角川文庫
忙しい花嫁
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
プロローグ
ちぐはぐな取合せ
トラックのご来店
血のついた上衣
|幻《まぼろし》の|事《じ》|故《こ》
ありえない殺人
|食卓《しょくたく》の対話
|頼《たの》もしい味方
|我《わ》がドン・ファン
ドン・ファンの行方不明
林の中の足音
|傾《かたむ》いた|針《はり》
すれ|違《ちが》い
ドイツからの電話
聡子の|推《すい》|理《り》
記者会見の言葉
消えた淑子
引き上げられた車
|検《けん》 |討《とう》
|逃《に》げた|花《はな》|嫁《よめ》
|掘《ほ》り出された|秘《ひ》|密《みつ》
すり|替《か》えられたもの
|裏《うら》|切《ぎ》られた女
最後のジャンプ
エピローグ
プロローグ
「キャッ!」
「どこ見て歩いてんだ、この|野《や》|郎《ろう》!」
「あ――」
「何だ、|塚《つか》|川《がわ》君か」
この小さな|衝突事故《しょうとつじこ》は、まだ夏の|息《い》|吹《ぶ》きがアスファルトに照り返す九月の十七日、金曜日の午前十一時に起った。
もっとも、当事者は|双《そう》|方《ほう》とも徒歩であったので、|負傷者《ふしょうしゃ》はなく、|被《ひ》|害《がい》は、参考書、|並《なら》びにノートが|数《すう》|冊《さつ》、落ちて少々|汚《よご》れたに止まった。
「悪い悪い」
本来なら、|女《じょ》|性《せい》――塚川|亜《あ》|由《ゆ》|美《み》の方がぼんやりしながら歩いてたのが悪いのだが、男性と女性がぶつかった場合には、どうしても、男性の方が|謝《あやま》ることになる。
|特《とく》に|有《あり》|賀《が》|雄《ゆう》|一《いち》|郎《ろう》は塚川亜由美と同じ大学の同じゼミにいて、しばしば亜由美のノートを写させてもらっているという弱味があるので、急いでノートを拾い上げ、汚れを|叩《たた》き落とした。
「ありがとう。――何をそんなに急いでるの?」
と、亜由美は言った。
「別に急いじゃいないよ。君がのんびり歩いてるからさ」
と、有賀雄一郎は|笑《わら》って、「ゆうべ飲み明かしたんだろう」
「有賀君じゃあるまいし」
亜由美は言い返して歩き出した。
「――じゃ、どうしてぼんやり歩いてたのさ?」
と歩調を合わせる。
「何だか気になるのよね」
「何が?」
「それが分らないから|苛《いら》|々《いら》してるわけ」
亜由美は|眉《まゆ》を|寄《よ》せて、小さく首を|振《ふ》った。「何か用事があったような気がするのよね。いくら考えても思い出せないの」
「|僕《ぼく》から借りた金を返す|期《き》|限《げん》だったんじゃないか?」
「けっとばすぞ」
と、亜由美は有賀雄一郎をにらんだ。
塚川亜由美は、|私《し》|立《りつ》|大《だい》の文学部に通う二年生――十九|歳《さい》の|娘《むすめ》である。スラリと|背《せ》が高く、|一《いっ》|緒《しょ》に歩いている有賀雄一郎とほとんど変らない。
キュッと|髪《かみ》を上げてヘアバンドで止めているので、広くて形の良い|額《ひたい》がくっきりと光っている。目は――今日のところは少々|寝《ね》|不《ぶ》|足《そく》でトロンとしているが、本来なら|笑《わら》うとキラッと|輝《かがや》く、|活《い》き活きとした|瞳《ひとみ》の持主なのである。ちょっと|丸《まる》っこい鼻と、いたずらっ子のような真一文字の|唇《くちびる》。
これに|若《わか》さというニスが|塗《ぬ》られてつややかに光っているのだから、|魅力的《みりょくてき》でないはずがない。
「何だったかなあ。――ああ、気分悪い」
と、亜由美はため息をついた。
「大学へ着いたらきっと思い出すよ」
と、有賀雄一郎が|慰《なぐさ》めた。
「何だかねえ……今日は大学へ行っちゃいけないような気がするの」
「どうして?」
「それが分りゃ苦労ないのよ」
「レポートやってないとか、テストの|準備《じゅんび》してないとか……」
「そんなの、さぼったことないわ」
「じゃゼミかクラブか……。あ、クラブっていやあ、|田《た》|村《むら》さん|結《けっ》|婚《こん》すんだって?」
「それぐらい知ってるわよ」
「相手の女、知ってるかい? |噂《うわさ》じゃね――」
と、有賀が言いかけて、「どうしたの?」
亜由美がピタリと足を止めて、
「そうだ……いけない!」
と声--+を上げた。「今日、田村さんの|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》に|招待《しょうたい》されてるんだ! |忘《わす》れてた!」
亜由美は、あわてて駅への道を|駆《か》け出した。
|呆《あき》れたようにそれを見送っていた有賀は|愉《ゆ》|快《かい》そうに|笑《わら》って、
「あれじゃ、当人はまだまだだな」
と|呟《つぶや》いた。
亜由美は、すれ|違《ちが》う人が|驚《おどろ》いて|振《ふ》り向くほどの勢いで、走っていた。
多少――と|一《いち》|応《おう》言っておこう――おっちょこちょいのところが、このヒロインにはあるのである……。
ちぐはぐな取合せ
何だか、まだ息が切れてるみたい。
亜由美は|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》の席についても、しばらくは料理に手がつけられなかった。
洋食のフルコースなので、それまでに出た、オードブルだのスープだのが、目の前に|並《なら》べられている。|猛《もう》スピードで|着《き》|替《が》えをして、タクシーを飛ばして来たので、|辛《かろ》うじて一時間ほどの|遅《おく》れで駆けつけることができた。
それにしても……どうしてこうあわてん|坊《ぼう》なのかしら、私は、と亜由美は|我《われ》ながら感心している。|普《ふ》|通《つう》、女の子なら|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》に出るというのは|大《だい》|好《す》きで、何日も前から、あのドレスにしようか、この|振《ふり》|袖《そで》にしようか、と|楽《たの》しく思い|悩《なや》むものなのに、こともあろうに当日になってケロリと|忘《わす》れてしまうなんて……。
お母さんだって、一言注意してくれりゃいいんだわ、本当に! 亜由美は八つ当りした。
亜由美の母、塚川|清《きよ》|美《み》は|至《いた》って社交的な|性《せい》|格《かく》で、大体昼間家にいたためしがないのだから、|苦情《くじょう》を言ったところで仕方ないのだが。
「――どうしたのよ?」
と、|隣《となり》の席にいるクラブの三年生、|桜井《さくらい》みどりに|訊《き》かれて、
「ちょっと電車の|事《じ》|故《こ》で」
と、亜由美は|言《い》い|訳《わけ》した。
運良く、|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》は|新《しん》|郎《ろう》|新《しん》|婦《ぷ》がお色直しで|中座《ちゅうざ》しているため、もっぱら食事をしながら|雑《ざつ》|談《だん》という|状態《じょうたい》であった。
少し息切れも直って、冷めたスープを飲んでいると、
「ねえ、|花《はな》|嫁《よめ》さん、見たことある?」
と、桜井みどりが声をかけて来た。
「いいえ。今日が初めて」
「美人よ。ちょっと田村さんにはもったいないくらい」
「まあ、悪いわ」
と、亜由美は|笑《わら》った。
「だって本当なんだもの。でも何か――こう、イメージ|違《ちが》うのね。田村さんが選ぶのなら、全然別のタイプの人かと思った」
田村久哉は、亜由美の|所《しょ》|属《ぞく》している〈西洋の中世史研究会〉の|先《せん》|輩《ぱい》である。
今年、学部を卒業して|就職《しゅうしょく》したので、三年先輩ということになるが、|年《ねん》|齢《れい》的には|一《いち》|浪《ろう》組なので四つ上の二十三|歳《さい》である。
部長をやっていて、新入生の|面《めん》|倒《どう》を良くみてくれるので、|女《じょ》|性《せい》部員にも人気があった。しかしそれは男性としての田村に人気があったということではない。ずんぐり型の体型、いかにも|人《ひと》|柄《がら》を表わしている|穏《おだ》やかな|丸《まる》|顔《がお》、極度の|近《きん》|視《し》で、度の強いメガネをかけている、という外見からは、|女《じょ》|性《せい》にもてるプレイボーイとは正反対の印象しか|与《あた》えられない。
女性にとっては、「|絶《ぜっ》|対《たい》|安《あん》|全《ぜん》、|人《じん》|畜《ちく》|無《む》|害《がい》」という意味で、何かと|頼《たよ》りにされていたのである。亜由美のように、ちょっと男っぽいところのある|娘《むすめ》にとっては、|魅力《みりょく》を感じるところまではいかなくとも、|妙《みょう》にキザったらしいプレイボーイタイプの二|枚《まい》|目《め》よりはよほど付き合いやすかった。
「どこで知り合ったのかしら」
と、亜由美が言うと、桜井みどりは、|口《く》|惜《や》しそうに、
「それが全然分らないのよねえ」
と首を|振《ふ》った。
亜由美は|笑《わら》いをかみ殺した。桜井みどりはゴシップにかけては絶対に他人にひけを取らないと自負する|情報通《じょうほうつう》で、それでいて田村の|結《けっ》|婚《こん》|相《あい》|手《て》のことが良く分らないというのは、正に|屈辱《くつじょく》以外の何ものでもないのだろう。
「ただ、急に決ったことだけは|確《たし》かよ」
と、桜井みどりは言った。「前もって全然|噂《うわさ》も聞かなかったんだから」
それは確かだろう。亜由美も|招待状《しょうたいじょう》を見て初めて田村の結婚を知ったのだから。
「何か|複《ふく》|雑《ざつ》な|事情《じじょう》がありそうよ」
というみどりの言葉は、たぶんみどりの|希《き》|望《ぼう》|的《てき》|観《かん》|測《そく》だろうが。
それに、田村の両親は確か学校の|教師《きょうし》のはずだ。それにしては|豪《ごう》|華《か》な――いや、いささか|派《は》|手《で》に過ぎるような|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》である。
ホテルの広間で、客の数も百人は下るまい。かなりの費用がかかっている。今年|就職《しゅうしょく》したばかりの田村に、とても|負《ふ》|担《たん》できるはずはない。――|花《はな》|嫁《よめ》がよほどの|資《し》|産《さん》|家《か》なのか。
|招待状《しょうたいじょう》では、|花《はな》|嫁《よめ》の名は|増《ます》|口《ぐち》|淑《よし》|子《こ》とあった。もちろん、名前だけでは何一つ分らないけれど。
会場にエレクトーンの|響《ひび》きが鳴り|渡《わた》って、プロらしい司会者が、|新《しん》|郎《ろう》|新《しん》|婦《ぷ》の入場を告げると、照明が暗くなった。広間に|並《なら》んだ|丸《まる》テーブルの中央に、それぞれ色とりどりの、太いローソクが立てられている。
|恒《こう》|例《れい》のキャンドルサービスだろう。――スポットライトが入口へ当ると、白ずくめの新郎新婦がその中に|浮《う》かび上った。
まだ遠くて、よく分らなかったけれど、白のタキシードの田村なんて、|想《そう》|像《ぞう》しただけで亜由美は|吹《ふ》き出しそうになった。
エレクトーンが少々やかましいほど鳴り渡る中を、一つ、一つ、テーブルを回って、花嫁と|花《はな》|婿《むこ》が近付いて来る。
遠くからは白に見えた花嫁のドレスは、|淡《あわ》いピンクの|真《しん》|珠《じゅ》色とでもいうのか、見るからに目を|奪《うば》う|豪《ごう》|華《か》さであった。そして、|確《たし》かに桜井みどりの言葉は何の|誇張《こちょう》でもないことが、亜由美にも分った。
多少、|年《と》|齢《し》は行っているのかもしれない。二十四、五かな、という気はした。しかし、正に|女《じょ》|優《ゆう》にしたくなるような美女である。
いささか|表情《ひょうじょう》に|乏《とぼ》しい、というのか、|濃《こ》い|化粧《けしょう》を|割《わ》り引いても、やや冷ややかな印象を|与《あた》える。しかし、それは美人の宿命かもしれない。
田村と|花《はな》|嫁《よめ》――淑子が、亜由美のいるテーブルへ|移《うつ》って来る。亜由美が手を|叩《たた》いた。スポットライトがまともに当って、亜由美は目を細めた。
田村は、|額《ひたい》に玉のような|汗《あせ》をかいている。具合でも悪いのかしら、と亜由美は思った。田村が亜由美に気付いて、ホッとしたように、こわばった|表情《ひょうじょう》が|緩《ゆる》んだ。亜由美が|微《ほほ》|笑《え》み返すと、田村は急に目をそらした。
ローソクに火が|点《つ》いて、|新《しん》|郎《ろう》|新《しん》|婦《ぷ》が次のテーブルに|移《うつ》って行くのを目で追って行くと、|花《はな》|嫁《よめ》が|振《ふ》り向いた。|一瞬《いっしゅん》、冷ややかな|視《し》|線《せん》に亜由美は|射《い》すくめられた。
|拍《はく》|手《しゅ》していた手が止まった。――亜由美は、何か|寒《さむ》|々《ざむ》とした思いで、|冷《さ》めた料理に視線を|戻《もど》した。
桜井みどりが、そんなことには一向に気付かない様子で、言った。
「どう? 美人でしょ?」
「そうね」
とだけ、亜由美は言った。
ワイングラスを取り上げて口をつける。いいワインだったが、さっぱりおいしく感じられなかった。
|確《たし》かに、みどりの言葉ではないが、田村の|結《けっ》|婚《こん》|相《あい》|手《て》としては、イメージの|違《ちが》う|女《じょ》|性《せい》である。もう少し、あたたか味のあるというか、おっとりした女性の方が、田村には|似《に》|合《あ》っているような気がした。
何を考えてるの、人の結婚相手のことなんか! 亜由美はグラスのワインを一気に|喉《のど》へ流し|込《こ》んだ。
何か、ちょっとした|騒《さわ》ぎが起っているらしかった。ざわついた|雰《ふん》|囲《い》|気《き》に気付いて|振《ふ》り向くと、どうやらどこかのテーブルで、ローソクにうまく火が|点《つ》かないらしいのである。
「しめってんじゃないの」
と、桜井みどりが|愉《ゆ》|快《かい》そうに|囁《ささや》いた。
亜由美はあまりそういうことを面白がるという|趣《しゅ》|味《み》はなかった。ホテルの係があわてて代りのローソクを手に|駆《か》けつけ、ようやく|事《じ》|態《たい》はおさまったのだが……。
場内が明るくなって、正面の席に|新《しん》|郎《ろう》|新《しん》|婦《ぷ》が落ち着くと、|再《ふたた》び|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》はスムーズに進行し始めた。
何しろプロの司会者である。その間も|巧《たく》みに、席をもたせて行くが、|逆《ぎゃく》にそのあまりの|巧妙《こうみょう》さが、いかにも作り物らしくて、亜由美はすっかりしらけた気分になってしまった。
あんなことなら、ただの友達がやった方が、どんなに|下《へ》|手《た》でも、まだ心を打つものがあったろう。
歌だの、|踊《おど》りだの、詩の|朗《ろう》|読《どく》だのをいかにもバランス良く|並《なら》べた|宴《うたげ》は、まるでバラエティーショーのようだ。
亜由美は席を立って、|廊《ろう》|下《か》へ出た。|化粧室《けしょうしつ》へ行こうとして、ふと足を止めた。
「――分りませんよ、どういうことなんだか!」
「しかし|実《じっ》|際《さい》にこのローソクが立ててあったんだぞ!」
言い合う声に|振《ふ》り向くと、廊下の|隅《すみ》で、会場の|主《しゅ》|任《にん》らしい、黒のタキシードの男が、部下の|若《わか》い男とやり合っているのだ。
「これだけ|違《ちが》うメーカーだなんて、見ただけじゃ分りませんよ」
白のタキシードの、若い方の男は、自分の|責《せき》|任《にん》と言われて心外な様子だった。
「しかし、どこで|紛《まぎ》れ|込《こ》んだんだ? 見ろ、中の|芯《しん》がボロボロに切れてる。これじゃ、まともに火が|点《つ》くはずがない」
「ちゃんとケースから一本ずつ出して、立てて行ったんですから。最初からケースに紛れ込んでたとしか思えません」
「まずいぞ、全く。――よりによって、あのテーブルは、|新《しん》|婦《ぷ》|側《がわ》の親族の席だ。いやな目でにらんでたぞ」
「こっちのせいじゃないですよ」
「|怒《おこ》られるのは|俺《おれ》だ。――ま、いい。ともかく業者によく言っとけ。二度とこんなことのないように、ってな」
「はい」
若い方の男は、不服そうな様子で、|渋々肯《しぶしぶうなず》いた。
火の|点《つ》かないローソク。――他のメーカーの|粗《そ》|悪《あく》|品《ひん》が、どうして新品のケースの中へ紛れ込んでいたのだろう。化粧室へと歩きながら、亜由美は何だか悪いことが起りそうな気がした。
――席に|戻《もど》ってみると、食事はデザートに入っていた。友人代表の何人かが、スピーチの最中だった。
もちろん、亜由美は何も|頼《たの》まれていないから|気《き》|楽《らく》なものである。
「――何だか変よ」
と、桜井みどりがそっと|囁《ささや》く。
「え? 何が?」
「友人代表って、|新《しん》|婦《ぷ》|側《がわ》ばかりなの。田村さんの方は、|誰《だれ》も立たないの。こんなことってある?」
なるほど、それは|妙《みょう》である。今、立って、何だか歯の|浮《う》くようなお世辞を|並《なら》べているのは、新婦のピアノの|教師《きょうし》だという中年の|派《は》|手《で》な感じの|女《じょ》|性《せい》だった。
亜由美がデザートのシャーベットを食べていると、ウエイターの一人が、|傍《そば》へやって来て、
「これを」
と、折りたたんだ紙を差し出した。
開いてみると、走り書きで、
〈塚川君。|突《とつ》|然《ぜん》で悪いけど、一言スピーチを|頼《たの》む。|僕《ぼく》にとって、|信《しん》|頼《らい》できる友人といえば、君だけしかいないんだ。どうかよろしく頼む。田村〉
とある。亜由美は|戸《と》|惑《まど》った。
いや――急にスピーチを頼まれるのも|困《こま》るが、それだけではない。たかがスピーチを頼むにしても、〈信頼できる友人〉が〈君だけしかいない〉という言い方は、いささかオーバーに思えた。
|冗談半分《じょうだんはんぶん》でそう言っているのならともかくも、田村は、そういう冗談を言うタイプではないのだ。――何となく、亜由美は落ち着かない気分で、そのメモ用紙を、|捨《す》てる気にもなれず、ハンドバッグの中へ、しまい込んだ。
とたんに、
「塚川亜由美さんに、一言、お|祝《いわ》いの言葉をいただきたいと|存《ぞん》じます」
という司会者の声が耳へ飛び|込《こ》んで来て、気が付くと、マイクを|握《にぎ》らされて|突《つ》っ立っていた。|拍《はく》|手《しゅ》が静まる。何か言わなくちゃならないのだ。――亜由美はゴクリと|唾《つば》を飲み|込《こ》んだ……。
ああ、|疲《つか》れた。
ホテルのロビーへ|降《お》りて来ると、亜由美はぐったりとソファにへたり込んだ。
きらびやかにシャンデリアの下がった、広いロビーの空間には、人々の話し声のざわめきが|反響《はんきょう》し合い、|混《ま》じり合って、|絶《た》え間ない海鳴りのように|揺《ゆ》れている。
他にも式があったとみえて、|盛《せい》|装《そう》したグループがそこここに見える。
亜由美は、重たい引出物の包みを下へ置いて、やれやれ、とため息をついた。|妙《みょう》な|疲《つか》れ方である。
亜由美とて、|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》に出て、ウエディングドレスを見たり、同席した|女《じょ》|性《せい》たちの|衣裳《いしょう》に目をこらすことも|嫌《きら》いではない。だから、|普《ふ》|通《つう》の|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》ならば、こんなに疲れるはずがないのである。
どこかが、ぎくしゃくしていたのだ。何か不自然で、|無《む》|理《り》なところがあった。
どこが、と|指《し》|摘《てき》することはできないが、ともかく、何か亜由美を疲れさせるものが、あの披露宴の中にはあったのである……。
何だか、亜由美には、田村のことがひどく気になった。
「――ここにいたの」
と、桜井みどりがやって来て、|隣《となり》にデンと|腰《こし》を|据《す》える。
亜由美としては、あまりみどりの相手をする気分ではなかった。
「――聞いて来ちゃった」
と、みどりが言った。
「え?」
「|奥《おく》さんの実家ね、増口家って、このホテルチェーンの持主なんだって」
「このホテルの?」
と、亜由美は思わず|訊《き》き返していた。
「そう。もちろんホテルチェーンだけじゃなくて、他にもスーパーとか、色々持ってるみたいよ。|凄《すご》い金持なのね」
「その家の|娘《むすめ》さんと田村さんがどうして――」
「そこまでは分らないわよ」
と、みどりは|肩《かた》をすくめた。「でも、必ず調べ出してやるから」
|私《し》|立《りつ》|探《たん》|偵《てい》か何かのつもりでいるらしい。亜由美は|苦笑《くしょう》した。
「田村さんうまくやったわね」
と、みどりが言った。「これで|将来《しょうらい》はどこかのホテルの|総《そう》|支《し》|配《はい》|人《にん》とか、行く行くは社長の|椅《い》|子《す》かな」
「さあ……。でも、田村さんにそんな役が合ってるとも思えないけど」
「そうね、何となく|貧乏性《びんぼうしょう》の顔してるし」
みどりは|遠《えん》|慮《りょ》というものを、あまりしない|性《せい》|質《しつ》なのである。
そのとき、二人のそばを、ダブルのスーツ|姿《すがた》の|紳《しん》|士《し》が通りかかった。でっぷりと|腹《はら》が出て、転がしたくなるような球型の体つきをしている。亜由美は、どこかで見たような人だな、と思った。
向うの方で、亜由美に気付いたらしい。ツルリと|禿《は》げ上った|額《ひたい》を、ちょっとなでて、
「田村君のお友だちの方ですな」
と声をかけて来る。
「はい」
あわてて亜由美は立ち上った。
「淑子の父です。どうもていねいなご|祝辞《しゅくじ》をいただいて――」
「いいえ――そんな、とんでもございませんわ」
「田村君とは大学で?」
「はい。同じクラブの|先《せん》|輩《ぱい》なんです」
「どういうクラブに入っとったのかな? 私は|忙《いそが》しくて、田村君とあまり話したことがないのですよ」
童顔で、いかにも愛想の良い|笑《え》|顔《がお》だった。ただ、その|笑《わら》い方は、「|営業用《えいぎょうよう》」というか、|永《なが》|年《ねん》の仕事で身につけたもの、という印象を|与《あた》える。
「西洋の中世の|民衆《みんしゅう》の生活とか、伝説とか、そういったものを研究するグループなんです」
「ほう。ずいぶん|難《むずか》しいことをやっとるんですな。私は商業学校しか出とらんので、いわゆる学問の喜びなどというものはさっぱり分らんのですが……。まあ、私たちの一族にも多少は知的な血を入れなくてはね。田村君も見かけはちょっとぼんやりしておるが、なかなかの|秀才《しゅうさい》らしい」
「とても|優秀《ゆうしゅう》な人です」
「それは|結《けっ》|構《こう》。まあ、|娘夫婦《むすめふうふ》のところへも、遊びに行ってやって下さい」
「ええ、ぜひ……」
「ではこれで」
と、増口は軽く一礼して、歩いて行った。|同《どう》|年《ねん》|輩《ぱい》ぐらいの、たぶん同業者らしい男たちが集まった一角へと増口が近付いて行くと、その男たちが|一《いっ》|斉《せい》に立ち上って頭を下げる。
どうやら増口というのは、かなりの実力者らしい。
「――本当の大物って、そう見えないもんらしいけど、あれもその口ね」
と、桜井みどりが言った。
「そのようね」
と、亜由美は|肯《うなず》いた。
しかし、|妙《みょう》なものだ、と思った。あんな大物が、自分の娘を|結《けっ》|婚《こん》させるのに、相手のことをろくに知らないなんてことが、あり|得《う》るのだろうか?
いや、|実《じっ》|際《さい》には、そんなものなのかもしれない。何しろ、ああいう人間たちは、|普《ふ》|通《つう》のサラリーマン家庭などが|想《そう》|像《ぞう》もつかないような生活をしているのだろうから。
「――まだ|降《お》りて来ないのかしら」
と、みどりがロビーを見回した。
もちろん、田村と、その|花《はな》|嫁《よめ》を待っているのである。
「|結《けっ》|婚《こん》する人って大勢いるのねえ」
みどりはロビーを見回した。日がいいのか、目につくだけでも、二組の|新《しん》|婚《こん》らしい男女が、友人たちに取り囲まれている。
「あの内一つは|離《り》|婚《こん》するわよ、きっと」
みどりが|不《ふ》|謹《きん》|慎《しん》なことを言い出した。
「ねえ、君――」
|若《わか》い男の声がした。「君だよ、そこの|澄《す》まし|屋《や》さん!」
亜由美は|振《ふ》り向いて、
「私のことですか?」
と言った。
いい|加《か》|減《げん》|酔《よ》っ|払《ぱら》っているらしい、|背広姿《せびろすがた》の青年――二十六、七というところか、色の浅黒い、スポーツマンタイプの|男《だん》|性《せい》である。
「そう! 君はあの田村なんとかのガールフレンドだったんだろう?」
どうやら、同じ|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》に出ていたらしい。
「クラブの|後《こう》|輩《はい》です」
「ただの|仲《なか》じゃないと僕はにらんでいるんだがね。――正直に言えよ、|彼《かれ》とは愛人関係だった?」
亜由美は、|直接《ちょくせつ》行動を|信条《しんじょう》としている。|従《したが》って、失礼ね、と|怒《おこ》るより早く、平手でその男の|頬《ほお》を打った。
大して力を入れなかったつもりなのに、|派《は》|手《で》な音がして、周囲の|視《し》|線《せん》が|一《いっ》|斉《せい》に亜由美の方へ集まった。
相手の男の方は、|痛《いた》いよりも面食らった様子で、
「いや……こりゃどうも……」
と頭をかきかき、「|冗談《じょうだん》だよ、ほんの冗談……」
と|呟《つぶや》きながら、照れくさそうに歩いて行ってしまう。
「――塚川さん、やるじゃない!」
みどりとしては大喜びである。これで話の種が一つ|増《ふ》えたわけだ。
「だって、あんまりひどいことを言うんだもの……」
亜由美も多少|頬《ほお》を赤らめながら、ソファに|座《すわ》り直した。
ロビーがちょっとざわめいた。田村と、その|妻《つま》、淑子が|腕《うで》を組んで|現《あらわ》れたのだ。
田村は、何だかあまりしっくり来ない高級スーツ|姿《すがた》で、淑子の方は花が開いたように見える|鮮《あざ》やかな赤のワンピースだった。
「悪いけど、およそアンバランス」
と、みどりが言った。
司会者の言葉によれば、二人はここから|成《なり》|田《た》へ行って、そこのホテルで|一《いっ》|泊《ぱく》。明日の飛行機でヨーロッパへ飛び立つはずである。
「田村さんがヨーロッパかあ」
と、みどりはため息をついて、「私、北極にでも行かなきゃ」
「どういう意味?」
と、亜由美は|笑《わら》いながら言った。
田村は、|妻《つま》の両親や、親類への|挨《あい》|拶《さつ》に|忙《いそが》しくて、亜由美たちに気付かない様子だった。
田村の両親はどこにいるのだろう? 亜由美はふと思い付いて、ロビーを|捜《さが》した。
しかし、どこにもそれらしい姿はない。亜由美も、よく顔を知っているというわけではないのだが、さっき|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》での、|花《はな》|束《たば》|贈《ぞう》|呈《てい》のときには見ている。
|花《はな》|嫁《よめ》の淑子は、同年代の、たぶん学生時代の友人たちに取り囲まれて、にぎやかに|談笑《だんしょう》していた。
「ああいう名門じゃ、大変でしょうね」
と、みどりが言った。
本当に、みどりではないが、なぜ田村がこんな|結《けっ》|婚《こん》をしたのか、亜由美にも|不《ふ》|可《か》|解《かい》だった。――しかし、そんなことは、何も他人が口を|挟《はさ》むことではない。
「ほら、運転手よ」
とみどりがつつく。
「え?」
「あの男。こっちへ歩いて来る、|紺《こん》の|制《せい》|服《ふく》の。――|凄《すご》い外車を運転してるの。今日早く来てたから、見ちゃったんだ」
がっしりした体つきの、運転手というよりは|用《よう》|心《じん》|棒《ぼう》みたいな男が、増口の方へと歩いて行って、何か声をかけた。
「おい、淑子、車の用意ができたそうだ」
と、増口が|娘《むすめ》に声をかける。「もう出かけなさい。成田は遠い」
淑子が友人たちに別れを告げて、父親の方へ行く。
「塚川君」
急に田村に声をかけられ、亜由美はびっくりした。淑子の方ばかりを見ていたので、田村が近くへ来たのに気付かなかったのだ。
「あ……田村さん」
おめでとうございます、と言おうとして、なぜかためらった。言葉がつかえて、出て来ない。
「今日はありがとう」
「すてきな|奥《おく》|様《さま》ね、田村さん」
と、みどりが口を|挟《はさ》む。
「どうも。――桜井君も悪かったね、|忙《いそが》しいのに」
「どういたしまして。結婚と|離《り》|婚《こん》の話なら、三度の食事を四度にしても|駆《か》けつけて来るわよ」
みどりがソファに置いていた引出物の包みが、置き方が悪かったのか、|滑《すべ》り落ちた。
「あら、いやだわ」
みどりが急いで拾いに行く。――そのときだった。
田村の顔から、照れたような|微《ほほ》|笑《え》みがかき消すようになくなった。そして|素《す》|早《ばや》く亜由美の耳元へ口を|寄《よ》せると、
「聞いてくれ!」
と、|切《せっ》|迫《ぱく》した口調で|囁《ささや》いた。
「え?」
「あの女はぼくの|妻《つま》じゃない」
「何を――」
「そっくりだが別の女[#「別の女」に傍点]だ」
亜由美は耳を|疑《うたが》った。
「田村さん……」
そこへ、
「――スピーチして下さった方ね」
淑子が、やって来た。
「|紹介《しょうかい》するよ。塚川亜由美君だ」
田村は、またいつもの|呑《のん》|気《き》そうな|笑《え》|顔《がお》に|戻《もど》っていた。
「|素《す》|敵《てき》な方ね」
と、淑子は亜由美に|微《ほほ》|笑《え》みかけながら、
「あなたに取られなくて良かったわ」
「そんなこと……」
亜由美は、|曖《あい》|昧《まい》に言った。
「ね、もう出かけないと」
淑子が夫の|腕《うで》に自分の腕を|絡《から》ませる。
「そうだな。――じゃ、塚川君。これで失礼するよ」
「どうぞ――お幸せに」
ほとんど|無《む》|意《い》|識《しき》に、亜由美はそう言っていた。
ホテルの正面に、黒光りする大型車の車体が横づけされて、二人を待っている。客たちが、二人を見送りに、|車寄《くるまよ》せへと出て行く。
「塚川さん、行こうよ!」
とみどりが声をかけて、小走りに行ってしまった。
しかし、亜由美はその場から動かなかった。
あれは本当だろうか? 田村は本当に、そう言ったのか?
「あれは別の女だ」
と。――だが――だが、そんなことがあるだろうか?
もしそうだとしても、なぜ田村は亜由美だけに、そっとそのことを告げて行ったのか。
亜由美は、|一瞬夢《いっしゅんゆめ》にでも|浮《う》かされていたような気がして、ソファの前に立ったまま、|歓《かん》|声《せい》の中を静かに|滑《すべ》り出して行く、田村たちを乗せた車を、遠く見送っていた……。
トラックのご来店
「はい、亜由美」
母親が、目の前に|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》包みを置いた。
「なあに、これ?」
亜由美は、コーヒーカップを|皿《さら》へ|戻《もど》して、包みを開けてみた。台紙に|貼《は》って、|厚《あつ》|紙《がみ》のケースにおさまった写真が、ざっと三十|枚《まい》。
「今、来てるお話なの。二十八|件《けん》あるわ」
夕食後の、めいめいが|好《す》き|勝《かっ》|手《て》に新聞を広げたり、TVを見たりする時間である。
今日は|珍《めずら》しく母の清美が家にいて、夕食を作ったので、親子三人が|居《い》|間《ま》に|揃《そろ》っていた。
「お話って……」
「もちろんお見合いじゃないの」
「これ全部――見合写真?」
亜由美は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「おい、まだ早いんじゃないのか」
父親の塚川|貞《さだ》|夫《お》がTVから目を|離《はな》さずに言った。
亜由美は、母親|似《に》の顔立ちで、母親の方も、外出|好《ず》きで若々しいから、ますます似て見えるらしい。父親の方は、一見インテリ風の|技術者《ぎじゅつしゃ》であるが、TVはアニメ|一《いっ》|辺《ぺん》|倒《とう》で、スポーツ|中継《ちゅうけい》などには|一《いっ》|切《さい》|興味《きょうみ》を|示《しめ》さないという変り者だった。
「早くなんかないわよ」
と、清美が切り返す。「いい相手は今の内からツバをつけておかなくちゃ」
「|不《ふ》|真《ま》|面《じ》|目《め》ねえ」
と亜由美は|苦笑《くしょう》した。
「|結《けっ》|婚《こん》は|現《げん》|実《じつ》ですよ。|夢《ゆめ》を追うのは十八まで。十九になったら現実に直面しなきゃ」
これが清美の|哲《てつ》|学《がく》である。
「二十八|件《けん》も? 良くため込んだもんね、こんなに!」
「どうせなら、きりがいいから三十件集まるまで待とうかと思ったんだけどね。ここ一週間ばかり話がないから、ここで一区切り、と思ったの」
「|抽選《ちゅうせん》で十名様に記念品って感じね」
「そんなことばっかり言ってないで、見てごらんなさいよ」
急に父親がゲラゲラ|笑《わら》い出した。TVの|子《こ》|供《ども》向けアニメを見ているのである。清美が、それを見て、
「――ああいう人を選ばないように気を付けてね」
と言った。
亜由美は笑いながら、その気もなしに写真を|眺《なが》めて行った。そして、ふと手を止めると、
「――今日、何日?」
と|訊《き》いた。
「二十四日よ」
「二十四日か……」
田村の|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》から、ちょうど一週間がたったわけだ。もちろん、まだヨーロッパから、田村たちは|戻《もど》っていないだろう。
|今《いま》|頃《ごろ》田村たちはどの辺だろう? パリかローマか、ロンドンか。それともヴェニスでゴンドラにでも|揺《ゆ》られているのだろうか。
いずれにしても、田村には|似《に》つかわしくない光景に思える。
亜由美は、見合写真を一つずつ見ながら、あのときの田村の言葉を思い出していた。
「あれは、そっくりな別[#「別」に傍点]の女[#「女」に傍点]だ……」
ずっと、その言葉が亜由美の|脳《のう》|裏《り》を去ったことはない。しかし、亜由美に何ができようか?
あの淑子の父親のところや、田村の両親の家へ行って、いきなりこの話を持ち出せば、とてもまともに取り合ってはもらえまい。といって、友人――|特《とく》に桜井みどりなどにこの話をするなど、とんでもないことである。
たちまち、その|噂《うわさ》は方々へ広まってしまうだろう。
亜由美としては、田村がハネムーンから|戻《もど》るのを待つ以外、どうすることもできなかったのだ。
「――どう、亜由美?」
と、母が|訊《き》いた。「会ってみたいっていう人がいた?」
「えっ?――ああ、これ?」
亜由美は見終えた写真の山を見て、
「よく見なかったわ」
と言った。
|呆《あっ》|気《け》に取られている清美を|尻《しり》|目《め》に、亜由美は|居《い》|間《ま》を出て、二階の自分の部屋へ行った。
明りを|点《つ》けると、あまり女の子っぽくない――ということは、つまりゴテゴテと飾りつけていない部屋が目に|映《うつ》る。すっきりしたのが、|大《だい》|好《す》きなのである。
亜由美はベッドに|弾《はず》みをつけて転がり|込《こ》んだ。
「あーあ」
と、声を|絞《しぼ》り出しながら|伸《の》びをした。
ふと、|机《つくえ》の上に、何か置いてあったような気がして、起き上る。――|絵《え》|葉《は》|書《がき》だ。
「田村さん……」
見覚えのある、田村のユニークな|筆《ひっ》|跡《せき》であった。
〈塚川君。
今はロンドンに来ています。天気はあまり良くない。しかし、歴史的には|興味《きょうみ》のある|街《まち》です。少し古本屋を|探《さが》して歩くつもりですが、時間があるかどうか。
ではこれで。 田村〉
「田村さんらしいわ」
と、亜由美が|笑《わら》いながら|呟《つぶや》いたのは、ハネムーンのときまで、古本屋へ|寄《よ》ろうというあたり、それに、一体何のために絵葉書をくれたのか分らないような文面について、でもあった。
|裏《うら》の写真を見て、もう一度亜由美は笑ってしまった。――ロンドンから出しているというのに、絵葉書は、ヴェニスのそれだったからである。
亜由美は|却《かえ》って安心した。これでこそ田村さんだわ、と思ったのである。
もし、〈今、僕たちはハネムーンを楽しんでいます〉などという文面だったら、むしろ心配したに|違《ちが》いない。
しかし、この調子なら、まあ心配することもないだろう。――もっとも、|花《はな》|嫁《よめ》の方が|腹《はら》を立てて、帰国したら|即《そく》|離《り》|婚《こん》なんてことにならなければ、の話だが……。
亜由美の机の上の電話が鳴った。
「――亜由美、電話よ」
と母の声。「男の人から」
「|誰《だれ》?」
「知らないわよ。つなぐからね」
清美がつなぐと、三回に一回は電話が切れてしまう。しかし、今度はうまくつながった。
「もしもし」
|若《わか》い男の声である。聞き|憶《おぼ》えはなかった。
「亜由美ですけど……」
「やあ、先日はどうも」
と、相手はいやになれなれしい。
「どなたですか?」
「|忘《わす》れちゃったかな。ホテルのロビーで君にノックアウトされた男さ」
「あ――」
亜由美に|酔《よ》って声をかけて来た男だ。
「何かご用ですか?」
と亜由美は|無《ぶ》|愛《あい》|想《そう》な声で言った。「第二ラウンドがご希望ですか?」
「まあ|勘《かん》|弁《べん》してくれよ」
と男は|笑《わら》って、「あのときは少々酔ってたしね。それに|振《ふ》られて、やけにもなってたんだ」
「振られて?」
「|自己紹介《じこしょうかい》するよ。|僕《ぼく》は|武《たけ》|居《い》|俊《とし》|彦《ひこ》というんだ。君は塚川亜由美さんだね」
「知ってりゃ|訊《き》くことないでしょ」
「僕は|彼《かの》|女《じょ》の|婚《こん》|約《やく》|者《しゃ》だったんだ」
「彼女って――」
「増口淑子さ」
「でも……」
「振った男を|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》に|招《よ》ぶなんて|残《ざん》|酷《こく》だろう? あの増口って一族には、そういう血が流れてるんだ」
「あなたの一族には、そういう|招待《しょうたい》にのこのこ出かけて行くような血が流れてるの」
と亜由美が言うと、武居と名乗った男は声を上げて笑った。
「いや……君は面白い人だなあ。君のことは忘れられないよ」
「それより何の用ですか?」
「ちょっと会って話をしたいんだ」
「私に?」
「そう。――明日は土曜日だ。どうかな、時間はある?」
「時間があるかどうかより、用があるのかどうかが問題じゃないんですか?」
「気になることがあってね」
|真《ま》|面《じ》|目《め》な口調になった。
「気になること?」
「そう。君はあの田村って人が彼女と|結《けっ》|婚《こん》するようになった|事情《じじょう》を知ってる?」
「いいえ」
「式の前に彼女に会ったことは?」
「ありません」
「じゃ、やっぱり何も知らないわけだね」
「そんな気をもたせるような言い方、やめて下さい」
「失礼。そんなつもりじゃないんだよ。――ともかく、電話じゃ話にならない。明日、会ってもらえないか」
亜由美は|迷《まよ》った。しかし、田村の言葉の意味が、それで分るかもしれない、と思い付くと、
「分りました」
と、ためらわずに|承知《しょうち》した。
「夕食でも|一《いっ》|緒《しょ》にどう? この間のお|詫《わ》びに、おごらせてもらうよ」
「夜はデートがありますので」
と、亜由美は出まかせを言った。「昼食なら|結《けっ》|構《こう》です」
「分った。どこかご希望の店はあるかな」
「ええ」
と亜由美は|即《そく》|座《ざ》に言った。
「なるほど、なかなか|旨《うま》いもんだね」
武居俊彦はハンバーガーにかみつきながら言った。
「食べたことないんですか、マクドナルド」
「うん。この手の店は、頭から|無《む》|視《し》してかかっていたからね」
「そういうのを、|愚《おろ》かというんです」
「|手《て》|厳《きび》しいね」
と武居は|笑《わら》った。
今日は、この間の|酔《よ》っ|払《ぱら》っていたときに|比《くら》べると、大分イメージも変っていた。いかにも一流のビジネスマンという印象で、|背《せ》|広《びろ》も亜由美の父の物より高級であることは一目で分った。
二人は、ハンバーガーショップの二階のテーブルについていた。亜由美は、少し|離《はな》れて|座《すわ》っている有賀雄一郎の方へ、そっと目を向けた。有賀もそれに気付いて、ウインクして見せる。
「武居さんは、増口さんの会社に|勤《つと》めてるんでしょう?」
「うん。ホテルチェーンの部門で、|結《けっ》|構《こう》、|責《せき》|任《にん》ある地位にいるんだよ」
「で、社長の|娘《むすめ》を|射《い》|止《と》めようとしたんですね?」
「まあ――外から見るとそういうことになるかね。しかし、|欲《よく》|得《とく》ずくで彼女に近付いたわけでは決してないんだ。信じてくれるかどうか分らないが」
「信じたとして、話を進めて下さい」
「|僕《ぼく》は淑子さんと|婚《こん》|約《やく》していた。もう一年くらい前になる。別に社長に|押《お》し付けられたわけでもなく、こっちも|無《む》|理《り》に|彼《かの》|女《じょ》へ近付いたわけではない。色々とパーティで顔を合わせたり、テニスコートで|一《いっ》|緒《しょ》になったりという機会が重なって……まあ、|熱《ねつ》|烈《れつ》な|恋《れん》|愛《あい》というわけでもなかったが、|一《いち》|応《おう》結婚の|約《やく》|束《そく》をするまでになった」
「両親の反対は?」
「増口社長? いや、全くなかった。僕は、こう言っちゃ何だが、かなり増口さんには気に入られている。増口さんも、|僕《ぼく》が淑子さんと|結《けっ》|婚《こん》するのを喜んでくれているはずだ」
「それはあなたがそう思っているだけでしょう?」
「だが、あの人はそうそう表面を取りつくろうことのうまい人ではないよ。内心|面《おも》|白《しろ》くなければ、必ず|表情《ひょうじょう》に出る。――もう何年もあの人の下で働いて来たんだ。それぐらいのことは分る」
「なるほどね」
と、亜由美はミルクシェークを飲みながら、
「で、その話がなぜ|破《は》|談《だん》になったんですか?」
と|訊《き》いた。
「|突《とつ》|然《ぜん》、理由もなくだよ」
と、武居は両手を軽く広げて見せた。
「理由もなしで?」
「僕は、六月に、増口社長から、ヨーロッパのホテルチェーンを|視《し》|察《さつ》して来て、うちのホテルと|提《てい》|携《けい》できないか|打《だ》|診《しん》して来てくれと言われた。六月の|半《なか》ばに日本を|発《た》って、僕はフランス、ドイツ、スペイン、イタリア……。ヨーロッパ中のホテルを|泊《とま》り歩いた」
「会社のお金ででしょ?|羨《うらやま》しい!」
と、亜由美はため息をついた。
「仕事となるとね。色々|辛《つら》いこともあるよ」
と、武居は|苦笑《くしょう》した。「|設《せつ》|備《び》、|待《たい》|遇《ぐう》、食事、|立地条件《りっちじょうけん》。あらゆる点をチェックして、これはと思うホテルをリストアップした。|直接支配人《ちょくせつしはいにん》とも話をした。――まあ、大変ではあったが、二か月間、|楽《たの》しい仕事でもあった」
「一人で行ったんですか?」
「もちろん。――それで、帰国したのが八月の二十日|過《す》ぎだった。ところが……」
武居は言葉を切った。
「――ところが?」
「前もって手紙を出しておいたのに、成田に、淑子さんの|姿《すがた》はなかった。まあ、何か用があったんだろうと思って、そう気にもせず、ともかく、会社へ直行した。――社長室へ入ると、増口社長は|僕《ぼく》を|笑《え》|顔《がお》で|迎《むか》えて、労をねぎらってくれた。そして……そこにいた男を、淑子の|婚《こん》|約《やく》|者《しゃ》だと|紹介《しょうかい》してくれたのさ」
「田村さんですね」
「そう。――僕の受けたショックは、君にだって分るだろう」
「そういう|経《けい》|験《けん》ありませんけど、|想《そう》|像《ぞう》はつきます」
と亜由美は|肯《うなず》いた。「で、増口さんはどう説明したんですか?」
「何も」
「何も?」
「そう。何も、だ。もちろん僕にもプライドというものがある。当の、淑子さんの婚約者を前にして、増口さんと争いたくはない。だから、その場では、|動《どう》|揺《よう》を|隠《かく》して、田村という男と|挨《あい》|拶《さつ》をしたよ。そして、後で増口さんと二人になったとき、僕は一体、これはどういうことなのか、|訊《き》こうとした。だが、増口さんは、僕が何も言わない内に、
『何も訊かないでくれ』
と、僕の肩を|叩《たた》いたんだ。『君には|済《す》まないなと思う。しかし、他に方法がなかったんだよ』とね」
他に方法が……。亜由美は頭の中で、その言葉をくり返した。
「で、あなたもそれ以上、訊かなかったんですか?」
「そうさ。もちろん、僕は淑子さんが心変りしたんだと思った。当然そう思うだろう?」
「そうでしょうね」
「それをくどくど言うのも男らしくない。そう思って何も言わなかったんだ。ただ、いくら、心変りしたからといって、|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》が早|過《す》ぎるような気はしたがね」
「で、|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》でやけ酒ってわけですか」
「まあ君には失礼なことを言ったが、そんなわけだったんで、|勘《かん》|弁《べん》してくれ」
「それはまあ……」
亜由美としては、平手打ちまで食らわしたのだから、あまり|偉《えら》そうなことは言えない。
「しかし、|僕《ぼく》もあの後、田村君という人とは多少会う機会もあったんだが、淑子さんがなぜ、あんなにも急いで田村君と|結《けっ》|婚《こん》したのか、どうしても分らないんだ」
「私もです」
「ほう、君も?」
武居は亜由美を見つめた。「それはどういう意味?」
「何て言うか……田村さんらしくない相手だと……。そんなに田村さんのこと、良く知ってたわけじゃないし、男女の|仲《なか》なんて、ほかの人間には分らないもんだと思いますけど……でも、それでもよく分らないんです。もし田村さんがあの人と|恋《こい》に落ちたとしても、あんな|派《は》|手《で》な式をやったりするかしら、と……」
亜由美は|肩《かた》をすくめて、「何だか|巧《うま》く説明できませんけど……」
「いや、よく分るよ」
武居は|肯《うなず》いて、「僕も田村君という人は、いい人だと思う。最初はどうしても、この|野《や》|郎《ろう》、という気持でいたが、ともかく、話をしてみると、|憎《にく》めない人だね。だから、まあこの男になら、|彼《かの》|女《じょ》を取られても仕方ない、くらいには考えていたんだよ」
亜由美は、初めて、|好《こう》|感《かん》を持って、この男を|眺《なが》めた。――なかなか分ってるじゃないの、この人。
ふと、あのことを話してみようか、と亜由美は思った。田村が亜由美に|囁《ささや》いて行った|謎《なぞ》めいた言葉を。
「実は、今日君を|呼《よ》び出したりしたのはね」
と、武居が続けた。「ちょっと|妙《みょう》な電話があったからなんだよ」
「どういう……」
「一昨日の夜なんだが――」
と、武居が言いかけたとき、ピーッ、ピーッと|笛《ふえ》がつぶれたような、変な音がした。
「おっと。ポケットベルだ」
武居は上衣の内ポケットに手を入れて、音を止めると、
「ちょっと電話をかけて来るよ。失礼」
と、席を立って、一階のカウンターのフロアへと|階《かい》|段《だん》を|降《お》りて行った。
有賀が立ち上ってやって来る。
「――何かキザな|奴《やつ》だなあ」
「でも、そう悪い人でもないみたい。わざわざ|見《み》|張《は》ってもらって悪いけど」
「そういう|油《ゆ》|断《だん》が|怖《こわ》い。きっと君をどこかのホテルへ連れ|込《こ》む気だぞ」
「やめてよ」
と、亜由美は|苦笑《くしょう》した。「それに、田村さんの|結《けっ》|婚《こん》、どうも気になることがあるの。あの人の話が、その辺に関係してるかもしれないわ」
「気になることって?」
「うん……。ちょっとね」
亜由美は、有賀にも、もちろんあの田村の言葉については、何も言っていないのだ。
「ともかく、時間あるから、僕はそこに|座《すわ》ってるよ」
「悪いわね。何か用があるなら――」
と言いかけたとき、ドーンと|凄《すご》い音がして、足下が|揺《ゆ》らいだ。テーブルの上でグラスが音を立てて動いた。
「何、今の?」
と|腰《こし》を|浮《う》かす。
「キャーッ!」
「|誰《だれ》か!」
「助けて!」
下の階から悲鳴が上った。亜由美は階段を一気に|駆《か》け|降《お》りた。有賀もあわてて後につづく。
「――ひどい!」
一階へ降り立った亜由美は、思わず立ちすくんだ。
通りへ面して、一階はガラスばりになっている。そこへ、小型トラックが|突《つ》っ|込《こ》んでいた。
ガラスを突き|破《やぶ》って、車体はほとんど店の中へ、入り|込《こ》んでいた。立ち食い用のテーブルが一つひっくり返って、その周囲で、けがをした女の子たちが|泣《な》き出している。
「――有賀君! 早く助けなきゃ!」
「う、うん」
亜由美と有賀は、けがをした女の子を、|抱《だ》き起して、店の|奥《おく》へと運んで行った。
|呆《ぼう》|然《ぜん》としていた店員たちも、やっと|我《われ》に返った様子で、一一九番へ電話したり、|救急箱《きゅうきゅうばこ》を持って来たりし始める。
「何て運転手だ」
と、有賀が|腹《はら》|立《だ》たしげに言った。
「そうだわ。運転手は? けがしてるんじゃない?」
「見て来る」
有賀は、トラックのドアを開けた。
「――どう?」
「|誰《だれ》もいないよ」
「まさか!」
「見てみろよ」
と、有賀が亜由美を|手《て》|招《まね》きした。
なるほど、運転席は空っぽである。
「じゃ、どうして|突《つ》っ|込《こ》んだわけ?」
「知らないよ。どうなってるんだ?」
亜由美は、ふと武居のことを思い出した。そうだ。下で電話をかけているはずだった。
「武居さん!――武居さん!」
と亜由美が|呼《よ》ぶ。
「おい、あれ――」
と、有賀が亜由美の|腕《うで》を|引《ひ》っ|張《ぱ》った。
「え?」
有賀の指さす方へ目をやって、亜由美は目を|見《み》|張《は》った。赤電話の台が|押《お》し|倒《たお》されていて、その下から、受話器をつかんだ手が、のびていた。
「|引《ひ》っ|張《ぱ》り出さなきゃ! 早く!」
亜由美と有賀はあわてて|駆《か》け|寄《よ》った。
「――全くもう、何事かと思ったわ」
母の清美が、亜由美の服を広げて見ながら、言った。「こんなに|汚《よご》して、血までついてるんだもの」
「仕方ないでしょ。人助けしたんだから」
ソファへ|寝《ね》|転《ころ》がって、亜由美は言った。
「本当なんでしょうね、その話?」
と、清美が言った。
「どういう意味?」
「もしかして……お前、どこかで|強《ごう》|姦《かん》されたんじゃないの?」
「|凄《すご》いこと言ってくれるわね!」
亜由美は|呆《あき》れて、「ニュースを見なさいよ、ちゃんとTVに|映《うつ》ってるから!」
とかみつきそうな顔で言った。
「分ったわよ……」
清美は|肩《かた》をすくめて、「で、その何とかさんって人、死んだの?」
「武居さん? いいえ、|奇《き》|跡《せき》的に軽いけがで|済《す》んだの。|一《いち》|応《おう》入院してるけどね」
「ふーん。で、お前に何の用だったの?」
「ええと……まあ大した用じゃないのよ」
|玄《げん》|関《かん》でチャイムが鳴ったのを幸い、亜由美は|逃《に》げ出した。玄関へ出て、ドアを開けると、父親が飛び|込《こ》んで来た。
「|馬《ば》|鹿《か》! 早く開けんか!」
と、|靴《くつ》を|脱《ぬ》ぎ|捨《す》て、|居《い》|間《ま》へと|駆《か》け|込《こ》んで行く。
「どうしたの?」
びっくりした亜由美がついて行ってみると、父親はTVをつけて、
「電車が|遅《おく》れたんだ。|危《あや》うく|見《み》|逃《のが》すところだった!」
と息を|弾《はず》ませた。
少女向けアニメ番組がスタートしたところで、にぎやかなテーマソングが流れて来た。
――二階の部屋で、亜由美が|珍《めずら》しく(?)勉強していると、電話が鳴った。
「有賀さんよ」
と母の声。有賀のことは知っているのである。
「――おい、ニュース見た?」
出るなり、有賀はいきなりそう言った。
「見てないわよ。|我《わ》が家のチャンネル|権《けん》は、父が|握《にぎ》ってんだから」
「あ、そうだったな」
「どうしたの?」
「例の事件さ。さっきNHK見たら、君も|映《うつ》ってたぜ」
「美人にとれてた?」
亜由美は|呑《のん》|気《き》なことを|訊《き》いた。
「そんなことよりさ、|警《けい》|察《さつ》の調べじゃ、あのトラックは|誰《だれ》かが運転して、わざと|突《つ》っ|込《こ》んだらしいってんだ」
「わざと?」
「あの車の運転手は、近くのソバ屋で昼飯食べてたんだってさ。ちゃんとエンジンも切ってあったし、ハンドブレーキもかけてあった。誰かが乗り込んで、トラックを走らせたんじゃないかっていうんだ」
「ひどいことするのね! 誰がやったか、分らないの?」
「|目《もく》|撃《げき》|者《しゃ》|捜《さが》してるけど、分んないみたいだぜ、まだ」
「でも……そんなに|簡《かん》|単《たん》に動く?」
「だから、これはただのいたずらとか、そんなもんじゃないだろうって言うんだ。もっと具体的に|誰《だれ》かを|狙《ねら》ったとか……」
「|警《けい》|察《さつ》でそう言ってるの?」
「いや、こりゃ|僕《ぼく》の|推《すい》|理《り》」
「何だ」
「何だ、ってことないだろ」
「ごめん、ごめん。――じゃ、もしかしたら、あの武居さんって人が|狙《ねら》われたのかもね」
「考えられるよ。だって、他にけがしたの、中学生とか高校生ばっかりだよ」
「そうか。――電話台はあのガラスの方に面してたわね。車で|突《つ》っ|込《こ》めば真正面、てわけか」
「電話してるところが、表から見えたはずなんだよな」
「じゃ……本当に武居さんが狙われたのかしら?」
「分んないけど、ま、あんまり近付かない方がいいんじゃない?」
亜由美はちょっと考え|込《こ》んで、
「――わざわざありがとう」
と、電話を切った。
田村の言葉、そして淑子の元の|婚《こん》|約《やく》|者《しゃ》だった武居が|狙《ねら》われかけたこと……。
加えて、なぜ淑子が急に武居から田村へ乗り|換《か》えたのかという|謎《なぞ》。
「何かありそうだわ……」
大体が、この手のTVや小説の|大《だい》|好《す》きな亜由美である。ちょっと|胸《むね》をわくわくさせながら、そう|呟《つぶや》いた。
「ニュース、ニュース!」
今夜は父親をけちらしてもニュースを見てやろう、と亜由美は決心して、部屋を飛び出して行った。
血のついた上衣
「――亜由美、どこかに出かけるの?」
|玄《げん》|関《かん》で亜由美が|靴《くつ》をはいていると、清美が声をかけて来た。
「今日は月曜日よ。大学あるの」
「ああ、そうだったわね」
と、清美は|呑《のん》|気《き》に|肯《うなず》いた。
だが亜由美の方もいい気なもので、大学へ行く気はまるでないのである。
出がけに|郵《ゆう》|便《びん》|受《うけ》を|覗《のぞ》いてみると、絵葉書らしきもの。
出してみると、田村からである。亜由美はびっくりした。一|枚《まい》よこしただけでも大したことなのに、こんなにすぐ、二枚目が来るなんて……。
〈塚川君。
今はパリにいる。ごみごみしていて、あまり|面《おも》|白《しろ》くはない。|疲《つか》れる。しかし、こちらはしょせん旅行客だ。たった一日二日の|滞《たい》|在《ざい》で、そんな|判《はん》|断《だん》を下すのは、不当かもしれない。では。 田村〉
相変らず、ハネムーンの便りとは思えない。一体田村さんは何をしに行ったんだろう?
|裏《うら》を見ると、パリからだというのに、イタリアのヴェローナの風景が|映《うつ》っていた。
亜由美はそれをバッグへしまうと、表通りへと歩いて行った。
よく晴れて、少し|涼《すず》しい風も|吹《ふ》いているようだ。
ホテルのロビーをぶらつきながら、亜由美は、|結《けっ》|婚《こん》|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》の客らしい人々を|眺《なが》めていた。
毎日、毎日、よくまあ結婚する人がいるもんだわ、と思った。自分もその内の一人になるのだろうか。いつかは……。
「――やあ、どうも」
声に|振《ふ》り向くと、武居が、軽く右足を引きずるようにしてやって来た。
「武居さん、|大丈夫《だいじょうぶ》なんですか?」
「おかげでね。どうもありがとう。君が|引《ひ》っ|張《ぱ》り出してくれたんだって?」
「そんなこと……」
と、亜由美は、ちょっと|柄《がら》にもなく照れた。
「でもびっくりしました。病院に行ったら、もう|退《たい》|院《いん》したって聞かされて」
「もう二、三日は、って言われたんだけどね、そうそう仕事も休めないし」
「ちょっとがっかりだわ」
「がっかり?」
「そんなにモーレツサラリーマンだとは思わなかったの」
武居は|笑《わら》って、
「そんなことはないさ。こうやって|抜《ぬ》け出して来たじゃないか」
「今はいいんですか?」
「うん。ちょっとそこでコーヒーでも飲まないか」
ロビーのわきにあるコーヒーハウスで、亜由美は武居と向い合って席についた。
「昨日のこと、|警《けい》|察《さつ》に|訊《き》かれました?」
「もちろん。しかし、電話中っていうのは、|結《けっ》|構《こう》他に気の回らないものでね。|特《とく》に手帳を見ながら話をしていたので、トラックが|突《つ》っ|込《こ》んで来るのに全く気が付かなくて……」
「良く助かりましたね」
「電話台の下になったのが、かえって良かったみたいだね。台が真四角じゃなかったんで、|隙《すき》|間《ま》ができて、そこへちょっと入り込む形になったらしい」
「|原《げん》|因《いん》、分らないんでしょ?」
「そうらしいね。全くふざけた話だ」
と、武居は首を|振《ふ》った。
亜由美にコーヒー、武居にはアイスミルクが来た。
「ミルク|党《とう》ですか」
「仕事で、やたらにコーヒーを飲むもんでね。いい|加《か》|減《げん》うんざりだよ」
と、武居は|苦笑《くしょう》した。
「ところで、あの話の続きをうかがいたくて――」
「あの話?」
武居は訊き返して、「あ、そうか! 例の電話のことだね」
「そうです」
「ええと……あれは木曜日のことだな。ホテルの|事《じ》|務《む》|所《しょ》へ電話がかかって来た」
「夜っておっしゃいませんでした?」
「夜も帰りは十時|以《い》|降《こう》になるからね。あれは九時ごろだったかな」
「どんな話だったんですか?」
「男の声だった。変にこもっていて……。きっと何か、声が分らないようにしていたんだろう。『あなたに教えておきたいことがある』と言うんだ」
「何と言いました?」
「『|彼《かの》|女《じょ》は死んだよ』と言った」
「死んだ……。彼女というのは――」
「僕も|訊《き》き返した。一体|誰《だれ》のことだ、とね」
「で、向うは?」
「『あなたのフィアンセのことですよ』と言った」
「つまり――淑子さん?」
「|僕《ぼく》は他に|婚《こん》|約《やく》したことはない」
「その他には?」
「誰なのか訊いたが、名乗らなかった。そして、『|嘘《うそ》だと思ったら、塚川亜由美に訊いてみろ』と言うんだ」
「私に?」
亜由美は目を|丸《まる》くした。
「そうなんだ。君は何か知らないか」
「私は――」
亜由美はためらった。あのことを話すべきだろうか?
この男――武居は信用できるだろうか?
もし、本当にあのトラックで殺されかけたのだとしたら、武居にも、それを知る|権《けん》|利《り》はあるかもしれないが……。
「あの電話が|誰《だれ》からかかって来たにせよ、君の名前を知っていたというのは――」
「わけが分りません」
と、亜由美は言った。
「しかし、何か知ってるんじゃないか?」
武居が、じっと亜由美を見つめる。
亜由美が口を開こうとしたとき、
「失礼します」
と、ウエイターがやって来た。「武居様、|国《こく》|際《さい》|電《でん》|話《わ》が入っております」
「そうか。分った」
武居が席を立つ。
「社長のお|嬢様《じょうさま》からです」
「淑子さんから?」
武居と亜由美は目を見交わした。
武居が急いでカウンターの電話へと走る。――亜由美も|座《すわ》っていられず、立ち上ると、電話の方へ歩いて行く。
「もしもし。――淑子さん? 今どこだい?――もしもし、どうしたんだ?」
武居の声が急に不安げに|鋭《するど》くなった。
「――何だって?――よし、分った。今はどこのホテル?――すぐに人を行かせる。フランクフルトに誰かいるはずだ。――心配しなくて|大丈夫《だいじょうぶ》だよ。――落ち着くんだ!」
亜由美は|膨《ふく》れ上って来る不安をじっと|押《おさ》えながら、武居の顔を見ていた。武居が、やっと受話器を置く。
「一体どうしたんです?」
武居は、もう一度受話器を上げると、ダイヤルを回してから、亜由美の方へ向って言った。
「淑子さんだ。ドイツで、田村君が|行方《ゆくえ》|不《ふ》|明《めい》になったらしい。――あ、社長ですか? 武居です。お|嬢《じょう》さんがドイツから電話を。――そうです、実は――」
亜由美は、もう武居の声が耳に入らなかった。急いで席に|戻《もど》ると、冷たい水を一気に飲み|干《ほ》した。
「行方不明……」
と|呟《つぶや》く。
田村さんが……行方不明。そんなことが……。
いつの間にか、武居が戻って来ていた。|座《すわ》らずに、立ったままで、
「聞いた通りだ。しかし、|彼《かの》|女《じょ》もかなり|神《しん》|経《けい》がたかぶっている。|事情《じじょう》は良く分らないんだよ」
「行方不明って……」
「ホテルを昨日出たまま帰らないらしいんだ。今、地元の|警《けい》|察《さつ》へ手配してもらっている」
「田村さんなら……きっと|迷《まい》|子《ご》になったんだわ」
「そう願いたいね。幸い近くにうちの|駐在員《ちゅうざいいん》がいる。|連《れん》|絡《らく》して直行させる」
「心配だわ……」
「そうだね。僕も気になる」
「武居さん」
と、|呼《よ》ぶ声がした。「社長です」
「今行く。――じゃ、何か分ったら連絡するから」
「お願いします」
武居が足早に行ってしまうと、亜由美は急に力が|抜《ぬ》けたようで、しばらくそこに座ったまま動けなかった。
「あの……コーヒーをおつぎしましょうか?」
ウエイターの声で、やっと|我《われ》に返った。
「い、いえ、|結《けっ》|構《こう》です」
立ち上ってお金を|払《はら》おうとすると、
「これは公用ですから」
と、言われた。
なるほど、武居といたせいだろう。
「どうも」
ピョコンと頭を下げてロビーに出る。こんなときなのに、コーヒー代、助かった、などと考えていた。
ロビーの|奥《おく》の方で、武居が、増口と話をしている。淑子の父親だ。
|娘《むすめ》がヨーロッパで立ち|往生《おうじょう》しているのだから、もっと心配してもいいようなものだが、見たところは、|至《いた》って落ち着き払っているらしい。
亜由美は、ホテルを出ると、駅の方へ向って歩き出した。
「――田村さん、心配だね」
と、母親が言った。
亜由美は、TVのニュースに、じっと見入って、返事をしなかった。
しかし、何度ニュースを見ても、新しい事実は分っていないらしかった。
はっきりしているのは、ただ一つ、田村が行方不明になったということだけである。
ハンブルクは大都会だから、場所によっては|危《き》|険《けん》な所もある。しかし、ドイツの|治《ち》|安《あん》は、かなりいい方であり、|特《とく》に、多少ドイツ語もできる田村は、|迷《まい》|子《ご》になるとも思えなかった。
それに、田村は、|歓《かん》|楽《らく》|街《がい》などへ足を向ける男ではない。それもハネムーンだというのに!
「どこへ行っちまったのかしらねえ」
と、清美がため息をつく。「お前は|新《しん》|婚《こん》|旅《りょ》|行《こう》、国内にしておくのよ。やっぱり安全第一だからね」
「相手もいないのに、旅行のことまで考えられないわよ」
と、亜由美は母をにらんだ。
|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴って、清美が出て行ったが、すぐに|戻《もど》って来ると、
「亜由美、お客様」
「私に?」
「|警《けい》|察《さつ》の方よ」
――入って来たのは、大分、亜由美の|抱《いだ》いていた|刑《けい》|事《じ》のイメージと|違《ちが》う、|肥《ひ》|満《まん》|体《たい》の中年男だった。
「どうも……。|殿《との》|永《なが》部長刑事です」
四十|歳《さい》ぐらいか、|背《せ》もあって、かつ太目というので、いかにも|巨《きょ》|漢《かん》に見える。
「あの……ご用は?」
「はあ。その前にちょっと水をいただけませんか」
えらく|汗《あせ》をかくらしく、ハンカチで|額《ひたい》をせっせと|拭《ぬぐ》っている。
清美が手回し良く、冷たいお茶を運んで来ると、大きなグラス|一《いっ》|杯《ぱい》、あっという間に飲み|干《ほ》して、
「いやどうも……。すみませんがもう一杯」
体が大きいと、水分も大量に必要とするらしい。
「――実は、例のハンバーガーショップの|事《じ》|件《けん》について調べていましてね」
と、殿永という、肥満刑事は言った。
「何か分りまして?」
「残念ながらまだです。で、目下、|現《げん》|場《ば》に|居《い》|合《あわ》せた方から一人一人お話をうかがっているんですよ」
「そうですか」
亜由美は、ちょっとがっかりした。
「あのときは、救助に大分ご協力いただいてありがとうございました」
「いいえ。――けがも、みなさん大したことがなくて良かったですね」
「全くです。あの|状況《じょうきょう》では死人が出てもおかしくなかったんですが。ところで、あなたはあの店に良く行かれましたか」
「ええ。三日に一度は」
「じゃ、店内の様子を良くご|存《ぞん》|知《じ》でしょう。ちょっと図面を|描《か》いていただけますか?」
「ええ」
亜由美は、広告の|裏《うら》に、ボールペンで、大体の見取り図を描いた。
「この子は|昔《むかし》から絵が上手で」
と、清美が|余《よ》|計《けい》なことを言い出す。
「学校でも|美術《びじゅつ》の時間はいっつも賞められていたんですよ」
「お母さん、あっちに行っててよ」
「はいはい」
亜由美はそっと殿永刑事の顔を|盗《ぬす》み|見《み》た。しかし、別に|笑《わら》ってもいないようだ。
「――こんなもんだと思いますけど」
と、亜由美は言った。
「なるほど。――これは|正《せい》|確《かく》に描けてますなあ」
「これが何か?」
「いや、どうもあの一件は|事《じ》|故《こ》でなく、故意に|誰《だれ》かがトラックで|突《つ》っ|込《こ》んだものと思われているんです」
「知っています」
「すると、何か目的があるはずですね。まあ、発作的な|無《む》|差《さ》|別《べつ》|殺《さつ》|人《じん》|未《み》|遂《すい》という|可《か》|能《のう》|性《せい》もあるが」
「そうですね」
「もし、誰かを|狙《ねら》ったものだとしたら、その目標は誰だったのか? しかも、なぜ、そんな|非常手段《ひじょうしゅだん》に|訴《うった》えて、殺そうとしたのでしょう?」
亜由美は|黙《だま》って|肩《かた》をすくめた。殿永刑事は続けて、
「一つ|疑《ぎ》|問《もん》なのは、この全面がガラスばりだったのに、なぜ|犯《はん》|人《にん》に中が見えたか、ということです」
「え?」
と亜由美は|訊《き》き返した。「でも――ガラスばりだから見えたんじゃありませんか?」
「しかし、外は明るかった。外より中の方が明るかったとは思えません。よく晴れていたんですからね」
「ええ、|確《たし》かに――」
「つまり、外から見ると、ガラスには、外の風景が|映《うつ》っていて、中はとても見にくかったはずなんです」
「分りました」
亜由美もやっとそれに気付いて、「じゃ、|犯《はん》|人《にん》は、目当ての人間がどこにいるか、分らなかったはずだとおっしゃるんですね?」
「いや、全く見えなかったということはないでしょう。ガラスにかなりくっついて立っていた人は、目に入っただろうと思うのです」
「つまり……」
「電話をかけていた人ですね」
殿永は、そう言って、少し間を置き、
「あの、あなたが助け出した男性――名前は武居だったかな。ご|存《ぞん》|知《じ》の方だったんですか?」
「あの……そうです。といって、良く知ってるわけじゃなくて……」
「どういうご関係です?」
「それは……」
亜由美は、どう話していいものやら、|迷《まよ》ってしまった。話し出せば、全部しゃべらなくては分ってもらえまい。しかし、それでは、ますます話がややこしくなりそうだ。
「この間、ある人の|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》で|一《いっ》|緒《しょ》になって……それで、何か話があるというんで、あそこで会っていたんです」
これなら|嘘《うそ》ではない。多少|省略《しょうりゃく》しすぎた気味はあるが。
「どこへ電話をかけていたか、ご存知ですか?」
「いいえ。仕事の話でしょう。ポケットベルが鳴って、かけに行ったんですから」
「ポケットベルがね。――そうですか」
「どうして、本人に|直接《ちょくせつ》お|訊《き》きにならないんですか?」
「訊きますよ、もちろん。しかし、|常《つね》に、|証言《しょうげん》には『|裏《うら》を取る』ということが必要でしてね」
殿永は、|刑《けい》|事《じ》らしからぬ、おっとりした|口調《くちょう》で言った。「他の人の証言とぴったり合うか、食い|違《ちが》うか。――そこを見るんですよ、|我《われ》|々《われ》は」
何となく、|腹《はら》の立てられない相手である。
「もう武居さんと話したんですか?」
「いや、これからです。病院の方へ今日行ってみると、もう自分で|退《たい》|院《いん》して行かれたとかでね」
殿永はニヤリと|笑《わら》って、「私なら、できるだけ長く入院してさぼりますがね。エリートは|辛《つら》いもんですな」
と言った。
電話が鳴って、亜由美は立って行って取った。
「武居です」
「あら。――今どこから?」
「成田空港です」
「どこかへお|発《た》ちですか」
「ドイツへ行きます。淑子さんを一人では帰せないでしょう」
「それじゃ……田村さんは?」
「これはまだ|未《み》|確《かく》|認《にん》|情報《じょうほう》ですが」
と、武居は少し声を低くした。「ハンブルクの、かなりいかがわしい場所で、田村君の|上《うわ》|衣《ぎ》が見付かったらしいです」
「まさか!」
思わず声が高くなっていた。
「まだ|断《だん》|定《てい》はできませんがね。――上衣には血がついていたということです」
亜由美は受話器を|握《にぎ》りしめた。
「じゃ、田村さんは……殺された?」
「その|可《か》|能《のう》|性《せい》はあります。――あ、もう行かなくては。では、これで」
「気を付けて。あの――」
もう電話は切れていた。
「――何事です?」
殿永が言った。「殺されたとかいうのは……」
「あの――」
と言いかけて、亜由美は、ちょっとめまいがして、よろけた。
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「ええ……。すみません」
殿永に|支《ささ》えられて、亜由美はソファに落ち着いた。こんなことで動じる亜由美ではないはずなのだが、やはり、刑事と話をしているという|緊張感《きんちょうかん》のせいだろうか。
「田村さんというのは?」
「あの……今、ドイツで行方不明になっているんです」
「ああ、あれですか。――ご|存《ぞん》|知《じ》なんですか?」
「ええ。大学の|先《せん》|輩《ぱい》で」
「そりゃご心配ですね。いや、悪いときには悪いことが重なりますよ」
刑事は、田村の|件《けん》が、武居と関係があるとは思っていない様子で、早々に引き上げて行った。亜由美も、あえて引き止めなかった。
|居《い》|間《ま》に|戻《もど》って、ソファに|座《すわ》っていると、清美が顔を出して、
「どうしたの? 何のお話?」
「大したことじゃないわ」
「お前、顔色が悪いね」
「今、ちょっとめまいがしてね」
「まあ」
清美は亜由美に近付くと、声をひそめて、
「つわり[#「つわり」に傍点]じゃないだろうね?」
と言った。
亜由美は、思い切り母親をにらみつけてやった。
|幻《まぼろし》の|事《じ》|故《こ》
「人の|噂《うわさ》も七十五日なんて、あれは|嘘《うそ》ね」
塚川亜由美は、|腹《はら》|立《だ》たしげに言った。「七十五日どころか、七・五日も|怪《あや》しいもんだわ」
「仕方ないよ。何しろ色々ニュースが|沢《たく》|山《さん》あるんだから」
と言って、有賀雄一郎は亜由美にキッとにらまれ、あわてて目をそらした。
十月になって、秋の長雨もやっと上った。短かった夏が、九月の末に残暑となってぶり返し、一転、冷たい雨が|降《ふ》り続いて、この二、三日、やっと秋らしい晴天が広がっていた。
大学のキャンパスも、活気に|溢《あふ》れていた。
――今の大学生は、早く|大人《おとな》びるというのか、夏には、
「暑いからいやだ」
と外へ出たがらないし、冬には、
「寒いから」
と言って、昼休みも学生食堂に固まっておしゃべりばかり。
男の学生でもそうなのだから、大人たちから見れば、|嘆《なげ》かわしいに|違《ちが》いない。
しかし、こんな|爽《さわ》やかな秋の日ともなると、いかに|無精《ぶしょう》な学生たちも外へ出て、亜由美と有賀の|如《ごと》く、|芝《しば》|生《ふ》に|腰《こし》をおろしておしゃべりしている。
しかし、空が青く、風が|快《こころよ》いだけ、亜由美の心は|沈《しず》んでしまうのだった。
田村久哉が、増口家の|令嬢《れいじょう》、淑子との|新《しん》|婚《こん》|旅《りょ》|行《こう》の|途上《とじょう》、ドイツのハンブルクで|行方《ゆくえ》不明になって、もう半月近くたつ。ハンブルクの|歓《かん》|楽《らく》|街《がい》で発見された、血のついた|上《うわ》|衣《ぎ》は田村のものと|判《はん》|明《めい》したが、その持主の行方は|杳《よう》として知れなかった。
淑子を|迎《むか》えに、あわただしく|発《た》って行った武居からも、あの後、|連《れん》|絡《らく》はない。ハンバーガーショップへ|突《つ》っ|込《こ》んで来て、武居を初め、数人にけがをさせたトラックの|事《じ》|件《けん》も、一向に|解《かい》|決《けつ》のきざしはなかった。
要するに、何が何やら、さっぱり分らないままだったのである。
わずかに、TVのニュースなどに|映《うつ》し出されたのは、|傷心《しょうしん》の|花《はな》|嫁《よめ》、淑子が、武居にかかえられるようにして、成田空港へ帰って来た光景ぐらいのもので、その後、彼女がどうしているのか、|週刊誌《しゅうかんし》をむさぼり読んでも、まるで分らなかった。
父親の増口は|財《ざい》|界《かい》で、かなりの力を持つ人間らしいから、|好《こう》|奇《き》|心《しん》に|溢《あふ》れたマスコミを|娘《むすめ》に近付けないことぐらい、いともたやすいのであろう。
しかし、それにしても、|新《しん》|婚《こん》|旅《りょ》|行《こう》に旅立つ直前、田村がそっと亜由美に耳打ちした、
「あの花嫁は別の女だ」
という一言の|謎《なぞ》は、今も亜由美一人の|胸《むね》の中へしまい|込《こ》まれているばかりであった。
田村自身が行方をくらましてしまったのだから、亜由美としても|疑《ぎ》|惑《わく》の持って行き場がないわけである。
「田村さん、どうなっちゃったのかしら?」
と、亜由美は言って、|芝《しば》|生《ふ》に|寝《ね》|転《ころ》がった。
「この間、TV見てたら、たぶんもう生きてないだろうって、|評論家《ひょうろんか》が言ってたよ」
「何の評論家が?」
「旅行評論家」
「そんなのいるの? 何でもすぐ評論家ね。評論評論家なんてのができるわ、その内」
「でも、ヨーロッパってのは、やっぱり一歩|裏《うら》へ入ると|危《き》|険《けん》だって。田村さん、|割《わり》とのんびりしてたものなあ」
「やめてよ、『してた』なんて。もう死んじゃった人みたいじゃないの」
と、亜由美は有賀をもう一度にらんだ。
「ごめんごめん。おっかないんだからなあ。田村さんを|秘《ひそ》かに|慕《した》ってでもいたのかい?」
今度は亜由美はにらみつけなかった。有賀の足をけっとばしたのである。
「イテテ……」
大げさに引っくり返る有賀を見て、亜由美は|笑《わら》い出した。――同時に、自分がひどく|神《しん》|経《けい》|質《しつ》になって、|苛《いら》|々《いら》していたことに気が付く。
「ごめんね。何だか有賀君に八つ当りしちゃって」
「君のためなら」
と、有賀はオーバーに|胸《むね》に手を当てて言った。
「ついでに、明日、ちょっと用があって休みたいんだ。ノート|頼《たの》むよ」
「そんなことだと思ったわ。いいわよ。たぶん出て来るから」
と、亜由美も|呑《のん》|気《き》に笑いながら答えた。
「――塚川さん」
と呼びかけてやって来たのは、クラブの|先《せん》|輩《ぱい》、桜井みどりだった。「そこにいたの、|捜《さが》しちゃった」
みどりは、亜由美の|隣《となり》に|腰《こし》をおろした。
「何か用?」
「ちょっと話があるの」
みどりはチラリと有賀の方を見た。
「|僕《ぼく》、向うへ行ってようか」
と、有賀が立ち上った。
「ねえ、有賀君、女の子にはやさしいんでしょ。食堂からコーヒーを二つ持って来てくれない?」
と、みどりは言った。「おごってくれとは言わないからさ」
「運び|賃《ちん》、一|杯《ぱい》百円」
と言って、有賀は小走りに|芝《しば》|生《ふ》を横切って行く。
「話って――」
と亜由美は言いかけて言葉を切った。
みどりが、いつになく、|真《しん》|剣《けん》そのものという|表情《ひょうじょう》をしていたからである。
「田村さんのことよ。――塚川さん、あの後で、例の男に会ったんでしょ?」
「例の男?」
「武居っていう、あなたがひっぱたいた相手よ」
「ええ。――でも、どうして知ってるの?」
「TVで見たもの。あのマクドナルドの|一《いっ》|件《けん》。あなたが人助けてて、その負傷した人の中に、例のホテルの人っていうのがいたから、調べてみたの。そうしたら、あの男じゃない」
「ええ、武居さんと会ったわ。でも、よく調べたわね! どうして?」
「手はあるわよ。だけど……」
みどりは言い|淀《よど》んだ。
「どうしたの? 何だかずいぶん|深《しん》|刻《こく》そうじゃない」
「あんまりあの男には近付かない方がいいわよ」
と、みどりは急に低い声になって言った。
「えっ?」
「あのね――」
と言いかけ、みどりは、有賀が紙コップを二つ、手にしてやって来るのを見て言葉を切った。
そして、「今日、午後の|講《こう》|義《ぎ》が終わったら、部室へ来てくれる?」
と低い声で言った。「待ってるから」
「――さあ、お待たせしました」
と、有賀がコーヒーを亜由美とみどりに手渡す。
「サンキュー。百五十円だっけ」
みどりは、もういつもの調子に戻っている。
「いいよ。それぐらいの金、持ってるさ」
「|無《む》|理《り》しちゃって。じゃ、またね、塚川さん!」
みどりは紙コップを手にしたまま、歩いて行ってしまった。亜由美は、|呆《あっ》|気《け》に取られてその後ろ|姿《すがた》を見送った。
|誰《だれ》も|彼《かれ》もがおかしい。「あの男には近付かない方がいい」って?――武居のことを、桜井みどりがなぜそんな風に言うのか、亜由美にはさっぱり分らない。
みどりは一体何を、どうやって調べたというのだろうか。
「何をボンヤリしているのさ」
と有賀に|訊《き》かれて、亜由美は|我《われ》に返った。
「別に、何でもないわ」
「コーヒー、こぼれてるぜ」
「キャッ! いやだ、もったいない!」
亜由美は、一つのことに熱中すると、他に頭が回らなくなる|性《せい》|質《しつ》なのである。
少々|寝《ね》|不《ぶ》|足《そく》のところへ、昼食で|満《まん》|腹《ぷく》になり、|退《たい》|屈《くつ》な|講《こう》|義《ぎ》を聞かされたら、これはもう|立《りっ》|派《ぱ》な|睡《すい》|眠《みん》|薬《やく》である。
亜由美は、それまでの|経《けい》|験《けん》から、|眠《ねむ》|気《け》がさして来ることは予期していたので、わざと後ろの方の席に着いた。案の定、講義が始まって十五分としない内に、ウトウトと|瞼《まぶた》が上下一体となって、|快《こころよ》い|眠《ねむ》りに引き|込《こ》まれていった……。
|妙《みょう》な|夢《ゆめ》を見た。
どこまでも暗い|廊《ろう》|下《か》が続く。そこを亜由美は歩いていた。|押《お》し|潰《つぶ》されそうな|闇《やみ》の中なのに、前へ前へ、|迷《まよ》いもせずに歩を進めて行くと、|突《とつ》|然《ぜん》、白いドアが|現《あらわ》れた。
開けようと手をのばすが、ノブも、何もない。ただのっぺりと白い板なのである。
|押《お》してみても、びくりともしない。|拳《こぶし》を固めて、力|一《いっ》|杯《ぱい》ドアを|叩《たた》くと、その音は、まるで寺の|鐘《かね》の音のように、重々しく、向う側の、見えない空間へと|響《ひび》き渡った。
ドアが不意に向う側へと開いて、そこに田村が立っていた。
「田村さん……」
亜由美はホッとしてドアの中へと足を|踏《ふ》み入れた。田村は、あの|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》のときと同じ、白いタキシード|姿《すがた》だった。
「やあ、塚川君」
田村は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「|僕《ぼく》が信じられるのは、君だけだよ」
「そんなこと……」
亜由美は照れて|肩《かた》をすくめた。
ふと、田村の白いタキシードの|胸《むね》のあたりに赤いものが見えて、亜由美は最初赤いバラか何かでもつけているのかと思った。しかし、そのバラは、|徐《じょ》|々《じょ》に大きくなりつつあった。
|違《ちが》う。――バラではない。
血が広がっているのだった。
「田村さん、|胸《むね》に――」
亜由美はそう言いかけたが、血、という言葉を口にすることができなかった。
「え?」
田村はちょっと|戸《と》|惑《まど》ったような表情になったが、すぐに気付いて「ああ、これかい?|大丈夫《だいじょうぶ》。何でもないんだよ。ほんのかすり|傷《きず》でね。でも、このタキシードは|貸衣裳《かしいしょう》だからな。|弁償《べんしょう》しなきゃならないかな」
「そんなこと言っていいんですか?」
亜由美は気が気ではない。赤い血のしみがどんどん広がって、田村の上半身が、もう|朱《しゅ》色に|染《そ》まりつつあったのだ。
「うん、大丈夫なんだ。もういくら血を流しても死にはしないんだよ」
そう言うと、田村は、フフ、と軽く|笑《わら》った。
「だって、もう僕は死んでるんだからね」
田村がメガネを外した。レンズが光っていて見えなかった目――いや、そこにはただ黒い|穴《あな》があるだけだった。
全身、冷水を浴びたような思いで、亜由美は立ちすくんだ。|逃《に》げようとしたが、動くことができない。
「塚川君」
田村の手がのびて来た。それはいつしか、ひからびたミイラのような手に変っていた。
「|僕《ぼく》が信用しているのは、君だけなんだよ……」
「やめて!――向う行って!」
と、亜由美は|叫《さけ》んだ。
「僕の友達は君だけなんだ……」
田村が口を開けて|笑《わら》った。その口は、赤く、火のように|燃《も》えていた。
「来ないで! やめて!」
「塚川君……」
「|誰《だれ》か!――助けて!」
「塚川君……」
「おい、塚川君」
|肩《かた》をつかむ手。――ハッと亜由美は頭を上げた。
有賀の顔があった。
|講《こう》|義《ぎ》が続いている。――亜由美は、何度か|深呼吸《しんこきゅう》した。
「|大丈夫《だいじょうぶ》かい? 何だかうなされてたぜ」
亜由美は、手でそっと|額《ひたい》に|触《ふ》れてみた。|汗《あせ》がふき出している。急いでハンカチを取り出し、|拭《ぬぐ》った。
「ごめんなさい。|夢《ゆめ》を見てて……」
「よっぽど|怖《こわ》かったんだな」
「ええ……。生きた心地もしなかったわ」
亜由美は、あれが夢だったことを|確《たし》かめるように、教室の中を見回した。
「大丈夫か? まだ真っ青だぜ」
「もう平気よ。ええと……後二十分か。少しはノート取らなきゃ」
「|手《て》|遅《おく》れだと思うけど」
と、有賀は笑った。
有賀の|笑《え》|顔《がお》を見て、亜由美は、やっと少し落ち着いて来た。全く、自分らしくもない、と思うのだが、|夢《ゆめ》であんな思いをしたのは初めてだ。
夢が、田村の死を|暗《あん》|示《じ》していたような気がして、亜由美は、やはり気が重かった。
|講《こう》|義《ぎ》が終って、教室の中がざわついた。|誰《だれ》か、|事《じ》|務《む》の|女《じょ》|性《せい》が入って来て、|講《こう》|師《し》へ話をしている。
「――塚川君。塚川亜由美君、いるかね」
講師に呼ばれて、亜由美は|一瞬《いっしゅん》、返事ができなかった。
「おい、君だぜ」
と、有賀につつかれ、
「あ――はい」
と、立ち上る。
「電話だそうだ」
「すみません」
亜由美は急いで教室を出た。事務の女性が待っていて、
「今ね、病院から電話があって――」
「病院?」
「お母さんは清美さんっておっしゃるの?」
「そうです」
亜由美の顔から血の気がひいた。
「|事《じ》|故《こ》に|遭《あ》われたんですって。この病院へすぐ来てほしいって――」
メモを受け取る。教室の中へ|戻《もど》る。教科書やバッグを手に取る。――いつの間にか、それだけのことをやっていたらしい。
気が付くと、校門の前で、有賀にタクシーの中へ|押《お》し|込《こ》まれていた。
「|一《いっ》|緒《しょ》に行こうか?」
「ありがとう。|大丈夫《だいじょうぶ》よ。|連《れん》|絡《らく》するわ」
行先も、有賀がちゃんと運転手に告げておいてくれたらしい。タクシーが走り出すと、亜由美は、やっと少し頭が回転し始めるのを感じた。有賀の親切が、ありがたかった。
母の|事《じ》|故《こ》。――一体どうしたというのだろう?
ともかく出歩くのが|好《す》きな人だ。車にでもはねられたのか。それとも……。
「何も考えない方がいい」
と、亜由美は|呟《つぶや》いた。
ただ、どんなことがあっても、冷静に|対《たい》|処《しょ》するだけの|心構《こころがま》えをしておこう、と思った。
病院はかなり遠かった。タクシーは車のラッシュに|巻《ま》き|込《こ》まれ、なかなか進まない。|苛《いら》|々《いら》と、亜由美は|窓《まど》の外を見ているばかりだった。
それでも、四十分ほどで病院に|到着《とうちゃく》した亜由美は、ともかく、病院へと|駆《か》け|込《こ》んで行った。
受付の|女《じょ》|性《せい》の返事は一向に|要領《ようりょう》を|得《え》なかった。その|挙《あげ》|句《く》に、
「救急|病棟《びょうとう》の方へ回って下さい」
とやられて、亜由美は|怒《ど》|鳴《な》りつけたいのを|我《が》|慢《まん》しながら、〈救急〉と書かれた矢印を|辿《たど》って行った。
が、そこでも答えは|曖《あい》|昧《まい》で、
「ちょっと調べますから、お待ち下さい」
と、相手は立って行ってしまう。
亜由美は苛立ちながら、|廊《ろう》|下《か》を|眺《なが》め回した。赤電話が目に付く。
「そうだわ」
父は知っているだろうか? まだここへ来ていないところを見ると、|連《れん》|絡《らく》が行っていないのかもしれない。
亜由美は、急いで父の会社へ電話を入れてみた。
「――何だ、亜由美か。どうした」
のんびりした父の声が伝わって来る。
「ね、お母さんが事故に|遭《あ》ったの」
「何だと?」
「今、病院なのよ。まだ様子は分らないんだけど……」
「おい、ちょっと待て。いつ|頃《ごろ》だ、それは?」
「さあ……。大学へ|連《れん》|絡《らく》が入ったの。一時間くらい前かな」
「そんな|馬《ば》|鹿《か》な」
「どうして?」
「|俺《おれ》は五分前に家へ電話して、今夜は|遅《おそ》くなると母さんへ言ったばかりだ。ちゃんとしゃべったんだぞ」
「ええ? 本当」
「いたずらじゃないのか。家へかけてみろ」
――亜由美は、|狐《きつね》につままれたような気分で家へ電話した。
「あら、亜由美なの? どうしたの?」
母の声が聞こえて来る。亜由美はポカンとしていたが、
「あ、あのね――何でもないの」
「え?」
「お母さん、元気?」
「ええ。元気よ。どうして?」
「良かったわね」
亜由美は電話を切った。きっと向うでは、母の清美も目を白黒させているに|違《ちが》いない。
「――塚川さん」
受付の|女《じょ》|性《せい》が|呼《よ》ぶ声がする。亜由美は、こっそり|逃《に》げ出してしまった。
「全くもう!」
表通りへ出ると、亜由美は八つ当り気味に、声に出して言った。「どこのどいつだ一体!」
こんな|悪《あく》|質《しつ》ないたずらをするような知り合いは思いつかない。しかし、ともかく、|実《じっ》|際《さい》にいたずら電話はかかっているのだ。
亜由美はムシャクシャするので、目についたフルーツパーラーに飛び|込《こ》んで、思い切り|甘《あま》いものを食べることにした。あまり|理《り》|論《ろん》的な|解《かい》|決《けつ》法とは言えないが、|実《じっ》|際《さい》、|精《せい》|神《しん》|的《てき》ストレスの解消にはいい方法なのである。
フルーツパフェを平らげ、ケーキを二|個《こ》お|腹《なか》へ入れて、やっと落ち着くと、亜由美は、これが本当に単なるいたずらだったのだろうか、と考えてみた。
もしかすると、何かの目的があって、亜由美をおびき出したのかも……。もっとも、おびき出しても何もなかったわけだが。
アイスコーヒーのコップを、亜由美はテーブルに|戻《もど》した。
「そうだ、いけない!」
桜井みどりと、部室で会うことになっていたのだった。――もう|遅《おそ》いだろうか?
亜由美は、大学へ戻ってみることにした。みどりの様子では、かなり重要な話のようだった。
亜由美は急いでアイスコーヒーを飲み|干《ほ》すと、店を出て、タクシーを拾った。大学までではなく、近くの駅までタクシーで行こうと思ったのである。
|学《がく》|生《せい》|探《たん》|偵《てい》には、|経《けい》|済《ざい》|的《てき》|制《せい》|約《やく》も大きいのだ。
「駅まで」
と、言って|座《ざ》|席《せき》に落ち着いてから、ふと、ある|疑《ぎ》|念《ねん》が頭をもたげて来た。
もしかすると、いたずら電話の目的は、自分をみどりと会わせないようにすることだったのではないか。――まさか、とは思ったが、|一《いっ》|旦《たん》そう思い始めると、それに|違《ちが》いないという気がして来る。
「あの――」
と、大学まで|直接《ちょくせつ》行ってもらおうかと身を乗り出したが、車が|混《こ》めば、|却《かえ》って|遅《おく》れる、と思い直した。
窓の外を見ると、良く晴れていた空に、今は雲が出ているのか、少し暗くなりかけていた。――亜由美は、いやな予感がして、|眉《まゆ》をくもらせた。
ありえない殺人
大学へ|駆《か》け|込《こ》んだときは、もうキャンパスは|閑《かん》|散《さん》としていて、運動部のトレーニング|姿《すがた》がチラホラ目に付く|程《てい》|度《ど》だった。
亜由美は、|校《こう》|舎《しゃ》のわきの歩道を急いだ。
校舎の|裏《うら》|手《て》に、クラブ用の|棟《むね》が一つ、別になっていて、中に全部のクラブが入っていた。
三階建の、|一《いち》|応《おう》|鉄《てっ》|筋《きん》のしっかりした建物で、今も、いくつかの|窓《まど》に、明りが見えている。
亜由美はあまりクラブ活動というのが|好《す》きではない。別に|嫌《きら》いというわけでもないのだが、|先《せん》|輩《ぱい》だ、後輩だとやたらうるさかったり、合宿だの何だのと時間を取られるのがやり切れなかったのである。
だから、そういう|拘《こう》|束《そく》の少ない研究会にだけ|所《しょ》|属《ぞく》していた。もっとも、研究会だから、部室というものはない。いつも歴史部の部室を借りて、使っているのである。
亜由美は、クラブ|棟《とう》の中へ入って行った。歴史部の部室は三階にある。|階《かい》|段《だん》を上って行くと、どこの部屋からか、女の子たちがキャッキャ笑い合う声が|響《ひび》いて来た。
二階から三階へ上りかけると、上から、五、六人の女の子たちが|降《お》りて来るのに出くわした。
「あら、亜由美」
と、一人が足を止めた。
神田|聡《さと》|子《こ》といって、亜由美と高校で|一《いっ》|緒《しょ》だった子である。
「何だ、聡子。クラブ?」
「うん」
聡子は社会科学のクラブに入っていて、やはり部室が三階にあるのだ。
「ね、亜由美」
と、聡子が言った。「もしかして桜井さんと|約《やく》|束《そく》?」
「そう」
「さっきから|苛《いら》|々《いら》して、出たり入ったりしてたわよ」
「まだいる?」
「うん、いるよ」
「良かった!」
亜由美はともかくホッとした。まだいてくれさえすれば、|事情《じじょう》は説明すれば分ってくれるだろう。
「じゃ、聡子、またね」
と、すれ|違《ちが》って上って行く。
「――あ、そうだ、亜由美!」
聡子が追いかけて来た。聡子は、かなり太目、かつ重量級なので、もう、息を切らしている。
「何なの?」
「|同《どう》|窓《そう》|会《かい》のこと、|連《れん》|絡《らく》あった?」
「知らない」
「あら、変ね。だって、井上君からさ、この間電話あったのよ」
「あの人、いい|加《か》|減《げん》だもの」
二人は、|廊《ろう》|下《か》を歩きながらしゃべっていた。――|階《かい》|段《だん》を上ったすぐ右手の|突《つ》き当りが、聡子の|所《しょ》|属《ぞく》する社会科学部の部室なのである。その前に、ずっと廊下がのびていて、右手にドアが|並《なら》んでいる。
|奥《おく》から二つ目のドアが、〈歴史部〉の部室だった。
「――ともかく同窓会なんて出る気ない」
と、亜由美は言いながら、ドアをノックした。
「私も出たくないんだけどさ、私の|彼《かれ》|氏《し》、井上君の友達なのよね」
と聡子が言って、|肩《かた》をそびやかした。「まあいいや。じゃ、またね」
「うん。――桜井さん」
亜由美はもう一度ノックした。返事がない。
「変ね。いるはずよ」
聡子が行きかけて、また|戻《もど》って来る。
亜由美はドアを開けた。
「桜井さん……」
部室は、明りが|点《つ》いていた。細長い、四角の部屋で、入ってすぐ正面に、|衝《つい》|立《たて》があり、その向うに、古ぼけたソファやテーブル。そしてその|奥《おく》は、ただもう|雑《ざつ》|然《ぜん》とした物置[#「物置」に傍点]になっていた。
衝立といっても、スチール|製《せい》の、|肩《かた》までぐらいの高さ。部屋の、真正面には|窓《まど》があり、そこに、ドアの方へ|背《せ》を向けて立っている桜井みどりの|姿《すがた》が見えた。
「桜井さん。すみません、|遅《おそ》くなっちゃって」
と、亜由美は声をかけた。
桜井みどりは、じっと窓に向って立ったまま、身動き一つしない。――|怒《おこ》ってるのかな、と亜由美は思った。
「変な電話があった。それで……」
亜由美は衝立を回って、桜井みどりの方へ歩いて行った。「ね、桜井さん」
近付いてみて、何となく変だ、と亜由美は思った。みどりは窓に向って立っているのではなかった。窓の方へもたれかかるようにしている。両手はダラリと|垂《た》れていた。
「桜井さん」
亜由美は声をかけてみた。
「立ったまま|寝《ね》てるんじゃない?」
|衝《つい》|立《たて》越しに|眺《なが》めていた聡子が|笑《え》|顔《がお》で言った。だが、亜由美はとても笑う気分ではなかった。
「ねえ――」
と手を桜井みどりの|肩《かた》へのばしかけて、亜由美はふと|視《し》|線《せん》を足下へ落とし、ギョッとした。
みどりの足下に、赤い池が広がっていた。
――血だ。|血《ち》|溜《だま》りだ。
亜由美はよろけそうになって、思わず、みどりの肩へ手を|触《ふ》れた。
みどりはゆっくりと後ろ向きに|倒《たお》れて来た。|床《ゆか》に大の字になって倒れたみどりの、|虚《うつ》ろな目が、亜由美をじっと見上げる。
みどりの|胸《むね》から|腹《はら》にかけて、ブラウスは|朱《あけ》に|染《そ》まっていた。
亜由美が悲鳴を上げずに|済《す》んだのは、その光景が、|講《こう》|義《ぎ》中に見たあの|夢《ゆめ》――田村の夢を|一瞬《いっしゅん》連想させ、そのことの方に、注意をひかれたせいだろう。
その代り、|背《はい》|後《ご》でドスン、と音がして、亜由美は飛び上った。|振《ふ》り向くと、衝立が部屋の中へ向って倒れていて、聡子がその場にヘナヘナと|崩《くず》れ落ちるところだったのである。
「――何も知らんはずはないだろう」
その|刑《けい》|事《じ》は、まるで亜由美が|犯《はん》|人《にん》であるかの|如《ごと》く、|脅《おど》しつけるような声で言った。
そうなると、|却《かえ》って|反《はん》|抗《こう》したくなるのが亜由美の|性《せい》|質《しつ》である。
「知らないものはしようがないでしょう!」
とやり返した。
「ここでこっそり待ち合せて何をやる気だったんだ? |麻《ま》|薬《やく》か、マリファナか、それとも、君らは恋人同士[#「恋人同士」に傍点]だったのか?」
亜由美の、手が先に出るという|癖《くせ》が、また|発《はっ》|揮《き》されようとした。が、そこへ、
「おいおい」
と、おっとりした声がかかって、亜由美の手は止ってしまった。「――|証人《しょうにん》を犯人|扱《あつか》いは気の毒じゃないか」
「殿永さん!」
と、亜由美は思わずホッとしながら、言った。
殿永部長刑事――あのハンバーガーショップへトラックが|突《つ》っ|込《こ》んだ|一《いっ》|件《けん》で、亜由美の家へやって来た刑事である。
「あ、殿永さん……どうも」
|若《わか》い|刑《けい》|事《じ》は、ちょっと頭をかいて、
「この|娘《むすめ》、ご|存《ぞん》|知《じ》ですか」
「うん。他の|件《けん》で大変役に立ってくれた人だ。そんな|怪《あや》しい|女《じょ》|性《せい》じゃないよ」
「どうも、存じませんで」
|呆《あき》れるほど、ケロリと変って、亜由美は腹を立てるのも|忘《わす》れていた。
「――大変ですね」
と、殿永は、のんびりと言った。「|事《じ》|件《けん》のことを小耳に|挟《はさ》みましてね。大学の名前を聞くと、あなたの通っている大学だ。|詳《くわ》しく聞いてみると、あなたが死体の発見者だと分りましてね。びっくりしてやって来たんです」
殿永は、死体の方へ歩いて行き、しばらく|眺《なが》めていたが、軽く首を|振《ふ》って、|戻《もど》って来た。
「まだ若いのに気の毒なことですな」
「クラブの|先《せん》|輩《ぱい》なんです」
「ここで待ち合せを?」
「ええ。何か話があるっていうことだったので…‥」
「殺されるような、理由に心当りは?」
「ありません」
と、亜由美は言った。
どこまで、殿永に話すべきだろうか? あのいたずら電話のこと、みどりが、武居のことについて言った言葉……。
「でも変だわ」
やっと落ち着きを取り戻した様子の、聡子が言った。
「何が?」
と殿永が顔を向ける。
「私たち、社会科学部の部室で、話をしてたんです。私と――部員、四人。その間、ドアは開けてありました。|閉《し》めると、あそこは風通しが悪く、暑いもんですから」
「ちょっと――ちょっと待って下さい」
と殿永は|制《せい》して、「どこのドアです?」
「|廊《ろう》|下《か》の|突《つ》き当りです」
と、聡子は言って、廊下へ出た。
亜由美も殿永もそれについて出て行く。
「あの正面の、|階《かい》|段《だん》のわきのドアです」
と、聡子が指さしながら言った。
「あれが開けてあったわけですね」
と、殿永が|訊《き》いた。
「そうです」
「どれくらい? 細くですか、それとも|一《いっ》|杯《ぱい》に」
「半分くらい……かな」
「やってみましょう」
殿永は、その|肥《ひ》|満《まん》|体《たい》の体からはちょっと|想《そう》|像《ぞう》できないような身軽さで、歩いて行った。
聡子は、社会科学部の部室のドアを、三分の二くらい開けた。
「これぐらいだったと思います」
「なるほど。中には五人いたわけですね」
部屋の明りが|点《つ》くと、中央に、集められた五つの|椅《い》|子《す》が目に入った。「――これに|座《すわ》っていたんですか?」
「そうです」
「あなたの席は?」
「ちょうどドアの正面です」
「座ってみて下さい」
聡子は、開いたドアから、廊下を真直ぐに見通す席に座った。
「あ、ドア、もうちょっと開けて下さい。――それくらいです」
「私に座らせて下さい」
殿永は、聡子と代った。それから、他の椅子にも一つずつ座って、
「――この二つの席からは、少なくとも廊下がいつも見えていたわけですね」
「ええ。だから|妙《みょう》なんです」
と、聡子は言った。「|誰《だれ》もあの部屋へ入った人なんかいないんですもの」
「|確《たし》かですか?」
「ええ。――誰かが|階《かい》|段《だん》を上って来れば、ドアのすぐ前に出て来るでしょ。目に入らないはずがないし、その後、ずっと|廊《ろう》|下《か》を歩いて|奥《おく》から二番目のドアまで行くのに、全然こっちが気付かないなんてことはありません」
「ふむ……」
殿永は|腕《うで》|組《ぐ》みをした。
亜由美も、聡子の席に|座《すわ》ってみた。確かに、|特《とく》|別《べつ》廊下を注意していなくても、誰かが来ればすぐ気付くに|違《ちが》いない。
「席を立ったことはありませんか?」
と、殿永が|訊《き》く。
「ありません。二時間ぐらいですもの。一人もトイレに立たなかったし……」
「どうも――こいつは|難《なん》|題《だい》だな」
殿永が頭をかく。
「もとから|犯《はん》|人《にん》が部屋の中にいたとしたら?」
と、亜由美は言ってみた。
「でも、私たちの方が、桜井さんより早かったのよ」
と聡子は首を|振《ふ》って、「ここで話を始めて、十分ぐらいしてから、桜井さんが上って来たの。そして、あの部屋の|鍵《かぎ》を開けていたわ」
「中に|隠《かく》れていたとか……」
「でも、少なくとも、三回は廊下に出て来たわ。何かこう……|苛《いら》|々《いら》してる感じで、階段の所まで来て下を|覗《のぞ》いたりしてたわ」
「何か話をした?」
「いいえ。でも、一度、『|遅《おそ》いなあ』って|呟《つぶや》くのが聞こえたわ」
「そうなると……」
殿永はそっと|顎《あご》を|撫《な》でた。「あの部屋には、そんなに長い間、一人の人間が|隠《かく》れていられるほどのスペースはありませんでしたね」
「ええ、|不《ふ》|可《か》|能《のう》だと思います」
と、亜由美は言った。「他の部室に隠れていたとは考えられませんか?」
「それを考えていたのです」
と殿永は|肯《うなず》いて、|廊《ろう》|下《か》へ出ると、ドアの一つ一つを調べて行った。
「全部|鍵《かぎ》がかかっていますね。――鍵はどこにあるんですか?」
「ええと……|確《たし》か、|事《じ》|務《む》|室《しつ》です。|校《こう》|舎《しゃ》の方にあるんです」
「だけど――」
と、聡子がいぶかしげに言った。「他の部室に隠れてたとしたって、いつ[#「いつ」に傍点]、やったっていうの?」
「聡子さんたちが|階《かい》|段《だん》を|降《お》りかけて来たわね。上って来る私と出会って……」
「すぐ|一《いっ》|緒《しょ》に上って来たわ。その間に、桜井さんを殺すなんてこと、できっこないわよ」
「そうね。それに、たとえ殺せたとしても、逃げられないわ[#「逃げられないわ」に傍点]」
「これらの部屋は全部調べさせましょう」
と殿永は言った。「だが、|妙《みょう》な話ですね、これは」
本当に、と亜由美は思った。これは、|推《すい》|理《り》小説でよく言うところの、〈|密室状況《みっしつじょうきょう》〉の一つということになる。
もちろん、歴史部の部室のドアに、鍵はかかっていなかった。しかし、犯人は、聡子たちの目に|触《ふ》れずに、あの部屋へ出入りできなかったはずなのである。
「殿永さん」
と、さっきの意地の悪い|刑《けい》|事《じ》がやって来て声をかけた。「|検《けん》|死《し》|官《かん》とお話になりますか」
「ああ、そうしよう」
殿永は|肯《うなず》いて、|現《げん》|場《ば》へ|戻《もど》った。
亜由美と聡子は、|廊《ろう》|下《か》に残って、何となく顔を見合せた。
「えらいことになったわね」
と、聡子は言った。
「本当にね」
と亜由美は同意したが、本当に、どんなに『えらいこと』になっているか、聡子には|想《そう》|像《ぞう》もつくまい、と思った。
みどりが殺されたのは、田村の行方不明、そして武居が|狙《ねら》われたとみられる、あのハンバーガーショップの|事《じ》|件《けん》と、どこかでつながっているに|違《ちが》いないのだ。
こんなややこしいことになるなんて! 亜由美はため息をついた。
「でも、大学の中で殺人なんて」
と聡子は、ちょっと目を|輝《かがや》かせて、
「スリルがあるじゃない?」
亜由美とて、第三者ならば、そう思ったかもしれないのだが……。
部室へ戻ると、中の|捜《そう》|索《さく》が|徹《てっ》|底《てい》|的《てき》に行われていた。殿永が二人の方へやって来た。
「――|刃《は》|物《もの》でやはり|一《ひと》|突《つ》きですね。|凶器《きょうき》は見当らない。|窓《まど》もしっかり|閉《しま》っています。どうも殺人者は、|煙《けむり》の|如《ごと》く消え|失《う》せたようですね」
殿永の言葉は、|推《すい》|理《り》小説の中で、|名《めい》|探《たん》|偵《てい》が|吐《は》くセリフを思わせて、亜由美は少々|不《ふ》|謹《きん》|慎《しん》ながら、|笑《え》みを|浮《う》かべてしまった。
「これで、凶器も見当らない、他の部屋からも手がかりが出ないとなると、どういうことになるんですか?」
聡子は、|胸《むね》をわくわくさせているようだ。
「さあ、私にも分りませんな」
殿永は、|至《いた》ってのんびりと言った。聡子は少々がっくり来た様子で、不服そうに口を|尖《とが》らした……。
「――どうしたの、一体?」
さすがに、|呑《のん》|気《き》な母の清美が|玄《げん》|関《かん》まで飛び出して来た。
それはそうだろう。もう夜の十一時を回っているのだから。
「何かあったの?」
「うん、ちょっと|警《けい》|察《さつ》でね」
説明するのも|面《めん》|倒《どう》で、亜由美は|居《い》|間《ま》へ入って行った。しかし、『警察で』と聞かされて、
「ああ、そう」
と安心する親は少なかろう。清美も心配そうについて来て、
「どうしたの? 何やったの、一体?」
「|殺《さつ》|人《じん》|事《じ》|件《けん》」
亜由美が大|欠伸《あくび》をして、「お|腹《なか》|空《す》いた! 何か食べさせてよ」
「お前が殺したの?」
「まさか。だったら、帰って来られるわけないでしょ」
清美も、これで|納《なっ》|得《とく》したらしく、台所の方へと|姿《すがた》を消した。
納得、と言えば、亜由美としても、どうにも納得できないことがあった。いや、|密室状況《みっしつじょうきょう》の|謎《なぞ》などではない。
今まで警察に引きとめておかれ、しかも、住所、氏名などを|訊《き》かれただけで、帰っていいと言われたのだ。
桜井みどりとの関係、何の用で待ち合せていたのか。――そういったことを、しつこく、根掘り葉掘りイモ掘り(?)訊かれるに|違《ちが》いないと|覚《かく》|悟《ご》していたのだが、|担《たん》|当《とう》刑事は、亜由美に何も訊かない。
訊かれなくてホッとしたのも事実である。亜由美としては、何をどこまで話していいものやら、決心をつけかねていたのだから。
しかし、やはり気になった。なぜ、何も|訊《き》こうとしなかったのだろう?
ふと、亜由美は、あの、おっとりした殿永|刑《けい》|事《じ》の顔を思い出した。――もしかすると、あの人が、そう|指《し》|示《じ》したのかもしれない。それなら目的は?
ここでまた行き|詰《づ》まってしまうのだ。ともかく、まともではない。何か、意図があるのだ……。
電話が鳴った。
「はい、塚川です」
と亜由美が出る。
「亜由美さん? |僕《ぼく》は武居だけど」
「まあ、どうも――」
「すっかり失礼しちゃったね。実は、色々と話したいこともあって、一度会えないかな」
「|構《かま》いませんけど……」
「もっと早く、と思っていたんだけどね、ともかく、あの後が大変で……」
「そうでしょうね」
「じゃ、今度の週末は?」
「今のところは……」
「バレエの|公《こう》|演《えん》があるんだ。いや、うちのホテルがそのバレエ団の宿になってね、その関係で、いい席が手に入るんだよ」
「それじゃぜひ」
本当のところ、亜由美はあんまりバレエには|詳《くわ》しくないのだが、ともかく武居に会って、ドイツでの|捜《そう》|査《さ》の様子などを|訊《き》きたかったのである。
「何を|踊《おど》るんですか?」
と亜由美が訊く。
「〈白鳥の湖〉だよ」
|食卓《しょくたく》の対話
|幕《まく》|間《あい》のロビーは、|着《き》|飾《かざ》った人々でごった返していた。
それでも、NHKホールは文化会館より大分ましである。|寛《くつろ》ぐという場所はないが、|一《いち》|応《おう》広いから、立ち話ぐらいはできる。
「――|退《たい》|屈《くつ》じゃない?」
と、武居が|粋《いき》なスーツ|姿《すがた》で立っている。
「いいえ、ちっとも」
多少は正直なところで、亜由美はそう答えた。亜由美とて〈白鳥の湖〉ぐらいは知っている。
「――色々話はある」
と、武居は言った。「しかし、今はやめとこう。場所にふさわしい話っていうものがあるからね」
「そうですね」
亜由美も、今日はちょっと気取って、思い切り上等なスタイルでやって来た。
もちろん中にはジーパンスタイルの女の子もいる。
「最近はヨーロッパのオペラ|劇場《げきじょう》なんかも、同じようなものさ」
と武居は言った。「日本人が固まって|座《すわ》っている。|居《い》|眠《ねむ》りする|奴《やつ》もいる。アメリカ人は客席で平気でフラッシュをたく……。しかし、そういう客が全部いなくなったら、それこそオペラは|潰《つぶ》れちまう」
「本当に|好《す》きな人には、|苦《にが》|々《にが》しいでしょうねえ」
「たぶんね。――日本はその点気が|楽《らく》さ」
「来て良かったわ」
と、亜由美はバッグを持った手を後ろに組んで、ゆっくりとロビーを歩いた。
「そう言ってもらえると|嬉《うれ》しいね」
「いやなことが続き|過《す》ぎるんですもの」
「ああ、そうだ」
と、武居は思い付いた様子で、「君の通っている大学で人殺しがあったんだねえ」
「ええ。クラブの|先《せん》|輩《ぱい》なんです」
「へえ。身近にそんなことがね……」
「武居さんもご|存《ぞん》|知《じ》のはずですよ」
「|僕《ぼく》が?」
「あの|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》に出ていたんです」
「じゃ、君にひっぱたかれたとき、|隣《となり》に|座《すわ》ってた……。あの子かい? それは知らなかったなあ」
もしこれが|演《えん》|技《ぎ》なら、武居は|名《めい》|優《ゆう》に|違《ちが》いない。|反《はん》|応《のう》はごく自然だった。
「犯人はまだ|捕《つか》まらないんだね」
「ええ。そうらしいです」
「大学の中で殺人か。キャンパスも平和じゃなくなったね」
亜由美は、|表玄関《おもてげんかん》の近くまで来て足を止めた。――外で、有賀君、待っていてくれるかしら?
「デートなのよ、明日」
大学の帰り道、亜由美はスパゲッティの店で、有賀に会っていた。
「へえ。僕なら時間あるぜ」
「良かった!」
「じゃ、どこに行く?」
「|間《ま》|違《ちが》えないで。相手は武居さん」
「あのにやけた|野《や》|郎《ろう》かい?」
有賀はつまらなそうな顔になった。
「そうむくれないでよ」
と、亜由美は|笑《わら》って、「田村さんのことが気になるじゃない。会って話を聞きたいのよ。新聞や|週刊誌《しゅうかんし》じゃ、どこまで|正《せい》|確《かく》な話か分らないもの」
「話だけかい?」
「食事ぐらいするかもね」
「何食べるんだ?」
「そんなことまで分るわけないでしょ」
「せいぜいスパゲッティぐらいでやめとけよな」
有賀は、やけになってスパゲッティを大量に口へ放り込み、目を白黒させた。
「ねえ、有賀君、もう一度|頼《たの》まれてくれない?」
「何を? また|見《み》|張《は》りはいやだよ」
「見張りなんて頼まないわよ」
「じゃ何だ?」
「|監《かん》|視《し》よ」
「同じじゃないか!」
有賀は、|笑《わら》い|転《ころ》げる亜由美をにらみつけていたが、その内、|一《いっ》|緒《しょ》になって笑い出してしまった。
「参ったよ、塚川君には」
「じゃやってくれる? ありがとう。――あの人、桜井さんの|事《じ》|件《けん》にも関係してるかもしれないのよ」
「どういう意味?」
亜由美は、桜井みどりが武居のことを口にしていたことを教えてやった。
「そしてあのいたずら電話。――ね? どうも|怪《あや》しいでしょ?」
「武居が|犯《はん》|人《にん》だよ、決ってる!」
「待ってよ。あわてないで。だからこそ、監視を頼んでるんじゃないの」
「そういうことなら」
と有賀は|腕《うで》まくりする|真《ま》|似《ね》をして、
「|任《まか》せといてくれ! |危《あぶな》いときは|逃《に》げ出すから」
どこまで|真《ま》|面《じ》|目《め》なのかよく分らないのが、亜由美の世代なのである。
「塚川さん、ここでしたか」
聞き|憶《おぼ》えのある声にびっくりして顔を上げると、殿永部長|刑《けい》|事《じ》の、大きな体が立っていた。大きいくせに、なぜか目立たないというか、|控《ひか》え|目《め》な|存《そん》|在《ざい》なのである。
「殿永さん。――私にご用なんですか?」
「ええ。大学へ行ったら、もう帰ったところだということで、歩いて来るとあなたの顔が外から見えたものですからね」
殿永は、席につくと、スパゲッティの|大《おお》|盛《もり》を|頼《たの》んで、「少し|減量《げんりょう》せんといかんので、一日三食に|減《へ》らしとるんです」
と言った。
「以前は何食だったんですか?」
「五食ぐらいでしたかね、|平《へい》|均《きん》すると」
太るはずだ。――亜由美は、
「何か分りましたか?」
と|訊《き》いてみた。
「どうもねえ……。あのハンバーガーショップに|突《つ》っ|込《こ》んだトラックの|一《いっ》|件《けん》はさっぱりです。|現《げん》|場《ば》の|混《こん》|乱《らん》で、|誰《だれ》も運転していた人間を見ていない」
「エンジンキーは?」
「運転手が持っていたんです。しかし、どうやったか、ちゃんとエンジンをかけている」
殿永は水をコップ|一《いっ》|杯《ぱい》、一気に飲み|干《ほ》すと、「武居さんが|狙《ねら》われたとして、どんな動機が考えられるでしょう?――そこで、例の、あなたの|先《せん》|輩《ぱい》の一件が気になりましてね」
「先輩の……」
「田村さんが行方不明になった件です。向うへ問い合せてみましたが、新しい事実は出ていないようですよ」
「|上《うわ》|衣《ぎ》の血は?」
「田村さんのものかどうか、|判《はん》|別《べつ》できなかったそうです。何しろ、かなりひどく|汚《よご》れていたらしいので」
「じゃ、死んだとも|限《かぎ》らないんですね?」
「死んだものと向うの|警《けい》|察《さつ》はみています。だから、これからもあまり新しい発見は期待できませんね」
「そして今度の――」
「そうです。桜井みどりさんが殺された」
スパゲッティがやって来た。殿永は、|豪《ごう》|快《かい》な食べっぷりを見せながら、
「食べながらで……失礼します。桜井さんの身辺、あれこれ調べてみましたが、どうも殺意を|抱《いだ》くほど|恨《うら》んでいた人間はいないらしいのです」
「私もそう思います」
「|彼《かの》|女《じょ》は、田村さんの|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》に出ていたそうですね」
「ええ、|一《いっ》|緒《しょ》に出ました」
「この三つの|事《じ》|件《けん》。田村さんの|失《しっ》|踪《そう》、武居さんが殺されかけ、桜井みどりさんが殺された。――何か関連がありそうですね」
「どんな関連が?」
「それは分りません」
と、殿永は首を|振《ふ》った。
|大《おお》|盛《もり》のスパゲッティは、もう半分以上、消えて失くなっていた。
「しかし、三つの事件が|偶《ぐう》|然《ぜん》にこうたて続けに起るというのは|妙《みょう》だと思いませんか。やはり関連があるとしか思えない」
「私もそう思います」
「塚川さん、武居という人と、|個《こ》|人《じん》的なお付合いはおありですか?」
「あ、あの――それは――」
と亜由美はためらったが、あまり|隠《かく》しておくのもどうかと思った。「明日からある予定なんです」
亜由美はそう答えた。
「さあ、第三|幕《まく》だ」
と、チャイムが鳴り|渡《わた》るのを聞いて、武居は言った。「一番|華《はな》やかなところだよ」
「|楽《たの》しみだわ。あんまり|詳《くわ》しくはないんですけど」
と、亜由美は一緒に席の方へ|戻《もど》りながら言った。
「|確《たし》か黒鳥の|踊《おど》りがあるんでしたね」
「うん。一番の見せ場でね。同じ人が|踊《おど》るんだけど、|衣裳《いしょう》が白から黒になると、急に|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が変る」
席について、広いホールの中を|見《み》|渡《わた》す。客がゾロゾロと|戻《もど》り始めていた。
「白鳥とそっくりな黒鳥に、王子がだまされる……」
亜由美は|呟《つぶや》いた。
「何か言った?」
「いいえ、別に」
――あの|花《はな》|嫁《よめ》は、そっくりな別の女だ。
白鳥と黒鳥のように、か。
「淑子さんはもう|大丈夫《だいじょうぶ》なんですか?」
と、亜由美は|訊《き》いてみた。
「淑子さん? ああ、もう大分元気になったようだ。と言っても、ショックで|寝《ね》|込《こ》んでいたのが、起き出して来たということだがね」
「今、どこに?」
「|別《べっ》|荘《そう》だ。何しろ、|新《しん》|婚《こん》旅行で夫が|失《しっ》|踪《そう》、しかも|大企業《だいきぎょう》の社長|令嬢《れいじょう》と来てる。|週刊誌《しゅうかんし》などには、|絶《ぜっ》|好《こう》のネタだからね」
「いいですね、|隠《かく》れる別荘がある人は」
「全くだな」
と、武居は|笑《わら》った。「|確《たし》か増口さんは、十何か所か、別荘を持っているはずだよ。一つ一つ歩いても、当分は|姿《すがた》を隠していられるからね」
「一つぐらい分けてくれないかな」
と、亜由美は|冗談《じょうだん》めかして言った。「武居さん、淑子さんとゆっくり話しました?」
「いや、連れて帰る間は、ほとんど口もきかなかったからね。――家へ入ってしまってからは、一度会ったきりだ。それも、ちょっと|挨《あい》|拶《さつ》を交わしたくらいでね」
本当に、あの花嫁は別の女なのか。増口淑子と良く|似《に》た誰か[#「誰か」に傍点]なのだろうか?
――|華《はな》やかに、|舞《ぶ》|踏《とう》|会《かい》の|幕《まく》が上った。
ギターを鳴らしながら、イタリア人が、亜由美たちのテーブルへやって来た。
亜由美のよく知らない、|甘《あま》いメロディのカンツォーネを歌うと、武居が千円|札《さつ》を小さくたたんで、ギターの中へ入れた。
「――ワインはどう?」
「もう|結《けっ》|構《こう》です。|酔《よ》っ|払《ぱら》っちゃいそう」
亜由美は、息をついた。|肝《かん》|心《じん》の話が終らないうちに、酔ってしまっては困る。
「武居さんはどう思います?」
と亜由美は|訊《き》いた。
「どうって?」
「田村さんは死んだんでしょうか?」
「何とも言えないね」
と、武居は首を|振《ふ》った。「ヨーロッパは地続きで、それこそ、色々な|犯《はん》|罪《ざい》|組《そ》|織《しき》が動き回っている。日本人の旅行者は|無《む》|邪《じゃ》|気《き》だからね、よく|簡《かん》|単《たん》に引っかかって、行方不明になるんだよ」
「でも、男の人が――」
「金を持ってるとね。しかし、そう金を持って出たとも思えないが」
「田村さんは、たとえお金を持って出ても、それを見せびらかす人じゃありませんよ」
「そうだね。|僕《ぼく》も同感だ」
「およそ|狙《ねら》われるタイプじゃないと思うんだけどなあ」
「あれが|偶《ぐう》|発《はつ》|的《てき》な|事《じ》|件《けん》じゃないとしたら? どう思う?」
「理由があって、田村さんが殺された、っていうことですか?」
「うん。――あの|怪《かい》|電《でん》|話《わ》が気になってしかたないんだ」
「フィアンセが死んだ、という……」
「そう、まさかと思うが、もし本当に淑子さんが……」
その先は、武居は口にしなかった。
「もし、淑子さんと見分けがつかないくらいそっくりな人がいたとして、入れ|替《かわ》ったら、|騙《だま》し通せるでしょうか?」
と亜由美は言った。
「|大《だい》|胆《たん》な|仮《か》|定《てい》だね」
武居は、|苦笑《くしょう》しながら言ったが、意外そうな様子は全く見せなかった。ということは、おそらく武居自身もそう考えたことがあるのだろう、と亜由美は思った。
「まず|不《ふ》|可《か》|能《のう》だね」
しばらく間を置いてから、武居は言った。「|普《ふ》|通《つう》なら」
「普通なら、ということは…‥あの増口家では?」
「あの家は普通じゃない」
と武居は言った。「ただ金持だというだけでなく、変ってるんだ。増口さんは金持に|珍《めずら》しく、あまり女を作るとか、囲うとかいうことをしない。要するに、そんなことのために金を使う気がしないんだな」
「じゃ、|真《ま》|面《じ》|目《め》人間なんですか、あの人?」
「あの人の愛人は仕事だね」
と、武居は言った。「ベッドに入っていても、食べていても|風《ふ》|呂《ろ》につかっていても、仕事のことを考えている」
「そんな風にも思えませんわ」
「自分がコマネズミのように働くというわけじゃない。しかし頭の中は仕事のことだけで|一《いっ》|杯《ぱい》さ」
と武居は言って、「――これがどういう|結《けっ》|果《か》を|招《まね》くか分るだろう」
と、亜由美の顔を見た。
「|奥《おく》さんのノイローゼ」
「そう。いや、ノイローゼだったのは、ほんの一年くらいでね。夫が『仕事』という|好《す》きなことをしてるのなら、私も好きなことをします、というわけで、遊び|狂《くる》ったんだ」
「というと……」
「初めの内は、旅行、買物くらいだったのが、その内、お定まりのコースで……」
「男ですか」
「まあ|同情《どうじょう》すべき|余《よ》|地《ち》もあるけどね、あのご主人では。――いや、増口さんは、そりゃ|経《けい》|営《えい》|者《しゃ》としては一流だよ。しかし、夫としてはね」
「で、家を放ったらかしっていうわけですね」
「むしろ、たまに家へ帰って来るんじゃないかな」
「分りました」
と亜由美は|肯《うなず》いた。「つまり、ご両親のどっちも、めったに|娘《むすめ》の淑子さんと顔を合せなかったというわけですね」
「そうなんだ。普通の家庭では、とても考えられないことだがね」
「じゃ、たとえば入れ|替《かわ》っても分らないとか――」
「それはどうかな。|可《か》|能《のう》|性《せい》として、ないことはない。しかし、|現《げん》|実《じつ》には、大勢使用人もいて、毎日淑子さんの顔を見てるわけだからね。そう|簡《かん》|単《たん》にはいくまい」
「それに、そんなに淑子さんと|似《に》た人を見付け出すのが大変でしょう。美人ですものね」
「それに、目的だ。なぜそんなことをする必要があるのか」
「|財《ざい》|産《さん》とか……」
「相続となれば色々大変だよ。それに増口さんは奥さんも元気で、死にそうもないからねえ」
「じゃ、やっぱり|怪《かい》|電《でん》|話《わ》はただのいたずらで――」
「その可能性は強い。しかし、ごくわずかだが、そうでない可能性もあるということだ」
亜由美は、ちょっと考え込んでから、言った。
「武居さん。殺された桜井みどりさんと会って話をしたことはありません?」
「|僕《ぼく》が? いいや」
武居は目を見開いて、「どうしてそんなことを?」
と|訊《き》き返して来た。
「いえ……。|彼《かの》|女《じょ》が、ちょっと武居さんを知っているようなことを言ったんで」
「それは|妙《みょう》だね。――僕は全然知らないよ」
武居はワイングラスを取り上げた。そのグラスは空だった。そのあわてた様子は、何となく武居に|似《に》|合《あ》わない、と亜由美は思った。
「おい、武居じゃないか」
と声がかかった。|同《どう》|年《ねん》|輩《ぱい》の、やはりサラリーマンらしい男が、店へ入って来たところだった。
「何だ、またお前か」
武居は、ちょっと顔をしかめた。
「よく会うな。ええ?」
少しアルコールの入っているらしい、その男は|愉《ゆ》|快《かい》そうに、「相変らず来てるね。今度はまたこの間と|違《ちが》う子じゃないか」
「そんなんじゃないんだ」
「|隠《かく》すなよ。――お|嬢《じょう》さん、気を付けなさいよ。こいつは|若《わか》い|娘《むすめ》が|趣《しゅ》|味《み》だからね」
「おい――」
と武居が少し|気《け》|色《しき》ばむ。
「|冗談《じょうだん》だよ。じゃ、また会おうぜ」
と、|奥《おく》の席へと歩いて行く。
「お友達ですか」
と、亜由美は言った。
「大学時代の悪友でね。――出ましょうか」
武居は立ち上った。
何だかあわてている、と亜由美は思った。
武居がカードで|支《し》|払《はら》いを|済《す》ませている間に、亜由美は店の表に出た。
この間と違う子、とあの男の人は言った。武居は、同じくらいの|年《ねん》|齢《れい》の娘を連れて来ていたのだろうか。
もしかして――桜井みどりとか……。
「やあ、待たせたね」
武居が出て来た。
「ごちそうになりまして」
「いや、そんなこといいんだ。――どう、ちょっと|一《いっ》|杯《ぱい》やっていかないか?」
「でも、もう帰らないと……」
「ちゃんと車で送るから。三十分だけ。いいだろう?」
|誘《さそ》い方は|巧《たく》みで、|強《ごう》|引《いん》に思えぬ強引さだった。|断《ことわ》る|余《よ》|裕《ゆう》を|与《あた》えない、というのであろうか。
「タクシーを拾おう」
と、武居が道の|端《はし》に立った。そのとき、大きな外車が、どこから走って来たのか、武居の前に|停《とま》った。
「社長!」
武居が声を上げた。
車の後ろの|窓《まど》から顔を出しているのは増口だった。
「用がある、乗れ」
と、増口が言った。
「はい」
|否《いや》|応《おう》なしに、武居がドアを開けて乗り|込《こ》む。
「じゃ、私、これで……」
と、亜由美が言いかけると、
「君もだ」
と、増口が|遮《さえぎ》った。
「私ですか?」
「君にも用がある。乗ってくれ」
運転手が出て来て、ドアを開けてくれる。こうなっては、しかたない。亜由美は意を決して、その外車に乗り込んだ。
「どこへ行くんですか?」
と、亜由美が言った。
「私の家だ。家の一つ、というところかな」
増口は、ちょっと|愉《ゆ》|快《かい》そうに言った。
|頼《たの》もしい味方
「ごめんごめん」
亜由美は|珍《めずら》しく|平謝《ひらあやま》りである。
「いいよ、もう」
と、有賀はふくれっつらのままで、
「|僕《ぼく》のことをケロッと|忘《わす》れてたなんて。いくら何でも――」
「だから謝ってるじゃないの」
「もう|遅《おそ》いや」
と、有賀は言って、カーペットに|寝《ね》|転《ころ》んだ。
日曜日。――亜由美の部屋である。
明るい|陽《ひ》|射《ざ》しが、部屋に|溢《あふ》れていた。
「そんなに有賀君が必死で追って来てるなんて思わなかったのよ」
「君らが高級イタリア料理を食ってる間、こっちは立ち食いハンバーガーで|飢《う》えをしのいでたんだぞ」
「オーバーねえ。――ともかくおかげで|無《ぶ》|事《じ》|生《せい》|還《かん》しました」
有賀は|苦笑《くしょう》して、
「女は|得《とく》だよ」
と言った。
「まだすねてる」
亜由美は、|寝《ね》|転《ころ》がった有賀の上にかがみ|込《こ》むと、キスした。有賀が面食らった。――まだキス一つしたことのない|仲《なか》だったからだ。
ドアが開いて、母の清美が入って来た。二人はあわてて起き上った。
「あら、有賀さん」
「ど、どうも……」
「だめですよ」
「すみません」
「カーペットに寝てそんなことしたら、糸くずが付きます。ちゃんとベッドの上でやらなきゃ。――さ、|紅《こう》|茶《ちゃ》。ごゆっくり」
清美が出て行くと、
「君のお母さん、ユニークな人だね」
と、有賀は|笑《わら》いながら言った。
「さすがに私の母親って言いたいんでしょ」
「当り」
二人は|一《いっ》|緒《しょ》に笑った。
「――じゃ、あの後、増口の|屋《や》|敷《しき》に行ったのかい?」
「うん。|凄《すご》い|邸《てい》|宅《たく》よ。一部屋分でこんな家|一《いっ》|軒《けん》建つんじゃないかって感じ」
「何の話だったの?」
「それがね――」
と、亜由美が言いかけたとき、またドアが開いて、清美が顔を出した。
「亜由美、葉書よ」
「はい。――お母さん、ノックぐらいしてちょうだい」
「はいはい。まずいときは|札《ふだ》でもかけといてちょうだい」
と清美はドアを閉めた。
「全くもう――」
と言いかけて、亜由美は|愕《がく》|然《ぜん》とした。
「どうしたんだい?」
「まさか……こんなことが……」
「どうしたのさ?」
「見て!――田村さんからの絵葉書よ!」
〈ミュンヘンは風が強い。のんびりとぶらつくにも時間がない。もうあまり時間は残っていないんだ、|僕《ぼく》らには。ではまた。 田村〉
亜由美は、消印を読み取ろうとしたが、どうしても分らない。
「行方不明になる前に|投《とう》|函《かん》したんだよ、きっと」
「もう半月以上よ! そんなにかかる?」
「たまたま|遅《おく》れたんだろう」
と有賀が言った。
「ミュンヘン、ね……。あの二人の|行《こう》|程《てい》はどうなってたのかしら」
「しかし、まさか|幽《ゆう》|霊《れい》が出しちゃ来ないさ」
と有賀は言った。
「それとも生きてるのか……」
「それにしちゃ、|呑《のん》|気《き》な文じゃないか」
「そうね。でも、意味が良く分らないわ。旅の便りって感じじゃないわよ」
「そりゃそうだな」
と、有賀は|裏《うら》の写真を見て、「――ミュンヘンだって? でも、写真は|違《ちが》うよ」
「どこになってる?」
「デンマークだ」
いつもそうだ。文中に必ず都市の名はあるが、|裏《うら》の写真は別の場所なのだ。
一度や二度ならともかく、三度となると、わざとそうしているのかと思えて来る。
「待って。前の二|枚《まい》を出すわ」
亜由美は、田村から来た二枚の絵葉書を引き出して来た。
「――一枚目はロンドンから。でも、写真はヴェニス。二枚目はパリから。写真はヴェローナ。そして三枚目がミュンヘンで、写真はデンマーク……」
「めちゃくちゃだな」
「待って」
と亜由美は言った。「――ヴェニス。ヴェローナ。デンマーク。何か思いつかない?」
二人はしばらく|黙《だま》っていた。
「――シェークスピアだ」
と、有賀は言った。
「そうよ!『ヴェニスの商人』、『ロミオとジュリエット』がヴェローナ、『ハムレット』がデンマーク」
「|偶《ぐう》|然《ぜん》かな」
「そんなはずないわ! 何か意味があるのよ、きっと!」
亜由美は|興《こう》|奮《ふん》して歩き回った。そして電話に飛び付くと、
「|確《たし》かめてみましょ」
とダイヤルを回した。
「何を?」
「あの二人の|新《しん》|婚《こん》|旅《りょ》|行《こう》のコースよ」
と、亜由美は言った。
しばらく|捜《さが》してもらって、やっと武居が出た。
「やあ、ゆうべはご苦労様」
「武居さん、一つ教えていただきたいんですけど」
「何だい?」
「田村さんたちのハネムーンのコースに、ミュンヘンは入っていましたか?」
「ええと……入ってたね、|確《たし》か」
「ハンブルクで行方不明になる前に、行ってるんですか?」
「いや、ミュンヘンはもっと後だ。|僕《ぼく》が自分でミュンヘンのホテルをキャンセルしたからね。確かだよ」
「ありがとうございます」
「何かあったの?」
亜由美はちょっとためらって、
「今度会ったときに説明します」
と電話を切った。
「――またあいつと会うのかい?」
と有賀は面白くなさそうである。
「もう|監《かん》|視《し》はいいの」
「でも、何の用なんだい?」
「ゆうべ、増口さんにね、|依《い》|頼《らい》されたのよ、仕事を」
「仕事?」
「そう。――|果《はた》して淑子さんが本物かどうか、調べてくれってね」
「淑子は|偽《にせ》|物《もの》かもしれん」
と増口はブランデーのグラスを手の中であたためながら言った。
広い|居《い》|間《ま》のソファで、亜由美と武居は顔を見合わせた。
「そうびっくりした顔でもないな」
と増口は言った。「察していたのかね?」
「私は……その……」
と、口ごもりながら、武居は、例の、『フィアンセが死んだ』という|怪《かい》|電《でん》|話《わ》のことを説明した。
「君は?」
増口の|視《し》|線《せん》が|移《うつ》って来ると、亜由美は、しらを切り通すことができなかった。
「実は、田村さんが、|囁《ささや》いて行ったんです、あのときに……」
亜由美はそう言って、田村の|謎《なぞ》の一言を、初めて口にした。
「――すみません。でも、あのときは、どうしていいものか分らなくって……」
「当然だよ」
と増口は|肯《うなず》いた。「よく話してくれた」
「するとやはり淑子さんは……」
「うむ。――親の私に分らんというのは、全くもって|情《なさけ》ないが、しかたない。何しろ顔を見るのが月に一度あるかどうかだ。|髪《かみ》|型《がた》でも変れば、もう別の女かと思う」
増口はブランデーをあけた。
「で、社長、どうなさいます?」
「事は|秘《ひ》|密《みつ》を要する」
「はい」
「人知れず、真相を|探《さぐ》り、|突《つ》き止め、|解《かい》|決《けつ》し、|片《かた》|付《づ》けてしまわねばならん。分るだろう、君には」
「分ります」
「|警《けい》|察《さつ》|沙《ざ》|汰《た》にはしたくない。そこで……君たちに、淑子が|果《はた》して|偽《にせ》|物《もの》かどうか、調べてもらいたいんだ」
亜由美は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「どうして私が……」
「淑子は女だ。いくら武居君が|優秀《ゆうしゅう》な|探《たん》|偵《てい》になったとしても、しょせん、男は男でしかない」
亜由美とて、増口の言うことが分らないではない。しかし……。
「でも、私にはそんな|経《けい》|験《けん》も|知《ち》|識《しき》もありません」
「大丈夫。すべては|素《そ》|質《しつ》だよ」
と、増口は言った。「私は長年の社長生活で、それを|悟《さと》った。素質のある人間は、初めての重大な|任《にん》にも、|充分堪《じゅうぶんた》えられるものだよ」
「素質だって、私……」
「私の目に|狂《くる》いはない」
頭の方にあるんじゃないですか、と言いたいのを、亜由美はぐっと|抑《おさ》えた。
「で、引き受けて来ちゃったのか? |無《む》|茶《ちゃ》だなあ!」
と有賀が|呆《あき》れたように言った。
「仕方ないじゃないの。どうしたって|断《ことわ》れないんだもの」
亜由美はベッドにゴロリと横になって、「それにね、やっぱり田村さんのこと心配だしさ」
「自分だって|好《す》きなんだろ、そういうことが?」
「え?――まあね。勉強よりは面白そうじゃない」
「でも、よく考えろよ。いいか、殺人まで起ってんだぞ」
「分ってるって」
「分ってないよ。いつ命|狙《ねら》われるか分んないんだ。遊びじゃないんだぞ」
「遊びだなんて誰が言った?」
「じゃ何だ?」
「仕事よ。れっきとした」
「じゃ、|報酬《ほうしゅう》もあるの?」
「もちろん」
亜由美は、|寝《ね》たまま手をのばして、|机《つくえ》の上のバッグを取ると、中から何かを取り出して、有賀の方へ投げた。
「こ、これ……」
と言ったきり、有賀の目がギョロッと開いて、動かなくなった。
有賀の|膝《ひざ》に落ちたのは、一万円|札《さつ》の|束《たば》だった。
「百万円あるわ。本物よ。それが前金。|解《かい》|決《けつ》したら、あとで二百万円」
「三百……万?」
「良くできました」
「ねえ、|僕《ぼく》がボディガードになるよ」
と、有賀の目の色が変っている。
「そう|頼《たの》むつもりだったの」
と、亜由美はクスクス笑って言った。
「でも、お金もらったからには、ちゃんとやらないとね」
「まずいかなあ、こんな金……」
「いいんじゃない? あの人にとっちゃ、一日の食費ぐらいにしか思えないんだもの」
「|凄《すご》いなあ! これだけバイトで|稼《かせ》ごうと思ったら……」
「他にも助手がいるのよ」
「|誰《だれ》?」
「分んないの。今日、うちへ|訪《たず》ねて来ることになってるんだけど」
――少し|興《こう》|奮《ふん》がおさまると、
「どうとりかかるか考えなきゃ」
と、有賀が言い出した。
「まず|直接彼女《ちょくせつかのじょ》に会うことよ」
と亜由美は言った。
「君、知らないんだろ」
「でも、それしか手はないわ。それに、田村さんのことで、と言えば理由はつくし」
「どこにいるんだい?」
「|別《べっ》|荘《そう》。――場所は聞いて来たわ」
「乗り|込《こ》んで、『|素《す》|直《なお》に|白状《はくじょう》しろ』ってやってやるか?」
「それで|済《す》みゃ|簡《かん》|単《たん》だけどね」
「三百万じゃ、もう少し手間がかかるだろうなあ……」
と、有賀は言った。
「ともかく、あの武居さんとも、うまく|連《れん》|絡《らく》を取ってやらないとね」
「あいつかあ」
と、有賀は顔をしかめたが、「ま、いいや、三百万、三百万」
「|現《げん》|金《きん》ね、正に」
亜由美が|笑《わら》った。
ドアがトントンとノックされて、
「亜由美、お客様よ」
と母の声。
「来たようね」
二人は|階《かい》|段《だん》を|降《お》りて行った。|玄《げん》|関《かん》に、昨日の運転手が立っている。
「増口様の使いで参りました」
「どうも。あの……」
「増口様から、|優秀《ゆうしゅう》な助手なので、|信《しん》|頼《らい》してくれ、とおことづけで」
「あなたが?」
「いえ、とんでもない!」
と運転手は言って、表の方へ「さ、入りなさい。照れないで」
と声をかけた。
おずおずと、〈助手〉が入って来た。
つややかな茶色の|肌《はだ》をした、ダックスフントだった。
「――その犬はね、淑子が|可愛《かわい》がっていたんだ」
と、電話口の向うで、増口の声は笑っていた。
「でも犬が……」
「|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》の少し前に、ちょっと具合を悪くして入院していたんだよ。だから、本物かどうか、かぎ分けてくれるんじゃないかと思ってね」
「分りました」
亜由美は受話器を|戻《もど》すと、「――淑子さんの犬なんだって」
と、言った。
「なるほど。でも……ちょっと|頼《たよ》りない感じするけど」
有賀が言うのも道理で、今、かのダックスフントは、亜由美のベッドの上で長々とのびて|眠《ねむ》っていた。
「番犬にはなりそうもないわね」
と、亜由美は|肯《うなず》いた。
「一発で、|偽《にせ》|物《もの》かどうか分りゃ、|楽勝《らくしょう》じゃないか」
と、有賀はもう三百万円、手に入れたような顔をして言う。
しかし、亜由美には、そう物事が|簡《かん》|単《たん》に運ぶとは思えなかった。
電話が鳴った。
「――亜由美、女の方から電話。つなぐよ」
と清美の声がして、
「――もしもし」
あまり|表情《ひょうじょう》のない声が聞こえて来た。
「塚川亜由美ですが」
「私、増口淑子です」
亜由美はギョッとした。
「は……あの……どうも……」
「その節はどうも」
「こ、こちらこそ」
「色々とあわただしくて、一度お電話しようと思っていたんですけど」
「あの――何か?」
「一度ゆっくりお話したいんです」
と、淑子が言った。「私のいる|別《べっ》|荘《そう》へ、おいでになりませんか?」
|我《わ》がドン・ファン
「じゃ、増口淑子の方から、|別《べっ》|荘《そう》へ|招待《しょうたい》して来たのかい?」
と、有賀が目を|輝《かがや》かせた。「ついてるじゃないか! これこそ、飛んで火に入る夏の虫ってやつだ」
「ちょっと|場《ば》|違《ちが》いじゃない?」
と、亜由美は言った。「こういう場合は、|渡《わた》りに船って言うのよ」
「どっちだって大して変んないよ。三百万円はもうこっちのもんだぞ!」
「|慎重《しんちょう》にしろって言っといて、自分の方がよっぽど|浮《う》かれてるじゃないの」
と、亜由美は冷やかした。
「いつ出かけるんだい?」
「明日。|迎《むか》えの車が来るんですって」
「明日?――月曜日だぜ。大学、どうするんだ?」
「休むわ。しかたないじゃない。有賀君、行ったら?」
「三百万円、ふいにできるか!」
有賀は|断《だん》|固《こ》として言った。
「でも……何の用で|呼《よ》ぶのかしら?」
「何か言わなかったのかい?」
「ただ話がしたい、って……」
|実《じっ》|際《さい》、ちょっと|奇妙《きみょう》な感じではあった。
亜由美の方には、淑子と会いたい理由がある。しかし、淑子の方には何の理由もないような気がするのである。
もし、淑子が|偽《にせ》|物《もの》だとすると、わざわざ人を|招《まね》いたりするまいとも思えた。では、淑子は|正真正銘《しょうしんしょうめい》の本物なのだろうか?
「早速、このワン公の出番だ」
と有賀が、亜由美のベッドに寝そべっている茶色い|円《えん》|筒《とう》|形《けい》の(?)ダックスフントの頭を指先でつついた。ダックスフントはちょっと頭を上げて、クゥーンと悲しげな声を上げた。
「よしなさいよ、そんなことするの」
と亜由美は有賀に言って、「これが|頼《たよ》りなんだから」
と、そっと頭を|撫《な》でてやった。むろん、有賀の頭ではなく、犬の頭を、である。
「そういえば、こいつの名前、聞いてなかったな」
「あ、そうだ。――どうしよう? 電話で|訊《き》こうかしら」
「|適《てき》|当《とう》につけたら?」
「そういうわけには行かないわよ」
「じゃ、ダックス、とでもしようよ」
「|単純《たんじゅん》ねえ。|毛《け》|並《なみ》の良さそうな犬じゃないの。もっと上品な名前よ、きっと」
「ハイセイコーにするか」
「|冗談《じょうだん》ばっかり言って!」
と、亜由美は有賀をにらみつけた。
電話が鳴って、取ってみると、
「増口さんって方だよ」
と母親の声。
「――亜由美です」
「やあ、増口だ。さっきはすまん」
淑子かと思ったら父親の方である。
「|忘《わす》れていたことがあってな。その犬の名前を教えなかったろう」
「まあ、ちょうど良かった。今お電話してうかがおうと思ってたんです」
「そうか。その犬はドン・ファンと言うんだ」
「ドン・ファン?」
「そう。なかなか乙な名前だろう」
「はあ……。あんまり犬らしくありませんね」
「いや、そいつにはピッタリの名前なんだ。その内分る。じゃ、よろしく|頼《たの》む」
「あの――」
「ああ、それから、食べ物はかなりぜいたくしとるから、大体|人《にん》|間《げん》|並《なみ》に|扱《あつか》ってやればよろしい。食後は|紅《こう》|茶《ちゃ》を|一《いっ》|杯《ぱい》やってくれ」
「紅茶を……」
「そう。ウイスキーを|一《いっ》|滴《てき》落とすともっと喜ぶ。では、忙しいので、これで失礼する」
「あ、増口さん、あの――」
淑子の方から|招待《しょうたい》の電話があったことを伝えようとしたが、もう電話は切れてしまっていた。
「――へえ、お前、ドン・ファンなの」
有賀がダックスフントの鼻先をチョイとつついた。
「|俺《おれ》の|彼《かの》|女《じょ》、取るなよ」
亜由美はいやに難しい顔で考え込んでいる。
「おい、どうしたんだ?」
と有賀は声をかけた。
「うん……。どうも気になって来たのよ」
「何が?」
「増口さんのこと。――|娘《むすめ》の夫が|行方《ゆくえ》不明、娘は|別《べっ》|荘《そう》へ引きこもってる。そこへ娘が|偽《にせ》|物《もの》かもしれないという|疑《ぎ》|惑《わく》が起る。それはどういう意味だと思う?」
「意味って?」
「つまり――偽物が娘になりすましているとしたら、本当の[#「本当の」に傍点]娘はどうなったのか、それが親としては心配になるでしょう」
「そりゃそうだろうな」
「ところが、増口さんは、その|調査《ちょうさ》を|人《ひと》|任《まか》せにしてるわ。武居さんはともかく、私のような、見ず知らずと言っていい娘に任せるなんて、|無《む》|茶《ちゃ》じゃない?」
「なるほどね」
「他の女が娘になりすましているということは、本物の娘は、もしかしたら殺されているかもしれない。それぐらいのこと、あの増口さんが分らないわけがないのよね」
亜由美は|名《めい》|探《たん》|偵《てい》よろしく、じっと|眉《まゆ》を|寄《よ》せて考え|込《こ》んだ。「それなのに、あんな|呑《のん》|気《き》なことを言って……。何かあるのよ。きっとそうだわ」
「何かある……ってどういうこと?」
「つまり――私たちに話したのと別の|事情《じじょう》が――もしくは、それ以外の何かがあるんだと思うわ」
「どんなことが?」
「そんなもの分るわけないでしょ」
と、亜由美はちょっと|苛《いら》|立《だ》って、「有賀君も少し考えてよ」
「|僕《ぼく》はボディガードだぜ。頭を働かす方は|任《まか》せるよ」
と、有賀はてんで|頼《たよ》りない。
亜由美は、ベッドに長々と――正に、ダックスフントは長々という感じである――|寝《ね》そべっている〈ドン・ファン〉と、有賀を|交《こう》|互《ご》に|眺《なが》めて、ため息をついた。何だか心細いトリオだこと。
「どうしたんだい?」
有賀が不思議そうに|訊《き》いた。
「いえね、あなた方、そうやって寝そべってると良く|似《に》てるから、ひょっとして、|従兄弟《いとこ》|同《どう》|士《し》か何かかと思ったの」
と亜由美は言った。
「――そうなんです。淑子さんの方から、ご|招待《しょうたい》いただいて」
夜、もう寝ようかと思っているところへ、武居から電話が入った。亜由美が事情を話すと、
「それはいいチャンスだね」
と武居は言った。「僕も|一《いっ》|緒《しょ》に行きたいがそれでは向うも|警《けい》|戒《かい》するかもしれない」
「ええ、大丈夫ですわ」
「まあ、|無《む》|理《り》をしないで、|充分《じゅうぶん》に気を付けてね。もし何か|危《あぶ》なそうだと思ったら、ホテルへ電話してくれ。いいね?」
「よろしく」
――亜由美は電話を切った。どうも、色々考えて、明日、淑子と会うのが|怖《こわ》くなっていたのだが、武居の声を耳にして、大分落ち着いた。
|居《い》|間《ま》へ|戻《もど》ると、母親の清美が、
「本当に|紅《こう》|茶《ちゃ》をおいしそうに飲んだわよ、この犬!」
と言いながら入って来た。
亜由美はつい|笑《わら》い出した。清美の|腕《うで》の中で、ドン・ファンが、何とも|窮屈《きゅうくつ》そうな|迷《めい》|惑《わく》|顔《がお》をしていたからだ。
「おいで、ドン・ファン」
と亜由美が声をかけると、清美の腕からスルリと|脱出《だっしゅつ》したしなやかな茶色の体が、トットと|床《ゆか》を|滑《すべ》って、亜由美の|膝《ひざ》の上に飛び上った。
「わあ、重たい。あったかくって、面白いわね、お前は」
「明日、どこかに行くの?」
「ちょっと知り合いの人の|別《べっ》|荘《そう》にね」
「へえ。|泊《とま》って来るのかい?」
「大学あるもの。もし泊るなんてことになったら、電話するわ」
「|立《りっ》|派《ぱ》な所なのかね」
「だと思うけど」
「――一泊いくらだって?」
と清美は真面目な顔で|訊《き》いた。
亜由美はドン・ファンをかかえて、二階の部屋へ上った。
|風《ふ》|呂《ろ》を|済《す》ませて、さて|寝《ね》るか、と|伸《の》びをする。
しかし、本当に|妙《みょう》なことが続くものだ。
田村の|失《しっ》|踪《そう》、血のついた|上《うわ》|衣《ぎ》。武居を|襲《おそ》ったトラックの|謎《なぞ》。大金持の|娘《むすめ》の、|身《み》|替《がわ》りの|疑《ぎ》|惑《わく》、それに対する父親の|奇妙《きみょう》な|態《たい》|度《ど》。
そして――そう、桜井みどりが殺されたこと。消えるはずのない|状況《じょうきょう》で、|犯《はん》|人《にん》はどうやって|逃《に》げたのか?
みどりが、殺される前に、『武居に近付くな』と言ったのはなぜなのだろう?
それに、殿永|刑《けい》|事《じ》のこともある。桜井みどりの|件《けん》で、取り調べがいとも|簡《かん》|単《たん》に終ってしまったのはなぜなのか。何か|特《とく》|別《べつ》な理由でもあったのかどうか……。
考え出すと、分らないことばかりである。
考えながら、ゆっくりと服を|脱《ぬ》いでいると、何となく、足下に何かあるのを感じて、ヒョイと目を下へ向けた。
ドン・ファンが目の前にチョコンと|座《すわ》って、じっと亜由美を見ている。
「まあ、失礼ね! レディが|着《き》|替《が》えをしてるところを見るなんて、お前も|趣《しゅ》|味《み》が悪いわよ」
手早くパジャマを着る。――明日は、増口淑子の|別《べっ》|荘《そう》だ。
早く|眠《ねむ》って、|殺《さつ》|人《じん》|犯《はん》と取っ組み合っても負けないようにしなくちゃ――というのは、もちろん空想の上での話である。
しかし、|実《じっ》|際《さい》、桜井みどりを殺した犯人がいるのだから、その|危《き》|険《けん》も、全くないとは言えない。
「ま、いいや」
と|呟《つぶや》いて、亜由美は明りを消し、ベッドへスルリと|潜《もぐ》り込んだ。
しかし、どうにも目が|冴《さ》えてしかたないのだ。|一《いっ》|旦《たん》、人殺しなどということを考え始めると、桜井みどりの死体を見付けたときのショックがよみがえって来る。そして、|講《こう》|義《ぎ》中の|居《い》|眠《ねむ》りで見た、あの、死んだ田村が|迫《せま》って来る、|恐《おそ》ろしい|夢《ゆめ》。
そうだ、|謎《なぞ》といえば、もう一つの、田村からの、絵葉書のことがある。
そっけない文面と、|裏《うら》の写真が、どれもシェークスピアと|関《かかわ》りのある地のものであること……。あれは何の意味なのだろう?
亜由美の知っている|限《かぎ》り、田村は、シェークスピアを、それほど愛読してはいなかった。もちろん、勉強家の田村である。読んでいないはずはないが、シェークスピアについて話すのを聞いた|憶《おぼ》えはないのである。
そうなると、あの葉書には、何か|隠《かく》された意味があるのだろうか?
だが、それをなぜ、亜由美へ[#「亜由美へ」に傍点]出しているのか。そして、行方不明になったあとで[#「あとで」に傍点]立ち|寄《よ》るはずだったミュンヘンから、|投《とう》|函《かん》されているのはなぜか?
田村が実は生きていて、自らポストへ入れたのか、それとも|誰《だれ》かが、田村が生きていると見せかけるために入れたのか。
考え出せば出すほど、|謎《なぞ》が深まり、出口がない|迷《めい》|路《ろ》をさまよっているような気さえするのだ……。
こんなことしてちゃ、朝まで|眠《ねむ》れないわ、と亜由美は目をつぶって眠ろうとした。眠れそうもない、と心配しながら、いつしか眠りに引きずり|込《こ》まれて……。
ドアが開いた。
あ、また|夢《ゆめ》だわ、と亜由美は思った。ドアの外は、青白い光が|満《み》ち|満《み》ちて、真暗な室内にその光が流れ|込《こ》んで来る。
|誰《だれ》かが入って来る。――田村さんかしら?
しかし、光を|背《せ》に受けたシルエットは、どことなく田村らしくなかった。武居さん?
それとも――増口ではなさそうだ。あのずんぐり、丸っこい体型とは、大分|違《ちが》っている。
「誰なの?」
ベッドの中から、亜由美は声をかけた。その|人《ひと》|影《かげ》は、まるで|宙《ちゅう》を|浮《う》いているかのように、音もなく近付いて来て、ベッドの足下の方へ立った。
「誰? 返事してよ」
と、亜由美は|呼《よ》びかけた。「――やめて!」
と|叫《さけ》んだのは、その男が、ベッドの毛布をめくったからだ。
「何するのよ、失礼ね!」
亜由美は起き上ろうとして、|愕《がく》|然《ぜん》とした。体が動かないのだ。手も足も、指一本動かせない。――男は毛布の中へ頭を|突《つ》っ|込《こ》むと、亜由美の足の間へ、|潜《もぐ》り込んで来た。
「やめて! やめてよ! 出てって! やめて!」
男の体重が、亜由美の上を進んで来て、|脚《あし》の|膨《ふくら》みを|圧《あっ》|迫《ぱく》した。
「重いわ、苦しい……。どいて……向うへ行ってよ!」
亜由美は身をよじろうとした。|辛《かろ》うじて、少しずつ体が動くようになって来る。
「やめて! 何するのよ!」
その男の頭が、パジャマの下へ、潜り込んで来たのだ。「いやよ!――やめて!」
と亜由美は|叫《さけ》んだ。
男が悲しげな声を出した。
「クゥーン……」
――亜由美はハッとベッドに起き上った。|胸《むね》が苦しいのも当り前だ。上に、あのドン・ファンが、のっかっているのである。
「こら! どきなさい!」
と手で|押《お》しやると、ダックスフントは、|床《ゆか》へストンと|降《お》りて、亜由美の方を見上げ、クゥーンとまた声を上げた。
「ああびっくりした……」
亜由美は胸までまくれていたパジャマをあわてて引きずりおろした。どうやら、あの犬がベッドの足の方から潜り込んで来たらしいのだ。
「お前……どういう|趣《しゅ》|味《み》の持主なの?」
亜由美は|呆《あき》れて言った。「――あ、そうか、それで、ね」
きっとこのダックスフント、女の子のベッドに潜り込むのが|好《す》きなのだろう。なるほど、それで〈ドン・ファン〉か。
増口が言った言葉の意味が、やっと分った。
ドン・ファンの行方不明
「おい、|寝《ね》るなよ」
有賀につつかれて、亜由美は目を開いた。
「あ――ごめん、つい、ね……」
亜由美は目をこすりながら、「今、どこ走ってるの?」
と車の外を見た。
山の中の道である。といって、そんな|山《やま》|奥《おく》ではなさそうだ。
「|奥《おく》|多《た》|摩《ま》の辺りだな」
と、有賀は言った。
「じゃ、|昔《むかし》ハイキングなんかに来た所ね」
――良く晴れて、|快《こころよ》い|日和《ひより》だった。
増口淑子からの|迎《むか》えの車は、十時ぴったりにやって来た。ベンツで、見るからに高級車の|貫《かん》|禄《ろく》。母の清美が、目を丸くしていた。
有賀とドン・ファンを|従《したが》えて乗り|込《こ》み、走り出すと、さすが大型車で、|滑《なめ》らかな走りと乗り心地の良さ。ついつい、|眠《ねむ》|気《け》がさして来て、という次第であった。
「ゆうべ夜ふかししてたんだろ」
と有賀が言った。
「まあね」
亜由美は|欠伸《あくび》しながら、「何しろベッドに|侵入《しんにゅう》して来る|不《ふ》|届《とど》き者がいて……」
「何だって?」
有賀が顔色を変えて、「そ、それは|誰《だれ》だい?」
「ドン・ファンよ。――もう、追い出しても追い出しても入って来るんだもの。参っちゃう」
「何だ、そうか」
と有賀が|笑《わら》いながら言った。「きっと、美女は分るんだぜ」
「それは|確《たし》かなようね」
亜由美は|澄《す》まして言った。「――まだ大分かかるのかしら?」
「もう間もなくですよ」
と、運転手が言った。
「どうも……」
亜由美は、その運転手を見たとき、何だか、どこかで見たような人だ、と思った。しかし、どこで見たのかは思い出せないのだが……。
|若《わか》くて、まだせいぜい三十くらいだろう。なかなか知的な|容《よう》|貌《ぼう》の男だった。ベンツのような高級車を運転するにふさわしく、きちんと|背《せ》|広《びろ》にネクタイ、|白手袋《しろてぶくろ》だ。
たぶん、|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》のときにでも見かけたのだろう、と亜由美は思ったが、それでも、どこか引っかかるものが残っていた……。
車は、林の間の細い|砂《じゃ》|利《り》|道《みち》へと入って行った。
「この|奥《おく》です」
と運転手が言った。
「静かな所ね」
と、亜由美が言い終らない内に、白い、山小屋風に|造《つく》られた、|洒《しゃ》|落《れ》た山荘が|現《あらわ》れた。
「――|素《す》|敵《てき》!」
思わず、亜由美は|呟《つぶや》いていた。
ベンツが入口のドアの前に横づけになる。運転手は急いで表に出ると、後ろのドアを開けてくれた。
亜由美と有賀が|降《お》り立つと、ドン・ファンもヒョイと出て来て、ここには|慣《な》れているのか、|尻尾《しっぽ》を|振《ふ》りながら、|別《べっ》|荘《そう》のわきの方へと走り出した。
「あ、こら! ドン・ファン!」
と亜由美は追いかけようとしたが、ドアが開いて、
「よくいらして下さったわね」
と、淑子が|姿《すがた》を見せたので、足を止め、
「どうもお|招《まね》きいただいて――」
と、頭を下げた。「こちらは私の友だちなんです。あの――有賀君といって、同じ大学にいます」
亜由美は、淑子の表情をじっとうかがっていたが、そこには、|迷《めい》|惑《わく》そうな気配は、全く見られなかった。
「ようこそ。どうぞお入りになって」
と、|微《ほほ》|笑《え》んで見せる。
「し、失礼します」
有賀の方が少し|緊張《きんちょう》している。
亜由美が、ドン・ファンの走って行った方を気にしていると、
「どうかしまして?」
と、淑子が|訊《き》いた。
「あ――いえ、別に。静かでいい所だな、と思ってたんです」
「その点だけは、ね。でも、静かすぎて、|墓《はか》|場《ば》のようですよ」
|新《しん》|婚《こん》|早《そう》|々《そう》、夫を失った|女《じょ》|性《せい》にしては、〈墓場〉とは|大《だい》|胆《たん》なことを言うもんだわ、と亜由美は思った。
「どうぞ中へ――」
と、淑子が|促《うなが》した。
広々とした居間のソファで|寛《くつろ》ぎながら、
「|突《とつ》|然《ぜん》、こんな風にお|呼《よ》び立てしてごめんなさいね」
と、淑子は言った。
――この|別《べっ》|荘《そう》には、もちろん淑子一人でいるわけではない。手伝いの女性が二人、一人は中年の太ったおばさん風、もう一人は、まだ|若《わか》い――たぶん亜由美より若いくらいの|娘《むすめ》だった。
若い娘が、淑子と亜由美、有賀に、|紅《こう》|茶《ちゃ》を出した。
「色々大変でしたわね」
と、亜由美は言った。
「ええ。もう二度と外国なんか行きたくありませんわ」
「当然でしょうね」
と、亜由美は|肯《うなず》いた。「それで……あの……お話というのは?」
「田村さんのことなんです」
と言ってから、淑子は、ちょっと照れたように、
「――変ですね、|結《けっ》|婚《こん》したんだから、『夫』とか『主人』と言えばいいのに、つい田村さんと|呼《よ》んでしまいますわ」
「私も心配しているんですけど」と、亜由美は言った。「どうでしょう? 田村さんは生きていると思われますか?」
淑子がどう答えるか、亜由美は|興味《きょうみ》があった。
「生きています」
淑子は、あっさりと言った。
「|確《たし》か……ですか?」
亜由美は、念を|押《お》した。
「|証拠《しょうこ》を出せと言われれば、何もありません。でも、あの人がそんな目に|遭《あ》うということが考えられないんです」
「つまり――」
「あの人は|危《あぶ》ない所へ行くような人じゃないと思うんです。――そんなに長くお付合いしたわけじゃありませんけれど、その|程《てい》|度《ど》のことは分ります」
「同感ですわ」
と、亜由美は肯いた。
「ありがとう。そうおっしゃっていただけると|嬉《うれ》しいわ」
「田村さんは、何か好きなことのためなら、本当に|我《われ》を|忘《わす》れちゃうんですけど、それ以外なら、とても|慎重《しんちょう》な――というか、気の弱い人だと思います」
「本当にそうね。ああいう、ちょっと|世《せ》|間《けん》|離《ばな》れしたところにひかれたんだけど……」
全く、田村という人間は|浮《うき》|世《よ》離れしたところがあるのだ。
「じゃ、田村さんはどうなったんでしょうか?」
と、亜由美は言った。
「私には見当もつきません」
と、淑子は首を|振《ふ》って、「あなたに、何か考えはあります?」
「さあ……」
亜由美は、|偽《にせ》|物《もの》かもしれない淑子へ、あれこれ打ち明けるわけにもいかないので、|曖《あい》|昧《まい》に首をかしげて見せた。
「実は、今日わざわざ来ていただいたのは、わけがあるんです」
と、淑子は立ち上ると、|飾《かざ》り|棚《だな》についた小さな引出しを開けに行った。
亜由美は、そっと有賀と|視《し》|線《せん》を合わせた。――ドン・ファンのことが気にかかっていた。
どこへ行ったんだろう? |肝《かん》|心《じん》なときなのに……。
「これを見て下さい」
と、淑子が差し出したのは、一|枚《まい》の絵葉書だった。
「まあ、この字は――」
「|彼《かれ》の字でしょう?」
「ええ、そう思えます」
|宛《あて》|名《な》は〈田村[#「田村」に傍点]淑子様〉となっていた。
差出人の名前はない。
そして、|通《つう》|信《しん》|欄《らん》も空白のままである。ただ、宛名だけが書かれているのだ。
「どういう意味だと思いますか?」
と、淑子は|訊《き》いた。
「分りませんけど……。消印は――」
「よく見えないんですけど、何とか|解《かい》|読《どく》しました。ハンブルクなんです」
「じゃ、田村さんが行方不明になった所ですね」
「ただ日付は読み取れないんです」
「いつこちらへ着いたんですか?」
「ここへ着いたわけじゃありません。|新《しん》|婚《こん》旅行から帰った後、私たちが住むことになっていたマンションに|届《とど》いていたんです。昨日、あれこれと必要な品も置いてあるので、行ってみると、それが|郵《ゆう》|便《びん》|受《うけ》に入っていました」
「じゃ、いつ配達されたかは分らないわけですね」
「そうなんです。でも――あの人は、ハンブルクに着いて、その日の夜に|失《しっ》|踪《そう》したんですから、絵葉書を――それも自分の|妻《つま》|宛《あて》に出すなんておかしいと思いませんか?」
淑子の様子は、今までのところ、ごく自然だった。|偽《にせ》|物《もの》なら、本物らしく見せるために、|却《かえ》ってわざとそれらしく|振《ふ》る|舞《ま》うのではないかという気がしたが、少なくとも、亜由美の目には、そんな印象はなかった。
淑子は、ごく地味なワンピース|姿《すがた》で、いかにも、いい育ちの|令嬢《れいじょう》という様子だった。あの|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》のときの、冷ややかな印象は|薄《うす》れている。
あれは、|濃《こ》い|化粧《けしょう》と、|緊張感《きんちょうかん》のせいだったのだろうか。
「つまり――田村さんは、失踪した後で[#「後で」に傍点]、これを出した、と?」
「他に考えられませんわ。そうじゃありません?」
「でも、何も書いてないのはどうしてなんでしょう?」
「分りません。書けなかったのか、それともわざと書かずに出したのか……。ただ、自分が生きていることを私に知らせるために出したのかもしれません」
「向うで何をしているにせよ、生きていれば、何か|連《れん》|絡《らく》があるんじゃないでしょうか。連絡できる|状態《じょうたい》ならば」
「私もそう思うんです」
淑子は肯いて、「何か、とんでもない|犯《はん》|罪《ざい》にでも|巻《ま》き|込《こ》まれたのかも……。ヨーロッパはあれこれと、|密《みつ》|輸《ゆ》だの何だの、|犯《はん》|罪《ざい》|者《しゃ》がいるでしょう。|特《とく》にハンブルクは港町ですから……」
|確《たし》かに、まるで小説のような、|荒《こう》|唐《とう》|無《む》|稽《けい》に思える話だが、そういう|事《じ》|件《けん》が|実《じっ》|際《さい》に起りうるのがヨーロッパという所らしい。
「じゃ、田村さんも、何かを見てしまったりして、|捕《つか》まったのかもしれませんね」
と、亜由美は言った。
「それが心配なんです。そんな|夢《ゆめ》を見て、うなされてしまうのもしばしばですわ」
と淑子は言った。
亜由美は、絵葉書を|裏《うら》|返《がえ》してみた。|古城《こじょう》の写真だ。
|城《しろ》といっても、|戦《せん》|闘《とう》用の|武《ぶ》|骨《こつ》なものではなく、|貴《き》|族《ぞく》の館というような建物だ。
どこだろう? ドイツではなさそうだ。――コーダー。コーダー?
どこかで聞いた名前だ、と思った。
「|妙《みょう》でしょう?」
と、淑子が言った。「ハンブルクの消印なのに、写真はイギリスのお城なんですもの」
「コーダーですね。どこかで聞いたことのある名前だわ」
そこへ、有賀が口を|挟《はさ》んだ。
「〈マクベス〉だ」
「え?」
「コーダーの|領主《りょうしゅ》だよ。シェークスピアの〈マクベス〉がコーダーを|舞《ぶ》|台《たい》にしている」
「まあ、そうだわ、気が付かなかった」
と、淑子が言った。「良くご|存《ぞん》|知《じ》ね」
「いえ、まあ……」
などと、有賀は照れて口ごもっている。
シェークスピア! またしてもシェークスピアなのだ。
一通だけが、淑子の所へ|届《とど》いている。これは何の意味なのだろうか?
「――失礼します」
お手伝いの|若《わか》い|娘《むすめ》が入って来た。「お|嬢様《じょうさま》、神岡さんが――」
「何かしら?」
「ちょっとお話があるそうですけど」
「じゃ、ここへ入ってもらって」
「はい」
「それから、『|奥《おく》|様《さま》』って|呼《よ》んでね、分った?」
「はい、すみません」
淑子は、亜由美の方へ、
「神岡さんって、あなた方を乗せて来た運転手さん」
と、説明した。「若いけど、|腕《うで》のいい人なんですよ。――ああ、どうかしたの?」
あの運転手が入って来ると、
「失礼します。実は犬のことで――」
「犬? 何のこと?」
「あの――」
と、亜由美は言った。「実は、お父様から|頼《たの》まれて、犬のドン・ファンを連れて来たんですの」
「まあ! ドン・ファンが来てるなんて……」
淑子は|嬉《うれ》しそうに手を打った。「神岡さん、すぐ連れて来て」
「はあ、それが|逃《に》げてしまいまして」
「逃げた? ドン・ファンが?」
「さようです。車から出ると林の中へ飛び|込《こ》んで行ってしまって」
「それじゃきっと、|骨《ほね》か何かを|埋《う》めてある所へ行ったのよ。思い出したんでしょ」
「|戻《もど》ってくるのを待っていたのですが……」
「何かあったの?」
「|突《とつ》|然《ぜん》、林の中でキャンキャンと|激《はげ》しく|吠《ほ》える声がして、それきりバッタリと――」
「ドン・ファンの声?」
「そうだと思います」
「いやだわ。何かに|襲《おそ》われたのかしら」
と、淑子は心配そうに言った。
「この辺に、そんな大きな動物はいないと思いますが」
「|捜《さが》してみましょう」
淑子は立ち上った。「あの、すみませんけど、ちょっと失礼しますわ」
「私たちもお手伝いします」
「でも――|申《もう》し|訳《わけ》ないわ」
「いいえ。ねえ、有賀君?」
「う、うん。――もちろん|一《いっ》|緒《しょ》に|捜《さが》しますよ」
「すみません。じゃ、行ってみましょう」
神岡という運転手を先頭に、四人は、|別《べっ》|荘《そう》の表に出た。
「あっちで声がしたようでした」
と、神岡が指さしたのは、さっきドン・ファンが|駆《か》けて行った方向である。
「じゃ、少し|離《はな》れて歩いてみましょう。あれは頭のいい犬ですから、|呼《よ》べば返事をしてくれます」
――かくて、ダックスフントを求めて、四人の声が林の中を、『ドン・ファン!』『ドン・ファン!』と|響《ひび》き渡ったのである。
林の中の足音
三十分近く、四人は林の中をぐるぐると歩き回った。
「――ああ|疲《つか》れた」
|日《ひ》|頃《ごろ》から運動不足である。亜由美も少々へばって来て、淑子たちと少し|離《はな》れたので、木にもたれて休んだ。
それにしても、あのドン・ファン、どこへ行ってしまったのだろう? 何かに|襲《おそ》われたとしても……いや、〈何か〉ではなく、〈|誰《だれ》か〉かもしれない。
ドン・ファンが淑子に会ってはまずいと思った誰かが、ドン・ファンを殺して……。
いや、そこまではちょっと考え|過《す》ぎだろう。――まさか淑子がドン・ファンを殺させたなどとは……。
|突《とつ》|然《ぜん》、手がのびて来て、亜由美の|肩《かた》に置かれた。
「キャッ!」
亜由美は飛び上った。
「びっくりした?」
立っているのは、有賀だった。
「何よ、もう!」
亜由美は有賀をにらみつけてやった。
「さぼっちゃだめじゃないか」
「そっちだってさぼってんでしょ。私は考えてたのよ」
「何を?」
「決ってるじゃない。あの人が本当の――」
「しっ! 聞こえたらどうすんだよ」
「あ、そうか」
亜由美はチョイと|舌《した》を出した。「――でも、今のところごく自然ね。そう思わない?」
「うん……。美人だな」
「何を考えてんのよ!――ともかく、ドン・ファンが見付からない以上、私たちで|探《さぐ》る他はないわ」
「どうやって? 大体さ、考えてみると|無《む》|茶《ちゃ》なんだよな。こっちは、本物も何も、全然増口淑子ってのを知らないわけだろ? |比《くら》べようがないものな、もし|偽《にせ》|物《もの》だとしても」
「それはその通りね」
「それなのに、三百万も出すなんて、やっぱり増口って、どこかおかしいんだよ」
「分ってるのよ、きっと。分らないはずはないわ」
「それでも僕らを行かせようとする。なぜだい?」
亜由美は首を|振《ふ》った。そして、ふと、思い付いた様子で、
「そうだ! どうして気付かなかったのかしら」
と|拳《こぶし》でコンと自分の頭をつついた。
「何を?」
「使用人よ! あの運転手とか、お手伝いの人――あの女の子がいいわ。一番、淑子さんの身近にいるわけじゃない」
「そうか。おかしなことがあれば気が付くはずだな」
「もちろん、|誰《だれ》かが淑子さんになりすましてるとしたら、|充分《じゅうぶん》に|詳《くわ》しく淑子さんのことを調べてると思うわ。だけど、毎日の|習慣《しゅうかん》やくせ[#「くせ」に傍点]までは、とても|真《ま》|似《ね》できっこないわ」
「そうだな、毎朝起きてから、顔|洗《あら》うのが先か便所に行くのが先かとか――」
「もうちょっとましな例が出て来ないの?」
と、亜由美は顔をしかめた。
「ごめん」
「ともかく、その辺を|訊《き》いてみましょ。あの|若《わか》い方のお手伝いさんなら、きっと話ができるわ」
「何なら|僕《ぼく》が|迫《せま》ってみようか、この|二《に》|枚《まい》|目《め》の|魅力《みりょく》で」
「三枚目のホットケーキみたいな顔して何言ってんの。ここは私に|任《まか》せてよ」
と亜由美は言って、「さて、また少しドン・ファンを|捜《さが》してみる? 淑子さんたちの声、ずいぶん遠くなっちゃったわね」
「あっちに|任《まか》せて、僕らは休んでようよ」
「|怠《たい》|惰《だ》ねえ」
「くたびれるんだよ、こういう所歩くのは」
「だらしない」
と、亜由美は|笑《わら》って、「じゃ、一つ元気づけてあげるわ」
と言うと、有賀にヒョイとキスした。
「もう一度、ゆっくりしてくれると、元気が出るんだけど」
「残念でした。|腹《はら》八分目よ。それじゃ――」
と言いかけて、亜由美はギョッとした。
|背《はい》|後《ご》の|茂《しげ》みの|奥《おく》で、ガサッと何かが音を立てて動いたのだ。
二人は、顔を見合わせた。
「今の……」
「|誰《だれ》かいる」
「ど、どこだった?」
「あの辺だ。動いたからな。――犬じゃないぞ」
「そうね。あの犬ならもっと低い所で音がするわ」
亜由美は、有賀の|背《せ》|中《なか》をつついた。
「ほら……ボディガードでしょ」
「え……うん、分ってるよ」
有賀は、あまり気の進まない様子で、こわごわ、その茂みの方へ足を進めて行った。
「こ……こら……誰かいるのか?」
声が少々|震《ふる》えている。あんまり|頼《たよ》りにはならない。
「――有賀君、気を付けて」
と亜由美が声をかけた。「|殺《さつ》|人《じん》|犯《はん》かもしれないわ。中からいきなりナイフが出て来るかも……」
こういうときは、ついおどかしてみたくなるのが、亜由美の悪いくせである。
「よ、よせよ……。おい、出て来い! |誰《だれ》かいるんだろ! いないのか?」
「ぐっと|踏《ふ》み|込《こ》んで|捕《つか》まえてよ」
「人のことだと思って|気《き》|楽《らく》に言うない」
と、有賀は|文《もん》|句《く》を言いながら、|茂《しげ》みの方へ頭を|突《つ》き出し、「おい……出といでよ。いい子だから……」
「|迫力《はくりょく》ないなあ」
と、亜由美はため息をついた。――と、|突《とつ》|然《ぜん》、
「ワッ!」
と悲鳴を上げて、有賀が茂みの中へ|吸《す》い|込《こ》まれるように消えた。そして、
「この|野《や》|郎《ろう》! 何するんだ!」
と、有賀の声がして、「いてえ!」
ドサッと|倒《たお》れる音。
「有賀君!」
と亜由美は|呼《よ》んだ。「しっかりして!」
ザザッと音がして、
「どうしました?」
と、|駆《か》けつけて来たのは、運転手の神岡だった。
「あ、あの――そこの茂みに何かいて、有賀君が――」
神岡が茂みを飛び|越《こ》えようとして、
「――|大丈夫《だいじょうぶ》ですか!」
とかがみ込んだ。「倒れてますよ」
「まあ!――有賀君!」
亜由美が茂みをかき分けて行くと、有賀が頭をかかえながら、起き上るところだった。
「どうしたの? 大丈夫?」
「うん……。何だかいきなり後ろから取っ捕まってコツン、と……。ああいてて……」
有賀は顔をしかめた。
「相手は?」
「さあ。全然見えなかったよ。でも、あの犬じゃないことだけは|確《たし》かだ」
「逃げたようですね、何もいない」
神岡は有賀を|支《ささ》えて立たせた。「この辺に|浮《ふ》|浪《ろう》|者《しゃ》が出るって話も聞かないけど、|一《いち》|応《おう》用心した方がいいですね。おけがは?」
「いいえ、どこも。――ちょっと頭にコブができたくらいかな」
「手当しといた方がいいですよ。もう中へ入りましょう。お|嬢様《じょうさま》も、ドン・ファンを|捜《さが》すのを|諦《あきら》めたようです」
「結局見つからずに?」
「どこへ行っちまったんでしょうかね」
と、神岡は首を振った。「別に死体もないし、血の|跡《あと》があるわけでもないし……」
「心配ですね」
と、亜由美は言った。
「こっちのこともちょっとは心配しろよ」
有賀がふくれっつらで言った。
「――じゃ、|泊《と》めていただけるんですか?」
と、亜由美はナイフを止めて言った。
といって、別にナイフを|突《つ》きつけていたわけではない。まるで都内の一流レストランが|引《ひっ》|越《こ》して来たような、みごとな夕食の最中だったのである。
「ええ、もちろん。よろしいんでしょう?」
「それはもう……。うちには|別《べっ》|荘《そう》なんてものはありませんから、一度泊ってみたかったんです」
「よろしかったら、いつまででも」
と淑子が|微《ほほ》|笑《え》む。
「それじゃ大学を|退《たい》|学《がく》させられます」
と、亜由美は笑顔で言った。
「もちろん有賀さんもご|一《いっ》|緒《しょ》に、ね」
淑子に言われて、|貪《むさぼ》るように食べていた有賀は、あわてて水をガブ飲みした。
「――ど、どうもありがとうございます」
と、やっとの思いで言う。「しかし、おいしいですね、この肉は」
「よろしかったら、おかわりなさって下さい」
「いいんですか?」
と、目を|輝《かがや》かせる。
亜由美は、ちょっと横目で有賀をにらんだ。――そんなに食べて、苦しくて動けなくなっても知らないからね!
――食事の後、あの|若《わか》いお手伝いの|娘《むすめ》が、コーヒーポットを運んで来た。
「ああ、邦代さん」
と、淑子が|呼《よ》びかける。「今夜、お二人ともお|泊《とま》りだから。お部屋の|仕《し》|度《たく》をね」
「かしこまりました」
と、邦代と呼ばれたその娘は、コーヒーを注ぎながら、「お二人、|一《いっ》|緒《しょ》のお部屋でよろしいんですか」
と|訊《き》いた。
「どうします?」
「もちろん別々にして下さい!」
と、亜由美は|断《だん》|固《こ》として言った。「この人は|押《おし》|入《い》れでも|構《かま》いません」
「面白いわ。お二人とも」
淑子は|屈《くっ》|託《たく》なく|笑《わら》った。「じゃ、お|隣同士《となりどうし》の部屋を用意しますわ。それならいいんでしょ?」
「|鍵《かぎ》はかかります?」
と、亜由美は真顔で|訊《き》いた。
食事の後、|居《い》|間《ま》へ|移《うつ》ると、淑子は、亜由美に、大学での田村のことを何でもいいから話してくれ、と言い出した。
「あの人のことを少しでも知りたいの。きっと帰って来ると信じてるから」
と淑子は言った。
亜由美は、とりとめのない、エピソードを思い出すままに話したが、淑子の方は、じっと、身を乗り出すようにして聞いている。
そして、亜由美は、淑子の目に|涙《なみだ》が光っているのに気付いた。――これはきっと本物の淑子なんだ、と思った。
|偽《にせ》|物《もの》が、なりすましているのなら、できるだけボロがでないように、田村の知り合いの人間に、|泊《とま》って行けとすすめたり、あれこれ|訊《き》いたりはしないだろう。
これが|演《えん》|技《ぎ》なら、正に名演である。
「――淑子さん」
と、亜由美は言った。「実は、私のところにも、絵葉書が来ているんです」
「え?」
淑子は、ちょっと意味をつかみかねているようだったが、すぐに、|頬《ほお》を|紅潮《こうちょう》させた。
「|一《いち》|応《おう》、文章も書いてあります。でも、あんまり意味はない|内《ない》|容《よう》ですけど」
「どういう内容ですか」
亜由美は|記《き》|憶《おく》を|頼《たよ》りに、大体のところを説明した。
――しゃべってはいけなかったかな、と思ったのは、話し終った後で、それは、大体があわて者の亜由美としては、いつものことであった。
しかし、口から出てしまったものを、もう取り|戻《もど》すことはできない。チラッと有賀の方へ目をやると、|肝《かん》|心《じん》のボディガードは、|満《まん》|腹《ぷく》になったせいか、スヤスヤと|眠《ねむ》っていた。
「やっぱり生きてるんだわ、あの人は」
と、淑子は声を|弾《はず》ませる。「今度、その葉書を見せて下さいな」
「ええ、もちろん。でも、一つ分らないのは、なぜ、シェークスピアが出て来るのかっていうことです」
「本当ね。ええと――ヴェニスとデンマークと……」
「ヴェローナです。そして淑子さんのところへ来た、コーダー」
「『マクベス』『ハムレット』『ヴェニスの商人』『ロミオとジュリエット』ね。――あんまり内容的な関連はないわね。|悲《ひ》|劇《げき》も喜劇もあるし……」
「ともかく、田村さんが出していることだけは|確《たし》かですね」
淑子は深々とため息をついて、
「あの人は何をしてるのかしら」
と|呟《つぶや》いた。
「――失礼します」
邦代という|娘《むすめ》が入って来る。
「ああ、もう|片《かた》|付《づ》けてちょうだい」
「はい、お部屋の方は仕度しました」
「どうもありがとう。ご案内してあげて」
淑子は立ち上ると、「じゃ、どうぞごゆっくりなさって下さい。まだお休みにならないようでしたら、どうぞこの部屋を自由にお使いになって|構《かま》いませんから」
亜由美と、やっと目を覚ました有賀は礼を言って、邦代という娘について|居《い》|間《ま》を出た。
「お二階です」
と、邦代が、先に立って|階《かい》|段《だん》を上って行く。
「――あなたは住み|込《こ》みなの?」
と、亜由美は|訊《き》いてみた。
「ええ。一階の|奥《おく》の部屋で休みます」
「大変ね」
「いいえ、|却《かえ》って、朝早く出て来るより楽ですし。お金の節約にもなりますもの」
見かけによらず、がっちりした|現《げん》|代《だい》っ子らしい。
二階の|廊《ろう》|下《か》を|挟《はさ》んで、いくつかドアが|並《なら》んでいる。
「ずいぶん部屋があるのね」
「お客様を、十人までお|泊《と》めできるそうです」
「十人ね!」
まだ|眠《ねむ》そうな有賀は、頭を|振《ふ》って、
「うちは客なんて一人も泊る|余《よ》|裕《ゆう》がないぜ。せいぜい|軒《のき》|下《した》で|野《の》|良《ら》|猫《ねこ》|一《いっ》|匹《ぴき》だな」
と言った。
「――こちらが塚川様。あちらが有賀様の部屋です」
「ありがとう」
「失礼します」
邦代が行ってしまうと、亜由美はドアを開けた。――客間としては|立《りっ》|派《ぱ》なものだ。|超《ちょう》一流ホテル|並《な》みとはいかないにしても、なまじのペンションやビジネスホテルより、よほどゆったりして、ベッドも広い。ちゃんとトイレとシャワーまで付いている。
「――同じ|造《つく》りか」
と、有賀が入って来る。「ただ、左右|対称《たいしょう》だな」
「何よ、レディの部屋へ入るときはノックしなさい」
「まだ|裸《はだか》でもないんだからいいじゃないか」
「当り前よ。――後であの邦代さんって子の所へ行ってみるわ。何か聞き出せるかもしれない」
「気を付けろよ。こんな目に|遭《あ》わないようにね」
有賀は頭のコブを|撫《な》でて見せた。
「――ドン・ファンがいなくなったのは気になるわね。それに、あなたを|殴《なぐ》った人間……」
「今夜は用心した方がいいぞ」
「何よ、そのためにボディガードがついて来たんでしょ」
「今夜はだめ。たらふく食ったら、もう|眠《ねむ》くて眠くて……」
「ひどいなあ。朝になったら、私が殺されてた、なんてことになったって知らないわよ」
「そしたら|泣《な》いて|悔《くや》むよ」
「それだけ?」
「|香《こう》|典《でん》も出す」
亜由美はつい|笑《わら》ってしまった。――ドアをノックする音。
「塚川さん。いいかしら?」
淑子の声だ。ドアを開けると、有賀に気付いて、
「あら、お|邪《じゃ》|魔《ま》したかしら?」
「いいえ、とんでもない」
「あの――ちょっと|妙《みょう》なことを|訊《き》くようですけど、さっきの田村さんからの葉書、どこへ行ったかご|存《ぞん》|知《じ》ありません?」
亜由美と有賀は顔を見合わせた。
「――ないんですか」
「ええ。いざ、しまっておこうと思って、|捜《さが》したんですけど、見当らなくて。引出しも調べましたし、邦代さんに手伝ってもらって、|居《い》|間《ま》の中をくまなく捜したんです。でも、どこにも……」
「変ですね。有賀君、知ってる?」
「いいや。全然、分らない」
「そう……」
淑子は、ちょっと落ち着かない様子で、
「何だかいやなことでも起りそうだわ」
と|独《ひと》り|言《ごと》のように|呟《つぶや》いた。
「淑子さん――」
「いいえ、きっとどこかから出て来るわ。ごめんなさいね、お|邪《じゃ》|魔《ま》して」
と、淑子は|会釈《えしゃく》して出て行った。
亜由美と有賀はしばらく|黙《だま》り|込《こ》んでいた。
「|誰《だれ》かが|盗《と》ったのかしら?」
「さあ……。ともかく、彼女、ずいぶん気落ちしてる様子じゃないか」
「そうね。本当に田村さんのことを愛してるのよ。――私、そう思うわ」
亜由美は、自分に言い聞かせるような|口調《くちょう》で、そう言った。
|傾《かたむ》いた|針《はり》
有賀におやすみを言って、一人になると、亜由美は時計を見た。
十時半だ。まだ|宵《よい》の口、とは行かないにしても、|寝《ね》るには早い。
「そうだ。家へ電話しておこう」
と|呟《つぶや》く。
さすがにホテルではないから、各室に電話までは付いていない。インターホン式のものがあるが、外へかけられるような電話はないのである。
「|確《たし》か二階にも、|廊《ろう》|下《か》にあったような――」
部屋を出て、廊下を|見《み》|渡《わた》すと、あったあった。――受話器を上げてみると発信音も聞こえる。
早速|自《じ》|宅《たく》へかける。
「はい、塚川です」
「あ、お母さん、私よ。今夜は、こちらの|別《べっ》|荘《そう》にお世話になるからね」
「そう、ついでに二、三日|泊《と》めていただいたら?」
「まさか。明日は帰るから」
「分ったよ」
と清美は言って、「有賀君も|一《いっ》|緒《しょ》なんだね?」
「そうよ」
「じゃ、まあ|巧《うま》くやりなさい」
「――巧くって?」
「|妊《にん》|娠《しん》しないように気を付けなさい。それじゃ」
「あの……」
電話は切れていた。亜由美は、|呆《あき》れ顔で受話器を|戻《もど》した。
物分りのいい母親、と|感《かん》|謝《しゃ》すべきなのかどうか……。
カチリ、とドアの|閉《しま》る音がした。亜由美はギクリとして|振《ふ》り向いた。
|廊《ろう》|下《か》に|人《ひと》|影《かげ》はなく、どのドアも|閉《と》ざされていた。そのどれがカチリと鳴ったのか、亜由美には見当もつかない。
|誰《だれ》かが、ドアを開けて、亜由美の電話を聞いていたのだ。しかし、誰が?
亜由美は、急に寒々としたものに|捉《とら》えられて、部屋に|戻《もど》った。
まだ、あの邦代という|娘《むすめ》の所へ行くのは早いだろう。その前にシャワーでも浴びてしまおうか。
亜由美はドアのかけ金をかけて、それからベッドのわきに服を|脱《ぬ》いだ。
|裸《はだか》になってシャワールームへ入り、カーテンを引く。コックをひねると、ちょうど少し熱めの、|快《かい》|適《てき》な雨が|降《ふ》り注いで来る。
手早く浴びるつもりが、気持いいので、つい手間取って、バスタオルを体に|巻《ま》いてシャワールームから出たときは、少しのぼせ気味ですらあった。
「――さあ、服を着て、と……」
亜由美は、時々、やらなくてはならないことを口に出して言ってみて、自分を動かす、ということをやる。そうしないとなかなか動かない、|怠《たい》|惰《だ》|人《にん》|間《げん》なのかもしれない。
服を着て、バスタオルを|戻《もど》そうとしてベッドの上から取った。そして――手が止った。
ベッドの上に、一枚の絵葉書があった。
取り上げる手が|震《ふる》えた。|間《ま》|違《ちが》いない。コーダーの|城《しろ》の写真。表の|宛《あて》|名《な》だけの|筆《ひっ》|跡《せき》。
それは、淑子が失くなったと言っていた、田村からの絵葉書であった。
事の意外さに、亜由美はしばらくその場に|突《つ》っ|立《た》っていた。そこに絵葉書があったことそのことも|驚《おどろ》きだったが、自分がシャワーを浴びている間に、誰かがここへ入って来たのだということも、亜由美を不安にさせていたのだ……。
一体|誰《だれ》が、こんなことをしたのだろう? 何のために?
亜由美には、見当もつかなかった……。
しかし、一体、この絵葉書、どうしたものだろう?
亜由美はベッドに|座《すわ》って考え|込《こ》んでいた。淑子の所へ返しに行っても、どう説明しよう?
シャワーを浴びて出て来たら、ベッドの上にのっていた。――そんなことを信用してくれるとは思えない。
|実《じっ》|際《さい》、|確《たし》かめたのだが、ドアのかけ金は、ちゃんとかけてある。誰かが入って来たという|形《けい》|跡《せき》はないのだ。
淑子に|妙《みょう》な|疑《ぎ》|惑《わく》を持たれるよりは、|黙《だま》っていよう、と亜由美は決めた。絵葉書を、バッグにしまい込む。
さて、もう十一時|過《す》ぎだ。そろそろいいだろう。
亜由美は部屋を出て、一階へ|降《お》りて行った。|居《い》|間《ま》の方から、光が|洩《も》れている。
まだ淑子は起きているのだろうか? そうなると、ちょっとまずいのだが。
ドアが細く開いているので、|覗《のぞ》いてみようと思った。そっと近付き、|隙《すき》|間《ま》に目を当てる。
――人の|姿《すがた》は見えなかった。
いないのか。それとも、死角になったところにいるのかな……。
不意に、クスクス|笑《わら》う声がして、亜由美はギョッとした。中から聞こえて来るのだ。
少しドアを開いて、頭を入れてみた。
声はするのだが、どこにも姿は――と、思うと、ソファの、|背《せ》の向うから、ピョコンと女の足が出て来た。――男の笑い声、女のクスクス笑い……。
|事情《じじょう》はピンと来た。そのとき、ドアがキーッと音を立てたので、ソファの向うは、急に静まり返ってしまった。
|恐《おそ》る恐る、ソファの|背《せ》から|覗《のぞ》いた顔は、運転手の神岡……そして、相手は邦代であった。
「あ――どうも」
神岡があわてて立ち上る。邦代も、はだけたブラウスの|胸《むね》のボタンをせっせととめていた。
「おやすみなさい」
神岡は、そそくさと出て行ってしまった。
邦代の方は、ちょっとすねたように、亜由美を見て、
「ご用ですか。私の仕事時間は十時までなんですけど。後はどうしようと勝手でしょ」
「|邪《じゃ》|魔《ま》してごめん。でも、何もこんな所で……。どこか他のお部屋でしたらいいのに」
「ここが一番スリルがあって面白いって、神岡さん、言うんだもの」
邦代は、|屈《くっ》|託《たく》なく|笑《わら》った。
「負けそう、って感じね」
「|彼《かれ》|氏《し》のところに行かないんですかあ」
「彼氏? ああ、有賀君? 彼は、ただのお友達よ」
「じゃ、まだ|一《いっ》|緒《しょ》に|寝《ね》てないんですか?」
まさか、という顔。亜由美は何とも言いようがない。
「|遅《おく》れてんのかな、私。まだ|未《み》|経《けい》|験《けん》|組《ぐみ》なんだもの」
「|嘘《うそ》! そんな人いるんですか?」
変に|小《こ》|馬《ば》|鹿《か》にしたように言われると|腹《はら》が立つものだが、邦代の言い方は、|子《こ》|供《ども》っぽいほど|素《す》|直《なお》なので、|却《かえ》って|怒《おこ》る気にもなれないのだ。
「|週刊誌《しゅうかんし》に出てるほど進んでないのよ、|実《じっ》|態《たい》は」
と、亜由美は言った。「ねえ、ちょうどいいわ。あなたにちょっと|訊《き》きたいことがあったの」
「何ですか?」
「淑子さんのことなんだけど」
「お|嬢《じょう》さんの?」
「あなたはいつからここで働いてるの?」
「まだほんの一か月くらいです。この|別《べっ》|荘《そう》では」
「というと……前は?」
「やっぱり、増口さんの、他の別荘にいたんです」
「じゃ、こっちへ|移《うつ》って来たわけ」
「そうです。お|嬢《じょう》さんのご希望だったそうですよ」
「淑子さんの?」
「おばさんもです」
「おばさんって、もう一人の――」
「ええ。やっぱり他の別荘から、私と同じ|頃《ころ》、こっちへ来たんです」
「じゃ、それまでこの別荘は使ってなかったの?」
「いいえ。でも他の人が働いてたんです。その人たちは、どこかよその――|確《たし》か軽井沢の方へ移ったそうですよ」
「どうしてそんな|面《めん》|倒《どう》なことをしたのかしら?」
「さあ、お金持って、大体気まぐれでしょ」
「それにしても……。よほど、淑子さんは、あなたを気に入ったのね、きっと」
「いいえ。だって、私、ここへ来る前は、お嬢さんにお会いしたことないんですもの」
「え? じゃ、ここで初めて?」
「そうです。おばさんもですよ」
つまり、|結《けっ》|婚《こん》する前の淑子を、二人とも知らないというわけだ。
「――淑子さんのご主人の|事《じ》|件《けん》、知ってるでしょ」
「ええ」
「じゃ、ご主人にも会ったことないわけね」
「私は一度、見かけたことがありますよ」
「どこで?」
「増口さんに何か物を|届《とど》ける用で、会社まで行ったんです。そのときに、お二人が出て来られるのを見ました」
「二人……。つまり、田村さんと、淑子さんね?」
「そうです」
「じゃ、|一《いち》|応《おう》、淑子さんの顔もそのときに見たわけね」
「チラッとですけど」
それでは、とても、良く|似《に》た別人かどうか|判《はん》|断《だん》はつくまい。
しかし、考えてみれば|妙《みょう》な話である。夫が行方不明で、|傷心《しょうしん》の|花《はな》|嫁《よめ》さんが|別《べっ》|荘《そう》にこもるのは分るとしても、身の回りの世話をさせるのに、わざわざ、全くなじみのない者を選ぶというのは、おかしい。むしろ、気心の知れた人間の方が、心が休まるのではないか。
「どうして、お手伝いの人を|替《か》えたのか、知ってる?」
と亜由美は|訊《き》いてみた。
邦代は|黙《だま》って|肩《かた》をすくめただけだった。
「――どうもありがとう」
と、亜由美は言った。「淑子さん、気落ちしてるでしょう。よく|面《めん》|倒《どう》みてあげないと」
「そうですね。でも――」
と邦代がクスッと笑う。
「どうしたの?」
「いいえ、ご主人が|姿《すがた》くらまして、殺されたらしいっていうんでしょ? その|割《わり》には、お|嬢《じょう》さん、太ってるんですもの」
「太ってる?」
「ええ。本当はご主人いなくなってホッとしてんじゃないのかな」
「太ってるって、どうして分るの?」
「洋服が合わないんですよ」
と、邦代は言った。「――この別荘の洋服ダンスに入ってる服、あれこれ合わせてみてるんだけど、どれも、ちょっときついんです。だから、全部新しく買い直さなきゃなんないみたい。いくつかは私、もらって自分用に直しちゃおうと思って。お金持は、新しく作っちゃうんでしょうけど、私たちは、そんなお金ありませんものね」
洋服が合わない。――|女《じょ》|性《せい》の服は、ちょっとサイズが|違《ちが》っても着られない。
別人ならば、着られなくて当然だろう。
これは、淑子にとってはマイナスの材料である。そして、お手伝いに、知らない者を入れたこと。
淑子を本物だと信じかけていた亜由美だったが、どうも、形勢は|逆転《ぎゃくてん》しつつあるようだ。
「でも、どうしてそんなこと|訊《き》くんです?」
と、邦代が言った。
「いいえ、別に。――ただ、淑子さんのことが心配でね。いなくなったご主人を知ってたものだから」
「そうですか。私、ああいうダサイ人って|好《す》きなんだな」
ダサイ、か。――亜由美は|苦笑《くしょう》した。
二階へ上って、自分の部屋のドアを開ける。まあ、|収穫《しゅうかく》ゼロでもなかった。
「――おい」
急に声をかけられ、キャッと飛び上りそうになった。
「有賀君!」
有賀が、シャツとパンツのスタイルで、ドアの|陰《かげ》に立っていた。「――何してるのよ! 出てって! 私のことを――」
「違うんだ! 落ち着いてくれよ」
有賀は必死の|形相《ぎょうそう》で、「|廊《ろう》|下《か》に|誰《だれ》かいなかった?」
「いないわよ。どうして?」
「じゃ、|諦《あきら》めたのか……」
有賀がホッと息をつく。
「何かあったの?」
「いや……びっくりしたぜ。ぐっすり|眠《ねむ》ってたんだ。そしたら――何だか気配ってやつだな。|誰《だれ》かいるな、と思った」
「部屋の中に?」
「うん。別にこっちは|鍵《かぎ》なんてかけてないしさ。目を少し開けると、何か白いものが立ってて――」
「まさかお化けじゃ……」
「|違《ちが》うよ。暗いから、ぼんやりしか見えないんだ」
「よかった!」
亜由美は|胸《むね》を|撫《な》でおろした。|危《あぶ》ないことが|好《す》きなくせに、|幽《ゆう》|霊《れい》とか、その手の話には弱いのである。
「見てると、女らしい。てっきり君だと思った」
「私が行くわけないでしょ」
「だって他に思い当らないじゃないか」
と、有賀はベッドに|腰《こし》をかけた。「スルッと音がして、女がネグリジェを|脱《ぬ》いだらしい。|僕《ぼく》のベッドの方へ|近《ちか》|寄《よ》って来て、毛布の中へ入って来るんだ」
「そこで目が覚めたとか言うんじゃないでしょうね」
「まぜっ返すなよ。女の顔が間近に来て、目を開くと――」
と、一息ついて、「増口淑子じゃないか」
「淑子さん?」
亜由美は目を|丸《まる》くした。「|嘘《うそ》でしょ!」
「本当だよ。こっちはびっくり|仰天《ぎょうてん》、ベッドから|這《は》い出した。そしたら、|彼《かの》|女《じょ》、|裸《はだか》で追って来るんだ。で、|廊《ろう》|下《か》へ飛び出して、君の部屋へ|逃《に》げ|込《こ》んだってわけさ」
「そんなことって……。あの淑子さんが!」
「きっと、すぐ|旦《だん》|那《な》がいなくなって、|欲求不満《よっきゅうふまん》なんだな」
「でも、だからって、むやみやたらと男の人のベッドに|潜《もぐ》り|込《こ》むなんて……」
「|二《に》|枚《まい》|目《め》だからじゃない?」
「|誰《だれ》が?」
と亜由美が|訊《き》いた。
「|傷《きず》つくな、僕は」
「どうでもいいから、もう部屋へ|戻《もど》ってよ」
「今夜だけここにいてもいいだろ? 何もしないからさ」
「だめだめだめーっ!」
「分ったよ! そんなかみつきそうな顔すんなってば」
有賀はあわてて、亜由美の部屋を出て行った。
すれ|違《ちが》い
――|奇妙《きみょう》だわ。
|眠《ねむ》いはずなのに、一向に眠りは亜由美を|訪《おとず》れては来なかった。
亜由美は、暗い|天井《てんじょう》をじっと|眺《なが》めた。
増口淑子。いや、今はまだ田村淑子と言うべきか。
――そのイメージが、あまりにバラバラなのだ。
田村の葉書に|涙《なみだ》ぐむし、田村のことをあれこれ知りたがり、彼が死んだとは信じたくないらしい。その一方で、有賀のベッドへ入り|込《こ》もうとする。
本物らしいかと思えば、|偽《にせ》|物《もの》らしい。
一体どれが本当の淑子なのだろうか?
しかし、ここまでのところでは、どうも、別人の|可《か》|能《のう》|性《せい》の方が高いような気がする。もちろん、|確《たし》かな|証拠《しょうこ》があるわけではないにしても。
ともかく、いくつかの事実はつかんだのだから、これを武居に話して、今後のことを相談してみよう。
「さて、|寝《ね》なきゃ……」
亜由美は目をつぶった。そう眠くはないがじっと目を|閉《と》じていれば眠れるだろう。
そう言えば、ゆうべは、あのドン・ファンがベッドに入り|込《こ》んで来て、一晩中ろくに寝てないのだ。――ドン・ファンか。一体どこへ行ったんだろう?
「クゥーン」
――亜由美はベッドに起き上った。今の声は……ドン・ファンだ!
「ドン・ファン?――ドン・ファン、どこなの?」
どこから聞こえて来たのか、はっきりしない。しかし、そう遠くでもなさそうである。
「ドン・ファン!――どこにいるの?」
返事はなかった。亜由美はベッドから出て、部屋の明りを|点《つ》けると、服を急いで着た。
|廊《ろう》|下《か》にいるような声だったけど……。
廊下へ出てみる。――犬も人も、|影《かげ》も形もなかった。
「ドン・ファン。――ドン・ファン?」
低い声で、|囁《ささや》くように|呼《よ》びながら、亜由美は廊下をゆっくりと歩いて行った。
しかし、ドン・ファンの|姿《すがた》はどこにもない。
「空耳かしら」
いや、そんなことはない! |確《たし》かに聞こえたのだ。
あれは、ドン・ファンの声に|違《ちが》いない。
すると、この|別《べっ》|荘《そう》のどこかにいるのだ。なぜ、林の中から、ここへ来られたのだろう?
――廊下の|端《はし》まで来て、亜由美は|諦《あきら》めて|戻《もど》ろうとした。
不意に、目の前のドアが開いて来た。亜由美はあわてて|壁《かべ》にピタリと身を|寄《よ》せた。
幸い、ドアが亜由美の側へ開いて来たので、気付かれずに|済《す》んだようだ。
出て来た男が、
「じゃ、お|嬢《じょう》さん、おやすみなさい」
と|挨《あい》|拶《さつ》した。
神岡である!――さっきは邦代で、今度は淑子か。|忙《いそが》しいことだ。
いや、たぶん、淑子に|呼《よ》ばれて来たのではないか。有賀の所で、思いを|果《はた》せなかった淑子が、いわば「代役」として、神岡を呼んだのだろう。
「おやすみ」
と淑子の声がした。
神岡が|階《かい》|段《だん》の方へ歩いて行く。淑子はずっと見送っているらしかった。――神岡が見えなくなったのだろう、淑子はドアを少し|閉《と》じかけてから、
「塚川さん、おやすみなさい」
と言ってドアを|閉《し》めた。
亜由美は、返事もできずに、ポカンとして、閉じたドアを見つめていた……。
自分の部屋へ|戻《もど》って、亜由美はかけ金をかけた。
やれやれ、気付かれちゃったのか。しかし、何も|好《この》んで立ち聞きしていたわけではない。ちゃんと、|訊《き》かれれば|事情《じじょう》は説明できるのだが。
だが、淑子が、田村のことを案じながら、他の男に|抱《だ》かれるという|神《しん》|経《けい》が、亜由美には分らない。
田村のことを心配していたのも口先だけのことか、と、|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》になって、早々にベッドへ|潜《もぐ》り込んだ。
目を閉じて――|眠《ねむ》れるな、と思った。
ふと、足の先がムズムズする。
「ん?」
足をのばしてみる。何やら|柔《やわ》らかくて、あったかいものに|触《ふ》れた。
もしかすると……。
「ドン・ファン?」
亜由美は毛布をめくった。
「クゥーン」
という声がして、ドン・ファンが亜由美の|胸《むね》の上にのって来た。
「ちょっと――重いわよ。どいてったら……いやだ、ほら――」
ペロペロと|舌《した》で顔をなめられて、亜由美は|笑《わら》い出してしまった。
「ドン・ファン……どこに行ってたの? いやね、心配させて!」
ドン・ファンは、亜由美にぴったり|寄《よ》り|添《そ》って、|快《こころよ》さそうに鼻声でないた。
「|甘《あま》えちゃって――こいつ」
こうもベタベタくっつかれては、|怒《おこ》るに怒れない。
「さ、今夜はもう|寝《ね》るわよ」
と、亜由美は言った。
しかし、よくこの部屋にまで入って来れたものだ、と亜由美は思った。どこをどう通って、外から入って来たのか。
「お前に口がきけたらね」
と、亜由美は言った。「おやすみ、ドン・ファン」
「クゥーン」
と、ドン・ファンは|応《おう》じた。
今日こそは。
亜由美は、ドン・ファンを|抱《だ》いて、朝食の席へと|降《お》りて行った。
ドン・ファンが、淑子にどういう|態《たい》|度《ど》を取るか、それが大きな決め手になる。
「おはよう」
と、食堂へ入って行くと、もう有賀が席について、せっせとオムレツを食べていた。
「早いのねえ」
「うん。|腹《はら》|減《へ》ってね。それに、家じゃこんな朝飯、食えないからね。――おい、その犬――」
「ゆうべ見付けたの。――ねえ、淑子さんは?」
「さあ、まだ見ないよ」
そこへ、邦代が入って来た。
「おはようございます。|卵《たまご》はどうしますか?」
「あの――淑子さんは?」
「お出かけになりました」
「出かけた?」
亜由美は|訊《き》き返した。
「ええ、今朝、ずいぶん早く起きて来られて、急に思い立って、出かけるから、とおっしゃって……」
「どこへ?」
「さあ。何もおっしゃいませんでした」
と、邦代は言った。「――卵の方は?」
「え?――あ、あの――スクランブルに……」
淑子が出かけてしまった。――あまりに|突《とつ》|然《ぜん》ではないか。
ゆうべの、神岡とのことを知られているので、亜由美と顔を合わせたくなかったのだろうか?
それとも、このドン・ファンのせいか。
「残念だわ。せっかく、この犬と対面できると思ったのに」
「帰りを待つか?」
「そんなことできないわ。今日中に帰るかどうかも分らないのに」
「あ、そうか」
「また出直して来る他、ないようね」
――朝食を終えると、ドン・ファンにも少し|紅《こう》|茶《ちゃ》を飲ませた。
邦代がすっかり面白がって、あれこれと食べ物をやっていた。
「じゃ、神岡さんも、淑子さんと|一《いっ》|緒《しょ》に?」
と、亜由美は|訊《き》いた。
「ええ、もちろん神岡さんの車で」
と邦代は言って、「あ、そうそう。お客様の分は、ハイヤーを呼べと言われています。お帰りのときはおっしゃって下さい」
「――|豪《ごう》|勢《せい》だなあ」
有賀がため息をつく。
「そんなことより、ゆうべ、あの後は大丈夫だった?」
「うん。ぐっすり|眠《ねむ》った。ちゃんとかけ金をかけて、ドアを|押《おさ》えといたんだ」
「オーバーね」
と、亜由美は|笑《わら》った。
「これからどうする?」
「|一《いっ》|旦《たん》家へ帰らないと。このドン・ファン君を連れちゃいけないでしょ」
「そうか。|僕《ぼく》は大学へ|直接《ちょくせつ》行くかな」
「|珍《めずら》しい。勉強したくなったの?」
「おい、珍しいはないだろ」
「私、今日は|休講《きゅうこう》にする」
「何するんだい?」
「武居さんに会うわ。この|報《ほう》|告《こく》もしなきゃならないからね」
「あいつか」
と、有賀はいい顔をしない。「|僕《ぼく》も行くよ。ボディガードだもの」
「もっと|危《あぶ》ない所へついて来てよ」
と、亜由美は言った。「武居さんなら安心よ」
「分るもんか」
と、有賀は|腕《うで》を組んだ。
「やあ!」
ホテルのロビーへ入ると、武居がすぐに二人を見付けてやって来た。
「お仕事中にすみません」
「いいんだよ。この時間はまだ|比《ひ》|較《かく》|的《てき》|楽《らく》なんだ」
「淑子さん、どこか他の|別《べっ》|荘《そう》あたりへ|移《うつ》ったようですわ」
「本当かい? 初耳だな」
「おかげで、ドン・ファンに会わせる機会がなかったの」
「まだチャンスはあるよ」
と武居は言った。
亜由美が昨日の一部始終を聞かせると、武居は|肯《うなず》いていたが、
「大分|核《かく》|心《しん》に|迫《せま》ったね」
と、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「でも、もうお手上げ。これ以上は調べられないわ」
「そうだね。|無《む》|理《り》しちゃいけない。また何かあったら――」
ウエイターがやって来た。
「武居様、お電話が入っております」
「ありがとう。――|誰《だれ》かは分らないか」
「男の方で、ドイツからだとか」
「ドイツ?」
「はい。――あ、田村[#「田村」に傍点]というお名前でした、|確《たし》かに」
とウエイターは言った。
ドイツからの電話
「田村だって?」
と武居は|訊《き》き返した。
「まさか――」
と亜由美が口走る。
ウエイターが不思議そうな顔で二人を|交《こう》|互《ご》に|眺《なが》めていた。
「よし、どの電話だ?」
と、武居は立ち上った。
「フロントです」
武居と亜由美は、フロントへ向かってロビーを|駆《か》け|抜《ぬ》けた。他の客がびっくりして眺めている。
田村さんから、電話!――亜由美としては、ここがどこかの王宮だって、走らずにはいられない。
武居が、置かれていた受話器を引ったくるように取った。
「もしもし! 武居です、もしもし!」
亜由美も武居のそばに立つと、耳を受話器に|寄《よ》せた。
「もしもし、田村君か? 武居だ!」
やや|沈《ちん》|黙《もく》があって、やがて細い感じの声が聞こえて来た。
「もしもし……武居君か?」
「田村君か?」
「うん。――本当に武居君なのか」
亜由美はじっと耳を|傾《かたむ》けた。|確《たし》かに田村の声らしく思えるが、しかし、弱々しいので、はっきりしない。
「|僕《ぼく》だ。田村君、|大丈夫《だいじょうぶ》なのか? 今、元気なのか?」
「うん。――|正《せい》|確《かく》に言うとあまり元気じゃない。でも生きてるからね」
田村さんだわ、と亜由美は思った。田村らしい言い回しである。
「心配してたんだぞ! 今、どこにいる?」
「ドイツだよ。ハンブルクだ」
「そうか。ともかく、ホテルへ|戻《もど》れ。戻れるか?」
「ああ、すぐ近くにいる」
「よし。今すぐホテルへ|連《れん》|絡《らく》しておく。いいか、|危《あぶ》ないようなことがあれば、|警《けい》|察《さつ》か|大《たい》|使《し》|館《かん》へ行け」
「分ってる。|大丈夫《だいじょうぶ》だ」
「どこからかけている?」
「カフェだ。電話を借りてる」
「今、ここに塚川亜由美君がいる。代ろうか?」
「塚川君が?」
亜由美は|我《が》|慢《まん》できなくなって、武居の手から受話器を引ったくるように取った。
「田村さん! 塚川です!」
「やあ……。心配かけたね」
「元気ですか? あの――|奥《おく》さんが心配なさってます。何かお伝えすることは――」
亜由美が言いかけたのを、田村は急に|遮《さえぎ》った。
「彼女には|黙《だま》っていてくれ!」
「え?」
「彼女には何も言わないでくれ。|頼《たの》むよ」
「でも田村さん――」
「もう切るよ。また連絡する」
「待って! 田村さん!」
亜由美が|呼《よ》びかけたときは、もう電話は切れていた。
|振《ふ》り向くと、もう武居が増口へ知らせているらしい。他の電話で熱心にしゃべっていた。
淑子さんへは知らせるなというのは、どういうことなのだろう? 本来なら、妻へ真先に|連《れん》|絡《らく》してくれと|頼《たの》むべきだろうに。
「あ、そうだわ」
田村の両親へ教えてあげなくては。亜由美は急いでダイヤルを回してから、
「この電話――使っていいですか?」
と、そばの|女《じょ》|性《せい》に|訊《き》いた。
家へ帰ってみると、|珍《めずら》しく母親の清美が家にいる。大体毎日出かけている、|忙《いそが》しい人なのである。
「田村さんが見付かったんだって? 良かったね」
と、TVを見ながら、清美が言った。
「――どうして知ってるの?」
亜由美がびっくりして訊き返すと、
「さっきTVの〈ニュース速報〉に出てたよ」
日本のマスコミの|素《す》|早《ばや》いこと!
しかし、こうして|報《ほう》|道《どう》までされているのでは、淑子に知らせるなと言っても、|無《む》|理《り》なことだ。
「ドン・ファンは?」
と、亜由美が|訊《き》いた。
「お前の部屋よ」
亜由美は二階へ上って行った。
それにしても、なぜ田村はああも淑子のことにこだわるのか。やはり、あの淑子は別人なのだろうか?
部屋のドアを開けて、
「ドン・ファン、ただいま」
と見回して――|吹《ふ》き出してしまった。
ドン・ファンが、亜由美のベッドで|寝《ね》ている。――それも、ちゃんとタオルケットを首までかけ、|枕《まくら》に頭をのせて、人間風に寝ているのだから、|笑《わら》い出さずにはいられない。
「変な犬ね、お前は」
ヒョイと頭をもたげて亜由美を見たドン・ファンは、|嬉《うれ》しそうにキャンキャンと|吠《ほ》えると、ベッドからドスンと|降《お》りて来て、亜由美の足にからまりついた。
「いやだ! こら――ひっくり返っちゃうでしょ!」
亜由美は笑いながら、ベッドに|座《すわ》って、ドン・ファンの頭を|撫《な》でてやった。
田村が生きて|戻《もど》ったのは何よりだが、淑子の|謎《なぞ》、田村が亜由美へ|囁《ささや》いていった|謎《なぞ》の一言は、一向に解けない。もちろん田村が日本へ帰って来れば、分ることだろうが……。
しかし、武居が|狙《ねら》われ、桜井みどりが殺された|事《じ》|件《けん》が、すべて田村の|失《しっ》|踪《そう》に関連していたとすると、これはドイツで起った事件というだけでなく、もともとは日本で、|端《たん》を発していると考えなくてはならないだろう。
淑子が|偽《にせ》|物《もの》だとすると、それは一体、何のために仕組まれた|陰《いん》|謀《ぼう》なのか?
亜由美はベッドに横になって、ぼんやりと|天井《てんじょう》を|眺《なが》めていた。
そうだ。――淑子はもう、|別《べっ》|荘《そう》へ|戻《もど》ったのだろうか?
亜由美は、別荘の番号をメモした手帳を開き、電話をかけた。
「――もしもし、増口です」
と若い|女《じょ》|性《せい》の声。あのお手伝いの邦代らしい。
「邦代さん? 塚川亜由美よ。淑子さんはお戻りになった?」
「いいえ。何か、さっき電話があって、ここは当分使わないから、よろしくって」
「だと思います。何かパッパッとしゃべって、切っちゃったんで、よく分りませんけど……」
「今、淑子さんはどこにいるのかしら?」
「分りません。何ともおっしゃいませんでしたけど」
「そう……。もし淑子さんから何か|連《れん》|絡《らく》があったら、淑子さんがどこにいるか分ったら、教えてくれない?」
「そちらへですか?」
「そう。お礼は|充分《じゅうぶん》にするわ」
増口から預かった百万円がある。ケチケチしないで出すべきだろう。
「そんなお礼なんて……」
と、邦代はためらって、「――いくらいただけます?」
亜由美は笑いをかみ殺した。チャッカリしてるんだから!
「そうね。それは|情報次第《じょうほうしだい》だわ」
「分りました」
と邦代は言って、「あの――夜でもいいですか、電話するの?」
と|訊《き》いた。
「ええ、いいわよ。何かありそう?」
「たぶん。じゃ、またお電話します」
邦代は、なぜかあわてたように電話を切った。そばに|誰《だれ》かがいるようだった。
どうやら邦代は何か情報をつかんでいるらしい。それを売り込むには、ちょっと|確《たし》かめたいことがある、といったところだろう。
電話を下へ切り|換《か》えておこうと手をのばすと、「ちょっと待った」と言うように、電話が鳴り出した。
「――はい塚川です」
「あ、亜由美さんお願いします」
「何だ聡子?」
桜井みどりの死体を発見したときに|一《いっ》|緒《しょ》にいた神田聡子である。
「亜由美なの?」
「そうよ。|誰《だれ》だと思ったの?」
「お母さんかと思った。そっくりね、あなたの声」
「あ、そう」
亜由美は冷ややかに言った。そりゃ、母が|類《たぐい》まれな美声の持主というのなら、|似《に》てると言われて喜ぶだろうが、しかし……。
「何か用なの?」
と亜由美は言った。
「うん、あのさ、桜井さんが殺されたときのことでね、ちょっと思い出したことがあるんだ」
「え? |犯《はん》|人《にん》の手がかりでも?」
「そこまでいかないんだけどさ」
「じゃ何よ? もったいぶんないで、早く言え、こら!」
亜由美のそばで、ドン・ファンがワンワンと|珍《めずら》しく、犬らしい(?)声を上げた。
「あら、亜由美の所に犬なんていたっけ?」
「私の助手なの」
「へえ!――ね、それじゃ、さ、電話で話してもよく分んないと思うから、学校へ来てくれない?」
「大学へ?」
「そう。あの|現《げん》|場《ば》に。――ね?」
「いいけど……。聡子、今、どこにいるのよ?」
「大学の近くのラーメン屋。今日もクラブの会合があってさ、その帰りなの」
「分ったわ。じゃ四、五十分で行く」
「部屋で待ってる」
と言って、聡子は電話を切った。
聡子が、何か気付いたことがあるという。――一体何だろう?
亜由美は、首をひねった。しかし、ともかく出かけなくては。
「ちょっと出て来るわよ」
とドン・ファンに声をかけると、クンクンと鼻を鳴らし、|尻尾《しっぽ》を|振《ふ》って、スカートの中に頭を|突《つ》っ|込《こ》んで来る。
「やだあ、こら! この――|痴《ち》|漢《かん》! |痴《ち》|犬《けん》!」
〈痴犬〉なんて言葉あったっけ、と思ったが、「分った! 分ったわよ、お前も連れて行くから……」
この「押しかけ助手」、ちっとは役に立つのかしら、と亜由美は考えていた。
亜由美が大学の門をくぐったのは、もう大分暗くなってからだった。
すぐ行くつもりが、多少、|腹《はら》ごしらえの必要があると気付いて、母親に手っ取り早くできるものを作ってくれと注文したのだが、
「ああ、いいよ」
と清美が作り出したのが、ビーフシチューだった。
家で食べるのを|諦《あきら》め、|途中《とちゅう》の立ち食いハンバーガーに|駆《か》け込んで、二、三十分、時間を食ってしまったのである。
「やれやれ――」
クラブ用の|棟《とう》までやって来ると、亜由美は一息ついて立ち止った。「聡子、|怒《おこ》ってるかな。三十分待たせちゃったものね」
クゥーン、とドン・ファンが鳴く。何しろこの助手を連れているので、|余《よ》|計《けい》|厄《やっ》|介《かい》なのである。
|階《かい》|段《だん》を上って行く。――今日は静かで、どこの部も会合を開いていない様子であった。三階へ上り、桜井みどりの殺された|現《げん》|場《ば》である歴史部の部室のドアを開けた。
中は真っ暗だ。
「ここじゃないのかな……」
亜由美は明りを|点《つ》けてみた。――|事《じ》|件《けん》の後は、ここを気味悪がって使っていないので、発見したときのままである。
みどりの死体のあった位置に、|白《はく》|墨《ぼく》で人の形が描いてあり、|血《けっ》|痕《こん》も黒々と残っている。
「何だかいやね……。聡子、どこなのかな」
と|呟《つぶや》きながら、|廊《ろう》|下《か》へ出た。
社会科学部の方にいるのかしら?――亜由美は廊下を歩いて行った。
「聡子。――聡子、いる?」
と、ドアを|叩《たた》く。
返事はなかった。ノブを回すと、ドアは開いた。中はやはり暗い。
「聡子……」
と呼んでみる。
手で明りのスイッチを|探《さぐ》ったが、この部屋は|慣《な》れていないので、なかなか見付からない。すると、ドン・ファンが足下をすり|抜《ぬ》けて、部屋の中へ入って行った。
「ドン・ファン、どうしたの?」
中でゴトゴトと何やら動く音。そして――
「キャーッ!」
と|突《とつ》|然《ぜん》、悲鳴が|響《ひび》き|渡《わた》った。
同時に亜由美の手がスイッチを|押《お》していた。――明るくなると、聡子の|姿《すがた》が目に入った。床に引っくり返って、|這《は》いずり回っている。
「――聡子!」
「亜由美! |誰《だれ》かが私のスカートの中へ入って来たのよ!」
と青くなっている。
亜由美はプッと|吹《ふ》き出していた。
「何がおかしいのよ!」
「そこの――ほら、そのワンちゃんよ」
|椅《い》|子《す》の|陰《かげ》から、ドン・ファンがヒョイと顔を出した。
聡子の|推《すい》|理《り》
「全くもう、人を|馬《ば》|鹿《か》にしてるわ!」
聡子はプンプンである。
「そう|怒《おこ》らないの。犬なんだから」
「それにしたって……。ドン・ファンとはよくつけたもんね」
当のドン・ファンは|涼《すず》しい顔で、|寝《ね》そべっていた。
「聡子、あなたは何してたの、こんな暗い所で?」
「亜由美が来るのが|遅《おそ》いんだもの、|昼《ひる》|寝《ね》してたのよ」
「こんな夕方に?」
「|疲《つか》れたから横になってたの、その|椅《い》|子《す》|並《なら》べて。そしたら、いつの間にか|眠《ねむ》っちゃってたわけ」
「|呑《のん》|気《き》ねえ。――ま、|遅《おく》れたのは悪い。で、何の話なの?」
「あ、そうだった。|忘《わす》れてたわ」
大体が太目、|大《おお》|柄《がら》な聡子である。見かけ通りに大らかで呑気なのだ。
「桜井さんが殺されたときのことで、何か気が付いたって言ったじゃない」
「それくらい|憶《おぼ》えてるわよ!――あのね、この前色々話したでしょ、ここから|廊《ろう》|下《か》を見てれば|誰《だれ》もあの部屋へ入れなかったはずだって」
「うん」
「それに|絶《ぜっ》|対《たい》|間《ま》|違《ちが》いないと思うの。だから、桜井さんは、私たちが行く直前に殺されたんじゃないかと思うのね」
「直前って言っても、私たち、|階《かい》|段《だん》で会って、そのまま上って行ったのよ」
「だからさ、|犯《はん》|人《にん》が私たちの中にいるとしたら? それしか考えられないじゃない!」
「……私たち?」
亜由美はポカンとして、「つまり――私と聡子のこと?」
「いやあね、どうして私が桜井さん殺さなきゃなんないの?」
「じゃ、|誰《だれ》のこと、『私たち』って?」
「この部屋にいた連中よ。社会科学部のメンバー」
亜由美は目をパチクリさせた。
「聡子! |大《だい》|胆《たん》なこと言うわねえ」
「|論《ろん》|理《り》|的《てき》|帰《き》|結《けつ》よ」
と、言い|慣《な》れない言葉に|舌《した》をもつれさせながら、
「つまり、ここにいた連中には、桜井さんが|誰《だれ》かを待ってることが分ってたはずでしょ。それを見て、桜井さんがあなたと会ったらまずいと思ったかもしれない」
「でも、どうやって殺すの?」
と、亜由美が言った。「誰も席を立たなかったって、あなた言ったじゃないの」
「そうよ。だけど、帰り際[#「帰り際」に傍点]にならできるんじゃない?」
「帰り|際《ぎわ》――」
「ね、みんなゾロゾロとここを出る。|階《かい》|段《だん》を|降《お》りて行くでしょ。そのとき、わざと少し|遅《おく》れて部屋を出て、歴史部の部屋まで走り、桜井さんを|刺《さ》して、また階段へと|駆《か》け|戻《もど》る。みんなノロノロ降りてるもの。追いつけると思うわ」
亜由美はしばらく考え|込《こ》んだ。――|確《たし》かに、かなり|離《はな》れ|技《わざ》ではあるが、|不《ふ》|可《か》|能《のう》ではなさそうだ。
「どうかしら?」
と、聡子は目を|輝《かがや》かせている。
|殺《さつ》|人《じん》|事《じ》|件《けん》が|楽《たの》しくて仕方ない、などと言っては|叱《しか》られそうだが、何しろ|好《こう》|奇《き》|心《しん》の強い年代なのである。
「一つ、やってみようか?」
と、聡子が言った。
「そうね」
亜由美は|肯《うなず》いた。「じゃ、私の方が身軽だから、|犯《はん》|人《にん》の役をやってみる」
「何よ、私がよっぽど重たいみたいじゃないの」
と、聡子はちょっとむくれて、「ま、軽い[#「軽い」に傍点]とは言いませんけどね」
「|文《もん》|句《く》言わないで。ね?――じゃ、あなたが先に出る。私はその後。あなたが|階《かい》|段《だん》を|降《お》り始めたら、走るわ」
「OK。おしゃべりしながらだから、かなりゆっくりよ」
「じゃ、いい?――出て」
聡子がヨッコラショという感じで|廊《ろう》|下《か》へ出て、階段を降り始める。亜由美は一気に歴史部の部屋へと走った。ドアを開け、|衝《つい》|立《たて》を回って、桜井みどりの立っていた|窓《まど》|際《ぎわ》に行き、すぐに引き返した。廊下へ出て、階段へと走る。
聡子はもう二階に着いていた。
「――だめだ。こんなに早くできないわよ」
息を|弾《はず》ませながら、亜由美は言った。
「そうかなあ。亜由美、動作が|鈍《にぶ》いんじゃない?」
「失礼ね! だって、考えてみなさいよ、桜井さんを|刺《さ》して、そのまますぐ|戻《もど》ってこれる?」
「待って!」
と聡子は言った。「ね、亜由美と会ったの、この辺だっけ?」
「ええと――私は二階から三階へ上りかけてたわ」
「そうよ! そしてここでちょっと立ち話して、あなたが上りかけた」
「それを聡子が|呼《よ》び止めて追いかけて来たわ」
「それなら時間はあったかもしれないわよ。私たち、しゃべりながら三階へ上ったでしょ。入れかわりに降りて来る人がいても、気が付かなかったんじゃない?」
「気が付いたわよ、きっと」
「でも、社会科学部の人なら、降りて来て当り前だもの」
「じゃ……聡子|憶《おぼ》えてる?」
「分んないわ」
と聡子は首を|振《ふ》った。「でも一人だけ、|誰《だれ》かが|遅《おく》れて来たのよ。きっとそうだわ」
亜由美は考え|込《こ》んだ。|確《たし》かに、聡子の言う通りかもしれない。それ以外に|可《か》|能《のう》|性《せい》はないだろうか?
「――でも、聡子が言う通りだとすると、犯人が社会科学部の人間だってことよ」
「それらしき人、いるの?」
「さあ、分んないけど、別に|犯《はん》|人《にん》になっていけないってこともないでしょ」
「聡子も|凄《すご》いこと言うわね、|割《わり》と」
亜由美は苦笑した。「もし本当だったら、大変じゃないの」
「でも他に考えられないじゃないの」
「ウーン」
亜由美は考え込んだ。「――で、これからどうするの?」
聡子は|肩《かた》をすくめた。
「そこまで考えてないわ」
「じゃ、こうしましょう。まだ、今、この考えを|警《けい》|察《さつ》へ話すのは早すぎるって気がするの」
「そうね」
「あのとき、|一《いっ》|緒《しょ》にいた人たち――社会科学部のメンバーの名前、書いてみてくれる?」
「いいわよ。それをどうするの?」
「さあ、どうしようかしら。ともかく、私に|任《まか》せて。何か考えるから」
「|了解《りょうかい》」
聡子は社会科学部の部屋に|戻《もど》ると、メモ用紙に、名前と学年を書きつけた。
「――これで|誰《だれ》も落ちてないと思うわ」
「じゃ、もらっとくわ。聡子、帰らないの?」
「私、ちょっとやらなきゃいけないことがあるの。明日までに会合の|資料《しりょう》作んないと」
「じゃ、先に帰るわよ」
「どうぞ」
「――ほら、ドン・ファン、行くわよ」
と、亜由美が|呼《よ》びかけると、|床《ゆか》に|寝《ね》そべっていたドン・ファンが、大きな|欠伸《あくび》をしながら、立ち上った。
「ねえ、これが助手で大丈夫なの?」
と、聡子が|笑《わら》いながら言った。
亜由美がドン・ファンを連れて行くと、聡子もつられたのか、大欠伸をした。
「やあだ……」
と、|呟《つぶや》いて、「さて、やっちまわないと……」
と、|雑《ざつ》|然《ぜん》としている|机《つくえ》に向った。
「この資料の……こことここ……。これはコピーを付ける、と。この次には……これが来るのか?」
|階《かい》|段《だん》を、亜由美の足音が遠ざかって行く。ドアが、少し開いたままになっていた。
聡子はあまり器用な方ではない。せっせと|切《き》り|貼《ば》りしているのだが、|巧《うま》く切れなかったり、貼ったのが|歪《ゆが》んだり、なかなか巧くできないのである。
「|苛《いら》|々《いら》しちゃうな、もう!」
と、グチった。
ドアがキーッと鳴った。ちょうど、|微妙《びみょう》な|貼《は》りつけ作業中だった聡子は、|振《ふ》り向かずに、
「亜由美なの?」
と|訊《き》いた。
返事はなかった。ドアが|閉《し》まった。聡子が振り向くと同時に、明りが消えて、部屋の中は、真っ暗になった。
「|誰《だれ》?……誰なのよ?」
聡子は声をかけた。「いたずらするの、やめてよ。――ねえ、誰なの?」
ゴトン、と音がした。|椅《い》|子《す》が動いた音だ。そして、引きずるような足音が近付いて来る。
聡子は、全身から血が失われていくような気がした。――|誰《だれ》かが|襲《おそ》おうとしている。
落ち着いて、落ち着いて。
一対一なんだからね。聡子は、|机《つくえ》の上を手で|探《さぐ》った。ハサミが|触《ふ》れる。聡子はそれを|握《にぎ》りしめた。
コトン、とまた何かにぶつかった音。相手は、少しずつ近付いて来ている。
|逃《に》げなきゃ、と思った。このままここにいては、やられてしまう。
こっちも見えないが、向うだって見えないはずだ。――そうだ、部屋の中の様子なら、こっちの方が|詳《くわ》しい。
聡子は、そっと横へ動いた。テーブルにぶつかるはずだ。――よし、これだ。
これを引っくり返せば、かなり|凄《すご》い音がする。向うも|混《こん》|乱《らん》するはずだ。
ドアは真正面のはずである。左手の|壁《かべ》に|沿《そ》って行けば、着ける。
聡子はテーブルの|端《はし》に手をかけた。
亜由美は、すっかり暗くなった大学の|構《こう》|内《ない》を歩いていた。
「早くおいで、ドン・ファン」
と|振《ふ》り向く。
何しろ、ドン・ファンがいつにも|増《ま》して、のんびりペースでやって来るのである。
「何やってるの?」
ドン・ファンは、じっと立ち止って、今出て来た|棟《むね》の方を|振《ふ》り向いている。
「――どうしたの?」
と、亜由美が|戻《もど》って行くと、やおらドン・ファンが今来た方へと走り出した。亜由美はびっくりして、
「こら! ドン・ファン!」
と|駆《か》け出した。「どこに行くのよ!――待ちなさい!」
あの犬、聡子のスカートの中が|忘《わす》れられないのかしら、と思った。
「待って!――ドン・ファン!」
いかに短足のドン・ファンでも、本気になって駆けると、かなり早い。亜由美はフウフウ息を切らして、足を|緩《ゆる》めると、
「勝手にしなさい!」
と|怒《ど》|鳴《な》る。
ドン・ファンが、クラブの|棟《とう》の前に着くと、|振《ふ》り向いて、ワンワンと|吠《ほ》え立てた。
「何なのよ?」
と、歩いて来て、亜由美は言った。「何か忘れもの?」
そのとき、ドシン、と何かが|倒《たお》れる音がして、
「キャーッ!」
と悲鳴が|響《ひび》き|渡《わた》った。
「聡子だわ! おいで!」
亜由美も|夢中《むちゅう》で|階《かい》|段《だん》を駆け上った。もちろんドン・ファンも続いたが、とても亜由美と|一《いっ》|緒《しょ》には上れない。
「聡子!――聡子!」
亜由美が社会科学部のドアを開けると、|廊《ろう》|下《か》の光が|射《さ》し|込《こ》んで、聡子が、ひっくり返った|机《つくえ》や|椅《い》|子《す》の間に倒れているのが目に入った。
「聡子――」
と足を|踏《ふ》み入れたとたん、亜由美は後頭部を|一《いち》|撃《げき》されて、そのまま|闇《やみ》の中へ放り出されてしまった。
――何やら、冷たいタオルで顔をこすられているような感じがして、亜由美は目を開いた。目の前にドン・ファンの顔がある。
「――あんたがなめてたの?」
と言いながら、体を起こそうとすると、頭がズキッと|痛《いた》んで、あ、と顔をしかめる。
どうなったんだろう? ここは?
周囲は暗かった。そして|廊《ろう》|下《か》の光が|洩《も》れて来る。
そうだ。ここは社会科学部の部室で……聡子が……。
「聡子!」
亜由美は、痛む頭をかかえつつ、立ち上ると、ドアの方へよろけながら歩いて行き、明りをつけた。
聡子が、|床《ゆか》に|倒《たお》れている。|駆《か》け|寄《よ》ると、額から血が|一《ひと》|筋《すじ》、|顎《あご》へ流れ落ちていた。
「聡子! しっかりして!」
亜由美が|抱《だ》き起こすと、聡子はウーン、と|呻《うめ》いた。
「生きてるんだわ! 良かった!」
亜由美もかなりあわてていた。
「ドン・ファン、早く|救急車《きゅうきゅうしゃ》を|呼《よ》んで!」
と|叫《さけ》んでいたのである。
「――そうなの。私もちょっとけがしてね」
と、電話で亜由美が言うと、母親の方は、
「あら、入院?」
と|訊《き》き返して来た。
「ううん、そんな大けがじゃない。|簡《かん》|単《たん》に手当すればいいみたい」
「じゃ、今夜、帰るのね?」
「分んないわ。聡子の具合次第。もうしばらくは病院にいる」
「分ったわ。今夜、出かけようと思ってたから。そういうことなら、しばらく帰らないわね。じゃ、お友達に家へ来ていただきましょ」
|呑《のん》|気《き》なことを言っている母親にムッとして、
「|娘《むすめ》がけがしたんだから、少し心配しなさいよ」
と文句を言った。
「だって、けがは顔じゃないんだろ? それなら、お見合いには|差《さ》し|支《つか》えないから」
――母の発想にはついて行けない。
亜由美が電話を切って、聡子の病室の方へ|戻《もど》って行くと、見たことのある男が、医者としゃべっていた。
「殿永さん!」
「やあ、|災《さい》|難《なん》でしたね」
殿永|部長《ぶちょう》|刑《けい》|事《じ》は、いつもと変らぬ|微笑《びしょう》を|浮《う》かべている。
「よく分りましたね!」
「あの大学でまた|事《じ》|件《けん》、というのが耳に入ったんです。けがしたとか?」
「|殴《なぐ》られたんです、頭を」
「災難でしたねえ」
「私より聡子の方が心配です」
「ああ、今、医者と話しました。命に|別状《べつじょう》はないそうですよ」
「よかったわ!」
亜由美は|胸《むね》を|撫《な》でおろした。
「強く頭を打ってるそうですが、レントゲンの|結《けっ》|果《か》、ひびも入っていないということです。他にも|特《とく》に|後遺症《こういしょう》は出ないだろうという話でしたよ」
「聡子、石頭だから。良かったわ、でも」
「一体何があったんです?」
と、殿永が|訊《き》いた。
亜由美は、ちょっと|迷《まよ》ったが、しかし、|誰《だれ》かが聡子を|襲《おそ》ったことは|間《ま》|違《ちが》いないのだ。特に、亜由美が社会科学部の部室を出てすぐにそれが起っている。
つまり聡子を襲った人間は、亜由美と聡子の話を聞いていたのだろう。そして聡子が一人になったとき、襲いかかった……。
それは、聡子の言った|推《すい》|理《り》が正しいということではないだろうか。――|断《だん》|言《げん》できないまでも、少なくともその|可《か》|能《のう》|性《せい》はある。
「実は、私たち、桜井さんが殺された事件について、ちょっと考えがあって――」
殿永は|興味《きょうみ》を|示《しめ》した。
亜由美は、聡子の説明を、そのまま殿永を相手にくり返した。
「――もちろん、いずれにしても、かなりギリギリの|離《はな》れ|技《わざ》なんですけど、でもやってみるとできないこともないみたいなんです」
「しかし、|危《あぶ》ないですねえ」
と殿永は|苦笑《くしょう》しながら言った。「あなた方も、まあ軽いけがだから良かったようなものの、これが命でも落としたら、私が|責《せき》|任《にん》を感じますからね。何かやろうと思ったら、ぜひ私に知らせて下さい」
「はあ……」
そう言われると、亜由美としても、一言もない。しかも、|実《じっ》|際《さい》には、もっと|危《あぶ》ないことをやっているのだから。
「その、社会科学部のメンバーのメモはお持ちですか?」
「ええ。――これです」
殿永はメモを受け取ると、
「|預《あず》かっておきましょう」
とポケットへ入れて、「ああ、田村さんという方が、見付かったそうですね」
「ええ、そうらしいです。良かったわ、本当に」
「三、四日の内には帰国するでしょう。となれば、今度の|事《じ》|件《けん》の真相も、明らかになるかもしれません」
「そうですね。そうなってくれるとありがたいんだけど……」
と、亜由美は、|独《ひと》り言のように|呟《つぶや》いた。
「お|宅《たく》までパトカーで送らせましょうか?」
と殿永が言った。
「あ――いえ、私、もう少し聡子のそばについています」
「|意《い》|識《しき》が|戻《もど》ったら、|事情《じじょう》を|訊《き》きに来ます」
「はい。あ、そうだわ。あの――」
「何ですか?」
「犬を|一《いっ》|匹《ぴき》、家へ連れてっていただけません?」
殿永が目を|丸《まる》くした。
記者会見の言葉
成田空港の|送《そう》|迎《げい》ロビーへやって来た亜由美は、TVのカメラマンや、新聞記者たちが何十人と集まっているのを見て、目を|見《み》|張《は》った。
「マスコミがうるさく追い回すことも考えられるから、|到着《とうちゃく》時間は|秘《ひ》|密《みつ》です」
と、武居から、昨夜電話があったのである。
しかし、どうやら|情報《じょうほう》は|洩《も》れていたようだ。
亜由美は、できるだけ目立たないように、ロビーの|隅《すみ》の方へ行って立っていた。予定通りなら、あと二十分ほどで飛行機が着くはずだ。
田村と少しでも話ができるかと思ってやって来たのだが、これではとても話どころではなさそうである。
田村は、ハンブルクでも|警《けい》|察《さつ》に話をしているが、ともかく|疲《つか》れ切っているから、|詳《くわ》しい話のできる|状態《じょうたい》ではないということだった。だから、|謎《なぞ》の|解《かい》|明《めい》は、田村の帰国を待つ他はないわけである。
ただ、田村が、|誰《だれ》かに|襲《おそ》われて、どこかに|監《かん》|禁《きん》されていたことは|確《たし》かであり、田村はそこから、何とか自分で|脱出《だっしゅつ》して来たのだった。
亜由美はロビーを見回した。武居がいるかと思ったのである。
しかし、武居はもう、中に入っているのかもしれなかった。亜由美ももう少し早く来るつもりだったのだが、成田まではともかく遠い。早目に出たつもりが、こんな時間になってしまったのである。
「早く着けばいいのに……」
と、亜由美は|呟《つぶや》いた。
|到着時刻《とうちゃくじこく》が|迫《せま》るにつれて、|報《ほう》|道《どう》|陣《じん》の数も|増《ふ》えて行った。――これで、色々な|事情《じじょう》が明るみに出ると、ますますマスコミには|格《かっ》|好《こう》の話題になろう。
淑子はどこにいるのだろう、と亜由美は思った。武居の電話でも、
「どこにいるか分らないんだ」
ということだったし、あの|別《べっ》|荘《そう》へも電話してみたのだが、
「まだお|戻《もど》りになりません。――ええ、|連《れん》|絡《らく》もなくて――」
という邦代の話だった。
一体、淑子はどこにいるのか。
もちろん、田村が帰国したのは、|承知《しょうち》しているだろう。ここ二、三日の新聞、TVでは、必ず取り上げられているのだから。
それでいて|姿《すがた》をくらましているのだ。マスコミが取り上げるだけの|要《よう》|素《そ》は充分にある。
|新《しん》|婚《こん》|旅《りょ》|行《こう》で|失《しっ》|踪《そう》した夫。そして夫が生きて|戻《もど》ると、今度は|妻《つま》が行方不明。
武居が|狙《ねら》われた|事《じ》|件《けん》、桜井みどりの殺害が、田村の|失《しっ》|踪《そう》に関連しているということは、まだマスコミは感づいていない。もし|誰《だれ》かがそこに目を付けたら、たちまち|週刊誌《しゅうかんし》のトップを|飾《かざ》る記事になるに|違《ちが》いない。
亜由美は二、三分おきに|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見ていた。――もうすぐ田村の乗った飛行機が着くはずだ。
亜由美の|肩《かた》に、誰かの手が|触《ふ》れた。|振《ふ》り向くと、
「どうも」
と、殿永|部長《ぶちょう》|刑《けい》|事《じ》が|微《ほほ》|笑《え》みながら立っていた。「|捜《さが》してたんですよ」
「知ってる顔に会うとホッとしますね」
「田村さんもかなり|歓《かん》|迎《げい》されそうですな」
「ねえ、|疲《つか》れ切って帰って来るんだから、そっとしておいてあげればいいのに……」
「日本のマスコミ界は|厳《きび》しいんですな。そんな思いやりの心を持っていては、競争に勝てない」
「|警《けい》|察《さつ》の|出《で》|迎《むか》えですか?」
「いや、これは公式のものではありません。私自身の|好《こう》|奇《き》|心《しん》ですよ」
「でも、田村さんから|事情《じじょう》を聞くんでしょ?」
「それはもちろんです。しかし、多少|回《かい》|復《ふく》してからでないとね」
二人は、やや|黙《だま》り|込《こ》んだ。|報《ほう》|道《どう》|陣《じん》がざわついて、
「着いたぞ」
「あの飛行機か」
といった声が飛び交った。
「着いたようですね」
と殿永が言った。「まあ、出て来るまでに少しかかります」
亜由美は何か|胸《むな》|苦《ぐる》しいものを感じた。――田村がどんな様子で出て来るだろうか、と思った。
ふと、あの大学の|講《こう》|義《ぎ》|室《しつ》で|居《い》|眠《ねむ》りしているときに見た|悪《あく》|夢《む》を思い出し、ちょっと|身《み》|震《ぶる》いした。
「どうかしましたか?」
と殿永が|訊《き》く。
「いいえ、別に」
亜由美は急いで首を|振《ふ》った。「あの――聡子が書いたメモの学生たちのこと、何か手がかりになりそうなことはありまして?」
「いや、だめですね。残念ながら。あの部員の中には、|特《とく》に今度の|事《じ》|件《けん》に深くかかわっているような人は見当りません」
「そうですか……」
すると聡子は|誰《だれ》に|襲《おそ》われたのか。そして、なぜ?
「それで私、|机《つくえ》をひっくり返して、ドアの方へと|駆《か》け出したんです。そしたら、暗がりの中で、|突《とつ》|然《ぜん》、後ろからぐいと|腕《うで》をつかまれて……」
|額《ひたい》の包帯も|痛《いた》|々《いた》しい聡子が、ベッドでしゃべっている。
亜由美がベッドの足の方に、殿永が、聡子のわきに立ってメモを取っていた。
「それからどうしました?」
「私、悲鳴を上げました」
と聡子が言った。
「私がそれを聞いて、飛び|込《こ》んだんだわ」
と亜由美が|肯《うなず》く。
「その後は、いきなり額のところにガンと何かが当って……。それきり、何も分らなくなったんです」
「|犯《はん》|人《にん》のことで、何か|憶《おぼ》えていることはない? たとえば、|靴《くつ》の音だったか、そうでなかったか。|革《かわ》靴か、布の靴か」
「たぶん――革靴じゃないでしょうか。ともかく、底の|硬《かた》い靴だと思います。でも、入って来てから、暗がりの中は、すり足で進んで来たから、はっきり、どうとは……」
「相手が男だってことははっきりしてた?」
「さあ……」
聡子は|当《とう》|惑《わく》|顔《がお》で、「男だと思いますけど、あんなに力が強いんだもの」
「なるほど、――他に何か気が付いたことは?」
聡子は、しばらく考えてから、
「ありません」
と言った。
頭を動かすと|傷《きず》が|痛《いた》むのか、目だけを亜由美に向けて、話しかけた。
「ねえ、話したの?」
「何を?」
「私たちの|推《すい》|理《り》よ」
「ええ、話したわ」
「大変|立《りっ》|派《ぱ》な推理だと思いますがね、神田さん、ともかく命を落としては|馬《ば》|鹿《か》らしいですよ」
殿永の言葉に、聡子は|神妙《しんみょう》な顔で|肯《うなず》いた。
――殿永が引き上げて行った後で、亜由美が言った。
「良かったわ、大したことなくて」
「大したことない、ですって?」
聡子は顔をしかめて、「まだ|嫁《よめ》|入《い》り前の顔に|傷《きず》つけられて、大したことない、だなんて!」
「でも、傷は消えるわよ」
「そうね。――でもさ、亜由美、私が|狙《ねら》われたってことは、取りも直さず、私の推理が正しかったってことじゃない?」
「|絶《ぜっ》|対《たい》そうとも言い切れないけど、|可《か》|能《のう》|性《せい》はあるわね」
「じゃ、私が|殺《さつ》|人《じん》|犯《はん》を見付けたってことになるのよ! 新聞に出るかなあ」
「よしなさいよ」
と、亜由美は|苦笑《くしょう》した。「それに、一つおかしなことがあるわ」
「何よ!」
「もし犯人があそこで、あなたと私が話をするのを聞いてたとしたら、あなただけを|襲《おそ》うなんて、おかしいじゃない。私ももう聞いてしまっているんだし、あのメモも持ってたわけよ。あなたを殺したとしても、何にもならないじゃないの」
「そりゃそうか……」
と聡子は|呟《つぶや》いて、「でも、それじゃ、私はどうして|襲《おそ》われたの?」
「私、|犯《はん》|人《にん》じゃないから、分んないわよ」
と亜由美は言った。
「――来たようですよ」
と、殿永が言った。
|報《ほう》|道《どう》|陣《じん》が、ワッと出口へ|群《むら》がった。フラッシュが光り、TVカメラのライトが|揺《ゆ》れる。
「どいて! 通して下さい!」
と、男が|叫《さけ》んでいた。
あれはどうやら武居の声らしい。
亜由美は、その|人《ひと》|垣《がき》の方へと近付いて行ったが、ともかく、とても|割《わ》って入れるような|雰《ふん》|囲《い》|気《き》ではない。
「|凄《すご》い……」
と思わず|呟《つぶや》いて、立ち|往生《おうじょう》。
田村も武居も、頭の先も見えないのである。ただ、人の|塊《かたま》りが、ゾロゾロと|移《い》|動《どう》するので、田村が歩いているらしいということだけが分る。
「何か一言」
「帰国の感想を!」
と、いった声が聞こえると、亜由美は|腹《はら》|立《だ》たしくなった。
|疲《つか》れ切って、ろくに話もできない人間に、
「何か一言」
もないものだ。
「あっちへ行ってくれ! 話すことはないんだ!」
武居が|怒《ど》|鳴《な》っている。
「あんたに|訊《き》いてんじゃないよ!」
と、|誰《だれ》かが怒鳴り返した。
|突《とつ》|然《ぜん》、ワーッと|人《ひと》|垣《がき》が|崩《くず》れた。マイクを手にした男が一人、|床《ゆか》にひっくり返っている。どうやら、頭に来た武居が、一発食らわしたらしい。
「こいつはいかんな」
と、殿永が歩み出ると、|報《ほう》|道《どう》|陣《じん》の中へ|割《わ》って入った。
「頭を冷やせよ。相手は病人だぞ」
言い方は|穏《おだ》やかだが、殿永の顔を知っている者が何人かいるとみえて、
「でも、こっちも何か談話を取らないと帰れないですよ」
「察して下さいよ、殿永さん」
といった声があった。
「よし、ちょっと待っててくれ」
殿永は、まだ|憤《ふん》|然《ぜん》とした|表情《ひょうじょう》で立っている武居の方へ向いて、何やら話を始めた。
亜由美は、やっと田村の|姿《すがた》を見ることができた。――ひどく|疲《つか》れている様子で、|記《き》|憶《おく》の中の田村より、一回り、細く、小さく見えている。
亜由美は、よほど田村のそばへ行って、元気づけてやりたかったが、そんなことをすれば、また報道陣が|大《おお》|騒《さわ》ぎをするのは目に見えているので、じっと|我《が》|慢《まん》していた。
殿永の話に、武居は、あまり気の進まない様子ながら|肯《うなず》くと、田村の方を向いて、何か話し始めた。田村は、顔を|伏《ふ》せたまま、武居の話に聞き入っていたが、やがて、|面《めん》|倒《どう》くさそうに肯いた。
「じゃ、場所を改めて、五分間だけ、|質《しつ》|問《もん》に答えるそうです」
と武居が言った。「ただし――」
ざわついた報道陣をピシリと|押《おさ》えるように、
「答えたくない質問には答えません。それをしつこく|訊《き》いたりしないというのが|条件《じょうけん》です。それでよければ――」
「すぐやってもらえますか?」
と|誰《だれ》かが言った。
「本人は|非常《ひじょう》に|疲《つか》れています。三十分ほど休ませたい。空港近くのMホテルで、三十分後に、ということにしたいと思いますが、どうです?」
別に|異《い》|議《ぎ》も出ないようだった。「――じゃ、よろしく」
と、武居が行きかけると、
「|逃《に》げるなよ」
と、一人のレポーターらしい男が言った。
武居がまたカッとなって、|拳《こぶし》を固めて向かって行くと、相手は、テープレコーダーをかかえて走って行く。その様子が、何とも|愉《ゆ》|快《かい》で、|笑《わら》いが起った。
|却《かえ》って、これで気まずい空気が|一《いっ》|掃《そう》されたようだった。
亜由美は、武居たちの方へ行こうとしたが、アッという間に、いなくなってしまう。
殿永が|戻《もど》って来て、
「やれやれ、こういうトラブルは|難《むずか》しいですよ」
と息をついた。
「でも、うまくさばかれましたね」
「幸い、知ってる顔も何人かいましたのでね。――あなたはどうします?」
「もしよければ、そのホテルの話を聞きたいですわ」
「じゃ、|一《いっ》|緒《しょ》に行きましょう」
と殿永が|促《うなが》した。「私ももちろん聞くつもりですよ」
ホテルのロビーに、|臨《りん》|時《じ》の席が作られ、マイクが林立する前に、田村が、落ち着かない様子で|座《すわ》っている。
|傍《そば》に、武居が|腕《うで》|組《ぐ》みをしながら、|妙《みょう》なことを言い出す|奴《やつ》はぶっとばしてやると言いたげな顔をしていた。
少し|離《はな》れた所で、その様子を|眺《なが》めながら、亜由美は――多少大げさに言えば、感動していた。
武居は、決して田村と古い付合いというわけではない。むしろ、田村に|恋《こい》|人《びと》を|奪《うば》われたのである。
それなのに、今、ああして、田村をかばって、本気で心配している。――男同士っていいな、と亜由美は思った。
もちろん女同士だって、親友はいるが、こういうかかわり合い方をした相手を、これほどまでしてかばうことは、なかなかできまい。
「――じゃ、何か|質《しつ》|問《もん》があったら」
と、ぶっきら|棒《ぼう》に、武居が言った。
「|失《しっ》|踪《そう》の|事情《じじょう》について話して下さい」
と、どうやら|代表格《だいひょうかく》に選ばれたらしい記者が言った。
田村は水のコップを取り上げて一口飲むと、ゆっくり口を開いた。
「ええと……よくは分らないんです。ともかく、あの日、ホテルに電話がありました」
「どんな電話ですか?」
「男の声で、ビザの点で|不《ふ》|備《び》があったから、旅行代理店まで来てくれ、と言うのです。そこで、パスポートを持って、ホテルを出ました。――十メートルも歩かない内に、何だか二、三人の男に囲まれて、そのまま車へ|押《お》し|込《こ》まれたんです」
「男たちはドイツ人?」
「たぶんそうでしょう」
「それで?」
「車の中でクロロホルムをかがされて、|意《い》|識《しき》を失いました。気が付いたときは、どこかの倉庫か何かの部屋に|閉《と》じ|込《こ》められていました」
「|縛《しば》られてたんですか」
「いいえ。でも、|扉《とびら》は|頑丈《がんじょう》で、|窓《まど》は|天井《てんじょう》近くに小さく開いているだけでしたから、どうやっても出られませんでしたよ」
「そこに、ずっといたんですか?」
「そうです。食事は、毎朝、目が覚めると、ドアの内側に置いてありました」
「すると|眠《ねむ》っている間に――」
「そうらしいです」
「ずっと起きていて、|犯《はん》|人《にん》を|確《たし》かめてみようとは思わなかったんですか」
「それが――とても体力が持たなくて。食事もそんな具合で一日一回でしたからね」
「犯人の姿をチラッとでも見るとか、声を聞くとかは?」
「ありませんでした」
と、田村は首を|振《ふ》った。
「失礼」
と、殿永が割って入った。「|誘《ゆう》|拐《かい》の|事情《じじょう》、その他の|詳細《しょうさい》については、これから|警《けい》|察《さつ》でもうかがわなくちゃならない。あまり立ち入って|質《しつ》|問《もん》しないで下さい」
「それでは――」
と、レポーターは方向を変えて、「|新《しん》|婚《こん》|旅《りょ》|行《こう》でご主人が|失《しっ》|踪《そう》してしまったんですから、|奥《おく》さんは本当に心配されてたと思うんですが……。もうお話になりましたか」
「いいえ」
「電話でも?」
「していません」
「どうしてです? 真先に奥さんへ知らせないと――」
「あれ[#「あれ」に傍点]はいいんです」
田村の返事に、|報《ほう》|道《どう》|陣《じん》はどよめいた。
「それはどういう意味です?」
「説明して下さい!」
代表も何もあったものではない。口々に|叫《さけ》んで、|詰《つ》め|寄《よ》って来る。
「もうこれで|充分《じゅうぶん》でしょう!」
武居が立ち上って、大声で言った。「これ以上、質問されても、答えません!」
「それはないよ」
「今の言葉を説明してもらわないと」
「奥さんのことを、『あれはいいんだ』ってのは――」
武居は、|無《む》|視《し》して田村を立たせようとした。――すると田村が、言った。
「あれは|僕《ぼく》の|女房《にょうぼう》じゃないんです」
これだけ|騒《さわ》がしい所で、田村がボソッと口にしたのだから、本来なら聞き取れなくて当り前なのだが、なぜかこのときの、田村の言葉は、気味が悪いほどはっきりと、|誰《だれ》にも聞き取れたのである。
消えた淑子
「参ったよ……」
武居が言った。
ホテルのロビーである。
記者会見した成田のホテルではなく、武居のホテルへ|戻《もど》って来ていた。
もう夜になっている。武居は、大きくため息をついて、亜由美を見た。
「――どうだい、お|腹《なか》|空《す》かない?」
「そう言われてみれば、多少……」
「|一《いっ》|緒《しょ》に食べよう。こっちも今日は食事どころじゃなかったものな」
全く、その点は、亜由美も同感だった。
二人は、フランス料理の店に入って、|奥《おく》まった席に着いた。
「いいか、ここに電話があっても、|絶《ぜっ》|対《たい》に|俺《おれ》はいないからと言えよ」
武居はウエイターに言った。「たとえ友人だと言ってもだ」
「分りました」
武居はメニューを広げて、
「記者だというと出てくれないから、大学のときの友人で、とか言うんだよね。全く、大した連中だ」
亜由美が|軽《かる》|目《め》に魚料理を|頼《たの》んだのに対して、武居は、ステーキを注文して、
「|苛《いら》|々《いら》してると|腹《はら》が|減《へ》るんだ」
と言った。
|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔で言うのがおかしくて、亜由美はつい|笑《わら》ってしまった。武居もつられたのか、|一《いっ》|緒《しょ》に笑った。
「――田村さん、どこへ行ったんですか?」
「|都《と》|内《ない》|某《ぼう》|所《しょ》さ」
「私にも教えてくれないんですか」
と、亜由美は武居をにらんだ。
「まあ|勘《かん》|弁《べん》してくれ。|彼《かれ》はまだ入院|治療《ちりょう》が必要な|患《かん》|者《じゃ》なんだ。話ができるまでに|回《かい》|復《ふく》したら、必ず会わせてあげるよ」
「信用しますわ」
「ありがとう。――さ、ワインが来た。|乾《かん》|杯《ぱい》といくか!」
景気をつけるように、武居は大げさな声を上げた。
「|肝《かん》|心《じん》の淑子さんはどこにいるんでしょう?」
「さあね。何しろ、|別《べっ》|荘《そう》はあちこちにあるし、しかも|僕《ぼく》なんかの知らないのもいくつかあるはずだ」
「増口さんはご|存《ぞん》|知《じ》なんですか?」
「知らないと思うよ。知ってれば言うだろうからね」
「でも|妙《みょう》な話ですね。|娘《むすめ》がどこにいるのか分らない。しかも、|偽《にせ》|物《もの》かもしれないっていうのに、気にもしないなんて」
「あれが増口さん流の子育てなのかもしれないよ」
「それにしても――」
亜由美は、スープが来たので、言葉を切った。今は|事《じ》|件《けん》より、|食欲《しょくよく》の方が重要であった……。
メインの料理が来て、ナイフを入れていると、ウエイターがやって来た。
「お電話でございます」
「おい、いないと言えって――」
と武居が言いかけると、
「いえ、こちらの方にでございます」
と、ウエイターは、亜由美の方へ|微《ほほ》|笑《え》みかけた。
「私に?――|誰《だれ》かしら?」
「邦代、と言ってくれれば分る、と……」
「まあ、邦代さん?」
亜由美は急いで席を立った。
「もしもし、塚川亜由美です」
「あ、邦代です」
「何か?」
「お|嬢様《じょうさま》が、ここへみえたようなんです」
「淑子さんが?」
「ええ、多分。お|屋《や》|敷《しき》の方から、|至急《しきゅう》来るようにって電話があったんです。それで行ってみると、|呼《よ》んでなんかいないって」
「じゃ、|偽《にせ》の電話だったのね」
「そうらしいです。で、さっき、|別《べっ》|荘《そう》の方へ|戻《もど》ってきたんですけど――」
「ご|覧《らん》の通りです」
と、邦代は言った。
亜由美は、淑子の部屋の中を見回した。
洋服ダンスの|扉《とびら》は開いて、中には一着の服もない。引出しも全部引出されて、空になっている。
「|徹《てっ》|底《てい》|的《てき》ねえ」
と、亜由美は感心して言った。
「頭に来ちゃいますわ、私」
と、邦代はプンプン|怒《おこ》りながら、「少し古い服をもらおうと思ってたのに」
そこへ、武居も上って来た。
「やあ、こりゃひどい」
「お|宅《たく》の方では?」
「いや、何も知らないと言ってる。もちろん、ここのお手伝いさんたちを|呼《よ》んだこともないそうだ」
「じゃ、やっぱり淑子さんが――」
「電話して来たのは、男? 女?」
と、武居が邦代へ|訊《き》いた。
「男の声でしたよ」
「すると淑子さんじゃない。一体、|誰《だれ》だろう?」
亜由美は首をひねった。――邦代がエヘンと|咳《せき》|払《ばら》いして、
「あの……もう一つあるんです」
と言い出した。
「何が?」
「運転手の神岡さん。あの人も、行方が分らないんです」
「ということは――つまり、神岡さんの運転するベンツで、淑子さんはどこかへ行っちゃったというわけね」
「そうらしいです」
「車自体は、そうそうめったやたらと走ってるわけじゃないからね。遠からず見つかるとは思うけど――」
「どこへ行くつもりなんでしょう?」
「見当がつかないわ」
「でも、|失《しっ》|踪《そう》にしても、変だと思いませんか?」
「何が?」
「これです」
亜由美は、空っぽの|戸《と》|棚《だな》やタンスを手で|示《しめ》して、
「いくらひんぱんに|着《き》|替《か》える人でも、人目につかないように|逃《に》げようというのに、何から何まで着るものを持って行こうっていうのは、おかしくありませんか」
「なるほどね」
「私も変だと思いましたわ」
と、邦代が言った。「だって、夏物、冬物、|構《かま》わず持ち出してるんですもの」
「ねえ、邦代さん」
と、亜由美がふと思い付いた様子で、
「あなたに電話して来た男って、もしかしたら、神岡さんじゃなかった?」
「まさか!」
と、邦代は言った。「それなら分りますよ」
「でも作り声とか――」
「分りますよ。だって……」
と言いかけて、邦代はちょっと照れたように頭をかく。
そう言えば、彼女は神岡と「いい仲」なのだ。|恋《こい》|人《びと》の声なら、|間《ま》|違《ちが》えはしないだろう。
「それじゃ、やっぱり別の男……」
「一体|誰《だれ》なんだ?」
と、武居がブツクサ言って、「ともかく、|彼《かの》|女《じょ》の行方を|捜《さが》さなきゃ」
だが、亜由美の方は、なぜ淑子が、|棚《たな》を空にしてまで、|総《すべ》ての服を持って行ったのだろうか、という点に心が動いた。
そう小さな荷物ではないはずだ。そんなにまでして、なぜ運んだのか。
「――|身体《からだ》に合わないのを知られないように、か」
と、武居が言った。
「それしか考えられませんね」
と亜由美も|肯《うなず》く。「でも、理論的に考えると、やっぱり変です」
「何が?」
「こんなことしたら、それこそ、自分が|偽《にせ》|物《もの》だと|白状《はくじょう》してるようなもんです」
「それはそうだけど……」
「私、何か別のわけ[#「わけ」に傍点]があったんじゃないかと思うんです」
「まだ分りません」
亜由美は首を|振《ふ》った。「何だか頭の中がこんがらがって来て……」
「|果《はた》してあの淑子さんは本物かどうか……」
二人が考え込んでいると、
「へえ、|面《おも》|白《しろ》い話ですね」
と邦代が言った。
亜由美と武居がハッとして、顔を見合わせた。しゃべってはいけないことを、邦代の前で、つい口にしてしまったのだ。
「じゃ、あのお|嬢様《じょうさま》は、他の女なんですか?」
武居は|渋《しぶ》|々《しぶ》言った。
「かもしれないってことなんだ。――いいかい、この話は|誰《だれ》にもしちゃいけない。分ったか?」
「分りました」
と、あっさり邦代は|肯《うなず》いたが、武居はどうにも不安らしい。
仕方なく、一万円|札《さつ》を何|枚《まい》か、邦代の手に|押《お》し付けて、やっと安心したようだった。
|別《べっ》|荘《そう》から、武居の車で送ってもらうと、亜由美が家へ着いたのは、もう夜中|過《す》ぎであった。
「じゃ、田村さんと話ができるようになったら――」
「|連《れん》|絡《らく》する。|約《やく》|束《そく》するよ」
「お願いします」
車を出て、亜由美が家の方へ歩きかけると、
「ねえ、ちょっと」
と武居も車を出て来た。
「何ですか?」
|振《ふ》り向いた亜由美に、武居はいきなりキスした。――とっさのことで、亜由美は何が何やら分らなかった。
「おやすみ」
武居は、そう言って車に|戻《もど》った。
武居の車が走って行くのを、亜由美はポカンとして見送っていた。
家へ入ると、|驚《おどろ》いたことに、母の清美がまだソファに|座《すわ》っている。
「待っててくれたの?」
へえ、多少は母親らしいところもあるんだね、と|居《い》|間《ま》へ入って、つい|笑《わら》ってしまった。
清美は、ソファでいとも気持良さそうに|眠《ねむ》っている。TVが、とっくに|放《ほう》|映《えい》を終って、白い画面になっていた。
引き上げられた車
翌朝――と言っても昼近くだが、起き出して来た亜由美は、|朝刊《ちょうかん》を広げて、目を|見《み》|張《は》った。
武居のつかませた何万円かは、どうやらむだになったようだ。
〈|花《はな》|嫁《よめ》は|偽《にせ》|物《もの》?〉
〈帰国した田村氏の発言とも|符《ふ》|合《ごう》〉
といった見出しが、|派《は》|手《で》に|躍《おど》っている。
おまけに、邦代の写真まで、ちゃんと出ていて、サイズの合わない服……といった談話が|掲《けい》|載《さい》されていた。きっと大分|謝《しゃ》|礼《れい》をもらったのだろう。
これは大変だ。
もう|週刊誌《しゅうかんし》あたりが動いているに|違《ちが》いないし、田村の|居《い》|場《ば》|所《しょ》を必死で|捜《さが》しているだろう。
|騒《さわ》ぎになる前に、一度田村と話したかったのだが……。
「――亜由美、電話よ」
と清美が顔を出す。
「はあい」
武居さんかな。|昨夜《ゆうべ》のキスは、まだ何となく|余《よ》|韻《いん》が残っている。
「亜由美です」
「あ、塚川亜由美さんですか」
「そうですが……」
「〈週刊××〉ですが、田村さんの|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》に出席されましたね。そのときの|花《はな》|嫁《よめ》の印象などを一言――」
「失礼します!」
亜由美は|叩《たた》きつけるように電話を切った。またすぐに電話が鳴る。
取ってみると、
「ええと、〈女性××〉ですが――」
「失礼」
と切ると、また鳴る。
頭へ来た亜由美は、受話器を上げると、
「いい|加《か》|減《げん》にしてよ!」
と|怒《ど》|鳴《な》った。
「ああびっくりした。どうしたんだい?」
「あ、有賀君か、ごめん。ちょっとね――」
亜由美が|事情《じじょう》を説明すると、
「何だ、そっちにも電話行ってるのか」
「そっちにも?」
「大学で待ち|構《かま》えてるのが何人かいるぜ。それを教えてやろうと思ってさ」
「大学に? |呆《あき》れた!」
「今日は出て来ない方が良さそうだよ」
「そうね……」
いつもなら、出て来ない方がいいと言われりゃ飛びつくのだが、こういうときは|反《はん》|抗《こう》|的《てき》になって、|却《かえ》って出て行きたくなる。
「私、行くわ」
「ええ? |大丈夫《だいじょうぶ》かい?」
「|頑《がん》として口を開かないから。――もし私に|触《ふ》れる者がいたら、ボディガード、|頼《たの》んだわよ」
「これは別口じゃないの?」
「いいから! じゃ、後でね!」
と電話を切って、「お母さん、もう電話出なくていいからね」
と言った。
「どうしたの?」
「|週刊誌《しゅうかんし》がやかましいのよ」
「へえ」
清美はまじまじと亜由美を見て、「お前も週刊誌で取り上げられるようになったのかい?」
と言った。
大学へ行くと|頑《がん》|張《ば》ったものの、もうお昼である。あまり午後は|授業《じゅぎょう》もない。
「やめとこうかな」
と|呟《つぶや》いたが、とにかく、有賀へ行くと言ってしまった。
亜由美は、服を|着《き》|替《か》えて、家を出ようとした。その間にも、電話が五、六回は鳴った。
「じゃ行って来る」
と、家を出ようとすると、また電話が鳴った。「放っといていいよ」
「いいや、この電話は|特《とく》|別《べつ》だよ」
と、清美が電話を取った。「――ほら、亜由美、殿永って|刑《けい》|事《じ》さんよ」
亜由美は、母親の〈|超能力《ちょうのうりょく》〉に|仰天《ぎょうてん》した。
「やあ、塚川さん」
「あの――記事のことなんですけど……」
「いやびっくりしましたね。ともかく、まだ田村さんは|眠《ねむ》り続けていて、話のできる|状態《じょうたい》じゃないことを伝えようと思いましてね」
「どうもご親切に」
「こちらも困ってるんです。淑子さんも行方不明だし……」
殿永は、少し間を置いて、「淑子さんが|偽《にせ》|物《もの》じゃないかということは、あなたもご|存《ぞん》|知《じ》だったんですね?」
と|訊《き》いて来た。
亜由美としては、どう返事をしていいものやら、|迷《まよ》うところである。
「あの実は――」
と言いかけたとき、向うで、
「待って下さい」
と、言った。「――何だって?」
殿永の|驚《おどろ》きの声が聞こえて来る。
「どこだ?――よし、すぐに行く!」
何か、かなりの|緊急事態《きんきゅうじたい》らしい。まさか、今度の|事《じ》|件《けん》のことでは、と思った。
「塚川さん、今、電話がありましてね」
「何か?」
「淑子さんの車が、海に転落しているのが発見されたそうです」
クレーンがきしむ。
「よーし、上げろ!」
と|叫《さけ》ぶ声。
モーターが|唸《うな》り、ワイヤーが、|巻《ま》き取られて行く。ピーンと|張《は》りつめたワイヤーが、少しずつ上って行くと、淑子のベンツが、水中から|姿《すがた》を|現《あらわ》した。
亜由美は、その光景に、どこかぞっとするものを感じた。
「あの中に淑子さんが?」
「それはまだ何とも」
と、殿永は言った。
ベンツの車体が水から完全に持ち上げられると、海水が、車体のあちこちから、|滝《たき》のように流れ落ちる。
「もう少し上げろ。――OK。道路の上に回せ!」
クレーンが、ゆっくりと回転して、ベンツはまだ水をしたたらせながら、亜由美たちがいる、道の上に運ばれて来た。
「よーし、|降《お》ろせ。――静かに。――静かに。――OK!」
ちょっと|弾《はず》みがついて、ベンツは、ドシンと音をたてて路面に置かれた。そのとたん、ドアが、ガタンと音をたてて開いた。
「キャッ!」
亜由美は思わず声を上げる。
殿永が車へと|駆《か》け|寄《よ》った。
運転席に、神岡の死体があった。それが、ドアが開くと、外へ|倒《たお》れて来たのである。
「あの……淑子さんは?」
と、亜由美は、|恐《おそ》る恐る|訊《き》いた。
「いません」
「じゃ……」
「海へ投げ出されたのか、それとも、もともと乗っていなかったのか……」
と、殿永は言った。
「死んだと見せかけるために?」
「かもしれません」
「でも……なぜ神岡さんが……」
「自殺する気ではなかったようですよ」
「というと?」
「|刺《さ》し|傷《きず》があります。|背《せ》|中《なか》です」
「刺し傷?」
「|致命傷《ちめいしょう》かどうか分りませんけどね、ともかく、神岡を刺して、その上で車を海へジャンプさせた」
「淑子さんかしら? そんな恐ろしいことを――」
「|偽《にせ》|物《もの》なら、やりかねないかもしれませんよ。どうです?」
「ええ……」
亜由美は、もう水が流れ出てしまって、また今にも走り出しそうに見えるベンツを|眺《なが》めた。
「一度ゆっくりお話しなくてはね」
と、殿永は言った。
亜由美は、殿永が考える時間を|与《あた》えてくれたのが、|嬉《うれ》しかった。
クレーンが、まだギシギシと音をたてて、外されたワイヤーが、空を横切って行った。
|検《けん》 |討《とう》
「すみません、どうも……」
亜由美はそう言って、殿永の顔を上目づかいに見た。
殿永は、いつもながらのおっとりした|表情《ひょうじょう》で、何やらせっせと手帳にメモをしていた。
「あの……今まで|隠《かく》していて、すみませんでした」
殿永があんまり|黙《だま》っているので、亜由美はもう一度|謝《あやま》った。
「え?」
と殿永が顔を上げて、「ああ、もういいんですよ。|済《す》んでしまったことはしかたありません」
と手を|振《ふ》った。
その手ぶりが大きかったせいか、レストランのウエイトレスがやって来て、
「追加のご注文ですか?」
と|訊《き》いた。
「え?――あ、いや――それじゃ、アイスクリームを」
殿永は注文してから|苦笑《くしょう》して、「ああいうときに、何でもないと|断《ことわ》るのが悪いような気がしてね」
「気が弱いんですね」
亜由美は少し気持がほぐれて|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「さて、|一《いち》|応《おう》、問題点を整理してみたんです」
と殿永は言った。「まず、田村淑子――増口淑子と言うべきかな、彼女が|偽《にせ》|物《もの》かどうかという点」
「田村さんはそう言っています」
「そう。それに父親も良く分らないと言っている。服のサイズが合わない。田村さんが帰国すると、|彼《かの》|女《じょ》の方は|姿《すがた》を消した。|一《いっ》|緒《しょ》に行ったとみられる運転手は殺された。――これらの点を|並《なら》べてみると、どうやら彼女が偽物らしいという|結《けつ》|論《ろん》が出ますね」
亜由美は|肯《うなず》いた。
「でも、目的は何でしょう? |財《ざい》|産《さん》かしら?」
「それしか考えられませんね。しかし、私が気になっているのは、そこじゃないんです」
と殿永は言った。
「というと?」
「――まあ、それは置くとして、次の問題は、あのハンバーガーチェーンの店にトラックが|突《つ》っ|込《こ》んだ|一《いっ》|件《けん》です」
「武居さんが|狙《ねら》われた……」
「|故《こ》|意《い》か|偶《ぐう》|然《ぜん》かという問題が一つ。故意の犯行だとすれば、武居さんが狙われたのはなぜか」
「ただの事故ってことも、考えられないことはありませんね」
「そうでしょう? さて、次の問題は――」
「桜井みどりさんが殺された件」
「そうです。|彼《かの》|女《じょ》の一件については、分らないことだらけですよ。なぜ[#「なぜ」に傍点]殺されたのか? どうやって殺されたのか? |誰《だれ》に殺されたのか……」
「なぜ、という点はあんまり考えませんでしたわ。あの|状況《じょうきょう》にばっかり気を取られていて」
「|無《む》|理《り》ありませんよ」
「彼女は何かを知っていたわけですね。――武居さんに近付かない方がいい、と言いましたけど、武居さんに何か|秘《ひ》|密《みつ》があるんでしょうか」
「そこなんですよ」
と殿永は言った。「あなたの話では、桜井さんが、武居に近付かない方がいい、と言ったということですが」
「ええ」
「桜井さんは、『武居に近付くな』と言ったのですか? 名前をあげて?」
亜由美は、思い出してみた。――あのキャンパスの|芝《しば》|生《ふ》で、桜井みどりと話をしていたのだった……。
「いいえ……|確《たし》か……」
と、亜由美はゆっくりと言った。「武居さんに、とは言いませんでした。『あの男には』と言いましたわ」
「確かですね?」
「ええ。――でも、話の流れというか、それまで武居さんの話をしていたんで、当然武居さんのことだと……。彼女が別の男のことを言っていたとおっしゃるんですか?」
「|可《か》|能《のう》|性《せい》の問題ですよ。どうですか、その場に他の男がいたとか、そんなことはありませんでしたか」
「いいえ、|誰《だれ》も。――たぶん、桜井さんは武居さんのことを言っていたんだと思いますけど」
「分りました。すると、武居さんが|怪《あや》しいとも考えられますね」
「でも、そんなことが……」
「一つ|妙《みょう》なことがあります」
と、殿永は言った。「桜井みどりがあなたと話をした。そして、その後、|講《こう》|義《ぎ》中にあなたは|呼《よ》び出された。それはお母さんが|事《じ》|故《こ》に|遭《あ》われたという|偽《にせ》の電話だったわけです」
「ええ」
「その偽電話の目的は何でしょう?」
「それは……」
亜由美は少し間を置いて、「桜井さんと会うのを|遅《おく》らせるためです」
「そうでしょう。その間に|犯《はん》|人《にん》は桜井みどりを殺す決心をし、実行した。あなたを偽電話でおびき出したのは、その|時《じ》|間《かん》|稼《かせ》ぎだった」
「それはそうでしょうね」
「では、犯人はなぜ、桜井みどりがあなたと会うことになっているのを知っていたんでしょう?」
亜由美は言葉が出て来なかった。――本当にそうだ! どうして今までそれを考えなかったのだろう?
「桜井みどりがあなたに会いたいと言ったのは、お昼休みですね」
「そうです」
「その後、午後の講義中にあなたは電話で呼び出された。つまり、その間に、犯人は、あなたが桜井みどりと会うことになっているのを知っていたことになります。その短い時間に、ですよ」
「すると……どういうことになるんでしょう?」
「分りません。しかし、武居に、それを知る機会があったとは考えにくい。そうじゃありませんか?」
亜由美は|肯《うなず》いた。
「桜井みどりの|事《じ》|件《けん》については、もちろん、|誰《だれ》が、どうやって殺したのかの問題が残っています。方法については、神田聡子さんが言ったようなやり方だったのか。その|可《か》|能《のう》|性《せい》はありますが、いずれにしろ、かなりの|離《はな》れ|技《わざ》でした。それを|敢《あ》えてやったのは、犯人側にとっても、かなり|危《あぶ》ない|瀬《せ》|戸《と》|際《ぎわ》に追いつめられていたからでしょう」
「何が何だか分りませんわ、もう……」
と亜由美はため息をついた。
「ともかく、桜井みどりの|件《けん》にしても、それだけ分らないことがあるわけです」
「まだあるんですか?」
と、亜由美は少々くたびれて来て、言った。
「ええ。もう一人殺されていますからね」
「運転手の神岡ですね」
「そうです。|彼《かれ》はなぜ殺されたのか」
「車ごと|崖《がけ》から落として、|事《じ》|故《こ》と見せかけるつもりで――」
「事故と見せかけようとして、|刺《さ》し殺す人間はいませんよ」
「そうですね。すぐに分ってしまう」
「田村淑子が、彼を殺したのか? それならば何のために? これも|難《むずか》しいところです」
亜由美は考え|込《こ》んでしまった。――この手の話が|好《す》きな亜由美としても、|現《げん》|実《じつ》の|事《じ》|件《けん》となると、とても手に負えない。
「手がかりはいくつかあります」
と、殿永は言った。
「何ですか?」
「まず田村さんです。今はまだ話を聞いていませんが、田村さんから|直接《ちょくせつ》話を聞くことができれば、いくらか真相は明らかになりそうですよ」
「そうですね。私も会いたいわ」
「それから、増口氏」
「淑子さんの父親ですね。あの人も何だかおかしいわ」
と亜由美は言った。「いくら何でも娘が本物かどうか分らないなんて――」
「いや、それはむしろありうることだと思いますよ」
と、殿永は言った。
「だって――」
「金持の生活というのは、|我《われ》|々《われ》には|想《そう》|像《ぞう》もつかないようなところがありますからね。まるで作り話としか思えない実話には|事《こと》|欠《か》きません」
「それじゃ、本当に増口さんは淑子さんのことを|疑《うたが》っているんでしょうか?」
「|私《わたくし》が|興味《きょうみ》があるのは、増口さんが、なぜ|娘《むすめ》さんのことを|偽《にせ》|物《もの》かもしれないと思うようになったか、ということです」
と殿永は言った。
「そう言えば……そのことは何も言っていませんでしたわ」
「だから一つ|訊《き》いてみたいんですよ」
殿永は|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見ると、「実はこれから増口氏に会う|約《やく》|束《そく》になっているんです。|一《いっ》|緒《しょ》に行ってみますか?」
「よろしいんですか?」
と、亜由美は|胸《むね》をときめかした。
「|構《かま》いませんよ。もうあなたはこの|事《じ》|件《けん》に、いわば首までつかっているんですからね」
殿永の言葉は、亜由美には、何となく|嬉《うれ》しいような、|恐《おそ》ろしいような、|複《ふく》|雑《ざつ》な想いを引き起した……。
|逃《に》げた|花《はな》|嫁《よめ》
前に増口に会ったときは、|自《じ》|宅《たく》の広い|居《い》|間《ま》で話をしたが、今日は社長室である。
あの|大《だい》|邸《てい》|宅《たく》の居間に|劣《おと》らず広い。その|奥《おく》に、|馬《ば》|鹿《か》でかい|机《つくえ》があって、増口が|座《すわ》っていた。
「やあ、いらっしゃい。そこへかけてくれたまえ」
増口はいつもの、愛想の良い|営業用《えいぎょうよう》の|笑《え》|顔《がお》で、二人を|迎《むか》えた。
不思議な人だ、と亜由美は思った。自分の|娘《むすめ》が|偽《にせ》|物《もの》かもしれず、しかも行方不明になっていて、当然その知らせも受けているはずなのに、一向にその様子は変らないのだ。
こんな父親があるだろうか?
広い社長室の一角、|衝《つい》|立《たて》があって、そこに高級な|応《おう》|接《せつ》セットが置かれている。殿永と亜由美がそこに|腰《こし》をおろすと、
「入口のところで止められんかったかね」
と、増口は言いながら、自分もソファに身をどっかと|沈《しず》めた。「何しろ|週刊誌《しゅうかんし》やTV局が|押《お》しかけて来て、うるさくて仕方ないんだ」
「大変ですね。どこかへ身を|隠《かく》されては?」
と殿永が言った。
「何も悪いことをしたわけではないからな」
増口は|笑《わら》って言った。「――ときに、何か|訊《き》きたいことがあるという話だったが」
「お|嬢《じょう》さんが行方不明になっていますが」
「うん、聞いとる。まあ、そこの娘さんにも言った通り、あれが本当に娘かどうか、分らんがね」
「あまりご心配の様子ではありませんね」
「心配して何になる? どこにいるかも分らんのだ。どうせ|私《わたくし》には何ともしてやれんのだからな」
「それはつまり――」
「おいおい、君」
と、増口は|遮《さえぎ》って、「君も|警《けい》|察《さつ》|官《かん》だろう。しかも、なかなかの切れ者と見たぞ。淑子が私の本当の|娘《むすめ》でないことぐらい、|先《せん》|刻《こく》ご|承知《しょうち》だろうが」
と言った。
これには亜由美も|仰天《ぎょうてん》した。殿永は、|微《ほほ》|笑《え》んで、
「そちらから言い出して下されば幸いです」
と|肯《うなず》いた。「淑子さんは、あなたの妹さんに当るわけですね」
「妹ですって?」
と、亜由美は思わず言った。
「そう。淑子は私の|親《おや》|父《じ》が、|女房《にょうぼう》以外の女に生ませた子だ。それを私が養女として引き取った」
と、増口は言った。「いや、はっきり言えば|押《お》し付けられたのさ。こっちは父親の命令には|逆《さか》らえん。|財《ざい》|産《さん》を|継《つ》ぐには、それが|条件《じょうけん》だったのだ」
なるほど。そうなると、淑子は増口にとって、妹にして娘ということになるわけだ。とても|愛情《あいじょう》など|湧《わ》くまい。
「しかし、|誤《ご》|解《かい》せんでくれよ」
と、増口は言った。「私は、ちゃんと、やるだけのことは淑子にしてやった。別に淑子をいじめたりした覚えはない」
「淑子さんはそのことを?」
と亜由美が|訊《き》いた。
「知っていた。かなり早くからな。うちの家内が、やはり|素《す》|直《なお》には|可愛《かわい》がることができなかったのだな。|子《こ》|供《ども》の|頃《ころ》にしゃべってしまったのだ」
それは淑子には大きなショックだったろう。しかし、増口とその妻の気持も、分らぬでもないが。
「その|件《けん》はともかく――」
と、殿永は話を変えた。「淑子さんが|偽《にせ》|物《もの》かもしれないと考えたのは、なぜですか?」
「ああ、それは、|匿《とく》|名《めい》の電話があったからだ」
「どんな声ですか?」
「男の声だった。しかし、|押《お》し殺した声で、よく分らなかったな。ともかく淑子が他の女と入れ|替《かわ》っていると言うんだ。それだけ言って切れてしまった」
「ご自分で|確《たし》かめようとしなかったんですか?」
「自分の目には自信がなかった。それに、もし|誰《だれ》かが淑子になりすましているのだとすれば、それを気付いた人間を殺そうとするかもしれん。それが|怖《こわ》くてな。こう見えても、私は死ぬのが|好《す》きではないのだ」
「好きな人はいませんわ。じゃ、私か武居さんなら殺されてもいい、と思われたんですね」
亜由美がにらむと、増口は|笑《わら》って、
「そうとも。君らが殺されても、私は[#「私は」に傍点]死なずに|済《す》む。そこが|肝《かん》|心《じん》のところだ」
と、増口は平然としている。
亜由美は、|怒《おこ》るのも忘れてポカンとしていた。こうでなくては、金持にはなれないのかもしれない。
「じゃ、今、淑子さんがどうしているか、気にならないんですか」
と、亜由美が|訊《き》くと、増口は|肩《かた》をすくめて、
「別にならんね」
と言った。
「――|呆《あき》れたわ!」
社長室を出ると、亜由美は息をついた。
「殿永さん、淑子さんのことをご|存《ぞん》|知《じ》だったんですね」
「ええ。|黙《だま》っていてすみませんね。それを増口氏にぶつけて|反《はん》|応《のう》を見ようと思っていたんです。しかし、向うから言い出されてしまった」
「|一《ひと》|筋《すじ》|縄《なわ》で行かない人ですね」
「正に、その通りですな」
殿永は、タクシーを拾うと、ある病院の名を|告《つ》げた。
「どこへ行くんですか?」
「さっき|連《れん》|絡《らく》を取ってみたんです。どうやら田村さんが、話ができる|程《てい》|度《ど》には|回《かい》|復《ふく》したようですよ」
と殿永は言った。
二人の乗ったタクシーは、|郊《こう》|外《がい》の、|割《わり》|合《あい》に小さな|個《こ》|人《じん》病院の前で|停《とま》った。
「ここに、田村さんが?」
「都内の大病院じゃ|秘《ひ》|密《みつ》を|保《たも》てませんからね」
と、殿永は言った。
病院の入口に、|警《けい》|官《かん》の|姿《すがた》があったが、それ以外は、どこといって変るところのない、静かな緑に囲まれた病院である。
「やあ、どうも」
院長らしい、初老の医師が出て来て、
「もう大分元気になりましたよ」
と、先に立って病室へと案内してくれる。
明るく|陽《ひ》の|射《さ》し込む病室で、田村はベッドに起き上って、|窓《まど》の外を|眺《なが》めていた。
「田村さん」
と亜由美が声をかけると、田村がゆっくり|振《ふ》り向く。
「やあ、塚川君か」
声は弱々しくて、|頬《ほお》がこけていたけれど、田村らしい|笑《え》|顔《がお》が|戻《もど》っていた。
「気分はどうですか?」
「うん。まあまあだ。――君にも大分心配かけたようだね」
「まあ多少は」
と、亜由美は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「失礼します」
と、殿永が|自己紹介《じこしょうかい》をしてから、「二、三うかがいたいことがあるのです」
と言った。
「ええ。――成田で、記者たちとの|仲裁《ちゅうさい》に入って下さった方ですね。|憶《おぼ》えていますよ。何をお話すればいいんですか?」
「|奥《おく》さんのことです」
「淑子さんの? いや、|妻《つま》のことを『さん』づけじゃおかしいかな。しかし、どうも何と呼んでいいのか分らないので……」
「この塚川さんに、あなたは、|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》の当日、|花《はな》|嫁《よめ》が別の女だと|囁《ささや》いたそうですね」
田村はちょっと間を置いてから、|肯《うなず》いた。
「それはどういう意味だったんです?」
田村は、言葉を選ぶように、しばらく|迷《まよ》ってから、言った。
「そう見えたんですよ。――本当に|妙《みょう》な気分でした。それまで淑子さんとは、何度か付き合っていたし、|彼《かの》|女《じょ》の方が|僕《ぼく》との結婚に熱心でした」
田村は|苦笑《くしょう》して、「本当ですよ。僕にだって信じられないくらいでしたが、結婚を申し|込《こ》んで来たのは、彼女の方だったんです」
「いや、別におかしくありませんよ」
「そうですか?――ともかく、僕は結婚が決ってからも、仕事が|忙《いそが》しくて、それに、その手のことはまるで苦手なので、|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》の手配など、万端、彼女へ任せきりでした」
「なるほど」
「ところが、当日は彼女とはあまり話をする機会がありません。で、いざ、披露宴の席で彼女と|並《なら》んで|座《すわ》っていると、どうも彼女の様子がおかしいんです」
「どういう風に?」
「何というか……。話しかけても、口もきかないし、それに心もちやせたようで、少し顔の感じが|違《ちが》うんです」
「つまり別の女だ、と?」
「そんなこと、まさか、と思っていましたがね。――|化粧《けしょう》が|濃《こ》いせいかとも思いましたが、どうも、そうでもない。どこかおかしいんです」
「それで、塚川さんに……」
「あれは、とっさのことで、|僕《ぼく》も|混《こん》|乱《らん》していたんです。しかし、あのときには、どうにもその|疑《ぎ》|惑《わく》がふくれ上って来ていて……。ともかく、|誰《だれ》かにそのことを話しておきたかったんです。僕の|勘《かん》|違《ちが》いなら、後で|笑《わら》って|済《す》むことですしね」
「びっくりしましたわ」
と、亜由美は言った。
「すまないね。|驚《おどろ》かせる気じゃなかったんだが……」
「ああ言われて驚くなって方が|無《む》|理《り》だわ」
と、亜由美は笑った。
「しかしですね」
と殿永が|真《ま》|面《じ》|目《め》な口調で続ける。「お二人はハネムーンに|発《た》って、何日か|一《いっ》|緒《しょ》におられたわけでしょう。その間に、|彼《かの》|女《じょ》が|偽《にせ》|物《もの》なのかどうか、分ったんじゃありませんか?」
「そこなんですよ」
と、田村はため息をついた。「僕も、旅行に出れば、はっきりすると思っていました。二人きりになって話せば……。化粧を落とした素顔も見られるわけですからね」
「それで……」
「ところが、だめなんです」
「というと?」
「ハンブルクであんな目に|遭《あ》う前、何日かあったわけですが、二人で|過《す》ごした時間なんて、ほとんどなかったんですよ。向うへ着くと、増口さんのホテルチェーンの人間が待ち|構《かま》えていましてね。市内観光や、名所へ案内してくれるんです」
「なるほど」
「そして夜は毎晩、増口さんと何らかの仕事で付合いのある、かなりのお|偉《えら》|方《がた》に夕食に|招待《しょうたい》されましてね。――もう、食事は多いし、ワインは飲まされるし、ホテルへ帰ると胃の薬を|服《の》んで、そのままベッドへドタッと|倒《たお》れるというくり返しだったんです」
「それはお気の毒に」
「大体、|僕《ぼく》はアルコールに強い方じゃないので、|悪《わる》|酔《よ》いして、大変でした。とてもじゃないけど、向うの人の|食欲《しょくよく》にはついて行けません」
「では、|奥《おく》さんとゆっくり話をする機会は?」
「全然ありませんでした」
殿永は、チラッと亜由美の方を見て、エヘンと|咳《せき》|払《ばら》いした。
「しかし……その……ハネムーンなんですから、夜はその……つまり……お二人だったわけでしょう? まさか|寝《ね》るときまで|誰《だれ》かがそばにくっついていたわけは……」
亜由美は赤くなって殿永をにらんだ。
「私に気をつかって、変に遠回しな言い方しないで下さい!」
「いや、どうも……」
と殿永が頭をかく。
「お話は分りますよ。――実は、全くだらしのない話ですが、ついに|彼《かの》|女《じょ》とは|寝《ね》ずじまいでした。毎晩|酔《よ》って帰るんじゃ、とても|無《む》|理《り》です。――あの、ハンブルクが、その意味では、初めての機会だったんです」
「つまり、二人きりで|過《す》ごされたわけですね?」
「ええ、夕食の|約《やく》|束《そく》もなく、案内してくれる人もいませんでした。ホテルに着いて、本当にホッとしたのを|憶《おぼ》えています」
「で、|彼《かの》|女《じょ》と話をすることができたんですか?」
「それが……」
田村はちょっとためらいがちに言った。「まあ僕も、|結《けっ》|婚《こん》したからには、夫の|義《ぎ》|務《む》を|果《はた》さなきゃと思っていましたし……。部屋で落ち着いたのは、昼|過《す》ぎでしたが、彼女とベッドに入ろうとしたんです。彼女もちょっとためらっていましたが|承知《しょうち》してくれて、じゃシャワーを浴びようということになり、|僕《ぼく》が先にバスルームへ入ったんです。ところが出てみると、彼女、いなくなっていたんですよ」
「いなくなって?」
「要するに|逃《に》げられたんじゃないですか。こっちは|途《と》|方《ほう》に|暮《く》れてしまいました。そこへ、例の、|呼《よ》び出しの電話がかかって来たんです」
「すると、つまり、淑子さんが|偽《にせ》|物《もの》かもしれないという|疑《うたが》いは、最後まで残っていたわけですね」
「そうです。――信じてもらえないかもしれませんが、事実なんですよ」
田村はそれだけ話すと、|疲《つか》れたのか、息を|吐《は》いて、ベッドに横になった。
「どうも、お疲れのところ、すみませんでした」
と殿永は|会釈《えしゃく》して、病室を出て行こうとした。
「――刑事さん」
と、田村が、少し弱々しい声で、言った。
「彼女を見付けて下さい」
「力を|尽《つ》くしますよ」
と、殿永は言った。
亜由美は、殿永と|一《いっ》|緒《しょ》に病室を出ると、
「やっぱり彼女、そっくりな偽物だったんですね」
「そのようですね」
と殿永は言った。「しかし、そうなると、問題は一つ|増《ふ》えます」
「え?」
「本物はどこにいるのか、ということです」
何となく、二人は口が重くなり、|黙《だま》って病院の出口へと歩いて行った。
|掘《ほ》り出された|秘《ひ》|密《みつ》
「一人かい?」
|玄《げん》|関《かん》のドアを開けると、有賀が立っていた。
「ええ。入って」
と、亜由美は言った。「――ちょうど良かったわ。|誰《だれ》かと話したかったの」
「何だ、それじゃ誰でも良かったみたいじゃないか」
と、有賀は|笑《わら》って言った。
|居《い》|間《ま》へ入ると、ドン・ファンが長々とソファの中央を|占領《せんりょう》している。
「何だ、このワン公、まだここに|居《い》|座《すわ》っているのか?」
「アルコールはまずい。今、|絶《た》ってるんだ」
「へえ。飲み|過《す》ぎて|暴《あば》れたの?」
「よせやい。来週、山に行くからさ」
「あら、まだ山登りなんてやってるの?」
「見くびるなよ。こう見えたって――大したことはないんだぞ」
「変な|自《じ》|慢《まん》ね」
と、亜由美は笑った。「じゃ、|紅《こう》|茶《ちゃ》でもいれるわ」
有賀と話していると、それだけで何となく気が晴れるのだ。こういうボーイフレンドも|貴重《きちょう》である。
「――田村さん、まだ|退《たい》|院《いん》できないのかな」
と、紅茶をすすりながら、有賀は言った。
「もう大分元気になったようね。でも|難《むずか》しいところじゃない? 増口さんのところで働くことになっていたのに、淑子さんが行方不明じゃね」
「|彼《かの》|女《じょ》の行方も分らないのか」
「そうらしいわね」
「|週刊誌《しゅうかんし》あたりじゃ、|随《ずい》|分《ぶん》|騒《さわ》いでるな。彼女の出生の|秘《ひ》|密《みつ》とか言って」
「いやね、あんな記事。――あの|環境《かんきょう》については、私、淑子さんに|同情《どうじょう》するわ」
「|逃《に》げているのが|偽《にせ》|物《もの》だとしたら、本物の淑子さんは殺されているのかな」
「そうね。――これだけ騒がれてるんだもの。生きていれば出て来るでしょう」
「もう週刊誌の連中は来ない?」
「ええ。でも昨日、何だか電話があったみたい。お母さんが出たんで、向うは早々に切っちゃったようよ」
「君のお母さん、変ってるものな」
「私も年取ったら、ああなるのかな、と思うと心配よ」
ドン・ファンが、亜由美の|膝《ひざ》の上に来て、クンクンと鼻を鳴らした。
「何なの?――あ、そうか。ごめん、お前の|紅《こう》|茶《ちゃ》、|忘《わす》れてたわ」
仕方なく、亜由美は、まだ飲み始めたばかりの紅茶を、ドン・ファンの|皿《さら》へあけてやった。ドン・ファンがペチャペチャと音をたてて飲み始める。
「我が家は犬まで変ってる」
と亜由美は言って|笑《わら》った。
電話が鳴って、亜由美は、
「きっとお母さんよ」
と言いながら、受話器を上げた。「はい、塚川です」
「あの、私、邦代ですけど」
あの|別《べっ》|荘《そう》の、手伝いの|娘《むすめ》である。
「あら、何か?」
「実は、ちょっと|妙《みょう》な物を見付けたんです」
「妙な物って?」
「あの――別荘へ来ていただけません?」
亜由美はちょっと|迷《まよ》ってから、
「ええ、いいわ」
と言った。「でも、今から行くと夜になるわね」
「どうせ私、今一人なんです」
「あら、もう一人の方は?」
「他の|別《べっ》|荘《そう》へ|移《うつ》っちゃって。ここはどうせ当分使わないでしょう?」
「それもそうね。分ったわ。これから行く。それじゃ」
「あの――」
と邦代があわて気味に言った。「この間のことはすみませんでした」
「この間のこと?」
「武居さんから、お|嬢《じょう》さんのことを|黙《だま》っててくれって、お金までいただいたのに……」
「ああ、あのことね。いいわよ。どうせ分ることだったんだもの」
「そうですか」
と、邦代はホッとした様子で言った。
「それじゃ、今度もいくらかいただけます?」
亜由美は、つい|笑《わら》い出しそうになった。チャッカリ屋だが、どこか|憎《にく》めない相手なのである。
電話を切ると、亜由美は有賀に、
「――こんなわけ。|一《いっ》|緒《しょ》に行ってくれる?」
と|訊《き》いた。
「どうせそのつもりだろ?」
「もちろんよ。だって私、道が分んないんだもの」
と亜由美が|澄《す》まして言った。
ドン・ファンがクゥーンと鼻を鳴らして、亜由美の足に体をこすりつけて来る。
「あ、分ったわよ。お前も行くのね」
「じゃ車をどうにかしなきゃ」
「借りられる?」
「|誰《だれ》か|貸《か》してくれると思うぜ。――二十分待ってろ。都合つけて来る」
有賀は急いで飛び出して行った。
|実《じっ》|際《さい》には十五分で、有賀は|戻《もど》って来た。
「ちょっと中古だけど、まあいいだろう。乗れよ」
と、亜由美とドン・ファンを乗せて、いささか息切れのしそうな〈老車(?)〉はガタゴトと走り出した。
あまりスピードが出ないので、ちょっと時間はかかったが、それでも何とか|別《べっ》|荘《そう》へ|辿《たど》り着く。――もうすっかり|陽《ひ》は落ちて、|闇《やみ》が周囲を包んでいた。
「邦代さん!――邦代さん!」
と、亜由美は|呼《よ》んだ。
|玄《げん》|関《かん》のチャイムを鳴らしてみたが、一向に出て来る気配はない。
「――開いてるわ。入りましょう」
「どこにいるのかな」
「ちょっと気味悪いわね」
中は、明りが|点《つ》いているが、物音はしない。
「邦代さん!――塚川亜由美よ!」
と、声を上げる。
「|探《さが》してみようか?」
「こんな広い所を? きっと|戻《もど》って来るわよ」
「でも、開けっ放しで出て行くかい?」
「それはそうね……」
亜由美は、不安な思いで、周囲を見回した。――|突《とつ》|然《ぜん》、玄関のドアがガタッと音をたてて開いて、亜由美たちは飛び上りそうになった。
「あら、いらしてたんですか、すみません」
と、邦代が、何やら大きな包みをかかえて入って来る。
「ああ、びっくりした」
亜由美は|胸《むね》を|撫《な》でおろした。「一体何事なの?」
「これなんです。|居《い》|間《ま》の方で広げましょう」
と、邦代が、ひとかかえもある大きな包みを、居間の方へ運んで行く。
「僕が持つよ」
と、有賀がナイトぶりを|発《はっ》|揮《き》しようとした。
「すみません」
|手《て》|渡《わた》そうとしたとたん、包みが|解《と》けて、中身がドッと|床《ゆか》へ落ちた。――服だ。女物の、ワンピースやブラウス、スーツなどである。
「洋服ね」
と、亜由美がその一つを取り上げた。
「あ、こら、ドン・ファン!」
ドン・ファンが、床に山となっている服の中へ首を|突《つ》っ|込《こ》んで、キャンキャンと|甲《かん》|高《だか》く|吠《ほ》え始めたのだ。|尻尾《しっぽ》を|振《ふ》り、中をかき回すので、服が四方八方へ飛び散った。
「こら! ドン・ファン、やめなさい!」
やっとの思いで、ドン・ファンをかかえ上げる。
「――この服はどこで見付けたの?」
「林の中です」
「林の?」
「ええ」
と、邦代は|肯《うなず》いた。「|埋《う》めてあったんです。――私、昼間、ゴミをどこかへ埋めようと思って、林の中へ入ったんです。そしたら、何かこう、|掘《ほ》り起して、また土をならしたようなあとがあって、何だろう、と思って掘り返してみたんです。そしたら、これが」
「埋めてあったのね」
「もう一つあります。|居《い》|間《ま》に置いてありますけど」
「この包みが二つ?」
「それ、もしかしたら、いなくなった淑子さんのじゃないのか」
と、有賀が言った。
「そうらしいわ。邦代さん、服に見覚えはない?」
「あります。|間《ま》|違《ちが》いありませんわ」
居間へ、服を全部運び|込《こ》むと、もう一つの包みを解いて、ソファに|並《なら》べてみた。かなりの量である。
「――じゃ、持ち出して、すぐ近くに|埋《う》めたんだな」
と有賀が言った。
「どうしてそんな|面《めん》|倒《どう》なことしたのかしら?」
亜由美は手近な服を取り上げてみた。ドン・ファンが相変らず服の|匂《にお》いをかいでは|吠《ほ》えている。
「ドン・ファンが、匂いを|憶《おぼ》えてるってことは、きっとこれは本当に淑子さんの服だったのよ」
と、亜由美は言った。
「だから、|偽《にせ》|物《もの》には合わなかったんだな」
「でも、ちょっと変ね」
「何が?」
「持ち出したりすれば、偽物だって言ってるようなもんだし、それに、そんなすぐ近くに埋めるなんて……どこか遠くへ行って捨てるか|燃《も》やすかすればいいじゃないの」
「そりゃそうだな。でも、|犯《はん》|人《にん》なんて、やっぱりあわててんだよ。だから冷静に|判《はん》|断《だん》できないのさ」
「そうね、たぶん」
と、亜由美は|肯《うなず》いた。「ともかく、殿永さんに知らせなきゃ」
「あ、この服だわ」
と、邦代が、赤のワンピースを取り上げて、
「これがほしかったんだ!――ねえ、この服、全部|警《けい》|察《さつ》で持ってっちゃうんですか?」
「たぶん、そうでしょうね」
「一|枚《まい》ぐらいくれないかしら」
邦代は残念そうに言って、その服を体にあてている。亜由美は|微《ほほ》|笑《え》みながら、
「じゃ、殿永さんに|訊《き》いてあげるわ。後でもらえるかどうか。電話借りるわね」
亜由美は殿永へ電話を入れた。
「もしもし、塚川です。殿永さん――」
「今、どこです?」
殿永の声は、いつになく|緊張《きんちょう》している。
「あの――|別《べっ》|荘《そう》です。増口さんの。実は服が――」
「病院に|彼《かの》|女《じょ》が|現《あらわ》れたんですよ」
「彼女って――」
「淑子です。いや、|偽《にせ》|物《もの》かもしれませんが」
「どこの病院ですか?」
「田村さんのですよ。今から急行するところです」
「私もすぐ行きます!」
亜由美は電話を切ると、「有賀君、車!」
と|叫《さけ》んで、ドン・ファンをかかえ上げた。
「どこに行くの?」
「後で説明するわ。急いで!――邦代さんまた|連《れん》|絡《らく》するから、これは大事に取っておいてね」
「ええ、でも……」
と、邦代は何やら首をひねっている。
|玄《げん》|関《かん》の方へ急ぎながら、亜由美は、邦代が|呟《つぶや》くのを聞いた。
「おかしいなあ……」
すり|替《か》えられたもの
「もう、びっくりして|心《しん》|臓《ぞう》が止るかと思いましたわ!」
と|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》は、まだ青くなって|震《ふる》えている。
「落ち着いて、ゆっくり、話して下さい」
殿永がなだめるように言った。
「ええ……。私、ちょうど体温を計る時間だったので、体温計を持って、あの病室の前を通りかかったんです。他の病室へ行くところだったんですけどね」
「すると中で音がした」
「はい。何かこう――ドシン、って物の|倒《たお》れるような音がして――。後でみたら、|椅《い》|子《す》が倒れてました。きっとあれですわ」
「なるほど、それで?」
「その音で、ふっと足を止めました。そして耳を|澄《す》ましていると、『ワーッ』って|叫《さけ》び声が――」
「それは田村さんの声ですね」
「ええ。『やめてくれ』って叫び声がして、私、びっくりしてドアをパッと開けたんです。そしたら、女が立っていて、キッとこっちを|振《ふ》り向いて――」
「この女ですか」
殿永が、淑子の写真を見せる。
「ええ、この人です。もっとこう……|怖《こわ》い顔でしたけど」
「どんな|格《かっ》|好《こう》をしていました?」
「そうですね、ええと……コートを着てましたわ、白っぽい。で、|髪《かみ》がこう|乱《みだ》れた感じで……。もう目が|恐《おそ》ろしくって、ギラギラ光ってる感じでした……」
亜由美は話を聞きながら、ちょっと|脚色《きゃくしょく》してあるわ、と思った。
「そして手にナイフを|握《にぎ》ってました。その|刃《は》がキラッと光って……」
「で、あなたはどうしました?」
「もう|怖《こわ》くって、悲鳴を上げてしまいました。そして手にしていた体温計や器具を落っことして――あれ、|壊《こわ》れちゃったかしら」
と、変なことを心配している。
「そして|廊《ろう》|下《か》へ出て助けを求めた」
「そうなんです、『|誰《だれ》か来て』って|叫《さけ》びました。大声で言ったつもりだったんですけど、何だか|囁《ささや》くような声だったらしいですわ」
「しかし、あなたのおかげで、女は|逃《に》げました。田村さんも助かったわけですよ」
「まあ、そんな……」
と、|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》は照れたように赤くなった。
「――殿永さんは、|女《じょ》|性《せい》の相手がお上手ね」
と、亜由美は後で言った。
「|皮《ひ》|肉《にく》ですか、それは」
と、殿永は笑った。
「田村さんの様子は?」
「今、|鎮《ちん》|静《せい》|剤《ざい》で|眠《ねむ》っています。まあ、|無《ぶ》|事《じ》で良かった」
「でも淑子さんがどうしてこの病院を知ってたのかしら」
「それも問題ですが、しかし方法はあります。|現《げん》に、二、三の記者がかぎつけて来ていますしね。|隠《かく》していても|限《げん》|度《ど》がある」
「そんなものですか」
「むしろ私が気になるのは、なぜあの女が田村さんを殺そうとしたか、です」
「というと?」
「つまり、|偽《にせ》|物《もの》であることはもうばれてしまっているわけでしょう。それならば後は|逃《に》げるしかないんじゃありませんか」
「田村さんを殺しても、何の|利《り》|益《えき》もありませんね」
「そうでしょう? |警《けい》|官《かん》が|張《は》り|込《こ》んでいる病院へ、|危《き》|険《けん》を|犯《おか》して|忍《しの》び|込《こ》むというのは、よほどの|恨《うら》みを田村さんに対して|抱《いだ》いているとしか思えません」
亜由美は|肯《うなず》いた。
「それじゃ――一体どういうことになりますの?」
「分りません。いや、考えはあるのですが、もう一つぴったり来ないんです」
「あ、そうだわ、そう言えば――」
亜由美は、|別《べっ》|荘《そう》の近くで、淑子の服が見付かったことを話した。
「|確《たし》かに|彼《かの》|女《じょ》の服ですか?」
と、殿永は言った。
殿永にしては|珍《めずら》しく|興《こう》|奮《ふん》の面持ちである。
「あの邦代って子が言ってたから、確かだと思いますけど」
「そうですか。もしそれが――」
と、殿永は|独《ひと》り|言《ごと》のように|呟《つぶや》いた。
「田村さんは|大丈夫《だいじょうぶ》でしょうか」
と、亜由美が言うと、殿永は、ふと|我《われ》に返った様子で、
「ここは心配ありません。|警《けい》|備《び》も|増《ふ》やしたし、あの女も、もう|無《む》|理《り》だと思っているでしょう」
「そうですか」
殿永はちょっと考え|込《こ》んでいたが、
「どうです? もう一度、ドライブに付き合いませんか」
と言い出した。
「ええ。でも、どこへ?」
「|別《べっ》|荘《そう》です。その、出て来た服というのを見ておきたいんですよ」
殿永の目は|輝《かがや》いていた。
「よほど何か意味がありそうですね。――もちろんご|一《いっ》|緒《しょ》しますわ」
と、亜由美は言った。
何となく|胸《むね》がときめいて来る。殿永の|興《こう》|奮《ふん》が|伝《でん》|染《せん》したのかもしれない。
「では――」
と殿永が言いかけたとき、武居が急いで|廊《ろう》|下《か》をやって来た。
「一体何があったんです?」
と、武居は|問《と》い|詰《つ》めるように言って、
「田村君は?」
「無事です。今、|眠《ねむ》っていますよ」
「ちゃんと警備してくれなくちゃ困りますよ。|信《しん》|頼《らい》して|預《あず》けてるんですからね」
と|厳《きび》しく言ってから、ちょっと落ち着いた様子で、
「いや……ついカッとして。すみません」
「いいえ、当然のことです。何と言われても仕方ありません」
「|犯《はん》|人《にん》はあの女なんですね?」
「ええ。|危《き》|機《き》|一《いっ》|髪《ぱつ》でした」
「|執念《しゅうねん》深いなあ。一体何者なんだろう」
と、武居が言った。
「そこですよ」
と殿永が|肯《うなず》く。
「――何がです?」
「もしあれが|偽《にせ》|物《もの》なら、本物の淑子さんはどうしたのか。そして、そんなに良く|似《に》た偽物を、どこで見付けて来たのか」
武居は殿永の顔を見つめて、
「それが――何か分ったんですか?」
「これから分るんじゃないかと思うんですよ、武居さん」
と、殿永は言った。
結局、武居も加えて、殿永、亜由美、車を運転して来た有賀の四人で――いや、ドン・ファンも加えて、四人プラス一匹で、|再《ふたた》びあの|別《べっ》|荘《そう》へ向かうことになった。
別荘に着いたのは、もう夜中だった。明りも消えている。
「――起すのも気の毒ね」
と、亜由美が言った。
「|忍《しの》び|込《こ》んだら、もっとびっくりするぜ」
と、有賀が言った。
武居がチャイムを鳴らすと、しばらくして、
「どなた?」
と、邦代の声がした。
「|警《けい》|察《さつ》の者だが……」
「邦代さん。私、塚川亜由美よ」
ドン・ファンがワンと|吠《ほ》える。
ガチャガチャと音がして、ドアが開いた。
「あの――何か?」
パジャマ|姿《すがた》で邦代が立っている。
「あの、淑子さんの服を見せてほしいの」
「こんな夜中に?」
「ごめんなさい。でも、みんなそのために、こうしてやって来たんだから」
「それはいいんですけど……」
と、邦代はためらっていたが、やがてヒョイと|肩《かた》をすくめて、「どうぞ。今、帰らせますから」
「|誰《だれ》を?」
と、亜由美が|訊《き》く。
「ちょっとした知り合いです」
と言って、邦代は、「ねえ、ちょっと! お客さんだから今夜は帰って」
と、|奥《おく》の方へ声をかけた。
おずおずと出て来たのは、|若《わか》い男で、
「|今《こん》|晩《ばん》は」
ピョコンと頭を下げると、|逃《に》げるように出て行く。
「あの人は?」
「デパートの配達の人なんです。ちょっと気が合ったもんですから、つい話し|込《こ》んじゃって」
邦代は|澄《す》まし顔で言った。亜由美は|苦笑《くしょう》した。
「――淑子さんの服を見せてくれる?」
「ええ。|居《い》|間《ま》に置いたままです」
邦代が居間のドアを開けて、明りを|点《つ》ける。――服の山が、ソファの上に|築《きず》かれていた。
「これは|間《ま》|違《ちが》いなく淑子さんのものなんだね?」
殿永が服を一つ一つ取り上げながら言った。
「ええ、たぶん……」
邦代の答は、やや|曖《あい》|昧《まい》だった。
「たぶん? はっきりしないのかい?」
「実は、ちょっと|妙《みょう》なことがあるんです」
と邦代は言った。
「言ってみてくれないか」
「その服なんです。赤いやつ。――それです。これ、私が|特《とく》に気に入ってたんです。お|嬢様《じょうさま》が、服が合わないので、一度、『これをいただいていいですか』って訊いたことがありました」
「淑子さんは何と?」
「着られるなら|構《かま》わないっておっしゃいました。で、そのときに、私、これを着てみたんです」
「それで?」
「|丈《たけ》が長すぎたんで、少しつめなきゃな、って思ったんです。ともかくその場は、この服を洋服ダンスに|戻《もど》しておきました」
邦代は、赤い服を手に取ると、自分の体に当てて、
「でも――見て下さい」
「長くないじゃないの、別に」
と、亜由美は言った。
「そうなんです。でも、前に合わせたときには長かったんですよ」
「どういうことだい?」
と、武居が|眉《まゆ》を|寄《よ》せて、「つまり、|縮《ちぢ》んじまったってことか」
「そんなはずありません。だって、こんなワンピースを、クリーニングに出さないで、自分で|洗《あら》うなんてこと、ありませんもの」
「クリーニングには出さなかったのね?」
と亜由美は|訊《き》いた。
「出しません」
「じゃ、きっとここで洗ったんだろう」
と武居が言った。
「洗えば分かりますよ」
と、亜由美は言った。「これは洗っていません」
「ということは……」
有賀がキョトンとして、「この服が縮んだんじゃなくて、彼女の|背《せ》がのびたってこと?」
「そんな短い期間に、そんなことあるわけないでしょ」
と、亜由美は言った。
「じゃ、一体――」
「つまり、それは違う服[#「違う服」に傍点]なのよ」
しばらく、|誰《だれ》も口をきかなかった。
「私もそう思いました」
と、邦代が言った。「これは、前に私が着たのとは|違《ちが》う服ですわ」
「すると、どういうことになるんだ?」
と有賀が頭をひねった。
「この服なら[#「この服なら」に傍点]、淑子さんに合ったんじゃないかな」
と殿永は言った。「つまり、淑子さんが服が合わなかったのは、淑子さんが別人だったからでなく、服の方が[#「服の方が」に傍点]別物になっていたからだった、としたら?」
「まさか!」
と武居が言った。「だって、これが、そもそもの淑子さんの服だってことがどうして分るんです?」
「これは淑子さんの服ですわ」
と亜由美は言って、服の一つを取り上げると、ドン・ファンの方へ投げてやった。
ドン・ファンはその|匂《にお》いをかいでは、ワンワンと|吠《ほ》えた。
「分ったわ、この|別《べっ》|荘《そう》へ最初に来たとき、ドン・ファンが林の中へ走って行ってしまったわけが。――これが|埋《う》めてあることを、知っていたのよ」
「つまり、淑子さんが帰国したとき、服は全部、別物と入れ|替《か》えられていた。同じ品で、サイズが少し|違《ちが》うものを、|揃《そろ》えておいたのです」
と殿永は言った。
「どうして、そんな|厄《やっ》|介《かい》なことを?」
と、有賀が言った。
「淑子さんが|偽《にせ》|物《もの》だと思い|込《こ》ませるためですよ」
「ということは……」
亜由美はゆっくりと言った。「あの[#「あの」に傍点]淑子さんは、本物[#「本物」に傍点]だったんですね!」
「そもそも、|婚《こん》|約《やく》|者《しゃ》や親にも見分けのつかないような|似《に》た|女《じょ》|性《せい》がそうざらにいるはずがありません。つまりこの|事《じ》|件《けん》は、本物の淑子さんを、偽物で、かつ本物を殺してすり|替《かわ》ったのだと見せかけるように仕組まれたのです」
殿永の言葉に、みんなが顔を見合わせた……。
|裏《うら》|切《ぎ》られた女
「――分りませんわ」
と、亜由美は言った。
「何がです?」
殿永が|訊《き》く。
二人は、もう夜明けの近い|街《まち》を車で走っていた。殿永が、亜由美を|自《じ》|宅《たく》まで送ることにしたのである。後ろの|座《ざ》|席《せき》には、ドン・ファンが、のんびりと|眠《ねむ》っている。
「淑子さんが本物だとしたら、なぜわざわざ田村さんに、別人のように思われるようなことばかりしたんでしょう?」
殿永は、しばらく|黙《だま》って車を走らせていた。そして、急にブレーキをかけて、車を|停《と》めた。
「どうかしたんですか?」
と、亜由美は訊いた。
「どうです? どうせなら、これから全部の|謎《なぞ》を|解《と》いてみますか」
殿永は|恐《おそ》ろしいほど|真《しん》|剣《けん》だった。こんな殿永の顔を見るのは、初めてだ。
亜由美はゆっくり|肯《うなず》いた。
「お待ちなさい」
殿永は車を出ると、近くの電話ボックスへ走って行き、電話をかけていたが、すぐに|戻《もど》って来た。
「では、行きましょう」
「どこへ?」
「あの病院へ戻ります」
殿永は車をUターンさせた。
「――病院へ行ってどうするんですか?」
「|彼《かの》|女《じょ》を待つんです」
「淑子さんを? でも――」
「|警《けい》|備《び》を|解《と》くように、今命令しました。淑子さんはもう一度|現《あらわ》れますよ」
「まさか!」
「いや、きっと来ます。――ともかく待ってみましょう」
殿永の口調は自信に満ちていた。
「もし……現れなかったら?」
「現れるようにします。あなたも協力していただきたいんですがね」
亜由美は|当《とう》|惑《わく》|顔《がお》で殿永を見た。
病室は、まだ暗かった。
外は空が白み始めているが、カーテンが引かれて病室の中は、まだ夜の|闇《やみ》に満たされている。
田村は、ちょっと苦しげに息をして、身動きした。
――目が開く。
まだ|眠《ねむ》っているのかと思うような、暗がり。しかし、しばらくその暗がりを見つめていると、少しずつ物の形が|判《はん》|別《べつ》できて来る。
田村は、|鎮《ちん》|静《せい》|剤《ざい》の|効《こう》|果《か》がまだ残っているのか、多少、|夢《ゆめ》うつつの|状態《じょうたい》だった。
ドアのノブが回る音がした。ドアが静かに開いて来る。
|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》か、と田村は思った。ずいぶん早いな。――いや、本当はもう朝になっているのかもしれない。
女のシルエットが、|一瞬《いっしゅん》チラッと目に|映《うつ》った。中へ入って来ると、その女はドアを、細く開けたまま、ベッドの方へ進んで来た。
白っぽい服だけが分る。やはり看護婦だろう。
「早いね」
と、田村は、いくらかもつれる口調で言った。――そして、目を|見《み》|張《は》った。
看護婦ではない。
白いのは、白衣でなく、コートだった。手に|握《にぎ》ったナイフが見える。見上げると、女はマスクで顔を|隠《かく》していた。
田村は|叫《さけ》ぼうとした。しかし、声にならない。
女がナイフを|振《ふ》りかざして近付いて来る。
「やめてくれ……」
|押《お》し出すような声が|洩《も》れた。手をのばそうとするが、薬のせいだろうか、手が持ち上らないのだ。
「|許《ゆる》してくれ……」
田村は言った。ナイフは、|彼《かれ》の|心《しん》|臓《ぞう》をめがけて、|振《ふ》り|降《お》ろされようとしていた。
「助けてくれ!――君を――君を殺す気はなかったんだ!」
田村は必死で体をずらそうとした。「|僕《ぼく》は――僕は――あいつの言いなりに動いていただけだ! 本当だ!」
ズルズルと|滑《すべ》って、田村は|床《ゆか》へ落ちていた。床を|這《は》って、|逃《に》げようとする。
「君を――愛していた。本当だ! でも――でも、僕は――金が|欲《ほ》しかったんだ。それだけなんだ!」
女はベッドの|傍《かたわ》らに立って動かなかった。田村は、ドアへ向かって四つん這いになって進んで行くと、体ごとぶつかるようにしてドアを開けた。
「どうも」
頭の上で声がした。――殿永が、田村を見下ろしている。
「あなたは……」
「殿永|刑《けい》|事《じ》です。そして――あなたの良くご|存《ぞん》|知《じ》の方ですよ」
田村は|振《ふ》り向いた。|廊《ろう》|下《か》の明りに照らされて、女が立っている。マスクを|外《はず》した。
「塚川君!」
田村の口から、|震《ふる》えるような声が|洩《も》れた。
「田村さん」
亜由美はコートを|脱《ぬ》いでその場に落とすと、
「あなたは……淑子さんを殺そうとしたんですね!」
田村は、|床《ゆか》に|座《すわ》り込んだまま、うなだれていた。殿永は、亜由美の手から、ナイフを受け取った。
「田村さんのようなタイプの人は、おそらく大学に残って研究生活を送っていれば良かったんでしょうね」
田村は深々と息をついた。
「|僕《ぼく》だって――そうしたかったよ。しかし、とてもそんな|経《けい》|済《ざい》|的《てき》|余《よ》|裕《ゆう》はなかった」
「あなたのようなタイプの人に、会社|勤《づと》めは|辛《つら》かったでしょう」
「辛いなんてものじゃなかったよ」
田村は苦々しい|笑《わら》いを|浮《う》かべた。「あんな上役連中に頭を下げ、心にもないお世辞を言うなんて――|堪《た》えられなかった!」
「それでお金目当てに、淑子さんに近付いたんですか」
「それだけじゃない。――僕には|恋《こい》|人《びと》ができた。|子《こ》|供《ども》も生まれる。だが、僕は|恐《おそ》ろしかったんだ。そのために、一生、あの|惨《みじ》めな生活を送るのかと思うとね。だが……あるパーティで、たまたま知り合った淑子が、増口の|娘《むすめ》だと知って、あんな女と|結《けっ》|婚《こん》したら、さぞ|楽《らく》な|暮《くら》しができるだろうと思った。――でも、僕には恋人がいたし、本気でそんなこと考えたわけじゃなかった……」
「それじゃどうして――」
「ちょうどそのパーティに、あいつ[#「あいつ」に傍点]も来ていたんだ。そして僕を見付けると、飲みに|誘《さそ》って来た。僕は|酔《よ》って、何もかも、そいつにぶちまけた……」
「で、|彼《かれ》が、あなたに、その計画を|吹《ふ》き|込《こ》んだわけですね」
「そう……。こっちは最初本気にしてなかった。でも、あいつは、根っからの|悪《あく》|党《とう》だった」
田村は、少し間を置いて続けた。「あいつの計画が、僕の耳の中で、毎日毎日、鳴り|渡《わた》った。|鐘《かね》の音みたいにね。――やれるだろうか? やれるかもしれない。いや、きっと|大丈夫《だいじょうぶ》だ。――そう思うようになるのに、時間はそうかからなかった……」
「|恋《こい》|人《びと》にはどう言ったんです?」
「|彼《かの》|女《じょ》は|僕《ぼく》をいさめるどころか、たきつけたよ。それで僕も決心した。――淑子と出会う|段《だん》|取《ど》りは、あいつがつけてくれた。信じられないくらいだったが、淑子は僕にすっかりのぼせ上っていたんだ。たぶん、こういうタイプが|珍《めずら》しかったんだろうな」
「淑子さんと|結《けっ》|婚《こん》しておいて、彼女を殺す。――|財《ざい》|産《さん》は手に入るが、夫が|疑《うたが》われるのは|避《さ》けられない。あなた方の計画は、まず淑子さんが、|偽《にせ》|物《もの》で、本当の淑子さんを殺してすり|替《かわ》っていると他人に思わせた上で、あたかも彼女が自ら|逃《に》げたように見せて、殺す、という手順ですね」
「そう……。|巧《うま》くできてるだろう? こっちは|被《ひ》|害《がい》|者《しゃ》でいられるんだ。疑われることもない。――ところが、|肝《かん》|心《じん》のところでしくじったんだ」
「運転手の神岡を|買収《ばいしゅう》して、淑子さんをさらったものの、神岡を殺している間に、淑子さんが逃げてしまった」
「そうなんだ。淑子は、真相を知って、僕に仕返しに来た。まあ、殺されたって|文《もん》|句《く》は言えないがね」
田村は笑った。
それは、亜由美の見たことのない、田村の|姿《すがた》だった。
「田村さん。その計画を立てた『あいつ』って、|誰《だれ》なんですか?」
と亜由美は|訊《き》いた。
「何だ、知らないのか?」
田村は笑いながら、立ち上がった。
「君が知らないとはね……」
「誰なんですか?」
田村は口を開きかけた。――|一瞬《いっしゅん》の出来事だった。
田村の|背《はい》|後《ご》に、|突《とつ》|然《ぜん》、コートがひるがえった。
「|危《あぶ》ない!」
と、殿永が|叫《さけ》んだ。
同時に、ナイフが田村の背に深々と|呑《の》み|込《こ》まれていた。
田村は、目を大きく見開いて、
「淑子……」
と|呟《つぶや》くと、その場に|崩《くず》れ落ちた。
淑子が立っていた。その|表情《ひょうじょう》は、むしろ晴れやかでさえあった。
「死ぬときに私の名なんか|呼《よ》んで……」
と、淑子は|独《ひと》り|言《ごと》のように言った。
「|恋《こい》|人《びと》の名を呼んで死ねば、まだ|尊《そん》|敬《けい》してあげたのに……」
殿永が、田村の上にかがみ込む。――しかし、とても助からないことは、亜由美にも分っていた。
亜由美は淑子を見た。淑子の|頬《ほお》に|涙《なみだ》が落ちていた。
「|彼《かれ》を|罰《ばつ》するのは|我《われ》|々《われ》に|任《まか》せて下されば良かったのに」
「いいえ」
淑子は首を|振《ふ》った。「この人は――私が、|生涯《しょうがい》で初めて、心から信じた人なんです。それなのに……。|許《ゆる》せなかったんです。私自身の手で、罰してやらなくては、と……」
いつも|疎《そ》|外《がい》されて生きて来た|娘《むすめ》。――その気持は、亜由美にも、分るような気がした。
最後のジャンプ
「田村さんが死んだ?」
有賀が目を|丸《まる》くした。
「ええ……」
亜由美は、|肯《うなず》いた。「|刺《さ》されたの。淑子さんに」
田村の死は、まだ公表されていなかった。
――次の日の、午後。
二人は、桜井みどりが殺された、歴史部の部室にいた。ドン・ファンが、|床《ゆか》でのんびりと|寝《ね》そべっている。
亜由美が|事情《じじょう》を説明すると、
「あの田村さんが――」
有賀は|呆《ぼう》|然《ぜん》とした様子で、首を|振《ふ》った。
「でも、|事《じ》|件《けん》は終ってないのよ」
「まだ?」
「そうよ。だって、桜井さんが殺されたのは、田村さんが|犯《はん》|人《にん》じゃないのははっきりしてるわ。その間、田村さんはドイツにいたんですもの」
「こっそり帰ってたとか――」
「そんなこと|簡《かん》|単《たん》に調べられちゃうわ。だって、田村さんがかなり|衰弱《すいじゃく》して帰って来たのは事実よ。淑子さんに殺されかけたと見せるために、わざわざ血をつけた|上《うわ》|衣《ぎ》を捨てておいて、飲まず食わずで日を|過《す》ごしたのよ」
「じゃ、その間、こっちで動いていた|奴《やつ》がいるのか」
「そう。そもそもの計画を立てた人間がね」
と亜由美は|肯《うなず》いた。
「|誰《だれ》なんだ、一体?」
「考えてみれば、分るはずよ」
亜由美は、ドン・ファンの頭を|撫《な》でた。「桜井さんが、あのとき、ここで待っていることを知って、犯人は私を|偽《にせ》|電《でん》|話《わ》でおびき出したのよ。その間、ほんのわずかの時間しかなかった」
「そうだね」
「じゃ、なぜ|犯《はん》|人《にん》は、桜井さんがここで私を待っていることを知っていたのか?――私は|誰《だれ》にも言わなかったし、桜井さんだって、そんなことを人にしゃべるとは思えないわ。そうなると、犯人は、私と桜井さんの話を、あの場で[#「あの場で」に傍点]、聞いていたことになるわ」
「それじゃ、つまり、犯人は――」
「あなたよ[#「あなたよ」に傍点]、有賀君[#「有賀君」に傍点]」
と、亜由美は言った。
有賀は声を上げて|笑《わら》った。
「おい、びっくりさせるなよ!」
「本気よ、私」
「考えてもみろよ! 君が、お母さんが|事《じ》|故《こ》に|遭《あ》ったという電話を聞いたときは、僕は|一《いっ》|緒《しょ》に|講《こう》|義《ぎ》に出てたんだぜ」
「そう。でも私は眠ってたわ[#「眠ってたわ」に傍点]。そして、電話には、|直接《ちょくせつ》出たわけじゃないのよ。|事《じ》|務《む》の人から伝言を聞いただけだったわ」
「しかし――」
「待って。あなたは、コーヒーを持って、|戻《もど》って来た。私と桜井さんは、それまで武居さんの話をしていた。そして、桜井さんは、『あの男には近付かない方がいいわよ』と言ったわ。――私は当然、桜井さんが武居さんのことを言ったんだと思ったわ。でも、|実《じっ》|際《さい》は、あなたのことを言ってたのよ。ちょうどあなたが戻って来るところだったから、それ以上、彼女は言わなかった。そしてここで私を待っているから、と言ったのよ。あなたは、それを耳にしてしまった……」
有賀は平然として、話を聞いていた。
「桜井さんは、ゴシップにかけては、誰よりも|詳《くわ》しかったわ。そして、田村さんと、淑子さんの|結《けっ》|婚《こん》についても、あれこれ|訊《き》いて回ったんだわ。その内に、どうも、あの|結《けっ》|婚《こん》はおかしいと思い始めた。そして|陰《かげ》にあなたがいたことも、耳にしていたのね。桜井さんが色々調べ回っていることを、あなたも知っていた。だから、桜井さんが私と会う約束をしているのを聞いて、何とかしなきゃいけない、と思った。――|講《こう》|義《ぎ》中、私が|眠《ねむ》っているのを見て、あなたは教室を出て行き、赤電話で|事《じ》|務《む》|所《しょ》へかけて、急いで|戻《もど》って来たのよ。私が目を覚ましたときは、あなたは、ちゃんとそばに|座《すわ》っていたというわけね」
有賀は|顎《あご》を|撫《な》でながら、
「しかし、|僕《ぼく》は、桜井君を殺せなかったぜ。そうだろう。君と神田君に見られずに殺すことはできない」
「そこなのよ」
亜由美は立ち上って|窓《まど》を開けた。「――桜井さんは、窓に向かって[#「窓に向かって」に傍点]立っていたわ」
「だから?」
「そこをよく考えるべきだったのよ。|犯《はん》|人《にん》は窓から[#「窓から」に傍点]来たんだっていうことをね」
「空中を飛んで?」
と、有賀は|笑《わら》った。
「屋上からロープを伝ってよ」
と亜由美は言った。「あなたは、桜井さんを殺す決心をして、ここへ上って来ようとした。ところが、社会科学部のドアが開いていて、目につかずにはここへやって来られない。あなたは一か八かで、山登りの|経《けい》|験《けん》を生かしてみることにしたのよ。屋上からロープをこの窓のわきに|垂《た》らし、ナイフを口にくわえて|降《お》りて来る。そして、窓を|叩《たた》く。――桜井さんは、何かと思ってやって来て、窓を開け、外を|覗《のぞ》く。そこを|一《ひと》|突《つ》き!――窓は、ガタンと落ちれば、ロックされたような|状態《じょうたい》になる。後は、そのまま下へ降りて、ロープを下から外す。そんなことはお手のものでしょう」
「君の|想像力《そうぞうりょく》には、|敬《けい》|意《い》を|払《はら》うよ」
と、有賀は|肩《かた》をすくめた。
「もう|諦《あきら》めて。屋上にちゃんとロープの|跡《あと》も見付かったし、それに、あなたが田村さんをたきつけていたことは、田村さんの|恋《こい》|人《びと》も|証言《しょうげん》してるわ」
有賀はいつものとぼけた|表情《ひょうじょう》で、
「やれやれ、君にそこまで信用がないとはなあ」
と言った。「例のハンバーガーの店へトラックをどうやって|突《つ》っ|込《こ》ませたのか、君の|推《すい》|理《り》を聞きたいね」
「あれは|純然《じゅんぜん》たる|事《じ》|故《こ》だったのよ。ブレーキが完全にかかっていなかったのね。でも、あなたにとっては、幸いな事故だったわ。武居さんが|狙《ねら》われているようにも見えるし、自分には|絶《ぜっ》|対《たい》のアリバイがある」
「なるほど。それで|筋《すじ》は通るわけか」
「田村さんは死んだけど、あなたは自首してほしいわ」
「どうして?」
「友だちだと思うからよ」
「そいつはどうも」
と、有賀は|窓《まど》|辺《べ》に立った。「――|警《けい》|察《さつ》が待ってるのかい?」
「この外でね。でも、あなたが進んで警察へ行くのなら、一人で行かせてくれるわ」
「そのまま|逃《に》げたら?」
「|無《む》|理《り》よ」
「でもね、君の言うことには|証拠《しょうこ》がないぜ」
「調べれば、いくらでも出て来るわ。あの服を作らせたこともそうよ。あなたの顔を|憶《おぼ》えていた店員がいるわ」
「そうか」
と、有賀は|笑《わら》った。「あんまりやり|過《す》ぎるもんじゃないな」
「有賀君……」
「田村さんが、|財《ざい》|産《さん》を|継《つ》いで、その上で|巧《うま》くいけば増口の後を継いで社長になれるかと思ったんだがな。そうすりゃ、遊んで|暮《くら》せる。――|僕《ぼく》は|楽《たの》しく生きるのが好きだからね」
「そのために人を殺しても?」
「一度やりゃ、|簡《かん》|単《たん》さ」
「あなたが言ったこと――あの|別《べっ》|荘《そう》で、淑子さんがあなたの所へやって来たというのは|嘘《うそ》ね」
「うん。|逆《ぎゃく》なんだ。僕が|彼《かの》|女《じょ》の所へ行った」
「どうして?」
「もちろん追い返される。でもね、そんなことがありゃ、|翌《よく》|日《じつ》顔を合わせたくないだろう。だから、僕らが起き出さない内に出かけると思ったんだ。|巧《うま》く行ったよ」
神岡が、淑子の部屋から出て来たのは、次の日のことを|指《し》|示《じ》していただけなのだろう。
「それに、君に、彼女が|偽《にせ》|物《もの》だという印象を植えつけようとも思ってね」
「あの服は――」
「まずかったよ。新しい服と取り|替《か》えたのはいいけど、前の服を持って遠くまで行くのが大変だと思って、近くへ|埋《う》めちゃったんだ。それをそのワン公が見てた。あの林の中を|探《さが》しているとき、君は、そのすぐそばにいたんだ。|茂《しげ》みで音がしたろ? そいつだったのさ。僕は、|誰《だれ》かに|殴《なぐ》られたふりをして、そのワン公を|追《お》っ|払《ぱら》った。しかし、あの邦代って子に見付かるとはね」
「もう一つ教えて」
「何だい?」
「あのシェークスピアの絵葉書は? 何の意味なの?」
「あれか」
と有賀は|愉《ゆ》|快《かい》そうに言った。「田村さんへ言っておいたんだ。何か意味ありげな葉書を|寄《よ》こしておいてくれってね。田村さんのアリバイにもなるし、ともかく、|彼《かれ》が生きているかどうか分らない、|中途半端《ちゅうとはんぱ》な気分に、淑子さんを置いておく必要があった。
田村さんが、たまたま〈シェークスピア〉|劇《げき》の劇場であの絵葉書を買ったんだよ。しかし、シェークスピアは正体の分らないところのある作家だからね。あれにはふさわしかったかもしれないね」
有賀は|窓《まど》|枠《わく》にヒョイと|腰《こし》をかけた。
「どうするの?」
と亜由美は言った。
「|逮《たい》|捕《ほ》されて|監《かん》|獄《ごく》行きなんていやだね」
と、有賀は言った。「|僕《ぼく》は|楽《たの》しく生きる主義だ」
不意に、有賀の|姿《すがた》が消えた。
「有賀君!」
亜由美は|窓《まど》|辺《べ》に|駆《か》け|寄《よ》った。――有賀が、大の字になって|倒《たお》れているのが、見下ろせた。
「有賀君……」
クゥーンと、ドン・ファンも窓から首を出して、低く鳴いた。
ドアが開いて、殿永が入って来た。
「殿永さん……」
殿永は窓から下を見て、
「|証拠《しょうこ》はほとんどなかったんです。しかし……」
と、|呟《つぶや》くように言った。
エピローグ
大学のキャンパスは、いつもの通りだ。
昼休み。――学生たちはおしゃべりに|余《よ》|念《ねん》がない。
しかし、亜由美は一人で|芝《しば》|生《ふ》に|座《すわ》って、まるで見も知らぬ世界にいるような気がしていた。
|傍《かたわら》には、ドン・ファンが|寝《ね》そべっている。――|事《じ》|件《けん》のことも、もう学生たちの話題から消え去ろうとしていた。
亜由美は、何だか、|突《とつ》|然《ぜん》、冷たい|現《げん》|実《じつ》と顔をつき合わせて、そのショックから、まだ立ち直れないでいたのだ。
大学、|講《こう》|義《ぎ》、クラブ……。
何もかもが空しく思える。――あんな|経《けい》|験《けん》をした後では、まるで|子《こ》|供《ども》の遊びのようだ。
武居が、遠回しに、付き合ってほしいと言って来たが、それも|断《ことわ》った。増口からの|謝《しゃ》|礼《れい》も、返してしまった。
もう、早く|忘《わす》れたいのに、一向に亜由美の中から、重い|鉛《なまり》のような苦さは、出ていかないのだった。
この|事《じ》|件《けん》で|得《え》たものなんて、一つもない、と亜由美は思った。――失うばかりだった。
「あ、そうか。お前がいたわね」
増口に言って、ドン・ファンだけを、もらうことにしたのだった。
「亜由美、元気ないね」
と、声がして、聡子が|隣《となり》に|座《すわ》った。
「聡子か」
「しっかりしなさいよ。亜由美らしくもない」
と聡子は言った。「でも、私もがっかりだわ。|推《すい》|理《り》はみごとに外れたものね」
「え?――ああ、桜井みどりさんの殺された件ね」
「そう。社会科学部に|犯《はん》|人《にん》がいると思ったんだけどなあ。――あ、そうだ。あのことだけ|未《み》|解《かい》|決《けつ》よ。私と亜由美が|殴《なぐ》られて気を失ったこと。あれ、|誰《だれ》だったのかしら?」
「あれは|事《じ》|件《けん》と関係なかったんじゃない? 何しろクラブ|棟《とう》にあなた一人しかいなかったのよ。|不心得者《ふこころえもの》があなたを|襲《おそ》おうとしても、不思議はないじゃないの」
「そうか。やっぱり美女はつらいわ」
と聡子が|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔で言うので、亜由美は|笑《わら》い出してしまった。そして、ふと気が付くと、
「あら……。ドン・ファン!」
いつの間にか、ドン・ファンがいなくなっている。
「――ドン・ファン! どこなの!」
と呼んでいると、
「キャーッ!」
と女の子の悲鳴が起った。
ドン・ファンが、女子学生のスカートの中へ頭を|突《つ》っ|込《こ》もうとしたのだ。
「いや! この犬!」
女の子たちが|逃《に》げ出すと、ドン・ファンはますます面白がって追いかける。
それを見ている内に、聡子と亜由美は笑い出した。
――キャンパスに、ドン・ファンの|吠《ほ》える声と、女の子たちの悲鳴と、そして亜由美たちの|笑《わら》い声が|響《ひび》き|渡《わた》った。
|忙《いそが》しい|花《はな》|嫁《よめ》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成12年12月8日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
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(C) Jiro AKAGAWA 2000
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『忙しい花嫁』昭和61年9月25日初版刊行
平成10年3月10日52版刊行