角川文庫
忘れられた花嫁
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
1 |大《たい》|安《あん》|吉《きち》|日《じつ》
2 |余《あま》り、なし
3 変死、|怪《かい》|死《し》
4 ショックの朝
5 二つの死
6 にわか|探《たん》|偵《てい》
7 |絶《ぜつ》|望《ぼう》|的《てき》|結《けっ》|婚《こん》
8 理想的|結《けっ》|婚《こん》
9 |密《みっ》 |会《かい》
10 |尾《び》 |行《こう》
11 |大《だい》|邸《てい》|宅《たく》
12 |賭《か》 け
13 |塀《へい》の外
14 遊びは終り
15 |恐《きょう》 |喝《かつ》
16 |謎《なぞ》の〈仕事〉
17 学友の話
18 |謎《なぞ》の|相《あい》|棒《ぼう》
19 |悲《ひ》|壮《そう》な決意
20 明子の|危《き》|機《き》
21 天の助け
22 第二のバイト
23 |哀《かな》しげな男
24 運命の皮肉
25 千春との|再《さい》|会《かい》
26 |人《ひと》|違《ちが》いのナイフ
27 皮肉の|結《けつ》|論《ろん》
28 パーティ
29 プロポーズ、その後
30 死体をもう一つ
31 |塀《へい》の中の|秘《ひ》|密《みつ》
32 決 闘!
エピローグ
1 |大《たい》|安《あん》|吉《きち》|日《じつ》
「いい|加《か》|減《げん》にしろい、全くもう!」
やくざまがいの男が言ったのなら、このセリフ、別に何の不思議もないのだが、今年やっと二十一|歳《さい》という、|若《わか》き|女《じょ》|性《せい》が発したとなると、ちょっと苦々しく|眉《まゆ》をひそめる向きもあろう。
しかし、そこには、多少、|無《む》|理《り》からぬ|事情《じじょう》もあって……。
ところで、この日は十月の初め、そろそろ秋風が時に冷たくも感じられるころ。しかし、この日は晴天で、動き回ると少し|汗《あせ》ばむような|暖《あたた》かさであった。
北の風、風力3、|気《き》|圧《あつ》は――いや、そんなことは、差し当り問題ではない。
場所は東京の、ある|結《けっ》|婚《こん》式場。言葉を発したのは――いや、その前に結婚式場のどこなのかを記しておかなくてはならない。
そりゃそうだろう。結婚式場ったって、|玄《げん》|関《かん》から|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》会場、調理場からトイレまで、|甚《はなは》だ広いのだから。
そしてここは|花《はな》|嫁《よめ》の|控室《ひかえしつ》なのである。これから、キリスト教式の結婚式を挙げようという|物《もの》|好《ず》きが――いや、幸せそのものの花嫁がチョコンと|椅《い》|子《す》に|腰《こし》かけている。
当然、|衣裳《いしょう》はウエディングドレス。白いヴェールが、フワリと顔の前にかかって、お世辞にも|奥《おく》|床《ゆか》しいとは言えない顔をカバーしてくれている。
ただし、|断《ことわ》っておかなくてはならないが、|冒《ぼう》|頭《とう》の|捨《す》てゼリフを|吐《は》いたのは、この|花《はな》|嫁《よめ》ではない。そのそばについている、|制《せい》|服《ふく》を着た|若《わか》い女で、当然、制服を着ているからには、この式場の|従業員《じゅうぎょういん》なのである。
仕事で毎日毎日、|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》を見ていると、ちっとも|感《かん》|激《げき》しなくなるとはいえ、それなりに、一生一度の晴れ|姿《すがた》(最近は一度とは|限《かぎ》らないようだが)が、少しでも引き立つようにと|駆《か》け回っている。
しかし、今日ばかりは……。
全く、いい|加《か》|減《げん》にしろ、と言いたくもなったのである。
「だって……」
花嫁の方は、グスン、グスンと、|風《か》|邪《ぜ》でも引いたみたいに、鼻をすすり上げている。|泣《な》いているのである。
「もうここまで来たんだから、|諦《あきら》めなさいよ!」
と、制服の|娘《むすめ》は言った。「どうせ、ここで辞めたって、大した男が出て来るわけじゃなし、さ」
「そりゃ私だって……」
と、すすり上げ、「あの人となら|一《いっ》|緒《しょ》になってもいいと思ったから……グスン、ここまでついて来たのよ」
「じゃ、いいじゃないの!」
「だけど……あの人ったら、他に女がいて……|子《こ》|供《ども》まで作って……グスン、それが、ゆうべになって初めて分って……」
「じゃ、ゆうべやめりゃ良かったじゃないのよ」
「そんな……いい|笑《わら》い者だわ」
「だけどねえ、今さら、気が変りましたから帰りますなんて言われたって、|困《こま》んのよね。ともかく、今日は何の日か知ってる?」
「――私の|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》」
「|馬《ば》|鹿《か》。|大《たい》|安《あん》|吉《きち》|日《じつ》なの。大安吉日。分る? 大ラッシュなのよ。この式場」
「私は|仏《ぶつ》|滅《めつ》だって良かったのよ。でも|彼《かれ》のお母さんが大安でなきゃだめだって――」
「そんなこと関係ないでしょ!」
と、|制《せい》|服《ふく》の|娘《むすめ》は、かみつきそうな顔で言った。「いい? ともかく、時間通りに式を始めてくれないと、後がつかえてんの。次の組までに五分しかないんだから!」
「だって……これは一生の問題ですもの」
と、|花《はな》|嫁《よめ》の方は、まだこだわっている。
「|迷《まよ》うんなら、もっと早く迷いなさいよ!――ああもう時間じゃないの。前の組が終るころだわ。いい? ちゃんと式を|済《す》ませてね!」
と、制服の娘は、|控室《ひかえしつ》を飛び出した。
前の組が終って、ゾロゾロと出て行く。
これで式場を空にし、|飾《かざ》りつけや花を、注文のあった通りのものに取り|替《か》える。それから、両家の参列者を案内して来て、着席させる。
これを十分間でやってしまわなくてはならないのだ。――式場が空になるのを待って、中へ飛び|込《こ》む。
さて、|制服姿《せいふくすがた》の|娘《むすめ》が、この物語のヒロインである。名前は明子。
「あきこ」と読む。
|姓《せい》は――|忘《わす》れた。いや、本当は|永《なが》|戸《と》というのだが、ともかく、|誰《だれ》でも、ちょっと知り合いになると、
「明子」
としか|呼《よ》ばない。
それくらい「明子」という名が、ぴったりしているのである。
二十一|歳《さい》――という|年《ねん》|齢《れい》は、先に|述《の》べた。大学生である。
といって、ここでさぼってアルバイトをしているわけではない。わけあって、停学|処《しょ》|分《ぶん》を受けているのだ。
その辺の|事情《じじょう》はまた改めて述べるとして、この永戸明子、いかにも|現《げん》|代《だい》っ子らしく、スマートで、足もスラリと長い。ちょっと見には、きゃしゃな体つきなのだが、その実、当人も|美《び》|貌《ぼう》よりは体の方に自信があるというのが本音。
色は健康に|陽《ひ》|焼《や》けして、夏に海へ一週間行っていたのが、今もってきいて[#「きいて」に傍点]いる。
クリッとした目、大きめの口、さぞかし食べるだろうな、と思わせる。そして事実、よく食べる。
それでいて太らないという、|羨《うらや》ましい|体《たい》|質《しつ》である。
|特《とく》|別《べつ》に美女というわけではない。|六《ろっ》|本《ぽん》|木《ぎ》あたりを歩いていても、「モデルにならない?」と声をかけられたことは一度もない。
|可愛《かわい》くないわけじゃない。いつも、ボーイフレンドには、
「可愛いよ」
と言われている。
言わせている、という方が|正《せい》|確《かく》かもしれない。
しかし、ともかく、明子は人気がある。|性《せい》|格《かく》が、サッパリしていて、クヨクヨとか、グズグズとは|縁《えん》がないせいだろう。付き合っていて、気持いい、というタイプなのだ。
元気がよくて、さっぱりした|気性《きしょう》。少々元気がよすぎるのが玉にキズであるが……。
――さて、明子は、式場の手配をすっかり終えると、ホッと息をついた。
これで、参列者を|呼《よ》びに行けば、後は式に|移《うつ》れる、というわけである。
あんな風に、|間《ま》|際《ぎわ》になって、何のかのと言い出す|花《はな》|嫁《よめ》も、いないではない。そういう手合は、せかしてさっさと事を運んでしまうのが一番なのである。
「どうぞ式場の方へ」
と、両家の|控室《ひかえしつ》へ声をかけると、明子は|花《はな》|嫁《よめ》の控室へ|戻《もど》って来た。
「さあ、すぐ式ですよ。|覚《かく》|悟《ご》はできま――」
変なところで言葉が切れた。
明子はポカンとして、そこに|脱《ぬ》ぎ|捨《す》てられたウエディングドレスを見つめていた……。
オルガンが、|結《けっ》|婚《こん》行進曲を|奏《かな》でる。
|花《はな》|婿《むこ》は先に|牧《ぼく》|師《し》の前に立っている。花嫁の入場である。
白いウエディングドレスに身を包んだ花嫁は、いやにうつむいて、足もとが|危《あぶな》い感じで進んで来る。
|大丈夫《だいじょうぶ》かな、というように、花婿は首をかしげた。――しかし、|辛《かろ》うじて、転びもせずに花嫁が|到着《とうちゃく》する。
花婿はホッとして、|微《ほほ》|笑《え》みかけた。花嫁が顔を上げる。――花婿は、アッと声を上げるところだった。
花嫁は別人だったのである。
「君……」
と言いかけた花婿のわき|腹《ばら》を、花嫁が|肘《ひじ》でどんとついた。
「静かに」
と低い声で|囁《ささや》く。
「どうしたんだ?」
「|彼《かの》|女《じょ》、|逃《に》げちゃいましたよ」
「何だって?」
「気が変ったんですって」
「君は……」
「私、ここの|従業員《じゅうぎょういん》」
「一体どうして――」
「|困《こま》るんですよ、もめごとは。ちゃんと時間通りに終ってくれないと」
「だけど――」
「この場はともかくおとなしくして下さい。|対《たい》|策《さく》を立てるのは、後で」
もちろん、この|花《はな》|嫁《よめ》、明子である。
式が終って送り出しちまえば、明子の|責《せき》|任《にん》の|範《はん》|囲《い》の外になる。――何とか、そこまでは強引に持って行きたい。
「参ったな……」
と、|花《はな》|婿《むこ》は|当《とう》|惑《わく》|顔《がお》(当然だ)。
「|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》でしょ」
「うん……しかし……。君、|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》の方にも出てくれるの?」
「|冗談《じょうだん》じゃない! |忙《いそが》しいんですよ」
「じゃ、どうすりゃいいんだ?」
「知るもんですか」
明子は|肩《かた》をすくめた。
――何しろ、この|大《たい》|安《あん》|吉《きち》|日《じつ》。こんなとぼけた|事《じ》|件《けん》はあったのだが、この|程《てい》|度《ど》のことなら、あまり害はない。
もっと大きな事件が、明子を待ち|構《かま》えていたのだ。
ところで、この式、そのものは、|一《いち》|応《おう》|無《ぶ》|事《じ》に終った。
明子は|控室《ひかえしつ》へ|戻《もど》ると、急いでウエディングドレスを|脱《ぬ》いだ。――これでこっちはお役ごめんだ。後のことなんか知るか!
|制《せい》|服《ふく》を着ようとしていると、急にドアが開いて、明子は、飛び上りそうになった。
「いや――失礼」
見れば、たった今、式を挙げた|花《はな》|婿《むこ》である。
「何よ! 出てって!」
「いや――つまり――その、今、|一《いっ》|緒《しょ》に式を挙げて、君に|惚《ほ》れちまったんだ」
「何ですって?」
「ねえ、どうせ、これから|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》だし。|僕《ぼく》と|結《けっ》|婚《こん》しないか?」
「気は|確《たし》かなの?」
「もちろん! いや、そうでもない」
と、いきなり|花《はな》|婿《むこ》は|控室《ひかえしつ》へ入りこんで来ると、「君を|離《はな》さないぞ!」
と、|叫《さけ》んで、下着|姿《すがた》の明子めがけて飛びついた。
ここで、ヴァイオレンスポルノ|並《な》みの|強《ごう》|姦《かん》シーンを期待される向きにはお気の毒ながら、明子は、そんなときにキャーキャーとわめいているだけの|娘《むすめ》ではないのである。
明子がサッと身を|沈《しず》めると、花婿の方は目標を失って前のめりになる。
次の|瞬間《しゅんかん》には、花婿の体は|宙《ちゅう》を一転して、|床《ゆか》へいやというほどの勢いで|叩《たた》きつけられていた。ウーン、とうめいて、花婿、しばし起き上る気力もないらしい。
「|甘《あま》く見ないでよ」
と、明子の方は息も|乱《みだ》さず、|制《せい》|服《ふく》を着ると、
「じゃ、毎度どうも。この次もぜひ当式場でね」
とPRしてから、控室を出て行った……。
2 |余《あま》り、なし
終った!
フウ、と、明子は息をついた。
全くもう――|忙《いそが》しい一日だった。それに、この式場たるや、|経《けい》|営《えい》|者《しゃ》がガメツイので、早目に仕事の終る者は、|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》の方を手伝わねばならない。
「ご苦労さん」
と、声をかけて来たのは、|主《しゅ》|任《にん》の|保《ほ》|科《しな》|光《みつ》|子《こ》である。
「どうも」
「|疲《つか》れたわ、今日は」
と、保科光子も、ドサッとソファに|並《なら》んで|腰《こし》をおろす。
保科光子は、三十代の後半――だろう、と明子は考えている――の、|独《どく》|身《しん》|女《じょ》|性《せい》。
よく仕事もでき、それでいて、カリカリしたところがない。
「明子さんのおかげで助かるわ」
と、光子は言った。
「保科さんも大変ですね。たまには休みでも取ったら?」
他の主任の中には、わざわざ、
「主任さん」
と|呼《よ》ばせる人もいるが、保科光子はそんなことはしない。
その点も、明子は大いに気に入っているのである。
「私なんか|独《ひと》り|暮《ぐら》しだもの」
光子は|笑《わら》って、「休み取ったって、することもないし。――|却《かえ》って、|忙《いそが》しくて目が回りそうな方が楽でいいのよ」
と手を|振《ふ》った。
そんなものかな、と明子は思った。しかし、気楽そうに|振《ふる》|舞《ま》っているこの人の、どことなく|寂《さび》しげな|陰《かげ》の部分。
明子は、そんなものを、感じることがあるのだった。
「そうそう」
と、光子が言った。「|花《はな》|嫁《よめ》さんに|逃《に》げられちゃった人、どうした?」
「ああ。結局|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》は、一人でやったみたいですよ」
「一人で?」
「ええ。『花嫁が|疲《ひ》|労《ろう》で|倒《たお》れまして』とか言って。――客の間じゃ、きっとあれはつわりだ、って言い合ってましたけど」
「|冴《さ》えない話ね。どうする気なんだろ。でも、こっちにはもう関係ないけど」
と光子は|欠伸《あくび》をした。
「――あ、そうだ!」
と、明子が手を打った。
「どうしたの?」
「|忘《わす》れてたわ。あのウエディングドレス、|控室《ひかえしつ》に置いたまま――」
「|貸《かし》|衣裳《いしょう》? じゃ、しわにならない内に、|戻《もど》しておかなくちゃ」
「そうですよね。取って来ます」
「私も行くわ。どうせ式場の|点《てん》|検《けん》があるものね」
明子と光子の二人は、式場の方へと足を早めた。明子は|控室《ひかえしつ》のドアを開けた。
明りが消えていて暗い。――|手《て》|探《さぐ》りで、スイッチを|押《お》す。
チカチカと|蛍《けい》|光《こう》|灯《とう》が|点《てん》|滅《めつ》して、明るくなると、明子は、
「キャッ!」
と声を上げた。
「どうしたの?」
保科光子も|覗《のぞ》いたが、「まあ――」
と言ったきり、|絶《ぜっ》|句《く》。
そこには、花嫁[#「花嫁」に傍点]が座っていた。
明子がここへ|脱《ぬ》いで置いて行ったウエディングドレスを着て、じっと顔を|伏《ふ》せている。
「ああ、びっくりした」
明子は、|胸《むね》を|押《おさ》えて、「帰って来たんですか? もうとっくに|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》も終っちゃいましたよ」
と言った。
ふと、明子は|妙《みょう》な気がした。
この|花《はな》|嫁《よめ》は、うつむいたきり、一向に動かないのだ。――そういえば、ヴェールがかかってはいるが、あの、|逃《に》げた女とは別人のようにも思える。
「何だか変よ」
と、光子が言った。
「そうですね……。あの、ちょっと――」
明子は近づいて、|花《はな》|嫁《よめ》の|肩《かた》を、軽く|叩《たた》いてみた。
すると――花嫁がゆっくりと動き出したのである。
立ち上った、というのならともかく、座ったまま、真横へと、体が|傾《かたむ》き始めたのだ。明子は、|愕《がく》|然《ぜん》としていた。
その花嫁は、そのまま、ゆっくりと勢いをつけ、|椅《い》|子《す》から落ちながら、|床《ゆか》に|倒《たお》れてしまった。
まるで、スローモーションの画面を見ているようだ、と明子は思った。
いや、そんな|呑《のん》|気《き》なことを言っている場合じゃない。大変だ。何とかしなきゃ。
思うばかりで、体が動かない。
さすがに、光子の方が|素《す》|早《ばや》く動いた。
倒れた花嫁へ|駆《か》け|寄《よ》って、ヴェールを上げる。明子は、息を|呑《の》んだ。
カッと見開いた目。半ば開けた口、土気色の顔。――死んでいるのだ、と直感的に分った。
「明子さん! 救急|班《はん》へ、早く!」
と、光子が|叫《さけ》ぶように言う。
「はい」
明子は|控室《ひかえしつ》を飛び出して、|廊《ろう》|下《か》を走った。そして、走りながら、あの|女《じょ》|性《せい》は、|逃《に》げ出した花嫁とは|違《ちが》う、と気付いていた。
「|妙《みょう》な話だな」
部長の村川が、|渋《しぶ》い顔で言った。
大体いつも飛びきりの渋いお茶をがぶ飲みしているような顔なので、あまり変化はなかった。
「|身《み》|許《もと》は分らないのか」
と村川は、保科光子へ|訊《き》いた。
「|証明書《しょうめいしょ》とか、その|類《たぐい》の物を何も持っていないんです」
と、光子は言った。
「しかし……うちの|控室《ひかえしつ》で死ぬことはないじゃないか!」
いかにも村川らしい言い方に、こんなときでも、明子は|吹《ふ》き出しそうになってしまった。
「警察へは?」
「|連《れん》|絡《らく》しました。もう来ると思いますけど」
と、光子が答える。
村川はムッとしたように、
「私に相談してからにすべきじゃないか!」
と言った。
「|通《つう》|報《ほう》は当然だと思います」
と、光子はひるむことなく言い返した。
「そりゃまあ……。しかしだね、これが人目についたら――」
「|裏《うら》|口《ぐち》へ回っていただくように、お願いしてあります」
「そ、そうか。――そうならそうと言えばいいのに」
村川は|咳《せき》|払《ばら》いをして、「ところで、私はちょっと、これからどうしても外せないパーティがある。できるだけ早く|戻《もど》って来るが、もし――」
「どうぞ、ご心配なく。|警《けい》|察《さつ》の方は私に|任《まか》せておいて下さい」
「そうかね? じゃ、よろしく|頼《たの》むよ」
村川が、早々に行ってしまうと、
「だらしない人!」
と、光子は|肩《かた》をすくめた。
「|怖《こわ》いのかしら」
と明子が言った。
「自分の|責《せき》|任《にん》になるのがいやなのよ。責任|逃《のが》れ。お|得《とく》|意《い》だわ」
「でも――どうしたらいいんでしょう?」
「仕方ないじゃない。警察の人に任せておくしかないわ」
光子は、時計を見て、「もう来ると思うんだけど……」
「私、行って見て来ます」
「いいわ。ここにいてくれる? 私が行って来るから」
「はい」
明子は|肯《うなず》いた。
死人のそばで待っているというのも、いい気持じゃないが、大して長いことでもあるまい。
でも、この|花《はな》|嫁《よめ》、一体どこの|誰《だれ》なのだろうか?
明子は|腕《うで》を組んで考え|込《こ》んだ。
ともかく、今日、式を挙げた、本物[#「本物」に傍点]の花嫁でないことは|確《たし》かである。花嫁が一人|余《あま》るなんてはずがない。
それに、ドレスはたまたまここに置いてあったものである。
ということは、何かの用でここへ来て、たまたまドレスを見付け、着てみた、ということになる。
しかし、それで、なぜ死んでしまったのか? |死《し》|因《いん》はまだ分らないにしても……。
もう一つ、|妙《みょう》なのは、ドレスを着るために|脱《ぬ》いだはずの服がない[#「服がない」に傍点]ことだ。面白半分にでも着たのなら、その辺に服や持物があるはずではないか。
だが、何の理由もなく、こんな所の、こんな|奥《おく》にまで来て、自殺するという|物《もの》|好《ず》きがいるだろうか?
「もしかしたら……」
と、明子は|呟《つぶや》いた。
これは殺人[#「殺人」に傍点]かもしれない。
「すると、まるで|見《み》|憶《おぼ》えがない?」
|刑《けい》|事《じ》が、|欠伸《あくび》をかみ殺しながら|訊《き》いた。
明子は少々|呆《あき》れながら、
「ええ、私は全然」
と答えた。
「私もです」
と、光子が言った。
「しかし、ここで死んでるからには、何か理由があるんだよね」
「そこまで、私どもには――」
「うん。しかし……初めて来た人なら、こんな|部《へ》|屋《や》に入らないんじゃないか?」
「それは分りませんわ。色々なお客がいらっしゃいますもの」
と光子が言った。「他の方の式へ平気で入りこんだり、ドアを見ると、|片《かた》っ|端《ぱし》から開けて行ったり……。ここへ入っても不思議はありません」
「なるほど。――今日は何組の式があったんだね?」
「十二組。――本当に|忙《いそが》しくて」
「客の顔なんかが頭に|浮《う》かぶことは?」
「|無《む》|理《り》です。全部のお客様は、とても……」
「何か、今日の式で、変ったことはなかったかな?」
「いえ、|特《とく》には――」
と光子は言った。
「ただ――」
と明子。
「ただ? 何なんだい?」
「式の直前に|逃《に》げちゃった人がいます」
「その人は――|女《じょ》|性《せい》?」
「はい。このドレスは、その人が借りていたものなんです」
「それを|被《ひ》|害《がい》|者《しゃ》が見付けたのか。なるほどね」
「被害者ですか?」
と、光子が|訊《き》き返した。「じゃ、あの人は殺されたということなんですか」
「ああ、いや――」
と、|刑《けい》|事《じ》はあわてて、「そういうわけじゃないんだ。ただ、|一《いち》|応《おう》はね、|疑《うたが》ってみないと……」
|現《げん》|場《ば》は写真におさめられ、さらに色々と調べられていた。
明子は、|物珍《ものめずら》しさも手伝って、熱心に、その様子を|眺《なが》めていた。
「待たせたね」
と、声がして、初老の男が、フラリと入って来た。
|検《けん》|死《し》|官《かん》であることを、明子は後で聞かされたのだった……。
3 変死、|怪《かい》|死《し》
「どうです?」
と、|刑《けい》|事《じ》が|訊《き》いた。
「うーん」
と、その初老の男は|唸《うな》った。
死体を前にしているので、唸ってもおかしくない。
明子は、|部《へ》|屋《や》の|隅《すみ》に立って動かなかった。
|主《しゅ》|任《にん》の|保《ほ》|科《しな》光子が、
「明子さん、用があるなら、帰ってもいいわよ」
と言ってくれたが、明子としては別にそう急ぐわけでもなく、それに少々大切な用があったって、こんな風に殺人(かどうか、はっきりしないが)の|現《げん》|場《ば》に出食わすなんて、めったにないことなのだから、動く気はなかった。
「いいえ、|大丈夫《だいじょうぶ》です。|見《み》|届《とど》けたいわ、せっかくですもの」
「|若《わか》いのね」
と、光子はちょっと|笑《わら》った。
「あの人、何かしら?」
と、明子は低い声で言った。
「あの、年取った人? きっと|偉《えら》い人よ。|警《けい》|部《ぶ》さんとか――」
「それにしてはパッとしないけど」
「大体そんなものじゃない?」
二人はあわてて口をつぐんだ。その初老の男が二人の方へやって来たのだ。
「死体を発見したのは……」
「私たちです」
「そうですか」
と、その男は|肯《うなず》いた。「いや、びっくりしたでしょう」
「ええ、まあ……」
と、光子が言った。
「私も|昔《むかし》、|若《わか》かったころですが、初めて死体を見てひっくり返ったことがあります」
「はあ」
「それに|比《くら》べると今の若い方は落ち着いておられる」
光子と明子は顔を見合わせた。
――何だかずいぶんのんびりしたおっさんだわ、と明子は思った。
「私はそう若くありませんけど」
と光子が言うと、相手はちょっとキョトンとして、それから|笑《わら》い出した。
「|冗談《じょうだん》を言ってはいけません! あなたなど、私から見りゃ|娘《むすめ》のようなものだ」
光子たちも仕方なく|苦笑《くしょう》した。
――どうなってるの?
「先生、どうなんですか?」
と|刑《けい》|事《じ》の一人が、しびれを切らした様子で、やってきた。
「や、|済《す》まん。――しかし、ここでは|結《けつ》|論《ろん》が出んよ。要するに変死だ」
「先生にはかなわないな」
と刑事は|苦笑《くしょう》して、「じゃ、早いとこ結論を出して下さいよ」
「ああ分ったよ。しかし、|晩《ばん》|飯《めし》ぐらい食わせてくれ」
その「先生」は、来たときと同じようにフラリと出て行った。
「あの――」
と、明子が刑事に声をかけた。
「今の方はお医者さんですか?」
「|検《けん》|死《し》|官《かん》ですよ。変ってましてね。名物なんです。|志《し》|水《みず》さんといって。――あれ、|戻《もど》って来た」
その検死官、明子たちの方へ戻って来ると、
「さっき|訊《き》き|忘《わす》れましたが、この死体を見つけたとき、何か変ったことには気付きませんでしたか?」
「変ったことって……別に。ともかく、死体に気を取られて」
「なるほど、|無《む》|理《り》もありませんな。――服はなかったですか?」
「ええ、この通りです」
「そうか。――分りました。では」
と、さっさと出て行く。
「あれで|結構優秀《けっこうゆうしゅう》なんですよ」
と|刑《けい》|事《じ》が言った。「ただ、時々、とんでもないことを言い出しますけどね」
「あら、また――」
と光子が言った。
|検《けん》|死《し》|官《かん》は、また|戻《もど》って来ると、
「言い|忘《わす》れた。私は検死官の志水。『清い水』でなく、『|志《こころざし》のある水』です。お名前は?」
「は――あの――保科光子です」
「私は、永戸明子」
「そうか! では、これで失礼」
と、今度はまたのんびりと、散歩でもしに行くように、出て行った。
明子と光子は、ポカンとして、その|後姿《うしろすがた》を見送っていた。
「――変った人でしょ」
と、刑事が言った。
それから、
「きみ、もう運び出してくれ」
と声をかける。
「あの――その|衣裳《いしょう》、うちの|貸《かし》|衣裳《いしょう》なんですけど」
と、光子が言った。
「そうですか。しかし、何しろ重要な|証拠《しょうこ》ですので」
「じゃ、上司にその|旨《むね》を説明していただけませんか」
「分りました。じゃ、案内してもらえますか」
――光子が|刑《けい》|事《じ》と|一《いっ》|緒《しょ》に|控室《ひかえしつ》を出て行く。
明子は、ウエディングドレスの、名も知らぬ|女《じょ》|性《せい》が運び出されるのを見ていた。
何となく|侘《わび》しい光景である。――一体、あの女性がどういうつもりでここへ入り|込《こ》んだのか、そしてなぜあの衣裳を身につけたのか、明子には知るすべもないが、いずれにしても、幸福を包むべきあの白い服が、今は死に|装束《しょうぞく》になってしまったわけだ。
死体の顔も、一目見たときはギョッとして、あまり良く見なかったが、|慣《な》れて来てよく見ると、ずいぶん|若《わか》い。
たぶん明子と同じくらい――せいぜい二つ三つしか|違《ちが》うまい。
あの若さで死ぬなんて。
何だか、明子は、|虚《むな》しい気分になって来てため息をついた……。
「――お待たせ」
と、光子が出て来た。
|従業員《じゅうぎょういん》出入口を出ると、もうすっかり外は暗くなっている。
「とんだ残業だわ」
と光子は、|薄《うす》い地味なコートをはおって、首を|振《ふ》った。「手当はつかないし」
「でも、面白かったわ」
と言ってから、明子はあわてて、「もちろん、|亡《な》くなった人は気の毒ですけど――」
と付け加えた。
「分るわ」
光子も|微《ほほ》|笑《え》んだ。「あんなこと、目の前で見るのなんて、めったにないことですものね」
「そうですね。――どうかしら? 殺人だと思います?」
明子は歩きながら言った。
「そうね、いずれにしても殺人じゃない?」
「いずれにしても、って?」
「|直接《ちょくせつ》手を下して殺したか、それとも|彼《かの》|女《じょ》が自殺したのか、それは分らないけど、たとえ自殺だとしても、あんな所で死ぬからには、きっと男に|捨《す》てられたかどうかしたんでしょう」
「そうでしょうね」
「それなら殺人も同じよ。|罰《ばつ》せられないだけ、|罪《つみ》が深いわ」
光子の話し方は、いやに|真《しん》|剣《けん》だった。明子は、おや、と思ったものだ。
しかし、光子はすぐにいつもの|笑《え》|顔《がお》に|戻《もど》った。
「さあ、私、どこかで夕ご飯を食べて帰らないと」
「保科さん、お一人でしたっけ」
「そうなの。つまらないもんよ、一人|暮《ぐら》しなんて。あなたはご両親と、でしょ?」
「ええ。口やかましくて|困《こま》ります」
「一人でいると、その口やかましいのが|恋《こい》しくなるわ。じゃ、また明日」
と、光子は手を|振《ふ》って別れて行った。
「さよなら!」
元気に言って、明子は少し足を早める。
これで帰ると、たぶん家につくのは九時ごろだろう。
両親が心配するといけない、と明子は足を早めた――というのは表向きで、本当はお|腹《なか》が|空《す》いていたのである。
駅へ入ろうとして、明子は定期|券《けん》を出そうとバッグを|探《さぐ》った。
「あれ?」
入っていない。――おかしいな。
ここから出した|憶《おぼ》えはないのだけれど。
「変だな」
と引っかき回していると、
「失礼」
と声をかけられた。
「はあ」
「これを落としませんでしたか?」
それは明子の定期|券《けん》だった。
「あ、すみません」
「いえ」
|若《わか》い男だった。――定期入れを明子へ|渡《わた》すと、そのまま行ってしまう。
「ああ、良かった」
と、|改《かい》|札《さつ》|口《ぐち》を入りかけて、ふと、おかしいな、と思った。
今の男、駅から、明子がやって来た方向へと歩いて行った。――すると、この定期入れを、どこで拾ったのだろう?
明子は|振《ふ》り向いた。もう男の|姿《すがた》は見えなかった。
「お帰り」
母の|啓《けい》|子《こ》は、|大《おお》|欠伸《あくび》をしながら言った。「早いね、今日は」
「皮肉ばっかり言って」
と、明子は言った。「|娘《むすめ》が労働に|疲《つか》れて帰って来たというのに!」
「何を気取っているの。――お|腹《なか》は?」
「|飢《う》え死にしないのが|奇《き》|跡《せき》よ」
「大げさだね。――電子レンジで温めるから待っといで」
明子の「強さ」は、どうやら、この母|譲《ゆず》りである。
ともかく、がっしりしていて、大きい。|頼《たよ》りがいがあるという感じだ。
「お父さんは?」
「|出張《しゅっちょう》」
「へえ。――じゃ、帰って来ないのか。ねえ、今日、殺人|事《じ》|件《けん》があったのよ」
「ふーん、そう」
と、啓子は一向に気にしていない様子。
「びっくりしないの?」
「どうせTVか映画の話だろ」
「|違《ちが》うのよ!」
明子は、|詳《くわ》しく説明した。「――きっとあの人、殺されたんだと思うわ。私が死体を発見したのよ!」
|劇《げき》|的《てき》|効《こう》|果《か》のために、明子は自分一人で死体を見付けたことにしたのである。
「|大丈夫《だいじょうぶ》?」
と、啓子が心配そうに言った。
「何が?」
「そういうときは、死体を見つけた人が|疑《うたが》われるんだよ。何か悪いことをしていたら、今の内に|白状《はくじょう》しておきなさい」
「|冗談《じょうだん》じゃないわよ!」
と、明子は顔をしかめた。
手早く食事を取ると、明子は|風《ふ》|呂《ろ》へ入った。
明子は――ここはあくまで湯気の白い|幕《まく》を通して見ていただきたいが――なかなかいいプロポーションをしている。
細身だが、やせているのでなく、|締《しま》っている体つきの良さだ。
ところで明子の欠点――というほどでもないが――の一つは、長風呂である。
「もういい|加《か》|減《げん》に出なさい」
と、啓子に言われて、それから二十分はかかる。
これが自然に|美《び》|容《よう》にプラスしているのかもしれない。
「|化粧《けしょう》石ケンか」
と、明子は|呟《つぶや》いた。
明子は一番安物の白い石ケンが|好《す》きなのである。やたら|香《かお》りの強い石ケンでは、その|匂《にお》いの残るのが気になった。
そんな風だから、色っぽさに少々欠けているのかもしれない。
石ケンの|匂《にお》いをからだに|漂《ただよ》わせているのは|好《す》きだが、|香《こう》|水《すい》の匂いをプンプンまき散らしているのは苦手だ。
大体あんなのは、当人だけが喜んでいて、周囲は|迷《めい》|惑《わく》してるものなんだから……。
「――そうだ!」
と、明子は思わず口走った。
あの、定期入れを拾った男。――いや、本当に拾ったかどうか|怪《あや》しいものだが、あの男、いやに香水をプンプンさせていた。
男のくせに、とチラッと思ったのを思い出したのだ。
男があんなに香水をふりかけることってあるかしら?
しばらく考えて、思い当った。
――|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》だ!
「明子! いつまで入ってるの!」
いつもの通り、啓子の声がした。
4 ショックの朝
|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》というのは、そんなに朝早く、六時とか七時とかからやるものではないが、その|準備《じゅんび》は|至《いた》って早い。
もっとも、明子は午後の|担《たん》|当《とう》なので、|出勤《しゅっきん》はゆっくりだった。
これが母の|啓《けい》|子《こ》には気に入らないようだ。
「朝起きて働きに出る。これが本当の仕事ってもんよ」
と、非難するが|如《ごと》き目で、|娘《むすめ》を見るのである。
その代り、夜が|遅《おそ》いのだから、といくら言っても、聞いてくれない。
おかげで大体いつも明子は十時には朝食の席につく。
「|眠《ねむ》いよう」
とブツブツ言いながら、ブラックコーヒーをがぶ飲みしていると、|玄《げん》|関《かん》に|誰《だれ》かが来たらしい。母が出て|応《おう》|対《たい》している。
こういう時間はセールスマンが多いものだ。どんな|押《おし》|売《う》りだって、啓子にかかれば、あわてて|逃《に》げ出さざるを|得《え》なくなる。
「これだけ言っても分らないの!」
と、|腕《うで》まくりをしたときの啓子の|迫力《はくりょく》は大変なものなのである。
だが、どうも|今朝《けさ》はそうでもないらしい。――少しして顔を出すと、
「明子、お前にお客よ」
「私?」
と、明子は|訊《き》き返した。
「そう。何だか――|保《ほ》|科《しな》さんて人に|頼《たの》まれたって」
「あら、何かしら」
明子は、パジャマのままだったので、あわててTシャツとジーパンに|着《き》|替《か》えた。
|玄《げん》|関《かん》へ出てみると、|若《わか》いOLらしい|女《じょ》|性《せい》が立っている。
「あの――私が明子ですが」
「ああ、永戸さんですね。私、保科さんと同じアパートに住んでるんです」
「そうですか。あの、何か伝言でも?」
具合が悪くて休むのかと思ったのだ。しかし、考えてみれば、それなら電話一本かけて来れば|済《す》むことである。
「いえ、そうじゃないんです。これを――」
と、その女性が取り出したのは、何やら、お|弁《べん》|当《とう》|箱《ばこ》ぐらいの大きさ、形の紙包みであった。
「それは?」
「中は分りません。ただ、保科さんが、今朝こちらへ|届《とど》けてくれって」
「保科さんはどうかしたんですか?」
「ゆうべ、|遅《おそ》くに、出かけたみたいでしたよ」
「ゆうべ?」
「ええ。十二時|過《す》ぎに、私の所へみえて、これを置いていかれたんです。そのとき、|旅《たび》|仕《じ》|度《たく》でした」
「旅の仕度を?」
「どこへ行くのかは聞きませんでしたけど、しばらく|留《る》|守《す》にするとおっしゃってました」
「留守に……」
明子は|面《めん》|食《く》らった。――そんな風に|突《とつ》|然《ぜん》、いなくなってしまうとは。
何があったのだろう。
|部《へ》|屋《や》へ|戻《もど》ると、明子は包みを開けてみた。中にもう一つ包みが入っていて、一通のメモがつけてある。
|間《ま》|違《ちが》いなく、保科光子の、きれいな書体であった。
〈明子さん。突然ごめんなさい。この包みを|預《あず》かって下さい。もし、私の身に万一のことがあったら、これを開けて下さい。光子〉
明子は、三回、読み直した。
わけが分らない。「万一のことがあったら」というのは、どういうことだろう?
明子は、すっかり|眠《ねむ》|気《け》もさめてしまった。
少し早目に|出勤《しゅっきん》した明子は、上司の村川の所へ行った。
「失礼します」
と、声をかけると、ちょうど|廊《ろう》|下《か》に出ていた村川は、
「ちょうど良かった! 君に用があったんだ!」
と、明子の|腕《うで》を取るようにして、自分の|部《へ》|屋《や》へと連れて行った。
ドアを|閉《し》めると、
「一体どういうことだ?」
といきなり言った。
「何のことです?」
「とぼけることはないだろう」
と村川は|仏頂面《ぶっちょうづら》だ。
「だって、分りません」
「保科君が|突《とつ》|然《ぜん》辞表を出した」
やはりそうか。それを調べたくて、来たのだ。
「知っていたのか?」
「いいえ」
「少しもびっくりした風じゃなかったぞ」
「|今朝《けさ》聞いたんです」
「本当か? 理由は?」
「知りません。直接会っていないんです」
「フム」
村川は|肩《かた》をすくめた。「――仕方ない。こんな風に突然辞められては全く|困《こま》ってしまうよ」
「村川さんはお会いにならなかったんですか?」
「会わないよ。|今朝《けさ》出て来ると、|机《つくえ》の上に辞表が置いてあった」
「文面は……」
「ただ、〈一身上の都合〉だ。――こっちだって一身上の都合で|逃《に》げ出したいよ!」
文句ばかり言っている男が、明子は|大《だい》|嫌《きら》いである。
さっさと|部《へ》|屋《や》を出た。
自分の仕事の時間には少し早い。――明子はロビーへ行って、コーヒーを飲んだ。
最初の組が、そろそろ終って出て来る。
ロビーでは、あちこちで、久しく会わなかった|親《しん》|戚《せき》同士の|挨《あい》|拶《さつ》がくり返されていた。
「|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》ってのは、いいもんだな」
と、急に近くで声がして、明子は|仰天《ぎょうてん》した。
「――|尾《お》|形《がた》君! ああびっくりした!」
「失礼、おどかすつもりだったんだ」
と、尾形は|笑《わら》った。
「大学の方はいいの?」
「うん、今日は休講さ」
「さぼってばっかり!」
「人聞きの悪いこと言うなよ。学生は喜ぶ。こっちも楽だ。一石二鳥じゃないか」
「変なの」
と明子は|笑《わら》った。
尾形|和《かず》|敏《とし》。――明子の通っている大学の|講《こう》|師《し》である。
二十七|歳《さい》という|若《わか》さ。しかも、見た目が若いので、大体学生と言って通用するのだ。
明子も友だち|扱《あつか》いで、
「尾形君」
と|呼《よ》んでいる。
尾形の方も、そう呼ばれるのが楽しいらしいのだ。――といって、この二人、|恋《こい》|人《びと》同士というわけではない。
単に|仲《なか》のいい友だちなのである。
「何かあったの」
と、明子は|訊《き》いた。
「君の|処《しょ》|分《ぶん》のことさ。どうやら今度の理事会で|解《と》けそうだよ」
「そう」
「――あんまり喜ばないね。せっかく|僕《ぼく》が努力して、こぎつけたのに」
「ありがとう。でもね……ちょっと気になることがあるのよ。――学長さんは、|事情《じじょう》を分ってくれたの?」
「うん。ともかく君が|暴力《ぼうりょく》を|振《ふ》るって、三人の男をけがさせたのは、中学生の女の子を守るためだった、ってことは|評価《ひょうか》しているようだ」
「あんなもの、暴力の内に入らないわ」
「しかし、ともかく君は|合《あい》|気《き》|道《どう》をやるわけだから、少し|手《て》|加《か》|減《げん》すべきだった、と学長は言ってたよ」
「向うは三人よ。いくら私だって、そんなこと言ってらんないわ」
「僕もそう言ったがね。――学長は|渋《しぶ》い顔をしていたよ」
「あれより渋い顔ができる?」
と言って、明子はぎゅっと顔をしかめて見せた。
「君は|愉《ゆ》|快《かい》だな」
と、尾形は|笑《わら》って、「ところで君の方の気になることって?」
「うん。実はね……」
と言いかけて、明子は言葉を切った。
「どうした?」
「あれ……あそこに……」
明子は立ち上った。
ロビーの入口が見えている。その|扉《とびら》から入って来たのは、保科光子だった。
しかし、明らかに様子がおかしい。――|服《ふく》|装《そう》は、外出するようなワンピースだったが、足もとが、ふらついている。
「保科さん――」
明子は、|駆《か》け出した。
保科光子は、二、三歩進んで、明子のことに気づいたようだった。右手を、明子の方へ|伸《の》ばす。
そして、そのまま、その場に|倒《たお》れ|伏《ふ》してしまった。
「――保科さん!」
明子は駆け|寄《よ》った。「どうしたんですか! しっかりして!」
尾形もやって来て、保科光子をかかえるようにして体を起こしてやった。
「この血!」
と、明子が息を|呑《の》んだ。
|抱《だ》き起した尾形の手に、べっとりと血がついた。|背《せ》|中《なか》に、血のしみが、広がっているのだ。
「|誰《だれ》か|呼《よ》んで来るんだ! それと救急車! 早くしろ!」
尾形の声が別人のように|鋭《するど》い。
明子は、|驚《おどろ》く人々を|尻《しり》|目《め》に、ロビーを駆け|抜《ぬ》けて行った。
5 二つの死
明子は走っていた。
いや――|正《せい》|確《かく》に言うと、歩いていた。
ただ、その勢いが、あまりに|迫力《はくりょく》を感じさせたので、まるで走ってるみたいだったのである。
|廊《ろう》|下《か》ですれ|違《ちが》った者は、みんな思わず|振《ふ》り向いたし、仕事をしていて、明子に気付いた者は、しばし手を休めて、その|姿《すがた》を目で追っていた。
まるで、式場の中に、つむじ風でも|巻《ま》き起こそうとしているかのような勢いで、明子は、|絨毯《じゅうたん》を|踏《ふ》んで行った。
目指すは、〈社長室〉である。
およそ社長に|呼《よ》ばれるような用のない明子も、社長室の場所ぐらい知っている。
ドアが近づいてきた。行進曲が聞こえて来ないのが、不思議なくらいである。
ドアがびっくりしそうな勢いで、明子はぐいと開けた。
正面に|机《つくえ》があり、|秘《ひ》|書《しょ》らしい|娘《むすめ》が仕事をしていた。明子が入って行くと、びっくりして顔を上げ、
「あの――何か――」
と、言葉も出ない様子。
「社長は!」
明子は|怒《ど》|鳴《な》るように言った。
およそ、「|訊《き》く」という感じではない。
「私だが」
横のほうで声がした。――わきにもう一つ机があり、そこに、六十ぐらいの、ちょっと|貧弱《ひんじゃく》な老人が座っていた。
「そんな所に|隠《かく》れてたのね」
と明子は言った。
「私の席はもともとここだ」
と、社長は立ち上って、「君は何だ? |制《せい》|服《ふく》を着とるところを見ると、うちの社員だね?」
「ほんの二分前まではね」
と言ったと思うと、明子は、社長につかつかと歩み|寄《よ》り、「エイッ」
と声を発した。
どこをどうやったのか、社長の体はみごとに一回転して、|床《ゆか》にドシンと落下した。
|分《ぶ》|厚《あつ》いカーペットの上だったので、助かったが、そうでなければ、キュッといっていたかもしれない。
「社長!」
と、|女《じょ》|性《せい》|秘《ひ》|書《しょ》が|駆《か》け|寄《よ》ってくる。「|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「う、うん……何とか……生きとるようだ……」
社長は|腰《こし》を|押《おさ》えつつ、起き上った。「この女は何だ!」
「はい、すぐにガードマンを――」
と|秘《ひ》|書《しょ》が飛び出して行くのを、明子は止めようともしなかった。
社長の方はハアハアいいながら、|椅《い》|子《す》に|戻《もど》って、ぐったりと座り|込《こ》んだ。そして、明子が、|腕《うで》|組《ぐ》みをして立っているのを見ると、
「どうして|逃《に》げんのかね?」
と|訊《き》いた。
「自分のしたことの|責《せき》|任《にん》は取ります」
と明子は言った。
「そうか」
「正しいと思ったことをやったんだから、なおさらです」
「フム」
社長はハンカチを出して口を|拭《ぬぐ》うと、「ところで、君は正しいことをやって満足かもしれんが、私にも説明してくれんかね。なぜ自分が投げ飛ばされたか知りたい」
「投げ飛ばすなんて、オーバーな」
と、明子は言った。「ちょっとひねっただけです」
「まあひねりでもいいがね――」
「じゃ、申し上げます」
と、明子はピンと|背《せ》|筋《すじ》を|伸《の》ばして、「三日前、こちらのベテラン|従業員《じゅうぎょういん》、|保《ほ》|科《しな》光子さんが|亡《な》くなりました」
「ああ、|刺《さ》し殺されたそうだね。気の毒だった。私はちょうど|出張中《しゅっちょうちゅう》だったが。|犯《はん》|人《にん》はまだ見つからないとか?」
「そのようです」
「で、それが何か関係があるのかね?」
「|彼《かの》|女《じょ》には死亡による|退職《たいしょく》として、退職金が|支《し》|払《はら》われました」
「当然だな」
「ところが」
と、明子がぐっと身を乗り出したので、社長はあわてて|椅《い》|子《す》ごと後ろへ|退《さ》がった。「――その|退職金《たいしょくきん》から、五十万円も、差し引かれていたんです! 何のお金だと思います? 保科さんが|倒《たお》れて、その血でロビーのカーペットが|汚《よご》れたから、買いかえた、その代金ですって! こんな|馬《ば》|鹿《か》な話ってありますか?」
明子の顔は、真っ赤になった。
「|誰《だれ》が、刺されたときに、いちいち倒れる場所のことなんか考えてられますか! それを退職金からさっぴくなんて、人間のすることじゃありません!」
社長は、じっと明子を見ていたが、
「そんなことがあったのか」
と|肯《うなず》いた。
「知らなかったふり[#「ふり」に傍点]してもだめです! ちゃんと部長の村川さんが『これは社長の命令だ』と言ったんですからね!」
そこへ、ドタドタと足音がして、ガードマンが|駆《か》けつけて来た。
「この女です!」
と、|秘《ひ》|書《しょ》が|叫《さけ》ぶ。「社長に|暴《ぼう》|行《こう》を働いたんです」
「そうか。おい、|一《いっ》|緒《しょ》に来い。|警《けい》|察《さつ》へ引き|渡《わた》してやる」
とガードマンが|腕《うで》を取ろうとするのを|振《ふ》り切って、
「|触《さわ》るな! 行くわよ!」
と明子はさっさと歩き出した。
「待ちなさい」
と、社長が止めた。「もういい。ご苦労さま」
「はあ?」
ガードマンが|面《めん》|食《く》らって、「しかし、この女が――」
「|無《む》|理《り》もないのだ」
と社長は肯いて、「私がしつこく言い|寄《よ》っていたので、|彼《かの》|女《じょ》が手を|払《はら》ったら、私は軽いので一回転してしまった。――|騒《さわ》がせてすまない。もう引き取ってくれ」
ガードマンは|呆《あっ》|気《け》に取られながら、|戻《もど》って行ったが、もっとびっくりしたのが、当の明子で、
「――何のつもりです?」
「いや、これから昼食に出ようと思っていたんだ。|一《いっ》|緒《しょ》にどうかね」
明子は、社長をにらんで、
「|警《けい》|察《さつ》に引き|渡《わた》さない代りに、言いなりになれ、なんて言ってもだめですよ」
「まだ命は|惜《お》しいよ」
と、社長は|笑《わら》い出した。「さあ、おいで」
結局、一番わけが分らないのは、残された|秘《ひ》|書《しょ》であった。
「――そのお金はすぐ|遺《い》|族《ぞく》へ返すよ」
と、社長はナイフを|握《にぎ》りながら言った。「村川にも、きつく言っとかなくちゃいかんな。仕方のない|奴《やつ》だ」
「お願いします」
と、明子は言って、「ついでにもう一つ――」
「何だね?」
「デザートにアイスクリームを取ってもいいでしょうか?」
社長は笑い出した。
「いいとも! |好《す》きなものを食べたまえ」
いつもの社員食堂とは|違《ちが》って、かなり上等な店なのである。
「すみませんでした、早とちりして」
と明子は言った。
「いや、君には感心した。なかなかそこまで|同僚《どうりょう》のことを思いやることはできないものだよ」
「|誰《だれ》かに|刺《さ》されて、|犯《はん》|人《にん》も分らないなんて、あんまり|可哀《かわい》そうで」
「そうだねえ。そういえば、この前、うちの|控室《ひかえしつ》で死んでいた|女《じょ》|性《せい》は――」
「まだ|身《み》|許《もと》も分らないみたいで――」
と言いかけて、明子は、「あら」
と声を上げた。
店に入って来てキョロキョロしているのは――|確《たし》かに、あのときの|検《けん》|死《し》|官《かん》だ。
「志水さん。ここです」
「ああ、ここにいたのか」
志水は、足早にやって来た。「ここじゃないか、と聞いて」
明子は、社長と志水を|互《たが》いに|紹介《しょうかい》した。
志水もすすめられるままに席につく。
「あの女性の身許がやっと分りましてね」
と、志水は言った。
「まあ、良かった」
「地方から一人で上京して来た|娘《むすめ》でね。名前は、|茂《も》|木《ぎ》こず|枝《え》。小さな会社のOLだったらしい」
「それがどうして――」
「あれは自殺かもしれんのですよ」
「自殺?」
「薬を|服《の》んでいる。もちろん、一服|盛《も》られた|可《か》|能《のう》|性《せい》はあるが、自殺とも考えられる」
「でも、|彼《かの》|女《じょ》の服や荷物がありませんでしたよ」
「それが気になりますな。しかし、|結《けつ》|論《ろん》として、自殺とみなすことになってしまったのでね」
「そんなこと……」
「|警《けい》|察《さつ》としては手が出ない。|一《いち》|応《おう》それをお知らせしたくてね」
「自殺だなんて思えません。だって、それなら、男への当てつけに死んだわけでしょ? それなら、名前や|身《み》|許《もと》をはっきりさせるはずですよ」
「私もそう思うがね。しかし、こうなってしまったので……」
「役所って、それだから|嫌《きら》い」
と、明子は|仏頂面《ぶっちょうづら》になって、言った。
「それは問題ですな」
と、社長が言った。「つまり、うちの式場で、挙式した|花《はな》|婿《むこ》の一人が、その茂木こず枝という|女《じょ》|性《せい》を、いわば|騙《だま》して|捨《す》てた、ということですか」
「そういうことでしょうな」
と、志水は|肯《うなず》いた。「|彼《かの》|女《じょ》に|恋《こい》|人《びと》がいたということは分ったようです。しかも、このところ、うまく行っていなかったようで、|苛《いら》|立《だ》っていたということです」
「相手の名前は分らないんですか?」
「分らないらしい。彼女も口は固かったようなんです」
「そんな|奴《やつ》をのさばらしとくなんて!」
と明子はカッカしながら、アイスクリームをつっついた。「|許《ゆる》せないわ! 社会的|制《せい》|裁《さい》を加えてやるべきです!」
「いや、元気がいいね、君は」
と、社長は|笑《わら》った。
「笑いごとじゃありません!」
と明子は一人でむくれている。
「――ところでね」
と、志水が言った。「この間、あなたと|一《いっ》|緒《しょ》に、死体を発見したという女性がいましたな」
「はい。|保《ほ》|科《しな》さんです」
「彼女が殺されたと聞いてね」
「そうなんです。ひどい話で――」
と言いかけて、明子は、志水を見つめた。「じゃ、もしかして、その二つの死に関連がある、と?」
「そこが気になったのでね」
と志水は言った。「もし、保科さんが、あのとき、何か[#「何か」に傍点]を見ていたとしたら。――あるいは、誰か[#「誰か」に傍点]を」
「でも、それなら言うはずですわ」
「見たときには、それが何の意味を持っているか気付かないことがある。しかし、見られた[#「見られた」に傍点]方にとっては、いつ、|彼《かの》|女《じょ》が、その意味に気付くか、気が気でない…‥」
「そうかもしれませんね。じゃ、すぐに|捜《そう》|査《さ》を――」
「まあ、待って」
と志水は|押《おさ》えて、「|警《けい》|察《さつ》としては、どうしようもないのですよ。もちろん、彼女が、|偶《ぐう》|然《ぜん》|刺《さ》されたという|可《か》|能《のう》|性《せい》もありますがね」
明子は、ふと|眉《まゆ》を|寄《よ》せた。――何か|忘《わす》れているぞ。保科光子のことで。
何だったろう?
「――そうだわ!」
明子がいきなり立ち上ったので、志水が|仰天《ぎょうてん》して、ソースを飛ばしてしまった。
「あ、すみません。でも――忘れてたんです! 保科さんから|預《あず》かった包みがあったんだわ。それなのに、あの|騒《さわ》ぎでうっかりしていて」
「包み?」
「ええ。万一のことがあったら、開けてくれ、と手紙がついていて」
「それは面白い」
と、志水は|肯《うなず》いた。「それはまだお|宅《たく》にあるんですね?」
「そのはずです」
「では見せていただきたい。中に何が入っているのか」
「ええ! もちろん|構《かま》いませんわ。じゃ、ご|一《いっ》|緒《しょ》に――」
もう食事の終った明子は、まだ食べ始めたばかりの志水の|腕《うで》を|引《ひっ》|張《ぱ》った。
6 にわか|探《たん》|偵《てい》
「なあに、これ?」
明子は言った。
明子の家の居間。――テーブルの上に、包みが|解《と》かれて置かれている。
それを見ているのは、明子と志水、それに、成り行きでついて来てしまった社長……。
|弁《べん》|当《とう》|箱《ばこ》ほどの大きさの包みを開いてみると、中は本当の弁当箱[#「弁当箱」に傍点]だった。
しかも中は空っぽ。――一体何のつもりで保科光子は、こんなものを明子へ、|預《あず》けたのだろう?
「|妙《みょう》ですな」
と社長が言う。
「妙です」
と、志水は|肯《うなず》いて、「手紙は、いやに意味ありげだが。――何の意味なのか」
「|確《たし》かにこの包みなのかね?」
と社長が言った。
「だと思うんですけど……」
そう|訊《き》かれると、明子にも自信はない。
「でも、ずっと家に置いてあったんですもの、他のものと入れ代わるなんてこと、考えられません」
「それはそうだな」
社長が考え|込《こ》む。大分明子に感化されてきたようである。
「ともかく、残念ながら|警《けい》|察《さつ》を|事《じ》|件《けん》の|捜《そう》|査《さ》に乗り出させるには、この|弁《べん》|当《とう》|箱《ばこ》ではちょっと|無《む》|理《り》だろうな」
「だからって、みすみす|怪《あや》しいと分ってるのに……」
明子は不満げである。
「そうだ。君、さっき、私を|殴《なぐ》ったね」
「|殴《なぐ》ったりしませんよ!」
と、明子は目をむいた。「放り投げただけです」
「同じようなもんだ。あの|件《けん》に関して|処《しょ》|罰《ばつ》をしなくてはならんな」
「あ、ずるいですよ。さっきはあんなかっこいいこと言っといて!」
しかし、社長は、明子の|抗《こう》|議《ぎ》には一向知らん顔で、
「差し当り、|謹《きん》|慎《しん》|処《しょ》|分《ぶん》にしようと思うが、どうかね?」
「お|好《す》きなように」
明子はプーッとむくれて言った。
「その間、社長の個人的な|用《よう》|件《けん》を|果《はた》してきて|欲《ほ》しい」
「何をするんですか?」
「|伝《でん》|統《とう》ある|結《けっ》|婚《こん》式場で、女を死に追いやるような男が式を挙げたとなると、これは大きな問題だ。私は|経《けい》|営《えい》|者《しゃ》として、それを|許《ゆる》しておくわけにはいかん。そこでだ――」
と、明子のほうを向いて、「君にその|調査《ちょうさ》を命ずる」
「調査ですって?」
明子は、やっと社長のいわんとするところが分って、今度は目を|輝《かがや》かせた。「じゃ、この|事《じ》|件《けん》を調べていいんですね」
「やってくれ。費用は私が持つ」
「分りました!」
しかし、志水はあまり気が進まないようだった。
「それは考えものですな」
「あら、どうしてですか?」
「万一、あの|花《はな》|嫁《よめ》|衣裳《いしょう》で死んでいた女が殺されたのだとすると、それを|探《さぐ》る者にも|危《き》|険《けん》が|及《およ》ぶとみるべきです。つまり、あなたにもね」
と、志水は言った。
「なるほど。そこまでは考えなかった。これはやめておいたほうがよさそうだ」
しかし、|一《いっ》|旦《たん》その考えを|吹《ふ》き|込《こ》まれて、明子がすんなり引っ込むはずがない。
|誰《だれ》が何を言おうと、|絶《ぜっ》|対《たい》に|事《じ》|件《けん》の真相をさぐり出して見せる。そう、固く決心していた。|保《ほ》|科《しな》光子のためにも……。
「何だって?」
と、うんざりしたように明子を見たのは尾形である。
「分ってるわよ。言いたいことは」
と、明子はソフトクリームをペロリとなめた。「そんな|危《あぶな》いことはやめとけ、でしょ?」
「分ってるじゃないか」
尾形は、ベンチに|腰《こし》をおろした。
「君は大体、|無《む》|茶《ちゃ》をやりすぎるよ」
「いいじゃない。それでも生きてんだもの」
「当り前だろ」
尾形は、本を持ち直した。
大学の庭である。――今は|講《こう》|義《ぎ》中なので、学生の|姿《すがた》はあまり見えない。
「いいかい、これは、少々の問題とはわけが|違《ちが》う」
「殺人|事《じ》|件《けん》なんだ」
「そうさ。君のとこの社長も|無《む》|責《せき》|任《にん》な人だな、そんなことを言い出して」
「だって、私がぜひ、と言ったんだもの。――ねえ、保科さんは|刺《さ》されて死んだのよ。私、|同僚《どうりょう》として、そして友人として、放っておけないわ」
明子は、決然として、ソフトクリームをなめた!
「だけど、万一……」
と言いかけて、尾形は|肩《かた》をすくめた。「OK、|好《す》きにするさ」
「分ってくれると思ってたんだ! ねえ、お金|貸《か》して」
「何だよ、いきなり」
「|軍《ぐん》|資《し》|金《きん》よ」
「だって費用はその社長が――」
「友情のために働くのよ。お金なんかほしくないわ」
「|僕《ぼく》からなら、いいのか?」
「いいの」
尾形は|苦笑《くしょう》した。
「君にはかなわないよ。いくらいるんだい?」
「そうね、まあ取りあえず……」
と明子は言った。「二、三十万もあれば――」
尾形がベンチから落っこちた。
明子は、バスを|降《お》りて、息をついた。
「この辺なんだけどな……」
手の中のメモを見る。
しかし、東京都内、住所だけで家を|探《さが》すというのは、|容《よう》|易《い》なことではない。
「この|探《たん》|偵《てい》、|貧《びん》|乏《ぼう》だからね」
と、明子は|呟《つぶや》いた。
やはり、多少良心というものがあるので、尾形から借りた(そして、返す気のない)お金で、タクシーを乗り回してはいけない、と思っているのである。
手にしている住所は、あの、|控室《ひかえしつ》で死体が見付かった日に、あそこで式を挙げたカップルの住所だった。
あの日は十二組の式があったが、|被《ひ》|害《がい》|者《しゃ》――つまり茂木こず枝との関係がありそうもない|男《だん》|性《せい》を|除《のぞ》いて、結局、|可《か》|能《のう》|性《せい》がある男が四人残った。
その一人を、|訪《たず》ねて行こう、というわけである。
といって、訪ねて行って、
「あなた、茂木こず枝さんと関係があったんじゃありませんか?」
と|訊《き》いても、答えるはずがない。
そこはそれ、|一《いち》|応《おう》式場の|職員《しょくいん》という立場をうまく利用するのである。
あちこちで訊いて、やっと訪ね当てる。
「ここか」
――男の名前は、|湯《ゆ》|川《がわ》|元《もと》|治《はる》。妻は|雅《まさ》|代《よ》である。
昼の時間だから、男の方はいないかもしれない。しかし、妻の方と話をして、|却《かえ》って何か|得《う》るところがないとも|限《かぎ》らないのである。
家は、小さな建売で、うっかりすると、|素《す》|通《どお》りしてしまいそうだ。
|玄《げん》|関《かん》のチャイムを鳴らすと、
「はい」
と声はあったが、なかなか出て来ない。
どうしたのかな、と思っていると、ドアが開いた。
「あの、先日挙式のお手伝いをさせていただきました者ですが――」
と言いかけて、明子は言葉を切った。
出て来たのは妻の雅代だろう。|大《おお》|柄《がら》で、|迫力《はくりょく》がある。
旅行|仕《じ》|度《たく》で、玄関にもトランクが見えていた。
「あ、失礼しました。まだお|戻《もど》りになったばかりでしたか」
「いいのよ。何なの?」
「はい。実は、私どもの会計の|手《て》|違《ちが》いで、料金を一万円多くいただいておりましたので、お返しに参りました」
これは、明子の苦心の作である。
――金を返してもらって|怒《おこ》る者はいないだろう、という計算だ。
もっともその金は、尾形からの借金でまかなっていたが。
「まあ、そうなの?」
「おそれいりますが、印をいただけますでしょうか」
明子の作戦は図に当り、向うは急に愛想が良くなった。
「はいはい。ここじゃ何だから、ちょっと上って」
と、|促《うなが》す。
|遠《えん》|慮《りょ》なく上り|込《こ》むと、|居《い》|間《ま》へ通された。
ちゃんとお茶まで出てくる。一万円のご|利《り》|益《やく》である。
「じゃ、ここに|領収印《りょうしゅういん》を。――ありがとうございます」
と、明子は言って、「でも、ずいぶん長いこと、ハネムーンへ行ってらしたんですねえ」
と、居間を|見《み》|渡《わた》す。
「|違《ちが》うのよ」
と、雅代は言った。
「といいますと?」
「私、家出しようとしてたところなの」
雅代の言葉に、明子は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
7 |絶《ぜつ》|望《ぼう》|的《てき》|結《けっ》|婚《こん》
「家出って……」
「家を出るの。分る?」
と、湯川雅代は言った。
「ええ、そりゃまあ」
と、明子は|肯《うなず》いた。「でもどうしてまた……?」
「|我《が》|慢《まん》できなくなったのよ」
雅代は、タバコを一本出すと火を|点《つ》けて、ゆっくりとふかし始めた。
「ご主人に、ですか?」
「そう。人間、|辛《しん》|抱《ぼう》にも|限《げん》|度《ど》ってもんがあるわ」
まあ、湯川雅代の言葉そのものは分らぬでもない。しかし、|結《けっ》|婚《こん》してわずか二週間しかたっていないとなると、話は別である。
「一体何があったんですの?」
雅代がジロリと明子を見た。
「そんなこと聞いてどうするの! もしかしてあんたじゃないの?」
「何がですか?」
「主人の愛人よ。決ってるじゃないの」
「と、とんでもない!」
と、明子はあわてて言った。「私、ご主人にはお目にかかったこともないんですよ!」
「フーン、そうなの」
と、雅代は言った。「まあ、そうね。あの人の|好《この》みじゃないな。あの人は顔にこだわるから」
こりゃ|凄《すご》い、と明子は内心、|舌《した》を|巻《ま》いた。雅代だって、明子の目には、「顔にこだわる」男が気に入るタイプとは思えなかったのである。
しかし、そんな風に愛人を作っているとなると、この|亭《てい》|主《しゅ》が、あの|茂《も》|木《ぎ》こず|枝《え》の|恋《こい》|人《びと》だったという|可《か》|能《のう》|性《せい》もある。
「でも、ご主人、あなたみたいにきれいな方がいて、どうして愛人なんか作るんでしょうね」
|嘘《うそ》をつくのは|嫌《きら》いだが、ここはあえて|無《む》|理《り》をしてみた。
「そう! そうなのよ!」
雅代はぐっと身を乗り出して来る。明子はあわてて、のけぞった。
「あなた、話分るじゃないの! |一《いっ》|杯《ぱい》やろうよ!」
「はあ……」
明子が|呆《あっ》|気《け》に取られている内に、雅代は、ウイスキーのボトルとグラスを二つ持って来た。
「いけるんでしょ、あんた?」
「多少は」
「じゃ、一つ、ストレートで行こう! 男なんかに、こんな高いウイスキー飲ませてなるもんか!」
雅代は|威《い》|勢《せい》がいい。仕方なく、明子はグラスに口をつけた。
雅代の方は、アッという間にグラスを空にしてしまう。
「ご主人、|結《けっ》|婚《こん》前からそうだったんでしょうか?」
「そうだった、って?」
「つまり――女遊びが|派《は》|手《で》とか」
「そりゃね。|独《どく》|身《しん》の|頃《ころ》はソープランドにも行くし、金がないときは、|適《てき》|当《とう》につまみ食いもしてたみたいね」
「じゃあ……。でも、良かったですね」
「本当」
と|肯《うなず》いて、「――何が?」
「よく、あるんですよ。式場に|昔《むかし》の|恋《こい》|人《びと》が|押《お》しかけて来るとか。あんまり、|体《てい》|裁《さい》のいいもんじゃありませんものね」
「そんなことなら|大丈夫《だいじょうぶ》!」
と雅代は|笑《わら》って、「あの人は、そりゃあ|狡《ずる》いからね。|絶《ぜっ》|対《たい》に|恨《うら》まれるような別れ方はしない人よ。何だか、|哀《あわ》れっぽく|芝《しば》|居《い》をするの」
「芝居?」
「そう。その手で、私もコロッと|騙《だま》されたのよね」
と、雅代は首を|振《ふ》った。「ああ! 一生の不覚よ!」
あっちもそう思ってるかも、と明子は思った。
「で、|結《けっ》|婚《こん》後も、ご主人と、その恋人の間が切れてない、というわけなんですね?」
「さあね。ともかく、今、恋人がいるのは|確《たし》かなの。――人を|馬《ば》|鹿《か》にしてるじゃない? 出てってやるわ、こんな家!」
もう|一《いっ》|杯《ぱい》、と、雅代はグラスを満たして、
「あんたは? もういいの?――|遠《えん》|慮《りょ》しなくていいのよ」
「いえ、本当にもう。――大して強くないんですもの」
「そう。そりゃいいことよ。お酒なんて、百薬あって一利なしよ」
ちょっと|違《ちが》ってるんじゃないかと思ったが、あえて追求はしないことにした。
――その後は、雅代の一人|舞《ぶ》|台《たい》。
ぐんぐんとウイスキーをあおり、その|傍《そば》で、二人の|結《けっ》|婚《こん》までのいきさつを、|身《み》|振《ぶ》り手振りで|熱《ねつ》|演《えん》した。
|特《とく》に|彼《かれ》が|酔《よ》った|彼《かの》|女《じょ》をホテルへ|誘《さそ》い|込《こ》み(|逆《ぎゃく》じゃないかしら、と明子は思った)、ベッドへ連れ込むシーンは、リアルで、明子に|抱《だ》きつこうとしたので、明子はあわてて|逃《のが》れた。
「――どうなってんの?」
明子は、フウッと息をついた。
ついに、熱演一時間、雅代は、カーペットに大の字になって、グーグーいびきをかきつつ、|眠《ねむ》ってしまった。
これ以上いても仕方ない。
「帰ろうか」
と、|玄《げん》|関《かん》へ来ると、ヒョイとドアが開いて、
「ただいま」
と、入って来た男……。
「あの――失礼しております」
と、明子はキョトンとした顔の、その男へ|事情《じじょう》を説明した。
「そりゃご苦労様。雅代はいませんでしたか?」
「いえ、そちらに」
「そうですか」
と上がって、「――何だ、また|酔《よ》って|寝《ね》ちゃったのか」
と頭をかいた。
明子は、首をひねった。――この、頭の|薄《うす》くなった中年男が、|若《わか》い愛人を?
「あの、ご主人でいらっしゃいますね」
と、明子はつい念を|押《お》していた。
「うちのが、家出すると言ったんでしょう。――いや、びっくりさせてすみません。何しろこれの口ぐせなんですよ」
「はあ……」
「毎日、帰って来ると、トランクが置いてあって。なに、中は空なんですよ。出て行く気なんかないんですよ」
「そうなんですか」
「お|騒《さわ》がせしましたね」
「何だか――あの――ご主人に若い|恋《こい》|人《びと》がいて、と――」
「こいつの作り話ですよ」
と、湯川元治は言って、|笑《わら》った。「大体、こんな|年《とし》|寄《よ》りが、若い子にもてるはずがないでしょう」
「はあ」
明子は、
「では失礼します」
と、|玄《げん》|関《かん》へ|降《お》りようとして、「あの、すみません」
「何か?」
「もしかして、茂木こず枝という人をご|存《ぞん》|知《じ》ありませんか?」
「茂木?」
と湯川は首をかしげて、「さて、知りませんね。どういう人です?」
「いえ、それならいいんです。――私の友だちで、こちらと同じ名の方を知ってると言ってましたので……」
「じゃ他の人のことでしょう」
「そうですね。――お|邪《じゃ》|魔《ま》しました」
表に出て、明子は、息をついた。
|探《たん》|偵《てい》ってのも|疲《つか》れるわね。
あの湯川という|亭《てい》|主《しゅ》は、|至《いた》って感じがいい。しかし、あまりに愛想が良すぎるというきらいもあった。
ああいう|笑《え》|顔《がお》は、いわば|営業用《えいぎょうよう》である。
ちょっと本心の分らない男だ、と明子は思った。
もっとも、茂木こず枝の名前に、全く|反《はん》|応《のう》しなかったのは、おそらく本当に知らないのだろう。
でなければ、|突《とつ》|然《ぜん》言われて、ああはとぼけられないに|違《ちが》いない。
「一人は|済《す》んだ、か」
と、明子は|伸《の》びをした。
次は|明日《あす》にしよう、っと。――お|腹《なか》も|空《す》いたしね。
|名《めい》|探《たん》|偵《てい》は、かくて、目に入った食堂へ向かって、|突《つ》き進んで行ったのである……。
「ええと二人目がね、|白《しら》|石《いし》っていう|夫《ふう》|婦《ふ》なのよ」
と明子は、メモを見ながら言った。
「ふーん」
と、|尾《お》|形《がた》がハンバーガーをかじりながら|肯《うなず》く。
「こら! |真《ま》|面《じ》|目《め》に聞け!」
と、明子がにらんだ。
「聞いてるよ」
と、尾形はあわててハンバーガーを飲み|込《こ》んで、
「それにしても、君は学生、|僕《ぼく》は|講《こう》|師《し》だぜ。どうして僕が|怒《ど》|鳴《な》られるんだい?」
「ブツブツ文句言わないの」
「はいはい」
尾形は|肩《かた》をすくめた。
大学に近い、ハンバーガーのチェーン店の二階席。
昼前なので|空《す》いている。
「ねえ、白石ってのも面白い|夫《ふう》|婦《ふ》だったわよ、これが」
「どんな風に?」
「何しろね、夫が十九|歳《さい》、|妻《つま》が十七歳と来てるの」
「何だって?」
尾形は目を|丸《まる》くした。「|子《こ》|供《ども》同士じゃないか」
「まるっきり、おままごとなの。『ねえ、あなた』『何だい』とか言っちゃって」
「|呆《あき》れたね。何やってんだい、その二人?」
「学生よ」
「収入は?」
「親の仕送り」
「へえ、|優《ゆう》|雅《が》だね」
「五千万円|也《なり》のマンション住い。もちろん親のお金。二人とも親は社長なの」
「気に食わないね。そいつがきっと、|犯《はん》|人《にん》だ」
「まさか! 十九歳よ!」
「どうしてそんなのが|候《こう》|補《ほ》に残ってたんだい?」
「ただね、この夫――十九|歳《さい》ね。この子が、死んだ茂木こず枝のいた会社でバイトをしたことがあるのよ」
「へえ」
「もっとも、たった三日で『仕事が|辛《つら》い』って辞めちゃったそうだけど」
「荷物運びか何かやったのかな」
「本を、整理したらしいの。そしたら、手が|汚《よご》れて、|堪《た》えられない、って……」
「神よ」
と尾形は|天井《てんじょう》を|仰《あお》いだ。「それが大学生かと思うと、たまらんね」
「まさかとは思うけど、|一《いち》|応《おう》、チェックしてみないとね。――でも、もし茂木こず枝が、年下の美少年|好《ごの》みなら、|可《か》|能《のう》|性《せい》はあるわ。ともかく、|可愛《かわい》い子なの」
「おい、まさか君まで……」
と、尾形が身を乗り出す。
「やめてよ。あんな、なよなよしたの、|大《だい》|嫌《きら》い」
と、明子は、尾形の鼻を指で|弾《はじ》いた。
「いてて!」
「三番目はね、また|凄《すご》いの。|久《ひさ》|野《の》って家なんだけどね」
「またお子様ランチ?」
「ううん。夫は二十八歳。|妻《つま》、二十四歳」
「バランスは取れてる」
「ところが、さにあらず。――|奥《おく》さん、もう死にそうなの」
「死にそう?」
「夫の母親が|一《いっ》|緒《しょ》なのよ。これが|凄《すご》い人でね。お|嫁《よめ》さんを、こき使うのよ」
「へえ」
「夫は|徹《てっ》|底《てい》したマザコンで、『ママ』だものね。聞いててゾッとしたわ」
「今はよくいるらしいじゃないか」
「でも、本当に出くわしたの初めてだもの。びっくりしたわ。――ともかく母親と夫はいい身なりなのに、お嫁さん一人、まるで、大正時代の古着って感じなの」
「やれやれ。よく|我《が》|慢《まん》してるじゃないか」
「ねえ。そういう意味では、|珍《めずら》しい|女《じょ》|性《せい》よ。文句一つ言わずに働いて」
「しかし、|危《き》|険《けん》だな。その内、|爆《ばく》|発《はつ》するかもしれない」
「そう思ったわ、私も。――あの男にだって女の一人や二人いたと思うの。そういうことに|罪《ざい》|悪《あく》|感《かん》を覚えるタイプじゃないのよ。きっと母親の教育のせいね」
「どこに|勤《つと》めてるんだい?」
「それが、|外務省《がいむしょう》のエリートなの」
尾形はため息をついて、紙コップのコーヒーをガブリと飲んだ。
「日本の行く末は|闇《やみ》だな」
「それはともかく、あともう一組よ」
「今度はどんな|怪《かい》|物《ぶつ》なのか、楽しみだな」
「お|化《ばけ》|屋《や》|敷《しき》ね」
と、明子は|笑《わら》ったが、ふっと真顔になって、「でも――本当にね」
と|呟《つぶや》くように言った。
「何だい?」
「|結《けっ》|婚《こん》なんて、やんなっちゃうわ、あんなの見てると」
「おいおい――」
「青くなった」
と、明子は|笑《わら》って、「まだいい方よ。|子《こ》|供《ども》ができたから結婚してくれって言われて青くなるよりね」
「人をからかうな」
と、尾形は|苦笑《くしょう》した。「でもね、|充分《じゅうぶん》に気をつけてくれよ。その四番目が、問題の男かもしれないからな」
「分ってるわよ」
明子は、自分のハンバーガーにぐいとかみついた。
「――じゃあね」
明子は、大学へ行く尾形と別れ、駅の方へ歩き出した。
最後の一組は、|佐《さ》|田《だ》という名だった。
「これはまともでありますように」
と明子は、|祈《いの》るように言った。
8 理想的|結《けっ》|婚《こん》
「わざわざご苦労様です」
と、お茶を出してくれたのは、正に「|新《にい》|妻《づま》」という言葉がぴったり来る、|初《うい》|々《うい》しい|女《じょ》|性《せい》だった。
「|奥《おく》|様《さま》は|千《ち》|春《はる》さんとおっしゃるんですね」
と、明子も気分が良くなって、「すてきなお名前ですね」
「そうですか?」
「千の春が本当にあるみたい。この家、とっても明るくて、すてきだわ」
「まあ、お世辞の上手な方ね」
と千春は|笑《わら》った。
佐田|房《ふさ》|夫《お》、二十三|歳《さい》。千春、二十二|歳《さい》。――|若《わか》いな、と思って来てみたが、|部《へ》|屋《や》の中は、少しもぜいたくをしていない。
二人だけの力で、|堅《けん》|実《じつ》にやるのだという思いが、部屋を|快《こころよ》くさせているようだった。
「ご主人は、お|勤《つと》めなんですか」
明子は|訊《き》いた。
「ええ。でもエリートとは|程《ほど》|遠《とお》いので、五時には|退《たい》|社《しゃ》してしまいます。出世は|諦《あきら》めているもので」
「その方が気が楽じゃありません?」
「ええ、本当に」
と、千春は|肯《うなず》いた。
プリント|柄《がら》のエプロンが、とても良く|似《に》|合《あ》う。|小《こ》|柄《がら》だが、パッと目につく、明るさがあった。
「|職場《しょくば》|結《けっ》|婚《こん》なんですか?」
「いいえ。私たち|幼《おさな》なじみなんです」
「じゃ、お生まれが――」
「ええ。二人とも、九州の方で。赤ん|坊《ぼう》のころから、|一《いっ》|緒《しょ》に遊んだ|仲《なか》でした」
「まあ。お幸せですね。それで、今はこうして――」
「でも、親の|転《てん》|勤《きん》で、私たち、小学校の|頃《ころ》、東京と九州に、|離《はな》れてしまったんです。――それが、私が高校を出て上京して来たとき、ひょっこり東京駅で、|彼《かれ》に会って……」
「東京駅で|偶《ぐう》|然《ぜん》に?」
と、明子は目を|丸《まる》くした。「|嘘《うそ》みたいな話ですね!」
「それが本当なんですもの。面白いもんですね」
「ご主人は何の用で?」
「会社の用で、|偉《えら》い人を送りに来ていたんです。で、私がホームを歩いてると『佐田君、社へ|戻《もど》ろうか』という声がして。佐田っていう名が耳に入って、ハッとしたんです」
「そしたら本当に……」
「ええ。向うも何となくこっちを見ていて――。何年ぶりだったのかしら。もう七、八年は会ってなかったんですけど、すぐに分りました」
「感動的ですね!」
明子は、心底|感《かん》|激《げき》していた。
「そのとき、もう二人とも|結《けっ》|婚《こん》の決心をしたんです。――運命なんて言うと、|笑《わら》われそうだけど」
「いいえ、それはきっと本当に運命ですよ」
「四年間、一生|懸《けん》|命《めい》、働いて、お金を|貯《た》めて。やっと式にこぎつけたんです。どっちの家も不景気なので」
「その間に、|一《いっ》|緒《しょ》に|暮《く》らすとか――」
「いいえ」
と、千春は首を|振《ふ》った。「あの人がそんなことはいけない、と言って。――|辛《つら》かったけど、それだけのことはありました。もし、赤ちゃんでもできて、仕方なしに結婚なんてことになったら、こんな風に楽しい|新《しん》|婚《こん》生活じゃなかったでしょう」
へえ。――こんな人がまだいたのね。
明子は、まるで|違《ちが》う時代――『|野《の》|菊《ぎく》の|如《ごと》き君なりき』とか、『二十四の|瞳《ひとみ》』といった時代に|紛《まぎ》れ|込《こ》んでしまったような気がしていた……。
|玄《げん》|関《かん》のドアが開いた。
「ただいま。――お客さん?」
「|結《けっ》|婚《こん》式場の方。一万円、多くいただいたからって返しにみえたの」
「そりゃあご|丁《てい》|寧《ねい》に。――一万円あれば、大いに助かります」
「いいえ」
と明子は照れて頭を下げた。
いかにも|若《わか》|々《わか》しい青年である。|真《ま》|面《じ》|目《め》そうだ。
「お酒なんかは?」
と、明子は|訊《き》いた。
「付き合いでは少し。でも、|好《す》きじゃないですね。どっちかというと|甘《あま》|党《とう》で」
「この人、外に出ると、私にチョコレートパフェなんか注文させて、自分で食べてるんですよ」
「おい、ばらすなよ!」
と、佐田は|笑《わら》いながら言った。
いい|雰《ふん》|囲《い》|気《き》だなあ、と明子は思った。
あの「お子様|夫《ふう》|婦《ふ》」のマンションに|比《くら》べれば、犬小屋|並《なみ》の小さなアパートだが、どんなにか、こっちの方が|居《い》|心《ごこ》|地《ち》がいいか。
「そうだ。よろしかったら、夕食を|一《いっ》|緒《しょ》に。いかがです?」
と言われて、ついその気になってしまったのも、そのせいでだろう。
しかし、明子は、|後《こう》|悔《かい》することになった。
まず千春の料理の|腕《うで》に|舌《した》を|巻《ま》き、二人の|愉《たの》しげな様子に当てられっ放し。
結局、「のけ者」であることを思い知らされて、早々に|退《たい》|去《きょ》することになった。
外へ出て、
「ああ熱い」
と、息をついたのは、別にやっかみではない。
|狭《せま》い|部《へ》|屋《や》なので、本当に三人でいると暑いのだ。――やっぱりあそこは二人[#「二人」に傍点]にちょうど良くできているのだ。
もう夜になっている。
駅への道を急いでいると、足音が追いかけて来た。
「|永《なが》|戸《と》さん!」
|振《ふ》り返ると、佐田がサンダルで走って来る。
「あら、何でしょう?」
「これ、忘れましたよ」
と、佐田が出したのは、一万円の|領収書《りょうしゅうしょ》だった。
「まあ、すみません、わざわざ」
どうせでっち上げなのだ。気がひけて、
「すみませんね」
と、くり返した。
「いいえ。駅の道、分りますか?」
「はい。――早く|奥《おく》|様《さま》の所へ帰ってあげて下さい」
「では、ここで」
と、佐田が頭を下げて行きかける。
そのとき――何となく、つい口を開いていたのだ。
「佐田さん」
「何ですか?」
「あの――茂木こず枝って人をご|存《ぞん》|知《じ》ですか?」
明子の方がびっくりした。佐田が、|突《とつ》|然《ぜん》顔を別人のようにこわばらせて、青ざめたのである。
「いや――知りません! そんな人なんか、聞いたこともない!」
と、口走ると、佐田は、|駆《か》けて行ってしまう。
――明子は、しばし、その場に立ちつくしていた。
知っているのだ。
佐田はあの女を知っている。――どんな知り合いかはともかく……。
明子は、気が重かった。
あのすばらしい家庭に、自分が、不幸の種をまいたのでなければいいけれど……。
家に帰ると、母が夕食の仕度をして待っていた。
「食欲がないの」
「具合でも悪いの?」
と、|啓《けい》|子《こ》が|訊《き》いた。
「食べて来たのよ」
「そうなの。でも少しは食べなさい」
「でも――」
「いいから。|一《いっ》|杯《ぱい》でも。ね?」
「分ったわ」
|食卓《しょくたく》についたとたん、電話が鳴り出した。
啓子が出たが、すぐに、
「明子、電話よ」
と|呼《よ》んだ。「|志《し》|水《みず》さんですって」
9 |密《みっ》 |会《かい》
「やあ、向う見ずのお|嬢《じょう》さん」
志水の声が聞こえて来ると、明子は何となく気分が軽くなったような気がした。
「どうも」
「いや、このところ|忙《いそが》しくてね。|検《けん》|死《し》|官《かん》が忙しいというのは、あまり|結《けっ》|構《こう》なことではないが」
「そうですね」
「何か分りましたか。いや、気になってはいたんですよ。どうもあなたは、一人で|危《あぶな》いことをやりかねない人ですからな」
なかなかよく見ている。
「|一《いち》|応《おう》、四組の|夫《ふう》|婦《ふ》に当ってきたんですけど……」
「それらしいのはいましたか?」
明子は|一瞬《いっしゅん》ためらってから、
「いいえ、はっきりとは」
と、言った。
「すると多少は|手《て》|応《ごた》えが?」
「ええ。でも、はっきりしないんです」
「なるほど。で、どうしますか」
「もう少し調べてみたいんですけど」
「|危《あぶな》いことはだめですよ」
「|充分《じゅうぶん》に用心します」
「用心しても、やられるから|事《じ》|件《けん》は|絶《た》えないんです。――分ってますね」
「ええ。でも、まだお知らせできるほどのことじゃないんです。少しでもはっきりした事実をつかんだら、必ずご相談しますから――」
「分りました」
と、志水は、|苦笑《くしょう》しているようで、「ではもう少し当ってみて下さい。あなたを信じましょう」
「ありがとう!」
と明子は言った。「また電話をかけますから」
「そうして下さい。――いいですね。くれぐれも、|無《む》|理《り》をしないで。あなたの|検《けん》|死《し》をやるはめにはなりたくないですからね」
明子はぐっと|胸《むね》を|突《つ》かれる思いがした。なかなか|厳《きび》しいことを言うな、あのおじさん!
|食卓《しょくたく》へ|戻《もど》ると、
「何の電話?」
と母の啓子が、不思議そうに、|訊《き》いた。「用心するとか|報《ほう》|告《こく》がどうとか――」
「化学実験のことなのよ」
「|危《あぶな》いのかい?」
「火薬を使うの」
「へえ! そんなことやらせるの? 大学の学長さんに|抗《こう》|議《ぎ》に行こうかね」
と言ってから、啓子は、「でも、お前、今は停学になってたんじゃない?」
と訊いた。
母親を何とかごまかして、明子は、軽くお|茶《ちゃ》|漬《づけ》をかっ|込《こ》んだ。
佐田|夫《ふう》|婦《ふ》の所で夕食を取って来たくせに、ちゃんと二|杯《はい》食べているのだ。|若《わか》さというものである。
さすがに少々食べ|過《す》ぎたのか、気分が悪くなり、|風《ふ》|呂《ろ》へ入ると、今度はのぼせてしまった。
こんなときは|寝《ね》るに|限《かぎ》る!
明子は、さっさとベッドに|潜《もぐ》り込んだ。
もっとも、いつだって、明子のモットーは、
「寝るに限る!」
なのである。
ただし、この「寝る」には、|男《だん》|性《せい》と|一《いっ》|緒《しょ》にという意味は|含《ふく》まれていない……。
ともあれ、早く寝て、たっぷり|眠《ねむ》ったおかげで、|翌朝《よくちょう》の明子の目覚めは、|爽《そう》|快《かい》であった!
昼の|新宿《しんじゅく》は、これが平日かと思うような、人、また人。
一体この人たち、何やって|暮《く》らしてんだろう?
自分のことは|棚《たな》に上げて、明子は感心していた。もっとも、大学生でも、停学|処《しょ》|分《ぶん》中の学生がそんなに多いわけはないから、ここを一人で、あるいはアベックでぶらついているのは、サボリ組であろう。
|恋《こい》|人《びと》の尾形が見れば|嘆《なげ》くに|違《ちが》いない。|若《わか》いとはいえ尾形は教える立場の|講《こう》|師《し》なのだから……。
さて、明子も、別に遊びに来ているわけではなかった。
佐田の|妻《つま》、|千《ち》|春《はる》を|尾《び》|行《こう》していると、ここへ来てしまったのである。
千春を尾行するというのは、何とも気の重い仕事だった。
あんなにいい人なのに……。
しかし、夫の佐田房夫が、「茂木こず枝」の名に、あんなに|激《はげ》しく|動《どう》|揺《よう》を見せた以上は、放っておくわけにいかない。
といって、佐田はもう明子に|警《けい》|戒《かい》|心《しん》を|抱《だ》いているだろうから、|容《よう》|易《い》には近づけないはずだ。
そこで、まず妻の方から|迫《せま》ってみようと考えたわけである。
給料でも出たのだろうか。千春はデパートに行くと、いくつか|特売場《とくばいじょう》を回った。
デパートの人ごみは、尾行するのは楽ではないが、|姿《すがた》を|隠《かく》すには便利である。
千春が、|割《わり》|合《あい》に目立つオレンジの服を着ていたので、明子も容易について行くことができた。
千春は、下着を何点か買っただけで、昼になったので食堂に入った。
これはチャンスである。
食堂は、何といっても平日で、それにまだ十二時に少し間があったせいか、そう|混《こ》んでいない。
千春は|奥《おく》の席についた。
明子は|頃《ころ》|合《あい》を見はからって、食堂へ入って行った。
「どこにしようかな」
と|呟《つぶや》きつつ(リアルに[#「リアルに」に傍点]やるのだ!)、ぶらぶら歩いて、千春の席の|斜《なな》め前の席に座った。
ここはもちろん相手が気付くまで待っているところである。
オーダーを取りに来たので、わざと少し大きな声で、
「このランチにしてくれる?」
と|頼《たの》んだ。
昨日の今日である。声に少しは聞き|憶《おぼ》えがあるはずだ。
明子の|狙《ねら》いは当った。千春がこっちを見ている様子。
明子も何気なく顔をめぐらして、二人の|視《し》|線《せん》が合う。
「――あら」
「やっぱり|昨日《きのう》の!」
と千春が楽しそうに言った。「びっくりしましたわ」
「本当ですね。お買物?」
当り前だろう。
「ええ。あなたは、お休みなんですか?」
「そうなんです。たまにはデパートでも見て歩こうと思って」
「いいわね、気ままな|独《どく》|身《しん》で」
と千春は言った。「よかったら、こちらへ移りません?」
「いいかしら」
「ええ。一人で食べてもおいしくないわ。――さあ、どうぞ」
正に|狙《ねら》い通りである。
「――たまに家にいるのがいやになると、こうして出て来るんです」
と、ランチを食べながら千春は言った。
「|奥《おく》さんでも、おうちがいやになるなんてことあるんですか?」
と明子は|訊《き》いた。
「そりゃあ――」
「だって、もう、楽しくて仕方ないみたいに見えましたけど」
「苦労はありますよ。だって|貧《びん》|乏《ぼう》ですもの、うちは」
千春は、|傍《そば》の買物|袋《ぶくろ》を手で|叩《たた》いて、「いつもね、今日はワンピースを買ってやろう、セーターも、スカートも、たまにはそれくらい、いいじゃないの、って思って出て来るんですけどね」
「で、結局――?」
「主人のパンツとシャツ」
と言って千春は|笑《わら》った。
「たまにはご自分のものを買った方が――」
「ええ。今日はそのつもりで来ましたの」
と千春は言って、「でも、早くしないと」
「ご主人が帰るの、夕方なんでしょう?」
「ええ」
と千春は|肯《うなず》いた。「でも、私、セーター一枚買う決心するまでに、二、三時間はかかるんですもの」
「|凄《すご》い」
「あなたは?」
「私、|割《わり》|合《あい》に|突《とっ》|進《しん》|型《がた》なんです。これ! と決めたら、他のを見ずに買っちゃって、そのまま帰るんです」
「まあ」
「だって、見て歩いて、もっといいのがあるとシャクでしょ。だから見ないで帰るの」
千春は笑った。
「面白い方ね。――お名前、何ておっしゃったかしら。永戸さんでしたね」
「そうです。よく『|水《み》|戸《と》』って|間《ま》|違《ちが》えられます」
「|黄《こう》|門《もん》様ね」
「それも良く言われます。|似《に》てるんですって」
「あなたが?」
「|笑《わら》い方が|豪《ごう》|快《かい》で、そっくりだって。いやですね、本当に」
千春は|愉《たの》しげに笑った。――本当に愉しそうだった。
ふと、明子は、この人は、見かけよりずっと|寂《さび》しいのかもしれない、と思った。
でなければ、ろくに知りもしない相手に、こうも楽しげに語りかけたりするだろうか……。
「――あら、もうこんな時間」
と、千春は|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見て、びっくりしたように言った。「ごめんなさい、すっかり時間を取らせて」
「いいえ、とんでもない」
と、明子は言った。「良かったら、ご|一《いっ》|緒《しょ》に買物して歩きません?」
だが、なぜか、千春の顔に、急にかげ[#「かげ」に傍点]が|射《さ》した。
「|遠《えん》|慮《りょ》しますわ」
と千春は|笑《え》|顔《がお》に|戻《もど》って、「こんな物買うのかと思われるのも|恥《は》ずかしいし」
「そんなこと――」
と言いかける明子を、|遮《さえぎ》るように、
「とても楽しかったわ。ありがとう。――またいつか会えるといいですね」
と、千春は立ち上った。
「じゃ、私、これで」
千春は、自分の分の代金をテーブルに置くと、急ぎ足で去った。
――おかしい。
何かありそうだ。明子が、すぐに立って、後を追ったのは当然のことである。
「――お姉さん、遊んでかない?」
男が声をかける。
明子はもちろん相手にしない。もし相手にしていたら、向うが声をかけたことを|後《こう》|悔《かい》するだろう。
|裏《うら》|通《どお》り。――ポルノショップやら、今はやりの「|覗《のぞ》き|部《べ》|屋《や》」だのが、ひしめき合った通りである。
明子は、わけがわからなかった。
千春の後をつけて来たら、こんな所へ来てしまったのだ。
――もちろん、まだ昼間だが、こんな時間にも、|結《けっ》|構《こう》、こんな所をぶらついている男はいる。
よっぽどヒマなのね、と明子は思った。
それはともかく、女である千春が、どうしてこんな所へ来ているんだろう?
千春の足取りは、別にブラついているというのではなく、はっきりどこかへ向かっていた。
――どこへ?
明子は、千春が、店の前を|掃《そう》|除《じ》している男へ、
「こんにちは」
と|挨《あい》|拶《さつ》するのを見た。
「|遅《おそ》いよ」
と男が文句を言う。「今日は|結《けっ》|構《こう》入りそうだからね」
「はい。すみません」
千春が、|狭《せま》い入口を入って行く。〈のぞき|部《べ》|屋《や》・|個《こ》|室《しつ》〉と、ピンクの|看《かん》|板《ばん》が出ている。
明子は目を|疑《うたが》った。
しかし、今入って行ったのは、|間《ま》|違《ちが》いなく、佐田千春である。
こんな所で、働いているとは!
「――何か用?」
と、男が声をかけて来た。
「え?」
「ここで働きたいの?」
男は明子を頭の天辺から足下まで、|眺《なが》めて、「ウーン、少し|骨《ほね》っぽいけど、結構悪くないね」
と言った。
「どうも」
「|裸《はだか》になるの平気?」
「お|風《ふ》|呂《ろ》に入るときならね」
男は|笑《わら》った。
「面白いね、君。どうだい金になるよ」
「ここは――何時間ぐらい仕事すれば、いいんですか?」
「人によるさ。色々|事情《じじょう》があるからね。――今、入ってった|若《わか》い女いるだろ?」
「ええ」
「あれは|亭《てい》|主《しゅ》持ちなんだ。だから、一時から夕方四時まで。時間が悪いから、あんまり|稼《かせ》ぎにならないね。しかし、どこかでパートなんかするよりも、よっぽど手っ取り早いよ」
何だか、明子は|侘《わび》しくなった。
「――ねえ、君は大学生? 女子大生ってのは人気あるんだよ」
男の手が、明子のお|尻《しり》を|撫《な》でた。――とたんに、男はクルリと一回転して、道に尻もちをついていた。
「――お|邪《じゃ》|魔《ま》しました」
明子はさっさと歩いて行った。――男の方は、お尻が|痛《いた》いのも|忘《わす》れ、ポカンとして明子を見送っていた……。
10 |尾《び》 |行《こう》
「女って|哀《あわ》れだわ」
と、明子は言った。「もう|一《いっ》|杯《ぱい》」
「|大丈夫《だいじょうぶ》かい?」
と、尾形が言った。「もうやめといたらどう?」
「平気よ。飲ませてよ、ミルクぐらい」
「うん……」
尾形のアパートである。
あまりアルコールに強くない尾形なので、|冷《れい》|蔵《ぞう》|庫《こ》にはビールもない。
尾形は、紙パックの|牛乳《ぎゅうにゅう》を出して来て、コップに|注《つ》いだ。
明子はぐっとコップをあけて、ゲップをした。
「――ああ、お|腹《なか》一杯になっちゃった」
「当り前だよ」
尾形は|苦笑《くしょう》した。「しかし、その|奥《おく》さん、どうしてそんなアルバイトをやってるんだろう?」
「決ってるじゃないの。夫が悪いのよ」
「どうして?」
「女は|常《つね》にしいたげられてるんだから」
「|理《り》|屈《くつ》にならないよ」
「いいのよ、そんなこと」
明子は、ゴロリと横になった。「ショックだったわ」
「でもさ、もし家計の足しにするぐらいだったら、そんなことまでする必要はないだろう」
「そうね」
「つまり、きっと他に[#「他に」に傍点]金の必要なことがあるんだよ」
「どういうこと?」
「その出費を夫に話せない。といって、へそくりや、多少のやりくりで出せる|金《きん》|額《がく》ではない。そこで、仕方なく、手っ取り早い、その手のバイトに――」
「どこへ金を出してるのかしら?」
と明子は言った。「でも、まさか|彼《かの》|女《じょ》に|直接訊《ちょくせつき》いてみるってわけにもいかないしね……」
「帰りまでは待ってなかったのかい?」
「だって、あんな所でボケッと立ってられる?」
「それもそうだな」
「私も、あそこでバイトしようかな。そうすれば、彼女のことも分るかも……。何よ、おっかない顔して。|冗談《じょうだん》よ」
「当り前だ」
「じゃ、どう? あなた、お客になってあそこへ行くの。そして|彼《かの》|女《じょ》を指名して、話を聞いて来る。――やってみる?」
「|僕《ぼく》がその『のぞき|部《べ》|屋《や》』に?」
「そうよ」
尾形は、エヘンと|咳《せき》|払《ばら》いして、
「そう……。まあ、気は進まないけど、これも研究のため、君の|頼《たの》みとあれば、仕方なく――」
「|冗談《じょうだん》よ」
と言って明子は|大《おお》|笑《わら》いした。
「何だ。つまらない」
「え?」
「いや、別に、――僕はお|腹《なか》|空《す》いたから食事に出るよ。君は?」
「家で食べないと母がうるさいの。帰ることにするわ」
「じゃ、ついでに送ろう」
「ついでに食べて帰ろう、って言うのよ。そういうときにはね」
「あ、そうか。僕はこれだからもてないんだな、女子学生に」
「もててるじゃないの。この私に」
「まあね……」
尾形は少々|複《ふく》|雑《ざつ》な顔で言った。
「|遅《おそ》くなっちゃった」
と、明子は|呟《つぶや》きながら、足を早めた。
結局、尾形と夕食を|一《いっ》|緒《しょ》に取ってしまったのである。のんびりおしゃべりして来たら、もう九時を回っていた。
家への道は、|割《わり》|合《あい》と静かである。
よく|痴《ち》|漢《かん》が出るというので、明子も、もっと|子《こ》|供《ども》のころには、母親と一緒でないと、夜は出られなかったものだ。
しかし、今は、家がズラリと立ち|並《なら》んでいるので、そんなこともなくなった。
車が一台|停《とま》っている。
明子は、そのわきをすり|抜《ぬ》けて、先を急いだ。――二十メートルほど行ったとき、ブルルとエンジンのかかる音がした。
ライトが、明子を照らす。明子は|振《ふ》り向いた。
車が一気に加速して|迫《せま》って来る。
|危《き》|険《けん》を感じるのと、|駆《か》け出すのが、同時だった。
|道《みち》|幅《はば》が|狭《せま》いから、左右へ|逃《に》げるわけにいかない。車は、ぐんぐんと追い上げて来た。
どうしようか、などと考えている|余《よ》|裕《ゆう》はなかった。正に、体の方が、勝手に動いた、という感じだった。
|塀《へい》から、道へ|突《つ》き出した、|枝《えだ》ぶりのいい木。明子はその太い枝へ向かって、一気にジャンプした。
両手がうまく引っかかる。両足を大きく|振《ふ》った。体が持ち上ったと同時に、車が、枝の下を|駆《か》け|抜《ぬ》けた。
そのまま、赤いテールランプが遠ざかって行く。
明子は、道へ、飛び|降《お》りた。
「何よ、あれ……」
明子は|呟《つぶや》いた。息を切らしていた。
いくら元気な明子でも、こう急に走ったのでは、息が切れる。
あの車。――はっきりと、|彼《かの》|女《じょ》を|狙《ねら》っていた。
はねるつもりで、突っ|込《こ》んで来たのだ。
なぜ? 今度の|事《じ》|件《けん》と関係があるのだろうか?
ない、と考える方が不自然だろう。
|誰《だれ》かが、私を殺そうとした。――明子はもう、何も見えなくなった、暗い道の先を見つめていた。
佐田千春は、毎日、あの店へ通っているわけではないようだった。
あの次の日には家にいて、ごく当り前の生活をしていた。
しかし、その翌日には、また新宿へと出かけて行ったのである。
雨の日だった。
明子は、|尾《び》|行《こう》も楽じゃない、とため息をついた。
|傘《かさ》をさして、雨の中、あの〈のぞき|部《べ》|屋《や》〉から、千春がいつ出て来るかと、待っていなくてはならないのだ。
天気が良くて、気候も良きゃ、|見《み》|張《は》ってるのも悪くないけどね、と明子は調子のいいことを考えていた。
千春はこの日は十二時|過《す》ぎに店へ入って行った。
少し早い。帰りを急ぐのだろうか?
一時間たったころ、このごみごみした|裏《うら》|通《どお》りへ、少々|不《ふ》|似《に》|合《あい》な外車が入って来た。
「金持の道楽かしら」
と、|呟《つぶや》いて|眺《なが》めていると、その車、例の〈のぞき部屋〉の前で|停《とま》ったのである。
運転手がドアを開けると、出て来たのは、初老のパリッとした身なりの男。
それが、堂々と、そこへ入って行く。
どうなってんの? 明子は首をかしげた。
そして、五分としない内に、その|紳《しん》|士《し》は出て来た。その後から一人の女――千春が出て来たのだ!
見ていると、千春は、外車に乗り|込《こ》んだ。
車が、ゆっくりとバックして来た。
この先が通行止になっているのだ。明子はあわてて身を|隠《かく》した。
外車は、広い通りへと入って行こうとしていた。
明子は走り出した。雨の中、いやだったが、そうも言っていられない。
通りへ出ると、タクシーを|停《と》める。あの外車は、図体が大きいせいか、まだ流れに入れずにいる。
「あの大きな外車をつけて」
と、明子は言った。
「|尾《び》|行《こう》?」
と運転手が|訊《き》いた。「|厄《やっ》|介《かい》|事《ごと》じゃないだろうね」
「スターのゴシップなのよ。私、記者なの。いいでしょ、追いかけてよ」
「へえ、美人が乗ってるの?」
「|絶《ぜつ》|世《せい》のね」
「よし来た!」
男なんて|単純《たんじゅん》ね。――明子は、そっと|舌《した》を出した。
それにしても、あの男は何者だろう? そして、千春は、どこへ行こうというのか。
車はゆっくりと走り始めた。タクシーの方も、ピタリとその後についている。
雨の中での|追《つい》|跡《せき》が始まったのである。
11 |大《だい》|邸《てい》|宅《たく》
雨の中での|尾《び》|行《こう》、というのは、楽ではない。
といって、明子はタクシーに乗っているので大して|困《こま》っていたわけではないが、運転手は必死だった。
「いや、|骨《ほね》だな、|畜生《ちくしょう》!」
赤信号で一息ついたとき、首を|振《ふ》りながら言った。
「ごめんなさいね」
と、明子も|珍《めずら》しく|殊勝《しゅしょう》なことを言っている、「少し|割《わり》|増《まし》で|払《はら》うわ」
「そうしてくれなくちゃ合わねえよ」
と言ってから、運転手はニヤリと|笑《わら》って、「と、言いたいところだが、|結《けっ》|構《こう》だよ」
「あら、だって――」
「一度こういうスリルのある仕事をやってみたいと思ってたんだ」
「まあ、そうなの?」
「これで、どこまで食いついて行けるか、面白いじゃないか。料金は|規《き》|定《てい》通りでいいからね」
「悪いわね」
本当は、少し安くしてくれないか、と言いたかったのだが、さすがにやめておくことにした。
「また走り出したな。――どうも、|住宅街《じゅうたくがい》へ入って行くぜ」
タクシーは、その外車について、やたら坂の多い、|大《だい》|邸《てい》|宅《たく》の|並《なら》ぶ道へと入って行った。
「|凄《すご》い家ばっかりね」
と、明子は、ついつい、両側の家に目をとられながら言った。
「この辺はみんなそうさ。|俺《おれ》もあんまり入らないけどね」
「へえ。――あ、曲った」
外車は、わき道へ入って、ぐるっと回ると、大きな|門《もん》|構《がま》えの前に出た。
「|停《とま》ったな。あそこへ入るらしいぜ」
「じゃ、私、ここで|降《お》りるわ。どうも、ご苦労さま」
「|頑《がん》|張《ば》れよ」
「ありがと」
明子は料金を|払《はら》って、外へ出た。まだ雨はかなり|降《ふ》っている。
あの車は、門の前に停っていた。目につかないように、電柱の|陰《かげ》に立って見ていると、|門《もん》|扉《ぴ》が、ギリギリと音をたてながら、ゆっくりと開いた。
「電動なんだわ」
と、明子は|呟《つぶや》いた。
待てよ。――電動ということは、人動(?)でないということだ。
つまり、あの門を開け|閉《し》めするのに、人はいらないのである。
車が、静かに|邸《てい》|宅《たく》の中へと、|滑《すべ》り|込《こ》んで行くと、明子は、雨に|濡《ぬ》れるのも|構《かま》わず、|突《つ》っ走った。
車が入る。門が|閉《と》じる。――その間に、明子は、中へとうまく入り込んだのだ。
「どんなもんです」
と、いばっても、|誰《だれ》も|賞《ほ》めちゃくれないのだが。
門がピタリと後ろで|閉《しま》った。
「あ――」
と、思った。
出られなくなっちゃった! ま、いいや、何とかなるでしょ。
ここもまた、|隣近所《となりきんじょ》に|劣《おと》らぬ大邸宅であった。いや、他と|比《くら》べても、かなりの大邸宅だと言ってもいい。
車は、前庭を回って、|玄《げん》|関《かん》へつく。
明子は、すぐに近くの木の|陰《かげ》に|隠《かく》れた。
何しろ、木だの|植《うえ》|込《こ》みだのがあちこちにあるので、便利である。
あの初老の|紳《しん》|士《し》に|促《うなが》されて、千春が車から|降《お》りる。玄関に|姿《すがた》を消すと、車は、ガレージへ入るのだろう、建物のわきへと回って行った。まあ、車はあまり犬小屋には入らないものである。
しかし――この家に|比《くら》べたら、明子の家は(父親には悪いが)正に、「犬小屋」だった。
どっしりとした、洋館で、しかも古びているが、一向に|汚《よご》れた感じがない。
「こんな家にお|嫁《よめ》に行きたいわね」
などと、明子は感心していた。
「――いけね!」
こんなことをしていられないのだ。
明子は、ともかく|裏《うら》に回ってみることにした。――カサをさしている。
これが|素人《しろうと》なのである。こっそり|隠《かく》れて動き回ろうというのに、カサをさす者もあるまい。
しかも、明子のカサは、真っ赤で、スヌーピーのマンガ入りであった。
しかし、|奇《き》|跡《せき》|的《てき》に、見とがめられることもなく、建物の|裏《うら》|手《て》へ出て来る。
ため息の出るような広い庭。サッカーができそうな――は、オーバーだが、軽い運動をやるには|充分《じゅうぶん》な広さであった。
「――言うことはないのか」
と、男の声がして、明子は、ハッと頭を低くした。
えい! ひさしの下まで行きたいけど、そこまで行くと見付かっちゃう。
そこで、仕方なく、カサをさして、|茂《しげ》みの|奥《おく》から顔を出してみたのだった。
明るい|居《い》|間《ま》が、ガラス戸と、|薄《うす》いレースのカーテンを通して見える。
千春が、両手を後ろへ組んで、立っていた。
その|背《はい》|後《ご》には、あの|紳《しん》|士《し》が立っていて、しかし今の言葉は、別の所から出て来ていた。
「ありません」
と、千春が言った。
「こっちには何もかも、分っているんだからな」
「そうでしょうね」
と、千春は、|小《こ》|馬《ば》|鹿《か》にしたような言い方をした。
「お金をつかえば、できないことはないと思っているんだから」
「事実、その通りさ」
――男の声は、ソファの中から聞こえているのだった。
つまり、明子の方へ|背《せ》を向けているソファに、|誰《だれ》かが座っているわけだ。
「私は調べた。――お前の|亭《てい》|主《しゅ》が、何もしないで、ただ家を出て、ぶらついて帰って来るだけだってことをな」
「今は不景気なのよ」
と千春は言い返す。
「|女房《にょうぼう》に、あんなアルバイトをさせて平気でいるのが男[#「男」に傍点]なのか?」
「お父さんには分らないわ」
千春の言葉に、明子は|仰天《ぎょうてん》した。
お父さんだって?
千春が、この家の|娘《むすめ》?――明子は、ただ|呆《ぼう》|然《ぜん》としていた。
「分っても分らなくても、事実は事実だ。|違《ちが》うか?」
千春は首をすくめた。
ソファの男が立ち上った。
こんな|大《だい》|邸《てい》|宅《たく》の|主《あるじ》じゃ、どんなにか|立《りっ》|派《ぱ》な、堂々たる人物――かと思いきや、何だか見すぼらしい、|小《こ》|柄《がら》な老人である。
「|旦《だん》|那《な》様」
と、あの初老の|紳《しん》|士《し》が言った。
二人のイメージからすると、まるで|逆《ぎゃく》であった。
「何だ」
「当の『のぞき|部《べ》|屋《や》』の支配人に|確《たし》かめてまいりました」
「何をだ?」
「千春様は、客と外へはお出にならなかったそうです」
「外へ?」
「はあ。つまり――その――」
と、言い|渋《しぶ》っている。
「体までは売らなかったっていうことよ」
と、千春が言った。
――何だか別人みたいだわ、と明子は思った。
あの、|新《しん》|婚《こん》家庭で、ほのぼのとした|新《にい》|妻《づま》だった千春が、確かに、こうして見ると、この|大《だい》|邸《てい》|宅《たく》の|居《い》|間《ま》に、うまく|溶《と》け|込《こ》んでいるのである。
「体を売らなかった、だと?」
父親の方は、せせら|笑《わら》うように、
「男に|裸《はだか》を見せて金を取ってるんだ。どこが|違《ちが》うんだ?」
と言った。
「お父さんにとっては、同じかもしれないわね」
「おい、それはどういう意味だ」
「分るでしょ?」
|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が|険《けん》|悪《あく》になって来た。
「まあ、お二人とも、冷静になって下さい」
と、あの|紳《しん》|士《し》が言葉を|挟《はさ》む。
「私は冷静よ」
「私も冷静だ」
これじゃ、話が進まない。
当人たちとしては|深《しん》|刻《こく》なのだろうが、明子は、申し|訳《わけ》ないと思いつつ、おかしくてたまらなかった。
「ともかく、佐田という男の所へ、お前を帰すわけにはいかん!」
と、父親が言う。
「私は|法《ほう》|律《りつ》|的《てき》に、自由に夫を選べるのよ」
と、千春が言い返す。
「私はお前のために言っとるんだ」
「大きなお世話よ」
やれやれ、この分じゃ、当分終りそうにないな、と明子は思った。
「おい、|大《おお》|原《はら》」
と、父親があの|紳《しん》|士《し》に声をかける。
「はあ」
「千春をどこかへ|閉《と》じこめておけ」
「しかし、|旦《だん》|那《な》様――」
「早くしろ!」
「いやよ! 私、帰る!」
と、千春がドアの方へ歩き出す。
「|怖《こわ》いのか」
と、父親が言った。
千春が、ピタリと足を止めて、
「どういう意味なの?」
と、|振《ふ》り向いた。
「お前の|亭《てい》|主《しゅ》に会ってやる。そして、金をやるから別れろ、と話をする」
「|馬《ば》|鹿《か》言わないで」
「本気だ」
千春は、じっと父親を|見《み》|据《す》えて、
「そんな話にあの人が乗ると、本気で思ってるの?」
「思っているとも」
「残念ながら、あの人は、そんな男じゃないわ」
「そう思うのか」
「私の夫よ」
「だからといって、どれくらい、分っているのかな?」
「お父さんよりは分っているつもりよ」
「それをためしてみようじゃないか。どうだ?」
なるほど、なかなか、|説得力《せっとくりょく》のある人物である。
金持になるだけの才覚のある人間なのだろう。
千春と父親は、長いことにらみ合っていたが、やがて千春は|肩《かた》をすくめた。
「やりたければやりなさいよ」
「そうか。――よし。じゃ、今夜、|彼《かれ》をここへ|招待《しょうたい》することにしよう」
「|好《す》きにしたら」
千春は、|居《い》|間《ま》を横切って、庭へ面したガラス戸の方へ歩いて来た。
いけない、と明子は思ったが、|逃《に》げるには|遅《おそ》すぎて――。
千春が、明子を見て、アッと声を上げた。
「どうした?」
と、父親が|振《ふ》り向く。
「いえ。――何でもないわ」
と、千春は言った。「ちょっと、|欠伸《あくび》をしただけよ」
明子はホッと息をついた。
「そうか。大原、|一《いっ》|緒《しょ》に来てくれ。――お前は?」
「私、ここにいるわ。少し、一人になりたいの」
「まあ、好きにしなさい」
男二人で、居間を出て行くと、千春は、ちょっとの間様子をうかがってから、ガラス戸を開けた。
「入って! 早く!」
明子はためらったが、どうせ見付かっちゃったのだ。ここは一つ、「ご招待」を受けることにしよう。
「――すみません、こんな所から」
「いいから、早く入って!――カサを|貸《か》して。そのソファの下へ――」
千春は、ちょっとドアの方へ向いて、「たぶん、あれでしばらくは|戻《もど》って来ないと思うわ」
「そうですか」
と明子は言った。
どう言っていいものやら、分らないのである。
まさか、
「今日は、お元気ですか? 私も元気です」
なんて、英語の初歩みたいなことは言えない。
「びっくりしたわ」
と千春は言った。
「お|互《たが》い様でしょ」
「それもそうね」
と、千春は|笑《わら》った。「でも、どうしてここへ?」
答えないわけにはいかない。
明子は、仕方なく、この|一《いっ》|件《けん》に関り合いになるきっかけから|喋《しゃべ》り始めた。
12 |賭《か》 け
「――そうだったの」
と、千春は|肯《うなず》いた。
「ごめんなさい」
と、明子は、まず、アッサリと|謝《あやま》ってしまった。
「いえ、いいのよ」
と、千春は言った。「だって、あなたとしては当り前のことをしてるだけですものね」
「そう言われると……」
「その、茂木こず枝さんって人を、主人が知っている、っていうわけね」
「どうもそうらしくて……」
「でも、あの人、そんな風に、|女《じょ》|性《せい》を|振《ふ》ったりする人じゃないのよ」
「はあ……」
「つまり、いつも振られてばっかりいる人だから」
明子は、何だかおかしくて|笑《わら》い出してしまった。
「――でも、どうしてあんな作り話をしたんですか?」
と、明子は|訊《き》いた。
「だって、まさか、私は大金持の|娘《むすめ》で、この人との|結《けっ》|婚《こん》に反対されたので、家を出て|一《いっ》|緒《しょ》になったの、とは言い|辛《づら》いでしょう」
「それもそうですね」
「|割《わり》|合《あい》と、ドラマチックな話が|好《す》きなんで、あの|筋《すじ》|書《がき》をでっち上げたの」
千春は|愉《ゆ》|快《かい》そうに、「でも、みんな|結《けっ》|構《こう》信じてるみたい」
「|名《めい》|演《えん》|技《ぎ》ですもの」
と明子は言った。
「ありがとう。――でも、いいところへ来てくれたわ」
「いいところ?」
明子の|判《はん》|断《だん》では「いいところ」どころか、最悪のときにやって来たような気がしていた。
「一つ|頼《たの》まれてちょうだい」
「いいですよ」
「家へ行って、主人と会って」
「ご主人と?」
「そう」
「で、どうするんです?」
「父の|企《たくら》みを話してやって」
「つまり、|招《まね》かれても、ここへは来るな、と?」
「いいえ、来ないわけにはいかないわよ。それに、あの人、きっと来るわ」
「それじゃ――」
「父の出す|条件《じょうけん》は|裏《うら》があるから、決して|承知《しょうち》するな、と言ってちょうだい」
明子には、ちょっと|妙《みょう》な気がした。
夫を信じていたら、何も、そんなことをいちいち言う必要はない。
「どうして、そんなことを、っていう顔つきね」
目ざとく、明子の|表情《ひょうじょう》に気付いて、
「でも、人間、|貧《びん》|乏《ぼう》しているときに、お金をつまれたら、ついフラッとなるもんじゃない?」
私なんか、貧乏してなくても、フラッとなるわ、と明子は思った。
しかし、千春の言葉は、どこかごまかしているように聞こえた。――何か、あるのだ。
「でも、どうやってご主人の所へ行くんですか?」
と明子は言った。
「ここから車で行って」
「車で?」
「そう。父に言って、車を出させるから」
「そこまでしていただかなくても」
「いえ、主人を|迎《むか》えに行かせるの」
「あ、そう」
と、明子は|肯《うなず》いた。
「そのトランクに|隠《かく》れて行けばいいわ」
なるほど、トランクに隠れるか。
これはなかなか、|探《たん》|偵《てい》という|雰《ふん》|囲《い》|気《き》が出ている。
「やりましょう! 車、どこかしら?」
「案内するわ」
と、千春が立ち上った。
しかし、ことは千春の言うほど、楽ではなかった。
ガレージまではスンナリ行けた。トランクにも入りこめた。
しかし――当然のことだが、トランクは人間向きには、出来ていない。
ソファもなく、クッションもない。しかも、大きな外車とはいえ、やはり|窮屈《きゅうくつ》である。
走ったのは、せいぜい一時間だったろうが、明子には|丸《まる》一日とも思えた。
車が|停《とま》り、ドアがバタンと音を立てる。
運転手が|降《お》りて行ったらしい。
明子は、やっと、トランクから出ることができた。
もう雨は上っていた。
「ああ……|痛《いた》い」
どこが、という|段《だん》|階《かい》ではない。体中が痛いのである。
やっと|腰《こし》を|伸《の》ばして、周囲を見回すと、佐田と千春のアパートの近くだと分った。
そこへ――佐田が歩いて来るのが目に入ったのである。
何だか、ポカンとして、元気がない。半分|眠《ねむ》りながら歩いている、という感じなのである。
「佐田さん!」
と、明子が声をかけると、
「はあ……」
と、顔を向けて、「どちら様ですか?」
「永戸明子です」
しばらくぼんやりしていて、それからやっと分ったのか、
「ああ、どうも……」
と|会釈《えしゃく》した。
どうしちゃったんだろう? この前のときとは別人のようだ。
「|奥《おく》さんのことでお話が……」
「家内ですか。――千春は出て行きました」
「いえ、それが――」
「無理もありません。|僕《ぼく》が働かないものだから――」
「それがね、実は――」
「愛想をつかしたんですよ。当り前のことです」
「ですから、そうじゃなくて――」
「もう帰って来ませんよ。|僕《ぼく》も|捜《さが》す気になれません。帰ってくれと|頼《たの》むには、何の自信もありませんし」
「いいですか、|奥《おく》さんは――」
「分ってるんです。アルバイトに何をしてたかも。やめてくれと言ったのに、あれは|好《す》きでやってるんだからいいのよ、と」
「ねえ、佐田さん――」
「強がりを言って。僕も悪かったんです。ひっぱたいてでもやめさせておけば良かったのに」
「|黙《だま》って聞け!」
と、明子は思い切り|怒《ど》|鳴《な》った。
「すみません」
佐田が目をパチクリさせている。
「奥さん、実家にいるんですよ」
「そうですか」
「で、そこに|迎《むか》えの車が来てます」
「あれですか?」
と、外車を指さし、「へえ。――ちょっと古い型だな」
などとやっている。
こりゃかなりおかしい。――こと、この夫のことに関しては、明子は、|中《なか》|松《まつ》の意見に|賛《さん》|成《せい》したくなった。
中松というのが、あの父親の名前で、つまりは千春の|結《けっ》|婚《こん》前の|姓《せい》なのである。
「聞いて下さいな」
と、明子が言いかけたとき、運転手がやって来た。
「佐田さんですね」
「はあ」
「お|迎《むか》えに参りました」
「そうですか。わざわざどうも」
と、佐田は頭を下げた。
明子は、ため息をついた。――どうなってんの、この人?
「さあ、どうぞ」
と、運転手がドアを開ける。
佐田が乗り|込《こ》み――続いて、明子も乗り込んでしまった。
「付き|添《そ》いです」
と言うと、運転手はキョトンとしていたが、|黙《だま》ってドアを|閉《し》めた。
車が走り出す。
「――心配だったでしょう」
と、明子は言った。「|奥《おく》さんが見えなくなって」
「ええ」
「|捜《さが》し回ってらしたんですか? それで|疲《つか》れて――」
「いや、駅前でパチンコをやってたんです」
「はあ……」
「なかなか出なくてね。――すっかりくたびれました」
明子は、ぶん|殴《なぐ》ってやりたくなった。
この前のときとは百八十度のイメージ|転《てん》|換《かん》である。
「聞いて下さい」
と、明子は、運転手を気にしながら、低い声で|囁《ささや》いた。「奥さんのお父さんが、あなたにお金をやって、別れさせようとしてるんです。そんな手に乗らないように、って、奥さんから――」
明子は言葉を切った。
佐田はシートにもたれて、スヤスヤと|眠《ねむ》っていたのだ。
自分の車なら、ドアを開けて、|突《つ》き落としてやるのに、と明子は|憤《ふん》|然《ぜん》として|腕《うで》を組んだ。
13 |塀《へい》の外
「何だい、えらくふくれてるな」
と、尾形が言った。
「当り前でしょ」
と、明子はぐいとやけ酒を――いや、やけコーヒー(?)をすすった。
いくらやけでも、アルコールに|溺《おぼ》れるには早|過《す》ぎる、お昼休み。大学の学生食堂である。
「どうしてそんなにカッカしてるんだい?」
「|昨日《きのう》、|屈辱的《くつじょくてき》な出来事があったのよ」
「へえ」
明子は尾形をキッとにらんで、
「|恋《こい》|人《びと》がひどい目に|遭《あ》ったっていうのに、『へえ』で終りなの?」
「だって、どんなことだか聞いてないよ」
尾形は大体が、おっとりのんびり型である。
「――|頼《たよ》りない恋人ね。私が目の前で|乱《らん》|暴《ぼう》されてても、後の予定が|詰《つま》ってないか考えてから、助けるかどうか決めるんでしょ」
「そんなことないよ」
と、尾形は言った。「助けを|呼《よ》びに行くよ、すぐにね」
「その間に私は|哀《あわ》れ――」
「そんなことより、本当に起ったことの方を話してくれよ」
「あ、そうか」
明子は、佐田千春が中松という大金持の一人|娘《むすめ》と分ったこと、夫の佐田房夫を|迎《むか》えに行って、中松の|屋《や》|敷《しき》へ|戻《もど》ったことを、話した。
「へえ! 分らないもんだね、人間は」
と、尾形は首を|振《ふ》った。
「私もそう思ったわ」
と、明子は言った。「千春さんなんか、見かけは本当に地味で|堅《けん》|実《じつ》な|主《しゅ》|婦《ふ》なのに。――こっちがそのつもりで見ると、そう見えるものなのよね」
「それが人間の心理ってものだろうね」
と、尾形は|肯《うなず》いた。「それからどうしたの?」
明子は|肩《かた》をすくめた。
「それだけ」
「それだけ?」
と、尾形は不思議そうに、「中松って屋敷に戻ってからはどうしたの?」
「入れてもらえなかったの」
「へえ」
「もちろん、|素《そ》|知《し》らぬ顔して、入って行ったわよ。でも、例の、千春さんを|迎《むか》えに来た男と、もう一人、運転手が私に|襲《おそ》いかかって――」
「な、何だって?」
|現《げん》|実《じつ》の話となると、尾形の顔色も変る。「そ、それで|大丈夫《だいじょうぶ》だったの? どこかへ連れ|込《こ》まれたとか――」
「連れ込まれりゃ良かったのよ」
と、明子は|穏《おだ》やかでないことを言い出した。「|実《じっ》|際《さい》は、そのまま門から表へ放り出されたの」
「何だ。そうだったのか」
と、尾形は|胸《むね》をなでおろした。「しかし、君を放り出すとは、相当な連中だね」
「|油《ゆ》|断《だん》しているところを、後ろからひねられちゃったのよ。あの運転手、|柔道《じゅうどう》ができるんだわ、きっと」
明子は、いまいましそうに言った。「まともにやれば、負けないのに!」
「変なことにファイトを|燃《も》やすなよ」
と、尾形は|苦笑《くしょう》した。「で、その後、佐田|夫《ふう》|婦《ふ》がどうなったのか、分らないんだね?」
「そうなの」
と、明子は|肯《うなず》いた。「しばらく、|諦《あきら》め切れなくて、|塀《へい》の外をウロウロしてたんだけどね」
「結局は――」
「何も分らなかったの」
明子は、ランチのホットドッグにかみついて、口中に|頬《ほお》ばりながら、
「そういえわ……ムニャ……なぬかへんの人――」
「ちゃんと食べてからしゃべれよ」
明子はコーヒーで、ホットドッグを流し|込《こ》むと、
「そう言えば、何か変な人に会ったのよ」
「どこで?」
「その|塀《へい》の外を歩いてたときよ」
「どう変なんだい?」
「むだだよ」
といきなり声がして、明子は飛び上りそうになった。
|振《ふ》り向くと、三十|歳《さい》ぐらいか、ジャンパー|姿《すがた》の青年が立っている。
「何ですか?」
と明子は|訊《き》いた。
「むだだと言ったんだよ」
「何が?」
「この塀は|越《こ》えられない。中には、|猛《もう》|犬《けん》が放してあるんだ、夜になるとね」
明子は、耳を|澄《す》ました。
なるほど、時々、庭のどこかで、犬の低い|唸《うな》り声や鳴き声が聞こえている。
「あの……」
明子はその青年を見て、「あなたはどなた?」
と|訊《き》いた。
「|僕《ぼく》はこの家の|主《あるじ》なんだ」
青年は言った。
「え?」
と、明子が思わず訊き返す。
「あるじ。主人」
「分りますよ、それくらい」
と、明子はムッとして言った。「でも、それ、どういう意味ですか?」
「文字通りの意味だよ」
と、青年は|肩《かた》をすくめて、「この家や土地、|総《すべ》ては、本来、僕のものなんだ」
「はあ」
「だから、主だって言ったんだ」
なるほど、と明子は思った。――こりゃ、少々おかしいのに|違《ちが》いない。
「でも、私、別にここへ|忍《しの》び|込《こ》むつもりじゃないんですけど」
と明子は言った。
「ああ、そう」
青年は大して気のない様子で、「じゃ、何してるの、こんな所で?」
そう|訊《き》かれると|困《こま》ってしまう。
「ええと……知ってる人が中にいるんですけど、それがどうなったか心配で」
と言った。
当らずさわらずの|表現《ひょうげん》である。
「でも、|塀《へい》の外を歩いてたって、中のことが分るわけじゃないだろう」
「それはまあ、そうだと思いますけど」
「じゃ、|諦《あきら》めた方がいいよ。足が|疲《つか》れるだけ|損《そん》だ」
「そうですね」
「お茶でも飲まない?」
いきなり話が変って、明子は調子が|狂《くる》ってしまった。
「いえ、――別に――あの」
と、口ごもっている間に、相手の男は、
「じゃ、行こう。すぐそこに、いい味のコーヒー店があるよ」
明子は、わけの分らない内に、十分ほど歩いたコーヒーショップに入ることとなった。
――なるほど、店の|構《かま》えはみすぼらしいが、コーヒーは|旨《うま》かった。
これで、多少この青年を見直す気にもなった……。
「あなたは?」
と明子が|訊《き》くと、青年は首を|振《ふ》って、
「そういうときは自分から名乗ってくれなくちゃ」
と、うるさい。
「私は永戸明子」
「|僕《ぼく》は中松|進《しん》|吾《ご》」
「中松……」
確かに、あの|大《だい》|邸《てい》|宅《たく》と同じ名だが。「で、あなたは何をしてたんですか?」
「見回りさ」
「見回り?」
と、明子は目をパチクリさせて、「ガードマンでもやってるんですか」
中松進吾と名乗ったその青年は、いたくプライドを|傷《きず》つけられた様子で、
「自分の土地を|視《し》|察《さつ》してるんだ」
と言って、|胸《むね》をそらした。
「あ、どうも失礼」
と明子は|舌《した》をペロリと出した。
中松が|笑《わら》い出して、
「いや、面白い人だな」
と言った。「永戸明子さんだったかな」
「一度で|憶《おぼ》える人って|珍《めずら》しいんですよ」
明子は、|賞《ほ》めたつもりで言った。
「知り合いが中にいるって?」
「ええ」
「何という人?」
「あそこの|娘《むすめ》さんとか。――千春さんというんです」
とたんに、中松の顔がサッと青ざめた。明子はびっくりして、
「ど、どうかしました?」
と|訊《き》いた。
「今、千春といった?」
「ええ……」
「帰って来たのか!」
今度は、中松の顔は|紅潮《こうちょう》した。|忙《いそが》しい男だ。
「知ってるんですか」
「もちろん!」
「同じ中松というと――|兄妹《きょうだい》か何かで――」
「いや、僕と千春は|婚《こん》|約《やく》してるんだ」
今度こそ、明子は引っくり返りそうになった。
「婚約?」
「そう。――しかし色々な|事情《じじょう》があって、|僕《ぼく》らの|仲《なか》は|裂《さ》かれ、|彼《かの》|女《じょ》は|行《ゆく》|方《え》をくらましてしまった」
「それで?」
「彼女の心は変っていない。だからこそ帰って来たんだ!」
また明子は首をひねった。――この喜びようも、まともではない。
それに、「彼女の心は変っていない」どころか、ちゃんと彼女は|結《けっ》|婚《こん》しているではないか!
「いや、きっと帰って来てくれると信じていたんだ! ずっと信じ続け、待ち続けたかい[#「かい」に傍点]があった」
「あの……」
「千春は元気だった?」
「ええ、まあ……」
「良かった! いや、実に|嬉《うれ》しい知らせだ。ありがとう」
「いえ、どういたしまして」
と明子は、|曖《あい》|昧《まい》な気分で言った。
千春がすでに結婚していることを、話すべきだろうか、と|迷《まよ》ったのである。
「いや、実に良かった!」
と中松は、|浮《う》かれているようで、「さあ、何でも|好《す》きなものを取って下さい!」
と言ったが、コーヒー|専《せん》|門《もん》|店《てん》で、ステーキを|頼《たの》むわけにもいかない。
二|杯《はい》コーヒーを飲んで、その場は|諦《あきら》めることにしたのだが――。
「どうしたの?」
と、尾形が|訊《き》いた。
「|呆《あき》れてものも言えないってのはこのことよ!」
「どうして?」
「その人、お金持ってなかったの。『や、|忘《わす》れて来た』ですって。結局、こっちが|払《はら》うはめになったのよ」
明子は|憤《ふん》|然《ぜん》として言った。
「そりゃ君は|恨《うら》みに思うね」
「当り前でしょ。何が大地主だか、聞いて呆れちゃう」
「しかし、そんなもんかもしれないぜ」
と、尾形は言った。「|割《わり》|合《あい》、お金の感覚がないというか――」
「そうかもね。でも、どうでもいいわ」
「本当に、その千春って人の|婚《こん》|約《やく》|者《しゃ》だったのかな?」
「それも分らないわ。でも、その後、何も話さなかったから。――金|払《はら》わされて、頭に来てさっさと帰って来ちゃったの」
「君らしいや」
「でも、どうなってるのかしら?」
と、明子はため息をついた。「あの、|亭《てい》|主《しゅ》の佐田の方を、調べてみたいんだけどね」
「あんまり深入りすると|危《あぶな》いぜ」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。危い目には別に――」
と言いかけて、明子は、車にはねられそうになったことを思い出していた。
「これから、どうするんだい?」
と、尾形は|訊《き》いた。
「家へ帰るわ」
「いや、|事《じ》|件《けん》の方さ」
「ああ。――あの|夫《ふう》|婦《ふ》のアパートへ行ってみるつもり」
「なるほど」
「|今朝《けさ》、|寄《よ》ってみたけど、|誰《だれ》もいないの」
「帰ってないんだな」
「もう帰って来ないのかも……」
と明子は|呟《つぶや》くように言った。
しかし――あの中松という、一風変った青年。
いやに、明子の印象に焼きついてしまっている。
――明子は犬が水を切るように、ブルブルッと頭を勢い良く|振《ふ》った。
14 遊びは終り
白石|知《とも》|美《み》は、三十分前から、レストランの|窓《まど》|際《ぎわ》の席に座って、外を|眺《なが》めていた。
「早く来ないかな」
と|呟《つぶや》く。
ちゃんと時間も言ってあるのに。――時間にルーズなのが|彼《かれ》の欠点。
それ以外は、とってもすてきな人なんだけど……。
知美は、|一《いっ》|杯《ぱい》のコーヒーを、三十分、もたせていた。
|途中《とちゅう》で、また何か|頼《たの》もうかと思ったが、思い直した。
もったいない! 家計を|預《あず》かる身としては、むだづかいをなくして行かなくては!
店のウエイトレスが、チラチラと知美の方を見ている。知美は平気だった。
|寄《よ》り道してボーイフレンドと会っているとでも思われるかもしれない。
でも、そう言われたら、面白い。
「あら」
と言い返してやる。「私たち|夫《ふう》|婦《ふ》なんですよ」
って。
はた目にそう見えないのは仕方ない。
何しろ知美は十七|歳《さい》。今は学校帰りで、セーラー服と、学生|鞄《かばん》というスタイルなのである。
いくら左手の薬指にリングをはめているからといって、まさか、この女学生が「|人《ひと》|妻《づま》」だとは思わないだろう。
人妻か。――何だかこの言葉を耳にすると、|恥《は》ずかしくなる。
まだまだ二人とも|新《しん》|婚《こん》ホヤホヤなんだもの……。
白石|紘《こう》|一《いち》は、十九歳の大学生だ。
大学生と女子高生の夫婦――はた目には、ずいぶん変でしょうね、と知美は思った。
あれこれ、人に言われていることも、知美は知っていた。
「親のスネかじり」
「|甘《あま》えている」
「おままごと遊び」
――でも、知美は本当に紘一を愛していたし、紘一だってそうだ。
だったら、|結《けっ》|婚《こん》して悪いわけがあるだろうか?
それに、|法《ほう》|律《りつ》|的《てき》にも、ちゃんと二人は結婚できる|年《ねん》|齢《れい》なのだ。
ただ――親にマンションを買ってもらい、生活費をもらっているというのは、そりゃあ|汗《あせ》|水《みず》たらして働いている人たちから見れば、|腹《はら》|立《だ》たしいかもしれない。
でも、金持の家に生れたのは、何も|子《こ》|供《ども》の|責《せき》|任《にん》じゃないだろう。
いいんだ。何と言われたって。
あと何十年かたって、
「あの二人は理想の|夫《ふう》|婦《ふ》だね」
と言われるようになって見せるわ。
しかし――知美にも多少の心配はあったのだ。
夫、|紘《こう》|一《いち》のことである。
デリケートで、|繊《せん》|細《さい》で、とても感受|性《せい》の強いタイプなのだ。
しかし、それが大学を出ても続くのでは|困《こま》る。
今は学生だから仕方ないが、卒業すれば、親の仕送りなしでやって行く。それが知美の考えだった。
ところが、紘一の方は、あまりそんな気にもなれないらしい。
「いいんじゃない、そのとき考えれば」
と言って、その手の話を|避《さ》けてしまうのである。
そして、
「外国の|貴《き》|族《ぞく》は働かないで、|財《ざい》|産《さん》だけで|暮《くら》してるんだよ」
と、そういう生活に|憧《あこが》れていることをほのめかす。
「でも、私たち、|貴《き》|族《ぞく》じゃないわ」
と、知美はいつも言っている。
紘一はただ|笑《わら》うだけだ。
知美としても、もちろん身を粉にして働けるというタイプではない。でも、その気になれば、タイプも打つし、多少英会話もできる。
少なくとも、ずっと親の仕送りを受けて、何もしないで|暮《くら》すという生活はしたくなかった。
|困《こま》るのは、二人の親たちなら、ずっとお金を送ってくれるに|違《ちが》いない、ということである。
まあ、紘一の卒業はまだ先の話だ。でも、そのときになって、もめるのもいやだし……。
紘一が道をやって来るのが見えて、知美は手を|振《ふ》った。
しかし、紘一は、気付かずに、入口の方へ回って行く。
「――やあ、ごめんよ」
と、紘一は座って、「ついうっかりして|寝《ね》|過《すご》しちゃったんだ」
この|笑《え》|顔《がお》を見ると、知美はポーッとして、|怒《おこ》るのも|忘《わす》れてしまうのだ。
「夕ご飯、食べて帰りましょ」
「どうせなら、もっといい店に行かないか?」
と紘一は言った。
「そんなお金、ないわ」
「|親父《おやじ》のつけ[#「つけ」に傍点]のきく所がいくつだってあるよ」
「そういうの、やめよう、って話だったじゃない」
「そうか。――分ったよ」
紘一は軽く|肩《かた》を|揺《ゆ》すった。
相手に|譲《ゆず》るのも楽しい時代なのである。
「私、この定食のAでいい。六百八十円」
「|僕《ぼく》は――これだ」
「あ、千二百円もしてる」
と言って、知美は|笑《わら》った。「いいわ、|許《きょ》|可《か》する!」
注文して、知美は|窓《まど》の外を見た。
「――今日、ちょっとある人と話をして来たんだ」
と、紘一が言った。
「ある人って?」
「名前は言えない」
「どうして?」
「|約《やく》|束《そく》なんだ」
「へえ」
知美は首をかしげて、「何の話だったの?」
と|訊《き》いた。
「仕事[#「仕事」に傍点]さ」
と、紘一は言った。
「仕事? 何のこと?」
「アルバイトをやるんだ。それを決めて来たのさ」
知美はポカンとして夫を見ていた。
「――何だよ、そんな顔して」
「だって――びっくりするじゃないの、いきなり」
「だめだったら、がっかりするだろ。だから、|黙《だま》ってたんだ」
「|凄《すご》いわ! おめでとう!」
知美は席で飛びはねた。
「よせよ、みっともないよ」
と、紘一は赤くなった。
「だって――|嬉《うれ》しいわ!」
「ありがとう」
「どんなお仕事なの?」
「うん……」
紘一は、なぜか、ちょっとためらった。
「どうしたの?」
「いや……あんまり人に話しちゃいけないと言われてるんだ」
紘一はそう言ってから、「でも、そんな|怪《あや》しい仕事じゃないよ!」
と、付け加えた。
「信じるわよ」
「サンキュー。その内、|詳《くわ》しく説明するよ」
紘一は、「ちょっとトイレに行って来る」
と、席を立った。
一人になると、知美は、また|胸《むね》が熱くなって来るのが分った。
あの人は、やっぱり|立《りっ》|派《ぱ》な人なんだわ! 私の|旦《だん》|那《な》様ですものね!
言いたくないというのは、あんまりたいした仕事ではないのだろう。
〈でも、いいじゃないの〉
どうせ、二人とも|若《わか》いんだ。どんなにだって変って行ける。
知美は急にお|腹《なか》が|空《す》いて来て、料理が来たら、先に食べていよう、と思った。
――料理が二人分とも来た。
しかし、紘一は|戻《もど》って来ない。
「何やってんのかな」
と、|呟《つぶや》く。「食べちゃうぞ」
――すると、紘一がトイレの戸を開けて、出て来るのが見えた。
|呑《のん》|気《き》なんだから、あの人は。
紘一が、ひどくゆっくりした足取りで、戻って来る。
「先に食べようかと思ってたのよ」
と、知美は言った。「早く食べないと冷めちゃうわ」
ナイフとフォークを手に食べ始めても、まだ紘一が立ったままなので、
「――何してるの?」
と、知美は、紘一を見上げた。
紘一の目は、|虚《うつ》ろで、知美を見てはいなかった。
「どうしたの?」
と、知美は言った。
急に、紘一の体が、まるで支えを失った|布《ぬの》の|塊《かたまり》のように、|崩《くず》れて、|床《ゆか》に|沈《しず》んだ。
知美は立ち上った。
ナイフとフォークが床に落ち、|金《きん》|属《ぞく》|音《おん》を立てる。
足下で、紘一はすでに、生命を失った、「もの」となって横たわっていた。
15 |恐《きょう》 |喝《かつ》
「あらまあ」
と、|啓《けい》|子《こ》が言った。
母、啓子の「あらまあ」には、明子も|慣《な》れっこであるが、それが何の意味なのかは、
「どうしたの?」
と|訊《き》いてみないことには、よく分らない。
「殺されたんですって。|可哀《かわい》そうに」
「へえ。|誰《だれ》が?」
明子はあまり関心も示さずに言った。
ともかく食事中に、明子の目を向けさせようと思えば、かなり思い切った|手《しゅ》|段《だん》を取るしかないのである。
「十九|歳《さい》の夫、殺さる、ですって。ずいぶん|若《わか》いのね」
「本当ね」
「|未《み》|亡《ぼう》|人《じん》は十七歳ですってよ。――どうなってるのかしら」
啓子は新聞をガサゴソとたたんだ。
殺されたことに「あらまあ」なのか、|夫《ふう》|婦《ふ》が若いことに「あらまあ」なのか、その辺は|判《はん》|断《だん》に苦しむところだった。
「そんなに|珍《めずら》しいこともないわよ」
と、明子は言った。「私だって、十九歳と十七歳っていう夫婦、知ってるわ……」
待てよ、と思った。――十九歳の夫。十七歳の妻?
それにしてもピッタリだ。
「ちょっと新聞|貸《か》して」
と、明子は手をのばした。
「|危《あぶな》いじゃないの、おはしを持ったまま手を出して――」
明子は新聞を広げた。
「まさか!」
と言ったきり、|絶《ぜっ》|句《く》。
あの|夫《ふう》|婦《ふ》だ! 白石夫婦ではないか!
「どうしたの、明子」
と啓子が言った。「ご飯が冷めるわよ」
「いいの、私、お|腹《なか》|空《す》いてない」
と、明子は言った。
いかにショックが大きかったか、分ろうというものだ。
「じゃ、お|茶《ちゃ》|漬《づけ》|一《いっ》|杯《ぱい》」
――それほどでもなかったのかもしれない。
「知ってる人なの?」
と、啓子が不思議そうに|訊《き》いた。
「ちょっとね。――会ったことがあるの」
「へえ。|可哀《かわい》そうにね。じゃ、お|葬《そう》|式《しき》にでも行って来たら?」
「そういう関係じゃないのよ」
と言ったものの、待てよ、と思い直した。
それもいいかもしれない。――ともかくあの女の子――いや、未亡人[#「未亡人」に傍点]とも話をしたかった。
これは|偶《ぐう》|然《ぜん》の殺人|事《じ》|件《けん》なのだろうか?
しかし、新聞で読む|限《かぎ》りでは、|喧《けん》|嘩《か》とかそんなことではない、妻の知美という女の子も、
「全く理由が分りません」
と語っている。
つまり、計画的殺人という線も考えられるわけで、そうなれば、ちょうど、明子が|捜《そう》|査《さ》している事件と関連があると思える。
もちろん、明子もあの白石という夫に、
「|茂《も》|木《ぎ》こず|枝《え》」
という名をぶつけてみたのだが、一向に|反《はん》|応《のう》はなかったのである。
だが、たとえ白石が|直接《ちょくせつ》茂木こず枝と関係なくても、何か[#「何か」に傍点]を知っていたとも考えられるし、それに、白石は茂木こず枝の|勤《つと》めていた会社でアルバイトをしていたのだ。
明子に|訊《き》かれたときは|忘《わす》れていて、後になって何か思い出したという|可《か》|能《のう》|性《せい》もある。
ともかく、まず当ってみることだ……。
殺された白石|紘《こう》|一《いち》が社長の|息子《むすこ》だったせいか、さすがに|葬《そう》|儀《ぎ》は|盛《せい》|大《だい》だった。
もっとも、来ているのは、大部分が父親の関係らしく、|年《ねん》|輩《ぱい》の人が多かった。
明子は|一《いち》|応《おう》、|弔問客《ちょうもんきゃく》とも見えるように、|紺《こん》のワンピース|姿《すがた》でやって来て、門の前をウロウロしていた。
しかし、あんまりうろついていても、|香《こう》|典《でん》|泥《どろ》|棒《ぼう》か何かと|間《ま》|違《ちが》えられそうだ。
どうせこんなに大勢来ているのだ。一人ぐらい顔の分らないのが|焼香《しょうこう》したって、おかしくあるまい。
というわけで、明子は|一《いち》|応《おう》焼香の列に|並《なら》んだ。
|凄《すご》い家だ。明子の家の何倍あるか……。
まあいいや。そんなことは考えないようにしよう。
順番が来て、明子は型通り焼香した。|遺《い》|族《ぞく》の方へ一礼しながら、|妻《つま》の知美を見ると、黒のスーツ姿で、大分落ちついてはいるが、青ざめて、目を赤く|充血《じゅうけつ》させている。
明子が頭を下げると、知美も頭を下げたが、ふと明子の顔を見て、思い当ったような|表情《ひょうじょう》になる。
思い出したんだわ。――へえ、意外とボンヤリじゃなかったのね、と明子は、|葬《そう》|式《しき》にしては少々|不《ふ》|謹《きん》|慎《しん》なことを考えた。
表に出て、どうせ|出棺《しゅっかん》までそう時間もないようなので、しばらく待つことにした。
周囲を見回すと、同様に、出棺を待つ人たち……。
――ふと、明子は|妙《みょう》な気がした。
あまりにも、|若《わか》い人が少なすぎるのである。
考えてみれば、死んだ白石は大学生だったのだ。
大学の友人たちなどが、もっと大勢やって来てもいいではないか。それなのに……。
周囲を見回しても、父親関係の知人らしい、中年|過《す》ぎの人ばかり。
どうなっているのかしら?
明子は首をひねった。
「――もし」
と、|誰《だれ》かの手が|肩《かた》に|触《ふ》れる。
「はあ」
|振《ふ》り向くと、ちょうど明子の父親ぐらいの|年《ねん》|齢《れい》の男が立っている。別に黒服ではなかった。
「何か?」
「つかぬことをうかがいますが、|亡《な》くなった|紘《こう》|一《いち》さんのお知り合いで?」
「ええ……。まあ、そんなところです」
「では、ちょっとこちらへ――」
わけが分らなかったが、ともかく、その男について、少し|離《はな》れた所の、小さな公園まで歩いて行く。
そこに、十八、九の女の子が待っていた。
――いや、 顔は|若《わか》くて、 たぶん十八、 九だと思えるのだが、 一見して、 お|腹《なか》の大きいのが分る
「これは|娘《むすめ》です」
と、その男は言った。「あの男に|騙《だま》されて、こうなりました」
「あの男?」
「白石紘一です」
明子が目をパチクリさせて、
「本当ですか?」
と、思わず|訊《き》いた。
「本当よ」
と、その娘は|恨《うら》みがましい目で、
「あの人がまさか|結《けっ》|婚《こん》してるなんて……。時期が来たら親に正式に話をして、結婚しようとか言って――」
「白石さんが?」
「あなたも、やっぱり|騙《だま》された口なの?」
明子はあわてて、
「いいえ」
と首を|振《ふ》った。「私は、ただ仕事の上で、知っていただけよ」
「そうなんですか」
と父親が頭をかいて、「いや、それは失礼。てっきりうちの子と同じような|女《じょ》|性《せい》かと思いまして……」
「そんなに何人も?」
「私の知ってるだけで他に三人もいたのよ」
と、女の子がカッカしながら、「|結《けっ》|婚《こん》の|約《やく》|束《そく》してたっていうのよ、みんな! |許《ゆる》せない!」
これには明子もびっくりした。
あの知美が聞いたら、どう思うだろうか。
「それで――どうするつもりなんですか?」
と、明子は言った。
「もちろん、|訴《うった》えてやるわ」
と、女の子が言った。「もう|子《こ》|供《ども》は七か月よ。おろせないんだもの。あいつが死んだって、親からでも、お金を出させてやらなくちゃ」
「当然の権利だと思いますよ」
と、父親も|腹《はら》|立《だ》たしげに言った。
もちろん、それが事実なら、当然|請求《せいきゅう》する権利はある。
しかし、――明子はちょっとがっかりしていた。
この調子では、白石を|恨《うら》んで、殺す動機のある人間が、他に、もっといるかもしれない。
そうなると、白石の死は、明子が調べている|事《じ》|件《けん》とは|無《む》|関《かん》|係《けい》かもしれないのだ。
「お気持、分りますわ」
と、明子は言った。
「そうでしょう?」
「でも今は――ともかくお|葬《そう》|式《しき》が|済《す》むまで待ってあげた方が良くありませんか?」
「いや、そうはいかん」
と父親が首を|振《ふ》る。
「どうしてです? 白石さん当人はともかく、あの|奥《おく》さんには|凄《すご》いショックですよ、きっと」
「だからこそ、じゃない」
と女の子がお|腹《なか》を|撫《な》でて、「これを見せて、この子の父親は白石紘一です、って大声で|騒《さわ》いでやる、っておどかすの。お客たちの手前、向うも高い|額《がく》でもあわてて|承知《しょうち》するわよ」
明子は、どうもそういうやり方は|好《す》きでなかった。――しかし、この親子に意見する立場でもない。
「パパ、そろそろ|出棺《しゅっかん》よ」
「そうか。待とう。出て来るところを|捕《つか》まえるんだ」
「じゃあね、バイバイ」
と、|娘《むすめ》の方が明子に手を振る。
明子は首を振った。――どうなるのかしら?
明子は、しばらくその場に立って、様子を見ていた。
|棺《かん》が出て来て、|霊柩車《れいきゅうしゃ》に|納《おさ》められる。
白石紘一の父親らしい|男《だん》|性《せい》が、代表して|挨《あい》|拶《さつ》を|述《の》べる。
そして、霊柩車と何台かのハイヤーが、列を作って、走り出し、集まっていた人々が帰り始めた。
「おかしいわ……」
と、明子は|呟《つぶや》いた。
じっと見ていたのだが、妻の知美が、出て来なかったのだ。
そんなことがあるのだろうか?
見落としかもしれない、と思ったが、あれだけ用心して見ていたというのに……。
門の前が、|閑《かん》|散《さん》として来ると、明子は、門の中を|覗《のぞ》き|込《こ》んだ。
受付などを手伝いに来た人たちが、片付けをしている間を|抜《ぬ》け、家の|裏《うら》|手《て》に回ってみる。
「――ともかく、話は分ったんでしょうね、ええ?」
と、|甲《かん》|高《だか》い声。
さっきの、お|腹《なか》の大きな女の子だ。
「ともかく、これで|娘《むすめ》の一生はめちゃくちゃなんですよ」
と言っているのは父親の方だ。「それはあんたのせいじゃない。よく分ってはいるが、しかし、やっぱりあんたのご|亭《てい》|主《しゅ》のやったことだからね」
そっと覗いてみると、庭へ面した和室で、あの親子と、知美が向かい合っている。
「申し|訳《わけ》ありません」
と知美が頭を下げる。「父とも相談しまして、必ずご返事します」
「当り前よ。|冗談《じょうだん》じゃないわ」
女の子の方は、やくざっぽい口調だ。
「ともかく、差し当り、入院や出産の費用として、三百万ほど用意してもらいましょうかね」
と、父親が言った。「後のことは、できれば、こっちも|裁《さい》|判《ばん》|沙《ざ》|汰《た》にせずに、|穏《おだ》やかに|済《す》ませたいんですよ。分ってもらいたいな。――もっと|騒《さわ》ぎ立てて、|金《きん》|額《がく》をつり上げてもいいが、私どもはそこまでやりたくない」
知美は、じっと顔を|伏《ふ》せたままだ。
「まあ、よく相談してもらいましょう」
と父親が立ち上る。「さあ、帰ろう」
「うん」
|娘《むすめ》は、どっこらしょ、と立ち上り、「あんたはどうなの? できてるの?」
と言って、|笑《わら》った。
「おい、行くぞ」
と、父親が|促《うなが》す。「――ああ、|奥《おく》さん、三百万は来週にはほしいですね」
「かしこまりました」
知美は、青ざめた顔で、言った。
――父親と|娘《むすめ》が出て行くと、知美は、|彫像《ちょうぞう》のようにじっとして、動かなかった……。
16 |謎《なぞ》の〈仕事〉
「フフ、あの|女房《にょうぼう》ったら、青くなって、見らんなかったね」
と、歩きながら、娘が言った。
「ちょっと|哀《あわ》れになったよ」
と父親の方がタバコをくわえて、火を|点《つ》ける。
「あら、|仏心《ほとけごころ》なんか出したらだめよ」
と娘の方は|澄《す》まして、「せいぜいお金をふんだくってやらなきゃ」
「しかし、|大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「何が?」
「あの女はともかく、父親となると、あれこれ調べて回るかもしれん」
「その|隙《すき》を|与《あた》えないことよ」
「どうするんだ?」
「このスキャンダルを、あちこちに売り|込《こ》むと言っておどすのよ」
「なるほど」
「向うは、事実かどうかなんてことより、書かれるかどうかであわてるわ。|素《す》|早《ばや》くやるのよ」
「お前は利口だ」
と、|笑《わら》って、「さすがに俺の女[#「俺の女」に傍点]だよ」
と|肩《かた》に手を回す。
「でも、うまい具合に、本当にあいつと一時期|同《どう》|棲《せい》してたしね」
「ぶっ殺してやりたかったぜ」
「殺さなくて良かったでしょ」
「全くだ」
と父親――いや、男は笑った。
「一度じゃもったいないわ。何度だって|絞《しぼ》り取れる」
「じわじわ、とな。――それは|俺《おれ》に|任《まか》せろよ。ベテランだ」
「なるほどね」
と声がして、二人はギョッと|振《ふ》り返った。
明子である。
「お話はうかがいましたよ。――たちの悪い人たちね」
「|黙《だま》ってた方がいいよ」
と女が言った。「この人、おとなしそうに見えても、|怖《こわ》いんだからね」
「そうとも。――お前も|馬《ば》|鹿《か》じゃあるまい?」
「あなたたちほどはね」
「何だと?」
男がカッとしたように前へ出る。
「少し|痛《いた》い思いをさせた方がいいわ」
と、女が言った。「でも、|骨《ほね》は折らないようにね」
「任せとけ」
と男が進み出て、ぐいと明子の|腕《うで》を――つかんだはずだったが、明子の体がスッと|沈《しず》んだと思うと、男の体はぐるっと一回転して、地面に|叩《たた》きつけられた。
「ウ……」
と、|呻《うめ》いて、|喘《あえ》ぐ。
「あなたたちのことを、知美さんへ話して来るわ」
と、明子が|戻《もど》って行く。
「待て! |畜生《ちくしょう》、ふざけやがって!」
男の方は、顔を真っ赤にして起き上ると、明子の|背《せ》|中《なか》へと|駆《か》け|寄《よ》った。
明子はクルリと|振《ふ》り向くと、前かがみになって、男が|突《つ》っこんで来る、|腰《こし》の辺りへ頭を入れた。
男の体はそのまま|宙《ちゅう》を真直ぐに進んで、落下した。
「――のびちゃった」
明子は、ポンと手を|払《はら》って、「鼻の|骨《ほね》が折れたかもね。医者へ行ってレントゲンとった方がいいわ」
と言った。
女の方は真っ青になっている。
「ねえ、あんた」
明子に声をかけられると、ピクッと身をちぢめて、
「助けて! |勘《かん》|弁《べん》してよ!」
と悲鳴を上げる。
「|妊《にん》|娠《しん》中なんでしょ。何もしないわよ。でもね、今度知美さんに近づいたら、|腕《うで》の一本ぐらい折られると思っといた方がいいわ。分った?」
女がコックリと|肯《うなず》く。
明子は|悠《ゆう》|然《ぜん》と立ち去った。
明子が、白石の家へ|戻《もど》ってみると、|奥《おく》の和室に、もう知美の姿はなかった。
|火《か》|葬《そう》|場《ば》へ行ったのかしら?
明子がまた表へ回ろうとしていると、
「知美さんは?」
と、声がした。
「さあ、さっきまでそこにおられましたけど――」
使用人らしい|女《じょ》|性《せい》の声。
してみると、どうやら出ているわけでもないらしい。
「もしかして……」
まさか、とは思ったが、いやな予感がして、明子は|裏《うら》へ|戻《もど》った。
|廊《ろう》|下《か》から、家の中へと走り|込《こ》む。
「失礼……」
さっきの和室を通って、その|奥《おく》の|襖《ふすま》を開け、明子はギョッと立ちすくんだ。
|鴨《かも》|居《い》から|紐《ひも》が下って、そこに知美が――。今まさに乗っていた|椅《い》|子《す》をけったところだった。
「だめ!」
明子は|駆《か》け|寄《よ》って、知美の体をかかえ上げた。「外しなさい!」
「死なせて! お願い!」
と、知美が|暴《あば》れる。
|離《はな》してなるものか、と明子は必死で、知美の足にしがみついて、体を持ち上げていた……。
「まあ、そうだったの?」
知美は、頭を下げた。「ごめんなさい、何も知らなくて」
「いいえ……」
明子は頭を|振《ふ》りながら言った。「それにしても、よく|殴《なぐ》ってくれたわね」
「本当にごめんなさい」
「いいの。石頭だから」
と、明子は|苦笑《くしょう》した。
「今、お茶を――」
「コーヒーある? 少しはスッキリすると思うの」
|探《たん》|偵《てい》は時には殴られ、けられることに、じっと|堪《た》えなくちゃいけないんだわ、と明子は思った。
――和室でコーヒーというのも、少し|妙《みょう》だったが、ともかく、やっと明子の頭も正常な活動を取り|戻《もど》し始めていた。
「ご主人は気の毒だったわね」
「本当に――今でも信じられなくて」
と、知美は言った。「だから、|火《か》|葬《そう》|場《ば》にも行かなかったの」
「どうして?」
「もしかして、死んだのは、あの人とそっくりの別の人で……。よく言うでしょう。世の中には、そっくりの人がいるって」
「ええ」
「だから、ヒョイと帰って来るんじゃないかって――。そして、『今日は|誰《だれ》のお|葬《そう》|式《しき》なんだ?』って|訊《き》くの」
そう言って知美は、ちょっと|笑《わら》った。
もちろん、そんなことがないのは、|彼《かの》|女《じょ》にも分っているのだ。――しかし、明子には、知美の気持も、よく分った。
「ご主人が殺されたときのことを聞きたくて来たの」
と、明子はわざと|事《じ》|務《む》|的《てき》な調子で、言った。
「まあ。どうして?」
「実は、この間、あなた方の所へ行ったのは、お金を返しにじゃなかったの」
明子は、あの式場で死んでいた|謎《なぞ》の|花《はな》|嫁《よめ》のことから説明した。
「――そんなわけで、あの日の何組かの|夫《ふう》|婦《ふ》のことを調べていたのよ」
「そうだったの」
「|騙《だま》してごめんなさいね」
「いいえ、そんなこと……」
と、知美は首を|振《ふ》って、「茂木こず枝……。私も聞いたことないわ」
「そう。――それはともかく、あのとき、ご主人は――」
「ええ、私たちレストランへ入っていて……」
知美は、夫が死んだときのことを、思い出しながら話した。
「――|警《けい》|察《さつ》は何と?」
「ただの通り|魔《ま》|的《てき》な|犯《はん》|行《こう》じゃないか、って……」
「その|可《か》|能《のう》|性《せい》はあるわね」
「でも――ちょっと気になることがあるの、私」
「どんなこと?」
「|彼《かれ》が、アルバイトをやる、と言ってたでしょう」
「ええ、それが?」
「その仕事の中身を、あの人、全然、話してくれなかったの」
「というと?」
「|訊《き》いても、話しちゃいけないことになっている、って……」
「何か――よからぬことでも?」
「そうかもしれないわ。後になって、そう思ったの」
「何かそれらしいことが?」
「いいえ」
と、知美は首を|振《ふ》った。「でも、正直言って、あの人は、仕事するのが|嫌《きら》いだったの。|怠《なま》け者だったわ。人は良かったけど」
なかなか良く見ている。
「あの人が、|誰《だれ》からも|押《お》し付けられずに、仕事を|捜《さが》すなんて、ちょっと考えられないわ。後で主人の父なんかにも|訊《き》いてみたけど、そんな話は知らない、って」
「すると、その仕事のことで、ご主人は殺されたのかしら?」
「そうかもしれないわ。あんな風に|突《とつ》|然《ぜん》、殺されるなんて、おかしいでしょう? 前から誰かと争ってたとかいうのなら、ともかく」
「そうねえ」
「あの人が『仕事』を見付けて来て、すぐ殺された。――それが|偶《ぐう》|然《ぜん》とは思えないの」
知美の言葉に、明子は|肯《うなず》いた……。
17 学友の話
「そろそろ――」
と、知美が立ち上った。
|若《わか》い|未《み》|亡《ぼう》|人《じん》である。しかし、そういう目で見るせいか、それとも、黒いスーツのせいか、とても十七|歳《さい》には見えない。
人間は悲しみに|堪《た》えて大人になるんだわ、と、明子は、一人で|納《なっ》|得《とく》していた。
私なんか大人になるはずだわ。お|小《こ》|遣《づか》いの少ない悲しみ、|恋《こい》|人《びと》のいない悲しみ、|憂《う》さ晴らしに放り投げる相手のいない悲しみ……。
あんまり大したことのない悲しみばかりを数え上げて、明子は一人で肯いていた。
「お|骨《こつ》が帰って来るのね」
と、知美は言った。「あの人が焼かれてるなんて思うと、|辛《つら》くって。|一《いっ》|緒《しょ》に死んじゃいたくなるわ」
そんなもんかしら、と明子は思った。
私なら、どんなにいい|亭《てい》|主《しゅ》が死んだって、一緒に死ぬ気にはなれないけどね。
といっても、亭主のいない身では、そう|断《だん》|言《げん》もできないが。
「一つ|訊《き》きたいことがあるの」
と明子は言った。
「何かしら?」
知美は明子の方を見た。
「ご主人、大学生だったわけでしょう?」
「ええ」
「それにしちゃ、お友達でご|焼香《しょうこう》に来た人が少ないように思ったけど」
知美は、もう一度明子の前に座った。
「私、そんなこと、考えてもみなかったわ」
「私も、別にずっと見てたわけじゃないから、よく分らないけど――」
「いえ、本当にそうよ。その通りだわ」
知美はゆっくりと|肯《うなず》いた。「ほとんど――いいえ、一人も来なかったんじゃないかしら。こんなことってないわよね」
「何か|事情《じじょう》があるのかしら」
知美はじっと考え|込《こ》んだが、やがて首を|振《ふ》って、
「思い当らないわ。――私、放っておきたくない。何人か、主人のお友達も知っているから、|訊《き》いてみるわ」
「私、お手伝いしてもいい?」
「お願いできる?」
こっちからお願いしたいくらいだ。明子はもちろんしっかりと知美の手を|握《にぎ》ったのだった。
|玄《げん》|関《かん》の方に、車の音がした。
「帰って来たんだわ」
知美は立ち上ると、シャンと|背《せ》|筋《すじ》を|伸《の》ばし、夫の|遺《い》|骨《こつ》を|出《で》|迎《むか》えるべく、玄関の方へと歩いて行く。
その後ろ|姿《すがた》には、一種、|悲《ひ》|壮《そう》な美しさすら|漂《ただよ》っていた……。
その二日後のことである。
明子は、知美に|呼《よ》び出されて、白石|紘《こう》|一《いち》の通っていたA大学の校門前にある|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》へ出向いた。
「あら……」
知美を見て、明子は|戸《と》|惑《まど》った。
|淡《あわ》いグレーのセーターに、水色のスカート。ちょっと|小《こ》|柄《がら》ではあるが、大学生といって通りそうな印象だった。
「どうもすみません、わざわざ」
と、知美はピョコンと頭を下げた。
「いいのよ。――|大丈夫《だいじょうぶ》?」
「ええ。いつまで|泣《な》いてたって、あの人が生き返るわけじゃなし……」
|若《わか》さというものなのか、その|微笑《びしょう》には、かげり[#「かげり」に傍点]がなかった。
悲しくないわけではないのだろうが、体の方が生命力に|溢《あふ》れているのだ。
「そう、その調子よ」
と、明子は座りながら、言った。「人生、こういう悲しみを、いくつも|通《つう》|過《か》しなきゃならないんですからね」
何だか分ったようなことを言って、自分で照れくさくなり、
「あの――コーヒー一つ」
と、注文した。
「実は、主人の親しかったお友達に電話してみたの」
と、知美が言った。
「で、何か分った?」
明子が身を乗り出す。
「それが――」
と、知美は|肩《かた》を|寄《よ》せて、「|誰《だれ》も話してくれないの」
「話してくれない?」
「ええ。お|葬《そう》|式《しき》には出たかったんだけど、どうしても外せない用があって、とか……。みんながそう言うの。おかしいでしょう?」
「何か|事情《じじょう》がありそうね」
「それに会ってお話がしたい、って言うとみんな、『ちょっと|忙《いそが》しくて』とか、『その内に』とかって|逃《に》げちゃうの」
「いくら何でも冷たすぎるわね、お友達にしては」
「ねえ、そうでしょう?」
「それで……ここへ来たのは?」
知美は大学の正門を、|窓《まど》|越《ご》しに|眺《なが》めて、
「この席からよく見えるでしょ? よく紘一さんが出て来るのを、ここで待っていたの。だから、ここで、主人のお友達が誰か出て来るのを見ていようと思って」
「そうね。向うがそうも逃げるとなれば、ますます追っかけなきゃ」
明子は|肯《うなず》いた。
「|下手《へた》をすると、ちょっと待たなきゃいけないけど……」
「|構《かま》やしないわ。どうせこちらは停学中で――」
と言いかけて、明子はあわてて口をつぐんだ。
しかし、知美の方は、ちょうど校門を出て来た数人のグループに気を取られている様子だった。
「あの人――いいえ、|違《ちが》うわ」
と、がっかりしたように首を|振《ふ》る。
「まあ、のんびり待ってましょうよ」
ちょうどコーヒーが来たので、明子は、ミルクを入れながら言った。
「あの人!」
と知美が言った。
「え?」
「今入って行く青いセーターの。あれ、きっとそうだわ」
と知美が|腰《こし》を|浮《う》かす。
明子は、まだコーヒーに口をつけていない。置いて行くのはもったいない!
「待って」
と、知美を|抑《おさ》えて、「ここへ連れて来てあげるわ」
「ええ?」
「ここの方がゆっくり話もできるでしょう」
「それはそうだけど――」
「待ってらっしゃい」
明子は、急いで席を立つと、店を出た。
青いセーターの、少々――いや、かなり|肥《ひ》|満《まん》タイプのその学生は、|薄《うす》っぺらい本と、|分《ぶ》|厚《あつ》い|漫《まん》|画《が》|週《しゅう》|刊《かん》|誌《し》をかかえて、大学|構《こう》|内《ない》へ入って行った。
大体、もうお昼|過《す》ぎだ。こんな時間に大学へ出て来て、勉強する気なんかあるのかしら?
明子は、自分のことは|棚《たな》に上げて、思った。
足早にその青いセーターを追い|越《こ》すと、やにわに|振《ふ》り返り、
「あら! |久《ひさ》しぶりねえ!」
と声を上げた。
青いセーターは、自分が声をかけられたとは思わないのか(当然だが)、チラッと明子を見て歩いて行こうとする。
明子は、その|腕《うで》を、ぐいとつかんだ。合気道で|鍛《きた》えているから、そう|簡《かん》|単《たん》には振り|離《はな》されはしない。
「な、何するんです?」
と、|面《めん》|食《く》らって明子を見る。
「本当に|懐《なつか》しいわ、元気そうね!」
「あの――」
「少し太ったんじゃない? 大分かな?」
「何ですか、|僕《ぼく》は――」
「ゆっくり話でもしましょうよ。ちょうどそこの|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》が|空《す》いてるみたいだから」
と、|腕《うで》を|引《ひっ》|張《ぱ》る。
「待って――待って下さいよ! 僕はあんたなんか――」
「どうしているかと思って、ずっと気にはしてたのよ。さあ、つもる話に時を|忘《わす》れましょう!」
ぐいぐい引張って行く。
「ちょっと――|困《こま》りますよ、――僕、これから、|授業《じゅぎょう》が――」
と青いセーターが|抗《こう》|議《ぎ》しようとすると、明子は、その手首をエイッとねじってやった。
「|痛《いた》い! 痛……」
青いセーターは飛び上りそうになった。だらしがないんだから!
「|逆《さか》らって動くと、手首の|骨《ほね》が折れるわよ」
と、明子は低い声に|凄《すご》みをきかせて、言った。「分った?」
青いセーターが|無《む》|言《ごん》でコックリ|肯《うなず》く。
「じゃ行きましょう。会えて良かったわ!」
明子は、青いセーターを、喫茶店の中へと、ぐいと|押《お》しやった。
席から知美が立ち上る。
「西川さんでしたね」
「あ――白石の――」
「知美です。何度か家にみえて――」
「はあ、どうも……」
青いセーター――いや、西川という名前もあるらしいから、そっちで|呼《よ》ぶことにすると――西川は、ヒョイと頭を|突《つ》き出すように頭を下げた。
「ゆっくり座んなさいよ」
明子がポンと|肩《かた》を|叩《たた》くと、西川は、あわてて|椅《い》|子《す》にドシンと|腰《こし》をおろした。キーッと、椅子が悲鳴を上げた。
「ちょっと! |壊《こわ》さないでよ」
と明子は言って、自分の席に腰をおろした。
良かった! コーヒーはまだ冷めていない。
「お|葬《そう》|式《しき》に行けなくてどうも……」
と、西川は頭をかいた。「どうしても行かなきゃいけない所があって――」
「ちょっと」
と、明子が言った。
「え?」
「また|腕《うで》をねじられたいの? 友達のお葬式に出られないような用なんてもんがあるはずないでしょ。正直に言わないと首をねじっちゃうわよ」
西川が、あわてて太い首を手でさすった。
「いや……つまり……」
「西川さん」
と知美が言った。「主人のお|葬《そう》|式《しき》に、お友達が一人も来なかったんです。いくら何でも、これは|偶《ぐう》|然《ぜん》とは思えませんわ。そうでしょう?」
「はあ……」
「わけを知りたいんです。それにあの人は、|事《じ》|故《こ》で死んだのでも、病気で死んだのでもありません。殺されたんです! だけど、|警《けい》|察《さつ》の|捜《そう》|査《さ》は一向に進まないし。
――私、事実が知りたいんです!」
西川はもじもじしていたが、やがて|諦《あきら》めたように、
「分りました」
と、|肯《うなず》いた。「でもその前に――」
「なあに?」
と明子が|訊《き》く。
「チョコレートパフェを|頼《たの》んでもいいですか?」
と、西川は言った。
18 |謎《なぞ》の|相《あい》|棒《ぼう》
「あの人が|退《たい》|学《がく》になってたって?」
知美は目を見開いた。
西川は|肯《うなず》いた。
「もう二か月以上前かな。あいつ、何も言わなかったんですね?」
西川の前には、明子ですら|胸《むね》がむかつくような、チョコレートパフェの「|大《おお》|盛《も》り」が置かれている。
「まるで知らなかったわ」
知美は首を|振《ふ》った。「でも、一体どうして?」
「それがね……」
西川は言いにくそうに、「ばれちゃったんだな、アルバイトが」
「アルバイト? あの人、何のアルバイトを?」
「いや、|普《ふ》|通《つう》のアルバイトなら、みんなやってるんだし、|構《かま》やしないんだけど、あいつの場合はね、ちょっとまずかった」
「どういうことですか? はっきり言って下さい」
西川はため息をついて、
「つまり――あいつはね、大学の中の女子学生に売春のあっせんをしてたんです」
「何ですって?」
知美の声は、|囁《ささや》くように低かった。
「でも、女の子の方から持ちかけた、ってのが本当のところだと思うんですけどね。つまり、あいつ、|割《わり》と調子が良くて、女の子にももてたでしょ。で、少しまとまったお金を手っ取り早く|稼《かせ》ぎたい、って女の子が、|彼《かれ》に|頼《たの》んだんですね、お客、いないかしら、ってわけで。あいつ、顔が広いから、あちこち声をかけて、客を|紹介《しょうかい》してやっている内に、|段《だん》|々《だん》、他の女の子たちも頼みに来る。――それでいつの間にか、何パーセントかの礼金を取って、|組《そ》|織《しき》|的《てき》にやるようになったんですよ」
「あの人が……」
やはり、|若《わか》くて|潔《けっ》|癖《ぺき》な知美にはかなりのショックだったようで、顔からは血の気がひいている。
「あんた、友達でしょ」
と、明子が言った。「どうして止めなかったのよ!」
「そ、そんなこと言ったって――」
西川はあわてて|椅《い》|子《す》をずらし、明子から少し|離《はな》れた。「何か、やってるらしいな、ってことは知ってたけど、|詳《くわ》しくは分らなかったんですよ」
「いい|加《か》|減《げん》なこと言うと――」
「本当ですってば!」
「ともかく――」
と、知美が言った。「それが、ばれたわけですね」
「ついてなかったんだな。たまたまね、その女の子の一人を|紹介《しょうかい》した相手の|男《だん》|性《せい》が、大学の|教授《きょうじゅ》の友達だったんですよ。で、|彼《かの》|女《じょ》のことを、見たことがあって|憶《おぼ》えていた。それを教授へ話したもんだから……」
「それで|捕《つか》まったわけ?」
「いえ、教授がその女の子に付き合えと言ったんです」
「ひどいわね!」
と、明子は|呆《あき》れて言った。
「それを、たまたま、|仲《なか》の悪いもう一人の教授が知って、大学当局へ|訴《うった》えた。で、後はズルズルと……」
「なるほどね」
明子は|肯《うなず》いた。「そんな|事情《じじょう》があるから、大学の中で|処《しょ》|理《り》しちゃったわけね」
「そうなんです。あいつは|退《たい》|学《がく》、教授は健康上の都合で|辞職《じしょく》……」
「で、万事|丸《まる》くおさまった、と」
「そういうわけです」
西川は、ちょっと|上《うわ》|目《め》づかいに知美を見て、
「お|葬《そう》|式《しき》に行かなくてすみません。まだ大学の方はピリピリしてるんです。あいつと|一《いっ》|緒《しょ》に、そのアルバイトをやってた|奴《やつ》がいるというんで」
「一緒に?」
と、知美は身を乗り出した。「それは|誰《だれ》ですか?」
「|僕《ぼく》は知りません」
と言ってから、西川は明子の方を向いて、「本当ですよ」
と付け加えた。
「誰も|嘘《うそ》だなんて言ってないわよ」
「だから、あいつと付き合いのあった連中はびくびくしてるんです。|共犯《きょうはん》と思われて|退《たい》|学《がく》になるんじゃないか、って」
「だらしない! 私なんか停――」
と言いかけて、明子は|咳《せき》|払《ばら》いした。「ともかく、それでお葬式にも来なかった、ってわけ? |友情《ゆうじょう》も地におちたわね」
「すみません」
西川はすっかり小さくなっている。
小さくなっても、|大《おお》|盛《も》りのチョコレートパフェを食べる手の方は休まずに動いて、|容《よう》|器《き》はほぼ空になっていた。
「|警《けい》|察《さつ》はそのこと知らないわけね」
と、明子は言った。
「てっきり、通り|魔《ま》|犯《はん》|罪《ざい》だと思ってるわ」
と、知美は|肯《うなず》いて、「でも、あの人が、『アルバイトを見付けた』と言ってたことと、そのすぐ後に殺されたことを考えると、|無《む》|関《かん》|係《けい》じゃないようね」
「その線から調べた方が良さそうだわ」
明子は、考え|込《こ》みながら言った。
「ええと――|僕《ぼく》はこれで――」
パフェを平らげた西川が立ち上りかける。
「ちょっと待ちなさいよ」
「ま、まだ何か?」
「あんたは、その|相《あい》|棒《ぼう》に心当りないの?」
「全然」
「本当ね?」
「もちろん!」
「そう……」
明子は少し考えて、「じゃ、もう一つ|訊《き》くわ。そのアルバイトの世話をされていた女の子の方はどうなったの?」
「ああ。――そっちは、|誰《だれ》と誰だかはっきりしなかったせいもあって、目をつぶっちゃったみたいですよ」
「いい|加《か》|減《げん》ね! その|教授《きょうじゅ》のお相手した女子学生は?」
「|下手《へた》に|退《たい》|学《がく》にでもなりゃ、外でしゃべりまくると心配したんじゃないのかな。まだちゃんと通って来てますよ」
「へえ! |図《ずう》|々《ずう》しい!」
明子は|呆《あき》れて言った。
「|誰《だれ》だか分ってるんでしょう?」
と知美が|訊《き》いた。
「ええ、まあ……」
「じゃ、教えてよ。いえ、会わせてもらいたいわ」
と、明子があっさりと言った。
「|僕《ぼく》が?」
「そう。何も、|面《めん》|倒《どう》なことじゃないでしょ。名前だけ聞いたって、こっちには分らないんだもの。当人を指さして教えてくれるだけでいいのよ」
「だけど……」
と、西川は|渋《しぶ》っている。
「何なの?」
「それでもし僕が退学にでもなったら……」
「いやならいいのよ。大学当局へ電話をするだけ」
「電話?」
「そう。西川って学生が、売春の|黒《くろ》|幕《まく》だったんですってね」
「やめて下さい! せっかく、いい会社から話が来ているのに!」
と、西川は青くなって言った。
「じゃ、|頼《たの》みを聞いてくれる?」
頼みというより|脅迫《きょうはく》である。
西川は|情《なさけ》ない顔で|肯《うなず》いた。
「じゃあ……明日なら、|彼《かの》|女《じょ》きっと出て来ますよ。あの課目、出ないと単位落としちゃうから」
「|詳《くわ》しいのね」
「|僕《ぼく》のガールフレンドですからね」
明子は目を|丸《まる》くした。
人は見かけによらぬもの――とは古い言い回しだが、正にそれしか言いようがなかった!
「|川《かわ》|並《なみ》はるかです」
と、前日と同じ、校門前の|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》に入って来た女の子は、頭を下げて言った。
|小《こ》|柄《がら》で、とても十九には見えない。しかも、白いセーター、赤のスカートがよく|似《に》|合《あ》って、いかにも良家のお|嬢《じょう》様タイプ。
この子が売春?――少々のことには動じない明子ですら、半信|半《はん》|疑《ぎ》だった。
「西川君から話は聞きました」
と、はきはきしている。「白石君の|奥《おく》さんだったんですってね」
「私じゃないわよ」
と、明子はあわてて言った。「こっちの方――」
「まあ|若《わか》い!」
と、知美を見てびっくりした様子。「白石さん、気の毒でしたね。とてもいい人だったのに」
「どうも」
知美の方も、少々|呑《の》まれている。
「話は西川君から聞きましたけど、何を知りたいんですか?」
「つまりその――」
明子は|咳《せき》|払《ばら》いをして、体勢を整えた。「白石さんがあなたに仕事を世話していた、と……」
「そうです」
「白石さんには、その――|相《あい》|棒《ぼう》というか、|一《いっ》|緒《しょ》にやってる人がいたらしいけど、それが|誰《だれ》かは知らない?」
「いたのは事実です」
と、川並はるかは|肯《うなず》いて、「でも誰なのかは……。会ったこともないし。いつも|連《れん》|絡《らく》は白石君からもらってましたもの」
「名前とか、何か|憶《おぼ》えていることはないかしら?」
「さあ……」
川並はるかは、首をかしげて、「名前なんかは知らないけど、たぶん、大学の人じゃないと思います」
「大学の人じゃない、って、どうして分るの?」
「たぶん、ですけど」
と、川並はるかは、言った。「だって、相手のお客[#「お客」に傍点]の方は、|普《ふ》|通《つう》のサラリーマンとか、そういう人でしょ? 大学の中で|捜《さが》してたって見付からないと思うんです」
なるほど、と明子は思った。
「それにね、一度白石君とホテルに行ったことあるんですけど――ああ、|結《けっ》|婚《こん》する前ですよ――|彼《かれ》、ホテルの|部《へ》|屋《や》からどこかへ電話してたのね。あれ、たぶん、その|相《あい》|棒《ぼう》にかけてたんだと思うんです」
「何て言ってた?」
「よく分りません。シャワー浴びてて、うるさかったから。でも、『仕事が|忙《いそが》しいだろうけど』とか、『こっちはあんたと|違《ちが》って学生なんだ』と言ってるのが耳に入ったんですもの」
「なるほどね……」
「でも白石君って|凄《すご》く上手だったわ! 私、結婚したって聞いて、凄く|奥《おく》さんに|嫉《しっ》|妬《と》してたんです。西川君なんて、重たいばっかりで|下手《へた》くそで……。本当にすてきな人でしたねえ、白石君、って……」
「はあ」
知美は、ただ|唖《あ》|然《ぜん》としているばかりだった……。
19 |悲《ひ》|壮《そう》な決意
「死にたい」
と、白石知美は言った。
「やめてよ、この間やりかけたばっかりじゃないの」
と、明子は顔をしかめた。
しかしいかに|鈍《どん》|感《かん》な――いや|神《しん》|経《けい》の太い――いや、しっかりした明子でも、知美の気持は分らないでもない。
愛し、信じていた夫が、実は大学内で女子学生の売春のあっせんをし、|退《たい》|学《がく》になっていたというのだから……。
「気持はよく分るわよ」
と、知美の|肩《かた》に手をかけて、「私だってあなたの立場だったら――」
でも、死にたいとは思わないわね。
よくも今まで私を|騙《だま》してくれたわね! 死んでせいせいしたわ、というところか。
白石は殺された。
なぜだろう?――その売春のあっせんと関係があるのか。
「よく考えてみましょうよ」
と、明子は、知美と二人で公園のベンチに座り|込《こ》んだ。
「死にたい……」
「大学は|退《たい》|学《がく》になっても、女の子たちと|連《れん》|絡《らく》が取れないわけじゃない。それなら、退学になって、ますますそのアルバイトに、|精《せい》を出していたとも考えられるわ」
「死にたい……」
「そうなると、殺された理由も、それに関係があると思って良さそうね。差し当り、その|相《あい》|棒《ぼう》っていうのを、何とかして|捜《さが》し出す必要があるわ」
「死んじゃいたい……」
「|警《けい》|察《さつ》に話せば、ご主人のしていたことが分っちゃうし、ここは私たちで|頑《がん》|張《ば》って、何とか――」
「死にたいわ……」
明子は|突《とつ》|然《ぜん》大声で、
「死ぬなーっ!」
と|怒《ど》|鳴《な》った。
知美が|仰天《ぎょうてん》して飛び上り、その|拍子《ひょうし》にベンチの|端《はし》から落っこちた。
明子もびっくりして|駆《か》け寄ると、
「|大丈夫《だいじょうぶ》?」
と|抱《だ》き起す。
「え、ええ……」
知美は目をぱちくりさせながら立ち上って、「|凄《すご》い声ね」
「だって、あなたが『死ぬ、死ぬ』ばっかり言ってんだもの。だめよ、いくつだと思ってんの? そんなこと言うには十年――いえ五十年は早いわ」
知美は、ちょっと|泣《な》き|笑《わら》いのような顔になった。
「分ったわ。ごめんなさい」
「分りゃいいのよ。――じゃ、何か|甘《あま》いものでも食べましょ」
明子にとっては、生きる希望は|常《つね》に、|食欲《しょくよく》と結びついているのである。
「――おお、熱い」
明子と知美は和風|喫《きっ》|茶《さ》なる所へ入って、おしるこを食べた。
「その点はあなたの言う通りだと思うわ」
と、知美は|肯《うなず》いて、言った。
「ね? |警《けい》|察《さつ》へ知らせれば、ことが公になるし――」
「できないわ、とても。|彼《かれ》のご両親はいい人なんですもの」
知美は首を|振《ふ》った。「でも、それじゃあ、どうやって、主人の|相《あい》|棒《ぼう》だった人を|捜《さが》すつもり?」
「それなのよ」
と、明子は|肯《うなず》いた。「何かいい方法ないかしら」
二人はしばらく考え|込《こ》んだ。
「ともかく――」
と、明子は言った。「ご主人が死んだことで、あの大学の女子学生は、仕事[#「仕事」に傍点]を失ったかもしれないわね」
「それきり、何も[#「何も」に傍点]しないかしら?」
「そこよ!」
明子はパチッと指を鳴らして、「いい? 女子大生を売り物にしてるあの手の商売って|沢《たく》|山《さん》あるけど、たいていは|眉《まゆ》ツバものなのよ」
「へえ」
「本物の女子大生なら、男たちが鼻の下を長くして、大いに|稼《かせ》げる。その|貴重《きちょう》な|供給源《きょうきゅうげん》を、その|謎《なぞ》の相棒が、そう|簡《かん》|単《たん》に|諦《あきら》めるわけがないわ」
「というと?」
「ほとぼりがさめれば、必ず、またあの大学の女子学生たちに、手を|伸《の》ばして来るに決ってるわよ」
「そこを|捕《つか》まえるの?」
「捕まえたって、ご主人が殺されたことの真相をペラペラしゃべってくれるとは|限《かぎ》らないでしょ」
「それはそうね」
「まず、|素《そ》|知《し》らぬ顔で近づく必要があるわ」
と、明子は言った。
何やら思い付いた顔つきである。
「近づく、って……。でも、一体、どうやって?」
と知美は|訊《き》いた。
「その|相《あい》|棒《ぼう》も、あの大学で、|誰《だれ》と誰がアルバイトをしてたのか、当然、知ってたはずだわ」
「あの川並はるかさんみたいな人ね?」
「まず、その子たちに、声をかけるでしょうね」
「あの人たちも、アルバイトの|収入《しゅうにゅう》がなくなってるわけですものね」
「そうよ。一度、男と付き合って何万円かになるわけでしょ。そんなアルバイト、他にないものね」
「話が来れば喜んで飛びつくでしょうね、きっと」
「そこが|狙《ねら》い目だわ」
と、明子は考え|込《こ》んだ。
しばらく、考えてから――もっとも、その間は、|黙《もく》|々《もく》とおしるこを食べていたのだが――明子は、
「よし!」
と力強く言った。
「どうしたの?」
「それしか手はないわ」
「どういうこと?」
「その|組《そ》|織《しき》に入り|込《こ》むの」
――知美は、ちょっとの間、ポカンとしていたが、
「つまり……」
「女子大生なのよ、私だって。お金の|欲《ほ》しい|可愛《かわい》い女子大生」
可愛い、という所は、少々気がとがめたのか、声がやや低くなった。
「あなたがやるの?」
知美は目を|丸《まる》くした。「いけないわ、そんな!」
「本当にやりゃしないわよ。ただ、|相《あい》|棒《ぼう》というのを見付けりゃいいわけなんだから。分る?」
「ええ、でも……」
知美は不安げに言った。「あなたに、もしものことがあったら……」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。私はね、そう|簡《かん》|単《たん》には死なないんだから」
「でもスーパーマンじゃないんでしょう?」
「失礼ね、これでも女よ」
と、明子は|腕《うで》を組んだ。
「だけど、どうやって組織に入るの?」
「それはこれから考えるわ」
明子は|呑《のん》|気《き》に言った。
「でも――気を付けてね」
と、知美は言った。「あなたに万が一のことがあったら申し|訳《わけ》なくて、私――」
そう。そういえば、白石は殺されたのだ。
それに茂木こず枝も|謎《なぞ》の死をとげ、|保《ほ》|科《しな》光子も殺された。
それぞれが、どう関り合っているのかは分らないが、何も関係がないとは、思えなかった。
つまり――|下手《へた》をすれば「消される」こともある、というわけだ。
しかし、言ってしまった以上、後には|退《ひ》けない。
何とかなるさ、と明子は、口の中で、|呟《つぶや》いた。
「アルバイトしようと思うの」
と明子が言った。
「ふーん」
尾形は、食事を終えて、一息つくと、「|探《たん》|偵《てい》ごっこには|飽《あ》きたのかい?」
と言った。
「失礼ね!『ごっこ』とは何よ!」
と明子は食ってかかった。
「ごめんごめん」
尾形は|笑《わら》って、「しかし、改まって|僕《ぼく》にそんなことを言うなんて、どことなく|怪《あや》しげだなあ」
――ちょっと高いレストランである。
当然、尾形のおごりだった。
「で、何をやるんだい?」
尾形はワインのグラスを取り上げて、言った。
「うん、ちょっと女子大生売春ってのをやってみようと思って」
尾形はむせかえって、|咳《せき》|込《こ》んだ。
「|大丈夫《だいじょうぶ》?」
と、明子が身を乗り出す。
「君が――びっくりさせるじゃないか」
尾形は水をガブ飲みして、息をつくと、「|冗談《じょうだん》はそれらしく言ってくれよ」
と、言った。
「あら、本気よ」
尾形はポカンとして、
「しかし――まさか――」
「安心して。これは|手《しゅ》|段《だん》なの」
「手段って、何の手段?」
「今、話したでしょ。白石のやっていた売春|組《そ》|織《しき》ってのが、どうも、そもそもの|花《はな》|嫁《よめ》変死|事《じ》|件《けん》に関係があるような気がするのよね」
「だからって――」
「他に方法、ないじゃない」
尾形はグッと|詰《つま》ったが、
「――し、しかし、やはりそれは問題だよ」
「どうして?」
「いいかい、もし、その組織に|潜《もぐ》り|込《こ》めたとしても、すぐに、その相棒[#「相棒」に傍点]というのに会えるとは|限《かぎ》らないぜ」
「そりゃそうよ」
「じゃ、仕事がもし[#「もし」に傍点]来たら、どうするつもりだ?」
「もし[#「もし」に傍点]って何よ? あなた、私みたいな女じゃ声がかからないと思ってんの?」
「変なところでむき[#「むき」に傍点]になるなよ」
「当然、仕事が来りゃ、やるしかないじゃないの」
尾形は顔をこわばらせた。
「だめだ! 君にそんなことはさせられない!」
「じゃ、あなた、代りにやる?」
「|僕《ぼく》が?」
「いくら|女《じょ》|装《そう》したって|無《む》|理《り》でしょ」
尾形は、ゴクリとツバを飲み|込《こ》んだ。|椅《い》|子《す》に座り直すと、
「よく聞け」
と言った。「どうしても、そんなアルバイトをやる、というのなら、二つに一つだ!」
「どの二つ?」
「僕と別れるか、アルバイトをやめるか」
尾形の|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔を見ていた明子は、ゲラゲラ|笑《わら》い出した。
「いやだ!――本気でそんなことをやると思ったの?」
「君は――全く、もう!」
尾形は真っ赤になって、「ひどいぞ、年上の|男《だん》|性《せい》をからかって!」
「でも、なかなか|可愛《かわい》かったぞよ」
と、明子はワイングラスを取り上げた。「|乾《かん》|杯《ぱい》しましょ」
「何に?」
「私と尾形君の未来に」
「人をのせる[#「のせる」に傍点]のがうまいんだからな」
尾形は、|苦笑《くしょう》しながら、それでも楽しげにグラスを手に取った。
20 明子の|危《き》|機《き》
「お|嬢《じょう》さん」
と、声をかけて来たのは、一向にヤクザ風でもない、ごく|普《ふ》|通《つう》の中年の|主《しゅ》|婦《ふ》だった。
「私ですか?」
と、明子は顔を上げた。
A大学の|裏《うら》|門《もん》に近い、スナック。
まだ昼前なので、ガラ空きである。
「そう。――ちょっとお話があるの」
明子は、|困《こま》ったな、と思った。
例の「アルバイト」の口をかけて来る人間に、見られようとして、ここ三日間、A大学の近くの店をうろついているのだが、一向に声もかからない。
たまにかかれば、こんな、どこかのおかみさんタイプの|女《じょ》|性《せい》。
きっと、生命|保《ほ》|険《けん》の話でもする気じゃないのかしら。
いいとも言わない内に、その主婦は、明子の向いの席に座っていた。
「あなたここの大学生なの?」
「ええ」
と、明子は|肯《うなず》いた。
「大学に行かないの?」
「面白くないんだもの」
と、明子は、ちょっとワルぶって見せた。
「何をしてるわけ?」
「何をしようかって考えてるの」
「そうなの。でも、お金、あるの?」
「少しならね」
と明子は|肩《かた》をすくめて見せた。
「お金、ほしい?」
「もちろんよ」
これは、ちょっと|怪《あや》しいな、と明子は思った。
「いいアルバイトがあるの。どう? やらない?」
「|封《ふう》|筒《とう》|貼《は》り? あて名書き?」
|主《しゅ》|婦《ふ》は|笑《わら》って、
「そんなんじゃ、一か月かかって、やっと何千円かよ」
「アルバイトなんて、大体そんなもんじゃないの」
「一時間で二万円。どう?」
明子は、目をパチクリさせて、|主《しゅ》|婦《ふ》の顔を|眺《なが》めた。
この主婦が、売春のあっせん?――まさか!
「どういうバイト?」
と、明子は聞いた。
「楽しいわよ。面白くてためになって、お金になるわ」
明子は、フフ、と|笑《わら》って、
「じゃ、決ってるわね」
と、言った。
「そう。そういう[#「そういう」に傍点]バイトよ」
と、主婦は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「どうやって、相手と会うの?」
「待って。その前に、言っとくけど、三万円の|約《やく》|束《そく》なの。その内、一万円をこっちへ|納《おさ》める」
「いいわ。もっとチップをもらったら?」
「それはあなたのものよ」
「へえ。――でも、何だか心配だな」
「今は|危《あぶな》い時期?」
話が生々しくなって来て、明子はエヘンと|咳《せき》|払《ばら》いした。
「そうじゃないけど――変な相手じゃいやだしさ。こう――まともじゃないのは」
「その点は|大丈夫《だいじょうぶ》。うちのお客は、上等だし、お金もあるわ。それに|年《ねん》|齢《れい》の行ってる人が多いから、上手よ」
「そう?」
「それに、|若《わか》いのみたいに、ただやればいいってのと|違《ちが》って、ムードがあるわ。|絶《ぜっ》|対《たい》に、楽しめるわ」
明子は、|迷《まよ》っているふり[#「ふり」に傍点]をして、
「でも、一つ心配なのよ」
と言った。
「なあに?」
「|暴力団《ぼうりょくだん》とかさ、そんなののヒモつきだと、あとで|怖《こわ》いじゃないの」
「その点は大丈夫」
「でも、おばさんだって、|責《せき》|任《にん》|者《しゃ》じゃないんでしょ?」
「私は外交員よ」
|保《ほ》|険《けん》だね、まるで。
「上の人に会わせてよ。そしたら安心できるから」
「それは、まず|腕《うで》を見てから」
「腕?」
「そう。お客が満足して、また会いたい、って言うようなら、合格よ」
明子は、ゴクリとツバを飲み|込《こ》んだ。――こうなると、やめるわけにもいかなくなってしまう。
「いいわ」
と明子は言った。「じゃ、これが試験ってわけね」
「じゃ、商談成立ね」
と|主《しゅ》|婦《ふ》は、|肯《うなず》いて、「待ってて」
店の赤電話の方へ歩いて行くと、どこやらへ電話をしている。
|呆《あき》れたもんだわ、と明子は思った。
あんな|普《ふ》|通《つう》の主婦が、こんな仕事をしているんだ!
「はい。――じゃ、すぐにそこへ。――はい、それじゃ」
主婦は急ぎ足で|戻《もど》って来た。
「良かったわ、ちょうど今、お客がいるの」
「え?」
「案内するわ。行きましょ」
と|促《うなが》される。
明子は|迷《まよ》ったが、ここで、いやだと言い出せば、もう声はかかるまい。
何とかなるさ! 明子は|椅《い》|子《す》をずらして立ち上った。
連れて行かれたのは、ちょっと小ぎれいなマンションの一階にある|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》。
|主《しゅ》|婦《ふ》は店に入って、中を見回すと、|週刊誌《しゅうかんし》を開いている中年の男の方へ歩いて行った。
「お待たせして」
「君が?」
と中年男が目を|丸《まる》くした。
「|違《ちが》いますよ」
と主婦は|笑《わら》って、「入口に立ってる子です」
と、明子の方へ目をやった。
「いかがです?」
「――うん、なかなかいい」
と、中年男は|肯《うなず》いた。「|結《けっ》|構《こう》だね」
こっちはコケコッコーだわ。明子は、|仏頂面《ぶっちょうづら》で立っていた。
「じゃあ……」
と主婦は明子の方へやって来ると、「一時間したら、ここに来て待ってるわ」
と言って、ポンと|肩《かた》を|叩《たた》いた。
「しっかりね」
「どうも――」
成り行きとはいえ、少々|困《こま》った|事《じ》|態《たい》であった。
中年男は、見たところ、そういやな男でもない。
まずは上級のサラリーマンである。
「出ようか」
と、席を立ってやって来る。
「はあ」
どうしようか?
明子が|割《わり》|合《あい》のんびりしているのも、いざとなれば、|合《あい》|気《き》|道《どう》がある、と思っているからである。
ともかく、まず、どこへ行くのかを|確《たし》かめよう、と思った。
それから、例の「|相《あい》|棒《ぼう》」の手がかりがつかめるかもしれない。
ところが、その中年氏は、外へ出ずにそのままマンションのホールへと入って行ったのだ。
「どこに行くの?」
と、明子は|訊《き》いた。
「何だ知らんのか?」
「ええ」
「じゃ、本当に初めてなんだな」
と、中年氏はニヤリと|笑《わら》った。
「このマンションの中に|部《へ》|屋《や》があるのさ」
「ここに?」
これは有力な手がかりだ、と思った。
マンションであるからには、その部屋の持主がいるはずだからだ。
よし、後で調べてみよう。
エレベーターで四階に上る。
「――四〇二号室だよ」
と、中年氏が|廊《ろう》|下《か》を歩きながら言った。
静かだった。どの部屋にも、人がいないのかしらと思うほどである。
「ここだ」
中年氏が|鍵《かぎ》を出して、ドアを開ける。「この鍵が三万円とはね。――まあ、入って」
明子は、上り|込《こ》んだ。
ごく|普《ふ》|通《つう》の、2LDKぐらいのマンションである。
「ここがいつも?」
と、明子は|訊《き》いた。
「ああ。他にもいくつか部屋があるんだ」
「このマンションの中に?」
「あちこちさ。――さあ、時間がない」
いきなり後ろから|抱《だ》きしめられて、明子はあわてて身をよじった。
「あ、あの――ちょっと――いくら何でもムードが――」
「なるほど」
と中年氏はすぐに手をほどいて、
「じゃ、アルコールをちょっとやろうか」
「そ、そうね……」
明子はホッと息をついた。
どの辺でやっつけるかな。――もう少し聞き出してから。
このおっさん、何度かここを利用しているらしい。
「――さあ、カクテルだ。|甘《あま》いからね」
とグラスを二つ持って来た。
アルコールなら、明子は少々のことではへばらない。
「じゃ、|乾《かん》|杯《ぱい》だ」
「ええ。――乾杯」
と、明子はグッとグラスをあけた。
頭がクラクラした。足がもつれる。
手から、グラスが落ちた。立っていられない。
「私――どうして――」
明子は、|床《ゆか》に座り|込《こ》んでしまった。
「薬に|慣《な》れてないね」
と、中年氏が楽しげに言った。「よく|効《き》いたな」
「薬ですって?」
「そう。薬で動けなくなったところで楽しむのが|好《す》きでね。――シャワーを浴びて来よう。その間に、君は身動きできなくなる」
|口《くち》|笛《ぶえ》を|吹《ふ》きながら、中年氏がドアの一つの向うへ消える。
明子は|這《は》って出口の方へ進もうとしたが、一メートルと行かずに、手足がしびれて、動けなくなってしまった。
21 天の助け
さすがに|呑《のん》|気《き》な明子も|焦《あせ》っていた。
バスルームからは、中年男がシャワーを浴びている音が聞こえる。早く|逃《に》げ出さないと、体が薬で言うことをきかない内に、思いのままにされてしまう!
|畜生《ちくしょう》、薬を使うなんて、男のくせに、|汚《きた》ないぞ!
しかし、今はそんな文句を言ってみたところで、助かるわけではない。自分の力で何とか切り|抜《ぬ》けるしかないのだ。
さあ、明子、|頑《がん》|張《ば》って!
もう一度、必死で|這《は》いずってみる。少しだが、体が動いた。
そうよ! その調子!
しかし、|玄《げん》|関《かん》までは、まだまだ|距《きょ》|離《り》があった。
男の方はよほどこういうことに|慣《な》れているらしい。ちゃんと、動けなくなる|程《てい》|度《ど》の薬の量を心得ているのだろう。
居間から体半分ほど這い出たところで、バスルームから男が出て来た。
「――おや、大分|頑《がん》|張《ば》ったな」
と男は|笑《わら》った。「しかし、残念ながら、とても間に合いそうもないね」
ああ、|悔《くや》しい! 何とか手はないのかしら!
明子は、|唇《くちびる》をかんだ。尾形の言うことを聞いて、おとなしくしてりゃ良かったかな。
でも、明子だって、そんないくじなしではない。
自分から|危《き》|険《けん》を|承知《しょうち》で飛び|込《こ》んだのだ。自分で何とか|対《たい》|処《しょ》しなくては。
「さて、ゆっくり楽しむには、君をベッドの方へと運んで行かなきゃね」
男は、|裸《はだか》にバスタオルを|腰《こし》に|巻《ま》いただけというスタイルで、明子の|傍《そば》に立ってニヤついている。
「さあ、もう|諦《あきら》めろ。――後になりゃ、楽しかったと|感《かん》|謝《しゃ》するようになるさ」
|冗談《じょうだん》じゃないわよ、|誰《だれ》があんたみたいな――。しかし、明子は、口も思うようにきけなかった。
「さて、どうするかな」
と男は明子を|眺《なが》めて、「ここで|裸《はだか》にしてから連れて行くか。それともベッドでか。――やっぱり|順序《じゅんじょ》通り、まずベッドへ運ぼう」
男は、明子の体を|仰《あお》|向《む》けにすると、|両腕《りょううで》で、明子の体をかかえて、持ち上げようとした。
外国|映《えい》|画《が》で、よく|逞《たくま》しい|男《だん》|性《せい》がヒョイと美女をかかえ上げているが、あれは日本の男性には少々|危《き》|険《けん》である……。
「お、|割《わり》|合《あい》重いな」
そうよ! |鍛《きた》えてあるんだからね!
男が真っ赤な顔をして、エイッ、とかけ声をかけて持ち上げる。
そのとたん、悲鳴が上った。
|状況《じょうきょう》から言えば、ここで悲鳴を上げるのは明子の方だが、実際に悲鳴を上げたのは、男の方だった。
もっとも、いきなり放り出された明子だって、|痛《いた》さに、ウッと|呻《うめ》いたのだったが。
男の方は、それどころではない。ウーンと|唸《うな》りながら、|床《ゆか》に|倒《たお》れて、|身《み》|悶《もだ》えしているのだ。
明子は|苦《く》|痛《つう》の中でも、一体何が起ったのかしら、と考えた。――男が、|腰《こし》に手を当てて、唸りながら、|喘《あえ》いでいる。
そうか。「ぎっくり|腰《ごし》」だわ。
こんなときだったが、明子は|笑《わら》い出しそうになってしまった。だからやめとけ、って言ったのに!
|合《あい》|気《き》|道《どう》をやっていて、明子も、こういうはめ[#「はめ」に傍点]になるといかに苦しいか、よく知っている。
あの様子では、相当にひどいらしい。
当分は動けまい。――そうなると、明子の方が有利な立場である。
明子は薬のせいで|痺《しび》れているだけなのだから、|効《き》き目が|薄《うす》れて来れば、元に|戻《もど》る。
しかし、あの、ぎっくり腰というやつは、そう|簡《かん》|単《たん》に治らないのだ。
――薬の|効《こう》|果《か》は、意外に早く消え始めた。十分もすると、手足の感覚が戻って来て、上体を起せるようになった。
相手も何とか動こうとはしているが、|苦《く》|痛《つう》で|脂汗《あぶらあせ》を|浮《う》かべて、|呻《うめ》いているばかり。
「――|天《てん》|罰《ばつ》よ、いつもこんなことしてるから」
口がきけるようになると、明子は言った。
「|頼《たの》む……。|誰《だれ》か|呼《よ》んでくれ……」
と、男は|喘《あえ》ぎ喘ぎ言った。
「前にもあったの?」
「い、いや、初めてだ」
「相当ひどいわね」
と明子が首を|振《ふ》った。「それじゃ当分入院よ」
「ねえ君……お願いだから……あ、いたた……」
「いいわよ、人を|呼《よ》んでも」
と、明子は|肯《うなず》いて、「でも、|誰《だれ》を呼ぶの? |奥《おく》さんでも?」
「おい! ふざけてる場合じゃ――」
「だって、そうじゃない。救急車を呼んだっていいけど、そうなったら、あなたの家にも|連《れん》|絡《らく》が行くのよ。どうして、こんなマンションで、バスタオル一つで|倒《たお》れてたのか、どう奥さんに説明するの?」
男はハアハア言いながら、
「しかし――じゃ、どうすりゃいいんだ!」
「知らないわよ」
明子は頭を振った。「|若《わか》い女の子に薬なんかのませて、まともな男のすることじゃないわ」
そして、ゆっくりと手足に力を入れてみる。
――何とか立てそうだ。
「ああ、生き返った」
ソファに|腰《こし》をおろすと、明子は、息をついた。――天は|我《われ》を|見《み》|捨《す》てなかった!
男の方は転がろうとして|呻《うめ》き、起きようとして|叫《さけ》び、本当にひどいようだった。
「こ、こんなことをしていられないんだ!――夕方には会社へ|戻《もど》らないと……」
男は必死の|形相《ぎょうそう》で立ち上ろうとして、アーッと悲鳴を上げ、また転がる。
「会社の方にもまずいでしょうね」
と、明子は|愉《ゆ》|快《かい》そうに言った。「仕事さぼって、こんな所で女子大生と遊んでた、なんてね」
「ね、ねえ、君」
と男は|情《なさけ》ない声で言った。「何とか立たせてくれないか。手を|貸《か》してくれ」
「|無《む》|理《り》よ」
と、明子は言った。「そんなにひどいのは、しばらく|寝《ね》てないと治らないわ。お気の毒ですけど」
「そ、そんな……冷たいことを言わないでくれ!」
「仕方ないでしょ、自分のせいなんだから」
明子は、すっかり手足の|痺《しび》れも取れて、立ち上ると、ウーンと|伸《の》びをした。
「でも|見《み》|捨《す》てて帰るのも|可哀《かわい》そうね」
と、男の方へ歩いて来る。
「何をするんだ?」
男が|怯《おび》えたように明子を見上げる。
「たっぷりお礼をさせてもらうわ」
明子が指をポキポキ鳴らした。
「やめてくれ!――|触《さわ》られただけで死んじまうよ!」
「あなた、会社へ行きたいんでしょ」
と、明子は言って、うつ|伏《ぶ》せになった男の|腰《こし》の辺りをまたいで立った。「少々|荒療治《あらりょうじ》をするわよ」
「おい! 何をする気だ!――やめてくれ!」
「静かにしてなさいよ」
明子が右足で男の腰をぐいと|踏《ふ》んだから、男の方は、正に|断《だん》|末《まつ》|魔《ま》の悲鳴。
「助けて! 人殺し!」
「どっちが、助けてだか……」
明子は|苦笑《くしょう》した。「いいこと、|我《が》|慢《まん》するのよ――」
――次の|瞬間《しゅんかん》、男は|凄《せい》|絶《ぜつ》な|叫《さけ》び声と共に|気《き》|絶《ぜつ》してしまった。
「いや、何とも|恥《は》ずかしいよ」
ソファに腰をかけた中年男、やっと、シャツとパンツを身につけて、頭をかいた。
「どう、腰の方は?」
と明子が|訊《き》く。
「うん。大分楽になった。何とかタクシーでも拾って、会社まで行くよ」
「でも、ちゃんと病院へ行かなきゃだめよ。放っとくと、また同じようになるわよ」
「ああ、そうする」
と男はため息をついた。「いや、もうこりごりだ」
「これで、少しは心を入れかえるのね」
「君は変ってるな」
と、男は明子を見た。「どこで、ぎっくり|腰《ごし》を治す方法なんて|憶《おぼ》えたんだい?」
「|合《あい》|気《き》|道《どう》やってるの」
男は目を|丸《まる》くした。
「手を出さなくて良かった!」
そして、ちょっと|戸《と》|惑《まど》い顔で、「どうして|僕《ぼく》と|一《いっ》|緒《しょ》にここへ来たんだい?」
と|訊《き》いた。
「あなたに訊きたいことがあってね」
「僕に?」
「教えてくれる?」
「何だい、一体?」
明子は、もう一つのソファに|腰《こし》をおろすと、言った。
「あなた、ここを何度ぐらい使ってるの?」
「ここ、っていうと――この|部《へ》|屋《や》のことかい?」
「そうじゃなくて、あのおばさんの持って来た話のことよ」
「ああ……。つまり、何度ぐらいあそこ[#「あそこ」に傍点]を利用してるのか、ってことだね」
「そう」
「そうだなあ」
と、男は考えて、「五、六回じゃないかな、まだ」
「五、六回ね。――そもそも、どこで知ったの?」
「町で声をかけられたんだ。――夜、飲んだ後だったな」
「声をかけて来たのは?」
「そいつが、よくあるチンピラ風の|奴《やつ》だったら、こっちもごめんこうむるんだがね、一見ごく当り前の|主《しゅ》|婦《ふ》なんだよ」
「さっきみたいな?」
「うん、そうなんだ。で、ちょっと話を聞くと、三万円で本物の女子大生だ、っていう。そのときは本気にしてなかったんだ。|酔《よ》ってたしね。ま、|若《わか》い子ならいいや、と……」
「で、ついて行ったのね」
「そのときは、|渋《しぶ》|谷《や》の方のマンションだったな」
「その|奥《おく》さん風の女って、さっきの人とは|違《ちが》うのね」
「いつも別だよ。どうしてかは、よく知らないけど」
「それで、女の子と楽しんだわけね」
「まあね。――それが、どう見ても本物の女子大生なんだ。しかも|可愛《かわい》くてね。すっかり気に入って……」
「病みつきってわけね」
「そういうことさ」
男は|肩《かた》をすくめて、「その内、何か、変った|刺《し》|激《げき》がほしくなって――」
「薬で女の子を動けなくさせて、なんて、ポルノ|映《えい》|画《が》の見すぎじゃないの?」
「いや、でも|結《けっ》|構《こう》喜ぶ子もいるんだ。本当だよ」
「女子大生の方も、いつも|違《ちが》う子が来ていたの?」
「うん、そうだったね。――一時、なぜだか、|途《と》|切《ぎ》れてて、ちょっとヤバくなったのかな、と思ってたんだけど、また|久《ひさ》しぶりに声がかかって――」
「喜び勇んでやって来た、ってわけね」
「そんなところだ」
男は|苦笑《くしょう》した。「こんなことになるとは思わなかった」
「この|組《そ》|織《しき》のこと、何か知ってる?」
と、明子は|訊《き》いた。
「さあね。どうして?」
「それを調べてるの。ちょっと|事情《じじょう》があって」
「へえ。じゃ、君はアルバイトのつもりで来たんじゃないのか」
「そうよ」
「どうも、ちょっと様子が違うな、と思ったよ」
「何か知らない?」
男は考え|込《こ》んだ。
「ウーン、そうだなあ……」
「何でもいいの。どんな細かいことでもいいから……」
「|連《れん》|絡《らく》はいつもあっちから会社へかかって来るんだ。仕事の電話みたいに見せかけてしゃべるんだけどね」
「電話をかけて来るのは?」
「男だよ、いつも」
「知ってる?」
「いや、会ったことはない。でも前は、えらい|若《わか》い感じだったけど、今日は違ってたな」
その「若い男」というのは、白石だったのかもしれない、と明子は思った。
「で、あなたが、その気があると――」
「うん、|約《やく》|束《そく》するんだ、何時でどこ、という風にね。そこに|誰《だれ》か|主《しゅ》|婦《ふ》らしい女が一人でやって来る」
「でも、あなた、さっきあの女の人を見て、びっくりしてたじゃないの」
「|普《ふ》|通《つう》は、女の子も|一《いっ》|緒《しょ》だからさ、君は店の入口の所にいただろう」
「あ、そうか。――でも、不思議ね。なぜ、ああいう、普通の|奥《おく》さんみたいな人が出て来るのかしら?」
「それは|僕《ぼく》も考えたよ。たぶん、女子大生に話をもちかけるとき、向うが安心するんだと思うね。変な男が声をかけるよりも、|同《どう》|性《せい》の、それも|年《ねん》|齢《れい》の上の人から言われた方が、何となく安心だろう」
なるほど、そうかもしれない。
しかし、それだけでは、ああいう|主《しゅ》|婦《ふ》が、何人も[#「何人も」に傍点]加わっていることの理由には、ならない……。
他に何かあるのだ、もっと……。
「――もう会社へ行く時間だ」
と男は言って、そっと|腰《こし》へ手をやった。
「立てる?」
「何とか……ね。君には世話になった」
「しっかりして。手伝ってあげるわ」
明子は、男が服を着るのに手を|貸《か》してやった。
「何とかなったわね」
「ありがとう。そうだ、君に――」
男は|財《さい》|布《ふ》を出すと、一万円札を三枚出して、「さあ、これが料金だ」
「あら、いいのよ。あのおばさんに|渡《わた》す一万円札だけもらえば」
「いや、取っといてくれ。ぎっくり|腰《ごし》の|治療代《ちりょうだい》だよ」
明子は――あまりためらわずに受け取ることにした。
男に|肩《かた》を貸して、|部《へ》|屋《や》を出ると、エレベーターで下へ。
「そうだ」
と男が言い出した。「一つ、思い出したぞ」
「なあに?」
「その案内役の女の一人がね、一度、どたん場で女の子に|逃《に》げられてね、あわてて電話をかけてたんだ」
「へえ。どこへ?」
「どこだか分らない。でも番号がね、|妙《みょう》に覚えやすくて――」
「何番?」
明子は、その番号をメモした。しかし、男の方も|記《き》|憶《おく》が|曖《あい》|昧《まい》で、局番などははっきりしないのだった。
「どこかの|企業《きぎょう》の代表局番だろうな」
と、男は言った。
「そうね。一が|並《なら》んだりして、そんな感じだわ」
どこかで見たような番号である。――どこかしら?
エレベーターが一階につく。
あの|主《しゅ》|婦《ふ》が待っていた。
「ご苦労さま。――あら、どうかなさったんですか?」
と、男の方がよろけそうなのを見て言った。
「うん、実はね……」
男は明子の方をちょっと見て言った。「この子、|凄《すご》くてね、こっちが|腰《こし》を|痛《いた》めちまったんだ……」
22 第二のバイト
話を聞いて、尾形は青くなった。
「いいか、よく聞け」
と、明子をにらみつけて、「|僕《ぼく》がどうするか教えてやろう」
「このお昼をおごってくれるんでしょ?」
明子は平然とランチを平らげている。
「そうじゃない! 君のお|尻《しり》を百回、ひっぱたいてやる!」
「あら、そういう|趣《しゅ》|味《み》があったの? 私ならどっちかというとマゾよりサドの方なんだけど」
「ねえ、君――」
「分ってるわ。でも、食べないと|冷《さ》めるわよ」
「|構《かま》うもんか!」
「あらそう」
明子は首をすくめて、「いいわよ、別に。どうせ私が食べるんじゃないから」
尾形はため息をついて、自分の|皿《さら》に手をつけた。
「――全く、|無《む》|茶《ちゃ》ばっかりして!」
「でも、何でもなかったのよ」
「たまたま、助かったんじゃないか。もし、そいつがぎっくり|腰《ごし》にならなかったら、どうなってたと思うんだ?」
「さあね」
と、|肩《かた》をすくめて、「|過《か》|去《こ》のことに、『もしも』は|無《む》|意《い》|味《み》よ」
「|呑《のん》|気《き》なこと言って……」
「問題はね、なぜ女子大生の売春に|主《しゅ》|婦《ふ》が出て来るか、よ」
「|解《かい》|決《けつ》の方法は|簡《かん》|単《たん》だ」
「あら、そう?」
「ああ」
「教えてよ」
「君は一切の|探《たん》|偵《てい》ごっこから手を引く。それで終りだ」
「ねえ、尾形君」
「何だ」
「私があのとき、何を考えてたか、分る?」
「あのときって?」
「体が|痺《しび》れて、動けなかったときよ」
「知るもんか」
と尾形はふくれっ面である。
「こんなことなら、どうして尾形君にあげて[#「あげて」に傍点]おかなかったのかしら、と|悔《くや》んでたのよ」
尾形の顔に、何ともいえない|表情《ひょうじょう》が広がった。
「――本当かい?」
「本当よ」
尾形は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「ねえ、もっと、食べるかい? 何なら、AランチからCランチまで全部――」
「食べられっこないでしょ」
明子は|苦笑《くしょう》した。
「しかし、君の言う、|主《しゅ》|婦《ふ》の|役《やく》|割《わり》だが……」
「主婦を|装《よそお》ってるのかしら? でも――」
と、明子は首をかしげて、「どう見ても、本物の主婦だったけど」
「もしかすると、白石は、女子大生ばかりじゃなくて、主婦の売春にも手を出してたのかもしれないな」
「それは言えるわね」
と明子は|肯《うなず》いた。
「そして主婦たちは、客とホテルへ行くだけじゃなくて、そんな風に、女の子を見付けたりすると、またいくらか手もとに入るようになってたのかもしれない」
「|鋭《するど》いじゃない」
「からかうな」
と、尾形は明子をにらんだ。
「それと、茂木こず枝との関連……」
明子は、ふと|眉《まゆ》を|寄《よ》せた。「茂木こず枝か――」
「どうかしたのかい?」
「電話番号よ」
明子は、あの中年男から聞いた、やや|不《ふ》|正《せい》|確《かく》な番号のメモを見て、「これはきっと会社なのね。もし、茂木こず枝のいた社のものなら――」
「会社の電話は?」
「名前は分ってるわ。白石が一時アルバイトをしていて……」
「すると白石とも|接《せっ》|点《てん》がある、というわけだな」
「何か[#「何か」に傍点]ありそうね」
と明子は目を|輝《かがや》かせた。「待ってて、電話帳を借りて、調べてみる」
明子はレストランのレジの方へと飛んで行くと、分厚い電話帳をめくった。
少しして|戻《もど》って来る。
「どうだった?」
「どうもね……」
「だめか」
「何だか、局番がまるで|違《ちが》うの。――下の番号は0と1で、よく|似《に》てるけど」
「すると別なんだろう」
「どこの番号かしら?」
「かけてみたら?」
「かけてみたわよ、むろん」
「それで?」
「どれか番号が違うのね。今使われておりません、って返事よ」
「そうか……」
「ともかく、またアルバイトだわ」
と明子が言うと、尾形が、
「やめてくれよ!」
と青くなった。
「ご心配なく」
「心配するよ」
「そのバイトじゃないの。もっとちゃんとしたアルバイトよ」
「へえ」
「茂木こず枝のいた会社に、入りたいと思っているの」
尾形は、|諦《あきら》め顔で、ため息をついた。
「今は求人はしておりませんが」
と、受付の|女《じょ》|性《せい》は冷たく言い放った。
「分ってますけど、来たんです」
明子がめちゃくちゃなことを言い出した。「ともかく、せっかく来たんですから、追い返しちゃ|可哀《かわい》そうです」
明子の言うべきセリフではない。受付の女性も、仕方なく|笑《わら》い出してしまった。
「じゃ、ちょっと待って」
と立ち上ると、「|総《そう》|務《む》の人に|訊《き》いてみるわ」
「すみません」
明子は、ピョコンと頭を下げた。
押し[#「押し」に傍点]の一手である。
受付の|女《じょ》|性《せい》は、すぐに|戻《もど》って来た。
「――ちょうど、今なら仕事があるってことですよ」
「助かったわ!」
と、明子は飛び上った。
助からないのは尾形だったろう……。
23 |哀《かな》しげな男
「私、永戸明子は、こんなことをしていていいのだろうか? |有《ゆう》|能《のう》な人物が、|封《ふう》|筒《とう》ののり[#「のり」に傍点]付などをやるのは、社会的|損《そん》|失《しつ》ではないか?」
――まあ、しかし、アルバイトの身、それも「|押《お》しかけ|女房《にょうぼう》」ならぬ「押しかけバイト」なのだから、あまり|偉《えら》そうな口もきけないのである。
茂木こず枝が働いていた、この会社、まあ「中小|企業《きぎょう》」という|呼《よ》び名がふさわしい、パッとしない会社であった。
今どきはやらないタイムレコーダーなどを|備《そな》えつけ、コピーの機械も、やたらに大きい、|旧式《きゅうしき》なもの。封筒だって、今はギュッと手で|押《お》すだけでくっつくのがあるのに、大きなはけ[#「はけ」に傍点]で、ベタっとのり[#「のり」に傍点]をつけて一つずつ|封《ふう》をするのである。
オフィスの十年前、といったTV番組でも見ているような気分だった。
しかし、それだけに、働いている人間も、のんびりしている。
どうも、|現《げん》|代《だい》の|猛《もう》|烈《れつ》なOA戦争、マイコン、コンピューターといったものからは、ポツンと取り残されている感じなのである。
|封《ふう》|筒《とう》にのり[#「のり」に傍点]をつけている今は、午後一時半で、当然、午後の仕事は始まっているのだが、何人かの|男《だん》|性《せい》社員は、スポーツ新聞などを広げている。
女子社員は、といえば、これはおしゃべりに時を|忘《わす》れているのだ。
あまり、「|充実《じゅうじつ》した時間」とはいえないが、明子の|如《ごと》く、|情報収集《じょうほうしゅうしゅう》のためにやって来た人間には、ピッタリの|職場《しょくば》とも言えた。
「あんまり|精《せい》を出さなくてもいいわよ」
タバコをふかしながら、フラリとやって来たのは、どこの会社にも、たいてい一人や二人はいる、「|主《ぬし》」のような|女《じょ》|性《せい》。
四十代か五十代か、見分けのつかない|化粧《けしょう》をして、女の子たちににらみをきかせている。――社長だろうが部長だろうが、何だってのよ、って感じである。
「はい」
ちっとも精を出してなんかいなかった明子は、少々後ろめたい思いで、でも言われるままに手を休めた。
「うちはバイト料も安いんだからさ、それくらいのことをやっときゃいいの」
と、|大《おお》|欠伸《あくび》をする。
「はあ」
「よくうちなんかで働く気になったわね」
「別に、どこでも同じようなものかと思って――」
「|大《おお》|違《ちが》いよ、あんた」
と手を|振《ふ》って、「|普《ふ》|通《つう》の所なら、バイト料はうちの一・五倍よ。あんたも、よそを|捜《さが》した方がいいよ」
やれやれ、こういう人にかかっちゃ、会社も大変だな、と明子は思った。
「今はいい|稼《かせ》ぎ場所があるじゃないの」
と、その「|主《ぬし》」は続けて、「ソープランドとか、ノーパン|喫《きっ》|茶《さ》とかさ。あんたなんか、|結《けっ》|構《こう》|可愛《かわい》い顔してんだし、そっちでガバッと稼いだら?」
まさか、このおばさんまで、売春の仕事をしてるわけじゃないだろうな、と明子は思った。
いや、そんな感じではない。一見|怖《こわ》そうだが、|実《じっ》|際《さい》は――やっぱり怖いのだ。
しかし、こういう人は、結構、|若《わか》い人の相談相手になったりもする。
大体、この手の人は二通りで、底意地が悪くて、若い子たちに|嫌《きら》われるか、口やかましいが、その|割《わり》に|頼《たよ》りにされるかだ。
この人の場合は、いい方じゃないのかな、と明子は思った。
「ここはね、三時から三十分間休めるのよ」
と「主」は言った。
「え? でも、そんなこと、説明されませんでしたけど」
「当り前よ。これは|慣《かん》|例《れい》、ってやつなの。|既《き》|成《せい》事実よ。――社長だって、何も言わないのよ」
「へえ」
「だから、バッチリ休んで|構《かま》わないのよ」
と、ウインクして見せる。
「また、|八《はっ》|田《た》さんは――」
と、|若《わか》い男の声がした。「だめですよ、|純情《じゅんじょう》な若い女の子に、そういうことを教えちゃあ」
やって来たのは、声の印象ほど若くもない、三十前後の、こんな会社にしては、ちょっと目につく、いい男だった。
「よっ、色男」
と、八田、と呼ばれたその「|主《ぬし》」が、からかった。
「早速若い子の所へ|寄《よ》って来たね」
「人聞き悪いなあ」
と、その男は|苦笑《くしょう》した。
|丸《まる》|顔《がお》のポチャッとした、童顔で、目がクリッとして|可愛《かわい》い。
しかし、あまり明子の|好《この》みではなかった。
「|僕《ぼく》は|丸《まる》|山《やま》。――このおばさんは、八田|吉《よし》|子《こ》っていうんだ。あんまり近|寄《よ》らない方がいいよ。売れ残り病が移るからね」
「何よ、こいつ!」
と、八田吉子が|殴《なぐ》るふりをする。
|適《てき》|当《とう》にじゃれ合っている感じなのだ。明子は|笑《わら》ってしまった。
「永戸明子です」
「丸山君はね、三十になって|独《どく》|身《しん》なのよ。プレイボーイの|評判《ひょうばん》高いの。――気を付けなさい」
「|噂《うわさ》だけですよ」
丸山はタバコに火を|点《つ》けた。
「あんた大学生?」
と、八田吉子が、明子に|訊《き》く。
「ええ。でも、停学|処《しょ》|分《ぶん》を食らっちゃって――」
「へえ! 何をやったの?」
「|強《ごう》|盗《とう》か、殺人か――」
「まさか」
と明子は笑って、「自殺|未《み》|遂《すい》なんです」
と言った。
「まあ! その|若《わか》さで、もったいない!」
これは明子の、もちろんでたらめである。
何とか、茂木こず枝のことへ、話を持って行きたいので、|創《そう》|作《さく》したのだった。
「どうしてまた……」
「|正《せい》|確《かく》に言うと、心中|未《み》|遂《すい》なんです」
と、明子は言った。
「まあ、今でも心中する人なんているの!」
と、八田吉子は感心したように言った。
「私も、カーッとなってたもんですから」
「で、相手は? 死んだの?」
「いいえ、二人とも大したことなくて。|睡《すい》|眠《みん》|薬《やく》|服《の》んだんですけど、今の睡眠薬って、そう死なないんですよね。――結局、見付かって|大《おお》|騒《さわ》ぎ」
「で、その|彼《かれ》とは?」
「変なもんで、そんなことがあると、フッ切れちゃうんです。別れて、今は|未《み》|練《れん》もありません」
ウム、なかなか|名《めい》|演《えん》|技《ぎ》である。明子は自分でも感心していた。
さり気ない|哀《かな》しさ、というのは、なかなか出せないものである。――私、|女《じょ》|優《ゆう》になろうかしら、などといい気になっている。
「そうよ。男なんて、どれも|似《に》たり|寄《よ》ったりで、大したことないの。それを|悟《さと》ると、私みたいに|独《どく》|身《しん》も楽し、ってことになっちゃうのよ」
と、八田吉子は言った。
ふと、明子は、丸山が、目をそらしているのに気付いた。
どこかわざとらしい。話を聞いていないふり[#「ふり」に傍点]をしているようだ。
「この会社だって、あのこず枝さんがさ――」
と八田吉子が言いかけると、
「八田さん、だめですよ」
と、丸山が|遮《さえぎ》った。「社長から、しゃべるなと――」
「何よ、あんなカボチャ」
カボチャ?――社長をカボチャとは、大したもんだ。
「こず枝さんって?」
と、明子が|訊《き》く。
「茂木こず枝、ってね、ここの社員だったのよ。ところが自殺。――ほら、|結《けっ》|婚《こん》式場で|花《はな》|嫁《よめ》|衣裳《いしょう》のまま死んでいた、って、記事、見なかった?」
明子は、少し考えるふりをして、
「――ああ、|憶《おぼ》えてますわ。ウエディングで死んでいたんでしたわね。じゃ、ここの方だったんですか?」
「そうなのよ。もしかしたら他殺かも、なんていわれてね、|警《けい》|察《さつ》が来て、何だかんだ|訊《き》いて行ったりして、大変だったのよ」
「そうでしょうね」
と、明子は|肯《うなず》いた。
「あ、そうだ、電話をしなきゃ」
と、丸山が、ちょっとわざとらしく言って、席へ|戻《もど》って行く。
どうやら、丸山と茂木こず枝の間に、何か[#「何か」に傍点]あったらしい。
明子のアンテナは、|鋭《するど》く第六感を働かせていた。
「そのこず枝さんって方は、やっぱり|失《しつ》|恋《れん》だったんですか?」
と、明子は|訊《き》いた。
「さあ、それが分らないのよ」
と、八田吉子は首を|振《ふ》った。「私も、そういうことはよく知ってるんだけどね。でも、あの子は、|割《わり》|合《あい》にいつも一人でいる子だったわ」
「お友だちでもいれば|違《ちが》ったんでしょうけどね」
「そうね。やっぱり、あれこれ|推《すい》|測《そく》が飛んでたけど、きっと、|許《ゆる》されない|恋《こい》に身を|焦《こ》がしてたんじゃない?」
八田吉子の口から、思いもかけず、ロマンチックな|表現《ひょうげん》が出て来て、明子はびっくりした。
働いていると、一日は短い、とよく言われている。
しかし、明子のこの一日は、|至《いた》って長かった。――あまり熱心に働いていなかったせいかもしれない。
「ご苦労様」
と、|隣《となり》の席の女の子が声をかけて来た。「真直ぐに帰るの?」
「いえ、別に、どうでも――」
「じゃ、ちょっと飲んでかない?」
「お酒ですか?」
「コーヒーとケーキ」
と言って、クスッと|笑《わら》う。
なかなか、気さくな感じの女の子だった。
「――茂木さんって変ってたのよ」
と、その女の子――|小《こ》|沼《ぬま》|宏《ひろ》|子《こ》は、ケーキを食べながら言った。
――会社の近くのケーキ屋。二階が、|喫《きっ》|茶《さ》になっているのである。
「変ってるって?」
「どう言ったらいいのかしら……。つまり変ってるのよ」
明子はため息をついた。――今の|若《わか》い世代の|表現力《ひょうげんりょく》の|貧《まず》しさたるや!
「|恋《こい》|人《びと》って社内の人だったのかしら?」
「そう思うわ」
と、小沼宏子は|肯《うなず》いた。
「よく分るわね。八田さんは、分らないって……」
「私、電話を取るもの」
と、小沼宏子は言った。
「え?」
「外からの電話を取るの。だから、|男《だん》|性《せい》からかかって来れば、私には分るのよ」
「ああ、なるほど。で、茂木さんにはかかって来なかったのね?」
「そう。といって、彼女、休み時間にも、外へあまり出なかったから、自分からも電話してないわけでしょ。――男とそんな深い|仲《なか》になって、一回も電話のやりとりがないなんて考えられないわ」
これは、なかなか、|説得力《せっとくりょく》のある意見だった。
座席からは、ちょうど会社の入っているビルの出入口を見下ろすことができた。
ちょっと話が|途《と》|切《ぎ》れて、何気なく外を見た明子は、あの丸山という男が、出て来るのを目に止めた。
あの人、きっと何か知っている。
「あっ!」
と、明子は|突《とつ》|然《ぜん》、声を上げた。
びっくりした小沼宏子が、ケーキをつまらせてむせ返る。
「ごめんなさい! |大丈夫《だいじょうぶ》?」
「ええ――何とか」
「ちょっと、|約《やく》|束《そく》があったの、|忘《わす》れてた。悪いけど失礼するわ」
代金を置いて、まだむせている小沼宏子を残し、明子は表に飛び出した。
24 運命の皮肉
どこへ行くんだろう?
明子はいい|加《か》|減《げん》くたびれてしまった。
ずっと丸山の後をつけているのだが、一体どこへ行くつもりなのか、さっぱり分らないのだ。
バーへふらりと入ったと思うとすぐに出て来るし、かと思うと、女の子ばっかりの|甘《かん》|味《み》|喫《きっ》|茶《さ》へ入ったり、次は焼鳥屋を|覗《のぞ》いたり。
――どうやら、|誰《だれ》かを|捜《さが》しているらしいのだが、ちょっと様子がおかしかった。
コートをはおって、えりを立て、顔を、半ば|埋《う》めるようにしている。
そして|背《せ》|中《なか》を|丸《まる》めて、うつ向き加減に、顔を見られないようにしながら、歩いているのだった。
|秘《ひ》|密《みつ》めいている。――ちょっと明子は|興味《きょうみ》が|湧《わ》いて来た。
スナックやバーがひしめき合っている細い通りを|尾《び》|行《こう》していると、フッと丸山の|姿《すがた》が見えなくなってしまった。
「あれ?」
と、キョロキョロ見回してみるのだが、どこにもいないのだ。
とすると、この近くの店に入ったに|違《ちが》いないのだが……。
明子は、手近なバーを|覗《のぞ》いてみた。
いない。では、その|隣《となり》。やはり、いない。
――残るは一|軒《けん》だけだ。
ちょっと重々しいその|扉《とびら》を引いて、中へ入る。
――明子は、やや|戸《と》|惑《まど》った。
いやに静かなのである。他のバーとはまるで違う。
そして、|笑《わら》い声だの、カラオケだのも一切聞こえず、店の中は|割《わり》|合《あい》と広いのに、|薄《うす》|暗《ぐら》くて、よく見えないのである。
「――何か用?」
とやって来た女を見て、明子は、ちょっと|妙《みょう》な感じがした。
「あの――人を|捜《さが》して――」
「じゃ、入ったら?」
「どうも……」
カウンターには客の|姿《すがた》がなく、みんな、テーブルの方にいるらしい。
そしてテーブルは一つ一つ、仕切りがあって、見えないようになっているのだ。
こりゃ、何だか妙な所へ来ちゃったわ、と明子は思った。
「ねえ、|誰《だれ》を捜しに来たの?」
と|訊《き》かれて、
「ええ、あの――」
と、相手の顔を見る。
目を|見《み》|張《は》った。――男なのだ!
|化粧《けしょう》をして、|髪《かみ》も|染《そ》め、ホステス風のスタイルだが、男だ[#「男だ」に傍点]。
そうか。ここはそういう店なのだ。
丸山がここへ入って来たとしたら……。
「おい!」
|怒《おこ》ったような声がした。|振《ふ》り向くと丸山が立っている。
「何しに来たんだ!」
仕方ない。これじゃ、さり気なく話を切り出すわけにもいかない。
「お話があるんです」
と言った。
「何だ? 君は一体――」
「茂木こず枝のことで」
丸山の顔色が変った。
「そうか」
丸山は、公園のベンチに|腰《こし》をおろしながら言った。
「じゃ、君は、|彼《かの》|女《じょ》の死について調べているんだね」
「そうです。――何か知っていたら、教えて下さい」
明子は、丸山が、考え|込《こ》んでいるのを、じっと見ていた。――どことなく、|哀《かな》しげな光景である。
「しかし、|僕《ぼく》はよく知らないんだよ」
と、丸山は言った。「本当だ。――|確《たし》かに、彼女とは|仲《なか》が良かった。でも、|恋《こい》|人《びと》同士とか、そんなことじゃなかったんだ」
「じゃ、どういうことで……」
「僕は、君もさっき見た通り、|女《じょ》|性《せい》と話はできても、愛するということはできない。そういう人間なんだ」
「で、こず枝さんとは――」
「彼女も、どちらかといえば、|無《む》|口《くち》で、|孤《こ》|独《どく》なタイプだった。よく、オフィスでは話もしたよ。――その彼女が、一年くらい前かな、僕に相談したいことがある、と言って来たんだ」
明子は|肯《うなず》いた。
「僕はちょっと心配になった。もし、彼女に愛してるとでも言われたら、と思ってね。――|彼《かの》|女《じょ》がとてもいい人だったから、|余《よ》|計《けい》に心配だったんだ」
「何となく分ります」
「彼女の話を聞いて、|僕《ぼく》はびっくりした。――彼女は僕のことを、よく知ってたんだ。でも、今まで通り友だちでいてほしい、と言った」
「相談っていうのは?」
「うん。で、彼女は、|妻《さい》|子《し》持ちの男と|恋《こい》をしている、と打ち明けてくれたんだ」
「妻子持ちの男……」
「名前は言わなかった。そして、|彼《かれ》が必ず|奥《おく》さんと別れて、|結《けっ》|婚《こん》してくれる、というんだ」
丸山は首を|振《ふ》った。「|怪《あや》しいもんだ、と思ったが、そうは言えなかった。――彼女は相手を信じ切っていたんだよ」
「気の毒に……」
「で、彼女は、その男と付き合っていることを、会社の他の人たちに知られたくない、というんだ」
「当然でしょうね」
「で、僕と表向き、付き合っていることにしてくれないか、と言った。
僕の方も、それぐらいなら|構《かま》わない、と|承知《しょうち》したんだ。――彼女は|涙《なみだ》を流さんばかりにして喜んでいたよ」
「それで、|一《いち》|応《おう》|恋《こい》|人《びと》同士ということに?」
「しかし、何も、わざわざ|宣《せん》|伝《でん》することもない。だから、もし、どうしても仕方ないときだけは、そういうことにしよう、と決めたんだ」
「それで、みんなあまり知らなかったんですね?」
「そう。――|彼《かの》|女《じょ》の|恋《こい》は、しかし、うまく行ってなかったようだったな」
「つまり、相手の男が――」
「いつまでも、はぐらかして|逃《に》げていたらしいよ。彼女も、|段《だん》|々《だん》男が信じられなくなって来て、よく|僕《ぼく》と二人のときに|泣《な》いていたよ」
|許《ゆる》せない!
明子は|怒《いか》りが|湧《わ》き上って来るのを感じた。
「あの日――つまり、彼女が死んだ日だね、あの前の日に、彼女と会っていたんだ」
「何か言ってましたか」
「ずいぶん明るい|表情《ひょうじょう》だったね。――僕に『私、目が覚めたわ』と言った。『もう、あんな人のこと、|忘《わす》れるわ』ともね」
「そうですか」
「僕も、その方がいい、と言ってやった。まさかその次の日に……」
丸山は、ため息をついた。「ショックだったよ。彼女を愛していたわけでは、もちろんない。でも彼女は本当にいい人だった」
明子は、丸山の横顔を見ていた。
――|嘘《うそ》ではあるまい。
「よく分りました」
と、明子は言った。「相手の男のことで、何か|憶《おぼ》えてません? どんな細かいことでもいいんですけど」
「さあねえ……」
と、丸山は首をひねった。「あんまり話さなかったからね、|彼《かの》|女《じょ》は」
「そうですか……」
明子はがっかりした。
「でも――」
「え?」
「何か言ったような気もするな。――何だったかな」
丸山は考え|込《こ》んでいた。「何か、その男の|職業《しょくぎょう》……。仕事のことを言ってたな」
「どういう仕事でした?」
「それが、よく|憶《おぼ》えてないんだ。何だか、『こんな仕事をしてるなんて、皮肉なもんだわ』って言ったのを憶えてるよ」
「皮肉?――そう言ったんですか?」
「うん。それはよく憶えてるんだ。しかし――何の仕事だったかな。どうしても思い出せない」
「そうですか」
明子は、|無《む》|理《り》に|押《お》さないことにした。「じゃ、もし思い出したら、ぜひ電話をして下さい」
「うん。分った。|僕《ぼく》も、あの相手の男には、何とか思い知らせてやりたいからね。|頑《がん》|張《ば》ってくれ」
「ええ、必ず見付けてやります」
と、明子は言って立ち上った。
「あ、そうだわ」
「まだ何かある?」
「いえ、アルバイト、すみませんけど、一日でやめることにしました。そう伝えといていただけません?」
と、明子は言った。
明子は家へ帰ると、自分の|部《へ》|屋《や》のベッドにゴロリと横になった。
|謎《なぞ》はいよいよ深まるばかりである。
しかし、あの丸山から、もし、男の仕事でも分れば、手がかりになるかもしれない。
それにしても、「皮肉」というのは、どういう意味なのだろう?
信じ続けて|裏《うら》|切《ぎ》られた茂木こず枝。
これは正に殺人以上に|罪《つみ》が深い、といってもいい。
「――明子」
母の啓子が、声をかけて来た。「お電話よ」
「|誰《だれ》から?」
「佐田さんっていう人」
佐田?――佐田房夫だ!
「男の人?」
「いいえ女の方よ」
すると千春からだ。
明子は急いで|部《へ》|屋《や》を飛び出した。
「――もう少ししとやかにしなさい!」
啓子の言葉は、とうてい追いつかなかった。
25 千春との|再《さい》|会《かい》
〈二十四時間|営業《えいぎょう》〉
この文字を見ると、明子は何となくホッとする。
といって、明子がいつもそんな店のお世話になっているわけではないが、ともかく、何時に|閉《し》まる、というのでなく、
「いつも[#「いつも」に傍点]開いている」
という点が、安心感をもたらすのである。
しかし、その手の店が、「味は二の次」となるのもまた仕方のないところだろう。
明子は夜、十二時十五分前に、ファーストフードの店へと入って行った。
ハンバーガーだの、フライドポテトなんかを売っている、|若《わか》|者《もの》向けの店だ。
中を見回す。――まだ佐田千春は来ていなかった。
十二時の|約《やく》|束《そく》だ。少し早かったな、と明子は思った。
「いらっしゃいませ」
カウンターで、男の店員が|眠《ねむ》そうに声をかける。
「あ、えーと、ハンバーガーとコーヒー」
ちゃんと夕食は取ったのだが、何か|頼《たの》まないと悪いような気になっているのだ。そういう点、明子は意外と(?)気が弱いのである。
他には、いいトシのおじさん風の客が一人いるだけ。静かなものだった。
|椅《い》|子《す》に座って、電子レンジで温めたハンバーガーをパクつく。
もちろん、高級フランス料理と|比《ひ》|較《かく》はできないが、この手のものには、それなりのおいしさがあるのだ。
「それにしても……」
と、明子は|呟《つぶや》いた。「二十四時間|営業《えいぎょう》で年中|無休《むきゅう》。入口のシャッターは、何のためについているんだろう?」
あまり大した問題でもなかった……。
千春は、電話で、何一つ|詳《くわ》しいことを言ってくれなかった。ただ、
「ごめんなさい、この間は、失礼なことしちゃって」
と、明子を放り出したことを|詫《わ》びてから、「お話があるの。今夜十二時に、交差点の角の――」
つまり、この店に来てくれ、ということだったのだ。
何だか話し方からして急いでいるようだったので、明子も、しつこくは|訊《き》かなかった。ここで会えるのなら、ゆっくり話ができるだろう。
ダダダ、と|機関銃《きかんじゅう》みたいな音がして、店の前に、オートバイが|停《とま》った。
|暴《ぼう》|走《そう》|族《ぞく》の見習いのなりそこないみたいな、高校生ぐらいの男の子が三人、やたらいきがって入って来る。
そしてハンバーガーをパクつきながら、店の中を|眺《なが》め回し――運の悪いことに――明子に目を止めたのだった。
「おい、姉ちゃん」
と、一人が|寄《よ》って来た。「一人かよ?」
「二人に見えるんだったら、|眼《がん》|科《か》へ行った方がいいわよ」
と、明子が言った。
「言ってくれるじゃないか」
と、|笑《わら》って、「なあ、どうせヒマなんだろ。付き合えよ」
明子は放っておくことにして、コーヒーを飲んだ。
――もうすぐ十二時だ。
「おい、口がきけねえのか」
と、ちょっかいを出して来る。
「うるさいわよ、|坊《ぼう》や」
と、明子は言ってやった。
「何だと?」
サッと顔色が変る。「おい、『坊や』だって? |俺《おれ》たちをなめんなよ」
「|猫《ねこ》じゃあるまいし」
と、明子はニヤリと笑った。「猫ならきっと喜んでなめてくれるわよ。ミルクの|匂《にお》いがするから」
「この|野《や》|郎《ろう》――」
三人で明子を囲むように立つと、
「おい、ちょっと顔|貸《か》しな」
と来た。
やれやれ……。
明子は、食後の運動にいいかしら、などと考えながら、立ち上った。
「外でゆっくり話そうじゃねえか」
「|忙《いそが》しいのよ。あんまり時間ないわ」
「こっちはたっぷりあるぜ」
明子は|肩《かた》をすくめて、さっさと表へ出た。三人があわててついて来る。
|振《ふ》り向きざま、明子は先頭の一人の|腕《うで》を、ぐい、とつかんだ……。
「お先に失礼します」
店の|奥《おく》から出て来たのは――千春だった。
「今、出ない方がいいよ」
と、客の男が言った。「女の子が不良にからまれてる」
「まあ」
千春は、ちょっと不安そうに|眉《まゆ》を|寄《よ》せた。「まさか、永戸さん――」
と|呟《つぶや》くと、明子が入って来る。
そして、千春を見て目を|丸《まる》くすると、
「あ! それじゃ、十二時って言ったのは――」
「ここの|勤《きん》|務《む》が十二時までなの」
と、千春は言った。
「何だ、そうだったんですか」
と、明子は|笑《わら》って「でも――もういいんですか?」
「ええ。じゃ、出ましょうか」
と、千春はカウンターから出て来て、明子と|一《いっ》|緒《しょ》に外へ出た。
ウーン、という|唸《うな》り声に周囲を見回すと、何やら男が三人、あちこちに|倒《たお》れて、唸っているのだ。
「どうしたのかしら?」
と千春が言った。
「たぶん、ハンバーガーにでも当った[#「当った」に傍点]んじゃないかしら?――さて、行きましょうよ」
と、明子は|促《うなが》した。
よくまあ|似《に》たようなアパートがあるもんだ、と思うほど、前のアパートそっくり。
「ご主人は?」
と、上り|込《こ》んで、明子が|訊《き》いた。
「私一人」
千春がお茶を出しながら、「あの人、|行《ゆく》|方《え》不明なの」
と、大して心配そうでもない様子。
「へえ」
明子は、ちょっと目をパチクリさせた。「いいんですか、放っといて?」
「自分から行方不明になったんだから、仕方ないでしょ」
「自分から?」
「|隙《すき》をみて、|屋《や》|敷《しき》から|抜《ぬ》け出したのよ、二人で。で、あの人を公園に待たせといて、私はアパートへ|戻《もど》ったの。色々と大事な物だけ持って、公園に帰ってみると――」
「いなかったんですか?」
「そういうこと。――あの人、何を考えてるのかよく分んない所があって」
その点は、明子も同感だった。
「で、それきり?」
「ええ。――その内、前のアパートに帰って来るでしょ」
千春は、|至《いた》って|呑《のん》|気《き》なものである。
|妙《みょう》な|夫《ふう》|婦《ふ》だ、と明子は首をひねった。
「あなたの――茂木こず枝――といったっけ、死んだ女の人」
「ええ」
「|調査《ちょうさ》の方は進んでるの?」
「うーん、何というか……。いくつか手がかりはあるんですけどね」
明子としても、その|程《てい》|度《ど》のことしか言えない。
手がかりらしきものも、てんでんばらばらで、何ともうまくまとまらないのである。
「でも、ともかく、何とか|突《つ》き止めてみせますわ」
と、明子は|肯《うなず》きながら言った。「そうでないと、あの人が|哀《あわ》れですもの」
「そうねえ。女を、『|妻《つま》とは別れるから』って|騙《だま》し続けるなんて、本当に|残《ざん》|酷《こく》なことだわ」
「ああ、そうだわ」
と、明子は思い出した。「この間、お|宅《たく》から|叩《たた》き出されたとき、|妙《みょう》な人に会ったんですよ」
「妙な人って?」
「あの|屋《や》|敷《しき》と土地の持主だとか|自称《じしょう》していて……」
千春が、|一瞬《いっしゅん》青ざめた。
「もしかして――その人、中松|進《しん》|吾《ご》っていわなかった?」
「ええ、そう言ってました。千春さんと|婚《こん》|約《やく》しているとかいって……」
千春は頭をかかえるようにして、
「ああ――まだそんなこと言ってるのか……」
と|呟《つぶや》いた。
「あの人、ちょっとおかしいんですか?」
「いいえ」
と、千春は首を|振《ふ》った。「大分[#「大分」に傍点]、おかしいの」
なるほど、と明子は肯いた。
|翌《よく》|日《じつ》は、昼ごろやっと起き出した。
何しろ帰ったのが午前三時だ。それでも、|寝《ね》|不《ぶ》|足《そく》なのである。
「一体、何をしてるの?」
母の|啓《けい》|子《こ》は、半分|諦《あきら》め顔で文句を言った。
「まあ、色々|忙《いそが》しいのよ」
「|危《あぶな》いアルバイトでもしてんじゃないでしょうね」
「危いアルバイトって?」
「ソープランドとか、売春とか。――ああいうのは危いわよ」
「まさか私が――」
と、明子は|笑《わら》ったが、内心ヒヤリである。
|捜《そう》|査《さ》のためとはいえ、その|真《ま》|似《ね》|事《ごと》はやったわけだ。
「そりゃ、|大丈夫《だいじょうぶ》だとは思うけどね」
と、啓子は真顔で、「でも、今は男の人も女なら何でもいいって人がいるみたいだから……」
「どういう意味、それ?」
明子が少々頭に来て言うと、ちょうど|仲裁《ちゅうさい》にでも入るように電話が鳴った。
啓子が出て、
「――あ、どうも、尾形さん。――ええ、おります。やっと起きたところなんですよ。何しろゆうべなんか――」
明子はあわてて受話器を引ったくった。
「ああ、私よ。――え?」
「また|危《あぶな》いことをやってるんじゃないのかい?」
「いいえ、とんでもない」
と、|澄《す》まして答える。
「|怪《あや》しいもんだな。――ともかく、一ついい知らせがあるんだ」
と、尾形は、ここでぐっと改まって、「当大学としては、永戸明子の停学|処《しょ》|分《ぶん》の|解《かい》|除《じょ》を決定したので、申し伝えます!」
「え? 解除?」
「そう。大分苦労したんだぜ、|僕《ぼく》も|駆《か》け回ってさ」
「そう……。良かったわね」
と、まるで他人の話みたい。
「ちっとも|嬉《うれ》しくなさそうだね」
「いいえ! そんなことないけど」
「明日からは|講《こう》|義《ぎ》に出てもいいよ」
「そうね。でも――ちょっと|忙《いそが》しいの。これが|片《かた》|付《づ》いたら、出るようにするわ」
「おい、君ね――」
「ねえ、今日、例のバイト先に行ってみるつもりなの。|結《けっ》|婚《こん》式場の方よ。あなた、どうせヒマでしょ? 来ない?」
「どうせヒマとは何だ! 講義があるんだよ、僕は」
「あら、よかったら式場の予約でもしようかと思ったのに。――じゃ、またね」
「おい、何だって? おい!」
明子はすげなく、電話を切った。
26 |人《ひと》|違《ちが》いのナイフ
「なるほど」
と、|肯《うなず》いたのは、|検《けん》|死《し》|官《かん》の志水である。「大分、|活《かつ》|躍《やく》したようですな」
「|危《あぶな》いこともやったようだね」
と、社長が|愉《ゆ》|快《かい》そうに言った。「いや、君は実に面白い女の子だね。大学を出たら、ぜひうちへ来てくれ」
「いや、|婦《ふ》|人《じん》|警《けい》|官《かん》にぴったりです」
と、志水。
時ならぬ「スカウト合戦」に、明子は、あせって、
「今、そんなお話をされても――」
――ここは、|結《けっ》|婚《こん》式場の社長室である。
志水の方から、その後どうなったのか気にして電話があり、明子の方も、「中間|報《ほう》|告《こく》」をしようと、やって来たわけであった。
「ともかく、茂木こず枝が、|誰《だれ》か|妻《さい》|子《し》ある男と付き合っていたということは、|勤《つと》め先の|同僚《どうりょう》、丸山の話で明らかなんです」
と、明子は言った。
「しかし、そうなると、この式場で死んだことにどういう意味があったのかな」
と、社長が|顎《あご》をなでながら言った。
「そうなんですよね」
「つまり、当日、式をあげた人とは関係ないということになるかな」
と、志水が考え|込《こ》む。
「それはどうでしょう。ともかく、佐田房夫って人が、茂木こず枝の名に聞き|憶《おぼ》えがあるのは|確《たし》かなようですし」
「それが不思議だね」
「それに白石|紘《こう》|一《いち》が殺されたこと」
「何か関係があるのかな」
「分りません」
と、明子は首を|振《ふ》った。「でも、この|事《じ》|件《けん》が起って、とたんに殺されたというのも、おかしくありません?」
「うん、それはそうだな」
と、社長が|肯《うなず》く。
「その女子大生の売春のことと、何か関係があるんでしょう」
と、志水が言った。「その白石という男の|検《けん》|死《し》をした検死官に、|一《いち》|応《おう》話を聞いてみました」
「何かおっしゃってましたか?」
「|刺《さ》し|傷《きず》は|至《いた》って|鮮《あざ》やかだったそうでね」
「というと――」
「つまり、これは半ばプロのやったことじゃないか、というんですな」
「プロ。――つまり、殺し屋ですか?」
と、明子は目を|丸《まる》くした。「そんなの本当にいるのかしら」
「いや、別に『殺し屋』でなくたっていいんです。いわば、|刃《は》|物《もの》を|扱《あつか》いなれた人間、ということですよ」
「となると、やはり、白石という男は、その売春がらみで殺された、というのが|正《せい》|解《かい》だろうね」
と、社長が肯く。
そこへ、ドアが開いた。
「社長、実は――」
と顔を出したのは、部長の村川である。
明子を見て、ちょっと面白くなさそうな顔になる。
「何だ、君か」
「何だ、部長か」
明子が言い返すと、社長が|吹《ふ》き出してしまった。
「ちょっと待ってくれ。すぐに行く」
「はあ……」
村川は、明子をにらんで、出て行った。
「じゃ、私は――」
と、社長が立ち上る。「会議があるので、失礼する」
「どうも」
明子はちょっと頭を下げた。「あの――このまま、|捜《そう》|査《さ》を続けてよろしいでしょうか」
「うん。やってくれ。もっとも、あんまり|危《き》|険《けん》なことをやってもらっても|困《こま》るが」
「|大丈夫《だいじょうぶ》です!」
「じゃ、栄養をつけてくれ」
と、社長は、ポケットから|券《けん》を一枚出してサインすると、「ここの食堂なら、何を食べてもこれでいいよ」
「ありがとうございます!――一回|限《かぎ》りですか?」
と、明子は|訊《き》いた。
志水と明子が社長室を出て、食堂のあるロビーの方へ歩いて行くと、
「おい!」
と、声がかかった。
|振《ふ》り向くと、尾形が急ぎ足でやって来るところである。
「あら、|講《こう》|義《ぎ》じゃなかったの?」
「君が変なことを言うからだ」
と息を切らしている。
「私、何か言ったっけ?」
「予約がどうとか――」
「ああ、あれね!」
と、明子は指を鳴らした。「ちょうどお昼を食べるのにね、テーブルを予約しようかと思って――」
「また、|僕《ぼく》をからかったな!」
と、尾形は明子をにらんだ。「|授業《じゅぎょう》を休んで来たのに」
「じゃあ、|一《いっ》|緒《しょ》にどう? タダなんですって、この|券《けん》持ってくと」
尾形も、こうなると|怒《おこ》るに怒れない。|惚《ほ》れた弱味、というところである。
――レストランに入って、明子は、ウエイトレスへ、
「ここで一番高いもの何ですか?」
と|訊《き》いた。
尾形はもう昼食は|済《す》ませて来たので――何しろ午後の二時だ――コーヒーだけを取った。
志水は楽しげに二人のやりとりを|眺《なが》めている。
――尾形も、明子の話を聞くと、
「ふーん」
と|肯《うなず》いた。「その茂木こず枝の言った、『皮肉な』仕事って何だろうね?」
「分らないの、それが。ねえ、何か考え、ない?」
「そう言われてもね……」
「それと、白石|紘《こう》|一《いち》殺しとどう関り合っているかが問題なのよ」
ちょうどステーキが来て、明子はそれにナイフを入れ始めた。
明子はステーキを全部切ってしまってから食べる、という|癖《くせ》がある。
これはいい食べ方ではないのだ。おいしい|肉汁《にくじゅう》が、全部出てしまうからである。
しかし、どうも、一回ごとにナイフを使うというのが|面《めん》|倒《どう》なのだ。
肉を切り終えると、明子はナイフを置いて、フォークを右手に、食べ始めた。
「大した|食欲《しょくよく》だね」
と、尾形が|苦笑《くしょう》した。
ちょうど、そこへ、|若《わか》い|女《じょ》|性《せい》と、中年過ぎの男性が入って来て、三人と少し|離《はな》れたテーブルについた。
尾形は、何となくそっちを|眺《なが》めていた。
|若《わか》い|女《じょ》|性《せい》の方は、|椅《い》|子《す》に浅く座って、メニューを開いている。
そのとき、|奥《おく》の方のテーブルから、男が一人、立ち上った。そして出口の方へと歩いて行く。
若い女性の後ろを通り|抜《ぬ》けるとき、ちょっとその男の足が止った。
――そして、急に足を早めてレジへ行くと、
「つりはいい」
と言い|捨《す》てて、伝票と金を置いて行ってしまう。
「おかしいな……」
と、尾形は|呟《つぶや》いた。
「じゃ、私、このランチにするわ」
と、若い女性が言って、椅子に座り直そうとする。
「|危《あぶな》い!」
と|叫《さけ》ぶなり、尾形は、明子の使ったナイフをつかんだ。
ナイフが|宙《ちゅう》を走った。
「キャッ!」
若い女性があわてて机テーブルに|突《つ》っ|伏《ぷ》す。ナイフがその頭上を|越《こ》えて行った。
「何をするんだ!」
と、|一《いっ》|緒《しょ》にいた男が立ち上る。
「その|椅《い》|子《す》です! もたれかかっちゃいけない!」
尾形が飛び出した。
「え?」
|若《わか》い|女《じょ》|性《せい》が|振《ふ》り向いて、「まあ!」
と|叫《さけ》んだ。
椅子の|背《せ》を|突《つ》き|抜《ぬ》けて、|鋭《するど》いナイフの|刃《は》が十センチも出ていた。
「もたれたら、|刺《さ》さっていましたよ」
と、尾形が言った。
明子も|駆《か》けつけて、目を|丸《まる》くする。
「どうなってるの?」
「今、出て行った男だ」
尾形は駆け出した。もちろん、明子もである。
ロビーには、大勢人が出ている。ちょうど一つ、|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》が終ったところらしい。
「――やれやれ、これじゃ|無《む》|理《り》だな」
と、尾形は息をついた。
「でも、|凄《すご》いじゃない!」
と、明子は尾形をつついた。「どこでナイフ投げを|憶《おぼ》えたの?」
「よせやい」
と、尾形は顔をしかめた。「|夢中《むちゅう》で投げただけさ」
「でも、人助けしたじゃないの」
「まあね……」
「どうして|狙《ねら》われたのかしら?」
と明子は言った。
戻って、話を聞いてみたが、一向に思い当らない様子。
「――それはどうやら、|人《ひと》|違《ちが》いですな」
と、声をかけて来たのは志水だった。
「え? 人違い?」
と、明子は|訊《き》き返す。
「そう。きっと|狙《ねら》われたのは、あなたですよ」
「私が?」
「あなたと私は二人でここへ来るところでした。ところが|途中《とちゅう》で、こちらの尾形さんが加わった」
「そうか!」
尾形が声を上げた。「それで、こちらの二人連れの方が――」
「じゃ、私を殺そうとしたの?」
明子は、今さらながら、ゾッとした。
しかし――|確《たし》かに分らなくはない。
この二人連れ、|年《ねん》|齢《れい》など、明子と志水の二人に良く|似《に》ているのだ。
「よし、このナイフだ」
尾形はハンカチを出して、ナイフを|抜《ぬ》き取った。
「|警《けい》|察《さつ》へ|届《とど》けないと」
「そうだ。このナイフから、きっと何かつかめるよ」
「それにしても、どうしてこんな所で――」
と明子は首をひねった。
|間《ま》|違《ちが》えられた二人は、わけも分らず、ただキョトンとしているばかりだった……。
27 皮肉の|結《けつ》|論《ろん》
「間違ってたわ」
と、明子が言った。
「そうだ」
尾形が|肯《うなず》く。「大体君がこんなことに首を|突《つ》っこんだのが間違いだ」
「違うのよ。私たちの|捜《そう》|査《さ》|方《ほう》|針《しん》が、間違ってたのよ」
「『私たちの』じゃない! 君の[#「君の」に傍点]捜査方針だ」
「あらそう」
明子はむくれた。
「まあ、落ちついて」
と、志水が|笑《わら》いながら言った。「ともかく|無《ぶ》|事《じ》だったんですから――」
「|冗談《じょうだん》じゃないですよ」
と、尾形は|仏頂面《ぶっちょうづら》である。「無事でなかったら大変だ」
――ここは|再《ふたた》び社長室である。
|警《けい》|察《さつ》も|駆《か》けつけて、ナイフを調べるべく持って帰った。
|肝《かん》|心《じん》の|犯《はん》|人《にん》だが、どうも、はっきり顔を|憶《おぼ》えている人間が一人もいなくて、
「中肉|中背《ちゅうぜい》の、|若《わか》いか中年の男」
という、これより|漠《ばく》|然《ぜん》とは言いようのない|表現《ひょうげん》になってしまった。
「しかし、|困《こま》ったもんだ」
と、社長もため息をつく。「この式場で、人は死ぬわ、|刺《さ》されそうになるわ……。あまり続くと、お|祓《はら》いでもしてもらわんと、客が来なくなる」
「でも、今の人、そんなこと気にしませんわ」
と明子が言った。
「そうかね?」
「ええ、お|祓《はら》いにかける分を、|値《ね》|引《び》きしてあげたら、もっと喜びます」
「なるほど、そんなものかもしれんな」
と、社長は|肯《うなず》いた。「ところで、君が|間《ま》|違《ちが》ってた、というのは、どういう意味だね?」
「|忘《わす》れていたってことです」
と、明子は言い直した。「そもそもの|事《じ》|件《けん》はここ[#「ここ」に傍点]から始まったんです。だから、ここに|戻《もど》って調べ直すべきなんですわ」
「分ったようで分らんな。――何のことを言っているのかね?」
「最初の茂木こず枝は、自殺かもしれない。|確《たし》かに、死へ追いやられた、という意味では他殺とも言えますけど、犯人はそばにいなくてもいいわけです」
「それはそうだな」
「そうなると、|直接《ちょくせつ》、|誰《だれ》かが手を下した殺人は、|保《ほ》|科《しな》光子さん、そして白石|紘《こう》|一《いち》、それに私……」
「君は生きてるじゃないか」
と尾形が言った。
「残念そうな口ぶりね」
「いや、そんなことは……」
明子ににらまれて、尾形は、あわてて目をそらした。
「その三つの|事《じ》|件《けん》には共通点があるんです」
「そうか」
と、志水が|肯《うなず》いた。「ナイフ[#「ナイフ」に傍点]だね」
「そうなんです。しかも、三つとも、とても|鮮《あざ》やかな手口です。今度だって、もし成功したら、犯人はとても|捕《つか》まらなかったでしょう」
「失敗したけど、捕まってないよ」
「分ってるわよ!――この三つの|事《じ》|件《けん》、ちょっと|偶《ぐう》|然《ぜん》とは思えません」
「同感だな」
と、社長が言った。「これはきっと同一|犯《はん》|人《にん》の|犯《はん》|行《こう》だ」
「そうなると、私たち、もっと最初の犯行――保科光子さんが殺された事件を、よく調べてみるべきだったと思うんです」
「なるほど」
社長は、志水の方を見て、「あの事件の|捜《そう》|査《さ》はどうなってるんです?」
と|訊《き》いた。
「今のところ、手がかりがないようですな。お|恥《は》ずかしい|限《かぎ》りですが」
「何か|恨《うら》みを買っていたとか――」
と尾形が口を|挟《はさ》む。
いくらか|興味《きょうみ》を覚えて来たようだ。明子は、しめしめ、というように、横目で尾形の方を見た。
「男関係などを中心に|洗《あら》ったようですが、何も出て来なかったらしい」
「古いんだよね、|警《けい》|察《さつ》って」
と明子が|暴《ぼう》|言《げん》を|呈《てい》した。「発想が三十年は|遅《おく》れてる」
「それはあるかもしれませんな」
と、志水は|愉《ゆ》|快《かい》そうに言った。
「通り|魔《ま》|的《てき》|犯《はん》|行《こう》とか、そんなことじゃ、|解《かい》|決《けつ》にはならないと思います。やっぱり、これは一連の|事《じ》|件《けん》の一つと考えるべきですわ」
「すると、なぜ|彼《かの》|女《じょ》が|狙《ねら》われたのか」
尾形は明子を見て、「君と|間《ま》|違《ちが》えられたとは思えないね」
「彼女、三十よ。私は二十一!」
「分ってるよ」
尾形は、あわてて少し体をずらした。
「そうなると……」
「あのお|弁《べん》|当《とう》|箱《ばこ》かしら?」
保科光子が、明子に|預《あず》けた、包みの中身である。ごくありふれた弁当箱で、中は空っぽだった。
「うん、そうだな」
と、社長は|肯《うなず》いた、「他には考えられん」
「でも、何の|変《へん》|哲《てつ》もない|弁《べん》|当《とう》|箱《ばこ》だったけど……」
「|彼《かの》|女《じょ》の手紙があったね」
「ええ。〈私の身に万一のことがあったら、開けてくれ〉とありました」
「すると、やはり、あの弁当箱には、何か|秘《ひ》|密《みつ》があるのかな」
「それ、どこにあるんだい?」
と尾形が|訊《き》いた。
「うちにあるわ。|警《けい》|察《さつ》に|届《とど》けたって、|笑《わら》われるのがオチだし」
「よし、じゃ一つ、調べてみようじゃないか」
「持って来るわ」
明子が|張《は》り切って立ち上る。
「ついて行くよ。またナイフで|狙《ねら》われでもしたらこと[#「こと」に傍点]だ」
尾形が、ナイトよろしく、ついて社長室を出る。
「あなたも、大分乗って[#「乗って」に傍点]来たわね」
|廊《ろう》|下《か》を歩きながら、明子が言うと、尾形はむずかしい顔で、
「早く|解《かい》|決《けつ》しないと、君が|講《こう》|義《ぎ》に出席しないからだ!」
と言い返した。
「|無《む》|理《り》しちゃって」
と、明子はゲラゲラ|笑《わら》った。
尾形はため息をついた。――どうして|俺《おれ》はこんな女の子に|惚《ほ》れちまったんだろう、とでも|嘆《なげ》いているかのようだった……。
調べれば調べるほど、どこといって変った所のない|弁《べん》|当《とう》|箱《ばこ》だった。
「――二重底にもなっていないようだな」
と、尾形は言った。
|再《ふたた》び社長室、一時間後。顔ぶれも同じで、|違《ちが》っているのは、明子の|主張《しゅちょう》で――というほど大げさなものじゃないが――コーヒーとケーキが出ているところだった。
もちろん、これは|事《じ》|件《けん》に|直接《ちょくせつ》関係ない。|間《かん》|接《せつ》|的《てき》にも、ない。
「|材《ざい》|質《しつ》もただのアルミだね。JISマークもついているし、別にどこといって変ったところはない……」
と、志水が言った。
「これに、一体何の|秘《ひ》|密《みつ》が|隠《かく》されているのかな?」
尾形は、弁当箱をひっくり返したり、持ち上げてみたり、|叩《たた》いてみたり、食べてみたり――はしなかったけれど、ともかく、色々と調べたのである。
「使ったものかな」
と、社長が言った。
「そうですね。新しいことは|確《たし》かだが――」
志水が|弁《べん》|当《とう》|箱《ばこ》を取り上げ、「たぶん、使ってあると思いますよ」
「でも――|誰《だれ》が?」
と、明子が言った。
|一瞬《いっしゅん》、他の三人がポカンとした。
「そうだわ! まず|肝《かん》|心《じん》のことを調べなきゃ!」
と、明子は手を|叩《たた》かんばかりにして言った。「この弁当箱の持主[#「持主」に傍点]は誰か、ってことですよ!」
「なるほど――」
と、志水が大きく|肯《うなず》いた。「これは|保《ほ》|科《しな》光子の物じゃないかもしれない」
「|違《ちが》うと思いますわ」
と、明子は言った。「光子さんは、いつも食堂で食べてたんです。私、よく|一《いっ》|緒《しょ》に行きましたから。一人だと、お弁当なんか作るよりも、外食の方が安く上るんです」
「なるほど、すると、|彼《かの》|女《じょ》は、この弁当箱の持主[#「持主」に傍点]のことを教えたかったのかな」
「でも、それにしたって、|容《よう》|易《い》じゃありませんね」
と、尾形が言った。
「|確《たし》かにね。こんな弁当箱を使っている人間はいくらもいる」
と社長が言った。
「でも、光子さんがわざわざ私の所に送って来たのは、きっとこれ[#「これ」に傍点]で|犯《はん》|人《にん》が分るからだったんだと思うんです。つまり、身近にいる誰かだと……」
「そいつは正しい|指《し》|摘《てき》だな」
と、尾形が言った。「そうなると、問題は、保科光子が教えようとしていた『身近』というのが、どの辺を指すか、の問題になって来る」
「|彼《かの》|女《じょ》の近所か、それとも――」
と言いかけた志水を|遮《さえぎ》って、
「そうだわ! 分った!」
と、明子は飛び上った。
正に、ソファから十センチも飛び上ったのである。
「ど、どうしたんだ?」
尾形が目を|丸《まる》くしている。
「あの言葉よ! 茂木こず枝の言った、『こんな仕事をしてるなんて、皮肉なもんね』という――」
「それがどうした?」
「もし、その男が、この結婚式場[#「結婚式場」に傍点]で働いていたら、それなら『皮肉』っていうのも分るじゃないの!」
そうだわ。明子は思い当った。あの、ぎっくり|腰《ごし》になった男から聞いた電話番号。
どこかで見たと思ったのだが、この式場の番号に|似《に》ている。
「そうか……」
尾形も、さすがに|唸《うな》った。「それで、その|弁《べん》|当《とう》|箱《ばこ》も、その男のものだとしたら、何もかも分るね」
「きっとこれだわ! それが答えなのよ!」
志水は|微《ほほ》|笑《え》んで
「どうやら、それが|正《せい》|解《かい》らしい。しかし、社長さんには、|難《むずか》しい|事《じ》|態《たい》ですな」
明子はあわてて口をつぐんだ。
言われてみればその通りだ。ここの|職員《しょくいん》の中に、|主《しゅ》|婦《ふ》売春や、殺人に関った者がいる、というのだから……。
「いや、こいつは参った」
と、社長はふうっと息をついた。
「しかし、こうなった以上、真相はあくまではっきりさせなくては。社長としての|責《せき》|任《にん》問題になるからね」
「すみません、|騒《さわ》ぎ立てて」
と、|殊勝《しゅしょう》に明子が|謝《あやま》る。
「いや、もし、このまま放っておけば、ずっと|事《じ》|件《けん》が続いたかもしれん。早く分って幸いだったよ」
「さすがに社長! 大物は|違《ちが》いますね」
「持ち上げるな」
と|苦笑《くしょう》して、「では、どうやって調べるかな?|従業員《じゅうぎょういん》は少なくないが」
「それが問題ですね」
と、尾形も、今は|真《しん》|剣《けん》である。
「いくら多くても、一万人はいないんですから」
明子は大きく出た。
「しかし、|弁《べん》|当《とう》持参というのは、そう多くないのじゃないかね」
と社長は言った。「よし、じゃ、何か名目をつけて、|誰《だれ》と誰が弁当を持って来ているか、アンケートを取ってみよう」
「それは名案だ」
と、志水が言った。
「でも、|犯《はん》|人《にん》が、もしこの弁当箱のことを知っていたら、|嘘《うそ》を書くんじゃありません?」
と明子が言うと、
「それは|却《かえ》って、自白してるようなもんだよ。きっと正直に書くと思うね」
と尾形が言った。
「私はこの弁当箱を持って帰って、調べてみよう。|指《し》|紋《もん》が出るかもしれない」
「なるほど、そういう方法がありますね」
尾形は少々|興《こう》|奮《ふん》気味。「それで出た指紋と、ここの従業員の指紋を合わせれば――」
「しかし、そんなもの、|採《と》っとらんぞ」
と、社長が言った。
「当然ですよ」
と、志水が|肯《うなず》く。「何かいい方法があるといいが……」
しばし、みんな考え|込《こ》んだが……。
声を上げたのは――やはり明子だった。
「社長!」
「何だね?」
「ちょっとポケットマネーを使ってパーティを開きません?」
「パーティ? そりゃいいが――しかし、何のパーティだ?」
「何だっていいですよ。|創業《そうぎょう》何周年とか――」
「この前、|済《す》んだばかりだ」
「じゃ、社長の|還《かん》|暦《れき》祝いとか」
「まだそんな|年《ねん》|齢《れい》じゃない!」
「もうすぐでしょ?」
「まだ五十八だ」
「じゃ、ともかく――何でもいいですから、パーティを開くんです」
「それでどうするんだ?」
「だからその席で――」
と、明子は|得《とく》|意《い》げに言った。
28 パーティ
「どういう風の|吹《ふ》き回し?」
「知らないわ」
「もう社長、死期が間近いんじゃない? 急にいいことをしようとすると、|危《あぶな》いっていうわよ」
あれこれ、|噂話《うわさばなし》が飛び交っていたが、ともかく――。
「夕食代が|浮《う》くんだから、|遠《えん》|慮《りょ》しないようにしましょうよ」
というわけで、何かわけの分らない〈パーティ会場〉へ、ゾロゾロと男女の|従業員《じゅうぎょういん》が入って行く。
|女《じょ》|性《せい》の方も、いつもは|制《せい》|服《ふく》だが、今日は|精《せい》|一《いっ》|杯《ぱい》のおしゃれをしている。
おかげで、上司の方は部下の見分けがつかず、
「こんな美人、うちにおったかな?」
と正直に言って、けっ飛ばされていた。
「――今日は急な集りなのに、みんなよく出て来てくれた」
とまず社長が|挨《あい》|拶《さつ》。「いつも|頑《がん》|張《ば》ってくれている、みんなのために、ささやかな|慰《い》|労《ろう》の会を開くことにしたんだ。自分がいつも働いている場所でのパーティというのも、何だか気が乗らんかもしれんが、まあ、楽しんでくれ」
|拍《はく》|手《しゅ》が起る。――立食形式のパーティだったが、早くも、|寿《す》|司《し》だの、ローストビーフだのは、器が空になりつつあった。
何やってるんだ?
尾形は、明子が家から出て来るのを、|苛《いら》|々《いら》しながら待っていた。
|名《めい》|探《たん》|偵《てい》が、服を着るのに手間取って、|犯《はん》|人《にん》を|逃《にが》したなんて、ミステリーにならない。
「すみませんね、尾形さん」
と、母の|啓《けい》|子《こ》が顔を出す。「今、来ると思いますから」
「はあ」
尾形は、友人の車を借りて、運転して来ていた。――それに当人も、一番上等の|背《せ》|広《びろ》を着ている。
背広は英国製とはいかないが、ハンカチはカルダンだった!
「お待たせ」
と、明子の声がした。
「|遅《おそ》いじゃないか、もうパーティは始ま――」
|妙《みょう》なところで|途《と》|切《ぎ》れたのは、尾形がアングリと口を開きっ放しになったからだった。
「全員ここにいますよ」
と、社長は、低い声で志水に言った。
「係を外に待機させてあります」
と、志水が|肯《うなず》く。
「あの|弁《べん》|当《とう》|箱《ばこ》から、|指《し》|紋《もん》は出ましたか?」
「いくつか出ていますが、我々も|触《さわ》っていますからね。それらを消して行かなくてはならない」
「もちろん私のも|採《と》って下さい」
と社長が言った。
「そうしましょう。ただし――」
志水は付け加えて、「ここで集めた指紋は、必要なもの以外は、全部|責《せき》|任《にん》を持って|処《しょ》|分《ぶん》します。信用して下さい」
「分りました」
社長はグラスをぐっとあおって空にすると、「あなたは|頼《たよ》りになる方ですな」
と言った。
|臨《りん》|時《じ》|雇《やと》いらしいボーイが、|盆《ぼん》の上に、社長の空のグラスをのせ、会場を出た。
|廊《ろう》|下《か》を進んで、ぐるっと回ると、志水に言われてやって来た|鑑《かん》|識《しき》|班《はん》の人間が、待っていた。
「これが社長のグラスです」
「社長か。OK」
と、|袋《ふくろ》に入れて、足下の|箱《はこ》へ入れる。番号をふって、メモをしておく。
こうして、|全従業員《ぜんじゅうぎょういん》の|指《し》|紋《もん》を集めよう、というわけである。
――志水と社長は、会場の中を|見《み》|渡《わた》して、
「|彼《かの》|女《じょ》はまだ来ないようですな」
急に会場の中がスーッと静かになった。
やがて|拍《はく》|手《しゅ》が起こる。
明子が、目にも|鮮《あざや》かなカクテルドレスで|現《あら》われたのである。
「やあ、永戸君。すてきだね!」
社長が首を|振《ふ》って、「私もあと二十年|若《わか》ければな……」
と言った。
ついて来た尾形の方も、明子のスタイルに|刺《し》|激《げき》されてか、ソワソワしている。
「さあ、食べようっと!」
明子は|皿《さら》を取ると、テーブルを見回した。「どこが|空《す》いてるかしら?」
「ねえ君――」
と、尾形が言った。「少しレディらしくしないと、そのドレスが|泣《な》くよ」
「泣いたって|構《かま》わないわ。|食欲《しょくよく》の方が|優《ゆう》|先《せん》!」
いつもながらの明子に、尾形が少々ホッとしたのも事実だった。
――パーティは、|穏《おだ》やかに進んだ。仕事[#「仕事」に傍点]の方も、順調だった。
明子が、
「あれは××さん、これは〇〇さん」
と、グラスを運び出すボーイへと|囁《ささや》く。
これのために、明子としては、あまり|酔《よ》っ|払《ぱら》うわけにいかないのである。
「やあ、永戸君。|謹《きん》|慎《しん》はとけたのか?」
と、やって来たのは、|嫌《きら》いな村川部長である。
少し|酔《よ》っているらしい。
「おかげさまで」
と、そっぽを向く。
「社長の所へ来てたね。何か用だったのか?」
「部長に関係ないでしょ」
「冷たいね。――さてはあの|若《わか》いのと、できてるな?」
村川がワハハ、と品のない|笑《わら》い方をする。
明子はさっさと|逃《に》げ出すことにした。
「――いや、料理もいいですよ」
と、尾形が社長と話している。
「何の話?」
明子がやって来ると、
「いや、|僕《ぼく》らも、ここで式を挙げようと言ってたんだ」
「あら、どなたと?」
「もちろん君さ」
「私?」
明子は、わざと大きく目を見開いて、「私はまだ学生の身ですもの。五年たったら考えるわ」
社長は楽しげに|笑《わら》った。
「いや、実に|愉《ゆ》|快《かい》な人たちだ」
「――社長、アンケートの方は?」
と、明子が|訊《き》く。
「うん。今日、配っておいたよ。明日には回収させる」
「楽しみですね、|結《けっ》|果《か》が」
「ところで――どうだね?」
と、社長は会場の中を見回して、
「|指《し》|紋《もん》の方は全部|採《と》れたのかな?」
「あと、四、五人だと思いますけど。まだ、みんな飲んでるし、|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」
と、明子は力強く|肯《うなず》いた。
「――いいパーティだった」
と、尾形は言った。
「そうね……」
明子は言った。
車が夜の道を走り抜ける。尾形がハンドルを|握《にぎ》っていた。
――何だかロマンチックな|雰《ふん》|囲《い》|気《き》だった。
「ああいう形式も悪くないね」
と、尾形は言った。「|僕《ぼく》も|結《けっ》|婚《こん》するときはああいう風にしよう」
「|結《けっ》|構《こう》ね」
「君はどう思う?」
「そうね……」
明子は、何やら考え|込《こ》んでいる様子だったが――その内、ワーッと|大《おお》|欠伸《あくび》をした。
尾形はため息をついた。ムードも何もないんだから!
「これで|解《かい》|決《けつ》するといいわね」
「欠伸で?」
「|違《ちが》うわ、|事《じ》|件《けん》のことよ」
「あ、そうか」
|忘《わす》れてしまいそうだったのだ。
尾形は、車を道のわきへ|寄《よ》せて|停《と》めた。
「ねえ、君……」
「うん?」
「今夜は|凄《すご》く|魅力的《みりょくてき》だよ」
「そう? ありがとう」
「|僕《ぼく》は考えてたんだけど……その……今は学生同士だって、|結《けっ》|構《こう》|結《けっ》|婚《こん》しちまう|奴《やつ》がいる。僕はまあ――|一《いち》|応《おう》|講《こう》|師《し》だし、君とは|年《ねん》|齢《れい》も多少|違《ちが》ってる」
「うん」
「だから、その……別に具合の悪いことはないと思うんだ。つまり君と僕が……」
「ふん」
「その……だから……」
尾形は、エヘンと|咳《せき》|払《ばら》いをして、顔を真っ赤にし、思い切って言った。
「結婚しようじゃないか!」
――長く待ったが、返事はなかった。
見ると、明子は少し口を開いて、スヤスヤと|眠《ねむ》り|込《こ》んでいる。
尾形は大きくため息をつくと、車をスタートさせるのだった……。
29 プロポーズ、その後
「あーあ」
|欠伸《あくび》からスタートするというのは、少々読者に失礼かもしれないが、そこは|勘《かん》|弁《べん》していただく他はない。
ともかく、明子が起き出したのが十一時。それから三十分の間、ほぼ五分毎に欠伸をしていたのである。
「ねえ、明子」
と、母の啓子がコーヒーを|注《つ》いでやりながら言った。
「なあに?」
「尾形さんが言ってたよ」
「ああ、大学のことでしょ。分ってるわよ」
と、うるさそうに言う。「|授業《じゅぎょう》に出ろって言うんでしょ?」
「あら、停学中じゃなかったの?」
と啓子は|椅《い》|子《す》を引いて座る。
「|解《かい》|除《じょ》になったのよ」
と明子は言って、「――あれが|夢《ゆめ》でなきゃね」
と付け加えた。
「そりゃ良かったわ。じゃ、こんなにのんびりしてちゃいけないんじゃないの?」
「勉強は学校だけでするもんじゃないわ」
明子は分ったようなことを言った。
「でも、|月《げっ》|謝《しゃ》を|払《はら》ってるのは大学だけよ」
啓子も|理《り》|屈《くつ》っぽく言って、「ともかく、そんな話じゃないのよ」
「じゃあ、何のこと?」
「ゆうべあんたを送って来てね、尾形さん、ゆっくり話し|込《こ》んで行ったの」
「へえ、|図《ずう》|々《ずう》しい! 何か高いものでも食べさせたの? メロンがあったでしょ」
「出さないよ」
「当り前よ。どうせ、私のこと、ケチョンケチョンに言ってたんでしょ。大体、想像がつくわ」
「そう?」
「もう、お付き合いはこれ切りにしたい、って言ったんじゃない?」
「そうねえ」
と、啓子は、ちょっと考えて、「まあ、そんなようなことだわね」
「分ってるのよ。ああいう男は|狡《ずる》いんだから。こっちから願い下げだわ」
「でも、|結《けっ》|婚《こん》させてほしい、ってことだったよ」
と、啓子が言ったので、明子はポカンとして、
「――|誰《だれ》が?」
と、やっとの思いで|訊《き》き返した。
「尾形さんよ。決ってるでしょ」
「――私と?」
「私でもいいけど、ちょっと年が|違《ちが》うからねえ」
と啓子は真顔で言った。
「お母さん、何て答えたの」
「別に。本人に|訊《き》いて下さい、と言っておいたわ」
明子は、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
ブラックコーヒーより、よほど目が覚める話だった。
それは|確《たし》かに――尾形とは|恋《こい》|人《びと》同士といって差し|支《つか》えない|程《てい》|度《ど》には付き合っているし、よく|冗談《じょうだん》で、|結《けっ》|婚《こん》の話もする。しかし、尾形が母に話をしたとなると、事は重大と言わねばならない。
つまり、尾形は、明子が心配していた|状態《じょうたい》――真剣に[#「真剣に」に傍点]明子のことを愛し始めたのかもしれない。
いや、明子だって、当節の女子大生としては、|週刊誌《しゅうかんし》やTVで「ああだこうだ」と言われるほど、遊んでるわけじゃないし、「愛」というものを、|神《しん》|聖《せい》なりと考えるくらいの|真《ま》|面《じ》|目《め》さは持ち合せているのだ。
ただ、それをもろに[#「もろに」に傍点]真面目に口に出したりするのを、照れるのである。
他の子たちだって、たいていはそうなのだ。
ホテルへ行ったりして、|適《てき》|当《とう》に遊んでいるような子でも、|実《じっ》|際《さい》は、ごく当り前に|結《けっ》|婚《こん》しようと思っている。それを、ストレートに口に出すと、カッコ悪い、と思っているだけなのだ。
愛人バンクだ、ホテトルだ、と、話題ばかり、にぎやかだが、|誰《だれ》も|彼《かれ》もが、そんな風ではない。明子だって、たぶん、たいていの友人たちには、男の二人や三人は知っていると思われているが、実のところ、まだまだ|未《み》|経《けい》|験《けん》の一人なのだ。
「尾形さんのこと、どうなの?」
と啓子が|訊《き》いて来る。
弱いのよね、こういうの。――何と答えたものやら、|困《こま》っちゃう。
「まあ――悪い人じゃないとは思うわ」
と、明子は言った。
「じゃあ、結婚する?」
「ちょっと――ちょっと待ってよ」
と、明子はあわてて言った。「それじゃ、『悪くない人』なら誰とでも結婚しなきゃならないの?」
「そうじゃないけど……」
と、啓子は言った。「でも――いざそうなってからそうするのも何だからね」
明子は目をパチクリさせた。
「何よ、それ? どういう意味?」
「つまり――そうなってから|結《けっ》|婚《こん》するのも、あんまり感心しない、ってことよ」
「最初の『そうなって』ってのは、どうなって、ってことなの?」
何だかややこしい。
「そりゃもちろん、お前が|子《こ》|供《ども》でもできてさ――」
「お母さん!」
明子が目をむいた。
「だって、もうホテルぐらいには行ってるんでしょ?」
どういう親なんだ?――明子は|呆《あき》れて言葉もなかった。
ちょうど電話がかかって来て、啓子が立って行く。明子は、ため息をついて、コーヒーを飲み|干《ほ》した。
親があれじゃ、ホテルへ行かなきゃ、申し|訳《わけ》ないみたいじゃないの!
「――明子、会社の方からよ」
啓子が、のんびりと顔を出す。
明子は急いで席を立つと、電話の方へと走った。
「――永戸です」
「君か。村川だ」
「ああ、部長さんですか」
明子は、ぶっきらぼうに言った。「何かご用ですか?」
「おい、君はうちの|従業員《じゅうぎょういん》なんだぞ」
「あ、そうでしたね」
と、明子はとぼけた。「でも今日は午後の出社ですよ」
「ひどく|忙《いそが》しいんだ。悪いが十二時から出てくれんか」
「でも、お昼休みは?」
「二時から取っていい。ともかく十二時の昼時に、手が足りなくなるんだ」
仕方ないか。|一《いち》|応《おう》、給料をもらう身だ。
「分りました。じゃ今から出ます」
「助かるよ。じゃ、待ってるからな」
村川の方も、珍しく愛想がいい。
「忙しいときだけだわ」
電話を切ると、また|大《おお》|欠伸《あくび》。――いつの間にか、啓子がそれを見ていて、
「そんなに欠伸ばっかりしてると、|嫌《きら》われるよ」
と言った。
今から出ます、と言っても三十分はかかるのが、女性というものである。
明子の場合は、多少スピーディで、それでも二十八分かかった。
外へ出て歩き出すと、また|欠伸《あくび》が出る。
さすがに、大口開けてはやらなかった。多少は、近所の目というものもある。
タクシーで行くか。――ちょうど、空車が来たのを|停《と》めた。
行先を告げると、運転手が、
「式場の下見かね」
と言った。
「いいえ、予約の取消し」
と、明子は言った。
そのタクシーが走り出すと、その人物[#「その人物」に傍点]は、小さなトランシーバーを取り出して、タクシーの色とナンバーを|連《れん》|絡《らく》し、角を曲ってタクシーが見えなくなるまで、見送っていた。
タクシーは、坂の下へと近付いた。
坂を上るわけでなく、その下を通り|抜《ぬ》けるだけである。
坂の|途中《とちゅう》に、かなり|薄《うす》|汚《よご》れたダンプカーが、一台|停《とま》っていた。
タクシーが近付くと、ダンプカーは、ブレーキが外れたものか、ゆっくりと坂道を下り始めた。たちまち加速度がつく。
タクシーの前に、ダンプカーが|突《とつ》|然《ぜん》、飛び出して来た。急ブレーキ!
しかし、とても間に合うものではなかった。
タクシーは、ダンプカーの|横《よこ》|腹《ばら》に|激《げき》|突《とつ》した。
尾形は、|講《こう》|義《ぎ》をしながら、むやみに|苛《いら》|立《だ》っていた。
「おい! そこの|奴《やつ》、何を|居《い》|眠《ねむ》りしてるんだ!」
と|怒《ど》|鳴《な》ったりするので、学生たちの方が|面《めん》|食《く》らっている。
「どうしたんだ、先生?」
「きっと|振《ふ》られたんだ」
「|財《さい》|布《ふ》落としたんじゃねえか?」
「いや、パチンコで|損《そん》したんだよ」
と、みみっちい話も出る始末。
「おい! 何をしゃべっている!」
尾形はますます|荒《あ》れていた。
要するに、明子のせいである。――ゆうべ、とうとう、明子の母親に、|結《けっ》|婚《こん》の話をしてしまった。
もう明子も起き出して、母親から、そのことを聞いているだろう、と思うと、尾形は居ても立ってもいられない気分だったのである。
明子は、それを聞いて、どうしただろう? |感《かん》|激《げき》に目をうるませたか? まさか!
大口を開けて、ゲラゲラ|笑《わら》ったか?――その方が|正《せい》|解《かい》かもしれない。
しかし、ともかく――言ってしまったのだから、今さら取り消すことはできない。
考えてみれば、大変な子に|結《けっ》|婚《こん》を申し|込《こ》んだものだ。
|夫《ふう》|婦《ふ》|喧《げん》|嘩《か》をしても、とても尾形に勝目はない。ぶん投げられて、目を回すのがオチである。
全く――それでいて、|惚《ほ》れちまっているのだから、どうしようもない!
「――失礼します」
と、|扉《とびら》が開いて、|事《じ》|務《む》の女の子が顔を|覗《のぞ》かせた。
「何か?」
「先生、お電話です」
「ありがとう」
尾形は、|廊《ろう》|下《か》へ出た。事務室は少々遠い。
軽くかけ足で、やっと受話器を取ったときは、少し息を|弾《はず》ませていた。
「尾形です」
「あ、永戸です。明子の母ですが」
来たか。――この口調では、|断《ことわ》られたかな、と思った。
「どうも昨日は――」
と言いかけたのを、向うが|遮《さえぎ》った。
「|娘《むすめ》が|事《じ》|故《こ》に|遭《あ》いまして」
「な、何ですって?」
尾形は、飛び上らんばかりに|驚《おどろ》いた。
30 死体をもう一つ
「タクシーはダンプカーの下へ|潜《もぐ》り|込《こ》むように、|突《つ》っ込んだんです」
と、|医《い》|師《し》が言った。「タクシーは上半分、|削《けず》り取られてしまったんですよ。まあ、|普《ふ》|通《つう》なら頭が飛ばされて、一巻の終りなんですが……」
「運が良かったのよ」
ベッドでは、明子が元気|一《いっ》|杯《ぱい》の様子だった。
「ちょうどハンドバッグを開けて、コンパクトを出してたの。そしたら、それを|床《ゆか》に落っことしてね、拾おうとして、かがみ込んだのよ」
「そこへドシン、か」
「そう! 頭の上を、ダンプのフレームが|通《つう》|過《か》して行ったわけね」
「おい、|冗談《じょうだん》じゃないよ」
と、尾形は|苦笑《くしょう》した。「|一瞬《いっしゅん》の差で、頭が失くなってたところかもしれないんだぜ」
「だったら、もう少しまし[#「まし」に傍点]なのと取りかえられたのにね」
と、明子は|至《いた》って|呑《のん》気である。
「で、先生――」
と、尾形は|医《い》|師《し》の方を向いた。「けがの具合は?」
「ガラスの|破《は》|片《へん》で、ちょっと切り|傷《きず》はできていますが、それ以外は、|骨《ほね》も何ともなっていませんよ。運転手の方も、すぐに|伏《ふ》せて、|無《ぶ》|事《じ》だった。|奇《き》|跡《せき》|的《てき》ですな」
「分ったでしょう?」
と、明子が言った。「私は運が強いのよ」
「人に心配かけて!」
と、尾形はにらんだ。「運が強い、もないもんだ」
「ごめん」
明子は、ちょっと|舌《した》を出した。「でもね、あのとき、|一瞬《いっしゅん》、死ぬのかな、って思ったわ。そして、ふっと思い|浮《う》かべたの……」
「|僕《ぼく》のことを、かい?」
と、尾形が勢い|込《こ》んで|訊《き》く。
「ドラ焼きのことを」
医師が|吹《ふ》き出してしまった。
病院のドアがノックされて、尾形が開けてみると、
「――やあ、これは」
思いがけない顔だった。|検《けん》|死《し》|官《かん》の志水だ。
「|署《しょ》の方から、知らせてくれましてね」
と、志水は言って、「――やあ、しかし、元気そうだ」
と明子の顔を|覗《のぞ》き込んだ。
「|大丈夫《だいじょうぶ》です。|正《せい》|義《ぎ》の味方は死にません」
と、明子が言うと、また|医《い》|師《し》が|笑《わら》い出した。
「いや、実に面白い|患《かん》|者《じゃ》さんだな」
「いつ|退《たい》|院《いん》できます?」
と明子が|訊《き》く。
「そうだね。|一《いち》|応《おう》今夜だけ入院しなさい。明日には退院できますよ」
医師が出て行くと、志水はホッと息をついて、
「しかし、|危《あぶな》いところでしたねえ」
と言った。
「本当に。――ダンプの方の|責《せき》|任《にん》を|厳《きび》しく|追及《ついきゅう》しなきゃ」
尾形は今ごろになって、|腹《はら》を立てている。
「いや、ダンプの運転席は空だったんですよ」
と志水が言った。
「何ですって?」
明子が頭を上げる。「それ、どういう意味ですか?」
「あのダンプカーは、|盗《ぬす》まれたものでね、あそこに朝から|停《と》めてあった」
「朝から?」
「そう。そして、ハンドブレーキを|誰《だれ》かが外して、坂を下って行ったわけです」
「誰かが……」
明子は、|独《ひと》り言のように|呟《つぶや》いた。
そういえば、前にも一度、車ではねられかけたことがある。きっと同じ|犯《はん》|人《にん》だろう。
「つまり、|彼《かの》|女《じょ》を|狙《ねら》って、誰かが、わざと[#「わざと」に傍点]、やったというんですか?」
尾形は目を見開いて、「それじゃ――あの犯人だ! 君を|刺《さ》しそこなった|奴《やつ》だよ、きっと!」
「待って」
明子はベッドに起き上った。「でも、私があのタクシーに乗ったことを、なぜ知っていたの? それに今日は大体午後出社だったのに、早く出たんだし――」
そして、|突《とつ》|然《ぜん》言葉を切ると、
「分ったわ!」
と声を高くした。
「おい、今度は何だい?」
尾形が、うんざりしたような声を出す。
「今日、|忙《いそが》しいから、早く出てくれって電話があったの。そして家を出て、タクシーを拾ったのよ。|指《し》|紋《もん》はどうでした?」
と、志水に|訊《き》く。
「まだ、結果が出てないんでね」
と、志水が言った。「今、|弁《べん》|当《とう》|箱《ばこ》の指紋と照合しているんですよ。私たちのもの以外に、|誰《だれ》かの指紋があることは事実です」
「それ、きっと村川さんのだわ!」
と、明子は力強く言った。
「村川?」
「部長よ! 村川さんが、私に早く出ろと電話して来たのよ」
明子はベッドから出ると、「ちょっと外へ出て。服を着るから」
「おい、どうするんだ?」
「|退《たい》|院《いん》するの」
「|無《む》|茶《ちゃ》だよ! 今、先生が――」
「どうせ明日退院するのよ。今日だって、同じよ」
|名《めい》|探《たん》|偵《てい》にしては、|論《ろん》|理《り》を|無《む》|視《し》した言い方だった。
「何だ、|大丈夫《だいじょうぶ》か?」
ロビーへ入って行くと、社長が明子を見付けてやって来た。
「あ、社長」
「|事《じ》|故《こ》にあったと聞いて、今から病院へ行こうと思っとったんだ」
「ご心配かけて。――ご|覧《らん》の通り、ピンピンしてます」
「良かった! 足もちゃんとついとるようだな」
「部長はどこですか?」
「村川か? さあ、知らんな。今日は見ていないが」
「部長は、今日はお休みですよ」
と、受付の女の子が言った。「|今朝《けさ》、電話があったんです」
「そうか」
「やっぱりだわ!」
と明子が|肯《うなず》いた。
「何が、やっぱり、だね?」
「私、殺されかけたんです。事故じゃなくって」
目を|丸《まる》くしている社長へ、明子は|事情《じじょう》を説明した。
「――なるほど。すると、例の男というのは村川だったのか」
「アンケートの|結《けっ》|果《か》は出ました?」
「ああ。社長室へ行こう」
――社長室で、明子は、社長から、アンケートの結果を見せられた。
村川は、やはり|弁《べん》|当《とう》持参組の一人だった。
「ちょっと電話を|拝借《はいしゃく》」
と、志水が、社長のデスクの受話器を取り上げた……。
「うん。――そうか。|誰《だれ》の|指《し》|紋《もん》だった?――そうか。分った。――いや、ありがとう」
志水は、受話器を|戻《もど》し、
「やはり図星だよ」
と、言った。「|弁《べん》|当《とう》|箱《ばこ》に、村川の指紋があった」
「やったわ!」
明子は飛び上った。
「よし、では、村川の家を手配しましょう。住所を教えて下さい」
志水は、村川の|自《じ》|宅《たく》に近い|署《しょ》へ|連《れん》|絡《らく》を取った。
「――これで、すぐ自宅へ急行しているでしょう。我々も行ってみますか?」
「もちろん!」
明子が真っ先に答えた。
「まだこりないのか?」
尾形が、ため息をついて、「よし、|僕《ぼく》も行くよ」
「私も同行したいが――」
と社長が残念そうに、「大事な客が来るのでね」
「じゃ仕方ありませんね」
と、明子が言うと、社長は、
「うん、仕方ない」
と|肯《うなず》いた。「客には待ってもらおう」
大分、明子の|好《こう》|奇《き》|心《しん》が社長にも|感《かん》|染《せん》しているらしい。
かくて、明子と三人の男たちは、社長のベンツで、村川の|自《じ》|宅《たく》へと向かった。
「あれらしい」
と志水が言った。
パトカーが、三台ほど|停《とま》っているのが、見えた。
「それにしても、ちょっと様子がおかしいな……」
――かなりの高級|住宅地《じゅうたくち》である。社長が、
「こんな所に住んでるのか」
と、|呆《あき》れ顔で言ったほどだ。「あいつの給料では、とても|無《む》|理《り》だ」
「やはり何か、|陰《かげ》でやってるんですよ」
と、明子は言った。
パトカーの手前で、ベンツを|停《と》め、四人は外へ出た。
志水が先に立って行って、|警《けい》|官《かん》と話をしている。そして、いかにも成金|趣《しゅ》|味《み》|的《てき》な、ごてごてした感じの家から、|刑《けい》|事《じ》らしい男が出て来た。
志水と顔見知りらしく、親しげに話をしてから、|一《いっ》|緒《しょ》に明子たちの方へとやって来た。
「古いなじみの|刑《けい》|事《じ》ですよ」
と、志水が言った。「殺しだって?」
「そうなんです」
と、中年のその刑事が|肯《うなず》く。
「じゃ、村川さんが?」
と、明子が|訊《き》いた。
「いや、そうじゃないんです」
と、刑事は首を|振《ふ》った。「|若《わか》い男でね。村川は|姿《すがた》を消しているんですよ」
「その男の|身《み》|許《もと》は?」
「分りません。――見ていただけますか?」
「ええ」
明子は肯いた。死体の一つや二つ、何だ! 村川の家の中は、外見に|劣《おと》らず|派《は》|手《で》で、|悪《あく》|趣《しゅ》|味《み》だった。
「家族は?」
と尾形が言った。
「|奥《おく》さんは、実家に|戻《もど》っているんです。村川と、うまく行っていなかったのかもしれませんな」
「その|若《わか》い男っていうのは――」
「人相や風体を奥さんへ電話で説明したんですが、心当りがない、ということでした」
|刑《けい》|事《じ》は、居間のドアを、|肩《かた》で|押《お》した。「ここです」
――広い居間で、|誰《だれ》かが|寝《ね》ていた。
いや、本当は死んでいるのだ。しかし、|表情《ひょうじょう》は|穏《おだ》やかだった。
「いかがです?」
と、刑事は言った。
明子は、どこかで見た顔だ、と思った。
こうして、死体となって|倒《たお》れているから、よく分らないが。
明子はかがみ|込《こ》んで、まじまじと顔を|眺《なが》めた。
「おい、気を付けろよ」
と、尾形が言った。「かみつくかもしれないぞ」
「犬じゃあるまいし」
と、明子は言った。
そうだ!――思い出した。
この男。――中松進吾ではないか……。
31 |塀《へい》の中の|秘《ひ》|密《みつ》
「村川が……」
と、社長は首を|振《ふ》った。「信じられん」
「でも、他に考えようはありませんわ」
と明子はきっぱりと言った。
「分ってるよ」
社長は|渋《しぶ》い顔で|肯《うなず》いた。「しかし――考えてみてくれ。うちの商売は何だ?」
「|結《けっ》|婚《こん》式場でしょ」
「そこの部長が、|主《しゅ》|婦《ふ》や学生に売春のアルバイトをさせていた、と分ったら……」
「もうだめですね」
明子は社長じゃないから、|呑《のん》|気《き》なものである。
「気軽に言わんでくれ」
「まあ、元気を出して下さい」
と、尾形が多少|同情《どうじょう》するように言った。
「そうですよ、社長、|紅《こう》|茶《ちゃ》がさめます」
明子の言葉はあまり|励《はげ》ましにはならないようだった。
村川の家では、まだ|捜《そう》|査《さ》が続いている。
明子たちは、村川の家の向い側にある|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》に入って、|検《けん》|死《し》|官《かん》の志水が出て来るのを待っていた。
「それに、あの中松進吾を殺して|逃《とう》|亡《ぼう》したんですもの」
と、明子は続けた。「それに、|保《ほ》|科《しな》光子さんを殺させたのも、白石|紘《こう》|一《いち》も、私を|狙《ねら》わせたのも、きっと村川だわ」
社長の方は、ますます落ち|込《こ》んでいる。
「あの|花《はな》|嫁《よめ》は――」
と、尾形が言いかける。
「茂木こず枝さん? |彼《かの》|女《じょ》は、きっと村川に手伝わされていたのよ、売春の仕事を。いやになって、それでも村川から|逃《に》げられず自殺した」
「なるほど、わざと|花《はな》|嫁《よめ》|衣裳《いしょう》を身につけて、村川の働いている式場で死んだわけか」
「村川が先に見付けたんだわ。|身《み》|許《もと》がわからないように、服や荷物を|隠《かく》したんだと思う」
「私は救われん!」
と、社長は天を|仰《あお》いで、ため息をついた。
「ただ……」
と、明子が|呟《つぶや》く。
「何だね?」
「今、ちょっと考えたの。――あの村川部長って、そんなに大物だったのかしら?」
社長は|肯《うなず》いて、
「うむ。君の言うことは分る」
と言った。「私の見たところ、村川は、そんなでかいことのやれる男ではない」
「ねえ? 社長もそう思うでしょう?」
「どっちかといえば、|肝《きも》っ玉の小さな男だ。使い走り、というか」
「そう思ったんです、私も。そうなると、村川の上に、誰か[#「誰か」に傍点]いたのかもしれませんわ」
「まだ終らないのかい?」
尾形がうんざりしたように、言った。
「――まあ!」
明子が、|突《とつ》|然《ぜん》、声を上げた。もちろん、理由あってのことだ。理由なしで急に|叫《さけ》んだりしたら、まともじゃないが――いや、そんなことはどうでもいい。
明子が声を上げたのは、目の前を、ゴキブリが走って行ったから、ではなくて、目の前に、佐田千春が立っていたからであった。
「千春さん!」
千春は固い|表情《ひょうじょう》で、
「あなたの顔が見えたから――」
と、座り|込《こ》んだ。「何があったの?」
「え?」
「あの家よ」
と、村川の家の方へ目を向ける。
「あ――そうだわ! あなたは知ってるのよね。中松進吾って人を」
「|彼《かれ》がどうしたの?」
「殺されたの」
千春が、さっと青ざめた。
「ああ――やめておけって言ったのに!」
と、|絞《しぼ》り出すような声。
「ねえ、教えて。あの人はどういう――」
と言いかけた明子を|遮《さえぎ》って、
「私、もう|黙《だま》っていられない!」
と千春は|叫《さけ》ぶように言うと、店を飛び出して行った。
「千春さん! 待って!」
明子も、あわてて追いかける。
「おい、明子――」
尾形は、どうしたものやら、|一瞬迷《いっしゅんまよ》って|出《で》|遅《おく》れた。
明子は、千春がタクシーを拾って、走り去るのを目にすると、ちょうど|道《みち》|端《ばた》に|停《とま》っていた車の中へ、飛び|込《こ》んだ。
びっくりしたのは、運転席で|週刊誌《しゅうかんし》を読んでいた大学生らしい|若《わか》|者《もの》で、
「な、何だよ、――」
「早く車を出して!」
と明子は命令[#「命令」に傍点]した。
「ええ?」
「あのタクシーを追いかけるのよ!」
「ねえ、ちょっと――」
「命が|惜《お》しくないの?」
明子は、指をポキポキ鳴らした。「空手三|段《だん》なんだからね!」
「わ、分ったよ!」
若者はあわててエンジンをかけた。
「早く! 見失ったら、|腕《うで》一本へし折るからね!」
「何で|俺《おれ》が――」
と、ブツブツ言いながら、その大学生、車をスタートさせた。
その大学生の運転が良かったのか、明子の|脅《おど》しが|効《き》いたのか、何とかタクシーを見失うこともなく、やって来たのは千春の実家――すなわち、中松|邸《てい》である。
千春がタクシーを|降《お》りて、|邸《てい》|内《ない》へと入って行くのが見えた。
「ここでいいわ。ご苦労さん」
と明子は言った。
「料金を|払《はら》ってくれないの?」
と大学生は言ったが、明子にジロリとにらまれて、
「|冗談《じょうだん》だよ!」
と、あわてて首をすぼめた。
「あ、そうだ。――ねえ」
「何だよ?」
「ちょっと降りて」
「車、持ってかないでくれよ」
「持って行くほどの車でもないでしょうが」
乗せてもらっておいて、明子も大した|度胸《どきょう》である。
明子は、中松|邸《てい》の|塀《へい》を見上げた。
「ねえ、ちょっとここへ来て、前かがみになってよ」
「何すんだよ?」
「上に乗るの」
「何だって?」
「|塀《へい》を乗り|越《こ》えるのよ。心配しないで、|強《ごう》|盗《とう》じゃないんだから」
「当り前だい」
大学生、|渋《しぶ》|々《しぶ》、塀の前で、|背《せ》|中《なか》を|丸《まる》めてかがんだ。
「もっと平らに。――そうそう。じゃ、私が中へ入ったら、もう帰っていいからね」
「言われなくても帰るよ」
と、大学生は、ふてくされて|呟《つぶや》いた。
「エイッ!」
「いてっ!」
大学生の顔が|歪《ゆが》んだが、それはほんの|一瞬《いっしゅん》で、アッという間に、明子の|姿《すがた》は塀の中へ消えていた。
大学生はポカンとして、明子が姿を消した塀の上を見上げていた……。
「何だ、あいつ……」
――中へ入った明子は、庭を|忍《しの》び足で進んだ。
|居《い》|間《ま》が見える。
千春と、父親の中松がいた。中松はソファに座って、千春は立ったままだ。
「どうして殺したのよ!」
と、千春が言った。「あの人には、どうせ何も分らなかったのに!」
「仕方なかったのさ」
中松は|肩《かた》をすくめた。「村川の|奴《やつ》、|焦《あせ》ったのだ。|逃《に》げようと|準備《じゅんび》していたところへ、あいつがやって来たらしい」
「それにしたって……。進吾さんは、血のつながった|甥《おい》でしょう!」
「しかし、|厄《やっ》|介《かい》|者《もの》だったからな。そのくせ、何かあるとかぎつけて来て、金をせびった」
「そんな! 白石さんを殺しただけじゃ足りないの?」
「こっちへ火の粉がふりかからんようにするのが|肝《かん》|心《じん》さ」
中松は一向に動じる気配がない。
「まあ、かけろ」
「――村川さんは?」
千春が、|腰《こし》をおろしながら言った。
「消させる。それしかない」
中松が、あっさりと言った。
そうか。――中松が|黒《くろ》|幕《まく》だったのだ。
村川はその部下で……。
よし、ここは逃げ出して、|警《けい》|察《さつ》へ――。
じりじりと後ずさりして、何かにぶつかった。|振《ふ》り向いて、声を上げそうになる。
「しっ!」
と、その男が言った。「気付かれますよ」
「佐田さん!」
千春の夫、佐田房夫だったのだ。
「静かに! こっちへ|退《さ》がりましょう」
しかし、どうも様子が|違《ちが》う。あの|薄《うす》ぼんやりの|亭《てい》|主《しゅ》とは、別人のようだ。
「――やれやれ、|無《む》|鉄《てっ》|砲《ぽう》な人ですね」
と、佐田は|苦笑《くしょう》して言った。
「でも、あなた……」
「|僕《ぼく》は、白石君の行っていた大学の、学長の|息子《むすこ》なんです」
「ええ?」
明子は目を|丸《まる》くした。
「大学の中で、売春のあっせんをしている者がある、というので、父から、|調査《ちょうさ》してくれと言われましてね」
「じゃあ、千春さんと|結《けっ》|婚《こん》したのは――」
「いや、それは本心から|彼《かの》|女《じょ》が|好《す》きだからですよ。ただ、近づいたきっかけは、中松が、どうやら|陰《かげ》の人間らしいと分ったからですが――」
そうか。――明子は、やっと思い当った。茂木こず枝の死んだ日、駅で定期入れを拾ってくれた|若《わか》い男。
あれは佐田だったのだ。
「そうだったんですか」
と、明子は|肯《うなず》いた。「で、二人で家を出て――」
「でも、中松は|簡《かん》|単《たん》に|捜《さが》し当てて来た。当り前ですね。村川が中松の部下だったんだから」
「だから、あなた、あんなにぼんやりした夫の役もやってたのね」
「そうでないと命が|危《あぶな》いのでね」
「でも――なぜ白石さんは殺されたの?」
「まずかったんですよ、大学の中での売春がばれて|退《たい》|学《がく》。もう中松にしてみれば、役に立たないし、何かしゃべってしまうかもしれない」
「ひどい人ね!」
明子は|憤《ふん》|慨《がい》していた。
「村川のことが心配です」
と、佐田は言った。「あの男も、もう役に立たない。消される心配がありますからね」
「今、中松がそう言ってたわ」
「その前に、何とか見付けたい。村川さえ|押《おさ》えれば、中松も言い|逃《のが》れはできません」
「そうか。――じゃ、この中を|捜《さが》してみましょうよ」
「あなたは|逃《に》げて下さい。|僕《ぼく》が捜してみますよ」
「そんな!」
「いや、|警《けい》|察《さつ》へ|連《れん》|絡《らく》して来てもらうんです。ともかく外へ出ないと、どうにもならないと思っていたんですが、ちょうどあなたがやって来た」
佐田がニッコリ|笑《わら》った。
|余《よ》|裕《ゆう》のある笑いだ。
「いいわ、分りました」
と、明子は|肯《うなず》いた。「じゃ、門の所から出るわ。|塀《へい》を|越《こ》えてもいいけど……」
「今、たぶん、門が開いてると思いますよ」
「行ってみます」
と、明子は体を起した。
「気を付けて!」
「あなたも」
明子は、庭の|茂《しげ》みの中を、頭を低くして、走って行った。走るくらい広い庭なのだ。うちとは|違《ちが》うな、などと、|呑《のん》|気《き》なことを考えていた。
――|突《とつ》|然《ぜん》、|誰《だれ》かが前に立ちはだかった。
明子は、|素《す》|早《ばや》く|身《み》|構《がま》えた。
それは、村川だったのだ。
32 決 闘!
だが、何だか様子がおかしかった。
村川は、青い顔で、|脂汗《あぶらあせ》を顔中に|浮《う》かべていた。そして、
「永戸君!」
と、息を|吐《は》き出すように言った。「助けてくれ!」
「ええ? 何ですって? 私を殺そうとしたくせに、そんな虫のいい――」
明子が言い終らない内に、村川がゆっくり|倒《たお》れて来た。
明子は、あわてて、飛びすさった。
村川の|背《せ》|中《なか》に、血が広がっている。
「――やあ、ここにいたのか」
見たことのない男が立っていた。
ナイフを手にしている。――この男だわ、何人もの人を殺したのは!
「運の強い女だな、あんたは」
と、その男は言った。「だが、それもここまでだ」
その男が|無《ぶ》|気《き》|味《み》なのは、いかにも「殺し屋風」だったからではなくて、ごく|普《ふ》|通《つう》の、どこにでもいる|小《こ》|柄《がら》なサラリーマンにしか見えないからだった。
もっとも、目立たないから、殺せるので、これが一見して|恐《おそ》ろしい男だったら、|誰《だれ》もが|逃《に》げてしまうだろう。
「何よ!」
と、明子は言い返した。「私は、そう|簡《かん》|単《たん》にいかないわよ」
一歩|退《さ》がって|身《み》|構《がま》える。
「勇ましいことだな」
と、男は|笑《わら》った。「しかし、ナイフに勝てるかね?」
「やってみれば?」
正直、明子だって|怖《こわ》いのである。
|刺《さ》されるのは、|注射《ちゅうしゃ》だって|嫌《きら》いだし、切られるのは電車のキップぐらいでいい。
だが、ここは、強がって見せるしかない。
殺された|保《ほ》|科《しな》光子のことを考える。――何の|罪《つみ》もないあの人を、殺したんだ!
「どうしたの? 女の子が怖いの? 分った、いつも|振《ふ》られてたんでしょ」
わざと|怒《おこ》らせる。それしか手はない。相手を調子づかせるのだ。
|合《あい》|気《き》|道《どう》は、|攻《こう》|撃《げき》のための|技《わざ》じゃなくて、あくまで身を守るためのものだ。相手が向かって来ないと、どうしようもないのだ。
「おい、今に|泣《な》き言を言うなよ」
男がナイフをサッと走らせた。|確《たし》かに目にも止らぬ|早《はや》|業《わざ》という感じだ。
「キャッ!」
明子は、|尻《しり》もちをついた。みっともなく、ペタンと座り|込《こ》んだまま後ずさる。
「おい、どうした、今の元気は?」
男が|笑《わら》って、|踏《ふ》み|込《こ》んで来る。
今だ! これを待っていたんだ!
明子は足を思い切り|伸《の》ばして、男の足を|払《はら》った。かすかにそれたが、男は、上体とのバランスを|崩《くず》した。
明子は、勢いをつけて立ち上ると、男の|懐《ふところ》へ思い切って飛び込んだ。
体当りに、男の体がのけぞる。明子はクルッと向き直って、男の|腕《うで》をしっかりとつかむと、身を|沈《しず》めた。
会心の|背《せ》|負《お》い投げ!
男は、大きく空中に円を|描《えが》いて、地面に|叩《たた》きつけられた。
「――こいつ!」
起き上ろうとして、あわてたせいか、足が|滑《すべ》って四つん|這《ば》いに、ペタッと|伏《ふ》せた|格《かっ》|好《こう》になる。男が大きく目を見開いて、うめいた。
どうしたのかしら?――男がそろそろと上体を起すのを見て、明子は、アッと声を上げた。
伏せた|拍子《ひょうし》に、手にしていたナイフで、自分の|胸《むね》を|刺《さ》していたのだ。
男は、よろけながら立ち上ったが、ナイフを自分で引き|抜《ぬ》くと、何だかキョトンとした顔で、それを見下ろし、それから、急に、ガクリと|膝《ひざ》をついて、|突《つ》っ|伏《ぷ》すように|倒《たお》れた。
「やった……。やった……」
明子はそう|呟《つぶや》いてから、急にガタガタ|震《ふる》え出した。
全身から|汗《あせ》が|吹《ふ》き出して来る。
そして明子はヘナヘナとその場に座り|込《こ》んでしまった。
ふと気が付くと、パトカーのサイレンが、近づいて来ていた。
「いや、全く……」
尾形がジロッと明子をにらむ。
「言いたいことは分ってるわよ」
と、明子は|澄《す》まして言った。「でも言わない方がいいわ」
「どうしてだ?」
「私に|質《しつ》|問《もん》してたんじゃなかった? その返事はまだしてないのよ」
もちろん、|結《けっ》|婚《こん》の申し込みのことだ。
尾形は、|渋《しぶ》い顔で|黙《だま》り込んだ。
「ともかく|無《ぶ》|事《じ》で良かった。それに、村川も何とか命は取り止めたから、話を聞けるだろう」
と、志水が言った。
「色々、ご|迷《めい》|惑《わく》をかけました」
と、頭を下げたのは、千春である。
ここは、結婚式場のレストランだ。
社長を中心に、|事《じ》|件《けん》の関係者が集まっていた。
「あら、千春さんのせいじゃないわ」
と、明子が言った。「そんな風に言うことないわよ」
「そうですわ」
と、白石知美が言った。
「でも、父が、何かやってるらしい、ってことは察していたんですもの。まさか、あんなひどいことだとは思わなかったけど……」
「もう|済《す》んだことだよ」
と、佐田が言った。「お父さんのしたことに、君は|責《せき》|任《にん》はないんだ」
「でも――」
と、千春は佐田を見つめて、「私と別れないの?」
と|訊《き》いた。
「今度そんなこと言うと、ぶん|殴《なぐ》るぞ!」
と、佐田が本気で|怒《おこ》ったように言った。
「カッコいい!」
と、明子が手を|叩《たた》いた。
「そうすぐに別れんで下さい」
と、社長が言った。「うちで|結《けっ》|婚《こん》したんだから」
「でも、なぜ、|保《ほ》|科《しな》さんが殺されたのかしら?」
と、明子は言った。
「そりゃ、村川のことを知っていて――」
「なぜ知ってたの?」
「うん……そうか」
と、尾形が|腕《うで》を組む。
「それはね、保科さんも、村川の|恋《こい》|人《びと》だったからです」
と、佐田が言った。
「保科さんが!」
明子は目を|丸《まる》くした。
「だから、|弁《べん》|当《とう》|箱《ばこ》などというものも、手に入った。いや、あのお弁当を作っていたのは、保科さんだったんですよ」
「そうか!」
と、明子は言った。「村川さんの|奥《おく》さん、実家へ|戻《もど》ってたんだわ」
「だから、保科さんも、知らない内に、村川の仕事[#「仕事」に傍点]を手伝っていたんでしょう。でも、茂木こず枝の死を見て、やっと目が覚めた……」
「そうか、それで、お弁当箱を」
「あなたへ|届《とど》けたわけです。自分で、村川と話をしようとしたんでしょうね」
「ひどい男だわ!」
明子はカンカンになった。「志水さん」
「ん? 何です?」
「村川が治ったら教えて下さい」
「それはいいが、どうして?」
「思い切り、ぶん投げてやらなくちゃ、気が|済《す》まないわ」
「おい、いい|加《か》|減《げん》にしてくれ」
尾形が、うんざりしたように言った。
「――一番気の毒なことをしたのは」
と、志水が言った。「白石知美さんでしたね」
そう。――知美は十七|歳《さい》の未亡人である。
「いえ、私は……」
知美は、静かに言った。「|大丈夫《だいじょうぶ》です。生きてるんですもの。――あの人は死んでしまった。たとえ、自分のせいだとしても、|可哀《かわい》そうだったと……思います」
千春が、|涙《なみだ》を|拭《ぬぐ》った。
「でも――」
知美は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「|若《わか》いんですもの、私! 大丈夫!」
「そう! その意気よ!」
明子は|肯《うなず》いた。「今度|結《けっ》|婚《こん》するときも、ここを使ってね!」
「一言多いんだよ」
と尾形が言った。
「さあ、ともかく、|事《じ》|件《けん》は終った。食事をしよう」
と、社長が言った。「みんな、|好《す》きなものを食べて下さい。ここの社長として、お礼とお|詫《わ》びの気持だ」
「|遠《えん》|慮《りょ》しなくていいのよ」
と、明子が言った。「どうせ、|交《こう》|際《さい》|費《ひ》で落とすんだから」
みんながドッと|笑《わら》った。――知美も、千春も。
|食卓《しょくたく》は|賑《にぎ》やかになった。
「――そうだ」
と、尾形が言い出した。「一つ分らないんだけど、どうして、白石さんや佐田さんのところは、あの日[#「あの日」に傍点]に式を挙げたんですか?」
「それもそうだ」
と、志水が肯く。「|妙《みょう》ですな。事件の関係者が、同じ日に挙式したとは」
「あら、それは|偶《ぐう》|然《ぜん》でも何でもありませんわ」
と、明子が言った。
「というと?」
「あの日は、式場の何周年かで、|特《とく》|別《べつ》|割《わり》|引《びき》があって、安かったんですもの!」
と、明子は言った。
エピローグ
「ねえ、明子」
と、母の|啓《けい》|子《こ》が言った。「お前、どうするの?」
「何を?」
明子は朝のコーヒーを飲んでいた。
今日はもう出勤[#「出勤」に傍点]ではない。大学生の身分に|戻《もど》ったのである。
「尾形さんのことよ」
「ああ、あれ。――もう少し考えるわ」
「そう? もう大分考えてるよ」
「考えてる、ってことにした方が、あっちが言うこと聞いてくれるから、|儲《もう》かるのよ」
明子は立ち上った。「行って来ます!」
――啓子は一人になると、ため息をついて、
「いやになっちゃうねえ」
と、首を|振《ふ》って、|呟《つぶや》いた。「お父さんに|結《けっ》|婚《こん》を申し|込《こ》まれたときの私とそっくり!」
|忘《わす》れられた|花《はな》|嫁《よめ》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成12年12月8日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2000
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角川文庫『忘れられた花嫁』昭和62年10月25日初版刊行
平成6年10月15日30版刊行