 殴られた!」
哲平が|顎《あご》をさすりながら言った。「今のは誰なんだ?」
「啓子ちゃん、見た?」
「ええ……。でも、よく分らないわ。どこかで見た人だと――」
「制服[#「制服」に傍点]なら分るわよ」
「まあ!」
啓子は、目を見開いた。「今の人――あのとき、駆けつけて来たお巡りさんだわ!」
「そう。妹が男に|騙《だま》されて、ここで首を|吊《つ》って死んだのよ。だから、こんな所で平気で抱き合っているアベックを許せなかった」
「じゃあ、あの黒いコートの人は?」
「同じ男よ。下の制服を隠すために着ていたのよ。今夜はきっと非番だったんでしょうね」
「命拾いだ」
哲平は、縄を見て言った。「これ、届け出るんだろ?」
「そうね。でも、たぶん――あの人が自首すると思うけど」
私と哲平、それに啓子の三人は、公園の出口の方へと歩いて行った。
「あの『兄貴』って所にいた女は、何だったんだい?」
と、哲平が|訊《き》いた。
「あの子は女優の卵。ラブ・シーンを演じてたのよ」
「演じて?」
「そう。あの『兄貴』も、今の警官と同じ男よ。気が付かなかった?」
啓子と哲平が|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「――じゃ、警官なのに?」
「正志のような男の子に憎しみを持ってたから、わざとああして引っかけると、女の子とこの公園へ来るように仕向けていたのよ」
「一人三役?――やれやれ!」
「あの女に訊いたら、渋々教えてくれたわ。あの男、以前は劇団にいたのよ。だから、メーキャップや声で、別人のように見せるのはお手のもの」
啓子は、しばらく黙っていたが、やがて顔を上げると、
「――正志、やっぱり殺されたんですね」
と言った。「少し気持が晴れたわ。私のせいで死んだんじゃないと分って……」
「でも、気の毒だったわね。――正志君が本当に啓子ちゃんを好きで、私の兄があなたのお母さんを本当に好きでないってことも、充分にあり得るのよね」
と、私は言って、啓子の肩を抱いてやった。「お家へ帰ったら?――きっと兄は外に女を作ってる。八重子さんも、寂しいのよ。あなたの若さと熱気が|羨《うらや》ましいんだと思うわ」
啓子は、少し考えていたが、
「――分りました」
と、やがて肯いて、「逃げていても仕方ありませんものね。母に、言いたいことを堂々と言ってみます」
「そう。それがいいわ。――啓子ちゃん、一人で来たの?」
「ええ。だって――」
と、啓子は、ちょっとはにかんで、「正志の幽霊に合ったとき、まずいと思って」
「それもそうね」
と、私は笑って、「じゃ、三人で晩ご飯でも食べましょうか」
――哲平は、二人になれないので、むくれていた。私は言ってやった。
「哲平。明日は休講ね」
「やった!」
哲平が子供のように飛び上る。啓子が吹き出し、哲平は真赤になった。
――なかなかいい光景だった。
|怪《かい》|奇《き》|博《はく》|物《ぶつ》|館《かん》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成12年9月1日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2000
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『怪奇博物館』平成9年5月25日初版刊行